[#表紙(表紙.jpg)] 追憶列車 多島斗志之 目 次  マリア観音  預け物  追憶列車  虜囚《りよしゆう》の寺  お蝶ごろし [#改ページ]   マリア観音     1  ドアをひらくと、夫が玄関に立ちはだかっていた。 「あっ」  と美佐子はひるみ、あわてて腕時計をみた。十時を回っていた。 「どこへ行ってた」  おさえた声だが、夫の目はけわしい。 「……」美佐子は返事に詰まった。 「どこで何をしていた」  夫は玄関マットのうえで足をふんばっている。  美佐子は靴を脱ぐこともならず、 「あの……」  と手で髪を掻《か》きあげ、 「ごめんなさい」  と小声でわびた。  夫の声がたたみかけてくる。 「真紀《まき》をほったらかしにして、こんな時間までどこへ行ってた。真紀、熱を出してるんだぞ」 「真紀が?」  美佐子は夫の目を見あげた。  けさ、幼稚園の送迎バスを見送ったときは、いつもどおり元気に手をふっていた。  同じバスで園から戻ってくるのは午後三時。その時間には間に合うように帰ってくるつもりで、美佐子は出かけたのだ。  しかし予定が狂ってしまった。  途中から、時間のことなどすっかり忘れてしまった。娘のことも、夫のことも、頭の中から消えてしまった。たったいまドアをあける瞬間まで、美佐子は夢遊病のようにぼんやりとして、ただひとりの人間のことだけを思いつづけていたのだ。 「真紀が熱を?」  美佐子は壁に片手をついて、もう一方の手で靴を足から|※[#「手へん+宛」、unicode6365]《も》ぎとった。 「寝てるよ、いま」  夫は怒気のこもった声で言いながらも、体をひいて美佐子に道をあけた。  廊下わきの階段を、美佐子は急いで、しかし、つまさきで音をころしながら駆け上がった。真紀の部屋はドアをあけたままにしてあり、天井灯の黄色いスモールランプだけがともされていた。  小型のベッドに真紀が横たわっている。壁のほうに顔をむけ、やや顎《あご》をのけぞるようにして眠っている。額《ひたい》を冷やす細長いアイスノンが留め帯ごとはずれて枕の横にずり落ちている。  美佐子は真紀のひたいに手をやった。  たしかに熱っぽい。が、それほど高くはないようだ。 「いまは少し下がってる」  背後から夫が言った。「内田さんの奥さんが医者につれて行ってくれた。きみが留守をして、バスの迎えにも出なかったから、内田さんが真紀を預かってくれたんだ」  同じ幼稚園にかよう女の子の母親だ。家はすじ向かいだった。 「熱があることに気づいて、公園の横の内科につれて行ってくれたそうだ」 「風邪かしら」 「だろうという話だ」 「ごめんなさい」 「お義母《かあ》さんのところかと思って電話したが、来てないって言うし……」  夫はワイシャツ姿だ。ふだん着のトレーナーにはまだ着替えていない。ゆるめたネクタイの先が、不機嫌な息づかいにあわせて腹のうえで揺れている。  足元にころがっていたクマのぬいぐるみ。かれはそれをつかみあげ、乱暴な手つきで白木のチェストのうえに置いた。  美佐子はそのチェストからタオル地のハンカチを出し、ずり落ちていたアイスノンをくるんで真紀のひたいに留め帯で巻きなおした。じかにあてると冷えすぎると思ったのだ。  そしてベッドのそばに屈《かが》んだまま、真紀の寝息に耳をすませた。 「下へ」  と夫が言った。 「え?」 「下へこいよ。訊《き》かれたことに、下でちゃんと答えろよ」  夫は部屋を出て階段をおりていった。  何をどう言おうか。  美佐子は告白の言葉に迷い、ソファに浅くすわって自分の手を見ていた。  その様子にじれて、夫の怒りがますます昂《こう》じた。 「いままで黙ってたが——」  夫は部屋を歩きながら、引きむしるようにネクタイを抜きとり、ソファに投げ捨てた。その端が美佐子の腰に届いて、彼女はびくっと身じろぎした。 「このあいだから、おれは思ってたんだ。きみの態度だよ。何かおかしいと思ってた。だいたい、目つきが変わったよ。おれを見る目つきが急に変わった。おれに触れられるのもいやがるようになった。いや、ごまかさなくていい。いくら鈍感なおれだって、それぐらいは判ってたさ」  夫はサイドボードの縁《へり》を意味なく撫《な》でた。このところ少し肥《ふと》りはじめて、ズボンのウエストがきつそうだ。 「最初は、単に虫の居どころが悪いんだろうと、そんな程度にしか思わなかったが、どうやらそういうことじゃなさそうだな」 「……」美佐子は反論できなかった。その通りだからだ。 「何年だっけ」  夫のつぶやきに美佐子が目をあげると、かれはサイドボードのうえの黒いデジタル時計を見ていた。 「五年か」  結婚生活のことを言っているのだ。 「たった五年でこんな状態になるとはね。予想しなかったなあ。ま、こういうことは年数なんか関係ないのかもしれないが。……好きな男ができたのか?」  不意にそう訊いてきた。目は卓上時計に向けられたままだ。 「きょうもその男といっしょだったのか?」  声がすこしふるえている。感情をおさえようとして、口もとや顎をしきりに撫でさすっている。「おれが、きみや真紀のために仕事に精を出してるあいだ、きみはそれが不満で男をつくったのか? それともおれに倦《あ》きて、他の男がほしくなったのか?」  夫のこぶしがとつぜん卓上時計に打ちおろされ、黒い樹脂の外枠がすさまじい音をたてて砕けた。  美佐子はとびあがった。 「言っとくが、おれはきみを誰にも渡さんぞ」  夫の右手から血がしたたりはじめた。  美佐子はあわてて首をふり、 「……ちがうわ」と言いながら階段へ向かおうとした。 「どこへ行くんだ。話は終わってない」 「だって怪我《けが》してるじゃない」救急箱は二階の寝室にあるのだ。 「こんな怪我なんかどうでもいい」 「だって……」  蒼《あお》ざめている美佐子の腕を夫が左手でつかまえ、元のソファへ手荒く引き戻した。 「きみはおれの女房だ。他の男と付き合うことなんか許さん」 「ちがうのよ。そうじゃないの。ぜんぶ話すわ。話すから聴いて」 「聴いて? さっきからおれは聴きたがってるじゃないか。なのにきみはずっと黙りこくっていたんじゃないか」 「どう話したらいいのか、頭の中でうまく言葉がまとまらなかったのよ」  しかし、それだけではなかった。できれば夫には話したくなかった。その気持ちが、告白の邪魔をしていたのだ。 「わたし、きょう秩父《ちちぶ》のほうへ行ってきたの」  夫の右手を消毒して包帯を巻き、そしてもういちど真紀のようすを見にいってから、美佐子は話しはじめた。 「秩父?」  夫は斜めに美佐子をにらんだ。 「いえ、最初の目的地は所沢《ところざわ》だったの。でも、けっきょく秩父まで足をのばすことになってしまったの」 「だれと」 「え?」 「誰といっしょだったんだ」 「だから、それが違うというのよ。ひとりだわ。ひとりで行ったのよ」 「ひとりで? ひとりで何をしに」 「つまり……ちょっと待って。やっぱり最初から順を追って話すわ」  美佐子は深呼吸をひとつした。     2  ある日、真紀が泣きながら裸足《はだし》で帰ってきた。  それがはじまりだった。  ふた月ほど前のことだ。真紀は友だちといっしょに近くの公園で遊んでいた。五月の好天だった。砂場あそびをするとき、みんな裸足になった。しばらく遊んで、さあ帰ろうというとき、真紀の靴だけがなくなっていた。  こどもたちの中の誰かがいたずらをした、もしくは意地悪をした、そんなところだろうと、美佐子は思った。  それからまもなく、こんどはハンカチが消えた。ウサギの刺繍《ししゆう》が入った真紀のハンカチだ。庭先の物干しハンガーに、ほかの洗濯物といっしょに干してあった。たしかそのはずだった。それがなくなっていた。  風で飛んだのだろうか。このときもそんなふうに考えた。  三度目は、毛布だった。真紀がつかっていたピンクのこども用毛布。これも洗って庭先の物干しロープに干しておいた。それがなくなった。  毛布が消えたのに気づいたのは、あの女[#「あの女」に傍点]の姿を見かけたあとだった。  ちかくのスーパーへ買い物に行った帰りみち、家のそばの曲がり角で不意にあの女[#「あの女」に傍点]とすれ違ったのだ。女は長い髪を顔の両側に垂らして、サングラスをしていた。  曲がり角で女に出くわした瞬間、美佐子はぞっとして鳥肌が立った。女のほうでも驚いたようすだった。両肩がぴくりと上がった。  女はすぐに顔をそむけ、足を速めてあゆみ去った。美佐子は硬直して突っ立ったまま、女のうしろ姿を見送っていた。  痩《や》せ型で、黒っぽいワンピースの下のふくらはぎが細かった。黒いハイヒールをはき、片手にシルバーグレーのバッグを持ち、もう一方の手にデパートの紙袋をさげていた。  その女を見るのは久しぶりだった。  最初に見たのは、五年前だ。夫との結婚をまぢかに控えたころだった。当時美佐子はOLだった。婚約中の夫とのデートを終えて自宅の前まで帰ってきたとき、あの女[#「あの女」に傍点]がいたのだ。  向かいの塀ぎわの電柱の陰。まるで美佐子の帰宅を監視していたかのように、ひっそりとあの女[#「あの女」に傍点]が立っていた。外灯の死角になった暗がりの中だったが、美佐子は視線の気配を感じて、その暗がりを透《す》かし見た。  不気味に思いながら凝視すると、女はすっと電柱を離れ、無言で駅の方角へあゆみ去った。  家の中へ入ってからも、美佐子は気味のわるさが消えず、両親や弟に話した。 「修司さんが、あねきの素行調査を依頼してるんじゃねえの。それか、修司さんに捨てられた女かもな」  高校生の弟が面白がって冗談半分に言ったが、美佐子も、そして両親も、一瞬沈黙してしまった。  その後、勤め先の近くでも、同じ女を見た。退社時刻になり、同僚のOLと肩を並べて地下鉄駅へ歩いているときだった。電話ボックスの横を通りすぎようとして、その中にあの女[#「あの女」に傍点]の姿を発見したとき、美佐子は声をあげそうになった。  そのことを、美佐子は思いきって婚約者の修司に話した。  修司は眉《まゆ》をよせて真剣に考えこんでいたが、やがて、誠実な口調でこう言った。 「正直に言うよ。前に付き合っていた女は、たしかにいる。だけど、それは完全に過去の話だ。きみと付き合うようになる前の話だ。その相手とはきれいに別れたし、別れてから一度も会ってない。それに、彼女はそんなおかしなまねをするような女じゃないと思う」 「そのひと、痩せてた?」 「うん、まあ、どっちかというと細いほうだったけど……ねえ美佐子、誓って言うが、彼女がきみにそんないやがらせをする理由なんか、何もないんだ。ぜったい彼女じゃない」  そのあと、女は美佐子の前にあらわれなくなった。  ただし、あらわれても美佐子が気づかずにいただけなのかもしれず、その点ははっきりしない。  美佐子は予定どおり修司と結婚式を挙げ、以来五年が経過した。  五年ぶりにあらわれたあの女[#「あの女」に傍点]。  複雑な動揺をおぼえながら買い物から帰った美佐子は、やがて庭先の物干しロープから真紀の毛布が消えていることに気づいたわけだった。  毛布がない。  気がついた瞬間、頭をよぎったのはあの女[#「あの女」に傍点]のことだった。すれ違ったとき女がさげていたデパートの紙袋。きっとあの中に真紀の毛布が入っていたのにちがいない。直感的に、美佐子はそう思った。  靴。ハンカチ。毛布。  このひと月たらずのあいだに、真紀の物ばかりがつぎつぎに消えた。  そのことを、美佐子はあの女[#「あの女」に傍点]とむすびつけて考えた。そして、不気味さと怒りのまじり合ったものが突き上げてきて身ぶるいした。  これはいったい何なのだろう。どういう意味なのだろう。  夫婦と娘。そのしあわせな家庭を妬《ねた》んでのいやがらせだろうか。それとも、脅迫だろうか。靴。ハンカチ。毛布。……そしてこのつぎは真紀自身を狙うぞという脅迫の意味がこめられているのだろうか。  いずれにしても、その底に、何か粘りつく狂気のようなものを感じて、美佐子はもういちど身ぶるいした。  夫に相談しよう。  そう思って帰りを待ちわびた。  夫はこのところ毎晩おそかった。 「大事なときなんだ。年齢的にも今がいちばんの頑張りどきなんだ。社内でこれから浮上していけるか沈んでしまうか、今がその分かれ目なんだ」  最近のくちぐせだった。  その夜の帰宅もやはり遅かった。かなりアルコールが入っており、水を一杯飲みほすと、そのまますぐに寝入ってしまった。  寝室に饐《す》えたにおいをたちこめさせて、かすれた鼾《いびき》をかく夫。その寝顔を見ながら、美佐子は五年前のかれの言葉を思い出していた。 〈ねえ美佐子、誓って言うが、彼女がきみにそんないやがらせをする理由なんか、何もないんだ。ぜったい彼女じゃない〉     3 「しかしそのことを、きみ、おれに話したかい?」  右手の包帯をなでながら、夫が美佐子をすくい見た。 「毛布のこと?」 「毛布とその女のことだよ」 「靴がなくなったことは話したはずだけど、それはまだあの女を見る前のことだったから、こどものいたずらと考えて、あなたにもそう言ったと思う」 「ああ、それは思い出したが、女のことは聴いた憶《おぼ》えがない」 「ええ、話してないわ」 「なぜ? どうしておれに言わなかった」 「あなた、いつも忙しい忙しいって……で、言いそびれて」 「言いそびれた?」 「いえ、言うのをやめにしたの」 「だから、なぜ?」 「わたしと結婚したあとも、あなた、前の女のひととの関係をずっと続けてるんじゃないかと……ふとそんな気がしたのよ」 「おれを信じてなかったのか?」 「……ええ」 「それで、あんな目つきをしてたのか」 「……」美佐子はうつむいて、目の前のガラステーブルを見つめた。 「で、秩父へ行ったことと、そのことと、どうつながるんだ」 「幼稚園から連絡があったのよ」 「幼稚園から? 何の連絡が?」 「じつはお手紙が届いておりまして」  と副園長から電話があったのだ。きのうの午後だった。 「手紙、ですか?」  美佐子は怪訝《けげん》な気持ちで訊《き》き返した。 「ええ、真紀ちゃんの写真が同封されたお手紙です」  きいた瞬間、美佐子は受話器を持つ手がふるえた。 「真紀の写真……」  あの女[#「あの女」に傍点]のことが頭をよぎり、それだけで動悸《どうき》が速くなった。あの女[#「あの女」に傍点]がまた妙なことをしようとしているのではないか。  しかし、看護婦出身の副園長の声は、いつものようにゆったりと落ちついていた。 「先日、秩父のほうへいらっしゃったときに、おたくさまから預かったお写真だそうです」  秩父? どういうことなのか考えようとする美佐子の耳に、副園長の声がつづく。 「お手紙と写真をそのまま封筒にもどして、真紀ちゃんの通園バッグに入れておきましたので」 「はあ、ありがとうございます」  礼を言って電話を切ったものの、美佐子は、いったい何のことやらまるで判らなかった。  やがて送迎バスに送られて真紀が帰ってきた。出迎えた美佐子はすぐに真紀の通園バッグをさぐって封筒をとり出した。封筒の宛先は幼稚園になっており、差出人の名は〈森岡はつ江〉、住所は埼玉県所沢市と書かれていた。  同封の写真は、たしかに真紀を撮ったものだ。幼稚園の門前で、送迎バスに乗り込もうとしているところのようだ。  美佐子は、いそいで便箋《びんせん》の文字に目をはしらせた。  文面はこういう内容だった。  ——先日、秩父へ行ったとき、ひとりの婦人と知り合い、話をした。その婦人から娘さんの写真を見せてもらったのだが、うっかりして返すのを忘れてしまった。その婦人の名は訊き洩《も》らしたものの、写真にうつっているバスに幼稚園の名前が見え、しかも、横の電柱に町名表示があるのも読みとれたので、貴園あてに送る。お手数だが、貴園からこの園児の母親に返してほしい。  その文面と写真とを交互に眺めながら、美佐子はますます不可解な気持ちにおちいった。  美佐子は、秩父へなどこれまでに一度も行ったことはなかったし、幼稚園の前で真紀が送迎バスに乗り込むところを撮影した憶えもない。  森岡はつ江という名の差出人が秩父で会った〈婦人〉というのは、もしかするとあの女[#「あの女」に傍点]のことだろうか。あの女[#「あの女」に傍点]は真紀の写真を盗み撮りし、それを自分の娘だと言って持ち歩いているのだろうか。  美佐子の体にまた震えがきた。  ほうっておくわけにはいかない。森岡はつ江を訪ねよう。その〈婦人〉がどんな女だったのか、じかに話を聴きに行こう。  それが、きょうの外出の目的だった。     4  所沢駅の改札口を出ると、初夏の日射しがつよかった。  美佐子は首すじの汗をハンカチでおさえながら、例の手紙の住所をたどって森岡はつ江の住まいをさがした。  市街地の中にある文房具店が、めざす番地に該当した。森岡はつ江は、そこの店主の母親だった。六十代の、よく日に灼《や》けた気さくそうな女だった。  わたしが、あの写真の幼稚園児の母親なんです。美佐子がそう言って名乗ると、森岡はつ江は、「え」と口をおさえた。 「その証拠に、このお手紙と写真、幼稚園からわたしに届きました」  美佐子は、バッグから封筒を出してみせた。 「あらら」  森岡はつ江は首をかしげ、 「じゃあ、あのひと、いったい誰だったんだろうね」とつぶやいた。  店の奥の座敷に美佐子は招き入れられ、冷えた麦茶を出された。エアコンがよく効いており、外を歩いた汗がたちまち引いた。  美佐子は、例の女の容姿の特徴を列挙してみた。  すると、森岡はつ江はそのすべてにうなずいた。 「そうそう、髪の毛ながくしてた。うん、化粧が濃かった。水商売のひとかなと思ったもの。そう、痩《や》せてたね。病気だって言ってたからね」 「病気?」 「げんに倒れちゃったもの、わたしの目の前で」 「倒れたんですか?」 「そうよ。その女の子の写真みせてもらってたとき、急に気分がわるくなったって言って、お堂の縁側に寝ころがっちゃってね。それでこっちもあわてちゃって、手ぬぐいであおいであげたりしてるうちに、その写真を自分の手さげバッグに突っこんだまま返すのを忘れちゃったわけよ」 「お堂って、どこのお堂ですか」 「ええっと、石仏がいっぱいの、ほら、新木寺《あらきでら》よ。観音|詣《まい》りの札所《ふだしよ》になってるでしょう」  秩父にある三十四カ所の観音霊場。その第四番札所だということだった。 「わたしは毎年欠かさず札所めぐりをしてるのよ。秩父の札所は有名だから、遠方からも巡礼にくるひとが多くてね。そういうひとたちと出遇《であ》って話をするのも、わたしのたのしみ。で、その写真を見せてくれたひと——つまり、お宅さんのニセモノだわね——そのひととは新木寺の子育て観音の前で出遇ったのよ」 「子育て観音?」 「マリア観音ともいうらしいね。そのニセモノのひとはそう呼んでたよ。観音さまが赤ん坊を抱いてお乳をやってらっしゃるお姿なのよ。ニセモノのひとは、札所めぐりじゃなくて、新木寺のマリア観音だけを見るためにやって来たと言ってた」  美佐子は所沢駅から西武線で秩父へむかった。  トンネルをいくつも抜けて、秩父盆地にたどりつくまでのあいだ、彼女の頭は、なにかぼんやりと霞《かすみ》がかかったようになっていた。  教えられたバスに乗り、教えられた停留所でおりた。  道路わきの郵便局に寄って道すじを確かめ、つよい日射しに打たれながら右に曲がり左に曲がりした。すると小高い隆起がゆくてに迫り、そのふもとに新木寺の仁王門《におうもん》が立ちあらわれた。  高谷山金昌寺《こうこくさんきんしようじ》。  新木寺という通称で呼ばれる寺の、それが正式名だった。茅葺《かやぶ》きの仁王門を入ったとたん、美佐子は思わず立ちすくんだ。  石仏。  おびただしい石仏群が周囲を埋めつくしていた。石段の右にも左にも、斜面いっぱいに古い小さな石仏がひしめいていた。蝉しぐれが、その小さな石仏たちの唱える声明《しようみよう》のようにも聴こえた。  マリア観音は、本堂の回廊の右手にあった。ほぼ等身大の石づくり。蓮台《れんだい》のうえに半裸ですわり、膝《ひざ》に抱く嬰児《えいじ》に右の乳房をふくませようとしている。  寛政《かんせい》四年、江戸の吉野屋半左衛門が寄進した。蓮台にはそう刻まれている。  こころもち首をかしげてうつむき、手で乳房を嬰児の口にもってゆこうとする姿は、かつて美佐子自身にも経験のある母親の授乳のしぐさをそのまま写しとっている。  そんな観音像の前にたたずみながら、美佐子は、森岡はつ江の言葉を思い出していた。 「そういえば——」  と森岡はつ江は言ったのだ。「あのひと、厚化粧して若づくりしてたけど、ほんとは四十代じゃないかしらね。わたし、そんな気がしたね」 「四十代?」 「写真の子の母親にしちゃ、ちょっと老《ふ》けてると思ったよ。まあ高齢出産ていうのもあるけどさ。いや、あの肌は四十代というより、五十に届いているかもしれないよ」 「ほんとですか?」  考えてみると、美佐子は、あの女[#「あの女」に傍点]をまぢかでしっかりと見たことが一度もないのだった。五年前は、夜の暗がりの中と夕方の電話ボックスの中。そして先日は、出遇いがしらの一瞬で、しかもサングラスをかけていた。  四十代、あるいは五十代。——あの女[#「あの女」に傍点]はそんな年齢《とし》だったのだろうか。  混乱した気持ちで腰をあげたとき、森岡はつ江が呼びとめた。 「はい、これ。ミサコちゃんに持って帰ったげて」  店の売り物のクレヨン・セット。それをさし出した。 「ミサコ?」 「あ、そうか。ニセモノの言うことだから、こどもの名前もでたらめだったわけね。ほんとは何ていうの、あの子の名前」  美佐子はその場に硬直して、森岡はつ江をにらみつけた。 「ミサコって言ったんですか、こどもの名前を」 「ええ……そう言ってたけど」  美佐子の頭に奇妙な霞がかかったのは、その瞬間からだった。     5 「……どういうことなんだ、それは」  夫の目も戸惑っている。  美佐子は両手で自分の頬をはさみ、ガラステーブルを見つめたまま、 「母じゃないかと思うの」  と低くつぶやいた。 「え?」  夫が頓狂《とんきよう》な声をだしたので、美佐子はあわてて言葉を足した。 「ちがうの。実家の母のことじゃなくて、わたしが言ってるのは、生みの母のことなの」  いまの実家の母親は父の後妻であり、弟は腹ちがいだった。 「おい、変なことを言うなよ。幽霊が出たっていうのか?」  美佐子はうつむいて髪に指をつっこんだ。 「死んだっていうのは、嘘なの」 「……」 「父さんと離婚して出て行ったのは本当だけど、死んだというのは嘘だったの」 「なぜそんな嘘を……」 「死んでほしかったから」 「え?」 「あんな母親、生きていてほしくなかったの。少くともわたしの心の中では死んでいてほしかったの。離婚して出て行ったっていうのも、ほんとは順序が逆なの。男をつくって出て行ってから、離婚届に判を押したものが、あとで父さんのところへ送られてきたの」  美佐子が五歳のときのことだ。  当時の美佐子には、むろんそんな経緯はわからなかった。しかし、親戚《しんせき》の者たちの言葉の断片をいろいろとつなぎあわせて、中学生のころにはおおよその事情を知ってしまった。  男と出奔《しゆつぽん》した生母が、その後、また別の男と暮らしているという風聞も、耳ざとく得ていた。  以来、美佐子は自分の心の中で実母を殺し、婚約中の修司にもそう話していたのだ。 「そうか……生きてたのか、きみの母親」 「この十年ほどは消息を知らないけど、死んだという話も聞いていないわ。生きてれば、五十一歳。所沢の森岡さんの話と一致するわ」  母かもしれない。  そう思った瞬間から、美佐子の頭に不思議な霞がかかり、時間のことや家のことなどすっかり忘れて、ほとんど無意識に足が秩父へむき、マリア観音の前へやって来たのだ。  こどもに乳をあたえる観音像。この像の前で、森岡はつ江はあの女[#「あの女」に傍点]に出遇ったという。あの女[#「あの女」に傍点]は、わたしの母なのだろうか。その疑問だけが、美佐子の頭を占領していた。  観音像の前でどれだけの時間を過ごしたのか、美佐子は自分で憶《おぼ》えていない。いつ寺を出て、何時にバスに乗り、どんなふうに電車に乗ったのかも、はっきりした記憶がない。  ただあの女[#「あの女」に傍点]のことと、森岡はつ江の言葉と、幼いころの遠いおぼろげな面影のきれはしを、暗室で手さぐりするように撫《な》で回しながら、いつのまにか家まで帰って来た。そして玄関に立ちはだかる夫の叱声《しつせい》に迎えられて、はっとわれに返ったのだった。 「その女」  言いかけて夫は「そのひと」と言い直した。 「そのひとがきみの母親なのかどうか、確かめる手だては、何かないのかい?」 「確かめてどうするの?」  美佐子は顔をあげ、夫をするどく見た。 「いや、どうするかは、きみしだいだが。……とにかく、真紀の物がつぎつぎになくなったりするんじゃ、やっぱりどういうことなのか、はっきりさせたいじゃないか」 「ええ、そうね」  美佐子はまたうつむいて、髪に手をつっこんだ。  夫は立ちあがり、部屋を歩いた。 「その、所沢の森岡さんてひとだが、ほかに何か言ってなかったかい?」 「……」美佐子は考えて、思い出そうとした。 「どこに住んでるとか、どっちのほうから来たとか、そういう話は出なかったんだろうか」 「待って。そういえば……」  美佐子は、ある言葉を思い出した。 〈ニセモノのひとは、札所めぐりじゃなくて、新木寺のマリア観音だけを見るためにやって来たと言ってた〉  森岡はつ江はそう話したあと、たしかこう続けたはずだ。 「どうしてかっていうと、ほかにもマリア観音のあるお寺があって、そこは近所だからよくお詣《まい》りするんだけど、こっちの観音さまはまだ見たことがないんで、いっぺん来てみたかったんだって」  そして、さらにこうも話した。 「こっちのお寺は四番札所になってるけど、そっち[#「そっち」に傍点]のほうは十五番になってるって言ってたよ」 「十五番」  夫がつぶやいた。「それ、手がかりになるよ。札所めぐりの十五番の寺をあたってみれば、そのひと[#「そのひと」に傍点]の住んでる場所が、だいたい判るわけだ」 「ええ、そういうことになるわね」  うなずきながら、しかし美佐子はためらっていた。あの女[#「あの女」に傍点]の所在を突きとめ、真相を確かめたいと思いつつも、そうすることが怖くもあった。  それを察したのか、夫の手が彼女の肩にのせられた。包帯をしていない左の手だった。美佐子はその手に自分の手をかさねた。  翌日から、夫が調べをはじめた。     6  少林寺《しようりんじ》、別名を蔵福寺《ぞうふくじ》という寺が、秩父観音霊場の第十五番札所だった。  しかし、その寺にマリア観音はなかった。夫が電話でそれを確認した。  なかば予想していたことだった。秩父の札所に他にもマリア観音を安置した寺があるのなら、毎年札所めぐりをしているという森岡はつ江が知らぬはずはないからだ。  秩父以外の観音札所。その第十五番の寺に、もうひとつのマリア観音があるのだろう。  秩父以外には、西国《さいこく》札所と坂東《ばんどう》札所がある。  近畿《きんき》にある西国札所は観音霊場のそもそもの起源で、これにならってあとから関東に坂東札所ができ、ついで秩父札所ができた。西国と坂東の札所はそれぞれ三十三カ所。秩父だけが三十四カ所となっているのは、合わせて百カ所にするためだという。  坂東札所の第十五番。  それは、群馬県|榛名《はるな》町にある白岩山長谷寺《しらいわさんちようこくじ》という天台宗の寺だった。そこへも夫が電話をした。——マリア観音はなかった。  すると、あの女[#「あの女」に傍点]は近畿から来ていたのだろうか。  夫は西国札所の第十五番を調べた。  京都市東山区の今熊野観音寺《いまくまのかんのんじ》がそれだった。真言《しんごん》宗の寺だ。——子まもり大師は当寺に安置されているが、マリア観音(子育て観音)はない、という返事だった。  秩父はむろんのこと、坂東、西国、いずれの第十五番札所にも、マリア観音はなかった。  美佐子と夫は、拍子抜けした目で互いをみた。 「そもそもマリア観音というのは——」  と、近くの寺の住職が眼鏡をふきながら言った。あれから数日後の日曜日。夫の思いつきで、これまで縁もゆかりもなかった近所の寺を訪れてみたのだ。夫婦と、そして真紀もいっしょだった。マリア観音というものについて教えを乞《こ》いたい、そう求めると、年配の住職はこころよく応じ、涼しい風の通る本堂の回廊で話をはじめた。 「あれは隠れキリシタンが拝んでおったのですよ。観音|菩薩《ぼさつ》にこどもを抱かせて聖母マリアに見たてたわけですな。そうやってこっそり礼拝をしておった。キリシタン禁圧の時代の知恵ですな」 「ということは」夫が質問をはさんだ。「マリア観音が安置されている寺は、隠れキリシタンに縁《ゆかり》のある寺ということでしょうか」 「いやいや、そうとは限りませんよ。キリシタンとは関係のない場所にもマリア観音と称するものはあります。というのはですな、隠れキリシタンのマリア観音を、ふつうの仏教信徒が逆にまねをして、子育て観音として取り入れたりもしてますからね。それに、日本古来の子安神《こやすがみ》から来たのもある」 「子安神?」 「子安神社というのが、ほうぼうにあるでしょうが。あれはたしか木花開耶姫《このはなさくやひめ》を祀《まつ》っておるんでしたかな。安産と子育てのご利益《りやく》があることになっておるでしょう」住職は境内であそぶ真紀を目で追いながら語った。「あの子安神を観音さまに移しかえたのもあるわけです。いまでは、そういうものもみんなひとからげにしてマリア観音と呼んでいるんじゃないでしょうかな」 「なるほど」  夫は美佐子をちらりと振り返ってから、肝心の問いを持ち出した。「観音霊場の札所めぐりというのがありますね」 「ありますな」 「秩父の札所の第四番の寺に、マリア観音が一体すえられているんですが」 「ああ、聞いたことがあります。石仏で有名なお寺さんでしょう」 「ええ、新木寺といいます。で、じつはですね、ほかの観音霊場の札所にも、同じようにマリア観音を置く寺があると聞いて、どこの何という寺かを知りたいと思っているんですが、ご住職はご存じないでしょうか」 「ほかの札所というと、西国三十三所か、坂東三十三所ということですな」 「いや、それがどうも違うようなんです。どこか別の札所らしいのです」 「別の札所?」 「ええ、その中の第十五番の寺ということだけは判っているんですが」 「ふむ」  住職は剃髪《ていはつ》した頭を撫《な》でまわした。「残念ながら思いあたりませんな。わたしもそこまで詳しいわけではありませんのでな」 「そうですか」  夫はつぶやき、落胆の目で美佐子のほうを見返った。  しかし、この訪問はむだではなかった。  三日後の昼すぎ、美佐子はその住職から電話を受けた。 「先日、おたずねの件ですが、どうやら見当がつきましたので、お知らせしようと思いまして」 「おわかりになったんですか、札所のことが?」  美佐子は動悸《どうき》が速くなるのを感じた。 「はあ、坊主仲間に二、三あたってみたところ、たぶんあそこではないかという話が出ましてな。それで、当のお寺さんに電話で確かめてみたところ、やはりそうでした」 「わざわざそこまでしていただいたんですか」 「なに、わたし自身もちょいと気になって調べてみたくなったものでね」 「で、どこのお寺なんでしょうか」 「三浦半島です」 「三浦? 三浦にも観音霊場の札所があったんですか?」 「そのようですな。半島をぐるりと一周する三十三カ所の札所があるようです。ただし、江戸時代の中ごろに制定した札所だといいますから、まあ坂東や秩父にくらべると、やや貫禄《かんろく》には欠けますが」 「そこの十五番札所のお寺に、マリア観音があるんですね?」 「ええ、観音堂の中に安置されておるそうです。関東方面の観音札所では、秩父の新木寺のほかには、三浦のそのお寺さんだけにマリア観音がおわしますそうです。ま、わたしとしては、子育て観音さまとお呼びしたいですが」 「名前を——」  と美佐子は言った。「お寺の名前を教えていただけます?」 「しんぷく寺さんといいます。真言の真に、幸福の福。浦賀の近くだということです」     7  横須賀線の終着駅、久里浜《くりはま》。  美佐子は夫とともにホームに降り立った。  この日も日曜日だったが、真紀は実家にあずけてきていた。両親には、その理由を偽《いつわ》ってある。あの女[#「あの女」に傍点]のことは、何も話していなかった。  駅を出ると、空に雲がひろがり、風がおもたく湿って蒸《む》れていた。  駅前からバスに乗って、北へ逆戻りした。ふたつ目で降り、こんどは東へ歩いた。途中から細い山道に入りこむ。十分ほどで寺に達した。  吉井山《よしいざん》真福寺。  三浦三十三観音の第十五番札所だ。こぢんまりとした浄土宗の寺。石段のうえに高い石柱が二基、門柱のように建っていた。そのむこうに本堂が見える。銅《あか》で葺《ふ》かれたその屋根が、いまにも降りだしそうな灰色の空の下で、にぶく燻《くす》んでいる。  近くだ。  と美佐子は思った。いま自分はあの女[#「あの女」に傍点]の近くまでやって来ているのだ。この寺の近くにあの女[#「あの女」に傍点]は住み、そしてマリア観音を拝むために何度もここを訪れているのだ。もしかすると、現にいまもあの女[#「あの女」に傍点]が来ているかもしれない。  美佐子は二基の石柱のあいだから、おそるおそる境内を覗《のぞ》きみた。  そんな彼女の腕を、夫がそっとつかんだ。 「きみが怯《おび》えることはないじゃないか」  美佐子はぎこちなく笑い、 「ええ、そうよね」  とうなずいたが、しかし胸が押しつぶされるような息苦しさは消えなかった。  あの女[#「あの女」に傍点]が自分の生母であることを、美佐子はもはや疑っていない。だが、それを明らかにすることがやはり怖かったのだ。  夫に寄り添うようにして、美佐子は境内に踏み入った。  庫裡《くり》の戸口から、夫が中へ声をかけた。  住職が観音堂をひらいて、マリア観音を披露した。新木寺の石像とはだいぶ様子がちがっており、授乳の姿ではなく、ただ嬰児《えいじ》を胸に抱いているだけの観音像だった。  夫が、訪問の目的を住職に話した。住職は寄進者名簿をとり出してきた。  美佐子の生母の名は、松井和子という。  その名を名簿の中にみつけたとき、美佐子はまた胸が苦しくなった。 「やはり、そうだったのか」  夫が溜息《ためいき》とともにつぶやいた。  名簿には、むろん住所も出ていた。  近いといっても、寺の周辺というわけではなかった。久里浜から京浜《けいひん》急行で四区間乗らなければならなかった。横須賀《よこすか》の街なかの、古びた貧しげなアパートだった。 「どうする」  アパートの前で夫が訊《き》いた。「きょうはここまでにして、いったん引きあげるかい?」  いたわるような、やさしい声だ。  しかし、美佐子はかぶりを振り、 「……いいえ」  とあえぐような息づかいで夫に答えた。「ここまで来たんだもの、母さんに会ってくわ」 「お母さんがそれを喜ぶかどうかは、疑問だな。まず手紙でも書いて、それから会うという方法もある」 「いいえ、いま会いたいの。悪いけど、あなた先に帰ってくれないかしら」 「それはかまわないが、きみ、もうすこし気持ちを整理してからのほうがよくはないか?」 「整理?」  美佐子が夫の目をみると、かれは自分の靴先を見おろして静かに言った。 「きみはいま、いろんな感情が渦巻きすぎていて、収拾がつかなくなっているんじゃないか?」  たしかにその通りだ。  憎悪と懐しさとがそれぞればらばらに胸の中でふくれあがっており、侮蔑《ぶべつ》と同情とが互いに拮抗《きつこう》して競《せ》り合っていた。  母の顔を見てののしってやりたいのか、やさしい言葉をかけてやりたいのか、自分でもよくわからないのだった。 「だいじょうぶよ」  美佐子はつとめて平静に答えた。「わたしだって母親なんだもの」  返事になっていなかったが、夫のほうもそれ以上は言わず、 「そうだな」  とうなずいてみせた。  美佐子は、しかし母親に会うことはできなかった。  生母・松井和子は、ちょうど十日前に死亡していた。食を絶っての餓死だが、自殺にちがいないということだった。  隣室の中年女から、そのことを聞かされた。 「前から体が悪かったし、ずうっとノイローゼみたいな感じだったからね。ちかごろは言うこともちょっとおかしいところがあって、心配してた矢先なのよ」 「そうですか」  と美佐子は、自分でもおどろくほど乾いた声が出た。「ひとり暮らしだったんですか?」 「そうよ。このアパートにもけっこう永かったけど、人付き合いはいいほうじゃないし、いつもひっそり暮らしてたね」 「お仕事とかは?」 「無職よ。むかしはドブ板通りのバーで働いてたらしいけど」 「そうですか」 「死んでる姿をわたしも見ちゃったけどさ、あんまり侘《わび》しい姿なんで、こっちも気が滅入《めい》っちゃったわよ。ピンクの毛布を胸に抱いて部屋の隅に横たわってたのよ」 「毛布を……?」 「そいでその毛布の中にハンカチの包みがあって、ハンカチの中に小さなこどもの靴が一足入ってたんだそうよ。そう言っちゃなんだけど、気がふれてたんだね」 「……」 「で、あんた、どういうお知り合い?」  美佐子は無言でアパートをあとにした。  下を向いて歩いていると、 「美佐子」  と夫の声がした。  帰らずに待っていたのだ。 「どうだった? 会えたかい?」  美佐子はうつむいたまま歩きつづけた。  ゆくての地面に、黒い斑点《はんてん》がポツポツと浮かび出た。つぎの瞬間、大粒の雨が天からなだれ落ちてきて、はげしいしぶきが周囲をつつんだ。  夫が美佐子の肩に腕をまわした。  美佐子はかれの首に顔を押しつけて、雨音に負けぬほどの大声で泣きだした。 [#改ページ]   預け物     1  娘の態度がちかごろ悪い。  高校二年の長女、中学三年の次女、その両方ともだ。  