[#表紙(表紙.jpg)] 馳 星周 M《エム》 目 次  眩  暈  人  形  声  M [#改ページ]     眩 暈  首をまわす。関節が嫌な音をたてた。それでも肩の凝りは消えなかった。足がだるかった。ふくらはぎにむくんだ感覚。足首に疲労感。どことなく腰にも違和感がある。駅からの帰り道がきつかった。年を感じた。  三十五になった。三十も半ばを過ぎると気持ちが身体に裏切られるようになる──昔、だれかにいわれたことがあった。馬鹿なことをと笑い飛ばした。今ではうなずくしかない。心が、思考が、感情が身体に裏切られることがたびたびあった。その度に眩暈《めまい》にも似た感覚に囚われた。  これがおまえの望んだものか?──眩暈はそんな響きを伴っている。  蒸し暑かった。新宿のビアガーデンで同僚たちと飲み干したビールが汗になって蒸発する。同僚たちは別の店に飲みに行った。おれは電車に乗った。金がなかったからだ。  去年、職場を変えた。日本資本のパソコンメーカーから外資系へ。その辺に転がっている転職話。退職金が出た。新しい職場から望外の支度金が出た。その金を頭金にしてマンションを買った。契約書を交わして一ヶ月も経たないうちに、加奈が生理が来ないといいだした。  呆然──理解。突然、したくなった。スキンの買い置きがなかった。加奈は嫌がったが生でした。外で出す自信はあった。間違いだった。子供ができたらどうするの──そう簡単にできるもんじゃないだろう。  おれも加奈も子供は欲しくなかった。腹が膨らんでくると、加奈はあの夜のことを口にした。おれをなじった。子供が生まれると、すべてを忘れた。あの夜のことも、借金のことも、おれのことも。  マンションのローンと養育費。普通の会社にくらべて給料がいいといってもたかが知れていた。頭が痛かった。  児玉さん、最近つきあい悪いんじゃないですか──隣のブースで仕事をしている桜井にいわれたことがあった。絞め殺してやろうと思った。自制するためにはありったけの理性を動員しなければならなかった。  駅からおれのマンションまではだらだらとした登り坂が続く。汗が滴り落ちてくる。ハンカチで拭いてもとめどがなかった。  これがおれの望んだものか?──何度も自問した。答えは見つからなかった。  そんな日が続いていた。      1  見たことのないサンダルがあった。流行の底の厚いサンダル。加奈ははかない。たまに、おまえも流行のものを買ってみろよとおれがいう。もう年だからみっともないわと加奈はいう。加奈は二十八だった。知り合ったときは二十三だった。若かった。はちきれそうな肌をしていた。今でもそれは変わらない。妊娠中に変化した体形を戻すための努力は報われかけていた。だが、二十三のときとはなにかが違う。二十五のおれと、今のおれが違うように。  腕時計を覗いた。九時半を少しまわったところだった。それで納得がいった。こんな時間に加奈を訪れる若い女はひとりしかいなかった。 「ただいま」  靴を脱ぎながら、居間に向けて声を出した。ドアを開ける前まで感じていた疲労はどこかに消えていた。 「お帰りなさい」加奈の声。 「お邪魔してます」奈緒の声。  ふたりの声はよく似ていた。奈緒の声の方がかすかに低かった。  狭くて短い廊下を進むと化粧の匂いが鼻をついた。居間に入るとますます強くなった。 「すみません、お義兄さん。遅くまでお邪魔しちゃって」  十二畳弱のリヴィングルーム。左手前にベッドルームのドア。その先にカウンター式の食器棚があって、奥がキッチンになっている。部屋の中央からややキッチンよりに四人掛けのダイニングテーブル。壁際に大振りの食器棚がある。右の方にソファセット。ソファの向かいに大型のテレビとAV機器。テレビはドラマを映していた。加奈と奈緒はソファに隣り合わせに座っていた。ソファの前のテーブルの上にはビール瓶とグラス、それに軽いつまみが載った皿が置いてあった。 「久しぶりだね、奈緒ちゃん」  おれは鞄をダイニングテーブルの上に置いた。普段なら叱られる。だが、顔色を見るかぎり、今日の加奈は上機嫌だった。 「ちょっと失礼」  おれは奈緒にことわってベッドルームのドアを開けた。ダブルベッドの脇にベビーベッドがあった。柔らかな毛布にくるまれて慎吾が眠っていた。加奈は慎吾の寝顔が可愛いという。おれには醜いだけだった。自分と同じ遺伝子を持った物言わぬ肉体がそこにあると思うだけで身震いがした。毎晩の夜泣き──殺意すら覚えた。それでも、おれは父親の役を演じなければならなかった。そうしなければ加奈が怒るからだ。加奈が怒れば、人生がわずらわしくなるからだった。  おれは慎吾の寝顔を見おろした。居間からは加奈と奈緒の声が聞こえてくる。早く合流したかった。 「起きるんじゃねえぞ、慎吾」  小声で囁《ささや》いた。慎吾からはなんの反応も返ってこなかった。ただ、眠っているだけだった。慎吾は一日のほとんどを眠っている。起きるのは腹が減ったか、垂れ流したかしたときだった。目の前にあるものが本当に人間なのかどうか、おれには確信が持てなかった。  舌打ちして、おれは居間に戻った。 「まだ寝てそう?」  加奈がいった。 「ああ、あの調子じゃもうしばらくは寝てるんじゃないか」  いいながらネクタイを外した。ダイニングテーブルの椅子の背もたれにかけた。 「慎吾ちゃん、本当に可愛いですよね」  奈緒がいった。 「そうかな。猿みたいだろう?」  おどけていってみせたが、加奈には通じなかった。いつものことだった。 「あなた──」 「冗談だよ。奈緒ちゃんがいるんだから、そんなに怒るなって」  顔に浮かべた微笑──腹の中のことは絶対に顔に出さない自信があった。営業を仕事にして十年以上が経つ。営業マンのマニュアルはそのままおれの第二の本能になっている。 「もう、いつもそうなんだから。あなたのはね、冗談に聞こえないからいけないのよ……ビール飲む?」  加奈が腰を浮かせかけた。おれはそれを手で制した。 「いいよ、自分で持ってくるから」  キッチンへ行った。冷えた瓶ビールとグラスを取って戻ってきた。 「汗かきすぎて、せっかく飲んできたビールが蒸発しちゃったよ。どうしようか迷ってたんだ。奈緒ちゃんがいてくれてよかったよ。おかげで、気兼ねなくビールが飲める」 「気兼ねなくってどういうことよ。いつも、自分ひとりで飲んでるじゃない」  加奈が頬を膨らませた。 「慎吾のために煙草までやめたんだ。ビールぐらい飲ませてくれよ」  おれはふたりに向かい合う位置で床に腰をおろした。ソファは三人掛けということになっていたが、実際には三人で並んで座るには窮屈すぎるサイズだった。  奈緒は七分丈のパンツをはいていた。色は黒。パンツの下は素足だった。両膝を上品に揃えて、奇麗な脚を斜めに揃えていた。上半身にはノースリーヴの白いブラウス。対して、加奈はTシャツにジーンズだった。加奈の方が背が低かった。奈緒の方が肉感的だった。 「お義兄さん、こっちに座ってください」  今度は奈緒が腰を浮かせた。おれはまた手で制した。 「いいって。奈緒ちゃんはお客さんなんだから。遠慮しないで」 「そうよ。だれもいないと、この人、本当になにもしてくれないんだから、奈緒がいるときぐらい、こうやって働きやすい場所に座らせておいた方がいいの」 「ひでえいわれ方だな」  おれは笑った。加奈とふたりだけなら刺《とげ》のある会話も、奈緒がいればただの冗談にすぎなかった。 「じゃあ……申し訳ないから、わたしがお酌しますね」  奈緒がおれの手からビール瓶を奪いとった。テーブルの上に置いてあった栓抜きを器用に使った。微笑みながらおれのグラスにビールを注いだ。ほんのり赤らんだ首筋から色気が匂いたった。奈緒は二十三歳だった。出会ったころの加奈を思い起こさせた。出会ったころの加奈よりも肉感的な雰囲気をまとっていた。 「じゃあ、乾杯しましょうよ」  おれのグラスが満たされるのを待って加奈が口を開いた。 「乾杯って、なにに?」  おれはいった。冗談のつもりだった。加奈が奈緒に目くばせした。 「今度、派遣先が変わることになったんです」  奈緒がいった。奈緒は二年前に短大の英文科を卒業した。就職するにはまったく潰しがきかない学歴だった。氷河期といわれた就職難。いつも暗い顔をしていたと記憶している。笑顔が戻ったのは、おれが前にいた会社の上司の口利きで就職先が決まったからだった。人材派遣会社──バブルのころならだれも見向きもしなかった。それでも、奈緒にはビッグチャンスだったろう。奈緒は喜んでその会社に飛び込んだ。いまは、どこかの外資系の会社で事務職をやっているはずだった。 「給料、あがるの?」 「ちょっとだけ。本当に雀の涙ぐらいなんだけど……」 「でも、よかったじゃない。今はどこも厳しいからね。給料あがるだけでもめっけもんだよ」  いいながら、頭の中では別のことを考えていた。おれの会社の女子職員の半数以上も派遣会社から来た女たちだった。若く、美しく、能力もあるのに、生まれた時代が悪かったというだけで、まっとうな就職の道を絶たれた女たち。短いスパンで辞めていく女が多かった。辞めれば、だれかが補充された。その度に、会社の男たちは色めきたつ。だれかがいっていた。福利厚生の一環として、うちの社の派遣OLは美人が多いのだ、と。それもそうだなと納得してしまうほど、派遣されてくる女たちは容姿が整っていた。  新しい派遣社員が来ると、合コンをすることが多かった。正規入社した女たちと違って派遣OLは華やかだった。会社の男たちは派遣OLをものにしようと躍起になっていた。おれはそんな気にはなれなかった。合コンで酒に酔っていても、派遣OLの顔はいつだって容易に奈緒の顔に重なった。奈緒も別の職場で同じような目に遭っているのかと思うと、腹立たしさを覚えるぐらいだった。 「じゃあ、奈緒ちゃんの新しい職場がいい職場であることを願って、乾杯」  頭の中で湧き起こった負の思念を打ち消そうと、おれはわざと能天気な声を出した。グラスを掲げた。加奈と奈緒は顔を見合わせて笑いだした。 「なんだよ。いきなり笑いだして」  道化にされたような気持ちになった。 「だって……」  加奈が口を開き、咳込んだ。おかしくてたまらないというように身体をねじった。見た目より酒が入っているのかもしれない。妊娠してから、加奈はあまり酒を飲まなくなった。 「すみません、お義兄さん」奈緒が加奈の言葉を引き取った。「わたしの新しい職場って、パワーテックなんです」  呆然とした。ついで、笑いだした。パワーテック・ジャパン。通称、PJ。おれの会社だった。      * * * 「すみません、お疲れなのに。こんなに遅くなって、それに送ってまでもらって」  マンションを出たところで奈緒が頭を下げた。ひとりで帰れるというのに、おれが駅まで送るといい張ったせいだった。 「気にしなくていいよ。この辺、最近変態が出るって噂らしいから。マンションの組合からお報せがきたって加奈がいってたし」 「そうなんですか」  奈緒はジャケットを羽織っていた。パンツと同素材のジャケットだった。肩には革製のバッグ──プラダ。会社の女が同じものを持っていた。とても高いのだと、愚痴なのか自慢なのか判然としない口調でいっていた。 「まあ、物騒な世の中だからな……そうでなくても、奈緒ちゃんみたいな奇麗な女性にひとりで夜道を帰らせるわけにはいかないからさ」 「ありがとうございます。褒めてもらったと思っておきますから」  奈緒は朗らかに笑った。おれたちは緩やかな坂道をくだりはじめた。  奈緒とふたりでいるのは楽しかった。二十三歳の加奈と一緒にいるようだった。自分の年まで若返ったような錯覚をいだいた。肌にまとわりついてくる湿った空気さえ、違ったものに感じられた。昂揚した気分とビールの酔い──気をつけなければ奈緒の腰に手をまわしてしまいそうだった。 「パワーテックってどんな会社ですか?」  駅までの道のりを半分過ぎたところで奈緒が聞いてきた。 「どんなって……コンピュータの会社だよ」 「それは知ってます」甘えたような声──耳に心地よかった。「わたしが聞いてるのは、どんな社風かなって」 「一応外資だからね、自由気ままといいたいところだけど、社長や重役は日本人だし、本国の連中の目を異常に気にしてるから、普通の日本の会社より締めつけが厳しいかな」 「わかります。今いる会社も、そんな感じ。本国からお偉いさんが来ると、社長以下、重役全員がお出迎えにあがるって」 「どこもそんなもんだよな。うちもコンピュータ会社っていったって、注文を受けて工場で組み立てて発送するだけだからね。会社にいる連中はほとんど営業と奈緒ちゃんみたいな派遣社員だし、本国の資本はでかいけど、中小企業みたいなもんさ。忙しさも半端じゃないし」 「どこも一緒なんですね」 「そう。どんな会社にいようが、どんな仕事をしてようが、みんな同じだよ」  いいながら奈緒の横顔を盗み見ようとした。慌てて目をそらした。奈緒はおれの横顔にどこか濡れたような視線をあてていた。 「でも、お義兄さん、今の会社にヘッドハンティングされたんですよね?」  脈が速くなる。心臓の音がやけに大きく響く。だが、奈緒はおれの気持ちにおかまいなしに話を続けた。 「なんだそれ? 加奈がそういったの?」  言葉にかこつけて、もう一度奈緒に視線を向けた。奈緒はおれを見たままうなずいた。 「弘樹君は凄いんだって、うちのお父さんとお母さんに自慢してましたよ」  奈緒はいつもと同じ口調で話していた。いつもと同じようにうっすらと微笑みを浮かべていた。目が濡れたように見えたのは光の具合のせいかもしれなかった。それでも、加奈や他の家族といるときの奈緒とは別人のような雰囲気がまとわりついているような気がした。たぶん、気のせいだった。アルコールがありもしない幻想を見せているだけだった。 「参ったな……そんな偉そうなものじゃないんだよ。職場を変えようかと思ったら、たまたまうちに来ないかって話があっただけ。コンピュータ業界じゃよくある話だからね」 「でも、今の会社から支度金が出たって……」 「加奈のやつ、そんな話までしてるわけ?」 「だって、お姉ちゃん、ラブラブだもん」  奈緒はいって、舌を突きだした。おどけた口調は女というよりも少女を思わせた。  人通りが多くなってきた。駅が近づいてきた。街灯の下、奈緒はいつもと変わらなかった。 「じゃあ、ここまででいいですから」  奈緒はおれの前に出て振り返った。 「ここまで来たんだし、駅まで送っていくよ」 「だいじょうぶですよ。人もいるし、明るいし。早く、お姉ちゃんと慎吾ちゃんのところに帰ってあげてください」  おれは口を開こうとした。それより先に奈緒が動いた。奈緒は駆けだしていた。あのサンダルでよく走れるものだ──おれは間抜けなことを思った。  奈緒が振り返った。 「おやすみなさい。会社で一緒に働けるの、楽しみにしてます」 「気をつけて」  おれは奈緒に手を振った。奈緒の姿が人ごみにまぎれるまで振りつづけた。奈緒の姿が視界から消える──汗が噴き出てきた。      * * *  加奈は慎吾に母乳を飲ませていた。慎吾は加奈の乳首にむしゃぶりついていた。いつもの怒りが込み上げてくる──それはおれのものだ。馬鹿げた怒りだった。それでも、理性で制御できないからこその感情なのだと自分にいい聞かせていた。 「ご苦労様。ちゃんと送ってあげた?」 「駅前の商店街まで……駅まで送るっていったんだけど、ここでいいからっていいくるめられたよ」 「奈緒らしいわね。昔からそうなのよ……でも、あなた見た?」 「なにを?」 「奈緒の鞄、プラダよ」 「それぐらい、今の女の子ならみんな持ってるだろう」 「でも、奈緒って昔はブランド物遠ざけてたのよね。欲しくなるとどうしても買っちゃうからって。わたしと違って、あの子、お洒落したくてしょうがない時期にうちが大変なことになっちゃったでしょう」  加奈と奈緒の父親は川崎で小さな不動産会社を経営していた。バブルとバブルの崩壊。吹けば飛ぶような地元の不動産屋もバブルには翻弄された。加奈はバブルの恩恵を充分に浴びた。奈緒はそれどころではなかった。短大の学費も奨学金でまかなったという話だった。父親は今でも負債の返済に血眼になっている。 「あの子、今でも毎月奨学金を返してるのよ。派遣会社ってそんなにお給料いいわけじゃないんでしょう?」 「そりゃそうだけど、普通に給料もらってれば、買えないって金額じゃないだろう。そんなに心配なら、使わなくなったおまえのブランド物、奈緒ちゃんにやればいいじゃないか」 「なにいってるのよ。それとこれとは話が違うでしょう」  加奈の顔つきが変わった。触れてはいけないところに触れたという合図だった。おれは加奈と慎吾に背を向けた。 「シャワー浴びてくるわ。汗だらけだよ」  突然、慎吾が泣きはじめた。 「どうしたの? パパがそばにいないのが寂しいの?」  慎吾をあやす加奈の声──うなじの肌が粟立った。      * * *  慎吾の泣き声だと思った。うなりながら目を覚ました。慎吾ではなかった。加奈が鼾《いびき》をかいていた。加奈は布団を蹴飛ばしていた。寝汗をかいていた。濡れた顔の肌に髪の毛がへばりついていた。  赤ん坊の身体に悪いから、クーラーはできるだけ使わないようにしようね──いったのは加奈だった。おれは従った。おかげで眠りが浅くなったような気がしたが文句はいわなかった。慎吾を可愛いと思えない自分に負い目を感じていたせいかもしれない。  加奈のパジャマがめくれあがっていた。臍《へそ》のまわりが剥き出しになっていた。  昔なら──つきあいはじめの頃なら、そのままむしゃぶりついていたかもしれない。だが、今はそんな気にはなれなかった。 「おい」  声をかけた。加奈の鼾はやまなかった。加奈の鼻を軽くつまんだ。鼾がやんだ。だが、数秒もしないうちに、また鼾がはじまる。  昔はこんなことはなかった。どんなに酔っても、加奈が鼾をかくことはなかった。汗まみれの姿をおれに見せつけることもなかった。  突然、泣きたくなった。  なにが変わったのか。どうして変わったのか。この問いを加奈にぶつければ、加奈はこういうだろう。変わったのはわたしだけじゃない、あなただって変わったわ、と。  だから、なにもいえなかった。  加奈の鼾はやむ気配がなかった。慎吾は鼾が聞こえていないという顔で熟睡していた。  このふたりを自分の人生から消去できたらどうなるだろうと思った。そう思った自分が恐ろしかった。  ベッドを抜けだして、居間にいった。ソファに横になった。寝つけなかった。頭の中で、幸福だと感じていたころのおれと加奈の映像が浮かび上がっていた。  ときどき、加奈の顔が奈緒に変わった。加奈の身体が奈緒のそれに変わった。五年前の加奈と今の奈緒。微妙に似ていて、微妙に違っていた。お笑いだった。おれは奈緒の裸体を見たこともなかった。  いつの間にか、加奈の鼾がとまっていた。緩慢な眠りが訪れようとしていた。頭の中が真っ白になりかけた瞬間、慎吾が泣きだした。  加奈の起きだす気配。やがて、声がする。 「弘樹、どこにいるの?」 「ソファで寝てる」  嫌だったが、返事をしないわけにはいかなかった。 「どうしてそういうことするわけ!?」  加奈の声には怒気が含まれていた。おれは目を閉じた。すべてが消えてなくなればいいと思った。      2  暑く──寒く。外を歩けばぎらついたアスファルト、ねっとりと肌にまとわりつく空気。建物や電車の中は骨の髄まで凍えそうなぐらいに冷房が効いている。こめかみのあたりが痛んだ。断続的に襲ってくる痛み──神経がざらついていく。身体が不調を訴える。昔はこんなことはなかった。暑さは苦手だったが冷房を気にしたことはなかった。  午後のほとんどを社外で過ごした。得意先回り。頭を下げ、無駄話を交わし、また頭を下げる。くだらない仕事だが、やらないわけにはいかない。次々に開発されるプロセッサ。その度に仕様が変わるハードとソフト。売りまくれ──パワーテックの社是。丸め込んで売りまくれ、その後は知ったことじゃない。パソコンのパの字もわからないような親父たちにマニュアル仕込みのセールストークをしながら、頭の中を飛び交っているのは給料とボーナスの数字だけだ。コンピュータを売るのも株を売るのと変わらない。マンションのローンと養育費。そのうち働きに出ると加奈はいう。だが、それも慎吾の手がかからなくなってからの話だ。加奈の実家は孫の面倒を見るどころの騒ぎではなかった。おれの実家は遠すぎた。  借金を払うための労働。未来は真っ黒に塗りつぶされている。得意先を回る。ビルとビルの間を移動する。真夏の太陽に身体を焙られるたびに眩暈を覚える。冷えすぎた空気に体温を奪われるたびに自問する。──これがおまえの望んだものか?  わからなかった。わかっているのはただひとつ。他にできることがないからコンピュータを売っている。      * * *  会社に戻ってきたのは五時前だった。西新宿の高層ビル。通いなれたはずのエントランスを通り抜けるのに、足がすくむような感覚を覚えた。吹き抜けになったメインホール。エレヴェータで三十二階へ行けば職場がある。奈緒がいる。奈緒は週頭から出社していた。  エレヴェータを降りるとまっすぐ部署に戻った。だだっ広いフロアはいくつもの|間仕切り《パーテーシヨン》で区切られている。隣のブースの人間の声は聞こえる。だが、顔は見えない。ほとんど机幅しかないスペースだが、このブースがあるから転職してきたといってもいいかもしれなかった。  ハンカチで汗をふき、椅子に腰をおろした。端末のモニタにメールが届いているという表示があった。メールをダウンロードして開いた。企画室の稲村からだった。  児玉さん、企画室の稲村です。お忙しいところ申し訳ないんですがお願いがあります。今度入ってきた派遣の女の子たちと合コンをしようという企画があるのですが、児玉さん、幹事会に参加してくれませんか? いきなりなんだといわれるかもしれませんが、第二営業部に来た伊勢崎奈緒って子が、児玉さんの親戚筋だという情報を耳にしたもので。  彼女目当ての男が多くて、是非、参加してもらいたいのですが、児玉さんが声をかけてくれればOKではと思ってます。  幹事会といっても、仕切りはいつもの連中がやりますので、児玉さんは伊勢崎さんのお目付役ということで参加いただけませんか。  これを読みましたら可及的速やかにご返事いただけると助かります。 [#地付き]企画室 稲村利伸 「ふざけやがって」  呟《つぶや》いたつもりだった。思っていた以上に大きな声を出したようだった。 「なに怒ってんですか? 今日回ってきたのはなんの問題もないお得意さんでしょう?」  隣のブースから桜井が顔を覗かせた。 「仕事じゃないよ。企画室の稲村からのメールさ。今度の合コンの幹事やれって」 「なんで児玉さんに?」 「第二営業に新しくはいってきた派遣の子がおれの義理の妹なんだよ」  眼鏡の奥で桜井の目が輝いた。椅子を後ろに引き、おれのブースに身を乗りだしてきた。汗の匂いが鼻をついた。 「第二営業の子って奈緒ちゃんですか?」  奈緒ちゃん──なれなれしい呼び方に神経が反応する。おれは唇を舐めた。気分を落ち着けた。 「おまえも知ってるのか」  奈緒がパワーテックに来て、まだ三日しか経っていなかった。それでもこの反応。会社の男たちは派遣OLをクラブのホステスぐらいにしかみなしていない。 「知ってるもなにも、新しく来た派遣の中じゃピカ一じゃないですか。みんなチェック入れてますよ……なんだ、親戚だったのか」 「なんだってのはなんだ?」 「第二営業の連中が噂してたんですよ。児玉さんと奈緒ちゃんが親しげに話してるの見たって。もう、やっちゃったんじゃないかって。児玉さん、意外にやるなって」 「ふざけんなよ、おまえ」  桜井は身体をのけぞらせた。怯えたふりをしたらしかった。おれには椅子の上でバランスを崩したようにしか見えなかった。 「だから、噂ですって。だれも、奈緒ちゃんと児玉さんが親戚だって知らないんですから。なんでいってくれないんですか?」 「ガキじゃあるまいし、いちいち報告してられるかよ」 「そりゃそうですけどね……おっと、いけね」桜井は自分のブースに顔を向けた。「回線繋げっぱなしだった。ばれるとヤバいですからね」  桜井の唇が吊りあがった。インターネット。こういう仕事をしていると使わざるをえない。だが、使いすぎはご法度という訓示が出たばかりだった。桜井が社内にいるときは、桜井の端末は断続的にネットに繋がっていた。桜井はネットを徘徊してエロ画像やエロヴィデオを収集している。インターネットをやれば、だれもが一度はかかる流行病のようなものだが、桜井はその病気を治すつもりがなかった。そうやって集めた画像や動画をROMに焼いて売っているという噂もあった。  おれは自分のデスクに向き直った。稲村に返信のメールを書いた。 [#ここから2字下げ] 企画室・稲村様  申し訳ない。合コンに出る金がない。妻子(及び借金)持ちは辛い。幹事は別のやつに頼んでくれ。 [#ここで字下げ終わり]       第一営業・児玉  メールを送信して椅子の背もたれに体重を預けた。汗に濡れたシャツが肌にへばりついていた。不快だった。なにもかもが不快だった。 「で、児玉さん、幹事やるんですよね?」  間仕切りの向こうから桜井の声が聞こえてきた。 「そんな暇あるかよ」吐き捨てるようにいった。「くだらないこと考えてないで、仕事しろよ、桜井」 「児玉さん、もしかしておれの売り上げ知らないんじゃないですか」  知っていた。桜井は第一営業でも売り上げ一、二を争う営業マンだった。 「幹事やってくれて、合コンんときに奈緒ちゃんにおれのこと売り込んでくれたら、得意先回してあげてもいいですよ」  桜井の声──一瞬、我を忘れた。それが腹立たしかった。 「うるせえ、タコ」  おれは間仕切りを蹴飛ばした。それっきり、桜井の声は聞こえなくなった。      * * *  帰り際に内線がかかってきた。稲村からだった。稲村は頼むから幹事を引き受けてくれといった。 「さっき、伊勢崎さんと話したんですよ。そうしたら、今週の金曜は予定があるっていうんですよね。だけど、児玉さんが是非にっていうんなら、予定をキャンセルしてもいいって感じなんですよ」 「合コンの日を移せよ」  電話を切った。隣で桜井がため息を漏らした。  おれは鞄を持って、会社を出た。頭蓋骨の中で稲村の言葉が反響していた。  金曜の夜。奈緒のような容姿の女に男がいないはずがなかった。加奈と奈緒の間で男の話が出ることはなかった。だから、漠然と思いこんでいた。奈緒には男はいないと。馬鹿げた話だった。  足を引きずりながら駅に向かった。靴の中に鉛が入っているようだった。煙草を吸いたかった。加奈の妊娠が判明してから禁煙を強いられていた。加奈と慎吾を呪わしいと思った。      * * *  焼き茄子に鰯の塩焼き、スーパーで買ってきた漬け物、茸のみそ汁。加奈は料理がうまかった。だが、ひとりで食べるには味気なかった。加奈は慎吾をあやしていた。慎吾が生まれてから、ふたりで食卓を囲むことが少なくなった。すべては、猿のような顔をしたガキ中心に回っている。  食べ終えた食器を洗っていると電話が鳴った。 「悪いけど、出てくれる? もう少しで眠ってくれそうなの」  加奈の声がベッドルームから聞こえた。おれは濡れた手を拭いて電話に出た。受話器を耳に当てると、ノイズのような音が聞こえた。虫の鳴き声を思わせる音だった。 「もしもし?」  おれはいつもより大きな声を出した。 「お義兄さん?」  奈緒だった。 「奈緒ちゃんか。ちょっと待って……おい、奈緒ちゃんからだぞ」 「いいんです。お姉ちゃんじゃなくて、お義兄さんに用があるんで」  おれが加奈に声をかけるのと、奈緒が喋ったのはほとんど同時だった。 「おれに?」  合コンのことだ──ぴんと来た。 「はい。あの、企画室の稲村さんに、今週の金曜に新しく入った派遣の子と社員を交えて合コンするから出てくれっていわれたんですけど……」  奈緒の声は熱っぽかった。かすれていた。語尾が震えていた。その声の後ろの方から、相変わらずノイズのような音が聞こえていた。  視界の隅に、慎吾を抱いてベッドルームから出てくる加奈が映った。おれは手を振ってみせた。 「なに? 奈緒、弘樹に用事なの?」  おれは加奈にうなずきながら、口を開いた。 「金曜の夜は予定が入ってるんだろう?」 「そう……なんです。短大のときの友達と約束してあって」  胸のつかえがおりたような気がした。短大の友達なら男ではない──奈緒が本当のことをいっているなら。 「じゃあ、ことわっちゃえばいいじゃない」 「わたしもちょっと奈緒に話があるから、終わったら替わってくれる?」  加奈の声──うなずく。視界の隅──加奈と慎吾はソファに移動した。 「でも、なんだか悪くて……それで、お義兄さんが来るなら、予定はキャンセルしてもいいっていっちゃったんだけど……迷惑じゃなかったですか?」 「そんなことはないよ。幹事になって、是非とも伊勢崎奈緒嬢を合コンに同伴してくれとは頼まれたけどね」 「……すみません、本当に」  奈緒の返事が返ってくるまでに妙な間があいた。咳込むような音がしたような気がした。 「気にしなくていいよ。そんなことより、だいじょうぶ? 風邪でも引いたんじゃないのかい? 声が少し変だよ」 「あ……ちょっと、今朝から熱っぽかったんですけど、だいじょうぶです」 「そう……じゃあ、合コンのことは本当に気にしなくていいから。加奈が話があるっていうから、替わるよ──おい、こっちは終わったぞ」  加奈に声をかけた。耳から受話器を離した。悲鳴のような声が聞こえたような気がした。もう一度、受話器を耳に当てた。なにも聞こえなかった。 「もしもし? いま、なにかいった?」 「なにもいってませんけど……」  また、返事が来るまでに間があいた。どこか不自然だったが、明確にどうと指摘できるようなものでもなかった。 「じゃあ、慎吾を頼むわね」  加奈の声に振り返った。受話器と慎吾を交代した。ソファに座り、ぼんやりとテレビを見た。腕の中で慎吾がむずかった。加奈は実家の話をしはじめていた。  お父さんの身体の調子がおかしいらしいの──今度、ふたりで実家に帰ってあげようか──それぐらいの暇もとれないぐらい忙しいの?──それじゃあしょうがないわね。  加奈の声は耳を素通りした。奈緒の声の向こうで聞こえていたノイズが耳にこびりついていた。  気がつくと、慎吾が動かなくなっていた──眠っていた。起こさないように気をつけて腰をあげた。ベッドルーム。ベビーベッドに降ろした。タオルケットをかけた。北海道のおふくろが慎吾の寝顔をはじめて見たとき、おれの赤ん坊のころにそっくりだといった。慎吾の寝顔を見るたびに、こんなのに似ていてたまるかと思った。 「寝てくれた?」  驚きながら振り返った。戸口に加奈が立っていた。 「なんだよ、もう電話終わったのか?」  慎吾を見ながら考えていたことを悟られたのではないか──馬鹿げた不安が頭をよぎった。 「うん……なんだか、早く電話切りたがってるような感じだったから」  加奈は頬を膨らませた。機嫌を損ねている。加奈は感情を隠すことのできない質《たち》だった。 「熱っぽいっていってたぞ。風邪気味で早く寝たかったんじゃないのか」 「そうかもね……」  おれは加奈の肩を押してベッドルームを出た。加奈はソファに向かった。おれはダイニングテーブルに腰をおろした。いつもの日課だった。慎吾が寝たあとは、加奈はソファで本を読む。あるいはテレビを見る。おれはノートパソコンで書類を作る。残業時間は厳しく決められていた。会社でやっても、残業代がつかないのなら、家で仕事をした方がましだった。最初、加奈は家に仕事を持ち込むことをいやがった。今では諦めている。 「ねえ──」  ワープロソフトを立ち上げたとき、加奈が声をかけてきた。 「なんだよ?」 「仕事の前にごめんね。弘樹、薬に詳しい?」 「薬って?」 「大麻とか覚醒剤とか」  なんと答えていいのかわからなかった。質問の意図もわからない。詳しいかと問われれば詳しくはないと答えるしかない。だが、まったく知らないわけでもない。十年前──バブルのころ。信じられないぐらいの額のボーナスが出た。貯金をすることなど頭になかった。稼いだ金は使うものだった。夜ごとの六本木──コネがなくても薬は手に入った。薬と金目当ての女に不自由することもなかった。 「なんでそんなこと聞くんだよ?」 「奈緒なんだけどね……」  加奈は膝の上の本を閉じた。深刻な顔つきをしていた。口を開いていい淀んだ。 「奈緒ちゃんがどうしたんだ?」 「弘樹、今の電話で奈緒の声聞いてどう思った?」 「どうって……風邪でも引いてるのかと思ったけどさ」  熱っぽくかすれた声。妙な間。ノイズ。 「ここ最近なんだけど、ときどきあるのよ。話してる最中に間があいたり、変な声だしたり」 「変な声?」 「うまくいえないんだけど、とにかくおかしいのよ……奈緒、変な薬にはまってるんじゃないかしら」 「気のせいなんじゃないのか」  薬をやるとどう変わるのか。自分の内部で起こる変化ならまだ覚えていた。見た目でどう変わるのかはよくわからなかった。薬をきめているやつがそばにいるときは、自分もきめていた。他人がどう見えるかなど考えたこともなかった。 「だって、弘樹だって風邪っぽいとか思ったんでしょう?」  熱を帯びてかすれ、震えていた声。その奥で響いていたノイズのような音。今でも耳の中で幻聴のようにはっきりと響いていた。 「そりゃそうだけどさ……」 「明日、会社で奈緒の様子見てみてよ。本当に風邪引いてるかどうか」 「勘弁してくれよ、加奈。思い過ごしだって」 「確かめてみるぐらい、いいでしょう。本当に風邪だったらそれでいいんだし。うちの両親も心配してるのよ、最近の奈緒は変じゃないかって」 「電話の声以外にもなにかあるのか?」 「こないだのプラダのバッグじゃないけど、着るものが派手になってきたって……彼氏ができたのかと思って聞いてみても、今はいないっていうしね」  加奈と両親の不安は馬鹿げていた。中学や高校時代でもあるまいし、服装などどうでもいいことに違いなかった。  それでも、確かにあの声はおかしかった。どこがどうというわけではない。他人に指摘されれば、そういえばおかしいと思うレベルのものでしかない。それでも── 「もし、奈緒ちゃんが薬やってるとしてだぞ、なんでそんなときにわざわざおまえに電話かけてくるんだ? 普通、しないだろう、そんなこと。喋り方でばれるかもしれないし、第一、薬やってるときはラリっちゃってて、身内に電話する気になんかならないぜ」 「あら、弘樹、やったことあるみたいな口調じゃない」 「ひとが真面目に相談に乗ってやってるのに、茶化すのか?」 「ごめん。そんなつもりじゃないんだけど……」  薬。別に知られてもかまわなかった。昔の話だ。加奈に出会うずっと以前の話。薬漬け、女漬けの日々。なぜ、一介のサラリーマンにあんな暮らしができたのか。酒を飲み、薬をきめ、女を抱く。女はダッチワイフと変わらなかった。穴があいていればそれでよかった。愛も情もなかった。玩具のように弄び、飽きれば捨てた。  玩具のように──スウィッチが切り替わったような気がした。あのノイズのような音を思いだした。昔はよく使った。女を弄ぶために使った。  あのノイズのような音はヴァイブレータがたてる音によく似ていた。      3  奈緒は四つんばいになっている。尻を突きだしている。充血し、濡れた性器はヴァイブレータを飲み込んでいる。顔は奈緒だった。身体は五年前の加奈のものだった。  ノイズのような音。熱っぽくかすれた喘ぎ声。  ヴァイブレータの先端は男の手が握っている。ごつい手だった。太い指の先が奈緒の体液で濡れている。腕から先はない。なにもない空間から腕だけが伸びている。腕は前後に動いている。ヴァイブレータを動かしている。腕が動くたびに、奈緒が切ない声をあげる。形のいいヒップと腰をくねらせる。  電話をかけろと腕がいう。どこから声が出ているのかはわからない。  おまえのいやらしい声を聞かせてやれ──腕は言葉を続ける。おまえのおまんこから聞こえる音をだれかに聞かせてやれ。  奈緒の目の前に電話が現れる──唐突に。奈緒は電話をかける。顔のズームアップ。奈緒の顔は歪んでいる。何かに耐えるように歯を食い縛っている。小鼻が膨らんでいる。目がうるんでいる。  奈緒は電話をかける。プッシュボタンを押す指が小刻みに震えている。  荒い吐息。腕の動きが速くなる。奈緒が受話器を耳にあてがう。呼びだし音。カチャリと音がして回線が繋がる。 「もしもし?」  受話器からおれの声が聞こえる。奈緒は悲鳴に似た喘ぎを漏らす。腰をくねらせる。内腿が痙攣する。内腿は溢れでた奈緒の体液で濡れている。 「もしもし?」また、おれの声。「奈緒ちゃん?」 「聞いて、お義兄さん。奈緒のいやらしいおまんこの音聞いて。お姉ちゃんとどっちがいやらしいか比べて」  腕の動きが速くなる。目では追えなくなる。奈緒の腰がくねる。唇が開く──      * * *  股間が熱かった。固く勃起していた。枕元の時計は午前五時を指していた。  目を閉じ、夢の余韻を味わった。勃起はおさまりそうになかった。加奈の身体に手を伸ばした。パジャマの胸元から右手をさしこんだ。左手を腰にまわした。  乳房を揉んだ。慎吾を産んで、確かに加奈の胸は大きくなった。尻を撫で回した。腰回りも大きくなったような気がした。右手の指先が濡れた。乳首から母乳がにじみ出てきたようだった。  途端に、醒めた。あれほど固くなっていたものが急速に萎《しぼ》んだ。  ベッドを抜け出した。加奈の眠りは深かった。胸や尻を触っても、起きる気配がなかった。  居間──ダイニングテーブル。パソコンを立ち上げた。煙草が吸いたかった。窓の外は暗かった。雨がアスファルトを打つ音が響いていた。パソコンのOSが起動した。8ギガバイトのハードディスク。保存しておいた画像データを呼び出す。桜井からもらったインターネットで売買されていた裏ヴィデオ。ボリュームを絞って再生した。粗い画質──それで充分だった。萎《な》えていたものが再び勢いを取り戻した。  椅子に座り、パジャマと下着を降ろした。固くなったものを握りしめた。上下にしごいた。  目は裏ヴィデオの画像を追っていた。頭の中では夢の続きを追いかけていた。  すぐにいった。大量の精液がティッシュの中に飛び散った。