TITLE : 死刑囚の最後の瞬間 本作品の全部または一部を無断で複製、転載、配信、送信したり、ホームページ上に転載することを禁止します。また、本作品の内容を無断で改変、改ざん等を行うことも禁止します。 本作品購入時にご承諾いただいた規約により、有償・無償にかかわらず本作品を第三者に譲渡することはできません。  目 次 昭和の毒婦・戦後初の女性死刑執行    ホテル日本閣殺人事件 小林 カウ  目標を定めて突進する性格  殺るには、今日一日しかない  命を乞い、哀れな女を表現  独居房に閉口、 洗濯を願い出る  巣鴨から小菅へ護送 一年半で結審、 二十二歳で死に赴く    鏡子ちゃん殺し 坂巻 脩吉  刹《せつ》那《な》的に生きるほうが楽  〓“死出の旅立ち〓” 仙台行き 死の獄舎を脱獄、仙台送りの翌朝処刑    雑貨商一家四人殺し 菊地 正  脱獄で処分を受けた刑務官  母親思いゆえの凶悪犯罪  執行直前母親に助けを求める 母親の借金 ・ 叱責…におびえ、 扼殺    母親バラバラ殺人 奥野 清  母の無謀に耐えきれず  安眠できる木曜日の夜 「生まれ変わりました。 喜んで死にます」    強盗放火殺人 中島 一夫  潔かった死の受容態度 短歌と文鳥に生き甲斐を見いだす    吉展ちゃん誘拐殺人 小原 保  短歌誌の同人になって上達  生まれ変わるときは「福島誠一」 「成仏して被害者に会って詫びたい」    横浜の強盗母子殺し 堀越 喜代八  押し入った先は元同僚の家  法華経を腹に巻いて 「このつらさ、苦しさを、いまの若者に伝えて……」    少年ライフル魔 片桐 操  〓“あの日〓”がなかったら  三千人対ひとり  一審では無期の判決だったが  献体して、 灰は共同墓地へ  ロープが切れて助かる夢  「長い間お世話になりました」 仏門に帰依、模範囚の堂々たる最期    女性連続毒殺魔 杉村 サダメ  男のための借金・犯行  いびる所長は 「気の毒なひと」 死へのおびえに腰を抜かす    希代の暴行殺人鬼 大久保 清  確定から執行まで二年十カ月要する  嘘の供述のくり返し  「秋に自供して冬に死ぬ」 巨漢百キロ、 「言い渡し」を聞いて狂乱・格闘    女子高生殺し 佐藤 虎実  再審請求準備中の〓“お迎え〓”  刑場で最後の大暴れ 録音された死刑執行—五十三時間の「声」    三人組拳銃強盗殺人 大谷 高雄  まっ先に子供のこと——カナリヤの鳴く部屋で姉と面会  歌う〓誰か故郷を……。同囚らと別れの茶会  御仏に托せし生死雪降り積む  死刑の立ち会いはもうごめんだ 獄中闘争の徒 「日本のチェスマン」    洋服商夫妻殺し 孫 斗八  独学で法律を学ぶ  刑務官を死刑囚に仕立てる  遺 言  死刑制度に一石投ずる  文庫版に際しての 「あとがき」  昭和の毒婦・戦後初の女性死刑執行     ホテル日本閣殺人事件 小林 カウ    戦後、女性で死刑が確定したのは平成四年(一九九二)一月現在四人で、そのうち、実際に処刑されたのは二人である。  小林カウの死刑確定は四人中四番目だが、処刑は戦後の女性死刑囚の第一号になった。  女性の殺人犯罪というのも、最近ではそう珍しいことではない。かなり凶悪な犯罪でも、その犯人が女性だということだけで、「女だてらに」といってとくに驚くということもなくなった。  ところが小林カウの犯罪は、昭和二、三十年代の殺《さつ》伐《ばつ》とした世相を反映して、マスコミはこぞって「毒婦」と呼んで仰天した。 「私は女だてらに、男ならだれでもやってみたいと思うことをやったまで。つかまったのは事業に失敗したのと同じこと」  カウは逮捕されてから、栃木県大田原署の取調官や、宇都宮地検大田原支部の検事に、こう本心を吐露したものである。  小林カウは男女三人を殺害して逮捕されたわけだが、カウをして言わしめた、「女だてらに、男ならだれでもやってみたいと思うことをやったまで」という、事件内容をたどってみよう。    カウが生まれたのは、埼玉県大里郡玉井村である。現在の熊谷市だ。農家の八人兄弟の二女として、明治四十一年の誕生。貧乏人の子だくさんを文字どおりとするどん底の貧乏暮らしで、小学校を卒業するとただちに農業の仕事に加わった。その後東京でお手伝いを三年した。二十二歳で小林秀之助と結婚。姉に勧められた結婚だったが、男ぶりも悪く、慢性胃腸病など虚弱な夫をカウは好きになれなかった。肉体的な歓びも得られず不満の新婚生活だったが、一年後に長男誕生。二年後に長女が誕生した。  夫の秀之助は職を転々とし、世渡りが下手で、結婚後もカウの貧乏暮らしはつづいた。  戦後、玉井村で闇《やみ》ブローカーを始め、一方で米、砂糖などの統制品を扱う。闇商売は戦時下に覚えたものであった。  闇商売を始めてから、カウは生来のカウらしさを発揮、果てしなき欲望はこの時期に萌《ほう》芽《が》する。出入りの闇商人に対して、仕入れた商品の代金はビタ一文払わない。支払いはすべて自分の肉体を代償にした。 〓“男好きでガメツイ〓”という噂《うわさ》はたちまち広がるが、カウはまるで意に介するところもない。金がたまっていく面白さに熱中した。石原町に土地を買い、家を建てるほどの余裕ができると、ますますカウは商売熱心になった。    目標を定めて突進する性格  昭和二十六年、カウ四十三歳の春、ガメツイばかりのカウが、生涯で初めての恋をした。相手は井上正一郎(仮名)という若い警察官である。そのころ、カウは五家宝という菓子の製造を始めていたが、若い警察官は闇米の捜査に来たのである。五家宝は米が主原料で、砂糖をまぶしつけたような、軟らかいおこし、といったものだ。  カウの工場が当時禁制だった米、砂糖を闇のルートで仕入れているという噂は絶えずあった。噂だけではなくて、事実そのとおりなので、カウは検挙を防ぐために井上を手なずけにかかる。初めは娘の婿にと考えていたものが、いくらもたたぬ間に自分の男にしてしまった。井上は男ぶりもよく、若いだけに肉体的にも逞《たくま》しく、カウは秀之助ではついぞ知ることのなかった性の歓喜に目覚めた。  カウは、ひとたび目標を定めると、それに向かって突進する性格である。井上にぞっこん参ってしまうと、あとさきのことを考える余裕もなく、ただひたすら一緒に暮らしたいと願った。  秀之助は、カウが別れたいというのには耳も貸さない。事がスイスイと運ばず苛《いら》々《いら》しているおりもおり、風邪で寝込んでいた秀之助が突然、脳《のう》溢《いつ》血《けつ》で急死した。夫の死後初七日も過ぎぬうちに、カウは井上を家に引っぱり込んで同《どう》棲《せい》を始める。井上はこの同棲を問題にされ、警察をクビになった。  思いがかなって井上と一緒になったカウは、ますます商売熱心になり、せっせと金を稼いだ。若い井上をつなぎとめておくために、カウは生涯一回こっきり貢《みつ》ぐ女にもなっている。 「しんせつにしてくれたもんで、すっかりしんじてしまい、なんでもいいなり、ほおせえ大がくえあげてくれといえば、はい、ゆきなさい、じどうしゃがっこうえゆきたい、はい、ゆきなさい、うんてんめいきょうとれたから車かって、はい、かいなさいと、おへやをつくってやり、しごとばをつくってやりして私をすっかりはだかにしてからおよめをむかえるじきになったのでその時のかわりかたのはげしかった事、なにもおいだすりゆうがないのでものもゆわずにぼおりょくするようになり——」  これは宇都宮地裁で第一審死刑判決のあと、東京高裁に提出した上申書のうち、井上正一郎に関する部分である。  結局、カウと井上の同棲は二年とつづかずに終わった。井上にはカウのために警察をクビになったという恨みもあったことだろう。またカウのガメツさ、年齢の差などに井上が愛想をつかしもした。 「かんこうみやげですからこうやう(紅葉)じきなどは女工まかせではまにあわないので私がねずにほうそうしたものです。井上はそんなことおかまいなしで車え女の子をのせてあそんで歩いていたのです。それでもかわいくてごちそうをつくってかえるのをまっていたものです。一しょうめんどうをみてもらふだいじのむすこのつもりでいたからです。それなのにおんだされたからくやしくて、くやしまぎれに金をためたのでその金がわざわいしてこんどの事件をおこしたのです——」  井上正一郎がカウのもとから去ると、三十一年にカウは塩原温泉に行き、観光客相手の物産店「那珂屋」を開業。一歩足を踏み入れた客を手ぶらで帰すことは絶対になかった。色仕掛け、肉体仕掛けで稼ぎ、一年後には食堂「風味屋」を開業した。息子は十六歳で夭《よう》逝《せつ》しており、娘は家を出たまま音信が絶えていた。カウは姉の娘二人を相次いで養女に迎え、二軒の店を手伝わせた。  カウは有頂天だった。とはいえ、生活には決して無駄やぜいたくはしなかった。金をためることのみに情熱をそそいでいた。  もともと好色なカウは、自らの肉体を投げ出すことが商売繁盛につながるのだから、一挙両得と精出して稼ぎまくった。そして三年後には三百万円という預金ができた。昭和三十三年当時、この金額は個人の預金としては決して少ないものではない。金がたまってみると、それだけではあきたらなくなった。塩原温泉郷では、なんといっても旅館経営がトップの事業である。カウは小さなみやげ店や食堂の経営者に甘んじて暮らすことに不満を覚えた。自分も旅館を経営したい。旅館のお内《か》儀《み》と呼ばれる身分になってみたいという野望を抱いた。  カウは、生方鎌輔(五二)の経営する旅館「日本閣」が経営困難から売りに出されているという噂《うわさ》を聞きつけた。日本閣は温泉を引き湯する権利も持たない三流、四流の旅館であったが、カウにしてみれば旅館は旅館だ。大いなる魅力であった。さっそく生方にかけあいにいくが、そのときはあっさり断られる。しかしその年の暮れになって、生方のほうがカウを訪ねてきた。妻のウメと別れる手切れ金五十万円を貸してくれれば、ウメと別れてあんたと一緒になりたい、という話をする。このとき生方は新館の青写真もカウに見せ、大風《ぶ》呂《ろ》敷《しき》を広げたいかにも景気のよさそうな話もしている。旅館のお内儀の座につく夢が実現する願ってもない話だ。飛びつきたい気持ちは山々だが、さりとて五十万円出すのはいかにも惜しい。五十万円を三十万円に値切るが、それではウメが承知せず、結局、生方とウメ殺しをたくらむ。  殺し屋として雇われたのが、カウと同日死刑の執行をされた大貫光吉である。大貫は二十九年ごろから塩原の温泉街に住みつき、共同浴場などに寝泊まりしていた。旅館の薪《まき》割《わ》りなどの雑用を手伝って暮らす、三十五、六の独り者で、身寄りもないらしかった。カウも、店の開店時に雑用に使ったことがある。金になりさえすればなんでもやるという男だった。とはいえ、殺しと聞いてさすがに怯《ひる》んだが、 「人間と思わず、犬か猫を殺すと思えばなんでもないことだよ」  とカウに言われ、さらに報酬は二万円にカウの肉体つきという条件をつけられ承知する。大貫が直接手を下し、ウメの殺害を実行したのは三十五年二月八日だ。  その殺害現場で死体を前にカウ、生方、大貫は祝い酒の酒宴を繰り広げたというからすさまじい。あまつさえ、その場でカウは大貫に次なる殺しまでをそそのかす。 「祝い酒で酔いつぶして、鎌輔もついでに殺《や》っちゃってよ」 「今夜はとてもじゃないが、かんべんしてくれよ」  さすが大貫もそれだけは断った。  ウメ殺害から三、四日後にはカウは日本閣に乗り込み、ちゃっかり旅館のお内儀になりきって采《さい》配《はい》をふるいはじめた。さっそく爪《つめ》に火を灯す思いでため込んだトラの子をつぎ込んで、生方が資金繰りに詰まって工事が中断していた新館の工事を進めることにした。こうして、日本閣新館はカウのものとなった、と思った。ところが、新館をカウ名義に書き換えるべく、登記所に行ったカウは、所長に次のように説明されてガク然とした。 「日本閣は新館も旧館も、近いうちに必ず競売になります。すると、あなたがいくら金をつぎ込んでも無駄なことになるから、早く金をつくって債権者と和解し、あなたの名義にしないとあなたのものにはなりませんよ」  なんのことはない。カウは生方にだまされていたのである。ありったけの金を新館建築工事につぎ込んだあげくのことだけに、カウは怒りのあまり発狂せんばかりとなった。  また、生方はカウが日本閣へ乗り込んだ直後、那珂屋と風味屋に保険をかけて放火しようと言いだした。入った保険金で日本閣の新館増築工事をやる。そしてまたそれに二千万円ほど保険をかけて放火する。その二千万円で塩原一の鉄筋のホテルを建てよう、と言った。  当時、塩原温泉郷は旅館経営者が次々と木造を壊し、鉄筋コンクリートに建てかえはじめたころでもあった。カウは当然その気になる。また大貫に放火を命じたが、夏になったころ、二人の養女のうち、妹のほうがその計画を生方から聞かされたことをカウは知った。それだけではない。ウメを殺したのはカウと大貫であるともしゃべったらしい。    殺るには、今日一日しかない  このところの生方の態度は、カウが手持ちの金を使い果たしたことを知って、急変していた。毎日酒を飲んでは悪態をつき、果てはクソババア、出て行け、とどなる。生方はウメを殺したことに動揺し、カウを憎み、金もない五十を過ぎた女に用はなくなっていた。  カウは、かくなるうえは生方を殺してしまう以外に、日本閣に居座るすべがないと考えた。生方さえいなくなれば、日本閣はすっかり自分のものになるのだと考えて生方殺しを決意した。 「塩原温泉では十月の紅葉の時期がかき入れどきですので、本館のほうだけをきれいにし、板前や番頭、女中も組合に頼んで雇いました。こうして日本閣にも客が来るようになりました、月末になると十一月の客の申し込みもバッタリないようになりました。その頃大貫が、〓“十一月になったら鎌輔さんをかたづけよう。それには従業員がどうも邪魔だ〓”というので、従業員全部に十一月一杯でやめてもらいました。  十二月に入ってからまもなく、大貫が小さなビンに入った薬を持ってきました。中には黄ばんだ液がはいっておりました。〓“これで親父を殺っちまおう〓”といいました」(供述)  黄ばんだ液というのは塩酸で、カウはこれを生方の酒に入れたり、味《み》噌《そ》汁《しる》に入れたりして飲ませようとする。しかし、味がおかしいと言って生方が吐き出して、いずれも失敗。あれこれ殺害の手段を画策しているうちに、とうとう三十五年(一九六〇)の大《おお》晦《みそ》日《か》となった。 「私はきょう一日しかない。どうしてもやってしまわなければならないと思い、大貫と打ち合わせをしました。そして私が後ろからしのび寄って鎌輔さんの首にヒモをひっかけるので、それを見た大貫がびっくりしてとめに入ったふりをしながら、いっしょにヒモを引っぱって絞め殺そうということにしたのです。  午後五時頃、鎌輔さんはコタツで大貫と向かいあってテレビを見ていました。私は隣の調理場で仕事をするふりをしていました。鎌輔さんはアゴのあたりを撫《な》でるクセがあるので、その手を放すのを待ち受けていたのです。私は後ろから近づき、隙《すき》をみて鎌輔さんの首にヒモをひっかけました。すると大貫が打ち合わせどおり〓“おばさん、何をするんだ〓”といって立ち上がった時絞めていたヒモが切れてしまいました。そこで大貫がすばやく、首を手で絞めたところ、鎌輔さんは〓“はかりやがったな〓”といってもがき、大貫の手の甲に噛《か》みつきました。そして机の引き出しをつかんで立ちあがろうとしました。  大貫は鎌輔さんの後ろから首を絞めていましたが、〓“おばさん、そこに刃物があるだろ〓”というので、私はタンスの上にあった刃渡り六寸ばかりの包丁をとって、大貫に渡しました。大貫は鎌輔さんを机の上に押さえつけ、左頸《けい》部《ぶ》を一、二回突き刺しました。すると真っ赤な血がゴボゴボと音をたてて吹き出しました——」(供述)  昭和三十六年二月十九日、生方夫妻の相次ぐ失《しつ》踪《そう》に不審を抱いた栃木県大田原署が、カウ、大貫を逮捕、取り調べた。大貫はその日のうちに自供したが、カウのほうはそう簡単にはいかなかった。子供や親兄弟のことを話しても、一向に感情を動かされたようすもなく、取調官も「これは手《て》強《ごわ》いぞ」と感じていた。  けれども、しぶとく否認しつづけたものの三日たつと、あっさりと自供を始めた。少しも悪びれた様子はなく、殺しについても時にはケラケラ笑いながら身ぶり手ぶりを加えて話す。取調官が驚くほど積極的にしゃべりまくった。とくにセックスの部分ともなると平気で、というより好んできわどい話をした。  ウメを殺害後、カウはウメの着物やバッグ、下駄をすべて自分のものにして着用していた。また殺害時、ウメが寝ていた布団もカウは平気で使用していた。 「使えるもんは使わんともったいない」  カウはケロリとして言ってのけた。  逮捕された二日後、日本閣新館の床下から生方の遺体が、さらにその翌日には近くの雑木林からウメの白骨死体が発掘された。生方を埋めた床の床板には〓“35・12・31 〓”と殺害の日付が記されてあり、ウメの埋められていた場所には木が植えてあった。 「生方夫婦を殺してほっとしたのも束《つか》の間で、今度は大貫が私の夫気取りで態度が大きくなりがまんできなくなりました。生方夫婦を殺すために殺し屋として使っただけの風来坊のくせにと思うと腹が立ちました。私が少しでもいやな顔をすると、だれのおかげで旅館を乗っ取った、まさかおれをだましてやらせたんじゃないだろうなとすごむので、この男を生かしておいたら命取りになると思いました。日本閣は二重三重の抵当に入っていて生方が材木屋、建具屋等に五百万円の借金をしていました。それを白紙に戻して私の名義で新しく建てなおそうと思って一千万円の保険をかけ、日本閣を大貫もろとも焼き払う考えでした」(供述)  ところが、カウの毒婦ぶりはこの日本閣事件だけにとどまらなかった。栃木県警本部に、九年前の秀之助の死に方もおかしい、という内容の投書が送られてきたのだ。カウを追及したところ、二カ月後にようやく青酸カリで夫を殺害したことを自供した。  青酸カリは愛人だった井上正一郎から渡されたということだったが、公判に入るとこの夫殺しを否認する。供述は一審から最終審まで二転三転、物証がなにもなく、カウの供述のほかは、当時の関係者たちの証言のみ。取り調べは三年あまりもかかった。  昭和三十八年三月、宇都宮地方裁判所で一審判決があり、小林カウ死刑、大貫光吉無期、井上正一郎熊谷事件の殺人罪は無罪、拳銃不法所持で懲役一年(熊谷市の自治体警察にいたときピストルを盗んで、この事件で逮捕されるまで自宅に隠していたのが発覚)をそれぞれ言い渡された。    人を三人も殺し、四人目の殺人の計画も考えていたカウは、逮捕されたあとも自分が死刑になるとは思ってもいなかったようだ。罪の意識がまるでなかった。 「私は自分がこうと思ったら、ほかのことは頭に入りません。いったんやろうと思ったら、どんなことでもやりとげる」  という、自らの目的を達成するためには邪《じや》魔《ま》なものは殺してしまう手段を平気で講じる。そして少しも悪びれるところがないのだ。 「悪いことをしたとは思っているけれど、泣いたってしかたがないし、出る涙もない」  慚《ざん》愧《き》もなく悔いもない。「わたしはしょばいがしみ(商売が趣味)で、姉の家族にもおおえんしてもらったので、しょばいにもあたり、お金は残しましたけれども、世の中の事は一こうにむとんじゃくで、殺人をおかしてさいばんになるとゆうこともしりませんでした」(上申書)  逮捕後もカウは、いずれは出所できるものと思い、獄中で日本閣の再建のことを本気で考えてもいた。取り調べの検事に対し、少しでも罪を軽くしてもらうためのサービスのつもりか、机の下から手を伸ばし太《ふと》腿《もも》を撫《な》であげる、足をからませるなどを、相手の目を情のこもった目つきでじいっと見つめながらやる。金歯をのぞかせて好色な笑みを満面にたたえ、「死刑だけはかんべんしてね」とコケティッシュなしなをつくる。取調室へはこってりと化粧をして赴き、あたりの警察官にも愛《あい》嬌《きよう》をふりまくのを忘れない。  カウが最もそのカウらしさを存分に発揮したのは、一審死刑判決以降である。生きるということへの執着は、カウという女の不屈の精神をまざまざと見せつけたといってよかった。カウがそれまで生きてきた人生は、どの過程でも常に攻撃的であった。そこへ無知が加わってさらに過激なものになった。常識のなさ、世間知のなさは羞《しゆう》恥《ち》心というものを育てなかった。  カウはしたたかな強さを持ち、犯罪そのものが自立的である。女性犯罪の多くは、だれかにそそのかされたり、手伝わされたりというのが原因だが、カウは自分で決め、実行する、という主動型だ。そして恨みからとか、やむにやまれず悩んだあげくではないのも特色である。自分が目標に進むのに邪魔だから、という理由で恐れ気もなく次々と人殺しを重ねている。 「金は、はたらけばいくらでもできるのですからしょばい(商売)でもうけるのはさしつかえないのですからそのしょばいをねっしんにやれば金にはこまらないものです。自分で人をだますとか、人のだいさん(財産)ねらうとかそうゆうきもちがないから人をしんようして口車にのってしまい、しっぱいばかりしてくやしいくやしいで一しょうをおわった女ですから少しはよいところを見ていただいて、ごかんべんをおねがい致します。いくらだまされたからと申しましても殺すなんてほんとうにたいへんな事をしてしまいほんとうに申わけございません。どうしてあのときやめられなかったかとこおかいしております。一しょうけいむしょでごほうこうさせていただきますからどうぞごかんべんおねがい申上げます」(上申書)    命を乞い、哀れな女を表現  一審死刑判決を受けたカウは、当然のこととして東京高裁へ控訴を申し立てた。これまでに少し紹介した上申書は、控訴後提出した上申書からの抄出である。なんとか死刑だけは免れなくてはならない。死刑だけはなんとしてもいやだという生への執着。  命が助かるためならなんでもやる気のカウは、文章を綴《つづ》るという思いもかけなかった作業も鉛筆をなめなめやってのけた。なにしろ大正十年に卒業した玉井村での六年生のときの成績は、算術、歴史、体操、裁縫、家事、農業が「乙」、国語、地理、理科、図画、唱歌が「丙」。この成績から推しても、上申書を書くのはさぞ大変だったろうと思われる。  ところが、上申書の内容は見事なばかりに自己肯定に徹している。男どもが寄ってたかって自分をだました結果こうなったのだという理論を構築しているのだ。そしてさらに、自分が働き者で、働きに働いて金をためたのがいけなかった。金がなければ生方も井上も寄ってこなかったろうにと、金が原因で起きた事件であるともっていく。けれども、金そのものには命と同じくらいの執着を捨てられずに持ちつづけていた。 「私が宇都宮の甲地所(拘置所)へこーりうちうに大島ベンゴシがきまして日本閣がかいてがついたの、ぞうちく分はあなたのものだから、あなたのしょうめいくださいとゆわれましたけれど、さいばんでもおはってからゆっくりせいりしますからとそのままにしてをいて下さいといってやらなかったのですがどんなからくりをしたのかうってしまったそうです。私のしょうたくなしでどうしてうれたのかききたいと思ひまして大島ベンゴシをよんでもらったのですがきてくれませんでした、ほんとうに三百万なきねいりで一文ももどってきません」  カウの上申書は、被害者は自分のほうだといわんばかりに結び、哀れな女を表現することを忘れず、ひたすら命乞《ご》いに徹した。  控訴審の公判でもこってり厚化粧、レースのかぶりもの、派手な着物と、満艦飾のおしゃれを決めて出廷した。  しかし、赤い口紅をぬった口から金歯をのぞかせて笑いをふりまいた愛嬌も、ありったけのおめかしも、裁判に効を奏することはなかった。最終審まであつかましいほどの命乞いをくり返したが、聞き入れられずに判決が下った。  昭和四十一年七月十四日、最高裁、長部謹吾裁判長は上告棄却を言い渡した。これで小林カウ死刑、大貫光吉死刑、井上正一郎懲役十年が確定した。    死刑が確定となったあとのカウは、またいかにもカウらしい死刑囚としての生活を送った。  東京拘置所としては、女性の死刑囚を抱えるのは戦後初めての体験であった。なにしろ、全国でも戦後は四人しか死刑が確定した女性はいない。一番目が姫路市で老夫婦を殺害した山本宏子(二十六年七月確定、四十四年恩赦)=大阪拘置所。二番目が熊本市で姑《しゆうとめ》、行商人、近所の主婦など三人を毒殺した杉村サダメ(三十八年三月確定、後述)=福岡拘置所。そして三番目が小林カウで、東京拘置所である。  女性の収監者は大勢いたが、いずれも有期刑か、あるいは未決拘留中であった。カウは東京拘置所の女区の中で、ふつうの独居房よりも少し広めの房があてがわれた。本来なら三人ぐらいの雑居房に使用されるべき房である。なぜそうした配慮がされたのかは推量するしかないが、たったひとりの女性死刑囚であることから、特別に扱ったのではないだろうか。  カウはここでほかの死刑囚たちのように、くる日もくる日も〓“お迎え〓”におびえてびくびくと暮らすようなことはしなかった。ほとんどの死刑囚が、毎朝、ふだんと違う足音が聞こえるのではないかと、点検前の一時を心臓が凍る思いで過ごす。土曜の夜と祝日の前夜だけが、安心して眠りにつける夜だった。日曜日と祝日は処刑が行われないからである。それ以外は手足を伸ばしてのびのびと、という気分で眠りにつくことはまずない。  ところが、カウは少しも死ぬことを恐れるふうはなかった。むろん、死刑確定直後はすっかり力を落とし、ふさぎ込んで何日かを過ごした。けれども、きわめて短い日数で立ちなおってしまった。  しかし、カウの生活態度には大いなる変化が生じた。  化粧をやめ、媚《こび》や愛嬌たっぷりの笑顔をふりまくことをやめた。意味もなく大口を開けてケラケラ笑いこけることもなくなった。いっさいの営業用のお愛嬌をやめたのだ。  そのために、急に十歳も老け込んだように見えた。担当の女子刑務官は、死刑判決のショックでガックリと老け込んだのだと初めは思った。しかし、それにしてもちっともクヨクヨとした感じがないのが不思議だった。五十半ばの初老の女らしい顔と姿、カウ本来の持ち前の地をさらしているのだ。額の生えぎわからこめかみにかけて、白線を引いたように白髪がのびている。毛染めもやめたのである。 「小林さん、お化粧しないの」 「もう必要ありませんから」  担当の女子刑務官の問いかけに、カウはこう答えた。  まったくそのとおりであった。カウにとって十歳以上若く見られることや、いつもおしゃれに気を配りつづけたことも目標あってのものだ。死刑囚となって、拘置所の女区の独房の中で若づくりの努力をしたところで無駄以外の何物でもない。顔を合わせるのは制服の女子刑務官ばかりの暮らしに色気は必要ないのだった。  死刑囚の内職に正札の糸通し、袋貼《ば》りなどがあるが、カウはこんな類の辛気臭い作業は生来好かなかった。しかし、死刑囚になった身とはいえ、若干の生活費を稼がねばなにかと不自由である。毎日使うちり紙、石けん、歯ミガキ粉のようなものは、官給品だけではどうしても不足である。ここでの生活が長くなれば、下着の買い替え、寒くなればそれなりにと、生きているということはけっこう金のかかるものだ。  もともとカウは身銭を切るのは好まない。というより、金を使うのは死ぬよりつらいという性格だ。官給品が与えられれば、その範囲の中で間に合わせることができる。ちり紙など毎日ほんの数枚が与えられるだけだ。カウはそのうちの半量を残す、という見事なやりくりぶり。まさに天才的な倹約家である。    独居房に閉口、洗濯を願い出る  さて、死ぬことにはいささかも恐れるところを見せないカウも、独居房暮らしにはほとほと参った。黙って終日を過ごすことは地獄であった。生まれてこのかた、ひとりっきりでいたことは、ほんの瞬間さえもない。いつもだれかがいて、しゃべり、笑い、騒がしく生きてきた人生だった。  その沈黙の行という苦痛からカウを救ってくれたのが死刑囚教誨師である。教誨師というのは各宗教、宗派の本山が推薦し、法務省が任命する。一般有期刑受刑者の矯正の一助としても教誨師は貢献している。すべて篤志である。日本の中で思いつくかぎりの宗教と言ってもいいぐらい、ありとあらゆる宗教が教誨師を法務省に推薦している。ざっと数えても三十は優にある。もっと多いだろう。五十以上かもしれない。  カウが教誨師の訪問に嬉《き》々《き》として飛びついたのは、宗教心からではなく、独居から解放されるからであった。人に会えるのなら、だれかと話ができるのなら、相手はなんでもかまわないというのが本音だった。  初めのうちは各宗教の教誨師に片っ端から会った。生き返る心地だったろう。しかし、ある一定の時間がたつと、そうそうすべての宗教を信じるわけにはいかなくなった。そこでひとつ仏教に的をしぼった、という見方が正しいのではないだろうか。  教誨師の訪問を受けるのが週一回となると、またカウは黙する時間が苦痛になった。体をじっと静止させていることがたまらない。一日一時間の運動時間など、あっという間だ。なにか肉体を駆使して働かなくては気が狂いそうだった。  カウは拘置所長に宛《あ》てて願い書を提出した。自分は農家の生まれであること。家が貧しく、幼児から子守り、洗濯、農作業と体を使って育ってきたこと。菓子工場、からし漬工場を営み、製造から包装、行商と身を粉にして働いたこと。生まれてからずっと一時の休みもなく体を動かして働きづめに働いて生きてきたこと。だからいまのような、上げ膳《ぜん》据え膳のけっこうずくめの生活はたまらないと訴えた。身の置きようもなく、働いて疲れないので夜も眠れない。どうか仕事をさせてくださいと願い出たのだ。  当然のことだが、この願い出は却下された。しかし、一度や二度の否で引き下がるカウではない。炊事場で働かせろ、自分は食堂も経営していたのだから炊事はうまい、と願い出る。労役は短期受刑者の仕事だからとまた却下される。今度は花壇づくりを願い出る。自分は農家の出身だから花壇の手入れはだれよりもうまくできるというものだ。これも否の回答。次は洗濯でも、掃除でも、思いつくかぎりの拘置所内の仕事を願い出た。  拘置所側もこんな死刑囚は初めてだった。女の死刑囚を抱えた体験が初めてなら、至れり尽くせりの大尽暮らしはもったいなくて罰が当たる、働かせてくれとわめくというのも初めてである。  カウが願い出る、却下される、このくり返しがあたかも恋人同士の恋文の往復のようにくり返された。  これが晩年のカウの姿であった。  いよいよ処刑の日を迎えるときがカウにも訪れた。  四十五年六月十日。拘置所長の呼び出しを受け、死刑執行の言い渡しを受けたのである。言い渡しを受けると、死刑囚には忙しい一日となる。遺書を認《したた》めたり、遺留品の整理をしたり、特別の入浴など日常と異なった用事に追われる。この日かぎりなのだから、あとに悔いや恥を残すまいと思う。最も大切なことは心の準備である。みっともない姿をさらさないよう、落ち着いて堂々と死んでいきたいと思うのが、死刑囚に共通した考えである。  カウが処刑の前日をどのような精神で過ごしたのか、心の部分については具体的手がかりはなにもない。死刑の執行を言い渡されたときの態度、その一日をなにをして過ごしたか、刑場にどのような赴き方をしたのか、について、外から見た印象だけが、それを知る人びとの記憶に残っている。  ひと言でいうなら、落ち着いて堂々とした立派なものだったそうである。  