TITLE : 57人の死刑囚 57人の死刑囚  大塚公子 ------------------------------------------------------------------------------- 角川e文庫 本作品の全部または一部を無断で複製、転載、配信、送信したり、ホームページ上に転載することを禁止します。また、本作品の内容を無断で改変、改ざん等を行うことも禁止します。 本作品購入時にご承諾いただいた規約により、有償・無償にかかわらず本作品を第三者に譲渡することはできません。  目 次 プロローグ 57人の死刑囚 エピローグ 一九九五年(平成七)9月以降、確定となった死刑囚 文庫版に際してのあとがき  プロローグ  一九九五年(平成七)九月現在、全国の拘置所に死刑確定囚として身柄を拘禁されている人数は、男女あわせて五七名である。  拘置所は七カ所(札幌、仙台、東京、名古屋、大阪、広島、福岡)あり、それぞれ拘禁されている人数は、札幌五名、仙台一名、東京二九名、名古屋七名、大阪二名、広島一名、福岡一二名である。因《ちな》みに女性は東京に二名、札幌に一名の計三名。  この五七名が全員同じ待遇を受けているかというと、決してそうではない。拘禁されている拘置所によっても大きな違いがあるし、同じ死刑囚と呼ばれる立場でありながら、確定した時期、あるいは拘置所側における差別、などなどによって信じられないぐらいの相違がある。  たとえば、外部交通(一般の自由社会との交際。文通、面会など)についても、ひとりひとり異なった処遇を受けている。  とくにひどいと思われるのは、東京拘置所で、死刑囚が手紙(郵便いっさい)を出すのにも、あらかじめ下書きを出し、その書き方が悪ければ(拘置所側にとって気に入らない)、何度も書きなおしをさせるという処遇を受けるものもあるそうだ。  私は以前、『死刑執行人の苦悩』という本を書いたことがあるが、そのとき取材に応じてくれた刑務官、あるいは元刑務官の人たちはみんな死刑囚を「愛すべきもの」として考えていた。拘置所長だった人も、涙を浮かべて、すべての死刑囚を生かしてやりたかった、と語ってくれた。  かくしていることは、なにひとつない、あんな美しい人間をなぜ殺すのか、と、それはもうくやしさを何にぶつけようか、という感情が私にもつたわってきた。  あの本を出してからまだ六年しか経っていない。取材を始めてからにしても、一五年経つか経たないか、といったところだ。  それなのにどうした変わりようだろう。  一九七五年(昭和五〇)あたりから、処遇が大きく変わった、ということは教《きよう》誨《かい》師《し》から聞いていた。たとえば、教誨師が死刑囚に会うのにも、それまでは教誨師が死刑囚の房を訪れていたのだが、いまは教誨堂に死刑囚を呼びだす。教誨師には監房の鍵《かぎ》をあずけてもらえなくなったのだ。  死刑囚にとって、終《つい》の棲《す》み処《か》ともなるべき独居房に、迎え入れるのは教誨師ただひとりであった。どんなことも話せる相手であり、たまには思いきってほしいものをねだったりできる人でもあった。他のだれにも聞かれることなく、ゆっくり話しあえる、ただひとりの人だったのだ。  そのただひとりの人を迎えるために、死刑囚はいちばんいい服と着がえ、壁には昨夜までかかって仕上げた仏画を、昼夜のごはんつぶを残しておいて貼《は》る。仏画の本も、画仙紙も、筆も墨汁も教誨師から贈られたものだ。  朝から、いや前日の夜から、死刑囚の頭の中は客を迎えることでいっぱいなのである。  ところがいまはどうだ。教誨堂に呼びだされ、教育課長か、そういった類の刑務官がついていて、死刑囚にとってはなんとはなしに落ち着かない気分だ。画仙紙も筆も墨汁もいまは昔の物語というほかはない。死刑囚に許されるのは、半紙大の紙とボールペンのみ。  かつて、死刑確定囚の外部交通権は、未決拘禁者より手厚く保護されていた。親族はもちろん、友人、支援者と面会でき、手紙などの受信も認められていた。  未だに記憶になまなましく残る大久保清が執行されたのは、一九七六年一月二二日のことだ。  これより以前の死刑囚は、前日の言い渡しであった。東京拘置所では、即日言い渡しになった最初の執行である。しかし、処遇面では、外部のだれとでも面会や手紙、その他(差し入れなど)のことも自由にできた。死刑囚大久保清の獄中手記なども出版されているが、それを出版社につなげたのは、アナーキストとして知られる大島英三郎氏である。いまでは、とうてい考えられないことであるが、一九七〇年代前半までは、当然のことだったのである。  また、面会でも、このころまでは親族となら特別面会室が用意され、飲食なども認められる場合があった。  それが、一九七八年以降は、これらは順次狭められ、すべてが拘置所の所長の個別的な裁量にゆだねられるようになった。  まえに書いた、教誨師が死刑囚の独居房の鍵をあずけてもらえなくなった、というのも時期をおなじくする。いまでは原則として、親族以外の者との面会や手紙のやりとりは禁止され、依頼を受けていない弁護士との面会も禁止されている。  つまり、死刑囚は外部との交通を事実上遮断され、孤独の淋《さび》しさ、話しかける相手のいないひとりっきりの不安、なんともいえない焦燥感とたたかう毎日である。かてて加えて、体調の悪さ、夏には暑さに加えて、蚊や虻《あぶ》などの虫がたえず襲ってくる。冬の寒さは筆舌につくしがたいほどで、耳や頬《ほお》にしもやけができる、風邪はひく。梅雨時はたたみの上にキノコが生えるような不快さ。こういうことともたたかわねばならない日々がずっとつづくのである。死ぬまで——。  そこへつけ込むように、東京拘置所では拘置所側に都合のいい(外部と交通せず、ただ死ぬ日を待つのみの生活をする者)死刑囚を集めて、テレビ観賞会だとか、誕生会だとかをもうけている。いわゆる集団的処遇だ。東京拘置所には現在二九人の死刑囚がいるということは冒頭部分に書いたとおりであるが、そのうち、東京拘置所の思いどおりに外部と交通せず、ただ死ぬ日を待つのみの生活をしている死刑囚は一〇人いる。(因みに一九九三年一一月に、三ケ月法相の押印によって死刑を執行された東京拘置所一名は関幸男死刑囚であった。関死刑囚もだれとも外部交通をせず、東京拘置所のいうことにさからったりしなかった。従って、誕生会や、テレビ観賞会に参加していた)  月に一度か二度の誕生会やテレビ観賞会は、だれかと口をきける、という楽しみがある。ふだんは口にできない甘味のものを食べられる。それも、ひとりではなく、大勢で。  この誘惑には、よほどの強いなにかがなくては勝つことはできない。  心の中には、〓“どうせ死ぬんだ〓”という悲しい諦《てい》観《かん》が、根強くはびこっている。その証拠に毎日を怯《おび》えて迎えているのだ。  犯罪をおかしたときの、その瞬間の気持ちは、いま自分自身で正直に問うてみても、とうてい正確に計り知れるものではない。裁判のときも、その前、警察にもきびしく何度も何度も詰問されて、納得がいくように話しはした。しかし、殺人の本当の理由は、別の人格が自分の中に入り込んでいたとしかいいようがない。  多くの死刑囚が右のように話していた。表現はちがっていたが、つきつめていうとそういうことである。  じっさい、人を殺すということを、非情なさめた気持ちでやれるとは思わない。死刑囚といえどもみな親思い、兄弟思い、わが子を思う、ごくふつうの人間である。そして、わたしたちよりも、弱いところを持っているのだと思う。いや、われわれと同じく弱い人間なのだ。  だから、拘置所からの誘惑にも負ける。拘置所のいう、素直に従い死を待つ日々は、執行される危険性を大いにふくんでいる。一九九三年一一月の三ケ月法相による押印、つづいて一九九四年、五年の前田法相による押印、執行は、はっきりとそれを物語っている。心の中では、どうせいつかは死んでしまういのち、と思いながら、ほんの束の間の楽しみを味わっているのかもしれない。  それ以外の死刑囚たちは厳正独居(厳正拘禁)である。これは軽《けい》屏《へい》禁《きん》に準ずる刑罰である。廊下を歩くときも、他の死刑囚とは顔をあわせないように、「左をむいて!」とか、「右をむいて!」というような号令をかけられて、口をきけないばかりか、いっさいの交流をもはばまれている。  独居房は〓“自殺房〓”と呼ばれて二四時間テレビカメラで動作のいちいちを見られているのだ。しかも、両隣の房は空房にして、いっさいだれとも口をきくことはできない。  こんなひどい処遇をされて、そのあげく〓“死刑の執行〓”という、恐ろしくも悲しいことが待ち受けているのである。  これで拘置所の所長は心が痛まないのか。同じ人間として、この世に誕生したものが、死刑という刑罰を言いわたされ、入浴のときと、運動のとき、あるいは親族などの面会以外には、独居房にただ黙って日を暮すことに、心に影さすときはまったくないのか。    以下は、各拘置所に留置されている死刑囚のひとりひとりの現状をレポートしたものである。担当した弁護人が亡くなったり、協力してもらえなかったり、あるいは親族などがいなくて取材の手だてがなかったりした死刑囚は、残念ながら実情を伝えることはできなかったが、それ以外の死刑囚は家族の方や、弁護士の方たちの協力を得て、できるだけ忠実に取材したつもりである。    57人の死刑囚  川端町事件 尾田信夫(48) 福岡拘置所  一九六六年(昭和四一)一二月、福岡市川端町の無線店にて現金を強奪、同店舗に放火して一人を死にいたらしめる。死刑確定日は七七年一一月。放火は否認して再審請求中。日弁連が弁護につく。      雪《せつ》  冤《えん》  書く墨がなければ真紅の血がある  書く筆がなければ伸びた爪がある  爪で瓦《かわら》に彫ってでも  無実の罪は雪《すす》いで見せる  無実のままの俺が刑場の露と消えれば  刑事も検事も判事も救われぬ  俺が雪冤することで  彼等もまた救われる      (昭和五十三年五月一日)  少し古い詩だが、尾田信夫の真情がよくでている作品なので敢《あ》えて紹介した。  担当の弁護士は上田國廣さんと安部尚志さんの二名である。上田國廣さんにたずねた。 「真情についてだとか、教《きよう》誨《かい》を受けているかなど内面については、弁護士としてはまったく知らないが、再審のことならお話しできますよ」  と、いうことだった。しかし、それも本人に会って承諾をとってからでないとだめだという。  その日からというものは一日千秋の想いで待っていた。はやく面会に行ってきてほしい、などとは絶対にいえない。弁護士にはそれぞれ仕事が山積していて、私の依頼ごとでハイハイと動けるような状態ではないのだ。  神に祈るような気持ちで待った、といったらいいだろうか。じっさいには、それほど長い日数を待ったわけではない。けれども、私の胸の裡《うち》には、もし否という返事だったといわれたら、というあせりがあった。そのことを恐れ、神に祈ったのかもしれない。  しかし、まもなく、春まだ浅いころの午後、私は上田さんからの電話を受けた。  私はくどくどと、礼をいい、裁判が正しく行われていないことに不満を持っていることをいったと思う。  私が知りたかった近況についても、元気でいることや、寒い冬だったにもかかわらず、かぜもひかずにがんばっていることなどを話してくれた。  再審請求事件の経過については、汚さないように大切にあつかうこと、と注意されて、郵便で送ってくれることになった。  到着した報告書をここに紹介しようと思う。    昭和54年(左)第一号再審請求事件     報 告 書   再審請求人 尾田信夫      上記請求人の再審請求事件の経過については以下のとおりです。     一九九一年四月一八日   右請求人代理人 上田 國廣   同       安部 尚志        日本弁護士連合会 人権擁護委員会第一部会 御 中            記    1 再審請求の対象となった事件の確定判決の概要  本件再審請求の対象となったのは、強盗殺人、同未遂、放火被告事件につき福岡地方裁判所が昭和四三年一二月二四日に言い渡した死刑判決である(昭和五二年一一月一二日最高裁判所の上告棄却判決により確定)。  同確定判決によると、請求人は昭和四一年一二月五日午後一〇時頃、M無線K店において被害者A、Bの反抗を抑圧し、現金二五万七〇〇〇円と腕時計二個ほか一点を強《ごう》取《しゆ》するとともに、殺意をもってA、Bの頭部や顔面をハンマーで乱打するなどして瀕《ひん》死《し》の重症を負わせ、更にカタログ紙をまき散らし反射石油ストーブを足《あし》蹴《げ》りにして横転させ机に燃え移らせて同店に放火してAを脳《のう》挫《ざ》傷《しよう》及び一酸化炭素中毒により殺害し、Bには加療約五月を要する頭部挫傷などの重症を負わせた、とされている。  本件再審事件では、請求人の強盗殺人、同未遂については争いはない。しかし放火の点につき請求人は、火災発生当時請求人がストーブを転倒させた事実はないのに、逮捕後、捜査官から「検証の結果、石油ストーブが倒れて出火したことが判明した」と現場写真を見せられ、厳しく追及された結果、虚偽の自白をしてしまった、と主張して再審請求した。  2 本件の争点は先に述べたとおり請求人がストーブを倒して放火を行った事実があったかどうかである。具体的には、本件火災発生当時、問題のストーブが転倒していたかどうかである。  捜査段階で作成された実況見聞調書によれば、ストーブのすぐ横に二個の机があり、ストーブは四五度の角度で倒れていた、とされている。また福岡県警の鑑定人の鑑定書では、ストーブは点火扉が床面に接するように前方に傾いていた、とされている。  これに対し請求人側では、鑑定人に依頼して本件で使用されたとされるストーブと同型のストーブを使って燃焼実験を行った結果、ストーブは放火当時直立していたという結論に達した。  3 原審の経過  原審では、検察側は新たな実験を行いその結果を記載した鑑定書を提出しその実験を行った鑑定人の尋問を行った。  これに対し請求人側も先の実験結果をまとめた鑑定書を提出するとともに同鑑定人の尋問を行った。  その他、火災原因調査を行った消防士の報告書及び同報告書添付の実況見聞調書、同消防士、本件の取り調べにあたった警察官らの取り調べが新たに行われた。  4 原審の決定  福岡地方裁判所は、昭和六三年一〇月五日、本件火災発生当時ストーブが直立していたという請求人側の主張を否定して、請求人の再審請求を棄却した。  その最大の根拠は、「本件ストーブの前面下にある網目状の扉の右端に近い部分にストーブ内の油量調節機構部分で亜鉛を主成分とする合金で作られたカムおよびバルブストッパーが溶融して生じたと認められる付《ふ》着《ちやく》痕《こん》が存在し、かつその付着痕の位置は、本件ストーブの前面扉部分が床に接するようにして前傾横転した状態に置いた場合には右カム及びバルブストッパーの位置のほぼ鉛直線状(真下)に来る」ということであった。  しかし、この点についてはそもそも問題のストーブ自体が証拠として提出されていないうえ、溶融痕部分を撮影した写真では針金状の棒で押えて動かないようにして撮影しているようにも見えるものでありその信用性さえ疑わしいものである。  また本件ストーブは傾くと裏《うら》蓋《ぶた》が開き石油タンクがストーブ本体から外れて飛び出す安全設計になっており、この安全装置を働かせずにストーブを前傾させることはかなりの困難を要することも請求人側の実験で明らかになっている。  またストーブが転倒したとされる部分の床に漏油したという痕跡も認められないし、ストーブのあった部分の床にストーブの置台の跡が残っていることもストーブが直立していたことを示している。  その他にも、請求人側はストーブが直立していた根拠を主張、立証したが、原審決定はそれらの請求人側の主張をいずれも否定した。  5 現在の状況  請求人は福岡地裁の右決定を不服として、昭和六三年一〇月八日、福岡高等裁判所に即時抗告の申し立てをした。  請求人側は、新たにストーブ側面のダイヤルつまみの燃焼痕と見られる変色部分がストーブ前方斜め上の方向についている事実を発見し(つまり、このことからすればストーブは発火後のある時点においては後方に傾いていたことを示している)、この事実はストーブが斜め前に傾いていたとする原決定の認定とは矛盾していることを意見書で指摘して、本件の真相を明らかにするためにはストーブの検証が不可欠であることを強調した。  また請求人、共犯者、被害者の捜査段階における供述調書相互間にも矛盾があり、共犯者の放火の事実についての自白にも変遷があったことを指摘して請求人、共犯者、被害者の尋問が不可欠であることも指摘した。  今後、裁判所に同型のストーブの検証と請求人、共犯者、被害者の尋問を実施させることができるかどうかが弁護団の課題である。 以上      福岡拘置所には、死刑確定囚として一二名が拘禁されている。そのなかで尾田信夫は最も古くからいる死刑囚である。事件を起こしたのは一九六六年(昭和四一)一二月。尾田は一九歳か二〇歳かといったところだ。もし、仮に裁判が正しかったとしても、矯正の余地がないとは言えない年齢である。やがて三〇年になろうとする春秋を、むだにすることはなかったのではないか。  名張毒ぶどう酒事件 奥西 勝(69) 名古屋拘置所  事件は一九六一年(昭和三六)三月二八日に起きた。三重県名《な》張《ばり》市葛《くず》尾《お》の大量毒殺事件は、五人死亡、一二名は三日から一カ月入院のすえ生命はとりとめた。当時のこの土地の風土や時代背景と密接に結びついたものであるといわなければならないだろう。  葛尾は名張市とはいうものの、事件のあった当時市に編入されたばかりで、戸数はわずか一七戸。深い谷あいの一本道の両側にぽつりぽつりと農家が点在して集落をつくっていた。閉鎖的な暮らしながら、既婚者の男女それぞれが他の男女と自由な性的関係を持つというおおらかさがあった。  事件はこうした特異な土地柄のところで起きたものである。  三月二八日は、小高い丘の上にぽつんと建った公民館で、葛尾集落全戸の男女が出席して、「三奈の会」という生活改善クラブの集会が開かれた。全戸といっても一七戸である。  女性用に用意されたぶどう酒に猛毒の農薬ニッカリンTが混入されていた。それとは知らずに毒ぶどう酒で乾杯したため、約一〇分で女性たちは苦しみはじめ、つぎつぎに昏《こん》倒《とう》していった。  この毒ぶどう酒は、奥西勝が妻のチエ子と愛人の北浦ヤス子とを殺すつもりで、ひそかにニッカリンTを混入したことになっている。三角関係のもつれを清算するために、妻と愛人を殺して目的を達したものの、多数の人びとを巻きぞえにしたといわれた。  犯罪史上類をみないといってよいほどの大量毒殺事件で、冷酷であり残酷な犯罪といえそうである。  ところが、一審の津地方裁判所では奥西勝を証拠不十分で無罪にした。(一九六四年一二月)  しかし、二審の名古屋高等裁判所では、一九六九年九月に逆転して死刑の判決を下した。さらに最高裁も二審を支持、七二年六月には奥西勝の死刑が確定した。  奥西勝は名古屋拘置所からいまも無実をさけびつづけている。  事件が起きてから、じつに三十数年の歳月が経った。当時三四歳だった奥西も、いまでは六九歳だ。来し方の歳月をどのように受けとめているのだろうか。  獄舎のなかで奥西は黙々と請願作業にはげんでいる。一日中働いて一〇〇円かそこらだ。袋張りが多い。稼いだお金で、牛乳とりんごを買うのである。ぜいたくで食するわけではない。運動不足と高齢のために便秘になる、それをなんとか通じさせるのがりんごと牛乳なのだ。  物価高は拘置所の檻《おり》の中まで容赦なくおしよせてくる。作業をした賃金は何十年かの以前と変わりないため、ひと月五、六千円稼ぐのは容易ではない。  波崎事件 富山常喜(77) 東京拘置所  一九六三年(昭和三八)八月二六日、茨城県鹿島郡波《は》崎《さき》町に住む石橋康雄さん(当時36歳)が、同じ波崎町の富山常喜(当時46歳)宅から帰宅後、急に苦しみはじめたため、波崎済生病院に運ばれたが、死亡してしまった。石橋さんの妻が「夫は富山さんに薬を飲まされた」と言ったことで、富山常喜は犯人にされ死刑が確定するという、なんともいいようのない事件だ。  解剖の結果、石橋さんの体内から青酸化合物が発見されたとして、富山は殺人罪で起訴され、昭和五一年四月一日、最高裁において死刑が確定。  有罪の根拠とされるのは、「青酸化合物をカプセルに詰め鎮静剤と偽って飲ませた」というもの。しかし富山は「そんなことはしていない」と、終始一貫、無実を訴えつづけている。  この事件は、有罪を立証するのに必要な物的証拠も、本人の自白もないままに、死刑が確定してしまったというのが特徴。  富山は、確定後、死刑執行の不安に怯《おび》えながら、獄中から再審裁判を要求している。  篠原道夫さんが代表となって、波崎事件対策連絡会議を行っており、第二次再審にむけて請求をしているが、再審裁判が開かれるかどうか、目下は審理中。  篠原さんにお願いして、富山常喜からの手紙をここに紹介する。これは富山が篠原さん個人に宛《あ》てたものだが、現在の富山の姿が目に見えるようで、思わず「がんばってください」と心の中で叫ぶような気持ちになる。    暖冬を取り沙《ざ》汰《た》されておりました今冬ですが、流石《さすが》師走《しわす》ともなりますと「あまりナメてもらっては困りますよ」とアピールでもするかのように、時折厳しい寒波などに襲われたりいたしますと、ホント火の気に見放されたこの中の住人といたしましては、本当に辛《つら》い季節となって参りました。  今回もまた、お忙しいスケジュールを遣《や》り繰りしての御面会をいただき、本当に申し訳ございませんでした。篠原さんも、予《かね》てからよく御仕儀で、極度に内容を制約されております関係上、ついつい筆を取る手も鈍り勝ちとなり、心ならずもついつい失礼を重ねており、本当に申し訳なく存じている次第です。  とは申しましても、せめて年末くらいには年間を総括して、まとめて御礼を申しあげさせていただきたくと存じまして、所側(拘置所)に申し出て、やっと許可をいただいたような次第です。  この一年、毎月一回も欠かさず御面会をいただきまして本当にありがとうございました。一家を支える大黒柱的存在の篠原さんに取りましては、時にスケジュールの調整がつき難いような月とて、一度や二度ではなかったのではなかろうかと存じます。  そうしたことのあれこれを想うにつけ、全く何のゆかりとてない他人のために、敢《あ》えて生活の一部といっても過言ではないような貴重な御時間を犠牲にして、毎月欠かさず面会を続けて下さいますなど、到底なま半かの宗教人と雖《いえど》も、叶《かな》う術ではないのではあるまいかとさえ存じます。  私もそうした篠原さんや、まだお顔も存じあげておりませんような、多くの支援者の皆様方に支えられ励まされながら、良いところよりも悪いところのほうが多いボロボロの躰《からだ》に鞭《むち》打《う》ちながら、来年の四月二六日をもちまして、「喜寿」の節目を迎えられそうなところまで辿《たど》りつくことができました。  むしろ、その先に見えかくれする「楢《なら》山《やま》節《ぶし》」の悲劇のほうが心配なほどの長寿社会におきましては、いまや「喜寿」くらいでは稀《き》少《しよう》価値なども認められないかとも存じますが、それでもなお、これが娑《しや》婆《ば》でのことでありましたならば、或《ある》いは曲りなりにも、何らかの形で祝ってくれる者の、一人や二人はあったのではないだろうか、などと、いまさら還《かえ》らぬ昔を託《かこ》ったりしている次第です。  思えばこの間、裁判の初期からは既《すで》にまる三〇年以上、終始変わらぬ御支援をいただいております皆様方には、本当に言葉にもつくしきれないような御《ご》厚《こう》誼《ぎ》を蒙《こうむ》って参りましたわけで、いまさらながらその御恩の大きさ深さに、胸奥よりこみあげる熱いものを実感させられる次第です。以上、今回の御差し入れに対する御礼に兼ねて、いままで欠礼致しておりました年間の御礼を総括しての御礼まで申しあげさせていただいた次第です。  所外で色々ときめこまかな御支援をいただいております多くの皆様方にも、どうかくれぐれもよろしくお願い申しあげます。  暖冬気味とは申しながら、冬本番はこれからの季節ですので、どうかくれぐれも御自愛専一を心がけて、御越年のほど、心からお祈り申しあげます。  それから、年が明けてからでも、波崎の方へお出かけの機会がございましたら、ちょっと回り道になりますが、銚《ちよう》子《し》の測候所へ足をのばして、事件の当夜八時か九時ごろものすごい雷雨がありましたので、その降りはじめと、終《しゆう》熄《そく》の時刻〈人間が傘なしでちょっと出かけられるような状態までの推移〉をなるべく詳しく正確に調べて来てくださいますようよろしくお願い申しあげます。  これは事件に対するちょっとした「キー・ポイント」になるかとも存じますので、よろしくお願い申しあげます。   九三年一二月六日 富山 拝     篠原道夫様    今朝、診察に行って来たのですが、また、少しの間、横《おう》臥《が》することになりました。入院するほどのことではありませんので、心配はありません。  ピアノ殺人事件 大浜松三(67) 東京拘置所  一九七四年(昭和四九)八月二八日、神奈川県平塚市の横内団地内で起った惨劇は、その後も「犯人の気持ちもよくわかる」という人はかなり多い。  事件当時、この団地でも音楽熱が高く、ピアノのある家が多かった。この日惨劇にあった奥村家でも七三年秋にピアノを購入、殺された長女のまゆみ(8)は、ピアノ教室でレッスンを受けていた。すぐ上の階に住む大浜松三(46)は失業していて、一日中家にいる。  ふだんから騒音に異常なほど神経質な大浜は、奥村家の主人である、自動車部品関係の会社員の奥村が、日曜日にトンカチで何かをやっていると、その音にも「うるさい」などの文句をつけていた。  一九七三年秋に奥村家でピアノを購入してからは、いちだんと神経をとがらせはじめた。  子供が練習している間中、大浜は上で大きな音をたてた。あるとき、子供がピアノ教室でならった練習曲のおさらいをして、終わったあと母親の八重子(33)が、ちょっと弾いていると、「一日一回でたくさんなのに、二回もやるとは何事だ」と怒鳴りこんできた。  その日以来、大浜は刺身包丁を買って、ひそかに犯行の準備をしていた。  一九七四年八月二八日。学校も幼稚園も夏休みである。早朝主人が出勤する。八重子がゴミの処理に下へ降りて行く。そこを見はからって大浜は奥村家に侵入、まゆみと次女の洋子(4)を刺し、帰って来た八重子も殺してしまった。  犯行三日後に、平塚署に出頭した大浜は、罪の意識も見せずに一部始終を自供したそうである。  一審、横浜地裁小田原支部は、大浜に死刑の判決を下した。しかし、裁判所の精神鑑定次第では減刑の可能性もあり、弁護人から控訴申し立てがなされたが、「音の苦痛や無期より、死刑を選ぶ」と大浜本人が控訴を取り下げ、翌七七年四月一六日、死刑が確定した。  このとき以来、大浜松三のようすはいっさいだれにもわからず、ただ、東京拘置所の中で生きている、ということがわかるだけとなってしまった。  袴田事件 袴田 巌(59) 東京拘置所  一九六六年(昭和四一)六月三〇日未明、静岡県清水市にある「こがねミソ製造会社」専務橋本藤雄宅が放火された。藤雄(41)、妻ちえ子(38)、長男雅一郎(14)、次女扶次子(17)の一家四人は刺殺され、犯人として袴田巌が逮捕された。  殺された藤雄は柔道二段の巨漢である。犯人はほか三名を殺害しているにもかかわらず、わずかなすき間しか離れていない隣家では、なんの物音も聞いていない。  そんな芸当とも思える犯行をやってのけられるのは、元プロボクサーの袴田以外には考えられない、というのが理由といえば理由。確かな証拠はなにひとつない。八月一八日の逮捕以来、くる日もくる日もきびしい取り調べがつづけられ、九月六日には力つきて犯行を認めさせられた。きびしい取り調べといっても実感はこないだろうが、例えば、終日水一杯すら与えられず、顔にくっつけるように明るいライトを照らされ、殴るは、蹴《け》るはでは力もつきようというものだ。  しかも、こっけいなことに一〇月一八日に静岡拘置所に身柄を送られるまでの間に、清水署で四五通の自白調書が作成されている。その内容はぜんぶ異なる。捜査官のいうとおりに、いってみれば好きなように書かせて、そのとおりです、といったのだろう。もう本当のことをいってみても、どうせ聞いてはくれないのだ、と思ったのか。  冤《えん》罪《ざい》事件の特徴といってもよい。四五通の調書はどうなったかというと、裁判官も少なからず疑問を持ったらしく、四四通に関しては、信用性、任意性ともにないとして証拠採用を却下、残りの検察官が作成した調書を証拠採用した。  検察官が作成した調書というのは、事件当夜午前一時二〇分に目を覚ました袴田は、専務宅に行って四人をつぎつぎ殺害、現金を奪っていったん工場へ戻り、現金を隠したあと油を持って現場へ引きかえし、放火した、となっている。一時四五分ごろ隣の家では火事に気づいていた。従って最大二五分のあいだに、袴田は殺人、現金を奪って工場にかくし、油を持って現場に行き放火した、ということになる。  私は検察官には頭脳明《めい》晰《せき》な人間がなっていると考えていた。  それなのにどうだ。  自白にいう殺害方法は、被害者の死亡状況と合致せず、出入りしたとする木戸には鍵《かぎ》がかけられていた。  しかも、事件発生から一年三カ月ほどたった一審裁判の途中、ミソの貯蔵タンクのなかから血に染まったズボンやシャツが出てきた。終始尾行されていた袴田が隠すのは不可能である。そのうえ、ズボンはちいさすぎてはくこともできなかった。  これだけの無罪証拠があるにもかかわらず、静岡地裁は死刑の判決(六八年九月一一日)を出した。東京高裁も控訴を棄却(七六年五月一八日)、最高裁(八〇年一一月一九日)死刑確定。  以後、袴田は再審請求をつづけている。  昨年、再審裁判が開かれるかと思ったが、結局、開かれないままに終わった。  袴田巌のお姉さんに会ったとき、お姉さんが見せてくれた葉書は、かんたんな内容だった。    前略 私は神様のところへ行っております。次の品物を送って下さい。  〓セーター〓長《なが》袖《そで》オープンシャツ〓スキーウェアの下〓掛け布《ぶ》団《とん》    その葉書が来た後、面会に行ったら会いに出て来た。それ以前は、毎月浜松から東京までわざわざ来たというのに「会わない」の伝言が刑務官を通じて伝えられるだけだった。  本当に、本人が会わないといっているのか、東京拘置所が会わせないでおこうとしているのか、私には大いに疑問だったが、お姉さんにはいわないでいた。  拘禁ノイローゼが高じて、もっと危険な状態になっているようすに、ただただ暗《あん》澹《たん》たる気持ちになる。  長崎雨宿り殺人事件 小野照男(57) 福岡拘置所  一九六五年(昭和四〇)の殺人事件で懲役一三年を服役。仮釈放中に起した事件。一審、二審とも殺人を認め、上告審になって無実を訴えたが、判決は死刑。  最高裁で弁護人をつとめた川上義隆さんの上告趣意書を少し紹介してみる。   