球は転々宇宙間 〈底 本〉文春文庫 昭和五十九年九月二十五日刊 (C) Shun Akasegawa 2001 〈お断り〉 本作品を「文春ウェブ文庫」に収録するにあたり、一部の漢字が簡略体で表記されている場合があります。 また、差別的表現と受け取られかねない表現が使用されている場合もありますが、作品の書かれた当時の事情を考慮し、できる限り原文の通りにしてあります。差別的意図がないことをご理解下さいますようお願い申し上げます。 〈ご注意〉 本作品の全部または一部を著作権者ならびに(株)文藝春秋に無断で複製(コピー)、転載、改ざん、公衆送信(ホームページなどに掲載することを含む)することを禁じます。万一このような行為をすると著作権法違反で処罰されます。 [#改ページ] 目 次 鏡のくにの野球 帰ってきた知識人 異相の怪童よ、輩出せよ 七十八歳の外野席ファン 球は転々宇宙間 見えないナイン 季節風、東京に舞う おらがくにの野球 ドリンカーズの苦戦 あ と が き 文庫版のためのあとがき 章名をクリックするとその文章が表示されます。 [#改ページ] 球は転々宇宙間
鏡のくにの野球 一九八八年、戦後四十四年二月二十三日の昼下がり、広島市民球場の大時計は二時を指している。広島ドリンカーズの監督、志村千三は、コーチや選手がグラウンドに出払って人気のないベンチに腰を降ろし、腕組みして選手たちの動きを眺めている。二基のバッティング・ケージからは、バットが球を弾き返す音、キャッチャーのミットの音、それにときどき小さく短く挙がるかけ声や溜息などが、志村の耳にきれぎれに聞こえてくる。ケージのうしろでは、バッティング・コーチの山本浩二が練習を見守っている。志村は、ときどき腕組みをほどいて足元の炭火に両手をかざす。そのときは、首から上はグラウンドに向けたまま腰を前に屈めるので両肩が上がって背が少し丸くなり、急に老けて見える。 不本意だが、のっけからことばの解説をしなければならない。ほんの一部の読者のためにではあるが。 一行目に「戦後四十四年」とあるのを、太平洋戦争のときにすでにこの世に生を|享《う》けていて、何らかの忘れ難い経験を持っている人間の、思い入れの強い表現のたぐいと読まれては、筆者は大変困るし、はずかしいのである。「戦後」が、かつての明治、大正、昭和と同じく、今の日本のれっきとした年号であることぐらい、今の日本人ならこどもでも知っているので注釈の必要などないと思っていたのだが、最近になってそう安心してばかりもいられないことがわかった。そこで、大多数の読者には申し訳ないが、せっかく楽しい野球の話に行こうとしている矢先に、しばし中断せざるを得ない。 というのは次のようなわけなのだ。この年号が制定された一九八三年、すなわち今から五年前だが、それよりさらに少し前の一九八〇年前後から、日本をひそかに去ってどこともなく姿を消す人が増え始めたという。それも会社の仕事とか、学術研究とか、その他目的のはっきりした移住ならどうということはないが、目的も原因もはっきりせず、半ば蒸発するように消えて行く人が増え始めたそうだ。それだけに実態は掴みにくいのだが、各界の中堅エリートあるいはインテリといわれる人びとのうちで、比較的中道と見られていた層にその傾向が強かったそうだ。その人たちは一様に、「アイデンティティの恢復」とか「失われた時を求めて」とか小声で口走りながらどこかに消えて行ったとのことだ。何でも行先は、インド、中国奥地、アフリカなどが多かったという。 中道インテリといえば、そのころの日本はどちらかというと、政治、社会状況、芸術、思想など全体におおむね保守中道寄りであったと思う。だから、中道インテリにとっては仕事もやりやすく、考えも述べやすく、暮しやすかったのではなかろうかと筆者などには思えるのだが、そう単純には行かない面もあったようだ。筆者とちがって頭の冴えた人ほど、そして社会の中枢にいる人ほど、そういう中道思潮の中ではアイデンティティとやらを失いがちだったとも想像できないことはない。 それはともかく、そういう人たちは、自分がせっかく隠れた土地に、まともな仕事や研究で行った日本人が現われると素早く身を隠し、どこかでただ何となく棲息していたようだ。そういう中道インテリの大半は、日本を出るまでに中流程度の貯えは作っていて、海外での隠遁生活でもその金を肌身離さず持っていたらしいから、まかりまちがえば食いっぱぐれて餓死するかも知れないというような緊迫感はなかったようだ。私の友人の説によれば、各界の第一線で激務を負うエリート層に、かえって、情報過多によるノイローゼや文明回避、文明嫌悪症とでもいうものが発生しやすく、その中で誠実で繊細なタイプの人ほど自己嫌悪につながるのだそうだ。工業文明が破綻して行く深淵をかいま見て身がすくむのだそうだ。そしてそれに対して行動を起こさずに逃避する。それが、情報や工業文明の及びにくい土地への文明回避旅行になったという。筆者などの頭では、結局それは特権階級の精神的避暑、避寒旅行ぐらいにしか理解できず、われわれには関係のない、まあ結構な話だと思っていた。 ところが、ごく最近になって、そういう人たちが七、八年ぶりに、ひそかに大勢日本に帰って来始めたというのである。情報の及びにくい場所に、日本も暮しやすくなったとでもいう情報が伝わったのだろうか。それとも、アイデンティティとか失われた時とかいうものを、精進の甲斐あって首尾よく所期の目標どおり恢復したのだろうか。どうもこういうものは、恢復するときはみんな一斉に恢復するもののようだから、案外そうかも知れない。そして、出て行った数も帰ってきた数もはっきりはわからないが、最近になって「戦後」ということばが年号であることや、その由来を知らない人がちらほら目立つようになったそうだ。しかしその数は日本国民の中ではたかが知れたものだろう。ましてこの本の読者の中にはほとんどいないのではなかろうか。ただ念のために筆者は文藝春秋の編集部に相談してみた。すると編集部の予測では、これら里帰り中道インテリの人たちのうち無視できない数、おそらく大半の人がこの本を読むであろうというのである。「だから、常識程度のことは簡単に説明しておいたほうがいいでしょう」と言う。そういうわけで、この間ひたすら日本で土を耕し、物を作り、物を売りながら、この七、八年の日本の推移を見、見るだけでなく、工業と農林漁業の調和、エネルギー問題の克服、自然環境の回復、教育の正常化をはじめ、暮しやすい日本の建設にさまざまな役割を分かち合ってきた読者には、わかりきったことなので申し訳ないが、どうか常識程度のおさらいと思ってほんのもう少しおつきあいいただきたい。野球のことを書き始めたのに、のっけからとんだ役割を負ってしまったものだ。 一九八〇年前後に、年号あるいは元号法制化をめぐる論議が日本の国会で盛んになったことがある。つまり、天皇の崩御や即位のたびに年号が変わって○○元年になるという、中国や韓国でもとうの昔にすたれていて世界中で日本ぐらいにしか残っていなかった風習を、今後どうするかについての論議であった。しかし「今後」とは、現在の天皇の崩御を前提にしなければ成り立たない性質のものだったから、このテーマは心おきなく|侃々諤々《かんかんがくがく》というぐあいにも発展せず、いつのまにか下火になっていた。ところが一九八二年の暮れに、保守堅持党(それまでの自由民主党を中心とする保守系合同政党)の皆川肇と、近未来革命党(それまでの日本社会党を中心とする革新系合同政党)の宗太郎の二人を中心に、「天皇の崩御、即位に関係なく、来年から日本の年号を『戦後』と改めよう。すなわち、一九八三年は戦後三十九年である」という提案がなされた。要旨は次のようなものであった。 「戦後は終わった」という論議は終わったか否か吾人は関知しない。吾人はただ、「戦争の世紀を終わらしむべし」という意味をこめてこの提案をなす。すなわち、近い将来にまた全面戦争が起きて、また「戦後元年」が到来するようでは、吾人の提案は一切の意味を失うのである。「戦後」とは唯一固有の「センゴ」であって、一九四五年、すなわち従来の年号による昭和二十年こそ、唯一固有の戦後元年である。したがって「戦後」を唯一固有の年号とすることは、永世平和への希求と誓いの表現にほかならない。吾人はこれを日本のみにとどめず、第二次世界大戦にかかわったすべての国が西暦紀元と併用することを望むものである。すなわち、ポストウォー、アプレゲール等々。 ただし、当のわが国には一つ問題が残る。それは戦後百年、西暦二〇四四年になると、日本では“センゴヒャクネン”と発音することとなり、「千五百年」とまぎらわしくなるということである。しかし、そういう問題をかかえながらも、戦後九十九年まで、つまりまだ六十年はこれでもつ。そのあとのことは、そのときに生きている人たちに考えてもらえばよいではないか。 で、詳しい経緯は省くが「よかろう。六十年ほどこれで行ってみようじゃないか」という、当時としては珍しく波長の長いテーマが可決されたのだった。かくして一九八三年に日本の年号は「戦後」と改められた。そして新年号制定とともに、「戦後は終わった」をめぐる論議も自然に消滅した。 それ以前にも、毎年八月十五日が近づくと、新聞やテレビは忌まわしき戦争を回顧する記事や番組を一斉に特集していた。万感胸を打つルポルタージュもあれば、戦争の美学を讃えていると取られかねない映画やテレビ・ドラマもあった。靖国神社への閣僚の参拝が毎年問題になった。そして八月十五日が過ぎると、渡り鳥が群れをなして飛び立つように、それらの話題は一斉に姿を消した。幸か不幸か、毎年八月十五日は甲子園の全国高校野球たけなわの時期にあたる。正直な話、地元の学校がその日に試合に出る地方では、終戦記念日の朝から野球のことに身も心も奪われ、わが地元チームの戦いすんで日が暮れて「あ、今日は終戦記念日だった」とわれに帰る人も少なくなかった。いや少なかったというべきか。というのは、すでにわれに帰るにも帰るべきゆえんを知らない人のほうが多かったのである。 しかし、年号が戦後となればどうだろうか。お役所でも会社でも、履歴書にも借用証書にも、毎日全国津々浦々で「戦後」「戦後」と書かれて確認されることになる。そこで提案者は言う。「だから年一回のおざなりではなく、毎日が戦後で毎日が非戦の誓いなのだ」と。しかし、いくら「ことだまのさきおうくに」でも、そこまでの効能はないようだ。 しばらくすると、中・高年といわれる世代の人が自分の旺盛な余力をもてあまして再就職する際の履歴書に、次のような記入が目立つようになった。「生年月日、終戦前(敗戦前と書く人も多い)十九年十二月二十六日」、すなわち昔でいえば昭和元年である。「終戦前二十五年」、昔でいえば大正九年だ。こういうふうに、一九四五年、昭和二十年、戦後元年が、ちょうど西暦紀元と紀元前の分岐点と同じように扱われるようになったのであった。 さて、いつまでもこんな話にかかずらっていては、野球ファンの読者に申し訳ない。大急ぎで戦後四十四年二月二十三日の広島市民球場に戻ろう。 人気のないベンチで、監督の志村千三ただ一人が腰かけていて、グラウンドの選手たちの練習を眺めていたのだった。 志村の眼は、近くのダイヤモンドの中よりも、遠い外野で動いている選手たちに注がれているようだ。その中でも特に、一番遠くのセンターの塀際で球を追っている、一人のとびきり小柄な左利きの選手に注目しているように見える。 たしかに志村の眼は、その帆足航平の動きにつれて動いているように見えるが、それは外見だけで、彼の意識は眼前の野球から遊離して|空《くう》となっていた。スプリング・キャンプの一日の中で、志村はたいてい一度はこういう状態になる。放心に近い。そのまま放っておいても短時間で自然にわれに帰ることもあるし、自分で戻ろうと思ってもなかなか戻れず、コーチや選手に何か声をかけられてはじめて気を取り戻すこともある。そうかといってそのときの志村は、何かはっきりした考えにとりつかれているわけでもない。何か不定形のものが、考えるということの一歩手前の、ぼんやりとして結像しない風景となって眼球の奥を浮遊しているのである。風の弱い晴天の昼下がりにこういう状態になることが多い。実を言うと、スプリング・キャンプだけでなく、ペナントレースの緊迫したゲームの真っ最中にもこういうことがあるのだ。 広島は、真冬でもそれほど暗く重苦しい天気には見舞われない。そして今、山陽路にはすでに早春の光が満ち、とりわけ今日は、あるかなきかの風が肌に心地よく、不気味に思えるほどすがすがしい。志村が放心に近い状態になる条件は揃っている。しかしさすがに志村は、そういうときでも眼を閉じるということはない。いつどこから球が飛んでくるかわからないからだ。それにしても一体、この監督はまじめに仕事をやっているといえるのだろうか。そういう声が聞こえでもしたかのように、志村は炭火から手を遠ざけ、やがてベンチを出てバッティング・ケージのほうにゆっくりと歩いて行った。 志村は、バッティングのことはバッティング・コーチの山本浩二にほとんど任せっきりである。山本は、つい一昨年まではドリンカーズの中心打者であるだけでなく、全国三リーグ十八球団の中でも代表的なスラッガーだった。彼の体には、まだまだ実戦の熱い電流が脈々と流れている。彼は分析的なことばや身振りでくどくどと選手に教えたりはしない。短い一言が選手に通じる。その一言も注意や指示というより、ちょっとした示唆である。それが通じてないなと思ったときは、山本自身が打席に立って実例を示す。選手たちは、その山本の体の電流を読み取る。そしてそれを自分なりに生かす。ドリンカーズの基本は、練習でも試合でも、この山本のやり方に現われている。志村のやり方も、ヘッド・コーチの鳥村玄太や他のコーチのやり方も同じだ。手とり足とりといったことはあまりない。 二基のケージに入って球を打っている二人の選手は、それでも、監督が珍しくすぐうしろに来て自分たちを見始めたという緊張した気分を、尻から背骨を通って肩にかけてみなぎらせているようである。 「トシ坊、肩の力をもう半分尻に移すんだな」 と志村は言った。山本コーチが志村を見てにやりと笑った。 トシ坊といっても、もう二十七歳でチームの中心選手の一人だ。永田利則、一九八〇年、戦後三十六年に広島商業からカープに入り、それから四年目の全国球団再編成によってドリンカーズの一員となった。そのとき東京に帰った高橋慶彦のあとを襲ってショートに定着し、俊足好打のスイッチ・ヒッターとして成長してきた。打順はトップか二番を続けている。 志村も現役時代それほど好くない打者ではなかった。十一年間の平均打率二割六分六厘はまずまずである。しかし、志村は打者としてよりも二塁手としてのプレーのほうが印象に残る選手だった。永田に「肩の力を尻に移せ」とは言ったものの、志村は打撃についてあらたまった意見を言いにバッティング・ケージに寄ってきたわけではない。志村は、さっきまで守備の陣形についてあるイメージを思い描いていて、その連想につられて何となく永田のスイッチ・ヒッターぶりを見にきたのだ。その守備陣形とは、強いていえば「スイッチ守備」とでもいおうか。 (こんなこと、鳥村コーチに話したら、トリさん、また心配するだろうな) と志村は思いながら、独りでにやりとした。 投手の場合は、試合中に状況次第で右投げと左投げが交替することがある。これは二人がかりのスイッチ・ピッチングといえよう。そしてそれなりの理由がある。しかし、投手以外の守備のポジションで試合中にそんなことをする必要がどこにあろう。第一、内野手でいえば、守備の場合にも左利きという選手が守れるのは一塁ぐらいのものではないか。志村監督は一体何を考え始めたのだろうか。 (何でおれはこんなことを) と、志村自身も思って一旦考えを中断した。そしてバッティング・ケージの脇を離れて、ふたたびベンチに向かった。どうもこの監督、あまりやることがないようだ。 案の定、志村の意識はまたさっきと同じように眼前の野球から離れて、空の状態におちいって行った。つまりこの監督、さっき気まぐれに永田に「肩の力を尻に移せ」と言った以外は、ぶらぶらしながらつかまえどころのない考えにふけったり、ベンチで炭火に手をかざしているだけである。監督がこれでいて、一体今年の広島ドリンカーズはちゃんとやって行けるのだろうか。オーナーが見たら、いや、今日ではすでに個人のオーナーは存在しないクラブ組織で、広島ドリンカーズ運営協議会の市民代表というのが恐い存在なのだが、彼らが志村の様子を見たら何と思うだろう。現にスタンドでは、熱心なファンが大勢グラウンドを見守っているではないか。 最近では、ドリンカーズは二月下旬に入ると日南のキャンプ地から引き揚げて本拠地に戻ってくる。全国でも、札幌ベアーズ、仙台ダンディーズ、長野アルプスの三球団以外はたいてい同じだ。そして、この寒冷地の三球団だけは、スプリング・キャンプの全期間をそれぞれの本拠地球場で過す。今のところこの三球場にかぎり、開閉ドーム付温度調節全天候型球場の設備がコミッショナーから許可されているからだ。 全国三リーグ十八球団は、いずれも市民代表を含むそれぞれの運営協議会によって運営されており、キャンプについても冗費を省き、本拠地でできることは本拠地でという方針である。もっとも、大口の金を出すのは地元の企業や富裕な個人であって、協議会は「金は出せないが口は出す」という存在である。しかし「早くキャンプ地を引き揚げてこい」というのは、予算のこともあるが、協議会は、「地元の大勢のファンが、一日でも多く選手の練習を見たがっている。この熱意に応えてやってほしい」という点を強調している。だから今も、スタンドには大勢の熱心なファン、あるいは、死ぬほど退屈な暇を処理するにはこれが一番だという人びとがつめかけているのだ。 志村の放心は続く。 (|吹田《すいた》さんがおしのびで突然うちに見えたときは、暁子のやつ緊張してたなあ。吹田さんのウイスキー・グラスに氷を入れたときの暁子の手つきを思い出すよ。千五は中学生になっていたっけ。おれゆずりの素早い横眼で吹田さんを観察していたな。あれからもう七年が過ぎたか) ことばにすればこうなるのだが、これは志村の頭の中では言語とか映像とかのはっきりした形はとっていない。走馬灯の残影を追っているような、あるいはテレビの走査線の何束かを意味もなく見つめているような状態である。 それにしても志村監督は、ただぼんやりしているだけにとどまらす、給料を貰っている大事な仕事場で自分の奥さんや息子のことを思い出しているとは、ますますけしからんではないか。一体その、おしのびの吹田さんとは何者か。 吹田さんとは、一九八〇年の四月から三年の任期をほぼいっぱい、日本プロフェッショナル野球組織のコミッショナーとして働いた|吹田晨平《すいたしんぺい》氏のことである。一九八三年二月末、任期満了直前に急逝した。急逝といっても八十一歳、天寿を全うしたともいえようか。 志村千三の息子の千五が、親譲りの素早い横眼を使うのは、親子揃っていつも眼つきが悪いということではない。志村は、広島ドリンカーズの監督の前は、広島カープ時代から引き続いてのコーチ、そしてその前は、すでに紹介したように二塁手だった。二塁手は、試合中のナインの中の情報センターのようなものである。両チームのベンチ、コーチス・ボックスにいる相手のコーチ、味方のバッテリーなどから発せられるサインが、ショートとともに一番よく見える立場にいる。だから、そういうサインや打者や走者の動きから種々の情報を読み取って、それを一瞬のうちにさりげなく味方に伝える役目を負う。味方が攻撃中で自分がベンチにいるときは、相手の二塁手の動きを見て、同じ立場の人間としての像を読み取る。名手といわれる二塁手ほど、そのいずれの場合にも顔を動かさない。素早い横眼で一瞬のうちにサインや状況を読んで、それをさりげなく味方に伝えるのである。アフリカの草原で、敵を前にした猛獣が仲間に送る、怜悧にして細緻な身体信号、とまでは行かないが、人類の中では格段高い域にまで達している。 志村も、かつては名二塁手とうたわれた一人だ。その素早い横眼がどうして息子の千五に伝わっているのか、志村にはふしぎで仕方がない。グラウンドではそういう仕草をする志村も、家に帰ってまでそんな素ぶりに及んだ覚えはない。