[#表紙(表紙.jpg)] 優柔不断術 赤瀬川原平 目 次  ㈵  いま、本当にウニでいいのか  とりあえず、ビール、二本ぐらい  決断衛星ゲンコツ号  いずれそのうち  坐ればいいのに  粗国日本  チャウンチャウ  日本の中の世界  貧乏性世界地図  決断疲れの現代人  ㈼  ぼくの優柔不断は天然だった  あとがき  文庫版あとがき [#改ページ]   ㈵[#「㈵」はゴシック体] [#改ページ] いま、本当にウニでいいのか[#「いま、本当にウニでいいのか」はゴシック体]  ぼくは、自分でいうのも何だが、優柔不断の能力には恵まれている方だと思う。  世間では優柔不断というのは馬鹿にされる。決断こそが素晴しいと賞賛されている。何かものごとをはじめようとするとき、ああしようか、こうしようかと一つ一つを丁寧に考えていると「ぐず」だといわれる。あれこれ考えたりせずに、いきなりどれか一つを「こうだ!」と決めてかかると「あの人は男らしい」といわれたりする。  たとえばご馳走《ちそう》を食べるときもそうで、ウニならウニにさっと迷わず箸《はし》が出るのが良しとされている。タケノコにしようか、ホーレン草のゴマ和《あ》えにしようか、それともやっぱりずばりとウニに直行しようか、といって箸がご馳走の上空をさ迷うのは「迷い箸」といってもっとも軽蔑される。箸の優柔不断が軽蔑されているのである。箸というのは一度これと決めたら目標物に直行するのが、最上の美徳とされている。  しかし本当にそうかな、何故そうなのかな、と疑問をもつのは子供だけでなく、大人にも何人かいる。水銀の玉だってそうである。水銀というのはあの体温計のガラス管の中に入っているものだが、あのガラスを割るとナマの水銀が出てきてぷるぷるしている。掌《てのひら》に載せるとあっちにふらふらこっちにふらふら、ご馳走上空の迷い箸とそっくりの動きをしている。水銀の場合はご馳走ではなく、掌の手相というか皺《しわ》の深みをあれこれ選んでいるのだが、生命線にしようか、知能線にしようか、運命線にしようかとふらふら揺れ動いたあげくに、どこか適当なところに落ち着くのである。でも水銀は、その動きが優柔不断だといわれることはない。水銀は重力的均衡を求めて、そういう動きをしている。人間もそれと同じで、味覚上の均衡を求めて箸が揺れ動くだけなのに、人間の場合はそれを迷い箸として馬鹿にされる。  だからぼくも、むやみに馬鹿にされたくはないので、人前では迷い箸を避けるようにしている。ウニならウニにさっと箸を出すようにしている。しかしそうしながら、頭の中は疑念でいっぱいである。いま、本当にウニでいいのか。それが最良の選択といえるだろうか。さっきは白いご飯を口に入れたから、本当は次に白菜漬を希望している。でも食卓では話題が盛り上がって、みんな公的資金導入の方に関心を寄せている。だからいまのうちに何気なくウニに箸を伸ばすちょうどいいチャンスではある。何しろウニは高価なので、そこに箸が向かうと目立つ。だから口の中の味覚事情は白いご飯の次に白菜漬なのだけど、しかしこうしているうちに、じつは松茸に行った方がいいような気もしてきたぞ……。  まあとにかくそのように、さまざまなご馳走の選択肢があり、それだけでなく食卓でのさまざまな話題事情や、各人の箸の進み具合といった諸問題が、目の前に、複雑な電気の配線図みたいに入り乱れて広がっているのだ。だから迷い箸は当然のことなのだけど、しかしここは世間だ、人前である、と、ぼくは自分の箸にいい聞かせて、とにかく見た目には決断的な軌線を残しながらウニならウニに直行し、それを口の中まで持ち帰る。 (画像省略)  ぼくも世間ではそのようにしている。いくら自由と民主主義の時代でも、箸のおもむくままに迷い箸を放し飼いみたいにしていたのでは、世間でちゃんとした評価を得られない。 「あの人は迷い箸をするのよ」  といって世間に後ろ指を指される。いったん後ろ指が刺さると、これがなかなか背中から抜けないもので、まるでダーツの標的盤みたいに、背中にびっしりと無数の後ろ指を群がらせたまま歩いている人がいるものである。後ろ指というのは本人に見えないから恐ろしい。  従ってぼくも世間では、いったん箸を持ったらウニ、さっ、鮭、さっ、大根、さっ、タクアン、さっという具合に決断的に振舞っている。でも内面は汗びっしょりだ。  ここだけの話、ここは世間ではないので、いや理論上は世間だけど、お互いの顔が直接見えるわけではないので、まあ何とかなるだろうと、こうやって優柔不断の問題を堂々と開陳し、細かい皺の一本一本を丁寧に、仔細《しさい》に点検しているのである。      *  話はちょっと横道にそれるが、日本人は本当は迷い箸の天才ではないかと思う。日本人のほとんどが、じつは優柔不断術の使い手だと睨《にら》んでいる。優柔不断術の猛者《モサ》だといってもいい。何を証拠にそのようなことをいうかというと、まずたとえば、懐石料理である。いまは料亭での高級料理となっているのでおいそれとは食べられないが、食べてみると、あれは料理が一品ずつ順番に出てくる。旅館などではその手間を省いて一度にテーブル一面に並べてあるが、本当は一品ずつ順番に出てくるもので、どういう効能があるかというと、あれは迷い箸ができない。というより迷い箸をしなくてすむ。何しろ目の前に一品しかないのだから、どんなに優柔不断の猛者であるとしても、懐石料理の場合はさっと決断的に箸を出すことになる。つまり懐石料理とは、迷い箸を封じるための料理である。  そもそも懐石料理というのは、よくは知らないが、安土桃山とかあの時代に、茶事の中で生れたものだ。茶の湯のメインはお茶を飲むことだけど、何しろ抹茶というのは濃厚であるから、それをいただく前にちょっと何か食べてお腹を安定させておいた方がいい。というので最小限の質素な料理としてはじまったのが、時とともに練磨されて懐石料理になっていった。  と、それはわかるが、それが何故一品ずつ順番に出す方式となったのか。どうせ質素簡潔なものだから、お膳の上に全部並べてもいいではないか。  ひょっとすると、と思うのである。その時代、巷間に迷い箸が横行していたのではないか。横行といっては悪いが、蔓延《まんえん》というか、蔓延といっても悪いが、とにかく迷い箸がはびこっていたのではないか。みんな臆面もなく迷い箸をする。お茶席の食事のときに全員が迷い箸をしていて、お膳に並ぶご馳走の上空で箸と箸がぶつかったりして、 「おっと、すいません」  とかいって、どうにも見苦しい。茶事がうまく進行しない。これは困ったことだ。こんなことではお茶席での一期一会の精神はどうなる。  そんなところから、料理を全部並べるからいけないんで、一品ずつ出せば迷い箸もなくなるではないか、と誰かが秀逸なアイデアを出して、それはなるほど、面白いぞというので、それが次第に演出されて美学にまで高められていった、ということが考えられる。  いやマジメな話、茶の湯はいまでいう芸術みたいなことであるから、茶事を演劇化していく過程で、料理もお膳に全部並べるより一品ずつ出した方が食事をドラマ化できる、ということがあったわけだ。つまり空間表現に時間表現を加えたわけで、そのモーメントは茶事の儀式性獲得のためであり、何も迷い箸などが原因ではない、という正しい意見もあるにはあろう。  しかし、それなら、とあえていいたい。そもそも迷い箸というのが、正に空間の系にいたたまれず時間の系に迷い込んでいく箸の動きのことなのだから、それは正しい懐石料理構造にぴたりと重なる。それをただの冗談、とすませていいものだろうか。  要点を整理すると、マジメな話にしろ冗談の論理にしろ、懐石料理が生れた背景には空間系から時間系への傾きがあったのである。  前から気になっていることだが、日本人はどちらかというとものごとを時間に頼り、時間に預ける性質がある、と思うがどうだろうか。何か仕事の会議とか打ち合わせのときでも、重要な決定を迫られるときになると、 「まあそのことについては、いずれまた日を改めて……」  とかすぐ言う。 「その件に関しては、またお会いする機会もあることですから、おいおい……」  とかもいう。「おいおい」というところで言葉を切ってしまって、少し濁らせて、そのまま了承させてしまったりする。メッセージがはっきりしないまま、連続する時間の中にすっと投げ込まれてしまうわけだ。 「それはここで速断せずに、もう少し煮詰めて……」  とかも言う。もちろんその件に関してである。煮詰めるのは時間の仕事だ。ジャッと一気に炒めるのではなく、一つの鍋の中で、というより、一本の時間の中でぐつぐつと煮詰める。そうするとその件が、ほどよくこなれて、柔らかくなり、味がしみ込み、よくなじんで、ムリのない結論に仕上がっていく。誰かが具体的にはっきり解決させるというのではなく、何となく結論を先送りにしているうちに、みんなが何となく気づかいをするのかしないのか、とにかくいつの間にか解決している。  とにかく時間へのおまかせである。 「いずれ時が解決してくれるから……」  という気持の基本があるのである。時間への信頼のようなものがあるのだ。それはいったい何故だろうか。 [#改ページ] とりあえず、ビール、二本ぐらい[#「とりあえず、ビール、二本ぐらい」はゴシック体]  何故だろうか。ぼくたちは何故ものごとの解決を先送りにするのだろうか。いや俺は違う。俺はいつも即断だ、といいたいのはわかる。その気持は否定しないが、世の中の、とくに日本の世の中は先送りの天国である。とりあえず先送りにすれば、いずれ時が解決してくれる。だからいまムリして決断することはない。決断は疲れるし、それにヘタをすると角が立つ。それよりはとりあえず、問題を先送りして……。  そういう時間への信頼の中には、相手への信頼がある。相手というか、身の回りの環境への信頼、相手の中にある時間への信頼というものがあるのだ。たとえば、 「とりあえず、ビール、二本ぐらい……」  の問題である。酒場とか飲み屋にはいると、まず、みんなこの表現をもちいる。日本人はとりあえずの民族であるから、冒頭に「とりあえず」がつくのはわかる。しかるに「ビール、二本ぐらい」の「ぐらい」とは何か。  ビール二本ぐらいをあらためて分析してみると、ビール二本を中心として、ビール一本とビール三本がその両脇にある。正しくはそのどれを指すのか。  という難問があるのだけど、注文された店員の方は、「ビール二本ぐらい」と言われて問い返すこともなく、ちゃんとビール二本を持ってくる。  もしもこの店員がアメリカ人のブッシュ大統領だったらどうだろうか。湾岸戦争当時、イラクの空爆をずばずばと決断した人だ。もう引退したから別のアメリカ人でもいいが、たとえばの話、リストラ後のブッシュ大統領が日本に来て、とりあえず酒場でアルバイトの第一日、お客に、 「とりあえずビール、二本ぐらい……」  と言われたら、とっさには次の行動に移れず、すぐ訊き返すだろう。 「ビール二本ぐらいというのは、三本でもいいのか。それとも一本か、どっちなのか」  といって、伝票を手にじっと返答を待つ。じっと客の目を凝視して、決して目をそらしたりはしない。人と話すときはきちんと相手の目を見るという、先祖伝来の言いつけを実践している。客の方がたじろいでしまって、 「いや、あの、とりあえず二本、お願いします」  なんていう具合に、自分で二本に決断して、間が悪いから、 「すいません」  なんてつけ加えたりする。  しかし実際の話、最近は日本の各所でも外国人労働者をよく見かける。酒場で働いているタイやその他のアジアの人は、ほとんど日本人と見分けがつかない。すっかり溶け込んでいる。でもさすがに言葉づかいでわかる。とくにこのビール二本ぐらいの問題。 「ナニニ、イタシ、マスカ」  と伝票を手に注文を取りに来て、客はメニューを見ながら、 「えーと、まず、とりあえずビール、二本ぐらい……」  と言うわけだが、日本人だってたまには「ぐらい」を忘れて、 「とりあえず、ビール二本……」  と言ってしまうことがある。するとそのアジア人店員は、 「ハイ、トリアエズビールニホン……」  と伝票に書きながら、 「グライネ……」  とつけ足して奥へ消える。客の方は思わず苦笑するわけだが、もう見抜かれているのだ。日本人はビールの前に「とりあえず」をつけるし、二本のあとに「ぐらい」をつける。それが何であるか、説明はできなくても、もう見抜いている。日本人の特質がそこにあるともう睨んでいる。 (画像省略)  では、「ぐらい」とは何か。どうせビール二本を持ってくるなら、「ぐらい」という言葉は「ビール二本」の後ろに何のために付いているのか。「ぐらい」とは何の役にも立たない飾りではないのか。  ということになる。しかしちゃんと考えてみて、飾りではない。ちょっと違う。飾りのようではあるけど、「ビール二本」と言い切ってしまった場合、ビールの質が変るようなのだ。酒やビールは場所や国柄によって違うもので、イギリスなどではレストランの食卓でビールは飲まない。飲みたい人はまずパブに行ってビールを飲んで、それから食卓に向う。ドイツなどは食卓でもふつうにビールを飲むようだが、そのビールも色のついたのや甘いのや、何だかいろいろである。アメリカなどはもちろん論外で、何でもいい。日本はというと、どんな高級料亭でも「とりあえずビール」であり、どんな低級酒場でもビール二本「ぐらい」なのだ。強いていえば「ビール二本ぐらい」の「ぐらい」とは、時間への祈りの言葉なのである。いやいきなりそういってもちょっとまずいが。  もう少し分析すると、客は、 「ビール、二本ぐらい……」  と言って、その両脇に一本も三本も含ませながら、その判断を相手に委ねるわけである。 「委ねる」というのも含蓄のある言葉ですね。日本語の味が濃厚だ。  判断を相手に委ねる、その相手というのは目の前の店員ではあるのだけど、この場合はその店員を通して運を天にまかせる、という色合いが濃い。はっきり二本とは言えない、だから一本になるかもしれないし三本になるかもしれない。だけどたぶん二本が来るだろうと客は天に祈っているわけである。無意識ながら。  いっぽう店員の方はというと「ビール二本ぐらい……」と判断を委ねられて、問い返しもせず、自分で決断してビール二本を持ってくる、というわけではない。店員はたしかに判断を委ねられる。しかしそれは店員を通して天に委ねられているのだということを、その店員も知っている。たぶんこの国に住んでいる日本人だから、暗黙のうちに知っている、ということだろう。だから店員がその注文を受けてビールを取りに行く間に、客の注文した「ビール二本ぐらい」は店員を通して天まで届くのだ。そして天に反射し、そのとき「ぐらい」が取れて、「ビール二本」となって店員に降りてくる。天の判断が成されたわけで、委ね、あるいは委ねられた関係がそこで解けて、客の前には目出度くビール二本が運ばれてくるのである。 (画像省略)  天とは何か。  おてんとさまのことだ。漢字では御天道様と書く。具体的には太陽のことであるが、じっさいには太陽を代表とする自然のことだろう。 「おてんとさまはお見通しだよ」  と老人が言ったりする。 「あとはもう、おてんとさまにまかせて……」  と言ったりもする。いまの、現代の頭で考えると、自主性がない、ということになるだろう。あいまいである、あなたまかせの、他力本願の、弱い性格、ということになる。  しかし強い性格だけがいいのだろうか。自力本願、自主独立の、自主性だけで動くことが、そんなに素晴しいことなのだろうか。  いや問い詰めるのはまだやめておこう。  つまり、 「おてんとさまはお見通し」  の「おてんとさま」とは、太陽を代表とする自然というだけでなく、その自然のもう一つ奥にある「神」のことであろうかと思われる。  似たようなことでもう一つ、路上の塀や電柱などに、ときどき格言らしき言葉が書いて貼り出されている。キリスト教の数多くある一つの派らしいが、あるとき、これは東北を歩いていたときだが、黒地に白い文字で、 「神は私生活も見ている、キリスト」  という貼札を見てぎょっとした。神は人のおこないを見ているというけど、私生活まで見ているのか。神は全能で何でも見えるのだから、その理屈の上では私生活まで見られて当然ではあるが、しかしキリスト教の神というのは人格性が強いので、 「神は私生活も見ている」  といわれるとぎょっとしてしまうのだ。夜寝ているときでも、蒲団をめくってぎろりと、攻撃的な目で見られているような感じになる。しかし日本の神は、人格性はあまりない。人格というよりも、空気とか山とか樹木、つまり自然そのもの、いや自然、即、神というのではないにしても、自然とぴたり重なってその奥にあるもの、という感じが日本人のぼくにはするのである。だから、 「神は私生活も見ている」 「おてんとさまはお見通し」  この二つを比べるとよくわかる。片や巨大人格、裁判官的存在であるのに対して、一方のおてんとさまというのは輪郭がはっきりしないし、いつ見通されたのかもはっきりしない、いつまでも見通しつづけているというような、裁判官という権力的なものよりはむしろ傍聴人というか、見物人のような存在である。  天の字をいただくものに日本には天皇がある。その字が示すように、天皇は御天道様の関係者、ある意味では代理人ではないかと思う。だから天皇は権力者ではなく、傍聴人、見物人、といった存在に似ている。 「あとはもう、おてんとさまにまかせて……」  というやり方を好む日本人、つまり決断の苦手な日本人は、それを天皇に委ねる。しかし天皇は権力者ではない。だから委ねられはしても、それを決断で応えたりはしない。また法的にもできない。だからゆっくりと、いつまでも委ねられているのである。そうしている間に、天皇の天にいる御天道様が、静かに時間をにじませていく。その時間にそって、いやおうなく何ごとかが決まり、世の中が動きはじめ、株価が上がったり下がったり、戦争が始まったり終ったりする。もちろん戦争はいけないことだが、エネルギーの高まり具合によってはどうしても起ってしまい、いずれエネルギーが放出されて、終ってしまう。  短絡したが、日本人が判断を依存している形の天皇の、その天空にある御天道様というのは、自然そのものではあるが、それは主として時間を司る神だということができるのである。  この説明ではまだ多分に誤解があるだろう。天皇の解釈については近年に一回転、二回転、三回転と変化しているから、いまの話はとりあえずおてんとさまだけで考えた方が、いらぬエネルギーを使わずに考えやすいかもしれない。いずれにしろ優柔不断術を修業する上で、このことはおいおい出てくる。この件に関しては、いずれ、そのうち、折を見て、ページをあらためて、前向きに、善処しながら、煮詰めていきたいと思う。 [#改ページ] 決断衛星ゲンコツ号[#「決断衛星ゲンコツ号」はゴシック体]  しかしこの際、天上の構造をもう少し研究しておいた方がいいだろう。天が最終的な判断をするといっても、その判断構造はどのような仕組みになっているのか。それにまた「とりあえず」ビール二本「ぐらい」というふうに、判断を天に委ねるというやり方を、日本人はいつから「術」として身につけたのだろうか。  それはおそらくこの日本列島の生成にまでさかのぼる。人類発生以前の問題、いや正しくは人類が発生しつつ、大陸も移動しつつ、海水面も上がったり下がったりしながら、次第にいまの地勢図が出来上がっていった時代。  この日本の特徴は、まず第一に島国であるということである。ぼくらの時代、教科書には神様がいて、泥の海を鉾《ほこ》の先で掻き回して、持ち上げてたらたらと垂れたのが日本列島だと教えられた。  教科書にあったのはそこまでだったが、ぼくはじつはそのあとも神様の仕事があったと思う。こういう島国を作ったはいいが、ここに住む人々をどうするか。  といってもちろん神は人のすべてを支配するわけではない。すべてはDNAのプログラムに基《もとづ》くといっても、二十四時間の生活が百パーセント支配されているわけではないのと同じように、人間だって、この世に生れて個体となった以上は、個体的意志によって生活していく。ただその意志に、少しだけ介入しておいた方がいいのではないかということで、ある対策を講じたのである。つまりここに住む人々の決断力を半分にして、残り半分の決断力を全部集めて、まとめて預かる形で天に打ち上げてしまった。  何故かというと、ここは何といっても島国環境である。大陸と同じようなやり方で、人間やっていけるのだろうかということ。大陸の場合は競争社会でやっていける。敗けたものの逃げ場所は、広いから探せばあるし、そこで再起して反撃という活性化も期待できる。でもこんな島国ではムリだ。追いつめられたら逃げ場所がない。こんな所で強い決断と実行をがんがんやったら、どうしても悲惨な結末になる。島国ではやはり譲り合いの精神が必要だろう。いえいえ。とんでもありません。いやとりあえず。いずれそのうち。という方が、むしろ内的な活性化につながりそうだ。意地を張ってムリな決断はしない方がいい。決断は半分くらいにしておいた方が、何ごともうまくいく。  というので、神様はこの国の人々の決断力をお預りとしたのだった。もちろん日常生活において、まるで決断力がなくてはやっていけない。だから半分は日常用に残した。そしてあとはまとめて天上に、というわけである。いまでいうと人工衛星の打上げである。弾頭のカプセルに決断力を封入して、天上空間に打ち上げた。神の御業であるから、人工衛星でなく神工衛星とでもいうのか。  そうやって天上に留保した決断力の固まりを、仮りに「決断衛星ゲンコツ号」とする。それがつまり天に委ねられた決断装置である。一種の静止衛星として考えてもらいたい。地上の酒場におけるビール二本「ぐらい」の注文は、その「ぐらい」のパルスが自動的に天上に発せられて、決断衛星に反射してまた返ってくる。天で決断されて返ってくる。酒場では客も店員も、そのことに関してはほとんど無自覚である。オートマチックというか、すべては神の装置に委ねているのだ。それで何ごともうまくいっている。ムダな決断力を使わずにすんでいる。それがこの国に合ったやり方、この国の形である。何しろ決断力が少ないのだから、それがもっともベストなのだ。 (画像省略)  これを冗談と思う人がいるかもしれない。たしかに冗談ではある。でもぼくたちは「ぐらい」の民であることを忘れてはいけない。たとえば日本人は酒に弱い。簡単に酔っ払う。  西洋人は強いですね。ウイスキーとか、ブランデーとか、ウォッカという酒をくっと飲んで平気だし、飲んでも崩れない。とにかく体が酒に強いのである。  それはモラルの違いにもあらわれている。日本では酒を飲んだら酔っ払うものと思われているし、飲む方の甘えもあるが、世の中の許容もあって、ふらふらしてロレツが回らなくなっていても、まあしょうがないか、ということになっている。お花見の場所で、 「ねえちゃん……」  とかいって酔っ払いが肩に手をかけても、もちろん最近の女性であれば「嫌よ」といって振り払うにしても、まったくしょうがないという感じで、ある程度の許容が含まれている。それは酒に弱い民族だからである。  西洋ではとんでもないことですね。仮りに「ねえちゃん……」と酔っ払いの手が来て、それを「嫌よ」と振り払うにしても、その振り払う勢いが違う。許容はみじんも含まれることなく、決然と振り払われる。それが知人であれば、もちろん以後絶交である。イギリスのパブではじめて飲んだとき、酔っ払ってふらふらした客が、本当に店主につまみ出されるのを目撃した。店の客たちは無視していたが、その場の全員がそのことを軽蔑しているという雰囲気に満ちていた。それはつまり、酒に強い民族だからである。飲んでいい気持になるのは当然だけど、酔っ払ってしまうのはダメな人間で、人格破綻者ということに決定している。  何故こうも違うのか。それは実際に、西洋人と日本人では、アルコール分解酵素の違いがあるのだ。人間は酒を飲むとアセトアルデヒドがたまり、これが悪酔いの原因となる。これを肝臓で分解する酵素に㈵型と㈼型があって、欧米人のほとんどはその両方を備えているが、日本人や蒙古系の人のほとんどは㈵型しかなく、どうしても酔っ払いやすいわけである。いや甘えちゃいけないが、とにかくハンディがあるのだ。そんなことを昔の人が知る由もないが、しかし酔っ払いへの対処の仕方として、西洋に比べて寛容であるというのは、ちゃんと物理にかなった日本人の性質となっているのだ。  決断酵素というのも、日本人の場合同じことがいえるのだと思う。いや決断が酵素の力によるものなのか、そんな酵素がいったいどこにあるのか、まだわからないが、もののたとえである。いまだ状況証拠の段階ではあるが、どうも日本人の場合、決断酵素の欠落が推測されるのである。それと同時に、天上世界のどこかに、決断衛星の存在も推測される。まあ今世紀中に発見はムリだろうが、しかしそれはとくに急がない。状況証拠で充分である。 (画像省略)  ところで決断衛星を打ち上げた神様はここから先のスケジュールはどう考えていたのだろうか。世の中には民主主義が発生して、人口は膨張し、二度目の世界大戦で遂に原爆が投下された。  原爆という武器のもたらしたものにはさまざまなことがあるが、一つの大きな意味は、それが地球を原寸で測るモノサシになってしまったことである。  それまでの武器は単に敵をやっつける道具であった。敵はとにかくやっつける。自分は正義で、敵対するものは悪。悪は地獄に追い落す。そういう地獄という配慮無用の、この世の暗黒ゾーンが世界にはあったのである。敵はとにかくそこへ放り込めばいい。  しかしこの世は幸か不幸か、地球という巨大球体であった。それを発見したのはコロンブスだったかマゼランだったか、いや発見は誰か科学者で、大航海の探険家がそれを実証することになるわけだが、実証はしてもまだ実感はなかった。世の中にはまだ事実上暗黒大陸といわれるところがあり、文明の光の届かない暗黒地帯、坪いくらという地価など推定しようのない場所はいくつもあって、それが逆に人々の独善的存在を保証していた。  そういう暗黒地帯を実感的にもなくしたのが、はからずも原爆という武器であった。武器であるから相手をやっつけるわけだが、やっつけておしまいにはならない。そこで生れた死の灰といわれる毒素は、暗黒地帯に吸い込まれるのではなく、巨大球体の地球を一周して自分のところに舞い降りてくる。となるとその武器を安易には使えない。  人類としてはいままでになかった経験である。この地球が狭いために使えない、この世が有限世界であるために使えない。無限の彼方を保証していた暗黒地帯が、なくなってしまったのである。敵を追いやる地獄という配慮無用の場所がなくなり、敵を敵として絶対視できなくなった。仮りに絶対悪の敵として核攻撃したとしたら、いずれその攻撃の先がめぐりめぐって自分にも降りてくる。  独善主義の崩壊である。敵は絶対的なものではなく、自分とともに相対的なものになっていった。  決断の崩壊である。  いやもちろん、世の中にはいまだに決断が横行している。いや横行といっては悪いが、生活レベルでの細かい決断、微小決断、弱い決断というものは、もちろんいつの世も必要である。必要というより、ほとんど意志の外側に近いところでそれはおこなわれて、世の中は発展している。でも戦争レベルでの決断というものが、これはいまなお横行している。決断的価値観がなお優位を保っている。そこのところで決断の美学がなおも存在を誇示しているのだ。  いかがなものであろうか。と島国日本人は思うのである。少なくともぼくは思う。原爆という地球規模の武器によって、この世が有限世界であることが実証されたのである。島国日本は歴史上はじめての原爆攻撃をされたことによって、この地球全体が島国であることを、いわば身をもって示したのである。  その昔の神代の時代に、決断力の半分お召し上げで天上に打ち上げられたとされる決断衛星は、いまや日本一国の使用だけでなく、広く世界基準での使用とならなくてはいけないはずである。しかしそのことにまだ世界は気づいていない。 [#改ページ] いずれそのうち[#「いずれそのうち」はゴシック体]  さて、また話は戻る。迷い箸—懐石料理—ビール二本ぐらい、と進む過程で日本人の時間への依存傾向が見えてきたわけだが、これはいわゆる農耕民族の特徴でもあろう。農業とは時間の作業のことだ。地面に種を落とす。行為はそれだけである。それが実るかどうか、それは時間が解決してくれる。あとはもう、おてんとさまにまかせて……。  というとじっさいの農業の人に怒られるかもしれない。そんな簡単なもんじゃない、草を取ったり、肥料をやったり、雀を追っ払ったり、おてんとさまにまかせるどころじゃありませんよ。  いやそれはもちろんそうなんだけど、その基本原理のことである。種を蒔《ま》く。あとは時間が解決してくれる。解決しない場合、つまり実りがなかった場合は、この件はなかったことにして、水に流して、次の年にまた種を蒔く。  いま書きながら気がついたが、蒔く、という字にはちゃんと時が組み込まれている。農業というのは畑に種を蒔くというよりも、時間系のある一点にぷつんと種を蒔くことなのだ。  農耕民族というなら、もう一方は狩猟民族である。これは種を蒔いたりしない。種のかわりに武器を持つ。そして獲物を見つける。見つけても、時間は解決してくれない。見つけたら自分から近づいて行って、武器で仕留める。それで一丁上がり。  つまり空間を攻めて行って時間を切り落とす、という表現はちょっと文学になるかもしれないが、いずれにしろ攻めの民族である。獲物を見つけて、 「その件については、いずれそのうち……」  などとはいってられない。 「またお会いする機会もあることですから、おいおい……」  などと言っていると、獲物はさっさと逃げてしまう。追いかけて、追い込んで行きながら、 「やはり、もう少し煮詰めて……」  と呟くことがないとはいわぬが、常に行動しているのである。常に空間移動している。「委ねる」なんてことはない。自分の自力で動いて行って、つかみ取る。      *  現代芸術というものがある。キャンバスに油絵具で風景画を描くなんて、ありきたりじゃないか、伝統に縛られることはないじゃないか、もっと自由に表現してもいいじゃないか、というのでいろいろな新奇なアイデアを出しあって競争している芸術のことだ。  その新奇なアイデアで突出した作家に、たとえばクリストと河原温《かわらおん》がいる。  クリストはアメリカの梱包《こんぽう》の芸術家で、はじめはオートバイや何かを梱包して芸術としていたが、その梱包作業が次第に巨大化し、ビルを包み、橋を包み、海岸の岬を包み、渓谷を巨大カーテンで覆い、砂漠にえんえんと長い塀を築き、島の周りを巨大ビニールシートで埋め立てたりしている。パリの橋のポンヌフを全部梱包したのも有名である。そのあと長年の念願であったベルリンの旧国会議事堂も梱包した。これなどはドイツ国会でその是非が審議され、やっとのことで可決した。とにかくこういう梱包となると大量の布、大量の紐、大量の作業員が動員されて、大プロジェクトである。たまたまそのときぼくもベルリン旅行中で、見ることができた。モノクロームの布ですっぽり覆われてしまったその光景は、理屈抜きで珍しく、綺麗ではあった。  じつは私もクリストのスタートと同じころ、梱包芸術をやっていた。キャンバスの梱包にはじまり、机や椅子や扇風機など身の回りのものを梱包しながら、イメージとしてはやはり巨大化へ向かう。車とか建物とか煙突とかの梱包を考える。でもその作業、実現への努力を想像しただけで、これは大変だと諦めた。この辺がいかにも日本人的なひ弱なところで、私はそのひ弱さが好みでもあるんだけど、とにかく梱包の巨大化が進行すると、建物—町—国家—と進んで、結局は地球の梱包、終点は宇宙の梱包、ということが見えてしまう。そうなるとその極点の見えてしまった作業が大変な徒労に感じられて、とても力が出てこない。  だから私の場合は宇宙の梱包をした。とにかく極点の梱包である。まず蟹缶《かにかん》を買ってきて中身を出し、洗浄し、レッテルを剥いで内側に張り直し、もう一度蓋をして熔接密封する。それで終り。これでその缶の内外が逆転し、この宇宙はもうその蟹缶の内部として包まれてしまったのだ。