夫に相談しても、呑気《のんき》な顔で新聞を読みながら、 「そういう時期なんだから、あんまりうるさく言うな」  と、鷹揚《おうよう》にかまえている。  しかし京子は気に入らない。  彼女には、ずっと抱いていたイメージというものがあるのだ。自分の娘たちにはこうあってほしい、という理想のイメージ。  ところが、小さかった頃はともかくとして、成長とともに、そのイメージがどんどん崩れてゆく。言葉づかいは言うに及ばず、立ち居振る舞いの乱暴なことは、目を覆うばかりだ。親を親とも思っていない。ふたりともすでに京子よりも背が高くなり、上から見おろすようにして口答えする。口答えならまだいいが、無視して返事すらしないときもある。  こんなふうにはなってほしくないと、そう思っていた方へ方へと、娘たちはどんどん進んでゆく。情けないったらない。京子が描いていた理想の親子像は、いまや遠い幻となってしまった。  学校にはいちおう休まずに通ってくれているのが、せめてもの救いと言えば言えるが、しかし成績だって決していいわけではない。進学の問題でも頭が痛い。  夫と娘たちを会社や学校に送り出したあと、京子は朝食のテーブルを片付けながら何度もためいきをつく。  その日も、独りで昼食をとったあと、テーブルに頬杖《ほおづえ》をついて娘たちのことを嘆いていると、ひさしぶりに直美から電話があった。  直美との仲はもうずいぶん古いが、最近ではめったに会うことはない。電話で声を聞くのも数年ぶりだった。  いま新宿にいるという。京子は合流する約束をして、すぐに支度を始めた。  しかし、直美と会う前に、まずあれ[#「あれ」に傍点]を用意するのを忘れてはならない。照江のもとにずっと預けっぱなしにしていたあれ[#「あれ」に傍点]。  照江との仲もおなじく古いが、京子や直美とちがって、照江は四十を越えた今もまだ独身を続けている。  照江はデザインの専門学校を出て広告会社に入り、十五年間勤めたあと退社して、現在は独りで仕事をしている。中野区のマンションが、仕事場兼住居だ。  箪笥《たんす》にしまってあった手帳を引っ張り出して、それを見ながら照江の電話番号をプッシュした。すると—— 「おかけになった番号は現在つかわれておりません」  という例の告知がながれた。  京子はもういちど注意深く番号を確認してプッシュしなおした。  おなじ告知がながれた。  おかしい。  引っ越したのだろうか。しかしそんな話を前もって聞かされてはいないし、転居通知も受け取っていない。京子に断わりもなく引っ越してしまうような照江ではないはずだが……。  考えていても始まらないので、京子は中野まで行ってみることにした。……行ってみて驚いた。     2  照江はクモ膜下出血で急死していた。救急車で病院へ運ばれたが助からなかったのだと、マンションの管理人が語った。 「葬式は、実家のほうで済まされたようです」  二週間も前のことだという。  聞いて、京子は胸がふさがったが、しかし、そんな感傷にゆっくり浸《ひた》っている場合ではなかった。薄情なようだが、照江の死を悲しむのは後回しだ。  彼女に預けていた物がどうなったのか、今はそのことを確かめるのが先だった。それを確認しないと困るのだ。 「彼女のいたお部屋は、どうなってます?」  管理人に訊《き》くと、 「いまは空室です。入居者募集中です」  という返事だ。 「部屋に置いてあった物は……?」「お兄さんと弟さんが二人でみえて、運送屋を使って運び出して行かれました」  照江の実家は、京子とおなじく南関東の地方都市である。持ってきた手帳に、その電話番号も書いてある。  携帯電話を持っていない京子は公衆電話を使った。  しわがれた声が出た。照江の母親のようだ。昔、何度かその家を訪れているので会ったことがあるはずだが、顔を思い出せない。いずれにしても声がすっかり老婆のものになっている。  京子は照江の急逝にお悔やみを言ったが、応答がなにやら頼りない。この調子では何を尋ねてもラチがあかないだろうと思い、照江の兄は不在かと訊いてみた。それはちゃんと理解されたらしく、店のほうへ電話を切り換えてくれた。  照江の実家は畳屋だったが、いまもその家業を続けているのだろうか。思いながら待っていると、野太い声が受話器から聞こえた。  京子はあらためて名乗り、お悔やみも言った。 「や、どうもご丁寧に。お知らせもしませんで、こちらこそ失礼をしました。なにしろ、照江のやつがどういう方々とお付き合いがあったのか、こっちではさっぱり判らなかったもんですから。ハハハ」  照江の兄の口調には悲しみの湿り気はなく、夏の畑のように乾いていた。そういえば、照江のほうでも肉親をあまり好いてはいなかったようで、なるべく交流を持たないようにしていた様子だった。 「あの、じつを言いますと——」  と京子は本題に入った。「照江さんの遺品の中には、わたしがお願いして彼女に預かってもらっていた物もありまして……」 「おや、そうだったんですか。それはどんな物です」 「絵です」 「絵?」 「はい。額縁に入った抽象画です。何号だったかしら、とにかく六十センチ掛ける五十センチほどの大きさです。青がたくさん使われている絵です」 「ああ、そういえばそんな絵があったな。ところで、どうして照江がそれを預かっておったんです?」 「……その絵、主人に内緒でヘソクリで買ったものなんです。家に置くわけにはいかないので、照江さんに頼んで預かってもらっていたんです」 「はあ、なるほど」  京子自身もよく名前を憶《おぼ》えていない何とかいう日本人画家の抽象絵画。 「しかし、あの絵はねえ、うちにはないですよ」 「え?」 「うちは、絵に興味のあるやつなんかおらんし、飾ったって似合うような家じゃないから、弟の清二にくれてやりました。あの絵は清二が持ってったんです」 「そうですか。じゃあ、おそれいりますが、弟さんの連絡先を教えていただけないでしょうか」 「電話しますか」 「はい、してみます」 「清二はね、東京におるんです」 「わたしもいま東京からお電話しています」 「あ、そう。じゃ、近くだ。ハハハ」  照江の兄は、弟の自宅と勤務先、その両方の電話番号を京子に教えた。     3  京子は、新宿にいるはずの直美に電話を入れた。直美は携帯電話を持ち歩いている。  照江の急死のことを告げると、直美も驚いていた。  京子は絵の行方についての事情も説明した。これから照江の弟に連絡をつけて、絵を引き取りに行くつもりなので、合流できる時間はだいぶ遅くなりそうだと伝えた。  直美は、しかたがない、と了解の返事をした。その声には少し焦《あせ》りの色が感じられたが、焦っているのは京子も同じだった。  照江の弟の勤務先は中古車のディーラーのようだ。まだ五時前だったので、京子はまずそちらに電話を入れた。  風邪で休んでいるということだった。  自宅へ電話をかけなおした。妻が出た。 「誰? 何の用?」  と、がさつな応対だ。「亭主? 亭主はパチンコに行ってるよ」  会社はズル休みだったのか。 「じつは、ご主人の、亡くなったお姉さんの遺品のことなんですけれど……」  京子が話し始めると、 「亭主の姉貴のことなんか、あたしに言われたって判んないよ。そういう話はさ、亭主にじかに言ってちょうだいよ」 「いえ、ただ、絵のことでちょっとお訊きしたいだけなんです」 「何?」 「絵です。額縁に入った絵。青がたくさん使われている抽象画です」 「その絵がどうしたのさ」 「あれは、わたしが照江さんに預かってもらっていた物なんです」 「だから何なのさ。あたしはそんな絵のことなんか知らないよ」 「さきほど、お義兄《にい》さんのほうにまずお訊きしたら、清二さんが持って行かれたとおっしゃっていたんですけど」 「しつこい人だねえ。知らないものは知らないよ」 「ご主人、何時頃、お帰りになりますか」 「さあね。判んないよ。あしたまた電話してみてよ」 「急ぐんです」 「だったら、駅前のパチンコ屋へ行って自分で捜してごらんよ」 「ええ、そうします。何という名のお店ですか?」 「キング会館」  と面倒くさそうに言って電話を切りかける気配があった。 「あ、あの——」  と京子はあわてて呼びかけた。「わたし、ご主人にはお会いしたことがないので、どんなお顔かも知らないんです。きょうの服装の特徴を何か教えていただけないでしょうか」  昔、照江の家に行ったとき見かけているかもしれないが、だとしても二十五年以上も前のことだ。清二は当時、中学生くらいだろう。いま会ったって判るわけがない。  しかし清二の妻は、 「店で呼び出しのアナウンスしてもらえばあ」  と、そっけない。 「ええ、じゃあそうします」  言って切ろうとしたとき、ふと気が変わったのか、 「あのね——」  と、こんどは向こうから呼びかけてきた。 「はい、何ですか」 「あのね、亭主の顔はね、ハハハ、あれだよ、痩《や》せたカバって感じ。パチンコしながら、汚い歯を爪楊枝《つまようじ》でシーシーやるのが癖だからすぐに判るよ。服は、ええと、白のジャージだったかな。サンダルつっかけてダッサイ格好でやってるよ」  妻の説明はなかなか的確で、おかげで京子は簡単に清二を見つけ出すことができた。荒川を越えた場所まで中野新橋から地下鉄を乗り継いできたので、時刻はすでに五時半を回っていた。  店はこみあい、煙草のけむりが、多少の空調では間に合わないくらいに立ちこめていたが、清二の左隣の台がたまたま空いていたので、京子はそこに坐《すわ》って話をした。  清二の顔立ちは、なるほど照江に多少似たところを持っている。しかし性格はまったく違うようだ。照江は何事もきっちりしないと気が済まない神経質なところがあったが、清二にはそんな雰囲気はみじんも感じられない。 「ああ、あの絵かよ」  と爪楊枝をくわえたまま言う。目は銀色の玉の走りを追いつづける。「初めは家へ持って帰るつもりでいたんだけどよ、途中でダチに会ってさ、そのダチに売っちまったよ」 「売った?」  京子は目をとがらせたが、清二は玉の動きを見守るのに夢中で、彼女の目など見てはいない。 「いくらで売ったんですか」 「五千円」 「五千円?」 「それしか持ち合わせがねえって言うからよ。ほんとは、いくらぐらいするもんなんだ?」  京子はそれには答えずに、きびしい声で要求した。 「とにかく、あれは、わたしのなんですよ。五千円をその人に返して、わたしの絵を取り戻してください」 「いったん売っちまったものを、そういう訳にはいかねえよ。それにあの五千円はもうスッちまったしさ」 「じゃ、代わりにわたしが支払いますから」  言うと、ヘッと横顔で薄笑いした。 「ま、お好きに」 「そのお友達のところへ案内してください」  ここで初めて清二がちらりと京子を見返った。正確にいうと、最初に声をかけたときを含めて、二回目だ。 「そんなに取り返したきゃ、自分で行って取り返してこいよ」 「名前は?」 「ん?」 「その人の名前」 「浅葉」 「え」 「浅葉竜也。カッコつけた名前だろ。本名じゃねえと思うんだけどな」 「住所は?」 「住所より、店の名前と場所教えてやるからさ、そっち行ったほうがいいぜ」 「店? 何のお店?」 「行きゃあ判るよ」  場所は池袋。  ……行ってみたら、ホスト・クラブだった。     4 「浅葉ですか? 浅葉はただいまちょっと外しておりますが、とりあえずどうぞ中へお入りになってください」 「浅葉さん、いまは、お店の中にはいらっしゃらないんですか?」 「ええ、でも浅葉以上にお気に召すホストを、きっと見つけていただけると思いますよ」 「わたし、浅葉さんに用があって来たんです」 「ええ、ですからどうぞ中でお待ちください」 「わたし、お客じゃないのよ。お金持ってないし」 「ちぇっ、そうかよ」  応対の態度が一変した。「浅葉を指名してくる客がいるなんて珍しいと思ったよ。あいつはもう、客が付くようなタマじゃねえもの」 「いつも何時頃に来るの?」 「誰、浅葉? あいつはもう来ないよ。二日前——いや三日前だっけかな、店長と喧嘩《けんか》して辞めちまったから」 「え、辞めたの?」 「齢《とし》から言ったって引退どきだもんな」 「いくつなの?」 「ちょうど、おばさんぐらいだよ。おばさん、四十三、四?」  ……さすがに女を見る目は正確だ。 「ねえ、浅葉さんの家、教えてくれないかしら」 「金貸してるんなら、たぶん無理だと思うよ、返してもらうのは」 「お金じゃないの。べつのことなの」 「ふうん」 「家、教えて」 「あいつ、日が沈んだあとは、家になんか居ねえと思うよ」 「どうしても見つけたいのよ。しかも急いでるの」 「それならさあ——」  と、その若い男は、ふたつの店の名前と場所を教えてくれた。両方とも雀《ジヤン》荘だった。  ここでまた直美に電話をした。  その後の事情を話し、まだ行けないことをつたえた。直美は了解し、いちおう自分の今の居場所を京子に教えた。  ……そうだ、家へも連絡を入れておかなければ。  京子は気づいて、いったん出かかった電話ボックスに、もういちど入り直した。  中三の次女が出た。 「何だよ。どこに居るんだよ。おなか減ったよ」  この言い方。  どうにかならないものだろうか。思いながら、京子はつたえた。 「お母さんね、いまちょっと大事な用件で走り回っているところなの。しかもまだ時間がかかりそうなの。だから申し訳ないけれど、お夕飯はお姉ちゃんと相談して、何か好きなものの出前を取ってちょうだい。ふたりで何か作ってくれたら一番いいけれど、あなたたち、そんなことする気はないんでしょう?」 「ったりまえだよ」 「じゃあ、悪いけど、よろしく頼むわね」  言って受話器を耳から離そうとしたとき、 「おい。ちょっと、おい」  夫の声が響いてきて、京子はびっくりした。 「あら、あなた、帰ってらしたの? 早かったのね」 「仕事が早く終わったんだ」 「そう」 「そうっておまえ、いまどこに居るんだ」 「ちょっとね、あちこち動き回ってるのよ」 「なぜ」 「いまはそれ説明してる暇ないの。直美も一緒だから心配しないで」 「ナオミって誰だ」 「毎年わたしに年賀状くれる人よ。ほら、あなた、書いてある文句がいつもしゃれてるって感心してたでしょう」 「その年賀状の人と何してるんだ」 「だから、いまはゆっくり説明している暇がないのよ。——あ、それからあなた、大変申し訳ないんだけれど、お夕飯、きょうだけ出前で済ませてくださいね。あしたからまたしっかり作りますから」 「おい」 「はい」 「おまえ、いつも娘たちには厳しいことを言ってるくせに、なんだか、こういうのって、ちょっといい加減じゃないのか?」 「ええ、確かにそうだとは思うけれど、とにかく急がなきゃならないのよ」 「だから、何をだ」 「じゃあ、急ぐから切るわね。出前、栄養のあるものを取ってね。ごめんなさいね」 「おい……」     5  教えられた雀荘のうち、ふたつめに行ったほうの店で、京子は浅葉をつかまえることができた。 「失礼します。浅葉竜也さんとおっしゃる方、こちらにおいでじゃありませんか?」  店に首を突っ込んでそう声をかけると、茶色い革ジャンパーの男がふりむいたのだった。かれはゲーム中ではなく、店の男と雑談をしているところだった。  背が高そうだが、すこし太りぎみで、とくに胴回りから腰にかけて肉が張っている。だが顔は凹凸がはっきりしており、若い頃はさぞいい男だったろうと思わせる名残《なご》りがあった。  そのときの浅葉のふりむきかたは、何かギクッとした感じで、きっと誰か、見つけられたくない中年女が他にいるのではないかと京子は想像した。 「ええ、あの絵、買いましたよ」  と浅葉はうなずいた。雀荘の外の、煙草の自動販売機の横での立ち話だった。 「あの絵は、ほんとはわたしのものなんです。それが間違って売られてしまったんです。お金、お戻ししますので、絵は返していただけないでしょうか」 「なるほど。そういうことだったの。それでわざわざぼくを捜してこんなとこまで?」 「ええ」 「大変だね、あなたも」 「汗かいちゃいました」  笑ってみせた。 「ま、こんなところで立ち話も何だから、お茶でも飲みながら……」  手慣れた態度で京子の背にかるく手を回す。 「いえ、わたし、とても急いでますので」 「……あ、そう」 「ええ、一刻も早く絵を取り戻したいんです」 「でもね、ぼくの手元にはないんだよね」 「え?」 「知り合いの女性にプレゼントしちゃったから」  京子は吐息をついた。どこまで行けばいいのだ。 「絵が戻らないと困るんです」 「うん、判るけどさ」 「その女性に頼んで、取り戻していただけないかしら」 「……ぼくの場合、売ったんじゃなくてプレゼントだからね。返してくれ、なんて言うのはみっともないんだよなあ」 「なんとかお願いします」  京子は深ぶかと頭をさげた。 「でもね……そうなると、何か代わりのプレゼントを贈らないと格好つかないしね。しかし、ぼく今、ちょっと物|要《い》りがあったばっかりで、そういう余裕ないしなあ」 「失礼とは思いますけど、そのプレゼントのお金、代わりにわたしが出させていただきます」 「え、そう?」 「おいくらぐらいならいいでしょうか」 「なんだか悪いね」 「ご無理をお願いするんですから」 「じゃあ遠慮なく」 「はい」 「そうだなあ、代わりの絵を捜すとすれば、最低で四、五十万の予算は欲しいところだけど……」 「え?」 「いやいや、しかし、それじゃあなたもたまらないだろうから、何か彼女の気に入るものを見つくろうとして、ま、予算十万てところかな」 「十万?」 「うん」 「だって、あなたは五千円で買い取ったんでしょう?」 「それは関係ないでしょう。これは五千円の絵だよって言って彼女に贈ったわけじゃないもの。ぼくが見て、なかなかの価値がある絵だと思ったから贈ったんだし。——返してもらう代わりに、五千円ぽっちの品物を渡すなんてことをしたら、もう彼女との仲おしまいだよ。二度と顔を見せるなって言われちゃうよ」  ……しまった。  と京子は思った。足元を見られた。  京子の様子があまりにも熱心だったので、これは安くない値段がつく絵なのだと相手は踏んだのだ。どうしても取り戻したければ、それなりの金を出せ、ということだろう。 「いいわ」  腕時計を見ながら京子は答えた。ぐずぐずしているわけにはいかないのだ。 「そう。なんだか申し訳ないね。でも、ほかに方法がないしね」 「その女性、どこに住んでらっしゃるの? わたし、時間がないので、できればこれから一緒にその方のところへ伺いたいんですけれど……」 「いまから一緒に?」 「ええ」 「それはちょっとなあ」 「代わりのプレゼントのことだったら、とりあえず今日お金だけお渡ししておきますから、あとであらためて何か選んであげていただけないかしら」 「オーケー、じゃ、そうしましょう」  浅葉はうなずいて手を出した。 「お金は絵をいただいた帰りにお渡しします」  京子がきっぱり言うと、浅葉は苦笑して手を引っ込めた。 「その女性のおうち、どちら?」 「わりと近くです。歩いて行ける」  浅葉はサービスのつもりか肩に手を回してきたが、京子は嬉《うれ》しくもなんともなかった。     6  アパートと呼ぶほうがふさわしい小さなマンション。  浅葉は二階の窓を見あげて、 「あ、やっぱり留守だ」  と言った。明かりが点《とも》っていない。 「留守?」 「スナックに勤めてるんです。合鍵《あいかぎ》持ってるから、帰ってくるまで中で待ってましょうか」  背を押して玄関の階段へ向かおうとする浅葉に、京子は足を突っ張って抵抗した。 「ちょっと……ちょっと浅葉さん」 「何です」 「そのスナックはどこにあるんですか? ここがお留守なら、そのお店のほうへ連れて行ってください」 「それほど遠くじゃない場所だけど、彼女、店へぼくが顔出しするのを厭《いや》がるんです。それに——」  と浅葉はもういちど二階の窓を見あげてみせた。「絵はここにあるんだから、店なんか行ったって、どうせまたここへ戻ってこなきゃならない。二度手間ですよ」  京子はそれでも抵抗した。 「スナックっていうのは、夜中おそくまで開いているんでしょう? その女性が帰ってくるまでには、まだ何時間も待たなきゃならないじゃありませんか」 「ビールでも飲みながら待ってればいいですよ」  浅葉は京子の肩を引き寄せて、あからさまな誘惑のしぐさをした。見かけはともかく、小金を溜《た》めこんでいそうな女だと思ったのかもしれない。お得意の武器でたらしこんで、金蔓《かねづる》にしてやろうという魂胆が見え見えだった。 「ちょっと——」  京子は長身の浅葉の厚い胸を押しかえした。「わたし、急いでいるから長くは待っていられないんです」 「しかし、どっちみち彼女が帰らないことには絵は戻らないんだから」 「ねえ、浅葉さん」 「何」 「合鍵を持ってらっしゃるのなら……その、つまり……あとで浅葉さんからその方に説明していただくことにして、絵だけ、先に……」  言いかける京子に、浅葉は心外そうな顔をしてみせた。 「それじゃ泥棒ですよ。泥棒をしろって言うわけ?」 「いえ、でも……」 「あなたはいいが、あとでひどいこと言われるのは、このぼくだ」 「だったら電話してください」 「電話?」 「その女の方に電話して、事情を話して、許可をもらってください」 「……そうね。そうするか」  浅葉がしぶしぶうなずいた。そして再び京子の背を押した。 「何するんです」 「携帯が故障中だから、部屋へ上がって電話するんですよ」 「おひとりで上がってください。わたしはここで待ってます」  浅葉は、ちぇっ、と声までは出さなかったが、面白くなさそうな顔で、ひとりマンションの玄関へ消えた。  まもなく、二階の一室で明かりが点った。赤っぽい光に見えるのはカーテンの色のせいだろう。その明かりを見あげてじっと待ちつづけていたとき、いきなり浅葉の声がすぐ脇から聞こえたので、京子は跳び上がった。電話を終えて、部屋からおりてきたのだ。部屋の明かりが点《つ》いたままだから、まだ上に居るものと京子は思いこんでいた。 「彼女、帰ってくるってさ」 「え」 「店、抜け出して一旦《いつたん》こっちへ帰ってくるそうだ。なんだか機嫌が悪くてさ、話がすんなり伝わらなかったみたいだ。ぼくが女性と一緒にいるって口すべらしたのが気に食わなかったのかもしれない」 「お店からここまで、どれくらいかかるんですか?」 「なあに、近くなんだ。すぐ現われるさ。……短気な女でね。困っちゃうよ」  浅葉は横を向いてぼやいた。 「ところで、こうやって並んで立ってる景色はよくねえな。おれ、上にあがってるわ。あんた、ここに居て待っててくれる? 彼女、帰ってきたら窓から呼ぶよ」  言葉がどんどんぞんざいになってくる。態度もさっきと大違いだ。  五分もしないうちに、ひとりの女が京子の横を通って、苛立《いらだ》った足取りでマンションへ入って行った。  街灯が近いので周囲は明るい。京子よりはむろん若いが、しかしそれでも四十に近いのではないかと思われる。赤茶色に染めた髪や、豹柄のワンピースがいかにも場末のホステスという雰囲気だ。  いまの女がそうだろうか。思いながら二階の窓の赤っぽい明かりを見あげていると、不意にカーテンと窓とが開き、浅葉が顔をのぞかせて京子を手招きした。     7 「この絵、あんたの絵だって言うの?」  女が煙草をくわえた。浅葉がすかさずライターで火をつける。  物が乱雑に散らかった狭い部屋だった。京子の絵は、女が腰をおろしたベッド脇の壁に、信用金庫のカレンダーと並べて掛けてあった。 「ええ、手違いがありまして、わたしの知らない間に、人の手を転々としてしまったんです。浅葉さんも、そのことをご存じなかったんです。ですから、よく事情をお話ししたら判ってくださって、ここへ連れてきてくださったんです。勝手を言って申し訳ないんですけれど、どうか、あの絵を返していただけないでしょうか」  京子はやたらに毛脚の長いカーペットに手をついて、ていねいに頭をさげた。 「高いの?」  と女が訊《き》いた。 「は?」 「いくらすんの?」 「いえ、そんなに高いものじゃないんですけれど、大好きな絵なので手放したくないんです」  女はベッドの縁に坐ったまま黙って煙草を吹かしながら、首をめぐらせて壁の絵をじっと眺めた。 「いい絵よね」 「ええ、価値はよく判らないんですけど、好きなんです」 「わたしも気に入っちゃったわ」 「……」 「だって、ほら、あの青の色づかい、すごくいいじゃない。隅っこの赤だって利《き》いてるわよ。——いい絵よ、この絵。わたしも手放したくない」  浅葉の情婦だけあって、この女も相当なしたたか者のようだ。  京子は浅葉の顔を見た。何とか言いなさい、という催促だ。 「まあ、そう言わずにサトミ」  と、小指で鼻を掻《か》きながら、浅葉はへらへらした口調で説得を始めた。「返してやれよ。絵なんか、おまえ、判らねえじゃねえか。あんまりゴネて困らしてやるなよ」 「何言ってんだよ」  サトミがムッとして睨《にら》みつける。「判る判らないは関係ないだろ。気に入ったから、気に入ったって言ってるんじゃないか」 「代わりに、おまえ、しゃれたスカーフか何か買ってやるよ。それぐらいの詫《わ》び金はくれるそうだから」  スカーフはいくら上等でも十万円はしない。浅葉は〈代わりのプレゼント〉とやらをおそらく一万円以内で済ませて、残りは自分のものにするつもりなのだろう。 「スカーフなんか要らないよ」 「それは、たとえばの話だ。ほかの物だっていいさ」 「とにかくあたし、もっとゆっくり考えてから返事するよ」 「わたし、急いでるんです」  京子は懇願の声を出したが、サトミには通じなかった。 「あたしは別に急いでないもん。ちょっとこの絵を見せたい人もいるし」 「誰に」  と浅葉が訊いた。 「誰ってことはないけど、その方面の専門家にさ」  金額的な価値を確認したうえで、あらためて交渉に応じようという腹のようだ。 「お願いだから、いま返してください」 「厭《いや》だって言ってるだろ。見せる人に見せてからだよ。だいいち、ほんとにあんたの物だっていう証拠、あるの?」  と取り合わない。  京子は、もうだめだ、と思った。このまま粘ってもラチがあかないに違いない。  毛脚の馬鹿長い不快なカーペットから立ちあがって、サトミに近寄り、持っていたハンドバッグをしっかり掴《つか》みなおして、その横腹で相手の顔を手加減なく張り飛ばした。  サトミはガクンとベッドに横倒れになった。くわえていた煙草が浅葉のそばのカーペットに吹っ飛び、それを浅葉があわてて拾いあげた。 「くぅ、痛《いて》え。何しやがるんだ」  サトミが体を起こしながら喚《わめ》いた。  京子は片脚を大きく上げて、その肩を蹴《け》り倒した。サトミは再びベッドに転がったが、さすがに怒りが全身にまわって真っ赤な顔になり、起き上がって京子に立ち向かってきた。  つかみかかろうと伸ばしてきた両手をハンドバッグで払いよけ、京子は片腕の肘《ひじ》でサトミの顎《あご》を突き上げた。サトミはのけぞり倒れ、両手で顎をおさえながら怯《おび》えの目で京子を見あげたが、そのまま身を丸めて悔やし泣きを始めた。  横柄な口をきく割にはからきし意気地がない。  浅葉のほうは中腰に腰を浮かしたまま、度肝《どぎも》を抜かれた様子で呆然《ぼうぜん》としている。  京子は壁へ歩み寄り、例の絵を外して小脇に抱えた。泣いているサトミと、狼狽《ろうばい》している浅葉をもういちど見やったのち、雑然と乱れた玄関で自分の靴をはいた。  浅葉が後ろからやってきて、へらへらとした薄笑いを浮かべながら、 「あんた、けっこう無茶するなあ。まあ、あいつにはいい薬になったと思うけどね」  などと話しかけた。  返事をせずに出て行こうとする京子の肩を、浅葉がつかんだ。 「あ、例の金、忘れてるぜ」  京子は黙ってふりむき、絵を下におろして壁に立てかけてからハンドバッグを開いた。 「しかし、そういえば、この額縁、やけに分厚いんだよな。しかもちょっと重い感じもしたしな。特注の額縁か?——ははあ、これ、ひょっとして絵の裏に何か隠してあるんじゃねえのか?」  触ろうとする手を、京子はハンドバッグで叩《たた》いた。思わず引っ込めた浅葉の手に、五千円札を一枚押しつけた。 「何だよこれ。十万の約束だろ」  浅葉が歪《ゆが》んだ苦笑いを見せた。  京子の財布には、最初から四万円少々しか入っていない。 「わたしが直接に話つけたから、プレゼント代は無しにしといてよ」  絵を持ちあげながら京子が言うと、浅葉が怒鳴った。 「てめえ、ふざけるなよ!」  さっきの京子を見ているので、負けてはならじと威丈高《いたけだか》になっている。  京子は狭い玄関の左右の壁の間隔をちらりと見てから、持っていた額の縁《へり》で、浅葉の頭を不意に横殴りした。こめかみを避けて、耳の上を狙った。  よろめく浅葉をじっと見ていた。 「てめえ……」  呻《うめ》き声で言いかける相手に、 「一発じゃ足りねえか。え? もう一発かましてやろうか?」  怒鳴って睨むと、浅葉はしゃがみこんで大人しくなった。そうなる相手であることは、初めから見えていた。  京子は額を抱えて外へ出た。  ……ようやく取り戻せた。     8  直美に電話すると、西新宿七丁目の居酒屋にいるという。青梅街道《おうめかいどう》の北側、つまり高層ビル群が林立する地帯の外側である。  京子がその店の前に着いたのは、十時過ぎだった。店の外の公衆電話からもういちど直美に電話した。携帯電話を耳にあてて、直美が店から出てきた。顔を見るのは十年ぶりだが、直美も京子同様、顔も体型も服装もすっかりおばさんだ。  公衆電話の受話器を戻して、京子は目の前の直美に詫びた。 「悪い。すっかり手間取っちまって」 「それ取り戻せてよかったですね」  京子が抱える例の絵を見て、直美が安堵《あんど》の顔をした。 「ああ、一時はどうなることかと思ったよ。ところで——」  と京子は、いま直美が出てきたばかりの居酒屋を目でしめした。「中に居るのかい?」 「ええ、酒を飲んでます」 「くどいようだけど、その男、横森に間違いないんだな?」  直美と向かい合うと、ついつい昔の言葉づかいに戻ってしまう。当時の隠語や符丁まではさすがに使わないが、乱暴な男口調は改められない。十年前に会ったとき、いまの日常の言葉で話そうと努めてみたが、どうにも照れくさくてだめだった。直美や照江が相手のときだけは、女番長時代の言葉でないと自然にしゃべれないのだ。 「間違いないです。ぜったい横森です。だって、右の顎にあんな傷痕《きずあと》のある男、見間違えるわけありませんよ」 「最初、駅で見かけたのか?」 「ええ、JRのホームで擦《す》れ違ったんです。あたし、びっくりして、すぐにそのまま後を尾《つ》けたんです」 「で、病院へ入って行ったって?」 「はい、東京医大病院。ただし診察じゃなくて、誰かを見舞いに来たみたいです。外科の病室に入って行きました。そのあと、都庁に昇って、それからぶらぶらとビルの下を歩いて、二時間ほど前に、この店に入ったんです。独りで飲んでます」 「しかし、見失わずによく張りついてたな」 「必死でしたから」 「よくやったよ」 「お京|姐《ねえ》が来てくれるまでつかまえていられるかどうか、すごく不安でした」 「なんとか間に合った」 「でも、照公が死んじゃったって聞いたときは、ショックでした」 「クモ膜下出血だもんな」 「ええ、まだ信じられないです」  しかし照江をしのんで悲しむのは、何もかも済んでからにしなければならない。 「あの男、この店へ入って二時間になるって言ったよな?」 「はい、そろそろ二時間です」 「じゃあ、もう少し待ってりゃあ、きっと出てくるよな」 「出てきます」 「見張り、続けててくれ。その辺の暗がりで、これ[#「これ」に傍点]、出しちまうから」 「わかりました」  京子は人影のない場所を探して、絵の額を電柱に叩きつけた。  裏板を釘《くぎ》で打ち付けてあるので、壊さなければ中の物が出せない。浅葉の頭を殴ったくらいではビクともしなかったが、力まかせに電柱に叩きつけると、枠が菱形《ひしがた》にゆがんで、あとは簡単に壊せた。  こんな絵に京子は何の魅力も価値も感じない。絵なんかに用はなかった。  用があるのは、裏板とのあいだに隠してあった物のほうだ。油紙を解くと、オートマチック拳銃《けんじゆう》があらわれた。二十五年ぶりの対面である。  基地の米兵をみんなでたらしこんで手に入れたコルト・ガバメント。  京子が結婚するとき、これを妹分の直美に預けた。やがて直美も結婚したので、独身の照江に預けて今に至った。  コルトはずっしりと重く、女の手にはやや大きい。  それをハンドバッグにおさめて、京子は直美のもとへ戻った。 「やっと、誓いが果たせますね」  直美がつぶやく。京子の中にも緊張感がせりあがってきた。 「正直いって、こんな日がくるなんて思ってなかった。一生無理だと思ってたよ」 「あたしもです。千秋が喜んでくれるでしょうね」  千秋は横森に強姦《ごうかん》され、顔にも大きな怪我を負った。そのショックで神経を病み、病院の裏庭で首を吊った。京子らは復讐《ふくしゆう》を誓い合った。  横森は地元の暴力団員だった。京子らが復讐の方法を模索しているあいだに、横森は別の傷害致死事件を起こして、行方をくらましてしまった。  ズベ公としてのグループを解散するときにも、京子らは、横森への復讐だけは一生の懸案として持ちつづけることを決めた。グループの誰かがどこかで横森を見つけるようなことがあれば、かならず京子に連絡することを全員が約束した。  そして、きょう、直美がその約束を守って電話をよこしたのだ。  照江に預けてあったこのコルトを取り戻すのに思わぬ手間がかかってしまったが、これで準備は万端だ。  巨漢の横森を自分たちの手で確実に殺すには、どうしても拳銃がいる。そう思って、苦心のあげくに手に入れたコルト。しかし、これを手に入れたときには横森は姿をくらまし、以来二十五年間の空白だった。 「あわてて遠くから撃っちゃだめですよ」  直美の声は心配げだ。 「わかってる」 「ほんとに、だいじょうぶですか?」  二十五年前に山の中で一度試射をしただけだ。反動の感覚ももう忘れているが、 「ああ、だいじょうぶ」  京子は昂《たか》まる緊張をおさえながら答えた。 「安全装置のこと、忘れないでくださいね」 「ああ、グリップを握りこめばよかったんだよな?」 「さっき、お京姐を待ちながら、最悪の場合、あれ無しでやる方法をいろいろ考えてたんです」 「いくら二人でも、それはやっぱり無理だろう」 「ええ、きついと思います。取り戻せてよかったですね」 「あいつが出てきたら、声をかけて暗いところへ誘いこもう。直美は人が来ないように見張りだ。撃ったあとで誰か人が駆けつけてきたら、おばさんらしく悲鳴をあげて逃げるふりをしような」 「あ、出てきましたよ、横森が」 「……で、とうとう、その絵は取り戻せなかったのか」  と夫が訊《き》いた。 「だって、いろんな人の手を転々としちゃってたんだもの」 「おれに内緒事をつくるから、こんなことになるんだ」 「ごめんなさい。反省してます」 「けっ、ドジ」  横目で吐き捨てるように言ったのは高二の長女だ。 「やってらんねえよ」  中三の次女も舌打ちした。  ……まったく、あの言葉づかい、なんとかならないものかしら。  洗面所で硝煙のにおいを手から洗い落としながら、京子は吐息をつく。  娘たちの乱暴な言葉を聞くたびに、昔の自分を見るようで厭《いや》になるのだ。 [#改ページ]   追憶列車 『離愁』というフランス映画をテレビで観たとき、淳一郎は、あ、これは、と身をのりだした。  ……これは、あのときの、あの列車の旅にそっくりだ。  映画の原題は〈列車〉だった。第二次大戦の初頭、ドイツ軍の電撃的侵攻に追われて、避難列車で西へ西へと逃げるフランス人たちの様子が淡々と描かれていた。そしてその不安な旅のなか、妊娠中の妻と幼い娘を持つ田舎町のラジオ職人が、貨物車で乗り合わせたユダヤ人の女と短い恋をする。そういう物語だった。  映画での列車はドイツ軍からのがれるために西へ走っていたが、五十年前に淳一郎の乗った列車は、まったく逆に、パリを脱出して東へ逃げていた。  一九四四年のことだ。  八月半ばの暑いさかりだった。  これも映画とは反対に、第二次大戦はすでに終盤へとさしかかっていた。二カ月前には、連合軍がフランス・ノルマンディー海岸への上陸に成功していた。以来ドイツ軍は敗北の坂をひたすら転がり落ちていた。やがてパリの陥落もまぢかと思われたため、フランス各地に滞在していた百名あまりの日本人たちは、大使館からの指示で全員ベルリンへと逃げることになった。  その第一陣として、まず婦女子が出発した。撤退するドイツ軍の軍用列車に便乗をゆるされてパリを脱出した。その列車のなかで、淳一郎はひとりの娘と知り合った。  ふたりが最初に口をきいたのは小麦畑のなかでだった。 「いくつ?」  と訊《き》かれたので、淳一郎は平べったく伏せた姿勢のまま、十五歳だと答えた。 「きみは?」  たずね返したとき、ガガガッとすさまじい銃撃音がとどろき、ふたりは両耳をおさえて、小麦の穂のあいだから、斜面の上の列車を見つめたのだった。  低く降下してきた敵機が、停まっている列車に機銃弾をあびせていた。三|輛《りよう》の貨車、十二輛の客車、そして先頭の機関車へと、後ろから前へ、長い車輛の列を縦になぞっていった。機銃弾の掃射をあびて屋根の破片が火花のようにはじけ飛ぶのが見えた。線路わきの地面にも弾が突き刺さり、乾いた土煙が濛々《もうもう》とたちこめた。  もしも避難がおくれて列車の中に残っていたなら、屋根を貫通した弾に頭蓋骨《ずがいこつ》を粉砕されていたことだろう。淳一郎はその状態を想像して唾《つば》をのんだ。  銃撃しながら飛び去った敵機は、そのあと遠方で宙返りをしている。凧《たこ》が舞うように、のんびりとした緩慢なうごきに見えた。幅広の翼に、赤と白と青の三重丸のしるし。英国空軍のスピットファイア戦闘機だ。 「わたし十六」  さっきの問いへの答えが返ってきた。淳一郎は彼女を見返った。もう少し上かと思っていたのだ。  明実《あけみ》という名であることは知っていた。父親がパリで個人商店をいとなんでいたことも知っていた。 「あなた、ベルリンから来てた子でしょ?」  