また、千五は父親の現役時代にも何度かゲームを見にきてはいるが、スタンドから遠く離れた志村の一瞬の横眼が千五にわかったとは思えない。第一、スタンドにいる小僧から精緻をつくした横眼を見破られるようでは名手とはいえまい。 (ところで、吹田さんの死は本当に病死だったのだろうか。五年も前のことに素人が推理を働かせても仕方ないが、どうもあれはおかしい。われわれの計画は、彼の死が少しでも早まっていたら、さぞ大きな困難にぶつかっていただろう。まるで、見えない敵の手がほんの少し遅かったために、われわれのもくろみが成功してから遅まきながら死に追いやられたとしか思えないタイミングだった) 吹田コミッショナーが、日本のプロ野球の本拠地の全国規模の分散と、それに伴う諸機構や制度の改革を電撃的に提案したのは、一九八二年十一月十一日、日本シリーズが終わって間もないころだった。そして年内に十八都市が決定し、年が明けてその改革案が実行に移され、新しい体制が不動のものになった二月下旬、吹田は突然原因不明の病にかかって重態におちいった。それが五日ほどで奇蹟的に直って三日経つと、今度はさしたる症状も見せずに平静のまま、自宅の畳の上で絵筆を持った姿で忽然として逝ってしまったのである。 (高齢とはいえ、何一つ持病のない元気な人だったのに、どうもおかしい。おれはお通夜に千五を連れて行き、吹田さんの銀髪を|櫛《くし》でとかさせてもらった。千代夫人がおれの手元をじっと見つめていた……) 「かんとく」 鳥村ヘッド・コーチの声で、志村はようやくわれに帰り、眼前の野球に目を戻した。鳥村は志村と並んでグラウンドを眺める恰好で、ベンチに腰を降ろした。 「航平はやっぱりセンターのトップで行きましょうよ。トシ坊は二番がいいでしょう」 「うーむ」 と言ったきり、志村は黙って遠くを見ている。鳥村は志村の反応が鈍いので話を継ぐ。 「あいつは、昔の阪急の福本以来の逸材ですよ。チビさかげんも走りっぷりも福本そっくりになってきましたわ。もっとも、極端に早打ちの癖は、今までの基準ではトップ・バッターにふさわしくないかも知れませんがね」 「いや、早打ちのトップ・バッター、大いに結構じゃないか」 「守備も左のセンターというと、福本よりもっと昔の、中日の本多とか中あたりですね。彼らもトップを打ってたでしょ」 「うーむ」 志村は、しばらく何か言いたそうに口をモグモグやっていたが、やがて、その口の中のくすぐったさに我慢できないといった感じで口を開いた。 「トリさんよ。ぼくの見るところでは、もっと昔、戦争をはさんで活躍した呉昌征ね。巨人、阪神、毎日と移った左投左打の人間機関車だ。ああそれから、同じころの中日の坪内ね。彼は右利きだったが、航平と同じように小柄な名選手。ああいう人たちを思い出させるよ、航平のやつは」 話はずいぶん昔にさかのぼって行くようだ。 「はあ、名前はもちろん聞いてますが。何しろ私らには伝説的な存在で……」 「あ、そうだったなあ。いや、ぼくもね、中学生のころに、彼らの野球人生としては晩年のプレーを見ただけなんだよ。それにしても、こんな大昔の人のことを、トリさんも知ってるつもりで話すとは、ぼくもいよいよ晩年にさしかかった証拠だなあ」 「いや、私ももう若くはありませんがね」 鳥村は、その呉や坪内の話を志村から聞いておきたいという気持にも駆られたが、それよりも本題の帆足航平の件に戻らなければと思って口を開こうとした直前に、志村に先を越されてしまった。かつての名二塁手のタイミングの読みが今も志村に残っているというべきか。 「呉という人はめっぽう肩が強かった。センター前のヒットをショートバウンドですくい上げて素早いモーションでバックホーム。ぼくたちは、次に起こるホームベース上のドラマを生唾を飲み込んで待ったものだ。セカンドからの走者はたいていアウトになったな」 「人間機関車というのは?」 鳥村はつい志村の調子につられて聞いてしまった。 「うん、それはね、まず丈夫で長持ち、台湾から出てきて巨人に入ったのがたしか昭和十二年。それから二十年、四十一か二まで、そんなに打率も落とさずにがんばってた。それとね、ベースランニングがガニマタだけど速いんだ。お世辞にもスマートとはいえないが、よくいえばダイナミックな盗塁。それに後半にぐんぐんスピードが加わる。これも蒸気機関車そっくりだったというわけだ」 志村は、グラウンドを眺める姿勢そのままで眼を細め、楽しそうに語り継ぐ。 「しかし、盗塁でいえば坪内のほうが上だったかな。たしか現役最後の年、三十七、八歳だったのに三十六盗塁を記録してる。センターの守備も抜群だったよ。呉とちがって肩の弱いのが玉にキズだったが、それを勘のいい出足でカバーしてた。とにかく前へ突っ込んでくるんだ。地上すれすれのスライディング・キャッチ。一回転して素早い送球。絶品だったな。それにバッティングにも味があり、バントもうまい。恰好のトップ・バッターだった。たしかあの人は、千本安打と千試合出場の日本球界第一号だよ」 (どうもこのままでは、おやじさんの回顧談は止まりそうにないな)、鳥村は少しいらいらしてきた。往年のセンター・トップ・バッター群像を二人で楽しむのも悪くはないが、ここは一刻も早く、今シーズンのわがドリンカーズのセンター・トップ・バッターに帆足航平を起用する話に持って行かねばならない。そもそも、スプリング・キャンプも仕上げの段階に入った真っただ中て、監督とヘッド・コーチが、こんな昔の野球談義にうつつを抜かしていていいものだろうか。 「監督、で、航平をその呉二世、坪内二世にしましょうよ」 「うーむ」 その話になると志村はまた黙ってしまう。 「もうすぐオープン戦に入るし、そろそろ決めておきましょう」 そのとき志村はやっと口を開いた。 「原則としてそれでいいだろう。しかしトリさん、航平の身のこなしは内野手にも向いてないかねえ」 「え?」 鳥村は意表をつかれてしばらくはことばが出ず、志村の視線に合わせて外野にいる航平を見守った。鳥村の顔には、(この瀬戸際に、おやじさんは一体何を考え出したんだ)という、困惑ともいらだちとも不安ともつかぬ表情が現われた。 「内野って? あのチビにファーストでもやらせようっていうんですか」 「いや、トリさん、今まで左利きがセカンドをやった例はないかな。多分ないだろうね」 志村のことばを聞いて、鳥村は今度は志村の顔をまじまじと眺めた。そして眼を離すと(いい加減にしてくださいよ)という感じで言った。 「ないことはないでしょ。たくさんありますよ。草野球ならね」 「ハハハ」 志村はくったくなさそうに笑った。鳥村は思い出したように言った。 「そういえば、プロでも一イニングだけあったということですよ。ほら、奈良テンプルズの監督をやった西本幸雄さん。あの人がオリオンズの一塁手だったとき、代打代走が出過ぎてセカンドの交替要員がいなくなって、九回の一イニングだけやったそうじゃありませんか。結局ボールは飛んでこなかったそうですよ。でもあれは、不利を承知の苦肉の策でしょ」 「絶対不利かねえ」 「監督、かつての名二塁手の監督に、私が二塁守備の基本についてお話ししたくはありませんね」 「まあ、そうむきにならんでくれよ。航平を眺めててヒョイと浮かんだまでで、はっきりこうと提案してるわけじゃない」 「馬見のことも考えてくださいよ。四年間セカンドを任せて、あいつは今一番脂が乗ってるんですよ」 「もちろんだ。いや、セカンドに馬見、ショートに永田のキーストン・コンビ、そしてセンターは帆足、それに打順もトリさんの案に賛成だ。その上でね、馬見と帆足の守備位置をね、試合中にときどき入れ替えてみるとどうなるかとね、ヒョイと考えてみたんだよ。いうなれば、スイッチ守備」 「どうもよくわかりませんなあ」 そのとき、選手の一人が鳥村を呼びにきた。志村も鳥村といっしょに立ち上がって言った。 「ま、この話は一旦タイムだ」 「とにかく、いつも監督がおっしゃるように、基本どおりに行きましょうよ」 鳥村は監督をやり込めたつもりで、にやりと笑った。そしてグラウンドの選手たちのほうに歩いて行った。 帆足航平、二十二歳、身長百六十六センチ、今の日本のプロ野球では一番小柄である。一九八五年から二年間、西部教育リーグにいて好成績を収め、去年一軍のメンバーに登録された。教育リーグでの二年間はもっぱらセンターでトップ・バッターだった。二年間の成績は、出場試合数百二十八、打数四百五十八、安打百五十三、打率三割三分四厘、安打のうちホームラン九、三塁打十九、二塁打三十、そして盗塁五十九。第一線に出た去年は、おもにピンチ・ヒッター、ピンチ・ランナー、センターの守備に用いられた。公式戦百三十試合中七十七試合に出て、打数百一、安打二十九、打率二割八分七厘、ホームラン二、三塁打六、二塁打五、盗塁十九であった。この好成績によって、新設のピンチ・ヒッター賞第一号となった。代打の打率ではもっと上の選手もいたが、何といっても出塁してからの活発な盗塁など、普通の水準よりも常に一つ先の塁を狙うことによる勝利への貢献度が、審査員に強烈な印象を与えた。 三年間の数字が示すように、帆足航平の最大の特長は俊足である。三塁打や二塁打が多いのはそのためで、一、二軍を通じた十一本のホームランの中にもランニング・ホームランが四本含まれている。さて、三振は去年の百一打席で見るとわずかに七、しかし得た四球もわずかに四である。これは、彼がとにかく初球から打ちに行くからである。 このように、多分に短気な点が、目も覚めるような成功を生んだり、またとんでもない失敗もやらかしてきた。しかしまあ、全体としては立派な成績といえよう。この成績によって、今年は彼が最初からスターティング・メンバーに加わること、そしてセンターを守って一・二番を打つであろうことについては、チームのだれも疑っていない。ドリンカーズの中心線は今年は一段と充実するだろう。 バッテリーと、その延長線上のセカンド、センター、この四点を結ぶ中心線が攻守とも充実しているとき、そのチーム全体の攻守の姿はピンと背が伸びていて、見るからに強そうである。どの監督もシーズンの開始までに、その中心線を整えることに腐心する。しかし、あらゆる点で四拍子揃った陣容が生まれることは稀である。 十年ほど前に二リーグ制のころ、ヤクルト・スワローズというチームが球団創立以来初の優勝をとげた。そのときの2・4・8の布陣は、大矢、ヒルトン、若松というメンバーで、この年の三人は攻守両面に充実していたし、エースの松岡も好調だった。 またもっと昔、戦後まもなくのことだが、阪神タイガースの2・4・8は、土井垣、本堂、呉昌征という強力なラインで、しかも外野は左右に金田、別当、サードには藤村富美男がいた。もっともそれから四十年も経った今では、こういうふうに名前だけ挙げても一向にピンとこない人が多いのはいたし方ない。史上、タイガースのダイナマイト打線といわれたのはこのころである。そしてバッティングのみならず、守備まで|攻撃型《ヽヽヽ》であった。とくに、サード・藤村、センター・呉、キャッチャー・土井垣といったところは、相手の攻撃に対して攻撃をもって切り返すと形容したくなるような守備をした。歯をむいて打球に飛びつく。守りのときも猛虎そのものだった。 ところで、ヤクルトとか阪神とか、都市名でない妙な名がついているので、今日の読者、とくに若い読者は一体何のことかと思われるかも知れない。実は今から五年前までは、どこか一つの企業が一つのプロ野球チームの経営を独占しているのが普通だったのである。それを親会社といい、親会社の社長を球団オーナーといった。鉄道、食品メーカー、新聞社などが多かった。そしてヤクルトとは現存するあの乳酸飲料品メーカーの名前であり、阪神とは現存する大阪の鉄道会社のことだったのである。 今のように、全国十八の都市が、地元の複数企業や資産家個人の出資や寄付によって、それぞれのプロ野球クラブを維持し、市民代表を中心とする運営協議会が運営しているのに比べると、昔はずいぶん変則なことをやっていたものだ。このあたりの推移はこの本の後半に詳しく出てくるはずである。 さて、鳥村ヘッド・コーチは、志村監督のそばを離れてグラウンドに出、若手の選手の練習にアドバイスを送りながらも、監督が左利きの帆足航平をなぜ二塁手に使ってみようとしているのかを、あらためて考えてみた。 左利きの二塁手が不利なことぐらい、素人が考えてもすぐわかる。ゴロを取って一塁に投げるプレー。セカンドには特に当たりそこないやひねくれたゴロが多く、一瞬を争う場面が多い。6・4・3のダブルプレーで二塁手がピボットになり、ショートからの球を二塁上で受けて素早く一塁へ転送するプレー。これも一瞬を争う。そして二塁手が球を扱うプレーはこの二つが基本であり一番多い。 かろうじて有利といえるのは、4・6・3のダブルプレーのときだ。つまり二塁手がゴロを取って、二塁ベースに入ろうとするショートに送球する場合は、左のほうが右利きよりもスムーズに球を投げることができる。 (いや、まだあるんだよ)と監督は考えているようだ。それを鳥村はこう推理した。最近はピッチャー返しでセンターに抜けるゴロのヒットが多い。一旦抜ければ二塁ランナーはホームを狙える。普通センターには、外野手の中でも足が速く肩の強いのがいるが、レフトやライトよりもゴロをとるまでに時間がかかるし、バックホームも難しい。そういう、センターに抜けそうなゴロやライナーに飛びつくには、右手にグラブをはめた左利きのほうが有利だ。しかし、その代りに一・二塁間への打球に対しては不利になるではないか。それを監督は多分こう考えているのだろう。つまり、一塁手の赤月は長身の左利きだから、一・二塁間を右利きよりはカバーできる。次に、一・二塁間を抜かれても、ライトからのバックホームはセンターからよりもランナーの足を封じやすい。 二塁ランナーをおびき出すピックオフ・プレーではどうだろう。これも監督は左利きのほうが有利だと考えているのではないか。リードから二塁ベースに戻ろうとするランナーヘのタッチ。なるほど、しかし二塁手全体の動きから見ると、やはり右利きが絶対有利だ。おまけにショートの永田にとっても、キーストン・コンビの相棒がときどき変わるのでは呼吸が乱れる元になろう。それに、球を扱うプレー以外に、二塁手が果たす役割は大きい。新人の帆足が、その役割において、この道四年で名手といわれている馬見をしのぐとは思えない。ベテラン監督で、しかも本人自身が二塁手出身の志村監督が、なぜこんな妙なことをいうのか。いや、自分自身が二塁手だったから生まれる発想なのか。鳥村の推理はこのあたりまで進み、そして(いや、やっぱりこれは何とか思いとどまってもらおう。それがヘッド・コーチのおれの役目だ)と結論をくだした。 志村千三は今年で五十二歳になる。一九八五年に広島ドリンカーズの監督になって三シーズンを経験した。この男、鳥村に妙な考えを打ち明けたにしては、今まで作戦面ではまずオーソドックスなことで通っている。どちらかというと動よりは静のタイプで、ゲーム中は特にそうである。鳥村ヘッド・コーチに全幅の信頼を置き、ゲーム中の選手への指示は彼に任せている部分が多い。よくいえば「大局を見る監督」であり、悪くいえば「何もしない監督」となる。それではゲーム中は、その分だけ鳥村の仕事が忙しいのかというと、それはそうでもないのだ。つまり本番の試合では、選手一人ひとり、あるいはナイン相互の判断で進める領域を広げる方向を、広島ドリンカーズは年ごとにめざしているのだ。もっともこの傾向はドリンカーズだけのものではない。あとでも述べるが、むしろ札幌ベアーズや仙台ダンディーズといった、北のチーム・カラーにドリンカーズが学んだともいえる。 さて、本番では目立たない志村監督も、スプリング・キャンプでは、まずキャンプインの当初に、選手個人個人にかなり具体的な課題を与える。そしてそれに沿ってはじめのうちは、細かい注文や助言をする。それが一通りすむと、あとはあまり口を出さない。しかし、相談にくる選手にはどんなことでも具体的に指導し、示唆を与える。「わしが役に立つのは練習のときだぞ。練習ではどんどんわしを使え。その代わり本番になったら、野球をやるのはおまえたちだ。そのときはわしに楽をさせてくれよ」というのが志村の口癖である。 だから、さっきから志村がぶらぶらするかベンチにいるだけで、何もしてないように見えるのは、キャンプインの初期に監督としてやるべきことをやっておいたからだと見てやれないこともない。そして、そのとき志村が選手たちに与えておいた課題や示唆を、選手一人ひとりが自主的にこなし、今二月二十三日の段階では、もはや志村を必要としないほど満足な状態に進んでいるからだと見てやれないこともない。ものはとりようである。どっちみちシーズンに入れば、ものはとりようどころか正確な答えが返ってくるのだから、ここは好意的な眼で解釈しておいてやろう。それにしても、監督を暇にさせておくと鳥村ヘッド・コーチも大変だ。退屈の挙句、左利きの二塁手起用などという珍妙な考えを起こされてしまうのだから。 珍妙といえば、去年のスプリング・キャンプではこんなことがあった。 「おい、みんな、ちょっと集まってくれ」 何ごとかと集合した選手たちに、志村は言った。 「今からちょっと、ひっくり返しの野球をやってみよう」 選手たちは、けげんな顔をした。志村は楽しそうに続けた。 「いや、たいした仕掛けがあるわけじゃない。ファーストとサードを逆にするだけのことだ。つまり、バッターはサードに走る。ファーストを廻ってホームインだ。それ以外は何も変わらない。守備位置はどうしようかな。ファーストとサードはもちろん交替してくれ。そうだな、セカンドとショートも替わってみるか。外野はそのままでいい。じゃあ、紅白の五回戦で行ってみよう」 草野球クラブの余興ならともかく、れっきとしたプロ野球のキャンプでのことである。スタンドには熱心なファンに混じって、広島球界の長老格の鶴岡一人や藤村富美男の顔もあった。新聞記者やカメラマンもいる。そういう中で、プロの選手によるひっくり返しの野球、裏返しの野球がおこなわれようとしている。 普段のホット・コーナーにはファースト・ミットを手にした一塁手が入り、普段の一塁に三塁手が入った。打者走者はバットを捨てると左側のラインに沿って新しい一塁めざして走る。選手たちのほとんどは、試合のはじめからくったくのない笑みを浮かべ、のびのびと動いた。右打者で右狙いのうまい馬見が、いつものように外角球を鋭く叩いて右を抜くと、ベンチから「三遊間真っ二つ!」という声が挙がる。チーム一のスラッガーの赤月はホームランを放ったが、いつものように右のラインに沿って悠々と進み、新三塁ベースの直前で気がついて引き返し、ホームベースをまたいで、あらためて左のラインに沿って、照れくさそうにゆったりと走り直す。ダブルプレーのために転送するボールを、二塁ベースに入ったショートがいつものくせで普段の一塁、実はこの場合の三塁に投げてしまい、本人はもちろん周囲のメンバーも爆笑するという一幕も生まれた。 この紅白試合のはじめに、なぜこんなことをやるのかについて監督から特別な前置きはなかったが、選手たちは体を動かすうちに、明らかにまじめな練習というよりレクリエーションであることを感じ始めていた。表情も身のこなしも、野次も笑いも解放感にあふれていた。ほかのプログラムではなく、自分たちの商売であり仕事である当の野球を、激しい仕事場で、いつもの競争相手とやりながら、それがそのまま、こよなく楽しいレクリエーションになっていた。 志村もにこにこ笑いながら、この裏返しの野球を見ていた。そしてどうやら五回が終わると、全員を芝の上に車座に坐らせて言った。 「さて、今やったことはもう忘れていい。いや、忘れてくれなけりゃ困る。本番で大変なことになる。ちょっとした気分転換と頭の体操をやったらどうかと思ったんだよ。そうに決まってるという約束事を、ときどきひっくり返してみるのもいいもんじゃないかな。ただし、人様に迷惑をかけない形でスマートにね。いや、迷惑というより心配をかけたかな。あそこで見ていらっしゃる鶴岡御大や藤村御大にはね」 たまたま居合わせた新聞記者たちは、これを記事にしたものかどうか、するとすればどういう扱いでデスクに出したものかと戸惑っていた。志村は言った。 「あんまりまじめにとりあげんでくださいよ」 そしてつけ加えた。 