赤江 瀑 正倉院の矢 目 次  正倉院の矢  シーボルトの洋燈  蜥蜴《とかげ》殺しのヴィナス  京の毒・陶の変  堕天使の羽の戦《そよ》ぎ [#改ページ]  正倉院の矢  工房の奥にあるプランニング・ルームの中仕切りを肩先で押しあけて入りながら、伊佐峻太郎は、不意に故郷のことを想った。  一本の矢が、彼に故郷を想い出させた、と言ってよい。  あるいは、『一本の矢』というのは正確ではないかもしれぬ。『故郷のこと』という表現もいくらかあいまいである。正しくは、『二十三本の矢』と書くべきだろうし、峻太郎がとっさに想いうかべたのも、『故郷のダム湖』ないしは『ダム湖の水のよどみ』とでも言い直すべきかもしれない。とつぜん、伊佐峻太郎は仕事場のまんなかで、総身にまとわりつく深いよどみの冷たさがやみくもに身辺によみがえり、陽《ひ》を浴びても暖まらない水、彼の故郷、西野湖の水中にいる自分を感じたのであったから。  その夏の日の午後。冷房設備のない工房は蒸し風呂さながらの状態であり、扇風機が木材|屑《くず》や金属粉をいたるところでまきあげていた。しかし峻太郎には、室内の暑さも作動中の機械音も一瞬消しとんだかに思え、彼はいきおいよくプランニング・ルームの中仕切りを肩先で押しあけて入りながら、そのまま動かぬ人にでもなったみたいに、しばらくその場に立ちすくんでいた。彼の眼は、彼が両腕のなかに積みあげてかかえ込んでいる十数冊の美術書の、一番上の一冊に釘《くぎ》づけとなっていた……。  伊佐峻太郎の、所属しているU工芸デザイン・クラブに、ある大手の貿易商事会社から、顧客の外国業者向けに配る贈答用非売品の特別注文が入ったのは、つい二、三日前のことである。  その貿易商社は玩具《がんぐ》専門の一流会社で、最近いくつかのグッド・デザインをたてつづけに有名デパートやエージェントを通して市場に出した若手グループU工芸の新鮮な仕事振りに目をつけて、声をかけてきたのだった。  U工芸は平均年齢二十八歳。気の合った工芸家の自由な集まりといった色彩のつよい団体で、玩具に限らず、はば広くいわゆるクラフト工芸全般にわたって、金属、木工、陶器、プラスチック、硝子《ガラス》、布製品……なんでも手がけていく方針をとっていた。  くだんの貿易商社の注文品は、購買市場にのせる必要のないプライベイトな非売品であったから、峻太郎達にとっても、ある意味で凝《こ》った趣味的な仕事の腕がふるえるわけで、いわば純粋な工芸手腕の見せどころというか、フルに|乗った《ヽヽヽ》感じの注文だったと言ってよい。  仕事の内容は、日本の古い伝統的な遊戯具を数点選び出して、模写やイミテーションでなく、ミニアチュア化し、豪華な古代色と情緒を盛った精巧な工芸品の雰囲気を出して欲しいというのであった。  峻太郎と他に三、四人の仲間がこの仕事を受け持つことになり、まず問題の遊戯具を何にするかという選定にとりかかった段階であった。  国立博物館、民俗資料館、美術館、公・私立、中央・地方を問わず方々の団体、研究会などへの問いあわせ、神社仏閣の所蔵品調べやその照会、資料集めの毎日で、工房の奥にあるプランニング・ルームは、文献、写真集、取材スナップなど、あたりかまわず山積みの状態だった。  伊佐峻太郎が、その日、両腕にかかえ込んで入ってきた美術書籍は、あらかた玩具史や民俗学関係の資料であったが、一番上にのっていた一冊は、東大寺と正倉院美術について詳説した大判のT堂刊行による豪華本だった。  