[#表紙(表紙2.jpg)] 馳 星周 生誕祭(下) 目 次  第二部(41〜53)  第三部(54〜81)  第四部(82) [#改ページ]   第二部      41  美千隆《みちたか》に電話する。美千隆はいつものホテルにいた。ことの顛末を話した。 「それで?」 「波潟《なみがた》の部屋で、葉巻の保存ケースの中から電話番号だけが書かれたメモを見つけました。それの写しを今、持ってるんです」 「すぐに来い」  美千隆の声が上ずるのを、彰洋《あきひろ》は初めて耳にした。  六本木から新宿まで、車を飛ばした。寝不足と覚醒剤の服用による体力の消耗。自らの行いが作用した心の消耗。  なるようになれ──今はそれしか考えられない。  美千隆の部屋は煙草の煙で澱んでいた。美千隆は短くなった煙草をくわえていた。 「見せてくれ」  挨拶はなし。労《ねぎら》いの言葉もなし。美千隆の目は落ちくぼんでいる──双眸はぎらぎらと輝いている。頬はこけていたが皮膚には赤みが差していた。美千隆は興奮している。 「これです」彰洋は電話番号の写しを美千隆に差しだした。「アルファベットは相手のイニシャルだと思うんですけど」  美千隆は写しをひったくるようにして彰洋から受け取った。食い入るように見つめた。 「ヒュミドールの中にあったといったな?」  ヒュミドール──記憶を探る。葉巻の保存ケースのことだと思い至る。 「そうです。鍵がかかっていて。葉巻の他にはその手帳があるだけで、不自然でした」 「よくやったぞ、彰洋。娘の方はだいじょうぶなんだろうな?」 「早紀ですか?」 「そうだ。このことを波潟に報告したりはしないだろうな?」 「だいじょうぶです」 「よし。これでなにかがわかれば、彰洋、おまえの今年の年収は億を越えるぞ」  体温はあがらない。だが、あがりそうな兆しはある。興奮している美千隆──その興奮が空気を伝わってくる。 「どうやって調べます? 間違い電話の振りをしてかけてみますか?」  美千隆が首を振った。 「そんな面倒なことをする必要はない。金があれば、たいていの手間は省略できるんだ」  美千隆は電話に手を伸ばした。電話をかけた。 「もしもし。清水さんかい? MS不動産の齋藤ですがね、ちょっと頼みたいことがあるんですがね」  美千隆の声は穏やかだった。だが、聞く者が聞けば、穏やかさの内に巧妙に隠された恫喝の気配を感じとることができる。 「電話回線の持ち主を知りたいんですよ。四、五十件あるんですけどね。調べてもらえませんか? お礼はさせていただきますよ……わかりました。じゃあ、これからファックスしますから。すぐに調べて、折り返しファックスしてくださいよ……今日は土曜だ? おれの知ったことじゃないでしょう、清水さん……じゃあ、お願いしますよ」  美千隆が電話を切った。表情が歪んでいる。 「NTTの職員だ。てめえのところの株で儲けたのに味を占めて、あちこちの株に手を出して大火傷《おおやけど》を負ってるところに、おれが助け船を出してやった。今じゃ、小金のために自分の会社の機密を他人に売り渡す」 「電話番号の相手がすぐにわかるんですか?」 「これだけの数だ、どのぐらいかかるかはわからないがな。おい、そこのファックスでこれを今からいう番号に送ってくれ」  彰洋は写しをセットし、美千隆が口にした番号に送信した。送信し終えた写しを丁寧にまとめて、応接セットの美千隆の向かいに腰をおろした。 「顔色が悪いな、彰洋」  美千隆がいった。 「昨日、眠れなかったんで……」  彰洋は言葉を濁す。美千隆の視線が横顔に痛い。 「波潟の娘を騙すのが心苦しかったか?」 「そういうわけじゃ……」 「おれには嘘をつかなくてもいい」  美千隆が腰をあげた。テーブルをまわりこんで、彰洋の横に腰をおろす。 「口八丁手八丁で客を捕まえてこいと教えたのはおれだからな。おれのところで働くようになってから、おまえ、嘘のつきどおしだろう? それまでは、どっちかっていうと馬鹿正直が取り柄のガキだったのにな」  彰洋は目を伏せた。 「おまえが辛いんだろうっていうのはわかってる。嘘をつく生き方をおまえに強要してるのはおれだからな。だから、彰洋、おれには嘘はつかなくていい。辛いなら辛いといっちまえ」  彰洋は顔をあげる。美千隆に視線を向ける。  美千隆の双眸からはぎらついた光が消えていた。代わりに穏やかな光が湛《たた》えられている。 「辛いですよ。だけど、それは……なんていったらいいのかな。嘘をつかなきゃならないからじゃないんです。おれは──」  彰洋は口を閉じて、言葉を探した。求める言葉はなかなか見つからなかった。美千隆が穏やかな眼差しのまま待っている。 「MS不動産でやってるときはなんでもなかったんです」彰洋は言葉を続けた。「自分の年には不相応なでかい金が飛び交ってて、たまにはその金を自分で動かしたりもして、辛いと思うことより、楽しいことの方が全然でかかった。だけど、波潟のところにいると、自分がなんでもないってことが身に沁みてわかってくるんです。なんでもないただのガキが、身のほども弁《わきま》えずに嘘をついてまわって、それでどうなるんだって……」  体温があがっていく感覚──口に出したい。出せない。美千隆に笑われたくはない。 「いいものを見せてやろうか、彰洋」  美千隆がいった。美千隆は笑っている。 「なんですか?」 「ちょっと待ってろ」  美千隆がまた立ちあがる。ベッドルームに消えていく。嬉々とした表情を浮かべて戻ってくる。筒状に丸めた大振りの紙を手にしている。 「これを見ろよ」  美千隆が紙をテーブルの上に広げた。なにかの設計図だった。彰洋は目を凝らした。縦横に走る無数の線──次第に形を取りはじめる。紙に描かれているのはビルの設計図だった。 「この物件は?」  美千隆に訊く。美千隆は満面の笑みを浮かべている。まるで、自分の玩具を自慢する子供のように。 「城だよ」  美千隆がいった。 「城?」 「そうだ。王国には城が必要だろう? これが、それだ。とりあえずは、東京に城を建てる。今のままの仮住まいじゃ恰好がつかないからな。気が早いと思うかもしれんが、知り合いの建築家に頼んで図面を引いてもらったんだ、高い金を払ってな。払った金の分だけ、やり甲斐も出る」  彰洋はもう一度設計図に目を通した。詳しいことはわからない。だが、それがモダンなデザインの近代的なビルであることはわかる。それほど大きくはないが機能的──建てるにはそれなりの金がかかる。それなりの土地が必要になる。 �城�という言葉が疲弊していた脳細胞に刺激を与えた。 「どこに建てるんですか?」 「波潟の家の跡だ。波潟を潰すっていうことは、あいつの財産を根こそぎいただくっていうことだからな。当然、あいつの持ってる土地もおれのものにする。あのだだっ広いだけで趣味の悪い家を取り壊して、おれたちの城を建てるのさ」  城──王国。単純すぎる。だが、体温は確実にあがりはじめる。北上地所の本社ビル。社長室に腰を据える波潟は確かに王様だった。殿様だった。波潟は社長室の窓から東京を睥睨《へいげい》する。ここから見える土地の三分の一は自分の手を通ったものになると豪語する。  城──美千隆と睥睨する東京。二十そこそこのガキが、何十万、何百万という人間たちを見おろして微笑む。 「でも、美千隆さんはニューヨークに──」 「これは手始めだ。東京の城から手を広げていって、最後にはマンハッタンに世界中がど肝を抜くような馬鹿でかい城をぶっ建ててやる。おまえに話したことを、忘れたことはないからな、彰洋」  美千隆の顔からは笑みが消えている。興奮に赤らんだ頬が細かく顫《ふる》えている。 「波潟をはめなきゃならないんだ。わかるな、彰洋? おれはコネもなにもないところからここまで這《は》いあがってきた。それでも、天下を取るには力が足りなすぎる。だれかを食わなきゃならない。そいつの力を自分の力にしなけりゃならない。おれには迷ったり悩んだりしてる暇はない。だけどな、彰洋。おまえはいいんだ。悩め、苦しめ。辛いときにはおれにいえ。その代わり、おれを裏切るな。おれと一緒にてっぺんまで駆け登るんだ。いいな?」  彰洋は美千隆の顔を見る。設計図に視線を移す。交互にそれを繰り返す。体温はあがっている。  城──王国。馬鹿げていると嗤《わら》うなら嗤え。おれにはそれが必要だ。何者でもない自分でいるよりは、何者かになることを目指していたい。たとえそれが自分を傷つけることになったとしても。たとえそれが早紀を傷つけることになったとしても。  昂揚する気分──あがりつづける体温。なにものにも代えがたい。 「はい」  彰洋は力強く応えた。ファックスの呼びだし音が同時に鳴りはじめた。      * * *  送られてきた名前──対応する電話番号。すべては個人名義。法人名義はひとつもない。美千隆が目を通す。引っかかる名前にアンダーラインを引いていく。  選別された名前──水島章、新藤仁、市丸益生、林雄介。 「みんな、兜町《かぶとちよう》界隈に棲みついてる連中だ」  美千隆がいう。体温があがる。 「じゃあ、こいつらから攻めていけば、波潟が手を出そうとしてる株の銘柄がわかるんじゃないですか」 「そう簡単にはいかないさ。下手に動けば、波潟に悟られる。あれだけ慎重に動いてるんだ。万が一のための保険もかけてあると考えた方がいい」 「じゃあ、どうすれば?」 「なんのために金があると思うんだ?」  美千隆が謎めいた笑いを浮かべる。久々のテスト──考えろ。当人たちに直接コンタクトを取るのは控えなければならない。となれば、打てる手は少なくなってくる。 「人を雇うんですね。この連中の動きを探れば、株の銘柄も絞られてくる」  美千隆が小さくうなずく。 「とりあえず、今打てる手はそれぐらいしかないな。いざとなれば、荒っぽい手を使わなきゃならなくなるが……まあ、その前にやることがあるな」  美千隆は受話器に手を伸ばし、電話をかけた。 「清水さんですか? いや、助かりましたよ。お礼の方はいつものように銀行振り込みじゃなく、手渡しの方がいいですね?……わかりました、近々部下に持っていかせますよ。それでね、清水さん、ついでにもうひとつ頼まれてもらえませんか? 謝礼の方は弾ませてもらいますよ……さっき、送り返してもらったリストの中の──」  美千隆は選別した四人の電話番号と波潟の自宅の番号を口にした。 「最後にいった番号から、他の四つの番号にかけた回数ってわかるでしょう? それを教えてもらいたいんですよ……いや、ここ一ヶ月の間でかまわないから。やってもらえますよね? 謝礼、百万ほど上乗せしますよ」  金の力──美千隆の顔が緩んでいく。 「そうですか。月曜日には教えてもらえるわけですね。わかりました。お待ちしております」  美千隆は受話器を置いた。ファックス用紙に視線を落とした。 「これでもっと絞りこむことができるな」 「うまくいきますかね?」 「いくさ。百万上乗せしてやるっていったときの、あいつの声をおまえにも聞かせたかったぐらいだ。月曜の朝、一番におれのところに電話がかかってくるさ」美千隆がファックス用紙を指差す。「相手がこいつならいいんだがな」  美千隆の指の先──市丸益生の電話番号。 「女好きで有名なんだ。こいつが波潟とつるんでるんなら、マミを使うことができる」  美千隆の目はなんの感情も現さずにファックス用紙を凝視している。  麻美の顔が脳裏に浮かんで消えた。波潟が手を出そうとしている株がもう少しでわかる──体温はあがりつづける。その感覚の前では、なにもかもがあやふやになる。麻美のことなどどうでもよくなる。  じりじりとあがっていく体温──狂おしいほどの焦燥感。細胞が活性化される。無限のパワーが生じはじめる。でかいこと──でかい金を動かす仕事。世界中でそれを味わえるのは自分だけだという圧倒的な優越感。  城を建て、王国を作る。その手がどれだけ汚れていようがかまいはしない。  彰洋は額に手を当てた──確かに、熱はあがっている。      42  退屈な週末──馬鹿な男たちと遊んで過ごす。中身が空っぽな男たち。周囲を取り巻く浮かれた空気に乗って踊るだけの男たち。金もない──本人たちは金を持っているつもりになっているが、話にはならない。波潟が持っている金は桁が違う。狎《な》れてしまった。なんの心配もせずに金を使いつづける生活に狎れすぎてしまった。もう、昔には戻れない。金のない生活──考えただけで身の毛がよだつ。  月曜日──美千隆から電話が入る。心が躍り──胸がふさぐ。 「頼みがある」  美千隆がいう。美千隆は決して麻美の望む言葉を吐いてはくれない。 「今度はだれと寝ろっていうの?」  麻美は答える。美千隆が笑う。 「マミ、おまえは本当にいい女だ」  望んでいたのとは似て非なる言葉に心が抉《えぐ》られる。 「おまえが上手にその男を操ってくれれば、波潟の狙いがわかる。あいつの金をおれたちのものにするチャンスだ、マミ」  望んではいなかった言葉──たぶん、心の奥底で望んでいた言葉。沈んでいた気持ちに光が射す。 「どこに行けばいいの?」  麻美はいう。美千隆が嬉しそうに笑った。      * * *  市丸益生──美千隆に教えられた名前。兜町で投資顧問会社をやっている男。波潟が頻繁に電話をかけている男。  美千隆に教えられた情報──市丸は毎晩、銀座二丁目のフレンチレストランで食事をとる。週に五日、それを欠かすことはない。毎日フレンチを食べることが成功の証しだと信じている。  食事のあと、市丸は女|漁《あさ》りに乗りだす。飲み屋へは行かない。市丸の狙いは堅気の女──OLに女子大生。札びらを派手に切って女たちの視線を釘づけにする。決まった愛人はいない。毎晩、とっかえひっかえ違う女を抱くことが成功の証しだと信じている。札びらを切って抱いた女を、虫けらのように突き放す。それが男の甲斐性だと信じている。  どうしようもない下衆《げす》野郎だ──美千隆はいった。  かまいはしない。腹はもう決まっている。  火曜日の夜になるのを待って銀座へ向かう。波潟は六本木にいる。銀座に足を向けるようなことがあれば、彰洋がポケベルに連絡を入れてくることになっていた。それでも人目には気を使わなければならない。口さがない連中を避けなければならない。普段より地味めの衣装──それでもシャネル。安っぽい女に見られるのは我慢できない。金のかかる女だということを市丸にわからせる必要もある。  メゾン・ドゥ・ヒロ──派手な電飾で飾りたてられた雑居ビルの地下。店のエントランスへと続く階段だけが薄暗い。古くて大きな木製の扉を押す。ビルの外観からは想像できないほどに店内は広く、落ち着いた雰囲気だった。  名前を告げると、席へ案内された。  すべては美千隆が仕込んである。店の人間には金を掴ませてある。市丸はいつも同じテーブルに座る──ひとりで。その席とテーブルひとつを挟んだ右隣の席。近すぎては不自然にすぎる。遠すぎては目的が達せられない。  席に腰を落ち着け、コースをオーダーする。食前酒はキールロワイヤル。ワインはボトルでは頼まず、グラスでオーダーする。  キールロワイヤルを飲み干すのを見はからったように、市丸がやってきた。  顔を見るのは初めてだったが、その男が市丸益生だということに疑いの余地はなかった。男は小柄で痩せていた。嫌みなほどに豊かな頭髪をオールバックに撫でつけている。その下の顔は平板で表情が読みづらい。濃紺のスーツはおそらくヴェルサーチ。左右の人差し指と右の薬指にはかまぼこの板のような金の指輪。スーツの袖口から覗く腕時計はダイヤをちりばめた金無垢《きんむく》のロレックス。  男はひとりだった。麻美の席とはテーブルをひとつ挟んだ左隣の席に腰をおろした。市丸益生に間違いない。  麻美は市丸を一瞥しただけで、視線をそらした。煙草をくわえ、火をつける。店内はすいている。麻美と市丸のほかには二組の客しかいない。  料理が運ばれてきた──フォワグラのテリーヌ。軽めの赤ワインをグラスでオーダーし、つまらなそうに料理をつつく。退屈を持て余している若い女。若いが金はある。そうでなければこんなレストランでひとりで食事をしようと思いつくこともない。市丸が普段食い散らかしているのとは違うタイプの女。他の女たちと同じように思われるのはプライドがゆるさない。  市丸が視線を頻繁に麻美に向けてくる。麻美は気づかないふりを続けた。大半を残したフォワグラの皿を片づけさせた。 「お口にあいませんでしたか?」  ギャルソンが心外だというように皿を眺めた。 「そうじゃないの。ひとりだと、食欲が湧かなくて。全部食べちゃうと、メインの前にお腹がいっぱいになっちゃうから。シェフにはごめんなさいって伝えておいて」  小生意気な口調──確実に市丸の耳には届いている。  美千隆の指示──自分が波潟の女だということを市丸にわからせろ。それから、寝るんだ。銀行屋の稲村のときとは正反対のアプローチ。おもしろい。市丸が、波潟の名前を聞いても怯《ひる》まないのなら、身体をゆるす価値はあるかもしれない。  皿を持ってさがっていくギャルソンを市丸が呼び止め、なにごとかを囁《ささや》きかけた。  獲物が食いついた──確信を抱く。  それほど待たされることもなく、皿を厨房にさげにいったギャルソンが戻ってきた。 「三浦様、失礼でなければ、あちらのお客様が、ご一緒の席でお食事をされるのはいかがでしょうかと……」  麻美は市丸に視線を走らせた。市丸はすました顔でフォワグラを口に運んでいた。 「なんていう方?」  市丸に聞こえるように訊ねる。 「市丸様でございます。当店をご贔屓になさっていただいておりまして……お取りになりましたワインをひとりでは飲みきれないので、よろしければご一緒に、と」  ワイン──シャトー・マルゴー。悪くはない。波潟がお気に入りのシャトー・ラトゥールは飲み飽きた。 「いいわ。ご一緒させてもらいます」  麻美はいう──市丸に聞こえるように。市丸が振り向いて、微笑んだ。      * * *  市丸には遠慮というものがなかった。お互いの自己紹介もそこそこに質問を放ってくる。 「どうしてひとりでこんなところに?」 「市丸さんだって、ひとりでしょう?」  麻美も遠慮抜きで応じる。市丸が苦笑する。 「おれは友達が少なくてね。別に男前というわけでもないから、女もなかなか付き合ってはくれないんだ。ところが、マミちゃんだっけ? マミちゃんはそうじゃない。若くて、いい女だ。男どもが放っておくはずがない。それがなんで、ひとりでこんなところで飯を食ってるのか、知りたくなるだろう、普通」 「パパが最近かまってくれないの。そのくせ、嫉妬深いから、他の男の人とデートもできない。だから、ひとりで食事に来たのよ」  麻美はワインに口をつけた。市丸は魚の皿を精力的に平らげている。 「パパ?」  市丸が下卑《げび》た笑みを浮かべる。 「そう。パパ」  麻美は思わせぶりな笑みを浮かべた。 「よっぽど気前のいいパパなんだろうな……」市丸の目が上下する。「上から下までシャネルか。バッグはケリーだな?」 「今日は違うのを持ってきたけど」 「それに、その時計だ。パテックか? 一千万はするだろうが?」  ラ・フラム──手首の上で燃えている。 「いくらするのかは知らないわ。プレゼントしてもらっただけだから」  皿が運び去られる。新しい皿が運ばれてくる──二五〇グラムはあるステーキ。痩せた身体からは想像もつかない健啖家《けんたんか》。市丸が肉にナイフを入れると、血が皿を汚した。 「しめて千五百万ってところか。それだけ金をかけて、他の男に寝取られたんじゃたまったもんじゃないだろうな」 「マミ、そんなことしないもの」 「男より金が好きか?」 「うん」 「たいした女だな」  苦笑──歯の隙間から見え隠れする肉片。波潟とは違うたたずまい。下品だが、嫌味ではない。嫌いではない。 「市丸さんはなにしてるの?」 「仕事か? おれは株屋だ」 「株って儲かるんでしょう?」  市丸の苦笑が広がる。 「いま、目が光ったぞ、マミ。怖い女だな、おい」 「そんなことないよ」 「株屋っていってもな、おれは自分じゃ買わないんだ。株を買いたいって連中に情報を売ってやるのが仕事なんだ。だから、それほど金を持ってるわけじゃない」  嘘でも真実でもない言葉──市丸はすでに肉を半分以上平らげている。 「じゃあ、できる情報屋さんなのね、市丸さんは」 「どうしてわかる?」 「だって、スーツはヴェルサーチだし、腕時計はダイヤ入りのロレックスだし──」値踏みするような視線を市丸に向ける。「上から下まで、しめて五百万円。お金を儲けてるってことは、仕事ができるっていうこと」 「おまえのパパってだれだ?」  市丸の視線が険しくなった。 「内緒」  麻美は舌を出した。市丸の表情が和らいだ。市丸は最後の肉片を口に放りこんでナプキンで口をぬぐった。 「もう一軒、付き合うか?」 「うん」  微笑む──とっておきの笑顔。中年男たちを虜《とりこ》にしてきた笑顔。無邪気でいて妖艶。高校生のころから、鏡を見て何度も練習してきた。 「よし、行こう」  市丸が立ちあがった。食後のコーヒーとデザートはなし。スーツの内ポケットから、分厚く膨らんだ財布を取りだし、横柄な声でギャルソンを呼びつけた。      * * *  単純なゲーム。薄暗い照明のバーで酒を飲む。身体を寄せあって酒を飲む。身体に触れあって酒を飲む。それ以上のアクションは厳禁。ゲームにはルールがある。  ルール──言葉による駆け引き。金の力にものをいわせてくるだけだった市丸が苛立《いらだ》っていく。だが、市丸にはなにもできない。ゲームを支配しているのは麻美だった。だれも、麻美には逆らえない。  気分が昂揚する。自分にできないことはないと思えてくる。 「もし、おれとおまえが寝て、それがおまえのパパに知れたら、おれはどうなる?」 「マミになにを買ってくれるの?」  噛み合わないようでいて噛み合っている会話。麻美はアルコール度の低いカクテルを飲んだ。何杯飲んでも酔うことはない。市丸はウォッカのオン・ザ・ロックを飲んでいる。顔の筋肉が緩み、頬がかすかに赤らんでいる。だが、呂律《ろれつ》はしっかりしていた。麻美のパパ──愛人の正体を見極めようと躍起になっている。 「もし、もしだぞ、おまえにパパがいなかったら、おれと寝るか?」 「高くつくわよ。市丸さん、マミにいくらくれるの?」 「金のことしか頭にないのか?」 「高く売れるの、今のうちだけだから」 「くそっ」 「ねえ、それより市丸さん。株のこと教えてくれない?」 「株のことを知ってどうするんだ?」 「パパや市丸さんみたいなお金を持ってるおじさんたちがマミにお金出してくれるの、二十五になるまでだから。貯めてるお金、増やしたいの」 「本当に金が好きなんだな」 「悪い? お金しか頼れるものないんだもの。ね、教えて」 「酒飲んでるときに、そんなこと教えられるか。株はな、一時間やそこらで理解できるほど甘いもんじゃないんだ」  すかしあい、ばかしあう。麻美は笑いながらカクテルグラスを呷《あお》った。市丸は苦々しげにウォッカを飲みくだし、白旗を掲げた。 「マミ、いくら出せばおれと寝る?」 「今夜はだめ。パパから電話がくることになってるの」 「くそっ」 「名刺ちょうだい、市丸さん」  市丸が苛立たしげに名刺を取りだした。市丸研究所──シンプルな会社名、シンプルな名刺。印刷されているのは市丸の名前と会社の住所、電話とファクシミリの番号だけだった。 「もう一枚ちょうだい」  麻美は名刺を強引に奪いとると、その裏に数字を書きこんだ。 「はい。マミの電話とポケベルの番号。明日、電話して」 「明日?」 「パパには学校の友達と遊ぶっていっておくから。今日は本当に家に帰ることになってるの。ごめんね、市丸さん」 「いくら用意しておけばいいんだ?」  市丸の目が据わりはじめている。ゲームの幕引きをすべきときだった。 「自分で決めて」麻美はいう。「別に現金じゃなくてもいいんだし」 「なにが欲しい?」 「価値のあるもの」  麻美は笑った。      * * *  焦《じ》らせば焦らすほど、値段は吊りあがっていく。波潟のときもそうだった。早紀に紹介されたときから、波潟は物欲しそうな目で麻美を眺めまわしていた。麻美は気づかないふりをした。数ヶ月──焦らしに焦らしてから、波潟の胸に飛びこんだ。波潟はなんでも買ってくれるようになった。  市丸も同じだ。違うはずがない。  翌日、午後一時ジャスト──電話が鳴った。 「おれだよ。覚えてるか?」 「もちろん。株屋さん」 「昨日の約束、忘れてないな?」 「どこに連れていってくれるの?」 「昨日と同じレストランに八時だ。だいじょうぶか?」 「また同じレストラン?」 「おれはあそこが好きなんだ。別の料理を注文すれば、飽きることはない」 「わかった。八時ね」 「めかしこんでこいよ。いいものを用意してあるからな」 「楽しみ。じゃあ、今夜ね」  電話が切れる──電話をかける。最初の呼びだし音が鳴り終わらないうちに美千隆が出た。 「マミよ。引っかかったわ」 「また銀座か?」 「そう」 「よし。波潟のことは心配するな。今夜はおれと飯を食うことになってる」 「どこ?」 「赤坂だ。おもしろい店があってな。前々から連れていってくれといわれてたんだ」  女のいる店──間違いはない。美千隆は波潟に女をあてがう。自分も女を抱く。胸が痛む。 「あの男と寝てもいいの?」  思わず口が滑る。 「今夜でなくてもいい。だが頼む、寝てくれ。おれたちには市丸の情報が必要だ」  頼む、寝てくれ──言葉が頭の中で反響する。  聖なる誓いを口の中で唱える──お金のためならなんでもする。なんだってできる。  胸の痛みは消えなかった。ますます大きくなるだけだった。 「いいわ。やってみる」 「頼んだぞ、マミ──」  美千隆の声が終わる前に受話器を置き、ベッドに突っ伏した。口に出せなかった言葉が喉の奥につかえている。  波潟を潰したら、マミを捨てるの、美千隆? 波潟がいなくなれば、マミも用済みでしょう?  嗚咽《おえつ》がこみあげてくる──泣きたくはない。泣くわけにはいかない。泣けば、自分の弱さを認めることになる。これまでの自分を否定することになる。  起きあがり、シャワーを浴びた。念入りに化粧をした。鏡に映る自分──若く、美しく、自信に満ち溢れている。涙は似合わない。悲しい顔も、卑屈な表情も似合わない。いつも超然として、世界を従えているかのように振る舞うのが自分には似つかわしい。  エルメスの上下にケリーバッグ。左右の指に並んだダイヤ入りの指輪。そして、ラ・フラム。  鏡に映る自分──世界を従える女王。 「お金を手に入れるのよ、マミ」  女王に囁きかけ、麻美は部屋を後にした。      43  麻美が市丸に接触した──地滑りが起こりはじめたような感覚。美千隆の王国作りが本格的に動きはじめたという気配。体温は中途半端にあがっている。微熱がつづいている。  美千隆のもとに馳せ参じたい。だが、鞄持ちは続けなければならない。  あがりつづける地価、株価。飛び回りつづける波潟。すべては狂乱の渦に飲みこまれていく。  永田町から丸の内、丸の内から永田町──分刻みのスケジュール。 「堤、明日の夜は久しぶりに齋藤君と飯を食うぞ」スケジュールの合間を縫って波潟がいう。「おまえも一緒に連れていってやる。どうだ、嬉しいか?」  ルームミラーに映る波潟の目は屈託がない。早紀に似ている。 「はい。ぼくも齋藤さんに会うのは久しぶりですから」 「本当か? おれに内緒でこそこそ会ってるんじゃないのか?」  早紀に似た目が特殊効果を使った映像のように変化する。 「本当ですよ。社長のせいで毎晩遅くまで働かされてるのに、齋藤さんと会ってる暇なんかあるわけないじゃないですか」  口八丁手八丁──先週までとは違って、嘘が滑らかに出てくる。微熱に浮かされている。心が沸き立っている。 「堤もいうようになってきたな、おい」  波潟の目が和んだ。早紀に似た目が戻ってくる。  早紀に電話をかけなければならない。波潟の私室で見つけたリストについて話さなければならない。嘘をつかなければならないが、土曜日ほどには苦痛を感じない。  車載電話が鳴る。彰洋は受話器に手を伸ばした。 「もしもし、堤さん?」  早紀に似た声。似て非なる声。心臓が凍りつく。肺が空気を求めて喘《あえ》ぐ。 「はい、堤ですが」 「うちの人、いるかしら?」  波潟の妻──そっと胸を撫でおろす。 「少々お待ちください──奥様からです」  受話器を波潟に手渡した。波潟が小声で話しはじめた。  ルームミラー──苦虫を噛みつぶしたような波潟の表情。 「わかった。今夜は早めに帰る。その話はそのときに聞くよ」  耳に飛びこんでくる波潟の声。  夜のスケジュールを取りやめて家に帰る波潟。波潟家になにがあったのか? 自分と早紀のことがばれたのではないか。土曜日に波潟の家に行くべきではなかった。だが、行かなければ市丸に関する情報は得られなかった。  ルームミラー──波潟はぶすっとした顔で受話器を架台に置いた。彰洋の様子をうかがう気配はない。  夜──六本木。建設省幹部との会食。そのあとは高級クラブでの宴席。波潟が合図を送ってくる。彰洋は鞄の中から分厚い茶封筒を取りだす。幹部は遠慮なく金を受け取る。なにもかもが狂っている。狂乱の渦に巻きこまれている。  午後十一時──波潟が席を立つ。役人の秘書にさらなる金を渡す。 「今日はこれで失礼させていただきますが、この金でお好きなところに行ってください」  だれもなにもいわない。建設省の幹部はお気に入りのホステスの尻を撫でている。  店を出ると波潟が耳元で囁いた。 「悪いが、堤。例の店に行って例のものを手に入れておいてくれ。明日、齋藤君がおもしろいところに連れていってくれるらしいんだが、そろそろ在庫が切れかかってるんだ」  ぎょろりと光る目──コカイン中毒者の目。  波潟家でなにが起こったにしろ、それは自分とは無関係だ──彰洋はまたそっと胸を撫でおろす。波潟と別れてクスリの運び屋稼業を再開する。  家に戻る──午前一時。早紀に電話をかける。 「もしもし?」 「もしもし、波潟ですけど? こんな時間にどちら様ですか?」  早紀に似た声。似て非なる声。波潟の妻の声。 「人の電話に勝手に出ないで、ママ!」  早紀の声が聞こえてくる。慌てて電話を切った。心臓が意志を無視して不規則な脈を打った。  早紀の専用電話に、なぜ?──明滅する疑問符。  ばれたのか?──鳴り響く警報ベル。  土曜日。家の主がいない間の逢瀬《おうせ》。スパイごっこ。痕跡は残していないはずだ。どこでなにをミスしたのか。  美千隆に電話をかける──捕まらない。こんな時間に捕まるはずがない。不安だけが増幅していく。かすかにあがっていた体温が急速に落ちこんでいく。  不安を押し隠して床に就く。寝つけず、眠れず。だが、寝不足のまま波潟とともにいるわけにはいかない。先日の失態を繰り返すわけにはいかない。  睡眠薬──ハルシオン。早紀に飲ませるつもりで買ったクスリをウィスキィで流しこむ。  あやふやな眠り──目覚めると朝。目覚まし時計は午前八時を指している。  慌てて部屋を飛びだす。美千隆に電話をかける暇もないまま、会社を目指す。  不安に胸が押し潰されそうになっていた。      * * *  いつもと変わらぬ波潟。コカインを渡すときの下卑た目。叱責はない。詰問もない。  いつもと変わらぬ一日──狂乱の一分一秒。疑問だけが空回りを繰り返す。昨日のあれは一体なんだったんだ? どうして早紀の電話に母親が出た? 人の電話に勝手に出ないで──フェイドアウトする早紀の声。  早紀を問い詰めたい。早紀に問い質したい。だが、恐ろしすぎて電話もできない。  波潟のスケジュールをチェックする。細かく書きこまれた川田はるかの文字。文字の輪郭がぼやける。眼精疲労──強迫神経症。吐き気がする。悪寒がする。  すべてを押し隠して鞄持ちに専念する。夜が来るのを待つ。美千隆が合流してくるのを待つ。美千隆と一緒にいれば、不安も多少は和らぐだろう。  午前中、波潟は会社で業務をこなす。ひっきりなしに訪れてくる人間たち。ひっきりなしに鳴りつづける電話。顔を記憶する。聞き耳を立てる。  昼休みになると、波潟はトイレにこもる。鼻を赤くして戻ってくる。爛々と輝く双眸──活力に満ち溢れた表情。 「MS不動産の齋藤君に電話をかけてくれ」  波潟が秘書の川田はるかに告げる。 「おお、美千隆君か。どうだ、晩飯を食う前に、ちょっと今から付き合ってくれんか。スケジュールなんかキャンセルすればいい。それで損をしたら、おれが穴埋めしてやる。どうだ?……よし、わかった。すぐこっちに向かってくれ」  波潟が電話を切る。 「午後のスケジュールはすべてキャンセルだ。代わりに、ヘリを一台チャーターしろ」 「どちらに向かわれるんですか?」  川田はるかが目を白黒させる。 「伊豆だ」  波潟がこともなげにいう。 「わかりました──堤君、手伝ってくれる?」  否も応もない。電話をかける。ひたすらに謝罪する──申し訳ありません、波潟が急に具合が悪くなりまして。頭の中では疑念が次から次へと浮かんでは消えていく。  キャンセルされたスケジュール。伊豆。波潟は伊豆に一大リゾートを作るつもりでいる──美千隆がいっていた。そのために株で資金を捻出しようとしている。だが、なぜ今日なのか? 波潟がスケジュールをキャンセルすることなど滅多にない。緊急事態が待ち受けているわけでもない。コカインの過剰摂取による惑乱──それらしき兆候もない。  こんな時間にどちら様ですか──昨日の夜、電話から聞こえてきた声がよみがえる。  人の電話に勝手に出ないで、ママ──早紀の抗議の声がよみがえる。  まずいことが起こっている。そう遠くないところで、確実に。頭の中で警報ベルが鳴りつづける。  午後一時ちょうどに美千隆が到着した。  一時十五分──屋上のヘリポートから伊豆へ飛びたつ。ヘリは東京湾を横切っていく。 「どこへ行くんですか、波潟さん?」  美千隆が訊ねた。 「西伊豆だ。君に見せたいものがあってな……噂ぐらいは聞いているだろう?」 「凄いリゾートを計画しているらしいですね」  ヘリの爆音に負けないほどの声で波潟が笑った。 「箝口令《かんこうれい》を敷いてはいるんだがな。人の口に戸は立てられんな」 「本当にちょっとした噂ですよ。小耳に挟んだ程度のね」 「だれから聞いた?」 「戸田さんです」 「環境庁のか?」 「他に戸田という知り合いはいませんよ」  波潟が顔をしかめる。美千隆は涼しい顔をしている。 「どのあたりまで話は広がっている?」 「戸田さん、口は重かったですよ」 「だが、聞きだしたんだろう?」 「戸田さんの口を開かせることができる人間は、そうはいないと思いますよ。波潟さん以上に金を出せるなら別ですが」 「君はなにをやったんだ?」 「企業秘密です」  霧に包まれた会話──推測することはできる。環境庁の戸田──何度か波潟のお供で会っている。固そうな中年男。かたや、西伊豆のリゾート。周辺の国立公園。環境庁に根回しをしなければ計画を立てることすらかなわない。波潟は戸田に金をばら撒き、美千隆は金に代わるなにかを戸田に与え、情報を引きだした。 「しかし、どうして今日なんですか? しかもこんなに急に。ぼくが波潟さんの計画を知らなかったらどうするおつもりだったんです?」 「かまをかけてみただけだったんだがな……なにも知らなけりゃ、ゴルフ場を作るつもりだぐらいのことでごまかそうと思っていたが」 「かまをかけるだけにしちゃ、ヘリをチャーターするなんて大がかりですね」 「まあな……」  波潟の歯切れが悪くなる。コカインで輝いていた目が色を失っている。 「なにか、心配事でもあるんですか?」  美千隆が心配そうに波潟の顔を覗きこむ。口八丁手八丁──彰洋は足元にも及ばない。 「ないこともない。相談できる相手が君しか思い浮かばなくてな」 「ぼくにできることならなんでも仰《おつ》しゃってくださいよ」 「まあ、おいおい話すよ。それより、外を見たまえ」  波潟が窓の外を指差す。西伊豆の山々、いくつもの岬、その先に広がる海原。穏やかだが圧倒的な景観が広がっている。 「右に見えるのが烏帽子《えぼし》山で、左の岬が波勝崎《はがちざき》だ。あのあたりをな、なんとかしようと思ってるんだ」  波潟が嬉しそうに指先を動かす。 「そんなこと、ぼくに教えてもいいんですか?」 「かまわんさ。君が悪さをしようとしたら、容赦なく叩きつぶしてやる」  ふたりが同時に笑い声をあげる。無気味で空虚な笑いが谺《こだま》する。 「ゴルフ場に温泉、ビーチ……そんなちんけなリゾートじゃないぞ。内容は教えてはやれんがな、おれはあそこにかつてないリゾートを作ってやるつもりなんだ」 「金がかかりますね」 「作るさ。わけはない。金ってのは、金を持ってるやつのところに集まるようにできてるんだからな」  ヘリが前進をやめ、岬の周囲をゆっくりと周回しはじめた。 「ここを成功させたら、次はハワイだ。ハワイの次は、どこがいいかな……とにかく、世界中におれの拠点を作ってやる。波潟昌男の名前を、世界中の人間に刻みつけてやるんだ」  城と王国──表現方法は違うが、波潟も美千隆と同じようなことを考えている。  彰洋は波潟と美千隆の横顔を盗み見た。波潟は満面の笑みを浮かべて窓の下を見おろしている。美千隆は茫洋とした視線を海に向けている。 「ぼくにも一枚噛ませてくださいよ」  美千隆がぼそりといった。 「そのときがきたら、な。たぶん、君にも協力してもらうときがきっとくる。そのときはよろしく頼むぞ、齋藤君。若くて力のある人間はそうはいないからな」  波潟がヘリのパイロットの肩を叩いた。ヘリが旋回し、東京へ戻りはじめた。 「いいものを見させていただきました。でかい夢を見る人のそばにいると、こっちまで気分が昂《たか》ぶってきますよ。これを見せてもらえたの、ぼくだけなんですよね?」 「ああ、そうだ。会社の人間でも、このことを知ってるのは一握りだからな」 「肝に銘じておきますよ」 「そうしてくれ」  会話が途切れ、ヘリの爆音だけが鼓膜を顫わせる。波潟の野望の舞台が背後に遠ざかっていく。 「人との約束を蹴飛ばしてでも見に来てよかったよ」波潟がやっと口を開く。「頭の痛い悩みがあってな、今日は朝から気分が優れなかったんだ」  精力的に仕事をこなしていた波潟──気分が悪い様子は微塵も見せなかった。侮《あなど》れない。侮ってはいけない。 「なんの悩みなんですか?」 「娘だ」  波潟がいう。美千隆が彰洋の顔にちらりと視線を走らせる。彰洋は不意に襲いかかってきた悪寒を抑えこんだ。 「娘……早紀さんといいましたっけ?」 「そうだ。このおれが、夜も眠れんほど悩むようになるとはな。家族というのは諸刃の剣だよ」 「早紀さんに、なにかあったんですか?」 「どうも男ができたらしい。この前の土曜に、おれと女房が留守の間に男を家に引っ張りこんでたようなんだ」 「どうしてそんなことがわかるんですか?」 「女房が家に戻ったら、台所に汚れた食器が山積みになってたというんだよ。どの皿も二枚ずつあったらしい」  料理は作っても後片づけはしない箱入り娘──早紀が呪わしい。早紀に注意を与えなかった自分が呪わしい。 「しかし、それだけじゃ、男とはいえないんじゃないですか? 女友達を呼んだだけかもしれない」 「あれはもう二十一になるが、友達のために食事を作っているところなど見たこともない。おれや女房の誕生日やなんかに作ってくれることはあるがな」 「しかし──」  波潟の声が耳を素通りする。悪寒はますます強まっていく。 「君のいうとおり、ただの思い過ごしかもしれんからな、ゆうべ、問い詰めてみたんだ。すると娘のやつ、嘘をつきおった。女友達を呼んだだけだとな。自分が嘘つきだと、他人の嘘がよくわかる」 「それで?」 「恋人ができるのは悪いことじゃないから、どこのだれかだけを教えてくれといったんだがな、娘もおれに似て頑固で、なにひとつ教えてくれん。そうこうしてるうちに、娘の専用電話が鳴ってな。女房が電話に出たんだが、相手は一言もいわんで電話を切った。たぶん、その男からかかってきたんだ」  美千隆のきつい視線が横顔に突き刺さる。 「どうしたらいいと思う、齋藤君?」 「なにもなさらないのが一番なんじゃないですか? 早紀さんももう子供じゃないんですし」 「理屈ではそうだがな、これまで手塩にかけて育ててきた娘を、どこの馬の骨ともわからんやつに取られるのは我慢がならん。できれば、あいつはどこかの役人か、銀行の幹部の息子にでも嫁がせたいんだ。それがあれのためだし、おれのためにもなる」 「じゃあ、こうしましょう。ぼくがよく使っている興信所があるんです。そこに頼んで、早紀さんの行動を調べさせますよ。それで、彼女につきまとってるのが、本当にどこの馬の骨かもわからないような男なら、だれか人を雇って脅しつけてやればいい。早紀さんには悟られないようにしてね。どうです、波潟さん?」 「頼んでもいいか?」 「もちろん」 「よし。ただし、ひとつだけ条件がある。早紀を誑《たぶら》かそうとしている男が見つかったら、おれの目の前に連れてきてくれ。留守をしている間に、人の家に勝手にあがりこんで娘に手をつけやがった。ゆるせんよ。おれがこの手でお灸を据えてやる」  波潟の声はかすれている。波潟の怒りの強さを物語っている。波潟のねじれ、歪んだ精神を物語っている。  悪寒が吐き気に変わる。彰洋は自分の肩を抱いた。間断なく襲いかかってくる顫えに耐えた。      44  西伊豆から東京へ。赤坂へ。料亭での豪勢な食事──気が気ではない。味がわからない。  波潟と美千隆は料理を平らげながら談笑していた。酒を酌み交わしながら腹の内を探り合っていた。じりじりと時が過ぎていく。 「そろそろ場所を変えようか?」  波潟が席を立った。トイレ──コカイン。 「ドジったな」  美千隆が呟《つぶや》くようにいった。彰洋はうつむいた。 「まあ、しかたがないか。素人のおまえが、波潟の家でスパイみたいな真似をしてたんだからな。電話番号を手に入れただけで上出来だ。娘に気をつけるように釘を刺しておけよ、わかってるな?」 「はい」  今すぐにでも早紀に電話をかけたい。波潟の目から逃れたい。 「興信所には嘘の報告をさせておく。それで波潟が安心するかどうかはわからんが、気休めにはなるだろう」  美千隆はそういった。彰洋は唇をなめた。  波潟が目をぎらつかせて戻ってきた。 「なんだ、堤。ほとんど食べてないじゃないか」  波潟が彰洋の皿を覗きこんだ。 「すみません。ヘリコプターに乗ったのはじめてだったもので……乗物酔いしたらしくて」  こんなときでも嘘は滑らかに口をついて出てくる。 「あれぐらいで酔っててどうする。おれのお供をしてるかぎり、ヘリだのセスナだのにはしょっちゅう乗ることになるんだぞ」 「すみません」  平身低頭──気づかれてはならない。疑念を抱かせてはならない。 「食えないんなら、酒を飲め。アルコールで酔っぱらえば、乗物酔いなんかどこかに消えるさ。なあ、齋藤君」 「そうですね。じゃあ、波潟さん、行きましょうか。こういうところじゃなくて、もっと猥雑な店なら、堤も酒を飲めるでしょうから」 「おお、そうしよう。前に話してくれた店だろう? 滅多に見られんものを見られるといっていた……本当なんだろうな?」 「波潟さんはたいていのものは見てるでしょうけど、このあと行く店は特別です。保証しますよ」  美千隆が意味ありげに微笑んだ。波潟の目の輝きが強まっていった。彰洋はそっと嘆息した。  料亭を出て、車に乗りこんだ。三分間の移動──繁華街の外れ。コンクリートの打ちっぱなしのビル。地下へつづく階段の脇に小さな看板が掲げられている。〈サロン・ド・リエ〉それ以外にはなんの説明もない。 「ここです」  美千隆が車を降りた。波潟が物珍しそうな視線を看板に向けた。 「なんの店なんだ、ここは?」 「入ればわかりますよ。さあ、行きましょう」  美千隆を先頭にして階段をおりる。しんがりは彰洋。波潟の鞄を抱えた脇が汗でぐっしょり濡れている。階段の下にはなんの飾りもない木製の黒いドアがあった。看板はない。店の名前もない。  美千隆がドアを開けた。扇情的なメロディが聞こえてくる。照明は薄暗い。それほど広くはない店内──百平米といったところ。入り口のすぐ右脇がカウンターになっていて、左側の壁に沿ってボックス席が並んでいる。カウンターの奥は小さなステージ。ボックス席は三分の二が埋まっていた。 「いらっしゃいませ」  黒いドレスで着飾った女が笑顔を浮かべて近寄ってきた。リエ──サロンの主。落ち着いた雰囲気、媚とプライドが同居した笑顔。間違いはなさそうだった。 「あら、美千隆じゃない。珍しいこと」  女が破顔し、上品に抑えていた声が割れた。波潟がたじろいだ。 「なんだ、おカマか」  吐き捨てるようにいう。 「あら、失礼しちゃうわね。こんな綺麗な女性をつかまえておカマだなんて」 「齋藤君、おれがおカマ嫌いなこと知っているだろう」  波潟が女──おカマを無視する。 「まあ、波潟さん。ここはそこらのゲイバーとは違いますから」 「あら、こちらがあの地上げの帝王なの? 素敵。リエ、感激だわ。いつも美千隆からお噂はうかがってて、うちに連れてきてってお願いしてたのよ」  リエが身体をくねらせた。波潟が満更でもなさそうに咳払いした。 「とにかく座りましょう、波潟さん。気に入らなければ一、二杯飲んで帰ればいいんだし。だいたい、ぼくが波潟さんの期待を裏切ったこと、ありますか?」 「まあ、齋藤君がそういうんなら……」 「嬉しい。じゃあ、ご案内しますわね」  リエが波潟の腕を取り、腰をくねらせながら店内を横切っていく。喋りさえしなければ、女以外の何者でもない。  案内されたのは店の一番奥のボックスだった。美千隆と彰洋は波潟を挟むように腰をおろす。リエが当然といった顔で、美千隆と波潟の間に割りこんでくる。 「美千隆のボトルでいいのかしら、波潟社長?」  リエがいい、波潟がうなずいた。 「齋藤君はいい酒しか飲まんからな。信じてるんだよ、いつも」  リエがカウンターに合図を送った。ボトルとアイスペール、ピッチャー、グラスを持った女──おカマがふたり、やってくる。小百合と真奈美と名乗ったふたりはそのまま席にいついた。真奈美が波潟と彰洋の間、小百合は波潟と真向かいの席で手際よく水割りを作っていく。美千隆のボトルはロイヤル・サリュートの三十年ものだった。  おカマたちは綺麗だった。いわゆる、ニューハーフ。ドレスの胸元は膨らみ、腰は細い。喋り方も、新宿あたりのおカマのように下品ではない。店の雰囲気も落ち着いている。リエの存在さえなければ、普通の高級クラブといわれても違和感はない。 「なんだここは? おカマの店にしちゃ妙に気取ってるじゃないか」  波潟が喚《わめ》いた。ぎらついた目──コカインで昂ぶった神経。早紀のことは忘れている。早紀にまとわりついているどこの馬の骨ともわからない男のことは忘れている。 「他のお店と一緒にしてほしくないわね。ここは特別なんだから」 「リエ、ショーは何時にはじまるんだ?」  彰洋は渡されたグラスに口をつけた。美千隆たちの会話──安心して耳を傾けることができる。 「あと三十分ぐらいではじめるわ」 「波潟さん、ここはね、ショーが特別なんですよ。もう少し我慢して座っていてください」 「どんなショーをやるんだ?」 「それは見てのお楽しみよ」  リエが微笑んだ。波潟の喉仏が隆起した。 「つまらんものを見せたら、二度とこの店には来んからな」 「じゃあ、気に入ったら通い詰めてくれるのね?」  リエがいう。おカマたちが笑った。軽やかな笑い声は女のそれにしか聞こえない。      * * *  三十分が瞬く間に経過した。 「それじゃ、準備してくるわ。小百合も来て。女の子が少なくなるけど、少しだけ我慢しててね、波潟社長」 「女じゃないだろう」  茶々を入れる波潟に含み笑いだけを残して、リエと小百合がステージの奥──カーテンの向こうに消えた。 「どんなショーなんだ?」  波潟が美千隆と真奈美を問い質した。 「見ててくださいよ」  美千隆がさらりと受け流した。 「凄いのよ、うちのショー。きっと気に入ると思う」  真奈美が思わせぶりに笑った。 「そうか、そんなに凄いのか……まあ、齋藤君がわざわざ連れてきてくれたんだからな」波潟が立ちあがる。「堤、便所だ。付き合え」  彰洋は鞄を抱えた。波潟のあとについていく。手洗所には男性用の便器と個室がある。個室はもちろん、手洗所のドアにも鍵がかけられるようになっている。彰洋は後ろ手で鍵をかけた。波潟の目的が連れションではないことはわかっていた。 「あれを出しておいてくれ。さっきの料亭で全部使っちまったからな」  小便をしながら波潟がいった。鞄からコカインの包みを取りだした。カッターの刃で細かく叩いたコカイン。波潟は手を洗いもせずに包みを受け取った。包みを開く。指の腹に無造作にコカインを載せ、歯ぐきに擦りこんだ。身体を震わせた。太い息を吐きだした。 「おまえもやるか?」  波潟が振り返った。 「いえ、ぼくは……」  コカイン──喉から手が出るほどほしい。 「よっぽどヘリが恐かったと見える。コカインが必要だって顔をしてるぞ、堤。今日だけ特別だ。やれ」  波潟に逆らうな──恐怖に縛られた思考が訴える。コカインをやれ。恐怖を蹴散らせ。 「ありがとうございます、社長」  波潟が返してきた包み──ほんのわずかな量を指ですくい、鼻で吸いこんだ。頭を蹴られたようなショック、眩暈《めまい》──高揚感。疲れが吹き飛ぶ。恐れが消え去る。 「いい顔つきになったぞ、堤。おれたちみたいな稼業はな、はったりをかませることが必要なんだ。そのためには、いつも自信満々って面《つら》つきをしてなきゃな」 「はい、社長。おかげですっきりしました」  身体に活力が漲《みなぎ》る。不可能なことなどないように思えてくる。  気をつけろ──かすかに残った理性が囁く。気をつけろ、気をつけろ、気をつけろ。  残ったコカインを鞄にしまう。波潟とともに手洗所を出る。ボックス席では、真奈美が笑い転げている。 「どうした、なにが可笑《おか》しい?」  腰をおろすなり波潟が口を開く。 「だって、ふたりでトイレに行くのおかしいわよ」波潟に蒸しタオルをわたしながら真奈美がいう。「堤さん、まるで波潟社長のお小姓《こしよう》みたい」 「堤の尻はな、いい締まりをしてるんだ。女のあそこなんか目じゃないぞ」  波潟が笑う。コカインの魔力──笑いが伝染する。 「社長はすぐいっちゃうんだよ、おれの尻の穴で」  言葉が口をついて出る。美千隆が不思議そうな顔をする。気をつけろ──頭の中で囁き声が谺《こだま》する。 「ふぅん、堤さんのアナル、そんなにいいんだったら、わたしも取っちゃう前に試しておけばよかった」 「なんだ、おまえ、全部取ってるのか?」  波潟が真奈美の股間を覗きこむようにする。 「うちの子はみんな取ってますよ。ついたままなのはママだけ」 「なんだ、あいつは取っておらんのか? しかし、なんでまた──」  いきなり、照明が落ちる。 「さあ、はじまるわよ」  真奈美の声が耳元で弾け、赤いライトがステージを照らしだす。昔の歌謡曲──山口百恵の歌が流れはじめる。  暗転──再び赤いスポットライト。リエと小百合がステージの上に立っている。リエはエナメルのボンデージスーツ。小百合は黒いレースの下着姿。ふたりとも乳房を見せている。作り物ゆえの形の良さを誇示している。  音楽にあわせてふたりの身体がくねる。リエも小百合も脚が細くて長い。それを強調するように細いピンヒールをはいている。リエはエナメルのロングブーツ。小百合は真っ赤なハイヒール。リエの股間──エナメルのショートパンツに包まれた鼠径部。そこだけが異様に膨らんでいる。  声には出さずにリエが小百合になにかを命ずる──身体をくねらせながら。小百合が下着を脱いでいく。ガーターベルトとストッキング以外はすべてを脱ぎ捨てる。あらわになった股間──無毛。小百合はステージに腰をおろす。脚を左右に広げる。作り物の女性器は本物と見分けがつかない。うっすらと濡れて光っている。 「本物そっくりじゃないか……」波潟が呟く。「たいしたもんだが、これじゃしかし、その辺のストリップと変わらんぞ」  他の客たちは固唾を呑んでステージを見守っている。リエがウィンクする──黙って見ていなさい。  小百合がリエに絡みつく。リエの着衣を器用に脱がしていく。小百合の指がリエのショートパンツにかかる。店内の空気が緊張する──他の客たちの興奮が痛いほどに伝わってくる。ショートパンツが脱がされる。巨大なペニスがスポットライトに照らされる。 「ほう……」  波潟の呟き。感嘆の響き。  太股《ふともも》の半ばまで覆い隠すロングブーツを履いただけの美女──股間に巨根。倒錯的なエロス。  小百合がリエのペニスを口に含む。客席に尻を向ける。腰を高く掲げる。作り物の性器を自分の指で開く。 「ローションを塗ってるのか?」  波潟が囁く。 「馬鹿ね。本当の愛液よ。小百合は人に見られると興奮するの」 「しかし、作り物なんだろうが」 「男だって興奮すると濡れるでしょう? 作り物のおまんこでも、ちゃんと濡れるのよ」  波潟と真奈美の声がわずらわしい。コカインに増幅された視神経──リエのペニスがズームアップされる。リエのペニスは小百合の唾液でぬめりを帯びはじめている。浮きあがった血管がひくひくと痙攣している。  小百合がフェラチオをやめる。リエが横たわる。屹立する巨根──小百合がリエに跨がり、腰を沈めていく。リエのペニスを作り物の女性器が飲みこんでいく。  小百合が腰を上下に揺らす。結合部を客に見せつけるように腰を突きだす。リエと小百合が身体を入れかえる。女の身体を持った男が、女ではない女を組み伏せていく。様々な体位で蹂躙《じゆうりん》していく。リエの腰の動きが徐々に速まっていく。小百合があげる声のトーンが高くなっていく。店内の空気が熱を帯びていく。  暗転──音楽がとまる。クライマックスを暗示する小百合の絶叫が。静寂。ステージの上に充満していた淫靡な空気が薄まっていく。  照明がともされる。彰洋は溜めていた息を吐きだした。身体中汗だらけだった。肩が凝っていた。股間のものが痛いほどに勃起していた。早紀の顔が脳裏をよぎる。麻美の顔が脳裏をよぎる。ふたりとも怒張したペニスが股間にくっついている。ウィスキィをがぶ飲みする。頭を冷やしたい。だが瞼の裏にこびりついたイメージは消えない。コカイン──やるべきではなかった。お笑いぐさの悔恨。望んだのは自分だった。コカインを必要としていたのは自分だった。 「どうでした、波潟さん?」  美千隆が口を開く。 「いや、たいしたもんだ。年甲斐もなく興奮したぞ」  波潟はぎらつく目をステージに向けている。まだそこにリエと小百合がいるとでもいうかのように。 「でしょう? ママのあれ、本当に大きいんだから」 「馬鹿。そういう意味じゃない……堤、今日なんとかならんか?」  波潟が身を乗りだしてくる。反射的に腕時計を覗きこむ──午後十一時。女たちがディスコに繰りだしている時間。 「今からじゃ、ちょっときついですね」 「そうか。だったら、マミの家によるか。あんなもんを見せられたんじゃ、出さずにはおられんからな」  コカインに痺れていた脳──強烈な一撃。麻美は今ごろ、市丸と会っている。市丸を籠絡《ろうらく》しようとしている。波潟が麻美に連絡を取ることは避けなければならない。  美千隆が真奈美に目配せするのが視界の隅に映る。 「なによ。わたしみたいないい女を目の前にしてるのに、他の女の話するなんて失礼じゃない」 「いくらやりたいからといって、おカマ相手には立たんぞ」 「小百合を見たでしょう? わたしたち、女と本当に変わらないのよ。ちゃんと感じるし、好きな男とだったらいくこともできるのよ。それに、おしゃぶりだったら、女よりわたしたちの方が絶対にうまいの。知らない?」 「真奈美のいうとおりですよ、波潟さん」 「君はやったことがあるのか?」 「一度だけですがね。病みつきになるっていうわけじゃないですけど、試してみる価値はあると思いますよ。元が男だけに、痒《かゆ》いところに手が届くようにしゃぶってくれますから」 「本当か?」  ぎらついたままの波潟の目──麻美のことは忘れ去っている。早紀のことも忘れ去っている。おそらく、土地のことも株のことも忘れ去っている。美千隆のやることに粗相はない。仕組まれたシチュエーション──波潟の性格と嗜好を読みきってここに連れてきた。波潟が麻美に接触する危険性を限りなくゼロに近くするために。 「嘘をいったってしょうがないでしょう。どうです、試してみませんか? ここの子なら、金さえ払えば連れだしOKですよ」  波潟が腕組みをする。 「しかしなぁ……」  波潟の声を遮るように、リエと小百合が戻ってくる。 「どうだった波潟社長? いいもの見たでしょう?」  リエは婉然《えんぜん》と微笑む。股間の巨根──うかがうべくもない。小百合は頬を紅潮させている。目がかすかに潤んでいる。  視線が勝手にリエの横顔に焦点を結ぶ。彰洋は目を瞬かせた。グラスに手を伸ばす──空。気づいた小百合がグラスを受け取る仕種を見せる。グラスを渡す。指先がわずかに触れる。小百合の指は湿っている。 「ママと小百合の絡みを見て、社長したくなっちゃったんですって」  真奈美が甲高い声でいう。 「あら、おカマは嫌いだったんじゃないのかしら?」 「今でもおカマは嫌いだ。しかしな……」 「社長、迷ってるっていうことはやってみたがってるっていうことじゃないんですか」美千隆が波潟を唆《そそのか》す。「ここの連中はみんな口が固いし、おれや堤もいいふらしたりはしませんよ。なんだったら、おれたちも社長と一緒に遊びますよ」 「おまえを連れだしてもいいのか?」  波潟がリエに顔を向けた。 「わたしはだめよ。一度っきりのお遊びのお相手はごめんなの」 「どうせなら、おまえとこの小百合を連れていきたい」 「だから、だめだっていってるでしょ」 「おい、堤──」  波潟が首をひねって彰洋を睨《にら》む。ぎらついた目──狂気に似た光に満ち溢れている。  彰洋は波潟の鞄を開いた。無造作に札束を掴んで波潟に渡した。 「これでどうだ?」  波潟が札束をリエの目の前に積みあげる。帯封をされた一万円の束が六つ──六百万。  小百合と真奈美が口をあんぐりと開ける。リエの目が瞬く。顔に浮かんだ笑みは消えない。 「これだけもらえるんだったら、考えてもいいわね」 「おまえはしゃぶるだけだ。おれが突っこむのは小百合の方だからな」  波潟が吐きだすようにいう。コカインにぎらつき血走る目。鏡を覗いているかのようだ──彰洋は思う。      * * *  くたびれきった身体。睡眠不足に痛めつけられた脳細胞。コカインに惑乱した神経──思考。見当識が失われつつある。階段で足を滑らせる。 「なにをやっておるんだ、おまえは」  波潟が怒鳴る。 「波潟さん、先に行っていてください」  美千隆が手を伸ばしてくる。その腕に縋《すが》る。 「すみません」 「馬鹿野郎、クスリをやったな?」  叱咤──胸に響く。 「すみません」  同じ言葉を繰り返す。 「波潟がクスリづけになるのはいいが、ミイラ取りがミイラになってどうする」 「すみません」  他の言葉が見つからない。 「おまえはこのまま帰れ。波潟にはおれがうまくいっておく」  美千隆の目──失望の色、侮蔑の光。被害妄想だ。コカインのせいで神経が過敏になっている。 「すみません」 「波潟の娘に釘を刺しておくのを忘れるなよ」  美千隆が去っていく。波潟の姿はとっくに視界から消えている。女たち──おカマたちの嬌声が遠くから聞こえてくる。頭の中のスクリーンに、そそり立った股間を誇示するリエが映しだされる。  声が消えるのを待つ。待機していた車が発進するのを待つ。波潟の鞄を持ったままであることに気づく。自分の愚かさを呪う。失態の連続──消えてしまいたい。死んでしまいたい。  被害妄想──強迫神経症。コカインが煽りたてる。  徒歩で六本木に帰る。冷たい空気で頭を冷やそうと躍起になる。  すべては無駄。頭の中のリエ、リエの巨根──消えるどころかますます鮮明になっていく。リエはだれかを犯している。ズームアウト──リエに尻を犯されている自分が見える。  叫びだしそうになる。恐怖に苛《さいな》まれた一日と、だめ押しのコカイン。狂いかけているのだと思う。  だれかの助けがいる。早紀では話にならない。麻美は他の男と寝ている。金のために自分を切り売りしている。  だれもいない。苦しいときに手をさしのべてくれる人間がひとりもいない。  自業自得だ。体温があがるあの感覚のために、すべてを悪魔に捧げた報い。それでも、助けを求めずにはいられない。  青息吐息で部屋に辿《たど》りつく。早紀のポケベルに連絡を入れる。麻美のポケベルに連絡を入れる。SOSを発信する。  待ち構えていたかのように電話が鳴りはじめる。 「もしもし、彰洋ちゃん?」  早紀の低い声が鼓膜を顫わせる。 「早紀……」 「ごめんなさい。土曜日のことパパとママにばれちゃって。昨日の電話、びっくりしたでしょう? だけど、安心して。彰洋ちゃんのこといってないし、パパの書斎で見つけたメモのことも話してないから」  早紀の言葉は耳を素通りする。 「会いたいんだ、早紀」 「だめよ。ママが見張ってるの。馬鹿馬鹿しいと思うかもしれないけど、こんな時間に外出なんかできないわ」  目を閉じる。瞼の裏──巨根を誇示するリエ。 「会いたいんだよ、今すぐ」 「怒鳴らないで! この電話だって、ママに気づかれないようにかけてるの。お願い、わかって。わたしだって、彰洋ちゃんに会いたいわ。だけど……しばらくは会えないと思う。パパに彰洋ちゃんのことがばれたら大変なことになるわ。あんなに怒ってるパパ、見たことがないもの」  波潟の怒り──恐怖をかきたてる危険な燃料。 「早紀……」 「大好きよ、彰洋ちゃん。わたしのこと、怒らないで」  怒らない──怒れるわけがない。失望があるだけだ。 「わかってるよ、早紀。我儘をいってごめん。おれが悪かった」  早紀の返事を待たずに受話器を置く。電話が再びかかってくるのを待つ──ベルは鳴らない。  瞼の裏に刻まれたリエの巨根。別れ際に美千隆が見せた失望の色。自己嫌悪が強まっていく。コカインが切れかかっている。  波潟の鞄を漁《あさ》る。金には目もくれず、コカインの包みを取りだす。コカインを歯ぐきになすりつける──波潟のように。  強烈なキック。頭の奥で白い光が弾ける。だが、期待していた高揚感はやってこない。リエのイメージが強くなる。美千隆の態度に傷ついた心が悲鳴をあげる。典型的なバッドトリップ。ベッドに倒れこみ、身体を丸める。心臓が激しく脈打っている。粘ついた汗が全身を濡らしている。鳩尾《みぞおち》のあたりに不快な塊が居座っている。  電話が鳴りはじめる。藁《わら》にも縋るような思いで受話器に手を伸ばす。 「もしもし、彰洋ちゃん?」  早紀と同じ言葉。だが、早紀とは違う声──麻美。 「なにかあったの?」 「助けてくれ、麻美」  彰洋は声を絞りだす。      45  市丸は相変わらずの健啖家ぶりを示している。見ているだけでこちらも満腹になったような気がしてくる。 「食わないのか?」  市丸が訊ねてきた。麻美はうなずいた。 「まずいか、ここの飯は?」 「そうじゃないよ。身体が資本だから、食べすぎには注意してるの」 「おまえぐらいの年だったら、いくら食べたって平気だろうに」 「あとで響いてくるのよ。二十五を超えたら、ぶくぶく脂肪がつくようになってくるんだから」 「おれはもう少し肉がついてる方が好みなんだがな」 「時代遅れなんだよ、市丸さんは」 「その喋り方は好きだがな」  麻美は微笑む。とぼけた中年男──嫌いではない。 「この後はどこに連れていってくれるの、市丸さん?」 「飲み屋だ。酒を飲んでから、ホテルに行く。部屋は取ってあるからな」 「まさか、昨日と同じバー?」 「いやか?」 「違うところにも行ってみたいよ。ねえ、もしかして、毎晩ここでご飯食べて、あのバーでお酒飲むの?」 「悪いか?」 「悪くはないけど、普通、飽きるんじゃない?」  市丸がナイフとフォークを置いた。皿に盛られていた料理はきれいになくなっている。 「金を手に入れたら、毎晩フランス料理を食ってやろうと決めてたんだ。腹がいっぱいになったあとは、小綺麗なバーで一杯やる。金ができて、いろんなフランス料理屋やバーに行ったが、どこも変わらねえってことがわかっただけだ。ここは静かだし、味もまあまあだ。だから、ここに来る。あのバーだって同じだ」 「付き合ってる女の子、それで嫌がらない?」 「女と付き合ったことなんかないからな」  思わず苦笑が浮かぶ。 「どうして?」 「女とはやるだけでいい。付き合うだの結婚するだの、面倒くせえだけじゃねえか」 「市丸さん、マミを口説こうとしてるんでしょう? それなのに、よくそんなこといえるね」 「おまえだって、金が目当てだ。昨日、そういっただろうが」 「お金はもらうけど、お金だけが目当てだってわけじゃないの」 「なにわけのわからないことをいってやがる」  デザートのワゴンが運ばれてきた。市丸がクレームスフレとチョコレートケーキを指差す。毎晩のフレンチ、毎晩のデザート。市丸の食欲は常軌を逸している。 「だって、マミのパパ、悪いけど市丸さんよりずっとお金持ちだよ。お金が欲しいだけだったら、パパに甘えてればいいんだもん」 「だったら、なんでおれにちょっかいだしてるんだ?」 「退屈だから」  麻美はグラスに残ったワインを飲み干した。 「だったら、なんでおれに金を使わせようとするんだ?」 「お金しか信じてないから」 「正直な女だな」市丸が口もとを歪める。「だけど、おっかねえ。おまえと寝たら、火傷《やけど》しそうだ」 「恐くなった?」 「おまえのパパって、だれだ?」 「ないしょ」  麻美は舌を出して笑った。スフレとケーキが市丸の目の前に出される。市丸はデザートを一心不乱に食べはじめた。 「まるで親の仇《かたき》みたいに食べるんだね」  市丸がちらりと視線をあげた。 「昔は腹一杯食いたくても食えなかった。この先、死ぬまで食えるっていう保証もねえ。だから、たらふく食っておくんだ」  二十一歳の肉体──目減りする資産。いつ、波潟に捨てられるのかと怯《おび》える日々。肉体に衰えが見えはじめる前に、波潟に捨てられる前に、牢獄から抜けださなければならない。肉体という牢獄。貧しさという牢獄。ありあまる金を手に入れることができれば、憂う必要はなくなる。 「市丸さんって、けっこう好きよ」  麻美は頬杖を突いた。ケーキを口に運ぶ市丸の手が凍りついた。 「若い女にそんなこといわれたのは初めてだ」 「マミ、正直者だから、つい口に出ちゃうの」 「おまえのパパもそうやってたらしこんだのか?」 「やないい方だよ、それ」 「おまえのパパってだれだ?」 「そんなに気になる?」 「おまえのパパがやくざだったら目も当てられねえからな。今どきのやくざは、金を持ってるのが多いんだ。おれの客にもやくざの組長ってのが大勢いるからな」 「やくざじゃないよ。付き合いはあると思うけど」 「名前を教えろよ」 「波潟昌男っていうの。地上げの帝王って呼ばれてる大金持ち。だから、マミ、お金には困ってないの」  市丸のフォークの上に載っていたケーキが落ちた。 「市丸さん、パパのこと知ってるの?」  麻美は目を丸くする。自然な反応──芝居をしようと意識する必要もない。 「知らないやつはいねえだろうが」  市丸が落ちたケーキを拾いあげて口に入れた。スポンジを咀嚼《そしやく》しながら呟く。 「そうか……おまえ、波潟の女なのか」  疑念を孕《はら》んだ視線──さらりと受け流す。 「恐くなった?」 「どうしておれにちょっかい出してきた?」 「なにいってるの? 先にマミをナンパしたの、市丸さんじゃない」  無邪気な笑み──無邪気な声。中年男たちを手玉に取ってきた手管《てくだ》。市丸に通じないはずがない。 「おれが市丸益生だって知っててこの店に来たんじゃねえのか?」 「この辺ぶらついてて、たまたま入っただけだよ。なに気にしてるの?」  市丸の視線が和らいだ。 「そうだな……わかるわけねえな」 「わかるって、なにが?」 「なんでもねえよ。こっちの話だ」 「変なの」  麻美は唇を尖らせた。表情には出さずにほくそ笑んだ。      * * *  市丸は口数が少なくなった。上目遣いに麻美を見つめるようになった。  疑念は消えたはずだ。あるのは、たぶん、葛藤。麻美に対する欲望と、波潟昌男の女に手を出すことへの恐怖が衝突し、スパークしている。  背中を押してやる必要があった。 「ねえ、市丸さんのスケジュールに付き合ったんだから、今度は市丸さんがマミに付き合ってくれない?」 「どこに行くんだ?」 「一緒に来ればわかるよ」  バーを出て六本木へ向かう。ディスコへ。  店に入る前から市丸の表情が不機嫌そうに歪んでいた。腹に響くユーロビート。思考を拡散させる照明。狂ったように踊る男、女。フロアの片隅で恋愛ゲームに興じる男、女。  市丸は浮いている。だが、市丸に目をくれる人間はいない。ディスコでは、男はオブジェと一緒だ。存在価値があるのは、若くて綺麗な女だけだ。 「踊ろう、市丸さん」 「踊り方がわからねえよ。こういうところは苦手なんだ」 「マミの真似して手足動かしてればいいの」  麻美は強引に市丸の手を引いた。ビートにあわせて身体をくねらせる。市丸に向き直る。 「踊って、市丸さん」  声を張りあげる。市丸が不承不承踊りはじめた。不器用なダンス──滑稽なステップ。市丸は麻美のために踊っている。麻美のためだけに踊っている。  ふいに胸が締めつけられた。 「市丸さん、可愛い」 「なんだって!?」  市丸の怒鳴り声は大音響にかき消された。 「なんでもないの。踊ろう。食べた分のカロリー、しっかり消費しなきゃ」 「わかったよ。こうなりゃ、自棄《やけ》だ」  踊る。踊りつづける。市丸を観察する。市丸はでたらめに手足を振り回している。頬が赤らみ、額に汗が浮かぶ。運動不足の中年男。市丸はバーで、ウィスキィを四杯飲んだ。レストランでワインを飲んだ。  酔いがまわっていくはずだ。酔いは恐怖よりも欲望を強化させる。  踊る。踊りつづける。市丸の足元が覚束なくなってくる。  顔見知りの黒服が脇を通りすぎた。麻美は黒服の肩に手をかけた。耳元に口を近づける。 