快感の余韻に浸りながら、射精したのはいつ以来だろうと考えた。      * * *  奈緒は出社していた。笑顔を周囲に振りまいていた。風邪を引いているとは思えなかった。  ノイズのような音、熱っぽくかすれた声──蚊の羽音のように耳にまとわりついて消えなかった。 「結局、ことわられちゃったらしいですよ、伊勢崎さんに」  席に着くと、桜井が待ち構えていた。 「みんな、児玉さんのこと恨んでますよ」 「しょうがないだろう。そんなにあいつと飲みたいなら、おまえらが日を移せばいいんだよ。予定さえ入ってなきゃ、ことわるような子じゃないんだから」 「彼女ひとりのためにそんなことしたら、他の女の子たちが怒りますよ」 「じゃあ、諦めるんだな」  おれは素っ気なくいった。幹事をことわったことを悔やんでいるのを知られたくなかった。奈緒と飲みに行きたかった。酒に酔った奈緒の声が熱っぽくかすれていくのを聞きたかった。  すべてはくだらない妄想だ。わかっていた。昔から──五年前から、奈緒は健全な女だった。授業料を払うためにバイトに明け暮れていた。同い年の女たちが享受するあらゆることとは無縁だった。それが、短大を出て数年で豹変するとは思えなかった。豹変する女はいくらでもいるが、奈緒は違った。違ってほしかった。  それでも、その妄想に進んで身を任せたいというマイナスの負荷を帯びた欲望が下腹部のあたりで渦巻いていた。  まだなにかいいたげな桜井を無視してデスクに向かった。日課──メールを読む。必要があれば返信する。電話をかける。仕事に没頭すれば、くだらない妄想の呪縛が解けると思った。  解けなかった。ノイズのような音が耳にこびりついて離れなかった。夢で見た奈緒の顔と若かったころの加奈の裸身──脳裏に刻みこまれていた。  電話に手を伸ばす。奈緒の内線番号をまわす。 「はい、第二営業部です」  奈緒の声。明るく、くったくがない。昨日の電話とは明らかに違う声だった。 「おれだけど──」必要もないのに声が低くなった。隣のブースの桜井が気になった。 「お義兄……じゃなくって、児玉さんですか?」 「そうだよ。風邪はどう?」 「ご心配かけてすみません。気のせいだったみたいで、朝起きたらぜんぜん平気でしたよ」  ノイズのような音。熱っぽくかすれた声。 「それはよかった。加奈のやつも心配しててね、様子を見てやってくれっていわれてたんだ」 「もう子供じゃないんだからって、お姉ちゃんにいっておいてください」 「そうするよ。その声じゃ、確かに平気そうだもんな……そうだ、昼休み、予定入ってる?」 「別になにもありませんけど」 「じゃあ、奢るから昼飯一緒に食おうか?」 「いいんですか?」 「スタミナつくもの食べて、ガンガン働いてもらわなきゃならないからな」 「じゃあ、ごちそうになります」 「じゃあ、十二時に下のホールで」  おれは笑いながらいった。自分が間抜けに思えるほど不自然な笑いだった。      * * *  奈緒はスーツを着ていた。パワーテックには女子社員の制服はなかった。男も女も私服だった。企画室の連中の中にはノーネクタイで出社する者もいた。だれも文句はいわなかった。スーツのブランドはわからなかった。だが、仕立てはよかった。バッグはプラダではなかった。グッチだった。  加奈の言葉がよみがえる──派遣会社ってそんなにお給料がいいわけじゃないんでしょう?  いいはずがなかった。派遣会社の社員とは名ばかりで、ボーナスさえ出なかった。いつでも辞められる──辞めさせられる。そのための派遣社員であり、一般の会社のそれとはあまりにかけ離れていた。  グッチのバッグ──しばらく目をそらすことができなかった。  奈緒の化粧は控え目だった。光の加減によってはノーメイクに見えた。スーツは似合っていたが、グッチのバッグは不釣り合いだった。  雨はあがっていた。雲の切れ間から日が差しこんで、気温が急激に上昇していた。暑さと湿気。ビルを出た瞬間、立ち眩みに似た眩暈を覚えた。慎吾のせいで寝不足が続いていた。おまけに今朝は五時に起きて自慰をした。そのまま眠らずに起きていた。トータルで三時間前後しか眠っていなかった。それも浅い眠りを貪っただけだ。身体がだるかった。脳味噌の奥に疲労の芯があるような気がした。だから、くだらない妄想をいだく。  高層ビル街を抜けて代々木方面に向かった。新宿駅南口と代々木駅のちょうど中間あたりに羊肉を専門にしたエスニックレストランがあった。そこに入った。  奈緒はマトンのカレーを食べた。おれはラム肉のペパーステーキを食べた。食べながら、世間話をした。会社の話をした。目の前の奈緒と夢の中の奈緒が何度も重なった。 「お義兄さんはこの後外回り?」  食後のコーヒーに口をつけながら奈緒がいった。おれはうなずいた。 「大変ですね。外、暑くなりそうだし」 「しょうがないよ、これが仕事だからね。そうやって働いてるおかげで、この不況の時代にそこそこいい給料をいただいて、マンションのローンを返し、慎吾の養育費を捻出してるってわけだし」 「大黒柱は辛いですね……だけど、わたしももう少しお給料欲しいな」 「派遣の給料、そんなに少ないの?」 「少ないですよ。家賃払ったら、もうほとんど残らないんですから」 「その割にはいい鞄持ってるじゃないか」  さりげなく水を向けてみた。奈緒は隣の席に置いておいた鞄を持ちあげた。 「これだってローンで買ったんですよ」 「この前、うちに来たときはプラダのバッグを持ってた。加奈が羨ましがってたよ。お小遣いをくれるパパでもつかまえたんじゃないかって」 「やだなぁ。こう見えても、わたし、身持ち固いんですよ」  くだらないことが脳裏をよぎった。ワープロソフトの誤変換。固いんだと書きたかった──化多淫だと変換された。多淫という文字が頭の中でクローズアップされた。その文字が目の前の奈緒の顔に重なっていく。  やめろ──声には出さずに自分にいい聞かせた。 「だいたい、今の世の中じゃ、そんなに気前のいい人いないですよね」  奈緒がいった。 「そうだな。バブルの頃なら、おれだって奈緒ちゃんにブランド物のバッグのひとつやふたつ、買ってやれたけどな」 「お姉ちゃんには買ってあげたんでしょう?」 「安いのをいくつかね」おれはコーヒーを飲み干した。わざとらしく腕時計を覗きこんだ。「そろそろ行こうか。一時半には大井町に着いてなきゃならないんだ」 「ごちそうさまでした」  奈緒は頭を下げた。胸元が覗けた。胸の膨らみとブラのカップ。ブラは黒だった。奈緒はスーツの下に下着しかつけていなかった。 「給料前で財政難のときは遠慮なくいいなよ。飯ぐらいでよけりゃ、いつだってごちそうしてあげるから」  瞬きしながらいった。胸元に戻ろうとする視線──奈緒は姿勢を元に戻していた。もう、スーツの内側は見えなかった。 「本当に? 嬉しい。助かります。お義兄さんと同じ会社に派遣されたの、やっぱりラッキーだったかな」  奈緒は朗らかにいった。      * * *  外回りをしていても気がそぞろだった。最近働きすぎなんじゃないの──訪れる会社の担当者が打ち合わせでもしていたかのように同じことを口にした。おたくの業界、給料はいいけど社員をこき使うって評判だからね。余計なお世話だ──漏れそうになる言葉を飲みこむ。愛想笑いを浮かべ、相槌を打つ。頭を下げる。冷房の効いたビルから外に出るたびに眩暈を覚える。  だが、あの声は聞こえない──これがおまえの望んだものか?  代わりにノイズのような音。熱っぽくかすれた奈緒の声。スーツの下の肌。黒いブラ。  眩暈は酷くなっていく。駅のベンチで何度も休まなければならなかった。おかげで、会社に戻ったのは終業時間を過ぎた後だった。今日中にやろうと思っていた書類仕事に手をつけることもできなかった。書類は週明けに提出することになっていた。明日の金曜はスケジュールが詰まっていた。休日出勤するしか手はなかった。  帰りがけに第二営業を覗いた。奈緒はいなかった。  電車に揺られて帰路に就いた。加奈の作った食事を半分以上残した。  どうしたの──加奈がいった。  疲れてるんだ──おれは答えた。そういえば、奈緒ちゃん、会社に来てたよ。元気そうだったぜ。一晩寝たら、風邪治ったって。薬やってるようには見えなかったな。プラダのバッグもローンで買ったっていってた。  加奈はほっとしたような顔つきをした。  そうだ、今度の日曜、休日出勤だから。  うちでできない仕事なの?──加奈はいった。  ああ、会社の方が能率がいいからな。  加奈は複雑な表情を浮かべた。表情が意味するものがわからなかった。いつの間にか、おれは加奈の顔色が読めなくなっていた。  加奈は変わった。おれも変わった。昔に戻れたら──何度となくそう思う。このくたびれた身体をリニューアルできたらと。この澱んだ気持ちをリフレッシュできたらと。  浅い眠り──慎吾の夜泣きに起こされる。浅い眠り──奈緒の淫らな夢を見る。  疲労だけが身体の芯に溜まっていく。      * * *  金曜も土曜も、同じ夜が続いた。日曜の朝、鏡を覗いた。死人のような顔がおれを見返してきた。      4  日曜だというのに桜井が出社していた。 「児玉さん、珍しいですね、休日出勤なんて」  桜井は真っ赤に充血した目を何度も瞬かせた。 「おまえこそ仕事熱心じゃないか」  おれは椅子に腰をおろした。鞄をデスクの脇に立てかけた。端末を立ち上げた。 「なんでおれが成績あげてると思ってるんですか、児玉さん?」 「インターネットでコンピュータ売りつける相手を探してるんだろう。目が真っ赤だぞ。またモニタと首っ引きか。そろそろ、エロ画像も卒業しろよ」 「勘弁してくださいよ。会社の電話回線使ってあれ集めるの、おれの唯一の趣味なんですから」  桜井のように頻繁にネットに繋がっていれば、いくら高給取りでも電話代とプロバイダに払う接続料には追いつかないに決まっていた。休日出勤も、会社の金で趣味を満足させるための口実かもしれなかった。 「児玉さんこそ、目が落ちくぼんでますよ。だいじょうぶですか?」 「寝不足だよ。ガキの夜泣きがひどくてな」 「突然死する人って、そんな顔してそうなんだよな」  他意のない言葉だった。それでも、背筋がひやりとした。 「金曜の合コンはどうだったんだ?」 「盛り下がりましたね」桜井の視線が落ちた。「合コンに参加したやつら、ほとんど奈緒ちゃん目当てだったし……他の女の子たちも一次会でみんな帰っちゃうし。二次会は児玉さんの悪口大会で盛りあがりましたけど、なんか虚しいですよね、ああいうの」 「おれの悪口? 幹事やらなかったからか?」 「もちろん、それがメインですけどね……児玉さん、マイペースじゃないですか。意外と敵、多いみたいだから気をつけた方がいいですよ」  そういうと、桜井は自分のブースに引っ込んだ。 「敵が多い……か」  おれは呟いた。自分が狷介な性格であることは知っていた。それを直そうとも思わなかった。愛想笑いとおべっかは会社の外で使うだけで充分だった。 「あ、そうだ。桜井、腹減ってないか?」  おれは鞄を開けた。ハンカチに包まれた塊──加奈が作ってくれたサンドウィッチ。食欲はなかった。それを桜井に渡した。 「なんですか、これ?」 「うちのカミさん手作りのサンドウィッチだよ。おれ、食欲がないんだ。よかったら食ってくれよ」 「いいんですか?」 「仕事が終わって帰る前にコーヒーでも淹れてくれよ。それでチャラだ」 「じゃあ、ありがたくいただきます」  桜井はぺこりと頭を下げて間仕切りの向こうに消えた。すぐに包みを開く音が聞こえてきた。 「さてと」  キィボードを手前に引き寄せた。書類のフォームは家で作っておいた。後はデータを打ち込むだけ。そのデータ量が膨大だった。気が滅入る。だが、取引先がそれを望んでいた。 「桜井、おまえ、今日何時までいる予定?」 「三時には帰りますよ。今日は朝一から出社してるんで」 「他の部署は?」 「今日はどこも出てきてないみたいですね」 「そうか」  桜井と話しているうちに、指が勝手に動きだした。データベースにアクセスしてデータを引きだす。それをワープロソフトの文書上に引き写す。単純な作業だった。単純なだけに没頭した。  ノイズのような音も聞こえなかった。熱っぽくかすれた声も聞こえなかった。      * * * 「児玉さん、サンドウィッチ、ごちそうさんでした」  桜井の声で作業から引き戻された。目の前にマグカップが差し出された。 「悪いな」  いって、口をつけた。コーヒーは熱かった。すぐに汗が出てきた。 「あのサンドウィッチ、めちゃうまですよ。奥さん、料理上手なんですね。食べてあげなきゃ悪いじゃないんですか」 「いつもは食うんだけどな。ここんとこ調子が悪くて食欲がないんだ」 「気をつけてくださいよ。ほんと、顔色が悪いんだから……あ、そうだ。こういうのでも見て、元気出してくださいよ」  桜井は間仕切りの向こうに姿を消した。なにかを探しているようだった。 「エロ画像だったら、おれは遠慮するぞ。もう見飽きたからな」 「そういわないで、これ、結構凄いですよ」桜井はMOディスクを持ってブースから出てきた。「ソフトSM系のホームページで見つけた投稿物の画像なんですけどね」  うんざりした。インターネットには投稿写真が腐るほど出回っている。デジタルカメラで撮影したプライベートな画像を他人に見せたがる変態にとって、ネットは都合のいい玩具だった。 「気持ちだけでいいよ」 「そういわないで」桜井は思わせぶりな笑顔を浮かべた。周囲にはだれもいないのに、声を落としてつづけた。どこか芝居じみていた。「オフィス物の画像なんですよ。結構えぐいんですけど、女の子の目に目線入れられちゃってるのが残念で」 「わかったよ」  おれはMOディスクを受け取った。見るつもりはなかったが、桜井の蘊蓄《うんちく》に耳を傾ける気にもなれなかった。 「後で見るから、とっとと帰れ。仕事の邪魔だ」 「つれないよな、児玉さんは」 「女のおまんこなら、生を嫌になるぐらい見てるからな」 「でも、奥さんの妹のはないでしょう?」  仕事に戻ろうとして、身体が凍りついた。奥さんの妹──奈緒。 「どういうことだ?」  声が強ばっていた。 「そんな怖い顔しないでくださいよ。そのディスクに入ってる画像、奈緒ちゃんにちょっと似てるんですよ。それだけですから」 「おまえなあ……」  肩から力が抜けていった。だが、筋肉は強ばったままだった。 「洒落になんなかったですね。すんません」  桜井は頭を掻いた。ものを詰め込みすぎてぱんぱんに膨らんだショルダーバッグを肩に担いだ。 「サンドウィッチ、ごちそうさんでした。また、明日」  桜井は逃げるように部屋を出ていった。      * * *  仕事が手につかなくなった。奈緒に似た女のエロ画像。  理性は仕事をしろといった。下半身にわだかまっていた欲望がMOディスクをセットしろといった。  おれはドライヴにMOディスクをセットした。ヴューアーで画像を開いた。  一枚めの画像──お仕着せの制服を着た女がどこかのオフィスらしき場所で椅子に腰かけている。制服は白いブラウスにピンクのベストとスカートのセット。どこにでもあるものだった。背景のオフィスもどこにでもあるような感じだった。それだけに、セットにはないリアリティがあった。異様なのは、女の目の部分が黒く潰されていることだけだった。  女は長髪だった。軽くウェーヴのかかった毛を肩甲骨の辺りにまで伸ばしていた。鼻の形はよかった。高くもなく低くもなかった。唇は薄かった。スカートの裾から伸びた膝下は真っ直ぐだった。  奈緒に似ていた。本人だとは断言できなかった。  二枚めの画像──女は椅子に逆向きに座っていた。背もたれに顎を載せ、下半身を後ろに突きだしていた。スカートが捲れあがっていた。パンストとショーツが膝のあたりまで引きおろされていた。剥きだしの尻の奥に襞《ひだ》と陰毛が見えた。  心臓が高鳴った。下半身に血が集まっていくのがわかった。幻聴がよみがえった──ノイズのような音、熱っぽくかすれた奈緒の声。  どうということはない画像だった。ネットを泳ぎ回っていれば、いくらでも目にすることができる類の画像だった。奈緒に似ている──奈緒かもしれない。それだけで、おれはあさましいほど興奮していた。  三枚めの画像──血が凍りつく。  女は受話器を握っていた。耳にあてていた。二枚めの画像とポーズはそれほど変わらなかった。違うのは、椅子の上から宙に突きだされた尻の間から、棒のようなものが顔を覗かせていることだった。棒の先からはコードが伸びていた。ヴァイブレータだった。女はヴァイブレータをあそこにくわえ、電話をかけていた。  ノイズのような音が脳味噌を揺さぶった。  四枚めの画像──受話器がデスクの上に転がっている。女の胸が剥き出しになっている。はだけられたブラウス。引きおろされたブラ。白い乳房。固く屹立した乳首。女は椅子の上に尻を乗せていた。背もたれに背中を預けていた。右手で股間のヴァイブレータを握り、左手で片方の乳房を握りしめていた。陰毛は薄かった。ヴァイブレータを飲みこんだ性器がはっきりと見えた。唇が半開きになっていた。そこから覗く舌が艶《なま》めかしく濡れていた。  五枚め──女は制服を脱いでいた。肌に縄が食い込んでいた。上と下から縄に締めあげられた乳房が苦しげに突き出ていた。両腕は背中に回されていた。股間のヴァイブレータはなくなっていた。  六枚め──女はデスクの上に横顔を押しつけていた。そのすぐ側に受話器が転がっていた。女は舌を突きだして受話器を舐めていた。  七枚め──女のポーズが変わっていた。女はさっきとは違うデスクの上に乗っていた。課長席。あるいは部長席。女の右手首が右足首のところで縄で縛られていた。左手首は左足首で。両方の二の腕に縄が食い込んだ痕があった。奇麗な脚がM字形に開いていた。性器はヴァイブレータを飲み込んでいた。  画像はそれしかなかった。MOディスクに収められていた画像は七枚だけだった。  仕事どころではなかった。なにかが──狂おしいなにかがおれを駆り立てた。  おれは桜井のブースに移動した。桜井の端末を立ち上げた。パスワードによるプロテクトがかかっていないことは知っていた。なにをやったってその気になったハッカーがいたらおしまいですからね、プロテクトなんか馬鹿のすることですよ──桜井はいつもそういっていた。  端末は立ち上がった。ブラウザの情報を覗いた。桜井は趣味で覗くホームページの場所をアドレス帳に書きこんでいなかった。  うなった。あの画像をもっと見たかった。ファイルを検索した。MOディスクの画像のファイル名には�nao�という文字がつけられていた。たぶん、桜井が勝手につけたファイル名だ。  naoという文字を含むファイルは七つしか見つからなかった。どれもMOディスクに入っていたのと同じ画像だった。  おれは端末のモニタを睨んだ。唇を噛んだ。あの画像がアップされていたホームページのアドレスを桜井に聞こうかという考えが脳裏をよぎった。すぐに、そんなことはできないと思い直した。  噂が広まる──児玉のやつ、カミさんの妹とやりたいらしいぜ。  ノイズのような音、熱っぽくかすれた声。スーツの胸元から見えた肌、ブラ。七枚の画像。  耳なりがした。眼球の奥が痛んだ。      * * *  第二営業部はひとつ上のフロアにあった。第一営業部と同じレイアウトの部屋にはひとっこひとりいなかった。  フロアを横切った。奈緒のデスク。整然と並んだファイル類。目につくものはなにもない。抽斗をあけた。事務用品と書類が入っているだけだった。すべての書類に目を通した──無駄骨だった。  女子更衣室に向かった。制服がないこの会社に更衣室など必要なかった。だが、更衣室は存在した。そこにはロッカーがあった。一部の派遣OLたちはそこに私物をしまいこんでいた。  更衣室は縦に細長かった。両側の壁に沿ってスティール製のロッカーが並んでいた。ロッカーには派遣OLたちの名前が貼られてあった。  伊勢崎奈緒──奈緒のロッカーは左手に並んだロッカーの真ん中のものだった。いくつかのロッカーにはダイアル錠がかかっていた。奈緒のロッカーには錠はなかった。  ロッカーを開けた。期待していたものは入っていなかった。小田急デパートの紙袋がひとつ、置いてあるきりだった。  紙袋を広げた。化粧ポーチが入っていた。奇麗に折り畳んだハンカチが数枚入っていた。封をあけていないパンストの包みが入っていた。  ヴァイブレータはなかった。身体を縛る縄もなかった。ピンクの制服もなかった。奈緒があの画像の女だという証拠はどこにもなかった。  おれはパンストの包みを破った。ズボンとパンツを降ろした。画像を見たときから勃起しっぱなしだったものの先端が濡れて光っていた。パンストでそれを包んだ。しごいた。  あの夢を見た夜のように、おれはあっという間に果てていた。      5  新宿駅──蟻のように押し寄せ、移動する人間たち。見ているだけで息苦しくなる。自分がその一員だと思うと眩暈を覚える。  携帯電話──会社へ。直帰すると伝えた。公衆便所の個室。デパートで買った私服に着替える。薄い色のサングラスをかける。洗面台の鏡を覗く。どこからどう見てもおれだった。それでも、やらずにはいられなかった。  スーツを詰めた紙袋をコインロッカーへ預けた。駅を出た。会社の入ったビルへ向かった。ビルのエントランスは都庁通りに面している。道路を挟んだ正面──並木の陰。人の出入りを見張るにはちょうどよかった。並木にもたれ、文庫本を広げた。文字を追う。頭には入らない。  なにをしているのか──自問する。おれはおかしくなったのか──吟味する。  わからなかった。なにもわからなかった。  昨日の夜、加奈に訊いた──奈緒が前に派遣されていた会社はどこだった?  加奈は外資系の証券会社の名前を口にした。その会社が女子職員にピンクの制服を押しつけるとは思えなかった。  MOディスクは家に持ち帰った。加奈と慎吾が寝入ったあとで、自分のパソコンで中の画像を見た。繰り返し見た。何度見ても飽きることがなかった。パソコンをインターネットに接続し、SM系のホームページを片っ端から検索した。奈緒に似た女の画像があるホームページは見つからなかった。いずれにしろ、ほとんどのホームページが画像のダウンロードに金を取るシステムだった。クレジットカードで決済すれば加奈がいぶかしむ。銀行振り込みにするにしても、手続きをしてからパスワードを発行してもらうまでのタイムラグがありすぎる。  寝不足の頭。夏ばてした身体。三十度を超える気温。七十パーセントを超えた湿度。生ぬるい水の中をたゆたっているような感覚。足元が覚束ない。確かなものなどなにもない──そんな気持ちになってくる。  五時半が過ぎた。ビルの人の出入りが激しくなった。外回りから帰ってくるやつら。退社するやつら。パワーテックの社員もいた。だれもおれに気づかなかった。道の反対側に視線を向けようとする人間がそもそもいなかった。  五時四十五分。奈緒が出てきた。同僚の女三人と一緒だった。四人の女は互いに喋りあっていた。微笑みあっていた。奈緒はノースリーヴのブラウスを着ていた。柄は白と黒のストライプだった。下半身は白いパンツ。白いサンダル。金がかかっているように思えた。バッグは例のグッチだった。剥きだしの二の腕に縄の痕が残っているように思えた──ただの錯覚だった。  四人は新宿駅に向かって歩きはじめた。西口で二手に分かれた。JRを利用する者と地下鉄を利用する者に。奈緒は後者だった。奈緒は菊川にマンションを借りている。都営新宿線で通勤する。  奈緒ともう一人の女は駅構内を右手に進んだ。寄り道をせずに電車に乗った。おれはひとつ後ろの車両に乗った。連結部のドアのガラス越しにふたりを見守った。ふたりは吊り革を握りながら、絶えず口を動かしつづけていた。  神保町で女が降りた。奈緒はひとりになった。奈緒は口を閉じた。視線を正面に向けて動かなかった。  奈緒がなにを考えているのか知りたかった。知る術はなかった。  菊川で奈緒は電車を降りた。コンビニで買い物をした。真っ直ぐマンションに向かった。  六階建のマンション。一階はエレヴェータホールだけになっている。各フロアに二部屋ずつ。奈緒の部屋は六〇二号。八畳のリヴィングと四畳半の1DK。トイレとバスルームはセパレート。引っ越しの手伝いをしたからよく覚えていた。家賃は十二万だといっていた。家賃を払うと給料のほとんどが消えてしまうと愚痴をこぼしていた。夜、アルバイトでもしようかな──そういって、加奈に怒られていた。冗談よ、お姉ちゃん、すぐ本気になるんだから──笑いながらいっていた。  プラダとグッチのバッグ。値の張りそうな衣類。  妄想が暴走する。  奈緒と男──脂ぎった中年男。ふたりは奈緒が派遣された会社で知り合う。はじめは食事。次に酒。最後にセックス。奈緒は男に小遣いをもらう。その金でブランド物を買う。そのうち、男が本性を剥きだしにする。奈緒を縛る。ヴァイブレータを使う。夜の会社。だれもいない会社。用意してきた制服を奈緒に着せる。淫らな奈緒をデジタルカメラで撮影する。インターネットにその画像を流す。  いつしか、脂ぎった中年男はおれになっている。      * * *  奈緒のマンションの前を行ったり来たりした。マンションの前で佇《たたず》んでいると、警察が来るのではないかという被害妄想が膨らんでいった。  それでも、マンションの出入り口を常に視界に入れていた。  三人の男がマンションの中に姿を消した。三人とも若かった。一番年配で、おれと変わらない年格好のサラリーマンだった。奈緒に小遣いをやれるほど経済力があるようには見えなかった。三人が三人ともマンションの住人だった。わかっていても、妄想の暴走をとめられなかった。  我慢できなかった。公衆電話のボックスに駆け込んだ。奈緒に電話をかけた。 「もしもし?」  奈緒の声。熱っぽくもかすれてもいなかった。ノイズのような音も聞こえなかった。おれは電話を切った。  真夜中までの時間──長い長い時間。うろつき、見守り、電話をかけた。電話は途中から留守番電話に切り替わった。味も素っ気もない合成音が留守を告げる。ノイズのような音が頭の中でよみがえる。熱っぽくかすれた声が耳元で聞こえる。 「見たぞ」  押し殺した声──自分のものとは思えない。留守番電話に向けて囁く。 「おまえの写真を見たぞ。あそこにヴァイブを突っ込まれて電話をかけてる写真だ」  電話を切った。足から力が抜けていく。電話ボックスの壁にもたれかかった。荒くなった息を整えた。口から嗚咽が漏れた。  なんだってこんなことをしている? おまえはマジでいかれちまったんじゃないのか? 相手は女房の妹だぞ。あの写真が本人かどうかだってわかっちゃいないのに。それなのに──  知りたかった。理由などどうでもいい。ただ、知りたかった。  教えてくれ。  声に出さずに呟いた。  教えてくれ、奈緒。あれは本当におまえなのか?      * * *  十二時──タイムリミット。何度も振り返る。奈緒のマンションを見あげる。奈緒は出てこなかった。マンションに入っていく中年男の姿もなかった。  地下鉄に揺られた。くたびれていた。睡魔に何度も襲われた。瞼が鉛のように重かった。それでも、眠れなかった。  新宿駅でスーツをピックアップした。トイレで着替えた。私服をコインロッカーに入れなおす。タクシーで家に帰った。加奈は起きていた。 「遅かったわね」  遅くなるという電話は入れてあった。 「今日は遅くなるといっただろう」 「怒ってるわけじゃないのよ。ただ、昨日も休日出勤だったし……ちょっと忙しすぎるんじゃないのかなと思って。最近、弘樹、顔色も悪いから」 「明日は早く帰るよ」  自分の言葉が信じられなかった。明日も、奈緒の後を尾《つ》けてしまうという確信があった。 「だったらいいけど……そういえば、さっき、奈緒から電話があったのよ」  親指のつけ根が痙攣した。抑えようと思えば思うほど痙攣は大きくなった。 「奈緒ちゃんから?」  必要以上に声が大きかったような気がした。だが、加奈の態度に恐れていたような変化は訪れなかった。 「何度も無言電話がかかってきたんだって。留守電にしたら、おまえの写真を見たとか、わけのわからない声が吹きこまれてて、怖いって電話してきたのよ。可哀相に、怯えてたわ」  痙攣はまだとまらなかった。ダイニングテーブルの椅子に腰かけ、両手を加奈の視線から隠した。左手で親指のつけ根を押さえた。 「なにかいってやったのか?」  あの画像の女は奈緒ではない。あれが奈緒だったら、そんな電話を加奈にかけてくるはずがない。安堵した。落胆した。落胆の方が大きかった。その事実に愕然とした。 「警察に連絡しろっていってあげたわ。なにもしてくれないかもしれないけど、気休めにはなるでしょう。嫌な世の中よね、ほんとに」  脱力感──身体に力が入らなかった。喉が渇いていた。舌が膨れあがっているような違和感があった。それにともなって吐き気が込み上げてきた。必死でこらえた。嘔吐感のせいで痙攣がとまっていた。腰をあげ、バスルームに足を向けた。足元が覚束ない感覚がまたやって来た。 「弘樹、だいじょうぶ。顔、真っ青よ?」 「疲れてるだけだ」  そういったつもりだった。だがおれの耳に届いた声は不明瞭だった。呂律の回らなくなった酔っ払いのような声。視界が歪んだ。足元にぽっかりと穴があいた。  悲鳴が聞こえた。なにも見えなくなった。      6  救急車──夜間病棟。医者の診断は過労。点滴を打たれた。三日間の安静をいい渡された。  医者は間違っていた。おれの体調不良の原因は、過労ではなくおれ自身の妄想だった。おれにはわかっていた。わかっていてやめられなかった。ベッドに横たわり、点滴を打たれている間も妄想をとめることができなかった。奈緒のあられもない姿を想像して勃起した。あれは奈緒じゃない──口にだして何度も呟いた。うまくいかなかった。看護婦の影に怯えながら、おれは奈緒を思うまま蹂躙した。  タクシーで家に戻った。加奈は泣きつづけていた。慎吾も泣いていた。ふたりの泣き声が神経に障った。こめかみの血管が脈打っているのがわかった。  自分を抑える。営業マンの本能。加奈をなだめ、慎吾をあやした。そんなことしなくていいから、早く横になって──加奈は泣きながらいった。明け方近いというのに加奈の実家から電話があった。北海道のおれのおふくろから電話があった。奈緒から電話があった。電話には加奈が出た。代わりたかった。だが、電話に出るのが恐ろしかった。  ベッドに潜り込む。布団を頭からかぶる。汗が流れてくる。神経がざわざわと音をたてているのがわかる。目を閉じるのがいやだった。目を閉じれば、妄想が再開されるのがわかっていた。泣きたかったが泣けなかった。  おれはいったいどうしちまったんだ?──押し殺した声で何度も呟いた。      * * *  午後になって、加奈の母親が来た。慎吾を預かるといった。慎吾の夜泣きが原因のひとつかもしれないってお医者さんがいってたの──加奈がいった。弁解がましい口調だった。弁解する必要はなかった。  会社には加奈が電話した。課長はゆっくり休めといったらしかった。  起きあがってテレビを見た。加奈は横になっていた方がいいといった。病気でもないのに寝ていた方が身体には悪いとおれはいいはった。  ふたりだけの時間──気詰まりだった。なにを話せばいいのかわからなかった。なにをすればいいのかわからなかった。昔はとにかく話をしていた。ふたりですべきことが山のようにあった。  あの頃のような気持ちをもう一度持てるなら、妄想も消えていくように思えた。  一緒に風呂に入ろうと加奈にいった。加奈はいやだといった。いまさら恥ずかしいといった。営業マンの本能が怒りを収めた。  代わりに、ノイズのような音が聞こえた。熱っぽくかすれた奈緒の声が聞こえた。加奈が不安そうな顔をした。どうしたのかと訊いた。また、倒れる前のような顔つきになっていると加奈は答えた。  風呂場で鏡を覗いた。加奈のいうとおりだった。  ひとりで風呂に入った。バスタブに湯を張り、ゆっくり浸かった。いつもはシャワーだけで済ませていた。入浴がこれほど気持ちのいいものだということを忘れていた。筋肉が弛緩していく。妄想が暴走するに任せていると、すべてがどうでもいいことのように思えてきた。それが錯覚なのもわかっていた。  風呂からあがると、加奈が化粧をしていた。照れ笑いを浮かべながら、マッサージをしてあげるといった。昔はよくしてもらった。この数年はご無沙汰だった。  加奈の手が身体の上を這い回る。加奈はおれが勃起していることにすぐに気づいた。無言でベッドから離れ、明かりを消して戻ってきた。おれのパジャマのズボンをおろし、口に含んだ。  服を脱がそうとすると加奈はいやがった。太った身体を見られたくないといった。口の中に出していいからといった。  抗《あらが》う気力はおれにはなかった。加奈に含ませたまま、おれは妄想を解き放った。  ノイズのような音。熱っぽくかすれた奈緒の声。奈緒に似た女のあられもない姿を捉えた画像。  おれは射精した。加奈は噎《む》せた。加奈の口から零《こぼ》れた精液がシーツを濡らした。  加奈がベッドルームから出ていった。キッチンで水を流す音が聞こえた。口の中をすすぐ加奈の姿が容易にイメージできた。水の音はすぐに消えた。代わりに嗚咽が聞こえてきた。  いらだちを覚えながら、キッチンに行った。加奈は床に座り込んでいた。声を殺して泣いていた。  どうして泣くんだとおれは訊いた。加奈はわからないといった。おれにそんなに辛い思いをさせているとは知らなかったといった。ごめんなさいといった。  謝らなくてもいいとおれはいった。おまえのせいじゃない、と。事実だった。たぶん、悪いのはおれだった。  加奈はおれの言葉に耳を貸さなかった。いつまでも、ごめんなさいという言葉を繰り返していた。  眩暈を覚えた。例の疑問が頭をよぎった。──これがおまえの望んだものか?      7  金曜に出社した。労《ねぎら》いの言葉と好奇の視線にさらされた。 「だから、ヤバい顔つきしてるっていったじゃないですか」  桜井がいった。 「まったくな」  おれは答えた。 「ところで──」桜井が声を低める。「あの画像、どうでした?」 「確かに似てるけど、別人だろう」  おれはいった。他人の声に聞こえた。 「それをいっちゃ、身も蓋もないじゃないですか」 「馬鹿、おれはあの子の身内だぞ」  作り笑いを浮かべた。桜井は曖昧にうなずいて、自分のブースに引っ込んだ。  仕事──得意先に電話をかける。迷惑をかけたことを詫びる。その合間に奈緒から電話がかかってきた。動悸を覚えた。 「もうだいじょうぶなんですか?」  熱っぽくもかすれてもいない声。それでも、ノイズのような音が耳元で響いた。 「ああ、ただの過労だから。家で寝てたら元気になったよ。心配かけたね」 「その言葉はお姉ちゃんにいってあげてくださいね。あの夜は大変だったんだから。泣き喚いて、なにいってるかわからなくて」 「こんなこと、初めてだからな。動揺したんだろう」 「でも、本当に変だったんですよ。お義兄さんが残業から帰ってきてすぐに倒れたって……お義兄さん、月曜は残業じゃなかったですよね? わたし、帰り際に第一営業覗いてみたんだけど、ボードに直帰って書いてあったし」  背筋に悪寒が広がった。留守番電話に声を残したことを心底後悔した。 「なにか勘違いしたんだろう。あの日は大学時代の友達と会ってて、それで遅くなったんだ」 「やっぱり……お姉ちゃん、よっぽど動転してたんですね。いいな、ラブラブで。羨ましいですよ」  おれは口を閉じた。なんといっていいのかわからなかった。現実感が希薄になっていた。知覚と明確に呼べるのは聴覚だけだった。電話を通して聞こえる奈緒の声だけが、おれの神経が感知している唯一のものだった。 「あまり働きすぎないでくださいね。お義兄さんが倒れちゃったら、お昼ご飯ごちそうになることもできなくなっちゃうから。それじゃ、お時間取らせてごめんなさい」 「奈緒ちゃん」  咄嗟に声を出した。電話を切りたくなかった。 「なんですか……」  教えてくれ──喉まで出かかった言葉。あの写真がおまえなのかどうか教えてくれ。ピンクの制服を着たことがあるのかどうか教えてくれ。ヴァイブレータが好きなのかどうか教えてくれ。縛られるのが好きなのかどうか教えてくれ。だれかにいたぶられながら姉に電話をするのが好きなのかどうか教えてくれ。違うなら違うといってくれ。ノイズのような音がなんだったのか教えてくれ。どうして声が熱っぽくかすれていたのか教えてくれ。おれが望めば同じようなことをしてくれるのかどうか教えてくれ。 「もしもし? お義兄さん、どうかしたんですか?」 「なんでもない。ごめんよ」  空虚な言葉が口をついて出た。 「心配させないでくださいよ、もう。また倒れたのかと思って、焦っちゃったじゃないですか」 「ごめんごめん。近々、昼飯奢るから、それで勘弁してくれよ」 「約束ですよ。繰り返しになるけど、本当に身体には気をつけて。お義兄さんが死んじゃったら、お姉ちゃん、きっと生きていけないから」 「そうするよ」  おれは電話を切った。指先が震えていた。      * * *  無事に仕事をこなした。暴走しようとする妄想を、ぎりぎりの状態で抑えこんだ。やればできる──根拠のない自信が湧いてきた。  六時をすぎて、周りが静かになった。聞こえるのはだれかがキィボードを叩く乾いた音だけだった。 「児玉さん」帰り支度をはじめていた桜井が間仕切りの間から顔を覗かせた。「これ、全快祝いです」  差し出されたMOディスク。視線が釘づけになる。 「また、新しい画像がアップされてたんですよ」 「おまえ……」 「洒落なんだから、怒らないでくださいよ。いやだったら、もう二度としませんから」  MOディスクを受け取った。手が震えないようにするので精一杯だった。      * * *  今日は早く帰れと課長にいわれた。あとちょっとで終わるからと答えた。内心、ひとりになる時間が待ち遠しくてしょうがなかった。  部署に残っていた最後のひとりが七時すぎに帰った。お先に失礼します、児玉さん、残業なんかしててだいじょうぶなんですか? だいじょうぶだと答えた。精一杯の笑顔を浮かべた。  そいつの後ろ姿が消えるのを待って、MOディスクをドライヴに差し込んだ。画像を読み込んだ。