峻太郎は一度、中仕切りを押しあけるはずみにその本を入口で落しかけ、あわてて顎《あご》で支え、ずりあげようとしてページがめくれ、眼の前にひらいた形となったのである。  見るとはなしに落した眼が、そのままページの上から離れなくなった。  二十三本の矢が、そのページにはあった、と書くべきであろう。  だが最初、彼には、そのページに載っている大きな色刷り写真のなかの美術品が、矢であることはわからなかった。  金属製の風変りな花瓶《かびん》か装飾|壺《つぼ》のようにみえる首長《くびなが》の把手《とつて》のついた徳利状の容器のなかに、まるで筆立てに林立した絵筆の軸か筮竹《ぜいちく》の束をでも思わせるように、奇妙な形をした色塗りの細身の棒が、束ねて投げ込んで立ててある。それはそんな写真だった。  細身の棒の先端は、すべて薄くヘラ状にひらいた板のようになっていて、どことなく一見インディアンか未開人の描く刺青《いれずみ》風な彫り込みと色分けで、その小さな板ベラのような先端にはV字形の縞《しま》模様が刻み込まれていた。  写真の下に、 ≪|投壺《とうこ》・箭《や》≫  と、説明書きがあるのを読んで、はじめてそのヘラ形の平たい縞模様の部分が、矢羽《やばね》であることがわかる。  伊佐峻太郎の視線はその矢羽の上に吸いついて、化石にでもなったみたいにいつまでも動かなかった。  彼が、この夏の日の午後、たまたまU工芸の工房で見ることになったこの風変りな≪|箭《や》≫の矢羽は、いわば事件の発端ともいうべきものなのであるが、事件そのものはすでにもう歳月のほこりをかぶって彼方《かなた》に遠く、彼の記憶のなかでもおぼろにその輪郭をくずしはじめてさえいるのであった。 ≪投壺の箭≫の羽。  それが故郷を想い出させたことに、峻太郎は動転しているのだった。     1  伊佐峻太郎が十五年ぶりに西中国山間部のはずれにある西野の町に帰ってきたのは、その年の暮れである。  帰ってきたといっても、この町に彼が身を寄せる落着き先はどこにもなかった。  西野は、昭和二十×年に隣接する付近の四カ村を合併して人口一万足らずの町、の名を得た、かなり広域にわたる山村の寄り合い聚落《しゆうらく》である。末は瀬戸内海に流れ出るK川の上流を深い山峡で堰《せき》とめたダムのある村、とでも言った方がよいかもしれぬ。町の名にふさわしい聚落は、ダムの下流にひらけた農耕盆地に、昔の街道筋で賑《にぎ》わった古い市場町だといわれている一地区があり、西野町|西野市《にしのいち》とよばれるここだけが、わずかに今も町の体裁をそなえている。  山陽本線沿線から二時間ばかりバスで入って、峻太郎はこの西野市の町にある県道ぞいの小さな旅館に宿をとった。雪もよいの、朝のうちから空は暮れ色のたれこめているような、底冷えのする日であった。 「あらま、もう出かけてですかいの?」  と、ボストン・バッグを一つ置くなり、茶も飲まずに玄関口ヘ出てきた峻太郎に、宿の女将《おかみ》はおどろいたように声をかけた。 「ええ。ちょっとダムのあたりまで」 「おやま、そいじゃ、車よびましょうか」 「いや。ぶらぶら歩いてみますから」 「ダムまではあんた、一村《ひとむら》奥で、六、七キロはありますがな。それにお天気、このぶんじゃ雪ですよ。あの、もうちょっと待ってなら、バスも下まで行きますよ」 「いや、いいんです」 「ほいじゃ、今、道教えますがな」 「大丈夫です。わかりますから。夕方までには帰ってきます」 「そうですか……。バスで行っちゃったらええのに……」  女将は、あきれたように峻太郎を見て、門口まで送りに出た。  女将には、峻太郎は完全に|よそ者《ヽヽヽ》に見えた筈《はず》である。