TITLE : 奇跡島の不思議 奇跡島の不思議 二階堂黎人 ------------------------------------------------------------------------------- 角川e文庫 本作品の全部または一部を無断で複製、転載、配信、送信したり、ホームページ上に転載することを禁止します。また、本作品の内容を無断で改変、改ざん等を行うことも禁止します。 本作品購入時にご承諾いただいた規約により、有償・無償にかかわらず本作品を第三者に譲渡することはできません。 奇跡島の不思議 目次 プロローグ  人間たちを紹介する 第1章 海岸から孤島へ出発する 第2章 意外な人物が登場する 第3章 ドアを開いて…… 第4章 失われた過去と生命 第5章 煉《れん》獄《ごく》と地獄の狭《はざ》間《ま》で 第6章 異常なる芸術作品 第7章 投影された殺人の悲劇 第8章 愕《がく》然《ぜん》とした人々の顔 第9章 被害者第二号は? 第10章 特異な飾り物の謎《なぞ》 第11章 極《ごく》彩《さい》色《しき》の殺人 第12章 ロートレックのある部屋 第13章 証拠の検討を始める 第14章 難解な芸術論の末に 第15章 逃れられぬ運命 第16章 騙《だま》されていた人々 第17章 宵《よい》闇《やみ》が訪れて…… エピローグ  仲間たちの映像 プロローグ 人間たちを紹介する 1  ……初めに闇《やみ》があった。  いつしか闇の中心に一点の光が生じる。光は平面状の空間の上を四方へ拡散し始め、闇を侵食して領域を広げた。光は最終的に、やや横長の四角い形を成した。駆逐された闇が光を一定の幅で取り巻く。それはまるで、絵画を縁取る額のようであった。  次に、光の中に様々な姿とモノクロの色が加味された。そして、新たな世界が、現実を切り取った明《めい》瞭《りよう》な事物として固定されたのである。  たった一、二秒の出来事……。 2 「——加《か》々《が》美《み》先輩、ビデオカメラの用意ができましたよ。じゃあ、その窓の前に立ってくれますか」  三脚の上に設置されたカメラ一体型VTRの四角く粒子の粗いファインダーに、パネル式の殺風景な壁と、小さな窓が一つ映っていた。それは、加々美らが所属するサークルと他の二つの部室が横に連なっているプレハブ式の建物の一部分だった。壁のパネルは灰色のため、白黒映像のファインダーを通して見ると、手前の乾いた地面と区別がしにくい。窓の方はガラスが埃《ほこり》で汚れているため、やや黒く目立っている。  そんなフレーム内の光景に、中肉中背で、これといった特徴のない青年の上半身が左横から割り込んだ。軽く伸ばしたソフトバックの髪と、優しい顔立ち。白いポロシャツの上には、萌《もえ》葱《ぎ》色《いろ》をした薄手のカーディガンを着ている。もちろん、これらの色も、ファインダー越しでは灰色の濃淡で表現されていた。 「ここでいいか、タケシ?」足元をキョロキョロ見て、立ち位置を捜しながら、加々美光《こう》一《いち》は訊《き》き返した。「後ろすぎるかな」 「適当でいいですよ。カメラの方で広角にも望遠にもできますから。フレームに収まるちょうどいい大きさは、自分の方で調整します」 「解った」  加々美は緊張しているのか、真正面を見て、咳《せき》払《ばら》いをするかのように手を口に持っていった。そして、ファインダーのこちら側で被写体を覗《のぞ》き、カメラの操作をしている後輩の日《ひ》野《の》原《はら》剛《たけし》に話しかけた。 「しかし、よく演劇部の奴《やつ》らがそれを貸してくれたじゃないか。高いんだろう?」 「へへへ。昨日、向こうの連中と麻《マー》雀《ジヤン》をして大勝ちしたんですよ。それで、負け金の代わりに、一日貸してもらうことにしたわけで」 「じゃあ、明日からの《奇《き》跡《せき》島《じま》》旅行へは持って行けないわけか」 「それは、ちょっと無理ですね。壊したりしたら弁償するのがたいへんですから」 「それもそうだ」 「じゃあ、撮り始めますよ。今、レンズの上の赤い小さなランプが光っていますよね。これが録画中の印です。さっき打ち合わせたとおり、自己紹介から始めてください。なるべく詳細に」 「ああ」  加々美は頷《うなず》いた。そして、軽く正面に向かってお辞儀をした。 「——ええと、僕の名前は、加々美光一です。何だか、一昔前の縫いぐるみ式特撮怪獣映画の主人公みたいな安っぽい名前で、自分ではあまり気に入っていません。年齢は二十一歳で、この如《きさ》月《らぎ》美術大学の三年生です。専攻は彫刻科、そして、芸術研究サークル《ミューズ》の一員でもあります。  出身は宮《みや》城《ぎ》県の仙台市です。現在は東京の保《ほう》谷《や》市に下宿中です。独身——当たり前か。身長は百七十センチ、体重は六十キロ」 「加々美先輩、写真じゃなくて、せっかくビデオなんですから、少しは動いてくれなくっちゃ。それでは絵的におもしろくないですよ」  日野原が注文を付けると、加々美がこちらへ顔を突き出すようにした。 「動く? 動くって?」 「少し横を向くとか、手振りや身振りを交えるとか。ほら、アメリカ大統領がスピーチをする要領ですよ」 「そうか」 「そうですよ。それから、もっと楽しい話もしてください。身上調査じゃないんだから」 「楽しいと言ったって、別に話すことなんかないよ」 「じゃあ、《奇跡島》へ行く抱負なんかどうです?」 「抱負か」加々美は腕組みして、顎《あご》を指で撫《な》でた。「とにかく、素晴らしい体験ができると期待しています。たぶん、僕らが大学へ入ってから、今までで一番エキサイティングな出来事になると期待しているわけです——」  彼がそこまで言った時だった。 「ああっ! 加々美さんたち、もう撮影を始めている! ずるいやあ!」  若々しく、躍動した声がどこからか飛んでくる。加々美も日野原も、その声の主が誰かは見なくても解った。 「シオン!」  ファインダーの中の加々美が声につられて右手を向き、日野原はカメラのズームレバーを動かして、広い範囲が見えるようにした。左手にあるポプラの太い幹と、部室のドアが視野に入る。  そして、フレームの中に、子鹿のように俊敏な動作で、彼らより少し若い一人の少年が飛び込んできた。彼は加々美の腕にしがみつき、その顔を一瞬睨《にら》みつけ、それから息せき切って正面を向いた。 「タケシさん、ひどいじゃないか。どうしてボクが来るまで待ってられないの!」  加々美に『シオン』と呼ばれた少年は、早速文句を言いだした。  彼は、高校の黒い詰め襟の学生服を着ていた。顔立ちはたいへんな美形で、小柄なため、下手をすると中学生に見える。髪はサラサラのセミロング。目は大きく、鼻筋は通っていて、唇も少女のようにぷっくり膨れている。少女漫画なら、間違いなく、背中にバラの花束を背負って歩くタイプだった。 「それに、加々美さんも加々美さんだよ。どうせまた一人でカメラに向かって、小難しいことをブツブツ言ってたんでしょう。だめだめ。だいたい加々美さんてさ、少し性格が暗いよ。今時ね、そんなのは流《は》行《や》らないんだよ。もっと、パアーッと明るく生きなきゃ。いつだって、自分だけが不幸を背負っているような仏頂面しているんだから。根が暗いと思われたら、今時の女の子にはもてません。  とにかく、自分一人だけ抜け駆けして、テープに収まろうとするなんてずるいよ。やっぱり最初は、ボクみたいな可《か》愛《わい》くて、誰からも愛される人物が登場した方がいいよ。その方が格好付くよ」 「シオン」と、加々美はうんざりした声で言う。「お前こそ、おしゃべりがすぎると、女の子から嫌われるぞ。それより、自分でさっさとカメラへ挨《あい》拶《さつ》をすればいいだろう」 「あ、そうか」  と、紫《し》苑《おん》は照れて、正面へ向かってペロリと舌を出した。 「そうだよ、シオン君」と、日野原も笑いながら答えた。「もう録画中だから、君も好きなことを言っていいよ」 「うん。それじゃあ、遠慮なく——ええと、皆さん、こんにちは。ボク、武《たけ》田《だ》紫苑です。良かったら、気軽にシオンって呼んでください。友達もみんなそう呼んでいますから、年齢は十八歳。高校三年生です。  身長は百六十五センチ、体重五十キロ、右利き、視力一・二。学校の友達から、よく萩《はぎ》尾《お》望《も》都《と》の『トーマの心臓』や、竹《たけ》宮《みや》惠《けい》子《こ》の『風と木の詩』に出てくる主人公に似ていると言われます。子供の頃は、何度も女の子に間違えられました。  今は、如月美術大学付属高校の三年生です。従姉《 い と こ》のルミちゃんこと武田留《る》美《み》子《こ》が、このミューズに属しているんで、時々こうして大学のサークルへ顔を出します。僕の高校は、加々美さんたちが勉強している——遊んでいるかな——如月美術大学の付属で、すぐ隣の敷地に校舎があります」 「君の所も、ルミコの家も、けっこう金持ちだったよな」  加々美が、からかい半分に言った。  紫苑は柔らかな髪を揺らしながら、軽く頷《うなず》いた。 「うん。ルミちゃんのパパと、僕のパパが武田貿易って会社をやっているんです。社長と専務です。おじいちゃんの代からの会社で、年商何億とか、何十億とか言ってた。まあ、確かにある程度豪勢な暮らしをしているけれど、別に金持ちだって威張っているわけじゃありません。  ボクのパパは独身で——ママは、ボクが小さい時に死んじゃったんだ——シクシク——一年のほとんどを仕事のために、ヨーロッパで過ごしています。ルミちゃんの家もボクの家も、この学校のすぐ側にあります。けっこう大きな家ですよ」  加々美は彼の肩を抱き、軽く笑った。 「二人とも能天気な性格だってことを、詳しく説明しておいた方が良くないか」 「ああっ。それじゃあ、加々美さん、あんまりだよ。まるで、ボクたちが馬鹿みたいじゃないかあ!」  すると、 「——誰が馬鹿ですって、シオン!」  と、ちょっと舌足らずの可愛い声が、また横手から割り込んできた。 「あ、ルミちゃん、いらっしゃい」  紫苑が嬉《うれ》しそうに大声を上げ、右手を向き、合図をする。  満面に無邪気な笑みを浮かべ、ポプラの木の方から、短いスカートの裾《すそ》を翻し、スキップしながら現われたのは、紫苑の従姉の留美子だった。 「ずるいじゃないの、シオン」と、彼女も言った。「自分ばっかり先に撮影されるなんて。ルミコの方が年上なのよ。それに普通はね、ルミコみたいな美少女を主役にした方が、映画だって何だってウケがいいはずなのよ。特に、男性は大喜びだと思うわ。このフワフワの巻き毛を見て。池《いけ》田《だ》理《り》代《よ》子《こ》先生や、西《にし》谷《たに》祥《よし》子《こ》先生が描く美少女によく似てるでしょ!」  加々美と紫苑の間に割り込んだ留美子は、襟元の髪の左下に手を入れ、小首を傾げるポーズをした。と同時に、正面を媚《こ》びるような目で見る。 「今日の髪の毛ね、セットするのに、一時間以上かかっちゃったの!」  留美子は、自分で自分のことを美少女と言うだけあり、確かに人目を引く容《よう》貌《ぼう》だった。小柄な体《たい》躯《く》と幼げな顔立ちのため、とても大学二年には見えない。十五、六歳で充分に通る。肌は真っ白で、大きな潤みがちの目と長い睫《まつ》毛《げ》が印象的である。唇も、まさに赤い小さな果実のよう。その上、笑うと頬《ほお》にえくぼができる。髪は長く伸ばした巻き毛で、あちこちに赤い小さなリボンが結んであった。 「ねえ、ねえ、加々美さん。今日のルミコの髪型ステキでしょ?」  そう言って留美子は、細い指の間から髪を少しずつこぼした。  彼女の容姿を際立たせていたのは、その少女趣味な服装だった。ロリータ・ファッションというか、服装や持ち物がまるで小学生のようなのだ。今日の格好も、フリルの付いたピンク色のブラウスに花柄のフレアのミニスカート、そして、白いソックスとコルクのサンダルというもの。いつもハンドバッグは持たず、レースやフリルやキルティングや花飾りの付いたバスケットを愛用している。しかも、そのバスケットの中には、たいがい小さな縫いぐるみや造花の花束が入っていた。 「ああ、いいね」  と、加々美はあっさり答える。顔に出さないように気をつけたが、内心はやれやれと思っている。可《か》憐《れん》と言えば可憐だが、留美子の外見や精神年齢は少し低すぎる。こういう女性たちのことを、アリス症候群と呼ぶのなら、それは言い得て妙だ。  留美子は彼にしなだれかかり、甘ったれた声で言った。 「加々美さん、ルミコも自己紹介していーい?」 「いいよ、ルミちゃん。さっさとやれば」  加々美が答える前に、紫苑が返事をした。  留美子は口を尖《とが》らせ、従弟《 い と こ》に向かい合い、 「あのね、シオン。ルミコは加々美さんにお願いしているの。だから、黙っていてよね」 「あ、そんなこと言いながら、こっそり加々美さんと腕を組んでいる。エッチだなあ」 「何よ、腕くらいで。くだらない。シオンて、ホントに子供だわ。それに、ルミコ、前から加々美さんのこと大好きだって言っているでしょう」 「でもさ、加々美さんは、ルミちゃんのこと何とも思っていないって言っているじゃないか」 「嫌いとも言ってないわ。微妙な男心じゃないの。子供は、大人の恋愛には口を出さないでよね。イーだ!」 「そんな意固地なことを言ってたら、絶対に加々美さんに振られるんだからね。イーだ!」  加々美が、ムキになって睨《にら》み合う二人の間に割って入った。 「もう。いいよ。ほら、ルミコ。話をするなら、早くビデオの方を向けよ」  加々美が、ファインダーの方を指さす。 「あ、いっけない!」  留美子はあわてて居住まいを正すと、髪に手をやって形を確かめた。バスケットを下に置き、それから膝《ひざ》を折って軽くお辞儀をした。 「このビデオを見ている皆さん、初めまして。あたし、プリティー、ラブリィー、キューティーのルミコで〜す。年齢は二十歳。加々美さんと同じ大学の二年生なの。もちろん、ミューズの一員。シオンは、自分がみんなのアイドルだと思っているけれど、実際はア・タ・シ。  好きなものは、お人形さんとか、お花とか、童話とか、とにかく可愛い物。フランス人形から縫いぐるみ、アンティーク・ドールまで、何でも好き。趣味でたっくさん集めているの。一番大事にしているのが、パパに最初に買ってもらったくまのパディントンちゃん。  それから、少女小説もだあ〜い好き。特に、『赤毛のアン』とか『若草物語』とか『あしながおじさん』とかは、ルミコのバイブルなんだもん。もう数え切れないほど読んじゃったわ。その三冊は、いつもベッドの枕《まくら》元《もと》に置いてあるのよ。みんな、ルミコの大事な赤ちゃんなの。だから、とっても可愛がっているの」 「みなさん、ルミちゃんは、頭の中身が赤ちゃんなんで〜す」  紫苑が、加々美と留美子の前に、両手を広げて立ちふさがった。 「やめてったら、シオン!」  留美子が、彼を後ろへ引っ張る。  加々美がその後ろで、がっくりと頭と肩を落とした。  この二人は似た者同士なので、一緒にすると痴話喧《げん》嘩《か》が絶えないのだ。 3 「——おやおや、ずいぶん楽しそうじゃないか」  そこに現われたのは、ミューズのリーダーである麻《あそ》生《う》真《ま》梨《り》央《お》だった。非常に落ち着いた雰囲気で、物静かな口調でしゃべる青年である。四年生なのだが、一年間の浪人と一年間の留年をしているため、仲間内では最年長者だった。 「あ、麻生さん!」  と、紫苑が真っ先にはしゃいだ。  真梨央は切れ長の目を細めると、ビデオカメラに向かってまっすぐに立った。 「タケシ、もう撮影を始めたのか」 「ええ、やってます。麻生先輩もどうぞ。何でもお話をしてください」  加々美と留美子がフレームの左側にはずれ、真梨央と紫苑が中心に並び立った。 「じゃあ、御要請に従って」と、真梨央は軽く笑い、「それでは、この映像を見てくださっている皆さん。そして、未来の俺《おれ》。どうもこんにちは。俺は麻生真梨央といいます。伝統あるミューズ・サークルの部長をやっています」  真梨央は非常に背が高かった。しかも、かなり痩《や》せ形だからひょろ長くて、遠目にはかなり独特な風《ふう》貌《ぼう》に見える。肌は男にしては白めで、髪の毛の色も最初から栗色である。実は祖父がイギリス人なので、四分の一だけ白色人種の血が混ざっていた。上背があるのもそのためである。高校の時には、バレーボール部に籍を置いていたほどだ。  顔は彫りが深く、顎《あご》が少し長め。時折物憂げな眼《まな》差《ざ》しをし、言動は仙人のように穏やかだった。ちょっとジョン・レノンに似たところがあり、一昔前の瞑《めい》想《そう》好《ず》きなヒッピーという雰囲気があった。温厚な性格で、勤勉で、責任感も強いので、仲間たち全員からたいへん慕われていた。  留美子は加々美の腕に自分の腕を絡ませたまま、上目遣いに真梨央の顔を見上げた。 「麻生さん、それだけ? もっと、言うことないんですか。それじゃあ、寂しいよー」 「いや、いいよ」真梨央は軽く微《ほほ》笑《え》み、しかし冷めた声で答えた。「自分で自分の説明なんかしたら、ぜんぜん客観的になれない。俺について何か語るなら、ここは、加々美に頼もう」 「はい」  加々美は素直に答えた。彼は真梨央を尊敬しており、また、リーダーとして全幅の信頼を寄せているので、何事にも逆らう気がしないのだ。 「年齢は二十四歳、神奈川県の横浜出身。専攻は油絵。好きな食べ物はチャーハンと餃《ギヨ》子《ーザ》——どうですか、こんなふうな説明で」  加々美は笑いながら尋ねた。 「そうだな」と、真梨央は笑い返した。「まあ、そんなところだろう」  真梨央は、外出時にいつも帽子を被《かぶ》っている。今日は、オレンジ色のチューリップ・ハットだ。下から、カールした長髪がはみ出ている。使い古したワークシャツの上に革のベストを着て、長い足によく似合う——最近では珍しい——ベルボトムのジーンズをはいていた。 「あのね」と、留美子がニッコリして、口を挟んだ。「ルミコね、麻生さんが、トーベ・ヤンソンの『ムーミン』に出てくるスナフキンに似てる気がするの」 「スナフキンだってさ!」と、紫苑がちゃかした。「やめてほしいなあ。あんなむっつり屋の案《か》山《か》子《し》野郎を引き合いに出すのは。麻生さんのイメージが、崩れちゃうよ」 「野郎とは何よ。野郎なんてのはね、不良の使う言葉なのよ」 「はい、はい。ルミちゃんはお上品ですよーだ」  留美子と紫苑は、真梨央を間に挟んでまた言い合いを始めた。  どちらにしても、このリーダーが思想家タイプであるのは間違いない。思索を好み、絵画の他にも演劇や詩を愛している青年だった。 「もういいよ。二人とも」と、真梨央が静かに諭した。「喧嘩なんかしている暇はないんだぞ。このビデオ撮影が終わったら、明日《奇跡島》へ渡るための準備の確認があるからね。ちゃんと支度をしておかないと、何が起きるか解らないからな」 「ええ! 《奇跡島》って、そんなに怖い所なの!」  紫苑が目を丸くする。 「そういう意味じゃない」と、真梨央は明言した。「人間はいつ何《なん》時《どき》災難に遭うか解ったものじゃない。そのために、最悪の事態を想定して準備をしておくことは、けっして無駄ではないんだ」  彼は若干の悲観論者でもあった。 「まさか、ルミコたち、死んだりしませんよね」  と、留美子は自分の肩を抱いて、大げさに震える仕草をした。  真梨央はわざと少し暗い顔をし、肩をすくめた。 「それは何とも言えないな。それに、未来において何が起きるかなんて、神以外の誰にも知り得ないことだ。俺たちは島へ船で渡るわけだけど、時《し》化《け》か何かで、海の真ん中で沈没するかもしれない。島へ上がってから、落石に押しつぶされるようなことがあるかもしれない。  逆に言えば、人生というのは予測不能だからおもしろいのさ。だから、俺たちはまだ見ぬ幸せをこの手でつかむために、こうして一瞬一瞬を大事に生きているんだ。それが生きるってことの意義でもある」  加々美は軽く笑うと、 「そうだぞ、シオン。島へ行ってみろ。怪物や野獣がいて僕らを食おうと襲いかかってきたり、殺人鬼か脱走犯みたいな極悪人がひそんでいて、僕らを皆殺しにしようとするかもしれない」 「ぎょえええ。ボク、死にたくないよー!」  真っ青になった紫苑が、万歳をする格好で悲鳴を上げた。 「いやーん」  と、留美子も怖がって加々美の背中に隠れる真似をした。  加々美と真梨央は声を合わせて笑った。  紫苑は、頬《ほお》を膨らませて怒った。 「加々美さん、どうしてそんな意地悪を言うの!」  加々美は紫苑の頭を撫《な》でながら、 「まあ、お前なら大丈夫だよ。敵だって逃げていくさ。それでも死にそうになったら、僕の命をやるから、その分まで飽きるほど生きてくれよ」  と言い、それから、もう一度明るく笑った。 4 「——おい、加々美、タケシ。俺《おれ》たちの出番はまだかよ」 「そうですわ。先輩方。もう後の仲間は、まとめて紹介した方がよろしいのじゃありません?」 「おいらも、すっかり待ちくたびれたっす」  右手からゾロゾロと他のミューズのメンバーがやって来た。順番に、榊《さかき》原《ばら》忠《ただ》久《ひさ》、加《か》嶋《しま》友《とも》美《み》、木《き》田《だ》純《じゆん》也《や》の三人だった。代わりに、加々美ら四人が、フレームに収まる位置から左右に退いた。 「誰から話しますか」  加々美がファインダーの外から尋ねると、その中心に立っている榊原が、 「俺だ」  と、指先にタバコをはさみ、気取った仕草で返事をした。彼はたいへんなヘビー・スモーカーで、片時もタバコを離さない。  他の二人は一歩後ろに下がり、部室の壁際に並んで立った。 「俺の渾《あだ》名《な》は《画伯》。四年生の俺は、真梨央を除けば一番の年長だ。その上、美術展に出品している油絵が何度も入選しているエリートだぜ。このミューズの中でも、特別に才能豊かな存在だと言えるな」  榊原は少し細身で、背丈は普通。顔は顎《あご》が尖《とが》りぎみのため、性格の鋭さが強調されて見える。目は細くて少し三《さん》白《ぱく》眼《がん》の感じ。伸ばした前髪を左の耳の方へ流している。黒いスタンドカラーの服を好み、一見カトリックの神父に見えたりする。 「画伯さん」と、紫苑が澄ました顔でフレームの中に入ってきた。「自分でそれだけ自己主張する人って珍しいよ。普通は、そういう性格って嫌われるんだよ」  細い銀縁眼鏡の端を人差し指で少し持ち上げ、榊原は薄く唇の端をねじ曲げた。 「何を言うかと思えば、子供は仕方がない。俺はわざとこういう正直な物言いをしているんだ」 「じゃあ、画伯さんは頭が切れて、僕らの中では一番芸術的センスがあるけど、その分、威張りん坊で、皮肉屋で、傲《ごう》慢《まん》で、自己顕示欲が強く、人からは煙たく思われている立場だって、説明を加えたら?」  榊原はムッとした顔で紫苑を睨《にら》みつけた。どこか見えないところで、留美子がクスクス笑った。彼の後ろにいる二人の後輩も、笑いを必死にこらえる。 「——俺の履歴を説明しよう」と、彼はそれを無視するように言った。「俺は埼《さい》玉《たま》の浦《うら》和《わ》の出身である。小学生の頃から、美術の神童として知られていた。中学生の時には、すでに上野で開かれる《桔《き》梗《きよう》展《てん》》に入選を果たし、それ以降、毎年新作を出品している。原《はら》田《だ》勝《かつ》正《まさ》という地元にいる西洋画の大家の門下におり、《永《えい》紫《し》会《かい》》という大きな美術団体にも属している。俺の理論武装した前衛的な画風には、早くもファンが付いているんだ。銀座の画廊でだって、絵の取り引きがある。したがって、学校の教授や他の生徒たちも、俺には一目置いているわけさ」 「うーん、画に描いたような敵《かたき》役《やく》だなあ」  フレームの外で紫苑が声を出すと、 「おいおい。シオン、人の悪口はそれくらいにしておけよ。自分の気持ちが醜くなるだけだぞ」  と、達観した口調で真梨央が諭す声も近くで聞こえる。 「はい、すみません」  さすがの紫苑も、真梨央に注意されると素直になった。 「ホントに、シオンって、一言多いんだからあ」  と、それに留美子が混ぜっ返す声が加わる。 「そら、次だぜ」  榊原が不機嫌な顔でフレームの左手へ去ると、壁際に下がっていた二人の内、左側にいた女性が一歩前へ出た。一年生の加嶋友美である。 「——ダルマ君、お先に」  丁寧に断わった彼女は、それほどの美人ではなかった。しかし、丸顔にくりっとした目が愛らしい。黒い髪は、額の中央でハート型に分けて両側に流してあり、黒目がちな瞳《ひとみ》と共にエキゾチックな印象を与えた。体格はどちらかと言うと肉感的なタイプで、白いブラウスに包まれた胸がはち切れそうに盛り上がっている。デニムのズボンも、腰から太《ふと》股《もも》にかけて豊かな曲線を描いていた。 「こんにちは。私は加嶋友美と申します。《ダルマ》君こと木田君と同じで、この大学の一年生です。十八歳で、出身は静岡です。専攻は日本画です。水墨画や屏《びよう》風《ぶ》絵《え》、浮世絵などが大好きで、この大学へ入りました」 「それよりさ、友美ちゃん。君が麻生先輩の新しい恋人だってこと、ちゃんと説明した方が良くないかな」  と、日野原が爽《さわ》やかな口調で催促する。  ズームされて、ファインダーの彼女の姿が少しずつアップになる。  友美はちょっと顔を赤らめた。 「あのう、自分で言うんでしょうか」 「言えばいいじゃないか、友美」と、吐き捨てる感じの榊原の声が横からする。「別に隠しておくこともないしな。そうだろ、真梨央?」  年上であり、リーダーでもある真梨央を呼び捨てにするのは、傍若無人な彼だけである。  今度は、真梨央の物憂い声が返ってきた。 「ああ、隠す必要はないな。だが、自分から言いふらすような性質のものでもないさ」  友美は胸を膨らませて大きく息づくと、意を決したように口を開いた。 「私と麻生さんは、私の入学式の日に、このミューズ・サークルへ入った頃からお付き合いを始めました」 「一《ひと》目《め》惚《ぼ》れって奴《やつ》だね」  と、紫苑の声。 「ロマンチック!」  と、留美子の声。 「じゃあ、ダルマ君、どうぞ」  と、友美は居たたまれない顔をし、後ろにいる木田純也に場所を譲った。 「……ああ、どうも。す、すみません」  木田の通称は《ダルマ》。その渾名のとおり、かなり太っている。よたよたと、今まで友美が立っていた位置まで出てくる。  彼は、牛乳瓶の底のような厚いレンズの眼鏡をかけている。その奥で、小さなドングリ眼が怯《おび》えたように左右に動く。直毛の髪は少し脂質で、前髪が長く、七三に分けてある。色白で太っている上、背が低い。 「あ、あの、何を言えば、いいんすか」  正面を見て、左右を見て、彼は落ち着きなく尋ねた。 「好きな女の子のタイプは?」  と、紫苑の声がかかる。  木田は真に受けて、丸い頬を真っ赤にした。 「え、ええ。好きな、タイプっすか。あのう、そのお……」  すると、フレームの左端に榊原が顔を見せ、ふんと鼻で笑った。 「ダルマ、そんなことはどうでもいいよ。お前の専攻とか、趣味とかを言え。時間の無駄だぜ」 「は、はい」木田は榊原にいつも虐《いじ》められており、まったく抵抗ができない。「み、皆さん、おいらは、工芸科に通っている木田純也っす。青森の出でして、どうも訛《なま》りが抜けないんすが、まあ、それは郷土の誇りと思っているぐらいですので、そんなに恥ずかしくはないっす。ええと、工芸科を選んだのも、ゆくゆくは地元に帰って茶器を焼きたいからです。いずれ、自分の窯《かま》を持てるようになったらいいんすが。  好きな物はですね、小説っす。おいらは、本がないと生きていけません。特に、推理小説には目がありません。チェスタトンとアントニー・バークリーがお気に入りです。あ、あの、年齢は十九歳です。血液型はO型。星座は山《や》羊《ぎ》座《ざ》です。食べ物は、牛《ぎゆう》丼《どん》が好物っす……ええと、あのう、こんなもんで、自己紹介はいいんでしょうか。先輩方?」 「彼はたいへんな本の虫で、なかなかの知識人だが、どちらかと言うと、アニメ・オタク系の人間を想像してもらえば間違いないな」  と、真梨央がふざけ半分に説明を加えた。そして、 「これで終わりか」  と、確認した。  加々美は、 「まだ、日野原が残っていますよ」と、指摘した。「タケシ、お前、こっちに来て映れよ。そのビデオ、自動的に撮影できるんだろう」 「ええ、できます。じゃあ、今度は自分が話をさせてもらいます」  自分で固定したファインダーの中に、スポーツマンのような堂々たる体格の男の背中姿が映った。日野原は立ち位置で振り向いた。  よく日焼けした顔。角張った顎、太い首。少し肌寒く感じることもあるこの十月の上旬に、ノースリーブのシャツとジーパンという格好。露出した肩や胸も筋肉隆々である。額には、ランボーみたいにアイヌのバンダナをしている。  日野原の専攻は、加々美と同じ彫刻科である。どちらかというと近代彫刻の方を好んでいた。だから、彼は作品を作る際の材料を選ばず、金属類の切断や溶接もお手の物だった。ウエイト・トレーニングをしているのも、そういった重量級の素材に負けない肉体と体力を作るためだった。  日野原は二の腕に力《ちから》瘤《こぶ》を作り、 「これを後に見てくださる皆さん、自分は、二年生の日野原剛であります。タケシって呼んでください。将来の夢は、自分の作品がどこかの近代美術館の敷地に飾られることです。岡本太郎の《太陽の塔》のような、なるべく大きなモニュメントを造りたいですね。付き合っている女性はいません。現在、恋人募集中です。アイドル歌手の石川ひとみに似た女の子を期待します」 「えー、タケシさんて、ホモじゃなかったの〓」  紫苑がフレームの右側から顔を突き入れ、また素《す》っ頓《とん》狂《きよう》な声を上げた。 「何でだよ。何で、自分がホモなんだよ!」  日野原はごっつい顔を横に向け、紫苑を睨《にら》みつけた。彼は普通に喋《しやべ》っていても声がやたらに大きい。 「だってさ。いつもそんなマッチョな格好をしているし、女の子を連れているのを見たこともないもん」 「馬鹿を言うなよな。そうか、シオン。そんなに自分のことが気になるなら、なんなら、お前を恋人にしてやってもいいんだぞ。もっと近くへ来いよ、ほら、きつく抱きしめてやるからさ」 「うわあぁぁぁ。いやだあああ。たすけてええぇぇぇ——」  紫苑の姿が、アッと言う間にファインダーの中からかき消えた。 「あーらら、シオンたら、逃げちゃったわ」  と、留美子が嬉《うれ》しそうに言う。  他の者たちも、全員ゲラゲラ笑った。  日野原は正面を向くと、敬礼の真似事をし、 「……というわけで、観衆の皆さん。これで全員、島へ行く者が揃《そろ》ったわけです」  とあらためて、にこやかな顔で言った。 「ねえ、最後にみんなで並んで映りませんか。こんなこと滅多にありませんから」  と、友美がうきうきした声で提案した。 「そうだな、映ろうか」  と、真梨央が率先してフレームの中に入ってきた。 「いいですね」「賛成!」「しょうがないなあ!」「俺が真ん中だぜ!」「ルミコ、加々美さんの横!」「ボクも入れてえええ!」  と、あわてて戻ってきた紫苑を含め、他の者たちも口々に言いながら、ファインダーで区切られた現実世界の断片の中に押し合いへし合いしながら歩み寄った。 5  そして、仲良く寄り添い、笑い合い、他愛ない冗談を言い合う八人の群像を、ビデオカメラは磁気テープに収めた。  加々美光一 如月美術大学、三年生。  麻生真梨央 同、四年生。  加嶋友美  同、一年生。  日野原剛  同、二年生。  武田留美子 同、二年生。  榊原忠久  同、四年生。  木田純也  同、一年生。  武田紫苑  如月美術大学付属高校、三年生。  この八人の揃いし日の姿を……。 第1章 海岸から孤島へ出発する 1  島へ行くのは、これで何回目だろう……。  目前に広がる紺《こん》碧《ぺき》の海を眺めながら、加々美はそう思った。  もちろん、島というのは、これから船で向かう《奇跡島》のことではない。一般に島と呼ばれる所へ、生まれてからこの方、何度渡ったことがあるだろうかと思い返したのだ。  一九八六年十月十三日。  今年は記録的に台風が少なく、ここ一週間もまるで雨が降っていない。天気予報では、明日あたりから雨になると言っているが、今日も太陽が燦《さん》々《さん》と輝き、まるで九月上旬の暖かさだ。頭上を覆う空は透き通るほどの水色で、成層圏までも、いや、その先の宇宙までも見透かせそうな美しさだった。所々に浮かぶ白雲が、その青空と色彩上の絶妙な対比を見せている。空の下の遥《はる》か遠くで、水平線が非常に緩やかな湾曲線を描き、紺碧の海との間で天地の境目を明確に分けている。  加々美は松の木陰の下、崩れかかった石垣の上に腰かけ、そんな清《すが》々《すが》しい海景色を見ていた。青々とした海面にはわずかに白波が立っている。波の高さは、天気予報では一・五メートル。たいしたことはない。むしろ凪《なぎ》である。陽の光を浴び、無数の小さなさざ波が金色の鱗《うろこ》のようにキラキラと海面で反射している。  東《ひがし》山《やま》魁《かい》夷《い》だったか誰かが、日本で見る海景色と、地中海での海景色は色が違うと言っていた。確かに、目前の海も空も青の色合いは和やかだ。油絵の具のウルトラマリンみたいな強烈さは少しもなく、日本画の群《ぐん》青《じよう》といった感じの控えめさがある。  加々美たち《ミューズ》の仲間がいるのは、太平洋の鹿《か》島《しま》灘《なだ》に面した海岸だった。地図を見ると、繁《しげ》野《の》浜《はま》という地名が付いている。大浜から下津まで、何十キロメートルもの白砂青松の海岸線が続くが、その途中にある。左右の景色を見ると、波打ち際と国道の間に挟まれた砂浜が、細く帯状に蜿《えん》々《えん》と続いている。真夏ならば、浜は海水浴場としてにぎわうのだろうが、今はまったく人気がない。壊れかかったバラックの浜茶屋が、幾つか侘《わ》びしげに残っているだけだった。  その浜辺を分断するように、この小さな波止場が磯を利用して作られていた。コンクリート製の短い岸壁が海へ突き出している。そこに、船外機を備えた古くて小さな漁船が一隻、横付けになっている。加々美たちはここで、少し前から、チャーターした船が来るのを待っていた。  後方へ目をやると、林に包まれた低い山が見渡す限り連なっている。国道はその麓《ふもと》に沿って走っていて、浜はその東側にある。  海鳥が、餌《えさ》を求めて、飽きずに低空を旋回している。  さわやかな空気と、身じろぎしない頑固な風景。海風は甘い潮の香りをふんだんに含み、岸壁の根本に立ち並んだ松の梢《こずえ》を軽やかに渡り歩いている。日本のどこの田舎ででも見られる典型的な海岸。まさに絵に描いたような……。  ……最初に行った島は、どこだっただろうか。  加々美は、自分の眠っている記憶を甦《よみがえ》らせるため、心の奥底を探ってみた。  ……そうだ。あれは確か、広島の宮島だった。五歳だったから、幼稚園の頃だ。当時、父親がある仕事で珍しく大作を完成して、大きな収入を得た。それで、己の芸術の勉強のついでに、最初で最後の家族旅行を張り込み、岡山や広島を巡る観光をしたのだった。  宮島は元は厳《いつく》島《しま》といい、平家ゆかりの厳島神社が存立している有名な島だ。宮島へは、広島側の港から連絡船で渡った。しかし、所要時間など、細かいことはまったく記憶にない。ただ、奈良公園と同じように、島に鹿がむやみにいたような印象がある。鹿は神の使いなので、大事にされているということなのだろう。  厳島神社は、遠浅の入り江に鎮座していた。貝殻片の白く光る泥状の砂浜に、潮が満ちれば海中に没する朱塗りの派手な鳥居が立ち、宮神社などの摂社、高舞台、平舞台、左右の楽房、大きく反った橋などが、複雑な形の回廊で連結され、奥中央に、厳かな佇《たたず》まいの本社本殿があった。満潮になっても海水に没しないように、建築物すべてが高床式に足場が組まれていた。日本全国広しと言えど、海浜や海中に建造物が建っているのは、あそこだけだろう。日本三景と呼ばれる所以《 ゆ え ん》でもある。  けれども、そこでの経験は、加々美にとって非常に不快なものだった。  彼が、その回廊の上を歩いたのは昼時だった。ところが、あたりはひどく生臭い匂《にお》いでいっぱいだった。引き潮で、汚れた砂浜に取り残された海草類や死んだ魚介類が、強い陽に炙《あぶ》られて腐臭を放っていたからだ。絵はがきなどで見る厳島は清涼とした光景なのに、その写真からはとても想像できない悪臭だった。  だから、彼の記憶では、魚の腐臭と厳島の思い出が一緒くたになっている。  その時の旅行で、彼らは、壺《つぼ》井《い》栄《さかえ》の『二十四の瞳《ひとみ》』という小説で知られる小《しよう》豆《ど》島《しま》へも渡っている。大きめのモーターボートでだ。小豆島で何を見たかは、やはりほとんど記憶がない。ただ、瀬戸内海には、同じような小さな島がたくさんあったように思う。  それから、フェリーか何かで瀬戸内海を越え、香川県の金《こ》刀《ん》比《ぴ》羅《ら》宮《ぐう》へも行ったはずだ。皆で駕《か》籠《ご》に乗り、あの長い階段を昇ったのだと、後で母から聞かされたことを朧《おぼろ》に思い出す。しかし、実際の記憶はない。  この四国への渡航も、島へ渡る回数に加えるべきだろうか……。  どちらにしろ、あの父親と旅行をした思い出は、後にも先にもそれだけである。  加々美の父は名を光《みつ》冶《や》といい、号を光《こう》禄《ろく》と称する彫刻家兼工芸家であった。その道では、少しは名の知れている人物である。東北地方の美術館や博物館へ行くと、父の作品がうやうやしく飾ってあることがあるが、親族としては面はゆい気持ちになる。家は仙台藩士の出で、父の祖父の代までは相当栄えていたという。  父は、大学で美術を学び始めた今の加々美から見ると、非常に独創的で才能のある芸術家だったと認めることができる。  米沢に、武田信玄ゆかりの同《どう》朋《ぼう》寺《じ》という古い寺がある。そこの欄干に父が彫った二つの龍が飾られていて、彼の代表作として現代美術図鑑などにも紹介されている。また、長野霧《きり》泉《いずみ》高原美術館の正面入り口にある双子の裸婦像などは、ある展覧会で特選と文部大臣賞を同時受賞したものだ。また、秋田県立陶芸博物館に目玉として収められている二対の『織部焼葡《ぶ》萄《どう》文様角皿』などは、半素人としか言えない自分が見ても真の傑作だと感じられた。  しかし、父はそれほど多作家ではなかった。むしろ寡作家だった。生涯に残した作品もそれほど多くない。芸術家にありがちな気むずかしい性質をしていた。仕事の選《え》り好みも激しく、自分の気に入ったものしか絶対に手を付けなかった。当然のことながら、出入りの美術商人たちにも評判が悪く、固定したファンやパトロンは付かず、大きな仕事を何度も逃がした。したがって、表向きの名声とは裏腹に、収入は少なくて、彼の家はいつも貧窮した状態にあった。  その癖、父は遊び事が好きで女癖が悪く、母をずいぶんと悲しませた。  加々美の母は多《た》恵《え》といったが、やはり武家の血を引く旧弊な女だった。実家はかなり古い家柄で、本家と分家の間で親族結婚がなされることが慣習となっていた。だが、明治維新を迎えた後は、新しい血を入れようと、外部との婚姻も積極的に結ぶようになっていた。父と母の婚姻は、そんなことを画策する母の縁者の希望で実現したものだった。  母は、その名の音のとおり、ひたすら父の横暴や女出入りを堪え忍んだ。死ぬまでついぞ、夫に対して一言も口答えをしたことがない女だった。忍従の日々という言葉があるが、それは母のためにあるもののように思える。  そして加々美自身も、感情的で気まぐれな父の怒りを買わぬよう、日頃、じっと息をひそめて暮らしていた。それでさえ、子供の頃に彼はよく父に殴られた。何の理由もなくである。要するに、父は仕事に行き詰まると、酒を飲んだくれて、家族に当たり散らすのだった。彼は、父親が恐ろしくてたまらなかった。だから、父が仕事場から母屋へ戻ってくると、彼は奥の部屋へ隠れてしまうか、必ず外へ逃げ出した。  加々美は、赤ん坊の頃、かなり病弱だった。おしめの取れない頃に、引きつけを起こして死にそうになったことがあり、また、熱を出して何日も寝込んだことがある。喘《ぜん》息《そく》の発作で窒息しそうになったこともあるし、胃弱のため、下痢が続いてひどく痩《や》せたこともある。そんな彼を、母は必死に看病した。だがあの父は、この子供をまるで厄介者を見るように扱い、まったく頓《とん》着《じやく》しなかった。  父親が彼や母をないがしろにした理由は、小学校へ入学した時にようやく少しだけ合点がいった。それは、父が加々美を、自分とは違ったタイプの芸術家に育て上げようと願望していたことに起因する。父は彼に、将来洋画家として名を成すよう、物心つくかつかないかの内から、美術の英才教育を施そうと考えていた。しかし、実際に絵筆を持った加々美には、それだけの才能や資質がなかった。父の下した判断では、せいぜいが、水墨画など日本画を身に付けるのが関の山だったのである。  自分の人生を振り返ってみると、加々美はいくつかの後悔をかかえていた。しかもそれは、ほとんど自分自身の気弱さから生じている。彼の引っ込み思案な性質は、明らかに母親似だった。父親の我の強さは、少しも血液の中に伝播していなかった。彼は何事に対しても消極的であきらめが早い。父親は、そんな彼の煮え切らない性質を特に嫌がった。父は物事には裏と表、もしくは右と左の二つの側面しかないと信じていた。だから、どんな問題にぶち当たっても、即答ができないと我慢できないのだ。ところが彼ときたら、いつでも優柔不断でけじめがなく、物事の黒白を明確に判断することができなかった。  父親は、加々美に失望した。父は芸術家にありがちな、恐ろしいほどのナルシストであり、エゴイストでもあった。彼は自分の子供に、自分とそっくりの才能を受け継いだ分身を期待したのだ。自分と同じ芸術家の血と魂と素質が、子供に伝授することを切望したのだ。ところが、その子には母親の血が多く流れており、その気持ちが裏切られたものだから、加々美をうとんじ、母をなじり、二人を軽《けい》蔑《べつ》して、最終的には見捨てたのだった。  長ずるにつれ、加々美の方でも、そんな父をあからさまに憎むようになった。だから、彼は絶対に父のような人間にはなるまいと思った。小学校、中学校、高校と、彼はひたすら我慢を重ねて生きた。大学に入ったら、絶対に家を出てやると心の中で決めていた。そのためにも、遠くの大学に受かりたいと願った。幸い父は、彼が大学に入ることには反対しなかった。ただ一つの条件は、美術大学に入ることだった。父は職人的徒弟制度の元に芸術家になった男だったので、学歴というものには反《はん》撥《ぱつ》を感じつつも、自己を卑下し、劣等感を感じている部分もあったのだ。  芸術家といえども、美術界に属していれば、結局は一つの社会で息をしているにすぎない。自由業などというのは名ばかりであり、真っ赤な嘘《うそ》だ。年功序列、学歴、派閥、師弟関係など、他の社会で幅を利かせる制約が、ここでも生きている。いや、それ以上に力を持っている。  たとえば、あちこちの美術館で展覧会が開かれているが、あれに自分の絵を出品しようと思えば、必ずどこかの美術会に入会し、特定の人に師事せねばならない。そして、月謝を払い、先生におべんちゃらを言い、付け届けをし、会が主宰する展覧会へ出品するための支度金をひたすら払う。そうして展覧会に何度も作品を出していると、払った金額に応じて先生からお墨付きをもらえる。そのお墨付きの回数によって、次には、中央の大きな展覧会へも絵を出せるようになるのだ。そして、そこでまた莫《ばく》大《だい》な支度金を払い、多くの先生方に媚《こ》びを売って取り入る。すると、そこで入選した内容や回数が、自分のプロフィールに華々しく飾られるという仕組みである。  要するに、芸術家の名誉といっても、しょせんは金で買うようにできているのだ。これでは、犬の品評会とまるで変わらない。才能だけで、名誉や財産を簡単に築けるわけではないのだ。残念ながら、美術界を牛耳っている輩《やから》は、役人でいうところのキャリアに当たる。実戦の経験は浅くても、家柄と学歴と財力がその人物の地位を何よりも守る。そして、家柄も学歴も財力もない貧乏芸術家が、その傘下に跪《ひざまず》くという構図なのだ。  だから、父は、加々美を何としても美術大学へ入れようとした。それは彼のためではなく、自分の息子の経歴に学歴という箔《はく》を付け、己の劣等感の穴埋めをするためだった。だから、珍しく幾つかの仕事を片づけて入学金をこしらえ、知り合いの美術関係者に頭を下げたり、絶縁していた母方の親《しん》戚《せき》にも援助を申し込んだほどだった。  しかし、加々美の方は、父の元から逃げ出すという目的以外には、大学へ行く理由を持っていなかった。実際の話、彼に父親ほどの芸術的才能はなく、そのことをはっきり自覚していた。さりとて、別になりたいものや好きな職業があるわけでもない。うまく美術大学に入り、問題なく卒業できれば、将来はどこかの博物館か美術館の学芸員にでもなれるだろう。そのくらいの希望しか持ち合わせていなかった。  一応の受験勉強をして、父の根回しもあったせいか、加々美は無事、東京都の三《み》鷹《たか》市にある如月美術大学に入学することができた。昔の美術大学は実地試験が重視されたが、現在の試験制度では、普通科の大学のように一般科目試験の比率が高い。その点は、彼のような凡人にも好都合だった。  加々美は大学の近くにアパートを借り、生まれて初めて独り暮らしをした。しかし何よりも嬉《うれ》しかったのが、あの横暴な父親から遠く離れて生活できるということだった。  入学式の当日、加々美は《ミューズ》という美術研究サークルに入会した。その理由は、単に一番最初にこの会のメンバーが声をかけてきたからにすぎなかった。実際のところ、何を研究する会なのかも知らず、入会届に署名していた。  父親が死んだのは、加々美が大学二年になったばかりの時だった。母親から電話が入り、父親の訃《ふ》報《ほう》を知った。酔っぱらった父が市内を流れる穂坂川の欄干から転落して、水死したのである。雪解けで増水していたので、かなり下流に流され、救助された時にはもう息はなかったという。  加々美は、この出来事にまったく悲しみを覚えなかった。むしろ、じわじわと心の中から幸福感が湧《わ》き上がってきたほどだった。母から連絡を受けた時、最初に感じたのは、『僕は、これでやっと自由になれたんだ』という解放感だった。正直な話、加々美は父親の死を喜んだのである。  加々美はとうとう、芸術家加々美光禄の人物なるものを理解し得なかった。芸術家として、父が何を終生追い求めたのか少しも興味がないし、その内面性には最後まで共感を持ち得なかった。破《は》綻《たん》した生活態度を嫌悪すらすれ、父親として光冶を愛したことなども一度もない。  加々美にとって、父はもう、どうでもいい一つの位《い》牌《はい》にすぎなかった。  その代わり、彼には大事な大学の友達があった。  ミューズのメンバーである。  今、共に《奇跡島》へ船で渡ろうとしている友人たちこそ、彼にとって何よりかけがえのないものであった。その価値観は、将来もけっして変わることはないだろうと思われた。 2  その他の島で覚えているのは……。  能《の》登《と》半島にある能登島に行ったのは、小学校の六年生の時だった。あれは夏休みのことだ。母親と共に金沢の親戚を訪ね、ついでに能登半島を一巡りした。  半島の先端にある灯台のすぐ側で海水浴をしたが、クラゲがむやみにいて閉口した。しかし、肝心の能登島の印象はほとんどない。ひどく複雑な形をした湾の中に、緑濃い樹木に包まれた饅《まん》頭《じゆう》形《がた》の島があったようにも思うが……はたして、あれが能登島だったのだろうか……自信はない。  大学へ入ってからは、鎌倉の江ノ島に一度、ある女の子と電車で行った(加々美は、運転免許も車も持っていなかった)。江ノ島は綺《き》麗《れい》な橋で湘《しよう》南《なん》の海岸沿いを走る国道と陸続きになっているが、あれでも一応は島と言えるだろう。  こうやって考えてみると、島へ渡った経験はあまりに少ない。他の者はどうだろう。自分よりも多いだろうか。  ……この落ち着かない気持ちは、経験不足から来るものなのか。  浜辺で新鮮な空気を吸ったおかげで、車酔いによる気持ち悪さはだいぶ治まった。だがその代わりに、胸の奥に隠れている灰色のもやもやが、しだいに色濃くなった。  加々美は、海と空の遠くを見つめながら考えた。  この、得体の知れない不快感は何だろう。  何かに対する心配や、気がかりから生じる胸の高鳴りなのだろうか。  だとすれば、いったい何に対して自分は不安なのだろう。  実を言えば、こんな鎮まらない気分になるのは、今回に限ったことではない。加々美は船に乗る度に、常にこうした心細さを感じるのだ。  だがしかし、根本的に海は嫌いではない。泳ぎは得意だし、船にも特別な感情を持っていない。単なる乗り物である。ところが、もうじき船で海の上に出るとなると、妙な感慨に襲われる。海を見て、船に乗り込む。船の甲板や船室の窓から海を見る。そうしている時、少しでも気を緩めようものなら、目前に広がる海原に自分の意識が吸い込まれていく怖さに駆られるのだ。  ……ならば、島が嫌なのだろうか。《奇跡島》へ行くことが嫌なのか。  いいや、それは違う。そんなことではない。  とすると、結論はただ一つだ。地面を離れて海の上へ出るという行動そのものを単純に恐れているのだ。  陸地から足を離すという行動は、考えようによっては非常に不安定な状況だ。船乗りならいざ知らず、普通の人間にとっては、両足の下に固い地面が存在することが、無意識における精神的保険になっている。人間は日頃、大地を意識していない。けれども、これは途《と》轍《てつ》もなく重要なことだ。何故なら、心的にも肉体的にも、自己の存在感の立脚に関する拠《よ》り所でもあるのだから。  だから、それが急に失われたら。  ……いやだ。  それは、絶望以外の何ものでもない。  船に乗るということは、結局のところ、そういうことなのだ。自分が日頃住み慣れた環境を放棄し、慣れない海に身を委《ゆだ》ねること。その無理強いなのだ。無論、両足の下には船やその甲板がある。船板が自分の体重を支えはするだろう。しかし、地面の上にいる時とはまるで状況が違う。自分と海とを隔てるものが、板一枚しかないとしたら……。  象徴だ。  存在基盤の象徴。  極端なことを言えば、自我の喪失との符合だ。陸地を離れること。それはあらゆる自信喪失に繋《つな》がり、果ては、人間としての魂の尊厳を失うことにもなりかねない。  ムンクの著名な《叫び》という作品では、内的恐怖を表わす作者自身の姿の後ろに、まるで海が渦を巻いたような背景が描き込まれている。作者の説明によれば、あれは実際には市街とフィヨルドだというが、強い紺色を基調にした複数の歪《ゆが》んだ線は、とうていそのような物には見えない。それと同じように、陸地を離れ、海や島へ出た自分を取り巻く空間も、恐ろしく寂しげでしかも刺《とげ》々《とげ》しいものに変化する。  船が出航すれば、周囲には、途方もなく大量の海水しか存在しなくなる。体積など測りようがないほどの圧倒的な物質だ。海がどのくらい広く、どのくらい深いかも計り知れない。しかも、海中に、どんな怪物が潜んでいるか解らないのだ。ネス湖の恐竜のような怪物がひそんでいないと、誰が保証できよう。それが突如として海面に頭を突き出し、こちらを襲って来たとしたら……。  それで、加々美は船に乗るのが嫌なのだ。広々とした海へ出て、はるか沖にある島を目指すのが怖い。今すぐにもこの場から逃げ出したいという衝動が、心の中でどんどんと膨れ上がる。  島もそうだ。本土の広大な大地とは比べようもない。大海原に浮かんだほんの小さな染みである。いつ何《なん》時《どき》高波に飲み込まれ、海の藻《も》屑《くず》と消えてしまうようなことがあるかもしれない。  ……しかしまた、自分をここに懸命に引き留めているものがあることも事実だ。  それは、ある種の義務感だった。そして、真理を見極めたいという焦燥感だった。自分たちは、どうしても《奇跡島》へ行かねばならないのだ。それは、加々美にも嫌というほど解っている。  ……もう、考えるのをやめよう。  砂浜の反射熱で、額から頬《ほお》にかけて汗が伝わり落ちる。加々美はズボンのポケットからハンカチを取り出し、汗を拭《ふ》いた。と同時に、軽い眩暈《 め ま い》を感じて、思わず目をぎゅっと瞑《つぶ》る。ゆっくりと深呼吸をする。血管の中を通る血の流れが、かすかに聞こえる。心臓のポンプが、弱々しい乱打を奏でている。  ……大丈夫だ。  少しずつ目を開いてみた。何の異常もない。気分は幾らか平静を取り戻し、同時に現実感を引き寄せた。  近くにいる仲間たちの声が、あらためて彼の耳を刺激した。  加々美は、ゆっくりとそちらの方へ視線を向ける。  殺風景なコンクリート製の波止場が、周囲の牧歌的な景色にはあまりそぐわない感じがした。少し沖の海中に積んだ無粋なテトラポッドが、高波を形ばかりに防いでいる。凪《な》いだ海面に突き出た短い岸壁の先で、一緒に《奇跡島》へ渡る他の仲間たちが遊んでいた。  加々美と違い、彼らは潮風と海と大空の存在を受け入れ、それを全身を使って歓待していた。柔らかな海風が、彼らの和《わ》気《き》藹《あい》々《あい》としたはしゃぎ声をこちらまで届けてくれる。太陽の光も、彼らの溌《はつ》剌《らつ》とした様子を、一つの具象的な光景として際立たせている。  加々美は、倦《けん》怠《たい》感《かん》の混じった小さなため息をついた。  楽しそうに騒いでいる仲間たち。青春の輝き。生命の息吹き。  それでも、加々美は自分の居場所を放棄しようとは思わなかった。岸壁の根本にあるねじ曲がった数本の古松の木陰。とにかく、迎えの船が来るまでは、絶対に動きたくない。  どうせあと少しで、自分たちは海を越え、《奇跡島》へ行かなければならないのだ。それはもう定められたことだ。だからこそ、今は、まだ……ここに……それが、運命ならば……。 3 『……俺《おれ》たちは、卵の殻を破ったばかりの雛《ひな》だ』  いつだったか、サークルのリーダーである麻生真梨央がそう言った。加々美は、彼のその時の言葉をはっきりと覚えている。 『俺たちは、美術という限界と結末のない巨大な異次元世界に頭を突っ込んだ無鉄砲な雛だ。でなければ、いっぱしの芸術家を気取ったイカサマ師だ。それは誰にも否定できない。どれほど潜在的な能力を有していようと、理論ばかりが先行し、実践が伴わない学生などを、世間が容易に認知してくれるはずがない。世の中はそんなに甘くないのだ。  だから、俺たちは、自分なりのやり方で、自分の存在意義を、世間の奴《やつ》らに突きつけてやらなければならない。それが生きて仕事を成し遂げるっていうことだよ。俺たちは自分の生存の証《あかし》として、後世に残る芸術を創り上げるのだ——』  そのとおりだと、加々美も思う。  だから、自分たちは《奇跡島》へ行かねばならないのだ。自分自身の頼りない足場を固めるために。そして、己の存在理由を見つけるために。  その目的を果たすために、今朝早く、彼らは借りた一台の中型バスに乗り込んだ。そして、はるばる、東京からこの茨城県にあるひなびた海岸までやって来たのだ。  キャンパスを発《た》ったのが朝の七時。道がわりと空いていたこともあって、予定した時間より早く、午後二時頃到着した。乗り物に弱い加々美は、昼食後に車酔いにやられ、気分が悪くなってしまった。そのため、他の者たちが荷物を下ろしている間も、こうして木陰で休むことを許された。  荷役作業を終えた仲間たちは、今はてんでに遊んでいる。  あらゆる手《て》筈《はず》が完《かん》璧《ぺき》に整っていた。  加々美たちが所属するミューズ・サークルは、美術や芸術活動の研究をするのはもちろん、各地各種の美術館や博物館の様々な支援をするのを目的や活動としていた。当然、卒業後は、美術関係の仕事に就くし、活動の関係から、美術館などの学芸員になる者もいる。  