一般に死刑囚は所長の呼び出しを恐れる。「所長がお呼びだ」と言われただけで腰を抜かして立ち上がれなくなる者もいる。お迎えのお呼びにちがいないと思ってしまうのだ。ほかの用事で呼び出しても、所長の前に立ったときズボンの前が濡《ぬ》れている者もいる。失禁してしまうのだ。  カウは、担当の女子看守が房を開けて、 「小林さん出房、所長がお呼びです」  と言うのにも、少しの動揺も見られなかった。あるいは言い渡しとは考えなかったのかもしれない。  所長室に入ったとき、保安課長、教育課長など女区の主たる面々がずらりとそろっていた。カウは臆《おく》する様子も見せず、泰然と所長の机の前に進み出た。  所長は言葉を探しているようだった。 「残念だが、いよいよお別れしなくてはならなくなったよ」  うつむき加減に立っていたカウは、はじかれたように顔をあげ、所長の顔を凝視した。しかし、それもそう長い時間ではなかった。 「そうですか」  カウはなんの感情も交えない声でこう言った。二本の紐《ひも》で着つけた和服姿のカウは、入所当時に比べると一まわりも二まわりも小さくなった印象である。平凡な老女の姿だ。 「小林カウ、明治四十一年十月二十日生まれ。右の者昭和四十五年六月七日より五日以内に所定の方法により死刑の執行を行うべし。法務大臣」  所長は法務省から送られてきたペラペラの執行命令書を読みあげた。  執行命令書はもう一枚、同日に届いていた。カウと一緒に死刑判決を受けた大貫光吉のものだ。カウが殺人の手先には使ったが鼻もひっかけなかった男である。いや、それどころか、疎《うと》んじて遠からず殺害の予定さえ考えていたのだ。カウは大貫光吉が自分と同じときに執行されるとはむろん思ってもいないだろう。 「六月七日から五日以内というと明日が限度だから、本当に残念だがお別れだ。慣例どおり、明日午前十時に刑の執行ということになる」 「もう一日だけ、待っていただけませんか」  カウは願い出た。 「残念だが、待つわけにはいかないんだよ」 「そうですか、わかりました」  執行をもう一日延ばして、何をしようというのか、所長はたずねることもしなかった。たずねたところで、待ってやるわけにはいかないのである。  居並ぶ面々は、執行されるのがカウではなくて自分であるというように顔面を蒼《そう》白《はく》にして緊張している。  カウの死刑が確定してからの話題がひとしきり出た。拘置所としても女性死刑囚は初めてなので、あらゆる意味で心配だった。しかしカウは短期受刑者の女囚たちよりもずっと世話を焼かせなかった。働かせろといって毎日大騒ぎしたことも、いまはなつかしい話題になった。  思えば死刑囚となってからの日々が初めてふつうの人間らしい生活だった。とりつかれていた欲も捨て、見栄も捨て、素朴な老女として生きることができたのだ。 「ところで、きみはいくつになったね」  所長がたずねた。 「はい、六十一歳です」 「そうか……」  急に沈んだ空気が漲《みなぎ》った。 「きょうは特別のごちそうをしよう。食べたいものがあったらなんでも言うといい。すしでもうなぎでも、天丼でも。ふだん食べたくても食べられなかったものを思いきり食べたらいい」  所長は、沈んだ空気をあわてて盛り立てるように言った。 「それでは、おすしを」  遠慮しいしいというように小さな声でカウは言った。  美容室で髪をカットし、カウのために特別にたてられた湯でゆっくりと体を洗うと、午前中は終わった。  昼食、昼寝の時間。午後には拘置所預かりの私物が戻された。明日は主なき品々となるべき物だ。カウはそのひとつひとつをいとおしむように手に取った。カウの最後の財産となったそれらの品々は、明日以後どこへ行くのか。たぶん焼却される運命なのだろう。面会に来る肉親も、別れに来る肉親もいない。    巣鴨から小菅へ護送  私物の中から、久しく忘れていた化粧品が出てきた。カウはクリームの瓶を手に取った。蓋《ふた》を開けて匂《にお》いをかいでみた。黄ばんだ透明の油分が分離している。カウが化粧をやめてからの歳月を物語っていた。カウは報知機のボタンを押した。房内でボタンを押すと、廊下側に板が倒れる仕掛けになっていて、それを認めて刑務官が来る。 「どうしました小林さん」 「これ、まだ使えるんでしょうか」  カウはクリームの瓶を看守の前に突き出した。 「まあ、風邪を引いちゃって、これじゃ駄目ね」 「そうですか、長いこと使わなかったから」 「そうね、ここにいれば官給品のコールドクリームで間に合っちゃうからね」  若い看守は化粧気のないカウの顔を見て言った。  扉が閉じられると、再びカウは私物の整理に戻った。  夕方五時少し前、担当が呼びに来た。教誨師が来てくれたのだ。特別に用意された部屋で、女区の区長、主任の刑務官も加わって、カウのための告別晩《ばん》餐《さん》会《かい》が開かれた。昼間頼んだすしが用意され、テーブルには主任の志の花が飾られた。  カウにとって最後の晩餐だ。女子刑務官や教誨師にとっても、初めての女性死刑囚と接する最後の夜である。  明日刑場に引っ立てられるものを囲んだ宴とは、とうてい及びもつかない賑《にぎ》やかな雰囲気。カウは音痴ながら歌を披露した。それがなんという歌だったのか、十年も前の流行歌だったということしかわからないのが残念だ。  夜八時、宴はお開きとなった。独房に戻ったカウは布団を敷くとすぐに横になった。その夜、カウがぐっすり眠ったかどうかはともかく、寝返りを何度もするようすはなかったそうである。    四十五年六月十一日、午前。梅雨空はいまにも降り出しそうに、低くたれこめた暗雲におおわれていた。気象庁の予報は雨となっていた。拘置所の庭は梅雨の水《みず》溜《たま》りがあちこちに認められる。まさに梅雨のまっ盛りに入ろうとしていた。  カウがいた東京拘置所は、現在の小《こ》菅《すげ》ではなくて巣《す》鴨《がも》にあった。戦犯が収容、処刑された巣鴨プリズン跡が進駐軍撤退後、そのまま拘置所として使用されていた。現在のサンシャイン60の建っている場所である。小菅に拘置所が移転したのは四十六年三月のこと。  巣鴨時代の東京拘置所には刑場設備がなかった。死刑の執行は当日の朝、護送バスで死刑囚を小菅刑務所まで運んで処刑を行った。しかし、小菅刑務所に刑場を建設して、処刑が行われるようになったのは四十一年(一九六六)からである。それまでは、東京拘置所の死刑囚は宮城刑務所に送られ、処刑されていた。  カウはその日、六月十一日の朝、七時半には朝食を終えていた。小菅行きのバスは八時に東京拘置所を出発の予定である。食後、あわただしい気持ちで着替えをした。きのう私物の整理をしたときに選《え》り出しておいた取っておきの晴れ着である。そのあとで白粉のコンパクトの蓋を開けた。パフを顔全体に叩《たた》きつけた。頬《ほお》紅《べに》をつけ、小指に口紅を取り唇にも紅を引いた。薄化粧だが、死への門出の身だしなみだったのだろう。それとも、死化粧を自分で施したつもりなのか。  迎えに来た主任の刑務官は目を見張った。 「小林さん、とってもきれいよ」  カウはいかにも満足そうであった。待ちに待った楽しい旅に出るような、いそいそとした感じさえある。  灰色の護送バスの後ろには黒塗りの乗用車が二台待機している。所長をはじめ、刑務部長、教育課長、医官などが乗るためだ。  カウを護送するのは女子刑務官ではなく、男の警備隊四人である。  この日、もう一台の護送バスが三十分後に拘置所を出発した。大貫光吉を乗せて小菅に送ったのだ。  カウは拘置所から小菅までの街々の風景を、どんな思いで眺めたことだろう。バスの中では終始黙ったままでいた。手錠に腰縄を打たれているカウは、膝《ひざ》の上に両手をそろえて載せていた。  小菅刑務所の東北の一角に刑場がある。木立に囲まれた、ちょっとしゃれた外観の平屋造りの一戸建ての建物だ。  刑場の仏間に入ったとき、カウは手錠腰縄から解放されていた。死刑執行には拘置所長、小菅刑務所長と両所長が立ち会うことになっていた。ほかに担当の検事、検察事務官、保安課長、教育課長らの顔があった。カウには所長のほかは馴《な》染《じ》みのない顔ばかりである。  教誨師の読経が始まっていた。祭壇には蝋《ろう》燭《そく》、線香が灯り、いかにもおごそかなひとときが始まっていた。 「これでいよいよお別れです。なにか言い残すことはありませんか」  拘置所長が、本番の言い渡しをした。 「はい。長い間お世話になり、ありがとうございました。思い残すことも、言い残すこともありません」  カウはきっぱりと言った。顔色が蒼《あお》ざめているかどうか、化粧のせいではっきりとしない。立ち会う一同の目には、なんと堂々たる態度であることかと映った。  教誨師が、カウに祭壇に向かって祈るよう勧めた。被害者のためと、カウ自身のために合掌して祈れというのだ。カウは素直に祭壇に近づいて手を合わせた。供物のドラ焼きを拘置所長が勧めたが、カウはいまさら食べても……とあとは口ごもって辞退した。  それから、拘置所長がなにか話しかけたが、会話はあまりはずまず、時間だけがじりじりと迫ってきた。 「それじゃ、別れの握手をするか」  拘置所長が手を差し出した。カウはそれに応えた。この世で接する最後の他人の掌である。  それが合図ででもあったのか、待ちかまえていたように二人の刑務官がカウに目隠し、手錠をかけ腰縄で固定させた。仕切りのカーテンが開き、カウは一メートル四方の踏み板へ向かって誘導されていく。  白麻のロープは、長さをカウの身長に合わせて調節してある。首にかける部分が輪になっていて鉄環《わ》で止めてある。  カウが踏み板の上に立つと、待っていた刑務官二人がすばやく首にロープの輪をかけ、膝を紐《ひも》で縛った。カウは目隠しをされたときから、口の中でなにか呪《じゆ》文《もん》のようなものを唱えつづけている。それが呪文なのか、教誨師の読経に合わせた経なのかはっきりしない。ロープを首にかけた刑務官には不気味な呪《のろ》いの文句のように聞こえた。  ロープが首にかけられ、首の後ろでギュッと絞められたと思った次の瞬間には、もうカウの姿はなかった。心臓にズキンとこたえる轟《ごう》音《おん》ともたとえたいような踏み板が落下する音。医官はカウの体が地下に呑《の》み込まれる直前、つまり刑務官のひとりがハンドルを引く瞬間をとらえてストップウオッチを押した。  狂ったように声高に流れていた読経が鎮まった。刑場内は芝居の幕が下りたあとのように急にざわついてきた。皆ほっとした思いなのだ。死刑執行には慣れていても、女性囚の執行だけに、特別緊張していた。  地下室では、まだカウの肉体は生きていた。首を絞められ窒息しているというのに、胸部は深呼吸をしているように、ふくれたりしぼんだりを大きくくり返している。手は空中を泳ぎ、足は地面を求めるように歩く動作をしていた。  しかし、それもそう長い時間ではない。やがて手首の脈を取っていた医官が合図した。脈が感じられなくなったのだ。少したって、心音を聞いていた医官の聴診器がカウの胸からはずされた。医官から刑の執行の終わりが告げられた。所要時間を感情のこもらない声で伝える。    小林カウ 享年六十一歳。  遺書は姉に宛《あ》てた簡単なものが一通だけ。死を恐れず、死刑について何も語らず、見事に刑死していった戦後女性処刑第一号であった。  この翌年三月に東京拘置所は小菅に移転し、現在に至っている。小菅刑務所はその少し前廃庁となり、その跡が拘置所となった。  一年半で結審、二十二歳で死に赴く     鏡子ちゃん殺し 坂巻 脩吉   「鏡子ちゃん殺し」事件は、昭和二十九年四月十九日に起きた。  午前十一時五十分ごろ、東京都文京区元町小学校内の便所で細田鏡子ちゃん(七つ)が殺されているのを母親が発見した。二時間目の授業から姿が見えなくなっていたが、担任の教師は家に帰ったのだろうと考えて、あまり気にかけなかった。  鏡子ちゃんの自宅は学校の前だったし、家が近くにある児童は、帰ってしまうこともよくあった。たまたま買い物帰りに学校に立ち寄った母親が、鏡子ちゃんの姿が見えないので捜したが見つからなかった。それで大騒ぎになり、先生も生徒も一緒になって捜した。その結果、昼近くに、内側から鍵《かぎ》がかけられた女子便所の中で絞殺されているのが発見されたのである。鏡子ちゃんは下着を口に詰め込まれ、暴行を受けた跡があり、無残な姿で死んでいた。  事件は流しの犯行とみられたため、一時は迷宮入りとあやぶまれた。しかし、警視庁の精力的な捜査で、便所の土管を掘り起こしイニシャル入りのハンカチを発見。これが手がかりとなって十日目に坂巻脩吉(二〇)が逮捕された。  この事件の特殊なところは、なんといっても小学校の便所の中で、午前中の授業が行われている最中、わずか七歳という児童が暴行を受けて殺されたこと。そして、その犯人はヒロポン中毒で結核療養所を抜け出してきた二十歳の青年であったことだ。こうしたことから社会問題(当時、社会に性的退廃があったことなどが問題にされた)、医療問題、鏡子ちゃんの欠席を知りながら捜そうともしなかった担任教師の手落ちなど、学校の管理問題が議論された。さらには猟奇的記事に発展もした。    刹《せつ》那《な》的に生きるほうが楽  坂巻脩吉は犯行当時、静岡県富士郡の国立療養所で結核療養中の身であった。療養生活は三年間つづいていたが、その生活態度は決してまじめなものではなかった。療養所の入院費滞納は二十万円にも達していた。そのうえ療養所の友人から七千円と背広、スプリングコートを借りっぱなし。しかも無断外泊はしょっちゅう。こんなわけで療養所内での評判はすこぶる悪い。  坂巻は人生を軽く、刹那的に生きるという感じがあったようだ。なにごとも深く考えたり、追求したりせず、いま現在を楽しく過ごそう。現在の立場で楽しむ方法を見つけて楽しもう。そういうところがあったようである。そんな性格に仕立てあげたものは、坂巻の生いたち、育った家庭の生活環境に原因があったのではないだろうか。  坂巻の母親は身持ちの悪い女で、事件当時も家庭を捨てて愛人と暮らしていたというマスコミ記事もある。父親は坂巻を可《か》愛《わい》がりもせず、むしろ虐待に近い扱いをした面もあるようだ。そうした環境下では、傷つかないためには軽く生きる、刹那的に生きるほうが楽だ。そういうふうに、無意識に自分を訓練していったのではあるまいか。  それがヒロポンに走ることにもなり、七歳の女児に暴行し、殺害するという結果になったのではないだろうか。  東京地裁で一審死刑判決(三十年四月)後、東京拘置所の暮らしでも、この軽く生きるという姿勢は変えられていない。同囚者や刑務官を相手に冗談を言い、ふざけたりして、けっこう楽しげに日を送っていたようだ。「もしかしたら死刑になるかもしれない」とか、「なんとか助かりたい」というような真剣な、深刻なようすはなかったという。  控訴審判決の日も、裁判所から戻ってくる坂巻を、刑務官や同囚者たちは心配して待っていた。控訴審で極刑を言い渡された者にとって、上告審の最高裁はほとんど開かずの門といってよい。高裁判決が支持されるのである。  しかし、裁判所から戻ってきた坂巻の表情には憂いの影はなにもない。刑務官は、もしかしたら減刑かと期待をもってたずねた。 「どうだった」 「先生、おれ、死刑になっちゃったよ」  ケロリと言ってのける口ぶりは、まるで他《ひ》人《と》事《ごと》のようだった。それきり落ち込むこともなく、けっこうゼロ番区の中で楽天的に過ごしていた。  昭和三十一年(一九五六)十月、坂巻の死刑が確定した。やはり、最高裁の門は開かれることはなかった。裁判が始まってからわずか一年半で死刑確定という超スピードの判例を、ほかに知らない。当時の刑務官のひとりは、坂巻は上告しなかったとも言っているが、いずれにしろ、これで坂巻は死刑囚という、刑死を待つだけの身になった。坂巻にとって不運なのは、確定から処刑までがまた大変スピーディーであったことだ。あとに述べる菊地正は確定から四カ月後に宮城刑務所に送られ、着いた翌朝に処刑されているが、坂巻は確定から執行までが八カ月である。  坂巻も菊地も常《じよう》磐《ばん》線で仙台へ送られ、宮城刑務所で執行されている。昭和四十一年には東京にも小《こ》菅《すげ》刑務所に刑場を設置したが、それ以前の死刑囚は〓“仙台送り〓”になる運命だった。    〓“死出の旅立ち〓”仙台行き  坂巻の死刑執行は、三十二年(一九五七)六月二十二日に行われている。宮城刑務所には約一カ月拘置されていたという。ということは、東京を発ったのは五月の中旬過ぎだったということになる。  常磐線から眺める風景も新緑のすがすがしい、美しいものだっただろう。坂巻にとって東北の仙台までの旅は生まれて初めてだったのであるまいか。  朝、東京拘置所で呼び出され、死刑囚房の廊下を走りながら、残る同囚者に、「お先にっ!」と、まるで栄誉あることで選ばれて行くような挨《あい》拶《さつ》をしたそうだ。顔色を変えることもなく、ごくごくいつもの坂巻だったそうである。刑務官は、若い、わずか二十二歳の坂巻が痛ましく、「がんばれよ」とか、「しっかりな」という言葉も出なかったという。 「先生、お世話になりました。元気でね」  逆に声をかけられて、心臓にズキンとこたえた刑務官もいた。 「あいつは、自分がこれからどうなるのか、わかってんのかね」  坂巻にかかわった刑務官たちの、共通したやりきれない気持ちだったという。  護送中のことは、直接護送に付き添った人の話はとれなかった。また聞きで彼のようすを紹介したい。  手錠、腰縄の自分の姿をまるで意に介さず、道中はずっと楽しんでいるふうであったそうだ。  午前九時五十分上野発の常磐線急行「みちのく」に乗り込むまでは、さすがに緊張していたらしく、ひと言も口をきかず神妙にかしこまっていた。列車に乗り込んで間もなく、東京拘置所の高い塀が車窓から望まれる。当時、小菅一帯はまだ専業農家も多く、田んぼ、畑のあちこちに農家が点在する、農村風景といっていい眺めだった。菜の花の季節は終わっていたが、それでも自生して咲いたものが土手や畦《あぜ》に残っていた。 「あの花、おれの部屋からも見えたんだ」  突然、咲き残りの菜の花を手錠のままの手で指して坂巻が言った。拘置所は反対側だ。死刑囚房から、はたして坂巻の指す場所が見えたのだろうか。  護送官は、 「そうか、もうお別れだな」  と言った。すると坂巻がつづけた。 「うん。みんな親切でやさしかったなあ」  いつもの坂巻らしからぬ、何かしんみりしたものがあった。それから別れを告げるように、しばらく拘置所のほうを眺めつづけ、それきり黙りこんでしまった。  途中で弁当を与えられると、元気を盛り返し、かまぼこと卵焼きが大好きだといって喜んで食べた。弁当がきっかけになって、子供時分の運動会や遠足のこと、空襲のときのことなどを話した。 「戦争に負けて、変わっちゃったなあ、みんな」  とも言った。  坂巻はこのとき二十二歳であったが、とうていその年齢には見えない。体重は四十キロあるかどうかというほど華《きや》奢《しや》で、青白い肌からは弱々しく静脈がすけて見える。細くていまにも折れそうな体《たい》躯《く》だ。二十歳前に胸部切開手術を受け、療養を継続中のときの犯罪である。おそらく本当の健康体を回復してはいなかっただろうと思われる。そこへ加えて慢性ヒロポン中毒もあった。坂巻はどのみち長い命ではないと、自分で思っていたのかもしれない。そうでなくて、どうして一向に動ぜずに死出の旅に発てるだろう。  道中の風景を珍しがって喜び、けっこう飽きることなく旅を楽しんでいるように見えたそうだ。手錠もなく、死刑囚という逃れられない十字架を背負っていなかったら、楽しくて躍り上がったかもしれない。当時流行していた〓“マンボ〓”が得意で、いやに気に入っているらしかった。東京拘置所でも独居房の中でリズムを取りながらよく歌っていたということである。  仙台では桜が五月に咲く。宮城刑務所の庭にも桜は咲いていたことだろう。ここの生活でも、坂巻は少しも死を恐れる様子を現わさずに、その朝を迎えたようだ。  六月二十二日朝、食事前に房から出され、緋《ひ》の絨《じゆう》緞《たん》敷きのものものしい所長室に連れて行かれた。思わず膝《ひざ》ががくつく。緊張する。顔面もこわばる。「ついに来た、とうとう来た」という意識だけが頭の中でひしめきあうようにわいてくる。口が渇いて舌がひきつったようになる。思うように返事の声も言葉も発せられない。 「言い渡し」の儀式を受けて、それから最後の食事が与えられる。まっ白く輝いて見える米だけの飯だ。独房で毎日恋い、あこがれ、希《こいねが》う飯だ。が、「言い渡し」の直後だけにまったく喉《のど》を通らない死刑囚が多いのに、坂巻は美《お》味《い》しそうにすっかり平らげてしまったという。おそらく、口には出さなかっただろうが、この日の運命をとうに覚悟していたのではあるまいか。  投げやりに生きた二十二年の生涯の最期を迎えるのも、同じく投げやりの気持ちだったのか。それとも、もっとずっと達観したものがあったのか。  刑場では仏間で、祭壇に向かって長い間合掌し祈っていたという。  最後に、供物のまんじゅうを勧められると、素直に押しいただいて、さながら褒美をもらった子供のように食べたそうである。  そのあとは目隠し、手錠、腰縄で死刑台に誘導されていった。坂巻の首に縄をかけた刑務官は、坂巻の首があまりに細いので金具を締めるのに少し手間どったのではないだろうか。それでも、坂巻は数分後には死刑台からその姿を消してしまった。あとには麻のロープがピンと下がって、やはりキリキリ舞いを演じるのが残るばかり。  言い残しの言葉も、遺書もなく、二十二歳の若い生涯がこうして閉じられた。    昭和三十二年(一九五七)六月二十二日  坂巻脩吉 享年二十二歳  死の獄舎を脱獄、仙台送りの翌朝処刑     雑貨商一家四人殺し 菊地 正     菊地正の死刑執行は、東京拘置所から宮城刑務所に押送された翌朝、ただちに行われるという異例のものであった。しかも菊地の場合、死刑確定からわずか四カ月後という、驚くべき超スピードの処刑だった。    昭和三十年(一九五五)十一月二十一日。  東京地方も師走を目前にして、本格的な冬に入ろうとしていた。裸コンクリートずくめの東京拘置所では、すでに寒さとの闘いの日々が始まっていた。  ここで死刑囚の一日を紹介しておこう。  それは朝七時(日曜、祝日は七時半)の「起床!」の号令で始まる(現在はチャイム)。それまでは目が覚めていても起き出すことは許されない。起床とともに寝具をたたんで所定の位置に置く。房内の掃除、洗面を七時二十分までに終える。 「点呼!」の号令がかかるのが七時二十分だ。三人の刑務官が一房から順番にやってくる。死刑囚たちは自房のドア正面に正座して待つ。 「番号!」 「〇〇番」  自分の番号を答える。開かれたドアがバタンと閉まり、自動的に鍵《かぎ》がロックされる。  七時半になると「配当!」の声が響きわたる。手押し車を引いて短期刑の受刑者が各房に食事を配当する。死刑囚はアルマイトのヤカン、汁食器、飯食器、漬物およびちょっとした小付を受ける皿を用意する。茶(紅茶色のもので厳密には茶ではなく、柳葉といわれていた。事実無根だが)、麦飯(米四分、麦六分)、味《み》噌《そ》汁《しる》、ひじきの煮付か昆布の佃《つくだ》煮《に》の類少々と沢《たく》庵《あん》二切れが配られる。  ドアは閉じられたままで、鉄扉の下端三十センチの位置にある十五センチ四方の食器口と呼ばれる窓から配《はい》膳《ぜん》される。新聞、雑誌などの受け渡しもこの穴から行われる。  朝食後は九時から一時間、屋外での運動が許される。日曜、祝日と入浴日、雨天以外の毎日ということになっている。死刑囚にとって、外の空気に触れることのできる唯一の時間だ。ジョギング、縄跳び、体操と思い思いのことをやって過ごす。この時間はひとりではない。数名ずつ交代で、毎日その数名の順序が変わる。  十一時三十分に昼食が配当となる。麦飯は相変わらずだが、おかずが二品に汁がつく。昼食後は十一時五十分から午後一時まで昼寝が許される。といっても、ドアの上の壁に組み込まれたスピーカーから音楽が流れるので、ぐっすり眠れるかどうか。それでも所定位置にじっと座っている姿勢のままよりも、横になれるだけ楽ではある。  四時二十分、はやばや夕食、メニューは昼食と同じく、おかず二品、汁、麦飯だ。死刑囚の腹の空き具合など慮《おもんぱか》る気遣いはなく、職員の都合による早い夕食。夏場はまだ日が高く、西陽に灼《や》かれた房内は暑さとの戦いの最中で、食事どころではない。  五時から先は、横になりたければなってもよろしいという仮就寝の時間となる。その前に、四時五十分、夕点検。そして五時に仮就寝。消灯は九時。といっても完全に消灯にはならない。日中の二十ワットの蛍光灯が六ワットに減灯するだけである。    脱獄で処分を受けた刑務官  しかしこの朝、菊地正は「配当!」の声を聞くことはなかった。布団をたたみ、房内の掃除を終え、洗面した直後に、数人の足音が、菊地の房にやってきたからだ。洗面後、「配当!」の声がかかるまでのちょっとの静寂の時を、「魔の時間帯」といって死刑囚たちは恐れていた。 「所長がお呼びだ」  迎えに来た看守のひとりが言い終わらないうちに、ほかの二人が房内に入った。二人は菊地の両脇《わき》に立ち、声をかけたひとりが正面に立った。菊地は三人の看守に取り囲まれたかっこうで、両手を上へあげる。シャツの襟の裏、ズボンの折り返し、ポケットというポケット、果ては縫い目の裏側に至るまで念入りに身体検査が行われる。針一本でもどこかに隠し持っているのではないかと徹底的に調べたうえで、ようやく点検が終わった。  所長室に連れて行かれた菊地は、すでに己の身にこの先なにが起こるかを察していたことだろう。石油ストーブの青い炎を黙って見ていた。 「菊地正だね」  わかりきっていても、必ず本人であることを確認するのが拘置所の規則である。所長は素直に頭をたれた菊地に満足そうだった。  菊地の生年月日、姓名が読みあげられ、 「本日、宮城刑務所に押送する」  と、感情いっさいがこもらない声がつづいた。「言い渡し」の儀式であった。  このあとは、これでいよいよお別れだな、とか、途中変な気を起こさないように、とか、護送官の言いつけに素直に従うように、などの注意を受ける。  菊地はそのいちいちにうなずき、最後にいとまを告げた。 「大変ご迷惑をおかけしまして、申しわけありませんでした。長い間お世話になりました。ありがとうございました」  深々と頭をさげて、礼儀正しい挨《あい》拶《さつ》。  別室に移され、朝食が与えられる。東京拘置所でとる最後の食事だ。五という和数字が浮き出たプリン型の衝き飯がアルマイトの縁高皿に載っている。冷えた味噌汁、沢庵二切れ。いずれの食器もアルマイトである。菊地は残さず平らげた。いつの間にか、菊地の私物がそろえられて届いていた。大した荷物ではない。着替えの下着と、歯ブラシ、石けん、手ぬぐいなどの洗面用具ですべてだ。風《ふ》呂《ろ》敷《しき》包み一個の荷物も、菊地自身が持って行くのである。  食事が終わると、ただちに手錠がかけられた。腰縄も打たれ、旅立ちの準備は終わった。  ふつうだと、手錠をかける前に「お別れだから」というのでタバコを吸わせてもらえる。しかし、菊地にはそのいたわりを受ける資格がないとでもいうように、だれもが知らん顔でいた。  なぜなら、菊地は死刑囚でありながら、脱獄犯でもあったからだ。  東京拘置所では、所長をはじめ、管理部長、保安課長、区長、担当部長、夜勤課長、夜勤部長、夜勤看守に至る多くの刑務官が菊地のためにいろんな形で処分を受けた。菊地に対しては憎さと恨みは積もるほどあれ、あわれみやいたわりなどかけらもないのが本音であった。菊地が脱獄した当時の所長は解任された。その朝菊地に〓“仙台送り〓”を言い渡したのは、代わって新しく着任した所長だ。  死刑囚を護送するときは、刑務官三人が付き添うことになっている。菊地の護送にも三名の刑務官がついた。三名とも、菊地の脱獄のおかげで減俸処分を受けていた。護送中また逃走されるようなことがあったら、今度はとうてい首はつながるまいと思うと緊張は極《きわみ》に達する。通常の場合でも死刑囚の護送にはふだん以上の神経を使う。死刑囚が汽車に酔って気分が悪くなったとか、用便とかで便所に行く回数が多くなると、その度ごと緊張する。護送中の囚人が便所の窓から逃げだしたり、走行中デッキから飛び降りる事件も実際にあったことだ。ひとりの死刑囚を宮城刑務所まで護送して、無事受け渡しがすむと三人ともどっと疲れが出る。  東京拘置所を脱獄に成功した菊地だ。ほんの少しの油断も禁物である。    母親思いゆえの凶悪犯罪  手錠と腰縄を打たれた菊地を乗せて、小型護送バスは上野駅へ向かった。町並みは菊地にとってひさびさに目にする自由社会の風景だ。けれども、菊地はそんなものにはなんの感情も動かさない様子だった。    菊地の犯罪は強盗、婦女暴行、殺人である。  昭和二十八年(一九五三)三月十七日、栃木県芳賀郡市羽村で雑貨商の女主人(四九)ら一家四人を絞殺して暴行。金品を奪って逃走。二カ月後逮捕され、宇都宮地裁で死刑判決、昭和二十九年東京高裁で死刑。上告中の三十年五月十一日夜、東京拘置所を脱獄。逃走十一日目に逮捕された。逮捕後五十九日目に死刑が確定し、それから四カ月たったその朝、仙台送りの身となったのである。  鏡子ちゃん殺しの坂巻は、死刑確定から八カ月後に処刑された。菊地はその半分の期間内に手続きを終え、処刑されてしまったのである。死刑の事務手続きは次のような手順を踏む。  まず、刑が確定した菊地の判決謄本や公判記録が東京高等検察庁に送られる。それを受けて検事長が死刑執行に関する上申書を法務大臣に提出する。執行を掌握するのは法務省刑事局である。刑事局はただちに死刑囚菊地の確定記録を検察庁から取り寄せて最終的な書面審査を開始する。この作業は、順番で事件をふり当てられた刑事局付の検事がする。担当者は捜査から起訴、公判、判決に至る膨大な記録を徹夜作業で読む。このさい果たすべき任務というのは、刑の執行停止、非常上告、再審や恩赦の申請などの結論が出ているか、裁判所が有罪と認定した証拠が完全に整っているかなどの確認である。判決文の真偽を確かめる権限はいっさい与えられていない。  仮に「真犯人がこの膨大な記録のかげに隠れているのではないか?」という大いなる疑惑にとりつかれたとしても、そんなことを申し出て判決をやりなおさせることはできない。あくまで個人的問題、個人の疑惑にすぎない。この時点における検事の役割は、書類の上だけでの真偽を問わぬ死刑囚菊地とのかかわりである。  だから、菊地にとっては死刑執行のためのきわめて事務的、手続き的確認の段階でしかない。この確認によって死刑から無期に減刑ということは絶対にないのである。この確認作業が完了すると、「死刑執行起案書」を一定の書式にのっとって作成する。  こうしてできあがった「起案書」は、法務省の刑事局、矯正局、保護局内部でチェックされ、その後刑事局長から法務大臣官房にまわされる。矯正局は常時拘置所からの報告を逐一受けて、死刑囚菊地の健康状態、精神状態を、また保護局は恩赦事務を掌握しているところである。これらのセクションでいま一度死刑執行を阻害する要件はないかとチェックして、ようやく最終段階にまわるわけである。  法務大臣官房では秘書課長、官房長、法務事務次官のルートで「起案書」が上げられる。それぞれの決裁を受けると秘書課長が大臣室に持参、ここで初めて法務大臣の机の上に置かれるのである。