「この曲の次、スローナンバーにするようにいって」 「マミの注文じゃ、聞かないわけにはいかないな」 「それから、狭い方のVIPルーム、あいてる? 予約するから、だれも入れないで」  黒服がうなずいて去っていく。 「なにを話してたんだ?」  市丸が怒鳴る。顔中が汗で濡れている。 「知り合いなの」  麻美は怒鳴り返した。市丸がよろけた。手を伸ばし、抱き寄せる。 「みっともねえな、おれはよ」 「そんなことないよ。市丸さん、可愛くてカッコいい」  スーツに包まれた市丸の身体は女のように柔らかかった。  アップテンポな曲が途切れ、スローナンバーが取って代わる。激しく踊っていた連中がダンスフロアを後にしていく。恋愛ゲームに夢中になっていた連中はとどまる。身体を寄せあって踊りつづける。  麻美は市丸に身体を押しつけた。 「凄い汗。マミのために頑張ってくれたんだね」 「そういうわけじゃねえがな。ちょっと、くたびれた」  市丸の呂律《ろれつ》がおかしくなっている。 「もうちょっとだけ我慢して。もう少しこうしてたいの」  市丸の耳元で囁く。耳たぶに息を吹きかける。太股を股間に押しつける。市丸のペニスが固くなっていくのを感じる。自分が濡れていくのを感じる。 「汗、拭かなきゃ、市丸さん」  麻美は市丸の手を取ってフロアを横切った。鉄筋の螺旋《らせん》階段をのぼってVIPルームを目指す。カップル用のVIPルーム──狭い空間に、小さなソファがひとつ。テーブルがひとつ。人気のあるタレントが女をつまみ食いするための部屋。客が呼ぶまで黒服は寄りつかない。だれも立ち入ってこない。 「ここで少し休も」  テーブルの上にはシャンパンとかわき物のつまみ、冷えたおしぼりが用意してある。  市丸がソファに倒れこむように腰をおろした。麻美はおしぼりで市丸の額の汗を拭った。 「本当に凄い汗。このままだと風邪ひいちゃうかも」 「まったくだ。足腰がふらふらだ。年を取るもんじゃねえな」 「拭いてあげるからじっとしててね」  ネクタイを外し、シャツをはだけさせる。市丸はなにもいわない。市丸の剥きだしの肌は白い。たるんでいるわけではないが、張りがあるわけでもない。醜いわけでもとりわけて美しいわけでもない。金を稼ぐこと以外は自堕落に生きてきた中年男の肌だった。  美千隆の肌には張りがある。彰洋の肌は瑞々しい。だが、中年男たちの肌にも味がある。  麻美はおしぼりで市丸の汗を拭いた。左手の人差し指で市丸の乳首を摘《つま》んだ。 「なにをしてる?」 「固くなってきてるよ、市丸さんの乳首」 「いい女に触られりゃ、固くなる。男も女と同じだ」 「こっちはどう?」  左手を股間に滑らせる。市丸のそれは勃起している。 「大きくなってるよ、市丸さん」 「とっととここを出てホテルに行こう」 「だめ」勃起したものをさすりながらいう。「市丸さん、迷ってるでしょ? 波潟昌男の女と寝るの、迷ってるでしょ?」  市丸がうなった。麻美はさする手の動きをはやめた。 「そういう人とセックスしても楽しくないのよね。だから、今夜は市丸さんとは寝たくないの」  市丸がまたうなった。酔いに血走った目が苦しそうに細まった。 「でも、マミと寝たくなるようにしてあげるね」  市丸のベルトを外す。ジッパーをおろす。汗で蒸れた匂い──怒張したペニス。おしぼりで拭う。おもむろに口にくわえる。  市丸がうなる。  麻美は音をたてて市丸のペニスを頬張った。      * * *  留守番電話のボタンが明滅していた。午後十一時半。予定外に早い帰宅。フェラチオの余韻──火照《ほて》った身体。かすかな期待を寄せてメッセージを再生する。  四件のメッセージ──失望の連続。くだらない男たち、女たち。燠火《おきび》のように燃えていた欲望に冷水が浴びせかけられる。  麻美は舌打ちしながらバスルームに足を向けた。濡れた下着が不快だった。上着を脱ぐ──ポケベルが鳴った。もう一度、舌打ちしてポケベルを覗いた。  見覚えのある数字──彰洋の電話番号。  彰洋は今夜、波潟と美千隆と一緒にいるはずだった。なにかマズいことが起こったのか?──そうでなければ、彰洋が連絡してくるはずもない。  居間に戻って電話をかけた。 「もしもし、彰洋ちゃん? なにかあったの?」 「助けてくれ、麻美」  彰洋の声はかすれ、顫えていた。 「どうしたのよ?」 「な、波潟のコカインをやったら、バッドになって……死にそうだ」  波潟のコカイン──混乱する思考。考えをまとめている暇はない。彰洋は怯えている。苦しんでいる。彰洋のこんな声を聞くのは初めてだった。 「部屋にいるの?」  彰洋にもしものことがあれば──それが麻薬絡みとなれば、面倒なことになる。波潟の金を手にすることができなくなるかもしれない。 「今から行くから、待ってて。それぐらい、だいじょうぶでしょう?」  答えはない。喘息《ぜんそく》の発作のような呼吸音が聞こえてくるだけだった。 「彰洋ちゃん、聞いてるの?」 「ああ……待ってる。早く、来てくれ。助けてくれ」  受話器を放りだして部屋を出た。  タクシー──色気と金で飛ばさせる。六本木まで十分。記録的な速さで辿《たど》りついた。彰洋の部屋のドアには鍵がかかっていなかった。彰洋はベッドの上で仰向けに倒れていた。 「彰洋ちゃん!」  死人のような顔色──忙《せわ》しない呼吸。クスリでトラブルを起こした連中は嫌になるほど見てきている。彰洋はパニックを起こしている。過呼吸に陥っている。 「だいじょうぶよ。マミが来たから、もうだいじょうぶ」  倒れたままの彰洋を抱きしめると彰洋がしがみついてきた。麻美は彰洋の身体をさすった。 「彰洋ちゃん、落ち着いて。だいじょうぶだから。もう、心配ないから」  彰洋の唇に自分の唇を押しつける。そっと呼吸を送りこむ。何度も何度も繰り返す。  やがて、彰洋の呼吸が落ち着いてきた。顔にも血の気が戻ってくる。 「落ち着いた?」  彰洋の顔を覗きこむ。彰洋がかすかにうなずいた。その顔に市丸の顔がだぶった。急激な酔いのまわりに喘いでいた市丸。コカインのせいで過呼吸に陥っていた彰洋。ふたりとも、麻美に縋《すが》ってきた。それが心地よい。  身体の奥に火がともる──下着が濡れる。  麻美は首を振って欲望を抑えこんだ。問題を先に解決しなければならない。彰洋がコカインを吸引した──なぜ?  部屋を見渡す。居間の床に放りだされた波潟の鞄が目に入った。ダイニングテーブルの上にコカインが入った包みがあった。  今夜、彰洋になにが起こった? 波潟になにが起こった? 「なにがあったの、彰洋ちゃん?」  彰洋の頬に掌をあてる。彰洋がうっすらと目を開いた。 「この前の土曜日に、波潟の家に行った。早紀に呼ばれたんだ。波潟と奥さんは留守だった」  途切れ途切れの声だが、口調はしっかりしてきていた。 「それが波潟にばれたんだ」 「早紀と彰洋ちゃんが付き合ってることがばれちゃったの?」 「そうじゃない」彰洋が億劫そうに首を振る。「まだ、そこまではばれていない。ただ、早紀がだれかと付き合ってるってことが──」 「それだったら、どうってことないじゃない。早紀だって二十一だし、彼氏のひとりやふたりいて当然だもの」 「麻美にはわからないよ。波潟は早紀が付き合ってる男を見つけたら思い知らせてやるといったんだぞ。おれはいつも波潟のそばにくっついてなきゃならないんだ」  彰洋が叫ぶようにいった。麻美は彰洋の頬を優しく撫でた。 「ごめん。怒鳴ったりして……せっかく来てくれたのに」  彰洋がいった。 「いいのよ」  麻美は答えた。彰洋は参っている。すっかり参っている。死ぬかもしれないという恐怖の中で、彰洋が縋ったのは麻美だった。  気分がいい。とても、気分がいい。 「どうして波潟の鞄が彰洋ちゃんのところにあるの?」 「ドジったんだ。美千隆さんが連れていってくれた店で、波潟がコカインをやった。おれにもやれって……断るわけにもいかなくて、少しやった。そうしたら、気分がよくなって……一日中びびりつづけていた反動だろうな。階段から足を滑らせて転んで、美千隆さんに、今日はもう帰れっていわれた」  コカインがもたらす高揚感と、美千隆に冷たくされた絶望感。彰洋が大量にコカインを摂取したのはそのせいだ。 「それで、部屋に戻ってきてむしゃくしゃして、またコカインをやったんだ。死にそうに苦しくなって、マミに電話かけてきたんだ。そうなの、彰洋ちゃん?」 「そうだ。悪かったよ、麻美」 「ううん」麻美は彰洋の顔を両手で挟んだ。「すごく嬉しい気分だよ、今のマミ」  麻美は彰洋にキスした。さっきの人工呼吸とは違うやり方で。彰洋は抗《あらが》わなかった。      46  過呼吸の中で見る夢──麻美が現れる。麻美は早紀に姿を変える。早紀の股間には女性器の代わりに勃起したペニスがついている。  勃起した自分のペニスを左手でしごきながら、早紀は彰洋のペニスを頬張る。過呼吸──コカイン──ざわめき立つ神経繊維。長引く快楽──苦悶──狂おしい欲望。 「パパと美千隆はどこに行ったの?」  早紀がペニスから口を離す。その瞬間、早紀の顔は麻美の顔に変貌する。  喋ろうとする意志──凍りつく喉もと。早紀の──麻美の唾液で濡れ光るペニス。早紀の──麻美の手が亀頭を包み、こすりあげる。 「出したいんだ……頼む」  きれぎれの懇願。精一杯の哀願。  早紀が──麻美が再びペニスを口に含む。締めつけ、舐めあげ、根元をしごく。  自分の荒い呼吸音だけが耳に響く。      * * *  渇きで目が覚めた。口の中が干からびている。身体は汗でぐっしょりと濡れていた。  彰洋は湿ったシーツをはねのけた。よろめきながらキッチンへ向かい、水をがぶ飲みする。頭が痛む。胃が空腹を訴える。意識がクリアになっていく。  記憶が押し寄せる──恐怖がぶり返す。記憶を懸命に辿る。波潟の衝撃的な言葉。ヘリで飛んでいった伊豆の光景。赤坂の外れのおカマバー。勃起したペニスを誇示するおカマのショー。コカイン。階段から転げ落ちるぶざまな己。美千隆の冷ややかな視線、言葉。  それから──頭痛が酷《ひど》くなる。思いだせない。 「くそっ」  彰洋は蛇口の下に頭を突きだして乱暴に水を浴びた。冷水のおかげで頭痛が薄れる。だが、記憶はよみがえらない。手洗い用のタオルで頭を拭きながら、居間に戻った。床の上に波潟の鞄が放りだしてあった。テーブルの上の小さなメモ用紙が目にとまった。  見覚えのある文字──麻美の字。身体が顫える。  ──彰洋ちゃん、おはよう。パパから連絡があるとヤバいから、起こさずに帰ります。おカマなんかと浮気してるパパに文句いわれる筋合いはないんだけどね……彰洋ちゃん、可愛かったよ。早紀も大事にしてあげてね。  記憶を閉ざしていた霧が晴れていく。波潟の鞄──大量のコカイン。呼吸が苦しくなり、心臓が意志とは無関係に動きだす感覚。恐怖に囚われ、麻美に助けを乞うた。  また、麻美と寝た。  頭痛が酷くなっていく。麻美のメモを握りつぶした。  電話が鳴った。着信を知らせるボタンが凶々《まがまが》しく点滅した。 「もしもし?」  おそるおそる受話器を取った。 「堤か?」  波潟の声──心臓が締めつけられる。 「おはようございます、社長」 「だいじょうぶか? 齋藤君がいっておったが、乗物酔いで具合が悪いところにコカをやったもんだからふらふらになっていたそうじゃないか」 「申し訳ありません」 「クスリは慣れてるものと思っておったが、案外だらしがないな。おまえ、もったいないことをしたぞ。作り物のあれもなかなかいいもんだった。元が男だけに、こっちの弱点も心得てるしな」  波潟の声はいつもと変わらない。早紀のことにも、麻美のことにも気づいているわけではない。 「次は、最後までお供させていただきます」 「なにごとも経験しておくことが一番だからな……それより、堤。おまえ、おれの鞄を持ったまま帰っただろう?」  思わず視線を足元に走らせる。鞄は開きっぱなしになっている。 「おれも昨日ははしゃぎすぎてな……出社は午後からにしようと思ってるんだ。堤、おまえも出勤は午後からでいいから、その前に鞄を持って家によってくれ」  波潟の家──早紀がいるかもしれない。波潟の鞄──無断で失敬したコカインを補充しておかなければならない。心臓が不規則に脈打ちはじめる。 「何時にお伺いすれば?」 「十一時だな。どこかで飯を食って、それから会社に向かおう」 「わかりました」  電話を切ると同時に時計を見る。午前七時半。三時間半でコカインを調達しなければならない。午前七時半。夜遊びに取り憑かれている連中なら、まだ六本木をうろついている。  大急ぎでシャワーを浴び、なにかに追いかけられてでもいるかのように部屋を飛びでた。  朝の六本木。人通りはまばら。ディスコはすでに閉店している。ほとんどの飲み屋もシャッターをおろしている。だが──二十四時間営業のダンスクラブがある。不良外人があつまるバーがある。そういう場所ではクスリが飛び交っている。  記憶にある店を虱潰《しらみつぶ》しにまわる。見知った顔に片っ端から声をかける──コカインを持ってないか?  同じ答えが返ってくる──エスならあるけど、コークはないな。  日本人が好むのは覚醒剤。コカインはアメリカ人が使用する。  外人バー──顔見知りはほとんどいない。いかつい身体つきの白人、黒人、ヒスパニック。彰洋の問いかけは無視される。ときに威嚇《いかく》される。  彰洋は途方に暮れた。喉が渇く。やけくそで立ち寄った外人バーのカウンターでビールを呷《あお》った。 「あんた、なんか欲しいものでもあるのかい?」  肩口から声をかけられた。慌てて振り向くとバタ臭い顔が視界に飛びこんできた。 「さっきからこの界隈をうろちょろしてるみたいだけど、欲しいものがあるんならいってみな。用立てられるかどうかはわからないけどな」  男の言葉には関西|訛《なまり》があった。アルマーニのスーツ──ノーネクタイ。左右の指にゴールドの指輪が並んでいる。三十半ばの物腰、顔つき。  胡散《うさん》臭さが漂う。だが、小銭目当てとも思えなかった。頭の中で秤《はかり》にかける。コカインを買うことができるなら上出来。そうでなければ、逃げだせばいい。口八丁手八丁──得意のゲーム。躊躇《ためら》う時間も理由もない。 「コカインがいるんだ」  彰洋は声を落とした。 「こんな時間にか?」  男が目を丸くした。 「ちょっとね……ずっとナンパしてたアメリカ女をやっと口説き落としたのに、コカインが欲しいなんていいだしやがってさ。エスなら知り合いに頼めばすぐに手に入るんだけど、コークはね」 「そらそやろな」男が関西弁でいった。「日本人にはコカインは合わん。それで、ええ女か、そのアメ公は?」 「やってみなきゃわからないよ」  彰洋は肩をすくめた。男が笑った。 「おまえのいうとおりやな。よし、気に入った。おれがなんとかしたろ」  男が彰洋に顔を向けたまま指を鳴らした。男の背後から人が近寄ってきた。影のように目立たない男。地味な色のスーツ。特徴のない顔つき。体格はプロレスラー並だった。朝の六本木にはそぐわない。夜の六本木にもそぐわない。  男は革の鞄を持っていた。鞄持ち──自分の同類。直感する。  男が鞄の中から角張った受話器のようなものを取りだした。携帯電話。美千隆も波潟も、恰好が悪いといって決して持とうとはしないもの。アルマーニの男は平気で携帯電話を受け取り、電話をかけた。男は英語で話した。電話はすぐに終わった。 「ロアビルの裏側の雑居ビルの三階にな、〈ロード・ウォリアーズ〉ってけったいな名前のバーがある。そこのマイクっていう白人に話を通した。ヨシの友達やいうたら、なんでも売ってくれる。急な話やから、足元見られるかもしれへんけどな」  男が自分の鞄持ちに電話を返した。鞄持ちには一瞥も与えない。 「助かります」  彰洋は軽く頭をさげた。男の胡散臭さは拭いきれない。だが、贅沢をいえる身分でもない。 「ええって。はよ帰って、クソ生意気なアメリカ女を、ひいひいいわせたってや」  男が背を向けた。 「おれ、堤といいます。あなたは?」 「ヨシや。それで通ってる。たまにこの辺で遊んでるから、見かけたら声でもかけたってや」  男が手を振りながら遠ざかっていく。その後ろに鞄持ちが付き従う。ふたりの背中が見えなくなるのを待って、彰洋は店を出た。      * * *  かき集めたコカイン──二十グラム。使った金は八十万。足元を見られた。抗議している時間はなかった。ヨシと名乗った男にも釘を刺されていた。  かき集めたコカイン──波潟が使っているものより質は落ちる。それでも、なにもせずにはいられなかった。  かき集めたコカインを持って波潟の家に向かった。心臓が締めつけられる。早紀がいたらどうする? 早紀にどんな言葉をかける? 波潟に悟られたらどうする?  早紀はいなかった。学校に行ったと波潟がいった。  肩から力が抜け、疲労が押し寄せてくる。 「顔色が悪いぞ、堤。だいじょうぶか?」 「もう、具合が悪いときにコカインをやるのはやめにします。どんなに社長に勧められても」  彰洋はいった。軽口を叩けるほどに、気持ちが落ち着いていた。  波潟が下品な笑い声をたてた。      47 「来月あたりから、しばらく会えなくなるぞ」  荒い息を吐きだしながら波潟がいった。麻美の唾液と愛液で濡れ光ったペニスがだらしなく股間に貼りついている。おカマと寝たことはおくびにも出さない。 「なにそれ? マミはもうお払い箱ってこと?」  麻美は波潟の胸に載せていた頭をあげた。不安そうな目を波潟に向ける。すべては演技。波潟に見抜かれたことはない。 「そうじゃない。少し、仕事が忙しくなるんだ」 「今だってすごく忙しいじゃない。あんまり働きすぎると身体によくないよ、パパ。マミ、心配になっちゃう」 「いや、そうじゃないんだ……なんというかだな、今までとは違う分野に手を広げるつもりでな。そっちの方にきっちり道筋ができるまで、おれが陣頭指揮を執らなきゃならん。だれかに任せることができるようになったら、今までと同じように、マミと遊ぶこともできるから心配はするな」  今までとは違う分野──株の仕手戦に決まっている。 「本当に? どれぐらい忙しいの?」 「二、三ヶ月というところだろう。あんまり会えなくなるといってもな、月に一度は必ず時間を作るから、怒らんでくれよ、マミ」 「マミ、そんなことで怒ったりしないよ」  麻美は再び頭を波潟の胸に載せた。 「新しいお仕事って、なにやるの?」 「説明しても、難しすぎてマミにはわからんよ」 「お金がいっぱい儲かる?」  波潟が苦笑した。 「うまくいけばな。うまくいけば、驚くほど儲かるぞ」 「うまくいかなかったら?」 「そのときはマミも、新しいパパを探した方がいいかもしれんぞ」  麻美は波潟の目を覗きこんだ。まだ尖ったままの乳首を波潟に押しつけた。 「だいじょうぶよ、パパ。マミが一緒にいるかぎり、パパは絶対に失敗しないもん。いっぱいお金儲けて、マミにたくさん服を買ってくれるの。そうでしょう?」 「そうだ。おまえのいうとおりだよ、マミ」波潟が麻美の頭を撫でた。「そんなことより、マミ、おまえ、最近早紀に会ってるか?」  波潟の顔がかすかに歪んだ。 「二週間ぐらい前に会ったかな? 一昨日《おととい》、早紀に電話したんだけど、奥さんが出て焦っちゃった」 「そうか……どうも、早紀に男がいるらしくってな。早紀の部屋の電話に男がかけてくるんだ。それで、うちのやつが電話をチェックしてるんだが……おまえ、なにか知らんか?」 「早紀の彼氏? いつも一緒にいるわけじゃないから、なんでも知ってるわけじゃないもん。だけど、早紀は可愛いから、彼氏がいてもおかしくないよ。マミに紹介すると、パパみたいに取られちゃうと思って紹介してくれないだけかもしれないし」  波潟は笑わなかった。眉間に寄った皺が深くなっただけだった。 「ちょっとかまをかけて聞いてみてくれんか。明日の午後はうちのやつも出かけるはずだ。そのときに電話をして……な?」 「うん、訊いてみる。早紀も、マミには嘘つかないはずだから」 「頼むぞ、マミ。早紀のことに関しては、おまえだけがおれの頼りだ」 「変な関係だけどね、マミと早紀は」  麻美はくすりと笑った。  すべては演技──心の中では波風が立っている。  市丸をはやく籠絡しなければならない。波潟が手を出そうとしている株の銘柄を聞きださなければならない。  波潟の手が乳房に伸びてくる。一度射精したあとの波潟は、しばらくは勃起することもない。ただ、麻美の身体を弄《もてあそ》ぶ。  麻美は目を閉じた。美千隆と彰洋のことを考えながら、波潟の手の動きに神経を集中させた。      * * *  市丸の会社に電話をかけた。市丸は外出しているという返事が返ってきた。ポケベルに連絡を入れた。  電話がかかってくる。 「今度は、いつ会えるの?」  逸《はや》る心を押さえて甘く訊く。 「明後日だな」 「じゃあ、明後日、約束ね」 「よし、八時にいつものレストランでいいな?」 「ホテルの部屋も取っておいていいよ。次は無駄にさせないから」  市丸が嬉しそうに笑いながら電話を切った。  明後日までは手持ちぶさただった。やることがない。することがない。だが、気持ちは逸っている。昂ぶっている。波潟が動きだそうとしている。波潟の機先を制さなければ、勝ち目がないのはわかっている。だが、闇雲に動いても意味がない。  暇つぶしに電話をかける。  美千隆──事務的な口調。事務に徹した会話。 「市丸はきっとおまえのことをだれかに調べさせている。変なことはするな」  美千隆はそういって会話を終わらせた。  寂しさが募る。美千隆と最後に寝たのがいつのことだか、思いだせない。  彰洋に電話する。留守番電話。彰洋が留守なのはわかっていた。 「マミだよ。彰洋ちゃん、元気になった? 朝まで一緒にいてあげられなくてごめんね。マミが酷い女だってこと、彰洋ちゃんわかってると思うけど、あの時はほんとに心配だったんだよ。たまには電話で声をきかせてね」  メッセージを吹きこんで電話を切った。  早紀に電話をかける。波潟の言葉どおり、電話に出たのは波潟の妻ではなく、早紀本人だった。 「なんか、やばいことになってるんだって?」 「そうなの。彰洋ちゃんとのこと、パパにばれそうになって」  彰洋ちゃんという言葉を耳にした瞬間、嫉妬とも怒りともつかない感情に襲われた。子供の時は別にして、彰洋を�彰洋ちゃん�と呼ぶのは麻美だけだった。 「わたしもパパに訊かれたよ。早紀に彼氏がいるかどうか知らないかって」 「なんて答えたの?」 「知らないっていっておいたけど、早紀から聞きだしてくれって頼まれちゃった」 「どうしよう……」  か細い声が麻美の嗜虐《しぎやく》心をくすぐる。 「今日、時間空いてる? 会っていろいろ相談しようよ」 「うん。早い時間ならだいじょうぶ。ママ、夕方まで外出してるから」 「じゃあ、急いでシャワー浴びて着替えるから……」麻美は壁の時計に視線を走らせた──午後一時。「二時半に青山でいい?」 「二時半ね。だいじょうぶ……マミ、ありがとうね」 「そんなこといわないでよ、早紀。わたしたち、友達じゃない」  背筋がくすぐったくなるような言葉──感謝する早紀。気分がいい。  待ち合わせの場所を決めて電話を切った。バスルームに飛びこむ。ハミングしながらシャワーを浴びる。流行の歌──突然、メロディを思いだせなくなる。  麻美は口を閉じてシャワーに打たれた。暇つぶしに電話をかけた相手──美千隆、彰洋、早紀。電話をかけるべき相手が三人しかいなかった。知り合いは大勢いる。寝た男の数も両手の指では足りない。だが、電話をかけるべき相手が三人しか思いつかない。流行の歌のメロディを途中から忘れてしまったように。早紀を除けばたったのふたり。それにしても、美千隆は麻美を利用するだけの存在と看做《みな》しはじめている。彰洋は麻美を毛嫌いするようになっている。  麻美はシャワーの温度をあげた。 「お金さえあればなんだっていいのよ」  吐き捨てるようにひとりごちて、バスルームを出た。      * * * 「大学の男の子、パパに紹介すれば。ボーイフレンドだって」  麻美はレモンティに口をつけた。早紀はうつむいたままだった。 「そんなことできないわよ。パパがなにをするかわからないんだもの」 「それもそうか……」 「パパ、凄い剣幕だったの。どこの馬の骨を家に連れこんだんだって……ママがとめてくれなきゃ、殴られてたかもしれない。あんなパパ、初めて見たわ。マミの悪口をいって撲《ぶ》たれたときよりも怖かった。今でも怖いの」  笑いたいのを堪える。見る者が見れば、波潟の本性はすぐにわかる。早紀は気づくのに二十年もかかっている。どうしてそこまで愚かでいられるのか。 「だったら、しばらく冷却期間を置く? パパの疑いが晴れるまで」  早紀が首を振る。駄々をこねる子供のようだった。 「彰洋ちゃんに会いたい。この前、電話もらったんだけどすごく冷たいいい方しちゃったの。もしかして、わたしのこと怒ってるかもしれない」 �彰洋ちゃん�。視線が強張《こわば》るのを感じる。ティカップに視線を落として荒ぶる感情をやり過ごした。 「そんなことないよ。彰洋ちゃん、優しいから。絶対、早紀の立場わかってるから」  早紀は首を振りつづけた。 「その後も何度かポケベルに連絡入れてもらってるんだけど、わたし、一度も電話してないの。パパが怖くて。ばれたらどうしようと思って──」 「だいじょうぶよ、マミがなんとかしてあげる」 「そんなこといっても……」 「安心してって。マミ、ある意味で早紀よりパパのこと知ってるんだから。マミに任せて。早紀には絶対に悪いようにしないから」 「でも……」 「じゃあ、証拠見せてあげる。今夜、早紀を彰洋ちゃんに会わせてあげるから」  早紀の返事を待たず、麻美は席を立った。店の奥の公衆電話に向かった。波潟の車載電話の番号をまわした。肩越しに振り返る。早紀が心配そうな眼差しを向けていた。 「はい。北上地所です」  事務的な声が聞こえてくる。彰洋の声だった。 「彰洋ちゃん、マミよ。パパいる?」 「少々お待ちください」  彰洋の声がかすかに上ずる。麻美は忍び笑いを漏らした。 「はい、波潟ですが」 「パパ? マミよ。今ね、早紀と一緒にいるんだけど……」 「どんな様子だ?」  波潟の声が低くなった。 「まだどっちともいえないわ。パパ、早紀を物凄い剣幕で怒鳴りつけたんだって? 早紀、怯えちゃってるわよ。あんな早紀見るの、マミ、初めて。おかげで早紀の口が重くなっちゃってるの」 「そんなにきつく叱ったつもりはないんだがな……」  途方に暮れたような声が受話器から流れてくる。親馬鹿に子馬鹿。金に不自由しない人間の愚かな家族群像。うんざりする。苛々《いらいら》する。腹に据えかねる。 「早紀、けっこう落ちこんじゃってるみたいだし、話を聞きだすの時間がかかると思うのね。だから、パパ、早紀を今夜マミに貸して」 「貸すっていってもなぁ、マミ……」 「早く家に帰って奥さんにうまいこといっておいてくれればいいの。学校の友達と遊びに行ってるとか、適当にごまかして。絶対、午前様にはしないから」 「それはなんとかするが……ちゃんと、早紀から聞きだすんだぞ、いいな?」 「マミに任せてっていったでしょ。じゃあ、早紀を借りるね。それと、ちょっとだけ彰洋ちゃんに替わってくれる?」 「ちょっと待て……」  波潟の声が遠くなり、代わりに彰洋の声が聞こえてくる。 「なんの用だよ?」  迷惑そうに声を潜めて彰洋がいった。この前のことを忘れたがっている。 「今夜、早紀に会わせてあげる。できるだけ早く仕事を抜けだして、〈ドルチェ・ヴィータ〉に来て。いい?」 「なんだよ、それ?」 「約束だからね。来なかったら、マミと何度も寝たこと、早紀にばらしちゃうから」  彰洋が絶句する。唾を飲みこむ音が聞こえてきた。 「じゃあね、彰洋ちゃん。早紀とふたりで待ってるから」  麻美は電話を切った。胸を張りながら踵《きびす》を返す。気取った足取りで早紀のもとへ戻る。 「今夜は少し遅くなってもいいって。パパが約束してくれたよ。それから、彰洋ちゃんとも会えるからね」  早紀に笑いかけた。早紀は肩を顫わせて、小さくうなずいた。      * * *  ショッピングと食事。早紀の心が少しずつほぐれていく。ショッピングはだれにとっても気晴らしになる。〈ドルチェ・ヴィータ〉──流行りのイタリア料理は気分を大らかにする。食事を終えたあとはバーカウンター。落ち着いたインテリア、落ち着いた雰囲気の客層。成金や浮わついた若い連中にはまだ毒されていない秘密のスポット。甘みのあるカクテル。早紀の口も軽くなっていく。 「ママに見張られてるような気がして、ずっと気分が滅入ってたのよ。いつもびくびくしてて、学校に行っても、授業が終わったらすぐに帰ってくるの。気分がむしゃくしゃして、落ちこんで……マミからもらった薬を飲んだら、少し気分が楽になるんだけど、あれももうなくなっちゃったし」 「また分けてあげるよ。でも、あんまり飲みすぎても身体にはよくないんだからね」 「うん。ありがとう、マミ。こんなに辛いことがあるのに、相談できるのマミだけだから。友達はいっぱいいると思ってたけど、ほとんどはただの知り合いで、わたしにはマミしかいないのよね」  同類だといわれた気がした。胸がきりきりと痛んだ。  九時三十分。店の人間に先導されて彰洋がやってきた。 「待たせてごめん」  彰洋が早紀にいった。麻美には一瞥をくれただけだった。彰洋はやつれていた。顔色が悪かった。 「彰洋ちゃん、顔が真っ青……」  早紀の瞳が潤んでいた。 「ちょっと体調がよくないんだ。一晩ぐっすり眠れば元に戻るよ」 「無理に呼びだしちゃってごめんなさい」  早紀の瞳から涙が零《こぼ》れおちる。愁嘆場──みっともない。情けない。 「彰洋ちゃんを呼びだしたの、マミでしょ。早紀はなんにも悪くないよ。悪いのはマミだから」  麻美は彰洋と早紀の間に割って入った。早紀に微笑みかけ、彰洋に視線を送る。 「本当に顔色が悪いわよ、彰洋ちゃん」 「そんなに酷いか?」  彰洋は目をそらした。麻美と顔を合わせたくはない、あの夜のことを思い出したくはない──全身でそう訴えている。  自尊心が傷つけられる。彰洋への暖かい思いがどす黒い憎悪に塗り潰されていく。  お金のためよ──自分にいい聞かせる。 「早紀、彰洋ちゃんを部屋に送ってあげなよ。それで、手料理かなにか作ってあげて。ほんと、このままじゃ彰洋ちゃん、倒れちゃうよ」 「でも──」 「マミはいいから。でも、パパには十二時までに早紀を家に戻すって約束してるんだから、それを忘れちゃだめよ」  早紀と彰洋が目を合わせた。ふたりの視界に麻美が入っていないのは傍目《はため》からも明らかだった。  嫉妬──憎悪。首を振る。 「さあ、早く行きなさいよ。あんまり時間ないんだから」  麻美は彰洋の背中を押した。 「悪いな、麻美」  彰洋がいった。  いいわよ、どうせほんのつかの間の幸せなんだから──声には出さずに、麻美は微笑んだ。      * * *  適当に遊んでから部屋に戻った。留守番電話のボタンが明滅していた。  また電話します──早口で囁くようなメッセージ。美千隆の声。波潟が聞くことを警戒して声がわからないようにしている。だが、麻美には声の持ち主がはっきりとわかった。  すぐに電話をかけた。最初の呼びだし音が鳴り終わらぬうちに、美千隆が電話に出た。 「市丸が人を使っておまえを調べさせてる」美千隆がいう。「二、三日、派手な遊びは控えろ」 「それだけでいいの?」 「今日の夕方、市丸が使ってる男に会ったんだ。人から紹介されてな。波潟とおまえのことをおれから聞きだそうって腹だったらしい」  美千隆が嬉しそうに笑う。 「なんていったの?」 「マミって女は、小銭が欲しいってだけの小娘だってな。波潟も飽きたら簡単に捨てるだろうといっておいたよ。その方が、市丸もおまえに食いつきやすい」 「酷いいい方ね」 「金のためだ。それぐらい我慢しろ」  金のため──魔法の呪文。それを聞かされたら、逆らうことはできない。 「波潟の女遊びのことも話しておいた。近いうちに、市丸はおまえを抱こうとするだろう。覚悟はできてるな?」 「お金のためだもん」  麻美は魔法の呪文を口にした。 「よし。彰洋からも情報が入ってきている。うまく、市丸をたらしこめ。波潟が手を出そうとしてる株の情報を聞きだすんだ」 「いわれなくてもわかってるわよ、それぐらい」  麻美は電話を切ってベッドの上に倒れこんだ。      48  胃が痛む。頭が痛む。体温があがっていくあの感覚はどこかへ消えてしまった。波潟の視線に怯える一秒一秒。  質の悪いコカインを吸いこんでも、波潟はなにもいわなかった。早紀のボーイフレンドに関する話題も、波潟はあれ以来一度も口にしなかった。波潟は株の値段のあがりさがりを、毎日、毎時、毎分、毎秒、食い入るように見つめている。  胃痛と頭痛に悩まされながら、彰洋は波潟の一挙手一投足を追う──天啓を得る。  波潟が気にかけているのは流通関連企業の株──間違いはない。社名までは特定できないが、波潟の神経が集中するのは、決まって流通関連企業の株価がテレビ画面に流れるときだった。  美千隆に電話して掴んだ事実を報告する。  よくやった──美千隆がいう。これからも、波潟を見張っていろ。  望んでいたのはそんな言葉ではない。  よくやった、波潟の鞄持ちはもういいから、おれのところに戻ってこい──そういってほしかった。  泣き言は口にできない。胃痛と頭痛をこらえて、走り続けるしかない。深夜、部屋でひとり飲む酒の量が、ただ増えていく。      * * *  池袋の喫茶店──やくざ者の松岡との密談。 「松岡さん、まずこれを」  波潟は席につくなり彰洋に合図を送ってきた。彰洋は手に提げていた紙袋を松岡に差しだした。袋の中には現金が一億、入っている。 「会長によろしくお渡しください」 「会長もお喜びになりますよ、波潟社長」  松岡が下卑た笑みを浮かべながら躊躇《ちゆうちよ》なく紙袋を受け取った。 「会長にはいつもよくしてもらっておりますからな、これぐらいで喜んでいただけるなら……それより、今日は会長からのご伝言があるとか?」  波潟が声をひそめ、テーブルの上に身を乗りだした。 「いやなに、伝言というほど大袈裟なものじゃないんですがね……まず、先週あたりから、関西の例の金田が東京に出張ってきてるらしいんで」  金田──関西の地上げの雄。 「金田が? それはまたどうして?」 「なにをするわけでもなく、銀座や六本木で遊び回ってるって報告が来てるんですがね、なにを企んでるのかまではちょっと……しかし、筋も通さないで馬鹿をやるやつとは聞いてませんので。とりあえず、会長は波潟社長の耳には入れておいた方がいいだろうと」 「いや、お心づかい、痛み入ります。金田の方は、わたしの方でなにをしに来たのか調べを入れさせましょう。まあ、たいしたことじゃないとは思いますが……ところで、わたしは見たことがないんですが、金田っていうのは実際のところどんな男なんでしょうな」  彰洋は耳に神経を集中させた。 「おれもよく知ってるわけじゃないんですが、見た目はチンピラみたいらしいですな。まだ四十代なんですが、三十そこそこにしか見えないと聞きましたよ」 「しかし、その年で関西で名を売るとはたいしたもんじゃないですか」 「おれも会長や社長の半分でも才覚があれば、もっと下の者に楽をさせてやれるんでしょうがね」 「なにをおっしゃる。松岡さんの才覚だって、並み大抵のもんじゃない。でなきゃ、会長にこれほど可愛がられることもないでしょう──おい、堤」  波潟からの合図。彰洋は鞄の中から茶封筒を取りだし、波潟に渡した。中身は一千万の札束だ。 「なんだか催促したみたいで、すみませんな、社長」 「気にせんでください。わたしと松岡さんの仲ですからな」 「ありがたくいただきます。極道の世界も、金があるとないとじゃ大違いでしてね。おれも、もう一回り大きくなるためには、どうしても先立つ物が必要なんですわ。それでね、社長。ひとつお願いがあるんですがね」  松岡の目が光った。波潟の首筋が強張っていった。 「なんですかな?」 「これは会長からのお願いでもあるんですが……社長、近々大勝負を打つそうじゃないですか」 「会長からお聞きになったんで?」  松岡がうなずいた。 「こんなことを教えてくれる人間、他にいませんよ。でね、社長。会長は社長の勝負に乗りたいと仰しゃってるんですよ」 「会長が……それは助かる」  波潟が息をつく。会長──佐久間和臣。東日本を代表する広域暴力団のトップ。日本全国から金が集まってくる。その金が使えるなら、仕手戦も有利に闘える。だが、やくざはやくざだ。やくざの金を使うならそれなりのリスクが生じる。使った金に数倍の利子をつけて返さなければならない。仕手戦に失敗すれば──考えたくもない未来が口を開けて待っている。  波潟の頭の中が透けて見えるような気がする。天秤が左右に揺れ動いている。 「ついでにといっちゃなんですがね、おれも一口のせてもらおうと思ってるんですよ」  松岡が含み笑いをした。波潟の頭の中の天秤が右に傾く。やくざの頼み──断れない。断れるはずがない。 「そういうことならわたしに任せてください、松岡さん。目一杯儲けていただこうじゃないですか」  波潟が煙草をくわえ、ライターを探した。彰洋が動くより先に、松岡がライターの火を差しだした。 「よろしくお願いしますよ、波潟社長──おい」  松岡が舎弟に声をかけた。舎弟が波潟と松岡の間にルイ・ヴィトンのバッグを置いた。 「二億入ってます。これを社長に預けますんで」 「わかりました。丁重にお預かりいたしますよ」 「会長がおっしゃるには、波潟社長が勝負に打ってでるんだから、この金、十倍にはなると」 「十倍……」  波潟が絶句した。松岡の視線は波潟から外れない。恫喝──やくざお得意の手口。二億貸す代わりに二十億をよこせ。  波潟のうなじが赤らんでいく。波潟は肩を震わせている。 「まあ、十倍というのは大袈裟にしても、それだけ期待してるってことですよ、社長」  松岡が破顔した。視線は動かない。波潟の顔を射貫《いぬ》きつづけている。  波潟の頭の中が透けて見える。脳味噌が沸騰している。どろどろに溶けて熱したマグマと化している。  彰洋は小さく溜め息を漏らした。      * * * 「くそやくざめ!!」  波潟が喚きながらシートの背を蹴飛ばした。運転手が身をすくめた。 「三下やくざが、人の足元を見やがって」  波潟は喚きつづけた。こめかみの血管が浮きあがり、痙攣している。彰洋はコカインの入った小さな筒を波潟に渡した。 「社長、これで気を鎮《しず》めてください。そんなにシートを蹴ったんじゃ、運転手さんも気が気じゃなくって事故を起こすかもしれませんよ」  波潟が筒をひったくった。中の白い粉を鼻から吸いこんで目を閉じた。  波潟の口から太い息が漏れる。こめかみに浮きでた血管の痙攣がとまった。 「気が利くじゃないか、堤」  波潟が目を開いた。怒りのせいで血走っていた眼球が潤んで熱病のような光を放っている。 「それなりに社長のお供をさせてもらってますから」 「しかし、佐久間の金が使えるってのは朗報だが、松岡の野郎、調子にのりやがって……堤、今夜、女を用意できるか?」  腕時計──午後四時。彰洋はうなずく。 「なんとかします」  波潟が背もたれに身体を預けた。 「ふたり呼んでくれ。今夜はうっぷん晴らしだ。普通に遊んでもおもしろく──」  波潟の声を遮って、車載電話が鳴りはじめた。彰洋は受話器に手を伸ばした。  電話の主は麻美だった。記憶がよみがえる。思わず、波潟を盗み見た。波潟は茫洋とした視線を窓の外に向けている。 「社長、麻美からです」  受話器を波潟に渡す。波潟が話しはじめる。彰洋は聞き耳を立てる。  会話の断片からの推測──麻美は早紀と一緒にいる。波潟は麻美を使って早紀の男のことを聞きださせようとしている。  おぞましい現実──耐えるしかない。麻美の機転を、金への執着心をただ信じるほかはない。 「ちょっと待て……」波潟が受話器を口から離す。「堤、マミがおまえと話したいそうだ」  受話器を受け取ってぶっきらぼうな声を出した。 「なんの用だよ?」 「今夜、早紀に会わせてあげる。できるだけ早く仕事を抜けだして、〈ドルチェ・ヴィータ〉に来て。いい?」  麻美の早口な声。早紀に会う。麻美と一緒に会う。眩暈を覚える。 「なんだよ、それ?」 「約束だからね。来なかったら、マミと何度も寝たこと、早紀にばらしちゃうから」  彰洋は絶句した。麻美はやるといったらやる。麻美は写真を、ネガを持っている。 「じゃあね、彰洋ちゃん。早紀とふたりで待ってるから」  電話が切れた。波潟の視線を感じる。 「ああ、わかった。じゃあ、決まったらまた連絡をくれよ」  口八丁手八丁──切れた回線の向こうにでたらめを吹きこむ。受話器を架台に戻す。 「マミ、なんだって?」 「今度、高校の同窓会をやる予定があるらしいんです。それで、出られるかって。仕事中なのに、すみません」 「悪いのはマミだ。おまえが気にすることはない。それより、今夜の女遊びは中止だ。家に帰らにゃならなくなった」  波潟はしきりに瞬きした。コカインに酔った顔──疑念の色はうかがえない。波潟はなにも疑ってはいない。 「わかりました」  彰洋は答え、そっと目を閉じた。      * * *  女遊びは中止──代わりに仕事に精を出す。  波潟が電話をかける。運転手に行き先を指示する。精力的に都内を動き回る。  解放されたのは午後九時。頭痛は消えた。胃痛は続いている。タクシーを飛ばさせて六本木に向かう。〈ドルチェ・ヴィータ〉──甘い生活。現実は毒々しい。  麻美と早紀はカウンターでカクテルを飲んでいた。微笑みあい、囁きあっている。まるで仲のいい姉妹のようだった。  麻美の顔を直視できない。早紀にだけ、遅れたことを詫びる。早紀の視線が彰洋の顔に釘づけになる。麻美の視線を横顔に感じる。  早紀が彰洋の顔色の悪さを指摘した。麻美が同調した。早紀の目に涙が浮かんだ。麻美が部屋に帰れといった。早紀を連れていけといった。早紀を十二時までに家に返せといった。  麻美の本音はわからない。だが、麻美と別れて早紀とふたりになるのは望むところだった。  促されるまま、店を出た。 「本当にだいじょうぶなの? パパにいって、少し休みもらう?」  徒歩で部屋に向かう。早紀が腕にしがみついてくる。 「そんなことを社長にいったら、どうしておれのことを心配するんだって疑われるだけだよ。だいじょうぶ。ちょっと疲れてるだけなんだ。一晩ぐっすり寝たら、すぐによくなるよ」  彰洋と早紀はゆっくり歩いた。夜の六本木。溢れんばかりの人。光の洪水。歓声が聞こえる。悲鳴が聞こえる。クスリを売ろうとする黒人たちの英語訛りの日本語が聞こえる。  早紀の声が聞こえる。 「ごめんね……彰洋ちゃん、本当にごめんね」  彰洋は早紀の腰に腕をまわし強く抱きよせた。  部屋に辿《たど》りつくと、早紀がキッチンに駆けこんで冷蔵庫の中身を漁りだした。  彰洋はバスルームに直行した。鏡を覗きこむ。死人のような顔が見返してくる。眼窩《がんか》が窪み、頬がこけている。  彰洋は顔を洗った。皮膚が痛むほど、強く洗った。 「彰洋ちゃん、だいじょうぶ?」  早紀の声で我に返った。洗面台から撥《は》ね落ちた水が床を濡らしていた。タオルで顔を拭って居間に戻ると、テーブルの上に丼が載っていた。丼からは湯気が立ちのぼっていた。 「ありあわせのものじゃ、これぐらいしかできなくて……」  早紀がすまなそうな顔をした。丼の中身はインスタントラーメンだった。モヤシと薄く切ったハム、生卵が載っている。  母親の作ってくれた夜食を思いだした。涙がこみあげてくる。  泣くわけにはいかない。早紀に涙を見せたくはない。  彰洋は早紀を抱きよせた。唇を吸った。早紀を寝室に誘い、そのままベッドに押し倒した。      49  夢が入り交じる。不快な夢と心地よい夢。  不快な夢──世界中でだれもが愛しあっている。だれかがだれかを愛している。だれかがだれかに愛されている。麻美だけが愛せない。愛されない。  心地よい夢──世界中の人間が麻美の前にひれ伏す。世界中の富が麻美に差しだされる。無数の紙幣。無数のラ・フラム。人を愛してはならないと麻美が命じる。世界から愛が消える。お金を崇拝しなさいと麻美が命じる。だれもが金を求めて奔走する。  夢が入り交じる──入れ代わる。  夢うつつ──無機質な電子音。おぼろな覚醒。ベッドのサイドボードで電話が鳴っていた。  目覚まし時計は午前八時を指していた。  麻美はうなった。前夜の記憶がよみがえる。彰洋たちと別れたあと、六本木のナイトスポットを渡り歩いた。軽薄な男たちとの会話、酒、クスリ──エクスタシィ。陶酔しながら、エクスタシィを二十錠分、買った。顔見知りの遊び人たちと芝浦に向かった。〈GOLD〉で踊った。セックスの誘いをすべてはねのけて、ただ、踊った。気がつくと、朝。ベッドに潜りこんでから、二時間も経っていない。  受話器を取って不機嫌な声で応じる。 「もしもし?」 「マミ?」  早紀の甲高い声が耳に飛びこんできた。眠気が飛んだ。不機嫌さが消えた。甲高くひび割れた声──早紀のSOS信号。なにかまずいことが起こったに違いない。 「マミだよ。どうしたの、早紀?」 「マミ……」  早紀が絶句する。押し殺した泣き声が聞こえてくる。 「どうしたのよ、早紀? 彰洋ちゃんとなにかあったの?」 「違う……彰洋ちゃんは違うの」  涙のせいで声がよく聞こえない。麻美は受話器を耳に強く押しつけた。 「じゃあ、なにがあったのよ?」 「パパに殴られたの。ママも……ママは家を出ていっちゃった」 「早紀、順番に話してよ。なんのことだか全然わかんないよ、それじゃ」  泣き声が強くなった。怒鳴りつけたいのを我慢する。 「あのあと、彰洋ちゃんの部屋に行ったの。それで……タクシーで十二時前に家に帰ったんだけど……」  泣き声──忍耐。 「パパとママが大喧嘩してて……喧嘩の理由はわたしなの。ママが、こんなときにわたしに夜遊びさせるなんて言語道断だってパパを詰《なじ》って、パパがうるさいって怒鳴り返して……わたしが居間に入っていったら、ママが、どこに行ってたのって……」  支離滅裂な言葉──想像力が、足りない部分を補っていく。おそらく、波潟はうまい理由を思いつけなかったのだろう。早紀が外出していることへの理由が弱いことを妻に指摘されて逆上したのだろう。 「ママがわたしの肩を掴んで揺さぶって……早紀になにをするんだっていって、パパがママを突き飛ばしたわ」  中断──啜《すす》り泣き。麻美はベッドから抜けだしカーテンを開けた。どんよりとした雲が空を覆っていた。 「ママがパパに叫んで、パパが怒鳴って……ママがパパににじり寄って……そうしたら、いきなりパパがママを蹴ったのよ。信じられないわ」 「そうね」  麻美は小さく首を振った。 「わたし、パパをとめたの。そしたら、親子そろっておれに楯突くのかって、パパがいって……わたしも殴られたわ」 「酷いじゃない。そんなのってないよ」 「マミ……」  また啜り泣きがはじまった。空を覆う雲が、早紀が泣くたびに厚さを増していく。 「それでお母さん、出ていったわけ?」 「今朝早くに……わたしも一緒に出ていこうっていわれたんだけど、どうしていいのかわからなくって」 「彰洋ちゃんには電話したの?」 「してない。だって、昨日の彰洋ちゃんの顔、マミも見たでしょ? これ以上、心配かけられないわ」  幸せな彰洋──憎らしい彰洋。 「それもそうね……」 「わたし、もういや。昨日のパパ、マミに見せたかった。あんなの、わたしの知ってるパパじゃないわ……ママなんか、三回も蹴られたのよ」  鼻を鳴らしたい。笑い飛ばしたい。  麻美は唇を噛んだ。記憶が遡る。父がいたころ──まだ十歳にもならないころ。父は毎晩のように母を罵《ののし》り、殴った。母は逆らわなかった。抵抗すれば、ますます父が逆上することがわかっていたからだ。  たった数回、殴られただけで家を出ていく妻、パニックに陥る娘。吐き気を覚える。憎悪が募る。 「パパは?」  麻美は訊いた。 「会社に行ったわ。慰謝料はビタ一文払わないから、ママと一緒に行くつもりなら考えておけだって」 「早紀はどうするの?」 「わからない……彰洋ちゃんのところに行きたいけど、パパにばれたら、彰洋ちゃん、絶対酷い目に遭わされるわ。でも、この家にはいたくないの」 「だったら、今晩、マミのところに泊まる?」 「いいの?」  よくはない。だが、他に選択肢もなかった。 「マミは全然だいじょうぶだよ。齋藤さんって覚えてる?」 「覚えてるわ」 「齋藤さんに大至急マンションを探してもらうから。齋藤さん、不動産屋だから、家具つきの部屋ぐらい、すぐに探してくれると思うし……パパとお母さんが落ち着くまでそこに移ってればいいよ。パパにはマミがうまくいっておくから」 「ありがとう、マミ……こんなときに頼れるの、マミだけだわ」 「だって、マミと早紀、親友じゃない」  麻美は笑った。背筋を悪寒が駆け抜けた。 「本当にありがとう」 「他人行儀はいいから、とりあえず、マミの部屋に来るの、いい? 着替えとかはマミの服を貸してあげるから、荷物は少なめにね」 「わかった。すぐ行くから……」  涙声──啜り泣き。 「待ってるからね。辛いときにひとりでいたら、ますます辛くなるだけなんだから」 「うん。すぐに行く」 「メイクもしなくていいよ。どうせそれだけ泣いてるんだから、瞼も腫《は》れてるんでしょ。サングラスかけて、とっととタクシーに乗るの。わかった?」 「わかったわ」  電話が切れた。麻美は電話をかけた。新宿のMS不動産──美千隆はもう出社しているはずだった。 「どうした?」  美千隆は単刀直入に訊いてきた。 「早紀が今夜マミの部屋に泊まるわ。昨日、凄い夫婦喧嘩があって、波潟の奥さん、家を出ていったんだって。早紀も波潟に殴られたらしくて、家にはいたくないっていうの」 「彰洋の件か? 夫婦喧嘩の理由は」 「うん。まだ相手が彰洋ちゃんだってことはばれてないけど……それでね、相談があるの。マミ、明日は市丸と会うことになってるし、早紀をずっとマミの部屋に置いておくのはまずいでしょう? 早紀が住む部屋、適当に見繕ってくれない?」 「わかった」美千隆の決断は速い。「お嬢様だからな、家具つきの高級マンションがいいんだろう。ちょうど心当たりがある。すぐに押さえておこう」 「それから……彰洋ちゃんに釘刺しておいて」 「彰洋に?」 「昨日、会ったんだけど、死にそうな顔してたよ。精神的にすごく参ってるんだと思う。ほら、彰洋ちゃん、けっこう甘ちゃんだから。美千隆、よく見てないと、途中で潰れちゃうかも」 「ありがたい忠告だな。気をつけておくよ」  美千隆の声には陽気な響きがあった。 「なんだか楽しそうだね、美千隆」 「そりゃあ、楽しいさ。波潟は大博打を打とうとしてる。そんなときに、家庭内にごたごたが起こる。仕事に集中できない事情が増えていく。万々歳だよ、マミ。まるで神様がおれの背中を押してくれてるみたいだ」  偽りに満ちていたとはいえ、表面的には幸福だった波潟の家。それがくだらない理由で崩壊しつつある。確かに、波潟は落ち目になってきているのかもしれない。だったら、なおのこと、金を手に入れる算段を早くつけなければならない。 「じゃあ、頼んだわよ。できるだけ急いでね」  麻美は電話を切った。手早くシャワーを浴びる。着替える。バッグの中身をあらためる。  二十錠のエクスタシィ──早紀に与えるには充分な量。  部屋の中を漁ってハルシオンを三錠、見つける。早紀に飲ませるには充分な量。  麻美は鼻歌をうたった。受話器を握り、波潟に電話をかけた。      * * *  早紀はエルメスのサングラスをかけてやってきた。唇の左の端あたりがかすかに黒ずんでいた。 「パパったら、早紀の顔を殴ったの?」  麻美は指で早紀の唇に触れた。  早紀が抱きついてきた。早紀は嗚咽《おえつ》した。  泣くにまかせる──早紀を抱きしめる。ヴィトンのブラウスが涙と鼻水に濡れる。かまいはしない。  ねじれた感情──早紀の惨めな姿に同情し、喜びを覚える。 「とにかくあがりなよ、早紀」  早紀の泣き声が弱まるのを待って誘った。 「ごめんね、マミ……」 「気にしなくていいんだよ。マミだって辛いことがあったら、早紀の胸で泣くから」  早紀はヴィトンの旅行鞄を持ってきていた。麻美は鞄を手に取って居間に進んだ。鞄は見た目よりは軽い。早紀があとからついてくる。 「パパに電話して怒っておいたからね。パパ、かなり慌ててたみたい。しばらく早紀はマミが預かるからっていったら、早紀のこと、よろしく頼むだって」  嘘。波潟は怒っていた。憤激していた。人の苦労も知らないで馬鹿女どもが──絶叫していた。 「本当に?」 「ほんとよ。凄く反省してるみたい。疲れてて気が立ってたんだって」 「だけど……」 「そう。だからって簡単にゆるしてあげちゃだめだよ、早紀」  熱しすぎず、冷まさせすぎず──早紀と波潟の間を微妙な湯かげんに調節しなければならない。波潟の精神状態を不安定なままにしておきたい。 「ゆるせないわ……」  早紀がいった。麻美は振り返った。早紀が変色した唇の端に指で触れていた。  波潟は女は金でかたがつくと思っている。女のことがなにもわかっていない。  麻美は早紀の鞄をダイニングテーブルの上に置いた。空いた手で早紀の手を取った。 「可哀想に、早紀」  早紀の唇が痙攣した。痙攣はすぐに全身に広がっていく。 「我慢しなくていいからね。泣きたいときはいつでも泣いていいんだよ」  痙攣が顫えに変わる。早紀は口を開かない。  麻美は早紀のサングラスに手をかけた。早紀は抗わなかった。  泣き腫れた瞼。真っ赤に充血した瞳。  早紀の顫えが麻美にも伝染する。顫えはあさましい快感を伴っていた。  欲望をこらえて早紀を抱きしめる。 「本当に可哀想だよ、早紀。寝てないんでしょう?」 「うん……」 「ベッド使っていいから、少し寝る?」  早紀が首を振った。 「寝た方がいいよ」 「寝たくないの。寝るのが怖いの。いやな夢見そうで……マミ、あの薬、ある? あれを飲めば、少しは落ち着けると思うの」  二十錠のエクスタシィ──いくらでもくれてやる。 「わかった……こっちに来て」  麻美は早紀の手を引いてベッドルームに足を向けた。早紀をベッドの端に座らせる。サイドボードの抽斗《ひきだし》の中からエクスタシィを引っ張りだす。 「はい、これ。水を持ってくるから、ちょっと待ってて」  錠剤を早紀に渡す。キッチンで水を汲んでくる。ベッドルームに戻る──早紀が錠剤を凝視している。  不安が芽生えた。早紀もディスコにはよく行く。ディスコではエクスタシィが飛び交っている。 「どうしたの、早紀?」 「なんでもないわ」  早紀が首を振った。不安が増大していく。 「なんだったら、睡眠薬もあるよ。ハルシオンだけど。そっち飲んで、ゆっくり眠る?」  早紀が首を振る。 「寝たくないの」 「そう」  麻美は早紀にコップを手渡した。早紀が錠剤を一気に飲み干した。 「でも、ほんとに酷い顔」  麻美は早紀の隣りに腰をおろした。コップを受け取り、サイドボードの上に置いた。 「パパ、本当に反省してるみたいだった?」 「そうだよ。そんなことで嘘つくわけないじゃない。パパは本当に早紀のこと愛してるんだから」  熱しすぎず、冷まさせすぎず。 「だけど、昨日のパパをみたら、マミだって考え直すわ。パパ、まるでやくざみたいだった」 「それは、しょうがないんじゃない。もともと不動産屋のおやじなんだし……マミだって、ときどきすごい剣幕で怒鳴られるけど、そのときのパパって、ものすごく怖いし、本物のやくざみたいだよ。今は偉くなったから自分を抑えてるだけじゃない。本当は気が荒い人なんだから……マミより早紀の方が知ってるでしょ?」 「そういえば……昔はママのこと、よく怒鳴りつけてたわ」 「だから昨日は、きっと仕事のせいで気が立ってて、それでちょっと変になっちゃっただけだよ」 「だけど──」  麻美は早紀の手を取った。 「ごめん、ごめん。マミ、別にパパの肩を持ってるわけじゃないんだよ。ただ、マミにはお父さんがいないから……早紀とパパが喧嘩するの、ちょっと辛くて」 「だから、年上の人しか好きになれないって、マミ、いってたもんね」  早紀が手を握り返してきた。早紀の手は熱を帯びている。上質のエクスタシィは即効性に勝《すぐ》れている。 「あとで彰洋ちゃんに連絡入れようか? それで、ここに来てもらう?」 「いいわ」 「だけど、早紀……」 「なんだか、男の人が信じられなくなっちゃって」  熱しすぎず、冷まさせすぎず──彰洋と早紀の関係は熱しつづける必要がある。 「彰洋ちゃんはだいじょうぶだよ。それは、男だから、自分勝手なところはあるかもしれないけど。彰洋ちゃん、早紀に惚れまくってるから」  早紀が激しくかぶりを振った。 「そんなこと、わかってる。だけど、不安なの」  早紀の手に力がこもる。早紀の手は熱くなりつづけている。 「なにが不安なの?」 「前に、マミいってたでしょ。パパが浮気してるかもしれないって。わたしに、パパの様子を探ってくれって」  早紀の声が昂ぶっていく。 「うん」 「わたし、どうしたらいいかわからなくて、彰洋ちゃんを家に呼んだときに相談して、パパの部屋を探したの」 「なにか見つかったの?」 「パパの葉巻入れの中に変なメモ帳があって、たくさん電話番号が書いてあったわ。中身を書き写して、彰洋ちゃんが電話の相手を調べて結果を知らせてくれるっていってたのに、なにもいってくれないの」  彰洋──優等生面をしたがるくせに、いつもどこかが抜けている。 「わたしのせいで、彰洋ちゃんを家に呼んだことがばれちゃったし……別に、相手が彰洋ちゃんだってばれたわけじゃないんだけど、それで大変なのはわかってるんだけど、考えちゃうのよ、マミ。もしかしたら、彰洋ちゃん、違うこと考えてるんじゃないかって。パパの仕事の秘密を探るためにわたしに近づいたんじゃないかって」  早紀は愚かだが馬鹿ではない。馬鹿ではないが愚かにすぎる。 「怒るよ、早紀」麻美は静かな声でいった。「彰洋ちゃんはマミの幼|馴染《なじみ》だけど、それとは別に、怒る」  早紀が途方に暮れたような表情を浮かべた。 「彰洋ちゃん、本当に早紀のことが好きなんだよ。いろんなことが信じられないだろうし、信じられないことがいっぱいある世の中だけど、これだけはほんとのほんと。彰洋ちゃんは早紀を愛してる」  早紀の身体がまた顫えはじめた。何度も瞬きを繰り返し、唇を噛む。それでも、顫えはおさまる様子がない。 「信じたいよ、マミ」  早紀が吐きだすようにいった。顫えがいっそう大きくなる。麻美は早紀を抱きしめた。 「わたしだって、彰洋ちゃんとマミのことだけは信じたい。だけど……わからない。全部、わからなくなっちゃうの」 「早紀……」  早紀が腕の中で駄々を捏《こ》ねるようにもがいた。麻美は早紀をきつく抱きしめた。 「さっき飲んだ薬が麻薬かなにかだってことも知ってるわ。わたしだって、たまにはディスコに行くんだから。馬鹿な人たちが、ああいう薬を飲んでるの、見たことあるし」 「早紀……」  的中した不安──なんとしてでも早紀をいいくるめなければならない。 「でも、いいの。おかしいと思ってても、わたし、あの薬を自分の意志で飲んだ。嫌なことがありすぎて、それを忘れたくて飲んだの。もっと嫌なことがあって、だれかに助けてもらいたくて、だけど、わたしにはマミしかいなくて……パパとマミが一緒に過ごす部屋になんて来たくなかったけど、他に行けるところもなくて、家にもいたくなくて、ここに来たの。わたしにはだれかを責める資格なんかないの。わかってるの」 「早紀、そんなに自分を追い詰めちゃだめだよ。マミだって──」  早紀がもがくのをやめた。麻美の腰に腕をまわし、麻美の胸に顔を押し当ててきた。 「マミもあの薬、ときどき飲むの?」 「飲むよ」 「辛いときに?」 「楽しくなりたいとき。マミみたいに愛人やってると、いろいろあるんだよね」  乳房が押し潰される──早紀が小刻みにうなずいている。 「中毒になるの、怖くない?」 「毎日飲むわけじゃないからね。実際のところ、マミ、クスリでハイになるより、ショッピングしてる方が気持ちよくなれるから」  掛け値なしの真実。金を使うことほど、気分を昂揚させるものはない。  忍び笑いが聞こえた。早紀の肩が細かく顫えていた。悲しんでいるわけではない──クスリが効きはじめている。早紀の背中にまわした腕に火照っている早紀の体温が伝わってくる。 「マミって、どんなときでもマミなんだね」 「当たり前じゃない」  麻美は早紀の背中を静かにさすった。ときおり、脇腹に指を滑らせる。早紀がくすぐったそうに身をよじった。  小猫同士のようにじゃれる。戯れる。早紀の身体をくすぐる。早紀が逃げようとする。早紀に覆いかぶさる。もつれ合い、絡み合う。  早紀の忍び笑い──苦しげな息づかい。  麻美は早紀の顔を覗きこんだ。早紀は泣きながら笑っていた。早紀の顔は醜かった。滑稽だった。愛くるしかった。 「いいんだ、わたし。マミみたいにはなれないけど、辛いことがあったら、マミからもらう薬飲むから」 「飲みすぎると中毒になっちゃうよ」 「だって、他にどうしたらいいかわからないんだもの」  早紀の目尻から涙がこぼれ落ちた。麻美は早紀に顔をよせた。舌先で早紀の涙を掬《すく》いとった。 「やだ……」  早紀が顔を背ける。麻美は早紀の耳たぶを噛んだ。早紀の背中が浮く。エクスタシィの効力──理性が麻痺し、感覚だけが強まっていく。 「早紀、本当に可哀想……こんなにされて」 「マミ──」  早紀の唇。左端の痣《あざ》。舐め、吸う。早紀は抗わなかった。唇を重ねて舌を差しこむ。早紀の口の中は熱かった。早紀は抗わなかった。早紀のブラウスのボタンを外し手を差しいれる。ブラの隙間に指を押しこむ。うっすらと汗ばんだ肌。かすかに尖った乳首。早紀は抗わない。  麻美は早紀の唇を吸った。乳首を指で挟んだ。  早紀が消えいるような声を出した。      50  波潟にいつもの覇気がない。予定はすべてキャンセルして社長室に閉じこもっている。  彰洋は社長室を追いだされた。北上地所に、彰洋のデスクはない。秘書室以外に居場所がない。 「どうしたのかしら、社長?」  川田はるかがいう。彰洋は首を振った。  昨日の記憶──波潟が知るはずはない。  川田はるかの机の電話が鳴った。 「はい、北上地所でございます……申し訳ございませんが、波潟は本日多忙でございまして、だれからの電話も取り次ぐな、と……」  川田はるかの口調がかすかに変化した。推測──電話の相手は波潟の身内。女房か、あるいは、早紀か。 「お嬢様が?……はい、わかりました。波潟にうかがってみます」  お嬢様──脳天を蹴り飛ばされたような衝撃。電話の主は麻美に間違いない。早紀になにかが起こった。いったい、なにが?  彰洋はテレビを凝視したまま、聴覚だけを川田はるかの声に集中させた。 「社長、申し訳ございません。三浦様から、緊急のお電話が……はい、なんでもお嬢様のことで至急お話ししたいことがあるとか……わかりました、今、電話をお繋ぎします」  短い電子音と川田はるかが受話器を置く音が聞こえてきた。  麻美からの電話──早紀に関する電話。自分の知らないところでなにかが起こっている。 「社長のお嬢さんに、なにかあったんですか?」  思わず口に出した。川田はるかがかぶりを振った。 「さあ……例の、社長の彼女からなんだけど、詳しい話は聞けなかったから」 「そうですか。一度、お食事を一緒にさせてもらったことがあって……なんだか気になりますね、今日の社長の態度といい、この電話といい」 「どうせ、親子喧嘩かなにかでしょう。なんだかんだいっても、うちの社長は家族思いだから」  川田はるかは興味なさげにいって、書類仕事に戻った。  無為の時間──恐怖に、妄想に理性が苛まれる時間。  彰洋は川田はるかの机の電話機を見つめた。通話中を示すランプが点灯している。十分も経たないうちにランプが消えた。  社長室のドアに視線を移す。波潟の動きはない。 「そんなことより、あなたはだいじょうぶなの、堤君? 最近、顔色が悪いし、体重も落ちてるでしょ」  顔もあげずに川田はるかがいう。 「社長は人使いが荒いですから。でも、まだ若いからだいじょうぶですよ。少し疲れてるだけです」 「だったらいいけど……うちも綺麗事だけでやってる会社じゃないから、気をつけなさいね。堤君はまだ若くて、充分に将来があるんだから」  川田はるかの声は耳を素通りした。彰洋は社長室のドアを凝視しつづける。波潟の動きはない。  とめどもなく汗が噴きでた。指先が強張っていた。      * * *  昼休みを告げるチャイム──同時に社長室のドアが開いた。 「出かけるぞ、堤」  波潟がいった。彰洋は即座に腰をあげた。 「どこへ行かれるんですか、社長?」 「池袋だ。気晴らしに現場に出かけてくる」 「ですが……」  川田はるかが腰を浮かす。 「余計な口出しはするな」  波潟が恫喝する──やくざ者の口調。川田はるかが凍りつく。  彰洋は波潟の前にまわった。波潟専用のエレヴェータまで先導する。露払い、おべんちゃら野郎、鞄持ち──なんとでも呼べばいい。無為の時間を妄想に苛まれながら過ごすより、どんなにくだらないことでも身体を動かしている方がよっぽどましだった。  駐車場で待機していたベンツの後部座席に波潟を乗せ、自分は助手席に飛び乗る。ドアを閉めるのと同時にベンツが発進した。  ルームミラーを盗み見る。波潟の鼻が赤らんでいる。コカイン。怒れる波潟に油を注ぐ。 「池袋のどちらへ?」 「西池袋のウェーブビルに向かえ」  頭に地図が浮かぶ。池袋駅西口近くの一画。北上地所が地上げをし、ビルを建設している。波潟の波をとってウェーブビル。馬鹿げている。だが、ビルが完成して売りに出せば、十億以上の儲けになる。地価があがりつづけるかぎり、買い手に困ることはない。  ベンツは明治通りを西に進んでいた。道は混んでいる。  ルームミラーを盗み見る。心ここにあらずの波潟。視線は宙を泳いでいる。話しかけるきっかけが掴めない。  ベンツは明治通りを外れたところで信号に捕まった。 「堤、後ろに来い。少し、話したいことがある」  波潟が口を開いた。条件反射──理由を考える前に身体が動く。助手席から後部座席へ。 「失礼します」  頭をさげて、波潟の隣りに座った。  ベンツが動きだす。旧山手通りから山手通りへ。 「なにかあったんですか、社長?」  おそるおそる訊ねる。波潟が曇った目を向けてきた。 「女房が家を出ていきよってな……まったく、今まで散々いい目を見せてやってきたのに、ちょっと引っぱたいたぐらいで逆上しおって」  彰洋は答えに窮した。それ以前に、疑問が頭の中で渦を巻く。波潟の妻が家を出た。早紀は? 「早紀はマミのところに逃げていったらしい。どうしたもんかな……」  波潟の声は弱々しい。川田はるかを怒鳴りつけたときの勢いは微塵もない。 「お嬢さんも殴りつけたんですか?」 「ちょっとだけだ。少し強めに撫でたようなもんだ……ショックだったんだろう。さっき、マミから電話があって、しばらく早紀を預かるといってきたよ」  早紀──麻美。暗闇の中の三角関係。彰洋は拳を握った。胃が痛みはじめていた。 「どうしてそんなことに?」  辛うじて口を開いた。 「いろいろあってな……まったくどいつもこいつも、おれがなんのために身体を張って金を稼いでるのか、理解しようともしない。夫婦だってのに、女房はてめえのことしか考えてないし、早紀は早紀で男をくわえこむことに夢中だ。いやな世の中になったもんだ」  くわえこまれた男──たらしこまれた女。早紀が作ってくれたラーメン。早紀が与えてくれた愛撫。早紀が示してくれた愛情。  くわえこまれた男はただそれを甘受する。お返しはなし。早紀を弄び、裏切り、傷つける。  やめろ──くだらない自己|憐憫《れんびん》など捨ててしまえ。ろくでもない感傷など踏みにじってしまえ。おまえは体温があがっていくあの感覚に中毒している。帰依している。あの感覚のためなら、すべてを捨て去ってもいいと思っているくせに。 「ひとつ頼みがあるんだがな、堤」 「なんでしょう?」 「近いうちに、マミのところへ行って、早紀の様子を見てきてくれんか。ついでに、おれが反省してると伝えてくれ。女房はどうでもいいが、早紀は……いくら金を稼いでも、死んじまえばなんにもならん。おれの財産は、全部早紀に残すつもりでいる。だが、それにしたって、早紀がおれの娘としてそばにいてくれるからだ。そうじゃなきゃ、そこら辺の馬鹿娘どもと変わらん」  歪んだ心情──波潟に相応《ふさわ》しい。 「ですが、麻美と一緒にいるんなら、麻美に頼んだ方が──」 「女は信用できん。いいか、堤、女を百パーセント信じちゃいかんぞ。信頼に値するのは──」  波潟が口を閉じ、視線を窓の外に向けた。  彰洋はその視線を追った。前方に中野坂上の交差点。いくつもの看板──波潟はそのどれかを凝視している。コカインに酔った目がぎらついている。  大小の看板。この位置から字が読める看板とそうでない看板。文字を読み取れる看板──不動産屋、製菓会社、運送会社、製薬会社。  波潟の横顔を盗み見る。波潟は惚《ほう》けたように看板の群を見つめている。  彰洋は看板に書かれた会社の名前を脳に刻みこんだ。      * * *  早紀の家出。麻美と早紀。ぐるぐるとまわる視界。覚束ない足元。  早紀に会いたい。麻美に探りを入れたい。麻美に会うのが怖い。二人と会うのが恐ろしい。  池袋の建築現場を見たあと、彰洋は解放された──体《てい》よく追い払われた。  急用を思いだしたと波潟はいった。コカインの効果は消えているようだった。  頭の中で早紀と麻美の顔が交互に入れ代わる。麻美の部屋へ行きたいという願いが膨らんでいく。  埒《らち》もない思いをねじ伏せて部屋に戻った。脳に刻みこんだ会社の名前を引っ張りだし、会社の概要を調べた。  坂本不動産──地元の不動産屋。上場はしていない。  高塚製薬──業界中堅の製薬会社。  東栄通商──同じく、業界中堅の運送会社。  パラダイスガトー──業界大手の製菓会社。  坂本不動産を消去する。残りの三つの会社の株価を調べる。  高塚製薬──一二〇〇円前後。  東栄通商──七〇〇円前後。  パラダイスガトー──二〇〇〇円前後。  なにを見つけるべきなのかがわからない。  