「原判決は被告人を死刑に処した第一審判決を支持し、『被告人は、その仮出獄期間中に右前刑の時以上に残忍冷酷な方法で強盗強《ごう》姦《かん》、強盗殺人の兇《きよう》悪《あく》な犯行を犯すに至ったものであり、被告人の短気で飽き易《やす》い偏奇な性格、自己中心的で冷酷な犯罪的傾向からして、再犯の危険性が極めて高いこと、本件犯行の動機、態様、罪質及び結果の重大性その他諸般の情状に鑑《かんが》みると、被告人の刑事責任は極めて重く、被告人に有利な諸事情を考慮しても、被告人に対しては極刑をもって臨むほかないと考える』と判示する。  本件犯行は残忍冷酷で兇悪な犯行であり、その結果も重大である。しかし死刑は全地球より重しとする人の生命を奪うものである。被告人に全く改善の可能性がなく、更生の方途が閉ざされているのであれば格別、改善の可能性があり、更生の方途があるならば、たとえ長年月をかけても改善の努力を尽くすのが、刑政の道と思料する。弁護人は次のような点から被告人には改善の可能性があると考える。  第一に被告人は本件犯行につき改《かい》悛《しゆん》の情を示している。  原判決は『被告人は……捜査官に対し自己の犯行を詳細に自供していたのに、原審公判廷においては金欲しさに自然にそのような行動に移ったと思うなど殺人、強盗の犯意を否認するような供述をし、さらに当審公判廷においては犯行は全然記憶していないと供述し、自己の責任を軽減しようとあせる余りとはいえ、被害者に対する謝罪の意を率直に表明せず、反省の情も乏しいと見受けられる』と判示する。  しかし被告人は逮捕時の弁解録取書によれば『いまさら何で年をとったばあさんを殺してしまったか後悔しております。せめて線香の一本もおばあさんにあげて冥《めい》福《ふく》を祈りたいと思います』と供述して早々に反省し、また一九七七年(昭和五二)一〇月三日付司法警察員に対する供述調書二七項では『私はこの婆《ばあ》ちゃんとは初対面でこれまでに何の縁《ゆかり》もない人でしたので、強姦したりまたは殺して恨みを晴らさねばならないような理由は一つもありませんでした。ただ私が金を盗みたいばかりに休憩させてくれたりして親切に扱ってくれていたこの婆ちゃんをこのように強姦したうえ殺してしまい、金を盗み取ったのです。恩を仇《あだ》で返すような事をしたと思っていまでは心から反省しております。できることなら霊前にお線香の一本でもあげさせていただきお詫《わ》びの言葉を述べたい気持ちでいっぱいです』と供述して改悛の情を明らかにした。  さらに一九七七年一〇月一四日付検察官に対する供述調書一六項においても『山下さんを強姦して殺し金を取ったことを反省しています。どういう処罰でも受けるつもりです』と述べ、第一審第七回公判における最終陳述でも『死刑を求刑されて一段落したような気持ちを持っています。その反面更生の道をもう一度与えてもらいたいと思います。まだ若いし体力もあるので、やり直しがもう一度できないかと考えました。今後のことはよろしくお願いします』と述べて更生への意欲を示している。  第二に被告人は一九六六年(昭和四一)に前刑で服役中、当初は行刑成績が悪かったが、一九七五年以降は積極的に被害者の慰《い》藉《しや》につとめるなど反省の態度を示し、また他の囚人から殴打されても我慢をし、所内の珠算教育を受講したり、工場における作業成績も好転するなど、向上心が窺《うかが》われるようになり、その結果刑期を二年余り残して仮出獄した実績がある。このことは熊本刑務所作成の捜査関係事項照会についてと題する書面に記載されており、第一審判決もこれを認めている。  右の事実は、被告人がその気になれば十分に改善し得る可能性を示すものである。  第三に被告人は酒癖が悪く酒を飲んでは他人に迷惑をかけたり、犯罪を犯したりしたが、自ら酒癖を矯正しようとして、一九六四年(昭和三九)九月ごろ大分精神病院に入院し治療を受けた事実がある。このことは第一審判決も認めるところであり、被告人に自ら改善の努力をする意欲あることを示すものである。  第四に被告人は一九八〇年(昭和五五)一月二六日付お詫び状お悔み状と題する書面を御庁経由で弁護人に寄せ、お詫びとお悔みの趣旨が述べられているこの書面を、被害者の遺族に届けるよう依頼した事実がある。このことは被告人が被害者の遺族に謝罪の意を表していることを示すものである。  してみると被告人が原審において生命に対する執着から自己の責任を軽減しようとする言動があったとしても、その一事をもって被告人に反省の情が乏しいと判示する原判決はいささか酷に過ぎると思料される。  よって原判決の破棄を求める次第である」    親類(兄)はいるが、いっさい面会していないようす。自力で再審請求をしているらしいということも聞くが、実際のところはわからない。  連続企業爆破事件 大道寺将司(48) 東京拘置所  仲間たちと東アジア反日武装戦線〓“狼〓”を名のり、連続して企業爆破を行った。一九七四年(昭和四九)八月三十日、東京都千代田区丸の内の三菱重工本社ビルに仕掛けた、手製の大型爆弾が爆発し、死亡八名、負傷者三八〇名あまりを出した。  東アジア反日武装戦線が、他の新左翼の各派と異なる点は、国家権力そのものを対象とするのではなく、戦前、戦後を通じたアジア諸国への「侵略企業」を攻撃対象とした点に特徴があった。  一九七五年五月、メンバーは警視庁に逮捕されたが、七七年九月末、日本赤軍が日航機をハイジャックして、バングラディシュのダッカ空港に強制着陸。日本赤軍の要求で収監中の被告ら六人が超法規的に釈放され、出獄した。このときの日本赤軍のメンバーのうち、泉水博は八八年六月にマニラで逮捕され、九五年三月二三日に浴田由紀子も逮捕された。ほかに佐々木規夫と大道寺あや子の二人には逮捕状が出され、国際手配中である。二人はレバノン周辺で活動していると聞いた。  狼グループのリーダーであった大道寺将司は、八七年三月二四日に死刑が確定し、正しくは保安房というのだが、通称自殺房と呼ばれる独居房の住人となっている。読書をしたり、待遇改善などを求める民事訴訟の資料づくりなどに明け暮れる毎日だといったらいいだろうか。 〓“自殺房〓”には突起物はいっさいなく、窓も半分は鉄板でおおわれているので、夏の暑さといったら他に例えるものがない。そのうえ看視カメラで始終見張られている。あげくに、隣房は両隣とも空房になっていて、親しき隣人さえつくれない。  個別処遇と呼ばれるこの処遇を受けている死刑囚は、東京拘置所の死刑囚のうちの半分以上。集団処遇を受けられるのは、死刑廃止運動をしている人とはいっさいつきあわず、東京拘置所のいうことを素直に聞きいれ、いっさいの訴訟も起こさず、ただ〓“お迎え〓”の来るのを待っている、死刑囚だけだ。  けれども、そういう従順な死刑囚が二九人のうちの半分ちかくいるというのも、納得できない事実である。  自殺房の住人の大道寺将司には直接きくわけにいかないので、お母さんに依頼して、近況をお聞きしたいとつたえてもらった。  ところが、なにをどうまちがったのか、こんな手紙をもらった。    ぼく自身がどんな生活をしているかのまえに、東拘全体の流れをまず書きます。  平日(月〜金)は、朝七時起床。七時一五分ごろ点検。その後、朝食。午前一一時一五分、お茶が配られ、一一時三〇分ごろ昼食。午後三時五〇分お茶が配られ、四時ごろ夕食。四時三〇分ごろ点検。五時、仮就寝(布《ふ》団《とん》を敷いて寝てもよいということ)。九時減燈。土、日など休日は、起床時間が三〇分遅くなるので、朝の点検、朝食もそれぞれ三〇分強遅くなりますが、他は同じです。なお、昼食後、午後〇時一〇分から一時のあいだは毛布だけを使って横になることができます。それ以外の時間は医者の許可がなければ、座っていることを強いられます。  それから、七月〜九月を除く平日のうち、火と金が一五分間の入浴で、月、水、木と三〇分間の戸外運動があります。七〜九月は、月、水、金が入浴。戸外運動は火、木のみ。ぼくの場合、戸外運動は朝と午後の最初、つまり、午前八時一五分と午後一時に交互に実施されます。たとえば月が朝なら水は午後、そして木はまた朝という具合です。これは死刑が確定してからで、同じフロアの人たちをいっしょにしないためのようです。もちろん、入浴も運動も単独です(これは未決のときから二〇年変わっていません)。  さて、ぼく自身のことですが、起床チャイムが鳴る前に起きだして本を読んでいます。そして、チャイムが鳴ったら急いで掃除をし、点検、朝食が済んだら、外国語(英語、朝鮮、韓国語)の勉強をはじめます。戸外運動のある日は運動から戻ってきてからになりますが、午前中は外国語です。途中、一〇時前に室内体操のテープが流れるので(午後にも一度あります)、ストレッチ、腕立伏せ、腹筋などの運動をし、冷水摩擦もします。そして昼食前に、畳をぞうきんで拭《ふ》くなどていねいな掃除をします。自殺房で空気の流通が悪く、埃《ほこり》っぽいこと、また、梅雨期から秋までの間、湿気で畳に白カビがはえるからです。  午後は、中で購読している朝日新聞や、差し入れてもらったパンフレット類、また訴訟記録(含む民訴)や本を読みます。三時まえにヨガなどの運動をやり、その後、下着類の洗濯をします。面会の呼出しがあれば三〇分ほど出掛けることになります(これは午前中の場合もあります)。  夜は日課としているカード書きをし(最近は封書のこともありますが)、必要があれば弁護人や裁判所にも書き、三〇分間ほど語学の勉強をし、腰痛防止のためなどの体操をします。そして、減燈後は横になって本を読み、一一時ごろまでには眠ります。  集中的に裁判用の書類を作成しなくてはならないか、体調を崩した時を除いて、ほぼ三六五日こんなような生活を送っています。  では、野鳥や猫はいつ見ているのかと問われるかもしれませんね。毎食後、食器を洗い、そして歯を磨く(歯磨粉をつけずにブラッシングするだけですが)間に、また、午後活字を追うのに飽きると外を眺めています。  それから夜、録音されたものですが、NHKのニュースとニュース解説を二五分ほどきいています(ラジオは平日午前三〇分=これは録音テープ)、午後三〇分、夜五時〜九時、休日は午前二時間、午後三時間、夜は五時〜九時の間流れています。  ニュースと大相撲、のど自慢それから、月曜〜水曜の夜にNHKのクラシック以外はほぼ民放。クラシックやBGM風のものは聴くことがありますが、たいていは隣房からの音を聴くとはなしに聴くというところです。  こんなところかな。  これから『孫《そん》子《し》』を読みながら寝ることにします。それではまた。  連続企業爆破事件 益永利明(旧姓片岡)(47)東京拘置所  企業爆破の口火を切り、千代田区丸の内三菱重工本社ビルに爆弾を仕掛けた東アジア反日武装戦線、狼グループは、当時の新左翼関係者からも強い批判にさらされた。中心メンバーの益永利明(旧姓片岡)と、大道寺将司は死刑が確定、事件以来昨年(一九九四年〈平成六〉八月三〇日)で二〇年が過ぎた。  狼グループが三菱重工ビルに仕掛けた手製の大型爆弾の爆発は、八人が死亡、三八〇人が負傷という大惨事をまねいた。ちょうど昼休みで人が混みあう時間帯でもあり、上空から降りそそぐガラス片を浴びて、血まみれでうめくサラリーマンやOLの姿は、二〇年過ぎたいまも脳《のう》裡《り》から消え去ることはない。私の近所のふぐ料理屋の主も、当時は丸の内界《かい》隈《わい》のすし屋のお兄さんだったが、「すんでのことで生命を奪われるところだった」と、繰り返し語るのには、よほどの恐怖を覚えたからにちがいない。出前で三菱重工ビルに行っていて、あの惨事にあったのだ。「はじめは爆弾が仕掛けられていて、それが爆発したんだとは知らず、とにかく出前を早く届けなければ、と思いながら、恐ろしさと何がどうなったのかわからず、全身がガクガクふるえていました。だってまだ爆発するかもしれなかったし……とにかく、あの状況は説明しきれませんよ」という。  反日武装戦線は、このほかにも「大地の牙《きば》」「さそり」の各グループを結成し、三井物産や鹿島建設など一連の企業爆破事件を起こしたが、一九七五年(昭和五〇)五月警視庁にメンバーが一斉逮捕された。その後、ハイジャック事件などによる超法規的措置で釈放された三人が、日本赤軍に加わったほか、一人が逃走中である。    益永利明はいまは昔日の青い一《いち》途《ず》さはもうない。二〇年が過ぎたということは、二〇歳年輪も加算されることだ。二〇歳代では考えられなかったことが、いまでは静かに考えられるのだろう。  自殺防止のために突起物がまったくない「保安房」と呼ばれる独居房で、ひとり静かに読書にふけることが多いようだ。  獄窓で書きつづけている日記を少し紹介してみよう。   ▽一一月三日(木) 雨。読売新聞社の憲法改正試案というのが公表された。予想に反して、穏当な内容だと思った。  憲法裁判所の新設というアイデアはおもしろいが、制度的に複雑になりすぎないだろうか。  最高裁判事の国民審査を廃止するのは疑問。現行制度の実効性が低いなら、もっと効果のある制度を考えるべきで、廃止すべきではない。  憲法改正のハードルを低くするのも疑問。とくに、小選挙区制の下では、第一党の独裁的な政治に道を開く危険があると思う。  それ以外の改正内容は、現時点でのものとして、おおむね妥当といえるのではないだろうか。 ▽一一月四日(金) はれ。北海道で初雪。東京でも平年より三日早く木枯し一号が吹いた。 ▽一一月七日(月) くもり。父から手紙が届いた。死刑廃止議員連盟が村山首相に死刑の執行停止を要望したとの新聞記事(朝日)を書き写して送ってくれたのだ。 ▽一一月八日(火) はれ。立冬。看守が一斉に冬服に衣替えした。 ▽一一月一一日(金) はれ。午後二時から親族訴訟の証拠調べが東拘(東京拘置所のこと)内で行われた。今日は、みゆきも来て、外で応援していると川村弁護士に教えられ、大いに張りきって水上証人への反対尋問に臨んだ。水上氏はかなり〓“裁判ズレ〓”しており、核心を外した答えが多くて、尋問の成果はいまひとつだったが、これまで国側が私をことさら危険人物として印象づけようとしてきたことに対する、ある程度の反証はできたのではないだろうか。 ▽一一月一二日(土) はれ。きのうの裁判の疲れだろうか、首と腰が痛い。年だね。 ▽一一月一四日(月) くもり。冷えこみが厳しい。陽子姉が近日中に面会に来る予定とのことなので、面会許可を所長に申請した。会えるといいがなあ。  みゆきから食料(みかん5、味一番、白桃缶、アスパラ缶)と切花(ピンクのカーネーション、白いキンギョ草、カスミ草)の差入れがあった。一一日に差入れ屋に頼んでくれたらしい。どうもありがとう。今年のみかんは甘くておいしいね。 ▽一一月一五日(火) はれ。きのう所長に申請した陽子姉の面会は、残念ながら不許可だった。第三次子供面会訴訟に関する証人申請の打ち合わせの必要もあり、今度こそはと期待したのにな。がっかりである。  一一日にみゆきが差し入れてくれたパンフ類を落手。花束通信9〜10月号は今回もだめだったが、〓コスモス通信9、〓みみずの会つうしん31、〓臭覚通信25、〓情報センター通信160、〓EX—TX4、〓CPRニュースレターノ、〓救援306、〓アサヒタウンズ11/12、〓人民革命24、以上は抹消もなく交付された。各パンフを提供して下さるみなさん、いつもありがとう。 『コスモス通信』で、長谷川敏彦さんの息子さんの死を知った。彼の悲しみは、死刑囚という立場だからこそ一層深いはずだ。つらいだろうけれど、耐えて、生き抜いてほしいと思う。 ▽一一月一六日(水) はれ。みゆきが差し入れてくれた『火の起源』という本が手《て》許《もと》に来たので、さっそく読了した。東アジアを題材にした青年座の劇の脚本と聞き、期待していたのだが、読んでみて、心にくいこんでこないのはなぜだろう。  黒木先生の教《きよう》誨《かい》に出て、讃美歌五二一番を歌い、ルカ二三章三九—四三節を読む。  先生は、「仏教は生から死、キリスト教は死から生へ向かうのです」と言われたが、仏教は生と死のくり返し(輪《りん》廻《ね》)からの解脱こそが救いであると説くものであって、死をすべての終りと見るものではないだろう。仏教を批判する意図で言われたものではないと思うが、少し淋しい気がした。 ▽一一月一七日(木) はれ。父から冬用の下着が送られて来た。キルト加工がしてあって、とても暖かそうだ。 ▽一一月二二日(火) はれ。選挙権訴訟の弁論期日であるが、出廷不許可。  今日は入浴日だが、蒸気の出が悪く、私の順番が来たとき、とうとう蒸気が止まってしまった。看守は大慌てである。おかげで、いつもより少し長目に湯につかることができた。ひどくぬるい湯だったけれどね。 ▽一一月二三日(水) くもり。勤労感謝の日。昼食にまんじゅうが一個つく。  若山牧水の歌集(岩波文庫)を読んだ。初期の作品がいいね。旅を愛した歌人だから海の歌も沢山あるが、その中から少し。   けふもまた変ることなきあら海の渚《なぎさ》を同じわれがあゆめり     松おほき波の鎌倉の古山に行かばや風のなかに海見む     浪、浪、浪、沖に居る浪、岸の浪、やよ待てわれも山降りて行かむ ▽一二月二日(金) はれのちくもり。回覧の新聞が、いつもは昼前にまわってくるのに、今日は夕方になってようやく回ってきた。一日の夕刊と二日の朝刊の両方とも、大きく抹消されている。死刑の執行があったのだろう。一人は仙台か? 前回の執行では、当局は、東拘に関する部分だけを抹消したが、今回は完全抹消であり、一切、我々死刑確定者に執行の事実を知らせまいとしている(ラジオのニュースも、カットの跡が判らないようにカットしているようだ)。法律の定めがあるとはいえ、彼らのしていることは、人間として恥ずかしく、悲しいことである。 ▽一二月三日(土) はれのちくもり。今日も回覧新聞は夕刊、朝刊ともに大きく抹消されている。看守たちの顔つきも、どことなく暗いようだ。 ▽一二月五日(月) はれ。澤地さんが断食をしているようだが、今回の執行と関係があるのだろうか。顔色は良いので健康上の問題はなさそうだが……。  村山首相はきのう早明戦〈ラグビー〉に興じていたらしい。その心中はどのようなものであったか。本当に心からラグビーを楽しむことができたのだろうか。 ▽一二月七日(水) はれ。朝、父が面会に来てくれた。心配だったのだろう(しかし執行のニュースのことは、どちらも口にしなかった)。弱った足をかばいながら、杖《つえ》をついて面会室を出てゆく父の後姿に、心の中でわびた。この父より先に死ぬ親不孝だけはすまいと思うのだが、残念ながらすべてはアナタ任せである。 ▽一二月八日(木) はれ。定期転房があった。行先は冬の日当りが最低の、暗くて寒々とした房である。〓“自殺防止〓”を口実にした当局の報復的処遇は、私が生きている限りつづくのか。うっとうしいことである。 ▽一二月一四日(水) はれ。安島(小山)幸男君の親子面会訴訟は、結審から一年も経って、きのう棄却判決が下された。しかも、なんとその前に彼が処刑されていたとは……。権力のやることは実に卑劣だね。 ▽一二月一五日(木) はれ。午後、黒木先生の教誨があった。実は、安島君は黒木先生の教誨に出席したことがあるようなので、今回の処刑に黒木先生が立ち会ったのではないかと思い、私は先生に会うのがつらかった。今日、そのことを先生に直に確かめるわけにはいかなかったが(先生としても、立場上、話せないことだろうし)、私の印象では、先生はいつものように明るかった。処刑の立ち会いはしなかったのかもしれない。いずれにしても、教誨師というのはつらい立場だなと思った。 -------------------------------------------------------------------------------    直 訴 状   一九九四年八月一七日 東京都葛《かつ》飾《しか》区小《こ》菅《すげ》一丁目三五番一号      東京拘置所在監中   出願人   益 永 利 明 内閣総理大臣 村 山 富 市 殿     出願の趣旨  死刑囚である私が家族とすみやかに会うことができるよう、首相の権限によって適切な措置を講じて下さるようお願いします。   出願の理由 一 私は、日本は二度と侵略戦争をしてはならないとの思いに動かされて、数人の同志と共に、 〓東条英機ら七名のA級戦犯を殉国の志士として祀った「殉国七士の碑」(熱海伊豆山)を一九七一年に爆破し、 〓朝鮮に対する日本の植民地支配を免罪するものとして韓国民が厳しく批判した日本人植民の慰霊堂(鶴見総持寺内)を一九七二年に爆破し、 〓日本のアイヌ侵略を正当化するものとしてアイヌの人たちが厳しく批判した「風雪の群像」(旭川)と「北大北方文化研究施設」(札幌)を一九七三年に爆破し、 〓昭和天皇の戦争責任を問うべく一九七四年に天皇特別列車の爆破を企て、 〓戦前・戦中に政商として日本のアジア侵略に加担した三菱重工などの大企業を一九七四年から一九七五年にかけて、連続的に爆破するなどして、一九七五年に逮捕され、一九八七年に最高裁で死刑判決が確定した、現在四六歳の死刑囚です。 二 私は、多数の死傷者を出した三菱重工爆破事件の反省に立って、一九七九年を境に、暴力を肯定する一切の思想と訣《けつ》別《べつ》しました。現在の私は、思想的には民主的社会主義の立場に立つと共に、余生のすべてをかけて己れの罪過を償う決意をしているものです。 三 私は、未決囚のとき、アムネスティ・インターナショナルの会員で地域の反戦平和運動や死刑廃止運動に参加している女性(当時六〇歳で、盛岡市に在住)と親しく交流するようになり、一九八三年に養子縁組をして彼女の息子になりました。それ以後私たちは、面会や手紙のやりとりを通じて、家族としての心情を深めてきたのです。  ところが、一九八七年四月に私の死刑判決が確定すると、東京拘置所当局は、「死刑廃止運動に参加している者との接見交通は死刑確定囚の心情の安定に資さない」との理由で、私と養親族との間の接見交通(面会や文通)を一切禁じてしまったのです。それから現在までの七年間私は、愛する養母やその家族に全く会うことができず、手紙のやりとりもできない状態の下で、明日の生命も知れぬ死刑囚としての日々を送ってきました。 四 在監者の処遇を定めた監獄法は、九条で、死刑囚の処遇は未決囚に準じる旨を定めていますし、接見や信書の取扱いを規定した同法四五条と四六条は、受刑者と被監置者を除くすべての在監者の外部交通を広く許すことを明記しております。また、三次にわたって国会に提出され、いずれも廃案となった刑事施設法案は、死刑囚の外部交通を現行法よりも制限する内容となっていますが、この法案でさえも、死刑囚と親族の間の交通は制限しないことを明記しているのです。したがって、死刑囚である私と養親族の間の接見交通を許すことは法律上も十分に可能なことであると思われるのです。(国連規約人権委員会は、昨年一一月五日付で日本政府に送付した意見書の中で、死刑囚の外部交通に対する現行の過度の制限は国際人権B規約に違反するとの判断を示し〈同意見書12項〉、日本政府にその改善を勧告しております〈同18項〉。日本国が締結した条約を誠実に遵守すべき義務を負う行政府の長として、首相には、ぜひ右の勧告を考慮していただきたいと願うものです) 五 なお、私の共犯者とされ、私と同時に死刑が確定した大道寺将司君は、死刑廃止運動に参加している養親族との接見交通が許されています。当局がこのような差別的な取扱いをする理由は不明です。 六 私は、養親族との接見交通により、自分の罪過に対する反省をさらに深め、被害者への償いを果たしたいと願っています。山積する諸問題を抱えて激務のなかにある首相のお心をわずらわせることは本意ではありませんが、施政方針の中で人権の尊重を掲げられた首相の言葉にすがる思いで、この直訴に及びました。 ------------------------------------------------------------------------------- ※村山首相からの回答は一九九五年九月におよぶ現在も、ない。  名古屋保険金殺人事件 井田正道(52) 名古屋拘置所  一九七九年(昭和五四)一一月から八三年の一二月にかけて、愛知県と京都府で交通事故を装い、生命保険をかけた知人三人を殺害した。八四年五月に逮捕され、八五年一二月二日名古屋地裁で死刑判決。八七年三月三一日名古屋高裁で同じく死刑判決。上告はせず刑に服した。共犯に長谷川敏彦がいるが、こちらは上告をし、その後死刑が確定した。  死刑確定以降の詳細はわからないが、名古屋拘置所にいることはたしか。  早百合さん誘拐殺人 木村修治(45) 名古屋拘置所  一九八〇年(昭和五五)一二月二日、金城学院大学英文科三年の、戸谷早百合さんを誘拐し、身代金三千万円を要求したが失敗。木村修治は早百合さんを絞殺のうえ、遺体は木曾川に捨てた。明くる年の八一年一月二〇日に逮捕され、八二年三月名古屋地裁で死刑判決。量刑不当を理由に控訴するが八三年一月に名古屋高裁で死刑判決。八七年七月九日には最高裁でも死刑判決が下される。    戸籍上で木村修治の姉になっている、作家の日方ヒロコさんに、最近の木村の生活ぶりをたずねてみた。  日方ヒロコさんとは、木村の事件の起きるまえからのつきあいがある。木村が事件を起して死刑判決を受けた後に、姉と弟になると聞いたとき、正直いって、どうして? という気持ちだった。  私は、木村修治の事件は、死刑にならないと思っていた。被害者は大学三年だということなので二一歳にはなっているだろう。幼児誘拐殺人とはわけがちがう。しかも初犯である。これまでの判例でも、たぶん重くて無期懲役、せいぜい一〇年から一五年ぐらいだろうと、考えていたのだ。  ところが、一審で死刑になり、判決直後に親しい私の友人にたずねてみると(その友人は木村とは何度も面会していた)、木村自身も「死刑になるのが自分にできる最良の手段」であると考えているようだ、という。  おそらく、そう考えるのではないかと思っていたが、やはりそうだったのか、と変に合点したのを思い出す。そのときは一審の判決であり、控訴審ではかならず逆転の判決が出るだろう、と、なんの裏付けもないながらも、確信していた。  それというのも、木村の裁判を取材していた私の友人の報告は、当時、木村のことを書きたてるマスコミとはちがっていたからだ。木村修治という人間をどのようにとらえるかがマスコミであるというのなら、あのときのマスコミは木村を悪人に仕立てることが使命であるかのようだった。来る日も、来る日も、木村修治は書きたてられていた、「極悪非道」、「冷酷無比」、「同情の余地なし」、などなど、と。  しかし、私の友人は、「裁判で見る限り、木村はそんな悪党ではない、悪党でないから、ああいう事件をおこしたんだ」といった。私は、それは当たっている、と思った。むろん、木村修治なる人間をまったく知らない。しかし、誘拐するのにもっとも易《やさ》しい幼児を選ばなかったことでも、「冷酷無比」は当たらないのではないかと思っていた。  そのへんのことを日方さんにたずねると、「少しまえになるが、京都新聞に書いたものがある」といって見せてくれた。    死刑囚のKと面会しはじめたのは、一審判決直後からだった。  当然のことながら、被害者の父の憤りの激しさに、彼は死刑になるのが一番よいのだと自分に言い聞かせているような時だった。その彼が猛然と学びはじめた動機は何であったか。のちほどKの手記によって、知ることとなる。彼の心の奥深くに閉じ込めていた抑圧の強さ、自分の出自の地名が人の口の端にのぼるだけで、故知れぬ蔑《さげす》みの対象になることは物心つくころから感じていた。しかし構造としての差別と捉えかえす出会いがなかった。自分の努力で信用される人間になれば、克服できるものと思って骨身を惜しまずに働いた。  生後四カ月で病死した父、彼は自分の子には淋《さび》しい思いをさせたくないとよく働いた。「子は甘やかすばかりでは駄目だ」と早朝の川の土手を走って、鍛えた日を思う。  お年寄りが道端にしゃがんでいると、思わず近寄って声をかける。「Kはわしらと一緒につまらん遊びもしたが、一線を越えそうになると体を張ってでも止めるのはあいつだった。成績は飛び抜けているわけではなかったが、やろうと思えばできるやつだとだれもが知っていた。Kが教師になりたいと言った時、なれるだろうとわしらは思うとった。Kがこんな取り返しのつかないことになるなんて……」  Kを知っている親しい友人や、職場で知り合った同僚たちは、センセーショナルな逮捕報道をそれぞれの家庭のテレビで追いながら、親子で号泣していたという事実があちこちで起きていた。  何故こんな取り返しのつかないことをしてしまったのか、自分自身でさえ釈明のつかないまま黙し続けていたが、控訴審に入って弁護士にすすめられて書いた上申書が、手刷りのパンフレットになり、その手記に心揺さぶられた一青年が、『水平社宣言』を差し入れた。  七〇年も前、自らを誇りうる人間として格調高く差別からの解放を宣言した先達がいた。もし自分がそのような歴史を知っていたとしたら、もっと違った生き方ができていたはずだ。  砂漠で命の水脈を探りあてたように、彼はいま解放の思想を吸収していきつつある。自分のアイデンティティーを解き明かすことのできた喜びは、体中に戦《せん》慄《りつ》が突き抜けるほどのものだったという。  事件とは直接かかわりがあったわけではないが、自立しようとする節目で足をすくわれるような差別に出会う。本当の自分を生きたいと触針を、体いっぱいに張って働いていたとき、出会えなかったこの先達の声を、いま、彼は獄中で生き直そうとしているのだ。 「Kは生きて罪を贖《あがな》わなければならない。彼が獄を出たとき、一直線に被害者の墓前に行き、赦《ゆる》しを乞《こ》えるように、外にいる者が道を拓《ひら》いておかなければ」  これが有実の死刑囚と自らを呼ぶKと共に生きようとする、救援会の標《しるべ》である。     ※九五年一二月二一日、名古屋拘置所で、死刑の執行となった。  秋山兄弟事件 秋山芳光(66) 東京拘置所  一九八七年(昭和六二)七月一七日。強盗殺人、殺人未遂、詐欺で、最高裁判決は死刑。  芳光は兄太郎の経営する紙工所の経理を手伝ってきたが、その紙工所が倒産してしまい、兄弟ともに負債の整理や借財の支払いに追われるようになった。  芳光は兄の太郎と共謀して、妻に保険をかけ、交通事故に見せかけて自動車で轢《れき》殺《さつ》して保険金を詐取しようとして失敗し、つぎに芳光自ら多額の傷害保険に加入したうえ、太郎に殺害を依頼するが、それも失敗。しかし、その際の傷害につき、その事情をかくして保険金名下に額面六〇万円の小切手一枚を騙《だま》し取った。  さらに芳光は、工場経営者の佐藤安宏さんが裕福な生活をしているのに目をつけ、はじめから殺害して多額の現金を強取しようと考え、太郎と謀議を重ねた。  密輸貴金属を大蔵省関係機関から払下げを受けると偽り、現金一〇〇〇万円を用意させ、言葉巧みに太郎方に誘い出した。芳光は太郎との謀議のとおり、佐藤安宏さんのすきをついて、背後から頭部を野球用バットで数回強打し、昏《こん》倒《とう》すると頸《けい》部《ぶ》に物干用ビニールロープを巻きつけて緊縛し、その場で頭頂後頭部の陥没骨折を伴う脳《のう》挫《ざ》傷《しよう》により死亡させた。  佐藤さんが用意していた一〇〇〇万円のほかに、洋服のポケットからの二〇万円、計一〇二〇万円を奪取したものである。  死体は市川市内の宅地造成地内の土中に埋没させて遺棄した。    秋山芳光は六六歳になるが、元気に暮しているもようである。  殺人未遂事件など余罪については、すべてデッチあげにより主犯にさせられたといっている。兄が主犯だといっているが、その兄の太郎は無期懲役で服役中である。間もなく、仮釈放となって出て来るようであるが……。  