なにしろ峻太郎がこの西野市の町に住んでいたのは、生まれ故郷である隣り村の高月《たかつき》が廃村となり、引っ越してきた小学生時分の五年間だけであり、小学校を卒業する年には、もうこの土地にも彼はいることができなかったのだから。  しかし峻太郎は、女将の顔をよくおぼえていた。女将の顔ばかりではなかった。狭い町の家並みを通り抜ける間に、彼は幾人もの想い出す顔にぶっつかった。だが、誰も峻太郎を、この町のはずれで十五年前、小さなうどん屋をひらいていた『服部』の息子、峻ちゃんだと気づく者はいなかった。それでいいのだ、と峻太郎は思った。この町で過ごした五年間を懐かしみに、自分はやってきたのではないのだから。峻太郎のなかにも、西野市は仮りの塒《ねぐら》、同じ西野の土地ではあっても自分は高月の人間なのだという自覚が、ごく自然にあった。もっともその高月はもう、地図の上からはけずりとられ、消えてなくなった村ではあったけれど。  喫茶店やスナック、スーパー、ガソリン・スタンド、新規な店構えの商店などが増え、西野市は模様がえした家や建物があちこちに見受けられて、ひとまわり町が町らしくなった感じはあったが、しょせんは山の中の田舎町、大方のたたずまいは動かず昔のままに残っていた。  町をはずれて、舗装された道はばも広くなった県道を四、五キロ歩くと、西野湖下の無人のバス停にたどりつき、ここから山手に入る枝道へ曲って、さらに二キロ近く山ぞいの坂道をのぼりきると、西野ダムの堰堤《えんてい》が見えてくる。  峻太郎は一度、山道の途中で立ちどまり、薄闇《うすやみ》をかぶったような梢《こずえ》越しにその巨大なコンクリート壁を見あげ、 (なぜ帰ってきたんだろう……)  と、ふと思った。  西野湖は、入江の多い、周辺数カ村地区にまたがる総面積百五、六十ヘクタールはあるといわれる、かなり大型の人造湖である。  夏場は遊覧船やボート遊び、水上スキー、鯉や鮒《ふな》釣りが楽しめて、風光絶佳。冬にはワカサギ釣りにどうぞという観光ポスターが、西野市の町の旅館の玄関口にも貼ってあった。  山あいを縫って奥へ奥へとひろがった、見通しのきかない湖であった。  堰堤口の湖岸に立って、しばらく峻太郎はぼんやりしていた。十五年ぶりに見る西野湖は、人影は無論、動くものの気配ひとつなく、いたずらにただ山峡深く茫漠《ぼうばく》として、雪雲をはらんだ低い墨いろの空の下で、まだ正午をまわったばかりの時刻だと思われるのに、すでに夕暮れのように曚《くら》みはじめていた。  監理事務所のある湖岸からさらに二キロ、峻太郎は湖ぞいの林の径《みち》を奥へ歩いた。湖はたえず灌木《かんぼく》のあわいに見えかくれして、峻太郎の横にあった。  十五年前、はげしい陽ざしをおどらせていた白金色の騒然たる湖面も、くっきりと山影を描き出した日陰の深いみどり色のよどみも、この同じ水の上にあった世界だとは思えなかった。  姉は、湖のまんなかに浮かんだ小さな釣り舟の上にいた。  姉の夫となる筈だった大豊征行《おおとよまさゆき》と峻太郎は、その釣り舟からは三百メートルばかり離れた陽ざらしの水のなかにいた。  奥まった広い入りあいの湖面には、ほかに寄りつく人影もない、文字通り三人だけでこの山峡を買いきったとでも言いたい、別天地のような真夏の日ざかりどきであった。  日陰の山の稜線が、舟の上にいる姉と、水中の峻太郎達との間をくっきりと区切っていて、後から思ったことであったが、その陽《ひ》と陰《かげ》の境界線は、まるで生と死の世界をあざやかにへだて分ける分れ目ででもあったかのようだった。  