三社の、ここ一年の株価の推移を調べる。  高塚製薬とパラダイスガトーは、堅実に、着実に株価があがっている。東栄通商は横ばい。株価高騰の時代にあって、世の中の流れから取り残されている。  波潟は確かに看板を凝視していた。コカインに酔った目で、看板を見つめていた。波潟は流通関係の株価に気を留めていた。  もう一度、過去の株価に目を通す。詳細に、徹底して。  東栄通商──四ヶ月前に、株価が六三〇円から八七〇円に跳ねあがっている。跳ねあがったあとで、七〇〇円前後に落ち着いている。  彰洋は電話に手を伸ばした。 「はい、齋藤です」 「美千隆さんですか? 堤です。波潟が狙ってる株、もしかしたらわかったかもしれません」 「今すぐ、おれのところに来い」  それだけで電話が切れた。  体温があがっていく──久々の感覚。  彰洋は目を閉じ、久々の高揚感に身を浸らせた。      * * *  美千隆があちこちに電話をかけまくっている。猫なで声、傲慢な声、卑屈な声、金を匂わせる声。すべての声がひとつの問いを発する。  東栄通商という運送会社のことで、なにか噂を聞かないか? 教えてくれ──小声でひっそりと。見返りは弾む。  体温があがっていく。  美千隆は電話をかけまくっている。プッシュボタンを押す手が、相手に語りかける口がとまることはない。美千隆の頬が紅潮している。美千隆の体温もあがっているに違いない。  彰洋は目の前のテーブルに手を伸ばした。書類が散らばっている。スタミナドリンクのボトルが転がっている。口を切っていないボトルを見つけ、一息で呷る。  身体が火照っている。血が沸騰しているような錯覚を覚える。  書類──東栄通商の会社概要。美千隆もその気になっている。  美千隆の声が途絶え、受話器を置く音がした。  彰洋は書類から顔をあげた。美千隆が満足そうな笑みを浮かべて、ゆっくり近づいてくる。 「餌は充分に撒いた。あとは、どんな魚がかかるか待つだけだ」 「当たりですかね?」 「まだわからん」美千隆が書類をつまみあげる。「想像していたのにくらべるとちんけな会社だからな」 「でも──」 「気持ちはわかるが、そう焦るなよ、彰洋」  美千隆が隣りに腰をおろした。美千隆の髪の毛は乱れていた。汗の匂いがした。顔に脂が浮き、無精髭が伸びていた。 「マミがおまえのこと心配してたぞ。死人みたいな顔色をしてたってな……今日はそれほどでもないみたいだが」 「ここのところ、ちょっと疲れが溜まってたみたいで」 「おまえは生真面目すぎるからな。辛いことがあったら、おれにいえ。遠慮はするな」  美千隆の目の周りには隈ができている。美千隆も闘っている。全身全霊をかけて、波潟の金を奪おうとしている。  泣き言はいえない──いいたくはない。 「わかりました」 「それから、波潟の娘のことだが──」 「早紀の?」 「マミから頼まれてるんだ。娘のために部屋を用意してやってくれってな。娘もけっこう参っているらしい」 「そうですか……」  早紀の作ってくれたラーメン──早紀の思いやりに溢れた愛撫。あれはほんの二十四時間前のことだった。たった二十四時間で、すべてが変わる。激変する。確かなことなどなにもない。 「家具つきの部屋を代々木に用意した。もう少し値があがるのを待ってから売ろうと思っていた物件なんだがな。明日か明後日には、娘をそこに押しこむ。マミにもいろいろあるんだ」  美千隆が口を閉じる。彰洋を見据える。 「なにか?」 「おまえ、二、三日でいいから、波潟の娘と一緒に暮らせ。娘をなだめるんだ。家庭内にごたごたがあるのはいいが、ごたごたしすぎててもだめだ。波潟がどう動くか読みづらくなるからな」  早紀の横顔が脳裏を駆け抜けていく。 「波潟の娘をなだめろ。波潟と仲直りするよう説得するんだ。家に送り返せ」  早紀を騙す。早紀を裏切る。早紀をないがしろにする。嘘をついてはいかん、人を騙してはいかん、人の物を盗んではいかん。祖父の口癖も体温があがる感覚の前ではかすんでしまう。 「わかりました」 「マミの話だと、波潟の娘はおまえのことを疑いはじめてるらしい」 「おれをですか?」 「あのメモのせいだよ。電話番号の相手を調べて、浮気の相手がいるようだったら報《しら》せると娘にいってたんだろう? なのに、おまえはそれをすっかり忘れてる。おまえに利用されてるんじゃないかって、娘がマミにいったそうだ」  ありあわせの材料で作ったラーメン──いたわるような愛撫。愛情を全身で表現しながら、心のうちで彰洋を疑っていた早紀。  確かなことなどなにひとつない。 「気をつけます」 「娘を可愛がってやれ。本気で愛しているんだと思わせてやれ」美千隆の声は呪文のように響く。「実際、本気で惚れてるんだろう?」  彰洋は美千隆の目を見た。  確かなことなどなにひとつない。 「たぶん……」 「たぶん、か」  美千隆が笑った。喉仏が顫えている。 「おれがうまく波潟をはめたら、あの家は崩壊するぞ。そうなったら、娘はおまえを怨む」 「そうでしょうね」 「それでいいのか?」 「美千隆さんと、行けるところまで行くと決めたんです」  美千隆が微笑む。腰をあげる。 「ちょっと待ってろ」  美千隆が寝室に姿を消す。  彰洋はソファに背中を預け、天井を仰いだ。こめかみを揉んだ。  あがったままの体温。熱に浮かされる思考。早紀の姿がぼやける。早紀をいとおしいと思う気持ちがぼやけていく。  美千隆が戻ってきた。手に指輪のケースをふたつ、持っていた。 「香港に行ってた知り合いに頼んで買ってきてもらったんだ」  美千隆がソファに腰をおろし、指輪のケースを開けた。金の台座に緑の石がはまった指輪がきらめいた。石は小指の先ほどの大きさだった。台座はシンプルなデザインだった。 「翡翠《ひすい》だ。幸運を呼ぶ石ってことになってる」  美千隆が指輪を左の薬指にはめた。 「中国のいい伝えじゃ、金は薬指を通って外に流れていくらしい。だから、こうした指輪で、金の流れをせき止めるんだ。そうすりゃ、貯めた金を失う心配がない」  美千隆は指輪をはめた左手をかざした。照明の明かりを受けて、石の緑が深みを増す。 「おまえもはめてみろ」  美千隆がもうひとつのケースを放ってよこした。彰洋は蓋を開けた。美千隆のものとそっくりな指輪が入っていた。 「十三号ぐらいだと思って勝手に頼んだんだが、サイズ合わなきゃ、どこかで直させるさ」  彰洋は左の薬指に指輪をはめた。指輪は指に吸いつくようにつけ根におさまった。 「ぴったりです」 「そうだろうと思ったよ。いいか、彰洋。この指輪はな、おれたちの王国に住める人間だけがはめるんだ。メンバーの証しみたいなもんだな。ガキっぽいかもしれんが、おれはこういうのが意外に好きなのさ。どんなときも外すなよ。人にいわれを訊かれても教えるな。この指輪をはめてるのは、おれとおまえだけだからな」  体温がまたあがりはじめる。 「おれと美千隆さんだけですか? マミは?」 「おれたちの王国に女は必要ない」  美千隆の声にはなんの感情もこもっていなかった。  彰洋は美千隆と同じように左手をかざした。台座の金が光り、石がきらめく。  単純な男だな──そう思いながら、腹の底から湧いてくる喜びをとめることができなかった。      * * *  電話が鳴った。美千隆が出た。彰洋は指輪を見つめつづけていた。 「それで?」  美千隆の声に熱がこもる。彰洋は指輪から視線を外した。 「とにかく、詳しく説明してくれ」  美千隆は電話機本体を抱えてソファまで戻ってきた。視線がぶつかる。美千隆の目は潤み、ぎらついている。電話を抱える左手の薬指。翡翠の指輪が美千隆の目の光に呼応するかのように輝いている。  美千隆は静かに相手の声に耳を傾けている。その姿からは会話の内容を想像することもできない。  目だけがぎらついている。指輪が冷たい光を放っている。 「名神運輸で間違いないんですね?」  突然、美千隆が口を開いた。名神運輸──中部近畿地方を基盤にする業界大手の運送会社だった。  身体が顫える。体温があがる。 「わかりました。助かります」  美千隆が受話器を置いた。ぎらついていた目が燃えあがっている。 「やったな、彰洋」  美千隆に肩をどやされた。  体温が急上昇する。 「確認を取ったわけじゃないが、名神運輸が東栄通商の買収に動きだすっていう噂がある」 「本当ですか?」 「ほんの一握りの人間の間で流れてる噂だがな……名神は向こうじゃ名門だが、東京じゃさほど知られていない。東栄通商を買収するなり乗っとるなりして東京に進出する腹づもりなんだろう」 「じゃあ──」 「波潟はどこかでその噂を嗅《か》ぎつけたんだ。名神が東栄を正規の手続きを踏んで吸収合併しようが、株を買い占めて乗っとりを企もうが、東栄の株を押さえておけば大儲けができる……名神の考えてるのは乗っ取りだろうな。波潟の考えてること、わかるか、彰洋?」 「仕手戦をしかける振りをして株価を吊りあげるつもりなんじゃないですか?」  美千隆が微笑んだ。体温はとどまるところを知らずにあがりつづける。眩暈がする。悪寒がする。だが、不快ではない。すべては身体を焼き尽くすような圧倒的な熱感に飲みこまれる。 「それで? それで波潟はどうするんだ?」 「適当なところまで株価があがったら、名神運輸に株を売りつけるんです。株価にプラスアルファを上乗せさせて……株価があがるよりは、その時点で多少の金を出しても名神は買い取るんじゃないですか? 東栄通商を本気で乗っとるつもりなら、そうした方が得だと思います」 「それで?」美千隆の微笑が深くなる。「それで、おれは──おれたちはどうする?」 「波潟にも名神にも気づかれないように株を集めます。目立つほど多くてもだめだし、少なすぎても話にならない。波潟と名神のバランスシートを左右できるぎりぎりぐらいの線で集めなきゃならないんですよね?」 「難しいが、なんとかやるしかない。それで? 株を集めてどうする?」 「波潟が名神に近づいた直後に名神に売るんですか?」  美千隆が首を振る。 「それだけじゃ波潟には致命的なダメージは与えられない。まず、波潟に話をつけるんだよ、彰洋。実は東栄通商の株を持ってるんですが、ってな。名神から売ってくれと打診されてるんだが、お世話になってる波潟社長にお分けしたい──わかるか?」  彰洋は首を振る。あがりつづける体温──思考に霞がかかる。まるで、コカインを吸引したときのように。 「例えば、おれの集めた株が十億分だとしよう。波潟にはこう伝えるんだ。名神は五十億で買ってくれるといってる。おれも商売でやってるんだから、名神と同額では売れないが、多少色をつけてくれるんなら、波潟社長にお譲りします。波潟は話に乗るだろう。おれの株が名神に流れたら終わりなんだ。だが、そのときの波潟は、五十億の金を作るのにも苦労してるはずだ。なにしろ、名神運輸相手に仕手を打つんだ。軍資金はいくらあっても足りない。おそらく三洋銀行絡みで、ぱんぱんになるまで融資を受けてるだろうが、融資部長の稲村はおれが押さえている」  頭の中の霞が晴れる。 「波潟に金を用意させておいて、裏切るんですね? 名神に株を売るんだ」 「その時の波潟が見物だな」  美千隆が笑う。さっきまでの微笑とは違って、凄惨な笑みだった。 「まあ、今はなにを話してもとらぬ狸の皮算用だ。一番の問題は、どれだけ波潟や名神の目を盗んで株を集められるかどうかだな。連中に勝負をしかけるんなら、それなりの軍資金も必要だ。ドジを踏んだら、なにもかも失うのはおれの方だ」 「だいじょうぶですよ。美千隆さんなら、必ず勝ちます」 「だといいがな」 「勝ちますよ。だって、そうじゃないとぼくたちの王国が作れないじゃないですか」 「おまえはよくできた弟分だよ、まったく」  美千隆が指輪をはめた左手で拳を握った。彰洋の拳に軽くぶつけてきた。指輪と指輪が音をたてた。  美千隆は笑っている。目は相変わらずぎらついている。美千隆の瞳に彰洋が映っていた。  彰洋の目も、美千隆と同じようにぎらついていた。      51  美千隆が用意したマンションに早紀を押しこんだ。早紀は朝から口を開かない。昨日の記憶──赤らんだ頬。 「ごめんね。本当は今日も一緒にいてあげたいんだけど、どうしても外せない約束があるんだ」  早紀が小さくうなずいた。麻美とは視線を合わせない──合わせられない。  三LDKのマンション。二十畳はあるリヴィングに豪華家具付き。賃貸で百万。分譲で軽く億を越える物件。早紀は感激する様子も見せない。着替え──麻美の服と下着を詰めこんだヴィトンの旅行鞄を持って所在なげに佇《たたず》んでいるだけだ。 「仕事が終わったらここに来るように彰洋ちゃんにいっておくから」  早紀の肩がぴくんと顫えた。麻美は笑いたいのをこらえる。早紀の太股のつけ根、性器のすぐ脇に小さなキスマークをつけてある。早紀のような女が気づくことはない。  彰洋は気づくだろうか。早紀の性器に口をつけるそのときに、小さなキスマークが彰洋の目に入るだろうか。そのとき、彰洋はどんな反応を見せるだろう。  考えるだけで背筋に顫えが走った。 「彰洋ちゃん、だいじょうぶだからね。マミが保証するから」  早紀がまたうなずいた。サディスティックな感情が鎌首をもたげる──麻美は早紀の肩に手をまわし、耳元に口を近づけた。 「昨日のこと、だれにもいわないから。安心してね、早紀」  耳の奥に息を吹きかけると、早紀が逃げるように身体を翻した。その手を掴んで引き戻す。 「これ。あんまり飲みすぎちゃだめだよ。昨日みたいになっちゃうからね」  早紀のあいた手にエクスタシィとハルシオンの錠剤を握りこませる。 「じゃあね。なにかあったらポケベルに連絡入れて」  手を振って部屋を出た。笑いだしたいぐらい爽快な気分だった。  自分の部屋に戻って仮眠を取る。シーツに早紀の匂いがこびりついている。記憶がよみがえる──股間が潤んでいく。情欲を睡魔が抑えこむ。昨夜は三時間しか寝ていない。睡眠不足は美容の大敵だ。荒れた肌は取り返しがつかない。若さが失われれば、男に見向きもされなくなる。金を手に入れられなくなる。  目覚め──シャワー。念入りに身体を手入れする。最高級のボディクリーム。最高級のフェイスクリーム。最高級の化粧品。  エルメスで装おう。バッグもオストリッチのケリー。  いい女──金のかかる女。男が金を使いたがる女。  どんどん金を使わせたい。どんどん金を吸いあげたい。  鏡に映る三浦麻美──輝いている。  麻美は鏡に向かってウィンクした。      * * *  市丸はニューオータニのスイートを予約していた。帝国ホテルやホテルオークラでは波潟と出くわす恐れがある。市丸もそれなりに考えている。  部屋に入るとすぐに抱きすくめられた。 「焦っちゃだめだよ、市丸さん」 「散々焦らされたんだ。まず一発決めたいってのが男だろう」 「散々焦らしたんだから、もう少し焦らしたいっていうのが女なのよ」  市丸が唸る。麻美は笑った。 「お酒、飲みたいな。なにか注文して」 「なにが飲みたいんだ?」 「なにか、記念になるようなのがいいな。マミと市丸さんの最初の夜だから」  市丸はルームサーヴィスでドンペリを注文した。他の男なら文句のひとつも口にする。だが、市丸には成金めいた所作が似合っている。  シャンパンはすぐに届いた。グラスに注ぎ、乾杯した。革張りのソファ、ガラス板を敷いたシンプルなデザインのテーブル。ソファに深く腰かけると、ミニスカートの裾から太股が覗く。市丸の視線を感じる。麻美はわざとらしく足を組みかえた。市丸が瞬きする。ばつが悪そうな笑みを浮かべる。 「しかし、なんだな……今日のなりも金がかかっているな? 全部でいくらした?」 「知らない」  麻美はシャンパンを舐める。 「値段なんか気にしたこともないってか? 波潟のおっさん、よっぽどおまえのことが気に入ってるんだな」  市丸はシャンパンをがぶ飲みし、乱暴な手つきでお代わりを注いだ。 「パパのこと、怖い?」 「怖くはないさ。なんだかんだいったって、もとを辿《たど》れば田舎の不動産屋だからな、どこか抜けてやがる。本当に怖い連中ってのは、そばにいるだけで息苦しくなってくるもんだが、あのおっさんはそうでもねえ。それに──」市丸の目が思わせぶりに光る。「波潟のおっさん、コカやってんだろう?」  麻美は肩をすくめた。グラスの中のシャンパンが揺れ、飛沫が宝石のようにきらめいた。  気分がいい──すこぶる、いい。 「クスリの力を借りなきゃならなくなったら、もうそいつは終わりだ。おまえも考えておいた方がいいぞ」 「でも、パパぐらいお金持ってる人、なかなか掴まらないよ」 「そんなことはないさ。今の御時世、腐るほど金を持ってるやつなんざ、それこそ腐るほどいる」 「市丸さんもそのひとり?」  市丸がまたグラスを呷《あお》る。満更でもなさそうな笑みが浮かんだ。 「おれか……おまえに、一千万もする時計をぽんと買ってやるには、もうひと踏んばりしなきゃならねえな」 「マミに時計買ってくれるつもりあるんだ?」  市丸がグラスをテーブルの上に置いた。間延びした仕種──豹変する雰囲気。 「そりゃ、今夜のおまえしだいだな、マミ」  麻美は頬の筋肉が緩むのを感じた。市丸に�マミ�と呼びかけられたのはこれが初めてだった。 「こっちに来て」  麻美は甘い声を出した。市丸がにじり寄ってくる。 「なんでもマミに買ってあげたくなるような気持ちにさせてあげる」  麻美は市丸の股間に手を伸ばす。市丸はすでに勃起している。      * * *  濃厚なサーヴィス──早紀との余韻をフルに活用する。自分の快感が強まれば、相手に与える快感もそれに呼応する。  くわえ、舐め、しごく。見せつけ、迎え入れ、締めつける。  挿入して五分。市丸が吠える──射精する。 「驚いたぜ」  荒い息── 「たまげたもんだよ」  激しく脈打つ鼓動── 「波潟のおっさんに仕込まれたのか? それとも、おまえがとんでもない女なのか?」  勃起したままのペニス── 「両方だよ」  麻美は答えた。ペニスに手を伸ばす。市丸が腰を引く。 「少し休ませろ」 「まだ固いよ」 「こっちは老いぼれなんだからよ」  市丸が煙草をくわえた。ライターの炎が市丸を照らした。市丸の全身が汗で濡れている。 「ちょっと待っててね」  麻美はベッドから降りてバスルームへ向かった。膣から市丸の精液が溢れてくる。波潟の指示でいつもピルを服用している。妊娠の心配はない。  バスルーム。タオルを濡らして股間を拭った。匂いを嗅ぐ──悪くはない。少なくとも波潟のような不快感は感じない。  別のタオルを手に取ってベッドに戻り、市丸の汗を拭った。 「気が利くじゃねえか」 「若くて綺麗でセックスが上手なだけじゃ、だめなんだよ。市丸さん、マミのこと馬鹿にしてるかもしれないけど、これでも努力してるんだから」 「馬鹿になんかしちゃいないさ」  市丸が煙草を消した。その手が麻美の胸に伸びてくる。  乳首を弄《いじ》られる──快感が背筋を駆けぬける。 「敏感だな」 「だって、終わったばっかりだし……」 「さっきはおれがしてもらうだけだったからな。今度はおれがたっぷり可愛がってやる」 「本当に?」 「あとでな」  市丸の指先は繊細に動く。市丸のやり方を想像させてあまりある。タオルで拭いたばかりの股間が急速に潤っていく。 「それよりな、マミ。さっきの話、まじめに考えてみねえか?」 「さっきの話?」  麻美は身体を反転させた。ベッドに横たわり、背中を市丸に押しつける。市丸の腕が麻美を抱く。両手の先が乳首を撫でる。さする。摘《つま》む。 「波潟のおっさんに見切りをつける話だよ。おれは本気でおまえが欲しくなった。おっさんを捨てておれんところに来るなら、面倒見てやる」 「だけど、市丸さん、パパよりお金持ってないでしょう?」 「金以外のことは考えられねえのか? おれだって、そこらのサラリーマンの年収ぐらい一ヶ月で稼ぐんだぞ」 「ごめんね。マミ、そういう女なの。ずっと貧乏暮らしだったから、お金のことが一番にくるのよね」  市丸が笑った。 「まあ、おまえらしいっていやぁ、おまえらしいな。だけどな、マミ。おれがこんなことをいうのは、なにもおまえをおれの女にしたいからだけじゃねえぞ」 「どういうこと?」  麻美は首をひねった。目と鼻の先に市丸の唇──キス。市丸は穏やかな表情を浮かべている。 「おっさんが伊豆にリゾートを建てようとしてるのは知ってるか?」 「聞いたことはあるよ。凄いリゾートだから、できたら連れていってくれるって」 「確かに凄いリゾートを作るつもりらしいんだが、それにはべらぼうな金がかかる。おっさんが握りこんでる分だけじゃ足りないぐらいの金だ。おっさんはその金を工面するために博奕を打つつもりでいるんだ」  話が核心に近づきつつある。市丸の指は麻美の乳首を弄びつづけている。だが、快感は消えた。思考が冴えていく。金の魅力は肉欲をはるかに凌駕する。 「博奕ってなによ?」 「簡単にいえば、株だ。株で大儲けを出そうと企んでるのさ。それで、おれがおっさんのためにせっせと働いてるってわけだ」 「株って儲かるんでしょう? それなのに、どうしてパパと別れろっていうわけ?」 「さっきもいっただろうが。波潟は田舎の不動産屋だ。株は素人なんだ。下手を打てば、大《おお》火傷《やけど》を負う。立ち直れないぐらいの火傷をな」  波潟が火傷を負う──波潟の金が美千隆の、麻美の懐に入る。市丸の言葉は心地よい。市丸の言葉は麻美に夢を見させる。 「パパは一生かかっても使いきれないぐらいのお金持ってるのに?」 「それでも、だ。それぐらいでかい博奕なんだ」 「パパ、どんな株に手を出そうとしてるの?」  市丸がいいよどんで麻美の顔を凝視した。欲望と不審の狭間で揺れ動く視線。麻美はその視線をまっすぐ受け止めた。 「ある会社がな、業績をあげるために他の会社を吸収合併したいと考えているとする。わかるか?」  先に目をそらしたのは市丸の方だった。麻美はうなずいた。 「波潟のおっさんは、その会社が吸収したがってる会社の株をかき集めてるんだ。株価を目一杯引っ張って、最後の最後で、その株をべらぼうな値段をつけて相手に売る。うまくいけば、笑いがおさまらないぐらいの金が懐に転がりこんでくる」 「失敗したら?」 「もともとそんなに価値のある株じゃねえんだ。売るにも売りようがねえから、その株を抱えこんだまま破産だな」 「パパが破産するなんて、信じられないな」 「この世の中には信じられねえようなことが五万とあるんだ。田舎の不動産屋のおやじが、日本でも有数の金持ちになったが、逆のことだって簡単に起こるもんだ」 「そうかなぁ?」  波潟が買っている株の銘柄を知りたい。だが、ここで焦れば元も子もなくなる。 「まあ、信じたくないのも無理はねえけどよ」 「パパが株を買ってるなんて話、聞いたことないよ、マミ」 「そりゃそうだ。こういうことはな、なるべく秘密裏に進めるのが筋なんだ。どこからどう情報が漏れるかわかったもんじゃねえし、情報が外に漏れた途端、すべてがおじゃんになる」 「だからマミにはどこの株なのか教えてくれないんだ?」  市丸の目に、また欲情と不審が入り交じった光が宿る。 「そうだ。おれはまだマミのことを信用してねえ」 「おれの女になれっていったくせに」 「おまえが本当におれの女になったら、なんでもかんでも教えてやるさ」  市丸が言葉を切った。麻美の首筋に舌を這《は》わせる。 「おしゃべりはおしまいだ。約束どおり、たっぷり可愛がってやるからな、マミ」  麻美は目を閉じた。市丸の舌と指先が麻美の身体を蹂躙していく。  薄い粘膜に覆われたような苛立たしい快感──頭の中は株のことで占められている。      * * * 「起きてた?」  問わずもがなの問い──電話回線の向こうで美千隆が苦笑する。 「おまえからの電話を待ってたんだ。寝るわけがないだろう」  嘘つき──言葉と感情を飲みこむ。 「市丸と、うまくいったよ」 「おまえが失敗するわけがない」 「もっと優しいこといってよ」 「よくやったな、マミ」  白々しい声──冷えていく心。 「まだ詳しいことは聞きだせてないんだけど、少しだけ話を聞いたんだ。波潟が手を出そうとしてる株の話」 「聞かせてくれ」  美千隆の声が事務的になる。溜め息をひとつ──麻美は市丸から聞いた話を繰り返す。 「そうか……最初にしてはなかなかいい情報だ。なんとか頑張って、市丸から株の銘柄を聞きだすんだ。頼むぞ、マミ」 「今度はいつ会ってくれるの?」 「市丸の件がすむまではだめだ。我慢してくれ」 「そんなことばっかりいってるよ、美千隆も波潟も見限って、市丸とくっついちゃうかもよ、マミ」 「そんなことはないさ。市丸の持ってる金じゃ、おまえには足りない」  美千隆の言葉はいちいち癪《しやく》に障《さわ》る。市丸と寝る前の、あの心地よさが霧散している。 「彰洋ちゃんは? ちゃんと早紀のところにいったかな?」 「ああ、おれからも念を押しておいた。今ごろはふたりで仲良くやってるんじゃないか」 「ちゃんとやってもらわなきゃね」 「おまえも、市丸から肝腎な情報を聞きだしておくんだぞ」 「わかってるわよ」  麻美は乱暴に電話を切った。      52  代々木駅から参宮橋方面に向かう。徒歩で十分弱──美千隆に教えられたマンションが見えてくる。広い敷地に落ち着いた雰囲気の外観。不動産屋の目が精査する──部屋のタイプがどうであれ、一戸につき二億はくだらない。  指輪を外して鞄の中に押しこんだ。レンガ敷きの前庭を歩く。セキュリティ用の監視カメラが目につく。エントランス部には管理人室とキィパネル。九〇一──ボタンを押す。 「はい?」  スピーカーから声が返ってきた。 「あ……堤ですけど」  そしらぬ顔の管理人──油断ならない目つき。 「あがってください」  蚊の鳴くような声で早紀がいった。  波潟の娘を安心させてやれ──美千隆の声が脳裏に響く。  自動ドアの先がエレヴェータ。エレヴェータの真向かいに各戸の郵便受け。エレヴェータは二基。昇降ボタンを押すと、左側のエレヴェータのドアが音もなく開いた。  九階でエレヴェータを降りる。絨毯敷きの廊下。不動産屋の目が再び精査する。一フロアに五戸。どの部屋も百五十平米はあるだろう。外で出した金額に加算する。超高級マンションの最上階──五億はくだらない。  九〇一号室のインタフォンを押す。声がする代わりにドアが開いた。 「いらっしゃい」  早紀が微笑んでいた。その微笑みはどこかぎごちない。おまえのせいだ──自虐の声。自分にしか聞こえない声。 「お邪魔しても、いいのかな?」 「もちろんよ」  ぎごちない笑みを浮かべたまま、早紀が彰洋を促す。大理石の三和土《たたき》。フローリングの廊下。壁はコンクリートの打ちっぱなし。モダンで斬新な内装──美千隆好みの部屋。 「すごいお部屋でしょ? こんなところ、ただで貸してもらってもいいのかしら?」 「齋藤さんの好意だから、気にしなくてもいいんじゃないかな。さっき電話で話を聞いたんだけど、しばらく売るつもりはないし、こういう部屋って人が暮らしてなきゃ死んじゃうから、好きに使ってくれって」 「でも、なんとなく落ち着かないの」 「すぐに慣れるさ」  話しながらリヴィングへ向かった。広さは二十五畳。据えつけられた家具はすべて北欧製。ダイニングテーブルの上に、簡単な料理とワインのボトルが並べられている。  悪夢──波潟の家で食べた早紀の手料理。洗い忘れてしまった食器。波潟の怒り。 「作ってくれたの?」  彰洋は振り返った。  早紀が恥ずかしそうに微笑んでいる。その微笑みは相も変わらずぎごちない。 「この辺、あんまりいい商店街がなくって……たいしたものじゃないけど、お腹減ってるでしょう?」  食欲はない。だが、食べないわけにはいかない。 「昼からなにも食べてないんだ。腹が減って死にそうだよ」 「よかった」  早紀の肩から力が抜ける。 「上着脱いで。ハンガーにかけてくるから」 「ハンガーまであるんだ?」 「なんでもあるのよ、この部屋」  早紀が上着と鞄を彰洋から奪い取って廊下を挟んで反対側の部屋に消えていく。おそらく、ベッドルームにはウォークインクローゼットがついている。  早紀はすぐに戻ってきた。彰洋を促してテーブルに着く。 「じゃあ、食べましょう」  グリーンサラダ、クリームチーズとキャビアが載せられたクラッカー、ローストビーフ、フランスパン。 「お惣菜ばかりでごめんね」 「いいよ。これで充分さ」  彰洋はワインのコルクを抜いた。自分を奮い立たせる。乾杯──ワインを一口。酸味の強いアルコールが胃袋を刺激する。サラダに手を伸ばす。キャビアを口に放りこむ。  早紀が頬杖を突いている。ときおりワインに口をつけて彰洋を見つめている。 「食べないの?」 「うん、最近食欲がないの」 「おれのせい?」 「違う……うちで嫌なことがいっぱいあったから。でも、どうして彰洋ちゃんのせいだなんて思うの?」  うまくやれ、ドジを踏むな──唇を舐め、口を開く。 「麻美に叱られたよ。おれ、忙しさにかまけて、すっかり社長の浮気話のこと忘れてて。ごめん」  彰洋はテーブルに両手を突いた。深く頭をさげた。 「そんなことしないで」  早紀の手が伸びてくる。彰洋はその手を握った。 「本当にごめん。早紀がそんなに悩んでるなんて知らなかったんだ。おれ、自分のことばっかり考えてて……最低だって、麻美に怒鳴られた」  嘘──麻美とは話すらしてない。すべては美千隆から聞かされた話だ。だが、早紀にはわからない。嘘を嘘と見破る術がない。  自己嫌悪に陥ることはない。美千隆からもらった指輪が、半端な自分を支えている。 「そうじゃないの。彰洋ちゃんが悪いわけじゃないのよ。嫌なことが続いて、それで、わたし、どんなことも悪い方に考えるようになっちゃって……」  早紀の言葉が顫え、目に涙がたまっていく。 「おれ、ちゃんと調べるから」 「いいの。もういいの。わたしが辛いときに、彰洋ちゃん、こうやって来てくれたから。わたしの側にいてくれるから」  早紀はだいじょうぶだ──安堵に力が抜ける。彰洋は席を立った。早紀の後ろにまわった。早紀を抱きしめた。早紀が腕にしがみついてくる。  彰洋は早紀の唇を吸った。早紀が舌を入れてきた。絡みつく舌と舌──キャビアとチーズと油が入り交じった味。妙にリアルで妙にエロティックな感覚。  早紀の身体を抱きあげ、寝室に向かう。豪華なベッドに早紀を横たわらせ、服を脱がせる。  早紀の乳首はすでに立っていた。早紀の股間はすでに濡れていた。  貪りあい、絡みあう。互いの性器に愛撫をくわえる。廊下から漏れてくる明かり。浮きあがる早紀の襞《ひだ》。襞の脇──太股のつけ根。小さな赤い痕。  彰洋は凍りついた。  キスマーク──なぜ、だれが?  自分がつけたという記憶はない。  早紀が口を動かしつづける。意識の寸断。断片化した思考。  彰洋は早紀の口の中に射精した。      * * *  キスマークが脳裏から離れない。  自分がつけたのか? それとも、他のだれかが?  早紀に問い質《ただ》すことはできなかった。  波潟の鞄持ちをしている間も、早紀の股間のキスマークが彰洋を翻弄する。おまえには嫉妬する権利などない──そう自分に言い聞かせても、どろどろとした感情は消えようとしない。 「堤、悪いがこの金を永田町まで持っていってくれ。くれぐれも粗相のないようにな」  永田町──代議士様への献金。金を受け取るのは秘書。子供にでもできる仕事。だからといって、波潟がだれにでもその仕事をまわすわけではない。  永田町への往復。辛抱できず、麻美に電話を入れた。 「おれ……彰洋」 「あら、彰洋ちゃんが電話をくれるなんて珍しいじゃない」 「ちょっと聞きたいことがあるんだ」  電話ボックス──他人の視線が気になり、思わず声をひそめた。 「なぁに?」 「昨日、美千隆さんが早紀に用意してくれたマンションに行った」 「ちゃんと早紀を安心させてあげた?」 「早紀の身体にキスマークがあった」  一気に口走る。そうでなければいい淀んでしまう。 「キスマーク?」 「おれには覚えがないんだ。早紀に他に男がいる可能性ってあるか?」 「ないわよ」麻美が即答する。「早紀はマミと違うんだから、好きな男がいるのに平気で浮気なんてできないよ。そういうとこ、くそ真面目なんだから」 「だけど──」 「彰洋ちゃんがつけたんでしょ。覚えてないのは酔っぱらってたか、前みたいにクスリ決めてたからじゃないの?」  麻美が決めつける──そんな気もしてくる。だが、どれだけ記憶を漁っても、早紀のあんな部分にキスマークをつけた覚えはなかった。 「だけど──」 「だけどもくそもないよ。早紀は彰洋ちゃんにめろめろなんだから。絶対に浮気なんかしない。まあ、マミにいわれても信じにくいかもしれないけど」  麻美の説得にうなずきたい。早紀が浮気などするはずがないと信じている。それでも、キスマークが脳裏から離れることはない。 「そんなことより、早紀のことちゃんと面倒見てよ。マミの部屋に来たときなんか、今にも手首切りそうな顔してたんだから。美千隆も波潟の家がごたごたするのはいいけど、ごたごたしすぎるのはまずいっていってたし……マミ、昨日やっと波潟が手を出してる株の情報を掴んだんだ。もうすぐ全部わかるから。そうなったらこっちのものなんだからね」 「株の情報って、もう目処《めど》はついてるだろう?」 「なにそれ?」  麻美の声が硬質化する。ドジを踏んだ──確信する。理由はわからないが、美千隆は麻美に東栄通商の件を話してはいない。 「いや……おれの勘違い」 「ごまかされないわよ。目処がついてる情報ってなによ?」  麻美の声はどんどん硬くなっていく。氷のように硬く、冷たく。こうなった麻美は止められない──少なくとも、彰洋には止められない。電話を切ったところで、必ず、自ら乗りこんでくる。彰洋に詰め寄り、自分の望むものを手に入れるまでは決して諦めない。  子供のときからそうだった。彰洋はいつも麻美に屈伏させられた。まるで蛇に睨まれた蛙のように、何故か身体と思考が硬直する。もうガキじゃないんだ──そういい聞かせても、力が抜けていく。ドジを踏んだという意識が、怖れと焦りを増幅させていく。受話器を握った手が強張っていた。 「早く答えなさいよ」  刺々《とげとげ》しい声──鬼女のような声。 「おれから聞いたって、美千隆さんにはいうなよ」  気休めを口にしながら頭を振った。東栄通商のことは彰洋と美千隆しか知らない。麻美が知るということは、彰洋が教えたということにしかならない。美千隆を裏切ることになるのかもしれない。それがわかっていても、冷たい声を発する麻美には抗えない。恐怖とパニックと疑惑に囚われ続けて疲れきった脳は、いい訳を考えることを拒否していた。 「約束する。だから、教えて」 「早紀が家を出たせいで、波潟のやつ、少し注意力が散漫になってたんだ。それで、ちょっとしたことで、おれが突き止めた。まだ、確実な情報ってわけじゃないんだけど……東栄通商っていう中堅の運送会社だ。近畿の大手がそこを買収するつもりでいるってことで、波潟はそこの株を集めて一儲けを企んでるに違いないって」 「それ、いつわかったの?」  麻美の声は相変わらず氷のように硬く冷たかった。麻美の怒りの強さを実感させた。麻美の怒りは彰洋にとって恐怖の源だった。爆発した麻美はだれにも止められない。 「一昨日だよ」 「ありがとう」  電話が切れた。彰洋はあたりを見回した。  美千隆の顔が脳裏に浮かんで消えた。早紀のキスマークの件は頭から消えていた。  悪い予感──取り返しのつかないミスを犯したという予感。  背中に悪寒を感じた。体温はひどくさがっている。      53  視界がぶれる。耳鳴りがする。吐き気を覚える。鳩尾《みぞおち》のあたりから全身に冷気が広がっていく。まるで質の悪いエスをきめたときのようだった。  絶望と憤怒と憎悪が交錯する。  美千隆は知っていた。波潟が手をつけている株の目星がついていた。  それなのに、麻美にはなにもいわなかった。平然と市丸と寝ることを示唆した。  特別な女でありたかった。美千隆とだけは、金ではない特別ななにかで繋がっていたかった。  儚《はかな》い願い──愚かな望み。  美千隆は金の力を信じている。それだけを信じている。わかっていた。わかっていながら望んだ。望まずにいられなかった。  美千隆が悪いわけではない。最初から美千隆は美千隆だった。  それでも、憎悪は湧いてくる。美千隆が憎かった。八つ裂きにしてやりたいほど憎かった。  麻美はラ・フラムを取りだした。テーブルの上に置いた。  黄金の炎──美と力の象徴。嘘と悪徳の焔。  キッチンへ行って適当なものを物色する──ステンレスのミルクパン。  麻美はリヴィングに戻った。ミルクパンの底をラ・フラムに何度も叩きつけた。  炎が砕ける。ガラス片が飛び、部品が散乱する。  ミルクパンを放りだす。無惨に変形したラ・フラムを眺める。  麻美は泣いた。 [#改ページ]   第三部      54  早紀に見送られて部屋を出た。まるで新婚の夫婦のように。  早紀の股間には相変わらずキスマークが残っている。一昨日の夜よりは薄くなっているが、確実に存在している。記憶がよみがえることはない。早紀に問い質すこともできない。  嫉妬に駆られて早紀を問い詰めることはできない。それよりも気になることがある。  麻美──麻美に教えてしまった情報のことが気にかかる。麻美が美千隆にそのことを漏らせば、美千隆は彰洋をゆるさないだろう。  千々に乱れる思考と感情。早紀のマンションから代々木駅への道のりがやけに長く感じられた。  黒塗りのベントレーが彰洋の前方で路肩に停車した。運転手が降りてくる。どこかで見た顔──とっさには思いだせない。  運転手が後部のドアを開け、別の男が車から降りたった。  バタ臭い顔──下品なゴールドのアクセサリー。  記憶のフラッシュバック──コカインを求めて六本木中を駆け回った朝。関西弁を喋る男──ヨシと名乗った。運転手はヨシの鞄持ち。 「よう、久しぶりやないか」ヨシが微笑みながら近づいてくる。「たまたまこの辺走らせとったら、あんたのこと見かけてな」  彰洋は曖昧に頭をさげた。疑惑──警戒心。偶然であるはずがない。彰洋は見張られていた──間違いはない。恐怖がぶり返す。早紀とのおままごと──波潟の耳に入れば、すべては水泡に帰す。 「どや、乗ってかんか? 会社まで送ったるで」 「けっこうです。駅もすぐそこだし……」  彰洋は前方に顎をしゃくった。代々木の駅が見えている。 「遠慮せんでもええがな。おれとあんたの仲やないか」  ヨシが目と鼻の先に迫ってきた。ヨシは薄いサングラスをかけていた。レンズの向こうの目が酷薄な光を湛えている。 「あのマンションにおるこ、えらい別嬪やないか。波潟の娘やってな? おまえ、あのコカ、波潟の娘に食わしたんか?」  ヨシの声から親しげな響きが消えた。恫喝──取り違えようがない。  背筋に広がる悪寒──さがっていく体温。取り返しのつかないドジを踏んだという確信。  美千隆には縋《すが》れない。尻ぬぐいは自分でするほかない。 「わかりました。会社まで送ってください」 「そうか。ほな、乗りぃ。遠慮なんかいらんからな」  ヨシが彰洋の肩に手をまわしてきた。彰洋は促されるままベントレーに乗りこんだ。      * * * 「しかし、おまえもえらい度胸やな。波潟の娘のおめこ食うて、ただですむと思うとるんか?」 「あんた、だれなんだ?」  彰洋は答える代わりに訊いた。 「ヨシやいうたろ」ヨシが笑う。下品な笑い声が車内の空気を顫わせる。「怒るなや。おれの本名知りたいんやろう。金田義明や。仲良うしたってぇな」  金田義明──関西の地上げ屋。彰洋はヨシを凝視した。金田義明は四十を超えているはずだが、目の前の男はどう見ても三十代半ばにしか見えなかった。  波潟と松岡の会話を思いだす。  ──見た目はチンピラみたいらしいですな。まだ四十代なんですが、三十そこそこにしか見えないと聞きましたよ。  目の前の男は、松岡が描写したとおりだった。 「驚いて声も出ぇへんか?」  金田義明──三洋銀行に取り入って、波潟の足元を掬《すく》おうと画策していた。そんな人間にコカインを買う段取りをつけてもらった。早紀と暮らしているところを見られてしまった。  あの朝、コカインを求めて奔走しているときに金田と出くわしたのも、決して偶然ではない。  足元が崩壊していく。奈落に向かって滑落していく。 「いろいろ調べさしてもろうたで。おまえ、若いのにいろいろやっとるんやな。波潟の娘いてこましただけやなく、波潟のコレともよろしくやっとるんやろ」  金田義明が小指を立てた。 「目的はなんだよ?」 「そんな焦ったらあかんて。まずは人の話、よう聞けや。東京に来て、適当に遊んどったんやけどな、こっちはええなあ、おもろい話がぽんぽん耳に飛びこんできよる。なんや知らへんけど、波潟のやつ、でかい博奕打とうとしてるらしいやないか」 「そういうことは知らない。おれは、ただの鞄持ちだから」 「くだらん冗談抜かすな。おれは関西の人間やぞ。お笑いには厳しいんや……おい、あれ見せたれや」  金田義明が運転席に声をかけた。運転手──鞄持ちがグラヴボックスを開けた。数葉の写真が金田義明に手渡された。 「見てみいや」  彰洋は写真を受け取った──見た。身体が顫えた。  薄暗いバー。カウンターに座る白人や黒人たち。漂う煙草──あるいはガンジャの煙。写真の中央にふたりの男が写っている。ひとりはいかつい体格の白人。もうひとりは彰洋。彰洋が白人に金を手渡している。  彰洋は写真を次々にめくった。  金を受け取る白人。なにかを彰洋に手渡す白人。受け取ったものをスーツのポケットに押しこむ彰洋。〈ロード・ウォリアーズ〉。金田に教えられた外人専用のバー。写真を撮られているとは夢にも思っていなかった。 「こんなもの、なんの証拠にもならないよ」  彰洋はいった。声が顫える。抑えようとしてもとまらない。 「あほなこと吐《ぬ》かすな。波潟がコカやってるのは有名な話やないか。その波潟の鞄持ちがコカ買ってる現場写真やで。どこぞの業界紙にでも売りつけてみい。わやなことになるぞ。写真はまだ他にもあるしな──おい」  金田義明がまた運転席に声をかける。同じことが繰り返される。  新たな写真の束。  手を組んで夜の六本木を歩く彰洋と早紀。  彰洋のアパートに入ろうとする彰洋と早紀。  彰洋のアパートに入っていく麻美。  彰洋のアパートから出ていく麻美。  写真の粒子は粗い。だが、対象は鮮明に映しだされている。 「どや? なんとか吐かしてみいや、おい。この写真、波潟に見せたら、おまえ、どうなるんや?」  金田義明が挑発する。  彰洋は唇を舐めた。彰洋と早紀、彰洋と麻美。早紀は波潟の娘で、麻美は波潟の愛人。おまけに、麻美は美千隆ともできている。この写真はだれにも見せられない。 「いろいろ調べたで。おまえが住んでる、あのマンション、なんやMS不動産ゆうところの持ち物や。で、そこの会社の社長が齋藤美千隆。若いのに遣《や》り手やゆうて、関西でも名前が聞こえとるわ。おまえ、その齋藤のところから波潟に鞍替えしたらしいのぉ? 匂うで。ぷんぷん匂うわ。齋藤がなにか企んどるんやろう。ちゃうか?」  金田義明が彰洋の顔を覗きこんでくる。彰洋は視線を逸らした。 「波潟の娘も妾もええ女や。ふたつも具合のいいおめこ食っておいて、罰が当たるとは思わんかったんか、おう?」  金田義明の口調は下卑ていた。やくざ者の喋り方になっていた。 「おれに……なにをしろというんだ?」 「なにをしろって、そんなもん決まっとるがな。おまえ、齋藤のために、波潟んところでスパイやっとるんやろ。そしたらやな、おれのためにスパイやってくれてもかまへんのと違うか? 波潟と齋藤のしとることを、逐一、おれに知らすんや。ええな?」  彰洋はきつく目を閉じた。首を振った。 「そんなことはできない」 「できるがな。そんな肩ひじ張って考えんでもええんやて。なにもただ働きせえゆうてるわけやないんやからな、おれも。それなりの見返りはしたる。知っとることをちょちょっとおれに話してくれれば、それでええんや。だれにもわからへん」  彰洋は目を閉じつづけた。耳を塞ぎたかったが、それはかなわなかった。  車が停止した。 「ついたで」  金田義明の声に、彰洋は目を開けた。百メートルほど前方に、北上地所のビルが聳《そび》えていた。 「仕事が終わったら、この番号に電話よこせや」  金田義明が名刺を彰洋のスーツのポケットに押しこんだ。 「ばっくれたらどうなるか、覚悟しとき。ただじゃすまさへんからな」  彰洋は車を降りた。手足に力が入らない。歯を食いしばる──そうしなければ、その場にへたりこんでしまいそうだった。 「電話、待っとるからな」  金田義明の声が遠ざかる。ベントレーが走り去る。  彰洋は上着のポケットに右手を突っこみ、美千隆からもらった指輪を握り締めた。  失われた手足の力が戻ることはない。さがりきった体温があがる前触れもない。      * * *  針の筵《むしろ》──遅々として進まない時間。波潟の視線が気になる。他の社員の視線が気になる。妄想──無数の眼球に監視されている。嫌な汗をかく。喉が渇き、ひっきりなしに尿意を覚える。  波潟がトイレに消える──鼻を赤くして戻ってくる。コカイン。咽喉《のど》が鳴る。コカインを吸引すれば、間断なく続く恐怖と強迫神経症をなだめることができる。  彰洋は強く首を振った。コカインのせいで踏んだドジ。クスリの力に頼ろうとするから、落とし穴にはまる。  定時の終業時間──波潟は忙しく飛び回っている。鞄持ちには勝手はゆるされない。  じりじりと進んでいく時間──取り繕った表情──汗で濡れた不快なシャツ。午後九時に解放される。  早紀に電話を入れ、波潟のお供で遅くなると嘘をつく。早紀はこれっぽっちも疑わない。金田義明に電話する。赤坂に呼びだされる。名前だけ耳にしたことのある老舗のクラブ。  タクシーを飛ばす。眩暈と吐き気を抑えこむ。美千隆からもらった指輪をはめ、石を撫でる。体温はあがらず、さがらず。息苦しさに耐えられず、窓を開ける。運転手が嫌な顔をする。  クラブの入り口で金田の名前を告げると黒服が恭《うやうや》しく頭をさげた。  大箱のクラブ──ほぼ満員の客。客と同数のホステス。客席の一番奥に、磨《す》りガラスで仕切られた個室があった。  金田は個室にいた。ひとりだった。五、六人のホステスをひとりで独占していた。 「待ってたぜ」  金田がいった。金田のボトルはバランタインの三〇年だった。ホステスたちが飲んでいるのはドンペリのピンクだった。  左手を握り締める。指輪が肉に食いこむ。 「おまえら、席を外せ。この坊やと大事な話があるんだ」  金田がホステスたちを追い払う──関西訛のかけらもうかがえない完璧な標準語。ホステスたちが個室を出ていく。 「座れや」  金田は新しいグラスにウィスキィを注いだ。 「いける口なんやろ?」  言葉はすでに関西弁に切り替っている。  彰洋は腰をおろさなかった。無言で金田を見おろす。握りしめた拳──肉に食いこむ指輪。痛みだけが彰洋と現実を繋いでいる。 「趣味悪い店や思わんか? 今どき、磨りガラスの仕切りでVIP席やて。あほらし。なにが老舗のクラブや。貧乏くさいだけや。ミナミにこんなクラブ出したら、一週間で潰れるで」  金田が首をめぐらす。四方の壁に、高そうな絵が飾られている。 「ご大層な額縁つけても、絵はみんなコピーや。どないなってんのや、東京は? 金はぎょうさん持ってても中身はみんなすかすかかい?」 「おれにそんなこと訊かれても答えようがないよ」  彰洋はいった。金田が笑う。 「今朝とは偉い態度が違うやないか。腹|括《くく》ったか、坊主?」  彰洋は答えない。金田の顔から笑みが消えた。 「おれは腰おろして飲め、いうたんや。聞こえへんかったか?」 「あんたの酒を飲みたいとは思わない」  タクシーの中で考えた──考えに考えた。嘘が板についてきている。だれにどんな嘘をついても、心が揺れることはない。だが、美千隆は別だ。美千隆を裏切ることはできない。  金田が視線を足元に落とした。肩が顫えている──笑っている。 「東京もんはこれやからな……自分がどないなってもええんか? 波潟にえらいめに遭わせられるだけやがな。それともおまえ、命までは取られんとたか括っとるんか?」 「どう思おうと、あんたの勝手だ。おれはあんたの使いっ走りになるつもりはない。それだけ、いいに来たんだ。それじゃ」  彰洋は金田に背を向けた。 「そう慌てんなや、兄ちゃん」  背中にかけられる金田の声には余裕が感じられた。 「おれは関西の人間や。東京もんとはやり方がちいとばかし違う。そこんところ、わかってるか? あの絵、見てみい。レンブラントや」  思わず視線が絵の方に向かう。金田の左手の壁にかかっているのは肖像画だった。レンブラントかどうかはわからない。だが、肖像画の左目が硬質な光を放っている。  膝から力が抜けていきそうになった。肖像画に近づく──調べるまでもない。肖像画の左の眼球の部分に、小さなレンズが埋めこまれている。 「おれとあんたの写真を盗み撮りしてどうするつもりだ?」  彰洋は金田を睨んだ。 「決まっとるがな。齋藤美千隆に見せるんや。おまえんとこの小僧が、おまえを裏切ってるいう証拠写真や、いうてな」 「美千隆さんはそんなことじゃ騙されない」 「美千隆さんやて? おまえ、齋藤のことそう呼んどるんか? すっかりいかれてるっちゅうわけや」  金田が嘲笑した。彰洋は睨みつづけた。 「やっぱり若いのう。三十そこらで大金掴んで、その上、波潟まで食おうっちゅう男が二十そこそこの小僧を信用するわけないやろう。おれがこの写真を見せたら、齋藤はすぐにおまえを切るで」 「あんたは美千隆さんのことを知らないんだ」  美千隆は王国を作る。王国に不要な人間を切り捨てる。だが、美千隆は彰洋に指輪をくれた。王国の住人の証しをくれた。 「まったく、阿呆にもほどがあるで……そんなんでよう、スパイみたいなことやってこれたな。それも�美千隆さん�のためか?」  金田の笑い声が磨りガラスに反響した。  嘲笑──挑発。のることはない。金田は焦っている。口から出まかせをまくしたてている。 「このボケが……」  金田が首を振った。涼しげな目つき──焦っているわけではない。  ふいに不安に襲われた。麻美と三洋銀行の稲村の件では嘘をつかれた。美千隆は本当に彰洋を切り捨てたりはしないだろうか──悪寒が生じる。 「自分の馬鹿さかげんでおまえが破滅するのは勝手やがな、波潟の娘、どないなると思う。波潟のこれ、どないなると思う?」金田が右手の小指を立てた。「おれのやり方は東京もんのやり方とはちゃうゆうたやろ? 女子供に極道けしかけても、おれはなんも感じんぞ」 「どういう意味だ?」 「どうもこうもあるか、阿呆。やることやらさせてもらうだけや」  金田義明のバックには関西の広域暴力団がついている。  はったり──たとえそうでなかったとしても、どうということはない。美千隆に仕えると誓った。美千隆の作る王国の住人になると決意した。たとえ、早紀がどうなろうと、麻美がどうなろうと、優先されるのは美千隆への忠誠心だった。  彰洋は金田を睨みつづけた。 「おい」  金田が個室の外に声をかけた。すぐにドアが開き、マネージャーらしき男が姿を現した。 「なんでございましょうか、金田様」 「電話を貸してくれないか」  豹変する言葉遣い──完璧な標準語。 「かしこまりました。少々お待ちください」  マネージャーが姿を消し、金田が煙草をくわえた。 「火、つけてんか」 「自分でつけろよ」 「いつも波潟の煙草の火、つけてんのやろ」  彰洋は金田を無視した。帰りたい──帰れない。足の裏が床に張りついている。  マネージャーが戻ってきた。灰色のコードレスフォン。ヴィンテージのロマネ・コンティのように、恭しく金田に差しだす。 「さがってくれ」  マネージャーに告げて、金田がプッシュボタンを押す。マネージャーが影のように姿を消す。金田は受話器を耳にあてた。 「おう、おれや。そっちの様子はどうなっとる? 警備員に金握らせたか?」  金田は彰洋を無視して喋りだした。  背中がむずむずする。目の奥がちくちくする。嫌な汗が流れはじめる。 「……そうか。ほんなら、その気になれば、いつでもその女、さらうことができるっちゅうわけやな。そしたらな、おまえ、今おるところからなにが見えるか教えてくれんか……ええから、いうとおりにせい。なにが見えるんや?」金田が彰洋を見てウィンクした。「道路の向かいにコンビニ? 左手の先に交番か。ほんで、その先がT字路になっておるんか。上に高速が走っとる──」  早紀のマンションの周囲の景色。考えるより先に身体が動く──彰洋は受話器を奪いとった。 「そこでなにやってるんだ!? ぶっ殺すぞ、てめぇ!!」 「おまえ、だれや?」  聞いたことのない声。品のない声。やくざ者の声。 「早紀に手を出したら、ぶっ殺してやる」  彰洋は受話器に怒鳴った。金田を睨んだ。 「口だけは威勢がいいやないか、坊や」  金田がいった。 「おまえ、だれに向かって口きいとんねん」  電話の向こうのやくざがいった。 「そこから離れろ! 早紀には手を出すな!!」やくざに怒鳴る。金田を威嚇する。「この男をなんとかしろ」 「いやや、いうたらどないなる?」  金田は涼しげに笑っている。 「てめえをぶっ殺す」  彰洋はいった。 「やってみたらええがな。その代わり、早紀とかいう娘、どないなっても知らんで」  金田は笑っている。笑いつづけている。 「おい、聞いとんのか、こら!?」  電話の向こうの男が凄んでいる。 「おれをどやしつけよう思うても、あかんぞ。指一本でも触れてみい。その男がおまえの女の部屋に乗りこんでいくわ」  金田が煙草の煙を天井に吐きだした。 「金田はんはどないしたんや!?」  男が喚いている。 「その男な、三度の飯よりシャブとおめこが大好きでな。シャブと自慢のまらで素人の女をひいひいいわすのが好きなんや。でかいもの持っとってな。おまけに真珠を六個も入れとるんや。そいつにはめられた女は、二、三ヶ月は使い物にならんそうや」  金田が笑っている。下卑た風体のやくざに犯される早紀の姿が脳裏に広がる。  彰洋はコードレスフォンを壁に叩きつけた。 「もったいないことすなや。飲み代にいくら上乗せされると思っとんねん」 「早紀には手を出すな」  彰洋は絞りだすようにいった。 「そりゃあ、おまえしだいやな」 「なんでもする。だから、早紀には手を出さないでくれ」 「なんでもしますから、早紀には手を出さないでください。そういうんと違うか?」  屈辱と憤怒──恐怖と敗北感がすべてを塗り潰していく。 「なんでもしますから、早紀には手を出さないでください」 「人にものを頼むときは頭をさげるのが筋と違うか?」  彰洋は金田を凝視した。金田は無邪気な笑みを顔に浮かべている。  激情が去っていく。美千隆は裏切れない。だが、早紀をこれ以上傷つけることもできない。二者択一が不可能なら、自分の愚かさを噛み締めて悔やむほかない。 「お願いします」  彰洋は頭をさげた。 「そうか。そこまでいうんやったら、おれも考えてやらんでもないで。ま、そこに座りぃな」  金田の口調は変わらない。笑みも消えない。なにごともなかったかのように、彰洋にソファを指し示す。  彰洋は腰をおろした。膝の関節がかすかに痛む。痛みの中心から、活力が失われていくような錯覚を覚えた。 「まずは、乾杯や」  金田がグラスを押しつけてきた。逆らう気力も起きない。恐怖と敗北感──恐怖すら、敗北感が塗り潰していく。グラスとグラスをあわせ、酒を一気に飲み干す。  アルコールの刺激──現実感が戻る。敗北感に塗り潰された思考の中、恐怖が再び姿を現す。 「それじゃあ、まずは齋藤がどんな絵を描いとるのかから、教えてもらおうか?」  金田は嬉しそうに微笑んでいる。  彰洋は目を閉じた。美千隆の横顔が脳裏をよぎる。彰洋は指輪を外し、話しはじめた。  自分の声が他人のもののように聞こえた。      55  ラ・フラムは原形をとどめぬほどに破壊された。涙も涸れはてた。後に残ったのは無。恐ろしいまでの虚無。  愛と情は簡単に打ち捨てられた。あさましい執着心だけが、唯一の心の拠り所だった。  執着心──金を手に入れる。金にだけ、忠誠を誓う。  麻美は電話に手を伸ばした。市丸の番号をダイヤルする。 「もしもし、市丸さん?」 「マミか。どうした、こんな時間に?」 「マミ、決めた」 「なにを?」 「市丸さんの女になる」  一瞬の間──勢いこむ市丸の声。 「本当か、マミ?」 「本当。マミ、市丸さんの女になる。波潟を市丸さんに売ってあげる。だから、マミにいっぱいお金をちょうだい」  市丸が苦笑する。 「腐るほど稼いで、好きなだけ使わせてやる」  甘美な声──麻美は目を閉じる。瞼を顫わせる。      56  鞄持ち兼スパイ兼臆病者兼卑劣な男。  早紀の顔をまともに見ることができない。波潟の顔を直視できない。美千隆への連絡──ずるずると先延ばしにする。それにも限界がある。顫える指で電話のプッシュボタンを押す。 「昨日は連絡がなかったな。どうした?」  美千隆の声はいつもと変わらない。 「波潟に遅くまで付き合わされて……解放してもらったのが三時過ぎだったんです。それで、電話するのは控えました」  自分の声──恥知らずな嘘つきの声。 「だったらいいんだ。波潟の娘はどうしてる?」 「まだ、家には戻りたくないと駄々をこねてます」 「そうか。とにかく、うまく飼い馴らしておけ。おれもそろそろ動きはじめる」  美千隆の宣言に体温があがることを期待する──体温はあがらない。 「いよいよですか……」 「名神の東栄買収はトップ中のトップシークレットらしい。まあ、当たり前だけどな。そんな話が世間に出回れば、東栄の株は暴騰する。彰洋、わかっているとは思うが、この話、絶対に口外するなよ」  心臓が不規則に脈動する。麻美に話してしまった。金田に口を割らされてしまった。 「もちろんです」  恥知らずな嘘つきの口が勝手に開く。 「じゃあ、また明日の夜、連絡を入れてくれ」  電話が切れた。彰洋は受話器を戻そうとする。指が強張っている。受話器に張りついて離れない。  代々木のマンションに戻ると早紀が晩飯を作って待っていた。早紀は嬉しそうだった。頬が上気していた。だれにも邪魔されないおままごと。彰洋の出勤を見送り、晩飯を作り、夜は激しく愛しあう。  性器の脇のキスマークはもう消えている。  嫉妬──うしろめたい思い。食欲はない。倦怠感に覆われている。  おざなりに料理に箸をつける。咀嚼する。吐き気をこらえる。 「食欲、ないの?」  早紀が顔を覗きこんでくる。 「少し疲れてるのかも。一晩ぐっすり眠れば元に戻るよ」  恥知らずな嘘つきには臆面というものがない。 「本当にだいじょうぶ? 彰洋ちゃん、顔色も少し悪いみたい」  会社では、トイレに入るたびに鏡を覗いた。表情が崩れていないか、嘘を隠しとおしているか、気になってしかたがない。鏡に映る彰洋の顔はうつろだった。死人のように影が薄かった。 「あ、そうだ。ちょっと待ってて」  早紀が身体を翻す。ベッドルームに消える。すぐに戻ってくる。 「今日はこれを飲んで寝たらどうかしら」  早紀は手に錠剤を握っている。ハルシオン──ディスコの黒服時代にはお馴染みだった睡眠誘導剤。  停滞していた思考が激しく動きだす。  このクスリを早紀はどこで手に入れた? だれから手に入れた?  キスマークがよみがえる。まだ淡い色をした早紀の襞の脇に生々しくつけられていたキスマーク。  嫉妬──身を焦がすような嫉妬。うしろめたい思いすら燃やし尽くす。 「これ、どうしたんだい?」  彰洋は穏やかに訊いた。 「眠れないっていったら、友達がくれたのよ」  早紀が目をそらす──恥知らずな嘘つきがここにもひとり。 「早紀の気持ちはありがたいけど、クスリに頼ると、あとが怖いから、遠慮しておくよ。これだけ疲れてるんだから、クスリなんか飲まなくてもすぐに眠れると思うしね」  黒い炎が視界を塗り潰していく。声だけが淡々としている。嘘に嘘を塗り重ねる──他愛もない。  早紀を抱く。早紀の身体のあちこちにキスマークをつける。疲労をも焼き尽くす黒い炎。早紀の膣の中にぶちまける。  眠ったふりをする。早紀の寝息が聞こえてくるのを待つ。横たわったまま目を開ける。闇に目を慣らす。壁際にヴィトンの旅行鞄が置かれている。  早紀の様子をうかがいながらベッドを降りる。ヴィトンを開ける。ブラウスとTシャツが数枚、パンツが二本、下着──かき分ける。錠剤を見つける。ハルシオンとエクスタシィ。睡眠誘導剤と覚醒剤。ディスコに通う連中の御用達。  早紀は滅多にディスコには行かない。クスリにはまっている様子もなかった。  黒い炎が燃えあがる。だれが早紀にこれを渡したのか。だれが早紀にエクスタシィを飲ませたのか。だれがエクスタシィで飛んでいる早紀を弄んだのか。  闇に目を凝らす。鞄の中をさらに探す。錠剤はもう出てこない。粉末も見つからない。  衣服とクスリしか入っていない手荷物──不自然にすぎる。  ブラウスを手に取る。下着を手に取る。早紀にはそぐわないデザイン。色使い。ブラウスは派手で、下着は悩ましい。  記憶のフラッシュバック──服を脱いでいく麻美。麻美が身につけていた下着──目の前の下着。  麻美が早紀をこのマンションに連れてきた。麻美が早紀に衣類を貸した。ヴィトンは麻美の鞄。麻美が早紀にクスリを渡した。  なぜ?  疑問符が飛び跳ねる。妄想が広がっていく。  エクスタシィを飲みくだす早紀と麻美。服を脱ぐ早紀と麻美。絡み合う早紀と麻美。早紀の性器を舐め、キスマークをつける麻美。  なぜ?  疑問符は飛び跳ねつづける。  彰洋はベッドを見た。早紀を見た。早紀は幸せそうに眠っている。      57  波潟が部屋にやってくる。波潟に甘える。いつもと変わらず、これまでと同じように。波潟は疲れていた。早紀のことを気にやんでいた。勃起しても射精にまではいたらない。  萎《しぼ》んだペニスがおまえにはもう飽きたと訴えていた。  波潟の肩と腰を揉む。波潟は気持ちよさそうに呻《うめ》き、口を開いた。 「マミ、早紀はどうしてるんだ?」 「わかんない。凄く神経質になってたから、ひとりにしておいてあげた方がいいと思って、そっとしてるの。パパ、気になるんだったら、明日にでも電話かけてみるよ」 「頼む。おれが謝っていたと伝えてくれ。心の底から反省してると伝えてくれ」 「マミにまかせて。早紀の機嫌が直ったら、どこか温泉にでも行こう。温泉でのんびりして、わだかまりを解きほぐすの。パパ、できる?」 「もちろんだ。どこにでも行ってやる。それで早紀の気がすむんなら、なんだってしてやる」  波潟は疲れている。早紀のせいで精神が疲弊している。マッサージを続けているうちに、波潟は寝息を立てはじめた。  美千隆に電話をかけた。美千隆に甘える。いつもと変わらず、これまでと同じようにしようと努める。波潟に接するときと同じようにはいかなかった。呼吸が荒くなり、胸が締めつけられた。憎悪がなにもかもを塗り潰していく。 「波潟はどうだ?」  美千隆はいった。 「早紀のことでかなり参ってるみたい」麻美は素知らぬふりで答えた。「早紀、そろそろ家に戻さないと倒れるかも」 「それは問題だな。波潟にはまだしばらく頑張ってもらわなきゃならん」 「彰洋ちゃんはなんていってるの?」 「あいつの手には負えないかもしれない。優しすぎるからな、彰洋は」 「わかった。じゃあ、マミが明日様子見てきてあげる」 「頼むよ、マミ。おまえがいてくれて大助かりだ」  憎悪の炎が燃え盛る。 「早紀もマミのいうことなら聞くはずだから」  憎悪を抑えこんで会話を続ける。 「市丸の方はどうなってる?」  憎悪の炎が激しく燃え盛る。 「焦っちゃだめだっていったの、美千隆だよ」  声が上ずる。自分を叱咤する──憎むのにも慎重さがいる。美千隆に感づかれてはいけない。不審を抱かせてはいけない。 「それはそうだが……そろそろ、時間がな」 「なるたけ急いでみるけど、焦りすぎてこっちの目論見がばれちゃったらしょうがないでしょ」 「マミにはかなわないな」  美千隆は笑った。すでになにもかもを知っているということはおくびにも出さなかった。  憎悪が膨張する。憎悪がうねる。憎悪が世界を支配する。 「とにかく、マミ、頑張るから。美千隆も焦らないで」 「ああ、頼りにしてるよ、マミ」  麻美は受話器を置いた。足元から力が抜けていく。床の上にひざまずく。嗚咽が漏れる。  麻美は寝室に駆けこんだ。衣装|箪笥《だんす》の奥から預金通帳を取りだした。数字を眺めた。  波潟からせしめた金。波潟からせしめた物を売って作った金。  三千万に少し足りない額。これを十倍にも二十倍にも増やしてやる。  麻美は通帳を閉じる。気分がいくらかましになっていた。      * * *  早紀は顔色がよくなっていた。幸せそうなオーラを発散させていた。 「彰洋ちゃんと一緒にいられるの、そんなに楽しい?」  麻美は訊いた。 「うん」  早紀がうなずきながらティーカップに手を伸ばした。広くて清潔なリヴィングを自慢げに見渡した。  早紀と彰洋の愛の城──砂の上に築かれた楼閣。すぐに崩壊するとも知らずに、早紀は満喫している。 「そっか……早紀が幸せなのはマミも嬉しいんだけど。パパがね──」 「パパの話はしないで」  早紀が麻美の言葉を遮る。世界を覆い尽くした憎悪──早紀に対して向けられている。  幸せな女。苦労もせずに金に埋もれて暮らしてきた女。ゆるせない。ゆるさない。 「そんなこといわないで、ちゃんと聞いてよ、早紀。パパ、大変なんだから」 「大変って?」  早紀のガードがゆるむ。 「早紀のことが心配でしょうがないらしいの。すごくげっそりしちゃって……この一週間で五キロ以上痩せちゃったみたい。糖尿病か癌にかかったお年寄りみたいで、全然冴えないの」 「パパが五キロも痩せたの?」  麻美はうなずき、言葉を続けた。 「心配だから病院に行ったらって勧めたんだけど、仕事が忙しくてそれどころじゃないって……こんなこと続けてたら、パパ、絶対に倒れると思う」  涙ぐむ──朝飯前の演技。早紀がおろおろしはじめる。 「そんな……」 「早紀の気持ちもよくわかるんだけど、一度、おうちに帰ってあげてくれないかな……頭から拒否するんじゃなくて、話し合うことも大切でしょ? マミと早紀だって、最初はパパのことで喧嘩して、ずっとお互いのこと無視してたけど、ちょっとしたきっかけのおかげで話をしたら、昔みたいに仲のいい友達に戻れたじゃない。早紀とパパもきっとそうなるよ」 「パパ、本当に具合が悪いの?」 「だから、自分の目で確かめてみなってば」  早紀が落ち着きを失っていく。幸福のオーラが消えていく。  早紀は手の内にしっかりとおさめておかねばならない。写真を使えば、早紀は切り札になる。彰洋を吹き飛ばし、美千隆を吹き飛ばす。  麻美と彰洋の写真。  使い方さえ間違わなければ、美千隆を破滅させることができる。彰洋を破滅させることができる。波潟を破滅させることができる。早紀を破滅させることができる。  憎悪が膨張する。憎悪がうねる。世界は相変わらず憎悪に支配されている。 「今夜、彰洋ちゃんに話して、明日戻ってみる。パパに伝えておいてくれる?」  早紀がいった。麻美は何度もうなずいた。      58  摩耗していく神経。倍加する強迫神経症。縋《すが》るものが欲しい。確かな実体をこの手に掴んでいたい。 「社長も堤君もどうしたの? ふたりとも、すっかり痩せちゃって」  川田はるかが心配げにいった。  確かに、波潟も痩せている。覇気が薄れているような感じすら受ける。気苦労のせい。早紀が家を出ていったせい。  この二日、波潟は社長室にこもっている。一歩も外には出ない。仕事はすべて電話で片づける。無数の電話が波潟にかかってくる。ときおり、波潟がどこかに電話をかける。  おそらく──東栄通商の株を買う指示をだれかに与えている。  おそらく──株購入の資金を融資しろと銀行屋を脅している。  業務時間が終わると、波潟は彰洋も運転手も従えずに雑踏の中に消える。  おそらく──どこかで飲んだくれている。波潟の素性を知らない相手に、夫の、父の苦労を考えようともしない妻や娘の愚痴を聞かせている。  おそらく──まっすぐ家に帰っている。だれの目も気にせずにコカインを鼻から吸い、不安と怒りと悲しみを塗り潰している。  おそらく──麻美の部屋に行っている。麻美の身体を貪って、現実を忘れようとしている。あるいは、麻美の口から早紀の状況を聞いて自分を安心させている。  波潟の一挙手一投足を、逐一、美千隆に報告する。早紀が頑固なことを美千隆に報告する。キスマークとクスリのことは告げない。  波潟の行動と、美千隆への連絡の内容を金田に告げる。薄汚いスパイの役を従順に演じる。どこかに抜け穴はないかと目を凝らす。  なにも見つからない。  麻美に電話をかける。ハルシオンとエクスタシィのことを問い質す。 「早紀が欲しがったのよ」麻美がいう。「悲しくて眠れないっていうから。気晴らしになるものが欲しいっていうから。彰洋ちゃんが早紀に冷たくしてたころだよ。今は早紀、クスリ使ってないでしょう? 彰洋ちゃんがそばにいてあげれば、そんなもの必要ないんだから」  麻美の言葉には澱みがない。あらを探そうにも探しようがない。 「パパ、会社でどう?」麻美が言葉を続ける。「具合、悪そうでしょう? 早紀のせいですっかり痩せちゃって。彰洋ちゃん、早く早紀を家に戻すようにしてよ。波潟がぶっ倒れちゃったら、美千隆の計画も全部おじゃんになっちゃうんだから」  麻美の声は冷たい。昔から冷たかった。今の方がより冷えているように感じる。  なぜだろう? 考える──思考はすぐに停滞する。  代々木のマンションに戻る。早紀がいつものように夕食を作って待っている。早紀の顔色は冴えなかった。落ちこんだ顔で、テーブルの上を凝視している。 「どうしたんだい?」  彰洋はしかたなく訊ねた。早紀が顔をあげた。 「今日、マミと話したの。パパの具合が悪そうだって。本当?」  嘘をついてもしかたがない。 「うん、そうだな。急にげっそりしちゃったし、仕事をしてても辛そうなときがあるよ」 「わたしのせいかしら」  早紀の表情が暗く沈む。 「だれのせいでもないさ。いろんなことが重なって、ちょっと悪い方向に向かってるだけだよ」 「彰洋ちゃんはいつも優しいのね」  そんなことはない──いいかけて、いいよどむ。 