女子中学生誘拐殺人、老女殺人 平田直人(63) 福岡拘置所  一九七八年(昭和五三)八月から七九年五月にかけて、住居侵入、強盗殺人、詐欺、窃盗、誘拐、殺人、死体遺棄などの罪状で八〇年一〇月二日熊本地裁で死刑、八二年四月二七日福岡高裁で死刑。八七年一二月一八日最高裁で死刑。  じっさいに犯した犯行は、平田直人が和歌山で起した勤務先の会社社長から、合計一五〇万円を騙《へん》取《しゆ》した事件をはじめ、その事件で指名手配されて、内妻とともに、長期間にわたる逃亡生活を送った一九七八年八月二〇日ごろから、七九年五月一六日ごろまでの約九カ月間に累行した、住居侵入、強盗殺人一件、誘拐・殺人・死体遺棄一件、住居侵入・強盗傷害一件、住居侵入・強盗一件、窃盗三件、詐欺一三件という、なんとも救い難い罪状がならんでいるが、しかし、当の平田直人はいずれも覚《かく》醒《せい》剤《ざい》使用中の事件だといって、再審請求を三度行ったが、いずれも却下されている。  最高裁のときの弁護士は村山廣二さんで、その後三度の再審請求も、その度ごとに指導している。村山弁護士が平田直人と会ったのは、最高裁のときだけだというが、それから盆暮れに大枚をカンパしているという。  少し古くなったが、一九九三年の手紙を借りてきたのでここに紹介しようと思う。平田には兄や姉がいるらしいが、ほとんど交流なしのようすなので、村山弁護士がなにくれとなくめんどうを見ているのだ。    ——人一倍御多忙で居られるのに、人生の落ちこぼれ者の私のことを、絶えず気にかけてくださって、また今回も御多分なる御恵金を届けて下さってありがとうございました。先生の御恩情になにひとつ報いることのできない私ですが、終生御恩情は忘却いたしません。本当にありがとうございました。  また、九日の午後一時過ぎより、覚醒剤の後遺症が出て例のごとく苦しんでいます。今回はまだ幻聴は出ていないので、その分、救われています。  東京でも、大阪、名古屋、そして福岡でも今回の四人の執行に対し、死刑廃止の会やその支援団体の方々が、抗議と今後の執行阻止の集会をしてくださっているニュースを知り、とても嬉《うれ》しく思っています。  福岡地裁小《こ》倉《くら》支部に於《おい》て、母娘ら四人を殺傷し、死刑判決を受けて控訴した人物がその控訴を取り下げて死刑が確定した事で、九大助教授が、控訴後すぐに弁護人を選出しなかったのは、裁判所の無責任である。そのため心《しん》懐《かい》不安定となり控訴を取り下げたのだ、と発言。福岡県弁護士会もこの件を取り上げて問題視して人権侵害に当たると、救済に取り組む態度で動き始めているとかですが、裁判所側は本人の意志で取り下げた事ゆえ、法の定める規定によるところであり、弁護人をすぐ選出決定は過去においても前例がない、と発言し、この問題点で裁判所と県弁護士会が争うようすとのことですが、国法という伝家の宝刀を真向上段にふりかざして裁判所側は認めないものと私は考えていますが、いずれにしろ死刑判決者に対しては朗報であり、一歩前進するものと思っています。——激変の平成五年も後一五日余で去ってしまいますが、その激動ゆえに私みたいな愚か者が増えているので、先生にはその救済に御多忙が二重三重となっていられることと思います。  寒暖の差のひどい今年の年末ゆえ、御風邪など召されぬようにくれぐれも御自愛くださることを祈り居ります。  よりよき新春を御迎えくださいますように。    一二月一六日 不一   平田 拝      ※九五年一二月二一日、福岡拘置所で、死刑の執行となった。  三連続保険金殺人 浜田武重(68) 福岡拘置所  一九七八年(昭和五三)三月から七九年五月にかけての保険金殺人事件で、八二年三月二九日福岡地裁で死刑判決、八四年六月一九日福岡高裁で死刑判決、八八年三月八日最高裁で死刑判決。  ということで死刑判決は出されたが、本人の浜田武重は二件については否定している。再審の弁護士を求めているが、まだ決まらないらしい。一九九五年(平成七)五月には自力で再審請求を提出した。  つぎに紹介するのは浜田が娘にあてて書いた手紙である。    前略  最近は冬らしく寒さが一段と厳しく感じておりますが、貴女《あなた》の方は風邪など引いておりませんか。  私は数日前から風邪を引きまして、今は大変苦しんで居ります。毎日鼻水がタラタラ流れ出してくるので、チリ紙をいくらでも使って鼻の頭も赤くなったままですよ。熱は少しあるだけでたいした事はありません。  今年も残り少なくなりましたが、貴女の方も何かと忙しくて大変でしょう。只《ただ》今《いま》回覧新聞を見せてもらいましたら、東京で死刑廃止運動としてシンポジウムが開かれた事が載っておりました。参加者が五〇人と少なかったそうですが、一八日は土曜日でまだ仕事に出ていた人もおられたので少なかったのでしょう。師走でもあるし個人的になにかと多忙な時ですからね。これからも大変と思いますが支援者の皆様に運動に頑張って下さるように貴女から宜《よろ》しくお伝えください。 ◎一六日に福岡弁護士会の人権擁護委員会の担当委員でおられる小宮和彦弁護士が、私に初めて面会に来てくださいました。とても嬉《うれ》しかったですよ。 ◎私の再審支援に対しては、できるだけの支援はするけど、全面的にはできないそうです。再審開始になると全面的にバックアップしてくださるそうです。 ◎私が以前から頼んでおりました死体写真の謄写だけは検察庁まで行ってカメラで台帳からカラー写真で写してこられたそうです。それを八枚私に差し入れてくださいました。とても感謝しております。 ◎これで私が準備に入る事になります。今は書類などの借り出しを頼んでおり、少しずつ整理していこうと考えております。来年三月頃までに裁判所に提出できるようにと思っております。 ◎そこで、貴女にお願いですが、この写真を七枚でよいのですが、複写して欲しいのですがいかがでしょうか。全部で七枚ですが、これを三倍に増やしたいのです。二十一枚になります。  裁判所、弁護士、貴女、私の分と四組を作成しようと思います。まだこれから先何回か再審ができればと思っているからです。 ◎この前から、貴女の方にお願いしております支援カンパの資金がありますと、私の方で社会の業者にお願いできるのです。  支援してくださる皆様も年末なので大変でしょうが、できるだけカンパしてくださるように貴女から重ねて頼んでみて下さい。いつも貴女にお願い事ばかりなので申し訳なく反省しております。どうかお許し下さい。二〜三万円あればたりると思いますので考えてください。 ◎あと十日で新年になりますが、私達も、これから正月までは、安心して修養生活が送られるので楽しみでもあります。そのかわり正月が終るとまた不安な毎日が続きます。今日もお願いかたがたこれで失礼しますが、皆様も体調には充分気をつけられてお過ごしくださるようにしてください。  今年も、あと一回の発信で終りますが、一年が終るのが本当に早いなあとつくづく感じております。さようなら。 草々     12月19日 お父さんより     前略  福岡市は初雪が二二日に降りました。クリスマスは好きでしたが、今日は午後から小雨が降りはじめております。  その後、貴女をはじめ、支援者の皆様もお元気でしょうか。街は正月前の買物で大変にぎわっている事でしょう。私も一年間無事に長生きできましたことを心から感謝しております。これで正月も安心して新年を迎えられます。  24日はテレビ観賞日でしたので、クリスマスの前夜祭の様子なども見られたので最高でした。  今日は、全国高校駅伝大会の試合を、午前中は女子の部、午後は男子の部をテレビで見せてもらったので最高の一日になりました。このテレビは、貴女も見ておられたと思いますが、男女とも仙台育英高校が初優勝をやりましたね。どちらもケニアの選手を二人ずつ入れていましたが、外人は強いですね。この外人のおかげで勝ったように思いました。  これで、今年の特別観賞のテレビは終りました。一年間とても楽しませてもらった事を当所に心から感謝しております。  12月30日から正月休みに入りますが、一月三日まで連日テレビ観賞をさせてもらえるので、左記に書いておきます。 ◎午前九時より午後九時まで見られます。VTRの映画が毎日一回午後一七時二〇分より一九時まであります。  12月30日は、つりバカ日誌パート5  12月31日は、グレイストーク  1月1日は、美味しんぼ(日・米)コメ戦争  1月2日は、ネイビーシルズ  1月3日は、デイワン世界滅亡最終兵器  右のとおりの予定が発表されたので楽しみに待っております。その他チャンネルは自由に見られます。 ◎31日の大《おお》晦《みそ》日《か》は、午前〇時一五分まで見せてもらえます。一年に一回、最大の楽しみになるテレビ観賞なので、これが最後の正月だと思って、しっかり見せてもらいます。 ◎元日は、群馬県で毎年実業団による駅伝大会があっていたので、今年もあると思うので楽しみです。 ◎二日、三日は大学生による、東京〜箱根の芦ノ湖までの往復の駅伝大会があるので、昼間はこれを楽しみに待っております。  12月29日まで房内作業があります。30日が総入浴。正月二日も同じです。四日より初仕事となっております。  三日までは、ゆっくり休養させてもらいます。その後は徐々に再審の準備に取組んでいきます。死確者にとりましては、来年も厳しい一年になるかもわかりませんね。  国会はいつもモタモタしているので細川首相も頭が痛いでしょう。審議を延長したけど成立するでしょうか? 不安がいっぱいですよ。私も風邪がよくなりホッとしております。これでよい新年を迎えられそうで喜んでおります。  貴女今年は多忙で大変だったでしょう。正月だけはゆっくり休養をとってくださいよ。そうしないと長生きできませんからね。  清井先生もお元気でしょうか、貴女から宜しくお伝え下さい。年賀状だけは毎年出しているので安心してください。  古田先生と鈴木さんもお元気ですか、いつも気になっておりますが、文通できませんので宜しくお伝えください。  死刑廃止の会、麦の協力会員の皆様にも宜しくお伝えください。それでは、今年一年間貴女に色々と大変おせわになりました事を、心から厚くお礼申し上げます。それでは来年また手紙でお会いしましょう。さようなら。  お父さんより  草々    福岡病院長殺人事件 杉本嘉昭(48)横山一美(42) 福岡拘置所  一人の被害者に二人の死刑判決。一九六四年(昭和三九)一二月以来で戦後一一件、きわめてめずらしいといわねばなるまい。事件は七九年一一月に起きたもので、このころは一人殺してもかならず死刑になるとは決まっていない、といってもいい時代だった。  そんなことを考えながら、横山一美の私選弁護士に電話できいてみた。 「私たちもずい分その点はがんばったのですが」  被害者一人に対して二人の死刑判決についての返事である。その後のことは、一九九三年(平成五)に「よく考えてみたい」といって、最高裁までの判決書を持って行って、それきりぜんぜん連絡がない、そうである。  また、共犯の杉本嘉昭のほうは、弁護士が死亡したので、再審のことはどうなったのか、くわしいことはいっさいわからない。  事件が起きたのは一九七九年一一月四日。八二年三月一六日福岡地裁小《こ》倉《くら》支部死刑判決。八四年三月一四日福岡高裁死刑判決。八八年四月一五日最高裁死刑判決。     ※九六年七月一一日、福岡拘置所で、死刑の執行となった。  女子中学生誘拐殺人 綿引 誠(56) 東京拘置所  一九七八年(昭和五三)一〇月一六日に事件を起こし、八四年四月二三日に最高裁で死刑判決が出た。最高裁の弁護人は、黒田純吉さんであった。死刑が確定してから、もう一〇年を経ようとしているが、黒田さんとは再審についての相談など、手紙のやりとりがある。  そのうちの三通を貸してくれたのでここに紹介しよう。  手紙のうち二通は一九九三年(平成五)に書かれたもの。残りの一通が九四年のものである。    暑中お見舞申し上げます。  一足早く訪れ、肌寒さを感じる日の多かった梅雨期でしたが、やっと明け、明けると同時に真夏日の訪れです。  その後、先生にはお変りなき事と推察申し上げます。  つきましては、三日の面会時にお尋ねした事件ですが、それは、平成元年一一月一三日、名古屋地裁豊浦支部に、身代金目的誘拐及び殺人罪で起訴された、愛知県豊橋市西松山町、喫茶店経営、浦山裕司氏の事件についてです。  平成元年一一月一四日の朝日新聞(朝刊三一頁)で、彼が起訴されたのを知って以来、裁判所がどのような判断を下すのか(昭和六〇年三月二〇日、原判決破棄、無期懲役に減刑となった梶原利行氏の事件に類似しているため)見逃すまいと常に気をつけて新聞を見ていました。  しかし、平成五年七月二八日現在、判決結果を見ておりません。  まだ地裁の判決は下っていないのでしょうか?  もし、お分りになりましたなら、再審請求時の参考資料にしたいと思いますので、是非、お聞かせいただきたくお願い申しあげます。  これから猛暑が続くと思います。  どうぞ御自愛下さいますよう、先《ま》ずはお願いまで。   平成五年七月二九日 綿引 誠     黒田先生へ    綿引が尋ねている浦山事件というのは次のようなものだ。    一九八九年一〇月一一日、愛知県豊橋市西山町の小林精さんの長女、美幸子ちゃん(8)=豊橋市立細谷小二年当時=が誘拐され、殺された事件。愛知県警捜査一課と豊橋署の特別捜査本部に身代金目的誘拐の疑いで逮捕された同市西松山町、喫茶店経営浦山裕司(27)=当時=は、「粘着テープで口と目、手足を縛ってトランクの中に入れた、すべてひとりでやった」と全面的に自供した。  浦山は一一日午後六時一四分から小林さん宅に再三にわたり電話をし、身代金を要求。一二日朝になって、再び電話し、「東海道線で浜松から豊橋へ戻る途中で、身代金を線路わきにほうれ」と指示。しかし警戒中の捜査員に見つかり追跡されて果せず、山中に逃げこんだが農道わきで脱輪。その後美幸子ちゃんを殺そうと、車から降ろして両手で首を絞め、ぐったりなったところを、車の中に積んでいたスコップで顔や頭を何度も殴打して殺した。    今日から九月ですが、相変らず暑い日射しがつづいています。  三〇日、お手紙とコピー紙拝受いたしました。早速調べていただき誠にありがとうございました。  浦山さんの事件は、間もなく四年になるので一審判決は下ったものと私は思っていました。三月に精神鑑定採用では、判決はまだ先になりますね。浦山さんが、高橋姓に変ったのには気づきませんでした。どうやら新聞を見落したようです。  私自身「誘拐」という文字が新聞に載る度、我が身につまされます。心にあった不満を養父母に打ち明けることが出来たら、話しあう心のゆとりがあったならと、ただただ悔いるばかりです。  これからは、いままで以上に注意して新聞を見るよう心がけますので、判決を見逃がすことはないと思いますが、何分とも、よろしくお願い申し上げます。  先はお礼まで。   平成五年九月一日 綿引 誠     黒田先生へ     拝復  一二月二一日、お手紙拝受いたしました。  身にあまる大変ありがたいお言葉をいただきながら、ご返事が遅れて誠に申しわけありません。  お尋ねの再審申立、近況についてご報告いたします。  再審申立につきましては、確定後、いつ執行されるかわからない恐怖心と、再審申立をする前に執行されはしまいかとの不安から、一日も早く先生方に訴訟費用をお届けし、準備に取り組んでいただきたいと思っております。  しかし、いまの私には、その経済的余裕がございません。でも一日も早くお届けできるように、自分なりの努力はしておりますが、なにせ不自由な身ゆえに、百パーセント自分の意志通り事が運べないのが悩みの種です。  それでも、身代金目的拐《かい》取《しゆ》、拐取者身代金要求の二つの罪名だけは、なんとしてもぬぐっていただきたいために、努力はし続けております。  実のところ、先生方には訴訟費用などを、いつお届けできるようになるのか分かりませんが、その時は改めてお知らせする所存です。  また、訴訟費用が作れないうちに執行されるようなことになりましたときは、神に見放されたものと思うほかはありません。  近況につきましては、一一月二六日(三ケ月法相によって死刑が執行された、大塚注)以降、しばらくの間ショックが残りましたが、従来の生活とまったく変わりない生活をつづけておりますので、どうぞご休心ください。  事後、すぐ、執行されなかった旨をご報告すべきでした。いたりませんで誠に申しわけございません。おわびいたします。  出来ることなら一一月二六日以降、現在に至るまで、詳細にお話ししたいのですが、固有名詞を使うことになりますので、残念ですがお話しできません。  死刑廃止につきましては、先生方のご尽力をはじめ、新政権に今後も大きな期待をしてやまないのはもちろんですが、九月二九日、死刑事件の判決の中で、「死刑制度の前提となる事実に重大な変化が生じていることに注目すべきだ」と補足意見を述べられた大野正男裁判官には感銘しました。勇気ある大野裁判官には、今後共大いに期待します。  また一二月一五日の「論談」(朝日新聞)で、西原春夫早大教授が述べられている「死刑猶予制度」案は素晴しく、死刑囚にとってこれまで以上にざんげ心を高め、我が身、我が心の矯正にいそしむものとなるに違いありません。    一一月三〇日には、三ケ月章法相は、死刑制度の存廃に関する世論調査の実施を内閣官房に要請する考えを明らかにしました。  前回の世論調査のときは、調査の時期的タイミングや質問方法(内容)に種々問題点があったようですが、今回はそのようなことのないようにお願いしたいものです。  同時に、今回の世論調査が、前回よりも国際的潮流に乗った変化ある結果になると、私は確信しています。  以上が私の近況でございます。    最後にはなはだ勝手なお願いですが、私に関する訴訟関係書類をお貸しいただけないでしょうか。もし、お貸しくださるのでしたら前に申しあげましたような経済的理由から、書き写しさせていただければと思っています。  ご多忙のところ申し訳ございませんが、ご一報いただければ幸甚に存じます。よろしくお願いいたします。 草々     平成六年一月二四日 綿引 誠     黒田先生へ  群馬二女性殺人事件 篠原徳次郎(68) 東京拘置所  一九五九年(昭和三四)に女性殺害で無期懲役で入獄していたが、仮釈放で自由の身となっていたときの事件。公判中に四七年の殺人事件を自供したが、こちらは時効が成立している。  一九八一年一〇月二日と八二年七月三日に犯行におよんでおり、八三年一二月に前橋地裁で死刑判決、東京高裁に控訴したが八五年一月に控訴棄却、八八年五月二〇日に最高裁で上告を棄却され死刑が確定した。     ※九五年一二月二一日、東京拘置所で、死刑の執行となった。  連続四人殺人事件 渡辺 清(47) 大阪拘置所  今年もいよいよ押しつまり、寒さも一段ときびしくなりましたが、弁護士先生や山際さん、国分さんはじめ、皆様方はお元気でしょうか。  先月(12月17日)は、遠いところ面会に来てくださり、まことにありがとうございました。  また、12月2日付のお手紙も12月6日に拝受いたしております。私の怠慢で長い間お便りも出さず、大変申し訳ありません。なにとぞご容赦下さい。  それにしましても、今年は三月と一一月に計七人の処刑という暗いニュースには気がめいります。私も心をひきしめまして、気構えをあらたに最後までがんばろうと思います。  ところで西村事件も再審請求にむけて、いろいろ準備を進めてくださっているそうで、とても嬉《うれ》しく思います。  皆様方には、いつもいろいろお世話になりまして、ご厚情心から感謝申し上げます。  なにしろ、古い事件でありますし、私の記憶もあいまいですから、本当に西村事件には難儀いたします。せめて、大森建設で働いていた日時だけでもわかればよいのですが、車(九人乗りくらいのバン)の事故を起こしたことや、前にも大森組で働いていて、私が三日ぐらい働いてから、また働きだした運転手の同僚との関係にも、嫌気がさして、三日か四日飯場にいただけでイヤになり、金ももらわず黙って西成に逃げ帰ってしまったのです。  最初、手配師が「オレは飯場の番頭や」といったので、私は人夫さがしに西成に来たときや飯場などではいつもの手配師のことを番頭さんと呼んでいたので、名前が判らないのが本当に残念です。  その後、西成に逃げ帰ってからは、大森組の番頭に会えば約束を破って黙って逃げ帰ったので、車の事故のことで文句をいわれるのではないかと思い、会わないように気をつけていました。  今にして思えば、黙って逃げ帰らずに、最初の約束の一五日間契約どおり働いておればよかったとつくづく思います。自分自身のいいかげんさが本当に腹立たしいです。  それにしても、西村事件は本当に証拠が少ないものです。面会のときに長谷川先生も言っておられましたが、犯行現場のスイッチの柱から、私の指紋が採取されて、証拠にしているのに、その照合結果という写真が添付されていないのが、全くおかしな話であります。  飯田事件では「現場指紋確認報告書」というのに、指紋の拡大写真がきちんと添付されています。それなのに、なぜ、西村事件では裏付けされたはずの指紋の照合結果の写真を証拠として図示しないのか、理解に苦しみます。  それに、死体の右手などから発見されたという毛髪と犯人の証拠関係についても、何ら説明していません。それでなくても、西村事件は証拠が少ないのに、私に少しでも有利と思われる証拠がすべて闇《やみ》の中というのでは全く困ったものです。  来年は、図子事件の再審請求をしてから、四月でまる二年になりますので、裁判所から何か連絡があるかもしれませんね。  もし、連絡がありましたら、即時抗告に三日しか猶予がないそうですので、すぐ電報でお知らせいたします。図子事件は私に良い結果になればと思います。  再審は何かと制約があって厳しいものですが、真実は闘わずして勝利なしですので、とにかく最後までがんばるだけです。  今回こうして再審の申立てが出来たのも、弁護士先生はじめ山際さん、国分さん、向井武子さんなど多くの皆様方の努力によってでありますから、感謝の念で一杯です。  今後ともどうぞよろしくお願いいたします。では、本日はこれにて失礼いたしますが、寒気きびしき折柄、皆様くれぐれも御自愛ください。   一九九三年一二月二〇日 渡辺 清     弁護士 長谷川 純様    P・S 短歌同封致します。  無知ゆえに犯さざる罪も背負わされ真実《まこと》は強しと縋《すが》る再審    冤《えん》罪《ざい》を叫ぶ声にも力なく人を殺《あや》めし事実もありて    限りある生命に思いの至るとき処刑を伝うるニュースは暗き    再審請求資料 1 請求人の訴追された事件  〓中本事件(大阪地方裁判所昭和四八年(わ)第一七五九号事件)   請求人が昭和四八年三月二〇日、中本澄代を、パンティストッキングで絞殺し、現金二万二千円等を強取したとして、昭和四八年五月二八日に起訴された事件。  〓西村事件(大阪地方裁判所昭和四八年(わ)第二三六五事件)   請求人が、昭和四七年四月一〇日、西村師子をパンティストッキングで絞殺し、現金二千円を強取したとして、昭和四八年七月六日起訴された事件。  〓図子事件(大阪地方裁判所昭和四八年(わ)第三三八〇号事件)   請求人が、昭和四二年八月五日、図子邦夫を果物用ナイフで刺殺し、現金二〇〇円を強取したとして、昭和四八年一〇月九日起訴された事件。  〓飯田事件(大阪地方裁判所昭和四九年(わ)第二号事件)   請求人が、昭和四二年四月二三日、飯田たかをタオルで絞殺し、現金約三万五千円を強取したとして、昭和四八年一〇月二七日に起訴された事件。   2 判 決  〓昭和五〇年八月二九日 第一審判決(無期懲役)  〓昭和五三年五月三〇日 第二審判決(死刑)  〓昭和六三年六月二日 上告審判決(死刑)   3 再審請求を求める事件   西村事件   図子事件   今回は図子事件を対象とした。   4 請求人の自白   請求人は、昭和四八年六月頃、図子事件・西村事件を自白し、その後昭和五三年五月三〇日の第二審死刑判決がなされるまで公判廷においてもその自白を維持し続けた。   ところで図子事件では、図子事件の犯行と請求人を結びつける直接的証拠は全くなく、また秘密の暴露もなく、従って図子事件と請求人を結びつける証拠は自白しかない。そこで、自白の信用性が、図子事件が冤罪であるか否かの決め手である。   5 自白の内容   請求人は、犯行当時、大阪で日雇いの現金仕事をしていたが、昭和四二年八月四日、所持金がなくなったので小遣い稼ぎに喝上げでもしようとして、午後三時過ぎ果物ナイフ刃渡り一〇センチメートルを買い、天《てん》王《のう》寺《じ》公園で夜のふけるのを待った。請求人は、オカマを喝上げしようとして、茶《ちや》臼《うす》山《やま》の藤棚のあるところで待っていたところ、被害者に会った。被害者から話しかけてきたので、被害者も多少は金を持っていると思い、被害者を喝上げする決心をして安居神社裏へ連れ込んだ。請求人と被害者は神社の横か裏側の木の繁ったところに神社を背にして二人で並んだ。そこで、二人は世間話をしていたが、被害者が請求人の性器を触ったことを契機に喝上げしようとし、ナイフを突きつけた。被害者が逃げようとしたので、逃がすまいとしたところ、被害者が倒れナイフの先が被害者の左のどに突き刺さった。その後、請求人はその場で被害者を数回刺し、被害者のズボンを脱がし、小銭入れをとった。   6 新証拠   平成四年三月一五日付鑑定人横浜市立大学法医学部助教授津田征郎作成の鑑定書   7 再審請求の内容   凶器とされたナイフは、刃渡り九・五センチ、刃先端から柄までの長さが一〇センチのものである。本件の致命傷の創深が一二センチあることが問題となった。  〓 被害者の致命傷の成傷凶器との矛盾   a松倉豊治の昭和四二年八月二五日付鑑定書    「右損傷のうち本件致命傷である右前胸部刺創を発起させる凶器は、長さ一二・〇センチ乃《ない》至《し》それ以上先端より一二・〇センチの部迄《まで》の幅最広約三・九センチ乃至それ以下の刃背のそれ程厚くない片側刃性有尖鋭利の刃物と認められ、具体的には右条件に適合する刺身包丁乃至はこれに類する刃物が適当と認められる」   b松倉豊治の公判廷における証言    「この刃物が本件の凶器として十分に可能であるとは言いにくい、むしろかなり疑わしいというふうに考えるのが妥当である」   c津田征郎の鑑定    「本件ナイフにより、右前胸部刺創及び左心房右側面の致命創が形成される可能性はきわめて少ない」   cの理由として    〓胸部の刺創で、刃創長が刀長より長い場合でも、その原因は刃物を柄まで胸部に押しつけることによって、体表がへこむことによると考えられるが、このような場合は体表に柄の割面の圧《あつ》迫《ぱく》痕《こん》がつくはずである。    〓刀創の最深部である左心房右側面に三・五センチの刃傷があるが、本件ナイフの剣先で深部にこのような切創を形成することができない。   〓 創傷の位置をみると、深い創傷は前胸部と頸《けい》部《ぶ》の右側にあり、正面から刺傷したとすれば、右手で刺傷するということは考えにくい。     〓 請求人の自白によれば、血痕は死体の周辺の四、五歩の所に存在するのみで、他の場所には血痕は存在しないはずである。    しかるに、現場に至る周辺道路には点々と血痕が付着しており、請求人の自白と全く合致しない。  神田ビル放火殺人事件 石田三樹男(47) 東京拘置所  一九八一年(昭和五六)七月六日に起こした事件で、被害者を二人出している。八二年一二月東京地裁判決死刑、八四年三月東京高裁控訴棄却、八八年七月最高裁上告棄却、死刑確定。    拝啓  このところ、梅雨明けを思わせる天気で、比較的過しやすい毎日でございます。  ここ、拘置所の庭にもあじさいが色とりどりに咲いていますが、やはりあじさいには雨がよく似合います……何か淋《さび》し気な花でございます。  川上先生には大変御《ご》無《ぶ》沙《さ》汰《た》致しておりますが、如《いか》何《が》お過しでしょうか。  私は、御陰様にて病気もせず元気に暮らしています。  さて、すでに御存知のことと思いますが、最高裁判所の判決が七月一日(木)に出されました。  結果は上告を棄却されました。 〓“自業自得〓”とは申せ、当然の判決でございました。  厳粛に受けとめております。  また、〓“異議〓”を申し立てる意思はございません。皆様の暖い御支援に支えられて今までまいりましたが、私が事件を起こしましてから、丸七年になります。  本当に月日の経《た》つのは早いものです。先生とお会いしたのがつい昨日のように思われます。本当に長い間御世話になりました。心より感謝申し上げます。  川上先生は、聞くところによりますと、第二弁護士会の会長に就任されたと伺《うかが》っております。後ればせながら、おめでとうございます。  私は現在先生が差し入れてくれました『親《しん》鸞《らん》』(丹羽文雄作)の本が縁で当拘置所において〓“浄土真宗本願寺派〓”の教《きよう》誨《かい》を受けております。今では〓“仏教〓”の道に自分の生き甲斐を感じています。  今日、心穏やかに暮らせますことは、ひとえに川上先生のお導きによるものと深く感謝致しております。 〓“いつまで生きられるかではなく、いかに今日、明日を大切に生きていくか〓”を心掛けて生活しております。  真の自分に目覚めていくことこそ、私の務めと考えております。  今後とも、命ある限り、お二人の供養はもちろんのこと、日々精進に励んで参ります。今日までの御厚情に厚く感謝致しますと共に、心より御礼申しあげます。  先生の御健康と御多幸を心よりお祈り申し上げております。 合 掌     川上義隆様 昭和六三年七月七日 石田三樹男      川上義隆弁護士は、この事件の高裁(控訴審)の弁護をつとめ、石田三樹男の手紙の中にもあるように『親鸞』を送ったり、ほかにもいろいろと差入れをしている。  石田の話をしながら、「ほんとうに、かわいそうな男だったよ」と涙で眼をうるませながら話してくれた。  ここで紹介した手紙が、石田からの最後のものだったという。その後のことはまるでわからない。しかし、東京拘置所の中にいるということだけはたしか。     ※九六年七月一一日、東京拘置所で、死刑の執行となった。  保険金目当て放火殺人事件 日高安政(51)日高信子(48) 札幌拘置所  一九八八年(昭和六三)一〇月、恩赦を期待して控訴をとりさげたが、現在再審請求を準備中。放火は認めているが、殺意は否認している。     ※九七年八月一日、札幌拘置所で、死刑の執行となった。  銀座ママ殺人事件他 平田光成(58) 東京拘置所  一九八八年(昭和六三)一〇月二二日、恩赦を期待して上告を取り下げたため死刑確定。共犯の野口悟は取り下げず。   ※九六年一二月二〇日、東京拘置所で、死刑の執行となった。  元昭和石油重役一家殺人事件 今井義人(54) 東京拘置所  一九八八年(昭和六三)一〇月二七日、恩赦を期待して上告を取り下げ、死刑が確定になった。     ※九六年一二月二〇日、東京拘置所で、死刑の執行となった。  日建土木事件(保険金目当ての事件) 西尾立昭(58) 名古屋拘置所  西尾立昭の近況を聞きたい、と西尾の義兄にあたる松浦誠一さんに電話したところ、「だれかいい弁護士を紹介してほしい」と頼まれてしまった。  電話で申しわけなかったが、義兄というのはどういう関係なんですか、と尋ねると「わたしの女房の妹のつれあいが西尾立昭です」という。