「鏡のくにの野球ってのはどうかね」 まさかこの奇妙な余興のせいでもあるまいが、去年のペナントレースで、広島ドリンカーズは、一九八三年にプロ野球が三リーグ十八チームで再発足して以来、はじめての竹リーグ優勝を果たしたのである。そして日本シリーズでは松リーグの札幌ベアーズに優勝をさらわれはしたものの、二位の座を占めた。ちなみに三位は梅リーグの熊本モッコスであった。 そういえば、二リーグ時代の日本シリーズは、優勝か敗けかのどちらかしかなかった。単一の相手に四勝したほうが優勝だった。今では三リーグの各優勝チームによる各カード三回戦制で、二勝すれば勝点一となり、勝点二で優勝だ。だから、優勝に必要な勝星は四で、昔と変わらないのだが、シリーズのバラエティは増したようだ。ところが去年などはそのバラエティがいささか増し過ぎてしまった。というのは、三者が勝点一で三つ巴になってしまったのである。そこで規定によりあらためて各一回戦をやり、広島と熊本を連破した札幌が優勝した。こういう三つ巴は去年がはじめてだった。しかし、さらに恐ろしい規定がある。あらためて各一回戦をやっても三チームとも一勝一敗、つまり第二次三つ巴になったらどうするのか。またあらためて各一回戦をやるのである。その結果かりに第三次三つ巴になったら? 答えは同じ、またやるのである。決まるまで続ける。優勝が決まらないかぎり、かりに年を越そうとおかまいなしに続ける。次のシーズンが迫ってきたら? そこまではまだだれも考えていない。しかし三リーグ制であるかぎり、そういう日本シリーズが絶対に起こり得ないとはいえないのである。多分そういうときは、コミッショナーがドクター・ストップをかけることになるだろう。そういう凄絶な日本シリーズを見てから死にたいというファンもいる。 さて、広島ドリンカーズの今日の練習も終わり、シャワーを浴びて着替えを済ませた志村と鳥村は、連れ立って球場を出た。球場の南の相生橋を渡って平和公園に足を向ける。今日はたそがれになってもそれほど寒くなく、夕日の色が見事なので、少し散歩しようということになったのだ。二人の間では、こういうときは仕事の話は出さないことになっている。だから話題が野球に及ぶことはあっても、ドリンカーズの選手の人事や作戦ということにはならない。志村も鳥村も、帆足航平のポジションのことには触れようとはしない。 「今日はね、グラウンドで妙に吹田さんのことを思い出してねえ。気がついたら、もうすぐ命日なんだよ」 「亡くなったのが新リーグ発足の年ですから、もう五年ですか。早いもんですねえ」 「まったくね。ドリンカーズも六年目だ」 「吹田さんは、亡くなったときたしか八十一でしたね。そうすると、いつのお生まれですか」 「一九〇二年、明治三十五年、今の呼び方でいうと終戦前四十三年だね」 鳥村は眼を細めて遠くを見やっていたが、やがて言った。 「そうすると、今が戦後四十四年ですから、もしまだ生きていらっしゃったら、戦前戦後を同じ長さだけ生きた米寿のお祝いになったんですね」 「なるほどそうだ。この年号はそういうことに気づかせてくれるね」 二人は原爆被災ドームの横を通り、太田川の流れをみつめながらさらに南へ歩く。(このドームも、人間の作った悪魔の一瞬の閃光を浴びてから四十四年目だ)と、志村はあらためて思う。そして、ふと思いついたように鳥村に言った。 「トリさん、今のきみのことばで気がついたんだが、太平洋戦争が終わってから今日までの年月はね、日露戦争が始まってから太平洋戦争が終わるまでの年月を、すでに上廻ったんだね」 「はあ、そういうことになりますか」 二人はそれからしばらく黙り込んだまま、原爆慰霊碑のほうに近づいて行く。やがて志村がぽつりと言った。 「おたがい、こうして野球でめしが喰えて幸せというべきだなあ」 「まったくですね」 「ところで、日本の野球事始めというのは、たしか明治六年という説だったね」 「そうです。ええと、終戦前七十二年になりますか」 「うむ、そうすると、あの戦後三十九年を中心にしたプロ野球改革は、日本で野球が本格的に始まってからちょうど百年目あたりと考えていいね」 「そうですね」 「どうも、何事も百年というのは、変革から変革への一周期かも知れないね」 「さあね。監督、明治百年とか謳われてたころには、めぼしい変革はありましたかね。つまり、日本の近代国家としては」 「トリさん、むつかしいことをいい出さないでくれよ」 二人は声を挙げて笑った。鳥村は、自分で出したテーマを軽く打ち切るように言った。 「少なくともあのころ、野球百年のようなはっきりした変革は認められなかったようですね」 鳥村のまなざしは、(そして、プロ野球変革の戦後三十九年あたりから、社会状況全体が相互に作用し合うように変革へと向かった。これはプロ野球の変革と無縁ではなかった)と言っているように見えた。 二人は、慰霊碑の前で黙祷したあと、平和記念資料館のピロティの脇までまっすぐ歩を進める。志村は思う。 (おれが高校生になりたてのころ、この資料館が建った。まだ周囲には目立つ建物がなかったころだ。あのころ、この建物の新しい姿かたちとコンクリートの荒い肌は、強烈な異彩を放っていた。そしておれがカープの選手になったころは、広島の街もあらかた整ってきて、この建物も街と調和していた。そして戦後四十四年の今、遠くに見えるピカピカのビルの群れに対して、この建物は孤独にひっそりとたたずみ、静かに老境を味わっているかのような風情だ。一人の人間の生涯のようだ。この建物の人間的な感じが、おれは好きだ……) 「何を考えてらっしゃるんですか」 「いや、またふっと吹田さんの顔を思い出していたんだよ。どうやら日も暮れたね。トリさん、軽く一杯やって行こうか」 「ああ、いいですね」 二人の影が平和公園の夕闇を横切り、ネオンサインのまたたく街の方角にシルエットとなって吸い込まれて行った。 [#改ページ] 帰ってきた知識人 一九八八年、戦後四十四年三月二日の昼下がり、福岡の大濠公園の池のほとりを散策する人びとの中に、一見山登りのいでたちをした一人の男がいた。しかしよく見ると、山登りにしては何ともちぐはぐな恰好である。首尾一貫していない。いや、中間を素通りして首と尾だけは一貫しているというべきか。つまり、頭には色あせてよれよれの登山帽をまぶかにかぶり、その下にのぞく顔は、頬から鼻下とあごにかけて伸ばし放題といった不精ひげにおおわれていて、足にはこれまた土がこびりついて薄汚れた登山靴をはいている。ところが、頭と足の間の衣服はしゃれた街着であり、しかも仕立て下ろしのように真新しいのである。ネクタイこそ締めていないが、上下揃いの薄茶のスーツを着ている。登山姿と街着が同居しているというよりは、何年か前の時間と現在の時間とが、この一人の男の姿の中に同居している感じだ。 ひげにおおわれた男の唇がもぞもぞと動いた。男は独り言をつぶやいていた。 「変わってない。驚くほど変わってない」 しばらく歩くと、またつぶやいた。 「あるいは、驚くほど静かに変わっている」 その独り言は、とっさに出るというよりは、あらかじめ書いた文章を静かに読んでいるような、あるいは芝居の台詞を小声で試しているような感じである。 男はやがて、独り言ではなくだれかに話しかけてみたいといった風情で、まわりの人びとを眺め始めた。まるで、生まれて初めて人類の一人に話しかけてみる、その一人を大切に物色しているという眼つきだ。その念入りな選択の末に、男は、小学校五、六年と見える一人の少年を呼び止めた。 「坊や、博多ドンタクスタジアムっていうと、昔の平和台球場のとこにあるの?」 少年は、きょとんとした顔でひげもじゃの男を見上げた。そして、 「ドンタクスタジアムなら知っとるけど、ヘイワダイってよう知らん」 と答えて、公園の東のほうを指し、 「すぐそこじゃ」 と言った。 「ああ、やっぱりね。どうもありがとう」 男は立ち去ろうとしたが、少年が何か言いたそうな気配をしているのを察して足を止めた。少年は訊ねた。 「おじさん、にっぽんじん?」 男は意表をつかれたように一瞬口ごもり、やがて両手でひげをかき分けて自分の顔をよく見せる手つきをして、笑いながら答えた。 「そうだよ」 「ふーん、どっからきたん?」 少年は矢継ぎ早に聞く。男は、 「あっち」 と言って、さっき少年が指した東のほうを指した。そしてその指を、水平からやがて心持ち上に向けて、遠くの空を指した。少年は、男の指さす方向を、まるで測量でもするようにじっと見据えていたが、やがて、 「なんか、小倉より遠そうやね」 と言った。 「うん、ずっと遠くだ。おじさんはね、日本人だけど、長いこと遠くの国にいたんだ」 「何ちゅう国ね?」 男はしばらく黙っていた。そして、さも大事なことを打ち明けるように少年の背の高さまで上体を折り、顔を近づけて、 「マヤという国」 と言った。 「マヤ? 知らんなあ」 「あのね、今は名前が変わってるんだ。それは言わないでおこう。きみ、家に帰ったら何かで調べてごらん。きっとわかるよ」 ふしぎそうな顔をしている少年に、男はもう一度礼を述べて歩き出した。そしてまた、台詞のような独り言だ。 「こどもが変わった。物怖じせず、くったくがない。ほら、ほかの子の表情もそうだ」 博多ドンタクスタジアムでは、筑前大学と広島ドリンカーズの交流試合が、まさに始まろうとしていた。この球場はプロ野球の博多ドンタクスの本拠地なのだが、今日はそのドンタクスが、地元を離れて熊本モッコスとのゲームに熊本に行っているので、筑前大学がこのドンタクスタジアムを借りてドリンカーズを迎えているのだ。 くだんの男が、スタジアムの外塀の掲示板を見て、驚いたようにまた独り言をつぶやいた。 「プロと大学の交流試合!」 そして続けて言った。 「やっぱり、変わった」 一体この男は、こんなあたりまえのことに何を驚いているのか。そうだ、そういえば、四、五年前まではプロ野球チームは、大学はおろか社会人野球とのオープン・ゲームをすることも禁じられていたのだった。この男はそのころのことしか知らないらしい。してみると、彼は少なくとも五年以上海外に行っていて、日本に帰ってきたばかりなのだ。 スタンドに入った男は、しばらく出入口に突っ立ったままスタジアム全体を眺めていた。オープン・ゲームにしては観客はかなりの入りのようだ。しかしまだ内野席も余裕はある。やがて男は、一塁側内野席のホーム寄り中段あたりに席を占めた。グラウンドではすでに両チームのシートノックも終わっていて、選手たちはベンチに引っ込んで試合開始を待っている。男は、三塁側の広島ドリンカーズのベンチのほうを、じっと見守っている様子だ。 さて、そのドリンカーズのベンチでは、今日の先発投手の厨川と捕手の原が話し合っていた。 「原さん、今日のぼくのまっすぐの伸びはどうですか」 「うむ、今年に入ってから一番いい。手許でのホップが最高だ」 「そうですか。じゃあ、今日は全部まっすぐで、原則として全部ストライクで試してみたいんですが」 原は驚いた様子もなく答えた。 「よかろう。それじゃ、サインはコースと高低だけだ。しかし、アマチュアだからといってなめてかかるなよ」 「わかってますよ」 「筑前の坊やたち、なめられたと思ってカッカとくるぜ」 「思うつぼですよ。だけど決して力は抜きませんよ。全力テストです。シーズンまでにプロ同士でも一度やってみたいんです」 「クリ、それは今日のテストがすんでから決めることだ」 「はい」 このやりとりが聞こえているのかどうか、二人の近くにいる志村は、眼をグラウンドにやりながらにやにや笑っている。厨川健、快速球を武器とするサウスポーで、入団四年目、二十四歳である。チームの中の左腕ではピカ一で、チーム全体でも準エース級だ。しかし、いくら快速球を誇る厨川でも、プロの三年間まさかそれだけで通用してきたわけではない。鋭く曲がる速いカーブと、大きく落ちる遅いカーブ、それにスライダーもフォークも持っている。それらの配合の上で、ズバリと通す快速球が生きてきたのだ。それを今日は、いくら大学チームが相手とはいえ、全部直球でしかもストライクだけで行くという。原捕手もそれを簡単に許している。 志村は、社会人や大学のチームからオープン・ゲームの申し込みを受けたときは、かならずその時期のベストメンバーで臨むことにしている。「プロ同士の鞘当てとはちがい、それが相手に対する礼節だ」というのが彼の態度なのだ。だから今日も、今チームで最も好調な厨川をマウンドに送ることにしたのだ。その意図をバッテリーが台なしにするようなことにならなければよいが。 福岡市の筑前大学は、ここ二年の四シーズンというもの、西部大学野球選手権を他に譲ったことがなく、去年の秋には、全国大学野球選手権大会で強敵北海道大学を破って優勝している。西部大学野球とは、東中国、西中国、四国、北九州、南九州の五リーグの総称で、各リーグの優勝校によって一回総当たりの決勝リーグがおこなわれる。それを連続四回制覇しているのが、この筑前大学である。ちなみにこの五リーグの地域分けは、現在のプロ野球チームの地域範囲、すなわち、東中国・岡山モモタローズ、南中国・広島ドリンカーズ、四国・高松パイレーツ、北九州・博多ドンタクス、南九州・熊本モッコスと対応している。そしてこの西部の圏内のプロ野球チームとトップクラスの大学チームは、毎年春先に何試合かのオープン・ゲームを組むのである。筑前大学の過去三年の対プロ・チーム十四試合の成績は三勝十一敗、アマチュアとしては健闘しているし、負け試合の内容もそれほど悪いものではない。 さて、試合開始だ。両チームのナインがホームベースを挟んで並び、試合前の挨拶を交わす。ドリンカーズの面々は照れくさそうだ。こんなことはプロ同士ではやらない。しかし、アマチュアとのオープン・ゲームでは、しきたりからルール一切アマチュアのほうに従うことになっているのだ。 先攻は筑前大学。ドリンカーズのナインがグラウンドに散った。筑前のトップ・バッター、ショートの土屋が右ボックスに入る。主審の右手が上がった瞬間、けたたましいサイレンが鳴る。これもアマチュアのしきたりだ。厨川の左腕がしなって、指先から真っ白な球が飛び出した。第一球はど真ん中の直球、土屋は唖然として見送る。普通のストライク・ゾーンの断面図には、縦に十一個、横に六個で合計六十六個のボールが並べられるが、厨川の第一球は、その六十六個の中心を貫いて原のミットにビンと快い音を立てておさまった。第二球、今度は内角高目にホップしながらくい込む。土屋は思いきりバットを振った。腰の回転も悪くない。打球は真うしろに飛び、バックネットの上部をすごい速さで直撃するファウルとなった。 (小僧、振れてやがるな)と、バッテリーは一呼吸置いた。厨川は考える。(バッターはこう思っているだろう。おれの球が手許でホップするのをわきまえて、ダウン・スイングのポイントを上に置いたのに、それでもボールの下をかすってファウルになった。もう少しポイントを上にして前で叩こうとね。だから今度はやや低目に通すか。できれば真ん中にしたいな)。原のサインは厨川の狙いとピタリと合った。注文通りの速球が、バッターの膝元をよぎった。やや低いか。さすが筑前のトップ・バッター、上から半分出ていたバットを止めた。判定はボール。さて、いよいよ厨川は外角寄りの高目にホップさせるだろう。これも、投手、捕手、打者の狙いが一致した。土屋のバットは球に遅れずさからわず、左の腰もうまく押し出して理想的に球をとらえたと見えた。しかし、打球はセカンドの右上に力なく高く上がってしまった。二塁手の馬見がグラブをポンと叩いてから捕った。 打席に入る前にトップの土屋から二言三言示唆を受けていた二番バッターは、バットを短く持って厨川の第二球を思い切り上から叩いた。おそらく土屋から(あのピッチャーの球の手許でのホップは聞きしにまさるものだ)といわれていたのだろう。これはバウンドの高いゆるい二塁ゴロとなり、また馬見が難なくさばいてツウアウト。 ストライクの直球しか投げてこない厨川に対して、筑前大学のナインはだんだんカッカとしてきたようだ。それを発散、解消させようと、筑前のベンチから野次が飛ぶ。 「クリヤガワさん、カーブが曲がりませんねえ」 「ピッチング・マシーン!」 「今年はプロでは無理ですねえ」 三番バッターの巨漢が左ボックスに入り、厨川が無造作に第一球を投げようとする直前にボックスをはずして、眼に入ったごみを取る手つきをした。今度はドリンカーズのベンチから野次が出る。 「大きい坊や、眼をこすってもだめ。この球はおぬしには見えんよ」 ピッチャーがカッカしたのか、バッターがカッカしたのか、結局この三番は三球三振。内角高目、見送り、真ん中高目、空振り、そして全く同じ球、空振り。 厨川はマウンドを降りてベンチに向かいながら不満そうに指を鳴らした。その表情はこう言っていた。(チェッ! 三人とも三振に取ろうと思ったのに、たったの一つか) 一回の裏、ドリンカーズの攻撃。バッター・ボックスにいる時間の短いことで有名な帆足航平通称早打ち航平が、プロ野球一の小柄な体を左ボックスに運ぼうとしている。筑前のベンチからすかさず、 「ドリンカーズさん、中学生を連れてきちゃだめですよ」 航平は、バットを素振りしながら筑前のベンチをにらみつけ、だれが野次ったのかつきとめようとしている様子だ。 筑前大学の投手はエースの吉川。二年生の春からマウンドに立ち、チームを連続優勝に導いた立役者で、今年が大学最後の年である。来年博多ドンタクスに入団することは確実だ。長い右腕から左右のコーナーぎりぎりにコントロールされて伸びる速球と、重い感じのスライダー、それに鋭く落ちるカーブ、何よりも全体のコントロールが抜群で、プロのバッターにとってもあなどり難い存在である。 吉川の第一球は、左の航平に対して外角ぎりぎりの低目を、厨川に劣らぬすばらしいスピードでよぎる球。厨川のホップ気味に対して吉川のはややシュート気味だ。早打ち航平は当然のようにバットを出す。とっさに右足をふみ入れて右腰を押し出すようにし、バットを小さく鋭く振った。球はサードラインに沿って超低空で飛び、ベースに直接ぶつかってはねたあと、後方のラインのやや外側にころころと転がった。 筑前大学の監督があらかじめ選手たちに与えていた指示はこうだ。「トップの帆足の特長は、早打ち、そして打球が鋭い。しかし外野の頭上を越すことはめったにない。その代わり油断するとすぐ横を抜けてフェンスに行っちまうぞ。そこでこうする。ライトは定位置よりやや前、レフトはもっと前、そしてセンターは深く守ってフォローしろ」 そこで思い切って浅く守っていたレフトが、三塁ベースからあまり離れていない位置で、この勢いがとまってゆるく転がる打球をうまくカバーした。単打だ。と、だれしもが思う。しかし、航平は一塁を駆け抜ける前から二塁を狙っていた。航平の俊足を知っていたレフトも、まさか二塁には走らないだろうと思っていた。そして本気に二塁へ走ろうとしている航平を見て驚いた。しかし、さすがに筑前大学の左翼手、航平の左利きを心得ていて、二塁ベースの手前ではなくやや奥をめがけて絶好の送球をした。左利きは、利き足もたいてい左だから、スライディングの軸足は左になり、寝かせた体は当然、レフトから見て二塁ベースの向こう寄りに行くからだ。しかし航平もさるもの、ベース直前でレフトからの球筋を見て、軸足でベースの左の|空《くう》を蹴って地面に背中をつけ、レフトが予期したのと反対の位置に体を滑らせ、右手でベースをつかまえた。筑前の二塁手のグラブがその手にタッチしたのとどっちが早いか。その瞬間、審判の両手が真横に伸びた。ドリンカーズのベンチから拍手歓声が湧く。 三塁手は、まるで打球が三塁ベースに当たらなければ捕っていたのにとくやしがるように、スパイクでベースをひと蹴りしている。 二番の永田は、前記のとおり広島カープ時代からの選手でスイッチ・ヒッター。これまた俊足だ。ところがこのスイッチ・ヒッター、相手投手の吉川が右腕なのに左打席には入らず、右で打とうとしている。もともとこの二番打者、右打席から一・二塁間を抜いてランナーを進めるのがうまい。バッターが当然左で打ってくるものと思ったバッテリーは戸惑った。そして(このやろう、なめてやがる)と思った。とにかく右狙いを防ごうというわけで、外角球はボールにし、ウイニング・ショットは内角シュートと決めた。第一球、外角ストレートのボール、第二球、内角ぎりぎりのストライク、第三球、外角をはずれるカーブ。