今回の旅行も、その学芸員としての仕事の一環だった。  この茨城県に近年設立されたばかりの県立近代美術館から、ある調査研究と鑑定を依頼されたのだ。以前卒業したサークルの先輩が、この美術館で学芸員をしている関係から、人手と応援を要請されたのである。  ……小豆《 あ ず き》を畳にぶちまけたような低い波の音がした。  それが、加々美の心を夢想から引き戻す。見ると、波が波止場の横の砂浜からいっせいに引いていくところだった。風が出てきたのか、岸壁に当たる波頭も、若干高くなってきたような気がした。  長さ二十メートルほどの岸壁の上に、五人の仲間がいる。  一番背が高く、痩《や》せていて、遠目にはマッチ棒のように見えるのがリーダーの真梨央だった。いつもジーンズをはき、ラフな格好を好んでいる。オレンジ色のチューリップ・ハットが目立つ。仲間内の最年長者。温厚で思いやりがある性格のため、サークルの内外、男女を問わず、人望が非常に厚い。  その彼の横には、一年生の加嶋友美がいる。彼女は真梨央の恋人でもある。最近は、彼にまとわりついて離れない。それは、この旅に出てからも同じだった。誰か、別の女性に彼を取られるのを心配するかのようだ。わりと豊満な体に、白のシャツと白いジーンズを着ている。黒目がちの大きな目と、ストレートの長い黒髪が、彼女の女性らしさを強調していた。話し好きで、明朗闊《かつ》達《たつ》。目上の者に対しては非常に謙虚だが、わりと積極的な性格でもある。  真梨央と友美は、堤防の真ん中あたりに立って水平線を見ながら、仲《なか》睦《むつ》まじく話をしていた。しかしその姿を見て、加々美は二人があまり似合いのカップルではないことを再確認した。飄《ひよう》 々《ひよう》としてヒッピーか宗教者のような風《ふう》貌《ぼう》の真梨央と、どこか律儀な印象のある友美では、何となく違和感を感じる。実際、喋《しやべ》っているのはほとんど友美であって、真梨央は聞き役専門だった。  彼らの仲は、サークルでは公然となっている。二人が付き合いだしたのは、友美がサークルに入会した頃からだ。そして、二ヵ月ほど前からは、真梨央は彼女の借りているアパートに転がり込み、一緒の生活を営んでいた。  しかしながら、真梨央が彼女を恋人にしたことは、加々美を含めて仲間内に驚きを与えた。何故なら、彼はあのことがあってから、すっかり心を閉ざし、男性であれ女性であれ、他人を自分に近寄らせなかったからだ。  人間の中には、別れというものにひどく敏感な者もいる。真梨央は芸術的な感性が高く、故に繊細な神経の持ち主である。だから老成した外観とは裏腹に、内心は傷付きやすくもある。  真梨央はサークルのリーダーであったが故に、義務感からしても、仲間の中で一番あのことに思い悩んだはずだ。  ……結局、麻生さんも普通の人間だったんだ。  彼を崇拝する気持ちの強い加々美は、それが嬉《うれ》しくもあり、少し悲しくもあった。  もしかすると、あのことを忘れるために、彼は友美を恋人にしたのかもしれない。そう思うこともある。しかし、この交際は、麻生さんにとってはいいことだった。少なくとも、彼が過去の悲しみと決別できた証拠なのだから……。  加々美が自分たちの方を見つめているのに気づいたのか、友美がこちらを振り返った。 「加々美さーん」彼女は張り切った声を上げ、大きく手を振った。「先輩も、こちらに来たらいかがですか。気持ちいいですよお。水の中に魚だって見えるんですからあ!」 「……ありがとう」  加々美は、力なく手を上げて答えた。  彼の目の前には、仕分けがされ、積み上げられたたくさんの荷物がある。全員のリュックに、キャンバス、イーゼル、絵の具箱、テント、寝袋、食料、燃料、美術書、目録、カメラ、その他様々な品物……体を休ませながら、一応、彼はこれらの品物の見張り番をしている。持ち場を離れるのは嫌だと、それを口実にして言おうかと思った。  真梨央もゆっくりとこちらを向き、加々美の顔を見てから友美に声をかけた。 「加々美はもともと胃が弱いんだ。まだ顔色が悪い。もう少し休ませておいてやれよ」 「はい。そうします」  友美は素直に頷《うなず》く。彼女は真梨央と深い仲になっても、丁寧な言葉遣いをやめなかった。  加々美は、真梨央の気遣いが嬉しかった。  真梨央と友美の手前に、コンクリートの上であぐらをかいている男がいる。一年生の木田純也だ。彼の渾《あだ》名《な》は《ダルマ》。その名のとおり、背が低くてかなり太っている。丸顔に、まん丸いレンズの眼鏡をかけている。たいへんな本の虫で、常に寸暇を惜しんで何かを読んでいる。今も、膝《ひざ》の間に文庫本を広げていた。 「ダルマ君。何、読んでるの」  友美の関心は、加々美からすぐに木田に移った。彼の横に屈《かが》み込み、頁《ページ》を覗《のぞ》く。 「これは、サルトルの『水いらず』って本っすよ」  木田は相撲《 す も う》取《と》りのような鈍重な顔を上げ、のんびりと答える。 「へえ、ずいぶん難しい本を読んでるのね。それって、哲学書か何かでしょう。その手の文庫本を読んでいると、ずいぶん知的な感じがするわよ」 「友美さん、内容は別に難しくないっすよ。これは『存在と無』などの論著と違って、実存主義にのっとった単なる小説にすぎませんから」 「何なの、その実存主義って」  友美は尋ねた。 「何って言われても、おいらもサルトルを読むのは初めてなんで。内容に関しては、麻生先輩の方が詳しいっすよ」 「真梨央さん?」  友美は恋人の方を向いた。  真梨央は、ひどく生《き》真《ま》面《じ》目《め》な顔で返事をした。 「確かに、俺は以前、その手のものを読みふけったことがある。サルトル、ニーチェ、ハイデッガーなどの西洋哲学書に一通り目を通したんだ。だがね、結局そんなものは、俺たちの人生にとっては何の役にもたたない屑《くず》だということが解った。机上の学問などは、戦争や飢餓や疫病で苦しみ喘《あえ》ぐ人々にとって何一つ役立たない。生きる術《すべ》の足しになるものは、もっと他に、唯物的に存在しているんだよ」 「そうなんですか」 「そうさ。いいかい。実存主義というのは、辞書流に言うと、人間の本来的なあり方を、主体的な実存に求める立場のことだ。実存とは現実存在の意味なのだが、元来は、中世におけるスコラ哲学において、本質の対概念として用いられた表現だよ。サルトルの場合には、実存的精神分析という方法論において、思想表現の一端として小説を書いたわけなんだけれどもね」 「すみません。難しくてぜんぜん解りません」  友美が丁寧に言うと、真梨央は少し朗らかな表情を見せ、 「いいんだよ、解らなくても——な、ダルマ」 「そ、そうっす。たいしたことはないんす。しょせん、哲学なんて、人生に対する人間の思考上の意義付けと価値観の表明にすぎないんすから」 「ええ……」  友美はうまく返事ができず、代わる代わる真梨央と木田の顔を見た。 「そうだな」と、真梨央は顎《あご》を撫《な》でながら、愉快そうに言った。「それでは、友美のために、噛《か》んで含めるように簡単に解説しようかな。いいかい、サルトルは大衆に向かってこう言ったんだ。『実存主義とは、ヒューマニズムである』とね——どうだい、これで解ったかい」 「いいえ」  友美は、相変わらず不満そうな顔でかぶりを振った。  真梨央と木田は顔を見合わせて、ニヤニヤ笑った。二人して、現実主義の彼女をからかって面白がっているのだった。  岸壁の突端を見やると、手を目の上に当てて庇《ひさし》の格好にし、遠くの方を微動だにもせずに眺めている男がいる。加々美と同じ学科の、日野原剛である。  一年後輩の彼は、五分刈りにした頭に複雑な模様のバンダナをしている。ごつい顔に、よく日焼けした体がたくましい。事実、暇さえあればウエイト・トレーニングを欠かさない。白いTシャツによれたジーパン姿。映画好きの彼は、ブルース・リーかターザンでも気取っているのかもしれないが、そう言えば、若い頃のジョニー・ワイズミューラーに顔が似ていなくもない。  そのすぐ側に、黒服を着た四年生の榊原忠久がいる。岸壁のへりに腰かけ、小さなスケッチブックに、手早くあたりの景色を写し取っている。渾名は《画伯》。上野の公募展にも、毎年彼が描いたシュールレアリスムの油絵が選出されて、学内でも抜きんでた才人として知られている。仲間内で一番芸術的な才能を有しているのは、間違いなく彼だ。  ただし、性格はいたって悪い。皮肉屋の上に、鼻持ちならないほどの自信家だった。したがって、友達は少ない。キリギリスのような神経質そうな顔で、銀縁の細いメガネをかけているため、ますます陰険に映る。 「タケシ、そこに立っていると目障りだから、座ったらどうだ」  榊原がスケッチに目を落としたまま、日野原に嫌味を言った。 「……先輩、自分の方が先にここに来たんですよ」  日野原は海を見たまま、負けずに言い返した。  この二人は、普段からしてあまり仲が良くない。美術や芸術に関する議論が高じて喧《けん》嘩《か》になることもしばしばだった。険悪なムードの二人の間に、加々美が分け入って事なきを得ることも多かった。  彼らは、場所を譲らないことで、つまらない意地を互いに張っているのだ。 「——よかったあ、まだ船は来ていない。楽勝で間に合ったね」 「そうなの。じゃ、ラッキー!」  その時、加々美の後ろの方から、若々しい歓声と砂を踏む柔らかな靴音がした。  振り向くと、松の木立の間から、ウキウキした足取りの二人の男女が現われた。一人は二年生の武田留美子。もう一人は彼女の従弟《 い と こ》で、武田紫苑。トイレを捜しに行き、ついでにどこかの店でアイスクリームを買ってきたようだ。二人とも、棒付きアイスをペロペロと舐《な》めながら、蝶《ちよう》が舞うように軽やかに近づいてくる。 「ねえ、加々美さーん、船まだなのお!」  留美子が片手で麦《むぎ》藁《わら》の帽子を押さえ、もう片方のアイスを持った手を振り、加々美に声をかけた。 「まだだよ」  加々美は言ったが、その後に続く、見れば解るだろうという言葉は、海の方を向いてこっそりと喉《のど》の奥に飲み込んだ。 「ルミコ、加々美さんの側にいよっと」 「ああ、ルミちゃん、ずるい」  留美子と紫苑は、争うように加々美の両《りよう》脇《わき》に座った。留美子の髪から柑《かん》橘《きつ》系の香水の薫りが漂った。  この二人は、いつでも頭が痛くなるほど存在感がある。留美子の全身からは、常軌を逸した可《か》憐《れん》さが発散されているし、紫苑も、それに負けず劣らずの美少年ぶりである。しかも、二人は、それを際立たせるような派手な格好をしている——これから、無人島へ行くとは思えないような。  留美子は、アンティーク・ドール風というか、アルプスの少女ハイジ風というか、非常に少女趣味な服に身を固めている。原色のブラウスと花柄のスカートを着ており、それに数えきれないほどのフリルやレースが咲き乱れている。まるで、『不思議の国のアリス』の挿し絵が、生きて本の中から抜け出したようだ。  紫苑は身長百六十五センチと小柄で、整った顔立ちのせいもあって、一見女の子のように見える。髪は柔らかなセミロングで、だいたいいつも宝塚の男役のような格好をしている。頬《ほお》がやや赤く、留美子に良く似た目、白い肌に透き通った鼻筋などはフランス人形のようだ。着ているシルクのシャツ——父親の会社が輸入した外国製品——は、襟が大きく、妙につやつやして、女物みたいである。  紫苑は、ミューズのアイドル的存在である。彼が勝手にサークルへ出入りしても誰も文句を言わず、むしろ可《か》愛《わい》がっている。自分でも、そんな立場を楽しんでいる節がある。加々美らの美大の付属高校に通っているので、放課後にしょっちゅう部室へ顔を出す。 「そう言えばさ、加々美さん。今日はいったいどうしたの。朝からぜんぜん元気ないじゃない。何だか不機嫌そうだよ」  紫苑は無邪気に、アイスクリームの最後の一口を食べ終わって言う。 「ホント。愛する加々美さーん。ルミコ、心配」  留美子は立ち上がり、スカートの裾《すそ》を翻して意味もなくクルリと回転した。自分のちょっとした仕草を、すべて可愛く見せようというのが習い性《せい》になっている。 「そうかな……」  加々美が答えようとしているのに、紫苑が、 「あ、僕が棒を捨ててあげるよ」  と声を上げ、留美子の分までアイスの棒を持って、堤防の端まで行き、遠投の要領で海へ投げ捨てた。 「あら、シオンたら、いけないんだわ」留美子があわてて咎《とが》める。「そんなことをしたら、海がますます汚れちゃうじゃないの」 「いいんだよ。ルミちゃん。あれは木の棒だから、有機物。ちゃんと、海と波と砂が分解して片づけてくれるって」 「だって、海さんが可《か》哀《わい》相《そう》だわ。魚さんだって嘆いているわよ。どうするの。貝さんやクラゲさんが死んじゃったら」 「クラゲが浮いたらさ、すくって、中華料理の前菜に出せばいいじゃないか」  二人のたわいない会話を聞きながら、加々美は腕時計を見た。予定の時間を十五分以上過ぎている。ここの景色にも飽きがきた。海が綺《き》麗《れい》だと思ったのも、ほんのわずかの間だった。海岸線に変化が乏しいこともその理由の一つだった。  その時、背後の国道に一台のタクシーが止まり、中から、縁の太い眼鏡をかけた中年の男性が降りてきた。彼は小脇に茶色の鞄《かばん》をかかえ、猫背の感じで、堤防の階段から砂浜へ下り、足早にこちらに来た。 「——あ、権《ごん》堂《どう》さんが帰ってきた」  紫苑が嬉しそうに言った。 4  一見弁護士に見えるこの年輩者が、《奇跡島》への案内役だった。名前は権堂謙《けん》作《さく》。茨城県立近代美術館の学芸員をしており、加々美たちの大学の先輩であった。年齢は三十七歳だが、かなり老け顔で、服装も地味なため四十代半ばぐらいに見える。加々美らが乗ってきたレンタカーの小型バスを、この近くにあるガレージ業者に預けてきたのだった。 「権堂さん、どうもお疲れさまでした」  加々美は立ち上がり、彼を迎えた。  権堂は背を伸ばし、顔を上げてゆっくりとあたりを見回した。 「船は、どうやらまだ来てないみたいだね」 「はい」  岸壁の上にいる仲間たちも権堂に気づき、何人かが手を振る。  権堂の鼈《べつ》甲《こう》縁《ぶち》のメガネの奥には、干し葡《ぶ》萄《どう》のようなしなびた目がある。髪はやや薄くなりかけており、七三に分けて、丹念に油で撫《な》でつけてある。顔つきはわりと無表情だが、声には一応の親しみはある。  権堂は、左手の腕時計に視線を落とした。バンドまで金《きん》無《む》垢《く》で、たぶんローレックスの複製だろう。 「約束の時間をだいぶ遅れているな……君たち、ずいぶん待たせて悪いね」 「いいえ。そんなこと、かまいませんけど……」  別に急ぐ旅ではない。日程も充分に取ってあるし、だいいち、我々は雇われている側の身だ。  だが、権堂は別のことを気遣ったらしく、厳かに言った。 「まあ、《奇跡島》は逃げたりはしないから」  生《き》真《ま》面《じ》目《め》な権堂にしてみれば、冗談のつもりだったらしい。 「ここからは、見えないんですか」  加々美は海の方を向いて言った。留美子と紫苑もつられて、そちらへ顔をやる。 「島がかね」と、権堂はぼんやりした口調で尋ね返した。「いや、視力が良ければ、ちゃんと島の山頂がぎりぎり水平線に霞《かす》んで見えるはずだよ。どうだね」  加々美は言われたとおり、水平線の方へ目を凝らしてみた。 「あ、あれじゃないの!」  紫苑が真っ先に大声を上げ、岸壁の先、真正面よりやや右手の方を指さした。広大無辺な海に幻惑され、今まで気づかなかったのだが、確かに水平線の上に、山の一部分のような白茶けたものが顔を覗《のぞ》かせていた。  そうか、あれが《奇跡島》なのか……。 「ずいぶん遠いのね」  と、留美子が感極まったように言う。  加々美は、島へ渡るためにはこれから乗船しなければならないことを思い出し、渋ったように頷《うなず》いた。 「大変だ……」 「不安なのかな」  と、権堂が尋ねたので、加々美はかぶりを振った。 「いいえ、別に不安なことはありませんが」  ところが、権堂は加々美の逡《しゆん》 巡《じゆん》を別の意味に取っていた。 「隠さなくてもいいよ。こんなうまい話は、そうそう転がっているものじゃないからね。雇い主は見ず知らずの人間で、茨城県在住の莫《ばく》大《だい》な財産を持った富豪だ。美術に関する仕事とは言え、何だか降って湧《わ》いたような内容だ。にわかに信じられないのも当然さ。宝くじに当たるよりできすぎている。しかも、君たちがこの仕事をうまくやり遂げたら、将来の心配までしてくれると言うのだから」  そうだ、確かに眉《まゆ》唾《つば》な話だった。加々美は最初に聞いた時にそう思った。もしも、美大の先輩である権堂さんがこの話の仲介役でなければ、そして、真梨央が相手の申し出を承諾しなければ、かなり疑ってかかっただろう。 「大丈夫ですよ、権堂さん」  と、加々美は言った。それは、自分の決意の確認でもあった。 「僕らは、《白亜の館《やかた》》をできるだけ調べ尽くします」  権堂は、目頭を和ませた。 「ああ、期待しているよ。わが県立近代美術館にとっても、これは大きな成果になるはずだからね。ぜひとも、《白亜の館》に眠っている芸術品の数々を、将来、我々の美術館で扱いたいんだ。そのためにも、このメンバーで素晴らしい成果を上げたいのさ」 「まっかせてください」  留美子もえくぼを作り、会釈をする。  紫苑は遠くを見ようとして、飛び跳ねながら尋ねた。 「権堂さん。あの島まで、何キロぐらいあるんですか」 「約二十キロというところかな。漁船で一時間半から二時間という話だよ」 「ええー、そんなにかかるんですか」 「そうらしい」 「あれ、権堂さんは行ったことないんですか」 「ないよ。君たちと同じく、初めてさ。私は、島に関して依頼主から様々な資料をもらっているだけでね」 「ねえ、ルミちゃん、あそこまで泳げないかなあ」 「無理よ、無理」  留美子は即座に否定する。 「それに、昔、《奇跡島》で起こった事件のこともあるしな……」  と、権堂は聞かれもしないのに口に出した。 「……人が死んだとか」  喉《のど》に何かが詰まったように、加々美は言った。 「そのとおり」と、権堂は淡々と頷く。「そのため、島は四十年以上も閉鎖され、無人で放り出されていたわけだ」 「うわあ、人殺しかあ。怖いの」  と、紫苑が大仰に言った。 「幽霊、出るかしら」  と、怖がりつつも、瞳《ひとみ》を輝かせる留美子。 「その事件のことは、まだ詳しく聞いていないのですが」  加々美は、権堂に水を向けてみた。 「そうかね。麻生君には話しておいたんだが……」  加々美は黙っていた。何故か、真梨央はその件について説明するのを渋っていた。 「ルミコも、知らなーい」  と、留美子は顔をキラキラさせて言った。  権堂は肩を小さくすくめた後、 「別に、とりたてて隠すような問題じゃない。戦前の話だからね。今は何の心配もないんだよ」  本当だろうか……。  と、加々美はひそかに訝《いぶか》しんだ。  権堂は続けた。 「私が依頼主から聞いた話だと、当時、《奇跡島》には、ある高貴な血筋の女性が住んでいたそうなのだ。ただし、非常に奔放な生き方をする人でね、女王様然とした態度で、自分を慕う大勢の人間を集め、その上に君臨したわけだ。《奇跡島》にある《白亜の館》は、そんな彼女の夢の城だった。彼女が父親にねだり、莫大な費用をかけて建造した理想宮だった。彼女はそこで、毎日、酒池肉林の宴を開き続けた。だが、ある日、彼女に運命の鉄《てつ》槌《つい》が振り下ろされた」 「……殺人事件だったのですか」  軽い驚きに襲われながら、加々美は尋ねた。 「人間が一人、無《む》下《げ》に命を奪われたという意味では《殺人》と言えるな。しかし、一般的な意味ではそうではないとも言える……」  権堂は遠回しに、訳の解らない返事をした。  今回の《奇跡島》行きの計画が、最初にリーダーの真梨央から告げられたのは五ヵ月前のことだった。しかし、その後もずっと、この島に関する事柄にはどこかあやふやな点がある。真梨央に問い質《ただ》しても、要領を得ない。 「犯人は、捕まったのですか」  加々美は我慢強く尋ねた。 「いいや」 「何故です?」 「いろいろな事情があったからなんだ。それに、死んだ女性の祖父の強い意志が働いた。地元の有力者だったので、政治家や新聞社、警察署に圧力をかけて、《奇跡島》で起こった不幸に関して箝《かん》口《こう》令《れい》を敷いたのだよ」 「《奇跡島》の持ち主ですね」 「持ち主だった。龍《りゆう》門《もん》彌《や》太《た》郎《ろう》という名の大富豪だ。現在の龍門家の当主は、その彌太郎の三男で、八十何歳かになる貴《たか》文《ふみ》という御老人だ」 「僕たちの雇い主は、その人なのですか」 「そう」と、権堂は短く相《あい》槌《づち》を打った。「だが、今回の我々の、美術品の修復や鑑定に関する仕事と、その事件とは直接的な繋《つな》がりはない。だから、安心していてくれたまえ」  意地悪く考えると、《直接的にはない》ということは、《間接的にはある》ということになるではないか……。  加々美の胸中に、また小さな不安がよぎる。  どんな事件が起こったのかと、加々美が具体的に尋ねようとした時だった。 「おおい、船が来たぞお!」  という声が、澄んだ空気の中に響きわたった。  その声は、岸壁の一番先端にいた日野原が発したものだった。こちらを向き、両手を口に当ててメガホンにし、ゴリラの雄《お》叫《たけ》びのような野太い声を張り上げたのだ。  みな一斉に海の方へ目を馳《は》せる。座っていた榊原がスケッチブックを片づけながら立ち上がった。  海原の右手の方に、小さな漁船が見えた。風にのって、船のエンジン音が聞こえる。やや調子外れなディーゼル音だった。 「遅いなあ」  紫苑の言うとおりだった。漁船は、じれったいほどゆっくり近づいてくる。みんなは自然と岸壁の突端に集まり、船が接岸するのを待ち受けた。  それは、巻き網漁をするような小型船だった。木製で、船体の側面は白く塗ってある。長さは十メートルぐらい。排水量は五トンにも満たないだろう。舳《へ》先《さき》は高く突き上がり、龍骨が弓なりにそっくり返っていた。中央を窪《くぼ》ませて湾曲した船体は、まるで三日月を海面に浮かべたようである。  甲板には細長いマストが二本立っており、無線用のケーブルが舳先から船尾にかけて渡っている。甲板の後部寄りの所に、小型の操《そう》舵《だ》室《しつ》があり、その汚れたガラス窓の中に、舵輪を操作する痩《や》せた男の姿が見えた。七十歳ぐらいの老人だった。  漁船の細かい所が観察できるようになると、最初から恐れていたとおり、かなり古いものだと解った。 「うわあ。まさか、沈没しないだろうね」  と紫苑が、その危《き》惧《ぐ》をあからさまに口にした。  漁船が向きを変えて岸壁に船体を寄せ始めたのを確認してから、真梨央が仲間に指示を出した。 「よし、荷物をこっちへ運ぶぞ。女性はリュックを持ち、男性は他の荷物全部だ」  全員がいっせいに、岸壁の端に置いてある荷物の山に取りかかった。  ギアを入れ替えたのか、漁船のエンジン音のテンポが落ちた。漁船は、古タイヤを吊《つ》るした横っ腹を岸壁にぶつけるようにして停止した。船体が、波のリズムに合わせて小さく上下する。 「あ、僕がやりましょう」  漁船の船長が岸壁の上にもやい綱を投げたので、真梨央がそれを受け取り、手際よく係《けい》留《りゆう》杭《くい》に結びつけた。 「お、悪いな、兄ちゃん。結ぶのが上手じゃねえか」  船長は少し驚き顔で言った。背は低いが、よく日焼けしていて、顔には深いしわが刻まれている。上半身はランニングシャツしか着ておらず、むき出しの肩や腕などを見ても、引き締まった体つきがよく解った。 「ええ。前に少しモーターボートをかじったことがあるものですから」  真梨央はさりげなく答えて、また、別の荷物を取りに戻ってきた。 「あの船さ、海賊船みたいでさ、雰囲気出ているよね」  と、紫苑はこっそり加々美に耳打ちした。  加々美は軽く笑い、キャンバスをかかえながら皮肉を言い返した。 「何だよ。つい今さっき、ボロ船と言ったのは誰だ」 「ねえ、加々美さんは、《奇跡島》でさ、どんなすごい冒険が僕たちを待っていると思う? 昔、子供の頃にさ、ボクは『宝島』っていう童話が大好きだったんだ。ピーター・パンと海賊船長がサーベルで戦う話。あれって、わくわくしたなあ」 「シオンって、本当に間抜けね。それはジェームス・バリーよ。『宝島』はスティーブンソンでしょ。ぜんぜん違うじゃないの」  すかさず、留美子は従弟《 い と こ》の間違いを訂正した。  食料品の詰まった段ボール箱を率先して持った木田が、留美子と紫苑の間に大きな顔をニュッと出した。 「シオン君。孤島に行くと決まったら、待ち受けている冒険はたった一つっすよ。それはね、殺人鬼による連続殺人っすよ」 「何、それ!」  紫苑は飲み物の入った重いクーラー・ボックスを肩にかけ、よろけながら目を丸くした。  木田は、眼鏡の奥で小さな目をしばたたいた。 「推理小説の話っすよ。君だって読んだでしょう。コナン・ドイルとか、モーリス・ルブランとかを」 「うん」 「推理小説には、孤島に渡った登場人物たちが、嵐《あらし》などでそこに建っている屋敷に閉じ込められ、恐ろしい殺人鬼の手によって順次殺されていくっていう定《てい》番《ばん》の話があるんすよ。これから、おいらたちが行く島だって、長い間無人島だったわけっすからね、そういう怪しげな雰囲気を持つ資格が充分にあるんっす。宝の島よりも、そっちの血みどろで恐ろしげな話の方がお似合いなんすよね」 「げえ。やだな。それじゃあ、ボクも殺されちゃうわけ?」 「あたりまえっすよ。皆殺しなんすから」  木田はわざと声をひそめ、暗い顔をする。 「どうしよう、ルミちゃん。本当にそんなことになったら」  紫苑は怯《おび》えた顔をし、震え声を出した。 「馬鹿ね」と、留美子はきっぱり言った。「そんなことがあるわけないじゃない。ダルマくんがからかっているのよ」 「そ、そう、そうだよね」  紫苑はゴクリと唾《つば》を飲み込んだ。  加々美も声を出して笑う。  留美子は大きな目を海に向け、 「でも、こんな天気の良い日に海で船に乗れるなんて、ルミコ、感激。ねえ、ダルマくーん。三島由紀夫に、何か船の出てくる小説があったわよね」 「ええと、何すかね。『午後の曳《えい》航《こう》』でしょうか」 「うん、それ。ルミコ、遠い港で愛する船乗りを待ち続ける夢の女になりたいなあ」 「もう、無駄話はやめた方がいいぞ」  加々美が急いで注意したが、間に合わなかった。漁船の前から、榊原の苛《いら》ついた声が飛んできた。 「おい、お前ら! だべってばかりいないで早く荷物を持ってこい!」  丸めたテントを肩に担ぎ、船の縁に足をかけた彼が、横目できつい視線をこちらに送っている。荷物は全部甲板の貯蔵室に置くよう、船長が指示していた。 「すみません」  加々美が代表して謝った。 「お前たち、ふざけてばかりいると、置いて行くぞ! おい、加々美! その馬鹿どもをちゃんと監督しろ。役に立たない奴《やつ》なんか、遠慮なく海へ突き落としてやるからな!」  榊原は冷徹に吐き捨てたが、彼なら実際にそんなこともやりかねない。カッとすると、見境のなくなる性格なのだ。 「ちぇっ、何様だと思ってんだ」  他の者の二倍は荷物を持って運んでいる日野原が、相手に聞こえないようにそっと文句を言った。ここにも導火線の火種があった。 5  漁船が岸壁を離れると、加々美の恐怖はどんどん膨れ上がった。周囲は海、海、海、海、海、海また海だ。そして、その実体は、海水、海水、海水、さらに海水なのだ。恐ろしい空間を占める途《と》轍《てつ》もなく広い海に四方を囲まれ、もう自分の逃げ場はどこにもない。船の上から見る海の色は濃い藍《あい》色《いろ》をしており、水深がどのくらいあるのか、船の縁から覗《のぞ》いても、まったく底を見透かすことなど不可能だった。  すぐ側にサークルの仲間がいるのに、加々美の孤独感は募るばかりだった。自分が、底なしの得体の知れない液体の上に、裸で投げ捨てられたような心細さを感じるのだ。想像は悪い方へ進むばかり。今この瞬間にも、大海原から太古に地球上に栄えた魚竜の生き残りや、飢えた大《おお》鮫《ざめ》などが飛沫《 し ぶ き》を上げて顔を出し、自分に襲いかかるのではないかと真剣に思ったほどだ。  船の上は、不規則なエンジンの鼓動でかなりうるさかった。狭い後部スペースの木台に腰かけた加々美の尻《しり》に、不規則な振動が伝わる。その振動は、テトラポッドのある位置より外海へ出て、船のスピードが増すといっそう強くなった。船の鋭い舳《へ》先《さき》は、打ち寄せる波を次々に突っ切った。その度に、細かい波飛沫が舷《げん》側《そく》にまで降りかかり、船体に少し強い衝撃が走る。船が進んだ後ろには、海面に白い波の軌跡が長く残っていた……。  船楼は二階建て構造になっていて、操《そう》舵《だ》室《しつ》は船室の上にあった。船室の天井は非常に低く、立つ余裕はない。屈《かが》んでいるか寝ころぶかだ。機関室はさらにその下である。甲板の上にも船室にも、潮の匂《にお》いと魚の生臭さ、燃料の油臭さが入り混じって漂っていた。どれも、この船に長年こびり付いている匂いだ。  吉《よし》沢《ざわ》と名乗った船長は、一番上の操舵室で舵輪を握っている。茶色く変色したボロの鉢巻きをしており、口にはしけたタバコをくわえている。唇から時々覗く歯は半分ほど欠けており、残りもヤニで茶色く染まっていた。 「——それにしても、《奇跡島》みたいな所へ行くなんて、あんたらも酔狂なこったな」 「この辺の漁師さんは、《奇跡島》へは行かないんですか」  荷物を甲板へ積み上げながら、日野原が尋ねた。 「あんな所にはいかないよ。もちろん、近くに漁場はあるがね。島へは誰も上がらねえ」  船長は馬鹿にしたように言った。 「どうしてですか」 「必要ないからさ。誰も暮らしてねえし、何もねえからだ。それに、あそこは昔、鬼が棲《す》んでいたという伝説があるんだ。それで、地元の人間は敬遠しちょる。そうそう、それから、奇病のこともあらあな」 「へえ、奇病ですか」 「風土病とかって奴さ。俺《おれ》の親《おや》父《じ》から聞いたんだが、戦前、東京のお偉い学者さんが来て、調べたそうだよ。何でも、島の雨水を飲むと悪い病気に罹《かか》るってことだ。《海亀病》とかって言って、体中の皮膚が、亀の甲羅みたいにかたくなるんだってよ——」  荷物をすべて積み終え、ビニール・シートを被《かぶ》せ終わると、すぐに出航になった。前の甲板が広々としていたので、景色を見たいこともあって、加々美たちは最初そちらに固まっていた。ところが、 「おーい、舳先に近い所や横にいると、波を被るぞお!」  船長は注意し、加々美たちの無知をヘラヘラ笑った。  加々美たちは、言われたとおり後部甲板へ移ったが、全員が立ったり座ったりするにはその場は狭すぎたので、真梨央、友美、榊原の三人は、船室の中に入った。 「出るぞう!」  と、船長は声を上げ、片手を上げた。  加々美は、漁船が波止場を出る際に時間を確認した。出航時刻は、午後二時四十分だった。  ——それからすでに十分以上経ったが、船はあまり陸から離れた感じはしなかった。振り返ると、さっきまでいた海岸がすぐそこに見える。逆に、目的の《奇跡島》は少しも近づいたようには見えない。  もしかすると、このまま永遠に、自分たちはどこへも到着しないのではないだろうか。きっとそうだ。船が沈没して、遭難するんだ。  潮風が、だんだんと粘着感を増したような気がする。太陽は右手上空に白く輝いている。小さな雲が頭上を流れ、波が揺らぎ、海風が甲板を取り巻く。いずれも、晩年のグエン・ジョンの絵のような繊細さと簡潔性を持っていた。  加々美は目を海の果てに釘《くぎ》付《づ》けにしながら、恐怖から逃《のが》れるために、なるべく意識を違うことに集中しようと思った。だが、脳細胞の活動は鈍っており、何も思い浮かばなかった。 第2章 意外な人物が登場する 1  サークルの会合で、《奇跡島》に関する話を、部員たちが正式に麻生真梨央から聞いたのは、五月の連休あけだった。木曜日の午後、狭い部室の中には、紫苑を入れて八人の人間が集まっていた。部室は、講堂の裏にあるプレハブ式の長屋の一室が割り当てられている。古い木製の工作用テーブルを囲むと、まったく身動きができなくなるほど狭かった。  真梨央は大きな日本地図を黒板に貼《は》り付け、切れ長の目で、皆の顔を見回した。 「それでは説明する」と、彼はまず太平洋の鹿島灘近辺を指さした。「《奇跡島》は、茨城県の沖合、東方約二十キロメートルの位置にある。周囲約二キロメートルほどの小島だ。現在は、鹿島郡 旭《あさひ》村に属している。見てのとおり、これでは解らない。地理的にも航路的にも、あまり重要な場所に存在しないからだ。よほど地元の詳細な地図を持ってこないと、出ていないほどだ。  江戸時代の古い文献では、もともとこの島は、《鬼《き》石《せき》島《じま》》という名前で呼ばれていたそうだ。その名の由来は、大昔に、ここに漁師を襲っては食らう、恐ろしい鬼が隠れ棲《す》んでいたという伝承があるからだ。そして今でも、その怪物たちの住《すみ》処《か》だったといわれる石の砦《とりで》の跡が、この島の山頂付近に残っているんだそうだ。もしも、計画どおり俺《おれ》たちがそこへ行くことになれば、その砦跡も見られるかもしれない」 「迷信だな」  と、榊原が馬鹿にしたように言った。彼はタバコを吸っており、その煙が狭い室内に充満していて、加々美をはじめ皆が不快に感じていた。しかし、誰も彼にそれをやめるよう注意ができなかった。 「そうかもしれない」  真梨央は頷《うなず》いた。  榊原は気乗りのしない口調で尋ねた。 「いつから、《奇跡島》と書くようになったんだ?」 「わりと最近のことらしい。といっても、ここ一、二年っていうわけじゃないけどな。何十年か前のことさ。《鬼石島》から《奇跡島》へ字面が変わった理由は、正確には解らないらしい」 「町議会議員が選挙の点取りに、町名改革でもやったのさ」  榊原の皮肉な冗談に、皆はお義理でクスリと笑った。  真梨央も苦笑いをし、今度は本土の海岸線を指さした。 「一番信頼のおける話では、《奇跡島》と改名されたのは、昭和初期のことだったらしい。茨城県のその村に、龍門家という大地主の素封家がある。明治の終わりに、龍門家の当主、彌太郎という男がこの島を購入した。その際に、彼は《鬼》という忌避的な名前を嫌って、もっとめでたい名前で呼びたいと欲したそうなんだ。《奇跡》の方が縁起が良いと考えたんだな。それで、村役場だか町役場だかに、働きかけたという話がある。  また別の一説では、その改名を行なった者は、彌太郎の孫娘の有《ゆ》香《か》子《こ》だという話もある。彼女は、龍門家のお姫様と呼ばれるほどの、類《たぐ》い希《まれ》な美《び》貌《ぼう》と教養を持った女性だった。祖父の彌太郎が若い頃から非常な西洋趣昧だったので、彼女はその強い影響を受けて育った。成人した彼女は、この島に、当時としては信じられないような金と労力をかけ、豪壮な西洋館を建築した」 「西洋館をですか」  一番前の席にいた加々美は、いささか驚いて訊《き》き返した。  真梨央は、長い顎《あご》を指で撫《な》でると、 「そう。《白亜の館《やかた》》というのがその建物の名前なんだ。非常に風変わりな偉容を誇る建築物らしい。とにかく彼女は、その西洋館を建てるにあたって、それに相応《 ふ さ わ》しい名前をと、島名に変更を加えたという」 「どれが正しいんだ?」  と、榊原が煙を吐き出しながら、文句を付けた。 「それは判然としない。しかし少なくとも、現在の国土地理院発行の地図には、《奇跡島》という名称で登録されている」 「龍門家って、島が買えるほどの金持ちなのですか」  と、友美が真梨央を見上げて尋ねた。 「うん。龍門家は代々、そのあたり一帯の農村と漁村の庄屋を務めた旧家らしい。発祥となると、遠く、鎌倉時代の武士にまで遡《さかのぼ》るとされる。このあたりの土地は、水はけが悪くて米作に不向きであったため、畑や養蚕やタバコの葉の栽培が多くなされている。龍門家も、江戸時代の後期から明治にかけては、タバコの栽培と販売を手がけていたんだよ。  ところが、皆も知っているかと思うが、明治三十七年四月一日に、《煙草専売法》というのが実施された。その結果、タバコに関する権利は国に移ったんだが、この時、従来のタバコ業者には廃業に関する多大な賠償金が支払われた。龍門彌太郎は、その金を基に、銀行経営と造船業に乗り出した。そして、当時の好景気を利用して、たいへんな富を築いたというんだよ。だから、離れ小島の一つや二つ、簡単に買えたみたいなんだな。  現在、龍門家は水戸市内に大きな屋敷を構えている。すごい武家屋敷で、敷地は一街区を占めるほどだ。白い立派な練り塀が五百メートル以上も続くそうだよ」 「その銀行っていうのは、茨城中央銀行のことでしょうか」  同じ地方出身の日野原が、太くてたくましい手を上げて確認した。 「そのとおり」と、真梨央は優しい声で返事をした。「その銀行の初代頭取が、龍門重《しげ》昭《あき》という人だった。彌太郎の長男で、有香子姫の父親だね。この人は、昨年暮れに九十一歳で他界した。今は、貴文という彌太郎の三男が——この人も八十幾つかの老人だが——跡を継いでいる。そして、今回の《白亜の館》調査計画のスポンサーが、この人なのだ」  榊原は、愛用のジッポーの蓋《ふた》をカチカチ鳴らしながら質問した。 「しかし、真梨央。何だってその女は、そんな離れ小島にわざわざ西洋館を建てたんだ。まさか、定住するためじゃあるまい。別荘なのか」 「それを説明するには、彌太郎とその孫娘の人となりを語る必要がある。彌太郎という人は、晩年になると事業もすべて息子に譲り、自分は美術品の蒐《しゆう》 集《しゆう》に明け暮れた。彼は皇族に知己があったし、もともと造船関係の仕事で何度かヨーロッパにも行ったことがあった。フランスに渡った際に、アール・ヌーボー様式の洗礼を受け、この芸術様式に魂を奪われた。彼は様々な美術品を買い込み、蒐集して、日本に持ち帰った。それらの品々は、一つの美術館が簡単に作れるほどの数と価値があったそうだ。  その後、祖父の心酔した美術品は有香子姫に譲られた。彼女は、自分が《奇跡島》に築いた《白亜の館》に、それらをすべて収容した。というより、彼女は、それらの美術品を飾るに相応しい立派な——そして、自分の西洋趣味を満足し得る——理想の宮殿を《奇跡島》へ造ろうと考えたのだ。  有香子姫は、ある高名なフランス人設計士をはるばるヨーロッパから招いた。そして、西洋館の設計と建築を任せた。  祖父の築いた財産から、莫《ばく》大《だい》な金が《白亜の館》の建築に費やされた。しかし、娘を溺《でき》愛《あい》する重昭は何一つ文句を言わず、それどころか、自分も協力して、ヨーロッパからさらに多くの美術品や工芸品を取り寄せた。  館の完成は昭和十一年だ。建築には延べ四年かかった。太平洋上にポツリとある《奇跡島》の上に、その存在自体がまさしく奇跡と呼べるような、実に風変わりなお伽《とぎ》の城が出現したのだ——」  加々美は素早く、年代を心の中で思い浮かべた。昭和十一年と言えば、一九三六年だ。この年は二・二六事件が起こっている。世の中は、戦争という地獄へまっしぐらに落ち込もうとしていた暗い時期に当たる。そんな時に、今聞いたような酔狂な建造物を造っていたとすると、とうてい正気とは思えない。 「——館が完成すると、有香子姫はさっそく島へ渡り、自分の取り巻きの男性たちをみんなその館へ呼び集めた。彼女は女神のように神々しく、美しい女性だったので、社交界や上流階級の中に崇拝者がひしめきあっていた。  彼女は女王蜂であり、彼女の周囲に群がった男たちはすべて働き蜂だった。多くの男性が、彼女の寵《ちよう》愛《あい》を受けようと血眼になった。金や宝石や名誉や家柄が、彼女のまわりに山積みにされた。そのため、トラブルも跡を絶たなかった。彼女を巡って、決闘騒ぎや暗殺紛《まが》いの事件まで何度か起こったそうだ。  とにかく、毎日毎夜、その館の中では贅《ぜい》沢《たく》な宴が繰り広げられた。《奇跡島》を訪れる光栄に浴した人の中には、そこを本物の龍宮城だと評する者もいた。だが、実際には、もっと淫《いん》蕩《とう》で猥《わい》雑《ざつ》な集会だった。館には、腐るほどふんだんに贅沢な料理が用意され、中国から仕入れたアヘンなどの麻薬が溢《あふ》れ返っていた。館には、娼《しよう》婦《ふ》や男《だん》娼《しよう》もいたという。  とにかく、彼女たちは、淫《みだ》らで、馬鹿馬鹿しく、退廃的で、刹《せつ》那《な》的な享楽を貪《むさぼ》るように味わったのだ。戦争という暗い影が間近に近づいており、彼女とその愛人の男たちは、そのことをよく知っていた。だから、《白亜の館》で夢に浸ることで、その辛く恐ろしい現実から逃避していたわけだ」 「ボッカチオの『デカメロン』みたい、ね」  と、留美子が加々美に身を寄せて、囁《ささや》いた。  真梨央はチラリと二人に目を馳《は》せた後、 「しかし、《白亜の館》と有香子姫の栄華は長続きしなかった。何故かというと、怠惰で、放《ほう》埒《らつ》で、神をもおそれぬ傍若無人な生活を繰り広げた彼女に、突然の天罰が下ったからだ。昭和十二年のある日、彼女がこの館で不可解な死を遂げることになる。それは人知を越えた奇怪な死であり、誰も真相を知ることはできなかった。  とにかく、それですべてが終わりになった。それっきり、この館も島も人々から打ち捨てられることになった。建物の入り口は、父親の重昭の手によって厳重に閉じられ、誰一人、中へ入ることが許されなくなった。島からはすべての人間が引き上げた。  その後、あの悲惨な太平洋戦争が起こり、島のことも西洋館のことも、長い間人々の心から忘れ去られた。有香子姫にまつわる話も伝説になり、忘却のかなたに追いやられた。今では、地元の漁師たちでさえも、島の内側の様子をほとんど知らない状態にある。有香子姫や、絢《けん》爛《らん》たる《白亜の館》に関する思い出は、ほんの一握りの人たちの記憶の奥底にしまわれたのだ——」 「麻生先輩」と、日野原が真剣な顔で尋ねた。「それなのに、どうして自分たちが今回、島へ足を踏み入れて良いことになったんですか」 「龍門重昭が他界したからだよ。娘を失った悲しみを、彼は《奇跡島》に厳重に封印していた。しかし、彼の弟で龍門家の現当主の貴文という人は、そんなロマンチックな気持ちは持ち合わせていない。彼は完全に経営主義の人間で、金銭にしか価値を見いださない性格だそうだ。美術品なども、投資の対象としか見ていない。  それで、今回、彼は《白亜の館》の価値を計ろうと画策したわけだ。また、来年あたり、自分の孫を県議会議員に立候補させようという計画もあるらしい。つまり、《奇跡島》と《白亜の館》を文化事業の一環に組み入れられないかと考えたのだ。教育委員会などへアピールすれば、それだけイメージ・アップに繋《つな》がるからね」 「よく解ったよ」と、榊原がせせら笑いながら頷《うなず》いた。「俺《おれ》たちはその手先になるわけだ」  しかし、真梨央は素直に答えた。 「そういう見方もできる。しかし、《白亜の館》の秘密の扉を、俺たち自身の手で開放することを考えると、そんなささいなことはどうでもいい気がする。相当数あるだろう美術品を、俺たち自身の手で再評価し、世の中に送り出せるんだ。芸術の世界に身を投じた俺たちにとって、これほどやりがいのある仕事が他にあるだろうか」 「パンドラの匣《はこ》をあけることにならなきゃいいがな」 「どういう意味だ?」  真梨央は片方の眉《まゆ》を吊《つ》り上げた。 「死が絡んでいる」と、珍しく、榊原が真《ま》面《じ》目《め》な口調で言った。「人間の死は軽々しいものではない。それも、何か秘密をかかえた死となるとな」  真梨央はすぐには返事をしなかった。 「心配なのか、画伯?」 「当たり前だ、真梨央。お前も知っているとおり、一般的にみても、有名な美術品の幾つかには呪《のろ》いや因縁がかかっている。それを迷信といって片づけるのは簡単だが、血塗られた話には、某《なにがし》かの原因があるわけだ。俺は、自分の信条として、そういう品々には近づかないことにしているんだ」 「解った。その点は、仕事が始まる前に権堂さんに再確認しておくよ」 「ああ」  加々美は、二人のやり取りを他《ひ》人《と》事《ごと》のように聞いていた。まだその時には、《奇跡島》へ行くということが夢のようであり、まるで現実感を伴わなかったからだ。  だが、加々美は後で、榊原の危《き》惧《ぐ》が真実だったことを、身をもって知らされるのである。ただこの時には、誰もまだ予想すらできなかったのだ。《白亜の館》がどれほど奇妙な建物であり、また、有香子姫の死がどれだけ異常なものであったかを……。 「……とは言え」  と、真梨央は榊原に目を向けたまま言い継いだ。ところが、その後の言葉は、加々美や友美がハッとするほど鋭いものだった。 「俺はこの仕事を、《ミューズ・サークル》再生のとっかかりにしたいんだ。今年に入ってから、俺たちは個人としても、団体としても、ろくな芸術活動を行なっていない。創造は芸術家の人生のすべてだ。このまま何もしなければ、俺たちは存在意義をなくしてしまう。それではだめだ。  だから、解るだろう、画伯。この仕事を成し遂げることができれば、俺たち全員の再起に繋《つな》がるかもしれない。何らかの触発になるはずだ。これは良い機会なんだ。こんないい機会はめったにない。絶対に仕事を成功させて、もう一度、自分自身の芸術家としての魂を甦《よみがえ》らせたいんだ。涸《こ》渇《かつ》してしまった創造力を、何とか復活させたいんだ」 2 「——でもさ、権堂さん」と、紫苑が明るい声で言った。「《白亜の館》もそうだし、その中にしまい込まれている様々な美術品がそんなに重要な物なら、何で権堂さんのいる美術館が、自分でこの調査を全部担当しないの?」  漁船は、相変わらず海の上にあった。  爽《さわ》やかな海風が、紫苑の柔らかな髪をたなびかせている。やっと、加々美らが乗る漁船は、海岸と《奇跡島》との半分ぐらいの所まで来ていた。とんがり帽子を海面に置いたような緑の島の姿が、だいぶはっきりと見えてきた。  権堂は、しぶきで濡《ぬ》れた眼鏡をハンカチで拭《ふ》いた後、それをかけ直して答えた。 「理由はいろいろある。一つには、美術館にはあまり予算がないということ。これはどこの公共美術館でも同様だがね、運営に手一杯で、なかなか余分な金はないのさ。台所は火の車だよ。ひどい所など、所有する充分な展示品がなくて、巡回展覧会だけで入場者を稼《かせ》いでいるような所もあるからね。  しかし逆に言えば、この仕事がうまく行けば、来年の予算請求書に、《白亜の館》の保存資金や、それをわが美術館の別館とするための計画金を計上できる。もう一つの理由には、今回は、あくまでも予備調査であるということだ。つまり、美術品の個々の鑑定はもちろんだが、目的の主は目録作りにあるということだな。それから最後に、君たちをパートナーに選んだのは、龍門家からのたっての要請でもあるんだ」 「何で?」と、紫苑は首を傾げた。「如月美大のミューズ・サークルにこの仕事をやらせろって、わざわざ向こうが言って来たの? そんなの変だよ」 「そうでもないさ。私同様、うちの館長の母校も如月美大だ。龍門家のお大尽に、そのあたりのことは、彼から充分に説明してあると思うよ」 「ははは。結局、龍門さんも、県も、美術館も、あんまりお金をかけたくないってことなのですね」  と、日野原が笑った。彼は、舷《げん》側《そく》の手すりに浅く腰かけている。  権堂はかすかに頷き、 「そういう面は確かにある。だが、私はそれを喜んでいるんだ。かえって、おかしな画商の紐《ひも》付《つ》きにならずに自由に仕事ができるからね。また、そのおかげで、こうして君たち後輩を招いて、楽しい一時を過ごすことができる」 「自分たちこそ、感謝します。貴重な体験ができますから」 「《白亜の館》に、目《もく》論《ろ》見《み》どおり美術品が多数存在して、しかもそれが無傷で残っていた場合、あるいは、展示したり公開したりするだけの価値が充分ある場合には、建物ごと、龍門家から県の美術館へ譲渡されることになっている。そうなると、その管理だけでもたいへんな人出と作業と時間が必要になる。だから、近い将来、君たちが学校を卒業した後で、我々を手伝ってもらえたらいいと思い、この計画ができあがったわけなのさ」 「権堂さんは、どうして、今回の調査隊の隊長に立候補したんですか」  と、加々美は気になっていることを尋ねた。  幸い波は小さくて、スピードの乗った船はあまり揺れなかった。加々美の気分もしだいに落ち着いてきた。 「独身だからさ。うちの美術館で独身は私だけだ。他の人間は、一週間も家をあけるわけにはいかない。それと、私の家は龍門家の遠縁でもあるんだ。母方のね。それで、少しは信用があったわけだ」 「なるほど」 「話は変わるが、加々美君、君のお父さんは、あの有名な工芸家の加々美光禄なんだってね、今朝、麻生君から聞くまで知らなかったよ」  加々美は父の名前が出たことで、いっぺんに鼻白んだ。 「ええ、有名かどうかは知りませんが、そうです……」 「どうりで、君の作品にも光るものがあると思った。やはり血だね。才能は争えない。実を言うとね、うちの美術館にも何点か君のお父さんの作品があるんだよ。茶器や大皿などだけどね。それは全部、龍門家から寄贈されたものなんだ。どうやら、昔、君のお父さんかお父さんと付き合いのあった画商が龍門家に出入りしていたようだよ」 「そうですか、奇遇ですね」  加々美は、できれば父親の話などやめたかった。確かに、関東以北の素封家や大家に作品を売っていた事実はある。所《しよ》詮《せん》、芸術家といえども、金のためなら金持ちの旦《だん》那《な》の太鼓持ちにならざるを得ない。願わくば、父がそういう家々で悶《もん》着《ちやく》を起こしていないことを願うばかりだった。  幸い、権堂は風で乱れた髪を手で撫《な》でながら、紫苑の方へ向き直った。 「そう言えば、シオン君。君は学校はどうしたんだ。他の者は大学生だから少しぐらい授業を受けなくても関係ないが、君はまずいだろう」 「えへへ」と、紫苑は舌を出した。「ボクの所は、いつもほとんど仕事の関係もあって、パパはヨーロッパへ行っているんです。まあ、監督者がいないんで、ボクは自由にしているんです。それで、ルミちゃんに無理言って付いてきちゃいました」 「後で怒られても、ルミコは、知ーらない」  風で帽子を飛ばされないように片手で押さえ、留美子が答えた。  権堂が尋ねる前に、紫苑は自分からさっさと告げた。 「ボクのママは、ボクが小さい頃に病死したんです。で、家にはたいてい、お手伝いさんとか家庭教師の先生とかしかいないんですよ。だから、つまんない家なんです。それで、ルミちゃんはボクが小さい頃から親身に世話をしてくれ、姉代わり、母親代わりになってくれたんですよ」 「ほう、そうなのか」  と、権堂は少し同情するように頷いた。  日野原が、興味津《しん》々《しん》の顔で尋ねた。 「ところで、権堂さん。《白亜の館》には本当に、そんなにすごい美術品がたくさん眠っているのですか」 「さあ。正直なところ、よく解らないのだ。有香子姫が死んでから——すなわち、戦前から今日まで、誰もその館がどうなったか確認していないからだ」 「泥棒が入っているかも」と、浮き浮き顔の留美子。「ひらけえ、ゴマっていうふうによ」 「そうだな。とにかく、行ってみなくては何も解らないのは確かだ。楽しみにしようじゃないかね」  すると、紫苑が暗い表情で尋ねた。 「ねえ、館の中ってすごく汚れているのかな。蜘《く》蛛《も》の巣だらけで幽霊屋敷みたいになっていたりして。そうだったら、掃除がたいへんだよね」  日野原は肩をすくめると、 「寝袋とテントも持ってきたから、最悪の場合、外で寝ればいいさ」  権堂は、おかしさを堪《こら》えるように低く笑った。 「そうか、君たちにはまだ言ってなかったか。実を言えば、その点は大丈夫なんだよ。実は先週、龍門家の顧問弁護士の方から連絡があった。何でも、《白亜の館》に、先に管理と賄いのための夫婦を送ったというんだ。  一週間ほど前に、その人たちが向こうへ渡ったはずだ。美術品には手を触れないが、寝室や食事の用意などは、ある程度しておいてくれるそうだ。だから、あまり心配することはない」  加々美は微《ほほ》笑《え》むと、 「そうですよね。どうりで、こんな程度の量の食料で、自分たち全員が一週間も暮らしていけるはずはないと思っていたのです」 「ああ、良かったあ」  紫苑も、大げさに胸を撫で下ろした。  その時、船室の小さい入り口から頭を低くして、榊原が出てきた。タバコとジッポーを胸ポケットから取り出し、不機嫌な口調で言った。 「おい、お前たち、そろそろ中にいる俺らと交代しろ。船室は狭いし、うるさいし、臭いし、たまらないぜ」 「ああ、これはすまなかったね」と、権堂が書《しよ》類《るい》鞄《かばん》を脇《わき》にかかえて、最初に木箱を伏せた椅《い》子《す》から腰を上げた。「私が替わろう」 「失礼しました。僕も——」  加々美も一緒に立ち上がった。できれば外で綺《き》麗《れい》な空気を吸っていたかったが、仕方がない。日野原や紫苑、留美子、木田もこれにならう。船室にいた真梨央や友美らに声をかけ、彼は場所を替わった。  船室はかなり天井が低く、汚れたゴザが敷いてある。そこに足を投げ出して座るか、機関室へのハッチの上に背中を丸めて腰かけるしかない。エンジン・オイルの缶やプラスチックのバケツ、長靴、網の切れ端、グラスファイバーの釣り竿《ざお》などが隅に並べてあった。小さなガラス窓が左右にあるが、泥色に染まっていて空が曇天に見えるほどだ。  加々美は船の振動や揺れ、油の匂いにやられないよう、目をつぶってじっとしていようと思った。可能なら眠ってしまいたかった。ところが、横に座った日野原がすぐに話しかけてきた。彼はかなりの話し好きで、サークル内で馬の合う加々美とは、よくいろいろなことで議論をするのだった。 「加々美先輩。自分はですね、海景色というと、何故か真っ先にサルバドール・ダリの《記憶の固執》を思い出すんですよ」 「《記憶の固執》をか?」  加々美ももちろん、その絵がどんなものか知っている。ダリの絵の中でも特に有名な物だ。背景に荒涼たる有様の貧弱な海岸を置き、その手前にドロドロに溶けたような時計が複数描かれている。不条理の世界をダリ流の独特の筆致で表現したものだ。 「西洋絵画では、あまり海は画題にならないような気が自分はするんですが、先輩はその点、どう思われますか」  加々美は答える前にわずかに考えた。話をしていた方が、船酔いにならずにすむかもしれない。 「そうかなあ。ボッティチェ〓リの《ヴィーナスの誕生》や、コープリィの《ブルーク・ワトソンと鮫《さめ》》、ジェリコーの《メデューズ号の筏《いかだ》》などは、どれも海の絵だと思うけどな」 「ですけど、主題は神や人間の描写であって、海の方はまったくの添え物にすぎません。どの絵も、海は背景に没しており、信じられないほど平淡に描かれていますよ」 「中世絵画では、テーマも構図も固定的だ。現代と違って、先人の模倣が創造の主体だから、そういうこともあるだろう。しかし、近代になると、そんなタブーはないんじゃないか」 「そうでもありませんよ。キャンバスを積極的に野外に持ち出し、近代的な風景画を確立したのは印象派でしたよね。でも、この一派にしても、海を描いたものを、自分はほとんど思いつきません。モネが初めてサロンに入選した作品は、入り江を描いたものでした。でも、それさえも、海の上に浮かぶ小舟や、それを漕ぐ人間の方にだけ焦点が合っていますから」 「それはそうだよ」と、加々美は微苦笑した。「印象派は主観を重んじるからね」  日野原は一際声を大きくして、 「でも、そこにいくと、日本人は海を描くのが好きだと思うんです。葛《かつ》飾《しか》北《ほく》斎《さい》などは、《富《ふ》嶽《がく》三十六景》や他のシリーズで、海をさんざん取り上げていますよね。特に、『神奈川沖浪《なみ》裏《うら》』のような荒ぶる波を描写させたら、天下一品です。