と汗で顔をてからせながら明実が言った。 「ああ」  と淳一郎はうなずいた。パリは空襲がなかったので、両親がかれを、連日の爆撃下にあるベルリンから疎開させ、知人の家に預けていたのだ。 「うちのお店の前を通るのを、何度か見かけたことがあるわ」 「あの店はどうしたの? 売り払ってきたの?」 「いいえ、父が後妻に譲っちゃったわ」 「後妻に?」 「フランス人の後妻。パリに残りたいって言って、けっきょく父とは別れてしまったの」 「……ふうん」  スピットファイアが宙返りを終えて戻ってきた。爆音のうなりが大きくふくらんで、ふたたび銃撃がはじまった。  こんどは列車ではなく、小麦畑を掃射してくる。身を固くして縮こまるふたりの背後で、穂や土片が跳ねあがった。畑に退避して散開したドイツ軍の兵士たちを狙っているのだ。  ドイツ兵たちの側からも銃声が湧き、空へむけて応射した。けれども、それらはほんの数秒のことで、スピットファイアはまた反りかえるように上昇しながら遠ざかってゆく。そのまま高度を上げてどこまでも遠ざかる。宙返りはいつするのだろうかと見守っていたが、その気配はなく、それきり戻ってくる気はなさそうだった。 「どうして撃ち落とせなかったのかしら、あんなに低く飛んでいたのに」  小さくかすんでゆく機影を見送りながら、明実がつぶやいた。  離れた場所から、ドイツ兵たちのわめき声が聞こえた。 「何て言ってるの?」 「衛生兵を呼んでるんだ」 「誰かやられたのね?」 「やられたみたいだ」  けれども全体としてのドイツ兵たちには、ホッと緊張のゆるんだ空気がながれていて、かるい笑い声さえどこからか聞こえた。緑色の軍服を着たかれらは、麦畑の中にいると巨大なバッタの群れのようだ。  ふたりは立ちあがって畑の外の草地に出た。 「汽車、だいじょうぶかな。動くのかな」  淳一郎は心配だったが、明実は無関心な顔つきで草のうえにべったりと腰をおろし、スカートの裾《すそ》をととのえてから、そのままあおむけに寝ころんでしまった。  淳一郎がまわりを見ると、草地に横坐《よこずわ》りしたまま動こうとしない日本人の女たちが、ほかにもいた。空襲のおかげで窮屈な車内からいっとき出ることができた、その解放感をゆっくり味わっているのだろう。 「女は呑気《のんき》だなあ」  つぶやく淳一郎に、 「じたばたしても仕方がないわよ」  明実は大の字に手足を伸ばして、投げやりとも見えるような態度だった。 「やっぱり自動車で行けばよかったんだ」  言いながら淳一郎もそばに腰をおろした。 「台数がそろわないわよ」 「だったら、せめて籤引《くじび》きにするべきだ」  婦女子を列車で送りだしたあと、後続の男たちは自動車に分乗してベルリンをめざすことになっていた。 「自動車の旅って大変よ。|抗独ゲリラ《レジスタンス》にも狙われやすいし」 「それでもぼくは自動車で行きたかった」  十五歳にもなっていながら〈婦女子〉のグループに入れられたことが不服だった。世話役として付き添ってきた浜本さんをのぞけば、一行のなかで淳一郎が最年長の男だった。 「それにしても、のろいなあこの汽車は。歩いたほうが速いくらいだぜきっと。ぼくはもう、うんざりだ」  草をちぎって投げた。  ベルリンまでは、以前なら一昼夜で着くはずの旅程であるのに、この列車はパリを出て三日を経た今も、まだ仏独国境のずっと手前でぐずぐずしているのだ。  理由は寸断された線路にある。あちこちで途切れていた。連合軍機の爆撃、それにレジスタンスの破壊活動のせいだ。そのつど停車して応急の復旧工事を待つ。あるいは、いったん別方向の路線に入りこんで遠く回り道をする。  そんなふうだから、実際のところベルリンへ近づいているのか遠ざかっているのか、それさえもよくは判らないような状況なのだった。  粗末な三等車の車輛《しやりよう》。座席は固い木製だ。そこに隙間なくすわらされ、夜もそのままの姿勢で眠らねばならない。  のろのろ運転や一時停止がくりかえされると窓からの風が入らず、暑さの中でむずかる幼児とそれをあやす母親の声が、気の毒でもあり鬱陶《うつとう》しくもあった。 「ハンカチ持っている?」  寝ころんだままで明実が訊いた。 「持ってるけれど、汚いんだ」  汗と煤《すす》とで灰色に染まってしわくちゃだ。 「わたしのもよ」 「汗をふくの?」 「顔にかけようと思ったの。太陽が照りつけるから」  明実はスカートのポケットから自分の薄汚れたハンカチを出して顔にのせた。 「ああ、生命《いのち》のにおいがするわ」  淳一郎は苦笑してその姿を見つめた。  かれには、この旅に同行する肉親はいない。明実もどうやらそのようだ。  もっと早くから口をききあっていれば、これまでの三日間も、もうすこし愉しい気分でいられたかもしれない。思いながら、彼女の野放図《のほうず》な姿態をながめた。  そのとき、不意に人の気配がして、淳一郎はふり返った。  男がひとり、明実を見おろして立っていた。 「ドイツ兵が五人やられた。二人死んだ」  と男はフランス語でいった。暗褐色の髪と目。ワイシャツを袖《そで》まくりし、よれよれになったネクタイを思いっきりゆるめて垂らしている。  顔のハンカチをとって男を見あげた明実は、おなじくフランス語で、しかし無愛想に言った。 「あっちへ行ってちょうだい」  男はその言葉を無視して、淳一郎に挨拶《あいさつ》の笑みを送った。三十歳前後にみえる。長いまつげが密生して、ナイフで削《そ》いだように頬が細い。シャツの胸ポケットから煙草をとりだし、両手でかこいながらマッチを擦《す》った。 「行ってちょうだい」  明実がくりかえす。  男は淳一郎にむかって肩をすくめ、けむりを大量に吐き出したあと、付近をぶらつくような足取りでゆっくりと離れていった。  機関車の汽笛が鳴った。  全員車輛にもどれという合図だろう。スピットファイアによる被害は、さいわい列車の走行には影響しなかったようだ。  そこかしこで号令が飛んで、ドイツ兵たちの点呼もおこなわれている。ピクニック気分でいた日本人婦女子たちもようやく立ちあがり、それぞれの子供を抱いたり手を引いたりしながら、ぞろぞろと列車へ戻りはじめた。  明実も起きあがってスカートを払った。 「さっきの男、知り合いかい?」  淳一郎の問いに、 「ええ」  と明実はそっけなく答えた。 「フランス人?」  フランスから逃げ出すフランス人。だとしたら、何か暗い事情のある男だろう。  しかし明実は、 「いいえ」  と言った。 「ドイツ人には見えないけどな」  淳一郎はもういちど男の姿をさがそうとしたが、ドイツ兵の群れにまぎれて見当たらなかった。 「ユダヤ人よ」 「えっ」  おどろく淳一郎をのこして、明実はさっさと列車へ戻っていった。  波打ってひかる小麦畑のうえを、蒸気機関車の吐きだす黒煙が低くながれてゆく。  丘のうえの小さな教会の尖塔《せんとう》。細流にかかる橋。ひなびた集落の屋根。いつまで走っても代わり映えのしない田園風景だ。  淳一郎は窓ぎわにすわっている。向かいの座席には子連れの若い母親がいる。窓枠にひじをつき、風でみだれるほつれ毛を手でうるさそうに押さえつけて、疲労でよどんだ目を外に向けている。その腋《わき》の下《した》に頭を突っ込むような格好で、幼い男の子が居眠りしていた。  通路をはさんだ反対側の窓ぎわに、明実がいる。何か物思いにでもふけっているのか、淳一郎の視線にも気づかずに、無表情に自分の手を見ている。  不意に、淳一郎の側の窓から煙がながれこんできた。機関車の排煙が風であおられたのかと淳一郎は思った。が、ちがった。向かいの席の若い母親が顔をしかめて窓の外を指さした。 「燃えてるわ、ほら、あそこ」  淳一郎はうしろ向きの座席にすわっていたので、しめされた方向を首をよじって眺めた。  列車はスピードをゆるめて徐行した。  並行する線路のうえで貨物列車が立ち往生していた。石炭車の石炭がドス黒いけむりを巻きあげて燃えさかっている。周囲の空が見えないほどだ。無蓋《むがい》貨車に積まれたドイツ軍のパンツァー戦車までもが黒と褐色のまだらに焼け焦げて、燃料タンクのあたりからチロチロと炎を吐きつづけていた。  熱気と煙が押し寄せてくる。あわてて窓を閉めた乗客たちは、燃える列車のそばを通過しおわるまで息をのんで見つめていた。しかし、そこを通り過ぎたあとは、嘘のように、また元の平和な田園風景がつづいた。  ほかの女たちと一緒に腰をうかせて炎上列車をながめていた明実が、ふたたび無表情に沈みこんで膝《ひざ》のあたりに視線を落としてしまうのを、淳一郎は横目で見ていた。  一時間後、またもや停車だ。爆撃された線路を補修中なのだという。  そばを川が流れている。ドイツ兵たちがつぎつぎに川原へおりてゆき、軍服をぬいで水に飛び込んだ。ほうぼうで水しぶきがあがった。兵士だけでなく、水着になった女たちも川へ入ってゆく。おそらく従軍看護婦たちだろう。  列車からおりて背伸びをしていた淳一郎を明実が小声で誘った。 「ねえ、わたしたちも泳がない?」 「でも浜本さんが言ってたぜ。車輛のそばから離れないようにって」 「じゃあ、そうなさいな」  言って明実はひとりで川原へおりてゆく。淳一郎は短いためらいののち、あとを追った。 「水着、あるのかい?」  と後ろから明実に尋ねた。 「そんなものありはしないわ」  明実は平然という。 「ぼくはパンツ一枚になればいいけれど、きみ、どうするんだよ」 「むこうのほうまで行って泳げば、遠いから男だか女だか判んないわよ」 「ドイツ兵は双眼鏡持ってるぜ」 「いいわよ。見たけりゃ見せてあげるわよ。ただし背中しか見せてやらないけれど」 「ぼくがそばにいても平気なのかい?」 「あなたなんか、男のうちに入んないから、もちろん平気だわよ」  明実は列車から遠く離れた川原でブラウスとスカートを取り去り、シュミーズもぬいだ。さすがに下穿《したば》きまでは取らなかったが、ふっくりふくらんだ乳房を手でかくすこともせずに淳一郎の目にさらした。 「なによ。見たことないの、女の胸?」  あざけるような口調でいわれて、淳一郎はあわてて視線を外し、自分もシャツとズボンをぬいだ。  川原の傾斜と草とが適当に目隠しの役を果たしている。それに、明実のからだはドイツ人の看護婦たちほどにはボリュームがないので、たしかに遠目には二人の少年が泳いでいるとしか見えないに違いなかった。  川の流れはゆるやかで水はぬるい。汗まみれの全身をひたすと、笑いがこみあげてくるほど気持ちがよかった。  だが泳ぐとすぐに疲れた。空腹のせいだった。荷物を制限された日本人婦女子はそれぞれ三日分ほどの食料しか持ってきていない。パリを発つときに日本人会から支給されたおにぎりは早ばやと腐って窓から捨ててしまい、その後は固くなったパンを少しずつ齧《かじ》っているだけだ。  川原にあがって、濡《ぬ》れた体を干した。明実もそばに腰をおろし、手近な小石を拾っては水に投げこむことを繰り返した。  そのたびに胸が揺れる。さほど大きなふくらみではないが、それでも揺れる。その揺れをわざと見せつけているのではないかと淳一郎は疑った。 「さっきの男だけど……」  淳一郎は、気になっていることを質問した。「かれがユダヤ人だってことは、まわりのドイツ兵は、当然知らないわけだろう?」 「たぶんね」 「知られたら大変なことになるね」 「どうして」 「どうしてって……」 「だいじょうぶよ。あのひと、秘密国家警察《ゲシユタポ》発行の証明書持ってるから安全なの」 「何の証明書」 「ゲシュタポの保護を受けてるっていう証明書」 「保護? ゲシュタポに保護されるユダヤ人なんているのかい?」 「いるのよ」  それはどういうユダヤ人なのかと淳一郎が訊こうとすると、列車の汽笛が鳴った。  明実はすばやく立ちあがって服を着けはじめた。淳一郎も半乾きの体のうえにズボンとシャツを急いで着た。  夕方、またしても停車。  こんどは機関車の故障だという。昼間のスピットファイアの銃撃で、やはり何らかの痛手をこうむっていたのだろう。別の機関車がきて牽引《けんいん》してくれるまで、その場でじっと待たねばならなくなった。  が、近くに村があり、水道もあったので、不足した飲み水を補うことはできる。ドイツ兵たちにまじって日本人婦女子も水を汲《く》み、ついでに手や顔を洗った。  村はまるで無人のように静まりかえっているが、ところどころに翻《ひるがえ》る洗濯物だけが、住民の存在をつげている。その静けさに、淳一郎は村人のひややかな敵意を意識させられた。 「エー、みなさん、聞いてください」  世話役の浜本さんが大声を出した。  うごきを止めて注目する女たちに、かれは言った。 「出発は、明朝まで無理のようです」  みんなが溜《た》め息をつく。なかなかベルリンへ近づけない。ベルリンはおろか、仏独国境をすらまだ越えられずにいる。そのことへの苛立《いらだ》ちだ。  わたしだって同じ気持ちだと言いたげに、浜本さんは帽子をとって顔の汗をふいた。薄くなりかけた髪が一部はそそけ立ち、一部は汗で貼りついている。 「注意事項があります。このあたりは、匪賊《ひぞく》がさかんに出るそうであります」  レジスタンスの武装ゲリラのことだ。 「ですから、あまり付近をうろうろ歩き回らずに、なるべく列車のそばにいるように心がけてください」  女たちが不安げに顔を見あわせる。 「みなさん、まだパンは残っていますね。今夜はそれを齧《かじ》ってもらいますが、明朝はドイツ軍がスープをふるまってくれるそうです」  日が沈むと、まったくの闇になった。  敵の飛行機から見えるというので、兵士たちの煙草の火さえ禁じられている。闇のなかにいると、線路わきの草の匂いがつよく鼻をついた。星はあるが、月は出ていなかった。 〈匪賊〉の出現にそなえて列車の窓を閉ざして寝るように指示されていた。そのため、蒸し暑い車内を嫌って、みんないつまでも外に出ていた。  ドイツ兵たちもそれは同じだとみえ、草地のなかから二部合唱の声が低くながれてくる。ドイツ兵は合唱が好きだ。女の声もまじっているように聞こえるのは、例の看護婦たちだろうか。  歌声をききながら淳一郎も外に出て車輛の外壁にもたれていた。  すこし離れた場所にひっそりと立っているのは、たぶん明実だ。暗くて顔は見分けられないが、しかしぼんやりとした姿格好の気配からおぼろげに識別できた。  淳一郎はそばへ行った。足音に彼女がふりむき、相手を見きわめようとしているのがわかった。 「真っ暗だね」 「ああ、あなたね」 「何してるの?」 「……べつに、何も」 「考えごと?」 「まあね」 「邪魔?」 「そんなことないわ」  かれらふたり以外にも、ぼそぼそと話し合う低声がところどころで聞こえた。 「これじゃ隣にレジスタンスの連中がいても判らないな」 「ほんとうね」 「ドイツ兵も、味方の影にびっくりして同士撃ちをはじめやしないかな」 「その前に合言葉を言い合うはずだから大丈夫よ」 「ぼくらも合言葉をきめようか」  明実に失笑された。 「子供ね」  淳一郎は、見えない足もとの地面を靴先でかるく蹴《け》った。 「しかし、いつになったらベルリンに着けるんだろう。なんだか、このまま永遠にレールの上をさまよいつづけるんじゃないかって、そんな気がしてきたよ」 「永遠に?」 「そんなの、まるで刑罰だ」 「そうね」  しずんだ声だ。 「さまよえるオランダ人、というのがあったな」  淳一郎がつぶやくと、 「さまよえるユダヤ人、というのもあるわ」 「さまよえる日本人婦女子。いやだなあ、婦女子にまじってさまようなんて」 「でも、あなた、いいわね。向こうに着いたら家があって」 「家は焼けてしまったよ。先月の両親からの手紙にそう書いてあった。とにかく空襲がひどいらしいんだ。まともな建物がほとんど残ってないんだって」 「だったらベルリンに着いても、すこしも安心できないじゃないの」 「そうさ。だから本当をいうと、無事にベルリンに着くかどうかってことよりも、ベルリンに着いたあと無事でいられるかどうか、そっちのほうが問題なんだ」  パリで耳にした大人たちの言葉を、受け売りした。  明実のかすかな体臭、あるいは汗のにおい、それがほのかな甘みのある匂いとなって、淳一郎の鼻先にただよっていた。  ドイツ兵たちの静かな合唱が、まだ続いている。 「ねえ、向こうの藁束《わらたば》の上にでも坐《すわ》って話をしないこと?」  明実にいわれて、淳一郎は闇のなかで瞬《まばた》きをした。が、何も見えない。 「藁束? きみには見えるの?」 「いまは見えないけれど、あかるいうちは見えていたから、場所はわかるわ」 「ぼくはそんな場所、憶《おぼ》えてないよ」 「ほら、手を出して」 「え」 「手をよこしなさいな」  そっとさしだすと、明実のほうも手さぐりでそれを握った。  彼女に手をとられて、足もとに気をつけながら移動した。やわらかく、ひんやりとした手だった。  列車からだいぶ離れたようだ。世話役の浜本さんの注意が脳裏にうかんだ。 「レジスタンスと鉢合わせしないかな」  つぶやいて、明実にもそのことを思い出させようとした。 「怖がり」  明実が冷笑した。 「きみは危険に鈍感なんだ」  言い返すと、もっとつよい冷笑が戻ってきた。 「ほんとうの危険なんて何も知らないくせに」 「ほんとうの危険て何なんだい」 「あなたなんか知らない世界にそういうものがあるのよ」 「ちぇっ、一つしか違わないくせに、大人ぶらないでくれよ」 「一つ違ったら大違いだわよ。わたしはこの一年で齢《とし》が倍になったような気分だわ」 「それは処女をなくしたってことかい?」 「ハハハ、何言ってるのよ。馬鹿な子。そんなつまんないことじゃないわよ」 「きみ、不良娘だな」  言った瞬間、つまずいてよろめいた。 「気をつけて」  明実にささえられた。 「まだかい藁束《わらたば》は?」 「あったわ、これだわ。だいたい目測どおり」  そう言われてみれば、何かそれらしいものがかすかに見えた。手でさぐると、固く束ねられた藁が腰の高さに積まれていた。  その上に並んで坐った。 「だけど——」  と淳一郎はいった。「なぜ、わざわざこんなところへきて坐らなきゃならないの? そこらの草の上でもよかったのに」 「草の上でもいいのよ」 「だったら、なぜ……」  言いかける淳一郎の顔が明実の両手にはさまれ、唇にやわらかいものが押しつけられた。  明実は淳一郎の上下の唇を交互に含み、かるく歯を立てたり、あたたかい舌で嘗《な》めたりした。  いったん離して、彼女はいった。 「これしたかったから、みんなと遠ざかったの」 「……きみ、やっぱり不良娘だな」  当惑しながらも、淳一郎は明実のからだに腕をまわして強く引き寄せた。お互いがよく見えないので、かれ自身も大胆になれた。  両方の唾液《だえき》で唇のまわりがぬめりだしたとき、明実はブラウスのボタンを外した。 「さわっていいわ」  淳一郎がシュミーズの上から胸を撫《な》でると、明実はその裾《すそ》をスカートから引きぬいてたくしあげ、かれの手首をつかんで下からもぐらせてくれた。 「両手でさわって」  淳一郎は言われる通りにした。 「接吻《せつぷん》して」 「うん」 「胸さわりながら接吻して」 「うん」 「緊張しなくていいわ」 「してないよ」 「あなたのしたいようにしていいわ」 「うん、してるよ」 「横になる?」 「え」 「わたしは、かまわないわよ」 「うん、でも……」 「接吻して」 「うん」  淳一郎はのぼせたようになって、思考力がかすんでいた。  明実は自分が大人であることを淳一郎に見せつけようとしているのだろうか。淳一郎に大人の世界を見せてくれようとしているのだろうか。それとも、ただ気持ちのおもむくままに淳一郎にからだを与えようとしているのだろうか。  淳一郎にはよく判らなかった。  抱きあったまま藁束のうえに横たわったが、上になったのは明実のほうだった。淳一郎の視野には暗紺の空に散らばる沢山の星が見えた。明実は上から淳一郎を抱きこむように包んで、頬と頬を密着させた。  彼女のやわらかな重みが、これから知ることになる未知の世界の秘密の重みのように思えて、淳一郎をわくわくさせた。 「ね、あなた上にきて」 「うん」  入れ代わろうとして、ふたりがごろりと回転したとき、積まれた藁束の端から体がはみでてしまい、重なり合って下の土に落ちた。  思わず、ワッと声を発してしまった。お互いの体にしがみついてヒクヒク笑っていると、やや離れた場所から男の声が、 「ブリュッケ!」  と鋭く言った。  ふたりは闇のなかで息をころした。 「ブリュッケ!」  もういちど聞こえた。  橋《ブリユツケ》?……あ、合言葉か、と淳一郎は察した。ドイツ兵の歩哨《ほしよう》の合言葉かもしれない。  黙っていたら機関銃弾が飛んでくるに違いない。淳一郎はあわてて、日本人であることを叫んだ。  懐中電灯が照射され、ふたりは突然の眩《まぶ》しさに顔をそむけた。  列車にもどり、すわったままの窮屈な姿勢で眠りにつくと、やがて外で銃声がした。  銃声はしばらく続いた。  線路ぞいを走ってゆく兵士たちの切迫した靴音や、 「回りこめっ」  と叫ぶドイツ語がすぐそばで聞こえたりした。  淳一郎は、真っ暗な車内でじっと身をすくめていた。 「お母さま、匪賊《ひぞく》?」  と尋ねる女の子の声がした。 「さあ、どうかしら」 「匪賊よ、きっと」 「静かにしていましょう」  母親が小声でさとしていた。  銃声はまもなくおさまり、外のざわめきもしだいに消えた。  翌朝、ドイツ軍からスープが支給された。  ジャガイモとタマネギ、それにわずかな豚肉が入っている。淳一郎はそれを、ひとり線路わきの草地に腰をおろして胃におさめた。  明実は、離れた場所にいる。二人の姉妹を連れた中年の母親といっしょにいる。旧知の間柄のようだ。彼女らと談笑しながら、明実は淳一郎に背中をむけてスープを口に運んでいる。  淳一郎と明実はさっき、世話役の浜本さんにひそかに呼ばれ、村の民家の陰で、昨夜のことをたしなめられてしまった。 「きみたち、親しくするのはよろしいが、節度を忘れちゃいかんよ」  くどくならぬ程度に戒《いまし》めたあと、浜本さんは先に明実を行かせ、自分は淳一郎と並んで戻りながら、疲労のたまった顔で苦笑してみせた。 「目ざといご婦人方がいるんだ。そのことを忘れんようにな。あれやこれやで、わたしはすっかりくたくたなんだから」 「……すみません」  ただでさえ一人で大変な思いをしている浜本さんだ。よけいな煩《わずら》いの種をふやしてしまったことを淳一郎は申し訳なく思い、ベルリンに着くまで明実のそばには近寄らないことにしたのだった。  淳一郎とおなじく、ひとりきりで朝食をとっている男が遠くにいる。きのう麦畑で明実に追い払われた男。ゲシュタポの保護を受けているという不可解なユダヤ人。  民家の壁に背中でもたれて、悄然《しようぜん》とした姿だ。ゆるめたよれよれのネクタイがときどき微風に揺れている。  かれはスープの器《うつわ》を持たず、パンを齧《かじ》りながら水筒の水だけを飲んでいるようだ。その理由を、淳一郎はすぐに悟《さと》った。スープの中身の豚肉だ。かれらの戒律が食べることを禁じている。  飯盒《はんごう》を持たない淳一郎は、ドイツ軍の予備のメスキットを借りていた。底に残ったスープを、匙《さじ》を使わずに口飲みで飲み干した。ドイツ兵たちもみなそうしている。  周囲の草地には、早ばやと食事を終えて居眠りしている兵士もいた。そのそばを蝶《ちよう》が何匹も舞っている。新しい機関車は、まだ来ない。  淳一郎は空になったメスキットを返しにいった。例のユダヤ人のそばを通った。帰りみちに目が合い、ほほえみかけてきた。目礼だけして通りすぎた。  元の場所にすわって所在なく蝶をながめていると、浜本さんが通りかかった。いったん通りすぎたが、引き返して声をかけてきた。 「退屈そうだね」  淳一郎の横に、よっこらしょ、と自分も腰をおろした。 「まあ、そんなにしょんぼりしないでくれよ」  父親のような目をした。 「しょんぼりなんかしてませんよ」 「そうかい? それならいいが」  言って帽子を後ろにおしあげ、いっしょに蝶を目で追った。 「野暮《やぼ》な説教をしたようで、少々気がひけているんだ」 「気にしないでください。ぼくらがいけなかったんですから」 「きみ、十六だったっけ?」 「十五です」 「しっかりしてるね。大人びてる」 「そんなことありません」  明実からは逆のことを言われた。 「いや、十五ならもう一人前だ」  その一人前を、じゃあなぜ〈婦女子〉に入れたのかと胸の中では思ったが、もちろん口にまではしなかった。 「だから一人の男として女性と親しくする権利だってある。いちいち傍《はた》からとやかく口出しすることじゃない。そうだろ?」 「……ええ」 「わたしもね、そう思ってる。ただ、きみはたぶん知らんのじゃないかと……いや、知ったところでどうということはないかもしれんが……ま、いちおう教えておこうと思ったんだ」  持って回った話しぶりが、淳一郎には怪訝《けげん》だった。 「何をです?」 「彼女は——」  と明実のいる方向には目をむけずに浜本さんは言った。「あんなに若いが、亭主持ちだぞ」  淳一郎は自分の手をじっと見つめた。驚いていた。 「あれがその亭主だ」  目をあげて、浜本さんの視線をたどった。民家の壁にもたれて立っている例のユダヤ人がそこにいた。男は遠くから明実のほうを見ていた。 「きみ、蟻《あり》だ」  浜本さんが言った。 「え?」 「その蟻、咬《か》まれると腫《は》れるぞ」  足首に大型の黒蟻が這《は》っている。淳一郎はいそいで払い落とした。  列車を牽引《けんいん》するための新しい機関車が、黒煙を噴《ふ》き上げながら現われた。  その日の夜、メッツの駅に着いた。  仏独国境の町だ。ようやくここまで辿《たど》りついた。はげしい雨が降っていた。砲撃音のように聞こえるのは、しかし雷の音だった。ここで列車を乗り換えることになった。  プラットフォームには屋根がなかった。爆撃で吹き飛ばされていたのだ。雨が、あたり一面にしぶいて、その音が世界を重苦しくつつんでいた。  列車からおりたドイツ兵たちがフォームに満ちあふれた。灯火管制で、あかりは覆《おお》いをかけて薄暗くおさえられている。濡れたヘルメットの群れが、にぶく光ってうごめく。  浜本さんに先導されて降り立った日本人婦女子たちも、たちまち濡れそぼって肩をすぼめた。だれもが両手に荷物をさげ、あるいは幼児を片腕に抱えているので、傘をさしている者などいない。銃や背嚢《はいのう》をせおった大きな兵士たちの横を、日本人婦女子たちの小柄な一群が小刻みな足取りで移動してゆく。  浜本さんの指示で、淳一郎は最後尾《しんがり》を歩いた。そのすぐ前を明実がゆく。彼女は用意よく荷物からレインコートを出して羽織り、帽子もかぶっていた。  ドイツ語とフランス語の構内放送。飛び交う号令。兵士たちの靴音。私語のざわめき。引き込み線を通る機関車が排出する蒸気の音。それに激しい雨音と雷鳴までが加わって、メッツ駅は騒然としていた。  淳一郎を追いぬいて明実の横に並んだ者がいた。例の男だった。明実の夫だというユダヤ人。ドイツ兵たちにくらべると小柄だが、それでも明実よりは上背がある。  これまで車輛《しやりよう》も別々だったので、かれと明実が並んでいる姿を見るのは初めてだった。  男は簡単な荷物を片手にさげているだけだ。手をさしだして、明実の荷物のひとつを持とうとした。明実はことわるそぶりをしたが、強引に取られてそれを預けた。  先頭に立つ浜本さんがひっきりなしに後ろをふりむき、後続の婦女子が一人残らず随《つ》いてきているかを確かめた。  階段をくだる。混雑で騒音がいっそう高くなる。  線路を跨《また》ぎ越えて、別のプラットフォームへと上がってゆく。  乗り換えの列車がすでに待機していた。  浜本さんがフランス人の駅員と何か言い合っている。駅員はやたらに肩をすくめるばかりで、ラチがあかない様子だ。そこへドイツ軍の中年将校があらわれ、浜本さんに、乗るべき車輛を指し示した。  乗り換えを終えても、列車はいっこうに出発しない。  濡れた服を着替える女たちが多く、淳一郎は気をつかってしばらく窓の外へ目をやっていた。無灯火の車内とはいえ、構内の薄あかりが漏れ入るので真の闇ではなかったからだ。  そばで浜本さんがぐったりと目を閉じている。雨と暗がりと混雑のなかを一人の迷子もなく無事に乗り換えを済ませることができた、その安堵《あんど》もあって、疲れがどっと襲ってきたのだろう。  淳一郎は窓の曇りを手でぬぐった。  雷鳴は遠ざかったが、雨は降りつづいている。爆撃の破壊から残ったプラットフォームの鉄骨支柱。そこに掲げられた鉤十字《ハーケン・クロイツ》旗が、雨を吸って重く垂れ下がっている。  ガラスに顔をつけるようにして外を眺めていた淳一郎の目に、旗の下でじっと佇《たたず》んでいる男女の後ろ姿がみえた。明実とあの男だ。何か話をしているのかと思ったが、そんな様子はなく、ただじっと立っているだけのようだ。明実はレインコートのポケットに両手を入れている。男はときどき彼女の横顔に目をやっている。それだけだ。 「あの男はね、ユダヤ人なんだ」  と横から浜本さんの声がした。そのことは、すでに明実から聞いている。  濡れた帽子をハンカチでふきながら、浜本さんは小声で話しつづけた。 「あの男はここで彼女とお別れだ」 「いっしょにベルリンへは行かないんですか?」 「ユダヤ人だからね」  念をおすようにくりかえした。 「これからどこかへ連れていかれるんですか?」 「さあ、そんなふうでもないようだ。たぶん見送りにきたんだろう」  言って、窓の外のふたりに目をそそいだ。  明実を見送るために一緒の列車に乗ってわざわざここまで来たのだろうか。 「あの人は、秘密国家警察《ゲシユタポ》の保護を受けているそうですね」  明実がそう言っていた。 「うむ、だからああやって大っぴらに立っていられる」 「でも、あの人だけ、どうしてそんな特権を受けているんですか? ゲシュタポはパリでもどこでも血まなこになって片っ端からユダヤ人を捕まえていたはずなのに」 「うむ……」  浜本さんは、何かそのあたりの事情を知っているようだ。しかし言わない。 「あの人、重要な人物なんですか?」 「重要な?」 「それで特別に保護されてるんですか?」 「いや……」  皮肉な苦笑をもらした。 「じゃあ、なぜなんです」 「知らんほうがいいよ」 「え、なぜですか」 「知って気持ちのいいことじゃない」  そんな言われかたをすると、ますます気になった。 「それでもいいから教えてください」  淳一郎がねばるので、浜本さんも根負けした。 「あの男はね、スパイをしていたそうだ」 「スパイ?」 「いや、つまりゲシュタポのスパイだ。地下に潜伏しているユダヤ人仲間の隠れ家を探り出してゲシュタポに売るスパイだ。かれはそれをしていたらしい」 「……」  雨ざらしのプラットフォーム。男が明実に何か言うのが見えた。明実の後ろ姿が、小さく首を横にふった。 「ま、生きのびるために、心ならずもそれをしたんだろうな。しかし、こういっちゃ何だが、一種の吸血鬼だな。同胞の血をすすって生きのびた吸血鬼だ。……どうだね、厭《いや》な話だろう」  浜本さんは口の中が苦《にが》くなったような顔をした。  明実はレインコートと帽子を着けているが、男は髪も背広もずぶ濡れだ。  そのそばを、ときどきドイツ兵が往来する。ナチス親衛隊の小グループも急ぎ足に通りすぎた。 「あの男はゲシュタポから証明書をもらっているんだそうだ。身の安全を保障する証明書をね」  それも淳一郎は明実から聞かされている。 「ところが、その証明書というのは、〈占領地フランス〉の中でだけ有効なんだそうだ」 「じゃあ、国境を越えたら……」 「うむ、ただのユダヤ人として収容所送りだろうね」 「だからここで彼女と別れるんですね?」 「しかし〈占領地フランス〉も、連合軍に奪回されて、もうじき消滅だ。そうなったら、あの男、どうするんだろうかね」  明実の帽子には短い鍔《つば》がまわりについている。それをパリっ子風に斜めにかぶっている。右下がりになったその縁から、しずくが絶え間なくおちるのを、淳一郎はじっと見つめた。 「今回のこの長旅、われわれはほとほと嫌気がさしちまったが、しかしあの男にしてみれば、それでも短かすぎる旅だったんだろうな。このメッツになんぞ永久に着かなきゃいいと思っていたんじゃないか、きっと」  男が左|袖《そで》をまくって腕時計をみるしぐさをした。駅のあかりが暗いので見にくそうにしている。  ——なんだか、このまま永遠にレールの上をさまよいつづけるんじゃないかって、そんな気がしてきたよ。  昨夜の自分の言葉を、淳一郎は思い出した。  ——永遠に?  ——そんなの、まるで刑罰だ。  ——そうね。  ——さまよえるオランダ人、というのがあったな。  ——さまよえるユダヤ人、というのもあるわ。  何の合図もなく、不意に列車がうごきだした。  明実は背中を向けているので気づかない。淳一郎はハッと焦《あせ》って腰をうかせた。 「浜本さん、彼女……」 「え」  よそ見をしていた浜本さんも、窓の外を見る。  男が列車のうごきに気づいたようだ。気づいたが黙っている。明実に教えようとしない。  淳一郎は窓を引きおろそうと、急いで金具をつかんだ。  が、そのとき一瞬早く別の座席の窓がおりる音がして、 「明実さーん」  と女の声が呼んだ。  明実がふりむく。あわてたようにレインコートのポケットから手をだした。が、足を踏み出そうとはせずに、何か迷うような様子で、グッと動きに詰まっている。  男が何かいい、明実は顔だけをかれに向けた。呪縛《じゆばく》されたように、そのまま動かずにいる。  列車がしだいに位置を変えてゆく。  何をしているんだ、急げっ、と淳一郎は心で叫んだ。  するとそれが伝わったかのように、明実がこちらへ体を傾け、車輛の後ろの乗降口にむかって駆け寄った。  列車はまだ速度が出ていない。 「ああ、間に合ったようよ」  安堵の吐息をする女たちの声が聞こえた。  プラットフォームに残された男のほうを、淳一郎はみた。  明実が乗降口のステップに立っているらしく、男の顔はその移動を追っている。  ひとり立ちつくす男を雨の中に残して、ベルリン行きの列車は国境の駅を離れた。 「お母さま、いよいよドイツだわ」  あかるく言う声が聞こえた。 「そうだわね」  応じる母親の声はしかし、これからの空襲の日々を思ってか、物憂げにしずんでいた。  淳一郎は眠ろうとしたが、駅に佇《たたず》む男の姿が亡霊のように浮かんで、まぶたから去らなかった。  トイレに行こうと立ちあがり、通路を通りぬけた。洗面室の陰に人の気配がした。明実だとわかった。暗がりの中で背中をむけていた。列車の振動音のせいで、淳一郎が来たことには気づいていない。  声をかけたい気持ちを、しかしかれは思いとどまった。明実は泣いているようだった。洟水《はなみず》をすする音が列車の響きの合間にきこえた。  淳一郎はトイレで排尿し、そのまま座席へ引き返した。  翌日の夜ふけに、列車はようやくベルリンに到着した。   参考文献 小松ふみ子「伯林最後の日」太平洋出版社(一九四七年) [#改ページ]   虜囚《りよしゆう》の寺     1  おみつ[#「みつ」に傍点]はどきどきしていた。  椅子にかけた上半身が、いまにもふらりと横にたおれて、床にころげおちてしまいそうな気分だった。  校庭の桜の花びらが、風にのっておみつ[#「みつ」に傍点]の机に舞いおりてきた。おみつ[#「みつ」に傍点]はそれにも気づかない。  国語の読本《とくほん》をひろげてはいるものの、そこに書かれた文字など読んではいない。教師の声も聞こえていない。おそろしい想像ばかりが頭にうかび、本を持つ手が不意にわなわな震えたりもした。  けさ学校へ出るまぎわに、姉のおきぬ[#「きぬ」に傍点]が憲兵に引っぱられていったのだ。 「むすめが何をしたとお言いるぞな、もし」  勝気な母がくってかかると、 「ロシアの俘虜《ふりよ》から金品を受け取った疑いで、取り調べるんじゃ」  若い将校が、母をふりはらうようにして、姉を引っ立てていった。  それを見ていたおみつ[#「みつ」に傍点]は驚きと心配のあまり貧血をおこし、家の土間にしゃがんで、ふるえていた。 「言わんことやない」  母は低くつぶやいた。「用心わすれて浮かれとるけれ、こういうことになるんぞな」  そして、へたへたと力のぬけた足取りであともどりし、おみつ[#「みつ」に傍点]につまずきそうになった。 「何しとるんや、ぼうっとして。早よせにゃ、学校に遅れるぞな」  おみつ[#「みつ」に傍点]は、学校どころではない気分だったが、癇《かん》のたかぶった母に追い立てられて、なかばうわの空で家をあとにしてきたのだ。  姉はどこへ連れてゆかれたのだろう。  お濠《ほり》の中の松山連隊の営所だろうか。  それとも出淵町《いでぶちちよう》の警察署だろうか。  もしかすると俘虜収容所の本部かもしれない。  いまごろ、きびしく責《せ》められて泣いているのではないだろうか。ひどいことをされてはいないだろうか。  高等小学校四年。十三歳のおみつ[#「みつ」に傍点]は、姉の身が気がかりで、授業を聞くどころではなかった。  明治三十八年春。  日露戦争は二年目に入っていた。  四国松山の町にはロシアの捕虜があふれていた。人口三万のこの田舎町に、二千人以上もの捕虜が収容されているのだった。  しかもかれらは外を出歩くことができた。護衛の兵に引率されて、町を歩き、買い物をした。小さな蒸気列車に乗って道後《どうご》温泉へも行った。  その道後温泉で、姉のおきぬ[#「きぬ」に傍点]ははたらいていたのだ。     2  おきぬ[#「きぬ」に傍点]はうつむいて、自分の手の甲をしきりに掻《か》いている。 「手がかゆいんか」  くちひげをたくわえた下《しも》ぶくれの中年男が訊《き》いた。  おきぬ[#「きぬ」に傍点]は手を掻くのをやめ、こんどは着物の袖《そで》を爪繰《つまぐ》りはじめた。  中年男は陸軍騎兵大佐・大野|久庵《きゆうあん》。