これもいかにも日本人的なというか、物件としてはひ弱な盆栽みたいなものである。そんな宇宙の缶詰が私の部屋の隅に転がっている。だからクリストが世界各地へ出かけて行って巨大梱包を実行しているのを見るたびに、 「大変だなあ」  と思うのである。それほど儲かるわけでもないらしく、プロジェクトはボランティアで支えられているというから、いったいそのエネルギー、その情熱は何だろうかと考えてしまう。以前には、それが日本でもおこなわれた。何百本かの巨大傘を日本のどこかの田舎に林立させる。と同時にアメリカのどこかの田舎にも同時に林立させる。その光景を雑誌の写真などで見ながら、そうだ、クリストは西洋人なんだとあらためて気がついた。これまでのプロジェクトの、さまざまな光景が頭の中にずらりと並んだ。世界のあちこちで、橋を包み、谷を包み、島を包む。これはある意味、狩猟民族的なエネルギー結果をそのまま見ているようなものである。西洋の強国が、競って世界に広がり、各地を征服しながら植民地を造っていった。その現象とじつによく重なる。梱包作品という観念作業を展開しながらも、そこには征服的なイメージがあふれ出てしまう。空間の征服である。これは別に悪意でいっているのではない。政治的な解釈はともかくとして、たんにエネルギー傾向を見ているわけだが、とにかくいずれも旺盛な空間移動をおこなっている。 (画像省略)  河原温は世界的に名の知られた日本人作家であるが、その作品も一風変っている。適度な大きさのキャンバスの中央に、日付け、つまり年月日を示す数字が描かれている。それだけである。朝起きて、今日は制作意欲が湧いたぞ、となるとキャンバスに向かい、その日の年月日を丁寧にキャンバスに描いていく。それも活字のようなふつうのゴシック体で、一日かけて綺麗に仕上げる。そして良い作品が出来たと、眠りにつく。恐ろしく観念的だけど、ふと考えたら滑稽な、おかしな作品でもある。それを高額で買う人がたくさん控えているというんだから、世の中も妙である。河原温はアメリカに住んでいて、ヨーロッパにも行き、ときどき日本に帰ってくる。でも描いているのはその日付けだけだ。時間だけの作品である。クリストに比べたら小さなキャンバスに、一点一点、時間だけが記されていく。考えてみて、これは正に、ある意味、農耕民族の作法をそのまま見ているようなことなのではないか。農耕の原点である種、その種を蒔くという文字の草かんむりを取って、時だけを描き記している。いまはやり気味の有機農法をさらに超えた、無機農法の作品といえばいいのか。      *  これを別の形で要約すると、クリストの作品展開は、全部の料理が一堂に並べられた立食パーティである。遠くに好きな料理を見つければ、ナイフとフォークを手にして空間移動をおこない、獲物を食する。そうやってパーティ会場を転々とする。  いっぽう河原温の作品は、これは明らかに懐石料理だ。一堂に料理が並んだりはしない。渋いお茶室に、料理は一品ずつ、時間の流れに乗って運ばれてくる。それを慌てず騒がず、来た順番に食べていく。もっと急げと催促したりはしない。ひたすら出てくるのを待って、それをいただく。  空間とのお付き合い、そして時間とのお付き合い、という特徴がこの二人の東西の傑出した作家に際立っているのは不思議なことだ。決して偶然ではないだろう。それぞれの生れ出た土地の空気に、運命づけられていることなのだ。運命という言葉があいまいであれば、最近のはやりの考えで、それぞれの歴史的遺伝子作用を受けてのことではないか。 [#改ページ] 坐ればいいのに[#「坐ればいいのに」はゴシック体]  最近は日本でも立食パーティが流行っている。日本の西欧化はいまにはじまったことではないが、それがますます当然のことになってきている。  正直な話、ぼくは立食パーティというのが苦手だ。会場にはたくさんの料理と大勢の人がいる。知っている人もいるが知らない人が多い。知っている人を見つけても、別の人と話したりしている。だからほかに知っている人はいないかと歩くのだけど、そうすると何だかきょろきょろしているみたいで、物乞いをしているようなミジメな気持になって、じゃあ食べる方に専念しようと料理テーブルに向かいかけるが、何か食べたがっているというか、ウニばかり食べたがっているというか、いや別にウニに限らず生ハムでもローストナントカでも、とにかく何でもいいという顔をしながら、何かやっぱり高級なものを選んでいるみたいで、損しないで得するように考えているみたいで、進む足も鈍る。  つまりそうやって、立食パーティでは迷い箸だけでなく「迷い足」が発生してしまい、左に行こうとしたり右に行こうとしたり、そうやって行こうとするだけでぜんぜん動いていない。これではいけないと思ってムリに動くと、たまたま空いていたどうでもいいようなサンドイッチの所へ来たりしていて、自分はいったい何のために動いたのかと考えてしまう。  こういうことを書くのは恥しいことなのだけど、ぼくは日本人を代表して書いている。  おそらく主催者としては、もっと会場内をみんなが西洋人みたいに、狩猟民族的に動き回って互いの交流を深めてほしい、という理念をもって立食パーティを開いているのだろうが、じっさいにはどうしても各所で「迷い足」が発生し、全体に農耕民族的な様相があらわれてくる。壁際に椅子が並んでいたりすると、もうそこに坐って、特定の人とだけのヨモヤマ話をするばかりで、主催者の狩猟民族構想は次第に崩れ去る。壁際の椅子にだんだん農村風景が広がっていき、茅葺屋根が並び、農民たちはちょいちょいと近所の人と挨拶を交して、今年は稲の育ちが、いやあんたのところの柿は、とか、夕暮にはそこここで竈《かまど》の煙が立ちのぼり、それが日本の立食パーティの煙草の煙だったりするわけである。 (画像省略)      *  パーティの日本語は宴会である。日本の宴会も大広間ではあるが、一人一人のお膳がずらりと並んで、みんなその前にどっかりと腰を下ろす。それぞれの小ぢんまりとした農地が決まっているのである。座が盛り上がってくると、ちょっと席を離れ、ステージに行って隠し芸をしたりもする。座がくだけてくると、お銚子を持って庄屋様の席まで年貢を納めに行ったりする。でもそこでご機嫌をうかがったあとは、必ずまた自分の農地へ帰るのである。どうしても畑が基本なのだ。自分の畑にいるのがいちばん安心である。  ぼくの家は農業ではなかったが、宴会に行くと、やはり農村だな、と思うのである。宴会ではあまりにも当然でわからなかったものが、立食パーティではかえってわかるのだ。動き回るのが苦手であるし、ちょっと動いても、目的がなくなるとすぐもとの位置に戻る。  もとの位置に戻る!  別に宴会やパーティでなくても、そもそも日本人は動くのが苦手である。むかしアメリカ映画を観ながらいつもそう思っていた。たとえば青春映画。ある家に若者がいる。電話がかかってくる。若者が受話器を取り、 「やあ、君か」  という感じで話しはじめる。話しながらじっとしてはおらず、部屋の中を歩き回る。 「だって君、そのことはこの間言ったじゃないか」  と受話器に話しながらパッと振り返ったりして、こんどは反対の方向に歩きはじめる。受話器にどんどん話しながら、部屋を出てベランダまで行ったりする。コードが長いのだ。受話器のある縦長のボックスの中にわざわざ長いコードが入っている。受話器を持って歩き出すと、そこからコードがどんどん伸びて、あんなに長い電話のコードははじめて見た。  いまではコードレステレフォンが普及しているから、電話は一個所で話すとは限らない。テレビのCMでも、  ※[#歌記号、unicode303d]イドー……  とか言っている。だからいまの話、ちょっとわからないかもしれないが、でもつい二十年くらい前のことである。そういうアメリカ映画の電話の場面を見て、違うなあ、と思った。電話なのに歩きながら話す。 「え? 何だって? 君がそれをもらったんだって!?」  と手を広げて驚きながら、また振り返ったりして、どんどん歩きはじめるのである。そういうことを何故するのかわからなかった。それが狩猟民族の電話の話し方だということにはぜんぜんまだ気が付かなかった。  電話だけでなく、警察でもそうである。容疑者がいて、刑事が問い詰めている。 「それでお前は、そのカメラをすり替えようと考えた。しかし外では雨が降っている。むき出しではまずい。だからお前は女にナイフを渡して、それを削らせたというわけだ」  とか何とか推理を展開しながら、神妙に椅子に坐っている容疑者の周りをぐるぐると歩き回る。歩きながら手をパッと出したり、腕を腰に当ててすぐまた戻したり、そうやって両手両足を動かして歩きながらしゃべるのである。  日本でも刑事ものの映画でよくそういう場面があったりするが、あれはこういう狩猟民族映画をマネしているのだ。だから日本では映画だけのことである。じっさいの警察ではあんなことはぜんぜんしない。ときどき映画好きの刑事が、映画のつもりでそうやって歩きながらの詰問をしても、その演技を気にするあまりに、訊くことを間違ったりする。逆に犯人にそれを見抜かれてちょっと慌ててしまい、取調べ室の椅子につまずいたりする。という光景が目に浮かぶ。やはり慣れないことはやらないことだ。不肖私も警視庁の地下室で取調べを受けたことがあるが、相手の刑事は映画みたいに歩いたりすることはぜんぜんなかった。容疑者のぼくはもちろん椅子に固く坐っているが、机をはさんで刑事も固く坐り、 「それで、その千円札の原銅版は、どこで?」  という詰問をたんたんとする。両方じっと坐ったままである。一種の禅問答的スタイル。歩く必要がないのだ。問題は話なんだから、坐ったままでいいじゃないか。歩いたりしたら気が散る、疲れる、というわけである。  ぼく自身、その二十年前のころ、アメリカ映画のマネをして電話のコードを長くしてみた。ちょうど引越しをして電話を新設することになったので、コードに長めのものを注文した。そのときにはもちろんアメリカ映画の青年みたいに、右に左に歩きながらしゃべろうという構想があったのだ。  で早速電話が掛かってきて、よしきたと立ち上がろうとするのだけど、 「はいはい、ええ……」  と受け答えするのに気がいって、なかなか立ち上がれない。立ち上がろうと片膝を立てたまま受け答えをしている。気がついたらそのままの姿勢で話し終り、電話を切ってしまった。チャンスを逸したなあ、という思いが残った。  とくにまた、そこは畳の部屋であったから、机も坐り式で、座蒲団である。片膝は立てても、立ち上がりにくいことはたしかだ。それでも何度目かの電話には中腰となり、そして遂に立ち上がったこともあった。受話器を持って座蒲団の上に立ち上がり、しかしそのまま話している。 「いやあ、ぼくがですか、そりゃあ、出来ないことはないですけれども……」  そんなことを直立したままずうっとしゃべりつづけているのである。坐ればいいのに。  もしもその状態を人が見たら、この人、電話の途中でトイレに行きたくなったんじゃないの、と思われる。  そんなわけで、そのせっかくの長い電話コードはムダになった。その場に立ち上がるのが精一杯で、一、二度たしかに窓際まで歩いてみたことがあったが、次にどう動こうかと考えてばかりいて、電話での話が上の空になってしまった。受け答えしながら、相手に不審に思われた。 「そこに誰かいるの?」  とか訊かれて、 「いや、誰もいやしないよ」 「そう、変ね」 「別に変じゃないよ、ちゃんと話してるじゃないか」 「じゃあテレビつけてるんでしょう」 「この部屋にはテレビないよ」 「ふうん、まあいいけど……」  という具合に、何か含みのある「……」を残してしまう。せっかくアメリカ映画の青年みたいにしようと思ったのに、ぜんぜんうまくいかず、それが何故なのかわからなかった。      *  要するに根が農耕民族である。空間移動が苦手なのだ。苦手というか、一個所にいるのが日常なのだ。ぼくの家は農業ではないのに、気が付くとぼくもそうなっている。  ぼくの家はサラリーマンの家庭だった。父は倉庫会社に勤めて転勤を重ねていた。東京、四日市、名古屋、横浜、芦屋、門司、大分、名古屋と、その間に一番上の姉などは小学校を四回も変ったほどで、むしろ狩猟民族生活であったのだけど、そんなのはしかし理屈の上のことだ。電話一本で農耕民族の証拠が、体の奥底からにじみ出てきてしまうのである。  でも最近はコードレステレフォンが普及している。あっという間に、気が付いたらどの家庭もコードレステレフォンになっているわけで、いまさら狩猟も農耕もないですよ、という意見があるかもしれない。  でもそうかな。コードレステレフォンはたしかに移動式だ。A点でも使えるしB点でも使える。でもアクションをまじえながら使うことはあまりない。受話器に向かって、 「何だって? 君がそれをやったんだって!?」  とか驚きながら、手を広げて、パッと振り返って別の方向に歩いたりはしていない。そういう電話途中の無意味な歩き、話とともにどうしても体が勝手に動くというような西洋人的歩きは見られない。  たしかに最近はみんな街で携帯電話を持っている。横断歩道を歩きながら話したりもしている。でもあれは歩きながらといっても、横断歩道を渡る途中であったり、駅の階段を降りている途中であったり、いずれにしろA点からB点へせっせと歩いている途中の電話で、用事で動いているのだから、ぜんぜん違う。話といっしょに体の動きが体の奥から湧いて出てくる、のとは違うことなのである。 [#改ページ] 粗国日本[#「粗国日本」はゴシック体]  粗国日本といっても、日本がダメな国だといっているのではない。最近ハヤリの自虐史観とは違う。たしかにダメになってきている面はある。最近の日本のワカモノ文化は、バカモノ文化だといわれるように、ほとんどが燃えるゴミのようになってきている。でもそれはテレビや雑誌メディアの目立つ部分で、ゴミ以前のものは、メディアから隠れて存在している。  メディアは公共性をもっているとはいえ、商品である。売ってなんぼの世界で、常に企業努力をしている。その企業努力とは、できるだけ目立つ紙面、目立つ画面を作ること。そのためにはできるだけそれをどぎつくすること。そのためにはできるだけどぎつい事件を探し出すこと。  どぎつい、という言葉が下品だというなら、衝撃的な、と言い替えてもいい。できるだけ衝撃的な事件を衝撃的に報道することによって、メディアの商品性は高まる。  穏やかな事件、善良な事件は、いくら報道しても商品になりにくい。商品性が低い。そもそも事件とは呼ばれない。だからメディアの表面にまで上ってこない。  テレビや新聞雑誌メディアがどぎつくなるのは、それぞれのメディアの気質も多少はあるが、そもそもはメディアそのものの宿命である。メディアの商品性の宿命といってもいい。  そうやってメディアにおける右肩上がりのどぎつさは、当然ながら世の中に波及し、どぎつさを日常とする世の中が出来上がっていく。それに負けじとメディアはさらにどぎつさをつのらせ、世の中もさらに……、というこれは、商品としてのメディアを持ってしまった世の中の宿命である。  メディアの宿命といったが、さらにさかのぼって表現の宿命ということが、いえるのかもしれない。  むかしある映画雑誌に映画評の連載を何年かやっていた。ぼくは映画が好きだから、どうしても映画の欲が深まる。そうすると見た映画の欠点ばかりが目立って、それがダメだダメだと書くようになる。良い点はいうまでもないので二の次になり、どうしても批判ばかりが強くなるのだ。そもそも物を評する人というのは、その物をダメだということで、自分の優位性を示そうとする宿命にある。そういう宿命丸出しの人の書いたものは、読んでいてどうしても鬱陶《うつとう》しくなる。  宿命というのは恐ろしいもので、自分が書いているときでも、文章がその作品の批判になると燃えてくるのがよくわかった。批判に燃えて、批判する表現に盛り上がって、じっさいに文章自体も活性化してくる。反対にほぼ百パーセント感動して評価したい作品の場合は、素晴しいというだけで、それ以上の言葉が湧いてこない。  酒場でもそうでしょう。電車の中でも、会社の帰り、あれこれしゃべりながら、会社の誰か、嫌な奴の悪口になると異常に盛り上がる。反対に良い人の話になると、別に盛り上がりはしない。良い人だね、で終る。そもそも良い人の話なんて出てこない。まあ良い人自体が少ないということもあるが、話でもそうで、文章でもそうなのだ。そもそも言葉というのは批判や攻撃で活性化するという嫌な宿命を帯びているのかもしれない。だから先にメディアの宿命といったが、もっと根源的には、人間の表現そのものが、どぎつくなる宿命をもっているのかもしれない。  そう考えると、亡くなられた淀川長治さんはじつに稀有な存在であった。  そんなわけで話はさかのぼるが、メディアを通して見る限り、日本はたしかに粗国、粗悪な国になってきている。でもそれがすべてではない。それは売ってなんぼの情報を通しての日本ということで、そこから売ってなんぼの与件を仮りに除去してみれば、まだしもクリアーな日本が見えるのではないかと、まあこれは希望的観測かもしれないが。  粗国日本と題した真意は、粗品の国日本、ということである。  盆や正月、というよりお中元やお歳暮のご挨拶として、日本では何か品物を贈る風習がある。それ以外にも、結婚や引越し、入学、海外旅行、とにかく何かというと、ご挨拶に代えて品物を贈ろうとする。  その物を本当に上げたいというのではない。あくまでもご挨拶である。そのご挨拶代りに品物を贈る。挨拶なら口で言えばいいのだけど、日本人は口下手だからか。ディベートといわれるものも、日本人は議論が本当は苦手だから、やりたくはない。でも挨拶は欠かせないので、というより義理は欠かせないので、品物を贈る。  その品物に「粗品」と書くのだった。それは日本では当り前のことで、いつものことで、ふつうの日本人には何でもないことである。だけどもしブッシュ大統領が、いや、ブッシュはもうだいぶ前に退いているけど、まあ行きがかり上、アメリカ代表としてご登場願おう。そのブッシュ大統領がそれを受け取ったら、怒るのではないか。  粗品ならわざわざくれるな。粗悪品をどうして持ってくるのか。君は礼儀を知らないね。  といったかどうか、字義通りに考えたら、そのように反応して当然といえば当然である。でも言われた日本人はびっくりする。いや、別に、そういう意味じゃなくて、あの、つまり、ほんのちょっとした、まあつまらない物だということで……。 (画像省略)  そう言ってもブッシュ大統領にはわからない。だから、つまらないとわかっている物をどうして私にくれるんだ。ほんのちょっとしたものなど持ってこなくていいです、それは失礼というものだ、そんなものをこそこそ持ってこないで、ちゃんと自分でいいと思うものを、堂々と持ってきたらどうですか。別にあなたに教えを垂れるつもりはないけど、でも粗悪品を上げるといわれたら、誰だって怒りますよ。  むしろブッシュはそこまで言わないだろう。怒ることの説明などせずに、怒ったところでぷいと席を立って、言語を用いないに違いない。言葉というのははっきりものをいうためにある。はっきりしないなら何もいうな。  でも言葉というのはそれだけのものではないと思う。思ったことを伝えるための馬鹿正直なだけの道具ではなくて、思ってないことも伝えようとする。いや思ってはいてもはっきり言葉にならない、それをしかし言葉で伝えようとする。伝えるというより、言葉でおびき出そうとする。とくに日本の言葉にはそういう性質があると思うがどうだろうか。  粗品というのは、とくにそういう意味合いの濃厚な言葉だと思う。粗品と上書きしながら、もちろん贈り主は粗品だと思ってはいない。相手のことを考えて、ちゃんと物を選んで贈ろうとしている。  そうでもないか。粗品をいただいて、じっさいに粗品であることも多い。たしかに高価そうで、ブランドとしても一流だったりするけど、じつはそれだけで、もらっても有難くないというのはたくさんある。みなさんそう思っている人は多いだろう。でもやはり何もやりとりしないわけにはいかないもので、もらった方もはっきり、 「この間のは本当に粗品でしたね」  ともいえないので、いちおう、 「いやあ、あんなに高価な物を、恐れ入ります」  という具合で、そうすると贈った方はそういう言葉に限って本気に、ブッシュ大統領的に受け取ってしまって、また次にも同様のものを贈ったりする。そうやってものごとをはっきり言えない間接話法の隙間に忍び込んで、日本では粗品産業というものが隆盛である。デパートなどは年の二回、お中元とお歳暮のお陰でもっている。年に二度の粗品景気という。  こういうことは古臭い年寄りの間だけかというと、若者もちゃんとこの伝習を引きついでいる。義理チョコとか義理チョコ返しの隆盛は、直接話法の民族には理解不能であろう。粗品と書いてあればまだしも、義理チョコには粗品とも書いてないのだ。粗品と書いてあれば、なるほど、裏返しの言葉ね、ふむふむ、まあ芸術の世界ではあることですよ、という具合に、時間をかければブッシュ大統領でも理解に到達できる。でもおそらく義理チョコは、それよりもっと難しいんじゃないか。何しろ聖バレンタインデイにチョコレートである。理由はというと義理があるから。何の義理かというと、よくわからない。信心のことでいうと、信仰は葬式仏教、もしくはウェディングクリスチャン。あるいは式だけ神道というわけで、じっと我慢していたブッシュ大統領もおそらくここで席を立つ。  困ったものである。いや、日本文化というものは。義理チョコはもちろん文化とはいいにくいだろうが、でも論理からの遊離が、文化の匂いにつながっている。  粗品となると、かなり文化であろう。単純に言葉の裏返し、反語的なシャレなんだと考えれば、それは芸術の世界ではよくあることだと、さっきブッシュ大統領もいっていた。つまり含みのある言葉ということで、これは日本の特徴である。 「いえいえ、とんでもありません」  といいながら、じつはほくそ笑んだりしている。いやそういう裏はあまり好きじゃないが、でも構造としては同じである。直接はいわず、直接の意味の中心をぐるりと避けて、反対側からちょんと突く。  その点では京都のぶぶづけというのが有名である。京都というのはご承知の通り、日本文化がもっとも古く、中世以来ずうっと現役を保ってきた町である。だから日本文化の特質というなら、その中で練りに練り上げられてきている。ぶぶづけというのは、ふつうにいうお茶漬けのことらしい。ぶぶはお湯のことであろう。一種の子供言葉で可愛らしい。で、いわゆる京都のぶぶづけとは何かというと、来客がだんだん長っ尻になって、そうも付き合ってはいられない、といって「ぼつぼつお引き取りを」とはやはりぶしつけに言えないというとき、 「まあ一つお茶漬けでも食べて行きませんか」  と、これを京言葉で柔らかく言うわけで、その真意としては「ぼつぼつお引き取りを」ということである。ところがブッシュ大統領の場合、もちろんそんな奥床しい真意なんて伝わらないから、それじゃいただきますと答えて、そうなった以上お茶漬けを本当に出さないわけにはいかないわけで、そうやってお茶漬けを食べてしまった人は、 「あの人は話の通じない人」  ということになり、次第に疎遠な関係となっていく。この場合はしかし、含みのある日本語といっても、相当煮含めた、ほとんど原形をとどめないほどの言葉だから、最初は東京人のぼくにもわからなかった。だからブッシュ大統領には同情するが、でもこういうことが日本の美学のスタイルとしてある。  直接言うことが何故そうもぶしつけになるのだろうか。 [#改ページ] チャウンチャウ[#「チャウンチャウ」はゴシック体]  粗品は裏返しの言葉ではあるが、その使用目的は、ぶしつけを避けるということである。京都の方で、というよりむしろこれは大阪の言葉、いわゆる関西の言葉だと思うが、チャウカ、というのがある。違うか。  つまり相手に直接、 「〇〇だよ」  というのではなく、 「〇〇と違うか?」  というわけで、この言葉はストレートではなくカーブというか、相手バッターの周りをぐるりと回ってストライクゾーンに入ってくるような、そういう高度なというか、屈折したというか、とにかく一筋縄ではいかない形をとっている。  とはいえこれは日常語であるから、日常感覚としてはふつうに、単純に「〇〇だ」と断定する意味を持って「チャウカ」と使われているんだと思う。といってぼくは関西に住んだことはなく、その言葉になじんだ機会はないのであるが、それだけに「チャウカ」という言葉が妙に感じるのである。このチャウカが高じると、 「チャウンチャウ?」  となるようで、これは言い替えると、 「違うのと違うか?」  というわけで、お中元の場合だったら粗品の粗品というか、超粗品というか、とにかく凄いものだ。そうまでして直接を避けるのか、正面を避けるのか。ぶしつけを避けるのか。避けるのはいいが、肝腎なことはどうなるんだ。結論するのを避けに避けて、先送りに先送りを重ねて、結局は時に解決させる。解決していただくという作法と、やはり重なるものがあるのである。  チャウカやチャウンチャウは、相手あっての言葉である。言葉はそもそも相手があってこそ発せられるものだが、チャウンチャウの場合、言葉のウエイトの、むしろ半分以上が相手側にかけられている。「我思う故に我あり」というような、自分だけの回転ではない。もちろん人間だから、我思う故の我なんだけど、その我が岩盤ではないのだ。むしろ舟みたいなものではないか。自分の言葉のウエイトを相手側に多く置くことで、周りに多くを委ねることで、自分は身軽になることができる。本来的に気の弱い、引込み思案の人間の工夫である。そこにこのチャウンチャウの味わいがある。ただ一方向の言葉ではない、往復的なふくらみが生じて、むしろ高級な、文化的な表現になっているのではないか。  宴席などで席の譲り合いがある。まず上座というものがあり、 「いえいえ……」 「とんでもありません」  の連発で、みんな上座を避ける。これは一つには年功序列というものがあって、それに基く譲り合いで、まあどこの国でもあり得ることだが、じゃあその上座というのが正面にあるかというと、ずれているのだ。日本間の場合は床の間であるが、それが部屋の正面にはなく、必ず正面からずれている。床の間そのものが、 「いえいえ……」  といって、正面にくることを避けている。  お花もそうである。日本では生花という。花は人種の違いなくみんな生けるものだが、ただその生け方が、日本の場合は違うのである。花はそれ自体が明るく綺麗なので、とにかく一輪でも飾りたい。二輪ならもっといい。たくさん飾ればそれだけ目出度い空気になるもので、余裕があれば大きな壺にいっぱい花を差す。綺麗な花をこんなにいっぱい、というわけで、テーブルの真ん中にどんと置く。あるいは壁面の真ん中にどんと飾る。いいものはいいというので、臆することなく飾られている。  西洋の場合はだいたいそのようであるが、日本の場合はちょっと違う。壺にいっぱい差して盛り上げたりはしない。できるだけ少ない一輪か二輪を、壺なら壺の端の方にそっと生ける。壺の壺たる空間の真ん中は空いているのである。その真ん中を避けるように、脇の方から斜めに生けたりする。まるで花が上座を避けて、真ん中を避けて、 「いえいえ……」 「とんでもありません」  といっているように、まるで花が何かを臆するように生けられている。  部屋の真ん中といい、壺の真ん中といい、真ん中には何があるのだろうか。何も見えないけど、触れてはならない何かがあるのだろうか。  まるでブラックホールでもあるみたいだ。見えないけど触れてはならないもの。避けなければならないもの。  日本のものはみんなそういう具合である。中心を外すことが、独特の美学にまでなっている。西洋のシンメトリーの美学に対して、アシンメトリーといわれている。  もちろん日本のものでも、建物やその他機能的なものは、屋根や門など、必要上シンメトリーの構造をもっている。だけど表現的なさまざまなものでは、常に中心を外そうとしている。  絵がそうである。シンメトリーの水墨画なんて、まずない。水墨画面の中心は常に空虚である。画面にあらわれたさまざまな画題は、常にその中心を避けるようにして配置されている。気の弱い、引込み思案の美学である。  もちろん人間だから、その描いた人の中には気の強さ、自己主張の強さ、野心の強さはあるだろう。絵師にしろ歌人にしろ、表現するものはだいたい自己顕示の力をもってあらわれてくる。でもその表現が唯我独尊のシンメトリーになることはない。水墨画など見ても、強さは強さであるけど、中心をぐいと避けて、どこか脇の方で暴れている。  中心にはおてんとさまがあるのだろうか。おてんとさまの投影があるのだろうか。  問題を先送りにするというのは、時が解決してくれるのを待つことである。もちろん時が直接解決するわけはなく、時がたつ間に問題がぐずぐず揺れて、収まる形に収まる。満員電車のばらつきのある混み具合が、電車が揺れるたびにぐずぐずと少し動いて、混み方が収まるところに収まる、あれと同じだ。  そういう問題の先送り、ムリな決断をせず、とりあえず先送りするという作法の、空間で発揮されているのがアシンメトリーの美学だろうか。問題を脇送りにする。一気に中心を攻めたりせずに、とりあえず脇にずらして息をつく。  チャウンチャウも、先送りの形である。時間的な先でもあるし、むしろ相手送りというか。自分で結論に一気に攻め込むことをせずに、とりあえず相手に送る。相手にパスする。中田のパス。  いずれにしろ「委ねる」ということが核になっている。自分は一息入れて、時間に委ねる。時に委ねるというのは、ほとんど自然に委ねるというのと同義語である。物や場所、空間というのは人間が作り変えることが出来るけど、時間だけはどんな人工の力をもってしても、作り変えることはできない。時だけは自然の特権であり、自分の力を抑えてその自然の流れに委ねるのは、むしろ男気というか、勇気である。  もちろんそれは勇気とは見えにくいだろう。自分の力をあらわにして、敵の正面に攻め込んで粉砕する、それがわかりやすい勇気であることは当然である。でもそれでどうなる。もちろんその敵はそこで一つ粉砕されるが、それは敵といわれるもののほんの一粒に過ぎない。  敵というのは作ればいくらでも湧いてくる。でも作らなければ、いつまでも眠っている。世の中の歴史の中で、敵は無数に生れ、無数に沈んでいった。でもいまだにその総量は変らない。  シンメトリーの真ん中からでは見えない自然の流れというものがあるのだと思う。とりあえず。粗品。煮つめて。いずれそのうち。チャウンチャウ。とかいろいろ優柔不断といわれる因子を含んだ言葉があるが、それは自然の流れをつかもうとする気持から、おのずと押し出されてきているものではないかと思う。  たとえば小津安二郎というのは、その点では衝撃的な映画作家だ。 「そうかい」 「そうだよ」  例の料理屋の二階座敷での、旧友どうしの会話である。例のといっても、どの映画かはわからない。どれも同じような設定のものばかりで、葬式の帰り、あるいは結婚式の帰り、旧友数人が座敷で酒を飲んでいるのである。お膳の上には料理が広がり、とりあえず腹は満たしたのか、みんなちびりちびりと日本酒を飲んでいる。みんな気の置けない仲の友だちで、話は子供たちの結婚や、身の処し方や何かで、 「そうかい」 「そうだよ」 「そうかなあ」 「きまってるじゃないか」 「でもなあ」 「そういうことだよ」 「まずいなあ」 「まずくはないよ」 「いやまずいよ」 「いやまずくはないって」 「そうかなあ」 「そうだよ」 「そうかなあ」  という具合に、何をどう論理的に解決するというのでもなく、ただただゆっくりと日本酒を飲みながら、寄せては返す話が流れていくのみ。ただただ優柔のときが、不断に流れつづける。 (画像省略)  そこに並んで思い浮かぶのは、モノクロ画面につつましく、ひたすら繰り返し繰り返しつづいていく、あるテニスの光景だ。  もう二十年も三十年も前、ちゃんと数えれば四十年以上も前のことか。世の中にテレビがあらわれ、まず人々を釘付けにしたのは力道山のプロレスだった。