水墨画を考えてみても、雪《せつ》舟《しゆう》の《天橋立図》のような作品がたくさんあるじゃありませんか」 「日本人が海を好んで描くのは、島国に住んでいて、海が身近にあるからと言うのかい」 「そうです。日本人の特質ですよ。美術のテーマという観点で見ると、宗教を偏愛する人種が西洋人であり、自然を慈しむ人種が東洋人だと思いませんか。だからこそ、海を描いた浮世絵などは、希少価値として外国で高い評価を得ているんだと思うんですよ」 「どうかなあ」と、加々美は疑問に思った。「タケシ。それだけでは、いくらなんでも事例が少ないよ。恣《し》意《い》的な考察だと思うな。自分に都合の良い例だけを拾い出していないか。セザンヌやシニャックはどうだ、南フランスの海を描写していなかったか」 「セザンヌがプロヴァンスで描いた絵は、海ではなく海岸線を題材にした風景画ですよ」 「ドイツ・ロマン派の《人生の初段階》はどうだ。あれは完全に十七世紀オランダ絵画の伝統にのっとっていて、海だろう」 「あれは夜景が主ですよ」  日野原も譲らない。  加々美は一生懸命、脳細胞を動かした。 「セーヘルスの《荒れる海と船》は? 題名からして海だぞ。それも荒れた海だ」 「残念ですが、あれは銅版画です。ちょっと別問題ですね」  日野原も加々美も、ふざけ半分、本気半分で意地になった。 「じゃあ、ドランやヴラマンクらが港を描いたような油絵などはどうなんだよ」 「それは——」  と、日野原が答えようとした時だった。 「あっ!」  と、二人は声を揃《そろ》えて驚きの声を上げた。  突然、エンジンの音が野太いものに変わり、船が急激に速度を落としたからだ。衝撃は小さかったが、予期していなかったため、船室にいた者たちは体を前に投げ出されそうになった。本を読んでいた木田は、丸っこい体格のせいもあり、床の上でまともに一回転した。 「どうした〓」 「何なの〓」 「な、な、何っすか〓」  皆は口々に戸惑いを表わした。それは、外にいた三人も同じことだった。大声で騒いでいる声がここまで聞こえる。加々美らはあわてて外へ出てみた。訝《いぶか》しげな顔をした真梨央ら三人が、左舷側に並んで一心に海原を見つめていた。 「どうしたのかね」  と、権堂が急いで尋ねた。  上の操《そう》舵《だ》室《しつ》でも、体をねじるようにして、船長が同じ方向を見ていた。 「ボートなんです。ゴムボートみたいですわ」  友美が腕を上げて遠くの方を指さし、息せき切って説明した。  真梨央は、それよりは冷静に語った。 「権堂さん、見てください。あそこに、こっちへ手を振っている男がいるんですよ。たった一人でボートに乗っているみたいなんです」 「おっどろきだあ!」  と、操舵室への階段の途中まで登り、感想を述べたのは紫苑だった。 「乗っていた船が、沈没でもしたんだろうよ」  と目を細め、ふてくされた感じで言ったのは榊原だった。  加々美も船尾の方に移動して場所を確保し、藍《あい》色《いろ》の海に目を凝らした。  確かに、黄色い小型のゴムボートが一隻浮いている。五百メートルほど先の海面で、波に揺られている。乗っているのは、釣り人のような格好をした男性だった。両手を頭上で大きく交差させたり広げたりして、ずっと振り続けている。救助を求めているのだろう。あたりを見回しても、海上にはゴムボート以外の何物も見えなかった。 「漂流者かもしれねえだ!」  操舵室のドアをあけ、船長が上半身を覗《のぞ》かせ、大きな声で言った。 「すっごいなあ!」と、紫苑が興奮した声で言う。「大事件だ!」 「どうするんですか」  権堂は見上げて、船長に尋ねた。 「素通りはできねえな。ちょっと寄って、様子を見てくるしかあんめい。場合によっては、助けてやんねえとならねえだな」  船長は言い終わらぬ内に舵輪を回転させ、舵《かじ》を切った。エンジン音がまたテンポを上げて高まった。船はゆっくりと真横に向きを変えて、それからまっすぐにゴムボートの方へ向かった。  ゴムボートに乗っていた男は、こちらの船が救助に行くのが解ったらしく、安心したように手を振るのをやめた。そして、座ったまま首を伸ばしてこちらを見ている。加々美は、本当にあれが漂流者だとすると、かなり疲労しているのではないかと心配した。  漁船がゴムボートに近づくと、男は嬉《うれ》しそうな顔をして、また手を振り、 「おーい! どうもお!」  と、力一杯声を張り上げた。  加々美らと同じくらいの年齢の若者である。見た限りでは、相当元気そうだった。  ゴムボートの横で漁船が停止すると、青年は綱をこちらの船《ふな》縁《べり》めがけて投げた。それを日野原が手を伸ばして受け取り、身近の釘《くぎ》に固定する。他の者たちは、その男に何が起きたのか知りたくて、熱心に様子を見ていた。 「こんにちは、皆さん。わざわざ来てくださって、ありがとう。オールを流しちゃって、どうしようかと思っていたところなんです。本当に助かりました。僕は今朝海岸を出て、《奇跡島》へ行こうとしていたところなんです。どうやら、この探検は失敗に終わったと考えていたのですが、そう断定するのは早計だったみたいです。いやあ、僕って幸運の持ち主だなあ。皆さんが幸福の女神と大黒様に見えますよ!」  青年はペラペラとしゃべりながら、船長が舷側に垂らした縄ばしごを伝って上がりだした。荷物は、寝袋らしき物を含めた大きなリュック一つだった。日野原が先にそのリュックを受け取り、男は元気良く船縁の手すりによじ登った。そして、その狭い縁の上でバランスを取ると、映画に出てくる海賊がフェンシングをするような格好をして、大真面目にこう叫んだのである。 「やあ、やあ、イギリス貴族の悪人ども! 俺様は、七つの海を股に掛ける大海賊クック様だ。この船に積んであるお宝をすべて俺と俺の子分によこせえ!」  皆は、この青年の奇《き》矯《きよう》な行動に唖《あ》然《ぜん》とした。  ところがもっと驚いたことに、青年は手すりの上で足を滑らせ、大きな悲鳴を上げながら、真っ逆さまに海面に落ちてしまったのだった。 3 「——えっ、僕の名前ですか。あはははは、嫌だなあ。なあに、名乗るほどの者でもありません。どうせ、風のように過ぎ去る身です。まあ、僕の友人たちは、僕のことを《さすらいのジョニー》なんて呼んだりしますが。あははは、いやいや、これは冗談ですけどね!」  紫苑は、海から助け出されたその青年の格好を見た途端、『浮浪者か、風来坊みたいだ』と感想を述べた。すると留美子がすぐさまそれに呼応して、『風来坊だわ、風来坊だわ』と大はしゃぎを始めた。  それで、青年自身の幼稚な冗談のこともあって、他の者も彼のことを自然と《風来坊》と呼ぶことになった。確かに、着ている物も、長い歩き旅をしていたように薄汚れたものばかりだった。紺色のチロリアン・ハット、サファリ・ジャケット、茶色の起毛のワークシャツ、綿パンツに、登山シューズ——取り合わせも変なら、どれも繕ったり破れ目があったりして、かなりくたびれている。  びしょ濡《ぬ》れになった洋服を全部脱ぎ、船長からもらった毛布にくるまった青年は、どうして一人で漂流していたのかという皆の質問に答えた。 「ええ、僕も皆さんと同じ東京の大学生なんですよ。三年生ですが、半年間北米旅行をしていたものですから、一年留年しています。大学では、《冒険探検サークル》というクラブに入っています。それで、自主的な課題として、《奇跡島》の海岸にある《鬼の喉《のど》》という鍾《しよう》 乳《にゆう》 洞《どう》へ探検に行こうと思ったわけです。課題と言っても、僕が勝手に考えたものですけどね——」  風来坊は、身長が百八十五センチぐらいあり、真梨央と同じくらい背が高かった。髪の毛は長くてボサボサだったが、顔立ちは端正で、目元が涼しく、鼻筋も通っていた。黙っていれば、一昔前のバタ臭い映画の二枚目俳優か、ファッション・モデルのように見えないこともない。  ところが、顔に似合わず妙に人なつっこくて、やたらにニコニコしている。子供じみた表情や、度を過ぎた軽薄なおしゃべりが、その美《び》貌《ぼう》を台無しにしていた。 「船長さん、島の海岸には、《鬼の喉》がまだありますか」  と、彼は船長に訊《き》いた。 「ああ。あるぞ」  ゴムボートを船に繋《つな》ぎ終わり、船長は再出発の準備にかかりながら答えた。 「ああ、良かった。せっかく来たんですからね。目的地に絶対に行きたいですよ」 「何だい、その《鬼の喉》というのは?」  真梨央が尋ねると、風来坊は満面に笑みを浮かべて、 「昭和二十八年に、地理協会所属の人が島の測量に来ましてね、日本の様々な島について言及した本の中で、その鍾乳洞のことを報告しているんです。潮の満ち引きの関係により、その鍾乳洞の中から、鬼が泣くような音が聞こえるそうなのです。それで僕は興味を持って、島へ行く計画を立てました。  ところが、上野から水戸へ来る途中で、サイフを電車の中で落としてしまったんです。皆さんみたいに船がチャーターできませんから、仕方なくゴムボートで海を渡ろうと思ったんです。茨城には親《しん》戚《せき》も知り合いもいないので、誰かにお金も借りられません。  だいたい、今回の計画は、最初からついてなかったんですよ。一緒に来る予定だった同じサークルのガールフレンドが、一昨日、盲腸で入院してしまったんです。それで今日は、僕は一人ぼっちなのです。でも、寂しくはありませんよ。涙なんか、絶対に流すものか!」  風来坊は海原へ向かって、雄《お》叫《たけ》びを上げる。  皆はびっくりして、そんな彼を見ているしかなかった。 「しかし、考えてみれば、ちょっと無謀でした。そうですよね。島まで二十キロ以上もあるんですものね。海流のこともあるし、陸地を旅するのとはわけが違う。ああ、馬鹿だったな。自分の力を過信しすぎましたよ。  いやね、カモメが飛んできて、ボートの縁に止まったんですよ。それで、捕まえて後で焼き鳥にしたら美《お》味《い》しいだろうと、飛びかかったんです。その際にオールを落としちゃったんですよ。すぐ気がつけば良かったんですが、逃げた鳥に気を取られてしまって。よく太って美味しそうなカモメだったんだけどなあ。残念。  僕って、昔からよく物を落とす性分なんです。何でかなあ。そそっかしいのかなあ。たぶん、そうなんだろうなあ。  そうそう、船長さん、この船は《奇跡島》へ向かっているんですよね。それじゃあ、できれば、僕もこのまま連れていってください。皆さんの邪魔はしません。お願いします。僕は、島の北側にある断《だん》崖《がい》の側で、ゴムボートごと降ろしてくださればけっこうです。その海っぺりにある鍾乳洞を探検するだけですからね。  帰りのことや、食事の心配もしていただかなくて大丈夫ですよ。帰りには、今度こそ、自力でゴムボートを漕《こ》いで本土に戻ります。やってみせますとも。食事は自炊します。これでも僕は、けっこう釣りや狩りが上手ですからね。食料はそっちの方法で調達します。何しろ冒険探検サークル所属なので、火を起こしたり、野宿など、アウトドア生活には自信があるんですよ。この辺の海だと、メバルとかヒラメが獲《と》れましたよね」  風来坊氏の話がやっと途切れると、 「船長、どうしますかね」  と、権堂が少しかたい表情をして尋ねた。  加々美ら全員が青年を取り巻き、事態を見守っている。 「とりあえずは、あんたらを運ぶために《奇跡島》へ行かなあならん。この若者を向こうで降ろすかどうかは、あんたらが決めたらよかろう。下船させないのなら、わしが、港まで連れて帰るさ」  船長の返事は素っ気なかった。そして、操《そう》舵《だ》室《しつ》へ上がると、ふたたび船を島へ向かって動かし始めた。 「麻生君、君の意見は?」  権堂は、仲間のリーダーの真梨央の顔を見た。真梨央は腕組みし、冷ややかな目で、船尾の段に腰かけているこの怪しげな青年を見下ろしていた。 「困りましたね。ほったらかしにはできないし……」 「いやいや、皆さん、御心配なく」  と、青年は毛布の中から右手を出して振った。他《ひ》人《と》事《ごと》のような言い方をするので、加々美はますます奇妙な奴《やつ》だと思った。 「本当にいいんです。僕はむしろ一人で活動した方が気が楽です。けっこう寂しくないんです。それに、鍾乳洞の中の地図を作りたいので、一回中に入ると、いつ出てこれるか解らないでしょう。それに、中で迷子になったら、行方不明になるかもしれない。あ、当たり前か。はははは。  でも、そんな災難が起きたとしたら、皆さんは、僕のことなど知らない方が気にならないでしょう。僕がどこかでのたれ死にしたなんて思ったら、寝覚めが悪いですもんね」  真梨央は苦笑いをして、 「もう、充分に寝覚めは悪くなっていると思うね」  と、風来坊に言い返した。 「あれ、そうですか」 「風来坊君。俺たちは《奇跡島》に一週間いるつもりだ。一週間後に、この船がまた迎えに来てくれる。君も、それに乗って帰るかい」 「え、じゃあ、乗せていってくれるんですか。いやあ、感激だなあ。皆さんの親切は一生忘れませんよ。この後、僕の寿命が何年あるか解りませんが、息絶えるまでは絶対に覚えていることにします」  真梨央は肩をすくめ、権堂に言った。 「仕方がありませんね、今さら、海に放り投げるわけにもいかないし。権堂さんがかまわなければ、彼の希望どおりにしてやりましょう」 「そうだな」と、権堂は眼鏡の縁を少し持ち上げながら頷《うなず》いた。「我々の仕事の邪魔さえされなければ、問題はなさそうだ。しかし、島でどうなっても、我々は関知しないよ」  その話を聞いて、風来坊はひどく嬉《うれ》しそうな顔をした。 「どうもありがとうございます。謝《シエー》 々《シエー》です。グラッチェです」  と、彼は皆の顔を見回して礼を言った。 「良かったね、風来坊さん」  と、紫苑が言うと、風来坊は唐突に質問をしてきた。 「ところで、そう言えば、皆さんは、あんな無人島へ大挙して何しに行かれるのですか。もしかして、《白亜の館《やかた》》へ行き、美術品の鑑定か研究でもされるのですか」  権堂と真梨央の表情がサッとこわばった。榊原の目も眼鏡の奥で鋭く光った。加々美らの身もすくみ、皆がこの青年の顔を見つめた。 「どうして、君がそんなことを知っているんだね」  権堂が疑り深く尋ねた。 「は、何をです?」風来坊は悪びれなかった。「さっき言った文献に、《白亜の館》という西洋館が島にあることも書いてありましたよ。地元の郷土資料で確認したら、龍門有香子というお姫様が、その不思議な建物を造ったという話が出てました。ただそれだけですよ」 「違うよ。私が尋ねているのは、私たちが島へ行く目的の方さ」  権堂はもっと怪しんだが、青年は当惑顔で、 「僕は何も知りませんよ」と、答え、それから船尾の荷物の山を指さし、「でも、そんなにたくさん、美術関係の荷物を積んでいるじゃありませんか。しかも、島に一週間いるんでしょう? それで、他の滞在の理由を思いつきませんでした」 「そうか……」と、権堂は少し肩の力を抜いた。「ならばいいが、頼むから、私たちの仕事の邪魔はせんでくれよ」  他の者たちも、やや緊張を解いた。  風来坊は、元気良く頷いた。 「ええ、もちろんです。僕はそんな西洋館には興味はありませんから——いいや、少しはあるかな。でも、ありません。本当です。大丈夫です。鍾乳洞で、鍾乳石や石《せき》筍《じゆん》の観察をしていた方が、たぶん僕には美しく思えるはずです。どちらかというと、人工的な芸術より、自然そのものの美の方が、僕には好みなんです。  この前なんかですね、長野県の上高地まで望遠鏡を担いで星を見に行ったんです。あれは綺《き》麗《れい》だったなあ。降るような星ってあのことですよね。山の上は空気が薄いから、ばっちり見えるんですね。本当を言うと、この島も夏休みに来たかったんですよ。今年は十年ごとに地球に接近するフラボノ彗《すい》星《せい》群《ぐん》が見える年で、こういう空気の澄んだ所が、その観測には最適だったんです」 「ちえっ、調子のいい奴だ」  と、加々美の横にいる榊原が言った。そして、 「島へ着いたら教えてくれよ」  と、誰にともなく頼み、さっさと船室へ入ってしまった。  友美が水筒から水を汲《く》んで、風来坊にプラスチックのコップを渡した。 「良かったですね、見捨てられなくて。仲良くしましょうね」 「どうも、ありがとうございます」  風来坊は、心底嬉しそうな顔をした。  ところが、船室の屋根に腰かけて足をブラブラさせていた紫苑が、鋭い声で警告を発した。 「みんな、騙《だま》されちゃだめだよ。この人、きっと敵のスパイだよ。僕らの宝を奪いにきた悪い奴なんだよ。さっき、自分で自分のことを海賊だって言ってたもん」 「ルミコも、そう思う」と、紫苑の下にいる留美子が言った。「危ないから、今の内に、船から突き落として死刑にしましょうよ。板木を船《ふな》縁《べり》から海面に突き出して、この人を歩かせるの。ほら、海賊物の映画や本でよくあるでしょう。あの処刑方法よ——シオン、ルミコの帽子を蹴《け》っ飛ばさないでってば!」  紫苑は屋根から飛び下りると、右手を振り上げて鬨《とき》の声を上げた。 「風来坊を細切れにして、鮫《さめ》の餌《え》食《じき》にしちゃえ!」 「ええっ、そんな!」  さっきまでの笑みを引っ込め、風来坊は泣きだしそうになった。 「シオン、そのくらいにしておけよ。あんまり年上をからかうものじゃないぞ」  そう注意しながらも、真梨央も軽く笑っていた。 「はーい、ごめんなさい」  それを契機に、皆はまた適当な場所に座り直した。同じ東京に暮らす人間であるためか、同じ大学生であるためか、あるいは、彼の陽気な性格のせいか、風来坊とミューズの仲間たちは、すぐに旧知のように打ち解けた。 「ねえ、ねえ、風来坊さん。今までに、どんな所を冒険したのか教えてよ!」  紫苑が目を輝かせ、熱心に尋ねた。すると風来坊氏は、身振り手振りで、自分のこれまでの冒険の数々を語りだした。  太陽はやや西へ傾き始めていたが、眩《まぶ》しさはいっこうに衰えなかった。加々美は、さっき紫苑が腰かけていた船室の屋根に昇ってみた。屋根の上は、陽に熱せられてかなり熱くなっていた。  船は、波の小さな山をリズミカルに乗り越えていく。時折、細かい波しぶきが舷《げん》側《そく》から飛んでくるが、素肌に当たって、かえって気持ち良いくらいだった。舳《へ》先《さき》が波をかき分けた印である二本の白い尾が、かなり遠くなった陸地の方まで続いている。意外なほど長い間、その航跡は消えずに残っている。  加々美は目を細め、景色を堪《たん》能《のう》しながら、前髪をかき上げた。湿った海風のせいで、髪がすこしごわついていた。しかし、海も幾らか気持ちがいいものだと初めて思っていた。 4 「かき氷みたいだね」それが、《奇跡島》が近づいてきて、全《ぜん》貌《ぼう》がはっきり解るようになってからの、紫苑の感想だった。「ね、あの島、かき氷みたいな形してるよ。そう思わない、加々美さんは?」  遠くスーラの点描画のように淡い感じのあった島影が、今はマチスの絵のようにベッタリとした緑色に彩られていた。  直《ちよく》円《えん》錐《すい》と言うべきだろう。最初、加々美はそう思った。底面が円で、頂点が尖《とが》った形の立体だ。進路方向から見ると、《奇跡島》は左右均等の非常に美しい姿をしていた。尖った山頂と急《きゆう》 峻《しゆん》な斜面を持ち、全体が深い緑の木々に包まれている。島の大きさの割に、標高の方は四百メートル以上もあるという。  不思議だった。何故、この見渡すかぎりの大海原に、あんな小さな土地が忽《こつ》然《ぜん》と一つだけあるのだろう。もちろん、太古の昔に起きた火山活動の影響で、海底からあの部分の土地が隆起してでき上がったのだということは解る。しかし、それは学術的な説明にすぎない。感覚的にはまったく納得がいかなかった。  手すりにもたれかかり、島を見つめたまま、加々美は返事をした。 「僕には、大きな山があり、その先端がぽっかりと海面に浮かんでいるとしか見えない。八ヶ岳の山頂を水平にちょんぎって、ここまで持ってきて、それを海面に浮かべてみたわけさ」 「だとしたら、ものすごい巨人の仕業だね。何だっけ。だいだらぼっちとか言ったっけ。日本の伝説か、昔話に出てくる力持ちの大男は?」  それとも、単に神の悪《いた》戯《ずら》なのか。  周囲の海には、何もない。  となれば、文字どおりの孤島。  そして、無人島でもあるのだ。  しかも、大きな謎《なぞ》や、死にまつわる奇妙な秘密を秘めている……。  漁船は、島を半周する形でだんだんと海岸に近づいた。  全員が甲板に出て、すぐ目の前にある島の様子に見とれた。海岸線の形にはあまり変化がない。湾は今のところない。海面の一部が、西日で銀色に照り返していた。  島の海岸縁は、どこも風に吹きさらされた険しい断《だん》崖《がい》だった。中世の絵画に見られる背景のように、その岩肌は強い緊張感に満ちていた。海岸の手前には、火山岩らしい黒々とした岩礁が海面のあちこちに突き出ている。押し寄せる波が、岩礁や切り立った岩場にぶち当たる。その度に白い波頭が生じて、しぶきが跳ね返った。美しさよりも、荒々しさを感じさせる光景だった。高さ十メートルほどの断崖の上から、島を覆う森がやっと始まっていた。 「麻生さん、私たち、どこから上陸するのですか」  と、友美が真梨央に尋ねた。  真梨央は首を伸ばすようにあたりを見回し、 「浜辺は見当たらないようだな。桟橋が、どこかに作られているのかもしれない。もっと近くに寄れば解るだろう」 「きっと、海底基地があって、断崖のどっかがパックリとあくんだよ」  と、紫苑がはしゃぎ声で訴えた。 「それじゃあ、サンダーバードみたいですね」  と、木田がのんびりした声で言う。もちろん、あの有名なイギリスのテレビ人形劇のことである。 「動物はいるかしらん」  という留美子の質問には、日野原が返事をした。 「自分は前に八丈島へ行ったことがあります。本島のすぐ横に八丈小島っていう小さな孤島があるんですが、そこには、野生の山羊がたくさんいました。だから、ここにも何かいるかもしれません」 「山羊?」 「ええ、昔、人が住んでいて飼っていたのが、自然に繁殖したんです」 「ブタかイノシシがいたらいいね」と、紫苑は嬉しそうな顔を向ける。「そうしたら、捕まえて丸焼きにしようよ」 「シオンなんか、逆に野生の猿に捕まるかもよ」  と、留美子が憎まれ口を叩《たた》いた。  気がつくと、加々美の後ろで、風来坊が洋服を着だしていた。まだ濡れているので、気持ちが悪そうである。 「着替えは持っていないのですか。良かったら、何か貸しましょうか」  加々美は言ってみた。  風来坊はニコッと笑うと、 「あ、いや、大丈夫ですよ。慣れてますから。それより、《鬼の喉》が見えたら、ゴムボートに乗りますので、手伝ってください」 「本当に、一人で行くんですか。危ないですよ」 「でも、危ないから冒険なんですよ。安全な冒険なんか、スリルありませんからね」 「あ、あそこに穴があるよ!」  紫苑がそれを目ざとく見つけた。波が白く泡立つ断崖の一ヵ所に、黒くポッカリと洞《どう》窟《くつ》が開いていたのだ。海水が、その穴の中へ入ったり出たりし、所々で渦巻いている。 「あれです。あれです!」と、風来坊は感極まったように叫んだ。「やっぱりあったんだ。良かったなあ。きっと、海水によって浸食されたような洞穴なんだろうなあ。それとも、火山流が冷えてできたのかなあ」  船が速度を半分ほどに落とした。操舵室から船長が顔を出した。 「おい、あんた。このあたりは暗礁が多いから、これ以上船は近づけねえぞ。行くんなら、本当にそのちっぽけなゴムボートで行かなけりゃあならないが、いいんかい」 「ええ、もちろんです。いいんです。僕は行きます。それでは皆さん、短い時間でしたが、どうもありがとうございました。日本のリチャード・バートン、関東のアムンゼンと呼ばれるこの僕です。絶対に頑張って、洞窟探検を成功させてまいります。生きていたら、またどこかでお会いしましょう」  風来坊は、自分の荷物を持ってゴムボートへ降りた。ゴムボートは、小さな波でもかなり上下に揺れている。彼が乗り込むと、日野原がもやい綱を解いた。船にあった板切れを渡してあったので、風来坊はそれをオール代わりにして、ゴムボートを漕《こ》ぎだした。少しずつではあったが、ゴムボートは船から離れていった。 「大丈夫かしらん」  留美子が胸の前で神に祈るように両手を組み、心配した。 「変な人だったね」  と、紫苑が遠慮なく述べる。 「死んだって、俺《おれ》たちの知ったこっちゃない。勝手にすればいいさ」  と、榊原がタバコに火を点《つ》けながら嘲《あざ》笑《わら》う。 「ずいぶんお気楽な性格の学生だったな」  と、権堂も言う。どうやら、彼のことをあまり気に入らなかったようだ。  ゴムボートが《鬼の喉》に近づくのを見届けてから、漁船はまた動きだした。洞穴のすぐ側で、風来坊がこちらに向かって手を振る。まわりに岩礁があって、加々美にはかなり危険な感じがした。女の子二人と紫苑が、それに答えた。 「アディオース!」  それが風来坊の最後の言葉だった。  波間の洞窟とゴムボートが島影に見えなくなり、また島の外周を四分の一ほど進むと、漁船が少し速度を落とした。そして、慎重に海岸へ近寄り始めた。いよいよ上陸かと、加々美は身震いに似た緊張を少し感じた。腕時計を見ると、午後四時にあと五分というところだった。漂流者騒ぎがあったので、その分遅れたわけだ。  権堂が船室の梯《はし》子《ご》を登り、操舵室にいる船長と何か話した。そして、下りてくると、皆に説明した。 「やっぱり、島には港も艀《はしけ》もないということだよ。ただ、断《だん》崖《がい》に窪《くぼ》地《ち》があるので、船の舳先をそこへ直《じか》付《づ》けするそうだ。昔は、《白亜の館《やかた》》の建っている場所に近い海岸には、石積みの小さな岸壁があったんだが、十年ぐらい前に、台風による大波で崩れてしまったそうなんだよ」  それを聞いて、加々美はこの船の構造について納得した。船の高く持ち上がった鋭い舳先部分には、ゴムのシートと多数の古タイヤがぶら下がっている。つまり、舳先を岩場に接岸しても、船体が傷まないための工夫だった。 「ほら、船が着くのは、あそこに見える場所だ」  権堂が目の前の断崖を指さした。  加々美には、他と同じようなゴツゴツした岩場が見えるばかりだった。それでも、舳先の先へ視線を向けると、岩礁が棚状になっている部分があったので、それかと思った。寄せ返す波のせいで、船が不規則に揺れる。ちょっと怯《おび》えた彼は、手すりにしっかり掴《つか》まった。  漁船は速度とスクリューの回転方向を調整しながら、その岩礁への距離を少しずつ詰めた。波が岩に当たって砕ける潮の音が高まった。風も少し出ている。上空では、カモメかウミネコが多数旋回している。 「さあ、いよいよ上陸だあ!」  と、日野原がうわずった声を上げた。  加々美もほっと安《あん》堵《ど》した。これでやっと船を降りられるんだ、無事に島まで来れたんだ。  誰もが、目的地が手に届きそうになったことで興奮状態になった。日野原は、ゴリラが勝ち鬨を上げて胸を拳《こぶし》で叩くような真似をした。留美子と友美がクスクス笑い、紫苑がまったく同じ格好をする。木田ですら本を鞄にしまって、甲板の上をウロウロしている。 「何よ、それ、チンパンジーみたい」  と、紫苑のことを留美子がからかった。  権堂と真梨央と榊原が、前部甲板に移動し、荷物の仕訳と搬出の分担について相談を始めた。 「あそこを登るんですかね、加々美先輩?」  と、日野原が手すりから身を乗り出し、指さした。  よく目を凝らして見ると、接岸予定の棚状になった岩礁の左横に、一部、幅の狭い階段みたいな箇所があった。それを伝えば、断崖の途中まで上がれそうである。それが自然にできたものか、それとも人工的に削って造ったものかは、まだ判断できなかった。 「……うん」  加々美は力なく頷《うなず》いた。島へ無事に到着したことを喜んだばかりだったが、今度は、安全に上陸できるかどうかが心配になってきた。 「加々美さん」と、紫苑がニヤニヤしながら彼の顔を覗《のぞ》いた。「死ぬときは、ボクも一緒だよ。仲良く天国へ行こうね。あ、でも、そうしたら、ルミちゃんが焼き餅《もち》を焼くかな」  少しも慰めにならなかった。  漁船は、ガツンという軽い衝撃と共に接岸した。エンジンの音が変わる。 「さあ、降りていいぞお!」  船長が怒鳴った。  岩場に荷物を全部下ろすには、三十分ほどかかった。舳先の狭い部分を使うしかないのと、波のせいで船体が上下するので、作業がしにくかったからだ。荷物の山がその棚状の場所にできて、全員が下船すると、その場はもういっぱいになった。  漁船は、ゆっくりと後退しながら島を離れだした。一週間後にまた、ここに彼らを迎えに来てくれることになっている。それは解っていたが、加々美は少し心細いものを感じた。 「さあ、行こうか」と、断崖に刻まれた階段らしき段の方を見て、権堂が言った。「いっぺんに荷物を全部運ぶのは無理だから、必要最小限のものだけ持っていこう。《白亜の館》の状況を見て、また後で取りに来るんだ」  加々美たちは返事をすると、手分けして用意にかかった。  これが、《奇跡島》での第一歩だった——。 第3章 ドアを開いて…… 1  加々美らが上陸した岩場は、玄武岩などの火山岩でできていた。というより、この島全体が火山による噴出作用の産物であり、玄武岩や花《か》崗《こう》岩《がん》の巨大な固まりだった。その上に薄く石灰や土が堆《たい》積《せき》して、悠久の年月の間に、植物が表面を覆ったわけである。  とは言え、海岸べりは波に洗われた険しい断《だん》崖《がい》となっていて、木や草が生い茂っているのはかなり上の方からだった。  最初、島に近づきながら漁船から見上げた時には、断崖がほとんど垂直に見えた。だが、船着き場へ上がってみると、岩場には意外に棚状の部分や窪《くぼ》みなどがあった。始終風に吹きさらされているせいか、岩の表面には苔《こけ》すら生えていない。灰色で、殺伐とした光景が続いている。  少し前から、風向きが変わり、風力が若干強まっていた。島を取り巻く潮《しお》騒《さい》が、下方から断続的に聞こえてくる。それに、上空を滑空する海鳥の鳴き声が混じる。  断崖の下を見ると、海水はよく透き通って非常に綺《き》麗《れい》だった。青というより翡《ひ》翠《すい》色《いろ》に近い。海底にある丸い磨耗した石が、白い波頭の間に一つ一つくっきり見える。沖のゆったりとした波のうねりが、島に近づくにつれて多数の小さな波に変わり、渚に打ちつけては白波となって砕け散っている。 「だけどさ、これが本当に道なの」  岩場を歩きだして、最初に文句を言ったのは紫苑だった。  足元に、風雨で欠け落ちた小石がたくさん転がっている。不用意に踏みつけると、滑りそうで怖かった。海へ落ちたら一巻の終わりだ。 「ああ。とうてい道には見えないな」  加々美は、紫苑の言うことをもっともだと思った。  断崖に刻まれた階段は元々そうだったのか、風化してしまったのか、形があまり明白ではなかった。手も足も使って岩場を上がる様は、まるで簡単なロッククライミングという感じだ。今は小さな荷物しか持っていないが、次に戻ってきて、大きな荷物を運ぶ時にはかなり苦労しそうだった。 「どうやら、この昇り口は作り直さなくてはだめだな。観光にはまるで適さないぞ」  先頭を行く権堂がぶつぶつ呟《つぶや》いた。 「艀《はしけ》か、堤防も必要ですね」と、その後に続く真梨央が相《あい》槌《づち》を打った。「あれでは、船が揺れるから、乗り降りしにくいですよ」  人間一人分の幅しかない石段は、急斜面の岩場を、稲妻形に二度折れ曲がって上まで続いていた。所々極端に狭く、体を横にしないと通れない部分もあった。二つの大きな岩が頭上をふさぐように突き出ていたが、その間を抜けると、やっと広々とした台地に出た。平らな灰黒色の巨岩が横たわり、天然の展望台を形作っていた。 「やっと終わった!」  荒い息をつきながら、日野原が嬉《うれ》しそうに言う。  仲間たちは争うように——一応は注意しながら——岩場の先端の方へ立ち並んだ。目に入るものは、広大無辺の、永遠に寄せては返す碧《へき》藍《らん》の海。加々美は深呼吸をして、清々しい空気と、夕暮れ近づく美しい自然の光景を味わった。 「ヤッホー!」  紫苑ははしゃぎ、万歳をした。それから、 「ほら、みんな見て。あそこに漁船がいるよ!」  右手の方、西に傾いた陽の下、金波銀波のさざ波の中に、自分たちを運んできた漁船の影があった。 「レンブラントでさえ、これほど壮大な景色を絵に描けまいな」  と、皮肉屋の榊原でさえ、満足そうに言う。 「ロマンチックだわあ!」 「素敵ですね、ルミコ先輩」  留美子と友美が、ため息混じりの声を上げる。 「権堂さん、館《やかた》はどっちにあるのですか」  と、真梨央が帽子の鍔《つば》を持ち上げ、権堂に尋ねた。  権堂は、簡単な地図をメモした紙を見ながら、答えた。 「森の方へ入っていけばいい。小《こ》径《みち》があるはずだ。館までそう遠くはないはずだ」  権堂が指さした方へ、皆は移動を始めた。巨岩の上を森の方へ向かうと、崖《がけ》っぷちに、最近地面を踏み固めたような足場を見つけることができた。仲間は一列になって進み、すぐに森の中へ入った。背丈の高い樹木と低い灌《かん》木《ぼく》、そして、太い雑草が絡み合って繁っている。幸い、先に来た者が藪《やぶ》を切り開いてくれており、伐採された枝葉や草が地面に落ちていた。小径は崖に沿って北側へ続き、時々樹木の間から青い海が見えた。 「ねえ、みんな! 見て、見て! 何だろ、あれ!」  突然、紫苑が大声を上げた。全員が驚いて足を止める。加々美が振り返ると、紫苑は呆《ぼう》然《ぜん》とした顔で、前方斜め上を指さしていた。皆はその視線を追った。すると、そこに驚くべき光景があった。風で枝葉を揺らしている木々の上に、白っぽい色をした煙突状の建築物の先端が、忽《こつ》然《ぜん》と突き出ていたのである。  権堂は一息飲み込んだ後、厳かな声で説明した。 「あれが、《白亜の館》だよ。いや、正確に言えば、あれは館の一部だ。たぶん、本館のすぐ側に立っている《暁の塔》だろう」 「《暁の塔》〓」  めったに物に動じない真梨央が、少し怯《ひる》んだ感じで呟《つぶや》いた。 「うん。あれが問題の塔だよ。その昔、龍門家のお姫様が死んだ場所だ。有香子姫は、あの塔の天《てつ》辺《ぺん》にある小部屋で死体となって見つかったんだ。螺《ら》旋《せん》階段で、上に昇れるようになっているはずだ」  その言葉は、仲間たちにさらなる驚《きよう》愕《がく》と興味を与えた。 『神秘的!』とか、『どんな事件だったんだろう』とかいった声が囁《ささや》かれた。 「さあて、館はもうすぐそこだ。もう休まず行こうじゃないか」  権堂はそう言うと、率先して歩きだした。  十メートルも行かない内に、森が急に切れて、最後にある木と木の間から、ちょっとした広さの雑草が生い茂った空き地が見えた。その先は、海に面した断崖だが、その縁に、さっきの《暁の塔》がぽつねんと突っ立っている。  間近に迫った塔は、かなり大きいものだった。根本の直径は十メートルぐらいで、高さは二十メートルほどもあるだろうか。白い外壁の一番下に、黒い鉄の扉が見えた。  大自然の中に埋もれていたこの幽玄な美しい塔を見ただけでも、ここへ来た甲《か》斐《い》はあったと、加々美は思った。  だが、彼らを本当に待ち受けていたものは、それではなかった。 「ああ〓」  森を出て空き地へ足を踏み込んだ途端、誰ともなく——あるいは、全員の口から——驚愕と興奮の入り混じった感嘆の声が発せられた。  彼らを真に出迎えたのは、その空き地の左手奥に悠然と聳《そび》えている白い石造の巨人の方だった。そこには、《白亜の館》と呼ぶに相応《 ふ さ わ》しい白壁の荘厳な西洋館が存在したのである。 「……何てことだ」  一目見るなり、加々美はたいへんな衝撃を受けた。その驚きは、一生に一度と言えるほど強いものだった。  彼の目もその他の神経も、すべてその巨人に釘《くぎ》付《づ》けになった。潮騒が途絶え、無我の境地に陥り、あらゆる音が途絶え、その建物以外には何も感じられなくなった。  その豪壮な佇《たたず》まいの館は、三階建てのビルディングくらいの規模が優にあった。外壁の装飾の迫力もすごい。しかし、これを単純に《西洋館》と呼ぶのはまったく正しくなかった。  何故なら、その建築物は、前面部分だけがやや前へ突き出ていて、側面から後部にかけては、山の急斜面を切り崩した険しい断崖と渾《こん》然《ぜん》一体になっていたからだ。もっと正確に言うと、建物全体が、崖を丹念に彫り込み、あるいは少しずつ削り出すことによって、周到に、精密に、克明に構築されていたからである。まるで、この山が今にも、その巨大な館を飲み込もうとしている途中かのようだった。  他の仲間たちの精神的動揺も、加々美と変わらず大きかった。全員が息を飲んだまま、目を館に向けて、呆《ぼう》然《ぜん》と立ちすくんでいる。  予想もしなかった。  何てことだ。まさかこんな人里離れた孤島に、これほど異様な建築物が存在するなんて……。 「……そうか、これが」  真梨央が、畏《い》怖《ふ》心《しん》に捕らわれた声で囁いた。  加々美は、建物の持つ重量感と美しさに、眩暈《 め ま い》がするほど圧倒された。いったいどのような奇跡が起きて、こんな辺《へん》鄙《ぴ》な場所に、これほど壮麗で、これほど巨大な建築物を造ることができたのだろう。  彼は頭を振り、あらためて、館を下から順に見上げていった。  館の高さは三十メートル以上もある。全体が、白い花《か》崗《こう》岩《がん》でできているようだ。その形は複雑にして、見る者に混乱を与えるほど猥《わい》雑《ざつ》であった。下部には、三角形の破《は》風《ふ》を横に五つ備えた——真ん中が一番大きい——ゴシック様式調のどっしりした土台が存在する。イタリアにある中世の聖堂か教会を想《おも》い浮かべ、そこから、屋根や塔を除いたものを想像すればいい。《翼廊のファサード》と呼ばれる部分だ。  その上に、アスパラの先端のような、あるいは土筆《 つ く し》の先のような形をした四つの太い尖《せん》塔《とう》が、背後の山頂に向かって鋭く伸びていた。真ん中の二つの塔が、左右の塔よりやや高い。  だが、建物の下部と上部は完全に一体化している、それも有機的に結合しており、繋《つな》ぎ目などはまったくない。外壁には一面、数え切れないほどの飾り窓と、細かい細工の欄干や、奇妙にねじれた複数の蛇腹が浮き出ている。玄関は中央に位置し、尖塔アーチ形の両扉があった。  普通、ゴシック様式の聖堂の場合、驚異的なほどの直線の組み合わせでできている。ところがこの館は、土台から先の尖った四つある屋根の頂上まで、すべて凝ったアール・ヌーボー調の意匠で築かれていた。曲線が直線と複雑に絡み合い、無造作に彫刻されたような風変わりな曲面が、波打った立体と無言で躍動する空間を構成しているのだ。  つまり、龍門有香子という女性は、アール・ヌーボーの美術品を収めるための単なる包装箱を造ったのではなく、それ自体がこの様式における美術の神髄、もしくは傑作と言える器を造ったのだった。  これが、この館の秘密の一つだったのである。  そして、もう一つの秘密が——。  加々美は、この館をじっと観察し続けた。すると、奇怪でグロテスクな怪物がヌメヌメと蠢《うごめ》き始め、自分の方にのしかかってくるような錯覚に襲われた。 「画伯、これは、ガウディの、サグラダ・ファミリア聖堂だな……」  空に向かって聳え立つ四つの塔に目を釘付けにし、真梨央がかすれた声で言った。 「ああ、そうだな……」  真梨央も榊原も、加々美と同じ感慨を持ったのだ。  異様な興奮が全員を包み、他の者の口からは何一つ言葉が出なかった。 「誰、誰なの、そのガウディって、ねえ、ねえ!」  急に、紫苑が熱にうなされたようにまわりを見回した。  日頃冷静な真梨央が、怒ったように言った。 「シオン。お前、美術サークルに参加していて、ガウディも知らないのか」 「ご、ごめんなさい。名前は聞いたことがあるんだけど……」 「当たり前だ。アントニオ・ガウディは、スペインの高名な建築家だぞ。十九世紀と二十世紀の狭《はざ》間《ま》に、その独特の建築作品によって活躍した芸術家だ。曲線や曲面を多用し、駆使して、多彩で複雑な装飾を建物に施すことで、幻想的な建築空間を数多く創造したんだ。その独自の発想は、見る者に狂気に近い不安感を与えるほどだ。  当時のヨーロッパは産業革命の影響で、あらゆる工業製品が機能主義全盛にあった。それは建築の分野でも例外ではなかった。そんな中で、彼は宗教的な要素を詩想と融合して、装飾性に優れた、象徴的な、そして夢を見るような形態の建築を得意とした。そして、アール・ヌーボーの先駆的存在となったんだよ」 「じゃあ、サグラダ・ファミリア聖堂ってのは?」  紫苑は、額から汗して尋ねた。  加々美が後の説明をした。 「ガウディが、生命を懸《か》けて造り上げようとしたバルセロナにある聖堂のことさ。彼の最高傑作だ。だが、物的にも思想的にも、あまりに大規模で凝った建築物だったため、財政不足もあって、彼の生前には完成しなかったんだ」  榊原がゆっくりと後ろを振り向いた。彼は長い前髪を横へかき上げ、こちらの心の中を探るように目を細めた。 「……解るか、シオン。その巨大な聖堂の亡霊とも言うべき存在が、ここに鎮座しているわけなのだ。《白亜の館》の外観はな、サグラダ・ファミリア聖堂に瓜《うり》二《ふた》つというほど、そっくりなのさ。その聖堂の、カリカチュアライズされたミニチュアと言っていいだろうな」 2  サグラダ・ファミリア聖堂は、場合によっては、史上最大の石造大建造物と称される。その意見が正しいかどうかは別としても、完成までにあと何百年かかかると言われるほどの、偉容と異様を誇る法悦的な空間である。それは人間の住《すみ》処《か》ではなく、まさしく神の住処だという。良い意味でも悪い意味でも、宗教的な熱狂に取り憑《つ》かれた狂える男の夢の産物である。 《白亜の館》は、そんな建築物の単純明快な贋《がん》作《さく》だった。本物から大きさと複雑さを縮め、宗教性を切り捨て、この地上に這《は》いずる人間たちの手の届くようにした非常に具象化された作品なのだ。 「しかし、ガウディがこれを設計、建築したとは思えませんよね」  やっと気分の落ち着いてきた真梨央が、権堂に確認する。 「うむ。彼が日本に来たなどという話は聞いたことがない。これはきっと、誰か、彼の弟子の作品かもしれないな……」 「どちらにしても、昭和初期に、日本にこれだけの建築物があったというのは、たいへんな発見ですね」  真梨央はまた興奮したように言った。  するとその時、 「あっ」と小さく叫び、友美が玄関の方を指さした。「誰か出てきましたよ!」  見ると、玄関の扉の片側が開いて、中から背の低い、固太りした男が姿を現わした。茶色のワークシャツに黒のベストを着ている。短髪は白くてボサボサだった。顔には深いしわが無数に刻まれ、よく日焼けしている。男は石段を下りた所でこちらに目を向け、待った。かなりの猫背で、歩く時に肩を左右に振る癖があった。  権堂が館の方へ歩き出し、私たちも後に従った。 「こんにちは」  おずおずと、権堂が声をかけた。 「——如月美術大学の方ですか。お待ちしてました」  男は丸めた背中から首を前に突き出すようにして、低い声で言った。近くで観察すると、年齢は六十歳ぐらいだった。白目が少し濁った感じで、あまり顔には表情がない。そこから、彼の考えていることを読み取るのは難しそうだった。 「管理人さんですね。県立美術館の権堂謙作です。よろしくお願いします」 「わしは、竹《たけ》山《やま》収《しゆう》蔵《ぞう》と申します」  相手はしわがれた声で、ぶっきらぼうに答えた。強い茨城訛《なま》りがある。 「どうも、お世話になります。船の都合で、少し到着が遅れてしまいました。それから、ここにいるのが、如月大学の《ミューズ》の仲間たちです。この館の中で、美術品の調査をさせていただきます」  そして、権堂は全員の名前を告げた。それに合わせて、収蔵の曇ったような目が、品定めをするように一人一人に向いた。加々美は、何故か、自分だけが他の者よりも彼に長く見つめられた気がした。  気のせいだろうか……。  挨《あい》拶《さつ》が終わると、収蔵は事務的な口調で言った。 「館の中には、家内の民《たみ》江《え》がおります。あれは今、夕食の支度をしております。わしら夫婦は、昔から龍門様にたいへんお世話になっておりまして、今回のお仕事のお手伝いができんのは、存外の幸せです」 「森の中を切り開くのはたいへんだったでしょうね」  権堂がねぎらうと、収蔵は小さく頷《うなず》いた。 「ずいぶん前には、その《暁の塔》の横の下に、小っさな港があったんだあ。防波堤を兼ねた岸壁があり、船がこの館のすぐ側に接岸できたんですぅ。それから、幅の広い階段もあったんでぇ、崖を昇んのも簡単でした。それが台風と荒波にやられて、崩れてしまったんです。良かったら、見てくんなんしょ」  収蔵が勝手にそちらに向かったので、皆は荷物を足元に置いて、後に従った。塔の横まで行き、全員が恐る恐る、断崖の縁へ近づいた。収蔵の言うとおり、この崖の南側半分は、滑落により、内側へ少しだけ三日月状にえぐれていた。下を覗《のぞ》くと、垂直に切り立った断崖の波打ち際に、岩や土砂が堆《うずたか》く盛り上がっていた。コンクリートか大理石らしい建築材料の一部も、その瓦《が》礫《れき》の中から突き出ていた。  崖の崩壊は今でも進行しているらしく、足元の小石がパラパラと海面へ落ちた。加々美は恐怖を感じ、思わず後《あと》退《ずさ》った。近い将来、下手をすると、《暁の塔》まで崩れ落ちることがあるかもしれない。  権堂は一歩後ろへ下がり、思案しながら、 「いずれ、この館を本当に使うなら、この崖も修復する必要がありますね。大工事になりそうだが……」  収蔵はそれには返事をせず、顎《あご》を動かして皆を館へ誘《いざな》った。 「では、みなさん。中へお入りください」 「ええと、荷物を船着き場の岩場にまだだいぶ残してあるんです。一段落ついたら、すぐに取りに戻らないと」 「そうだなぁ。この館は島の東側にあるんで、陽がもうじき、山の陰に入ります。とりあえず、今持っている荷物をロビーへ入れてください。わしも、他の荷物を運ぶのを手伝いますんで」 「それは助かります。お願いします」 「館内は、一階と二階の寝室だけはだいたい掃除してあります。もちろん、美術品には、御指示のとおり、指一本触れておりませんがね」 「中は広いのですか」 「広いと言えば広いです——どうぞ中へ」  そして、加々美たちは《白亜の館》に進んだ。  長き年月、死のような眠りにつき、人の営みから隔絶されてきた館。何が、どんなものが隠れていたのか。正体を暴くために、その扉が今開かれんとしているのだ。 「——友美ちゃん、今、何か言った?」  収蔵が両開きの扉の片側をあけた時、留美子がふと立ち止まり、訝《いぶか》しげに尋ねた。真梨央と先頭の方を歩いていた友美は、怪《け》訝《げん》な顔で振り返った。 「いいえ、ルミコ先輩。何も言いません」 「何だい?」  加々美は、留美子の背中に軽く手を当てて尋ねた。 「今、誰か、女の人に、名前を呼ばれたみたいだったから……」  と、留美子は答え、そして、耳を澄ますようにまた小首を傾げた。 「ルミちゃんは、霊感が強いからね!」と、紫苑がはしゃぎ声で言う。「幽霊の声でも聞こえたんじゃないの!」 「いやだあ」  と、友美が眉《まゆ》をひそめて、真梨央の腕にしがみついた。 「あははは」と、真梨央は笑って加々美と顔を見合わせた。「これは面白くなりそうだ。でも、友美を脅かすなよな」 「ルミコ。何か、感じるのか」  と、加々美は念のために尋ねた。彼自身は、幽霊など信じたこともない。  留美子は微《ほほ》笑《え》みながら、かぶりを振った。 「……ううん。ぜんぜん。錯覚だったみたい」  低く幅広の石段を昇った所に、上部が曲線を描く丸みのある分厚い扉があった。扉には大きさの違う涙《るい》滴《てき》形《がた》の覗き窓が三つあり、分厚い板の浮き彫りも形の違う足形を幾つも組み合わせたようになっていた。  建物の真下から壁を見上げると、ますますこの建物の造りの凄《すご》さが解った。粘土を無造作にぶつけたような壁肌、蛇や蛭《ひる》が張り付いたような蛇腹、珊《さん》瑚《ご》礁《しよう》のような欄干、花形のステンド・グラスをはめたモザイク状の窓、植物模様の鋳鉄のバルコニーなど、とにかく、異世界の産物を見るようであった。どんな些《さ》細《さい》な部分にも、遺《い》憾《かん》なく、アール・ヌーボー建築様式が発揮されている。 「……モンセラットだな」  と、榊原が壁を撫《な》でながら呟いた。  モンセラットというのは、スペインのバルセロナ郊外にある聖なる山だ。奇岩が天上めがけて連なる感嘆すべき場所で、アントニオ・ガウディも、ここには深い信仰心を持っていた。彼の建築に顕著な洞《どう》窟《くつ》的な、あるいは岩山的な中心的題材《モ チ ー フ》は、ここから生まれたものだという。 「そういうことだ」加々美の驚き顔を見て、榊原は頷《うなず》いた。「崖《がけ》を利用してこの館《やかた》を造ったのは、モンセラットからの発想だろうな」 「いよいよ、ガウディだと言うのですか……」  しかし、加々美は完全には納得できなかった。 「内部を詳細に調査すれば、誕生の秘密も、もっとはっきりするさ」  中へ入ると、まず小型の玄関ホールがあり、すぐに広いロビーが待っていた。  加々美は、その不可思議な部屋の様子に圧倒された。感動するというより、ますます混乱して、何一つ言えなかった。まるで自分が小人になり、巨大な巻き貝の空洞の中に迷い込んでしまったような錯覚に陥ったのだ。 「ビックリ仰天だあ!」  という紫苑のふざけ声も、まったく気にならなかった。  部屋の中はやや薄暗かった。天井が大きく渦を巻いていて、その中央に、クラゲを逆さまにしたような大きな照明が取り付けられている。天井は丸く、しかも壁と緩やかに繋《つな》がっている。湾曲した柱が四つ、部屋の中に均等に立っていた。窓も扉も、一つとして四角いものはない。皆、楕《だ》円《えん》形《けい》をさらに無作為に歪《ゆが》めたような形をしている。水《みず》飴《あめ》でできた建物の中を、火で熱してグニャリと溶かしたようである。自分たちがまるで、動物の体内にいるような、グロテスクな錯覚が喚起される。窓からさす外の明かりと照明の明かりが複雑に入り混じり、様々な色合いの光がこの部屋の中に無造作に満ちていた。  何十年も閉ざされた場所だったので、加々美は館の中がもっと埃《ほこり》だらけで、薄汚れているかと想像していた。しかし、掃除が行き届いていたせいか、まったくそんな古色は感じなかった。ただし、空気だけは別で、かすかに黴《かび》臭い匂いがした。 「ルミコ、何だか、頭が変になりそう」  彼女は、長い睫《まつ》毛《げ》をパチパチさせながら呟《つぶや》いた。 「不条理っすねえ」  と、木田が眼鏡をかけ直しながら言った。 「世紀末思想って奴《やつ》ですか」  と、日野原が感嘆した。 「いいや」と、真梨央が敬意を表するように帽子を脱ぎ、語った。「これが本当にガウディに関連するなら、むしろ中世思想だろうな。彼は、中世の豪華で装飾過多の構造原理にこそ、己の建築様式の理想を見たのだから」  ロビーには、ホールの他に五ヵ所の扉があった。手前の左右の扉が控え室などへ、次の左右の扉が東西のそれぞれの廊下に繋がっており、そして、正面の両扉の向こうが広間になっていた。  権堂と収蔵が話し合い、とりあえずロビーの左手の方に荷物を下ろすことにした。すると、やっと気分が落ち着いてきて、ゆっくり室内を観察する余裕が出た。加々美は、壁の窓と窓の間に飾られた物にまず目をやった。一目で、ミュシャの手になるリトグラフと解るものだった。パリの舞台女優か誰か——サラ・ベルナールである可能性は大きい——の横顔を主体とした図柄だった。女性二人は、壁際の小さなテーブルに飾られていた美しいガラスの花瓶に心を奪われ、熱狂的で、華やかな歓声を上げた。 「ねえ、ねえ、友美ちゃん、見て、見て。これ、ガレよ。青い蜻蛉《 と ん ぼ》だわあ! まあ、こっちの花柄の水差しも! ルミコ、感激!」 「ルミコさん、ルネ・ラリックもありますよ! この透明感溢《あふ》れるガラス、何て綺《き》麗《れい》なんでしょう。蝋《ろう》型《がた》鋳造による型吹き成型って奴でしたっけ!」  室内の至る所に、様々な美術品が展示されている。この調子で、館全体に芸術品が収蔵されているとしたら、いったいどれだけの数と価値の美術品が見つかるだろうか。 「——さあ、喜ぶのは後だ」と、真梨央が両手を上げて、皆の注意を引いた。「早く他の荷物を運んでこないと、日が暮れてしまうぞ」  全員がもう一度外に出て、森の中を船着き場の岩場まで取って返した。  結局、海岸と館とを二往復することになった。そして、荷物をすべて建物の中に運び終わると、時刻は五時を回っていた。山の端には、夕暮れの色が滲《にじ》んでいる。その色は一様ではなく、丹《に》色《いろ》と真《ま》赭《そほ》と鴇《とき》色《いろ》を水に流し溶かしたようだ。  仕事が一段落して、皆がまた室内の品々に目の色を変えている間に、収蔵と権堂、真梨央は打ち合わせを続けた。  収蔵は権堂に確認した。 「どうしますか。これから簡単に、館内を案内しましょうか。寝室も用意できっけど」 「お願いしましょうか」と言ってから、権堂は手を打った。「——そうそう、館内の見取り図なんか、ありますか」  収蔵はかぶりを振ると、 「ねえんです。申し訳ありません」 「いいえ。じゃあ、必要があれば自分たちで作ります」 「館内は三階建てで、他に地下が一階分あります。実際には、山の中をくりぬく感じで建物は造られております。寝室は、二階です」 「三階は?」 「龍門家の有香子姫様のお部屋やその他の寝室がありましたが、今回は手を付けておりません。龍門様の方から、三階はできればまだそっとしておくように言われとりますんで。ですから、そのままにしとります」 「私たちが見てもいいのでしょうか」  権堂は、断わられるのが心配そうな顔で尋ねた。 「それは結構です。何でも、御随意にということですので」  真梨央が、天井の照明を見上げて、収蔵に質問をした。 「ここの電気設備はどうなっているのですか」 「館内は、ランプと電灯が半々になっとるけんど、まあ、地下以外は電灯が使えるので、普通に生活するなら心配ありゃせん。言ってもらえれば、ランプも用意すっけど」 「ほう、電気が使えるのですか」  権堂が感心したように言った。 「小型の発電機を据え付け直しました。昔は崖に風力発電機が据え付けられていたんですが、錆《さ》びて壊れとって。発電室は地下にあります。風力発電機の方も、今、わしが修理してるところです」 「あなたは技術者なのですか」  権堂が驚くように言うと、 「ボイラー技師の資格なんかは、一通り持っております」  と、収蔵は事も無げに言った。 「水はありますか。一応は、ミネラル・ウォーターを持ってきたんですが」 「大丈夫です。地下水が湧《わ》いておりますんで。ふんだんにあっぺよ。それに、風《ふ》呂《ろ》も入れるで。湯を薪《まき》で沸かせるようにボイラーを修理しましたんでね。ただ、配管は半分腐ってるんで、各階の洗面所や個々の部屋のスチーム製ヒーターには湯は行かねぇんだ。面倒でも、湯を使いたい人は、一階の浴室まで来てもらうほかあんめ」 「漁船の船長さんに、風土病があるって聞きましたが」 「風土病?」と、収蔵は眉《まゆ》を動かし、「ああ、そんなら、雨水さえ飲まなければ、大丈夫だ。確か、蚊だか蠅《はえ》だかが、介在してるってことだかんね」 「解りました」 「——ほんじゃ、行くべか」  収蔵は、面倒臭そうに下唇を突き出した。  ミューズの一同は、彼の案内で一階を歩いて回った。それは、驚《きよう》愕《がく》の連続とも言うべき体験であった。最初に解ったことは、各部屋の大きさや室内装飾がてんでんばらばらであり、しかも、かなり複雑怪奇な配置になっているということだった。三階建てというのは便宜的な言い方であって、実際には各部屋の床面は同じ高さになく、かなり重層的な構造になっている。