あとは大臣が死刑執行命令書にサイン押印するだけだ。  通常の場合、徹夜作業をつづけても「起案書」づくりまでに六カ月くらいはかかるらしい。ところが菊地の場合は、四カ月後には処刑されているのだから、大臣の机の上に置かれるまでに四カ月もかかっていないことになる。再度の脱獄を心配して殺し急いだ印象を受けるのも無理ないことだ。    菊地正の脱獄事件については、大津健一氏が『さらばわが友』の中に詳しく書いていて、大変おもしろく読ませてくれる。  著者の大津氏は昭和二十九年(一九五四)に起きた〓“カービン銃ギャング事件〓”の主犯だった人物である。菊地正が東京高裁で控訴を棄却され、最高裁に上告中という時期、大津氏も同じ東京拘置所のゼロ番区(死刑囚舎房)に未決囚として収監されていた。菊地の脱獄について、逃走経路や拘置所側の対応ぶりなども内側から見ていただけに、とても詳しい。当時の死刑囚がどんな待遇を受け、どんな日常を過ごしていたかも現実的に描かれていて、舎房内の生活がありありと見えるようである。 『さらばわが友』には「死の獄舎を震《しん》撼《かん》させた脱獄囚・菊地正」と題して、菊地自身の身体的特徴や、犯罪に走る動機、脱獄の周到さなども詳しく書かれている。  それによると、当時二十八歳だった菊地は、  「身長一メートル六十センチぐらいの小柄ながら、いかにも肉体労働で鍛えぬかれたといったふうな、がっしりとした体格をしていた。腕も太く、見るからに腕力がありそうであった。浅黒い角形の顔をしており、ややドングリ目であった。右の目の下に大きなホクロが二個あったが、このホクロが印象的であった。髪はスポーツ刈りで、ドングリ目を上目づかいにして人と話をしていた」  と、村の草相撲大会で横綱を張りそうな、素朴な農村青年を彷《ほう》彿《ふつ》させる菊地像がある。  菊地はたいへん母親思いの息子であった。当時の新聞にも、村の青年団長をつとめたり、農作業にも精出し、まじめで礼儀正しく、働き者だった、と事件以前の菊地の行いのよさが伝えられている。なぜ、まじめで礼儀正しく、親孝行者の働き者が、強盗、暴行、殺人罪という恐ろしい犯罪に走ったのか。村中がひっくり返って驚いた事件だった。  菊地の母親思いは通常一様のものではなかった。菊地の母親は、五歳の菊地を連れて再婚した。連れ子があるということで再婚の夫、つまり菊地の義理の父親にいつも気兼ねして暮らしていた。そんな母親を菊地は痛ましい気持ちで見て育った。  母親の再婚の夫は情の深い男とは言えず、むしろ情なしの人でなしだった。自分が迎えた妻を少しも大事にする気持ちはないらしく、下女を扱うような仕打ちをしていた。また菊地に対しても、継《まま》子《こ》いじめをする。自分の食い扶《ぶ》持《ち》は自分で稼げとばかり、小学校低学年のときから菊地は近所の農家の手伝いに出された。  こうしたことから母親と息子の絆《きずな》はきわめて深く強いものになっていたのだ。ひとりの男のために共通した不幸というか、切なさを味わった母と子なら当然だろう。  その大切な母親がソコヒ(白内障)を患い失明してしまった。菊地が二十二、三歳のころのことだ。孝行息子は母親を自転車に乗せて、町の眼科へ毎日通ったが、手術をしなければ治る見込みはないと言われる。手術には大金が必要である。当時はいまのように国民健康保険というものはなく、医療費は全額個人負担であった。  父親には母親のために高い医療費を工面する気はてんからなかった。そればかりではない、『さらばわが友』にもそのへんのことは触れられている。  「父親はそんな母親を見て、  『目玉の一つや二つ見えなくったって……』  と叱り飛ばしたらしい。母親思いの菊地は怒りに燃えあがった。父親に対する猛烈な反発心をわかせ、  『よし、自分の手で母のソコヒを治してみせるぞ』   と決意した。決心したものの、まだ二十六歳の青年にとって、難病のソコヒを完治させるほどの大金はない。そして父は死んだ。母の眼病を治すことと、一町歩の田畑の耕作が若い菊地の肩にのしかかってきた。金欲しさに強盗殺人を計画した」  強盗の標的に選んだのは、菊地の家から目と鼻の距離にある村の雑貨屋である。雑貨屋といっても、日用雑貨のほかに酒、しょうゆ、缶詰、瓶詰類も商っていた。女主人がなかなかの商売上手で、かなりの小金をためているという噂《うわさ》があった。  二十八年(一九五三)三月十七日、深夜を待って菊地は雑貨屋に押し入り、一家四人を絞殺し、家中をひっかきまわして金を探した。しかし現金は二千円しか見つからなかった。人を四人も殺して、わずか二千円とはなんとしても腹が立った。菊地は腹いせに女主人とお手伝いを犯し、女物の腕時計も一個盗んだ。暴行を受けた女性の死体からは二種類の体液が検出されたが、逮捕後菊地は単独犯を主張、そのまま一審、二審とも死刑の判決となった。  犯行現場に近い菊地の家に、県警捜査本部は捜査詰所を設けた。菊地は熱心に捜査に協力していた。村の青年団長であり、働き者であり、しかも事件前日に婚約も決めた菊地を疑う者はいなかった。  事件から一カ月ほど経過して、犯人の一人が逮捕されたが、取り調べの結果間違いと判明。捜査は難航し、迷宮入りの雰囲気が濃厚と思われた。  ところが、菊地の軽はずみな油断から犯行が明るみに出ることとなった。菊地は奪った腕時計を妹にやったのだ。八歳下の妹で、菊地はこの妹を可《か》愛《わい》がっていた。妹は東京で暮らしていたので村から離れていることだし、バレることはあるまいと高をくくったのだ。  難航する捜査に、草の根を分けてもと歯を食いしばる捜査員たちは、東京の妹のところまで聞き込みに行った。事件はこれで一件落着ということになったが、菊地がそれから死刑台に至るまでの、短いけれど劇的な人生の終章は、凶悪犯とはいえ胸が痛む。  最高裁に上告中の菊地は東京拘置所にいた。菊地には兄がいた。兄からよく手紙が来た。兄の手紙からは、村で母親が苦労している旨が詳細に伝わってくる。菊地が逮捕されたあと、母親は村八分にされているというのだ。菊地はいても立ってもいられなくなった。すぐにでも飛んで帰って、母親を救いたかった。強盗殺人の犯人は自分なのだ。母親はなにも悪いことはしていないのだ。村の連中に会って母親をいじめないように説得しなくてはおさまらない気持ちになった。  最高裁に上告はしたものの、どのみち死刑を免れることはない。そのことは菊地自身よく承知していた。死ぬ前に母親に会いたい。一目会いたい。  菊地は脱獄の計画を綿密に練った。兄と秘密の連絡をとり、巧妙な方法で金ノコを差し入れてもらうのに成功した。何日もかけて鉄格子を切った。  拘置所の点検は朝七時と夕五時の二回である。夕点検が終わると、ドアには本錠がかけられる。七時に「就寝」の号令がかかる。菊地は号令を聞くと、ふだんと同じく布団を敷いた。いつもなら布団に入って横になるのだが、この夜は菊地は屑《くず》カゴや衣類を布団の中に入れて、寝ているように見せかけた。九時まではスピーカーからラジオが流されている。少しぐらいの物音はラジオの音にかき消されてしまう。菊地は八時過ぎ、ラジオが終わらないうちに切った鉄格子からベランダ式廊下に飛び出した。 「まことに申しわけありませんが、しばらくのあいだ命をお助けください」という書き置きを独房に残した。三十年(一九五五)五月十一日のことだった。  逃げた経路については、大津氏の著書に詳しく説明されている。  無賃乗車で電車を乗り継ぐなどして東北線列車に乗るが途中検札にひっかかり、走行中の列車から飛び降りた。あとはひたすら歩きで、すでに兄と打ち合わせておいた場所にたどりつく。  山の洞穴に隠れ過ごすこと十日間。この間警察犬までが総動員で、菊地が潜伏すると思われる山の山狩りが行なわれた。菊地と会った兄が家の様子をさぐりに帰ったところを、張り込み中の警察官につかまり、すべてを白状させられた。  出動した捜査隊の延べ人員数千人、村の消防団、青年団もこれに加勢した。地元栃木県下では大パニックとなった。破れかぶれの境地と飢えとで獰《どう》猛《もう》になった菊地が、母親をイビリ、村八分にしたお礼参りにいつ我が家に押し込んでくるかもしれない、と人びとは戦《せん》慄《りつ》した。実際、警察の広報車が「死刑囚がいつ押し入ってくるかわからないので、戸締まりは厳重に」と警告してまわった。  けれども、警察や人びとが恐れたようなことはなにも起こらなかった。  多勢に無勢、捜査隊の網に囲まれてしまった菊地は、食糧入手の途もなく、飢えと疲労に耐えつづける限界を知った。  ここまで来て母に会わずに死ぬことはできない。菊地はつかまるのを覚悟で山を下りた。  脱獄十日目の夜十一時過ぎ、母親の暮らす我が家の雨戸を叩《たた》いた。むろん張り込みをつづけていた警官にあっという間に手錠をかけられた。 「一目だけ、おふくろに会わせてくれっ」  菊地は必死に懇願した。雨戸一枚隔てた向こうに、脱獄までして会いに来た母親がいる。母親は家の中から外の様子を聞いて泣いているだろう。菊地はくり返し、頼む、頼むと、警官に土下座して願った。  願いはかなえられ、家の中に入ることが許された。中には母親と妹がいて、二人とも泣いて菊地にとりすがった。菊地も男泣きに泣いた。  けれども、ほんの束の間、許された時は一分となかった。菊地はすぐに母と妹から引き離された。「おふくろ、元気でいてくれ!」と絶叫しながら……。そして再び東京拘置所に囚われの身となった。    執行直前母親に助けを求める  母親のために犯した凶悪罪。母親に一目会いたくて死の獄舎を脱獄した死刑囚。  こうした型の犯罪は、今後日本ではもう起こることはないような気がしてならない。社会が変わり、生活が変わり、親子関係が変わったからというより、人間の心が変わってしまったというべきか。  東京拘置所に連れ戻された菊地は、ゼロ番区の独房には入らなかった。南舎の懲罰房へ、革手錠をかけられて入れられたのだ。  革手錠というのは、幅十センチ、厚さ七ミリの革製の手錠で、金属製の輪がついている。これを手首に巻く。さらに同じ革バンドを胴に巻いて、手錠の金属製の輪にバンドを通し金属製のネジを背後で締める。両手はまっすぐに下ろしたままで胴の脇《わき》に固定される。  食事も用便も、眠るときも、四六時中革手錠ははずされることのないままだった。食器の中に顔を突っ込んで食事をする。寝ても起きても自由にならない両腕は痺《しび》れきって、切って捨てたいと願うほどの苦痛だ。用便のときは、その痺れた手を自ら叱《しつ》咤《た》し、激励して、かろうじてなんとかズボンをずり下げる。終わったあと、ズボンを引き上げるのは下ろすよりもさらに苦労だ。全身が凝り、疼《うず》き、眠ることもできない。革手錠ですりむけた手首は、かさぶたをつくっては破れるをくり返す。  こうした日々が二カ月間つづいた。  懲罰房から出されたとき、最高裁で菊地の死刑は確定していた。懲罰房を出るとゼロ番区には戻らず、南舎の独居房に閉じ込められた。それからの四カ月は、懲罰房ではないだけがまだましという日々だった。運動も許されず、入浴も厳重な監視つきでほんの短時間しか認められなかった。こうして宮城刑務所へ送られる朝を迎えたのである。    上野発九時五十分、常《じよう》磐《ばん》線急行列車「みちのく」が、死刑囚が死刑台に赴くために乗る列車である。世間のだれひとりとして、かつての凶悪犯がいつ死刑台に向かって列車に乗り込むかを知る者はない。行刑は極秘のうちに行われるからである。  菊地は痛み疲れたようなよれよれの体を、向かい合わせで四人がけの座席の窓際に置いていた。残る三つの席は護送の刑務官がかためている。列車は上野駅を発車すると、いくらも走らないうちに小《こ》菅《すげ》にさしかかる。東京拘置所はいやでも目に入ったことだろう。車窓をよぎる田園風景に、かつて働き者の農村青年だった菊地は、元気に働いていたころの自分を思い出しただろうか。  一時間半ほどで水戸に着き、菊地にはこの駅売りの駅弁が与えられたはずである。昭和三十年代、駅弁は百円だった。現代のような全国的に画一的な内容ではない。その土地その土地の自慢の産物が詰められてあった。機械による量産ではなく、一折一折が手づくりで、旅の楽しみのひとつでもあった。  菊地にとっては、戻ることのない旅である。どんな気持ちで駅弁の折詰を開いただろうか。たぶん名物のワカサギの甘露煮や、梅、山菜などが彩りも美しく詰められていたはずだ。これらを菊地は残さず食べ尽くしたことだろう。明日の命が保証されていなくとも、何年ぶりかの白飯は、菊地の舌にはしみ込むほど美《お》味《い》しかったのではあるまいか。  水戸を過ぎると列車は海岸伝いに日立、高萩を通過、福島県へと入っていく。平、原町、相馬といずれも海岸に近く、列車からも海が見え隠れする。すでに冬の海だ。  海岸と反対側の内陸のほうは、山にはもう雪が積もり、白い静かな季節に入っていたはずである。列車内はスチームがきいて、東北地方の雪景色とは対照的な暖かさだ。こんな暖かい待遇を受けることのない拘置所暮らしに慣れた菊地の体には暑すぎたかもしれない。  仙台着は十五時四十七分。小型護送バスに乗せられて宮城刑務所へ。東京拘置所を出発してから、約八時間になんなんとする旅は終わった。  引き継ぎが終わり、東京から押送してきた刑務官が帰ると、もう菊地の知った顔はだれもいない。しかし宮城刑務所側では菊地を知り尽くし、以降の処遇をどうするかは、すでに決定していた。  宮城刑務所は仙台市内古城にある。死刑囚の舎房は有期刑の受刑者たちとは別棟に分けられている。菊地はしかしその死刑囚舎房に入ることはなかった。押送された夜は特別に用意された独居房に入れられ、一夜を明かした。  ここでも時間に従って起床の号令がかかり、一日が始まる。号令が七時であることも同じだった。点検は菊地に対しては行われず、七時半に朝食が運ばれた。白飯とワカメの味《み》噌《そ》汁《しる》、納豆、塩漬鰊《にしん》の焼いたものが一切れあったのではないだろうか。これは当時を思い出しながら話してくれた人の話だ。前日の夜は麦飯に漬物二切れ、汁と野菜の煮付ぐらいだっただろうとも言っていた。  菊地は朝食の品々を見て、その日、己の身に起こるであろうことを察したにちがいない。  朝食が終わってしばらくしたあと、所長室に呼ばれて刑の執行を言い渡された。 「いよいよこれでお別れです。なにか言い残すことがあったら、なんでもいまここで言うといいですよ」  所長が菊地に向かって、少しつっかえながら言った。  この所長は人が好いのか、特別情が深い質なのか、気の毒そうな顔で菊地を見ていた。法務省から届けられた書類を読みあげるのではなく、 「きのう着いたばかりの君には気の毒だが、もうお別れしなくてはならない。東京ではいろいろあって、君もごくろうだったね。ま、これで被害者の人たちに罪が償えるわけだから、落ちついて、お別れを言ってくれないか」  と、言葉を探しながら話すのだった。  菊地は黙って頭をたれた。 「どうだ、ゆうべはよく眠れたかね」  声を出して返事をする元気もなく菊地はうなずく。 「そうか、それはよかった。朝めしはどうだった。おいしかったか」  なんとかして菊地の気持ちを少しでも引き立てようとするように語りかけた。けれども、菊地にはその程度のやさしさでは心を開くことはできなかったのだろう。たれたままの首をさらに深く沈めてひと言も発しなかった。 「ま、まだ時間はあるようだから、少しゆっくりするといい」  所長室を出た菊地は教誨堂に連れて行かれた。仏教の教誨師がすでに来ている。菊地は死刑確定後四カ月しかたっておらず、宗教教誨はなにも受けていなかった。  教誨師は、死というものはこれですべての終わりということではなく、永遠の大いなる生命に帰ることだ、と説く。往生とは生まれいくということで、消滅することではない、と仏教の往生思想を説く。菊地は聞いているのかいないのか、ただ黙って首をうなだれている。 「ま、あんまり話に興味もわいておらんようじゃから、茶でも飲んで、気分を楽にしたらいい」  教誨師は菊地に茶を勧めた。菊地は喉《のど》がよほど渇いていたらしく、熱い茶を飲み干した。  いまにも雪が舞ってきそうな灰色の重く低い空模様の朝だった。  宮城刑務所の刑場は、古ぼけたバラックといった感じの平屋木造家屋。八坪の広さ、むきだしの床、天井も壁も陰気にくすんでいる。入り口を入るとすぐ、そこは二坪足らずの仏間である。正面に簡素な祭壇が用意されていた。所長、検事、検察事務官、教誨師、手伝いの教誨師、刑務官らが居並ぶと、もう満員だ。  仏間には香が漂い、読経が静かに流れている。  菊地は昨夕着いて以来、まだ言葉らしいものはひと言も発していない。 「線香をたてて、おまいりしたらどうだね」  所長が声をかけた。菊地は答えもせず、祭壇に進み出ようともしない。だからといって抵抗を示しているというわけでもなさそうだった。正面に用意された死刑囚、つまり菊地のための椅《い》子《す》に腰をすえたままだ。表情もなく、虚ろな目が、すでに自分の人生は終わってしまったと語っているようであった。  いよいよ刻限が迫った。刑務官が菊地の腕を取って立ち上がらせ、目隠しと手錠をする。仕切りのカーテンが開かれた。そのまままっすぐ歩くように、とか、とくに床に段はないから安心しなさい、などと注意をした。このとき、初めて菊地に変化が起こった。 「おかやん、おかやん、助けてくれよ、おかやん」  弱々しいが、はっきりと母親に助けを求める幼児の声をあげたのだ。  両脇を支えた刑務官は意にも介さず、死刑台へと菊地を導いていく。菊地はあらがうこともせず、一歩一歩と先へ進んだ。  定位置に菊地の足がついたとき、待ちかまえていた三人の刑務官のうちのひとりが絞縄を首にかけ、ギュッと絞めた。同時にもうひとりの刑務官が両脚の膝《ひざ》を縛る。この作業は二秒ぐらい、ほんの一瞬の間に行われた。間髪を入れず、残りのひとりがハンドルを引いた。  菊地の姿は魔術でかき消されたように死刑台から消えた。その瞬間をとらえて医官はストップウオッチを押した。  初めて執行に立ち会った者なら、まだ執行は行われていないと思うほどのすばやさだ。  処刑された菊地も、首をロープで絞められたとき、なにかひと言いうつもりだったかもしれない。吊《つ》り落とされた菊地は激しく痙《けい》攣《れん》をくり返しながら、手足をむなしく動かしていた。そして口からは自らの歯で食い切られた舌が生きているもののように血を流しながらたれていた。  もう一度母親の名を呼ぼうとしたのか。  母親の借金・叱責…におびえ、扼殺     母親バラバラ殺人 奥野 清  大阪で昭和三十五年(一九六〇)に起きた母親バラバラ殺人の犯人奥野清は、犯行当時三十六歳であった。この事件が発生するまで、奥野は近所では評判の孝行息子で通っていた。性格はおとなしく内気で、母親にさからったことはない。  あんないい息子が、と近所の人は事件の真相をいきなりは信じられなかったという。事件は、三十五年六月八日午前五時ごろ発生している。大阪市住吉区墨江東の自宅で、奥野は母親を扼《やく》殺《さつ》した。そのあげく、翌日夜になるのを待って包丁と鋸《のこぎり》で母の死体から大《だい》腿《たい》部を切断、両足を竹カゴに、ほかの部分を行《こう》李《り》に入れて梱《こん》包《ぽう》。南河内郡美原町平尾池先の雑木林に棄《す》てた。  事件発生直後、近所に住む人たちは、奥野が突然発狂でもしたにちがいないと思いもした。  ところが取り調べが進むにつれて、母親と孝行息子との平和な関係は外観だけのもので、じつは大変なひずみのあったことが判明していった。  奥野は大正十四年(一九二五)三月、風《ふ》呂《ろ》屋と雑貨屋を営む中流の家庭に生まれた。ひとり息子であった。幼時から母親に対してはきわめて従順で、さからったり反抗したりすることは一度もなかった。けれども、それは素直だからというのではなくて、意思薄弱、内気、気弱さのゆえのものであった。  それを裏付ける材料として、職工学校中退の事実がある。大阪府立城東職工学校を卒業一カ月前に中退したのだが、その理由が、カゼで休んだために卒業試験を受けることができなかった。「このままでは落第だ」と悩んだあげく、そのままずるずると休みつづけてやめてしまったというもの。  その後は闇《やみ》屋の使い走りなどを少しの間やったが、二十二年(一九四七)五月ごろから漬物屋に店員として住み込んだ。しかし、半年もたたないうちにクビになってしまう。店の小銭をくすねたり、小切手を勝手に切って総額十五、六万円の金を使い込むなどがクビの理由。間もなく大阪で強盗殺人の共犯となり、懲役十五年の判決で大阪刑務所に服役。三十二年(一九五七)八月に仮釈放で出所。  母親のもとに帰ったが、見栄っ張りで派手好きの母親は、ひとりで始めた漬物屋の商売もうまく行かず、二十万円の借金を背負っていた。  奥野が服役中に母親はいろんな男を引き入れていたが、息子が帰ってきたとあっては、それもままならない。その欲求不満もあって、奥野にはいちいちうるさく、つらくあたった。「体裁が悪うてよう行けん」と、自分ではいやな借金をさせに、奥野をあちこち行かせる。    母の無謀に耐えきれず  鉄工所へ勤めるようになった奥野は、働いた金を全部母親に渡した。さらに勤めから帰宅後、漬物の行商に出かける。品物が売れ残ったまま帰宅すると、母親は決まって小言を言った。 「おまえは商売が下手で働く気がない。借金でどうにもならんのに酒ばかり飲んでいる」  といったことを毎日のように言われていた。  奥野は大阪刑務所を出所した二カ月後に結婚した。奥野が服役中、店の二階を間借りして洋裁の仕事をしていた女性であった。  結婚したこのころはまじめに勤めに出ていたが、次第に怠けはじめる。会社もずる休みがつづき、ついには辞《や》めてしまう。そして妻の着物を質入れしてパチンコに注ぎ込むなど、パチンコ狂いと怠惰の生活に落ち込んでいった。それでも母親の小言や叱《しつ》責《せき》だけは変わるところなく奥野にのしかかってきた。奥野は母親を恐れていた。母の叱責を逃れることだけが奥野の願望であった。  漬物屋の商売はますます行き詰まり、奥野が出所後二年あまり過ぎると、借金は倍以上にふくれあがった。借金返済の督《とく》促《そく》に奥野は舞いあがってしまう。 「私はこのまま商売を続けていったら、相変わらず借金はふえていくばかりでどうにもならなくなるから、早く商売をやめて立ち直ったほうがよいと思いましたが、母が見栄からこれを承知しませんでした。私は三十四年(一九五九)の末かあるいは翌年の二月はじめ頃、母に〓“商売をやめて自分たちはこの二階に住み、下の店は貸したらどうだろう〓”とか、〓“店を売ってよそへ移ろう〓”と三、四回いいました。しかし、母はずーっと以前から〓“風呂屋の奥さん〓”と呼ばれてわりあい派手だった気持ちが抜けきれず〓“そんな夜逃げのようなことができるか、いまさらかっこうの悪い、そのうちなんとかなる〓”といって、相手にしないのであります」(供述)  そのころ母親は神経痛を患って、鎮静剤を常用していた。奥野はこの鎮静剤の量を二倍にして母親に与えはじめた。 「母がなおらなかったら借金のことわりをいうのにもいいわけがしやすい。薬がききすぎて母が病気にでもなって死んでくれたら、家を三十五万円くらいの権利で売れる。金が入ればその金を借金にあてると、あとの借金はあまり残らないことになる。そうすれば妻と二人で働いて、残りの借金はすぐに返せる。そうするには母がいてはそれができず、そうかといって、私が手をかけて殺せば、尊属殺人で生きてはおれない。どうしても病気で死んでもらうのがいちばん無難だと考えるようになったからであります」(供述)  鎮静剤を二倍投与して、それが原因で病気になって死ぬのは、果たしていつのことなのか。鎮静剤投与は毎日というわけではなくて、強い発作が起きたときに限られている。  ついに〓“その日〓”が待ちきれなかったというわけか、三十五年(一九六〇)六月八日午前五時に、奥野は母親を殺害してしまった。殺害後死体を押し入れに隠し、臨月が近い妻を実家で出産するよう説得して翌日帰した。母親は借金のために出かけた、と妻には嘘《うそ》をついている。  妻が実家に帰った九日の夜、 「午後九時ごろだったと思います。表のガラス戸を閉め、白のカーテンを引き、内側から差し込み錠をかけ、三畳の間のガラス戸にカーテンを引き、押し入れの中の母親の死体を、毛布に包んだままかかえて行李の中に入れましたが、腰から下が行李からはみだし、中に入りきれません。足を曲げようとしましたが、突っ張ったように固くて曲がりません。行李からはみ出す部分をどうしても切り離さなくてはならない——と考えました」(供述)  その結果、母親を切り刻む。 「母の死体は固く伸びきっておりました。死体のすそを広げて、流し場のまな板の横に置いてあった菜切り包丁をとり、死体の右側に、背中を壁にもたせるようにして中腰になり、死体の足首のあたりを左手でもち上げ、右手に持った包丁を腰の付け根から十センチくらい下がったあたりにあて、包丁をまっすぐ縦に押すように切り込みますと、皮は破れて肉が割れたように両方に離れました。骨に包丁をあて、押したり引いたりして切ろうとしましたが、固くて切れませんでした。持ち上げた死体の足に包丁の歯を下からあてて肉を切りました。そして上に向けて曲げようとしましたが、骨が邪魔になって曲がらないので、鋸で切ろうと思い、縁側の北すみに置いてある釘《くぎ》入れの中に、以前住吉の店で買った鋸がはいっていることを思い出し、その鋸を持ってきて骨を引き切りました。  そして同じ場所で、切った足を用意してあった敷布に包み、ナイロンの袋に切り口が袋の底になるように入れ、さらにメリケン袋に入れ、三畳間の上がり口の土間に置きました。そして引き返してさきほどと同じ姿勢で左足首あたりを軽く持ち上げ、やはり腰から十センチくらいのところに包丁をいれ、肉を切り、骨を鋸でひきましたら、引き切れないうちに、ポキッと音がして折れました。この切り離した足を古い白のカーテンで包んだように思います。それからナイロンの袋に入れ、さらにメリケン粉の袋に入れました。  こうして足を入れた袋を、さきほど片方の足を置いたところに持っていき、並べました。それから竹カゴの中に、二つの足をたがいちがいに押し込むようにして入れました。カゴは上から五センチくらいあいておりました。包丁と鋸はカゴの隅のほうに入れましたが、そのまま入れたか何かに包んで入れたか、それは覚えておりません。  思ったよりも血は出ませんでした。ほとんど出なかったといってもよいほど、ほんの少しの血でありました。包丁に血がついたことは見ておりませんが、鋸の歯のどの部分であったかはっきりしませんが、引き切った時死体の肉片がいくつかくっついていたことは確かです。発見されるとは思わなかったので、歯についていた肉は取っておりません」(供述)    奥野の死刑確定は三十九年二月七日である。死刑が確定する前、逮捕されて収監された直後から、奥野は己の犯した罪におののき、母の名を呼んでは嗚《お》咽《えつ》するという日々がつづいた。死刑の確定は当然の報いとして受けとめ、死刑囚としての生活ぶりは非常にまじめであった。ただし大変に神経質で、ひっきりなしに衣類をたたみなおしたり、房内の掃除をくり返したりしていた。    安眠できる木曜日の夜  犯行から刑が確定するまでに四年近くの歳月があった。その間はまだ処刑の恐れはないから安心して床に就けた。しかし死刑が確定してからは、奥野が安心して眠りにつけるのは木曜日だけだった。大阪拘置所では三日前の言い渡しが慣例である。日曜日は死刑の執行はない。だからその三日前の金曜日には呼び出しは決してない。  明日の朝は呼び出しはないぞと思うと安《あん》堵《ど》の気持ちからぐっすりと眠れるというわけだ。 「木曜の昼飯時になると、がっくり力が抜けよるなあ」  これは死刑囚に共通した気持ちだ。それほど毎日が緊張の連続ということである。奥野は口では、早くあの世へ行けばそれだけ早く父や母に会える、会うのが楽しみだと言っていた。  奥野が死刑の執行をもって刑場の露と消えたのは昭和四十二年(一九六七)のことだ。八方手をつくして調べたが、どうしても月日がわからないままである。おおよその見当では六月から七月にかけてではあるまいかと思う。  ラジオ放送で流された〓“てるてる坊主〓”の童謡に呻《うめ》き声をあげて耳をふさぎ、それから間もなくに処刑されたということだ。  首をくくられてぶらさがっている格好が、自分の最期のときを連想していやだというのだった。〓“てるてる坊主〓”の童謡を、梅雨以外の季節にラジオ番組で取りあげるとは考えられない。おそらく梅雨時か、梅雨が明けてすぐのころだったのではないだろうか。  奥野は最後、目隠しをされながら、ひと言だけ言い残した。 「お母ちゃん、いま行くで、待っとれよ」    奥野 清 享年四十三歳   (文中の供述部分は、笠銀作氏の『犯罪調書』〈東京法経学院出版〉から引用したもの)  「生まれ変わりました。喜んで死にます」     強盗放火殺人 中島 一夫    中島一夫が、もし、まともな人生を生きていたなら、車のレーサーとして名を残したかもしれない。中島の車への熟達ぶりは大変なものであった。幼いときから車が好きで、車については少年のころからプロそこのけに熟知していた。中島には車がすべてで、それ以外はなにもなかったといってよいほどだった。その車への熱狂のゆえに走ってしまった犯行が、中島を絞首台へといざなった。  昭和四十年(一九六五)代初頭、日本人の生活に「三C時代」が到来した。三Cとは、カー、クーラー、カラーテレビのこと。いまならどこの家庭にもあるこの三種の神器が、そのころの豊かさの象徴であった。高度成長経済に入って、GNPがヨーロッパ先進国を抜き、戦後という言葉に代わり、豊かな日本が定着しつつあるという時代だ。  中島は車が欲しかった。それもポルシェに強く魅《ひ》かれていた。現在でも一千万ぐらいの値段だろうが、当時でもポルシェは群を抜いて高価で、五、六百万はしていただろう。中島にとって悲劇はこのポルシェの魅力にとりつかれたときから始まった。明けても暮れても考えることは、ポルシェをカッコよくすっ飛ばしている己の姿ばかり。国産車さえ買う金を持たぬ中島には、その十倍以上もするポルシェを自分で購入するなど逆立ちしたってできる道理がない。  そこであさはかにも考えついたのが現金強奪——死刑へと自らを導く犯罪であった。  昭和四十一年(一九六六)九月四日早朝のことである。中島は強盗殺人放火という犯行に走ってしまった。押し入った先は東京都北多摩郡田無町の一戸建て住宅。ちょうど新興住宅が増えはじめたあたりで、まだまだ農村風景がのどかな広がりを見せていた。  この年、十八件もの放火殺人事件が連続して起こり、犯人がなかなかつかまらないことに中島は着眼した。  中島が狙《ねら》いをつけて押し入ったのは、西武新宿線田無駅から国電の武蔵境駅に抜ける三鷹街道を二百メートル入ったところの築後一年ぐらいの家である。中島はこの家の被害者とはちょっとした知り合いだった。被害者は土地の地主の長男である。農業は次男の弟に譲って家を出、被害にあったときは三鷹市のタクシー会社に運転手として勤めていた。  中島は被害者が小金をためていること、まとまった金額でも相手によっては心安く貸していることなどを知っていた。預金もかなり持っており、家もその年増築したばかり。前年の新築に次ぐ増築と、収入のよさがそのまま生活にあらわれていた。被害者の妻は看護婦で共働き。