(さて、次は公式どおり内角シュートで仕留めようとしているな)、と永田は読んだ。(かわいそうだが、その公式ではだめだということを教えてやろうか)、永田の読んだとおりの球が、それでもすばらしいスピードに乗ってきた。永田は心持ち体を開き、腰と腕と手首の切れを瞬時に一体とし、吉川の速球を鋭く引っぱった。勢いよく三遊間を抜く。今度もあらかじめ浅く守っていたレフトが球を止める。ランナーは一・三塁になる、と思われた。ところが、サード・コーチの鳥村は右腕をぐるぐる廻してホームヘ突っ込めの合図、航平も当然のように走る。ホームベースに近づいてからぐんぐん加速度がつき、左足をピンと伸ばしてストレート・スライディング。航平のスパイクがホームベースをかすめるのと、筑前の捕手がきれいなバックホームの球を捕って航平の足に素早くタッチするのと、ほとんど同時だった。アンパイヤーは一呼吸置くと、「セーフ」とコールした。驚いたのか、声が少しうわずっている。 ドリンカーズのベンチでは、だれかが志村に聞いている。 「監督、今の場合でも“突っ込め”ですかねえ。少し無茶じゃないですか」 「いや、トリさんがとめても航平は突っ込んでたよ。それを知ってるから、トリさんもおもしろそうにグルグルやったのさ」 「永田さんも、あのケースで珍しく引っぱりましたね」 「永田も、今のホームベース上のドラマを期待してたんだよ。あいつこそドラマの仕掛人さ。インコースは捨てて右へ流すふりをして、インコースを待ってたんだ。いいかい、あの場合は右を狙って、悪くてもランナーをサードヘ進め、次が外野フライでも一点というのはたしかに一つの定石だが、それをまたくずすのが一流選手だよ。何でも決まりきって型ができすぎては、おもしろくないやね。ペナントレースで今のように行けば、お客さんは湧くぞ」 志村は愉快そうに答えた。そして(うむ、この新一・二番コンビは傑作というべきだ)と思った。 三番・赤月は右中間に大飛球を放ったが、フェンス間際でセンターに好捕された。 四番は捕手・原伸次。永田と同じくカープ時代からの選手だ。広陵高校出身の二十六歳で右投左打、去年のドリンカーズのリーグ優勝のときのMVPである。この年、打率三割三分一厘で三位、ホームラン三十九本で二位、打点百三十五でトップ、この打点は二位を三十以上も引き離す抜群の成績で、これがMVPの決定に大きくものを言った。投手のリードと肩の強さにも定評がある。ドリンカーズのホームベースは当分磐石だ。 その原、リストの利いたきれいなフォームで、判で押したようにホームランを放った。ライトスタンド最上段に球がはずむ。永田、原と還って三点目が入る。そのあと何だかんだで打順は八番まで廻り、一回に計五点が入った。 回が進んでも、厨川の全直球ストライク主義の投球は勢いが衰えず、筑前はランナーを出すことができない。厨川は、八、九回をルーキーの小杉にゆずり、小杉も好投して、結局この試合、十一対○でドリンカーズの勝ちとなった。 両チームのナインがホームベースを挟んで並び、サイレンの鳴る中で試合終了の挨拶をする。それがすんで両チームのナインがベンチに戻ろうとした瞬間、静まって行くサイレンに代わって、帆足航平の大きな声がした。 「おい、さっきおれのことを中学生と言ったやつ、前へ出ろ。正直に出ろ」 ドリンカーズのベンチでそれを耳にした鳥村コーチがホームにかけ寄ろうとするのを、志村監督はにやりと笑って押しとどめた。 「やらしておけ」 両チームが一列に並んで向き合っている間の細い空間を、一瞬氷の刃が走り抜けたような空気になった。間もなく筑前大学の列から、ひときわ体の大きい学生がノソッと出て、小さい航平の前におおいかぶさるように立ちはだかった。 「わっしです」 さあ始まる、とだれもが思って止めに入ろうと身構えたとき、航平がゆっくりと右手をさし出して言った。 「デカガキ、がんばれよ」 デカガキも、つられて何となく右手を出してしまった。 厨川はマウンドを八回に小杉にゆずるまで、一人の走者も出さなかった。そして予定どおりすべて直球で通し、しかも二十一人のバッターに投げた八十球のうち、ボールと判定されたのはわずか六球だけだった。 新聞記者の一人が志村のところに来た。 「監督、どうして厨川に完投させてパーフェクト・ゲームをやらせなかったんですか」 志村は、記者の顔をあきれ顔でまじまじと眺めていたが、やがて言った。 「パーフェクトだって? プロが大学生を相手にそんなことをして、何になりますか」 記者は、たまたま志村の近くにいた厨川の顔をのぞき込んだ。厨川は言った。 「パーフェクトはね、監督がペナントレースのときにとっておいてくれたんですよ。ぼくもそろそろやっておきたいし、まあ今年、東京ジャイアンツあたりを狙ってます」 記者はにこにこ顔をして帰って行った。今日は、帆足といい厨川といい、言動でもプレーでも、絶好の話題を新聞記者に提供したものだ。やがて、厨川はだれに言うともなくつぶやいた。 「そんなことより、七回で三振はたったの十三か」 いかにアマチュア相手とはいえ、七回で三振十三とは立派なものではないか。実は厨川は、キャンプの初めに志村監督から聞いた話を考えているのである。志村が厨川に、「クリ、おまえは往年の火の球投手荒巻にだんだん似てきたぞ」とおだてながら聞かせた話はこうだ。 荒巻淳、快速球を武器としたサウスポー、大分商業から大分経済専門学校を経てノンプロの別府星野組に入り、一九四九年の都市対抗野球で優勝。翌年、プロ野球の二リーグ分裂とともに新生球団毎日オリオンズに入り、二十六勝八敗で新人王。その年のリーグ優勝、日本シリーズ優勝に貢献。その後も長く活躍を続けたが、現役引退後一九七一年、四十四歳の若さで急逝。その荒巻の球歴の中で、志村が厨川に強調して話したのは、荒巻の専門学校時代の記録だ。全国専門学校野球大会の決勝戦で、荒巻はパーフェクト・ゲームを達成した。パーフェクト・ゲーム自体は今日ではそれほど珍しくもないが、問題はその中味だ。荒巻はこのゲームで、何と二十三の三振を奪ったのである。つまり、相手チームの打者がかろうじてバットにボールを当て、それが捕られてアウトになったのはわずかに四、それ以外は全部三振によるアウトである。相手がとびきり弱いチームだったとは考えられない。少なくとも全国大会で決勝戦まで勝ち抜いてきたチームである。 その荒巻に、厨川は顔つきも体つきもピッチング・フォームも似てきたと、志村は言う。 「どっちかというと、きしゃな感じの体つきでな、優男っぷりもおまえそっくりだ。何というかなあ、大学の研究室から白衣を着て出てくるのがぴったりするような、インテリジェントな雰囲気を持ってたぜ」 厨川は、監督が快速球の水準や球質が似ているという話をあまりせずに、体つきや優男ぶりの類似を強調するのがいささか不満だったが、まあ満更悪い気はしなかった。そして三振二十三個の話は厨川をいたく刺戟した。そして(よし、いつかはおれも)と、ひそかに思っているのだ。 選手たちがベンチから引き揚げ始めた。一行は今日中に広島に帰り、明日は岡山モモタローズと一戦交じえることになっている。 「監督」 原捕手が志村のところにやってきた。 「クリのやつ、四日後のアルプスとの試合で、今日のピッチングをもう一度試したいと言ってるんですが」 「全直球ストライクかね」 「ええ」 「きみはどう思う」 「朝の調子が絶好調なら、やらしてみたいですね」 「よし、やらせてみろ。相手の攻撃時間がおそろしく短くなるか、それともポカスカやられるか」 「いや、時間を短くしてみせますよ」 そう言って遠ざかって行く原捕手の、肩幅の広い後姿を眺めながら、志村はひそかにわが意を得たりと思っていた。志村が何となくイメージに描きながらことばに出していなかったものを、この若いバッテリーが試し始めているのだ。 いろんなピッチャーがしょっ中こんなことをしては、かえっておもしろくなくなる。作戦の読みや攻守のかけひき、トリックにだまし合いは、野球の持つおもしろさの一つなのだから。しかしその中で、たまにはプロ野球でも、ばかみたいにストライクの直球だけで通して意外に持ちこたえるというピッチングはできないものか。志村は、それをやらせるとすれば厨川だと思っていた。 ここ二十年ほどの間に、野球の作戦やかけひき、ピッチャーの球種などがおそろしく複雑緻密になっていた。監督もコーチも選手も、他球団のその複雑緻密さを解読することになみなみならぬ神経を使い、それに勝つためにはそれ以上の複雑緻密さを開発する。いきおい、試合中に監督やコーチが選手に出す指示が多くなり、試合時間も長くなる。そして、野球をやる当のナイン同士の合図よりも、選手一人ひとりが監督やコーチの合図をうかがうことになる。九本の糸が織り合わされているのでなく、監督が一本ずつの九本の糸の端を手許で握っているようなものだ。(これではいかん。何とかせねば)、志村は前からそう思っていた。そこで、一九八五年に監督になると、前に書いたように「わしが役に立つのは練習のときだぞ。練習ではどんどんわしを使え。その代わり本番になったら、野球をやるのはおまえたちだ。そのときはわしに楽をさせてくれよ」が口ぐせになった。 志村が監督になったころから、札幌ベアーズと仙台ダンディーズの北の勢力と、最南の熊本モッコスが擡頭し始めた。もっともモッコスの中の新興勢力は沖縄県出身の若手であったが。この経緯はあとで詳しく出てくるので簡単に言うと、一九八三年の新チーム結成のころには、特に北海道と東北は既成選手の層が他よりも薄くて苦戦を強いられていたが、徐々に地元の新人の力がつき始めて強いチームになってきたのである。新人たちの多くは都会生活型ではなくて、農山漁村で育った屈強の若者たちだった。スポーツの訓練ではなく日常生活で鍛えた底力が、次第に花を開き始めたのである。そしてこの傾向は、そのころから日本の社会状況が、あとで述べるように、工業最優先から農林漁業の再興へとゆるやかに転換を始めた現象と、軌を一にしていた。 これらのチームの擡頭は、一言でいえば力の野球であり、個性の野球だった。はじめのうちは、他のチームはそういう力をあなどって、ますます複雑緻密な野球で対抗した。そのころから志村は、(ほかのチームの対抗の仕方はまちがっているぞ)と思い続けてきた。力の野球といっても粗雑さとはちがう。打者にたとえれば、変化球を予期しているところへ速球がくると太刀打ちするのが難しいが、速球を覚悟しているところへ変化球がきても、腰さえ坐っていて泳がなければ対処できる。どっちを基本にするかだ。北の二チームとモッコスは、まず力を基本にした。そして新しい選手たちはそういう体質を備えていた。 志村は「野球」ということばが好きだ。ベースボールを野球と訳したのは、一高の名二塁手だった中馬庚という人で、一八九四年、つまり日本にベースボールが入ってきて二十年も経ってからのことだ。(よくぞ野球と名づけてくれた)と志村は思う。「底球」とか「塁球」なんぞにならなくてよかった。(やはり名二塁手だっただけのことはある)、志村は同業者としてひそかに誇りにしてきた。野望に満ちた野人どもが、野っ原に集まってやる野性的なスポーツ。だから野蛮な野次が飛んでもあまり意に介さない。 (ベアーズやダンディーズが擡頭してきたのは当然だ。野球は百年を過ぎて曲がり角にきて、自己再生を始めているのだ)と志村は思った。やがて札幌と仙台は、それぞれのリーグでペナントを手にした。熊本はすでに初年度に優勝していた。いつのまにか、日本列島の南北両端が王座を占めるようになったのだ。志村は、鳥村や山本たちコーチ陣とともに、あまり目立たぬ姿で広島ドリンカーズの野球を変えて行った。南北両端のチームの良さを徐々に採り入れ、緻密な体質との調和を図った。去年の、仙台ダンディーズとの熾烈な首位争いの末かち取った優勝は、その努力が実った結果だと志村は思っている。 だから、厨川と原が、全直球全ストライクの投球がどこまで通用するか試してみたいと自発的に考えていることを、嬉しく感じているのである。(失敗してもいい。これは一つの意味のある挑戦であり、意思表示だ)と思っている。 (さて、あれをきり出すか)と、志村は脇にいる鳥村ヘッド・コーチのほうを向いた。ベンチはもう二人だけになっている。 「トリさん、実はもう一つテストしてみたいことがある」 「は?」 「馬見と帆足の、試合中のポジションの交替だ」 「監督、やっぱりまだ考えておられたんですか。左利きのセカンドなんて。第一、馬見のセカンドがなぜいけないんです」 「いや、そうじゃない。あいつのセカンドは天下一品だよ。そして帆足はその動きをセンターからよく見てきた。ぼくはね、馬見にもときどき、センターからダイヤモンドの動きを眺めさせたいんだよ」 「———」 「もう少し別のいい方をするとね、セカンドとセンターの領域を二人に自由に任せてみたいんだな」 「どうも監督の狙いがもう一つよくわからない。この大事なときに中心線をいじくるのはやめときましょうよ」 「それはそうなんだが、その中心線のメンバー同士の臨機応変の交替なんだよ」 「馬見はどこでもこなす男だから安心ですよ。しかしギッチョの帆足のセカンドはねえ」 「どこでもこなす選手の養成は、きみとぼくの共通の目標じゃないか」 「それはそうですが、どうしてまた選りに選って……」 鳥村もなかなか引き下がらない。志村もねばる。 「相手は一つの試合で、右利きと左利きの二人のセカンドに対面することになる。まあ、攻撃によるゆさぶりのほかに、守備によるゆさぶり、うまく行けば攻撃的な守備とでもいうようなものを考えてるんだがね」 「まあ、名セカンドだった監督のことですから、何かひらめきがあるんでしょうが、ゲッツーは目に見えて不利ですよ」 「目に見えない努力を積ませよう」 さすがの鳥村も根負けして、 「わかりました。いや、あまりわかりませんが、オープン戦で一度やってみることには同意しますよ。いつにしますか」 と、ついに志村の軍門に降って聞いた。志村はにやりとして、 「ついでだから、クリのテストといっしょにしようよ。アルプス戦だ」 「ピッチャーはストライクの直球しか投げてこない。セカンドには右手にグラブをはめたチビがいる」 「ハハハ、まるでこどものころにやった草野球だね」 「私が言いたかったことですよ、ハハハハ」 鳥村コーチもつられて笑ってしまった。(おやじさんのお守りも骨が折れるわい) 二人が選手たちに追いつこうとベンチを去りかけたとき、グラウンドを横切って球場の職員がきた。 「志村さん、妙な男が志村さんに会いたいと言ってるんですが」 「妙な男?」 と、志村はその職員が振り返って指さしたほうを見た。ネット裏のスタンドからグラウンドヘ通じるゲートのところで、一人の男が足止めされてこっちを見ている。例のひげもじゃだ。 「なまえは?」 「それがね、会えばわかるといって言わないんですよ」 志村はベンチを出てゲートのほうに歩いて行った。彼我の間が四メートルほどになったとき、志村が大きな声を出した。 「おお、潟田じゃないか」 「やあ、しばらく」 「びっくりしたなあ。生きてたのか」 「ああ、悪運尽きずにね」 「とにかくベンチヘ行こう」 二人はグラウンドを歩き出した。 「いつ日本に帰ってきたんだ」 「三日前の朝」 潟田は、帰った日は東京の自宅で丸一日寝ていて、翌日の夕方夜行列車に乗って福岡に来たという。 「どうして新々幹線を使わなかったんだ」 「いや、いきなりあんなものに乗ったんじゃ、体の組織をばらばらにされそうでね。でも嬉しかったなあ。普通列車でも二回乗り換えただけで、接続もうまく行ってるし。おれが日本を出たころは鈍行はずたずただったもんなあ」 「何だ、それじゃ全部鈍行で来たのか」 「うむ、久し振りの景色を楽しみながらね。それでも初めのうちは列車のスピードが怖かったよ」 ベンチでは鳥村が腕を組んで、けげんな顔で二人を迎えようとしている。 「ああ、トリさん。この男は潟田六郎太といってね、ぼくの親友、いや、もう七、八年会ってないから旧友というべきかな。どこか地球の裏側で優雅に暮してたらしい」 「見事なおひげですね」 と、鳥村が言った。 「ええ、女房が剃ってしまえってやかましく言うんですけどね、しばらくこのままでいたいんですよ」 「何だかチグハグな恰好だな。そのひげとシャッポと靴が隠棲の名残りというわけか」 「そう。ほんとは服も帰ってきたままのでいたかったんだが、女房にむりやり着替えさせられちまったよ」 潟田は、鳥村のすすめるタバコを一本抜いた。志村は潟田に聞いた。 「ところで、予定はどうなってるんだ」 「いや、予定というほどのものはないんだが。そう、ただ一つの予定といえば、きみの都合のいいときに日本の社会に復帰するためのリハビリテーションを受けることだ」 「おいおい、無茶いうなよ。野球稼業一筋の一職人が、元日新タイムズ学芸部記者のインテリに、そんなことができると思うか」 「いや、きみから八年間の野球の移り変わりを聞くのが、おれにとっては絶好のリハビリテーションなのさ」 潟田は家で一日寝たあとは、家の近くを半日ほど散歩し、家族とあまり話もしないまま旅立ってきたという。志村に会うことのほかに、福岡県下の装飾古墳をはじめ、中国地方にも廻って古代遺跡を見て歩きたいという。要するに志村の近くをうろうろしながら、志村のスケジュールの空くのを待つというわけだ。 「リハビリテーションはともかく、せっかくだから一日たっぷり時間をとりたいなあ。そうなると長野のあとになるか」 「長野? ぼくは帰りに長野のほうにも寄りたいと思ってるんだ」 それはちょうどいいということで、三月六日の長野アルプスとのゲームが終わったあと、ホテルに泊ってゆっくり過しながら話すということに決まった。 「それはそうと、どこかでちょっと一休みしようじゃないか。トリさんもいっしょに」 鳥村はうなずいて、二人が少し遅れて広島に帰るということを、球場の外で待機しているバスに伝えに行った。 「それにしても、志村。長野といえばまだ寒いし雪だって降ってるだろう。今ごろ、どうして長野なんかでオープン戦をやるんだ」 「え?」 志村は潟田の質問に驚いたような顔をしたが、やがて、にやりと笑って、 「ああそうか。きみはご存知ないんだな。ま、それは見てのお楽しみということにしておこう」 と言った。 潟田六郎太、志村と同じく今年五十二歳になる。一九八〇年、つまり八年前までは、東京に本社を置く全国紙、日新タイムズの記者をしていた。学芸部でおもに考古学、歴史、文化人類学といった分野を担当し、その分野の諸先生といっしょに、あるいは一人で海外に取材に出ることもあった。 志村と潟田は、十年ほど前、つまり一九七八年ころに知り合った仲で、たちまち気が合った。およそ畑ちがいの男同士が、どうして|四十路《よそじ》を過ぎてから親友になったのか。きっかけはどこにでも転がっているような話だ。東京の神田界隈のとある飲屋が、偶然二人の行きつけの店だったこと、そこでおかみさんからお互いに紹介を受けたこと、そして潟田が専門に似合わず無類の野球好きだったことに尽きよう。志村は当時は広島カープのコーチになっていたが、彼の商売のわりには本が好きで、試合で東京にくると暇を見ては神田の本屋をぶらぶらし、近くの飲屋で一人で一杯やるのを楽しみにしていた。 二人がそこで知り合ってから潟田が日本を出るまで、一年ほど交友を続けただけなのだが、二人は妙にウマが合った。話題は志村の商売の野球が中心である。そして潟田の態度には、自分の専門とはるかにへだたった世界の男とつき合っておもしろがるとか、野球の話でもして忙しい仕事の束の間の憩いにしようとかいうものはまったく見られなかった。ただひたすら野球が好きだから野球の話をしたい、そして聞きたいということに尽きた。 真の交友は、お互いの知識や情報や考え方を交流させることではなく、何でもいいから一つのことに二人が夢中になることから生まれる関係のようだ。志村は、こと野球となるとこどもみたいになってしまう潟田をおもしろい男だと思い、自分も全力を傾けて野球の話をした。その結果、高校、大学、プロと三十年近くも野球をやってきた自分に、まだこんなに新しく初めて話すものがひそんでいたのかという発見があった。それは、今まで表現したことはないけれどもひそんでいたものなのか、あるいは、今この男に向かって表現したときにまったく新しく生まれたものなのか、自分でもわからない場合が少なくなく、志村はそういう自分の状態に驚いた。