廊下には所々に低い段があったし——歩いていると、それが唐突に現われる——そうでない所も、緩やかな傾斜が付いていたりする。各部屋には、たいてい扉が二つあり、隣室や廊下と複雑に繋がっていた。  第二の驚きは、やはり内装の豪華さであった。廊下や階段の装飾も、室内同様、幅や高さ、形、色と、様々な点できらびやかな変化がある。また、外壁の隠し窓や、屋上の採光窓が、複雑な部屋と廊下の組み合わせの隙《すき》間《ま》をぬって、外光を——直接的に、あるいは間接的に——そちこちに導いている。その巧妙さは、みごとに計算しつくされたものだった。  そして何よりも、どこもかしこも、今まで見たこともないような素晴らしい装飾品や美術品で満ちているのが夢のようだった。それはまるで、盗賊が溜《た》め込んだ宝の山の中へ迷い込んだ感じだった。最後には、その宝石が放つ輝かしい光に目が眩《くら》んでしまった。  それらの多様な状況は、確かに蠱《こ》惑《わく》的であったが、心をかき乱し、むしろどぎつい印象が強かった。結局、一階をざっと一周して来ても、どこにどの部屋があったか、加々美にはまったく把握できなかった。  木田が小さな目をまん丸くしながら、頭をフラフラさせた。 「何だか、悪夢に取り憑《つ》かれたようです。目《め》眩《くるめ》く気分って、こういうのを言うんですかね。何だか、魔法で眩《げん》惑《わく》された感じっす」  一階で一番大きい部屋は、一階と二階が吹き抜けになった大広間だった。これは館内のほぼ中央に位置し、他のあらゆる場所へ繋がる拠点となっていた。収蔵の話だと、昔ここで、毎夜、有香子姫が舞踏会を催したという。ロビーに繋がるものを含め、八つの扉があって、迷宮への入り口となっている。  この広間の天井は、青を基調としたステンド・グラスのドームで覆われており、その裏に仕込まれた照明によって、全体がぼんやりと明るくなるようになっていた。また、壁の柱には六つの燭《しよく》台《だい》型《がた》照明が設置されていて、これが、マホガニーの壁板を柔らかく照らす間接照明になっている。  広間の一番奥に、針金をくねらせたような細い柔軟な形の欄干を持った優雅な折れ階段があって、張り出した二階のバルコニーの回廊に上がれるようになっている。そのバルコニーの上の四隅からも、キノコ形をした赤い大きなランプ・シェードが四つ、広間の空間上にぶら下がっていた。 「シンメトリーとアシンメトリーの対立的手法がみごとだ」  と、画伯がタバコをくゆらせながら、周囲を観察して言う。 「ゴシック調のアーチを多用しているところなど、ガウディというより、エクトル・ギマールの建築設計に近い感じがしないか」  と、彼に並んで、腕組みした真梨央が尋ねる。  ギマールも、アール・ヌーボーを代表するフランスの建築家である。鋳鉄を自在に変形させた植物の形態を思わせる、細部を特徴とする独自の世紀末的建築スタイルを創り出した人物だ。 「ああ。そんな印象もあるな」  二人は室内を構成する様々な素材を俎《そ》上《じよう》に載せ、検証と考察を重ねた。だが、留美子や友美は、そんな大きな部材よりは、もっとより小さな芸術品に目がいっていた。 「きゃっ!」と、留美子が跳ね上がって歓声を上げる。「ルミコ、ミューラーのこんな花瓶が欲しかったの!」  彼女が感動に胸を震わせれば、友美は友美で顔全体を明るく輝かせ、 「この銀の鏡、デボワじゃないかしら! ルビーがはめ込んでありますよ!」  と、艶《つや》やかな声を張り上げるのだった。  この館へ来たことを一番喜んでいるのは、彼女ら二人であることは間違いなかった。  木田は日野原と二人で、机や椅《い》子《す》などの家具をじっくり観察して回っている。正面の広々とした壁に、彼らの背丈と同じほどの大きな絵が掲げられていた。埃《ほこり》よけの布が上から掛かっており、どんな図柄なのかは解らない。浮き出た額縁の感じでは油絵のようであった。  権堂が二人の方に近づき、下からその布をめくろうとした時、少し前に部屋を出ていった収蔵が戻ってきた。彼は、割《かつ》烹《ぽう》着《ぎ》姿《すがた》の風《ふう》采《さい》の上がらない中年女を連れてきた。 「権堂さん。これがわしの妻ですだ。ほら、お前。皆さんに挨《あい》拶《さつ》しろ」 「民江です。よろしく、お願いします」  女は深々と頭を下げた。  収蔵と同じくらい太ったその女は、背も低かった。ひっつめの髪は灰色になっており、顔は岩のように角張っていた。目が小さく、口が大きい。あまり覇気がない感じだった。年齢は五十五歳である。 「あ、こちらこそ、よろしくどうぞ」  権堂が律儀に頭を下げる後ろで、加々美らも頭を軽く下げた。  加々美が頭を上げた時、民江の目が彼の方に釘《くぎ》付《づ》けになっていた。すぐに彼女は目を逸《そ》らしたが、それは間違いなかった。加々美は、首筋の後ろに何だか落ち着かない感じを覚えた。 「もうすぐ夕食にすっから。七時んなったら、食堂の方に集まってもらえっけ」  と、民江は権堂の方を向き、言った。 「はい、解りました」  しかし、時計を見ると、もう十分足らずだった。 「あのう、私たちもよろしかったら、支度をお手伝いしますが」  と、友美が申し出た。 「ルミコも、する!」と、留美子も負けじと訴えた。「台所、どこですかあ」  女性二人は、権堂と真梨央の承諾を得て、使用人たちと出ていった。  すかさず、紫苑が加々美に顔を寄せた。 「何だか、無愛想で感じの悪いオバサンだね」と、悪口を囁《ささや》いた。「加々美さんのこと、睨《にら》んでいたよ」  すると、横から木田の大きな顔がヌッと出てきた。 「あの人、斜視ですね。おいらが睨まれているかと思ったっすよ」  そう言えば、加々美の斜め後ろには、彼が立っていたのだ。それでは、彼女が見ていたのは、自分ではなくて木田の方だったのだろうか。 「それで、レンチドールみたいに目つきが悪かったわけだね」  と、紫苑が言う。 「レンチドールって何です?」  と、木田が尋ねた。 「一九三〇年頃の有名なアンティーク・ドールだよ。いろんな種類があるんだけど、みんな横目で人を睨んでいるような顔をしているんだ。ダルマさん、知らないの?」 「人形には、あまり興味がないです。ジュモーくらいなら知っていますが」  加々美は笑いながら言った。 「大方、お前の家で輸入販売しているんだろう、シオン」 「へへへ。まあね」  真梨央が全員を代表して、この後の予定を権堂に訊いた。 「——それでは、荷物を片づけるのは、食後でいいですか」 「ああ、そうだな。腹ごしらえをしてからにしようか」 「賛成。ボク、もうお腹《なか》が背中とくっ付きそうなんだよ」  紫苑が、精一杯哀れそうな声を出した。  みんなは朗らかに笑った。  真梨央は切れ長の目を、眩《まぶ》しげに細めた。 「なるほど、シオンは育ち盛りか。しかし、それにしては普段はろくなものを食っていないらしい。どうして、そんなにチビなんだ」  紫苑はプウーと頬《ほお》を膨らませた。 「ボクの先祖は、コロボックルなの!」 3  食事の前に、加々美と紫苑は寝室へ行ってみることにした。各人の手荷物は、先ほど日野原と木田が運んでくれていた。  寝室はすべて二階にある。広間の吹き抜けを取り巻く形で、小部屋が十二室ほぼ等間隔で並んでいるのだ。ただし、扉はバルコニーに面しているのではなく、その部屋のさらに外側を巡る回廊型の別の廊下に設けられている。一階から二階へ上がる階段は、広間のバルコニーの他に、建物の南東の角と北西の角にもあった。  部屋の扉には、金属プレートがかかっていた。その表面に、フランス語で占星術の星座の名称が書かれている。真梨央がすでに、空いていた部屋を各人に割り振ってある。南東の角を彼が、その北側に権堂が入り、権堂の部屋を基点に時計回りに次のようになっていた。  牡《お》羊《ひつじ》座《ざ》()   権堂謙作  天《てん》秤《びん》座《ざ》(Balance)   麻生真梨央  牡牛座(Taureau)   榊原忠久  蠍《さそり》座《ざ》 (Scorpion) 武田留美子  双子座() 加嶋友美  射手座(Sagittaire) 加々美光一  蟹《かに》座《ざ》 (Cancer)   日野原剛  山《や》羊《ぎ》座《ざ》(Capricorne) 木田純也  獅《し》子《し》座《ざ》(Lion)    武田紫苑  水《みず》瓶《がめ》座《ざ》(Verseau) (空き部屋)  乙女座(Vierge)   (空き部屋)  魚座 (Poissons)  竹山収蔵・民江 「——ちぇ。ボクも、南側の部屋の方が良かったなあ。こっちの方が明るそうだもの」  と、紫苑が文句を言った。南側の廊下には、所々にあの奇怪な外壁に穿《うが》たれたステンド・グラスの大窓がある。したがって、そちらの廊下はわりと外光が取り入れられている。天秤座から双子座までの四室が、この廊下に接しているのである。  二人は、南東の角にある化粧漆《しつ》喰《くい》の真っ白な階段を、二階へ昇る途中だった。 「仕方がないだろう。贅《ぜい》沢《たく》を言うな」  鉄のひだ飾りの付いた手すりをさすりながら、加々美は笑った。 「じゃあ、ボクは、隣のあいている部屋も使っちゃうんだ」 「使いたければ、使えばいいさ。でも、権堂さんに叱《しか》られても知らないからな」 「平気だよ!」 「……それにしても、この館はずいぶん綺《き》麗《れい》だな」  と、加々美は途中で立ち止まって言った。 「綺麗?」  と、紫苑も足を止めて言う。 「ほら、手すりもぜんぜん錆びていない。かと言って、最近塗り直したわけでもない。長年ほったらかしにしてあったにしては、どうしてこんなに綺麗なんだろう」 「嘘《うそ》なんじゃないの」と、紫苑は短絡的に言いきり、二人はまた階段を昇りだした。「本当は、誰かがちゃんと管理していたんだよ」  階段を上がった所は、直線の短い廊下になっていた。左《ひだり》脇《わき》の壁は、それ自体がステンド・グラスの、巨大な採光窓になっている。昆虫の複眼のような丸く膨れた形をしており、直径は加々美の背丈ほどもあった。白い漆喰材の表面に、小さな不定形の極彩色ガラス片を無数に埋め込んであるのである。  加々美は、それを見て深く感心した。 「昼間なら、さぞ美しい光が見られるんだろうな」  しかし、紫苑の方はもっと実際的だった。 「ねえ、この館の窓って、みんな何かひどく変だよね。ステンド・グラスばかりで、普通の窓がないじゃない。北側の部屋なんか、もっと悲惨だよ。外の太陽の光が当たらないんだから」 「それについては、さっき麻生さんと権堂さんが考察していたよ。壁と壁、部屋と部屋の間に隙《すき》間《ま》があって、そこに光の通り道が造ってあるらしい。屋根に光の取り入れ口があって、それがその隙間を通って、こういう採光窓まで導かれているのさ。鏡などを使った反射光も利用しているみたいだけどね」 「どっちにしても、これって、でっかいトンボの目玉に睨《にら》まれているみたいだね」  紫苑は憎まれ口を叩き、さっさとその直線の廊下の奥へ進んだ。部屋を取り巻く回廊へ入り、先を急ぐ。加々美の部屋も紫苑の部屋も、こちらの階段からだとかなり遠い。 「——着替えを取ってくるから、待ってて。加々美さん」  加々美が、自分の部屋の扉をあけようとして振り返った時には、紫苑の姿はもう廊下の角に隠れていた。加々美の部屋は、西側に扉があった。蚕の繭《まゆ》のような形をした木製の扉で、見た目も実際も使いにくそうだった。  そして、扉をあけた途端、加々美は別の驚きに胸を打たれた。 「——何だ、これは〓」  彼はポカンと口をあけ、室内の様子に目を奪われた。  部屋は想像した以上に広いものだった。広すぎるほどだった。  入り口の左横に、彼のリュックサックが置いてある。家具と言えば、右手の壁にある鉄パイプのベッドと、天井から下がるランプ式の照明——ガラスと真《しん》鍮《ちゆう》管《かん》で造られたもので、火が入り、柔らかな光を放っている——だけだ。左手には、磨りガラス入りの星形をした窓があるが、どこに面しているのか、あるいは、壁に埋まっただけのはめ殺しなのか、すぐには判断できなかった。  だが、彼が驚いたのは、それらの物によってではなかった。  彼の驚《きよう》愕《がく》は、部屋の内装そのものから影響されたものだった。  部屋の壁も床も天井も、基本的には、淡彩画法の要領で薄紫色にむらを付けて塗られていた。ところがそこに、二センチ間隔ぐらいで、白く細い波線が縞《しま》になるよう、無数に描かれていたのだ。線の方向は一定で、天井、床、左右の壁は、今加々美のいる方から奥へ向かっている。扉のある壁とその向かい側の壁は、線が床と平行である。  加々美は自分が困惑していることすら解らず、呆《ぼう》然《ぜん》と室内へ足を踏み入れた。その瞬間から、無数の白い波線が生きたミミズのごとくうねうねと蠢《うごめ》きだした。そして、その背後で、紫と薄紫の染みが揺らめきだし、その両方の象形が、彼を胃袋の中で溶かすかのように細かな蠕《ぜん》動《どう》運動を始めたのだった。 「——ああぁぁ」  墜ちる!  加々美の視覚も聴覚も、それから平衡感覚も、みんなその奇妙奇《き》天《て》烈《れつ》な線の動きに合わせておかしくなった。線の所々がうねり、膨らみ、凹み、波線の山と谷が入れ替わり、何か別の色がチラチラと線の後ろを行き来したのだ。  だめだ、吸い込まれる——彼は一瞬、本気でそう思った。自分の足元が瓦《が》解《かい》して崩れ、自分の体が暗黒の底に落ちていきそうだった。壁が膨張や収縮を繰り返して、それが止まると、次には自分の方が前後に揺さぶられているような気にさせられた。頭もグラグラと回転する。 「うわ!」  彼は、平衡感覚を一気に失った。じっと立っていられなくなり、急いで目を瞑《つぶ》ると、手探りでベッドを捜した。  ベッドの縁にやっと腰かけ、彼は何度も深い呼吸をした。それから、気持ちを落ち着かせ、ゆっくりと目を開いた。天井や壁や床の生々しい動きはやんでいた。しかし、どこか一点だけを見続けようとすると、また部分的に、そこだけが震えに似た不規則な運動を再開するのだった。 「錯視だ……」彼はきつく目を瞑った。「これは錯覚なんだ」  原因は解っている。目が、縞模様の内装に騙《だま》されているのだ。  それでも今度は、瞼《まぶた》の裏に不規則な絵模様が浮き出て、こびり付いて消えない。しかも、感覚がおかしくなったのは目だけではなかった。顔や手や足の皮膚まで、何だか少しずつむず痒《がゆ》くなってきた。まるで、自分の全身をたくさんのナメクジが這《は》い回っているかのように。 「もう、だめだ」  加々美は息を止め、なるべく周囲を見ないようにし、急いで扉に飛びついた。彼は、廊下へ転がるようにして飛び出た。そして、廊下の壁に手を突くと、目を伏せて、俯《うつむ》き加減で息を整えた。 「加々美さーん!」  するとそこへ、奥の方から紫苑が駆けてきた。チラリと横目で見ただけで、紫苑も自分と同じ目に遭ったのだと解った。恐怖と困惑と憤慨の入り混じった表情をしている。 「——部屋か」  加々美は動揺を隠そうと、なるべく背を伸ばして尋ねた。 「そう。何だよ、あの部屋。あんな変な部屋じゃあ、寝れないじゃないか!」  紫苑は本気で怒っている。 「どんな部屋だった。お前のは?」 「よく解らないよ。黒と白の真四角いタイル貼《ば》りなんだ。市《いち》松《まつ》模様なんだよ。ところが、その壁や床を見ていると、だんだんそのタイルが台形に歪《ゆが》んできて、部屋中がおかしな具合に潰《つぶ》れてくるんだ。天井の片側が下がってきた。最後には、壁の一端が、反対側の一端の半分ぐらいの長さになってしまったんだよ」  加々美はやっと笑みを浮かべる余裕ができた。それでも、たぶん顔色はあまり良くあるまい。 「それは、有名な《カフェ壁の錯視》って奴《やつ》さ。良かったら、僕の部屋も見てごらん」 「じゃあ、加々美さんの部屋もそうなの?」 「ああ。どうやら、二階の部屋は全部、それぞれこんなカラクリが仕掛けられているんじゃないかな。ここは、お前の所とは違った眩暈《 め ま い》を起こすようにできているぞ」 「平気さ!」  紫苑は、挑むように扉をあけて中に入った。だが、途端に後《あと》退《ずさ》りした。 「な、何、これ!」  目を回して振り向いた紫苑に、加々美は説明した。 「これは、美術の世界ではオプチカル・アートと呼ばれている。オップ・アートと言うこともある。平面的素材に抽象的なパターンを描き、一種の幻覚を感じさせるものだよ。  ほら、よく雑誌に出ていただろう。一本の直線の両端に、内向きに矢印を付けた場合と、外向きに矢印を付けた場合で、直線の長さが違って見えるって奴。あれと同じように、目の構造や神経の働きから、正常な現象を認識できなくなるものだよ。錯視現象とも言うな」 「ば、馬鹿にしてる!」  紫苑の怒りは、その程度の説明では収まらなかった。彼は髪の毛をかきむしった。 「まったく、金持ちのやることは解らないよ。こんな海の真ん中の島に大きな西洋館を建てたり、美術品を集めたり、人を脅かして喜んだり、ちょっと頭が変なんじゃないの!」 「ここまでやるのは、確信的だ。相当、頭はおかしかったんじゃないかな」  加々美も調子を合わせた。 「ねえ、ボクの部屋も見てよ」  加々美は紫苑に腕を引っ張られ、彼の部屋へ行ってみた。扉の所から中を覗《のぞ》くと、ここもさっきの説明どおりだった。 「ほら、よく観察してごらん」と、加々美は白と黒のタイルの間を指さした。「異なったタイルの間に、灰色の目地があるだろう。これが、この部屋の錯視の原因さ。白は灰色に滲《にじ》み出て、黒も灰色に滲み出る。したがって、タイルの幾何学的な形が崩れるんだよ。少なくとも、目にはそう見える。あるいは、脳がそう判断してしまう。  だから、並んだタイルの列が、縦や横に平行ではなくて、それぞれくさび形に片側だけが細まって見えるだろう。そのためにだんだんと、部屋全体まで傾《かし》いでいるように思えてくるのさ」 「何でそんなことが起きるのさ!」 「解らない」と、加々美は正直に答えた。「前に読んだある美術の本に、現象の仕組みだけが書かれていた。原因については触れていなかった。きっと、学者にも判明していないんだろう」 「無責任だなあ」 「いいから、お前も早く着替えを持ってこいよ」  それから二人は、隣の使われていない部屋も覗いてみた。ここは、直線を使った錯視が施されていた。手前側から奥へ向かって、一点透視図法の要領でたくさんの線が引かれているのだ。 「ええ、どうして、こんなに細長い部屋があるわけ!」  紫苑がびっくりするのも無理はなかった。一見すると、加々美や彼の部屋の三倍は、奥行きがあり、ウナギの寝床のようだったからだ。 「シオン、一番奥の壁に手を触れて、それから戻ってきてみな」 「う、うん……」  加々美に言われ、紫苑は恐る恐る室内へ入った。そして、部屋の中央まで進んだと思われた時、 「ええ!」  と、また喚《わめ》いたのである。 「どうだい、解ったかい」  と、加々美は扉に背《せ》凭《もた》れて、唖《あ》然《ぜん》としている紫苑を愉快そうに眺めた。紫苑の背丈が、急に伸びたように見える。 「これもトリック・アートだよ。遠近法を用いたトリックなんだ。部屋の奥の方を、手前よりも実際に小さく造ってしまうんだ。ここだと二分の一ぐらいかな。そして、壁や天井に描いた線を透視図法的に利用して、奥行きがさらにあるように見せかけるんだ。シオンもその辺にいると、麻生さんと間違えそうだ」 「冗談じゃない! こんな物、大真面目に造っているの!」  紫苑はじだんだ踏んだ。顔が真っ赤だった。 「当然だろうな。館主かこの館の設計者のどちらかが、よほどのユーモアの持ち主だったみたいだね」 「悪趣味なだけだよ。だいたいさ、今夜、部屋でどうやって寝たらいいのさ。目が回って眠れないよ」  加々美はクスリと笑い、憤慨している紫苑の肩に腕を回した。 「大丈夫だよ。電気を消し、目を瞑《つぶ》って、思考を閉ざせば、何も感知できなくなるさ。それで足りなければ、羊の数を数えればいい。とにかく、部屋のことは忘れて、寝ることに集中するんだ。そうすれば、どんなことが起こっても、僕らには関係がなくなるだろうよ」 「それでも失敗したら?」 「電気を点《つ》けて、部屋の模様をじっと眺めればいい。気持ち悪くなり、気絶して眠れるさ」 「あ、そう。ボクは本気なのに!」  紫苑は両手に拳《こぶし》を作って、悔しがった。 「——なるほど、そうか!」  加々美が、急に手をパチンと打ち鳴らしたので、紫苑は不思議そうに彼の顔を覗き込んだ。 「どうしたの、加々美さん?」 「いや、解ったんだよ。そうだったんだ」 「そうだったって、何が?」 「館《やかた》だよ。この《白亜の館》さ」と、加々美は明るい表情で答えた。「……つまり、そういうことだったのか」 「だから、何がさ。一人で何を言っているの?」  紫苑はじれったそうに尋ねる。 「この館の表側の構造だよ。山肌に沿って建てられた館の外観そのものが、錯視を起こすように造られているのさ。つまり、館の正面の広場に立ってガウディの建築物みたいなあの姿を見ると、実際よりもずっと大きく見えるようにできているんだよ」 「嘘だあ」 「だって、考えてみろ。この建物の中は三階建てだろう。しかし、外から見た時の感じはどうだった。もっともっと、途《と》轍《てつ》もなく巨大な建築物だという風に思えなかったか」 「う、うん」  加々美は頷《うなず》きながら、深く腕組みした。 「よく考えたものだ。きっとこういうことだろう。建物の下部を広く大きく重量感たっぷりに造る。そして、上部を実際に必要なよりも余分につぼめて、館の高さがより以上にあるように見せかけるんだ。それは、この部屋や僕の部屋のトリック・アートと同じ原理だよ。  人間の二つある目は横に並んでいるため、ただでさえ、水平線より垂直線の方が長く見える傾向がある。たとえば、縦と横の線が同じ長さの逆Tの字があったとする。すると、垂直に置かれた線の方が、水平に置かれた線よりもかなり長く見えるんだよ。この原理を応用して、より強化したのが、この建物の正面のデザインなんだろうな。その錯視を、うまく三角形の外観の中に隠しているわけだ。  それから、館が山肌をまるで彫り込んだ形で造ってあるのも、この錯覚の作用に寄与している。奥行きの判断が狂うだろう。見る者の遠近感を誤魔化して、建物の大きさの印象を微妙に狂わせるためなんだな。  ガウディ風の過剰な装飾も、館のそうした設計を悟られないためのカムフラージュかもしれない。設計者の入念な計算の元に築かれているんだ」 「《暁の塔》は?」 「シオン、いい点に気づいたな」と、加々美は彼を誉めた。「あの塔も、館のトリックを成立させるために必要な部品の一つなんだよ。人間の目は対照によって欺かれやすくなる。今、館が平面的に造られている理由を言ったよな。今度は逆なのさ。《暁の塔》よりも、館の尖《せん》塔《とう》の頂点がずっと高い位置にあることを示して、この館の巨大さを強調するように配置されているんだよ。下から見上げると、その差はなおさら大きくなる。  たぶん、あの塔自体にもトリックが仕掛けられている。下部と上部はきっと直径が違うぞ。あれも外壁に細工があり、実は下部より上部の方が細くなっているんだ。それだけ、下から見上げた時、背が高く見えるからな」 「へえ、そうなんだ」と、紫苑は目をクリクリ動かしながら答えた。「どうも、変な光景だと思ったんだよ。この館の外観って、馬鹿みたいに大げさなんだもん」 「とにかく、この館には、ありとあらゆるところに、悪《いた》戯《ずら》や仕掛けが施されていると考えた方がいいみたいだな。気をつけないと、何が飛び出てくるか解らないぞ」 「まあ、それってさ、遊園地みたいで楽しいことは楽しいね」  つい今まで怒っていたはずなのに、もう機嫌を直し、紫苑ははしゃぎだした。  少しして、二人は食事を取るために、水瓶座の部屋を後にした。 第4章 失われた過去と生命 1  天井の中央から、見事な繖《さん》形《けい》花《か》序《じよ》文《もん》シャンデリアが垂れ下がっていた。橙《だいだい》 色《いろ》の合わせガラスの笠《かさ》で和らげられた光が、加々美らの上に楚《そ》々《そ》と降り注いでいる。鋳鉄製の複数の燭《しよく》枝《し》が、朝顔の蔓《つる》のようにうねりながら放射状に広がって、その先端に、花模様を浮かせたこぢんまりした笠が複数乱舞しているのだ。  室内は煌《こう》々《こう》と明るいというわけではなかったが、アール・ヌーボー様式の内装飾に取り囲まれていると、むしろ落ち着いた雰囲気があってくつろげた。時々、ほんの少しだけ電灯が暗くなることがある。発電に可動式の原動機を使っているため、電力の供給が安定していないからだろう。 「——もう腹ぺこで死にそうだあ」  つい先ほどのこと。食堂へ入った途端、紫苑が真っ先にテーブルに着いた。  食堂は二階の客室を一回り大きくしたくらいに充分な広さがあって、館の北東の位置にある。東側に厨《ちゆう》房《ぼう》が隣接している。 「自分もですよ!」  と、日野原もテーブルの上に並べられた食べ物を見回し、目をギラつかせた。 「おいら、涎《よだれ》が垂れてきたっす。はい」  と、唇を左の袖《そで》で拭《ぬぐ》う格好を木田がする。 「いやね、がっついて」  と、留美子は気取ってみせたが、小さくお腹《なか》の虫が鳴ったのを紫苑に聞かれ、 「ルミちゃんの胃袋の方が、よっぽどはしたないぞ」  と、逆にからかわれた。  テーブルの上には、ナイフとフォークの横に名札代わりの色札が置いてある。それでおのおのの席が解るようになっているのだが、手荷物同様、加々美の色は赤だった。しかし、彼は天井のみごとなシャンデリアに気を取られて、うっかり横の席に座ってしまった。 「加々美先輩、そこは、自分の席です」 と、日野原が困ったように言った。 「え? ああ、ごめん。ごめん」  加々美はあらためて、正しい場所へ移った。間違えたのは、紫苑よりも上座だろうという先入観があったせいもある。ところが、留美子が彼と並びたくて、一つ下《しも》座《ざ》の方に二人の席を確保してあったのだ。 「ええと、おいらはどこでしょうか……」  木田は極度の近眼のため、分厚いガラスのはまった眼鏡の縁を親指と人差し指でつまみ、顔をテーブルの方へ突き出し、自分の席を捜す。熊が蜂《はち》蜜《みつ》を求め、森の中をうろうろしているような感じだった。  男性陣が席につくと、厨房に通じる扉から、女性たちが次々と料理を運んできた。  広いひょうたん形のテーブルに置かれた様々な食事は、田舎料理が多く、味自体もたいしたことがなかった。だが、それを盛るのに使われた食器の数々が、目を奪うほど豪華な物ばかりだった。皿もフォークもナイフも独特の美しさに彩られ、見ていてまったく飽きることがない。 「——さて、みんな揃《そろ》ったかな。今日は遠い所を本当に御苦労様。お陰で、無事にこの《奇跡島》へ到着した。今夜はもう仕事はやめにして、大いに飲み食いし、明日からのために英気を養ってくれ。それでは、プロージット!」  権堂の音頭による乾杯の後、やっと一同は待望の夕食にありつけた。皆の顔がいっせいに華やぐ。無数の芸術品に取り囲まれているという興奮と歓喜と驚きによって、テーブルでの会話は自然と騒がしいものになった。どの目も爛《らん》々《らん》と輝き、顔は上気して、後から後から、自分がこの館の中で見た多くの品物の非凡さや優秀さを、我先にと説明しだした。個々の品物に関する称賛の言葉も、留まるところを知らなかった。  いつもは沈着冷静な真梨央が、今日は特に夢中になっていた。 「広間の西側には、書斎とか音楽室とか四つの部屋があったよな。その音楽室の隣の部屋に、なかなかたいした作品が展示してあった。クリムトの油彩画や、ユーゲントシュティール様式の版画なんだよ。俺《おれ》の見たところ、どれも本物のようだった。あそこは版画が多い」 「麻生君。それは、我々の発見の第一歩としてはたいしたものだね」  そう権堂が褒め称《たた》えた。他の者たちもどっと歓声を上げて、称賛の拍手をした。 「あーん。ルミコ、あそこは通り過ぎただけだから、よく見なかったあ」  と、留美子が首を振りながら、すねた顔をした。  加々美はほがらかな笑顔を彼女に向け、 「食事が終わったら、みんなでもう一度見に行けばいいさ」 「そうだ、加々美さん。ルミコ、ひらめいちゃった。それぞれのお部屋に、かわいい名前を付けましょうよ。どこそこの部屋って言ってもよく解らないもの。一つ一つのお部屋にふさわしい呼び方をするの。たとえば、《天使の部屋》とか、《聖者の部屋》とか。ああ、素敵!」  留美子は顔を輝かせて、皆に提案した。加々美には、それが『赤毛のアン』の影響であることがすぐに解った。  真梨央は笑みを浮かべ、 「それは賛成だが、できるだけ、個々の室内にある美術品にちなんだ名前にしておこう。今、俺が言った部屋なら、さしずめ、《ユーゲントシュティールの部屋》か、《版画の部屋》というところだな」  権堂は満足げに頷き、 「いい提案だ。それでいこう。部屋の名前の命名は個々で行なっていいが、まとめ役は麻生君がやってくれたまえ」 「はい」 「それから、一番奥の所持品展示室《ギ ヤ ラ リ ー》には錠前が下りていたから、後で竹山さんから鍵《かぎ》を借りなくてはならない。そこも、みんなでじっくり鑑賞しようじゃないか」 「ギャラリーって、どんな所ですか」  と、日野原が両手でバンダナの位置を確かめながら、興味津々に尋ねた。 「何でも、美術品の展示室らしいのだ。竹山さんも、一階の中では、そこだけはあまり掃除の手を付けていないらしい。相当たくさんの品が飾ってあるみたいだ」 「それはすごいっすね!」  と、木田が大声を上げる。 「うむ。ちょっとした美術館ぐらいの蒐集品が、その部屋にしまわれているのではないかと、見込んでいるんだがね」  と、権堂が答えたので、皆の期待感は否《いや》が応でも増した。  興奮が少し収まってから、何かの話で、榊原の口からクリムトの名前が出ると、 「クリムトってムードありますよね。私、大好きです」  と、真梨央の横の友美が、うっとりとした目つきで言った。  真梨央は頷き、 「ロビーにさえ、クリムトが二枚もあったぞ。一枚は三十号の大きさで、キャンバスだ。肖像画だが、衣《い》裳《しよう》や髪飾りの描き方が原色を多用して平《へい》坦《たん》的であるところ、明らかに一九〇〇年代に入ってからのものだ。背景色に、《フリッツァ・リートラーの肖像画》という著名作品と同じ臙《えん》脂《じ》色《いろ》が使われている。  もう一枚は四号ぐらいと小さいが、退廃の感じが強く、後期の作品だと思われる。首を曲げた女が描かれているからな。どちらも、色彩はもちろん、陰《いん》翳《えい》にこだわりがあり、クリムトらしい失墜感が味わえる」  クリムトは、ビアズリーやミュシャと並び、アール・ヌーボー画家の中でも最高に有名な人物である。世紀末的な装飾趣味に彩られた絵柄と洗練された美的感覚では、他の追随を許さなかった。彼が描いた女性の幻想的な美しさにはえも言われぬものがある。  加々美も、彼の絵はかなり好みの方だった。色合いが実に豊富でありながら、全体の色調が昏《くら》く沈んでいるのが不思議で、素晴らしいと思っていた。 「クリムトの版画は、どんなものだったんだ?」  と、榊原がワインを飲みながら質問した。  彼が口に運ぶワイン・グラスも、非常に美しい品だった。一言では表現できないほど微妙な形と色を誇っている。形はチューリップの花に似ていた。手に持つ部分は細い藍《あい》色《いろ》の柄になっていて、その上に桃色のカップがのっているのだ。カップには、よく見ないと解らないほど薄く、白い蔓《つる》草《くさ》模様が刻まれていた。 「そうだな。どこかの美術館に、ユーゲントシュティール様式の作品で、青白い雲と白い月の物があっただろう。あれによく似ている」 「ああ、リーマーシュミット作の《雲の妖《よう》怪《かい》》か。ミュンヘンの博物館だったかな」  話題はつきず、あちらこちらへと飛び、口へ食事を運ぶ回数だけ、この館と館内にある芸術品に対する讃美の声が上がった。  木田は、テーブルの上を亀のように首を突き出して眺め、 「しかし、いくら食器とは言え、こんな素晴らしい芸術作品を、おいらたちが平気で使ってしまって、いいんすかね」  と、なかば本気で怯《おび》えながら呟《つぶや》いた。  加々美も最初は、その美しい造形のフォークやナイフを見事な模様で飾られた皿に当て、音を立てるのがためらわれたほどだ。  権堂は軽く肩を揺すって笑い、 「仕方がないさ、ダルマ君。この館には、こうした品々しかないんだからな。贅《ぜい》沢《たく》に浸ろうじゃないか」 「あまり食器の形や絵柄が綺麗なので、目が奪われて、食べ物の味が解らないですよ」  と、一番ぱくついていた日野原が緊張気味に言ったので、みんなの笑いを誘った。 「だったら、食器を食べればいいさ」  と、真梨央までが軽い冗談を言う。  そうして、美術論から芸術論まで交わしながら、食事は和《わ》気《き》藹《あい》々《あい》と進んだ。 「ところで、権堂さん」と、満腹になった日野原が、中国人のように小さなゲップをしてから尋ねた。「この館を造った有香子姫って、外にある《暁の塔》で死んだということでしたよね。いったいどういう状況だったんですか。よかったら、教えてくださいませんか」 「まさか、亡霊が出たりしてえ! お〜ば〜け〜」  紫苑がすくっと立ち上がって、両手をブラブラさせながら大声を上げた。 「やめて、シオン!」  と、留美子が洋服を引っ張って彼を座らせた。 「解った」と、権堂は重々しく頷《うなず》いた。「私も、龍門家の弁護士から概要しか聞いていないのだが、知っていることを説明しよう。何も解らないと、かえって気持ち悪いかもしれないからね」 「本当に、この館で、殺人事件が起きたと言うのですか」  と、加々美は尋ねた。このことは、ずっと心の底に刺《とげ》のように突き刺さって気になっていたことだった。 「その点については、はっきりとは解らないのだよ。ただ、有香子姫が、尋常ではない状態で、死体となって見つかったことは確かなのだ。不可思議としか言えない死の状況だった」 「どういう状況ですか」  と、真梨央が真《ま》面《じ》目《め》な顔で尋ねた。 「犯人がいなかったのさ——」  権堂は、ワインで口を湿らしてから話を始めた。 2 「龍門家の有香子姫が、この《白亜の館《やかた》》に、大勢の自分の取り巻きを集めたのは知っているね。もちろんそれは、自分に求愛する上流階級の男性がほとんどだった。彼女はここで、彼らからの寵《ちよう》愛《あい》を受けては自分の幸福な身を享受していた。そして、毎夜大げさな舞踏会を開いて、酒池肉林の騒ぎをやらかしていたらしい。  彼女は、この芸術に包まれた城に君臨する女王だった。そして、快楽と美を追求する女王という意味では、ココ・シャネルであり、コレットであり、マリー・ローランサンであり、テレーズ・デスケルゥであり、レビュの女王のミスタンゲットであり、ダンサーのジョセフィーヌ・べイカーだった。彼女はありとあらゆる欲望と男性の欲求に対応するため、様々な形態の女に変《へん》貌《ぼう》できる特別な人間だった。  そんなある日の朝のことだった。不幸は突然、この館に訪れた。彼女の死体が、《暁の塔》の天辺で見つかったんだな。  時折、彼女は早朝にあの塔に昇って、陽が昇る美しい風景を眺めたり、らんちき騒ぎに飽きると、一人っきりになって、潮《しお》騒《さい》の音に耳を傾けていたらしい。この時も、酔っていて、星を眺めると言い残して塔へ上がったそうなのだ。  彼女の死体を発見したのは、彼女の男友達の一人だった。彼女が朝食に出てこないので心配して、館中を捜し、最後に、彼女の死体を塔の上にある展望室で見つけたという。塔の中は——明日行ってみると解るが——一本の螺《ら》旋《せん》階段があり、最上階に小さな部屋があるだけだ。  その男友達は階段を昇り、部屋へ入って死ぬほど驚いた。彼は、床に倒れ、変わり果てた姿の彼女を発見したのだ。その上、彼女はただ命を失っただけではなかった。他にも失ったものがあった。それは何と、死体に頭部が存在しなかったことだ。すぐ脇《わき》の床に、血塗られた凶器の斧《おの》が落ちていた。彼女の首は、それで無惨にも切断されたのだった。しかし、現場には、彼女の頭部はどこにもなかった……」  皆は、話の異様さに一瞬ひるんだ。加々美も、まさかそんな凄《せい》惨《さん》な事件が起きたものだとは考えていなかった。 「……では、他殺だったわけですね」  と、真梨央が、長い顎《あご》を撫《な》でながら確認した。 「当然、そのように見えた」と、権堂は曖《あい》昧《まい》に頷《うなず》く。「だが、そう断定できない理由もあった」 「どんな理由ですか」 「警察が本土から来て、事件を調査した。そして、幾つかのことが——まったく不可解なことが解ったのだ。  館の中には、使用人を別にすると、有香子姫を我が物にしたいと切望し、反目し合っていた五人の男性がいた。警察は、その中に犯人がいるはずだと考えた。つまり、可《か》愛《わい》さ余って憎さ百倍。他の青年に愛する者を取られるぐらいなら、彼女を殺してしまって、永遠に自分の物にしてしまおうと考えた者がいると、想像したわけだ。  しかし、なかなか容疑者を特定できなかった。その理由の一つは、彼らがいずれも、政財界や学者や軍事関係の大物の息子たちであり、警察も簡単には手を出せなかったことにある。その連中は後に、それぞれかなりの地位に就いている。ゼネコンの社長、弁護士会の会長、ある県の医師会の副会長、某大学の名誉教授、某天文研究所の所長などだね」  真梨央が眉《まゆ》根《ね》を寄せながら、 「《奇跡島》へ来た警察関係者は、その人たちの出自や影響力に遠慮して、捜査に手心を加えたというのですか」 「それもあるが、もう一つに、有香子姫の殺害方法自体が完全に解明できなかったことが大きい。死体の状況があまりに不可解だったため、犯人が殺害に及んだ方法の解明も、容疑者の特定もできなかった」 「どういう意味ですか、凶器の斧で切り殺したわけでしょう?」 「単純にそうは言えんのだ。何故かと言えば、青年たちのアリバイや、死体発見現場の様子を検討すると、誰も塔の上の彼女に近づいて、殺すことができなかったということになるからなんだよ」 「というと?」 「その当時は、この《白亜の館》と外の《暁の塔》の間にある空き地には、白砂が敷き詰めてあったそうなのだ。ところが、館から塔へ向かう足跡が、彼女のものしか存在しなかったのだよ。前夜、天気雨のような一時的な小雨が降ったものだから、彼女が歩いて塔へ向かった一方通行の足跡が明《めい》瞭《りよう》に残っていた。また、彼女が雨が止んだ後わりとすぐに、一人で塔へ向かったのを彼女の小間使いが見ている。  被害者の死亡時刻に関しては、青年たちの一人が医者の卵だったので、死体発見時にすぐ確認してあった。彼女が死んだのは夜中の十二時から二時の間、たぶん深夜一時頃という見立てだった。小雨が降ったのは夜十一時頃だ。  死体発見が館内に知らされた時には、砂地には、有香子の足跡の他に、当然のことながら、死体を発見した青年の足跡が残っていた。だがしかし、彼は犯人ではない。彼女の死亡時刻には、彼は館内にいたことがはっきりしているからだ。彼は深夜三時頃まで、他の青年と二人で酒を飲んでいた。使用人の一人がつきっきりで世話を焼いていたので、その点は間違いないのだ」 「つ、つまり、《足跡のない殺人》ってわけっすね!」  木田が腰を浮かせながら、興奮した顔で尋ねた。 「何だい、ダルマ。その足跡のない何とかって」  日野原が横を向いて尋ねた。 「推理小説の用語っすよ。殺人現場に、被害者の足跡しかなく、まわりに犯人の足跡も他の痕跡も何もない状態なんです。そんな不可能と思われるような殺人状況を、《足跡のない殺人》って言うんす!」  権堂は眼鏡をはずしながら、深く頷いた。 「その意味なら、そのとおりだね。塔の最上階にある展望室の窓は、海側を向いてる。もちろん、断《だん》崖《がい》の方から、塔の上によじ登るなんてことは不可能だ。塔への入り口も一つしかない」 「それが事実なら、本当に、不思議な出来事ですね」  と、友美が驚き顔で言った。 「そう。非常に奇妙だ」と、権堂はしかつめらしく頷き、「事件の時間経過をまとめてみると、こんな具合になる——」  と、彼はその場でメモに書き留めてみせた。  夜十一時頃  小雨が降る。  夜十二時頃  有香子姫が、本館から塔へ一人で行く。  夜中の一時頃 何者かが、有香子姫を殺害。凶器は斧らしく、死体の首を切断、頭部を持ち去る。  翌日、朝八時 ある青年が塔へ昇り、有香子姫の死体を発見。 「——つまり、普通なら、有香子姫の後に塔へ昇った犯人の足跡も、雨に濡《ぬ》れた砂地に残っていなければならない。にもかかわらず、現場には彼女の足跡しか存在していなかったわけだ」 「ま、待ってくださいよ」と、木田が興奮して叫んだ。「犯人が、有香子姫より先に塔へ昇っていたらどうなんすかね。それなら、犯人の足跡がなくても不思議はないっす。雨が消してしまったわけっすから」  すると、日野原が陽気に笑い、 「ダルマ。それなら確かに、犯人が塔へ向かう時の足跡は残さないですむよ。だけど、館へ戻る時の足跡はどうするんだ。結局、残ってしまうじゃないか」 「い、いや。それには方法があるんすよ。たとえば、死体を最初に見つけに来た男がいますね。その男に、犯人は館までおんぶしてもらって帰るんすよ。そうすれば、被害者の足跡は別にして、現場には、死体発見者一人分の往復の足跡しか残らないっすからね」 「だけど、それだと、帰りの足跡だけが深く付いてしまう。つま先の方が、踵《かかと》の方より重みで掘れてしまうだろう。だから、不自然になってしまって、一《いち》目《もく》 瞭《りよう》然《ぜん》だよ」  権堂が髪の毛を指ですきながら、 「それと、有香子姫が塔へ向かった時には、他の者たちは本館にいたそうだ。これは警察が確認してある。何でも、男たちは、雁《がん》首《くび》揃《そろ》えて玄関まで彼女を見送ったそうなのだ。彼女が一人になって酔いをさましたいからと言うので、後に残されたわけだね。  したがって、事前に、誰かが塔に隠れていたということはない。無論、滞在客以外の第三者ということも考えられるが、この孤島のことだ。殺人鬼がこっそり本土から渡ってきて、森などに隠れひそんでいたなどとは、およそ考えられない」 「じゃあ……ですね。犯人が、有香子姫を殺害した後、彼女の首を持ったまま窓から海へ身を投げたらどうでしょう。海へ飛び込んで逃げるんす」  榊原が吸っていたタバコを口から離し、嘲《あざ》笑《わら》った。 「馬鹿馬鹿しい。ダルマ、あんな高い塔だぜ。窓から海面まで何メートルあると思うんだ。塔だけじゃなくて、その下にも二十メートル近い断崖があるんだぜ。たとえ満潮になっていたとしても、とうてい無理に決まっているじゃねえか」 「それならですね、犯人は飛び降り自殺をしたのかもしれません」  木田は意地になって言い張ったが、権堂に軽く一《いつ》蹴《しゆう》された。 「今も言ったが、殺人の前も後も、館内からいなくなった者は誰もいない。だから、その仮説は実際問題として成り立たない。こんな孤島で起こった事件だから、やはり犯人は、館の中に皆と一緒に混じっていたと考えるのが筋だろうねえ」 「そうですか」  と、木田は意気消沈して肩を落とした。 「魔術のショーよ、ね、ね、加々美さん!」と、留美子が加々美の手を握って左右に振り、無理やり同意を求めた。「ほら、インドの手品にあるじゃない。ロープが笛の音に合わせて、空高く雲まで上がっていく奴《やつ》。それを猿か子供がスルスルと昇っちゃって、最後に見えなくなるの。ルミコ、あれって、昔からずっと不思議に思ってたんだあ」 「う、うん」  加々美は仕方なく頷いた。 「ルミちゃん、それって、本当にあった魔術じゃないんだよ。あれは、お話の中だけの魔術なんだよ」  と、紫苑が指摘した。 「嘘《うそ》よ。ルミコ、見たもん」 「どこで?」 「覚えてない」 「ほーら、みてごらん。そんな魔術なんか存在するもんか」  止めないと、二人の口《くち》喧《げん》嘩《か》がいつまでも続きそうだった。間に入る代わりに、加々美は権堂に質問した。 「ルミコが言っていたのとは少し違いますが、塔の窓からロープを下に垂らして脱出することはできませんか」 「だめだと思うね」と、権堂は否定した。「まず、さっきから言っているとおり、窓の真下の壁は、まっすぐ断崖に繋《つな》がっている。よほどの登山経験者でなければ下りることができない。それと、塔の上の小部屋には、ロープを結ぶような所がまったくないんだよ」 「室内に共犯者がいて、その紐《ひも》を握っていた……なんてこともないか。そうだったら、足跡がもっと変な状況になってしまう……」  加々美は自分で言いだして、自分で口をつぐんでしまった。  真梨央は細長い顎《あご》に指をやり、撫でながら、これまでの点をまとめてみた。 「結局、窓からも、塔の下の入り口からも、犯人は脱出不可能だった。にもかかわらず、犯人は残虐な殺人を行ない、あの塔の中から忽《こつ》然《ぜん》と消え失《う》せてしまったわけなのですね」 「そういうことだ」と相《あい》槌《づち》を打った後、権堂は友美と留美子を交互に見て、「ところで、加嶋さん、武田さん。不思議なことは、それだけではないんだよ、もっとおかしなことがあったのだ。事件後すぐに、館にいた者たちが皆で、犯人と犯罪の手がかりを求めて館内を捜索した。そして、彼らは、思いもかけぬ物を見つけたのだ」 「え、何ですか……」  友美は、少し怯《おび》えた目をした。 「館の中には、以前から、有香子姫が自分に似せて作った蝋《ろう》人《にん》 形《ぎよう》が置かれていた。自分と瓜《うり》二《ふた》つの蝋人形を作り、それを彼女は、本気で自分の分身であるとのたまっていた。そして、格好まで自分と同じに着飾らせ、広間かどこかにこれみよがしに展示していたらしい。ところが、その蝋人形も、主人と同じく首を切断され、頭部が盗まれていたことが判明したのだ」 「そ、それじゃあ、何ですか」と、驚きに言葉を詰まらせて、木田が言った。「有香子姫と、彼女の姿を生き写しにして作った蝋人形とが、どちらも首を誰かに切断され、頭を奪われたって言うんですか、権堂さん〓」 「何でそんなことを〓」  と、日野原が大声で問いかけ、 「ひっどーい!」と、留美子が口に手を当てる。「ルミコ、そんなことをされたら、きっと、死んじゃうわ!」 「犯人は、被害者の首や蝋人形の首をどうしたのですか」  と、真梨央が冷静に尋ねた。 「解らないんだ」  と、権堂はかぶりを振った。 「ちょ、ちょっ、ちょっと待ってくださいよ」と、木田が大発見でもしたかのように言った。「その、死んでいた女の人というのは、本当に、有香子姫だったんでしょうかね」 「どういう意味かね」  権堂は尋ねる。 「頭部がなくなっていたわけっすよね。だとしたら、顔では身元確認できないじゃないっすか。本当は、別の女性の死体だったなんてことはないっすか。もしかすると、これは、《顔のない殺人》でもあるかもしれないっすよ!」 「それはない」と、権堂は苦笑した。「何度同じことを言えばいいのかな。事件発生時に、館内からいなくなった人間は、男女問わず誰もいないんだ。それに、警察が指紋やら何やらで、彼女が死体の主であることを確認してあるはずだよ」 「そ、そうっすか……」  木田は悄《しよう》然《ぜん》として座り、権堂は話を続けた。 「結局、事件は迷宮入りとなって、犯人は捕まらなかった。有香子姫の首も、蝋人形の首も見つからなかった。足跡の謎《なぞ》も、殺人の動機も解明されなかったんだ。  そのために、有香子姫の父親はこの館を封印した。最愛の娘を失った悲しみを、殺人の謎と共に封じ込めるためだ。だから、この長い年月、この館の中には誰も足を踏み入れなかったのだよ」  そんな怪しげな話を聞いてしまうと、どうしても心の中に、ある種の影響を受けるのを避けられなかった。加々美は少し気味が悪い思いをしながら、この豪《ごう》奢《しや》な室内を見回した。そこに見られる華美な飾り付けは、アンバランスな精気と共に、むしろ死に繋がる感のある頽《たい》廃《はい》性を醸し出していた。 「……それで、事件の真相は闇《やみ》の中というわけですか」  日野原は少し青ざめた顔で尋ねた。体格が良いくせに、彼は恐《こわ》がりでもあった。  権堂は厳粛な面もちで頷いた。 「そういうことだ。これが、この《奇跡島》に存在する数々の不思議の一つなんだよ。だから、我々自身でその謎《なぞ》を解かないかぎり、誰もその秘密の正体を知ることはできないんだよ——永遠にね」 3  食事が終わったところで、提案されたとおり、ギャラリーを皆で鑑賞しようということになった。ワインを飲み過ぎて眠気が来た権堂を抜かして、他の全員がこの特別行事への参加を希望した。図書室と《版画の部屋》を簡単に見た後で、いよいよ、館内の北西の角にあるギャラリーへ入ることになった。 「何だか、幽霊屋敷に向かっているみたい」  と、廊下を歩きながら、紫苑が顔をしかめて言う。  するとすかさず、木田が呼応した。 「あかずの間って奴っすよね。長い間、封印されていた秘密の部屋の御開帳。神秘的で、怪しげで、とってもいい雰囲気っすよ。殺人があった場所には相応《 ふ さ わ》しい舞台設定っす。いったい、この隠された部屋で、我々を待ち受けているものは何か——死者か亡霊か、悪魔か魔女か、呪《のろ》いか祟《たた》りか、狂気か憎悪か、恐怖か、はたまた何なのか」 「いやーん」  と、留美子が大げさに身をすくめて加々美の背中に隠れる。  日野原は白い歯を見せて大笑いをし、 「ダルマ、お前、怖い推理小説の読み過ぎだよ」  と、力強く彼の背中を叩《たた》いた。  食堂の前の廊下を西へまっすぐ進み、書斎の前から別の廊下へ入る。すぐまた角を曲がって、その突き当たりがギャラリーだった。  部屋の入り口は、白い磨りガラスの両扉になっていた。ガラスには、等身大の女神の図案が左右対称にやや内側に向き合う形で施されている。かなりの立体感を伴った浮き彫りだった。女神の髪は長く、肩から足元まで柔らかなローブのような衣服を纏《まと》っている。そして、背中に、後光とも翼とも付かない美しい飾りを背負っているのが特徴だった。女神像の周囲には、黒いがっしりした樫《かし》の木枠に沿って、金色に塗られた花びらの図柄が取り巻いている。 「これこそ、眠れる女神だな——」  称賛まじりの囁《ささや》き声がした。扉を見つめる真梨央の目が、強い熱を帯びて輝いている。  加々美は、そのルネ・ラリック調のデザインを見て、旧浅《あさ》香《かの》宮《みや》邸《てい》にある玄関装飾板を思い出した。 以前一度行っただけだが、思い返してみて、かなり似ていると思った。 「サインはありますか。これ、まさか本物のラリックじゃないでしょうね」  と、加々美は期待半分に、真梨央の後ろから尋ねた。  真梨央は、扉全体を腰を屈《かが》めてじっくり観察した。長身の彼は、背中を丸めるだけでも窮屈そうだった。 「残念だが、作者のサインはないようだね。だが、相当丹念に造ってあるよ。蝋《ろう》型《がた》鋳造の高浮き彫りでこれほど大きな作品を作るのは、並大抵の作業じゃないぞ。当然、お金もかかるしな。一点物ならなおさら貴重だ」  真梨央は、女神の像の丸みを帯びた二の腕の部分に指を這《は》わせた。花びらの金色が、廊下の光の加減で浮き彫り状に映り、像全体にとてもガラスでできているとは思えない豊《ほう》潤《じゆん》な陰《いん》翳《えい》を形成していた。  榊原が苛《いら》ついた声を挟んだ。 「真梨央。そんなものは、後で調べろよ。それより、早く扉をあけてくれ」 「ああ、すまない」  真梨央はあわててズボンのポケットから棒《レバー》 鍵《タンブラー》 を取り出し、鍵《かぎ》穴《あな》に差し込んだ。ボルトは予想外に楽に回った。彼は、鋳鉄製のノブをゆっくり回した。蝶《ちよう》 番《つがい》にもつい最近油をさしてあったらしく、扉は特に軋《きし》むこともなく、静かに滑らかに手前へ動いた。  扉が開くと、長い間、室内に閉じ込められていた重たい静寂がその向こうに見える気がした。沈んだ匂《にお》いのする空気が、その静寂を押しのけて外へ流れ出す。真梨央が扉を両側に目一杯開くと、榊原がそこに現われた暗《くら》闇《やみ》に挑むように進み、照明のスイッチを捜して壁に手を伸ばした。  皆は、何となく固《かた》唾《ず》を飲んだ。カチリとスイッチが入る音がする。室内の薄暗いシャンデリアが点《つ》くと、ガラス扉の女神はその光を受けて、ますます輝いて見えた。  榊原が最初に室内へ踏み入った。他の者も後に続く。  途端に、友美の悲鳴に似た歓声が上がった。しかもそれに、他の男性たちの驚きの喘《あえ》ぎ声が重なった。  加々美も、一歩中へ入っただけで、ギャラリー全体の醸し出す豪華な雰囲気に強い感動を覚えた。  室内の内装や装飾は白一色で、何もかもが傲《ごう》然《ぜん》と構えていた。丸くて蛇の胴体のようにくねった大理石の柱が数本、壁際から天井に立ち上り、そのまま曲折して欄干と欄間を形作っている。化粧漆《しつ》喰《くい》を施した天井は、四方からせり上がった壁が湾曲した面によって天《てん》蓋《がい》を成している。所々に、細目の扇細工や、レースのような繊細な薔《ば》薇《ら》飾《かざ》りが浮き出ている。そして、左右の柱と柱の間には、貝を二枚重ねたような華美なステンド・グラスの窓がそれぞれ存在した。  部屋の大きさは十五メートル四方ほどで、かなり広かった。そこに所狭しと、頭から布を被せられた装飾品や彫像、美術品、家具などが、まるで西洋の亡霊が群れをなして立っているように設置されているのだった。照明は、銀製の大きなシャンデリアが天井の中央に一つあり、四方の壁にも、リンドウの花束を象《かたど》った薄紫のランプが一つずつあるが、どれも光源としては弱く、室内はそれほど明るくなかった。  皆はすっかり言葉をなくした。静まり返った荘厳さが室内全体に充満しており、置かれた物を見ればみるほど、深い感銘を受けざるを得なかった。 「——た、たいしたもんす」  と、木田が眼鏡を指で押さえ、キョロキョロあたりを見る。 「これは、たいへんだあ」  と、日野原が首をぐるりと回しながら言う。 「綺《き》麗《れい》ですねえ」  と、友美が感嘆の声を上げ、 「夢みたいだあ!」  と、紫苑が子供じみた大仰な驚声を上げた。  ところが、留美子は何故かただつっ立って、ぼうっとシャンデリアの真下の宙に視線を向けている。加々美は、いつもの彼女なら真っ先にはしゃぎ回るのにと訝《いぶか》しんだ。 「どうしたんだい?」  尋ねると、彼女はハッと我に返り、可愛い顔を加々美に向けた。 「え、何?」 「何だよ、ぼんやりして」 「ううん。びっくりしちゃって」  留美子は、綿のように柔らかい髪を波打たせながら、かぶりを振った。そして、たった今目覚めたみたいに瞼《まぶた》をパチパチさせた。  加々美は、また彼女の霊感かなと思ったが、あえては訊《き》かなかった。 「さて、どこから、手をつけたらいいかな」  真梨央が一同の前へ進み、腕組みして室内を見回している榊原に尋ねた。 「とりあえず、このカバーを全部取るしかないだろう。廊下へ出せばいいさ。片づけは、管理人がやってくれるよ」 「じゃあ、そうするか」  四年生の二人は相談して決めると、皆に命令を下した。室内の埃《ほこり》や汚れは、すでに管理人の竹山夫婦がほとんど掃除してくれていた。だから、それほど汚くならずとも、作業を終了することができた。  白布の下から現われた数々の作品を見て、皆の感動は爆発的に巨大化した。それらはどれも、筆舌に尽くしがたい素晴らしい芸術品ばかりであった。室内には、四つの大きな楕《だ》円《えん》卓《たく》と、六つの小さな円卓、それと幾つかの小彫刻置台があったが、その各々に、花瓶やら壺《つぼ》やら、蓋《ふた》付《つき》瓶《びん》、香水瓶、仮面、飾り鉢、置き時計、彫刻、デカンタ、グラス、キャンドルスタンド、小型ランプ……など、ありとあらゆる形態の美術的な工芸品が置かれていた。  壁には、ナンシー派絵画の油絵や、肖像画、陶版画、柱時計、飾り鏡、ポスター、装飾パネル、石版画《リトグラフ》などが掲げられている。