中島は、被害者の妻が宿直勤務である日曜の夜が絶好の狙い時と考えた。  中島の被害者宅での犯行内容はきわめて残忍なものだった。被害者の顔にタオル三枚を重ね、麻の細引きでグルグル巻きにしたうえ、手足三カ所を同じ細引きできつく縛った。さらにその上を敷き布団でグルグル巻きにし、荷造りでもするように四カ所にきっちりときつく細引きをかけた。被害者はこのために窒息死したのである。  この作業で中島はかなり汗まみれになった。九月に入ったばかりで、まだまだ残暑がきびしく、夜になっても都心では熱帯夜がつづいていた。中島は被害者を布団巻きにしたあと、風《ふ》呂《ろ》を沸かして入り、ヒゲを剃《そ》り、湯あがりには冷蔵庫のビールまで飲むというずうずうしさ、あとは洋服ダンスから現金四万三千円を盗み、放火、被害者宅の自動車を失敬して田無駅近くに乗り捨てて逃走した。  中島の犯行後、四日午前五時半近く、散歩中の近所の人が被害者宅の火災を一一九番に通報。武蔵野消防署で消火にあたったが、木造平屋建て四十四平方メートルはまたたく間に全焼した。焼け跡の六畳間から、敷き布団に巻かれて死んでいる被害者が発見された。  殺人放火という凶悪犯罪の果てに盗んだ金が四万三千円。同じ犯罪をいったい何十回、いや何百回くり返せば目的が達成できるのか。ポルシェを手に入れるまでの道程の遠さ、不可能であることを事前に悟れなかったとは、いったいいかなる精神状態であったのか。  中島は車に関しては、運転技術をはじめ、あらゆることに熟達していたが、己の心の運転はまるででたらめ、ブレーキをかける方法も心得ていなかったのだ。この反省は、当の中島が死刑が確定後、自身でしている。    潔かった死の受容態度  こうした反省を素直にするところまで導いたのが、中島を教誨した教誨師である。この教誨師は後述する堀越喜代八の教誨もしており、これまでも十人あまりの死刑囚を教誨し、その半数の処刑にも立ち会ったと聞いている。そのすべてが人間らしい心を取り戻し、罪を悔い、贖《しよく》罪《ざい》のために「立派な死」を遂げたということである。ぜひ会って話を聞きたいと思ったが、何度会見を申し込んでも戻ってくる答えは同じであった。 「仏になった人のことを、個々、固有名詞をもってその生前、死に至る直前の話は、宗教家としてするわけにはいかない。どの仏も立派に真人間になって、本当の自分と出合い、大いなる命にかえっていきました。何という死刑囚の教誨をしたか、そんなことはそちらが勝手にいっていることで、私が認めたわけではありません」  こんな次第で、教誨師以外の何人かの取材をもとに中島の話を進めるが、中島の死刑囚としての死の受容の姿勢はとりわけ潔く、すばらしいものであったということだ。 「言い渡し」のための呼び出しは、死刑囚にとって、自らの命がすでに最後の秒読みに入ったことを意味する。看守の足音が、自分の房の前で静止し、つづいて鍵《かぎ》が開けられる。この瞬間に死刑囚はすべてを悟り、心臓が凍りついてしまう境地に陥る。  頬《ほお》をひきつらせ、痙《けい》攣《れん》させ、全身から血が引いてしまったように蒼《あお》ざめる。腰を抜かす者もいる。身仕舞いをするのに手間取る。着るものが思うように手足に通らないのだ。突然大笑いを始めて止まらない者もいる。失禁する者だって珍しくない。生きようとする健全な精神と肉体が、本能として死を拒絶するのだ。ごく自然の摂理である。中島の精神は、こうした自然本能を自らの強《きよう》靭《じん》な意思の力で克服したところにあったようだ。 「お迎えだよ」  と言われたときの中島は、落ち着いた静かな態度であったという。落い着いた静かな態度で応じる死刑囚は、そう珍しいというわけでもない。けれども、中島のはとくに印象的であったということである。  最後の夜、自分のための通夜ともいうべき「告別晩《ばん》餐《さん》の夕」でも、終始明るく、むしろ陽気でさえあったそうだ。天国に行くというゲンをかついで希望した天《てん》丼《どん》も、残さず満足そうに平らげた。夜は遺書を何通か書いたあと、朝起こされるまでぐっすり眠っていたともいう。  常々、「自分は死刑囚になってから生まれ変わった」と言っていたそうだ。ふだんの生活は、ほとんどの死刑囚がそうであるように、中島も自らの手で殺《あや》めた被害者の供養のための勤行から始まり、終わりもまた勤行で床に就く毎日だった。犯してしまった、取り返しのつかない罪を悔い、被害者に詫《わ》びる明け暮れである。併せて、やがて訪《おとな》い来ると決められている自らの死という恐れとの闘い。逃れられることのない十字架を背負った毎日のくり返し。  その中で日々の食事が与えられることに感謝し、渇きを癒《いや》す飲み水が与えられることに感謝し、なによりも今日生きてある命に感謝する。こんなすばらしい人間になっていてもなお、自らの過去の罪を恥じ潔く贖罪のために処刑を受け入れる。それも「喜んで死にます」と言いながら死刑台に立った死刑囚、中島一夫。  刑場に入った死刑執行の朝、中島の顔は晴ればれとしたものであった。恐れや、名残惜しさ、無念といったいっさいを断ち、ずっと俗な人間からはるか超越した姿であった。それでも、中島は最後にこう言い残している。 「諸行無常生者必滅の道理はわきまえているつもりでいました。覚悟はできているつもりでいましたが、いよいよ今という時を迎えて、覚悟など、そんなものはなかったことを思い知りました。生きることに心残りがあるのかどうかわかりません。ただ、確かなことはまだ生きていたいという気持ちがあるということです。でも、いまさら助けてくれと叫んだり、死にたくないと泣き出したりする気持ちもないのです。ぼくのようなものを、本当に人間らしくお世話してくださった先生方(刑務官を収監者は先生と呼ぶ)、これまでに導いてくださった教誨師の先生のご恩に報いるためにも、ぼくは美しく、静かに死んでいきます。あの世で被害者に会ってお詫《わ》びできることを思うと、やはり死ぬことは喜びです。喜んで死ねます。先生方、本当に長い間ありがとうございました」  中島はこの挨《あい》拶《さつ》のあと静かに合掌し、死刑の執行を無言で促した。     昭和四十八年(一九七三)十月十二日   中島一夫 享年四十歳  短歌と文鳥に生き甲斐を見いだす     吉展ちゃん誘拐殺人 小原 保    小原保の死刑執行は、東京拘置所が巣鴨から現在の小菅に移転した昭和四十六年(一九七一)であった。この年の三月に、死刑囚はひとりずつ手錠腰縄を打たれて護送バスで巣鴨から小菅に移送された。小原もそのひとりであったが、小菅に移転した九カ月後の十二月には刑場へ引っ立てられたのだ。  小原の死刑言い渡しは執行前日の十二月二十二日だった。  クリスマスも近く、拘置所の死刑囚たちにもイブの楽しみはある。キリスト教の教誨師が、死刑囚たちがふだんあまり口にすることができない甘味のものなどを、ささやかとはいえプレゼントする。また、ノートやボールペンなども、サンタクロースならぬ神父、あるいは牧師が贈ってくれるのだ。  小原が短歌に打ち込んでいた獄中生活は大変有名である。ノートや筆記具は晩年の生活になくてはならないものだろう。   明日の日をひたすら前に打ちつづく 鼓動を胸に聞きつつ眠る  これは死刑を言い渡された二十二日の午後、昼寝の時間に詠んだものである。  小原に短歌を勧めたのは、処刑にも立ち会った教誨師、山田潮透師(日《にち》蓮《れん》宗僧《そう》侶《りよ》、故人)であった。小原に限らず、死刑囚は一様に死刑確定後荒れ狂った日々を過ごす。絶望と恐怖のどん底に突き落とされ、いっさいの希望の灯が消えてしまった状況であれば、当然のことだろう。  小原の場合はとくに、まったくの孤独な身で、心を寄せるところもなかった。兄弟たちのだれひとりとして小原を顧みる者はなくなっていた。手紙も面会もなく、ひとりで襲いくる死の恐怖と立ち向かう日々の連続が始まった。  運動時間に同囚にケンカを売る、看守に毒づく、わめく、のたうつ、泣く……のくり返し。そんな小原を山田潮透師は慰めようとしたのである。けれども小原は、宗教教誨はガンとして受けようとしなかった。そればかりではない、「自分は創価学会の信者だ」と言い、「ここに出入りする坊主どもを折《しやく》伏《ぶく》してみせる」とも豪語する始末。    短歌誌の同人になって上達  山田潮透師は宗教に導くことよりもまず、小原に心の寄りどころを持たせてやらなくては、と考えて短歌を勧めたのである。手元にあった短歌の雑誌何冊かを差し入れた。  小原はやがて『土偶』という短歌の同人誌の存在を知る。これは、長期療養者や回復者を会員とする雑誌である。死刑確定から二年後の四十四年(一九六九)六月、『土偶』を主宰する森川〓朗氏に宛《あ》てて入会を申し込んだ。当惑した森川氏は会員に相談をする。なにしろ死刑囚の会員申し込みなど前代未聞、考えたこともなかった。  小原の入会を依頼する手紙には、『短歌研究』の広告欄で『土偶』の存在を知ったこと、仲間に入れていただくことを考えつづけて一年あまりたったことなどが書かれてあった。また、死を見つめるという意味では、死刑囚も療養者も変わるところはないと思う。なんとか仲間に入れていただけないものか、という内容。  日本中がひっくり返って、震え上がったあの吉展ちゃん殺しの犯人が……と森川氏はじめ会員は驚《きよう》愕《がく》したことだろう。しかし、小原の真剣な態度に動かされた。小原は『土偶』の同人に加えてもらえたのであった。  以後の小原は、森川氏の指導のもとでめざましい上達をし、朝日歌壇でも選ばれるなど、その才能は広く世間に知られていった。   朝あさを籠の小鳥と起き競べ 誦経しづかに処刑待つ日々  これは『土偶』に初めて掲載された小原の短歌だ。獄中の小原は文鳥を飼っており、この〓“晩年の友〓”を詠んだ歌も多い。   幾《いく》人《たり》の主を喪い我の掌に 遊ぶ小鳥よつぎは誰が手に  小原の犯罪は誘《ゆう》拐《かい》殺人である。「吉展ちゃん誘拐事件」は、二十年以上たったいまもなお風化することがない。同種の事件が起こるたびに、必ず引き合いに出される。  昭和三十八年(一九六三)三月三十一日夕方のこと。東京都台東区入谷町で、四歳の村越吉展ちゃんが、自宅前の公園に遊びに行ったまま行方不明になった。犯人からの連絡もなく二十時間が過ぎた。極秘捜査をしていた捜査当局は、四月一日公開捜査に踏み切った。身代金目的の誘拐の線は薄いと判断したのだ。ところが、この事件が報道された二日後、被害者の村越さん宅には連日身代金五十万円を要求する電話がかかった。  四月七日午前一時二十五分、かなりの近距離から犯人の声で電話があった。 「すぐ金を持って来てくれ。おばさん一人で。よその人はだめだ。お宅からまっすぐくると、昭和通りに突き当たったところに品川自動車というのがある。横に車が五台止まっている。三番目の小型四輪の荷台に品物(クツ)が乗っている。他の者は一歩も外へ出てはだめだ。車で来てもいいから、そこに金を置いてすぐ帰りなさい。家で待っていなさい。子供を渡す場所を一時間後に指定する。クツは置いたよ。警察に連絡するな。おしまいだからね」  という内容。吉展ちゃんの母親村越豊子さんはすぐ車で出発。犯人の指示どおりの場所に五十万円の包みを置き、吉展ちゃんのクツの片方を持ち帰った。このとき張り込みの刑事の間で連絡の手違いが生じ、現場包囲が二分遅れた。そのために犯人の逃亡は可能となったのである。  小原が逮捕されたのは事件から二年三カ月後の四十年(一九六五)七月三日。前橋刑務所に服役中の身柄を東京拘置所に移され、「最後の容疑者」として取り調べられた。過去にも二度、小原は参考人として取り調べられたが、その都度うまく切り抜けていた。しかし、「最後の容疑者」として厳しい追及をされ、ついに自供したのである。  福島県石川郡石川町生まれの小原は、吉展ちゃん殺しを自供したとき三十二歳だった。山あいの貧しい村の十一人兄弟の五男、十人目として生まれている。小学校五年のとき患った骨膜炎が原因で足が不自由になった。中学を卒業と同時に石川町の時計店に修理見習として住み込む。  二十七歳になった三十五年の夏、上京して時計店に就職。ここで内職に時計ブローカーをしたためクビになり、その後は定職についていない。時計や貴金属のブローカーで金を稼いだ。犯行当時は荒川区の小さな飲み屋の女将《おかみ》と同《どう》棲《せい》中で、ほとんどヒモのような存在であった。それだけではなく、ブローカーとして扱った商品代金の返済未納、同棲中の女将から預かっていた電話敷設資金の使い込み、さらに女将がその後敷設した電話を無断で質入れしてしまっていた。吉展ちゃんが消えた三十八年(一九六三)三月三十一日は、小原にとって二重三重の借金返済が一挙に集中していた日だった。    生まれ変わるときは「福島誠一」 「私のような体の悪い者が子供の手を引いて歩いたら、いっぺんに見られてバレてしまいます。それで、わざと吉展ちゃんの手を引くようなことはしなかったのです。そして、こんな体で子供を長く連れ歩くのは自滅することですから、一刻も早く身軽になり、身代金を取る考えで、子供を消す場所をどこにしようかと迷いました……(中略)。結局、以前に傍《そば》を通ったことのある寺の墓地に連れ込むことになったのであります。(中略)どうにもならないほど金が欲しかったのです。吉展ちゃんの寝顔を眺めながら、いよいよ殺すことを決意し」(供述=笠銀作『犯罪調書』)  そっと地面に仰向けに寝かせ、自分がしていた蛇革製ベルトで吉展ちゃんを絞殺。そばにあった墓石や卒塔婆を取り除き、四角いコンクリートの蓋《ふた》を開け、その中に吉展ちゃんの死体を隠した。 「あの子は小さいときから、子供仲間に足を引きずって歩く真似などされてはバカにされ、非常に苦労した子で、時計屋なら足が悪くともできると思いまして、なんとか将来食うことのできるようにと、ずいぶん苦労して一人前の時計屋にしたのです」  老いた母は小原が逮捕されたあと、涙を流してこう訴えた。時計職人としての腕は優秀だったともいう。しかし、時計のブローカーをやって味をしめたのがつまずきの始まりだった。あれよあれよという間の転落で、ついに誘拐殺人にまで走ってしまったのである。  貧乏人の子だくさんを文字どおりとする家庭に生まれ、十歳になるやならずで足が不自由という身となり、じつに恵まれない人生であった。逆境のために屈折した心が、ますます小原に世の中に対しての疎外感を抱かせたのではないだろうか。荒廃しきった小原も、短歌と出会うことで、晩年は人間らしい心に目覚め、ついには常人ではとうていおよびもつかない域まで精進を遂げた。  教誨を拒みはしたけれど、やはり小原は山田潮透師を師として仰いだ。最期を見とってほしいと願い出た。  その朝のこと。辞世に何首かの歌を詠んだ。   怖れつつ想いをりしが今ここに 終るいのちはかく静かなる   静かなる笑みをたたえて晴ればれと いまわの水に写るわが顔  刑場で、小原は山田教誨師に最後の頼みだと言って願い出た。 「先生、お経は私のためでなく、私の手にかかって死んだ被害者、村越吉展ちゃんの冥《めい》福《ふく》を祈って、あげてください。私も吉展ちゃんのために先生と一緒に唱和させていただきます。それが私の成仏にもつながるものと信じます」  小原の態度は、静かで落ち着いたものであった。目隠しをされるときも、首にロープをかけられるときも静かで、いまこそ自分の罪が償えるのだと、喜んでいるふうでさえあった。  小原の死刑確定は昭和四十二年(一九六七)十月。死刑の執行は四十六年(一九七一)十二月二十三日午前。享年三十八歳。供物のドラ焼きをいかにも美《お》味《い》しそうに平らげて逝った。    小原は、今後生まれてくるときは小原保という人間ではいやだ。新しく生まれる自分は福島誠一。愛する故郷で誠一筋に生きる人間に生まれ変わるのだと言っていた。短歌に投稿するさいの名はすべて、この新生福島誠一であった。   世をあとにいま逝くわれに花びらを 降らすか窓の若き枇杷の樹 (辞世の歌)   「成仏して被害者に会って詫びたい」     横浜の強盗母子殺し 堀越 喜代八     君逝きて文鳥ながら委《ゆだ》ねられおり 育みましし仕草偲ばゆ  これは小原保から文鳥を受け継いだ堀越喜代八の詠んだ歌だ。小原保が文鳥を飼っていたことは、小原のところで書いた。そして「幾人の主を喪い我の掌に遊ぶ小鳥よつぎは誰が手に」という歌も紹介した。その小鳥を受け継いだ堀越が、先に逝った小原に捧《ささ》げる歌として詠んだのである。  死刑囚の人間性の回復のために、拘置所では小鳥を飼育することや、盆栽を育てることを許している。小鳥を飼ったり、盆栽を育てたりするうち、命の重さや尊さに目覚めていく、命の尊厳を学ぶだろうという配慮である。そもそもは拘置所の発想ではなくて、教誨師から進言されて、それならばということで許可になったらしい。  小鳥の命は短い。しかし死刑囚の命はもっと短い。飼い主が死刑の執行を受けるときが別れのときだ。それを獄中歌人は歌に詠む。堀越も、小原と同じようにたくさんの歌を詠んだ。一度も活字になることもなく、死後も堀越喜代八という死刑囚が短歌に熱中していたことを知る者はいない。  堀越の犯罪は強盗殺人である。犯行は昭和四十二年(一九六七)三月十五日の昼近く。  本当なら犯行の三月十五日は、堀越にとって記念すべきおめでたい日でなくてはならなかった。堀越には当時婚約者がいて、その家に結納を持っていく日がその日、つまり犯行の日の夜だったのだ。結納金として八万円を約束どおり届けるには届けたのだが、その金は知人の妻子を殺して盗んだものだった。  なぜそんな凶悪な犯行に走ったか。理由は単純、準備していた金を前夜酒を飲んで使い果たしたためであった。    押し入った先は元同僚の家  堀越が強盗に押し入った先は、横浜市戸塚区瀬戸町の文化アパートだ。瀬戸町は当時新興の住宅街となり、木造モルタルのアパートがあちこちに建った。文化アパートには六畳一間に小さな台所と便所がついている。風《ふ》呂《ろ》は銭湯に通う。  被害者は二十五歳の母親と一年三カ月になったばかりの赤ん坊だ。母親は四十年(一九六五)の一月に結婚、まだ新婚のようなもの。夫のほうは子供が生まれて間もなく、つまりこの事件の前年、マレーシアのダム工事に出て留守中の不幸である。  この夫婦は、南ベトナムのダラット近くにあるダムの町ダニムの診療所で知り合った。妻は東邦大医学部の看護婦だったが、選ばれてダニム・ダムの工事現場にある診療所へ派遣された。夫は、同じころ日本政府の賠償のひとつとして建設中の、ダニム・ダムの工事現場で電工技士として働いていた。その同僚に堀越喜代八がいた。  泥沼の戦場に、祖国を遠く離れた派遣技術員の電工技士同士。堀越と被害者の夫とは、文字どおりひとつの釜《かま》の飯の間柄だった。派遣先が戦火にさらされたベトナムであってみれば、さらに親密感は深まり、信頼し合う友人関係ができあがっていった。被害者の夫のほうが堀越より三歳上だが、同世代、どちらも独身、気も合った。  帰国後も親しい交際がつづき、被害者の新婚家庭に堀越はよく招かれていた。妻のほうともむろんベトナム時代からの親しさだ。夫が再び外国に派遣された留守宅にも、堀越はちょくちょく顔を出した。結婚の相談もした。婚約者も連れて行って紹介している。被害者も喜んで祝福してくれた。  そうした胸襟を開いた間柄の相手を、誕生を過ぎたばかりの赤ん坊ともども、たかだか八万円の結納金を使い果たした穴埋めのために殺してしまったのである。  母親を、はじめ堀越は刃物で頸《けい》動《どう》脈《みやく》を切って殺すことを考えたが、抵抗されて失敗。そばにあったスカーフで絞め殺した。夢中だった。赤ん坊の首も絞めた。母子を殺害後、郵便貯金通帳を奪い、台所のガスレンジと室内のガスストーブからガスを放出、〓“放火自殺〓”を仕組んだ。ガスレンジの二個のうち、ひとつのほうにはヤカンをかけ火を点火した。爆発は時間の問題だと考えた。文化アパートから三百メートルの距離にある郵便局で貯金四万九千九百円をおろして逃走した。  事件はその日の夕方に隣の主婦によって戸塚署に届けられ、捜査本部が設けられた。被害者の妻は用心深い性格で、ふだんから見知らぬセールスマンなどの訪問にはドアを開けたことはない。したがって顔見知りの犯行と考えられた。堀越は母子を殺害後、自分の吸ったタバコの吸い口をちぎりとった。茶碗は蛇口の下で水を流して指紋を消した。文化アパートを逃げ出すときはだれにも見られることはなかった。こうした状況から捜査本部は、犯人は冷静に、計画的に犯行を進めたと考えた。  このアパートは、隣室とは薄い壁一枚で仕切られている。大きな話し声や、ケンカなどの高い声は筒抜けになる。隣室の主婦は午前十一時半ごろ悲鳴を聞いたと証言した。しかし、それも一度だけであとは静かだった。春三月とはいえまだ風が冷たく、気温も低い。窓を開放する生活ではなかった。庭に出てみたが、とくに異状は感じられなかったという。  戸塚署の捜査員が犯行現場近くを聞き込み中のころ、堀越は婚約者の実家のある千葉に向かっていた。婚約者の実家に着いたのは七時少し前。間もなくテレビが事件のニュースを伝えはじめた。堀越は結納金の八万円を置き、婚約者の家を出た。その日以来、堀越は勤め先に姿を現わさず、住まいである会社独身寮にも戻らなかった。  堀越の犯行が突き止められたのは、四日後の十九日のこと。郵便局に残した支払伝票の指紋、局員の覚えていた容《よう》貌《ぼう》などから割り出された。翌日二十日には逮捕状が出され、二十一日には全国に指名手配された。  犯行後の堀越は、婚約者を伴って死に場所を求めてさまよっていた。婚約者の家でテレビニュースを聞いたとき、いや、それよりずっと前、郵便局で金をおろしたときから後悔が始まっていた。自分の犯したことを恐れていた。けれども自首する勇気もなく、「死のう」と考えた。ひとりで死ぬのは怖いから、婚約者にも一緒に死んでもらおうと思った。二人は下田の旅館に十九日から投宿、死にきれずに一日また一日と過ぎていった。  二十二日夕方逮捕されたときは、堀越はむしろほっとする思いだった。どのみち逃げきれるとは思っていなかったし、死のうと思っても死にきれないし、自分の犯した罪の恐ろしさにただおびえる毎日だった。 「殺すつもりはありませんでした。計画的に考えてやったことではありません」  堀越のこの言い分は通らなかった。初めは借金を依頼したが断られ、断られてみると金ができなければ大変だという思いに駆られ、気がついたら母子を殺害してしまっていたのだ。けれども、やっと誕生日を過ぎたばかりの赤ん坊まで殺《あや》めてしまったことは許されることではなかった。    法華経を腹に巻いて……  裁判の結果、死刑が確定した。堀越は死んで被害者に贖《しよく》罪《ざい》しようと、素直に死刑の執行を受ける気持ちになっていた。けれども、いざ実際に死刑が確定してみると、それからの毎日は、ただ打ちつづく死の恐怖との闘いであった。半狂乱になった。泣く。わめく。そして、日がたつにつれ、大きくふくらんでいく自己の犯した罪の深さに責められる。生きているのがつらく、恐ろしく、死んでしまってなにもかも終わりにしたかった。死刑の執行も、その日がいつなのか予測できないだけに、毎日がおびえの連続だった。  こうした状態のつづいているとき出会ったのが短歌である。   ひそかなる生思うとき没《い》りつ日の 中に舞う塵ひかりひしめく   うつし世の旅にしあらば土産持ち 帰りまさんを黄泉の旅は   茜ぐも遠くに見つつたのしまず わが方形の空くれそめぬ  いよいよ明日が処刑の日となった。母親が最後の面会に来てくれた。逮捕から八年と八カ月あまりがたったが、母親だけは堀越を見捨てることなく、手紙をくれた。ときどきは会いに来てくれた。その母親ともこれが最後。  犯行時二十八歳だった堀越は、三十七歳となった。母親も老いた。白髪が増え、深いシワが顔に刻まれた。 「母さん、おれが死んでも悲しまないでくれ。おれはあの世で被害者に会えるんだ。会って罪の償いをさせてもらう。お詫《わ》びもできる。母さん、少し先に行ってしまって悪いけど、向こうでは、おれはまじめないい息子で待っているからな。母さん、長い間苦労かけて悪かったよ」  堀越は、すでに覚悟を決め、落ち着いた態度で母親と面会することができた。しかし、母親のほうは、息子との別れがこんな形になったことが悲しく、息子がかわいそうで、あわれで、初めから涙に暮れていた。携えてきた数珠で息子の全身を撫《な》でる。撫でながら涙とともに訴えるように言った。 「許しておくれ。おまえをこんな目に合わせたのは母さんだ。母さんがおまえをこんなふうにしてしまったんだから、悪かった。許してくれ」  息子の名を呼び、涙を流し、合間に経文を唱え、また合間に、切れぎれに息子に詫びるのだった。  面会に立ち会っている教育課長や教誨師も、つらく、切ないひとときを見守るばかりである。堀越は仏《ぶつ》陀《だ》の境地になっていた。美しい心、人間として行きつくかぎりの精進を遂げて、潔く死刑の執行を受ける心の準備もすっかりできていた。けれども、母親をこれまで悲しませているのが、ほかならぬ自分自身だと思うと、静かに落ち着いていた心も波立ってくる。母と息子は抱き合って泣きつづけた。    昭和五十年(一九七五)十二月七日。師走の空は晴れあがり、日差しも暖かく、堀越はこんな天気に恵まれてあの世に旅立てるのは幸福だと思った。昨日、別れに来てくれた母親が、堀越のために懺《ざん》悔《げ》滅罪の祈りをこめて写経した法華経を、腹にしっかりと巻いた。  刑場の仏間で堀越が最後に言い残したことは、誠実なる償いをしたいという願いの気持ちであった。 「いまとなっては、なにをどうする、なにをこうするといっても、もはやどうすることもできません。ただ、自分は誠実な償いをしたいと思います。無事にあの世へ行かせていただかなければ、被害者に会ってお詫びすることもできません。どうか、皆さん、ぼくの冥《めい》福《ふく》を祈って、成仏できるよう助けてください。長い間本当にお世話になりました」   この難き実りを聞きてゆくならば 反論もなし得んか閻魔のまえに (辞世の歌)   静かな落ち着いた最期であった。  五十年(一九七五)十二月七日  堀越喜代八 享年三十七歳    堀越の教誨をした教誨師に会見を何度も申し込んだが応じてもらえず、教誨師以外の人たちからの取材で書いた原稿である。堀越が短歌を始めたのも、仏教に帰《き》依《え》して立派な精進を遂げたのも、主任教誨師の導きであると証言する人が何人もいた。獄中生活、精進の過程をぜひ話してもらいたかったのだが……。  「このつらさ、苦しさを、いまの若者に伝えて……」     少年ライフル魔 片桐 操    事件の日と同じような酷暑の真夏日。東京拘置所は二十二万平方メートルの敷地ぐるみ、高温のむし風《ぶ》呂《ろ》に放り込まれた息苦しさにあえいでいた。独居房に暮らす収監者たちにとっては、とりわけ苦しい季節だ。  狭い房内は空気も動かず、窒息寸前である。熱風でもいいから思いっきりいきのいい風が吹き込んでくれたなら、とひたすら願うばかりだった。  けれども、この日は東京中、そよとも風の吹かない最悪の天候で、気温ばかりが勢いよく上昇した。気象庁の発表は午前十一時現在三十四度ということだが、個々に測れば各房内の気温は四十度を優に超えていたにちがいない。  各房内は、音をたてる者もなく、死んだように沈黙していた。  午後一時。新四舎二階の入り口を遮断している鉄扉が開かれた。新四舎二階は〓“ゼロ番区〓”と呼ばれ、死刑確定者が収監されているところである。死刑囚の受刑者番号は三ケタの末尾が0となっていることからこう呼ばれる。  区長(看守長)を先頭に数人の警備隊員の足音が房内に響き渡る。死刑囚たちは、この足音を地獄の使者の隊列の襲来と聞く。息を殺し、身をこわばらせて、全神経を耳に集中させる。それだけでは足りず、監視窓に顔をくっつけてのぞく者もいる。どうか自分の番ではありませんように、と、だれもが祈りつづける重苦しいひとときだ。  むろん片桐操もそのひとりである。全身から血の引く心地がして、さっきまでの暑さはどこかへ吹っ飛んでしまった。近づいてくる靴音よりも動《どう》悸《き》のほうがはるかに高く感じられる。心臓が胸板を突き破って飛び出してしまいそうだ。  いったいだれの番だ、だれが殺《や》られるんだ、だれだ、だれだ、と心に叫ぶのは、自分ではないことを願う必死の気持ち以外の何物でもない。  非情にも、この日、昭和四十七年(一九七二)七月二十日の午後一時の靴音は、弱冠二十五歳になったばかりの死刑囚、片桐操の扉前でぴたりと止まった。  担当の看守が、区長の無言の命令に応えて鍵《かぎ》を開ける。房内で机に向かい、両手を堅く堅く握り合わせていた片桐操に、カチリ、という鍵の開く音が、はたしてどう聞こえたのか。反射的に立ち上がった操の顔面は蒼《そう》白《はく》で、汗が玉になって額にとまっていた。    〓“あの日〓”がなかったら…… 「お迎えが来たよ」  ふだんはもっとやさしい顔の区長だが、このときは堅い表情で、声も平常心から発せられたものとは違っていた。区長の宣言とほとんど同時に、特別警備隊員が操の背後、両側を囲んだ。わずか三人の警備隊員であったが、操には何十、何百の屈強な地獄の使者に感じられたにちがいない。蒼白だった顔面が痙《けい》攣《れん》し、やがてかっと紅潮した。全身を何かを迎え撃つように身がまえた。しかし、それもそう長い時間ではない。一瞬のあとに「明日」という逃れられない運命を直感して、表情、姿勢をふだんに戻した。 「少し、待ってください」  声はかすれているが、意外に落ち着いている彼の様子に、区長はふっと溜《た》めていた息を吐いた。  勢いよく噴き出してくる水道の水で、操は手と顔を洗った。口も漱《すす》いだ。汗で体にへばりついていたランニングとステテコを脱ぎ、洗濯したものと着替える。ズボンをはく。シャツを着る。これだけのことを操はほんの短時間に終えた。十八歳の日からまるまる七年間拘留されていた生活で身につけた習慣である。進退窮まった事態を察した瞬間にも、そのリズムにはいささかの狂いも見られない。  身支度を終えた操は区長らに軽く会釈をした。死刑が確定して以来住み馴《な》染《じ》んでいたゼロ番区とも、いまを限りに訣《けつ》別《べつ》である。運動時間や、集会室、教誨室などで顔を合わせ、親しんできた同囚者たちともお別れであった。通路ぞいの各房では、当然のことだが監視窓に顔を寄せ、先にいく操に対して思い思いの別れの挨《あい》拶《さつ》を合図で送る。哀悼でもあり、惜別でもあり、励ましでもあるが、結局はいずれ明日はわが身、あとから行くからな、とひとつひとつの眼は叫んでいた。  導き入れられたのは講堂であった。中央に机があり、所長の姿が認められた。ほかに教育課長、保安課長、多くの刑務官がいて、操には、ただもう人がいっぱいいるという印象にしか感じられない。いよいよ刑の執行の言い渡しを受けるのである。  所長が操の生年月日と名前を読みあげた。そして、引きつづき、 「汝《なんじ》を死刑に処す」  と、まるで儀式を取り行う式次第を読むように一気に読みあげる。これで操の生涯は永久に閉じられることが決定したわけである。明朝十時に執行されるとすれば、操の命は残すところ十五時間だ。  このあと操は二舎二階一房に移された。この房はテレビカメラがセットされていて、操の全行動を逐一監視できる仕掛けになっているのである。日常生活が安定していて、落ち着いている死刑囚でも、いよいよ明日執行だと言い渡されると、恐怖に耐えきれず自殺を企てる者も多い。  