とつぜん、舟が沈んだのだ。  いや、正確を期すならば、沈む舟を、征行と峻太郎は遠くから見た、と言った方がいい。三百メートルはたっぷり離れた水中に二人はいたのだから。必死に泳ぎ帰ったが、間に合わなかった。帰りついたとき、舟も姉も跡形《あとかた》もなく没しきっていた。  事件と言われるものの、それが全容である。  せんさくすれば、端々《はしばし》につまびらかでない事柄もあるにはあったが、結局、峻太郎達三人の不注意による、起こるべくして起こった事故と言わざるを得ないのであった。  事件の後で、舟の持主はふしぎそうな顔をして言った。 「ありゃあ、使いもんにはならん舟じゃった筈じゃがのう……」と。「沈むンが当り前じゃ。底板に穴がほげとったんじゃから。虫が食うての、ポコッと二つあいとった。儂《わし》の指がらくに通るくらいの穴じゃったけえ……」  確かに、言われてみれば、新しい舟とは言えなかった。くたびれた、小さな手漕ぎの木舟だった。 「じゃけえ儂は、水から揚げて、藪《やぶ》ンなかへ腹ァ返して干しとった筈じゃ。打ちこわして、薪《たきぎ》にでもするつもりじゃったんじゃけえ……」  ダムの下流に住んでいるその持主の百姓は、戦前に作った舟だと言った。彼は、ボート業者でも釣り舟屋でもなく、この西野湖ができる以前から、川釣り用にその木舟を使っていたのである。それも長い間納屋の天井に吊《つ》りさげ放しであったのを、西野湖ができてまた浮かべてみる気になり、使ってみると結構用を足したので、その後ときどきやってきては独り釣りを楽しんでいたのだという。水漏れがしはじめてからも、自分であちこち修繕し、いわばガタがくるまで使い古した舟なのであった。  木舟はいつも、コンクリート堰堤のあるダム口からはさらに二山湖岸をまわった、人気《ひとけ》ない奥まったみぎわに繋《つな》いでいて、使わないときは水から揚げて、林のなかにビニール・カバーをかけたりして置いておいた、と彼は言った。虫食いがひどくなって、穴があくようになってからは、それもやめた。  舟は、野ざらしのまま腹を返して、藪の奥に放り出されてあったのだという。  しかし、峻太郎達がその木舟を見つけたとき、舟は藪のなかに引き揚げられてもいなければ、腹を返してもいなかった。水ぎわに低く張り出した灌木の茂みに半ばその舟首を埋めるようにして、ちゃんと水の上に浮かんでいた。舟底には荒筵《あらむしろ》が一枚敷いてあり、短い櫂《かい》も二本、その底に転がっていた。  いや、舟はただ水の上に浮かんでいたばかりではない。大人二人をのせて、何の異常もなく、広い湖の中央まで運び出しさえしたのであった。  持主の百姓は、はっきりとそんな筈はないと言ったが、現実はそうであった。  あれは、姉が高校を出て、役場の教育委員会に勤めはじめて三年目の夏。一カ月後には、征行との拳式がひかえていた……そんな頃のある一日、暑熱にうだるような日であった。  三人は、ボートを漕ぎに西野湖へやってきたのだった。  しかし、堰堤口にあるボート屋のボートはみんな出払っていて、湖面は白い花びらを散らしたようにボート客達でいっぱいだった。「少しぶらぶらして待つか……」と言う征行の言葉で、山ぞいの小径へ入った三人は、しかし歩きはじめると、知らぬ間に二キロ近く山奥へ踏み込んでいた。この湖岸ぞいの山径は、奥まるほどに、この世からは消えてなくなった村|高月《たかつき》へ近づける道であった。西野ダム建設で、一村百十戸ことごとく湖底に沈み、県が出した補償金で、峻太郎の一家は西野市に移り住むことになったのだ。