また、それ自体が一個の芸術品と言えるような凝った造りの陳列棚があって、ガラスケースの中には、髪飾り、ブローチ、首飾り、指輪、カメオなど、数えきれないほどの装飾品が収められていたのである。  加々美も他の者たちも、この美術品の群れを見て、何を言えばいいか、何をすればいいか、どう対処すべきか、まったく解らなくなった。ただ呆《ぼう》然《ぜん》とするばかりだった。ギャラリーという名のとおり、この部屋全体がアール・ヌーボー芸術の壮大美麗な展示場であった。しかも、その作品群の価値からすれば、ここは宝物庫だった。宝の山を内包する奇跡の殿堂だったのである。 「……さすがに、これだけの品があると、何だか恐ろしくなってきたな」  と、真梨央がチューリップ・ハットを脱ぎ、右手の袖《そで》で額の汗を拭《ぬぐ》う。  彼が、こんな風に気後れしたことを言うのは珍しい。しかし、加々美にもその気持ちがよく解った。芸術を愛する人間にとり、今この場所は天国にも等しかった。他の者も、みんな厳粛な気持ちになっていることだろう。 「加々美、見ろよ。このテーブルはラトーみたいだぞ」  と、真梨央が目を輝かせ、右手にある小型の家具を示しながら言った。  普段、機能的な家具を見慣れた者からすれば、それは風変わりで凝った造作をしていた。すぐ近くにある小円卓は、イカの足のように湾曲した脚を持ち、床との設置部分が尖《とが》っている。また、大理石を使った天板と脚の付け根には、鳩や孔《く》雀《じやく》、羽根などが彫り物にされている。 「ラトーって誰〓」  と、紫苑が横から口を挟んできた。  加々美は答えた。 「オーギュスト・ラトーはフランスの技術者だよ。蒸気タービンを研究した人間さ」 「ええ〓」  紫苑は目を丸くして、加々美の取り澄ました顔と、テーブルの横にしゃがみ、蛇の尻《しつ》尾《ぽ》にも見える脚の一本を撫《な》でている真梨央の顔を見比べた。 「加々美は冗談を言っているんだよ、シオン」と、真梨央はその姿勢のまま言った。「同じラトーと言っても、こっちはアルマン〓=アルベール・ラトーと言って、アール・デコ時代を代表する家具デザイナーだ。もちろん、アール・ヌーボー時代から活躍していた人だ。東洋美術と古典様式から着想を得た非常に前衛的な手法を用い、特定のパトロンのために斬《ざん》新《しん》な家具をデザインした。かなりエリート意識の強いデザイナーさ」  今度は、少し離れた所から、留美子が口を出した。 「ねえ、加々美さん。あのガラス扉を造ったかもしれないラリックも、アール・デコ時代の人よねえ?」  加々美は、女性二人の方を振り向き、 「そうだよ。だがね、厳密に区分はできない。アール・デコは、アール・ヌーボーの影響がなければ存在すらしていないからね。龍門有香子という女性が、ヨーロッパの装飾品をこの館《やかた》に集めていた頃には、すでにどちらの芸術文化も成熟しており、混在して蒐《しゆう》 集《しゆう》されていても何もおかしくないんだ」 「そうかあ。どっちにしても、これらって、すごい蒐集品なんだね」  と紫苑が、大げさに恐れおののいた顔をした。 「それをまあ、俺たちが、これから確認するわけだがね。明日の朝から、皆で調査を開始しよう」  真梨央は立ち上がると、また帽子を被り、部屋の奥にあるリトグラフを見ている榊原の方へ行った。  加々美と日野原は、中央のテーブルの上にある置物や彫刻を眺めながら、しばらく品定めをした。留美子と友美はある陳列棚の前で立ち止まり、宝飾品の魅惑的な光にすっかり目と心を奪われている。男性にはあまり解らない、女性ならではの反応である。  そのテーブルには、八個の同じ外形をした花瓶が置いてあった。色と文様が違っている揃《そろ》い物で、アシッドにエナメル彩色で着色したものだった。加々美と日野原は、それを一つずつ手に取って銘を調べだした。加々美は紫色の花瓶の底をひっくり返し、 「タケシ、これにはサインが入っていないな。そっちの花柄の奴《やつ》はどうだ?」 「花柄ですか。花柄は隣の緑ですよ」と、日野原は左端の花瓶を取り上げた。「赤い奴はトンボ柄ですね。図案は、かなりデフォルメしてありますが」 「あ、そうか」と、加々美は顔をしかめた。「似ているので間違った。ごめん。で、サインは?」 「ないですね。でも、ガレ・タイプなのは確かです」  二人が、それぞれに持った花瓶を比較していると、 「——ねえ。これ、何かな、加々美さん」  と、左の採光窓の前で、紫苑がこちらを振り向き、右手を上げて加々美を呼び寄せた。そこでは木田が一緒になって、小円卓の上の複雑な形の飾り物を見物していた。 「ああ、それか。何とかドールって言うんだ。ルミコに訊《き》いてみろよ」 「何、何。あ、ああん。それは、ワックス・ドールだわ」  と、スカートを翻して、留美子はすっ飛んできた。およそ人形に関することなら、彼女は何にでも目がないし熟知している。  脚と台受けがトンボの形をした小円卓の上に、紺色の広くて浅い皿があった。直径は五十センチ以上。その上に、多様な形と服装と色彩を施された小瓶ぐらいの大きさの人形が複数、円形になるように並べられていたのである。  木田が尋ねた。 「ワックス・ドールですか。へえ、これが」 「そうなの。名前のとおり、蝋《ろう》で作った人形のこと。西洋の修道院で、毎夜使って溶けた蝋《ろう》燭《そく》の蝋を尼僧などが手でこねて、こういう風に人形に作るの。修道院って貧しいじゃない。だから、これを売って、生計の足しにしたんですって。苦労したのねえ」 「珍しいんですかね」 「モチ。元が蝋だから、かなりもろいでしょ。だから希少価値があるし、できが良くて保存状態が良好な物は、アンティークとしても、非常に珍重されているの。ルミコの家のお部屋にも、何体かあるわ。可《か》愛《わい》いのよお。ルミコ、とっても大事にしてるんだから」 「じゃあさ、タッソー夫人の蝋人形館にあるようなものなんだね」  紫苑が短絡的に結論づけたので、横で聞いていた加々美は苦笑した。そして、一番手前にあった貴婦人の人形を手に取ってみた。王様や尼僧、騎士、道化など、中世の西洋文化に即して写実的に、一体ずつ違った形をしている。顔の細かい造作なども、かなり迫真的だった。 「けっこう、精巧にできてる物なんだな」  加々美がつくづく言い、人形を皿の上に戻すと、紫苑は、皿の上の物を一つずつ指さして数えた。 「一、二、三……全部で九個だね。何だか、半端だなあ」 「真ん中に、もう一つあったんだろう。神様の格好か何か、お偉いさんの人形がだよ」  加々美はたいして気がなく、生返事をした。構図的には、皿の中央にもう一つ人形があった方がバランスは取れている。 「うーむ」と、木田が腕組みし、人形に顔を寄せて、眼鏡の奥からじろじろと観察した。「……これは偶然ですかね、加々美先輩」 「偶然? 何が?」 「おいらたちの人数も、権堂さんを含めると九人すよね。この人形の数も九体。ぴったり同じです。何だか、不吉なことを暗示しているように思えませんか」  加々美は、答える前に少しだけ言葉に詰まった。 「馬鹿言うなよ。偶然に決まっているだろう。本来なら、今言ったとおり、真ん中にもう一体飾ってあったのさ。たぶん、蝋燭を切らすか何かして、代わりに燃やしてしまったんだろう」 「だとすると、なおさら、不気味なんですよ」  と、木田は分厚い眼鏡の奥から、加々美の顔をまっすぐに見返した。 「何がだよ」 「たとえば、正体不明の人間がこの館の中にひそんでいるとしたらどうっすか。そうしたら、おいらたちと、その人物を足して、ちょうど十人になります」 「馬鹿な。誰が隠れていると言うんだよ」  加々美はわざとちゃかすように言った。  しかし、木田は真《ま》面《じ》目《め》腐《くさ》った顔を崩さなかった。 「いえね、九人と九体。これは偶然にしては、あまりにできすぎているという感じがしたもんすから——」 4  不安と困惑の沈黙が、灰色の影となって、わずかの間一同の上に覆い被《かぶ》さったような気がした。加々美は、自分で自分が青ざめたのを実感した。しかし、なるべく感情を表へ出さないよう努め、無理やりな笑みを頬《ほお》に浮かべた。 「それは、幾らなんでもこじつけだよ。十という数字は切りがいい。世の中には、頻繁に存在する数だ」 「しかし、推理小説ではっすね、人形を使った脅かしの趣向が頻繁に使われているもんなんすよ。《童謡殺人》などに利用されたりして」  木田は得意気に説明したが、加々美は訳の解らない単語に面食らった。 「何なの、それ。ダルマさん?」  紫苑も、目をパチクリさせた。 「一番有名なのが、アガサ・クリスティーの『そして誰もいなくなった』というサスペンス・ミステリーです。ある孤島に十人の人間が招かれて、その人たちが、一人ずつ殺人鬼に殺されていくという物語なのです。そこにある邸宅の一室には、十個のインディアン人形が飾られていて、人が一人死ぬ度に、その人形が一体ずつ犯人によって取り去られていくんです。つまり、人形が犯人からのメッセージになっているわけなんです——お前たちを、皆殺しにしてやるぞっていう」  日野原が、これ見よがしに声を出して笑った。 「馬鹿馬鹿しいな、ダルマ。よくその皿の上を見てみろよ。埃《ほこり》よけを被っていたにもかかわらず、人形の置かれている輪郭に沿って、古い埃がこびり付いてしまっているじゃないか。昨日や今日、そんな風に人形が置かれたものじゃないぞ。いいや、それどころか、この部屋が閉ざされてから、ずっとこのままだったんじゃないかな」 「ええ、まあ……それは、そうすよね」 「加々美先輩が言ったとおり、偶然だよ。偶然」 「だったら、いいんすが……」  木田は、しつこく後ろ髪が引かれるような目を人形にやった。 「へえ。ダルマさんて、意外に心配性だったんだね」  と、紫苑も噴き出しながら言う。 「小心者なのさ」  と、日野原もからかう。 「そ、そんなことは、ないっす。ただ、用心には用心を重ねた方がいいかと思って……」  木田がそう言って情けない顔をしたので、他の三人はケラケラ笑った。  日野原は、木田の頭を大きな手で撫《な》でて、 「そうだな。三十年前に、予言能力か予知能力がある人間がいて、これから僕らの身に起こる危難について、運命を察知していたかもしれない。だとすると、どこかにメッセージが残ってないかな」  とわざとらしく、目の上に手を庇《ひさし》にして置き、周囲を見やった。 「もう、いいっすよ——」  木田は恥ずかしそうに、太った顔を赤らめた。  加々美は、左手の壁際に水晶にはまった小型の時計を見つけ、そこへ行こうとした。だが、その時だった。  部屋の一番奥の方から、突然、友美の絹を裂くような叫び声が湧《わ》き上がったのである。  皆は驚きに身をすくませ、彼女の方を振り向いた。彼女はそこにあった白いクローゼットの扉をあけて、中の物を見つめたまま、慄《りつ》然《ぜん》と立ちすくんでいた。 「どうしたんだ、友美〓」  真梨央が叫んで、あわてて装飾品の数々の間を擦り抜けて彼女に近づいた。皆もそれにならい、何事が起きたのかと、急いでクローゼットの前に集まった。 「……ご、ごめんなさい」と、弱々しい顔で友美は振り返った。「ちょっと、驚いただけなんです。この中に、人間がいたのかと思ったものですから……」  それを見た瞬間は、加々美も少しだけ心が冷たくなった。しかし、すぐに友美と同様、自分の間違いに気がついた。  クローゼットの中には、衣服などはまったく存在しなかった。その代わりに、等身大の人形が風変わりな衣《い》裳《しよう》を身に付けて、立ち姿のまま仕舞われていたのだった。  榊原が細めた目でそれを見て、即座に、 「——何だよ。ただのマネキンじゃねえか。脅かすなよ」  と、軽《けい》蔑《べつ》したように言った。 「……すみませんでした」  友美は後ろに下がり、留美子と胸の前で手を繋《つな》いで寄り添った。真梨央が榊原と並んで、彼の言葉を訂正した。 「マネキンじゃないな。これは、正真正銘の蝋人形さ」  その蝋人形は、加々美には、ドメーテル・シパリュスが作った《セミラミス》という古代アッシリアの女王像を模した物に見えた。低い円形の台の上にのっており、両手を横へ水平に伸ばしていた。高いヒールをはいた左足を、やや前に出した優雅なポーズだ。衣裳は薄手の物で、腕から金色の刺《し》繍《しゆう》の施されたケープが波紋状の線を生んで垂れ、その豊満な体の線を引き立てるように広がっている。首や腕に、ダイヤをちりばめた宝飾品を付けていた。  だが、友美をはじめ皆を一番驚かしたことは、実はその人形に関するある別の特徴だった。それは、人形に、頭部が存在しなかったことであった。 「こいつ、頭がないじゃない!」  と、紫苑が強く指摘する。 「く、首なし人形なんですね」  と、木田が臆《おく》病《びよう》そうに呟《つぶや》く。 「そうか、これですよ」と、日野原が大きな声で喚起した。「食事の時に、権堂さんが言っていたじゃないですか。あの人形ですよ。この館の主、有香子姫が自分の分身として作ったという蝋人形。彼女が殺された時に、彼女と同じように首を切られ、頭部を盗まれたという人形。それが、この蝋人形なんですよ」  真梨央は目を細めて人形を品定めし、 「どうやらそうみたいだな。他に、こんな酔狂な人形を置いておく理由は考えられないからな」  その蝋人形は、有香子姫という女主人の分身であり、また、美の結晶でもあった。彼女の芸術と生命に対する情熱と執着心が、この人形には込められていた。そしてその結果、主人の魂が失われた時に、まるで『ドリアン・グレイの肖像』という小説のように、主人とまったく同じ姿で人形まで死することになったのである。  ワックス・ドールといい、この蝋人形といい、この部屋には気持ちの悪い物ばかりが存在する——加々美はそう少し奇異に思った。皆はしばらくその人形に注目して、ガヤガヤと話をした。その内に、気短かな榊原が苛《いら》ついたように言った。 「おい、真梨央。もう俺《おれ》は疲れた。風《ふ》呂《ろ》にも入りたい。そろそろ解散にしないか」  真梨央は頷《うなず》いて、 「そうだな。そうしよう」  と、承諾した。 「じゃあ、俺は先に風呂に入らせてもらうぜ」  と、榊原は当然の権利という感じに言い、さっさと部屋を出ていってしまった。  皆の者は、まだ心残りがあってすぐには解散せず、芸術品の鑑賞を続けた。少しすると、 「ねえ、ルミコねえ、ちょっと変なことに気がついちゃった」  と、留美子が小首を傾げながら言いだした。 「何だい」  近くにいた加々美は、ぎくりとして尋ねた。 「時計なの。加々美さん、見て。この部屋の時計、みんな止まっているでしょう。それが変なの。不思議なの。だってね、全部が全部、まったく同じ時間で止まっているんだもん」 「何だって——?」  確認すると、確かに室内には、大小合わせて十個ぐらいの宝飾時計がある。加々美と日野原は全部の文字盤を確認した。彼女の言うとおり、どの時計も停止していた。無論、部屋自体が長い間閉ざされていたのだ。時計が動いていないこと自体はおかしくも何ともない。だが、どの針も、一様に一時十二分を差して止まっているとなると、これはまた別問題である。 「——あ。ルミコ、これ、何の時間だか解った」と、留美子は身近の置き時計を指さして言った。「これ、きっと、そうよ。有香子姫っていう人が死んだ時間なのよ。この館にある時計の針は、一斉にその時刻で止まったんだわ。その時間に、彼女が永遠の眠りに入ったのよ」 第5章 煉《れん》獄《ごく》と地獄の狭《はざ》間《ま》で 1  ギャラリーの鑑賞が終わった後、加々美と紫苑は風《ふ》呂《ろ》の順番を待つ間、連れだって一階のあちこちの美術品を適当に見て回っていた。すでに十一時近くなっている。  彼らは書斎へ行ってみた。ここもかなり大きな部屋である。そして、目が眩《くら》むような装飾がなされていた。壁は一面に螺《ら》鈿《でん》模様の壁紙が貼《は》られ、丸い真珠色のドーム形の窓があった。雪割草をかたどった笠《かさ》を被るランプが二つ、天井から等間隔でぶら下がっている。  部屋の中央にある書き物机は円形で、自然木のような瘤《こぶ》とねじ曲がった脚を持っていた。天板にはアルミらしい金属が貼ってある。椅《い》子《す》の背《せ》凭《もた》れも丸く、その輪の中に象眼細工の葡《ぶ》萄《どう》の房があった。 「——加々美さん。この館にある物を全部、ボクたちだけで調べるの?」  紫苑は目を見開き、室内全体を見回した。 「ああ、明日からな。かなりの大仕事になるぞ。初めの予定だと、美術品についてだけ目録を作ることになっていたが、建物自体や、室内装飾のすべても確認しなくちゃならないな。しかも、この調子では、美術品がどのくらいの数あるのかも解らない。はたして一週間で終わるかどうか」 「何だか、すごい量になりそうだよね」  と、紫苑があどけない口調で言う。 「こき使うぞ」 「ねえ、加々美さん。本当のことを言うとね、ボク、アール・ヌーボーって、どんな物を指してるのかよく解らないんだ。結局、この部屋みたいに、グニャグニャ曲がった素材でやたらに飾った工芸品を示すわけ?」 「お前なあ、今頃、何言ってんだ」  加々美は半分呆《あき》れ顔で、紫苑の顔を見返した。  しかし、紫苑はまったく罪のない目をし、舌をペロリと出した。 「へへへ。ごめーん。先週はちょっと、学校の宿題が忙しくて、調べてくる暇がなかったんだよ」 「いいかあ。アール・ヌーボーというのは、フランス語で新芸術という意味だ。十九世紀末から二十世紀初頭にかけて、西欧各国の建築や工芸、絵画などの諸芸術に流行した様式なんだ。主体とする題材を、植物などの柔らかみのある形態に借りる。そして、曲線や曲面を多用した上で、装飾的あるいは図案的に表現したものなんだ。  それまでの工業品や工芸品が実用一点ばりだったのとは対照的に、設計や外面的な構造に、有機的で、生物が持つ独特の膨らみや変化を持たせた。それが最大の特徴だよ。もちろん、そこには工業技術の進歩という要素も不可欠だと、僕は思っているけどな」 「と言うと?」 「二つの形成要点がある。一つは、曲線を多用した工業加工品を形作ることができる技術と機械が生まれたこと。もう一つは、複数の人間が一つの製品を作り上げる分業的生産方法が確立したことだ。それ以前の工業生産品は、ある意味で職人的だ。すぐれた製品も美術品も、ある個人の巧みな腕前によってしか産出できなかった。それが、個々の技術に特化した者たちが複合することによって、より以上に優れた作品を作れるようになったんだよ」 「ふうん」 「たとえば、ルミコが喜んでいたガレだ」加々美は、少し先の小テーブルにのったガラス製品を指さした。「あれにはガレの意匠が刻まれている。しかし、ガレ本人が自らの手で作ったわけではない。せいぜい、彼の手がかかっていたとして、デザインとしての下描きぐらいだ。実際の製品は、ガラス工房の複数の人間の手によるものだ。ガラス材料を選出する者、ガラスを吹く者、絵付けをする者など多様な工程を経て完成するんだ。要するに、生産設備を通しての産物なわけだ」 「うん」 「それから、アール・デコというのは、装飾美術の意味だ。一九一〇年代から三〇年代にかけて、パリを中心に西欧で栄えた装飾様式だよ。アール・ヌーボーが曲線を主とするのに対して、こっちは、現代都市生活に適した実用的で単純な、直線的なデザインを特徴としている。一九二五年様式ともいうことがあるが、デザイン的に突飛に進みすぎたアール・ヌーボーの反動として生まれてきたとも言える」 「じゃあ、その二つの様式って、敵対するものなの」 「現在ではそうではない。むしろ、歴史的に一つの連続した創造様式として認められて、定着している」 「でもさ、アール・ヌーボーって、極端に突き詰めて考えると、曲線の美学でしょう。それに比べると、アール・デコって、直線的美学の追求じゃない。芸術的には揺り返しがきて、昔へ戻ってしまった感があるよ」 「うん。表面的にはそうかもしれない。しかし、アール・ヌーボー以前の過去へ回帰したわけではなく、アール・ヌーボーというヌーベルヴァーグを乗り越え、神髄を吸収した上での、先鋭的な芸術さ。過去のものとは精神がぜんぜん違う」 「解った。とにかく、ここにある物はみんなすごく値が張るんだね」  紫苑があっさり結論づけたので、加々美はクスクス笑った。 「おいおい。だからって、一概にそう決めつけるなよ。価値があるかないかを、これから、僕らが手分けして確認するんじゃないか。  いいか、エミール・ガレだって、作品の質は様々だ。アール・ヌーボー時代でも、ガレの活躍した頃は、一品しか存在しない独自工芸作品期と、大量に同じ物が作られる複製芸術期との端境期に当たる。当然、彼の品物で一品しか存在しない逸品は芸術的な価値が高いし、美しい物でも、同型作品がたくさん存在する場合には、コレクター的価値は下がる。芸術の判断材料は、それだけ多様だということさ。  それから、真《しん》贋《がん》の判定もしなくてはならない。贋作がないか、複製品ではないかという点でも、価値判断が相当変わってくるからね」 「うーん、何だか、気が遠くなりそう」  と、紫苑は天を仰いだ。  加々美は楽しくなって、また笑った。こんなに愉快な気分になったのは久しぶりだった。やはり、美しい物や贅《ぜい》沢《たく》な品に囲まれていると、人間は精神的にも豊かな気分になれるらしい。 「さあて、風《ふ》呂《ろ》の番が来たかどうか見てこようか」  加々美は伸びを一つすると、紫苑を誘って部屋を出ようとした。ところが、紫苑は立ち止まったまま、後ろから別の質問を投げかけてきた。 「ねえ、加々美さん。ちょっと待って。尋ねたいことがあるんだ」 「何だい、まだ質問があるのか」  加々美は笑顔で振り返った。ところが、その笑顔が空振りに終わった。紫苑が何故か、ひどく思い詰めた真《ま》面《じ》目《め》な顔をしていたからだ。  紫苑は言った。 「加々美さん。訊《き》くけどさ、最近、ルミちゃんとの関係はいったいどうなっているの?」 「……何だって」  相手の質問が、加々美の胸にグサリと刺さった。  一瞬の沈黙が広がり、部屋中の空気の気温が下がった気がした。その冷気は、加々美自身の心の奥底から噴き出したものだった。 「だから、二人の付き合いのことだよ」  紫苑はまじまじと加々美の顔を見つめ、返事を求めた。  加々美の心の中で、警戒のランプがチカチカ光る。 「別に。普通だよ」  加々美は答えた。舌の上に金属をのせたような苦汁っぽい味がした。 「適当に仲良くやっているさ。そんなことより、早く風呂へ行こうぜ、シオン。汗だくだ——」 「加々美さん、ルミちゃんは、本当に加々美さんのことが好きなんだよ」  紫苑はあくまでも真剣だった。足に根が生えたように動きそうにない。  加々美は内心苛《いら》立《だ》ちを感じたが、それを表に出すことすらできなかった。 「解っているよ」 「でも、最近の加々美さんの態度を見ていると、ずいぶん、彼女を邪険に扱っているように思えるけど!」  加々美は冷たい表情で答えた。笑おうとしたができなかった。 「シオン。君は、ずいぶん、従姉《 い と こ》思《おも》いの子なんだな……」 「加々美さん、二人は恋人同士なんでしょう?」  紫苑は切なそうな目を向けた。 「ルミコが、君に何か言ったのか」 「ううん」  加々美は深呼吸をして、気持ちを落ち着かせた。そして、 「だったら、僕らのことはそっとしておいてくれないか。君のお節介のことを知ったら、彼女だってたぶん怒るだろうな」  紫苑は加々美の方へ近づき、熱のこもった声で訴えた。 「でもさ、ボクは黙っていられないんだ。前にも言ったけど、ルミちゃんはボクにとって誰よりもかけがえのない人なんだ。ボクのママが死んでから、パパは三度も結婚した。一回なんかフランス人だった。みんな、ボクにとっては生《な》さぬ仲の継母なんだよ。ボクは、どうしても彼女たちには馴《な》染《じ》めなかった。どうせ、彼女たちは愛情じゃなくて、パパの財産目当てだってことが解っていたからなんだ。  だから、ボクは小さい頃からずっと孤独だった。パパは仕事で外国へ行ったっきりだし、兄弟もいない。とにかく、だだっぴろい家で、寂しい思いばかりしていた。そんなボクを慰めてくれ、勇気付けてくれたのがルミちゃんだった。ボクにとって、ルミちゃんは姉であり、母であり、それ以上の存在なんだよ」 「ああ」 「それから、加々美さんも知っていると思うけど、ルミちゃんはここ半年ほど、ずっと定期的に神経科のカウンセリングを受けている。最近はかなり元気になり、朗らかにもなったけど、情緒不安定なのは相変わらずなんだ。ボクが今回、この旅行に参加したのだって、本当は、彼女の両親に頼まれたからなんだよ。ボクは、ルミちゃんの見張り役でもあるんだ」  加々美の心に、ある種の重圧感と責任感が急激にのしかかった。 「ルミコの様子に、何か悪い徴候でも出ていると言うのか」 「ううん」  紫苑はあわててかぶりを振った。  加々美はホッと安《あん》堵《ど》した。 「じゃあ、何なんだい?」 「ただ、もっとルミちゃんに優しくしてほしいんだ。ボクはルミちゃんが好きだから、彼女が幸せになってほしいんだ。そして、ルミちゃんが大好きな加々美さんにも、彼女と一緒に幸せになってほしいんだ。ボクの願いはそれだけなんだよ」  加々美は、どう答えたらいいかと思案した。いくら紫苑が相手でも、本当のことは言えない、それに、言いたくもない。 「……君はいい子だな。本当に従姉思いだ」 「そんなこと……」 「シオン。すまないが。もう少し僕に時間をくれ」と、加々美は醒《さ》めた気持ちで語り始めた。「すぐには解決できないけれども、彼女との関係については僕も改善努力をする。彼女の僕に対する気持ちは充分知っている。でも、今すぐ僕が彼女に応《こた》えられるかと言えば、それは無理だ。  そしてまた、彼女だってそろそろ変わるべきだ。自分の過去と決別しなければならない。いつまでも、夢の世界に逃避しているわけにはいかない。年齢的にも人格的にも、そろそろ本当の大人になっていい頃だ……」 「でも」  唇を噛《か》む紫苑に、加々美は悲しげな目で首を振った。 「いいや、シオン。彼女だけじゃない。人間はみんな傷ついている存在だ。百パーセント完全に幸せな人間なんていない。誰だって、つらいことや悲しいことを引きずって生きている。それでも、幸せになろうともがいているんだ。しかし、目的を達成したり希望をつかんだりするには、時間がかかることも事実なんだよ」  紫苑は涙ぐんだ。加々美はハンカチを取り出すと、彼に手渡した。 「たとえば、日野原だ。あいつが、どうしてあんなに体を鍛えているか知っているかい。彼は子供の頃、虚弱体質だった。そして中学生の時、暴力団に絡まれて、大《おお》怪《け》我《が》をしたことがある。それも、片思いの大好きな女友達の目の前でだった。殴る蹴《け》るの暴行を受けたんだ。  それは、彼にとって屈辱的な体験だった。だから、肉体的に強くなろうと思い立った。空手を始めたのもそのためだ。それで、彼の心の傷が癒《いや》せるものかどうかは解らない。だが、それでも、何とか自分でそのトラウマを克服しようと頑張っているんだ。  麻生さんのことは、お前もよく知っているだろう。あの人は祖父がイギリス人だったから、子供の頃によく人から虐《いじ》められた。自暴自棄になり、犯罪を犯して保護観察処分になったこともある。父親には一度も会ったことがないし、母親にも捨てられた。彼は叔父夫婦に養われ、かろうじて食わせてもらった。それでも、今ではあんなに立派に立ち直り、僕たちのリーダーにまでなっている……」  紫苑は俯《うつむ》いたまま頷《うなず》いた。 「ダルマや画伯さんだってそうさ。ダルマは幼稚園の頃から盗癖があって、小学校で何度も生活指導を受けたそうだ。  画伯さんは登校拒否児童だった。他人に溶け込めない性格だったんだね。それで絵画の勉強を始めたらしい。それが彼の精神を安定させ、美術の才能を開花させて社会復帰を促したんだ」 「……もういいよ」  紫苑が小声で呟《つぶや》いた。彼は袖《そで》で目頭を拭《ぬぐ》った。 「もういいよ、加々美さん。ごめんね。ボク、余計なことを言っちゃって」  加々美は微《ほほ》笑《え》もうとした。だが、頬《ほお》がこわばってうまくできなかった。  その時、廊下の方で靴音だか衣《きぬ》擦《ず》れの音がした。人の気配が近づき、木田の丸い顔が入り口からひょっこり覗《のぞ》いた。 「何だ、ダルマか!」  加々美は刺《とげ》々《とげ》しい口調で言った。  紫苑は恥ずかしそうに、そちらから顔をそむけた。  木田がのっそりとした声で言った。 「加々美先輩、シオン君。女性方が風呂から上がったっすよ。お風呂へどうぞ」 「君は?」  木田が手ぬぐいを手にしていたので、加々美は尋ねた。 「お二人の後でいいです」 「そうか。ありがとう」  加々美が手を上げて答えると、木田はそのまま立ち去った。  残った二人は、少しの間、気まずい気持ちで黙っていた。  加々美は、木田が来てくれたお陰で助かったと、内心では胸を撫《な》で下ろしていた。自分と留美子の間に存在する紫苑の知らないあるわだかまりについて、これ以上話題にせずにすんだからだ。 「シオン」と、加々美はゆっくり口を開いた。「今の話はまた明日しよう。当人がいない所でこっそりすることでもない」 「うん」  凍りついた関係が、滴を垂らして溶け始める。 「じゃあ、風呂だ」  加々美はきっぱり言い、歩きだした。  後ろを付いてくる紫苑が、フウーと息を吐いた。 「潮風と埃《ほこり》で体中ベトベトだね。ボク、シャワーや風呂がないと駄目な人間だから」 「そりゃあ、誰だって同じだが」と微笑みながら言い、加々美は意地悪く、紫苑にあることを思い出させた。「風呂へ行く前に、あの気持ちの悪い寝室へ行って、着替えを取って来ようじゃないか」 2  加々美は蔓《つる》草《くさ》形《がた》の真《しん》鍮《ちゆう》 製《せい》の取手を握り、北側の扉をあけようとした。ところがその時、広間の方の扉から、蒼《そう》白《はく》な顔をした日野原が駆け足で入ってきた。 「あ、加々美先輩! やっぱりここでしたか!」  加々美らは何事かと振り返った。 「どうしたんだ、タケシ。お前の部屋の装飾もおかしいのか」  加々美が半分笑いながら言うと、日野原はいきなり彼の腕をつかみ、強く引っ張った。 「加々美先輩、何を言っているんですか。自分の部屋のことじゃありませんよ。たいへんなんですよ。権堂さんがカバーを取ったら、下からあの絵が出てきたんですよ!」 「あの絵?」 「いいから、早く、来てください。見れば解ります!」  加々美は、日野原がこんなにあわてふためいている様を初めて見た。  三人は急いで広間を抜け、その東側にある居間に入った。すると、室内の奥寄りに仲間たちが全員集まっていた。室内は、異常なほどしんと静まり返っている。というより、ぎすぎすした緊張感を伴った静《せい》謐《ひつ》さが、その場の空気をすっかり支配していたのだ。  問題の物は、部屋の奥にある広い壁の中央に掲げられていた。二百号はあるかという大きな肖像画だった。さっきまで、上から埃《ほこり》よけの布カバーが掛けられていたものだ。  皆の関心と好奇と心配は、それに集中しているようだ。絵の両側にそれぞれ権堂と真梨央が立っており、こちらに背を向けて立っている者たちと睨み合うように向かい合っていた。 「どうしたんですか〓」  加々美は、訳が解らず声をかけた。  殺気立った表情で、皆が振り返った。 「加々美さーん!」  留美子が泣きだしそうな顔で、加々美に駆け寄った。胸に飛び込んできた彼女を、加々美は反射的に抱き留めた。風呂上がりの彼女の髪は、まだかすかに湿っていた。 「——加々美、その絵を見てみろ」  そう命じたのは榊原だった。彼の顔色は浅黒く変色しており、眼鏡の奥の細い目が怒りと不安によって歪《ゆが》んでいた。  加々美は言い知れぬ不安に襲われながら、留美子の頭越しに肖像画を見やった。そして、描かれた対象物を理解した刹《せつ》那《な》、彼は銃弾で胸を撃ち抜かれたような凄《すさ》まじい衝撃を感じたのだった! 〈嘘《うそ》だ!〉  驚《きよう》愕《がく》と鋭い恐怖の色がぶつかり合い、彼の目の前で爆発した。視線はそのまま絵に釘《くぎ》付《づ》けになり、息が詰まり、全身の血が音を立てるように氷結した。 「……解ったか」  榊原が震える声で尋ねたが、加々美は返事ができなかった。 〈……そんな……そんなことが……〉  大きく荘厳な様子の肖像画だった。艶《つや》消《け》しの豪華な金の額縁にはまっている。縦長の構図で、その中央に、恐ろしいほどの美人が嫣《えん》然《ぜん》と微笑んでいた。人物画として、非常にうまい部類に入るものだった。絵柄には、不思議な精気が宿っていた。表情が微細で、その女性は今にも動きだしそうだった。見る者の関心を惹《ひ》きつけて離さない、神秘的な魅力がある。だが、その手柄はモデルにこそ与えられるものだった。  彼女は、金色の細身のイブニング・ドレスを纏《まと》っていた。ヴィクトリア調の幅広い階段の一番下で悠然と微笑み、立ち構えている。漆黒の髪は柔らかな曲線をたたえ、真珠の首飾りをした形の良い胸元まで垂れている。 〈こんな……はずはない……〉  モデルの顔つきは非凡すぎた。切れ長の優雅な目には、知性的な眼《まな》差《ざ》しと、異常なほど強い個性と、自分自身に対する強い愛着が窺《うかが》える。完《かん》璧《ぺき》な鼻筋に、意味不明な微笑みを湛《たた》える官能的な唇……それらのパーツで組み立てられた顔はあまりに整っていた。あらゆる女性の幸せを独り占めしたような、超越的な美《び》貌《ぼう》だった。  絵だけでも、これほどの強烈な魅力を放っている。もしもこの女性が生きていたら、周囲にいる大勢の人間に多大な影響を与えただろう。  けれども、加々美らの動揺は、通常の絵画から受ける芸術的な感銘とは、まったく違うものだった。  加々美の震える目と、真梨央の苦悩に満ちた視線が空中でかち合った。真梨央の額には、脂汗が浮かんでいた。 「加々美…………権堂さんが、埃よけを取ったら、出てきたんだ」  彼は、たどたどしく説明した。  加々美は唖《あ》然《ぜん》として、権堂の方へ視線を向けた。  すると、彼はひどく戸惑った表情で、 「いいや。私は、君たちが何に驚いているのかはよく解らない。どういうことなのか、こちらが訊きたいくらいだ。  私はただ、この人物が誰であるか知っているだけだよ。龍門家の顧問弁護士から、古い写真を見せられていたからね」 「真梨央さん。いったい、この絵の人は誰なのですか〓」  と、友美が恐怖に駆られた目で恋人に尋ねた。  加々美は思い当たった。彼女は何も知らないのだ。他にも、木田と紫苑は、この場で何が起きているかをまったく理解できずにいるだろう。  この肖像画を見て、地獄の底へ落とされたような恐怖と衝撃を感じているのは、真梨央と榊原、加々美、日野原、留美子の五人だけだ。すなわち、一年以上前から、ミューズ・サークルに所属している者のみである。 「そうだよ、教えてよ。これ、誰の絵なの〓」  紫苑が、置いてけぼりを恐れるように、キョロキョロしながら言った。  だが、誰も答えない——違う、答えられなかったのだ。加々美は何とかして口を開こうとしたが、どうしても喉《のど》から声が出てこなかった。  事情の解らない紫苑は、かえって騒ぎ立てた。 「どうしたの。みんな、どうしたのさ! 教えてよ! ルミちゃん、黙ってちゃ、何も解んないよ。誰か、ちゃんと説明してよ!」  すると、権堂が姿勢を正して、厳かな声で返事をした。 「これは、この館の麗しき女主人だよ、シオン君」 「え〓」 「つまり、前に話をした龍門有香子というお姫様なのだよ」 「これが、龍門有香子……」と、紫苑は繰り返した。「じゃあ、この館を造った人で、しかも、《暁の塔》で殺され、首を盗まれたっていう女性なわけ〓」 「そうだよ」 「で、でも」と、友美が胸の前で祈るように手を組み、権堂と真梨央の顔を交互に見た。「だったら何故、真梨央さんたちは、こんなに驚いているのですか!」  真梨央は下を向いて、何も言わなかった。榊原も加々美も、日野原も、答えることから逃れるように目を逸《そ》らした。 「いったい、何なんですか」木田までが、不審な顔で先輩たちに詰問した。「どういうことなのか、教えてほしいっすよお」 「そうだよ!」と、紫苑が怒って叫んだ。「黙っていちゃ、解らないじゃないか! 言ってよ! 麻生さん、画伯さん、加々美さん、タケシさん! 何で、みんなそんなに驚いているのさ〓」  真梨央が、小さく、苦しげな声で答えた。 「……それはな、この絵の女性が、ある人間にそっくりだからなんだ。俺たちがよく知っているある女性に、顔が瓜《うり》二《ふた》つなんだよ。だから、ひどく驚いたのさ」 「そっくり? そっくりって誰に?」 「それは……以前、ミューズにいた仲間だ。去年の暮れまでな。だから、今年入学したダルマや友美は、何も知らないんだ」 「真梨央、黙れ!」と、榊原が遮るように命じた。「この絵の女は違うんだ。いいな、違うんだ。よく見てみろ、まったくの別人なんだ。他人の空似なんだ。すでに死んだ人間なんだぞ。だから、何も言わなくていいんだ!」  榊原は必死になって、そのことを否定しようとした。そして、加々美には、その切羽詰まった気持ちが痛いほど解った。 「どうしたんですか。ねえ、どうしたんですか」友美はおろおろして、尋ねた。「教えてください。お願いです。みんな、どうしたんですか〓」 「どうもしねえ。今、真梨央が言ったとおりだ」  榊原は、蒼《そう》白《はく》な顔でそう言い捨てた。首筋がピクピク蠢《うごめ》いている。  真梨央は無理にぎこちない笑顔を作り、恋人に向けた。 「……友美。本当に何でもないんだ。心配しなくていいよ」  だが、友美は女の直感で、真梨央や他の者たちが嘘をついていると判断した。 「権堂さんは、そのことで何か御存じなんですか」  彼の返事も、しどろもどろだった。 「いいや、別に……私はただ、この館の女主人の肖像画を、みんなに見せてあげようと思っただけなんだが……」  加々美は、彼を非難するように尋ねた。 「権堂さん、この絵がここにあることを、あなたは前から知っていたのですか」 「う、うん。弁護士から聞いていたからね。だがまさか、君たちがこんなに過敏に反応するなんて、こちらの方が驚かされたよ……」  権堂が答えると、友美が重ねて確認した。 「本当なんですか、権堂さん」 「もちろんだよ」 「真梨央さん〓」  友美はさらに険しい表情で、恋人を咎《とが》めた。  真梨央は、弱気な口調で返事をした。 「友美、嘘じゃない。権堂さんはこの件とは何の関係もない。その女性は、俺《おれ》たちのサークルに約一年間近くいたが、去年の暮れに退部したんだ。確かに、この絵の女性のように、彼女もとても美しい女性だった。いや、この絵以上に美しい女性だった。だから、俺たちはみんな、絵を見て驚いたのさ。同じような美女が二人もいるなんてね——疑うなら、加々美に訊いてみてくれ」  友美はまっすぐに、きつい視線を加々美に向けた。 「加々美さん、その女性は誰なのですか、名前を教えてください!」  急に自分へ問題が降りかかったので、加々美はまごついた。  友美は、何故こんなに必死になって皆を問いつめるのか——もちろん、その訳は明白だ。彼女は、真梨央と自分の関係を真剣に心配している。彼女は、その名も知らぬ女性が、自分と真梨央の間に立ちふさがる危険な存在であることに気づいているのだ。  加々美が答える前に、真梨央が意を決したように言った。 「友美。その女性の名前は八《やつ》代《しろ》百《ゆ》合《り》夏《か》と言うんだ。昨年の新入生だった。だから、彼女と俺たちは、昨年の四月から十二月までの数ヵ月間だけ、ミューズの仲間同士だった」  すると、眉《まゆ》根《ね》を寄せて、権堂が真梨央へ尋ねた。 「八代百合夏——その女性は、八代と言ったのかね。そうするともしや、昨年の暮れに、病気で急逝した人ではないのかね」 「どうして、それを〓 権堂さんが〓」  真梨央は血走った目で叫んだ。  これが、加々美らを襲った二度目の驚《きよう》愕《がく》と恐怖だった。真梨央の顔と同様、榊原、加々美、日野原の顔からも、まったく血の気が失《う》せた。  権堂は、自分が彼らに与えたショックにかえって驚き、 「八代というのは、龍門家の親《しん》戚《せき》の家だよ。龍門彌太郎の孫娘の一人——有香子姫の妹——が嫁いだ家で、水戸藩士だった有名な旧家だぞ。  名前を聞いて思い出したのだが、私の知っている話では、その家の一人娘が昨年から、東京の如月美術大学に入学していた。ところが、暮れになって家に戻ってくると、病院に入院して、結局手当のかいもなく亡くなられてしまったという……」  真梨央は、大きく息をしてから答えた。 「そうです。それが彼女です。確かに、百合夏は水戸の出身だと言ってました……そうですか。彼女は龍門家の血筋だったのですか。それで、この絵の女性ともよく似ているわけですね。納得できました。  彼女は、急性骨髄性白血病で急逝したのです。昨年の夏頃、病気を発見した時にはすでに手遅れでした」  権堂は鼻の頭を撫《な》でながら、 「そうすると、有香子姫とその女性とは、血の繋《つな》がった関係になるわけだね」 「そうなんでしょう」 「だがね、これで私もよく解ったよ」  と、権堂は全員の顔をじっくり見回しながら言った。 「何がですか」  真梨央の声は、心なしか鋭かった。 「何故、龍門家から我々に、この館を調査する仕事が回ってきたかだよ。ただで、こんなにうまい仕事が降ってくるなんて、どうもおかしいとは思っていたんだ。そうか、そういうことだったのか。なるほど……。  つまり、きっと、その百合夏という女性の何らかの意志が元になり、龍門家が我々を招喚するように動いたわけなのだろう。もちろん、彼女の生前の言葉か、遺書によってということになるが」 「彼女の……意志で?」 「ああ」と、権堂は頷《うなず》くと、「ところでだ、麻生君。私に教えてくれないかね。いったいその百合夏という女性と、君たちの間にはどんなことがあったのかね。君たちの態度を見ていると、ただの関係とも思えないのだが」  真梨央の瞳《ひとみ》に、言い知れぬ怯《おび》えの色が浮かんだ。だが、彼は苦労して返事をした。 「何もありません……と言いたいのですが、それは嘘になります」 「うむ」 「簡単に言ってしまえば、百合夏は女神だったのです……そして、同時に、魔性の女だったのです……俺たちは、そんな彼女の神通力だか呪《のろ》いにかかって……天国のように美しい日々と、地獄のように醜い日々を、同時に送ることになったのです」 3 「……いったい、何から話したらいいか」  真梨央の低い声は、苦悩に満ちていた。彼はテーブルの上に両《りよう》肘《ひじ》をつき、組んだ両手の上に額をのせ、長い間俯《うつむ》いていた。加々美には、彼の苦悩の内容がよく解った。権堂と友美、木田、紫苑——百合夏と面識のない者たち——は、真梨央の方を、期待と不安に入り混じった気持ちで見ていた。  気分を落ち着かせるために、権堂の提案で、一同は場所を居間から食堂に移していた。そこでお茶を飲みながら、詳しく話を続けようということになったのである。実際のところ、百合夏とそっくりな顔をしたあの有香子姫の肖像画の前では、精神的動揺が激しく、それ以上何の話もできそうになかったからだ。  しかし、室内には重苦しい沈黙が漂っていた。  料理人の竹山民江に頼んで出してもらった紅茶にも、誰も口を付けていなかった。茶器は、ナンシーで造られた製品と思われる水墨画のような絵柄が付いたガラス製品だったが、その美しさにも注意を払う者はいなかった。 「……まさか、こんな離れ小島で、彼女の亡霊に出会うとは」  真梨央の躊《ちゆう》躇《ちよ》と逡《しゆん》 巡《じゆん》は、当事者の一人として、加々美には深く身に染みた。  友美が昂《こう》然《ぜん》と顔を上げ、言った。 「真梨央さん。お願いです。教えてください。百合夏さんて、どんな人だったのですか。そして、みんなに何をしたんですか」  話しだす前に、真梨央は一度きつく、深く、そして長く、目を瞑《つぶ》った。彼は、心の奥底に厳重にしまい込んでいた過去を引きずり出した。 「百合夏がミューズに入ってくるまで、このサークルは非常にうまくいっていた。同じ志を持つもの同士、仲良く助け合い、美術的な才能を引き出し、切《せつ》磋《さ》琢《たく》磨《ま》して付き合っていた。ところが、彼女が入会してきた途端に、すべての歯車が狂った。関係がおかしくなったのだ。最後には、俺たちの人格は、崩壊寸前まで押しやられたんだ——」 「綺《き》麗《れい》な人だったのですか」 「綺麗なんてもんじゃない」と、真梨央は力強く答えた。「彼女の美しさは、月並みな言葉を幾ら並べても足りない。この世のものとは思えないほど美しかった。類《たぐ》い希《まれ》な魅力が全身から溢《あふ》れていて、あらゆる男を惹《ひ》きつけて離さなかった。そして、彼女の持つ不思議な影響力が、俺たちを完全に魅了したんだ」 「でも、美人なら、どこにでもいるでしょう」  と、紫苑が否定的に発言した。 「そうだな。普通の美人だったらな。だが、彼女は違う。普通ではなかったんだ。何故なら、彼女は天使だったからだ。美の女神だったからなのだ。彼女の目に、顔に、全身に、雰囲気に、その証拠を見た途端、俺たちはたちまち彼女の虜《とりこ》になった。そして、世の中には、本当に人間以上の神秘的な力が存在していたり、介在していたりする超自然的な力や奇跡を信じる気にまでなった」 「どうして?」 「天使の顔だよ。百合夏は……彼女は、天使の顔を持っていたんだ」 「天使の顔?」 「それは……」  と、真梨央が口ごもると、榊原が吸っていたタバコを灰皿に揉《も》み消し、 「百合夏はな、左右対称の完全な顔を持っていたんだよ。恐ろしいほど完《かん》璧《ぺき》な顔をな」  と、血が出るような低い声で言った。  紫苑と友美は訳が解らないまでも、思わず息を飲んだ。 「さっきの肖像画が、まさにそれさ。あれを見て、お前ら、何か奇妙な違和感を感じなかったか。あの女は確かに美しい。だが、それだけではない。それ以上なんだ。あれは本来、この世界に存在してはいけないものなのさ。あれはな、芸術の神が悪《いた》戯《ずら》心《ごころ》を起こして作った天使の顔なんだ。それは天上にあってこそ相応《 ふ さ わ》しい。だが、この地上に存在してはいけないものさ」 「どうして?」  紫苑は、また弱々しく尋ねた。 「シオン。お前の顔でも、俺の顔でも、ここにいる誰の顔でもいいから見てみろ——どうだ。整っていたとしても、どの顔も、顔の中心に垂直の線を引いた時には、その左右が完全に対称となることはないだろう。部位が微妙に違っているのが解るはずだ。大きさ、位置、形とな。左の目が右より少し下がっている、鼻が少し右に傾いている、眉《まゆ》の片方がもう一方よりわずかに短い、とかな」 「う、うん……」 「ところがな、彼女は違ったんだ。左側の顔と右側の顔が、完璧に一致した顔を持っていた。どこを取っても完全に左右対称となる精《せい》緻《ち》な顔だった。完璧すぎて異常だった。  彼女を見た時、俺たちは、これこそ天使の顔だと思った。女神の顔だと思った。だから、とうてい、彼女が生身の人間だとは思えなくなったのさ。そう信じ込んだわけだ」 「……それで、その女性を?」  と、友美は身震いするように尋ねた。  真梨央は、苦しげな声で答えた。 「ああ。彼女があまりに美しかったので、俺たち男は……すぐに、全員が……彼女の魅力に毒されてしまった。そして、誰もが、自分こそが、彼女の唯《ゆい》一《いつ》の男になりたいと……そう願ったのだ。彼女の愛を勝ち得たいと望んだのだ。だから、俺たちの間は急速に険悪になった。互いに憎悪の目で相手を見るようになった。極端なことを言えば、他の者を全員殺してでも、彼女を自分一人で独占したいと思ったほどだ」 「真梨央さんもなのですか……」  訊《き》き返す友美の声は、壁の中へでも消え入りそうだった。 「ああ、俺もだ」  真梨央は、苦渋に満ちた顔で頷《うなず》いた。 「ふん、何が『俺もだ』だ」  と、榊原が酷薄な口調で口を挟んだ。その声には、悪意がありありと滲《にじ》み出ていた。 「仲間内で、一番百合夏に血眼になっていたのは、お前じゃないか」  すると、それに挑発的に答えたのは日野原だった。 「そうでしょうか。彼女を他人に奪われることを恐れて、ハタチを汚い手を使って陥れたのは、画伯さんだったではなかったですか。そうでなければ、あいつが、あんな風に自殺したりするはめにはならなかったんだ!」 「何だと〓」  榊原の顔色がサッと変わった。 「ハタチって誰ですか」  友美はびっくりして、左右を見回した。皆、気まずい顔をしていた。目を合わすこともできない。  真梨央のくすんだ視線が、偶然にも加々美の視線とかち合った。仕方がなく、加々美は口を開いた。 「ハタチは吉《よし》田《だ》洋《ひろし》といって、去年の秋に自殺した、俺たちの仲間だ。タケシと同じ学年だったが、二年浪人していたから、入学した時にすでに二《は》十《た》歳《ち》で、それが渾《あだ》名《な》の元になったんだ。  彼の専攻は油絵だった。ルドンのような、ちょっと幻想的な絵柄を得意としていた。彼のパステル調の色の使い方は一種独特のもので、才能の面からも、画家としての将来性を望めた。一年の春に初めて上野の公募展に選ばれた作品は、審査員の奨励賞を取ったぐらいさ。その次に描き上げた作品も、順調に行けば、去年の夏の公募展で何らかの賞を取れる可能性があった——」 「それを、画伯さんが妨害したんですよ」と、日野原が無表情な声で言った。「しかも、それだけじゃあない。この人は、ハタチが美術家として二度と立ち上がれないようにしたんだ。画伯さんは、公募展の多くの審査員と懇意だったから、裏から巧妙に手を回してね!」  榊原は髪を逆立て、スックと立ち上がった。 「タケシ! 貴様、よくもそんなデタラメを!」  日野原も椅《い》子《す》を倒して立ち上がった。怒りで顔を真っ赤にした榊原を相手に、一歩も引かない態度だった。 「嘘だと言うんですか。じゃあ、何故、あなたは彼の作品が盗作だなんて告発したんです。その真意は何ですか。結局、あなたは彼の才能を妬《ねた》み、彼を陥れ、彼から力を奪って、百合夏さんから遠ざけようと画策したんだ!」 「ふざけるな!」 「ふざけてなんかいませんよ。自分は真面目です。あの時、ハタチは百合夏さんから頼まれて、彼女の肖像画を描こうと準備していた。あなたは、それが憎らしかったんだ。だから、妨害しようとしたんだ。学校で天才の名前をほしいままにするあなたは、彼女が自分ではなくてハタチを選んだことが気に入らなかったんだ。自尊心を傷つけられ、故意に彼を貶《おとし》めたんだ!」 「貴様、そこまで言うからには、覚悟があるんだろうな。先輩の俺に逆らって、このサークルにいられると思うなよ!」  憤怒と憎悪が最大限に達し、榊原と日野原はテーブルの横に出て、一触即発の状態になった。 「待って! 待って!」友美があわてて立ち上がり、身構える二人の間に必死に分け入った。「二人とも落ち着いてください。お願いです。そんな風に、いがみ合わないでください」 「自分らは、喧《けん》嘩《か》なんかしてないよ!」  日野原が癇《かん》癪《しやく》を起こして言った。 「チェッ、勝手にしろ!」  榊原は吐き捨てて、腰を下ろした。彼は体を斜《しや》に構え、顔を逸《そ》らして新たなタバコを口にくわえた。 「タケシさんも、どうか座ってください!」  友美が彼の腕をつかんで、一生懸命席に着かせた。  日野原はどっかと腰を下ろし、テーブルの正面にいる権堂に言った。 「権堂さんも、青《あお》木《き》敬《けい》三《ぞう》という《京都水晶会》に所属した画家を御存じですよね。三年前に、四十五歳の若さで亡くなった油絵画家ですが、《仁木展》でも特選を取っています。その彼の素描集の中に、ハタチが展覧会に出した作品とそっくりのスケッチがあったんですよ。画伯さんは、それを選考委員たちにこっそり教えて、ハタチが盗作をしたと訴えたんです」 「絵柄は似ていたのかね」  権堂は、ことさら事務的な声で訊き返した。  答えたのは真梨央だった。 「ええ、確かに、よく似てはいましたが……」 「しかし!」と、日野原が唾《つば》を飛ばす勢いで言った。「そのせいで、ハタチの入選は取り消しになり、盗作事件として新聞ざたにまでなったんです。当然、彼は、挫《ざ》折《せつ》感《かん》と屈辱感にひどく苦しんだ。彼は感受性の強い男でしたからね。最後には、百合夏さんに対する面目を失ったと思い込み、家の近くにある団地から飛び降り自殺をしたんです。自分に言わせてもらえれば、彼を殺したのは画伯さんなんですよ!」  榊原は正面を向き、殺気に満ちた目を日野原に向けた。 「タケシ。あいつが自殺をしたってことは、自ら盗作を認めたっていうことじゃねえか」  権堂が両手を前へ出し、二人をなだめた。 「もう、いい。解った。どちらも少し黙ってくれ。それより、百合夏という人を巡る事件はそれだけかね」 「いいえ」と、真梨央がひび割れたガラスのようにもろい顔で答えた。「それは、一例にすぎません。彼女が俺たちの仲間になったおかげで、あらゆる歪《ゆが》みが生じたのです。彼女は、秩序を乱して喜ぶ女だったんです。それも、悪意を心の奥底に隠して、表面上は無邪気で、いっこうに悪びれずにです。小さな子供が蝶《ちよう》 々《ちよう》の羽根をむしり取ったり、カエルを地面にたたきつけて殺したりしますよね。そんな感じだったのです」 「だとしたら、彼女のどんなところが、そんなに君らを強く惹《ひ》きつけたのかね」  真梨央が答えるまで、一瞬の間があいた。 「……何がと言われても、明確に分析はできません。ただ言えるのは、初めて彼女に会った瞬間から、そうだったと言えるだけです。俺に限って言えば、彼女はそれこそ《ミューズ》に思えたのです。彼女は美の女神であり、芸術の神髄を金粉にし、祝福として俺らに振りかけてくれる神秘的な妖精《フエアリー》だと感じたのです。  歴史的に見ても、芸術家には必ずと言っていいくらい、常に自分の美的才能を触発してくれる唯一の《ミューズ》がいましたね。ダリにはガラがいたし、ムンクにはトゥーラが、ピカソにはフランソワーズが、ホッパーにはジョーが、スペンサーにはヒルダが、クリムトにはエミリーが。  どの画家たちも、ミューズ的存在の愛人や恋人や妻がいなければ、あれだけの芸術的成功と名声を手中に収めることはできなかったでしょう。逆に、ミューズを持たぬ画家たちは、いくら優れた才能を持っていても、悲惨な死を迎えることが多い。ゴッホしかり、ゴーギャンしかり、ロートレックしかりです。 《ミューズ》とは、単に芸術家の愛人という意味や立場ではありません。彼女らは人間という形を借りて地上に現われた美の女神の象徴です。俺たちの芸術や美術への愛や洞察力を高めてくれ、創造のインスピレーションを引き出してくれる特別の存在なのです。  だから俺は、百合夏が目の前に現われた瞬間、彼女が自分の《ミューズ》だと信じ込みました。そしてそれは、他の仲間たちも同じだったのです。みんながみんな、彼女の存在に無我夢中になりました」 「彼女は、どんな性格だったのかね」 「うまく言えません……とにかく、彼女はありとあらゆる点で魅力的でした。外見も、性格も、言葉遣いも、仕草も、眼《まな》差《ざ》しも、何もかもがです。  彼女は、自由奔放な女でした。生き方も精神の有りようも、何も縛り付けるものはありませんでした。俺たちにとって、彼女は女王であり、女神であり、偶像でもありました……だから……俺たちはみんな、最初から当然のごとく、彼女に奴隷として仕えたのです。そして、その御褒美を彼女から授かったわけなのです」  真梨央の激しい告白に、友美が息を飲むのが解った。  加々美は悔恨の念に駆られ、きつく目を瞑《つぶ》った。だが、とうてい過去に犯した醜い現実は消えてなくならなかった。百合夏との間に起こったことは、自分にとっても、一生思い出したくない最悪の恥辱なのだ……。  真梨央は弱々しい視線をテーブルに落とし、 「彼女の側にいると、俺たちは幸せでした。彼女の姿は完《かん》璧《ぺき》な美の結晶であり、彼女の吐息は甘い香水であり、彼女の声は天上の音楽であり、彼女の肌は極上の絹の感触でした。  彼女は芸術に対して独特のセンスと意見を持っていました。過去の芸術作品に対する造《ぞう》詣《けい》も深く、俺たちの創造した作品に適切なアドバイスをくれました。