もし自殺が既遂となれば、所長以下、かかわりのある刑務官は全員なんらかの責任を問われることになる。減俸か降格か、いずれ何事もなしではすまない。自殺が未遂であった場合でも、予定どおり執行というわけにはいかないし、職務が怠慢であったという責めを受けなくてはならない。とにかく、事故を防ぎ、滞りなく翌朝の執行を終了させなくてはならないのだ。  監視カメラが見張りつづけているとは少しも知らない操は、ひとりになると転房した房内で、たてつづけに深い深い溜め息をもらした。壁に向かって語りかける。  予想していなかったのでショックだった。確定から二年八カ月でお迎えが来るとは夢にも思っていなかった。二十五歳と三カ月で人生を終えるとは……とうとう来るべき日が来てしまったか。 「あの日がなかったらなあ」  操はぽつんとひとりごちた。    昭和四十七年(一九七二)七月二十九日のこと。  午前十一時ごろ、神奈川県座間町栗原の林の中(ひばりヶ丘)をライフル銃を持って歩いている操を、ひとりの警官が呼び止めた。このときの呼び止め方が操の神経にさわった。操にはいかにも威圧的で高圧的に感じられた。知らん顔で行き過ぎようとする操を、警官はさらに威嚇する声で呼び止める。思わず操は持っていた銃口を警官に向けてかまえた。もののはずみという表現があるが、操のこのときの行動は、まさにはずみとしか言いようのないものであった。このはずみのために操の人生は死刑台へ向かって急速度に突っ走ってしまったのである。  操に声をかけた警官、田所巡査を撃ち、駆けつけた大和署の谷山巡査を撃った。行きがけの駄賃とばかりに巡査のピストル、警察手帳を奪い、制服、ズボンも拝借した。にわか警官になりすました操は座間町栗原の宮坂福太郎(三三)方に現われ、近くで撃ち合いがあったが犯人に逃げられたので車を出してほしいと要請する。宮坂宅は田所巡査、谷山巡査を殺傷した現場から、百メートルと離れていない。堂々とした操の警官ぶりからは、ニセ巡査だとはとうてい察することはできなかった。けれども、マツダ軽四輪の運転席の後部座席に乗り、行く先を指図する操の様子には、どうにも不可解な部分が多かった、と宮坂さんはあとで語っている。住宅街を通り抜け、国道二四六号線を町田市に向かう。  交番に聞けば逃げた犯人の情報がわかるかもしれないと考えた宮坂さんは、町田市の商店街に入ってから二度ほど、 「交番に寄ってみたらどうですか」  と言ってみた。操はあいまいながら拒否の返事をするばかりであった。原町田交番前の交差点で宮坂さんは急ブレーキを踏む。  時間は十二時十分をまわるところだった。このとき交番では町田署からちょうど事件の連絡を受けているところであった。電話口に向かって「いま手配の車が来ましたっ」とどなった警察官が、腰からピストルを抜きながら飛び出しマツダ軽四輪に向かってくるのと、宮坂さんが車から降りるのと同時だった。  ここで逮捕されていれば、死刑にまで至らなかったかもしれないが、運命はどこまでも操に冷酷であった。    三千人対ひとり  宮坂さんのあとを追って車から飛び降りた操は、ピストルを宮坂さんの脇《わき》腹《ばら》にぴったりとつけ、じりじりと後退した。交番の巡査のほうは角の電気器具店のブロック塀に身を隠して隙《すき》をうかがっていた。そこへトヨペット・ニューコロナが操たちの後方からやってきて、操の目前に停車した。操は宮坂さんを突き放し、ニューコロナの後部座席に飛び込み、そのまま走り去る。カーラジオから「警察官が二人重傷」とニュースが流れ、つづいて操が乗り換えた車が手配されていることを伝えた。  川崎市の稲田堤で停車中のセドリック・ライトバンを奪い、乗り換える。ニューコロナの持ち主谷川英男さん(三〇)に運転を命じ逃走。ライトバンを盗まれた運転手は走行中のトラックを止め、警察への連絡を依頼。時刻は午後一時を過ぎていた。  神奈川県警では、このころになってやっと本格捜査を開始。機動隊のパトカー六台、警らパトカー七台、交通機動隊の白バイ八十五台、交通パトカー十六台を動員、三十三カ所に検問所を設け緊急配備についた。  しかし、操が奪ったライトバンは、すでに多摩川を渡って東京都に入り、調布市を突っ走っていた。  小金井公園に着いたのは午後二時過ぎ。停車中のセドリックを運転席、助手席にいた男女ぐるみ奪う。ライトバンを捨て、そこまで運転してきた谷川さんを助手席に押し込み、後部座席から操は渋谷へ行くように命令した。  人質三人をピストルで脅しながら、操はセドリックを五日市街道から井の頭公園を経て、水道道路へ向かわせた。道中カーラジオで撃たれた警察官のうち田所巡査の死亡のニュースを聞く。乗り捨てたライトバンが発見されたこと、主要道路で約三千人の警官が検問中という情報も入る。 「三千人対ひとりか」  操は途方に暮れたようにつぶやいた。渋谷区に入ったころ、人質の女性が気分が悪いと訴えると、代々木上原付近の内科病院を見つけ解放。しかし、警察に通報したら残る二人の人質の命はないぞ、と脅すのを忘れなかった。  セドリックは操の目ざす、渋谷区北谷町のロイヤル銃砲火薬店に着いたが、停車せず通過。表通りを避け、裏道を選んで、渋谷を離れないようにぐるぐるまわる。途中で停車中のパトカーに会うが気づくふうもない。運転しつづけの後藤さんは疲労と暑さと昼食抜きの空腹のため、くたくたになった。谷川さんは六時間近い緊張の連続と暑さとでぐったりとなり、ついに鼻血が流れだしてしまった。行きつ戻りつをくり返し、五度目に渋谷に入ったとき、操はロイヤル銃砲火薬店と道を隔てた、渋谷消防署の前で車を止めさせた。  人質二人を残して、操は銃砲店へ。谷川さんと後藤さんは渋谷消防署へ転がりこんで助けを求めた。  午後五時。ロイヤル銃砲店に入った操は店員の男女三人と女店員の妹を人質に立てこもり、弾薬庫を開けてライフル銃に弾をこめ、雨戸や天井をめがけて乱射した。パトカーのサイレンが表に鳴り渡り、空にはヘリコプターのエンジンの音が響く。操は狂ったように乱射をつづけた。ロイヤル銃砲火薬店を中心に、付近はやじ馬でごった返した。  間もなく店内は白煙に包まれた。警官隊の投げ込んだ催涙筒がいっせいにガスを噴き出したのだ。涙があふれ出す。皮膚は、傷口に唐辛子をすり込まれたようにぴりぴりと痛む。喉《のど》をやられて声も出ない。たまりかねて裏口から人質を盾に飛び出した。このとき、操の隙を狙《ねら》って人質の男子店員が、持っていたライフル銃の銃身で操の頭をなぐった。転倒しながらも、さらに操は何発か撃ったが、結局、これで事件は終幕となった。  銃砲店に立てこもってからの一部始終はテレビ電波によって茶の間に流された。  撃った弾数は百五十発。負傷者数十八人。逃走に次々と巻き込まれた人の数八人。警察官一人死亡、一人重傷。八時間に及ぶ西部劇もどきの市街戦であった。    死刑宣告のあと、講堂を出た操は、個人面会室で教育課長と少し話をした。教育課長はほとんど宗教家がなる。家は寺で、帰れば坊主というあんばいだ。だから、ほかの刑務官よりも人の情というか、人間の痛みや悲しみをよく理解して、死刑囚たちをほっとした和んだ気分にしてくれる人が多い。このときの東京拘置所の教育課長も、人間として大変立派な人だったようだ。操が死刑確定からしばらくの間、自閉気味になり、すっかり消沈してかたくなになっていた心を、やさしく解きほぐしたのも、この教育課長だった。 「片桐、おまえいくつになった」 「二十五歳と三カ月……です」 「そうか、若いなあ。おまえのような若いやつの死刑執行に立ち会うのはつらいが、どうにもならないんだ、こればかりは」 「はい……」 「おまえで、六十三人目だ、死刑の執行に立ち会うのは。やりきれんよ」 「そうだろうなあ、先生はつらい職についているんだなあ」  操は心から、教育課長に同情した。死刑囚の操を一個の人格として尊重してくれるふだんの教育課長の人間性を思うと、つらい、という言葉はそのまま、正直な本心であることがよく理解されるのだった。  操は今宵一夜かぎりの棲《すみ》処《か》となる二舎二階一房に体を横たえた。昼寝の時間は過ぎていたが、「言い渡し」のために遅れたのだし、それに教育課長さんも「落ち着いて、少し昼寝をしろ」と言ってくれたからいいだろう、と思った。  目を閉じたが、眠れるわけのものではなかった。得体の知れない疲労のようなものが、どっと押し寄せてくる。  さっきの講堂の情景が、映画のスクリーンでも見ているように浮かんだ。まるで他人が執行宣告を受けているのを傍観しているようだ。 「汝を死刑に処す」  所長の声が、絶体絶命を告げた。おまえを殺す、と言われているのに、操は黙してうなだれたままだ。何か言うことはないのか。言いたいことはないのか。操はじれったい思いで言い渡しを受けている自分のあわれな姿を見ていた。 「残念だが、君ともこれでお別れしなくてはならない。身内のほうには知らせておいたから、きっと来てくれると思う。ほかになにか望みがあったら、なんでも言いなさい。できるかぎりのことはやってあげよう」 「ありがとうございます」  操はこわばった表情で、深々とお辞儀をした。  所長との面接はこれで終わりだった。あとは明朝、処刑に立ち会ってもらうまでもう顔をあわすこともない。ふだんもむろん所長と個人面会をすることはほとんどなかった。死刑因に限らず、収監者たちが拘置所長に会いたい場合は、「面接願」というのを出す。この「面接願」の内容によって、面接が許されることもある。  しかし操には「面接願」を出してまで、所長に会いたい用事はなかった。だから「望みがあればなんでも言うように」と言われたところで、急に親しい人に甘えるような気持ちになれるものではない。  二十五歳と三カ月とはいえ、犯行当時は十八歳になったばかりだった操は、自由社会での生活も十八年というわけだ。それも子供のときは自分の生活とは言えないのだから、実際に自分の意思で生きた時間は本当に短い。    一審では無期の判決だったが……  事件当時、操は東京・世田谷で父(大工=五八)、義母(四七)との三人暮らしだった。長兄(三一)は同じ敷地内の別棟に住み塗装業を営んでおり、ほかに神奈川県の旅館で働いている長姉(二五)、九州に嫁いだ次姉(二一)がおり、四人兄弟の末っ子である。実母は操が小学校五年生のときに亡くなり、その後は現在の義母に育てられた。義母にはよくなついているように見えたそうであるが。  中学校時代の成績は1と2ばかりだった。ビリの一、二を競うといった成績順位だが、それでも性格はおとなしくて、素直だった。非行少年のような不良性もなく、友人関係でもケンカもせず、またケンカになっても操のほうからすぐにあやまってしまう。犯罪とは無縁の扱いやすい子だった。  中学校を卒業して半年後、国内航路のタンカーに船員見習として乗り組んだ。給料一万七千円。このうち一万五千円を家へ送金して貯金してもらっていた。目的は大好きな銃を買うためだった。中学時代、友人は数少ないながらもいたが、本当に心の底を打ち明けてしまえるほど信頼した深い付き合いを持つ友はなかった。十歳で実母を亡くしてからの操は、子供らしく甘ったれて反抗するということをしたことがない。  間もなく迎えた義母にも素直ないい子としてかかわったが、そのぶん自分をおさえて、感情を封じ込めてしまう性格をつくりあげた。幼くしてかわいそうな子供、という憐《れん》憫《びん》を寄せられるのはみじめで嫌だった。基本的に見栄っ張りの性格なのか。それとも末っ子にありがちな、幼時からの年上の兄弟に対する言い知れぬコンプレックスがあったのか。中学時代の成績がビリから一、二番目というのも知能的に劣っているのではなくて、勉強に集中できない心の問題があったのだと思えてならない。  家庭の中でいつも疎外感を持って成長した操は、人とのコミュニケーションがうまくなかった。孤独を好んだ。孤独で、それでいて熱く熱中できる対象が銃だった。銃は操にとって、最高の友で、全身全霊を打ち込める唯一のものだった。銃だけが操の全世界だった。手入れにせよ、射撃場で素焼きの皿を狙《ねら》い撃ちしているときにせよ、銃と一緒の操は孤独でもなく、消極的でもなく、弱気でもなかった。自信がわき、自分がすばらしい人間に思えた。  銃のほかには夢も希望も持たない操は、十八歳の誕生日直前に帰宅した。勤め先の船会社が四十日間の有給休暇を認めてくれたのだ。  誕生祝いに長姉からライフル銃をプレゼントされた。自分でも毎月貯金したお金で散弾式の猟銃を買った。八王子の射撃場に通うことと、銃の手入れとが操の全生活となった。射撃の腕はめきめき上達した。四十日間の有給休暇は夢のうちに終わってしまったが、銃と明け暮れる生活と離れがたく、「家庭の都合で」という理由で、退職届を会社に送った。  それから二カ月あまりののち、操は世間を震《しん》撼《かん》させたライフル乱射事件を起こし、「少年ライフル魔」という称号をちょうだいしたのである。  裁判の結果は、一審無期、二審死刑、そして最高裁では二審の判決が支持されて死刑が確定した。  一審の裁判長は、考え方の未熟な少年の犯罪であり、両親との交流のない冷たい家庭環境であることを重視して、社会に復帰できる可能性がある、と無期判決を下した。これに対し検察側が不服をとなえ控訴。二審の裁判長によって、少年の反社会的性格はほとんどなおる可能性がない、つまり殺してしまう以外に術《すべ》がないと「判断」され、死刑が言い渡された。  操は公判では一、二審とも、 「銃への魅力はいまなお尽きない。将来、社会へ出て再びこのように多くの人に迷惑をかけることのないような刑、死刑にしてほしい」  と述べている。  二審の裁判官は、まさかこの操の希望を聞き入れて死刑の判決を下したというわけではあるまいが、十八歳になったばかりの少年に対し、矯正の余地がないと判断したのだろうか。    午後三時、区長が特別面会だと言って、操を房から連れ出した。いつもの面会室ではなく、特別の部屋を用意したから、と言ってくれたのがありがたく、操は心から礼を言った。  連れて行かれた部屋に入ると、義母、兄、長姉が待っていた。  穴あき樹脂の板越しではなく、なにも隔てるものなしで肉親に会うのは事件以来初めてだ。きょうは手を握ることもできる。抱き合うことだってできるのだ。それなのに、いざこうして会ってみると、言葉が出てこない。口がからからに渇いて、舌が上《うわ》顎《あご》にへばりついてしまった感じだ。 「片桐、言いたいと思っていたことを、心残りないように話しておかなくちゃ。お母さんも、お兄さんも、お姉さんも、落ち着いて、どうか彼を励まして、勇気づけてやってください」  教育課長が操と家族の両方に言葉をかけた。アルミの急《きゆう》須《す》から茶飲み茶碗に茶を汲《く》んで、 「さあ、どうぞ」  とも勧めてくれた。  操は一息に茶を飲み干すと、たてつづけに二、三杯おかわりをして、やっと少し落ち着いた。 「操、私が行き届かなかったばっかりに、おまえをこんな目に合わせてしまって。母さんを……母さんを許しておくれっ」 「母さん、泣かないで。ぼくがこうなったのは母さんのせいじゃないよ。ぼくは自分のやったことの始末を自分でつけるんだから」  テーブルにうち伏してしまった母に、操は静かにやさしく言った。 「あんたには十分なこともしてやれなかったけれど……」  姉が言うのを操がさえぎった。 「そんなことないよ。長い間お金を送ってもらって、申しわけないと思っているよ。そんなことより、姉さんにも早くいい人が見つかって結婚できるといいね」  操は話題をなるべく明日のこと以外に向けたかった。 「結婚なんて、しなくていいの」 「ぼくのせいで、姉さんは結婚できないのかなあ、ぼくが悪いからなあ……すまないよ姉さん」 「なに言ってんの、あんたのせいじゃないわよ」  義母も、姉も感情をおさえられず、話しては泣き、操の言葉を聞いては涙に暮れた。 「兄さんにも、迷惑のかけっ放しだったなあ、父さんもあんなことになってしまって(操の死刑確定後父親は死亡)、みんなぼくのせいだよ。あの世に行ったら父さんには親不孝をお詫《わ》びするんだ」  言葉が見つからず、義母と姉が泣くのを途方に暮れたように見守っていた兄に、操のほうから言葉をかけた。 「おれのほうこそ、おまえにはなにもしてやれなかったよ。家族がいて商売に追いまくられていると、つい見えないものには気がまわらなくて、すまなかったな」 「これが、おまえを迎えに来たんだと、どんなにいいか知れないのにねえ」  義母は深い溜《た》め息とともに言った。言ってももうどうにもならないのに……。    献体して、灰は共同墓地へ  しばらく沈黙がつづくと、教育課長がやや離れた席から声をかけた。 「明日の午後には、皆さんといっしょに帰れますよ。また迎えに来てやってください」 「本当ですか」  母と姉が同時に言った。 「本当ですとも」 「そんなこと、困るよ。子供の将来を考えたら、家にひきとって葬式を出すなんて、できないよ」  兄が遺体ひきとりを拒んだ。 「そんなこと、言わないでおくれ。操はいままでひとりぽっちで寂しい思いをしてきたんだよ。せめて、せめて明日は家に連れて帰ってやりたいよ」 「もう子供も大きいんだ。そんなことできないよ」 「お願いだから、連れて帰って、父さんと一緒にしてやっておくれ。操がこんなことになったのは、本当に私がいけなかったんだから」  義母は泣いて兄に、頼む、頼むとくり返すが、兄は操の面前であることを忘れて、かたくなに首をたてに振ろうとはしない。 「いいんだ。ぼくは、献体させてもらうことに決めてるんだから。母さんも兄さんもぼくのことでケンカするのはやめてよ。ぼくは生まれてから一度も世の中の役に立ったことがないから、献体して、せめてたった一回でも役に立つことをしたいんだよ」 「操っ……」  静かに、落ち着いて語る操に、義母と姉は涙以外になかった。兄もさすがに苦しそうに表情をゆがめた。 「すまん、操」 「ぼくはもうこれ以上だれにも迷惑をかけたくないんだ。母さんには育ててもらった恩返しの親孝行もできなくて、本当はつらいんだ。だから、医大に献体して、そのあと灰になって帰ってきても、家には帰らなくったって平気だよ。ここで死んでいくほとんどの人たちと同じように、この拘置所の共同墓地に入れてもらうから。あの世に行ったら、父さんに親孝行するよ。そして、父さんと二人でみんなのことを守っているから。母さんも、姉さんも、もう泣かないで」  教育課長が腕の時計をのぞきながら四人のテーブルに寄ってきた。 「どうですか。操君は立派に成長したでしょう」 「本当に、大人になりました。ありがとうございました。こんなになってくれても、もうこれで別れなくてはならないのかと思いますと……、未練がましくて申しわけありませんが」 「親ごさんなら当然ですよ。私たちだって別れるのは残念でならないんです。片桐、お母さんにも、兄さんにも姉さんにも会えたし、よかったなあ」 「はい、これで思い残すことはありません」 「そうか。いつまでもこうしていられるといいんだが、そういうわけにもいかないのでね。みんなに言っておきたいこと、話しておきたいことはすっかり話したかね」 「はい、ぼくは、ただ、母さんや兄さん、姉さんにお詫びが言いたかっただけですから」  教育課長も、こうした最後の別れに立ち会った経験は数多いが、いよいよこれで時間切れだという合図を送る瞬間は、やはりつらい役まわりだと思うのだった。 「それじゃ、片桐、もう一度皆さんに最後のお別れを言って、そろそろ……」  操ははっと顔をこわばらせた。けれど、それは瞬間的なことだった。すぐ決意をかためたように立ち上がり、義母、兄、姉のそばに歩み寄った。 「母さん、兄さん、姉さん。お別れだ。最後にみんなと握手をしたいんだけど」 「操っ……」  義母は操の差し出した手を両手で握りしめ、胸の中に操をかき抱いた。 「ごめんね、母さん。ごめんよ母さん、母さんをこんなに悲しませて、さよなら母さん」 「兄さん、おれのぶんも母さんに親孝行してくれなあ、さよなら兄さん」 「姉さん、姉さん、さよなら」  操にはもうこれ以上の言葉がなかった。いや四人とも語るべき言葉を探すことができなかった。この世における肉親としての最後の対面なのだ。言いたいことはいっぱいある。けれどもなにをどう言っても、言い尽くせるということはないのだ。感情ばかりが先立って、出てくるものは嗚《お》咽《えつ》しかない。  義母が右から、姉が左から、兄が背からと、操を抱きしめ、本当の最後の惜別に咽《むせ》んでいるところに、無情にも扉が開き、刑務官が二人入ってきた。  二人の刑務官は、義母、兄、姉に悔やみに近い慰めの言葉を言った。それは、もう時間だと知らせる代わりの言葉でもある。  義母、兄、姉は帰り支度を整え、教育課長、二人の刑務官に挨《あい》拶《さつ》をすると、操を振り返り振り返りしながらドアから外へ出て行った。  互いに後ろ髪ひかれる今生の別れである。  拘置所の庭では、蝉《せみ》しぐれが盛りの夏を謳《おう》歌《か》していたが、だれの耳にもそんなものは入るどころではない。  教育課長が三人を送って廊下に出てきた。 「明日、午前十時から十一時ごろだと思います。どうか冥《めい》福《ふく》を祈ってあげてください」  義母と姉はあらためて涙に暮れながら、うなずいた。 「こんなに早いとは思っていませんでした。操より古い人で、まだお迎えのない人が何人もいると聞いていましたから、操はまだまだだと……」 「こればっかりはね、私らにもどうにもならんのですよ。確定順というわけにはいかないらしくて」  うらめしそうに言う母親に教育課長は答えた。  刑事訴訟法に定められているところによると、死刑は判決確定のあと、六カ月以内に法務大臣が命令を出し、この命令を受けると五日以内に執行しなければならない、となっている。しかし、実際に六カ月以内に執行されることはほとんどないというのが実情である。判決文の騰本と検察官のサインした執行指揮書があれば、執行手続きにこと足りる懲役刑や禁固刑とはわけが違うからだ。  死刑の場合は、大臣の命令が前提である。法務大臣自らが署名押印したものでなくてはならず、事務次官の代筆は認められない。大臣の任期はだいたい二年そこそこ、就任したてよりも、辞めぎわ(任期切れ直前)に何人かまとめて署名押印するというやり方が多い。できるだけ人殺しはしたくないというところか。  死刑確定後かなりの年数、といっても五、六年執行されずにいる死刑囚もいる。これは、恩赦の申し立てを行ったり、無実を訴えて再審申し立てを何回も出願した場合が多い。恩赦申し立て、再審申し立てが出されれば、その手続きが終了するまでの期間は、執行は行われないからである。しかし、たてつづけに再審申し立てを出願したからといって、そうそう執行を免れるというわけでもない。  法務省刑事局が昭和三十七年(一九六二)に発表した、昭和三十二年(一九五七)から三十六年(一九六一)までに執行された百二十一人の確定から執行までの平均期間は二年十一カ月である。百二十一人中十一人が確定後五年以上を生きながらえている。ほかにも法務省用語で「未済」とする、長期未執行者もいる。  死刑囚の間には、体験から割り出された〓“危ない時期〓”というものが語り伝えられている。それは、死刑確定後二年八カ月たったころで、そのころによくお迎えがやってくるというのだ。つまり、片桐操は実際の平均期間をもって執行されたわけである。けれども死刑囚ひとりびとりは、五年とか六年という最長期間に望みをかける。操の場合も、根拠はないながらも、「五、六年は……」と考えていたのだろう。そこへ二年八カ月のお迎えはあまりにもショックだったのだ。    なにを考えても、なにをやっても、集中できず、ただ恐ろしさだけが振り払っても、振り払ってものしかかってくる。大事なことをなにか忘れているような気がしてならない。義母や兄、長姉がせっかくお別れに来てくれたというのに、結局、言いたいことはなにも言えずに時間だけが過ぎてしまった。  ひとりでいるのが怖かった。泣いても、叫んでも、絶体絶命であることに変わりはないのだ。それがよくわかっているだけに泣くこともできずにいた。    ロープが切れて助かる夢  午後五時になった。  教育課長、教誨師が同席して、操のために「告別晩《ばん》餐《さん》の夕」が開かれる。つまり、操自身も出席して自分の〓“お通夜〓”をとり行うのだ。昼間のうちに、食べたいものをなんでも注文するように、と言われたのに甘えて頼んだものが、すべてテーブルに並んでいる。  西《すい》瓜《か》(大玉八分の一切れ)、バナナ(一本)、だんご(あんこ、しょうゆ各一本)、サラダ(野菜を中心にハム、ゆで卵切りなど一鉢)、天《てん》丼《どん》(エビ二尾、ピーマン一切れ。沢《たく》庵《あん》二枚とキュウリのぬか漬が添えてある)。  たいがいの死刑因がこんなにあれこれ注文するというわけではない。ほとんどの場合が一品だ。天丼かすしである。天国へ行けるようにと縁起をかついで天丼を注文する者が多い。また、すしは日本人の好きな食べ物のトップの座をゆずらないように、死刑囚にも今生の食べおさめにすしを注文する者が多い。  十八歳になったばかりという若さで自由社会から隔絶された操は、少年の日までに食べて育ったあれこれがどうしても食べたかったのにちがいない。  しかし、実際に注文したものを前にすると、どれにもほとんど手がつけられなかった。西瓜をひと口齧《かじ》り、バナナをひと口齧り、ダンゴは一個を串《くし》からはずしただけにとどまり、サラダ、天丼には手をつけずじまいだった。胸が詰まって、食べ物が喉《のど》を通らないのだ。教育課長も教誨師も無理に食べろとは言わない。明朝死んでいく者に、いまさらなんの栄養が必要だというのか。  二人とも、宗教家として、あるいは人間として、ただやりきれなさに暮れる気持ちでいっぱいだった。片桐操という若い一個の命が、自らの意思とはかかわりなく、その生涯を閉じなくてはならないという現実が目の前にある。肉体的にはまったく健康で、自然の摂理にあずかれば、まだまだ何十年もの時間が残されているはずである。  だからといって、話題をその方向へ向けるわけにはいかない。  ほとんどとりとめのない話題ばかりになる。  死は人生で絶対避けられないもの。美しい死、自己の美意識に基づいた死を演ずることができるのは、現代では死刑囚だけであることなどは、折に触れすでに話し尽くしていた。死刑囚の死は、言い渡されてから実際に迎える瞬間までに、少なくとも十時間あまりの時間がある。肉親との最後の別れ、遺留品の整理、自らの通夜、遺書を認《したた》め、気持ちの整理をし、体を洗い清め、辞世の歌を詠む余裕もある。等々……だ。  教育課長が腕の時計をのぞいた。そろそろ解散の刻限が近づいている。 「残念だが、そろそろ時間だ。なにかまだ言っておきたいことはないか」 「ひとつだけ、お願いがあります」 「なんでも言ってみなさい。できることならやってあげよう」 「ぼくの、最後の写真を一枚、撮っていただきたいんです。ぼくが死んだあと、家族に渡してほしいんです」 「……気の毒だがな片桐、それは聞いてあげられないんだ。拘置所の中で写真を撮ることは規則で禁じられているんだ」  規則という言葉ほど拘置所の中で絶対的な力を持っているものはほかにない。そのことは操自身もよく承知していた。  午後八時。〓“通夜〓”を終え、操は再び独房に戻った。裸コンクリートの壁と天井、頑丈な鉄格子に被《おお》われたささやかな窓。流しと便器の部分を合わせても四メートル四方にも満たない空間が、操の終《つい》の宿である。  独りきりになって、またあらためて恐怖心がのしかかってきた。気象庁は熱帯夜を報じたが、操は反対に寒い気さえしていた。机に向かう。肉親のひとりびとりに宛《あ》てて、迷惑をかけたことへの詫《わ》びの遺書を認《したた》めた。とくに最後の別れの挨《あい》拶《さつ》ができなかった次姉には念入りに書いた。出産直後で、どうしても来られなかった次姉とは、年齢が最も近く、いまではいちばんなつかしい人であった。  午後九時。遺書を認めはじめて少したったとき、消灯時間になった。天井の蛍光灯が二十ワットから六ワットに減灯された。主任の刑務官が黙って電気スタンドを房内に入れてくれた。操はこの主任が好きだった。亡くなった父親にどことなく似ていた。いつも父がそばにいてくれるような気がして、死刑確定後の心の支えになっていた。  午後十時。操は遺書を認める手を止めて、思いにふける。夢のような、空想のようなものが広がっていった。操は死刑台にいる。首にロープがかかった。奈《な》落《らく》へ落ちる瞬間、ロープが切れる。神さまが現われて、「きみはいま死んだことにして助けてあげよう。別の世界に行ってもう一度やりなおしてごらん」と言う。どこか知らない無人島に送られて、操より以前に執行された人たちと一緒に生活していた。夢だ。願望であった。 〓“ぼくは明日どこへ行くのか、まったく未知の世界だからわからない……〓”  夜半二時ごろまでかかって、書いた手紙が五通。四通は義母、兄、長姉、次姉へ宛てたもの。一通は担当の教誨師に宛てたもの。  執行の朝は、午前五時四十五分起床。毎朝行っている被害者への冥《めい》福《ふく》のための勤行を、この朝はとくに念入りに行う。  午前七時。朝食が運ばれる。この世における最後の食事だ。この日は特別メニューで、白米飯、味《み》噌《そ》汁《しる》、卵焼き、のりが出た。サイダー一本の差し入れがあった。父親に似た主任の刑務官からの無言の差し入れである。操は残さず平らげた。サイダーも飲み干す。執行まであと三時間足らずだ。  操は、昨夜うたた寝をしたとき見た夢の話を、刑務官のひとりにした。死刑囚の多くが最後にロープが切れて助かったという夢を見るという。助かりたい願望が、こうした形の夢になるのだろう。  午前八時。特別入浴を許される。死に臨んで身を洗い清める。つまり、自分の通夜に自分が出席するのと同じく、死後の〓“湯《ゆ》灌《かん》〓”をも自分で行うのである。ふだんの入浴は五日に一度。朝食後九時からという規則になっている。時間は十五分間だ。けれども今朝は沸かしたそのさら湯に、時間も思いきりゆっくり入るようにと許された。  午前九時。個人教誨室で教誨師と面接。いよいよ刻限が迫ってくる。 「先生、最後のお願いがあります」 「なんでも言ってみなさい」  教誨師は、きのうとは打って変わったように落ち着きを取り戻した操を不《ふ》憫《びん》に思った。 「ぼくは親不孝の許しを乞《こ》い、被害者の方の冥福を祈りながら静かに死んでいきます。でも、ぼくのような人間が、二人と出ないよう、この社会から二度と出ないように、この最後のつらさ、苦しさの心境だけは現代の若者たちに伝えてください。自分との闘いに負けた人間の最期のあわれな姿が、自分をして、自分で自分の首を絞めるようなもので、こんな人間にだけはなるなと教えてやってください。先生、死刑囚になった人間の教誨より、罪を犯さない人間を育てるための教誨をしてください。これが、ぼくの最後の頼みです」 「よくわかった。きみの最後の言葉を肝に銘じて、これからの教誨につとめるようにすると約束しよう。さ、もうお別れだ」  教誨師は操を胸の中に力いっぱい抱きしめて言った。 「迷わず成仏しろよ」 「はい。立派に死にます」  この間に、刑場では執行の準備が整えられている。    「長い間お世話になりました」  個人教誨室から、看守二人、特別警備隊員二人、教育課長、主任教誨師に囲まれるようにして、操は刑場のある丑《うし》寅《とら》の方角を目ざして歩く。距離にして百五十メートルほど。午前中とはいえ、真夏日の気温はすでに三十度を超えたのでは、と思われる暑さだ。