つづいてぐーんとテレビの普及率を上げたのが、皇太子の御成婚であった。現天皇と美智子皇后。お二人はテニスで結ばれたということで、ご婚約のころの時代の若いお二人が、テニスに興じている光景がテレビに映し出されていた。これが見ていてじつに堅実なテニスで、来た球を確実に受けて返す、来た球を確実に受けて返す、来た球を確実に受けて返す。とにかくそれだけがえんえんとつづくのである。  いやえんえんと、そんなに長くはテレビに映っていなかったと思うが、その印象はえんえんである。とにかく来た球を真面目に受けて返す。決して打ち込んだりはしない。ひたすら受けて返すことだけに専念している。そのうちどちらかが受けそこねて負けるが、それはむしろ勝ってしまって申し訳ないという感じで、また穏便な、確実な受けのテニスが繰り返されていく。  それを試合としてみれば、変化のない、退屈な、平板なテニスということになる。でもそれはもう試合を超えていた。勝ち負けではなく、ただひたすら来た球を受けて返す、来た球を受けて返す、それを絶やさず、あとはすべてを時に委ねながら、とりあえず、煮つめて、いずれそのうち……。  天皇というのは難題を委ねられる存在である。その構造をかいま見たような気持だった。委ねられる存在の内部で、ひたすら時に委ねる装置、いわば時計のテンプのようなものが、絶え間なく着実な往復運動に励みつづけている。 [#改ページ] 日本の中の世界[#「日本の中の世界」はゴシック体]  しかしどうしてそう日本のことばかりにこだわっているのか。もっと世界に目を向けて、グローバルスタンダードで。  というようなことがよくいわれる。でも世界に目を向けることは、日本に目を向けることなのだ。何故かといって、いまや世界は島国である。かつては世界に羽ばたくといえば、無限の広がりの中に出て行くことであった。でもいま世界に羽ばたくといえば、島国に羽ばたくことである。  原爆という地球規模の武器によって、地球という島国を実感することになったのは、前述の通りである。  島国は限りある世界だ。ゴミを捨ててもすぐにわかる。でも各国はまだ諦め切れずに、核のゴミを何とか不法投棄しようとして、地球の球体上を探し回っている。でもムリなのだ。自分で出したゴミは自分で食べるしかない。それが島国の鉄則である。  日本は島国の先進国だ。地球の先輩である。グローバルの大先輩。とりあえずビール二本ぐらい。いずれ日をあらためて。その問題はもう少し煮詰めて。ちょっと間を置いて。そのうちおいおい。それはちょっと。チャウンチャウ? そういう優柔不断のパラダイムを、長い歴史の中で創出した国である。その国に生れたのは幸か不幸か。  でもこの国の中にしか、未来図はないのである。とりあえず、なんて煮え切らないやり方は自分の美学に反する、もっと潔《いさぎよ》くパッと、という気持はわかるが、パッと散らしたゴミは、そのあと自分で片付けるしかない。  人間を膨大に増やしたのだからしょうがないのだ。それだけ人権も増えたのである。人権は地球より重いとすると、人類は人権を背負って消滅するのみ。優柔不断なんて情けない、貧乏性なんて嫌だといっても、人類はそれを避けては通れない。  しかし島国というなら地球上のどこにでもある。なのに日本のことばかりにこだわっている。それこそ独善的ではないのか。というご意見はあろう。たしかにみんな、誰だって、自国にだけは詳しい。自国以外のことはあまり知らない。だからそのご意見ももっともなのだが、でも日本はただの自国だろうか。と考えるとちょっと違うのである。島国地球の大先輩、ということもあるが、それだけではない。  もう二十年近く前だけど、あるところでカンヅメ仕事をしていた。一つの仕事を抱えて一室にこもり、担当編集者に監視されたり世話を焼かれたりしながら、こつこつと仕事を進めるのである。もちろんこちらも、その仕事を望んでやっているんだけど、でも人間だから、こつこつが無限にはつづかない。ときどき根が尽《つ》きて、あーあと背伸びする。伸ばしたついでに床に転がり、転がったついでに昼寝したりする。まあ、人間だから、しょうがない。  目が覚めたらSさんがいる。担当編集者のSさんである。監視といっては悪いが、様子を見に来たのである。申し訳なさそうに笑って、机の上を見ている。机の上に何か地図をコピーしたのが置いてある。よく見るとぼくのではない。 「何これ? Sさんが持ってきたの?」 「ええ、ま、ちょっと、気晴しにと思いまして……」  地図のコピーだけど、ちょっと妙な具合だ。世界地図が大陸ごとに切り抜かれて、妙な位置にコラージュされている。だいたいの並びは同じだけど、ちょっと位置がずれたり傾いたりしている。 「何これ?」 「いや……」  Sさんはふっふっと笑っている。 「いやちょっと、息抜きに、気晴しにと思いまして」  何かのクイズなのか、それとも不思議ないたずらなのだろうか。 「いやAさんがカンヅメだといったら、友だちのYがこれを持って行って見せろと」  YさんはSさんの学友で、いまは作家というか、まあ学者である。 「しかしこれ……」 「あのう、日本地図に見えないですか」  一瞬わからなかったが、すぐにピーンときた。 「あ……」  こんなのを見せられたのははじめてである。真ん中にいわゆるユーラシア大陸があって、これがじつは本州である。左にアフリカ、下にオーストラリア、その距離がぐっと縮められて、これがじつは九州と四国。そしてユーラシアの右につながる北米大陸が、そのままぐっと上に来ていて、北海道。ここがいちばん地図を押しずらした感じで変だけど、大筋の位置としてはその通りだ。 「ええー!?……」  ピーンときたというのは、ぼくも小学校の授業中に考えていたのだ。退屈まぎれに地図をぼんやり見ながら、オーストラリアって四国に似ているなあと思っていた。偶然ってあるもんだなあと思っていた。それともう一つ、アフリカって何となく九州に似ている。自分はそのころ大分にいたから、その部分を見ると違う。下の端の割れた鹿児島湾もないから細かくは違うけど、でも全体に左肩がぐっと上がっているところなど、何か似てるな、と思っていたのだ。  それともう一つ、北海道の右端の根室のところと、アメリカの左端のアラスカのところと、裏返しだけど何だか似ている。左端の函館のある二股の半島と、メキシコの先のユカタン半島も何だかよく似ている。まあ陸の形なんてぎざぎざだから、似たところもあるんだと思っていた。そんなことは人に言うことでもないし、聞くことでもないし、だから誰とも話したことはなかった。しかしそれからウン十年、いきなりこれである。 「ええー、こんなこと考えてる人がいるの……」  Sさんはまたふっと笑いながら、 「エベレストが富士山です」 「え? そこまで……」  たしかに位置的にそうだ。 「琵琶湖がカスピ海」 「うわ……」 「能登半島がスカンジナビア半島」 「うーん、その通りだ……」  位置的にはそのまま重なる。面積比はもちろん違って、地図的にはヨーロッパがぐっと凝縮して狭い。でもそれだけ、そのゾーンの文化の密度を思うと、バランスはとれている。 「何これ? Yさんが考えたの?」 「いや、彼じゃなくて、この地図を直《じか》に切り抜いちゃったのは彼だけど、もとは大本《おおもと》教です」  Yさんは専攻が宗教学で、ぼくも何度かトマソンのことで交流がある。いまはM大学の教授だけど、そのころは別のところで講師をしていた。トマソンという、路上の無用物件探しのナンセンス感覚で通じていたものだから、こういう地図のアナロジーも面白がるんじゃないかと、持たせてくれたらしい。 「面白いねえ……」  大本教といえば戦前に弾圧を受けた宗教団体で、その教主の出口王仁三郎《でぐちおにさぶろう》が神がかりの状態で書いた「霊界物語」の中に、この地図のアナロジーのことが出てくるらしい。  宗教の、とくに新興宗教となるといろいろ怪し気や不思議があるものだが、しかしぼくも後でダイジェストで大本教の歴史を読んで、その不思議がじつに面白かった。そのことに興味をもった先人はたくさんいて、それをモデルにした小説もいくつか書かれている。でもぼくはそのとき何も知らなかった。荻窪に「邪宗門」という喫茶店があって、変な名前だなあと思うだけのまったく無知な人間であった。  無知はいまも変らないが、でもこの地図のアナロジーだけは非常に面白い。不思議である。世の中にいろんな不思議はあるが、これはかなり不思議だ。  ぼくは前に岡山県の牛窓《うしまど》というところに行ったことがあるが、夜着いて車でえんえん行ったのでどんなところかわからなかった。一晩寝て窓を開けたとたんに、 「うわァ、綺麗! エーゲ海だ!」  と思ってしまった。まるで地中海。でもじっさいには瀬戸内海である。だけど海の色といい、点々とある島影といい、空といい、爽々しさの極致でほれぼれした。それを思わず「エーゲ海!」と、自分で見たこともないのにそう考えてしまうのは、西洋コンプレックスの悲しいサガでもあるが、でもその感覚は正しいと思う。聞くとその牛窓という町は、地中海のミティリニという町と姉妹都市を結んでいるそうで、いまは向うと同じオリーブの産業が栄えている。  細かくいうときりがないが、地中海が瀬戸内海で、その上の山陰北陸は、やはり北欧である。冬は寒さ厳しく、どんより曇った空に荒々しい海。夏でも急に曇って俄か雨が降ったり、雹《ひよう》さえ降るときがある。北欧にはまだ行ったことがないが、でもイメージの上でほとんど重なる。  とにかくそんなヒントをもらって、それからは仕事もそっちのけで、ずうっとその類似を探索していた。地勢的にムリなところが価値的には通じたりしていて、地勢図と文化図と歴史図と、そうやって地図を多層構造で伸縮させていくと、ますます世界地図が日本地図に重なってくる。南米大陸はどうなるのかというと、その神がかり書の中では台湾ということになっている。ちょっと苦しい。でも地勢図の流れに沿って考えれば、まあそうなるかもしれないわけで、ぽったりとした地図上の形はやはり双方どことなく似ている。  北米大陸と北海道の類似には驚いた。位置や形態も似ているのだけど、この双方の歴史を思って愕然《がくぜん》とした。アメリカの西部開拓史というのは、せいぜいまだ二百年前のことで、ヨーロッパから渡った先進国の白人たちが、先住のインデアンを押しのけながら、新開発の国を築き上げていった。北海道もほとんど同じ歴史をもっている。何故似てしまうのか。  青森、秋田、山形といったところは気候的にも厳寒のシベリアである。  伊豆半島とインド。そういえばあの辺《あた》り、お茶の産地ではないか。  アフリカで旧名奴隷海岸というところがある。子供のころ、凄い名前だと思ってこわごわ眺めていた。そうしたら最近聞いた話では、日本に南蛮渡来の船がやってきたころ、長崎のあの辺りで同様の試みがあったという噂を聞いた。  ちなみに長崎といえば原爆被災地。これをこの地図で考えると、アフリカのモロッコ辺りに原爆が投下されたことになる。その前の最初の原爆投下は、おそらく地中海に面したマルセイユ辺りではないだろうか。 (画像省略)      *  その後それを教えてくれたYさんと話したりしながらまた盛り上がり、そのテーマでトークショウをすることになった。ある書店のコーナーで、聴衆は五十人くらいだから気は楽だ。まずはぼくの生い立ちを材料にした。ぼくは横浜で生れて、芦屋、門司、大分、名古屋、そして東京という遍歴なので、それをそのまま世界地図でやろうというこんたん。 「Aさんはたしか、お生れは上海でしたね」  というYさんの切り出し。 「ええ、上海で生れて、でもあそこは一歳ぐらいしかいなかったので、ぜんぜん記憶にないんですけど」  と受け答えすると、聴衆の中に慌ててメモ帖を取り出す人がいる気配。聴衆はみんなYさんと私の読者だから、よほど驚いたらしい。  横浜の世界位置についてはけっこう考えた。まずユーラシア大陸を眺めていると東京は中国であり、そこで外に開かれた港町というと、おのずから上海となる。じゃあ香港は、というまあ細かいことは各自ご研究のほどを。 「それで上海のあとイスタンブールへ引越しまして、ここはけっこう覚えているけど」  この芦屋の位置決めにも苦労した。地中海のあの辺はいろいろくっついたり離れたりしていて、日本地図と合わせにくい。黒海はどこなのか、イタリアはひょっとして淡路島か。いやもっと左の広島だな。ギリシャが岡山。これはイメージできる。しかしそうすると。  とにかくこの辺りは歴史上でもいちばん浮き沈みの激しいところで、地形的にもつかみにくい。だから方向を変えて、まず大阪はどこだと考えた。大阪、大阪、商業の町、大阪商人……、ん?  ベニスの商人、という言葉が頭に浮かんだ。そうだ。ユダヤ。イスラエル。そうすると芦屋はその隣のイスタンブールでどうだろうか。 「その後また父の仕事でジブラルタルへ引越して、次がエチオピア。当時まだ関門トンネルが出来ていなくて、船でジブラルタル海峡を渡ったのをよーく覚えています」  だいたいこの辺りで聴衆もくすくす笑いはじめた。 「結局エチオピアで幼稚園、小学校、中学校と過したわけで、じつは大東亜戦争の爆撃がここまできましてねえ」  もう大笑いである。 「戦後はまた父の仕事でバグダッド。ここで高校を出まして、あとは上京。そう、北京ですね。北京の左の方の四川省に中央線が走っていて、そこの武蔵小金井というところにまず下宿して……」  そうやって考えていくと、ますます符合していくから不思議だった。  といってこれは科学ではない。イメージ上の遊びである。でも形のアナロジーがあり、風土のアナロジーがあり、やはり不思議な入れ子構造というか雛型構造が、見ようとすれば見えるのである。  自国が世界の中心であるという考えは、どこの国でもあるだろう。それが国粋主義やその他に発展したりもするわけだが、この場合はそういう観念の固まりとは違って、実物照合の糸口があるところに、何かしらクリアーな不思議を感じるのである。自国を神秘化するのは一方で危険なことではあるのだけど、でもこの自国をただの自国としてすませるわけにはいかない。自国一般以上の自国として、この国の研究課題は多い。 [#改ページ] 貧乏性世界地図[#「貧乏性世界地図」はゴシック体]  ここでちょっと、貧乏性の発生について考える。  もとはやはり貧乏である。とにかく物がない。そうすると物を大事に使う。裕福なところではとうに捨てるようなものでも、もったいないから捨てずにとっておく。すり切れたセーター。穴の開いた靴下。皺の寄った包み紙。峠の釜飯の空いた釜。  戦時中は本当に物がなかった。日本はそもそも資源の少ない国だから、戦争状態に突入すると、金属その他の資源の輸入がとだえる。そうすると一気に物資欠乏症におちいる。それはしかし貧乏とはちょっと違う。  貧乏というのは、よそはお金や物があるのに自分にはないという、いわゆる経済格差によるコンプレックス状態。  だから戦時中の状態は、貧乏性とはちょっと違う。たしかに金がなくて貧乏ではあったが挙国一致で全員が貧乏だった。いやもちろん裏はありますよ。そうはいいながらも陰で、お金持のままこっそり生きている人はいたと思う。でもやはり戦争突入だから、平常時に比べたら全員が物資欠乏の貧乏で、全員となると貧乏の感じが薄い。物がないのは承知の上で、やむにやまれず戦争状態に突入し、貧乏状態に突入していったのだから、いわば前のめりの貧乏で、となると本当のコンプレックス付きの貧乏とはちょっと違う。  でも現象は似ている。細かい物でも捨てずにとっておいて、廃物利用に励む。それを節約といっていた。お金の倹約、物の節約。当時の婦人雑誌などに、廃物利用の方法などがこと細かに載っていた。使った割箸をとっておいて、それでパンツを干す方法とか、すり切れて穴の開いたストッキングを捨てないで、乳当て(ブラジャー)を作る方法とか、何人がそうしたかは知らないが、盛んに載っていた。まあそういうものを載せることで、節約の教育的効果はあったかもしれない。  金属の供出というのがはじまり、町に建っている銅像はもちろん、各ご家庭にある鍋釜ヤカン、ナイフ、スプーンなど、最低限必要なものだけ残して後はみんな持って行った。それで飛行機、軍艦、大砲を造るという。ほとんど泥縄ではあるが、ほかにないというなら仕方がない。あのころはみんな、いまに比べたら正直実直で、挙国一致のマインドコントロールを叩き込まれていたから、みんな真面目に供出した。トラックが来て、がらがらと荷台に山と放り込まれて、いまでいうとビン・カン回収の日の大規模なやつである。  いまだったらどうだろう。当時よりぐーんとたくさん回収できる。それで軍艦や戦車を造ったらどのくらい出来るのだろうか。  いまだったら供出の対象になるのは何といっても車だ。マイカー。あれは見栄で持っているのが多いので、本当に必要なのかと、憲兵隊が来て突っ込まれると、どっと供出品は増える。週に一回しか乗らない車は全部供出、という規約を設けたら、日本でも軍艦が相当建造できるんじゃないか。  閑話休題。そういう戦時などの切羽詰った物の節約は、様態としては貧乏性みたいだけど、中身は貧乏性ではない。当然の合理主義である。理にかなっている。だから状況が回復して、物があふれてくればそれで直る。  貧乏性というのは、状態は既に貧乏ではないのに、それでもこまごまと物を溜め込んだり、くよくよと細かい工夫をしたりということの出てくる性質。  シンボルは輪ゴムだ。戦後の物資がないころ、継ぎ目のない輪ゴムなんて大変な貴重品だった。その感覚が強く焼き付いて習性となっているのか、いまも買物から帰ると、袋をほどいて出てくる輪ゴムを全部捨てきれずにとっておく。とりあえず、台所の水道の蛇口にひっかけておいたのが、いつの間にか溜りに溜って、夏などは半分溶けて粘着した固まりになっている。それでもなお、買物から帰るとそこにかけてしまう。 (画像省略)  こういうことはよくあるもので、うちのお母さんは、ぶどうを買ったときの透明なべかべかの容器をとってある。いずれそれで金魚を飼うとか、水彩画を描くとき水入れにするというが、そのようなことはまず一度もないという。その積み重ねたのがもう台所の片隅で一メートルの高さになっているという例。  うちのお母さんは新聞に入ってくるチラシの裏の白いのを、何かメモするときに使うつもりでとってあって、それがもう押入れいっぱいになっている。一生かかってもメモできないほどの分量だという。  うちのお父さんは、古新聞をチリガミ交換するつもりでとってあって、その交換レートが下がったものだから古新聞が溜りに溜って、家の廊下が狭くなって横にならないと通れないという例。  こういう貧乏性はもちろんぼくにもあるから、油断するとはまり込むので気をつけている。仕事を終ってビールを飲むとき、前はおつまみの定番がベビーチーズだった。消しゴムくらいのが四つ入りパックで、それを揃えるために短冊状の厚紙が入っている。裏が白なので捨てきれず、何かに使えると思ってとっておいたら、だんだん溜った。二回ほど何か書いて使ったけど結局はただひたすら溜るだけで、こんなことはもうやめようと、ある日決断して、その溜った裏白の厚紙を、もったいないけど、 「バッ」  と捨てた。何か大盤振舞いするような気持だった。      *  貧乏性は恥しいことだといわれている。優柔不断も恥しいことだといわれている。その点で両者似ている。似ているというより、両者同じ生い立ちである。からみ合っているわけで、考えることの優柔不断が、物の世界で貧乏性となってあらわれてくる。  物を捨てるのがもったいない。これは正しいことである。物は大切にしないといけない。ではどうするか。急には結論が出ない。とりあえずとっておこう。というので輪ゴムが溜ったりして、貧乏性がふくらんでいく。でも正しいことに変りはない。物は大切にしないといけないのだ。これからの地球人類、貧乏性を避けては通れない。輪ゴムをどんどん捨てていくと、人類は滅亡する。いや輪ゴムだけで滅亡するわけじゃないが、むかしトレンチコートというのが流行っていた。ソフトをかぶって、トレンチコートの襟を立てて、そういうのはハンフリー・ボガードがよく似合っていた。古い話でご免なさい。でも夜である。街灯の下で人待ち顔で立っていて、タバコを吸っている。そこへ待ち人があらわれ、ハンフリー・ボガードは吸っていたタバコを指でつまんで、ピーンと指ではじいて飛ばして、そちらには目もくれずにあらわれた人を見据えて歩きはじめる。そういうシーンが「お、恰好いい」という感じでよく映画には挿入されていた。  もったいないことである。まだほとんど吸ってないのだ。一息吸っただけのタバコをピーンとはじいて捨てて、でもそれが恰好いいとされていた。それがもったいないからといって、地面でねじって消して、それをポケットに入れてから歩いていくんでは貧乏くさい、貧乏性だといわれるのである。  でもそうしないと地球人類は滅亡する。いやタバコ一本で滅亡するわけではないが、でも恰好つけるためにほとんど新品のタバコをピーンと捨てる、というわけにはいかないのである。地球資源はもう明らかに底が見えてきている。なのに、産業廃棄物をはじめとするゴミは連日山のように出ている。せめてタバコを地面で消してポケットに保存して、またあと一回か二回吸わないとどうしようもないのだ。いやタバコはやめればいちばんいいのだが。  まあともかく、でも、それでは恰好がつかない、という問題がある。人間は何にしても見栄を張りたいもので、見栄というのは相当なムダを必要とする。見栄の必要経費というのは、計上してみれば大変なものだ。生活のムダを省くには、まず行政改革よりも見栄改革だといわれている。まだいわれてはいないが、論理的にはそうなる。  でも論理だけでは仕切れないのが人間で、俺は貧乏性なんて嫌だぜ、ということがあるのだ。タバコを地面で消してポケットに入れるなんて、できるか! という見栄怒りというものが発生する。人類が滅亡するというなら、滅亡すればいいじゃないか。吸い殻を吸ってまで生きていたくはないぜ、俺は。という問題である。  つまり選択肢は二つある。あくまで貧乏性を忌避して、地球資源をざくざくと使い捨てて滅亡するか。それとも貧乏性といわれてもめげずに、ムダのない生活を編み出していくか。  要するに太く短く生きるか、細く長く生きるかという問題で、個人のことならその人の勝手ということになるけど、地球人類は個人がたくさん集まっているから困るのである。  いずれにしろ人類の存続のためには省エネ、省資源が不可欠だけど、その実現にあたっては見栄問題を避けては通れない。省見栄というのがいかにして可能なのか。これは裏返せば、貧乏性のワクチンを受容できるかどうかの問題にもなる。  省見栄。  つまり見栄張りの根絶ではない。それは必ず失敗する。美学を捨ててしまった人間となると、生きる楽しみがおぼつかなくなる。だからそうじゃなくて、プライドがある以上、どこかに見栄を張るわけで、それをどこに張るか。張り方によっては人類滅亡を回避することもできるはずで、それが省見栄と申しますか、つまりは貧乏性ということにもなるのだった。      *  どうもしかし、貧乏性というのも、優柔不断と同じくこの日本にとくに濃い性癖としてあるような気がするけど、どうだろうか。  貧乏性というのは馬鹿では芽生えてこない。いや馬鹿というか、つまりあれこれ考えるからこそ貧乏性となるのであって、考えなければ貧乏性にはならない。だから頭の働かない人に貧乏性はない。何とかムダをなくそう、工夫しよう、何かに利用しよう、という考えがモトにあるから輪ゴムも溜るのであり、考える形としては合理主義に根ざしている。きわめてまっとうなことである。ただし先でちょっとズレる。  日本人は細かい工夫に長けている。道具にしろ事のやり方にしろ、他国の人が見て目を見張るものがずいぶんある。漢字を取り入れておきながらそれをさらに有効利用する平仮名を作り上げたなんて、その最たるものだろう。表意文字に加えて表音文字を使うというハイブリッド表記法を編み出した、おそらく世界最初の国民である。  いや自慢するわけじゃないが、細かく頭の働く国民なのだ。だけどだいたいにおいて気が弱いというか、お人好しというか、貧乏性に流れやすい。島国的な、おのずからの環境順応ということもあるし、温暖な場所でのおっとり感もある。まあ頭の働きやすい環境だといえるのかもしれない。決して裕福ではなく、といって苛酷というほどの土地柄でもない。頭はちょこちょこ働いて、まあそこそこやっていける、という状態がこの日本列島にはあるのである。  でもよそはどうなのだろう。貧乏性。西洋にも貧乏性はあるのだろうか。そりゃあるだろう。人間、頭がある以上、考える。場合によっては考え過ぎる、ということにもなるわけで、戦争や飢饉など苛酷な時代にあれこれ考えていた頭が、苛酷が通り過ぎた状況になっても、その考え方だけは発展していて、ふと見たら貧乏性が発生している、ということは西洋でもあって当然である。しかしアメリカに貧乏性はあるのだろうか。  ここでふと考えてしまうのだ。広大な土地、裕福な資源、歴史の重圧抜きの自由な気分、征服開発のやり放題の土地柄で、貧乏性なんてあるのだろうか。  どうもないような気がする。アメリカのシステムキッチンの流しの水道の蛇口に、輪ゴムが溜ってこびりついているなんてことがあるだろうか。裏の白いチラシの紙が、溜りに溜って押入れいっぱいになっているなんて、押入れはないけど地下室にいっぱいなんて、あるだろうか。  と考えるけど、どうもそういう情景が浮かんでこない。アメリカという場所にふさわしくないのだ。いやこれはただの印象だけど、印象には見えないデータが詰まっている。だからどうも、貧乏性というのは、どこにでも発生するというものではないらしい。日本に色濃く発生していることは事実だけど、ほかはどうなんだろう。そう考えて、ぼくは世界地図を広げた。  南洋の椰子《やし》の木陰地帯というのがあって、何となくのんびりしている。ふつうに考えて、あの辺りで貧乏性はないだろうと思う。水道の蛇口に輪ゴムなんて、そういうチマチマを考えつかない。いや輪ゴムに限ったことではないが、日本だって夏の暑いときには南洋状態になり、もう細かい考えは嫌になる。適当でいいじゃないかと思う。ごろんと昼寝したくなる。それに南は何といっても豊かである。果物は実るのが早いし、腐るのも早いし、とっておくという考えが生れにくい。というので世界地図の熱帯地方を塗り潰した。まずこの地帯で貧乏性の発生はないはずだ。  あれこれ考えるのはやはり北である。南に比べると、やはり植物だって縮んでいるし、豊かさには欠ける。そのかわり寒いから腐りにくい。保存しやすい。ということはできるだけムダを出さぬように、いろんな工夫を考えることになる。それに寒いと頭も働く。頭寒足熱といって、人体でも頭は冷やした方が冴えるわけで、地球でも北方の方が頭は働きやすい。南方は頭も働きにくいし、働かせる必要度も低い。だから、歴史上の侵略というのは、だいたいにおいて北が南に攻めている、という説もある。 (画像省略)  むかし米ソの冷戦というものがあった。アメリカとソ連の、互いに核兵器を構えての対決と緊張、という構図のもとに、大戦後の世界政治は時代を維持してきたわけである。そのソ連が持たなくなった。もう冷戦はやめよう、というので両国が歩み寄り、最終的に握手するわけだが、これは難しい瞬間である。それまでいがみ合っていたものが、頭を冷静にして話し合う。  その歴史的会見の日、その会場が何とアイスランドのレイキャビクという、写真では氷上の凍りついたような小屋だったので、それを新聞で見ながら何か変な感じがした。そんな重大な会談を、どうしてそんなところでするんだろう。  もちろん警備の問題やいろいろあってそうなったのだろうが、しかしそこが正に頭寒足熱の生理に照らして、世界の頭脳が冷静に出合うべく運命的に用意された所なのだと、そう受け取れるような文章を書いていたのが、発生生物学の故三木成夫氏だった。ぼくは何かでそれを読んでびっくりした。え? そういうふうに考えるのか。  まあそんなわけで、北方は頭がしっかり考える場所である。ただし氷の世界まで行ってしまえば、もう状況は厳しくて貧乏性どころではない。必要と実用の考えから遊び出る余裕はないだろう。  というのでこんどは世界地図の寒帯地方を塗り潰す。この地帯も貧乏性は出にくいはずだ。残るはいわゆる温帯地方。日本も入るしフランスも入るし、いわゆる文明先進国はみんなこの中からだ。この温帯のどこで貧乏性が、と思って見るが、この中には日本もあるけどアメリカもあるのだ。中国もある。中国というのもアメリカ同様、貧乏性とは違うみたいだ。大国であり、面積だけでなく人間も「大陸的」といわれるようにどーんと大きい。ちまちまはしてない。料理を食べるにしても、食卓上をできるだけ食べ散らかした方が良しとされる。どうも貧乏性とは無縁なようだ。  うーん、と考えてヨーロッパを見る。ヨーロッパはけっこうこまごまと分かれて、アメリカや中国とは違う。それを一つずつ見ているうちに、はたと気がついた。  ドイツ。  合理主義の最たる国で、その最たる部分が既に合理主義をはみ出している。皆さんあまりご存知ないだろうが、たとえばドイツ国のライカというカメラに付属する無数ともいえるアクセサリー類の品揃えは、ほとんど経済を超えて病気的な症状に達していると思う。大戦中の強制収容所など、あの処刑者の眼鏡の山を見ただけでも、いやこれは悪例なのでやめておくが、日常生活でも細かい気配り、工学的発明工夫はいたるところで見られて感心する。ときには感心を超えて唸《うな》る。唸るのは、既に貧乏性の発露を見て唸っているのだ。  そうか。東の日本、西のドイツ。これは貧乏性の両横綱だ。これに引きかえ、米、中、ソなど連合国側はいずれも大国である。日本やドイツに比べてみれば、国土も大きい不動産大国。ということは、あの第二次大戦は、貧乏性連合対不動産大国との戦争であった。  その先詳しいことはもっとちゃんとした学者の理論におまかせするが、なるほど、三国同盟から最初にイタリアが脱落したのもうなずける。イタリアはもともと貧乏性が稀薄だ。すると最後まで抵抗した日本は、やはり世界最高の貧乏性国か。  もちろんこれは冗談である。  しかし冗談とはいいながら、こんにちでもこの構図は変っていない。大戦は日本が二発の原爆を投下されて、二つの都市が爆死して終った。この島国日本の尊い犠牲によって、地球全体がじつは一つの島国であることを明示したのは、前述の通りである。でもその自覚をどれほどの人が持っているのだろうか。島国の特性である貧乏性と優柔不断、そのワクチンを、果たして「決断大国」のアメリカに注射することができるのだろうか。 [#改ページ] 決断疲れの現代人[#「決断疲れの現代人」はゴシック体]  ぼくたちは好むと好まざるとにかかわらず、現代人である。いやあ、おれは現代人なんかじゃないぞ、古代の野蛮人だ、といっても、気持はわかるが、現代に生きているからやっぱり現代人だ。  現代人の特徴はいろいろあって、ひとつは常に決断を強いられるということである。やるのかやらないのか、はっきりしろ、といわれる。食べるのか食べないのか、行くのか行かないのか。ちゃんと決断しないと周りが困ります、といわれる。 「十日までに決めて下さい」  というようなことをいわれる。十日って何だろうか。  まあいろいろあるが、紅茶を注文すると、 「レモンですか、ミルクですか」  と訊かれる。こちらはその場合、コーヒーじゃなく紅茶であることがまず必要なくらいで、レモンかミルクはまあとりあえずどちらでもいいんだけど、ウエイトレスはキッとした顔で決断を待っていたりする。  いやウエイトレスを責めるわけじゃないが、いったいどちらがいいんだろう。やってみないとわからないことが多いのに、まず決断である。何となく出てきたものでいいと思っていても、まずは頭で考えて、人工的に決断しないといけない。そうでないと優柔不断なダメな人間、という烙印を押される。  コンピューターのオン・オフである。イエスかノーか、その中間がない。万物がリンクした上でのダイナミズムというものがない。決断というのは人工的なものである。人工だからダメ、というのではないが、人工的な決断だけが横行していいのだろうか。  