「わたし、一旦、家に帰ろうと思うの」  予想していた言葉──予想外の狼狽。早紀を行かせたくはない──理不尽な感情が心を苛む。家に帰るんじゃなくて、他の男のところに行くんだろう──あさましい嫉妬が理性を食い散らかす。 「そうだね。おれもその方がいいと思うよ」  感情を、嫉妬を押し殺す。薄汚いスパイにはどちらも必要がない。 「パパの調子がよくなったら、彰洋ちゃんのこと話してみる。ちゃんとお付き合いさせてって──」 「約束したじゃないか。おれ、必ず大物になる。波潟社長が早紀と付き合うのを認めてくれるような大きな仕事をする。それまでは早紀と思うように会えないことも我慢する。違うかい?」 「そうだったわね。ごめんなさい。わたし、勝手なことばっかりいって」 「気にしすぎだよ、早紀は。それより、仕度はもうできてるのかい? 家まで送っていくよ」  早紀は首を振った。 「今夜は彰洋ちゃんと一緒にいたいの。明日の朝、帰るわ。せっかく晩ご飯作ったんだし、一緒に食べましょう」  早紀は笑った。健気な笑顔が彰洋の胸を打つ。  キスマークとクスリ。  麻美が辻褄をあわせてくれた。納得したい──納得しがたい。早紀は明日、波潟の家に戻る。時間は限られている。早紀と一緒にいられるのは今夜だけだ。 「ちょっと待って。おれ着替えてくる。こんなふうにふたりで一緒にいられるの、しばらくないし、こんなよれよれのスーツじゃ、決まらないだろう?」  早紀がうなずいた。彰洋は寝室でシャツとスラックスに着替える。耳を澄ませる。早紀がグラスを用意している音が聞こえる。  息を殺す。足音を忍ばせる。早紀の──麻美のヴィトンの鞄を開ける。錠剤を取りだす。錠剤を選り分ける。  エクスタシィ二錠を掌の中に握りこむ。  リヴィングにとって返すと、キッチンで早紀がワインを開けようとしていた。 「おれがやるよ。早紀は他の仕度しておいて」  ボトルとソムリエナイフを奪いとって早紀を追い立てる。ボトルのコルクを抜く。早紀を盗み見る。早紀はスライスしたフランスパンを皿に並べている。皿をダイニングテーブルに運んでいく。  二錠のエクスタシィ──ソムリエナイフの柄で細かく砕く。早紀のワイングラスにエクスタシィをひとつまみ放りこむ。残ったエクスタシィをシンクに落とし、水で流す。グラスにワインを注ぐ。グラスを明かりに透かしてみる。  澱《おり》と見分けがつかない。  自分のグラスにもワインを注ぐ。ふたつのワイングラスとボトルを持って、ダイニングテーブルに着く。 「今日もおいしそうな料理ばかりだね」  愛想笑いを浮かべる。おためごかしを口にする。 「本当においしいといいんだけど」 「おいしいに決まってるさ。じゃあ、乾杯」  彰洋はワインに口をつける。早紀がワインを飲むのをじっと待つ。早紀がワインを飲む。  溶解していくエクスタシィ──早紀の頬がかすかに赤くなる。早紀が嬉しそうに微笑む。      * * *  饒舌な早紀。定まらない視線。微量のエクスタシィの効果。  早紀はエクスタシィを飲んだことがある。ハイになったことがある。だが常習しているわけではない。そうであれば、ワインの酔いとクスリの効力の差に気づく。  ソファに移動してワインからブランディに切り替える。お互いの身体をまさぐりあう。早紀の身体は熱い。火照っている。彰洋の身体は冷えている。  ソファの上で交わる。早紀の足がブランディグラスを蹴りたおす。かまわずに行為を続ける。  早紀がすぐに絶頂に達する。何度も何度も絶頂に達する。その度に、早紀の身体が痙攣する。膣の粘膜が彰洋のペニスを締めつける。  膣からペニスを抜く。濡れたままのペニスを早紀の唇に押しつける。早紀が含む。舐める。指でしごく。  射精──気が遠くなるような快感。  早紀が精液を飲み干す。とろけるような視線を彰洋に向ける。  彰洋は早紀の唇を吸う。自分の精液の匂いに噎《む》せそうになる。  早紀がくすくす笑う。 「彰洋ちゃん、好き。こんなときでも必ずキスしてくれるから」 「他の男はしてくれないのかい?」  尋問開始──気を使う必要はない。早紀の意識はあちこちへと飛んでいる。 「してくれた人、いない。みんな飲ませたがるくせに、そのあとは放ったらかしなの。ひどいと思うわ」  キスマークが脳裏のスクリーンに大写しになる。 「いつ、おれ以外の男と寝た?」 「彰洋ちゃんと知り合う半年ぐらい前が最後かな。ちゃんと付き合ってた彼氏だよ。最初はうまくいってたんだけど、だんだん鼻についてきて……三ヶ月ぐらいで別れたのかな。セックスだってそんなにしてない。わたし、彰洋ちゃんと一番セックスしてる。もう、数えきれないぐらいしてるでしょう?」  早紀のいうとおりだった。だが、キスマークをつけた覚えはない。 「本当に? おれに隠れて浮気したことない?」 「あるわけないでしょ。早紀が好きなのは、彰洋ちゃんだけなんだから」  早紀が拗《す》ねたような顔をする。彰洋の耳たぶを齟《か》む。まだ固いままの彰洋のペニスを抓《つね》る。  早紀が嘘をついているとは思えない。 「どうしてそんなこと訊くの?」  早紀がいう。熱い息が耳にかかる。 「早紀は綺麗だから、他の男が放っておかないだろうと思って。おれ、忙しくてなかなかかまってやれないから」 「やきもち焼いてくれてるんだ?」  早紀の声が弾む。脳裏のスクリーンに映しだされるキスマークがぼやけていく。  あれは気のせいだったのか。自分でつけたくせに、それを忘れていたのか。  そんなはずはない。 「心配しないで、彰洋ちゃん。早紀は彰洋ちゃんだけの女だから」  早紀が身体をずらす。彰洋のペニスを口に含む。自分の乳首を彰洋に押しつけてくる。  覚えのある仕種。  思いだせ──自分を叱咤する。記憶の回線を繋ぐ。  麻美──麻美との情事。麻美はフェラチオを厭わない。男のペニスをくわえながら自分も高まっていく。男のペニスを弄びながら、自分も弄ばれることを好む。男のペニスを舐めながら、自分の乳首を相手に押しつけて快感を高める。  麻美。欠けていたジグソウパズルのピースがきっちりはまる。 「麻美とは? 麻美とはなにもないのか?」  思わず問い詰める。早紀が動くのをやめる。 「マミ? マミとなにをするっていうの?」  返事が早すぎる。口調が固すぎる。  麻美と早紀──早紀と麻美。女同士の秘めたお遊び。早紀にキスマークをつけたのは麻美だ。  だが、なんのために?  疑問が解消され、新たな疑問が生じる。その繰り返し。  早紀が彰洋のペニスから顔を離す。  ペニスが萎えていくのを、彰洋は感じた。      * * *  早紀が部屋を出ていった。彰洋は六本木のマンションに戻った。  薄汚いスパイの役を演じ続けなければならない。  波潟の顔色が明るくなった。早紀が戻ってきたことにつけくわえて、美千隆からでたらめの興信所の報告を受け取り、早紀に男がいるわけではないという確証を得たのが大きいようだった。波潟はヴァイタリティを復活させて、慌ただしく行動しはじめた。  波潟の逐一を美千隆に報告する。美千隆の反応のすべてを金田に報告する。東栄通商の株価は、少しずつ、確実にあがっている。  慢性的な寝不足。目を閉じるたびにキスマークの生々しい映像がよみがえる。嫉妬に身を灼《や》かれる。嫌な汗をかく。早紀の身体が恋しい。冷えた身体を暖めてくれる温もりが欲しい。  麻美に電話する──留守を告げるメッセージだけが繰り返される。  週末を待つ。眠れぬ夜を耐えつづける。麻美のマンションを訪れる。 「どうしたの、こんな時間に?」  寝ぼけ眼の麻美──男物のTシャツを着ただけの姿。彰洋は麻美を押しのけるようにして部屋にあがる。 「なんなのよ、彰洋ちゃん? マミ、昨日寝るの遅かったんだから」  寝室を覗く。麻美と早紀の秘密のかけらを捜す。なにも見つからない。 「彰洋ちゃん」  麻美の声──振り返る。麻美を問い詰める。 「早紀と寝ただろう? 早紀にキスマークをつけただろう!?」  麻美の肩を掴み乱暴にゆさぶる。麻美の乳房が揺れる。麻美の顔が歪む。 「なにわけのわかんないこといってるの?」 「おまえしかいない。それしか考えられない!!」 「いい加減にして!!」  頬をしたたかに張られた。痛みはなかったが頬が熱くなるのを感じた。彰洋は麻美の肩から手を離した。 「落ち着きなさいよ、もう。とにかく、リヴィングに戻って。ソファに座りなさい」  麻美が母親のような口調でいった。逆らうことはできない。思考が停止している。操り人形のように麻美に従う。 「コーヒー淹《い》れてあげるから、少し静かにしてて」  麻美がキッチンに入っていく。彰洋は目を閉じる。早紀の性器の脇についていたキスマーク──強迫観念。身体が顫える。身体が冷えていく。体温があがっていく感覚は永遠に失われてしまっている。  麻美がコーヒーを運んできた。豊潤な香りがささくれ立っていた神経をなだめる。 「飲んで。落ち着いたら、なにがどういうことなのか説明して」  麻美の眉間に皺が寄っていた。麻美は困惑している。彰洋は混乱する。  麻美ではないのか? だったら、だれが早紀にキスマークをつけた?  コーヒーに口をつけた。コーヒーは熱く、苦かった。寝不足で奪われた体力、荒れた粘膜──胃液が逆流する。彰洋は嘔吐する。 「彰洋ちゃん!」  彰洋は麻美を突き飛ばしてトイレに駆けこんだ。吐いた。麻美の手が背中に触れた。麻美は彰洋の背中をさすった。 「どうなっちゃってるの、彰洋ちゃん? ご飯、ちゃんと食べてる?」  彰洋は首を振った。ダブルスパイを強要される日々。早紀が実家に帰ってからはなにひとつ口に入れていない。神経だけがすり減っていく。体力だけが摩耗していく。内臓が悲鳴をあげる。 「本当に世話がやけるんだから」  麻美の気配が消えた。胃液はとめどもなく逆流しつづけた。喉が灼け、鼻がつまった。 「これ、飲んで」  麻美が戻ってくる。彰洋は便器から顔をあげる。麻美は水の入ったコップと薬包を持っている。 「パパがときどき飲んでる薬なの。制酸剤だって」  コップと薬を受け取って飲み干した。 「これも飲んで」  麻美が別の錠剤を差しだす。見覚えのある錠剤──ハルシオン。 「寝なきゃだめだよ、彰洋ちゃん。身体、ボロボロでしょう? 寝てる間にご飯作っておいてあげるから、ね? 彰洋ちゃんが倒れちゃったら、美千隆の計画もおじゃんになるよ。寝て、体力取り戻さなきゃ。そうでしょう?」  彰洋はハルシオンを受け取って、残った水で飲みくだした。力無く床にうずくまった。コップを取りあげられた。  麻美がどこかに消え、タオルを手にして戻ってきた。 「顔をあげて、彰洋ちゃん」  彰洋は顔をあげる。麻美が濡れタオルで彰洋の口の周りを拭った。トイレには酸っぱい匂いがたちこめていた。麻美は嫌な顔ひとつしない。 「こっちに来て」  麻美に手を引かれて彰洋は立ちあがった。麻美のあとをついていった。寝室で服を脱がされた。 「こんなに痩せちゃって……」  麻美が彰洋の身体をまさぐる。麻美の手は暖かい。ベッドに横になるように促される。 「夕方になったら、起こしてあげるから。それまではなんにも考えずに寝るのよ。いい? 寝なかったら、マミ、今度は本気で怒るから」 「あのキスマークはだれがつけたんだ?」  彰洋は口を開く。麻美が首を振った。 「なにも考えちゃダメっていったでしょ」  麻美の手が視界をふさぐ。瞼が落ちる。キスマークの幻影は現れない。暗闇が彰洋を飲みこんでいく。      * * *  麻美の声が聞こえる。麻美はだれかと話している。彰洋のことを話している。  夢うつつ──ハルシオンがまだ効いている。頭が重い。思考がまとまらない。倦怠感が身体を縛りつける。  麻美は話しつづけている。麻美の声は甘い。波潟と話しているときと同じ口調で話している。話の内容は聞き取れない。  彰洋は身体を起こし、頭痛に顔をしかめた。枕元の時計を見る──午後四時四十分。  衣服はベッドのサイドボードの上に綺麗に畳んで置かれていた。服を着て寝室を出た。  麻美がソファに座って電話でだれかと話していた。 「じゃあ、そういうことでね……うん、マミも楽しみ」麻美が電話を切りながら彰洋を見た。「もう起きちゃったの? 具合はだいじょうぶ? もう少し寝ててもいいんだよ」 「いまの電話、だれ?」 「市丸。美千隆から話聞いてるでしょ? 今夜会う予定になってるんだけど、彰洋ちゃんがこんなだから、待ち合わせの時間、遅らせてもらったの」  市丸──波潟と付き合いのある株屋。情報を引きだす目的で、麻美は市丸に接近している。  だが、情報を引きだす必要はもうない。波潟が視野に入れている株の銘柄は判明した。  なぜ、美千隆はそのことを麻美に知らせないのか? いや、麻美は知っている。彰洋が話した。それなのに、麻美はまだ市丸に取り入ろうとしている。なぜだ? 美千隆と麻美はなにを企んでいる?  頭が痛くなる。悪寒を覚える。麻美の顔を直視できなくなる。 「ごはんの仕度するから、ダイニングテーブルに座って待ってて」 「いいよ、麻美。もう帰るから」 「なにいってるのよ。マミ、腕によりをかけて作ったんだから。それから、彰洋ちゃんの悩みもちゃんと聞いておかないと……彰洋ちゃん、なんでも自分で解決しようとして、後で墓穴掘っちゃうんだから」  反論できない。彰洋はうつむいた。頭の中で飛び交う疑問の答えを捜し求めた。  なぜ美千隆は麻美に市丸から手を引けといわないのか。早紀にキスマークをつけたのはだれなのか? 麻美と早紀は寝ていないのか?  頭痛が酷くなる。眩暈を覚える。無力感に襲われる。どこかに消えてしまいたくなる。  彰洋は力なく椅子に腰をおろした。  麻美がキッチンに消えた。麻美は鼻歌をうたっている。陽気なメロディ──陰鬱な気分。ハルシオンのせいで朦朧とした頭。  おれはなにをしに来たんだ? おれはなにをやっているんだ?  麻美が戻ってきてお粥と味噌汁をテーブルに並べた。お粥にはほぐした鮭が載っている。味噌汁にはおびただしい野菜の具が入っている。 「これだったら、胃の調子が悪くても食べられるでしょ?」  麻美は屈託のない笑顔を浮かべた。麻美の微笑が目に眩しい。 「ありがとう」  彰洋は箸を手に取ってお粥に口をつける。空腹であることに突然気づいた。貪るようにお粥を食った。 「美味しい?」  麻美が隣りに腰をかけ頬杖を突く。嬉しそうに彰洋を見あげた。早紀の顔が麻美の顔に重なる。キスマークがちらつく。美千隆の思惑が知りたくなる。  だが──知れば、金田に報告しなければならなくなる。 「うまいよ。本当にうまい」  お粥を空にして味噌汁を飲み干す。胃が痙攣した。こみあげてくるものを無理矢理飲みくだした。 「お代わり、する?」  彰洋は首を振って麻美にごちそうさまと告げた。 「じゃあ、もう一回、これ飲んで」  制酸剤の包みと水の入ったグラス。  麻美は優しい。麻美は冷たい。麻美は微笑ましい。麻美は憎らしい。麻美はあさましい。  どれが本当の麻美なのかわからなくなる。  薬を飲みくだす。自分の知らないすべてのことを飲みくだす。 「少しはよくなったみたいね」  麻美が顔を覗きこんでくる。彰洋は麻美から視線をそらした。 「ハルシオンのせいで、まだ頭がぼうっとしてるよ」 「だからもっと寝てればよかったのに」 「家に帰って寝る。ここんところ、ろくに寝てなかったんだ。勝手にやってきて、悪かったな」  彰洋は立ちあがった。麻美が彰洋の袖を引っ張った。 「待ってよ、彰洋ちゃん。マミに話があって来たんでしょう? まだ、時間あるよ」  麻美の視線──抗いがたい。彰洋はもう一度腰をおろした。 「マミと早紀が寝たってどういうこと?」 「疲れてたんだ。疲れてるせいで、いろんなことがこんがらがった。前に電話で話しただろう。早紀の身体に……おれの知らないキスマークを見つけた。てっきり、おまえがやったんだと思ったんだよ」 「どうして? マミ、いろんな男の人と寝るけど、レズじゃないよ」  あの夜の早紀の反応──確信を持てたと思った。今では自信がない。 「なんとなくだよ」 「早紀がそういったの?」  彰洋は小さく首を振った。 「おれの勘違いだ。ゆるしてくれ」  麻美の両手に頬を挟まれた。麻美が顔を覗きこむ。鼻と鼻がぶつかりそうになる。 「しっかりしてよ、彰洋ちゃん。こんな調子が続くと、波潟に疑われちゃうよ。美千隆のことも、早紀のことも。もっとしっかりしなくちゃ」 「わかってる」  麻美から視線をそらせたい──できない。 「不安なんだよね。わかるよ、マミ。彰洋ちゃん、本当はスパイみたいな真似、似合わないもん。ただでさえきついのに、早紀とのことも隠しておかなきゃならないしね」  スパイ──言葉が胸に突き刺さる。 「でも、もうちょっとの辛抱だから。もう少しだけ我慢すれば、嫌なことから全部解放されるんだから」 「わかってるよ」 「早紀は浮気なんかしないよ。彰洋ちゃんにべた惚れ。キスマークの件はきっと彰洋ちゃんの勘違い。早紀にクスリ渡したの、マミだけど、それ以外のことはしてないよ。誓ってもいいよ」 「もういいんだ。おれが悪かったよ、麻美」 「彰洋ちゃんにも意地悪なことしたけど、早紀と彰洋ちゃんがあんまり仲がいいから嫉妬しただけ。彰洋ちゃんとのこと、早紀にはなんにも話してないから」  おぞましい写真。邪悪な意思が込められた写真。  天使の麻美──悪魔の麻美。十年以上前から麻美を知っている。だが、麻美の本質に触れたことはないのかもしれない。 「その話はやめよう」 「彰洋ちゃんがしっかりしてくれなきゃ、マミも美千隆も未来ないんだから」 「わかってる。もう帰るよ、麻美。このあと、約束があるんだろう? いつまでも邪魔できないから」 「まだ時間はあるっていったでしょう。ひとりで帰れる? ひとりになってもだいじょうぶ? 泊まっていってもいいんだよ。マミ、遅くなるけど帰ってくるから」 「だいじょうぶだって。お粥のおかげで元気が出た」  彰洋は麻美を振りきるように立ちあがった。ひとりでいるのは怖い。孤独は恐怖と妄想を膨らませる。それでも、これ以上麻美に頼るわけにはいかない。 「わかった。もう引き止めないけど、気をつけてね。なにかあったら、電話して。いつでもいいから」 「うん」  彰洋は玄関に向かった。 「気をつけてね、彰洋ちゃん」  麻美の声に振り返った。麻美は微笑んでいた。      59 「で、その小僧がなんだっていうんだ?」  市丸が穴子の鮨をつまんだ。さっきから、穴子ばかりを注文している。穴子が好きなんだという。穴子しか食べたくないのだという。それはおかしいというと、マミだってトロしか食わないじゃないかと反論される。 「もう、崩壊寸前なのよ。ストレス溜まりまくりってやつ。うまく使えばおもしろいことになるかも」  麻美は焙《あぶ》った大トロの鮨を口に放りこんだ。脂が口中に広がる。香ばしさが味覚を刺激する。いくら食べても飽きることはない。たとえ翌日、スポーツジムに慌てて駆けこむことになったとしても。 「うまく使うって、どうすりゃいいんだ?」 「それを考えるのが市丸さんでしょ」 「そんな小僧なんざ、使う必要はねえよ。どうすりゃいいのかは、もう考えてあるんだ」  市丸が穴子を注文した。麻美はトロを注文した。板前が嫌そうな顔をしたが、口には出さない。金を持っている客に嫌みをいうことはない。 「で、齋藤の方は?」 「美千隆は波潟と違ってガードが固いから……」 「なんとかして、齋藤が使ってる株屋と銀行を知る必要があるんだ」 「銀行? 三洋銀行だよ。波潟の口利きで顔がきくようになったんだから」  穴子とトロの鮨があがってきた。市丸の穴子にはどちらもタレが塗ってある。 「そうじゃなくて、あいつが金を引きだすのに使ってる金融だ、おれが知りたいのは。波潟をはめようっていうのに、波潟のメインバンクを使うはずがねえ」 「それとなく、聞きだしてみるよ」 「頼む」市丸は穴子の鮨を一気に食べた。「そろそろ行こうか、マミ」 「待ってよ。マミ、まだ食べてないんだから」 「はやく食え。おれの方はもう、すっかり溜まっちまってるんだ」  麻美は頬を膨らまし、拗ねたように市丸を睨んだ。 「市丸さんのせっかちなとこ、マミ、嫌い」 「しょうがねえじゃねえか。これがおれなんだから」 「ゆるしてあげてもいいけど、代わりに頼みがあるんだけどな」  市丸が苦笑した。 「なにが欲しいんだ?」 「時計」  麻美はいってトロの鮨を頬張った。      * * *  深夜の帰宅──疲弊した肉体。市丸の愛撫は激しい。市丸の身体には精力が漲《みなぎ》っている。市丸はマンションの外で待っていた。  ベッドに倒れこんだ。シーツからは彰洋の残り香がする。  深呼吸をして気持ちを落ち着かせた。電話を引き寄せ、美千隆のホテルに電話をかけた。 「はい、齋藤」  美千隆の声が鼓膜を顫わせた。憎しみが燃えあがる。 「マミだよ、起きてた?」  左手でシーツを鷲掴みにした。憎悪をなだめすかす。 「ああ。なにかわかったか?」 「東栄通商って知ってる?」 「聞いたことはあるな……中堅の運送会社だろう。それがどうした?」  澄ました声が返ってきた。狼狽はない。驚きもない。すでに知っていることをおくびにも出さない。 「市丸から聞きだしたの。波潟が狙ってる株、東栄通商のだって」 「本当か?」 「うん。マミにはよくわからないけど、別の運送会社が合併を狙ってるんだって」 「そうか……それならありえるな。マミ、よくやってくれた」  空々しい芝居が続く。憎悪の炎は静かに燃え続けている。 「美千隆……」 「うん?」 「会いたいよ」 「今からか?」 「だって、マミ、市丸に抱かれたんだよ。それでやっと聞きだしたんだから」 「それで落ちこんでるっていうのか? マミらしくないじゃないか」 「マミ、自分の意志以外で男と寝たことなかったんだから」  嘘ではない。だれと寝るか、どうやって寝るかは、いつだって自分で決めてきた。稲村と寝る前までは。 「市丸はもう帰ったし、パパは早紀が戻ってきたから家にいるはずだよ。だれかに見つかる心配、あんまりないでしょう?」 「それはそうだが──」 「それにもうひとつ、相談したいことがあるんだ」 「なんだ?」 「彰洋ちゃん。今日の昼、わたしのところに押しかけてきたの。あれ、ノイローゼだよ完全に」 「わかった。待ってるから来い。だが、人の目には充分気を使えよ」 「すぐに行くね」  電話を切って部屋を出た。市丸のベンツに駆けこむ。 「どこかタクシーが捕まるところまで送っていって」 「土曜の夜だぜ、タクシーなんか捕まらねえよ。おれが送ってやる」 「美千隆に見られたらどうするのよ?」 「途中でおろしてやるよ。あとは歩いて行きゃいい」  ベンツが動きだした。市丸の手が太股に伸びてきた。 「おまえ、齋藤と寝るつもりじゃねえだろうな?」 「マミがその気でも、美千隆が抱いてくれないよ。市丸さんと寝ちゃったって告白したんだから」  自嘲の笑みが浮かんだ。美千隆が憎らしい、呪わしい。美千隆の本質に気づかなかった自分が憎らしい、呪わしい。 「嫌な野郎みてえだな、齋藤ってのは」 「本当に嫌なやつよ」  麻美は窓の外に視線を向けた。サイドウィンドウに歪んだ自分の顔が映っていた。醜く歪んだ顔が麻美を見返している。      * * *  美千隆はバスローブを羽織っていた。髪の毛が濡れていた。白ワインを飲んでいた。 「マミも飲むか?」  美千隆がグラスを掲げた。麻美は首を振った。 「少し疲れてるんだ」 「市丸はそんなに激しかったのか?」 「けだものみたい。あれだったら、まだ波潟の方がまし」  麻美は渋面を作り、美千隆の横に腰をおろした。美千隆に身体をもたせかける。  美千隆の身体は暖かい。シャワーからあがったばかりだということを匂わせる。だが、温もりは感じられない。 「でも、嫌な思いして身体張っただけの価値あるでしょう?」 「もちろんだ。これで、波潟におれたちの靴を舐めさせてやることができるようになる」  美千隆は鉄面皮だった。美千隆は二枚舌だった。美千隆は冷たい彫像のようだった。美千隆に心はない。あるのは、底なしの野心だけだ。 「明日から忙しくなるぞ。おれがなにをしてるか、波潟には絶対知られちゃいけないからな」  美千隆は浮かれたように喋った。美千隆の眼窩は落ちくぼんでいる。肌は荒れている。目が充血している。美千隆は疲れている。疲れていながらそれを苦にしていない。美千隆も精力に満ち溢れている。市丸とは違った種類の精力を誇っている。  麻美は美千隆の横顔を凝視した。  なぜ? なぜくだらない嘘をついたの? マミを市丸にくっつけて、美千隆になんのメリットがあるの?  声にならない問い──答えが返ってくることはない。  憎悪だけが際限なく膨らんでいく。 「だったら、彰洋ちゃんにちゃんと釘刺しておかないと」  麻美は美千隆を遮っていう。美千隆が振り返る。 「彰洋、そんなにおかしいか?」 「おかしいよ。午前中にいきなり押しかけてきて、早紀と寝ただろうだって」 「おまえと波潟の娘が?」 「意味不明でしょう? マミ、自慢じゃないけどレズになんかこれっぽっちも興味ないんだから。ただでさえ神経細いのに、早紀とのことも波潟に隠さなきゃいけないから、ストレスが溜まりすぎてるんだと思うな、マミ」 「そうか……だけど、彰洋はまだ必要だ」  美千隆はぽつりといった。  憎悪──あるいは嫉妬。名状しがたい感情が荒れ狂った。美千隆は麻美のことは簡単に切り捨てた。だが、彰洋には執着している。理由がわからない。理由が見つからない。それだけになおさら美千隆が憎い。彰洋が憎い。 「もしかすると、美千隆にも隠してることがあるのかも……早紀にほだされて、美千隆に嘘の情報を流してるとか」 「そんなことはないさ」 「でも、彰洋ちゃん、おかしすぎるよ。今日だって、わたしを詰《なじ》ったあとに、いきなり吐いたんだから。しょうがないから睡眠薬飲ませて眠らせたんだけど、起きたあとはしょんぼりしちゃって」 「彰洋のことはおれに任せろ」  美千隆はかたくなだった。彰洋に関することはなんでも、美千隆をかたくなにする。  ゆるせない。ゆるしがたい。 「美千隆がそういうんなら、マミはいいけど……」 「それより、市丸のことを聞かせてくれ。あいつはなにを話した。どんなふうに話した?」 「しょっちゅう波潟から電話がかかってくるって。東栄通商の株価が動くたびに……で、いくら株を買うかを指示してくるんだって。今週だけで、三億近い株を買ったっていってたよ」 「まだ三億か……」 「時間をかけて、少しずつ買う量を増やしていくんだって。三百億まで買い続けろっていわれてるらしいよ。美千隆、だいじょうぶなの?」 「なにがだ?」 「だって、三百億だよ。美千隆だってかなりの額のお金、用意しなきゃならないんでしょう?」 「だいじょうぶだ。百億ぐらいまでならなんとかなる」  美千隆はきっぱりといった。百億の融資を受けるあてがあるのだろう。波潟にも市丸にも気づかれずに、百億分の東栄通商の株を集める力を持った株屋を手なずけているはずだ。 「どこからそんなお金集めるの?」 「ちゃんと手は打ってある。安心しろ、マミ。おまえが手を組んだ男は、それなりに働いてるんだ」  美千隆のガードは固く、簡単には崩せそうにない。下手に刺激すれば感づかれる。  美千隆の弱点──固執する彰洋。妄想の世界をさまよっている彰洋。  彰洋を利用する。彰洋に美千隆を裏切らせる。  エクスタシィに似た歓喜が背骨を駆けあがる。  麻美は美千隆のバスローブのあわせ目に手を差しこんだ。美千隆は勃起していた。 「抱いてくれる?」  美千隆の目を覗きこみながら。自分の目を潤ませる。 「市丸に抱かれたあとだけど、ちゃんと身体洗ってきたよ。まだ市丸の感触が残ってるの。美千隆に忘れさせてほしいの」  勃起したペニスに指を滑らせる。美千隆がうなずく。  齋藤と寝るのか──そういった市丸の横顔が脳裏を横切っていった。      * * *  夜が明ける前に美千隆のホテルを出た。タクシーで帰宅し、シャワーも浴びずに眠った。  目覚めたのは夕方。耐えがたい空腹をピザのデリバリーで癒した。シャワーを浴び、体重計に乗った。  体重が一キロ以上増えている。気が狂いそうになった。  スポーツジムとサウナで汗を流した。美容マッサージで余分な脂肪を削ぎ落とした。体重計に乗る。体重が二キロ、落ちていた。麻美は歓喜した。  部屋に戻って眠った。  目覚めたのは午前九時。波潟に電話をかけた。 「親子水入らずの週末はどうだった、パパ?」 「大人をからかうもんじゃないぞ、マミ」 「マミだってもう大人よ。それより、パパ、温泉、いつにする? 早い方がいいと思わない? 早紀がパパをゆるしてくれてる間に。その方が、パパと早紀の溝も早く埋まるよ」 「ちょっと待ってくれ」  波潟の声が遠くなった。波潟はだれかに話しかけている。おそらく、彰洋──スケジュールを調べさせている。 「来月の頭はどうだ? 最初の週の週末だ。金曜日に行って、日曜の夜に戻ってこよう。それだったら、おれの方もスケジュールがなんとかなる」  来月の頭──カレンダーを見る。三週間後。 「オッケー。じゃあ、早紀にはマミから連絡しておくから、彰洋ちゃんにスケジュールあけておくようにパパからいっておいてね」  麻美は微笑みながら電話を切った。      60  波潟は幸福そうな雰囲気をまき散らしていた。早紀が戻ったことを素直に喜んでいる。東栄通商の株の買いが密かに進行している事実にほくそ笑んでいる。株価はあがり続けている。地価もあがり続けている。北上地所の業績も天井知らずであがり続けている。 「どうだ、堤。齋藤のところより、おれの下で働いてる方が充実してるだろう?」  移動中の車の中で波潟がはしゃぐようにいった。 「よかった」  彰洋はいった。 「よかった? なにがよかったんだ?」 「社長、このところ元気がなかったじゃないですか。それが元に戻ったんで……」 「おれはそんなにおかしかったか?」 「川田さんが心配してましたよ。社長が痩せたって。社長につられてぼくまで痩せちゃったし……奥様とお嬢さんのことで社長が心を痛めてるんだなって、みんなで話してましたよ」  愛想笑い、おべんちゃら──苦痛ではない。屈辱も感じない。感情は涸れはてている。 「女房のことなんかどうでもいい。早紀が戻ってきてくれれば、それだけでいいんだ」 「離婚なさるんですか?」 「そんなことするか。慰謝料をいくらふんだくられると思ってるんだ?」  波潟の顔が歪んだ。 「でも、それで奥様が納得なさるんですか?」 「納得させるさ。だれが金を稼いでるのかをわからせてやる。でっぷり太った中年のばばあが好き勝手できてきたのはだれのおかげか、わからせてやる」  車載電話が鳴った。彰洋より先に波潟が受話器を取った。  電話の相手は麻美だった。波潟は嬉しそうに笑っていた。 「ちょっと待ってくれ」波潟が受話器を胸元におし抱いた。「堤、この先、二日ぐらい空いている週末はあるか?」  彰洋はスケジュール帳を開いた。波潟のスケジュールは真っ黒に埋まっている。週末もゴルフ──来月の第一週に辛うじて空きがあった。そのことを波潟に告げる。波潟が麻美に告げ、電話を切った。 「麻美と旅行にでも行くんですか?」  彰洋は訊いた。 「ああ。早紀と仲直りした記念に、温泉にでも行こうかと思ってな。もちろん、マミも連れていくが……そうだ、おまえも来るか、堤」  心臓が痛んだ。波潟と早紀と麻美──早紀との関係、麻美との関係が波潟に知られるかもしれない。心臓だけではなく胃もしくしくと痛みはじめた。 「僕もですか?」 「そうだ。若い娘ふたりが相手じゃ、おれの手に余る。マミはゴルフをするが、早紀はせんしな。なにかのときには、おまえがいてくれればお守《も》りを頼めるじゃないか。スケジュール、おまえも空けておけ。移動と宿の手配も頼む。早紀とマミが相談するだろうから、ふたりが行きたいところに宿を取ってやってくれ」 「わかりました」  彰洋はスケジュール帳に温泉行きを書きこんだ。指先が顫え、字をまともに書けなかった。  波潟、麻美、早紀。早紀との関係が波潟にばれればすべては崩壊する。恐ろしい──恐ろしすぎる。      * * *  美千隆に電話をかけ、今日の会話を報告した。温泉行きは三週間後。 「三週間後か……波潟が東京を留守にするのはおれには好都合だが、それじゃ、時間が足りないな」  美千隆は考えるような口調だった。彰洋の気持ちは忖度《そんたく》してくれない。そんな義務は美千隆にはない。すべては自業自得だ。自らが招いたことだ。 「まずいですか? なんなら、他のスケジュールを無理矢理入れて、旅行を先延ばしにすることもできますけど」  彰洋は機械的にいった。 「その場合、旅行はいつごろになる?」  スケジュール帳に目を落とす。 「再来月になりますね」  美千隆が舌打ちする。 「それじゃ時間がかかりすぎる」 「三週間後だと、どういう問題があるんですか?」 「資金繰りだ。とりあえず百億用意しようと思ってるんだが、三週間だと、全部は集めきれないかもしれない」 「まずいですね」 「ああ」  気まずい沈黙がおりる。沈黙は恐怖をはぐくむ温床になる。彰洋は思案を巡らせた。なにかを考えることで恐怖を振り払いたかった。 「そうだ」名案が浮かんだ。「今日、波潟と話をしたんです。早紀は家に戻りましたけど、奥さんは家を出たままなんです」  美千隆からの反応はないが、息づかいだけは聞こえた。美千隆は彰洋の言葉にじっと耳を傾けている。 「波潟は離婚するつもりはないといってました。慰謝料を払いたくないんです。かといって、奥さんに頭をさげるつもりもない……その奥さんの方から、なにか突破口が開けないですかね。たとえば、波潟個人か、北上地所の不正の証拠になるようなことを知ってたりすれば──」 「それをマスコミにぶちまけようとでもいうのか?」 「波潟が一番慎重に行動しなければならないときに、そうするんです。もし、波潟をスキャンダルの表舞台に立たせることができれば、仕手戦どころの話じゃなくなりますよ。せっかく買い集めた株もただの紙屑になるかもしれない。そうなったら、百億の金を作れなくてもなんとかなりませんか?」 「なんとかなるかもしれないな」美千隆の声は平板だった。「問題は、波潟の女房がなにかを知ってるかどうかと──」 「どうやって話を聞きだすか、ですよね」 「彰洋、おまえに指輪をやったのは正解だったよ」  美千隆がいった。血が燃えあがった。体温があがっていく。久々の感覚──久々の情熱。恐怖が麻痺していく。 「ぼくがなんとかしてみます。ぼくには早紀がいますから……ヘマはしません。任せてください」 「わかった。頼むぞ、彰洋。それから、近いうちに時間取れないか。久しぶりに飯でも食おう」 「わかりました。スケジュールが確認できたら、また連絡します」  彰洋は電話を切って掌を見つめた。汗が浮かんでいる。  あがったままの体温。恐怖も自己嫌悪も吹き飛んでいる。つかの間の気休めだとしても、これに代わるものはない。      * * *  早紀に電話をかけた。名目──温泉の宿泊先を聞く。 「彰洋ちゃん?」早紀が嬉しそうに電話に出た。「よかった。さっきマミから電話があって、みんなで温泉に行くからって。それで、宿の手配とかがあるから、彰洋ちゃんに連絡しておいてっていわれてたのよ」  早紀ははしゃいでいた。早紀には恐怖は無縁だった。 「ぼくもそれで電話をかけたんだよ。社長からお墨付きをもらったから、堂々とね」 「彰洋ちゃん、元気そう。よかった」  美千隆の言葉が活力を与えてくれている。美千隆と一緒にいることができれば、体温があがる感覚を失わずにすむ。それさえ手に入れられれば、たいていのことは我慢できる──おそらく。 「先週は肉体的に参ってたから……心配かけて悪かったよ。それより、行きたいところは決まってるの?」 「マミとも話したんだけど、二泊三日でしょう? だったら、北海道はどうかなと思って……初日は登別の温泉に泊まって、次の日は函館がいいなって。登別から函館までってけっこう距離あるみたいなんだけど、特急に乗れば三時間ぐらいでつくんですって」 「社長は早紀と麻美の行きたいところに行くっていってたから、それで問題ないと思うよ。宿はもう決めてあるの?」 「まだなんだけど、函館にも温泉があるの。彰洋ちゃん、知ってた?」  知っていた。祖父が昔函館に住んでいた。祖父は戦後、樺太から引き上げてくるときに函館にとどまった。そこでクリスチャンに改宗したと聞いた。彰洋が子供のころ、一家で函館旅行をしたことがある。観光にいそしむ両親とは別に、彰洋は祖父に連れられて教会へ行った。そこでもあの言葉を聞かされた。  嘘をついてはいかん、人を騙してはいかん、人の物を盗んではいかん。  戦争の混乱の中で、祖父は嫌なものを死ぬほど見たのだといった。平気で嘘をつく連中。他人を騙して自分だけ生き残ろうとした連中。死にかけている人間のものを盗んで腹を満たした連中。人はどこまでもあさましくなれる。だからこそ救いが必要なのだ、と。だからこそ教えが必要なのだ、と。すべては遠い記憶だった。  早紀は登別と函館の温泉宿の名前を告げる。電話番号を口にする。 「それじゃ、おれが調べて手配しておこうか?」 「だいじょうぶ?」 「こういうのがおれの仕事だからさ」  彰洋は笑った。かさついた嫌な笑い声だった。 「じゃあお願いね。もう、今から楽しみでしょうがないわ」 「一応いっておくけど、早紀、おれたちのこと、絶対社長にはばれないようにしないと」 「わかってる」  早紀の声のトーンが落ちた。 「いつか必ず、社長の目を気にせずにいられるようにするから、我慢して欲しいんだ、早紀」 「わかってるってば」  気持ちは浮わついている。美千隆の言葉がまだ耳にリアルに残っている。それでも、胃は痛んだ。 「早紀のこと、信頼してるから……社長とのふたり暮らしはどんな感じ?」 「まだ、イマイチ。ちょっとしっくりこないの。パパは喜んでるみたいだけど、ママがいないし……」 「お母さんとは連絡、取りあってるの?」 「うん。一日一回は電話してるわ。ママ、まだかんかんで、絶対家には戻らないって……離婚するつもりみたい」 「社長はそのつもりはないみたいだよ」 「でも、パパが謝らなかったら、ママ、絶対にパパをゆるさないと思うの。どうしたらいいのかしら……」  慎重に行け──自分を鼓舞する。このために電話をかけた。このために四人で温泉に行くという恐怖を飲みこんだ。 「お母さん、今はどこにいるの?」 「草津温泉」 「草津?」 「二、三年前に、パパがリゾートマンションを買ったのよ。ママはそこにいるわ」  草津──日帰りできる。休日なら、波潟の目を掠《かす》めて行くことができる。 「お母さんに会いたい?」 「そうね……電話だとうまく話せないこともあるし」 「会いに行こうか?」 「え?」  早紀が絶句する。うまくやれ──自分を鼓舞する。 「早紀とおれのこと、ちゃんと報告したいんだ。社長にはまだいえないけど、お母さんなら……だいたい、社長とお母さんが喧嘩した原因っておれみたいなもんだろう?」 「そんなことないわ……」  早紀の声が顫えた。早紀は感動している。手に取るようにわかる。 「ちゃんと謝りたいんだ。早紀とのこと、真剣だってわかってもらいたい──お母さん、おれたちのこと、ゆるしてくれないかな?」 「ゆるしてくれる。絶対、だいじょうぶ。ママ、いつもいってたわ。パパみたいな男の人と結婚しちゃだめって。幸せになれないからって。彰洋ちゃん、パパと正反対だもの。ママ、きっと彰洋ちゃんのこと気に入ると思う」  早紀を騙している。早紀を利用している。  彰洋は左手にはめた指輪の石を指先でなぞった。 「今度の土曜か日曜にお母さんに会いに行こう」  受話器に向かって囁いた。 「うん」  早紀の声が何度も耳の奥で谺《こだま》する。      * * *  赤坂へ向かう。いつものクラブ、いつもの個室。金田義明が待っている。金田は電話を嫌う。口頭での報告を強要する。  胃が痛む。心臓が締めつけられる。美千隆の言葉を支えに足を進めた。  金田を手玉に取ってやる。自分に目をつけたことを後悔させてやる。 「どないな様子や?」  金田はブランディを飲み、葉巻をくわえていた。横にはべらせたホステスのスカートの中に手を入れていた。 「三週間後に、波潟は北海道に行きます。美千隆さんは、そのときに行動を起こすつもりでいるようです」 「つまり、おれもそのときに行動を起こさなあかんちゅうわけやな? それにしても、なんで北海道や?」 「波潟の女が駄々を捏ねてるんです」 「波潟の女が北海道なんかに行きたがるかい。アメリカやらヨーロッパやろ、普通」 「波潟の女に聞いてください」  金田の目つきが厳しくなる。 「だれに口きいとるんじゃ、われ?」 「どうして北海道なのかは、おれにだってわかりませんよ」  金田は舌打ちし、露骨に顔をしかめた。 「齋藤はどっから金をかき集める腹づもりなんや?」  嘘ではごまかせない。金田にくだらない嘘は通用しない。 「キャピタル・ファイナンスだと思う」 「キャピタル? 東都信金系列のノンバンクか? なんで自分とこのメインバンク使わんのや?」  関西の人間だというのに、金田は東京の事情を知悉《ちしつ》している。 「知らない──三洋銀行は、波潟の口利きで付き合いができたところだから、それで嫌うんだと思う。東都の方は、頭取の弱みを握っているとかで、昔からちょくちょく使ってる。無担保に近い融資だから、系列のノンバンクを使って迂回させることが多いんだ」 「どこでもやってる手口やな」 「あんたもだろう?」  金田は笑った。 「ええ面構えやな、堤。ほれぼれするで。こないだとはえらい違いや」 「腹を括ったんだ」 「ええ心がけや。これからもその調子で頼むで、ほんま……せやけど、たった三週間で波潟いてこましたるぐらいの金、融資できんのかいな、キャピタルは?」 「おれにわかるわけないだろう」 「齋藤のことや、他にも融資先確保してたり、保険かけたりしとんのやろ」  彰洋は首を振りながら、金田の洞察力に舌を巻いた。保険──波潟の女房。悟られるわけにはいかない。 「あの人はおれになんでも話してくれるわけじゃない」 「だったら探るんや、慎重にな」  金田は馴れ馴れしい笑みを浮かべた。  胃が痛み、心臓が締めつけられる。 「時間はあんまりないで、堤。しっかりやれや」  金田が口を大きく開けた。虫歯が見え、金歯が見えた。憎しみと殺意が膨らんだ。吐き気に襲われた。 「じゃあ、今日はこれで──」  金田の返事を待たずに個室を出た。 「くそ野郎が!」  吐き捨てながらクラブを後にした。      * * *  車を手配した。波潟の妻は波潟のような男を唾棄している。ベンツのような高級外車はまずい。  ぴかぴかのユーノス・ロードスター。美千隆が知り合いのディーラーにかけあってくれた。真っ赤なロードスター──早紀が満足する。|2《ツー》シーターのオープンカーは若々しい。世間の汚泥から切り離されて見える。おそらく、波潟の妻──波潟紀子も黙認する。  日曜日の早朝──不安が芽生える。不安を抑えこむ。  待ち合わせ場所に車を走らせると、すでに早紀が待っていた。早紀は微笑んでいる。輝いている。エルメスのスーツ。エルメスの大振りなバッグ。テニスのラケット。 「新車買ったの? 素敵」  ロードスターが早紀に更なる輝きを与えた。 「気分転換にはこういう車がいいかなと思ってさ」  早紀のためにドアを開けた。荷物を受け取り、早紀が座るのを待った。 「社長にはテニスに行くっていってきたの?」 「うん。横浜のテニスコートを友達が取ったからって。ちょっと遅くなるっていっても、パパ、気にならないみたいだったわ」 「昨日のゴルフの疲れが残ってるんじゃないかな。スコア、散々だったから。八つ当たりされたよ、おれ」 「ごめんね」 「早紀のせいじゃないさ」  早紀の荷物をラゲージルームに放りこんで車を発進させた。風が早紀の髪をなびかせる。 「早紀が家を出た時、社長、まだ寝てただろう?」 「そうだけど、どうして?」 「エルメスのスーツを着てテニスに行く女の子なんかいないよ。社長に見られたら、なにかいわれたんじゃないかな」  早紀が恥ずかしそうにうつむいた。 「本当はスタジャンにジーンズにしようと思ったんだけど、彰洋ちゃん、こっちの方が好きかなと思ったの」 「どんな恰好をしてても、おれが好きなのは早紀だよ」  早紀は彰洋の肩に頭をもたせかけてきた。  首都高に乗った。道はすいている。アクセルを踏む。メーターがすぐに百キロを指し示す。スピードで恐怖と不安を紛らわせる。 「ねえ、少しスピード出しすぎじゃない? ちょっと怖いわ」 「ごめん。新しい車だから、すぐ調子に乗っちゃうんだ」  彰洋はスピードを緩めた。 「ううん。オープンカーって凄く気持ちがいいわ。ちょっとだけ、スピードを抑えてくれればいいの」 「わかりました、お嬢様。以後、気をつけます」  早紀の笑い声が耳元をくすぐる。気分が昂揚する。だが、仕事を忘れるわけにはいかない。 「それで、お母さん、なんていってた?」  早紀の笑い声がやんだ。 「会いに行くっていったら、凄く喜んでくれたわ」 「本当に? おれが行くってこともちゃんと話したのかい?」 「うん」  早紀の声は歯切れが悪かった。 「お母さん、おれには会いたくないみたいだった?」 「それは違うわ。ちょっと、複雑そうな話し方だったけど、基本的にはママも彰洋ちゃんには会ってみたいんだと思う。だから、安心して」  電話で聞いた早紀に似た声がよみがえる。あの声は彰洋を非難していた。自分の娘に手を出そうとしていた馬の骨を憎悪しているように聞こえた。 「本当かな……これまでの話を聞いてるかぎりじゃ、お母さんも社長に負けず劣らず早紀に手をつけた男のこと、ゆるせないって感じだったじゃないか」 「そんなことない」早紀は彰洋の横顔に訴えるような眼差しを向けた。「ママ、パパとは違うから。パパがわたしを殴りつけたときにも、ママ、わたしを守ってくれようとしたのよ。万一、彰洋ちゃんのいうようなことになっても、わたし、ちゃんとママに説明するから。わたしがどれだけ彰洋ちゃんのことを愛してるか、わかってもらうから」  早紀の頬が赤らみ、目が潤みはじめた。早紀の真剣さが彰洋の心を切り裂いた。  早紀を騙している。早紀を利用している。吐き気がぶり返す。 「だいじょうぶだよ、早紀。口でいうほど心配してるわけじゃないんだ。おれ、早紀の言葉を信用してるから」  吐き気を堪えて嘘をついた。 「わたしも彰洋ちゃんのこと、世界中のだれより信じてる」  早紀の視線が横顔に痛い。 「よし。じゃあ、草津につくまでドライヴを楽しもう。でも、その前にトイレに寄ってもいいかな? やっぱり、緊張してたみたいだ、おれ」  早紀の表情が和んだ。早紀はまたくすくすと笑った。彰洋は車をサーヴィスエリアに入れ、トイレに駆けこんだ。個室で吐いた。胃液が喉を刺激した。  胃が痛み、心が痛む。指輪に縋って自分を奮い立たせた。売店でガムを買い、口臭を消した。車に戻ると早紀の頬にキスした。微笑みながら車を発進させた。  関越自動車道──他愛もない話に笑いあう。際どい話に沈黙しあう。BGMは必要ない。風とエンジンの音がすべてを包みこむ。  胃が痛み、心が痛む。早紀はなにも気づかずに嬉しそうに微笑んでいる。      * * *  十二時前に草津に到着した。早紀の指示に従ってリゾートマンションを目指した。温泉街にはそぐわないモダンな建物が視界に飛びこんできた。  不動産屋の目が物件を精査する。地価高騰はこんな田舎にも及んでいる。都内の高級マンション張りのインテリア、コンピュータ制御のセキュリティ、都内の高級マンションではありえない間取りの広さ。加えて温泉。  億は軽く越える──間違いない。 「これ、うちの会社の物件かな?」  早紀に訊いた。早紀は首を振った。 「そういうこと、わたし全然わからないの。ごめんなさい」  北上地所の所有する不動産はすべて頭の中に叩きこんである。草津のリゾートマンションはリストには載っていない。 「謝ることはないさ」  車をマンションの敷地内に入れると管理人が飛んできた。来意を告げる。管理人が最敬礼し、車は責任を持って管理するといった。  波潟紀子は最上階のワンフロアを独占していた。専用のエレヴェータまでついている。専用のキィがなければエレヴェータは稼働しない。早紀がエントランスのパネルを操作した。 「早紀よ、ママ。いま着いたの」 「そう、早かったわね。あがってらっしゃい」  早紀とふたりでエレヴェータに乗りこんだ。緊張に膝が顫える。喉が渇く。吐き気がぶり返す。  しっかりしろ──ここで吐くわけにはいかない。誠実で自信に溢れた若者を演じなければならない。  エレヴェータが停止し、ドアが開いた。足首まで埋まりそうな絨毯。シャンデリアがきらめくエレヴェータホール。評価額が跳ねあがる。  馬鹿げている。だが、波潟には馬鹿げたことに使っても減ることのない金がある。  早紀がドアに駆け寄った。早紀がドアノブに手をかける前にドアが開き、波潟紀子が早紀を抱きしめた。 「よく来てくれたわね」  波潟紀子は記憶にあるより太っていた。波潟と離れ、ひとりになった生活を楽しんでいるように見えた。 「ママ、電話で話したでしょう。堤さん。連れてきたの」 「お久しぶりね、堤さん」  波潟紀子は引きつった笑みを浮かべた。  彰洋は無理矢理微笑み、頭をさげた。 「本当にご無沙汰してます」 「そうかしこまらなくてもいいのよ。ここには波潟はいないんだから。さ、とにかく、中にお入りになって」  波潟紀子の言葉にはかすかな訛がある。波潟にも訛がある。早紀にはない。  早紀が振り返って無邪気に笑った。早紀の微笑みが不安を和らげる。 「失礼します」  もう一度頭をさげ、ふたりに従うようにマンションの中に入った。すぐにリヴィングダイニングに通された。部屋の広さに眩暈を覚える。ダイニングテーブルには食べきれない量の料理が載っていた。何本ものワインがラックに横たえられていた。  波潟紀子は早紀の来訪を心待ちにしていた──間違いない。 「お腹空いてるでしょう? 遠慮なく召しあがれ」  波潟紀子は早紀と彰洋を隣り同士の椅子に座らせ、いそいそと動きはじめた。 「今日は何時ごろ帰るつもり? 堤さん、少しぐらいならワインを召しあがるでしょう?」  波潟紀子から話を聞きださなければならない──短い時間で。波潟紀子に酒を飲ませなければならない──疑われない程度に。  彰洋は腰をあげた。身体を動かさなければ、吐き気を忘れられそうにない。 「ぼくがやります。あの……早紀さんと久しぶりに会ったんでしょうから、ゆっくり親子水入らずを楽しんでください。ぼくはお邪魔虫ですから」  自《みずか》らワインとワインオープナーを手にし、波潟紀子を早紀の向かいの椅子に座らせた。ワインのコルクにオープナーの先端をねじこんだ。 「でも、お客様にそんなことをさせるのは──」 「いいのよ、ママ。彰洋ちゃんは──堤さん、こういうことによく気がつくんだから」 「彰洋ちゃんって、呼んでるのね」  波潟紀子がぽつりといった。寂しそうな声──恨めしそうな声。  彰洋は急いでワインを開け、波潟紀子と早紀のグラスにワインを注いだ。 「他にやることはありますか?」  精一杯の笑みを浮かべた。 「いいから、堤さんも座って。一緒に食事を取りましょう」  波潟紀子がいった。親密さはかけらも感じられない。早紀の表情が凍りついた。 「ママ」 「わたしの態度は気にしないでね、堤さん。やっぱり、こういうの、あんまり楽しいものじゃないわ」  乾杯もせずに波潟紀子はワインを呷《あお》った。彰洋と早紀は目を見合わせた。  針の筵《むしろ》──波潟とともに過ごす平日を考えれば、それほど苦しいものでもないことに気づいていた。      * * *  親子の会話が続いていた。彰洋は黒子に徹した。ふたりにワインを注ぎ、自分はワインを飲むふりをした。  波潟紀子と早紀は波潟の話をする。波潟家の話をする。波潟紀子が早紀に懇願する──波潟の家を出て一緒に暮らして。早紀はその懇願をさり気なく無視していた。早紀は話を彰洋とのことに向けようとしていた。波潟紀子は早紀の狙いをさり気なく無視していた。ふたりの苛立ちが深まっていくのがわかった。  料理にはほとんど手がつけられていない。白ワインが一本、赤ワインが二本あいている。早紀も波潟紀子も酔っている。  波潟紀子と早紀の会話は口論に変わりつつあった。 「奥さん」  彰洋は口を挟んだ。ふたりが同時に彰洋を見た。早紀は驚いたような表情を浮かべた。波潟紀子は不快そうな表情を浮かべた。 「すみません。ちょっと早紀さんをお借りします」  彰洋は波潟紀子に頭をさげた。早紀の肩を抱き、隣りの部屋に連れていった。 「なにやってるんだよ、早紀」小声で叱責する。「お母さんと喧嘩しに来たわけじゃないんだろう」 「だって、ママがものわかりが悪すぎるんだもん」 「しかたないだろう、それは。はたで見てても、お母さんの方が可哀想だよ。とにかく、早紀は酔いすぎだよ。ここはおれに任せて、お風呂にでも入って、頭を冷やしておいで」 「彰洋ちゃん、それでだいじょうぶ?」  波潟紀子は酔っている。訛がきつくなっている。波潟の妻というイメージが薄れ、田舎育ちの主婦というイメージが強くなっている。畏れは引いていた。数口飲んだワインのおかげで、吐き気もいまはおさまっている。 「おれはだいじょうぶ。お母さんに嫌われたとしても、粗相はしないよ」  早紀を抱きしめ、キスした。早紀をその場に残し、リヴィングダイニングに戻った。 「すみませんでした。さしでがましいことをして」 「少しだけ、あなたたちの声、聞こえたわよ。好きあってるのね、本気で」 「本気です」 「わたしはともかく、波潟にばれたら、あなた、殺されるわよ」  波潟紀子はワインに酔って濁った目で彰洋を睨んだ。 「だと思います。だから、今まではこそこそしてたんです」 「これからは堂々と付き合うというわけかしら?」 「そうできればいいんですけど」  彰洋は曖昧に笑い、波潟紀子のグラスにワインを注いだ。波潟紀子がグラスを傾けた。中身が一気に減った。 「これから先のことはどうしたらいいかわからないっていうのが本当のところです」  話しながら様子をうかがう。波潟紀子はグラスを見つめている──心ここにあらず。 「奥さんはこれからどうするおつもりですか?」 「これからって?」  波潟紀子が顔をあげ、きつい目で睨んでくる。 「社長とのことです」 「離婚するわよ。慰謝料をがっぽりふんだくって、そのあとは好きなように暮らすわ」  しくじるな──自分を奮い立たせる。 「社長は離婚するつもりはないといってましたよ」 「うちの人が?」 「慰謝料を払うのはごめんだと……」  波潟紀子の頬が一瞬で紅潮する。こめかみの血管が浮きあがり、肩が小刻みに顫えた。 「あのろくでなし──」  口を開いたまま絶句する。彰洋はワインを注ぎ足した。波潟紀子はそのワインを一気に飲み干す。頬は紅潮したまま。血管も浮きでたまま。肩の顫えだけが消えた。 「どうしてわたしにそんなことを教えてくれるの? わたしに取り入って、早紀との仲を認めてもらいたいから?」  彰洋は波潟紀子の視線を受け止め、真摯な眼差しを向けた。胃の痛みは意識の片隅に追いやった。 「社長は酷すぎます。ぼくは仕事でいつも社長についてるんで……仕事でなら我慢できても、家族に対する仕打ちまで仕事と同じだと、ちょっと。奥さんが可哀想だなんて、白々しいことはいいません。ぼくはただ、早紀に──早紀さんに悲しい思いをさせたくないんです」  きっぱりと言葉を切る。純粋な若者を演じる。 「ご立派だわね」  波潟紀子は目を逸らした。言葉ほどに口調はきつくない。 「本当の気持ちですから」  彰洋はワインのボトルを手にした。波潟紀子が首を振った。 「ワインはもういいわ。あそこの棚にブランディがあるから、取ってきてもらえる? グラスも一緒に」  彰洋はうなずいて立ちあがった。 「早紀はなにをしてるの?」 「お風呂に入ってます。少し頭を冷やしてくるって」 「波潟の話を早紀に聞かせたくなかったのね」 「早紀さんが悲しみますから」  彰洋は勝利を確信した。緩みはじめた頬の筋肉を引き締めた。      * * *  波潟紀子は愚痴をいいはじめた。波潟の悪口をいい募った。二十五年間の夫婦生活を呪い、早紀を自慢し、彰洋を罵った。だが、見所がないわけではないという。  早紀はまだ戻ってこないがそれほど時間に余裕があるわけではない。話を誘導する。 「このリゾートマンション、うちの持ち物なんでしょうか?」 「そうだけど、違うわ」  波潟紀子の呂律は怪しくなってきていた。 「どういうことですか?」 「ここは波潟個人の持ち物なの。だけど、お金は会社のものを流用したはずだわ」  目に見えないアンテナが敏感に反応する。 「それじゃ犯罪になりますよ」 「法律なんて屁とも思ってないわよ、波潟は。書類をどうごまかしてるのかは知らないけど、このマンションだって、二束三文の値段で買い取ったことになってるはずよ。実際の価格は二十億なのに、表面上払ったお金は二億か三億」  脳細胞による高速演算。地下に流れた金が十七億。やくざ紛《まが》いの連中。税金を払うことをよしとしない連中。  裏帳簿を捜せ。裏帳簿を手に入れろ。それを国税局に差しだせば、波潟は一巻の終わりだ。美千隆が無理をして金をかき集める必要もなくなる。 「社長はここ以外にもそうした物件を持ってるんですか?」 「リゾートマンションはここだけね。でも、都内と関西に、マンションをいくつか持ってるわよ。会社が潰れても、おれはだいじょうぶだって、いつも吹いてるから。慰謝料に、そのマンションいくつか分捕ってやろうと思ってたのに」  廊下の方が騒がしくなった。早紀が風呂を出たらしい。早紀は鼻歌をうたっている。 「早紀はごきげんね。恋ができる若い子がうらやましいわ」  波潟紀子はブランディを舐めた。鼻を鳴らし、濁った目で彰洋を見る。 「堤君、わたし、絶対波潟と離婚するわ。慰謝料も必ず取ってやる。お手伝いしてくれる? 将来のわたしの義理の息子として」 「ぼくになにができるかはわかりませんけど、できるかぎりのことはさせていただきます」  彰洋は力強くうなずいた。      61  早紀との電話──早紀から得た情報。  早紀と彰洋が波潟の妻を訪れる。及び腰の彰洋が決断した。なにか企みがあるに違いない。  ママにわたしと彰洋ちゃんのことを認めてもらうの──早紀ははしゃいでいる。  そのうちパパも認めてくれるわ、わたしが家を出ただけであんなにうろたえてたんだから──早紀は有頂天になっている。  嫉妬をかきたてられる。憎悪が膨らんでいく。  早紀が幸せになるのはゆるせない。彰洋が自分からすべてを奪っていくのがゆるせない。  ねじくれた思考──論理を欠いた憎しみ。  わかっていても消すことはできなかった。  市丸が時計を買ってくれた。バセロン・コンスタンチン。プラチナのベゼル。ダイヤの装飾。ラ・フラムの輝きにはかなわない。心の奥深くに根差した憎悪を消してはくれない。  パテックもいいが、バセロンもいい時計だぞ──市丸がいう。  いくらしたの──麻美は問う。  市丸が嫌な顔をする。  波潟が部屋に顔を出す。半年前までは週に三回はやってきた。今では週に一度か二度。憎しみが増す。恐怖が煽られる。そのことで波潟を詰《なじ》る。  車を買ってやろう──波潟がいう。  運転手付きじゃなきゃいや──麻美はいう。自分で車を運転するなどもってのほかだ。  波潟が嫌な顔をする。  波潟に早紀と彰洋のことを教えてやろうかと思う──思いとどまる。波潟にサーヴィスする。淫らな女になって波潟を喜ばせる。波潟は勃起する。だが、射精には至らない。  焦りと恐怖と憎しみと。  時間がない。このままでは、波潟に捨てられる。波潟に見捨てられたあとに残るものは、預金通帳に記載された三千万の現金。おびただしいブランド品。それだけ──耐えがたい。耐えられない。  車の代わりにマンションが欲しいという。自分名義の不動産が欲しいとねだる。  このマンションの名義を書き換えてやろう──波潟がいう。  喜びと疑念が交錯する。手切れ金のつもりだったらゆるさない。それぐらいの端た金では満足できない。そう思う。口には出さない。  波潟が帰る。早紀が待っているからという。  憎しみが際限なく膨らんでいく。ひとりの部屋で憎しみを弄ぶ。堪えきれなくなって電話に手を伸ばす。  会いたいの──麻美はいう。  今からか?──市丸が嬉しそうに笑う。  市丸に対する憎しみが芽生える。麻美は電話を切る。途方に暮れる。波潟が残していったコカインを使う。安らかな気持ちに包まれる。  電話が鳴る。  なんだって電話を切るんだ──市丸が怒っている。  ごめんなさい、ちょっと酔ってるの──麻美は市丸をなだめる。時計、ありがとう。本当は嬉しかった。  市丸が満更でもなさそうな声を出す。      * * *  市丸は三十分でやってきた。時間をかけて自分と麻美の欲望を処理した。  終わったあと、市丸はいつも煙草を吸う。麻美は市丸の胸に顎を乗せた。 「今日はちょっとおかしいな、マミ。なにかあったのか?」 「なんでもない。ちょっと寂しかっただけ」 「おまえでも寂しいときなんかあるのか?」 「あるに決まってるじゃない」  麻美は市丸の皮膚に爪を立てた。市丸が芝居じみた悲鳴をあげた。 「まあ、そういうときにおれに電話をかけてくれたってのは、嬉しいがな。おれと知り合う前はどうしてたんだ? 齋藤に可愛がってもらってたのか?」  麻美は首を振った。 「預金通帳の残高を眺めるの。そうすると、少しだけ寂しい気持ちが薄れる」  市丸は笑いながら麻美の肩に腕をまわしてきた。 「マミらしいっていやぁマミらしいが、本当に寂しい女だな」 「そんな寂しい女に手を出したのはどこのだれよ?」 「そうとんがるなよ。おまえだけじゃねえ、みんな寂しいんだ。寂しいからよ、それを紛らわすために、金を欲しがるんじゃねえか。金を稼ごうぜ、マミ。そうすりゃ、寂しいなんて思わなくなるって」  市丸の言葉には説得力がある。市丸は飾らない。格好をつけない。食べたいものを食べ、抱きたい女を抱く。下品だが下劣ではない。波潟も美千隆も、下劣だった。 「そうだよね。お金手に入れなくっちゃ。そうだ、おもしろい話があるんだ。聞いてくれる?」  麻美はうつ伏せになって市丸の顔を覗きこんだ。 「なんだ?」  市丸が煙草を消す。 「波潟の娘とマミの幼馴染が付き合ってるって話、したでしょ?」 「ああ。その幼馴染ってのは波潟の鞄持ちをやってるんだったな」 「そのふたりがね、今度の日曜に、波潟の奥さんのところに行くの」 「付き合いを認めてくれってのか?」 「表向きはね」 「どういうことだ、そりゃ?」 「マミの幼馴染──彰洋っていうんだけど、もともと神経が細いタイプなの。それなのに、波潟のところでスパイみたいなことずっとさせられて、おまけに波潟の娘とのことも隠さなきゃならなくって、今、神経衰弱状態なのよ。そんなときに、娘と連れ立って波潟の奥さんのところに行くの、おかしいと思うのね」 「それで」 「きっとなにか企んでるはずなんだ。波潟の奥さんから、波潟の弱みを聞きだすとか──」 「ありうるな。だけど、逆にいえば、神経衰弱になるような甘っちょろい若造が、無理してそんなことまでするか?」 「美千隆がいえば、やる。彰洋、美千隆に心酔してるから」 「そうか甘ちゃんの小僧が、飼い主のために精一杯|尻尾《しつぽ》を振ってるってわけか。うまく立ち回れば、使えるかもしれねえな」 「ふたりが戻ってきたら、マミ、いろいろ探りを入れてみるよ。なにがあったのか。波潟の奥さんからなにを聞きだしたのか」 「ああ、そうしてくれ」  市丸がまた煙草をくわえ、火をつけた。市丸の目は宙の一点を見つめている。考えごとをするときの市丸の癖。市丸の目は開いている。だが、市丸の目に麻美は映っていない。  嫉妬と憎悪。  麻美は市丸のペニスに手を伸ばす。ペニスをしごく。市丸の神経を自分に向けようとする。  市丸が固くなる。目で訴える。  麻美はうなずいて、市丸のペニスを口に含む。市丸が呻く。  嫉妬と憎悪が薄らいでいく。      62  深夜──波潟の鞄持ちから解放された後で、会社へ戻った。波潟の机、書類棚。開けられるところにはろくなものが入っていない。そうでないところにはすべて鍵がかけられている。重役たちも同じだった。  諦めて帰宅する。寝つけず、眠れず、酒を飲む。裏帳簿──怯えながらやめられずにいる覗き見稼業──美千隆への思い──美千隆の目指す王国への渇望──あの感覚への渇望。酒では癒せない。  夜の巷へ出る。六本木はまずい──渋谷へ。ガキどもの街。底の浅い街。世の中の流れはこの街にも及んでいる。ガキどもが札びらをきって遊んでいる。女子大生や女子高生たちがこれみよがしにブランド品を身にまとっている。肌の浅黒い外人があちこちにたむろしている。  不良ども──チーマーと自称するやつら。目をつけ、後を尾け、確認し、交渉する。  シャブと葉っぱならある。LSDもほんの少し。だが、コークはない。  ガキどもがいう。  彰洋は大麻を買った。本当はコカインが欲しかった。波潟のコカイン。脳天にがつんとくるキック。だが、覚醒剤やコカインの怖さはよく知っている。大麻に酔い、ささくれだった神経を鎮め、安らかに眠れるのであればそれでいい。  気分が浮き足立ち、注意力が散漫になる。  タクシーはつかまらなかった。六本木通りをてくてく歩いた。ジャケットのポケットに大麻樹脂の小さな塊。家のアルミフォイルを巻いて吸えば、天国に行ける。  ふいに背後から両肩を掴まれた。パニックに襲われ、振り返る。車のヘッドライトが視界を奪った。脇腹と鳩尾《みぞおち》を続けざまに殴られた。無理矢理車に押しこまれた。  彰洋は嗚咽した。咳込んだ。警察──頭の中で文字が躍り、恐怖が増殖した。 「なにしとんのや、あほんだらが」  金田の声が鼓膜に飛びこんできた。ぼやけていた視界が開ける。ベントレーのインテリア。運転席と助手席にふたりの男。リアシートに金田。 「警察にパクられたらどないするつもりや?」 「お、おれを尾行してたのか?」  彰洋は呻いた。殴られた腹が鈍痛を訴えていた。 「当たり前や」 「いつからだ?」 「週末からや。おまえと波潟の娘が波潟の女房んとこに行ったのも知っとるで」  パニックがよみがえる。 「なにしに行ったのか、きっちり説明してもらうで、堤。波潟の女房んところに行くなんて話、おまえ、おくびにも出さんかったんやからな」  金田が冷たく笑った。彰洋は目を閉じ、粘つく汗を拭った。      * * * 「とりあえず、おれを舐めた落とし前はつけてもらわんとな」  金田がオーディオのスウィッチを入れた。クラシック音楽の重厚な音が部屋を満たした。  彰洋はもがいたが、身体はぴくりとも動かなかった。彰洋はひとり掛けの椅子に縛りつけられている。三田にあるマンションに連れこまれ、身体の自由を奪われた。 「やれや」  金田は彰洋と向かい合ったソファに座り、ワイングラスを手に取った。  ベントレーを運転していた男が近寄ってくる。男は両手に革の手袋をはめ、サングラスをかけていた。 「こないだは電話でえらい世話になったな」  彰洋は口を開こうとした。彰洋が言葉を発する前に、男の右手がしなった。男の拳が心臓を叩く。息が詰まりそうになる。 「口閉じてないと、舌噛むで」  また、左胸を殴られた。心臓が一瞬だけとまったような錯覚に襲われた。 「おまえの考えてることなんかお見通しや、堤。おれに従ってるふりして、裏かこうとでも思ってんやろ。そんな手におれがひっかかるかい」  金田が男にうなずく。男が彰洋の左胸を殴る。一度、二度、三度──同じリズム、同じ強さ。殴られるたびに心臓が動きをとめる。殴られるたびに、心臓がとまる時間が長くなる。痛みは感じない。すべての神経が心臓に集中する。心臓がとまることへの恐怖を煽る。 「金田っ」  彰洋は叫んだ。 「金田さんやろ、あほんだら」  男が彰洋の左胸を殴る。  息ができなくなる。思考がまとまりを失う。目を閉じる。 「やめてくれ」  叫ぶ──殴られる。 「やめてください」  叫ぶ──身構える。左胸にショックは感じない。目を開ける。男がせせら笑っていた。 「もう泣き入れるつもりでっせ、このガキ」  男が金田にいった。金田はワインに口をつけていた。 「東京もんはそんなもんや。カッコつけとんのははじめのうちだけでな」  金田が腰をあげて近づいてきた。彰洋の髪の毛を掴み、顔を覗きこむ。 「どや、堤? 自分の器量が少しはわかったか?」  彰洋は目を閉じた。心臓は正常に動いている。殴られつづけた左胸の筋肉が痛む──それだけ。こんなことで死にはしない。これぐらいのことで死んだりはしない。なのに、挫《くじ》けてしまった。 「返事がないっちゅうことは、まだわかってへんいうことやな」  金田が彰洋の髪の毛を離し、後ろにさがった。代わりに男が前に出てきて、拳を握った右手を振りかざした。  左胸を殴られる。さっきより強く、激しく。心臓が確かにとまる──すぐに動きだす。意地が吹き飛ぶ。悔恨が吹き飛ぶ。自己嫌悪が吹き飛ぶ。死への恐怖、生へのあさましい執着が思考を覆う。涙が視界を覆う。鼻水が鼻を塞ぐ。 「なんかいうてみいや、堤」  金田の声が鼓膜を顫わせる。男の拳が心臓をいたぶる。彰洋は口を開く。喘ぐだけで声は出なかった。 「顔色が青くなってきてまっせ、この小僧」 「堤、少しは根性見せてみいや。おまえがこんなとこでへこたれたら、波潟の娘に訊かなあかんようになるやないか。娘は殴らへんで。身体可愛がって、訊きだすだけやさかいな」  早紀の顔が脳裏をよぎった。気力が湧くことはなかった。死への恐怖があるだけだ。生への執着があるだけだ。 「勘弁してください」  彰洋は言葉を絞りだした。声は顫えていた。涙のせいでぼやけていた。 「なんやて?」 「もう、ゆるしてください」 「ほんなら、もうあほなことは考えんちゅうわけやな?」  彰洋はうなずいた。 「おれのために、精一杯働いてくれるちゅうわけやな?」  彰洋はうなずいた。 「だったら、波潟の女房んとこいって、なにしとったのか、話してみいや」  彰洋は口ごもった。男が拳を構えた。彰洋は慌てて口を開いた。  すべてをぶちまけた。      * * *  胸の筋肉が痛む。心臓は動いている。ぼろきれのような魂が宙を漂っている。  