松山|俘虜《ふりよ》収容所の所長である。 「かゆけりゃ掻いてもいいんだ。怒っとるわけじゃない」  大野久庵は机ごしにおきぬ[#「きぬ」に傍点]を見ながら、自分の二人の娘のことを思いうかべていた。女学校に通う娘たちは、妻とともに東京にのこしてきている。十七歳のおきぬ[#「きぬ」に傍点]と、そう変わらぬ年齢《とし》だった。  ひらいた窓から、なまあたたかい春の微風がながれこみ、おきぬ[#「きぬ」に傍点]の鬢《びん》のほつれ毛をそよがせる。眠けを催すようなのどかな日だ。 「連中は、よく飲むだろ」  大野久庵がいうと、おきぬ[#「きぬ」に傍点]は目をあげずに、こっくりとうなずいた。 「何がよく売れる。ぶどう酒か?」  おきぬ[#「きぬ」に傍点]は下を向いたまま首を横に振った。 「おまえ、声を出して返事をせんか」  言ったのは、河村憲兵中尉だ。壁ぎわに立って、おきぬ[#「きぬ」に傍点]の横顔をにらんでいる。  大野久庵は片手をちいさく上げて、憲兵中尉をおさえた。 「ビールです」  おきぬ[#「きぬ」に傍点]がか細い声をだした。  彼女の仕事は、温泉の客に浴衣《ゆかた》を出したり、酒や茶菓をはこぶことだった。 「酔ってからまれたことはないか?」 「ありません」 「連中は図体がでかくて、こわいことはなかったか?」 「はじめは少うし怖気《おじけ》よったけれど、みんなええひとたちじゃけれ、じきに仲ようなりました」 「ロシアの将校はカネを持っとるからなあ。気前よく、いろんな贈り物をしてくれたわけだな」 「……はい」 「何をもらった」 「髪留めです」  大野久庵はおきぬ[#「きぬ」に傍点]の髪に目をやった。 「いま付けておるのか?」  おきぬ[#「きぬ」に傍点]は黙って首をふってから、あわてて「いいえ」と声をだした。 「ほかには?」 「指輪です、金《きん》の」 「ほう、金か」  大野久庵は、こんどは彼女の指を見た。腫《は》れているのかと思うほどぷっくりとふくらんだ血色のよい手に、しかし指輪はなかった。それも家のどこかに大事にかくしてあるのだろう。 「ほかには?」  ためいきまじりに、かれは訊いた。  おきぬ[#「きぬ」に傍点]は黙っている。 「それだけか?」  返事をせずに、尻《しり》をもじもじとうごかしている。  やがて小声で、 「帯《おび》も、お呉《く》れたです、牡丹《ぼたん》の柄の」  大野久庵は目をあげて憲兵中尉の顔をちらりとうかがい見た。  若く精悍《せいかん》な顔立ちの中尉は、鼻翼をふくらませて、おきぬ[#「きぬ」に傍点]をねめつけている。  まだまだ出てくるかもしれなかった。しかし、「ほかには?」という問いを、大野久庵はもう口にしなかった。  髪留めと、金の指輪と、帯。それだけ取りあげれば充分だと思ったのだ。ほかにあったとしても、あとは黙認してやることにした。 「それをみんな、セルビンという中尉からもらったのだな?」 「……はい」  おきぬ[#「きぬ」に傍点]は、ロシア人に好かれそうな、はっきりした顔だちの、小肥《こぶと》りの娘だった。  大野久庵は河村憲兵中尉をつれて別室へ行った。  その部屋の窓もあけはなたれており、窓辺に長身のロシア将校が立って、外をながめていた。騎兵中尉のピョートル・セルビンだ。  そのわきで、古川通訳が椅子にすわって新聞を読んでいる。  そこは二階である。窓からは、塀越しに田畑のひろがりが見える。れんげの花が、美しい敷物のように田をおおい、畦《あぜ》をつくっている農夫たちの姿もちらほらと見える。  水路に沿った道を、荷馬車が通る。そのむこうに線路がある。おもちゃのようだ、とロシア兵たちがいう伊予《いよ》鉄道の蒸気列車が、甲高い汽笛をあげて走ってゆく。  列車の終着駅は、瀬戸内海に面した高浜《たかはま》の港だ。  その高浜から、セルビンもあの小さな車輛《しやりよう》に詰めこまれて、この町へ送られてきたのだ。以来、すでに十カ月になる。 「古川君、セルビン中尉を椅子にすわらせてくれ」  通訳にむかって言いながら、大野久庵は迷っていた。  セルビンに対して、どういう態度をとるべきか、それをまだ迷っていた。  この捕虜は、昨年の夏、いちど逃亡をくわだてているのだ。四名の下士卒をひきいて夜間に脱走し、四日後の朝に、浜で漁師の舟をうばおうとしたところを逮捕された。そういう前科のある男だった。  当時の処罰は二カ月間の拘禁《こうきん》だけで済んだが、その後、俘虜《ふりよ》処罰に関する勅令が出されて、刑罰がきびしくなった。逃亡の首謀者は〈有期流刑ニ処シ其ノ情重キ者ハ重禁獄ニ処〉すると決められたのだった。  にもかかわらず、セルビン中尉は、二度と逃亡をくわだてぬという誓約書に、あくまでも署名しなかった。  拘禁中に提出させた陳述書の末尾には、こう書かれている。 [#ここから2字下げ]  大佐殿。いかなることがあろうとも、小生ことピョートル・M・セルビンの逃亡の意志をひるがえすことは不可能であることをお含みおきください。 [#ここで字下げ終わり]  挑戦状である。  いま大野久庵の目の前にいる捕虜は、そういう男なのだった。  しかし、逃亡にくらべれば、女に贈り物をしたことなど、たいした問題ではない。寛容な態度をとるか、きびしい処分をするか、それは大野久庵の肚《はら》ひとつで決められることだった。  さて、どちらにするか。——かれはそれを迷っているのだった。 「きみはまた規約を破ったな」  大野久庵は、おだやかな声でいった。 「わたしは規約を守ると約束したおぼえはありません」  セルビンは平然と応じる。かれの軍服には片方の肩章がない。脱走して捕まったとき、ひきちぎられてしまったのだ。 「しかし、きみは自由人ではない。捕虜の身だ。収容所の規約は守ってもらわねば困る」  通訳があいだに入るので、やりとりがどうも間のびしてしまう。  相手からの言葉が日本語になって返ってくるまでのあいだ、大野久庵は、若いロシア将校の顔を、むっつりとした目で観察する。  ロシアの捕虜将校は赤ら顔タイプと蒼白《そうはく》タイプに分かれるが、このセルビンは後者のほうだ。暗褐色のひげを鼻の下と顎《あご》にたくわえている。栗色の目は表情がゆたかで、ユーモアには敏感に反応する。かれの強情さが、ノイローゼや偏執的な性格からきているのではないことが、その目を見ていると判るのだった。 「ですが、われわれの全員が忠実に規約を守ったら、あなたがたはすることがなくなってしまうではありませんか」 「そうなったら、われわれがきみたちの代わりに温泉にでもつかって、ゆっくりビールを飲むことにするさ」 「温泉に通って時間をつぶすのも、すぐに退屈してしまいますよ」 「それで退屈まぎれに、娘をくどいたのかね」 「それはオキヌサンのことを言っているのだと思いますが、彼女とのことについては、わたしは何も話したくありません」 「なぜ、きみはあの娘に金品を与えたのだ。おかげで、あの娘はわしから大目玉をくうことになった」 「オキヌサンに責任はありません」 「わしもそう思っとるよ。ここらの娘はたいがい貧乏だ。ああいう物を差し出されて、断われというほうがむりだ。だから、与えるほうが一方的に悪い。本当のところは、わしはそう思っとる」  大野久庵は憲兵中尉の耳にも向かって、そういった。  セルビンの目が少し曇った。 「たしかに彼女に対して悪いことをしてしまったようですね」 「反省しとるのかね」 「しています」  めずらしく素直だった。居直って反抗的な言葉を吐くのではないかと思っていたので、意外だった。  大野久庵は口もとをほころばせて、黒い軍服のポケットからチョコレートを取り出した。 「食わんかね。神戸のみやげだ」  こどもではあるまいし、食い物で手なずけようというのではないが、ついそんなまねをしてしまった。 「これは、規約では許されているのですか?」  セルビンは皮肉を言いながらも、手をのばした。 「あの男、すこし丸くなってきたようですね」  古川通訳が眼鏡を押しあげながら言った。  セルビンに一週間の外出禁止を申し渡して、護送兵に身柄を預けたあとだった。 「いや、油断は禁物です」  河村憲兵中尉の顎に力が入る。「ああやって、われわれの目を欺《あざむ》こうとしているのかもしれない。セルビン中尉はちかごろしきりに、海軍の将校たちに接近しようとしているそうであります」  どこの国の軍隊でもそうだが、陸軍と海軍とは反《そ》りが合わない。ロシアの捕虜将校のあいだでも、やはりそうだった。であるのに、陸軍のセルビンが、海軍に接近している……。 「海軍に友をつくって、海や船についての知識をふやそうとしているのに違いない。セルビンは、おそらくまた逃げる気でいます」 「ふむ……」  大野久庵は立ちあがって窓に寄り、さっきのセルビンがそうしていたように、塀越しの田園風景に目をやった。     3  おみつ[#「みつ」に傍点]が学校から帰ってくると、姉が道後へ行く仕度をしていた。 「ねえさん、お戻りたか」  おみつ[#「みつ」に傍点]は姉の丸い肩にすがりついた。「ひどいことされんかったか」  見たところ、姉はけがもなく、身動きも、いつもどおりてきぱきしている。  おみつ[#「みつ」に傍点]はほっとして涙をにじませながら、 「心配したぞな、うち」  といって、またうしろから抱きついた。  それを邪険にはねのけて、 「たいしたことやないぞな。みんなしとることぞな。何でうちばっかし……」  姉は不機嫌な手つきでふろしきを包み、それを小脇に抱えて土間へおりた。 「そんなことゆうとると、また引っぱられるぞな」  母は、洗ってきた大根を軒《のき》に吊るしながら、姉を見返った。「ロシアの俘虜にちやほやされて浮かれとるけれ、みっともないことになるんぞな」  姉は物もいわず、ぶすっとふくれた顔のままで、小さな戸口から表へ出た。  おみつ[#「みつ」に傍点]はあとを追って、うしろ姿に呼びかけた。 「ねえさん、気をおつけたがええぞな」  言われんでもわかっとる。——そう言いたげに着物の尻をせかせかと振って、姉はつとめに出ていった。  つとめはおみつ[#「みつ」に傍点]にもあった。  学校から帰ったあと、まいにち菊乃屋《きくのや》へ行くのだ。菊乃屋は亡くなった父親の遠縁にあたる呉服店だった。  つとめといっても店番をするわけではない。奥の掃除や子守り、それにこまごまとした使い走りである。  その日も、店に着くとすぐに使いを言いつけられた。仕立て上がった着物を届けに行く使いだ。 「届け先は大蓮寺《だいれんじ》じゃ」  主人にいわれて、おみつ[#「みつ」に傍点]はひえっと息を吸った。 「それは、ロシアの俘虜のおるお寺じゃろうがなもし」  何千人ものロシア人捕虜を受け入れるにあたって、ほうぼうの寺が、収容所として使われているのだった。 「そうじゃ。俘虜の将校さんの注文品ぞな」  捕虜が着物を注文するのは珍しいことではなかった。菊乃屋も、おかげでだいぶ潤っている。大きな体をかがめるようにして、ひげづらのロシア人が店に入ってくるところを、おみつ[#「みつ」に傍点]も奥からときどき目にしていた。 「ペトロフちゅう陸軍少尉さんじゃけれ、まちがえんように届けてくるんやぞ」  菊乃屋の名を白く染めぬいたふろしきに、届ける品が包まれていた。それを両手で胸に抱くようにして、おみつ[#「みつ」に傍点]は大蓮寺への道をたどった。  途中、お濠端《ほりばた》に出て、小石を投げながら道草をした。  大蓮寺へ行くのがいやだったのだ。  ロシアの捕虜がこの町へ送られてくるようになってから、もう一年以上になる。ことしの一月に旅順《りよじゆん》が陥《お》ちてからは、その数もぐんと増え、町を歩けばかれらに出会わない日はないほどだ。それなのに、おみつ[#「みつ」に傍点]はいまだに、あの大きな異人たちに慣れることができなかった。  けさ姉が憲兵に引っぱられていったのもロシアの捕虜のせいだと思うと、よけいに近寄りたくない気分だった。  しかも、一人ふたりならまだしも、大勢がたむろする収容所の中に入ってゆくなど、考えただけでも足がすくんでしまう。おなかが痛むからと主人にいって、勘弁してもらえばよかった。  五、六歩あるきかけては、また小石をひろってお濠に投げこむ。  とぷん、と飛沫《しぶき》があがって、よどんだ水面に波紋ができる。その輪がするするとひろがってゆくのを、しゃがんで眺める。  お濠のむこうの営内練兵場から、掛け声が聞こえる。新兵の教練かもしれない。あの兵隊さんたちも、これから満州へ送られていって死ぬのだろうか。  それにくらべてロシアの捕虜たちは、温泉に入って、酒を飲んで、ねえさんたちに贈り物をして、おまけに着物まであつらえて、いい気なものだ。 「戦争ゆうのはね、相手から闘う力をうばいとるのが目的なんよ」  担任の女教師の言葉を、ふと思い出す。 「そうやからね、闘う力をなくした俘虜のひとを悪う思うたり、いじめたり、からこうたりしたらいけんのよ。あのひとらも、自分のお国のために働いたひとらじゃけんね」  捕虜の第一陣がやってきたときの訓戒だった。 「ハーグ条約、ゆうのを知っとるひと。……あれ、一人もおらんのやね。このハーグ条約ゆうのはね、五年前にむすばれたんよ。ハーグゆうのはオランダの町の名やね。そこでむすばれた約束やけん、ハーグ条約ゆうんよ。どうゆう約束かゆうとね、戦争の俘虜を人道的に——ゆうことはつまり、やさしゅう扱《あつ》こうたげる、ゆう約束なんよ。この約束に、日本も仲間入りしたんよ。  そうじゃけん、わたくしたちは、それを見事に守ってみせにゃいけんのよ。外国じゃあ、まだ日本のことを野蛮国や思うとるひとらがおるけんね。そうやない、わたくしたち日本も文明の国やゆうことを、世界じゅうに見てもらわにゃいけんのよ。みんなも、そのことを忘れんと、おってね」  捕虜を嫌ったり怖がったりする自分のような考えかたは、文明の国の人間にふさわしくないのだろうか。  ねえさんのように、捕虜とたのしくお付き合いするひとたちのほうが、ハーグ条約を正しく守っているのだろうか。 「そうじゃけれど、怖いものは怖いけれ……」  おみつ[#「みつ」に傍点]はそうつぶやいて、足元からもうひとつ小石を拾い、しゃがんだ姿勢のままで水に投げ入れた。  とぷん。  水面に輪がひろがる。……  とぷん。  別のしぶきが隣りにあがって、新しい輪がひろがり、おみつ[#「みつ」に傍点]の輪と重なった。  おみつ[#「みつ」に傍点]は顔をあげて横を見た。  見た瞬間、おどろいて腰を浮かし、膝《ひざ》と胸のあいだにあったふろしき包みを、あやうく濠へ落としそうになった。  女の子が立っていた。西洋の女の子。  というよりも、おみつ[#「みつ」に傍点]は最初、大きな西洋人形がそこに立っているように思った。湊町《みなとまち》のショーウインドウで、たしかにそんな人形を見たことがあったのだ。  おみつ[#「みつ」に傍点]は立ちあがり、ふろしき包みを胸に抱きしめたまま、じっとその女の子を見つめた。  若葉色の西洋|衣裳《いしよう》を着て、麦藁《むぎわら》のような色の髪を帽子の下に垂らし、青と灰色のまじったような奇妙な色の目で、その女の子もおみつ[#「みつ」に傍点]を見つめ返していた。  そうか。  とおみつ[#「みつ」に傍点]は気づいた。この子が、〈俘虜の子〉か。学校で二、三の生徒が見たといって噂していた〈俘虜の子〉。  旅順で捕虜になった将校の娘。  母親といっしょにロシアから父親に会いに来た娘。  はじめは三番町の城戸屋に宿をとり、いまはどこやらの家の二階に住んでいるという〈俘虜の子〉。  背丈はおみつ[#「みつ」に傍点]とほぼ同じだが、歳はもうすこし幼いように思えた。  ふたりが黙って見つめ合っていると、うしろから声がした。 「サーシェンカ」  ふり向くと、女の子をそのままおとなにしたような背の高い女が、夏でもないのに日傘をさして、桜の花の下に立っていた。そのそばに、着物姿の日本の女もいた。 「あんた、このへんの子なん?」  日本の女が関西ふうの言葉でおみつ[#「みつ」に傍点]に話しかけた。  異人慣れした商人が、神戸や長崎からたくさん入りこんで湊町に捕虜相手の店をひらいている。関西弁や長崎弁を、おみつ[#「みつ」に傍点]もしばしば耳にしていた。  おみつ[#「みつ」に傍点]は少しどもりぎみに答えた。 「このへんの者《もん》やありません。使いの道すがらじゃけれ」 「ふうん、えらいな。どこへお使いやの?」  女はなれなれしく訊《たず》ねる。目の細い、肥《ふと》った中年女だった。 「大蓮寺です」 「へえ、ほんまに? それやったらおんなじや。うちらも大蓮寺へ行くとこや。その子のお父さんが、大蓮寺にいたはるんや。いまから面会やねん」  ロシア人の母娘とそれに付き添う関西女。三人のあとを、おみつ[#「みつ」に傍点]はすこし離れて歩いた。  女の子が何度もふり返っておみつ[#「みつ」に傍点]を見る。  母親のほうは、関西女と話をかわしながら、長いスカートの裾《すそ》を地面すれすれに揺らして、すべるような歩調ですすんでゆく。その高い背中にときどき木洩《こも》れ陽がまだらに落ちるのを眺めながら、おみつ[#「みつ」に傍点]は不思議な思いをしていた。  日本とロシアは戦争中だ。あの母娘にとって、ここは恐ろしい敵の国のはずではないか。それなのに、よく平気でやってくる気になったものだ。こわくはなかったのだろうか。不安ではなかったのだろうか。  捕虜の収容所へ使いをするのさえびくびくしている臆病《おくびよう》な自分には、とてもできないことだ。  考えているうちに、大蓮寺に着いた。  長い銃を持ち、脛《すね》にゲートルを巻いた衛兵が、門前に立っている。  衛兵とロシア人母娘は、すでに顔見知りのようだ。付き添ってきた関西女ともども、すぐに門のそばの寺務所へつれてゆかれた。そこで通訳の立ち合いのもとに、週二回の面会が許されるのだという。  おみつ[#「みつ」に傍点]も衛兵の許可を得て境内に入った。  手狭な境内に、ロシア人捕虜があふれていた。おみつ[#「みつ」に傍点]は、胸がつまるような異人の匂いを嗅《か》いで、立ちくらみしそうになった。  不安や緊張が昂《こう》じると、おみつ[#「みつ」に傍点]はすぐに気分がわるくなる。姉とちがって、やせっぽちのせいだろうか。  春の午後の日差しの下で、捕虜たちは話をしながらぶらつき、腰をおろし、居眠りをし、トランプをし、楽器を鳴らし、床屋にひげを剃《そ》らせていた。軍服を着ている者もいるが、もっと簡便な洋服姿の者もいる。  おみつ[#「みつ」に傍点]の背後から、衛兵がいった。 「あれじゃ。あそこで赤い着物を着てアヒルに餌《えさ》をやっとるのが、ペトロフ少尉じゃきに」  土佐ことばだった。高知連隊から応援に来ているのだろう。  捕虜たちの視線がいっせいにおみつ[#「みつ」に傍点]にそそがれた。おみつ[#「みつ」に傍点]はからだじゅうのすじを強張《こわば》らせて、ぎくしゃくと歩いた。  パンくずをアヒルに与えていた赤い着物の捕虜。その着物は女物の縮緬《ちりめん》で、角帯を妙な具合にむすんでいた。ひげを生やしてそれを着ているものだから、おみつ[#「みつ」に傍点]は滑稽《こつけい》なような、不気味なような、そして少し情けない気持ちもした。  あれも菊乃屋であつらえたのだろうか。菊乃屋の主人は儲《もう》けだけを考えて、いわれるままにあんな着物を仕立てて売ったのだろうか。ひとこと忠告してやったりはしなかったのだろうか。このふろしき包みの中身も、やはり芸者が着るような派手な着物なのだろうか。  おみつ[#「みつ」に傍点]が近寄ると、ペトロフ少尉は、かがめていた背中を伸ばしてまっすぐに立った。おみつ[#「みつ」に傍点]はのけぞるように見あげて、ふろしき包みを頭上に差し出した。  ペトロフ少尉は受け取らなかった。  かれは赤い袖《そで》から出た長い毛むくじゃらの腕で、どこか別の方角を示しながら、何かいった。指さしている先には、白い上っぱりをつけた日本人の床屋がおり、椅子に掛けた捕虜のひげを剃っている。  おみつ[#「みつ」に傍点]はその意味がわからず、途方にくれた。 「ねえちゃん、こっちや。このひとに渡してくれゆうたはるんや」  床屋が、剃刀《かみそり》を持った手で手招きした。  顎《あご》に白い泡をつけた捕虜。その捕虜の頭を、もう一方の手でしきりに指さしている。 「そのおひとがペトロフ少尉さんかな、もし」  おみつ[#「みつ」に傍点]は訊《き》いた。 「ペトロフ少尉はんは、その赤い着物のひとや」  あばた面の床屋は、衛兵と同じことをいった。 「そんでも、これはペトロフ少尉さんへの届けもんなんじゃけれど」 「そのペトロフ少尉はんが、こっちのひとに渡してくれゆうたはんのやから、きっとそれでええのやろ」  おみつ[#「みつ」に傍点]はなるほどと思い、顎に泡をつけた捕虜のほうへあゆみ寄った。  捕虜が何かいった。 「包みをあけてみい、ゆうたはんのや」  床屋が通訳してくれる。  おみつ[#「みつ」に傍点]はその場にしゃがんで、膝のうえでふろしきをひらいた。  中身をみて、おみつ[#「みつ」に傍点]は少し安心した。上等なものではないが、日本の男がふつうに着るような、ごく地味な色柄の着物だった。     4 「セルビンがひげを剃り落としました」  河村憲兵中尉がいった。「頭髪も短く刈りました」 「ふむ」  大野久庵は自分のくちひげを撫《な》でた。「陽気がぐんと暖かくなってきたからな。ロシアなら初夏というところだろう。ひげなんぞ落としてさっぱりしたくなったのかもしれんな」  わざとのんびりした口調で応じた。  セルビンのことについて、あまり神経過敏になるのはよそう、そういう気持ちを示したのだ。  しかし憲兵中尉は、きまじめな顔でつづけた。 「寺の庭で一日じゅう陽にあたっているそうであります。顔を灼《や》いているのです」 「北の国の連中は、太陽が好きなんだ」 「セルビンは着物もあつらえました」 「いいことじゃないか。道後の娘に興味を示したり、着物をあつらえたり、やつも観念して俘虜《ふりよ》の暮らしを愉《たの》しもうという気になってきたんだろう」 「しかし大佐殿、俘虜将校の注文する着物は、たいていはこちらが赤面するような派手な女物の柄です。ところがセルビン中尉があつらえたのは、土地の男がごく一般に着る、地味なものです。しかも——」  憲兵中尉は語調をつよめる。 「しかもセルビンは、それを自分自身では注文せず、同室のペトロフ少尉に注文させているのです。これはいかなる理由か。——考えるまでもない。われわれに気づかれたくなかったのです。われわれの目を盗んで、土地の男が着る地味な着物をひそかに手に入れ、土地の男のように頭を短く刈り、ひげも剃り落とし、皮膚を灼き、日本人になりすまして逃亡する機会を、あの男はうかがっているのです。——自分は、そうにらんでいます」 「……」大野久庵は椅子の肘掛《ひじか》けを撫でながら、考えこんだ。  伏せた目の先に、河村憲兵中尉の黒革の長靴があった。まいにち従卒に入念に磨かせているため、顔がうつりそうなほどつややかに光っている。  大野久庵は馬に乗って大蓮寺へ向かった。  かれはもともと騎兵将校である。近衛騎兵連隊長をつとめたあと退役して予備役に編入されたが、日露戦争の勃発《ぼつぱつ》で、ふたたび軍服を着ることになった。四十七歳だ。  いま跨《またが》っている馬は、ろくに|駆け足《ギヤロツプ》もできないような、老いた駄馬である。騎兵連隊にいたころのかれなら、こんな馬など馬とは見なさなかっただろう。  しかし、諸事のんびりとした伊予松山のちいさな町を、しかも春の陽気のなかをポクポクと行くには、この馬でじゅうぶんだった。乗り慣れるにつれて、愛情もわいてくる。首をおおげさに上下させるその気怠《けだる》げな歩きかたすら、いとおしく思えてくる。大野久庵自身、持病の腰痛をかばいながら暮らしている身であるから、そんなかれにはちょうど似合いの馬だといえた。  大蓮寺の一丁ほど手前で、かれは馬をおりた。  ドミトリエフ海軍少佐の妻と出遇《であ》ったからだ。  彼女はいつものように、八歳の娘アレクサンドラと、神戸で雇った侍女とをつれていた。夫に面会した帰りみちだろう。  馬をおりた大野久庵は、手綱《たづな》を片手に持ち、軽く敬礼した。  イレーナ・ドミトリエワは日傘をさしたまま、スカートをつまんで腰をかがめる会釈をした。 「ご面会の帰りですか?」  大野久庵がいうと、 「へえ、そうです」  侍女がこたえた。 「風邪をひかれたと聞きましたが、もうすっかりよろしいのですか?」 「へえ、すっかりなおりはりました」 「松山があんまり暖かいので油断をなさったんでしょう」 「へえ、そうやと思います」  大野久庵はしぶい顔をした。 「きみな、わしの言葉をいったん奥さんに伝えてくれんかな。そのうえで返事を仲介してくれ」  その侍女は片言ながらロシア語がしゃべれるのだ。 「へえ、すんまへん」 「何か困っていることはないかと奥さんに訊いてくれ」  侍女が通訳すると、イレーナ・ドミトリエワは首を横にふった。 「別にないそうです」 「そうか。それならいい。とはいっても、異国暮らしでは何かと勝手のわからんことも、まだまだ多かろう。きみ、力になってやれよ」 「へえ、そのために雇われてますねん」  侍女が苦笑した。  大野久庵は少女に視線をむけて笑顔をつくってみせた。  しかし少女の目は敵意をもってかれをにらみ返した。  捕虜たちの影響だな、と大野久庵は思った。父親との面会のさい、父母の会話に退屈すると、少女は面会室を離れて他の捕虜将校たちのところへ遊びに行くらしい。捕虜たちも少女をサーシェンカという愛称で呼んで可愛がっている。衛兵もそれを黙認しているようだ。そうするうちに、大野久庵に対する捕虜将校たちの鬱屈《うつくつ》した敵意が、しだいにこの少女にも伝染してしまったのだろう。  かれはもういちど軽く敬礼し、馬をひいて大蓮寺へと歩きはじめた。  かれは捕虜たちから嫌われ憎まれていることをよく知っている。しかし、そんなことは構わないと思っている。憎まれ役が自分の仕事なのだと思っている。  捕虜たちは憎しみを向ける対象がほしいのだ。  想像していた待遇とは大違いのみすぼらしい居住設備。まずい食事。そして退屈。望郷の念。故郷にのこしてきた若い妻の貞操の心配。  つのる不満やいらだちを、収容所長・大野久庵を呪《のろ》うことでまぎらせているのだ。  大野久庵がつとめて柔和な表情で接しようとすると、狐のように狡猾《こうかつ》で油断のならぬやつだという噂が立つ。捕虜将校のあまりの増長ぶりを肚《はら》にすえかねて、ときにきびしい処断をすると、傲慢《ごうまん》冷酷という言葉が全収容所にひろまる。  しばしば捕虜の要求の代弁者となって、東京と折衝《せつしよう》していることなど、かれらは知るよしもない。  一方、東京からの指令や通達は、いつも支離滅裂だった。ハーグ条約の遵守《じゆんしゆ》を諸外国に見せるため、捕虜はできるだけ寛大に扱え。そのあとに、ただし、と付いている。ただし甘やかせてはつけあがるので、きびしく抑えつけよ。  旅順|要塞《ようさい》の捕虜将校については、こう通達してきた。開城規約第七条により、かれらの〈勇敢ナル防御ヲ名誉ト〉して特別に刀剣の携帯を認める約束をした。ただし捕虜が刀剣を帯びているのは不都合であるので、これをすみやかに取りあげて預るべし。  つまり約束を破れというのだ。  だったら最初からそんな約束をするな。思いつつも、大野久庵は指示を遂行しようとした。旅順から来た捕虜将校に、軍刀の提出を求めた。  かれらはむろん納得せず、すさまじい連帯抗議に出遇った。  板ばさみになった大野久庵は何度も捕虜たちに対する説得をおこなう一方で、東京に打電した。これは絶対の指令であるのか、変更の余地はないのか、そう問い合わせたのだ。  東京からの返事は、こうだった。これは指令ではなく、当局の強い希望[#「強い希望」に傍点]である。  大野久庵は怒りにふるえる手でその電報を引き裂いたあと、おもだった収容所に乗りこんで、壁に吊るされていたサーベルをみずからの手で取って回った。  引き渡しを拒否して、自分のサーベルを膝《ひざ》でまっぷたつに折り、床に叩《たた》きつける将校も続出した。  これが『軍刀領置事件』だった。  以来、大野久庵に対する捕虜たちの反感と憎悪は決定的となった。 「やあ、セルビン中尉。ずいぶんさっぱりした顔になったな」  寺務所の一室。入ってきたセルビンに、大野久庵は笑いかけた。  さっきまで、ドミトリエフ海軍少佐が妻子と面会していた部屋だ。そのときにも立ち合っている若い平尾通訳が、大野久庵のわきに坐っていた。いつも手もとから離さぬ露日会話篇のページの縁が、すっかり黒ずんでまくれあがっている。  簡素なテーブルと椅子。下は畳で、部分的に敷物が敷かれている。 「どうですか。似合いますか。これなら鳥の糞《ふん》がついても、簡単に洗えます」  セルビンは頭や顔を片手で撫で回した。 「鳥?」  と大野久庵は訊いた。 「そうです。鳥を飼おうと思うのです。たくさん飼うつもりです。それで、鳥小屋を建物の裏手につくってもらうことにしました」 「鳥をねえ……」 「道後へ行ってムスメサンと親しくしようとすると、それを叱《しか》るひとがいるのですよ。それで、代わりに鳥をかわいがることにしたのです」 「ふむ、鳥をねえ」 「小屋の中に入って世話をするとき、糞をかけられるでしょう。羽くずがついたりもするでしょう。それで、洗いやすいように髪を刈って、ひげも剃《そ》ったのです」 「なるほど」 「鳥がふえたら大佐も見にきてください」  セルビンは旅順で降伏したのではなく、それよりもずっと以前の、九連城《きゆうれんじよう》の闘いでの捕虜である。軍刀領置の騒動では、直接の当事者ではなかったこともあって、大野久庵の立場を客観的に、そしてやや同情的に見てくれているふしがあった。  おそらく捕虜全員の中で、そんな男はセルビンひとりであろうと、大野久庵は思っている。  しかしそのセルビンが、こと〈逃亡〉ということに関しては、その意志をまったく捨てる気がないことを公言する、いちばん厄介な存在であるというのは、妙なものだ。 「ところで中尉、きみは先日、着物をあつらえたそうだな」 「よくご存知ですね」 「きみのことは、何でも知っておる。きみには特別に関心を持っておるもんでね」 「それは光栄ですね」 「その着物のことでひとつ訊きたいんだが」 「ええ、どうぞ」 「なぜ、きみはそれを自分で注文せずに、ペトロフ少尉に注文させたりしたんだね」 「強欲な商人に値段をふっかけられないようにです。かれは前にも着物をつくっているので、顔がきくと思ったのです。それに、かれとわたしは背格好が似ているから、寸法をとるにも、じゅうぶん代理がつとまるのです。ただし、わたしはあまりけばけばしい色は好みではないので、できるだけ地味なものをと、ペトロフに言っておきましたが」 「なるほど。しかし、その地味な着物を着て、ひげなしのその顔で、日暮れどきにでも外を出歩いたら、遠目にはきっと日本人に見えるだろうな」 「しかし大佐。われわれは日暮れどきに外を出歩くことなど許されていませんよ」 「もちろん規約では許していない。だが、きみは収容所の規約なんぞ守る気はないのだろう」  セルビンは返事をためらって、丸い大きな栗色の目をあげ天井をひとにらみしたが、すぐに大野久庵に視線をもどして、にっこりうなずいた。 「ええ、ありませんね」     5  丸い粗末な卓袱台《ちやぶだい》を囲み、母娘《おやこ》三人で夕飯を食べているとき、姉のおきぬ[#「きぬ」に傍点]がこう言った。 「ちかぢか自由外出が許可になるらしいぞな」 「自由外出て、何ぞな」  問い返す母に、 「俘虜の自由外出ぞな。日本の兵隊さんが付き添わんでも、自由に外出でけるゆうことじゃがな。ただし将校さんに限るそうじゃけれどな」 「へえ、そんなこと許して、悪いこと起きやせんじゃろうかな」 「心配ないぞな。ロシアの将校さんは、お国ではたいがい貴族なんやそうじゃけれ」 「それでもおまえ、悪い貴族かておるじゃろうがな」 「悪い者は、ロシアの俘虜やのうても、日本人にもおるぞな」 「それはそうじゃけれど」 「うち、ロシアの将校さんに嫁にしてもろうて、戦争がすんだら、あちらで貴族になったろうかな」 「たわけっ。何をお言いるぞな。戯《ざ》れごとにでもそんなことお言いたら、承知せんぞな」  おみつ[#「みつ」に傍点]は大根の漬物をかじりながら、そんなやりとりを聞いていた。  自由外出の許可。  捕虜将校は、日曜祭日をのぞき、次の時間の自由外出を認められる。  月水金——午前六時より正午まで。  火木土——正午より午後六時まで。  ただし、公会堂から四キロ圏内に限る(道後温泉はこの圏内である)。  松山中学の講堂に捕虜将校三百余名を集めて、大野久庵は右の布告をした。  しかしその夜、かれは腹立ちのあまり眠れなかった。  自由外出を認めることが腹立たしかったのではない。その布告に応じない者が二百名もいたことが、なんともいまいましかったのだ。  かれらは餌[#「餌」に傍点]に喰いついてこなかった。大野久庵の見込み外れだった。  自由外出の許可と引き換えに、かれは捕虜将校たちから誓約書をとろうとしたのだ。逃亡をくわだてぬという誓約書だ。  その誓約書に、誰よりもまず署名させたかった相手は、いうまでもなくセルビン中尉である。  ところがそのセルビンが、大野久庵の前でとつぜん拒絶の演説をぶちはじめたのだ。——捕虜が〈逃亡の衝動〉を持つのは自然の心情であり、それをいっさい胸に抱かぬと神の名において誓約することなど、残念ながらできかねる。  セルビンの演説に同調の声がたちまちひろまり、けっきょく誓約書に署名した者は、わずか三分の一だった。  大野久庵が講堂の壇上からセルビンをにらみつけると、この髭なしの捕虜将校は、いともすずしげな顔で、不敵に見返してきたのだった。  大野久庵は、署名組と拒絶組とを、それぞれ別の寺に分けて収容した。  拒絶組には、一週三回、日本兵同行の外出を認めただけで、それ以外の外出はいっさい許可しなかった。  大野久庵は部下の前でぼやいた。 「やつらは、いったい何が不足なんだ。国の実家から送らせたカネを好きほうだいに使い、飲みたいだけ酒を飲んでおる。おまけに自由外出まで認めてやろうというのに、まだ不満をいうのか」  かれは狭い執務室の中を行ったり来たりしながら、ときどき自分のてのひらを自分で殴りつけた。 「それにくらべて下士卒の連中を見ろ。かれらには自由外出の権利もないし、収容所内で酒を飲むことも許されておらん。まあ飲みたくともカネがないだろうがな。将校どもも少しはあの連中のことを考えて、もうちっと謙虚になれんもんだろうかな。やつらは、戦《いくさ》に負けた俘虜なんだぞ。保養客とはちがうんだ」  椅子にかけて眼鏡をふいていた古川通訳が、そのときポツリと言った。 「しかし、あのセルビンというのは、なかなか骨のある男じゃありませんか」  大野久庵の癇癪《かんしやく》が破裂した。 「そんなことは、わかっとる!」  古川通訳はびくりと体をふるわせた。  大野久庵は気まずい顔をして自分の机の前にすわり、沈んだ声をだした。 「わしだって、そう思っとるよ」     6  逃亡せず、という誓約書に署名した捕虜将校のうち、十数名の者には借屋住まいも許された。妻子がロシアからやって来ている者たちが主《おも》であり、ドミトリエフ海軍少佐の一家もその中に入っていた。  ドミトリエフ少佐が借りた家は、おみつ[#「みつ」に傍点]が学校へかよう通り道にあった。おみつ[#「みつ」に傍点]の家よりも立派な二階家だ。その二階の窓から、例の麦藁《むぎわら》色の髪をした少女が通りを眺めおろしているのを、おみつ[#「みつ」に傍点]は何度か見かけた。  少女の父親はロシア人の中でも特に大きな体をしている。軍服の上着が白なので、よけいに大きく見えた。その大きな父親に手をひかれて、少女が大蓮寺に入ってゆくのを、ある日、おみつ[#「みつ」に傍点]は目にした。  そのあとから、おみつ[#「みつ」に傍点]も大蓮寺の門をくぐった。菊乃屋の着物を、また捕虜に届けにきたのだ。  気温が日に日に上がってきたせいだろうか、窮屈な洋服をぬいで、風通しのよい日本の着物を着ようとする捕虜がふえていた。  大蓮寺には、自由外出をことわった捕虜ばかりが収容されているということだが、いちど来たことがあるので、以前ほどの不安や緊張感はなかった。  届けものを済まして門を出ようとしたとき、おみつ[#「みつ」に傍点]は着物の袖《そで》を引かれた。  例の少女だった。  けげんな目で見返ると、少女は、 「コトリ」  といった。 「え?」  とおみつ[#「みつ」に傍点]は訊き返す。 「コトリ」  少女はくり返しながら、両手で羽ばたくまねをした。 「小鳥?」  おみつ[#「みつ」に傍点]はようやくわかった。  少女はまたおみつ[#「みつ」に傍点]の袖を引いた。  庫裡《くり》の裏の片隅に、鳥小屋がつくられていた。  人が何人か入れそうな大きな鳥小屋だ。屋根は茅葺《かやぶ》きで、三方が板張り、一方が竹で編んだ網になっている。網越しに、おみつ[#「みつ」に傍点]と少女は中を覗《のぞ》いた。  鶺鴒《せきれい》や文鳥や十姉妹《じゆうしまつ》がそれぞれ五、六羽ずついる。  巣箱が大小六つ。雛《ひな》のさえずりも聞こえて、にぎやかな鳥小屋だった。  おみつ[#「みつ」に傍点]はときどき少女と目を合わせてウフフと笑い合いながら、鳥たちの動きを長いこと見ていた。 「ちょっと、そこをどけ」  声がしたので振り向くと、黒い軍服の日本の将校が、下士官を一人つれてやってくるところだった。吊るしたサーベルを左手でおさえ、黒革の長靴がぴかぴかと光っていた。 「ドミトリエフ少佐の娘だな」  将校は下士官にむかって言った。 「そうであります。父親が、友に会いにくるさい、よく連れてくるんであります。以後、許可せんほうが、よろしいでありましょうか」 「いや、べつにかまわん。それより、こっちの娘は何だ。なぜこんなところにいる」  おみつ[#「みつ」に傍点]はにらまれて身をすくめた。  と同時に思い出した。