なんとか助けてやりたい、裁判でまちがったことが多いので、そこを正してもらえれば、死刑が無期ぐらいになるんじゃないかと思う、とも言った。善良そうな人柄が電話から伝わってくる。  たまたま名古屋には懇意にしている弁護士がいる。とにかく、名古屋拘置所へ行って、西尾に会って、事件のくわしいことを聞いてきてほしい、と思った。  さっそく、塚平信彦弁護士に電話を入れ、詳細はわからないが、名古屋拘置所で死刑が確定している西尾立昭という人に会ってほしい、また再審請求ができそうならぜひやってほしい、と頼んだ。  塚平弁護士は、こころよく引受けてくれた。私は松浦さんに再度電話をかけて、塚平弁護士の事務所を訪ねるように話した。とにかく事件の中味の詳細を知ってもらわなければ……。  松浦さんの話によると——  子どもが不《ふ》憫《びん》でならない、父親のことはいっさい聞かないが、それだけに心の中を思うと、なんとかしてやりたいと思う。  拘置所にいる西尾にも、一《ひと》月に一万五千円ぐらいかかる。まあそれぐらいは、私の方でめんどうは見れるから。  とにかく、会いに行くのに、いいみやげ話(刑が軽くなるような)がないと、気が重くなってね……  と、まあこんなぐあいで、話は長く長くつづくのである。いかにも人柄のよさそうな松浦さんの声の話しっぷりに、私も思わずもらい泣きする場面もあった。  はっきり言って、松浦さんは情の深い、心のやさしい善人なのだろう。ふつう奥さんの妹のつれあいというつながりは、他人のようなもの、いや、他人である。とくに死刑事件を起した場合、本当の肉親でも遠ざかってしまう例がめずらしくない。  何日か経って、塚平弁護士から電話があった。  松浦さんが奥さんの妹さんを伴って、塚平弁護士の事務所をたずねて来たことや、塚平弁護士が拘置所の西尾に面会に行って来たことなどを伝えて来たのだ。 「西尾さんはとても明るく元気だったよ」  の、一言に私は少し安心をしたが、 「あなたの考えているようなわけにはいかないね」  に、少なからず落胆した。  それでは、もう助ける方法はないのか、と息がつまる思いに、 「裁判で、まちがっているところがずい分あるということでしたが……」  と、いうと、 「それを正しても、殺したことには変りないのだから、再審はムリだねえ」  ……なんのことやらわからない。  ちょうどそのころ名古屋に行く用事もあり、塚平弁護士にも会ってくわしく聞いて来ようと思った。  暑い名古屋というが、東京にくらべればずっと涼しい。さっそく塚平弁護士に会った。あいさつもそこそこに、再審がなぜだめなのかをたずねる。  塚平弁護士は、事前に用意してあった一枚のコピーを出して説明してくれた。      非常救済手続 〓 有罪の言渡を受けた者に対して無罪もしくは免訴を言い渡し、刑の言渡を受けた者に対して刑の免除を言い渡し、または原判決において認めた罪より軽い罪を認めるべき明らかな証拠をあらたに発見したとき、軽い罪とは、法定刑の軽い罪をいい、単なる刑の量定の事由は勿論、加重事由・減軽事由を含まない。異なった罪を認めなければならないときにも、法定刑が同一であれば、軽い罪とはいえない。併合罪と認定されたが、実は科刑上一罪である場合は含まれる。(傍点は弁護士がつけたもの)  この紙を目の前に広げられ、説明をされると、私は思わず泣き出してしまった。 「今朝一番で拘置所に行って、西尾にもよく説明して来たよ。彼はちゃんと理解してくれた」  ああ、もう一《いち》縷《る》の望みもこれで消えてしまったんだ、と思うと、私の首に縄がかけられたような気分である。 「だけど共犯の山根一郎はまだ上告審でがんばっているんだから、そっちが決らない限り死刑の執行はないからね。気を落さないで、死刑廃止を訴えつづけよう、ね」  塚平弁護士は、はげますように、言ってくれた。  松浦さんにもちゃんと説明してあるから、とも言った。そしてこうもつけ加えた。 「みんながねえ(世間一般の人たち)、もっと死刑について真剣に考えてくれると、死刑なんて簡単になくなるのにね……」  塚平弁護士には、それっきり電話もしていない。  鳩ヶ谷の女性殺人事件 石田富蔵(73) 東京拘置所  一九八九年(平成元)六月一三日最高裁判決。一件の強盗殺人事件の取り調べ中に、他の傷害致死を自ら告白、これが殺人とされた。前者の強盗殺人については冤《えん》罪《ざい》を主張。九一年(平成三)五月二三日、本人が再審請求提出。九二年二月二八日弁護団が補充書提出。再審の弁護士は濱田広道さん。  連続殺人事件 藤井政安(旧姓関口)(53)東京拘置所  一九八六年(昭和六一)に獄中結婚をした。旧姓は関口である。この獄中結婚のいきさつが、ふつうの獄中結婚とはちょっとちがうので、紹介したいと思う。  まだ関口といっていたころ。現在の拘置所では小鳥を飼うことも、植物を育てることも許されない。しかし独房の暮しは誰とも話もできない殺風景なもの。せめて窓のところに鳩でも呼んで、親しい友人になりたくなる。関口は食事の残りを窓辺にまいて、鳩を上手に飼い慣らしていた。食事の度ごとにエサをまく、鳩が寄ってくる、というしかけがうまくいっていた。ある日、その日もエサをやり、なにやら話しかけたりと、とても仲むつまじくやっていた。しばらく経って、鳩は便意をもよおしたらしく飛んで行った。飛んで行く先はきまって、関口から二つめの窓。ここには連合赤軍事件で現在死刑が確定している坂口弘が入っていた。その坂口の窓辺に行って、フンをするというまさに機械じかけのような鳩の行動になっていた。べつに関口がそうさせたわけではないのだが、偶然そうなった。その日の坂口は多分機嫌が悪かったのだろう。関口がエサをやった鳩が自分の窓にきてフンをする、と刑務官にいいつけた。それで関口は懲罰となり、懲罰房へ転房させられた。 「あーあ、これですっきりした、関口を懲罰房へ追い込んだ」  と歌うような調子で言う坂口の声を聞きながら、関口は日当りの悪い、窓もない穴ぐらのような房へ引越していく。  さすがに気の毒と思ったのか、刑務官が、 「関口、なにか言ってやるか?」  と言った。関口は言い返せば同じ程度になるから、と断った。  そして窓もない懲罰房でなすすべもなく、朝日新聞をくまなく読むことになる。読者の投稿欄に「元気じるし」という匿名の投稿があって、そこに書かれてあることが、なんとも元気がわいて来るような話だった。少しめげていたのかもしれない関口は、この元気じるしさんに宛てて手紙を書いた。  藤井さんはそのころ、九〇歳をとうに越えた母親のめんどうを見る毎日を送っていた。目が見えなくなり、寝たきりの老母の在宅看護をしていたのである。こちらもめいりたくなるような生活なのだが、そこを元気いっぱい、元気じるしの呼び名どおりに暮していた。そこへ関口からの手紙が新聞社経由で舞い込んできた。  最初は東京拘置所の職員かと思っていたが、次に来た手紙には関口の身分が明かされていた。何をしたかも書かれてあった。  藤井さんの生活環境には、それまで死刑という言葉は入って来ない。キリスト教系学校卒業のお嬢さんだったのである。ふつうなら青天の霹《へき》靂《れき》ともいうべき驚きをするところだが、これがまた藤井さんの元気じるしたるところだと私は思う。  東拘に会いに行き、手紙を書き、をくり返し、関口が死刑確定になるより以前に自分の籍に入れ、晴れて夫婦になったのである。    獄中から来た関口の手紙    マナティ様 (人魚の意味かしら)  こんばんは! 夕方お手紙ぶじ落手しました。ありがとう! 春雪はアッという間に消え去りました。啓《けい》蟄《ちつ》を間近にして、オオイヌフグリ、ホトケノザ、ハコベラも突然の春雪の洗礼を受けてきっと驚いたことでしょう。勿論、私は、例年の如《ごと》く春雪の上を素足で走りました。足の裏が痛くなり我慢できないくらいになりながらも凝《じ》っと耐えて走り続けました。やがてポカポカしだし、もう大丈夫です。走りすぎて春雪はシャーベット状になってしまいました。この素足走りができてるうちは私は健康なような気がします。お陰で還房して足から湯気が出ていました。オオイヌフグリの可《か》憐《れん》な花を獄庭で発見した直後だったので、三寒四温の妙をあらためて実感しました。  私も、もう二一年の監獄の春を迎えようとしています。先日面会の連れだしに来た若僧に尋ねたら、やはり、私が入所した頃オギャーと産れたといって笑っていました。  さて、Tさんがオオハリアリというアリは、ハアリの一種ですか? との質問があったそうですが、このアリは名前の通り毒針をもったアリです。但し、私の床下に棲《す》んでいるオオハリアリは、体長が約七ミリくらいです。褐色をした胴が細長い、アリという感じがあまりしないアリです。このオオハリアリは、ふつうのアリのように砂糖などには見向きもしないのです。昆虫や、魚肉、チーズ……といったような動物性タンパクが好物のようです。クロゴキブリなどの亡《なき》骸《がら》を発見すると、急いで巣に帰って仲間をダッコしてきます。そしてクロゴキブリの近くに仲間を降すと、再び急いで巣に戻って同じように仲間をダッコして来ます。やがていつのまにか、五〇匹くらいがクロゴキブリにくらいついています。私は老眼鏡でその様子を凝っとうずくまって観察するのが大好きです。  オオハリアリが、猫のように横寝して身体のお手入れをする姿を、こっそりのぞいたりします。ある時は、仲間の亡骸を風葬するため、どの辺りがいいかなあ……と私の寝ている独房の中央の布《ふ》団《とん》まで運んでくる様子や、積み上げた公判資料に巣をはるクモとの闘いを観察したりします。餌《えさ》捜しに出かける途中、クモが張りめぐらした糸をオオハリアリが踏んだ瞬間、そのオオハリアリの周囲を猛スピードで回りながら糸をかけるクモと、それに負けじと仁王立ちになって、全身をくねらせ、弓なりになって糸を食いちぎるオオハリアリとの壮絶な闘いは、自然界における命を賭《か》けた厳しい掟《おきて》だけに興奮します。そんなとき、私はどうしてもオオハリアリに肩入れして観察してしまう傾向があります。  自然界の掟といえば、東拘の猫たちを観察していると、母と成《せい》猫《びよう》となった子の二匹がいる場所で、他の猫が母猫を威嚇しても、決して子供の猫は母に加勢して助けません。いくら親離れしたとはいえ、猫たちの民主主義? は凄《すご》いものです。結局、彼らの掟にあっては老猫となっても決して手助けなどしない規則なのです。それに、東拘に限らず、いま、野良猫が沢山いる時代ではないでしょうか。その猫たちの亡骸を見た人がいったい何人いるでしょう。猫はその時が近づくと、一人で最後の力をふりしぼって、人目につかない秘所へと旅立つのです。この一事を見ても、私は猫を尊敬してしまいます。私はここに入所してから、もう何十匹もの猫とサヨナラしてきました。  Tさんにオオハリアリの話をしてあげてくださいね。このオオハリアリの毒針で刺されるともちろん痛いです。そして蚊に刺されたぐらいに腫《は》れます。でも毒はもっと強く、スズメバチの半分くらいでしょうか。いわゆる「アリ」と時々闘いますけど、ひと刺しで相手は動かなくなるくらい猛毒です。  Tさんにいってください。私がオオハリアリのことを話したかったのは、こんな珍しいアリが、この東拘の独房の床下に棲《せい》息《そく》していて私と一期一会できたという、そのことなんです。珍しいのはオオハリアリだけではありません。東拘には、体色を緑色に変化させるカメレオンのようなハエトリグモもいます。シャバのTさんには、ここの私達の生活話をきいても信じられないと思います。つまり、私の場合、かつての社会にいた私よりハイビジョンになっている……ということなのです。五感のすべてがです。ですから私は最近昔の人たちが、現代のようなメカトロニクス文明と縁のない時代に生きながらも、実質においては今より以上に濃密な人生を歩んだのではないか、と思うようになりました。それは、理性的にではなく、体感的にそう思ったのです。  だから、今、私はとても聴きたい音楽があります。それは、昔、シャバで聴いた以上の濃密な味わいができるからなのです。Tさんも、私のようになれますけれど、そのためには、宮本武蔵のように、天守の一角にでも幽閉されなくてはなりません。つまり、現代人として生きようとする限り、それはもう不可能といえます。確かにくり返し行う末《まつ》梢《しよう》と大脳の訓練ごとの芸術、芸能ごとはもちろん、専門ごとはある程度ハイビジョン化できますけれども、総合的全人的にはやはり無理ではないでしょうか。結局、山ごもりでもして私達のような生活をするしか、昔の人が体験した真のハイビジョン体験は得られないのだと思います。特に、雅楽、民謡などがハッキリと濃密さを実感できます。  いろいろ書きましたが、私にとって今主要な集中ごとは、民訴で冤《えん》罪《ざい》を晴らす前段を頑張りぬくことです。  今日はこれでペンを擱《お》きますね。では、また明日お会いしましょう。Tさんにはくれぐれもよろしくお伝え下さい。オオハリアリが徘《はい》徊《かい》しはじめましたらすぐ一報しますとTさんによろしく! 合掌  父親など三人殺人事件 神田英樹(40) 東京拘置所  弟の自殺は父親のせいだといって事件を起す。その直後に自殺をはかるが死にきれず、逮捕。一九八六年(昭和六一)五月二〇日、浦和地裁で一審の判決。それから六カ月後の一二月には高裁でも死刑判決が出ている。さらに最高裁で死刑判決が出されたのは一九八九年(平成元)の一一月二〇日である。  その後は、外部とはいっさい交流せず現在にいたっている。  最高裁のときの弁護士だった細田直宏さんは、数年まえ喉頭ガンで亡くなってしまった。お元気だったら、その後のようすを聞けただろうにと思うと残念でならない。     ※九七年八月一日、東京拘置所で、死刑の執行となった。  二女子中学生殺人事件 宇治川正(旧姓田村)(44)東京拘置所  覚《かく》醒《せい》剤《ざい》依存症による錯乱のために起した事件であることを主張している。一九八九年(平成元)に養子縁組をして、旧姓の田村から宇治川に変ったものの、養母との交流は不許可。実の母は遠方にいるため面会は困難である。  以下は個人通信の「ひよどり通信」からの紹介であるが、それも一九九四年のもので、少し古いが、拘置所における生活ぶりはうかがえる。一九七九年(昭和五四)三月一五日前橋地裁判決、八三年一一月一七日東京高裁判決、八九年一二月八日最高裁判決により死刑確定。    八月三〇日(月)発  今、五時すぎ。今日は午前中から隣のデブ兄イが歌を歌って、今もです。荒井(松任谷)由実の歌に合わせて、ご機嫌が良いようです。私はラジオ切ってある。  座《ざ》布《ぶ》団《とん》カバーを洗ったのです。そうしたら、中の布団の真ん中が切れてワタが出ている。そのワタも茶色に汚れて、ハハハ、アセとホコリの綿でしょう。もう少しボロボロになるまで使う(一〇年以上使ったかなァ。私のためによく忍んでくれた座布団くんです)。  カンパをいっぱいいっぱい有難う、感謝です。  ゴトンゴトン列車の音がよく聞える日曜日の朝です。東武伊勢崎線も通っていたんだね。伊勢崎に行って来たですか? 正くん(宇治川自身のこと)胸苦しい夢? を見たです。正くんとしても恩は感じている。前回の事件では弁護士も保釈も世話になったし、迷惑もかけているものですから。家も新築したらしいが、ずいぶん家の近所、人々も変わっていることと思います。知らない親《しん》戚《せき》も多いからビックリすることでしょう。血のつながった親戚肉親よりも、血のつながらぬ他人のほうが気も心も通い、力になってくれる。血のつながらぬ他人のほうが、本当の肉親のように愛すべしという場合もある。良兄チャンにも会ったならよろしくネ。  伊勢崎というと西巻やんの。病気はその後出てないかなァ。大事にして再発しないようにしてほしいです。今度は西巻やんも嫁さんとうまくやっているかな。家庭も大切にして楽しくやってほしいなァ。西巻やんのところの子供ももう中学か、高校生やろ。大きくなりなかなか大変やろ。田舎でのんびりと良い子にと願っている。  織間の本陣のところのタヌキのキンタマのソバ屋はまだあるのかなァ?  花(カーネーション)、チョコパイ、揚せん、味ごのみ、ミカン缶、ミツ豆缶、小豆缶、栗まんが入りました。有難う。カーネーションのピンク、けっこう良い香りがするものですネ。〓“花よりダンゴ〓”というタダシも、花の香りを楽しんだです。    九月六日(月)発  こんばんは 台風一過すこしむすようです。東京、関東はいつも無事のよう。災害でなくなった人びとにお祈りを!  外国人も多いネ。出て行っても次つぎに別の外国人が入ってくる。今も大声でなにか叫んでる。隣の建物だ。一人が叫ぶとアッチもコッチも叫びかえす。声の違う〓“こだま〓”のようです。  外国人というと、昔一〇年以上前のことです。  日本語ペラペラのイラン人アミリーくんが三房にいて、黒川芳正氏が四房にいて、田村(当時、いまは宇治川)くん六房に入っていたのだが、このアミリーくん「黒川サーン、田村サーン」と呼んで話してくるのです。どこで名前を知るのか、夕方の五時前にいつも話しかけてきた。裁判で二年ぐらいかかったが、出て行った。黒川氏と私に〓“面会に来るよ〓”といっていたが、日本にいられたのか?  ハハハ。〓“外、そのまま入管送り〓”と思うが、アミリーくんの妻、日本人の女性らしい(アミリーくん、かしこいというか、悪くいうと日本ズレのした悪がしこさもあった)。私はよくびくびくしたものです。アミリーくんのような事件の外国の人びとも多く入っているのでしょう。私は他人の事件など知らないが。そう、黒川氏などどうしていることでしょう。  日本の拘置所、刑務所に外国人が多く入っているように、外国の刑務所にも日本人が多く入っているのではないかなァと思っています。日本人も外国へ行って、犯罪、悪いことをしているのでしょうと思ってます。    九月一三日(月)  一〇日の読売新聞巡回回覧で小さいニュース面を見てびっくりびっくり、どっきりおどろき、ううんとうなりつつ残念と見入ったのが、「藤波相談役」豆タヌキさんのことです。  藤波芳夫六三歳、とうとう判決が出てしまった。それともうひとつ、もう六三歳になってしまったのかァ、ジイサンだなァと思いつつWおどろき。考えてみたら当然で、だれでも一つ一つ増えるのがトシだもの。しかし、六三歳かァと思ってしまった。何しろ芳オッチャンは気が若いから、ハハ若い精神やから。  芳オッチャンがお祈りをしているイエスキリスト。キリスト教も助け、護りきれなかったのかなァ。  いまごろ、足《あし》利《かが》の呉服屋や長野のTさん夫婦から便りがあることでしょう。決まるまでにまだしばらくあるから残りの日をしっかり頑張ってほしいです。  いつも覚悟をしているといった芳オッチャンだが、心の中は悲しいやら淋《さび》しいことだろうと思う。  気も重くなるが、元気出してやってほしいと芳オッチャンに思う。ボケタダシくんです。  今日のニュースでも村松裕次郎くん(無期)上告取り下げの確定(第一小法廷)と出ていた。これでは兄の誠一郎氏の裁判も大変だろうと思いつつ。本人の村松誠一郎くんは気が強いのかしっかりして、私よりはるかに意志も強そうだし、このくらいじゃ顔色もかわらんようだネエ(村松くんは私はどうもなかなかニガテというか好きになれない人だわい!)。  昨夕方のこと、大道寺くん方の庭でトコトコと大ネズミがスズメの群に向かって走っていたです。  今年、大道寺くんらしい人を見た。去年は嫌いな関口を見たし、また、三浦和義氏のニキビオジサンを見た。随分といろいろな人びとを見るものです。  ツバサくん、いま、9/12(日)午前中一〇時頃。眠い。コーヒーを飲んだり、顔を洗ったり洗濯をしたりしたが、どうもハッキリしない。野球も巨人が負け続け、ヤクルトが勝ってばかりいるので、私らの体も狂ってしまっているのか? 何に疲れて眠いのか。ツバサくんらも秋の虫の声でも聞いて虫の名を当ててください。  どんよりとした空もよう、これから秋へと向かうのでしょうが、天気に気をつけて元気で仕事をしてください。  多摩川にも芒《すすき》の穂が風に吹かれているのでしょう。大切に。草々 タダシ      気がついたことがある。本は光文社文庫、講談社文庫、角川文庫、徳間文庫の字が濃くて読みよい。文春文庫、春陽文庫、新潮文庫は字が薄くて読みにくいです。    九月二〇日(月)発  セミの声も終わり、スズメの声にシジュウカラの声、カラスの狂い啼《な》き、休みない列車の響き、そしていろいろと聞える虫の声です。カンタン、コオロギ、アオマツムシ、リュウキュウマツムシ、スズムシ、色いろな虫がいるのだと思う。鈴の音がふるえているようです。  新潟、長野、栃木、埼玉、東京、神奈川、群馬などで夏や秋の夜を、もちろん日中も過したことがある正くんですが、このように虫の音を聞いた覚えはない。シャバでも、虫が鳴いても、その虫の音を聞く心のゆとりもなく、忙しく毎日をバタバタ送ったのだなァと思っています。シャバでも虫の音がしていたのです。それを全く気にしなかったのだなァと思いつつ。    また 秋のお彼岸です。   空 春風愍音信女精霊   空 華風愍影信女精霊  詫《わ》びながらお祈りをします。  可《か》哀《わい》相《そう》なことをしたと悔やまれて、このごろつくづく可哀相で己の致したことが情なく思います。仏間にとお線香を上げて彼の岸の冥《めい》福《ふく》を祈るつもり。二四日ごろと思う。彼岸の中日、休日明けに線香の煙でも見てきます。  小川原先生や三島先生にも宜《よろ》しく申してください。先生の所へは再審のことでしか、なかなか便りも出さないので、そちらから便りであいさつでもしておいてください。先生から手紙が来ないです。元気でやっていると良いのですが……。    藤波のオッチャンは判決訂正申し立てを出したかな。もうすぐ〓“決定〓”やら〓“宣告〓”やらビックリ状が届くから、しっかりと頑張ってほしい。藤波のオッチャンは世話になっている神父さんに励ましてもらっていることでしょうネ。    九月二七日(月)発  きのう午後、机の前を立ちあがりかけてころんで、手をついて捻《ねん》挫《ざ》して、湿布してもらってようやく痛みが消えた。しかし力が入らない。力を入れると痛いのです。自分のドジにあきれているが、足腰、手も弱くなっているのでしょう。ハハハ。  ◎朝には捻挫もほとんど治った。    一〇月四日(月)発  9/27の夜、ヘリコプターが上空を旋回して、姿は見えず、やかましいばかりの騒音公害、ヘリの点灯だけがパッパッと輝いて、フワリフワリと動いている。全建設の報道ヘリやろ。小菅ディテンションの上まで、報道のやりすぎです(騒音で横田、厚木の人びとが文句いうのがよくわかります)。ヘリの点灯は星にもならないが、中秋の名月の前の名月がポッカリと顔を出していたです。十五夜の芒《すすき》にまんじゅうでも飾りたいほど。しかし、ヘリの音で虫の音も聞えずです。  梨が販売になりました。今年は雨が多く天候が悪かったからか、マズイです。甘味なし。小さい。甘くない梨なんてあるのですネ。こうして天候不順が私らの生活にも出てくるのを感じつつ……。子供のころ、田舎で食べた甘ズッパイ小さい山梨や、甘い大きい長十郎を思い出してます。    正くんは鍋《なべ》料理が好きで、土鍋でよく食べたです。魚、春菊、白菜、ネギ、シイタケ、シメジ、トウフ、イトコンなど(肉類以外のもの、私は肉は食べない)、を入れてよく食べたです。そう、東京の下《しも》丸《まる》子《こ》のアパート時代は〓“インスタントラーメン〓”の秋でした。ニキビの時代によくラーメンばかり食べてたなァ……。いまはそのインスタントラーメンが食べたいくらいです。    やっと念願の虫歯の根っ子を抜いてもらいました。今度の歯の先生は良い先生で、安心のできる立派な先生です。先々週はケガ、先週はころんでネンザと全くドジでついてない。それもようやく治ったです。担当や医務係に心配してもらい治ったのです。有難く思ってます。    一〇月一二日(火)発  前略  こんにちは 一〇月一〇日(日)体育の日です。昼にロールカステラが出ました。お茶を飲みながらペロリと食べてしまった。久しぶりのカステラ、やわらかいので軽く食べ、ハハハ、じつは歯を抜いて日が少ししかたっていないので、まだ硬いのは歯にひびくので、やわらかいのが食べやすいのです。歯科の先生に骨折って虫歯の根っ子を抜いてもらってよかったです。少しずつよくなっています。    いま、10/10の午後五時すぎ、お経、方《ほう》便《べん》品《ぼん》に寿《じゆ》量《りよう》品《ぼん》、お題目も上げ終った。ギボ愛子氏や、恐《おそれ》山《ざん》のイタコの人びとによると、死後の冥《めい》土《ど》がある、見えるとラジオでいっていたが、信じていいのか、信じられないのか、それはいまはわからない。でもそんな霊界があるならば、亡き娘らに謝られるのかもしれない。いずれの果てには……。釈《しや》迦《か》に阿弥陀に日蓮聖《しよう》人《にん》に娘らにと、冥土でも叱《しか》られて大変なこと、ちょっと恐くて困ったよ……。  ラジオのナイター放送も終了して、夜はつまらなくなりました。休日も何もやることがなし。本も全部読んでしまった。読んだ本を郵送で送るつもりで書きだしているところです。近々には手続きをして送れると思います。  お笑い番組も少なくなり、秋はいっぱい眠るしか夜はやることがない。いっぱい眠るとボケがすすむ。日中は元気で作業をして夜は眠ればいいのやろうが、何かもの足りんです。  そうそう、藤波芳夫のオッチャン確定申し渡しもすんだことでしょう。もう一週間くらいたったが、少しくらい落ち着いたかな。確定すると少なからず変化するから。しかし、芳夫オジイサンも六三歳か。芳夫タヌキのオッチャンも落ちつくトシだねえ。元気でやってほしいです。  また、今年も梨が終わり、ミカン一個六〇円で売られる季節になりました。少しずつ食べものも冬へです。  どうも〓“老眼〓”がひどくて字を書くのも大変で、頭のボケとダブルです(これは肉眼で書いている)。  では、布団でも干して暖かくフカフカ気持ちよく休んでください。    一〇月一九日(火)発  10/13、健康診断あり。胸部レントゲン、採血、ションベン等をする(胃カメラはことわった)。  そのとき片岡(益永)利明くんに行きあう。片岡くんは、びっくり元気元気の元気くんのようやったが、頭がスースー涼しく、今頃の〓“枯れススキ〓”のよう。ずいぶん薄くなったなァとカンシンをしていました。  それで、私も昔面会で会ったことのある益永陽子氏を思い出して、ずいぶんトシをとったろうと思いつつ。小学生だった子供の幹ちゃんも成人する頃では? と思ってしまった。元気でやってほしいものです。  また、正もトシをとると頭が薄くなるのか? 人生に頭など使わずに、バカ丸出しに生きてきて、私もネエ、いずれ薄くなるのか?  と思ったが、私のようなアホー頭は〓“白髪〓”が先のようです。白い髪が多くなっている。ヒゲにも白いものが出ている。ハアーッ。とにかくこれからは髪どころか、体力も頭も目も老化し弱くなるのは確実なことだろうなァと思ったりもします。オヤスミ。    10/9(土)は、小菅ディテンションの受刑中の人たちの運動会。シャバからも小菅へ出入りの色んな機関の人びとが参加して、笑いと汗をかいたことでしょう。運動会とは全く縁がない私らは、晴れた空を見上げて、三連休でした。運動会は全国の刑務所、少年院でも行われたことでしょう。  新聞で〓“米ドロボー〓”の記事を見てびっくり、昔、正のガキの頃、田舎には〓“米ドロ〓”がよくあったが、現代の米ドロ! 天候不順の落とし物かなァ。    10/21(木)昼前に弁護士三島駿一郎先生が面会に来てくださいましたです。色いろとご心配をしていただいて有難う。三島先生に宜しくいって下さい。  ニュースや新聞で、自殺やら殺人やら生死の事件が相変わらず多いです。私もこの頃、血なまぐさい事件を聞くと嫌になります。人間、仲良く気持ち良く元気で生きられないかなァと、己の罪をふり返りつつ思うこともあります。    10/22、23の夕方五時すぎ、月が見えます。白色から暗い空になるにつれて、オレンジ色に輝いて見えます。で月のまわりを雲が流れるように見えます。  シャバの不況、不景気の風、「衣類、本、日用品、その他」バザーが大流行とのこと。バザーで使えるものはどんどん使う、いいことと思います。バザーでも使えるもの、良いものがほとんどとのこと。新しいものでデパートをもうけさせることもないです。不景気とバザーなんか庶民らしく感じてほほえましい。    一一月八日発  こんにちは ダメ正くんです  年賀状の買ったものが来たです。ここは検閲もあり年賀状としては、11/22から12/6までに出す。それ以外の日に出すのは普通の発信扱いです。シャバよりも出すのが早いです。  来年は戌《いぬ》年ですか。ジョンが皆の健康や幸せを護ってくれるといいが。私とこはノラ猫タローくんの冬に入ります。  マンガ本二九冊が11/15に入りました。落ちつかない秋ボケの頭をマンガでほぐします。たまに見るのはマンガも気晴らしになります。有り難う!  横浜の叔母ちゃんの病状どうでしょう? 意識が戻ったかな? 叔母ちゃんも働きづめで病気で、可哀相!  健康と体の無理はならない。つくづくわかった気がします。一生懸命に働き、生きているのに、病気。神仏があるならば不公平と思うよ。  私が奪った娘の命。神仏はなかったのかな。親兄弟の苦しみ、辛《つら》く、悲しさがわかり、恨みもわかり、わかるほどかなしいものです。娘らを殺したいという心が、どこから出たのか、恐ろしい、恥ずかしい心です。    一二月一三日(月)発  郵便料金が来年一月から値上げです。正くんの貧乏生活には響くよ。私の事件の頃にくらべるとずい分値上がりです。一日作業をすれば切手代くらいにはなるはずです。マジメなマジメな正くんは作業を一生懸命にやっているから。人間らしく体を使うのもまた大切なことでしょう。郵便値上げ反対! 郵便は国でやっているのだから、そんなに値上げすることはないのです。どうも細川の殿様になってからロクなことがないネ。  気落ち、落ちこみ、私もこのところ暗くなることも多いが、明るく明るくやろうと思っております。今年の後半はさんざんな思いの年でした。  宗教について——  シャバで寺に行く、墓参りもした、仏壇に線香もあげたりした。考えてみると心から手を合わせ、お祈りをしたことがなかったと思う。それは形式的なものだったと思う。宗教は形式的なものとして信仰、信心もしなかったものです。  いま、毎日心よりお祈りするようになった。お祈りをしないと落ち着かない。不思議なものです。まあいろいろと感謝する立場になっている。そして、お祈りをする身になっているということです。方便品、寿量品をあげ、南無妙法蓮華経、今夜もお祈りが終わったところです。生きているから祈るのです。    昨日の回覧の読売新聞の夕刊(12/10)、また死刑判決のニュースが出ていた。よくあるものです。この分ですと、小菅の執行もやがて巡って来るかと! 「巡り合わせ」はどうも嫌な気もします。   死刑囚生きて幸せか   生きて苦しみか   死刑囚死んで幸せか   生かされて生き辛く   生きてりゃ夢も見る  判決後の苦しい一二月を想い出すよ。  銀座ママ殺人事件他 野口 悟(48) 東京拘置所  一九八〇年(昭和五五)一月一八日東京地裁死刑判決。八二年(昭和五七)一月東京高裁判決、控訴棄却。九〇年(平成二)二月最高裁判決、上告棄却。死刑確定。  共犯の平田光成は、八八年(昭和六三)一〇月二二日に上告を取り下げ死刑が確定している。  