この径を行けば、高月の村の上空へ出られるという想いが、当時小学生だった峻太郎の胸をふしぎに騒がせた。  そしてまた、この西野ダム周辺の山林はあらかた大豊家の持物でもあったのである。西野の大豊といえば、昔からこの地方一帯に強大な勢力を誇った豪族の直系といわれ、明治のはじめまでは、大豊家は代々≪本陣≫を世襲する土地の大庄屋であった。  姉の夫となる征行は、その大豊家の一人息子なのだった。東京の大学を出て、西野からはバスで二時間ばかり離れた地方都市Sの一流銀行に勤めていた征行は、学生時代乗馬クラブの選手だったというだけあって、ひまさえあれば馬を駆って一人山野を走りまわっていた。征行を想い出すとき、いつもこの黒毛のアングロ・ノルマン種の底光りのする馬の肌のかがやきが、彼に重なった。強壮な、物静かな男だった。  峻太郎はよくおぼえている。その日、西野湖の山林を連れだって歩く姉と征行のまわりで、後になり先になりしてはしゃぎたっていた自分が、奇妙な昂奮状態にいたことを。  その山林の径はしきりに、子供心にも忘れられない高月の村を出たときの心細さやなさけなさを想い出させ、同時に一方ではまた、このどこまで行ってもつきない森が姉のものにもなるのだという信じられないような有頂天な気分に、揺すぶられてもいたのだった。  姉にも、似たような感慨がなかった筈はない。彼女はふだんよりも心持ち無口で、けれどもはじめて見るようなふくよかさがあり、ういういしかった。 「あら、舟……」  ちょうどそんなときであった。姉が、その藪かげに舫《もや》っていた小さな木舟を見つけたのである。 「誰かの釣り舟だろう……ちょっと、失敬しちゃおうか」  征行は、峻太郎の方を見て言った。  峻太郎がその舟にのらなかったのは、のる場所がなかったからである。二人のりのボートよりもずっと小振りで、姉と大豊征行がのれば、舟はもういっぱいであった。 「いいよ。ぼくは見とくからさ。二人で行っておいでよ」 「じゃ、一まわりしたら、君と交替するからな」 「いやだよ。姉ちゃんのデッカイ|おいど《ヽヽヽ》のせて、とてもじゃないけど漕げないよ」 「峻太郎」  姉はちょっと睨《にら》むようにして、笑った。少しはにかむような、やさしい眩《まぶ》しげな眼を峻太郎へ、それから精悍《せいかん》な征行の横顔へと移してしずかに笑った姉は、ひかえめで、しかしひたひたと目に見えない幸福感をさざなみ立たせているようで、美しかった。  決して「デッカイ|おいど《ヽヽヽ》」などしてはいなかった。繊細な、むしろもっと肉づきが欲しいとさえ思わせる、清潔な姿を姉は持っていた。  姉と征行をのせた小舟は、しばらく湖面のまんなかに浮かんでいた。姉はときどき想い出したように手を振り、征行も櫂を高く持ちあげて、岸辺にいる峻太郎へ合図を送って寄こしたりした。  見渡す限りひろびろとした明るい湖上で、二人を邪魔する舟も人影もなく、姉達はしんから二人っきりで、仲むつまじそうに見えた。舟が、水に映る山陰《やまかげ》の内側でとまっていたのは、はげしい直射光から姉をかばう征行の思いやりなのだ、と峻太郎は思った。  征行が、家柄も財産もない高月の百姓の娘……今は街道商いの小さなうどん屋の娘を、見初《みそ》め、真剣に愛してくれたことに、感謝した。 (姉も、これでしあわせになれる)  峻太郎はしばらくの間、そうして水ぎわの藪に寝転んだまま、湖上の二人を眺めていた。  風のない、むせるような熱気のこもった藪であった。