日差しが今日も強烈だ。  刑場は、アイボリー色の壁のモルタル造り平屋建て。全体的に十四、五坪(40平万メートル)はありそうで、まわりの木立と調和してとても死刑の執行場所には思えない。しかし、これはあくまで遠目の印象だ。近づけば入り口は鉄扉で人を拒否する冷ややかさである。死刑囚たちはこの鉄扉を「地獄の門」と呼び、だれもが目のあたりにした時、一瞬足をすくませる。  重苦しい音をたてて鉄扉が開き、操は足どりを変えずに敷居を越えた。中には、ベージュ色の絨《じゆう》緞《たん》が敷きつめてある。六畳間程度の部屋で、正面に仏壇があり、生花、供物が飾られ、すでに蝋《ろう》燭《そく》が灯り、一本立った線香から煙が立ちのぼっている。操自身の葬式が取り行われるのだ。机が中央に一個。一方の側に操のための椅《い》子《す》がある。反対側が所長、事件の担当検事、検察事務官などの席になっている。  やがてそれぞれの席が埋まると主任教誨師の読経が始まる。 「片桐君、長い間ご苦労だったね。これでいよいよお別れしなくてはならないが、最後に、まだ言い足りなかったことがあったら、ここで言いなさい」  所長が言葉をかけた。うなだれて椅子に座っていた操が顔をあげた。 「はい……」  声がかすれている。刑務官のひとりが茶を汲《く》んで彼に差し出す。  操は軽く会釈して、それを一息に飲み干した。 「ありがとうございました。ぼくのような人間を、こんなに最後まで人間らしく扱っていただけるなんて、思ってもいませんでした。長い間、本当にお世話になりました。あの世へ行ったら、被害者の田所巡査さんにお詫びします。みなさん、どうもありがとうございました。さようなら」  一気に言い終わると操は立ち上がった。 「まあ、そう、急がなくてもいいんだよ」  所長がいう。操は仏壇に進み寄って、田所巡査のため、父のため、そして自分のためにと三本の線香に火をつけて立て合掌した。 「もう一杯お茶を飲んで行きなさい。それから、祭壇の供物はおまえのために供えられたものなんだから、道中腹が減らんように食べていったらいいだろう」 「さっき、朝ごはん食べたばかりですから……」  と言って操は供物の饗《きよう》応《おう》を断り、茶だけもう一杯飲んだ。 「タバコはどうだね」 「いえもう」  操は再び立ち上がり、室内の皆に向かって深々と頭をたれた。 「それじゃ、名残惜しいがお別れだね」  この所長のひと言が本当の言い渡しである。 「皆さん、ありがとうございました。お先に行きます」  操が言い終わるのを待っていたように、保安課長が手錠をかけ、白布の目隠しをした。主任教誨師と介添えの教誨師二人の唱える読経の声が高まった。操の頬《ほお》は急激に血圧が上昇したようにまっ赤になり、すぐにさっと血の気が引いた蒼《そう》白《はく》なものになった。心臓の音が、読経の合間を縫うように近くにいる者にも聞こえる。仏間と絞首台の部屋とを仕切ったカーテンが開かれる。刑務官二人に両脇《わき》を支えられて、操はひと足ひと足死刑台へ進んだ。一メートル四方の踏み台に操の両足がそろった。死刑台の部分もすべて、仏間と同じベージュ色のカーペットが敷いてある。  直径二センチ、全長七・五メートルの麻縄は操の身長に合わせてすでに調節されている。首にかける部分は輪状になっていて、死刑囚の落下のショックでも輪が解けないように鉄環で止めてある。輪状の部分も含めて一メートル二十センチの縄の部分が黒革で覆われている。  死刑台では踏み台脇に三人の執行刑務官が待機しており、操が所定位置に立ったとたん、ひとりは絞縄を鉄環部分が操の首の後部に当たるようにかけ、絞縄と首との間に隙《すき》間《ま》がないように密着させてギュッと絞める。顎《あご》だけに引っかけて吊《つ》るした形になると死刑囚は死にきれず、意識も失わず、苦しむ。そういうことにならないよう喉《のど》に縄がぴったりと吸いついたように絞めなくてはならない。しかも手早くだ。  同時に、もうひとりが両脚の膝《ひざ》を縛る。長さ二・七メートル、厚さ四ミリの紐《ひも》である。これが終わると、あらためて操が踏み台の所定の位置に直立しているかを確認する。そして保安課長の確認指揮を待っていた残りのひとりがすばやくハンドルを下に引いた(こう書くといかにも長い時間を要するようだが、実際は首に絞縄をかけるのと、膝を縛るのと、ハンドルを下に引くのとはほとんど同時に行われ、せいぜい三秒ぐらいのものである)。  操の体が死刑台から消えた。中央が分離して、二枚の鉄板製の踏み台が落下した衝撃音が轟《とどろ》くのと同時だった。心臓に突き刺さってくるような大きな音だ。  厳粛な雰囲気が、急にざわついた、あわただしいものに変わった。  地下室には、落下した一メートル四方の踏み板の穴の中央から吊るされた操の姿があった。落下した瞬間は、全身をS字形にくねらせ、ロープがキリキリ舞いするのに任せて、身もだえていた。しかし、それも瞬間の出来事で、いまは筋力を失って異常に伸びた首をガクンと前にたらしている。手錠と、膝を縛っていた紐は落下したあと、取り除かれた。そのため自由になった手足は空間を泳ぐように、寄る辺を求めている。胸はまるで深呼吸をしているかのように、大きくふくらんではしぼむ。  意識は失われていても、肉体は生きようともがいているのだ。  全身から汗が噴き出し、着衣はぴったり体にへばりついている。糞《ふん》便《べん》も尿も、肉体の内に止まってはいない。尻《しり》から内《うち》股《また》にかけては、はっきりとそれとわかる色がにじみ、広がっていった。    医官が階段上の所長、検事らに報告。死刑執行は終わった。  棺に納まった片桐操は、すでに刑場外に迎えに来ている黒い寝台車で、どこかの大学の解剖学教室へ行く予定である。二度目のおつとめのために。    昭和四十七年七月二十一日。天気晴朗なれど心波高し。 片桐 操    遺書の最後の一行である。  仏門に帰依、模範囚の堂々たる最期     女性連続毒殺魔 杉村 サダメ    杉村サダメが死刑に処せられたのは、昭和四十五年(一九七〇)九月十九日。福岡拘置支所においてであった。かの「塩原日本閣事件」の小林カウの処刑に遅れること百日。しかし死刑確定はサダメのほうが三年あまり早く、女性として戦後二人目の極刑確定者であった。  杉村サダメの犯罪は強盗殺人、同未遂というもので、殺した人数三人半。半というのは四件の犯行のうち、ひとりだけは殺害に至らず、命をとりとめたものの植物状態となったため。  犯行の動機は「年末をひかえ、借金返済に迫られていたため金が欲しかった」と供述している。これだけの犯罪をやってのけてまで返済しなくてはならないほど追い詰められていた借金の内訳はというと——。  親《しん》戚《せき》知人、近所の八百屋、魚屋、酒屋などに、あわせて十六万五千八百円也の借り入れがあった。しかし、全額を、なにがなんでも耳をそろえて返済しなくてはならないほど切迫した事態でもなかった。全借金のうち、利息程度のものを持って挨《あい》拶《さつ》すれば、当面、事は足りたのだ。  しかしサダメは、第一の犯行を三十五年(一九六〇)十一月六日に決行してしまった。杉村クラさんがサダメの家を訪ねてきた。クラさんはサダメの死んだ夫の母で、サダメには姑《しゆうとめ》にあたる。〓“本家のババさん〓”とサダメは呼んでいた。小金をため、いつも肌身離さず持ち歩いていた。その本家のババさんに午後二時ごろ好物の乳酸飲料に農薬ポリドールを混入して飲ませ、殺害。しかし、このときババさんは金を持っておらず、サダメの目的は達せられなかった。医者の診《み》たては「卒中だろう」ということで、犯行は明るみに出なかった。  第二の犯行は姑殺しから八日後の十二月十四日。被害者は隣家の主婦嘉悦タケさん。馬肉に農薬を混入して食べさせて殺害した。このときも狙《ねら》ったタケさんの財布は奪えずに終わった。そして、これも卒中ということで片がついた。  第三の犯行は十八日昼ごろ、自宅に訪れた顔なじみの依頼行商人山村富士子さんを狙った。同じ農薬入りの鯛《たい》味《み》噌《そ》を食べさせるが、食べた量が少なく山村さんは死亡には至らなかった。しかし内臓から脳に至るまで毒に侵されて廃人同様となったまま。この第三の犯行で、初めてサダメは一万三千五百円の金を手に入れた。結局、この殺人未遂ですべてが露見するところとなった。ところが、逮捕されるまでの間に、もうひとりの女行商人奥村キヨノさんを、十二月二十八日に農薬入り納豆で殺害していたのだった。  姑をはじめ隣人知人をわずか二十三日間に毒殺。犯行後も平然と素知らぬ顔をしていて、まさにスリラー小説の悪女さながらの女と、当時は世間が驚《きよう》愕《がく》したものである。    男のための借金・犯行  杉村サダメは、明治四十四年(一九一一)十二月二十九日生まれ。犯行当時四十八歳。昭和五年(一九三〇)にトビ職の杉村登さんと恋愛結婚。翌年長女を出産。夫の登は酒癖、女癖が悪く、結婚して十年後には二号、三号の子連れの女が家に入り込み、ひとつ部屋で共に寝起きするというありさま。たまりかねて離婚話を切り出しても、相手になってくれず、殴る蹴《け》るの暴力をふるわれていた。  昭和二十五年(一九五〇)に娘に婿養子を迎える。二十八年、夫がメチルアルコール中毒で死亡。サダメはこの前年子宮筋《きん》腫《しゆ》のため、子宮全摘出手術を受けている。以来月経は閉止、性感はなく、性交時には下腹部に牽《けん》引《いん》痛《つう》が走るようになっていた。  しかし二十九年(一九五四)には新たに愛人ができ、やがて同《どう》棲《せい》生活に入っている。相手は乳酸菌飲料の配達人で、この男には妻子もいた。 「やさしい男で、二人の仲はうまくいっていた」とサダメは供述している。けれども、この男は自分の稼いだ金のすべてを妻子のもとに送っていた。サダメの犯行の原因となった借金も、この男ゆえのものだったという見方もある。  女行商人奥村キヨノさんを農薬入り納豆で殺害した翌日の十二月二十九日、サダメ四十九回目の誕生日。熊本市川尻署に任意同行を求められたサダメは、派手な柄の羽織をひっかけておとなしく応じた。初めのうちは「なにも知らない」の一点張りを決めこんでいた。しかし、川尻署は取り調べを進める一方でサダメの家を家宅捜索し、台所から納豆の入った壺《つぼ》、鯛味噌が残っている小皿など物的証拠十点を押収した。また、これと並行して奥村キヨノさんの死体を熊本大学法医学教室で解剖、わずかに残っていた胃の内容物に有機リン酸の反応を検出した。  これらの証拠を前にすると、さすがしたたかなサダメも隠しきれず、山村富士子さん、奥村キヨノさんの殺害を認めた。サダメは二十九日夜、強盗殺人、同未遂で逮捕されたが、留置場ではぐっすり寝込み、その図太さには警察もあきれてしまった。  翌三十日、土葬してあったサダメの隣家の嘉悦タケさんの死体を発掘解剖。医師の脳出血による死亡という診断は誤りと判明。姑のクラさんは火葬されていたが、二人とも死亡当時の状況が奥村キヨノさんのときとまったく同じである。きびしく追及した結果、サダメはいっさいを自供、事件は解決に至った。    昭和三十八年三月二十八日に死刑が確定した。  死刑囚になってからのサダメは、しばらくは荒れ狂う日と、あきらめたようにぼんやり沈み込む日をくり返していた。やがて教誨師の導きで仏門に帰依。それ以来は模範囚としての日々を過ごしている。  無実の罪で死刑囚となっていた免田栄さんが、獄中記の中に杉村サダメのことについて少し書いている。   「四十五年九月十九日 死刑執行 松村さん   彼女は敗戦後、男女同権が叫ばれる社会のなかで、女性の犯罪として類をみないことをしている。この彼女も罪を悔いて信仰に入り、同囚の模範的な人物になっていた。けれどもYという支所長から極端にきらわれ、どれほど日常善行を尽くしても、支所長が巡視にくるたびに家庭内のいやみをいわれた。そのきらわれかたは、支所長が八ツ当りしているのではないかと噂されるほどであった。しかし彼女は仏門に帰依して驚くほど立派な最後だったといわれている。問題のY支所長は退職して間もなく世を去った」  松村さんというのは杉村サダメのことである。取材したかぎりでも、模範囚となってからのサダメは、生まれ変わったと表現したくなるほどの、すばらしい女、だった。    いびる所長は「気の毒なひと」  サダメは死刑確定後、処刑されるまで福岡拘置所の特別舎に収監されていた。ここで同囚の女性収監者たちに〓“四階のおばあちゃん〓”と親しまれ、慕われていた。教誨、娯楽などの集会時に、同囚者の苦悩を聞いてやり、励ましたり慰めたりを年長者らしくする。このとき出される茶菓を皆にすすめ、自分はあまり口にしなかったとも伝えられている。常に謙虚で慎み深い生活態度であった。とくに印象的なのは、正月に特別食のぜんざいが配当されたときのことだ。畳に三つ指を突いて「ありがとうございます。ごちそうになります」と言い、合掌して感謝していた。  こうした態度からは、連続毒殺魔のおもかげはまるでかけらもうかがえなくなっていた。それでも、免田さんの手記にもあるように、当時の支所長はサダメをいびりぬいていたらしい。亭主が死ぬ早々、別の男を引っ張り込んだ、などと、あれやこれや低次元のいやみを言っていたという。しかし、当のサダメはそんな支所長のいびり、いやがらせに一向に動じるふうはなかった。深い信仰心に目覚め、一種悟りの境地にあったサダメには、支所長を逆に「気の毒な人間」と思っていたようだ。  いよいよ死刑執行の言い渡しを受けたとき、サダメはいささかの動揺も見せなかった。 「そうですか、承知しました」  サダメはきっぱりと、こう言って、あわただしく身のまわりの整理をすませた。  九月十九日は晴れあがったいい天気になった。秋風は立つものの、まだまだ残暑が未練げに日中の気温を上げる。それでも天は高く、秋であった。  手錠をかけられて、サダメは拘置所の庭を刑場へと向かって歩いた。近くの舎房の窓からは、サダメが泰然と歩く姿を見送る顔々が見られた。  刑場の仏間には、サダメを仏門に導いた教誨師の読経が流れた。やがて支所長から最後の別れのときが来たことを告げられた。 「私のような人間のために、こんな最後のひとときを設けていただきまして、本当にもったいない気持ちでいっぱいです。私を真人間に生まれ変わらせてくださった教誨師の先生、長い間お世話をしてくださった拘置所の先生方に深く感謝いたします。本当にありがとうございました。感謝の気持ちを持ちながら死んでいける私は幸福です。ではお先にまいります。あの世では被害者の皆さんに会って、罪を償いたいと思います。本当に皆さん、ありがとうございました。さようなら」  サダメはこう挨《あい》拶《さつ》を終えると、合掌し、瞑《めい》目《もく》した。手錠がかけられ、腰縄で固定され、目隠しをされた。刑務官に誘導されて死刑台に一歩一歩進み行くサダメの姿は、あまりにも立派で、立ち会いの人びとには後光のさす菩《ぼ》薩《さつ》のようにさえ見えたという。  一メートル四方の踏み板は鉄板でできており、中央が分離して落下する仕掛けになっている。サダメはその左右の踏み板の所定位置を踏んで立った。目隠しされていながら、表情は恍《こう》惚《こつ》とした微笑がたたえられていた。  首に絞縄がかけられ、膝《ひざ》を紐《ひも》で縛られる。壁に五つ並んだ押しボタンを、五人の刑務官が保安課長の合図でいっせいに押す。  地下に落下して宙吊《づ》りになったサダメは、戦後の女性死刑囚として二番目に刑死したが、男の死刑囚でもとうていできない、見事な最期で人生を閉じた。    杉村サダメ 享年五十九歳  死へのおびえに腰を抜かす     希代の暴行殺人鬼 大久保 清    昭和四十六年(一九七一)、群馬県下で八人の若い女性を暴行したあげく、殺して埋めた大久保清が、死刑を執行されたのは五十一年(一九七六)一月二十二日のこと。  この日は晴天であったが、東京は氷点下三・九度というその年の冬一番の冷え込みを記録した。  大久保清の死刑は、執行された日の午後にはマスコミによって一般社会に報じられた。これは当時、ほかの事件で東京拘置所に張りついていた報道陣にいちはやくキャッチされたためであったらしい。  東京拘置所・宮本恵生総務部長は、マスコミの取材に対して次のように語っている。 「刑の執行の言い渡しは前日の二十一日に行われました。その日の夕食は、まあ、最後の食事になるわけですから特別のものを出します。飯はもちろん白米、おかずも豪華なものだったはずです。大久保もそうでしたが、たいていの死刑囚が残らず食べますね」 「死刑囚のなかには、腰が抜けて歩けなくなるような例が多いんですが、大久保は終始おとなしく落ち着いていました」  しかし、このコメントは少なからず事実とは違っているようである。  大久保清は、一月二十二日の朝、自分の独居房のドアが開かれるまで、その日自分が処刑されるとは夢にも思っていなかった。それというのも、前日に死刑の言い渡しなど受けておらず、最悪でも、言い渡しをしに来たのかもしれない、と思うくらいのはずであった。東京拘置所では、前日言い渡しというのが慣習のようになって久しかったからである。  だから大久保清は、その日ふだんと変わりない朝を迎えた。冬の最中のことであり、寒さは身にこたえるが、暑さ寒さをつらいと感じるのも生きていればこそである。  チャイムとともに寝床を離れる。寝具を片づける、掃除、洗面、点検、朝食、と死刑確定から二年十カ月間というもの、毎朝同じ動作をくり返してきた。ただ少し違っていたのは、大久保自身にそのころ拘禁症状が現われていたことだ。  拘禁症状には、房内でめちゃくちゃに暴れる者、肉体的変調(頭痛、下痢、腰痛など)を訴える者、壁に向かってぶつぶつと独り言をつぶやく者——だいたいこの三つのいずれかに属する症状が多い。  大久保の場合はぼうっと呆《ほう》けたような、虚ろな目つきになって、突然笑いだしたり、独り言をつぶやいたりしていたそうである。面会人が訪れることもほとんどなくなっていた大久保は、口を開く機会がない。くる日もくる日も終日黙りこくって過ごさなくてはならないのだ。  こうした症状がつづいていたその朝、お迎えが来たというわけだった。    確定から執行まで二年十カ月要する  水を打ったように静まり返った四舎二階の廊下に特別警備隊の靴音が轟《とどろ》きわたった。死刑囚たちはそれぞれの独居房で、鋭い緊張に身をこわばらせて一心に祈りはじめる。「どうか自分ではありませんように」と。  大久保は隊列が自分の房の前でぴたりと止まり、カチリ、という鍵《かぎ》の開く音を聞いても、一見平然とかまえていた。拘禁症状のために足音に敏感に反応する感性が減少していたにちがいない。  鉄扉が重々しい音をたてて開き、保安課長が正面に立ちはだかっている。警備隊員たちが大久保を取り囲む。 「番号と名前、生年月日を言いなさい」  警備隊員のひとりが点検簿を抱え、念のために言う。  このときになって大久保は初めて我が身にふりかかってきた事態を理解した。平然とかまえていると見えた姿勢が、がくんとくずれた。呆《ぼう》然《ぜん》とした表情があらわれ、へなへなと床にへたり込んだ。 「大久保清だな、所長がお呼びだ。すぐ来るように」  保安課長が言うのが聞こえたのか、聞こえないのか、立ち上がる様子もない。つまり、大久保清は衝撃のあまり、腰を抜かしてしまったというわけだった。  警備隊員に引きずられ、失禁の雫《しずく》をたらたらとたらしながら大久保は連行されていった。    大久保清の犯罪は、いまだに世間に記憶も鮮やかに刻みつけられている。昭和四十六年(一九七一)三月三十一日から、同年五月十日までに、計八人の若い女性を次々とドライブに誘い、暴行のあげく殺し、土中に埋めた。  この女性連続暴行殺人事件を全面的に認めた〓“希代の暴行殺人鬼・大久保清〓”は、前橋地裁で四十八年(一九七三)三月死刑判決を受けた。そのまま控訴せず死刑が確定。以降は東京拘置所に身柄を移され、執行の日まで収監されていた。  死刑が確定してから執行までに二年十カ月という時間を要したのは、次のような事情による。  死刑執行の命令は、判決後すぐに下されるというものではない。菊地正の項で執行手続きは詳述したが、大久保の場合も、前橋地検から法務大臣あてに「執行上申書」が提出されたあと、法務省刑事局付の検事が確定記録を精査し、判決に一点の疑問もないか、再審、恩赦、刑の執行停止などの理由がないかどうかなどを調査。そのうえで「死刑執行起案書」をつくる。この起案書が、刑事局から矯正局、保護局でさらにチェックされ、最終的に法務大臣の執行命令のサイン押印となるわけである。  死刑囚の健康状態や精神状態については、逐一矯正局に報告されているので、万一、問題が起こった場合には、どの段階でも事務作業がストップされる。大久保の場合は、この一連の作業が終わるのに死刑確定から二年十カ月を要したということらしい。    大久保清が婦女暴行、殺人、果ては死体を埋めたあの忌わしい犯罪と、その背景となった生いたちとは、いったいどのようなものであったのか。  大久保は四十六年(一九七一)三月から五月にかけての一連の犯罪以前にも、過去に二度、婦女暴行、同未遂事件で服役している。  最初は三十年(一九五五)七月、大久保二十歳のときである。伊勢崎市内の女子高生(一七)を公園に誘い、乱暴しようとして未遂(懲役一年六カ月、執行猶予三年)。同年十二月、前橋市内の女子高生(一七)をオートバイに乗せて松林に連れ込み、乱暴しようとして未遂(懲役二年)。三十一年(一九五六)四月に松本刑務所へ入所。三十四年(一九五九)十二月、仮出所。  次が三十五年(一九六〇)四月、前橋市内の洋裁学校生(二〇)を自宅に誘い乱暴しようとして未遂(示談で不起訴)。四十年(一九六五)八月、牛乳瓶を盗んだ少年の保護者から二万円を脅し取って逮捕される(大久保は前年九月から牛乳販売店を開業していた。懲役一年、執行猶予三年)。四十一年(一九六六)十二月、高崎市の女子高生(一六)を乗用車に乗せドライブのあと乱暴。四十二年(一九六七)二月、前橋市の女子短大生(二〇)を車に乗せ、車内で乱暴(以上二件の暴行事件で懲役三年六カ月)。四十二年(一九六七)七月、府中刑務所へ入所。四十六年(一九七一)三月二日、仮出所。  仮出所の三日後、四十六年(一九七一)三月五日にマツダロータリークーペを購入契約し、十二日に納入されると、さっそく十四日から若い女性のハントに精出した。逮捕された前日の五月十四日までのうち五十六日間の走行距離は一日平均百七十キロとタクシーなみ。声をかけた女性の数はじつに百二十七人。誘いに応じて車に同乗した女性三十五名のうち十数人と姦《かん》淫《いん》、獣欲を満たしていた。    嘘の供述のくり返し 「誘いに応じて車に乗った女性は三十人くらいだった。車に乗って何回会っても、おれを信頼して疑わなかった女は殺す気持ちにはなれなかった。だが何回か会っているうちに、おれがアトリエを持って絵を描いていることや、英語の教師をしていることを疑ったり、おれの身元を詮《せん》索《さく》したり、警察、検察、裁判官などと官憲のことを口にした者は殺してしまった。誘った女性のうち、一見お高くとまっている女は誘いやすかった。誘いに応じて車に乗った娘のうち八人を殺し、そのほか二十人くらいと関係をしている。車に乗せただけで関係しなかったのは二人くらいと思う」  大久保は嘘《うそ》の供述をくり返し、三カ月あまりを要したあとこう自供した。  大久保の手口はこうであった。白い車、ベレー帽、ルパシカなどを小道具に「絵のモデルになってください」などと言葉巧みに声をかけて車に乗せる。少しドライブしたあとモテルへ連れ込む。あるいは野外で犯す。抵抗されたり、嘘がばれそうになると殺す、という残虐なものだった。  逮捕後、暴行の事実についてはすらすらと自供したが、殺しに関する自供は「小さな人間の最後の抵抗だ」とか、「取り調べの人には済まないと思っているが、おれの最後のあがきだ。運が悪かったと思ってあきらめてもらいたい」などとふてくされをきめこむ。  取り調べ開始から二週間目の五月二十六日になって、ようやく殺人についての初めての自供が取れた。七番目の暴行殺人である。五月九日午後五時半ごろ、藤岡市内で二十一歳の女性を誘い、ドライブのあとモテルへ連れ込もうとしたが断られ、妙義山へ行く農道で午後十一時ごろ乱暴し殺したもの。 「そこは人通りは全くなく、すでに十時ごろであたりは静まりかえっていた。車の中で助手席の〇〇のからだを片手で抱くようにして顔を寄せ、キッスしようとすると、『わたしの父は刑事だから変なことをすると言いつけるわよ』と言って、おれの顔をなぐって車の外へ逃げだした。おれはすぐ追いかけ、三、四十メートルのところで捕えたが、刑事の娘と聞いて頭に血が逆上し、みぞおち付近に三回あて身をくれたうえ、前かがみになったところを空手チョップで首を二回打つと、〇〇はすっかり動けなくなり、声も出せないようになった。グッタリした〇〇を車のところへ引きずってゆき、着ていたものを脱がせ、丸裸にして道路の上にあおむけにして、無抵抗の状態で乱暴した。関係が終わっておれが立ちあがると〇〇は急に『助けて! 助けて!』と大声を出したので、脱がせたシュミーズで首を一巻きして、両手で力いっぱい絞めつけ、七、八分で死んでしまった」  この自供のあとがまた難航であった。何とか大久保の口を割らせようとした四人の取調官は、風《ふ》呂《ろ》で背中を流してやったり、自宅の庭でできたキュウリを食べさせるなどのサービスにつとめた。それでも、わけのわからぬ詩を綴《つづ》ったり、逆上したり、わめきちらしたり、嘘の供述をしたり、出まかせ、出たらめを並べるなどの狂乱ぶり。  四月二十七日の高校生の被害者(一七)=五番目の殺人=を警察官の娘だと信じていた大久保。この被害者が警察とはなんのかかわりもない家の娘だと知らされたとき、猛り狂った。 「警官の娘だと言ったから殺した」と自供していた大久保は、突然激怒し、青筋をたてて、ものすごい形相をして机を叩《たた》き、頭をコンクリートの壁にぶっつけ、机の上の茶《ちや》碗《わん》を床に投げつけわめきちらした。 「おれもうそを言った。しかし、あんな子供にうそを言われて、それが見抜けなかったとは残念だ。闘う目標を間違ったのだ。敵を失ったうつろな気持ちで自分自身に腹が立つ」  大久保は、すべてを自供し尽くさないかぎり、自分のわがままは許されると増長していく。  七月十三日、大久保は三人の死体を埋めた場所を供述。その現場へ行こうと言いだす。現場へ向かっている途中(国道一八号線を進行中)態度を急変。停車を要求。 「話が違う、おれを見せものにしたり、大勢の人を連れているが、この中に新聞記者がいるだろう。これでは案内できない」  こう言って現場への案内を拒否した。これに対し、一時間二十分にわたって説得をつづけたが、大久保は無理難題の要求をする。 「警察が約束を破った代わりに、おれに自動車の運転をさせろ」  と言いだすあんばい。結局この日、死体を埋めたという現場へは行かずじまいに終わった。  一日も早い全供述と死体発見をとあせる捜査側は、大久保をチヤホヤしっ放しで、ある深夜などは警察学校の庭でオートバイを運転させることまでやってのけた。走り出しても逃げられないようにオートバイの後ろの席に警官が乗り、さらに校庭の要所には機動隊を配備、校庭を二周、三周と走らせたというものだ。  結局、十三日の死体三体を埋めた場所というのは嘘の供述であった。その言いわけを七月十八日にしている。 「出発(発掘)の前の晩、〇〇より前に殺した女が夢《ゆめ》枕《まくら》に立って、『わたしのほうが先だ。わたしをどうしてくれる』と脅かしにきたので案内できなくなった」  しかし、難攻不落のかまえを見せていた大久保も、翌七月十九日に、ついに全面自供を始めた。 「昨夜は夢に悩まされて眠れなかった。それは〇〇という娘が出てきたんだ。枕元にきて黙ってすわっているだけなんだ。殺した女だから、ほんとうに恐ろしくて冷や汗をかくんだ」   「父の性的放縦、母の利己的で冷血な血を受け発揚性、自己顕示性、無情性を主徴とする極めて亢《こう》進《しん》した色情衝動を伴う異常性格者であって、すでに小学生時代から短気で乱暴で同級生とは融和せず、小学校四年生頃からその言動に性的放縦の萌《ほう》芽《が》が顕《あら》われ、六年生頃にはしばしば女生徒にいたずらをして問題を起こすという性行不良の児童であった」(判決文)  十七歳で女性を知ってから急速に異常性欲が昂《こう》じ、性衝動は年々高まっていく。  青年期ともなると、この異常性欲はどうにも抑えがたく高まる一方。当時(昭和三十年代初頭)の流行である登山姿、あるいはスキーをかつぐなどして繁華街を徘《はい》徊《かい》しては、めぼしい女性を狙《ねら》って性犯罪をくり返す。  三十七年(一九六二)五月、大久保は二十七歳で結婚。しかし、結婚後も妻だけでは満足できない異常性欲に悩まされる。新婚当初から毎晩のように外出して女性を誘い、目的を遂げていた。当時大久保の自宅には結婚を約束したという女性や、女性の両親が再三押しかけてきた。新婚の妻がとがめると、大久保は首を絞めつけたりの暴力をふるうのだった。  結婚後二年たった三十九年(一九六四)九月に牛乳販売店を開業。しかし相変わらず性犯罪はつづき、婦女暴行罪で四十二年(一九六七)七月には懲役三年六カ月の実刑を言い渡され府中刑務所へ。  四十六年(一九七一)三月二日に仮出所してからは、前代未聞の犯罪に突っ走る。    「秋に自供して冬に死ぬ」  大久保清がその全生涯でやったことは、「女性を誘い、乱暴し、殺し、死体を埋める」だけである。平凡な人間としてのまともな暮らしは一日もない。肉親を思う気持ち、妻をいたわる気持ち、子を持つ親としての自覚や責任、こうした人間らしい感性はかけらも見当たらない。ただ、ひたすら自己の性衝動に突き動かされ、女性を追いかけまわす以外にはなんの目的も人生になかった。  いったいなにが大久保をこのような犯罪に駆りたてたのか。  八件の殺人を自供したあとで大久保が、そのやみくもな犯行に走った原因・動機について語ったところではこうである。  府中刑務所出所後、妻子との同居が許されなかったための絶望。父要太郎と大久保の妻が淫《みだ》らな関係にある、という噂《うわさ》を妻の実家に伝え、大久保のもとに戻らないよう兄が勧めたこと。さらに大久保を「前科者」とののしるなど、手ひどい仕打ちを受けたこと。 「おれはやはり群馬へ帰ってこなければよかった。どうせ前科もあり、実兄や妻からも見離されたうえは将来に希望も持てないし、すべてを失ってしまったことだ。もうどうなってもかまわない。兄と勝負をして殺してやろう。そのためには人間を捨てるんだ。人間の血を捨てて冷血動物になるんだ。人間を信用するな、血を憎め、そしてその代わりにできるだけ悪いことをするんだ。どうせ死刑になるんなら二十人ぐらいの人を殺してやろう。そしておれも死ぬんだ、と三月二十四、五日ごろ決意した」  けれども大久保は兄を殺すことはできなかった。その代わりに次々と女性を誘っては犯し、殺して埋めたというのだ。 「かつての暴行の被害者たちが一方的な嘘《うそ》を訴えたから前科者にされたんだ。兄に次いでこの女性たちを殺そうと考えた。だが、これらの被害女性を殺そうと誘ったとしても、相手が顔を知っているからおれの車には乗らないし、その場で切り殺せば機動力のある警察に二時間以内にはつかまってしまう。それならおれを訴え出た当時の女と同年配の十七歳から二十二歳くらいまでの女性をできるかぎり数多く殺して、思い切り世間を騒がしてやろうと決心した」  この〓“決心〓”の四、五日後、三月三十一日に一番目の殺人を犯す。