(なるほど、こういうことを創造というのかな?)と思った。そして、野球の経験や知識においては自分にはるかに及ばない潟田と話しながら、志村はしばしば、高度に技術的な、あるいは戦術的なひらめきを得ることがあった。 そして、野球という一つの話に二人が徹底的に夢中になったために、やがてそこを土壌にして、二人の話題はいろいろなものにひろがり始めた。そうなると、志村の苦手とする政治とか経済とか文化のことでも、志村は潟田になら気楽に話すことができた。そしてこの関係は潟田のほうからとらえてみても同じことのようだった。そういうわけで二人は、お互いに四十を過ぎてから出会って一年足らずの間に親友になったのだ。といっても、東京と広島で都合六回ほど会っただけだったが。 潟田は、世界の屋根裏とか辺境とかいわれているところに行く機会が多かった。ユーラシア大陸の奥地、アフリカ、中南米、インドなどの中で一般の人がめったに訪れない場所である。そういうところで、潟田は、新聞もテレビもラジオもなく、自動車も大規模な工業製品もなく、電気も通っていないのに、人びとが悠々と暮している姿を見た。土を耕し、家畜を追い、布を織り、食べ、飲み、唄い、恋をし、喧嘩をし、悩み、こどもを産み、死者を葬り、集まり、裁き、罰し、赦し、祈り……そういう姿を見たり、短期間いっしょに生活したりするうちに、潟田はあらためて「われわれが持っているものを、彼らはすべて持っている。そして、彼らが持っているものの多くを、われわれは失っている」と思った。潟田の関心は、諸先生と古代遺跡を調べることよりも、その近くで暮している人びととつきあうことに次第に移って行った。(ここは世界の屋根裏でもなければ辺境でもない)、潟田はその姿を、新聞もテレビもラジオもあり、電気もガスも縦横に走っている社会に、ありのままに報告し続けた。新聞記事以外に単行本にもした。 「ところがね、ぼくのレポートはどう読まれていると思う? まあ、本もそこそこは売れてるようだが、結局はね、もの珍しさという一過性の興味だ。未開社会の、自分とは無縁の異質さをもよく理解し、ひろく世界を知ろうという教養主義、ものわかりの良さ。そして結局は、自分たちの文明と生活環境をひそかな優越感とともに確認する。おれはどうも、そういうことに手を貸しているらしい。まあ、おれの文筆力の貧しさにも責任はあるがね」 ある日、飲屋で、潟田は珍しくぐちをこぼし続けた。志村はほとんど聞き役である。 「文明と文化とはちがうものだ。ぼくはね、日本の文明は今や文化を分化しちまってると思う。あ、あとのブンカというのは分けるという字だ」 と言って、潟田はテーブルに指で「分」という字を書いた。 「だからね、分化されてない文化、全体像を持っていて見えやすい文化を紹介してきたつもりなんだ」 「おれには難しくてわからんよ。いや、ほんの少しわかる気もするけどね」 「つまり、日本の現代社会では、一人ひとりの世界は驚くほど小さく狭くなっている。分業化、機能化、組織化、そうすると当然管理機構も進む。そして管理というものも分業の一つだ」 「ふむ、それは野球の世界でもいえそうだなあ」 「そう、でもきみの職場はいいなあ」 「何が?」 「選手はファームと併せて六十人。きみがコーチとして直接見る人数は二十五人。これは人間のグループとしては理想的なスケールだと思うよ」 「新聞社だって、直接関係する人数はそんなもんじゃないのか」 「いや、顔を合わせる同僚の数は少なくても、目に見えない大組織の圧力を背中に感じる。組織がふくらみすぎた。全国紙に発展するのも考えものだよ」 「プロ野球にも全国紙的な球団はあるよ」 「なるほど」 「今日はいやにぐちっぽいね」 潟田はいつもより酒の量が多く、かなり酔いが廻っているようだった。いつもの二人の組み合わせなら談論風発してとどまるところを知らぬ野球の話も、珍しくはずまなかった。(その当然の反映として、この本もここいらあたりは、あまりおもしろくないはずだ。しかし、もう少しご辛抱願いたい。もうすぐまた野球の話になる) 次に二人が会ったのは一九八〇年二月、潟田のほうがわざわざ広島に志村を訪ねてきた。 「今度はちょっと長く日本を離れることにした。新聞の取材じゃない。自分のための取材、いや、取材というのは当たらないな。キザに聞こえるかも知れんが、しばらくどこかで死んでいたいんだ。世の中の動きがわからないところ、活字も映像もラジオもなく、電話もかかってこないところでね」 「ふうん、いったいどこへ行くんだ」 「それはきみにも言いたくない。女房にも言わないつもりだ。最低五、六年にはなると思う。とにかく、人間としてちゃんとした生活はするつもりだ。余計なものが何もないところでね。もちろん本など一冊も持っていかない。ノートと鉛筆もどうしようかなと思っているんだが。どうかね、キザかね?」 「別にキザとは思わんが、何とも贅沢な話だとは思うよ。悩みを処理する方法としてはね。しかし頭の良いこともつらいもんだな」 「退職金から前借分と飲屋のつけと、それにさしあたり女房に渡す分を引いて、ぼくが行きたいと思ってるところまでの足代は残る。それに例の野球のやつなんかの原稿料も少しあるし。むこうに行けばね、ことばはまだ通じないが気持は通じているやつがいる。質素な共同生活にあまり金は要らない」 「奥さんは何て言った?」 「言い出したらやめる人じゃないでしょ。飢え死にしそうになったら帰っておいでだと」 「さすがだな」 「これは家族ときみにしか話していない。別にもったいぶって秘密にしたいわけじゃないんだが、ただ、ほかの人たちには簡単にわかってもらえそうにないんでね」 「さあ、おれだってあまりわかっていないね。ただ、きみがしんからそうしたいと思ってるということと、きみにはそれができるだろうということ、そしてやるだろうということはわかってるよ」 「それで充分だよ」 奥さんは早速英文タイプの口をみつけたという。二人の大学生のこどもも、父親の出奔の動機を理解したという。そしてアルバイトの口を増やすそうだ。 「そのうち、浦島太郎になって帰ってくるよ。それからまたやり直しだ」 と潟田は言って広島を去って行った。それは、東京に帰っていずれまたすぐに会いにくるというような別れ方だった。 そして今、潟田は八年ぶりで志村の前に姿を現わしたわけだ。 「どうだ。浦島太郎の心境は」 「ハハハ、八年ぐらいでは浦島太郎にもなれないことがわかったよ。きみとこんなところで話してると、せいぜい一年ぶりぐらいの感じかな。きみも世の中も意外に変わっていない」 「ほう、そんなもんかな。おれも、トリさんに監督をやってもらって、どこかで七、八年死んでこようかな。でも、そこでもきっと、人を見れば呼び集めて野球をやっちゃうだろうな」 志村、潟田、鳥村の三人は、福岡の天神界隈のレストランで、ビールを飲みながら語り合っている。潟田は、さっきのことばを少し訂正したいというふうに、志村の冗談にかまわずにまた口を開いた。 「いや、意外に変わってないというのは、目に見える表面的なところだと思う。まだ帰ってきたばかりだしね。おそらくいろんなことが、目に見えないところで静かに変わっているんだと思う。今までに気がついたのはね、まず野菜がおいしくなってる。今出廻ってるのは、ほうれん草かな。おれたちのガキのころのようにうまい。それにね、ここにくる前に大濠公園で、見知らぬこどもと口をきいたんだが、これが物怖じせずに人なつっこい。ほっぺたも取れたてのトマトのようだし、眼もキラキラしてる。公園のほかの子たちもそうだ。十年前はそうじゃなかったなあ」 「ほう、おもしろいことに気がつくなあ」 「その子にね、“おじさん、日本人?”ていわれてギクリとしたよ。こどもは怖いね。何か自分でもわからないことを直感的に感じてことばに出すんだから。おれはやっぱり、今ごろのこのこと日本に帰ってくる資格なんかないんじゃないかと思ったよ」 「まあ、そんなに深く考えなさんな。きみもあんまり変わってないよ」 「それにしても、この食物とこどもたちの変貌は何なのかね」 「うむ、それを話すとなると、今度はこっちが深く考えて御進講申しあげねばならんから、それは長野でゆっくり話すことにしよう」 「潟田さん、野球はどうですか。変わってますか」 と、鳥村が聞いた。 「いや、そのことですよ。鳥村さん」 と、潟田はすっとんきょうに大きな声を出した。 「野球だけは目に見えて変わってる。家で新聞をひろげてみて驚いたんですが、二リーグ十二チームが、三リーグ十八チームになっていて、北海道から九州にわたって散在している。それに女房に聞くと、東京にも大阪にも一チームずつしかないそうじゃないですか」 「そうですね。そういえばあのころは、首都圏と大阪だけで十二球団中十球団が集中してましたね」 「もっと驚いたのは、これはここにきて初めて知ったんですが、プロと大学が試合をしてるってことです。いかにオープン戦とはいえね」 「潟田さん、オープン試合とはもともとそういう意味だったようですね」 「ああ、それはそうですね」 潟田はうなずきながら、プロとアマチュアの対抗ゲームが禁じられていた昔のことを思い出していた。潟田の記憶では、シーズン中にもおかまいなしにプロがアマチュアの選手を引き抜いたりして、両方の本部同士の折合いが悪くなり、それがきっかけで交流試合が禁止されたということだった。 事実、潟田がこどものころは、プロ野球に限らず、プロといえば「人さらいの魔手」ぐらいに考える傾向がまだ尻尾を残していた。プロ野球、プロ歌手、プロ・サーカス、プロ作家…… 「とんでもない。おまえは魔手に踊らされ、甘言に|弄《もてあそ》ばれているんだぞ。悪夢から醒めよ。まともな道を歩め。そうでなければ今日限り勘当だ」というのが、当時の良家の子弟への親の態度だった。その後その態度は徐々に変貌し、魔の手に代わって親の手が子弟に伸びるまでになった。「どうせやるならプロをめざせ」、親のほうが眼の色を変えてこどもに英才教育を施し、親のほうが悪夢と幻想のとりこになる例も珍しくなくなった。やがて、プロ野球、プロ歌手、プロ・サーカス、プロ作家……などは、尊敬と憧憬と羨望の対象となった。 しかし、そういう時代になっても、野球についていえばプロとアマの交流試合が復活したわけではなかった。それだけでなく、昭和二十九年以降は、一旦プロ野球のユニフォームを着た男は、監督やコーチなどの指導役は別として社会人野球の選手としては二度と活躍できないことになった。 このあたりの時代の話になると、三人の記憶は共通している。そしてその後の変化は潟田だけが知らない。だから潟田は、プロ野球チームと大学野球チームが試合できるようになった経緯を知りたがった。志村は潟田に言った。 「それも社会全体の動きと関係があるから、長野でゆっくり話すとしよう。それよりも、終戦後何年かは、プロとアマチュアも交流試合をやってた。見たことはないか」 「いや、ないな」 「トリさんは? あ、きみはまだ赤ん坊のころか。じゃあ、ぼくが見た話をしよう」 こう言って志村は、昔のほんとうのオープン戦の話を始めた。 「ぼくはね、おやじの仕事の関係で小学校四年と五年を大分市で過したんだ。そのころ兄貴に連れられてね、隣の別府に野球を見に行った。そのときのカードは、読売ジャイアンツと別府星野組というものだった」 若い読者のために説明しておくと、読売とは東京に現存する新聞社の名前であり、星野組とは別府の土建会社の名前である。前にヤクルトや阪神という名前について述べたとおり、この場合も読売という新聞名が付いてはいるものの、読売ジャイアンツとは決して新聞記者の同好クラブではなく、れっきとしたプロ野球チームだったのだ。しかし、今の東京ジャイアンツとは直接の関係はないことを断っておく。 さて、志村の話に戻ろう。この試合で志村少年の眼に焼きついたものはいくつかあった。まず、当時のジャイアンツのストッキングの派手な色である。一体何色使われていただろうか。赤、紺、黄、茶、それに緑もあっただろうか。そういう色を何本も並べた横縞が、プロの選手の太い足をぐるぐる巻きにしていて、志村少年は、自分の大切な宝物であるコマの縞模様を思い出していた。そもそもこの時代には、ストッキングはおろか日本中の街や人びとの衣類はおしなべてすすけていて、こんなに多彩であざやかな色は珍しかったのである。それだけでも志村少年は、(さすがにプロだなあ)と感心した。 次に志村の眼に焼き付いたのは、ジャイアンツの川上のホームランだった。この試合、ジャイアンツは中尾、星野組は荒巻というサウスポー同士の投げ合いとなった。まえに、志村が厨川に話して聞かせた、その荒巻である。中尾がかなり四球を出していたのに対し、荒巻はプロのバッターを相手にバッタバッタと三振を取っていた。胸のすくような快速球である。これだけだといかにも星野組が勝ったみたいだが、そこはさすがにプロ、終わってみれば大差で星野組を降していた。そしてその大差の因が川上のホームランだったというのが志村の印象である。快速球で名の通っている荒巻が、プロを代表する大打者に対してここは逆説的に行こうとしたのか、珍しくスローボールを投げた。スローボールというものは、バッターは釣られまいとして見送るものだと思っていた志村少年は、川上がその球をはっしと叩いたのに驚き、そしてその打球が、ピッチャーからキャッチャーに届くのと同じくらいの速さでライトスタンドに消えてしまったのを見て、さらに驚いてしまった。そのホームランが満塁かスリーランかだったために荒巻の致命傷になったのだった。 志村が後年プロ野球に進むようになったのは、この、小学生のときに目撃した川上のホームランが、志村の脳裏と全身に弾道を描いて飛び続けていたからかも知れない。 それにしても、天下のジャイアンツを迎え撃つ土建屋チームに対する地元の応援はすごかった。一つには地元に荒巻というノンプロ随一の名投手がいたせいもある。しかし、応援がすごいといっても、プロ同士のときの応援のように何が何でも勝ってくれという意思表示ではなかった。ジャイアンツを相手に少しでも善戦してほしいといった、いじらしい心理に基づく応援だった。それが、志村が別府球場で感じた雰囲気である。その上で、(しかし、ウチのピッチャーは荒巻だから、もしかすると……)というひそやかな期待や(一体、星野組のバッターはプロのピッチャーから何本ヒットを打てるだろうか)とか、(いくらわが荒巻でも、プロのバッターから三振を取れるだろうか)などの思いが、志村を含めた周囲のファンに渦巻いていた。この種の興味や願望は、プロ同士やアマチュア同士の試合では生まれにくいものである。実に、ういういしい緊張感と怖れに満ちたものであった。 プロ同士の場合でもわずかに志村の記憶に残るのは、一九四九年秋、戦後初めてアメリカからやってきたサンフランシスコ・シールズという3A級のプロ・チームと、日本のプロ・チームとの試合を、ラジオにしがみついて聴いていたときの心理である。これだけは前者と共通の思いだった。加えて志村少年の頭には「つい四年前まで戦争をやってた相手が、今度は野球の試合に来た」といった緊張感もあった。 とにかく、プロとアマチュアの顔合わせは、別のおもしろさをファンに与えてくれる。野球にかぎらず、テニスでもゴルフでもサッカーでも相撲でも。そしてスポーツにかぎらず、碁でも将棋でも、絵でも音楽でも小説でも……いや、このあたりになると勝負がすっきりつく世界ではなくなってくる。問題をスポーツに戻そう。 「それにしても」 と、潟田は志村に訊ねた。 「そのころでも、プロ野球と学生野球のオープン・ゲームはあったのかねえ」 「うむ、どうだっただろう。おれも寡聞にして知らないな」 と志村は答えた。そして続けた。 「とにかく、今こうやってプロと学生がオープン戦を組めるのも、ここ四、五年の基礎作業の努力の結果だよ。長野で詳しく話すが、プロ野球チームが名実ともに各地方の地元クラブとして根付いた。そして大学や高校の逸材は原則として地元チームに入るようになった。昔のように、遠くの都会のチームから金と甘言で誘おうと思ってもできなくなった。まあ、こういう状態になったからこそのことなんだな」 志村と鳥村が広島に帰らなければならない時刻になった。志村と潟田は、四日後の長野での再会を約して椅子から立ち上がった。そして志村は鳥村にひそかに、「黙っていてくれよ」という合図を送ってから潟田に言った。 「この次は、雪が降って凍えるようなグラウンドで、うちの元気な選手たちがどんなゲームをするか。まあ、楽しみにしててくれ」 翌三月三日の本拠地でのモモタローズ戦でも、ドリンカーズは六対二で快勝した。帆足航平と永田利則の一・二番コンビの活躍は特に目立ち、帆足は四回の打席のうち三回ヒットで出塁し、盗塁二、得点三。永田は二安打で、帆足をホームに還す打点が二、みずからの得点も一。結局、六点のうち四点はこの二人がホームを踏んだ得点になった。 守備で目立ったのはセカンドの馬見安穂、通称アンポ。彼の美技は再三ピンチを救い、ピッチャーを勇気づけた。ショート・永田とのキーストン・コンビも息が合って見事に連動した。(これをいじくろうというんだからなあ)と心配顔の鳥村ヘッド・コーチを伴って、志村は馬見と帆足を監督室に呼んだ。 志村の構想を、はじめのうち二人はけげんな顔で聞いていた。しかし話が進むにつれて二人の眼はだんだん輝き始め、乗気になってきた様子だった。鳥村はほっとした。彼が一番心配していたのは馬見の反応だった。四年間、ドリンカーズのセカンド・ベースをだれにも譲っていないというプライド、そして現在でも球界屈指のセカンドとして、オールスターにもダイヤモンド・グラブにも再三選ばれているプライドを傷つけることはないか。ところが、志村の話には、帆足よりもまず馬見のほうが積極的な興味を示したようだった。やはり、名二塁手には名二塁手の意図がよく読み取れるのだろうか。 「前半とか後半で交替するのもいいですが、三回ずつとか二回ずつとか、あるいはイニングごとに代わる手もありますね」 と馬見は言った。 「それじゃきみたちが疲れちまうよ。いや、わしも疲れるか。その度にアンパイヤーのところに足を運んで交替を告げにゃいかんしな」 志村はそう言いながら、机の引出しの鍵を開けて奥のほうをごそごそやっていたが、やがて二つの紙袋を取り出して机の上に置いた。 「開けてみたまえ。わしからのプレゼントだ」 紙袋からはグラブが一個ずつ出てきた。 「アンポの外野用のはわりあい楽にできたが、コーヘーのは職人さんに苦労をかけたよ。何しろ二塁手用で左利きのためのグラブなんて前代未聞だって驚いてた。どうかね、合いそうかね」 二人は、それぞれ新しいグラブに手を入れてポンポン叩いてみた。 「ぴったりです。よく私の手の形や好みがおわかりでしたね」 と馬見が言った。 「コーヘーはどうだ」 「ええ、指に実によくフィットしてます。しかしセカンド用って、こんなに小さいんですか。ちょっと心配になってきました」 「きみたちの手や指のサイズはわかっていたんだがね、それ以外はわしの勘でデザインしたんだ」 アンポ、コーヘー、それにトリさんの三人は、あらためて志村の顔をのぞいた。(監督はそんなに前からこの構想を考え、こんな用意までしていたのか) 「あすとあさってはゲームがないから、アンポはコーヘーにしっかり伝授してやってくれ。それにトシ坊も入れてな。特に6・4・3のダブルプレーだな。頼むよ、4・8コンビ」 志村は話し終えてひと安心した。(この二十七歳と二十二歳のコンビはうまが合っている。そして二人ともおれの言うことについて、のみこみが早い。これ以上はあまり口出しせず、二人に任せてみよう) 二人が監督室から出て行くと、志村は鳥村に言った。 「トリさん、コーチたちを集めてくれ。いよいよ三日後には、直球ストライクしか投げないピッチャーと、ギッチョのセカンドが登場する草野球か。トリさんも苦労が多いなあ」 「どうやらすっかり監督のペースに乗せられてしまいましたよ。何だか私も楽しみになってきたなあ。しかし監督、まだ承服してしまったわけじゃありませんぞ」 鳥村は苦笑いしながら立ち上がった。 [#改ページ] 異相の怪童よ、輩出せよ 透き通った紅茶茶碗を伏せたような建物が、潟田六郎太の歩く行手に現われた。空は曇っていて小雪がたえまなく舞い落ちている。ときどき雲の合間から薄日が射すと、その半球体の表面が、さまざまな色を束ねた淡い光を発する。