眩暈がした。  どこかのラブホテルの部屋。水商売の女が着るようなスーツ姿の奈緒に似た女。目は潰されている。画像は全部で五枚だった。  一枚めと二枚めの画像は同じシチュエーションだった。撮影された角度が違うだけだった。女はスカートを捲り上げていた。しゃがみこんでいた。スカートの下はガーターベルトと黒いストッキングを身につけているだけだった。黒いピンヒールをはいていた。剥きだしの性器から尿が放物線を描いて飛んでいた。  三枚め──四つんばいになってスカートを腰までめくった姿。尻に巨大な注射器を差しこまれていた。注射器には液体が入っていた。  四枚めと五枚め──黒いビニールシートの上でしゃがむ女の画像。女はスーツを脱いでいた。黒いブラとガーターベルト、ストッキング、ピンヒール。女は自分の胸をもんでいた。クソをひりだしていた。茶色いクソが、女の足元に転がっていた。  デスクに倒れ込んだ。身体を支えることができなかった。  奈緒であるはずがなかった。奈緒がこんなことをするはずがなかった。だが、画像の女は奈緒に似ていた。  画像ファイルを閉じた。よろめくようにトイレに向かった。胃の中のものを吐いた。吐きながら泣いた。妄想をとめることができなかった。泣きながら、おれは奈緒に放尿させた。奈緒に浣腸をした。奈緒の排泄物の匂いを嗅いだ。  涙がとまらなかった。      * * *  公衆電話ボックス。理性はあまりにも無力だった。奈緒の番号をかけた。留守番電話になっていた。 「教えてくれ」押し殺した声でいった。「頼むから教えてくれ。あれはおまえか? どうしてあんなことをするんだ? 教えてくれ。あれはおまえなんだろう?」  狂おしい感情に、胸が押し潰されそうになった。  電話ボックスを出た。マンションまで続く長い登り坂を歩きはじめた。粘ついた空気が首筋にまとわりついてくる。水の中を歩いているようだった。足を踏みだすたびに眩暈を覚えた。  加奈のことを思った。慎吾のことを思った。自分のことを思った。奈緒のことを思った。そのうち、奈緒のことしか考えられなくなった。  気が狂いそうだった。 [#改ページ]     人 形  携帯が鳴る。心臓がどくんと脈打つ。  真向かいに座った慶子の目が丸くなる──好奇心剥き出しの表情が取って代わる。 「裕美、いつ携帯買ったの? 嫌いっていってたのに」  かかってくる相手は限られている。だから、バッグの奥から電子音が聞こえてくるたびに胸が騒ぐ。 「ちょっとね」愛想笑い──席を立つ。「すぐ戻るから」  バッグに手を入れながら歩きだす。 「ここで話せばいいじゃん」  慶子の声──聞こえない振り。携帯を耳に当てる。 「もしもし?」 「神田さん?」  あの男の声。平板で湿っている。 「はい……」 「ガーデンズ・オヴ・エデンの武田ですが、来週の木曜か金曜の夜、空いてますか?」 「木曜日なら、大丈夫です」 「では、木曜日の七時、新宿のプリンスホテルのラウンジに行ってください。相手の名前は大塚さん。近くに行ったら、フロントに電話して大塚さんを呼び出してください」 「わかりました──」  いい終える前に電話は切れる。      1  いつもと同じ朝。いつもと同じスーツ。いつもと同じ結果。  スカートの裾から冷気が忍びこんでくる。ミニのスーツ──買うんじゃなかった。慶子の言葉を鵜呑みにしたのが馬鹿だった。 「ミニにした方がいいって。どうせリクルートスーツなんてすぐに着なくなるんだしさ、裕美、脚きれいなんだから人事のスケベ親父たちに見せつけてやれば、少しは有利になるじゃん。わたしら女子大生なんてこの就職難の時代じゃ、頭より顔と身体見られるだけなんだから」  もっともらしい言葉だが、慶子は間違っていた。もうすぐ十二月の声を聞くというのに、内定のひとつももらっていない。人事のスケベ親父たち──閉じた太股の奥にいやらしい視線を向けてくるだけだった。  今日も会社をふたつ回った。いつもと同じようにいい返事をもらうことはできなかった。  ホームに電車が滑り込んでくる。午後四時。電車は空いてもいず、混んでもいなかった。裕美はため息を漏らして電車に乗りこんだ。ドアの向かい側の座席に座っていた男と目があった。 「裕美ちゃん」  思わず息をのむ。 「金子さん」 「達也パパでいいよ」  微笑みながら金子達也が腰をあげた。 「今日も就職活動かい?」 「ええ、相変わらず」  金子達也はがっちりした体躯を黒のセーターとパンツで包んでいた。ブランドはたぶんグッチ。半分白髪混じりの豊かな髪、ゴルフ焼けした顔。笑うと目尻に深い皺が刻まれる。 「厳しいんだろう? こないだ、聡子さんとばったり出くわしてね、裕美の就職がなかなか決まらないってこぼしてたよ」 「母は心配性ですから」 「なんだか他人行儀だな。そりゃ、裕美ちゃんが高校生になった頃からあんまり話はしなくなったけど、昔は一緒にお風呂にも入った仲じゃないか」  高校生になった頃──その言葉を聞いた瞬間、胸を抉るような感情に襲われた。 「ごめんなさい。こんなとこで会うとは思わなかったから、ちょっと緊張してるかも」 「おれ相手に緊張することなんかないじゃないか。それにしても──」  達也は一歩身を引いた。視線が上から下に降りていく。 「裕美ちゃんもいい女になったなあ」  急に身体が火照りはじめた。スカートの丈の短さが恥ずかしくて仕方がなかった。他の中年男にそんなことをいわれたら、嫌悪が先に立つのに。 「じろじろ見ないでくださいよ」  笑いで羞恥心をごまかす。 「ごめんごめん。あんまりきれいだから、つい見ちゃったよ。でも、これじゃ聡子さんも心配性になるな」 「どうしてですか?」 「だって、男たちが放っておかないだろう」 「そんなことないですよ」  電車のスピードが落ちた。新橋駅。ホームには大勢の客がいた。 「金子さんこそ、こんな時間になにしてるんですか?」  達也は有楽町の小さなレストランのオーナーシェフだった。こぢんまりとして清潔な味とサーヴィスが売り物のビストロ。グルメ・ブームがはじまった頃から脚光を浴び、今では忙しさに悲鳴をあげてるそうよと聡子から聞かされたことがある。この時間は、夜の仕込みで忙しいはずだった。 「今日は予約が一組しか入ってなくて。いよいよ不景気の波がうちにも押し寄せてきてるんだよな。うかうかしてられないからさ、料理は若いもんにまかせて、これから営業活動に行くのさ」 「大変なんですね」  ドアが開き、客が乗りこんできた。比較的空いていた車内が混雑してきた。背中を押された。すぐ間近で達也と向かい合う。微かな芳香──オー・ド・トワレ。懐かしいものがこみあげてくる。  ──達也パパの身体、なんだか臭い。  五歳の時に何気なく発した言葉──凍りついた達也の顔。身体に染みついたスパイスや香味野菜の匂い。それ以来、達也はつねにトワレをつけるようになった。 「ごめんなさい。かね……達也パパ、座ってたのにわたしのせいで」 「気にしなくていいよ。おかげで若くてきれいな女の子とこうしていられるんだから」  ストッキングに包まれた脚が達也のパンツに触れた。ふいに、達也の胸に顔を押し当てて、トワレの香を思いきり吸い込みたいという衝動に襲われた。 「哲ちゃんは元気ですか?」  その衝動を弾き飛ばすように訊いた。金子哲也──達也の息子。ふたつ年下の幼馴染。 「相変わらず渋谷で悪さをしてるよ。もう、大学生だっていうのに、なにを考えてるんだか」 「でも、根は優しい子だから……」 「そういってくれるのは裕美ちゃんと聡子さんだけだよ。うちのなんか、自分の息子だっていうのに完全に見放してるからね」  達也の顔が歪んだ。目尻の皺に苦悩が宿っているようだった。  達也は知らない。母や美恵さん──達也の妻も知らない。裕美は哲也を見捨てた。哲也は非行に走るようになった。 「まあ、裕美ちゃんも就職活動で大変だろうし、若い人たちにとっては嫌な世の中なんだろうな。そうだ。裕美ちゃん、もし就職が決まらなかったら、うちの店はどう? 給料は安いけどね」 「その時はお願いするかも」 「いつでもいっておいで。悪いようにはしないから──品川で降りるんだろう?」 「え、ええ」  夢見心地の世界から急に現実に引き戻されたような気がした。 「おれは五反田まで行くから。たまには、聡子さんと一緒に食べにおいでよ。腕によりをかけて美味いもの作るから」  達也は笑った。昔と同じ、屈託のない笑顔だった。      * * *  達也が手を振ってきた──頭を下げた。ホームを歩きはじめ、立ち止まる。  このまま帰っても、なにもすることがない──そう思った瞬間、再び電車に飛び乗っていた。すぐにドアが閉まり、電車が動きはじめる。達也が乗っているのは二つ前の車両だった。大崎──五反田。電車を降りた。達也を探した。白髪混じりの頭が、周囲の人間よりひとつ抜けていた。階段を降りていく。  裕美はあとを追った。  なにをしようとしているのか、自分でもわからなかった。久しぶりに聞いた達也の声。久しぶりに見た達也の笑顔。久しぶりに嗅いだトワレの香り。  物心ついた時から、達也が好きだった。内藤家と金子家。裕美や哲也が生まれる前からの隣人同士。東京では珍しく家族ぐるみの付き合いをしていた。なんだかんだといっては、お互いを家に招き、食事を供した。  達也パパがうちのパパだったらいいのに──そういって、父親を何度困らせたかわからない。  裕美が中学三年の時、父が死んだ。それをきっかけに内藤家と金子家の蜜月は終わった。母一人、娘一人の家に出入りするのを達也がためらったからだ──そう思っていた。  歩行者用の青信号が点滅しはじめた。裕美は我に返り、走りだした。横断歩道の向こうに達也の後頭部が見える。  横断歩道を渡りきると、足が重くなった。達也に追いついたとして、なにをいえばいいかわからなかった。達也は、仕事だといっていた。裕美の気まぐれに付き合っている暇はないだろう。  裕美は唇を噛んだ。切なげな視線で達也の後ろ姿を見つめた。やがて、意を決したように歩きはじめた。  この数年、達也と話す機会はほとんどなかった。ここで会ったのは偶然なんかじゃない──自分にいい聞かせる。達也の仕事が終わるのを待とう。  達也は早足で歩いている。一刻も早く目的地にたどり着きたい──そんな足取りだった。広い背中がやけに遠く感じられた。      * * *  達也は古ぼけたマンションの中に入っていった。五反田の地理はほとんどわからない。東京に生まれ育って二十一年。足を踏みいれたことのない場所は無数にある。  少し待ってから、裕美はマンションに足を踏みいれた。入ってすぐ左手に郵便受けがあった。その奥にエレヴェータ。さらにその奥が裏口のようになっていた。エレヴェータの階数表示を見あげた。四階で停まっていた。郵便受けのところに戻った。各階に二部屋。個人名と法人名が入り交じっていた。四〇一──森下。四〇二──なにも書かれていない。微かな疑問が頭をよぎった。  営業活動──達也はいった。こんなマンションの住人相手に、いったいどんな営業活動をするというのだろう。  裕美はマンションを出た。マンションは比較的広い道と路地が交差するT字路の角に建っている。広い通りの向こうにコンビニがあった。道に面した一画が雑誌売り場になっている。そこからなら、マンションへの出入りを見張ることができそうだった。  裕美はマンションを振り返った。不安に彩られた目でマンションを見あげた。  壁面にひびが入った古いマンション。またぞろ疑問が鎌首をもたげてくる。頭を振って、コンビニに向かった。  考えてもわからないことを考えても仕方がないよ──昔、宿題に出された算数のドリルを前に頭を抱えていた時、達也がかけてくれた言葉。呪文のように口の中で唱えてみた。      2  一時間が経った。何人かがマンションの中に入り、何人かが出ていった。その中に達也の姿はなかった。  裏口──達也はそこから出ていったのかもしれない。だが、なぜだろう。裏口のドアのノブは錆びていた。わざわざあそこから出ていく理由がない。  不安に背中を押されて、裕美はコンビニを出た。マンションの中に入ると、エレヴェータは一階で停まっていた。裏口のドア──錆びたノブを掴んだ。捻る。軋んだ音をたててドアが開いた。ドアの先には狭い道があり、左に向かって延びていた。裕美はドアの外に出た。道は路地の先に続いていた。路地からコンビニの方を眺める。ここから達也が出ていったのなら、見逃した可能性が高かった。  裕美は正面からマンションに戻った。途方に暮れたような表情で郵便受けとエレヴェータを交互に眺める。突然、エレヴェータが動きはじめた。階数表示のランプがエレヴェータの上昇を示す──エレヴェータは四階でとまった。稼働音がして、すぐに降りてくる。  裕美は慌ててマンションを出た。T字路の角まで行き、足をとめた。息が荒い。なにも慌てる必要はないのに、後ろめたさで胸がいっぱいになる。  ゆっくりマンションを振り返った。女が出てくるところだった。女は不安げな表情で素早く左右を見渡した。逃げるような足取りでT字路に向かってきた。裕美はさり気ない表情を装って、女を見た。二十代半ばから後半。背中まで伸ばした髪が風に揺れていた。整った顔立ちだったが、どこか生活の匂いが漂っていた。主婦──脳裏に言葉が浮んで消えた。こげ茶色のパンツスーツは二年ほど前に流行ったブランドのものだった。  うつむき加減の早足──女とぶつかりそうになった。 「あ、ごめんなさい」  咄嗟に避けたが、肩が軽く触れた。女が振り返る──怯えた視線。裕美の顔を認めると、怯えが消えた。ミニのスカートから伸びた脚に気づくと、その目になんともいえない色が浮かんだ。色──侮蔑と馴れ合いとが混じりあったような色。  あなたもなの?──そういわれたような気がした。 「あの──」  裕美は口を開いた。だが、女は裕美の声を振りきるように歩き去った。まるで、なにかから逃げているような足取りだった。 「なにあれ?」  呟き、マンションを見あげた。また、いいようのない不安がこみあげてきた。      * * *  廊下はかび臭い匂いがした。エレヴェータを降りた正面が四〇一号室。右奥が四〇二号室のドアだった。  なにしてるの、裕美?──頭の中でくり返される声。  さっきの女の視線が気になるじゃない──声に出さずに呟く。  なにかに怯えていた目が、裕美の短すぎるミニスカートを認めた瞬間にかちりと音をたてて切り替わった。あれは確かに同族を見る目だった。  なんであんな目で見られたのか知りたくない?──もう一度、呟く。  嘘よ──声が応じる。達也パパがこんなところでなにをしてたのか知ってみたいだけなんでしょう?  その声を否定することができなかった。  明日になれば、またいつもと同じ日々がはじまる。スーツを着て、会社を回る。いやらしい視線にさらされ、結局は採用不可の言葉を聞かされる。希望と落胆の繰り返し。やがて、希望だけがすり減っていく。  昔のように達也に甘えたい──馬鹿げている。子供じみた妄想だ。わかっていてもその気持ちを抑えることができなかった。その気持ちを叶えるためなら、藁《わら》にでもすがりたい。  ちょっとだけ──呟き。ちょっと様子を見てみるだけだから。  四〇一号室。茶色いスティールのドア。塗装がところどころ剥げ落ちている。ゆっくり近づき──脈が跳ね上がる──魚眼レンズを覗く。なにも見えない──見えるはずがない。ドアに耳を押し当てる──冷たい感触──なにも聞こえない。心臓の鼓動が耳につくだけだった。  落胆──馬鹿ね、こんなことをしたって、なにもわかるわけないじゃない。  裕美はドアから離れた。四〇二号室のドアに視線を向けた。  あっちも同じよ──頭の中で声が響く。こんなところで他人の部屋の様子をうかがったってなにもわからないわ。それに、だれかに見られたら、どうやっていいわけするつもり?  達也パパに会いたいなら、店に行けばいいじゃない。  そのとおりだった。妙な興奮が消え、自己嫌悪だけが募っていく。  そうね、帰りましょう──呟く。  その瞬間、四〇二号室のドアが音もなく開いた。身体から飛び出そうな勢いで脈打っていた心臓が凍りついた。パニックに足がすくんだ。  開いたドアから男が顔を出した。四十代後半。のっぺりした顔に感情の感じられない目。グレイのスーツに薄いブルーのタイ。  男の目が裕美の全身を舐めまわした。その視線が足元でとまる──さっきの女と同じだった。 「先程電話をくれた方ですね」  男が口を開いた。抑揚のない声だった。 「あ、わ、わたし──」 「どうぞお入りください。あまり時間もありませんし」  裕美の小さな声は男の平板な声に飲み込まれた。 「どうぞ」  男がドアを大きく開けた。裕美は操り人形のように足を踏みだした。      * * *  狭いワンルーム。応接セットが一組。オフィス用の机と椅子が一組。小さなカラーテレビとヴィデオのセットが一組。ワンドアの冷蔵庫がひとつ。それだけしかない部屋だった。かび臭さを芳香剤でごまかしている。住人の胡散臭さを暗喩しているようだった。 「おかけください」  男の声に従った。男は冷蔵庫に向き直っていた。振り返った男の手に握られていたのは緑茶のペットボトルだった。 「こんなものしかないんですが、よろしかったらどうぞ」  ペットボトルを応接セットのテーブルの上に置き、男はオフィス用のひじ掛け椅子に腰をおろした。男の目線が上になる。男は裕美を見おろした。裕美は圧迫感を覚えた。 「神田さんでしたね。それではまず当クラブのシステムから説明させていただきます」  男の声は平板で滑らかだった。話し慣れている──相手に口を挟む余裕を与えない話し方だった。 「当クラブは地位と経済力のある男性と、ある事情があって、そうした男性の経済力を必要とされている女性に出会いの場を提供するクラブです。男性は当クラブに一定額の会費をお払いになって入会されます。その際、会員の身元には詳しい調査を行いますので、当クラブの男性会員には不審な人物はひとりとしておりません。皆様、それなりの地位と経済力を持っている方ばかりです。さて、女性会員ですが、こちらは入会費は無料になっております。会員になりたい女性は、ここでポラロイド写真を二、三点撮らせていただきます。さらに、年齢、職業などのプロフィールと携帯電話の番号を登録していただきます」  男の説明には澱みがなかった。どちらかといえば耳に心地よい声だった。顔には微笑みが浮かんでいた。だが、声は相変わらず平板で、裕美に向けられたままの目には暖かみというものは一切感じられなかった。 「写真と登録していただいたプロフィールは当クラブでファイルさせていただきます。ファイルを男性会員以外の人間が目にすることはありません。男性会員は女性会員のファイルに目を通し、その中から気に入った女性を指名します。その場合、わたくしが間に入り、指名された女性会員にご連絡を入れることになります。男性会員が指定した日時に問題がなければ、女性会員にはその男性会員とお会いしていただくことになります。もちろん──」  裕美の目を見たまま、男は話しつづける。その視線と声に、催眠術にでもかかったかのように引き込まれていた。だが、男が言葉を切った瞬間、呪縛が断ち切られた。 「相手の男性会員がお気に入らなかったり、金額的に折り合えなかったり、変態的な行為を要求された場合、女性会員は相手を受け入れる必要はありません」  いくつもの言葉が頭の中でスパークした。 「待ってください」裕美は叫ぶようにいった。「それって……それって、売春のことなんじゃないですか?」  男が目を瞬いた。それがどうした──そういわれたような気がした。 「売春ではありません。さきほど説明したように、当クラブは、男性会員と女性会員に出会いの場を提供するだけです。その後、おふたりがどのような関係になろうと、それはおふたりの責任においてなされることです」 「でも──」 「もちろん、金銭を媒介にした肉体関係を求めている男性会員が多いことは確かです。が、それを受け入れるのも断るのも、女性会員の意思が尊重されます。何度も申し上げますが、当クラブに入会されている男性会員の身元は確かです。当クラブができてまもなく半年になりますが、トラブルはほとんど起こっておりません」  男の声は耳を素通りした。五反田の街並みを歩く達也の後ろ姿──速い足取り。  ここへ来るためだったんだ。達也パパはお金を出して女性を買うんだ。なんの脈絡もなく、むかし耳にした言葉が浮かんできた。  金子はああ見えて女好きだからな、おまえも気をつけろよ──父親の声。なにいってるんですか、子供がいるんですよ──強張った聡子の横顔。 「どうしました、神田さん?」  男の声に、裕美は我に返った。 「わ、わたし、神田じゃありません。人違いです」  男の目──動かない。それが脳裏の達也の目と重なった。背筋に震えが走った。  裕美はバッグを脇に抱え、逃げるようにして部屋を出た。      3 「また、だめだったの?」  裕美の顔をみるなり聡子はいった。 「うん」  聡子の顔を見ることができなかった。裕美はうつむいたまま階段をあがった。 「ご飯、七時にはできるから」 「わかった」  答えながら部屋に入った。ドアを閉じる──緊張がほぐれていく。ベッドに倒れ込み、柔らかい布団に顔を埋める。耳の奥に男の声がこびりついていた。抑揚のない声で滑らかに語られる売春クラブのシステム。達也はあそこに用があった──かび臭い部屋で芽生えた疑問は確信に変わっていた。だから、達也の足取りは速かった。だから、裏口から出ていった。それに、あのマンションから出てきた女。あの女もあの部屋を訪れていたに違いない。ミニスカートから伸びた裕美の脚をみた瞬間に変わった女の目つき──同類を見る目つき。女の身体に染みついていた生活の匂い。不景気にさらされた主婦が、思い余って売春クラブの門を叩く。あの女が入会したのかどうかはわからない。 「もう、やだ」  裕美は呻いた。売春をする女だと思われた──信じられなかった。それ以上に、達也があそこの会員だということが嫌だった。  のろのろと起き上がり、スーツを脱いだ。クローゼットを開ける。スーツを吊るし、カーキ色のワークパンツとロングスリーヴのTシャツを取りだす。ふと、ドアの裏側の鏡に視線がいった。  ベージュのブラとショーツ、黒いストッキングに包まれた肉体。スーツにくらべて下着は地味だった。だが、肉体に問題はない。胸は小ぶりだが、腰から太股にかけてのラインには昔から自信があった。  相手の男性が気に入らなかったり、金銭的に折り合えなかったり、変態的な行為を要求されたり──男の声がよみがえる。  達也パパはいくらでわたしを買うだろう? ふいにそんな考えが頭をよぎった。寒気に似たなにかが背骨を駆けあがる。肌があっという間に粟立っていく。 「なに馬鹿なこと考えてるのよ」  裕美は乱暴にクローゼットのドアを閉めた。シャツを羽織るためにブラを外した。カップから零《こぼ》れでる乳房──乳首が固く尖っていた。      * * *  愚痴とため息。聡子との夕食の会話は弾まなかった。決して口には出さない。だが、聡子は就職が決まらないのは裕美が悪いからだと思っている。それを隠そうともしない。  白髪と皺が増えた顔。昔は奇麗だった。いまでは見る影もない。父の敏和が死んで五年以上がすぎた。生命保険がおりたとはいえ、家計は楽ではなかった。聡子は保険の外交員として働きに出た。数字だけが評価される世界。社員としての保証もなく、自らの足と話術だけが武器とされる世界。聡子は若さと美しさと思いやりを失った。 「厳しいのはわかってるけど……早く決めてもらわないと、母さんも困るわ」 「わかってるよ」 「裕美はそればかりなんだから」  聡子は箸で鯖の身をつついている。視線を裕美に向けようとはしない。こんなときはきまって微かな殺意を覚える。この母親が死んでしまえば、自分はどれだけ楽に生きていくことができるだろう。  そんなこと考えてはいけない──そう思えば思うほど、殺意は頻繁に顔を出す。あのことを知ってからはなおさらだった。  昔はよかった。まだ若い敏和と聡子がいて、達也と美恵がいた。裕美も哲也もなにも知らなかった。ふたつの家にはいつも笑いが溢れていた。 「ごちそうさま」  裕美は箸を置いた。 「あら、もういいの?」 「うん。洗い物はあとでやっておくから」  食事の支度は聡子、後片づけは裕美。いつからか決まったこの家の暗黙のルール。あのときの女の姿がちらつく。あと数年もすれば、自分の身体にも生活の匂いがきつくしみてくるに違いない。  だとしたら──わたしの人生ってなんの意味があるのかしら。  裕美はダイニングを抜け出て自分の部屋に向かった。      * * *  テレビ──くだらない映像。ラジオ──くだらない音楽とくだらないお喋り。雑誌──くだらない情報。頭の中のスクリーンに映る映像を打ち消してくれるものはなにもなかった。  頭の中の映像──達也とあのマンションから出てきた女が絡みあう。女はあられもなく脚を広げている。中央の繁みの奥が、ライトに照らされて淫靡に濡れ光っている。口をあけた顔には恍惚の色が宿っている。  達也が女に覆いかぶさる。小ぶりな乳房を乱暴に掴み、固く尖った乳首に舌を這わせる。達也の舌の動きにあわせて、女の内腿が痙攣する。達也はあいた手で女の滑らかな内腿を撫でさする。  これはわたしだ──裕美は思う。  肌理《きめ》の細かい肌。小ぶりな乳房。奇麗なラインを描く脚。顔はあの女だが、身体は紛れもなく裕美のものだった。  やめてよ──声にならない叫び。  女の顔を自分の顔に変えようと意識を集中させる。女の顔がぶれていく。輪郭が変わり、造作が変わっていく。スパークが飛び、女の顔が一瞬にして変化する。裕美は息をのむ。  女の顔は聡子の顔に変わっていた。妄想が断ち切られる。 「もう!」  手にしていた雑誌を壁に投げつけた。だれに見られているわけでもないのに顔が赤くなるのがわかった。  シャワーでも浴びて、気分を変えよう。寝転がっていたベッドから身体を起こす──嫌な感触。下着が湿っていた。      * * *  コードレスホンの子機。手を伸ばし、ためらう。なんども繰り返す。やがて、意を決したように手にとる。  久しぶりの電話番号を指が覚えていた。呼び出し音が鳴る──心臓がしめつけられる。 「もしもし?」  ぶっきらぼうな声。達也に似ている。だが、同じではない。緊張が緩んでいく。かすかな希望が落胆に、かすかな恐怖が安堵に変わっていく。 「哲ちゃん?」 「おまえ、だれだよ?」  声に警戒の色が宿る。たぶん、哲也のことを�哲ちゃん�などと呼ぶ人間は家族以外にはいない。 「わたし……裕美だよ」 「なんだ、裕美か。珍しいじゃん」  哲也の声は固い。なにもかもを撥ねつけてしまうような声だった。 「うん……今日、偶然達也さんにあったから……」  安堵よりも落胆が強くなる。 「親父はいねえよ」 「仕事でしょ……わかってる」  達也がいないことはわかっていた。それなのに、なぜ電話などしたのだろう。哲也がでるかもしれないこともわかっていたのに。 「じゃあ、なんなんだよ? 用がねえなら切るぞ」 「待って、哲ちゃん……元気?」 「なんだよ、それ?」 「久しぶりだから」 「ぼちぼちやってるよ」 「学校は? 達也さん、心配してたよ」 「うるせえな。おふくろみたいなこというなよ。切るぞ」 「哲ちゃん……まだ、わたしのこと怒ってる?」  一瞬の間──やがて、受話器から乾いた笑いが聞こえてきた。 「怒ってるかだって? ふざけたこといってんじゃねえよ、裕美。怒ってんに決まってるだろうが」  裕美は電話を取り落としそうになった。 「ごめんね……哲ちゃん」  かろうじて、それだけを口にした。また、笑い声が聞こえてくる。 「だったらよ、裕美、今からおまえんとこに行くから、昔みたいにやらせてくれよ」 「哲ちゃん!」 「もう、電話してくんなよ、タコ」  電話が切れた。      * * *  ベッドの中、何度も寝返りを打った。目がさえて眠れない。  達也パパになんか会わなければよかった──そう思い、達也パパに会えてよかった──そう思う。自分のしたことを後悔し、そうせずにはいられなかったのだと自分を納得させる。  心が千々に乱れていた。ばらばらになった思惟の隙間から、あの男の声が聞こえてくる。哲也の声が聞こえてくる。  昔みたいにやらせてくれよ──哲也の声がひときわ大きく聞こえる。  裕美は十五で、哲也は十三だった。敏和が死に、達也と会う機会が減っていった。寂しかった──そのときは、自分の感情を理解することができなかった。今ならわかる。寂しかったのだ。  夜になるといつも、自分の部屋の窓から金子家の玄関を見下ろしていた。ブロック塀を隔ててわずか数メートルの距離が遥か遠くに感じられる。それが寂しかった。  きっかけは今となっては思いだせない。学校への登下校の途中だったのか、それとも他になにかあったのか。記憶は霧の中に沈んでいる。  幼い性だった。ぎごちない愛撫と荒々しい接合。肉体的な快感はなかった。ただ、心は満たされた。それが哲也に対する愛情ではなかったとしても。  そんな関係は一年、続いた。終わりは唐突にやってきた。哲也の愛撫に身体が反応するようになり、快感が理性を奪う。 「達也パパ……」  そう口走った瞬間、乳房の上をさまよっていた哲也の手の感覚が消えた。哲也は静かな眼差しを裕美に向けていた。まるで、だれもいるはずのない場所で自らの亡霊に出くわしてしまったかのような表情だった。 「そんなに親父が好きなのかよ」  哲也はいった。口が動くだけで表情に変化はなかった。 「違うのよ、哲ちゃん」 「なにが違うんだよ。知ってるんだぜ、おれ。裕美は親父が好きなんだ。だからおれだったんだろう? おれが親父の息子だから、おれにやらせてくれたんだろう?」 「なにいってるのよ。そんなこと、あるわけないでしょ」  自分の声に力がなかったことを裕美は覚えている。後ろめたさと後悔、それよりも強かった欲望。哲也を犠牲にしてでも手に入れたかったぬくもり──すべてが終わった後では、決まって自己嫌悪に襲われた。 「ふざけやがって、ちくしょう!」  哲也は吐き捨てるようにいった。その瞬間、表情が変わった。静かだった眼差しは苦痛に歪み、こめかみが何度も痙攣した。 「親父がどんなやつか教えてやろうか、裕美」 「いや」  裕美は反射的にいった。哲也がゆっくり顔を向け、覆いかぶさってくる。 「教えてやるから、口でしてくれよ」 「哲ちゃん、やめて──」  両肩を強い力で掴まれる──身動きがとれなくなる。いや、抗おうと思えば抗えた。ただ、急変した哲也の顔つきが自分の罪深さを詰《なじ》っているようで抗う気力が失せたのだ。  固く膨張した哲也のペニスが迫ってくる。口でしたことはなかった。 「口開けよ、裕美」 「やめて、哲ちゃん。お願いだから……わたしが悪かったから、許して」 「口を開けっていってんだよ!!」  そう叫ぶ哲也の声は、もう、十四歳の少年のそれではなかった。殺意さえ匂わせて、裕美の意志を縛りつけた。  そこからの記憶は曖昧だった。口の中で暴れ回る哲也のペニス。呪文のように谺《こだま》する哲也の言葉── 「うちの親父と裕美の母さん、やってるんだぜ」  はじめは意味がわからなかった。 「おれ、見たんだ。まだ、小学生んときによ。親父、午前中は家にいるだろう。おれ、忘れ物を取りに戻ってきたんだ。そしたら、うちの居間で、親父と裕美の母さんがやってたんだよ」  言葉が徐々に意味をなしていく──哲也のペニスの動きが速まっていく。 「その時だけじゃないんだぞ、裕美」  歯の間から絞りだすような声。吐き気を覚えた──ペニスのせいなのか、声のせいなのかわからなかった。 「おれ、何度も見てるんだよ!!」  叫び──放出。口の中に粘つく液体が広がった。  記憶が途切れる──声だけが聞こえてくる。 「もしかしたら、おれと裕美って姉弟かもしれないな」  哲也の声──自分の悲鳴がかぶさってフェイドアウトしていく。  その時を境にして、裕美は哲也を避けるようになった。聡子の動向に神経を向けるようになった。達也と聡子の密会──探り出すことはできなかった。それでも、哲也の言葉を疑うことはなかった。  自分と哲也の血が繋がっているかもしれないという恐怖、聡子への憎悪、達也への思慕──高校の三年間で、なんとか封印することに成功した。それなのに、今になってリアルな質感をともなってよみがえってくる。  裕美は布団の中で身体を丸めた──胎児のように。それでも、記憶と記憶がよみがえらせた感情から逃げることはできなかった。      4  寝不足で肌が荒れていた。スーツに着替え、軽くメイクをほどこす。 「ご飯、できてるわよ」  聡子の声。返事をせずに家を出る。  私鉄に乗って品川へ。品川でJRに乗り換える。目的の会社は丸の内にあった。満員電車で東京へ──会社訪問をする気が失せていた。有楽町で電車をおりた。達也のレストランを覗いた。若いコック見習いが玉ねぎを剥いていた。達也の姿はなかった。大学へ行く気になれない。就職と卒論に対する愚痴──うんざりだった。映画を観た──ハリウッドのラヴロマンス。アメリカ人は頭が悪い。そんな感想しか持てない映画だった。ハンバーガーを頬張り、一人でハーブティーを飲んだ。  なにをしてるの?──声が聞こえた。  銀行で金をおろし、携帯電話を買った。  電車に乗り、五反田に向かった。      * * *  男は昨日と同じいでたちだった。同じ表情をしていた。同じ喋り方をした。 「それでは、写真を撮りますので、そちらで立ってください」  ポラロイドカメラ──表情が強ばっていくのがわかる。背景もない、メイクもない殺風景な写真撮影。 「もっとリラックスしてください。笑って……そう、その調子です」  フラッシュ──思わず目を閉じる。カメラが印画紙を吐きだす。 「目は開けたまま……四、五枚撮りますので──」  フラッシュが光る。カメラの稼働音が静かに響く。 「横を向いてください……そう、そうです」  五分で撮影は終わった。印画紙がテーブルの上に置かれた。少しずつ色がついていく。印画紙の中に裕美の強ばった笑みが浮かびあがる。自分であって自分ではないだれか── 「それでは、金額の確認をいたしたいのですが」 「金額?」  裕美は写真から顔をあげた。 「はい」男の声には相変わらず澱みがない。「男性会員が女性会員を選ぶ際の目安としての金額です。そうした情報を知らされないまま女性会員とお会いしていきなり非常識な金額を提示されたら困りますので。もちろん、この金額はあくまでも目安です。神田さんが──」  男は昔からそう呼んでいたという口調で裕美を�神田さん�と呼んだ。 「わたし、神田じゃありません」 「どちらにしろ、本名をお使いにはならないでしょう。だったら、神田でよろしいじゃないですか。それとも、他に使いたいお名前がありますか?」 「特にはないですけど……」 「では、神田さん、説明を続けさせていただきます。この金額はただの目安です。もし、神田さんが男性会員とお会いして、その会員とお付き合いするなら、もっと高い金額でなければ嫌だと思ったときは、それなりの金額を提示していただいてかまいません」 「つまり、いくらで身体を売るかということなんですね?」 「そういういい方ができる場合もあります」  裕美の皮肉めいた言葉を男は平然と受け流す。 「いくらぐらいが相場なんですか?」 「当クラブに在籍している女性会員は多岐に亘っておりまして──」  男はデスクの上のファイルを手に取った。ぱらぱらとめくる──目はなにも見ていない。 「一番若い方が十九歳、一番上が四十五歳です。十九歳の方は七万円、四十五歳の方は二万円となっております。もちろん、ただ若ければいいというわけではございませんが……」  男はファイルから顔をあげた。どんよりとした光を宿した目を裕美に向けた。身体の内側を見透かされたような気がした。 「そうですね、神田さんなら、六万円ぐらいが適当かと思います。もちろん、もっと高い金額でもかまいませんが、その場合、金額に見合ったサーヴィスを要求されるかもしれないということをお含みおきください」 「金額に見合ったサーヴィスって、どんなことをしろといわれるんですか?」 「器具を使わせろと要求されたり、もっと変質的な行為を要求されたり……」男は肩をすくめた。「おわかりになりますか?」 「わかりました……六万円にしてください」  男はファイルの中から紙を一枚抜きだした。ボールペンでなにかを書き込んでいく。 「これから少し質問をさせていただきます。よろしいですか?」 「はい」  裕美は唇を舐めた。いつの間にか口が乾いていた。 「年齢は?」 「二十一です」  ボールペンを握った男の手が動く。 「スリーサイズは?」 「答えなきゃだめですか?」 「結構です……職業は?」 「学生です」 「一週間のうち、比較的空いている曜日は?」  週末なら──そう口に出そうとして裕美はいいよどんだ。達也のレストランはたしか、月曜日が定休日だった。 「……月曜日」 「月曜だけですか?」 「いえ、あの……特にこの日はだめという曜日はないんですけど、月曜なら比較的……」 「わかりました」  また、男の手が動く。 「渋谷、新宿、池袋、銀座、六本木。待ち合わせに指定されるならどこがよろしいですか?」  達也の店は有楽町にある。 「できれば銀座が……」 「結構です」  男はボールペンを置いた。書き込んでいた紙をファイルの中にさしこんだ。 「神田さんは明日から当クラブの会員として登録されます。男性会員からの指名がいつあるかはわかりません。明日すぐにあるかもしれないし、一ヶ月先になるかもしれません。まあ、神田さんならそんなことはないと思いますが。それから、男性会員が指定した期日の都合が悪ければ、そう仰しゃってください。無理にあわせる必要はありません。ただし、そうしたことが何度も続くと、除籍の手続きを取らせていただく場合もあります」 「何度ぐらいまでなら断れるんですか?」  男は不思議なものを見るような目で裕美を見た。 「本当に都合が悪くないかぎり、お断りになる方はいませんよ」 「そうなんでしょうね」 「男性会員に嫌なことを強要されたり、暴力をふるわれたりした場合は、遠慮なくお知らせください。当クラブは女性会員の保護には力を入れております。