もちろん人工の力は必要である。人間は人工物への努力でここまできた。ダムを造ったり、飛行機を飛ばしたり、こんな立派な人類になれたのも人工的な力のお陰だ、といわれる。そういうことは人間にだけ出来ることで、動物には出来ない。だから動物は馬鹿だと、あえていいはしないが、もう当然のようにそう思われている。でも動物は馬鹿だろうか。  いや、わざと人間に抵抗しているのではない。あえて異論をとなえようとしているのではなくて、ここのテーマは決断への疑惑である。決断とは人工的な決定であり、人間の力の偉大さを示すものだといわれている。偉大なる決断、というものが歴史上にはあるもので、それはたしかに想像するに、偉大である。でもそういうのは稀である。むしろ何となくいろいろやっているうちに、いつの間にかそうなってきた、何となく収まるところに収まってきた、というのが多い。歴史上の目立たないことはほとんどがそういうものだ。とくに決断を経由していない。  でもそれでは人間、収まらないものがある。人間はいつも物語を欲しがる。一種のスター願望である。どこかで偉大なる決断があったという、「決断」というスターへの願望があるもので、そのスターにサインして欲しい、いっしょに並んで写真を撮りたい、握手してもらえますか、とかいって握手して、 「うわァ、本物と握手してるウ……」  と自分で自分に言ったりして、それで何とか決断力にあやかろうとしている。  決断力はスターだ。  でもスターは常に演じられる。スターはスターを演じることでスターになっている。演じることでスターを維持している。  決断は演劇である。決断力は決断を演じることで決断力だと思われている。  アメリカがミサイルをぽんぽんと発射している。あれがどうも演劇に見えてならない。決断力を演じているように見えてしょうがない。自分が決断界のボスであり、この世はすべて決断で動いている。それを見せるための空撃《からう》ちとはいわないが、ミサイルの見栄撃ち、義理撃ち。  戦争は人を殺すことである。ミサイルはその道具である。でもアメリカは何だか人を殺さないようにミサイル攻撃をしている。  いや、人を殺せというのではない。人は殺してはいけない。それは常識である。何故いけないのかというような質問を、高校生にさせてはいけない。そういう質問を成り立たせてはいけないのだ。論理というのは人間の考えのすべてではなく、一部である。論理に詰まったといってうろたえるのは、頭だけが働く馬鹿だ。論理だけを信じているうちに、不渡り手形を出されたようなもので、やはり現金を馬鹿にしてはいけない。論理というのは人間が考えを押し進めていくための手順の一つで、いわば道具立ての一つで、それがすべてではない。一方現金というのは論理手形とは違って目の前にある。ただの数字とは違って、人は現金を現実に見て、考えが変ったりする。  人間は論理的に考えはするけど、考えとはまた別に気持があり、気持には論理が通用しにくい。腹の底から湧いてくる気持というのがあるもので、というより、気持は本来腹の底を根源としている。腹の底から湧き上がりながら、ふつうはそれが途中で胸に滞留したり、喉に滞留したり、指先に滞留したり、足の裏に滞留していて、それが何かのきっかけで頭の脳にまで報告に来ることもある。報告にまで至らないものも多い。だから気持というものには論理が通用しにくい。  ごくたまに、腹の底からダイレクトに、脳にまで気持の報告の来ることがある。たとえば腹の底が煮えくり返るといわれるような事態もその一つで、この場合はダイレクトで、回線が短いだけに、頭はすぐに論理でさばけると思う。でもそこまでの事態は人生でも稀であるから、いざの対応は難しい。回線は短いといっても、腹の底の現地は燃えているから、論理で解析するのに物凄く時間がかかる。どのくらいの時間かというと、人の一生ではムリなほどで、深層心理とかトラウマとか、自我とか、人間の腹の底でぐつぐつ煮えているものの論理解明は、代々の名だたる学者が研究しつづけながら、いまだに結論を得ていない。  論理というのは、ことによっては目の前の霧がすとーんと晴れて見通しがよくなる力を持ってはいるが、ことによっては愚鈍なほどのもたつきかげんをさらして、もううんざり、ということがよくある。太くて短いと思った回線をたどって腹の底まで降りたはいいが、その煮えくり返りにはまり込んで、なまじ論理であるためにもうどうにも出られなくなる。やはり何ごとも場所を間違えてはいけない。  世の中はすべて論理的に解明できる、ということは確かだと思う。どんなに複雑なものでもオン・オフのコンピューターで解析可能で、どんなにどろどろした気持も、最終的には論理的に説明できる。のではあろうが、実際にはムリだ。論理は確かに世の中のすべて、森羅万象に届くはずだが、その実現にはほとんど無限の時間がかかる。だからすべてを論理的に、というのは間違ってはいないが、その「すべて」というのに、現実性がない。  こういうことはじつに複雑で、複雑系という学問がある。これはコンピューターにも関わるもので、そのコンピューター世界に「巡回セールスマン問題」というのがある。東京大学の合原一幸助教授に聞いた話が面白いのでちょっと紹介しよう。  ある町にセールスマンが来る。その町にセールスの対象となるオフィスが全部でN個あるとする。それを全部訪問して歩くのに、もっとも効率のいい最適ルートを探せという問題。その場合Nが10あるとすると、ルートの組合せは18万通りもあるという。ちょっと考えられない。Nが20になると、組合せは10の16乗通り、Nが30になると、その辺からはもう、数の爆発みたいなことが起きてしまってどうしようもない。でもコンピューターはオン・オフの論理が命だから、驚きもせずその最適ルートを愚直に探しつづけて、何日、何か月、何年とひたすら計算をつづける。論理の究極であるオン・オフだけを植えつけられたコンピューターの宿命である。  一方人間は、いくら論理で考えるといってもまあいいかげんであるから、その町に着いたらとりあえず手近な一軒からはじめる。二軒目もとりあえず、三軒目もまあとりあえず、というので、多少ムダなルートになるかもしれないが、その町のオフィス訪問はほどほどに終ってしまう。  まあそれがふつうである。人間はふつうにそういうことをやっている。だけどふつうなので気がつかない。コンピューターが論理でもたついている様子を見て、はじめて気がつく。何を馬鹿なことをやってるんだろうと思う。頭の働く馬鹿である。  その問題があるので、最近はコンピューターにも「とりあえず」の機能を持たせるように研究が進んでいる。カオス因子といわれる、いわば優柔不断の因子をコンピューターにワクチン注射しようという試みである。これはコンピューターに現実対応の力をつけさせるための試みである。つまり現実というのは一筋縄ではいかない。これはこの世に生きている生活者の常識である。何十年か前に生れたコンピューター様も、最近やっと大学を出て、生活者になろうとしている。そこでやっと生活者の常識というものが、自身の問題となってきている。だからいずれはコンピューター様も、 「まあ今日のところは、とりあえず……」  といいはじめる。 「その件に関しては、またいずれ、日を改めて……」  ということになる。そして、 「とりあえず、ビール、二本ぐらい……」  となってくるのだ。 (画像省略)  言葉の論理における含み資産の問題となってくるのだ。言葉というのは別に財産を隠すつもりはないのだけど、言葉に計上できないものを背後に含んでいる。論理の上でも、結局はそれを無視できなくなってくるのだ。  言葉の含み、つまり腹の問題になってくる。腹に含む、腹に一物、腹黒いとかいわれる。いずれも論理にはあらわれず、法律にも抵触しない。だけど腹の中には多くのものが含まれている。だから、 「腹蔵のないご意見を」  とかいわれる。腹を割って話したりもする。そこのところは腹に飲み込んでもらって、とかもいわれる。良しにつけ悪しきにつけ、含む力のあるのが腹である。その腹の能力抜群の人を、腹が据わっているという。何が来ても、腹に飲み込むことができる。昔はそういう腹が基本にあったので、昔から腹に関わる日本語は多い。  最近はそういう腹が減ってきている。腹に関する言葉はあまり使われない。腹に代って頭が出てきている。論理優先の世の中になっているのだ。頭優先というか、脳みそ優先、コンピューター優先。計算優先。経済優先。  いい例が人の怒りの変遷である。昔は怒ると腹が立つといった。それがムカつくになり、いまはキレる。つまり人体最深部の腹までいって、そこで含みきれずに腹が立っていたのに、ムカつくとなると胸であり、キレるのは頭。つまり人の感情に含み幅がなくなってきている。かつては含んだ上で怒っていたのが、胸のところですぐ怒り、ついには頭が直接ショートする。むしろ怒りというよりヒューズが飛ぶ現象である。ヒューズなんて昔か。いまはブレーカーが落ちる。  優柔不断術といえば、それは腹に関わる術である。ものごとの含み幅の問題である。腹がなければとてもこの術は使えない。頭がすぐキレて、ブレーカーがすぐ落ちるようであれば、電気の容量を上げなければいけない。契約をし直す必要がある。まず腹を鍛えて、腹に飲み込んだり、腹をくくったり、据えたり、割ったり、そうやって腹の手応えをつかむこと。考えるのはもちろん頭の脳みそであるが、その脳みそを支える座蒲団としての腹を用意する。頭のクッションというか、サスペンションというか、ショックアブソーバーというか、そのあるなしで頭のキレというのが現実の局面で違ってくる。これを腹式思考という。  クッションの様式は、最近の靴などでは非常に発達している。昔は革靴というと固いのが常識で、鋲さえ打ってあって、歩くとコツコツと硬質な音が響くほどであった。いまはウォーキングシューズといって、底も縁も柔らかく、クッションにもエアーが使われたりして目ざましいものがある。それを頭にもスライドさせればいいだけのことである。  不断の決意という言葉がある。まあ固い決意という意味だろうが、優柔不断というのも、じつは不断の優柔ということではないだろうか。ものごとに対して不断の優柔をもって挑む。これはかなりの意志の強さを必要とする、というより腹の強さを必要とするものだと思う。そういう腹さえあれば、多少の論理の綻びなんて、いかほどのものであろうか。 [#改ページ]   ㈼[#「㈼」はゴシック体] [#改ページ] ぼくの優柔不断は天然だった[#「ぼくの優柔不断は天然だった」はゴシック体]  優柔不断のはじまり[#「優柔不断のはじまり」はゴシック体]  むかし、ぼくがただの優柔だったころ、お父さんは貧乏だった。いや、貧乏性であった。  ぼくの優柔不断については覚えていない。ぼくは何歳ごろから、どんなことで、優柔不断になったのか。  もちろんいまは、ぼくもれっきとした優柔不断で鳴らしているが、それは大人になってからのことだ。大人になって、優柔不断という言葉を知り、はじめはみんなと同じようにそれを避けていた。でも途中から避けなくなった。これはとても避けきれないということを知り、あらためて振り返ってみると、ぼくは全身が優柔不断だったのである。  でも子供のころのことはさすがにわからない。ただ生れは昭和十二年の三月二十七日で、早生れである。一月と二月と三月が早生れなんだけど、三月も下旬、それも二十七日で、もうちょっといって次の学年にするかどうするかという、その辺りでやっと生れたというのは、その生れ方が優柔不断だといえなくはない。でもそれはちょっと考え過ぎか。  よく出身はどこかと訊かれる。ぼくが生れたのは横浜だ。でもほとんど覚えていない。横浜には一年ちょっといただけですぐ芦屋に引越しをした。そして門司、大分と引越しをつづけて、大分で幼稚園、小、中学校と暮している。そのあと名古屋、東京となるわけで、だからものごころがついて育ったのは大分だ。でも出身というのは生れ出たところのようで、そうすると、 「横浜です」  ということになる。両親が横浜の人間かというと、父は鹿児島である。母は東京。だから本当はどこともいえないわけで、 「出身は……」  と訊かれると、ええと横浜なんだけど育ったのは大分で……、と説明がつづくことになり、ずばり、 「北海道です」  というふうに一言では片付かない。どうしても答え方が優柔不断的にならざるを得ないのだ。  それが父親の貧乏性のせいかというと、別にそういうわけではなくて、父は実直な勤め人だった。ある倉庫会社に勤務していて、そこでよく転勤があり、支店を転々とした結果がこのような人生となったのである。転々とした結果、いずれは東京に戻るという心づもりであったのだろうが、大分の時代に戦争がはじまって流れが止り、しかも敗戦まで迎えてしまって勤務はご破算となり、そこにしばらくはこびりついた。  大分という地名はよく普通用語の「だいぶ」と読み間違えられたりする。考えてみればだいぶというのも、かなり優柔不断のニュアンスを含んだ言葉だ。  お父さんは貧乏性だった、とはどういうことか。これには二重くらいの意味がある。  お父さんに限らず、この時代は全員が貧乏性だったのだ。  たとえば小包が送られてくる。それを喜んで、紐を鋏でぷつんと切って、包み紙をばりばりっと破いて開けたりしては絶対にいけない。紐と紙が駄目になってしまうからだ。 (画像省略)  まずはやる気持を抑えながら、紐は指で結び目をほどく。そして最後まで焦らずにほどいていって、伸ばしたあときちんと丸める。そして包み紙も貼った部分からそっと剥がし、なるべく破かないように広げて中身を取り出し、それをきちんと畳んで丸めた紐といっしょにとっておく。  つまり小包を開けるというのは、板前が巧みな包丁さばきで魚を三枚におろし、内臓だって捨てずに料理し、頭だってことこと煮込むという、それに匹敵するような知能的なおこないだったのである。  いまはまずそういうことをしない。宅急便が来たら、そのまま包みをばりばりと破き、中身を取り出し、包み紙はくしゃくしゃ丸めてそのまま屑《くず》入れに押し込む。じつに粗雑なおこないである。知能のかけらも感じられない。まるで無知な、人間というより、動物以下のおこない、一匹の魚を、包丁さばきも何もできぬものが、いきなりがぶっと一口だけかぶりついて、あとはその場に投げ棄ててしまうような、まるで悪魔のようなおこないである。  いや悪魔というのはまだ早いが、いまではそういうやり口がよしとされている。紐を指でほどいたりしているとばかにされて、滅茶苦茶にばりばりとやった方が賞賛される。  それで思い出したのは鯨のことだ。日本はむかしは優秀な捕鯨国で、鯨をたくさん捕って生活していた。捕った鯨は皮から肉から骨から内臓から脂から、全部利用していた。肉を食べるだけでなく、脂で石鹸を作り、骨で生活用品を作り、あと知りたい人は日本の捕鯨の歴史を調べてほしいが、優秀な板前の包丁さばきのように、鯨一頭を全部きれいにさばいて、そのすべてをムダなく使いきり、その恩恵をこうむっていた。  その捕鯨が禁止されたのは近代の趨勢《すうせい》なのだが、それを決議したのはほとんど鯨と接したことのない国々である。過去に捕鯨をしても、脂だけ取って工業製品に使い、あとはすベて投棄していたような粗雑な付き合いの人々がちょっとだけ混じっている。  仮りに日本のような国が捕鯨禁止を訴えてその粗雑な人々を説得するというなら話はわかるが、その反対ではまるで理屈が通らない。理屈は通っても道理が通らない。  とにかくそういう鯨のさばき方も知らないような粗雑な人々の文化が、いまは日本に浸透して小包ばりばりにまで及んでしまった。それで鯨が可哀相だというのはどういう神経なんだろう。      *  お父さんは貧乏性だった。これはぼくの父親のことだけでなく、そういう時代の日本の父親である。というより優柔不断の父が貧乏性であるということ、つまり貧乏性があってはじめて優柔不断が生み出されるということなんだが、ここで結論は急がない。もう少し自分の優柔不断のことを見つめてみよう。  自分のことばかり書くようだが、優柔不断は自分のことがいちばん見やすい。  人はみんな優柔不断を隠すからだ。ひた隠しに隠す。行くか行かないのか、早く決めてよと言われて、どうしようかと迷うことは恥とされる。だから恥しさのあまりあてずっぽうに、 「行く」  とか言ってしまって、結局はまずい結果で後悔したりするのだが、そういう後悔をしてでも、恰好だけ決断をして自分の優柔不断を隠そうとする。  優柔不断はそんなに恥しいことなのか。そんなにいけないことなのか。それならなぜ優柔不断という言葉の頭に、 「優」  という字がついているのか。  つまりそれが優柔不断術への導入口となって研究がはじまるのだが、何しろみんな隠すので、自分を見るしかないのである。  優柔不断はみんなが隠し持っている。だから人のは見ることはできないが、自分のは見ることができる。自分の優柔不断を取り出せば、それは人々の隠し持った優柔不断のルートに通底するはずだ。  このような、いやおうのない事情によって自分を素材とするほかはないわけで、ぼくは優柔不断のジェンナーだ。  子供のころ、もう小学生だったが、戦争がはじまっていた。戦争というのは決断の争いである。しかし決断といっても肉体が賭けられており、そこのところで優柔不断が鍛えられる。それは戦場だけではない。そのバックグラウンドにおいても、その構図は変らずにある。  小学校の一年か二年だったか、まだ本土への空襲はなかったときだと思う。人々はまだ楽天的だった。街頭で出征兵士に贈る「千人針」がおこなわれていたり、学校で生徒たちが戦地の兵隊さんへ送る「慰問袋」を作らされたりしていた。当時の時代の勢いとともに、教育効果もあって、兵隊さんというのは輝いていた。  教室で、みんな大きくなったら何になりたいかと先生が問う。生徒たちはみんな、 「はい!」 「はい!」  と言って我先にと手を上げる。先生が一人ずつ名指ししていく。指された生徒は勢いよく立ち上がり、 「兵隊さん!」  と答える。先生はにっこりし、みんな歓声を上げる。また「はい!」「はい!」と手が上がり、先生が名指しする。また生徒が立ち上がり「兵隊さん!」と答える。  それは考え抜いた答えというより、一種の決断ゲームなのだった。決断ごっこ、決断の儀式である。中にたまに、 「大工さん!」  と答える子がいて、それは大工さんの家の子供だったりする。その場合はごっこというより、その子なりに真面目に考えた答えなのだ。  そして「はい!」「はい!」の儀式が進み、ぼくも名指しされた。ぼくは積極的に言いたくはなかったけれど、みんな手を上げるので上げないわけにはいかない。で上げているうちに指されたわけで、消極的に立ち上がった。 「兵隊さん!」と元気よく答えればみんなに喜ばれるのはわかっている。でもそこまでぼくは大人でなかった。まだ世慣れしていなかった。だから真面目にその問いを考えてしまって、そうすると「兵隊さん」という結論は出てこなかった。兵隊さんになれば弾が飛んでくる。当たれば死ぬ。うまくよけたとしても、出征するのは死んで当り前といわれており、ぼくはそれが怖かった。そんなに馬鹿正直に考えなくても「兵隊さん!」と言ってとりあえずその場をやり過ごせばいいんだけど、ぼくは立って考えている間にどんどん真面目になり、 「会社員……」  と答えてしまった。  先生に何と言われたかは覚えていないが、喜ばれなかったことだけは確かである。みんなも何かがっかりした様子で、また別の「はい!」「はい!」に進んでいったのだが、あのときの気まずさだけは覚えている。  思えばそれがぼくの優柔不断現象の最初ではないだろうか。  もちろんその前から、現象としてはさまざまにあるはずだが、覚えているのはそれである。優柔不断の精神は、世間でこのような仕打ちに合うのだということを、暗黙のうちに思い知らされた。  ぼくは何だか恥しい思いをしながらも、納得はできなかった。「兵隊さん!」と答えればいいことはわかっている。でもそういう答え方が、あまりにも粗雑に思えた。そういう包み紙をばりばり破いて丸めて投げ棄てるような答え方はできなかった。それでは答えというものがあまりにも可哀相だ。  ぼく自身弱虫であり、あるときは泣きべそであり、寝小便たれの青びょうたんで、兵隊さんに比べれば会社員的であったということもある。でも端数を切り捨ててしまうような、四捨五入でどんどん進むような粗雑さにはどうしても抵抗があったのだ。  そうやって恥を知ったが、それで以後決断的になったかというとそんなことはない。立派に優柔不断を培養している。大人になったこんにちでは、決断くそくらえ、とさえ思っているのだが、これはどうしてだろう。  ぼくはある思想をもとにして動くということがなかなかできず、だらだらと自然に動いた結果がこうなっているというたちなので、だからこそ自分が素材にもなる。  その素材から、いっこうに優柔不断が消えていかないのだ。ますます強化されて、ついに最近では意識化されるに至っている。つまり優柔不断というのは強い生命力をもっているのだ。  優柔不断をウィルスにたとえれば、かなり強力なウィルスである。世間ではこのウィルスを退治しようとして、いろいろと抗生物質を服用している。つまりそれが決断であり、ぼくだってむかしは人並に服用していたんだけど、あまり効かない。効かないし、むしろ抗生物質の副作用の方が気になってきて、最近ではナチュラルを押し通している。  もちろんウィルスといってもそれは精神的なウィルスで、いわばコンピューターウィルスにも近い存在だと考えていた。でもそうやって精神は簡単にコンピューターにたとえられるのだろうか、というのが最近の疑問として誕生し、ふくらんできている。精神構造におけるウィルスだからといって、本当に肉体と切り離せるものだろうか。  血肉化する優柔不断[#「血肉化する優柔不断」はゴシック体]  最近になって、ふと兄弟の話を聞いた。ぼくが自分の優柔不断を公言し、それを論考していることは兄弟にも知られている。その兄が誰か友人に話したらしいのだ。ぼくの最近の優柔不断仕事のことを話題にしていて、あいつは本当に子供のころから優柔不断だったという。家族でどこかに出掛けるというとき、必ずちょっと待ってと言う。もう一度トイレに行ってくるからというんだよ、まったく、必ずいつもそうなんだから、みんなもう辟易してたよ。  そう言われればそうなのだった。もちろん自分でも知っている。それはぼくの肉体の癖みたいなものである。便というのはアナログ的なもので、全部出切って終りということがない。いつも必ず少しは体内に残っている。どのくらい残っているかはわからない。でもすとーんと空になるということは絶対にないのであって、ほとんどが出たといっても、そのあとにはまだ便になりかけのものが残っている。びろうな話で恐縮であるが、時間がたつとそのなりかけのものがだんだん便になるのだ。そして時間というのはじっとしている間にどんどんたっているのだ。  だから結局、便というのは、出たといっても必ず残っていて、なりかけのものから、まだなりかけてもいないものまでつながっていて、結局それは体内の腸を通って胃袋から喉を通って口にまでつながっている。  子供の分際でそういう理屈までは考えなかったけれど、とにかく体の感じとして、まだ便が残っているようで仕方がなかった。  残っているというより、外出した先で出したくなったらどうしようと考える。だから外出前に一度はするんだけど、それからあれこれしていて、いよいよ本当に出掛けるという段になって、念のためにもう一度、というのでトイレに行くのだった。  行っても出ないのがほとんどだったと思う。でも最後のチャンスに、行っておかずにはいられないという気持がある。  要するにふんぎりが悪いというやつである。そのふんぎりの悪さというのは、精神的な思い切りの悪さと同時に、肉体的、物理的にもふんぎりの悪さというのが連動してあるのだった。  固い便のときはかなりデジタル的になるのであるが、軟かいときはどうしてもアナログ的にあとを引く。びろうな話で本当に恐縮であるが、精神の優柔不断を考えるときに、どうしても肉体を避けては通れないということを知ったのである。  要約すると、固いデジタル便の人はあんがいと決断的性向が強いのかもしれないし、軟かいアナログ便の人は優柔不断的性向が強いのかもしれない。  わかりませんよ。  ただ出掛ける前にもう一度トイレに行くというこの肉体が、決断する前にもう一度考えるという精神を支えているということはたしかなのだ。  精神の要因が肉体だけにあると言い切るつもりはないが、肉体に何のつながりもないとはとてもいえない。      *  うちには最近犬がいる。狐色で腹側は白っぽいという雑種で、柴犬をやや大きくして毛を長くしたような、胸とかお尻の毛はコリーのようで、顔はちょっとシェパードっぽいところもあり、とにかく完全雑種というか純雑種みたいな犬で、名前はニナという。  裏の山道に捨てられていたのが縁あってうちの家族となったわけだが、生れた日を推定すると五月二十七日ころで、二と七だからニナと、そういう存在である。  これはぼくにとっては驚くべきことで、子供のころから臆病で弱虫で、世の中に犬ほど怖いものはなかった性格だから、それを自分で飼うことになるなんて、とても考えられない、ソ連の崩壊にも匹敵するほどの事件だった。  事情はともかく飼いはじめたわけで、まあぼくも歳をとったから子供のときより感受性は弱まってきていたのか、恐怖心も多少減退していたのかもしれないが、最初の一年間は苦虫を噛み潰していたものの、二年目くらいからほぼ慣れてきて、慣れてくると家族の一員として意識することもできるようになり、いまではその計画を強行した家内と娘に感謝している。  犬に慣れるということは、犬との接触の積み重ねであり、ということは犬の観察の積み重ねであり、その結果犬の気持がわかるようになって、自分もそれに合わせられるようになってきたということ。  自分の家のニナの気持がわかるようになると、道を歩いていてよその犬の気持もだいたいわかるようになる。もちろん何がどうと具体的にわかるわけではないが、だいたいの気持のあり方がわかってくる。気持の大まかな状態というか。そうすると向うもこちらを理解するようで、というか敵ではない共存物として認知するようで、そうするとすれ違っても吠えられなくなる。  これは当り前のことかもしれないが、それまではいつも吠えられていた。こちらが何をしたというわけでもないのに理不尽に吠えられるから、犬が怖くなり、憎むようにもなり、どうしても犬を警戒する。そうすると犬はその警戒心を敵意ととるのかよけいに吠える。そうするとこちらはよけいに警戒する。そうすると向うはよけいに吠える。  とにかくそういう関係だったのが、ニナに慣れて、すれ違う犬の存在にも慣れたら、ころっと吠えられなくなった。  その関係も興味あるところなのだが、こちらは犬嫌いで、それが急に犬の壁が崩壊してつき合うようになったからよけいに観察してしまうのかもしれないが、犬の癖というのがいろいろ見えてくる。  犬に表情はないというけど、明らかに笑うし、怒るときは声が低くなり、鼻先を広げて牙をむき出してくるし、やはり感情表現というのは人間に共通してある。  問題は、そのニナがどうも自分に似ているようなのだ。自分だけじゃなく家族に似ているということだが、よその犬とニナとの違いを見て、うちにも家風というか、目に見えぬフィーリングがあったんだなあと思わされる。  優柔不断なのである。  一気に何かやるというより、おずおずと何か考えて、舌で舐めたりしてみて、何かやる前に細かく逡巡《しゆんじゆん》する。  その代表が糞《ふん》である。やはりふんぎりが悪い。裏の山道を散歩に連れ出したとき、草むらや何かでするのだが、すとんと一発ではなかなかいかない。あちこちする場所を物色して、ここではだめだとまた物色して、ここでもだめだとまたよそを物色して、それでもやらなかったりする。  大小便といえば、人間にとってはたんなる排泄である。どこでもいいから出せればいい。びろうな話で恐縮であるが、もちろん汚ない便所は嫌だ。でもある程度きれいな便所であれば、とくに選り好みはしない。  でも犬は違うのである。きれい汚ないではない。もちろん犬にとってのきれい汚ないはあるだろうが、それは人間にはわからない。尺度が違う。  それより、見ていてわかるのは、犬にとって大小便はたんに排泄ではなく、それがコミュニケーションの糸口らしいということ。  とにかく盛んに他の犬のなしたところの匂いを嗅いで、そこに自分のものを振りかける。だから排泄だからといって一度に出すのではなく、少しずつ小出しにして、あちこちにできるだけたくさんのメッセージを記している。  つまり排泄というより文化なのだ。他の犬とのやりとりなのだ。他の犬というだけでなく、ニナの生きている世界とのやりとりのように思われてくる。  それが散歩のたびにだんだんわかってきて、ああニナは優柔不断だなあと思うのだ。  よその犬なんて、見ていると、そう考えもせず、どこか適当なところですとんとやっている。自分の家の犬より観察度が低いから単純にそう見えるのかもしれないけれど、その分を差し引いて見ても、やはり他の犬はそんなに迷ったりしていない。悩んだりしていない。紐に引っ張られて、歩きながらぽろりと出しているのもいる。それに比べたらニナのは徹底して迷い、悩み、また次に向かい、よくご馳走を食べるときに迷い箸はいけないといわれるが、ニナの場合は迷い糞《ぐそ》だ。  いや重ね重ねびろうな話で恐縮であった。犬は飼い主に似るというが、そんなニナを見ながら、少し反省をした。ぼくは優柔不断を悪いとは思っていない。ぼく自身はむしろその論考からいまは新しい思想を獲得しようとしている。それはこちらが人間だからそうやってもいられるんだが、そんな流儀を飼い犬にまでうつしてしまって、何だか悪い気がした。  犬にとっては新しい思想の獲得なんて、何にもならない。犬の優柔不断は、ただエネルギーの浪費に過ぎないだろう。そうだとしたら、何だか申し訳ない。      *  どうしてこんな犬の話を長々と書いたかというと、別に自慢ではない。親馬鹿でもない。ほかでもないが、優柔不断はこのように血肉化するし、血肉を通して伝染するということだ。  しかも人間だけでなく、犬である。たんに人間の精神だけの問題ではないらしいのだ。肉体環境が優柔不断を生み出している。そしてまた肉体環境が決断をも生み出しているのであろう。  ふんぎりの悪い体の優柔不断。  まあしかし、結論は急ぐまい。  優柔不断の起源[#「優柔不断の起源」はゴシック体]  少し貧乏性のことも考えよう。  何しろ貧乏性は優柔不断の父である。  母であるといってもいいんだけど、もう父と言ってしまったことだし、そうだ、母は貧乏そのものではないだろうか。  そういうと全世界の母たちに申し訳ない気もするが、しかしそういう見栄とか義理にとらわれているときではない。  貧乏というのは実体そのものである。いっぽう貧乏性というのはその実体からはちょっと離れて、実体的なことからはちょっと浮き上がって、貧乏のある種のエキスだけが抽出されて、培養されたようなものなのだ。だから貧乏性は金持にだってあるし、というより、金持までいかぬにしても、貧乏をちょっと抜け出てむしろ余裕をもったところで顕在《けんざい》化してくるのが貧乏性である。  とはいえ貧乏性ウィルスの発生源が貧乏にあることには変りない。  貧乏性についての論考は別項を設けてあるので、ここでは論考よりも貧乏性のありさまを、ぼくの素材の中に見てみよう。  いやその前に、貧乏を見る必要があるか。父を見る前に母を見よ。貧乏といっても、いまの世の中にはその実態がないのだから。  相対的な貧乏というのはいつの世にもある。経済貧乏というもので、数字上で見て上があり、自分はそのずーっと下だから貧乏だという理解。これはしかし貧乏とは違うのである。  貧乏というのは金がないだけでなく、物もないこと。そして関係もないこと。  関係がないというのは、たとえばいよいよダメだというとき、あそこに行けば何とか少しは借りられるという関係、それが一切なくなっていること。  いまは仮りにそこまでいったとしても、社会保障というものがある。