彼女の忠告はたいへん的を射たものが多く、彼女の話を聞いて作品の制作に取りかかると、当初考えたものよりもずっと美術的に優れたものになりました」 「しかし、それが何故、君たちを地獄の日々に引っ張り込むことになったのかね」 「彼女を手に入れたい、独り占めしたい、彼女と永遠に結ばれていたいと、俺たち一人一人が利己的に考えたのです。そのための手段として、最後にはとうとう、ファウストのように悪魔に魂を売ることになったのです」  権堂は、ひどく厳粛な顔でその言葉を繰り返した。 「魂を?」  真梨央は喉《のど》に手を当て、やっと答えた。 「はい。正直に告白しますと……俺たちは、あの頃、みんな……彼女に誘われて、代わる代わる寝たんですよ。つまり、彼女の肉体を、芸術的な精神の代償として甘受したんです」 4  加々美には、あの地獄の日々を共有した当事者として、真梨央の苦しみがひしひしと実感できた。  真梨央は、ずっと友美の方を見ていなかった。いや、見られなかったのだ。加々美は加々美で、自分の横にいる留美子の存在が急激に大きく膨れ上がり、圧迫される気がした。  真梨央は悲痛な表情のまま、半分上の空で話を続けた。 「……それは、言い訳に過ぎないですね。単に、彼女と肉体関係を持ったということにすぎません。それが真実です。彼女が俺たちの奉仕への報酬としてくれたものが、それだったのです。  お恥ずかしい話ですが、俺たちは皆、彼女を貪《むさぼ》りつくすように愛しました。百合夏の肉体は、かけがえのない宝物のようなものでした。彼女を愛すること自体が、俺たちにとって麻薬と同じだったんです。甘美な夢に酔い、陶酔して、幻想の領域へ逃避したわけです。  彼女は、俺たち一人一人に言いました。 『愛しているのはあなただけよ。あなた一人なのよ。だから、私をもっと愛してね。それに、私はもうすぐ死ぬの。だから、人の何倍も愛さなくてはならないの。人の何倍も、深く愛してもらわなくてはならないの。私には、それだけの権利がある。私には、それだけの美しさが備わっているのだから——』  そう彼女は、俺たち全員の耳に囁《ささや》きました。俺たちは、彼女が嘘《うそ》をついていることを知っていました。でも、彼女の綺《き》麗《れい》な唇から甘い愛の言葉が告げられると、催眠術にかかったように、どうしても信じないわけにはいかなかったのです。  俺たちは毎日、従僕のように彼女の後に従って歩きました。食事をし、酒を飲み、ディスコへ行って踊り狂い、話したり、笑ったり、歌ったり、泣いたり、抱き合ったり、眠ったりしたのです。ゲーテの『ファウスト』に出てくるワルプルギスの夜明けのように、狂った騒ぎにうつつをぬかしたのです。  そのあげく、何度か、俺たちは秘密のパーティーも開きました。場所は、新宿にあった彼女の住む素晴らしく豪華なマンションでです。彼女はそこに一人で暮らしていました。彼女の実家はかなりの金持ちで、一人娘の彼女にそれだけの贅《ぜい》沢《たく》をさせていたわけです。  それから、俺たちは本物の麻薬もやりました。大麻やLSDを、彼女はどこかから手に入れてきました。それを吸って、俺たちは幾度も、桃源郷へトリップしました。また、彼女は、サークル外の大学の女の子を何人か誘ったり、渋《しぶ》谷《や》から名も知らぬ家出少女を拾ってきては、麻薬と乱交のパーティーを主催しました……」 「これは……驚いたな」  肩の力を落として、権堂が呟《つぶや》いた。彼は、不道徳な話の途中で落ち着きをなくし、眼鏡をはずすとハンカチで拭《ふ》き始めた。 「……君たちは、何故、そんな悪い誘いを断わらなかったのかね」 「できなかったのです」と真梨央は、慚《ざん》愧《き》に耐えないという表情をした。「どうしても……まるで、強い魔力にかかったか、洗脳されたかのようでした。とにかく、俺たちにとっては、彼女の希望することは、どんなことであろうとも、絶対的な意味を持っていたのです」 「学校や警察には、知られなかったのかね」 「はい……ですが、もちろん、悲劇が幾つか起こりました。一つは、麻薬をくすねて帰った女の子がいて、自分のアパートでこっそり吸っていたんです。そして、風《ふ》呂《ろ》場《ば》で寝入ってしまい、溺《でき》死《し》しました。幸い、その娘はミューズ・サークルに属していなかったので、警察には、俺たちのことはばれませんでしたが……」 「他には?」 「ミューズ・サークルの顧問の井《いの》上《うえ》助教授が、去年の暮れに急に大学を辞める事態になりました……その理由を御存じですか」 「いいや」  権堂はかぶりを振った。 「顧問の井上助教授も、実は、百合夏と肉体関係を結んだ一人なんです。ただ、俺たちの場合と違い、彼には妻子がいました。彼が不倫をしていたのが妻に露見して、たいへんな騒ぎになったらしいのです。彼の家庭はめちゃくちゃになりました。結局、奥さんがナイフで自殺を図る事件が起きて、彼は大学を退職する事態になったわけです」 「そんなに、被害者が……」  権堂は唖《あ》然《ぜん》とした。 「犠牲者は、もっといるはずです。聞いた話では、彼女が水戸の高校にいた頃に、やはり担任の教師と問題を起こしたそうですから」 「淫《いん》乱《らん》な女だったわけか」  権堂の軽《けい》蔑《べつ》的な言葉に、真梨央は力なく首を振り、 「そうですね……いいえ……何とも言えません。俺たちは、彼女に夢中になっていて、目も心も曇っていたから。だから、彼女の本当の姿を見抜けなかったかもしれません。  あの時は、ただひたすら、彼女を純真無《む》垢《く》で清廉な天使だと思っていました。それはセックスとは無関係なことなんです。純粋に精神的な関わり合いだと考えて、自分に対する言い訳にしていました。  でも、サークルの結束や活動内容はガタガタになりました。彼女の存在に嫉《しつ》妬《と》し、嫌悪して、男性の何人かと、女性のほとんどがサークルを脱会しました。男性は彼女の獲得競争についていけず、女性は、百合夏の女としての魅力に挫《ざ》折《せつ》感《かん》をいだいてです。それから、芸術的な才能を涸らしてしまった者もいます。  結局、百合夏は、俺《おれ》たちに美術的な才能や才覚を与えるのではなく、芸術に対して持っていたあらゆる情熱を奪ってしまったわけです」  権堂はため息をつき、暗い顔をした。 「いやはや、何とも恐ろしい女性がいたものだ」 「権堂さんは、俺たちがサークル単位で、大学の秋の文化祭に出品した作品を見ていますよね。コンテストで優勝した奴《やつ》ですが……」 「ああ。《死せるキリストとマリア》というフレスコ画だったね。食堂の前を一面飾るほどの大きな壁画だね。あれは見事なできだったし、立派な仕事だよ。キリストを主題にした宗教画に、新しい解釈を持ち込んだと言っても過言ではない。あれは素晴らしい芸術品だ。私は、主筆は画伯君だなと一目で解った。フォービスムの影響が随所に表われているくせに、地獄の河原に横たわる男女の死体の表情には、非常に生々しいものがあったね」 「抽象画の中に、あれほど迫真的な描写の素材を加味できたのには、理由があるのです」  真梨央が沈んだ声で言った。 「理由?」 「俺たちは、本当に男女の死体を模写したんですよ」  権堂、友美、木田が同時に喘《あえ》いだ。 「そんな馬鹿な!」と、紫苑が叫んだ。「嘘でしょう、そんなこと!」 「……本当さ」  真梨央は苦々しい声で答えた。そして、言い訳するように権堂の方を見た。 「百合夏が、死んだばかりの心中死体を見つけてきて、それをスケッチするよう、俺たちに命じたんですよ。こんな貴重な機会は二度とやって来ないと言ってです。俺たちは、その甘言に唯々諾々と従いました。  二人は服毒自殺をしたようで、外見には傷などは見当たりませんでした。肌の色が、全体に青黒く変色していたことを除けば、どこにも異常は見当たりませんでした。年齢は俺たちより少し年上の感じで、着ているものを見ると、サラリーマンとOLのようでした。しかし、女性だけが結婚指輪をしていたので、百合夏は不倫の清算だろうと嘲《あざ》笑《わら》いました。 『こんなチャンスはめったにないわよ。急いで、仕事を片づけましょう』  百合夏は、まったく良心の呵《か》責《しやく》を感じていないようでした。  その時、俺たちも狂気に取り憑《つ》かれたのです。文化祭が間近に迫り、芸術家を自認する自分たちとしては、そこに新しい独自性を生み出さなければならないという焦燥に駆られてです。俺たちは、腐りゆく男女の死体を見つめながら、三日間、必死にその様子を紙やキャンバスに写し取りました」 「信じられん。百合夏は、その死体をどこで見つけてきたのかね」 「解りません。ただ、俺たちが彼女にそれを知らされた時には、ある小さなホテルの一室に置いてありました。ベッドの上に死《し》骸《がい》が並んでいたのです。彼女はその隣の部屋も予約してあって、俺たちはその二部屋を利用して、どこの誰とも解らない人間の死体を写生したわけです」 「死体はどうなった?」 「最後に、ホテルを引き払った後、百合夏が警察へ匿名の電話を入れました。翌日、新聞を見たら、小さく記事が出ており、やはり心中事件として片づけられていました」  権堂は何か言いかけたが、何も言えなかった。  真梨央はそれを察して、重い声で話を続けた。 「百合夏は気まぐれで、たいへん自由奔放な人間でした。凄《すさ》まじくわがままでもありました。というより、人の話や意見、忠告にまったく耳を傾けない性格だったのです。関心も、主張も、望みも、すべて自分の言うことが正しく、絶対でした。でも、表面上は無理強いをしません。純情で清《せい》楚《そ》な顔つきをしているんです。ですが、彼女と話をしていると、結局はこちらがいつの間にか、彼女の言いなりになってしまうのです。  百合夏を知ってから一ヵ月も経たない内に、俺たちはすっかり彼女の精神的な奴隷になっていました。夏が過ぎた頃、彼女はよく言いました。自分はもうすぐ病気で死ぬ。だから、残りの少ない人生を自分の好きなことをして死にたい。だから、私の願いをかなえてね——と。切実な顔で百合夏にそう言われると、俺たちはけっして逆らえませんでした。  今になってみると、彼女が死んでくれて本当に良かったと思います。彼女があのまま生きていたら、俺たちはいったいどうなったでしょう。彼女の無軌道さと、気ままさと、むら気に振り回されて、頭が変になり、絶対に破滅していたと思います。  権堂さんが、この館《やかた》を造った龍門有香子というお姫様と、その取り巻きたちの話をしてくれましたが、その有様は、まさに俺たちが陥っていた生き地獄と同じだったと思います。  百合夏が死んで、俺たちは夢から覚めました。熱病に罹《かか》っていたのが、突然治癒した感じでした。しばらく呆《ぼう》然《ぜん》として、虚脱感に包まれ、何もかもが、遠い悪夢のように思えたほどです……」 「……権堂さん」と、榊原が乾いた声で言った。「俺らは、今年初め、残った仲間で集まり、相談したんですよ。百合夏のことは永遠に忘れようと。二度と口にするのはやめようとね。そして、再出発しようと。俺たちには、まだ立派な将来が待っている。だから、死んでしまった女のことは過去に葬り、地に足を着けて生きていこうと思ったんです」 「そうなのです」真梨央が相《あい》槌《づち》を打った。「失ったものは二度と返ってきません。でも、ここで挫《ざ》折《せつ》したら、俺たちの人生は負けになります。たとえ今はどん底にいようと、いや、どん底にいるからこそ、そこから這《は》い上がることが可能です。俺たちは誓い合いました。どんなことがあっても、もう一度、ちゃんとした人間に戻ろうと決意したわけです」  会話が途切れたが、誰も口を開こうとしなかった。  加々美の胸の内にも、万感の思いがよぎった。思考は乱れ、感情は高ぶり、冷静さは永遠に回復しないかと思われた。  古《こ》色《しよく》蒼《そう》然《ぜん》とした館が生み出す腐臭のような静けさが、ジワジワと彼らを包んだ。  最初に口を開いたのは、意外なことに留美子だった。 「ルミコ、百合夏って、大嫌いだったの。今だってそう。あんな子の顔、二度と見たくない。それに、ルミコ知ってる。ハタチくんが死んだのは、本当は百合夏のせいなんだから!」 「ルミちゃん〓」  彼女の言い方があまりに唐突だったので、紫苑が心配げに彼女の可《か》憐《れん》な顔を覗《のぞ》き込んだ。 「ルミコ。めったなことを言うなよ」  加々美がたしなめると、留美子は反《はん》駁《ばく》する目つきで、頬《ほお》を大きく膨らませた。 「だって、事実なんだもん。あの絵の構図は、百合夏がハタチくんに教えたの。それも、下絵は百合夏が描いたんだよ。わたし、彼女が木炭で、あの絵を下描きしていたのを見たもん!」  加々美らは、胸に錐《きり》を深く刺されたような痛みを感じた。最もショックを受けたのは、榊原と、ハタチの親友だった日野原の二人だった。  榊原は、震える手でタバコを箱の中から抜き、留美子に訊《き》き返した。 「じゃあ、実際の盗作者は、ハタチじゃなくて、百合夏の奴だったのか」 「うん。そうよ!」 「何だって、あの女はそんなこと〓」  しかし、今さら言っても無駄なことだった。  真梨央は、深い嘆きの色が見えるような声で、 「百合夏には、悪気はなかったのさ。だから、最悪なのさ。あの女はただ、ハタチや公募展の委員、俺たちを騙《だま》して、からかって楽しんでいたんだよ。俺たちが右往左往するのを見て、心の中で嘲笑っていたわけさ。お前も解るだろう。ハタチが傷ついたことで、あの女が少しでも胸を痛めたかどうか……」  加々美も思った。そうだ、確かに彼女の性格なら、やりかねない……。  その時、廊下に通じるドアをノックする者があった。皆はハッと息を詰めて、怯《おび》えた視線をそちらへ投げた。加々美は一瞬、百合夏かハタチの亡霊が現われたのではないかと恐怖した。  ドアが、音もなくゆっくりと開いた。  管理人の竹山収蔵だった。背中を丸め、頭を突き出すようにして歩き、おずおずと室内に入ってきた。彼は、手に一通の大きな茶封筒を持っていた。それを黙って、権堂と真梨央の間のテーブルの上に置いた。 「……何ですか、竹山さん。これは?」  権堂は訝《いぶか》しげな顔で、収蔵に言った。  収蔵は、一歩後ろに下がりながら答えた。 「わしの御主人様から、あなた様方へ、お渡しするよう申しつかっておりましたものです。皆さんが、有香子姫の肖像画を御覧になったら、その時にお出しするようにと……」 「中身は?」 「見ていただければ、お解りいただけるはずです」  封筒に封はしていなかった。裏のトンボに、糸が絡ませてあるだけだった。権堂は口を開いて、封筒の中から書類を取り出した。しばらく個々の書類に目を通した後、 「……みんな」と、かすれた声で口を開いた。「これは、八代百合夏という女性の遺言状と、手紙と、そして、《奇跡島》の登記簿などの写しのようだ。手紙の内容は、彼女が、この館と館内にある美術品のいっさいがっさいを、君たち《ミューズ》の仲間に残そうとしているというものだ——」 第6章 異常なる芸術作品 1  一夜があけて、《奇跡島》滞在の二日目——十月十四日火曜日。  朝、食堂に集まった面々は寝不足の感じで、疲れ気味の顔をしていた。誰もが無口で、会話もほとんどなく、気詰まりなほど雰囲気が重く沈んでいた。食事が始まってもそれは同じだった。時折打ち鳴る食器の硬質な音だけが、かすかに室内に響いている……という暗い状況が続いた。  気分の変わりようというのは不思議なもので、贅《ぜい》沢《たく》できらびやかに感じた室内装飾が、今朝は急に色《いろ》褪《あ》せたようだった。昨夜、シャンデリアの光の下で見た時の艶《つや》やかさは微《み》塵《じん》もない。美術品の数々も、美しさという魔力を急激に失い、どれもただの安っぽい工芸品にしか見えなかった。  権堂は、学生たちの意気消沈ぶりをひどく気にした。彼らの気分を引き立てようと思い、今日の予定を決めることにした。各人の役割を発表したが、煮えきれない返事がわずかに真梨央から戻ってきただけだった。  加々美も、自分から口を開く元気はなかった。食欲もあまりなく、皿の上の食べ物をただナイフで突っつくばかりだった。  最初にまともな口をきいたのは、友美だった。彼女は、頬《ほお》にかかる髪を優しい手つきで耳の後ろへやり、静かに質問した。 「権堂さん、昔のことを訊いてもいいですか」 「昔?」 「はい。戦前この《白亜の館》で、有香子姫が饗《きよう》宴《えん》を繰り広げていた頃のことです。昨日、権堂さんは、有香子姫の取り巻きの男性のことをおっしゃっていましたね。その人たちは、具体的にはどんな方たちだったのですか。上流階級の方が多かったわけですか」  権堂が答える前に、タバコに火を点《つ》けたばかりの榊原が難癖を付けた。 「そんなことを聞いて、どうするんだよ」 「それは……」 「いや、いいんだよ、画伯君」権堂はそっとナイフとフォークを皿の上に置き、友美の方へ向き直った。「友美さん。君の言うとおりだ。彼らは非常に家柄が良かった。華族とか財閥、軍閥などを親に持っていた。だから、軍部や警察に顔がきいた。将校になり、前線へ出て戦死した一人を除いて、戦後、彼らは皆相当な地位に昇っている。  たとえば、今から五年ぐらい前に、巨額の脱税で国税局に摘発されたゼネコン社長の白《しら》井《い》篤《あつ》宗《むね》という男がいる。彼は龍門家とも縁続きにあり、この茨城県出身の大人物だ。教育委員会にも名を連ねていて、うちの美術館へも訪れたことがある。脱税騒ぎの他にも、衆議院議員の赤《あか》塚《つか》恒《つね》夫《お》という政治家への闇《やみ》献《けん》金《きん》疑惑でずいぶん取り沙《ざ》汰《た》された。その赤塚という男も、有香子姫の情人の一人だった」  真梨央は頷《うなず》き、 「ゼネコン事件の方は覚えていますね。あれは確か、まだ公判中だったのではありませんか」 「たぶん、そうだね。日本の裁判は馬鹿みたいに長くかかるからね」 「ええ」 「政治家の赤塚の方は、当時運輸大臣をしていた。疑惑が持ち上がると、さっさと辞任し、野党の追及をうやむやにかわしてしまった。与党議員が責任逃れをする際の常《じよう》套《とう》手段だよな。  それから、全国の弁護士会会長だった河《か》合《わい》千《せん》太《た》郎《ろう》という人がいる。東京帝国大学の法学部を首席で卒業したという人だ。破壊活動防止法制定など、公安関係の裁判で活躍した。彼は一昨年、心臓発作で亡くなっている。新聞の訃《ふ》報《ほう》で名前を見た。  それから、東京天文台研究所所長を長年務めた、磐《いわ》谷《たに》 州《しゆう》策《さく》という人もいたと聞いている」 「あ、権堂さん。おいら、その人のことなら知っています」  と、木田が興奮ぎみに口を挟んだ。 「ほう?」 「この人は東京帝国大学の卒業生で、しかも、すごい秀才っすよ。戦後すぐにポツダム、ベルリンへ渡り、最後にアメリカへ留学しました。そして、向こうのマサチューセッツだかの大学で、天文学と物理学の教《きよう》鞭《べん》を執り、アリゾナ天文研究所の副所長を務めた後で、帰国したんです。東京大学物理学部の名誉教授を経て、東京天文台の所長に就きました。確か『物理宇宙天文学総論』とかの著書があります。紫綬褒章とかの勲章ももらっているはずです」  留美子が髪のリボンを揺らしながら、 「ダルマくんって、何でも知ってるう!」  と、嬉《うれ》しそうに微笑んだ。  木田は誉められて恥ずかしくなり、丸い顔を朱に染めた。 「……い、いえ……そんなことはないっす」  日野原が、彼の背中を右手でドンと叩《たた》いた。 「ルミコさん。こいつね、実はUFOマニアなんだよ。ほら、謎《なぞ》の円盤とか、宇宙人とかについて書かれた雑誌の記事や本があるよね。あれが大好きで、集めているんだ。だから、宇宙学や天文学に関してはかなり強いんだよ」 「ステキ!」と、留美子はキラキラ光る大きな目で、木田を見た。「ルミコ、お星様って大好き!」  木田は顎《あご》の贅《ぜい》肉《にく》をたるませて頷《うなず》き、 「磐谷氏は、若い頃に新《しん》彗《すい》星《せい》やテクタイトを発見したりして、アマチュアの天文マニアの間では、教祖扱いされている人物っす。おいらも尊敬しています。七年前に、電波望遠鏡を使ってカシオペア座の中に中性子星を発見したのもこの人なんす。それにイワタニ〓=スミス彗星にも、発見者である彼の名前が付いています。かなり大きな楕《だ》円《えん》軌道を描いているので有名な彗星ですが、聞いたことはありませんか」 「ぜんぜん、知ーらない」  留美子が即答したので、木田はがっくりと頭《こうべ》を垂れた。  友美と真梨央が顔を見合わせて、小さく含み笑った。  紫苑が肘《ひじ》で加々美の脇《わき》腹《ばら》を突っつき、こっそり尋ねた。 「——ねえ、加々美さん。エボナイトって何?」 「エボナイトじゃないよ」  加々美が苦笑した声が木田まで聞こえ、彼から説明があった。 「シオン君。エボナイトというのは、昔、万年筆の軸の素材によく使われた硬質ゴムのことじゃないっすか。おいらが言ったのは、テクタイトですよ。宇宙に起源があると言われる非常に珍しい鉱物のことなのです。普通、宇宙から飛んできた隕《いん》石《せき》は、二百五十グラムで三百万円ぐらいするものなんす。ところが、テクタイトは、地球上にない元素を含んでいるため、さらにその何倍も価値があるんすよ。つまり、めったに見つからないのです」 「へえ!」と、紫苑は大きく目を見開いた。「そんな、ただの石ころがあ!」 「そうなんす」  それに対して皆は笑ったが、その若い声にはどこかうつろな響きが混ざっていた。そのため、だんだんに声がしぼみ、また室内に気詰まりな静けさがよみがえった。権堂は手を口に当てて小さく咳《せき》払《ばら》いをしたが、これも空しい音に聞こえた。  話題は途切れてしまい、かえって静寂が際立った。いったん口をつぐむと、なかなか次に口を開くことはできなかった。《白亜の館《やかた》》が持つ重量感が、彼らの心の上に重くのしかかっている感じだった。  結局、皆が暗《あん》鬱《うつ》な気分に包まれていた原因は、ただ二つの事柄に帰結した。  一つは、寝室に施された奇妙奇《き》天《て》烈《れつ》な内装による影響。もう一つは——これが最大の理由だったが——昨夜、初めて知らされた八代百合夏の遺言のせいだった。  今は亡き、彼らのミューズ……弱冠十九歳の地獄の天使。  芸術的な、完《かん》璧《ぺき》な顔を持った女性。  あの世に去ったはずの八代百合夏が、未《いま》だに地上を這《は》いずり回っている彼らに残した手紙と遺言状。彼女の魂と意思の表示。  それは、先に龍門家から提示されていた条件に加えて、この館内での調査中に、何か最高の芸術品を創造した者に対して報酬を与えるというものだった。そしてその報酬とは、この《白亜の館》とそこに所蔵されている物品のすべて、その上、《奇跡島》そのものの所有権という途《と》轍《てつ》もない内容であった。それらの品々を、ミューズのメンバー、誰か一人に一切合切与えるという、まったく信じられないものだった。  権堂によって回覧された書類の中には、八代百合夏の直筆の手紙が添えられていた。 ***    ミューズの皆様。お変わりありませんでしょうか。  この手紙があなた方の前で読まれる頃には、私、八代百合夏はすでにこの世から去っているはずです。私の病気のことは、前々から皆さんにも伝えてありましたね。正直言って、死が日一日と近づいており、私はたいへんな恐れをいだいています。ですが、もう自分の感情を云《うん》々《ぬん》しても、まったく手遅れです。最早、私の運命は変えようがありません。したがって、甘んじてこの不幸を受け入れるつもりです。私が二十歳の誕生日まで生きられないのは、誰のせいでもありません。天国にいらっしゃる神様のちょっとした罪なき悪《いた》戯《ずら》なのです。  皆様は、大学において、この私に始終変わらぬ親切を示してくださいました。生まれつきわがままな私ですから——皆様は意外でしょうが、私はそのことを重々承知しております——皆様には様々な迷惑をかけたことと思います。でも、皆様は、最後まで私を見捨てず、優しく接してくださいました。私は、そのことを非常に感謝しております。  この数ヵ月間、私はやりたい放題し放題のことをしてきました。そして、皆様の広く温かい心根によって、それを黙って許していただきました。こんな幸福なことは他にはありません。  ですから、死がひしひしと近づいた今、私は皆様に、何かお礼をしたいと考えました。そしてそれが、この《奇跡島》なのです。私は皆様に、この島を差し上げたいと存じます。美しき孤島、美しき西洋館、それから、そこに長い間秘蔵されたままになっているアール・ヌーボー様式のたくさんの美術品をです。それらを全部丸ごとです。どうか、私の最期の希望をかなえてやって、この贈り物を受け取ってくださいませ。  それらの物が、どのようにして私の手に入ったかは、たぶん弁護士さんが説明してくださることでしょう。簡単に言えば、私が身内から財産として相続したものです。前にお話ししたかどうか、私は、茨城県の水戸で財閥として知られる龍門家の血筋の者です。その島はある時、龍門家から縁続きの八代家へ譲渡され、最終的に私の手元へ来ました。それを、私がまた、皆様へ感謝と謝罪の意味合いを込めてお贈りします。  思い出すに、皆様はいつも、私のことを《ミューズ》と呼んで可《か》愛《わい》がってくださいましたわね。皆様、芸術家の卵に対する《ミューズ》として、私は一つお願いがあります。できますならば、その《白亜の館》を、皆様の力で《芸術の殿堂》に変えていただきたいのです。それは、絵画、版画、彫刻をはじめ、小説でも音楽、建築でも、どんな芸術様式でもかまいません。あらゆる芸術の《真なる住《すみ》処《か》》になるよう、そこを甦《よみがえ》らせていただきたいのです。  その館を、芸術一般の振興のために役立たせてください。可能であれば、将来、そこに多くの若い前途ある才能を集め、育成し、素晴らしい美術品を続々と産み出してほしいのです。それでこそ、《芸術の殿堂》と呼ぶに相応《 ふ さ わ》しい場所であるはずです。  そしてまた、それだけのことを為《な》し得るに充分な奇跡的な力が、きっとそこにはあるはずです。多大な影響力と魔術的な力が、《白亜の館》には眠っていると思います。後はそれらの威力を用いて、皆様が皆様の心から愛する——そして、私の愛する——美術と芸術の世界に恩返しをしてもらいたいと、勝手ながら考えます。  なお、その島全体を皆様に譲渡するに当たって、一つだけ条件を付けさせていただきたいと存じます。それは、皆様の中から、《島の王》となるべき代表者を一人だけ選んでもらいたいということです。  リーダーは一人で充分です。《島の王》たる人物は、他の者たちと比べて、より純粋に芸術的な才能に秀でていなければなりません。また、美術一般に関する、鋭い洞察力を備えている必要性はもちろんです。  考えるまでもなく、芸術とは非情なものです。有史以来の人類の概念と存在のぶつかり合い。どんなに芸術を愛していても、生まれつき、あるいは磨き抜かれた特別な才能がなければ、誰もこの分野の勝者にはなれません。  皆様は、それについて、一人一人が証明してください。私は、芸術上の真の勝者によって、この奇跡的な存在である島を管理して欲しいのです。 《島の王》たる資格の証明方法をどうするか、それは、皆様が自分たちで話し合って決めていただいてけっこうです。しかし、一つの案を私は提示します。それは、その島に皆様が滞在されている間に、何か一つずつ、美術的な作品を作ってみたらどうでしょう。そして、コンテストをするのです。一番美術的に、一番芸術的に、優れた作品を創造した人が、このコンテストの勝者となるわけですね。  その人が、素晴らしい栄誉と栄冠を手に入れるでしょう。  皆様は、新たな芸術の創造者です。芸術のためなら、何事も惜しまない情熱をお持ちです。いつだったか、私がミューズ・サークルに入会してすぐの頃、皆様は、芸術の名の下に命を捧《ささ》げたいと訴えていました。私は、あの時の尊い誓いを今でもはっきりと覚えています。  どちらにせよ、残念ながら、私はその結果を見ることも知ることもできません。ですが、私は皆様の持つ潜在的な能力を信じております。  仲良き友人として、心から皆様の成就を応援しております。 ***    権堂の手によって淡々と読まれた八代百合夏の手紙は、一同の心に言い知れぬ不安と畏《い》怖《ふ》心《しん》を呼び起こした。そして、その混濁した感情は、調律の崩れたピアノの不協和音のように、理性をかき乱した。  加々美には、その文面の一言一言から、尋常ならざる妖《よう》気《き》が立ち昇っているように思えた。朗読中における仲間たちの怯《おび》えた表情を見ていると、生前と同じように、百合夏は死後も、あの恐ろしい影響力を失っていなかった。死によって彼女の肉体は滅びたかもしれないが、魂はこの世に残り、ミューズ・サークル全体を、未だに支配していたのである。 2  最初に、昨夜見せられた遺言状と手紙のことを蒸し返したのは、榊原だった。それまで彼はわりと沈黙を続けたが、食事が終わる頃になると、げんなりした表情で話しだした。 「——まったく、あの女は何を考えているんだ。俺《おれ》たちが島に滞在している間に、一番優れた作品を仕上げた者に、《島の王》の称号を与えるだと。何様のつもりだ。俺たちをからかっているのか」 「彼女の芸術に対する愛情が、言わせたことかも……」  加々美はそう答えたが、自分でもそれを信じていなかった。 「いいや、違うな。コンテストなどと称してはいるが、実際は、俺たちを闘犬のように面白半分に掛け合わせ、諍《いさか》いの原因を作ろうとしているのだ。あの女は、俺たちがいがみ合う姿を、あの世からこっそり見て楽しむつもりなのさ。ひどい奴《やつ》だ。  だいたいだな、俺たちが何か作品を作ったとして、死んだ女が、どうやってそれを品評するつもりなんだ。芸術性を判定する必要があるんだぞ。まったく不可能じゃないか。それとも、幽霊か、何かの生まれ変わりにでもなり、よみがえってきて、俺たちの目の前に現われようっていう寸法なのか!」 「画伯、あまり興奮するなよ」  真梨央は飲んでいたコーヒー・カップを下に置き、軽くたしなめた。 「興奮なんかしていないぜ。冷静だ。だからこそ、腹が立つんだ。俺はもう、二度とあの女の言いなりになるのなんか御免だ!」  日野原が額のバンダナを結び直しながら、上《かみ》座《ざ》にいる権堂へ尋ねた。 「権堂さんは、百合夏さんの遺言について、昨日まで、何も御存じではなかったのですよね」  年上の男性は渋い顔をした。 「ああ。本当に何も聞いていなかった。まさか、こんな奇妙な条件を提示されるとはね。本土へ戻ったら、龍門家の弁護士と、もう一度よく相談してみなくてはならない」 「あの遺言状は、法律的に効力があるものなのでしょうか」  と、加々美は慎重に質問した。  権堂は腕組みした。 「さあ、どうだろう。私は弁護士ではないのでね。ただ、あの書類や手紙を寝室へ持っていって何度か読み返したが、本物らしいようだな」 「ねえ」と、紫苑が頬《ほお》を赤らめ、キョロキョロ左右を見て言った。「何で、みんなそんな難しい顔をしているわけ。やればいいじゃない。島のコンテスト。そうだよ、みんなで何か作ろうよ——ああ、でも、どうせ、優勝するのは画伯さんか、真梨央さんか、加々美さんしかいないよね。そうだ、だったら、グループ対抗にしよう。ボクとルミちゃんは、加々美さんを応援する。友美さんは、真梨央さんを応援して手伝えばいいよ。  ボクたちって、せっかくの芸術サークルなんだよ。美術品や芸術品をどんどん創造しなくちゃ。遺言の効力があるかどうかなんてどうでもいいでしょ。誰がその栄冠を勝ち取るかが大事だよ。コンテストをして、創造活動に従事することの方に意義があると思うな」 「そんな単純な問題じゃないんだ」  と、真梨央が白けた口調で言った。 「どうして?」と、紫苑は言い張った。「ねえ、加々美さん、やろうよお。ボクとルミちゃんが手伝うからさ、加々美さん、絶対に《島の王》になってよ」  しかし、加々美は答える気さえ起きなかった。  すると突然、榊原がテーブルの上を両手で叩《たた》き、激しい音を立てた。彼は立ち上がり、大声で訴えた。 「みんな、聞いてくれ! 俺は、この島から撤退することを動議として提案する! 今すぐこの仕事を捨てて、《奇跡島》を去ろう。こんな馬鹿げたことは、もうたくさんだ。今も言ったとおり、あの女に関わるのは二度と嫌なんだ。さもないと、きっと破滅が待ち受けているぞ。これは、あの恐ろしい女の呪《のろ》いに違いない。あの女には、何かとんでもない目《もく》論《ろ》見《み》があるんだ。そうでなけりゃあ、あんな変な遺言状を書くものか! あの女はな、どこかで俺たちが苦しむ様を見て、意地悪く微笑んでいるんだ——」 「落ち着けよ」と、真梨央は眉《み》間《けん》にしわを寄せた。「画伯、彼女がどこにいるって言うんだ。百合夏はもう死んだんだぞ。去年の暮れに病死したんだ。お前だって、彼女の両親からの訃《ふ》報《ほう》をちゃんと見たじゃないか」  榊原は椅《い》子《す》にドッカと座り、 「訃報は見た。だが、死体は見ていない。俺たちは、見舞いにも葬儀にも行かせてもらえなかった。昨年暮れ、あの女は急に大学をやめ、さっさと郷里へ帰ってしまった。俺たちの前からいきなり姿を隠したんだ。だがな、ということは、生きているかもしれないということだ。もしかすると、死亡も遺言もすべて偽りの可能性がある」 「くだらない。死んだのは事実だ」 「ああ、そんなことは解っているよ。しかし、俺が言っているのはそういう問題じゃない。何故、あの女は俺たちをそっとしておいてくれないんだ。何故、こんな奇妙な島へ、俺たちを呼び寄せたんだ。  真梨央。お前は、それをあの女の施しだと本気で信じているのか。だとしたら甘いぞ。お前はあの女への愛で、目が腐っているんだ」 「何を言うんだ。善意か、罪滅ぼしかもしれないだろう」 「善意だって? どんな善意だか言ってみろ。あるとすれば、悪意に決まっているさ。あの女は、たった今も、何かとんでもないことを企《たくら》んでいやがるんだ。俺にはそれが解る!」 「企むと言ったって、百合夏はもう生きてはいない!」  真梨央はむきになって繰り返した。  加々美は、彼らの様子に背筋が寒くなるものを感じた。  榊原は真梨央の抗議を無視して、テーブルの上に身を乗り出すと、権堂の方へ直接訴えた。 「権堂さん。頼みますよ。俺たちは何の報酬もいらない。こんな馬鹿げた館《やかた》も、大仰な美術品も、何一ついらない。遺言なんかどうでもいい。この島にいてはだめだ。危ないんだ。だから、お願いです。今日すぐにでも島を出て、早く東京へ帰りましょう!」 「帰るって……」  と、権堂はたじろいだ。  皆も、彼のその提案に対して、戸惑いの色を顔に浮かべた。すると榊原は、全員に挑むような視線を返した。 「解らないのか。最悪の場合、生命の危険だってあるんだぞ。だから、すぐに船に乗ろう。命が惜しかったら、一刻も早くここを出るんだ! それしか助かる道はないんだぞ!」  榊原の目は血走り、髪は逆立つように乱れている。感情の激した彼の言葉は、最後は刃のように鋭かった。  しかし、権堂は途方に暮れて、首を横に振った。 「画伯君。それはできないよ」 「何故です、何故できないんです!」  榊原は、泡を噴いて怒鳴った。 「船がないからだよ。忘れたのかね。ここは大海原の上の孤島だよ。どうやって出ていくんだね。今、この島に船はないんだ。昨日の漁船は、一週間後でなければ戻って来ない。最初から、そういう約束なんだよ」 「そんな馬鹿な!」榊原は悲痛な声を上げた。「じゃあ、俺たちは、ここへ閉じ込められたも同然ということですか!」 「そんなことはない。誰も閉じ込めたりはしていない」 「権堂さん。あなたはあの悪魔のような女を知らないから、そんな悠長なことが言っていられるんだ——」  榊原はガクリと頭を落とした。  他の者たちは、真梨央の方へ問いかけるような視線を向けた。しかし、彼にもすぐに妙案はなさそうだった。  おずおずと、木田が口を開いた。 「何か、方法はないっすかね。電話で本土と連絡を付けて、迎えに来てもらうとか……」  権堂はふたたびかぶりを振った。 「だめだ。ダルマ君。この館には、電話も無線もない。外部とは何の連絡手段もないんだよ。  とにかく、じっと一週間、迎えを待つしかない。まさか、こんな話になるとは、誰も思っていなかったからね。連絡方法などは、特に用意してはおかなかったのだよ」 「海岸に出て、見張りを立てて、通りかかる船を待ったらどうでしょうか」  と、友美が提案した。  しかし、一刀両断の下に、榊原が否定した。 「焚《た》き火でもして、狼煙《 の ろ し》を上げろって言うのか。馬鹿馬鹿しい! 俺たちが乗ってきた漁船の船長だって、このあたりは漁場からずいぶん離れていると言っていたじゃないか! そんな悠長なことはやってられないよ!」 「でも、何とかしようと言ったのは、画伯さん御自身ですよ!」  いつもなら大人しくしてる友美が、強く言い返した。皆の異常な心理状態から影響を受けたのだ。 「よかったら、自分が木を切り倒して、筏《いかだ》でも作りましょうか。それを漕《こ》いで、島を脱出するんですよ」  と、日野原はわざとらしい笑みを作って言った。が、誰からも返事はなかった。  しばらくして、榊原が泣きだしそうな声で言った。 「権堂さん。俺には、あの女がまだ生きて、この館の中に隠れているような気がするんですよ……あの魔女めいた女なら、そのくらいのことができても、おかしくはないんです……」  それを聞いて、加々美の胸の内がギリギリと痛んだ。 「亡霊が……いる?」  と、留美子が呟《つぶや》いた。  加々美が横を向くと、彼女は天井近くの壁の一点を見上げ、恐ろしそうな視線をそこに送っている。しかし、そこには、上部がアーチ形になった二本の白い柱が立って、間に胡桃《 く る み》材《ざい》の化粧板があるだけだった。 「誰もいないよ、大丈夫さ」  加々美は念を押すように言った。 「……うん」  留美子は頷《うなず》いたが、彼女はまだそこを見つめている。無論、ただの壁だ。彼女はテーブルの下で、右手を加々美の左手に重ねてきた。血が通っていないかのような、ひどく冷たい手だった。  八代百合夏……。  百合夏と、とうの昔に死んだ龍門家の有香子姫という女性。顔形のそっくりな二人。人間の領域をはるかに超えた美《び》貌《ぼう》を誇る彼女ら……その二人の霊魂が、この人里離れた館に宿って、ひそかに息づいているというのか。  呪《じゆ》詛《そ》。  祟《たた》り。  そんなものが、実際に存在するものだろうか……。  画伯さんは考え過ぎだ。  死者の魂がさまよい歩いているなどと……。  加々美は、幽霊みたいな超自然的なものを信じる質《たち》ではなかったが、これほど静《せい》謐《ひつ》とした館の中にいると、その確信もしだいに揺らいできた。  食卓での話は堂々巡りに終わり、結論は何も出なかった。島を脱出するという案に対して、有効な手立てを見つけられなかったからだ。仕方なく、気を紛らすためにも、事前に予定している仕事だけは、一応こなしておこうということになったのだが……。 3 「——それにしても、驚いたね、加々美さん」  と、紫苑はメモ帳と鉛筆を持った手を休めて言った。  彼らは、後で《ガレの部屋》と名付けられた広い室内にいた。一階の、例の肖像画が飾ってある居間と南東の階段の間に位置する部屋である。 「何が?」  ガレの伊万里焼き風の絵皿を点検していた加々美は、軽く紫苑の方を振り返った。わざとのんびりした声で尋ねる。本当は、紫苑が何を言いたいのかは充分解っている。  朝食がすむと、加々美らは予定どおり、館内の美術品の調査と確認を始めた。グループは二人ずつ組んで分かれることになった。広い館内をくまなく歩くには、それくらいがちょうど良かった。  加々美と紫苑は、一階にある美術品や工芸品が担当だった。飾られている個々の作品にナンバーを付し、それぞれの特徴をメモして、さらにある程度の鑑定——芸術的な価値と価格の値付け——を行なうのだ。  そのために、重たい思いをして、アール・ヌーボーに関する美術全集や辞典、解説書などを多数持ち込んであった。かつて、いずこかの国の万博や博物館で展示されたことがある品物なら、そういった書物のどこかに、掲載されている可能性があるからだ。  紫苑は加々美の側に寄り、寝不足の目でその皿を覗《のぞ》き込んだ。そして、加々美の問いかけに答えた。 「もちろん、百合夏って女の人の遺言のことさ。ボクらにこの島全部をくれるっていう話」  罪滅ぼしのつもりなのだろうか……。  加々美は手に持っていた皿を飾り戸棚の上に戻し、隣の有《ゆう》職《そく》文様の水差しを取り上げた。地は金色に塗られ、上部にペルシャ風のエキゾチックな絵模様が描かれている。紫苑も、これの美しさには目を奪われた。 「ねえ、ガレの作品って、ずいぶん値段が高いよね」 「高いな。非常に人気があるからね。芸術的価値が高いことも、その原因だ。偽物やコピー品も多く出回っているが、本物ならたいしたものだよ」 「どんな人だったの?」 「ガレは、アール・ヌーボーにおける代表的な装飾芸術家だ。特に、こういった工芸品の詩想的表現では、一頭地を抜いている。ワイマールで絵画や彫刻、植物学、博物学などを学んでいるし、当時向こうに留学していた日本人の画家、高《たか》島《しま》得《とく》三《ぞう》から日本美術の神髄も吸収している。たいへんに理知的な作家だったと言って良いだろうな。  彼の作品の特徴は、この植物的な曲線美にある。昆虫や草木を題材に多く用いているのは、日本画、特に花鳥画の影響が強い。見ただけで、その作品に手で触れたような柔軟な、官能的な感触が伝わってくるよな。自然を愛する気持ちが、幻想的形態によって封じ込められているんだ。妖《あや》しいおののきと、生命の煌《きら》めきに満ちていると思わないか」 「うん」と素直に頷《うなず》いた後、紫苑はまた話を戻した。「でもさ、こんな変な館をもらっても、困るよね」 「何が、変なんだ?」  加々美は水差しを窓の明かりに照らして、傷などがないか、子細に見定めた。金色に見える部分は、サンシュールといって、ガラス素材に金属酸化物の粉末を混入して斑《はん》紋《もん》を生じさせたものだった。この斑紋ガラスはガレの得意とした技法である。 「一番嫌なのは、眠れなかったってこと。気持ち悪くてさ。電気を消しても、部屋がボクを押しつぶすんじゃないかって、心配だったんだ」 「他の部屋へ行けば良かったのに」  加々美は軽く笑った。 「行ったんだよ。そうしたら、今度は渦巻きに引き込まれて、溺《でき》死《し》する夢を見ちゃったんだ。  ルミちゃんに聞いたら、彼女の部屋は、やけに天井が高いんだってさ。もちろん、それもトリック・アートだった。それから、ダルマさんの部屋の壁は、点描で絵が描かれているんだよ。じっと見つめていると、そこに、シェークスピアか誰かのでっかい顔が浮かんでくるんだってさ」 「だったら、今夜は寝袋を持って、外で眠ればいいだろう」 「やだよ。虫や蛇がいるもん」 「じゃあ、我慢するしかないじゃないか」  加々美は水差しの底に番号札を貼《は》り、本をめくって、ガレの作品集に同じ作品が出ていないか調べ始めた。  紫苑は、加々美に告げられた番号をメモに書き留め、 「ルミちゃんに聞いたけど、ナンシーって人の名前じゃなくて、フランスにある町の名前なんだってね」 「ああ、そうだよ。ロレーヌ地方というドイツとの国境近くにある町だ。ここは、もとからガラス製品などを産出していた所なんだ。それが、アール・ヌーボー様式の洗礼を受けて、メッカのようになった。ガレもそこの出身だ。  ナンシーには、今でも、アール・ヌーボー様式の美しい建物がたくさん残っているらしい。ちょうど、神戸の異人館街のようにね」 「そうかあ、一度行ってみたいな」 「君の父親は貿易商だろう。ナンシーぐらい、訪れたことはないのか」 「うん。それは行ってると思うよ。でも、ボク、会社を継ぐ気はないから——」 「へえ」と、加々美はわざとらしく言った。「ならば、将来は何をするつもりなんだ?」 「美容師になるんだ」 「美容師?」 「あ、加々美さん。馬鹿にしてるね。美容師だって、今は立派な芸術家なんだよ。ヘア・メイク・アーチストって言ってね、外国では非常に高級な職業なんだ。ハリウッドの映画製作所なんかでは、特殊メイクの技術が非常に高く評価されているしね。  ボクは本気なんだ。本気で、女性の髪型を美しく整えたいんだ。それに、ルミちゃんの最近の髪型は、ボクの意見が入っている。プードル犬を使って、カットの練習だってもうしているんだ。学校を卒業したら、フランスへ勉強に行こうかと思っているほどなんだよ」 「それは知らなかったな。たいしたものだ」 「えへん。そうでしょう」  紫苑は得意気に胸を反らした。  その水差しの点検が終わると、次はトンボの描かれた花瓶を加々美は手に取った。その柄はまるで、大理石に閉じ込められたトンボの化石のように見える。 「ねえ、加々美さん」  と、紫苑が言いにくそうに声をかけた。 「——何だい」  加々美は、その花瓶も窓からの光の中に翳《かざ》す。 「加々美さんも、その八代百合夏って女と、深い関係を持ったわけ?」  自分の顔がこわばるのが、加々美には解った。 「どういう意味だい?」  目を向けると、紫苑がまっすぐに見返した。 「ほら、ボクは、去年の春から十二月にかけて、交換留学生でカナダに行っていたでしょう。そして、東京へ帰ってきたら、みんなの様子がひどくおかしいのに気がついたんだ。でもボクは、それが、あの百合夏って人のせいだとは思わなかった。何がみんなの間にあったのか、ぜんぜん知らなかったからね」  加々美は、一瞬、嘘《うそ》を言おうかどうか迷った。 「麻生さんが言ったとおり、僕も悪魔に魂を譲ったのさ」 「そんなの加々美さんらしくないよ。加々美さんは、ルミちゃんがいるのに、他の女と関係したりする人じゃないもの」 「じゃあ、どんな人なんだ」声が沈んだ。「お前が、僕の何を知っていると言うんだ?」 「麻生さんの話には、何か嘘がある。ボクはそう思う。だって、加々美さんは、去年の十二月から今年の一月にかけて、大学にいなかったじゃないか。東北の実家の方に帰っていたわけでしょう?」  すぐに返事ができなかった。加々美の体の中に冷たい木枯らしが吹き込んだ。  彼はゆっくりと口を開いた。 「それは、母親が死んだからだよ。その始末に東京を離れたんだ……」  紫苑は黙って頷いた。  加々美は、自分に言い聞かせるように告げた。 「……だが、本当は、逃げ出したんだ。友達を置いて、あの恐ろしい境遇からな——解るかい。僕は、生き地獄から、たった一人だけ逃げ出したんだ。僕は卑《ひ》怯《きよう》者《もの》なのさ、弱虫なんだよ」 「そんなことないよ。仕方ないじゃない。誰も責めたりしないよ!」 「ああ、誰も責めない。誰も非難しない。誰も糾弾しない。だからこそ、僕は自分自身が許せないのさ。堪《たま》らないんだよ。  僕は、百合夏という女を心から欲した。初めて見た瞬間から、彼女が、僕の心の永遠の女性だと思った。そして、彼女を失うことを恐れた。彼女が僕を受け入れなければ、僕は生きる望みを失うと思った。  気がついた時には、僕らは宙ぶらりんの状況にあった。彼女は、僕らを精神的に不安定な状態に放り出して喜んでいた。僕らは、彼女の愛《あい》玩《がん》動物であり、実験動物でもあったんだ。自分を中心に置いて、僕らがどんな諍《いさか》いや反応を見せるか、それを見て楽しんでいた。彼女は僕らの人生をメチャメチャにして、自分の余命幾ばくもない人生の見返りにしていたんだ」 「そんなことを……」 「もしも逃げるならば、百合夏がサークルに入ってきた時に、他の賢明だった仲間と一緒にすぐに逃げ出すべきだった。それができず、うじうじと彼女を取り巻く仲間に加わり、何もかもが手遅れになった。そして、彼女の死期が近づいてきて、僕は肝心の時に怖くなったんだよ」 「むしろ、強かったんだよ、加々美さんは」 「そんなことはないさ。僕は臆《おく》病《びよう》者《もの》だった。あの時、偶然に母親が亡くなったから良かったが……」 「じゃあ、加々美さんの実家の方で、ルミちゃんと加々美さんとの間に、どんなことがあったの?」  紫苑は、大きな目で加々美を見つめた。  加々美は、思わず目を逸《そ》らした。それこそ、彼が一番答えたくないと思っていたことだったからだ。 「ルミちゃんは——」  と、紫苑が訴えようとすると、加々美は意を決して、 「ルミコには、悪いことをしたと思っている。彼女には無理をさせた。彼女の気持ちを傷つけ、思いを踏みにじった。彼女は、僕を底なしの苦悩から救い出そうと、自ら生け贄《にえ》になってくれたんだ。魂と身を僕の心に巣くう悪魔の前に投げ出してくれたんだ。なのに、僕は悪い奴《やつ》だ。くだらぬ奴だ。惨めな奴だ。それは解っている。彼女には、本当に幾ら詫《わ》びてもすまないと思っているんだ」 「じゃあ、謝ったわけ? 謝れば許してくれるよ」  加々美は弱々しく頭を振った。 「シオン、違う。彼女は、最初から許してくれているよ。彼女は聖母だ。真実の意味での天使だ。外見どおりに、あんなに純真な女性はいないな。後は、僕が彼女の無《む》垢《く》な気持ちに応《こた》えられるかどうか、それを試されている段階だ。だから、昨日も言ったように、もう少し時間が欲しい」 「……うん」  加々美は目を瞑《つぶ》って考えた。  確かに、端《はた》から見れば、自分と留美子の関係は不思議に思えるだろう。彼女は表面上は以前と変わらず、加々美に純粋な恋心を抱いているようだ。また、彼女の優しさと天《てん》真《しん》爛《らん》漫《まん》さによって、他人からは平穏な関係にあるとしか見えないだろう。  だが、一度壊れたガラス細工は二度と元には戻らない。限りなく現物に近く復元できても、それには目に見えないひびが入っているのだ。それが、今の自分と留美子との関係だった。 「加々美さん、最後にもう一度だけ聞くね。そうしたら、二度と言わないから。加々美さんは、ルミちゃんのことをもう愛していないの」  加々美は、苦悩に満ちた目で紫苑の目を見つめた。 「解らない……解っているのは、現在の僕にとって、彼女の気持ちは枷《かせ》だということだ。重荷でもある」 「そんな!」  加々美は深く息を吐いた。 「シオン。麻生さんが、友美を恋人にして、同《どう》棲《せい》したのは何故だと思う。それは百合夏のことを忘れたいからだ。画伯さんは、今年は公募展用の作品を一つも描いていない。それは、百合夏のことが今も心を占めているからだ。日野原もそうだ。みんなそうなんだ。僕らは未《いま》だに、百合夏という女神の幻影に心を奪われているんだよ。それが事実なんだ」 「つまり、女神を愛してしまって、生身の人間は愛せないってことなの〓」 「そうだ」  加々美は話をしながら、しだいに気持ちが氷のように冷たくなるのを感じた。最後には自分が紫苑に何を言っているのか、よく解らなくなった。紫苑が、そんな自分の方を怯《おび》えたように見ている。 「正直に言おうか……僕も画伯さんの意見と同じで、皆が一刻も早く、この島から出ていく方が賢明だと思っている。考えれば考えるほど、たまらなく怖くなる。あの女は、女神の皮を被《かぶ》った悪魔なのだ。冷血な魔女だった。  百合夏という女は、確かに肉体は滅びた。だが、今でも、その邪悪な精神はこうして生きている。そして、いつまた地獄からよみがえって来るかもしれない。その時には遅いんだよ。  だから、僕も早くここを逃げ出したい。そう思っている。解るかい、恐ろしいんだよ。島をさっさと出ないと、きっと何か悪いことが起こりそうだ……」 4  昼近くなった時、留美子と友美、木田の三人が連れだって《ガレの部屋》へやってきた。  留美子は飛びつくようにして、加々美の左腕に自分の右腕を絡ませた。 「加々美さん、外にある《暁の塔》を見に行こうよ! お願ーい!」  と、提案する。  加々美が迷っていると、友美も明るい顔で、 「高い所に昇ったら、景色も綺《き》麗《れい》だし、もしかすると、近くを通る船を見つけられるかもしれないと思ったものですから」 「いいね!」と、紫苑は万歳をして飛び上がった。「賛成。行こう。すぐに行こう!」 「わくわくするっすね」  と、木田も笑い、眼鏡を光らせる。  真梨央や他の者たちは、まだ二階の調査をしていると言う。  加々美は、彼女らに引っ張られるようにして館の外に出た。目の前に、白い外壁の《暁の塔》が高く聳《そび》えている。  外は曇っていた。間もなく雨になりそうな黒い所の混じった雲が天を覆い、少し冷たい風が吹いている。断《だん》崖《がい》の下に打ち寄せる波の音も、気のせいか重く湿った感じがする。  昨日は気づかなかったが、館の西側の奥に、山と森を背にして、他の茂みとは異なった場所があった。近づいてみると、そこはどうやら昔は花壇であったようだ。細い鋳鉄を編んで作ったようなアーチがあり、入り口を形成している。バラの蔓《つる》や他の雑草が、旺《おう》盛《せい》な繁殖力で、この技巧的な意匠のアーチをほとんど覆っていた。  アーチをくぐって中へ入ると、雑草や灌《かん》木《ぼく》に混じって、けっこう多くの花が咲き乱れていた。留美子は胸の前に手を組み、瞳《ひとみ》をキラキラ輝かせ、 「ああん、キレイ!」  と、大喜びした。  花壇の名残《 な ご り》に、足元には一応小《こ》径《みち》らしきものがきってある。元は、花の種類ごとに地面が管理されていたのだろう。加々美は花の名前が解らず、女性たちの喜びようほどの感動は味わえなかった。コスモスのような花があったが、自信はない。  留美子と友美はうきうきした顔で、蝶《ちよう》 々《ちよう》のように落ち着かず、どんどん進んだ。おしゃべりがそれに華を添える。  一番奥の方に、瓢《ひよう》箪《たん》形《がた》をした小さな池があった。奥行きは二メートルほど。左右の長さが六メートルぐらいある。水は澄んでいるのだが、縁《ふち》まで雑草が押し寄せ、水面は水草が覆い繁っているので、背後の森との境界が判然としない。近づいてみると、左手の端の方で、崖《がけ》の岩肌から湧《わ》いたような細い水の流れが入り込んでいることが解った。  留美子はますます有頂天になり、 「《神秘の池》って、名付けようかしら。それとも、《瑠《る》璃《り》色《いろ》の池》がいいかな。あら、でもだめね。ぜんぜん瑠璃色じゃあないんですもの!」  すると、友美も嬉《うれ》しそうな顔で提言をした。 「ルミコ先輩。この花壇の場所全体を、《秘密の花園》って呼ぶことにしませんか。それがいいと思います。絶対に合っていると思いますけれど——」  池の縁で飛び跳ねていた留美子が、急に足を止める。その動作があまりに唐突だったので、加々美は、何事が起こったのかと訝《いぶか》しんだ。友美も同じ気持ちだったらしく、不安げな目を留美子の華《きや》奢《しや》な背中に注ぐ。  すると、留美子はスカートの裾《すそ》を翻して、クルリと振り返った。形の良い眉《まゆ》根《ね》を中央に寄せ、イチゴのような口を尖《とが》らせている。だから加々美は、彼女がまた、霊的なものを見たか聞いたかしたのだろうかと心配した。  しかし、留美子は大きな瞳《ひとみ》をパチパチさせたかと思うと、今まで以上の可《か》憐《れん》な笑みを浮かべ、大喜びした。 「うん。いい。さすがね、友美ちゃん! 実を言うと、ルミコも、ここは、バーネットのあの素晴らしいお話によく似ているなって思ってたの。その名前、とってもお似合い!」 「そうですか。良かった!」  加々美はホッとした。そして苦笑しながら、二人の女性が前以上にはしゃぐ姿を見ていた。彼女らの花壇の探索は飽きることを知らないようであった。  しかし、紫苑はわりと短気で、すぐに文句を付けた。 「ルミちゃん! もう、いいでしょう。早く塔へ行こうよ。こんな所にいると、蚊に刺されるからやだよ! 後で、一人で来て楽しめばいいじゃない! 早く、塔へ昇ろうよ!」  留美子と友美を何とか納得させ、一同は花壇を後にした。  断崖の縁に立つ《暁の塔》は、下から見るとずいぶん高く見えた。