男性にも女性にも楽しい雰囲気の中で当クラブを利用していただきたいのです」  売春クラブでトラブルを起こす客はお断りということだった。裕美にもやっと、男のまわりくどい言葉づかいを翻訳する余裕が出てきた。 「当クラブを介してお知りあいになった男性会員とその後もお付き合いを継続なさる場合は、わたしどもに報告する必要はありません。中には男性会員の方と長期契約を結ばれる方もいらっしゃいますし、その場合、女性会員のプロフィールはファイルから移させていただきます。その長期契約がなんらかの理由で解約になった場合でも、わたくしどもにご連絡いただければ、再び当クラブの会員として登録させていただくことも可能です。なにか、ご質問はありますか?」 「あの……」 「なんでしょう?」 「ここの会員に、金子という人はいませんか?」  男の目が曇った。だが、口から出てくる言葉はいつもと同じだった。 「当クラブの会員のプライヴァシーに関する情報をお教えすることはできません。もし、だれかがあなたのことを聞いてきても答えは同じです。おわかりですか?」  答えがえられるとは思っていなかった。それでも、落胆はやってきた。      5  鳴るはずのない携帯電話が鳴った。駅から家へ帰る道──師走の声を聞いてせわしない空気が漂っていた。  今日から登録する──男はいっていた。まさか、今日、電話が鳴るとは思ってもいなかった。 「はい?」  通行人の視線が気になった。自意識過剰だということはわかっていても、身がすくんだ。 「神田さんですか?」あの男の声。「ガーデンズ・オヴ・エデンです」 「ど、どうも……」 「早速ですが、来週の月曜日か火曜日は空いていらっしゃいますでしょうか?」 「月曜か火曜ですか?」達也かもしれない──心臓が高鳴った。「だいじょうぶですけど」 「それは助かります」  男が笑ったような気がした。男の笑顔が想像できなかった。 「いえ、中には当クラブに登録されたものの、後になって気後れがするのかクラブを辞めるとおっしゃる方もおりますので」 「わたしもそんなタイプに見えました?」 「そうですね……なにがなんでもお金が欲しいというようには見受けられませんでした」  電話を通して聞こえてくる男の声には、感情が感じられた。顔を突き合わせて抑揚のない声で話されるのよりはよほどましだった。 「それでは、月曜の午後七時に、新橋の第一ホテル東京のコーヒーラウンジへ行ってください。お相手の名前は高橋正和さんです」  高橋──ため息が漏れる。 「ホテルの近くに行ったら、ホテルのフロントに電話して高橋さんを呼び出してください。高橋さんが電話に出られましたら、特徴をお聞きして……」 「会いに行けばいいんですね」 「そうです。もし、当日の都合が悪くなりましたら、明日までにご連絡ください。それ以降のキャンセルは、原則的にお断り申しあげております」  電話が切れる。裕美は高いところから空中に放りだされたような感覚を味わう。ため息を漏らし、電話をバッグにしまう。  木枯らしが吹きつけてきた。コートの襟を立てて家路を急いだ。不思議なほどに気持ちは穏やかだった。五反田のあのマンションを訪れたときの方がよほど緊張していた。  売春婦になるのよ、わたし──つぶやいてみる。実感はわかなかった。      * * *  部屋で手帳を広げた。来週の月曜の欄に時間とホテル、それに高橋正和の名前を書きこんだ。  窓を開け、隣を見た。真っ暗な窓──金子家はしんと静まり返っている。      6  見えない力が胃をしめつける。指先の震えが全身に広がっていく。口の中がからからに干からびている。視界がぼんやりと霞む。  第一ホテル東京のコーヒーラウンジ。所在なげにコーヒーを飲んでいる中年がひとり。 「こげ茶のツイードのジャケットを着ている」電話口で高橋正和はいった。「頭は少々薄い。口髭を生やしているよ。ここにひとりでいる中年はわたしだけだから、来ればすぐにわかる」  会社の部下に語りかけるような口調──どこかなれなれしく、どこか横柄。好きになれそうもない。だがこれは──これからしようとしていることは好き嫌いでなんとかなる類のものでもない。  昨日までは平気だった。今日の朝、自分がおかしいことに気づいた。逃げだしたかった。なんどもドタキャンしようと思った。封印を解かれた想いがそれを許さなかった。  達也パパに抱かれたい──聡子がそうされたように。  迷走し、混乱している。自分の愚かさをわかっていてとめることができない。  裕美がラウンジへ入っていくと、高橋正和が立ちあがった。 「はやかったね」  電話で聞いたのと同じ声。高橋は裕美に席を指し示した。 「コーヒーでいいかね?」 「は、はい」  声が震えていた。高橋に気づかれたくなかった──無駄な抵抗だった。高橋は下卑た笑みを浮かべて満足そうにうなずいた。 「震えているな。こういうことは初めてか?」  視界が歪む。鼓膜にフィルターがかけられたように音が遠く聞こえる。すべてがヴィデオの早送りのように進んでいく。  質問:高橋さんのお仕事は? 年齢は? 家族は?  答え:小さな設計事務所をやっている。四十六だ、老けてみえるかな? こんな時に家庭の話をするのはやめなさい。  質問:六万円でいいんだったな? 食事をしたいか? それともすぐに部屋に行くか?  答え:六万円で。食事はけっこうです。 「じゃあ、行こうか」  高橋がウェイトレスを呼ぶ。伝票にサインする。席を立つ。操り人形のようにそれに従う。  エレヴェータ。ドアが閉まると同時に高橋が腰に手をまわしてくる。耳元で囁きはじめる。 「本当に初めてらしいな。わたしはね、娼婦にたいしたことは期待しない。金を払ってたまったものを処理してもらう。それだけのことだ。手荒な真似はしないが、わたしは君を物のように扱う。嘘っぱちの愛情もスキンシップもお断りだ。いいね?」  裕美はうなずく。高橋の手が伸びてきて裕美の手を掴む。手を股間に誘われる。高橋のペニスは勃起している。      * * *  部屋に入ってすぐ、金を渡された──六万円。さらに一万円。 「シャワーを浴びずにしたいんだ」  わけがわからず受け取った。  ベッドの縁に腰かけた高橋。ベルトを外し、ファスナーをおろす。 「さあ、やってくれ」  意味がわかった。鳩尾の辺りにレンガのような塊ができた。フェラチオ──哲也とのことを思い出す。懇願するように高橋を見る。 「どうした? 今さら金を返すといっても聞けないぞ」  高橋の声は冷たい。目は病的な光を放っている。その目がこう語っている──おまえは金で買われた売女だ。いわれたことをやれ。  だらりと垂れ下がったペニス──深く息を吸い、目を閉じる。達也の顔を脳裏に浮かべる。鳩尾の塊──吐き気。飲みこみ、高橋の足の間にひざまずく。口に含む。ペニスがぴくんと脈動する。  おずおずと舌をからませる。吐き気が強くなる。高橋を達也だと思いこむ。  口の中でペニスが膨らんでいく。 「それじゃだめだ。もっと、全体をなぶるように……手も使って……そう、じょうずだ」  寝言のような声がする。こうすればいいの、達也パパ?──吐き気が消えていく。  ブラウスの襟元から高橋=達也の手が忍びこんでくる。ブラと肌の間を割って、指先が乳首に触れる。痺れるような感覚──快感にはいたらない。ただ、痺れがある。 「もっと、下までなめるんだ……玉を口に含んで……手は動かしつづけて……」  高橋=達也の手が乳房を鷲づかみにする。かすかな痛み。唾液にまみれたペニスが目の前で揺れる。  時間の感覚が消える。 「もういい──」  亀頭をなめていると手で頭を押された。頭の中の達也が消える。 「ベッドにあがるんだ。服は脱がなくていい」  高橋の声は低くかすれている。いわれるまま、ベッドに這いあがった。体が重い。かすかな違和感──下着が湿っている。 「仰向けになって──」  高橋が覆いかぶさってくる。上品な仮面が剥がれ、血走った目が裕美を見つめる。手入れの行き届いた感じのする指がブラウスのボタンを外しはじめる。ブラを押しあげる。乳房が揺れる。乳首が固く尖っている。高橋が乳首を指で摘む。反対側の乳首に吸いつく。痺れ──広がっていく。高橋が乳首を噛む。 「あん」  声が漏れた。痺れの代わりに羞恥が広がっていく。 「もっと声を出してもいいんだぞ」  湿った音をたてながら高橋が囁く。  揉まれ、吸われ、噛まれる──羞恥が痺れに、痺れが甘い感覚に変わっていく。  おまえは金で買われた売春婦だ──声が響く。  そう、わたしは最低の女よ。血が繋がってるかもしれない男の子と何度も寝たわ。達也パパがお母さんにしたことをしてほしいと思ってる、馬鹿な女よ──自虐的な想いがふくれあがる。 「自分の手で太股を抱えるんだ」  高橋の声──催眠術師の声。両手で膝の裏側を支えた。脚が開く。ミニのスカートがまくれあがる。高橋の手が脚にかけられた。乱暴にストッキングを引き裂いていく。 「いやっ!」  恐怖が目を覚ます。 「だいじょうぶ。乱暴なことはしない。ストッキング代は後で払ってやる」  引き裂かれるストッキング──今までの自分が引き裂かれているような気がした。  肌が空気に触れる。淡いブルーのショーツ。中央部に注がれる高橋の視線。 「濡れているな」  いやらしい声。達也の声と重なりはじめる。羞恥=快感。目が回り、堕ちていく。  ショーツを剥ぎ取られた。濡れているのがはっきりわかった。 「もっと脚を広げるんだ」  高橋の顔が股間に埋まっていく。爆発的な快感が理性を押し流していく。 「もっとして、パパ」  歯の隙間から漏れでた声。 「そういうのが好きなのか……いいだろう、パパになってあげよう」  高橋=達也の声が応じる。      * * *  倦怠感──目を閉じれば、そのまま眠ってしまいそうだった。濡れた下着の不快感がかろうじて眠気を抑えている。 「君が気に入ったよ」  高橋は煙草を吸っている。上半身は裸。たるんだ腹の肉が醜い。  どうして?──疑問が湧き起こる。  どうしてこんな男に? 「また連絡したい。携帯の番号を教えてくれるかな?」  裕美は携帯の番号を口にした。断るのが億劫だった。 「それじゃ、また連絡する」  高橋が立ちあがる──もう帰れという合図。 「次は、もっと素敵でもっといやらしいお父さんになってあげよう」  部屋を出る直前、高橋が耳元で囁いた。手は、裕美の尻の肉を掴んでいた。キス──嫌悪感しか感じない。それでも、拒まなかった。  流されているような感覚があるだけだった。      7  一ヶ月半の間に五回、携帯が鳴った。  三回はあの男から。名前と場所が告げられた。大里──高輪プリンス。福本──西洋銀座。鈴木──新宿プリンス。脂ぎって横柄な男たち。精液を受け止め、金をもらう。心と感覚が麻痺していく。  二回は高橋から。いつも、第一ホテル東京。父と娘のゲーム。三回目の逢瀬のとき、高橋はセーラー服を持ってこいといった。セーラー服は持っていなかった。クローゼットの奥から高校時代の制服を掘りだした。新しいルーズソックスを買った。高橋は二度も射精した。一万円札を八枚、渡された。  四十万近い金が手元に残った。服を買い、靴を買い、バッグを買った。慶子に食事を奢った。慶子は裕美が奇麗になったといった。  就職は決まらなかった。あの男の口から達也の名前が告げられることもなかった。      8 「今日こそ決めてきなさいよ。せっかく、濱口さんに口をきいてもらったんだから」  ハムエッグの載った皿をダイニングテーブルに置きながら聡子がいった。 「わかってる」  裕美は答える。聡子の目が険しくなる。 「本当にわかってるの? 母さんは裕美のためを思って──」 「わかってるよ。わたしだってできることなら早く決めたいんだから」  男たちに身体を売って稼いだ金はまだ二十万ほど残っていた。その金を見せたら、聡子はなんというだろう。  トーストを頬張り、卵をフォークでつついた。いつもの聡子とのやり取り、いつもの朝──日々、現実感だけが失われていく。  昨日の夜、いつものように窓から金子家を眺めていた。十二時をいくらかまわったころ、達也が帰ってくるのが目にはいった。きりっと伸びた背筋、大股で歩く姿。すぐに達也だとわかった。わかった瞬間、胸が締めつけられた。  達也パパは女を買う。わたし以外の女を買う。ファイルでわたしの写真を見ているに違いないのに、達也パパはわたしを買ってくれない──涙が出てきた。 「なにをぼーっとしてるの。早く食べなさい。遅刻するわよ」  聡子はメイクに余念がない。鏡を覗き込む顔──醜かった。裕美の身体を貪る男たちと変わらなかった。 「じゃあ、行ってきます」  摘んでいたトーストを皿に戻して、裕美は腰をあげた。      * * *  駅前──構内には入らなかった。代わりに喫茶店に入った。濱口──聡子の顧客に紹介された会社に行く気にはなれなかった。万が一、就職が決まったら、聡子が自分のおかげだと言い張る姿が脳裏に浮かぶ。そんなのには耐えられない。  長い間蓋をして知らんぷりを決めこんでいた聡子への嘲りや憎しみが、達也と出会ったあの日からぶり返していた。それは醗酵し、粘着質のガスを放って裕美の心を苛《さいな》む。  駅の改札を見渡せる席に腰をおろした。達也も毎朝この駅を利用する。なにをしようというわけでもない。ただ、達也を見たいという思いだけがある。  紅茶を頼み、テーブルの上に頬杖をついた。スーツ姿のサラリーマンが駅に吸いこまれていく。疲れた顔、生気に満ちた顔──このうちの何人がそしらぬ顔をして女を金で買うのだろう。  埒もない疑問が頭を占める。それを追い払い、男たちのことを考える。  大里──総合商社の部長だといった。太った身体は常に汗を帯びて湿っていた。裕美の陰部を執拗に舐めまわした。短くて太いペニスは先端まで皮で覆われていた。舐められ、貫かれている間、達也のことを想像しようとした──無理だった。  福本──予備校の講師。痩せて貧弱な身体。その割に大きなペニス。顎のつけ根が痺れるまで舐めさせられた。ペニスだけではない。乳首、脇腹、臀部、肛門。ありとあらゆる場所を舐めることを強要された。達也のことは想像できなかった。  鈴木──歯科医。ホテルのラウンジでドライヴに行こうといいだした。車はベンツ。中央高速。運転している最中にフェラチオを要求された。車の中でないと立たないのだといわれた。  君みたいな子がどうしてこんなことを?──三人とも同じことを聞いた。その度に、裕美は笑いをこらえた。  紅茶が運ばれてきた。形だけ口をつける。携帯が鳴った。鼓動が高まった。 「はい?」 「神田さん? 高橋だけど──」  落胆と安堵。 「なんでしょうか?」 「来週の水曜日、空いてないかな?」 「水曜日ですか?」  間を置く。つけてもいないスケジュール表に目を通す。 「水曜日ならだいじょうぶですけど」 「じゃあ、いつものところに、六時」 「水曜の六時ですね。わかりました」 「ああ、それから──」  高橋の声はいつもと違って歯切れが悪かった。 「なんですか?」 「また、高校の制服を持ってきてくれるかい?」 「いいですよ」 「それから──君は玩具はだいじょうぶかね?」 「玩具?」 「そう。ヴァイブだよ。聞いたことあるだろう」  顔が熱くなる。思わず辺りを見回す。裕美に注意を払っている人間はいなかった。 「嫌かね?」 「困ります」 「そうか、それは残念だ。わかった。玩具は諦めよう」  電話が切れる。胸の高まりだけが増幅される。頭の中──あられもない恰好の裕美。達也に弄ばれる。  どうしたの?──自問。どうしてそんなことしか考えられなくなっちゃったの?  答えが見つかることはない。      * * *  達也かと思った。目を瞬く。達也より背が高く、細い。哲也だった。改札を抜け、喫茶店の方に歩いてくる。眠たげに垂れた瞼。生あくび。短く刈った髪は赤茶け、カモフラージュ柄のジップアップ・パーカの裾がよれている。おそらく、渋谷で夜通し遊び回ったあとなのだろう。  ガラス越しに手を振ってみる。哲也が気づいた。怪訝そうな顔──驚き──わざと作った不機嫌な表情。それでも、哲也は喫茶店の中に入ってきた。 「こんなとこでなにやってんだよ?」 「別に。暇だからお茶飲んでただけ。哲ちゃんこそ、こんな時間に朝帰り?」 「まあな……」  哲也はウェイトレスにコーヒーを注文した。横顔──達也の面影。 「こないだは悪かったな」  口の中で言葉をこね回すような口調で哲也はいった。 「こないだって?」 「電話でだよ。苛ついてたから、ひでえこといっちまった」  意地の悪い感情が蠢《うごめ》きはじめる。遠い日──哲也はいつも裕美のあとについて歩いていた。そんな哲也をわずらわしく感じるとき、裕美はいつもきつい言葉を浴びせた。その度に哲也は涙ぐんだ。 「なにいわれたっけ?」  哲也は裕美を見、すぐに視線を外した。 「悪かったって謝ってるんじゃねえか、勘弁してくれよ」 「だって、本当に覚えてないもの」  昔みたいにやらせてくれよ──あの時の哲也の声は明瞭に覚えていた。 「そういうところ、裕美、全然変わってねえのな。昔から、おれには意地が悪かった」 「そんなことないよ。哲ちゃん、ちょっと被害妄想入ってるんじゃない?」 「わかったって──」  コーヒーが運ばれてきた。哲也はカップには口をつけず、煙草をくわえた。 「なあ、裕美──」  声とともに煙が吐きだされる。敏和は煙草を吸わなかった。煙草の煙──臭い。子供のころはすべて、達也に繋がっていた。 「なに?」 「どうせ、暇こいてんだろう? 今日、つきあえよ」  哲也は拗ねたような顔をしていた。 「どうしようかな……」 「親父の車があるからよ、好きなとこに連れてってやるよ」 「だけど、哲ちゃん、寝てないでしょ? だいじょうぶ?」 「一晩ぐらい寝なくても、どうってことねえよ」 「そうだね。久しぶりに哲ちゃんとドライヴ行くのも悪くないかもね」  哲也の顔がほころぶ──残酷な喜びを感じた。そんな自分が恐ろしかった。      9  海へ行こうか──哲也がいった。昔、みんなで鎌倉に行っただろう、覚えてるか?  覚えていた。金子家と内藤家の夏休み。哲也に美恵、聡子は乗り気だった。敏和がひとり、不機嫌だった。車二台に分乗して鎌倉へ。  聡子と美恵は水着姿を見られることをしきりに恥ずかしがった。裕美と哲也は達也と遊んだ。敏和はビールを飲んで眠った。だれも敏和には声をかけなかった。敏和が不機嫌なときはそっとしておくのが暗黙のルールだった。  覚えている。  敏和が聡子を殴り、それを達也がとめる。泣きじゃくる聡子を美恵が慰める。漠然とした記憶。それでも、覚えている。敏和が死んだときの聡子のほっと一息ついたような表情──覚えている。  二時間のドライヴ。哲也は饒舌だった。昔のこと、今のこと──沈黙を恐れているかのように喋りつづけた。裕美は相槌を打つだけでよかった。  車の中は煙草くさかった。  哲也は小学校時代の運動会の話をしていた。 「あの頃は楽しかったね」  裕美はいった。深い意味のない言葉だった。だが、哲也が急に黙りこくる。 「どうしたの、哲ちゃん?」 「なあ──」  無精髭が生えた頬が二、三度痙攣する。 「どうしたの?」 「昔、おれがいったこと、覚えてるか? おまえのおふくろとうちの親父が寝てるって話」  心臓が凍りつく。 「う、うん」 「あの話には続きがあるんだぜ」 「続き?」 「ああ──」  哲也は煙草をくわえる。ジッポのライターに火がともされる。炎──寒気が背筋を駆けあがる。 「うちの親父とおまえのおふくろだけじゃないんだ」哲也は煙を吐きだす。「うちのおふくろとおまえの親父も寝てたんだってよ」  眩暈がした。 「どういうこと?」 「高校んときにな、親父と大喧嘩やらかしたんだ。そんとき、いっちまったんだよ。てめえが隣の婆あと寝たりするから、おれは裕美にふられたんだって、な」 「哲ちゃん……」 「弟かもしれねえやつと、寝たがる女がいるかよって……おれもあんときはかなりキレてたからな。そしたら、親父、泣きだしやがった。おれはおまえの親父の子供なんだってよ」  眩暈がひどくなる──吐き気がした。 「……嘘よ」 「裕美が生まれてしばらくしてからだな……親父、自分の店出すのに、あちこち駆けずりまわってたらしいんだ。家に帰る暇もねえぐらい忙しかったってよ。それで、やっと自分の店がもてる目処がついて落ち着いたら、おふくろ、おれを妊娠してたらしいぜ。おまえんとこのおふくろさんはおまえの子育てで忙しくて、うちのおふくろは暇だった。だから、おまえの親父がうちのおふくろをやっちまったんだと。それを知ってよ、親父もキレちまっておまえのおふくろさんと寝るようになったんだ」 「やめてよ、哲ちゃん……」 「おれたちの家が幸せだったことなんかねえんだよ。そう思ってたのはおれと裕美だけで、おれらの親は、地獄の底でのたうちまわってたんだ」  視界が回転し、裕美は落ちていく。      * * *  海辺のホテル。窓を開けると、波の音が聞こえる。ホテル代は裕美が出した。身体を売って稼いだ金。その金を使って、弟と寝ようとしている。 「いいのか、マジで?」  哲也の声は震えている。裕美はうなずく。  気にしなくていいのよ、哲ちゃん。わたし、どうせ売春婦なんだから──喉元までせりあがってきた言葉を飲みこむ。  哲也の愛撫は性急で荒々しかった。昔のように。激しさと愛おしさが裏返しになっている。  哲也の舌が触れた瞬間、裕美は声をあげた。倒錯した感情──全身が性感帯になったような錯覚。声をあげながら哲也のペニスを求めた。口に含んだ。官能に悶えながら舐めた。男たちから教わったように。  哲也はすぐに果てた。独特の香りを放つ体液が口の中に溜まる。飲みこみ、舐めつづけた。哲也のペニスは硬度を失わなかった。 「来て……」  自分から脚を開いた。哲也を受け入れた。気が遠くなるような快感が襲ってきた。時間と空間が意味をなさなくなった。      * * * 「どうしてだよ……」  哲也の目が濡れている。 「風俗にでも勤めてんのかよ、あんなしゃぶり方しやがって。あんなふうに声だしやがって。どうなってんだよ、裕美?」 「だって、わたし、売春婦だもん」  かすれた声でいって、裕美は眠りにつく。      10 「裕美、ちょっと来なさい」  家に帰ると、すぐに聡子の声がした。 「なによ?」  怒りに震えた聡子の声──理由はわかっている。嫌だったのは、その声に嫌悪以上のものを感じている自分の心だ。 「今日、どこへ行ってたの? 濱口さんが紹介してくれた会社、行かなかったでしょう!?」  聡子の顔は醜く歪んでいる。夫を寝取られた女──フレーズが頭の中を駆け巡る。その仕返しに相手の夫を寝取った女。氷の刃が心臓を切り刻む。  達也パパはどうやって母さんを抱いたんだろう?── 「気分が悪かったの」 「それで、こんな時間まで遊び歩いてたってわけ? ねえ、裕美、母さん、あれほどいったでしょう。濱口さんは大切なお得意様なのよ。あの人の顔を立てるためにも、きちんと面接を受けてくれなきゃ困るって。いったいどういうつもりなのよ、裕美? あなたの就職も決まらないのに、母さんの仕事までうまくいかなくなったら、どうやって食べていけっていうの」 「ごめんなさい。悪かったわ。でも、本当に具合が悪かったの」 「ごめんなさいで済む問題じゃないでしょう!」  なにかが壊れていく──そう考え、すぐに否定する。いいえ、最初から壊れていたのよ。  氷の刃に切り刻まれた心臓は、ひとつひとつの細胞が憎悪の核になって体内に広がっていく。 「うるさいわね。お母さんの仕事のことなんて、わたしの知ったことじゃないわよ!」 「なんですって……裕美!」 「偉そうな顔、しないでよ。わたし、知ってるのよ。お母さんと達也パパが浮気してたこと。父さんと美恵さんが浮気してたことも。哲ちゃん、わたしの弟なんでしょ? なんて家よ? なんて家族よ? 恥知らずなことしておいて、わたしになにがいえるのよ!」  聡子の表情が凍りつく。少しずつ、崩れていく。やがて、聡子の目から涙がこぼれはじめる。 「裕美……」 「来ないで!」  おずおずと伸ばされた聡子の手をはねつける。身体の内側はうつろで、頭蓋骨の奥が痺れるように痛んだ。 「お母さんのお得意様の顔を潰して、わたしがなにをしてたか教えてあげようか?」  やめて──うつろな胸の奥で小さな声がする。声は頭の痛みにかき消される。 「哲ちゃんと寝てたのよ。血の繋がった弟とセックスしてたの」 「裕美……裕美……そんなの嘘よ。そうでしょう? 嘘でしょう?」 「わたしの初めての男は哲ちゃんよ。哲ちゃんの初めての女はわたし。嘘じゃないわ。みんな、あんたたちが悪いんじゃない! お得意様の顔を潰したら食べていけなくなる? それでいいじゃない。わたしたち、みんな死んじゃえばいいのよ」  聡子はその場に突っ伏した。ひび割れた声をあげて泣いていた。裕美は聡子に背を向けた。部屋に向かった。聡子の泣く声はいつまでもやむことがなかった。      * * *  窓を開ける。隣の家を眺める。哲也の部屋の明かりがついている。  鎌倉から戻ってくる車の中、哲也は一言も口をきかなかった。暗く沈んだ目でじっと前を見つめていた。  午後十一時。達也はまだ戻っていない。  達也が恋しかった。達也の胸に顔を埋めて思いきり泣きじゃくりたかった。  窓を閉める。ベッドに寝転がる。目を閉じる──錯綜した思念。眠れそうにもない。  あの日までは幸せだった──少なくとも不幸じゃなかった。日常に埋没して、過去を懐かしみながら生きることができた。  あの日、電車の中で達也に出会ってから、達也のあとをつけて五反田のあのマンションに行ってから、歯車が狂いはじめた。  違うわ──どこからか声がする。最初から狂っていたのよ。知らなかったのはあなただけ。哲也だって知っていたのに。  耳を塞ぐ。声は消えなかった。  裕美は声を殺して泣いた。  聡子の嗚咽はまだ続いていた。      11  高橋に電話をかけた。 「玩具、使ってもいいです。その代わり──」 「金なら払うよ。いつもの六万円の他に、四万円、あわせて十万出そう。その代わり──」 「高橋さんのしたいこと、してくれてかまいません」  高橋は笑った。      * * *  黄色いストッキング。ゴムでできたミニスカート。身体にぴったり張りついたニット。真っ赤なハイヒール。  これを着てくれと高橋はいった。下着はつけるな──高橋は思い詰めたような顔をした。  スカートを穿くのが大変だった。腰の周りの肉が圧迫される。そこだけ、自分の身体ではないような感覚がある。  バスルームにメイク用具。濃いめにメイクをしてくれと高橋はいった。マネキン人形のようなイメージで、と。  すべてが終わるのに一時間近くかかった。高橋は文句もいわずに待っていた。 「奇麗だ……こっちへおいで」  ゴムのスカートの圧迫感と高いヒールのせいで歩きにくかった。高橋が手を貸してくれた。応接セットの机の上に、革製品が転がっていた。 「両手を出して」  高橋の声はかすれていた。革製品は手枷《てかせ》だった。 「怖くはない。乱暴なことはしないと約束する」  後ろ手に手枷を嵌められる。そのままベッドに押し倒される。ゴムのスカートをめくられる。ストッキングの股間の部分が引っ張られる。 「なにをするんですか?」 「だいじょうぶだから、じっとしているんだ」  高橋はストッキングを引き裂いた。剥き出しになった股間に、高橋の息を感じた。濡れてくる感触──自分はどうなってしまったのかと思う。  高橋の指が襞をまさぐる。息づかいが荒くなってくる。高まってくる期待を抑えることができない。 「濡れてきたよ」  かすれた高橋の声──それに甲高い音がかぶさる。ピンク色をした楕円形の球体──玩具。 「声を出しちゃだめだ。表情も変えるな。感じてもじっと我慢するんだ。いいね?」  うなずく──吐息が漏れる。モーターの回転する音を聞いているだけで肌が粟立ってくる。  押し広げられる──なにかが入ってくる。震え。津波のような快感が広がる。声が出る。 「声を出すな。我慢するんだ」  高橋の声に、ただうなずく。 「顔が歪んでるぞ。なにも感じてませんというすました顔を作るんだ」  スカートが元に戻される。モーターの音は低くくぐもっている。ふいに、音と振動がやんだ。快感が切なさに取って代わられる。あの快感を求めて腰がひとりでにうねる。 「どうしても我慢できなくなったら、パパ、許してっていうんだ。いいね?」  靄《もや》がかかった視界の隅で、高橋は小さなスウィッチのようなものを握っていた。高橋の指がスウィッチに触れる。音と振動が再開する。理性を吹き飛ばすような快感が襲いかかってくる。 「声を出すな。声を出すと、やめるよ。気持ちいいままでいたかったら、できるだけ我慢するんだ」  言葉が意味をなさない。子宮の奥の痺れ。意識がすべてそこに集中する。 「無表情なまま、快感に耐えるんだ」  高橋の声がうるさい。薄目を開ける。高橋はソファに座っていた。ズボンをおろし、右手でペニスをしごいていた。左手にはスウィッチ。裕美の様子を見ては、スウィッチをオンオフしている。  人形なのだ──唐突な思考。  高橋が金で買いたいのは人形なのだ。身体は生身で心だけ空っぽな人形。女の身体を物として扱って、それで快楽を得ている──  人形になりたい──快楽の狭間に、裕美は思う。心が空っぽになれば、どんなに楽だろう。      * * *  永遠に思える時間。内腿は体液でぬるぬるになっている。限界がやってくる。 「パ、パパ、も、もうだめ……許して!」 「ああ、パパももう限界だよ」  高橋が近づいてくる。ペニスを口に押し込まれる。  裕美は高橋のペニスにむしゃぶりついた。      12  週に一度、携帯が鳴る──あの男から。  二週間に一度、携帯が鳴る──高橋から。  毎日、携帯が鳴る──哲也から。  男たちから受け取った金で哲也と遊ぶ。哲也はあまり話さない。裕美は仕事の話をする。裕美を買う男たちの話を。裕美がしている仕事のシステムを。  話し終わるとなにもすることがないことに気づく。映画を見る。ドライヴに行く。食事をする。ホテルへ行く。  哲也とのセックスはだんだん良くなっていく。だが、高橋とのそれとは比べられない。高橋に人形のように扱われているとすべてを忘れることができた。快楽だけに忠実な人形。哲也との関係を悩むこともない。達也に焦がれることもない。  あの男から電話がかかってくるたびに、胸が期待に震える。毎晩、自分の部屋から金子家を見下ろす。  聡子は仕事以外、なにもしなくなった。死人のような顔で出かけ、死人のような顔で帰ってくる。裕美はひとりで食事を摂った。就職活動はやめた。週に一、二度、大学へ行った。キャンパスを眺めまわし、何人の学生が自分と同じことをしているのだろうと考えた。  ある日、高橋がいった。 「月に二、三度、わたしと会ってくれ。他の客を取るのはやめてくれ。そうすれば、月に五十万払う」  考えさせて──裕美は答えた。悪い話ではない。だが、高橋が自分に飽きたらごみくずのように捨てられるのもわかっていた。  高橋の話を哲也にした。  ぶっ殺してやるよ、そいつ──哲也はいった。  裕美、まだ親父のこと好きなのか?──哲也はこうもいう。  そうよっていったら、哲ちゃん、お父さんも殺すの?──裕美は意地悪くいう。  哲也は昏《くら》い目をして口を閉じる。  血は繋がっていないのに、哲ちゃんはどうしてこんなに達也パパに似ているんだろう──裕美は思う。哲也の顔を凝視する。今まで気づかなかった方が不思議だった。哲也の顔は達也には似ていない。ただ、仕種が驚くほど似ていた。      * * *  哲也と食事をしているときに携帯が鳴った。 「なあ、もうその仕事やめろよ、裕美。金がいるなら、おれがなんとかするからよ」 「後輩の子たち脅してパー券でも売りさばくの? それとも、薬を売る?」 「働くよ」 「嘘つき」  他愛のないやり取り。その間も携帯は鳴りつづける。 「はい?」 「神田さんですか? ガーデンズ・オヴ・エデンです。早速ですが、来週の月曜のスケジュールは空いてますか?」  月曜──心臓が高鳴る。思わず、哲也の視線を気にしてしまう。 「はい。だいじょうぶです」 「そうですか……では、来週の月曜、午後四時に、新高輪プリンスホテルのコーヒーラウンジに行ってください。お相手の名前は、金子さんといいます」  世界が一変した。      * * * 「親父だろう?」 「違うわ」 「嘘つけ。裕美、さっきまでと全然態度が違うじゃねえか。親父なんだろう? 親父が裕美を買おうとしてんだろう?」 「違うわ」 「どこだよ? どこで親父とやるんだよ?」 「哲ちゃん、しつこいわよ」 「裕美、頼む。親父と寝るのだけはやめてくれ」 「どうして?」 「どうしてって……」 「わたし、実の弟とセックスしてるのよ。達也パパは赤の他人じゃない。哲ちゃんとするよりよっぽどマシだと思わない?」  哲也は凍りついたように動かなくなった。      13  ロビーからフロントに電話をかける。 「新高輪プリンスホテルでございます」 「すいません、コーヒーラウンジに金子さんとおっしゃる方がいると思うんですが、呼び出してもらえないでしょうか?」 「失礼ですが……?」 「神田と申します」 「かしこまりました。少々お待ちくださいませ」  フロントの男がベルボーイを手招きする。メモを渡す。ベルボーイはラウンジの方に歩いていく。一分、二分──ベルボーイが達也を連れてくる。達也はダークブルーのスーツを着ていた。 「もしもし、金子ですが?」  聞きたかった声が受話器から聞こえてくる。 「神田です」 「裕美ちゃんか?」 「すぐに行きますから、ラウンジで待っててください」  心臓が暴れ回る。慌てて受話器を置いた。      * * * 「はじめは信じられなかったよ」  達也は笑いながらいった。照れ笑いなのか苦笑いなのかはわからない。 「神田さんか……ファイルにあった写真はどう見ても裕美ちゃんだった。でも、まさか、裕美ちゃんがあんなことをしてるとはね」  コーヒーラウンジは人の出入りが激しかった。達也の目が落ち着きなく左右に動きまわる。 「理由を聞かせてくれるかい?」  そういった瞬間、達也はまっすぐ裕美を見つめた。 「達也パパに抱いてもらいたかったから」  裕美は答える。達也の視線が揺らぐ。 「裕美ちゃん──」 「この前、電車の中で会ったあと、わたし、パパのあとを尾《つ》けたの。別に悪気があったわけじゃなくて、せっかく会えたんだし、就職が決まらなくてむしゃくしゃしてたから、パパに慰めてもらおうと思って……そしたら、パパはあのマンションに入っていったわ」  達也はコーヒーカップに視線を落とす。 「わたし、あの部屋の人に間違われたの。クラブに登録にきた女の子と。最初は嫌だった。とんでもないと思った。でも、男の説明を聞いてるうちに思ったの。あのファイルの中にわたしの写真があったら、パパはわたしを買ってくれるだろうかって……」 「どうしてそんなことを……?」 「達也パパに抱いてもらいたかったから」  鸚鵡《おうむ》のように繰り返す。 「だったら──」達也の顔は苦しそうに歪む。「あんなところに行かなくても、おれに直接そういえばよかった……もう、何人も客を取ってるんだろう?」 「なんていえばよかったの? お母さんみたいにわたしも抱いてくださいって?」  達也はゆっくり顔をあげる。諦めと悲しみが入り交じった表情で裕美を見る。 「知ってたのか……」 「哲ちゃんが教えてくれた。内藤の家と金子の家がどんなことになってたのか」  達也はコーヒーをすすった。煙草をくわえ、火をつけた。吐きだされた煙──達也と裕美の間で渦を巻いた。 「家を売ればよかったんだ」達也の目は遠くを見ている。「あの家を売って、どこかに引っ越せばよかった。何度もそう思ったよ。でも、できなかった。店をはじめたばかりだからとか、哲也の学校の問題があるからとか、理由ばかりつけてね……おれはね、裕美ちゃん。君のお父さんが好きだった。ウマがあったんだ。性格は全然違ったし、彼の粗雑なところは嫌いだった。それでも、ウマがあった。彼と美恵がそういう関係になっていると知ったときも、悲しくはあったが、彼を憎いと思ったことはないんだ……」  そういって達也は首を振る。途方に暮れている様子がありありとうかがえた。 「そんなことはどうでもいいの、パパ。わたしは、パパに抱いてもらいたいだけ。昔みたいにパパに甘えたいだけ」 「そういうわけにはいかないよ、裕美ちゃん。おれはもう、畜生にもおとるようなことをやってきたが、君をそれに巻き込むわけにはいかない」 「わたし、哲ちゃんと寝てるのよ、パパ」  達也の顔から表情が消える。 「この一ヶ月近く、毎晩哲ちゃんに抱かれてる。売春したお金で哲ちゃんとホテルに行くの」 「哲也と君は──」 「わたしも哲ちゃんも知ってるわ」 「だったらどうして……」 「理由なんかないのよ、パパ。理由なんかいらないの。でも──」  裕美は達也を見る。甘えるような視線──屈託のない笑顔。  人形になりたい──そうなれば、くだらないことを思い悩む必要もない。 「パパがわたしを抱いてくれるなら、もう、哲ちゃんとは寝ない。約束する」  達也の唇が震えている。 「裕美ちゃん……」  苦しげな声。聞きたいのはそんな声じゃなかった。 「お願い、パパ」  達也の肩が力なく落ちた。      * * *  達也のペニスは醜く縮こまったままだった。目はうつろだった。裕美を買っていった男たちとは違った。  裕美は口に含んだ。男たちに教わったやり方をすべて試した。やがて、ペニスが膨らんでくる。 「脱がせて、パパ……」  ペニスから口を離し、甘えた声で囁く。達也は動かない。 「やっぱり、こういうのはやめよう、裕美ちゃん」 「わたしが哲ちゃんと寝てもいいの?」  達也のペニスが力を失っていく。裕美は慌てて口に含んだ。  どうして? どうして?──頭の中で谺する想い。甘えさせてもらいたいのに。可愛いといってほしいのに。優しく愛撫してほしいのに。人形のように扱ってほしいのに。ただ、それだけなのに。  ペニスを頬張りながら、達也の手を乳房に誘った。もう片方の手をお尻に持っていく。達也の手はおずおずと動く。固く尖った乳首、濡れはじめた陰部──達也の指は触れようともしない。 「お願い、パパ……お願いだから……」  裕美は懇願する。達也は苦しげに首を振る。裕美の口の中、達也のペニスが力を取り戻すことはない。      * * *  泣きながらシャワーを浴びた。バスルームを出る。達也はいなかった。ベッドの上に六枚の札。  もう一度、裕美は泣いた。それから、電話をかけた。 「もしもし?」 「高橋さんですか? 神田です」 「ああ、君か。どうした?」 「こないだのお話ですけど──」 「考えてくれたかい?」 「はい……お受けします。でも、お願いがあるんです」 「なんだね?」 「今日、これから会ってください。そして、この前みたいにわたしを扱ってください。人形みたいに……」 「一時間ほど時間をもらえるかな?」  高橋はいった。      14  遠くからでも赤色燈が見えた。金子家の前に数台の救急車とパトカーがとまっている。その周囲を野次馬が取り囲んでいる。  疲れた足を引きずって、裕美は野次馬の背後に近づいた。顔見知りを見つけ、聞いた。 「なにがあったんですか?」 「あら、裕美ちゃん。大変なのよ。金子さんとこの哲也君っていったっけ? あの子がお父さんとお母さんを刺し殺したんですって」  裕美は目を見張る。背伸びして、野次馬の向こう側を覗きこむ。忙しなく動きまわる救急隊員と警察官。他にはなにも見えない。達也の姿も哲也の姿も美恵の姿もない。 「ひどい世の中よね。おたく、金子さんのとことはお隣同士で仲がよかったでしょう。大変ね」 「いえ」裕美は首を振った。「うちと金子さんは、もうつきあいがなくなってましたから」  裕美は踵《きびす》を返した。振り返りもせずに家へ向かった。  玄関を開ける。聡子のすすり泣く声が聞こえてくる。 [#改ページ]     声      1 「できたぞ」  秀之が声を張りあげた。心臓を握り潰されたような気がした。聡子は包丁を持ったまま振り返った。  ダイニングテーブル──秀之はお守り袋を天井にかざしていた。ここ数ヶ月見たことのなかった晴れやかな笑顔を浮かべていた。 「なにができたの?」  まな板に向き直りながら聞いた。秀之のすることに興味はなかった。この三ヶ月──秀之が会社を辞めてからは、特にそうだった。 「盗聴器だよ」 「盗聴器?」  もう一度、振り返る。秀之はお守り袋を放り投げて受け取るという動作を繰り返していた。 「将人に持たせようと思ってさ」  聡子はまな板の上に視線を戻した。乱切りにした人参──早く煮てしまわなければ間に合わない。 「将人に盗聴器を持たせるってこと?」 「そうだよ。この前、テレビで見たんだ。いじめにあってる子供の親が、子供に盗聴器を持たせるわけ。学校に聞いても埒があかないからってね」 「そうなの」  聡子は残った人参を切って、鍋に入れた。秀之の声──わずらわしい。だが、それが将人に関係しているとなれば耳を傾けないわけにはいかなかった。 「盗聴器のおかげで子供がいじめられてることが確認できたんだな。それをテープに録音して学校に持っていって、いじめをする子供たちをなんとかしろって迫ったんだって……将人、まだなんにもいわないんだろう?」  聡子はうなずいた。声は出さなかった。一ヶ月前に受けたショックがよみがえっていた。  ショック──将人の手の甲についていた傷。人差し指のつけ根から伸びた傷は、なにか角張った物に押しつけられてできたように見えた。いじめ──言葉がネオン管のように頭の中で明滅した。  だれかにいじめられてるの?──問いただす。将人は首を振った。だが、おずおずとした視線が将人を裏切っていた。 「その盗聴器ってどんなの?」  聡子は鍋の中の人参が水に漬っていることを確認してからテーブルに向かった。 「これだよ」  秀之はお守り袋を掌にのせた。なんの変哲もないお守り袋──触ってみる。中央に固い感触があった。 「その中に入ってるのが盗聴器で、こっちが受信機」  テーブルの上にある四角くて黒い塊。この数日、秀之が熱心になにかを作っているのは知っていた。なにもいわずに出かけ、秋葉原の電機店の紙袋をさげて帰ってきた日──プラモデルかなにかを作っているのだと思っていた。 「ちゃんと聞こえるの、これ?」  聡子は不審を隠さずにいった。秀之の眉間に皺が寄った。 「当たり前じゃないか」 「確かめたわけじゃないんでしょう?」  秀之と話していると心が尖っていく。いけない──そう思っても、とめることはできない。 「じゃあ、試してみようじゃないか」  秀之は黒い箱に手を伸ばした。スウィッチのようなものをいれた。 「話してみて」  不機嫌な声に促されて、聡子は手にしたお守り袋を見た。 「早く」  急かされても、なにを喋ればいいのかわからなかった。馬鹿馬鹿しい──そう思えてくる。 「なにしてるんだよ。試せっていったのはおまえじゃないか」 「試したわけじゃないんでしょうって聞いただけよ」  いって、聡子は凍りついた。秀之の目の前の箱から、ひび割れたような自分の声が聞こえてきたからだった。 「ほら、ちゃんと聞こえるだろう」  秀之は子供のような声を出した。 「そうね」お守り袋を口から遠ざけた。「ちゃんと聞こえるみたいね」 「だろう。これで、将人が学校でいじめにあっているかどうかがわかるよ」  聡子はお守り袋をテーブルの上に置いた。 「でも、こんなもの持って学校に行けっていっても、将人、いやがるわよ。最近、難しいんだから」 「せっかく作ったのに、そんないい方することないだろう」 「こんな物を作ってる暇があるなら、就職活動をしてもらった方がありがたいわ。将人がいじめられるのだって、あなたが無職だからかもしれないのよ」  いわなくてもいい言葉──口にださずにはいられない。  秀之は口を閉じた。蝋のように無表情な顔──鬱憤を内にため込んでいるときの顔。許容量を超えると、秀之は爆発する。 「さあ、もうすぐ食事の支度も終わるわ。将人を迎えに行ってちょうだい」  秀之は無言で腰をあげた。重い足取りで部屋を出ていった。      2  世田谷から渋谷へ向かう電車の中──携帯電話の電源を入れる。留守番メッセージを確認する。メッセージが一件入っていた。 「ああ、聡子ちゃん? 悪いんだけど、今日の約束、キャンセルさせてもらってもいいかな? 急な仕事が入ってね、昼間、動けなくなったんだ。この埋め合わせはします。申し訳ない」  舌打ちしそうになるのをこらえて電話を切った。高野に会えないのはかまわない。粘つくような愛撫にも辟易する。期待していたスリルと快楽──諦めるには、聡子は貪欲になりすぎていた。  聡子は途中の駅で電車を降りた。ホームの隅に行く。平日の十時。電車が行ってしまえば人影はまばらだった。携帯で登録してある番号を呼び出し、かけた。耳になれた合成音がすぐに聞こえてきた。  ボタン操作──指が覚えている。メッセージを吹きこむ──言葉が勝手に飛び出てくる。 「わたし、都内に住む二十九歳の主婦です。突然なんですけど、今日、友達と遊ぶはずだったんだけど、急にキャンセルになっちゃいまして……ちょっと、暇を持て余してます。割りきったおつきあいのできる年上の男性がいいなと思っています。わたしは身長百六十三センチ、体重は五十キロジャスト。バストはあまり大きくありませんが、脚には自信があります。今日の午後、渋谷近辺でわたしとつきあっていただける方がいらしたら、メッセージをください」  ボタンを押し、電話を切る。辺りを見回す。聡子に注意を払っている人間はいなかった。  伝言ダイヤル。初めて電話をかけたときは指が震えた。初めてメッセージを吹きこんだときは声が震えた。今は義務的にすべてをこなしている。  伝言ダイヤル。そういうものがあることは知っていた。だが、どこに電話をかけ、どう利用すればいいのかはわからなかった。知ったのは半年前。教えてくれたのは由美──同じマンションに住むふたつ年上の主婦。  短大を出て、すぐに秀之と結婚した。次の年には将人が生まれた。家事と子育てに追われる日々。将人が手がかからなくなると同時にぽっかりとあいた穴──少しずつ、身体がうつろになっていく。秀之との間の愛は醒めていた──元々愛があったのかどうかもわからない。将人を授かったときから、肉体の接触もない。そのことを不思議だとは思わなかった。秀之もなにもいわなかった。  うつろな気持ち──外に出かけることでごまかした。なにをするあてもない。それでも家にいるよりはましだった。渋谷に行き、銀座に行った。ショーウィンドウに飾ってある商品を羨ましく思いながら眺めた。  由美が声をかけてきたのは銀座だった。あら、藤枝さんじゃない?──驚き、戸惑った。何度かエレヴェータで会ったことがある。道ですれちがったこともある。だが、マンション近くで見かける由美は、どこかくすんだ雰囲気を漂わせていた。目の前にいる由美は高級ブランドに身を固め、颯爽としていた。  一緒にお茶を飲んだ。聡子は由美の服を褒めた。羨ましいといった。すると、由美はいった──不幸せなお姫様の願いを叶えてくれる魔法使いがこの世にはいるのよ。  伝言ダイヤル──携帯電話はまさしく魔法の箱だった。男たちにもらった金。服を買い、靴を買い、鞄を買った。ブランドに執着していたわけではない。経済的に苦しかったわけでもない。秀之の給料──多くはないが、少ないわけでもない。両親にねだれば、今でも小遣いをもらうことができた。スリルと快楽──ただそれだけ。胸にあいた穴が埋まった。病みつきになった。  秀之が会社に行っている間は、自由に動くことができた。三ヶ月前、秀之が会社をやめた。ミスを犯して閑職に追いやられ、自ら辞職した。昼間家にいる夫──穴がまたあきはじめた。聡子は嘘でその穴を埋めた。友達がやっている喫茶店を手伝っている──秀之は聡子の言葉をすんなり受け入れた。週にひとりかふたりの男と寝て手に入る金が月に二十万から三十万。秀之の退職金と心配した両親が定期的に送ってくれる金。夫が無職でも生活には困らなかった。手当たり次第にブランド物を買うのはやめた。いくら秀之でも気づくだろう。男たちからもらった金は将人名義の口座に入れてある。  聡子は次の電車に乗りこんだ。渋谷まで二十分。駅を出ていつもの喫茶店に足を向けた。紅茶をオーダーし、トイレに入った。蓋をしたままの便座に腰をおろし、伝言ダイヤルに再び電話をかけた。メッセージが入っていた。 「こんにちは。メッセージ、聞きました。ぼくも今日の昼はフリーです。ちなみにぼくのプロフィールは年齢三十二歳──」  好みではない声、若すぎる年齢──ボタンを押す。メッセージがスキップされた。 「どうも……こちらは、四十二歳の自営業者です。禿げていて太っていて、いわゆる世の女性からは嫌われるタイプのおじさんですが、経済的には多少余裕があります。よろしかったら、お会いしていただけませんか? あなたのご要望には充分応えられると思います。あとですね、わたしの希望するプレイをしていただければ、それなりの──」  メッセージをスキップ──変態はパス。一度、酷い目に遭いそうになったことがある。  三番目のメッセージ。低い声、落ち着いた話し方──当たりの予感。 「はじめまして、こんにちは。わたしは俵といいます。米俵の俵です。あなたのメッセージ、聞かせていただきました。わたしも、割り切ったお付き合いをできる大人の女性を探しています。年齢は四十四歳で、自分で商売をしている者です。身長は百七十四、体重は七十八。ちょっと中年太りですかね。それほど経済的に余裕があるというわけじゃないんですが、たぶん、あなたの希望にはそえると思います。渋谷あたりでしたら、こちらも都合がつきますので、よろしければご返事をください」  聡子は携帯電話のボタンを操作した。 「俵さん、こんにちは。メッセージありがとうございます。素敵なお声ですね。どんな雰囲気なんだろうって想像して、少しわくわくしてます。俵さんにお会いしてみたいんですけど、よろしかったら連絡先をメッセージに入れてください。わたしはもう、渋谷にいます。あ、忘れてました。わたしは聡子です。よろしくお願いします」  電話を切り、席に戻る。すでに紅茶は来ていた。紅茶に口をつける。煙草に火をつける──家では決してしない楽しみ。  俵はどんな男だろう。どんなセックスをするのだろう──頭の中に浮かぶ考えを弄ぶ。  聡子の頬に笑みが広がる。      3  一時間、喫茶店で時間を潰した。伝言ダイヤルに電話をかける。伝言ボックスに入っていた俵からのメッセージ──携帯電話の番号。聡子はその番号に電話をかけた。 「もしもし、俵さんでしょうか?」 「そうですが?」  伝言ボックスに入っていたのと同じ低い声が返ってくる。 「あの、聡子ですけど……今、電話だいじょうぶでしょうか?」 「聡子さん?……ああ、聡子さんですか。すみません、電話、本当にかかってくるとは思ってなかったもので」 「ひどい」わざと語尾を伸ばす──拗ねた女を演じてみせる。「サクラだとでも思ったんですか?」 「いやいや、伝言ダイヤルはたまにかけてみるんだけど、うまくいったことがあまりなくてね」 「本当ですか。メッセージを聞くと、伝言ダイヤルに慣れてるみたいだったけど」 「そんなことはないんですよ、マジな話」  疑心暗鬼──知らない男に電話をかけるときにいつも感じる。俵の声、話し方──そんな気持ちを溶かしていく。 「信じてあげることにします……これから、会えますか?」 「事務所が恵比寿にあるんで……事務所といってもたいしたもんじゃないけどね。聡子さん、いま、渋谷でしたね?」 「そうですけど……」 「恵比寿までいらっしゃいませんか? ウェスティンホテル。あそこだったら、お茶も飲めるし、お昼も食べられる──」  俵が飲みこんだ言葉──その後に部屋を取ることもできる。 「わかりました」  聡子はいった。男たちと寝るのはいつも、円山町のラブホテルだった。シティホテル──俵のことがますます気に入った。 「じゃあ、ついたら携帯に電話します」 「それだと確実だね。ああ、そうだ。もしよかったら、聡子さんの携帯の番号も教えてください」  一瞬の躊躇《ちゆうちよ》──振り払う。 「メモ、いいですか?」 「どうぞ」  聡子は十一桁の数字を口にした。      4  俵はすぐに見つかった。ホテルのロビィで携帯電話をかけた──エントランスの正面に位置する椅子に座っていた男の携帯電話が鳴った。その男が俵だった。髪型はオールバック。顔の肌は白く、目鼻立ちがはっきりしていた。赤っぽい地にストライプが入ったスーツ──シルエットはルーズで、色の割に落ち着いた感じがする。  聡子を認めた瞬間、俵は含羞《はにか》むような笑顔を浮かべた。どこか崩れた感じがする男──その笑顔がすべてをかき消す。 「こんにちは。お腹はすいてませんか?」  俵はいった。電話と同じ心地好い低音だった。 「朝、ちょっと食べてきただけなんで……」 「じゃあ、一緒に昼飯を食いましょう。ぼくも腹っぺらしなんです」  そのままホテル内のレストランに入った。俵はサンドウィッチにビール、聡子はパスタランチ。食べおわるまでの会話は俵がリードしてくれた。景気の動向からワイドショーのネタになりそうな話まで、俵は話題が豊富だった。 「ところで聡子さん」  食後のコーヒーに口をつけた時、俵が口調を変えた。俵はまだビールを飲んでいる。 「こういう時、聡子さんはいくらもらうことにしてるの?」  聡子はカップをソーサーに置いた。豹変する男たち──突然、あの話をはじめる。慣れている。  もう一度、俵の服装をチェックする。結論──大金持ちではない。だが、小金は持っている。 「五万円です」  俵の表情がかすかに変わる。慌てて付け加える。 「わたし、時間の許すかぎりおつきあいするし、SMとかそういうのじゃなかったら、どんなことでもしますから」 「家計、そんなに苦しいの?」  俵の声──意味が読めない。感情が読めない。 「そういうわけじゃないんだけど」  聡子は短く答えた。 「小遣いがほしいだけなんだ」 「ええ」 「子供は何人?」 「男の子がひとりです」  将人の顔が脳裏に浮かぶ──罪悪感。 「今日は何時までつきあってもらえるの?」  聡子は腕時計を盗み見た。午後二時。食事の支度のことを考えれば、四時半には電車に乗っていたい。 「五時までなら」  そう口にしていた。俵は二時間では許してくれない──奇妙な確信があった。 「わかった。五万円、払わせてもらおう」  俵は伝票を掴んだ。ウェイターを呼ぶ。 「勘定したいんだけど、部屋につけてくれるか?」  部屋という単語を聞いてもうろたえることはなかった。  恭しく頭を下げてウェイターが去る。俵は優しく微笑んだ。 「安心しなさい。ぼくは変態じゃない」  優しすぎる笑みと声──心にさざなみが立った。      5  トイレに行くといって席を立った。ロビィの隅──携帯電話を取りだす。自宅にかける。視線は絶えずレストランの入口に向けている。 「もしもし?」  秀之の間の抜けた声。 「聡子だけど、今日、ちょっと遅くなりそうなの」 「どうして?」 「今日の夜、知り合いのちょっとしたパーティが店であるんだって。それで、仕込みを手伝ってくれないかっていわれたのよ。ことわりきれなくて」 「何時ぐらいになりそうなんだよ?」  秀之の声に苛立ちが混じる。 「七時過ぎには帰れると思う」 「なんだ、そんなに遅くないじゃないか」  拍子抜けした声。 「でも、夕飯の支度、できなくなっちゃう」 「それぐらい、かまわないよ。将人を迎えに行ったついでに、ふたりでなにか食ってくるよ」 「悪いわね」 「いいよ。いまはおまえの稼ぎで食わせてもらってるんだから」  電話を切る。夫を裏切ることへの罪悪感──微塵も感じなかった。嫉妬──秀之が将人とふたりで過ごす時間への嫉妬。自分でも驚くぐらいに大きかった。  聡子は深く息を吐いた。携帯電話の電源を切った。      6  落ち着いたインテリア──ダブルの部屋。俵は慣れた足取りで部屋の中に進んだ。冷蔵庫を開け、缶ビールを取りだした。 「なにか飲む?」  聡子は首を振った。慣れたつもりではいる。実際、慣れている。それでも、初めての男とホテルの部屋に入る時の緊張感を拭い去ることはできない。  部屋の中央に置かれた応接セット。俵はソファに座った。脚を組んだ。ビールを開け、呷るように飲んだ。  緊張感が増していく。部屋に入った瞬間、俵の雰囲気が変わった。 「こっちにおいでよ……なんだ、緊張してるの?」  優しい笑みと声は変わらない。ただ、なにもかもが作り物めいて見えてきた。逃げた方がいい──耳の奥でそんな声が聞こえた。 「とりあえず、先に払っておくよ。その方が安心するだろう?」  俵は上着の内ポケットから財布を抜きだした──厚みを感じる革の財布。数えられる札。金はどうでもよかった。財布の厚み──俵の経験の豊富さを物語っているような気がした。期待──膨らんでいく。足が出る──催眠術にかかったかのようだった。俵の傍らに立ち、紙幣を受け取る。 「ありがとう」  自然に声が出た。金をバッグにしまう。腕を取られた。 「さあ、座って」  拒む理由を咄嗟に探した。あるわけがなかった。聡子は俵の隣に腰をおろした。腰に回される腕──引き寄せられる。俵の身体からムスク系の香りが漂ってきた。 「しかし、驚いたよ。伝言ダイヤルで何人かの女とあったけど、聡子が一番きれいだ」  耳元で囁かれる。肌が粟立つ。腰に回された腕がさがっていく。スカートに包まれた尻の肉を軽く掴まれた。聡子は目を閉じる。俵にもたれかかる。理性は麻痺させた方がいい──経験が囁く。 「SM以外ならなんでもしてくれるんだな?」 「お尻の穴もだめ」  反射的に答えた。今まで、何人もの男に肛門性交を望まれた。その度に拒んできた。 「わかった。じゃあ、まずここを可愛がってもらおうか」  俵の手が聡子の手を取った。股間に導かれた。まだ柔らかい。聡子はゆっくりさすりはじめた。 「しゃぶってくれ」耳元で囁かれる声──低く、かすれている。「服は着たままだ。自分の手で引っ張りだして、しゃぶるんだ」  いわれるままに身体を動かした。俵の脚の間で膝をつく。カーペットは滑らかだった。膝に傷がつく心配はなかった。焦らすようにわざとゆっくりジッパーをおろす。黒いトランクスが見えた。トランクスの中に手を差し入れる──握る。違和感。聡子は手を引っ込めた。 「どうした? 早くしゃぶってくれよ」  優しかった声──冷たかった。聡子は顔をあげた。優しかった笑み──消えていた。威圧感を伴った目が聡子を見おろしていた。 「早くしろ」  恐怖──聡子は目をそらした。抗《あらが》う理性をねじ伏せて、もう一度、トランクスの中に手をさし入れた。違和感のあるものを引っ張りだす──息をのむ。グロテスクな塊。今まで見たどんな男のものとも違っていた。 「真珠を入れてあるんだ」  俵の声──やくざの声。 「こいつで、ひーひーいわせてやるからな。おれのことを忘れなくさせてやる。早くしゃぶれよ、ほら」  自分の愚かさを呪い、秀之を呪う。それでも、現実は変わらない。  聡子は懇願するように俵を見あげた。俵の瞳には一片の慈悲もなかった。  目を閉じ、グロテスクなものを口に含んだ。なにも感じなかった。混じり気なしの恐怖を感じているだけだった。      7  フラッシュが光る。性器の奥から俵の精液が溢れてくる。動けない──理性と神経が麻痺していた。犯され、蹂躙された。身体の隅々を舐めることを強要された。肛門を指で犯された──次は本物をいれてやると囁かれた。中で出すのはやめて──懇願した。嘲笑われた。それ以上抗えなかった。抗う気も起きなかった。ただ、恐怖に身をすくめていた。 「もっと脚を開け」  俵の声──刃物を思わせる。恐怖に身体が反応する。フラッシュが光る。もう、何枚写真を撮られたのかもわからなかった。  ベッドが軋む。俵がベッドの縁に腰をおろしていた。背中──刺青《いれずみ》。最初に目にした瞬間、身体が動かなくなった。俵は聡子のバッグを手にしていた。蓋を開け、中をかき回している。別の恐怖が背筋をゆっくり駆けあがった。 「小川聡子さん、か」  俵が顔を向けてきた。指で聡子の免許証をつまんでいた。俵は免許証の写真と実物を見比べた。その目が曇る。 「いつまでも汚ぇものたれ流してないで、シャワーでも浴びてこい」  いきなり、羞恥心が戻ってきた。慌てて脚を閉じる。胸を隠す。俵の口許が嘲笑に歪んだ。バスルームに駆け込む──ドアを閉め、息を吐き出した。  羞恥心の次は、おぞましさがよみがえった。俵のグロテスクなペニス──押し入られたときの感触。身震いがとまらなかった。  バスタブの蛇口をひねり、湯を浴びる。身体が弛緩していく。理性が働きだす。バッグ──なにを入れて出てきただろう。免許証、財布、化粧品を入れたポーチ、将人の写真。財布の中にはクレジットカードが入っている。目の前が暗くなった。  俵──ああいうタイプのやくざが女に不自由するとは思えない。目的は金。それしかない。  聡子は歯噛みした。自分の愚かさを呪った。将人に許しを乞うた。それで、なにかが変わるわけでもなかった。  いきなり、ドアが開いた。反射的に胸と股間を手で覆った。 「今さら隠したってしょうがねえだろう」  俵は無遠慮にバスタブに入ってきた。後ろから聡子を抱きすくめる。 「二十九歳の人妻、住所は上祖師谷ってことは、一番近い駅は千歳烏山か?」  聡子はうなずいた。俵の手が脇腹を撫で回す。鳥肌が立った。 「ガキを産んでる割には、いい身体してる。悪くはない。これなら、いくらでも稼げるな、聡子」 「こ、困ります」 「なにが困るんだ? 今までだって、男に股開いて金稼いでたんだろうが」 「そういうわけじゃ……」 「いまさら気取るなよ。尻の穴に指突っ込まれてよがってたくせによ……そんなに怖がらなくてもいい。なにも、獲って食おうってわけじゃないんだ。おまえは今までどおり、男に股を開いて金を稼ぐだけだ。今までと違うのは、これからはおれが客を紹介するし、客を紹介する手数料をおれに払うってことだけだ」 「嫌です」  俵に対する恐怖──自分の人生が破滅することに対する恐怖。後者の方が強かった。聡子は俵の手を振りほどいた。 「嫌なのはわかってるんだよ、こっちも。意外と気が強いな、おまえ」  俵は嘲笑っていた。 「おれも気が強い女は嫌いじゃない。だがな、あんまり駄々こねると、さっきの写真、旦那に送ることになるぜ」 「お願いです。もう、許してください」 「泣いたって無駄だ。なあ、聡子。売春ってのはな、昔からやくざが仕切るもんだって相場が決まってるんだ。それが、最近はなにがどうなってるんだか、小便臭いガキやおまえみたいな人妻が勝手に客とって、挨拶もしてこない。困るんだよ。おれも商売だからな。こうやって引っかかった人妻はおまえで五人目だよ。諦めな」  俵の声──優しい響きが戻っていた。聡子は首を振った。もう、騙されるのはごめんだった。 「許してください。お願いします。もう、こんなこと、二度としませんから」 「わからない女だな」  髪の毛を掴まれた。強い力で引っ張られた。立ちあがる。俵と目があった。俵の目は酷薄な光を放っていた。 「写真のガキ、なかなか可愛いじゃないか。さらわれたら大変なことになるな」  将人の顔が脳裏に大写しになる。 「嫌……嫌、嫌っ!!」  叫んだ瞬間、息が苦しくなった。俵の手が喉にかかっていた。絞められる──殺される。忘れかけていた俵への恐怖が音をたてて押し寄せてきた。 「このまま殺しちまうか、聡子?」  口をあけた──息ができない。声がでない。聡子は必死でかぶりを振った。 「死んだ方が楽かもしれないぞ、ん?」  首を振る。死への恐怖──すべてを押しのける。 「……た、助けて……」 「助けてほしいのか?」  喉への圧迫が軽くなった。聡子は息を吸い、咳込んだ。 「だったら、おれのいうことはなんだって聞いてもらわなきゃな」  涙と鼻水と涎──咳がとまらない。 「わかったのか、聡子?」  喉への圧迫──慌てて首を縦に振る。 「だったら、そこに座って脚を開け」  俵はバスタブの縁を指差した。聡子はいわれるがままに腰をおろした。だが、脚は開かなかった──開けなかった。 「脚を開けといったんだぞ」  俵の声──息苦しさがぶり返す。おずおずと脚を開いた。 「そのままにしてろ」  俵はバスルームを出ていった。脚を閉じかけて、聡子は唇を噛んだ。試されているという気がした。俵が戻ってきたときに脚を開いていなければ、なにをされるかわからない。ドアの裏に張りつけられた姿見にあられもない姿が映っている。恥ずかしさと屈辱に身体が震えた。シャワーのせいでガラスがかすかに曇っているのがせめてもの慰めだった。  俵はすぐに戻ってきた。手にはカメラ。聡子が脚を開いたままでいるのを確認して満足そうにうなずく。 「いい子にしてようと思えばできるじゃないか」  俵はカメラを洗面台の上に置いた。代わりに、シェイヴィングクリームの入った小さなスプレーと剃刀を手にした。 「そのままじっとしてるんだ」  俵はバスタブの中に入ってきた。シャワーをとめ、聡子の脚の間に身体を入れた。屈み込む。俵の目の先で、聡子の陰毛が揺れていた。 「いい眺めだ」 「許してください」 「だめだな」  俵はスプレーのキャップを外し、クリームを掌に出した。それを聡子の陰毛にこすりつけた。 「……な、なにをするんですか?」 「見りゃわかるだろう。剃るんだよ」  俵の手が肌に触れるたびにおぞましい感覚が突き上げてきた。 「やめてください」懇願する。それでも、脚を閉じることができなかった。「主人にばれるわ」 「こんなもの、ほっとけばすぐに生える。それまで、ごまかしておけばいいだけのことだ。どうせ、旦那とはしばらくおまんこしてないんだろう?」  俵が剃刀の刃を無造作に当てた。身体がすくんだ。 「動くなよ」  耳障りな音──バスルームに響き渡る。 「お願い……お願い……お願いだから」  懇願する。俵は目をあげようともしない。剃刀の刃がシェイヴィングクリームを舐めとっていく。刃にこすれて赤くなった肌が露出していく。動かず──動けず。聡子は剃刀の動きを食い入るように見つめた。  俵の作業は数分で終わった。赤ん坊のような下腹部──剥き出しになった性器。すべてが、見えた。 「きれいなもんじゃないか」  俵は剃刀を放り投げた。満足そうに微笑んだ。 「そのままでいろよ」  バスタブを出る。カメラをかまえる。聡子は思わず脚を閉じた。顔を背けた。 「脚を開け」  俵の怒声──逆らえない。少しずつ、脚を開いていく。 「もっとだ。自分の手で太股を掴んで思いきり広げるんだ」 「……できません」 「できませんじゃない。やるんだ」  聡子は内股に両手を置いた。手に力を加え、脚を開く。  カメラを構えた俵──股間のグロテスクなものが天を向いてそそり立っていた。 「そうだ。顔をこっちに向けろ」  フラッシュ。俵の後ろの姿見に聡子が映っている。子供のような下腹部。剥き出しになった性器。俵のペニスのようにグロテスクだった。徹底的に汚されたという自覚だけがあった。  フラッシュ──フラッシュ──フラッシュ。頭の中が白くなる。すべてがどうでもよくなってくる。 「乗ってきたじゃないか。もっといやらしい顔してみろよ」  俵の声──麻薬のように身体を締めつけてくる。聡子はさらに脚を開いた。  ママ、お腹減っちゃった──ふいに将人の声が聞こえた。脚を閉じ、胸を隠す。 「なにをやってるんだ!?」  俵の声──もう、なにも感じない。将人に会いたかった。将人の小さな身体を抱きしめたかった。将人の温もりを感じたかった。 「まったくしょうがないな。ほら、もう一回可愛がってやる……写真はそれからだ」  唇になにかが押し当てられる──俵のペニス。聡子は泣きながら口を開いた。      8  居間にいるのは秀之だけだった。将人の姿はなかった。 「将人は自分の部屋?」  理性を食いつくそうとする恐怖──抑えつけながら聞いた。秀之は答えない。不機嫌な顔をテレビに向けている。恐怖が膨らんでいく。それを否定する。  そんなはずはない。今日のことが秀之にばれているはずがない。フラッシュバック──陰毛を剃られ剥き出しになった性器。自分から脚を広げた。なにがどうなってもいいと考えた。 「ねえ、どうしたの? なにかあったの?」  秀之の顔がゆっくり回転する。向けられた目──怒りに暗く沈んだ目。どうして──パニックに襲われそうになる。どうしてばれたのだろう。 「どうして携帯の電源を切ったままにしておくんだよ? 何度も電話したんだぞ」  忘れていた。電源を切ったあとは、バッグの奥に放りこんだままだった。  俵から解放されて電車に乗った。携帯を取り出そうとしてためらった。俵から電話がかかってきたらどうしよう──恐ろしくてしかたがなかった。 「ごめんなさい。忙しかったから切っちゃって、そのままにしてたの忘れてたわ」  言葉が迸る。秀之はなにも知らない。身体から力が抜けていった。 「困るんだよ、それじゃ。将人になにかあったらどうするんだよ」 「将人になにかあったの?」  弛緩しはじめていた神経が一気に緊張した。 「自分の目で確かめてこいよ。ぼくが訊いても、なにもいわないんだ」  なにかが足元に落ちた──プラダのバッグ。聡子は自分の手が震えているのに気づいた。心臓が不規則に跳ねていた。  居間を横切った。将人の部屋──ドアを叩く。 「将人、ママよ」  ドアを開けた。将人は勉強机に座ってうつむいていた。泣いている──違う。携帯用ゲーム機に見入っている。将人は振り向きもしなかった。 「ただいま。遅くなってごめんね」 「そんなに遅くないじゃん」  ゲーム機から流れる電子音──いつもと変わりないことを告げていた。 「なにかあったの? パパが心配してるみたいだけど」  舌打ち。将人はゲーム機を机の上に置いた。 「なんでもないよ。パパが大袈裟なだけなんだ」  将人はふくれっ面をつくった。表情からも口調からも異常なことは見つからない。それでも、不安は消えなかった。 「晩ご飯はなにを食べたの?」 「ファミレスでハンバーグ。もう、パパがうるさくてさ。食べた気がしないよ」 「パパはなにをうるさくしたのよ?」 「……その手はどうしたんだって」 「手?」  半袖のTシャツから伸びた将人の腕に反射的に視線が動いた。右手──肘の内側がうっすらと赤くなっていた。 「どうしたの、これ?」  床に膝を突き、将人の腕を取る。赤くなった肘の内側はなにかに擦れたかのように皮が剥けていた。 「なんでもないよ」  将人が腕を振り払った。 「なんでもないことないでしょう。ママによく見せて」  渋る将人の腕を無理矢理掴んだ。息を飲む。肘だけではなかった。右手の指のつけ根──前に怪我をしていたのとほぼ同じ場所が赤かった。かすかに腫れていた。 「なによこれ? だれにやられたの?」 「だれにもやられてないよ。パパと同じこと聞くなよ」 「なにもなくて、手がこんなふうになるわけないでしょう。ママには本当のこと話して」  将人は唇を尖らせた。聡子はじっと将人を見つめた。将人が折れることはわかっている。優越感を感じる。秀之にはできなくて自分にできること。将人をうまく操縦する自信はあった。 「塾に行く前に、剛と公園で遊んでたんだ」  剛──将人のクラスメイト。強情そうな顔つきを聡子は思いだした。 「ブランコで遊んでたんだけどさ、飛び降りるのに失敗して、ブランコが頭にぶつかりそうになったから手でかばったんだよ。そしたら、こんなふうになっちゃった」  将人は顔をあげた。これで説明がつくだろうという表情だった。肘の内側の剥けた皮も、ブランコで遊んでいたというなら納得がいく。だが、子供は子供だった。小さな嘘をつくために、大きな間違いを見落とす。  将人がブランコで遊ぶことなど考えられない。五歳のとき、ブランコから落ちた。たいした怪我はしなかったが、将人は泣きに泣いた。それ以来、将人はブランコに近づくことさえ嫌がるようになった。 「本当のことを話してってママはいったのよ」 「本当だよ」  将人が目をそらした。 「嘘。将人、ブランコに乗らないもの」 「乗るよ。もう、子供じゃないんだから」 「乗らないわ。どうしたの、この手? 怒らないから正直に話して。剛君になにかされたの?」 「違うよ」 「でも、この手おかしいでしょう? なにもなかったらこんなふうにはならないのよ」 「うるせえよ」  頭を蹴られたような気がした。将人がこんな言葉を使うのははじめてだった。 「ブランコで怪我したっていったらしたんだよ。うるせえこというなよ」 「そんな言葉を使うのはやめて」 「ママが最初にぼくのこと嘘つきみたいにいったからじゃないか」  将人の顔は憎々しげに歪んでいた。 「将人──」 「うるせえよ、くそばばあ」  考えるより前に手が動いた。弾んだ音──掌に軽い痺れ。将人が頬を押さえた。他人を見るような目つきで聡子を見た。その目に、涙が溜まっていく。すぐに、将人は堰を切ったように泣きはじめた。 「どうした?」  秀之の声がした。聡子にはどこか遠くから聞こえたような気がした。 「どうしたんだ、将人?」 「ママがぶった」  救いを求めるように、将人は秀之の腕の中に飛び込んでいった。  将人は秀之よりわたしに懐いている──揺らぐことのなかった自信。すべてが音をたてて崩壊していった。      9 「体罰は絶対にやめてっていったのは、おまえじゃなかったか?」  秀之はソファに腰をおろして足を投げ出している。右手にはウィスキーの入ったグラス。口調はどこか横柄だった。 「ごめんなさい。つい、我を忘れて」  殴るつもりはなかった。これっぽっちもなかった。くそばばあといわれた瞬間に、なにかが切り替わった。俵にされたことが、無意識に神経をぴりぴりさせている──そう思いこむと救われたような気がした。 「それだって、子供を殴っていいって理由にはならないよ。だいたい、将人は被害者なんだぞ。嘘はついたかもしれないけど、それだっていじめる子供たちが怖いからだろう」  秀之の声──俵とは違う。恐ろしさはない。ただ、神経に障るだけだった。 「だから、ごめんなさいっていったでしょう」 「なんだよ。今度はぼくに当たるのか?」  聡子はため息を漏らした。疲れている。くたびれている。身からでた錆という言葉が頭の中で踊る。秀之が無職だから悪いのよ──必死で抗う。慰めが欲しかった。罵声ではなく優しい声が欲しかった。いつもなら将人が与えてくれた。今日はそれもかなわない。 「ごめんなさい。本当に悪かったと思ってる。疲れてるのよ、きっと」 「次は当てこすりか?」 「好きなように取って」  聡子は立ちあがった。暗く澱んだ気持ち──身体の隅々に俵の感触が残っている。シャワーを浴びて汚れを落としたかった。 「なあ──」秀之の声が追いかけてくる。「盗聴器の話、真面目に考えないか? 将人が本当にいじめにあってるのかどうか、確かめるだけでも悪くないと思うんだ」  聡子は立ちどまり、振り返った。 「そうね。それがいいかもしれないわ」 「ぼくがいってもきかないから、聡子から将人にお守りを持っていくようにいってくれよ」  かき消えていた優越感がよみがえる。聡子は微笑んだ。 「やってみるわ……今日は、本当にごめんなさい」 「いいよ。ぼくもいい方がきつかった」  秀之はいった。だが、視線はいつの間にかはじまったテレビのドラマに向けられていた。      10  バスルームのドアに鍵をかけた──普段はかけたことがない。服を脱ぐ。下着をおろす。剥きだしの下腹部。手でなでるとわずかに引っかかりを覚えた。下着は丸めてゴミ箱の奥に捨てた。  シャワーを浴びる──昼間の記憶が鮮やかによみがえる。  カメラのフラッシュ。真珠を埋めこんだグロテスクなペニス。肛門に指を入れられたときのおぞましい感覚。剃毛されたときの喪失感。恐怖。屈辱。自暴自棄。うるせえよ、くそばばあ──将人の声。将人がすべてを知っているのではないかという錯覚にとらわれた。だから、ぶった。 「ごめんね、将人」  聡子は呟いた。頭からシャワーを浴びながら、声を殺して泣いた。      11 「行ってきまぁす」  将人は声を張りあげて家を飛び出していった。屈託のない声。朝食の席では一言も口をきかなかった。  聡子はお守り袋を握りしめた。中には盗聴器が仕掛けられている。将人に持たせるどころか、話をするきっかけすら作れなかった。 「じゃあ、ぼくも行ってくるよ」  居間から秀之が出てきた。スーツを着て鞄を持っている。 「うまくいくといいわね」  聡子は靴箱から秀之の靴を出した。 「そうだな。でも、竹谷さんはその会社にはかなり顔がきくらしいから、なんとかなりそうな気がするよ」  就職先を斡旋してくれるという秀之の知り合い。