その将校は、いつぞやの朝、姉を引っ立てていった将校だ。 「これは呉服屋の使いであります。おい、おまい、用が済んだらさっさと帰らにゃいけんぞな」  おみつ[#「みつ」に傍点]は無言で頭をさげ、逃げるようにその場を離れた。     7  河村憲兵中尉の報告を、大野久庵はけわしいまなざしで聞いた。 「セルビンが道後へ行った隙《すき》に、やつの鳥小屋を捜索したところ、やはり出てきました。自分がにらんでいた通りでした」 「何が出てきた」 「磁石盤《コンパス》と提灯《カンテラ》です。巣箱のうしろに隠してありました。それと新聞です」 「新聞?」 「コーベ・ヘラルドです。神戸発行の英字紙です」 「それがどうした」 「船舶の入出港欄に目印がしてありました。ある船の出港予定日をペンで囲んであったのです」 「船……」 「ドイツの貨物船リューベック号です。上海へ向かう船です。神戸出港予定日時は四月二十八日午後一時」  二日後だ。 「夜には高浜の沖を通ります。おそらくセルビンは、その時刻に合わせて夕暮れどきに大蓮寺を脱走する気でいるのです。高浜近辺でボートを盗み、沖でリューベック号を待ちかまえ、カンテラの光で信号を送って拾ってもらおうという魂胆《こんたん》でしょう」  この戦争で、ドイツはロシアに肩入れしている。逃亡してきた捕虜を、ドイツ船がそしらぬ顔でかくまう可能性はないともいえない。 「あの男、やはり、やるつもりでいたのか」  大野久庵は緊張した肩を自分の手でほぐしながら、ためいきをついた。 「見せてくれ」 「は?」 「その新聞だ」 「持ってくるのはやめました」 「なに?」 「そのまま元に戻してきました。コンパスとカンテラもです」 「……」大野久庵は河村憲兵中尉の精悍《せいかん》な目をじっと見た。  憲兵中尉は低くいった。 「出たいのなら、出させてやろうではありませんか」 「つまり、セルビンを——」  声に痰《たん》がからんで、大野久庵は咳払《せきばら》いした。「セルビンを、罠《わな》にかけようというのか?」 「自業自得というものでしょう。こちらとしては願ってもない機会です。厄介の種がひとつ減ります」 「ふむ……」  大野久庵は考えこんだ。 「ところで、セルビンの鳥小屋の前で、井上きぬの妹に出遇《であ》いました」 「井上きぬ……?」 「先般、セルビンから金品を受け取った廉《かど》で取り調べた娘です」 「おう、あの道後のお茶子か。その妹が鳥小屋の前に?」 「鳥小屋を捜索して新聞その他を発見したあと、念のために娘の身元を調べたところ、井上きぬの妹であることが判明したのです。井上みつ。まだ十三歳の小娘ですが、セルビンが着物をあつらえたとき、それを届けにきたのも、じつはこの娘です」 「おきぬ[#「きぬ」に傍点]とその妹が、セルビンの逃亡を……?」 「金品に目がくらんで、幇助《ほうじよ》しようとしている可能性があります。自分は日頃から憂慮しておったのですが、この土地の人間は俘虜《ふりよ》というものに慣れ親しみすぎてしまい、正常な観念を失いつつあります。商人どもはカネのある俘虜将校を厚遇して日本人には見向きもせず、小児は俘虜のあとを歩いて金品をねだる始末です。買収されて逃亡に手をかそうという愚か者が幾人《いくたり》か出てきたところで、自分はもはや驚きはしません」     8  翌日。  すなわち、セルビンの逃亡予定日[#「逃亡予定日」に傍点]の前日。  大野久庵は、アメリカ赤十字社からやってきた婦人視察員を案内して俘虜病院を回ったが、夕方、その職務をおえたあと、通常の見回りを装って大蓮寺をおとずれた。  衛兵一人と平尾通訳をつれ、境内をいつものようにゆっくりと歩き、捕虜たちに声をかけた。いちおう慇懃《いんぎん》に返事をしてみせる者もおり、何かに気を取られて聞こえなかったふりをする者もいた。 「セルビン中尉は部屋か?」  大野久庵は小声で衛兵に訊いた。 「先刻見回ったときは鳥小屋にいたでありますが」  すこし風があり、境内の杉のこずえが暮れなずむ空を掻《か》きまわしていた。  鳥小屋を覗《のぞ》きに行こうかどうか、大野久庵はつかのま考えた。  なまじそんなところへ顔を出すと、セルビンを警戒させてしまい、あすの逃亡を見送らせることになるかもしれない。それでは、かれを捕らえて軍法会議へ送る機会をのがしてしまう。そうなれば、またこれからも、かれの動静に神経をくばりつづけねばならないことになる。  考えたすえ、鳥小屋には顔を出さぬことにした。しかし、遠くからでも、ちらりとかれの姿を見ておきたくもあった。そこで、ぶらぶらと散策する足取りで、庫裡《くり》の裏手が目に入るところまで歩いた。  なるほど片隅に鳥小屋があった。 〈鳥がふえたら大佐も見にきてください〉  いつかセルビンが言っていたが、大野久庵はまだ出向いたことがなかったのだ。  鳥小屋の中に、着物姿のセルビンがいる。  餌をやっているのだろうか。あたりが仄暗《ほのぐら》くなりつつあるというのに、熱心に世話をしている。鳥たちとの別れを惜しんでいるのかもしれない。  逃亡計画をカムフラージュするつもりで鳥など飼いはじめたのだろうが、かえってそのことが河村憲兵中尉の不審を招いて、みずから墓穴を掘るはめになってしまったのは皮肉なことだ。  庫裡の中からバイオリンの音《ね》がかすかに流れてきた。曲はトロイカだ。捕虜たちの合唱が徐々に加わりはじめた。それを聞きながら、大野久庵は妙に立ち去りがたい思いで、じっとセルビンの姿を眺めていた。  小屋の中の鳥。  虜囚の象徴のようでもある。  あの鳥たちを、セルビンはあのまま置いてゆくつもりだろうか。それとも逃亡のまぎわに、一羽ずつそっと放してやるつもりだろうか。  トロイカの合唱が、大野久庵をひどく感傷的な気分に引き込んでいた。  あの男は——  と、かれは思った。  これまで、つねに正直だった。逃亡の意志を捨てぬということを、正面から宣言していた。正々堂々としていた。  であるのにこの自分は、あの男を卑劣な罠にかけようとしている。  捕虜たちはみな、自分の手の中にある鳥のようなものだ。自分は絶対的な強者の立場にいる。その強者が手の中の鳥に罠をかけ、打ちのめそうとしている。  恥を知れ大野久庵。  そんなまねをしてまで、らくをしたいか。保身をはかりたいか。  かれは鳥小屋に向かって歩きだした。衛兵と平尾通訳もあわててついてきた。 「セルビン中尉」  鳥小屋の前で、大野久庵は声をかけた。  セルビンはふり向かなかった。  平尾通訳が代わって呼びかけた。やはりふり返らない。 「……!」大野久庵は、硬直した。  ちがう。  この男はセルビンではない。 「おい、きさま、こっちを向け!」  それを訳す平尾通訳の声も、高くなった。  小屋の中で男がようやくふり返った。ペトロフ少尉だった。 「きみは、ここで何をしている」 「セルビン中尉にたのまれて鳥の世話をしているのです」 「なぜ、そんな格好をしている。それはセルビン中尉の着物ではないのか?」 「この格好でないと鳥が驚くから、と言われたのです」 「それで髪も刈り、ひげも剃《そ》り落としたのか?」 「そうしてくれ、と頼まれたのです」 「セルビンはどこだ」 「さあ、部屋で寝ているのではないですか」  大野久庵は衛兵を走らせた。  部屋にも、むろんセルビンはいなかった。  みずから鳥小屋の中に入りこんで、大野久庵は巣箱のうしろを見ようとした。  鳥たちが驚いて羽ばたき回り、かれの黒い軍帽にも上着にも、こまかな羽くずや糞《ふん》がふりかかった。  六つの巣箱の背後をすべて調べたが、コンパスもカンテラも見あたらなかった。出てきたのは新聞だけだった。英字新聞コーベ・ヘラルド。 「河村中尉につたえろ。セルビンが逃亡した!」  鳥小屋の中から網をつかんで、大野久庵は衛兵に怒鳴った。     9 「うちの娘らが何をしたとお言いるぞな、もし」  母が叫んで取りすがった。  いつかの朝、姉のおきぬ[#「きぬ」に傍点]が連行されたときの光景がくり返された。  だがこんどは、姉だけでなくおみつ[#「みつ」に傍点]自身も引っ立てられてゆくのだ。しかも二人とも、捕り縄で腕と腰をしばられているのだった。  おみつ[#「みつ」に傍点]は何が何やらわけがわからず、姉と顔を見合わせて、ただ呆然《ぼうぜん》としていた。  すでに日は暮れている。  カンテラを提げた憲兵たちに連れられ、彼女らはとぼとぼと歩いた。連行される道すじの両側から物見高い人びとが飛び出してきて、低声にさざめきながら二人を見送った。  二階の窓から覗きみる黒い影が、ランプの薄あかりの中に浮かび出ている家もあった。ドミトリエフ少佐の借家の二階にも、その影があった。  おみつ[#「みつ」に傍点]の目に不意に涙があふれてきて頬をつたい、顎《あご》からしたたり落ちた。 「ドイツ船が沖を通るのはあすの夜だ。であるのに、なぜセルビンは一日早く大蓮寺を脱走したのか」  大野久庵は古川通訳を相手に首をひねっていた。河村憲兵中尉はセルビン捜索の手配に駆け回っている。古川通訳は困ったような顔で眼鏡をふきはじめた。 「われわれに勘づかれたことを知って、出る予定を早めたのかもしれませんね」 「いや、そんなはずはない。勘づかれたことを知ったのなら、逃亡をいったん中止するはずだ。収容所を脱け出したその夜のうちに沖の船に拾われるのでない限り、逃亡の成功は万に一つもありえないからだ」 「かれが去年逃亡したときは、三晩ほど山中にひそんで四日目に浜で捕まったのでしたね」 「何日間ひそんでいようとも、浜へ出たとたんに捕まる。あの失敗をくり返すはずはない。いったん脱走したら、そのことをわれわれに気づかれる前に、まっしぐらに海へ出る。こんどは、やつはそうするつもりでいたはずだ」 「だとすると、一日早めに海へ逃げて、そこでゆっくり船を待つことにしたのでしょうか」 「いいや、それもありえん。あすの朝になれば、いやでもやつの脱走は露見する。当然われわれは、ただちに海上も捜索する。夜、めあての船が通りかかるまで、やつが見つからずにおれるわけはない」 「しかし大佐殿。逃亡する俘虜《ふりよ》の心理というのは、それほど冷静で沈着なものではないでしょう。焦《あせ》りや興奮のせいで、えてしてそういう失敗を犯してしまうのではありませんかな」 「うむ……かもしれんが」  そのとき下士官のひとりが報告にきた。 「ドミトリエフ海軍少佐殿が出頭してまいりました」 「ドミトリエフが? 出頭?」  大野久庵は古川通訳と目を見合わせた。  大野久庵の執務室に通されたドミトリエフは、開口一番、 「さきほど連行した娘たちを、即刻解放していただきたい」  と要求した。「セルビン騎兵中尉の逃亡準備に協力したのは、このわたしです」  大野久庵はしばらくドミトリエフの青い目を見あげていたが、やがておだやかに椅子をすすめた。ドミトリエフの巨体の下で、椅子が苦しげに軋《きし》んだ。 「娘たちはもう返したよ」  大野久庵はそう答えた。 「それは、ほんとうですか?」 「あの者たちが無関係であることは、五分も訊問《じんもん》せぬうちに判った。だから、すぐに帰した。あすは、親のところへ詫《わ》びにゆくつもりだ」 「それを聞いて安心しました」 「いや、安心してもらうわけにはいかんね。こんどはきみの罪状を追及せねばならん」 「わかっていますよ。そのつもりでやって来たのですから」  執務室の電灯の下で、ドミトリエフの血色は、いつにも増して良かった。家で酒を飲んでいたのだろう。 「コンパスやカンテラは、きみが持ちこんだのかね」 「その通り」 「新聞もかね?」 「むろんです。行きあたりばったりではなく、船の航行予定を確認したうえで逃げることを、わたしが助言しました」  大野久庵は、すこし間《ま》をとってくちひげを撫《な》でた。 「きみもセルビンと性格が似ているな」 「どういうことですか?」 「しゃべりすぎる、ということだ。いさぎよさを重んじるのは結構だが、それで身を滅ぼすかもしれんぞ」 「それは、わたしへの忠告ですか?」 「そう釈《と》ってもらってもいい」 「わたしがこうやって出てきたのは、何もいさぎよさのためばかりではありませんよ」 「どういうことだ」  こんどは大野久庵がそう訊《たず》ねた。 「わたしは、いちどあなたを裏切ってやりたいと思っていた」 「ん?」 「ただし、こっそり裏切ったのではおもしろくない。裏切りをあなたの面前で見せつけてやりたかった。わたしにはあなたを裏切る権利がある。誓約書にそむいて、あなたにくやしい思いをさせる権利がある」  大野久庵は、ドミトリエフのいう意味がようやくわかった。  かれは思い出した。ドミトリエフは旅順の捕虜である。例の『軍刀領置事件』のさい、自分のサーベルを膝《ひざ》でまっぷたつに折って床に叩《たた》きつけた将校たちの中に、ドミトリエフもいたのだ。  大野久庵は、ドミトリエフの言葉を無視して質問をつづけた。 「セルビンはどこにひそんでいるのだ」 「それは知らない」 「知っていたところで教えるわけはないだろうな。しかし、同じことだ。あの男の逃亡は、もはや事実上失敗している。捕まるのは、時間の問題だ」 「……」ドミトリエフは無言だった。 「きみは、わしを裏切って、さぞ胸のつかえがおりたかもしれんが、代わりにもっと大きな代償を支払うことになるのだぞ」 「覚悟の上ですよ」 「とにかく、これまできみに認めた諸権利はすべて剥奪《はくだつ》する。借家での妻子との同居はむろんのこと、自由外出の許可も取り消される。なお、今夜から一ヵ月間、松山連隊の営倉で寝てもらう」  その宣告を古川通訳が訳しおえると、ドミトリエフは巨体をゆすって立ちあがり、大野久庵を昂然《こうぜん》と見おろしながら、もういちど言った。 「覚悟の上だ」     10  母は安堵《あんど》しておいおい泣いている。  おみつ[#「みつ」に傍点]はまだ頭がぼうっとしており、畳にぺったりと尻をついてへたりこんでいた。 「おきぬ[#「きぬ」に傍点]。あれ、おきぬ[#「きぬ」に傍点]はどこへ行ったぞな」  ひと泣きして、やや落ちついたとき、母が狭い家の中を見まわした。おみつ[#「みつ」に傍点]もネジのゆるんだような鈍い動きで、まわりを見た。母が卓袱台《ちやぶだい》に手をついて立ちあがった。 「厠《かわや》じゃろうかな」  言いながら土間へおり、戸口から外をのぞいた。 「おきぬ[#「きぬ」に傍点]」  母の声が外の厠に呼びかけている。 「おかしいぞな。おきぬ[#「きぬ」に傍点]がおらんぞな」  おみつ[#「みつ」に傍点]も立ちあがって姉の姿を捜した。  姉はどこにもいなかった。履き物もない。  おみつ[#「みつ」に傍点]はふと気づいて納戸《なんど》をあけ、姉専用の柳行李《やなぎごうり》のふたをとった。浴衣《ゆかた》や着物や帯などがおさめられたその底に、ある物が隠してあることを、おみつ[#「みつ」に傍点]は知っていたのだ。  それは手のひらに載る大きさの、銀でできた薄い化粧品容器で、花模様の彫られた蓋《ふた》のうらに鏡がついている物だった。ロシアの捕虜将校からの贈り物のひとつだ。なぜか憲兵に取りあげられずにすみ、そのまま姉がひそかに隠し持っているのをおみつ[#「みつ」に傍点]は知っていた。姉の留守にこっそり取り出しては、うらやみながら見惚《みと》れていたのだ。  柳行李に手を入れて、おみつ[#「みつ」に傍点]はそれをさぐった。  入念にさぐったが、やはりなかった。 「ねえさん、家出したぞな」  おみつ[#「みつ」に傍点]は母をふり返って、そういった。  大野久庵は、まだこだわっていた。  なぜ、セルビンは脱走を一日早めたのか。  四国は島だ。収容所からの脱走は簡単だが、逃亡はむずかしい。そのむずかしさを、かれは去年の失敗によって充分に学んでいるはずなのだ。  収容所を脱け出すのは、沖を船が通る当日でなければならない。なぜ、そうしなかったのか。  当日。……当日?  ——大野久庵の背を熱い電気がはしった。  かれは机に手をのばして新聞をつかんだ。  セルビンの鳥小屋から押収したコーベ・ヘラルド。その船舶入出港予定欄をもういちどにらんだ。  ドイツ籍貨物船リューベック号、次港上海、出港予定日時四月二十八日十三時。——そこをペンで囲んである。  しかし、入出港予定欄には、他に何隻もの船の名が記されている。  四月二十七日。つまりきょう出港予定の船は……  大野久庵の目が一ヵ所で止まった。  フランス籍貨物船ラポール号、次港上海、出港予定日時四月二十七日十三時。  フランスもロシア寄りの国だ。  そうか、やつの本当のめあては最初からこの船だったのだ。 「あざむいたな、セルビン」  大野久庵はうめいた。  セルビンは、すでに浜にいるのだ。もう瀬戸内海へ漕《こ》ぎ出したかもしれない。  捜索隊はすべて出払っている。しかも今夜は陸を重点に捜すことになっている。  大野久庵は椅子から立った。 「馬だ。馬をひけ!」  かれは階段を駆けおりた。 「どこへ行くぞな!」  母が叫んだ。 「ねえさん、つれもどしにぞな!」  おみつ[#「みつ」に傍点]は叫び返して夜道を走りだした。  大野久庵は老馬を駆《か》って、濠《ほり》沿いの西堀端の通りを北へむかい、三津《みつ》街道を左へ折れた。三津街道を四キロたらず駆《はし》れば三津浜だ。三津浜から海岸沿いに北へゆけば高浜である。セルビンはおそらくそのあたりの浜で漁師の小舟を盗み、沖へ漕ぎ出しつつあるのだろう。  舟の管理について漁師たちにきびしい通達を出しても、ほとんど守られていない。盗んで海へ出るのは、馬を乗り逃げするよりも簡単であろう。  大野久庵はあせって馬の腹に蹴《け》りを入れたが、その程度で発奮するような気力は、とうの昔にこの馬からは失われている。かれはあきらめて馬を責めるのをやめ、速歩《トロツト》の足取りで浜をめざした。  月が出ている。  月の表面を薄雲のきれはしが、すばやく掃《は》き撫でてゆく。風がつよい。  海には波が立っているはずだ。  おみつ[#「みつ」に傍点]は夢中で走った。  着物のすそをからげて帯にたくしこみ、浜への道を走った。途中で片方の下駄が割れた。歯がなくなるほどに薄く磨《す》り減っていた下駄だ。片方だけでは走りにくい。もう一方も捨てて裸足《はだし》になった。  姉は脱走したロシア将校と一緒に行くつもりなのだ。髪留めや、指輪や、帯や、それにあの鏡のついた銀の化粧品容器をくれた将校だろう。  その男と知り合って以来、姉は様子がおかしくなった。以前の姉ではなくなってしまった。まるでよその女のように、母やおみつ[#「みつ」に傍点]とのあいだに見えない屏風《びようぶ》を立ててしまった。  憲兵に引っぱられ、きつく叱られて帰ってきてからは、その男のことを口にしなくなったが、しかしおみつ[#「みつ」に傍点]は知っている。姉はいまもその男のことしか頭にないのだ。 〈うち、ロシアの将校さんに嫁にしてもろうて、戦争がすんだら、あちらで貴族になったろうかな〉  たわけっ、と母に怒鳴られた姉だが、あれは戯《ざ》れごとなんかではない。姉は本気で願っていたのだ。あれは姉の胸に竜巻のように渦巻いている、せつない願いだったのだ。  ねえさんの愚かもん。うちが頬っぺた張り倒して目ェさまさしてやるぞな。  おみつ[#「みつ」に傍点]はときどき粗《あら》い小石を踏んで、痛みに跳びはねながら、月あかりの道を、息をきらして走った。  三津浜の砂の上に、大野久庵は馬で乗り入れた。  ここは古くからの漁港だ。入江が深く入りこんでいる。  かれの予感では、セルビンはこの浜から海に出る計画にちがいなかった。松山の町からは、この浜が最も近いからだ。  大蓮寺の収容所を脱走したあとは、それが発覚して追手がかかる前に、できるだけ早く陸を離れて瀬戸内海に出なければならない。——セルビンはきっとそう考えて、最短距離の、この浜を選ぶはずだった。  ひづめが砂にめり込む不安定な馬の足取り。それを両の鐙《あぶみ》を通じて膝《ひざ》に感じながら、大野久庵は浜を端から端まで往復した。  浜には人影はなかった。  かれは目をこらして海上をすかし見た。  風に掻《か》きあげられた波頭が、月の光に白く泡立ち、それが沖までつづいていた。  右手に黒く横たわるのは興居島《ごごしま》だ。その興居島を起点に、大野久庵は視線を一寸きざみで左へ移していった。やや遠視ぎみの目が、沖の波頭を、まるで手さぐりするように入念に点検してゆく。  そして、かれは見つけた。 「……ばかもんが」  大野久庵は舌打ちした。「ばかもんが……もっとしっかり漕《こ》がんか」  おみつ[#「みつ」に傍点]が浜に着いたとき、男の叫び声が聞こえた。  何を叫んでいるのか。はじめは判らなかった。おみつ[#「みつ」に傍点]の耳は、はげしい呼吸と脈動のせいでジーンと痛んでいたし、頭もすこしふらふらしていたし、それに何より浜の風が強かったからだ。  浜に引き上げられたたくさんの舟のあいだをぬけ、砂に足をとられてよろめきながら、おみつ[#「みつ」に傍点]は声の主を捜した。  声の主は馬に乗っていた。馬に乗った黒い服の男だった。月あかりで、おみつ[#「みつ」に傍点]はその顔をかろうじて見わけた。松山俘虜収容所の所長だった。さっきおみつ[#「みつ」に傍点]は姉とともにその男の取り調べを受けたばかりだった。  驚いて、思わずそばの舟の陰に身を隠した。 「おみつ[#「みつ」に傍点]」  とつぜん背中でそう呼ばれた。  おしころした声だったが、ふり向く前に誰の声であるかは判っていた。 「ねえさん」  おみつ[#「みつ」に傍点]は姉のからだに抱きついた。「ロシアの俘虜といっしょに、もう沖へ出ておしまいたかと思うたぞな」  おさえた声のままで姉がいった。 「うちがいっしょに行けるわけはないじゃろうがな。あのひとは、一人で行っておしまいたぞな。つれておくれんかなゆうたんじゃけれど、叱られてしもうたぞな。うちは、このところ、叱られてばっかりじゃがな」  おみつ[#「みつ」に傍点]は首をねじ向けてうしろを見た。  収容所長の叫び声が、また耳に入ってきたのだ。 「浜のしゅう!」  そう聞こえた。 「浜の衆、出てきてくれ!」  その叫びをさっきから繰り返しているのだった。そして、それを聞きつけて、ようやく何人かの人影が背後の民家から出てきたところだった。 「浜の衆、あれを助けろ! あれを助けてやってくれ!」  所長の声は叫びすぎて掠《かす》れかけていた。 「あそこに見えるだろう。あの沖で舟が波にもまれとる。波にもまれて流されとるんだ。そうだ、あれだ。あれを助けてやってくれ」  おみつ[#「みつ」に傍点]は姉とともに舟の陰から出て、収容所長が指さす沖を、夢中で見つめた。  姉妹の髪を、風が乱暴になぶった。     11  ピョートル・M・セルビン騎兵中尉は、善通寺《ぜんつうじ》にある第十一師団司令部で軍法会議にかけられ、流刑十五年を言い渡されて、高松の監獄に送られた。  しかし、その年の秋、日露講和条約の発効により釈放され、やがて他の捕虜たちとともに、送還船で故国へむかった。  ドミトリエフ海軍少佐の娘が高浜の桟橋から長崎行きの船に乗るとき、おみつ[#「みつ」に傍点]はこっそり見送りに行った。  見送りのことは少女本人にも言わなかったので、相手はまったく気づかずに父母とともにすたすたと上船してしまった。  それでおみつ[#「みつ」に傍点]は、誰にともなく捕虜たちのみんなに手をふることにした。  桟橋の上に収容所長の下ぶくれの顔が見えた。何かこわい顔をして船をにらんでいた。  出港まぎわに、捕虜の中の、いちばん位の高そうな老人が、収容所長と向かい合って立った。ねずみ色のひげが顔じゅうをおおっている大きなロシア人だった。  船の上から大勢の捕虜が見守る中で、ふたりが敬礼をしあった。ずいぶん長い敬礼だった。  船が出て小さく遠ざかったあとも、収容所長は、桟橋に立って沖を眺めつづけていた。 [#改ページ]   お蝶ごろし  お蝶《ちよう》が殺されたのは、夫の留守中だった。  夫は清水の次郎長である。  維新後まもない明治二年、しめっぽい風のふく初夏の白昼だった。  殺されたお蝶は、次郎長の三人目の妻だった。  やくざ同士の喧嘩《でいり》ではない。  男と女の事件である。  犯人とされたのは、木暮《こぐれ》半次郎という名の三十すぎの侍だった。お蝶が深川《ふかがわ》で芸者をしていたころからの、古いなじみだった。  刀で首のつけ根から袈裟《けさ》がけに斬りつけられたお蝶。しばらくは息があったが、夕刻に絶命した。  木暮半次郎のほうも、その日のうちに殺されている。  山すその小寺に隠れていたのを次郎長の子分たちに見つけだされ、寺のうらの田んぼの畦道《あぜみち》で討ち果たされた。木暮半次郎は直心影《じきしんかげ》流のつかい手だった。七人の討手《うつて》をかなり手こずらせた。しかし投石を顔面にうけてひるんだ隙に、槍《やり》で下腹をつらぬかれ、あとは寄ってたかって長脇差《ながわきざし》を突き立てられた。     1  お蝶と木暮半次郎。  ふたりが清水で再会したのは、その前の年の秋である。五年ぶりの出あいだった。  朝から蒸し暑く、夏がもどったような妙な天気の日だった。  お蝶はにぎり飯《めし》をはこんでいた。あねさんかぶりをして襷《たすき》をかけ、笊《ざる》に盛ったにぎり飯を配ってあるいていた。  それを受けとるのは、江戸から清水港に到着したばかりの老若男女。品川沖から蒸気船に乗ってやってきた群衆だった。その数、二千数百人。子供もおり、妊婦もおり、病人もいた。  船倉にすし詰めにされて二日半、高い波に揺すられ通しだったため、だれの顔もみな青ざめ、手荷物にもたれてぐったりしていた。 「あわれなもんだねえ、姐《あね》さん」  お蝶のうしろでつぶやいたのは、清水一家の若い者で安吉という男だ。お蝶と同じく、にぎり飯の笊《ざる》を抱えている。 「お武家もこうなりゃ、ざまあねえっけやあ」 「ばか、およし」  お蝶は声をひそめて叱った。「黙ってお配り申しあげな」  目の前にうずくまっている群衆は、旧幕臣とその家族である。  幕府は、すでに無い。  徳川家は駿府《すんぷ》(静岡)藩の藩主として残されたが、しかし抱えていた家臣のすべてを養いつづける力はなく、大勢の者が召し放された。つまり捨てられた。  主人をうしなったかれらは途方にくれたが、どこへ行くあてもなく、けっきょく旧主のあとを追って駿府へ移住してくる者があとを絶たなかった。  徳川家としても、さすがにかれらを不憫《ふびん》に思ったとみえる。アメリカ船を一隻借り上げ、移住希望者を清水まで運んだ。上陸させたあとも三日間は炊《た》き出しをおこなって、飢えをしのがせた。  その炊き出しの仕事に、次郎長一家も加わっていたのだ。藩庁からの要請だった。にぎり飯や粥《かゆ》を用意して、上陸者たちに配った。 「どうぞ、お召しあがりなさいまし。さ、そちらさまも」  お蝶がさし出すにぎり飯を、しかし、顔をそむけて受けとらぬ者もいる。船酔いのせいばかりではないようだ。  痩《や》せ我慢かもしれなかった。  かれらの武家としての体面は、きょうここに至るまでに、さんざん傷つけられ、剥《は》ぎとられてきたはずだが、だからこそなおさら、こんな餌《えさ》まきのような施《ほどこ》しに耐えられず、痩せ我慢をしているのかもしれなかった。  お蝶はむり強《じ》いせずに、求める者だけに手早く配ってまわった。 「姐さん」  安吉が、またうしろから声をかけた。  お蝶がふり向くと、かれは空をあおいでみせた。 「こりゃあ、ひと雨くるだよ」  夢中になっていて気がつかなかったが、なるほど空の一角がみるみる黒ずんできている。有度山《うどやま》の低い尾根を、墨いろの雲が這《は》いわたってゆく。首をめぐらせて巴《ともえ》川の対岸に目をやると、さっきまで山腹に日をうけていた富士の山も、煙幕にさえぎられたように、見えなくなっていた。「困るじゃないか、こんなときに降られたら」 「わっしに怒ったって、しょんねえずら」  いっている間にも、遠雷が聞こえてきた。  上陸者の群れに、ざわめきがひろがった。かれらの仮り住まいとして、駿府と清水に、寺や民家が用意されているが、まだその割り振りも終わっていない。  ともかくも屋根か庇《ひさし》のある場所をもとめて、かれらはわれ先に移動をはじめた。炊き出しにきた者たちも、米や釜《かま》に油紙をかぶせて、避難した。  人で埋まっていた河岸《かし》が、ほこりっぽい地面を見せてがらんと空《す》いた。置き去りにされて泣きだした幼児を、姉娘があわてて迎えにきたが、そのときにはもう雨が落ちはじめていた。  季節はずれの夕立ちである。  大つぶの雨滴がそこらじゅうで白くしぶいた。つかのま人声もやみ、人家や倉の中から、いくつもの顔が、うつろな目で雨の河岸をながめた。  お蝶が雨やどりしたのは山形屋という茶問屋の倉庫だった。横浜への出荷を終えたばかりで空《から》になっていた倉だ。これも藩庁の要請で扉を開放し、休憩所代わりに使われていたのである。  お蝶は出入口のそばに佇《たたず》んでいた。  自分のほかに一家の者が誰かいるかと見まわしたが、周囲の顔は見知らぬ移住者ばかりだった。  屋外が、青白くひかった。  ついで雷鳴が天地にとどろき、お蝶は身をすくめた。倉庫の奥のほうから子供の泣き声がきこえた。  お蝶の肩に誰かの手がふれたのは、そのときだ。 「おまえ、お綱《つな》であろう」  むかしの名前を呼ばれて、お蝶はおどろきながら目をあげた。  お蝶と木暮半次郎の再会。  その光景を、偶然みていた者がいた。  清水一家の子分のひとり、増川《ますかわ》の仙《せん》右衛門《えもん》である。かれは伊勢屋という船頭宿の二階にいた。斜め下にみえる茶問屋の倉庫の出入口。そこに立っているお蝶の姿が、仙右衛門の目にとまった。  この男は、富士山のふもとにある増川村の博徒の息子だった。若いころに博徒どうしのいざこざから父親が殺され、その仇《かたき》を討つために次郎長のたすけを借りたのがきっかけで、子分になった。いまはすでに三十三歳。一家では大政《おおまさ》につぐ柱とみなされており、次郎長の信頼も厚かった。  あれは、姐《あね》さんじゃねえか。あんなところにいたんじゃあ、しぶきが降りかかって濡《ぬ》れっちまわあ。  若い者に傘を持たせて迎えにやろう。そう思ったとき、ひとりの侍がお蝶の肩に手をのばすのが見え、かれは浮かせかけた腰をもどした。そして、はげしく降りおちる雨脚をすかして、お蝶と侍のようすを、しばらく眺めていたのだった。 「あれまあ、お久しゅうござんす」  お蝶は窮屈な場所で、まわりの者の邪魔にならぬ程度に小腰をかがめた。 「そうか、やはりおまえだったか」  木暮半次郎は白い歯をみせて笑った。「いいおかみさんの姿《なり》をしているから、はじめは人違いかとも思ったが」  お蝶は、このとき二十九歳。  小粋《こいき》な容姿と気風《きつぷ》のよさに次郎長が惚《ほ》れたといわれるだけあって、その垢《あか》ぬけた器量は、この土地では人目をひいた。  しかし、深川でお座敷に出ていたころにくらべれば、見た目がかなり変わっている。結婚して眉《まゆ》を剃《そ》り、お歯黒をつけているためだ。にもかかわらず自分に気づいてくれた半次郎の目のするどさに、お蝶は感心していた。  まじまじと見つめられて少し赤くなりながら、お蝶はあねさんかぶりの手ぬぐいを取った。髷《まげ》をこわさぬように、そっと取った。  木暮半次郎は三十二歳になるはずである。  仲間とつれだって深川へかよってきた遊び好きの若侍が、いまや年を経て、それなりに老《ふ》けている。しかもこの数年、侍の世界に吹き荒れた未曾有《みぞう》の大嵐をくぐってきたせいか、相貌《そうぼう》がすっかり引きしまっていた。男らしい落ちつきが、目や口元にあらわれている。  だが、顎《あご》のかたちがすっきりとしてすがすがしいところは昔のままだ。そのことがお蝶をなつかしい気持ちにさせた。  お蝶とかれとは、しかし過去に特別な仲であったわけではない。  深川時代、お蝶には情人《こいびと》がいたが、それはほかの男だった。木暮半次郎は、その情人の友としてお蝶と顔なじみになったにすぎない。 「おなつかしゅうござんすね、ほんとうに」  深川時代のさまざまな思い出。それがふいに胸にあふれてくるのを覚えながら、お蝶は半次郎の顔をみつめ返した。  外ははげしい雨にけむり、ザーッという雨音がふたりをつつんでいる。 「だが残念であろう」 「何がでござんす?」 「ここにいるのがおれではなく、新之助ならなお良かったものをと、おまえ、いまそう思っているのであろう」  半次郎は笑顔のまま、やや声をひそめるようにして、そういった。  山崎新之助、というのがかつてのお蝶の情人《こいびと》の名だ。  お蝶は鷹揚《おうよう》にわらった。 「まあ、古い話を。もう新さんの顔さえ忘れましたさ。これでも、いまじゃ人の妻でござんすからね」 「これは失敬なことを口にした」  半次郎はまじめな目で詫《わ》びた。 「で、どちらのお内儀《ないぎ》となった。商家か?」  お蝶は視線を相手の胸元へさげた。 「申しあげたら、あなた、眉をおひそめになりましょ」 「ということは、あれか、官軍の者か?」 「ちがいまする」  上目づかいに半次郎をすくい見た。知らず知らず、芸者時代の媚《こび》がしぐさによみがえってきている。お蝶はそのことに自分で気づいた。 「そんな気張ったものではござんせぬ」 「じらさずに教えぬか」 「ばくち打ちの嬶《かかあ》でござんすよ」 「博徒《ばくと》か。ほう」  間のぬけた声だった。言葉に困っているようすだった。 「ほう」  とお蝶も半次郎の口まねをした。  かれは苦笑した。 「で、名は?」 「山本長五郎と申します。土地では次郎長と呼ばれて、そのほうが通りがよござんすけれど」 「そうか。……ま、それもよいではないか。いまどき木《こ》っ葉《ぱ》侍の妻などになるよりは、よほどよい」  半次郎は、外の雨に目をやった。  かれのことについては、お蝶は何も訊《たず》ねようとしなかった。  きくまでもない。かれもきょうの船で江戸から到着した移住者のひとりであろう。そう思ったからだ。徳川家から召し放されて失職状態の、無禄《むろく》移住者のひとり。  ところが、そうではなかった。  雨の河岸《かし》をながめながら、半次郎はこういったのだ。 「おれはいま、久能山《くのうざん》にいるのだ」 「久能のお山に? ということは、あなた」 「うむ、新番組の隊士をしている」 「まあ、さようでござんしたか」  新番組。  ついこのあいだまでは精鋭隊とよばれていた総勢百名あまりの武士団である。  精鋭隊は、幕府最後の将軍・徳川|慶喜《よしのぶ》の親衛隊であった。ことし四月、慶喜が江戸城を官軍にあけわたして水戸へひきこもる際に護衛として随行し、おなじく七月、慶喜がさらに駿府へ身を移したときも、そのまま付き従ってきた。  その名のとおり、腕の立つ精鋭があつまっていた。しかし、官軍に恭順し、駿府で蟄居《ちつきよ》生活をはじめた慶喜のそばにいても、かれらには、もはやこれといった仕事はなかった。  そこで、久能山東照宮の警衛任務をあてがわれることになった。久能山は、駿府と清水のあいだにある海沿いの小峰である。そのいただきにある東照宮には、日光と同様、家康が祀《まつ》られている。  いわば名目だけの、ほとんど実体のない仕事をさずけられたわけだった。以来、隊の名も新番組と変えさせられてしまった。  木暮半次郎はその隊士なのだという。 「きょうは江戸からの船が入ると聞いて、様子を見にきたのさ。もしや新之助がおりはせぬかと思ってな。そうしたところが、何とお綱、新之助のかわりにおまえに出くわすとは妙なものよ」  雷鳴が、また空をわたった。  お蝶も顔を外へむけ、降りしきる雨をながめた。だが雨を見てはいず、山崎新之助のおもかげを胸のなかで見ていた。  もう、むかしの男である。  いまさら何の未練があるわけでもない。  何も訊《き》かずにおこう。  思ったものの、我慢がつづかなかった。新之助の消息を、やはり知りたくなった。 「新さんは、まだ江戸に……?」  さりげない声で、そう訊いた。 「うむ、それがよく判らんのだ」  半次郎は眉をよせて腕組みをした。袖の下からのぞく大刀《だいとう》の柄《つか》。黒の柄糸《つかいと》が、すこし褪《あ》せかけている。 「五月の十五日以来、ゆくえ知れずなのだ」 「五月の十五日と申しましたら、上野で戦《いくさ》のあった日ではござんせぬか」 「そのとおりだ。あの日、新之助も彰義《しようぎ》隊にくわわって上野にたてこもっていた」 「……」お蝶は胸をおさえた。  半次郎が語るところによれば、山崎新之助は幕府軍の士官として、ことしから西の丸警護の奥詰《おくづめ》銃隊に配属されていたのだという。  ところが、江戸城が官軍にあけわたされることを知った直後、かれは幕府軍を脱走して上野に走り、彰義隊に参加した。 「じつはそのとき、新之助はおれをも誘いにきたのだが、おれは行かなかったのだ。で、とうとう五月の十五日だ。官軍の一斉攻撃で上野が陥《お》ちたあと、仲間の残党とともに、あいつも姿をくらました」 「まさか戦死なすったんじゃあ……」  お蝶はおもわず半次郎の腕に手をのばしていた。半次郎は腕組みをしたまま首を横にふった。 「いや、それはないはずだ。仲間といっしょに落ちのびたようだ」 「たしかでござんすか?」 「あとで官軍に捕まった仲間が、そういっているそうだ」 「では、いまごろは奥州《おうしゆう》に……」  恭順をこばんで幕府軍を脱走した者たちが北へのがれて、いまもなお官軍に抵抗していることを、お蝶も聞き知っていた。 「ところがその形跡もないのだ。おそらく、どこかに潜伏しているのであろう」 「潜伏?」 「残党狩りの目をのがれてな」 「つろうござんしょうね」 「もしや、姿かたちを変えてこの者たちの中にまぎれ込んじゃいまいかと、そう思って来てみたんだが、ふん、どうやらその様子もなさそうだ」  半次郎は首をふり向けて背後をみた。雨やどりの移住者で埋まった倉庫の中。私語のざわめきと、むっとする人いきれが、うす暗い土間にみちていた。  雨のいきおいが衰え、小止みになり、やがて日差しが洩《も》れてきた。  