半球体の背後には信州の山なみが連なり、雪で真っ白な山肌に、輪郭のくっきりした稜線が黒く浮き出ている。 潟田はしばらく立ち止まって、その光景に見とれていたが、やがてまた歩を進めて半球体に近づいて行った。その直径は優に百五十メートルはあろう。「アルプス・スタジアム」の文字がはっきり見えてきた。 「おれが予期していたのは、この種の変化だったのだ」 潟田は、大濠公園のときと同じように、台詞を暗誦しているような調子の独り言をつぶやいた。 「予期、覚悟、ひそかな怖れ、そしてある種の期待……」 「しかし、その予測は見事にはずれた。九州でも中国でも、ここにくる途中でも、おれが見たものは、八年前よりもっと昔にさかのぼった、おれがチビだったころの牧歌的な風物だ」 本当に独り言の好きな男だ。しかも、ふと口をついて出るたぐいの独り言ではなく、例によって文章を口に出して構成しているようなあんばいである。マヤとかいうところでの八年間の生活で、妙な孤独癖が身についてしまったのだろうか。それとも、もともと己れの内面の思考を、いちいち声に出さなければ先へ進めないたちなのか。八年前までの新聞記者時代にも、こういう独り言をつぶやきながら記事を書いていたのかも知れない。 アルプス・スタジアムがまぢかに迫るにつれて、場内のどよめきが潟田にも伝わってきた。それとともに潟田の病的な独り言も沈静し、潟田は、そのどよめきに吸い寄せられるように小走りに駆け始めた。そして入場券の売場にたどり着くと、 「ネット裏があったら一枚ください」 と言った。ガラスを隔てた向こうには潟田よりやや年輩と見える係員がいて、入場券をさばく手を一旦止め、 「お客さん、懐しいことをおっしゃいますなあ」 と言った。 「え?」 「いや、ありますよ。どうぞ」 潟田はふしぎそうな顔をして券を受け取り、階段を登ってスタンドに出た。途端に、春のような暖かい空気が彼を包んだ。彼はネット裏の自分の席を探した。ところが、ホームベースのうしろにはネットが見当たらない。試合はすでに始まっていた。潟田が席を探し終わらないうちに、バッターの打った球がファウルとなってホームベースの真うしろに飛んできた。潟田はとっさに手で頭をおおい身をよけた。しかし球は、何か見えないものにさえぎられて「コン」という音を立て、グラウンドに落ちた。とっさに身をよけたのは潟田だけではないようだった。同じような仕草をした人が何人もいた。その一人で、潟田の隣にいた男が言った。 「やっぱり、まだ慣れませんよねえ。完全透明耐撃物質というのは」 「はあ」 と、潟田は思わず相槌を打った。男は潟田をあらためて眺めて訊ねてきた。 「あんたも、もしかするとあの戦争のころはこどもでしたかな」 「ええ、終戦のときに八つでした」 「そうですか。あのころ、ゼロ戦や敵機の防弾ガラスのかけらがよく落ちてたでしょ。あれをこすると、チョコレートみたいないい匂いがしましたねえ。覚えておられますか」 「ええ」 「しかし、あれはやっぱり完全透明じゃなかったですな。半透明」 「そうですね。細かい傷がいくつもついていて」 「そうそう。あれに比べると、やっぱりこの完全透明というのは、思わず身をよけますねえ」 男のことばを聞きながら、潟田はあらためてバック・ネット、いや、バック・ガラスを凝視した。 一九八八年三月六日、開閉ドーム付温度調節全天候型・アルプス・スタジアムでの、長野アルプス対広島ドリンカーズのオープン・ゲームは、すでに七回裏まで進んでいた。こういう設備がコミッショナーから認められているのは、前にも述べたとおり、今のところ札幌、仙台、そしてこの長野の三球場だけである。潟田は自分の席をみつけて腰を降ろすと、ドームを見上げた。舞い落ちてくる小雪がドームに当たってはスッと消える。潟田は、得意の独り言もつぶやかずに、しばらくその様子を眺めている。そして、 「アルプスのラッキーセブンです。アルプス・ファンのみなさん、田舎者でドジで、草野球にも及ばない広島ドリンカーズの相手をしてあげている、わが長野アルプスのナインにご声援をお送りください」 という、澄み切った女声アナウンスの、すさまじい内容でわれに帰ったようだ。そしてやっと得意の独り言が出た。 「それにしても、もう七回か。速いなあ」 ゲームは、長野・広瀬、広島・厨川の両左腕の投げ合いで、二対二のまま少しも息の抜けない展開となり、七回裏のアルプスの攻撃に入ろうとしている。 ここまで、ドリンカーズの厨川健、原伸次のバッテリーは、かねてからの予定どおり全直球ストライク主義で通してきた。六回まで、見送られてボールと判定された球は八。原が球を受ける感じでは、厨川のスウィフト・ボールは今年に入って最高のできだ。左のオーバーハンドから投げおろす球にいつもより角度があり、しかもそれが打者の手元にくると今度は低目からグッとホップする。プレートの両端から左右の打者の胸元や|へそ《ヽヽ》元に喰い込むボールは、まさにクロスファイヤである。 ホップする快速球が去年までも厨川の決め球であることは、アルプスの面々も充分心得ていた。しかし今日は、決め球どころか徹頭徹尾これで向かってくるではないか。二回を終わったところで、厨川の全直球ストライク主義を確認したアルプスの監督は、 「あいつらの作戦は、おれたちをカッカさせるところにあるようだ。打席が一巡したらこっちのものだ。絶好球でないかぎり初球は待て。そして二球目に的を絞れ」 そしてアルプスの二点は、監督の見通しどおり四回の裏に入った。一塁の赤月のエラーで出た走者を一人置いて、五番の中野が厨川の二球目、胸元にホップする球を高だかとレフトに打ち上げた。球は、下から見上げるとドームすれすれと見えるほど舞い上がり、長い滞空のあと落ちてきて、左翼ポールの中ほどにコトリと当たるホームランとなった。厨川にとっては痛打されたという感じのしないホームランである。ドームは閉まっているから風が運んだホームランでもない。捕手の原も、妙なホームランをやられたという感じを持った。どうも今までのと手応えがちがう。ドーム・ホームランとでもいう新手の現象だろうか。守りを終えてベンチに戻っても首をかしげて話し合っているバッテリーに、志村は大きな声で言った。 「考え過ぎはよせ。わしは、中野がバットを出す瞬間に目をつむるのをはっきり見た。つまりあれはね、まぐれホームランというのが描く軌道なんだよ。わしも昔、同じようなのを打った覚えがある」 この自慢とも謙遜ともつかぬ志村のことばにベンチが湧いて、バッテリーのわりきれぬ気分も吹き飛んだようだった。 ドリンカーズの二点は初回に挙げていた。今日は航平と入れ替わって永田がトップ。ピッチャーの足元を一気に抜けてセンターに転がるヒットで出た。そして一塁ベースから、バッターボックスに入ろうとする航平を見た。コーチからも航平からもサインはない。永田は、(あいつはストライクは必ず打つ。そして、あいつがフライを打ち上げる確率はきわめて低い。よし、一球目に走ろう)と判断した。永田は走った。航平は打った。右中間に球が伸びる。フェンスに当たったクッション・ボールを取った強肩のセンターが、永田と航平の両者の俊足を心得ていて、ほんの一瞬迷ったあとで、ここは先の走者を刺そうとバックホームした球をかいくぐって、スタートのよかった永田は右足でホームベースをかすめてホームイン。その間、バックホームの球がカットされないとみた航平は三塁に滑り込む。普通であれば無得点で走者二・三塁のケースだ。 三番赤月は、航平の早打ちにつられたのか、初球の内角高目、見送ればボールの球をライトの前方に打ち上げた。浅すぎて、普通の走者ならホームには突っ込めない。ライトは、定位置とセカンドの中間まで球を追って前進してきた。そして心持ち落下点のうしろで待ち構え、あらためて二、三歩前進しながら球を捕るや、その勢いですばらしいバックホームをした。ライトの捕球を左眼でとらえた航平は、猟弾をよけて素早く地を這うリスのような姿でホームをめざす。キャッチャーの固いブロック。しかし、ライトからの送球をとる一瞬に、キャッチャーの左膝のうしろがほんの少し前に折れた。その折れてできた空間を航平の左足が蹴り、ホームプレートを「シャッ!」とかすめる音がした。これで二点目となった。 さて七回の裏、厨川の全直球ストライクによる挑戦にカッカするなとナインをいましめていたアルプスの監督は、中野のホームラン以外は思うように行かないので、今度は自分がいらいらし始め、ベンチの前でナインに円陣を組ませて活を入れかけた。そのとき、女性アナウンサーの澄み切った声がスピーカーから流れてきた。 「ドリンカーズの選手の交替をお知らせします。セカンドの馬見がセンターヘ、センターの帆足がセカンドヘ……」 (何だ、あれは?)とアルプスの面々はいぶかった。(帆足といえば投げるのも左だったはずだが)。とうとう頭にきたアルプスの監督は円陣の中でどなった。 「気ちがい呑んべえが相手じゃ、やりきれんが、こうなったらあのギッチョの急造セカンドを襲ってやれ」 四回にホームランを打った五番中野の打球は、その急造セカンドを襲うことにはならなかったが、航平の頭上はるかをライナーで抜いて右中間の二塁打となった。まさか今度も目をつむって打ったのではなかろうが、どうもこの男、厨川の速球に強い。 六番は、セカンドを狙おうとする気持が負担になったのか、それを読んだバッテリーの作戦勝ちか、内角に球を集められて最後は見逃しの三振。しかし、厨川は次のバッターに珍しく四球を与えてしまった。一死、ランナー一・二塁、この試合最大のピンチである。これでも厨川は直球ストライク一本槍で行くのか。 八番バッターが右打席で構える。厨川はど真ん中の直球を投げた。ストライク。次はやや外角低目のストライク・コース、バッターは素直にバットを出した。バットは真芯で球を叩き、打球は鋭いゴロで厨川の足元を抜き、セカンドベースの脇をかすめてセンターヘ。スタートのよかった二塁ランナー中野は、全力で三塁を廻ってホームヘ。アルプスにとって心すべきは、初めて見るセンター馬見のバックホームのみ。しかし、馬見の肩がどんなによくても、これならホームインだ。 だれが見てもそういう場面が出現するはずだった。両チームのベンチの眼が、そしてスタンドの眼がひとしくセンター馬見に注がれた。ところが、前進する馬見の足元にボールは行かなかった。セカンドベースのすぐうしろで横っ飛びに飛びついたセカンド航平の右手のグラブに、球が入ってしまっていたのである。セカンドベースに入る永田に、航平は倒れたままバックトス、永田から一塁に転送されてダブルプレー、チェンジとなった。つまり、普通であれば一点が入って、なお一死ランナー一・三塁になるところが、無得点でチェンジになってしまったのである。 ベンチに向かって引き揚げながら、さすがの馬見もあっけにとられて航平のうしろから言った。 「いやあ、まいったまいった。おれも肩の強いところを見せたかったのに」 航平はそれに答えて言った。 「こんないいことばっかりならいいんですけどね。今の球が逆に一・二塁間なら、たちまち弱点暴露ですよ」 八回の裏にその弱点が出た。一死無走者だったが、航平は一・二塁間の強いゴロに追いつけず、ヒットにしてしまった。身を投げ出して伸ばした逆シングルのグラブが、ほんの少しで球に届かなかった。厨川がちょっといやな顔をした。 アルプスは相変わらず航平の右を狙う。しかし次の打者は厨川の直球を思わず引っ張ってショートゴロ。永田、航平、赤月と渡ってダブルプレーとなった。しかし、この6・4・3のうち、4の航平のプレーはひやひやさせた。右利きとちがい、セカンドベース上でショートからの球を取っても、ノーステップでは一塁に放れない。もちろんずいぶん練習はしたはずだが、軸足と体を一塁方向に向けて右足を踏み出しながら送球するという一体の動作に、一瞬のようでも微妙な時間がかかり、それを肩のよさでカバーしてきわどいところで併殺にこぎつけた。航平はベンチに小走りに戻りながら、胸を撫でおろすような思いを越えて、左手で本当に胸のあたりを撫でおろしていた。同点で回もつまった八回裏、ここでゲッツーできずに走者が残れば、アルプスの打順はクリーンナップに廻り、厨川は「航平のやつめ」という思いが残って調子を崩していたかも知れない。 そして、ドリンカーズのベンチで航平と同じように胸を撫でおろしていたのは、ヘッド・コーチの鳥村玄太だった。彼はほっとしたあとで隣の志村監督の様子をうかがった。志村はにこにこと上機嫌で、クロス・プレーのスリルを楽しんでいるようだった。 ドリンカーズは、最終回に赤月が広瀬からライトスタンドにホームランを打ち込み、厨川がその裏も直球一本で押し切り、三対二で勝利を収めた。 ネット裏、ではない、耐撃ガラス裏の記者席では、一人の記者がメモ用紙に新聞見出しの案を書いている。 “呑んべえ、草野球でアルプスを踏破” さて、負けはしたが、厨川と投げ合って完投したアルプスの左腕・広瀬明彦と、厨川からホームランとツーベースを奪った中野晴彦について触れておこう。 長野アルプスは、長野、山梨、富山、新潟と、いわゆる甲信越地方出身の選手を主体にしており、広瀬も中野も新潟出身である。広瀬は新潟東工を出てノンプロにいたあと、一九八一年に二十二歳で中日ドラゴンズというチームに入り、二年後の全国球団再編成でアルプスに移った。今、二十九歳の円熟期だ。中野は三十一歳になる。新発田農高を出て東京の日本ハム・ファイターズというチームに入り、そこのファームに八年もいていろんなポジションをこなしていたが、大器晩成といわれながら一軍への出番に恵まれず、再編成でアルプスヘ移ったときは二十六歳だった。ところがそれから頭角を現わし、現在ではリーグ屈指の大器晩成型スラッガーになっている。 ドリンカーズのメンバーでは、再編成以前にプロ野球に入っていた例として、すでに原伸次と永田利則のことが出てきた。この広島や長野の例だけでなく、全国球団再編成の一九八三年にはすでに既存の球団に入ってファームで汗を流していた、はたちそこそこの若者たちの多くが、新生の地元チームで新天地を与えられて第一線のポジションを獲得し、五年後の今日では十八球団の中心選手となって活躍しているのである。二リーグ十二球団が三リーグ十八球団に移行するにあたって、初年度から全国のプロ野球ファンが湧きに湧いたのは、十八球団が札幌から熊本まで一都市一チームという、名実ともにそれぞれの地元チームになったことが最大の理由だが、それにも劣らぬ要因は、これら、ファームで地道に自己を鍛えていた選手たちの、ほとばしるような意欲と、その野球水準の意外な高さがファンを強く惹きつけたことだったのだ。その移行前後の詳しい経緯はもう少しあとで出てくるはずだ。 試合が終わると、それを待っていたように、浅い春の陽が暮れ始め、アルプス・スタジアムのドームの光も薄ぼんやりとなってきた。薄明に向かう光の中を、相変わらず小雪が舞い落ちてきてはドームに当たってスッと消える。潟田は、しばらくそれを眺め続けていた。 「今日の所要時間は?」 「ええと、開始が二時一分、ゲームセットが三時四十七分、一時間と四十六分ですね」 ドリンカーズのスコアラーが志村に答えた。ホテル信濃のコーヒー・ラウンジ、夕食を終えたドリンカーズの面々が三々五々と席を占めてくつろいでいる。オープン試合とはいえ接戦で勝ったあとなので、どの顔も明るく話題もはずんでいるようだ。おまけに明日は試合も練習もなく、それぞれ自由に広島に帰っていいことになっている。 「そうか。もう少し短いと思ったが、クリもだいぶファウルでねばられたから、まあそんなものかな」 一般にプロ野球ゲームの所要時間は、三、四年前を境に短くなる傾向を示し、今では二時間前後が普通になったから、今日の試合は特に短いわけでもない。ひと昔前、一九八〇年前後には、延長戦でなくても三時間を越えるゲームがざらにあった。といっても、両チーム相譲らぬ壮絶な打撃戦で十二対九などというようなものではない。今日のように三対二でも長い時間がかかった。バッターとバッテリーのかけひき、多彩な球種を配合するためのバッテリーの一球ごとの長いサイン、注意、打ち合わせ、小刻みな投手交替等々、これらを要するに、肝心のボールがだれかの手の中にいたずらに止まったまま費される時間が長すぎたのだ。 ファンは、白球がすばらしいスピードで投げられたり、またすばらしいスピードで打ち返されたりする姿をおもに見にくる。もちろん、その白球のドラマに備えて、その白球が息をひそめてじっとしている微妙な「|間《ま》」も、ファンにとってはこたえられない魅力あるひとときではある。しかしそれがあまりに|間のび《ヽヽヽ》しては台なしで、うんざりしてくる。 そのころ、新聞にこういう投書が載ったことがある。 われわれがプロ野球のスタジアムに足を運ぶのは、国会の議場のかけひきのような姿を見るためではない。むしろそういう世界を忘れるために行くのだ。それなのに何だ。グラウンドやベンチで、あっちでヒソヒソ、こっちでヒソヒソ。やめてくれ。それくらいならいっそ両チーム入り乱れての乱闘シーンのほうがよっぽどいい。いや、これも国会そっくりだからよくないか。とにかくボールをどんどん投げ、そしてどんどん打ってくれ。 こういうファンの声が大きくなったのと、前に書いたように、北海道や東北の新チームの若い力の野球が複雑緻密な野球に勝ち始めたことによって、三、四年ほど前から試合時間が短くなってきたのだった。 「監督」 と、原捕手が聞く。 「わが広島市民球場にも、そろそろアルプス・スタジアムのような設備の許可は降りませんかねえ」 「まだ当分はだめだろうね。キャンプのできるところは近いし、気候はいいしね。それにわしは、来年あたり秋田とか富山なんかに新チームができるんじゃないかと見てる。そうなったらそっちが先さ」 「しかし、このままじゃ、設備に恵まれた北のほうがどんどん強くなりますよ」 「いいじゃないか。ドリンカーズには強敵が必要だ。去年も北の力に負けまいとして優勝したんじゃないか」 「昔とちがって、今度はこっちがハングリーになる番ですね」 「そのとおり。おまえ、なかなかいいこというじゃないか」 「ハングリーといっても、給料が安くてもいいという意味じゃありませんよ。監督、誤解しないでくださいよ」 周囲にさざ波のような笑い声がひろがった。志村も大笑いしながらポケットのタバコを探ろうとしたとき、コーヒー・ラウンジの入口に潟田の姿が現われた。 「やあ、遅かったな。まあ、きみのことだから、きっとどこかぶらぶらしてくるとは思ってたが。夕飯はすんだのか」 「うん、信州に来たからにはと思ってね、蕎麦を三枚平らげてきた。相変わらずうまかった。いや、相変わらずというより、八年前よりもっとずっと昔のように、本当の蕎麦の味だったよ」 「そうか。そういえば吹田さんも蕎麦が好きだったなあ」 と、志村は声を落として、だれに言うともなくつぶやいた。 「だれだ。そのスイタさんって」 「ああそうか。きみは吹田さんを知らないんだったなあ。今日、ぼくがきみに御進講申しあげる話の主役になるはずの人だ。五年前に亡くなった」 「ほう。早くその話を聞きたいな」 「それよりまず、今日の試合の感想を聞かせてくれよ」 志村は、潟田を自分の隣の椅子に掛けさせて、ラウンジに残っている五、六人の選手に紹介した。 潟田はまず言った。 「雪の中の試合を見にこいというのには、まんまと一杯喰わされたな。しかし、あのドームとかね、ネットの代わりの耐撃ガラスというのかな、ああいう設備にはたいして驚かなかった」 少し負け惜しみの感じがないでもない。 「驚いたのは試合運びの速いこと。申し訳ないがぼくも道草をしすぎてね、一時間近く遅れて行ったから、四回か五回あたりまで進んでいるかなと思ってスタンドに入った。スコアボードを見たら何と七回の裏じゃないか」 「ハハハ、だいぶ損をしたな。ま、うちの直球投手のせいもあるがね」 「それにも驚いたよ。こないだの大学との試合でも一度見てたけど、まさかプロ同士で直球一本で行くとはね。六回までもそうだったのか」 「ああ」 と志村は答えた。厨川はその席にはいなかった。原がにやりとした。潟田は、厨川のピッチングがそれでいて単調さを感じさせず、かえって小気味よいリズムを作り出していて連打を浴びなかったことを挙げ、 「あのころとはえらいちがいだ。胸がスッとした」 と言った。 