朝になって、秀之は急に竹谷に会いに行くといいだした。昨日のことが、秀之なりにこたえているのかもしれなかった。 「行ってらっしゃい」 「うん。朗報を期待しててくれよ」  秀之が微笑みながら出ていく。幸せな家族、幸せな家庭。テレビドラマに出てくるような光景。だが、夫は無職で、子供はいじめにあっている。妻は売春婦。やくざに陰毛を剃られている。  どこでどう間違ったのか。ベッドの中で眠れずに考えた。答えは見つからなかった。  居間に戻り、朝食の後片づけをした。一息ついてから、携帯電話の電源をいれた。ボタンを操作する。留守番電話にメッセージが入っていることを告げるマークが表示された。メッセージを聞く。メッセージは四件入っていた。  秀之から三件──将人がまたいじめられたらしいんだ、早く連絡をくれ。  秀之は怒り、苛立っている。メッセージが入っていたのは昨夜の六時から七時にかけての間だった。  最後のメッセージ──身体が凍りつく。 「聡子、おれだよ。わかるな? 今日の午後、渋谷まで出てきてくれよ。おまえと会ってみたいって客がいる。パイパンが好みなんだってよ。待ち合わせの場所と時間、教えるから、おれの携帯に電話しな。逃げるなよ。そんなことをしたら、おまえの可愛いガキに会いたくなるからな」  俵の声──鼠をいたぶる猫のような声。聡子はその場に座り込んだ。そのまま、彫像のように動かなかった。      12  駅を出て道玄坂に向かった。Tという名の喫茶店──すぐに見つかった。雑居ビルの二階。ビル全体がくすんでいて、人の気配が希薄だった。重い足を引きずりながら階段をのぼった。店に入る。俵は一番奥の席にいた。ひとりだった。聡子に気づき、微笑む──優しい笑顔。おそらく、一般社会に溶けこんでいるときに俵がかぶる仮面。 「時間にぴったりだな」  声まで優しかった。聡子は俵の向かいに腰をおろした。中年のウェイトレスが注文を取りにくる。聡子はコーヒーをオーダーした。コーヒーが来るまで、俵はどうでもいいことを話し続けた。 「そんなに固い顔するなよ。いつもやってることをするだけだろうが」  コーヒーを運んできたウェイトレスが去ると、俵は口調を変えた。 「でも……」 「安心しろ。身元のはっきりした客だし、終わるまでおれがホテルの近くにいる。万一、変なことになりそうだったら、おれの携帯に電話すればいい。すぐに駆けつけてやる」  そんなことじゃない──喉まで出かかった言葉が凍りつく。俵の目、俵の声──抗えない。恐怖に金縛りにされてしまう。 「おまえがしなきゃならないのは、股を開いて、しっかり金を受け取ることだ。客にはおまえの値段は五万だといってある。渋ってるけどな、おまえと、パイパンのおまんこ見たら出すさ」 「下品な言葉を使うのはやめてください」  うつむいたまま、聡子は懇願した。 「下品な言葉? 昨日、おれに突っ込まれて、その下品な言葉を使われて喜んでたんじゃないのか?」 「違います」  顔をあげられなかった。それでも、俵がからかうような笑みを浮かべているのがわかった。 「そうか……まあ、そういうことにしておいてやるよ。とにかく、金は五万だ。取り分はおれが三万、おまえが二万」 「そんな──」 「不満か? そうだろうな。ひとりでやってれば、五万まるごと自分のものだ。だけどな、考えてみろ、聡子。バックもなしにひとりでおまんこ売ってたせいで、おまえはおれみたいなのに引っかかっちまったんだ。下手をしたら、おれのように優しい男じゃなく、とんでもないのが来たかもしれない。それを考えれば安いもんじゃないか」  うつむいた視線の先──コーヒーカップを包むように握った両手。指先が震え、コーヒーが波打っていた。 「でも──」弱々しく震える声──ふり絞る。「それじゃ、あんまりです」 「あんまりなのはわかってていってるんだ。のんでもらうしかない。おれはやくざだからな。それでも嫌だといい張るなら、これだな」  テーブルの上に紙片が落ちてくる。写真──大きく開いた脚。陰毛を剃られた下腹部。弛緩した顔。目の焦点があっていない。それでも、知っている人間が見れば、聡子だとわかる。剥きだしの性器のなにもかもを知ることができる。  聡子は慌てて手を伸ばした。写真を握り潰した。 「小川忠に良子だったよな? 住所は川崎の麻生区。百合丘の辺りだ」  聡子はまじまじと俵の顔を凝視した。秀之の両親。どうして、住所まで知っているのか。 「いっただろう。おれはやくざだ。これぐらいのことを調べるのは簡単なんだよ。これで飯を食ってるようなものだからな。どうする、聡子。この写真、旦那の親に送ってみようか? 親御さん、怒るだろうな。下手をしたら離婚だ。こんな写真があれば、子供の親権も向こうに持っていかれる」 「やめてください……」  脅し──十二分に効いた。将人がいない人生──耐えられない。 「だったら、おれの話をのむんだな──」  電子音が俵の声を遮った。俵は上着の懐から携帯電話を取り出した。話しはじめる。 「もしもし?……ああ、どうも。つきました?……五〇二号室ね。わかりました。十分ほどで行かせますから……ええ、その点はばっちり。そっちこそ、支払い、きちんと頼みますよ──」  俵の声──耳には届く。だが、脳には届かない。将人を失うかもしれないという恐怖にすべてが縛られている。  将人のために売春婦まがいのことをしてきた。秀之に稼ぎがないから。将人に不自由はさせない──そのために。  嘘よ──どこからか声が聞こえる。自分のためにやってただけじゃない。お金をもらえて、気持ちのいい思いをして。見も知らない男に身体を開いているとき、将人のことなんか考えたこともないくせに。  耳を塞ぎたかった──わずかに残った理性がそれを押し止めた。  俵が手をあげている。ウェイトレスに勘定をさせている。 「行くぞ」  俵が腰をあげた。聡子はつられるように立ちあがった。喫茶店を出る。暗く狭い階段。俵に腰を抱き寄せられた。尻の肉を掴まれ、スカートの中に手を入れられた。聡子は無言で抗った。  俵は声を殺して笑った。      13  円山町のラブホテル。一度、使ったことがあるホテルだった。相手は年下のサラリーマン。三万円で三度も抱かれた。荒々しいだけの愛撫、腰づかい。腹を立てて出てきたことを覚えていた。  俵に教えられた部屋──五〇二号室。貧相な中年が待っていた。腰にタオルを巻いただけの姿。ビールを飲んでいた。聡子が部屋に入ると目を輝かせた。 「脱いでくれ」  男はいった。 「す、すぐにですか?」 「あんた、毛を剃ってるんだろう? 見たいんだよ。早く脱いで」  諦める──心を凍らせる。服を脱いだ。ショーツをおろすときにはさすがに羞恥心がわいた。 「そのまま立って。どこも隠すなよ」  いわれたままに──人形のように。男は床に膝を突き、聡子の下腹部に顔を寄せた。 「本当に剃ってるんだな。これと同じだ」  これ──男が写真を手にしていることに気づいた。手を伸ばし、奪い取る。 「なにをするんだ?」  写真──喫茶店で握り潰したのと同じだった。違うのは、聡子の目をマジックで塗りつぶしてあることだけだった。  目の前が暗くなった。      14  三時半に携帯が鳴った。俵からだった。男から金を受け取った──五万。男は出し渋った。携帯電話を見せると素直に金を出した。  部屋を出る。ホテルを出る。さっきの喫茶店に戻る。俵が同じ席で待っていた。 「酷いわ」  聡子はいった。 「なんのことだ?」  俵は答えた。顔が笑っている。すべてはお見通しだといっているようだった。 「写真……だれにも見せないって」 「客は別だ。五万はいくらなんでも高いって客でも、おまえのあの写真を見せてこの女が抱けるんだっていってやると、不思議と五万でもいいっていいだすんでな」 「でも──」 「心配するな。あの写真を他人に見せたらただじゃおかないと、きっちり脅しはかけてある。それに、目を潰してあるんだ。知ってる人間が見たって、だれもおまえだとは気づかないさ」  ウェイトレスがやって来た。俵と聡子は口を閉じた。ウェイトレスはコーヒーを置いていく。俵が前もってオーダーしておいたらしかった。 「なんでもいうことは聞きますから、写真を人に見せるのはやめてください」  ウェイトレスの後ろ姿を気にしながら囁いた。 「なんでも?」  俵の唇が吊りあがった。嬉しそうな笑み──舌なめずりしている。聡子は後悔した。遅かった。 「じゃあ、今度の土曜、一日付き合ってもらうか」 「一日は無理です」 「なんでもいうことは聞くんだろう? 旦那には同窓会だとかなんだとか理由をつけてやればいい。わかったな?」  聡子はうなずいた──うなずくしかなかった。 「それから、今日はこのまま帰してやるが、明日は客をふたり取ってもらう。朝の十時半に、この喫茶店に来てろ」 「そんな……」 「一日にひとりしか客を取らなきゃ、おまえの稼ぎは二万にしかならないんだぞ。ふたりなら四万だ。美味しい話じゃないか。おっと忘れるところだった。出しな」  俵が手を突きだしてくる。なんのことだかわからなかった。 「金だよ」  聡子はバッグをあけた。男から受け取った金を差し出す。俵は札を数え、二万円を返してきた。 「約束は守るからな、おれは。まあ、約束をする段階でいろいろやらせてはもらうが」  聡子は受け取った金を呆然と見おろした。 「そろそろ帰った方がいいんじゃないのか。旦那とガキの晩飯の支度をしなきゃならないんだろう?」  胸の奥でなにかが蠢いた。それは恐怖を払いのけて脹れあがった。殺意──聡子は生まれて初めて人を殺したいと思った。      15  だれか助けて──心の中で叫ぶ。電車の乗客は応えてくれない。こちらを見ようともしない。たまに目があえば、あの写真を知っているのではないかという猜疑心にとらわれる。  だれも助けてはくれない。家族すら助けてはくれない。  マンションは空っぽだった。留守番電話に秀之からのメッセージ。 「今日は遅くなるから」  不機嫌な声が、短い言葉に多くの意味を与える。就職活動がうまくいかなかったに違いない。やけ酒を飲み、泥酔して帰ってくるだろう。  夕飯の支度をし、塾に将人を迎えにいく。 「パパは?」  将人が口にしたのはそのひとことだけだった。聡子は傷ついた。胸の奥で膨らむ感情におののいた。殺意──すべてを俵がぶち壊しにした。そうではないとわかってはいても、そう思わずにいられなかった。  将人の手を盗み見る。右手の指のつけ根はまだ腫れていた。  マンションに戻り、食事の最後の仕上げをする。皿を食卓に並べる。帰るなり自分の部屋に閉じこもった将人を呼ぶ。  無言の夕餉──沈黙に耐えられなかったのは聡子の方だった。 「将人、まだママのこと怒ってる?」  将人は皿の肉をつついている。視線をあげようともしない。 「ねえ、将人。どうしたらママのこと許してくれる? ママ、本当に悪かったって思ってるの」 「うるさくいわないでよ」  肉を見つめたまま将人が口を開いた。 「うるさくって?」 「ぼく、いじめられてないよ。それなのに、ママがうるさくいうから頭にきちゃうんだ」  精一杯平静を装っている。だが、口調がぎごちない。将人はいじめにあっている──疑惑が確信に変わった。 「わかったわ。もう、うるさく聞いたりしないから、ママのこと許してくれる?」 「いいよ。それから、もうぶたないでね」  将人の表情が柔らかくなった。 「約束します。ママはもう二度と将人のことをぶったりしません」  冗談めかして口にした。自分の声の方が将人のそれより固かった。我が子がいじめにあっていることへの確信──俵への殺意と絡み合う。 「ママ、ごちそうさま」  将人が箸を置いた。 「もう、食べないの?」 「うん。お腹一杯。それに、宿題しなくちゃ」 「そう……」 「今日、お風呂は何時?」  箸を取り落としそうになった。慌てて取り繕った。 「ごめんね、将人。今日、ママ、疲れてるの。お風呂は、明日、パパと一緒に入ってくれる?」  剥きだしの下腹部──将人に見られるわけにはいかなかった。 「いいよ」  将人はいつものように気のない返事をした。そのまま、自分の部屋に入っていく。  凍てついた荒れ地にひとり取り残されたような気分。幸せだと思っていた。不満はあっても、夫に対する愛はなくても、将人がいれば幸せなのだと思っていた。子を愛する親がいて、親を愛する子がいれば、それが幸せな家庭なのだと思っていた。  間違いだった。      16  くたくたになって帰宅する。一日にふたりの男と寝た──寝させられたのは初めてだった。どちらの男も聡子の下腹部を見たがった。触れたがった。舐めまわしたがった。  きちんと手入れをしなきゃ、せっかく剃ったのにもったいない──午後の客はそういった。なにもなかった下腹部に、数ミリの毛が生えてきていた。  食事の支度──秀之は居間でテレビを見ている。不機嫌な顔──昨日は深夜近くに帰ってきた。いびきが凄くて眠れなかった。酔って帰ってきたときはいつもそうだった。聡子が出かけるときも──他の男に抱かれに行くときも、秀之はベッドの中にいた。 「昨日はどうだったの?」  聡子はなにげない口調で尋ねた。野菜を刻む包丁は動かしつづけた。 「この顔を見ればわかるだろう」  秀之はテレビを見たまま答えた。 「そう……しょうがないわね。また、次のときに頑張って──」 「無駄だよ。どこも、新規に社員を雇う体力なんてないんだ。この不況が終わるまではなにをしたって無駄さ」 「そんなことないんじゃない」 「おまえになにがわかる」  不機嫌な声。これ以上は聞かない方が無難だ──口を閉じる。途端に、囁くような声が頭の中から聞こえてくる。  ──だれのせいでわたしがこんな目にあってるのよ?  不満はどんどん膨らんでいく。薄汚い男たちに下腹部を撫で回されるたびに、俵への殺意が膨らんでいく。俵への殺意は、簡単に秀之への不満、憎しみへと変化する。  うんざりだった。俵を恐れるのも、秀之を憎むのもうんざりだった。将人を連れて、どこかへ逃げだしたい──心の底からそう思う。だが、自分がそうしないことも嫌になるほどわかっていた。うつろな家庭。わかっていても、そこにしがみつきたがっている。 「ねえ、悪いんだけど……」 「なんだよ?」 「明日なんだけど、店に出てくれないかっていわれてるのよ」  俵の目──逃れられない。 「土日は休みだろう?」 「わたしはね。でも、お店はやってるのよ。わたしの代わりに、週末だけのアルバイトを雇って……だけど、そのアルバイトの子がどうしても明日は来られないんだって。それで……」 「好きにすればいい。今のわが家の大黒柱はおまえなんだから」 「どうしてそういういい方しかできないの?」  包丁を持つ手がとまった。悲しみはなく、ただ、怒りだけがあった。 「悪かったね、こんないい方しかできなくて。どうせぼくは仕事もできないろくでなしだ」  秀之はわざとらしい仕種でテレビを消した。ソファから腰をあげる。居間を横切って玄関に向かった。 「こんなろくでなしは家にいても叱られるばかりだ」 「どこに行くの?」 「将人を迎えに行くんだよ。ぼくにはそれしかできないからな」  秀之は出ていった。聡子は右手に握った包丁をぼんやり見おろした。      17  将人は寝入っていた。無邪気な寝顔──布団を蹴飛ばしていた。聡子は布団をかけなおした。将人が起きだす気配はなかった。  勉強机の脇の床に置かれたランドセル。拾い上げて部屋を出る。居間では秀之が子供のように目を輝かせて待っていた。 「なんだか、子供をスパイしてるみたいでいい気分じゃないわ」  ランドセルをダイニングテーブルに載せた。 「しかたないだろう。将人のためなんだから」  秀之はランドセルに手を伸ばした。秀之の理屈は聞いた。それでも秀之の嬉々とした表情を見ていると、将人のことは二の次で、自分の作った玩具がちゃんと動くかどうかを試したがっているとしか思えなくなってくる。 「おまえだってそれしかないって認めただろう?」  そのとおりだった。秀之の動機には疑問を感じる。それでも、なにかをしてみなければという思いを否定することはできない。将人の手の腫れ。嘘をつくときの将人の目の動き。将人はいじめにあっている──間違いない。将人がお守りを持っていく気になってくれればそれで済むはずだった。だが、将人はお守りを見た瞬間に首を振った──やだよ、そんなダサいの持ってくの。  秀之が用意した工具でランドセルの蓋の裏側の革を剥がしはじめた。  聡子は椅子に座って秀之の作業を見守った。冷めたコーヒーに口をつける。剥がした革の下は台紙だった。その台紙に、秀之は親指の爪ほどの黒い塊を貼りつけた。革を元に戻して張り合わせていく。あっけないほど簡単だった。すべては十分ほどで終わった。秀之は昔から手先が器用だった。なにかの細工師にでもなろうかな──会社を辞めた時、秀之はいった。聡子は鼻白んだだけだった。 「これ、将人の部屋に返してきて。それで、ちょっとなにか喋ってみて。間に遮蔽物があっても音を拾えるかどうか試したいから」  聡子はランドセルを受け取った。持ってきたときより重みが増しているような気がした。気のせいだと打ち消し、将人の部屋に向かった。将人の部屋のドアを開けるとき、脈が跳ねあがるのを感じた。将人は眠っている。 「あなた、聞こえる?」  ランドセルに向かって囁く。ランドセルをあった場所に置き、逃げるように部屋を出た。 「完璧に聞こえたよ」  秀之の満足そうな笑み。 「これで明日になったらなにもかもがわかるよ」 「どうするの?」 「あの盗聴器が拾う音をこの受信機で聞くには、半径五百メートル以内にいなきゃだめなんだ。学校の側でぶらぶらしてるよ。どうせ暇だしね」 「危ない人と間違われないようにしてね」  味気ない気分を吹き飛ばそうと口にしたジョーク──秀之は真剣に受け取った。 「そうだな。着るものとかも考えておかないと……とりあえず、明日、将人が塾に行ってる間に試してみるか。塾は駅前にあるから、ぼくみたいな男がその辺をうろうろしてても怪しまれることはないだろう……」  秀之はすっかり探偵気分だった。将人のことにかこつけて暇つぶしをしているだけだった。喉に異物感を覚えた──吐き気。こらえきれそうになかった。聡子はトイレに走った。吐いた。目に涙を浮かべながら、何度も吐いた。 「急にどうしたんだよ?」  頭上から秀之の声がした。背中をさすられる。 「いきなり、気分が悪くなって……」 「まあ、自分の子供とはいえ、覗き見をするようなもんだからな。だけど、そんなに神経が細いとは思わなかったよ。それとも、妊娠かな? だとしたら、おまえにも盗聴器を持たせないとな。だれと浮気してるのか確かめてやる」  くだらない冗談──身体が凍りつく。 「馬鹿なこというの、やめてよ。人が苦しんでるのに」  冗談めかしていい返す──声が強ばっている。異物感が広がる──耐えようのない嘔吐。聡子はもう一度吐いた。      18  恵比寿のホテル──同じ部屋。寒気を感じた。あの時のおののきを身体が覚えているかのようだった。 「よく来たな」  俵──あの時と同じスーツ。同じ表情。違うのは、部屋にもう一人女がいることだった。女はベッドの縁に座っていた。伏せた顔──血の気が失せ、強ばっている。三十歳を少しすぎたぐらいの年格好。上品な顔だち。メイクも控え目だった。シャネルのスーツにシャネルのバッグ。俵の別の獲物──ぴんと来た。聡子と同じ種類の女。 「薫だ」俵がいった。「おまえの少し先輩になる」  自分の名を呼ばれた瞬間、女──薫の頬がぴくんと震えた。 「薫、あっちは聡子だ。先輩らしく、きっちり仕込んでやれよ」 「はい……」  か細い声だった。触れただけで壊れそうなガラス細工を思わせた。 「仕込むって、なんのことですか?」  聡子は部屋の入口で突っ立ったままだった。薫の存在に気づいた瞬間から足が動かなくなった。 「おまえはどう思ってるか知らないが、売春ってのも客商売なんだよ」  俵は思わせぶりに言葉を切った。聡子は首をかしげた。意味がわからなかった。 「客の評判が悪いんだよ、おまえは。マグロみたいにただ寝転がってるだけらしいじゃないか。それじゃ、おれが困るんだ」  やっと意味が通じた。顔の表面が熱くなる。思わず薫に目を向けた。薫はうつむいたままだった。 「きっちりサーヴィスしてやれば、その客は次もおまえを呼ぶんだ。毎回、初めての男と寝るより、そっちの方がおまえにも楽なんだ。わかるか?」  俵の声と目──優しさのかけらもない。聡子は唾をのんだ。小さくうなずいた。 「だから、今日はおまえに客の扱い方を教えてやるんだよ。先生は薫だ。薫はこう見えて、客に評判がいい。すぐ本気になっちまうんだ。なあ、薫?」 「……はい」  薫が唇を噛むのが見えた。 「あれをしゃぶってるだけで濡れてくる女ってのは、客に喜ばれる。そういうことだ、聡子。伝言ダイヤルで客取ってるときは、股を開いてるだけでよかったかもしれないが、おれと働くんなら、それじゃだめなんだ」  俵が立ちあがった。近づいてくる。逃げたかった──逃げられなかった。足が動かない。根が生えてしまったかのようだった。腰に腕がまわされた。誘われるままに部屋の真ん中に進んだ。 「服を脱げ。結構生えてきただろう。また剃ってやる」 「嫌です」  聡子は薫に視線を向けた。同性に剥きだしの性器を見られるのは耐えられなかった。 「嫌か……そういうのは通じないといっただろう」  髪の毛を掴まれた。引っ張られた。痛み──それ以上の恐怖。 「おれが脱げといったら、おまえは脱ぐ。なんでもいうことを聞くといったのはおまえだろう? それとも、あの写真、ばら撒いてやろうか?」  冷たい声──逆らえば、写真をばら撒くだけじゃないといっていた。脳裏に映る将人の顔──ズームアップ。将人は泣いていた。聡子はスーツのボタンに手を伸ばした。外していく。 「最初から素直にやればいいんだよ、聡子」  聡子は目を閉じた。視界から薫を締め出したかった。  上着とブラウスを脱ぎ、スカートをおろす。俵の声が耳に吹きこまれる。 「まず、下着がエロじゃない。これじゃ、客は喜ばない。あとで、薫のを見て勉強しろ」  聡子は目をあけた。薫を盗み見る。薫は相変わらず顔を伏せたままだった。  ストッキングを脱いだ。ブラとショーツ──手が動かなくなった。 「さっさと脱げよ」  俵の声──氷のように冷たい。強ばった手を動かす。震えながらブラを外し、ショーツを脱いだ。両手で胸と股間を隠す。手首の内側に生えてきた陰毛が当たった。 「ここに座れ」  俵はさっきまで自分が座っていたひとりがけの椅子を指差した。聡子は従った。椅子の前のテーブルの上──シェイヴィングクリームと剃刀。ため息がこぼれた──絶望のため息。 「手をどけて脚を開け」  俵を見る──懇願する。俵は冷たい視線を返してくるだけだった。聡子はおずおずと脚を開いた。 「薫、辛気くさい顔してないで、こいつのおまんこ、じっくり見てやれ」 「いやっ!」  聡子は小さな悲鳴をあげた。脚を閉じようとする──俵の手がそれを許さなかった。 「ガキのことを考えろ。そうすれば、勝手に脚が開くんじゃないのか?」  聡子は目を閉じた。目尻から涙が溢れた。      19  ベッドが軋む。薫の豊満な臀部が動く。太股のつけ根のあたりがうっすらと濡れている。薫は俵のグロテスクなペニスを口にくわえていた。  聡子は唇を噛みながら絡み合う俵と薫を見つめていた。両手と両足は椅子に縛られて固定されていた。顔を背けたり目を閉じたりすれば俵の叱咤の声が飛んでくる。  嗚咽──薫の口からもれてくる。悲しみの声なのか喜びの声なのかはわからない。絶え間なく耳に飛び込んでくるその声が現実感覚を揺さぶっていく。これは夢よ──何度そう思ったかわからない。  薫は黒い下着姿だった。ブラはハーフカップで乳首が剥き出しになっていた。シースルーのショーツは床に脱ぎ捨てられている。ガーターベルトにストッキング。薫のを見て勉強しろ──俵の言葉の意味がようやく飲み込めた。 「ちゃんと見てるか、聡子?」  俵の声。反射的にうなずく──奴隷になったような気分だった。 「これから凄いものを見せてやる。よく見ておくんだぞ」  薫に含ませながら、俵はサイドボードの引出に手を伸ばした。取り出したのはヴァイブレータだった。それほど大きくはない。だが、淫靡で凶々しかった。  ヴァイブレータがモーター音を発した。薫の嗚咽が大きくなった。俵が薫の股間に手を伸ばす。手の先にはヴァイブレータ──薫の性器がそれを飲み込んでいった。嗚咽が狂おしいものに変わった。 「これが好きなんだろう、薫?」  俵が尋ねる。薫は苦しげに顔を歪めながらうなずいた。 「今からいれてやるからな」  俵は身体を起こした。四つんばいになったままの薫の後ろに回り、腰を抱えた。背中の刺青が、聡子の視界いっぱいに広がった。 「見えるか?」  俵の声──自分に向けられたものだと気づくのに間があいた。薫の性器──ヴァイブレータをすっかり飲み込んでいる。電気コードが伸びている。 「行くぞ、薫」  俵が自分のペニスに手を副《そ》えた。先端を薫の肛門にあてがった。  聡子は息をのんだ。薫の肛門は、俵のグロテスクに変形したペニスを簡単に受け入れた。途端に、薫の口からもれる声が激しくなった。 「薫はこれが好きなんだ。だから、客にも人気がある」  俵が振り返った。目が血走っていた。 「そのうち、おまえにもこっちのよさを教えてやるからな」  俵の声──耳には届かない。聡子の目は薫の股間から動かなかった。      20  闇に閉ざされた視界──アイマスクをかけられた。椅子に縛りつけられた手足。柔らかく湿ったものが肌の上を這い回る──薫の舌。おぞましく、狂おしい。聞こえるのは薫の息づかい。薫が飲みこんだままのヴァイブレータの振動音。ときおり、俵が動く気配が伝わってくる。カメラのシャッターを切る音が聞こえてくる。見られている。撮られている。指先まで痺れるような羞恥心。もはや逃げ道はないのだという諦観。頭の中、将人に救いを求める。うるせえ、くそばばあ──将人は答える。  なんだちゃんと濡れてるじゃないか──薫の肛門に射精し終えたあと、俵はベッドをおりた。聡子の性器に指で触れた。嗤った。  おあずけを食わされた牝犬ってところだな。待ってろ、欲しいものはすぐにくれてやる──次の瞬間、視界を奪われた。間を置いて、濡れた舌が肌の上を這い回りはじめた。 「やめて……お願い、やめて……」  譫言《うわごと》のように口走る言葉──乱れているのが自分でもわかる。薫の舌。おぞましく、焦れったい。 「どうだ、聡子。いま、自分がしてもらってることを、客にもしてやるんだ。そうすりゃ、あいつらは涎を垂らして喜ぶからな」  俵の声──耳の奥で溶けていく。薫の指が剥きだしの性器をまさぐりはじめた。混乱──快感──恐怖。 「やめてっ!!」  聡子は声を張りあげた。薫の指の動きがとまる。舌が肌から離れていく。 「馬鹿野郎」  頬に鋭い痛みを感じた──殴られた。涙が溢れでる。 「人が優しくいってるからっていい気になるなよ、聡子。今度、馬鹿でかい声を出したら、マジで首を絞めるぞ」  嗚咽──自分の口から漏れている。俵が舌打ちするのが聞こえた。 「しょうがない。あれを使うか……」  俵の気配が遠ざかる。太股にあたたかい感触が生まれた。薫の掌──さっきまでのいやらしい動きとは違った。赤ん坊をあやすように、ゆっくり肌をさすっている。  涙がさらに溢れた。惨めだった。憐れだった。なぜこんなことになったのだろう──何度も繰り返した疑問が頭の中を駆け回った。答えはない。自分が悪い。秀之が悪い。すべてが悪い。  薫の掌が強く太股の筋肉を押した。薫の緊張が伝わってくる。今度はなにをやらされるのか──涙はとめどなく溢れてくる。鼻が詰まって息が苦しかった。 「よし、薫、少しどいてろ」  薫の掌──温もりが去っていく。 「いや。行かないで」  懇願する──薫の答えはない。 「さっきまでは触らないでっていってたのに、今度は行かないで、か。とことんでたらめにできてる女だ、聡子」  思ったより近いところから俵の声が聞こえてきた。聡子は声のした方から顔を背けた。 「そんなことをしても無駄だ」  嘲笑うような声。左の二の腕を強く掴まれた。 「動くなよ。動くとヤバいことになるからな」  いわれなくても動けなかった。暗闇の中、恐怖だけが増殖していく。痛みが二の腕を走った。反射的に腕を引こうとする。 「動くな」  俵の声──爆発した。頭の中に光が広がった。恐怖が去り、闇雲な高揚感が押し寄せてくる。 「いくら嫌がったって、シャブを食わせればなんでもできるようになるさ、聡子」  俵の声──遠のいていく。      21  虚脱感──頭が痛んだ。膝に力が入らなかった。自分がどこにいるのかもわからなかった。  頭を上げ、周囲を見渡す。薄暗いホテルの部屋──ベッドの上。記憶が津波のように押し寄せてきた。  シャブを食わせれば──俵はいった。覚醒剤を打たれた。あの瞬間からすべてが変わった。すべてを飲みこんだ快楽。男ひとりに女ふたりで繰り広げた痴態。何度も絶頂が押し寄せてきた。死ぬのではないかと思った。それでも、快感は絶えることがなかった。  聡子は身体を起こした。身体中の関節が悲鳴をあげた。股間に違和感があった。ヴァイブレータ──薫が使っていたのと同じものが半ばまで膣に押し込まれていた。小さな悲鳴をあげながら抜き取った。放り投げた。脚のつけ根──乾いて固まった精液。俵の精液。記憶──あのグロテスクなものを突きいれられて、はしたなく声をあげた。その記憶には現実感が希薄だった。だが、夢ではないことも確かだった。  涙が溢れそうになる。聡子は唇を噛んでこらえた。サイドボードのデジタル時計を見た。午後七時半。慌てて飛び起きた。秀之と将人の顔が交互に脳裏に浮かび上がった。急いでシャワーを浴びれば、八時には電車に乗ることができる。  ベッドをおりた。俵と薫の姿はない。不審を覚えながら、床に散らばった服を拾おうと腰をかがめた。嫌な匂いが鼻をついた。濡れた絨毯。俯せに倒れている男──俵。  悲鳴──必死に押し殺す。震えが指先から全身に広がった。へたり込みそうになるのをこらえながら、サイドボードのスウィッチを押した。明かり──つけなければよかった。聡子はこみあげてくる悲鳴をなんとか飲みこんだ。  全裸の俵。背中に刺青。頭から血を流していた。目を剥いていた。傍らに、応接セットのテーブルの上にあったクリスタルの灰皿が転がっていた。  聡子は薫を探した──いなかった。震える身体を鞭打ってバスルームを覗いた。薫はいなかった。伏せたままの顔。蒼醒めた頬。俵にフェラチオしているときの悲しげな顔。肛門を貫かれたときの苦悶の表情。薫がやった。それ以外、考えられなかった。 「どうしよう……どうしよう、どうしよう」  パニックが押し寄せてくる。なにも考えられなかった。なにか喋っていなければ、気を失ってしまいそうだった。 「待っててね、将人。ママ、すぐに帰るから」  震えながら服を着た。股間にこびりついた精液の名残──気にしている暇はなかった。 「ごめんね、将人。ごめんね。ママ、悪いママだから。これから、いいママになるから。だから、許してね。お願いだから、ママのこと許して」  指が震えてストッキングを穿くことができなかった。丸めてプラダのバッグの中に放りこんだ。 「今、帰るからね。将人、待っててね」  何度も転びそうになった。将人にすがってなんとか耐えた。おそるおそるドアを開ける──無人の廊下。振り返った。俵は倒れたままだった。      22  タクシーに乗った。電車に乗る気にはなれなかった。これほど他人の視線を怖いと思ったことはなかった。無数の思考の断片が頭の中で渦を巻いていた。  殺人。指紋。アリバイ。覚醒剤。警察の鑑識。テレビドラマで覚えた言葉。それに、俵がどこかに隠し持っているだろう写真──ネガ。すべてが聡子の世界の崩壊を指し示す。  道は空いていた。三十分ほどで到着した。料金は五千円札で払った。釣りは受け取らなかった。転び出るようにタクシーを降りた。周囲を気にしながらマンションの中へ。エレヴェータに乗る──どうしよう。口の中で呟く言葉。エレヴェータの壁に谺《こだま》しているように思えた。 「ただいま」  震える声でいって、ドアを開ける。部屋の中は暗かった。 「将人。あなた?」  不吉な予感が広がる。聡子は居間に駆け込んだ。  秀之がいた。照明を落とした部屋の中。暗く沈んだ顔をテレビに向けていた。テレビは音を消してあった。秀之の表情はうつろだった。秀之はなにもかもを知っている──馬鹿げた考えが頭を占める。 「どうしたの、明かりもつけないで。将人は?」 「部屋にいる」  秀之の声は錆びついていた。身のすくむ思い──そんなはずはない。秀之が知っているはずがない。 「なにかあったの?」 「参ったよ」  うつろな顔のまま、秀之は視線をテーブルの上に落とした。視線の先には黒い受信機と小型のカセットデッキがあった。 「親ってのは本当に馬鹿だよな。我が子可愛さに周りが見えなくなってるんだ。なにが、将人はいじめにあってるだよ。逆じゃないか……」  聡子はカセットデッキに手を伸ばした。テープが巻き戻されていることを確認して再生ボタンを押した。 「聞かない方がいいぞ。後で後悔するから」  秀之の声には力がなかった。テレビのモニタからもれる明かりがその横顔を弱々しく照らしていた。 「やめてよ……」  デッキから声が聞こえてきた。 「うるせえよ。おまえがうんこ臭いからだろう」  幼いが居丈高な声──聞き覚えがあった。剛。将人の遊び友達。 「うんこはちゃんと流さなきゃだめなんだ。ママにそういわれないのかよ、おまえ?」  剛の声の奥から、水が流れるような音が聞こえてくる。光景が目に浮かんだ。だれもいないトイレ。いじめられる少年といじめる少年たち。 「やめてよ。こんなの酷いよ」 「うんこのくせに、口答えすんなよ。なあ、将人」 「そうだよ。守がうんこ臭いから、おれたち迷惑してるんだからな」  将人の声──傲慢な響き。聡子は力なく床に座り込んだ。 「こんなやつ、早く流しちゃえよ、剛」 「やめてってば!」 「うんこのくせに逆らうなよ」  くぐもった音──うめき声──泣き声に変わる。 「泣いたって許さないからな」  将人の声。  将人の手の傷──殴られたわけではなかった。他人を殴ってできた傷だった。  くぐもった音が続く。泣き声は嗚咽に変わる。嗚咽──薫の口からもれていた嗚咽。自分の口からもれた嗚咽。 「わかったのかよ、守」  将人の勝ち誇った声──俵の声と重なった。 「お願いだから……もう許してよ……」  いじめられる少年が懇願する。自分も同じように俵に懇願した──涙が零れ落ちた。 「許してくれだってさ……将人、どうする?」  剛の声──いじめのリーダーシップを取っているのは将人だと告げている。 「そうだな……明日、『ダーク・ムーン』持ってきたら許してやるよ」  将人が口にしたのは携帯用ゲーム機のソフトの名前だった。将人はいつもゲームをしている。買い与えるソフトは少ない。どうしたのかと聞く──友達に借りたという答えが返ってくる。すべて、嘘だった。 「そんなの、無理だよ。ぼく、お金ないもん」 「だったら、盗んでこいよ」  将人の声──無慈悲で理不尽だった。俵の声と同じだった。 「持ってこなかったら、明日はもっと酷いぞ。それに、親に告げ口したら、クラス中でおまえのことシカトするからな」  八歳の子供のものとは思えない口調、言葉。 「もう、いいだろう」  秀之が聡子の手からデッキを奪い取った。停止ボタンを押す。  聡子は秀之を見上げた。まさか、将人が──言葉が喉の奥でつかえた。なにかにすがりたい──すがるものはなにもない。すべてはうつろだった。自分の心も、家庭も。そして、将人すらも──。 「将人は?」 「部屋にいるっていっただろう。これを聞かせて叱ったんだ。そうしたら、プライバシーの侵害だとか生意気なことをいったから、頭を叩いた。それで、部屋に閉じこもったままさ。この前はおまえに酷いことをいったけど、ぼくも親失格だな」  秀之は笑う──力のない笑い。どこか狂気を思わせる笑い。  聡子は這うようにして将人の部屋に向かった。ドアをノックする。 「将人……ママよ。今、帰ってきたの」 「ぼくが悪いんじゃない!」  叫び声が返ってきた。 「みんなやってるんだから。ぼくだけが悪いんじゃないんだから。守をいじめなかったら、今度はぼくがいじめられるんだ。そういうふうになってるんだ!!」 「いいのよ、将人。ママ、わかってるから──」 「うるせえ、くそばばあ!!」  聡子は口を開き、閉じた。なにもいえない自分に気づいた。振り返り、秀之に救いを求める。秀之は聡子に背を向け、音のでないテレビを眺めていた。  聡子は身体の芯まで凍えるような寒気を覚えた。 [#改ページ]     M      1  まゆみは汗をかかない。赤い縄で縛られた肌は赤ん坊を思わせる──パウダーをまぶした肌。乾いてもいず、湿ってもいない。  まゆみの目は乾いている。ほとんど瞬きをしない目が、宙の一点をただ見つめている。  ──わたし、いつも喉が渇くの。  まゆみはいつも乾いている。乾いていないのはあそこだけだ。  縄を身体にあてただけでまゆみのあそこは潤ってくる。腕をくくって乳房の下に縄を通しただけで、まゆみのあそこからは透明な体液が溢れてくる。  濡れてくるまゆみのあそこを見て、ぼくは乾く。ひっきりなしに唾を飲みこみ──やがて、耐えきれなくなる。まゆみのあそこに口をつける。  まゆみは汗をかかない。まゆみはいつも乾いている。渇きに耐えられなくなると、まゆみは懇願する。  ──ねえ、なにか命令して。      2 「なあ、おもしれえとこ、行ってみないか?」  退屈な仕事の終わりを告げるブザー。鳴り終わる前に上田が口を開いた。汗の匂いが漂ってくる──顔をしかめた。他人の汗の匂いは我慢できない。 「おれ、そんなに臭いかよ?」 「気にしないでください」  最後の段ボールをコンベアに載せて微笑んでみせた。単調でつまらない──だが割のいいバイト。この仕事を辞める気になるまでは、上田の機嫌を損ねたくない。 「なあ、稔。行こうぜ。おれ、この前の給料日の後、五反田ですげえ店、見つけたんだ」  すげえ店──なんとなく想像はついた。昼休みになれば、上田と山本、古川がいつも同じ話で盛り上がっている。風俗の店。どこそこの店のなんとかという女は本番をやらせてくれる。