被害者は十七歳の少女である。  二番目の殺人を犯したのが四月十六日。やはり十七歳の少女だ。同月十八日に三番目の殺人。被害者は十九歳の女性。翌二十七日に四番目の殺人。被害女性十七歳。五月三日、十七歳の少女が被害に。五番目の殺人である。四日、同じく十七歳の少女を殺害。六番目。九日、二十一歳の女性を七番目の犠牲者に。十日、八番目の殺人。二十一歳の女性が被害者である。  大久保の取り調べは約八十日間にわたった。「春に捕まって、夏に調べと闘い、秋に自供して、冬に死ぬ」  こううそぶいて取調官を手こずらせた大久保も、秋を待たず自供してしまった。逮捕から一年九カ月後の四十八年(一九七三)二月、前橋地裁で死刑判決。大久保は控訴しなかった。せめてもの最後の見栄だったのだろう。  獄中では『訣《けつ》別《べつ》の章』を出版、立派に死んでみせると、死を待つ身になっても自己顕示をやめなかったが、さて、その最期はどうだったのか。  冬に死ぬ、と言っていたとおり、お迎えは真冬に来た。大久保清の立派な死にざまというものはどんなものだったのだろうか。    独居房を連れ出された大久保は、所長の読みあげる刑の言い渡しを聞いていた。といっても、いかにも儀式に臨んでいるという厳粛な姿勢ではむろんない。  たいていの死刑囚がこの瞬間は首をうなだれてはいるものの、しゃんと直立している。人間としての誇りを最後まで失うまいという強い意思を持ち、言い渡しに対して辞儀をすることも忘れない。  ところが大久保は、自らの力では立っていることもままならない。両脇《わき》を支えられ、かろうじて立っているような姿勢であった。それでも、「汝《なんじ》を死刑に処す」の言葉の意味は己のこととして理解したものらしい。全身をわなわな震わせ、歯をガチガチと鳴らす。涎《よだれ》とともに呻《うめ》きとも声ともつかない音を発したが、ほんの束の間のことだった。  言い渡しのあと、教誨師が大久保に因果を含める話をするが、こちらには素直に身を傾けるふうはなかった。もともと大久保はいっさいの宗教教誨を拒否、「そんなものの世話にならなくとも立派に死んでみせる」と主張していた。以前に懲役刑に服した松本刑務所でも、府中刑務所でも教誨を拒みつづけ、一度も受けていない。  いよいよ刑場までの約五分の道程に、十分あまりを要した。その時間を、大久保はなにを考えていたのだろうか。ただ呆然と両脇を支えられ、引きずられるままに身を任せているというのがぴったりの道行きであった。  刑場には拘置所長、刑務官数人、検事らが待ちかまえていた。  死刑に立ち会う検事は、刑が確定した裁判所に対応した検察庁の検事と決められている。死刑囚のほとんどが最高裁まで上告し、棄却されて死刑が確定したというケースである。したがって高等検察庁の検事が立ち会うことになる。大久保の場合は一審確定なので、本来なら前橋地検検事でよかったはずであった。が、当時の法務省側はなぜか〓“死刑嘱託〓”という異例のケースをとった。こうしたいきさつから、大久保の死刑執行には東京地検から検事が出向いてきた。 「これでいよいよお別れだね」  所長が最終的な刑の執行を告げた。  大久保の死へのおびえは最高潮に達した。顔面は紅潮し、目はまっ赤に充血した。全身をわなわな震わせ、その場に腰を抜かして座り込んでしまった。 「なにか言い残すことはないか。あったらいまここで何でも言いなさい」  という言葉にも、たったひと言も答えられず、幼児がいやいやをするのに似てかぶりを弱々しくふったのみであった。  腰を抜かして座り込んだ大久保を二人の刑務官が支えて立ち上がらせた。別の刑務官が目隠しをする。読経の声が急に狂ったようにカン高いものになって響いた。仕切りのカーテンが開かれる。一歩も歩くことができない大久保は引きずられて踏み板の上へ。首にロープがかけられる。手錠、膝《ひざ》紐《ひも》が施される。首ロープがギュッと絞められたとき、初めて大久保は声を出した。 「クック……」  笑い声か。泣き声か。  とにかくこれが生ける大久保の最後の声であった。  この、クック……に間髪を入れず、踏み板が落下する轟《ごう》音《おん》がつづく。大久保の体は地下室に呑《の》み込まれ、仏間から見える死刑台にはピンと張りつめたロープが残った。すぐに地下室に吊《つ》るされた大久保の体が揺れ動くのに応じて、ロープも前後したり、キリキリ舞いをしたりしはじめた。  大久保が独居房から連れ出され、完全に心臓が停止するまでに要した時間は、わずか十五分間であった。  巨漢百キロ、「言い渡し」を聞いて狂乱・格闘     女子高生殺し 佐藤 虎実    昭和五十七年(一九八二)十一月二十五日、東京拘置所刑場で佐藤虎実の死刑の執行が行われた。  佐藤の罪名は婦女暴行致死・殺人・死体遺棄である。  昭和四十二年一月十三日夜、神奈川県藤沢市の路上で帰宅途中の定時制女子高校生を呼びとめ、人通りのないところへ誘い込んで乱暴したうえ、殺害して死体を同市内の空地に埋めて逃げたというもの。  女子高生は藤沢市の定時制夜間高校に通うかたわら、昼間は同じ市内の市立中学校に事務員として働いていた十九歳。  行方不明になった翌日の一月十四日昼ごろ、自宅から約七十メートル離れた市道に、この女子高生がはいていた中ヒールの靴が置きざりになっているのを母親が発見。大騒ぎとなって藤沢署に届け出た。  当時の新聞報道では、女子高生が帰宅せず、行方不明となって、家族が藤沢署に捜索願を出した三日後(十六日夕)、家出人として公開捜査に踏み切ったとある。  公開捜査に踏み切った翌日、一月十七日の午後、横浜市戸塚区ですし店を経営している犯人のいとこから捜査本部に通報が入った。 「きょうの新聞で見たが、誘《ゆう》拐《かい》された女子高校生は、いとこの佐藤虎実が殺して近くの宅造地に埋めたらしい」  という内容の電話。この通報によって、捜査員二十人が午後九時から投光器を使って藤沢飛行場付近の宅地造成地(約二万平方メートル)を中心に捜索。約一時間後に女子高校生の死体を発見した。  藤沢署は捜査本部を設けるとともに、全国に指名手配をしていた犯人佐藤虎実を、十八日午前三時ごろ立ちまわり先で逮捕した。  佐藤虎実は、岩手県生まれの住所不定。逮捕時の職業は労務者。婦女暴行、強盗、放火、盗みなどの前科三犯で、この犯行の前年十月に山形刑務所を出所したばかりであった。刑務所を出所後、捜査本部に通報の電話を入れてきたすし店経営者のいとこを頼って横浜へ来た。間もなく宅造地内の建設飯場に労務者として住み込んだ。  犯行の十三日夜、同僚に「ズボンを買いに行く」と言って出たまま帰らなかった。この夜帰宅途中の女子高校生と会って、発作的に襲い、抵抗されたために殺し、犯行をくらますために埋めた。  昭和四十四年(一九六九)一月三十日、横浜地検の滝沢検事は、佐藤虎実に対して死刑を求刑した。同三月、横浜地裁の判決は「無期懲役」であった。  この種の事件はほぼ無期懲役という判決が妥当のようで、判例もいくつかある。たとえば佐藤虎実の事件と同じ年の八月二十七日、場所も同じく藤沢市内で起こった女子高校生殺しの被告人(三四)が、横浜地裁で一審無期判決。また、四十六年(一九七一)八月十四日、前橋の女子高校生殺し被告人(五〇)も、前橋地裁桐生支部で一審は無期となっている。  しかし、佐藤の事件は一審判決後、検察側が「刑が軽すぎる」と控訴した。佐藤は女子高校生を暴行して殺したあと、死体を運んで埋めた、と供述していたものを、公判廷では、死体は移動させていない、暴行した場所で土をかぶせただけだ、と供述を変えた。このことが災いしたものかどうか、検察の心証をいちじるしく損ねたらしい。    再審請求準備中の〓“お迎え〓”  二審の東京高裁は四十六年(一九七一)十一月八日、「婦女暴行の前歴があること、犯行の残虐さなどを考えると極刑は止むを得ない」として、一審の無期判決を棄却、検察側の控訴を認めてあらためて死刑を言い渡した。  佐藤は最高裁に上告したが言い分は認められず、四十七年(一九七二)七月十八日死刑が確定。あとはお迎えを待つばかりの、東京拘置所四舎二階の囚人となってしまった。  しかし佐藤はあきらめきれず、死刑判決そのものを納得せず、再審の手段を考えつづけた。おおかたの死刑囚が自らの罪を悔い、死刑に甘んじて立派に死のう、と考えるのとちょっと違っていた。自分が死刑になるということが、なんとしても妥当なことと思えない。  どんな死刑囚も、最高裁まで争うからには、命だけは助かりたいという願いがある。最終審でそれも棄却されたとなると、その直後は荒れ狂ったり、ひがんだり、絶望の極に達するものである。  それでも時間が経過するにつれ、自らの行いを反省する余裕が心の中に生じてくる。人を殺したのだから、自分の命を投げ出して償いをしなくてはならない、という考えが次第に芽ばえてくる。それでも当然のことだが荒れ狂う。死の恐怖に襲われ、それこそ生きた心地のない日々がつづく。心は荒《すさ》み、肉親には見捨てられ、まったくの孤立無援の生き地獄に陥る。  そうした地獄の中にもがき苦しんでいる死刑囚の前に現われるのが教誨師だ。宗教家とはいえ、なにも会う早々に信仰を説くのではない。初めのうちはただ会って、死刑囚が毒づくのを聞くのみ。そのうち、腹に溜《た》まった毒気を吐き出しつくした死刑囚の荒廃が次第に鎮まってくる。そこから信仰へと導いていくものである。  犯罪は、そのほとんどが人間の弱さが起こすものである。弱い自分に打ち克《か》つことができなかったとき、人を殺したり、女性を暴行したり、強盗を働いたりする。罪を犯し、逮捕されたあとは、自分の犯した罪を悔いるより先に、裁かれて死刑になることのほうを恐れる。それが当然の人情と言えばそうかもしれないが、正直に自分を知ることが怖いのだ。  結局は助からないとわかったとき、本当に心の底で求めているものは、孤独と恐怖の地獄から救われたい、何かにすがりたいという願いである。そこで教誨師にすがるというケースが多いそうである。  佐藤虎実の場合、獄中生活はとくに反則を犯すということはなかったようだが、安心立命を説く教誨師の話にも耳を貸さず、死にたくない思いだけを執念のように持ちつづけた。それは、佐藤が判決自体を不満に思っていたからである。逮捕されて藤沢署の取り調べを受けた時の供述を変更したが、検察側は「供述をひるがえしたのは、死刑の求刑におびえた悪あがきにすぎない」とした。結局この言い分が最終審まで認められ、佐藤の主張ははねつけられる裁判結果となった。  それがなんとしても不服で、死を受け入れる気持ちにはとうていならない。佐藤は再審を申請する。却下される。これを再三くり返し、もうひとたび再審請求をしようと準備にかかったところを、お迎えが来たというわけであった。  死刑確定から十年と四カ月あまりが経過していた。    昭和五十七年十一月二十五日の朝。佐藤は起床のチャイムとともに七時に布団から横たえていた体を起こす。身長百八十センチあまり、体重百キロは優に超える巨体にも、迫りくる冬の冷たさがしみはじめていた。めっきり温度の下がった水道水での洗面、房内掃除、朝点検、麦飯、味《み》噌《そ》汁《しる》、沢《たく》庵《あん》二切れに十切ればかり添えられた塩こんぶの朝食。佐藤は体が大きいぶん、食事の配当も分量が多かったはずである。  拘置所の食事は一等食から五等食まで各等級がある。一等が、麦飯のみだが最も量が多く、五等が最少量となっている。この食事量は作業によって決められるものである。懲役刑に服し、強制労働に従事している受刑者は、その作業内容によって、重労働者には一等食、軽作業者には四等食を支給される。死刑囚や裁判中の被告には強制労働の義務がないので、一律に五等食が与えられることになっている。しかし、体格の大きな体重七十キロ以上の者には、法規で定めている等食より一等食多い食事が出されるそうだ。  食後、死刑囚には毎日一時間の運動が許される。外の空気に触れることができるのはこの一時間だけである。ただし、五日に一度の入浴日には運動は休みとなる。    刑場で最後の大暴れ  佐藤は、運動に連れ出してくれる時間をいまや遅しと待っていたにちがいない。ところが房を開けたのは、いつもの刑務官ではなかった。ものものしく数人がかりでやってきて、出房と命じた。 「所長がお呼びだ」  佐藤はこのときもまだ、その日のうち、しかもそれから一時間以内に、自分の命がこの世から消滅してしまう運命にあるとは思っていなかったようだ。  所長室へも、とくに不審を抱いたふうもなく、素直に連行されている。というのは、佐藤の死刑が確定した昭和四十年(一九六五)代から五十年(一九七五)初めにかけては、東京拘置所では、例外はあるが慣例として前日言い渡しをしていた。佐藤自身、言い渡しがあるとすれば前日だと思っていただろうし、それより、まだ執行されるとはまるで思っていなかった。死刑判決に不服を持ちつづけ、再審請求がいつか受け入れられることに希望をつないでいた。  ところが、所長室に入ってみると、拘置所の主だった面々がずらりとそろっている。そして、一枚の紙切れを所長が読みあげた。あろうことか、即日処刑するという内容であった。 「なんでだっ!」  佐藤は巨体を揺り動かして叫んだ。 「おれはいま再審の手続きをしようとしていたところだ。そのことで呼び出されたのだと思って来たんだ。なんでいま執行するんだ」  わめき、吠《ほ》え、太い腕をぶんぶん振りまわし、怒りを大きな体全体に漲《みなぎ》らせた。 「法務大臣の執行命令が届いたからには、拘置所としてはその命令に従わなくてはならない。非常に残念だが、きみとはお別れしなくてはならないんだ」 「殺《や》られてたまるかあっ!」  佐藤が吠え、暴れまわるのもむなしく、すばやく手錠がかけられる。腰縄で固定される。  それから刑場までの百五十メートルあまりを、佐藤は引き立てられていく。  刑場に引きずり込まれた佐藤は、さすがに少しおとなしくなった。自分の告別のための祭壇や線香の煙を見て毒気を抜かれたのだろうか。  しかし、ついに観念したものと判断した拘置所側が甘かったというべきか、腰縄を解かれ、手錠をはずされ体が自由になった佐藤は再び獣さながらの吠え声をあげた。あわてて取り抑えにかかる刑務官を投げ飛ばし、腕を振り上げる、床を踏みならしての大暴れを展開した。もはや儀式や葬式どころではなかった。寄ってたかって取り抑え、カーテンの向こうに直接引っ立て、首に縄をかけて吊《つ》るしてしまったという、大変異例な死刑執行となった。  穏やかな話もなく、ただ格闘のみに五十分を要した。いかにすさまじい暴れ方だったかがわかる。  佐藤は巨漢であったため、ロープからはずして棺に納めるのには尋常ならざる苦労があったようである。    佐藤虎実 享年四十一歳。  録音された死刑執行—五十三時間の「声」     三人組拳銃強盗殺人 大谷 高雄    ここに紹介する記事は、昭和三十一年(一九五六)四月十三日付大阪読売新聞朝刊社会面に報道されたものである。当時大きな反響を呼んだが、死刑執行のありのままがよくわかるので、そのまま引き写すことにした。スクープしたのは、当時大阪読売新聞の司法記者だった澤田東洋男氏(故人)だ。  記事は紙面の上部いっぱいに大きな〓“横凸版〓”を使い、「死刑囚『執行前53時間』の声」とうたって「恩赦却下宣告から処刑まで」「異例の録音を聞く」——大阪拘置所〓“存廃論争〓”に貴重な資料、の見出し、俳句の色紙写真と、賑《にぎ》やかに飾られた紙面に、澤田東洋男の署名が添えてある。さて本文は——。   「ひと足お先に。極楽では私のほうが先輩ですからね」と談笑する声。それから十秒後、読経が流れる中に突然〓“バターン〓”と刑壇の踏み板が落ちる音——大阪拘置所内で死刑を執行される強盗殺人死刑囚のその間際の声や音がテープ録音に収められていた。拘置所長が恩赦却下の決定を告げてから、死刑執行まで五十三時間のなまなましい声の記録。しかも、これは登場する死刑囚や矯正職員にも気づかれないように、そっと収められた録音である。死刑囚の処遇改善を目的とする刑事政策的な考慮と、矯正職員、教《きよう》誨《かい》師の教育資料として作られたが、このような試みはむろんわが国ではじめて。世界でも珍しい記録とされる。近く国会で死刑廃止論争が予想されるので(廃止法案はさる三月十七日、羽仁五郎、高田なほ子議員らによって参院へ提出)、この録音は資料として法務省渡部矯正局長に届けられたが、たまたま教誨師らの試聴会に記者も同席する機会を得たので、聞いたまま、感じたままを紙上に再現してみた。録音を聞いた感じを言うなら、死刑存廃問題に一石を投ずる貴重な資料ということだ。所要時間一時間四十分、その間は息を詰めてことの推移に聞き入った。    まっ先に子供のこと——カナリヤの鳴く部屋で姉と面会 ——「死刑囚O(三十八歳、名を伏せる)は京都宮津のキコリの次男に生まれ……」最初に黒いテープから流れる声はこれである。いくぶん感傷的で、重々しい調子の解説だ。Oの人となり、神戸で三人組強盗を働き、急報でかけつけた巡査部長をピストルで射殺し、最高裁の上告棄却で二十五年九月、死刑確定にいたるイキサツが長々と続く。この録音は当時の大阪矯正管区長鈴木英三郎氏(現在東京矯正管区長=註三十一年当時)が、矯正資料として企画し、同じく大阪拘置所長玉井策郎氏(現在奈良少年刑務所長=註三十一年当時)が、全二十三巻を一巻両面に編集したものである。(鈴木、玉井両氏とも故人)    一日目——三十年(一九五五)二月九日午前十時二十分、保安課の職員に呼び出されたOは、長い舎房の廊下を通り、いま庁舎二階の所長室に入った(コツコツと廊下を歩く数名の足音、戸を開け、閉める音)。 「O君、特別恩赦を願っていたけれども、残念ながら却下になってきた。まことに残念だ。却下がきた以上、数日のうちに執行がある筈だ。いっそう、修養を怠らないようにお願いする。これまで苦労したね。よくやってくれた」(所長の低い声が噛《か》んで含めるように聞こえる。しばらくなんの反応もなく、テープが静かに回転する。何か動くような気配)。  身長一・七一メートル、大柄なからだに紺の背広、ノータイ、カーキ色のズボン姿の彼は、青ざめた表情で、所長の前に硬直したまま立っている。突然、ズボンのポケットから純白のハンカチを取り出すと、顔を押さえて、 「非常にお世話になりました(やっと聞きとれる程度、カーテン裏のマイク調節に失敗したという)。私はこれまで反則を繰り返し、身分帳(収容者の履歴)が汚れています。これを残してゆくのは、まことに残念です。なんとか反則を消して頂けませんか」  何でも甘えよ——涙にぬれた大きな目が真剣に訴えている。玉井所長はOの話を聞きながら自分の手元にひろげた身分帳に目を落として、 「それは実に立派なことだ。いま後に残るもののことをいうのは、身分帳どころか、前の犯罪まできれいに拭《ぬぐ》い去ったことだ(Oの泣く声)。会いたいと思う人には必ず会えるようにするし、法の許す限りのことは、食べたいものでも何でも、甘えるつもりで遠慮せずに言いなさい。私ができる限りの面倒はみますから——」(靴音が遠ざかる)。  所長室を出た彼は個人教誨室に入り、立て続けにお茶を二、三杯飲みほした(茶をすする音)。それからふと、われにかえった彼は、職員にマスコットのカナリヤのカゴを持って来て欲しいと頼み、吉川卓《たく》爾《じ》教誨師(死去)の法話を熱心に聞いた。 「死の縁は無量である。人はいつ、どんな死にかたをするか分からない。しかし……」  執《しゆう》投《じ》鈔《しよう》を引いての法話が続く(カナリヤのさえずりが入る)。そこへ拘置所の連絡でかけつけた、彼の姉が案内された。関秀峰保護課長が「どうぞ」と招く(戸を開ける音)。濃いエンジのテーブルクロスがかけられたテーブルを中にして、姉と弟が顔を合わせた。 「O君、長い間、言おうと思っていたことを、これから思い残すことがないように話しなさい。姉さん、どうかよろしくお願いします」  関課長が口添えする。 「何年ぶりかな、姉さんとお話するのは……Tは元気かねえ」  最初に口をついて出たのは、残された一人息子のことだった(死刑確定後に妻と離婚し、一人息子のTは自分が戦死したことにして姉に預け、手紙も出さず、色あせた小学校入学の記念写真を大切に持っていた)。 「お前、もうTは中学を卒業するんだよ。これからどうすればよいのかねえ——」 「ほう、まったく姉さんも大変だな。同じ年の子供を二人も持ってね」 「Tはお前の子だから、もし外に出しても、身元がわかれば勤めがダメになるだろうし……。うちの子を勤めさせることにして、Tは家をとらせて百姓させようかと思うのだが、これからどうしたものだろう——」  束髪に白粉気もない素朴な姉の温かい話に、幾度もうなずく。犯罪当時の迷惑に対するおわびなどが涙のうちに語られ、昼食のカツライスを彼はうまそうに食べた。姉は弟のそうしたしぐさと心遣いを知って、ナイフを置いては涙にむせんだ(午後一時を告げる時計の音)。    歌う〓誰か故郷を……。同囚らと別れの茶会 ——送別お茶の会は教誨堂東隣の日本間で開かれた。このお茶の会は、表千家流の師範・田中きくえさんが死刑囚のために、毎月定期的に開いているが、恩赦却下があると臨時に茶会が行われる。きょうも女囚一名(山本宏子、二十六年死刑確定、四十四年恩赦)を除いた死刑囚八名が集まり、玉井所長、有田管理部長ら関係者が出席して開かれた。  記念写真を撮ったあと、田中さんにしがみついて泣いたOが、気を持ち直し黙礼をしながら正座につく。田中さんがたてた初だてのお茶を、彼が隣の教誨堂の仏前に供える。同囚を前にOは、 「いま所長さんのお話を聞いて、私は本当に救われましたという気持ちです。私がこのようになったのは信仰のお蔭《か》げだと感謝しています……」 「はじめは、ずいぶん悪かったからなあ。とくに二十五年ごろはひどかったねえ」  と、同囚の声(にぎやかな笑い声。……そのころの彼は幾度も逃走を計画し、朝は起きない、メシがまずいと看守にくってかかる、けんかをする、経本を破り数珠を切って投げ、教誨師を罵《ば》倒《とう》する始末だった)。 「きょうも担当さんが来たとき、〓“お迎え〓”とすぐ分かったが、死刑などという言葉はピンと来ず、手もふるえなかった。まず、阿《あ》弥《み》陀《だ》さんのことを思った。私は一番古いんで、みんなにいやなことばかり残っているだろうが、余り悪いことを見習わないようにして、私の過去のことは水に流してくれ」(驚くほど早口だ。同囚に対する虚勢だろうか。それとも、これが達観した境地なのか)。  蛍の光を合唱——法話や思い出話に続いて、彼へのはなむけの歌がはじまる。〓“脱獄死刑囚〓”として名を売った中島英蔵の鳩ポッポをはじめ、やがてOと同じ運命をたどる同囚がつぎつぎにうたう。どの歌声もかぼそく、胸がつまるように訴えてくる。Oは「誰か故郷を思わざる」を歌いはじめた(拍手が起きる。細い声だ。伴奏もない。それなのに、なんと迫力がこもった歌だろう。そのふるえ声=トレモロ=は、技巧などといったものではない。今《こん》生《じよう》の暇《いとま》乞《ご》いの風情をただよわせ、深《しん》淵《えん》の底に引きずり込まれるような淋《さび》しさ。舎房の高い鉄窓を見上げながら、彼はいつもこの歌を歌っていたに違いない。子供のこと、ふるさとの山河をしのびながら……)。一転して、所長の音頭で「蛍の光」が合唱される(独房で夜八時半まで、遺書や礼状をしたためる)。    御仏に托せし生死雪降り積む  二日目——妻の夢さめて抱く湯たんぽ——十日午後一時半からは、送別俳句会である。北山河氏(大阪拘置所の教《きよう》誨《かい》師《し》。死刑囚に俳句の指導もしていた)が指導し、ゆく死刑囚を中心に出席者が生活の流転を追憶する慣わしとなっている。彼は俳号を「豊年」といった(彼が可《か》愛《わい》がっているカナリヤが鳴き続ける)。   子に賀状 出せぬこの身を わらうのみ   喧《けん》嘩《か》でも せねば秋夜は やり切れず   妻の夢 さめて湯たんぽ 抱いていし   御仏に 托《たく》せし生死 雪降り積む  など、彼の数多い作品が紹介される。充実した送別句会を終えた彼は、前夜、吉川教誨師の寺に泊めてもらった姉と、この世で最後の面会をした。  ——幸福だった子供のころの思い出、年老いた母への思慕、そして子供の将来——。いつか時間は午後四時三十分。舎房へ帰らねばならない。関保護課長が「別れはつきないし、言いたりないこともあると思うけれども、役所の規則が許さない。——お別れをしましょう」と言う。 「姉さん、長いあいだありがとう(なみだ声)。どうかお母さんにもよろしく。それから、子供のことはくれぐれもお願いします」(姉は泣くばかり) 「姉さん、ぼくは死んだら姉さんやお母さんのところへ、飛んで行くよ。いま住んでいる家を知らないから、死刑執行の時間には窓をあけて、お母さんと一緒に、大きな声でぼくを呼んでくれ」(乱れた声は、きれぎれで聞きとりにくい)。二人を見守る関課長は、 「さ、これで別れましょう。残酷なようなもんですが、別れましょう。最後にO君の手をしっかり握ってやって下さい(大きな声のなかに、塀の外を通る自動車の警笛が飛び込んでくる)。姉弟は抱き合ったまま泣いている。  畳に泣き伏す——「もう時間が許しません。どうかお姉さんも、本人の冥《めい》福《ふく》を祈ってやって下さい。あすは立派な態度でゆけると思います」と引き離した。「姉さん、本当に悪うございました」と、見送るOの声も言葉にならず、そのまま畳の上に泣き伏す。姉は手にした荷物をとり落して、人前もなく冷たい廊下に、また泣き伏してしまった。外は氷雨である。    三日目——〓“死後の願い〓”さとる、地獄へ行けば父とも会えぬ——三日目の十一日は、最後の日である。彼は昨夜、医務課長から下剤をもらい、腹にたまったものをすっかり流した。けさは龍田晶教育課長に頼んで作ってもらった、銀メシのお茶漬に添えられた奈良漬が歯にしみた。職員が荘《しよう》厳《ごん》(飾る)した仏前に死刑囚全員が集まり、最後の礼拝が行われた。導師は吉川教誨師、正《しよう》信《しん》偈《げ》和《わ》讚《さん》が読《どく》誦《しよう》される(オルガンのリズムが哀愁をそそる)。死後を願う彼の声も、友を送る死刑囚たちの声も、涙にうるんでいる。教誨堂の外は、雨が雪にかわって小雪が舞っている。Oは残る死刑囚を前にして、 「私は恩赦があることを期待していたので、その間、宗教なんか必要ないと思い、修養を怠っていた。いま反省すると、あれは考え違いで損をしました。どうか皆さんも、助かるとか、無期になるとか、そんな甘い気持ちをなくすとともに、見栄を捨てて、直前する死という問題に、真剣に取り組んで下さい。人がどう思うか、こう思うかということを考えないで、死後を願うことが必要だと思います。いよいよ皆さんと別れて、きょうは刑場に臨むのでありますが、私はきょう刑場で泣くかも知れないし、騒ぐかも知れない。また腰を抜かすかも知れません。後で誰かに私のようすを聞かれたら、その姿が本当の私の姿だと思って下さい」  と、あいさつをした(実に淡々とした口調だ。昨日、一昨日の声にくらべて、何という変わり方だろう)。  残る同囚激励——終わると彼は、居ならぶ死刑囚に「体に気をつけて」とか「一日も長く生きてくれ」などと言葉を残し、握手を交わしてゆく(残る死刑囚の励ます声、泣く声)。最後に同囚をふり返り、紅潮した顔に笑いさえ浮かべながら、手を振って個人教誨堂へ。 「感想はいろいろあるのだけど、それをうまく言葉にするのが難しいですね」——彼は保護課長から最後の感想を求められるままに、いまの心境を語るのである。 「法話を聞いていると、このままではタダですまんと思いながら、初めは見栄を張るんですよ。ニヤッと笑って舌を出したりしてね——。ところが、そのうちに、死んだ父にどうしても会いたくなってきた。だが、自分は悪いことばかりしているから、地獄へ行く。父は針の曲がったことも嫌いな人だったから、きっと阿弥陀さんのところへ行っておるだろう。地獄へ行けば、もう父には会えない。しっかりやって、救ってもらわなければ大変だ。それで、阿弥陀さんの言うことを、自分もよく考えて見ようじゃないか、ということに気持ちが変わってきた。自分の過去を厳しく考えることは、本当にこわいことですよ——」  彼が話をしているうちに、刑場では死刑執行の準備が進められてゆく。関課長は時計の針が進むのを恐れるように、そっと腕時計を見ては、部屋の中を歩いた。  最後のピース——「お別れだよ」——坂上保安課長が明るい声で迎えに来る。花束を胸にした彼の後に吉川教誨師、遅れて玉井所長、続いて立ち会いの大阪高検飯田昭検事(註三十一年当時)が歩く。間口三・六メートル、奥行き十メートルの東向き平屋の刑場にある仏間には、ロウソクがともされ、香がたかれている。    死刑の立ち会いはもうごめんだ  仏前正面のイスにOが座る。玉井所長が、 「長い間苦労したねえ。これが最後のお別れだな。よくやってくれた。言いたりないことと、書きたいことがあったら、全部ここでいいなさい」  と言っている。これが死刑執行の具体的な言い渡しなのだ。すでに吉川教誨師の十《じゆう》二《に》礼《らい》の読経がはじまっている。流れるような、沈むような、そして人の命を惜しむような読経のリズムに乗って、Oも大きな声で唱和してゆく。  引き続き「白骨の御文章」が授けられる。人生の無常が人の心を刺す。——「今日のような修養を積むことができたのは、ひとえに所長はじめ皆さんのご理解によるもので、いま喜んで死出の旅路につけることは、本当にうれしいことです」(まるで周囲の人々に説教をするような、安らかな口調だ)。  その後で、彼の辞世の句が吉川教誨師から披露された。   あす執行 下剤をのみて 春の宵   何くそと 思えど悲し 雪折れの竹  所長からはなむけのピース一本。心ゆくまで吸い込んだタバコの煙を、狭い仏間にただよわせながら、彼は昔のことを思い出したのか、 「兵隊に行っていたとき、タバコが好きであまりプカプカふかすので戦友に〓“機関車〓”というあだなをつけられたほどですよ」  と、笑う(室内で談笑する声が絶えない。みんなまるで沈黙を恐れているかのようだ)。Oが姉の心づくしの経《きよう》帷《かた》子《びら》に着替える。話が途切れると、彼は所長から居ならぶ人の前へ移って、無言で固い握手をした。そして〓“社会の人びとにいろいろとご迷惑をかけてすみません〓”と言い、さらに矯正職員のこれまでの厚情を感謝し、残る死刑囚をよろしくと頼んだ。最後に、直接馴《な》染《じ》んだ関保護課長の肩に両手をかけて、彼を抱くようにしながら「先にいっています。極楽では私のほうが先輩ですからね」と言って、思わずみんなを笑わせる。  読経、いっそう高く——別れがすむと、いよいよ仏壇の前へ進んで合掌し(これは半回転するとキリストの像が現われる)仏前に焼香、それが終わると坂上保安課長の手で目隠しと、手錠がかけられた。〓“心のうちで念仏を唱えなさい。声を出すと舌を切るからね〓”と、口早に小声で所長が注意する。このとき、吉川教誨師が唱える四《し》弘《ぐ》誓《せい》願《がん》の高い声が急に、一段と高まる(鐘の音がガーンと尾を引く。得体が知れぬ緊迫感に、胸が締めつけられるようだ)。Oは脇《わき》を支えられながら刑壇へ、すぐ両足を縛る。室内の足音が止まったようだ。読経の声が何か狂ったように、かん高くなった。そのとき、読経の声を打ち消すような、激しい音がした。まるで大きなゴミ箱のフタを手荒く落としたときのように、バターン、とただ一回。