裏帳簿はおれがなんとかしたる──金田はいった。  裏帳簿を齋藤に渡したれや──金田はいった。  ぎりぎりまで波潟と齋藤を有頂天にさせておいて、足元をすくったるんや──金田はいった。  彰洋はすべての言葉にうなずいた。  テープを聞かされた。泣いてゆるしを乞う彰洋の情けない声が録音されていた。早紀に聞かせてやると脅された。テープを美千隆に送りつけてやると脅された。  金田は間違っている。脅す必要はなかった。そんな必要はこれっぽっちもなかった。  六本木のマンションは寒い。空虚な空間だけが広がっている。  彰洋は大麻を吸った。どれだけ吸っても大麻特有の酩酊感は得られなかった。自己嫌悪だけが強くなっていく。  彰洋はバスルームに向かった。剃刀を手首にあてがい、そのまま立ち尽くした。  自分は特別だと思っていた。六本木や渋谷で遊び歩いている若造とは違うのだと思っていた。同じだった。それ以下だった。どれだけ力を込めようとしても、剃刀はぴくりとも動かない。  彰洋は剃刀を放り投げ、嗚咽した。ウィスキィをがぶ飲みし、残りの大麻を吸い尽くした。  救いはどこからもやってこなかった。  彰洋はグラスを放り投げ、大麻をもみ消した。胸の十字架を握り、祖父にゆるしを乞うた。頭の中の祖父はなにも語ってくれない。彰洋は十字架を引きちぎり、壁に叩きつけた。      63  電話が鳴る。目覚まし時計は午前十時を指していた。麻美はうなりながら電話に手を伸ばした。 「おもしろいことがわかったぞ、マミ」  電話の主は市丸だった。市丸は興奮していた。 「なにがわかったの?」 「おまえの幼馴染の小僧だがな、とんでもないやつとつるんでるぞ」  市丸はもったいをつけている。 「だれよ、それ? 焦らさないで早く教えて」 「金田義明だよ。関西のあこぎな地上げ屋だ」  金田義明──聞いたことはない。 「地上げ屋が彰洋ちゃんになんの用があるわけ?」 「ちらっと小耳に挟んだことがあるんだが、金田は東京進出を狙っててな、それで、波潟にちょっかいを出そうとしたことがあるらしい。そいつと波潟の鞄持ちがつるんでるとしたら、こりゃ、おもしろいっていうんじゃねえのか」  頭が混乱する。関西の地上げ屋と彰洋──そぐわない。彰洋が波潟を裏切るのはともかく、美千隆を袖にしたりするはずがない。 「確かなの、それ?」 「ああ、おれが使ってる興信所からの報告だ。昨日の夜、小僧は渋谷に繰りだして、ガキどもから大麻を買ったそうだ。そのまま、六本木通りを歩いてるところを、金田に拉致されて、車に押しこまれたんだ。三田のマンションに連れこまれて、二時間後に出てきた。金田のベントレーで六本木のマンションまで丁寧に送ってもらってたそうだ」 「どうしてそいつが金田って男だってわかるの?」 「おれが使ってる興信所だっていっただろう、マミ。こっちの世界には詳しいやつらなんだよ。金田義明に間違いないといってる。たぶん、そのとおりなんだろうよ」 「彰洋ちゃんが美千隆を裏切ってるっていうわけでしょ。マミ、信じられない」  電話の向こうで市丸が笑った。馬鹿にされたような気がして、麻美は唇を歪めた。 「金田のマンションから出てきた小僧は、死人みたいな顔色をしてたってことだ。たぶん、なにかとんでもない弱みを金田に握られたんじゃねえか。マミ、おまえ、少し探りを入れてみろよ。なにか聞きだせりゃ大助かりだし、そうじゃなかったとしても、おれの手元には、小僧と金田義明が一緒に車から降りてる写真があるんだ。そいつを波潟か齋藤に見せるぞって脅かしゃ、やつらの内情をおれたちに流してくれるようになるんじゃねえか」  彰洋ちゃん、すごく元気そうだった──昨日の電話で早紀はそういった。たった一日で、彰洋になにかが起こった。探ってみるのも悪くはない。 「わかった。やってみる」 「よし、頼んだぞ。おれはこれから仕事だ。仕事にかたがついたら、こっちから連絡を入れるからな」  麻美は受話器を置いた。ベッドから出て、リヴィングにある戸棚の抽斗《ひきだし》をあけた。茶封筒──写真。絡みあう麻美と彰洋。写真を眺めて麻美は微笑む。  北上地所に電話をかけたが、彰洋は急病で休んでいると聞かされた。  彰洋の自宅に電話をかけた。留守番電話の無機質な声が応答するだけだった。  麻美は手早くシャワーを浴びた。メイクを整え、お気に入りのスーツに着替えた。写真の入った茶封筒を抱えて部屋を出た。 「六本木に行って」  タクシーの運転手にそう告げた。      * * *  インタフォンを押してもドアをノックしても返事はなかった。執拗にドアを叩きつづけた。やがて、呻き声のような音が聞こえてきた。  ドアが開いた。憔悴した彰洋が玄関口に立っていた。死人のような蒼ざめた顔。目だけが真っ赤に充血していた。 「麻美か……なんの用だよ?」  彰洋はぶっきらぼうにいった。 「ちょっと話したいことがあるの」  麻美は部屋の中に入った。彰洋はなにもいわなかった。  饐《す》えた匂いがした。吐瀉物《としやぶつ》の匂いが部屋にこびりついているような感じだった。 「吐いてたの?」  彰洋が首を振った。 「吐いたのは昨日だ。ちょっと具合が悪くて」 「お酒の飲みすぎじゃないの?」  麻美は冷たくいい放った。彰洋がたじろぐ。 「昨日、なにかあったの?」 「別になにも」  彰洋は首を振ったが、仕種がどこかぎごちなかった。麻美はソファに腰をおろし、茶封筒をテーブルの上に置いた。彰洋は所在なげに突っ立っていた。 「マミにもお酒ちょうだい」  彰洋が目を剥いた。 「あるんでしょう?」 「あ、ああ……」  彰洋はふらつきながらキッチンに入っていった。ウィスキィのボトルを手にして戻ってきた。ボトルの中には申し訳程度の酒が入っているだけだった。 「一晩でこれだけ飲んだの?」  麻美は訊いた。彰洋は答えなかった。 「昨日のこと、それほど応えたの?」  彰洋の眉がぴくりと動いた。 「金田となにを話してたの?」  さらりと追い打ちをかける。彰洋が凍りついた。 「金田に殴られたの? それとも、ただ脅されただけ?」 「どうしてそれを……」 「いっぱい知ってるわよ。早紀と一緒に波潟の奥さんに会いに行ったでしょう? そのことも金田に話したの?」 「麻美──」 「全部話して。なんのために波潟の奥さんに会いに行ったのか。金田とどんな約束したのか」 「な、なんの話だよ?」  彰洋の目が落ち着きを失い、視線が宙をさまよった。 「ごまかさなくてもいいんだってば。マミ、全部知ってるんだから。話してくれなかったら、波潟や美千隆に教えるよ。彰洋ちゃんが金田とつるんでること」 「麻美。おまえ──」  彰洋が詰め寄ってきた。彰洋の目は血走っていた。追いつめられた鼠──分別を失いかけている。 「これ」  麻美は茶封筒を彰洋に突きつけた。 「なんだよ、これ?」  彰洋が歯を剥いた。狂犬のような顔つきだった。飲みすぎた酒が彰洋の本質を食い散らかしている。 「あの写真よ」  彰洋は顫える指で封を開けた。写真をつまみだす。写真を凝視する。 「早紀に見られたくないでしょ、その写真」 「麻美──」 「マミのこと、よく知ってるよね、彰洋ちゃん。マミ、やるっていったらやるよ」 「麻美──」  彰洋は痴呆のように繰り返した。力のない目で写真を見つめ続けている。  麻美は立ちあがり、彰洋から写真を奪いとった。写真を放り捨て、彰洋の顔を両手で挟んだ。彰洋の目を覗きこむ。 「しっかりしなさいよ、彰洋ちゃん。シャワーでも浴びてくる?」 「麻美──」 「お酒に逃げてる場合じゃないのよ。わかる? 絶体絶命のピンチでしょ、これって? 美千隆裏切って、早紀のことも裏切って、波潟の視線に怯えて、金田に脅されて、そして、マミにも弱み握られて。どうするつもり?」  彰洋の目を覗きつづける。彰洋はなすがままになっている。 「彰洋ちゃん」  麻美は彰洋の頬を張った。彰洋の顔が歪んだ。彰洋は目を閉じる──目を開ける。 「早紀にこの写真、見せてもいいの?」  彰洋の視線が途方に暮れたように左右に泳いだ。 「頼む、麻美。早紀には……見せないでくれ」  彰洋が懇願する。歓喜が渦巻く。人を屈伏させるのは楽しい。金を手にすることの次に楽しい。 「だめよ。全部話してくれなくちゃ」 「美千隆さんにはおれから報告する。それで、美千隆さんに切り捨てられてもしかたない。おれは──」 「だめよ」麻美は彰洋を遮った。「美千隆にはなにもいっちゃだめ」 「どうして?」  彰洋が子供のような表情でいった。唇の端が痙攣していた。彰洋の口の周りは無精髭で覆われている。 「マミ、美千隆とは手を切るの。だから、彰洋ちゃんはマミにだけ協力すればいいのよ」 「麻美、わけわかんないよ」 「とにかく、座って」  麻美は彰洋をソファに座らせた。彰洋はなすがままになっている。 「頭、はっきりしてる? だいじょうぶ?」  麻美は訊いた。彰洋がうなずいた。途方に暮れたような表情は相変わらずだが、視線は五分前よりしっかりしていた。 「美千隆さんと手を切るってどういうことだよ?」 「美千隆が先にマミを裏切ったのよ」 「おまえの話は全然わけがわからないよ。ちゃんと順を追って説明しろ」 「波潟が狙ってる株の銘柄、彰洋ちゃんが掴んだでしょう? それなのに、美千隆、マミにはなにもいわなかった。そしらぬ顔して、市丸と寝て情報を探りだせっていい続けたのよ。どう思う?」  彰洋の顔が困惑に歪んだ。思い当たることがあるとその表情が訴えていた。 「なにか理由があるんだよ」  彰洋の声は歯切れが悪かった。 「理由なんかないわよ。株の銘柄がわかれば、市丸になんて用がないはずだもん」 「そんなことないさ。市丸は波潟の株の売買を仲介してるんだろう? 利用価値はいくらでもあるじゃないか」 「でも、美千隆がマミに嘘をついたっていう事実は変わらないわ。そうでしょう?」  彰洋は口を閉じた。 「マミ、人に騙されるの嫌なの。人に裏切られるの嫌なの。美千隆がマミをコケにするなら、その前にマミが美千隆をコケにしてやるわ」 「麻美──」 「そのためにも、彰洋ちゃんの協力が不可欠なの。話して」 「おれにはできないよ。わかるだろう、麻美」  麻美は冷笑を浮かべた。 「わからないわよ。さんざん美千隆を裏切るようなことしてるくせに、勝手なこといわないで」 「おれは別に、美千隆さんを裏切ってるわけじゃない」 「嘘つき」  彰洋は麻美を睨んだ。 「なによ。怖い顔したって無駄よ。マミを殴る? いいわよ。いくらでも好きにして。だけど、マミ、彰洋ちゃんのこと離さないわよ」 「麻美──」  彰洋の顔が歪んだ。彰洋は一気に老けこんだように見えた。 「早紀にあの写真見せるわよ。彰洋ちゃんがどんなふうにマミを可愛がってくれたかも話してあげる。波潟に匿名で写真を郵送するっていう手もあるかな。波潟、怒るよ。彰洋ちゃん、会社から放りだされる。早紀とも会えなくなるし、美千隆からも見捨てられる」 「美千隆さんを裏切って、おまえ、どうするつもりなんだよ? ひとりでやるのか? ひとりで波潟と美千隆さんを手玉に取って、金を手に入れる? そんなの無理に決まってるじゃないか」  彰洋はほとんど叫んでいた。 「ひとりじゃない。市丸が手を貸してくれるの。それに、彰洋ちゃんも」麻美は静かにいった。「彰洋ちゃんはなにが怖い? 美千隆の信頼を失うこと? 早紀を失うこと? 早紀のことだったら心配いらないよ。マミがうまくいくように考えてあげるから」  彰洋の喉仏が隆起する。 「わからない。なにもわからなくなってるんだ、おれ」  彰洋が麻美の手を掴んできた。その手を握り返す。彰洋の体温は低い。死体のように冷たい。 「怖がらなくてもだいじょうぶだよ、彰洋ちゃん。みんなが彰洋ちゃんのことないがしろにしても、マミだけはずっと彰洋ちゃんのそばにいてあげるから」  麻美は彰洋の頭を胸に抱きかかえた。彰洋はなにかに縋りたがっている。彰洋は赤ん坊のように顫えている。 「おれは最低の人間だ。クズみたいなもんだ。自分のことが全然わかってなかった」  彰洋は訴えた。麻美は彰洋の左の手首に目を奪われた。彰洋の左手を取って手首を見た。いくつかの筋張った傷があった。ためらい傷に間違いない。 「死のうとしたの?」  麻美は彰洋の顔を覗きこんだ。彰洋が小さくうなずいた。 「金田に脅された。金田の手下に、心臓を殴られたんだ。何度も何度も。死ぬと思った。死ぬのがたまらなく怖かった。それで、美千隆さんを裏切った。家に戻ってきて、自分が嫌になって……だけど、できなかった。おれには死ぬ勇気もないんだ」  彰洋は告白する。顫えながら自分をさらけだす。  心が動いた。彰洋に憐れみを覚えた。  神経衰弱に陥っているせいだということはわかっている。そうでなければ、彰洋が自分をさらけだすことなどないということもわかっている。  それでも、彰洋がいとおしく思える。犬が可愛いように、彰洋が可愛い。 「みんなそうなんだよ、彰洋ちゃん。美千隆だって波潟だって金田だって、みんな最低なんだから。クズみたいなんだから。彰洋ちゃんだけじゃないんだから。彰洋ちゃんだけが悩むことないんだよ。彰洋ちゃんが悪いわけじゃないの」  彰洋が顔をあげた。目に涙が浮かんでいる。 「だから、みんなお金を欲しがるんだよ。自分が最低でもクズでもないって思えるから」 「おれは金なんかいらない。おれは……違うものが欲しいんだ」 「違うものってなに?」  彰洋の目が大きく開いた。彰洋は口を開きかけた。だが、すぐに彰洋の視線が落ちた。彰洋は口を閉じ、力なくかぶりを振った。 「わからない。全部、わからなくなった」  麻美は彰洋を抱きしめ、彰洋の髪の毛を撫でた。犬を撫でるように撫でた。 「彰洋ちゃん、話して。お願い。全部教えて」  彰洋の身体から力が抜けていく。彰洋は口を開いた。  麻美は耳を傾けた。      64  シャワーを浴びて、タオルで乱暴に身体を拭った。左の手首の傷が疼《うず》いた。左胸がどす黒く変色していた。恐怖と無力感が胸を締めつける。  酒に手を伸ばしかけて思いとどまった。我慢する──麻美に約束させられた。麻美と絡みあっている写真。早紀に見せるという恫喝。波潟に見せるという恫喝。美千隆にすべてを暴露するという恫喝。  すべてが耐えがたい。  恫喝と甘言のすえに交わされたいくつかの約束──今までどおりに振る舞う。波潟の鞄持ちを続ける。美千隆の機嫌を伺う。金田のためにスパイを続ける。麻美にすべてを報告する。  約束を守る代わりに交わされた契約──死にたくなったときには麻美が来てくれる。彰洋の苦しみを和らげてくれる。昨日がそうだったように。  麻美は朝まで彰洋のそばにいた。彰洋の告白に耳を傾けた。セックスはなし。麻美の目的はわかっている。麻美を疎ましく思う。それでも、麻美が天使に思えた。  出社し、波潟に愛想笑いを振りまく。美千隆に電話で報告する──裏帳簿はまだ見つかりません。金田に報告する──目だった動きはありません。  部屋に帰り着いたときには疲労困憊している。早紀に電話する。愛の言葉を囁く。嘘を並べ立てる。  一日が終わると、泥のように眠る。      * * *  金田から呼びだし──赤坂のクラブ。金田は書類を持っていた。その書類を渡された。 「コピーや。本物はさすがに持ちだせんかったわ」  書類に目を通して愕然とした。北上地所の裏帳簿。波潟の懐に消えた金の詳細がわかる。政治家や官僚たちに流れた賄賂の詳細がわかる。地下の暗闇に飲みこまれた金の詳細がわかる。 「どうしたんですか、これ?」  彰洋は訊いた。声が顫えている。抑えられない。 「簡単なもんや」金田は笑った。「波潟んとこに川田っちゅうおばはんがおるやろ。ええ年こいて、男遊びにはまっててな。ホスト崩れのクソガキにせっせと金を貢いどるんや」  川田はるかの顔が脳裏を横切った。上品で人のよさそうな横顔──ホスト通いとはイメージが合わない。人の内面はだれにもわからない。 「そのホスト崩れがどうしようもないクズでな。川田に貢がせた金で博奕場通いしとるわけや。で、はめてやったわけやな、おれが。イカサマ博奕で尻の毛までむしったったら、泣いてわび入れてきよってな。おまえの女に会社の裏帳簿盗ませろゆうたら、すぐや。恐ろしい世の中やのう。堤、おまえも女には気ぃつけえや」  彰洋はコピーに丹念に目を通した。本物──間違いはない。 「そのコピー、齋藤んとこに持って行ったれや。えらい喜ぶんとちゃうか。おまえのチンポ、しゃぶってくれるかもしれへんぞ」  金田を睨んだが、すぐに睨み返された。彰洋は弱々しく視線をそらした。 「そうや。負け犬は負け犬らしく、尻尾垂らしとったらいいんや」  金田が高笑いする。彰洋は一礼し、背を向けた。 「齋藤にはうまいこと話せや。ボロが出えへんようにな。川田の話、うまく書き換えたったらええんとちゃうか」  背中に浴びせられる金田の声が重い。      * * *  コピーのコピーを取る。シナリオを練りあげる。二日待って、美千隆に電話をかける。 「裏帳簿が手に入りました」 「意外と早かったな」  金田は間違っている。美千隆ははしゃいだりはしない。 「うまい手を見つけたんです。これからお伺いしたいんですけど」 「待ってる。すぐに来い」  新宿のホテルに飛んでいく。美千隆にコピーを見せる。 「本物を持ちだすのは難しかったんで……コピーで我慢してください」 「どうやって見つけたんだ?」  心臓が不規則に脈打つ。練りあげたシナリオに欠点はないはずだ。だが、自己嫌悪が強くなる。 「うちの経理にいる工藤って知ってます?」 「ちらりと見かけただけだけどな。四十過ぎのオールドミスだろう?」  美千隆はコピーに視線を落としている。顔色を読まれるおそれはない。 「ずっと前からおれに気がある素振り見せてたんですよ。それで、かまかけてみたんです」  嘘ではない。工藤知美はなにかと彰洋に声をかけてくる。彰洋は相手にしない──嘘はそれだけだ。 「寝てやったのか?」  美千隆は相変わらずコピーに視線を落としている。 「ええ。マザコンの振りしてやったら一発でした。このところ、毎晩デートして……一昨日、ピアジェの指輪をプレゼントしてやったんですよ。そしたら、おれのためならなんでもしてくれるって。それで、今日、これをコピーさせたんです。土地持ちのおばさんを落とすより簡単でしたよ」  美千隆は笑わなかった。眉間に皺をよせてコピーを読んでいる。  彰洋は美千隆のそばを離れた。部屋に備えつけのポットでお茶を淹れる。美千隆の前に湯呑みを置く。自分のお茶を飲んで待った。  十五分──美千隆が顔をあげる。 「おまえ、これ読んだか?」 「まだです。今日手に入れて……真っ先に美千隆さんに読んでもらおうと思ってたし」  美千隆が湯呑みに手を伸ばした。 「こいつは爆弾だ」美千隆は湯呑みには口をつけなかった。「ただし、使い勝手がすこぶる悪い」 「どういうことですか?」 「賄賂絡みの金の流れもよくわかるだろう? これじゃ、マスコミに流すことはできない。政治家はおれもよく利用させてもらうしな。大事に扱ってやらなきゃならないんだ」 「だったら、波潟が会社の金を私的に流用してる部分だけを使ったらどうですか?」 「いや」美千隆が首を振る。「この裏帳簿を全部表に出せないんだったら意味がない」 「じゃあ、無駄骨を折ったっていうことですか……」 「そんなことはないさ。波潟の足跡がすべてわかるんだ。そこから突破口を開ける。実に貴重な資料だよ。よくやった、彰洋。おまえがいなけりゃ、おれはただ手をこまねいて見てるだけしかできなかったかもしれない」  美千隆が微笑んだ。その笑みは掛け値なしの信頼を現しているように思えた。  心が痛む。良心が悲鳴をあげる。美千隆を裏切ることなどできない。だが、どうしたらいいかがわからない。  麻美と一緒に写っている写真──親密で、いやらしい。早紀や波潟に言い訳は通じない。 「美千隆さん……」  思わず口を開いた。脳裏に浮かぶ麻美が彰洋を睨む。 「なんだ?」 「あの……麻美の件なんですけど、あいつ、まだ市丸とかいう男をなんとかしようとしてるんですよね?」 「さあな」  美千隆の反応は素っ気ない。麻美の言葉がよみがえる──美千隆が先にマミを裏切ったのよ。憎悪に彩られた声。屈辱にまみれた声。あんな声で話す麻美を見たことはなかった。 「もう、市丸からなにかを探りだす必要はないですよね。麻美にそういってやった方がいいんじゃないかって」 「彰洋。マミは金の亡者だ。金のためだったらなんでもする。おれたちのことだって平気で裏切りかねない。おれはな、この件にこれ以上マミを関わらせるつもりはないんだ。おまえも放っておけ。あいつが市丸から情報を引きだそうと躍起になってる間にすべてを終わらせる」 「だけど、麻美は美千隆さんのことを──」 「勘違いだよ、彰洋。マミは焦ってる。年を取れば波潟に捨てられる。だれからも見向きされなくなる。そう思って焦ってるんだ。焦ってるから、だれかに縋りたくなる。おれなら縋ってもいいんじゃないかって勘違いをしてる。それだけの話だ。おまえが一番マミのことをわかってるんだろう? あいつがなによりも愛してるのは金だ。その次に愛してるのは自分自身だ。おれじゃない。おまえでもない。あいつがおれのせいで傷つくっていうんなら、それも自業自得だ」 「美千隆さん……」 「おれはおれの王国を作る。そこにマミの居場所はない」  美千隆はにべもなくいった。脳裏に映る麻美の顔が歪んでいく。みんな最低なんだから、クズみたいなんだから──麻美の声が耳の奥で繰り返される。 「どうした、彰洋? 顔色が悪いぞ」 「なんでもないです。ここのところ、ちょっと体調崩してて──」  どうしておれなんですか?──言葉がふいに湧いてくる。  どうしておれなんですか? おれも麻美みたいに切り捨てられるんですか? 麻美が金の亡者なら、おれたちはなんの亡者ですか?  彰洋はトイレに駆けこんだ。胃の中のものと一緒に言葉を吐き捨てた。 「だいじょうぶか、彰洋?」  美千隆の声がした。どこか遠くから聞こえてくるような気がした。  マミ、彰洋ちゃんのこと絶対に離さないわよ──麻美の声がする。すぐ近くから聞こえてくるような気がした。      * * *  麻美が部屋にやってきた。麻美にコピーのコピーを渡した。  麻美は内容には目もくれず、コピー用紙をエルメスのバッグに放りこんだ。 「見ないのか?」 「見てもわからないもん。あとで市丸に見せるから。でも、彰洋ちゃん、正直に報告してくれてありがとね。ご褒美あげようか?」  麻美は彰洋の隣りに座った。 「ご褒美?」  麻美は微笑んでいる。麻美は機嫌がいい。 「あのね、明日の夜、波潟がマミの部屋に来るの。早紀とデートすれば? 少しは気が晴れると思うよ」  早紀には会いたい。だが、どんな顔をして会えばいいのかがわからない。 「電話するよ」 「そう。じゃ、話して。美千隆、なんていってた?」 「なにも」彰洋は麻美からさりげなく目をそらした。「裏帳簿だけじゃ使えないって。他に手を考える必要があるって」 「どういう意味?」 「あとでコピーを見ればわかるけど、政治家や官僚に渡した賄賂の額まで書きこんであるんだ。そのままマスコミかなんかに流したら、政治家たちもダメージを受ける。美千隆さんはそれを避けたいんだよ」 「じゃあ、どうするつもりなの? せっかく手に入れた裏帳簿なのに」 「わからない。そこまでは話してくれないんだ。なにか企んでるのは確かだけど」 「それを聞きだすのが彰洋ちゃんの役目でしょう」  麻美の声がきつくなる。吐き気が襲いかかってくる。 「今日は美千隆さん、忙しそうだった。おれも、三十分ぐらいで部屋を追いだされたから。次に会うときに、もっと詳しく聞くよ」  嘘。嘘にまみれた現実。逃れようがない。 「あんまり時間はないんだから、悠長なことしてないで、ちゃんとやってよ」 「わかってる」  吐き気がますます強まっていく。 「他に話し忘れてること、ない?」  ある。美千隆の冷たい声。麻美を切り捨てた声。だが、それを話すことはできない。 「なにもない。本当に、コピーを渡して、ちょっと話しただけなんだ」  麻美の表情がゆるむ。 「そう。信じてあげる。彰洋ちゃんがマミのこと裏切るわけないもんね」  麻美はご機嫌だった。      * * *  早紀に電話する。早紀とデートする。銀座の街角。電光掲示板に流れるニュース──地価はあがり、株価もあがり続けている。  興味はわかない。失われてしまったものへの悔恨がある。  早紀が腕を絡めてくる。早紀の浮き立った気分が伝わってくる。  早紀と食事をし、酒を飲む。早紀は楽しそうに喋りつづけている。  麻美に見せられた写真が脳裏から離れない。麻美が怖い。麻美が恐ろしい。だが、憎むことができない。自分の弱さを、醜さを、受け止めてくれるのは麻美だけだと思う。  早紀と寝る。早紀にしゃぶらせる。麻美の方が上手だと思う。  彰洋は自分を呪った。      65  市丸が書類に目を通していた。すべてを忘れて読み耽っている。市丸は目を細めている。鼻の穴が広がっている。眼球だけが忙《せわ》しなく動く。  市丸は興奮していた。 「こんなものつけておくなんざ、波潟も相当ヤキが回ってるな」市丸が書類から目をあげた。「触るだけで火傷《やけど》する代物だぜ」 「使えるの?」 「いや」市丸は首を振った。「齋藤もこれだけは使えないっていってたんだろう? 危なすぎるんだよ、こいつは。こんなもん世間に出したら、それこそ日本中がひっくり返る。目端の利くやつが見りゃ、それこそ次の次ぐらいの首相候補が薄汚い地上げ屋の金を懐に入れてることがわかるんだからよ」 「じゃあ、どうするつもり?」 「さあな」市丸は腕組みした。「こんなもん表に流したら、大物たちの恨み買っちまう。おれが齋藤なら、こん中の情報だけばら売りするな」 「ばら売り?」 「そうだ。ばら売りよ」  市丸が書類を持ってそばにやってきた。麻美は書類を覗きこんだ。数字と名前の羅列──理解不可能。麻美は市丸の言葉を待った。市丸は書類をめくった。 「このあたりだな。波潟が会社の金を流用しててめえ名義の物件を買ってることがわかるんだ。この情報をその筋に流せば、波潟は背任か業務上横領かなんかでパクられる」  情報と情報が錯綜し結びつく。 「勝負をかけようってその時に、波潟がパクられたらどうなる?」市丸の唇の端に唾が溜まりはじめていた。「東栄通商の株がただの紙屑に変わるんだ。波潟が突っこんだ金は全部回収不能になる。終わりだ」 「でも、お金は? 波潟のお金、どうやって手に入れるの?」  麻美は訊いた。市丸が首を捻った。 「いろいろやり方はある。問題は齋藤がどの手を選ぶか、だ」 「彰洋ちゃんにしっかり働いてもらわなきゃならないってことね」 「他に気になるのは、金田の動きだな。わざわざこんな爆弾を齋藤に送りつけて、なにを企んでいやがるのか……」 「そっちも彰洋ちゃんに探らせるわ」  麻美は含み笑いを漏らした。今日、彰洋は早紀と会う。早紀と寝る。早紀と麻美を比較する。早紀はなにも知らない。能天気に喜んでいる。 「だいじょうぶかよ、おい? その小僧、ぎりぎりんところで突っ張ってんだろう?」 「心配しなくてもだいじょうぶ。手綱はちゃんと握ってるから」  彰洋は心配いらない。心配する必要などなにもない。      * * *  ステーキ・レストラン──一枚五万円のフィレ肉、一本数十万円のロマネ・コンティ。波潟は旺盛にステーキを平らげ、ワインを飲み干す。波潟の鼻の下は赤くてかっている。  部屋に帰ってセックス。波潟は射精しなかった。波潟にコカインを吸引させた──大量に。市丸の指示。波潟の中毒症状を進行させろ。波潟の判断力を鈍らせろ。  麻美もコカインを吸った。頭の中でハレーションが起こる。波潟の身体を舐めまわす。波潟が美千隆に思える。彰洋に思える。市丸に思える。いとおしく思える。  波潟の指で絶頂に達する。ハレーションは続いている。心臓がでたらめに躍っている。身体が火照っている。 「パパ……」  波潟の胸に頭をのせる。 「なんだ?」 「まだ奥さん、戻ってきてないの?」 「ああ、しょうがない女だ」  波潟がサイドボードに手を伸ばす。麻美は代わりに煙草を取る。波潟の口にくわえさせ火をつける。 「マミは本当に気が利くな。あの婆あとは大違いだ」  波潟の目は虚ろだった。顔の筋肉が緩んでいる。 「でも、だいじょうぶなの? 離婚とかいうことになったら、慰謝料取られちゃうんでしょ」 「離婚はせん。向こうがなんといってきてもな。こっちには一流の弁護士が何人も雇えるだけの金があるんだ。飼い殺しにしてやるさ」  彰洋が自分の妻の口から裏帳簿の存在を嗅ぎつけたことを、波潟はなにも知らない。波潟の周囲は確実に崩壊しつつある。 「早紀は? 早紀はパパの味方?」 「馬鹿なことをいうな。早紀は家にいるんだ。おれの味方に決まってるだろう」  波潟がむきになって唾を飛ばした。煙草の灰が飛び散った。 「ちょっと訊いてみただけだから、そんなにむきにならないの」 「おまえが変なことをいうからだ。それより、マミ、近ごろ堤と話をしてるか?」 「彰洋ちゃんと? 別に。どうかしたの?」 「最近、体調を崩してるらしくてな、覇気がないんだ。なにか悩みでもあるんじゃないかと思ってな」  笑いそうになるのをこらえる。数えきれないほどの悩みを彰洋は抱えている。波潟はなにも知らない。波潟は裸の王様だ。 「好きな子でもできたのかな? 今度、話してみようか?」 「そうしてくれ。毎日毎日ああ疲れたような顔をされたんじゃ、得意先まわりに連れていくのも気が引ける。松井ももう退院して戻ってきておるし、このままだと美千隆君のところへ送り返すことになるぞ」  彰洋には釘を刺さなければならない。これまでどおり振る舞うようにいい聞かせなければならない。 「ね、パパ。肩揉んであげようか?」 「頼むとするかな」  波潟がうつ伏せになった。麻美は波潟の鼻先にコカインを突きつける。 「はい、吸って。きっとリラックスできて、もっと気持ちよくなるよ」  波潟がコカインを吸う。顫えながら目を閉じる。麻美は波潟の背中にまたがり、肩と背中と腰を丁寧に揉んだ。やがて、波潟が鼾《いびき》をたてはじめる。 「パパ?」  声をかけても反応はない。  麻美はベッドを降りて波潟のスーツのポケットを探った。なにも見つからずに鞄にターゲットを変えた。綺麗に包装された包みが入っていた。エルメス──包装をはがして中を確かめる。ダイヤをあしらったネックレスが輝いていた。  どこかの女へのプレゼント。  包装を元どおりに直して鞄に放りこむ。波潟を睨んだ。  波潟は寝続けている。鞄をさらにあらためる。手帳で波潟のスケジュールを確認する。  夜のスケジュール──銀行屋や官僚たちとの酒席の予定がびっしりと書きこまれている。  麻美はそれを別の紙に書き写す。  波潟は起きない。鼾の音だけが大きくなっていく。      * * *  彰洋とは渋谷で待ち合わせた。──赤坂や六本木、銀座では波潟と鉢合わせする可能性がある。新宿では美千隆の目が怖い。  着飾った子供たちで渋谷は賑わっている。乳臭い匂いがする。汗臭い匂いがする。渋谷は好きになれない。  彰洋は落ち着いていた。波潟がいうほどに憔悴した様子はない。 「昨日、どうだった?」  麻美は明るい声を出した。 「どうって、いつもどおりさ」 「少しはリフレッシュできた? それとも、早紀じゃ満足できない?」 「早紀で充分だよ」  彰洋の口調は歯切れが悪い。 「早紀にいろいろ教えてあげればいいのに。マミがしてくれるようにやってくれって」 「麻美」  彰洋が睨んでくる。麻美は微笑みで受け流した。 「そんなに凄まなくてもいいよ、彰洋ちゃん。わたしたち、一蓮托生なんだから。きっと、恋人同士にはならないし、結婚したりもしないと思うけど、ずっと一緒。彰洋ちゃんがもしだれかと結婚したとしても、彰洋ちゃんがマミとしたくなったら、いつでも寝てあげる。マミも彰洋ちゃんのこと好きだから」  彰洋の視線が弱くなる。彰洋は周囲の人間を気にしている。強迫神経症──昔の彰洋には見られなかった態度だ。  再会したときのことを思いだした。六本木のディスコ。黒服の似合わない彰洋。彰洋は苛立っていた。自分自身に対して怒っていた。ぎらついていた。美千隆に引き合わせると、すぐに有頂天になった。  一年も経たないうちに、彰洋からはすべてが失われていったかのように見える。嘘をついてはいかん、人を騙してはいかん、人の物を盗んではいかん──祖父の教えを裏切った報いのように。  金の力は恐ろしい。金に群がる亡者どもは恐ろしい。彰洋はずたずたにされてしまった。 「これからのことなんだけどね──」  彰洋の横顔に問いかけた。彰洋がゆっくり振り向いた。 「まずね、世界中の悩みをひとりで背負ってるみたいな顔、やめること。波潟がおかしいと思いはじめてるよ」 「気をつけてるつもりなんだけどな……」 「ちゃんとご飯食べてる?」 「ああ」 「昨日は早紀となにを食べたの?」  彰洋は虚を衝かれたような表情を浮かべた。 「エスニック料理だよ。たまには変わったものが食べたいっていうから、銀座のタイ料理屋に行った」 「なにが美味しかった?」 「そんなこと、関係ないだろう」  彰洋は怒り、拗ねた。 「ちゃんと食べてるのかどうか確かめたかっただけよ。怒らないの」  麻美は彰洋の手に自分の手を重ねた。彰洋が手を引っこめた。彰洋はいとおしい。 「ご飯食べて、体力取り戻さなきゃ。ほんとにわかってる?」 「わかってる」 「信じてあげる。彰洋ちゃんはマミのこと裏切らないから。裏切れないから」  彰洋は瞬きを繰り返した。 「彰洋ちゃんにやってもらわなきゃならないこと、たくさんあるんだから。どれも大変なこと」 「もう、充分大変だよ」 「まず、この前もいったように、美千隆があの裏帳簿を使ってなにをするつもりなのかを探ること。市丸は、たぶん、波潟が会社の金を個人で流用してることを警察か検察にリークするつもりだと思ってるみたい」  彰洋がうなずいた。麻美は言葉を続ける。 「でも、そのあとが問題なの。波潟が逮捕されたとして、美千隆、どうやって波潟のお金を手に入れるつもりなんだろうって。彰洋ちゃんにはそれを探りだしてもらいたいの」 「おまえも知ってるだろう、美千隆さんの口が固いの」 「彰洋ちゃんにだったら話すかも。だって、美千隆が一番可愛がってるの、彰洋ちゃんだし」  口調がきつくなった。とめようとしてもとめられない。嫉妬がわきおこり、憎悪が波打つ。美千隆の身体をばらばらに引き千切ってやりたい。美千隆の心臓をこの手に掴んでどんな色をしているのかを確かめたい。  彰洋がなにかをいいかけ、思いとどまったように視線を麻美から外した。 「とにかく、やってみるよ」 「今、なにをいおうとしたの?」 「別に。おれにはこういうのが相応《ふさわ》しいかなって」  彰洋は自嘲した。 「そういうの、彰洋ちゃんらしくないよ」 「どういうのがおれらしいんだ? 波潟の視線に怯えてドジを踏むことか? ちょっと殴られたぐらいで泣きだすことか? ろくでもない考えに振り回されて恩人を裏切ることか?」  彰洋の声が熱を持った。隣りの席に座っている女子高生たちが驚いている。 「声が大きいよ、彰洋ちゃん」 「おまえだっておれをからかうときは声が大きくなるぞ」 「それはしかたないじゃない」  麻美は口を尖らせた。彰洋が口を閉じた。情緒不安定な彰洋──取り扱い注意。 「もう、口喧嘩やめにしようね。時間の無駄だし、マミ、別に彰洋ちゃんを傷つけたいわけじゃないから」 「もういいよ。それより、先を続けろよ。おれにこれ以上なにをさせたいんだ?」 「金田」  麻美は名前だけを告げた。彰洋が掌を掻いた。 「金田の狙いを探ってほしいの」  彰洋は掌を掻きむしった。金田が彰洋に与えた恐怖と屈辱の大きさが想像できた。 「無理だ」  彰洋はぽつりといった。 「そんなことないよ。今までだって彰洋ちゃん、うまくやってきたじゃない」  彰洋は答えずに掌を掻きつづけた。麻美は彰洋の手を掴んでやめさせた。彰洋は抗わなかった。 「やってもらわなきゃ困るの」  麻美は彰洋を凝視した。彰洋が目をそらした。 「彰洋ちゃん」  彰洋は目をあげない。 「今日、早紀と電話で話したよ」  嘘で彰洋の気を惹く。彰洋が目をあげた。 「早紀、彰洋ちゃんのこと愛してるって。嬉しそうにいってた。早紀、本当に幸せそうだった。彰洋ちゃん、早紀を裏切れる? 早紀にあの写真見せられる? 早紀よりマミの方が上手だしいやらしいっていえる? 早紀と付き合ったのも、早紀と寝たのも、全部、美千隆のためだったっていえる?」 「おまえを手伝ったら、それも早紀を裏切ることになるじゃないか」  彰洋は苦しそうに訴えた。 「早紀にばれないようにやればいいじゃない。手に入れるお金は山分けにするんだよ。マミと彰洋ちゃんと市丸で。そのお金で早紀を幸せにしてやればいいでしょう。早紀は彰洋ちゃんのこと好きなんだから。彰洋ちゃんと一緒にいられるだけで幸せなんだから」  麻美は口を閉じて彰洋の反応を待った。 「本当にそう思うか?」  彰洋は時間をかけてそういった。彰洋は縋りたがっている。自らの不誠実さを糊塗してもらいたがっている。 「もちろんよ。当たり前じゃない」  麻美は微笑んで彰洋の手を強く握った。      66  東栄通商の株価はじりじりとあがっている。冷えきった体温はあがる様子も見せない。金田は相変わらずにやけている。女を侍らせ、酒を飲んでいる。 「どや、堤? あの帳簿見て、齋藤、涙流して喜んだんとちゃうか?」  北上地所の裏帳簿──自分で利用した方がいい。なのに、金田は簡単に放りだした。なにを考えているのか。なにを狙っているのか。 「使い勝手が悪いといってましたよ」  彰洋は目の前に置かれたグラスの縁を指でなぞった。 「なんやと? どういう意味や?」 「政治家を怒らせたくはないんだそうです。帳簿の使い方はじっくり考えるんじゃないですか」 「すぐに動かんのか。東京もんはやることがとろいのう」  金田が目をぎょろつかせた。彰洋はグラスの縁をなぞりつづけた。皮膚がガラスにこすれて嫌な音をたてた。 「あの帳簿の使い方なんぞ、たかがしれとる。とっとと動けばええんや」  金田は頭の後ろで腕を組んだ。右に座ったホステスの肩に寄りかかる。ホステスは微笑むだけで決して口を開こうとはしない。この店で、このVIP室で、金田が侍らせる女で、口を開いた者を見たことはない。 「齋藤さんにそういいますか?」 「あほか」  金田は目を細めた。 「金田さんがそうしろっていうんなら、やってみます」  彰洋は神妙にいった。金田の目が丸くなった。 「なんやそら?」 「腹を括りたいんです」  彰洋は金田の目を見た。目をそらしそうになって、自分を叱咤する──頭の中で。うまく立ち回れ。金田におべっかを使え。金田を舞いあがらせろ。金田に取り入れ。麻美を満足させろ。麻美に写真を使わせるな。早紀を騙しとおせ。美千隆に気取られるな。  すべては崩壊した。瓦解した。あさましい欲望が現実に亀裂を入れた。波潟は早紀への愛に溺れている。コカインに溺れている。金に麻痺している。ハイエナどもがうろついているのにも気づかない。美千隆は身勝手な夢に耽溺している。成りあがった自分の力に酔っている。他者を顧みることもない。自分はハイエナのつもりでいる。だが、自らがハイエナに狙われていることには気づかない。  麻美は過剰な自己愛で己を縛りつけている。金への執着がありあまるエゴの裏返しなのだということに気づいていない。他人を弄んで喜ぶのは、自分が弄ばれることへの恐怖に源があることを知らない。憎悪に身を焦がされるのは、自分を愛するほどには他人を愛さないせいだということに気づきもしない。早紀は彰洋との恋愛ごっこに惑溺している。箱入り娘は現実を見たことがない。豪華な屋敷の周囲をうろつく者どもが、闇の世界の住人だということにも頓着しない。する必要がない。自分を飾りたてるブランド品を買う金が、吸血鬼どもの戦利品であることも知らない。  彰洋は体温があがる感覚に中毒した。嘘をついた。人を騙した。人の物を盗んだ。誠実さをないがしろにした。祖父の教えに唾をかけた。自らの野心を土足で踏みつけた。聖なる誓いを自ら反故にした。早紀と麻美を天秤にかけた。  だれもかれもが強欲の罪にまみれている。傲慢の罪に頭の先まで浸かっている。  見てくれを取り繕う必要はない。これまでの行いを悔やんでも無意味だ。行き着くところまで行くしか道はない。 「腹を括るやと? 今さらなにを抜かしとるんや」  金田は彰洋を嗤った。彰洋はグラスを握って酒を飲み干した。強い酒が喉を灼く。迷いを吹き飛ばしていく。 「今度は本気なんです」音をたててグラスを置いた。「波潟はもう終わりでしょう? 齋藤にも、今さら謝ってゆるしてもらうなんてことはできない。おれには──僕には、金田さんについていくしか方法がない。やっとわかったんです」 「本気でいうてるんか? だったら、本気やいうとこ見せてみんかい」  金田が吠える。彰洋は腰をあげた。床に膝と両手を突いた。  今さら見てくれを取り繕う必要はない。 「信じてください。金田さん」  額を絨毯に擦りつける。ホステスたちの含み笑いが聞こえてくる。  だれもかれもが傲慢の罪に頭の先まで浸かっている。 「もうええ。頭あげや、堤」  金田がいった。彰洋は頭をあげた。金田は微笑みながらブランディグラスを弄んでいた。 「信じてもらえるんですか?」  彰洋は訊いた。金田の微笑が大きくなる。 「関東の人間やったら、それでええんかもしらんがな、おれは関西の人間や。頭いくらさげてもらっても、一銭にもならへんやないか。本気でおれの舎弟になりたいんやったら、関西流のやり方でやってもらわんとな」 「なんでもします」  彰洋は答えた。ホステスたちの嘲笑を視界から追い払う。 「ほな、やってもらおうか」  金田が立ちあがった。ブランディグラスの中身を隣りのホステスにぶちまける。 「おれの舎弟になりたいいう男が土下座しとんのに、おのれら、なにを笑うとるんや?」  ホステスたちが凍りついた。      * * *  車は銀座に向かっていた。金田は車載電話で銀座にいるだれかの動向を探っている。  車が新橋のガード下をくぐった。電通通りを左折したところで金田が電話を切った。「日航ホテルの向かいにとめるんや」運転手に指示を出す。  電通通りは混みあっている。車はタクシーの間を縫うようにして進み、静かに停止した。  金田が窓越しに日航ホテルに視線を向け、呟く。 「おったで」  彰洋は金田の視線を追った。ホテル前にたむろする人間たち。待ち合わせのサラリーマン。客引き。やくざのような風体の男たち。 「堤、気障《きざ》な男や。わかるか? オールバックにサングラスの、黒いスーツの男や」  彰洋は目を凝らした。金田のいう男を見つけた。年齢は四十代。華奢な身体つき。他人を睥睨《へいげい》するような態度。だれかを待っているような風情。退屈に倦《う》んでいるような表情。数秒ごとに足元に唾を吐いている。やくざ──間違いはない。 「わかります」  彰洋はいった。喉に圧迫感を感じ、声がかすれた。 「東京の極道や。たいした根性もないくせに、威張り散らしおってな。おれの兄弟筋の人間がえらい恥かかせられてるんや。堤、おまえ、あの極道、しばいてこい」 「今ですか?」  彰洋は唾を飲みこんだ。予想はついていた。だが、身体の顫えはとまらない。 「あほんだら。こんなとこでやったら、地回りの連中が飛んでくるやろう。頭使えや──おい、このガキになんか貸したれや」  金田が運転手に声をかけた。運転手がグラヴボックスからなにかを取りだし、彰洋に差しだす。  伸縮式の警棒──受け取らざるをえない。 「なんや、顫えとるやないか、堤。殺せいうとるわけやないで。二、三日、足腰が立たんようにするだけでええ。それぐらいやったら、極道相手でもできるやろ。東京もんの極道は関西もんとは違ってやわや。心配することあらへん」 「やったら、おれの面倒、見てもらえるんですね?」 「そうや。おれもこのままずっと東京におられるわけでもないしな。おまえを東京のおれの連絡係にしたるわ」  これっぽっちの実もない言葉が車内を漂う。 「やってきます」  彰洋は車を降りた。警棒を腰にさし、スーツの上着で隠す。道路を渡る。そしらぬ顔で、待ち合わせのサラリーマンたちの間に混じる。気障なやくざは相変わらず足元に唾を吐いている。金無垢のロレックスを覗きこんでは舌打ちをする。やくざの周囲は微妙な空間に囲まれている。サラリーマンたちがやくざから距離を置こうとしている。  彰洋は腰の警棒を手でさすり、無謀な勇気が沸き起こるのを待った。無駄な期待だった。  やくざをぶちのめす──自棄《やけ》になる以外に、実行する手だてはない。  やくざの態度が豹変した。直立不動の姿勢になる。黒いベンツが車をかき分けて進んできて気障なやくざの目の前で停止した。やくざはベンツの後部座席にかけよった。ドアを開けながら頭をさげる。 「お疲れ様です」  車から降りてきた固太りした中年が鷹揚にうなずいた。気障なやくざが懐からむき身の札束を取りだし、固太りに渡す。ベンツの他のドアが開いた。若いやくざが姿を現す。ベンツの後ろをまわって、固太りと気障に近寄る。ふたりに頭をさげる。  三人のやくざが歩きだす。若いやくざが先頭に立つ。固太りが真ん中。やや遅れ気味に気障なやくざがついていく。固太りが気障に語りかける。気障が何度も頭をさげる。  若いやくざと固太りがポルシェビルに姿を消す。気障は直立不動──ふたりの姿が消えると唾を吐いて踵を返す。並木通りを北に向かいはじめる。  彰洋は気障の後を追った。心臓がでたらめに脈を打っている。膝に力が入らず、足取りが乱れる。自分を叱咤する。だれにともなく祈る。  おれに力を。もう一度、あの感覚をおれに。  すべてを投げだして逃げてしまえとだれかがいう。体温があがりつづけるあの感覚をもう一度捕まえるんだとだれかがいう。おまえはすべてを反故にした。今さら逃げだすことなどできない。  彰洋は強く唇を噛んだ。口の中に血の味が広がった。  気障なやくざの足取りが遅くなっていた。資生堂脇のビルを見あげ、中に入っていく。  彰洋は走った。さり気なくビルの中に入る。気障なやくざがエレヴェータを待っていた。エレヴェータは三階から降りてくる。壁に貼られた階層表示を見る。七階建のビル。テナントはすべてクラブ。  エレヴェータの扉が開く。九時五十分。河岸を変えるには早すぎる時間。寸断された時間。光の速度で祈りを捧げる。祈りが受け入れられる。やれ──やってしまえ。  エレヴェータは空だった。  気障なやくざがエレヴェータに乗りこむ。彰洋も後に続く。 「すみません」  やくざは彰洋に一瞥をくれて五階のボタンを押した。彰洋は静かに警棒を抜く。エレヴェータの扉が閉まる。 「何階だ?」  やくざが振り向こうとした。警棒をやくざの頭に叩きつける。やくざが頭を押さえて呻く。彰洋は警棒を闇雲に振るう。やくざがうずくまる。やくざの腹を蹴りあげる。  エレヴェータのボタンを押す──三階のボタン。エレヴェータがとまるまでやくざを蹴りつづける。  エレヴェータがとまる。扉が開く。飛びでる。非常階段を捜す。階段を駆けおりる。踊り場に警棒を捨てる。並木通りから中央通りに向かって走る。  中央通り。金田のベントレーが松坂屋の前にとまっている。ドアが開く。金田がにやつきながら降りてくる。 「よし、これでおまえはおれの舎弟や」  金田の声が大きく響く。彰洋はその場で身をかがめ、嘔吐した。      * * *  恐怖の反動──身体がだるく、気分が重い。指先が顫える。悪寒に襲われる。熱いシャワーを浴び、濃いコーヒーを飲む。頭の中を整理する。  東京もんに赤っ恥をかかせたるんや──金田はいった。ど腐れの波潟も、二枚目気取りの齋藤もおれの靴を舐めることになるで──金田はいった。金田は饒舌だった。興奮していた。だが、肝心なことはなにひとつ口にしなかった。  金田はなにを狙っているのか。なにを望んでいるのか。知らねばならない。探らねばならない。時間がない。時間を引き伸ばすことはできない。不眠不休の活動が要求される。身体が保《も》たない。だが、あの感覚があれば。あれを再び手に入れられるという確信が持てれば。  中毒している。体温があがる感覚に中毒している。早紀に中毒している。麻美に中毒している。薄汚い己の存在を確認することに中毒している。  出社すると波潟が社長室にこもっていた。 「社長はなにをしてるんですか?」  彰洋は川田はるかに訊いた。 「さあ。とにかく、十時まではだれも通すなって。堤君、お茶でも飲んできたら」  川田はるかはそう答えた。会社の裏帳簿を持ちだしたことはおくびにも出さない。だが、その言葉で直感を得た──波潟は株の売買の指示を飛ばしている。  覗き見への欲望を押し隠して十時になるのを待った。車を待機させた。  波潟が社長室から顔をだした。出向く先を川田はるかに確認して彰洋に目配せする。波潟の鼻の下が赤らんでいる。  彰洋はエレヴェータを呼んだ。波潟とともにエレヴェータに乗りこむ。 「飛ばすように運転手にいっておけ。一時間ばかり時間を作らなきゃならなくなった」  波潟がいう。 「どちらに?」 「帝国ホテル。四時から五時だ。会長に会う」  会長──佐久間和臣。やくざの大親分。 「わかりました」  ルートを計算する。赤坂、霞ヶ関、日本橋──車を飛ばさせる。波潟が打ちあわせを早めに切りあげれば、四時には帝国ホテルに到着できる。  ジェットコースターの綱渡りが成功する。午後三時五十分──車は帝国ホテルのエントランスに滑りこんだ。  いつもの部屋のいつもの場所に松岡が陣取っていた。松岡が波潟を身体検査して部屋の中に押しこんだ。ドアが閉まり、松岡が振り返る。 「久しぶりだな、坊主。きっちりやってるか?」  松岡の声は低い。目つきが険しい。 「なにかあったんですか?」 「おまえの知ったことじゃねえだろう」  松岡は苛立たしげに膝を揺すった。口を閉じて腕を組む。  気づまりな時間が過ぎていく。脳細胞が余計な仕事をはじめる。波潟と佐久間はなにを話しあっているのか。松岡はなぜ不機嫌なのか。松岡はなぜひとりでいるのか。美千隆はあの裏帳簿をどう使うつもりなのか。金田はなにを考えているのか。麻美と市丸はなにを企んでいるのか。  早紀はなにをしているのか。自分はこの先どうなるのか。  神経回路がショートする。脳がオーヴァーヒートする。汗が噴きでる。喉が渇く。目がかすむ。  電子音が鳴り響く。心臓がとまりそうになった。松岡がポケベルを覗きこんで舌打ちした。  彰洋は汗を拭った。 「ひでえ顔色だぞ、小僧。具合でも悪いのか?」  彰洋は愛想笑いを浮かべた。 「昨日、少し飲みすぎまして」  松岡がまた舌打ちした。沈黙が降りる。神経が摩耗していく。だれかがドアをノックした。松岡がドアを開けた。 「すいません、遅れちまって」  がさつな声が響いた。つい最近、耳にしたことのある声だった。 「すいませんじゃねえだろう、馬鹿野郎が」  松岡の声が耳を素通りする。姿を現したのはあの固太りのやくざだった。気障なやくざが待っていた男。気障なやくざから金を受け取っていた男。昨日、殴り倒した男の兄貴分。 「それで、加藤を襲ったってやつは見つかったのか?」  松岡が固太りを詰問する。固太りが苦しそうに首を振る。 「見つけるも見つけねえも、手がかりがなんにもないもんで……他の組にも探りは入れてるんですがね、銀座のど真ん中でうちの者襲うようなやくざ者はおらんですよ」  松岡が固太りの頬を張った。 「ごたくはいいんだよ。だれかが、うちの若いもんをぶちのめしたんだ。落とし前をつけなきゃ、しめしがつかねえだろうが。なんでもいいから、やったやつを見つけてこい」  固太りが怯えたような表情を浮かべる。 「わかったのか、こら!?」 「は、はい」  固太りが身を翻して走り去っていく。  心臓が不規則な脈を打つ。胃が痙攣する。思考の奔流が脳細胞を押し流す。  金田は知っていたのか。波潟と佐久間の関係を。松岡のことを。気障なやくざが松岡の身内であることを。佐久間の身内であることを。知っていてやらせたのか。  知っていたに決まっている。最初からこれを目論んでいたに決まっている。  胃は痙攣を続けている。汗はとめどなく流れ落ちる。喉の渇きは耐えがたい。 「まったく、使えねえやつらだぜ」  松岡は固太りが消えた方向を睨みつけている。 「ちょっと、失礼します」  彰洋は松岡に頭をさげて踵を返した。 「なんだ、吐きにでも行くのか?」  松岡の嘲笑が追いかけてくる。トイレを見つけ個室に飛びこむ。胃の中の物を吐く。吐くものがなくなるまで吐きつづけた。 「くそっ」  涙を流す。涎を流す。便器を蹴りつける。壁を殴る。  眩暈を覚える。屈辱感と無力感が交互に襲ってくる。      * * *  美千隆は六本木で人と晩飯を食べている。会食は九時に終わる。九時二十分に全日空ホテルのバーで待ち合わせた。  金田に美千隆の行動を報告しなければならない。事細かに。そうでなければ金田は彰洋を信用しない。六本木──地元。昔なじみの黒服に話をつけ、ホテルの外で待機させた。  美千隆は時間どおりにやってきていつものようにダイキリをオーダーした。彰洋は目の前のグラスを掴んだ。三十分前にオーダーしたままのビールはぬるく、気が抜けている。 「波潟が佐久間と会いました」彰洋は報告をはじめた。「突発的な面会です。たぶん、波潟が佐久間に呼びだされたんだと思います」 「話の中身は?」 「わかりません。部屋に入れてもらえなかったんで」 「波潟は金を持っていったのか?」  彰洋は首を振った。 「佐久間から金をあずかったか?」  美千隆が言葉を続ける。彰洋はまた首を振った。 「佐久間と話し終わったあとで、波潟になにか変わった素振りはあったか?」 「少し興奮しているようでしたけど……これといって気づいた点はないですね」 「そうか」美千隆がカクテルグラスに口をつける。「波潟は今はなにをしてるんだ?」 「疲れたから、家に帰ると」 「確かめたのか?」 「すみません。今、確かめてきます」  バーを出て、公衆電話を使った。早紀が電話に出た。偽りの愛を囁き、祈りにも似た愛の言葉を繰り返す。波潟の在宅をさり気なく問い質す。波潟は家にはいない。名残り惜しさを装って電話を切る。美千隆のもとにとって返す。 「波潟は家にはいません」 「女か、それともこっちか」  美千隆は小指を立て、親指と人差し指で丸を作る。 「すみません。ちゃんと確かめておくべきでした」 「気にするな。そこまではおれだって期待してないさ。たぶん、金の方だ。波潟が最近目をかけてる水商売の女はだいたい把握してるんだが、これといった話は耳にしてないからな」 「ホステスたちに鼻薬をきかせてるんですか?」 「当たり前だ。こっちだって勝負をかけてるんだからな。金を出し惜しみしてちゃ、勝てる勝負も勝てなくなる。きっと、佐久間の話は東栄通商の株の件だろう。いつになったら儲けが出るのかとか、詰問されたんじゃないかな。佐久間もがめついってことじゃ有名だ」  美千隆がダイキリを飲み干した。彰洋はバーテンの注意を引こうとしたが美千隆に遮られた。 「あまり時間がないんだ。佐久間の件はおれの方から探ってみる。早い時間に解放されたときぐらい、部屋に戻ってゆっくり休めよ、彰洋。最近、顔色があんまりよくないぞ」  美千隆が微笑みながら暖かい視線を向けてきた。心が痛んだ。 「どちらに行かれるんですか?」 「銀座だ。ろくでもない連中との付き合い酒だよ」 「気をつけて行ってきてください。美千隆さんも少し疲れてるみたいだし……ここの支払い、すませておきますから」 「悪いな、彰洋。じゃあ、また明日、連絡をくれ」  美千隆の背中が視界から消えるのを待って、彰洋は黒服仲間のポケベルに連絡を入れた。勘定をすませ、タクシーに乗る。 「銀座まで行ってください。日航ホテルのあたりで。急がなくてもいいから」  タクシーが静かに発進する。  美千隆を尾行する。美千隆の秘密を探る。あさましい行為に神経がざわめく。銀座が近づいてくる。昨日の記憶がうごめきだす。松岡の視線を思いだす。指先が顫える。胃がしくしくと痛む。  新橋の近くでポケベルが鳴った。黒服仲間からの連絡──前もって打ち合わせていたとおり、黒服仲間は日航ホテルのコーヒーラウンジで彰洋を待っている。  タクシーを降りて日航ホテルに入る。やくざたちの姿はない。 「どこだ?」  コーヒーを飲んでいる黒服仲間に訊ねた。 「〈マキシム〉って店に入っていったぜ」  美千隆はすでに六本木で食事をすませている。なぜ、わざわざ銀座で高級なフレンチレストランに足を向ける必要があるのか。  ホテルのロビィの公衆電話を使って金田に電話をかけた。 「齋藤は〈マキシム〉という店にいます。ツテはありませんか?」 「おれをだれや思うとるんや、堤? 〈マキシム〉やな? ほんで、なにを知りたいんや?」 「齋藤がだれと会ってるのかを調べてください」 「よっしゃ。十分後にもう一回電話よこせや」  電話を切って待つ。時間は彰洋の肉体と神経を苛む。  十分後、もう一度金田に電話をかける。 「よく聞いとけや。齋藤は〈マキシム〉のバーで飲んどる。齋藤と一緒におるのは三人や。驚くなよ。婆あがふたりもいよる。齋藤ちゅうのは年増好みなんか?」 「名前を教えてください」 「まずひとりめは、栗岩輝子や。それから、柴田雅美。男が田村大輔やな。女はふたりとも年増やが、男は若く見えるそうや。だれがだれやらようわからんが、なにか思い当たることでもあるんか?」 「あとで連絡します」  彰洋は電話を切った。記憶を探る。記憶を辿る。栗岩と柴田──どちらも聞いたことがある。波潟や早紀の会話の端々に現れていた名前。栗岩正明──与党の代議士。波潟とは懇意。家族ぐるみで付き合いがあると聞いたはずだ。栗岩輝子は栗岩正明の妻──間違いはない。  柴田龍夫──大手ゼネコン〈シバタ〉の創業者一族のひとり。柴田雅美はおそらく、その妻。早紀が話していた──柴田さんのお家の人は、ママとわたしにとてもよくしてくれるの。  つまり──栗岩輝子も柴田雅美も、波潟紀子の友人。美千隆は波潟紀子を籠絡しようとしている。  田村大輔は何者か? 再び記憶を探る。記憶を辿る。田村大輔──聞き覚えはある。だが、記憶を掬いあげようとすると、砂のように掌から零れおちる。  彰洋は再び公衆電話に手を伸ばした。早紀に電話をかけた。 「たびたびごめん、彰洋だけど──」 「どうしたの?」 「田村大輔って名前に心当たりないかな? 今日、電話を受けたんだけど、社長に伝えるの忘れちゃって。大切なお客様だとヤバいからさ」  口八丁手八丁──どれだけ心が痛んでも忘れることはない。 「田村大輔?」早紀の声が高くなる。「大ちゃん、久しぶりだわ。どうしてパパの会社になんか電話したのかしら?」 「それがさ、社長は不在ですっていったら、切られちゃったんだよ。なんだか、慌ててるようだった」 「わたしの従兄弟よ。ママの弟の息子。懐かしいなぁ」 「親戚なのに、あんまり会ってないの?」 「うん……五年ぐらい前に、叔父さんがパパに無心しに来たの。で、パパが怒っちゃって、絶縁。ママがなんとかとりなそうとしたんだけど、パパ、聞く耳持たなくって。それで、疎遠になっちゃったの」 「お母さん、よく社長のいうこと聞いたね」 「だって、おれより自分の家族が大事なら離婚してやるって、パパ、いったのよ。ママもそれで諦めたみたい。叔父さんが貸してほしいっていったお金の額も非常識だったっていう話だし」  波潟紀子の弟と甥。おそらくは、波潟を恨んでいる。 「じゃあ、早紀の従兄弟から電話があったことは、社長には知らせない方がいいかな」 「そうね……その方がいいと思う」 「早紀は叔父さんや従兄弟の連絡先知ってるの?」 「知らない。ママだったらもしかしたら知ってるかもしれないけど」  早紀の口から田村大輔の耳に彰洋のことが伝わるおそれはない。 「わかった。ありがとう、早紀。何度も電話をしてごめんな」 「気にしないで。彰洋ちゃんの声が聞けるだけで、わたし、嬉しいから」  早紀の甘い声は心には届かない。思考の矢が分断された時間を射貫いていく。 「おやすみ。近いうちに、時間作るから。また、お母さんのところにでも遊びに行こう」  早紀の返事を待たずに電話を切った。その場に立ち尽くし、手に入れた情報を分析した。  美千隆は波潟紀子を取りこもうとしている。紀子の血筋を取りこもうとしている。なんのため? 株のためだ。東栄通商ではなく、北上地所の株を手に入れるためだ。  北上地所の株は、五五パーセントを波潟が握っている。二五パーセントが波潟紀子の名義。残りの二〇パーセントは、波潟が賄賂代わりにばら撒いたと聞いている。  考えられるシナリオ──北上地所の外に散らばった二〇パーセント分の株をかき集める。波潟を警察に売る。波潟の東栄通商株買い占めの動きを名神運輸にばらす。波潟は身動きが取れなくなる。その間に名神が態勢を立て直す。波潟の持つ東栄通商の株は意味を持たなくなる。波潟は膨大な額の借金を抱えることになる。その波潟に親切面をして囁く。北上地所の株一〇パーセントと引き換えに借金の一部を肩代わりすると。  美千隆が持つ北上地所の株はそれで三〇パーセントになる。波潟紀子の株と合わせれば五五パーセント。波潟は知らない。美千隆と自分の妻がつるんでいることを知らない。知ったあとなら、波潟は抵抗するだろう。だが、北上地所内部にも、波潟のやり方をこころよく思っていない人間がいる。五五パーセントの株に波潟紀子。波潟にはなす術《すべ》がない。  嫌な音がした。舌の上でなにかが転がった。きつく噛み締めすぎて欠けた奥歯。口の中に血の味が広がっていく。彰洋は歯のかけらを吐き捨てた。  美千隆は東栄通商の株を買うといった。それを波潟に売りつけるといった。すべてはでたらめだった。どこで路線変更したかは知らないが、彰洋にはなにも報せなかった。稲村の件のときと同じように白々しい顔で嘘をついた。王国の話をしながら嘘をついた。彰洋に指輪を贈りながら嘘をついた。波潟と金田の元で、彰洋が神経をすり減らしていることを知りながら嘘をつきとおした。麻美をそうしたように、彰洋も放り捨てた。  指の感覚がなくなっていた。指だけではない。自分が無になったように感じていた。痛みだけがある。頭の奥と胸の奥の耐えがたい痛み。絶望の呻き。あれほど苦しんだのに、これほど汚れたのに、美千隆はすべてをないがしろにした。  美千隆だって波潟だって金田だって、みんな最低なんだから。クズみたいなんだから──麻美の声が耳の奥で谺《こだま》する。  彰洋はスーツのポケットに右手を突っこんだ。美千隆からもらった指輪を握りしめた。指輪が変形するまできつく握りつづけた。      67  彰洋から電話がかかってきた。彰洋の声は張りつめている。顫えている。常軌を逸した響きがある。  彰洋は美千隆の計画を話した。顫える声で美千隆を詰《なじ》った。自分のことは棚にあげている。自分を見失っている。美千隆を絞め殺すという。 「落ち着いて、彰洋ちゃん。そんなことしたってなんにもならないよ」 「だけど、麻美、美千隆さん、おれをゴミみたいに扱ったんだぞ」 「そんなの前からわかってたことじゃない。マミ、何度もいったでしょ? 美千隆なんかクズなんだからって。耳を貸さなかったのは彰洋ちゃんだよ」  彰洋からの応えはない。 「彰洋ちゃんだってもうわかってるでしょう?」麻美は言葉を続けた。「マミたちが生きてる世界って、嘘に囲まれた世界なんだよ。波潟も美千隆もお互いを騙しあって、これっぽっちも他人のこと信用しないで、それでお金を稼いできたの。マミも彰洋ちゃんも、そういう世界に飛びこんだんだよ。自分の意志で。そうでしょう?」  彰洋からの応えはない。 「彰洋ちゃんだって、土地を買うためにたくさん人を騙したでしょう? 他人に同じことされたからって、怒るの筋違いだよ」 「だったら、おれはどうすりゃいいんだよ?」  やっと彰洋の声が返ってきた。数秒前よりは落ち着いている。 「騙すのよ。騙されるより騙す方にまわるの。それしかないんだから。マミと協力して、美千隆を騙そうよ。美千隆にあっかんべーしてやろうよ。ね、彰洋ちゃん」 「美千隆さんをはめて、金を手に入れて、それで、次は他人をはめて、その次は別の他人をはめて、そのうち、今度は自分がはめられるんじゃないかって怯えて、そうやって生きていくのか?」  彰洋は足掻《あが》いている。現実にはないものを見つけようと躍起になっている。 「後戻りはできないんだよ、彰洋ちゃん」  麻美は冷たくいい放った。また、彰洋の声が聞こえなくなる。忙《せわ》しない呼吸音だけが回線を伝わってくる。 「彰洋ちゃん?」 「少し、考えさせてくれ」  唐突に電話が切れた。麻美は受話器を置いた。 「なにがどうなってる?」  市丸が口を開いた。市丸は半裸でシーツを弄んでいた。前戯の最中に彰洋からの電話が鳴った。市丸は不機嫌だったが、今は目を輝かせている。 「美千隆の企んでることがだいたいわかった」  市丸の目の輝きが増した。市丸は涎を垂らしそうになっている。 「美千隆はね、波潟の奥さんを取りこもうとしてるみたい」  麻美は話した。上流階級に属す波潟紀子の女友達と美千隆が会っていたことを。波潟紀子の甥らしき男がその会合に加わっていたことを。彰洋の推測を──北上地所の株の話を。  東栄通商の株の話はただのフェイクだった。美千隆は麻美や彰洋にしゃあしゃあと嘘をつき、地べたを這《は》いまわらせながら別の獲物を狙っていた。彰洋の絶望が手に取るようにわかった。彰洋の憎しみを自分のもののように感じることができた。  市丸の目がらんらんと輝く。唇が獲物を見つけた肉食獣のように吊りあがる。 「マミ、おまえのダチもなかなかやるじゃねえか。その線、大ありだぜ」 「なに喜んでるのよ。美千隆が波潟のところの株を集めて会社を乗っ取ろうとしてるんなら、マミたちの出る幕がないじゃない」  市丸の唇がさらに吊りあがる。 「持ってるんだよ、マミ」 「なにを?」 「北上地所の株だ。ほんの少しだけどな。齋藤も動きだして間がねえだろう。ってことは、まだ二〇パーセントの株を集めきったわけじゃねえ」 「なんで市丸さんが北上地所の株持ってるのよ?」 「馬鹿。北上地所はこの数年、それこそ文字どおりの成長株だったんだぜ。株の大半は波潟が押さえちゃいるが、わずかでも市場に出回りゃ、欲しいって人間はいくらでもいるんだ。あとで儲けるために、おれもいくらか押さえておいたんだよ」  市丸は麻美を押しのけて受話器を持ちあげた。プッシュボタンを押す前に腕時計を覗きこんだ。 「まだ、捕まる」 「どこに電話するの?」 「仕事仲間だよ。明日の朝一から、拾えるだけの北上地所株を拾ってもらうんだ。おれがなんとか五パーセント押さえることができたら、マミ、どうなると思う?」  市丸はプッシュボタンを押しはじめた。麻美は市丸の指の動きを追いながら頭の中で計算した。  波潟が美千隆の誘いに乗って一〇パーセントの株を差しだしたとしたら、波潟の持ち分は四五パーセント。波潟紀子が二五パーセント。美千隆が二五パーセント。市丸が五パーセント。波潟紀子と美千隆が手を組んで五〇パーセント。過半数を制するというわけにいかない。市丸が波潟に力を貸せば、波潟と美千隆は睨みあうことになる。  五パーセントの株を手に入れれば、キャスティングボートを握ることになる。波潟と美千隆を手玉に取ることができる。ふたりにひざまずかせることができる。女王のように振る舞える。  市丸の電話が繋がった。市丸は声を低くして話しはじめる。市丸の背中が大きく見える。市丸がこれまで以上にいとおしく思える。  時が満ちた。歯車が回りはじめた。エクスタシィにも似た喜びが全身を満たした。  麻美は市丸の背中に抱きついた。      * * *  美千隆を牽制しろ──市丸はいった。  彰洋の手綱をしっかり握っておけ──市丸はいった。  いわれるまでもない。早紀と美千隆に電話をかけ、会う約束を取りつける。  まずは、早紀。  表参道から青山までを歩く。ブランド巡り──飽くことがない。歩きつかれたところでお茶を飲む。少しずつ、話題を彰洋の方に寄せていく。 「彰洋ちゃんと一緒にお母さんに会いに行ったんだって?」 「うん。そうなのよ」 「彰洋ちゃん、よく決心したね」 「それがね──」  早紀は幸せそうに微笑んでいる。苛立ちは感じない。 「彰洋ちゃんの方から会いに行こうっていってくれたの。わたしたちのこと、きちんとしたいからって」 「それで、お母さんの反応は?」 「最初はつっけんどんな感じだったけど、最終的には認めてくれたかな……」 「良かったじゃない、早紀」 「うん。本当に良かった」  麻美は早紀の手を取った。早紀が握りかえしてくる。 「大学卒業したら、すぐに結婚するの?」 「それはわからないわ。彰洋ちゃんと、きちんと話したこともないし」 「今から話しておいた方がいいんじゃない。彰洋ちゃん、ああ見えてこういうことにけっこう鈍感だし」 「だけど、男の人って、結婚、結婚っていわれるの嫌がるんじゃないかと思って」 「普通はそうだけど、彰洋ちゃんはだいじょうぶ。なんていっても、早紀にべた惚れなんだから」 「そうかなあ」  早紀は満更でもなさそうに唇を緩めた。 「そうだよ。それにさ、将来のこともちゃんと話しておかなきゃ。どういう家庭を作りたいのかとか。早紀、まさかパパやお母さんと同居するつもりはないよね?」 「もちろんよ」  早紀は即答した。早紀はすっかりその気になっている。 「だったら、どういう部屋に住むのかとか……今からちゃんとしておかないと。彰洋ちゃんって、意外と貧乏でもおれについて来いっていうタイプだよ。早紀、いくら彰洋ちゃんのこと好きでも、貧乏な暮らしには耐えられないでしょ?」  麻美は早紀の全身をわざとらしく見まわした。身なりだけで数百万。早紀がそのすべてを捨てられるはずもない。 「だいじょうぶよ。彰洋ちゃんと一緒なら」  早紀はてらいもなくいう。麻美は首を振った。 「嘘ばっかり。新作のヴィトンやエルメスが着られなくなってもいいって、本気で思ってる? 千葉や埼玉の団地暮らしでも我慢できる?」  早紀の表情が曇る。 「だけど、そんなことにはならないでしょ?」 「それは彰洋ちゃん、今はいいお給料もらってるけど、そのうち独立するかもしれないし、そうなったら、最初のうちは苦しいかもしれないし、そういうこと、ちゃんと話しあっておいた方がいいって」 「そうかな?」 「そうだよ。彰洋ちゃんのこと愛してるし、ずっと一緒にいるつもりだけど、お金の苦労はさせないでねって。