野口の最高裁の判決文の一部分を紹介しよう。 「被告人は、平田光成と共謀のうえ、一カ月足らずのうちに、何らの非違のない二名の女性を相次いで殺害して金品を強《ごう》取《しゆ》するなどしたものであるが、以上の各犯行はいずれも周到な計画のもとになされた凶悪な犯行であること、犯行の動機に酌量の余地がないこと、その態様がきわめて悪質であり、結果も重大であること、被害者らの遺族の被害感情が強いこと、社会的影響も軽視できないこと、被告人は各犯行の計画および実行のいずれの段階においても重要な役割を果たしており、その刑責は平田光成に劣るとはいえないことなどを考慮すると、原判決が維持した第一審判決の死刑の科刑は、やむをえないものとして当裁判所もこれを是認せざるを得ない」     ※九六年一二月二〇日、共犯の平田光成とともに、死刑の執行となった。  熊本の主婦殺人事件 金川 一(45) 福岡拘置所  一九八二年(昭和五七)六月熊本地裁八《やつ》代《しろ》支部で無期懲役の判決、八三年三月福岡高裁で死刑、九〇年(平成二)四月最高裁で死刑判決。  永山則夫の裁判以来、無期判決を高裁で死刑にするというのが、まるで当り前の感がする。金川一のこの事件もまったく同様で一審の無期という判決を高裁が死刑にした。  金川はこの事件のちょうど一一年まえ、六八年の九月一一日にも、出勤途中の二〇歳の女性を襲い、金品を強《ごう》取《しゆ》して殺害したという強盗殺人の罪を犯し、それによって一〇年という懲役に処せられていた。  一〇年ぶりに長崎刑務所を満期で出所してから、わずか三カ月後に主婦殺人の犯人としてつかまり死刑を宣告されている。  本判決は、強盗殺人の前科を有する被告人が、牧草畑において農家の若妻を強《ごう》姦《かん》しようとして抵抗され、残忍な方法で同女を殺害した事案について、無期懲役を言い渡した一審判決を、量刑不当を理由に破棄し、死刑を言い渡したものである。去る七月八日に言い渡された連続ピストル射殺事件についての最高裁判決をめぐり各般の論議がなされているところである。    検察官の控訴趣意(量刑不当の主張)について  所論は要するに、本件犯行及びその犯情が極めて重大であり、かつ被告人は犯罪傾向が強く再犯のおそれも極めて大きく、又本件によってもたらされた被害者の遺族の心痛などが甚大で、社会的影響も大きいことなどに鑑《かんが》み、検察官が死刑の求刑をしたのに対し、原判決が、被告人を無期懲役に処したことは、その量刑が著しく軽きに失し不当であって、到底破棄を免れない、というのである。  そこで記録を精査し、当審における事実取り調べの結果をも併せて検討し、次のとおり判断する。  一 本件は、被告人が、農作業中の当時二一歳の若い農家の主婦を、強姦の目的で襲い殺害したという強姦致死、殺人と、窃盗罪一件の事案であるところ、強姦致死、殺人の罪における犯行の方法、態様は、白昼、一人で農作業中の被害者が、被告人に襲われ、その難を避けようとして逃げまどい、転倒したところ、被告人は同女に襲いかかって押えつけるなどし、その着衣を剥《は》ぎとり、ほとんど全裸の状態にして強姦しようとしたが、同女の激しい抵抗によって強姦そのものは未遂に終わったものの、更に殺意をもって、同女の頸《けい》部《ぶ》を両手或《ある》いは片手で強く絞めつけるとともに、所携の短刀様の鋭利な刃物で、多数回にわたり、同女の胸腹部、陰部などを滅多突きにし或いは切りつけ、陰部の奥底にまで刃物を突き刺すなど、誠に残忍な方法で同女を殺害したものであって、被告人の右所為は、何人をも戦《せん》慄《りつ》せしめるような極めて残酷かつ非道なものであり、その動機においても、被害者の方には全く落度がなく、単に被告人に遭遇したというだけの不運によって悲惨な目にあい、一瞬にして、最も貴いものとされている若い生命を失ってしまい、被告人は本件において単に自己の性的欲望を満たすために犯行を決意したということであって、極めて卑劣で自己中心的であり、全く同情する余地がないものであり、本件は、その動機、犯行の方法、態様、結果など、いずれの面から見ても、筆舌に尽し難いほど残酷、非道で、極めて重大な犯行である。    (略)  以上のとおり、本件犯行は、その罪質、犯行の動機、態様、結果、それによってもたらされた影響など、いずれの面から見ても、筆舌に尽し難いほど残酷かつ非道な誠に重大な犯行であって、被害者の遺族、親《しん》戚《せき》の者らは被告人に対し極刑を求めているところ、被告人は、残念なことに、これまで被害者の遺族らに対する慰《い》藉《しや》の措置を全く講じていないこと、その他諸般の事情などをも併せ考えると、被告人の本件についての刑責は極めて重大であるといわざるを得ない。  二 原判決は、その量刑理由の説示において、本件犯行の重大性に関しては、前項で述べたとおり、当裁判所の判断と、ほぼ同様の評価をしており、また、被告人の犯罪傾向の現状についても、当裁判所の判断とほぼ同様のとらえかたをしていると思われるところ、被告人に対し有利に斟《しん》酌《しやく》すべき主な事情として、 〓本件犯行は、被告人の爆発性異常人格の発現であるが、それは被告人の先天的素質と劣悪な環境が多分に影響しており、被告人のみに全責任ありとして全面的に非難できない。 〓被告人の犯罪傾向は改善可能性が全くないとはいい難い。 〓被告人に反省悔悟の情がないとは断じ難い。  ことなどを挙げ、さらに死刑制度およびその運用状況、その他最近の同種ないし類似事案の量刑例などを配慮したうえ被告人を無期懲役に処したものと思われる。  本件犯行は、被告人の爆発性異常人格の発現であって、それが被告人の先天的素質、生育歴および劣悪な境遇などが、かなり影響していることは確かであり、その限りにおいては、被告人は気の毒な人間であって同情できるものではある。しかし、そのような不遇な事情があるからといって、犯罪傾向の強い人格形成がなされるとは限らないものであり、現に、そのような劣悪な境遇にあっても、健全で社会有用の人物に成長していく者が多いことも、我々の経験上知られていることであり、従って、被告人の異常人格の先天性、生育歴および境遇が不遇であることを、本件の重大な犯行との関係では、それほど有利に評価して斟酌すべき事情であるとは考えられない。  次に被告人の犯罪傾向の改善可能性について考えてみるに、原判決は、被告人の犯罪傾向が全く改善不可能のものとはいい難いと、かなり微妙な表現で説示している。しかし、被告人だけにかぎらず、人間の犯罪性向が改善可能かどうかは、相対的或いは程度の問題であり、それを適確に判断することは至難のことではあろうが、本件において、被告人の生育歴、これまでの不遇な境遇なども十分に配慮したうえ、被告人が幼少のころ施設に収容されていたときの生活、非行状況および経緯、前科にかかわる強盗殺人の罪等を犯した経過、同罪等による受刑中の処遇状況、特に規律違反等の非行歴が多くて服役態度が極めて悪かったと考えられること、そして前刑終了後の生活状況、本件犯行に至った経過、被告人の年齢など、その他犯罪傾向に関連する諸事情をすべて考慮した場合、被告人の犯罪傾向は極めて深化していて、その改善可能性は極めて乏しいといわざるを得ない。    一九七九年六月、長崎刑務所を満期出所して三カ月で現在の身の上になっています。  今回の事件は、私が殺人事件の犯人としてつかまり死刑が確定したのですが、私も最初はこの事件を認めているのにはわけがあるのです。  それは、私が事件の現場に行っていなければ、こんなことには、なっていなかったと思います。  私が警察に連行されて刑事さんの取り調べになるのですが、この刑事さんも調べで同じ事をなんどもくどく調べられますので、私も同じ事ばかり調べられるので、いやで事件のことを口に出したわけです。  私がその現場に行くまでいろんな道をとってきたと思います。そうしてあるいているあいだに、電車のふみきりに出たわけです。そうして私は電車のふみきりに立っていると、畑の道のちかくに自転車がおいてあるのが見えましたので、私はその自転車を取ろうと思いその現場にいったのです。畑のそばを見わたすと、ふと私の目に畑の中でうごくような物がみえたので、私はその所にいくと女性の人が血まみれになってたおれているのがありました。私もその人をたすけようと思い、私はその人の左かたをゆさぶったのです。私も人が来ないかと思っていてもだれも人も来ないため、その現場を後にすることになるのですが、その時に女性の人のこしに竹かごがまいてあったので、もし私が人をよんで人が来られたときに、その竹かごがジャマになると困るので、私は自分の歯でその竹かごのひもをかみ切ったわけです。そういう事もあって、私が事件をやっていると刑事さんは思っているようです。  それと大事なことは刃物の事と思います。私が最初にもっていた刃物は、私がその現場にいく前に、ちりやき場でひろったサビついた刃物です。それも現場にすてていますが、その刃物が事件につかわれているかどうかを鑑定してくれといっておりました。二日ほどしてこの鑑定の結果が出てきました。この刃物は鑑定の結果事件につかわれていない事がわかっているのですが、刑事さんの話によれば、私が別の刃物をつかって事件を起しているようだと、調べもこの刃物の事ばかりで、私もこの刃物の事は別にあるといって刑事さんをからかって、いつも刑事さんが同じ事をやかましくいってくるので、次つぎと別の刃物だといって刑事さんをからかっています。そうするしかなく、別の刃物すら持っておりません。もし、このような刃物を家から出るときに持って出ているのであれば、父に見つかるはずです。私が家を出る時には、白の半そでと青のGパンのズボンでした。ですから父にもすぐわかるはずです。あのとき、早く父に知らせておけば現在のようにはなっていなかったと思います。いま考えてもくやしくてたまりません。 (死刑囚からあなたへ)    金川一はこういうふうに冤《えん》罪《ざい》を申し立てて、目下再審の申し立ての準備をしている。  連続ピストル射殺事件 永山則夫(47) 東京拘置所  一九六八年(昭和四三)一〇月から一一月にかけて、東京、京都、函《はこ》館《だて》、名古屋で、ガードマン、運転手など四人を次つぎにピストルで射殺。  警察庁は射殺された被害者の弾丸から、ピストルは同一のものと判断し、広域手配一〇八号に指定して捜査にあたった。六八年一一月、東京原宿で盗みに入ったところをガードマンにつかまり、持っていたピストルから一連の犯行は永山則夫(当時一九歳)であることがわかった。  一九六九年四月七日の夕刊各紙は、いずれも一面トップを〓“連続射殺魔ついに逮捕〓”という意味の大見出しをつけた。じつに一七八日ぶりであった。犯行は四件で終りである。五件目はピストルは発射したものの、狙った相手に命中せず、ここでつかまってしまっている。  一九七一年三月一〇日、永山則夫著『無知の涙』が、合同出版社から刊行された。六九年七月二日、東京拘置所の筆記用具の許可がおりると同時に記しはじめたもので、大学ノートにはそれぞれ1から順にナンバーと題名がついている。「ノート1 死のみ考えた者がいた」から「ノート10 〓“自己〓”への接近」までが納められている。ノート一冊が一章となっている。  ノート1には、 「私は四人の人々を殺して、勾《こう》留《りゆう》されている一人の囚人である。殺しのことを忘れることはできないだろう一生涯。しかし、このノートに書く内容は、なるべく、それに触れたくない。何《な》故《ぜ》かと云えば、それを思い出すと、このノートは不要になるから……」  という書きだしではじまっている。  また、八二年八月には、四百字詰原稿用紙九五枚の作品、小説『木橋』を、第一九回新日本文学賞に応募した。八三年二月には『木橋』は新日本文学賞の受賞も決まり、雑誌「新日本文学」の同年五月号には、永山の「受賞の言葉」とともに掲載された。この作品は後に「土堤」「なぜか、アバシリ」「螺《ら》旋《せん》」とともに収録され、立風書房から刊行された。  一九七九年七月、東京地裁で死刑の判決。この判決は一〇年かけた一審で二度死刑を求刑され、「弁護人抜き裁判」適用第一号のうえ、死刑裁判の判決を「欠席裁判」で行われた。  八一年八月に死刑判決から無期懲役に減刑された。永山はこの判決のまえに獄中結婚もしている。永山にとっては喜びの夏だったのではないだろうか。  弁護士の鈴木淳二さんは、永山の妻を伴って被害者宅を訪ねている。永山の『無知の涙』の印税を持って。  高裁における無期懲役への減刑は、検事側の上告によって、最高裁はこれを破棄し、高裁に差戻すという判決が出された(八三年七月)。  八七年三月高裁死刑、九〇年(平成二)四月最高裁死刑判決で永山の死刑は確定した。  なお、獄中結婚をした妻は、八五年四月に離婚している。八〇年の一〇月末、アメリカはネブラスカ州オアハから、永山の『無知の涙』を抱いてはるばるやって来たというのに、結婚生活は五年でピリオドを打ったのである。  いま、永山は新たに婚約者がいるが、こちらもさまざまな個人的身辺の境遇の変化があり、面会にも久しく行ってないようすのようだ。  永山則夫から婚約者にあてて書かれた手紙と、「新論理学ニュース」を紹介しよう。     井戸秋子様  こんにちはー その後お元気ですか。がんばっていますか。  本や、お金三万一千円など、どうもありがとうございました。  お手紙に感謝します。——青木氏、白木氏、井口氏に、カンパなどをどうもありがとう、とお伝え下さい、鈴木氏の二冊の詩集にも、お礼をいっておいて下さい。いつもすみません。  鈴木氏に「新論理学ニュース」8号とパンフ二部どうもありがとうさん、とお伝え下さい。パンフ久しぶりです。  年末の速達の件は伝えて下さいましたか。テレビ朝日の人には、わたしの本やパンフを渡していますか?  手袋に感謝しています。暖いです。——前のものなどの衣類を送ると戻り、「キララ」ではない自宅へ転送しました。  日本の文化人が、いいものはいいという良識があれば永山則夫を外国へ追いやることもないのですが、現状では無理でしょうね。力による孤立化の失敗なのですが、分りますか?  みなさんによろしくお伝え下さい。お体を大切に! お元気で!  日新論理学・試論(96〜101頁)同封します。よろしく!   一九九五・一・二七          永山 記す    やり方は二つある、いつでも! 「知識人」たる者は古来「スパルタ」と「ユートピア」を知っていよう。国を治める二つの政策で、軍政型と民政型だ。社会主義にも二つある。軍需型と民需型とだ。世界の大勢はニューデール政策以降、民需型社会主義が主流である。ソ連の崩壊は軍需型社会主義の敗退を意味する。しかし民需型も勢いがいま一つなのは、精力(イデオロギー)を向ける対象が、マルクス主義と同様に市民社会内の「共生」に限定されているためだ。この共生は『Reflection=Coexist Movement(反省=共立運動)』から起った。この事実を分る者が以後の科学思想を担うだろう。「自分史」もわが生きざまさらしから起った。「サンマヤキ広場」が「台所公園」になろうとしている。社会意識形態(イデオロギー)は精神がある限りなくならない。心のみの宗教(イデオロギー)は、われわれの物第一・心第二の科学(イデオロギー)にはかなわないのだ。唯物弁証法(イデオロギー)は活きているのだ。「左翼」の浅薄な知識に、われわれ共同体員はいつまでもお付きあいしていることもなかろう。目覚めよ。 (1995・1月19日記)    啓《けい》蒙《もう》とは何か?  柄谷行人が文芸誌等でカントを語り、啓蒙に関する言葉を話していた。カント(現象)ではなく、二元論(本質)を語れよ。カントの感性的・理性的認識は『純粋理性批判』にあるが、レーニンを通して毛沢東はこれを読み、『実践論・矛盾論』で使用している。この先にわが新論理学があるのだ。柄谷が唯心論に走るとヘーゲルを経て実証主義へ行こう。その政治化がサルトルの実存主義だ。二つに一つだ。物自体を絶えず解明してその法則を把握する科学時代にカントの哲学では力不足なのだ。科学法則辞典の中では哲学は思想学となり、カントは二元論の確立者となろう。この論の法則性を示した方が、柄谷よ、世の中に役に立つと思えよ。わが評論家たちは、何かと「私小説を書き、その才能を全開花させないで!」と悲鳴をあげているが、それは無理だろう。アリストテレス、ヘーゲル、永山則夫と続く、論理学を科学にするまでの学術史を、事実に即して見ることです。人類全体が有動しないために! (1995年1月20日記)      ※永山則夫のことは、佐木隆三さんが、「死刑囚永山則夫」と題して、くわしく書いている。     ※九七年八月一日、東京拘置所で、死刑の執行となった。    佐《さ》世《せ》保《ぼ》の三人殺人事件 村竹正博(51) 福岡拘置所  一九八三年(昭和五八)三月長崎地裁佐世保支部で無期懲役、八五年一〇月福岡地裁で死刑、九〇年(平成二)四月最高裁で死刑判決。  親族との交流、弁護士との交流ともにできるそうだが、最高裁のときの山元昭則弁護士に尋ねてみたが、「元気です」というほかにはなにもないらしい。  情状を認めて、一審では無期懲役の判決がもらえたのだが、福岡高裁はそれをひっくり返して死刑にしたのはなぜなのか、知りたいところである。     ※九八年六月二五日、福岡拘置所で、死刑の執行となった。    二女性連続殺人事件 晴山広元(61) 札幌拘置所  一九七二年(昭和四七)五月から七四年五月に起った事件。晴山広元が犯人だとして逮捕され、七六年六月には札幌地裁岩見沢支部で無期懲役の判決が出た。晴山はきびしい取り調べに屈して、自白したが、違法捜査だと言って控訴、検察側も刑が軽すぎるとして同じく控訴。  七九年四月に札幌高裁では検察側の言いぶんが通って死刑判決。  最高裁に上告するが、九〇年(平成二)九月にやはり死刑の判決が出される。  晴山はいまも無実を主張している。九一年には札幌弁護士会が支援を決定。九二年に弁護団が再審請求を提出。    一九七二年五月六日夜、空《そら》知《ち》管内月形町で一九歳の女性が帰宅途中襲われ、殺害された事件(月形事件)。  同年八月一九日夜、砂川市で帰宅途中の一九歳の女性が行方不明となり、数週間後に新十津川町で殺害されて見つかった事件(砂川事件または十津川事件)。  一九七四年五月、砂川市の隣の奈井江町で、四〇歳の女性が襲われ、負傷して置き去られた事件(奈井江事件)。  この三つの事件は「空知連続婦女暴行・殺人事件」と名づけられた。名づけたのは、警察、マスコミである。  北海道警察は、作業服を着て、たぶん機械関係の仕事をしていて、青っぽい車を乗りまわしている中肉中背の男、という犯人像をつくりあげ、当時奈井江町に住んでいた晴山広元を犯人にしたてた。  北海道警察は七二年の月形事件、砂川事件の二つの事件を解決できないまま七四年に持ち越してしまった。地元住民の不安や批判が渦巻く中、奈井江事件が起きたのである。  道警の面目にかけてというスローガンをふりたてて、一挙解決をもくろんだ。地域に住む同一犯人のしわざという、根拠もない予断をもって、父子家庭で重機運転手の晴山にねらいをつけた。被害者の「青っぽい車を運転していた中肉中背の男」という証言に、合うといえばいえる晴山にねらいをつけたのである。晴山が警察への任意出頭を嫌ったところ、それを幸いとばかりに犯人に決めこんで、逮捕にでたのである。手錠、腰縄をつけたまま取り調べをするという暴挙に出た。あげく、証拠はそろっているというでたらめをならべたて、自白を強要する。  もちろん晴山自身には、まったく身に覚えのないことなので、「知らない」の一点張りでいると、手錠を締めつけたり、耳もとで大声をあげてどなるなどをくり返す。  ちょうどそのころ、晴山は腕を骨折しており、警察のいう婦女暴行などできるわけはなかったのである。  しかし、その骨折後まもない腕をつかんでふりまわすなど、「うん、というまで止めなかった」。調書に署名するさいも、晴山の手をつかんで無理やりやらせたという。  これが裁判所で「信用性が高い」とされた自白調書だとは。  晴山が弁護士にあてた手紙の一部を紹介しよう。    奈井江の事件、やってないといったがきいてくれなかった。だいぶん長い間みとめなかった。留置場で昼ごはんを食べたあと、また、小さい部屋で〇〇(刑事の名前だろうと思うがふせてある)に調べられた。ひどい取り調べで、手錠をギッチリかけられて、証拠もタイヤのあととか、血《けつ》痕《こん》、他にも、みんなあるといわれた。    (略)  調書をとられたのは、せまい部屋で、〇〇や〇〇警部がいた。読みあげられたけど、何が何だかわからなかった。    (略)  一番つらかったのは、手錠をはめられ、ギッチリしめられてひっぱったり、ふりまわしたりされた。右手首が赤くなり、跡がつくくらいで、そのうえ、手をつかんで、ひっぱったり、    (略)  図面(見取図)は、〇〇が、わきに並んですわって、自分で指示したり書いたりした。〇〇は、「こっちいったろう、あっちいったろう」と指示して書かせた。手を持つような感じで指示。    (略)  奈井江の事件、新十津川、月形事件、やっていない。    晴山広元が犯人とは考えられない有力な証拠もたくさん出て来ている。  〓「月形事件」   現場に残されていた数種類の血液型などから、犯人は複数であると思われる。  〓「砂川事件」   被害者の衣類についていた泥《どろ》土《つち》が、犯行現場とされている所の土とは成分が異なっている。  〓「事件当時」   晴山は右腕骨折後まもなくで、人を襲って乱暴したりするだけの力は、ついていなかったことが証明されている。  〓「奈井江事件」   被害者の血痕や現場にあったものと同じタイヤ痕が取られた、とされていたが、晴山の乗用車が、検証前に忽《こつ》然《ぜん》と〓“消えた〓”。  このほかにも、晴山事件に関する、犯人はほかにいると思わせる証拠はたくさんある。  死刑確定後『晴山事件再審弁護団』が結成されたのはまえにちょっと書いたが、現在はさらに陣容が強化され、人数は二八名になった。  弁護団は熱心に新証拠の発掘などに努め、九二年九月には札幌高裁に晴山事件の再審請求書を提出。さらに証拠開示の上申書、証拠物保管の上申書も提出した。検察官は証拠の存否については確認中としていて、開示については未定である。北大法医学教室保管の一部証拠物は、九三年三月に裁判所の押収手続きがとられている。  そして、一審で、裁判所による検証の直前に「行方不明」になっていた晴山の乗用車の返還請求訴訟が、道(道警)を相手どって、札幌地裁に提訴。  三崎事件 荒井政男(67) 東京拘置所  一九七一年(昭和四六)一二月二一日に事件は起きた。七六年九月二五日犯人と目された荒井政男に横浜地裁横須賀支部は一審死刑を宣する。無実を主張する被告に、東京高裁は情容赦もなく死刑を言いわたす。三審に上告したがむろん死刑。  一九七一年一二月二一日。この日は神奈川県三浦市三崎町の岸本商店の店主など三人が殺され、犯人として荒井政男が逮捕された日である。 「三崎事件」といわれる冤《えん》罪《ざい》事件がどうして生じたのか。私たち一般の多くの人びとは事件のくわしい内容すら忘れてしまうほどの時間が経《た》っていながら、いまだに再審も開かれていない。  もう一度、七一年一二月二一日の荒井政男の足どりをたどってみたいと思う。  二一日は娘の一八歳の誕生日の翌々日だった。誕生日の一昨日は泣いて過した荒政(荒井政男の愛称)であった。それというのも、娘は女子高校二年生になる少しまえから、学園紛争にまきこまれ、学校をサボるようになり、家にも帰って来ない、という荒廃した生活を送るようになっていたからである。  荒政は毎日のように夜になると、川崎地区や久里浜地区、横須賀地区をあてもなく娘を探してまわった。あてもなくとはいうものの、これらの地区で娘を探しあてたことが何度もある。その度ごとに連れて帰るのだが、娘はまた家出をする。そういうことのくり返しだった。  結局、娘は学校を退学してしまうが、このとき荒政は横浜店の魚屋を寿司屋に大改造して、妻と娘とで働けばいい、と考えた。  寿司店は順調に繁盛したが、娘の家出はとまらない。荒政は行方不明の娘探しに必死の毎夜だった。ドライブイン、バー、スナック、と尋ねまわる。アパートというアパートも、それこそ虱《しらみ》潰《つぶ》しというあんばいだった。  むろん、警察署少年課にも、家出中の娘の届けを出した。どこの警察署でも、「家出娘というのはヤクザ者にだまされて、体をおもちゃにされたあげく、情け容赦もなくいかがわしい店で働かされ、しぼり取れるだけしぼり取ったら、後はどこかに売り飛ばされるのが、ほとんどのケースですよ。あげくに薬《ヤク》の中毒にはなるしねぇ、まあ家出した娘さんが自らすすんで訴えて出るか、事件でも起こすかしない限り、警察では探しようがないというのが本当のところなんですよ」という。  荒政はノイローゼになってしまった。  三六歳で三崎に魚の小売店を開き、ついで横浜店も開店するなど、一三歳で金沢市の絹織物問屋のデッチ小僧を皮切りに、数々の職場を歩いてきた荒政にとって、魚屋という商売はやっとホッとできる仕事であった。しかし、三七歳になった時、車事故のため身体障害第二種四級者になった。松《まつ》葉《ば》杖《づえ》はなんとか手離せたものの、ステッキがわりに大ハンマーの柄を一本杖につかって、ガニ股《また》の不自由な足を引きずって歩く身である。それでも、横浜店を大改造して寿司店をはじめ、店は大へんに繁盛した。  マーク〓を運転しているというものの、荒政の足は不自由である。その不自由な足を引きずっての娘探しはさぞかし大変なものだっただろうと思われる。  この日の荒政は、夕方早くから娘探しに出かけたので、食事は朝、魚市場でウドンを一杯食べたきりだった。腹がへった。何か食べたいと思うものの、うっかりしたところで食べるわけにはいかなかった。うっかり食べて、大便がしたくなっても左足が曲らないので、日本式便所はつかえないからだ。  三崎のガソリンスタンドの大便所なら、日本式だが一段高くなっているので、まわれ右をして腰かけて使えるのを思い出した。三崎の船員組合の隣に自営する知人(魚屋仲間だった主婦)の「ます屋食堂」に行こうと考えた。  ところが、「ます屋食堂」に入るのには、マーク〓を停めなければならない。いつもます屋で食事をする時に止める三崎船員組合前の路上は、あいにくいっぱいだった。両足不自由なので、港、岸壁などます屋から遠いところには停めたくなかった。  車でグルグルまわっていると、大通りのます屋とは反対側の「岸本商店」の路地口に止めてあった車が発進していく。荒政はその路地口にバックしてマーク〓を停めた。しかし、この場所だとます屋は死角になって見えない。  車を置いてます屋に行っている間に、「マーク〓をどけてくれ」といわれても見えないし、声もきこえない。バックミラーでもこわされでもしたら困るしなあ、と考えた。が、いかんせん腹がへってしようがない。思いきってます屋へ行こうと決心した。  ガニ股でガックン、ガックン歩いていくと船員組合前の路が車一台停められるくらい空いている。ああ、これでやっとゆっくりとます屋で食事できるな、と思って、またガックン、ガックン車まで戻り、車キーを差しこんだとき、岸本商店と書いた軽四輪貨物自動車がきて、荒政が行こうとしていた場所に駐車した。助手席側から特徴のある巨体の岸本商店主が降り立ち、運転台から店員らしいものも降りて、岸本商店のシャッターを開けて店内へ入っていくのが見えた。  ありゃ、仕方ないなあ、とひとりごとをつぶやきながら、目にとまった大赤ちょうちんをさげた「かねしろ食堂」に、ここに入ってみるか、という気持ちになった。  朝鮮焼肉食堂と看板に書いてある、かねしろ食堂は先客の船員らしい青年が、ひとりいるだけだった。  荒政はウイスキーと焼肉を注文した。食事も注文し、飲むと陽気になり船員らしい青年ともいろいろ愉快に話がはずんだ。もともと酒に酔うと陽気になるたちだった。ここがはじめて入った店でなければ、何か歌でもうたいたいような気分になった。娘のことでしずみ込んでいた気分もすっかり晴れて、今度は娘探しは諦《あきら》めようと思うようになっていた。  やがて食事がきて食べはじめると、青年は「女とデートがあるから」といって、先に帰った。荒政は食事をすっかり食べ終え、水を二、三杯もお代りして飲んで、「楽しかった、また来るよ」といって、かねしろ食堂を出た。  車に戻るとき、船員組合のまえに停っていた岸本商店の軽四輪貨物自動車がいなくなって、マーク〓を入れられるだけの場所が空いているのを認めて、荒政はそこに車を移動させた。車内でしばらく寝て、酔いをさましていこうと思ったからである。年末警戒をやっていると飲酒運転はちょっとまずいからだ。  車を船員組合まえに停めると、にわかに吐気をもよおした。車内においてあったジャンバーを着て、ヒーターをつけたのが悪かったのかもしれない。とにかく、急いで車を降りた。  ちょうど腰をおろすのに格好の基礎石をみつけた。それに尻《しり》をかけ、下水の石のフタの割れ目をめがけてゲロゲロゲェーッ、と吐いてしまった。いま食べたばかりの焼肉や、キムチや、飲んだウイスキーからなにから、みんな吐いてしまった。  吐いてしまうと胃の中も洗浄したような気分ですっきりして、代りに眠けが襲ってきた。何よりも連日の疲れと寝不足も手伝って、まぶたがふさがり、そのまま深い眠りに落ちていった。眠りに落ちる前のほんの少しの間、大通りの向いにある大洋漁業船員宿舎の二階の窓ガラスに、二人の人影が見えた。布《ふ》団《とん》を敷いているようすであった。このとき荒政は自分の腕時計をたしかめた。九時一〇分をさしているのを覚えている。  またこのとき、人の足音を聞いたので眠い目を開けてみると、三人連れの韓国船の船員らしい男が、かねしろ食堂の戸を開けたが、中へは入らず、韓国語で何かいいながら海岸の方へ行ったのも見ている。なおこのうちの一人はかねしろ食堂へ入っていったが、その後は完全に眠りに落ちてしまった。  どこかの雨戸を閉める音で目を覚ますと、大通り側からまた男が(長靴で、右腰に手《て》拭《ぬぐ》いをさげ、髪はボサボサのオールバック風、服装は作業服開襟で、中肉中背)、岸本商店の入口シャッターを開けて店内に入り、シャッターは閉じた。荒政はこのとき、どのくらい寝たのだろうかと思って、自分の腕時計を見た。もう午後一一時五分をさしている。  つぎに、車のドアの閉まる音が身近にして、人の気配を感じて目を開けると、巨体で特徴のあるドラム缶のような岸本商店の店主が、荒政の方をたしかめるように見ていた。このときは一一時一五分だった。荒政は、娘探しに出るようになってからというもの、何かにつけて腕時計を見るのが習慣になっていた。  岸本商店の店主に、「こんばんは」とあいさつをしながら、左足がしびれているのを手でもみほぐし、不自由な体を「ドッコイショ」と声をかけて立ちあがった。  岸本商店の店主も、酔っぱらっているらしく、ごきげんのようだ。 「ごきげんだね」というと、「同年兵といっしょに飲んで、車置いて帰ってきたのよ」と答えた。  とりとめのない話をしながら、岸本商店の入口まで歩き、「じゃお休み」とどちらからともなくいって、岸本商店の店主は木戸口をカギで開けて中へ入った。このとき、のぞくともなく店内を見てみると、事務室内にパジャマ姿の少年の姿があった。  荒政は自分の車に行き、後部ドアを開けて中に入った。体をのばして横になりたかったからである。両足が冷えきって、感覚がおかしくなっていた。