「今だって今日のようなやり方はめったにないよ。初めての実験さ。こいつがやらしてみたいっていうからね」 と、志村は笑いながら原を指さした。 「じゃあ、左利きの二塁手も実験かい?」 「そう、あれも今日が初めてだ」 「しかし驚いたなあ。あの中心線を抜くヒット性の球をゲッツーに転じちゃったのには。ああ、あなたでしたね」 と、潟田は帆足航平の姿を認めて言った。そしてあらためて、 「いや、驚きました」 と言った。航平は照れながら口を開いた。 「私も最初、監督からセカンドやれっていわれたときは驚きましたよ」 「明日の新聞記事は覚悟しとかなきゃいかんな。潟田、きみが現役のスポーツ記者だったらどう書く?」 と、志村が潟田に聞いた。 「まず、ピッチャーとセカンドのことはうんと誉めて書く。次に監督をけなす。“草野球に帰るか、奇をてらう志村”」 「ハハハ、うむ、正解かも知れんな」 「おそらくきみは、決まりきった型を崩したいという欲望に駆られているんだろう。おもしろいよ、どんどんやってくれよ」 「おいおい、けなしたり、おだてたりだな」 それからしばらく、志村と潟田はみんなと歓談していたが、やがて志村は選手たちに言った。 「さて、わしは今から、このインテリに社会と歴史の講義をせにゃならんから失礼するよ」 そして二人は、薄暗いバーのほうに席を移した。 「きみは前は水割りじゃなかったか」 と、潟田が志村に聞いている。潟田はウイスキーの水割りのグラスを手にし、志村の前には|生《き》のウイスキーを入れた小さなグラスと、別に水を入れたグラスが置いてある。 「うん、最近はおれだけでなく、あまり水割りにはしなくなったようだな。やっぱり、まず、クッと強い喉ごしを味わい、それから水を送り込むのがいい。いうなれば、マイルド志向ではなくなってきたんだね。しかし結局同じか。胃袋に着くときには同じマイルドだものね」 そして志村は、ウイスキーと水を交互に喉に送り込み、 「さて、何から話すかなあ。どうもやっぱりおれには荷が重いよ。奥さんからあらまし聞いただろう」 と言った。 「いや、前にも言ったが、帰ってきて一日寝てて、半日は一人で散歩して、それからすぐ東京を発ったし、女房はちょうどタイプの仕事が混んでてね。まあ、顔を確かめ合ったくらいのものだ」 「妙な夫婦だな。八年ぶりだというのに。しかし奥さんはジャイアンツ協議会の話ぐらいはしただろ」 「え? あいつが野球のヤの字も知らないことは、きみだってよく知ってるじゃないか」 「え?」 と、今度は志村が驚いた顔をした。 「ははあ、どうやら何も知らないのはきみのほうらしい」 「何のことだ」 「いや、いいよ。順を追って話をして行けばわかるさ。ははあ、こいつはおもしろい」 志村が一人でおもしろがっている。 「しかし、きみの八年間のことも聞きたいなあ」 「志村、今日はおれが聞き役だという約束じゃないか。おれのほうは別に話すことなんかないよ。何のことはない、ただブランクを作ってきただけだ」 「おれだって、何のことはない、野球をやってきただけだ」 「だから博多でも言ったじゃないか。野球の変遷をたどることが、おれにとっての絶好のリハビリテーションだって」 どうもなかなか話は進みそうにない。ウイスキーが喉に消えて行く量だけが進んでいるようだ。 やがて志村は、妙に真顔になって言った。 「よしわかった。おれなりに約束を果たすよ。だがね、その前に一つだけ聞いておきたいことがある」 そして志村は、探るような眼つきで潟田の眼を見た。 「何だ」 「実はね、きみが日本から消えたころ、同じような消え方をした人が相当いたらしい」 「ほう」 「きみはどこにもぐり込んだのか知らんが、何でもインドや中国奥地に行った人が多いそうだ。しかもね、きみと同じように、七、八年ぶりで最近日本に帰ってきた人が多いという噂だ」 「ほう」 「さらに共通しているのはね、そういう人たちはみんな、かつて大学の助教授とか、一流のジャーナリストとか、大企業のエリート社員だった。つまり働き盛りのインテリばかりだったというんだ」 「へえ」 「今年になってから、いくつかの新聞や週刊誌が書いてたが、その数は五十人ともいい、五百人ともいい、五千人ともいう。つかまえどころがない」 「何だか怪しいニュースだな。おびただしい日本人が、しょっ中海外に出たり帰ったりしてるじゃないか。動機だってさまざまだし」 「いやそれがね、共通してるんだ」 「へえ、何だね?」 「それがインテリだから難しい。一番多いのが“アイデンティティの恢復を求めて”とかいうんだったな。もっとも、きみはそんなことは言ってなかったけどね」 「初耳だなあ」 「おれは思うんだけどね。世の中で頭脳の抜きん出た人たちが、同じ時代に同じような悩みを持ったり、同じような未来図を描いたりして、同じ風潮が生まれることは充分想像できる。しかし、おれにとってふしぎなのはね、どうして日本に帰ってくる時期まで示し合わせたように集中しているのかっていうことなんだ。おい、きみは何か知ってるんじゃないか?」 「何を」 「実はそういう俊才たちが、どこかに集まって何かやってたとか。日本ではできない秘密の長期研究、それも日本人だけではなく、世界中のインテリが集まった国際共同研究。いや、謀議。そしてそれが完成して、さりげなく故国に帰ってきた。一人ひとりが悩んでいるように見せかけて、何かをたくらみ、今度は一人ひとりが使命を帯びて、地球へのインヴェーダーとして帰ってきたんだ。そうだ。きみたちは秘密のスペース・シャトルを根拠地にして、木星にでもでかけたんじゃないか。どうだ、図星だろ」 「そういえば、二〇〇一年は近いな」 と、潟田は混ぜかえした。二人は九年ほど前に『二〇〇一年宇宙の旅』という映画をいっしょに見たことがある。潟田は苦笑いしながら言った。 「また、きみ一流の推理が始まったな。しかし、おれはまったく知らなかったなあ、出た時期と帰ってきた時期が似ていて、動機が似ていて、インテリ、まあこれはどうでもいいけど。そしてインドや中国ねえ。いや、おれが行ったところはそのいずれでもないけどね。ともかく、一人ひとりが独自の行動だと思っていて、ふたをあけてみると見事な統一行動というわけか。ああ、いやになっちゃうな。何のことはない、ワンパターンの滑稽千万な団体旅行だったってわけだ。がっくりきたよ」 「しかしだよ、もしきみが考えて実行してきたことに悔いがないんだったら、それでいいじゃないか。そればかりか、同じことを考えて実行した人がほかにも大勢いたんだとしたら、それはかえってそのことの正しさを立証してるんじゃないか。つまり、同憂の士が大勢いたとしても、そのためにきみの行動の価値が薄められることはないというのが理屈じゃないかな。どうもきみたちインテリは、自分がいいと思ったことは自分一人のものにしておかなければ値打ちが下がるとでも思う傾向があるみたいだ。まるで著作権を侵害されたみたいに」 「わかったよ、志村先生」 潟田は、こういう話題が続くのはもうたまらないと訴えるように苦笑し、こどもがおねだりする顔付きそっくりになって、 「野球、野球、おいきみ、早く野球の話に入ってくれよ」 と、うなるように言った。(実は筆者もほっとしている。これでどうやら、また野球の話に向かいそうだ) 志村は、ストレートのウイスキーを、少しずつ喉の奥に送り込みながら話し始めた。 「きみが消えたのは、たしか、うちが久し振りに二度目の優勝をした次の年だったな」 「そう、一九八〇年の二月だった。きみはヘッド・コーチをしてたな。優勝の翌年は難しいってぼやいていたっけ」 「そうだったな。ところがね、あの年も後半は独走でね、初めて連続優勝したんだよ。リーグ戦も日本シリーズもね」 「それは快挙だったな。おれは、二年目の江川がいる巨人だと思ってたけど。そういえばあのころは、おれの記憶でもいい選手が揃ってたよね。おれが消えた年だからよく覚えているよ。山本浩二、衣笠、水谷、三村、木下、ピッチャーでは江夏、池谷、福士といったところがベテランで、それに若手ではピッチャーが山根、北別府、大野、野手には高橋慶彦」 「よく覚えてるな。その若手とベテランの組み合わせが一九八〇年もうまく行ったんだ。ところで、今きみの挙げた選手が、今ではどういうチームにいるか、興味があるだろう」 「うん、教えてくれないか」 「まず山本、これは今でも広島で名バッティング・コーチだ」 「ああ、それはおれも見たよ」 「衣笠、これは京都エンペラーズ。四十一歳だが、まだ現役で連続出場記録を伸ばしている。水谷、熊本モッコスのコーチ。三村、うちのファームの監督だ。木下、浦和キッズ。江夏、大阪タイガースのコーチ。池谷、静岡パシフィック。それからだれだっけ?」 「福士」 「ああ、岡山モモタローズのコーチ。山根もモモタローズだ。北別府はモッコス。大野、これはうちだ。もう一人いたっけ」 「慶彦だ」 「あ、東京ジャイアンツ」 「やっと共通項がわかった。それぞれの故郷に帰ったんだな」 「そういうことだ」 「あのころのカープは、当時では珍しく野性味あふれるメンバーだったなあ」 「ハハハ、きみの持論の野性味野球を思い出すよ。さて、思いつくままに話すから、きみの頭の中で整理してくれよ」 「いいとも、これでも昔は整理部の記者をやったこともあるんだ」 それから、志村はポツリポツリ語り出し、潟田がときどき質問し、ことばを交わしながら話が進んだ。ではその話の中味を適宜整理しながら記して行こう。整理するといっても、二人が徹夜で話し込んだものだから、少し長くなる。話はまず、二人の記憶を呼びさますために、潟田が日本を去る前年あたりのことから始まった。 一九七九年、昭和五十四年、その後の年号でいえば戦後三十五年という年は、志村の印象では、自分のチームの優勝を除いてはさしたる特長もない年だった。潟田によれば、特長がないことが一つの特長であるような年だった。志村はひたすら野球をやってきた男だから、そんなに広い世界のことは知らないし、地球上にどういう風が吹いていたかも細かくは覚えていない。日本に起きた事象についても、それほど万遍なく注意を払っていたわけではない。そのことをわきまえた上でも、志村の印象はおぼろげである。それとも、野球の印象が強烈すぎたために、他の事象が志村の頭から消えてしまったのか。 一つだけ覚えているのは、この年の秋、広島カープがマジックナンバーを減らしていよいよ優勝というころ、どういうわけか衆議院が解散して総選挙があった。あれはどうして議会が解散になったのだったか、さっぱり意味がわからなかった、ということを志村は覚えているのである。そして、どうして今ごろ投票所に行かなければならないのかわからなかったので行かなかった人と、わからないながらもつい几帳面な習慣が出て行った人とが、およそ半々だった。 そのころ、広島市内を走る選挙カーからは、こういう絶叫が聞かれた。 「広島カープがんばれ、カープ優勝! ○○もがんばります。あと一息です」 余裕のある冗談とはほど遠く、なりふりかまわぬ精神状態に達した絶叫であった。 選挙の結果は、共産党と公明党が少し伸びたほかは、素人にはあまり変わりばえしないように見えた。ところが、自由民主党という保守系与党(現在の保守堅持党の中心)が、沈痛な面持ちで敗北を宣言した。さてそれでは革新系が|優勝《ヽヽ》したのかというと、それはそうでもなさそうだった。いずれもあまり冴えた感じではなかった。志村には、自由民主党の大げさな敗北宣言が、保守安定政治の危機を国民諸君に訴え、この次の選挙ではもっと自覚して投票してくださいよと言っているようにとれた。こういう場合の勝敗は解釈の問題であって、スポーツの幕切れのようには行かないという点で異質であり、志村の苦手とする世界である。 ただそれにもかかわらず、志村は、選挙カーから流れる絶叫と、野球場のスタンドから湧き起こる絶叫とは親近性を持っていると思うことがある。特に、応援するチームが負けているときの絶叫、絶叫の唱和、絶叫の唱和の連呼が、投票日まぢかの選挙カーの絶叫とそっくりになる。両方とも、発することばの内容にそれほどの意味はなく、声はうわずってかすれ、表現のパターンを柔軟自在に変える余裕はとてもない。 しかし、野球ファンのスタンドの絶叫は、それが画一的で統制されすぎているきらいはあるにせよ、所詮はスポーツでの応援であり、そして選手という他人への応援であるから、まだしも正常である。これに対して選挙カーの絶叫は、自分が自分に対して応援する声を、スピーカーで増幅して他人に聞かせるのである。「がんばります。あと一息です」、これは、(がんばろう。あと一息だ)という、本来は己れ一人の胸の奥に静かに秘めておくべきことばの語尾だけが、他人向けに変わっているのだ。この他人向けの決意表明も、知人に静かに洩らすことばとしては意味もある。しかし見ず知らずの大勢の人たちに向かって「がんばります。あと一息です」と絶叫しても、いや、絶叫ではなくかりにささやいたとしても、見ず知らずの人にとっては何ともしらじらしく無意味である。(勝手にがんばればいいだろう)と思うだけである。「がんばります」「がんばっております」(ああ、そうかい)、この関係はやめたほうがいいと、志村は聞く度に思ってきた。 志村がスタンドのファンの声で好きなのは、統制されて唱和する声ではなく、湧き起こるどよめきである。ファインプレー、エラー、ホームラン、三振、その度に自然発生的に起こるどよめきは、一人ひとりの個別な感懐が自由に発露されながら、全体として一つの厚みがあってしかも柔らかい声の束になる。志村はその束の中から、喜びと落胆の響きを聞き分けるのが好きだ。「やったあ!」と「やられたあ」、「チャンス!」と「ピンチ」、そういうことばが聞こえはしないが、どよめきが人の心を乗せて伝わってくる。 もう一つ志村が好きなのは、一人でやる気の利いた野次である。だいぶ昔に聞いた野次で志村の気に入ったのがある。 守備側のピンチで、野手が連繋プレーの打ち合わせのためにピッチャー・プレートのまわりに集まった。そのとき、 「めだかさん、めだかさん、おおぜいよってなんのそうだん」 という声がスタンドから飛んだ。やがて野手たちが打ち合わせを終えて、一斉に各ポジションに散ろうとした。すかさず、 「いちどにぱっとちっていった」 昔の小学一年の国語の教科書の一節である。志村もおぼろげに覚えている。野次った声の主の姿は見えなかったが、多分五十前後の人だったろう。野手たちの動きをとらえて実にタイミングよくやった。「いちどにぱっとちっていった」で、笑いと拍手が起こった。試合中の相談ごとをちょっぴり皮肉りながら、相手にもあまりいやな感じを与えない、何とも牧歌的な野次だった。 さて、選挙の話に戻る。当時、あるとき志村は潟田に言った。 「近頃の選挙のポスターはどの党も同じに見えて、おれなんかには区別がつかんよ」 「まったくだ。第一、政党名からしてまぎらわしい」 つまり当時は、今のように「保守堅持党」とか「近未来革命党」とかいうはっきりした名称を持たず、「自由民主」「民主社会」「新自由」「公明」「社会市民」などと、まるで中学の公民の教科書の表紙をずらりと並べたように、いったいどれが何なのかさっぱり見分けがつかなかった。ポスターの図柄やスローガンは、志村の感想どおりいずれも似たり寄ったりで、まるで生命保険会社のブランド・イメージの競作の観があった。 ことばはやたらと氾濫していた。しかし、ことばが実体を伴うことは、特に政治といわれている世界では少なかった。実体がないことばだけが、ふらふらと一人歩きしていた。そのころ志村が「実体がない」と感じていたことばには、政党名のほかにたとえば次のようなものがあった。 田園都市構想 省エネルギー 地方の時代 ゆとりある教育 その他まだまだ、空疎で実体のない標語が、政治家や文筆家によって世に出たと思うが、志村は日記をつけていないし、ひたすら野球稼業を続けてきたので、今となってはこういう標語もかすみの彼方にぼやけたようになって頭の隅に残っているのだ。しかし、お題目だけで一向に行動に現われないような政治の世界に先立って、プロ野球が「地方の時代」の実現に向けて動き出したのは、この年からわずか三年後のことなのであった。 さて、そういうぐあいに特長のない一九七九年も、こと野球に関してはきわ立った特長を生んだ年だった。この年、セントラル・リーグでは広島カープが四年ぶり二度目の優勝を果たしたのに対し、パシフィック・リーグでは近鉄バファローズが初めてペナントを手中にした。そしてこの両チームによっておこなわれた日本シリーズは、三勝三敗のあと大阪でのファイナル・ゲームまでもつれ込み、そしてそのゲームも雨中の大熱戦の末、四対三とリードされた近鉄が九回の裏無死満塁で、犠打なら同点、ヒットなら逆転というところまでもつれ込んだ。しかしその場面を、広島のリリーフ・エース江夏が踏んばって辛くも切り抜け、広島カープが初めて日本シリーズのペナントを獲得したのだった。そしてこの顔合わせは翌一九八〇年も続いたのである。 それが一体どういう特長を示しているのかというと、実はこの二チームは、共に一九五〇年の球団創設以来二十年以上も、それぞれのリーグのテールエンドか尻尾から二番目というあたりが定位置であるような、いくらがんばっても負けがこんでばかりいるチームだったのだ。だからプロ野球興行の面で「お荷物球団」などといわれていた。ところが、まず広島カープのほうが一九七五年に至って、前年までの三年連続最下位から一挙にリーグ優勝を果たした。そしてその年、近鉄バファローズも、前々年最下位、前年五位から一躍二位に浮上していた。お荷物球団といわれながら、いつのまにか地力を備え、総合力を貯えてきたのだった。 一九七九年はこの両チームのリーグ優勝が揃ったうえに、セントラル・リーグでは、長い間帝王の座を占めてきた読売ジャイアンツ、日本プロ野球界最古の歴史を誇り、ずば抜けた優勝回数と、ずば抜けた観客動員力を誇る名門が五位に転落したので、この年の野球界の印象はひときわあざやかだった。新しく若く飢えていた勢力と、老いて保守的だが安定していた勢力が、ギーと音立てて入れ替わったような感じだった。もっともジャイアンツは、その四年前の一九七五年には、七三年までの九年連続優勝の疲れが出たのか初のテールエンドを味わっていた。しかし翌年と翌々年にはふたたび首位に返り咲いていたのである。さすがともいえるが、七五年の最下位はすでに何かの予兆ともとれた。そしてすでに述べたように、一九七九年、自由民主党総裁が総選挙で沈痛な面持ちで敗北を自認したと同じ秋に、五位に転落したのである。「もしかすると、日本の政治も野球も大きく変わるのではないか」と早合点する人もいた。しかし、さすがに政治も野球も名門はたいしたものだ。おや、どうして政治と野球がいっしょになってしまったのか。ともかく野球についていうと、そのわずか二年後に、ジャイアンツは広島カープ以下を寄せつけぬ強さを示して、巨人ファンが久し振りに胸のすっきりするような独走優勝を果たしたのだった。しかしこの年の巨人のゲームぶりは、ガンガン打ってピシッと押さえて勝ち進むというよりは、とにかく何とか負けない試合を続けたというのが志村の印象であった。 政治のほうはどうだったか。それは推して知るべしである。こちらも、ずば抜けた優勝回数と、ずば抜けた投票動員力を誇る帝王的保守政党、自由民主党が、ガンガン打ってピシッと押さえるというよりは、「負けない試合」を続けていたのであった。ロッキードという飛行機が飛び込んできたり、監督のあわただしい首のすげ替えがあったりはしたが、ほかのチームの共喰い低迷もあって、とにかく「負けない試合」で独走していた。巨人も自由民主党も、若干のうしろめたさを残しながらである。あれれ、どうしてまた野球の話と政治の話がこんがらがってしまったのだろう。 さて、当時日新タイムズの記者だった潟田六郎太は、一九七九年の暮れから、わが国最大の総合大衆月刊誌『春夏秋冬』に、プロ野球を素材とするエッセーを連載し始めた。その内容が、志村と出会ったことを動機にし、志村との交友に影響を受けていることは明らかだった。その一部を抜萃しておこう。一回目は『顔の文化とプロ野球』と題されている。 私が広島カープに注目する理由はいくつかあるが、その一つは、京浜、京阪神および中部の三大経済圏から遠くに位置する人口百万以下の都市における、唯一の球団だということである。