その手の話だ。 「また今度、付き合いますよ」  首を振る──上田が大袈裟に顔をしかめる。 「またそれかよ、稔。そういって、おれらに付き合ったこと、一回もないじゃねえか。おまえ、女がいるわけでもないんだろう? いつもマスかいてるだけじゃ物足りねえだろうって、心配してやってるんだぜ、こっちはよ」  余計なお世話だ、とはいわなかった。代わりに頭をかいてみせた。 「勘弁してくださいよ、上田さん。ぼく、上田さんたちと違って勤労学生なんですよ。ここのバイト代、みんな生活費に消えるんです」 「おまえなあ──」  上田が肩に手をまわしてきた。汗の匂い──喉の奥になにかがせりあがってくる。 「たまには息抜きも必要だって。少しばかりの金出してもよ、いい女に二、三発抜いてもらえば、しゃきっと仕事する気にもなるってもんだぜ」  喉元に居座った不快感をこらえて、ぼくは笑う。いつもそうだ。嫌なことがあればあるほど、笑みは自然に浮かんでくる。  ──おまえは笑いながら父さんを刺したんだよ。なんて子なの。  母さんの言葉がよみがえる。包丁の感触が手によみがえる。汗にまみれた父さんの背中。包丁の刃は簡単に父さんの皮膚を引き裂いた。 「なあ、稔。行こうぜ。絶対、損はしねえって」 「山本さんや古川さんは行かないんですか?」 「山本はよ、爺いたちと飲み会があるってよ。古川の野郎は女ができやがった」  嫉妬が剥き出しになった口調──上田はそのことに気づいていない。 「でも──」  断りきれそうになかった。山本も古川も遊んでくれない。となれば、上田にはぼくしかいない。 「なあ、稔。たまには付き合えって」 「どんな店なんですか?」  口にした途端、上田が笑った。 「SMだぜ、SM。女を縛ってよ、あそこにヴァイブぶちこんで、最後は尻の穴でフィニッシュよ。一度やったら病みつきだぜ」  女を縛る──昔見た光景がよみがえる。父さんを刺した時の感触がよみがえる。目を閉じて、すべてを振り払った。 「わかりました。行きましょう」  目を開けた時にはそう答えていた。      3  五反田の駅前。上田は電話ボックスの中。煙草に火をつけて待った。駅前は会社勤めの人間でごった返している。家に帰るやつら。これから飲みに繰りだすやつら。そして、ぼくと上田のように女を買いに行くやつら──みんな着膨れている。まだ冬というには早い季節。コートの下から汗の匂いが漂ってくる。煙草の煙が他人の汗の匂いをかき消す。 「ばっちりだぜ」  指でOKマークを作りながら上田がボックスから出てきた。 「それで、どうするんですか?」  仕事場から五反田までは電車で四十分。すげえ店がどんなシステムなのかは聞かなかった。興味もなかった。ただ、上田の喋る言葉に耳を傾けていた。愚痴──社内の人間関係。会社の外に出たってなにもかもが同じだということに上田は気づいていなかった。ぼくみたいな二十歳そこそこの人間に見えることが、五つも年上の上田には見えていない。どうして目を閉じたままで生きていけるのか。いつも考える──答えが見つかったためしがない。 「ホテルに行ってよ、部屋に入ったらもう一回電話するんだ。部屋番号教えて、やりてえ女のタイプ教えて、それでビールでも飲んで待ってりゃ、十分で女が来る。後はよ、やりてえようにやるだけだ」 「SMだっていってましたよね? 縛ったりしなきゃならないんですか? ぼく、どうやればいいのかわかんないですよ」 「女が教えてくれるって。おれだってよ、こないだが初めてだったんだ。それでもばっちりキメたぜ。簡単だって」  駅前の雑踏を離れる──上田の足は早い。小走りになってついていく。 「金、おろさなくても大丈夫か?」  上田が銀行を指差した。首を振った。 「財布の中に四万ちょっと入ってます。足りますよね?」 「オプションつけなきゃ、充分だよ」 「そうですか」  オプションの意味がわからなかった。意味を聞こうという気にもなれなかった。面倒なことをすませて早く帰りたい。頭の中にあるのはそれだけだ。 「稔、おまえ、まさか童貞じゃねえよな」  首を振った。上田はそれ以上聞いてこようとしなかった。目がらんらんと輝いている。これから起こることへの期待。話しかけてきたのは単に間がもたなかったからだ。  初めてセックスしたのは十五のときだった。父さんを刺したのが十四の夏。鑑別所を出てきたのが十五の冬。母さんはぼくを引きとるのを嫌がった。家に帰る代わりに慶子叔母さんのところで暮らしはじめた。慶子さん──叔母さんと呼ぶと怒られた──は三十歳を越えたばかり。きっちり化粧をすると二十代半ばにしか見えなかった。街で見かけるたびに違う男と歩いていた──一族の中では評判が悪かった。だから、みんなでぼくを慶子さんに預けた。  三LDKのマンション。四畳半の和室がぼくの部屋だった。慶子さんはぼくになにもいわなかった。部屋を汚すのだけはやめてね──それだけだ。毎朝出かけ、深夜に帰ってくる──大抵はアルコールの匂いをさせて。ときどき、男の匂いを身体にまとわりつかせて。  そして、初めての夜がやってきた。いつもより明るい笑顔。いつもより力の入った化粧。いつもよりスカートの丈が短いタイト・スーツ。クリスマス・イヴ。日曜日に電話のかかってくる男とのデート。  ──稔君、一人で大丈夫? イヴなのに。  おざなりな台詞。慶子さんは傍目にも浮かれながら部屋を出ていった──くたびれた老婆のようになって帰ってきた。  ぼくは寝ていた。クリスマスの喧騒。それを煽りたてるくだらないテレビ番組。くすんだ気分。父さんを刺したときに似た感情が身体の奥で渦巻いている──寝るしかなかった。  玄関で派手な物音。呂律のまわらない声。正体を失ったように酔った慶子さんを引きずって居間のソファへ。崩れた化粧──涙の痕。湿ったスーツ──アルコールの染み。なにが起こったのかは想像がついた。濡れたスーツを脱がせ、毛布をかけた──いきなり、抱きしめられた。  戸惑いと罪悪感──すぐに快感に押し流された。 「おい」  上田が名刺のような紙を突きだしてきた。 「部屋に入ったら、ここに電話するんだ」 〈マゾっ娘宅配便 クラブ・ローザ 麻衣〉。麻衣という文字だけ手書き。なにかの冗談のような名刺だった。 「で、さっき電話した上田の連れですけどっていってな、部屋の番号と女の好みのタイプを教えてやれ」 「好みのタイプっていわれても……この麻衣って子でいいですか?」 「馬鹿野郎。麻衣ちゃんはおれが指名すんだよ。おまえは他の女だ──お、ここだ、ここ。入るぞ」  どこからどう見てもラブホテル──上田は周りを気にもせず、エントランスに足を踏み入れた。      4  だだっ広い部屋。だだっ広いベッド、バスルーム。ベッドの枕許にはなにに使うのか見当もつかないスウィッチ類が並んでいた。  SMクラブには電話をかけず、ぼんやりとここで時間を潰すのも悪くない──頭を振った。上田とは五反田駅前の居酒屋で待ち合わせをしている。ビールを飲みながら、上田は事細かに質問を浴びせてくるだろう。  受話器を持ち上げ、名刺に書かれた番号を押した。 「はい、クラブ・ローザです」 「先程電話しました上田というものの連れですが」 「承っております。ホテルの名前と部屋番号をどうぞ」  機械的に質問に答えた。 「好みの奴隷のタイプは?」  奴隷──笑いそうになった。笑わなかった。 「どんな子がいるんですか?」 「当店は色々なタイプの奴隷をそろえておりますが」  すべてが面倒くさかった。どんな女が来ようと知ったことじゃない。上田の質問に答えるために女が必要なだけだ。 「汗っかきの子は好きじゃないんだ。あんまり汗をかかない子だったら、どんな子でもいいよ」  汗──寝室の父さんと母さん。二人とも汗にまみれていた。夏でも、冬でも。汗と汗の匂い──汗にまみれた父さんの背中を思いだす。 「それなら、当店にぴったりの奴隷がおります。まゆみと申しまして、どれだけ激しく責めたてても汗ひとつかきません。もちろん、あそこの方は別ですが」 「じゃあ、その子を」 「かしこまりました……お客様、オプションの方はどういたしましょう?」  オプション──上田も同じことをいっていた。 「オプションってなに?」 「はい。上田様からうかがっておりますのはSプレイの七〇分コースでございまして、こちらは縛り、ヴァイブ、生フェラ、AFがセットで三万円になっております。この他に、放尿、浣腸、羞恥プレイなどがオプションになっておりまして、こちらをご希望の場合は別料金をいただかせてもらいます」 「AFってなんのこと?」 「アナルファックです」 「じゃあ、オプションはいらない」 「かしこまりました。それでは十分ほどで奴隷が到着すると思いますので、プレイがはじまる前に一万円、終わった後に二万円を奴隷にお支払いください」  電話が切れた。男の声は最後まで事務的だった。  無為の時間。備えつけの冷蔵庫からビールを取り出す。煙草をくわえる。慶子さんのことを思いだす。  クリスマス・イヴの夜から──ぼくの寝室は慶子さんの部屋に移った。オーラルセックスで幕を開ける夜。慶子さんはぼくが父さんを殺したときの様子を聞きたがった。聞きながら、ぼくのものをしゃぶり、空いた手で自分の股間をまさぐっていた。慶子さんは母さんとよく似ていた。ただ慶子さんはあまり汗をかかなかった。  日曜日。男から電話がかかってくる。電話に出ながら慶子さんは下着を脱ぐ。脚を開いてぼくを手招きで呼び寄せる。慶子さんのあそこはかすかに濡れている。濡れた慶子さんのあそこをぼくが舐めまわす。  ──わたし、お姉ちゃんは嫌いよ。  ときどき、慶子さんは譫言《うわごと》のように口走った。  ──わたし、晃お義兄さんのこと、好きだった。好きな人を殺した稔とこんなことしてるのね。悪い女だわ。  晃はぼくの父さんの名前だった。慶子さんはときどき、ぼくのことを「晃さん」と呼んだ。  ぼくは慶子さんを抱きながら、いつも母さんのことを考えていた。  半年後、慶子さんはぼくの子供を殺した──お腹の中の子供ごと電車に飛び込んだ。  司法解剖──ぼくと慶子さんの関係が母さんに知らされる。罵倒。  ──あなたって子は、父さんだけじゃなく、わたしの妹まで殺したっていうの!?  違う。ぼくに父さんを殺させたのは母さんだった。慶子さんが死んだのは日曜日に電話をかけてくる男のせいだった──一度だけ電話に出たことがある。父さんの声によく似ていた。  ドアにノックの音。ビールを一口──煙草を消した。 「クラブ・ローザから来ました。まゆみです」  ドアを開けきる前に声が聞こえてきた。まゆみ──小柄な女。身体にぴっちり張りついたパンツとブラウス。長い黒髪。切れ長の目──なにかを見つめているようでいて、なにも見ていない。  SMクラブからやってきた女には見えなかった。 「この恰好、そんなに珍しい?」  ぼくを押しのけるようにしてまゆみは部屋の中に入ってきた。 「どうせすぐ脱いじゃうんだから、どんな服着てても関係ないでしょ?」  まゆみは電話に手を伸ばす。 「もしもし……まゆみです。今、入りました。……はぁい」  電話を切って振り向く。突き出された掌。 「まず、お金。それから、気持ちいいことしてあげる」      5  一緒にシャワーを浴びた。まゆみは小柄だった──百五十センチそこそこしかない。だが、胸と腰には適度に肉がのっていた。 「その傷、どうしたの?」  ぼくのペニスを洗いながらまゆみが聞いてくる。脇腹についた醜い傷。父さんを刺した包丁でつけた。死にたかった──死ねなかった。慶子さんはいつもこの傷を舐めてくれた。 「切腹しようとしたんだ」 「切腹? やめてよ。もっと笑える冗談にして」 「本当だよ。うまくいかなかったけどさ」 「刀を使ったの?」  まゆみが上目遣いでぼくを見あげた。 「包丁」 「馬鹿じゃないの」  まゆみの剃刀のような目──どんな感情も伝えてこない。 「馬鹿なんだよ」  沈黙。まゆみはぼくのペニスを洗う。ぼくのペニスは縮こまったままだった。 「さあ、好きにして」  縄を渡された──どうしていいのかわからなかった。まゆみが首を振り、両手を背中にまわす。 「まず、手首を縛って」  華奢な手首。ぎごちなく縄をかける。まゆみの肩が一瞬、震えた。 「余った縄を前にまわして──」  まゆみの声は乾いている。命じられたようにまゆみの身体に縄を絡めていく。どちらが奴隷なのかわからない。  まゆみの身体も乾いている。汗ひとつ浮いていない肌──かすかに湿っている。赤い縄に挟まれた乳房の先で乳首だけが固く尖っている。 「感じてるの?」  聞いてみる──答えはない。  まゆみがベッドに横たわる。乾いた声が縄の操り方を伝えてくる。膝に縄をかけ、脚を開かせる──まゆみのあそこは見ただけでそれとわかるほど濡れていた。長い間忘れていた光景が頭の中でよみがえった。 「好きにしていいのよ。そこにヴァイブがあるし、舐めて欲しかったらいってくれれば舐めてあげる。本番だけはだめ。いい?」  まゆみのあそこは濡れている。なのに、まゆみの声は乾いている。汗もかいていない。  父さんと母さんはいつも汗まみれになっていた。 「でも、そんなふうに縛られてて、ぼくがその気になったらどうするの? だめだっていったって、抵抗できないだろう?」  まゆみが笑った。初めて見る笑顔はどことなくあどけなかった。 「もしそうなったら、抵抗しないの。終わるまで待って、電話するのよ。すると、やくざのお兄さんがやってきて大変なことになるわけ」 「すぐそばでやくざが待機してるんだ?」 「知らなかった? このホテルのすぐ隣、やくざの組事務所なんだよ。うちの店も、ここから歩いて五分ぐらいのところにあるし」 「うまくできてるんだな」 「ねえ。名前教えて」 「稔」 「稔だったらいいわよ。本番しても」 「それって、オプション?」 「馬鹿──」  話している間にも、まゆみの濡れ具合が増してくるのがわかった。 「エッチ、させてあげる。お尻の穴でもおまんこでも、稔の好きな方。その代わり、稔、わたしに命令して。いやらしいこと、命令して」  腰をくねらせながらまゆみがいう。まゆみの声はもう、乾いてはいなかった。  ペニスをかたどった紫色のヴァイブ。まゆみはすっぽりと飲みこんでいる──腰の辺りが小刻みに震えている。切なげな吐息を漏らしながら、まゆみはぼくをしゃぶっている。口だけを使って。ときどき、上目遣いでぼくを見る目──ぼくの頭の中、埃をかぶっていたなにかが動きだす。 「店にいる子はみんなこうなの?」  だとしたら、上田が「すげえ店」といった理由もうなずける。 「わたし……だけ」  途切れ途切れにまゆみは答える。 「わたし……だめなの、し、縛られると……だめなの」  頭によみがえった光景──父さんと母さん。父さんは母さんを縛っていた。まゆみが飲み込んでいるのと似たなにか──母さんのあそこから突きでていた。湿った空気──汗の匂い。水槽の中に放り込まれたような気分──息が苦しく、視界が歪んだ。悲鳴のようなくぐもった声──それが喘ぎ声だとは思わなかった。悲鳴にしか聞こえなかった。 「も、もうだめ……い、いく……許して」  ぼくをしゃぶりながら、まゆみが懇願した。母さんもそうだった。──死んじゃう、もう許して。大声で、何度も父さんに許しを求めていた。  だめだ──父さんはいった。母さんの汗にまみれた顔。苦しげに歪んでいた。必死で父さんになにかを懇願していた。なにか──それがなんなのか、ぼくにはわからなかった。 「だめだ」  ぼくはまゆみにいった──父さんのように。 「稔……わたし、もうだめ」 「だめだ。勝手にいっちゃだめだ。ぼくがいいっていうまで、我慢するんだ」  まゆみがぼくの腰に強く抱きついてきた。身体が痙攣している。ぼくの命令を無視して勝手に絶頂に達している──目も眩むような怒り、母さんは父さんに決して逆らわなかった。なのに、まゆみはぼくの命令を無視している。 「どうしてぼくの命令をきかないんだ?」  まゆみを突き飛ばして、叫ぶ。 「ごめんなさい……まゆみ、いけない子なの。お仕置きして、稔。お願い」  ヴァイブを股間に埋めたまま、まゆみはぼくににじり寄ってくる。シーツに、股間からしたたった体液が落ちる。汗まみれの父さんと母さん──母さんの股間からしたたり落ちる汗の滴。あれは汗じゃなかった。 「四つんばいになれ」  両膝と首だけでまゆみが四つんばいになる。高く掲げられた尻。そこから突き出たヴァイブ。ヴァイブをつかみ、乱暴に抜き差しする。苦悶に歪むまゆみの顔──母さんの顔に似ていた。 「いいか。ぼくが、いい、っていうまでいっちゃだめだぞ」  ぼくの声──父さんの声に似ている。父さんと母さんと同じことをしながら、ぼくもまゆみも汗をかかない。 「稔、お願い。いっちゃう……いかせて」 「まだだめだ」  あの夜、母さんはいつもよりひときわ甲高い悲鳴を上げた。ぼくは台所へ行って包丁を手にした──前から決めていた。母さんの悲鳴が酷くなったら、父さんを殺してやる。  寝室のドアを静かに開ける。父さんと母さんは気づかない。縛られてベッドに仰向けになっている母さんの白い脚。母さんの股間を覗きこんでいる父さん。どこか湿った部屋の空気。ぼくはゆっくり父さんに近づき、包丁を汗まみれの背中に突き立てた。 「稔っ、だめっ。いっちゃう……いっちゃうよぉ」  父さんを包丁で刺したときのように、ヴァイブをまゆみのあそこに思いきり突き刺す──まゆみの背中が反りかえる。口から悲鳴のような喘ぎが漏れた。  母さんのために父さんを殺した。なのに、母さんはぼくを褒めてくれたりはしなかった。代わりに、化け物を見る目でぼくを見た。だから、ぼくは包丁を自分の腹に突き刺した。 「ありがとう。稔。すごく気持ち良かった」  縛られたままのまゆみ。優しい声。なにかが弾け飛んで、ぼくはまゆみにむしゃぶりつく。ヴァイブを抜いて、かたく勃起したペニスを押しこむ──次の瞬間、射精していた。      6  七〇分コース。あそこに一度。尻の穴に一度。口の中に一度。慶子さんとのセックスは、いつも時間をかけてやっていた。こんな短時間に、これだけ射精したのは初めてだった。その間、まゆみは何度も絶頂に達した。途中からは縄を外した。まゆみは自分の手でヴァイブを抜き差ししながら、飽きることなくぼくをしゃぶった。乱暴な言葉を使うと、それだけまゆみの快感も深まるようだった。 「もう、帰らなくっちゃ」  ぼくとまゆみは抱きあっている。二人とも汗をかいてはいない。まゆみの口の端に、ぼくの精液の残滓がこびりついている──まゆみはぼくの精液を飲み干した。 「また、指名してもいいかい?」  どうしてそんなことを口走ったのかはわからない。 「今日みたいに楽しくないかもしれないよ」  まゆみの声はもう、乾いていた。 「どうして?」 「わたし、初めてのお客さんが一番好きなの。二回目からはあんまり楽しくない。もちろん、お仕事だからちゃんとサーヴィスはするけど」 「それでもいい。もう一度、まゆみに会いたい」  初めてまゆみの名前を口にした──初めてという気がしなかった。 「ねえ、稔。年、聞いてもいい?」 「二十歳だよ。まゆみは?」 「二十二。そっか、稔、年下なんだ。落ち着いた感じだから、年上だと思ってたよ」  まゆみが電話に手を伸ばした。 「もしもし、まゆみです……これからシャワー浴びて、あがりますから」  電話を切って振り向く。いたずらを企む子供のような笑顔。 「ねえ、稔、知ってる? 無理矢理本番しようとするお客さんがいたらどうするって、さっき聞いたでしょう」 「後でやくざが来るんだ」 「そう。だけどね、やくざ屋さんがいつも待っててくれるわけじゃないの。危なそうなお客さんの時はね、部屋に入って店に電話するときに、今、着きましたっていうのよ。大丈夫そうなときは、今、入りました。ね。今、着きましたっていうと、店の人がやくざの事務所に連絡いれて、いざというときに備えてくれるの」 「いろいろ面倒くさいんだね」 「でもね、わたし、着きました、っていったことないのよ。どんなに危なそうなお客さんでもね」  まゆみは笑顔を浮かべたままバスルームに向かった。 「どうだった? 凄かっただろうが?」  駅近くの居酒屋──安い油の匂いとざわめき。上田の目の前に置かれた生ビールのジョッキはほとんど空だった。 「目一杯時間使ったみてえじゃねえか。よっぽど気に入ったんだろう?」  居酒屋には寄らずに帰りたかった。一人になってまゆみの身体の余韻を噛みしめたかった。上田の下卑た笑み──刃物で切り裂いてやりたい。 「ぼくもビールを」  注文を取りに来た男に告げる──いってから、喉が渇ききっていることに気づいた。七十分の間、まゆみの体液しか口にしなかった。 「おれにつきあってよかっただろう、え? 稔、どんな女が来たんだよ?」 「背の小さい子です」 「なんだそれ。おれが呼んだ麻衣ちゃんなんてよ、デルモみてえなんだぜ。タッパなんか百七十ちかくあるしよ、身体もナイスバディでよ。そういうのがおまえ、身体縛られてよ、おまんこにヴァイブ突っ込まれて、最後は尻の穴だぜ……」  上田が口を閉じる。ジョッキと料理の皿が運ばれてきた。料理は大根サラダと鳥の唐揚げ、アジの開き──いつもの定番。上田と飲みに行くと、いつも同じ物を食べるはめになる。 「おまえよ、ちゃんと店に好みの女いったのかよ?」 「面倒くさかったから──」ビールをすすった。喉が潤い、苦みが広がっていく。「適当でいいですっていっちゃいましたよ」  苦み──心の中にも広がっている。まゆみにもう一度会いたかった。 「ばっかだなぁ。だからおまえはダメなんだよ、稔。それでよ、背は小さいとして、どうなんだ、その女? 巨乳だとか、顔が無茶苦茶いいとか、そんなのあったんか?」 「普通ですよ」  汗をかかないこと、縄が身体に触れただけで濡れてくること──それを除けば。 「胸もそんなに大きくなかったし、顔も、ブスじゃないけど、美人だってわけでもなかった」 「だけどよ、おまえ──顔色悪いぜ、稔。だいじょうぶか?」  ぼくの真後ろに座ったサラリーマンから嫌な汗の匂いがしていた。上田の話も耐えがたかった。飲みこんだビールが胃の中で逆流しようとしていた。 「ちょっと、緊張しすぎちゃったみたいです……上田さん、悪いですけど、今日はこれで帰ってもいいですか?」  上田は途端に不機嫌な顔になった。それでも、ダメだとはいわなかった。気分が悪くなると、ぼくの顔色は死人のようになる。  ──こいつ、まるで死体みたいだな。  昔、高熱を出して寝込んだ夜。枕許で父さんがそういうのを耳にした。      7  次の日──バイトを休んだ。行けば話の種にされるのがわかっていた。上田と山本と古川。にやついた笑いが頭に浮かぶ。連中が盛り上がるのはいつも風俗の話だ。なにをいわれてもぼくは気にしない。だが、まゆみのことでなにかをいわれたら、切れてしまいそうな気がした。切れるとなにをするかわからない。昔、切れたときは父さんを殺した。  ベッドに寝転がって本を読んだ──すぐにやめた。まゆみのことが頭から離れない。汗をかかない身体。それとは逆に洪水のように濡れるあそこ。命令して──ぼくの心を震わせた言葉。  まゆみのきつい顔立ち──ぼくの好みじゃない。母さんに似ていると思った瞬間もあった。だけど、冷静になって思い返してみれば、母さんとまゆみはちっとも似ていない。それなのに、まゆみの顔を思い出すたびに、悲しみに似た感情に襲われる。 「ただの変態女じゃないか」  口にだしてつぶやいた──それでも埒は明かなかった。  財布の中から名刺を取り出した。ホテルの部屋を出るときにまゆみが渡してくれた名刺。まゆみという手書きの文字。可愛げがなくどこか崩れた感じがあった。  時計を見る──午後三時。身仕度をして、部屋を出た。  五反田。電話ボックス。クラブ・ローザの番号を押す。昨日と同じ男の声が店のシステムを告げる。名前を聞いてくる男──偽名を答える。 「それでは、ホテルで部屋をお取りになってからもう一度お電話ください」  ボックスを出た──自分でもなにをしたいのかわからなかった。  はじめは入ってきたのが麻衣だとは思えなかった。モデルのようなナイスバディな女──上田はそういっていた。でたらめだった。本当だったのは胸が大きいということだけだった。 「お客さん、わたしとは初めてですよね」  明るい声──まゆみのどこか投げやりな声とは違っていた。 「うん。友達がいい店だって教えてくれたから」 「なんていう人? あ、ちょっと電話借りますね……もしもし? 麻衣です。今、入りました」  店への符牒──ぼくは合格したらしい。 「佐藤っていうんだけど、本名使ってないかもしれないしね」電話が終わるのを待っていった。「だけど、麻衣って子がいいっていわれたんだよ。他に麻衣って子、いないんだろう?」 「うちにはわたしだけ。じゃあ、シャワー浴びてからはじめてもいい?」  ぼくはうなずいた。  まゆみとはすべてが違った。麻衣は汗をかいた。縄で縛っても濡れなかった。命令してくれともいわなかった。すべてが演技だった。  麻衣としているあいだ、ぼくは父さんと母さんのことを一度も思いださなかった。 「もう、いい加減にしてくれない?」  執拗にヴァイブを使うぼくに浴びせられた冷たい声。麻衣は心底うんざりしていた──ぼくがうんざりしていることには気づいていなかった。  気まずい空気──麻衣が出ていったあとでも変わらなかった。  渋谷に出た。あてもなく歩いた。通りにたむろする下品なガキたち。  埋めちまうぞ──シャッターに書かれたスプレーの落書き。連中はみんなナイフを持っている。それを使うのを躊躇《ためら》ったりもしない。父さんを刺したとき──ぼくも躊躇いはしなかった。  カズを見つけた。頭にバンダナ。ガードレールに腰かけて、仲間と話し込んでいる。 「カズ」声をかける──野犬のような目が一斉にぼくを見る。 「稔さん」  カズの顔だけ飼犬の顔になる。カズとは鑑別所で一緒だった。ワルを装ったハナたれ小僧──今じゃ、立派な悪ガキ。渋谷に来ればいつでも会えた。会えばいつも、小犬のような顔をしてぼくにすりよってきた。 「久しぶりじゃないっすか。どうしたんすか、こんなところに?」  野犬たちの顔が訝しげに歪む──なんだってこんなへなちょこ野郎にカズが媚び売ってるんだ? 答え──ぼくは一人で父さんを殺した。カズは十人で一人を殺し、一人を半殺しにした──そいつは今でも病院のベッドの中で意識が戻らぬまま眠っている。十人の中でカズだけが鑑別所に送られてきた。鑑別所には、カズがぶち殺したやつの仲間がいた。お決まりの騒動。看守の目を盗んで、カズにリンチがくわえられた。そのまま放っておけば、カズは殺されていたかもしれない。どうしてカズを助けたくなったのかもわからない──多分、カズがあまり汗をかかなかったからだ。「父親殺しの稔」を鑑別所で知らないやつはいなかった。ぼくが、壁に擦りつけて先端を尖らせた歯ブラシの柄を持ち歩いていることを知らないやつはいなかった。 「クスリ、売ってくれよ」 「いいっすよ。エスでも葉っぱでもコークでもなんでも手に入りますから」 「葉っぱでいいや」 「どれぐらい?」  二万円──銀行には百万にちょっと足りない金が入っている。ただひたすらに働いて貯めた金。使うあてのない金。SMクラブや大麻に使っても、だれからも文句は言われない。生活費は別に入ってくる。毎月二十万──母さんが振り込んでくれる。母さんは自由が丘で小さなアクセサリーショップを経営している。それなりに流行っているらしい。二年前、新宿でばったり出会った叔父さんに聞いた。母さんの顔はもう三年以上見ていない。  カズが金を受け取って、後ろにいる野犬に声をかけた。 「おい。葉っぱ、だれか持ってっか?」  すぐに声があがる。茶色い樹脂の塊がぼくの掌に載せられる。 「こんだけあると、普通、三万は取られるっすよ。稔さんだからサーヴィス。たまには、おれらとも遊んでくださいよ」 「おれはおまえと違って真面目に働く勤労青年なんだよ」 「またぁ。真面目なやつが葉っぱ買いませんよ」  そんなことはない。今はだれにでもクスリが買える。  缶ビールと無駄話──野犬たちのぼくを見る目が変わった。カズたちは、明日の夜、敵対する連中の仲間をさらってどこかに埋めてしまう予定らしい。  稔さんも一緒にやらないっすか?──もちろん、ことわった。  一時間ほどでカズと別れて部屋に戻った。アルミホイルを丸めて作ったパイプ。大麻の煙──狂った脳の中、まゆみが囁く。  ──いやらしいこと、命令して。  ズボンをおろしてオナニーをした。昂ぶった神経が作りだす快感。まゆみが与えてくれたものには遠く及ばなかった。      8  仕事──コンベアで流れてきた筐体《きようたい》に部品をはめる。上田たちのくだらない話に耳を傾ける。  五時半。仕事が終わる。上田たちの誘いを振りきって五反田へ向かう。 「やっぱりね」  まゆみがいった。 「やっぱりって、なにが?」 「稔、また来ると思ってたもの」  乾いた声、乾いた目、乾いた肌──初めて会ったときと変わらないまゆみ。 「あのさ──」バスルームに向かおうとするまゆみの背に声をかけた。「今日はプレイはいいから……話をするだけって、ダメかな?」 「シャワーを浴びて」  振り向いたまゆみの顔──明らかな落胆の色。ぼくはなにかをしくじった。 「それから、わたしを縛って。あとはなにをしようと稔の自由よ」  シャワーを浴び、まゆみを縛った。まゆみの顔からは表情が消えていた。それでも、縄が触れるとまゆみの身体が軽く痙攣するのがわかった。そして、ぼくのペニス──石のように固くなっていた。 「昨日、別の子を呼んでみたんだ」  縛られたまゆみがベッドの上に横たわっている。縄に引っ張られて大きく開かれた脚。触れなくても中心が潤んでいるのがわかる──喉が渇いた。 「楽しくなかった。まゆみとは全然違うんだ」  潤んだ場所を見つめながら話した──まゆみは見られていることに気づいていた。少しずつ腰が動く。潤いが広がっていく。呼吸が湿ってくる。  視界が歪む──透明な膜をとおしてぼくはまゆみを見る。音がズレる──耳の中でなにかの羽音のようなものが聞こえる。 「どんなことをしたの?」 「縛って、ヴァイブを使った。だけど、ダメなんだ。まゆみは縛っただけで濡れてくるのに、その子は濡れなかった。ローションを塗ってくれっていわれたよ」  ぱっくりと開いた襞の奥から、白濁した液体が溢れてくる。 「他にはどんなことをしたの?」 「しゃぶらせたよ。それから、お尻の穴に入れた」嘘。「まゆみの方が気持ちよかった」 「稔……」  かすれた声──まゆみの内腿の付け根がひくひくと震えていた。水槽の中にいるような感覚──どんどん広がっていく。 「命令して……お願い」 「じゃあ、話して」 「なにを?」 「まゆみのことを」 「いや……違うこと……いやらしいこと、命令して。なんでもしてあげるから」 「話してよ、まゆみ。そうしたら、まゆみのして欲しいことを命令してやるよ」  ドアの隙間から覗いた光景──父さんが母さんに命令している。  ──もっと淫らになってみろ、そうしたら、おまえの欲しいものをここに入れてやる。  同じことをくり返している。ぼくの身体には父さんの血が流れている。 「本当に? 話せば、いやらしいこと、命令してくれるの?」  父さんのしていたことを思いだす──まゆみのあそこにそっと指先を触れさせる。薄い手袋をはめているようなもどかしい感触。 「約束するよ、まゆみ。だから話して。作り話じゃなく、本当のことを」  心の底からの願い──どうしてまゆみに魅かれるのか。知りたかった。なによりもそれを望んでいた。 「パパが好きだったの」  まゆみがいった──ぼくの背をなにかが駆け抜ける。 「パパはすごく厳しくって、ママもお兄ちゃんもパパのこと避けてたけど……」 「続けて」  まゆみのクリトリスをさすりながら促す──ぼくの指先はすっかり濡れている。 「パパは恐かったけど、でも、ときどき、とても優しくて……わたし、パパに優しくしてもらうの、すごく好きだった。一緒にお風呂に入るの。お風呂にいると、パパは本当に機嫌がよくて、まゆみは奇麗だなっていって、わたしの身体を優しく洗ってくれるの。幸せな感じがして、気持ちがよかった……」  母さんと一緒に風呂に入っていたころを思いだす──狂おしいものがこみあげてくる。 「パパのおちんちんが固くなるのも嬉しかった。おちんちんにキスしてあげると、パパはもっと優しくなるの。ママには内緒だぞっていわれたのも嬉しかった。パパはママよりわたしが好きなんだって思って、苦しかったけど、いけないことなんじゃないかって思ってたけど、わたし、一生懸命しゃぶってあげた。でも、パパ、いなくなっちゃったの」  まゆみの顔が歪む。一瞬、まゆみが泣きだすんじゃないかと思った。  泣くな──喉の奥で叫んだ祈り。まゆみの涙なんかみたくなかった。話の続きを聞きたかった。 「パパ、愛人がいたの。わたしたちを捨てて、その女と暮らしはじめたの。哀しくって寂しくって、わたし、パパの会社に会いにいった。もっとおちんちんにキスしてあげるからって。パパの好きなこと、なんでもしてあげるから戻ってきてって頼んだ」 「そうしたら?」 「殴られた……二度とそんなこと、口にするなって」  まゆみの話──ぼくの過去に繋がっていく。鑑別所を出て、初めて母さんに会ったときのことがよみがえる。  ──おまえは笑いながら父さんを刺したのよ。  怯えの混じった視線、震える声──母さんはぼくを殴ったりはしなかった。殴るより酷いことをしただけだ。 「それは幾つのとき?」 「十二。わたし初潮があって、これでパパになんでもしてあげられると思ったの」 「それからパパには?」 「会ってない」 「今でもパパに会いたい?」  母さんに会いたかった──母さんはいつもぼくを避けていた。 「どうしてそんなこと聞くの?」 「いやらしいこと、命令して欲しいんだろう? だったら、話して」  まゆみが目を閉じる。紅潮していた顔が蒼ざめていく。まゆみが目を開く。 「会いたいよ。わたし、パパだけが好きだったの」  子供の顔──ぼくはまゆみを抱きしめた。どす黒い感情が頭の中に広がっていく。まゆみをめちゃくちゃにしてやりたかった。 「約束よ、稔。命令して……」  耳元での囁き──なにかが弾ける。ぼくはまゆみの乳房を乱暴に握った。水槽の中にいるような感覚──どこかに消え去った。 「まゆみは嘘つきだ」 「嘘じゃないわ」 「嘘だ。パパのおちんちんをしゃぶったっていったな。でも、それだけじゃないんだろう。ここをパパに触ってもらったんだろう?」  尖った乳首──指の腹で押し潰す。小さな悲鳴。 「こんなふうにしてもらったんだろう?」 「パパはそんなこと、しないわ」 「嘘だ。本当のことをいえよ、まゆみ。パパにここを舐めてもらったんだろう? 実の父親にオッパイ舐められて、まゆみは濡れてたんだ」 「違う。パパはなにもしなかったの。ただ、わたしにおちんちんを触らせてキスさせただけ」 「パパに縛られたんだろう? だからまゆみはこういうのが好きなんだ。だから、縛られただけでいやらしく濡れるんだ」  言葉──頭の中で増幅していく。制御できない感情がふくらんでいく。ジーンズに押さえつけられた股間──破裂しそうだった。 「稔、もうやめて。パパのこと、それ以上いわないで」 「だったら、本当のことをいえよ、まゆみ。パパにおまんこ舐めてもらったんだろう。気持ちよかったんだろう?」 「そうよ、気持ちよかったわ。パパはわたしにだけは優しかったんだから。優しく舐めてくれたんだから」  まゆみは泣いていた。嘘か本当か──もう、どうでもよかった。まゆみの話──母さんの話を聞いているようだった。父さんにいじめられながら、父さんを愛していた母さん。母さんは父さんに愛されたかった──命令されたかった。まゆみのように。  まゆみの身体を持ち上げ、四つんばいにさせた──父さんが母さんにしていたように。高く突き出たお尻の丸み。掌を叩きつけた。鋭い音──まゆみの白い肌が赤らんでいく。  これだけで濡れるのか、弘美──父さんの声。覚えている──すべてを覚えている。 「稔、ぶつのはやめて……お願い」  まゆみが懇願する──母さんに懇願されているような気がする。 「パパにもこうされたんだろう? 縛られて、お仕置きされて、おまんこ舐められて、それで最後にはやられたんだ」  母さんはそうだった。 「ちが……う」 「そうなんだろう、まゆみ? パパにこうされたんだ。パパにこうされたかったんだ。そうだろう?」 「そうよ。パパにこうされたかったの。パパにいやらしいことされたかったの。まゆみは悪い子なの。いけない子なの。だから、パパにお仕置きしてもらいたかったの」  まゆみの声──母さんの声。 「パパはもういない。代わりに、ぼくがまゆみをお仕置きしてやる」  服を脱いだ。枕許に転がっていたヴァイブを手にした。濡れそぼったまゆみのあそこはヴァイブを苦もなく飲みこんだ。苦しげな呻き。いやらしく蠢く腰。まゆみの背が痙攣する。  母さんもそうだった──だからぼくは父さんを刺した。 「いったのか、まゆみ? だれがいってもいいっていったんだよ?」  嫉妬と怒り。母さんに命令するのはいつも父さんだった。母さんが見ているのはいつも父さんだった──ぼくじゃなかった。 「ごめんなさい、稔……まゆみ、悪い子なの。許して」 「罰だ。いいっていうまでぼくのをしゃぶってろ」 「はい、パパ」  パパ──まゆみは確かにそういった。ぼくは父さんになれたような気がした。  すべての感覚を奪いさってさらに高みにのぼろうとする快感──たった一度の射精。まゆみの中にぶちまけたときには、精も根も尽き果てていた。  まゆみの横に身体を投げ出した瞬間、計ったように電話が鳴った。 「はい?」 「クラブ・ローザでございます。お約束の七十分が間もなくでございますが、奴隷にお電話代わっていただけますでしょうか?」  七十分──あっという間に時間が過ぎていた。 「ちょっと待って」  まゆみは身動きが取れない。受話器を耳にあててやった。 「はい……はい。ちょっと待ってください」  まゆみがぼくを見た。受話器を遠ざけた。 「延長してもいい? じゃないと、わたし、今すぐ戻らないと」 「いいよ」  受話器をまゆみに近づけながら答えた。駅前の銀行──財布には余分な金が入っている。 「延長、入ります……はい。わかりました」  まゆみがうなずく。受話器を戻した。 