両方の手を使い、足が感覚マヒしているのをもみほぐしていると、岸本商店のシャッターが開いて、男の姿が一人出てきて、かねしろ食堂に入っていった。  しばらくして、タバコを探したがみつからない。体を起こしてよく探そうとしていると、岸本商店のシャッターから、また、もうひとり男の出てくるのが目に入った。その男は、荒政の車の横を走って去ったが、荒政の目には腰にさげた白い手拭い、長靴、中肉中背、などがはっきり見えた。先刻見た男であることはまちがいない! 男はあっという間に闇《やみ》の中に消えてしまった。  すぐに荒政は車から降り、不自由な足ながらも、できるだけ急いで岸本商店に行ってみた。店内には明りがついていた。出入口でころばないように足もとを見ると、血《けつ》痕《こん》、靴跡と覚しいものがついている。  荒政は岸本商店になにか起こった! と直感して中に入った。  岸本商店の出入口はちいさい土間になっている。店内左側が床板張り(土足のまま)の通路になって、さらにその奥が事務所(ここも土足の板張り)。  店内に入った荒政は、通路に山型長靴底の跡が、血の色は薄いながらも鮮明に判コでも押したようについているのを蛍光灯の灯りではっきり見た。靴跡を踏まないように気をつけて事務室の入口に近づいた。事務室内は血の海である。  事務机と、ソファの前の血の海に、岸本商店の店主はうつ伏せの腹《はら》這《ば》いで倒れていた。背中に刺傷らしいのが一カ所ある。荒政はもうびっくり仰天してしまった。 「だれかいるか」と、声をだすのが荒政にはやっとだった。返事はなく、血の海には山型長靴だけ一種類が、無数に踏み残されているのを確認して、急いで店外に出た。この出入りの時間は、せいぜい一〇秒か、一五秒ぐらいのものではなかっただろうか。  岸本商店の外に出ると、二人の男が歩いて来た。そのうちの一人、パジャマ姿のほうが、荒政を指して、「あの人をつかまえて」と少年っぽい声で叫ぶようにいった。荒政は、「なにをいうか、犯人はさっき逃げていったよ」といって二人にちかづいて行った。  だが、この時、荒政は自身の右手にクリ小刀を持っているのに気づいた。クリ小刀は娘探しのために用意していたものだ。家出中の娘を引きまわしているグループのボスを脅かすのに持ち歩いていた。いま岸本商店に入ったとき、無意識で抜いて持ったのかもしれなかった。  これはまずい、と考えて荒政は自分の車のほうへ戻った。ドアを閉めてエンジンをかけて後部を見ると、何かさけびながら男が三人走って来るのが見える。  荒政は何か、追いかけられているようで、恐い気持ちになり、思わず車を発進させた。すぐ近くの三崎警察署留置場の横に車をとめると、タバコを出してすった。一服しながら、あれやこれやと考えた。年末で多忙な自分の店々のことや、なんとしても娘を探し出さなければならないことなどを。  やはり、かかわりあいになるのはよそう。そう思うと、横浜の自宅にむけて車を発進させた。途中で何度も引き返そうか、と思ってみたが、そのまま走りつづけて横浜に帰った。  そして事件が起きて五日後荒政は逮捕されたのである。    取り調べ官は荒政を最初から〓“犯人〓”と決めつけて、荒政の弁解をいっさい聞こうとしなかった。  荒政は逮捕されたとき、浦賀警察署前の路上で取り扱いの悪い警察官ともみあいになったさいに、通りかかった車にぶつかり、頭に八針も縫う大《おお》怪《け》我《が》をしていた。しかし、警察官は取り調べをやめず荒政に〓“自白〓”をせまった。荒政はその日のうちに、事件の大筋を認める調書に署名させられてしまったのである。  逮捕二日後に、いったん否認するが、再び〓“自白調書〓”を取られて起訴された。  裁判では一貫して否認したが、結局、認められず、横浜地裁横須賀支部での判決は死刑。東京高裁も控訴を棄却、一九九〇年一〇月一六日に最高裁で上告を棄却され、死刑が確定した。  荒井政男と弁護団は、一九九一年一月に再審申立を行い、さらに一九九四年二月に再審理由補充書を提出した。  再審理由 〓荒井は事件の八年まえに交通事故にあい、両足の大《だい》腿《たい》骨《こつ》や膝《ひざ》の骨を骨折し、右足が左足よりも三センチ短くなっており、歩くときに身体を左右に揺らせる独特の歩き方になる。  事件が起きたとき、二階の窓から飛び降りて助かった岸本商店の息子の証言は、こうだ。  「犯人は右手に血のついた刃物を持って、ものすごい勢いで階段を駆け昇ってきました。犯人の歩き方などに、足の不自由な様子はありませんでした」  荒井の階段の昇り方は、まず右足を一つ上の段へ、次に左足を右足にそろえる、というように、この動作を繰り返して一段ずつ昇っていく。関節に屈曲制限があって、この昇り方しかできないのである。さらに、早く昇ろうとすればするほど身体が左右に大きく揺れ、壁や階段に手をついて身体を支えることになる。犯人は血のついた刃物を持っていたが、階段の壁や段にはその痕跡がない。 〓〓“犯人〓”は現場にゴム靴の足跡を残している。そのサイズは二五・五センチないし二六センチ。ところが荒井が当日履いていたゴム靴の大きさは二七センチである。  仕事の関係で魚市場に出入りしていた荒井は、靴下を二重ばきにして、いつも二七センチのゴム靴を履いていた。 〓〓“犯人〓”は、岸本商店の主人にその場で大きな切り傷を負わせて即死させ、入浴中の岸本商店主の妻にも、その場で二一カ所の傷を負わせ即死させている。その後、長女にも一〇カ所の傷を負わせている。  当然、〓“犯人〓”は、相当多量の返り血を浴びているはずである。ところが荒井の衣服にはその痕跡がない。 〓荒井の車のトランクにあった、大工道具袋に付いていた小さな血痕が、殺された岸本商店主人の血液型と同じAのM型だというが、荒井はAのMN型であり、その血液は荒井が怪我をしたときのものである。  警察のMN型についての血液検査には重大な欠陥があるという法医鑑定が出ている。 〓荒井が〓“犯人〓”ならば、当然あるべきところに荒井の指紋がまったくない。 〓荒井には「動機」がない。  警察のストーリーでは、借金の申し込みをしたのを断られてカッとなって殺したことになっているが、荒井は岸本商店主人に借金の申し込みをできるような関係ではなかった。  犯行の全体をみると、非常に残虐、執《しつ》拗《よう》で、怨《えん》恨《こん》があったとしか考えられない。また、恐ろしいばかりの計画性も感じられる。  〓“犯人〓”は、刃渡り二一センチ以上の刃物を使っている。柄の部分を加えると三〇センチ以上の長いものになる。それをどこに隠していたのか? さらに、自分でシャッターを開けて入ってきて、しばらく岸本商店の主人や息子と話をしている。  荒井が当日護身用に持っていた刃物は、刃渡り一三・八センチの小さなクリ小刀だった。  偶然にも第一発見者になってしまった荒井が、冤罪の罠《わな》にはまってしまったのである。  直方強盗女性殺人事件 武安幸久(62) 福岡拘置所  一九八六年(昭和六一)一二月福岡高裁死刑判決、九〇年(平成二)一二月最高裁死刑判決。  無期刑の仮釈放中に事件を起こした。金もなくなり、盗みに入ったところを見とがめられて殺害してしまった。いまは外部との交通がいっさいないので、くわしいことや、最近のことなどすべてわからない。     ※九八年六月二五日、福岡拘置所で、死刑の執行となった。  事故偽装夫殺人事件 諸橋昭江(62) 東京拘置所  一九八〇年(昭和五五)五月東京地裁死刑、八六年六月東京高裁控訴棄却死刑、九一年(平成三)一月最高裁上告棄却死刑。    再審請求書    請求の趣旨  請求人に対する殺人・死体遺棄被告事件について、昭和五五年五月六日東京地方裁判所刑事第一五部が言い渡した死刑の確定判決に対し、再審開始の決定を求める。    請求の理由 第一 本件の内容とその捜査、公判の概要  一 事件の内容  昭和四九年八月八日午後九時ごろ、諸橋清喜がマンションの自宅でガス自殺した。  本件は、清喜の妻請求人と請求人の元愛人松本明が共謀し、計画的に清喜を殺害したものと判定されて追訴された。  請求人らは、捜査段階ではそれぞれ「自白」したものの、公判においてはともに共謀についても実行行為についても一貫して否認した。  しかし、第一審は昭和五五年五月六日、第二審は昭和六一年六月五日にいずれも両者に対し有罪を言い渡し、平成三年一月三一日最高裁判所第六小法廷の上告棄却の判決により、請求人らに対する殺人および死体遺棄罪が確定した。  なお、請求人は別件岡田友治に対する殺人事件と合わせて死刑を言い渡されている。  二 本件の特徴  1 本件捜査の端緒に関する特殊な事情  清喜の死亡当時事故死として処理されていた本件についてあらためて他殺事件の疑いをもって捜査が開始されたのは同人の死後三年九カ月を経過した時期であり、しかも岡田事件の捜査中においてであった。  昭和五三年四月二四日、請求人の経営するバー「パリ」のホステス田口美代子の元愛人岡田が絞殺され、同月二六日、請求人らは、田口および「パリ」でバーテンのアルバイトをしていた荒井一郎とともに、岡田殺害の容疑で逮捕された。  逮捕直後の取り調べにおいて、田口は「請求人から前の夫をガスで殺し事故死にしたことがあるという話を聞いたことがある。岡田をやるなら手を貸すよと諸橋から言われた」などと、岡田殺害のきっかけを請求人に転嫁する趣旨の供述をし、それが本件の発端となった。  田口は、犯行関与者の中で誰にもまして岡田の死を強く望む立場にあったにもかかわらず、請求人のその他の共犯者が犯行の準備を着々と進めた旨供述した。いうまでもなく田口の供述については、いわゆる「共犯者の自白」にあたるものであり、共犯者に責任を転嫁しようとする者の供述に伴いがちな虚偽や誇張供述の危険を十分に考えなければならないはずである。ところが、捜査当局は、田口の一片の伝聞供述をきっかけに、はるか以前に事故死として処理されていた死を他殺の疑いで見直したのであった。  2 有罪の証拠に関する判断の特殊性  本件では請求人が犯人であるかどうか以前の問題として、清喜の死が他殺によるものであるとする証拠は結局請求人の自白だけしかない。  一般に物証のない殺人事件といわれるものも、他殺体が存在し、被害者が何者かによって殺されたことは明らかになっていて、物証というのも他殺体と被告人を結びつける証拠を指称する場合であるのが通例である。ところが本件の場合は、清喜の死が他殺によるものであることを示す客観的証拠がそもそもない。かえって、書類上は事故死の証拠しかない。本件は、いわゆる「死体なき殺人」以上の他殺事件としての実体を欠いた事件なのである。  したがって、請求人らの刑責を問うには、まず他殺体であることを明らかにし、その上で請求人らの行為によるものかどうかを考察しなければならないはずである。  ところが、本件確定判決は、清喜の死が他殺によるものであることと、清喜の死が請求人らの行為によるものであることをいわば一体に判断し、自殺とは考えられないとする根拠が請求人らが殺害した根拠ともなり、請求人らが殺害した根拠が自殺でない根拠とされ、両者は相互にもたれあう構造になっている。そして、請求人らを有罪とする根拠は、ほとんどすべてが請求人らの供述から取捨選択されており、その請求人らの供述のどの部分が事実に合致し、どの部分が合致していないかを対比検証する指標たる客観的状況がなにもない。  三 判決の内容  第一審判決の認定した事件の概要は次のとおりであった。  請求人は、清喜の愛人関係やこれに伴う金銭関係に苦しめられた憎しみと清喜の死亡による退職金の取得を動機として清喜殺害を企て、清喜と約束していたドライブ旅行を利用し運転に疲れて帰った清喜に眠り薬を飲ませ、都市ガスを放出して殺し、浴室に死体を運んで事故死を偽装する計画を考えつき、松本に計画を打ち明け、眠くなる風邪薬の購入と死体運搬の協力を依頼したところ、請求人に好意を寄せていた松本は、これを了解して清喜殺害を共謀し、魚釣りをかねた長距離ドライブをした日の夕刻、ビールを飲んだ清喜と清喜の愛人M・Tのことで喧《けん》嘩《か》口論をした後、清喜が「疲れた」といって四畳半で眠った機会を捉えて殺害を決意し、隣室六畳間のガス用のホースを接続し、清喜の寝ている部屋に引き込んで都市ガスを放出させて部屋を出、同日午後九時ごろ清喜を死亡させ、その後松本を呼び寄せて死体を風呂場に運び事故死を装った。  控訴審判決は、第一審判決の事実認定を踏襲し、請求人らの自白の任意性および信用性の肯定として、その供述を引用して第一審判決を補足した。  新たな認定として、清喜の死亡時刻と請求人の出勤時刻の関連で、ガス中毒死に要する時間について行われた三つの鑑定に関し、請求人の出勤時刻を午後八時ごろ、ガス放出時刻を午後七時から七時半ごろとそれぞれ認定した上で、各鑑定の科学的正当性の判断を回避し、有罪認定と明らかに矛盾抵触する山口鑑定のみを排斥し、請求人によるガス殺人が時間的に可能であるとの判断を示し、有罪認定を維持した。  上告審判決は、弁護人および請求人の上告理由は適法な上告理由に当らないとして、その上告を棄却し、東京地方裁判所の前記判決に確定した。    以上は、私が弁護士、寺井一弘さんから拝借した諸橋昭江の再審請求書の最初の部分である。この事件は毎日新聞の夕刊に連載されたり、テレビでドラマになったりして、一審判決まではわりあいたくさんの人が知っていることと思う。  寺井さんは一審判決のときから、諸橋昭江の無実を主張していた。控訴審判決の日には私も東京高裁まで行き、寺井さんにあいさつをした。 「判決を申し渡す、両被告の控訴を棄却する」  何という簡単なことだろう。死刑裁判だというのに。こんな簡単なことで人の生命を死へ追いやるとは……  私は判決を聞いただけで、ムラムラと腹が立ってきた。それから二時間あまりの時間を、裁判長はなぜ死刑を選んだかについてを読みあげた。  私がどうしても解せなかったのは、三年以上もまえの諸橋清喜さんの死について、死体もないのに何を根拠に死刑判決が出せるのだろうか、ということだった。  最初に死刑という刑罰を決めておいて、あとはこじつけで納得させる。そんな気のする控訴審判決であったのを思い出す。  再審が開かれるよう祈ってやまない。  パチンコ景品商殺人事件 島津新治(63) 東京拘置所  一九八四年(昭和五九)一月東京地裁死刑、八五年七月東京高裁控訴棄却、九一年(平成三)二月最高裁上告棄却死刑確定。  事件は八三年一月一六日に起こった。  東京のパチンコ景品商の老人が、頭をなぐられて殺されていた。  犯人として逮捕されたのは島津新治である。  第三審である最高裁のとき、弁護人となった角田愛次郎さんに、現在の島津のようすを聞きたいと思って、紀尾井町の事務所を訪ねた。  角田さんは、人間的にとてもあたたかい感じの人だった。じっさいに話をしてみると、人情家で、島津の人生を語る表情は、いまにも涙が吹き出しそうな、自分の身内を語るような、やさしい人柄がこもったものであった。こんな人に弁護されて、島津は慚《ざん》愧《き》にくれたことだろう。  島津新治は無期懲役の仮釈放中の身であった。一九五〇年に、強盗殺人事件を起こして無期懲役に処せられ、営々と刑務所づとめをして、ようやくこの事件を起こす七年あまりまえに仮釈放で出所したのだ。  出所後は、これからはまじめに正直に生きるのだ、と自らに誓ったことだろう。自由がどんなに尊いものか、長い刑務所暮しをしてきたものには、身にしみてよくわかったにちがいないからだ。  まじめで熱心に生きて、何年か経《た》った。当然のことのように、ひとりの娘と出会いやがて結婚する。  神奈川県の海に面した町で寿司店を営み、商いも繁盛し、やがて赤ン坊が生まれた。島津にとって、生涯で最も幸せな時期である。まさに順風満《まん》帆《ぱん》というほどの、時間が流れていく。そして、二番目の子供が生まれた。  二番目の子供は、島津には育てるのに少し荷が重すぎる感じがあった。医者に「ダウン症」といわれた。最初の子供とどうしても比較してしまう。なんとかして、自分の力で生きていけるようにしてやらなくては、と思う毎日であった。  幼稚園も、ていねいに保育してくれるところへ行かせよう、学校も同じようにしなくてはならない。そのためには金がいる。島津はその金を懸命に働いて稼ごうとは思わなかったのか。バクチに手を出す。儲《もう》けるときもあったのだろうが、損をすることのほうが大きい。にっちもさっちもいかない火の車。借金は雪ダルマ式にふえていく。  そのとき、島津の頭をよぎったのが、パチンコ景品商の顔である。正月あけの一六日、島津はころあいの石をかくし持って、パチンコ景品商のところへ出かけて行った。地元産のみかんを手みやげに。  後は、よく聞く強盗殺人事件である。仮釈放は取り消しになる。前の事件にかさねて、またこんども同様の手口で人の命をあやめ、金を盗ったということは、後悔先に立たず、と島津にもよくわかっているはずであった。  一審、二審と早い裁判が進み、三審の弁護人に角田さんがあらわれた。三審には被告は一度も法廷に出ることはない。すべてが書面だけで行われるのだ。はなはだしい場合は、被告と弁護士が一度も会っていない、というのさえある。そんな三審であったが、角田さんは、何度も島津に会いに行った。島津が寿司店をやっていた神奈川県の海辺の町にも出かけて来た。島津は、角田さんに会って、はじめて弁護士にあまえ、たよる気持ちを持ったのかもしれない。拘置所内でできる請願作業をやって、半年あるいは一年間かかってためた若干の金子を、子供に送ってほしいと、角田さん宛《あて》に送ってきたこともある。  だが、死刑が確定してからは、まるで便りがない。 「もし、子供が一人だけだったら……。と思うと、神様は残酷だなあという気がしたりします」  最後に、ポツリ、と角田さんはいった。     ※九八年六月二五日、東京拘置所で、死刑の執行となった。  泰州ちゃん誘拐殺人事件 津田 暎(55) 広島拘置所  一九八四年(昭和五九)二月一三日に事件を起す。八五年七月広島地裁福山支部で一審判決、死刑。八六年一〇月広島高裁控訴棄却、死刑。九一年(平成三)六月最高裁判決上告棄却、死刑確定。  津田暎は、いま広島拘置所にいるが、くわしいようすなど、最近のことはいっさいわからない。  事件は、津田がソフトボールのコーチをやって、親しくしていた市会議員の長男泰州ちゃんを誘拐して殺したというもの。  幼児殺しと警察官殺しは絶対に助からないといわれていたが、津田と同じ時期に同じように幼児誘拐殺人を犯して、無期懲役になった被告もいる。  裁判官もちがうし、弁護士もちがうが、なんといっても、お金の問題であろうと思う。無期懲役になった被告は、身内が多額の金を払って供養した。  津田は金に困って幼児誘拐をしたのだから、供養の金など一銭もない。  そんなことで裁判の結果に天国と地獄ほどの差が出ようとは。津田はこのことをどう思っているのだろうか。  大宮の母娘殺人事件 佐川和男(44) 東京拘置所  一九八一年(昭和五六)四月四日に事件を起した。  八二年三月浦和地裁一審死刑判決、八七年三月東京高裁控訴棄却、九一年(平成三)一一月最高裁上告棄却、死刑確定。  仲間と二人で知人の被害者を殺害したが、共犯者は逃亡中である。  佐川和男の手紙など、「佐川君と共に生きる友達の会」が、「かすみ草」というパンフレットを発行している。  一年以上もまえのことだが、明治大学内で死刑廃止の「フォーラム'90」という会の「死刑廃止にむけて」とかいうのがあった。その日は日弁連会長、土屋公献さんが講演すると聞いていたので、私も出かけて行ったのである。その時、私の後の席に佐川和男のお母さんが腰を下ろしていた。むろん私は一面識もない人だったので知らなかったのだが、私の隣にいた女性が低い声で教えてくれた。  私があいさつをすると、 「お手紙はずい分前にいただいたのに、返事も書かなくてすみません」  と言い、私も息子も筆不精でと何度も申しわけなさそうに頭をさげられた。それから日を置かず、参考になるでしょうか、といって送って来られたのが、「かすみ草」の第一四号である。少し古いものだが、紹介してみよう。    前略  みなさまには、お変りなくお暮しの事と思います。  私の書いたものをかすみ草にのせるのは、はじめてなので、何を書いて良いのかわかりません。  初めに家族の事を書いてみます。私と息子と嫁と孫二人と、それにネコのニャンタと、犬のアキ、あわせて五人と二匹で暮しております。  もうひとり、忘れることのできない息子が遠くにいます。  さて、先日、その息子に会いに行って来ましたが、いつもと同じく元気にしていましたが、あまり家のほうに手紙が来ないので、少しきびしくきいてみると、みなさんと文通もできず、会うこともできないので、あまり書くこともないので、つい……。しかし落ち込んではいないので心配しないでほしい、中にいると何もわからない、などと言っていましたが、みなさんの熱心な気持を話しましたら、申し訳ない、これからは書くようにするから、皆さんによろしく伝えてほしい、といっていました。  自分勝手なことばかり書いてすみません。これからもよろしくお願いいたします。  和男の母より     和男からお母さん宛《あて》に来た手紙    こんにちは  元気ですか? ぼくのほうは変りありません。  今日は入浴日でして、午前一〇時半ごろ、風呂から戻ってくるのと同時に、お母さんからパンフが届きました。「言いたい放題」は確定してから初めてだね。なつかしい人の名前が沢山出てくるので、何となく胸がいっぱいになりました。「監獄通信」も届いています。「四国フォーラム'92」のビラもちゃんと届いていますから。あ、「かすみ草」の一三号も届いています。ぼくが手紙をあまり書かなかったのに、きちんきちんと発行してもらって、ほんとにありがたいよね。  今日は午前中、なんだかバタバタしてしまって、いまは昼もすぎたというのに、まだ、今日の新聞も読んでないんだよねえ。時間の使い方がどんどん下手になってくみたいで……  それじゃ今日はこの辺で。  外はいい天気だよ、太陽の下で思いっきり寝っころがって昼寝でもしてみたいねえ。 和男     「6月6日」   佐川和男(東拘)   6月6日は子供の誕生日なんだよ   まいったね   もう10回目の誕生日なんだよ   4年も会っていないものなあ   いや、4年どころか   もう 二度と会えないと思うよ   せめて プレゼントだけでもと   そう思うんだけど   まア 何もしないことが何よりだしさ   だってぼくは 殺人犯で   死刑囚だもの   子供も今は「佐川」じゃないんだしさ   いまさら ぼくは近付けないよ   それにしてもさ まいったよ   10回目の誕生日だって……   ぼくも いつの間にやら33歳だものなア  この詩は佐川和男が三三歳のときに書いたものである。それからさらに一〇年が過ぎた。  市原の両親殺人事件 佐々木哲也(43) 東京拘置所  一九七四年(昭和四九)一〇月三〇日に事件は起きた。  犯人として息子である佐々木哲也が逮捕され、八四年三月千葉地裁で一審判決死刑、八六年八月東京地裁で二審判決控訴棄却、九一年(平成三)一月最高裁で三審判決上告棄却となり死刑が確定した。  しかし、一審から無実を主張し、最高裁に対して六千ページにおよぶ無実の訴えを行っている。  佐々木哲也は未決のとき、島谷直子さんという女性と文通をしていた。島谷さんとは、ちょっとした知りあいなので、最後の手紙でもいいから、ちょっと見せてほしいと頼んだ。  私の依頼を快く承諾してくれ、手紙のほかに島谷さんが書いた「記録」という雑誌の切りぬきも送ってくれた。  ここにその一部を紹介しようと思う。    佐々木哲也さんの事件が、冤《えん》罪《ざい》であることを知る人は少ないように思う。「判決時報」(一二二五号)の解説にさえ、「本件は、両親殺しの青年の心理をめぐって、中上健次著『蛇淫』や長谷川和彦監督の映画『青春の殺人者』のモデルとなり、注目をあびたものであり——」とあるくらいだから、これらの作品が有罪のイメージを固定させることにどれだけ役立ったか、はかり知れない。  また、彼自身も、外部にたいして積極的に応援を求めてこなかった。彼の寡黙は、憶測を生んだりもしたが、私が勝手に勘違いをしたように、生きることを諦《あきら》めていたわけではないことが、会ってみるとよくわかった。被害者は彼の両親であり、彼にとってみれば、いわば身内の「悲劇」であって、彼の知っているかぎりの事情でさえ、他者に語ることに意味を見いだせなかったのではないだろうか。実際、他者が知ることにどんな意味があるのだろう、と私も思う。私は、「父は母によって殺害され、母は第三者によって殺害された」という、殺害にいたる事情を知りたいと思ったわけではない。無実の訴えの内容を知りたいと思った。  事件は七四年一〇月三〇日、午後五時二〇分ごろに起きたとされている。その時刻隣家の人が「ギャー」という悲鳴と、椅《い》子《す》などの倒れる音を聞いた。二審の判決は、次のように判断している。 「その時刻に父及び母を殺害する機会を持つ者としては、父若しくは母のいずれかが母若しくは父を殺害し、その後、いずれかの生存者を被告人が殺害するか、あるいは、被告人が父及び母を殺害する以外にありえないのであって、父及び母を被告人以外の第三者が殺害し、かつ、両名の死体を両親宅から右物件とともに運び出す機会をもつ者は、想像上のこととしては考えられるとしても、証拠上全くその可能性は認められない」  頭がこんがらがりそうになるが、要するに、その時刻に、家の中には、両親と彼しかいなかったのであるから、第三者が介在する余地はないということを言いたいらしい。けれども、隣家の人が「ギャー」という悲鳴を聞いた、まさにその同時刻に、佐々木哲也さんが家にいたことを客観的に示す証拠は存在していない。  そして、高裁判決を読んで気づくことは、父・母が同一機会に殺害されたことの証明もなされていないということである。  隣の食堂の従業員の証言は、母が事件当日、午後七時から七時三〇分の間に、この店員の勤める食堂に米飯を買いに行っていることを明らかにしている。午後七時から七時三〇分というのは、殺害されたとされる時刻から、すでに二時間近く経った時刻である。  証言はきわめて具体的である。母が食堂に米飯を買いに来たのは、〓テレビで欽ちゃん(萩本欽一)の司会の番組をやっているとき、〓食堂の主人が床屋に行っているときで奥さんと二人で店にいたとき(主人他一名の証言と一致)、〓給料日の前日だった(他一名の証言、金銭出納帳の記載と一致)、〓雨が降っていた(千葉測候所の回答と一致)、〓水曜日だった、〓母はいつもと様子が違っていた、という内容である。そして、現実に、事件当日の一〇月三〇日午後七時から七時三〇分までの時間帯には、萩本欽一出演の「日本一のおかあさん」という番組が放映されている。  このような具体性に富んだ証言を、裁判所は、自らの結論に合わせるために、きわめて恣《し》意《い》的に解釈している。つまり、前日二九日の午後七時三〇分から八時までの時間帯にも萩本欽一出演の番組がある(「55号決定版」萩本欽一が司会する場面はない)ことをよいことに、証人の「思い違い」として、一日違いの出来事にしてしまったのだ。「最初に犯人ありき」の結論である。    島谷さんの原稿はまだまだ続くのであるが、これまで書いただけでも、裁判が正しく行われないことがよく判っていただけたと思う。  最後に佐々木哲也さんが島谷さんに宛《あ》てて書いた手紙を紹介しよう。    前略  これが最後の本当に最後の手紙になると思います。まだ確定になっていません。どうも滅入りますね。最後言い残したことはないかと考えたのですが、やはりもう一度「ありがとう」という言葉を申し上げようと思った次第です。本当に「ありがとう」。  もう発信出来なくなると思うと、今やっておくべきことはないのかと自問するのですが、どうも言葉がうまく続きません。  何でこうなってしまっているのか、何《な》故《ぜ》裁判官はわかってくれないのかと考えながら、こんな事件にあってしまった回りあわせの悪さを嘆いています。人生は一度しかないのにどうしてこんなことが起きているのか、いまもって、これは夢ではないのかと思うこともあります。  思い返して見ますと、あの忌わしい事件から一七年余りの時間がたっています。あの事件は僕にとって、本当にどうしようもない悲しさであり、重たい悲しみを抱いて日々を過して来ました。また、この一七年間、僕は実質的には「犯罪者」として扱われて来ました。そして、「親殺し」という烙《らく》印《いん》を押されて来ました。これは僕にとって屈辱の日々でありました。一体、僕の人生は何なんだろうと自問しつづけて来ました。判決では「反省の言葉ひとつない」という権力的な言葉で、僕の人格を一方的に傷つけています。  犯罪行為を否定している者が、そのやってないことまでどうして謝罪出来るのでしょうか。僕の示していた沈黙や事件の背景の総《すべ》てを悪意に解釈されてしまいました。  真実……それが負けることもある。でも、最初から負けることばかり考えていたのでは、何も出来ない。今また自分自身に負けたら、それこそ本当に二度と立ち上がれなくなってしまいます。よしんば敗れても、それは裁判という闘いに敗れただけであって、自分自身との闘いには自分の信念を貫き通したことになると思っております。  再審で敗れるようなことになろうとも闘う。そうすることが、僕が生きてきた証しだと思っています。  とりとめのないことばかり言って申し訳ありません。元気に暮して下さい。本当に今度こそ、さようなら。92・2・21記  幼女殺人事件 佐藤真志(58) 東京拘置所  一九七九年(昭和五四)七月二八日に起こした事件。  八一年三月東京地裁判決死刑、八五年九月東京高裁判決控訴棄却、九二年(平成四)二月最高裁判決上告棄却死刑確定。  以前にも幼女殺害事件を起こし、無期懲役の判決で服役していたが、その仮釈放中の事件。  また幼女を殺害するという事件を起こしてしまったことで、もう矯正の余地がないと見て死刑判決にしたのだろうが、以前の無期懲役に仮釈放ができたのはなぜなのか。もし仮釈放が認められていなかったら、再度同じ事件を起こすことはなかっただろうにと思う。  飲食店女性経営者殺人事件 高田勝利(58) 仙台拘置所  一九九二年(平成四)七月一八日福島地裁 郡《こおり》山《やま》支部一審判決死刑。控訴せず九二年七月確定。  高田勝利は中学卒業後、平成二年二月六日仮出獄するまでの三六年間に、社会生活をしたのは、わずか五年九カ月だけで、あとは刑務所生活をしていた。前科は三犯で、とくに三犯目は無期懲役である。  高田は、長い刑務所生活で、教官や仲間の囚人たちから、いったい何を学んできたというのか。社会的対応もわからず、社会的経験、社会的訓練を受けることもなく、ただ刑務所内で優れた生活状態だったから出所させるというのでは、高田のように、すぐまた再犯を犯すということになるのではないか。  現実に、無期懲役で仮釈放中に事件を起こす例がたくさんある。  熊本母娘殺人事件 森川哲行(65) 福岡拘置所  一九八五年(昭和六〇)七月二四日に事件を起こす。  八六年八月熊本地裁一審判決死刑、八七年六月二二日福岡高裁控訴棄却、九二年(平成四)九月最高裁上告棄却死刑確定。  森川哲行は離婚話を巡って死傷事件を起こし、無期懲役刑に服していたところを、仮釈放となり、仮出所後、前妻の親族を殺害した。  第三審に国選弁護人として弁護に携わった土屋公献さんに聞いてみた。土屋公献さんは、日弁連会長になられたばかりの多忙なところへ訪ねていったのだが、うるさがりもせず親切に応接してくれた。  