彰洋ちゃん、そうしたら張りきるし、きっと早紀の期待を裏切らないよ」 「そうね……」  早紀は眉間に皺をよせてティーカップを指先で弄んだ。真剣に考えている証拠だった。早紀は彰洋を縛りつける。彰洋がそれを嫌ったとしても、麻美には写真がある。彰洋はどこにも逃げられない。      * * *  美千隆とは新宿で会った。美千隆の常宿とは違うホテルの鮨屋。大トロをつまみ、最高級のシャブリを飲む。他愛のない会話をかわす。時間が淡々と過ぎていった。 「今日は、いつもの部屋はどうしたの?」  頃合いを見はからって探りを入れた。 「書類やなんかでちらかっていてな。マミを呼べるようなもんじゃない。それに、たまには気分が変わっていいんじゃないかと思ってな」 「他に女でもできたんじゃないの?」 「どうしてそう思うんだ?」 「だって、美千隆、最近、マミのこと可愛がってくれないもん」 「忙しいんだよ」  美千隆は笑い飛ばしながらビールを口にした。 「そうかなあ。美千隆がマミに冷たくなったの、マミが市丸と寝るようになってからって気がする。市丸に気づかれるとまずいからって都合のいいことだけいって──」 「気のせいだ」 「だったら、この後美千隆の部屋に行ってもいい?」 「今日は約束があるんだ」 「女?」 「いい加減にしろよ、マミ。おれが女より仕事に惚れてることはわかってるだろう」 「美千隆だって、マミが意外に心配性だってこと、わかってるでしょ」  睨みあう。美千隆は決して引かない。負けるのはいつも麻美だ。今日も負ける──振りをする。 「いいよ。そうやってマミのこと放ったらかしにするんだったら、波潟や市丸に全部話してやるから」  美千隆に肘を掴まれた。肘に痛みが走る。 「痛いよ、美千隆。離して」 「冗談でも今みたいなことは口にするなよ、マミ。今度の件に、おれは自分の人生を賭けてるんだ。いくらおまえでもゆるさないぞ」  美千隆の目が燃えあがる。燃えているのは熱い炎ではない。冷たい炎がゆらゆらと揺れている。 「もうマミに用がないんだったら、はっきりそういってよ。波潟にも市丸にもなんにもいわないから。でも、お金だけはちゃんともらうよ」 「だれもおまえが用なしだなんていっちゃいないだろう。時間がないんだ。ただ、それだけだ」  美千隆が肘を離した。麻美は肘をさすった。 「美千隆のこと信じられたら、本当に素敵なんだけどなあ」 「おまえはだれのことも信じないからな」美千隆は首を振った。「とにかく、マミ、おれはおまえを捨てようなんて思ったことは一度もないからな」  美千隆の横顔にはなんの変化も訪れない。平気で嘘を口にできるろくでなし──その臆面のなさに魅かれた。今ではその臆面のなさが心底おぞましい。  麻美は美千隆の腕に縋りついて頬を押しつけた。彰洋にぶつけた台詞をアレンジする。 「週に一回でいいから、こうやって会って。抱いてくれなくてもいいから。波潟、最近、マミと寝てもいかないの。きっと、マミに飽きてるんだよ。それを思うと怖いの。このままだと、波潟に捨てられる。市丸にも、きっと捨てられる。年を取ったら、だれも振り向いてくれなくなる。端た金で捨てられて、マミには結局なにも残らないの。そう考えると怖いんだよ、美千隆。嘘でもいいから、美千隆の声、聞いてたいの。嘘でもいいから、マミを捨てたりはしないっていってほしいの」 「ずいぶん殊勝なことをいうようになったな」  美千隆は優しげな微笑みを浮かべた。目の奥の冷たい炎は消えてはいない。 「少しずつ成長してるんだよ、マミも」 「週に一晩でいいんだな? わかった。努力してみる」  麻美は美千隆の視線からさり気なく顔を隠してほくそ笑んだ。      68  波潟紀子に会わなければならない。波潟紀子の真意を探らなければならない。美千隆が立てた計画の全容を探らなければならない。北海道旅行の日程が迫ってきている。時間がない。時間は容赦がない。  早紀とデートの約束をし、飯を食い、他愛ない話に興じた。  草津へ──波潟紀子の元へ。話を切りだすタイミングが掴めない。  食事を終え、落ち着いたバーに河岸をかえる。彰洋はバーボン。早紀はポートワイン。早紀の頬が赤く染まっていく。  肩を寄せあう──触れあう。早紀の体温を感じる。だが、温《ぬく》もりを手にすることはない。身体は冷えている。冷えきっている。心にぽっかりとあいた穴が、すべてを奪うように飲みこもうとしている。凍えるような寒さに打ち克つには、愛よりも憎しみの炎が必要だった。  部屋へ向かう。忙しなく抱きあう。服を脱ぐのももどかしい。早紀を味わう。早紀に味わわせる。ひとつになる。美千隆への憎悪を愛にすり替えて、早紀に叩きつける。早紀が押し殺した声をだす。  荒い呼吸のまま抱きあう。早紀が腕を絡めてくる。足を絡めてくる。 「帰りたくないな」早紀がいう。「ずっとこのまま彰洋ちゃんと一緒にいたい」 「そのうち、ずっと一緒にいられるようになるよ」 「そのうちって、いつ?」 「そんなに遠くない将来さ」 「一年後? 五年後? 十年後?」 「なるべく早くだよ」 「彰洋ちゃん、早紀と結婚してくれるの?」  早紀の声は顫えている。彰洋は早紀の頭を抱きしめる。 「もちろんさ。そのために……社長に認めてもらえるように、今、頑張ってるんじゃないか」  喋りながら思案を巡らせる。早紀の方からきっかけを作ってくれた。うまく利用しなければならない。 「結婚してくれるっていって」 「早紀と結婚するよ」  彰洋はいう。罪悪感は感じない。 「本当にいいの? わたし、普通の女の子より難しいでしょう?」 「どこが? 難しくなんかないよ」 「だって、世間知らずだし……お金もかかるし」 「金はちゃんと稼ぐよ」  地価はあがりつづけている。株価もあがりつづけている。波潟と美千隆と金田をうまく騙しとおせれば、軍資金も手に入る。分不相応の金を望めばきりがない。だが、早紀の我儘を聞いてやれるだけの金には不自由しないはずだ。  早紀がしがみついてくる。彰洋の首筋にキスをする。 「これってプロポーズになるのかしら? だったら、少し変?」 「他の人間がどうやってプロポーズしてるのかなんて、知らないからな……変かも知れないけど、いってくれっていったのは早紀だよ」 「そうだけど。もうちょっとロマンチックな感じのときにいってもらえばよかったかも」  早紀が身体を押しつけてくる。彰洋は早紀の腰にまわした両腕をおろす。早紀の柔らかい尻の肉を掴み、引き寄せる。 「お母さんに会いに行こうか」早紀の耳元で囁く。「おれが早紀に正式にプロポーズしたこと、報告に行くんだ」 「いいの?」 「当たり前だよ。まだ、社長には報告できないけど、お母さんにはちゃんとしておかないと」 「いつ?」 「いつでもいいよ。だけど、こういうことは早い方がいいのかな。今度の週末、早紀、空いてる?」 「うん。ママにも確認するから。彰洋ちゃん、大好き」  早紀が唇を押しつけてくる。彰洋は早紀の舌を吸う。早紀が顔を離す。 「じっとしてて、彰洋ちゃん」  早紀の顔がさがっていく。乳首を舐められる。脇腹を舐められる。彰洋は勃起する。勃起したものを含まれる。早紀の舌の動きは幼い。麻美の舌を恋しく思う。  みんなクズみたいなんだから──麻美の声が頭の中で谺《こだま》する。      * * *  マッハのスピードで平日が過ぎていく。波潟はいつもと変わらない。美千隆は相変わらずそしらぬ顔をしている。金田は情報をよこせと喚きたてる。麻美からの連絡はない。東栄通商の株価は少しずつ、だが確実にあがりつづけている。  早紀から電話が入る。波潟紀子からのOKの返事を伝えてくる。早紀ははしゃいでいる。  体温はさがったまま。おそらく、あの感覚は二度と得られない。  週末がやってくる。ロードスターを飛ばす。前回と同じ道のり──記録的な速さで草津に到着した。マンションの駐車場にロードスターを滑りこませる。  前回に勝るとも劣らぬ食事が彰洋と早紀を待ち受けていた。 「今日は泊まっていきなさいな」波潟紀子がいう。「堤君のゲストルームもお掃除させておいたから」  彰洋は早紀を盗み見る。早紀は微笑んでいる──あらかじめ了解済み。おそらく、最初からそのつもりだったのだろう。 「もちろん、早紀とは別の部屋で寝てもらいますけど」  波潟紀子が早紀にいった。 「いちいちいわれなくてもわかってるわよ」  早紀がへらず口を叩いた。  土曜日──会社は休み、美千隆への報告の義務もない。問題は金田だ。嘘を用意しなければならない。早紀と波潟紀子の目を盗んで電話をかけなければならない。いずれも逼迫《ひつぱく》した問題ではない。  食事を取る。ワインを飲み、世間話をする。早紀が先に酔いはじめる。波潟紀子がそれに続く。波潟紀子の隙をみて、早紀が彰洋を促した。 「あの、奥さん」会話の切れ目──居住まいを正す。「今日は、報告したいことがあって来させてもらったんですが……」 「あら、なにかしら?」 「先日、早紀さんにプロポーズしました」  波潟紀子は瞬きを繰り返した。 「それで……早紀さんから、承諾の返事をいただきました」 「あら、大変ね」  波潟紀子は意味をなさない言葉を呟いた。 「ゆるしていただけるでしょうか?」  波潟紀子は答えない。赤かった頬が元の色に戻っていく。 「ママ」  早紀が焦れたようにいった。波潟紀子が早紀を見た。 「本気なの、早紀? よく考えたの? 一時の気の迷いならやめなさい。ママがもっといい人、探してあげる」 「ママ! 他の人なんかいらないわ。わたしは彰洋ちゃん……堤さんが好きなの。愛してるわ。結婚したいの。堤さんと一緒に暮らしたいの。堤さんの子供を産みたいの」  早紀は酔っていた。言葉を一気にまくしたてた。波潟紀子が目を閉じた。 「ママ」  早紀が叫ぶ。波潟紀子は反応しない。じっと目を閉じている。死人のように動かない。  早紀が彰洋を見る。彰洋は小さく首を振る。  一か八かの賭け──負ければ別の手だてを考えなければならない。すべては波潟紀子にかかっている。賽は投げられた。目が出るまで、待つほかはない。 「ママ。なにかいってよ。いってくれなきゃわからないじゃない」  早紀が懇願した。波潟紀子が目を開いた。 「早紀、堤君とふたりだけにしてくれないかしら」 「ママ!」 「ママの気が変わらないうちに早くするのよ、早紀」  早紀は恨めしげに波潟紀子を睨んだ。波潟紀子は動じない。早紀は席を立ち、ドアを荒々しく閉めて部屋を出ていった。 「我儘な子で困ったものだわ」  波潟紀子はいった。怒りの色はない。彰洋は肩から力を抜いた。 「優しいお嬢さんです」 「どうかしら。波潟の血を引いてるのよ、あれでも」 「生まれと育ちは違うんじゃないでしょうか?」  波潟紀子が嘲笑した。 「育ちもなにも、わたしと波潟が育てたんだから」  波潟紀子がグラスに手を伸ばした。彰洋はそのグラスにワインを注いだ。 「あなたも不思議な子ね、堤君。金まみれの世界に自分から飛びこんできて、波潟なんかのお尻にくっついてあれやこれややってるくせに、時々、心根の優しいところを見せてくれるわ」  波潟紀子はワイングラスを呷《あお》った。唇から溢れたワインが首筋を濡らした。ティファニィのホワイトゴールドにダイヤをあしらったネックレスが濡れた。波潟紀子は頓着しない。 「勘違いしちゃだめよ。誉めてるわけじゃないんだから。波潟も昔はそうだったわ。あれで、とても優しいところがあったのよ。だけど、お金を稼ぎはじめてからは人が変わったわ。大事なのは自分でも家族でもなくて、お金。お金がすべて。お金を稼ぐためなら平気で汚いことに手を染める。そうやってるうちに、本当の自分の心まで薄汚れていくの。わたしも人のことはいえないけど」  彰洋はワインを口に含んだ。味がわからなくなっていた。もっと強い酒が欲しかった。 「波潟の財産目当てに早紀と結婚しようと考えてるんなら、無駄よ。波潟はもうすぐ一文無しになるわ」  波潟紀子の顔から表情が消えた。彰洋の反応を待っている。爆弾を落としたつもりになって悦に入っている。驚きはなかった。やはりそうなのかという思いが、憎悪の炎に油を注いだだけだった。  自分を叱咤する。演技を強要する。驚いた素振り。傷つけられたという表情。すべてが入り交じり、そこから湧きでてくる真実──感情。 「早紀さんが好きなんです。それだけです」  声帯が顫え、言葉を発する。脳細胞が忙しく回転する。波潟紀子は自分の勝利を確信している。美千隆と手を組んだことで、波潟を打ち倒すことができると信じている。 「どうして波潟が一文無しになるのかは訊かないのかしら?」  波潟紀子が嗤う。波潟紀子の仕種はすべてがわざとらしい。波潟紀子は演技をしている──彰洋がそうするのと同じように。  正念場──芝居を続けろ。波潟紀子より上手に、自然に。役者としての経験なら、波潟紀子にははるかに勝っている。そうやって土地を取りあげてきた。金を巻きあげてきた。体温があがる感覚を味わってきた。心を失っていった。  やめろ──落ち着け。  波潟紀子に気づかれないように息を吸う。言葉を紡ぎだす。 「社長のことは関係ないんです。ぼくは、ひとりの人間として早紀さんを愛してる。早紀さんと暮らしたい。それだけです」  波潟紀子は嗤いつづける。 「短期間で波潟によくそこまでしこまれたものね」  波潟紀子は知らない。彰洋をしこんだのは美千隆だ。波潟ではない。美千隆は波潟紀子にも真実を話さない。だれにも真実は話さない。 「奥さんがなんと思われようとかまいません。実際、ぼくが社長に命じられてやってることは、人様にいえたようなものじゃないですから。でも、ぼくは早紀さんが好きなんです。早紀さんと結婚します」 「わたしも早紀が可愛いのよ。波潟が一文無しになるっていうことは、堤君、あなたが勤め先を失うってことね。将来のない人に、早紀を嫁がせることはできないわ」  波潟紀子が睨みつけてくる。彰洋はそれを受け止める。 「だったら、駆け落ちするしかないですね」  波潟紀子が目をそらし、溜め息を漏らす。  彰洋は自分の勝利を確信した。 「しょうがないわね」 「すみません」 「あなた、波潟からお給料をいくらもらってるの?」 「手取りで五十万です」  美千隆からは百万をもらっている。それを口にする必要はない。 「ボーナスを入れて年収、手取りで八百万?」  波潟紀子の声には疲れた響きがあった。 「まだ社長のところには一年いませんから確かなことはわかりませんけど、それぐらいだと思います」 「その年収じゃ、早紀は養えないわよ」 「八百万でですか?」 「とてもじゃないけど、無理ね。あの子が毎月お洋服にいくら使ってるか、知ってる?」  予想はつく。だが、首を振る。 「二百万はくだらないわよ。そんな贅沢になれた娘が、いくらあなたを愛してるからって、急に質素な暮らしを受け入れられるはずがないわ」 「頑張りますよ。もっと必死になって働けば、収入だってあがります」 「そうね……わたしの秘書ってことで雇いつづけてあげれば、お給料もあげてあげられるわ」 「奥さんの秘書ですか?」 「そうよ。北上地所はわたしのものになるの。波潟とは離婚して、慰謝料をふんだくって、それから追いだすわ」  波潟紀子は含み笑いを漏らした。話題が核心に近づいてきている。ワインの酔いと彰洋の芝居が波潟紀子から警戒心を奪っている。 「でも……どうやって」 「その前に、誓いなさい」  波潟紀子が凜とした声でいった。 「なにをですか?」 「早紀を不幸にしない。早紀を絶対に裏切らない」 「誓います。ぼくは早紀を必ず幸せにします。早紀を裏切ったりはしません」  無重力を漂う言葉。爪の先ほどの重みもない。嘘をついてはいかん、人を騙してはいかん、人の物を盗んではいかん──祖父との約束さえ反故にしてきた。  やめろ──自己憐憫に酔っているときではない。良心の呵責など下水道に流してしまえ。大事なのは美千隆の鼻を明かすことだ。美千隆に汚泥の中を這《は》い回らせることだ。ひとときの感情、ひとときの快楽──すべて、打ち捨ててしまえ。  波潟紀子が廊下の様子をうかがった。早紀の気配はどこにもない。 「あなたとも関係のある人が、わたしに力を貸してくれるの」  波潟紀子は囁く。 「ぼくと関係のある?」 「齋藤さんよ」 「齋藤がですか? だけど、齋藤は……」 「齋藤さんも、波潟には何度も煮え湯を飲まされてるのよ。彼とはそんなに面識がなかったんだけど、わたしの甥がたまたま彼と知り合いだったわけ」  からくりが明らかになる。田村大輔──波潟紀子の甥は田舎でくすぶっている。美千隆と接点があるはずもない。接点は美千隆が恣意的につくりあげたものに違いない。 「甥と一緒に彼と会ってね。波潟と同じ世界の人だから、最初は信じるつもりにはなれなかったんだけど、わたしのお友達の何人かが、偶然、彼のことを知っていて──」  波潟紀子が問わず語りに語りだす。からくりがさらに明らかになる。栗岩輝子と柴田雅美──代議士の妻と財界人の妻。美千隆は色男だ。土地持ちの中年女を手玉に取るところを何度も見ている。ふたりの女が、同じように手玉に取られたとしても不思議ではない。  血の繋がった甥と、エスタブリッシュメント出身の女友達を使った包囲網。波潟紀子は田舎育ちだ。血筋に弱く、エスタブリッシュメントにも弱い。三人から、齋藤美千隆は信用できるといわれれば、鵜呑みにする。 「それで、わたしも決心したのよ。北上地所の株はね、波潟が五五パーセント持ってるの。わたしが二五パーセント。残りの二〇パーセントが社外に出てるんだけど、それを齋藤さんが集めてくれる──」 「だけど、それじゃ、社長の株の数にはかないませんよ」 「だから、齋藤さんが計画を立ててくれてるのよ」波潟紀子は笑いつづけていた。「波潟は今、またろくでもないことを企んでるらしいの。だけど、その企みっていうのは、秘密を完全に守らないとうまくいかないらしいのね。それで、齋藤さんが波潟の企みをどこかにバラすと、波潟、とても困ったことになるのよ。そのときに、齋藤さんが波潟に株と引き換えに融資するって申し出るわけ。五パーセントから一〇パーセントなら、波潟も話に乗るって齋藤さんは請け合ったわ。その株を足すと、五〇パーセントを越えるのよ。波潟は、自分が築いてきた会社を手放すことになるの」  波潟がとても困ったことになる──北上地所が窮地に追いやられる。株を手に入れ、波潟を追いだし、波潟紀子が手に入れた北上地所はただの抜け殻だ。持っている資産は不動産だけ。素人の波潟紀子が経営に乗りだしても、ハイエナのような連中に食い物にされるだけなのは目に見えている。  美千隆はそれを狙っている。自分の狙いをひた隠しにしている。 「ちょっと待ってください。齋藤さんが……齋藤が株を手に入れたら、奥さんに全面協力するっていったんですか?」  波潟紀子の目が細まった。 「いったわ。それが問題?」 「ええ。ぼくは社長の前は齋藤のところにいたんですよ。あの人のことはよくわかってます。無償で他人に協力するような人じゃありません」 「ただじゃないわよ」波潟紀子が鼻を鳴らす。「北上地所がわたしのものになったら、齋藤さんには顧問になってもらうわ。もちろん、役づきで。わたしは不動産に関しては素人だから、齋藤さんにアドバイスしてもらうことになってるのよ」  彰洋は呆れたというように首を振った。波潟紀子が鼻の穴を膨らませた。 「奥さんは素人だから、齋藤になにをいわれてもわからない。きっと、会社を乗っ取られるか、会社の資産をただ同然で横取りされてそれで終わりですよ」 「ずいぶん自信たっぷりね」 「奥さんもさっきいったじゃないですか。金のことばかり考えてると、心まで薄汚れてくるって。齋藤もそうです。あの人は社長と同じなんですよ」  心の奥底から出てくる言葉は真実味に溢れている。人を撃つ。 「でも、わたしの甥も、栗岩さんも、齋藤さんは信用できるって──」 「みんな、騙されてるんですよ、齋藤に。あの人には人をたらしこむ才能があるんです。そうじゃなきゃ、あの若さであそこまで成功しませんよ」  波潟紀子は半信半疑の目で彰洋を見つめた。 「ぼくを信じてくれとはいいません。でも、お義母さんが齋藤に騙されて、一文無しになったら、それこそ、ぼくひとりじゃ、早紀を養えなくなるかもしれない。早紀とぼくが幸せになるためにも、お義母さんには騙されてほしくないんです」  お義母さん──波潟紀子は拒絶しない。波潟紀子は彰洋の言葉に傾きかけている。 「確かめてみるわ」  波潟紀子が腰をあげた。 「なにをするつもりですか?」 「わたしのお友達に電話するの。それで、その人が齋藤さんに騙されてるのかどうか確かめるわ」 「それは待ってください。もしお義母さんの友達の口からそんなことが齋藤に伝わったら、あの男は必ず警戒します。それより、ぼくたちで策を練った方がいい」 「齋藤さんがわたしを騙そうとしてるっていう証拠はどこにもないじゃない」  彰洋は腕を組んで波潟紀子をじっと見据えた。 「社長はいつもいってます。相手が自分を騙そうとしているかもしれないといつも考えておけって。騙そうとなんかしていないんならそれでいいし、もし騙そうとしてるならその対応策を考えておくだけで事態は全然違ってくる。社長も齋藤も同じ世界の人間ですよ」  波潟紀子の目が吊りあがった。 「あなただって同じでしょう」 「ぼくにはお義母さんを守らなきゃならない動機があります。それに、お義母さんにうまく取り入って、あとでなんとかしようにも、ぼくには力もないし、コネもない」 「馬鹿ね。あなたには若さっていう力があるのよ。今は無理でも、十年後、二十年後にはわたしを裏切らないっていう保証はどこにもないわ」  波潟紀子は信じはじめている。美千隆に騙されつつあったという事実を認めている。 「さっき、誓いました。ぼくは早紀を幸せにする。絶対に裏切らない」 「本当に馬鹿ね。人は変わるのよ。あなたに誓わせたのは、今の気持ちを知りたかっただけ。波潟だって、昔は優しい男だったわ」 「じゃあ、どうするんですか?」  波潟紀子は肩を落とした。 「五十年近く生きてきて、頼れるのが自分の娘と同い年の若い男だけ。そんなおばさんになにができるっていうのよ」 「ぼくに任せてください。なんとかします。ぼくがお義母さんと早紀の財産を守ります」 「好きになさい」波潟紀子は崩れるように腰をおろし、なげやりに手を振った。「しばらく、ひとりにしておいて。早紀も拗ねてるはずよ」  彰洋は腰をあげて頭をさげた。波潟紀子はうつむいたまま顔をあげようとはしなかった。      * * *  早紀は寝ていた。唇が小さく開いている。彰洋はベッドに腰をおろした。ベッドが軋《きし》み、早紀が目を開けた。 「彰洋ちゃん?」 「ごめん。起こしちゃった」  彰洋は早紀の額に唇を押しつけた。 「ママは?」 「少しひとりでいたいって」  早紀が身体を起こした。 「まだゆるしてくれないの?」 「いいや。ぼくたちのことはゆるしてくれたよ。ちょっとワインを飲みすぎたようだった」 「ほんと? 本当にゆるしてくれたの?」 「ああ」 「素敵」  早紀が抱きついてきた。早紀の歓びが直《じか》に伝わってくる。 「ねえ、いつ式をあげる? わたし、教会がいいな。ミニのウエディングドレスを着るの。可愛いと思わない? 新婚旅行はヨーロッパ。どこかのお城みたいなホテルに籠って、ふたりだけでずっといちゃいちゃしてるの」  早紀はマシンガンのように言葉をまき散らす。彰洋は早紀の髪の毛を撫でた。昏《くら》い目で宙を睨んだ。  波潟は美千隆の手で破滅させられる。美千隆は、彰洋と麻美の手で破滅させられる──おそらく。波潟紀子と早紀はその巻き添えを食う。早紀はいとおしい。麻美との褥《しとね》が恋しい。美千隆が憎い。  身体中の神経細胞がなにかを欲して顫動《せんどう》している。 「そう焦るなよ。まだ、社長のゆるしをもらったわけじゃないんだから」  波潟紀子をうまくいいくるめることができた。早紀にもできないわけがない。 「ママがゆるしてくれたんだったら、もうだいじょうぶよ。パパがいくら反対したって、わたしがパパの家を出てママと一緒に暮らしはじめたら、すぐに慌てるんだから」 「そういうわけにはいかないよ。どうせ結婚するんなら、みんなに祝福されたいだろう?」 「うん……」  早紀は上目遣いに彰洋を見た。恨めしげな視線が彰洋を射貫く。 「おれ、頑張るから。な?」 「うん。わたし、彰洋ちゃんのこと、信用する」 「ありがとう。それからもうひとつ、早紀に謝らなきゃならないことができた」 「なに?」 「これから、東京に帰らなきゃならない」  麻美と話をしなければならない。美千隆をどうはめるのか、細部を煮詰めていかなければならない。時間はない。時間が足りない。時間は待ってはくれない。 「どうして?」 「仕事をひとつ忘れてた」 「だって、彰洋ちゃんが、今日がいいっていったのよ」 「だから、ごめん。この埋め合わせは必ずするから」 「彰洋ちゃんと朝まで一緒にいられると思って、楽しみにしてたのに」 「ごめんよ」 「行っていいわよ、もう。でも、電話してくれても、二、三日出ないかもしれないから」 「ごめんな。本当に、必ず、この埋め合わせするから」  早紀が彰洋に背中を向けた。彰洋は部屋を出た。後ろ髪を引かれるようなことはなかった。      69 「マミ、おまえ、いくら持ってる?」  電話の向こうから、市丸の忙しない声が聞こえてきた。麻美は反射的に身構える。 「お金なんかないわよ」  一瞬の沈黙が降りる。苦笑いしている市丸の顔が脳裏に浮かび、頬が熱くなった。 「そうつんつんするなよ、マミ。なにもおまえから金巻きあげようってわけじゃねえんだ。波潟のところの株を拾うのに、少しでもいいからタマがいるんだ」 「お金なんかないってば」 「いい加減にしろって。おまえが波潟からくすねた金をちまちま貯めこんでることは知ってるんだ。一千万か? 二千万か? 三千万か? どうせそんなところだろうが? たったそれだけの金を後生大事に抱えてこの先ちまちま生きてくのか、マミ? こっちはそれでもかまわねえけどな、ここでがつんと勝負かけりゃ、それこそ一生困らねえだけの金を手に入れられるかもしれないんだぞ。おまえ、おれに乗ったんだろう? 一世一代の勝負に打って出ることにしたんだろうが?」  市丸の言葉には理が通っていた。だが、感情は理性では制御できない。身体を張って貯めたお金。薄汚れた男たちの性欲の吐け口となることで得たお金。他人に後ろ指差されながら貯めたお金。自分の人生のために貯めたお金。一瞬であっても自分の手元から離れていくことは我慢できない。 「聞いてんのか、マミ?」 「どうしてもお金、必要なの?」 「ああ。だれかが──たぶん、齋藤だろうが、北上地所の株を手広く集めてる。そのせいで、値があがってるんだ。おれの持ち金だけじゃほんの少し足りねえ」 「いくらいるの?」 「とりあえず、二千万だ」  脳細胞が叛乱を起こした。視神経が迷走した。筋肉細胞が役目を放棄した。麻美はその場にへたりこんだ。 「そんな大金、出せないよ」  麻美は泣きながらいった。 「落ち着け。落ち着いて、おれがさっきいったことをよく考えろ。北上地所の株を五パーセント手に入れりゃ、おれたちは有利に勝負を進められるんだ。そうなりゃ、二千万が二億になる。二億が二十億になる。波潟のとっつぁんと付き合っててよくわかったろうが。金はよ、金があるところに集まっていくようにできてるんだ。二千万や三千万の端た金じゃどうにもならねえ。だがな、マミ、億の金を手に入れりゃ、それを十億にすることなんぞ、わけねえんだ」 「わかってるよ。わかってるけど……」  預金通帳の数字が頭の中で躍っている。骨から肉を切り離されるような痛みを覚える。 「腹括れよ、マミ。おれはこの件でそれなりの金を使ってる。ここで降りたら、おれも一文無しだ。とてもじゃねえが、おまえにいい目を見させてやることなんかできねえ。そうなりゃおまえはおれを見捨てるんだろうが、新しい男を見つけるのは骨だぞ。波潟の愛人は有名だからな」  麻美は電話を切って髪の毛を掻きむしった。立ちあがって鏡を覗く。電話が鳴りはじめたが無視した。鏡の中を凝視する。  醜い女が麻美を見つめている。髪の毛が乱れている。マスカラが涙で溶けて頬にいくつもの筋をつくっている。目に力がない。肌に張りがない。唇が荒れている。  十年後の自分──二十年後の自分。  耐えがたい。ゆるせない。  電話は鳴りつづけている。麻美は受話器を取った。 「なんだっていきなり切るんだ、馬鹿野郎!!」  市丸の声が鼓膜を顫わせた。 「いつまでに必要なの?」  麻美はいった。目尻から涙がこぼれた。      * * *  麻美から受け取った二千万を懐に入れて市丸はそのまま兜町にとんぼ返りした。  麻美は部屋に閉じこもってカーテンを閉めた。電話を留守番電話に切り替え、シーツを身体に巻きつけた。  預金通帳と睨めっこする。  三千万に近かった残高が、一千万を割っている。いくら通帳を睨んでも数字が元に戻ることはない。  寒気を感じる。自分の弱さを思う。金がない自分を想像する──若くて、プロポーションがいいだけのただの娘。生意気で、自己顕示欲が強く、他人に対する思いやりに欠けている。人を愛することより憎むことの方がうまい。だれにも愛されない。だれにも好かれない。  金があれば、なにも気にせずにすむ。  麻美は預金通帳を凝視する。目が乾いてきてちくちくと痛みだした。それでも、預金通帳から目を離せない。  涙が出てくる。痛みのせいなのか、悲しみのせいなのかはわからない。  麻美はドレッサーの抽斗《ひきだし》を開けた。無惨に変形したラ・フラムを手に取る。  この時計を売れば一千万近い金になった。それだけの金がまだ手元に残っていれば、心の痛みももっと軽くてすんだ。  激情に駆られてラ・フラムを叩き壊した。くだらないことをした。無駄なことをした。  麻美はラ・フラムを凝視しながらどこにもいない神に宣誓した。  もう二度としない。もう二度と愚かなことはしない。もう二度とこんな惨めな思いをしたくはない。お金が欲しい。お金を手に入れる。そのためにはどんなことでも臆さずに実行する。破滅を恐れない。いつも、成功だけを追い求める。  麻美はラ・フラムをゴミ箱に捨てた。明かりを消して眠りにつく。  不眠は美容の大敵だ。これ以上愚かなことをしつづけるわけにはいかない。      * * *  電話が鳴っていたが、麻美は無視した。波潟と別れるまでの短い間に、どうやって波潟から金を巻きあげるかを考えた。留守番電話が作動し、無味乾燥な合成音声が聞こえはじめる。音を彰洋が遮った。 「麻美、いないのか? 相談したいことがあるんだ。いるんなら、電話に出てくれ」  麻美は慌てて電話に出た。 「大声で電話してくるのやめてよ、彰洋ちゃん。波潟がいたらどうするつもり?」 「悪い。いろんなことがわかったんだ。美千隆さんのやろうとしてること、だいたい掴んだと思う」 「どういうこと?」 「さっきまで、波潟の女房のところにいた。それで、聞きだしたんだ。どうして美千隆と手を結ぶことになったのかとか」 「もっと詳しく話して」 「公衆電話なんだ。カードの度数がもうあんまり残ってない。どこかで会えないか?」  彰洋は逸《はや》っていた。興奮していた。彰洋の興奮が伝染する。気分が昂揚してくる。 「いま、どこにいるの?」 「草津だ。飛ばして帰る」  麻美は時計を見た。中途半端な時間──土曜日の夜。波潟はゴルフ帰りでくたびれきっているに違いない。波潟がこの部屋に寄る可能性は少ない。市丸は麻美の不機嫌に辟易している。おそらくは、週明けまで連絡してくることもない。 「じゃあ、マミの部屋に来て。待ってるから」 「わかった。できるだけ早く行く」  麻美は受話器を置いた。部屋を片づけ、ベッドを整える。シャワーで入念に身体を洗う。  気分は昂揚しつづけている。まるで恋をしたばかりのときのように。  身仕度を整えて彰洋を待った。預金通帳を眺める。額の減った残高──もうそれほどは気にならなかった。      * * *  彰洋は二時間でやってきた。麻美はキッチンでコーヒーを淹れ、リヴィングに戻った。 「早かったね」  彰洋の前にコーヒーを置いた。 「飛ばしてきた。あんなにスピード出したの、生まれて初めてだよ」  彰洋はまだ興奮している。電話以上の強さで彰洋の興奮が伝染してくる。乳首が勃起するのを麻美は感じた。 「そんなに凄いネタ掴んだわけ?」 「凄いってわけじゃない。ただ、美千隆の狙ってるからくりがだいたいわかったってことだけだ。からくりは読めたけど、そのあとどうしたらいいのかがおれにはわからない。それで麻美に相談したくて」 「まず落ち着いて、コーヒー飲んで。それから、詳しく話して」  麻美は母親のようにいった。彰洋が素直に従い、コーヒーに口をつけた。一口だけ啜って堰《せき》を切ったように話しだした。  麻美は耳を傾け、彰洋の話を咀嚼し、吟味した。  北上地所の株の話。美千隆が仕組んだ波潟の妻への包囲網の話。波潟を追いだし、波潟の妻を北上地所の社長に据えたあとで美千隆が狙っているストーリィ。  彰洋からの伝染にすぎなかった興奮が自らのものへと変化する。 「波潟の奥さんは、もうこのからくりを知ってる。勝手なことはしないようにと釘も刺してある」 「あら、あの女がよく彰洋ちゃんの話に乗ったわね」 「おれは将来の娘婿だ。うまく丸めこんだよ」彰洋は不機嫌そうに顔をゆがめた。「そんなことより、これから先、おれたちがなにをすべきかってことだ。美千隆が北上地所の株を二〇パーセント押さえて、波潟からもう一〇パーセントをせしめても、波潟の奥さんの協力がなければなにもできないし……」 「美千隆が集められるのは一五パーセントだけよ」麻美は彰洋を遮った。「五パーセントはマミたちが持ってるの」 「麻美たち?」 「そう。マミと市丸。美千隆の思惑どおりにことが運んでも、美千隆とあの女の株を合わせてもちょうど五〇パーセントにしかならないの。マミと市丸が波潟につけば、すくみあいになるのよね。主導権はマミたちが握るってわけ」 「いつから北上地所の株を?」 「こないだ、彰洋ちゃんから話を聞いてすぐに動いたの。その前にも、市丸が少しだけ北上地所の株を持ってたんだけど」 「それにしたって……」彰洋は腕を組んだ。「五パーセントじゃなにもできない。波潟につくにしても、すべてが終わったあとで放りだされるだけってことになるんじゃないか。市丸って男はその先のことは考えてないのか?」 「まだなにも決めてない。とりあえず、株を押さえることが先決だと思って」  彰洋は舌打ちした。 「他にもなにか手を打たなきゃだめだ。五パーセントの株だけじゃ、波潟や美千隆にいいようにあしらわれるだけだ」 「そんなにいうんなら、彰洋ちゃん、なにか考えてよ」  麻美はいった。興奮が嘘のように消えている。 「金田を引きこむか……」  彰洋がぽつりという。 「だめだよ、そんなの。金田だって、美千隆と同じような男なんでしょう?」 「波潟や美千隆に対抗できるような人間は金田みたいなやくざ者しか思い浮かばない。他の手を考えなきゃ」 「市丸にも相談しようか? あいつなら、もっといい考え持ってるかも」 「おれが一緒に行ってもいいのか?」 「だいじょうぶ。彰洋ちゃんのこと、ちゃんと説明してあるから」  麻美はいったが、彰洋はどこか上の空だった。昏い目をして、なにかを考えこんでいた。 「彰洋ちゃん」  麻美は彰洋に声をかけた。彰洋が瞬きを繰り返した。 「あ、ああ。わかった。市丸と相談しよう」 「ちょっと待ってて。電話してみるから」  麻美は市丸に電話をかけた。呼びだし音が鳴りつづけるだけで留守番電話も作動しなかった。諦めて市丸のポケベルを呼びだし、受話器を置いた。 「ごめん。電話、繋がらないみたい。ポケベルに連絡入れたから、向こうから電話かかってくるの待たなきゃ」  麻美は振り返った。彰洋はまだ考えこんでいる。  真剣な彰洋。真摯な彰洋。昔から変わらない。ひとつのことに没頭すると周囲が目に入らなくなる。昔と違うのは目の輝きだ。昔はきらきらと輝いていた。今は昏く沈んでいる。憎悪に彩られている。彰洋は美千隆の鼻を明かすためならなんでもするだろう。  血が騒ぐ。薄っぺらな正義感につき動かされていた彰洋より、憎悪にまみれた彰洋の方が好感が持てる。彰洋は今、麻美と同じ土俵に立っている。首まで汚泥に浸かっている。  血が騒ぐ。彰洋がいとおしい。  麻美は彰洋の隣りに移動した。彰洋がぼんやりした視線をあげた。麻美は彰洋の肩に自分の頭を乗せた。 「このままでいさせて。なにもしなくていいから。彰洋ちゃん、自分の考えに集中してていいから」  麻美は目を閉じ、彰洋の体臭を嗅いだ。血が騒ぐ。性欲には直結しない。不可思議な感情だが、悪い気分ではなかった。      70  五パーセントの株──思案を巡らせる。もっとも有効な使い道を考える。  波潟の株が五五パーセント。波潟紀子が二五パーセント。美千隆が一五パーセント。市丸と麻美が五パーセント。  美千隆が波潟から五ないし一〇パーセントの株を譲り受ける。中間を取って七パーセントと考える。  波潟が四八パーセント。波潟紀子が二五パーセント。美千隆が二二パーセント。市丸と麻美が五パーセント。波潟紀子と麻美たちの株を足して三〇パーセント。美千隆には勝てるが、波潟には勝てない。  美千隆を味方につけ、波潟を追いだし、その後で美千隆も追放するというのは難しい。美千隆の力は強い。市丸がどうかはわからないが、彰洋と麻美と波潟紀子が束になっても、美千隆には子供扱いされるおそれがある。  美千隆を排除し、美千隆の株を手に入れなければならない。  どうすれば美千隆を排除できるか。どうすれば、美千隆の株を手に入れられるか。  麻美が隣りに腰をおろし、肩に頭を乗せてくる。柑橘系の香水が香る。麻美の体温を感じる。  性欲は感じない。フル回転する脳細胞がすべてを拒否する。  どうやって美千隆を排除するか。どうやって株を手に入れるか。どうやって美千隆の鼻を明かすか。  脳細胞に刻まれた情報を総動員する。  美千隆は波潟の弱みを握っている。波潟は弱みを握られていることを知らない。情報の欠落。それを利用して美千隆は波潟をはめる。善人面をして、波潟から株を掠め取る。  同じことができないか──美千隆の弱み。美千隆を窮地に陥らせる弱み。  電話が鳴って思考が中断された。麻美が電話に手を伸ばす。 「もしもし? どこにいるのよ?……それがね、いま、彰洋ちゃんがマミの部屋にいるの。さっきまで、波潟の女房のところにいたんだって。それで、齋藤が企んでること、だいたいわかったからって……なに馬鹿なこといってるのよ。そんなことじゃないってば。彰洋ちゃん、そっちに相談したいっていってるの。齋藤や波潟をはめるのにどうしたらいいかって……だから、そうじゃないってば。マミは市丸の女。もう決めたの、わかってるでしょ。そうじゃなかったら、お金貸さないわよ……そうよ。じゃ、そっちに行けばいいのね? わかった。今から出るから」  麻美が電話を切って振り返る。 「出かけるよ。市丸、自分の部屋で待ってるって」 「けっこう、こみいってるみたいじゃないか」  彰洋は腰をあげた。 「やきもち焼きなの。マミと彰洋ちゃんがいけないことしてたんじゃないかって勘繰ってるみたい」麻美が笑いながら唇を寄せてきた。「そんなこと、全然ないのにね」  麻美はすぐに唇を離した。思考を中断された脳細胞がエネルギーの行き場を失って煙をあげはじめる。興奮した神経。オーヴァーヒート寸前の脳細胞。崩れ落ちそうになる理性。  やめろ──声に出さずに絶叫する。  そんな場合じゃない。快楽に逃げこんでいる場合じゃない。美千隆はそんなに生易しい相手じゃない。 「よし、行こう」  彰洋は麻美に背を向けた。 「なんだ。抱いてくれるのかと思ったのに」  麻美の声に耳を塞ぎ、部屋を出る。脳細胞がマグマのように沸騰している。      * * *  市丸の部屋は兜町の雑居ビルの一室だった。事務所兼住居。五十平米強の間取りが壁でふたつに分割されている。手前が事務所──古ぼけた事務机。ところ狭しと並べられたファイル棚。電話とファクシミリ。コンピュータ。殺風景な事務所だ。だが、株屋はこれでこと足りる。必要なのは情報収集力と電話。株屋の元にわざわざ足を運んで株取引をしようと考える人間はいない。 「とりあえず、奥に行こう。ここは狭くて、話もできねえ」  市丸は四十代の男だった。崩れた雰囲気だが崩れきってはいない。信用できるかと問われればできないと答えるしかない。だが、麻美は信用している。麻美の心を動かすなにかを持っている。  市丸は奥の部屋に繋がるドアに手を伸ばしていた。ドアはスティール製だった。大仰な鍵がいくつもつけられている。 「なんでそんなに鍵がついてるわけ?」  麻美が訊く。麻美もこの部屋を訪れるのは初めてらしい。 「大事なものがしまってあるからだよ」  市丸は鍵を外しながら答えた。すべての鍵を外すのに、五分かかった。 「入りな」  麻美が先に部屋に入った。彰洋はその後に続く。 「なにこれ……」  麻美が絶句した。彰洋も目を丸くする。いたるところに金庫が転がっていて足の踏み場もない。部屋にはベッドがひとつと小さなテーブルがひとつあるだけだった。それ以外はすべて、金庫だった。 「なに入ってるの、この金庫の中?」 「株やら債券やら金の延べ棒やら現ナマやら、いろいろだ。おれは他人を信用しないくちなんでな」 「これだけの金庫の鍵、いつも持ち歩いてるの?」 「鍵は銀行の貸金庫に預けてある」  麻美が首を振る。 「おかしいんじゃない、市丸」 「マミにいわれたくはねえな」市丸が視線を彰洋に向けた。「で、あんたが堤君か?」 「彰洋です。よろしく」  彰洋は右手を差しだしたが無視された。 「思ってたより若えな。だいじょうぶか、おい?」 「齋藤と波潟に揉まれてますから」 「そりゃそうだな。よし。じゃあ、早速、齋藤の企みってやつを聞かせろよ」  彰洋は話した。市丸が耳を傾けている間、麻美は金庫をひとつひとつ眺めていた。 「なるほどな。波潟のばばあいいくるめて、あとから根こそぎいただいちまおうって腹か。えげつねえこと考えるじゃねえか」  市丸が何度もうなずく。 「市丸さん、ひとつ訊いていいですか?」 「なんだ?」 「北上地所の株、五パーセント。それでなにをするつもりだったんです?」 「そりゃ簡単よ。波潟でも齋藤でもいい。おれの株、買わねえかって持ちかける。二、三十億にはなんだろう。一銭でも多い額を提示してきた方に売り飛ばすのよ。三十億と見積もって、おれとマミで十五億。おまえが入ったとして、ひとり十億。それほど悪い儲けじゃねえ」  首を振りそうになるのを彰洋はこらえた。三十億。それだけの金では美千隆の屋台骨は揺るがない。美千隆の鼻は明かせない。三十億で北上地所が手に入るなら、美千隆にとっては安い買い物でしかない。 「その手は使えません。波潟紀子──波潟の女房はもう、齋藤の企みを知ってますから。いざとなったら、彼女、波潟の方につきますよ。そうなったら齋藤に勝ち目はないし、五パーセントの株も無駄になる」  波潟紀子は保身に走るだろう。波潟と美千隆なら、必ず波潟につく。美千隆の企みは灰燼《かいじん》に帰す。それでも、美千隆の鼻を明かすことにはならない。 「冗談じゃねえぞ、おい。株集めるのに、いくら使ったと思ってるんだ!?」 「マミもお金出してるんだよ。そんなの困るよ!!」  市丸と同時に麻美が叫んだ。  美千隆を排除する。美千隆の株を手に入れる。早紀を梃子《てこ》にして波潟紀子を繋ぎ止める。  波潟紀子が二五パーセント。市丸と麻美が五パーセント。美千隆が一五パーセント。美千隆が波潟から譲り受ける株が七パーセント。すべてを足して、五二パーセント。波潟の四八パーセントを上まわる。北上地所の経営に参加できる。美千隆の鼻を明かせる。  美千隆の株を手に入れなければならない。 「ひとつ、考えがあります」彰洋はいった。「二、三日、時間をください。うまくいけば、三十億どころか、北上地所そのものがおれたちの手に入る」 「なんだと?」  市丸が眉毛を吊りあげた。 「考えって、なによ?」  麻美が唇を尖らせた。 「今はまだ、いえない」  彰洋は口を噤《つぐ》む。思案を巡らせる。  美千隆を排除しなければならない。美千隆の株を手に入れなければならない。なにか、方法があるはずだ。      * * *  一晩眠らずに考えつづける。朦朧とする意識。悲鳴をあげる肉体。コーヒーをがぶ飲みし、胃薬を立てつづけに飲む。  明け方近くになって、ふいに思いだした。  美千隆の物語。立身出世の端緒。高円寺で煙草屋を営む老婆。失踪したその息子。美千隆は息子を殺し、老婆の所有する土地を波潟に売った。その金で別の土地を買い、巨利を手にした。老婆は八王子の介護施設でまだ生きている。  五年前──美千隆はいった。老婆の名前も、土地の住所もわからない。だが、北上地所に、高円寺の土地売買の記録が残っている。登記簿を読めば、輪郭がはっきりする。  彰洋は部屋を飛びでた。ロードスターを駆って北上地所へ直行する。  守衛に嘘をついた──社長に調べ物を頼まれていたのを忘れていた。今日中にすませてしまわなければどやされる。守衛は簡単に嘘を信じた。  社長室──ファイル棚。片っ端から書類を調べる。日曜でも、定時になれば社員が出勤してくる。それまでに見つけださなければならない。  五年前──高円寺。見つける。  土地所有者──原田ハツ。土地所在地──杉並区高円寺南4─23─×。仲介人──齋藤美千隆・MS不動産代表。土地の取得金額は六億円ジャスト。波潟は六億で買った土地を二日後には別の大手不動産業者に十億で転売している。  二日で四億のぼろ儲け。きな臭さが漂うが地上げのからくりには興味がない。問題は、美千隆の殺人だ。煙草屋の老婆──原田ハツの居所だ。  土地の住所を頭に叩きこんで北上地所を後にした。  高円寺駅南口。駅からまっすぐ南にくだる大通り。通りに面したモダンなビル。駅前の一等地。これなら六億でもお釣りがくる。  午前八時──日曜日。人通りは少ない。路地裏にロードスターをとめ、仮眠を取る。夢を見る。嫌な夢が延々と続く。  早紀が泣く。波潟が錯乱する。全裸の麻美が誘ってくる。美千隆が嗤う。彰洋は嗚咽する。祖父がキリストに祈っている。祖父の横顔はやつれている。なにもいわない祖父は、表情ですべては彰洋のせいだと訴える。  暑さで目が覚めた。身体中が汗で濡れていた。車を降り、駅前のキャッシュディスペンサーで金をおろした。地元住人らしい人間に片っ端から声をかけた──このあたりで煙草屋を営んでいた原田ハツさんを知りませんか、原田さんを捜してる人がいらっしゃるんです。  情報を持っていそうな人間には金をちらつかせた──三千円。多すぎれば疑われる。妥当な額の金は人の口を軽くする。猜疑心の影を薄くさせる。 「原田さんのところのお婆ちゃんね。五年ぐらい前に越したはずよ。どこかの老人ホームに行くっていってたと思うけど」  着飾った主婦がいった。 「どちらの老人ホームか覚えていらっしゃいませんか」  笑顔で訊ねる。三千円を五千円にアップする。 「たしか、八王子の方だと思ったけど……なんとかヴィラとか、そういう名前だったと思うわ。一度、年賀状が来たことがあるの。わたし、この裏のマンションに住んでいてね。今でこそ立派だけど、昔はおんぼろのアパートだったのよ。それで、原田のお婆ちゃんとはよく話をしていたの」  ビンゴ。 「すみません。その年賀状、探していただけないでしょうか?」  主婦が迷惑そうな表情を浮かべた。一万円札を主婦の手に握らせる。 「どうしても原田さんの消息を知りたいという人がいるんです。なんでも、昔原田さんにお世話になったらしくて……そのご本人も、癌で余命が少ないんです。生きているうちに恩返しをしたいと──」  彰洋は真摯な表情で訴えた。主婦は手の中の一万円の感触を確かめていた。 「わかったわ。お友達とお買い物にいく約束なんだけど……見つかるかどうかわからないけど、十分だけ待っててくださる?」  否も応もない。彰洋は待ちながら煙草を吸った。荒れた胃が悲鳴をあげた。煙草を投げ捨て、足で踏みにじった。  十五分で主婦が戻ってきた。葉書を手にしている。 「ありがとうございます」  葉書を受け取って差出人の名前と住所を確認した。  原田ハツ。八王子市中野上町3─8─×、グリーンヴィラ八王子。  住所を頭の中に叩きこみ、主婦に礼をいって公衆電話に駆けこんだ。番号案内でグリーンヴィラ八王子の電話番号を知る。  グリーンヴィラ八王子──心臓をだれかに握られているような錯覚を覚えた。 「つかぬことをお伺いしますが、そちらに原田ハツさんはいらっしゃいますでしょうか?」 「はい。原田さんはうちのお客様ですが、そちらは?」  心臓が不規則な脈を打つ。 「遠い親戚筋に当たる者なんですが、今、東京におりまして、時間が少しあるので久しぶりに顔でも見たいなと……」  考えるより先に言葉が出てくる。美千隆に揉まれた。波潟に揉まれた。金田にも揉まれている。嘘なしでは生きていけない。 「さようですか……原田さん、喜びますわ。ここに来てから、原田さんに面会に来るお方、あまりいらっしゃらないもので」  電話の相手の言葉には多少の刺があった。 「すみません。ぼくは若輩者ですし、なかなか、東京に出てくる機会もなくて……それで、今日これからそちらにお伺いしても、かまわないでしょうか?」 「はい。グリーンヴィラ八王子では、ご老人の方々に社会と触れあっていただくためにも、午前九時から午後四時までは、敷地内をご家族やご友人のために開放しております。いつでもお越しください」  敷地という言葉に丁寧な電話の応対。グリーンヴィラ八王子は金のかかる施設に違いない。 「それじゃ、今、都内におりますので、これから向かいます」 「あの、失礼ですが、お名前をお伺いできますでしょうか?」 「齋藤です」  とっさに美千隆の名字が口をついて出る。 「齋藤様ですね……あの、齋藤美千隆様とはなにかご関係が?」 「甥です。それじゃ、あとで」  彰洋は慌てて電話を切った。相変わらず胸は苦しい。なのに神経だけがざわめいている。  ロードスターの幌をおろして高井戸で高速に乗る。風が悪夢の残滓《ざんし》を吹き飛ばす。汗が乾いていく。      * * *  八王子──駅前のデパートで和菓子の折り詰めを買った。車を駐車場に停め、タクシーに乗りこむ。  グリーンヴィラ八王子は空前の好景気のモニュメントだった。広大な敷地にモダンな施設。老人ホームという言葉が喚起するイメージはどこにもない。老人専用高級分譲リゾートマンション──そう呼んだ方がぴったりくる。二十四時間態勢の介護システム。べらぼうな経費。貧乏人は望んでも入れない。  原田ハツは個室をあてがわれていた。看護婦姿のスタッフにそれとなく訊ねる──原田ハツの個室は五千万円の分譲タイプ。原田ハツの死後にはその七〇パーセントが遺族に還元される。  原田ハツは高円寺の土地を売った──売らされた。金は腐るほどある。 「齋藤さんはお元気ですか?」  彰洋を案内しながら女が口を開いた。 「美千隆のことですか?」 「ええ。原田さんがここに入られたときには、月に一度はいらしていたのに、ここ二、三年、お忙しいのか、ほとんど来られなくなって」  罪滅ぼしのための面会。それも、時間とともに風化していく。 「ここのところの好景気で、目が回るくらい忙しいらしいです」 「そうなんでしょうね。でも、原田さんには月々のお小遣いを律義に届けてくださるんですよ。原田さん、元々お金持ちだし、必要もないのに」 「銀行振り込みですか?」  彰洋は足をとめた。銀行に記録が残っていれば、美千隆の犯罪を傍証する証拠になる。 「いいえ、現金書留で。銀行振り込みで単に数字が移動するだけより、そっちの方が原田さんもお喜びになるだろうからって」  女は物悲しげな口調でいった。悪い予感がうなじに突き刺さる。 「原田さんに、なにか?」  女は首を振りつづける。 「お聞きになってないんですか?」 「ええ。ぼくはずっと田舎暮らしですし、叔父──齋藤とも、滅多に会えないもので」 「そうですか……じゃあ、ご自分でお確かめになるといいわ。ここですよ」  分厚いスティールのドアの前で女は彰洋に身体を向けた。二〇三号室、原田ハツ──ドアの脇のプレートがそぐわない。 「それでは、なにかありましたら、ベッドの脇にナースコールのボタンがありますから、それを押してください」 「わかりました」  彰洋は頭をさげた。女が廊下の先を曲がるのを待って、ドアに手をかけた。 「失礼します」  返事はない。テレビの音が聞こえてくる──くだらないバラエティ。後ろ手でドアを閉め、部屋をあらためる。三十平米のワンルーム。作りつけの戸棚や箪笥からは檜の香りが漂ってきていた。部屋の右奥に大きめのダブルベッド。二段がさねにした枕を背もたれにして、老婆が半身を起こし大型テレビに顔を向けている。視線は動かない。表情も変化に乏しい。  ドアの上の方に監視カメラが設置されていた。カメラの死角にまわり、カメラを観察した。マイクはついていない。画像を撮られても、音声は相手には伝わらない。 「原田さん」  彰洋は声をかけた。老婆はぴくりとも反応しなかった。ベッドに近づき、もう一度、声をかける。 「原田さん? 原田ハツさんですよね?」  老婆が彰洋を見た。外部からの刺激に反応したというだけで、その目にはどんな感情も宿ってはいなかった。老婆は表情を動かさずに口を開いた。 「ひびきかい? ひびきはもう売ってないんだよ。ハイライトならあるけどね」  アルツハイマー──原田ハツは惚けている。悪い予感が的中した。これではなにも聞きだせない。証人には使えない。  美千隆はいった──今でもときおり連絡がある。大嘘だ。自分自身の罪を告白するときにも嘘をついた。美千隆は嘘がなければ生きていけない。彰洋と同じだ。嘘にまみれている。 「煙草を買いに来たんじゃないんです。原田さん、齋藤美千隆さんを覚えてますか?」 「セブンスターは美味しくないってみんないってるよ。ハイライトにした方がいいと思うけどねえ」 「齋藤美千隆ですよ、原田さん。齋藤美千隆。MS不動産の。覚えてませんか?」  彰洋は辛抱強く声をかける。 「齋藤さん? うちの近所には齋藤なんて人はいませんよ」 「息子さんは? 息子さんはお元気ですか?」  原田ハツは瞬きを繰り返した。彰洋は期待した。一瞬でいい、意識がまともになってくれればなにかを引きだすことができるかもしれない。 「それ、新しい煙草の銘柄ですか?」  原田ハツは首を傾げた。彰洋は溜め息をついた。原田ハツは完全に惚けている。埒があかない。  彰洋はもう一度、部屋の中を見回した。老人には不似合いな家具のセット。戸棚には使いもしないはずの食器が並べられている。戸棚の下部は、引き手付きの抽斗になっている。箪笥が一竿《ひとさお》に、ウォークインクローゼット。ベッドの脇にサイドボード。その横にさり気なく折り畳まれた車椅子。革張りの応接セットが一組。ベッドにもなるソファがもうひとつ。トイレにバスルーム。親族やだれかが宿泊できる仕組みになっている。  彰洋はベッドのそばを離れた。原田ハツの手が宙を舞った。 「あ、先生、テレビのチャンネル、替えてくださいな」  サイドボードにリモコンが置いてあった。彰洋はリモコンのボタンを押した。画面が切り替わる。NHK──地方の農村の特集。原田ハツがうなずいた。 「やっぱりテレビはNHKよね、先生」  そういったきり、テレビから視線を外さなくなった。  彰洋はカメラに気を遣いながら家具を見てまわった。クローゼット──空。箪笥──着替えのパジャマ、下着、おむつ、和服が数着にカーディガン。戸棚──食器と乾き物のお菓子類。抽斗──雑然と詰めこまれた書類。私物。目につくところに金目のものはない。預金通帳も印鑑もない。  彰洋は原田ハツの元に戻り、ナースコールを押した。原田ハツとともにテレビを見た。  ドアがノックされ、さっきの女が顔を覗かせた。 「どうしました?」 「あの、少しでいいんですけど、一緒に庭を散歩したいんですが」  彰洋は車椅子と原田ハツに顎をしゃくった。 「そうですね。今日は天気もいいし、原田さんもその方が喜ぶわ」  女は破顔した。彰洋は彼女と協力して原田ハツを車椅子に座らせた。原田ハツはされるがままになっている。 「いつからこうなんですか?」  車椅子を押しながら小声で囁いた。 「ここに来たころから、軽い症状はあったんですよ。なんでも、一人息子さんを亡くされたことが相当辛かったらしくて」 「そうですよね」彰洋は思わせぶりにうなずいた。「あのころ、ぼくはまだ高校生になったばかりだったから、詳しいことはよくわからないんですけど」 「まあ、長い間行方不明だった息子さんが、酔っぱらって凍死して居所がわかったんですからね。辛かったと思いますよ、原田さん」  エレヴェータで階下におりた。バリアフリーの廊下を渡って庭に出た。外は日が陰っていて、肌寒い風が吹きつけてくる。 「あの監視カメラ、常時部屋を映してるんですか」  さり気なく訊ねた。女が狼狽した。 「あの……嫌がるご家族の方もいらっしゃるんですが、うちは原田さんのような症状の方が多いもので、どうしても必要なんです。ご理解ください」 「いや、そういう意味じゃなくて、そこまでやってくれるのは凄いなって感心してるんです。結構、部屋数あるでしょう。モニタを監視するのも大変じゃないですか?」 「ええ。でも、常時目を光らせてるというわけでもないんです。夜間はともかく、明るい間はそれほど問題も起こりませんし……特に、日曜休日は人手不足もありまして。たとえば、お昼ご飯の時間になると、スタッフはみんなてんてこ舞いで、カメラどころじゃないんです。なんとかしなければと思ってはいるんですけど」  心臓がまたちくりと痛んだ。ただの監視用のカメラ。映像が記録されることもない。 「そこまで要求したら、こっちが悪いですよ」 「そういっていただけると、本当に助かります」  突風が木々の葉をざわめかせた。気温はかなり低くなっている。 「少し寒いですね。ちょっと待っててもらえますか。彼女の上着かなにか、取ってきますから」  彰洋は女の返事を待たずに走りだした。  時間との勝負──エレヴェータは使わずに階段を駆けあがる。部屋に飛びこんで戸棚とサイドボードの抽斗を漁る。デパートの紙袋から菓子折を出し紙袋の中にめぼしい書類を放りこむ。紙袋をカメラの死角に隠す。箪笥からカーディガンを取りだして庭に戻る。  女が微笑んでいた。 「そんなに急がなくてもよかったのに。ほら、陽射しが戻ってきましたよ」  風はやんでいた。春の陽射しが原田ハツを照らしていた。彰洋は息を弾ませながら、原田ハツの肩にカーディガンをかけた。  女と世間話に興じ、今どきの若者を演じ続けた。  罪悪感と自己嫌悪。屈辱感と美千隆への憎悪。  泣き出す前にグリーンヴィラ八王子を辞去した。      * * *  戦利品──原田ハツとグリーンヴィラ八王子の契約書。グリーンヴィラ八王子二〇三号室の分譲契約書。年金と保険に関する書類。美千隆から送られてきた現金書留封筒が数十枚。その他の書類。  書類の束を掴みだし、日に焼けて変色したものから重点的に目を通す。書きかけの便箋──美千隆にあてたもの。字がのたくっていて判読不可能。メモ代わりに使った新聞のチラシ──煙草の銘柄が書きこまれている。古い手紙、葉書。警察が発行した原田吉雄の死亡通知書──一九八五年二月十四日の日付。死体が発見されたのは荒川区南千住8、隅田川沿いの土手。点々と涙の跡。  委任状のカーボンコピー──指先が顫える。心臓が激しく脈打つ。胃がきりきりと痛む。   委任状  息子の原田吉雄の死亡が確認された折りには、わたし、原田ハツの所有する土地(杉並区高円寺南4─23─×)の管理、及び売買に関する代理人として、MS不動産代表取締役齋藤美千隆殿にすべてを委任します。 [#地付き]原田 ハツ  決して上手とはいえない文字、たどたどしい文章。原田ハツが書いたものに間違いない。  心臓が躍りつづけている。脳内物質がおびただしく分泌される。体温があがる──だが、あの感覚とは微妙になにかが違った。  状況証拠が揃いつつある。立証が目的ではないから物証はいらない。美千隆を刑務所に送りたいわけではない。見返してやりたい。地団駄を踏ませてやりたい。自分に嘘をつきとおしたことを後悔させてやりたい。  昏い欲望が満たされつつある。  彰洋は麻美に電話をかけた。 「美千隆の写真かなにか、持ってないか?」 「一枚、持ってるけど。ほら、美千隆、写真撮られるのあんまり好きじゃないから。でも、それがどうかした?」 「悪いんだけど、その写真を持って、明日、山谷に行ってくれないか」 「山谷? なんでマミがあんなところに行かなきゃならないのよ?」  麻美の声が跳ねあがった。山谷と麻美──およそそぐわない。それでも、麻美に頼むしか手はなかった。 「今はいえないけど、理由はちゃんとあるんだ。おれが行ければいいんだけど、会社を休むわけにはいかないから……頼むよ、麻美」 「山谷に美千隆の写真を持ってって、なにしろっていうわけ?」 「原田吉雄っていう男を知ってる人間を探して欲しいんだ。原田っていうのは五年ぐらい前に死んでる」記憶を探り、美千隆の言葉を思いだす。「みんなには�よっさん�って呼ばれてたらしい。よっさんを知ってるやつを見つけたら、美千隆の写真を見せて、よっさんと美千隆が一緒にいるところを見たことがないかどうか聞くんだ」 「見たことがあるってやつ、見つけたら?」 「金を渡して、名前と連絡先を聞きだしてほしい」 「原田ってなんなの? 山谷のきたないおじさんと美千隆になんの関係があるわけ?」 「理由はまだいえない。でも、美千隆と原田吉雄が一緒にいるのを見たことがあるやつを捕まえれば、おれたち、有利になる。おれたちで、北上地所を思いのまま動かせるようになるかもしれない。それで充分だろう? やってくれよ、麻美」 「彰洋ちゃん、なんか感じ悪いよ」 「おれが? 感じ悪い?」 「そう。隠しごとばっかりして。なんだか、美千隆と話してるみたい」 「そんなことはない」  思わず叫んでいた。そんなことはない。そんなはずはない。自分が美千隆と似ているはずはない。だが──嘘にまみれている。嘘がなければ生きられない。美千隆に教わった。美千隆に仕込まれた。美千隆をずっと慕っていた。  そんなことはない──首を振り、唇を噛む。 「怒鳴らなくてもいいじゃない」 「すまん」 「情緒不安定なところは、美千隆とは全然似てないよ、彰洋ちゃん」 「とにかく、頼む。麻美しか頼める人間がいないんだ」 「美千隆と原田吉雄っていうのが一緒にいるところを見たことがあるやつ見つければ、ほんとに波潟や美千隆に勝てるんだよね? 大金、手に入るんだよね?」 「絶対だ」 「じゃあ、気が進まないけど行ってくる」 「ありがとう、麻美」 「あとでちゃんと理由を説明してね。じゃなきゃ、マミ、暴れちゃうから」 「わかってる。今はまだうまく説明できないけど、必ず、わけを話すよ」 「OK。じゃ、明日の夜にでも結果報告の電話入れるね」  彰洋は受話器を置いた。  美千隆と話してるみたい──麻美の声が耳の奥で谺する。  彰洋は首を振って麻美の声を追い払った。  くだらないことにかまけている暇はない。美千隆の外堀は埋まりつつある。美千隆は逃がさない。  残る問題は、金田だ。彰洋の首には紐が巻きつけられている。紐は金田が握っている。紐を握られているかぎり、美千隆の鼻を明かしても、上前は金田にはねられる。紐を断ち切らねばならない。  彰洋はベッドに横たわった。興奮した神経が眠りを拒否した。彰洋は考えつづけた。      71  山谷──ひとりで行くのはぞっとしない。知り合いの学生に電話をかけ、アルバイトを持ちかける。交渉は成立した。彰洋には気づかれなければいい。美千隆と違って彰洋は人を疑うことに慣れていない。彰洋は美千隆より扱いやすい。  男友達──岡本武と会う。美千隆の写真を渡し、すべきことを話し、岡本を山谷に送りだす。  山谷より、彰洋の隠しごとが気になる。  麻美は都立図書館に出向き、日刊紙の縮刷版に目を通した。  彰洋はいった──原田吉雄は五年ぐらい前に死んだ。  六年前からはじめた。社会面の小さな記事に目を凝らす。活字との睨めっこ──大学受験のために勉強をしていたとき以来。目が乾き、痛んだ。 『山谷の日雇い労働者、隅田川で凍死』  一時間半で、見出しが目に飛びこんできた。麻美は記事を追った。  山谷地区に居住する日雇い労働者、原田吉雄が南千住の隅田川沿いで凍死死体として発見された。警察の見解は事故死。酒に酔い潰れ、土手で眠り、折りからの寒波に襲われて凍死した。死亡日時は一九八五年二月十四日未明と推定される。享年、三十九。  事実だけを伝える短い記事。行間からはなにも読み取れない。美千隆との関わりもうかがえない。彰洋が隠さなければならないなにかも霧に包まれている。  一九八五年。たしか、美千隆がこの世界で名前を売りだしはじめたのもそのころだ。波潟にそう聞いた。美千隆からも似たような話を聞いた記憶がある。  一九八五年。それ以前の美千隆は無名だった。杉並かどこかで小さな不動産屋を営んでいた。  一九八五年。美千隆は杉並かどこかの土地転がしで財を得た。その金を使ってさらに地上げに精を出した。名前が売れるようになった。  一九八五年、二月。原田吉雄という名の日雇い労働者が凍死した。彰洋は原田吉雄と美千隆の関わりを調べようとしている。  単純な推測──原田吉雄の死に美千隆が関わっている。原田吉雄の死が、美千隆の成功に関わっている。彰洋はその証拠を掴んで美千隆につけこもうとしている。  彰洋には任せられない。彰洋は不安定すぎる。  麻美は図書館を出た。公衆電話で市丸に電話をかけた。 「ちょっと訊きたいんだけど、五年ぐらい前に死んだ人の履歴とか遺族の居所とか調べるの、どうしたらいいのかな?」 「なんだそりゃ? 興信所かなにかに頼めよ。おれの守備範囲じゃねえぞ」 「そうか、興信所ね。あ、市丸って、興信所知ってるじゃない。ちょっと紹介してよ」 「ざけんなよ、マミ。クソ忙しいんだぞ、おい。なんだって死人になんか関わってるんだ?」 「まだよくわかんないんだけど、もしかすると、齋藤の弱み握れるかもしれないの」 「どういうことだ?」  市丸の口調が変わった。それが合図だったかのようにポケベルが鳴った。麻美はポケベルを覗いた。山谷に行かせた岡本からの連絡が入っていた。 「今、忙しいんでしょ。あとでかけなおすよ」  市丸の返事を待たずに電話を切りポケベルに表示された電話番号にかけなおした。 「はい。浅草ビューホテルでございます」  慇懃《いんぎん》な声が耳に飛びこんできた。おそらく、ラウンジかどこかにいるのだろう。 「すみません、そちらのラウンジかロビィに、岡本っていう人がいると思うんですけど」 「岡本様ですね。失礼ですが、そちら様は?」 「三浦といいます」 「少々お待ちください」  麻美は視線を公園に向けた。有栖川宮記念公園は子供を連れた主婦の姿が目立つ。生まれつきか、玉の輿に乗ったのか。広尾界隈に家かマンションを持ち、日々の生活費に苦労することもない女たち。麻美は憎々しげな目つきで女たちを睨んだ。 「もしもし?」  受話器から声が流れてきた。 「武? もう見つかったの?」 「う、うん。なんか、意外とあっさり。きたないおっさんだけど」  岡本武の声は歯切れが悪かった。たぶん、バイト代を値切られないかと心配している。 「まだ一緒にいるんだよね? 今から行くから」 「あ、ああわかった。なるべくはやく来てくれよ」  麻美は電話を切った。表通りでタクシーを捕まえようとしたが、空車のタクシーはなかなか見つからなかった。  運転手付きの車が欲しい。大金を手に入れたら、必ず買う。車はロールスかベントレー。譲ってもベンツのSクラス。運転手は三人、二十四時間態勢。  金があればなんでもできる。金があれば手に入らないものはない。  やっと空車のタクシーがやってきた。麻美は苛立たしげに手を振ってタクシーをとめた。 「浅草ビューホテルまで。急いで」  運転手に一万円札を渡した。運転手が目を剥いた。 「お釣りはいらないから、チップに取っといて」  運転手は札をおしいただき、小さく頭をさげた。 「掴まっててくださいよ。飛ばしますから」  タクシーが急発進する。背中がシートに押しつけられる。麻美は微笑んだ。  金があれば、他人を奴隷のように扱える。これほど素晴らしいことはない。      * * *  広尾から浅草まで、たった二十分の短いドライヴ。運転手は最後までにこやかだった。慇懃なベルボーイに一瞥をくれてホテルの中に足を踏み入れた。  岡本武はラウンジの一番奥の席にいた。岡本はひとりだった。日雇い労働者風の中年男の姿はない。岡本の隣りの席は中年のふたり連れが占領していた。 「武」  岡本が驚いたように顔をあげ、すぐに顔を伏せた。  麻美は唇をきつく結んだ。岡本の向かいに腰をおろした。 「見つけたって人、どうしたのよ?」 「マ、マミ、お、おれ……」  岡本は顔をあげない。 「電話もそうだったけど、感じ悪いよ、武。バイト代だったら、ちゃんと払うんだから」 「そうじゃないよ、マミ。おれ……おれ」  岡本の声は湿っていた。 「どうしたのよ、武。こっち向きなさいよ」  麻美は岡本の肩に手をかけた。岡本が顔をあげた。左の顎がどす黒く変色していた。 「どうしたのよ、その顔?」 「マミ、ごめんな」  岡本は消え入りそうな声でいった。 「だれにやられたの? だれかに絡まれたわけ?」 「おれたちがちょっと可愛がってやっただけや。たいしたことあらへんがな」  すぐ近くで声がした。麻美は振り返った。隣りのテーブルのふたり連れが席から腰をあげていた。ひとりはにやけた顔の優男《やさおとこ》。もうひとりはがっちりした体格で仏頂面をしている。やくざ者の体臭──暴力の匂い。いかにもそれらしい関西弁。  麻美は反射的に腰を浮かしたが、優男に肩を押さえられた。 「なによ、あんたたち」 「まあ、そう大声出さんと。ここはホテルなんやで、お嬢ちゃん。もっと上品にいかんとな」  優男は麻美の横に腰をおろし、身体を密着させてきた。大男が岡本を睨みながら腰をおろす。 「そっちの兄ちゃんに、ちょっと訊きたいことがあってな。それで可愛がってやったんや。怒らんといてやってくれや」  麻美は身を固くしながら大男と岡本を交互に睨んだ。 