「延長って、どれぐらい?」 「三十分。稔、縄、外してくれる? 手首が痛いわ」  縄を外す──まゆみの肌に残った痕。生々しく、物悲しい。 「凄かったね」  手首をさすりながらまゆみがいった。顔に浮かんだ微笑み──打ち解けたものにだけ見せる微笑み。このホテルで初めて会ったとき、別れたとき、今日、やってきたとき──まゆみの視線はいつも醒めていた。今は穏やかだった。 「死んじゃうかと思った。でも、酷いよね、稔」 「なにが?」 「わたし、稔は素人さんだと思ってた。縄の使い方も下手だし、この前はどこかおどおどしてたし……それなのに、これだもん。結構、SMやってるんでしょう?」 「まゆみとやったのが初めてだよ」 「嘘。言葉で奴隷をいじめるのって、結構年季がいるんだよ。パパのこと話したの、初めてってわけじゃないけど、あそこまで喋らされたの、初めてだもん。それも、稔みたいな若い子相手に。もし、本当に今までSMしたことないんなら、稔、凄い才能の持ち主」  SMの才能──笑えそうな言葉。でも、笑えなかった。  まゆみを抱き寄せた。まゆみは逆らわずに身体を預けてきた。 「今度はぼくが話してもいいかい?」  まゆみの身体──乾いて、気持ちがいい。もっと強く抱きしめたかった。強く、骨が砕けるぐらいに。まゆみと父親の話を聞いていたときの激情──どこかに消え去った。代わりに現れたのは、泣きたくなるほどのいとおしさだった。 「いいわ。話して」 「この傷のこと、覚えてる?」  まゆみの手を脇腹の傷に触れさせた。 「包丁で切腹したときの傷だよね」 「切腹する前、ぼくはその包丁で父さんを殺したんだ」  まゆみの筋肉が強張るのがわかった。 「こんな話、聞きたくない?」 「興味あるよ。話して」 「まゆみはパパが好きだった……ぼくはきっと母さんが好きなんだ」  抑えようのない欲望──まゆみに知ってもらいたい。ぼくがまゆみと父親のことを知ったのと同じように。 「ぼくは母さんが好きだった。幾つになっても、母さんの胸に顔を埋めて眠りたかった。母さんをいじめる父さんが憎くてしようがなかった」 「いじめるって、稔のお父さん、お母さんを殴ったりしたの?」 「父さんはサディストだったんだ」遠い日の記憶──声が震える。「毎晩、嫌がる母さんを縛って、いやらしいことをしていた。ぼくはそれを覗き見してた」  まゆみの強張った筋肉から力が抜けていく。まるで、ぼくの腕からすり抜けようとしているみたいに。ぼくは力を込める──まゆみが逃げ出さないように。 「そっか……やっぱり、稔、才能あったんだね」 「自分の部屋で寝てても、母さんの悲鳴が聞こえてくるんだ。眠れなくなって、寝室を覗きにいったよ。毎晩」 「興奮した?」 「……たぶん」  熱に浮かされたときのような浮遊感と寒気──水槽の中にいるような感覚。ぼくはぼうっとしながら、父さんと母さんの営みを見ていた。覚えてはいない──でも、股間は勃起していたはずだ。 「母さんをいじめる父さんが憎かった。いじめられる母さんを見て興奮する自分が憎かった」 「それで、お父さんを刺しちゃったのね……最初から切腹する気だったの?」  首を振る──そんなつもりはこれっぽっちもなかった。 「母さんのために父さんを殺したのに、母さんはぼくから逃げようとした。縛られた身体で、必死になってぼくから遠ざかろうとしてた。目なんか吊りあがっちゃって……化け物を見るような目で見られたよ」 「可哀相だね、稔」  まゆみの身体が反転する。まゆみの目──醒めてはいない。だけど、さっき見せてくれた暖かみも薄れているような気がした。 「横になって、稔。舐めてあげる」 「パパにしてやったように?」 「馬鹿」  まゆみの舌がペニスに絡みつく。目を閉じる──幸福な気分、それに不安。まゆみが与えてくれる快感に身を委ねようとしてもなかなかできなかった。  まゆみはぼくの精液を飲み下した。  ──普通はここまでしないよ。稔は特別だからね。  ふたりでシャワーを浴びた。一緒に服を着た。延長時間がそれで終わった。まゆみが店に電話をかける──事務的なやりとり。まゆみは受話器を置くと、ぼくに手を差し出す。 「お金。延長は一万五千円だから、全部で四万五千円ね」  財布から金を取り出す──胸が痛んだ。 「七十分の他にコースはないの?」 「百二十分ていうのがあるわよ。料金は五万円。あとね、奴隷借りきりコースっていうのがあって、一晩、奴隷に好きなことができて、こっちは十二万円」 「今度、まゆみを借りきろうかな」 「そんなもったいないことやめなよ。そんなことしなくても、稔には最高のサーヴィスしてあげる」  ぼくの欲しいもの──サーヴィスなんかじゃないことだけはわかっている。 「ここ以外で会えないかな?」 「プライヴェートで?」  ぼくはうなずく──まゆみは首を振る。 「それはだめ」  にべもない答え。偽りの父娘ごっこ──ぼくはまゆみを手に入れたと思った。母さんを手に入れたと思った。ただの思い過ごしだった。 「わたし、お金の絡まないエッチ、したくないの」 「パパのために取っておくってわけ?」 「違うわ……でも、そうなのかもね」 「ぼくはまゆみのパパの代わりになれない?」 「だって……」  まゆみがぼくの顔を見た。乾いた目──初めて会った時とはどこかが違う。それでも乾いている。その目が答えをくれた。 「わたしと稔って、似すぎてるのよね。稔はわたしの弟かな。パパにはなれないわ」  死刑を宣告されたような気がした。      9  バイトに行って、五反田へ──日課になった。七〇分コースをやめて一二〇分コース。貯金は目減りしていく。最近付き合いが悪いじゃねえか──上田たちに嫌味をいわれる。ぼくの頭の中にあるのはまゆみだけだ。  まゆみは本名じゃない。  ──まゆみに麻衣でしょ、ミサ、桃子、恵。うちの女の子はね、みんな頭文字がMになる名前なの。マゾのM。馬鹿みたいよね。あ、稔も頭文字、Mだね。  まゆみの本当の名前が知りたかった──まゆみは教えてくれなかった。  まゆみはなんでもしてくれる。ぼくの小便を飲んでくれる。ぼくの尻の穴を舐めてくれる。あそこにヴァイブを入れたまま、お尻の穴でぼくを受け入れてくれる──最高に気持ちがいい。  ──他のお客さんには絶対しないよ、ここまで。  まゆみはいう。ぼくは信じる。それでも、ぼくの渇きは癒えない。まゆみは弟に接するようにぼくに触れてくる。  ──ねえ、稔。毎日会いにきてくれるの、嬉しいけど、お金はだいじょうぶ?  だいじょうぶだとぼくは答える。貯めた金があるのだ、と。そのくせ、まゆみがプライヴェートで会おうといってくれるのを期待している──かなわぬ望み。ぼくは毎晩、まゆみの乾いた肌に触れている。でも、まゆみの心に触れることだけはできない。触れることができたのはあの時だけだ。まゆみの父親──ぼくの父さんに成り代われたほんの一瞬だけ。 「まゆみ」ぼくは聞く。「もし、パパみたいな人が客できたらどうする?」 「この仕事やめて、その人についていくよ、きっと」  まゆみは無邪気に答える──ぼくは一気に百歳も年を取ってしまったような気分になる。 「そうしたら、ぼくはどうなる?」 「だいじょうぶよ。いい子、紹介してあげる。わたし、けっこうこの仕事長いから、知ってるの。わたしみたいな女の子。命令されるのが好きな子、いっぱいいるんだから」  それじゃだめなんだ──喉でつかえる言葉。悲しみがぼくの口を塞ぐ。まゆみはぼくのことをこれっぽっちもわかっていない。ぼくがまゆみのことをわかっていないのと同じように。  ──稔、いやらしいこと命令して。  まゆみがいう。すると、ぼくは悲しみを忘れる。  カズから買った大麻──まゆみと別れて部屋に戻ってくると、ぼくは必ず大麻の煙を吸い込んだ。膨張した感覚の中、ぼくは妄想を弄ぶ。  父さんが母さんを縛っている。いつしか、母さんの顔がまゆみの顔に変わっていく。まゆみをいたぶる父さんの背中──包丁を振りおろす。振り向いた父さんの顔──まゆみの父親の顔に変わっている。ぼくはまゆみの縄を解く。まゆみはぼくを突き飛ばして、父親の死体にすがりつく。悲しみが胸一杯に広がっていく──まゆみのためにやったのに。手に握った包丁。自分の腹に突きたてる代わりに、まゆみの背中に突き刺す。傷口から溢れだす血。口をつける。まゆみの血を吸いつくす。ぼくはやっと渇きから解放される。干からびたまゆみの身体──なかにぼくの赤ん坊がいる。ぼくと慶子さんの赤ん坊──ぼくと母さんの赤ん坊。赤ん坊は虚ろな目でぼくを見上げる。赤ん坊はぼくになる。  妄想が終わるのは決まって明け方だ。くたびれきって布団に潜り込む。数時間の眠り。そして、バイト先から五反田へ向かう日課がはじまる。  まゆみと知り合って一週間。身体が持ちそうにもなかった。まゆみに会わずにもいられなかった。ぼくはバイトをやめた。  銀行の預金残高は五十万を切った。まゆみに会いつづけるためには、金を稼がなければならなかった。      10  カズ──この前と同じ場所にいた。この前と同じ連中と一緒に。 「稔さん! また、葉っぱですか?」  首を振る。 「こないだ買ったのがまだあるよ」 「じゃ、他の用っすか?」  もう一度、首を振る。 「仕事ないかな、カズ。金がいるんだ」  カズの顔が曇る。 「おれらも今、金欠なんっすよ」 「そっか……もし、美味しい話があったら、連絡してくれよ。おれ、なんでもするから」 「わかりました。ぜってえ見つけます。おれ、稔さんに助けてもらったこと、忘れてませんから」  カズは話し足りなそうだった。ぼくは気づかない振りをして背を向けた。まゆみに会いにいく時間──一分でも早く、まゆみの顔が見たかった。  五反田駅前の電話ボックス。いつものようにクラブ・ローザに電話をかける。いつもと同じ手順でまゆみを指名したいと告げる──返事はいつもとは違った。 「申し訳ございません。まゆみは本日、おやすみをいただいておりまして……」 「水曜日はいつも休みってことですか?」  ──おやすみは日曜だけ。休みたいって思ったことないのよ、わたし。  まゆみはそういっていた。 「いえ。本日は少々体調が優れないという連絡がありまして。他の奴隷はいかがでしょう? 当店では、まゆみ以上に従順な奴隷を多数ご用意いたしておりますが」 「じゃあ、今日はやめにするよ」  電話を切って、その場にしゃがみこんだ。まゆみとぼくを結ぶ細いライン──クラブ・ローザ。まゆみが店を休めば、ぼくにはまゆみと連絡を取るすべがない。まゆみの携帯の番号どころか、ぼくはまゆみがどこに住んでいるのかさえ知らない。  目の前に闇が広がっていた。 「稔じゃねえか。こんなとこでなにやってんだ?」  それが自分にかけられた声だと気づくまでに時間が必要だった。電話ボックスの壁にもたれてしゃがんだまま、ぼくは視線をあげた。 「上田さん……」 「上田さん、じゃねえよ、稔。一言の挨拶もなしにやめちまいやがってよ。おまえが抜けた分、こっちにしわ寄せがきてるんだぞ」 「すみません」  立ち上がる。上田の脇をすり抜ける──肩を掴まれた。 「おまえ、なんだよそれ。真っ青な顔してしゃがみこんでるからよ、心配して声かけてやったのにシカト決めるつもりか、稔?」 「そんなんじゃないですよ」  いつもなら滑らかに口をでる嘘。それを口にするのも億劫だった。 「だいたいよ、おまえ、なんだって五反田なんかにいんだよ? 新しいバイト先でもあんのか? おい、もしかしてあのSMクラブに電話してたんじゃねえのか? そうだろう? おまえ、すかした顔してたくせによ、かなりはまっちゃってんだろう、SMによ? どうなんだよ、稔? へらへら笑ってねえで、なんかいってみろよ」  嫌なことがあると、ぼくは笑う。笑いたくなんかなかった。 「うるせえな」  上田が絶句した──すぐに、顔に怒気がこもる。 「いま、なんつった、稔?」 「そこ、どけよ。クソ野郎」 「おまえ──」  最後まで喋らせなかった。まゆみへの悲しみ──手に入れることのできないものへの悲しみ。なにかをぶち壊すことで紛らわせたかった。  顎にめがけて頭突き──上田が両手で顔を被う。髪の毛を掴んで、電話ボックスの壁に顔を叩きつけた。上田の口から悲鳴が漏れる。脇腹を殴った。うずくまってくるところを蹴り倒した。血まみれの上田の顔──白い歯がアスファルトの上に転がっていた。野次馬が集まってくる。上田の顔を踏みつけた。 「あんたはもう先輩でもなんでもないんだ。馴れ馴れしく声をかけてくるのはやめろ。次は殺すぞ。わかったか?」  上田がうなずいた。野次馬をかき分けて、ぼくはその場から逃げ去った。  血が沸騰している。脳味噌が溶けかかっている。手の甲と額に鈍い痛み──上田を殴った証し。  人を殴ったのは数年ぶりだった。興奮がおさまらなかった。山手線に飛び乗って、空いた座席に座った。頭を抱えて興奮が静まるのを待った。  上野で電車を降りた。アメ横──アーミーショップでナイフと伸縮式の警棒を買った。上田が仕返しにくるかもしれない。殴られたら仲間を連れてってやり返すんですよ──いつか、カズがいっていた。  ナイフの刃に触れながら、部屋でマリファナを吸った。いつもの妄想の代わりに浮かんでくる血まみれの上田の顔。興奮はとっくに消えた──悲しみだけが、いつまでたっても消えなかった。      11 「身体の調子はどう?」 「調子って?」 「昨日、休んだだろう?」 「ああ。ちょっと身体がだるかっただけ。稔、心配してくれたんだ?」 「あたりまえだろう」  拗ねてみせる──まゆみは微笑んでいる。 「ごめんね。稔、わたしの電話番号知らないし、わたしも稔の知らないもんね」 「教えてよ」 「だめ。稔の電話番号、教えて。なにかあったら、わたしの方から電話するから」  頭の中に広がる妄想──昨日、まゆみはだれかと会っていた。父親に似ただれかと。 「携帯は?」  大振りなバッグ──黒いグッチ。まゆみは手帳を取りだし、ぼくの電話番号をメモする。 「携帯は持ってないんだ」  黒いグッチ──自分で買ったのか。だれかにプレゼントされたのか。 「買いなよ。携帯あると、便利だよ。|PHS《ピツチ》でもいいから」 「電話かけてくれるの?」 「もちろん」  胸の奥から暖かい感情が広がっていく──妄想が消える。  微笑みを浮かべながらまゆみが服を脱ぐ。 「シャワー浴びる? それとも先にする?」  考えるまでもない。赤い縄でまゆみを縛り、ぼくはまゆみの父親になる。 「昨日はどんな悪いことをしてたんだい、まゆみ? パパに正直にいってごらん」 「まゆみはいけない子なの。パパ、ごめんなさい」  物悲しい真似事──それでも、ぼくのペニスはいきり立ち、まゆみのあそこは濡れている。そして、まゆみが耐えきれなくなったように叫ぶ。 「お願い。いやらしいこと、命令して」  百二十分。あっという間に時間は過ぎていく。シャワーを浴び、服を着、お金をわたす。まゆみが先に部屋を出る──頭の中で十まで数えてドアを開ける。部屋のすぐ脇のエレヴェータ──ドアが閉まったところだった。まゆみの目につかないように隠しておいたナイフと警棒を腰にさして、部屋を出た。  フロントで金を払い、外に出る。駅に向かって走る。角を曲がって立ち止まる──まゆみの後ろ姿。ベージュのパンツに黒いジャケット、黒いグッチ。女子大生やOLと変わらない。ただし、グッチの中には縄とヴァイブとイチジク浣腸が入っている。  まゆみの後を尾《つ》ける。まゆみは気づかない。路地を二度折れ、大通りに出る。マンション風の雑居ビル。まゆみはその中に姿を消した。もう一度、頭の中で数を数えてマンションの中に入った。上昇中のエレヴェータ。階数表示のランプが五階でとまった。入口に戻り、郵便受けを確認する。  五〇一──田中商事。  五〇二──今坂。  五〇三──郵便受けにはなにも書かれていなかった。  五〇一か五〇三がクラブ・ローザ。間違いないだろう。  マンションを出て、通りを渡った。斜向かいにコンビニの明かり。雑誌コーナーからまゆみが入っていったマンションの入口を見張ることができる。  一時間の間に、まゆみと同じ年代の女が三人、マンションを出入りした。化粧が濃いわけでもない。派手な服を着ているわけでもない。それでも、彼女たちがクラブ・ローザの女の子だということはわかった。通りを歩いている女たちとはなにかが違う。なにか──言葉にできないなにか。まゆみと似ているようで似ていない。  一時間半。まゆみが出てきた。コンビニを出て、後を尾ける。  同じ路地。同じ角。尾けてきたときと同じ道をまゆみは歩く。途中、携帯のベルが鳴った。グッチから携帯を取り出し、まゆみは話をはじめる──嫉妬が渦巻く。ぼくの知らないだれか。そいつはまゆみの携帯の番号を知っている。  電話はすぐに終わった。ホテルのすぐそばまで来ていた。ぼくがまゆみを縛るホテル。同じホテルで、まゆみは他の客に縛られる。  嫉妬──気が狂いそうな嫉妬。毛穴からなにかが噴き出してきそうだった。  まゆみがホテルに入っていく。無力感と嫉妬に苛まれて、ぼくは路地に立ち尽くす。  六十分が経つ前にまゆみがホテルから出てきた。苛立っているような顔。ぼくには気づかずに通り過ぎる。  駆け寄って声をかけたい──突然湧き起こった感情。じっと耐えた。他にやることがある。  十分。男が出てきた。中年になる寸前のサラリーマン。だらしなく弛緩した顔。まゆみを縛っていた男──それしか考えられない。  後を尾けた。人通りの少ない、薄暗い路地。腰に差した警棒。ナイフを使え──頭の中でだれかが囁く。耳を塞いで警棒を抜いた。無防備な男の後頭部──警棒を叩きつけた。  鈍い音。男の膝が崩れる。右手を殴られた個所に当て、男が振り返る。顔に驚愕の色が張りついている。その顔に警棒を叩きつける。鈍い音。鼻血が飛び散る。アスファルトに染みができる。警棒を握った右手から痺れが全身に広がる。四つんばいになって呻く男──背後にまわって股間を思いきり蹴りあげた。まゆみの尻の穴に入れたに違いないペニス。切り刻んでやりたかった。  走って大通りへ。通りがかったタクシーをつかまえた。渋谷で降りた。カズを探した──見つからなかった。朝まで渋谷の街をぶらついた。ぼくがまゆみを縛るのと、同じホテルの同じ部屋。そこで、ぼくの知らないだれかがまゆみを縛っている姿を想像しながら。      12  携帯を買った──だれからも電話のかかってこない携帯を。  貯金がなし崩しに消えていく。金がなくなれば、まゆみに会うことができなくなる。焦りが少しずつ大きくなる。  五反田駅前。いつものボックスじゃなく、携帯で電話を入れた。ホテルへ向かった。  路地に警官の姿──背筋が強張る。昨日、男を叩きのめした場所にロープが張られていた。 「ちょっと、君」  警官が声をかけてきた。鼓動が跳ね上がった。ポケットの中のナイフと腰に差した警棒。警棒には男の血がついている。 「ここ、よく通るのかい?」 「たまにですけど……なにかあったんですか?」 「昨日、ここで人が襲われてね。昨日の夜、ここを歩かなかった?」 「昨日は歩いてないです」 「そうか。申し訳ない。行っていいよ」  身体検査はされなかった。ナイフと警棒は見つけられなかった。しばらく歩いて振り返った。  警官がじっとこっちを見ていた。  いつもの百二十分。まゆみは苛々していた。警官に職務質問されたといって怒っていた。グッチの中を見られた。ヴァイブと縄──これはなんだと詰問された。逮捕してもいいんだぞと脅された。  ──こんなとこで人を襲うなんて、どこの馬鹿よ? いい迷惑だわ。  ぼくがやった。まゆみを縛るやつはみんな、おんなじ目にあわせてやりたい──いえなかった。代わりに携帯の番号を教えた。まゆみはグッチから取り出したアドレス帳にぼくの番号を控えた。  まゆみが先に部屋を出る。後を尾けようとして──足が動かなかった。警官の声が頭の中で谺《こだま》していた。  渋谷へ──カズを探す。今度は簡単に見つかった。 「稔さん、具合悪いんじゃないっすか? 顔色、悪いっすよ」 「ちょっと寝不足なんだよ。たいしたことじゃない。それより、カズ。このまえ頼んだ仕事の件、いい話ないか?」 「ヤバい仕事ならいくつかあるんですけど」 「なんでもやるよ。金がいるんだ」 「タケシって覚えてますか?」  覚えていた──間違えて鑑別所に入ってきたお坊ちゃん。色が白くて、可愛い顔立ちをしていた。性欲の溜まりまくった悪ガキたちの玩具にされて、いつの間にか本人もいっぱしの悪ガキになっていた。 「いま、あいつ、新宿でホストやってるんすよ」 「ばばあたちには人気がありそうだもんな」 「そうなんすよ。デブのばばあコマして、ベンツ乗り回してますからね」 「それで、タケシがどうした?」 「今、狙ってるばばあがいるらしいんだけど、なかなかうまくいかないってボヤいてるんすよ。こないだ、一緒に飲んだんですけどね。そのばばあ、みんなで輪姦《まわ》して、写真撮って、金、巻き上げようかって」 「だいじょうぶなのか?」 「なんか、ホストクラブ来ておまんこ濡らしてるくせに、いいとこの奥さん気取ってる馬鹿らしいっすから、股座《またぐら》おっぴろげてひいひいいってる写真撮っちまえばこっちのもんらしいっすよ」 「いくつぐらいのばばあなんだよ? 金、持ってんのか?」 「四十ちょいって話です。自由が丘で店やってるらしいんで、金もあるはずだってタケシ、いってました」  考える──自由が丘。母さんがいる。母さんのそばに近づきたくはなかった。 「おまえもやるのか、カズ?」 「稔さんがやるなら、仲間誘ってやりますよ」  それでも金がいる。金がなくなれば、まゆみに毎日会うことができなくなる。 「やろう」  カズが嬉しそうに笑った。 「じゃ、すぐにタケシと連絡取りますから」  カズに携帯の番号を教えた──カズの携帯の番号を教わった。  カズと別れ、五反田に向かった。  コンビニの雑誌コーナー。レジには昨日とは違う店員が立っている。漫画雑誌を手に取りながら、目の前の通りを見た。午前一時を過ぎている。人通りはほとんどない。タクシーとトラックが走りすぎていく。自転車に乗った警官の姿──喉が渇く。  二時二十四分。マンションからまゆみが出てきた──髪の長い女の子と一緒に。雑誌を棚に戻し、コンビニを出た。  まゆみたちは駅とは反対の方向に歩いていた。道路を隔てたまま後を尾けた。まゆみがタクシーに乗ったら諦めるんだ──何度も自分にいい聞かせた。  髪の長い女の子が後ろを振り向き、手をあげた。タクシーが停まった──歯噛みしながら立ち止まった。女の子がタクシーに乗りこむ。まゆみ──手を振るだけで、後に続く気配がなかった。ドアが閉まり、タクシーが走り去る。まゆみは手を振るのをやめて歩きはじめた。  ため息──気を取り直して歩いた。  いくつもの路地、いくつもの曲がり角。十分以上歩いた。まゆみは後ろを振り返らない。暗い道を確かな足取りで歩いていく。何度も後ろを確かめながら、ぼくはまゆみの後を尾けていく。警官の姿は見えない。  白金台。瀟洒なマンション。まゆみが姿を消した。入口まで走った。住人以外は入れない仕組みになっていた。せめて郵便受けだけでも見たかった。まゆみの住んでいる部屋、まゆみの本名──知りたかったことがいくつかわかるかもしれない。ドアを何度か揺さぶって諦めた。管理人かだれかがやってくるのが恐かった。  人目を気にしながら、マンションの周囲を歩いた。真っ暗な窓、明かりが漏れてくる窓。真っ暗な窓が明るくなるのを期待していた──それがまゆみの部屋だ。だが、ぼくの期待は裏切られた。全ての窓を一目で見ることはできなかった。  まゆみの住むマンションを見上げながら途方にくれた。こんなところまで後を尾けてきてなにをしたかったのか──これっぽっちもわからなかった。尾行されていることに気づいたら、まゆみはきっと怒りだす──わかっていた。それでも、後を尾けずにいられなかった。  自販機で缶コーヒーを買った。近くの電信柱にもたれながら、マンションを見ていた。明かりが漏れてくる窓を、ひとつひとつ、見ていた。どんな変化も見逃したくなかった。まゆみとの繋がりを失いたくなかった。 「どうしてこんなことになっちゃったんだ?」  呟いてみる──答えはどこにも見つからない。  頭の中に広がる妄想──ぼくの知らない男とまゆみの暮らし。雨が降ればいいのにと思った。雨が降れば、制御不能な感情も落ち着くかもしれない。  空を見上げた──弱々しい星の光。雨が降る気配はなかった。      13  丸二日──部屋から一歩も出なかった。テーブルの上に携帯電話を置いて、それを見つめて過ごした。カズからの電話を待っていた。それ以上に、まゆみから電話がかかってくるのを待っていた。  ──稔、どうしたの? 二日も会いに来ないなんて、病気にでもなったの?  まゆみに会いに行きたかった──会うのが恐かった。まゆみと二人だけの時を過ごした後、自分がなにをするのかがわからなかった。最初はまゆみの後を尾けて、まゆみの客だった男をぶちのめした。それから、まゆみの家を突き止めた。次は? 次はなにをしてしまう?  携帯電話はうんともすんともいわなかった。  まゆみを想い、まゆみを恨んだ。まゆみのこと以外、考えられなかった。気が狂いそうだった。葉っぱを吸っても、なにも変わらなかった。  携帯が鳴った──慌てて手に取った。 「稔さんですか?」  カズだった。ため息が漏れた。 「明日、やることになりました」 「何時にどこに行けばいいんだ?」 「自由が丘のロータリーんとこに、〈トラヴィス〉っていうちょっと気取ったショットバーがあるんすよ。そこで七時に。でも、稔さん、さすがっすね」 「なにが?」 「ふつう、なんかビビっちゃって、どういうふうにやるんだ、とか聞きますよ。なのに、稔さん、どこに行けばいいんだって聞くだけだもん。凄いっすよ」 「四十過ぎたおばさんを輪姦すだけだろう?」 「だから、強がりでそういうこというやつ、いっぱいいるんすけどね、稔さんは違うんだよな。鑑別所出てから、真面目にやってたらしいけど、ほんとはおれらの知らないところでぶいぶいいわせてたんじゃないですか?」 「真面目に働いてただけだよ」  電話を切った。携帯をテーブルの上に置いて、待ちつづけた。まゆみからの電話は、結局かかってこなかった。 〈トラヴィス〉。カズとカズの仲間が四人、それにタケシ。他に客はいなかった。 「稔さん、久しぶりです」  タケシが立ち上がって頭を下げた。一目で金がかかっていることがわかるスーツ。真っ赤に血走った目。鑑別所で肛門を犯されて泣きじゃくっていたときの面影はどこにもなかった。  ビールのグラスがまわってきた。再会の乾杯と近況報告。たいして飲んでるわけでもないのに、みんな興奮していた。 「それで、この後の段取りなんすけど、稔さん」  頃合いを見計らったというように、カズが口を開いた。 「どういうふうにやるつもりなんだよ?」 「そのばばあ、九時に店を閉めるらしいんっすよ。女の従業員がいるらしいんですけど、そいつ帰しちゃって。で、ばばあがシャッターおろすときに、タケシが声かけて、店ん中に入ります。で、おれたちがすぐに押し入って、タケシとばばあを縛って、やっちまうって感じでどうっすか?」  段取りもクソもない、行き当たりばったりの計画──どうでもよかった。面倒くさいことをとっとと終わらせて、少しでも早くまゆみに会いに行きたかった。 「簡単にいうけど、叫ばれたりしたらどうするつもりなんだよ?」  とりあえず口にしてみただけの質問──カズが助けを求めるようにタケシを見た。 「おれ、そのばばあをひっかけるために何回か店に行ったことあるんですけど、ちょっと外れた住宅街にあるんです。九時すぎると、あんまり人歩いてないし、近くに交番もないし、店の造りもしっかりしてるんで、さっとシャッターおろしてドア閉めちゃえば、だいじょうぶだと思うんですよ」 「なんて店?」 「マサキっていうんですけどね。かなり高いもんしかおいてなくて、びっくりしましたよ」  グラスを落としそうになった。 「店の名前、なんていった?」 「マサキです。稔さん、知ってるんですか?」  正木稔──ぼくの名前。正木弘美──母さんの名前。母さんは自由が丘でアクセサリーショップをやっている。  半分以上残っていたビール。一気に飲み干して答えた。 「いや、そんな店、知らない」  背筋が震えた──それだけだった。  水槽の中にいるような気分。視界がぼやけている。なんとなく息苦しい。何度も目を擦り、深呼吸した。 〈マサキ〉。高級マンションの一階。上品な看板とエントランス──半分おりたシャッターも、普段目にするやつよりは上品で造りも頑丈そうだった。 「準備いいっすか?」  カズが囁く。ぼくはうなずく。手にしたマスクを確かめる。プロレスのマスク。カズが用意してくれた。  白いスーツを着た女が店の中から現れた。顔はよく見えない──ぼくは水槽の中にいる。それでも、それが母さんだということはすぐにわかった。  別の場所で待機していたタケシが現れた。馴れ馴れしく声をかけるタケシ。驚く母さん。少しばかりのやりとり。タケシがちらりとこっちを見た──母さんの背中を押して店の中に入っていく。 「行くぞ」  カズの声。聞こえる前に走っていた。マスクを被りながら。  嫌がる母さんをタケシが抱きすくめていた。母さんの顔が驚愕に歪む──カズがナイフを突きつける。 「な、なんだよ、おまえら?」  タケシのくさいセリフ──殴り倒す。痛みより驚愕に目を剥きながらタケシが床に崩れ落ちる。脇腹を蹴る。 「縛りあげろ」  カズの仲間に命じる。 「あ、あなたたち、なにを──」 「黙れ! 口を開いたらぶっ殺すぞ、ばばあ」  カズが凄む。母さんが口を閉じる。久しぶりに見る母さん──化粧が濃くなっていた。それ以外は三年前とちっとも変わっていなかった。慶子さんの葬式で会ったときと、ほとんど変わっていなかった。  だれかがシャッターを閉めた。タケシのうめき声。ぼくたちの荒い息遣い。葉っぱを吸ったときのように聴覚が敏感になっている。 「お、お金ならあげるから、酷いことはしないで」  耐えきれなくなって母さんが口を開く。 「うるせえ。口を開くな!」  カズのナイフ──母さんの喉に押しつけられた。 「このばばあも縛っちまえ」  ぼくはいう──昔見た光景がよみがえる。父さんに縛られた裸の母さん。  カズの仲間がビニール紐で母さんの自由を奪っていく。  喉が渇いた。まゆみを縛るときのように喉が渇いた。母さんがまゆみに見えた。 「こっちに来い」  母さんを引き寄せる。母さんの目は、ぼくが手にしたナイフに釘づけになっていた。そのナイフを使って母さんのスーツを切り裂いた。 「ばばあのくせに、けっこう、いい身体してんじゃねえか」 「やめてっ!」 「騒ぐんじゃねえよ」  ナイフの刃先を母さんの腹に押しつけた。にじみ出る血──母さんが唇を噛み締める。ブラとショーツを切り裂く。ジーンズの下、固く勃起したものがぼくの興奮をさらに煽りたてる──残酷な興奮を。  母さんを抱き寄せた。耳元に囁いた。 「昔みたいに感じなよ。父さんに縛られたときのようにさ」  母さんがぼくを見る。驚き、そして絶望。 「稔なのね」  ぼくにしか聞こえない声──母さんの身体から力が抜けた。母さんの額に汗が浮かんでいた。水槽の中から、ぼくはその汗を見ていた。 「凄かったっすね。ばばあのおまんこなんて冗談じゃねえって思ってたけど、病みつきになりそうっすよ」  吊り革に掴まりながら、カズが嗤った。 「そうだな」  適当に相槌を打った。ついさっきまで、みんなで母さんを輪姦していたというのに、まるで実感がわかなかった。水槽の中で夢を見ていたようだった。切り裂かれたスーツをまとわりつけた母さんの淫らな身体とカメラのフラッシュの光──フラッシュが焚かれるたびに母さんの汗が光った。母さんは抗わなかった──父さんに縛られていたときと同じように。母さんは一言も声をださなかった──それだけが父さんのときとは違った。 「でも、稔さん、凄いっすよ。尻の穴に突っ込んで……あそこまで写真に撮られたら、あのばばあ、素直に金出すしかないっすもんね」  財布の中に五万円。〈マサキ〉の売り上げからくすねたのを足した金。レジスターには十五万弱の金が入っていた。殴られ損のタケシに五万。残りをみんなで分配した。数日後、カズが写真を母さんに送る。その時に、また金が入る。  金──まゆみに会いたかった。まゆみに会うために作った金だった。 「でも、あのばばあもたいしたもんっすよね。声は出さなかったけど、びしょびしょに濡れてたじゃないっすか」  精液にまみれた母さんのあそこ──濡れていたのかどうかはわからない。楽しげなカズの声──耳障りだった。 「稔さん、この後どうします? 他の連中とは、一時間後にいつもんとこで待ち合わせてるんですけど」 「行くところがあるから」  電車が目黒の駅についた。ドアが開き、客が降りていく。 「そりゃないっすよ、稔さん。今日ぐらい、ぱっと飲みましょうよ。クスリも用意してるんですよ。葉っぱだけじゃなく、エスもコークもありますから」  耳障りなカズの声──ポケットのナイフを取り出した。 「カズ、おまえ、少しうるさいよ」  折り畳まれた刃を開き、カズの身体に押しあてた。 「稔……さん?」 「さっきのばばあな、おれのおふくろなんだよ。おまえだって、自分のおふくろのおまんこがどうだこうだっていわれたら腹が立つだろう?」  腹が立ったわけじゃない。カズの声が耳障りだっただけだ。  カズが腹を押さえてうずくまった。 「おい! なにやってるんだ!?」  背後から声が聞こえた。ぼくは走りだした。      14  五反田。目黒の駅から歩いてきた。電車に乗るのは恐かった。携帯でクラブ・ローザに電話をかける──Sの一二〇分コースを頼みたいんだけど。いつもの男といつものやりとりを済ませ、いつものホテルに向かった。  ジーンズの左腿の辺りにカズの血の染みがついていた。隠そうという気は起きなかった。だれも染みには気づきそうもなかった。 「なんか、久しぶりって感じね」  まゆみはスカートを穿いていた。スリットの入ったミニスカート。流行のアイテム。まゆみのスカート姿を見るのは初めてだった。 「顔色悪いよ、稔。病気だったの?」 「心配してくれてた?」 「もちろんよ。もし、今日も来なかったら、電話しようと思ってた」  嘘──なぜかはわからない。でも、確信があった。まゆみはぼくに電話するつもりなんかなかった。まゆみが電話をかけるのは父親に似ただれか。それはぼくじゃない。 「まゆみ、お願いがあるんだけど」 「なに?」 「服を着てるまゆみを縛ってみたい」  まゆみが笑った。 「稔、そのうち絶対そういってくると思ってた。なんか、服着てた方が興奮するのよね」  まゆみの心──決して触れることはできない。まゆみは自分を叱ってくれるだれかを求めている。ぼくは甘えることのできるだれかを求めている。  泣きたくなった。涙は出なかった。  丁寧にまゆみを縛った。いつものようにベッドの上ではなく、椅子の上で。スカートを穿いたまゆみの脚──椅子の脚に縛りつけた。まゆみの声はいつもより早く濡れはじめた。 「稔、わたしに会えなくて寂しかった?」 「ああ、凄く寂しかった」 「どうして会いにきてくれなかったの?」 「まゆみが悪い子だからさ」 「そうなの。まゆみ、悪い子なの。だから、いっぱいお仕置きしてね。いやらしいこと、いっぱい命令してね」  まゆみが動けないことを確認して、ヴァイブのスウィッチを入れた。モーターの低い唸り。まゆみの内腿が波打った。 「この音を聞いただけで感じるの?」 「だって……」  ジーンズのポケットからナイフを取り出す。まゆみが目を開く。 「稔、ナイフなんかどうするの?」 「だいじょうぶ。傷つけたりはしないから」  ストッキングとパンティの布地を摘みあげ、ナイフで切れ目を入れる。濡れた襞が顔を覗かせる。 「み……のる……」  ヴァイブの先端を静かに突きたてる。襞がヴァイブに絡みつき、まゆみは根元まで飲みこんでいく。ヴァイブの代わりにナイフの刃をまゆみのあそこに突きたてる──目が眩むような欲望が頭をもたげる。 「まゆみ、ぼくのこと、好きかい?」 「好き……よ、稔。だから、いやらしいこと、いっぱい命令して」  まゆみは平気で嘘をついた。  まゆみのために母さんを犯した。まゆみのために母さんから金を盗った。ぼくの想いは永遠にまゆみには届かない。  ナイフの刃をまゆみの頬にあてがった。 「今日、こんなふうにして、母さんとやってきたんだ。前に話したろう? 父さんに縛られて、まゆみみたいに喜んでた母さん」 「本当に? お母さん、感じてた?」  まゆみは目を閉じている。眉間に皺が寄っている。快感を必死にこらえて、ぼくの言葉に反応している。  ジーンズを脱いだ。縮こまったままのペニスをまゆみの口にあてがった。 「母さんのお尻を犯してきた。まだ、母さんのうんちがついてるかもしれない。まゆみ、口で奇麗にしてよ」  まゆみが口を開ける。生暖かい舌が絡みついてくる。その瞬間、涙がこぼれ落ちた。 「まゆみ……パパの話、本当は作り話なんだろう?」  涙を拭いながら聞いた──まゆみはうなずいた。 「パパが好きだったのはほんとよ。パパにいやらしいことをされるの、いつも頭のなかで想像してた。でも、パパはわたしになにもしてくれなかった」 「ぼくは本当のことを話した……」 「知ってるよ。だから、稔にはサーヴィスしてあげるの。わたしと稔、似てるから」  まゆみを殺したい──ぼくには殺せない。永遠に届かぬ想いを抱いて、どこに行けばいいのかわからなかった。  百二十分。まゆみは部屋を出ていった。  ──明日も来るでしょ、稔?  ぼくはうなずいた。うなずくしかなかった。まゆみの残り香を胸一杯に吸い込みながら空虚なホテルの部屋に一人。  ベッドの脇に転がっていたナイフ──取り上げて、刃を開いた。両手でナイフを逆手に握り、振りかざす──振りおろす。ナイフの刃先はぼくの腹の皮膚の数センチ手前でとまった。  ナイフを放り投げ、ぼくはシーツに顔を埋めて泣いた。  初出誌    眩 暈 別册文藝春秋二二九号    人 形 オール讀物※■ src="kanma-99.png">年2月号    声   オール讀物※■ src="kanma-99.png">年5月号    M   オール讀物※■ src="kanma-97.png">年12月号  単行本 一九九九年十一月 文藝春秋刊 〈底 本〉文春文庫 平成十四年十二月十日刊