でも本当の貧乏には保障なんてない。後ろだてが一切ない。  だから最近ふえている駅周辺のホームレスというのは、ニュアンスとしては貧乏だけど、いまの世の中のことだから後ろだてがいろいろとある。その後ろだてが気に入らないというのでホームレスっているところもあって、やはり純正貧乏とは違うようだ。  もっとも昔は世の中全体が貧乏をベースとして出来上がっていたので、むしろ貧乏が目立たなかった。  たとえば当時、ふつうの民家の場合、いまなら必ず台所の入口のところにある電気メーターというものがなかったのである。電気そのものはもちろん配線されてきている。だけどまずふつうの場合、使うのは夜の明かりとしての電灯だけ。  その電灯も一家にだいたいは電球が何灯と決められていた。その平均値でもって、消費量の差なんてほとんどない。  冷蔵庫も洗濯機もテレビもワープロもなかった。ファミコンも電子レンジもなかった。クーラーもなかった。アイロンも火鉢の火で熱するコテだった。  電球以外にあった電気関係のものはラジオくらいのもので、シンプルライフそのものだった。  家具もなかった。昔は本当に家具がなかった。これは貧乏というより日本文化というか、だいたい日本家屋は家具を置くようにはできていない。大きな家具なんて置いたら畳が凹んでしまう。  それはしかしいま考えたらかなり恰好いいスタイルだ。家具のない畳の日本間というのは本当にモダンデザインである。  いやそういうふうに言っていると貧乏が出てこない。  子供は薪割りをさせられていましたね。ぼくの家は大分市内だったが、カマドで飯を炊いていた。ちょっと近代化されて練炭というものが出てきた。石炭の粉か何かを練り固めたもので、円筒形で蓮根みたいに孔がいくつか開いていた。  弟は練炭を見て手を入れた[#「弟は練炭を見て手を入れた」はゴシック体]  寒い冬の朝、まだ火のついていない練炭を見つめながら、その細い孔につい指先を入れてしまう幼児の好奇心をうまくあらわした句である。といってこれは当時よく冗談でやっていた五七五遊びの言葉にすぎないものだが、不思議にいつまでも覚えている。  ただし練炭の火というのは持続力はあるものの火力はそう強くはないようで、母はそれで飯を炊くとよく失敗していた。芯ができたり、水っぽくぐじゅぐじゅになったり。だから練炭の飯のときはみんな不機嫌だった。  火のことでいうと、薪を使って途中で火を消して、焦げた先のところを落して消し壺に入れておく。あれはあんがい一種の貧乏性ではなかろうか。  消し炭といって、火鉢の火を起すときに使うと、柔かくて火がつきやすい。だからもちろんこれは物をムダにしない優れた工夫ということなんだが、どうもしかしあの消したのをとっておく感覚の中に、ほのかに貧乏性の萌芽があったような気がしてならない。  もちろんこれは萌芽であって、貧乏性そのものではない。役に立つ優れた工夫、という範疇《はんちゆう》にはいる。  貧乏性の構造については後に詳述するが、貧乏性というのはこのような発明工夫の精神とよくニアミスをしていて、時には表裏一体的に重なっていることもある。だからこういう貧しい時代の生活には貧乏性のモトというか、磨けば立派に貧乏性となる原石みたいなものがごろごろ転がっている。  どうも物をとっておくというのが、貧乏性の発露となっているケースが多く、そこをよりどころとして貧乏性がふくらんでくる。  だから先述の小包における紐と紙の保存問題も、それ自体は役に立つ工夫というか努力であったが、ちょっと間違うと貧乏性としてぐんぐんふくらむもとだ。  とっておく、というので子供のころよくあるのは切手|蒐集《しゆうしゆう》だけど、これはコレクションとしてちゃんと認知されているので、貧乏性とは重なりにくい。貧乏性エキスはそのコレクションという形に収まることでかなり低く押さえられる。でも集めはじめる初期の行為というのは、手紙と見れば全部切手を切り取り、道に捨ててある手紙も拾って切手を切り取り、ごみ箱の中の手紙もつまみ出して切手を切り取り、そうやって増殖していく行為、目配り、溜め込みというのは、やはり貧乏性を培養するには充分なものがある。  ぼくの貧乏性もその辺から少しずつ始まっていたのかもしれない。ぼくとしてはただつぶらな瞳で、小さな切手の美しさに開眼させられ、それをもっと集めたくてしょうがなくなり、まず自分の家の中を探し回ったのだった。紙や書類の山があったら全部点検し、本棚も点検し、行李の中も点検し、何か見つけるとぼろぼろのものでも嬉しくなって、そうやって家の隅々を巡り歩いてゴミみたいな紙や封筒を溜め込んでいくうちには、ただたんにつぶらであった瞳がちょっとわずかながら変化していき、気がついたら貧乏性のウィルスが紛れ込んでいたという気がしないでもない。  切手集めそのものはすぐに限界が訪れ、まあ子供だから興味があちこちに揺れ動くということもあるんだけど、切手への執着心がいつの間にかしぼんでしまい、集めたものをそのまま死蔵して高校生にまで至る。絵を描きはじめていたぼくは絵具代欲しさに、それまで丁寧に貼りつけていた切手アルバムを二束三文で売ってしまった。切手にはちゃんとしたコレクションの世界が聳《そび》えていて、その中にはまり込むのが何となく嫌だったということもある。  この例でもわかるように、切手蒐集はそれ自体が貧乏性に育っていくということは少ない。      *  貧乏の中には面白いコレクションがある。貧乏性ではなく貧乏そのもの。金がなかったのである。  そのころは世の中に金がないから子供に金がないのは当り前だが、金だけでなく物もないのだ。  わが家はもともとそうで、子供はお金を使ったりしちゃいけない、買い食いなんてしちゃいけない、お金というのは不浄のものだ、という教育方針を採用していて、それも物のある時代はよかった。ちゃんとおやつを与えて、子供はお金に触らせないというのは、それなりに上品なしつけではあったのだけど、物がなくなってきたところにその教育方針だけが残ったので、破綻が生じた。腹ぺこでせんべいでも買って食べたいと思うけど、買ったりしちゃいけない。子供はお金なんて使っちゃいけないという。  本当はお金がないのだ。それがさすがにだんだんわかってくるのだった。おやつをくれるならともかく、おやつはない、しかし子供はお金を使っちゃいけないなんて、そんなのはギマン的だ。  子供だからそういう言葉は知らなかったが、友だちが面白い情報をもってきた。ガラスが売れるというのだ。  ガラスの屑である。いらないガラスビンやガラス板のカケラなど。そういう廃品が高い値段で売れるんだという。  何だかどきどきした。終戦直後のことである。一年ぐらいはたっていたか。世の中の気持が切り替り、自由と民主主義を与えられて、今後はこれでいくんだということになった辺りだ。世の中にアメリカの進駐軍がいることも当り前になったころだと思う。  いやはじめは怖かったんだ。アメリカ軍が上陸してきたらどうなるかわからないという噂もあったし、いやひどいことはしないらしいという噂もあった。そして上陸したという噂があり、もう駅前の町など歩いているぞという噂があり、噂じゃなくてじっさいにチョコレートをもらった奴まであらわれた。でもそれまで爆弾を落しにきていた連中であり、空から機銃掃射をしていた連中であり、ぼくは小学校三年生だったとはいえ、そういうのは遭遇したらどうなるんだろうと想像がつかなかった。  だから大分の竹町の繁華街ではじめてアメリカ兵とすれ違ったときは、ぼくの全身から脂汗がびっしょり出た。白い皮膚のくせに赤い皮膚にも見えて、鬼のように見えた。近づいてきたときそう思ったのだが、でもすれ違ってみると鬼のようでもなかった。  そのアメリカ兵は二人連れで、どこかで買った赤い箸を両手に持って、それをかちゃかちゃ叩いてもてあそびながら通り過ぎた。ぼくは脂汗びっしょりなのに、向うはぜんぜん脂汗をかいていなかった。ヒューとかピュアーとか声を出してしゃべりながら、爆弾なんて落したことのないような顔をして通り過ぎた。  そうやって進駐軍がいるのは当り前となったころだった。話はそれと関係はないけど、ガラス屑が高く売れるんだという。  それまで鉄とか銅とかも売れるということだったが、世の中に売れるような鉄はなかった。もう戦時中に町から家庭から全部供出してしまって、ぎりぎり必要なものしか残されていなかったのだ。  銅のことをアカといって、これは高く売れたらしい。でもこれは子供などを超えた大人の世界の金属で、子供がちょろちょろ探したってどこにもなかった。電柱に張ってある電線というのがあれは銅で、それを夜中に大量に切り落して、よくビリッとこなかったと思うが、それを売り払ったという噂が流れていて、凄いことするなと思った。ちょっと子供ではかなわない世界だ。  そんなふうだから、ガラス、といわれたときにはリアリティがあったのだ。ああ、ガラスなら可能かもしれない。大人は見過しているかもしれない。探したらどこかにありそうだ。よし集めようというので、友だちと三人で集めはじめた。  庭の隅や台所、学校の行き帰りの道の隅、神社の裏、原っぱの廃墟、探しだすとなかなかないもので、友だちの床下から木箱に入った埃《ほこり》だらけのガラスビンがたくさん出てきたときは小踊りした。  一貫目いくらだったか、はじめに聞いた値段が頭の中でどんどん甘くふくらみ、これは凄いぞ、芋が相当買えるぞ。  じつは芋を買うつもりだったのである。学校の裏庭の方に一つ焼け残った土蔵があり、そこで大工さんが一人いつも仕事をしていた。そこは学校の構内なんだけど、大工さんはそこで自分の大工仕事をしているのだ。おそらくいま考えると、その人は昔の学校の先生か何か関係者で、復員して帰ってきて、特別にそこを作業場に借りていたんだと思う。  ぼくらは学校の休み時間に遊んでいてそれを発見し、よく遊びに行っていた。大工さんが鋸《のこ》で切る。鉋《かんな》で削る。鑿《のみ》でくりぬく。その手際がうまくて、さすが、と感心しながらじいっと見入っていた。  その三人というのが三人とも絵の好きな仲間で、やっぱり工作も好きなんだ。いつも休み時間にそこに行って、冬などいろりの火にあたらせてもらいながら、そのいろりには膠《にかわ》を煮る鍋がかけてあって、大工さんはまた来たかという感じで、でもそうやって人気があるのは誰しも嫌じゃないわけで、仕事の合い間に一息入れにいろりの端に坐ると、火箸で灰を探って、底の方からもっこりと大きな焼芋を取り出した。  うおっ、と思った。食べ物だ。みんな目が光った。大工さんはしょうがないという顔をして、その一部をくれた。それが美味しくて、美味しくて、 「芋を持ってきたら、ここで焼いてやるぞ」  と言われた。芋とはつまり生芋である。焼芋は製品だから高いけど、生芋なら安く買える。  ぼくらのガラス集めにはそういう引力があったのだった。貧乏の引力である。ぼくらは必死でガラスを集めて、もういいだろうと、やっと売りに行った。どこだったか町外れの廃品回収所で、ガラスの屑が山になっていた。あるところにはこんなにあるんだと思って、ぼくらのガラスはえらく貧弱に見えた。  おずおずと渡すと、そこのおじさんは大工さんとはだいぶ違って、大人の世界の大人だった。  いちおうぼくらのガラスの屑を秤《はか》りに載せてちょろちょろっと量ると、 「む」  と言ってお金をくれた。ぼくらの予想していたお金の何分の一かだった。  何だか縮んでしまってがっかりしたけど、それでもわくわくした。みんな自分でお金を稼いだのははじめてなのだ。働いたんじゃないから稼いだとはいえないかもしれないけれど、でも自分たちでガラスをかき集めて、お金をひねり出したのだ。  生芋を買って持って行くと、大工さんは驚いていた。本当に持ってきやがったのかという顔をして、どこで買ったのかと訊いた。ひょっとして畑で盗んだんじゃないかと心配になったのだろう。でもそれはぼくたちの頭にないことで、ぼくたちはまだそれほど大人じゃなかった。  といっては大人に悪いが、ぼくたちはまだまだつぶらな頭をしていた。じつはこれこれしかじかと説明すると、大工さんはそれはでかしたという顔になり、生芋をいろりの灰の中に埋めてくれた。  焼けるにはずいぶん時間がかかるわけで、ぼくたちはそれまでそこで待っていたのか、それともまた教室に戻って授業が終ってからまた行ったのか、その辺のところは覚えていない。  と思い出しながら書いてみたが、この話には貧乏性の匂いはぜんぜんしない。貧乏なのは確かだ。でも貧乏の手法だけが貧乏から抜け出して、それが貧乏性として練り固められていくというニュアンスがぜんぜんないのだ。貧乏から何かが抜け出している感じはあるんだけど、その抜け出したものはむしろ清貧の思想じゃないだろうか。  うまいこと考えた[#「うまいこと考えた」はゴシック体]  もっと昔には爆弾のダンペンを集めていた。  蒐集の話である。ダンペンとは断片のことで、子供なのによくそんな言葉を知っていたものだ。誰か大人に聞いたのだろう。  とにかく空から爆弾が落ちてくる時代のことだ。爆弾は地面に落ちると爆発し、そばにいたら死ぬ。だから防空壕に入っているわけだが、サイレンが鳴らないときはふつうの一日だ。そんなとき空襲のあった辺りを歩くとダンペンが落ちている。  爆発というのは爆弾の鉄のガワが粉々に飛び散ることで、ガワの鉄板がちりぢりにちぎれてわからなくなる。付近の畑とかどぶ川とか探すと、そのダンペンが見つかるのだった。  形としてはパンをちぎったみたいに縁ががさがさなのだけど、それは鉄なので、がさがさのまま固まっている。がさがさといっても、爆弾のダンペンに特有のがさがさ模様というのがあって、すぐわかった。  ぼくらはそれを集めて自慢した。爆弾はたくさん落ちたけど、落ちたところに近づくと怒られる。不発弾に触ったらもっと怒られる。でもダンペンというのは思わぬところに飛び散っているもので、それが欲しい欲しいと思っていると、たまにどこかで見つかるのだった。  しかしこの蒐集は、もう貧乏性のかけらもないみたいだ。いま思うとこれはじつに爽快で、豪快で、コレクションとしては抜けていて、貧乏からも完全に抜け出している。ここに至ると貧乏も爆発してしまって、もう何もない。      *  これはぼくではないが、先生である。  野村ん婆さんという女先生である。でも婆さんというのがつくぐらいだから年寄りである。  これが怖い先生だった。女先生だから、さすがに自分では殴らない。当時の先生は鞭というものを持っていて、だいたいは特殊な竹の、節が短い間隔で連なっている、竹の根っこのような材質の、形態的にはオーケストラの指揮棒くらいの大きさのもので、それで黒板に書いた文字とか図を指し示すし、時には教壇の机を、 「バシン!」  と叩いておどかす。怒りの表現というか、もちろんそれは教育的指導というか、生徒たちをたしなめるためにやるのであろうが、それが物凄く怖かった。人ではなく机をバシッと叩くだけなのに、それが物凄く怖かった。人間の感じる怖さというのは、たんに音の強さとか衝撃の強さとか、そういう強さだけではない。  本当に怖いのは、怖いものが持っている気魄《きはく》のようなものだ。気魄の字が違うかもしれないが、いまちょっとここに辞書がない。  とにかく野村ん婆さんは怖い先生で、みんなびりびりしていた。憎んでいた。でも先生だからしょうがない。ぼくらはちゃんと授業を受けていた。  女だから自分では殴らないといったが、悪いことをした生徒がいると前に出して立たせておく。それが二人になると、先生の代りだと思って相手のビンタを引っぱたけという。それを二人で互いにやらせようとする。  といわれても叩きにくい。友だちなんだし、とっさに怒って引っぱたくならともかく、怒ってもいないのに引っぱたくのは大変難しい。でも怖い先生が命じるんだから、仕方なくちょっと叩く。相手もちょっと叩く。野村ん婆さんはそれを横目でちらっと見ていて、 「力が足りん!」  と言う。怖い。野村ん婆さんが怖い。言われた生徒は仕方なくちょっと強く叩く。叩かれた方もちょっと強く叩く。それが均等にいっている間はいいが、人間の手仕事だからそうはいかない。力を弱めようとしながらも、野村ん婆さんが見張っているから強める方向にもっていかないといけないわけで、そこで均等が崩れる。自分が打ったよりも相手の方がちょっと強いと、何だこいつ、ということになる。それが野村ん婆さんによるプレッシャーだと二人とも知っていても、それとは別に、独自に体感というものがある。  理由はわかっていても、体を打たれると、誰でも本能的に(チクショウ)と思うものだ。大人になってからのことだが、ぼくは体験のため座禅をしてみたことがあって、座禅となるとご承知のように、例の、 「喝!」  という声といっしょにあの棒打ちがくる。あれは居眠りしたり姿勢が崩れたりするとやられるわけだが、そうじゃなく自分からもお願いする。眠気というのはどうしても発生するもので、これはまずいなと思ったときは、黙って合掌する。そうするとそれが合図で、坊さんが後ろに回り、棒打ちが来る。これは合意の上での、合意というより自己申告による棒打ちのお願いであるから、当然体は身構えている。で、棒打ちがくる。  それでいいんだけど、自分で知って、身構えているにもかかわらず、後ろから肩にばちんとくると、思わず、 (このやろう!)  と小さく思ってしまうのだ。  これには自分で驚いた。自分の体に驚いてしまった。ほう、そういうものか。  じっさいにはこの小さな(このやろう)で目が覚め、また座禅がちゃんと続行できる、だから理にかなった方法なんだが、しかし野村ん婆さんに命じられた二人はまだ座禅なんてやっていない。つぶらな頭の子供だから、肉体の反応はもっと素直だ。自分が叩いたより強く相手に叩かれてしまうと、どうしても(このやろう)が発生してくる。友だちだし、義理で叩くんだからと手かげんしていたビンタが、互いにだんだん強くなる。  教室内はまだ授業中で、みんな席に坐って横目でじいっと見ている。見ているだけでも、二人のはつり合いがだんだん熱を帯びてくるのがはっきりわかった。力いっぱいになってくるのがはっきりわかった。力いっぱいが昂じて、相手を睨む目に憎しみさえ浮かべて、本当は野村ん婆さんから植えつけられた憎しみなのに、そんなことに構わず相手のビンタを引っぱたく。 「ばしんっ!」 「……」 「ばしんっ!」 「……」 「ばしんっ!」 「……」 「ばしんっ!」 「……」  野村ん婆さんはこのように恐ろしい先生である。いまはこういう先生がいなくなってしまった。これほど生徒を恐れぬ、凄い力の先生というのは全員逮捕されて、いや逮捕は極端だが、いまはすべての先生が民主主義に支配されて、全員の生徒を恐れているということだが、ぼくはもう大人になってしまった。  とにかくそういう野村ん婆さんが、週に一回当番を決める。何の当番だったかいまはその名目を忘れているが、とにかく週に一回、放課後、野村ん婆さんの家まで行くのである。  野村ん婆さんの家は古郷《ふるごう》という田舎の方にあって、学校から三十分か一時間ぐらいは歩くだろうか。駅とは反対側の、学校の裏山の、上野という岡の峠を越えてずうっと降りて行った村の中にある。  とにかく週に一回、当番が二人ずつ選ばれて、その実家行きを命じられる。そのときついでにといって、大きな布の袋を渡され、途中の山道で松ぼっくりを拾ってくるようにいわれるのだった。  それが何であったのかわからない。あるいは生徒たちに課せられた修行だったのかもしれないが、そこは駅に向うのとは反対方向の道だから、人はあんまり通らない。いちおう馬車ぐらいは通る太い道ではあるんだけど、土の山道で、両側には土肌の崖があって、雑木が繁っている。その多くが松だったのか、たしかに松ぼっくりがよく落ちている。  ぼくは誰と組まされたのだったか、いまはまったく顔も名前も覚えていないが、その子と二人、まじめに拾った。拾いだすとあんがい面白くなるもので、だんだん布の袋がふくらんでくる。そのふくらみが何だか良くって、運動会の玉入れみたいな気分もあって、どんどん松ぼっくりを拾った。道を外れて崩れた崖を登り、林に入ったりもした。その方がたくさん見つかる。見つかると嬉しいもので、どんどん袋に入れる。その袋のふくらみがだんだん力強く嬉しいもので、何だ、野村ん婆さん、と最初は思っていたけど、しまいには袋にいっぱいになった。  野村ん婆さんの家はもちろんはじめてだったが、いわゆる田舎の家で、畑か何かと隣合わせて垣根があったような気がする。恐る恐るそこを入ると、若い、たぶん息子のお嫁さんか誰かが出てきて、生徒の到来を告げてくれた。毎週のことで慣れているようだった。  野村ん婆さんが出てきて、このときはさすがに教室とは違い、竹の鞭など持ってはおらず、出席簿もとくにはなく、よく来たという感じで松ぼっくりの大きな袋を受け取り、ねぎらってくれて、縁側に坐らせてもらった。  お嫁さんがお茶を出してくれて、お茶受けは漬物か何かだったと思うが、縁側に腰をおろしてお茶なんていただくというのが大人の対応という感じで、ちょっとはにかんでしまった。  何を話したかはぜんぜん覚えていない。ただ縁側でお茶を飲んだのだけは覚えていて、野村ん婆さんが教室と同じがらがら声ではあったけれど、何かニュアンスが違っていたことだけは覚えているのだ。  でも結局何だったんだろうか。大きくなってからこのことを話すと、それは風呂焚きの燃料集めに生徒をこき使ったんだよといわれたりするが、そう考えるのは民主主義の悲しい習性である。いやそういっちゃ悪いが、そんな結論だけがすべてじゃない。  ぼくは野村ん婆さんも貧乏性だったんだなあと思う。修行なのか、体験なのか、とにかく課外授業のような項目を設けて、そのついでに松ぼっくりを拾ってこさせる。  たしかに考えたらそれは燃料にしたのだろう。松ぼっくりなんてほかに使い道はない。それを週に一回生徒に拾ってこさせて、それで飯炊きと風呂焚きをだいぶ賄っていたのかもしれないが、それを「ついでに」といってくっつけるところが貧乏性である。  いや時代背景もあるから、貧乏性というより貧乏本体に近いが、生徒の体験修行にくっつけてその成果を上げるというところが、けっこう貧乏性であったのだと思う。  つまり貧乏性には「うまいこと考えた」という要素が含まれているもので、そこのところで発明工夫の精神と重なっている。ただその上に「こそくな手段」という形が含まれており、その「こそくな」という小ささ、弱さが貧乏性の特質である。  罰の生徒を教壇に立たせて、それが二人になったら互いに叩かせるというのも、ある点では「うまいこと考えた」という要素が含まれていて、その点では「こそくな手段」である。それは「弱い」とされる女先生だから考えついた方法で、構造の本体は貧乏性だったのだ。  ぼくらは恐ろしい野村ん婆さんに隠された意外な貧乏性に導かれて、このような想い出話を授けられた。民主主義の支配下ではとてもこうはいかず、想い出話ができたとしても、もっとつるりとしたものになったはずだ。生徒を私物化してけしからん、ということは簡単にいえるが、それはそういえるというだけのことで、それでは出っ張ってくるものも食い込んでくるものもないのである。  くよくよする体[#「くよくよする体」はゴシック体]  ちょっとおねしょの話をさせてもらいます。夜尿症。夜眠っている間におしっこが出てしまう。  ぼくは長いことその体質が持続していた。ふつうは誰でも生れてすぐは夜尿症だ。夜だけでなく昼間も、朝も夕方も構わずおしっこが出るわけだから、全日制である。つまり赤ん坊時代はそれが当り前なのだから、とりわけ夜尿症とはいわない。常識である。  赤ん坊から幼児になり、幼稚園に行く人は行き、小学校入学というあたりで、だいたい夜眠っているときのおしっこは出なくなる。つまり体の常識が少しずつ変って固まっていくわけで、それでもなお睡眠中におしっこをしてしまう場合が夜尿症となる。常識から少し外れた体質ということになってくる。  ぼくの体は不幸にもそうだった。小学校一年、二年でする人はけっこういる。三年でもときどきするという人がいるわけだけど、ぼくは毎晩だった。夜中に毎晩おしっこが出てくる。毎晩おしっこをしながら四年生、そして五年生、六年生になってしまった。それだけでなく、とうとう中学校に入学してしまった。中学一年生、中学二年生、中学三年生、ぼくの体はこういうものか、このまま墓場へ行くほかはないのだろうか。  夜尿症というのは、持続するほど絶望が深まっていく。どうしてふつうではないのか。ふつうの人間でありたいと切実に思う。  夜尿症というのはこうして絶望にはまり込んでいくんだけど、そうやって絶望するような人が夜尿症になりやすいという試行錯誤もあるようだ。あらかじめの絶望の先取りが、結局は本当の絶望にはまり込んでいく。  というのは変ないい方だが、要するに神経質なんだと思う。くよくよするというか、ちょっと神経質な子が夜尿症になりやすいという話もある。腺病質といったりもする。  ぼくの場合、夜尿症が不治のまま成長が進んだ結果、小学校二年、三年のあたりからたしかに背も伸びず、青びょうたんで、いかにも腺病質という感じになってしまった。  でももとはそうではなかった。生れた当初は元気でずどんとしていたはずだ。生れたときの体重が一貫百|匁《もんめ》あったという。尺貫法で申し訳ないが、むかしはスキヤキをちゃんと食べるには、一人当り肉が百匁はいるといわれた。尺貫法が廃止になってからは、肉を買いに行くとき、 「四百グラムいくら」  という表示を見るようになる。百匁というのがだいたい四百グラムらしい。端数はもちろんはしょってあるのだろう。どちら側にはしょったかはわからないが、とにかく一貫百匁というと、四・四キロというわけで、かなり大きい方だ。当時としては相当大きい方だったようで、ぼくはよくその「一貫百」という言葉を聞かされた。  そんなわけで、出産時の様子からは腺病質という感じはまるでなくて、むしろ健康優良児ではないだろうか。      *  むかしは健康優良児というのが毎年全国から男女一人ずつ選ばれて、新聞に発表されていた。体格だけでなく頭の成績も考慮してのものらしいが、とにかく選ばれた男子も女子もころころ肥っていて、 「まあ立派」  とみんなに感心され、羨しがられていた。そのくらい、当時は日本中が腹ぺこだったのだ。飢餓列島、とまではいわないにしても、腹ぺこ列島だった。それからウン十年、いまでは日本中に肥満児があふれた結果、気がつけば毎年の健康優良児の発表なんて、いつの間にかそうっとなくなっているのだった。  そんなわけで、生れたとき一貫百あったくらいだから腺病質ではないと思うが、神経質、くよくよ質ではあったのかもしれない。いきなり喧嘩するとか、いきなり川に飛び込むというふうではなかった。いきなりの前に、あれこれ心配して考える方のタイプだ。そういう性質はどこからくるのか。  とはいうものの、人間はだいたい神経質だと思う。無神経、といわれる人はたしかにいるけれど、そうはいない。と思うがどうなんだろう。いきなり川に飛び込む人の場合でも、飛び込む前の凝縮された時間にあれこれ考えているはずだ。それが凝縮されてほとんど一瞬なので、何も考えていないように見えるのではないか。わからないけど。  だから無神経、と見えることでも、それは考えることのスピードの差なのかもしれない。あれこれ考えるスピードがあまりに速くて、その過程が頭に残らない。くよくよはするんだけど、それが猛スピードのくよくよで、一瞬にくよくよし尽してしまって、それが一見無神経にも見える、ということがあるのかもしれない。しかしそういう猛スピードのくよくよの人を、世間的には無神経な人というのか。  まあいっぺんに深くは考えないようにしよう。とにかく神経質な子がおねしょになるとして、無神経な子はおねしょにはならないのかという辺りがちょっとわからない。そうだろうとは思うけど、推測の域を出ない。      *  まあそんなことより、おねしょである。  昼間だったらもちろん、おしっこをしたくなればトイレへ行ってそれを果たす。これは当り前のことで、その習慣がいつごろからはじまったのか記憶にないが、ふつう一般的に考えて、二歳くらいからか。  赤ん坊時代を過ぎて、立って歩くようになり、そのあたりでおしめが取れるんだったと思う。もうだいぶ昔のことで、忘れてしまっている。思い出そうとするが、記憶にない。  記憶というのは二歳ぐらいからあることはわかっている。自分の場合。もっと早く一歳の記憶があるという人もいて、さらに、生れてすぐの記憶があるという人もいるが、成長後に大人たちから聞いた話が自分の頭の中で合成されている可能性もあり、はっきりしない。  ぼくの子供時代は、一、二年おきに引越しがつづいているので、記憶の年代が特定しやすいのである。ふつうは一個所で生れ育つので、記憶の背後の風景が同じだから、前後が混ざりやすい、年代の特定ができない、という事情があるんじゃないか。  ぼくは生れた横浜に一年くらいしかいなかったという。だからどうも記憶にないのだ。イメージはある。橋があり、両側にずらりと乞食が並んでいる。乞食とは歴史用語である。服がぼろぼろで、露出した肌が日に焼けて鮮やかである。その橋を母に手を引かれて歩いている。物凄く天気の良い日で、両側に居並ぶ乞食の鮮やかさが気になり、ちょっと不安な気もしている。  後で大人に聞くと、横浜にはじっさいにそういう橋があった。両側に乞食がずらりと並んでいるんで有名な橋だそうである。じゃあやっぱりそれがぼくの最初の記憶だ、と思うのだけど、でも常識的に判断して、やはりそれは後に大人からちらりと聞いた話が、自分の頭の中でイメージされたものではないかと思う。一歳かそこらで、母に手を引かれてそういう橋を歩くというのも、不可能じゃないけどちょっとムリがある。だっこかおんぶでそこを通ったことは充分あり得るが、まあしかし。  横浜のつぎに住んだ芦屋は、二歳を経過して行く時期で、たくさんの記憶が残されている。家には二階に行く階段があり、二階にはベランダがあり、ざらついたセメント質の手すりから身を乗り出して下をのぞくと、玄関だった。玄関の真鍮《しんちゆう》のドアノブが小さくピカピカ光り、そこまでロープを垂らして、魚釣りだといって上の兄姉たちがよく遊んでいた記憶。  道路に出て、家の並びの四、五軒先の裏側が、何か大きな屋敷を取り壊したような廃墟で、そこにちらちら出入りした記憶。  広いテニスコートが草ぼうぼうになっていて、ネットを張る柱だけ何本か低く立って、金具が錆《さ》びている。その草ぼうぼうの中でトンボ採りをしていたようで、五歳上の兄の掌にトンボが二匹くらい。兄のちょっと沈んだ顔。近所のガキ大将がみんなにトンボ採りの数を割り当てていて、その数にまだ足りなくて、兄がちょっと困った顔になっている、と理解している記憶。  当時末っ子だったぼくが、すぐ上の姉と留守番をさせられた記憶。上の兄姉や大人たちは揃って町へ出かけてしまった。三歳上の姉はぼくを不安がらせないように、いろいろ遊びを考えて、座蒲団の匂いを嗅ぎ回ることを提案した。それぞれ匂いが違い、いちばん臭いのを、 「あ、これお兄ちゃんのだ、いつもおならしてるから」  と言って二人で笑い転げた。そんなはじめての秘密の遊びが面白かった。大人たちが帰ってみると、ぼくら二人楽しく留守番していたので、姉がえらく褒められ、ぼくも褒められた。ということは、ぼくはやはり弱虫で、めそめそすることが多かったのだろう。      *  そうやって二歳くらいからの記憶はあれこれあるのだけど、自分のおしめがいつ取れたかという記憶はない。その留守番の昼間はもうお漏らしはしていない。おしっこはトイレ、当時は便所といっていたが、もう体がその習慣になっていて、いつそうなったかという記憶は消えている。消えたというより、おそらく漏らしたり漏らさなかったり、それを繰り返しながらそういう体質になっていったので、記憶という焼き付けのチャンスがなかったのだろう。  昼間のおしっこ習慣はそういうことで、おそらく夜のこともふつうは同じ経緯をたどるのだろうが、ぼくの場合はそれがうまくいかなかった。  そもそもはみんな全員で夜はおねしょをしていたのだ。でもみんなはだんだんそれをしなくなって、ぼくだけがいつまでもそれをやっていると、だんだん目立ってくる。