服役中の態度や様子からは、仮釈放させても充分にやっていけると見うけられ、まさかあんなに根深く恨んでいるとは誰も気付かなかった、と刑務所側はいったそうである。  ここにも、無期懲役の仮釈放中の事件という問題がでてくる。  赤穂の母子殺人事件 名田幸作(45) 大阪拘置所  一九八三年(昭和五八)一月一九日に起こした事件。  八四年七月神戸地裁姫路支部一審判決死刑、八七年一月大阪高裁二審判決控訴棄却、九二年(平成四)九月最高裁判決上告棄却死刑確定。  名田幸作の起こした強盗殺人、殺人、有印私文書偽造、同行使、詐欺、死体遺棄事件の弁護人は、中道武美さんが一審から三審までをつとめた。  中道さんは死刑廃止を唱えては、〓“関西の中道〓”といわれる熱心な弁護士である。私選で名田幸作の弁護をつとめたということは、恐らく一銭の報酬も取らずに、何とか死刑にしない方法はないものかと、あちこち歩きまわって名田の情状が酌量される道を探しまわったことと思う。  最高裁が名田の上告を棄却した理由はつぎのとおりである。   「賭《と》博《ばく》ゲームに凝《こ》り、多額の借金の返済に窮した被告人が、勤務先の同僚小山幸男の妻真里子を殺害して、幸男の健康保険被保険者証を強《ごう》取《しゆ》し、これを利用して金融業者から金員をだまし取ることを企て、真里子に幸男が自殺を図ったが未遂となり今病院にいる、保険証が必要である旨巧みにうそをいっておびきだし、幸男の妻であることを確認した上、自己の運転する自動車の助手席に乗せて走行するうち、人家のない場所で停車し、あらかじめ用意した縄跳び用のひもで同女を絞殺して、保険証や木製印等を強取した後、同女が連れていた当時四歳の長男真一を橋の上から約二、三メートルの川に投げこんで溺《でき》死《し》させ、次いで、警察官を装い、幸男に、真里子が電車に飛び込み自殺を図ったが助けられて山口県の萩警察署で保護しているなどとうその電話をかけて、同人をはるばる山口県下まで赴かせておいた上、その留守の間に、右保険証及び木製印を利用して金融業者から幸男の名義で現金一〇〇万円を借り入れてだまし取るなどし、さらに自動車のトランクに押し込めておいた真里子の死体を海中に投棄した。  その犯行罪質、動機、計画性、態様、殊に殺害の手段方法の残忍性、結果の重大性、遺族の被害感情、社会的影響などに照らせば、被告人の恵まれない生いたち及び前科がないこと等を考慮しても、被告人の罪責はまことに重大であって、原判決が維持した第一審判決の死刑の科刑は、当裁判所もこれを是認せざるを得ない」  連合赤軍事件 坂口 弘(49) 東京拘置所  一九八二年(昭和五七)六月一八日東京地裁判決死刑、八六年九月東京高裁判決控訴棄却、九三年(平成五)二月最高裁判決上告棄却死刑確定。  連合赤軍事件は一九七一年から七二年八月にかけて起っている。仲間一七人も殺害した、身の毛の弥《よ》立《だ》つような事件であった。  以下は坂口が自ら書いた事件の概要である。    連合赤軍というのは、赤軍派と革命左派という二つの組織が合体してできた総数二九名の非合法組織である。  私は革命左派に属し、連合赤軍結成後は同組織内で〓3の地位にあった。  発足は一九七一年一二月下旬。結成にあたり両派獄内外メンバーから無原則的結合を批判され、構成員の多くにおいても決して歓迎されたとはいえない、いわくつきの組織である。  リーダーの主唱する「総括による共産主義化」という極めて特異な論理の実践によって、連合赤軍は発足してから二カ月も満たぬ短期間に一二名もの同志を集団暴行や「処刑」の名によって殺害する惨劇をひき起す。  私はこの事件に逡《しゆん》巡《じゆん》しながら参加した。この事件をわれわれは「山岳ベース事件」と呼ぶ。  一二名の同志殺害とリーダーらの逮捕によって、われわれ連合赤軍は崩壊寸前に立ち至るが、私をはじめ五名の者は警察の重包囲網を突破し、北軽井沢のK楽器保養寮に立て籠《こも》り、管理人夫人を人質にとって、一〇日間にわたり、包囲した警察機動隊に発砲を加える。この発砲により、警察官二名、民間人一名を殺害し、他に警察官多数を負傷さす。すなわちあさま山荘事件である。  連合赤軍結成以前に、私の所属する革命左派は、私などが中心になって、栃木県真《も》岡《おか》市の猟銃店を襲って、猟銃数挺と散弾実包多数を強《ごう》取《しゆ》し、つづいて組織を離脱した二名のメンバーを組織防衛の名によって殺害する。前者を真岡猟銃強取事件といい、後者を印《いん》旛《ば》沼《ぬま》殺人事件と呼ぶ。  同じころ赤軍派は、金融機関を襲撃して現金を強取する、いわゆるM作戦を行い、東京明治公園で鉄パイプ爆弾を破裂させて機動隊員多数を負傷さす事件を起す。  右、「左」寄りの闘争によって、ともに組織力と戦闘力を大幅に減退させた両派は、共通の闘争目標である警察官等の権力要員を殲《せん》滅《めつ》する力量を確保するために、両派の組織統一に合意して連合赤軍の誕生へと至る。 (死刑囚からあなたへ)      死刑確定後の坂口は『あさま山荘一九七二』上下巻、九五年になって続篇を出すなど、元気なようすである。  連合赤軍事件 永田洋子(49) 東京拘置所  一九八二年(昭和五七)六月東京地裁一審判決死刑、八六年九月東京高裁判決控訴棄却、九三年(平成五)二月最高裁判決上告棄却死刑確定。  もう、永田洋子は原稿も手紙も書けない。歩くのにもあちこちにつかまって、やっと歩くという状態だ。こういう状態になってから、一年以上になる。  ここに紹介するのは、まだ永田洋子がどうにか書けるという状態のとき書いたものだ。    93年三月一七日(水)くもり 運動奪われる。  午前中(九時半ごろから)死刑囚確定、死刑囚誕生というところ。  朝、利根さん、植垣和嘉さん、瀬戸内寂聴さんへの発信、あと植垣さんへのそれぞれの手続きを終えたころ、女区の主任及び看守二—三人計三—四人が来て「執行」という。二階の室に連れていかれ、管理部長に二月一九日に死刑が確定したので、「本日、執行する」といわれる。  全裸 四二・四キログラム  あと、私服でなく官服着る。肌着二、ももひき二、ショーツ、靴下二、かせんV型紺カーディガン、夏地のズボン、上着二。  私服調べられ、また、私服に戻る。  荷物整理——大変!  途中、右肩に鉄棒が打ちこまれる痛さ  手術前にも大谷弁護士との面会中あり(午前中目一杯、午後も夕食直前まで——それで運動も与えられなかった!) 二月一九日、死刑判決(最高裁) 親族等申告書 下記の通り相違ありません。番号、氏名、指印 平成 年 月 日提出 記載上の注意事項 1、この報告書に記載のない相手方とは原則として面会や手紙の発受信ができない。 2、この申告書に虚偽の記載をすると懲罰に処せられることがある。 3、備考欄には、外部交通の必要性、理由などを具体的に記載すること。 4、この申告書判定欄で「許」となった相手方には、内容に問題がないかぎり、外部交通を許可し、「否」となった相手方は、内容を個別に検討し、特に必要性を認めた場合に限り、外部交通を許可する。 緊急時連絡先、親族の内、あなたが疾病に罹《かか》った場合等に連絡する方を記載して下さい。  氏名 職業 関係  住所 電話番号 判定許否 関係 氏名 年齢 住所 備考  親族四名  永田幸一さん  瀬戸内寂聴さん  秋田一恵さん、井手さん、大津さん、富永さん、福島さん、水野さん、林浩二さん を記す。  夕食前に房に戻るが、吐き気すごい。  鉄棒でうちこまれたような肩、使いものにならない、たよりなさ。  今日は(今日からか?)面会も受信もなし。    93年三月一八日(木) 晴れ 毛布干し、入浴二〇分  この間入浴時間三〇分がなく、短くされた感じ。告知なし。二〇分らしい。今日も面会も受信もなし。  但し、荒瀬礼子さん差し入れのアムネスティ訴訟の「陳述書」入る。  書類の整理が大変、午前と午後と黙々とする。(きのうは主に衣類)  今日は鉄棒の痛さなし。但し、夕食後、一審の法廷で吐いたように吐く。  頭の異常感は相当。こわれてしまいそう。穴があいて中のものがどんどんとんでいくよう。後頭部を壁につけると、異常感と痛さでたまらなくなる。  風邪の前ぶれか、orのどのガンか、のどに異常感あり。今日はじめて気付く。  今日も本一冊も入らない。  3/17 入ったもの 便《びん》箋《せん》、封筒、下敷き、ふで箱。  3/18 入ったもの 航空便箋一冊、カーボン五枚(交渉したもの)  きのう(3/17)書き忘れ。3/16 夕刊 家永氏の上告棄却。第一次教科書訴訟二八年争い敗訴確定。検定、合憲と判断。裁量権逸脱もなし。    この判決は可部裁判長はじめ、この訴訟に関与した第三小法廷の坂上寿夫、園部逸夫、佐藤市郎の四裁判官全員一致の意見——とある。    そうすると、上告の死刑判決の(連赤)の坂上寿夫裁判長はこの間私たちの二月一九日の判決を含め、三回も反動的判決にかかわっていることになる。  久しぶりに絵を描きたかったが、風邪かもしれないので、夕食後ねてしまう。  咳《せき》が出る、のどの異常感、鼻水。  シノミン(服用一服)    93年三月一九日(金) はれ 敷《しき》布《ぶ》団《とん》干し  未明、頭の異常感でおき、良くねむれない。ボラミン、二十錠飲んでも。鼻《び》腔《こう》アレルギーもすごい。鼻から口に水を入れインタール使用。  枕《まくら》につけた後頭部、へんてこでしょうもない。なでて、たたいてしまう。  朝、のどの変てこさ、鼻水——だいぶよくなっている。どうも風邪のひきかけだったようだ。注意していれば治りますか! そうだといいのだが。  今日で、死刑囚生活、三日目。  領置品整理でクサクサしている。騒がしくすごしているが、早く本が入り、面会ができるようになればいいのだが。面会も発受信もほとんどない死刑囚生活は、「毎日が休庁日」というところか! 私、休庁日はいろいろなことができると思い、楽しみな面もあるのだが、この「毎日が休庁日」というのはどうだろう。  死刑囚確定後、初の戸外運動。  いつものように、なわとび六〇〇回、全身からうっすら汗をかく。やはり両足飛びのなわとび、こわくてできず。ラジオ体操、いつものとおりだが耳に入ってくれず、とんでしまう声いくつもある。したがって、体操の形のわからないものあり、適当にやっている。    93年三月二〇日(土) 休庁日 くもり  3/18夕刊 スイッチオン世界のマドンナへ歌う職人めざす、中丸三千繪さん。人の声を聞くことの心地よさを実感させてくれる。——こう書かれていると歌に関心をもたせられる感じで楽しい。バイオリニスト黒沼ユリ子、目で見るもの、耳が聞くもの芸術は一緒。  3/19 はじめて本一冊入る。購入のもの。『昭和天皇の終戦史』吉野裕著、岩波書店。  やはり、夜の睡眠が浅くなっており、そのため、午前中はねむってしまい、昼寝後もおきたくない——ということが続いている。  今日も午前中から眠りこみ、終日ねてしまう。  夕食直後、吐く。チューリップの絵、描こうとしておきるが、ぜんぜんだめ、頭痛、後頭部、へんてこで、すごく意識させられる。    93年三月二一日(日) 休庁日 はれ  きのう一日、うすら寒くてしかたがなかったが、今日だいぶ暖い。やはり、終日頭の中がとぶように痛く、へんてこ。おでこの奥が異常。チューリップの絵に再度挑戦——スケッチしたがボールペンを入れると変。没。午前中ねむりこむ。昼寝後、布団敷きねる。終日ねることになる。    93年三月二二日(月) 入浴日 はれ かけ布団干し  永田幸一さんが法的に夫婦であることを証明する文書を提出するようにいわれる。特発、出すことになる。但し、下書きの上ということで、これ提出。そして午後になっても戻ってこない。  干したかけ布団戻るとき、乾いた草のにおいがし、楽しい! しかし、頭重というか、異常感スッキリしない。いやーだ!    93年三月二三日(火) 運動  朝、目がさめる時とか、昼寝後の異常感、もう耐えがたい。まだ領置品整理続く。この日は本。手がまっ黒になる。親族等申告書を3/17に渡され、3/18に提出したが、3/22に「法的に夫婦であることの文書」を求められ、永田幸一さんへの手紙の下書きを提出した。しかし、この日、永田幸一さんへの発信は認められないといってきたので、それでは連絡ができない旨の文書をだす。そして、今日3/23、全くの連絡文のみの発信の下書きを書くようにいわれ、そうする。先の下書きの一部と全く同じなのに、ずっと返事なくおわる。「交通権」の妨害に感じられる。  また私本所持は三冊だと、四角四面の対応で困ってしまうが、それでは、三冊以外の学習用でということで、『昭和天皇の終戦史』を認めるよう文書で出したが、返事なく……。翌二三日今日もなし。  チューリップの絵、一応仕上げる(チューリップ六本)。看守に見せると「きれい」という。  今度はストックと夢見草を……と思う。しかし、これをみるともう枯れはじめている。枯れかけている感じ描けるはずはない。  風邪は悪化していないが、少々風邪気味もつづく。    93年三月二四日(水) くもり 戸外運動  朝起きるときのすさまじさ—— もう耐えられないと思う! そして泣きべそをかく。点検で声を出すことさえ、すぐ、頭の異常が起こり、こわくなる。気持ち悪さも踊りでる……きのう、3/23、主任看守の告知あり。  親族等申告書に対して、  医療弁護団は今のところ認められない!  再審の弁護団はまだ決まってないし、具体的な用件でないと認めない! という。  結局、この日、午後、永田幸一さんへの「法的に夫婦であることの文書」の送付依頼の手紙出せる。  しかし、3/22文書提出を求められ、3/22下書き提出(永田幸一さんへのもの)〓。3/23発信「認められない」、再度(他に連絡できない旨を書き)発信のための下書き、〓出す。3/24発信(午後)。下書きの強制に問題があるが、〓は〓の中の一部であり、〓だけを書けといわれ、そうしたのである。それでも、〓を再び下書きさせられる。    93年三月二六日(金) くもり 運動  朝、目がさめると、後頭部左側、穴があいてしまったような異常感がすごーい。    93年三月二九日(月) くもり 入浴  きのうは相当にひどくて新聞もろくに読めなかったが、  93年3/27夕刊 二人大阪拘置所で、存廃論議に波紋か……がある。死刑、三年ぶりに執行、という大文字もある。  3/28の社説には「死刑執行『再開』の意味」とあり、三年以上にわたって(90年、91年、92年)死刑の執行がない、というわが国の近代行刑史上の記録に、ついに終止符がうたれた。……大阪拘置所などで複数の死刑囚が処刑されたことは確実だ、という。  ヨーロッパの主要国で最後まで死刑制度を維持していたフランスは執行のない四年間を経た後、ミッテラン大統領が誕生した八一年に、廃止を実現した。  後藤田正晴法相が昨年一二月の就任会見で法の執行を重視する姿勢を示し……何《な》故《ぜ》、この時期の死刑執行なのか? 金丸問題が大きく、政権の動きもあるのだが。  私は、現在の死刑廃止の戦いの前進の中で、何人もがバタバタと殺されることがあるだろうと思い、それを許さない戦いは、と思ってきたが、こんなに早く、何人もが殺されたとは……。さすが「刑が確定している以上は、法務の仕事に携わるものとして尊重しないと、法秩序そのものがおかしくなる」と述べた後藤田法相だ、という感もあるが、問題は後藤田を法相にしたことの意味だろう!  今朝も目がさめると、頭の中が意地悪く動き出し、異常大! なぜ、毎朝、この苦痛からはじまるのか、とボヤきたい——    93年三月三〇日(火) はれ 毛布干し  ちょっと本や新聞を読むだけで、目が痛くて手でこすってしまう。それでも、目の不自由、異常さ、全く変わりない。頭もこわれるこわさ続いている。そういう中で麻理鈴の絵を描いたが、長く続かない。以前は一日中描いていても平気だったのに……  きのう3/29夕方(午後から)上空のヘリコプターの旋回の音がつづき、金丸前副総理の保釈出獄かと思っていたが、今日の新聞を見てそのとおりだった。    93年三月三一日(水) くもり  この間、桜の木の枝がふくらみ、ピンク色になっていて、いいな……と見ていたが、もうこれ、三〇日から咲きはじめている。  朝、目がさめると、また、大きな異常感があり、吐き気ひどい……、この間のひどい症状から、元に戻ってしまった一日一回の飲尿を二回にして三日目。  増衣許可願、医務部に出す。  これまで許可されていたもの、死刑確定と共にダメになったため、改めて、あと医務部には、秋田弁護士のすすめのビタミンB、Cの投薬を文で求めた。朝、提出した。何の反応もなし。新聞でビタミンCが制ガン剤の一つとしてあげられていたので、余計服用しておこうと思った。  考えてみると、この二カ月(2月から)目の異常、痛さがひどかった。それで、何とかしてほしい旨、医務部に求めて、最初、サイアジン点(眼薬)、判決直前の訴えにはAZ点(非ステロイド系消炎薬)が出た。これで治るわけがなく、この間、まさに一日中、左目が太い針でさされたままの感じで、もうどうしようもなかった。——それだけサイアジン点やAZ点を出してすまそうとする東拘に怒りがわき、自分でもこんな怒りがあったのかと思う。  目が使いものにならないだけでなく、とって捨てたくなるほど。何か短気をおこしたくなる。    93年四月一日(木) くもり  目異常は、きのう3/31よりすこしましだが、異常感と痛さは、朝、目がさめてすぐ感じる。腫《しゆ》瘍《よう》が、90年四月、93年二、三月にそれぞれ成長したことは確かであろう。私は、病者のこういう感じは、真実に近いものをついていると確信する。病者の感じは大きいのである。  ◎きのう、幸一さんからの手紙が「特別許可」として入る。死刑確定後、はじめての手紙。(3/29付)(消印も)外の人たちが病気のこともあって、「大変心配している」こともわかる。謄本を送ってくれた。私の元に幸一さんの手紙が届き、「法的に夫婦」であることが証明できたわけだが、今日、午後「この謄本はもういらない」といわれ、主任看守がほっぽってよこす。これで東拘が確認したことになるのかな? と思うが、まあいいやと思い、黙っていた。とすると、いつから面会、発信ができるのかと思われるが、このことはなにもいわない。  それにしても、目の異常さは、今年二月ごろから気付いていたが、それが30日、31日と異常の二次ぐらいにひどい。30日には左目に太い鉄棒がさされたようで、目をあけていられず、31日はそれが病んだ感じで、ちょっと動かすだけで、針がたくさんいっせいに刺す感が起こり、次いで右目に針が刺される感じになる。31日は死刑確定後の領置品の整理を中止し、終止、目を休めるために、目をとじていた。  すると、こういう状態を放っておく権力に怒りがわき、じっくり、しっかり戦ってやりたくなる。その思いばかりが大きくなって、自分で笑ってしまう。  それにしても、きのう、何とか医務的対処をと文書で求めたが、ウンともスンともいってこない! 全く!  それで催促すると「明日4/2の診察日に」という。人が苦しんでいる時、こういう放置をし、すぐ対処しないのだから「ここは監獄……」とうたうしかない。この日は一日中、眠っていた。    93年四月二日(金) はれ 診察日  二日間、ともかく言葉で表わせない苦痛に呻《しん》吟《ぎん》したが、今日も、両目、特に左目がとけてなくなってしまう頼りなさが大きい! かばってやりたくなるが、どうかばうのかわからない。困ったことだ! とウロウロしたくなる。  目の異常は大きいが、一、二月ごろから大きくなり、3/31から相当のものになり、針が目の内から外にさされ、それが終日続くのである。これを耐えろというほうが酷だと思う。  診察日で、出ていったが、「右眼の瞳《どう》孔《こう》が少し開いている」、といい、少々驚いていた。そして、「来週、眼圧を検査する」というだけ。  痛さに対しては、何の対処もない——。これがともかく納得できない。私は痛さへの対処を求めたが、医師はこれに答えず、看護婦、看守たちを残し逃げだす。  夜、静かにしていても全く治らないので、医療的対処を求めたが、ぐずぐずし、まともな対応なし。「診察に出たんでしょ、それでいいんじゃない」、「一体何をしてほしいの!」「医師から何もいってこないから」。  結局、就寝時間の九時間際に、当直の医師がきたが、「どうして僕をわざわざ呼んだの」という。そして、眼を調べ、「まだこのまま死ぬことはない」「安心した」という。——だから放置していいのだといわんばかりだ。痛みをとってほしいということには、また、先に逃げ出して行った。  こういう対処をされ、ウナるしかない。  診察では、ビタミンB、Cの投薬は必要なし、とのこと。ビタミンBは食事をしているのだから、制ガン剤のビタミンCは大量で(問題にならないということか?)。衣類の増衣は、医務部に関係なし、という、それだけ。嘔《おう》吐《と》などで困っているということにはふれもしない。  ◎この日は一日眠りこみ、重病人の感じですごす。幸一さんからの第二の手紙届く。謄本のこと。礼子さんも共に面会にきているが、拒否されている。    93年四月三日  眼の痛さが深いところであり、そして肩に太い鉄棒がささった痛さ、肩がこわれてしまったかの異常感。  もう、じっとしているしかない。——そうした私に、東拘は何もせず、これを感じると、'84年のシャント手術前に房内で失神し、それを放置されたことと同じだと思わされる。    永田洋子は一九七四年以来、様々な体の不調を訴えていた。特に八三年五月二四日未明、すさまじい頭痛が始まって以降、嘔吐、目の異常、失禁・失神などの悲惨な病状が現われている。しかし東京拘置所は、仮病扱いか、精神的なものと単純に片づけて、せいぜい頭痛薬を出すだけだった。しかし、永田の痛みや苦しみは嘘《うそ》ではなく、外部から来た眼科医が、眼圧などが異常で、大変なことだと診断した結果、八四年七月二〇日に手術をした。  このとき永田本人には脳腫瘍であることは告げられず、手術も腫瘍そのものを摘出するのではなく、脳圧を下げる、いわば対症療法としてバイパスを通すものだった。  九〇年四、五月ごろから、再びいまいったような病状を訴えるようになり、現在は半年に一度MRIをとっているが、本人にはその結果の説明がない。  山中湖連続強盗殺人事件 澤地和夫(55) 東京拘置所  事件を起こしたのは一九八四年(昭和五九)一〇月一一日と二五日。  いま、私がこれを書いているのは、一九九五年(平成七)七月である。澤地が連続殺人事件を起こしてから、一〇年以上が経《た》っていることになる。逮捕後、澤地は自らの事件のことを詳細に書いて出版したり、三年ぶり(日本では三年何カ月か死刑が行われなかった)に三人の死刑執行を行った、後藤田法相(当時)に抗議して、上告の取り下げを行ったり、はたまた「わが遺言」と題して週刊誌「アサヒ芸能」に、獄中で身辺に起こったことなどを一五回にわたって連載したり、と、大変にぎやかだったので、私は時間の経過を忘れていたぐらいである。  八七年一〇月三〇日に東京地裁で死刑判決、八九年三月三一日東京高裁控訴棄却、最高裁に上告していたが、九三年七月五日件《くだん》の事情により上告を取り下げ死刑確定。  そもそもの、死刑にいたった事件というのは——  一九五八年九月から八〇年一月までの、ざっと二二年間を警察官として勤め、退職時の階級は警部である。警察官としての経歴はまず順調であったといえる。  この順調な警察官をやめてから、わずか四年の間に、澤地の人生は思うこともなかった地獄へと踏み込んでいくのである。自ら著した『殺意の時』(彩流社)にその狂気の様子、強盗殺人という凶悪な犯罪に走らざるを得なかった経緯が、細かに書かれている。何度読んでも、澤地を憎んだり、さげすんだりする気持ちにはなれないだろう。借金苦に追われつづけ、精神的にもすっかり荒廃しきったとき、人間は誰もが考えるだろうことを、澤地も考えたにすぎない。  二二年間勤めた警察官をやめ、東京・新宿に「はし長」という大衆割烹店を開く。  これがそもそもの地獄に陥った第一歩であった。何しろ自己資金はゼロというスタートなのである。  出発時の借金は大体ざっと四〇〇〇万円、国民金融公庫から二三〇〇万円、保証協会から七〇〇万円、二つの信用金庫から五〇〇万円、オリエントファイナンスから五〇〇万円というもの。この多額の借金の保証人に、いずれも現職警察官がなっている。この現職警察官の保証ということが、各金融機関で融資の決定を得ることになったのだろう。澤地もその辺のところはよく承知していたらしい。  もともと正直で真面目、生一本の性格と思える澤地は、自分の不甲斐なさが、もと同僚たちにまで迷惑をおよぼしていると悩み、苦しみ、果てはドストエフスキーの『罪と罰』の主人公、ラスコーリニコフの犯罪哲学に影響され、静かにいつか知らず、強盗殺人へと心は向かっていくのである。  もっとも、「はし長」の経営がうまくいっていれば、『罪と罰』を読んだとしても、それはひとつの面白い小説として、澤地の教養の一端になったぐらいのものだったかもしれない。だが、現実はそんな悠長ななりゆきではなかった。  借金をした各金融機関には、元金返済を半年後に据え置きにしてもらっていたので、最初の半年間は、鼻歌まじりといった感じであった。が、半年過ぎると毎月の返済に苦慮しはじめる。  店の大きさは地下一階に四〇席、三階が宴会専用の和室を二〇席といったあんばい。  最初順調にいっていると思っていた商売も、半年すぎるともういけなくなり、一年すぎると赤字が累積するというありさま。  それでも、はじめのうちはちゃんとした金融機関から借り増しをして凌《しの》いでいたが、そういう金融機関はそうそう貸金の増額をしなくなる。手形は次々に回ってくる。その決済に四苦八苦し、あげくは高利の金に手がのびていく。高利の金は利息の支払いにも追われるというように、まるで絵に画かれた物語を見ているように、借金は雪ダルマ式に増えていく——それでもまだサラ金には手を出してなかった、と思いつき、サラ金、町金融へと、アリ地獄に陥ったアリさながらに、金を借りまくっていくのである。  町金融の保証人になることは、現職の警察官には禁じられている。それでも澤地に頼まれて、保証人になった警察官も数名いる。  その数名の警察官は、「澤地が払えないのなら仕方がない」と止むなく澤地にかわって払ってくれた。  そういう現実を前に、根がまじめな澤地は、何とかしなくては、とあせるのである。  澤地の借金の肩がわりのため、多くもない給料の中からコツコツと将来のマイホーム資金として積み立てていた金を使い果たした人や、子供の教育費に貯えていた金、などなど、とにかく貴重な資金であったことはまちがいない。  とにかく、警察官をやめて半年たった後の澤地は、眠りの中でさえ金の問題ととり組まなければならなかった。  退職してから四年、短い歳月であったが、澤地は四年間で、強盗殺人犯という、思うこともなかった身の上になったのである。  しかし、破滅してからの澤地は、もうひとつの生き方を生きている。  死刑囚となったいま、「死刑廃止」と「表現の自由」をもとめて闘いをつづけているのである。  囚われの身となってからの澤地は、元法務大臣後藤田に抗議をし、上告を取り下げたり、「わが遺言」と題して一五回にわたって、さまざまな批評をしているが、これはもう評論家というべき内容なのである。  後藤田法相=(当時)の三年ぶりの死刑執行に抗議して自らの上告を取り下げてから、一五回の連載「わが遺言」は、週刊誌「アサヒ芸能」に書かれたものであるが、その内容は—— 死刑囚は社会的な存在である  東京拘置所の住人になった日  独房で長生きしたくない  支離滅裂なる死刑論者、野坂昭如氏に物申す!  在監者との〓“卑わい〓”な手紙のやりとりで「性への異常執着者」と決めつけられた  獄中で見る「ヘア写真」は無修整だが性欲はわかず!  拘禁8年間で知った「天国と地獄」  同志の永山則夫こそ東拘のヒーローだ  縄跳び、飲尿! 永田洋子の〓〓“生への執念〓”には脱帽だ  稀《き》代《たい》のニセ札犯、武井遵は、私を「性医学博士」と呼んだ  和解金を稼がせてくれた三浦和義は「訴訟の氏神」だ  三菱重工爆破犯益永利明への敵・味方を越えた「共感」  上告取下の真意は三審制を逆手に取った反死刑闘争だ  死刑囚にも食いブチを稼がせよ  確定〓処刑期間に個人差あり、執行順序の基準を明示せよ!  死刑確定後の「獄中書簡」をいっきょに公開する!  以上が一五回にわたる澤地の評論のかずかずであるが、その後の確定囚になってからの舌《ぜつ》鋒《ぽう》もいささかもおとろえることなくつづいている。  もう昨年(一九九四)のことになってしまったが、「獄中で公務員年金を受給する『元警官』死刑囚」と題した記事が、「週刊新潮」に載った。    ——例の『週刊新潮』の「年金受給公表」の件での弊害が出たよ。今日(2/9)警視庁年金課の増谷章という人が面会に来て、以後の年金をストップするという決定書をもって来た。で、早速この二月に入る予定の分もストップされているようだ。年金課の決定によると上告を取り下げたことで死刑(刑)が確定したことになり、地方公務員等共済法により、「禁《きん》錮《こ》以上の刑に処せられたことによる年金の支給停止措置にする」というものらしい。  でも、心配するな。この法解釈は間違っているから、オレはこの数日中に不服申し立て書を書いて、その決定の撤回処分を求める。  ここではくわしいことは書かないが、年金課のいう「禁錮以上の刑に処せられた……」という解釈で、死刑確定者であるオレを、その「刑に処せられた者」とするのは誤りです。前まえから言っているように「無期」以下の刑なら刑の確定=刑の執行になるのだが、死刑囚の場合は刑の確定=執行となりません。要するに、死刑囚の場合は絞首された時点が刑の執行であり、それまでは形の執行のために身柄を確保する拘禁であって、これは刑事被告人(未決囚)に準ずる扱いなのです。    澤地の原稿は達筆で、ほれぼれするような文字がきれいにならんでいる。歯切れのいい文章を読むと、ああこういう人が死刑囚だとは、もったいないなとしきりに思う。  今市の前妻一家殺人事件 藤波芳夫(64) 東京拘置所  一九八一年(昭和五六)三月二九日に事件を起した。  八二年二月宇都宮地裁一審判決死刑、八七年一一月東京高裁二審判決控訴棄却、九三年(平成五)九月最高裁判決上告棄却死刑確定。  離婚した妻の家族を、覚《かく》醒《せい》剤《ざい》と飲酒とで、心身喪失状態で殺害した。  裁判では心身喪失は認められず死刑が確定した。  まだ確定から二年足らずであるが、腰痛は未決のときからかなりひどいと聞いている。座った姿勢はつらいので、藤井さん(死刑囚の藤井政安の妻)が籐《とう》椅《い》子《す》のちいさいのを入れてあげようとしたが、規則違反で入れられなかったと聞いている。このことで藤井さんは怒り、法務省とかけあったあげく、交通権のない人からの手紙も、交通権をもつ人を通じて届けられるようになった。  半田の保険金殺人事件 長谷川敏彦(旧姓竹内)(44) 名古屋拘置所  事件は一九七九年(昭和五四)一一月から八三年の一二月にかけて起り、三名を殺している。  八五年一二月名古屋地裁一審判決死刑、八七年三月名古屋高裁判決控訴棄却、九三年(平成五)九月最高裁判決上告棄却死刑確定。共犯の井田正道は上告せず確定している。  この事件の長谷川敏彦を調べているとき、思いがけない人に出会った。  