「なにが訊きたかったのか、知りたくないんか、お嬢ちゃん?」  金田義明──名前が閃く。麻美は優男を凝視した。 「おい。行ってええで」  優男が岡本に声をかけた。 「ごめん、マミ」  岡本は囁くようにいって、逃げだしていった。 「ほんまに悪いとは思うんやけどな、ここしばらく、お嬢ちゃんのこと尾行させてもらっとるんや。そしたらな、今日、あの兄ちゃんと会ったやないか。その兄ちゃんが山谷に来て、なにやら訊きまわっとる。おれでなくても、好奇心がそそられるで。ちゃうか?」  麻美は答えなかった。ウェイトレスがやってきて、オーダーを訊ねた。 「コーヒー、三つや。隣りの席と、会計、一緒にしといてんか」  優男が軽快にいうと、ウェイトレスはすぐに去っていった。助けを求める暇もない。 「原田吉雄ちゅう死んだ男と齋藤美千隆、どない関係があるんや? 教えてんか」 「知らない」  麻美は首を振った。優男は笑った。 「お嬢ちゃん、えらい頭がええゆう話やないか。おれがだれか、わかっとるんやろ」 「金田義明」 「そや。金田や。おれの評判、耳にしとるんとちゃうか?」 「マミになにかしようとしたら、大声出すわよ」  麻美は金田を睨みつけた。 「そんなにとんがらんでもええがな。おれの訊いたことに答えてくれるだけでええんや」 「マミ、なにも知らない。彰洋ちゃんに頼まれただけなの。彰洋ちゃん、知ってるでしょ?」  金田の笑みが大きくなった。 「彰洋は知っとる。ちょっと抜けとるが、今どきの若造にしてはましな男やな。そやけど、お嬢ちゃん。お嬢ちゃんはあかんで。お嬢ちゃんの噂、嫌になるぐらい耳に入ってきよる。お嬢ちゃんの話、信じられたらええんやが、できん相談やな」 「だって、マミ、本当になにも知らないんだってば」 「図書館でなに調べとったんや?」  金田の声が急に低くなった。背筋が寒くなる。いつから見張られていたのか。いつから尾行されていたのか。 「T・S・エリオットに関する文献探してたの。信じてくれないかもしれないけど、マミ、一応女子大生だから」  なんとか応戦しようとしたが、金田には通じなかった。 「齋藤美千隆と原田吉雄や。このふたり、なんの関係がある? 彰洋とおまえが、なんでこそこそ調べまわっとるんや?」 「本当に知らないってば」  推測は事実ではない、知らないことは答えようがない──麻美は自分にいい聞かせた。 「しゃあないな。おい。あれ、見せたれや」  金田は大男に顎をしゃくった。大男がジャケットの内ポケットに手を入れ、写真を取りだした。  写真には麻美と彰洋が写っていた。恋人同士のように寄り添っていた。彰洋のマンションの前で抱きあっていた。 「この写真、波潟のところに送りつけてやってもええんやで。どないなると思う?」  波潟は激怒する。たとえ、麻美に飽きはじめていたとしても、波潟の独占欲は強い。相手が彰洋だとなれば、怒りに油が注がれる。波潟がどう動くかは考えたくもない。 「彰洋ちゃん、なにも教えてくれないの。そのうちわけを説明するからって。嘘じゃないよ」  麻美はいった。声が平坦になっていく──自分の意志ではとめられない。 「噂以上やな、お嬢ちゃん。気に入ったで」  金田は笑いつづけていた。      * * *  ティーラウンジからエレヴェータホールへ移動した。金田はホテルの部屋の鍵を手で弄んでいた。  逃げだす隙を探ったが、大男が背後にぴったりくっついていた。 「なんぼでも意地張ってかまわんで。時間は腐るほどあるからな。お嬢ちゃんがどこまで頑張るんか、楽しみや」  エレヴェータに押しこまれた。金田が腰に手をまわしてきた。  逃げだす隙はない。逃げても意味がない。写真を波潟に送りつけられたら、すべては終わる。市丸に貸した二千万が紙屑になる。  耐えられない。耐えるつもりもない。  金田の目的はわかっている。男の目的はいつも同じだ。  金田を喜ばせる。金田を虜にする。金田を手なずける。  エレヴェータが停止した。大男に促されて麻美はエレヴェータを降りた。金田が後に続いた。金田の手が麻美の尻を撫で回した。 「こっちの方の噂もよう聞いとるからな、お嬢ちゃん。期待しとるで」  大男が麻美と金田を追い越していった。金田から鍵を受け取り、部屋のドアを開けた。麻美は金田とともに部屋に入った。大男が入れ違うように出ていった。  普通のダブル。デラックスではない。ジュニアスイートでもない。麻美は金田を見た。 「なんや、その顔。文句でもあるんか?」 「こんな部屋でマミを抱くつもり?」 「おめこするのに、へたな金使ってどないするんや。東京もんはくだらんところで見栄はりたがるからあかんのや」  麻美はベッドの上に突きたおされた。ベッドのスプリングが軋んだ。麻美は目を閉じた。心を閉ざした。  金田を喜ばせる。金田を虜にする。金田を手なずける。波潟にしたように。他の大勢の男たちにしたように。雑念を振り払えばいい。感じれば濡れる。濡れれば男は喜ぶ。雑念は邪魔になるだけだ。  金田が覆い被さってきた。麻美は金田の唇に自ら舌を差し入れた。      * * * 「噂以上やな、お嬢ちゃん。口ん中でいってまうとこやった」  金田が汗をぬぐいながら口を開いた。 「気に入ってくれた?」  麻美は訊いた。無邪気な口調で。いやらしい目つきで。 「気に入ったで。ごっつぅ気に入ったわ」  金田が身体を離し、サイドボードのティッシュボックスからティッシュを抜いた。自分のペニスを拭く。 「マミにもちょうだい」  膣から金田の精液が溢れでてくる。 「それぐらい、自分でせえや」  麻美は眉をひそめた。男からこんな仕打ちを受けたことはない。だれもが麻美と寝たがる。寝たあとでは、もう一度寝たがる。そのために、麻美の機嫌をうかがおうとする。麻美の頼みは積極的に受け入れる。 「もう一回、今度はじっくり楽しみたいところやが、今日は時間がない。さあ、喋ってもらうで、お嬢ちゃん。齋藤美千隆と死んだ男になんの関係があるんや?」  金田は煙草をくわえ、火をつけた。金田の目はもう冷めている。 「その口つこうておれを手なずけるつもりやったんか? そうは問屋がおろさへんぞ。東京もんと違うて、やわやないからな」  金田は煙を麻美に吹きつけた。麻美は枕を金田に投げつけた。      72  落ち着かない。落ち着けない。期待に心がざわめく。不安に心が揺れ動く。罪悪感に胃が痛む。  麻美は原田吉雄を知っている男を見つけるだろうか。金田を排除するにはどうすればいいだろうか。  期待に胸膨らませ、思案を巡らせる。  波潟はいつもと同じだった。電話をかけまくり、車で都内を移動する。土地を見る。人と会う。合間に株価の動向を調べる。  鞄持ちには考える時間が腐るほどある。  金田を排除する。金田のバックには関西の暴力団がついている。金田は写真を持っている。録音テープを持っている。金田は一筋縄ではいかない。写真とテープを破棄しなければならない。その上で、金田を排除しなければならない──難しい。  午前中の挨拶回りが終わると、波潟は会社に戻るように指示した。車載電話が鳴る。彰洋は受話器を取った。 「はい?」 「佐久間だが、社長と代わってくれ」  佐久間和臣の声はしゃがれていた。 「少々お待ちください」彰洋は送話口を塞いだ。「社長、佐久間さんからです」 「佐久間会長?」波潟は渋面を作った。「また、金の無心か。たまったもんじゃないな──あ、会長ですか。波潟です。どうも、ご無沙汰しておりまして……」  波潟と佐久間の会話はすぐに終わった。内容は聞き取れなかった。推測もできない。 「堤、すまんが、午後一で佐久間会長のところに行ってきてくれんか」 「例のあれですか?」 「そうだ。会社に着いたら、すぐに用意する。会長のところから戻ったら、今日は会社で雑務でもやっておけ」 「わかりました」  佐久間和臣とともに松岡の顔が脳裏をよぎった。佐久間は関東の暴力団の重鎮だった。松岡はその子飼いだ。  金田のバックには関西の暴力団がついている。暴力団と暴力団。やくざとやくざ。金田はやくざではないが、松岡は本物のやくざだ。金田は彰洋に松岡に連なるやくざを襲わせた。松岡は犯人を探していた。  毒をもって毒を制す。  脳細胞が活発に動きはじめる。彰洋は両手の拳を握った。指の関節が音をたてた。      * * *  一千万の札束が詰まったバッグを持って会社を出た。タクシーで帝国ホテルへ向かった。  電話ボックスを見つけ、タクシーを停めさせた。バッグを抱えながら麻美に電話をかける──留守番電話。ポケベルに切り替えようとしたが、麻美のポケベルは電源が切れているようだった。いらだちが募る。会社の車を使えれば、車載電話のある車を使えれば、麻美と連絡を取るのに苛々する必要はない。だが、会社の車は使えない。彰洋は波潟の鞄持ちにすぎない。車を使いたければ、出世しなければならない。金を稼がなければならない。  金。金田を排除し、美千隆をはめ、波潟を追い落とす。北上地所を自らの物にする。実感が湧かない。  金。金はいらない。金は必要だが、金はすべてではない。欲しいのは、美千隆の首だ。見たいのは美千隆の泣きっ面だ。それを手に入れるためなら、なんだってする。命を差しだしてもいい。  腹が決まった。      * * *  スイートの客間で松岡に金を渡す。松岡がバッグの中身をちらりと覗き、バッグを手下に持たせる。手下がベッドルームに消えていく。 「波潟社長によろしく伝えておいてくれ」  松岡は素っ気ない。 「あの、松岡さん──」 「なんだ?」  松岡の目がぎらつく。 「ちょっとご相談にのっていただきたいことがあるんです。今夜、お時間を都合していただけないでしょうか?」  彰洋は一気にまくし立てる。胃がきりきりと痛む。 「相談だ? おまえがおれになにを相談するっていうんだ?」 「ここではいえません。でも、大切なことです。佐久間会長にも関係があります」  松岡の目が細くなる。その視線は彰洋の身体を切り刻む。 「くそろくでもねえことだったらただじゃおかねえぞ。わかってるのか、小僧?」 「お願いします、松岡さん」  頭をさげる。懇願する。 「よし、わかった。七時だ。七時にうちの事務所まで来いや」  松岡がいう。 「ありがとうございます」  彰洋は頭をあげ、息を吐きだす。      * * *  雑務をこなしながら麻美からの連絡を待った。こちらから電話をかけても相変わらず留守電が作動するだけだった。ポケベルは繋がらない。  美千隆と原田吉雄の接点は簡単に見つかると思っていた。美千隆は山谷に行って原田吉雄を探した。それを覚えている人間は必ずいるはずだ。だが、見つからなければ、すべては絵に描いた餅にすぎなくなる。美千隆の犯罪とその証拠。証拠があってはじめて、美千隆に対する武器になる。状況証拠でかまわない。状況証拠をなんとかして手に入れなければならない。  午後五時半きっかりに内線の電話が鳴った。川田はるかの声が受話器から流れてくる。 「堤君、社長から電話があって、今日は社長を待たないで帰ってもいいそうよ」  指で電話を切り、そのまま麻美に電話をかける。相変わらずの留守番電話。  彰洋は歯噛みしながら時計を睨んだ。五時半。山谷を経由して池袋の松岡の事務所に向かうには時間が足りない。  麻美はなにをしている? なにを手間取っている? 本当に手間取っているのか? 証人はとっくに見つかっている。麻美はそいつを市丸のところに連れていったかもしれない。ふたりだけで相談しているのかもしれない。彰洋がなにを探ろうとしているのかを探りだし、彰洋をのけ者にして美千隆と交渉しようとしているのかもしれない。  彰洋は舌打ちしながら市丸の事務所に電話をかけた。 「はい、市丸株式研究所」 「市丸さん、堤です」 「なんだ、あんたか。どうした。齋藤をはめるうまい手でも見つかったか」  市丸の声にはなんの曇りもない。市丸は麻美が山谷で美千隆の殺人の証人を探していることを知らない。 「いえ、まだ頭を悩ませてます。それより、麻美と連絡を取りたいんですけど、昼からずっと電話が繋がらないんですよ。どこに電話すれば連絡が取れるか知りませんか?」 「さぁな、あいつは手綱の取れたじゃじゃ馬だ。昼前に変な電話かけてきて、あとでもう一回電話するっていったきり、かけてきやしねえ。まあ、おれも忙しくてマミの相手をいちいちしてるわけにはいかねえけどな」 「昼前に電話があったんですか? 用件はなんでした?」  頭に浮かんだ疑問がそのまま口をついて出た。 「なんでそんなことをおまえに教えなきゃならねえんだよ」  市丸の声が固くなっていく。 「ただ訊いただけです。深い意味はありませんよ」 「おい、堤。てめえ、おれに隠れてひとりでなにか企んでるんじゃねえだろうな?」 「そんなことないですよ。市丸さんの五パーセントの株がなかったら、おれひとりじゃ、なにもできませんから。ただ、ひとつものになりそうな線を見つけかけてるんです。それで、麻美に協力してもらって調べものを頼んだんですけど、全然連絡が取れなくて焦ってるんですよ。時間、あんまりないですから」 「なんだよ、そのものになりそうな線ってのはよ?」 「すいません。まだいえません。それがものになるかどうかもまだわからないし、ものになるんだったら、齋藤にこっちの動きがばれないようにしたいんです」 「おれがあちこちでぺちゃくちゃ喋りまくるとでも思ってんのか、あ?」 「そうじゃないって」彰洋は口調を変える。「裏が取れたら、あんたにもきちんと説明するよ。おれを信じるか信じないかのどっちかしかないだろう。どうするんだよ?」 「口のきき方がなってねえぞ、堤」 「市丸──」 「とりあえず、信じてやる。それしかねえからな」  市丸の声が落ち着きを取り戻す。 「麻美、電話でなんていってました?」 「五年前に死んだやつの身元や遺族を調べるにはどうしたらいいのか知りたがってたよ」  麻美は勘が働く。どこかでなにかを調べ、彰洋の狙いに気づいた可能性はおおいにある。 「他には?」 「おれが興信所にでも調べてもらえっていったら、興信所を紹介しろだとよ」 「紹介したんですか?」 「いや。その前にマミが電話を切った。なんか、ポケベルみたいな音がしてたな。あとで電話しなおすっていって、それっきりよ。おい、マミになにかあったんじゃねえだろうな?」  市丸の声が不安に揺れる。 「別に危険なことを頼んだわけじゃないんで、それはないと思うけど……とりあえず、探してみます。麻美がおれの頼んだこと、ちゃんとやっててくれれば、市丸さんに話できるようになりますから」 「おれも仕事が片づいたら、マミを探しておく。マミになにかあったら、ただじゃすまねえからな。わかってんだろうな、堤」  わかっている。なにもかも、わかっている。 「じゃあ、あとで」  彰洋は受話器を置いた。喉が渇く。不安が渦巻く。疑念が押し寄せてくる。  麻美、なにをしている? なにを企んでいる?      * * *  池袋には電車で向かった。頭の中でストーリィを組み立て、矛盾がないかを点検する。  矛盾はない。松岡はストーリィを信じる。信じる以外に道はない。  池袋で電車を降り、人の流れに乗って西口へ出た。松岡の事務所を目指す。胃が痛む。が、その痛みにも身体は慣れつつあった。  真新しい雑居ビルに似つかわしくない大仰な金文字の看板。看板の下にはチンピラがいる。チンピラは彰洋を睨《ね》めつけた。 「なんだ、てめえ?」 「松岡さんに会いにきました。堤です」 「おやじに? ちょっと待ってろ」  チンピラはビルの中に消え、すぐに戻ってきた。 「こっちだ」  彰洋はチンピラの後に続いて事務所に足を踏み入れた。玄関を入ったすぐ先は、やくざたちの溜まり場になっていた。彰洋が姿を現すと、そこにいた全員が彰洋を値踏みするような視線を送ってきた。彰洋は視線を落とした。  チンピラが溜まり場の右奥のドアを開け、深々とお辞儀した。 「堤って野郎っす」 「入ってもらえ」  松岡の声が流れてきた。チンピラが声のしたほうに顎をしゃくった。彰洋はチンピラの横を通って部屋の中に入った。 「任侠」と書かれた額縁入りの大きな書が視界に飛び込んできた。その下に、松岡がふんぞり返っていた。 「お茶、どうしますか?」  チンピラが訊いた。松岡が首を振った。 「いらねえ。そんなことより、だれもこの部屋に入れるな」 「わかりました」  チンピラがドアを閉めた。 「それで、相談ってのはなんだ?」  松岡はやすりで爪を研いでいた。  彰洋は息を吸う。拳を握る。 「金田義明のことです」 「金田?」  松岡の爪を研ぐ手がとまった。 「関西の地上げ屋です。今、東京に来ています」 「金田とおまえにどんな関係があるんだ?」 「この前、佐久間会長のところにお伺いしたとき、松岡さん怒ってましたよね」  松岡の右の眉が吊りあがった。松岡は口を開かなかった。彰洋は言葉を続けた。 「だれかが襲われて、犯人をはやく見つけろって……あれ、やったのおれです」 「なんだと?」 「金田に脅されてやったんです」  爪やすりが音をたてて机の上に転がった。 「そこに座れや」  松岡は応接セットを指しながら机を回りこんだ。彰洋は松岡と差し向かいになってひとり掛けのソファに腰をおろした。 「どういうことか、きっちり説明してみろ、小僧」  松岡の目は険呑な光を湛えていた。光は彰洋を捉えて離さない。 「波潟社長がコカインをやっていることはご存じですよね?」  松岡が怪訝な表情を浮かべた。彰洋は言葉を続ける。 「社長に頼まれたコカインを買ってる現場を、金田に押さえられたんです。写真も撮られてます」 「なんだと?」 「金田には社長の動向を教えろと脅されました」  松岡は舌打ちした。膝が細かく揺れている。松岡は明らかに苛立っていた。 「てめえ、前科《まえ》はあるのか?」  彰洋は首を振った。 「だったらそんなもん、てめえで使うために仕入れたとでもいっておけばいいじゃねえか。初犯なら執行猶予だ。波潟に泣きついていい弁護士雇ってもらえば、もっと軽くすむ。それぐらいの頭も働かねえのか、おい」 「社長の娘と一緒にいるところも写真に撮られました」  彰洋はいった。声が顫えている。顔の筋肉が強張っている。 「波潟の娘だ?」 「付き合ってるんです。社長に隠れて。可愛がってる小僧が自慢の箱入り娘に手をつけたと知ったら、波潟はどうすると思う……金田にそういわれました」 「殺されねえまでも、半殺しにはされるわな」  松岡は吐き捨てるようにいった。実際、足許に唾を吐いた。 「半殺しにされるだけなら、まだましです。おれ、顫えあがりました。それで、社長の行動を金田に報告するようにいわれたんです」 「ゲスなスパイ野郎か。てめえには似つかわしいな」松岡は腰をあげ、彰洋の周囲をゆっくり練り歩いた。「それで、なんだって金田はてめえに加藤を襲わせたんだ?」 「踏み絵です。おれがいうことを聞くかどうか確かめたかったんです」  彰洋はまくしたてた。松岡は彰洋の真後ろで足をとめた。 「金田のやつ、加藤がうちの者だってこと、知ってててめえにやらせたのか?」 「知りません。銀座に連れていかれて、あのやくざを後ろから襲ってぶちのめしてこいといわれただけです」  彰洋は目を閉じた。殴られることを覚悟する。松岡が動く気配は伝わってこない。 「それで、てめえは加藤をやったわけだな。てめえの尻ぬぐいをするためだけによ」 「すみません。松岡さんのところの人だとは知らなかったんです」 「知らねえですむか、馬鹿野郎が」  松岡の声が凄味を増した。彰洋は目を閉じつづけた。殴られるのは怖くはない。怖いのは殴られたあとのことだった。 「金田になにをチクったんだ?」 「全部です」  ソファに衝撃があった。松岡が背もたれを蹴ったのだと悟る。 「金田になにをチクったんだって訊いてるんだよ」 「社長のこと、すべてです。その日に社長がしたこと、しなかったこと、全部訊かれました」 「金田はなにを企んでるんだ?」 「社長が株でなにかをしようとしてることを知ってます。たぶん、社長をはめて、それで儲けようとしてるんだと思います」 「このクソガキが。なんだっておれんところに来た? こんなクソみてえな話聞かされて、おれがてめえを無事に帰すと思ってんのか?」  松岡が耳元で怒鳴った。彰洋は身体を硬直させた。 「怖かったんです!」  彰洋は目を開いた。 「怖いだ?」 「金田の思うとおりにことが運んだら、社長は大損するはずです。佐久間会長から預かってるお金も、戻ってこなくなるじゃないですか。そうなったら、社長、どうなります? おれ、どうなります? なにかおかしいと疑われて調べられたら、おれのことなんかすぐにばれるじゃないですか。それ考えると、怖くて夜も眠れないんです」 「だからおれんとこにのこのこやってきたってのか?」 「殺されるより、半殺しの方がましでしょう?」  彰洋は叫んだ。背後が騒がしくなった。 「だいじょうぶですか、おやじ?」  チンピラの声が聞こえる。 「うるせえ! だれも入れるなといっただろうが」  松岡が吠えた。チンピラの声が消えた。髪の毛を鷲掴みにされ、後ろに引っ張られた。 「てめえが極道だったら、小指の一本や二本じゃ足りねえんだぞ。わかってんのか、こら?」 「すみません」  彰洋は苦痛に耐えた。再び目を閉じる。 「クソチンピラが、てめえの尻もふけねえくせに勝手なことばかりしやがってよ」  髪の毛を引く力が強くなった。彰洋は腰を浮かした。そのまま床に突き倒された。 「本当だったらな、加藤にてめえ預けて、好きなようにさせてやるんだがよ。だがな、波潟のところのクソガキが関わってるってことが公になったら、おれは波潟にけじめをつけさせなきゃならねえ。わかるか、チンピラ? そうなったら、佐久間会長を怒らせることになるんだ、クソが」  固い物が脇腹にめりこんでくる。喉元まで出かかった悲鳴を、彰洋は飲みこんだ。身体を丸めてさらなる苦痛を待った。 「波潟の娘に突っこんで、脅されて、なんでもかんでもチクっただ? ふざけやがって」  肋骨に激痛が走った。身体をさらに丸めると今度は背中を蹴られた──のけぞった。鳩尾《みぞおち》に松岡の爪先が突き刺さった。叫びたくても声が出ない。時間が止まる。苦痛と吐き気が繰り返し襲いかかってくる。恐怖が膨張する。意識が遠のきかける。激痛が待ったをかける。  荒い息づかいが聞こえていた。痛みは全身に広がっている。身も心も打ちのめされている。 「それで、金田のクソ野郎はどこにいるんだ?」  荒い息の持ち主は松岡だった。彰洋は顔をあげ、苦痛に眉をしかめた。 「あ、赤坂のクラブです。毎晩、そこでおれを待ってるんです」 「案内しろ」  松岡はスーツの乱れを直した。彰洋は身体を起こした。松岡が彰洋の胸板を蹴った。彰洋は床の上に仰向けに倒れた。      * * *  痛みが熱に変わる。耐えがたい熱さ。喉が干からび、眼球が乾く。水が欲しい。暖かいベッドが欲しい。あの感覚が欲しい。  隣りに松岡がいる。松岡は怕《こわ》い顔をしている。  TBS会館の前で車がとまる。 「降りろ。こっから先は歩きだ」松岡に促される。「だれかに見つからないようにこいつの後についていけ」 「わかりました」  助手席のチンピラが振り返る。彰洋はドアを開ける。熱が痛みに変わる。呻く。 「のろのろしてんじゃねえ」  松岡が脇腹を小突いてくる。痛みが激痛に変わる。足を踏みだすたびに骨が軋む。ネオンが目に焼きつく。振り返る。チンピラが後をついてくる。前を向く。痛みに歯を食いしばる。美千隆のことを思う。美千隆の嘘を思う。怒りが痛みを塗り潰していく。  店に辿りつく。もう一度振り返る。チンピラに目で合図を送る。店の看板に視線を向ける。チンピラがうなずく。店に乗りこむ。マネージャーを探す。 「金田さんは?」 「今日はお見えにならないようです」  マネージャーが答える。彰洋は愕然とする。 「堤様にご伝言をお預かりしてますよ。今日は用があって来ることができないので、適当に飲んでお帰りくださいとのことです。もちろんお支払いは金田様の方におつけしておくようにいわれております」 「いや……」彰洋は頭を振る。痛みがぶり返す。「金田さんが来ないんなら、ぼくも帰ります」 「どうぞ、ご自由に」  店を出て松岡の車を探す。金田の後を尾けるために、どこかで待機しているはずになっている。  狭い交差点を曲がってくるヘッドライトを見つけ、車に駆けよる。窓が開き松岡が顔を出す。 「どうした?」 「金田は今日はこの店に来ません」  松岡の形相が一変する。 「乗れ」  彰洋は松岡に従う。 「話が違うじゃねえか」  松岡は彰洋の脇腹を殴る。 「すみません。いつもは必ずあの店にいるんです」 「他にやつと連絡を取る方法はねえのか?」 「ポケベルの番号なら……」  松岡が彰洋の顔を覗きこんでくる。松岡の息が彰洋の顔にかかる。松岡の息は嫌な匂いがする。 「とっととあいつを見つけてこい。さもなきゃ、てめえにツケを払ってもらうしかなくなるぞ」  松岡が押し殺した声でいう。彰洋はうなずく。いわれなくてもわかっている。      73  知っていること──推測したことを洗いざらい吐きだした。  美千隆と原田吉雄。五年前に頭角を現した男と、五年前に死んだ日雇い労働者。彰洋の依頼。原田吉雄の死が、美千隆のステップアップに関わっている。原田吉雄は泥酔して凍死した。事故に見せかけるのは簡単だ。美千隆が原田吉雄を殺した。彰洋はその証拠を押さえようとしている。証人を探しだそうとしている。 「あのクソガキ」金田は歯ぎしりした。「なんもおれに喋らんと、陰でこそこそ動き回っとったんか。どついたらな、勘弁でけへんで」 「しょうがないじゃない。脅されていいように小突き回されて、それで黙ってるようなタイプじゃないもん、彰洋ちゃん。今どき珍しい熱血漢だったんだよ、昔は」  麻美は煙草の煙を吐きだした。金田が顔をしかめた。 「おまえら、今のガキはどうなってるねん」  麻美は肩をすくめた。金田は小さく首を振って大男の方に視線を移した。 「おい。この写真持って、山谷に行ってこい。齋藤と原田とかいうのんが一緒にいるところを見たことがあるやつ、探してくるんや」 「今すぐですか?」 「当たり前や、このボケ」  金田は怒鳴った。大男が背中を丸めて部屋を出ていった。 「で、この話、他にだれが知っとるんや」 「だれも知らないよ。彰洋ちゃんとマミだけ。彰洋ちゃんはマミが気づいたこと、知らないと思うし」 「よっしゃ。ほんなら、次はあのクソガキがなにを企んどるのか教えてもらおか」  金田はベッドに腰をおろし、麻美の肩を抱いた。 「いや」  麻美は金田の手をはねのけた。 「いやって、なんやねん、それ」 「ただじゃ教えない」 「お嬢ちゃん、自分の置かれた立場わかっとんのか?」 「なによ」麻美は唇を尖らせた。「マミを殺すの? そんなことするつもりないくせに」 「お嬢ちゃんの身体目当てにおれが甘い顔すると思《おも》たら大間違いやで。確かにお嬢ちゃん、ええ女やが、金さえありゃ、女なんぞいくらでも手に入るんや。それに、あと十年も経ったら、お嬢ちゃんもただのおばはんや。そんなもんに甘い顔見せとったら、いつまで経っても半端なまんまや。わかるやろ」  金田の言葉が胸に突き刺さった。顔には出さずに反撃する。 「そんなこといってるんじゃないの。ビジネスの話よ。マミ、この件に二千万注ぎこんでるんだから。ただじゃ話せないの」 「なんや、銭の話か。いくら欲しいんや?」  金田は眉ひとつ動かさなかった。欺かれたりはしない。麻美にはわかる。とぼけた目の奥で、金田は計算している。二千万の重みをはかっている。  麻美にはわかる。金田が自分と同じだからわかる。麻美も重みをはかっている。波潟、美千隆、彰洋、市丸、金田。この状況なら、金田が一番重い。金が欲しければ、金田を利用するしかない。 「三億」  麻美は答えた。 「アホいうな。どこの世界におまえみたいな小娘に三億も出す人間がおるねん」 「北上地所が手に入るんだよ。三億ぐらい、安いもんでしょ」 「北上地所が手に入る?」 「そう。金田さんみたいなおじさん、マミや彰洋ちゃんのこと馬鹿にするけど、マミたちだって考えてるんだよ。この世の中、お金が一番大事。そのお金を手にするにはどうしたらいいか、いっつも考えてる。そう馬鹿にしたもんじゃないのよ」  金田が腕を組んだ。目を細め、麻美を凝視する。 「おれが口約束だけして、あとになって三億なんか知らんいうたら、お嬢ちゃん、どないするつもりや?」 「ゆるさない」麻美は金田を睨み返した。「そんなこと、絶対にゆるさない」  自分の声が他人の声のように聞こえた。声は低く透き通っていた。どこにも濁りがなかった。 「怕《こわ》いな、お嬢ちゃん。騙したら、一生取り憑いて呪ってやるいう顔や。そういう顔できる女は、ほんま、怕いんや」金田の表情がゆるんだ。「波潟も齋藤も、あの小僧も、なんも考えんとお嬢ちゃんに手出したんやな。だから、しっぺ返しくらうんや」 「金田さんだって手出したじゃない」 「アホ。おれはおまえがどんな女か知っとるがな。おまえもおれのこと、ようわかるやろ。金にしか興味がないねん。出世だとか名を残すとか、そういうくだらんもんにはこれっぽっちも興味がない。金や。銭や。どんどん稼いでどんどん使いたいねん。そのためだったらなんでもするで。それだけや。お嬢ちゃんと似てるやろ」 「いろんな男がいるね」麻美は新しい煙草に火をつけた。「みんな馬鹿みたいなとこがあって可愛いけど、金田さん、おっかないな」 「そか。おれも怕いか。よっしゃ、三億払ったる。男の約束ゆうても、お嬢ちゃんには屁みたいなもんやろうからな。これ、似た者同士の約束や。どや、教えてくれや。堤のガキ、なにを企んどるねん」  彰洋の顔が脳裏をよぎった。彰洋の顔はぼやけている。  麻美は話した。  波潟の持っている株。波潟紀子の持っている株。美千隆が集めている株。市丸が集めた株。美千隆が波潟から掠め取ろうとしている株。脳に過負荷がかかる。言葉が迸《ほとばし》る。 「波潟の女房の方は堤の小僧が押さえてるんか?」  金田が割りこんでくる。金田は腕を組んでいる。眉間に皺を寄せている。 「そうだよ。彰洋ちゃん、波潟の娘と付き合ってるし、おじさんとかおばさんに気に入られるタイプだし……彰洋ちゃんがいなかったら、最初からこの計画、無理なんだよね」 「堤の首根っこはおれががっちり押さえとるからな。おもろうなってきたやないか。あとは、証人見っけてきて、齋藤とこに話つけにいくタイミングはかるだけやな。まあ、小僧にも落とし前つけてもらわにゃしゃあないが、それはことが終わってからでかめへん。さてと──」金田は下卑た笑いを浮かべた。「あいつが戻ってくるまで、まだ時間がある。もういっぺん、楽しまさせてもらおやないか」  金田に肩を抱き寄せられた。今度こそ屈伏させてやる──麻美は金田の唇を吸った。      * * *  二度の挑戦──二度の敗北。金田は呻く。懇願する。だが、放出したあとではすべてをかなぐり捨てる。セックスはセックスでしかない。しがらみにはならない。  シャワーを浴びる。膣から溢れでる液体を丁寧に洗い流す。金田の手が、唇が触れた箇所を執拗に洗う。  金田はゆるせない。金田に抱かれたあとは、美千隆のことを思いだしてしまう。美千隆も金田のように麻美を抱いていたのだろうか。金田と違って態度には出さないだけで。  美千隆はゆるせない。金田もゆるせない。ゆるすわけにはいかない。  バスルームを出ると、金田が電話でだれかと話していた。 「わかった。ほんなら、その居酒屋で待っとれ。これから行ったるから」金田は電話を切った。「証人が見つかったそうや。早いとこ化粧せえ。すぐ出かけるで」 「こっちに連れてくるんじゃないの?」 「アホ。三日働いて四日飲んだくれとるようなやつや。こんなホテルに連れて来れるかい」 「ちょっと待ってて」  麻美は再びバスルームに駆けこんで鏡に向き合った。  金田はゆるせない──心の中で念じながら化粧をする。眉を描き、口紅を塗る。若い肌と暗くなっていく街──ファンデーションは必要ない。服を着て、バスルームを出る。ジャスト五分。金田は腕組みして待っていた。 「行くで」  金田が踵を返した。金田は振り返らない。脅しの言葉も吐かない。麻美がついてくることを確信している。  金田はゆるせない。  タクシーで山谷に向かった。赤提灯が出ている小さな居酒屋に入る。酒と煙草と汗と垢の匂いが押し寄せてくる。麻美は顔をしかめた。金田は気にもせずに店の奥に進んでいった。  大男がいた。小柄な男とテーブルを囲んでいる。大男は金田に気づき、すぐに腰をあげた。 「こいつです。おい、おまえも挨拶せんかい」  大男は小柄な男をどやしつけた。 「ええ。気にせんといてや、おっさん。おっさんはおれの大事な客や」 「あ、ありがとうございます」  金田は大男と場所を入れ代わり、小男の真向かいに座った。 「マミ、おまえもこっちに座れや」  麻美は金田の隣りに座った。大男が小男の隣りに移動する。小男は怯えていた。ただでさえ小さいのに、大男のせいでさらに小柄に見えた。 「おっちゃん、名前は?」 「す、鈴木です」 「鈴木さん、なんでも好きな物飲んでや、食うてや。そんなにかしこまることないで。なんなら、鈴木さんのために、この店貸し切りにしたろか?」 「いえ、そんな……」 「おい。ビールでも焼酎でも、ガンガン持って来させんかい」  金田が大男に毒づくと、鈴木はますます恐縮した。 「それで、鈴木さん。ほんまにこの男のこと知ってるんやな?」  金田は机の上に載っていた美千隆の写真を指差した。 「は、はい。何度か見かけたことがあります」 「いつごろや?」 「よっさんが死ぬ直前だから……五年ぐらい前のことだと思いますけど」 「思いますじゃ困るんや。はっきり思いだせんか?」  鈴木の額には汗が浮かんでいた。大男が鈴木のグラスにビールを注いだ。鈴木はビールを一気に飲み干した。鈴木の頬に赤みが差した。 「はっきりといわれても、ずいぶん昔のことなんで……」 「鈴木さん、そこ、はっきりさせてもらわなあかんのや……鈴木さん、あんた、今週いくら稼いどる? 景気がいいからぎょうさん儲かってるやろ」 「いや、それほどでも……」 「あんたも三日働いて、四日飲んだくれとる口か?」  鈴木がうつむいた。 「なあ、鈴木さん、これ、ええ女やろ?」  金田は麻美の肩に手をまわした。鈴木が目をあげる。 「ほんまもんの女子大生や。普通やったら、おれみたいな半端もんには手が出せん。せやけど、金があったら別や。この女、金が好きなんや。金のためなら、いくらでもおめこ開いてくれる」  金田は麻美の胸を鷲掴みにし、乱暴に揉んだ。激痛が走った。麻美は金田の手をはねのけた。  金田はゆるせない。絶対にゆるせない。 「もう長いことおめこしてへんやろ、鈴木さん? はっきり思いだしてくれたら、こういうおねえちゃん、いくらでもいてこましたれるだけの金、払うてやるで」  鈴木が唾を飲みこんだ。 「お、思いだしたいのは山々なんですけど……」 「よしゃ。だったらこうしよ。どういう按配のときに、この男見かけたんや? そういう細かいところから思いだしていけば、なんとなくわかってくるんとちゃうか? ま、そうかしこまらんと、飲んで飲んで」  金田は表情をゆるめてビールやつまみをすすめはじめた。鈴木は怯えた表情のままビールを飲んだ。ちびちびと、だが絶えることなく飲みつづけた。やがて、鈴木の舌が軽くなってきた。 「あれはまだ寒かったなあ。年が明けたっていうのに、寒くて寒くて、みんなで熱燗《あつかん》飲みながら、文句いいあってたんですよ。一月か二月だったかなあ」 「それで? この写真の男は」 「こんな感じのね、赤提灯で飲んでたんだけど、こいつが店に入ってきてね、よっさん……原田吉雄って男を知らないかって、だれかれかまわず訊ねてまわってたんですよ。あのころは、もっと若かったと思うけどね」 「それで?」  金田は鈴木のグラスに酒を注ぎ足した。グラスの中身はビールから焼酎に変わっていた。 「ほら、こういうところに集まってくる連中だから、みんな人にいいたくないことあるんですわ。その分、人のことも喋らない。ね、わかるでしょ?」 「わかるで。ようわかる。そやけど、だれかがこの男によっさんのこと話したんやな?」 「こいつ、金ちらつかせたんだよ。それで、だれかがよっさんのドヤ、教えたんだ」 「寒い日だったんやな?」 「えらく寒かったよ。その何日か前に大雪が降ったんだ。思いだしたよ」 「五年前よ」麻美は口を挟んだ。「五年前に東京で大雪が降ったの。マミ、覚えてる」  金田の目尻がさがった。 「それで、鈴木さん。そのあと、こいつとよっさんが一緒におるとこも見たんやな?」 「何度か見かけたよ。その辺の路上とか、赤提灯とかでさ。こいつがよっさんになんか頼みごとしてるみたいだったな。でも、よっさんは迷惑がってたな。ただ酒飲ましてもらえるから我慢してただけで……よっさん、頭痛持ちでね。酒がないと頭が割れるように痛むっていつもこぼしてたんだよ」 「それで?」 「そのあとは……よっさんが隅田川の河っぺりでおっ死んで、死体はおふくろさんが引き取ったんだけど、よっさんと仲の良かったのが集まって形だけでもって通夜をやったんだよ。こいつが現れてからすぐに死んだから、こいつは死神みたいなもんだって、みんなで話してたよ」  鈴木が写真を指差した。 「確かにこの男なんやな?」 「間違いないよ」  鈴木は断言した。鈴木の顔は赤らんでいる。態度が大胆になっている。鈴木は酔っている。 「助かったで、鈴木さん。これで探偵でも使って裏取れば、齋藤の野郎をいわすことができる──」  金田は内ポケットから財布を取りだし、無造作に札束を掴みだした。鈴木が目を丸くした。 「ほな、鈴木さん。これが礼金や。大事に使えや。それからな、金あるからいうて、ここを動いたらあかんで。また聞きたくなることが出てくるかもしれんからな。しばらくは山谷にいたってや」  鈴木の耳に金田の声が届いているとは思えなかった。鈴木は札束を凝視し、顫える手で受け取った。 「ほな、行こか、マミ」  金田は鈴木の常宿を聞きだしてから腰をあげた。 「ちょ、ちょっと、金田さん」 「なんやねん?」 「こ、このねえさんとやらせてもらえんかな。か、金は払うから」  鈴木が麻美を指差した。麻美は鈴木のグラスに手を伸ばし、中身を鈴木の頭にぶちまけた。 「わたし、目茶苦茶高いよ。それでもいいの、鈴木さん?」  鈴木を睨みつけた。鈴木は目を剥き、神経質な瞬きを繰り返した。      74  車は六本木を目指していた。松岡は事務所で彰洋の帰りを待っている。  金田はどこにいる? 麻美はどこに消えた? 探したくてもどこを探せばいいのかすらわからない。  市丸に電話をかけた。 「麻美から連絡は?」 「ねえよ。三十分置きにポケベル鳴らしてるんだが、うんともすんともいってこねえ。おい、マミになにがあった?」 「おれにもわかりません」 「それじゃ通らねえぞ、この野郎」 「麻美の行きそうな場所に心当たりはないですか?」 「あったらこんなところでぐずぐずしてるか。そんなことより、おれの質問に答えろ」 「また連絡します」  彰洋は電話を切った。  なぜ、金田はあのクラブにいないのか。なぜ、麻美は連絡をしてこないのか。クラブのマネージャーはいった──金田は用があって来られない。  金田が東京にいるのは、波潟を狙っているからだ。美千隆の企みに横槍を入れようとしているからだ。そのためには彰洋の情報が欠かせない。  なぜ、あのクラブにいないのか。彰洋以上の情報源を見つけたからだ。情報源──だれだ? 金田は彰洋を尾行させ、彰洋の弱みを握った。他の人間にも同じことをしていないとは限らない。  だれだ?  麻美。  金田は麻美を尾行させた。麻美は山谷に行った。麻美と山谷はそぐわない。なにかが怪しいと金田が嗅ぎつける。  あるいは、麻美の方から金田に近づくということもある。麻美が市丸と彰洋では心もとないと判断してもおかしくはない。  金田と麻美、麻美と金田。  彰洋は車をUターンさせた。  車のスピードがあがる。脳細胞が唸りをあげる。  麻美は美千隆の写真を持って山谷に行かされたわけを知らない。金田は彰洋が美千隆の弱みを見つけたことを知らない。  だが、ふたりが情報を持ちよれば、新たななにかを見つけるかもしれない。五年前の美千隆と山谷。ふたりは日雇い労働者の死を知るかもしれない。原田吉雄と美千隆の繋がりを見つけるかもしれない。  気が急《せ》いた。手に汗が滲《にじ》む。  山谷に到着した。  酒に酔った日雇い労働者たち──手当たり次第に尋ねて歩く。  若い女を見なかったか。若くて綺麗な女を。 「女? おう、さっきまでそこの赤提灯にいたな、別嬪さんが」  頬を赤く染めた男がにやけながら答えた。 「赤提灯?」 「そこの角曲がったところにある赤提灯だよ。おれもさっきまでそこで飲んでたんだけどな」 「だれと一緒でした?」 「鈴木のショウちゃんと、関西弁しゃべる男がふたりいたな。でっけえのとちっちぇえのでよ。ちっちぇえのが大きな声で関西弁まくしたてて、嫌な感じだった」  金田と大男──間違いはない。 「鈴木のショウちゃんって、だれですか?」 「おれらの仕事仲間だよ。なんか、背中丸くしておっかながってるみてえだったな。だけどよ、でっけえ男が睨みきかせてるもんで、みんな知らんぷりしてた」  男は饒舌だった。かなり酔っている。だが、男が嘘をつく理由は見あたらない。鈴木のショウちゃん──美千隆を覚えている男。間違いはない。金田と麻美は証人を見つけ、押さえた。 「まだいるんですか?」 「小一時間ぐらい前に出てったぜ」 「どこにいったかわかりませんか?」 「知るかよ、そんなこと」  男は足元に唾を吐いた。彰洋は男に背を向けた。 「おい、人にもの聞いといてその態度かよ!?」  男を無視して足を進めた。明かりの消えた赤い提灯が目に映った。屋台に毛の生えたような居酒屋で、ちょうど店仕舞いをはじめているところだった。山谷の夜は早い。 「すみません」  声をかけながら中に入った。 「もうおしまいだよ」  初老の男がカウンターの中にいた。中年の女がテーブルの上に残った皿を片づけていた。 「飲みに来たんじゃないんです。ちょっとお伺いしたいことがあって……さっきまで、四人連れの客が来てましたよね? 関西弁を話すふたりに若い女がひとり、それから鈴木さんっていう──」 「ああ、ショウちゃんたちだな。いたよ。一時間ぐらい前に帰ったけどな」  初老の男が洗い物の手をとめた。 「その後、どこに行ったかわかりませんか?」 「そんなの、わかるわけねえだろう」  彰洋はカウンター越しに身を乗りだし、一万円札を男の手に押しつけた。 「どうしても知る必要があるんです。なんでもいいから、連中が話してたこと、思いだしてください」  男は一万円札を手の中に握りこんだ。 「あんた、なんの関係があるんだい?」 「一緒にいた女の兄です。妹……最近、悪い男にひっかかってると聞いてまして」 「悪い男にね……こういっちゃなんだけど、あんたの妹さんも質《たち》よさそうには思えねえなぁ。ショウちゃんの頭に焼酎ぶっかけてやがったぜ」 「ご迷惑おかけしてすみません。それで──」 「帰り際に、目つきの悪い関西弁の男が、とりあえずホテルに戻るかっていってたのは覚えてるよ。他は知らねえ。あんまり関わり合いになりたくなるような連中じゃなかったんで、耳、塞いでたんだ」 「ありがとうございます」  赤提灯を出た。考える──ホテル。この界隈でホテルといえば、浅草ビューホテルしか思い浮かばなかった。      * * *  ベルボーイは三人がエレヴェータに乗ったのを覚えていた。部屋番号まではわからない。  フロントで金田の名前を告げる。金田という名の客はいないという返事が返ってきた。  金田は別名を使っている。あるいは他の人間の名で部屋を取っている。  別の人間──大男。大男の名前を思いだそうとした。クラブでの会話。車の中での会話。断片を拾い集める。  ハリ──金田が一度、大男にそう呼びかけたことを思いだす。ハリ──下の名前とは考えにくい。名字を省略した呼称。ハリ──張本、針田、張谷。それぐらいしか思いつかない。 「おかしいな……じゃあ、張本さんが部屋を取ってるのかな。張本さんっていう名前で宿泊してる人、います?」  それとなくフロントに訊いた。 「張本様でしたら、七一五号室にご宿泊ですが」 「七一五号室ね。ありがとう」  フロントを離れ、ロビィを横切った。エレヴェータホールにあるハウスフォンで七一五号室に電話をかけた。 「もしもし?」  関西弁のイントネーションが鼓膜を顫わせる。聞きなれた声──大男の声。 「失礼いたします。ルームサーヴィスでご注文なされたメニューのご確認をさせていただきたいんですが──」 「なにかの間違いやろ。ルームサーヴィスなんて頼んでへんで」 「大変失礼いたしました。私どもの手違いです。誠に申し訳ございません」  彰洋は電話を切った。金田と麻美は七一五号室にいる。間違いはない。  掌をズボンに押しつける。拭っても拭っても汗は出つづける。底無し沼にはまりこんだ気分。松岡にここを教えるわけにはいかない。金田を松岡に与えれば、松岡も彰洋の企みに気づく恐れがある。かといって、今さら松岡を袖にするわけにもいかない。じたばた足掻《あが》いた揚げ句に、自ら底無し沼に足を踏み入れている。  トイレに行き、洗面台で顔を洗った。いくらか気分がましになった。アイディアが浮かんだ。うまくいくかどうかはわからない。だが、このまま手をこまねいているわけにもいかない。一か八か──身体を賭けなければ美千隆には勝てない。  駐車場に戻った。車に備え付けられている発煙筒を取りだした。再びロビィに戻り、エレヴェータに乗る──七階へ。七一五号室のドアは閉まっていた。廊下に人けはない。非常口を開けて発煙筒を焚いた。非常階段の踊り場に発煙筒を放り投げた。煙が瞬く間に充満していく。  非常ベルのボタンを押した。警報がけたたましく鳴り響く。エレヴェータに飛び乗って一階に降りる。ロビィは緊迫した空気に包まれていた。ホテルのスタッフが慌ただしく動いていた。フロントの人間が電話をかけまくっていた。  駐車場の車を出した。ホテルのエントランスが見える場所に車をとめた。野次馬が集まりだしている。車を降りて野次馬の中に溶けこんだ。  非常ベルが質《たち》の悪いいたずらだということはすぐにばれるだろう。だが、金田はケチがついた部屋にとどまることを嫌うはずだ。ホテルを引き払って自分のねぐらに戻る。その後を尾けることができれば文句はない。  消防車のサイレンが聞こえてきた。野次馬たちが興奮し、勝手な憶測を口にしはじめた。消防車が到着した。消防士たちがホテルの中に雪崩込む。  野次馬たちの興奮が増大する。だれもかれもが燃えあがる炎を期待していたが、期待はあっけなく裏切られた。十分も経たずに消防士たちがホテルから出てきた。消防車に乗りこんで走り去る。野次馬たちが溜め息をついた。ホテルのスタッフが出てきて悪質ないたずらだったと説明した。迷惑をかけて申し訳ないと陳謝した。  消防車と入れ代わるようにパトカーがやってきて、警官たちがホテルの中に入っていった。  彰洋は待った。十五分後──エントランスに金田たちが姿を現した。先頭に大男、その後ろに金田と麻美が続く。タクシーが大男の前に横づけした。金田が麻美になにかを話していた。  彰洋は車に飛び乗った。金田たちの乗ったタクシーがロードスターの脇を走りぬけた。  後を追った。タクシーには金田と大男しか乗っていなかった。麻美──自分の部屋に戻る。おそらく。  タクシーの尾行を続けた。入谷で首都高に乗り、芝公園で降りた。オーストラリア大使館近くのマンションの前でタクシーがとまった。金田と大男がマンションの中に消えていった。  彰洋は車を降りてマンションの様子をうかがった。セキュリティ付きの新型マンション。暗証番号を知らなければ中には入れない。  マンションの周囲を探る。駐車場はなく、裏口は施錠されていた。車にとって返し、麻美のマンションに向かった。      * * *  麻美の部屋の窓からは明かりが漏れていた。インタフォンを鳴らし、ドアをノックする。返事はない。ドアに耳をあてる。麻美が大声でだれかと話している。電話──おそらくは市丸。市丸は麻美を問い詰めているのだろう。  インタフォンを鳴らしつづけた。 「うるさいわね。だれよ、こんな時間に?」  スピーカーから麻美の怒った声が流れてきた。 「おれだ。彰洋だ」  麻美が息をのむ気配が伝わってきた。 「ちょっと待ってて。今、開けるから」  麻美はホテルのエントランスにいたときと同じ服を着ていた。 「金田になにを話した?」  彰洋は麻美を押しのけて部屋にあがった。 「知ってるの?」 「浅草ビューホテルでおまえたちを見つけたんだよ。金田になにを話したんだ? なんで金田なんかとつるもうと思った?」  彰洋は麻美の肩を揺すった。 「ちょっと待ってよ!」  麻美が彰洋の腕を振りほどいた。頬を膨らませた。 「彰洋ちゃんも市丸もマミを問い詰めるばっか。マミだって、いろいろ大変だったんだから」 「麻美が連絡をよこさないからだ」 「したくてもできなかったの。ポケベルだってまずいと思ったから、ずっと切ってたのよ」  麻美の声に覆いかぶさるように電話が鳴った。麻美は電話に見向きもしなかった。留守番電話が作動して、市丸のだみ声が聞こえてきた。 「マミ、いるのはわかってるんだ。早く出ろ!!」  彰洋は受話器に手を伸ばした。 「出なくていいよ。うるさいんだから」  麻美がいった。彰洋は首を振った。 「おれが市丸さんに用がある──もしもし、堤です」 「なんでおまえがマミの部屋にいるんだよ?」 「今、着いたところなんですよ。市丸さん、そんなに麻美が心配なら、こっちに来たらどうですか」 「おう。待ってろ。すっ飛んでいくからな。今日、なにがあったのか、全部話させるぞ」 「わかってます」  麻美はうんざりした顔をしていた。疲れている──珍しい。 「さあ、話せよ」  彰洋はソファに腰をおろした。麻美が口を開いた。バイトを雇った話。図書館で五年前のことを調べた話。彰洋の狙いを推測した話。浅草ビューホテルで金田に待ち伏せされていた話。  図書館の話は肝が冷える。金田が麻美を尾行させていたという話は背筋が凍る。何十億もの金がかかっている。そんな大金のためなら人はなんでもする。金の感覚が麻痺していて、そんな単純なことも忘れていた。 「それで、金田に全部話したのか?」 「しょうがないじゃない。脅されてたんだから。それに、全部話すもなにも、彰洋ちゃん、まだマミに全部教えてくれてないじゃない」  彰洋は腕を組んだ。思案を巡らせる。  金田は鈴木を──証人を押さえている。話の本筋を知らない。美千隆が杉並の土地を手に入れたいきさつを知らない。原田ハツの行方を知らない。原田吉雄の死を美千隆に繋げる話を知らなければ、美千隆を脅すことはできない。調べればすぐにわかる。だが、この時間ではそうはいかない。金田は朝になるのを待たなければならない。  今夜が勝負だ。  彰洋は腰をあげた。 「市丸が来る。市丸には麻美が知ってること、全部話してやれ」 「彰洋ちゃんは?」 「まだ、やらなきゃならないことがある」 「なに企んでるのか、ちゃんと説明してよ」  おまえは信用できない──喉まで出かかった言葉を飲みこんだ。 「あとで、ちゃんと説明するよ。少し待ってくれ」  彰洋は部屋を出た。周囲の様子を探っても、見張られているという気配はなかった。電話ボックスを見つけ、松岡に電話をかけた。 「堤です」 「野郎は見つかったか?」 「芝公園です。あいつがねぐらにしてるマンション、見つけました」 「どこだ?」  松岡の底冷えのするような声が鼓膜を顫わせた。      75  彰洋は荒《すさ》んだ顔をしていた。彰洋のそんな表情を見るのは初めてだった。彰洋は後ろも見ずに部屋を出ていった。  麻美は窓を開けて外を覗いた。彰洋はマンションの向かいの電話ボックスに入っていった。電話を手早く終えると、荒んだ顔のまま車で走り去った。  彰洋は金田をなんとかしようとしている。そのための算段も手にしている。だから、あれほど荒んだ顔をしている──間違いはない。  金田にすべてを話したのは間違いだった。だが、後戻りはできない。  麻美は素速くシャワーを浴びた。シャネルのスーツは山谷の匂いが染みついているような気がした。惜しげもなくゴミ箱に捨て、新しい服を着た。ヴィンテージ物のジーンズに古いTシャツ。久しぶりのカジュアルな服。もう一度山谷に戻るのに、ブランド物を着ていきたくはない。  鈴木の身柄を押さえる。そうすれば、金田に対しても彰洋に対しても有利な立場になれる。金田が勝つにしろ彰洋が勝つにしろ、主導権を握ることができる。二千万の金を投資した。今さら金は入らないではすませられない。すまさせない。投資にみあった金を、必ず手に入れる。  金田が鈴木から聞きだしたねぐらのことは頭に刻みこんであった。  インタフォンが鳴った。 「ドア、開いてるわよ」  ドアの向こうに声をかける。ドアが開き、鼻息を荒くした市丸が入ってきた。 「あのガキはどこだ?」 「用があるっていって帰ったわ」 「なにがあった?」 「車で来た? タクシー?」 「車だ」  市丸は怪訝な顔をした。 「じゃあ、車、運転して。話は車の中でするから」 「運転って、どこに行くんだよ?」 「山谷」 「山谷? こんな時間になんだってあんなところに行かなきゃならねえんだよ」 「マミだってあんなところ、行きたくないわよ。でも、行かなきゃお金が手に入らないの」  市丸は怒っていた。話を聞きたがっていた。だが、それができずに当惑している。  市丸は可愛い。だが、金ほどの魅力はない。  麻美は市丸の鼻にキスをした。      * * * 「そんなこと、あのガキ、おれには一言もいわなかったぞ」  市丸は臍《へそ》を曲げた。 「でも、市丸が来たら、全部話してもいいって、彰洋ちゃんがいったんだよ。別に裏をかこうとか、そういうこと考えてたわけじゃないよ。彰洋ちゃん、そういうタイプじゃないもん」 「クソガキが」 「怒らないでよ」 「怒るに決まってんだろうが。あいつが陰でこそこそしようとしたおかげで、マミ、おまえが危ない目に遭ったんだぞ」  市丸は吠えるようにいった。麻美は市丸の頬にキスした。市丸は可愛い。金が手に入ったら、市丸としばらく暮らしてみるのも悪くはないかもしれない。 「なんだよ、急に。あぶねえじゃねえか」 「いいじゃない。チューしたくなったからチューしたの」 「わけわかんねえ女だな、マミはよ」  市丸は照れていた。市丸は波潟や美千隆とは違う。金田とも違う。波潟や美千隆や金田は大金を手にする。市丸にそれはできない。  市丸とはしばらくは暮らせるかもしれない。長くは無理だ。麻美には耐えられない。  車のスピードが落ちた。 「山谷のどのあたりだ?」  市丸は左右に視線を走らせた。  麻美は居酒屋を出る直前の金田と鈴木の会話を思い起こす。鈴木は木賃宿に寝泊まりしている。景気がいいおかげで、食うものと寝る場所には困らないと嬉しそうに語っていた。 「泪橋《なみだばし》の交差点の近く」 「泪橋なんて、よく知ってるな」  知っているわけではない。知りたくもない。山手線の外側は、東京であって東京ではない。 「あれが泪橋の交差点だ。どこに車をとめる?」  市丸が前を指差した。麻美は鈴木が金田に説明した道のりを反芻する。 「泪橋の交差点を南に向かって三本目の路地を入るんだ。そうすりゃ、おれのねぐらの富田荘って宿が見える」  富田荘二〇二号室──鈴木はそういった。車は南から交差点に向かっている。 「このあたりでとめて」  市丸は交差点のひとつ手前の信号のそばに車をとめた。麻美は車を降りた。 「こっちよ」  市丸を待って信号を渡った。目で路地の数を確認する。交差点に背を向けて、三つめの路地を曲がり、しばらく歩くと富田荘という看板が目に入った。 「ここ。ここの二〇二号室」 「よし」  市丸が宿の中に入っていく。煙草とアルコールと汗と垢の匂い。昔の集合住宅を思わせる内部のつくり。すべてが古く、色あせ、かび臭かった。  二〇二号室のドアを市丸が乱暴にノックした。返事はなかった。もう一度ドアをノックする。やはり返事はない。ドアの向こうから鼾《いびき》が聞こえてくる。 「くそ」  市丸が舌打ちしながら後ろにさがった。ドアに体当たりする。鈍い音がしてドアが開いた。市丸が部屋に飛びこんでいく。  麻美は左右に視線を走らせた。他の部屋から人が出てくる気配はない。階下から人がやってくる気配もない。 「な、なんだよあんた?」  鈴木の声がした。 「いいから来い。おとなしくしてりゃ、なんにもしねえよ」 「来いって、そんな──」  市丸が鈴木の襟を掴んで出てきた。鈴木は別れたときと同じ服を着ていた。鈴木は汗臭かった。鈴木は酒臭かった。鈴木は不潔だった。鈴木は麻美とやりたいといった。  静かな怒りが湧いてくる。 「あ、あんた……」  鈴木が目を瞠《みは》った。 「一日に何度もごめんね、鈴木さん。でも、一緒に来てもらいたいの」 「そんな困るよ。あの人にもここから動かないって約束したのに」  鈴木が抗った。麻美は市丸にいった。 「このおじさん、マミにやらせろっていったんだよ」 「なんだと?」  市丸が鈴木を睨んだ。鈴木は観念したように目を閉じた。      76  松岡と合流した。松岡からはかすかに酒の匂いがした。 「どのマンションだ?」 「あれです」彰洋は道路の向かいのマンションを指差した。「暗証番号を知ってる人間じゃないと、中に入れないようになってます」 「管理人がいるだろうが──おい」  松岡は手下に声をかけた。 「わかりました」  手下が車を降りた。道路を渡り、マンションに向かっていく。手下がエントランス脇のパネルに手を伸ばすと、しばらく経ってからドアが開いた。 「暗証番号、知ってるんですか?」 「知ってるわけねえだろう。こういうのには、いろいろやり方ってもんがあるんだ」  暗証番号を知らなくても、管理人と話はできる。話ができれば、中に入りこむこともできる。たとえば──届け物を頼まれたんだが、留守のようなんで預かってもらえないだろうか。  松岡の手下がマンションを出て、小走りで車に戻ってきた。 「九〇五号室です。三ヶ月前から入ってるらしいですわ。賃貸で、名義は張本明哲」  松岡が彰洋に視線を送ってくる。 「金田の子分です。いつも、金田の背中に張りついてる大きな男だと思います」 「金田はその張本ってのとだけ、つるんでるのか?」 「他に鞄持ちみたいのがひとりいましたけど、最近は見かけてません」 「よし。波潟の連絡先、わかるか?」 「社長ですか?」  彰洋は首をひねった。車の時計は午前一時を指している。まだどこかで飲んでいるか。それとも、帰宅する途中か。  彰洋は波潟の車載電話の番号を教えた。松岡が自分の車載電話を使った。 「もしもし。松岡と申しますが、波潟社長はおいでですか?……あ、社長、松岡です。夜分遅くに申し訳ありません……いえ、ちょっとお頼みしたいことがありまして……そんなんじゃありませんよ。社長のところの堤君でしたっけ、あの若い衆を明日一日、貸してもらえないかと思いましてね……それがまあ、恥ずかしい話なんですが、わたしらの稼業も、若い連中に受けないとなかなか食っていけませんでね。いろいろと考えてることがあるんですが、実際に若い人の意見を聞いてみたくて……ですが、社長、うちの若いもんっていっても、みんな脛《すね》に傷持ってるやつらばっかりですから、全然参考にならんのですわ」  松岡の手下たちが暗い顔で彰洋を睨んでいた。その目は松岡がへりくだった態度を取るのは我慢がならないと語っていた。針の筵に座っているような気持ちだった。自分でまいた種だということはわかっている。耐えるしかない。 「それじゃ、よろしくお願いいたします。このお礼は、のちほどたっぷりさせていただきますので」松岡は電話を切った。「よし。これで、おまえは明日一日フリーだ。金田の野郎をかっさらうまで、付き合ってもらうぞ」      * * *  助手席の男はシートをリクライニングさせて眠っていた。運転席とリアシートの男が金田のマンションを瞬きもせずに睨んでいた。彰洋はリアシートの中央で身を縮めていた。  松岡は帰った。それなのに、男たちは真剣に見張りを続けている。松岡に心酔している。あるいは、松岡を心底畏怖している。  車はマンションのエントランスの手前にとまっていた。金田と張本がマンションから出てきたら、すぐに襲撃できるようになっている。 「おい」リアシートの男がドアを開けた。新鮮な空気が流れこんでくる。「煙草買ってこいや。それに飲み物と軽く食うもんだ」  彰洋は男に続いて車を降りた。 「煙草の銘柄は?」 「マールボロだ」 「わかりました」  彰洋は男に背を向けた。  夜が明けかけていた。行き交う車の姿はまばらでしかない。煙草の自動販売機を探し、コンビニを探し、電話ボックスを探した。  コンビニが見つかった。店の前に公衆電話が置いてあった。松岡の手下たちは視界の外に消えている。後を尾けてくるものもいない。  麻美に電話をかけた。二十二回の呼びだし音──眠たげな麻美の声。 「だぁれ?」 「彰洋だ。頼みがある」 「なにしてるのよ、こんな時間に?」  麻美が不機嫌にいう。 「詳しく説明してる暇はないんだ。おまえ、鈴木の居場所、知ってるか?」 「鈴木?」 「山谷の男だよ。知ってるだろう?」 「なんとなく覚えてるけど。金田がどこに住んでるのか訊いてたから」 「思いだしてくれ」 「あの男、どうするの?」 「身柄を押さえたいんだ。おれは今、やくざと一緒にいる。金田をなんとかするためだ。連中がさっさと金田をなんとかしてくれればそれにこしたことはないんだけど、金田がなにか口走ったら、やくざたちが金の匂いを嗅ぎつけるかもしれない。そうなる前に、鈴木を押さえておきたいんだ。あいつがおれたちの切り札だからな。市丸もそばにいるんだろう? 一緒に行ってきてくれ」 「市丸、でも、怒ってるよ。彰洋ちゃんがなんにも説明してくれないから」 「頼む、麻美」 「わかったよ。だけど、マミだって気が長い方じゃないの、彰洋ちゃん、わかってるよね?」 「わかってる」 「だったらいいけど」  電話を切ってコンビニに入った。缶コーヒーとサンドウィッチを買い、レジの男に煙草の自動販売機の場所を訊いた。カッターナイフを買い足してコンビニを出た。  金田が余計なことをいいそうになったら、口を封じなければならない。  カッターの包装を解き、柄を強く握った。  身体が顫えた。顫えはいつまで経ってもとまらない。      * * *  夜が明けた。交通量が徐々に増えていく。歩道を歩く人間の数が目につくようになる。男たちが苛立ちはじめる。  六時。七時。七時半。マンションから人が出てきた。男たちが色めき立つ。中年の女だとわかった途端、溜め息が車内に充満した。  彰洋はジャケットのポケットに手を突っこんでカッターを握った。身体が顫える。恐怖を紛らわすために、考えた。  金田たちは早めに動きだす。裏を取らなければならない。美千隆の犯した罪をきっちりなぞれるだけの裏づけを取らなければならない。人を動かすにしても自分たちで調べるにしても早い時間に動きだす。  カッターの柄が汗で濡れた。  またマンションから人が出てきた。緊張と弛緩が交互して訪れる。疲弊した神経が悲鳴をあげる。  八時十二分。マンションから張本が出てきた。 「あいつです」彰洋は悲鳴に似た声をあげた。「あいつが金田の手下です」  険呑な空気が車内に満ちた。張本は歩道で立ち止まっていた。眠たげな目を何度も瞬きさせている。 「金田はどこだ?」  リアシートの男が腰を浮かした。 「いません。あいつひとりだけみたいです」 「どうします?」  運転席の男が振り返った。リアシートの男が眉間に皺をよせた。 「あいつをさらうぞ」  車がゆっくり発進した。助手席の男とリアシートの男が身構えた。張本はどうやらタクシーを探しているようだった。車は張本の視界を塞ぐようにしてとまった。張本が目を細めた。  助手席の男とリアシートの男が同時にドアを開け、車から躍りでた。 「なんや、おまえら?」  張本が虚勢を張った。目からは眠気が消え去っていた。 「やかましい」  リアシートの男が張本に応じた。その隙に助手席の男が拳を張本の腹に叩きつけた。張本は微動だにしなかった。 「おれがだれかわかってやっとんのか、こら」  張本がふたりを恫喝する。助手席の男が拳銃を抜く。 「おまえがどこのだれだろうが、これには関係ねえぞ、おい」  リアシートの男が拳銃を張本の鳩尾《みぞおち》につきつける。張本が男を睨む。 「こんなとこでチャカ、ぶっ放すつもりか?」 「そのつもりだ。どうする、おい?」  男が張本を睨み返す。張本が肩から力を抜いた。 「あとでどないなっても知らんぞ」 「黙って車に乗れや」  男が銃をしゃくった。張本が身を屈め、車に乗りこんできた。彰洋と目が合った。 「この腐れが!!」  張本が襲いかかってきた。彰洋はカッターを抜こうとした。手が動かなかった。張本に首を絞められた。 「なにしとんじゃ、こら」  だれかの叫びが聞こえる。鈍い音がする。張本の手から力が抜ける。呼吸が楽になる。彰洋は瞬きしながら目を開く。張本が彰洋の膝の上に倒れている。リアシートの男が銃を握った右手を振りあげ、振りおろす。  張本の身体が海老のように反り返る。      * * *  リアシートの男が張本の身体をまさぐった。財布、鍵束、煙草にライター。札束とクレジットカード、免許証──財布の中身を抜く。 「取っとけ」  金とカードを助手席の男に渡し、もう一度、財布の中身を確かめた。ふたつに折り畳まれたメモ用紙を見つけ、指で摘んだ。  彰洋はメモを覗きこんだ。  9012──乱暴な字でそう記されている。 「おい、確かめてこいや」  男が彰洋に告げた。  彰洋は車を降りた。車はマンションから百メートルほど離れた交差点の角にとまっていた。逸る心をなだめながら歩いた。  マンションのエントランスに辿《たど》りつく。周囲を見渡す。サラリーマンやOLが路上を闊歩している。彰洋に注意を向ける人間はいない。パネルのボタンに指を伸ばす。1から0までの数字が三列に並んだボタン。クリアとエンターを示すCとEのボタンが0のボタンを挟んでいる。  9012E──入力する。なにかが外れるような小さな金属音がした。モーター音とともにガラス張りの自動ドアが開いた。  彰洋は車に戻った。リアシートの男が鍵束をいじっていた。一本の鍵を摘んでいる。いかにも高級マンションのドアに使われそうな鍵が日の光を浴びていた。 「開きました」 「よし」リアシートの男がうなずいた。「とりあえず、ひと目につかないところに車を移動させろ。こいつをトランクに押しこんで、金田のところに挨拶に行くぞ」  車はいくつかの交差点を曲がり、狭い路地に入った。人けがなくなったところで運転席と助手席の男が車を降りた。 「おまえも手伝え」  リアシートの男が張本に向かって顎をしゃくった。  三人で張本をトランクに放りこんだ。運転席の男が張本の両手両足をガムテープで縛りつけた。口にもガムテープを張った。張本の胸がかすかに上下に動いていた。 「よし、行くぞ」  リアシートの男が拳銃を抜いて弾丸を確かめた。車が再び動きだす。 「おれたち三人だけでやる。おまえは車に残って運転と見張り役だ。できるよな?」  彰洋は唾を飲み、ゆっくりうなずいた。 「きっちりやっといた方が身のためだぜ。うちのおやじ、怒ると無茶苦茶怖いからな」  車がマンションの前でとまった。男たちが車を降りた。彰洋は運転席に移動した。 「そんなことはねえと思うが、もし警察に目をつけられるようなことになったら、クラクションを二回鳴らせ。それで、おまえは逃げるんだ。トランクの中を見られると面倒だからな。事務所に行って、おれたちが戻るのを待て」 「わかりました」 「とっとと終わらせて、飯食いに行こうぜ」 「はい」  男の声に、ふたりが応じた。三人がマンションの中に消えていく。彰洋はステアリングを握った。汗で手が滑った。一秒が一分に感じられ、一分が一時間に感じられた。  カッターを取りだし、刃を伸ばした。刃に映る自分の歪んだ顔を凝視した。刃を左手の甲にあてて滑らせた。赤い直線が甲の上に走った。血が滲み、直線が崩れる。彰洋は血を舐めた。カッターをポケットにしまい、ステアリングとシートのポジションを調整した。 「なるようにしかならないさ」  ひとりごちながら、落ち着きのない視線をバックミラーや窓の外に走らせた。 「だから、なるようにしかならないって」  ステアリングを叩いた。左手の甲に血が溢れた。ダッシュボードの時計を見た。まだ三分しか経っていない。呻きながらラジオのスウィッチを入れた。チャンネルを切り替える。株価の変動を告げる声が流れてきた。  金、金、金。すべては金のため。波潟は一生かかっても使いきれないぐらいの金を手にした。それでも、まだ金を稼ごうとしている。美千隆は年齢に相応《ふさわ》しくない金を手にした。それでも、まだ金を稼ごうとしている。麻美は二十そこそこの小娘には決して手にできない金と享楽を手に入れた。それでも、さらなる金を手にしようとしている。  金が欲しいわけではない。ただ、自分の欲望に抗えなかっただけだ。体温のあがる感覚に取り憑かれた。美千隆に認めてもらおうと人を騙した。欲望の虜になって早紀と寝た。麻美と寝た。現実に恐れをなして体調を崩している。  金が欲しいわけではない。だからといって、波潟や美千隆や麻美を断罪することはできない。際限のない欲望に身を投じたという罪では同罪だ。  なぜだろう。普通の家庭に生まれた。父は公務員、母は専業主婦。両親の仲が悪かったわけでもない。それでも、家にいるのは窮屈だった。両親を好いている。愛しているかと問われれば答えに窮する。早く家を出たかった。祖父は好きだったが、祖父との約束はうち捨ててしまった。学校にも心底うんざりしていた。仲のいい人間はいたが、親友と呼べる人間はいなかった。本音をぶつけられる相手は麻美しかいなかった。家を出、ディスコの黒服になった。実家に帰ることはほとんどない。電話をかけることもない。地元の人間とは完全に縁が切れた──麻美を除いて。それで不都合はなかった。孤独を感じることもなかった。常に苛立っていただけだ。  なにに対して苛立っていたのだろう? 世間に対してか。自分以外のすべての人間に対してか。自分自身に対してか。