だが読経のリズムは変わらずに続いている。医官がマスクをかけさせて彼の胸を開き、聴診器をあて、ストップウオッチを見つめている。   ▽死刑ノ執行ハ監獄内ノ刑場ニ於テ之ヲ為ス(監獄法七一条)▽死刑ヲ執行スルトキハ絞首ノ後死相ヲ検シ、仍ホ五分時ヲ経ルニ非サレハ、絞縄ヲ解クコトヲ得ス(同法七二条) 「報告します。死刑終わり。午後二時五十九分執行、死亡三時十三分二秒。所要時間十四分二秒」(低いが力のこもった声)  ——遺体は棺に納め、花を飾り、香水をふりかけ、遺品とともに安置所に移された。このときは解剖をせずに火葬に付し、五日後に本願寺津村別院(北御堂・大阪市東区)で関係者による葬儀が行なわれた。遺骨を受け取りに来たOの姉は、 「弟の願いどおりに母と私が、その時刻にわが家の窓を開けると、ほんとうにすぐ鳩が飛んで来て、しばらく家の大屋根に止まって、動かなかった。〓“不思議なことがあるものだ。きっと弟は成仏したのだろう〓”と二人で話し合いました」と、明るい表情で関課長らに打ち明けた。   遺骨——死亡者ノ親族故旧ニシテ死体又ハ遺骨ヲ請フ者アルトキハ、何時ニテモ之ヲ交付スルコトヲ得、但シ合葬後ハ此限ニ在ラズ(監獄法七四条)  刑場は地下垂下式で、天井の梁《はり》に固定した滑車に麻のロープを通し、身長に応じてロープを調節する。死刑囚が縦一・七メートル、横一メートルの刑壇中央に立つとロープの輪を首にかけ、合図で刑壇脇のハンドルを引く。踏み板ごと体がはずれ、あいた穴にロープが下がる仕掛け。  現代出版社から澤田氏が著した『囚獄の門』の中に、この記事についての後日談がある。当時死刑執行のテープ録音を掲載することになったいきさつ、掲載後の反響なども詳しく書かれている。その後日談のところを少し引かせていただこう。  「さて、記事が掲載された一カ月後に玉井所長は前に書いたように、死刑廃止法案を審議する参院法務委の公聴会で、教育刑と死刑を執行する矯正職員の立場の矛盾を衝いて、死刑制度の廃止を訴え、関係者を感動させた。だが、法案は審議未了で廃案になった。   これまでも見てきたように、どんなにおだやかな手順で死刑囚を死刑の執行に持ち込もうと、どこまでも〓“人が人を殺す〓”ことにかわりはない。   検察庁では、死刑に立ち会う検事の心得として、よく『その前に必ず判決原本を読んだうえ、何をして死刑とされたかを知り、原告官として〓“敵愾心〓”をもって刑場に臨め』といわれる。だが、実際に立ち会うと多くの検事が沈痛な表情で『すっかり改心して、すべての人に感謝し、あの世へ行ったらまず、被害者におわびをすると言う。固く手を握って別れて行く——あそこまで精進した人間を殺すにはしのびなかった』と感想を漏らす。また、  『拘置所を出たが、とてもそのまま帰宅する気にならなかった。気分を変えようとして街の雑踏を歩き、後で渡された手当てをはたいて酒を飲んだが、気がまぎれるどころか、かえって孤独感が強くなって、しばらくは仕事も手につかない状態だった。死刑の立ち会いはもうごめんだ』   と、深刻な表情を隠さずに嘆いた人もある。  獄中闘争の徒「日本のチェスマン」     洋服商夫妻殺し 孫 斗八    「一九六三年七月十七日、夏の間中でも数日しかない最高に暑い日の朝だった。旧大阪拘置所の死刑執行場で、変則的な儀式が執行された。きまりどおりことが運ばなかったのは、死刑囚が大暴れに暴れたためである——」  これは丸山友岐子さん(故人)が、死刑囚孫斗八の熾《し》烈《れつ》なる獄中闘争を描いた『逆うらみの人生』の冒頭である。すぐ、こうつづいている。  「日本では、執行直前の死刑囚が暴れるということはめったにないらしい。変則的でない死刑執行の状景は、元大阪拘置所長の玉井策郎氏や、やはり大阪拘置所で教誨師をしていられた北山河氏がくわしく記述していられるが、おおむね、日本の死刑囚は、おとなしく、いさぎよく、感動的な死を死んでいくということである。そこに前例となってしまった一つのきまりきった執行儀式の定式が完成していて、主人公の死刑囚たちもあえてそれに逆らおうとはしないらしい——」  実際、丸山さんが書いているとおり、日本の死刑囚の多くは素直に潔く、感動的な最期であるらしい。そのことは、死刑執行に立ち会った体験者から取材中具体的に聞いた。何十回も立ち会った体験を持つ人も幾人もいたが、処刑された死刑囚のほとんどは、まるで江戸時代の武士が切腹するかのような見事な死にざまだったという。 「花は桜木、人は武士」と散りぎわの潔さをたたえた精神風土が、いまだ日本人の遺伝子に組み込まれてでもいるのだろうか。しかし、ごくまれではあるが、美しく感動的で、見事な死に方をしない死刑囚もいる。泣き出したり、わめいたり、腰を抜かしたりする場合もある。狂ったように笑い出し、笑いつづけたまま、腹の皮をよじらせながら死んでいった事実があったことも取材中何度か聞いた。  しかし、ほとんどの場合、この本にも取り上げた、大阪拘置所で録音テープに納められた大谷高雄死刑囚の最期に類する死の迎え方をしている。大谷の録音テープは、実際の死刑執行の様子を生録音したものである。どのように儀式が進行するかは終了してみなくてはわからないのだ。それでも、丸山さんの言うように「決まりきった執行儀式の定式が完成」していたので、大谷の死刑執行の受容の仕方がとくに優れた範というわけでもない。おおむねが、あのようにして人生を閉じるのである。    独学で法律を学ぶ  そこへいくと、孫斗八という死刑囚の死に方はじつに異例で、過去の執行儀式中前代未聞のものであった。  孫の犯行は、顔見知りの洋服商夫妻を金《かな》槌《づち》で殴殺、金品を奪ったもので、罪名は強盗殺人だ。孫はこの事実については反《はん》駁《ばく》もせずに認めている。そのことで罪の意識に目覚め、贖《しよく》罪《ざい》しようという気持ちになったかどうかはここでは置くことにする。 「日本のチェスマン」とマスコミによって命名された孫は、実際のチェスマンに負けず劣らずの獄中闘争の徒であった。  本物のチェスマン(キャロル・チェスマン)は、警官を装って走行中の車を止め、男からは現金を強奪、女には暴行を働くという犯罪をくり返して、カリフォルニア州法に基づき、裁判の結果死刑判決を受けた。死刑判決後十年以上もの獄中闘争をつづけ、ついには処刑された男である。  キャロル・チェスマンの獄中闘争については、カリフォルニア州サンクエンチン刑務所元所長クリストン・T・グフィが『死刑囚』という著書の中に書いている。それによれば、チェスマンは「大学者の頭脳と変質者の魂」「紳士の上品さと、ならず者の劣情」を同時に併せ持った男だという。  「まったく嘘っぱちの前提に対して、人を納得させるに十分なまことしやかな議論を打ちたてることができた。彼は意地悪く変圧的で傲慢で尊大で反抗的な、扱いにくいしたたかな囚人だった。彼は看守たちをまるで下僕のように扱った。彼はあらゆる恩恵を受けたうえ、さらにそれ以上を要求したが、心から〓“ありがとう〓〓”といったのを聞いたことがない。彼は要求するためには、どんな口実でもえたりとばかり飛びついた」(柴野方彦訳『死刑囚』サンケイ出版)  孫斗八もまた、十年以上もの獄中闘争をつづけた。孫にとっては闘争の材料になりさえすればなんでもよく、要求と苦情は果てることを知らず無限に広がっていった。  囚われの身となってから、獄中で法律を独学で学ぶ。そしてその法律知識を武器に、次々と訴訟を起こしている。「監獄法は憲法違反だ」「囚人の待遇を改善せよ」「俺には死刑の執行を受ける義務はない」などなどである。  「特に彼を有名にしたのは『監獄法は憲法違反か』と問題を投げかけた監獄の人権を争う訴訟である。第一審の判決ではほとんど孫斗八が勝訴。『六万受刑者に光明をもたらすもの』として注目を浴びた。当時アメリカの死刑囚チェスマンが、死刑囚監房を法律事務所にかえ、自ら自分自身の弁護人となって法廷闘争を行ない、きわどいところで七、八回も死刑執行停止をとりつけて世界の話題になっていた。   チェスマンが死刑囚監房で書いた『死刑囚二四五五号』という本が日本でも翻訳されてベストセラーになったりしていたことから、法廷で闘う死刑囚孫斗八が『日本のチェスマン』と呼ばれるようになったわけである」(丸山友岐子著『逆うらみの人生』現代評論社)  死刑囚の身でありながら、多数の訴訟を起こす。その原告兼原告弁護人として、なんとじつに百回以上も法廷に立った。「生命をちょうだいする」と宣告した国家権力を相手どり、勝手に殺されてたまるものか、と、自らの命を奪還する闘争をしたのである。    刑務官を死刑囚に仕立てる  大阪地裁に提起した「死刑執行処分取消請求事件」によって、まったく異例の「死刑執行停止命令」を二回までとりつけるのに成功した。この訴訟の進行過程で、なんと孫は死刑執行場を現場検証しているのである。  驚きもここまでくると、単なる驚きにはとどまらない。法によって裁かれ、死の宣告を下されたからには、もうどうあらがうこともできない。あきらめて死を受容しよう、と、自己の命を見限ってしまう死刑囚に比べたら、なんというしたたかなエネルギーであることか。これだけの強《きよう》靭《じん》な生存本能をむきだしにできる見事さを、聞いたことがない。  孫は死刑執行の行われる刑場を検証して、自分自身がいかなる死を迎えるかを知り尽くした。  執行の順序、ロープの調節のされ方、吊《つ》るされた瞬間には自分の顔がどっちを向いて、どのような状態になるのか、医官が仮死状態の自分に対して何をするのか、死の確認はどのようにしてなされるか、直接の執行には何人があたるのか……等々なにもかもすべてを正当な裁判訴訟による現場検証で知り尽くしたのである。  「死刑囚が死刑場の中に一度足をふみ入れるときは、殺されるときだけである。そこへ入ったが最後、彼は絶対に生きては帰れぬ。その刑場へ、死刑囚孫は、『絞首刑』の実際をつぶさに研究するために入ったのである。検証に死刑囚が参加しているということで、拘置所側はいささか興奮していた。孫が絞縄を目のあたりにして、卒倒もしくは動転して異常な行為に出ることが心配された。しかし、その心配は杞憂だった。孫はむしろ嬉々として、絞縄にふれ、縄の寸法をはかり、巻尺をもって三時間あまりも飛びまわったのである。   この訴訟の主人公は孫だったから、裁判長は孫を立て『もっと調べたいことはありませんか。遠慮なく申し出なさい』と何度か声をかけてくれたし、検証は孫の指図で行なわれたようなものだった。写真の技術者は、あらゆる角度から死刑場をフィルムにおさめた。いよいよ、絞首刑の実演ということになって刑務官の一人を死刑囚に仕立て、管理部長が足に縄をかけようとして、何度かしくじった。管理部長の手足はブルブルふるえ、縄をむすぶのも容易ではなかった。   孫斗八はあくまで冷静にこうした動きを細大もらさず観察した。ここで俺がこんなふうに殺されるなんてことがあってたまるか! 断じて殺させない、という強い確信が、冷静に『死の現実』を凝視させたのである」(『逆うらみの人生』)  人権尊重を基本にした新憲法を武器に、獄中闘争をつづける孫のことは、当然マスコミに賑《にぎ》々《にぎ》しく取り上げられた。有名、無名の多くの人々から相次ぐ激励の便りや書籍、現金などが送られ、孫の助命嘆願の署名にはじつに一万二千人もの人が応じた。  けれども、結局、孫にも最後の朝を迎えるときがやってきた。その死刑の模様は立ち会った人から聞くよりも、丸山女史の書いたものを読むほうが、鮮明に情景が伝わってくる。丸山さんは孫の遺体をひきとり、解剖を依頼して、孫がいかなる最期を遂げたかを、その「死体検案書」から探り出している。  「午前十時から、吉村教授の執刀で解剖。解剖は二時間かかった。解剖に立ちあう勇敢な人は一人もいなくて、わたしたちはおとなしく教授の仕事が終るのを待った。金南学さんは火葬許可証をもらうために区役所へ走り、君尾愛子さんは、花とささやかな野辺おくりの調度品を買いに行った。わたしのオッチョコチョイ亭主が、どこかへ消えたと思ったら、どこかしらで赤旗を借りてきた!   孫斗八とアカハタ! 小道具はすっかり整った。孫斗八の死は『輝しき闘士の死』というような様相を呈してきたのである。   解剖を終えた吉村教授は、さっそく死体検案書を書いてくれた。両の腕にはっきりと五本の指のあとがアザになって残っていたという。舌をかみ切ろうとしたらしい口の中のきずあと、両足にひきずられたらしいすりきず。それ以外に外傷はなかった。絞首台にたった死刑囚は手錠をはめられ、足をくくられ、目かくしされることになっているが、手錠のあとはなかった。おそらく足縄も手錠もはめさせなかったのだと思われる。両方から、あざができるほど強く腕をつかまれ、絞首台へひきずって行かれて、首縄をかけるなりすぐ踏板をはずすハンドルをひかれたのだろう。屈強な若い刑務官が歯をくいしばり、無言のうちに腕も折れよと必死に絞首台の下まで運びこんだ様子が目に浮かんだ。じっとしていても汗がにじみ出す朝、彼はどれくらいの冷たい汗を流したろうか。彼が気持ちの優しい青年だったら、この朝の記憶は、一生彼にまつわりついて離れないだろう。『仕事だったのだ、仕方がなかったのだ』といいきかせても、殺人に加担したという意識が彼を離さないのではなかろうか。   孫の最期の状景と一緒に、刑務官のユニホームの背中ににじむ汗の匂いが漂ってくるような気さえした」(『逆うらみの人生』)    遺 言  一、国が不当な手段で私を死刑しようとする場合は、実力で抵抗しますから、私の死体を解剖して、ことの真相を追求すること。    不意打ちに処刑しようとしても再審の請求をして死刑の執行をくい止めるべく、再審請求書を作成して持っているので、いざというときは、年月日だけ記入して提出すれば法的に有効であり、そのようにするが、それができなかった場合は、実力によって阻止されたものと判断してよい。  二、私の財産およびその他一切の権原(限)は君尾愛子に譲渡する。  三、私のことは君尾愛子、M、松原喜代次に相談してしかるべく処置すること。   右のとおり遺言する。    昭和三十八年(一九六三)四月十日 孫 斗八    遺言執行者として毛利与弁護士を指定する。但し、適当な人に委託することを妨げない。    遺言中の君尾愛子さんという女性は、孫斗八と親しくした相手。松原喜代次氏は大阪出身の代議士である。    死刑制度に一石投ずる 「日本のチェスマン、遂に処刑」「だまし打ちするのかと叫びつつ」というタイトルが、処刑された翌朝の新聞の見出しになった。孫が大暴れに暴れて「だまし打ちにするのか」と叫びつつ処刑されたと報じている。孫は処刑された七月十七日の朝、まさか突然自分を死が襲ってくるとは考えていなかったにちがいない。死刑囚という身であれば、常に死の淵《ふち》に臨んでいるわけではあるが、それでも恩赦訴訟を起こしたばかりの時であった。執行停止の決定はまだおりてはいないが、楽観する気持ちはあったことだろう。  そこへいきなり降って湧《わ》いたような執行である。この朝、刑場に近い病舎や、隣接の監房はすべて空けられた。病人は有無を言わさず診療室に詰めこまれた。健康な収容者はいっせいに運動場に連れ出された。  ひとり重病を装って病舎に居残った受刑者が、刑場のほうで大声で言い争う声を聞いていた。  これから推察すると、孫は刑場入り口前で朝の運動をしているところをいきなり引っ立てられただろうことがうかがえる。孫は数々の特権を行使していたが、刑場前の庭を孫専用の運動場にし、ひとり悠々と毎朝の運動を楽しんでいた。  拘置所側にとっては、孫を処刑するにはもっけの幸いだった。なにしろ機嫌よく刑場のまん前に、自分の意思で行っている。そこを狙《ねら》わない手はない。あとは屈強な特別警備隊員が何人かかかれば、暴れようが、わめこうが、こっちのものだと判断したことだろう。大暴れすることは当然予想されたから、刑場に近い病舎や監房から人払いをしたのである。  孫は力のかぎり暴れ、わめき、毒づいたにちがいない。  しかし、いかにエネルギーのあり余る孫も多勢に無勢の情けなさ、ついに国家権力の名のもとに命を奪われてしまった。    孫斗八が十何年かの獄中生活中に提訴した行政訴訟は十指に余り、そのこまごましたことはここでは伝えられないが、中でも各法律専門書が特異な問題として注目し、詳細に経過報告した「文書図画閲読禁止処分に対する不服事件」は、一審判決で孫斗八が勝訴している。拘置所が書籍のページを切り抜き、塗り潰《つぶ》してしまう現実を、裁判所は、「拘置所の管理権の行使が、申し立ての事実について必要最小限度の合理的制限を越える」と判断したのである。  孫の勝訴を言い渡した裁判官が、判決理由の中で述べた見解は、全国の刑務官から注目されたと伝えられている。  「——他のどんな被拘禁者にも社会復帰の希望があるが、死刑囚にはそれがない。死刑の判決に対する上告棄却によって、一条の望みも消え、生の本能が脅かされるや調子が狂い、ひどい苦悶の中でもがきあえぐ。死の恐怖は死よりもさらに苛酷な苦痛であり、絶対的な必然まで心の安まる日はない。想像される処刑の有様が眼底から去らない。かきむしりたい。壁にぶっつけたい。狂うような気になる。またしても脱走と自殺の誘惑にとりつかれる。優しさと思いやりに対しては感動を抑えることはできないが、力と圧迫に対しては死を背景にして捨鉢的な強さをもって反抗する。死刑囚の心理や気持ちについて書かれたものは少なくない。だがもっとも確かなことは、死刑囚の本当の気持ちは死刑を言い渡され、決定的な瞬間まで拘禁され、そして刑場に消えていった本人が知っているだけだ、ということではあるまいか。   原告もその死刑囚の一人である。わが国は若干の文化国家におけると同様に刑罰としての死刑を是認しているが、死刑制度はこれを存立する合理的理由に乏しく、死刑の廃止はもはや日時の問題だと思われる。原告は少しばかり早く生まれ、少しばかり早く犯したがゆえにその刑罰を背負わされたものということができよう。   死刑は、犯罪の故に国家が一人の命を奪う。健全な精神と肉体を人間の手で作られた欠陥——道徳的な欠陥の故に神の意に反して奪うことである。残虐な刑罰ではないかも知れないが残酷である。生きたい本能から生まれた狂乱の心のまま死刑を執行するのは、より一層許せない残酷である。死刑囚と同じく拘置所も死刑を回避することはできない。とすれば、いかにして罪の自覚を完全に与え、被害者に対する贖罪の観念を起こさせ、死そのものを安らかな気持ちで迎えられるように仕向け、教育して行くかという大きな務めが拘置所に負わされる——」  孫斗八が死刑の執行を受けたのは、昭和三十八年(一九六三)七月十七日である。この日よりも何年か前に、この裁判官は「死刑制度はこれを存立する合理的理由に乏しく、死刑の廃止はもはや時間の問題と思われる」と述べたわけである。しかし、孫の死後四半世紀が過ぎようとする今日、まだ、一向に死刑の廃止される気配はない。    孫 斗八 享年三十七歳  文庫版に際しての「あとがき」  一九九五年(昨年のことである)十二月二十一日。日本でまた三人の死刑が執行された。篠原徳次郎(六八)が東京拘置所で、木村修治(四五)が名古屋拘置所で、平田直人(六三)が福岡拘置所で、寒さもひとしおの師走の午前、刑場に生命を消されていった。  二十年にわたる歳月を、死刑のことについて書いたり、考えたりしている私にとっては、死刑執行の知らせを受けるときほど、自分の無力さを思い知ることはない。  先進国といわれる日本で、いまだに死刑というまがまがしいことが、平然と行われているのだと証明されたとき、どこへもやり場のない悲嘆に暮れるばかりである。  とくに日本の死刑囚は、死刑囚になってからの日々は、拘置所側の決めたことを素直に守り、礼儀正しく過ごしているのだ。ここに紹介した十三人の死刑囚も、「喜こんで死にます」「死んだらあの世で被害者に詫びます」という、美しくも立派な心がまえで括られていっているのだ。  そんな立派な人間を、絞首して生命の息の根をとめてしまう刑務官も、さぞかしつらいことだと思う。おおかたのふつうの人間は、ゴキブリ以上のものを殺傷したことはないのではなかろうか。いくら仕事だからと自らに言ってきかせても、心の中には、どす黒い、悪い思いが残って、どんなに楽しいときでも本心から笑えない澱のようなものを感じているはずである。  死刑執行があったとき、私は必らず思いだす。刑務官だった時代に、「自分が執行した死刑囚の顔や声や、しぐさを思うとたまらなくなります」と、しぼり出すように語ってくれた、以前取材で会った人びとのことを。苦痛と慚愧とに顔をくちゃくちゃにして、とぎれとぎれに言葉を吐くように語ってくれた元刑務官の数多の苦悩の晩年を。  私は深く考えもせず、「必らず死刑はなくなります」といい、「なんとかやめさせます」と約束したものの、いっこうに変わることなく死刑は執行されつづけている。  そして、死刑囚の処遇は、年々歳々といっていいほどきびしいものに変わっていく。  ここに紹介してある死刑囚処遇といまの処遇はまるでちがっている。東京拘置所や、大阪拘置所で行われていた、前日あるいは前々日に「言い渡し」をするという、拘置所側の人間らしい、せめてもの思いやりも、いまでは昔の物語である。  そればかりではない、同じ死刑囚という身分のもの同志を、口をきかせない、顔を合させない、いっさいの文通をさせない、というきびしいとりきめ、規則というものが出来あがったらしい。房にテレビカメラがとりつけられ、死刑囚の行動のすべてを遂一見逃すことのないようにしているのも現実なのだ。朝起きるとすぐから夜寝るまでのあいだを、どの位置に、どっちを向いて座っていることだとか、手紙を書くのもまず下書きを提出して、OKが出てからあらためて書く、という処遇を受ける者もいると聞いた。湯タンポもいまでは使いすてカイロに取ってかわり、冬の朝、まだ温い湯で口をすすいだり、顔を洗ったりするのも、遠い昔の物語りとなってしまったのだ。  こんなくだらないみみっちいことを誰があらたに決めたのかというと、拘置所長なのである。法務省が各長にゆだねたことは拘置所長の権限できめられるのだ。  死刑囚は死刑判決を受けるだけのことをやったのだから、その人間性についてはいささかも斟酌することはない、と考えているのだろうか。  涙してもあまりあることだと思う。  一九九五年十二月二十一日に話を戻そう。  この日の朝、名古屋拘置所に木村修治のお母さんと養子縁組で義理の姉となった作家の日方ヒロコさんが、面会のつもりで訪ねて行った。拘置所を訪ねるのはむろんはじめてのことではない。いつものように番号札をもらって控え室で待つつもりであった。だが、この日はそうではなかった。いつもいる拘置所の刑務官が、この朝はいつものように番号札をくれなかった。番号札のかわりといってはいささか変ではあるが、「現在取り込み中ですので、面会は午後にしてほしい」といった。  死刑囚が取り込み中とはいったい何をさしているか、二人には直きにピンと来た。「もう修治さんと口をきくことはなくなったのだ」という実感のようなものが胸につきあげてくる。それからの数時間を母と義姉はどう過したのか。とにかく、午後一番にもう一度拘置所に行く。こんどは別室に通された。総務部長、係長が、顔面蒼白、目もあわせられないような面持ちで、なかなか言葉も出ない。 「……けさ、おわかれをしました」  あとはどちらからも言葉が出ず、長い沈黙のあと、総務部長がこういった。 「遺体をごらんになりますか」  黙したまま、二人は安置室に置かれている遺体と対面した。つい一週間まえに会ったばかりの木村修治は、呼んでも叫んでも、もうなにも答えてはくれない。  木村修治の事件は、一九八〇年十二月に起きた。身代金目的の誘拐殺人である。  木村自身は、名古屋地裁の一審の判決どおり、死刑、という罰を受けるのが自分の犯した罪を贖うにふさわしい、という考えを当時は持っていた。しかし、一審の国選弁護人は木村の考えに反して控訴したが、八三年一月に控訴は棄却され、最高裁に上告したが八七年七月九日にこれも棄却され、死刑は確定した。  木村修治の事件が、名古屋ではなく、東京で裁かれていたなら、「死刑」という判決にはならなかっただろう、と思う。山梨で起きた、甲府信用金庫の女子従業員の誘拐殺人を例にとっても明らかなように。誘拐した相手は成人に達する年齢なのだから、幼児誘拐とは異なる。木村修治の事件を、もう忘れてしまった人のためにもう一度書いておく。愛知県の女子短大生が家庭教師をしたいという広告を新聞に掲載した。これを読んだ木村修治が、ぜひ頼みたい、と電話をかけ、呼びだして殺し、身代金を要求をした。というものである。木村修治は、すぐに後悔し、捕われの身となってからは、自らの犯した罪に対しては、死をもって詫びるしか術がない。死刑を受けるのが一番の方法だと考えている。  しかし、一九八六年に「日本死刑囚会議・麦の会」=一審、二審で死刑判決を受けた死刑囚が入会し、お互いの考えや気持ちを交換しあう会で、会員の書いたものを印刷して配布される=に入会してからは、生きて償うことを願うようになった。  多数の支援者たちによって、木村修治という死刑囚は、生まれかわったのだともいえると思う。死刑確定後は、自分の犯した罪と正面からむきあい、二度と同じ過ちが繰り返されないことを願って千五百ページにものぼる手記を書きつづけていた。  最終審である上告審の弁護人になった安田好弘弁護士は、死刑廃止の理念をもったたいへん有能な弁護士であった。一九九三年には恩赦の出願もし、さきに述べた名古屋であったがゆえの死刑判決、それが二審、三審ともに維持された不合理な死刑判決であったことも、常に言いつづけてきた人でもある。  不当な量刑を是正させるために、支援者の人たちとともに約四千名もの助命嘆願もした。肉親による法務大臣への直訴も行った。が、恩赦については全く回答のないまま処刑は行われてしまった。  この死刑執行を考えると、一九九五年三月に起こった一連のオウム事件が引き金になっていると思えてならない。九五年五月二十六日に二人が執行され、同じ年の十二月に三人執行されるという、近ごろとしては異常な数の執行だからである。  因みに、篠原徳次郎、平田直人についてもかんたんに述べてみようと思う。  篠原徳次郎は仮釈放中の八一年十月と八二年七月に起こした二女性暴行殺人事件で八八年六月に死刑が確定した。仮釈放となった前の事件は一九五九年に同じく女性を暴行して殺害した事件で無期懲役になっていたものである。矯正ということが全くなされていないにもかかわらず、仮釈放をして、同じ事件を起こしているのだ。無期懲役という刑の長さは、いったいどうしてはかっているのか。そして、本当に同じ事件を起こす心配はなかったのか。いつも、仮釈放中の事件を聞く度に起こる疑問である。もし、仮釈放されずにいたなら、死刑判決を受けた事件は起きなかっただろうに、と思う。  平田直人の事件は、一九七五年三月、女子中学生誘拐殺人、同年五月十五日に老女強盗殺人である。八七年十二月十八日に死刑が確定しているが、死刑囚となってからも過去三度にわたり、自力で、覚醒剤使用中の事件で責任能力がなかったという再審請求をしているが、いずれも棄却され、第四次再審請求にむけて二百三十枚の再審請求が書き残されていた。あと百二十枚で提出されるという矢先に執行されたのである。  まじめで正しかったとは言い難い人の道を歩いたかもしれないが、死刑確定後、死刑囚になってからは、悔い改めた人生を生きてきたのではないのか。そういう人びとを、ただ、法律できまっているからと、殺してしまうのはどんなものだろう。  もう少し、人間の生き、死にを深く考えるべきではないかと思う。生涯、塀の中ででもいい、死ぬまで生かしておくのが、人の道というものではなかろうかと考える。  外国に行って、「私の国では死刑を行っています」ということの恥ずかしさ。刑務所の処遇が、人間の尊厳からあまりにも遠く、ひどいあつかいをしているという事実を語らなくてはならないときの消え入りたいような気持。こんな気分にさらされつづけながら、けれども私は日本人である、と思うことのつらさにいったいいつまで耐えなければならないのだろうか。    一九九五年は、一人の法務大臣が五人の死刑囚の執行命令書に印を押した。五人というのはもう何十年来なかったことである。だいたいが解散間際になって、しぶしぶ一人か、多くても二人に執行命令書の押印をする、というのが、あたりまえといえばあたりまえになっていた。それをどうだ、五人もの死刑囚に押印するとは、人間の生命について深く考えたのだろうか。  死刑囚ももちろんだが、死刑事件を起こしたときに被害者になった人の生命の尊さについても、一《いつ》顧《こ》だにしていないのではないか、と思えてならない。殺されていった人の生命は、犯人を死刑にしてしまえばそれですべてが贖えるというものではないだろう。お金ですべてけりがつくというのでは決してないが、しかし、お金というのも、資本主義の社会では大いに必要なものである。不幸にして事件が起こり、殺されてしまった人に対して、国は本当に損害賠償の気持を持っているのか。百万円程度の金額ではなく、交通事故の場合と同じように、この人間がいくつまで生きて働いたら、このぐらいは稼ぐだろうという金額と、加えて慰謝する気持の慰謝料を、とにかく国が負担すべきである。  事件で殺された人は、国の態度(何もしてくれないという)にも腹が立っているのではないか。生きていれば税金を取られ、不幸にしてまだ人生を全うしないうちに殺されても、だれも何もしてくれないのだ。そういうことが心の奥底にあって、何が何んでも犯人を殺せ、という考えになる場合も多いのではなかろうかと思う。  まず被害者のことを考え、そして犯人のことも考えてという順序を踏んで行けば、必らず、死刑は廃止できるものだと確信している。  一連のオウム事件が引き起こした社会の治安に対する国民の不安感に、国は便乗して死刑を日常化しようとするのは、あやまりである。死刑では何事も終らない。国家が死刑を行うことで、人々の心はいっそう粟《あわ》立《だ》つのではないだろうか。とげとげしい、ささくれだった気分になるのではないだろうか。  人間の性は善である。本当の悪人はいないのである。きびしく法をもって裁いても殺人事件はなくならない、という意見をよく耳にするが、死刑があっても凶悪事件はなくならないのだ。凶悪事件を起こしてしまった人を死刑にすることよりも、愛を訴えたほうが、どれだけ救われるか、はかりしれない。  死刑囚と呼ばれる身になった人たちの、だれ一人として、自分がやってしまったことはいいことだとは考えてはいない。 本書は一九九二年二月、ライブ出版より刊行された「あの死刑囚の最後の瞬間」を改題して、文庫化したものです。 死《し》刑《けい》囚《しゆう》の最《さい》後《ご》の瞬《しゆん》間《かん》  大《おお》塚《つか》公《きみ》子《こ》 ------------------------------------------------------------------------------- 平成13年12月14日 発行 発行者  角川歴彦 発行所  株式会社  角川書店 〒102-8177 東京都千代田区富士見2-13-3 shoseki@kadokawa.co.jp Kimiko OTSUKA 2001 本電子書籍は下記にもとづいて制作しました 角川文庫『死刑囚の最後の瞬間』平成 8 年6月25日初版発行                平成11年1月10日11版発行