こちら側からでは天辺にある海に面した窓は見えず、なめらかな外壁をした巨大な煙突という感じである。よく観察すると、白壁もだいぶ潮風で傷み、また苔《こけ》や汚れなども目立った。扉は鉄製で、蔓草模様の意匠が施してある。鍵《かぎ》は管理人の収蔵が事前にあけてあったので、難なく中に入ることができた。 「わあ、螺《ら》旋《せん》階段だあ!」  塔の内部へ入った途端、紫苑が大喜びした。  塔の外側は飾りなどなく単純な造りだったが、階段はアール・ヌーボー様式らしい緻《ち》密《みつ》で彫刻的な造作になっていた。手すりは木製で、その幅は一様ではなく、太くなったり細くなったり、うねったり、ねじれたりしている。まるで植物の蔓が絡まったようだ。螺旋階段を見上げると、それは海にできる大渦のようで、そこに巻き込まれていくような錯覚を覚える。上からも弱々しい光が差していたので、照明などは用意する必要がなかった。  階段の下には、空間を利用した小部屋があった。錆《さ》びぎみの小扉をあけてみると、中は暗く埃《ほこり》にまみれていた。階段の裏側が天井なので頭上は低く、奥行きも一メートルちょっとしかない。 「鍬《くわ》や鎌《かま》まであるよ」と、中を覗《のぞ》き込んで紫苑が言った。「きっと、有香子姫の首を切断したっていう斧《おの》も、この中にあったんだろうね」 「これは、物置っすね」  と、紫苑の後ろから木田も中を見る。彼の太った体格では、中に入れそうにない。  加々美もつられて覗くと、様々な道具や民具がぎっしり置かれていた。砂を運ぶ一輪車やスコップまで壁に立てかけてある。昔、リンゴを入れて運んだような木箱が一番奥にあって、その中に、紫苑が言ったような小道具がぎっしり詰まっていた。 「きっと、外で薪《まき》割《わ》りとかをしていた使用人が、ここに道具をしまっていたんでしょうね」  と、友美が感心して言った。 「ねえ。早く、上に行きましょう!」  と、留美子がじれて言う。 「解った」  加々美は振り返り、笑いながら返事した。  コンクリートの壁や床に、一列になって階段を昇る彼らの硬質な足音が谺《こだま》した。 「——うわあ、すっごく高い!」  真っ先に展望室の窓から外を覗いた紫苑が、手放しに叫んだ。  展望室は二メートル角ぐらいの狭い部屋で、壁飾りも何もない殺風景な場所だった。海に面して一メートル四方の窓が開いており、外側に、半分朽ち果てたような両開きの木製の鎧《よろい》戸《ど》が付いている。あるものはそれだけだった。  紫苑が場所を譲ったので、加々美は窓から顔を出した。  真下を見ると、自分が眩暈《 め ま い》がするほど高い所にいることが解った。  塔の外壁と、険しい絶壁とはほぼ一直線に繋《つな》がっていた。海面まで四十メートルぐらいはあるだろうか。海は紺《こん》碧《ぺき》の色を強め、遥《はる》か下のゴツゴツした岩場に、白い波がぶつかっては砕け散っている。風があるせいで、今日は昨日よりだいぶ波が高い。潮《しお》騒《さい》の音も、強く荒々しい感じがした。ロープのような物を用意しても、絶対にこんな所を下りるのは無理だった。 「——この部屋で、女王様は死んだのかあ」  と、紫苑が狭い室内を見回しながら言った。 「やめて、シオン!」  部屋の中央にいた留美子が怖がって、加々美の腕にしがみついた。冗談か本気か、少し震えている。 「へん、弱虫」  紫苑がわざと嘲《あざ》笑《わら》った。留美子は加々美の陰から顔だけ出し、イーをして対抗した。 「何よ!」 「大丈夫っすよ」と、木田が眼鏡の縁を指で触り、黒ずんだ床を見つめた。「もう何十年も前のことです。血の跡も残っていないっすよ」  そう言われて注意して見ると、窓から五十センチほど離れた所が、少し床の石が削られたようになっている。そこが、被害者の首を切り落とす時に、斧の歯が当たった部分なのだろうか。 「これでは、殺人を犯した犯人が、窓から海へ飛び込んで逃げるなどということは、絶対に無理ですねえ」  と、次に外を見た友美が感心したように言う。じめじめした潮風が、彼女の髪の毛を揺らしている。 「今が、干潮時か満潮時か解りませんが、たいした問題にならないようっすね」  と、木田は緩慢な動作で窓に歩み寄った。そして、上を向き、 「窓から屋上へ上がるのも不可能っすね。けっこう離れています。それに、つかまる物と言えばこの鎧戸だけっすが、これでは不安定でしょうがないっすよね」  加々美は陽気に笑った。 「何だよ。みんなで探偵ごっこをしようと言うのか。僕たちで、首をなくした貴婦人の謎《なぞ》を解くのかい?」 「おお、それって、いいっすね。やりましょう、先輩! おいらたちだって、よく考えれば、推理できるかもしれません!」 「この壁が二重になっていて、秘密の抜け穴があるってことはないかな」  紫苑はそう思いついて、拳《こぶし》で壁を叩《たた》く真似事をした。  加々美は首を左右に振ると、 「ここへ上がってくるまでの感じでは、そんな様子はなかったぞ。それに、塔を下りてからはどうするんだ? どうしたって、砂地に足跡が残るぞ」 「秘密の地下道があるんだよ。本館とこの塔を行き来できる」 「お前は、スパイ映画の見過ぎだ、シオン」  友美は、豊かな胸の下で腕組みをして、 「論理的に考えてみませんか。被害者の有香子姫が、その夜、この塔へ昇ったのは間違いありませんよね。では、犯人はどうでしょうか。犯人もやはり、この塔へ上がってきたのでしょうか」 「そんなの、当たり前よねえ?」  と、留美子が、彼女と加々美の顔を不思議そうに代わりばんこに見る。  答えたのは木田だった。 「いいや、それが当たり前ではないんっすよ。古今東西の推理小説を読んでみても、加害者が現場に来ないで殺人を犯すような様々な手が、作家によって考えられていますから。  たとえばですね。被害者が実際に殺害されたのは、本当はここではなくて、別の場所だったと考えてみましょう。つまり、殺害後に、犯人が死体を、わざわざこの塔まで運んでくるわけなのです」 「へーんなの!」  と、留美子は大きな目をしばたたいて、感想を述べた。 「何故ですか」 「だって、死体ってきっと重いもん!」  木田が目を点にし喉《のど》の奥で唸《うな》ったので、加々美はおかしくなった。 「そりゃあ、重いっすけどね。そんな風に言ってしまえば、身も蓋《ふた》もないじゃないっすか」 「だが」と、加々美は言った。「その場合にも、結局、足跡の問題に突き当たるよな。足跡はただ一つしか地面に残っていなかった。それは有香子姫のもので、向こうからこっちへ来る一方通行のものだけだったと言うのだから」 「そうなんです。それが問題なんっすよ」  木田は顎《あご》の脂肪を震わせて、頷《うなず》いた。  紫苑が顎に、気取ってV字形にした親指と人差し指を当て、 「シオン名探偵様が考えるに、被害者は斧で首を切断されていたわけで、頭部が持ち去られていたという事実もありますから、やはり、犯人は現場に足を踏み入れたとしか考えられませんな」 「だから、さっきから、そう言っているわ」  と、留美子はつんとした顔で指摘する。 「問題を、整理してみます」と、友美が言った。「犯人は被害者と共に、当夜、この塔の上にいたかいないか。被害者の首を切断し、持ち去ったのは何故なのか。それから、どうやって、足跡を付けずに砂地を往復できたか。この三つの点に説明ができないと、真相は絶対に解りませんね」 「犯人は、本館にいた人物なのだろうか」  と、紫苑が首を傾げて疑問を提示する。 「というと、何よ?」  と、留美子はあくまで彼に反対するつもりだった。 「ぜんぜん、館とは関係ない人物がいてさ——いわゆる殺人鬼とかっていう奴が、当時この島に隠れひそんでいて、凶行に及んだんだよ。だって、普通の人には、そう簡単に殺人なんて犯せるわけないもの」 「だからイヤ、子供は」 「何だよ」 「そんなことを言えば、何だってありじゃないの。宇宙人が窓から攻め込んできたのかもしれないし、海賊が、海から鯨捕り用の銛《もり》を撃ち込んだのかもしれないわ」 「たった今、亡霊を怖がったくせに」 「幽霊は実際にいるけど、宇宙人なんかお話だけよ。空の上にいるのはね、星の王子様って決まっているんだから!」  留美子があまりに真顔だったので、加々美はクスクス笑いながら、もう一度窓に近づいた。  紫苑が、懲りずに別の案を出した。 「この塔から、本館のあの角が立ったような屋根まで、ロープを渡せないかな。それを伝って逃げるんだ」  すると、木田がすぐさま否定した。 「この窓は、海に面していて、本館のある方と反対側を向いているわけですし、向こうまで、四十メートルぐらいあるんですよ。高さもありますしね。それに、そんな危ない真似までして、わざわざ足跡を消して、殺人を犯す必然性ってあるんですかね」 「そりゃあ、解らないけどさ」  紫苑は肩をすくめた。降参の印だ。 「私も無理だと思います」  と、友美が言い、木田はその応援を嵩《かさ》に、 「たとえ、そうやって逃げたとしても、今度はロープを回収する手立てがないっすよ」 「ねえ、ねえ。スーパーマンや鉄腕アトムみたいに、空を飛んできたっていうのは?」  留美子が大発見のように騒いだが、誰も取り合わなかった。 「解った!」と大声を上げると、紫苑は両手を広げた。「犯人はやはり、被害者より先にこの塔の上で待っていたんだよ。雨が降る前からね。それでさ、犯行後に、ハングライダーかパラシュートで、この窓から逃げ出したんだよ」  皆が白々とした目で彼を見つめた。  加々美が揶《や》揄《ゆ》した。 「それも、身元不明の殺人鬼説かい?」 「だって、そうとしか考えられないんだもん」  木田が、大学教授のような顔をして、得々と言った。 「そんなことをしたら、海に落ちて確実に死にますよ。だいたい、ハングライダーの翼がどのくらいの大きさがあるのか、君は知っているんすか。こんな小さな窓じゃあ、つっかえて通らないですよ。パラシュートは、逆に、高度不足で開かないと思いますね」 「ひどいよ。あーん、みんながボクをいじめるー」  紫苑は両手の甲を目に当てて、泣き真似をした。 「そう言えば、有香子姫の死因については、権堂さんは何と言ってたっけ。誰か覚えていないか」  と、加々美は見回して尋ねた。  木田は首を振った。 「ええと、確か、何も言ってなかったっす。ということは、残された胴体には、首の切断以外に何も外傷がなかったっていうことでしょう」 「そうすると、被害者が頭を持ち去ったのは、それが原因かもな。鈍器か何かで頭を殴り、相手を殺したとするよな。ところが、頭の傷の状態を見られると、それから凶器が解ってしまう。凶器が解ると、犯人が特定される。だから、自分の正体を割り出されないよう、被害者の頭部を持ち去ったわけさ」 「なるほど。それはいい考えっすね」 「しかし、何かって、何かだよな」  加々美は腕を組み、考え込んだ。 「何かって、何かっすよね」  と、木田も同じような格好で考えた。 「そうだ!」と、紫苑がまた大声を出した。「頭を持ち去った奴ってさ、きっと骨格標本 蒐《しゆう》集《しゆう》家《か》だったんだよ。前に、加々美さんが教えてくれたよね。原始人とか、アフリカの原住民の人骨のコレクションを趣味にしている人がいるって」 「ああ、確かに欧米には人骨だけを扱う骨《こつ》董《とう》業者がいる。しかし、それとこれとはぜんぜん違うだろう。だいたい、本館にあった蝋《ろう》人《にん》 形《ぎよう》の頭も奪われていたことはどう考えるんだ。蝋人形には骨はないぞ」 「そうかあ……そうだよね」 「結局、いくら考えても、私たちには結論は出ないみたいですね」  と、友美が笑いながら言った。 「名探偵になりそこねちゃった」  と、留美子が手を叩《たた》いて喜ぶと、紫苑が文句を言った。 「ルミちゃん、不謹慎だぞ」 「本当のことじゃない」 「仕方がないからさ、昼飯でも食べようか」  と、加々美はお腹《なか》をさする真似をしながら提案した。 「賛成!」 「さんせーい」 「賛成っす」  と、次々と賛同の声が上がる。 「腹が減っては、頭が働かない」  もっともらしい顔で、妙な格言を唱えたのは紫苑だった。  五人はまたゾロゾロと一列になって、狭い螺《ら》旋《せん》階段を下りた。  それから三十分もしない内に、外は雨になった。 5  最初の悲劇が起きた時間を、加々美は明確に記憶している。四時十二分。ちょうどその時、彼らは、広間の東側に隣接する部屋——たぶん客間として使われていた部屋——にいた。彼は、紫《し》檀《たん》製《せい》の豪華な戸棚に作りつけになった飾り時計の値踏みを、紫苑と共にしていた。だから、文字盤と針の位置関係を見ていたのである。  最初の異変は、ドーンという大きな音だった。それは、隣の広間の方から響いてきた。誰かの悲鳴も聞いたように思うが、咄《とつ》嗟《さ》のことで、その声が音の前だったか後だったかは思い出せなかった。小さな地震みたいに、壁や床がわずかに揺れたように感じた。隣室でそうとうの衝撃があったのだ。重たい物が落ちたか、何か大きな物が床に倒れたのだと、すぐに気がついた。 「何、今の〓」  紫苑もびっくりして、キョロキョロする。 「隣だ!」  加々美は手短かに答え、間を隔てる変形扉に飛びついた。その時には、隣室から、榊原や木田が何やら喚《わめ》き立てる声が明《めい》瞭《りよう》に聞こえていた。  急いでその扉をあけ、二人は広間の中へ雪《な》崩《だ》れ込んだ。  すると、反対側の壁の角に近い所に、留美子と友美がこちらに背を向け、すくんだように突っ立っていた。その上の二階のうねうねとしたバルコニーの手すりの所からは、蒼《そう》白《はく》な顔の榊原と木田が下を覗《のぞ》いている。誰もが、氷漬けになったかのように身動き一つしない。女性二人と、壁との間には、床の上に何か大きな固まりがあった。 「どうしたんだ!」  加々美が怒鳴ると、 「加々美さん!」  と、驚きで口に手を当てたまま、留美子が振り返った。大きな目に、涙が溢《あふ》れそうになっている。 「日野原さんが!」  同じように目を見開いた友美が、喘《あえ》ぎながら言った。  その一言で、事態が把握できた。加々美と紫苑は急いでそちらに近づいた。加々美の足が、小さなガラスの破片を踏みつけた。  彼女らの前に横たわっていたのは、豪《ごう》奢《しや》な照明器具に押し潰《つぶ》された日野原の無惨な死体だった。  彼の体の上にのっていたのは、白くて凝った造りの茸《きのこ》形《がた》のランプ・シェードだった。花びらを模倣した真《しん》鍮《ちゆう》製《せい》の梁《はり》に、合わせガラスが数枚張られたものだ。直径は一メートル近くあり、彼の胴体部分を完全に覆い隠すほどの大きさである。重さ自体も八十キロ近くあるだろう。もちろん、シェードは割れてガラスは散乱し、蝋《ろう》燭《そく》は折れて転がり、燭《しよく》枝《し》も歪《ゆが》んでいる。  日野原の体がその下敷きになり、頭と手足だけが縁から突き出ていた。首は、左へ直角にひん曲がっている。半開きになった口から血の飛沫《 し ぶ き》が噴き出し、首元とシェードの上に飛び散っている。目はそれぞれあらぬ方を向き、すでに精気がない。最初に見た時、手足の先に筋肉の痙《けい》攣《れん》が残っていたような感じもしたが、それも今はなくなっている。  タケシが死んだだと! 「……どうしてなんだ〓」  加々美が呆《ぼう》然《ぜん》と囁《ささや》くと、友美と留美子が啜《すす》り泣きを始めた。留美子は加々美の胸にしがみつき、わあわあと大声で泣きだした。  ひどい!  これでは、あまりに唐突で、あまりに突然の最期だ!  事故……なのか〓  加々美は訳が解らぬまま、バルコニーを見上げた。天井の巨大なステンド・グラスが、気味悪いほど青白く輝いている。  落下した照明は、二階のバルコニーの角に四つ設置されているものの一つだった。枯れ木を模倣したブロンズ製のスタンドで、L字をひっくり返したような形の横に伸びた枝の先に、広間の宙に浮き出る形でランプが吊《つ》り下がっている。そのスタンドの軸が、今、手すりの上に斜めになって倒れかかっていた。 「お、落ちたんすよ」と、木田が丸い顔を歪めて呟《つぶや》いた。「ランプごと、タケシさんが、ここから——」  彼と榊原は、そのスタンドの左右から、手すりの上に顔を出して下を覗いている。榊原は青白い顔で、固まったように身動き一つしなかった。彼の顔もまるで死人のようだった。 「友美。権堂さんと、麻生さんを捜してきてくれ」  と、加々美は彼女に頼んだ。  しかし、聞こえなかったのか、友美は啜り泣いて、死体を見下ろしたままだった。加々美は苛《いら》立《だ》たしげに、もう一度大きな声で言った。 「友美。早く、権堂さんと麻生さんを!」  ハッと顔を上げた友美は、ガクガクと頷《うなず》き、あわてて廊下へ駆けていった。 「ダルマさん、何が起きたの!」  と、紫苑も上を見て、質問した。  木田は眼鏡を取り、顔の冷や汗を袖《そで》で拭《ぬぐ》ってから答えた。 「こ、この照明を調べようとしていたんすよ。それで、脚《きや》立《たつ》にのって、ランプ・シェードの状態を、タケシさんが見ていたのです。そしたら、バランスを崩して、それにしがみつき、スタンドが手すりを乗り越えるように倒れて……シ、シェードをくくりつけていた鎖が切れて……そして、一緒に、下に落ちてしまったんです。が、画伯先輩が、脚立を押したから……」 「な、何だと〓」  恐怖と驚《きよう》愕《がく》と怒りとあらゆる感情の入り混じった顔をして、榊原が木田を振り向いた。 「俺《おれ》が、どうしたって!」 「だって、だって、画伯先輩が……」  木田は呟きながら、思わず後《あと》退《ずさ》った。 「馬鹿を言うな。俺は、あいつがのっていた脚立が倒れそうになり、危なかったので足元を押さえようとしたんだ。それが、間に合わなかったんじゃないか! くそ! 何てことだ!」 「争いはやめてください!」  加々美はたまらない気持ちで叫んだ。そんな場合じゃない。留美子はまだ、彼の胸に顔を埋めて泣きじゃくっている。 「無駄なことをしている場合じゃないですよ、画伯先輩!」  加々美は重ねて言った。 「あ、ああ」  榊原ががっくりと肩を落とし、弱々しい視線を下に向けた。 「ど、どうすればいいかな……」 「二人とも、こっちに下りてきてください。すぐに、権堂さんと麻生さんが来ますから」 「わ、解った」  階段の方へ回るために、榊原と木田の顔がバルコニーから消えたのと、廊下を走ってくる複数の足音——たぶん、真梨央たちのもの——が扉を伝ってきたのは同時だった。 〈これは、嘘だよな——〉  全身が粟《あわ》立《だ》つ中で、加々美は思った。  タケシが死んだなんて。さっきまで、生きて、笑って、話をしていたのに、今はまったく動かない一個の骸《むくろ》と化してしまった。認めないぞ。  なのに、恐ろしく重く、果てしない悲壮感が加々美を押し潰そうとしていた。 『死が絡んでいる——』  昨日、榊原が危《き》惧《ぐ》した言葉が、急に加々美の脳裏によみがえった。 第7章 投影された殺人の悲劇 1  一階奥のギャラリーにいた権堂と真梨央が、友美に連れられて、急いで駆けつけてきた。現場の様子を一目見るなり、真梨央が、ただ立ちつくしているだけの加々美たちを怒鳴りつけた。 「何をしているんだ! 早く、それをどけろ!」  男たちはあわてて協力し、重たいランプ・シェードを持ち上げた。そして、その下から日野原の体を引き出した。だが、もう手遅れだった。手当のしようもない。彼は完全に事切れていた。その体は生命の火を失って、二度と動くことはなかった。痛ましすぎる出来事だった。 「……タケシを……遺体を、二階の寝室へ運ぼう」  絶望に包まれながら、真梨央は仲間たちへ言った。  加々美は真梨央を手伝って、ベッドの中で日野原の遺体を整えた。それから、全身の傷の状態を権堂が確認した。  首の骨折の他にも、肋《ろつ》骨《こつ》が何本か折れている感じだった。衣服の前をはだけると、胸の所が紫色に変色していた。折れた骨が肺などの臓器に突き刺さり、内出血を起こした可能性もある。無論、死の要因の最たるものは首の骨折であり、彼が死の世界に旅立ったのは、一瞬のことだったと推察できた。  単純にバルコニーから落下したのなら、運動神経の発達した日野原だから、たいした怪《け》我《が》もしなかっただろう。受け身により何事もないか、せいぜい擦り傷程度ですんだはずだ。しかし、自分の体重と同じほどの重さの物体と一緒に墜落したのである。これでは、ひとたまりもない。  悄《しよう》然《ぜん》とした榊原は、言い訳をするように状況を説明した。 「タケシは、脚《きや》立《たつ》の上に立っていて体の平衡を崩したんだ。それで、手すりを越えてしまい、あわててランプ・シェードにしがみついたんだ。ところが、スタンドの軸の根本が台座から折れて、手すりの方に倒れかかったわけだ。そのためタケシは、シェードをかかえて、宙にぶら下がる格好になった。タケシとシェードの重さが、ランプを吊《つ》っている鎖にいっぺんにかかった。そして、すぐに鎖が切れたんだ。  それはアッと言う間の出来事だった。俺《おれ》やダルマが助ける間もなかった。いきなり、タケシとあの大きなシェードが一緒くたになって落下した。タケシだって悲鳴を上げる間もなかったんだ!」  広間の惨状——壊れたランプ・シェードや、割れたガラスなど——は、管理人夫婦が掃除をしてくれることになった。その間に、仲間たちは、日野原と永遠の別れをすることにした。ベッドに横たえた彼の死体の横で、全員が厳粛な思いで黙《もく》祷《とう》した。木田は子供の頃に僧《そう》侶《りよ》になりたくて、お経を幾つか暗記していた。それで、般《はん》若《にや》心《しん》経《ぎよう》などの短いものを二つ唱えた。それが弔いの代わりだった。  かけがえのない友人を失った……尽きない悲しみが、加々美の心を灰色一色に塗り込めた。他の仲間たちの顔も、グロッタ遺跡にあるオデュッセウス像のような悲壮感に包まれていた。  一同は部屋を出ると、バルコニーへ行ってみた。さっき下から見たとおり、バルコニーのそれぞれの角に、Lの字を上下ひっくり返したような照明スタンドが設置してある。高さは二メートル、ブロンズ製で、全体は枯れ木を模したものである。その内の一つ——北西の角にあるもの——が、手すりの所へ斜めに倒れかかっていた。広間の宙に突き出ている横軸の先には、当然のことながらランプ・シェードはない。幹の形をした軸の下に、四方へ根を張った台座があるのだが、調べてみるまでもなく、その接合部分が折れ曲がっていた。日野原が使っていたアルミ製の小型脚立も、そのすぐ脇《わき》に倒れている。  結局は、突発的で、手の打ちようがない、悲しき事故だったのだ。だが、加々美はやりきれない気持ちでいっぱいになった。何とか、日野原を助ける術《すべ》はなかったのだろうか。それよりも、最初から、あんな事故に遭わない方策はなかったのだろうか。どうして、本人ももっと注意してくれなかったのだろう。  加々美の心は——自分の責任でもないのに——後悔で強く締めつけられた。 「とりあえず、下へ行こうか」  と、権堂が押さえた声で言った。  天井のステンド・グラスから注ぐ青い光のせいで、皆の顔が幽霊のもののように冷たく見えた。  一同は、バルコニーから優美な曲線を描く階段を伝って広間へ下り、そのまま食堂へ集まった。留美子と友美は、感情を押さえ切れずに、何度目かの嗚《お》咽《えつ》を上げていた。  少し落ち着いてから、権堂が榊原と木田に、事件が起こった際の様子を尋ねた。二人は、交互に説明を行なった。概略は、日野原と三人で二階にある装飾品を調べていた時に起きた事故——そういうことだった。榊原が説明すると、木田も同意した。  しかし、真梨央は念を入れて尋ねた。 「画伯。ダルマが言うには、お前がタケシの足を押したから、彼は脚立の上で姿勢を崩して、ランプにしがみついたのだそうだ——本当のところはどうなんだ?」  榊原は、テーブルに座ってからずっとタバコを吸い続けている。目の前の灰皿には、揉《も》み消された吸い殻が山盛りになっていた。口にしたばかりのタバコを、彼は苛《いら》ついた様子でその上に押しつけた。 「馬鹿を言うな。じゃあ、何だ。俺がわざとタケシをバルコニーから突き落としたと言うのか。俺があいつを、故意に殺したとでも言うのか。冗談じゃない! 俺はむしろ、あいつが脚立から落ちそうになったから、助けようとしたんだ。その時、当然、手は足に触れたさ。だが、だからと言って、俺を犯罪者扱いするのはやめてくれ!」 「そうは言っていない」 「言っているじゃないか! あれは事故だったんだ!」  榊原が怒鳴ると、間に挟まれた木田は泣きだしそうな顔になった。 「ま、待ってください。麻生先輩、画伯先輩。おいらの、勘違いだったかもしれないっす。きっと、画伯先輩の言うとおりだったんす。変なことを言って、どうもすみません」  榊原は目を細めて、彼を憎らしげに見た。 「今さらなんだ! お前の見間違いに決まっているじゃないか。まったく、何をやらせても鈍い野郎だ。グズ!」 「画伯さん!」と、友美が目を真っ赤にした顔を上げた。「いくら何でも、そんな言い方はひどいと思います!」 「ひどいだと」榊原は、冷徹な視線を眼鏡の奥から友美に注いだ。「ふん。俺は、人殺し扱いをされているんだぞ。そっちはひどくないのか」 「で、でも……」 「やめたまえ、二人とも」権堂は腰を浮かせて手を差し出し、あわてて遮った。「私たちがいくら怒鳴りあっても、タケシ君は生き返ってこない。喧《けん》嘩《か》は無駄なことだ。今は冷静になろう。私はただ、事故が起きた時の正確な状況を知りたいだけなのだよ」 「喧嘩をふっかけているのは、真梨央たちですよ」と、榊原は執《しつ》拗《よう》に抗議した。「だいたい、俺がタケシを殺さなければならない、どんな理由があるって言うんだ!」  すると、友美もヒステリー気味になって言いつのった。 「昨日、ハタチさんとかいう人のことで、画伯さんはタケシさんになじられました。だから、その仕返しのつもりですわ。殺すつもりはなくても、意地悪をしようと思ったのではありませんか!」 「それこそ馬鹿馬鹿しい話だ。根拠薄弱だな。勝手な推測はやめろ」  榊原は怒って顔をそむけ、斜めを向いてしまった。  その時突然、加々美の横で、留美子が大声を上げて泣きだした。テーブルの上に置いた両手に顔を伏せ、肩や背中を激しく震わせた。 「ルミコ!」 「ルミちゃん!」  加々美と紫苑はうろたえて言った。ところが、留美子は敢然と顔を上げると、泣き濡《ぬ》れた大きな目で榊原を見据えた。 「画伯さん、ひどい! こんな酷《むご》いことをするなんて!」  さすがの榊原も顔がこわばった。普段はあどけない顔した留美子から、たいへんな剣幕で糾弾されたからだ。 「何が酷いんだ〓」 「ルミコ、騙《だま》されないんだから!」  留美子の顔があまりに思い詰めていたので、加々美は背筋が寒くなった。 「ルミコ。落ち着いて。画伯さんは何もしてないよ。事故だよ。あれは事故なんだから」 「嘘《うそ》! 嘘よ!」留美子は泣きながら言い張った。「ルミコ、知ってるもん。ちゃんと、解ってるんだから!」 「ルミコ、落ち着けよ!」  加々美は彼女の肩を抱き、紫苑に目配せして、彼女を部屋の外へ連れ出そうとした。 「ルミちゃん!」  と、紫苑も立ち上がって彼女の側へ来た。 「画伯さんが、殺したんだわ!」 「そんなことないよ、ルミちゃん!」  紫苑は、留美子に懸命に言い聞かせようとした。 「あんなことをして! ひどい! ひどい!」  留美子は柔らかな髪を振り乱し、目から大粒の涙を流して、榊原に向かって悲鳴混じりの声を投げつけた。  榊原は動揺し、蒼《そう》白《はく》な顔になって何も言い返せなかった。  加々美と紫苑は、やっとのことで留美子を廊下へ連れ出した。彼女は顔を両手で覆って泣きじゃくり、文句を言い続けた。興奮して、自分の言っていることや、今の状況が解らなくなっている状態だった。 「……ルミコ」  加々美は悲しげな表情をして、そんなもろく華《きや》奢《しや》な彼女の体を抱いた。彼女は彼の胸の中で、嫌々をするように頭を振った。 「加々美さん、ルミちゃんは、ボクが連れてくよ。大丈夫。ボク一人の方が落ち着くから……ルミちゃん、行こう。部屋へ行って休もう。少し、寝た方がいいよ。もう何でもないからね……」  紫苑は、彼女を懸命になだめながら、階段のある方へ二人で歩きだした。  二人が見えなくなると、加々美は全身に虚脱感を感じた。部屋の中へ戻ると、元の椅《い》子《す》にガックリと腰かけた。皆がこちらを見ていたが、何も言う元気はなかった。 「ルミコは、平気か」  と、真梨央が尋ねた。 「ええ。ちょっと休めば大丈夫だと思います。あまりにショックだったみたいで……すみません」 「そうか。ならばいいけどな」  場が白けたようになり、皆、口をつぐんだ。留美子から面と向かって殺人者呼ばわりされた榊原は、不機嫌極まりない顔をしている。  権堂が、気疲れしたような表情で尋ねた。 「ところで、画伯君。何故、君らはバルコニーの照明なんかを調べていたんだね。客室の、花瓶などの調査をするはずだったのではないかな」 「ああ、そうだ!」と、榊原は途端に表情を変え、熱の入った口調で答えた。「あの事故のあったバルコニーのすぐ横が、ダルマの部屋です。そこに置かれている花瓶と灰皿、額縁、それから小さなランプなどが、全部ダンジャンタールの品だったんですよ」 「えっ、ダンジャンタールが。本当かね〓」  権堂は、不謹慎なほど驚いた。 「ええ。それで、両隣の部屋や、廊下の装飾品も調べたわけなのです。室内のランプがダンジャンタールだったら、あのスタンド型の大型照明もそうかもしれない。それで、確認しようとした——おい、もともとそれを言いだしたのは、ダルマ、お前だったよな!」  木田は、首を亀のようにすくめた。 「そ、そうです。おいらです」 「真梨央さん、ダンジャンタールって誰ですか。私、知らないんですけど」  友美が、目頭をハンカチで拭《ふ》き、小さな声で尋ねた。  真梨央は彼女の方を向き、 「非常に有能なガラス工芸職人だよ。ガレより少し前に活躍した人だ。ガレが大きな工房を持ってたくさんの製品を産出したのに対し、この人は自分一人で丹念に一つ一つ造った。したがって、個々の製品の質は非常に高く、数がないので日本では知名度はないが、ヨーロッパではたいへん珍重されている」 「それじゃあ、大発見なのですね」 「ああ、そうさ」と、榊原が乱暴に横から答えた。「だから、俺が止めるのもきかず、タケシの奴《やつ》は脚立なんか持ち出して、あんな無理をしたんだ。その結果が、あの事故に繋《つな》がった。だから、俺には責任はないんだ。自分自身の落ち度さ。  ちなみに言うと、あれもダンジャンタールだった。たぶん、あの型のランプは四つともそうなのだろう。その貴重品の内の一つを、不注意にも壊してしまったわけだ」  権堂が、皆に向かって尋ねた。 「誰か、タケシ君の家のことを知っているかね。両親はどこに住んでいるのかな」  加々美は手を上げてから、答えた。 「彼の実家は山梨県の石《いさ》和《わ》です。有名な温泉地です。以前は農家だったらしいのですが、湯が掘り出されてからは、小さな旅館を始めたそうです。両親とも健在ですが、彼は大学に通うために出てきて、国《こく》分《ぶん》寺《じ》市のアパートに住んでいました」  権堂は頷《うなず》くと、 「今、私たちはこのような離れ小島にいる。したがって、すぐに彼の両親に訃《ふ》報《ほう》を知らせることができない。また、残念ながら、遺体を手厚く葬ることもできない。本土と連絡を取る手段がないので、どうしようもないのだ。だから、迎えの船が来るまで、彼の遺体をどこか寒い所に安置しておこうかと思うのだがね」 「それならば、地下の方が良さそうですね」  と、真梨央が言った。 「そうだね。二階ではちょっとな。後で、君たちにもう一度、彼の遺体を移してもらおう。場所は、管理人の竹山さんに私が訊《き》いておくよ」  真梨央らは、黙って頷いた。 「お通夜はしないんですか」  と、友美が弱々しい声で質問した。 「そうだな……」と、権堂は少考した。「……してあげた方がいいだろうね。今夜、食事が終わったら、有志で彼の側にいてやろう。だが、徹夜は控えよう。あまり無理をして、寝不足でまた事故が起きても困るからね」  友美は赤い目をして、コクリと頷いた。  真梨央が再確認した。 「それでは、遺体を運ぶのは明日の朝にしましょうか」 「いいや。死体の防腐処置などは何もできないから、なるべく早く涼しい所に移した方がいい。竹山さんに、氷がないかどうか尋ねてみる」 「予定していた仕事の方は、この先どうしますか」  権堂は神経質そうに薄い髪の毛に手をやり、苦渋の表情で、 「……船が来るまでまだ何日もある。ぶらぶらしていても仕方がないな。気持ちを切り替えて、作業は続けようと思う。みんなはどうかな」  権堂はテーブルを見回した。誰も答えようとしない。  権堂はつらそうな眼《まな》差《ざ》しで、 「君たちは、私のことを冷たい男だと思うかもしれない。しかし、私たちには任務がある。そのことも事実だ。職場放棄をすることは、無責任に繋《つな》がってしまう。それは私は嫌なのだ」 「解っています」  と、真梨央が慰めるように言った。  権堂は深いため息をついた。 「ありがとう。タケシ君の死はたいへん悲しい出来事だった。容易に忘れられるものではない。だが、人間は生きるために歩き続ける必要がある。私が思うに、この悲しみを紛らわせるためにも、かえって何か作業をしていた方がいいのではないだろうか」  青い顔の榊原は事務的に、友美は小さく頷いた。加々美も控え目に、異存はないと答えた。  権堂の目の下には隈《くま》ができ、瞳《ひとみ》も濁って見えた。 「それでは、食事にしよう。食べられないかもしれないが、できるだけ口に入れておいた方がいいと思う……」 2  全員が、仲間を失った悲しみで黙りこくっていた。食事は、重苦しい雰囲気に包まれていた。何を口に含んでも、鉛のような奇妙な味しかしなかった。実際のところ、加々美は気が滅《め》入《い》って、あまり食欲はなかった。  だらだらとした食事が終わると、男たちは、日野原剛の遺体を地下に移すことにした。寝台の布団ごと彼の遺体をくるみ、担架の要領で体を持ち上げて運ぶのである。真梨央と木田が頭の方を支え、加々美と紫苑が足の方を持った。魂が体から抜けたにしても、日野原の大型な体はずしりと重たかった。  先頭を、火を入れたランプを持った管理人の竹山収蔵が歩いた。遺体を運ぶ加々美らの後ろに、権堂と榊原、友美が付いてきた。地下への階段は、厨《ちゆう》房《ぼう》の脇《わき》の、北側の廊下が東へ突き当たった所にあった。 「ルミコの具合は?」  と、階段を下りながら、加々美は紫苑に尋ねた。 「さっき、部屋の中を覗《のぞ》いてきたら、ぐっすり寝ていたよ。精神的にだいぶまいったみたい」  地下には電灯がなかった。収蔵の持つランプが、闇《やみ》が支配する廊下に弱い光を投げかけた。階段を二度直角に曲がると、地下の廊下に出る。すぐ左手にボイラー室や燃料貯蔵室などが並んでいる。彼らは西へ向かい、その廊下をまっすぐ奥へ進んだ。壁から滲《にじ》み出るひんやりとした空気。周囲は削り出したままの御《み》影《かげ》石《いし》だ。扉が所々にあるが、殺風景な光景が続く。 「一番奥に、空き部屋が二つあんだ。その内の一つに、お仲間の遺体を置けばいいんでねえの」  収蔵は説明してから、手前の部屋の側で立ち止まり、木の扉をあけた。中に入ると、彼はランプを少し上に掲げて室内を照らし出した。三メートル四方の真四角な部屋で、壁は粗い石がむき出しになっている。何も置いていないため、閑散としている。低い天井に、丸みを帯びた鍛鉄製の黒い笠《かさ》を持つ小さなランプがぶら下がっている。火《ほ》屋《や》は真っ黒に煤《すす》けていた。 「これは、明かりが点《つ》きますか」  遺体を中に入れながら、天井を見上げて真梨央が尋ねた。  収蔵は首を振り、 「使うとは思ってなかったんで、油が入ってねえんだ。すぐに、別の物を持ってくっぺ」 「お願いします」  収蔵は自分の持っていたランプを床に置き、外へ出た。  真梨央たちは、日野原の遺体をなるべく部屋の奥の方へ運び、扉と平行になるように安置した。 「ダルマ君。頼むよ」  権堂が厳粛な声で言った。  全員が自然と遺体の前に並び、黙って頭を垂れた。木田は両手を合わせて深く合掌してから、お経を唱え始めた。  少しすると、収蔵が新たなランプを二つ持って戻ってきた。遺体の両脇にランプを置き、友美が先ほど館の外へ出て、池の側で摘んだ白い花を供えた。加々美と木田は、一階から椅《い》子《す》を四つ持ってきた。それと入れ替わりに、榊原が地下を立ち去った。  他の者は、加々美を含めてなかなかここを後にできなかった。しかし、何を話したらいいか、何をすればいいか解らず、ただ途方にくれるばかりだった。  何を言っても、死んでしまった友人は生き返らない。時間が逆転し、事態が回復するわけでもない。それだけは、完全な事実として、誰もが認めていたからだ。  だいぶ経ってから、友美が静かに遺体に近づいた。顔を覆っているシーツを少しだけはぎ、目を閉じた日野原の顔を見た。肌の色は、もう鉛色に変色している。友美はシーツをそっと戻し、また目頭にハンカチを当て、啜《すす》り泣き始めた。  しばらくすると、権堂が食堂からワインとグラスをもらってきた。 「酒好きだったタケシ君の通夜なんだからな」  加々美はあまり飲む気がしなかったが、義務的にグラスを受け取った。友美は断わって、真梨央の腕に頭を寄せると半分眠ったように目を瞑《つぶ》った。  真梨央は、注がれたグラスの中の液体をランプの光に翳《かざ》し、 「タケシは、酔って、みんなで大騒ぎをするのが大好きだったんですよ」  と、しみじみ言った。  加々美も自分のグラスの中を見つめ、生前の友人の面影をその液体の揺らめきの中に捜した。  一本気で、愉快な奴《やつ》だったな……。  権堂がワインのボトルを床に置き、心配そうな口調で尋ねた。 「麻生君。タケシ君がいなくても、明日からの作業に支障はないかね」  彼の目には、つらい気持ちが如実に映っていた。  紫苑が黙ったまま、非難するような視線を彼に向ける。しかし加々美には、責任者としての権堂の気苦労も理解できた。 「……どうでしょうか」と、考え込みながら真梨央は答えた。「彼は、重要なメンバーでしたからね」 「もちろん、解っている。だが、私の言っていることはそういう意味ではない」 「失礼しました。ええ、そうですね。ただ、彼は非常に力仕事に有能でしたから、そういう点では、いろいろと作業に齟《そ》齬《ご》が出るでしょう」 「各自の割り当てと、グループ分けを考えなくてはならないな」 「ええ」 「明日の朝、食事の前にもう一度相談して決めようか」 「はい」  結局、権堂も仲間の一人を失ったことでは、我々と同様の痛みを受けている。その感傷を表に出すかどうかだけの違いなのだ——加々美は、そう同情することができた。  日野原と共に過ごした日々。昔話。思い出。途切れ途切れの回想。  夜中の一時を回った頃には、一人一人いなくなって、この安置室に残っているのは加々美と紫苑だけになった。自分たちから申し出て、最後まで居残ることにした。いつの間にかだいぶ酒が進み、加々美はかなり泥酔状態になっていた。 「……シオン。僕たちも、そろそろ引き上げようか」  加々美は睡魔が押し寄せてきた目で、腕時計を見た。  足元の半分残ったボトルを持ち、立ち上がろうとする。しかし、足がもつれて、紫苑が支える間もなく、彼は別の椅《い》子《す》にベッタリと腰を落とした。 「ああ、しょうがないなあ、加々美さんは」と、紫苑がつくづく言った。「歩ける?」 「……だい、じょうぶ」  加々美は答えた。しかし、頭の中がグラグラ揺れている。知らない内に、だいぶアルコールを摂取してしまったようだ。もともと酒はそう強い方ではない。足に力が入らない。 「まったく、こんなに飲んでどういうつもり」 「面目ない……」  加々美は言い争う元気もなかった。自分でも、どうしてこんなに日野原の死が精神的に響いたのか、分析できなかった。 「ちょっと、待ってて、加々美さん」  紫苑は一《いつ》旦《たん》部屋を出ると、水を入れたコップを持って戻ってきた。  加々美は、一息でその水を飲み干した。だが、まだ腰が抜けたようになっている。  紫苑は怒ったように言った。 「どうするの、加々美さん。ここで寝るの。ボクは嫌だからね」  加々美はぼんやりと首を振り、 「ちゃんと自分の部屋へ帰って寝るさ——ちょっと肩を貸してくれ」  紫苑が加々美の右肩の下に潜り込み、彼を立たせようとした。 「ランプ消せよ」 「真っ暗になったら、タケシさんが可《か》哀《わい》相《そう》だよ」 「もう、寂しがることもないさ」  紫苑は加々美を椅子に戻し、ランプを一個だけ廊下へ先に出して、残りのランプを消した。ねっとりとした闇《やみ》が、すぐに室内に充満した。入り口を照らす橙《だいだい》 色《いろ》の明かり。水彩画固有のにじみに似て、その柔らかな光が、室内の闇と互いの色彩をぼかし合う。  紫苑はもう一度、加々美の腕を取って立ち上がる手助けをした。  二人はフラフラと歩きだした。加々美の頭が、頼りなく前後に動く。部屋の外へ出た所で、紫苑がランプを拾い上げた。 「加々美さん、ランプ持っていられる? 落としちゃだめだよ」 「大丈夫だ……」  加々美は彼からランプを受け取った。落とさない自信はなかった。  二人は廊下を進み、階段へ向かった。定まらぬ目では、薄暗い廊下は直線ではなく、溶けた飴《あめ》のようにねじれて見える。しかも、その狭い通路は、壁の陰《いん》翳《えい》の凹《おう》凸《とつ》を強くし、だんだんと鍾《しよう》乳《にゆう》洞《どう》に変《へん》貌《ぼう》してきた。加々美は、自分が、レンブラントが描く大仰な煉《れん》獄《ごく》へ向かって歩いているような畏《い》怖《ふ》を感じた。 「——ねえ、加々美さん。画伯さんが、タケシさんをわざとバルコニーから、突き落としたなんてことはないよね」  階段の手前で、体勢を直すために立ち止まった時、紫苑がそう尋ねた。囁《ささや》き声なのだが、あたりが深閑としているせいか、むやみに大きく響いた。加々美は、呂《ろ》律《れつ》の回らない口調で訊《き》き返した。 「何で、そんな馬鹿なことを考えるんだ。シオン?」 「だって」 「大丈夫だよ。いくら仲が悪くても、そんなひどいことをするわけがない。だいたい動機がない」 「動機はあるよ。だって、ライヴァルが少なくなれば、それだけ、百合夏って人の遺言にあった、ここの《島の王》って奴になりやすいわけじゃない」  頭の中の酔いが、スッと消えたような感じがした。加々美は返事に詰まった。 「……いいか。人殺しなんてのはな、新聞やテレビのニュースの中だけのことさ。そうに決まっている。あんまり変な噂《うわさ》を流すなよ」 「うん」  紫苑もそれほど本気だったわけではなく、加々美の注意を、すぐに納得して受け入れた。  階段を昇ろうとすると、加々美の重たい体はなかなか持ち上がらなかった。片手で壁を押さえ、前のめりになって、足を片方ずつ動かす。一階へ来ただけで、紫苑は早くも荒い息をついた。  二階へ上がった頃、加々美の記憶は途絶えかけていた。  その後、どうやって自分の部屋へたどり着いたのか、扉をあけたのか、室内へ入ったのか、ベッドに倒れ込んだのか、紫苑がいつ立ち去ったのか——朝になって、まったく思い出せなかった。ただ一つ理解できたのは、酒を飲んでも、その効力は一時的なものだということだった。  絶対的な悲しみは、どうやっても癒すことはできない。 3  何かに体を押さえつけられていた。少なくとも、何かの重みを感じた。ひんやりとした感触を肌に感じたが、自分の体の、皮膚の、どの部分で感じているかは解らなかった。だいいち、夢と現実の区別がつかなかった。自分を囲む暗黒の空間。画家ターナー描くところの悲壮感漂う暗黒。何もかもが混《こん》沌《とん》として、自分の肉体の実感さえなかった。  冷たい。  今度はかなり明《めい》瞭《りよう》な感触だった。彼の頬《ほお》に、誰かの手がそっと触れている。次には、胸にもその手が当てられた。氷のようだ……。  目をあけようとしたが、瞼《まぶた》はハンダ付けされたように動かなかった。感覚的に表現すれば、顔の前を覆うものは、漆をぶちまけたような泥だった。耳から入った音がその泥状の闇の中に流れ込み、黒く細い線状の渦となり、視覚的な無数の軌跡を描く。  言葉を発しようとしたが、それさえも叶《かな》わない。  加々美は暗黒の中であがいた。鈍い意識の固まりが宙に浮いていて、それが、外界に向かって遠《とお》退《の》いたり近づいたりしている。自分がベッドの中に横たわっていることを、だんだんと理解できるようになった。覚《かく》醒《せい》まではあと少し。 〈…………だれ……だ……〉  弱々しく尋ねる。自分の声が自分のもののようには聞こえない。抑揚がなく、まるで感情のないロボットがしゃべっているようだ。  暗闇の渦巻きがしだいに暗黒の色を失い、灰色と紫の混ざった墨絵のように変化していった。瞼がわずかに開いた。室内に、ほんのかすかな明かりがあるのを知覚する。それとも、知覚している現象そのものが、単なる錯覚や幻なのだろうか。  加々美の左腕に、痺《しび》れるような重みがあった。柔らかで、濡《ぬ》れた髪の毛が、彼の肌をくすぐった。 〈……誰だ……〉 「……あた……し……」  ……はるか遠くから、潮《しお》騒《さい》のような囁き声が聞こえた。  小さく、小さく……それが誰の声か判断しようとしている内に、声も、そして自分の意識も途切れそうになる。アルコールのせいだ。頭が痛い。体中が粘土と化した。人間ではなく、自分は静物となっている。  ……女だ……髪の長い……固有色……女……髪の濡れた……ふわふわの……感情と、個性の表現……誰だろう……ルミコか……冷徹な観察力……先生方が、美術家の目に必要だと言っていたもの……だが、ルミコが……ここへ来るはずがない……だとすると……誰だ……エキスプレス表現のような……柔らかな……髪の長い女……体の冷たい女……陰《いん》翳《えい》や形態の誇張……死人……百合夏……二色以上の色彩の相互関係……まさか……色価の問題……百合夏が……そんなことが……。 〈……君なのか〉  加々美はそう口ずさんでいた。ただし、声が出ていたかどうかは解らない。 「……ええ……」  これは、本当に彼女なのだろうか。自分は一人でいるのではないのか。誰かがベッドに一緒にいると言うのか。  ……ここに、百合夏が……緑で描いた赤いリンゴ……何故、彼女は……補色に影を落とす印象派の原理……ここにいる……馬鹿な……彼女は……死んだんだ。どうして……今は、朝なのか……百合夏……お前が……まさか……そんなことはない……エル・グレコのように……明度の対照をはっきりとさせる……ここは、僕の部屋だ……違う……そんなはずはない……亡霊だ……夢だ……夢を……見ているんだ……表面の触感と、色彩の調子のバランス……現実ではない……妄想だ……いるはずがない……あの女は……死んだんだ……。  必死に体を起こそうとするが、全身は麻《ま》痺《ひ》したようだった。動かない。それとも、自分はまだ目覚めていないのだろうか。これは夢の中で考えていることなのだろうか。 〈……名前……〉  自分の横に、誰かが寄り添っていた。女性の体。血が通わぬように冷たい体。陶器製の人形か、置物に触れているような滑らかさ。冷たい。寒さか何かで、その体も小刻みに震えている。  ……百合夏……百合夏……やめてくれ……もう解放してくれ……許してくれ……嫌だ……来ないでくれ……百合夏……。 「……ううん……」  童女のような女の顔が、暗黒の濃霧の中から近づいてきた。影だけでも、その女の顔が非常に美しい輪郭を持っているのが解る。だんだんと、その女の顔がはっきりとしてきた。霧に含まれる無数の水滴が一ヵ所に集中して、彼のよく知っている女の容《よう》貌《ぼう》を形作った。 「……違う、あ……た………し……」 〈…………ルミ……コか……〉  自分の声が、うめき声に聞こえた。  ……百合夏じゃなかった……そうさ……あの女はもう死んだんだ。  フランス人形のように愛らしい留美子の笑顔が、加々美の目の前に浮かんでいた。彼がその顔を闇の中でつかもうとすると、火に炙《あぶ》られたワックス・ドールのように、ドロドロと溶け始めた。表面の肌が流れ去ると、その中から真っ白な髑《どく》髏《ろ》が現われた。髑髏はぽっかりあいた黒い眼《がん》窩《か》で、加々美の顔をじっと見つめる。  髑髏が笑う。  そして今度は、フィルムを逆回転させたかのように、下に溜《た》まっていた蝋《ろう》が少しずつ線状になって上に戻ってくる。髑髏が、また少しずつ蝋で覆われていく。完成し、再生した顔は、留美子のものではなかった。輪郭に繊細な線を描き、視線に邪悪な光を宿す八代百合夏のものになった。完《かん》璧《ぺき》な美しさを持った顔。堕天使の顔。  加々美は、夢の中で息が止まるほど喘《あえ》いだ。  ……やめてくれ……嘘《うそ》だ……光や運動を平面でとらえても……もう……たくさんだ……イメージの増大化……嘘だ……信じないぞ……お前は生命がないんだ……違う……無機質の複製……絶対に違う……嘘だ……。 「………………加々美、さ、ん……」  闇の奥から、怯《おび》えた声が、囁き声が返ってくる。  加々美は、やっとのことで寝返りを打った。右手が自然と、自分の隣に横たわる女性の小さな肩の上に添えられた。素肌の肩だった。 「……か、がみ、さん……」 〈…………ああ……〉  ……どうしてだ……そう尋ねる声が、実体になったかどうか、定かではなかった。全身の力を振り絞って質問をした。そのつもりだったが、相手からは返事はなかった。彼女の細い腕が、自分の首に巻き付いたのを感じただけだった。  もしも、彼が完全に正気だったら、たぶん留美子を撥《は》ね除《の》けるか、あるいは逆に、本能のおもむくままに彼女を強く抱きしめただろう。だが、今はどうでも良かった。あまりに疲れていて、何もする気が起きなかった。頭の中が軋《きし》んでいる。留美子が自分と同じベッドにいるという事実——それを認めるだけで、精一杯だった。 〈……ル、ミ………コ〉 「……へい……き……」  彼女は、雨に濡れた子犬のように震えていた。彼女は、怖いのだ。 「……もう、あんなこと……ない……」  しかし、彼女は怯えている。あんなこと? 何? 日野原の死か? 百合夏の遺言か? この不思議な島のこと? それとも、昔のこと?  目をあけて、見たい。だが……。  彼女の柔らかな唇が——しかし、体温をまったく感じさせない冷たい唇が——彼の唇にそっと押しつけられた。死者との口づけ。  ……ルミコ……。 「……一緒に、いて……」  留美子の柔らかな頬が、彼の頬に寄せられた。  非日常的な場所に展示した既製品の純日常性……何故、彼女の体は……こんなに冷たい……死人……造形表現のための素材……そうだ、死人のようだ……留美子は死んだのか……僕は、死人を抱いているのか……いや、違う……やはり……これは、百合夏なのか……複製の復旧……ダ・ヴィンチの《最後の晩《ばん》餐《さん》》のように……あれは滅びて……百合夏……僕は……胎児……どうすれば……いい……お前は、迎えに……来たのか……。 「…………ルミコ……こわい……」 〈……うん……〉  相手の恐怖が、少しずつ彼の体内に染み込んでいく。  僕たちは、二人とも怖がっている。元凶は、この島だ……この奇跡島だ……謎《なぞ》の島……謎の館……細密な肖像画は崩れ……ここに、可変的な映像表現が起こる……風刺……宝箱をあけて……血が流れる……赤い……聖母……父……。 〈……逃げよう〉加々美は、囁く。〈逃げなくては……〉  ……誰から……逃げるんだ……いったい……。 「…………おね……がい……」  ……ルミ……………………。  これが留美子なら……ゴーギャンは何と言ったか……自然の模倣などやめて、想像力と記憶に基づいて描くこと……頭の中にだけある、彼女の姿……。  加々美は思った。  留美子の体をこんなに間近に感じたのは、あれ以来だ。なんて小さく、か細く、弱く、すぐにでも壊れそうな存在なのだろう。妖《よう》精《せい》のような華《きや》奢《しや》な体。儚《はかな》げな表情。可《か》憐《れん》な顔つき。  去年の暮れ、自分の母親が死に、それを口実に東京を逃げ出した時。  あの時、留美子が後から彼を追っかけてきてくれた。そして、あの一夜……。  留美子をこの腕の中に抱くのは、あの時以来だ。彼女に対する感情、自分のわだかまり、すべての自制心、そして、とぐろを巻く性的な欲望——何もかもが、彼の体の中でグチャグチャに混ざっている。 〈……だめだ……〉  力がまったく入らなかった。目の前に何重もの厚いベールが被《かぶ》さっている。呼吸の仕方を忘れ、言語の発し方を失う。彼は懸命に側にいる者の方へ手を伸ばそうとするが、相手の体は実体がなく、ついに届かない。  いつか、こんな経験をしたことが……。  あれは、大麻を吸ってぶっ倒れた時のことだ……。  ……麻薬か……白と黒の混濁……墨の中に白い絵の具を流し、かき回したよう……子供の頃に見た『ウルトラQ』という特撮番組のオープニングに似ている……いや、ポロックの『五尋《ひろ》の深さ』……アクション・ペインティング技法を使って、中心も焦点もない混《こん》沌《とん》とした世界を作る……悪夢。  百合夏……ミューズ……アフロディーテ……ベアトリーチェ……地獄の女……ビーナス……エロスの象徴……堕落の女神。  あの女が僕たちに与えたもの。麻薬と快楽と非人間性……野獣性……フォービスム。  吐き気……前後不覚になり……自己嫌悪……裸体……あの時と同じだ。  そして……彼の意識は、また暗黒の中に引きずり込まれた。プツリと記憶を失った。ただ、今度は孤独ではなかった。誰かと二人だった。彼の心の片隅に、ある女が寄り添っているという実感があった。けれども、それは、安《あん》堵《ど》感《かん》とはほど遠い感覚だった。  百合夏の、神秘的な眼《まな》差《ざ》し……ダイヤモンドが輝くような……結晶的な美しさ……幻想の光景……白光……。  彼女の顔。堕天使の顔。それによく似ている。  だとすれば、それは絶望……。 4  窓を明るく染めている静かな反射光が、暖かみを含んで、彼の顔に注いでいた。ステンド・グラスの窓からの極彩色の厳粛な光。目をあけて、右手を頭上のサイドボードに伸ばす。そこに置いてあった腕時計を見る。六時四十分。頭がかすかに重い。アルコールがまだ残っている。そのために、かえって早く目覚めてしまったらしい。  彼は、昨夜の服のままベッドに入っていた。紫苑に連れてこられて、着替えずに寝入ってしまったのだ。寝汗をかいたらしく、シャツが胸にベッタリ張り付いていた。  ——ルミコか〓  彼は心臓が止まるかと思った。  自分の横に、可《か》愛《わい》い寝顔をした彼女がいたからだ。  それが、左手を支配する鈍痛の原因だった。腕が痺《しび》れている。  良かった。百合夏ではなかったのだ。  彼の左手をまくらにし、留美子が小さく丸くなって眠っていた。綿を重ねたような豊かな髪が、まわりに広がっている。あどけない横顔。  彼女は裸で、バスタオルを体に巻き付けたまま、彼のベッドに入り込んでいた。胸元がはだけて、小さな可愛い乳房が片方覗《のぞ》いている。艶《つや》やかな桃のようだ。白い肌に、薔《ば》薇《ら》色《いろ》の乳首が美しい。 〈ロココ風の絵画なら、もう少し誇張して、豊満に描くな〉  加々美は心の中で、自分の冗談にクスリと笑う。そして、薄い上掛けを引っ張り、首の所まで隠してやった。高校生の頃に読んだ、モーパッサンの『女の一生』の一場面が思い出された。あれは確か、初夜の翌朝の情景。  不思議なほどの静けさ。何もかもが、秩序だっている。こうして少しずつ、留美子と自分は、わだかまりを消して一つの色に融合していくのだろうか。  加々美は上半身をひねるようにして、左手を彼女の頭の下から静かに抜いた。起こさないか心配だったが、彼女は軽い寝息を立てている。血が通わなかったため、腕にはまったく感触がない。  立ち上がり、側にある椅《い》子《す》に座った。左手を何度もさすっている内に、肉の内部がピリピリと痛くなった。血管の活動の復活。ようやく血の気が差し、暖かみも戻ってきた。  