待ちかねたように河岸《かし》で人がうごきはじめた。  船頭宿の二階にいる増川の仙右衛門。かれの目の下で、お蝶と侍は会釈《えしやく》をかわして別れた。別れたあとの侍の背中を、お蝶はふり向いてじっと見送っていた。  仙右衛門は太い眉《まゆ》をあげ、あごを撫《な》でながら遠くをみた。  町の屋根。そのむこうの妙慶寺《みようけいじ》の木立。すっかり濡《ぬ》れそぼち、軒先や枝から降る雫《しずく》が、きらきらとひかっていた。  この日のことを、仙右衛門は誰にもいわなかった。いう必要もないことだと思っていた。     2  お蝶はぼんやりしていた。  木暮半次郎と再会して以来、そういうことが多くなった。何かの仕事の途中、気がつくと手が止まって、ぼんやりと考えている。  かつての情人《こいびと》、山崎新之助のことを考えているのだった。  上野で戦ったあと、ゆくえ知れず。  半次郎からそう聞かされて以来、お蝶の胸のなかに新之助の顔が居すわって離れなかった。  どこにどうしていると判っていれば、これほど気にはならなかったのかもしれない。しかし消息不明という言葉が、お蝶の心を捉《とら》え、みだしていた。  お蝶の目にうかぶ新之助の顔は、五年前のものである。深川を出てからは、いちども会っていない。  あのころの新之助は、比較的裕福な旗本の次男だった。兄が病弱なため、いずれはかれが家督《かとく》をつぐことになるだろうといわれていた。  苦労しらずの若者だった。  いたずら小僧がそのまま大きくなったようなところがあり、少々乱暴で、わがままな振る舞いも多かった。しかし切れ長の目もとに役者のような色気があって、女たちに騒がれていた。  新之助の左の上腕《かいな》の、ちいさな古い火傷《やけど》のあと。何度も指でなぞったことのあるその引きつれが、お蝶の目に浮かんでくる。 「それはな、ずっとむかし姉にやられたのよ」  と新之助はいった。「きつい姉でな。火箸《ひばし》で叩《たた》きおった」 「あれま、おそろしい」 「火箸が焼けていたのに気づかなんだのさ。おれの火傷をみて、あとでおいおい泣いておった。きついが情《じよう》もあった。おれはあの姉が、たれより好きだった」 「いま、おいくつで?」 「はたちで死んだ」 「お気の毒な」 「……おまえにな、よく似ておった」 「……」  ふたりはずるずると深間《ふかま》にはまっていったが、新之助の身内は、むろんそれを喜ぶはずがない。再三いさめても肯《き》かぬため、ついにはかれに謹慎を命じた。  それでも抜け出して、脇差を金に替えてまでやってくる新之助だった。しかし、いつまでも続けられる仲ではなかった。そのことは、お蝶(当時お綱)にもよくわかっていた。  心をきめて、新之助と切れることにした。ついでに深川も離れることにした。お侠《きやん》だの粋《いき》だのといわれていい気になっていた辰巳《たつみ》芸者の暮らしにも、何かむなしさを感じはじめていた。  身をしばっていた借金は、六年間の座敷づとめで何とか返しおえていたから、廃業するのに不都合はなかった。  新之助にはだまって伊豆へ湯治《とうじ》にゆき、気持ちの中からかれを洗いながすことにつとめた。ひと月後、そのまま西へむかった。生まれ故郷の伊勢へと足が向いたのだが、帰ったところで歓迎してくれる者はいない。そう気づいて、途中の駿府に腰をおちつけた。  いまさら芸者で売り出す歳でもないと思い、料理茶屋ではたらきはじめた。  その店で、翌年、次郎長と出あった。  ひき合わせたのは、安東の文吉《ぶんきち》だった。駿府を縄張りにする博徒の親分である。  力士くずれの博徒というのはめずらしくない。安東の文吉もそのひとりだった。若いころに江戸へ出て相撲《すもう》取りになろうとしたが、足をいためたため諦《あきら》めて帰郷し、ばくち打ちになった。  お綱(お蝶)が駿府にやってきたとき、安東の文吉は五十六歳。海道すじの大親分であり、駿府代官から十手《じつて》捕縄と関所の通行札をあずかる身だった。  ある日、お綱が二階座敷に盃盤《はいばん》をはこんでゆくと、すでに何度か顔を合わせたことのある安東の文吉が、床柱《とこばしら》を背にどっかりとあぐらをかいていた。そのわきの座に、もうひとりの男が、畏《かしこま》った顔つきで神妙にひかえている。 「おう来た来た」  と文吉は手をうって、「ようお綱さんよ、いま、おめえさんの話をしていたところだに」  いつもどおりの柔和な目元だった。 「え、あたしの話を?」 「そうともよ。江戸からちいっといい女が流れてきたで、ひと目おがんでおくがいいと、この男に話していたところずら」  お綱は斜めに文吉をにらんでみせ、 「そうやって、たんと肴《さかな》になさいましな。もう親分さんのお席には上がっちゃまいりませんから」  月並な照れかくしをいった。 「はは、まあそういうな」  文吉は機嫌よくわらって、かたわらの男をあごで示した。 「これは清水の次郎長どんだ。若《わけ》えころは、とんでもねえ暴れん坊だったが、ちかごらあすっかりいい男になっちまって、海道すじで売り出し中だ。おめえさんも名前ぐらいは耳にしていたずら」  お綱は聞いたこともなかったが、 「はい、お名前はかねがね」  そつなく答え、両手をそろえて挨拶《あいさつ》した。  次郎長は、うなずきながら、お綱をじっとみた。 「安東の親分とは格ちがいの三下《さんした》だが、まあ、見知っておいてもらおうかい」  かれはこのとき四十五歳。  せり出したひたいの下の、細い、するどい目に、お綱はすこし圧迫感をおぼえた。よく日に灼《や》け、鼻が平たくすわり、口がやけに大きくて、への字形をしている。  お綱はまず文吉に酌をし、つづいて次郎長にも銚子《ちようし》をさし向けようとした。 「おっと、そっちはいらねえだよ」  文吉が制した。 「え?」 「樽《たる》でも飲み干しそうな、ふてえ面《つら》ァしてやがるっけえが、このご仁《じん》、酒はからっきしだあ」 「おや、そうでござんしたか」  銚子を手にしたまま、お綱が一瞬とまどっていると、 「茶をくれ。熱いのをな」  次郎長は低くいって、ふしくれだった手で、髷《まげ》の鬢《びん》をかるく撫でつけた。  その髪の質が娘のように細く柔らかそうで、全身からただよう武張《ぶば》った雰囲気にそぐわない。それを発見して、お綱はようやくこの男に、すこしだけ親しみを感じた。  以来、次郎長は駿府を通るたびに、お綱のいる店に寄ってゆくようになった。一人のときもあり、子分の大政や増川の仙右衛門らを伴っているときもあった。  次郎長は酒を飲まぬかわりに大めし食いだった。料理茶屋に来てさえ、何杯もめしのおかわりをする。そういう気取りのない野暮《やぼ》ったさが、お綱はしかし嫌いではない。 「ねえ、親分さん」  膳《ぜん》のかたわらで給仕をしながら、お綱はかれとしだいに気やすく話をかわすようになった。 「なんだ」 「ご本名は長五郎さんとおっしゃるんでござんしょう?」 「おう」 「それがなぜ次郎長さんと呼ばれていらっしゃるんで?」 「それはよ」  次郎長も箸《はし》をやすめて、「おれの養父《やしないおや》が次郎八という名でよ。次郎八のせがれの長五郎だで、次郎長だ。ちいせえころからの通り名よ」  そして問わず語りに少年時代の悪たれぶりを、自分でにがわらいしながらお綱に聞かせたりするのだった。  やがて夏の盛りのある日。  ひさしぶりに一人で立ち寄った次郎長は、料理を食べおえたあと、ふところから手ぬぐいを出して首の汗をぬぐいはじめた。食事のあいだ中、そばからお綱が団扇《うちわ》であおいでいたのだが、それでも汗が吹き出てきたようだ。  お綱は立ちあがって次郎長のうしろに回った。 「親分さん、あたしがお拭《ふ》きしますゆえ、肌ぬぎにおなんなさいな」 「そうかい、すまねえっけなあ」  かれは特別大きな男ではない。しかし骨が太く、肉に厚みがあった。その肩から背中を、お綱は手早くぬぐってやった。  山崎新之助の若い膚《はだ》とは、やはり少しちがう。新之助のように張りつめた皮膚ではなく、そのかわり、鞣《なめ》し皮のようなしぶとい弾力があった。  拭きおえたお綱は、よく新之助にもそうしてやったことを思い出しながら、次郎長の肩に着物を引きあげ、かれが袖《そで》を通すのを見守った。  次郎長は団扇をひろって立ちあがり、風の通る窓に腰をおろした。胸をくつろげてせわしくあおぎながら、 「のう、お綱さんよ」  といった。 「はい、何でござんしょう」  お綱は膳の片付けをしようとしていた手を止めて、次郎長を見返った。  かれはよそを見ていた。ひたいの下にひっこんだ細い目は、北の賤機山《しずはたやま》のほうを向いている。 「おめえ、おれんところへ来る気はねえだか」 「……?」  とつぜんいわれて、お綱はおどろいた。  まだ手もにぎられたことのない間柄だった。  お綱は迷い、しばらく返事をのばした。  店の女将《おかみ》に相談してみた。女将はきせるを煙草盆に打ちつけ、こめかみを指でおさえて目をとじた。 「正直いって、あたしにはあんまり結構な話だとは思えないだよ。なにせ相手はばくち打ちずら。かたぎの夫婦《めおと》とは、やっぱし違うでね」  女将は不賛成だった。  ただし、それはお綱の身を思ってのことだけではなかったかもしれない。店の都合を考えて出た言葉かもしれない。このところ、お綱をめあてに来る上客がふえていることも確かだったからだ。  相談はしてみたものの、お綱はけっきょく、女将の言葉には左右されなかった。  お綱が真剣に相談をもちかけたい相手など、ほんとうは一人もいなかったのだ。新之助との別れをふくめて、自分の身の振りかたは、いつも自分ひとりで決めてきた。こんどもそうしようと思い、お綱は自分の胸のなかをじっと覗《のぞ》きこんだ。  次郎長の背中の、鞣《なめ》し皮のような膚《はだ》。それがまぶたによみがえってくる。  新之助の、若く美しくすがすがしい膚よりも、むしろこの自分には、あの次郎長の膚のほうがふさわしいのかもしれない。次郎長がやくざなばくち打ちなら、この自分も芸者くずれのつまらぬ仲居だ。不足のいえる柄《がら》ではない。  お綱は次郎長に会って、こう答えた。 「もったいをつけまして、堪忍《かんにん》してくだしゃんせ。慣れたひとり身暮らしに、ちょいとばかり名残《なご》りが惜しかったんでござんすよ。こんな蓮《はす》っ葉《ぱ》でよろしけりゃ、ふところにでも突っ込んで持っていっておくんなさいまし」 「そうかい。うれしい返事だぜ」  こうしてお綱は、次郎長の三人目の妻となった。  婚礼の日の夜、ながながと続く祝宴のさなか、奥の四畳半で息ぬきをしていたお綱のそばに次郎長がやってきた。厠《かわや》に立った帰りのようだった。  かれは酒を受けつけぬ体質なので、三三九度の盃を干したきり、あとは吸い物でのどを湿《しめ》している。 「どうだ、くたびれたずら」  次郎長は紋付の羽織をぬぎ、袴《はかま》をたくしあげて毛脛《けずね》を出しながら、どかりと坐った。  お綱は角隠《つのかく》しの下からほほえんだ。 「お膳を上げ下げしているほうが、よほど楽でござんすね」  いっている間も、襖越《ふすまご》しに宴席の騒ぎがきこえてくる。表側の六畳みっつと奥の八畳をつなげて、一家の祝宴がくりひろげられていた。 「お綱」  次郎長がゆったりと、静かな声で呼びかけた。 「あい」  お綱もしおらしい声を出した。  しかし、つぎに次郎長がいった言葉は、お綱をとまどわせた。 「おめえ、きょうから名を変えろ」 「え……、お綱という名がお嫌いなんでござんすか?」 「いや、そうじゃねえ。そうじゃねえっけえが、おめえに名乗ってもらいてえ名があるだよ」 「どんな名でござんしょう」 「お蝶だ」 「え……」  お綱はその瞬間、花嫁衣裳の襟足《えりあし》に、つめたい水を一滴垂らされたような気分になった。 「きょうから、お蝶と名乗ってくれ」 「それは亡くなった、前のおかみさんのお名前じゃあ……」 「ああ、そうだ、おめえはきょうから二代目のお蝶だ」 「……」お綱は、心にひっかかるものを感じて、すぐには返事ができなかった。  そのとき、宴席のほうで何かけたたましい音がした。直後に、 「ばか野郎!」  という大政の野太《のぶと》い声がした。「この目出てえ日に、てめえら何をしやがるんでえ」  それをきいて、次郎長はハッと腰をうかし、耳を澄ませる格好をした。奥まった細い目が、びっくりするほどの大きさに見ひらかれ、のばした首すじに、ふくれた血管がうねっている。  大政の声がつづく。 「親分がちいっと座を外しなさるとこの始末だ。愚にもつかねえことで喧嘩《けんか》なんかおっぱじめやがって。おう、お相撲《すもう》。このふたりをつまみ出して、頭から水をぶっかけてやれ」 「へい」  お相撲|常《つね》の声が答え、子分の誰かを引っ立ててゆく音が、どたどたと響いた。  次郎長はほっと息をぬいて、畳に尻をおろした。 「けっ、人騒がせな野郎どもだ。黒駒《くろこま》の一家が隙を突いてきやがったのかと思ったぜ」  にがわらいをして、まだ吊りあがったままの目でお綱を見た。  次郎長の結婚歴。  そのはじまりは十八歳にまでさかのぼる。かれが博徒になる前の時代だ。養父から米屋の店をついだときに、最初の結婚をした。  だが、やがて博奕《ばくち》に狂うようになった次郎長に、妻が愛想をつかして離縁となった。  二度目の妻をもらったのは、二十八歳のときだ。相手は江尻《えじり》の博徒、大熊のいもうとだった。江尻は清水の隣り町である。大熊こと熊五郎は次郎長の兄弟分だ。  この二度目の妻の名が、お蝶だった。  十一年間つれそった。  貧しい暮らしをつづけた時期だ。銭《かね》もないのに子分や食客がふえ、そのきりもりを、お蝶がひとりでやった。  四十に近づいても、次郎長のふところは一向にうるおわない。のみならず、役人に追われる事態になり、一家をたたんで長い旅に出なければならなくなった。  大政以下数人の子分とともに、お蝶もこの旅に同行した。だが途中で病にたおれ、治療代にも事欠く不遇な日々を送ったすえに、とうとう名古屋の貧乏博徒の家で没した。安政《あんせい》五年の大みそかだった。  お綱を三人目の妻として清水へ迎えたのは、初代お蝶の死から六年後のことである。  二代目のお蝶。  ということになったお綱は、清水一家の子分や食客たち数十人から、姐《あね》さん姐さんと立てられた。  しかし、彼女はあまり楽しくなかった。  息がぬけなかった。  古くからの子分たち。大政やお相撲常や関東綱五郎や桶屋《おけや》の鬼吉《おにきち》といった古参連中。かれらが何かにつけて〈新しい姐さん〉と先代のお蝶とを比べているのを感じるからだった。口でいわれることはなくとも、目でわかる。  一家にとっての冬の時代を、かれらは先代のお蝶とともに過ごした。その苦労と悲痛な死を見てきたかれらは、みな彼女のことを忘れられずにいるのだ。  酔うと、そのことを口にしては泣く者もいる。  次郎長の胸の中も、やはり同じにちがいなかった。  あのお蝶にはさんざん苦労をかけた。泣きごともいわずによくやってくれた。いい女房だった。だのに何もむくいてやれなかった。  その思いが、いまだに心にあるのだ。だからこそ、新しい妻に〈お蝶〉の名をつがせようとしたのだ。  押しつけられた名前を、お綱はしかたなく受け入れた。一家の印半纏《しるしばんてん》を羽織るような気持ちで、受け入れた。  そして子分たちの比較のまなざしにも、じっと耐えた。  耐えながら、しかしいつのまにか四年が過ぎていたのだった。  四年のあいだに、いろいろのことがあった。  血なまぐさい出来事も少なくなかった。子分の何人かが喧嘩《でいり》でいのちを落とした。  高神山《こうじんやま》の大喧嘩では、法印《ほういん》の大五郎と船越の幸太郎が鉄砲でころされた。三河では、三保の豚松が黒駒の勝蔵の手下に斬られて片目片腕をうしない、やがて死んだ。  むろん、相手側にも死者がでた。  そうした喧嘩のてがら話を、子分たちは酒の話題にして倦《あ》きなかった。  次郎長自身も、子分たちを相手にかつての〈活躍〉をたのしげに語ることがあった。  保下田《ほげた》の久六《きゆうろく》を待ち伏せて斬り殺したこと。都田《みやこだ》の吉兵衛《きちべえ》を居酒屋に襲って突き殺したこと。  そんな話を、お蝶はあまり聞きたくなかった。話題がそちらに向くと、ついひややかな顔をしてしまい、座を外すこともあった。すると次郎長のきげんが悪くなった。  博徒は、単にばくちを打つだけでなく、人殺しの集まりなのだということを、お蝶は思い知った。  駿府の料理茶屋の女将《おかみ》のことば。それを、いまになって思い返してみたりもするのだった。  台所仕事の手を休めたまま物思いにふけっていたお蝶は、外を流す物売りの声で、われに返った。  連子窓《れんじまど》からのぞくと、西日の照りかえしがまぶしい。ふと外へ出たくなった。  勝手口から出て、目的もなく河岸《かし》のほうへ歩いた。  巴川が、ゆっくりと逆流している。上げ潮のせいだ。その潮の流れにのって、船がつぎつぎに河口から河岸へとさかのぼり、荷おろしや荷積みをする。  ちょうど、そういう時間だった。  風は凪《な》いでいて、おろされた船荷の上に蚊柱《かばしら》がうずまいていた。うす煙のような蚊柱だった。  お蝶は喧噪《けんそう》をさけて河岸のはずれまで歩いてゆき、立木にもたれて対岸をながめた。  対岸の向島には人家がない。漁師が網を干したり、魚の干物をつくるのに使ったりするだけの荒地である。  お蝶は、深川にいたころに眺めた大川(隅田川)の夕景を思いうかべた。  この巴川の対岸は無人の荒地だが、大川のむこうは、江戸の町だった。永代《えいたい》橋のかなたが夕日に赤く染まる光景を、いまもはっきりと目にうかべることができる。  そして深川を縦横にきざんでいた、あのいくつもの掘割。それがかもしだす風情《ふぜい》。お蝶が、いや、かつてのお綱がこよなく愛した情景だ。屋形《やかた》舟によばれて、川遊びのお伴をしたことも数えきれない。  そんなことを思い出していると、胸元まで塗った肌おしろいの匂いや、東下駄《あずまげた》の畳表の足ざわりまでが、ありありとよみがえってくる。  門前仲町《もんぜんなかちよう》の芸妓置屋《げいぎおきや》。そこでの、朋輩《ほうばい》たちとのにぎやかなおしゃべり。  いやなこともずいぶんあったはずなのに、楽しいことばかりが思い返される。そしてその思い出の中心に、やはり新之助の顔がある。  山崎新之助。——思いは結局そこへゆく。 [#ここから2字下げ]  先般は御無礼つかまつり候《さうらふ》 まことに奇遇 さては新之助の引合せにやあらむとおどろき申候 拙者あれよりのちも移住者のあひだをめぐり候ひて新之助の身のうへ知る者なきやと問ひ回り候へども残念ながら得たるもの何ひとつこれなく候 ただいまはかゝる時世のことゆゑ さだめし新之助 ひとかたならぬ辛苦をなめをるに相違なからむと大きに気掛りにて候 [#ここで字下げ終わり]  きのう木暮半次郎から届いた手紙である。  お蝶のために仮名《かな》を多用してくれている。  手紙を読んで、お蝶は木暮半次郎という男をあらためて好もしく思った。情《じよう》のある男だと思った。  その手紙を、しかしお蝶はすぐに燃やしてしまった。次郎長は漢字が読めないが、仮名を拾い読みすることはできる。妙な誤解を受けることを怖れたのだ。  それにしても——  とお蝶はおもう。新之助はいったい、どこに潜《ひそ》んでいるのだろうか。果していまも無事でいるのだろうか。  消息を知りたい。探《さぐ》れるものなら、さぐりたい。お蝶はそう思った。 「姐《あね》さん」  呼ばれてふり向くと、増川の仙右衛門だった。 「こんなところで何してなさる。ぼんやりしちまって」  低くしめた帯に両手をはさみ、窺《うかが》うような目でこちらを見ていた。うしろに若い者をふたりつれている。  お蝶は襟をしごいて立木から離れた。 「あたしゃ、いつだってぼんやりさ。何かご用かえ」 「いや、通りすがりでさあ。賭場《ぼん》を見まわるところだが、姿を見かけたもんで」 「身投げでもすると思ったのかい」  仙右衛門の、剃《そ》りあとの青いあごを見あげて、わらってみせた。 「はは、そういうわけじゃねえが、えらくふさいだ顔つきが、いつもの姐さんらしくもねえ。何か心配ごとですかい」  増川の仙右衛門は、先代お蝶の死後に清水一家に入った男だ。一家の重鎮のひとりではあるが、先代のことは何も知らない。いまのお蝶を先代と比較するような目で見ることもない。  だからお蝶にとっては、いくらか心安い気持ちになれる相手だった。 「蚊柱だよ」  とお蝶はいった。 「へ?」  仙右衛門はあたりを見まわした。 「頭の中にぼうっと蚊柱が立っていたのさ。そういうときってあるだろう?」  お蝶は袖《そで》の中で腕組みをして、ゆるい足どりで戻りはじめた。  仙右衛門と若い者たちも、おなじ歩調でついてくる。 「そりゃあ、ありまさあ」  仙右衛門は若い者のひとりをちらりと見返って、 「この松五郎の野郎なんざ、年じゅう蚊柱が立ちっぱなしだ」  いっているわきを、河岸《かし》からきた荷車が通りぬけてゆく。 「賭場《ぼん》のほうは賑《にぎわ》ってるかえ」 「へい、ここんところ、侍の客がふえちまって」 「お侍が?」 「江戸から繰りこんできた連中でさあ。職もねえ身で入りびたってるのもいるし、負けがこんで長《なげ》えのを振り回すやつもいるもんで、始末におえねえ」 「……そうかい」  お蝶はふと足をとめた。 「ねえ仙さん」 「へい」 「ちょいと頼みたいことがあるんだけれどね」  仙右衛門は太い眉《まゆ》を寄せて、お蝶を見返した。 「……何でやしょう」  一家の賭場《とば》に出入りする侍たち。  その中に、かつて江戸城の奥詰《おくづめ》銃隊にいた者はいないか。あるいは、本人がそうでなくても、移住者の中にそういう知人を持つ者はいないか。それをさぐってみてほしい。  お蝶は仙右衛門にそう頼んだ。  仙右衛門はあごを撫《な》でて遠くを見た。よくやる癖だった。すこし考えてから、 「訳《わけ》をきいても、よろしいかい」  遠慮がちに訊《たず》ねた。 「むかしご恩になったお方が、奥詰銃隊にいらっしゃったのさ」  お蝶は川のほうへ目をそらして、ひくく答えた。「ところがこんどのご一新の騒ぎでゆくえ知れずにおなりだと、こないだ人づてに聞いちまってね。こんなご時世だから、どこかでご不自由なすっていらっしゃるんじゃあるまいかと、それが気になってならないのさ。奥詰銃隊のご朋輩にお会いしてみれば、何かわかるかと思ってね」  お蝶の襟足にまっ赤な夕日があたっている。 「そうですかい。なるほど、そりゃあ気になって当たりめえだ。恩あるお方を、おろそかにしちゃあならねえ」  仙右衛門はうなずいてみせた。「ようがす。ひとつ、あたってみまさあ」 「すまないねえ」 「なあに、たいした手間じゃあねえ」     3  清水は、もともと七百戸ほどの港町だが、それを出はずれた山すそに、にわか造りの掘立小屋が日ごとに増えていた。江戸からきた無禄《むろく》移住者たちの住まいである。  そのうちの一軒。斎藤左内という者の小屋を、お蝶はおとずれた。  斎藤左内はもと二百石取りの旗本で、奥詰銃隊の幹部であったという。清水一家の賭場に出入りする移住者から、増川の仙右衛門がそれを訊《き》き出してきてくれたのだ。  お蝶は、移住者たちの小屋をみるのは初めてだった。話には聞いていたが、馬小屋とみまごう粗末さに、一瞬足がとまった。  小屋の周囲はまだ整地がゆきとどかず、雑草が生えほうだいである。その草の穂が、ここ数日で急に冷たくなった風に、さわさわと揺れていた。 「ごめんくださいまし」  お蝶は小屋の入口から声をかけた。  すきま風がいくらでも入りそうな建てつけだ。  応答がないのでもういちど呼ぼうとしたとき、小屋の横手から女があらわれた。裏で草むしりでもしていたのだろうか。襷《たすき》の背中に赤ん坊を背負い、膝元《ひざもと》に四歳ほどの男の子がくっついている。若い母親だ。お蝶よりも四つ五つ年下であろう。 「どちら様で……」  いいかけた言葉を女は途中で呑《の》み、目に笑みをうかべた。「これは、あなた、よくおいでになりました。あの折はご苦労をおかけして、申しわけございませなんだ」  女は帯からさげた手拭《てふ》きで両手をもみぬぐい、背中の赤ん坊を揺らさぬように、そっと腰をかがめた。赤ん坊は眠っているようで、首ががっくりとうしろに反《そ》りかえっている。  お蝶はその女の顔を見ても思い出せなかったが、きっと先日の炊き出しの際に、お蝶からにぎり飯を受けとった者のひとりなのだろう。  お蝶も腰を折り、あらためて名乗りをした。 「手前は、清水で無職渡世《ぶしよくとせい》をいたしております山本長五郎と申す者のつれあいでござんす。あの節は、ご無礼とは存じながら、差し出がましいまねをいたしました」 「何をおっしゃる。こちらも今は無職《ぶしよく》の身。お手助けのおかげで、人心地《ひとごこち》がつけました」  いいながらも、ほつれた髷《まげ》を恥じ入るように、しきりに手でおさえている。つい数カ月前までは、旗本の妻として〈奥さま〉と呼ばれていた女だ。  お蝶の、結《ゆ》ったばかりのつややかな髷。それを見せつけるのが、少しばかりせつなかった。  母親の膝をかかえて、男の子がぐずった。 「お客さまの前ですよ」  たしなめられても、変わらない。  小屋のあるじの斎藤左内。どうやらかれは不在の気配だ。  お蝶がそれを問うと、左内の妻は、 「はい、早朝より駿府へ……あ、いいえ」  打ち消しながら、お蝶の背後へ目を向けた。「ちょうど帰ってまいりました。あれが左内でございます」  男の子がぴたりとぐずるのをやめた。  お蝶はふり向いた。  うす曇りの空の下、この雑草地へと通ずる田の中の畦道《あぜみち》を、小柄な侍が袴《はかま》を風になびかせて歩いてくるところだった。うつむいて、不機嫌そうな足どりだった。  斎藤左内は、袴をぬいだ着流しで、縁側にすわった。  お蝶も外をまわって、かたわらに腰をおろした。  小屋の裏手が南西をむいており、六畳大の板敷に、せまい濡《ぬ》れ縁《えん》がついていた。 「畳がまだ間に合いませぬものゆえ」  と左内の妻がちいさな声で弁解した。  しかし、こんな小屋でも、手に入れることができた者はまだましである。駿府や清水の寺々には、いまもなお大勢の宿なし移住者が寄宿している。竹で間仕切りをして、何家族もが相部屋ぐらしをしているありさまだ。 「山崎のことか……」  左内は裏の空き地の、雑草のそよぎを見ていた。  半次郎や新之助よりも、やや上の年代である。幅広の顔だが、首が細く痩《や》せて、あごだけが張り出している。眉根が不機嫌に寄り、寄ったまま青黒くむくんで固まってしまっている。 「あの男のゆくえなど知らんな。こっちは、それどころではないわ」  かれはきょう、早朝から駿府へ出かけていたということだが、その用件を、お蝶はほぼ当てることができる。徳川家への再仕官の道を求めて、つて[#「つて」に傍点]を訪ね歩いてきたのだろう。しかしまだ日の高いうちに戻ってきたのは、おそらくどこでも門前払いをくわされたのにちがいない。このところ、よく耳にする話だった。 「やきち」  と左内は張ったあごをふり向けて、幼い息子を呼んだ。「そばへ来い。さあ来ぬか」  母親のたもとを爪繰《つまぐ》っていた男の子は、おびえた目をしたが、母の手にうながされて父に近寄り、行儀よくぺたりと坐《すわ》った。  赤ん坊のほうは、すでに母の背中からおろされて座ぶとんに寝かされている。近在の住民から買ったと思われる古びた座ぶとんだ。  左内は、息子の頭に手をやり、ゆっくりと撫でた。なでながら語った。まるで、その息子に語りかけているようだった。 「奥詰銃隊で、山崎はわしの下にいた。われわれは西の丸に詰めて、天璋院《てんしよういん》さま、静寛院宮《せいかんいんのみや》さまをお守り申しあげるのが役目だった。薩賊《さつぞく》来たらば打ち砕いてくれようと、吹上御苑《ふきあげぎよえん》でフランス式調練に汗をながしたものよ。それが、一発の弾も撃たずにお城のあけ渡しとはのう。あげくに、どうだ。家康公以来の重代の旗本まで、古草履《ふるぞうり》がごとくに召し放されるとは情けない」  息子の頭から手をおろし、ふたたび裏の空き地に不機嫌な目を投げた。「こんなことと判っておれば、わしも山崎とともに隊を脱《ぬ》けて、ひと暴れしてやるのであった。妻子の身をおもい、自重《じちよう》したのが悔やまれるわ」  左内の妻は無言で赤ん坊の寝汗をぬぐっている。さんざん聞かされてきた愚痴なのであろう。 「山崎め、果してどうしておるのやら」 「どのようなことでもよろしゅうござんす。何かお心あたりはおありなさいませぬか」  いってはみたものの、お蝶の期待はもはやしぼんでいた。 「わしなどに問うてもむだだ。残党の仲間を捜すことだ、残党の」 「彰義隊の残党、でござんすか?」 「知れたことではないか。ほかに誰に問う」  しかし、そういう者が簡単にみつけられるなら苦労はない。 「お言葉でござんすが、彰義隊の残党には官軍の詮議《せんぎ》がめっぽうきびしいと聞いております。生き残られた方々は、奥州へ参られたか、潜伏なされたか、どちらかでござんしょう? そのうえご家族まで、徳川さまご領内への移住を禁じられたそうではござんせぬか。さようなありさまで、山崎さますらお捜しできぬものを、ほかのお方をどのようにして捜せましょう」  お蝶は腹立ちが声に出ぬように、苦笑にまぎらせて言った。  左内が吐息をついた。見くだした吐息だった。 「彰義隊などと申しても、多くは元幕臣。わしも顔見知りであった者が山崎以外にも何人もいる。それらと親しかった連中で、いまもひそかに便りをとり交している者も、おらぬはずはなかろう。そこから辿《たど》ればよいのだ」 「——でござんしたら」  お蝶は濡れ縁から腰をあげて、左内に正対した。「厚かましいお願いでござんすが、それをあなたさまにお頼み申しあげるわけにはまいりませぬか」  左内は目をあげ、うとましげにお蝶を見た。 「なぜわしが、それをせねばならぬ」  なぜ、といわれれば、お蝶に言葉はない。ただうつむいて、頭をさげた。 「あなた……」  左内の妻がそっと口添えをしてくれた。「力になっておあげくださいましな。このようなときは、相身互《あいみたが》いでございまする」  ふふ、と左内は苦笑した。 「武士は相身互い。どうか力になってくだされと、わしはこれまで何度頭をさげたことか」  左内は言ったきり、唇をかみしめて雑草をみつめていたが、不意に立ちあがった。立って奥の板壁へあゆみ寄り、畳んだ袴の上に横たえられていた大刀をつかみあげた。  お蝶は硬直し、左内の妻も息をのんでいる。  大刀をつかんだ左内は、蹴《け》たてるような足どりで戻ってきた。お蝶は血がひいた。  だが、左内はお蝶のわきをかすめるようにして縁から地面へとび降り、小柄な背をむけて空き地の虚空《こくう》に対峙《たいじ》した。 「でやぁ——っ」  大喝して抜刀し、鞘《さや》を捨てた。  あとは狂った。喚《おめ》き声をあげて、雑草を踏みしだきながら虚空を斬りまくり、突きまくった。青ずんでいた顔が赤黒く鬱血《うつけつ》し、着流しのすそがはだけて、下帯が出た。ふりしぼるような喚き声は、有度山のいただきにまで届きそうだった。  狂ったあげくに、左内は小屋の柱にまで斬りつけ、体あたりした。  おどろいて目をさました赤ん坊が泣き声をあげた。 「あなた……あなた……」  左内の妻も地面におり立ち、ふるえる声で夫に呼びかけた。「どうか、あなた……ご辛抱を。どうか、あなた……」  あとは泣き声になった。  左内は動きを止め、肩で息をしながら妻を見返った。抜き身の刀がだらりと腕からさがり、切先《きつさき》が草にかくれている。  妻はすすり泣いていた。泣きながら黒漆塗《くろうるしぬ》りの鞘をひろいあげ、袖《そで》で汚れをぬぐい、夫のもとへ寄った。  左内はのろのろとした動作で鞘を受けとり、刀身をおさめた。 「わかっておる。……案ずるな」  夫婦ともに髷がほつれてそそけ立ち、風にそよぐさまが哀れだった。 「ゆるせ」  左内はうつむいた。  妻は蒼白《そうはく》で、手が小きざみにふるえている。 「すまなかった、ゆるせ」  かすれた夫の言葉に、妻はかろうじて二、三度うなずいた。  突っ立っていたお蝶は、ふとうしろを見おろした。いつのまに来たのか、男の子がお蝶のかげにかくれ、目だけを出して両親のようすを見つめていた。  左内は妻の肩を片手でかかえ、生気のない目をお蝶にむけた。 「先刻の話だが」 「はい」お蝶の口は乾いていた。 「心あたりの者に問うてみてやろう」 「え」 「ただし、あまりあてにはするな」  あらい息が、まだおさまりきっていなかった。     4 [#ここから2字下げ]  早や寒冷の時節になり申候 さほど高き峰にはあらねど久能山の朝夕のひえかげん なかなか身にこたへて候 かやうななまくらぶりにては もはや物の役には立ち申すはずもなしと自嘲いたしをり候 拙者のみならずわが新番組の隊士ども はづかしながら士気盛んとは申しがたく ばくちにふけりをる者 酒盃をはなさぬ者 さまざまにて候  余話ながら 拙者 勤番のつれづれに山のからすどもと懇意になり申候 どれもこれもただまつくろの黒づくめに候へども 鳴声におのづから癖あり ちかごろはあれは何奴 かれは何奴とおよそ見分もつくやうになり候ひて 名も与へ候 その名は くろすけ くろきち くろヱもん くろたらう くろべヱ にて候 めすもまじりをるはずには候へども どれがそれやらはさすがにわかりかねるゆゑ すべて男名にて候  さはあれど かやうな太平楽 新之助の目にふれなば何をか言はるらむ 薄情者よ 友達甲斐のなき奴よと さだめし怨みに思ふべし お聞及びと存じ候へども 拙者と新之助とは四ツ五ツの頃より共にわるさをなし合ひ 竹刀を打合はせ 文机をならべた仲にて候 おのれ一人の安穏を得て からすなどながめをる夕まぐれ まことに心苦しき思ひに責めらるゝことこれあり候 もしやその後の噂なりともお耳に入ることあり候はば 拙者方へもお知らせくださるやう願上候 [#ここで字下げ終わり]  木暮半次郎からの二通目の手紙だった。  読みおわったあと、お蝶はその手紙も燃やした。  一方、元奥詰銃隊の斎藤左内からは、あれ以後、なんの連絡もない。  山崎新之助の消息は、あいかわらず不明だった。不明のまま、明治元年の年末をむかえてしまった。  年末に、事件がひとつあった。  山崎新之助にもお蝶にも無縁の事件だが、木暮半次郎に多少かかわりがあった。  三保《みほ》の半島にある御穂《みほ》神社に強盗が押し込み、神主《かんぬし》が斬殺《ざんさつ》されたのだ。押し込んだのは、頭巾《ずきん》をかぶった十人ほどの侍風の男たちだったという。 「久能の侍どもがあやしいって話ですぜ」  数日後に、大政が次郎長に話すのを、お蝶はそばできいていた。 「新番組の連中かよ」 「へい」  事件のあった当夜は、次郎長も子分たちをひきつれて現場へ駆けつけている。  旧幕時代の安東の文吉にかわって、いまでは次郎長が街道警固の十手をあずかる身になっていた。 「もっぱらの噂でさあ」 「ちいっと面倒だなあ」  黙って火鉢に炭を足しながら、お蝶はしかし、木暮半次郎は無関係だろうと思っていた。山でのんびりと鴉《からす》など相手にして過ごしている半次郎が、そんな凶行をはたらくはずはないという気がした。 「連中のふところあ、そげえに苦しいだか」  どてら姿で手をあぶりながら、次郎長が訊いた。 「そりゃあ、そうですぜ。俸禄《ほうろく》なんざ無しも同然。食いものだけあてがわれているようなありさまだ」  え、とお蝶は目をあげた。  新番組がそれほどみじめな待遇だとは、いままで知らなかったのだ。 「だが親分」  と大政はその大きな上体を前へ傾けて、声をおとした。「ふところ具合も無縁じゃあねえですが、それよりあれだ、きんぎれ[#「きんぎれ」に傍点]だ」 「きんぎれ?」  大政の、侍大将のようなりっぱな顔を、次郎長はのぞきこんだ。  大政はこのとき三十六歳。本名を原田熊蔵といい、尾張常滑《おわりとこなめ》の回船問屋の長男だった男だ。早いうちから次郎長の右腕となり、次郎長の姓までもらって山本政五郎と名乗っている。大柄で、槍《やり》がうまい。だけでなく、清水一家の軍師だ知恵袋だといわれるだけあって、いくらか学もある男だった。  その大政の顔を、お蝶もみつめた。 「斬られた太田という神主だが、ありゃあ官軍の尻かつぎをした男でやすからね」 「ああ、おめえのいうのは官軍の錦片《きんぎれ》のことかや」  東進する官軍が上袖に縫いつけていた錦《にしき》の布きれ。 「駿州赤心隊だとかいって、ほれ、近在の神官どもが官軍の尻にくっついて羽振りをきかしていたじゃねえですかい」 「その怨《うら》みを買ったってえのか」 「ただの押し込みじゃあ、ああまで斬りつけねえ」 「それもそうだ」  ひたいから耳にかけて七寸(約二十センチ)の切り傷。右腕に四寸の切り傷。背中に一カ所の突き傷。  太田神主の斬られぐあいを熱っぽく語りあう子分たちの言葉を、お蝶もすでに耳にしていた。  縫合《ほうごう》手当てのかいもなく、太田神主は四日後に死んでいる。 「だけえが政五郎、そんな怨みなら、久能山の新番組に限らねえ。江戸からおちてきた侍たちあ、みんな怨みを持ってらあよ」 「怨みはあったって、度胸がねえでさあ。脱走して北へも行かねえ。彰義隊にも入らねえ。無禄《むろく》移住ですごすごやってきた者どもあ、度胸なしのへちま[#「へちま」に傍点]ぞろいだ。口でぼやくばっかりで、何もできやしねえ。腕もねえ」  雑草の中に刀を垂らしてうなだれていた斎藤左内。その鬢《びん》のほつれ毛が風にそよぐさまを、お蝶は思いだした。 「やりかねねえのは、新番組の侍ぐれえのもんでさあ」 「なるほど」  次郎長は火箸《ひばし》で炭をひとつつかんで、まわりの灰をならしはじめた。「いわれてみりゃあ、その通りだ」  大事な作業でもするように、几帳面《きちようめん》にならしている。  