ふつう、死刑というと被害者の家族や身内、親族の人にとっては、「加害者は死刑になるのが当然、もし裁判で死刑にならなかったら、自分の手ででも殺してやりたい」というのが当り前のこと、と思われている。  しかし、長谷川敏彦の場合は、ちがっていた。被害者の身内の人が会いに来てくれたし、一言も恨みや憎しみを言うこともなく、おだやかに面会していったというのである。  私は、日本にはそんな心の広い人はいないのだ、と長いあいだあきらめのような気持ちで思いつづけていたので、この話にいたく感激した。  野原さんをここに紹介したいと思う。    ——最初に長谷川敏彦という人に手紙を書いたのは、新聞の誤報の件について、長谷川が私の所へ手紙で問い合わせてきたことです。それまでにも手紙は何通も来ていましたが、そんなもん放っとけ、という気持ちが正直なところでした。しかし、新聞記事の件については明らかにまちがいだったし、そのまちがいを「新聞記事が正しい」というほど彼を憎む気持ちはありませんでした。  誤報のひとつは、亡くなった弟の葬式を彼が主催して行った、と新聞では報道されたのだが、これは私どもの母が喪主ということで、私どもで出しました。  もうひとつは、搭乗者保険というのが、当初自損事故という発表でしたので、おりてきたのです。その搭乗者保険を加害者が全部受け取ったと報道されました。が、搭乗者保険は私どもの母が受け取ったのです。  この二つの誤報を、伝えておこうという気持ちになり手紙を書きました。  そして、この手紙を書いたことがきっかけになって、私のかたくなな心が少しずつ、やわらいでいったように思います。彼から手紙が三通来れば、一通は返事を書く、というようになっていきました。  そんな状況がつづくなかで、死刑そのものに対して、あるいは彼らに対して、もう少し冷静な目で、客観的な立場から考えてみようという気持ちが、少しずつではありますが、出てきたのです。彼から来た手紙に、ぜひ一度お墓参りを許していただきたい、といってきました。もちろん彼自身が墓参りということは不可能な状況にあるわけですが、代理人を立てて、どうしても弟に詫《わ》びをいいたい、というのです。  言葉でそういってくれただけで私は、言いあらわせない複雑な気持ちになりました。じっさい、弁護士の先生を彼の代理に立てて、ほかに獄外の彼の友人、あるいは彼を支えている支援グループの人びとなど、数多くの人びとが獄中にいる彼のメッセージを持って来てくれたのです。  私の家は名古屋拘置所からは遠い田舎にあるのです。「こんな遠いところまで」手紙を書いてくれるのではなしに、実際、現実に来てくれたということが、正直いって感動するような喜びでした。  ふつう、加害者がお墓参りを願い出ても、なかなかスムーズにはいかない、という話はよく聞いていますが、私はそこまで深くは考えもせず、ただ、お墓参りに来てくれる、という気持ちがうれしかったのです。  そんなことから、去年(一九九四)、初めて彼の顔を見たり、彼に会えば、彼の顔を見ながら話をすれば、もっとわかるんじゃないかと思ったのです。私は思いきって名古屋拘置所に行きました。けれども私が行ったのは土曜日でしたので、表の看板に土曜日、日曜日、祭日は面会できない、と書かれているのを見て、やむなく引き返したのです。やむなくとはいうものの、本当の私の心は、そのとき正直いってホッとしたという気持ちがあったのも、いつわらざる事実でした。  日本の国家権力を象徴するようなひとつのところへ入るというのは、本当に恐れおおいというのか、怖いというのか、そういうものが潜在意識の中にあったせいもあり、面会できないという文字に救われたような気分でした。それが去年の七月のことです。その一カ月後、八月に会社の夏休みの一日を利用して、今日こそはなにがなんでも行ってくるんだ、と自分に言いきかせながら拘置所の前まで行きました。拘置所には来たものの、もう帰りたいと心の中は大声で叫んでいるのです。  門の前、入口のあたりを行ったり戻ったりしながら、足がふるえるような感じで迷っていました。ここまで自分で決めて彼に会いに来たんだから、という気持ちと、まさか拘置所の中で私が殺しはしないだろう、という気持ちで、思いきって飛びこんでいきました。  彼にはなんの連絡もせずに、いきなり行ったもので、思いがけない人が会いに来てくれた、と大変な喜びようでした。  私も、会って、彼の顔を見て、本当に自分自身でもホッとしたような気持ちでした。拘置所を出てから、その気持ちはしみじみと心の中に広がって行ったのを覚えています。  このとき彼は未決だったので、受付でも何もいわずに会えました。  彼と会って何を話したかというと、敢《あ》えて事件のことに触れるつもりは最初からありませんでした。彼からはそれまでに手紙も何回ももらっていますし、彼の気持ちはもう判りすぎるほど判っていたからです。  私はごく一般的な日常会話にとどめようとしていたのですが、彼は私の母は元気か、その後変わりないか、ということを尋ねるんです。当時弟は三〇歳で、独身でした。家には母と弟と二人で暮していたものですから、彼はそういうこともあって、母がずい分落ち込んでいると思ったのでしょう。それと同時に、私が面会に行ったことを、体いっぱいで喜んでいました。  そういう顔を直接見て、なんでこの人が、あの当時、あんな事件を起こしたのか、なぜいまさら確定しなければいけないのか、なぜ死刑執行されなければいけないのか、という気持ちがいろんな形で交錯したのも覚えています。  今年(一九九五)の四月になって、もう一度面会に行きました。その時は確定していて、面会は身内と親族だけに限定されていましたので、私も駄目かなと半分あきらめて行ったのですが、会えたんです。受付でかなりの時間待たされまして、上司と相談してみます、ということになって待合室で三〇分ぐらい待ったんでしょうか、結局、所長が出て来ていろいろ話をしていくうちに、特別許可ということにしてくれたんです。ただし、彼は国で預っている身だから、あまり情を害するような発言は避けてほしい、と同時に今後の彼の生活に対して希望を持たせるような発言は慎んでほしい、というようなことを約束させられました。もちろん私はそんなことをいうつもりは最初からなかったし、考えてもいませんでした。  彼は、私が面会に行くなんていうことは、それこそ想像の埒《らち》外《がい》だったらしく、それは驚いていました。確定してからは家族、親族しか面会が許されてないわけですから、私が面会に行くなんて考えてもみなかったんでしょう。でも、驚くと同時に本当に喜んでいました。話の内容はとりとめのない話しかできないわけです、もともと知りあいでもなんでもなかったのですから。けれども、彼のほうは、面会の最初から最後まで、会話のあいだあいだに、本当に申し訳ないことをしてしまいました、申し訳ない、申し訳ないと繰り返し言っていました。  私どもの父は、私たちが幼いうちに病死していまして、母の手ひとつで、兄弟四人は育てられたことも、彼は知っているんです。そういう境遇の中、一番下の弟と二人だけになっているところを、弟に先立たれてしまって、それも突発的な事故(最初は交通事故ということだった)で、それだけでもさぞ力を落していたことだろうのに、あとでじつは弟は自分が起こした事故ではなくて、殺されたんだとわかったのだから、ということを、繰り返し申し訳ない、と、それはもう、土下座せんばかりなのです。  私は彼に謝らせようとか、事件のことをあらためてどうこういわせようという気持ちはさらさらありませんでした。そりゃあ、最初は憎んでも憎みきれない思いでいたことも事実です。ですが、時が経《た》ち、冷静に弟の事件や、彼のことを考えられるようになってみると、もう憎しみは私の中から消えていました。  彼が死刑になったところで弟はもう生きて戻ることはないのです。そんなことよりも、被害者の遺族、加害者の遺族が困らないように、方法を考えるべきだと思います。  私どもの場合は、弟は独身でしたから、子供が学校に行きたくても金がないから行けない、というような問題は起こりませんでしたが、実際にそういう立場にある人も多いと思うんです。被害者に対する考え方がもう少し時代に即応したものにしてほしいな、というのがいつわらざるところです。それと、私どもは表立った被害者ですが、一方では加害者の家族もまた、精神的な被害者だと思うんです。加害者の子供さんなんかは、私なんかよりも何十倍もの苦悩に耐えて生きていかなければならないだろうと、私は思っているのです。  会社員一家死傷事件 牧野 正(45) 福岡拘置所  一九九〇年(平成二)三月に事件を起こした。  九三年一〇月福岡地裁小《こ》倉《くら》支部一審判決死刑。弁護人が即日控訴したが、本人が取り下げて一一月一六日に死刑確定。  九三年一二月六日に法学者、北九州大学の助教授が、福岡県弁護士会に人権救済の申し立てをした。弁護士がいないのに本人が控訴を取り下げたのは人権無視というもの。弁護人不在の本人取り下げを問題とした初のケース。  なお、牧野正は無期懲役の仮釈放中の身分であった。  平取猟銃一家殺人事件 太田勝憲(51) 札幌拘置所  一九七九年(昭和五四)七月一八日に起こった事件。  八四年三月札幌地裁判決死刑、八七年五月札幌高裁判決控訴棄却、九三年一二月最高裁判決上告棄却死刑確定。  一審の弁護団は無罪を主張したが、裁判の結果は死刑判決になった。事実はどうなのか知りたいところだが、裁判を傍聴に行っていないのでくわしいことは判らない。  連続殺人一一三号事件 藤原清孝(旧姓勝田)(47) 名古屋拘置所  一九七二年(昭和四七)九月から八二年一〇月にかけて、八件の殺人事件を起している。  八六年三月名古屋地裁一審判決死刑、八八年二月名古屋高裁判決控訴棄却、九四年(平成六)一月最高裁判決死刑確定。  逮捕されてしばらくは、いったい何人が殺されたのだろう、とずいぶん話題になったものだったが、一審の判決が出たころにはもう次々起こる凶悪犯罪のかげにかくれた印象で、死刑が確定したときは、忘れ去られていたという感じであった。  死刑が確定してから一年半というところの藤原は、仄《そく》聞《ぶん》するところ、未決のときとあまり変っていないようだ。  点訳は未決時代にもやっていたが、そのままつづけている。目の不自由な人へのご奉公と、ボランティアでやっているらしい。  岐阜の前妻一家殺人事件 宮脇 喬(52) 名古屋拘置所  一九八九年(平成元)二月一四日に事件を起こす。  八九年一二月岐阜地裁判決死刑、九〇年七月名古屋高裁判決控訴棄却、九四年三月最高裁判決上告棄却死刑確定。  別れた妻の両親と妹を殺して逮捕されたが、現在は大変な過ちを犯したという深い反省で、故人の冥《めい》福《ふく》を祈って過す毎日だという。  国選弁護士で裁判を闘い、宮脇は、裁判のことはなにもわからない間に死刑が確定した、という印象を持っている。  北海道庁爆破事件 大森勝久(45) 札幌拘置所  一九九四年(平成六)七月一五日最高裁判決上告棄却、死刑確定。  大森は岐阜大学時代に、社会の底辺で生きる人びとに関心を持った。教職が内定していたのだがそれを捨てて北海道にわたり、爆弾闘争の準備をしていたとき、道庁爆破事件の実行犯として逮捕された、と法廷で主張した。以後、大森は冤《えん》罪《ざい》を訴えつづけている。  事件は一九七六年(昭和五一)三月二日午前九時すぎ、北海道庁一階のロビーのエレベーター付近で消火器爆弾が爆発し、二人が死亡、九五人が重軽傷を負った。同日午後、同市営地下鉄のコインロッカーから、「東アジア反日武装戦線」名の声明文が見つかった。大森被告は同年八月に別の容疑で逮捕された後、九月に道庁爆破事件で再逮捕、起訴された(朝日新聞)。 「原住民を征服、支配してきた帝国主義国家の日本を、建国にさかのぼって滅ぼすべきだ」  大森は一貫してこの考えを支持してきた。当時の活動家の多くは、爆弾闘争から離れていったが、「人は人だ」の考えからだという。  一九八五年、拘置所に面会に来た女性と知りあい、その二カ月後には結婚した。  その女性には会うことはできなかったが、大森のお母さんには偶然名古屋で会えた。今年(一九九五)の六月はじめである。この日は二カ月もまえから、真宗大谷派名古屋別院から、教養講座に来て話をしてほしい、と頼まれていた。雨が降って、こんな天気じゃ出て来る人が少ないだろう、と思われる生《あい》憎《にく》の日だった。  その篠《しの》つく雨の中を、元気に入ってきたのが大森のお母さんだった。若わかしく、いかにも元気な姿に思わず、 「お元気そうですね。おいくつなんですか?」  と、尋ねてしまった。  お母さんは笑いながら、 「女性に年《と》齢《し》を聞くもんじゃありません」  と、応じた。  北海道には、たまには行くのか、という質問に、 「ついこのあいだ行って来ましてね——」  息子さんはお元気でしたか、と尋ねると、まあ、変らずです、と答えて、それからの話は息子のお嫁さんを思いやる姑《しゆうとめ》の心情の吐露であった。  やはり、お嫁さんの気持ちがうれしいのだろう。  鳥《と》栖《す》の隣家一家三人殺人事件 大石国勝(50) 福岡拘置所  一九九五年(平成七)四月二一日最高裁判決上告棄却、死刑確定。  この事件は、弁護士の白谷大吉さんに弁論要旨のコピーをもらって来て読んだ。  一九八三年(昭和五八)五月一五日から一六日にかけて、被告人は自宅倉庫西端にある水道にゴムホースを止める「ホースバンド」が紛失していることを発見する。  これは二四〇円程度のものである。  しかし被告人は以降、この「ホースバンド窃盗の犯人捜し」に狂奔することになる。  被告人は鳥栖市××町という田舎町に住んでおり、××町という所は狭い地域社会だがほとんどが兼業農家で、日常的な交流はまったくないという状態。とりわけ無口で、人付き合いはしていなかった被告人と親しかった人はいない。会ってもせいぜいあいさつをする程度。  そういう社会で、被告人が住民一人びとりを、ホースバンド窃盗の犯人と疑って戸別訪問し、問責するというのは、ちょっと常軌を逸しているとはいえまいか。まして包丁まで持ってである。  何度読んでも、というより読めば読むほど被告に死刑判決をした裁判官の気持ちがわからなくなる。  山梨・新潟連続殺人事件 藤島光雄(39) 東京拘置所  一九九五年(平成七)六月八日最高裁判決上告棄却死刑確定。    自分が犯した事件(殺害行為)でありながら、何《な》故《ぜ》に自分が人間を殺すことができたのか、を考えると、自分が実際に犯した事であるのに、甲府での一審期間中も、一審での死刑判決後も、自分が犯した殺害行為を信じられないという心境で、何が何だか分らないという心の状態でした。また何をどのように考え、どのように心の整理をしたらよいのか分らなくなるほどの精神的な苦しさがあったと思います。  その苦痛から逃れるために死ぬことばかりを考えるようになったのも事実でした。(手首をカミソリで切り、保護房にも入りました)  このような心の状態でしたから、一審で死刑判決をいい渡されても、このときの死刑判決は自分の心に重くのしかかることはなかったと思います。罪の意識が薄かったわけではありません。罪の意識が薄かったのなら、苦痛から逃れるために死ぬことばかり考えるまでの状態にはならなかったと思います。  それは、いま思うに、一審期間中に何をどのように考え、どのように心の整理をしたらよいのか分らなくなるほど、自分では考え、そのうち死ぬことばかりを考えるようになったということからも分りますように、当時の自分自身を顧みますと、自分自身のことを何にも考えていなかった。自分自身のことを省みることをしていなかったということに気づきました。これでは、自分が犯した事件に対しても何故そのような事件を犯したのか知ることができないのも当然だろうし、自分の人間としての存在をも軽くしか感じていなかった結果だったのです。  それゆえ、死刑判決を言い渡されても、自分の心に重くのしかかるまでの自覚が、まだ自分の心に育っていなかったのだと思います。それでも言い訳をすれば、当時は自分なりに必死だったのです。  そして東京での控訴期間中は、自分自身が落ちついてきたこともあり、自分自身のことを多少は省みることができるようになり、死ぬことなど考えることもなくなり、被害者の御両親様へのお詫《わ》びの手紙をさし上げられる心の状態にもなっていました。  自分が犯した事件なのですから、自分自身のことを省みれることによって、何故に自分が人間を殺すことなどができたのか、ということも分ってくるのだと思います。が、控訴期間中にも自分で納得のできる内省ができませんでした。それゆえに、御両親様の私に対しての遺恨の思い、窮《きゆう》命《めい》の思いの心境を思いますと、私自身が納得できる内省ができない状態では、どのようなお詫びの手紙を書きましても、私のお詫びの手紙などただの紙切れでしかないでしょう。  控訴審でも死刑判決が言い渡されたときには、私自身で人間の生きることの重さ(被害者の尊い生命)を思い感じられるようになっておりましたので、涙を流しました。  控訴審期間中にも、自分で納得のできる内省ができなかったのは、これも言い訳をすれば、一審と同様に控訴も余りにも公判期間が短かったということです。  山中湖連続強盗殺人事件 猪熊武夫(46) 東京拘置所  事件を起こしたのは一九八四年(昭和五九)一〇月一一日と二五日。  一九八七年一〇月東京地裁死刑判決、八九年(平成元)三月東京高裁判決控訴棄却、九五年七月三日最高裁判決上告棄却死刑確定。  猪熊は三〇歳で神奈川県厚木に独立して自動車業(主に中古車の販売)をはじめ、三五歳では建売住宅専門の会社を設立した。一時は社員や協力会社をふくめると一〇〇人以上の人を使い、年商二〇億にまで成長させた。当時はそれこそ絵に描いたような成金の暮しぶりをしていた。しかし、早くも八二年一二月には約一〇億円の負債で会社は倒産する。猪熊のワンマン経営がたたったものである。  八四年には再起を期してパチンコ店をはじめるが、約三カ月後には資金繰りのために上京して、事件を起こしている。  その事件というのは、第一事件が一〇月一一日に宝石ブローカーを殺害し金品を奪うというもの、第二事件は一〇月二五日女高利貸しを殺害し、こちらも金品を奪っている。この両事件とも共犯者がいて、第一事件のほうは先に紹介した澤地和夫と朴龍珠である。  猪熊が、この二つの事件にかかわることになったのは、朴龍珠に七〇〇〇万円の金を貸してあったのを、少しでも返して欲しい、という気持ちからだという。澤地と猪熊がはじめて会ったのは第一事件のわずか一〇日まえである。朴が二人を引きあわせている。  結局、金が欲しいということで、落ち着いて考える余裕のなくなっていた猪熊に、朴がつけ込んだのだろうと思う。  一審の判決文のなかに、 「——同被告人が、本件犯行に加担する切っかけは、被告人、朴龍珠の巧妙な誘いがあったればこそであって、これさえなければと悔やまれると共に、同被告人につけ込まれたことが、被告人、猪熊武夫の人生を破滅に導く一因でもあって、同被告人の性格からみて気の毒な一面もあり——」  と、認定している。  にもかかわらず、判決には数多の情状面はまったく考慮されていない。  ふつう、こういう事件の場合は、被告それぞれの事件への関与の重軽の差があって、判決もそれに見合ったものになると思っていた。が、判決をさきに決めて、そこに当てはめてしまうというやり方が、よくわかる気分である。  エピローグ  一九九五年八月、終戦から五〇年の年だ。  テレビではあちこちの局で終戦記念ともいうべき番組を特別枠で放送した。毎年八月にならないと思い出さないのか。従軍慰安婦のことや、南京虐殺事件など、まるで暑中見舞いのように八月をねらって語られ、あるいは出版され、あとは潮が引いたように静かになる。  死刑の問題も、法務大臣が印を押し、死刑囚が執行された当座はかまびすしく死刑が云《うん》々《ぬん》されるが、しばらくするとなにごともなかったように誰も何もいわない。  一九九三年に三ケ月法相が四人の死刑囚の執行命令書に押印し、東京、大阪、札幌の拘置所では死刑が執行された。一九九四年、五年には前田法相が、あわせて五人の死刑囚を同じように刑場に送った。九四年は一二月一日に東京と仙台で、九五年は五月二六日に大阪と東京でだ。  つい、このあいだのことである。  法務大臣が死刑執行書に押印するのは職務であるといったのは、後藤田元法務大臣だったが、それならば死刑囚がなぜ死刑という判決を受けねばならないかを知っているのかと尋ねたい。それから再審請求をしている死刑囚が何人いて、それぞれがどういう理由で再審を求めているかを知っているのかも。  いま、死刑囚は五七人いる。私はこの本の原稿を三年もかかえて書いていたので、その三年間の毎日を死刑囚のことを考えて暮らしていた。再審請求もしくは準備中という死刑囚が、じつに一七人もいる。五七人の死刑囚のうち、一七人というのは、いかに裁判が正しく行われていないかを物語っていはしないか。  ことは死刑問題である。ちゃんと納得のいく裁判をして、死刑囚自らが「死にたくはないが、自分のやったことは死刑にあたいするんだ」と思える裁判でなくては、裁判の意味がないのではないか。再審を求める死刑囚には、きちんと再審をやってほしいものである。  三審制度とはいうものの、最初から一審寄りに物事を考えているとしか思えない。こんなことでは高裁や最高裁の存在の価値もないというものだ。  さらにいうならば、私は死刑という刑罰そのものに反対である。人間は永久に生きることはないのだから、死刑にしなくとも、いずれ終りのときはくる。人の生命というものを「おまえは死刑だ」といって、破壊する権利などだれにもないはずである。万物はすべて、死ぬ時がくるまで、生きるべきなのだ。偶然人間として生れたものが、その生育の過程で過ちをおかしたとしても、まちがっていたという反省をしたとき、また新たに正しい道程をたどれるようになるものだ。生きている限り人間は変り得るものだと私は思っている。だから、人生はすばらしいのではないだろうか。  ここにいる五七名の死刑囚の、誰をとりあげてみても、死刑という刑罰に値すると思える犯罪者はいないのではないだろうか。たしかに彼らは人の生命をあやめ、その事件を聞くときは身の毛が弥《よ》立《だ》つ思いがする。しかし、それは報道を通して聞いたもので、じっさい自分で調べてみると、殺したことや殺人の方法にはなんとも許しがたいとは思いつつ、それ以外のことにはホロリとさせられるようないいところもあるものだ。  死刑にしなくとも、終身刑とかなにかちがった刑罰が考えられるはずである。  無期懲役で長年刑務所暮らしをしたものが、仮釈放で出獄し、再犯を犯して死刑が確定した死刑囚が七人もいる。それが全員申し合わせたように、前の事件と同じ犯行である。これでは仮釈放はどういう意味だったのか。もし仮釈放ができなかったら、死刑囚にはなっていないだろうし、殺された無《む》辜《こ》の生命もつつがなく生きていられただろうにと思う。  刑務所は出所させるのが仕事だからと、以前に聞いたが、出所させてまた犯行に走るというのでは罪人をつくっているのではないかと疑いたくなってくる。矯正する所らしく、人の生命というものをもっと噛《か》んで含めるように、よくわからせてはどうなのか。刑務所がやっていることといえば、規則を厳しく、ということだけで、人間がなんのために生きているのか、という大切なことを学ぶ機会はぜんぜんないのではないか。  刑務所に行ったおかげで、自分はそれまで知らなかったこういう大切なことを学んで身につけました、というのをまだ私は一度も聞いたことがない。ただ懲役期間だけあずかって、時間を守らせることとムダ口をたたかせないことにのみ精を出しても、結果はまた再犯に走り、刑務所に戻ってくるというのではしようがないと思うのだが。  刑務所の処遇もさることながら、死刑囚の処遇もなかなかきびしいもので、顔を洗うのも時間がきめられている。すわる場所もどの方向をむいているかも当然決っている。また、ここに書いた死刑囚の藤井政安という囚人が、ハトに食事の残りを与えたぐらいで懲罰になっているというのは、あきれ果てる以外ない。  こんな処遇をして、果てには刑場で吊《つる》されるのかと思うと、ただ暗《あん》澹《たん》たる思いになる。  一九九五年八月八日は、村山改造内閣がスタートした日である。法務大臣には前田さんにかわって田沢智治さんが新法相になった。自民党の参議院議員である。そして、超党派で結成された「死刑廃止を推進する議員連盟」にも名前を連ねていた。  私のこの時の気持ちは、「村山さんもアムネスティの賛同会員であることだし、田沢さんが法相なら少しは死刑廃止のことを考えてくれるだろう」というものだった。決して心底から喜びはしなかったが。それでも、これまでよりいくらかは明るい光が射すだろうという希望的観測を持ったと思う。  ところが、法相就任の翌日、つまり九日に、はやくも「死刑廃止を推進する議員連盟」を脱会したというニュースが入ってきた。  理由はしばらく経った日の毎日新聞(朝刊か夕刊かは忘れた)で読んだ。 「死刑制度は法務、刑事行政の根幹にかかわる。法務行政を遂行するにあたり誤解を招かないため」と説明した、とあった。そんなものだろう、議員なんていうのは。大臣になるためなら思想も信条もくそくらえといったところだ。自分自身に対して恥かしくないのか。  もしかすると、この本が出るころには、このうちの何人かが——と考えると、何とわれわれは情ない国会議員を持ったことかと、そぞろ涙に、ということもない。  腐りきった内閣に一般国民は、一喜一憂する感情を持ちあわせてはいないのである。  八月も終りに近い日、ようやく最終の原稿を書いている。思えば長い歳月を編集者の山下直久さんは、文句もいわずに待って下さった、と思うとなんともお詫《わ》びの言葉もうまく出てこない。山下さんがいなければおそらくこの本はできなかったと思う。本当にありがとう、心からお礼をいいたい気持ちである。  また、取材に協力して下さった弁護士の多くの方々にも、末筆ながら深く感謝の気持ちをつたえたい。  一九九五年(平成七)9月以降、確定となった死刑囚 (一九九八年7月現在) 池本 登(63)  一審無期だったのを検察側が控訴して死刑になる。猟銃を乱射し近隣の知人三名を射殺。九六年三月四日死刑確定。大阪拘置所。   山野静二郎(59)  八二年三月取引先の会社社長と役員を金属バットで殺害。計五一〇〇万円を奪ったとして、強盗殺人などの罪に問われた。元不動産会社社長。九六年一〇月二五日死刑確定。大阪拘置所。   朝倉幸治郎(62)  東京都練馬区で一九八三年六月、家の明け渡し交渉の行きづまりから、一家五人を殺害したとして、殺人、死体損《そん》壊《かい》などの罪に問われていた。九六年一一月一四日死刑碓定。東京拘置所。   向井伸二(36)  一九八五年に兵庫県姫路市と神戸市で主婦二人と幼児一人を殺害して強盗殺人などの罪に問われていたもの。九六年一二月一七日死刑確定。大阪拘置所。   中元勝義(54)  顔見知りだった宝石商夫婦を殺害し、現金や宝石類を奪ったとして、強盗殺人と窃盗の罪に問われていた事件。九七年一月二八日死刑確定。大阪拘置所。   秋好英明(56)  七六年六月福岡県飯塚市で、内妻との結婚に反対する内妻の姉一家四人を殺害したとして、死刑を一審から言い渡されていた。九七年九月一一日死刑確定。福岡拘置所。   神宮雅晴(旧姓広田)  八四年九月、京都府警の元巡査部長だった神宮が、京都府警の巡査を包丁で刺し、奪った拳銃で殺害。さらにその拳銃で大阪の消費者金融の社員を射殺して、現金を奪った事件。九七年一二月一九日死刑確定。大阪拘置所。  文庫版に際してのあとがき    三年間で一六名の死刑囚が執行された。  いちばん最近の執行は、参院選の火蓋が切られた今年(九八年)の六月二五日だ。世の中は選挙、選挙のかまびすしい叫び声が聞こえてくるなかで、その絶叫にかくれるように三名の生命は絶たれた。  東京拘置所で一名、福岡拘置所で二名。もっと詳細に説明すると、福拘が村竹正博(54)、武安幸久(65)、東拘が島津新治(66)である。武安幸久と島津新治は無期懲役の仮釈放中の事件であった。とくに武安の死刑確定については、最高裁口頭弁論で国選弁護人も、検察も弁論をしないという異例の事態が起っている。  仮釈放中に事件を起して死刑になるという被告は他にも五人もいる。無期懲役刑に服しているときは、仮釈放してもなんの問題もない、と判断できたと収監していた側(刑務所)はいうのだが。一割以上の人数が再犯を犯して、死刑になる事態をどう受けとめているのか。ただ出獄させればいいという考えではすまされないのではないのか。  刑務所では、生命の大切さ、ということを判断させるような時間はないらしい。矯正職といいながら、ちっとも矯正してはいないというのが正直なところだろうと思う。死刑の執行となった死刑囚も哀れであるが、その犠牲者には哀《あい》悼《とう》の言葉もないほどである。  法務省は、こういう事態にもう少し目をむけるべきではないだろうか、刑務所を出所した人たちが、困ったとき、淋《さび》しいとき、つらいとき、いったいどこへ行って相談すればいいのか。おそらく保護司がいるんだから、というだろう。しかし、出所者が最も顔を出したくないところのひとつに、保護司も入っているという事実はいったいなにを物語っているのか。  死刑執行にばかり熱心にならないで、少しはこういうことにも目をむけてほしい。仮釈放や、満期出獄した人で肉親と呼べるものがいない、いたとしても顔を出しにくいという事情もあるだろう。それでも身を寄せるべき、心を開いて話せる相手はほしい。その相手として保護司がいるのだということはわかっているが、そういうものものしい名前のつかない、いわゆるふつうの人、の制度を考えてほしい。  ボランティアという言葉は、さいきんになって日本人にもようやくなじんで来たという感がある。アメリカでずいぶん昔から行われているグループ活動で、こんなものがあった。  だれが出席しても決して拒むことはない。そこは、その時自分がかかえている問題をみんなに聞いてもらう、聞いた人はそれぞれに勝手なことや、思いつきや、自分も同じような体験をもっているなど、いろいろ意見なり感想なりをいう。なんのことはない、井戸端会議のようなものなのだが、心に屈託のある人にとっては話を聞いてくれる人がいる、あるいは場所があるというだけでずいぶん救われた気持ちになるものなのだ。  そういうボランティアの団体があったら、法務省はいくらかでも予算を分けて与えてもいいのじゃないかと思う。  悪いやつを成敗することよりも、悪を生みだすのを未然に防ぐことを少しは考えるべきではないのか。 本書は平成七年九月に自社単行本として刊行されたものを、文庫化に際して加筆、修正したものです。 なお、本文中の各死刑囚の年齢は、単行本刊行時のものです。 57人《にん》の死《し》刑《けい》囚《しゆう》  大《おお》塚《つか》公《きみ》子《こ》 ------------------------------------------------------------------------------- 平成14年1月11日 発行 発行者  角川歴彦 発行所  株式会社  角川書店 〒102-8177 東京都千代田区富士見2-13-3 shoseki@kadokawa.co.jp (C) Kimiko OTSUKA 2001 本電子書籍は下記にもとづいて制作しました 角川文庫『57人の死刑囚』平成10年8月25日初版発行             平成13年7月10日 4 版発行