目覚めたら、留美子は何と言うだろう。自分は、それに対して何と答えるのだろう。  フランス・コントのようなほほえましい光景。  腕の痺れが取れると、彼は新しい服を着た。自然と鼻歌が出てしまう。何だか楽しい気分だった。  だが——、  その平穏な気持ちは、あっけなく破られた。誰かが、廊下を激しく走ってくる音がした。ノックをする間もあらばこそ、蒼《そう》白《はく》な顔をした紫苑が、中へ飛び込んできたのだ。 「加々美さん! たいへんだ!」  加々美は反射的に、ベッドの前に立った。留美子が寝ているのを、紫苑の目から隠すために。 「何だよ、いったい〓」  加々美はうろたえながら答えた。  しかし、紫苑はまったくそんなことに気がつかなかった。顔色は青く、目は情緒を失っており、唇は震えていた。 「お願い! 早く来て! 食堂だよ! 大事件なんだ!」  紫苑の様子を見れば、ただごとではないことが解る。  知らず、加々美の全身からも血の気が失《う》せる。紫苑が彼の腕を入り口の方へ引っ張った。 「……うーん、どうしたの……」  後ろで、ぼんやりした留美子の声がした。焦って振り返ると、彼女が毛布から白い両手を出していた。目をこすりながら欠伸《 あ く び》をする。寝ぼけ眼でこちらを見た。自分がどこにいるか、室内に誰がいるか、ぜんぜん状況を把握していない。 「ああ!」  と、紫苑が驚き顔で叫んだ。右手をまっすぐ伸ばし、留美子の顔を指さす。 「どうして、ルミちゃんがここにいるのお!」 「え、それは」と、加々美は返事に詰まった。「ルミコが——その、僕は酔っていたから——」 「キャッ!」  今度は留美子が小さな悲鳴を上げた。ようやく、事態を半分ほど理解したのだ。あわてて彼女は、体を隠すために、毛布を顔の中央まで引き上げる。 「何でよ! 何で、シオンと加々美さんが〓」  羞《しゆう》恥《ち》で真っ赤になりながら、留美子は叫んだ。 「馬鹿言うなよ」と、加々美は腹立たしげに答えた。「ここは僕の部屋だぞ」 「ええ、うそお! 何で〓 知らないもん〓」  留美子は毛布に顔を伏せた。  紫苑が真剣な顔で、加々美を問いつめた。 「加々美さん。何故、二人は一緒のベッドで寝てるわけ! それに、ルミちゃんたら、裸じゃないか!」 「そんなことはいい!」加々美は照れ隠しもあって怒鳴った。「それよりも、シオン。いったい何があったんだ!」 「そうだった!」と、紫苑は、また激しく顔色を変えた。「タケシさんの死体なんだよ。たいへんな事になった。早く食堂へ下りて!」  彼は加々美の腕を、力ずくで扉の方へ引っ張った。細い彼の体のどこに、それだけの力があるのか。 「ルミちゃんも、早く起きてったら。服を着てよ!」紫苑はそう言い、加々美の方へも、「ボクは、木田さんも起こしてくる。加々美さん、ルミちゃん、先に食堂へ行ってて!」  と告げると、アッという間の俊敏な動作で外へ飛び出していった。  加々美は頭が痛くなるほど困惑した。何が起こったと言うのだ。ベッドでは、上半身を起こした留美子が、大きな目に不安の色を浮かべ、こちらを見ている。巻き毛が、解いた毛糸のように、彼女のほっそりした肩に降りかかっていた。 「ルミコの洋服は?」と、彼女は上目遣いにか細い声で呟《つぶや》いた。「加々美さんが、脱がしたの?」 「冗談言うな。君が裸で、勝手に夜中に入り込んできたんだ」 「そんなこと、しないもん」 「どうでもいいよ。早くしろよ!」  加々美はつっけんどんに言った。そして、自分の大きめのシャツを鞄《かばん》から取り出し、ベッドの上に放り投げた。 「これを着て、自分の部屋まで行けよ。着替えたら、食堂へ来てくれ。何が起きたか知らないが、シオンの剣幕を見ると、本当にたいへんな事態らしい」  留美子はコクリと頷《うなず》いた。  加々美は廊下へ走り出た。不安が胸の中で渦を巻く。  今度は、何が起きたのだろう。  タケシの死体が、どうしたと言うのだ〓  階段を無我夢中で駆け下り、一階の廊下を走って、加々美は食堂へ駆け込んだ。 「——お、加々美!」 「加々美さん——」  入り口を入った所に、真梨央と友美が突っ立っていた。友美は、きつく真梨央の腕にしがみついている。振り向いた二人の顔も、さきほどの紫苑と同じように、不可解な恐怖で歪《ゆが》んでいた。 「どうしたのですか」  二人のその様子に愕《がく》然《ぜん》とし、加々美は尋ねた。  すると、二人は右手によけて、加々美が奥を見られるようにした。 「——あれだ、加々美」  真梨央が腕をまっすぐに伸ばし、部屋の中央を指さした。  その瞬間、加々美の全身に恐怖が走った。体中の皮膚が粟《あわ》立《だ》つ。  真梨央が何を示したのか、一《いち》目《もく》瞭《りよう》然《ぜん》だった。それは、白いクロスのかかったテーブルの上にあった。  もっと正確に言うと、テーブルの中央に、直径が五十センチほどの大きな金属製の平皿がのっている。そして、その皿の上にこそ、彼らを戦《せん》慄《りつ》させ、恐怖のどん底に引きずり込んだ不気味な物が存在したのだ。 〈——タケシ!〉  加々美は完全に言葉を失った。  そのラグビー・ボールのような物は——日野原剛の顔だった。  大皿の上に、彼の頭部がこれみよがしに飾られていたのだ。  彼の頭部だけが、肉体から切り離されて、その大皿の上にわざわざ置かれていたのである。  間違いなく、昨夜、彼らが地下室に安置した日野原の、その頭部だった。  誰かが彼の頭を首の所で切断し、それだけをここへ運び、大皿の上にあえて盛ったのである——何か、特別の、邪悪な意図を持って。  それは、何とも言えないグロテスクな絵模様だった。  死んでいる日野原の顔は血の気を失い、肌は青銅色だった。瞼《まぶた》が、白目が見えるぐらいに薄くあき、口元も軽く開いていた。首の切断面は、肌も肉もグチャグチャに潰《つぶ》れたような無惨な切り口だった。ギザキザの肌の内側に、ドス黒い肉と赤白い脂肪がはみ出て、そこに血管と神経までがドロリと絡み合っていた。そして、その切り口全体を、赤く粘着質の凝り固まったような血が覆っているのだ。  白濁した彼の目が、恨みを込めて加々美らの方を見ていた。 「だ、誰が……」  と、加々美は喘《あえ》ぎながら、真梨央を振り向いた。 「解らん。ついさっき、管理人の竹山さんが、これを発見した。呼ばれて、俺と友美がここへ来てみたら、こんな有様だった。そのすぐ後に、シオンもやって来たんだが……」  返事をした真梨央も、恐怖のために震えている。  寒気がした。途《と》轍《てつ》もない寒気が。 「な、何故……」  加々美は、知らぬ内に呟いていた。  何故、日野原の頭を、こんなひどい格好にしたのだろう〓  それより、誰がこんな残酷な真似を〓 「解らない」と、真梨央が答えた。「解らない。何で、こんな悪魔のような仕業を……誰が……何のために……」 「誰が……」  と、加々美は繰り返した。  胃の中に不快な固まりができ、足が萎《な》えた。喉《のど》が渇き、動《どう》悸《き》がして、息が苦しくなった。  こんなことは、人間業ではない。タケシが可《か》哀《わい》相《そう》だ。死者への冒《ぼう》涜《とく》だ。遺体を弄《もてあそ》ぶなんて。死者の首を切断し、それを何かのモニュメントのように飾りつけるなんて。とうてい、人間のすることではない。絶対に悪魔の仕業だ!  そうに決まっている! 「……だが、どうして……」 第8章 愕《がく》然《ぜん》とした人々の顔 1  それは、人間の体を素材にして作った胸像だった。  首の所で残虐に切断され、非情にも胴体と切り離された頭部。金属製の大皿の上に、まるで何かの飾り物か、凝った料理の見本のように恭《うやうや》しく置かれている。血塗られたオブジェ。死体への殺人行為。その異様な有様からは、何者かの——それこそ悪魔か死に神の——心が発するドス黒い邪悪な波動が感じられるほどだった。  悪夢以上の血《ち》 腥《なまぐさ》い現実だった。全身が総毛立ち、体内の血が凍りつく。加々美を含めて、誰もがこの奇怪な発見に瞠《どう》目《もく》し、怯《おび》え、戦《せん》慄《りつ》し、吐き気を覚えた。  彼らは大混乱に陥った。眠っている者は叩《たた》き起こされ、急いで全員が一階へ集められた。事件の発生が告げられ、真梨央が各人に簡単な事情説明を行なった。しかし、これほどの悪魔の所業を目の当たりにしては、どう対処したら良いのか、何から手を付ければいいのか、誰にも良案などなかった。  わずかばかりの秩序が訪れたのは、それから一時間以上経ってからだった。権堂の指示により、その異常な物体があった食堂は、施錠され、とりあえず立ち入り禁止となった。それから、状況をより把握するために、書斎で話をすることになった。留美子と友美以外の全員が——管理人の竹山夫婦も含めて——顔を見せている。  女性二人が不在なのは、貧血を起こして留美子が倒れたからである。加々美と別れた後にすぐ食堂へ駆けつけた彼女は、金属製の大皿の上にある物を見た途端、血の気を失って気絶したのだ。そのため、今は自室で寝ており、介抱役で友美が付き添っていた。  室内には、異様な緊迫感が満ちていた。昨日、友人を亡くした悲しみの上に、今度は言い知れぬ恐怖が上塗りされたのだ。  他の部屋から、足りない分の椅《い》子《す》が持ち込まれた。権堂に体を向ける格好で、皆が輪になった。加々美は、それとなく他の者の顔を窺《うかが》った。誰もが暗い表情をし、不安と緊張感でピリピリしている。それは、本来神聖なはずの死者が冒《ぼう》涜《とく》された恐れから生じたものだ。  無論、加々美も人一倍心が乱れていた。平静ではいられない。目を瞑《つぶ》っても、頭を振っても、先ほど見たものが脳裏にこびり付いて離れない。銀色の金属皿と、日野原の鉛色の顔と、首のまわりに溜《た》まっていた黒々とした血——それらの色が複雑に混ざり合い、あげく、ドロリと瞼《まぶた》の上の方から滴状に垂れてくるのである。  廊下側の入り口の側に、ミューズの仲間から少し離れて、管理人の竹山夫婦が座っている。彼らは、この事件に対する反応が加々美らとは少し異なっていた。収蔵も民江もまったくの無表情で、その顔の奥にどのような感慨を秘めているのか、まったく解らなかった。  一同を前にして、権堂が目を伏せる感じで話している。彼の顔に注がれる皆の視線は、物問いたげというよりも、飢えたハイエナに似ていた。 「——状況は今話したとおりだ。現場の様子は、麻生君のカメラで写真に収めておいた。また、私もスケッチに描いた。あのような酷い真似をされた日野原君には可《か》哀《わい》相《そう》だが、麻生君とも相談の上で、あの皿の上の頭部も含めて、室内にはいっさい手を触れないことにした」 「食堂は使えないわけですか」  と、加々美は遠慮がちに尋ねた。 「我慢してもらうしかない。すぐに警察を呼べるわけではないし、証拠保全の観点からも、事実がはっきりするまでは、その方が良いと判断した。竹山さんにもお願いして、食事は居間の方で取ることにする。後でテーブルを用意してもらおう」  権堂は言葉を切った。皆の顔を見て、発言があるかどうか確認した。そして、その後で、憤《ふん》懣《まん》やるかたないといった表情をすると、 「それにしても、まったく信じがたい出来事だ。これは、恐ろしい人権蹂《じゆう》躙《りん》だぞ。冗談ですまされることではない。また、黙って見過ごすこともできない。何とかして、こんなひどいことをした犯人を見つけた方がいいと思う」 「悪意があると言うのですか」  真梨央が、滅《め》入《い》った顔で尋ねた。  権堂は黒ずんだ顔を縦に動かし、 「犯人は、事故で死んだ青年の首を、夜中にこっそりノコギリで遺体から切り取っている。それを、単なる悪《いた》戯《ずら》だったと言ってすませることはできまい」  榊原は、目を鋭く細めて言った。 「そうすると、権堂さんは、俺《おれ》たちの中に、あんな残酷な真似を平気でした奴《やつ》がいると思っているのですね」  その言葉には、あからさまに毒が含まれていた。 「そうではないが、残念ながら、この館の中には、ここにいるメンバーしかいない。私を含めて何人かな……十人かね。となると、悲しいかな、犯人は、その中の誰かということになる」  室内は、水を打ったように静まり返った。緊張がみなぎり、空気がピリピリと張りつめた。  権堂は、悲壮感に満ちた視線を皆に向けた。 「誰か、正直に名乗り出てくれないかね。日野原君の遺体に、あんな悪ふざけをしたのは誰だね。頼むから、正々堂々と、正直に告白してくれたまえ——」  死体の惨状から言っても、普通はあんなことができるのは男だ。そう加々美は思った。 「ボクたち、タケシさんに対して、あんなひどいことはしません!」  と、紫苑が強く言った。 「解っている。解っているが……」  権堂が口ごもると、榊原が低く不機嫌な声で言った。 「失礼ですけど、権堂さん。そこまで言うからには、容疑者の中には、あなた自身も入っているのでしょうね。俺たちが怪しいのなら、あなたや、そこにいる管理人夫婦だって怪しいってことになるでしょうが」  権堂は肩を落として、返答した。 「……無論、例外はない。だから、私を含めて十人と言ったのだ。だが、私はやってないよ。あんな恐ろしい真似は私にはできない。それに、彼の死体に対して、敵意や憎悪などいっさい持っていない。あんなことをする理由などない」 「それは、俺たちも同じことですよ」  榊原は、冷たく言い返す。  加々美はその意見に賛成だった。ここにいるミューズの仲間が、死んだ友人に対してあんな真似をしたとは考えたくない。 「——あのう。ちょっといいっすか」  木田が発言の許可を求めるため、右手を上げた。手首にはまっている銀製の時計がキラリと輝いた。金持ちの叔《お》父《じ》の形見という、ハミルトンの腕時計である。 「権堂さん。日野原先輩の遺体にあんなことをしたのは、誰か、外部の人間の仕業じゃないでしょうか」 「外部?」 「夜中に、館の外から、誰か入り込んできたということです」 「誰がだね。ここは孤島だよ。我々以外には誰もいないはずだ」 「でも、船で、夜中に誰かが海を渡って来たかもしれません」 「どちらにしても、だめだ、ダルマ君。竹山さんに尋ねたところ、昨夜の八時に、表玄関の扉は施錠したということだった。今朝、我々があの異常を発見した時には、まだその扉はしまっていた。そして、今もしまっている。外から侵入した者の形跡などはないのだ」 「こんなに広い館内ですよ。まだ、隠れているのかも」 「収蔵さんが、事件発生後にすぐ館内を見回った。しかし、怪しい者は見つかっていない」  権堂は、管理人夫婦に小さく黙礼しながら答えた。 「んだ」  収蔵は表情を変えず、小声で頷《うなず》いた。 「権堂さん」と、真梨央が切り出した。「現実に、タケシの遺体はあんな風に弄《もてあそ》ばれています。誰かがやったことは確かです。あらゆる可能性を、考慮に入れるべきではないでしょうか」 「それは……そうだな」  権堂は力なく頷いた。そして、全員を見てから、念を入れて尋ねた。 「誰か、夜中過ぎに、怪しい者を見たり、怪しい物音を聞いたり、何か気づいたようなことはなかったかね。何でもいい。ちょっとでも不審に感じたことがあったら教えてくれ」  誰も返事をしなかった。  榊原が、独り言のように口にした。 「俺は、昨夜ほど前後不覚で寝入ったことはなかったな。疲れとワインのせいで、ぐっすり寝てしまった」 「おいらも、同じっす」  と、木田が気恥ずかしそうに言う。  沈黙が漂いだしそうになるのを、真梨央が遮った。 「権堂さん。それより、いったい犯人は、何故あんな真似をしたのでしょう。タケシの頭部を胴体から切り離し、それをわざわざ一階まで、あの金属皿にのせて運んだのですよ。しかも、生け花を飾るみたいに食堂のテーブルの上に置いた。これ見よがしにです。とても、正気の人間のすることとは思えません」 「それでは、君は、あれを狂人か何かの仕業だと言うのかね」  権堂は怯《おび》えたように言った。 「解りません。ただ俺は、あんなことは、普通の神経ではできないということを言いたいだけです」 「確かに、普通ではない。それだけは確かなのだ……」  権堂は眼鏡をはずし、眉《まゆ》根《ね》を寄せ、こめかみを指で押さえた。  加々美にも、代表者である彼の苦悩は解った。この仲間の内に頭の変な奴がいるなどとは、できれば考えたくない。  ガタッと椅《い》子《す》を鳴らし、加々美の左側にいた紫苑が立ち上がった。 「麻生さん、タケシさんの首は、どこで切断されたの?」  真梨央は、長い顎《あご》を大きな掌で撫《な》でながら答えた。 「地下室だ。あいつの死体を安置しておいた部屋だよ。犯人は、死体をくるんでいた毛布を上半身だけめくり、喉《のど》元《もと》をノコギリで切断したのだ。ノコギリは俺たちの品物だ。他の荷物と一緒に一階に置いてあった。犯人はそれを持ち出している。死体の脇《わき》に、血まみれになって落ちていた。  地下室から食堂まで、廊下や階段には血の垂れた跡はなかった。したがって、犯人はあの大皿を地下室へ持っていき、血受けにして、切り取ったタケシの頭をのせて運んだのだと考えられる。もちろん、死後何時間か経っているから、それほど血液が体内から流れ出たわけではないがな——」  加々美は考えた。  人間の首をノコギリで切断するのに、いったいどのくらいの時間がかかるものだろうか。流動性を失い始めた血液や脂肪が刃に付き、すぐに切れにくくなるはずだ。首の骨などは、簡単に切断できるものなのだろうか。それとも、かたくて難しいのだろうか。  だいたい、その作業の間、犯人は誰かに見つかりはしないかと絶えずビクビクしているはずだ。精神的な重圧がかかり、所要時間を一時間と多めにみても、かなりの重労働に違いない。 「大皿はどこから?」  紫苑はさらに尋ねた。 「あれは、厨《ちゆう》房《ぼう》の食器棚にあった物だそうだ。民江さんに確認してもらった。厨房のドアには鍵《かぎ》はかかっていなかったというので、誰でも盗むことができる」  加々美が管理人夫婦の方を盗み見ると、能面のような顔をした民江が、かすかに頷《うなず》き返した。 「はい……そうです」  紫苑が腰を下ろすと、真梨央は加々美の方に顔を向けた。 「加々美。昨夜、地下室を最後に出たのは、君とシオンか」 「ええ」と、加々美は言い、紫苑の方へ視線を走らせた。「そうです。時間は、夜中の一時半頃だったかと思います」 「その時には、地下室には何も異常はなかったのだな」 「何もありません。不審な人物なども見ませんでした」  加々美は、自分たちが疑いをかけられることを恐れた。だから、何でも率直に答えるつもりだった。  ところが、権堂と真梨央が、何か意味有りげに視線を交差させた。それで、加々美は怪《け》訝《げん》に思って尋ねた。 「時間のことが何か?」  真梨央は頷くと、 「実は、タケシの首を最初に食堂で見つけた後に——君が来たすぐ後に——俺は地下室の様子を見に行った。その時、タケシの残された胴体の横に燭《しよく》台《だい》が一つ置いてあった。三つ叉《また》の燭台で、太い蝋《ろう》燭《そく》が三本刺さっていて、まだ火が燃えていた。かなり短くなっていたけどな」 「昨夜はそんな物はありませんでした。僕らはランプしか使いませんでしたし」  加々美の答えに、紫苑が敏感に呼応した。 「それも、ボクたちちゃんと消したんだから!」 「知っている。だから、俺はそれが犯人の使用した物だと推察した。それで、僕は蝋燭の炎を吹き消しておいた。何故かと言うと、残りの長さから、その蝋燭が点火された時間が推測できるのではないかと考えたからだ。  同じ蝋燭に火を点《つ》けた場合、どのくらい保つものか、さっき収蔵さんに尋ねた。すると、新品ならば、二時間ぐらいは燃え続けるということだった」  真梨央の同意を求める視線に、収蔵はかすかに頷き返した。 「燭台って、どこにあったわけ?」  紫苑が管理人夫婦の方を見ると、民江が渋々といった感じで、 「毎晩、翌日食卓で使う分を、新しい蝋燭を立ててぇ、厨房の端に並べて置いてあります。だけど、今朝は、それが一つなくなってました……」  それを引き取って、真梨央が付け加えた。 「だから、首をのせるための大皿を捜しに来た犯人が、一緒にそれも持ち去ったとみていい」 「でも、どうして、犯人はランプを使わなかったの。その方が明るいじゃない」  紫苑が不思議そうに言う。 「君らが使っていた以外のランプは、収蔵さんが全部鍵のかかる所にしまってあった。それに、地下であんな犯罪的な行ないをするんだ。人目を気にする必要がある。誰かが一階から下りてくる足音が聞こえたりしたら、犯人は作業をすぐに中断する必要がある。蝋燭ならば、すぐに吹き消せるし、闇《やみ》に乗じて逃げることも可能だろう。だから、ランプを使わなかったのさ」 「それで、蝋燭の長さから、時間を逆算してみるとどうなるんだ?」  と、榊原がタバコを包みから取り出して言った。灰皿がないので、口にくわえただけだった。 「ああ、ほとんど残っていなかったから、まあ二時間前に火を点けたとして、午前五時から五時半の間ということになる。僕らがあの惨事を見つけたのが、朝の七時頃だからな」 「その時刻に、皆がどこで何をしていたかだな」  と、榊原は眼鏡の後ろで目を細めて、口の端を皮肉にねじ曲げた。 2  他の者たちが緊張に顔をこわばらせるのを確かめて、榊原はこれみよがしに言った。 「俺は自室で眠っていた。ベッドの中さ。一人で眠っていたから、その限りではアリバイはまったくない。お前はどうだ、真梨央?」  真梨央は、ぎこちなく返答した。 「それは、僕も同じだ。寝ていた。それから、僕の部屋には友美も一緒にいたよ……」 「ほほう」と、榊原はまた口をへの字に曲げ、わざと言った。「なるほどな。自分の後輩が死んだ夜に、女といちゃついていたわけか」  真梨央は目に力を込めて、すぐに反論した。 「いいや、そういうわけじゃない。ただ、タケシが死んで心細くなったと、彼女が言うから——」  しかし、榊原はその返事を無視して、 「おい、他にアリバイがある奴《やつ》はいるか。といってもな、夜明けの五時頃に、そんな証明のできる奴の方が俺は変だと思うがな」  加々美は、彼の言い方に腹が立った。だから、挑むような目を向けた。 「僕と、ルミコも一緒でしたよ。僕の部屋に彼女が来たんです。でも、先輩が考えているようなことは何もなかったですけどね」  そして彼は、素早く、彼女が自分のベッドに潜り込んできた時間を思い出そうとした。あれは、いつ頃だろう。しかし、酔っていたためにまったく覚えていない。  榊原は、ゆっくりと前髪を後ろにかき上げた。 「ふん。俺は何も考えていないぞ。お前たちが何をしようと、どうでもいいことだ。だがな、加々美。良かったじゃないか、アリバイを証言してくれる相手がいて」 「ええ」 「そうするとだ、犯行ができる機会があったのは、俺とダルマ、シオン、権堂さんの四人というわけか。どうやら、だいぶ、犯人がしぼり込めて来たじゃないか」  木田がびっくり眼で、背筋をピンと伸ばした。 「おいら、やってないっす。本当っすよ。それに、普通は妻や夫、恋人など、近身者の言葉は証言として採用されないっすよ。だから、すみませんけど、麻生先輩や、加々美先輩たちのことも、そのまま鵜《う》呑《の》みにはできないのでは……」 「馬鹿だな、こいつ!」と、榊原が嘲《あざ》笑《わら》った。「元から、誰もお前のことなんか疑ってねえよ。臆《おく》病《びよう》なお前に、あんな大胆な真似ができるものか。それに、俺たちの仲間に、こんなひどいことをする奴はいないと、俺だって思っている。つまり、やったとすれば、それはな——」  そう言って彼は横目で、壁際にいる竹山夫婦の方をこれみよがしに見た。 「画伯君、失礼だよ」  権堂が、やや厳しい声で諫《いさ》めた。  だが、竹山夫婦の態度に変化はなかった。相変わらず無愛想な顔で、榊原の敵意ある視線を受け止めただけだった。  加々美には、彼らの考えていることがまったく推測できなかった。  権堂に注意され、榊原は軽く頭を下げた。だが、侮《ぶ》蔑《べつ》的な笑みは消さなかった。 「権堂さん。悪いですが、この管理人たちは、俺たちの仲間じゃない。俺は、長い付き合いの友人たちは信じられるが、他人は信じられない。それも、よく知らない相手はですね。しかも、この人たちは、龍門家から派遣された人たちでしょう。要するに、八代百合夏の援助者だ。あの破廉恥で、馬鹿馬鹿しい遺言を執行しようとしている側の人間なんだ」 「遺言?」 「そうですよ。正直言って、俺は彼女の遺言を恐れている。あれには、何か恐ろしいカラクリか裏があるはずだ。何だか解らないが、俺たちを陥れるための、非常によこしまな狙《ねら》いがあるんですよ」  加々美たちはびっくりして、榊原の顔を見た。しかし、彼は真剣に、 「そのために、この二人は共謀して、夜中にタケシの死体にあんな細工をしたんだ。そうに決まっている。この島へ来て会った時から、俺はどうも胡《う》散《さん》臭《くさ》いものを感じていたんだ」 「何を根拠に、そんなことを言うのかね」  権堂は困惑して、視線をあちこちに動かした。 「根拠も何も、俺たちでなければ、他にこの館《やかた》にいる人間はたった二人だ。自明じゃないですか。犯人は、この管理人夫婦ですよ」 「しかし……」  榊原は、さらに嵩《かさ》にかかって言い続けた。 「権堂さん、死体損壊の犯人捜しを、最初に始めたのはあなただ。今回は、死んだ人間に対する悪《いた》戯《ずら》だったから程度が知れているけれど、もしもこの犯人の毒《どく》牙《が》が、俺たち生きている人間の上に降りかかってきたらどうするんですか。その意味でも、徹底的に追及した方がいい。  特に、そっちのおばさんは怪しい。頻繁に、奇妙な行動を取っている。最初の夜に俺たちがギャラリーを鑑賞していると、入り口の所からこっそり中を覗《のぞ》いていた。また昨日だって、俺たちが二階を調べている時に、やはり物陰から窺《うかが》っていた。その人は、俺たちのことをいつも盗み見している。じゃなけりゃあ、監視しているんだ!」 「そう言えば」と、紫苑も疑いの目を、管理人夫婦へ走らせた。「昨夜、ボクが加々美さんと別れて自室へ行こうとしたら、奥の階段の所に、そっちのおじさんの後ろ姿が見えた。ちょうど、下へ行くところのようだった」  権堂は上着の合わせを正し、管理人夫婦に顔を向けた。 「竹山さん、すみませんが、この二人が言っていることは本当ですか。別に、それが即座に怪しい行動だとは私は思いませんが、一応、お訊《き》かせ願いたいのですが」  民江の方は憮《ぶ》然《ぜん》とした顔で押し黙っていたが、収蔵がもそもそと上半身を動かし、それからゆっくりと口を開いた。 「誤解です。わしは、就寝前の火の確認に行っただけです」  権堂は静かに頷くと、相手のことを 慮《おもんぱか》 った。 「そうでしょうね。ごもっともです」 「家内は、暇さえあれば、館内の掃除をしてっから。皆様の側にいることもあっぺよ……」 「ええ、御苦労様です。解っています。失礼しました」  権堂はなるべく穏便にすませようと、答えた。  しかし、加々美は榊原同様に、百合夏の遺言のこともあって、この管理人夫婦を完全に信じる気にはなれなかった。  気まずい雰囲気を破るように、真梨央が口を開いた。 「結局のところ、権堂さん。問題はやはり、タケシの首のことですね。大皿の上に、何故犯人は、あんな風に飾り付けたのでしょう。いったい、それに何の意味があるのでしょうか」  木田が小さな目をしばたたき、恐る恐る発言した。 「あのう、犯人による、何かの警告じゃないすかね。おいら、そう思うんですが」 「警告。何のだ?」  真梨央は尋ね返した。 「それは、解らないすけど……」  と、木田はしゅんとなって、言葉を濁した。  榊原はタバコを口から離した。そして、こう言った。 「なあ、こうかもしれないな。飾ること自体が目的だったんじゃないかな」  加々美はその言葉を聞いた途端、背筋に冷たいものが走るのを感じた。そして一瞬、何か重要なことを思い出しそうになった。  飾ること。装飾。彩り。化粧——そこに何か、自分のよく知っている事柄があった。だが、思い出せない。すぐにでもつかめそうなのに……ああ、何だろう!  だがしかし、その思いは曖《あい》昧《まい》模《も》糊《こ》としたまま消えてしまった。 「——画伯君。それはどういう意味かね」  と、権堂も興味を示して尋ねた。  榊原は少しだけ真《ま》面《じ》目《め》な顔になり、自信たっぷりに言いきった。 「犯人の虚栄心や、自己満足の発露ですかね。自分の成し遂げたことを、人に見せびらかしたいという。犯人は、切り取った首を誇らしげに展示したわけですよ。何とかいう原住民みたいに」  突然、紫苑が怒って言った。 「飾ることが目的だったなんて、そんな馬鹿な! だって、死人の顔を飾ったってしょうがないじゃないか! トロフィーじゃないんだから!」  彼の剣幕に、榊原もむきになって答えた。 「シオン。お前に意味がなくてもな、他の人間には意味があるということがあるんだぜ。世の中は、多様な価値観で構成されている。芸術がそのいい証拠さ。一つの絵がここにあり、それを主観的にお前は美しいと思い、俺は観念的にそうは思わない。ピカソの絵があって、お前はデッサンが狂っていると言う。俺は、古い具象主義を捨てた先鋭的な合理主義の理論と実践に感動し、素晴らしい思想だと絶賛する。そんな食い違いは、大衆が肥大化すればするほど、知性と無知蒙《もう》昧《まい》が鮮明化して、実例が無数に増えるんだ。だから、何でも一元的に決めつけるんじゃねえよ!」 「じゃあ、犯人の歪《ゆが》んだ動機だか、狂った思想だかを認めろって言うの。ボクはそんな愚劣なことはできないね!」 「お前みたいな単純な奴には、どうせ解るはずがないさ!」  二人が挑みかかるように身構えたので、榊原を真梨央が、紫苑を加々美が軽く押さえた。二人は興奮したまま、互いにそっぽを向いた。  刺《とげ》々《とげ》しくて、ぎこちない沈黙が少し続いた。 「——麻生先輩、ちょっといいっすか」  と、木田が顔を赤くして声を上げた。 「何だい?」 「おいら、画伯先輩が言った意見から考えついたんすが、こういうことはないでしょうか。まったく逆なんすよ」 「逆?」 「ええ。犯人は、タケシ先輩の首は必要なかったんです。飾り付ける意図などなかったんすよ。実際は、死体の胴体から、不必要な頭部を取ってしまうことが目的だったんです。だから、あの皿にのっけて、わざわざ地下室から持ち去ったんです。つまり、首を排除することこそが、犯人が本当に希望したことだったんです」  それを聞いて、皆はギョッと目をむいた。  加々美も唖《あ》然《ぜん》とした。 「ど、どういうことなのかね」  と、権堂があわてて尋ね返した。  木田は自分の言いだしたことに自信を持ち、断言した。 「食堂のテーブルの上にあった日野原先輩の頭部と金属皿には、別に何の意味もなかったんですよ。犯人の究極の目的は、日野原先輩の胴体から、邪魔な頭を取り除いてしまうことだったんです。そちらにこそ、本来の狙《ねら》いがあったわけなんですよ。  犯人はきっと、日野原先輩の遺体を、三十年前に、死体で見つかった龍門有香子姫みたいにしたかったんです。あるいは、ギャラリーに置かれている、彼女そっくりの蝋《ろう》人《にん》形《ぎよう》と同じ様子にしたかったんです。要するに、日野原先輩の遺体を、ただの首なし死体にしたかったんです——」 3  犯人は、首なし死体を作るために、あえてタケシの遺体から頭部を取り去った。  木田の奇怪極まる意見を聞いて、加々美は全身の肌が粟《あわ》立《だ》つような戦《せん》慄《りつ》を覚えた。まさか、そんな馬鹿なことが。そんな空恐ろしいことが有り得るものだろうか〓  過去と現在、二つの死体(と蝋人形)を、数学における写像の要素と要素のように、犯人はあえて対比させたのか。それこそ、とうてい正気ではない。できるとすれば、まさしく狂人か悪魔の仕業である。 「——それは、信じがたいな」  と、権堂は額に脂汗を浮かべ、シャツの襟元を緩めながら言った。 「そうだ」と、真梨央は頷《うなず》いた。「どうして、犯人はわざわざそんな大それた真似を、苦労してするんだ?」  木田は、少し得意げな顔で説明した。 「たとえばですね、エラリー・クイーンが書いた『エジプト十字架の謎《なぞ》』という有名な推理小説があります。その中で、被害者は首を切断された上、胴体を磔《はりつけ》にされます。ちょうど、死体の格好が《T》の字形になるわけですね。それは何でも、エジプトに伝わる十字架が、キリスト教の《十》の字形ではなく、《T》の字形だからなんだそうですが」 「つまり」と、真梨央は興味を示し、「犯人は、被害者の死体を《T》の字形に磔にしたいがため、頭部を切り落としたというのかい?」 「そうなんです。だから、今回のことも、そういう特別な意図があってのことじゃないかと思うんですよ」  加々美はよく解らず、尋ねた。 「何故、エジプト十字架に、首なし死体を磔にしなければならないんだ?」 「それは、切り取った頭部を隠すことで、被害者の真の身元を隠すためなんです。推理小説では、こういう有様の被害者を扱う話を《顔のない殺人》と呼んでいます。死体の状況を利用して、被害者と犯人が入れ替わるとか、被害者同士が取り違えられたりとか、あるいは、解決に至るまで、被害者が特定できないとか、様々な仕掛けが用意されているんですよ。  それに、現実社会の事件でも、同じことが起きます。被害者を奥深い山の中に埋めたり、ガソリンをぶっかけて死体を燃やしたり、証拠隠滅を図るじゃないですか。それと同じことなんです」 「だが、タケシの頭は残っていたぞ」 「だからっすよ。犯人が望んだのは、犯罪の隠《いん》蔽《ぺい》にあるのではなくて、きっと、頭部と胴体の切断自体にあったんだと——」  横で、榊原が侮《ぶ》蔑《べつ》的に鼻を鳴らした。 「ふん。ずいぶん幼稚な話だな。人工的に作り上げた御都合主義の推理小説と、俺たちが見舞われている現実的な事件が比較対象になるかよ。そんなくだらないことから、得られるものなんかあるものか」 「しかし、考えるきっかけにはなるっす」 「そりゃなるだろうさ。猿だって考えることぐらいできる」  榊原は、馬鹿にしたように言った。  それでも、木田はまだ話し足りないというふうに、 「ほっておいてください」と、告げ、「それから、推理小説では、このような場面や状況に当てはまるような別の理由も用意しています。それは、存在する事件現象と殺人を対照させて——」  だが、榊原はまた邪険に彼の言葉を遮った。 「そうかよ。だがな、ダルマ。戯《ざれ》言《ごと》はもうたくさんだ。小説のことはもう黙っていてくれ。お前が頭の中で勝手に考えていろよ」  木田は、もともと膨れている頬《ほお》をさらに膨らました。 「そうですか、画伯先輩——解りました。じゃあ、もう何も言わないっすよ」  事件の暗い雰囲気のために、どうしても、互いの心の中に険悪な感情が生まれてくる。まずい徴候だが、皆、自分でも自分の気持ちが制御できないのだ。  加々美は、木田が言ったことを考えてみた。  頭部と胴体を切断すること自体に理由がある。  これが正しいとすると、そこにどのような意味づけができるのか。一つ思いついたのは、こんなことだった。大きな木箱があって、犯人はそれにタケシの死体を詰めようとした。ところが、彼の身長の方が木箱の長さより大であった。そのため、邪魔な頭部を首の所で切り落としたのだ。  いいや、まさかそんな馬鹿なことは実際にはあるまい。しかし、相手が狂人ならば……もしかして……。  真梨央の目と、加々美の視線が偶然にかち合った。加々美は、何となく気まずい思いがした。 「麻生さん。犯人の指紋はどこかに残っていませんでしたか」 「指紋?」 「ノコギリ、大皿、燭台、テーブルなどにです。死体の血はかなり固まっていたとはいえ、切断された首のまわりに少し血《ち》溜《だ》まりができていましたね。だとすれば、血に濡《ぬ》れた犯人の指紋が、どこかに残っていてもおかしくはないと思うのですが」 「気づかなかったな」と、真梨央は顎《あご》に指をやった。「しかし、手袋をはめていれば、そんなものは残らないだろう」 「ええ。しかし、そこまで計画的な犯行なのでしょうか」 「死体蹂《じゆう》躙《りん》がか……結局のところ、どうして犯人はあんな真似をしたかという、動機の問題に帰着してしまうよな。議論は堂々巡りだ。一応、後でもう一度よく調べてみるよ」 「お願いします」  しばらく黙っていた権堂が、 「他に、何か意見のある者はいるかね」  と、背筋を伸ばすようにして尋ねた。  皆は、ただ黙って首を横に振った。竹山夫婦は身じろぎもしない。木田はさっき榊原に文句を言われたのが気に障ったのか、小さな眼をすぼめて、壁の方を向いてしまっている。  権堂はほとほと疲れた表情で、 「それでは、私の最終的な意見はこうだ。今回のことが悪質な悪《いた》戯《ずら》なのか、何かの本気なのかは解らない。しかし、我々は最大限の用心はする必要がある。犯人を挙げるだけの証拠がないなら、こちらが防衛するしかない。疑心暗鬼に陥って、無用な仲《なか》違《たが》いをするのだけは避けるべきだ。この島にいる間、これ以上の事故や事件が起こらないように、互いに配慮しよう。したがって、これからの生活では、各人も充分に注意を払っていただきたい。  地下室の死体安置所にも、鍵《かぎ》をかけて誰も入れないようにする。寝る時には、各自がしっかり寝室のドアに施錠をすること。それから、できるだけ、館内の人気のない所に一人で行かないこと。誰かの目が届く場所にいれば、少しは安全だろう」 「権堂さん、待ってくれますか」と、榊原が偉そうに口を挟んだ。「美術品の調査の仕事はまだ続けるんですよね」 「ああ」 「だったら、俺《おれ》たちが安心して働けるようにしてほしいですね」 「安心?」 「そうですよ。まず一つは、仕事の分担は今までどおり複数で行なうこと。単独行動をしているところを、誰か解らないが、頭のおかしい奴《やつ》に襲われたくないですからね。  それから、仕事を再開する前に、念のために館内の調査をしたらどうですかね。怪しい人物がひそんでいないかどうか、再確認すべきですよ。特に三階などは、俺たちはまだろくに見てもいないのですから」  権堂は目を瞑《つぶ》って考えた。  真梨央が同意の印に頷《うなず》く。 「竹山さん」と、権堂は管理人に尋ねた。「三階の部屋はどういう具合になっているのですか」  収蔵は静かに答えた。 「全部、扉に錠がかがってます。掃除した時以外にあげでねえ。鍵《かぎ》はわしが持ってます」 「解りました」と答えてから、権堂は榊原の方を見た。「画伯君。君の言うとおりだ。心配の種をなくすためにも、やはり、館内の捜索はしておこう。その方がいい。  最初に、二人か三人のグループに分かれて、いっぺんに各階を調べておこうか。これなら、見知らぬ者が万が一館内に隠れていても、簡単に炙《あぶ》り出すことが可能だろう」 「けっこうですよ。それで」  榊原は満足げに頷いた。  女性二人は、この探索に加われるかどうか解らなかった。そのため、管理人の竹山夫婦を入れて、四つの組を作ることにした。そして、次のような分担が決まった。  三階 加々美・竹山収蔵  二階 権堂・木田  一階 榊原・紫苑  地下 麻生・竹山民江  加々美はまだ三階へは足を踏み入れておらず、怖さも少しあったが、そこを見られるという興味も半分はあった。 「画伯さんと一緒なんて、嫌だな」  と、紫苑は割り当てが命じられると、加々美にしか聞こえないようにブツブツ文句を言った。  会合はそれで解散になった。昼食前に、各自が定めた責任を果たすため、館内各所に分かれていった。 4  加々美は、三階へ行く前に、寝室の留美子の様子を見にいった。扉をそっとあけて中を覗《のぞ》くと、彼女はベッドの中でぐっすり寝込んでおり、横に椅《い》子《す》に座った友美がいた。友美は何か文庫本を手にしていたが、頁《ページ》が進んでいる様子はなかった。  枕《まくら》元《もと》に広がった柔らかな髪。留美子の寝顔は蒼《そう》白《はく》で、疲労感が浮かんでいた。また、友美の方の顔色もあまり良くなかった。 「ここは、大丈夫ですから……」  先に真梨央が来て状況を説明してあったらしく、友美は小さな声で囁《ささや》いた。 「頼むよ」  加々美は礼を言って、そこを静かに辞した。  それから彼は、管理人の竹山収蔵と共に、南東の階段から三階へ上がった。洞《どう》窟《くつ》のような階段内に、蛇腹風の節に似た壁装飾があり、まるで巨大な長い提《ちよう》灯《ちん》の中にでもいるような気分になった。御《み》影《かげ》石《いし》でできた踏み板部分も、中央がわざわざ磨耗したように湾曲させてある。  人がいない所では、館内はどこも深閑と静まり返っているが、ここではその感がいっそう強くなった。静けさは建物自体の多大な重量感を伴っており、澱《よど》みがかった空気の密度を濃くしているようだ。二人の足音以外には、何も聞こえてこない。 「竹山さん。竹山さん御夫婦は、具体的に、龍門家とはどのような関係があるのですか」  先に立って階段を昇る幅広のがっしりした収蔵の背中に、加々美は声をかけた。意味があって尋ねたわけではなく、何となく、無愛想な彼の沈黙が気詰まりだった。  収蔵は肩越しにわずかに首を後ろへ向け、 「わしら夫婦は、今は龍門様というより、八代様の方にお世話になっているんです。もちろん、八代様のお家も、龍門家の血続きだから。わしの親父は、龍門様のお屋敷で、ずっと植木の手入れをしておりましたし、お袋は賄い係でした。そんな関係で、わしら夫婦は、龍門様のお世話になり、途中から命を受けて、八代様のお家で下働きをするようになったんです」  階段を昇りきると、明るく照らされた廊下に出た。天井に幾つもステンド・グラスがあって、そこから極彩色の明かりが燦《さん》々《さん》と降り注いでいる。まるで点描画法で描いた木漏れ日のようだ。ガラス窓の上に、別の採光用の窓が館の外壁にでも穿《うが》たれているのだろう。たぶん、あの険しい山肌か、館の天井もしくは尖《せん》塔《とう》のあたりに直接空へ向けて面しているのだ。  加々美は収蔵の返事を聞いて、心底驚いた。思わず足を止めて、強い調子で訊《き》き返した。 「じゃあ、あなた方は、八代百合夏とも面識があるのですか」  自分でも自分の声が震えるのが解った。百合夏の、あの魅惑的な眼《まな》差《ざ》しが脳裏に浮かんでくる。彼女の甘美で官能的な声までが、耳元に聞こえるような気がした。 「もちろんですとも。家内の民江は、百合夏様がお小さい頃には、乳《う》母《ば》をしておりましたんで」  そうか! それがこの夫婦が、この島の管理人を命じられた理由の一つか! 「じゃあ、あの遺言の内容を御存じだったのですか」 「遺言?」と、収蔵は言った。「いんやぁ。わしは、八代の刀《と》自《じ》様から、あんた方様にあれをお渡しするよう申し付かっただけです。中身については何も知んねぇ」 「つかぬことを伺いますが、百合夏の葬儀はどんな感じでしたか」  加々美の質問に、収蔵は最初の扉の前で立ち止まり、無骨な顔をこちらに向けた。 「盛大な御葬儀だった。八代様のお家も、龍門様のお家も、水戸の地元でたいへん勢威を誇っておりますし、お嬢様はあのとおりたいへんお美しい方だったかんね。多くの方々から、実に愛されていたお人だった。それが、最後は御病気とはいえ、あんなにやつれちまってぇ……家内はせつながって、四十九日、泣き通しでした」  収蔵は鍵の束を取り出し、真《しん》鍮《ちゆう》 製《せい》 の棒《レバー》 鍵《タンブラー》 を鍵穴に差し込んだ。 「あなたも、彼女がお好きでしたか」  加々美は後ろから声をかけた。  収蔵は振り向きもせず、 「わしは、別に好きでも嫌いでもなかった。ただ、あのお嬢様は、母親とよく似でましたからね」  と、よく解らない返事をした。 「どういう意味です?」  室内へ入りながら、加々美は尋ねた。 「八代の奥様もとても美しいお方だったけど、何もかも、お嬢様はその血を受け継いでおったということです」  収蔵は抑揚のない声で答え、壁を探って天井の明かりを点《つ》けた。  三階の各部屋は、一階や二階と違って、それほど凝ったり変わったりした装飾は施されていなかった。やはりあの二階は、来客をわざと驚かすために造ったものであり、この三階が、有香子姫を含めた家族の住む所だったのだろう。  それでも、豪華で豪《ごう》奢《しや》なアール・ヌーボー建築らしい意匠は、室内のあちこちに見られた。たとえば、最初に入った部屋は、扉から壁板まで木目を強調することを基調とした非対称性《アシンメトリー》の曲線で溢《あふ》れていて、落ち着いた雰囲気の中にも、生命感が宿る独特の味が演出されていた。扉の装飾や欄干の装飾パネルには、ギマール風のうねった紐《ひも》を連想させる有機体的アナモルフォーズの手法がふんだんに使われている。  収蔵が以前述べていたとおりに、床以外はまだあまり掃除は行き届いていなかった。家具や美術品のほとんどには、埃《ほこり》を被《かぶ》った白いカバーが掛けられている。とりあえず、加々美らは、クローゼットの中や物陰などを覗《のぞ》いてみた。しかし、埃の具合からしても、あたりに人が隠れているようなことはあり得なかった。  三階にも、数え切れないほどの美しい美術品が置かれている。秘蔵品の山と言って良い。加々美は、時間があれば、できればこれらも鑑定したいと思った。 「——ここが、三階で一番大きな部屋です」  その両開きの分厚い扉の前で、収蔵がためらうように言った。  左右から来る廊下から枝分かれし、短い廊下の突き当たりにあったその部屋が、約四十年以上前に、塔で首なしの惨殺体にされた龍門有香子姫の自室だった。  その部屋は、館の中でも確かに一際豪勢で、凝りに凝った様相に造られていた。天《てん》蓋《がい》付《つ》きのベッドをはじめとする美麗な家具が並び、装飾品や美術品もふんだんにある。左側の壁に楕《だ》円《えん》形《けい》を斜めにすっぱり切り落としたような形をした窓が二つ並び、右の壁には飾り戸棚と大時計、暖炉のそれぞれの間に、大きな額縁がかかっていた。  加々美は、その内の一つの埃よけをめくってみた。  そこには、美しく着飾った女神がいた。妖《よう》艶《えん》な笑みを見せている。  これも、居間にあった絵と同様、イブニング・ドレスを着た有香子姫の全身を描いた肖像画だった。しかし、こちらの方がさらに大きく、美しかった。最初に目に入った印象では、クリムトの精《せい》緻《ち》で華やかな筆致に似ていた。顔は非常に写実的だが、首から下は黄金様式を借りて装飾的にデフォルメしてあり、背景となるとかなり抽象的なモチーフで埋め尽くされている。  有香子姫というモデル自身の類《たぐ》い希《まれ》な美《び》貌《ぼう》と、画の放つ唯美的な香気が、神々しい芸術性を燦《さん》然《ぜん》と放っている。  加々美は、しばらくうっとりと見とれてしまった。  カバーをすべて取り去り、もっと明るい所でじっくり見てみたいと思った。それほど素晴らしい絵だった。彼は絵に署名を捜したが、左隅に入った銘は、彼の知らないものだった。 「——さて、どうする?」  室内をざっと見終わると、扉の所で鍵の束を手にし、収蔵が尋ねた。 「そうですね。これでいいでしょう。怪しい者はいない。もう下の階の点検も終わっているはずですから、みんなと合流しましょう」  加々美はそう答えたが、実はこの部屋から去りがたく、できればまだ、一人でここに残っていたかったほどだった。  この部屋の中には、何だか得体の知れないものがある。霊感のようなもの。静かに息をひそめているもの。氷の上を這《は》う靄《もや》に似た冷気がある。壁の裏に何ものかが隠れている。聞こえないはずの衣《きぬ》擦《ず》れの音。存在しない亡霊の足音……そんな、数々の気配。壁紙の模様の間に隠した小さな穴から、何かが、こっそりこちらを覗いている。神経にだけ察知できる、不可思議な感触。幽霊のため息。幻想の色模様……。  この微妙な空気の揺れ……。  ここには、有香子姫の魂が、まだ漂っているのか。彼女の夢だけが、ひっそりと棲《す》みついているというのだろうか。  加々美は畏《い》怖《ふ》に似た気持ちに打たれ、後ろ髪を引かれて、竹山が先に外へ出ても、しばし、部屋の中に佇《たたず》んでいた。 5  昼食と報告会が兼ねて開かれたが、結局、怪しい人影などというものは、館内のどこにも見つからなかった。それが全員の話を照合しての結論だった——となると、やはり犯人は、仲間の内か、管理人かということになる。だが、この自明のことを、誰一人として口にする者はいなかった。  席には留美子以外の全員がいた。友美も、元気がないながらも参加していた。  陰《いん》鬱《うつ》な雰囲気に包まれた食事が終わってから、真梨央が説明を加えた。 「タケシの頭部は、権堂さんと僕が相談の上で、地下室の彼の胴体へ戻した。頭をなるべく元の形に戻るように肩の所にくっつけて、もう一度全体を毛布でくるんだ。大皿とノコギリは貴重な証拠なので、部屋の片隅に置いてきた。扉にはもう鍵をかけてしまったから、中へは入れない。迎えの船が来るまで、厳重に閉じておこうと思う」  それを聞いて、一同は日野原剛の冥《めい》福《ふく》を祈って自然と俯《うつむ》き、黙《もく》祷《とう》する格好となった。  少ししてから、午後の仕事の分担について、権堂から指示があった。留美子が作業に加われそうにないので、新たなグループ分けをする必要があった。 「権堂さん」と、榊原がいらいらとタバコを吸い、「昨日の夜、俺が言ったことをもう一度、考えてみてくれませんか」 「昨日言ったこと?」  権堂は、目の下に隈《くま》ができた顔で尋ねた。 「そうですよ。この館から——いや、この島から逃げ出すという俺の提案ですよ。どうですか、俺が心配したとおりだったじゃないですか。あの八代百合夏という女は不吉なんだ。あの女は、俺たちに災いをもたらす悪魔なんだ。魔女なんですよ。だから、一刻も早く、この島から出ていった方がいいと思うんですよ」  権堂は悲しげな眼《まな》差《ざ》しをした。 「しかし、前に答えたとおり、ここから外部へ連絡を付ける方法がないんだよ。迎えが来るまでどうしようもない」 「じゃあ、手をこまねいて、破滅しろと言うんですか」 「破滅?」 「そうですよ。こんな気持ちの悪い館内にじっとしていたら、それこそ何もしなくても精神に変調をきたしてしまう。現に、ルミコの奴だってタケシのことがショックでぶっ倒れた。俺たちは、早くここから逃げ出すべきなんだ!」  加々美は、いつにない榊原の剣幕に驚いた。 「俺は、命が大事だ。こんな仕事から、できるものならさっさと下りてしまいたい……」  榊原は痩《や》せた頬《ほお》をひくつかせた。  真梨央ができるだけ優しい調子で言った。 「画伯。お前の気持ちはよく解る。俺だってやっぱりいろいろなことが怖いからな。だが、今はここでおとなしくしているしかない。実はさっき、俺は《暁の塔》へ上がり、海原を十分間ほど眺めてきた。けれども残念ながら、やはりどこにも船影は見えなかった。それに、荷物の中や館内にラジオがないかと捜してみた。それも無駄だったよ」 「そうか。外のニュースも聞けないわけか」  榊原は口を尖《とが》らせ、テーブルの上に置いた自分の指先を悔しげに見つめた。  彼と真梨央の間に座っていた友美が、皆を励ますように言った。 「画伯さん、大丈夫ですよ。みんなで心をしっかり持てば。もう何事も起こりませんわ。だから、頑張りましょうよ」  しかし、加々美には、それを彼女が自分に無理やり言い聞かせているように思えた。  榊原がまた口を開いた。 「権堂さん。それならば、こういう風に提案しなおそうと思います。例の遺言のことですがね、あれを俺らは拒否というか、受諾しない方向でいきませんか」 「受諾しない?」 「いいえ。むしろ、きっぱりと断わりましょう。報酬なんかいらない。この館《やかた》もこの館にある美術品の数々もいらない。管理権だっていらない。とにかく絶対に、あんな馬鹿げた条件を飲まないことです。  だいいち、こんな状況下で、何か芸術的な作品を創造しろと言ったって、無理だ。精神的に安定していなくては、新作などに手を付けられない。まったくそんな気分じゃない」 「つまり、誰か証人を立てて、我々が遺言状に従わないこと、そして、その無効を宣言するということかな?」  権堂は、少し目を見開いて尋ねた。眼鏡が光の加減で鈍く光った。 「そうです。あの竹山という管理人夫婦がいいでしょう。どうせ、あの遺言状は、あいつらが預かってきたんだ。あいつらに返してしまえばいい。それで少なくとも——気分的な面だけでも——百合夏の亡霊に俺たちが悩まされることはなくなる」 「それはかまわないが……」と、権堂は言い淀《よど》み、考えた末に、「そうだな。それもいいかもしれない。解った。後で私が竹山さんに事情を話しておこう」 「頼みます」  榊原はやっとほっとした顔をした。彼は真剣に、そして、本当に百合夏の遺言を恐れているのだ。  だが、加々美は、権堂の今の言葉を本気には取らなかった。  権堂には権堂の立場がある。県立美術館を代表してここへ来ているとなれば、遺言や殺人やその他もろもろの条件や障害がどうであろうとも、自分の立場と美術館の欲している物を手中に収めねばならない。それが、大人の世界というものだ。加々美は、自分の父親やそれを取り巻く美術界の嫌らしい面を多数見てきたので、その中に渦巻く欲望については肌で感じて解っていた。  食事が終わると、午後の仕事に手を付けることになった。加々美は紫苑を誘い、一階の客間での昨日の続きをすることにした。 「——どうしたシオン。さっきから、ずいぶんおとなしいじゃないか。お前らしくないぞ」  加々美は、相手に元気を出させようと言った。  ところが、紫苑はひどく真剣な眼差しを返すと、 「実はさ、加々美さん。ボクたち、見つけちゃったんだよ」  と、思いきったように言った。 「見つけた? 何を?」 「画伯さんと、ボクが見つけちゃったんだ。だから、画伯さんは、あんなに怯《おび》えているんだよ」 「だから、何を見つけたんだ?」  相手の不可解な態度の理由が、加々美には解らなかった。 「画伯さんは黙っていろって言ったけど、加々美さんには内緒で話すね。ちょっとこっちへ来てくれる——」  紫苑は加々美の袖《そで》を引っ張り、広間を抜け、廊下を進み、彼を一階奥のギャラリーまで連れていった。その間押し黙って、彼は一言も喋《しやべ》らなかった。  紫苑が案内した場所は、ギャラリーの左奥の壁際だった。丸い小テーブルがあり、そこに例のワックス・ドールが並べられている大皿があった。 「——これだよ、見て、加々美さん」  紫苑は、細い指先をワックス・ドールの飾られた紺色の絵皿の上に翳《かざ》した。最初、皿の上はゴチャゴチャしているので、加々美にはどこに問題があるのか解らなかった。  だが、次の瞬間、加々美は激しく息を詰まらせた。 「シオン! 首が!」 「そうなんだよ、加々美さん。九体ある人形の一つ、この騎士の格好をした人形の首が折られているんだ。まるで、タケシさんの頭みたいにね——」  甲《かつ》冑《ちゆう》を着た人形。その頭部が、肩の所からもげていた。そしてその頭部は、人形たちの中央に、ゴロリと無造作に転がっていたのだった。 「この人形は、やっぱり殺人の予告だったんだね——」  紫苑の声が、慄《りつ》然《ぜん》とする加々美の脳髄にかろうじて届いた。  立ち読み版では、以降の文章を削除してあります。  引き続きお楽しみになるには製品版をご購入ください。 奇《き》跡《せき》島《じま》の不《ふ》思《し》議《ぎ》   二《に》階《かい》堂《どう》黎《れい》人《と》 ------------------------------------------------------------------------------- 平成14年6月14日 発行 発行者  角川歴彦 発行所  株式会社  角川書店 〒102-8177 東京都千代田区富士見2-13-3 shoseki@kadokawa.co.jp (C) Reito NIKAIDO 2002 本電子書籍は下記にもとづいて制作しました 角川文庫『奇跡島の不思議』平成13年8月25日初版発行              平成13年9月25日再版発行