それをいっしょに覗きこみながら、大政がいった。 「いずれにしたって、相手は侍。黒駒の手下を追い回すようなわけにはいかねえでしょう」 「あたりめえだ」  まだ灰をならしている。「たしかな手掛かりがねえかぎり、うかつなこたあ言えねえだよ」 「手掛かりが出てきたら、どうなさりやす」 「どうって、おめえ」  次郎長は炭をもどし、せっかく平らにならした灰に火箸でぶすぶすと穴をあけた。「そんときゃあ、もちろん、お上《かみ》にお知らせ申しあげらあ。そのために十手をお預りしているだからな」  そして、細い目をあげて、大政を見た。「で、何かい、手掛かりが出てきそうなあんべえか?」 「どうなるか判らねえですが、仙右衛門の野郎が、妙に身を入れてやがるんでね」 「仙右衛門がか?」 「若《わけ》え後家《ごけ》さんに同情してやがるようなんで」 「けっ、あいつらしいや」  次郎長と大政は、ひくく笑った。 「おう、茶をくれ」 「あい」  湯呑《ゆの》みを取りに立ったお蝶は、ついでに自分ものどを湿らせたくなり、台所で水をふくんだ。勝手口から首を外に出すと、西に有度山が見える。その尾根の陰に、久能山があるはずだった。     5  事件は尾をひいた。  年があけて明治二年となったが、正月早々、御穂神社の社頭に何者かが高札《こうさつ》を立てたのだ。  神官をすべて追放せよ。さもなくば村に火を放つ。  そう書かれていた。  太田神主の斬殺事件が、ただの押し込み強盗ではなかったことが、これではっきりしたわけだった。  そして、その月の十一日の夜半。  三保の村に火事が出た。火元は伊左衛門という氏子《うじこ》の家だったが、放火であることはあきらかだった。数十戸を類焼する大火となった。  清水港の対岸。細長くひらべったい三保の半島が、汐《しお》まねきの右爪のように海にせり出して、折戸《おりど》湾を抱えこんでいる。  三保の大火事は、折戸湾ごしに清水の町からもよく見えた。 お蝶も騒ぎをききつけ、大勢の野次馬にまじって巴川の河口まで走った。わずか半里(二キロ)先の対岸で、赤黒い炎が夜空をあかるませている。湾の水面に、それが絵のように映っている。 「てへっ、やるもんだっけよ」  と野次馬の誰かがいった。 「新番組ずら」 「おどしだけかと思っただけえが、本当にやっただな」 「おっかねえ侍どもだ」  誰もが新番組のしわざにちがいないと言い、それを疑う者はいなかった。  お蝶もそう思った。  おもったが、木暮半次郎は無関係であろうと、いまでもなおそんな気がしていた。  火事がひろがっているという知らせに、次郎長もうごいた。子分たちをつれ、舟を漕《こ》がせて三保へ渡った。  その人数の中に、増川の仙右衛門もいた。仙右衛門の顔は怒りにひきつっていた。  上陸した一家をむかえたのは牛だった。牛が暴れ回っていた。  三保の村では、一軒に一、二頭の農耕牛を飼っている。それらが火事で逃げだし、狂ってあばれていた。焼けだされて右往左往する者たちの中へ牛が突っ込み、年寄りや子供に怪我人が出て、たいへんな騒ぎとなっていた。 「まず、牛をどうにかしろ」  次郎長が怒鳴った。「でなけりゃあ、あぶなくって火消しもできねえ」  子分たちは、へっぴり腰で牛を散らして回った。  牛の騒ぎが片付いて、ようやく消火の作業にとりかかった。つまり風下の家々を叩《たた》き壊す作業だ。  だが、粗末な百姓家でさえ、いざ壊すとなると、思いのほか頑丈で、なかなかはかどるものではない。そのあいだにも火事は拡大する。さかんに火の粉《こ》が舞い飛び、発火点がひろがる。ひろがるにつれて、炎そのものが風を呼び、ますます力をつけた。  その火が衰えはじめたのは、けっきょく集落の中心部をほとんど焼きつくしたあとだった。  どうやら、ここまでだ。  これ以上延焼するおそれはなかろう。そう思えるようになったときには、外海《そとうみ》に面した松原のむこうの空が、かすかに白みはじめていた。  次郎長一家の面々は、村の者たちにまじって、火事の残り火を遠まきにながめた。残り火とはいえ、まだところどころで高い火炎があがっている。  やれやれ、ぐったりだぜ。  増川の仙右衛門は、路肩の石に腰をおろし、いがらっぽい喉《のど》に咳《せき》ばらいをくれた。家を打ち壊すさい、しこたま埃《ほこり》を吸い込んでいる。  まわりを見まわすと、虚脱状態の村びとが三々五々寄りあつまって、 「燃えちまっただな」 「ああ、燃えたずら」  などと陰気につぶやき交していた。  お?  仙右衛門はふと視線をとめた。  村の者たちから少し離れて、侍が三人立っている。火事の残り火が、侍たちの顔を赤く照らしている。  あいつあ、いつぞやの……  三人の中央にいる男。その斜め横からの顔を、仙右衛門はじっと見た。  まちげえねえ。あの侍だ。  去年の秋。江戸から船で着いた移住者たちに、炊き出しの奉仕をした日。夕立ちに降られ、雨やどりに上がりこんだ船頭宿の二階の窓。そこから見おろした目の下で——  そうともよ。姐《あね》さんと話していた侍だ。  三人の侍は、火事場を検分するようにしばらく周辺をうろついていたが、やがて夜明けとともに西へあゆみ去った。 「おう、安吉」  仙右衛門は、そばを通りかかった若い者をつかまえた。 「なんでえ、兄い」 「おめえ、すまねえっけえがな、ちいっと頼まれろ」 「へい」 「いまさっき、侍が三人、うろついてやがっただろ。よれよれの袴《はかま》姿でよ」 「そういやあ、いたっけなあ」 「そいつらがいま、帰っていきゃあがった」 「どこへ」 「……だからよ、それを見さだめてきてくれっていうんだよ」 「わっしが?」 「そうだよ」 「ひょっとして、あいつら新番組で?」 「おれもそれが知りてえのさ」 「久能のお山まで尾《つ》けていくだかい?」 「駒越《こまごえ》のあたりまででいい。北へ曲がって清水|方《かた》へむかうか、まっすぐ西へゆくか、それだけ見てきてくれ」  三保の半島のつけ根が駒越だ。  そこで北へ曲がらずに、有度山と外海とにはさまれた狭い廊下のような一本道をまっすぐ西へ一里ほどゆけば、そこに久能山への登り口がある。 「見つかったら、やべえな」 「間《ま》をあけて行きゃあ、だいじょうぶだ」 「だけえが、長《なが》脇差《どす》も持ってねえし」 「ばか野郎。そんなもの持ってたって、もしも相手が新番組なら、小指の爪のかわりにもならねえ」 「えれえ励ましかただな、兄い」 「朝の日を背負っていくんだから、見つかりっこねえよ」 「そんでも見つかったら?」 「すっとんで逃げてこい」  四日後の十五日にも、御穂神社にからむ騒動が、またひとつあった。  九人の侍が、白昼御穂神社をおとずれた。ずかずかと奥の間に入りこみ、去年|斬殺《ざんさつ》された太田神主の霊舎を叩きこわし、蹴《け》りこわして引きあげた。  なにもそこまで。  話をきいてお蝶は眉《まゆ》をひそめたが、一方、増川の仙右衛門は、もっと頭に血をのぼらせていた。 「連中の怨《うら》みがわからねえとはいわねえ。だけえが、こんなやりくちは気にくわねえ。新番組だろうが何だろうが、神主殺しの下手人は、かならず突きとめてやらあ」  大政やお相撲常を相手に、いきまいていた。  以後、仙右衛門はますますこの事件に入れ込むことになる。さほど熱心でない朋輩《ほうばい》など、もうあてにはせず、ただひとり、なにやら根気よく嗅《か》ぎまわりはじめた。     6  停滞の日々。  それが、ここでしばらく挟《はさ》まる。  山崎新之助の消息は依然として不明。御穂神社の事件のほうも、あれっきりうやむやだ。  その間、増川の仙右衛門はひとり黙々とうごき回っていたが、お蝶はそのことを知らない。  海道すじで次郎長の名前が売れてくるにつれ、一家に草鞋《わらじ》をぬぐ食客がふえる一方であり、お蝶はその世話にあけくれていた。そんな日々が、冬がおわるまでつづいた。  お蝶が斬られる悲劇の日は五月二十二日であるが、そこへむかって流れてゆく水のうごきが、この時期、一時とどこおったような印象がある。  水が再び流れはじめるのは、三月も半ばを過ぎてからだ。  駿河《するが》は暖かい土地であるから、旧暦三月中旬ともなれば、もう春のさかりである。陽気のよい日は肌ぬぎになっても寒くはない。からすの黒い羽が、暑げにさえ見える。  お蝶はその日、勝手口の外に残り物の鰯《いわし》を置いて、それを鴉《からす》がさらってゆくのをながめていた。からすは隣家の屋根にいわしをくわえあげ、またたくまに平らげた。 「からすに餌《え》づけなんぞするんじゃねえ。群らがってやって来るようになったら、どうするだよ。縁起でもねえ」  次郎長はそういって嫌うのだが、それでもお蝶はときどきこうして、こっそりと残り物を与えていた。  いつも同じ鴉がやってくるのか、それとも日によって違うのか、それがお蝶にはどうもよくわからない。鳴き声で見分けるという木暮半次郎の手紙をおもい出し、あらためて、ヘエー、と思ってしまう。  くろすけ くろきち くろヱもん くろたろう くろべヱ  半次郎が鴉に付けた名前を、お蝶はおぼえていた。ここへくる鴉は、そのうちの一羽だろうか。半次郎が見ればわかるだろうか。 「おお、あれはくろきちではないか」  などと言うかもしれない。  そんなことを考えながら、屋根の上のからすを見あげていると、手伝いの下女がお蝶を呼びにきた。  女がたずねてきたという。  斎藤左内の妻はれん[#「れん」に傍点]といった。  どんな字をあてるのか、お蝶は知らない。おれん[#「れん」に傍点]は左内のことづてを持ってやって来た。 「お捜しのかたのご消息について、お役に立ちそうなお知らせが……」  おれん[#「れん」に傍点]は〈彰義隊〉という名前を口にしなかった。  駿府周辺はおおむね徳川びいきの土地柄だが、それだけに新政府の密偵もかなり入り込んでいるはずだった。しかも徳川家自体が、新政府の顔色をうかがって、彰義隊の残党はおろか、その家族さえ排斥《はいせき》しているありさまだ。 「何か手掛かりがござんしたか」  お蝶は息をはずませた。  だが、無禄《むろく》とはいえ武家の妻を博徒の家に引き入れるのもはばかられた。それに、このことは次郎長に知られたくない。  思っていると、 「あちらの、お寺の境内《けいだい》でお話し申しましょうか」  おれん[#「れん」に傍点]のほうからそういった。  妙慶寺の境内の、杉の巨木のかげに身を寄せるようにして、ふたりは話をした。  彰義隊の残党。  そのひとりが伊豆に隠れている、とおれん[#「れん」に傍点]はいった。  ただし山崎新之助ではない。  樋口《ひぐち》賢八郎という者だが、かれは新之助とは親戚《しんせき》どうしの間柄でもあるらしいから、たぶん何か知っているのではないか。 「——夫がそのように申しておりまする」 「樋口賢八郎さま、というお方でござんすね」 「樋口さまのご所在がわかりましたのは——」  左内の知人が、つい先日、樋口賢八郎からの便りを受けとったからだ、とおれん[#「れん」に傍点]はいった。  飛脚をつかって変名で送られてきた手紙であるが、差出人が樋口であることが判るように書かれていた。 「そのかたが必ず山崎さまのご消息をご存知かどうか、それはわかりかねまするが、あなた、お手紙をお出しになって、お問い合わせなすってみてはいかがでしょう」 「伊豆のどちらでござんすか」 「修善寺《しゆぜんじ》の農家にかくまわれておいでのようとか」  おれん[#「れん」に傍点]はふところから小さく畳んだ紙をとり出して、お蝶の手ににぎらせた。左内が書きうつしてきた所書きだった。  お蝶はそれを押し戴《いただ》いた。 「いずれあらためて、このお礼はさせていただきます」  おれん[#「れん」に傍点]はほほえんで、 「そんなことはようございますから、それよりあなた、早くお手紙をお出しなさいましね。樋口さまが居どころを変えてしまわれては大変」  ではこれで、と帰りかけるおれん[#「れん」に傍点]をお蝶はあわててつかまえた。とりあえず持ち合わせの銭《かね》をふところ紙につつんだ。 「どうぞ、お子さまに。あのお坊っちゃまに、これで何かを」  おれん[#「れん」に傍点]ははっと身をすくめた。 「夫に叱られまする」  小声でいって首をふったが、目は迷っていた。ふと伸びそうになる手を必死におさえているのが判った。  お蝶は後悔した。まるでおれん[#「れん」に傍点]をいじめているような気分になり、自分の軽率なふるまいを悔やんだ。  引っこめるでもなく、押しつけるでもなく、半端なかたちで立ち往生していると、おれん[#「れん」に傍点]は一礼をのこして、小走りに去った。 「ありがとうござんした」  お蝶はうしろ姿にもういちど声をかけた。  彰義隊の残党のひとり、樋口賢八郎。  伊豆の修善寺にかくれ住んでいるという。 〈お手紙をお出しになって、お問い合わせなすってみてはいかがでしょう〉  左内の妻はそういったが、お蝶は、自分がそれをするのはよくないという気がした。官軍の目をのがれて潜伏している相手に、見ず知らずの者が手紙など出せば、警戒して居場所を変えてしまうおそれがある。  木暮半次郎に頼もう。かれなら樋口賢八郎とも相知る仲かもしれない。  そう考えた。  近い距離だが飛脚に手紙を託して、久能山の半次郎に送った。  翌日、返事がとどいた。  読んでみて、お蝶は眉《まゆ》を曇らせた。  樋口を知っている、と半次郎は書いてきた。ただしあの男に手紙を書くことはできない、というのだった。半次郎と賢八郎とは、むかしから不和の間柄なのだという。 [#ここから2字下げ]  よりにもよりて樋口賢八郎とは いかなる皮肉のわざにやあらむ かれとわれとは犬と猿にもたとへられしほどに相性よからず 弱年のみぎりより互ひに忌みきらひ合ひて候  ことに昨年春 賢八郎 新之助 共に幕軍をぬけ出でて彰義隊にくはゝりし折 同道せざりし拙者がことを 豚の如き腑抜け侍なりなど あしざまにのゝしりけるを聞及候  かゝる間柄ゆゑ たとひ拙者 賢八郎に便りをいたし候とも よもや返答を差しよこすとは思はれず候  しかれども 賢八郎ならば新之助の消息 なるほど存じをるやもしれず まことに無念に候 [#ここで字下げ終わり] 「ねえ、おまえさん」  お蝶は茶をいれながら、次郎長にいった。  次郎長は耳そうじの手を休めずに、うう、と返事をした。  柄に似合わぬ細く柔らかい髪。このところ少し薄くなって、そのぶん髷《まげ》が貧弱になり、しかも鬢《びん》に白髪が目立つ。ことしはもう、五十である。お蝶とは二十の差がある。 「ちかごろ腰がすこうし痛みますのさ」  お蝶がうったえると、 「てっ、おめえも若かねえだな」  次郎長はうれしそうな顔をした。 「おまえさんみたいに丈夫にはできちゃいませんからね」 「なら、按摩《あんま》を呼びゃあいい」 「按摩は好きじゃあござんせぬ。深川にいたころ頼んだことがあるけれど、もうこりごり」 「よっぽどへたな按摩だな」 「それより、湯治《とうじ》へ行かせておくれでないかえ」 「湯治? どこへだよ」 「伊豆」 「それあ、かまわねえっけえが……」 「伊豆の湯は、あたしのからだによく合いますのさ。むかし、江戸をはなれたあと、こっちへ来る前にしばらく浸《つか》っておりました」 「ああ、前に聞いた」 「長くいる気はござんせぬが、行き帰りを合わせて六日ばかり、ねえ、ようござんすかえ」 「なんでえ、そげえなもんでいいのかや。えれえ短《みじ》けえ湯治だな」 「あたしは効《き》きが早いから」 「いつ行く」 「お許しが出りゃあ、あすにでも」 「よかろう。若《わけ》え者《もん》ふたりばかし連れてけ」 「すまないねえ、おまえさん」 「たまにゃあ骨休めもしたかろうぜ」     7  下田街道。  狩野《かの》川にそって南へあるく。  横瀬というちいさな集落のあたりで細い支流が西から合流している。桂川である。合流点で下田街道をはなれ、桂川ぞいの道を上流へとたどる。  ほどなく修善寺の温泉場である。  たてこんだ温泉宿。ほうぼうから湯けむりがたちのぼっている。  一泊した翌日、お蝶は、つれてきた若い者ふたりに小づかい銭を与えた。安吉と松五郎だ。 「こんな山奥へつき合わせて悪いねえ。退屈だったら、これで三島まで戻って遊んでおいで」 「へ? いいんですかい?」問い返すふたりの目がかがやいている。 「病人ばっかりのこんな湯治場で、用心棒なんかいりゃしないよ。妙な目でみられて恥ずかしいのさ」 「ちげえねえ」  安吉と松五郎は喜びいさんで草鞋《わらじ》をはいた。  なるべく責任感のうすい遊び好きの者を選んで、お蝶はつれてきたのだ。  修善寺の温泉宿から、さらにもう少し奥へあるいた集落を、お蝶はひとりでおとずれた。斎藤左内の妻から手渡された所書きによれば、樋口賢八郎はその集落にいるはずだった。  谷をながれる澄んだ渓流。  山すそのところどころに、わずかな乾田《かんでん》や畑がみえる。そこではたらく人影もちらほら。  川で釣りをしている子供たち。  よく見ると、おとなが一人まじっている。  しばらくながめていたお蝶は、やがて小径《こみち》からはずれて、足もとに気をつけながら川辺へおりていった。  岩に囲まれて淀《よど》んだ淵《ふち》もあるが、水のしぶく早瀬もあり、その瀬音がうるさい。  お蝶は、無心に釣り竿《ざお》をのばしている男に近寄り、背後から声をかけた。 「釣れまするか」  男は無言で首をねじ向け、お蝶の姿を上から下まで見た。  お蝶は一礼した。 「お初にお目にかかりまする。手前はむかし深川で左褄《ひだりづま》をとり綱太郎と申していた者でござんす」 「……」男は細い竹の竿をゆっくりと立て、糸先をつかんで竿に巻きつけはじめた。  質素な木綿の着物を尻端折《しりはしよ》りしている。濡《ぬ》れた脛毛《すねげ》が脛《はぎ》にはりついて、妙にくろぐろと見えた。  糸を巻きつけ終えた竿を、男はむぞうさに脇へほうり投げた。と思えたが、じつは岩陰に子供がいて、その竿を器用につかみ取った。  男は背丈があり、役者のような整った顔立ちをしていた。その面差《おもざ》しに、どこか山崎新之助に似たところがある。親戚《しんせき》どうしということだが、その血縁はかなり近いものなのかもしれない。 「樋口賢八郎さまとお見うけ申します」  新之助同様、目もとに女を魅《ひ》きつける色気がある。その目を、けげんに細めてお蝶をみつめた。 「なぜ、わかった」  お蝶はふくみ笑いをした。 「そのお顔色では近在のお百姓衆のようには見えませぬ」  野にはたらく者の顔色ではなかった。 「そうではない。なぜおれがここにいるとわかったのか、それを問うている」 「はい、じつを申せば——」  お蝶はいきさつを話した。ただし、木暮半次郎の名は口にしないことにした。  犬猿の仲。  そういう者の名を出して賢八郎に反感をもたれ、口をとざされることを心配したのだ。 「……そうか」  と樋口賢八郎は苦笑した。「以前、新之助をたぶらかした性悪《しようわる》の女狐《めぎつね》とは、なるほど、おまえさんのことか」  渓流を見おろす芋《いも》畑のへり。賢八郎は草の上に腰をおろし、濡れた草履をぬいで日にさらした。  お蝶は、かたわらの櫟《くぬぎ》の木蔭《こかげ》に立った。 「性悪女が、新さんのお身を案じて、こうしてゆくえ捜しをいたしましょうか」 「そこが性悪女らしいところよ」 「あれま」  言葉には皮肉な棘《とげ》があるが、声にこころよい丸みがあり、しずかな話しぶりをする男だった。 「情《じよう》のふかい女は、みな性悪よ」 「さようでござんしょうか」  いいながら、お蝶はふと疚《やま》しさを意識した。胸の隅にあったかすかな疚しさ。夫の次郎長に対してのそれである。次郎長を欺《あざむ》いてまでこんなまねをしていることに、多少のすまなさは感じている。 「それはともかく——」  賢八郎は足に這《は》いのぼってきた蟻《あり》を、手の指に移し取った。手の上でうろうろする蟻をながめつつ、こういった。 「新之助の所在を、おれは知っている」  お蝶は大きく息をした。 「やはり、そうでござんしたか」 「ああ知っている。しかし……」 「しかし?」 「おまえさんに教えてよいものかどうか。それがわからん」 「……」お蝶は目を伏せて草履のつまさきを見、それから少し目をあげ、渓流にかかる小橋をながめおろした。  黙っていると、渓流の水音が下からわきあがってくる。対岸の山で、鳥の声がしきりに呼びかわしている。 「いずれにせよ」  やさしみの含まれた声で、賢八郎がいった。「あいつが無事でいることだけは確かだ」 「ごふじゅうは……」  とお蝶はきいた。「ご不自由なすっておいでじゃござんせんでしょうか」  賢八郎はわらった。 「知れたことではないか。不自由しておるさ。おれと同じようにな」  腰をおろしているかれを、お蝶は斜めに見おろした。  川でのんきに釣りなどして、髷《まげ》の手入れもよく、着物は質素ではあるが、それでも小ざっぱりしていて継《つ》ぎあても綻《ほころ》びもない。つらい暮らしに耐えしのんでいるという様子は、あまり感じられない。 「まあ、たしかにおれは、この土地でのんびりさせてもらってはいる。新之助のいるところでは、おそらくこうはゆくまい。おれが世話をうけているのはこの土地の顔役でな。頼朝《よりとも》でもかくまうように至れり尽くせりよ。だがそのかわり、別の不自由もあるのさ」  手の蟻を、賢八郎ははらい落とした。「おっと、腕が痛むわ。……ときどき、この腕がな」賢八郎は袖《そで》に手を入れて、右の上腕《かいな》を撫《な》でた。 「おけがを?」 「鉄砲玉がかすめただけだ」  お蝶は新之助の腕を思いだした。すこし引きつれた古い火傷《やけど》のあと。 〈ずっとむかし姉にやられたのよ。きつい姉でな。火箸《ひばし》で叩《たた》きおった〉  あの傷あとは、賢八郎とは逆の左の上腕だった。お蝶はそこを指でそっとなぞってみるのが好きだった。 〈火箸が焼けていたのに気づかなんだのさ。おれの火傷をみて、あとでおいおい泣いておった。……おまえにな、よく似ておった〉  お蝶は櫟《くぬぎ》の幹のそばにしゃがみ、新之助の面差しに似た賢八郎の横顔をみつめた。 「まだ痛みまするか」 「とうに癒《い》えた傷だが、おれが贅沢《ぜいたく》をほざくと、死んだ連中がやって来て、ここを突っつきおるのさ」賢八郎は苦笑をうかべた。 「上野では、たんとお亡くなりになったんでござんしょうね」 「何人死んだかのう。われわれの同志は二千人いたが、そのうち二百人は斃《たお》れたはずだ。なにしろ敵は新式銃に、新式の大砲だ」 「では新さんも、どこかにおけがを?」 「いや、あいつは無傷だ。あれを武運というのかのう。笠《かさ》を撃ちぬかれ、刀の鞘《さや》も撃ち割られ、馬まで撃ち倒されていながら、当人はかすり傷ひとつ負うておらん」 「新さんはお馬に乗っておいででござんしたのか?」 「あいつは本営詰めの連絡係であったから、各隊のあいだをしきりに馬で駆けめぐっておった」  賢八郎の口がしだいに、なめらかに回りはじめた。目が宙空をただよい、心は十カ月前の上野の陣中に立ちもどっている様子だ。  次郎長や子分たちが熱っぽく語りあう、喧嘩《でいり》の回顧談。あのときのかれらの目つきによく似ている。  ただ、この男の場合は負けいくさであったためか、言葉のはしばしに多少|自嘲《じちよう》のひびきがあった。  新之助のやつは、しゃれ者でな。  奥詰銃隊でフランス式調練をしていただけあって、陣羽織など着ず、外套《マンテル》にズボンに長靴という格好だ。それで腰に拳銃《けんじゆう》をつっこみ、丸い陸軍笠をかぶり、颯爽《さつそう》と馬を馳《は》せておった。  おれのほうは黒門口《くろもんぐち》を守っていたのだが、そこへ新之助が見回りにきた。戦《いくさ》の日の未明だ。梅雨のさなかよ。何日も前から雨がしょぼしょぼと降りつづいて寒気がする。みなで酒を飲んで体をあたためていたところへ、馬上ゆたかに新之助だ。  雨中の見回りご苦労ということで、十番隊の組頭が大盃《おおさかずき》をすすめると、新之助のやつ、ひといきにあおってにっこり見得《みえ》をきりおった。  おぬしらの守る黒門口は、われらの陣の喉元《のどもと》でござる。おはげみくだされや。あすは必ずや江戸城内で、敵の首を肴《さかな》に大いに酌《く》みかわそうぞ。  こちらもすでにきこしめしているから、みないっぱしの豪傑気分さ。景気のよい応答に送られて、新之助め、花道をゆく役者のつもりで、拍子木《ひようしぎ》のひとつもほしかったろう。  いくさは夜明けとともにはじまった。  南の黒門口へは薩摩《さつま》の兵がやってきた。やはり、いちばんの強兵を黒門口にあてがってきたわけさ。長州勢は西北の団子坂のほうから来たという話だ。  知っているだろうが、上野は古い大木が鬱蒼《うつそう》としておる。その大木がいきなりめりめりと裂けて倒れたものだから、われわれは驚いたさ。聞けば本郷のほうから不忍池《しのばずのいけ》越しに新式の大砲でどやしつけてきたという。吹き飛ばされた者の肉きれが、そのあたりの枝に貼りついているではないか。  このうえは、斬り込んで薩摩の示現《じげん》流と手合わせだと、そうは思うものの、敵は地蔵を並べたごとく、じっと動かず鉄砲の乱れ撃ちだ。  ふり向けば、背後の吉祥閣が、大砲の直撃をくらって燃えはじめている。  ここで味方は腰が浮いたのさ。誰が先とはいわぬがうしろへ退《ひ》きはじめた。あとは総くずれよ。黒門口は薩摩の兵に破られた。  おれも逃げたさ。中堂まで逃げた。  中堂の守備隊に合流して、ここで踏んばろうとしたところが、兵などどこにもおりはせぬ。飲み残しの酒樽《さかだる》が、ひとりで番をしておった。  おれは喉がからからさ。酒樽の酒を両手ですくい飲み、ゲフッとおくびなど洩《も》らしながら、こんどは本営まで走った。  やはりおらぬ。もぬけの殻《から》よ。  これではどうにもなるまい。  竹藪《たけやぶ》の中をくぐりぬけ、土塀をとび越え、なんとか根岸《ねぎし》のほうへ脱出した。  みれば前にもうしろにも、味方がぞろぞろ歩いておる。敗けた者がみなこちらへ落ちてきた。  東と北を、官軍がわざとあけていたのさ。退路を封じれば死にもの狂いの抵抗をする。そうさせぬための軍学の初歩よ。  この落武者連中のなかに、新之助もいた。  お互い顔を見あわせて、ためいきのほかに言葉もなしさ。そのままつれだって三河島あたりまで落ちていった。  ようも涸《か》れぬわと思うほど、雨はしとどに降りつづく。誰もかれも濡《ぬ》れ鼠よ。まわりの田は畦《あぜ》まで水びたし。道はぬかりにぬかって足は脛《すね》まで泥まみれだ。  おぬし傷をうけたか、と新之助がいうので、ここでおれはようよう腕の出血に気づいた。あいつが肩を縛ってくれたが、知ったとたんに痛みを覚えはじめたから、まことにおれも情けねえ。  まあ痛みも痛みだが、それより腹が減ってしかたがなかった。早朝ににぎり飯みっつと梅干しを食ったのみで、このときすでに七ツ(午後四時)ごろだ。  そこで通り道の農家に立ち寄った。思いは誰も同じとみえて、先客が何人かいた。肥《ふと》ったのがどっかりとまん中にいて、見るとこれが天野八郎、われらを指揮した首領株だ。  腹ごしらえをしつつ、ついでに後図《こうと》を策する評定《ひようじよう》となった。  残兵をまとめて奥州へ向かおうという意見も出たが、天野八郎は不賛成だった。  こんな疲れきった敗兵で官軍の重囲を突破できるものか。江戸市中か近郊に潜伏して再挙をはかるべしと、天野はめしを掻《か》きこみ掻きこみ主張しておった。  とにかく、ここにいてもしかたがない。どこかの寺でも借りて事を打ち合わせようとて、まもなく腰をあげた。天野を先頭に百数十人。道灌山《どうかんやま》を越え、巣鴨を横ぎり、音羽の護国寺にたどりついたころには、日が暮れていた。 「さぞ、ご無念でござんしたろう」  ぬかるむ道をずぶ濡れで落ちのびてゆく新之助の姿を、お蝶はおもい描いていた。 「無念よ。無念ではあったが、ほんとうの無念はむしろそれからだ。考えてもみよ」  と賢八郎はお蝶を見返った。「生まれ育った江戸の市中だぜ。そこを、田舎侍どもの目をのがれ、鼠のようにこそこそと逃げ回り、隠れひそんでおらねばならん」 「当座は護国寺に隠れていらっしゃいましたのか?」 「いや、護国寺で人数が別れた。おれと新之助は八十人ほどの者と護国寺を出て、四谷大木戸より青山久保町をへて仙台坂をすすみ、広尾まで移動した」  移動の道すがら、官軍の小隊と出くわして交戦したり走り逃れたり、そんなことをしておるうちに人数がまた別れて、明け方、広尾の祥雲寺《しよううんじ》に到着したのは四十人というところだ。  なぜ祥雲寺に入ったかといえば、ここに同胞の一隊が屯《とん》しておると聞いたからだ。だが来てみればそんな者はおりはせぬ。  とわかった途端に下卒がみるみる消え去った。残ったわれわれも戦装束《いくさしようぞく》を解《と》いて、銃や槍《やり》を寺にあずけ、寺僧にたのんで古袴《ふるばかま》など手に入れてもらった。着替えが終るか終らぬかに、小僧が駆け込み、錦片《きんぎれ》がきた錦片《きんぎれ》がきたと騒ぐではないか。  こちらはあわてふためき、裏の垣根をくぐって一目散《いちもくさん》よ。気がつけばみな裸足《はだし》というありさまさ。  喉をぜいぜい鳴らしながら青山百人町から千駄ケ谷へ出た。そこの八幡のそばに知った料理屋があるという者がいて、その案内で上がりこんだのは、おれと新之助をいれて四人だ。売り切れの札《ふだ》を表に出させてほっとひと息。酒をたのみ、湯をつかわせてもらい、髪結いも呼んで身づくろいをした。  肘《ひじ》を枕に仮眠のあと、夜に入って分散した。どこへ散ったかといえば、それぞれの自宅や親族の家だ。人目をしのんでこっそりと舞いもどり、土蔵にかくれ潜むことにしたわけさ。  ところが官軍の探索は甘くはない。  討ち洩らした賊徒を掃除するとて、市中の辻々《つじつじ》に高札を立てたうえ、なにがしかの懸賞金をつけて岡っ引きどもに嗅《か》ぎ回らせはじめたから始末がわるい。  しかもよ、しかも官兵ども、怪しいとみれば、いちいち質《ただ》しもせずに家に乱入、発砲して、婦女子もかまわず銃殺するというではないか。  養家には遠慮し、生家にたのんで土蔵に潜伏していたおれだが、近隣の者が再三、危険をつげにきて逃げろとすすめる。なぜかはいうまでもあるまい。官軍の発砲のとばっちりをくいたくないのさ。  近所のやつらばかりではない。父も兄も女たちも、たいへんな怯《おび》えようだ。そこでおれは三日目に家族に別れを告げて、出てゆくことにしたよ。  腹掛けに三尺帯。職人の風体で家をあとにした。それからは文字どおり無宿の日々だ。昼は仲間の潜伏先をたずねて休ませてもらい、夜は神社や寺の物陰で、藪蚊《やぶか》にたかられながらの仮眠だ。 「新さんは? 新さんはその間どうなすっておいででござんした」 「おれと似たり寄ったりだ。草にも寝たろう。蚊にもくわれたろう。仲間はみなそんな目を味わっていた」 「新さんとはその後も、お会いなすったんでござんすか?」 「ああ会った。六月の二日だ。おもだった同志が連絡をとり合って、四谷新宿の茶屋にあつまった。そこに新之助もいた」  茶屋の奥座敷に十人があつまった。  頭目の天野八郎も来ておった。それぞれ思いおもいの姿に身をやつしていたよ。赤穂《あこう》の義士の会合のようであるなあと、ばかをいっているやつもいた。  相談の結論はすぐに出た。彰義隊再挙の名を天下に残すべし。そういって気勢をあげた。つまり、隊の残兵をまとめて江戸城に火を放ち、武器や金や糧秣《りようまつ》をうばって奥州の戦線にくわわろうと、まあそのようなことをぶち上げたわけさ。  あげくに割符《わりふ》までこしらえたのだから念が入っている。板を半分に割って片方ずつ持ち合う、そうだ、その割符よ。  無二諾、という文字を書いて、それを左右に割った。  時機至れば、その割符をつかって横の連絡をとるというものだ。おもえば児戯《じぎ》にひとしいが、その場ではおれも少しばかり気が高揚したものさ。  だがそれ以来、ついに時機は至らずじまいよ。  あの日の集まりのあと、再びそれぞれのかくれ場所に身を潜めたわけだが、準備はいっこう整わぬ。その間に同志はつぎつぎに減ってゆく。官軍に斬られたり捕縛されたりする者があいついだからだ。  ひとりは湯島天神で捕らえられた。  ひとりは吾妻橋《あづまばし》のあたりで捕らえられた。  ひとりは下谷《したや》団子坂で官兵に囲まれて斬り殺された。  じつはおれ自身も、潜伏先で官軍に踏み込まれた。  新之助もそうだ。おれが襲われた数日後に、あいつの潜伏先も官軍の急襲をうけている。おれも新之助も、しかしかろうじて逃げのびた。  不浄な話ではあるが、おれは雪隠《せつちん》から逃げたのさ。雪隠にとび入り、掻き出し口より這《は》い出た。そして垣根をくぐって隣家の縁の下に一日かくれていた。  おれがそのとき居たのは同志のひとりの実家だったのだが、その男と、それからその老いた父親が引っ立てられていった。あの家には若干の武器も隠してあったから、ご老父も、おそらく石を抱かされて拷問をうけたことであろう。  櫛《くし》の歯が欠けるように、というが、まさにそれだ。ぽろりぽろりと同志が欠けていきおったわ。  やがてついに首領までが官軍の手に落ちてしまった。天野八郎だ。あれは七月の半ばのことだ。天野の隠れ家は本所《ほんじよ》石原の鉄砲師の家だったが、そこへ官軍が発砲しながら押し入って天野を縛りあげた。天野は拷問で痛めつけられたとみえ、五カ月後に獄死した。死体は小塚原《こつかつぱら》にさらされたそうだ。  もはや、いかんともなしがたい。  天野が捕らわれたあとは、もう誰も再挙などいわなくなった。すくなくとも、江戸で事を起こすのはむりであることがはっきりしてきた。身を置く場所すらなくなってきた。  友も親戚《しんせき》も、みなわれわれを避けて寄せつけなくなった。なかには、官軍に通報しようとする者までいる始末だ。江戸を脱《ぬ》け出す以外に道がなくなってしまった。そのことを新之助と会って相談した。  結局おれたちは、ある者の手引きで、無事に江戸を逃れ出た。新之助は途中までおれに同行したのだが、三島で別れた。 「三島で?」 「別れたあと、あいつもある場所に落ちついた」 「安心できる場所でござんすか」 「安心はできる。だが、ここのようにのんきな暮らしはしておらぬだろう」 「なぜ、ご一緒にここへ参られなかったのでござんしょう」 「それは、ことわられたからだ」 「ことわられた?」 「おれを匿《かくま》うことを承知した者が、しかし新之助までは面倒を見かねるといって断わった」 「まあ」 「だが心配はいらぬ。無事でおる」 「あなたさまと新さんとは、いまでも便りのやりとりをなすっていらっしゃいますのか?」 「ああ、ときどきな。居所を知りたかろうが、さっきも申した通り、おれの一存で教えるわけにはゆかぬ」 「では、あなたさまから新さんにおことづて願えませぬか」 「おまえさんが気にかけておるということをか?」 「さようで」 「それはまあ、かまわぬが、見たところおまえさん、いまはご亭主を持つ身のようではないか」 「おっしゃる通り、亭主持ちでござんす。ですから、いまさら新さんに会ってどうしようというつもりじゃござんせぬ。ただ、ご不自由なお身の上と聞いて、陰ながら何かお役に立てることでもあればと、それだけの気持ちでござんす」 「ふうむ。……ふうむ、と唸《うな》りたくもなる。まことに殊勝《しゆしよう》な女《おな》ごだな、おまえさんは」 「おや、さきほどは性悪の女狐とおっしゃいましたくせに」 「殊勝と性悪とは紙一重よ。おまえさんはどうやら紙一重ぶん、たちが良さそうだ」 「あんなことを」  お蝶は苦笑をうかべた。  陽《ひ》が回って、こちら側の山の影が対岸の山すそをゆっくりと這いのぼってきている。空はまだ青くあかるいのに、足もとの谷はすでにひんやりと翳《かげ》って仄暗《ほのぐら》かった。 「おしめやかだねえ」  女の声がすぐ近くでして、お蝶も賢八郎も、まるで耳を引っぱられたようにぎくりと振り向いた。 「おう、おかつ[#「かつ」に傍点]か」賢八郎の声がわずかにうわずった。  背の高い女だった。あるいはお蝶が斜面の下手にしゃがんでいたから、よけいにそう見えたのかもしれない。眉《まゆ》もおとさず、歯に鉄漿《かね》もつけていないが、歳はお蝶よりほんのふたつみっつ下という程度だ。  ほそ面《おもて》のきれいな女だが、目もとに癇《かん》のたかぶりがあらわれていた。  あ、お仲間だ。  とお蝶は思った。以前の自分と同じく、きっと芸者をしていた女だと、直感的に知った。しかも江戸の感じがする。  柳橋だろうか。見たことのない顔だから、深川ではないだろう。  お蝶はすっと立って会釈した。 「失礼じゃないかえ、おまえさん」  と女は、賢八郎にむかって言いながら、目はお蝶だけをじっと見ている。 「え」  と賢八郎はなにやらひるんでいる。 「お客さまを、こんな野づらでさ。どうしてうちへご案内しないのさ」 「おまえ、なぜここに」 「通りすがりに歩くような場所かえ、ここが」  女はようやく賢八郎に目を向け、口もとだけにうす笑いをうかべた。「お殿さまにお客がきたと、こども衆が知らせてくれたのさ」 「そうか。いや、このお客はだな、山崎新之助の古いなじみよ」  女は髷《まげ》にちょっと手をやり、鼈甲《べつこう》の簪《かんざし》をぬいて髷のなかの皮膚を掻《か》いた。そっぽを向くようにして掻きながら、 「はてさて、どなたの古いなじみやら」  鼻でわらうような言いかたをした。  賢八郎もとうとう立ちあがり、 「おかつ[#「かつ」に傍点]!」  と一喝した。その声に、お蝶のほうがびくっとした。 「何だえ」  女は簪をもどし、あごをそらして振り向いた。  賢八郎は干してあった草履に足を入れ、声をおさえて、たしなめるように言った。 「たいていにしろ」 「たいていにしろとは、どっちの言い草だい」 「何をいっているのだ、おまえは」 「こないだも温泉場の娘とどこかへしけこんだのを、あたしが知らないとでも思ってかい。おまえさん。あんまりこけ[#「こけ」に傍点]にするんじゃないよ。