苛立ち、怒り、憎悪。世界は彰洋を疎外した。彰洋は世界を疎外した。だれにも心を開かなかったくせに、心を開いてくれない他人を憎んだ。だれも愛さなかったくせに、自分を愛してくれない世界を呪った。馴染めない世界に怒りをあらわにしても、自分から歩み寄ることはなかった。  そんなときに、麻美と再会した。麻美に美千隆と引き合わされた。美千隆は彰洋を認めてくれた。彰洋を受け入れてくれた。彰洋に心を開いてくれた──そう思っていた。天高く舞いあがり、地面に叩きつけられ、なにも変わっていないことに気づかされた。そうしてまたぞろ怒りがぶり返した。  なにもかもが茶番だ。美千隆は彰洋を裏切った。だが、彰洋も多くの人間を裏切った。ホット・ロッドの連中をあざとく騙した。早紀を裏切り続けた。すべてを自分のために利用し、自分を利用しようとする人間に牙をむく。  空っぽだ。空虚だ。それでも、憎むことはやめられない。自分が自分であることを拒否することはできない。麻美が自分の欲望に忠実であるように、彰洋も自分の空虚な欲望に忠実であるほかない。  マンションのエントランスのドアが開いた。  彰洋はラジオを切った。リアシートの男を先頭にして、両脇をふたりのやくざに挟まれるようにして金田が歩いてくる。金田の顔は不機嫌に歪んでいた。左の目の下に殴られた痕があった。  金田は張本と同じようにリアシートに押しこまれた。張本と同じように彰洋に気づいた。 「どないなってんのや、このクソガキ」 「おれはあんたが嫌いだ」  彰洋は歯の隙間から絞りだすようにいった。金田が苦笑した。 「まあ、おまえが性悪やいうことは、最初からわかってたけどな」 「お喋りはそれまでだ。黙れ」  リアシートの男にいわれて、金田は不機嫌そうに唇を曲げた。      * * *  金田の口を塞がなければならない。カッターを握ったが、柄が汗でぬめった。腕に力が入らない。  金田はリアシートに座らされている。彰洋は助手席にいる。物理的に金田には手が出せない。それ以上に怖気づいている。  松岡を操れるなどとよく思えたものだ。金田をなんとかできるなどと、よく傲慢にも思えたものだ。調子に乗ったガキ──美千隆が肝心なことを教えてくれるはずもない。  車は首都高五号線を池袋に向かっていた。車から飛びおりることもできない。彰洋は目を閉じた。頭が痛む。胃が捻じれる。 「ハリはどこや?」 「教えてやるわけにはいかねえが、想像はつくだろうよ、え?」  リアシートのやりとりも耳を素通りする。  車が首都高を降りて入り組んだ路地を進んでいった。間延びした時間が過ぎていく。恐怖が精神を蝕《むしば》んでいく。  金田が口を開けば、松岡にすべてを知られる。松岡は彰洋をゆるしはしない。すべてがぶち壊しになる。今までの苦労も努力もすべて崩壊する。無意味になる。そうなる前に、金田の口を塞がなければならない。金田を殺さなければならない。リアシートの男を殺さなければならない。運転席の男を殺さなければならない。  そんなことができるはずはない。  強がって喧嘩に明け暮れたころもある。ぶっ殺してやると息巻いたこともある。すべてはお遊びだ。猫がじゃれているようなものだ。人を殺す意気地などない。やくざ者に手を出す度胸などあるはずもない。人を傷つけることはできても、殺すことはできない。人に傷つけられるのは耐えることができても、殺されるのは耐えられない。恐ろしすぎる。  意気地もなく、度胸もなく、愛もなく、友情もない。夢すらもない。物事を深く考えることすらできない。自分にはなにもない。  祖父の横顔が脳裏をよぎる。嘘をついてはいかん、人を騙してはいかん、人の物を盗んではいかん──それ以外にも、祖父はキリストの話をよくした。キリストは人々の罪のために磔《はりつけ》にされたのだといっていた。罪深きユダヤの人々。罪深きローマ帝国の市民たち。祖父のことは好きだったが、キリストの話にはむかついた。なぜむかつくのかはわからなかったが、今ではよくわかる。キリストにむかついたわけではない。キリストを殺したものにむかついていたのだ。空っぽの人間。傲慢な連中。彰洋に似たやつら。愛されることを望みながら愛することを知らず、癒されることを望みながら癒すことを知らず、自らを省みることなくキリストの差しだす救いに食らいついた人間たち。  麻美が羨ましい。麻美には迷いがない。麻美が身も心も捧げる唯一の信仰の対象は、自らの欲望だ。麻美が羨ましい。麻美が憎い。麻美が呪わしい。  車がとまった。  彰洋は目を開けた。シャツが汗で身体にへばりついていた。車は松岡の事務所の前でとまっていた。  男たちが車を降りた。金田の口を塞ぐなら今しかない──身体が動かない。彰洋を呪う麻美の声が聞こえる。彰洋を罵る早紀の声が聞こえる。自分の声は聞こえない。 「ぐずぐずしてんじゃねえ。とっとと降りろ」  リアシートの男の声に身体が反応した。彰洋はドアに手をかけた。 「自分もやばいっちゅうこと、わかっとるんか、小僧?」  金田が小声で囁いた。      * * *  金田は椅子に縛りつけられている。金田は口を開かず、沈んだ目で松岡を睨みつづけている。  松岡は金田の目の前の事務机の上に腰をおろしていた。木刀を握っている。煙草を吸っている。底光りする目で金田を睨んでいる。  金田を縛りつけていた男たちが後ろにさがった。松岡は煙草を金田に投げつけた。 「どうしてうちの者を襲わせた?」 「知るか。その小僧に聞いたらええがな」  金田が減らず口を叩いた。松岡は木刀の切っ先を金田の脛に当てた。乾いた音がして、金田が顔をしかめた。 「おまえら関西の人間は、関東の人間を馬鹿にしてるらしいがな、考え、あらためた方がいいぞ」 「おまえこそ考え直した方が身のためやぞ。おれのバックにだれがついとるんか、知らんわけやないやろ」  金田は喚いた。目尻に涙が浮かんでいた。 「バックだと? 知るか」  松岡が木刀を横に払った。切っ先が金田のこめかみをかすめる。金田は悲鳴をあげかけて、辛うじてこらえた。  彰洋は後ずさった。壁にぶつかってとまった。目を閉じたかったが閉じることができなかった。  松岡は本気で金田を殴っているわけではない。いたぶっている。いたぶられている間は金田も強がりをいえる。だが、松岡が本気になったらどこまで保つかはわからない。左右を盗み見る。部屋の中は松岡の手下たちでごった返していた。組員のほとんどで松岡と金田を取り囲んでいた。出入り口も塞がれている。逃げ道はない。 「もう一回だけ訊くぞ。どうしてうちの者を襲わせたんだ?」  松岡が木刀の先で金田の肩を小突く。 「戦争になるで」 「そんなことでおれが一々びびると思うなよ、田舎者が」  吐き気が襲いかかってきた。彰洋は必死になって歯を食いしばった。目を閉じる。闇が広がっていく。闇は理性を食い散らかす。底なしの深淵が顎を開く。開いた顎の向こうにキリストが見える。キリストは磔にされている。磔にされたキリストの足元で群集が踊っている。歌っている。愛をくれと歌っている。救いをくれと歌っている。あさましく要求している。惨めに祈っている。  鈍い音がした。金田が嘔吐するような声をあげた。 「強がりはもう終わりか? だったら、とっととうたった方が身のためだぞ」 「なに調子こいたこと抜かしとるねん。知っとるんやろうが。なんもかんも知っとるくせに、おれをいたぶって喜んでるんやろうが」  彰洋は目を開けた。幻影が消える。現実がのしかかってくる。金田の左の目尻から血が滴《したた》っていた。金田は喘いでいた。 「話せ」松岡が木刀の先端を金田の目に近づけた。「話さなけりゃ、こいつで目の玉ほじくりだすぞ」 「そのガキを取りこむためや。いろいろ調べてな、おまえんとこと波潟に繋がりがあることがわかった。それやったら簡単やないか。おまえんとこの若い衆を襲うたことがばれるぐらいやったら、ガキはおれのいいなりになる。それだけのことや。おまえかてそれぐらいのこと、いつもしとるやろ」 「どうしてあんな小僧をおまえが取りこまなきゃならないんだ?」 「波潟の動きを探るためや。なあ、もうこんな茶番、やめにせえへんか?」 「おまえは訊かれたことに答えてればいいんだ」  松岡は木刀を床に突きおろした。金田が目を閉じた。 「おまえは波潟を狙ってるらしいな? どういう方法で波潟を嵌《は》めようとしてたんだ?」 「齋藤美千隆っちゅう男が波潟の会社を狙っとるんや。おれはただ、鳶の油揚げを狙うてただけやがな」 「齋藤美千隆?」 「知らんのかいな? その小僧の親分みたいなもんや。小僧は齋藤に命令されて、波潟の会社に潜りこんどるねん」  松岡がゆっくり振り返った。 「どういうことだ?」 「作り話ですよ。自分が助かるために、ぼくを陥れようとしてるだけです」  口が勝手に動く。口八丁手八丁。意味のない言葉。空虚な言葉。彰洋自身の言葉が宙をさまよう。 「おれを騙そうとしたのか?」  空虚な言葉は松岡の鼓膜には届かない。 「そんなやつのいうことを信じるんですか? 口から生まれてきたような男ですよ」  それでも口は勝手に動く。 「あほんだら。こんな状況でしらを切りとおせる思うたら、おまえ、ほんまもんのあほやで」  金田がせせら笑った。松岡が近づいてきた。木刀をゆっくり振りかざす。 「おれが納得するようないい訳をしてみろ。聞いてやる」  松岡が凄んだ。彰洋はポケットから手を抜いた。刃を出したカッターを松岡の首に突きつけた。 「動くな」  空気が凍りつく。 「死ぬ気か、小僧」  松岡が低い声でいった。 「黙ってても殺されるだけでしょう」  口が勝手に動く。  彰洋は松岡の身体を引き寄せた。      77  彰洋の声はかすれていた。無茶なことをしでかすときの癖だ。自棄《やけ》になったときには必ず声がかすれる。自分では気づいてもいない。彰洋は、自分の欠点を省みたりはしない。自分は正しいと思いこみ、周りに迷惑をかけてまわる。 「起きて」  麻美は市丸を叩き起こした。市丸は不満げに呻いた。 「彰洋ちゃんがまた馬鹿なことしてるみたい。急がないと、一銭にもならなくなるかもしれないよ」 「どういうことだ?」 「説明してる暇はないの。早く着替えて」  市丸がバスルームに消えるのを待って、麻美は写真を取りだした。  麻美と彰洋の写真。いやらしく絡みあった男と女の肉体。  写真を茶封筒に放りこみ、封をした。電話でバイクの即配便を手配した。  シャネルのお気に入りのスーツに袖を通した。美千隆との劇的な別れには、それなりの衣装がいる。ドレッサーの前で念入りに化粧を施した。市丸がトイレを流す音が聞こえてくる。 「あの男、だいじょうぶよね?」 「ああ。おれのあの部屋は完全防音だからな。あの日雇いが暴れようが泣き喚こうが、おれが外から鍵を開けないかぎり、外には出られないさ。安心しろ」  鈴木のショウちゃんは市丸の部屋に軟禁している。だれも居場所を探り当てることはできないだろう。彰洋は別だが、彰洋が気づいたときにはすべては終わっている。  可愛い彰洋ちゃん。お馬鹿さんの彰洋ちゃん。どこにもないものを求めて世界中をさまようドン・キホーテ。自分自身がなにものでもないことにさえ気づけない道化。愚かだから可愛いけれど、その愚かさゆえにゆるされることもない。だれも、彰洋と人生を共にしようとは思わない。  早紀だって、本当の彰洋を知れば愛想をつかす。  麻美は微笑む。ルージュがうまく塗れた。これだけうまく塗れることは滅多にない。  市丸がバスルームから出てきた。寝ぐせのついた髪を水で撫でつけている。 「それで身仕度終わり?」 「おれはいつもこうだ。それより、マミ、ほんとにやるのか?」 「うん。なんか、彰洋ちゃん、やばい方に突っ走ってる感じなんだよね。あんまり時間なさそうだし」 「やるしかねえか」  市丸は頭を掻いた。悲壮感は微塵も感じられない。 「やろうよ。賭けなきゃ配当はもらえないんでしょ?」  麻美は化粧ポーチのジッパーを閉めた。やらなければならないことは昨日、市丸と話しあった。すべては頭の中にある。化粧ポーチをシャネルのバッグの中に入れる。靴もシャネルで決める。シャネルで美千隆を打ち負かしてやる。  インタフォンが鳴った。バイク便だった。麻美は封筒を手にして玄関に向かった。青いつなぎを着た若者が伝票を持って立っていた。  麻美は伝票に宛て名を書いた──早紀の名前と住所。送り主の欄には大学の同じゼミの人間の名前を書きこんだ。 「本人に直接手渡ししてもらいたいの。この子、家族と一緒に住んでるんだけど」  若者に伝票と封筒を渡した。 「ご本人様がいらっしゃらない場合はどういたしましょうか?」 「夕方ぐらいにもう一回行ってみて」麻美は用意していた一万円札を若者の手に押しこんだ。「お釣りはいらないから」 「は、はい……夕方のお届け時にもいらっしゃらなかった時は?」 「燃やして」 「は?」 「燃やすの。頼んだわよ」  目を丸くしたままの若者をそのままにして、麻美はドアを閉めた。 「中になにが入ってるんだ、あの封筒?」  市丸が訊いてきた。 「なんでもない。お世話になった人に、ちょっとしたプレゼント送っただけ」  麻美は市丸の顔を見ずに答えた。      * * *  部屋を出て市丸と別れた。市丸は自分の部屋に戻ることになっている。麻美は新宿に向かった。ホテルのフロントでハウスフォンを使った。 「美千隆?」 「なんだ、こんな時間に?」  美千隆は不機嫌だった。会社の業務をこなし、波潟を追いこむための罠を張り巡らせる──睡眠時間を削る以外にない。 「話したいことがあるんだけど、そっちにいってもいい?」 「今日はだめだ。時間を作るから少し待ってくれ」 「今日じゃなきゃだめなの」  麻美は切実な声を出した。今日は演技をする必要がなかった。 「なんなんだよ、いったい?」  美千隆の口調が変わった。 「別れ話」 「金の話か」  美千隆の口調が元に戻った。憎しみが燃えあがる。 「行ってもいい?」 「あんまり時間がない。来るんだったら、急いで──」 「今、下にいるんだよ。すぐあがっていくから」  美千隆の返事を待たずにハウスフォンを切った。エレヴェータに飛び乗り、美千隆の部屋のドアをノックする。  美千隆はガウンを羽織っていた。目の下に隈ができている。顔色は悪い。 「おはよう」  麻美は右手をあげた。美千隆の顔色は変わらない。 「わざわざこの時間を狙ってきたのか?」 「美千隆、忙しいからね」  麻美はソファに腰をおろした。美千隆は立ったままだった。 「いくら欲しいんだ? 波潟への口止め料も込みだろう?」  美千隆は麻美を見おろし、見下す。憎しみはとまらない。とめようがない。 「十億」  麻美はいった。美千隆の表情が動いた。動揺を必死に押し隠そうとしている。  十億──妥当な額だと思う。それ以下ではやりきれない。それ以上を望めば、美千隆は本気で牙を剥いてくる。十億。多すぎず、少なすぎない金額。身のほどを忘れて高望みするのは破滅に媚を売るようなものだ。麻美はよく知っている。金のことなら詳しく知っている。金を手に入れるために学んできた。  北上地所の経営に参加できれば、それに越したことはない。だが、美千隆がそんなことを飲むはずもない。彰洋が暴走しているのだとしたら、波潟が美千隆の画策に気づく恐れもある。  十億。一晩考え抜いた。妥当な額であることに間違いはない。 「いくらなんでも、それはふっかけすぎだろう、マミ。波潟だっておまえには飽きかけてるんだ。おれがおまえと寝てたことを知ったら怒るだろうが、それにしたって十億の価値はないぞ」  美千隆は麻美の反応をうかがおうとしている。美千隆の心の動きが手に取るようにわかる。麻美は美千隆に気づかれないようにほくそ笑んだ。  美千隆はいつも自信に満ち溢れている。その代わり、自信が揺らげば案外に脆《もろ》い。 「十億でも少ないんじゃない? 美千隆、波潟の会社狙ってるんでしょ? 北上地所が手に入ったら、十億なんて端た金じゃない」 「おれは、おまえには十億の価値はないといってるんだよ、マミ」  美千隆が薄笑いを浮かべる。麻美を怒らせようとしている。麻美が隠しごとを話しだすのを待っている。 「そうね。マミには十億の価値はないかもしれないね。だけど、マミが知ってる情報はそれぐらいの価値があるかもよ」  美千隆の表情がまた動いた。美千隆は得意になりかかっている。麻美を自分の思うようにコントロールしていると信じている。 「なにを知ってるんだ、マミ?」 「情報だけじゃないよ。株も少し持ってるんだ」 「なんの株だ?」 「北上地所だよ。決まってるでしょ。美千隆だって集めてるんだから。それも含めて、十億。安いでしょ? 相手が美千隆だから大割引」 「情報っていうのを教えてくれよ」  美千隆はまだ泰然としている。麻美にはなにもできないと思っている。自分より頭のいい人間はいないと思いこんでいる。 「美千隆が人を殺したこと」  麻美は爆弾を落とした。美千隆が無表情になった。 「原田吉雄っていう人。その人を殺して、美千隆、土地を手に入れたんでしょ? その土地を売ったお金を成りあがるためのきっかけにしたんでしょ?」  無差別に爆弾を落とす。美千隆の表情は動かない。 「彰洋から聞いたのか?」 「うん。いろんなこと、彰洋ちゃん教えてくれたよ。原田吉雄って人のお母さんのこととか、なんでも教えてくれた」  美千隆のこめかみに血管が浮きでてくる。 「山谷に行けば、美千隆が五年前に原田吉雄って男を探してるのを覚えてる人がいるかもしれないって教えてくれたのも彰洋ちゃん」  美千隆が口をきつく結ぶ。麻美の向かいのソファに腰をおろし煙草に乱暴に火をつける。 「鈴木さんっていうんだけど、美千隆の写真見せたら、間違いないって。五年前、原田吉雄を探して山谷を歩き回ってたのはこの男だって証言してくれたよ」  美千隆は煙を吐きだした。口は開かない。 「鈴木さんと一緒に警察に行ったら、美千隆、まずいことになるよね? 北上地所の株どころじゃないよね? 波潟を罠にはめるどころじゃないよね?」 「その鈴木っていう男が本当にいるのかどうか、おれには確かめる方法がない」 「簡単だよ。美千隆が信じるかどうかは知らないけど」  麻美は腰をあげた。ライティングデスクの上の電話を使った。 「もしもし。マミだけど」 「首尾はどうだ?」 「齋藤さんがね、鈴木さんが本当にいるのかどうか確認したいって。代わってあげてくれる?」 「わかった」  市丸の声が遠ざかった。麻美は受話器を美千隆に向けた。美千隆が間延びした足取りで近づいてきて受話器を受け取った。 「もしもし……」  美千隆は電話の声に耳を傾けた。麻美はソファに戻った。鈴木の話は聞かなくてもわかっている。市丸とはすべてを打ちあわせた。  美千隆が電話を切った。 「どうやら、本当らしいな」 「マミ、美千隆に嘘ついたことないでしょ。美千隆はよく嘘つくけど」  麻美は笑いをこらえた。美千隆を打ち負かした──これほど楽しいことはない。 「すぐには十億は用意できない。明日まで待ってくれるか?」 「いいよ。そのとき、株も渡すね。お金と株の引き渡し方法は、明日電話して教えるから」  美千隆がうなずいた。麻美はシャネルのスカートの乱れを直した。憎しみが歓喜に取って代わられる。  十億──波潟や美千隆が持っている金にくらべればたかがしれている。それでも、波潟や美千隆に肩を並べるための資本金としては充分にすぎる。 「じゃ、帰るね」  麻美はシャネルのバッグを手にした。 「彰洋はどこにいるんだ?」  美千隆が昏い目を麻美に向けた。 「知らない」  麻美はバッグを肩にかけ、腰を振って部屋を後にした。      78  無我夢中。松岡を盾にして事務所から逃げだし、車に飛び乗った。運転手は松岡。カッターの刃が松岡の首の皮膚にめりこんでいる。松岡の首からは血が流れている。 「死ぬぞ、小僧」 「うるさい。黙れ」  彰洋はルームミラーを覗いた。事務所の入り口は視界から外れかかっていた。松岡の手下たちがなにかを喚いていた。  追ってくる車はない。 「死ぬぞ、小僧。おれが必ず殺してやるからな」  松岡は口を閉じない。 「黙れといっただろう」  彰洋は叫んだ。声が濡れていた。今にも泣きだしそうになっていた。自分の愚かさに気づき、認めた。自分の空虚さを知った。自分が無意味な存在であることを悟った。それでも、死は恐ろしい。暴力に晒される予感に、胃がねじ切れそうになる。  松岡を殺さなければ、自分は死ぬ。松岡を殺しても、自分は死ぬ。ならば、死を飲みこめばいい。なのに、それができない。 「おしまいだ、小僧。おれを殺してもなんの慰めにもならねえ。おれの手下どもがおまえを殺すんだ。波潟だっておまえをゆるしゃしねえ。おまえは終わりだ。完全に終わりだ。身のほど知らずのガキがいくら足掻いたってな、世の中にゃどうにもならねえことがあるんだ」  松岡はステアリングを操りながら、うなされたように喋り続けている。  松岡を殺さなければならない。忌々《いまいま》しい口を閉じさせなければならない。なのにカッターを握った腕が動かない。  悪党にもなれず、善人にもなれず、夢や理想や野心を抱くことも知らない。なんのために生きているのかすらわからない。二十年の間、ただ呼吸をしていただけ。  頭を抱えたい。それすらもかなわない。恐怖に縛られて、松岡からカッターを離すことができない。  交差点の先頭で車がとまった。信号が赤に変わっていた。 「降りろ」  彰洋はいった。 「なんだと?」 「車から降りるんだ!」  彰洋は腕に力を込めた。松岡が怯むのがわかった。 「早く降りろ!!」  松岡がドアを開けた。 「逃げられっこねえぞ。わかってるのか、小僧」 「わかってるさ。あんたを殺したいけど殺せない。そんなこと、あんたにいわれなくてもわかってるんだ」  松岡の顔が歪んだ。松岡は笑いはじめた。松岡は車を降りた。  彰洋は運転席に身体を滑らせた。屈辱は感じない。なにも感じない。死への恐怖。自らへの嫌悪。すべては終わった。美千隆への復讐も幕を閉じた。それなのに、なにも感じない。寒気が全身を覆っている。脱力感がすべてを支配する。  信号が青に変わった。彰洋はアクセルを踏みつけた。松岡の高笑いがいつまでも後を追いかけてきた。      * * *  車を捨てて歩いた。自分がどこにいるのかもわからなかった。電車の駅を見つけた──東中野。電車に乗り、新宿で降りた。公衆電話を使った。  麻美の電話──留守番電話。 「麻美、波潟が気づく。計画は失敗だ。逃げろ」  メッセージを吹きこんで電話を切った。続いて早紀に電話をかけた。 「もしもし。おれ……彰洋だけど」  一瞬の間。早紀は一言も発しない。電話が切れた。彰洋は受話器を睨む。もう一度電話をかけた。 「もしもし、早紀? どうして──」 「どうして電話なんてかけてこられるのよ!?」  早紀が金切り声をあげる。訳がわからない。 「なにを怒ってるんだよ? この間のことか? だったら、謝るから──」 「違うわ。さっき、バイク便が来たのよ」  早紀は泣いている。混乱に拍車がかかる。 「バイク便? なんのことだよ」 「中に写真が入ってたの」 「写真?」  おぞましい予感が脳裏をよぎる。麻美の横顔が網膜に焼きつく。 「彰洋ちゃんとマミが裸で抱きあってる写真よ!」  受話器を取り落としそうになる。麻美──いくら呪っても呪い足りない。いや。麻美のせいではない。すべては自分が招いたことだ。ただ欲望に身を委ねて、自らを省みることのなかった愚かさのせいだ。 「早紀──」 「どうして?」  早紀の声は涙が鼻に詰まって聞き取りにくくなっている。 「早紀。謝りたいんだ。それで電話した。麻美のことも含めて、早紀には謝らなきゃならないことがたくさんある」 「どうしてなの?」 「会って謝りたいんだ。会ってくれないか?」 「いや」 「頼むよ、早紀──こんなこと、頼めた義理じゃないのはわかってる。だけど、早紀に謝らなきゃ、おれ、この先、なんにもできない」  彰洋は電話に縋った。ありったけの誠実さを声にこめた。早紀はゆるしてはくれないだろう。彰洋を断罪するだろう。それでもかまわない。早紀にだけは、謝りたい。 「いやよ。会いたくなんかないわ」早紀の声が遠のいていく。「わたし、死にたい」  電話が切れた。もう一度電話する。呼びだし音が鳴りつづける。 「くそ」  受話器を叩きつけ、もう一度ホームに向かった。ドアが閉まりかけている電車に滑りこんだ。形をなさない思考が渦を巻く。  なぜうまくいくなどと思えたのだろう。なぜ、自分で乗りきれるなどと考えたのだろう。  彰洋は手すりにもたれかかった。身体が怠《だる》さを訴えている。だが、休んでいる暇はない。  電車が四ツ谷駅に到着した。彰洋は走った。  波潟の家は静まり返っていた。インタフォンを押しても返答はなかった。彰洋は門を乗り越え、庭を突っきった。ドアを乱暴に叩く──返答はない。 「早紀!」  家の周囲をまわり、リヴィングのサッシ窓を叩き割った。警報ベルが鳴り響いたが、気にしてはいられなかった。 「早紀!」  叫ぶ──返答はない。二階にあがる。早紀の部屋を目指す。早紀の部屋には鍵がかかっていた。ドアをノックする。蹴飛ばす。  返答はない。  ドアに体当たりした。何度も身体をぶつけた。激しい音がして、唐突にドアが開いた。 「早紀!」  早紀がベッドに横たわっていた。投げだすように伸ばしている左手の手首が赤かった。血が溢れている。血はベッドカバーを濡らしていた。ベッドの足元に写真が散らばっている。  眩暈を覚えた。胃が引き攣《つ》り、鳩尾のあたりに冷たい感覚が広がっていく。体温が急降下する。 「おれのせいだ。全部、おれのせいだ」  彰洋は譫言《うわごと》のように口走りながら早紀に駆け寄った。抱き起こし、呼吸を確かめる。  生きている。早紀の胸がゆっくり上下している。彰洋は一一九番に電話した。救急車を呼んでくれと懇願した。 「失礼ですが、そちら様は?」 「そんなことはいいから、早く救急車をよこすんだ!」  電話を切った。ハンカチで早紀の手首をきつく縛った。早紀は目覚めない。呼吸がとまることもない。ハンカチはすぐに血塗《ちまみ》れになった。不安が胸を締めつける。早紀を救いたい。しかし、彰洋にはなにもできない。空っぽの人間には人を救うことなどできはしない。  床に散らばった写真を拾い集めた。あさましい自分を嘲笑った。遺書を探す。机の上に、便箋が載っていた。 〈彰洋ちゃんが嫌い。マミは大嫌い〉  便箋にはそう記してある。それだけしか書いていない。便箋をくしゃくしゃに丸めてポケットに放りこんだ。指先が顫えた。顫えは全身に広がっていった。 「早紀」  彰洋は早紀を抱きしめた。 「ごめんな、早紀」  嗚咽する。遠くの方からサイレンが聞こえた。彰洋は早紀を優しくベッドに横たえた。嗚咽しながら部屋を出た。      79  電話の留守電ボタンが点滅していた。 「麻美、波潟が気づく。計画は失敗だ。逃げろ」  彰洋の声は殺気立っていた。麻美は舌打ちした。彰洋がドジを踏んだのは間違いない。早めに行動したのは正解だった。  逃げろ? どこへ? 市丸のところへ。波潟は市丸の存在に気づいていない。  荷作りをした。シャネル、グッチ、エルメス、ディオール。流行遅れのものは捨てていく。それ以外のものは捨てることもできない。  ブランドに中毒している。金目の物に異常なまでに執着している。それでかまいはしない。麻美を嗤う人間は、金に見捨てられる。金がなければなにもできない。どれだけ立派なお題目を唱えても、人の心に届かなければそれはただの戯《ざ》れ言にすぎない。  市丸に電話をかけた。 「どうだった?」  市丸は勢いこんでいた。 「だいじょうぶ。美千隆、ぐうの音《ね》も出なかったよ。明日までに十億用意するって」 「十億か……もう少しふっかけても良かったんじゃねえか」 「馬鹿いわないでよ。十億だから、美千隆、払う気になったんだよ。二十億だとか三十億なんていったら開き直るかもしれないじゃない。そんなリスク、冒せないよ」 「そりゃわかってるんだけどな……」 「そんなことより、市丸、トラック手配してよ。大至急」 「トラック? なんに使うんだ?」 「引っ越し。彰洋ちゃん、ドジ踏んだみたい。波潟が気づきそうだから逃げろって、留守電に吹きこんであったの。家具なんかは諦めるけど、服は持っていきたいのよ」 「そんなのんびりしてる場合じゃねえだろう。そんなもん、買い直せばいいじゃねえか」  市丸の声が切迫したものに変わった。 「いくらすると思ってるのよ」  麻美は悪態をついた。市丸のいい分が正しいことはわかっている。それでも、ブランド物は捨てられない。自分の命を削られるような気がする。 「時間がないのわかってるんだったら、早くトラック手配してよ」 「手配したって、おまえの服、腐るほどあるじゃねえか。どこに運ぶんだよ? とてもじゃねえが、おれの部屋には入りきらねえぞ」 「どこかに倉庫かなんか借りてよ。とりあえずそこに置いておいて、落ち着いたら取りに行くから」 「しょうがねえな。一時間で車行かせる。それまでに用意しておけ。いいか、マミ。波潟をなめるな。調子こいてると、足元すくわれるからな」 「わかってる」  麻美は電話を切って荷作りを再開した。半透明のプラスティックの衣装ケースに服を詰めこんでいく。お気に入りの服やアクセサリーをスーツケースに放りこむ。ドレッサーの奥で、初めて買ったエルメスのワンピースを見つけた。思い出のある一着だが、流行からははるかに遅れている。持っていくわけにはいかない。  彰洋を怨み、呪った。彰洋はどこにいるのだろう。なにをしでかしたのだろう。早紀に写真は届いただろうか。早紀は彰洋になんといっただろうか。  電話が鳴った。麻美は電話を無視した。留守番電話が作動した。 「マミはいま、お部屋にいません。ご用件と電話番号をお願いね」 「どこにいるんだ、麻美?」彰洋の声がスピーカーから流れてくる。「早紀が手首を切った。おまえのせいだ。おれは絶対にゆるさないからな」  麻美は電話に手を伸ばしかけて思いとどまった。彰洋は市丸のことを知っている。電話に出て、余計な情報を教えることはない。  電話が切れた。麻美は彰洋の声を再生した。 「手首を切った? 早紀、ばっかじゃないの」  麻美は舌を出し、首を振った。十億のことを考える。波潟の言葉を反芻する。  金は金のあるところに集まってくる。一億を三億に増やすのは難しい。だが、十億を三十億に換えるのは人が考えるよりもたやすい。  視界が薔薇色に染まっている。笑いがこみあげてくる。  麻美は口を開けて笑った。      * * *  運送屋が荷物を運びだした。がらんとした部屋に麻美はひとりで取り残された。  感慨はない。早紀に写真を送る手配をしたときから、この部屋を出ていくことは決めていた。  麻美はドレッサーの前に立った。鏡にルージュで文字を書いた。 〈ごめんね、パパ。今までありがとう〉  にやつきながらルージュの蓋を閉めた。またルージュを出し、文字の下にハートマークを書き加えた。  これを見たら波潟ははらわたを煮えたぎらせるだろう。それを想像するだけでもおかしい。笑みは顔に張りついたままだ。  もう一度部屋の中をあらためる。必要なものはすべてスーツケースに詰めた。部屋に残っているのはガラクタのようなものばかり。思い残すことはもうなにもない。  麻美は口笛を吹きながら部屋を出た。鍵はかけなかった。  タクシーを捕まえて運転手に告げた。 「兜町まで」  運転手がスーツケースをトランクに丁寧に収めた。麻美は五千円札のチップを渡した。 「ありがとうございます」  運転手は素速く札を受け取った。まるで麻美の気が変わるのを恐れているかのように。  気が変わることなんかないわよ、運転手さん──麻美はひとりごちた。これから先、マミはお金に困ることなんかないんだから。  タクシーは霞が関で首都高に乗った。 「高速代はけっこうですから」  運転手がいった。運転手の口許はゆるんでいた。金は万能だ。人の心すら買うことができる。  首都高は順調に流れている。それすらも明日手に入る十億のおかげだと思えてくる。  宝町で首都高を降りた。 「お客さん、兜町はどのあたりですか?」 「二つめの信号を左折して」 「かしこまりました」  運転手は麻美の指示どおり、二つめの信号でタクシーを左折させた。 「このまままっすぐ行って、ふたつめの交差点の──」  麻美は口を閉じた。道路の先──市丸の事務所が入ったビルの前に黒いベンツが三台、とまっていた。ベンツは凶々《まがまが》しい空気を醸しだしている。 「ここでとめて」麻美はいった。「メーターはまだそのままにしておいて」  タクシーがとまった。ベンツまでは三十メートルの距離。 「どうしました、お客さん?」 「ちょっと様子が変なの。しばらくこのままでいて」  運転手が苦々しい表情を浮かべた。五千円で買える人の心の分量はたかが知れている。  三台のベンツの運転席にはそれぞれサングラスをかけた男たちが座っていた。ひと目でやくざと知れる。  市丸とは無関係だ──そう念じる。  麻美、波潟が気づく。計画は失敗だ。逃げろ──留守番電話に残されていた彰洋の声が頭の奥で谺する。  彰洋は市丸のことを知っている。彰洋が市丸のことを波潟に喋ったのだとしたら、ベンツで乗りつけたやくざたちは市丸を脅しにきたのだということになる。  そんなはずはない。ここまできて、そんなことがあっていい道理はない。  叫び声が聞こえてきた。くぐもっていて意味は聞き取れない。ビルの前がにわかに慌ただしくなった。七、八人のやくざが市丸と鈴木を抱えて姿を現した。市丸は小突かれていた。殴られていた。蹴られていた。 「なんなんだよ、あんたらはよ? おれは筋者に迷惑かけた覚えはねえぞ!!」  市丸は大声で懇願していた。殴られて呻いていた。  麻美は唇をきつく噛んだ。市丸はどうでもいい。鈴木を連れ去られたら、美千隆から金を脅し取ることができない。  やくざたちは市丸と鈴木をベンツに押しこもうとしていた。市丸は抗おうとしていた。鈴木はなんの抵抗もせずにベンツに乗りこんだ。 「お客さん……」  運転手が口を開いた。運転手の顔は蒼ざめていた。 「行って」  麻美はいった。口が勝手に動く。頭の中が真っ白になっている。思考が停止している。 「行ってって、どちらに?」 「どこでもいいから行って、早く!!」  タクシーが急発進した。背中がシートに押しつけられる。タクシーは三台のベンツの横を通りすぎた。市丸の顔が見えた。市丸の瞼が腫れていた。市丸は鼻血を出していた。市丸は泣いていた。  麻美は市丸から視線をそらした。停止していた思考が元に戻った。悔しさと呪わしさがこみあげてきた。涙が目尻から溢れてきた。 「お客さん?」  運転手が麻美の様子をうかがっていた。 「新宿に行って。できるだけ早く」  麻美は嗚咽しながらいった。      80  麻美はいない。インタフォンを何度押しても、ドアをどれだけノックしても返事はない。ドアの向こうに人の気配は感じられない。  彰洋はポケットの中のカッターを握り締めた。麻美を殺すつもりだった。自分も死ぬつもりだった。松岡は殺せなくても、麻美なら殺せる。  自分が恨めしい。呪わしい。  途方に暮れる。死ぬこともできない。逃げることもできない。最後の最後まで中途半端なままだ。  いや──彰洋は首を振った。  美千隆がいる。まだ、美千隆がいる。  彰洋はタクシーに飛び乗った。新宿を目指す。 「お客さん、顔色悪いけど、だいじょうぶ?」  タクシーの運転手がいった。ルームミラーに映る自分の顔を見た。土色の肌。落ちくぼんだ眼窩。血走った目。 「だいじょうぶだよ。吐いたりはしないから」  彰洋は低い声で応えた。運転手が頭を掻いた。ルームミラーに映る運転手の目には怯えの色がある。  怯えることはない、おれのことなんか気にする必要はない──彰洋は自嘲する。おれにはなんにもできないんだから。  タクシーがセンチュリーハイアットの車寄せに入っていく。彰洋はカッターを握り締めた。顔を伏せ、タクシーを降りた。ベルボーイを振りきるようにしてホテルの中に入り、エレヴェータで美千隆の部屋がある階に直行した。  カッターを握り締める。ドアの脇に「DON'T DISTURB」のサインが出ている。カッターを強く握る。ドアをノックする。強く激しくドアを叩く。 「だれだ?」  間を置かずに美千隆の声が聞こえてきた。 「おれです……」  カッターを強く、強く握り締める。右手の感覚がなくなっていく。 「彰洋か……待ってろ。今、開ける」  美千隆の声が近くなる。彰洋はカッターを抜きだし、刃を出そうとした。腕が動かない。腕の感覚はとっくに失われている。  ドアが開いた。スーツ姿の美千隆が姿を現した。美千隆は彰洋の顔を見て眉をしかめた。右手に握ったカッターを見て目を細めた。 「おれを殺すつもりで来たのか?」  美千隆がいった。彰洋はうなずこうとしたが身体はぴくりともしなかった。呆然と美千隆を見つめる以外になにもできない。 「とにかく、中に入れ。そんなところに突っ立ってたんじゃ、人目につく」  美千隆は笑った。いつもと同じ笑顔が視界に広がった。  人を騙すときは笑え──美千隆はいった。楽しそうに笑っている人間は滅多なことでは疑われない。  カッターを握る手の感覚がない。廊下の絨毯を踏んでいる足の感覚がない。視覚と聴覚以外の感覚がすべて失われている。 「どうした、彰洋? おれはおまえを取って食おうなんて考えちゃいないぞ」  美千隆が彰洋の肩に手を回した。失われていた感覚が戻ってくる。美千隆の体温を感じる。右手に握ったカッターの柄が掌に食いこんで痛い。  美千隆に促されるまま、部屋の中に足を踏み入れた。部屋は煙草臭かった。濁り、澱んでいる。 「座れよ。いま、水を持ってきてやる。酷い顔色だぞ、彰洋」  美千隆が離れていった。彰洋は右手を見つめる。カッターナイフ。強く握って、刃を出して、それで……。  右手を開いた。カッターが絨毯の上に落ちて跳ねた。彰洋はソファに尻餅をつくように腰をおろし、顔を覆った。涙は出ない。すべては涸れ果てている。凍りついている。 「午前中にマミが来たぞ」  美千隆の声が響いた。美千隆は冷蔵庫からミネラルウォーターのペットボトルを抜きだしていた。顔に張りついた笑顔は消えていない。 「麻美が、ですか?」 「脅されたよ」  美千隆はペットボトルの水をグラスに注いだ。 「十億よこせといわれた」 「十億?」 「山谷でおれの顔を覚えてる日雇い労働者を捕まえたそうだ。それに北上地所の株。しめて十億。冴えたやり方だ。十年前なら鼻も引っかけないが、今の時代、十億なら安い」  山谷で捕まえた日雇い労働者──どうして麻美が?  彰洋は頭を振った。相手は麻美だ。こちらの常識は通用しない。金の匂いを嗅ぎつければ、肉食動物の素速さで相手の喉笛に食らいつく。読みが甘かった。すべてが甘い。  口八丁手八丁──笑わせる。体温があがる感覚──すべてはまやかしだ。  美千隆は知っている。知っていて、微笑んでいる。  美千隆がグラスを彰洋の前に置いた。 「飲めよ」  美千隆は座らなかった。立ったまま、彰洋を見おろしている。彰洋はグラスに手を伸ばした。グラスは冷たかった。水滴がカッターを強く握りすぎて痺れたままの掌に心地良い。水を一気に飲み干した。こめかみが痛む。空になったグラスの底を見つめた。テーブルが歪んでいた。  歪んだ視界。歪んだ心。歪んだ世界。 「どうして、おれを裏切ろうなんて思ったんだ?」  美千隆が口を開いた。美千隆の声は低く、重かった。 「美千隆さんが最初におれを裏切ったんじゃないですか」彰洋はグラスの底を見つめたままいった。「あれをしろ、これをしろって命令しておきながら、裏じゃ全然違うことをはじめてた。おれ、道化じゃないですか。信頼してどこまでもついていくって決めてたのに、美千隆さんはそんなこと、これっぽっちも考えちゃいなかった。おれはただの使い捨ての道具だったんだ」 「なんの話だ?」 「波潟紀子ですよ。波潟の女房です。早紀のお母さんです。おれには違うことをいってたくせに、美千隆さん、あの女を丸めこもうとしてたじゃないですか」  グラスの底──歪んだままの視界。美千隆の反応はわからない。美千隆の鼻を明かしてやりたかった。美千隆の歪む表情を見て笑ってやりたかった。それなのに、美千隆を見ることができない。 「そんなことまで知ってたのか?」  美千隆の声は変わらない。 「もう、無駄ですよ。波潟紀子は全部知ってます。おれが教えました。そのこと、麻美はいわなかったんですね? 美千隆さん、麻美にまんまとしてやられたわけだ」  笑いたかった。笑えなかった。顔の筋肉が強張っている。 「そうでもないさ。まだ十億をくれてやったわけじゃない。さっき、知り合いに頼んで市丸の事務所にいってもらった。鈴木とかいう日雇い労働者は金を渡して東京から消えるようにいったし、市丸は……」  美千隆は語尾を濁した。焼きを入れられているだけなのか、殺されてどこかに埋められるのか──知ったことではない。 「じゃあ、麻美も骨折り損だったわけだ」  顔の筋肉が緩んでいく。笑いがこみあげてくる。不安と緊張に神経を苛まれ、あれこれと動き回った揚げ句、残されたのは松岡に命を狙われる自分の身だけ。麻美も、彰洋と大差ない。金を手に入れそこなったということは、麻美には殺されたも同然の仕打ちだ。 「なにがおかしいんだ?」  美千隆がいった。彰洋はグラスの底から視線をあげた。美千隆の顔から笑みが消えていた。 「なにも。おれたちの……おれと麻美の馬鹿さかげんがおかしいだけです」 「そうでもないさ。波潟紀子の件は初耳だった。面倒なことになる。少なくとも、おまえはおれの鼻を明かした」 「どうするんですか?」 「なにを?」 「おれですよ。ゆるせないでしょう、美千隆さん?」  美千隆は口を開かなかった。彰洋の手からグラスを奪い取り、冷蔵庫に向かった。 「弟が欲しかったんだ」美千隆は冷蔵庫をあけた。「本当はいたはずなんだが、おふくろが流産してな。まあ、妹だったかもしれないんだが」  彰洋は目を細める。弟──妹。わけがわからない。美千隆は冷蔵庫からシャンパンのハーフボトルを取りだしている。 「親父は生まれてくるのは男だって決めててな。押入れの中からおれのお古の服や玩具を出して待ってた。おれが七歳のときだ。二人目の子供はできないと諦めてたときに授かった赤ん坊だからな、親父もおふくろも舞いあがってた。それが、流産だ」  美千隆はシャンパンの栓を抜いた。シャンパンをふたつのグラスに注ぐ。 「ふたりともがっかりしてたよ。もちろん、おれもだ。親父たちの気持ちに感化されてたんだろうな。おれも毎晩、弟ができたらなにをやって遊ぼうか、そればかり考えてた。弟ならおれの知ってることはなんだって教えてやれる。自転車の三角乗りのやり方だとか、キャッチボールだとか、なんでもだ」  美千隆は話しながらグラスをふたつ持って戻ってくる。 「弟が欲しかった。ずっとそう思ってたな。それも、出来の悪い弟だ。おれがなんでも教えてやれる……おれがいなきゃ、なんにもできないような弟だ」美千隆はグラスをテーブルの上に置いた。彰洋の横に腰をおろす。「マミがおまえを連れてきたときに、わかった。おれが欲しかったのはおまえみたいな弟だったってな、彰洋」 「出来の悪い弟ですか……」  彰洋は自嘲した。声がかすれていた。 「飲めよ、彰洋。水よりは元気が出る」  美千隆がグラスを持って掲げた。彰洋もグラスに手を伸ばす。腕が顫えてうまくグラスを持てない。 「すみません」 「いいよ、気にするな」  美千隆はテーブルの上の彰洋のグラスに自分のグラスを軽くあわせた。乾いた音が響き渡った。 「おまえに仕事を教えるのは楽しかった。人を手玉に取る方法を教えるのもな。おまえ、目を輝かせておれのやり方を学んだ。あのロックバンドの連中を手玉に取ったやり方も見事だった。それでもな、彰洋。おまえは出来の悪い弟だ。出来の悪い弟じゃなきゃだめだったんだ、おれにはな」  美千隆はシャンパンに口をつけ、喉を潤すように飲み下した。 「波潟のところに送りこんでから、おまえはどんどん憔悴していった。見た目よりよっぽど神経が細いんだな、くだらないミスも多くなった。やっぱりおまえは出来の悪い弟だ。兄貴のおれが面倒を見てやらなきゃならない。だから、おれはひとりで勝手に動いたんだよ。だけど、それが出来の悪い弟を傷つけるとはこれっぽっちも思っちゃいなかった。おれもたいしたもんじゃないな」  美千隆は寂しそうに笑った。彰洋は目をそらした。腕の顫えが全身に広がっている。顫えはとまらない。顫えが強すぎて悪寒を覚える。美千隆の言葉には真実味があった。だが、嘘をつくときのうまいやり方を、美千隆はいくらでも知っていた。 「指輪、まだ持ってるか、彰洋?」  美千隆の左の薬指には翡翠をあしらった指輪が嵌まっていた。彰洋はジャケットのポケットを探った。顫えがとまらない。指先に触れたものを何度も掴み損なった。なんとか握りこみ、左手をポケットから出した。美千隆の方に手を突きだし、拳を開く。指輪が掌で踊る。顫えはどうしてもとまらない。 「おまえと一緒におれの王国を作る。嘘じゃなかった。問題は、おまえはおれの本当の弟じゃないってことだし、おれが優しい兄貴でもないってことだ。おれたちが住んでる世界がそんなに生易しいもんじゃないってことだ。わかるか、彰洋?」  美千隆が指輪を摘みあげた。 「わかってます」  彰洋は呻くようにいった。声までひどく顫えている。美千隆を信じたい。美千隆は信じられない。すべては自分が招いたことだった。 「逃げてください」 「逃げる?」 「松岡がからくりを全部知ってます。松岡です。やくざの松岡です。話は全部波潟の耳に入ります。松岡はおれを殺したがってます。絶対、美千隆さんのところに来ます」  顫えはとまらない。ますます強くなる。舌を噛みそうになる。子供のような言葉しか出てこない。美千隆を信じきることはできない。だが、自分のせいで美千隆が殺されるのだとしたら、どうしていいのかわからなくなる。  麻美なら甘いといって笑うだろう。自分でも自分が情けない。それでも、他にどうしたらいいのかがわからない。  美千隆は彰洋を見つめている。美千隆の目は冷たい光を放っている。もう、微笑みは消えていた。 「さっき、早紀が手首を切りました。命に別状はないはずだけど、波潟は激怒してるはずです」 「どうしてそんなことに……」 「おれのせいです。全部、おれのせいです」  彰洋は告白する。懺悔《ざんげ》する。ゆるしを乞う。美千隆の目から放たれる冷たい光が消えることはない。 「とんだ弟だな、彰洋」  美千隆は静かにいった。 「逃げてください」 「会社を放りだしてか? 今まで築きあげてきたものを全部放りだして? 馬鹿なことをいうなよ、彰洋。波潟なんか、どうとでもなるさ。おれにはあの帳簿があるんだからな」  美千隆は腰をあげた。 「やくざもなんとかなる。そのための金だ。逃げなきゃならないのは、おれよりおまえだぞ、彰洋。これは餞別だ。持っていけ。売れば二、三十万にはなる」  美千隆は指輪を彰洋の手に握りこませた。まだ、顫えは続いていた。 「おれをゆるしちゃくれないんですね?」 「自分のことだけで精一杯だよ。早く行け」 「おれが本当の弟でも同じですか?」  彰洋は指輪を握り締めた。美千隆が目を閉じ、すぐに開いた。美千隆の目は相変わらず冷たい光を放っている。 「そうだ。おれはおままごとをやってるわけじゃないからな」  美千隆はきっぱりといった。それが魔法の呪文だとでもいうように、顫えがとまった。代わりに全身の感覚が消えていく。体温がさがり続ける。 「お世話になりました」  彰洋は頭を下げた。体温はさがり続けていた。まるで氷漬けにされたかのようだった。  美千隆の返事はなかった。美千隆は電話に手を伸ばしていた。美千隆の視界から、すでに彰洋は消えている。  彰洋は踵を返した。振り返らずに部屋を出た。ノブを握る手が冷たい。なにもかもが冷えきっていた。      * * *  全身が怠《だる》い。吐き気がする。エレヴェータでフロントまで降り、トイレの表示を見つけて足を向けた。個室に入り、胃液を大量に吐いた。指輪を便器の中に放り投げて水を流した。饐《す》えた匂いが鼻をつく。  洗面台で顔を洗った。鏡を見る。亡霊のような男が自分を見返している。二十二歳には見えない。四十すぎのくたびれきった中年のような顔だった。  彰洋はトイレを出た。見慣れた顔が視界の隅をよぎる。  松岡と手下たち。エレヴェータに乗りこみ、消えていく。彰洋はエレヴェータホールに向かい、階数表示のランプを見あげた。松岡の乗りこんだエレヴェータが、美千隆の部屋のある階でとまった。  彰洋は肩を落とし、踵を返した。      81  化粧が崩れていた。すれ違う人間が怪訝な顔をした。それでも涙はとまらなかった。  市丸と鈴木はやくざたちに連れ去られた。波潟からせしめたブランド物を送った先は市丸しか知らない。伝票はろくに見もせずに捨ててしまった。  残されたのは身につけているものと、スーツケースの中身、それに銀行口座に残っている一千万だけ。波潟を籠絡してからの三年──一千万ではただに等しい。  涙がとまらない。自分の愚かさがゆるせない。市丸と鈴木を連れ去ったやくざたち。彰洋がドジを踏んだ結果か、それとも、美千隆の差し金か。  美千隆に決まっている。美千隆のやり方はわかっていたはずなのに、成功に浮かれすぎた。  涙がとまらない。自分がゆるせない。美千隆がゆるせない。約束したくせに。降参したくせに。  麻美は西新宿を歩いた。営業マンやOLたちが麻美を見て、ひそひそ話をした。  それでも涙はとまらない。ティッシュで鼻をかみ、涙をぬぐう。ティッシュがマスカラで黒くなる。麻美はティッシュを投げ捨てた。  スーツケースが重い。腕が痺れはじめている。だが、手放すことはできない。  センチュリーハイアットが見えてきた。美千隆への憎悪が燃えあがる。涙がとまった。麻美は足をはやめた。  十億は幻になった。それでも、金を諦めることはできない。少しでも多く、美千隆からふんだくってやりたい。鈴木がいなくても、美千隆が人を殺したという事実は消えない。情報は金になる。それを教えてくれたのは、美千隆だ。  ポケベルが鳴った。市丸からの連絡だった。 「馬鹿にしないでよ。そんな手にマミが引っかかるとでも思ってるわけ?」  麻美はポケベルの電源を切った。  市丸など知ったことではない。男ならこの世には腐るほどいる。大切なのは金だ。美千隆に五千万、出させる。手切れ金代わりの五千万。人殺しについて口を噤《つぐ》んでいるという条件をつければ、美千隆も飲むだろう。  五千万──望んでいた金額には到底及ばない。それでも、一千万よりははるかにましだ。五千万を元手に株を買う。株のことは市丸からいろいろと教えてもらった。金があるなら、株を買わない手はない──市丸は口癖のようにいっていた。今の世の中、株は必ずあがる。値上がりするとわかっているものを買わないのは馬鹿だ。  株を買い、株を売る。株で金を稼ぐ。もう、だれかの愛人になる必要はない。自分を殺して媚を売る必要もない。そのためにも、美千隆には必ず金を吐きださせる。  センチュリーハイアットのベルデスクでスーツケースを預けた。ベルボーイが心配げな表情を浮かべた。 「お客様、どこかお具合でも?」 「だいじょうぶ。男にふられただけだから」  麻美はぶっきらぼうにいった。トイレで入念にメイクをなおした。目の腫れぼったさは隠せなかったが、それでもかなりまともな顔になった。  ハウスフォンを見つけ、美千隆の部屋に電話をかけた。 「もしもし、美千隆?」 「マミか。かけなおしてくれ。いま、取りこみ中だ」  美千隆の声には覇気がなかった。おそらく、この電話に慌てている。 「冗談じゃないわよ。マミだって取りこみ中よ。よくも騙してくれたわね。証人がいなくなれば、マミが尻尾を巻いて逃げだすとでも思ってたの? 舐めないでよ。証人がいなくっても、マミは事実を知ってるんだから」 「マミ──」 「もう、美千隆の言葉には騙されないから。これからそっちに行くから、腹括って待ってなさいよ」  麻美の言葉が終わる前に、通話音が途切れた。美千隆が電話を切った。 「ふざけないでよ!!」  麻美は電話をたたき切った。はらわたが煮えくり返っている。美千隆はゆるさない。絶対にゆるさない。  麻美はエレヴェータホールに向かった。途中で足をとめた。  エレヴェータの前に彰洋が立っていた。彰洋は階数表示のランプを見あげていた。彰洋の目の前のエレヴェータは美千隆の部屋のある階でとまっていた。  彰洋が肩を落としてエレヴェータに背を向けた。彰洋はやつれている。急に老けこんだように見えた。彰洋の目には力がない。虚ろな視線を足元に落としている。 「彰洋ちゃん」  麻美は彰洋に声をかけた。彰洋がちらりと視線をあげた。なにごともなかったかのように視線をもとに戻すと、麻美の脇を通りすぎようとした。 「ちょっと、シカトすることないでしょう?」  麻美は彰洋の腕を掴んだ。彰洋が立ち止まる。彰洋の身体からは力が抜けている。なにもかもが抜け落ちている。彰洋は亡霊のようだった。 「どうしたの?」 「なんでもないよ。もう、おれに用なんかないだろう、麻美。放してくれよ」 「美千隆に会いに来たんでしょう? マミも美千隆に用があるから、一緒に行こうよ」 「もう、行ってきたよ」 「もしかして、美千隆に見放されて、それで落ちこんでるわけ?」  彰洋が麻美を見た。なにも見ていない、なにも感じていない──彰洋の虚ろな目はそんな印象を与えた。 「もう、どうでもいいんだよ、麻美。なにがどうなったって、おれには関係ない」 「どうでもよくないわよ。美千隆を追い詰めて、金をふんだくってやらなきゃ」 「金が必要なのは麻美だろう。おれには関係ない」 「彰洋ちゃん」 「それに、美千隆さんのところに行っても無駄だぜ。先客がいるからな」  彰洋が笑う。笑っているのに泣いているように見える。 「先客?」 「やくざだよ。波潟が送りこんできたやくざだ。今、エレヴェータであがっていったところだ。美千隆さんはもう終わりだ。おまえがどんなことを企んだって、どうにもならないよ、麻美。美千隆さんは終わりだ。おれもおまえも、終わりだ。全部、終わりさ。そもそも、最初からなにもはじまっちゃいなかったのかもしれないけどな」  身体から力が抜けた。ハンドバッグが足元に落ちた。急に切れた電話──やくざたちの来訪。市丸と鈴木のことが頭をよぎる。五千万という数字が頭の中で踊る。五千万分の札束に、油がまかれ、火を放たれる。五千万の札束は勢いよく燃えて灰になる。エルメスが、シャネルが、グッチが、サンローランが光のような速さで遠ざかっていく。代わりに、幼かったころの記憶がよみがえる。おぞましい記憶。欲しいものも買ってもらえず、ただひたすらに耐えることを強いられた日々。なにかが欲しくなれば、盗むしかなかった。万引きで補導され、母に泣きながら叱られた。悔しかった。苦しかった。情けなかった。母を憎み、呪い、そんな自分に嫌気がさした。盗む代わりに、大人に媚を売ることを覚えた。愛くるしい表情で、無邪気な声音で大人に話しかければ、それほど高くない物を買ってもらうことはできた。そうやって生きてきた。そうしなければ、自分の欲望に押し潰されてしまう。  あの日々に戻りたくはない。だから──だから。言葉が空回りする。思考が空回りする。手に入るはずだった金。手に入らなかった生活。他人に媚を売り、自分を殺す暮らしがまたはじまる。  耐えられない。そんな話は信じられない。 「どういうことよ?」  麻美は彰洋に詰め寄った。 「いったとおりだよ。あのやくざたちはおまえのことも知ってるぜ。もう、全部波潟の耳に入っているはずだ。欲をかいて墓穴掘るより、逃げた方がいい」 「彰洋ちゃん、なにしたのよ?」  彰洋が笑う。相変わらず泣いているように見える。 「じゃあな、麻美」  彰洋が手を振った。 「待ってよ、彰洋ちゃん。だったら、マミ、どうしたらいいのよ? なんにも残らなくなっちゃうんだよ。そんなの、マミ、耐えられない」 「死ぬよりましだろう? どこか別のところに移って、他のスケベ親父、騙せばいいじゃないか。おまえなら、簡単にできるよ」  彰洋は麻美に背を向けた。彰洋は麻美のことなど歯牙にもかけていない。金も手に入れられず、彰洋にも無視され──我慢できない。 「早紀はどうなったのよ? 早紀のことで、マミをゆるさないんでしょう!?」  彰洋は振り返らなかった。影の薄い背中が遠ざかっていく。  麻美は彰洋の背中とエレヴェータホールに交互に視線を向けた。エレヴェータからは宿泊客が吐きだされる。彰洋の背中はどんどん小さくなっていく。  麻美はハンドバッグを拾い、ハウスフォンのところに戻った。美千隆の部屋を呼びだす。 「もしもし?」 「女か? おまえ、どこのだれだ? 齋藤とどんな関係だ?」  聞いたこともない下品な声が耳に溢れた。麻美は電話を切った。もう一度、トイレに向かった。個室に入り、バッグを開いた。銀行の通帳を取りだし、残高を確かめる。  また、涙がとまらなくなった。 [#改ページ]   第四部      82  風が強い。空気は乾いている。身体は冷えきっている。寒さが辛いとは思わない。身体が冷えきっているのは今にはじまったことではない。  遠くに津軽海峡が見えた。後ろに目をやれば函館山。北の海は青く澄んで、静かに波打っていた。 「よし、今日はこんなとこだべ」  永田学が水面から顔をあげた。日に焼けた顔が朝日を受けて赤く輝いていた。小さなボートの船底には無数の海胆《うに》が転がっていた。 「じゃあ、戻ります」  彰洋はボートをUターンさせた。 「今日はよう獲れたな」  永田学がひとりごちる。ボートが旋回すると立待《たちまち》岬が視界に飛びこんでくる。  函館に来たのは、波潟たちと北海道に遊びに来る予定だったことが頭にあったからだ。祖父に連れられてきた記憶が鮮明だったからだ。海沿いの旅館にふらりと立ちより、アルバイトを探していることを知って雇ってもらった。  永田学は漁師だった。腰を傷めて専業で続けることができなくなり、妻とふたりで旅館をはじめた。目の前で獲れる新鮮な海の幸と、部屋から眺められる海の景色が自慢の旅館だ。風呂も近くの谷地頭《やちがしら》温泉から引いてきた温泉の湯を張っている。常連客が多く、夏休みのシーズンには予約でいっぱいになる。  彰洋は近所にアパートを借りた。朝の四時に旅館の前で永田と落ち合い、永田の小さな船で漁に出る。獲物は海胆、蟹、ホヤ、ナマコ──そのときどきに獲れるものだ。  六時には漁は終わる。永田はそのまま市場に行く。彰洋は永田の妻とともに、獲れたものをさばき、朝食の仕度をする。配膳が終わると、アパートに戻る。新聞を読み、待つ。松岡が来るのをじっと待つ。  松岡は来なかった。新聞だけが毎日届けられた。  美千隆が死んだという記事が載ることはなかった。東栄通商の買収の話も、どこにも出なかった。代わりに株価が暴落した。それにあわせて地価もさがりはじめた。日本は恐慌状態に陥りはじめた。天井知らずにあがり続けるはずだった地価と株価。破産者が続出し、倒産する会社が後を絶たない。  波潟が逮捕された。背任ではなく、脱税容疑。北上地所は大量の負債を抱え、会社更生法の手続きを取った。波潟の後釜に座ったのは、波潟紀子。それも、負債整理のために押しつけられたポストだということはすぐにわかる。  早紀のその後は新聞には載らない。何度か電話をかけようと思い、その度に自分を戒めた。 〈彰洋ちゃんが嫌い。マミは大嫌い〉  嫌われて当然だ。憎まれて当然だ。  毎日、新聞を読む。さがり続ける地価と株価の動向に目を光らせる。経済面と社会面の記事を熟読する。松岡が来るのを待つ。  松岡は来ない。だれも彰洋を訪れたりはしない。取るに足りない愚かなガキを相手にするには、なにもかもが混乱しすぎている。  新聞を読み終えると、なにもすることがなくなる。自分の内面に目を据える。自分の愚かさを、自分が犯した罪を反芻する。どこかで思いとどまることはできなかったのかと考える。早紀を傷つけずにすんだのではないかと自分を責める。そのくせ、あの日々を、体温があがりつづけたあの日々を懐かしがっている自分に気づいて愕然とする。  涙は出ない。涙はもう涸れはてた。身体だけが冷えきっている。  過去を振り返るのに疲れると、元町にあるカトリック教会へ行く。祖父が信仰していたキリスト教の宗派は知らない。ただ、建物の外観が気に入っただけだ。引きちぎった十字架のネックレスは鎖を繋ぎ直して首からかけている。聖書を朗読する代わりに、祖父の言葉を頭の中で繰り返す。嘘をついてはいかん、人を騙してはいかん、人の物を盗んではいかん。言葉は彰洋の内部でむなしく反響し、消えていく。  普段は午後四時になるのを待って、旅館に向かう。夕食の仕込みを手伝い、配膳をし、客室に布団を敷く。食事の後片づけが終わるのが、午後九時前。都合、一日八時間の労働で、バイト代は月十万。永田は安くてすまないという。彰洋は気にしない。夏ならまだしも、冬の時期は客の数も少ない。それで十万をもらうのは心苦しい。  銀行にはまだ五百万以上の金が残っていた。朝と夜の食事は旅館で食える。アパートの家賃は月二万五千円。昼飯代の他は金も使わない。億単位の金が右から左へ動くのを見ていた毎日からくらべると、夢のように穏やかな日々だった。  それなのに、身体は冷えきっている。穏やかすぎて、細胞が腐っていくような錯覚に捉われる。 「今日はお客さん、二組だから」旅館につくと、永田の妻がそう告げる。「お膳出し終えたら、堤君、早めにあがっていいよ」 「そういうわけにはいきませんよ。仕事ですから」 「そんな固いこといってないで、たまには遊びに行ったらいいっしょ。堤君、まだ若いんだから、彼女のひとりも作らないと」  彰洋は作り笑いを浮かべる。田舎の人間の素朴さをありがたいとは思えない。  永田が魚をさばき、妻が刺身を盛りつける。彰洋は食器を用意し、魚のあらで潮汁《うしおじる》を作る。永田に教えてもらった作り方だ。だれが作っても、うまい。 「じゃ、このお膳、萩の間にお出ししてきて」  永田の妻がいった。 「萩の間ですか? お膳ひとつで?」  彰洋は目を剥いた。萩の間はこの旅館でいえば、スイートだ。客間が二部屋に、総ひのきの内風呂がついている。五人以上の団体用の部屋で、この時期には使われることも滅多にない。 「東京からいらした初めてのお客さんなんだけどさ。一番いい部屋用意してくれって。株価が下がっただの、地価が下がっただの、大変なことになってるらしいのに、儲けている人はまだ儲けてるってことだべさ」  彰洋は口を噤んでお膳を持った。東京からいらした──その言葉だけが頭の中で何度も繰り返される。  松岡か? 松岡だったらいいのに。  そんなはずはない。松岡は今はそれどころじゃないはずだ。  彰洋は小さく首を振り、廊下に出た。廊下はしんしんと冷えている。 「失礼します。お食事のご用意ができました」  そういってから、萩の間の引戸を開けた。  浴衣を着た美千隆が座椅子に座っていた。  彰洋は立ち尽くした。 「おい、早く戸を閉めろよ。寒くてしょうがない」  美千隆がいった。彰洋は我に返った。 「どうして……」 「探したんだよ。興信所雇ってな。手がかりがなんにもなかったんで苦労した。おまえ、飛行機使わなかっただろう? 鉄道か?」 「車とフェリーです」  彰洋は答えながら、食事の用意をはじめた。 「いいよ、そんなことしなくて」 「これが今のおれの仕事ですから」 「楽しいか?」 「なにしに来たんですか? もう、おれになんかなんの用もないでしょう?」 「礼がいいたくてな」 「礼?」  彰洋は手をとめた。美千隆は笑っていた。昔と同じように微笑んでいる。 「大変だったよ。波潟、心底怒っててな。娘が自殺未遂起こしたこともあったんだろうが、佐久間まで連れて乗りこんできてな」 「あの大ボスですか」 「ああ。おれにも他のやくざにツテはあったが、佐久間に出てこられちゃお手上げだ。裏帳簿を波潟に返して、MS不動産を手放すってことでチャラにしてもらった。MS不動産は北上地所の子会社になる。そのために、北上地所はおれに二十億の金を払う。二十億だぞ、彰洋。たったそれだけの金で、波潟はおれの会社を手に入れやがった」  美千隆がビールの栓を抜いて湯呑み茶碗に注いだ。 「おまえも飲めよ」 「おれは仕事ですから」 「こんな時期に客なんていないんだろう? いいから、飲め」  美千隆の声には有無をいわさぬ響きがあった。昔と同じだ。MS不動産を切り盛りして、精力的に動いていたあのときと同じ声。自分の会社を奪われて失意の内にいる人間の声ではない。  彰洋は湯呑み茶碗に手を伸ばした。ビールを呷《あお》る。久しぶりのアルコールが胃に染みた。あのとき以来、酒に手を出そうと思ったことはなかった。 「たったの二十億だ」美千隆が話を続けた。「頭にきたし、投げ遣りになった。おまえとマミを恨んだ。だが、おかげで、おれはあれを切り抜けた」 「株価と地価の暴落ですね」 「そうだ。あの時点で、おれがまだ会社を持っていたら、二十億どころじゃない、何百億の負債を抱えることになってただろう。なにしろ、借金に借金を重ねて土地を買い漁ってたんだからな。自転車操業もいいところだ。土地が動かなくなったら、あっという間にパンクさ。ババ抜きだよ。だれかが最後にババを掴ませられる。おれはそうならない自信があったが、あんなに早く終わりが来るとは思ってもいなかった。あのまま突っ走ってたら、ババを掴んだのはおれかもしれなかった。だけど、おれは会社をなくした。ババを掴んだのは波潟だったのさ」  美千隆はビールをゆっくり喉に流しこむ。 「波潟は逮捕された。知ってるな? 東栄通商もクソもあったもんじゃない」 「良かったですね。美千隆さんには運があったんだ」 「おまえのおかげだ。それに、おまえにも運がある。佐久間のところもてんやわんやだ。松岡といったっけ? あのやくざもおまえにかまけてる暇はない。東京に舞い戻って、どこかの道端で出くわせば話は別だろうが、もう、おまえを殺そうなんていうやつはいないんだ。おれの運も太いが、おまえも同じだ。おかげで、おれは助かった」 「違いますよ」彰洋は首を振った。「おれ、まだ仕事がありますから」 「新しい商売をはじめようと思ってる。一緒にやらないか?」 「出来の悪い弟にはもう懲り懲りなんじゃないんですか?」 「おまえも今度のことでいろいろ勉強しただろう? 次はうまくいくさ」  美千隆が微笑みながらいう。昔とこれっぽっちも変わっていない。表情ほどには笑っていない目が美千隆の言葉を補足する──だめだったら、そのときはそのときだ。 「無理ですよ、おれには」  彰洋は腰をあげ、美千隆に頭をさげた。あの日々がよみがえる。体温があがり続ける感覚がよみがえる。おぞましい日々には別れを告げたはずなのに。己の醜さに愛想を尽かしたはずなのに。愚かさは変わらない。自分が自分でいることは変えようがない。他人に嘘をつき、自分に嘘をつき、他人を裏切り、自分を裏切り、他人に唾を吐き、自分に唾を吐き、他人との約束を破り、自分との約束さえ反故にし、他人を傷つけ、自分を傷つけ、それでも、あの感覚が忘れられない。喉元をすぎた熱さの感覚は、時間が経つにつれ薄れていく。  なぜだろう? なぜ、自分はこうなんだろう? 家具もないアパートの真ん中で、何時間も何十時間も考えつづけ、辿りついた結論は、物悲しい。麻美を笑えない。美千隆を呪えない。自分も、同じ穴の貉《むじな》だ。 「その若さで、こんなところで腐っていくつもりか、彰洋?」  美千隆も腰をあげた。財布を手にし、中から名刺を抜いた。 「まあ、いろいろあったから、すぐに返事をくれとはいわない。だが、その気になったら電話をよこせ」  彰洋は名刺を受け取った。名刺には「ニュー・メディア・コーポレーション 代表取締役 齋藤美千隆」と印刷されていた。 「なんの会社ですか?」 「ぶっちゃけていえば、ネズミ講だ。おれの読みじゃ、株価と地価の値下がりはしばらくとまらない。日本の経済はとんでもない不景気に向かって突き進んでいく。よっぽどのことじゃ儲からない。だけどな、人間ってのは馬鹿なもんで、ついこの間までのとんでもない好景気が忘れられないのさ。一攫千金、濡れ手で粟。そういうことに慣れっこになってるからな。美味しい話を目の前にぶらさげてやれば、飛びついてくる馬鹿は腐るほどいる。そいつらをカモってやるんだ。それで、ある程度儲けたら、アメリカに行く。おれの王国を作るって話、まだ忘れたわけじゃないからな、彰洋」  美千隆の目は輝いていた。ぎらぎらと熱い光を放っていた。 「美千隆さんのところに電話をかけたら、また汚いことをやらされるんですよね」 「汚いことをしなきゃ、金なんか儲からないんだよ」 「考えさせてください」  彰洋はもう一度頭をさげ、美千隆に背を向けた。 「待ってるぜ、彰洋」  彰洋は足をとめた。 「麻美がなにしてるか、知りませんか?」 「マミか……名古屋で地元の企業の御曹子とくっついたって噂を聞いたよ。あいつらしいだろう」  彰洋は微笑んだ。麻美のヴァイタリティは感嘆するに値する。  あいつは変わらない。おれも変われない。 「確かに、あいつらしいですね。それじゃ、失礼します。うちの海鮮、無茶苦茶美味しいですから」  彰洋は部屋を出た。廊下は冷えている。しんしんと冷えている。寒さは苦にならなかった。いつも、身体の方が冷えていた。今は、寒さが身に沁みる。胃の奥の方にかすかな熱感がある。その熱のせいで、寒さが余計に感じられる。  彰洋は美千隆の名刺をポケットに入れた。胸の十字架をシャツの上から握った。脳裏に浮かぶ祖父の顔はぼやけていた。  十字架から手を放し、彰洋は廊下を走るように歩いた。 [#地付き](了) 参考文献 ■『冬の花火 地上げの帝王・早坂太吉との二千日』安達洋子 日新報道 ■『これが銀行のやり口だ!』日本実業出版社編 日本実業出版社 ■『検証バブル 犯意なき過ち』日本経済新聞社編 日本経済新聞社 ■『バブルとその崩壊 朝日クロニクル20世紀 第八巻』朝日新聞社 ■『関西に蠢くまだ懲りない面々』グループ・K21編 かもがわ出版  その他、新聞、雑誌などの記事を参考にさせてもらった。この場を借りて御礼申し上げる。  また、本書はフィクションであり、実在の人物・団体とは一切関係がないことを明記しておく。  単行本 二〇〇三年六月 文藝春秋刊 〈底 本〉文春文庫 平成十八年四月十日刊