そして近年は東洋工業の傘下にはあるものの、創立以来官民挙げての応援による地元プロ野球クラブの気風は変わっていない。一般市民と地元政財界の、カープに寄せる心情は熱い。それはオーナーの姿勢にも反映する。例として、あの日本シリーズ最終戦、大阪でのゲーム終了直後のテレビでの、ある評論家の感想を引こう。 「わたくしね、広島球場で第五戦ですかね、それが終わって、もう明日からこの球場では試合がないっていうときに、オーナーがね、一時間近くグラウンドの石ころを拾ってた光景に接しましたねえ。こういうオーナーがいるから勝てると言っても過言じゃないと思いますよ」 さて、私がカープに注目するもう一つ、そして今日の主題は、選手たちの面構えである。代表格は水谷と衣笠。見よ、いい顔をしているではないか。眼は草原の野獣のようにらんらんと輝いてつねに獲物をうかがい、鼻孔あくまで開いて空気を闊達に吸い、唇の肉あくまで厚く、持物もさぞ大きいだろうと思わせる。これに江夏とか山本浩二といった、いくぶんはまとまってはいるがそれでも巨人の選手たちに比べるとずっと面白くてハングリーな顔が並び、集団として見ると、かつての黒沢明の映画『七人の侍』という図になる。そしてこういうひと癖もふた癖もある生臭い野人面の上に、一見何の癖もなさそうな古葉竹識という監督の顔が乗っかっているのだ。大人のくせに童顔といわれる顔がよくあるが、古葉の顔にはそう思いかけて「待てよ」と思い直させるものがある。なかなか簡単な仕立てではない。 さっき巨人を引き合いに出したので、この際もう少し書こう。柴田、高田、淡口、中畑、江川、思いつくままに挙げたが、どうもみんなまとまっていて、社会通念でいえばインテリの勤め人の顔である。眼は草原の野獣とはいかず、鼻孔あくまで開かず、唇の肉あくまで厚くなく、持物、いやこれは言及を避けるが、一口にいうとテレビのCM向きである。事実テレビのCMにはよく出る。(引用者注・一年後、これに原辰徳という、同じような傾向の顔をした新人が加わった)。巨人のフロントは少なからず|めんくい《ヽヽヽヽ》なのであろうか。どうもそうとばかりもいえないようだ。というのは、昨今のスポーツ・エリートの養成過程には、官僚、経済人のエリート養成の過程とよく似た傾向があり、それがこういう顔を造型していると思われるからである。そして巨人に入るのはスポーツ・エリートである。これについては、あとの号であらためて書こう。一球団のフロントの趣味とは関係なく、根は日本の文化の問題に至るほど深いのだ。 巨人の中で、「眼は草原の野獣のようにらんらんと輝いてつねに獲物をうかがい」といえるのは、王選手の眼ぐらいのものだ。昔は巨人にもいい面構えがいた。千葉、白石などは一流の野獣面をしていた。 赤いヘルメットが広島の連中にはよく似合う。「おおさ、いっちょう行こうか」という感じになる。かりに巨人の淡口や江川(以下略)がそれをかぶってみたらどうなるか。似合うまい。彼らの照れくさそうな顔が目に浮かぶ。「仕方がないからかぶってるんだよ」という感じで、監督の長島サン一人が「いいじゃない、これ。ウン、みんな似合う似合う。さあ、いっちょう行こう」とはしゃぐことになるはずだ。 「野球はツラでやるものかね」といわれそうである。もちろんツラでやるものではない。しかし、やることがツラに出るものではある。そして、やることと考えることとツラとは、長い間の習性で釣り合ってくるものである。 一口に言えば、広島カープの擡頭は、日本列島の西南地方の活力を背景にした、野性味野球の勝利だといえよう。中堅から新人に至る選手の出身地も圧倒的に西南地方が多く、こういう地方性のある基盤も今の日本のプロ野球では珍しい。 怪童と呼ばれる選手が出なくなって久しい。戦後の数少ない怪童の代表は、四国で少年時代を送って福岡の西鉄ライオンズで力を爆発させた中西太であろう。そして、かつてのアメリカ大リーグのホームラン王、ベーブ・ルースもそういわれたにちがいない。この二人のツラを見よ。はじめに水谷や衣笠について形容したいくつかの特長を、彼らはもっとダイナミックに備えているではないか。 潟田は連載第一回では、こうしてプロ野球選手の顔に始まって、政治家、実業家、学者、芸術家などの異相の主を例に出し、管理社会といわれている世の中の、のっぺらとした地肌からニキビのように吹き出ている活力だと礼讃した。 「あの第一回目は評判がよくなかったなあ」 潟田は眼を細めてそのころを思い出しているようだ。志村も、その文章に対するいくつかの批評を覚えている。 「うん、たしか、潟田六郎太は強くなった広島に便乗して、弱くなった巨人をいい気になっていじめてる、今にみろとか書いたのがあったな」 「もっとひどいのがあったよ。おれ自身のすさまじいツラをなぐさめるための異相礼讃だとかね」 もしかすると、潟田が八年間養った顔中の不精ひげを落とさないのは、そのせいなのだろうか。 「怪童で思い出した。きみがいなくなってからしばらくして、あれは一九八一年だったか、アメリカのロスアンジェルス・ドジャースにすごい坊やが現われたよ。左腕投手で、ええと、バレンズェラといったな。メキシコからやってきたんだ。スペインとインディアンの混血で、ずんぐりむっくり型。まあ日本でいえば中西タイプだな」 「実力はどうだった?」 「たしかデビューしたときが二十歳で、いきなり開幕八連勝したよ」 「ツラはどうだった?」 「いやあ、いい顔してたよ。眼がいい。そうだ、眼も鼻も口も、きみの書いた異相の範疇にぴったり合うよ」 「やっぱり、メキシコの寒村のハングリーで、大志を抱いてカリフォルニアに来たんだろうな」 「そのとおりだ。たしか十二人兄弟の末っ子だったかな」 二人はウイスキーのお代わりをし、喉を同時にゴクリと鳴らした。 さて、連載第二回には長い題がついた。『政治の空洞から吹き寄せる風が、社会をどう風化しているか。野球に見られるその影響』というものである。これは引用をやめて概略を記そう。前回のニキビ礼讃に続いて、ニキビが吹き出る地肌に話が移る。そして必要以上に厚化粧の社会という話になる。政治の地肌、ビジネスの地肌、学問、教育の地肌、芸術の地肌、万人の生活風潮の地肌は、一見高度に進歩した化粧術を施されて、つるりと美しい。しかし、そのコーティングの下の平穏に見える皮膚には、出口のない菌がうようよしていると書く。それをのっぺらぼうな平均化といい、カタログ化といい、保守中道の風景という。そして、その地肌を開墾してニキビを吹き出させよと説く。 第三回は、第二回と同じ題で『その二』となった。前回までの勇ましい語り口が影をひそめ、悲観的で厭世調を帯びる。地肌の開墾作業の至難さを嘆くのである。万人の生活風潮の地肌では、気づかぬうちに、あるいはみんなが気づきながら放置するうちに、なまあたたかい風による風化作用が救い難く進行しており、皮下組織はぼろぼろになり、自己再生力を失っている。それは、政治といわれる地帯に発生した空洞を通って吹き寄せる風のせいである。その風には言語というものが混じって送られてくる。もともと言語は、農作物のように柔らかく舌になじみ、人びとが分かち合って味わうものだったが、それがだんだん金属やプラスティックの工業製品のようになり、人びとが噛んでみても味がせず、食べずに眺めるものになってしまった。人びとは、政治方向から送られてくる画一的な言語に気を取られているうちに、どうやら別のものを喰わされているのではないかと疑い始めた。みんながその言語の実体に疑問を感じ、政治が悪い、政治はトリックだ、政治を点検しようといってそちらのほうに眼を向けたとき、実は日本に政治というものの実体がなくなっていた。権力は本質的にトリックを必要とする。しかし国民の眼があまりに権力のトリックに向けられては、権力は困るし、はずかしい。そこで最近、政治はそのトリックを野球に転位し、国民の眼を野球界のできごとに向けさせた。 ここまでが第三回である。実は第二回と第三回には、題名の末尾に『野球に見られるその影響』とあるその野球のことはほとんど出てでなかった。これが問題となった。通勤電車の中や暇で退屈なときに、肩のこらない野球のところだけを拾い読みしようと思って『春夏秋冬』を買った人たちから、春夏秋冬社に抗議の電話や投書が殺到した。「権力のトリックとかいって、潟田や春夏秋冬こそ詐欺師じゃないか」というのである「春夏秋冬社は、それは一連の主題の中の連載の一部だから仕方がないと弁明し、次回こそは全篇野球ということになるからぜひご購読くださいと宣伝した。筆者の潟田は、みんなはやっぱり野球のことしか読んでくれないといってがっかりした。そして六回続ける予定だったのを、四回目で野球に結びつけて打ち切ることにした。 「あの三回目あたりの調子を思い出すと、きみが日本を去りたくなった動機も何となくわかるような気がするなあ」 「その話は勘弁してくれよ。ところであの原稿は四回でチョンにしたから、たしか三月号が最後だった」 「うん、そしてその最終号の記事が一人の老人に行動を起こさせるきっかけになり、おれがその愛すべき老人と出会うきっかけになったのだからおもしろい」 「え? だれだ、老人って」 「吹田晨平コミッショナーさ」 「あ、さっき出た名前だな。待てよ、思い出したぞ。その人は環境庁長官をやったことのある、あの美術史家の吹田さんか」 「そう、さすがに元学芸部記者、思い出したな」 「白髪の上品な紳士だったね」 「そう、各界に信望の厚い人だった」 「会ったことはないが、おだやかな感じの人だったな」 「それがどうしてどうして。会ってみると一徹で負けず嫌い。獅子身中の虫ならぬ、獅子身中の獅子だった」 政治がそのトリックを野球に転位し、国民の眼を野球に向けさせようとした事件に移る前に、その前風景とでもいうものを眺めておこう。 一九八〇年の盛夏のある夜、オールスター・ゲームの主催管理と観戦のために大阪に来ていた、日本プロフェッショナル野球組織コミッショナー、吹田晨平は、ホテルのベッドに寝そべって、潟田六郎太の連載第四回、そして最終回の記事を読み始めた。 この最終回が載った月刊誌『春夏秋冬』は一九八〇年三月号となっているから、吹田はおよそ半年も前に出たものを読んでいるわけだ。彼はその連載物の存在を知らなかった。東京を発つとき、コミッショナー事務局の留守役の堀田に「何か暇つぶしの本か雑誌はないかね」と訊ねた。そのとき事務局には手頃なものがなかった。堀田は、それでも何かコミッショナーに持たせてやりたいと、自分の机の引出しを探しているうちに、『春夏秋冬』三月号が出てきた。そして「まだお読みでなかったら」と言って吹田の鞄の中に入れてくれたのである。 国民栄誉賞という、まるでナチス・ドイツの昔にでもあったような名称のごほうびが、現代の日本に突如として生まれ、それがこともあろうに私の大好きな王貞治というプロ野球選手に首相から与えられると聞いたとき、私の血は逆流した。冗談じゃない。あの王が茶番劇の主宰者から賞を渡され、握手などを強要されてたまるものか。王よ、ことわれ。きみが握るのはホームランを打つバットであって、茶番じじいの手ではない。生涯ホームランの数で、ベーブ・ルースやハンク・アーロンを抜いた王に、私は拍手を送る。そしてたくさんの大人やこどものファンが拍手を送っている。スポーツマンとしての王の実力、努力、態度のどれもすばらしい。しかし、それがどうしてだしぬけに「国民栄誉」になるのか。それは彼個人の心の中の誇りであり、大人やこどものファン一人ひとりのさわやかな喜びなのであって、それ以外ではない。 政治は、その体質や気質が原理的に対極にあるスポーツを、対極にあるからこそ利用しようとたくらむ。国民栄誉賞とやらはその最も浅ましい表現である。王よ、利用されるな。しかし、王がそれをことわるわけには行かないことも明白だった。そしてついに、老宰相のしわくちゃな手が、王選手のがっしりした手を握ったのであった。「きみのような人気者にあやかりたいよ」、老人のにこにこ顔は明らかにそう語っていた。そしてそれ以外の思想はなかった。 このたくらみに、さすがに不快な感じを持った「国民」は少なくなかった。そしてこの茶番は、首相の期待に反して意外に受けず、しらけたものになった。日頃「国民感情」を重んじる政治家にしては、彼は微妙な一線でたしかさを示す国民感情を知らなかったのである。彼のあやまちは、人びとの心に不定形で息づいている共同幻想を、鈍感にも白日のもとにさらそうとしたことであった。 吹田晨平はベッドから身を起こしてソファに移り、スポーツマンシップ・マイルドというタバコに火をつけた。そして、筆者の潟田六郎太なる人物について何か書いてないかと、雑誌をめくった。文章の末尾には(日新タイムズ学芸部記者)とだけあった。編集後記を見た。そこには「潟田六郎太氏の連載は本号をもって完結しました。各方面から多くの反響が寄せられています。今後も、スポーツや芸能と社会状況を結ぶこの種の企画を進めます。ご期待ください」とだけ書かれていた。吹田はふたたび本文に眼を移した。 もう一人の政治家は、そういうあやまちを犯さずに見事な仕事をした。前者が、王選手の人気を自分に転位させようとしたのに対して、この政治家は、権力に本質的に付随するトリック性を野球界に転位させようとしたのだ。彼は、プロ野球の|老舗《しにせ》の巨人が|凋落《ちようらく》気味だとわが党も冴えないという相関関係を前から洞察していて、大学を出てまもない一人の青年の就職運動に異常なまでの熱意を示し、ルールを無視してむりやり巨人に入れようという努力をした。そして、国会で鍛えた百戦錬磨のかけ引きやトリックの技法を活用して目的を達した。もちろん多くの実業家や虚業家がこれに加担した。政治的卓見のもたらした快挙であった。 しかしこの作業は、一般大衆への最低限のジェスチュアを示す工作に、さすがに少し手間取ったために、その年には巨人の凋落を防ぐまでには至らなかった。しかし来年は巨人もわが党も大丈夫だろうと、関係者は安心している。(引用者注・次の年もわが党は大丈夫だったが巨人は優勝できなかった。しかし政治家の洞察や恐るべし。一年ずれて一九八一年、前にも書いたように、巨人は見事独走して優勝した。その最大の力はやっぱりその青年であり、投手成績二十勝六敗でMVPとなった) 政治の持つトリックを野球界に転位させておいて、国民の関心がそっちに注がれている間に、政治家は時を稼ぎ、新しいトリックの開発にいそしんだ。江川青年自身もトリックスターであるが、同時に彼はスケープゴートでもあり、おとりでもあった。そして真のしたたかなぺてん師は、その政治家だった。そして国民の多くは、やがて江川問題という不快な出来事を忘れることにした。「たかがスポーツじゃないか。それに江川はやっぱり稀代の大投手になる素質がある。まあいろいろあったが、彼にやる気をなくさせるより大成させたほうが、やっぱり楽しいじゃないか」。|水に流す《ヽヽヽヽ》という、日本人一流の健康な一過性である。そしてその流れを洞察していたのも、かの政治家であった。 政治と野球の関係についてもう少し述べたい。野球は、民主主義と資本主義の体現である。 まず民主主義。攻撃と守備の機会は、個人に対してもチームに対しても、まずあらかじめ数字として平等に与えられる。時間の保証ではなく数字の保証である。ボールカウント、アウトカウントがその基礎となる。攻撃する立場と守る立場は、このカウントが刻まれてある回が終了するまでは、その立場を変えることはできない。このルールは野球以外にはあまりない。もし守備についている選手が、手元に飛んできた打球を、隠し持ったるバットで叩き返そうものなら、彼は確実に精神病院に送られるだろう。野球は、イニングごとが保守や革新の二大政党対立であり、ゲームを通しては民主主義的機会均等を達成する。 次に資本主義。資本主義は何よりも数字の累積であり、その計数管理である。これも前記のカウントを基礎とし、個人にとってもチームにとっても、毎日、毎週、毎月、毎年累計され、多角的な計数や指数による分析にさらされる。打率、打点、出塁率、投手の勝率、防御率、挙げて行けばきりがない。試合中の計数管理の好例は、監督やコーチがピッチャーの投球数を継投時期の判断の目安にする傾向が多くなったことである。また最近は、ピッチャーの球速を時速で表示する器械まである。これらを要するに、野球は徹底的にディジタルな競技である。そして日本人は数字が好きで財務諸表の分析に|長《た》け、計数に明るい。そういえばシーズンオフのスポーツ新聞は、スター選手の新しい年俸まで逐一数字で報道する。 この民主主義的、資本主義的構造に、日本の「祭り」の要素が色濃く加味されれば、日本人が野球を好きにならないはずがない。一般の日本人は、その中で最もきらびやかな祭りのおみこしの担い手であるプロ野球のスターには、技術や収入の面で及ぶべくもないが、それでも草野球と呼ばれる領域において、その技術の初歩を楽しむことができ、プロと同じルールや計数を適用することができ、多角的な分析批評を試みることができ、かくして草深き氏神様のお祭りに参加した満足感を得るのである。 甲子園の全国高校野球は、その最大の祭りであろう。学校関係者だけでなく、一般市民や県、市の長や議員まで応援にかけつける。地元の茶の間では、日頃は野球にまったく関心がなく、亭主が夜な夜なナイトゲームのテレビ中継にかじりついている姿を、没知性珍獣の生態でも見るようにあきれ顔で見ている主婦も、地元の高校が出るとなるとテレビにかじりつく。そしてふしぎなことに、このときばかりは野球がわかるのである。全国高校野球大会こそは、地方分権と中央集権のバランスを微妙に保ち、最も巧みに運営されているシステムである。これに対して日本のプロ野球は、出稼型中央集権制度といわざるを得ない。 三回に分けて書くつもりを一回にまとめたせいか、この最終回の記事はかなりの長文になっている。野球ファンが全部読んでくれたかどうか。しかし、吹田晨平コミッショナーは、タバコをくゆらせながら念入りに読み進んでいる。こう引用が長くなっては、潟田の許しは得ているものの、少しは謝礼をしなければなるまい。どうせならあと少しだし、最後の結びまで引用してしまおう。 さて最後に、一回目のテーマであった『顔の文化とプロ野球』に戻って稿を終えたい。 ちびのときから好きで野球を始める人の数は、昔も今もそれほど著しい差はないのではあるまいか。しかし、プロであれ大学であれ高校であれ、そこのレギュラーになりたいという目標が生じた場合には、今では昔よりはるかに専門化され先鋭化された訓練を受けねばならない。将来一つのスポーツに抜きん出ようとすれば、スポーツなら何でも好きで、いつまでも素人っぽくいろんなスポーツを楽しんでいたいということは、以前より早めの年齢で切り上げなければならない。そして良いコーチにつき、|良い学校《ヽヽヽヽ》に入り、高度に専門化された目標に沿った体力づくりと、知識や技術の最先端を一直線にめざす。これは、進学受験体制のくさびが、小さい年齢層の中にぐいぐい深く喰い込んで行く状況と軌を一にしている。勉強の受験体制の頂点には一流大学があり、そしてスポーツの受験体制の頂点にはスターの座がある。野球でいえば、めざすはジャイアンツである。そこで第一回にも述べたとおり、最近の巨人の選手には、どこかエリートっぽい顔をした人が多い。丹念に養成され、仕上がって入ってくるという感じで均一化されている。 若いうちから早く仕上がってはおもしろくない。顔が仕上がるのは今からだといった未完成の逸材は少なくなった。残念なことだ。 今、社会はますます均一化、標準化に向かっている。市民の中流意識、生活様式や生活構造の都会化、偏差値重視の教育、政治的保守中道、企業の肥大と大都市集中等々。いずれも各レベルの管理者にとっては好都合である。そして一方では政府は、「地方の時代」などと謳い、「ゆとりある教育」とささやく。 すでに述べたように、政治といわれる地帯、中央といわれる地帯からの風に乗って聞こえてくる言語は、現に空洞化し、実体はない。「地方の時代」とか「ゆとりある教育」とかいうことばは、一体どこから実体を帯びてくるのだろうか。地方の復権、方言の復権をまず実現するのはだれか。どこから、個性的な顔、個性的な地肌がよみがえり、どこからニキビが吹き出てくるか。 今こそ、空疎なスローガンよりも実行を。そして、異相の怪童よ、輩出せよ。 [#地付き]了