いったい誰のおかげで、そんなすました顔をしていられるのさ。あたしが父親《てておや》に泣きついてやったおかげだろう」  賢八郎はだいぶ分《ぶ》が悪くなり、むこうの山をにらんだきり押し黙ってしまった。  お蝶は口をはさむこともならず、これも黙って谷を見おろしていた。谷はますます仄暗さを増してゆく。  女のほうも無言で、たかぶった鼻息だけがいつまでもおさまらずに聞こえている。  やがて、さすがにいたたまれなくなった。お蝶は賢八郎と女とにそれぞれ会釈をし、渓流ぞいの道のほうへと下《くだ》りはじめた。 「新之助のやつに……」  と賢八郎がうしろから言うのが聞こえて、お蝶はふり返った。「便りを書いてやる。おまえさんのことを伝えてやる。住まいを聞いておこう」  お蝶はかれを見あげてほほえんだ。 「ああ、これは申し忘れました。清水でござんす」 「清水か。清水のどちらだ」 「山本……」いいかけてお蝶は迷った。  しかし、悪事をしているわけではないと自分にいい聞かせた。万一、次郎長に知られることがあっても、ちかごろしきりに〈任侠《にんきよう》〉を口にしだしたかれのことだ、きっと判ってくれるだろう。都合のいい考えかただったが、そう思い込むことにした。 「山本長五郎の妻でござんす」     8  清水へ帰ったお蝶は、木暮半次郎に手紙を書いた。  修善寺の樋口賢八郎に会ってきたこと。新之助に連絡してやると、賢八郎がいってくれたこと。 [#ここから2字下げ]  しん様より御たより御座りましたならば 御まへ様へもかならず御しらせ申しあげまする [#ここで字下げ終わり]  そう書いて出した。  が、果して新之助が便りをくれるかどうか、お蝶には自信がなかった。  六年前のお蝶の仕打ちを、新之助はいまでも怒っているのではないか。ひとことの断わりもせず、手紙すら残さずにかれの前から姿を消した。あのことを恨《うら》みに思っているのではないだろうか。  たとえそうではないとしても、かれはお蝶のことなどもう忘れてしまっているかもしれない。一時はのめりこんだ仲とはいえ、しょせんは客と芸者の間柄だ。六年もたてば、もはやあかの他人。いまさら何の縁があろう。そう思っているかもしれない。  お蝶はまったく自信がなかった。  だから、おどろいてしまった。  四月の半ばに山崎新之助から手紙がきたとき、お蝶は胸が苦しくなるほど驚いてしまった。  われ知らずふるえる指先で、封を解《と》いた。 〈会ひたや、会ひたや〉  と書かれていた。 [#ここから2字下げ]  いつもいつもお前のことのみ思ひ出しをり候 けん八よりの便りにてお前のこゝろ根を知り 思はずなみださしぐみ候 やれめゝしやと思へども この一年 ことばに尽くせぬつらき目を見しゆゑ なほさらお前のなさけ 胸にこたへ候  会ひたや 会ひたや お前とひと目会ふて手をとりたや [#ここで字下げ終わり]  必ずおまえをたずねてゆくから待っていてくれ。そしてそのときは改めて連絡する。  新之助はそう書いていた。  が、いまの居所については、ひとことも触れていなかった。  お蝶は三度読み返して大事に鏡台のひきだしの奥にしまい、用事のあいまに、またそっと取り出して読み返した。  読み返すと、そのたびにふわりと身が浮くほどのうれしさを覚え、そんな自分の有頂天をひきしめるのに苦労した。  清水の町を出て南へ一里たらず歩くと、外海《そとうみ》の浜辺に出る。  じっさいは駿河湾[#「湾」に傍点]あるが、清水港の口を小さく囲う折戸湾とはちがい、大きく太平洋にむかって開いているから、外海と呼んでもいいだろう。  その駿河湾を目の前にし、うしろに有度山の山すそを背負う場所に、ちいさな寺がある。  万象寺《まんぞうじ》。  という寺だ。万象寺から西へ海ぞいの道をゆけば、久能山の登り口に達する。つまりこの寺は、清水からも久能山からも、ほぼ同じような距離にあるのだった。  付近に人家はすくなく、境内はいつも閑散としている。  お蝶はその境内で、木暮半次郎と会った。  空は、掃き清めたように晴れており、砂浜のむこうにひろがる海が、まっ青だった。頬をなぶる風も、目を閉じたくなるほどこころよい。 「でも……」  とお蝶はうれしそうに笑った。「いまのこんなあたしを見て、新さんは何てお思いになるかしらねえ。すっかりいい年をしたおかみさんになっちまって。なんだか、いやでござんすよ」 「そんなことはいまさら関わりなかろう。おまえは人のおかみさんに違いないのだからな」  半次郎はにこりともせずにいった。何か不機嫌そうに見えた。  手紙をもらっただけではしゃいでいるお蝶のようすが、気にさわったのかもしれない。 「そりゃあ、そうでござんすけれど」  浮きたつ心に水をさされ、お蝶も白けた気分になり、眉《まゆ》を寄せて、まばゆい海をみた。  嫉妬《しつと》だろうか。  とお蝶はふと思った。半次郎は妬《や》いているのだろうか。 「おまえは人の妻だ」  いいきかせるように、かれはくり返した。「だから新之助が出てきたら、あとはおれが匿《かくま》う」  おまえの手から新之助を取りあげる。そういっているのだとお蝶は気づいた。  お蝶は無言でいた。  嫉妬。といっても、しかしふたつの形がある。  ひょっとすると、半次郎は、新之助に嫉妬しているのではなく、お蝶に嫉妬しているのかもしれない。  衆道《しゆどう》。  という言葉が、お蝶の胸をかすめた。  半次郎と新之助とは、あるいはそういう関係を持っていたのかもしれない。武家の世界では珍しいことではないと聞いている。  だとしても、いまのお蝶がとやかくいえる立場ではない。  人の妻。しかも、ばくち打ちの妻だ。  おれがかくまう、と半次郎に宣言されても、不服などいえない。どころか、たしかにそれ以外に方法はないのだ。 「おまえさま、ご家族は?」  いまごろになって、お蝶は半次郎にそんな質問をした。かくまうとすれば、久能山にだろうか、それとも半次郎の家族にでも託すつもりだろうか。それを知りたかったのだ。 「両親《ふたおや》と妹がな……」  半次郎は、袴《はかま》や袖《そで》を風にふくらませながら、ぼそりといった。 「ご一緒に、こちらにおいでで?」 「いや。……みな死んだ。去年、江戸でな、官兵に皆殺しにされたのよ」 「さようでござんしたか」  お蝶はすこし間《ま》を置いてから、訊《き》いた。 「では、新さんは久能のお山にお匿《かくま》いなさるおつもりでござんすか?」 「まあ、そうなるであろう」 「新番組のご朋輩《ほうばい》がたは……」 「心配いらぬ。官軍を怨《うら》む者ばかりだ。新之助の素姓を知れば、むしろ喜んで迎えてくれるであろう」 「ならよろしゅうござんすが」 「とにかく今後も」  と半次郎は念を押した。「新之助から何か便りがあれば、必ずおれにも伝えてくれ」  お蝶は風にめくれようとする裾《すそ》をおさえて、うなずいた。 「わかりましてござんす」  境内で半次郎と別れて、お蝶は清水の町へと引き返した。  高い陽を背にあび、足もとの自分の影を見ながら田の中の道を北へたどった。その短い影が誰かの足にぶつかりそうになって、あわてて立ち止まった。 「おや、仙さん」  増川の仙右衛門が、浴衣《ゆかた》の袖を夏のようにまくり、太い眉を日差しにしかめて立っていた。 「いきなり木でも生えたかと思ったじゃないか。こんなところに突っ立って、何をしておいでだい」  とまどうお蝶を、仙右衛門は妙に冷えた眼差《まなざ》しで見つめている。 「何をしておいでかと、そう問いてえのは姐《あね》さん、こっちのほうですぜ」 「何のことだえ」  日差しは逆だが、お蝶も眉を寄せた。  仙右衛門は、お蝶の肩ごしに海の方角をあごでしゃくった。 「さっきのお侍と姐さんとは、どういった間柄でござんすか」 「……」見られていたのかと、お蝶はいったん目を伏せた。しかし、疚《やま》しいことはしていない。そう思って背をのばした。「深川にいたころの、昔なじみさ。ご一新で、こちらへ移っておいでになったのさ」 「新番組でやしょう?」 「……ああ、そうだよ」 「名前は木暮半次郎」 「……」お蝶は、からだを横に向け、仙右衛門の前を離れて、道の端にゆっくりとしゃがんだ。苗代《なわしろ》が、水をたたえている。 「ずいぶんよくご存知だねえ仙さん。そのぶんじゃあ、あたしがけさ食べた米つぶの数まで知っているんじゃないのかえ」 「姐さん」  仙右衛門も道の端まで寄り、立ったままこう訊いた。 「いまのお侍は、姐さんの昔の情人《いろ》ですかい?」  遠目には、ふたりで田の様子を見ているような格好だった。 「何をお言いだい、ばかだね」お蝶は苦笑してみせた。  しかし、仙右衛門の声は硬く冷めたかった。 「姐さん。いっとくがあの侍、御穂神社の神主を殺した一味のひとりですぜ」  お蝶はしゃがんだまま仙右衛門の顔を見あげた。 〈両親《ふたおや》と妹がな……官兵に皆殺しにされたのよ〉  半次郎の言葉を思い返した。 「それは、たしかなのかえ?」 「証拠がふたつありまさあ。ひとつは、あの事件のしばらくあと、あいつが刀を磨《と》ぎに出したってこと」 「お侍がときどき刀を磨がせたって、べつに不思議はないじゃないか、え」 「ふたつめは、盗みとられた品でさあ。あの夜、押し込んだ侍どもが殺しのついでに掻《か》っ払《ぱら》っていった品の中に、文箱《ふばこ》があったってえ話だ。赤うるし塗りの、えれえ上等のしろものだそうでやすが、それが駿府の骨董《こつとう》屋に出た。神主の後家さんが駿府までそれを見に行って、うちにあった物にまちがいござんせんと買いもどした。じゃあ、いってえ誰がそれを骨董屋に持ち込んだのか。侍だ。侍がふたりで来たっていいまさあ。わっしは骨董屋のおやじを久能のお山の下の茶屋へ引っぱっていって、そこへ出入りする侍どもの顔を、ようく見させた。間をおいて三日ほどかよったあげく、どうもあの侍のようでやすと、おやじが合図したふたりのうちのひとりが、あの木暮半次郎でさあ」 「お待ちよ仙さん。おかしいよ、それは」 「何がでやす」 「だってそうじゃないか。押し込みをして人まで殺した当人が、そこで盗んできた物を、自分で店に持ち込んだりするものかね。木暮さまはきっと、ご朋輩の誰かに頼まれてそれをお銭《かね》に換えなすっただけさ。きまっているよ、そんなこと」  仙右衛門はちょっとにがい顔をした。 「決め手に欠けるってえのは、その通りだ。だからわっしも歯噛《はが》みをしているんでさあ。だけえがね、姐さん。おれは、あいつにまちげえねえと睨《にら》んでいる。盗んだしろものを堂々と骨董屋に持ち込んだって、誰もふん縛りにゃあこねえと、たかをくくってやがるのさ」 「仙さん、おまえ、そんなことを軽はずみに触れ回ったりしたら、それこそ胴から首が離れることになりかねないよ。つつしんでおくれよ」 「触れ回りはしねえが、そろそろ親分にぜんぶ話して、いちおうその筋に申しあげてもらうつもりでさあ」 「本気かえ」 「もちろんだ」  仙右衛門は、しかしそこで声を柔らかく落とした。「……だから姐さん。これはわっしからの頼みだが、どうかあんな侍とかかわりを持つのはやめておくんなせえ」  お蝶は返事をせずに苗代を見つめていた。  どうしよう。  思い悩んだ。  半次郎のことを心配しているのではない。もしも半次郎がお上《かみ》の牢《ろう》に入るようなはめになった場合、新之助をいったいどうすればいいのか、それを心配していた。  仙右衛門のいう通り、半次郎はほんとうに神主殺しに加わったのだろうか。だとしたら、いずれは取り調べを受けるにちがいない。新之助のために、それは困る。  しかし、たとえ捕まらなくとも、事情は同じだということにお蝶は気づいた。仙右衛門のような者が半次郎のまわりを嗅《か》ぎ回っているかぎり、安心して新之助を預けるわけにはいかない。  半次郎と新之助。  けっきょく、いまはあのふたりを近づけてはならないのだ。お蝶はそう気づいた。新之助がたとえお蝶に会いに出てきたとしても、半次郎には何も知らせずにおくべきだ。そして、新之助はお蝶に会ったあと、ふたたび現在の潜伏先へと戻る。新之助にはつらくとも、いまはそれしかない。世の中の状況がもうすこし変わるまでの辛抱だ。  お蝶の考えは、そこへ落ちついた。 「仙さん」 「へい」 「おまえさんの忠告を、すなおに肯《き》くことにするよ。十手を預る者のおかみが、神主殺しの下手人かもしれない侍と懇意にするのは、やっぱり障《さわ》りがあろうよね」 「そうしておくんなせえ」  道を人が歩いてくる。 「さて、こんなところにいたんじゃあ、変に思われちまう」 「ふふ、そうだねえ」  お蝶は立ちあがった。     9  数日後の夜。  お蝶は繕《つくろ》いものをしていた。  次郎長の羽織だった。外出用の木綿のひとえ羽織。  次郎長の衣類はすべて木綿だ。ちかごろは台所も多少らくになってきていたが、それでも絹物はまったく身につけようとしなかった。  奥の四畳半で、お蝶が晩《おそ》くまで針をつかっていると、次郎長がのっそりと入ってきた。 「おや、まだ起きておいででござんしたのかえ」  お蝶はちらりと見あげただけで、針をとめなかった。  次郎長は、すこし暗くなりかけていた行灯《あんどん》の芯《しん》を調節してくれたあと、煙草盆をひき寄せてあぐらをかいた。 「根《こん》をつめるじゃねえか」  言ったきり、黙って煙草を吸いつけたり、古い箪笥《たんす》の黒い鉄の把手《とつて》を、じっとながめていたりした。 ながくつづくその沈黙が、何か意味のあるものに思えてきて、お蝶はそっと目をあげて次郎長の横顔をうかがった。 「お蝶」  とふいに次郎長が呼びかけてきた。 「……あい」 「お蝶、という名にも、もうなじんだかい」  お蝶は苦笑して、 「いまごろ何をお言いだい」  もう五年にもなるではないか。  そういえば、婚礼の夜に、 〈きょうからお蝶と名乗ってくれ〉  といわれたのも、この部屋でだった。 「おまえさん、お茶でもいれますかえ」 「いや、いらねえ。眠れなくならあ。ただでさえ、このところ眠りが浅《あせ》えんだから」 「おや、そうでござんしたか。どこか具合がお悪いのかえ」 「そうでもねえっけえが……」  次郎長は吐息をあいだに挟み、「考えることが、まあ、あれこれ増《ふ》えてな。若えころは、なあんにも考えねえ男だったが、ちかごらあ体がなまくらになったぶん、頭がよけえなことばかり考えるようになっていけねえ」  お蝶は急にどきどきしてきた。  言葉の意味をさまざまに解釈し、その解釈を自分でどんどんひろげて怖くなり、顔をあげられなくなった。針は無意識にうごかしているものの、気をぬくと指がふるえてきそうだった。  仙右衛門の口から、何か聞いたのだろうか。  それとも、修善寺の件だろうか。  まさか新之助の手紙を見つけたわけではあるまい。  次郎長が何かを感じているらしいことは確かだった。それは言葉にして言えるほどはっきりしたものではないような気もする一方で、案外何もかも知りつくしているのではないかという怖さもある。  いずれにしても、お蝶の単なる思いすごしとは、どうしても思えない。  さきにこちらから弁明をすべきだろうか、それともただ黙って聞いていればいいのだろうか。その判断がいつまでもつかずに、お蝶は硬くなって息をこらしていた。 「お蝶」 「あ、あい」 「おれあ、あしたっからしばらく留守にするぜ」 「え……どちらへ」 「三河の寺津《てらつ》だ。寺津の間之助《まのすけ》のあんべえが悪いそうだ」 「ああ、あたしもそれは、小耳にはさんでおりました」 「あそこは先代親分の時分からさんざん世話になってきたでな」 「お見舞いなさるんだね」 「見舞いついでに、縄張りの面倒も見てやらにゃあなるめえから、ちいっと長くとどまることになりそうだ」 「……そうでござんすか」  そしてまた少し沈黙を置いたあと、次郎長がおもむろに腰をあげた。 「じゃあ、おらあ寝《やす》むけえが、仕度《したく》を頼んだぜ」 「あいよ」  襖《ふすま》がふたたび閉じられたあと、お蝶は繕いものを膝《ひざ》におろして、息を吐いた。  二重の意味でホッとしていた。  叱りつけられる恐怖から解放されたことがひとつ。もうひとつは、新之助との再会の日が、どうやら次郎長の留守のあいだになりそうだという安堵《あんど》感だった。  翌日、次郎長は大政をともなって、三河へ向かった。  子分たちが勢揃いして見送る中、次郎長は玄関で増川の仙右衛門に声をかけた。 「あとは頼んだぜ」 「へい」  仙右衛門は小腰をかがめて答え、目をあげる瞬間、ちらりとお蝶のほうを見た。 「道中お気をつけなすって」  お蝶がいい、そのあと同じ言葉を子分たちがいっせいに野太く喚《わめ》いて、次郎長の出発となった。  増川の仙右衛門が留守をあずかるなか、一見平穏な日々がつづいた。  新茶の季節だ。清水の港はその積み出しでいちだんと活気づいていた。十六貫目(約六十キロ)入りの茶箱詰にされた製茶が、駿府の問屋から荷車に積まれて続々と清水へ送られてくる。鈴を鳴らしながらくるその音が、家の中のお蝶の耳にまでよく届いた。  そしてそのまま五月に入った。  だが、新之助からの次の便りは、いっこうに届かなかった。  お蝶はまた不安になった。  気が変わったのだろうか。このあいだの手紙は、調子のよい出まかせだったのだろうか。いったんはお蝶への懐かしさに駆られて気持ちが動いたものの、時とともに冷静さがよみがえり、わざわざ会いにゆこうという気がうすれてしまった。そういうことなのだろうか。  それとも、慎重に外の様子をさぐり、時機をうかがっているのだろうか。  ひとりであれこれと想像をめぐらせていた。  めぐらせているところへ、手紙が届いた。しかし、それは木暮半次郎からのものだった。まだ連絡はないかと問い合わせてきたのだ。半次郎も待ちあぐねているのだろう。  まだ何の便りもない、と返事を送った。だが、たとえ便りが来ていても、お蝶は同じ返事を送るつもりでいた。  半次郎はだめだ。かれを新之助に近寄らせるわけにはいかない。  そう決めていた。  半次郎に返事を出したあとも、あいかわらず新之助からの便りはなかった。  お蝶はしだいに痺《しび》れをきらした。  自分のほうから手紙を書いて、それを修善寺の樋口賢八郎へ送り、賢八郎の手で新之助へ転送してもらおうか。そんなことも考えた。  けれども考えるだけで実行しなかった。もしも新之助にその気がなくなっているのなら、そんなかれに誘いの手紙など書いてもしかたがない。うとましがられるだけだ。  思いながら、下女のお留《とめ》とともに、裏で洗い張りをしているところへ、 「姐《あね》さん」  増川の仙右衛門がやってきた。  お蝶がふり向くと、仙右衛門は機嫌のよい目をしている。 「ちかごろあ、ずっとこもりっきりじゃあねえですかい」  まるで娘の素行《そこう》をほめるような口調でほほえんだ。 「こわいお目付《めつけ》がいるもんだからね」 「はは、こりゃあ一本だ。だけえが姐さん、たまには外も歩かなけりゃあ、からだに毒だ。いま、江尻の小屋に芝居が来てるんでさあ。お留でもつれて、見物してきなすっちゃあどうです」  豆狸《まめだ》とあだ名のある十六歳のお留は、急に手早く作業をこなしはじめ、そういうかたちでお蝶に催促している。 「そうだねえ。そうさせてもらおうかねえ」  お蝶もその気になった。  飛脚が手紙を届けてきたのは、そのときだった。  新之助からの便りだった。  奥の四畳半に入って、お蝶は封をひらいた。     10  五月二十二日にたずねてゆく。  そう書かれていた。  二日後である。  お蝶は手紙を胸に抱きしめて、喉《のど》にせりあがる歓喜を押しころした。  だが、そのあとを読みすすめるうちに、こんな部分にぶつかった。  今ふりかへるに つらきこと数々有候へど 何より悔やまるゝは木暮家の惨事に候 お前どのもおぼえをらるべし しばしば我とつれだちて深川へかよひし木暮半次郎 あの者が実家に候 半次郎とのよしみで 我 かの家にかくまはれをり候ところ 突如官兵の乱入にあひ申候 我はからうじて屋根づたひに逃げおほせ候へども おぞましきかな官兵のやから くやしまぎれに かの家の父母娘三名をば殺害致候 我 のちにこれを知りて痛恨の思ひに胸ふたがれ候 なほ この惨事 水戸にありし半次郎にも聞こえ候ふこと勿論なれど 半次郎 官兵のみならず 否《いな》それ以上に我をば大きに怨みをるやに聞及候 致しかたなきことなれど 半次郎には こののち顔合はすること能《あた》はず候  お蝶は宙をにらんだ。  ……そういうことだったのか。  半次郎が新之助を捜し求めていた本当の理由を知って、お蝶は身ぶるいが出た。救うためではなく、斬るために、かれは新之助を捜していたのだ。  それがいま判った。  わかってみると、これまでの諸々《もろもろ》のことの、その裏側が見えてきた。  去年の秋、河岸《かし》で半次郎に再会したこと。あれももしかすると偶然ではなかったのかもしれない。  お蝶に新之助さがしの手伝いをさせ、お蝶を餌にして新之助を誘い出す。はじめからその考えだったのではないか。  修善寺の樋口賢八郎。かれとの仲が不和だといった半次郎の言葉も、きっと嘘であろう。お蝶のうしろに半次郎がいると知れば新之助はあらわれない。だから、自分の名が賢八郎の口を通じて新之助の耳に入ることがないようにしたのだ。  お蝶は、もういちど手紙のその部分を読み返し、重いためいきをついた。  木暮半次郎も、たしかに気の毒ではある。新之助を怨みたくなる気持ちが、判らないではなかった。  だが、斬らせはしない。  そんなことは許さない、とお蝶は唇をひきむすんだ。  できれば新之助に知らせて、清水へくることをやめさせたいが、修善寺経由で連絡していたのではとても間に合わないであろう。新之助がやってくるのは、あさってだ。山の奥にでも隠れていたとすれば、いまごろはもう出発しているはずだ。  お蝶はその手紙を、最初の手紙に重ねて鏡台のひきだしの奥にしまったあと、お留をつれて外へ出た。芝居見物などする気分ではなかったが、家でじっとしていても、不安感に胸がしめつけられるばかりだったからだ。  外へ出た瞬間、お蝶は木暮半次郎の姿を見た。ほんの一瞬だった。半次郎はすじ向かいの家の角に身を隠した。  あるいは、という気がして、お蝶は注意ぶかく視線をくばりながら外へ出たのだ。一瞬の影を目にとめることができたのは、そのためだった。  半次郎はすでにお蝶を信用していない。そのことがわかった。  お蝶の身辺を、かれは自分の目で見張りはじめたのだ。ひょっとすると、もう何日も前から監視をつづけていたのかもしれない。  お蝶はお留と並んで巴川ぞいに上流にあるき、稚児《ちご》橋をわたって江尻に入った。物陰をつたうようにして、半次郎がつけてきていることを、お蝶はむろん知っていた。  どうすれば半次郎の手から新之助を守れるだろうか。——うわの空で芝居を見ながら、お蝶はそのことだけを考えていた。 「仙さん。ちょいとおまえさんに聞いてほしい話があるのさ」  新之助があらわれる日の前日、お蝶は奥の座敷に増川の仙右衛門を呼んだ。  そして、何もかもをかれに話した。  次郎長にはいえない話でも、仙右衛門になら正直に話せてしまう。お蝶のわがままや甘えをゆるしてくれそうな雰囲気が、かれにはどこか感じられるのだ。 「あたしゃ、どうしてもあのひとをお守りしたいのさ。どうか仙さん、おまえ、たすけておくれでないか」  お蝶がうったえると、仙右衛門はさすがに複雑な顔をした。  四角く正座して腕組みをし、目を斜め下の煙草盆に向けたままで、こういった。 「事情はわかりやした。ようくわかりやした。わっしあ去年からずうっと思っていたんでさあ。姐さんの様子がちいっと変だってことをね。何やらちょくちょく手紙を受け取っていなさることも、そのひとつだ。まあ、その蓋《ふた》の中身をきょういっぺんに聞かせてもらったわけだが、姐さん、おめえさん今のご自分がどこの誰かってえことを忘れていなさるようだね」  いわれてお蝶も目を伏せ、同じ煙草盆をいっしょに見つめた。 「わっしも見かけほどの野暮天じゃあねえから、姐さんの胸のうちが判らねえとはいわねえ。だが、親分の気持ちのことも、つい考えちまうね」 「あたしは何も親分を裏切るつもりなんか、これっぽちもありゃあしないのさ」 「どこまでが裏切りで、どこまでがそうでねえのか、それがわっしにゃあよく判らねえ。わっしの見るところ、姐さんの頼みは、人助けのためというよりも、どうも色恋のにおいがぷんぷんしまさあ。うかつなことをすると、身を滅すもとですぜ」 「仙さん。おまえさんの説教を聞こうと思って呼んだわけじゃないよ。頼みが肯《き》けないならきけないと、そう言ってくれたらいいじゃないか」  お蝶は張りのない低い声でいった。  仙右衛門は天井をあおいで吐息をついた。 「肯《き》けねえとはいわねえ。ぜひにとおっしゃりゃあ、何だって引きうけまさあ。ただ、ひとこと言っておきたかっただけでさあ。あとで後悔なさらねえようにと」 「ありがとうよ仙さん。おまえさんの言いたいことは、あたしもよく判っているのさ」 「だったら、もう何もいわねえ」 「ああ、いわないでおくれ」  仙右衛門はかるく一礼して部屋を出ていった。  お蝶はもういちど煙草盆をみつめた。次郎長の煙草盆である。 〈お蝶、という名にも、もうなじんだかい〉  先日の次郎長のことばを思いだした。  お蝶は煙草盆をみつめて、胸の中でつぶやいた。  むりをお言いでないよ、おまえさん。あたしゃあ、やっぱりお綱だよ。     11  そして五月二十二日になった。  新之助があらわれる日だ。  雨の気配はないが、それでもどんよりと曇りがちの日だった。  その日、増川の仙右衛門は、何のかのと言って、いつのまにか子分たちをみんな外へ追い出してしまった。何人かは江尻の芝居小屋へゆき、何人かは水茶屋の女をからかいにゆき、何人かは賭場《とば》の見回りに出た。他にも子分や食客はいるが、それは別の屋敷のほうでごろごろしている。  本宅には、お蝶とお留のほかは、仙右衛門ひとりが奥の間で寝そべっていた。  お蝶のほうは、朝から何も手につかなかった。  足も手もそわそわと浮き、何をするにも気持ちが集中しない。  がらんとした家の中で、けっきょく、お留といっしょに雑巾《ぞうきん》縫いをはじめた。子分たちの古|浴衣《ゆかた》をつぶして、雑巾をこしらえていった。うわの空でもやれる仕事は、そんなことしかなかった。多少縫いまちがえたところで、困りはしない。  新之助があらわれるまで何枚でも何枚でもこしらえるつもりだった。手を動かしていることで、時間のとどこおりに苛立《いらだ》たないで済む。雑巾を縫うことで、時間を縫いちぢめているのだった。  その間、客が何人かおとずれて、そのたびにお蝶の胸がはげしく搏動《はくどう》し、しまいに気分がわるくなってきてしまった。  曇り空ではあるが、閉めきると蒸すので、往来に面した表の腰高障子は片側へあけっぱなしにしてある。障子に黒々と「※[#会の云にかえて長]」の文字がある。  昼を回ったころ、その門口《かどぐち》に旅姿の行脚僧《うんすい》が布施を求めて立った。色のくすんだ網代笠《あじろがさ》の下に、鼻から下のひげづらがのぞいている。  お蝶は針を通しかけたままの雑巾を畳に捨て、膝《ひざ》のふるえを感じながら立ちあがった。上がり框《かまち》から土間におり、草履をつっかけるのももどかしく、行脚僧の前に立つ。  まず何といって言葉をかければよいか。それもわからず、口が乾いて声が出ない。お蝶が口をもごもごさせている目の前で、僧は経を唱《とな》えはじめた。  その声は朗々として、しかも唱える節《ふし》は見事に練《ね》れて堂にいっている。  お蝶は網代笠の中の僧の目を下から覗《のぞ》きみた。  ちがう。  新之助ではない。目元がちがう。鼻もどこかちがう。とにかく何もかも感じがちがう。いや、それとも、六年の歳月と昨年来の辛苦とが、かれの相貌《そうぼう》をこんなにまで変えてしまったのだろうか。顔の半分をおおうひげが邪魔で、お蝶をまどわせる。  お蝶はふいに、鉄鉢をもつ僧の左腕をつかみ、ころもの袖《そで》を上腕《かいな》までまくりあげた。  やはり、ちがった。火傷《やけど》のあとがない。  僧はおどろいて経を唱えるのをやめ、目をみはってお蝶を見た。  お蝶は緊張がぬけた。ぬけたまま僧の目をぼんやり見あげつづけていた。僧は気味悪げに咳《せき》ばらいをし、蟹《かに》のような横歩きで隣りの家の前へと移っていった。  僧がのいたあとの目の前の往来を、お蝶はみぎひだり、首をめぐらせて眺めわたした。  顔を見知った町の衆。  半纏《はんてん》姿で立ち話をしているどこかの職人。  けさの売れ残りを商《あきな》うしじみ売り。  笛のような音をたてて、きせるの脂《やに》とりをしている羅宇屋《らおや》。  すじ向かいの家で、おかみに品物を見せようとして断わられている呉服の行商人。  隣りには、むろんさっきの行脚僧もいる。  木暮半次郎の姿。それは今は見あたらない。しかし、いないとは断言できない。どこからか半次郎の目に見られているような気配を、お蝶は感じてしまう。  上を見る。  空が低い。灰色だ。しめっぽい風が首すじを通る。  むかいの屋根にからすが一羽、声もたてずにひっそりと羽をやすめている。  くろすけ くろきち くろヱもん くろたろう くろべヱ  半次郎のからす[#「半次郎のからす」に傍点]の名を思いだす。まっ黒な姿が、いつになく不気味に感じられる。まるで半次郎の化身のようだ。  お蝶は戸口を離れて中へもどり、座敷にはあがらずに、土間つづきの奥の台所へ行って、水を飲んだ。  連子窓をすかした空が、あたりまえだが、これも灰色だ。  柄杓《ひしやく》を水桶《みずおけ》の木蓋《きぶた》の上にもどそうとし、もどしそこねて落ちたのを拾いあげていると、表のほうでお留の声がした。それが羅宇屋の笛音のように高いので、よく聞こえる。  やがて、 「おかみさん」  とお留が呼んだ。  お蝶は、はっと襟をしごき、土間づたいに急ぎ足で表のほうへもどった。もどってから、また落胆した。  さっき、すじ向かいの家で断わられていた呉服の行商人が、ここへ回ってきたのだった。 「いまは忙しいから、帰っておもらい」  横顔でお留にいって座敷へあがろうとした。  お留がいわれたとおりに断わろうとした。しかし行商人が、なにやらねばっている。その声に、聞きおぼえがあった。お蝶は草履をぬぎかけた姿勢で、うごきが止まった。  あのひとだ。  気づいた瞬間、お蝶は戸口に駆けより、お留を突きのけて行商人の前に立っていた。  すこし面窶《おもやつ》れして、皮膚も荒れている。しかし、まぎれもなく新之助だった。 「甲州から参った友次郎と申しやす。甲斐紬《かいつむぎ》のお値打ち物を少々ご覧に入れたいんでやすが」  にっこり笑いながら、背中の包みを揺すってみせた。むかしのままの、色気のある眼差《まなざ》しだった。 「あ、甲斐紬かえ。甲斐紬なら、前からほしかったのさ」  お蝶は舌がよく回らなかった。「さ、見せてもらうから上がっておくれ」  新之助の腕をとるようにして中へみちびいた。 「何をしてるのさ。お茶でも出しておあげな」  見返っていうお蝶を、お留はぽかんと突っ立って見ていた。  体もちょっと痩《や》せたのか。  いや、そうでもないようだ。歩く、腰をおろす、家の内を見まわす。動作のはしばしの物腰が、ウッと胸にこみあげるほど懐かしい。  やや目を細めるように奥のほうをすかし見て、 「えらく静かだが、一家の衆は留守かい?」  ふたりきりになって初めていった言葉はそれだった。  お蝶は膝でにじり寄って、まぢかに手を取った。 「新さん。まあ、おなつかしいね、おまえさま」  そんな言葉しか出てこないのが、じれったい。 「ああ、なつかしい」  新之助の口もまだ昔のようには回らない。 「でも新さん、ほんとうはここへ来てはなりませなんだのさ」 「ご亭主がうるさいのか。さもあろうと思って、この通り、身をやつしてきた」 「ちがいまする。そんなことじゃあござんせん。木暮半次郎が、ここを見張っていますのさ」 「半次郎が?」  新之助の顔色が変わった。  いそいで戸口のほうをふり向いた。ふり向いたまま硬直した。  お蝶もつられて見返った。  ひらいた戸口の長四角の枠の中に、袴《はかま》姿の木暮半次郎がうっそりと立っていた。  腰の刀に左手をそえて、すばやい動きで躍《おど》り込んできた。 「待て」  と新之助が手を前に出した。 「よくぞ出てきた新之助。待ちくたびれたぞ」 「お待ちよ」  お蝶は膝立ちになって、新之助をかばった。 「おまえさまのお身内が官軍に殺されあそばすったのは、それはまことにお気の毒でござんすが、だからといって新さんを仇《かたき》と狙うのは筋《すじ》ちがいというものじゃござんせんか」  しかし半次郎は、お蝶など見もしなかった。 「なぜ見殺しにして逃げた。なぜ、家の者を救うためにもおとなしく縄を受けなかった」 「連中は——」  新之助は片手を前に突き出したままで弁明した。「連中は、殺す気で乱入してきたのだ」 「ならばなぜ殺されなかった。なぜ、おまえも一緒に死ななかった」  半次郎は邪魔になるお蝶の喉元《のどもと》を蹴《け》りとばした。新之助は腰をうかせて逃げようとした。その背中を、半次郎が抜き打ちに斬りつけた。  コンと刃が骨にあたる音がしたが、深傷《ふかで》にはならなかった。  新之助は転げるようにして土間へおり、そのまま奥の台所へと逃げ込んだ。 「仙さん、仙さあん」  お蝶は叫んだ。  半次郎は奥へと通ずる土間へ飛びおりて、新之助を追おうとした。  そのゆくてに槍先《やりさき》が突き出てきた。半次郎はあやうく身をかわして戸口まで飛びすさった。  増川の仙右衛門が腰を低くおとし、すこし錆《さび》のういた槍をしごきながら、一歩二歩と前へ出てきた。腰にも長脇差をさしている。 「邪魔をするな」  半次郎が怒鳴った。 「そうはいかねえ。ここは次郎長一家の家だ。神社に押し込むようなわけにゃあいかねえだよ」 「斬るぞ」 「おれを斬ってる間に、さっきのやつは裏から遠くへ逃げちまうぜ。かわりに一家の者《もん》が駆け込んでくらあ。いま、下女《おんな》に呼びにやらせたからな」  ギシッという音がした。  半次郎の歯の音だった。歯ぐきにめり込みそうな歯ぎしりの音を残して、半次郎は戸口から外へ走り出た。  仙右衛門は槍をほうり出し、袖で汗をふいた。 「仙さん、ありがとよ」  お蝶も土間へおりてきた。 「あのひとは大丈夫だろうか。裏から逃げておいきかい?」  そのまま奥へと行きかけた。 「姐《あね》さん」  いいながら仙右衛門は長脇差をぬいていた。 「え」  とふり向いたお蝶を、仙右衛門の刀が首すじから袈裟《けさ》がけに斬りおろした。  仙右衛門はその血刀《ちがたな》をぬぐいもせずに鞘《さや》におさめ、倒れたお蝶を胸に抱きおこした。かれの顔や胸に、お蝶の返り血が散っている。  お蝶の息はまだあるが、顔がみるみる青ざめてゆく。目が、問いかけるように仙右衛門を見あげている。 「姐さん。見てのとおり、おめえさんの頼みはなんとか果たした。で、もうひとつ、親分の頼みも果たさなけりゃならなかったんでさあ。……きのうも言っただけえが、おめえさんの胸のうちも判らねえことあねえ。だが、親分の気持ちも、おれにはようく判らあ。親分がお留守のあいだ、何事もなけりゃあそれで済んだんだ。ところがきのう、おめえさんは自分でこっちの道を選んじまった。となりゃあ、おれはこうするしかねえ。悪く思わねえでくれ」  お留の知らせをうけて、子分たちが駆けつけた。  仙右衛門は、お蝶をかかえたまま、怒鳴った。 「やったのあ新番組の木暮半次郎ってえ野郎だ。親分の留守に申しわけねえことになった。野郎あ、まだ遠くへは行かねえ。捜し出して叩《たた》っ殺せ」  事件の騒ぎが一段落した夏のおわりの夕暮れどき、増川の仙右衛門は、巴川をながめてぼんやりしていた。 「兄い、どうかしたんですかい?」  安吉が通りすがりに声をかけてきた。 「蚊柱《かばしら》だよ」  と仙右衛門は答えた。 「へ?」  安吉はあたりを見まわした。 「頭の中によ、ちいっと蚊柱が立っていやがったのさ」  仙右衛門は浴衣にふところ手をして、河岸《かし》のほうへと戻りはじめた。  参考文献 丸毛利恒著「彰義隊戦争実歴抄」 [#改ページ] 多島斗志之著作リスト 『〈移情閣〉ゲーム——キャンペーンに仕組まれた大謀略』講談社(85)(『龍の議定書』講談社文庫 88) 『聖夜の越境者』講談社(87)(講談社文庫 89) 『ソ連謀略計画を撃て』徳間書店(87)(『CIA桂離宮作戦』徳間文庫 90) 『金塊船消ゆ』実業之日本社(87)(講談社文庫 91) 『バード・ウォーズ——アメリカ情報部の奇略』天山出版(88)(文春文庫 92) 『密約幻書』講談社(89)(講談社文庫 92) 『マリアごろし異人館の字謎——多島斗志之第一作品集』講談社(90)※本書。収録作品は一部差し替え。 『クリスマス黙示録』新潮社(90)(新潮文庫 96) 『不思議島』徳間書店(91)(徳間文庫 99) 『神話獣』文藝春秋(93)(『マールスドルフ城1945』中公文庫 00) 『少年たちのおだやかな日々』双葉社(94)(双葉文庫 99) 『白楼夢——海峡植民地にて』講談社(95) 『二島縁起』双葉社(95) 『海上タクシー〈ガル3号〉備忘録』双葉社(96) 『もの静かな女たち』実業之日本社(96) 『海賊モア船長の遍歴』中央公論新社(93)(中公文庫 01) 『仏蘭西シネマ』双葉社(98) 『症例A』角川書店(00)(角川文庫 01) 『汚名』新潮社(03) 〈初出誌〉 マリア観音「小説NON」'89年9月号 預け物  「週刊小説」'94年11月11日号 追憶列車 「小説新潮」'94年6月号 虜囚の寺 「問題小説」'89年6月号 お蝶ごろし「小説現代」'89年12月臨時増刊号 マリア観音・虜囚の寺・お蝶ごろしは単行本『マリアごろし異人館の字謎』(講談社)、預け物は単行本『もの静かな女たち』(実業之日本社)に収録されています。 角川文庫『追憶列車』平成15年8月25日初版発行