何だこれは、ということになってくる。ちょっと変じゃないのか。何故そんなことになるんだ。  その「何故」がわかれば納得もいく。たとえばボールを投げるのが苦手で、君の場合は指が一本曲がっているからだというのなら、ちゃんと納得する。でもそうはわからないから困るのだ。原因が見えない。自分だけが何故そうなのか、ぜんぜんわからない。ただ現象だけが積み重ねられていく。それが快い現象ならともかく、不快な現象であるため、どうしてなのか、何とかしたい、どうすればいいのかと、あれこれ考えてしまう。でも考えたところで、「これ」という何かが見つかるわけでもなく、あれこれの行き場のない考えだけが発生を繰り返して、やはりこれは優柔不断の大きな温床となっている。その温床から、いやおうなく優柔不断が醸成されることになる。  屈辱の人体[#「屈辱の人体」はゴシック体]  温床といったが、おしっこが出てすぐはたしかに温かい。でもそれが蒲団に染み込み、どうしても端から冷えてきて、夜中に目を覚ますときは冷たいのだ。何だこれは。おしっこだと気がつく。またやったのか。  とりあえず、その上に何かボロ布を敷いてもう一度眠る。押し入れの行李の中には、使えなくなった肌着類が捨てずに入れてあった。ぼく用である。親がそれを取り出してきて敷いてくれるが、まあ小学校の低学年ならいい。でも高学年になるともうそうはいかない。自分の責任みたいなものがじんわり出てくるし、親だってもう飽きてくるだろう。しまいにはほとほと手を焼いていたんじゃないか。  でも不思議にそういう感じは、感じられなかった。 「しょうがないわねえ」  というふうで、両親ともに優しかった。その優しさがまた温床となっていた可能性もあるけれど、これはしょうがないですね。優しさは嬉しいことで、悲しいことではない。ただおねしょの続行が悲しいことで、ただそれをどうするというマニュアルがないだけなのだ。それにおねしょさえ治れば、あとはどんなに悲惨な生活でもいい、というわけではない。  でもマニュアルの、ヒントはあった。あるとき、親戚の叔父さんから兄宛に小包が送られてきた。何らかのプレゼントで、あれこれの中にボールが二つ入っている。 「いいなあ。……。いいなあ」  とぼくがよほど羨しそうに見ていたのか、兄はちょっとぼくを見た。 「じゃあ、明日おねしょしなかったら一つやるよ」  ぼくはうおっと思い、絶対にもらおうと決意した。決意の末にどうやったか、何も具体策はないのだけど、何と、明くる朝、おねしょはしていなかった。  全国のおねしょに悩む子の親御さんの皆さん、これは一つのヒントになると思う。やはりおねしょというのは、神経の問題だとはよくいわれるが、神経は精神にも繋《つな》がっているらしい。どこでどうとはわからないが、しなかったらボール一つといわれ、どうしても欲しいと思い、その結果しなかったということは事実である。  この因果関係を大人がうまくつかまえて、上手に誘導していけば、おねしょの治る道があるような気がする。でも当時の大人にそういった研究心は薄く、なすがまま状態がずうっとつづいた。  いや両親への不満を述べているのではない。こういうのは難しいことで、下手に功を焦ってご褒美を濫発すると、効果なくもとのもくあみになると思う。世の医学の先生方も、夜尿症はプレッシャーをかけずに、共存しながら、自然治癒にまかすほかはないという。  優柔不断も、ムリに決断をうながすのではなく、放置して、自然の成りゆきにまかすのがいちばんということ。いやこの点は後でゆっくり。  そんなわけで、その一回だけしなかった夜のことは、よく覚えている。でもあとは不幸な夜の連続で、それが次第にコンプレックスとなっていった。人間生きているからには何らかのコンプレックスがあるもので、それがあってこそ別の力が出てくるということはよくわかる。人生の結果を振り返れば、明らかにそうだと思う。でも振り返る余裕もなく、ただひたすらそのコンプレックスの真っ只中にあるとき、頼るものの何もないのが辛い。  生活的にはもちろん親兄弟はみんな優しいけれど、それは自分の人体の外でのことで、自分の人体内のことは誰にも相談できない。ふつう自分というのは人体の皮膚を境に外と内に分かれるものだろうが、ぼくにはそれが出来にくかった。自分にとっておねしょが顕在化してくるのは小学校を二年、三年と進むころ、ちょうど終戦があり、父は失職し、家はずぶずぶと貧困に落込んでいく。貧乏というのは、ある意味ではおねしょ以上に辛いものだけど、世の中を憎むことで、気持のまとまりを持つことはできる。でもおねしょの場合はそうはいかない。自分にとって世の中よりもう少し内側にある自分の人体を憎むことになる。自分というのは、自分の人体のさらに奥にしか居場所がなくなる。自分の人体も引っくるめてこの世の中を呪うことになるのだけど、これは難しい構図である。  自分というのは自分の人体あってのものだから、自分を憎むといってもじっさいには憎み切れないものがあるのだった。優柔不断というのは、そんな構図のもとでは、ただ一つの真実である。そんなところでおこなわれる何らかの決断の、何と薄っぺらいことか。その辺はまた後でゆっくり。      *  でもそういったおねしょのコンプレックスは、人にいってもわからないだけに、いわなくてもわかる、ということがある。  もうおねしょも治り、高校を出て、東京に出て、社会人となって、雑誌の仕事とか、本の装幀の仕事とかしているころだった。友人から仕事をもらった。本の装幀なんだけど、著者といっしょに資料を持って行くからという。著者は鎌田忠良さんで、そのころ連続射殺魔といわれた事件の永山則夫に関する本だった。その後この事件の背後にある貧困の問題を、知識人が注目するところとなるのだが、鎌田さんはその最初の一人である。ぼくはその事件のことをほとんど何も、新聞記事以上には知らなかった。「ピストル」とか「広域事件」とか、そういう記事の見出しが頭にあっただけだ。  鎌田さんはその裁判の傍聴の話とか、犯人が十九歳ということ、その貧困の背景や何か、資料をあれこれ見せてくれながら話すのだけど、ぼくの頭の中にはそうは入らない。ぼくの頭はそういういろんな情報を整理するのが苦手である。貧困のほかに、少年時に夜尿症ということも聞いたはずだが、頭では上の空だった。ただ資料の中に彼が子供時代に住んでいたバラックふうの家や、小学校のクラス写真があった。ぼくはそのクラス写真の最前列の、左から三人目くらいの子供にぱっと目がとまった。ぼくの子供時代にぴたっと重なり、 「この子でしょう」  と訊くと、鎌田さんは驚いていた。ぼくも驚いた。正にその子だった。やっぱり夜尿症だという。ぼくには忘れられないまなざしである。そして忘れられない頬の感触、体の縮こまり方、衣服の着心地。その住んでいたという家の写真も、ぼくが後に住んだ名古屋の市営住宅にぴたりと重なった。ぼくは知識の組立てではだめだったけど、その写真の寂し気な感触に、一瞬で通じた。  その装幀は『無知の涙』という本で、その後ぼくはそのクラス写真を見たときの共感を何かのエッセイに書き、獄中の永山則夫がそれにまたちらと共感した話を何かに書いていた。それだけのことで、それ以上に直接会ったことも話したこともないのだけど、その無音の交流だけは、強く記憶に止められている。      *  それはしかし大人になってからの話で、現役のおねしょの渦中にあって、共感をもって流通できる人は、周りには誰一人いなかった。寂しい孤立状態である。そのまま年齢だけが上がって、大人に近づいていくほど、どうにも公開できないコンプレックスを抱えて、人間は卑屈になっていく。  嫌ですね、卑屈は。  でも何の手だてもなく、中学生となり、中学一年、中学二年、もうこのまま行くほかはないのかと、諦めかけていた。一生このまま行って、全生涯をコンプレックスで塗り潰すのか。  そのころはまだコンプレックスという言葉も知らず、劣等感、という感情本位の言葉しか知らなかったが、そうやって想像する自分の未来は寂しかった。そして中学二年生になったとき、一つのきっかけが訪れた。中学二年生の十二月、クリスマス、みんなで先生の家へ遊びに行って、遅くなり、泊ることになってしまった。  泊る。ということは眠る。となると、ぼくの体の実態がみんなの前にさらされることになる。どうすればいいんだ。  演劇部の先生で、平野パクさんという。  音楽と体育の先生で、眼鏡の顔に、ごつんとした体をしていた。非常に不良っぽい先生で、授業の途中で話がそれて、教壇の上から喧嘩の仕方などを教えてくれた。喧嘩といっても内容のことではなく、体の構えとかパンチの出し方とか、そういう体育的なこと。  それを教壇の上でやるから面白かった。パク先生も、教壇の上からそんな話をして、生徒たちがそれを授業中に聴くというスリルに目を輝やかしている、そういう関係を楽しんでいた。  いまは民主主義に支配された世の中だから、教室の中の教壇をなくそうという風潮さえあるらしい。先生も生徒と同じ高さで、ということらしいが、いかにもいまの世の中らしい図式的な考えである。ぼくはいまの生徒でなくて本当によかった。  パクさんは図式とは程遠い先生で、何でもやりたければ裸にでも裸足にでも勝手になれという。そのかわり、 「びょおーきんなってん知らんど」  とぶっきらぼうにいう。ぼくは同級のユキノ君とこの口真似をしては喜んでいた。 「びょおーきんなってん知らんど」  病気になっても知らんぞ、というわけだが、その口調を真似しながら、そういう人格を楽しんでいた。そのぶっきらぼうが気持よかったのだ。論理的説明ではなくて、そういう口調そのもの、音声そのものに、言おうとすることが詰まっている。  そんな調子で、おしゃれについても教壇からいろいろ教えられた。当時一挙に上陸しつつあったアメリカ的な、新品の服をそのまま着てしまうようなツルピカのおしゃれではなくて、買った服を少し日に焼けさせてから着るという、フランス風の少し崩したおしゃれ。  その年齢でその時代に、おしゃれなんてしようもなかったけど、そういう精神は教えられた。  その先生がクラブ活動は演劇部で、ぼくもそこに入っていた。ぼくみたいな内気で臆病な子供がどうして演劇部に、と思うが、やはりパク先生がいちばん先生的でなく面白かったし、ぼくの仲のいい絵の友だちがみんなパク先生の演劇部で、ぼくもくっついて入っていたのだ。  学校祭で演劇をやった。中心は三年生で、ぼくら二年生は小道具や舞台装置を造ったのだけど、ぼくらもパク先生に負けじと、何か型破りをやりたいと、絵具をこっそり小便で溶いて塗ったりして、変なことを楽しんでいた。  そんな演劇部の納会みたいなことが、パク先生の家であり、そして夜になったのである。逃げられない夜。恐ろしい夜。  歩いて帰るといっても相当遠かった。道順もわからない。それにそのころの夜の町は、紐のない犬がうろうろしている。そのころぼくは、猛烈に犬が怖かった。  それに遅いからみんなで泊ろうとなった以上、そこであえて帰るというのは、何だか逃げ出すようなことなのだ。  お座敷に蒲団を敷いて、みんな雑魚寝である。その用意をしながら、みんなわくわくしていた。その時代、外泊なんてそうあることではない。それに男子だけでなく女子も混じっての雑魚寝だから、別にそんな大それたことはないだろうにしても、やはりわくわくする。ぼくもわくわくするふりをしながら、しかし内面は蒼白だった。今夜すべてが明かされる。屈辱の人体がさらけ出される。  蒲団がびっしり並べて敷かれ、みんな行列して横になり、ぼくも言われるがままの位置に横になった。もう夜の何時ごろだったろうか。電気を消して、それでも話し声が飛び交い、それもだんだん小さくなっていって、隣どうしのひそひそ話になって、それも静まる。  ぼくは絶対に眠らないと決意した。眠らなければおねしょはないのだ。眠るからおねしょはあるのだ。睡眠がいけないのだ。憎たらしい睡眠。  そうやって、一人じーっと暗い闇を見つづけていて、ふと目が覚めた。目が覚めた、ということは眠っていたのだ。しまった! と思って慌てて手をやり、腰の回りを点検する。  濡れていなかった。暖かいけど、乾いた蒲団の感触だけがある。ズボンも濡れていない。パンツも濡れていない。当時はパンツではなくサルマタといったが、全部大丈夫。  ホッとして、横に寝ていながら、へなへなとなった。しなかったのだ。奇跡である。こんな爽やかな朝があるだろうか。みんなぽつぽつと目が覚めて、うわわといったり、手を出して背伸びしたり、ざわざわと動きはじめる。ぼくもやっと目が覚めたというふりをして、事実そうなんだけど、夜って奴は仕方ないという感じで、みんなと同じ振舞いをすることができた。生れてはじめてのことである。  それで一気に治ったわけではない。でもそれは、忘れることのできない一夜だった。その奇跡の一夜は、兄のボールを欲しいと思って寝た一夜と、その要因において同じだと思う。自分でもどのような方法かわからないけど、とにかくキモに銘じて、そのキモが夜尿症を封じたのだ。  不審な便所[#「不審な便所」はゴシック体]  ぼくの夜尿症は、その夜から少しずつ治癒の方向に転じていった。一気にではないが、少しずつしない日が増えて、少しずつ夜が軽くなっていく。わずかながら、自信のようなものが湧いてくる。  そのころから、夢に特徴があらわれてきた。夢の中で右往左往しながら、何故か不審な便所があらわれてきて、どうも怪しいと疑うのである。  その前のもっと幼少時の夢については、記憶がない。  そういえば、おねしょに限らず、子供のころの夢はどうして覚えていないのだろうか。この世に生れたばかりの子供は、いわば夢の中に生きはじめるようなもので、まだあえて夜の夢を見る必要がないのだろうか。  理屈はともかく、そのころ盛んに疑惑の便所が夢の中に出てきたのである。見かけはとくに怪しいものではない。学校の便所や、よその家の便所や、駅の便所やいろいろだった。夢の中での自分は便所を探していて、うまい具合にそういう便所が見つかり、ほっとする。やれやれと思い、では、というのでその便器に向かって身構えながら、しかし怪しいなあ、と思うのである。どうも怪しい。これは嘘の便所じゃないのか。便所の形はしているけど、狸《タヌキ》が化けた物だとか、本気でそうは思わないが、でも何か怪しいと思って、自分のホースの先を仕舞う。身構えるのをやめる。本当はしたいのだけど、必死の思いでやめて、新しい便所を探し歩く。そしてやっと見つけて、この便所ならまあいいだろうと、気を許して放尿すると、そこで目が覚めて、事実放尿をしている。いけない、と思ってももう遅い。  そうやって、まだ治ってはいないけど、その寸前まで行けるようになったのは不思議なことだ。少なくとも怪しい、と疑う気持は芽生えた。どこが怪しいのか、自分でもわからないが、とにかく怪しいと感じる。  そうやって夢の中で、真実の便所探しがはじまり、いろんな便所がいくつもあらわれ、怪しい、と思ってはその場を離れて、夢の中を探し歩く。怪しい便所から怪しい便所へ、いくつもハシゴするみたいにさまよい歩きながら、たまたまその途中で目が覚めたときは、まだしていないのだ。おねしょをしていない。ほっとして、蒲団を出て、現実の便所へ放尿に行く。  そんな夢がたくさん出てきて、そのうち怪しい便所に騙されないようになり、便所巡りの途中で目が覚めるようになる。  ぼくの夜尿症はそういう夢とともに治っていった。夢の中で疑い迷いながら、そんな優柔不断が決断を引き延ばしながら、それが解決へとジョイントして行ったのである。  これは何だろうか。ぼくの優柔不断が夢の中にあれこれの便所を登場させたのだろうか。それとも夢の中に入れ変り登場する便所のお陰で、ぼくの優柔不断は熟成していったのだろうか。      *  便所の夢はその後もよく見る。その当時の治りかけのときに見た便所とはちょっと違って、何かあり得ない形の便所、あり得ない設定の便所の夢をよく見る。ある旅館の便所は広い大浴場の中に併設されていて、そこに入るときはもう服を脱いでいるのだ。裸になって、入浴する形で便所に入り、とくに戸がないのである。目の高さだけ戸があったかもしれないが、いずれにしろ床はそのまま大浴場の床に連続している。高低の違いもなく、仕切りもなく連続しているのが気になる。便所の床に散った水分のべちゃべちゃ感が、浴場のべちゃべちゃ感まで連続的につながっていくようで、これでは浴槽にまで汚れが染みるんじゃないかと気にしている。その浴槽がしかも床からそのまま深く掘り込まれたもので、どうしてこうなっているんだろうと考えている。ここでコトを成していいものかどうか、悩んでいる。  こういう便所と浴室の生理感でつながる夢はよく見る。自分の住んでいるアパートの風呂が、ずばりそのまま一体型なのを見た。つまりしゃがんで入る日本式の浴槽の底に、同じくしゃがむ和式の便器が設置されてある。ポリエステルとホーローとでうまく出来ているから嫌悪感はなく清潔なんだけど、しかしいかがなものか。便器と浴槽はたしかに材質や構造でつながるところがあるけど、だからといってこれを合体させるとどういうことになるのか。便の場合はまだしも、浴の場合は便器もろともお湯を満たすことになり、いくら一石二鳥とはいってもそういう貧乏性はやめてもらいたい。優柔不断の悪夢というものである。  でもこういう夢は、夜尿症が治った後での余裕だろうか。中学二年とか三年の、まさに治ろうとしているときの夢は、そうではなかった。もっと切実に便器であり、ごく当り前の便器の形をしていた。設置された場所も、ちゃんと駅や学校や公園やその他、ふつうにあるべきところにあるのである。あるべき形であるのである。だけど怪しいと思う。その疑念だけが、こちらの頭の中に湧いている。イメージに遊びがない。やはり真剣だったのだろう。  夜尿症体質にかかわらず、便器や浴槽というのは皮膚感覚的なもので、夢ではみんなよく見るんじゃないかと思うがどうなんだろう。それともやはり、夢というのは個人差があり、現実生活での物体との付き合い方もそれぞれに違うものだから、便器の夢なんて見ない、という人もいるんだろうか。  たしかにいまの住宅では、便所はそう特殊な空間ではなくなっている。水洗になって、匂いもほとんどなくなり、トイレットペーパーという正規の紙も用意されて、とくに何ごともないような場所になっている。  昔はそうじゃなかった。ぼくの家に限らず全国どこも、ほとんどの家が汲み取り式だった。もちろん和式のしゃがむ方式で、床にただ穴が開いていて、下が見える。排泄物がそのまま薄暗い巨大なカメの中に見えるわけで、とにかくいろいろ、蛆《うじ》がはっていたりもして、詳細は省くが、家の中の、閉ざされた、もっとも恥部としての極点がそこにあった。  子供は未熟であり、保護されてはいるものの、そういう便所空間では独立するのである。裸で、むき出しのお尻を見せるのは恥しいことなのである。はじめはもちろん親がついて入って、用のあと紙でお尻を拭いてくれる。でも便器の穴を自分でちゃんと跨げるようになり、自分で拭けるようになると、もう親はついてこない。その便所空間では独立する。便器の穴は子供には大きく、場合によっては簡単にそこから落ちる。もちろん落ちたくないから、独立の子はそこで踏ん張る。落ちたら、それは自己責任だ。  もちろん当時はそんな、自己責任なんて形式用語はみじんもなかった。言葉なんてなくてもみんな自覚していた。毎日一度は、そういう便所空間での独立の機会があるわけだから、おのずから、放っておいても、自覚してしまうのである。  それが一般的な便所事情で、個人的なことをいうと、そのころ住んでいた大分の家は、借家だけどかなり広くて、便所が二つあった。お座敷の方に付いているお客様用と、台所の方に付いている家庭用。その台所の方のは何か調子が悪いのか、ほとんど使われていなかった。お座敷の方はというと、便器も何かちょっと角張って立派で、足で踏むところもあり、床はよしず張りで、本来ならしゃれたものなのだろうが、よしず張りというのは掃除がしにくいのだろう。いつも何だか汚れていた。汚れるとちょっと遠くの方からするようになり、ますます飛沫で汚れる。だから何だかべちゃついた感触があり、その場所が好きでなかったことは事実である。その感触がいつまでも夢の中に残り、夢の中の残留孤児となってあらわれてくるのだろうか。  うちの風呂場の印象もある。当時だからけっこう広くて、いわゆる五右衛門風呂だった。セメントの床から浴槽が盛り上がり、中は鉄釜である。その口径に合わせた丸いスノコが浮いていて、それを足で踏んで沈めて中に入る。鉄だから、もちろんそのまま入ったら熱いからである。  そういう風呂場の隅に蛇口が付いていて、ぼくはよくそこで水を飲んでいた。  夜寝る前に水を飲んではいけないのである。水分が尿になるから、それを絶つ、というのはとりあえずの処置である。ぼくだって嫌なおねしょは治したいから、夜は水を飲むのを我慢する。でも我慢するとよけい飲みたくなるもので、でも我慢する。  そうやって努力していても、おねしょはしてしまうのだ。水を飲まなくても、水は出る。尿はもちろん水分だけど、夜尿症は必ずしも水のせいじゃないと思った。自分の実験結果だった。ずうっと水を飲まないのにしてしまうとなると、その因果関係がつかまえられない。そうなると、夜水を飲まないというのが、机上の空論みたいに思えてきた。ムダな努力だと思うのである。報われる努力ならいいけど、報われない努力には反感を覚える。  理論的にそこまで行って、ぼくは水を飲んでいた。公式には飲んじゃいけないことになっているので、夜便所に行くとき、そっと横にそれてお風呂場に行き、蛇口に口をつけて飲む。水を流すと聞こえてしまうので、水滴の落ちないように、顔を傾け、蛇口を口に含んで、それから栓をひねって飲んでいた。  だからそのお風呂場も、ぼくにとっては秘密めいた場所であり、ぼくだけの独立場となっていた。それは個人的な事情ではあるけど、しかし一般的に考えても、便所も浴室も、ともに肌を露出する空間であり、プライベートな感触にくっついている。だから「便浴合体」の夢は誰しも見るものだと思うが、どうなんだろう。  不安定な放尿[#「不安定な放尿」はゴシック体]  これも既に記述したことのある夢だが、ある公衆便所だった。旅館だ。旅館の中にあるのではなく、旅館の外の、入口広場の駐車場の脇にあるような、旅館に着いた人がとりあえずまず用を足すというような、そういう便所なんだと思う。男子用の、いわゆる朝顔形の白いのがいくつか並んでいて、その朝顔の垂直面のところに蛇口が出ているのだ。つまりその蛇口の水は、そこで手を洗ったり顔を洗ったりするわけで、その場合は朝顔便器がそのまま流しになるわけで、なるほど、うまく考えたな、と思っている。でもそこで「小」の方をするとき、その飛沫が蛇口にかかる恐れもあるんじゃないかな、とも考えている。まあしかしこうして実用化されているんだから、それは大した問題じゃないのかな、とも考えている。  そんな便所で、さて、と荷物を置くんだけど、それは便器が並ぶ壁の上である。天井までの壁ではなくて頭の高さ。その壁の向う側にもだいたいは便器が並んでいるものだ。いまでならパーキングエリアとか、一度にどっと大量の人が来るような公衆便所では、よく見かける。とにかく荷物があるので、まずそれを壁の上に置いてコトを成そうとするわけだが、あれは不安なものである。荷物の重心が崩れて、あっ、と倒れてくるんではないか。その場合、成すコトに手を添えている、その手をぱっと離して荷物を押さえねばならず、そうなりはしないか、まずならないだろうが、という危惧をいつも抱いている。  このときもそれがあるから、壁の上に置いた荷物を、何度かぐすぐすと押さえて、重心の崩れないのを確認したつもりなのだ。それがしかし、便器に向かってのコトが進行し、ほっとして見上げると荷物がなくなっている。まさか、と思ったが、事実ない。コトは進行している。荷物は、こちらならまだしも、向う側に落ちてしまったのだ。おそらく向うでもコトを成す人がいるわけで、これはマズい。マズいし申し訳ない。怒られる。  とにかくこちらのコトを早目にすませて、ズボンに格納し、とにかく確認する。高い壁だから首を出しにくいのだけど、何とか壁の上に両手をかけて、便器を足掛りに伸び上がって向うをのぞくと、その壁が向う側では切り立っていて、相当高い絶壁状になっていて、そのずうっと下の方に小さく、女湯があるのだ。  またしても浴場である。しかも女湯で、体を流していたりする人が、上から小さく見える。その絶壁の壁に接して浴槽があり、湯が満ちているのだけど、その水面に丸く波紋が広がっている。ぼくの荷物が、いましもその浴槽に落ちて、沈んだのだ。  これも大人になってからの夢である。もう中年のころだと思うが、まだやはり、おねしょの便器的、浴槽的な感触がくすぶっているのだろうか。それも女湯であり、それがしかも男子便所の向うの絶壁下にあるということに、見る人は何かを見るのかもしれないが、ぼくはとにかく夢の中でそのままを見てしまった。便器と浴室は、ふつうの白昼の生活ではちゃんと別物として使われている。ちゃんと論理的に分けられている。それが恐らく夢の中では、まず論理が崩れるのだろう。論理を失なった感触だけが浮遊して、あれこれと入り混じる。似たものどうしがくっついたときに、何か別の論理が生れかけたりしている。でもそれは白昼の論理の惰性がそうしているだけで、ちゃんとした論理になり切れるものではない。とはいえこういう夢の確固たるありさまは、日ごろ優柔不断といわれているエネルギー体の、楽屋裏における素顔を平然と見せてくれているような、そんな気がしないでもないのである。      *  中学の三年になってやっと夜尿症が治り、その件に関してはとりあえず夜と昼のメリハリのある体になったのだった。夜と昼というより、睡眠時と覚醒時、それをないまぜにせずに、睡眠時には出さない、という約束を守れる体になったのである。当り前のことではあろうが、ぼくとしては憧れの当り前であった。憧れの日常生活。人はよく、とくに芸術家などは非日常ということに憧れたりするが、それは日常生活があってのことである。日常生活の安定しないものにとって、非日常ほどつまらぬものはない。あえて逆説をロウしているのではなくて、中学生の最後をやっと健常者として卒業したぼくは、高校に入るとすぐに、二か月で、大分から名古屋に引越しをした。  名古屋って何だろうか。  大阪でもない、東京でもない、その中間の、どちらともつきかねる、優柔不断の地点である。  と考えるのは人間の頭の癖で、人の暮しはどこだって基本は同じで、優柔不断もあれば決断もある。だけど歴史上関東と関西の文化圏が作られ、そのあれこれの文化の違いが知られてくると、じゃあ名古屋はどちらなんだ、中部地方というけど、中部とは優柔不断のことではないのか、となるのだった。その名古屋で高校時代を住むことで、たしかにぼくの優柔不断はいっそう濃度を高めたのかもしれない。  でもまあ、名古屋はどちらかというと関西である。関西とはいい切れないとしても、少なくとも関東ではない。やはり寄りとしては関西であろう。いやこだわることはないが、ぼくは子供のころから聞いているナゴヤという語感が好きだった。わが家もぼくが生れる前、つまり横浜の前は名古屋にもちょっと住んでいた。そんなことは知らなかったが、子供のころ聞くナゴヤという語感は、ある種の娯楽的な楽しさがあり、何かしら使い込まれた道具のような、きめ細かな味わいがあって、きっと何か美味しい食べ物でも隠されているに違いないと、子供の頭は考えるのだった。  裏側を描く[#「裏側を描く」はゴシック体]  ぼくの名古屋は絵の修業時代だった。転校した高校が公立には珍しく美術課程のあるところで、ぼくは毎日石膏デッサンに励んでいた。どうしてあんなに励んだのだろうか。もちろん絵がうまくなりたいという気持があり、多少その可能性があったからだろうが、夜尿症を脱した体に、やはり何か武器が欲しいという願望があったのだろう。そうするとまず自分にとって手っ取り早く身近にあるのは絵であり、それにすがるという気持があった。  溺れるものは藁《わら》をもつかむ、その藁が絵であり、その藁をつかんだために材木はつかめなかった、ということがあるかもしれない。それはわからない。  そんな傾向は子供のころからあるもので、自分の体の見えないハンディを自覚してくると、それをカバーするために、少しでも得意な分野を強化しようとするものである。だから昔から絵師や歌人、いわゆる歌舞音曲に優れたといわれる、つまり芸人というのは、逆にいうと何らかのハンディのある人が多いんじゃないか。それが一芸を強化させるんじゃないかと思われる。  だから逆にすべてに恵まれた人は、むしろ大変である。何も強化する必要がないままに育ち、そのこと自体をハンディとして自覚することがあるとすれば、そのときはもう人生も晩年になっているはずだ。何か強化しようと思ったときにはもうあの世が迫り、懸命で立ち直ったところは、もうじつはあの世かもしれない。つまりあの世ではじめて立ち直るというのも、それはそれで人生である。  石膏デッサンは楽しい。絵の嫌いな人は、あんなもの、と思うだろうが、たとえ石膏の顔であっても、目の前のものがそのままありありと紙の上に描けてくるのは、ぼくには楽しかった。  もちろん受験のためというのが頭の上にあれば苦しいかもしれない。ぼくだって半分それはあったが、あとの半分は、絵が描けてくることの不思議というものに興味があった。神秘といってもいいけど、ちょっと大げさになる。  石膏デッサンというのは、楽しいけど難しいものである。ぼくは見たその通りに描こうとしているのだけど、先生に、 「裏側が描けてない」  というようなことをいわれる。何だろうかと思った。裏側は裏に回らないと見えない。見ているのは常にこちら側、つまり表側だけだから、裏側なんてどうやって描くのだろうかと思った。ちょっと馬鹿正直であった。  でも描きながらぼんやり考えていると、何となくわかるのだ。たとえば石膏像の首筋のところなど、裏側までぐるりと行っている感じが描けてないときがある。物は立体である。表側の凹凸だけはその通りに描かれていても、裏側までのボリューム感というか、実在感というか、そういうものが描けていたり描けていなかったりするんですね。  これは感じだから、理詰めではわからない。でも新しい和風ホテルなど入って、綺麗で立派だと思うけど、何か軽いな、と思うことがある。檜《ひのき》の柾目の板に近づいてみると、それがじつはプリントだったりする。  といってもじつに精密なプリントで、どう見てもわからない。本物そっくりである。でもふっと見て変に思う。で、よくよく見るとプリント。ということはよくある。  プリントの場合は明らかにニセ物だけど、本物でも変に感じることがある。新しい立派なビルの中に入って、壁には重厚な石が張りめぐらしてある。凄いなと思うけど、ちょっと変だなと思う。でも立派なので、どこも変ではないと思いながら、壁に近づくと、ちゃんとやはり本物の石で、ちゃんと天然の腐蝕のような跡がある。やっぱり本物だ、変ではない、と思いながらも何か変で、試しに指でコンコンと叩いてみると、その音が軽い。見ると確かに本物の石だけど、叩くと音が軽くて、じつは薄くスライスした石の張りなのである。  いや、それはそれで致し方のないことなのだけど、そんなとき見ただけで「変だな……」と感じるのは何故だろうか。その感じとは何なのだろうか。  石膏デッサンの先生が「裏側が描けてない」といったのは、そんな感覚とも関わりがあると思う。表面は同じでも、その物の厚みというのが、表面から見える。どう見えるのだ、と理詰めにしていくと消えてしまうが、でもそんな理詰めが席を外したときに、ふっと見える。ふっと感じるといった方がいい。  別に神秘的なことじゃなくて、一段上がった、一段きめ細かい、上位の感覚世界だろう。神秘というものがあるとすれば、その一段一段を上がって行った、ずうっと上位の感覚世界のことなのだろう。それは日常ふつうの感覚世界と地つづきだけど、突然的に見れば、神秘というよりほかに理詰めの方法がないということ。ではなかろうか。  それは文章でも同じように思う。石膏デッサンでいわれた「裏側が描けてない」というのは、言葉づかいにもあらわれていると思う。絵のようにわかりやすい例がなかなか浮かばないが、何か面白い文章というのは、ふっとわかる。石膏像の首筋のところが、裏側にまで回っている感じが、一言で書かれている。もちろんたくさんの言葉で説明すれば、当然ながらわかることである。だけどわかればいいというものでもない。  絵の場合も、石膏像に裏側のあることを、横とか上からとか、何枚もの図面でわからせることはできる。でもわかればいいというものではない。そういう説明ではなくて、一枚の絵の中の描写で、それが感じられてしまうもの。  本や雑誌をぱらりとやって、ふっと面白そうな文章部分が目にとまる。面白い文章はその書き出しの数行で面白さが見えてしまうといわれるが、それは説明とは違う描写なんだと思う。首筋の裏側まで書かれている一言の言葉づかい。それがはじめにぱらっと見えて、読んでみたら結局終りまで、その文章自体が面白いものである。何だろうか。  もちろん間違いもあって、それを技術的に分析して使用している例では、一見やはり立派だなと思い、でも何か違うなという感じがしこりのようにあって、その立派さがふと席を外したところで見ると、プリント合板の木口のところがのぞいていたりするのである。  その辺が感覚世界の優柔不断に関わるところで、技術ではなくて芸なのだと思う。どう違うのだろうか。自分でも理詰めでこられるとわからないが、技術と芸というのは、発する基盤のところが違うのだと思う。頭で考えたものと、体から湧いてくるもの。それが絵にも文章にもあらわれてくる。写真にだってあらわれてくるんだから始末がわるい。写真は写真機による定着だからそんなものあらわれる余地がないと、理詰めでは思うのだけど、それでもあるのだ。湧いてくるものが。  頭で考えた技術ではない、体から湧いてくる芸というのが、どこをどう通ってくるのか、写真という機械表現にもあらわれてくる。      *  名古屋でもつくづく、自分の優柔不断のめぐり合わせを思わざるを得なかった。高校入学の四月に引越していれば、すぱっと新学期からの入学で、みんなと同等のスタートだろうが、ぼくは六月である。転入試験が物凄く難しくて、一般の高校入試とはぜんぜん違う。大分の高校二か月で習ったばかりの現役の問題がずばずば出てくる。でも逆にそのお陰で、ぼくは何とか解答を満たせた。大分での高校の授業が、まだはじめてで物珍しく、面白かったせいか、けっこう頭に入っていた。これが一年もすれば、勉強嫌いの自分としてはだいぶ成績は落ちていたと思う。  それよりも石膏デッサンの試験があって、その出来映えは不尊ながら自信があった。でも入学後しばらくして担当のT先生がいうには、君のは石膏デッサンはまだだったけど、学科試験がよかったから入れたんだといわれて、少々むくれた。そんなはずはないと思った。相手は絵の先生だから、絵には厳しく、簡単に褒めるわけにはいかないと、そういうむしろ抑制があってのことじゃないかと疑った。でもまあしかし、裏側が描けてなかったんだろうな。  で、その高校でぼくは、はじめての名古屋という土地に来たせいもあるけど、転校生ということでなかなかみんなになじめず、ずうっとコンプレックスを抱いていた。そうじゃなくてもコンプレックスに関しては、たっぷりと持ち駒がある。生後数年間をのぞけば、たっぷりとコンプレックスにまみれて生きてきている。とはいえ、新入の転校生として、新しいコンプレックスでなかなかみんなになじめなかった。二年生になったころからやっとみんなにもなじめるようになったけど、しかし考えてみたら、そんなに悩むこともなかったのである。転校はまだ入学の二か月目だから、誰だって顔を合わせたばかりで、その点ではみんな転校生的なもので、本当はぼくだけではなかったのだ。でも転校したぼくには、もうみんな旧知の間柄で、自分だけ新入りの人間だというコンプレックスを抱きつづけていた。  ご苦労なことである。自家製のコンプレックスというか、まあコンプレックスというのはみんなそういうものだろうが、それがわずか二か月差という、新入生か転校生かという優柔不断のルツボにはまったお陰で、より一層思い悩む性質が助長されたことは推察できる。これも運命というか、めぐり合わせというか、それにこだわるつもりはないが、まあやはり、優柔不断の星のもとに生れたものである。  その高校では洋画、日本画、彫塑と授業があり、その三つをまんべんなく学んで、三年になるとどれか一つを専攻する。ぼくははじめから洋画志望だったが、彫塑にもけっこう引かれた。彫塑とは粘土で作るので、彫る彫刻とは厳密には違う。まあ似たようなものだ。モデルの形を描写的に作ることで絵に似てはいるけど、立体だからつかみ方が違う。たとえば顎《あご》の下なんてまったくの盲点であり、ふだん絵を描く目では素通りしている。でも立体物の彫塑では、どの角度も素通りはできない。横や後ろには回って見るけど、下から上からというのは、これまで見たことがなかった。それでも何とかそれらしい形は出来るのだけど、いざ顎の下を見れば、まったくの隙だらけというか、なってないというか。  これは石膏デッサンのときの、裏側が描けてないという指摘に、違うけど、とらえ方のところで通じることかもしれない。顎の下が出来てなくてもそれらしくは見える。でもやはりそこが出来てないと、立体物としての表現が何かしら薄く見えてしまうのだ。この辺の感覚は微妙なもので、微妙と、気のせいと、ぎりぎり混同されかねないものだ。芯までムクの石と、薄い張りの石と、表面を見ただけで微妙に感じられる。これも微妙に感じるのか、気のせいで思うのか、ぎりぎり混同しかねないもので、危ない領域である。でもそれだけに面白くて、優柔不断の温床となっている。  そんなわけで、描写というのは面白い作業である。洋画は洋画なりの、彫塑は彫塑なりの、日本画は日本画なりの描写の面白さがあり、悩むのだった。でもやはり洋画コースへ進んだのは、西洋への憧れがあったからで、それは頭を使いはじめた青年の合理主義への憧れ、科学への憧れである。西洋でなく自分たちの東洋にも、合理的精神や科学はあるのだけど、これはすぐにはわかりにくい。西洋のはわかりやすい。分析的だからとりあえずわかる。だから競争すると西洋は強い。頭だけでもわかるので、若い頭はどうしても引かれるのだった。  人間が生活を工夫しながら発展する以上、合理主義はどこにでもあるのだが、東洋のこの辺りの合理精神というのは、西洋ほどすぐにはわからない。ぼんやり隠れていて、学校で習った西洋的な頭から見ると、むしろ合理的には見えなかったりする。  大きな違いは、西洋は頭だけでも考えられる合理主義で、それが東洋では体もいっしょに伴わないと考えにくい合理主義じゃないだろうか。つまり時間的要素をも含めて考えていくようなもの。ちょっと違うかな。  西洋の場合は、手にとりやすく、わかりやすい。とりあえずは時間から切り離した、その場の瞬間の、一枚の薄いハムのようなもの。東洋の場合は、スライスしない腸詰め一本丸ごとのような、たっぷりとはしているけど、取り出しにくいといえば取り出しにくいものである。  だからとりあえずというと、ちゃんとスライスされたハムにまず手が伸びる。とくに若者はハムである。最近はスーパーに行っても、ハム二、三枚ごとに真空パックしてある。一食分というか、ムダが含まれないというか、非常に分析的である。試験で使いやすい。  まあそんなわけで、ぼくもハムからハムへとたどりながら、洋画志望で石膏デッサンに励んでいたのであった。 (画像省略)  ぼくが決断的だって!?[#「ぼくが決断的だって!?」はゴシック体]  洋画志望の終点は、ぼくには千円札の印刷だった。薄いハムのような千円札。それが輪転機から印刷されて出てくる。もちろん使えない、表一色刷りだけの不能の千円札だけど、何という快感だろうか。肉体を遠く離れた頭脳世界での快感。  この作品は後に法に触れるということで裁判となり、何年かの後に有罪となり、ぼくには歴史的一項目として定着してしまった。自分の経歴というとまずこの「千円札」が出てくるようになったのである。  その後パロディの仕事をしたり、小説を書いたり、いろいろな表現の中で、自分はつくづく優柔不断だと思い、またそれをあえて標榜してもいるのだけど、あるとき知人に、 「そんなことはない」  と否定された。 「優柔不断じゃないですよ、千円札を印刷するなんて、決断力がなければとてもできないことですよ。あなたは決断的な人ですよ」  といわれて、ちょっとショックだった。まさかと思った。ぼくが決断的だって!?  まあその人の言辞の陰には、やはり優柔不断は情ない、決断は素晴しい、という価値観が見え隠れするのだけど、でもいわんとすることはわかる。たしかにふつう一般の、常識の、庶民の、おじさんおばさんの、日常感覚から考えたら、千円札を印刷するなんてとんでもないことである。悪いおこない、犯罪であり、国賊といわれても仕方なく、有罪は当然である。決断の世界ではそうなる。でもぼくは優柔不断の世界に生きているのだ。生れてこの方、二、三歳のころはまだしも、自己確立のスピードとともにコンプレックスは増大方向にあり、その両者の折り合いをつけるところでどうしても優柔不断のルツボに潜入せざるを得ないのであって、それは誰しもそうであろうが、ぼくの場合も次々とコンプレックスを乗り換えながら、いつしか東京在住の芸術青年となり、しかも前衛芸術という、気がついたら優柔不断の裏側に回ったような、一周遅れのトップランナーみたいな走りで、結局は「千円札」を手にしたのだった。  そのモーメントを要約すると、つまり世の中には無数の印刷所がある。近代の印刷技術の発達は目ざましいもので、ありとあらゆる物を印刷している。  一方、世の中にはお金が流通している。世の中の動きの活力源となっているのがお金で、主としてお札、紙幣で、紙幣は印刷物である。  この両者の存在が不思議だった。紙幣という一種類の印刷物が、世の中のほとんどの価値を代弁して流通している。一方世の中には何でも印刷できる印刷所が無数に存在している。この両者がスパークもせずに、互いに無関心を装いながら、何ごともなく日々を過している状態が、ふと考えると不思議だった。  世の中の印刷所は、何故千円札を印刷しないのか。  もちろんそれは犯罪となってしまうからだけど、その自制心だけでもっているというのが、お札というのは不思議な物体に見えるのである。印刷できないというけど、本当にできないのか。できないところを、じっさいにこの目で見てみたい。  もちろん千円札を作品として作ったのは、ほかにも動機がある。いわゆる芸術問題といわれるもので、それはちょっとここでは省く。芸術問題、思想問題、メディア論的な問題等々、いろいろと折り重なっているのだけど、それはともかくとして、とりあえず、千円札作品の動機の直接部分は、お札が印刷物であること、世にはたくさんの印刷所があること、この二点間の優柔不断の回遊による。  友人、先輩、知人の知人といった関係をたどりながら、あれこれの印刷所にそれとなく千円札を印刷する件で頼んでみると、もちろんほとんどが駄目であった。まずはふつうのお客として印刷を依頼するのだから、それが偽札でないことはわかっている。  そりゃそうですよ。もしふつうに印刷所に頼んで偽札が出来るとしたら、これはおかしなことである。 「すみません、千円札を印刷して欲しいんですけど」 「はいはい、何枚ですか」 「五千枚」 「わかりました。製版と刷り、それと紙代で、えーと、一万二千円ですね」 「じゃあお願いします」  というので、一万二千円の印刷代で五百万円のお金ができるとしたら、ほとんど国民の全員がやるだろう。そんなことはあり得ない。世の中はそう甘くない。本気で犯罪をやろうとする人は、もちろん依頼などせず自分でやる。過去の例はみんなそうだ。  だから千円札の印刷依頼が、偽札でないことはわかっている。誰だってそうである。でも印刷所は印刷が仕事だから、頭から断ったりはしない。まず仕事として考え、そして断る。その考える時間の長い場合と短い場合とあって、これは判断しにくい問題なのである。 (画像省略)  ぼくも何度か断られて、さすがに考えてみた。こちらはいちおう堂々と、包み隠さず依頼しているんだけど、それでもやはり悪いことなんだろうか。  本屋で六法全書を立読みしてみた。そんなものを見るのははじめてなので引き方がわからなかったが、偽札に関する項目がある。正確には忘れたが、要するにお金として使う目的で紙幣を偽造したものは厳罰うんぬんと書いてあって、当然ながら犯罪である。死刑ではなかったがそれに次ぐ重罪で、最高が終身刑でとかいろいろ書いてあった。  ぼくはもちろんお金として使うためではない。儲けるためではない。つまり悪意はない。作品である。千円札の印刷作品ということで作るのだから、きりきりにそっくりである必要はない。まずは印刷物であればいいのだ。  だから依頼をつづけた。いくつかお願いするうち、一色刷りの、製版だけなら出来るが印刷はできない、といって断られたところがあった。またいくつかのうち、印刷ぐらいならいいけど製版はだめだ、と断られたところがあった。みんなもちろん、社会人だから、ぼくだってそうだったが、法律の細かい条項なんて知らない。でも偽札を作れば重罪だということは知っている。その上で生活が成り立っているのだ。その自分の中での犯罪の判断の、ぎりぎりのところが製版までであり、また一方は印刷までであったのだ。自分の中での規範の違い、あるいはイメージの違いのようなものである。  いささか疲れて、やっぱりだめかと思いながらも、しかしその製版可能と印刷可能とを組み合わせれば、千円札が出来るじゃないか。ということに気がついた。試みに依頼すると製版が出来、それを印刷のみのところに持って行ったら、出来てしまった。というわけで、千円札作品は実現したのである。だから「決断的」と人はいうかもしれないけれど、その過程は正に優柔不断のルツボであった。ぼく一人の優柔不断ではない、集団的優柔不断というか、構造優柔不断というか、複合優柔不断というか、とにかくそんな世の中の開かれたルツボの中から、薄切りのハムのような「千円札」は取り出されたのである。  そうやって開かれた制作作品の「千円札」が何故法に触れたかというと、もう一つ六法全書のページがあったのである。偽造がいけないとは知っていたが、模造罪というのがあるとは知らなかった。つまり「通貨及証券模造取締法」というのがあって、それは「貨幣、政府発行紙幣、銀行紙幣、兌換銀行券、国債証券及地方債証券ニ紛ハシキ外観ヲ有スルモノヲ製造シ又ハ販売スルコトヲ得ス」という条令で、要するにお札と似た物を作ってはいけないという、いわばお札に関する不敬罪のようなものである。  じつはこの偽造罪と模造罪の違いというのは不思議なもので、かなり人間の内面に関わってくる。  つまり偽造の場合は、それをお金として使うつもりで作ると犯罪となる。その作る人の「つもり」が問題となる。作る目的というか、意図というか、それがこのおこないを偽造と見るかどうかの重要な要素となって、出来の良し悪しはむしろ付随的なことになる。だから極端な話、お金として使うつもりで作ったなら、簡単な手描きのお札でも偽造となる。ガリ版刷りのお札でも、いまはもうガリ版なんてないが、コピーしたお札でも偽造となる。  一方模造罪の方は、そういう「つもり」は問題とされない。どんなつもりであろうと、お札そっくりなものを作ると模造罪になる。そっくりまでいかなくてもお札に似たものを作ると模造罪。そっくりか、似ているか、その度合いはともかくとして、お札に「紛ハシキ外観ヲ有スルモノ」というところが問題となるのだった。  問題は「紛らわしさ」である。何をもって紛らわしいというのか、どこからが紛らわしくて、どこまでは紛らわしくないのか。  これは人間の主観も関わってくる難しい問題で、結論は出にくい。人の顔にしても似ているといえば似ているし、似てないといえば似てないことがある。ぼくの作った「千円札」は、原寸大のクラフト紙に千円札が墨一色で印刷してある。それを紛らわしいと見るか、紛らわしくはないと見るか。  紛らわしさ検査表[#「紛らわしさ検査表」はゴシック体]  たとえばそれがいたずらにしても、どこかのお店で実際に使われたということがあれば、紛らわしいということになるかもしれない。捜査の段階ではそんな例があったという話であったが、公判中にその証拠申請がなかったところを見ると、どうもただの話だったらしい。  ではどこを「紛らわしい」という判断の基準とするのか。ぼくにはそのこと自体が不思議に思えて、起訴されて裁判となったところで、自分で「紛らわしさ検査表」というのを作ってみた。いわば目の近視、遠視の検査表みたいなものである。ぼくは千円札をいろいろ露出を変えて、AからZまで二十六段階に作って並べた。Aは完全露出不足で、真っ黒。B、Cとなるにつれて千円札があらわれてきて、G、H、Iの辺りが適正露出で、いわばそっくりである。そして下ってX、Y、Zとなると、完全に真っ白。さあこの「紛らわしさ検査表」のうち、何番から何番までが紛らわしいのか。  これは我ながらいい作品が出来たと思った。仮りに真ん中辺のG、H、Iが紛らわしいとなれば、その前のFはどうか。Iの次のJはどうかとなって、隣どうし見ればいずれも似ていて、その似ている、似ているをたどっていくと、結局は白と黒の両極にも達してしまう。白い紙も黒い紙も紛らわしいということになる。でもそこで社会人としての平常心に戻れば、ただの白い紙を千円札に似ているとは、明らかにおかしい。いったいどうすればいいのか。  そうやって、見ることの優柔不断、というより、判断することの優柔不断の原理の前に、ウムをいわさずに立たされるのだ。どこまでが紛らわしいのか。どこからが紛らわしくないのか、決断力よ、どうする!?  これは「千円札裁判」の法廷に、時の杉本弁護士によって提出された。検察側はそれに答えなければいけない。 (画像省略)  さて、検察側の答えは、と期待したが、 「回答の要はないものと思料する」  いともあっさりしたもので、要するにそんなことに答える必要はないとの答えであった。まあ法廷のリアリストとしては、それはそうであろう。答えようとしたとたんに、優柔不断の落し穴にはまって、決断の糸口がどこにもなくなる。  でもお札という特殊な印刷物の真贋をめぐっては、これは常について回る問題である。  たとえば公判対策として、チマタの紙幣類似品の収集がはじまった。世にたくさんの類似品がある中で、何故この「千円札」を模造罪として起訴したのか、その釈明を得るための資料である。あるわあるわ、不動産屋のチラシ、キャバレーのチラシ、マンジュウ屋のチラシ、いろいろある。一時代前の観光土産で、表がずばりの千円札、裏がずばりの春画、というツワモノもあった。  そんな中で、熱海の純金風呂のチラシが立派だった。一億三千万円という額面のお札で、というよりお札の様式を借りたチラシで、聖徳太子のいるところにその純金風呂の写真が刷り込まれている。一億三千万円というのはその純金風呂のお値段である。そのチラシに重厚な印刷と軽い印刷と二種類あった。で、その収集者が聞いてきた話が面白かった。  じつはデザイナーが、しっかりと身を入れてデザインし、まず重厚な味の印刷見本が出来上がってきたのだという。それは素晴しいもので、既にお札特有のカリスマのようなものさえ、そのチラシからは発散している。つまり見事な出来映えである。ふつうはそれで大成功なんだけど、形がお札である。あまりにも立派で、見ているうちにだんだん不安になった。大丈夫だろうか。ひょっとしてこれは犯罪にならないだろうか。  そう思うのは善良な市民の証拠である。でもそのころ模造罪に関する多少の知見を積んでいたぼくの思うところでは、まず額面の数字が違うし、肖像画もぜんぜん違うし、大きさがまた一般紙幣より一段と大きなもので、まず法に抵触することはないだろう。でもやはりお札の持つ魔力というか、お札という構造の背後に控える国家権力のプレッシャーというか、お札の雰囲気をまとう一枚の紙片からは、そういう不思議な不安というのがかもし出されてくるのであった。  で、不安になった作者は、それを持って交番へ行ってみた。こういうチラシを作るんだけど、果たして犯罪にならないかどうか。  交番ではわからないと思う。そりゃあわかるわけがない。いや馬鹿にするわけではないが、偽造が犯罪だということは万民が知っているにしても、模造罪の存在はほとんどの人が知らない。専門家でも同じことで、ぼくが依頼した時の杉本弁護士も、ぼくの件によって改めて条令を見て驚いていた。  だから交番ではムリである。お巡りさんが法律一般に精通しているわけではないのだ。案の定そこでは、そんなもの良いか悪いかなんてわからない。そういうことは本署に行って……。  というわけで、作者はそれを持って本署へ行った。まず受付でこれこれしかじかというと、受付はハタと考え、それは〇〇課へと、とりあえずの部署を教えられた。作者がそこへ行くと、うーん、それはだねえ、というので××課へ行けといわれ、そこへ行くと、うーん、それは、というので△△課を教えられ結局署内をぐるぐると回って、これをたらい回しというのだけど、結局結論は与えてもらえず、何だか不安になり、後で引っかかったらどうしようというので、少し印刷を安っぽくして、色なども軽くして、何となくお札よりも離れた雰囲気に作り上げたというのである。  似ているとはそういうことだ。優柔不断にならざるを得ないのである。一人では判断できないのであり、多数でも判断できないのであり、決断は遠く離れた彼方のものとなって、その全員が太平洋の真ん中に放り出されたみたいになって、優柔不断の海を漂う。  金やダイヤモンドならそうはならない。人造ダイヤといっても分析すればわかるのであり、金ならその含有率がちゃんと数字で出てくる。迷うことはない。  でもお札は紙であり、印刷はイメージであり、人間の内面に深く編み込まれて連続して繋がっている。どこかで断ち切るということが出来ない。だから似ている? 似ていない? そっくり? いやちょっと? といった微妙な差といえぬような差を伝わりながら、正確であろうとすればするほど、優柔不断の深い森の中に引きずり込まれていくのであった。  つまり優柔不断というのは、人の考えが正確を期するときの賜物《たまもの》である。 [#ここから1字下げ] 【賜物】(一)天や神仏からいただいた物。〔他から受ける恩恵の意にも用いられる〕「私の今日あるは彼の(援助の)—だ」(二)苦しい試練のあとに得られる、よい結果。 [#地付き](「新明解国語辞典」より) [#ここで字下げ終わり]  いや賜物かどうか、それはその人によるもので、この「千円札裁判」は内容的に芸術裁判の様相を呈したこともあって、その「賜物」が随所に出現するのであった。  たとえば公判初日である。起訴状朗読のあと、弁護側証拠申請がおこなわれる。既に弁護人席の後ろにその証拠品が山と並べられているわけだが、ほとんどが「千円札」が芸術であるということのための証拠品である。芸術の証拠なんてふつうは定量的にはあり得ないことだが、法律の場ではそんなことをいっていられない。とにかく可能な限りの説明をして納得を得なければいけない。  裁判の内容としては、印刷その他の事実関係はすべて認めていて、しかしそれが芸術作品であることで、表現の自由に抵触するか否かの争いであった。ふつうの事件では、たとえば殺人事件など、やった、やらないの事実関係が争点となる。その点で一般的にはやや違う裁判であった。  法廷の判断停止[#「法廷の判断停止」はゴシック体]  で、その証拠品だが、まずそのときの現代芸術の一般的状況を知らしむることが一つあり、そして被告がかくかくの芸術作品の歩みののちに「千円札」に至ったということを示す系列が一つある。  というので、その中には当時ぼくもいっしょに「ハイレッド・センター」というグループを形成していた中西夏之、高松次郎らの種々の意表をつく作品が用意されている。洗濯バサミや、紐、青写真の巻物、その他いろいろ。いわゆる絵画や彫刻という安定した形ではないので、その申請といっても複雑である。もちろん日本の裁判所はじまって以来のことで、それをどう扱えばいいのか。とにかく弁護側の申請としては受け付けねばならないが、そんな複雑な物体を裁判所が領置(保管)するのは大変である。どうするか。  というので、写真撮影によって領置に代える、という案が裁判官から示され、弁護側がそれを了承。裁判所側のカメラマンがやってきた。ここで既に法廷らしからぬ雰囲気なのだが、カメラマンがまず「洗濯バサミ」を撮影しようとする。これは中西夏之の「洗濯バサミは攪拌行為を主張する」と題された作品で、それが初出の「読売アンデパンダン展」の会場では、壁に掛けた白いキャンバスや、衣服や、卵状の球体などに無数に挟まれ、群がっている印象の展示であった。いまでこそ「インスタレーション」といって、会場での置き方、組み方自体が表現のスタイルとして認知されていたりするが、当時はそんな方法が自然発生的に出てきたばかりのころであった。むしろ、だからこそ、法廷でのそういった証拠申請が必要であったのだけど、とにかくそのとき、法廷カメラマンは素材としてダンボール箱に入れたままの「洗濯バサミ」を、そのまま芸術作品として撮影しようとする。  弁護士がそれを制した。それはまだ素材であって芸術ではない。それがこの法廷なら法廷で、さまざまな物に挟まれ群がってこそ芸術表現となるのです。その点、撮影に際してのご配慮をお願いしたいのですが。  裁判官は困惑した。とりあえず即答はできない。その頃合いを見計らって、弁護士が提案した。 「それにつきましては、さいわい傍聴席にその作者の方や、作品の扱いに慣れた方々が来ておられるので、ここで少々お手伝い願うというのではいかがでしょうか」  裁判官はさらに困惑した。ますます即答できない。法廷は絶対不可侵の聖域である。傍聴人がそこに立入るなんてとてもできないことだ。前例がない。でもこの証拠品そのものが前例のないことで、とっさの判断の根拠がない。  法廷には優柔不断の空気が漂った。いやあえて優柔不断とはいわないまでも、とっさの判断停止の瞬間があり、その場の流れとして、それが事の了承というリズムを生んでしまって、傍聴人は一人、二人、そしてどやどやと法廷内に入っていった。傍聴席と法廷の境は腰高の柵で仕切られていて、その壁際に近いところに木戸がある。木戸といっても和風の横引きのものではなくて、蝶番で前後両方に開く式のものだ。その木戸の蝶番が作動することは、まず開廷中にはあり得ないことだろうが、その日は傍聴人が通るごとに、蝶番がきしんでぶらんぶらんと揺れている。  じつはその法廷での出来事を何人か写真に撮った人もいたのである。もちろん法廷側のカメラマンは作品記録としての写真を撮っている。それとは別に、出版社やその他のカメラマンで、その法廷内での「超常現象」に思わずカメラを取り出し、シャッターを押した人が何人かいた。でもそれは謹厳実直な廷吏にことごとく摘発されて、廷吏の目を免がれたものは、検事の目にとまって摘発されて、すべてフィルムを抜かれた。「超常現象」はいったんはレンズを通ってフィルム膜面に達しながらも、遂に現像されることなくただの乳剤に還元されていった。  でも音が残ったのである。Kという男がいて、その男は文学や編集に関係する人であるが、いろいろ変った趣味人である。新しい道具にも興味をもっている。どこからかミニフォンというマイクロレコーダーを借りてきていた。そのころは録音といっても、カセットテープなんて便利なものはない。テープレコーダーはもうあったが、いずれもオープンリールの大きなもので、携帯用となるとNHKの人が街頭録音などで肩から下げている通称デンスケというのがまあいいところで、それだって弁当箱五人分くらいはある。  しかし街頭録音なんて言葉、懐しいですね。人の名前なんてすぐ忘れてしまう老人力保持者なのに、こういう名前は錆びつきもせずにぽーんと出てくる。  まあそんな時代であるから、ミニフォンというのはいわゆるスパイ用というか、カメラではミノックスという超小型があったが、あれの音版である。おそらくドイツ製なのだろう。テープではなく極細のワイヤー式レコーダーで、機械本体はいまでいうウォークマンくらいのもの。それを着衣の下の腋の下に装着する。マイクは腕時計とかネクタイピンとか万年筆とかいろいろ。そのころはコードレスの技術なんてないから、腋の下のその本体から細いコードがシャツの中をこっそり伸びて繋がっている。もう明らかにスパイのムードが満々であり、趣味でそういう物を持っているお金持がいるものなのだ。そういう知り合いからK氏が借りてきて、傍聴席の最前列に坐っていた。脚を組んで、その膝の上に何気なく手を置いていて、その手首にはやや分厚目の腕時計が光っている。それがマイク。そこからコードがワイシャツの下を伸びて、腋の下まで繋がれているのだ。  いまはICの発達で驚くほどの小型化が進んでいるから、気付かれずに音をとるなんて簡単だろう。カメラだってデジタル方式なら、服にでもバッグにでも仕込めるに違いない。でも時代は三十年以上も前のことだ。  裁判のあと、しばらくしてからK氏がその録音したカセットをポンと渡してくれた。再生してみると、ちゃんと音が入っている。音だけで聞くと変なものだ。ましてぼくは現場にいて、被告本人であり、相当な緊張感の中にいた。だから雰囲気の記憶もかなり主観的に増幅しているのだろう。音だけで聴く法廷の空気は、当然ながら静かであっさりしている。  でも弁護側や検察側のやりとりがあり、裁判長の声もあったりして、用件としては記憶通りに進んでいる。そして杉本弁護士の、 「それにつきましては、さいわい傍聴席にその作者の方や……」  という例の発言がある。裁判官の答えはどうだったのか、ぼくは聞き耳を立てた。ちょっとその辺から法廷の空気が少しずつ変化していて、何かさわさわ、ざわざわとしはじめていて、それが公然としたざわざわになり、中西らしき声や高松らしき声、法廷カメラマンの何か指示する声など聞こえてきて、どうやら「腕時計」も他の傍聴人たちといっしょに法廷に移動しているらしい。そのうちどんどんというノイズが聞こえてきて、 「……これが……法廷の……壁です……」  というK氏の低い声。後で聞くと、K氏がその腕時計の腕で法廷の壁を叩きながら、そっと実況録音をしたのだという。  しかし問題は裁判官の答えである。杉本弁護士の要請に何と答えているのか。またカセットを巻戻して最初から聴く。最初のうち静かな法廷のやりとりがあり、やがて杉本弁護士の声。 「それにつきましては、さいわい傍聴席にその作者の方や……」  という例の発言。 「……作品の扱いに慣れた方々が来ておられるので、ここで少々お手伝い願うというのではいかがでしょうか」  しばらく沈黙の時間、それが長くつづく間に、さわさわと少しずつ法廷の空気が変りはじめて、それが次第に公然としたざわざわになり……。  何度も聞き直してみたが、結局裁判長の答えはなかった。ぼくの記憶でもそうだったし、録音でもそうである。裁判官の頭の中に、どう答えればいいのか、判断しなければいけないのに判断ができない、もちろん決断もしようがない、優柔不断としかいいようのない状態が公然と発生していたのである。  それをいいたいために長々と書いてきたが、ぼくはこれが正しい判断だと思う。被告がそんなことをいうのはおかしいかもしれないが、でも決断という乱暴を働けないときは裁判官にだってあるのだ。とりあえず優柔不断のまま流れにまかせる、というのは至極まっとうな処し方であったと思う。その点でこの裁判官は、人間的だった。真実というものへの礼をわきまえていたというか。  法廷にはそのまま傍聴人が出入りして、中西夏之は傍聴人の一人N君をキャンバスに仕立て、ダンボール箱から「洗濯バサミ」を取り出し、その顔や、シャツや、ズボンのあちこちに一つ一つ挟んで群がらせていく。高松次郎もダンボール箱の「紐」を取り出し、法廷の床を這わせながら先端は裁判官席まで伸びて、もう一方は柵を越えて傍聴席に坐った人々にからみながら廊下まで出ていく。  ぼくは前の晩は意見陳述を書くので一睡もしておらず、それまでの人定尋問や法的やりとりの間も、頭は冴え渡りながらも朦朧《もうろう》としていて、正真正銘の白昼夢であった。 (画像省略)  真実はあいまいである[#「真実はあいまいである」はゴシック体]  この「千円札」というのは、そもそもは「あいまいな海」という自分の個展の案内状に刷ったのが最初だった。人体的なイメージがあれこれ混ぜ合わさったコラージュ作品の展覧会。「あいまいな海」というのは人体のこと、あるいは人間的なことというか、それを正しく言おうとすると、どうしても「あいまいな海」という言葉になってしまうのだった。  そもそもは胃の手術をしたときである。二十歳すぎの十二指腸潰瘍だったが、手術のあとしばらくは食事が出来ず、点滴となる。リンゲル注射といった。高いスタンドの上に吊した太いビンの中の液体が、チューブを通って腕に刺した注射針から体内に注入されていく。  人間はふつうは口から食料を入れて、歯でよく噛んで、胃でよく消化して、腸やその他から養分を吸収していく。ところが胃が壊滅状態なのでその復興を待つ間、救援物資を直接各部署に届けるのである。政府当局を通さずに、直接草の根的に各都道府県に物を運ぶというか。歯と胃と腸の作業をあらかじめ済ませた養分を直接人体に配分していく。それがそのリンゲル液だと説明されて、ふーん、と思った。うまいことを考えたものだ。  その後その点滴に興味をもって調べてみたのだが、歴史上はいろんな試行錯誤があったらしい。とにかく患者が衰弱していて、物を上げても食べられない。何とか助けようと、昔の人は牛乳を点滴したりしたそうだ。  わかるなあ。牛乳は栄養満点の養分そのままみたいだし、歯も生えてない赤ん坊がそれを飲む。だからこれならいいんじゃないかと体に直に注射してみたそうだ。結果はもちろん、善意も空しく死んでしまった。そういう歴史は数限りなくあり、よく煮込んで濾過《ろか》したスープを注射してみたり、ジュース類を注射してみたり、血液を注射してみたり、あれこれの善意を試してみたが、どうしても死んでしまう。昔の人は大変だ。善意がどんどん裏切られて、それでも何とかしようという努力の積み重ねが、こんにちのリンゲル液に到達したんだという。 「で、その内容は、どういうものなんですか」  とぼくは訊いてみた。太いビンの液体が、カプセルの中でぽたぽた垂れて、ぼくの体に注入されているが、ぼくには何も感じられない。 「まあ水分がほとんどで、塩分が溶けている、塩水ですね。濃度は海水とほとんど同じで、要するに人体の細胞の間を満たしているのは海水みたいなものですから」  と白衣の医者はいった。  海水。  点滴中のぼくには新鮮だった。体の中に海がある。体内に海が満ちている。  その後科学の本など読むと、人間に限らず生物というのは海で発生して、それがあれこれ紆余曲折しながら陸へ上がってきたとき、いきなりはムリなので、体内に海水を保有しながら上陸してきた。  何だか悠大な話だ。ぼくの体は海に繋がっている。いわば太平洋の飛び地である。ぼくはいろいろ考えたり、悩んだり、悲しんだり、喜んだりしているけれど、そのモトは海なんだ。人体の八割か九割は水分だというから、人間はほとんど海で出来ている。海水とわずかな細胞。太平洋にも無数の微生物がいて、細胞が泳いでいる。いまだ人体にまで固まらないような液体が、寄せたり引いたりしている。それを汲み上げて固めると人間になるではないか。海水の濃度を高めていって、細胞が密着するほどに圧縮すると人間になる。潜水服というのは人体に準ずる容積をもっている。だから空《から》の潜水服に海水を詰めて、さらに詰めて、圧縮していくと人体になる。どのくらいの海水で人間が出来るのだろうか。一人の人体にはそもそもどのくらいの細胞があるのだろうか。そういうことはあまり本に書かれていないので、知り合いの大学医学部の先生に訊きに行ったが、答えてはもらえなかった。しばらく沈黙の後に、科学ではそういう考え方をしないといわれた。人間はたしかに海から生れたけれど、それは長い年月をかけて変化発達してきたもので、海水がいきなり人間になるわけではないという。  いや、それはそうだ。でも単純に考えて、リンゲル溶液がほとんど海水だとすると……。  しかし単純には考えられないという。科学ではそうはいかない。  いやそれはぼくだってわかる。でもこれは考え方の実験なんだ。とりあえず人体の要素を塩水と細胞とに還元すると、人間構成の見取り図が出来る。ぼくは先生に訊くのを諦めて、図書館で海のことを調べた。海水中の微生物、つまり細胞の数はどのくらいの比率で分布しているのか。  そんなことはどこにも書いていない。そこをむりやり調べ上げて、人体の平均的細胞総数をひねり出し、海水中に浮遊する細胞比率をねじり出して、ほぼドラム缶に六千杯という数字をおびき出した。つまり潜水服の中にドラム缶六千杯分の海水を圧縮的に詰め込むと、目出度く人間が出来上がる。  というのをその「あいまいな海」の案内状である「千円札」の裏側に、一つの宣言として刷り込んだのだ。 (画像省略)  何故そんなことをしたのかというと、偽物というのがどうしても気になるからだ。あいつは本物だ、いやあんな奴は偽物だよ、とかいわれる。昔スパイ小説を読んでいると、アメリカ人になりすます話や、ロシア人になりすます話が出てくる。とすると、人間になりすますこともできるんだろうか。スパイだって人間である。でも本物のスパイというなら、人間のスパイになるんじゃないか。ほとんど人間みたいな、人間そっくりの人間が、気がつかれずに町を歩いている。  そう思うと、本物といわれるものも怪しくなるのだ。本物はどこから生れてきたのか。おそらく、世の中に本物があるんだとすると、それは偽物があるからである。最初はただの物だと思う。そこにまず偽物があらわれ、その直後に本物があらわれる。ほとんど同時に近いものだろう。というより本物は同時に偽物でもあり得るわけで、その入れ替りが高速回転しているとも考えられる。  思い出した。子供のころ、子供は暇だから、縁側でぼうっとしている。そばで母親が縫い物をしている。その母親を見ながら、この母親は本当にぼくの母親なんだろうかと疑った。断っておくが、わが家の家族構成はノーマルである。貧乏はしたけど、両親は優しく、兄弟はまあ仲が良かった。骨肉の争い、なんてしたこともない。だからそういう因果関係とはまるで違うところで、この母親という人物は本当に本物なんだろうかと、ごく素朴な疑問をもったのだ。  ひょっとしてぼくはこの家庭で試されているのではないか。本当はどこか別の世界で生れて、この子は大丈夫かどうかを見るために、この家で実験的に生活させられているのではないか。だからこのそばにいる母親も、じつは表面だけが精巧に出来たハリボテで、裏はガランドウなんじゃないだろうか。父親が縁側で足の爪切りをしているけど、いまパッと向う側に回って見たら、そのガランドウが見えるんじゃないか。ぼくにはパッと向う側に行くだけのスピードがないので確かめられないが、どうも怪しい。  と思っていた。  これはおそらく、人間がこの世に生れて、意識が固められていく時期の、子供状態に特有の感覚ではないかと思う。何しろ自分、自己という意識がまだぶよぶよなのだから、ぼくが自分で、友達も自分で、そこに互換性がない、自分はこの自分でしかないというのが、どうにも不思議なのである。この世の中で、自分というのはどうして特殊なんだろうか。  こういう感覚は子供時代にみんなもつものらしくて、長じてそんなことを兄弟で話してみると、兄からも同様の報告を得た。シナリオはちょっと違って、兄の場合は母親に手を引かれて町を歩いているとき、向うからやはり母に手を引かれた友だちが歩いてきていて、転ぶ。それは自分に見せるために転んだのだと思う。小石があったから転んだのだけど、その小石はそういうことを自分に見せるためにそこに置かれていた。毎朝配達される新聞は、自分に見せるために印刷されている。新聞にはいろんな事件の記事が載っているけど、その事件は自分にその記事を読ませるために引き起されている。世の中のものごとは、すべて自分に向けて作られている。  まあいずれも子供の妄想だろう。でも子供は人間の原点である。だけど原点のままではあまりにも人間がやっていけないので、そういう原点の疑問点は棚上げにして、とりあえずの生活技術だけがどんどんふくらんでいく。でも棚上げしたものは、いつまでも棚の上に隠れている。消えてはいない。置き忘れ状態にある。それがふいと棚から落ちてくるのだ。 「あんな奴は偽物だよ」 「あいつは本物だよ」  というような言葉から、ふと棚上げした疑問点がふくらんでくる。人間そっくりの人間がいるのかもしれないように、自分そっくりの自分がいるのかもしれない。  人間というのはわからない。しかしわからないといいながら、ちゃんとみんな活動しているわけで、本物といい偽物といっても、それは厳然としてあるわけではない。それこそ海のように揺れ動いていて、満潮があれば干潮もある。何ごとも一言で言い切るのが良しとされるが、真面目に考えれば考えるほど、一言ではとても言い切れなくなる。何かを正しく言おうとすればするほど、あいまいになる。誠実であろうとすると、あいまいにならざるを得ないのではないか。 「はっきりしなさい!」  とよくいわれるが、とりあえずはっきりするふりはできても、本当のところははっきり出来ない。  こんなのは、論理ではつかまえきれないと思った。表と裏といっても、微妙に揺らいでいるわけで、止まることはないのだ。だからその状態のそのままを示して、直接それを知ればいい。まずは論理を究めることよりも、事実を持ってくることだ。現物を、判例として持ってくる。だからまずは人間を造りたいところだが、それは現実としてムリ。でもその用例として、お札なら印刷できる。もちろん簡単にはできないけれど、潜水服に海水を詰め込んで、一気に人体のダミーを作ろうとするよりは、現実性がある。本物と偽物と、その両極をめぐるあいまい関係は、人間に比べてお札の世界の方がシンプルである。じゃあ潜水服の代りに印刷機、海水の代りに紙とインク。ということもあって「千円札」は印刷された。  ものごとはあいまいでしかあり得ないことを、何か別の方から示したかったのである。子供のころからずうっと気になっていて、人に話すこともできないような、本物とも偽物とも結論できないあいまいさの関係は、そのときやっと自分の意識の表に出ることになったのである。  芸術作品というのはそうやって突飛なものが生れてしまうものだが、自分で文章を書くようになってくると、あいまいの呪縛のようなものをますます感じた。「千円札裁判」が問題になり、世間への弁明ということから、ますます文章を書く必要に迫られてくる。でも「千円札」を作った理由なんて、一言で言えるものではない。でも現実には制約があり、その短い言葉の中に漏れなくすべてを含み込ませようとすると、出来てくる文章はあいまいにならざるを得ない。簡潔に言い切る文章では、どうしても漏れてしまう。すとーんと言い切れば、たしかに恰好はよくなる。でも言い切られて漏れ落ちた細かい意味が、どうしても気になる。むしろその漏れた部分が重要に感じられる。だから単純にいって、 「……なのだ」  と言い切る文章よりは、 「……なのであろう」  と言い切れない文章の方が、ぼくには安心できるようになっていった。もちろん「……なのであろう」でそう変るものではない。でもその形には含みスペースが内包されているわけで、機会さえあればその含み部分からさらに細かく展開できるんだという、その目印みたいなもの。お湯で戻せば増えるんだけど、ここでは限りがあるのでフリーズドライにしてある。やむなくそうしているということを表示するためには、形としても文章があいまいさをまとうようになる。ましてそのころぼくの前にあったのは芸術という、しかも前衛芸術という明快なようでいて何とも言い切れないもの、逆に言葉で言い切れないからこそそういう作品が生れてきてしまうわけで、そのことについて述べねばならない。  その上「千円札」作品の場合は法律の土俵に持ち込まれるわけで、偽造、模造のところでも述べたように、どんな意図で作られたのかが問題となってくる。もちろん人間が何ごとか行為するからには意図があってのことだろうが、それがしかし芸術となると、また一段とあいまいとなる。ならざるを得ない。作品の制作というのは商品の製造とはやはり違うもので、作品の場合にもそれを作る意図はあるが、商品のように明確ではない。しかも途中かすかに見えていた意図が、制作の過程で、そのときどきの結果を見ることで、作品意図が変化、変貌していったりする。  そんなどろどろの努力もあって、自分の公判時の意見陳述書に「行為の意図による行為の意図」というタイトルを、苦しまぎれに絞り出した感触をよく覚えている。これは「千円札」制作の意図と過程について述べたもので、結論的には「行為は意図よりも広大であり、意図はまた行為よりも広大である」というテーゼにたどり着いた。そうやって被告としての立場で真面目に語ろうとすればするほど、ますます言葉はあいまいさの度を超していく。被告という立場は特殊かもしれないけれど、決断を至上のものとされる世界では、ものみな被告になるのではないか。  とにかくそうやって文章を書いていきながら、正確さとあいまいさは不可分であると経験しながら、ぼくは瀧口修造さんの文章を理解した。裁判の特別弁護人であったので文章よりも人柄を身近に感じていたこともあるが、その文章はやはり断定しないのが特徴である。いや別に特徴ではないが、文章のあちこちに含みスペースの入口が用意されている。いざとなればお湯をかけられるように想定されている。単純な論客にはそういう断定しない表現がずるいとか、いさぎよくないとかいう批難もあったようだが、ぼくは自分が言葉での表現に迫られながら、正確に言おうとすればするほどあいまいにならざるを得ないという食い違いを身にしみていたので、そんな批難はまるで気にならなかった。  言葉はあいまいが真実である。ものをはっきり言い切る人は、嘘つきだ。  でも上には上が、というか、あいまいさにも別の方向からのチャレンジがあるもので、長じて、話は飛ぶが、この間、日高敏隆さんと話す機会があった。動物行動学の人で、何度かお会いすることがあって話が面白いし、もののとらえ方が面白い。  その対談のとき、文章表現のあいまいさの話になった。ぼくら芸術方面の話はときどき不毛の穴ぐらに迷い込んで自分でも嫌になるが、科学方面は空気が抜けていて明解である。日高さんも、歳をとると最近は文章があいまいになってきたということを面白おかしくいう。若いころの文章は、いま思うと大丈夫かと思うくらい、ハッタリじゃないかと思うくらい、すぐに何かを言い切っていた。とくに学位論文なんていうものは、ある種の派手さが必要で、多少ムリだと思ってもAならAを「Aである」という風に断定しないと目につかない。それに若いから怖いもの知らずで、断定はその特権であろうという。ところが歳をとって、学界のあれこれをいろいろ知ってくると、怖いもの知らずとはいかないわけで、Aと言い切ればどうせまた外野からチクチクやられて面倒だというようなずるさも生れてきて、 「Aではなかろうか」  という表現になってくる。さらに頭に「おそらく」をつけて、 「おそらくAではなかろうか」  そんな技術がさらに発展して、 「Aであろうかと思う」 「Aであろうと思うのは、私だけだろうか」 「Aであろうと思うほかはないような気がする」  という具合に、報告書などではどんどんあいまい表現が培養されて、いやあ面白いですよ、ということだった。  この日高さんのあいまい力は、いわば大人のあいまい力というものだろう。ぼくの場合は、子供のあいまい力といえるのではないか。芸術方面の人は、だいたい子供的である。その証拠に、すぐ哲学になる。 「人は何故生きるのか」  というようなことは、大人は考えない。大人は忙しいのだ。子供を食べさせなければいけないから。  ぼくは子供だといいながら、自分で自分を食べさせている。あいまいな存在である。そのあいまいさは誰もが備えている。おそらくほとんどの人が、この二つのあいまい力を備えている。大人のあいまい力と子供のあいまい力。それはしかし二つに峻別できるのかというと、あいまいだから分けきれない。いったんは二つのあいまいに見えたものが、それがあいまいであるが故に、二つとも一つともいえないあいまいに還元されていくのであった。      * 「千円札裁判」は、ぼくには、ある種、芸術の卒業式だった。自由な表現というのも結構ではあるが、それよりもはるかに面白いものがある。自由よりも向うに突き抜けた面白さがあることを、その時点でぼくはまだ知らなかった。  だから裁判が終り、芸術を卒業した気配に、そうはいってもまだ卒業しきれない学生気分も残しながら、ぼくはしばらくパロディの仕事をしていた。雑誌やその他のメディア上で、文章とイラストレーションがからみ合いながら、その旗印が「櫻画報」というもので、メディア上の仕事でありながら、そのメディアを何とかはみ出したいとも考えていて、あいまい志向はかなり形を成していたのは事実である。でもやはりパロディというのは、頭の考える範囲内の仕事である。  そして忘れもしない一九七二年、月日は忘れたが、トマソン第一号を発見した。もちろん最初はトマソンという名前も何もないけど、東京は四谷の祥平館という旅館の側壁についていた無用の階段である。発見者は松田哲夫、南伸坊(当時伸宏)、そしてぼくの三人。たまたまその旅館で仕事をしていて、昼食で外に出たときの発見である。それは右からと左からと登れる七段ずつの階段で、登った所に踊り場があり、しかし入口はない。ただしそこの壁に窓が並んでいて、それをのぞくことはできる。でもそんなことのためにわざわざ階段を造るだろうか。ちゃんと手摺りまで付けて。  というのでそれは頭に引っ掛かってしまった。用のない階段がこの世の中に平然と存在している。あらためて考えてみると、世の中の物はすべて用があって作られている。用がなくなるとゴミとして世の中から出ていく。にもかかわらずこの階段は折れた手摺りを補修までされて、つまり保存されているのだ。芸術作品というならそれもわかるが、この階段は芸術ではない。役割としてはゴミだけど、しかしぎりぎりゴミではなくこの世に踏み止まっている。あえていえば、芸術を超えてさらにゴミに近いところの、超芸術。  以後それは登って降りるだけの「純粋階段」と呼ばれ、あるいは四谷にあったので「四谷階段」と呼ばれたりしながら、それを皮切りとして、お茶の水の無用門や無用|庇《ひさし》など、無用でありながら世の中に存在する種々の物件がいろいろと発見されていったのである。 (画像省略)  考えてみたら、近い体験はまだ芸術を卒業する前、前衛芸術青年のころ、ネオダダ作品を作る末期に顔をのぞかせていた。作品の材料が公式の絵具を外れてそこいらの日用品、さらに外れて壊れた道具、チマタの廃品にまで広がっていき、さらにその源流を求めて、廃品回収の、あれは立て場というんですか、とにかくスクラップ類の山と積まれた場所にまでたどり着いた。それはもちろん使えない物、鉄やガラスや金属製品のゴミなんだけど、欲しい物が全部ある。自動車のバンパー、ヘッドランプ、ペダル、ドア、椅子の背中、テレビアンテナ、真空管、ベッドの脚、いい出すときりがないが、その豊富な光景に、ほとんど恍惚となった。鉄屑の山に登らせてもらって一つ一つ引きずり出しながら、見るたびに感動した。全部生活部品だけど、全部壊れたり曲がったりしている。それを使って何か作品を作る、とりあえずその素材として見ているんだけど、もはや作品というものが空しくなった。自分の作ろうとする作品よりも、その山から引きずり出したままのバンパー、椅子の背中、ヘッドランプ、といった物品が、何と新鮮で、画期的で、力強く、迫力に満ちていることか。  何か作品を作ろうとする自分の意識が、急に小さく、百メートル先の蟻《アリ》みたいになってしまった。そのときの感覚はよーく覚えている。あらかじめ自分の用意できる意識よりも、はるかに勢いのあるものに、どーんと横切られてしまったのだ。  その横切って行ったものが、いよいよ堂々たる形で目の前にあらわれてきたのが、ぼくにとっては四谷階段、トマソンである。 (注=トマソンの名前の由来。当時プロ野球ジャイアンツ球団にいたゲーリー・トマソン選手のバットスイングがボールに対して機能せず、次第にベンチウォーマーとなり、その風情が路上の超芸術物件と通じるところからその名を冠する)  トマソンは探索をつづけたのちに、さらに路上観察となって視野が広がった。路上観察学会の発会は一九八六年である。トマソンのときは、それがトマソンであることの定義立てが強くあったが、それは致し方のない面もある。それまで気にもかけなかった身の回りのゴミ的なものの中に隠れた物を探すんだから、どうしても論理というか、定義の手掛りが必要になる。それがしかし路上観察となってからは、あらかじめの論理の一切が蒸発した。とにかく歩きながら、気にかかるもの、面白いもの、何だこれはというもの、これをカメラで採集していって、物が集まるとどうしても分類がはじまり、論理がついてくるけど、はじめは何もない。その何もない自分が何だこれは、と思う、何故思うのか、そこから思いもしなかった面白さが発掘されてきてしまう。  そのいちいちをここで詳述できないが、とにかく「路上」をはじめてしばらくは、面白さのルツボにはまり込んでしまった。何の定義もなしの、あいまい百パーセントの面白さである。でもみんな人間だから、この面白さは何だろうかと気になってくる。合宿をして、みんなで宿に帰って電灯を消しても、眠りにつけない。その日出合った物件の意外さ、バカらしさ、とんでもなさ、そのあれこれをしゃべりながら、これはおそらく、昔の、桃山とかあのころの、茶人とかいわれる連中が、何か歪んだ茶碗とか、欠けた釜とか、染みた板とか、ああいうのを良いとか面白いとかいいだした、つまりあの、侘びとか寂びとかいう感覚に通じるものなんじゃないのか、ということになってきた。  ショックだった。そんなことはもう過去の、古くさい、過ぎ去ったものだと思ってきた。自分は前衛芸術青年で、その時はもう中年、初老にこんにちワであるけれども、いつも新しい物が見たくて、そのために芸術も卒業して路上に出てきていたのだ。そんな引力をもつ新しさが、巡り巡って桃山に繋がっていたとは。  路上観察の面白さは仲間うちのものだったが、それがいつの間にか世間にも広がった。  あるシンポジウムでぼくが路上観察のスライドを映したら、同席したある都市学の大学教授に、 「面白いですねえ、これは一種の、他力思想ですね」  と言われた。え? 他力思想……。  またまた、侘び寂びにつづくショックだった。そんなところにまで繋がるんだ。  そういわれればたしかにそうなのである。トマソンといい路上観察物件といい、いずれも自分のものじゃない。他人が作ったもの、あるいは他人さえ作らない、偶然自然に出来たものだ。こちらはそれをただ歩いて見つけて写真に撮るだけ。  なるほど、他力思想か。ぼくなど、戦後は自主独立で、自由な発想、自由な表現、自立した考え、自由自在な、自分自身の、自らの意志で、自力で構築する、とにかく「自」に発する価値観ばかりをそそのかされて、植えつけられて、自分でもそう思い込んで生きてきたものだから、自分たちのいまもっとも関心のあるものに、他力思想の「他」という言葉がぽーんとくっついて、しばらくは茫然としていた。  なるほどねえ、と思う。人の頭が考えた自由というものを、はるか向うに突き抜けたところにある面白さ。たしかにぼくらが拾い歩いているものは、自分の力を超えた、人間の力を超えた、その先で偶然に生れている奇蹟みたいなものなのだ。この爽快な面白さは、人の意識の力では作りようもない。  トマソンにしろ路上物件にしろ、作者はどこにもいないのである。人工物とはいえ自然に出来たもので、人の手にかかっているとしても、それは無意識の力である。だから作者がいない。作品でもない。ただ世の中に埋れている。それを誰かが見つけたときに、はじめてその物は輝いてくる。だからその見つけた誰かがほとんど作者のようなんだけど、じっさいには何も手を下していない。だからやはり作者ではなく、あくまで見る人、発見者である。  なるほど、他力的な世界であった。自力だけでは及ばぬ世界。だけどそれを見る「目」は要するわけで、その眼力がなければ、そのものは埋れたまま目の前を通り過ぎていく。      *  話は違うが、満員電車に乗っていて、ときどき混み具合にムラがあって気になることがある。中は空いているのに、そこのところまで人の群れをかき分けて行きにくい。みんなそう思っているけど、なかなか切り出しにくい。そんなときに、電車にちょっとブレーキがかかると、立っている人はみんな、 「おっとっ……とっ……」  という具合によろけて、そうなるといやおうなく空いた方によろけていくわけで、みんながそうなるからムラがなくなり、均等な混み具合となる。あれは運転手が気を利かせて、ときどきブレーキをかけているそうである。いや聞いたわけではないので本当のところはわからないが、たぶんそうだ。みんなが切り出しにくいことを知っていて、きっかけを作ってくれているのである。その場合みんなが切り出しにくいものを持っているから、ちょっとしたブレーキが生きてくるのである。みんなに空いたところに行きたいという小さな気持があるから、そのブレーキの瞬間に全員が思わず切り出して、混み具合が均等になる。そういうちょっとした力をみんなが持っていなければ、ブレーキをかけてもしょうがない。  満員電車に限らず、みんないつも切り出しにくいものを持って生活している。持っているものはただ切り出せばいいというものではない。どう切り出せばいいのかぜんぜん形のわからないものさえも抱えていて、抱えていることのすべては自分でも気がつきにくい。  人間の本体はあいまいである。世の中は本当は優柔不断に満ちている。たまに何か小さな一つが切り出されて、たまに何か小さな決断があるにしても、それはほんの氷山の一角であり、本体はじっと優柔不断に沈んでいる。その水面下で優柔不断は唸りを上げて、フルパワーで回転している。いずれそのうち、とりあえずビール二本ぐらいで、また日をあらためてであるから、人生の電池は満タンである。 [#改ページ]  あとがき[#「あとがき」はゴシック体]  本当に構想十年である。優柔不断の十年だった。そもそもはあるカルチャーセンターで十回の講座を依頼されたのがきっかけだった。内容は考現学、トマソン、中古カメラといった自分の過去にやったことを展開するものだったが、その総合タイトルに「優柔不断術」とつけたのである。  その前に、「優柔不断読本」というエッセイ集が一冊あるが、それは雑多なエッセイの標題の一つを編集者が本のタイトルに選んでくれたものだ。  で、十年前のその「優柔不断術」の講座に、たまたまのぞきに来たのが本書編集の永上敬さんだった。彼がいたくこのタイトルを気に入り、ひとつこれを本当の術として、頭から書き下ろしで本を作ろうということになった。まず表紙にはその術者たる著者が、優柔不断術の稽古着を着て、何だかわからない優柔不断の構えをしている。一見強いのか弱いのかぜんぜんわからない。  そんなあれこれを話していたら、やけに盛り上がってしまった。これはぜひやろう。  そのうちアラブの方では湾岸戦争がはじまり、アメリカのミサイルがどんどん発射されて、世の中は決断的な様相を呈してきた。そんな世に逆らって、よし、いまこそ優柔不断術だ、と思うのだけど、書き下ろしは難しいですね。毎月いろんな雑誌の連載が押し寄せてくる。月単位の雑誌の締切りを前にしたら、どうしてもそちらを優先することになる。  とはいえその間にも打合せ会議は盛り上がった。優柔不断城というものが出てきて、いろんな有名人もじつはそこにこっそりお参りしているという話、その優柔不断城から探査ロケットが発射されて、世の中をパトロールしている話、いずれ決断城との大決戦が始まりそうで始まらない話、等々あまりにも大笑いで盛り上がり過ぎて、打合せが済むともう書き終ったような気分になって、実際の原稿はなかなか出来ない。  反省——打合せで盛り上がり過ぎるのは問題である。  とりあえずどこかに雑誌連載をして、というのがいちばん実現しやすい方法なんだが、当社にはそれにふさわしい雑誌がない。  湾岸戦争が進むにつれ、かのブッシュ大統領の決断モードに比べて、わが海部首相の優柔不断が際立ってきた。とりあえず、というので「中央公論文芸特集」に「海部」という短篇小説を試作したりもしているのである。  途中何度か缶詰執筆を試みた。まず㈵部の方が少し進んだが、筆が飛び過ぎて締りがなくなり挫折。やっぱりだめかと諦め、これはしかし自分に徹底取材するしかないと㈼部の構想が生れて、そこからやっと実体が見えてきた。  というわけで、優柔不断の十年がたったのである。㈼部ではいささか個人体験に深入りし過ぎた感もあるが、一つの標本として考えていただければさいわいである。  長い間優柔不断術のブルペンで捕手をつとめてくれた編集の永上敬氏、それから「老人力」につづいて鮮やかな装幀の南伸坊氏、いつも優柔不断をまのあたりにさせられている妻尚子、皆さんに感謝します。 一九九九年五月二十日 [#地付き]赤瀬川原平 [#改ページ]  文庫版あとがき[#「文庫版あとがき」はゴシック体]  この本を出してからまた時間がたった。9・11もあったし、アフガニスタン、イラクと、アメリカが旗を振る決断戦争がつづいて、スマトラ沖地震の大津波もあった。  その間生きる人は生き、死ぬ人は死に、決断する人は決断して、優柔不断の人は、とりあえず、何となく。  その間自分は何か変わったかというと、大して変わってないような気がする。自分のことだからわかりにくいが、何も足さない、何も引かない。細胞は入れ替わっているというが、それぞれに引き継ぎがおこなわれているようで、自分にはわからない。だから変わってないとは断言できない。もちろん変わったとも断言できないわけで、とにかく生きているから時間だけは滑るように過ぎていく。この本も文庫本となり、大きさが変わる。細胞が変わるみたいに、活字が全部入れ替わる。行数や字組みも少し変わっているわけである。でもその文字が支えている内容は変わらない。生命とはそういうものだ。  とにかく変わったようでいて、変わっていない。でもどこか少し、値段とか、装丁とか、書店で並ぶ場所とか変わってくる。多少の痩せたり肥ったり、白髪がふえたりはあるわけである。でも優柔不断という、芯のところは不動である。  優柔不断術というのは、時と場合のものである。たとえばプロ野球の監督が、優柔不断でいいというわけではない。仕事は仕事でちゃんとやっていないと、いずれ失業する。家庭も崩壊する。やることはちゃんとやらなければ。  一方そのころ、というので、優柔不断は別の方面で働く。仕事は仕事でちゃんと社会人として片付けながら、一方そのころ、それはそれとして、という注釈つきであらわれてくるのが優柔不断の術である。強いていえば、優柔不断というのは文化方面へ向けての術なのだった。  この本は最初毎日新聞社から刊行された。その時の担当編集者は永上敬氏であった。時がたち、ちくま文庫に入籍することになり、編集担当は鶴見智佳子氏で、装丁は前と同じ南伸坊氏にお願いした。さらには豊崎由美氏の解説もいただくことができた。時がたつのもまた嬉しいことである。上記皆様に感謝致します。 二〇〇五年二月八日 [#地付き]赤瀬川原平 赤瀬川原平(あかせがわ・げんぺい) 一九三七年横浜生まれ。画家。作家。路上観察学会会員。武蔵野美術学校中退。前衛芸術家、千円札事件被告、イラストレーターなどを経て、一九八一年『父が消えた』(尾辻克彦の筆名で発表)で第八四回芥川賞を受賞。著書に『新解さんの謎』『超芸術トマソン』『ゼロ発信』『老人力』『赤瀬川原平の日本美術観察隊』『名画読本〈日本画編〉どう味わうか』。また、山下裕二氏との共著に『日本美術応援団』『日本美術観光図』などがある。 本作品は一九九九年六月、毎日新聞社より刊行され、二〇〇五年三月にちくま文庫に収録された。