ひきかえ、舟の浮かんでいる湖上は、みずみずしい山陰に彩られて小さくさざなみ立っており、見るからに涼しそうだった。  峻太郎がいきなりシャツと半ズボンを脱ぎ捨てたのは、その涼しさへの誘惑に勝てなかったからだった。  峻太郎は、一気に小舟にむかって泳ぎ出て行った自分を想い出すたびに、深い戦慄《せんりつ》におそわれる。自分が泳ぎたくなりなどしなければ、あんなことは起こらなかったのだという想いがある。  峻太郎は、二人のいる湖面まで泳ぎ、舟べりにつかまって一休みしてから、さらにその先の陽ざらしの水のなかへとび出して行ったのだ。舟のいる日陰の水は、涼しそうでいかにも心地よげに見えたのに、意外に冷たく、身を切るようだった。日なたの直射光にあぶりたてられている水が、やみくもに恋しかったのだ……。  二百メートル近くは、小舟を離れたであろう。  シャリッと、右の脇腹から胸にかけて鋭いカミソリの刃のような感覚が走り抜けたのは、そんなときだった。眼の前の水面を突き破って、銀鱗が宙におどった。細身のかなり大きな魚だった。 「ヒェーッ」  と、峻太郎は奇声を発し、反射的に湖面の上に彼の体もおどりあがった。 (なぜあんなことをしたんだろう……)  と、後になって何度も彼は考えてみる。  確かに、きっかけは不意の魚だった。魚の感触にぎょっとして、思わずとびあがったのだ。だが、それに続く行動は、明らかに峻太郎自身の意志によるものだった。ちょっとしたイタズラッ気、とっさの思いつき……そう彼は思おうとした。しかし、峻太郎がそのとき、ある感情にとらわれていたのは事実だった。それは妙に、とり残された人間が味わうさびしさのようなものに似ていた。二人の注意を惹《ひ》きたいというがむしゃらな願望だった。  最初沈みおちるとき、峻太郎は水をかぶった視界に並んでこちらを振りむいている二つの顔を見た。『見てる。見てる』と、彼は思った。次に浮いたとき、姉は舟端に手をかけて身をのり出すような格好をしていた。二度三度と水面をはねあがるように叩《たた》きながら、峻太郎は浮沈を続けた。何度目かの浮上の際、舟の上に立ちあがっている征行を見た。『助けにきてくれるかな』と、峻太郎は考えた。考えながら、また眼先は暗くなった。水中で彼は思った。『もう少し引き離してやれ』と。思うと急に興が湧《わ》いた。彼は力強く何度も足を蹴った。浮きあがったとき、峻太郎の位置はさらに遠ざかっていた。舟は大きく揺れていて、征行がとび込むところだった。峻太郎は、にわかに調子づいた。潜っては距離をのばしながら、ときどきわずかに水の表に顔を出し、その位置だけをしらせておいて、また潜った。浮いているとき、まっしぐらに泳ぎ寄ってくる征行をすばやく見定め、沈みながら夢中で手足を活動させた。峻太郎は、そのことに熱中していた。そんなある浮上の刹那《せつな》に、彼はふと首をよじって舟を見た。そして、ずいぶん離れたなと思った。舟の横板が妙に浅く、細く見えたからである。後で思えば、このとき舟はもう半ばは水に没しかけていたのである。  直立した棒のように姉はつっ立っていたようにも思われたし、舟べりにしがみついて長々と手をさしのばしていたようにも思われた。峻太郎が姉を見た、それが最後の姿だった。  おそらく、どちらの姉の姿もほんとうだったにちがいない。泳げない姉は、ただうろたえきって、狭い小舟のなかで右往左往するしかなかったであろうから。  沈む周期がやってきて、泡だつ水につつまれながら峻太郎はそう思った。思って、急にわれに返った。『やめなければ』しかし、もう引っ込みがつかなかった。イタズラだったとは言えない気がした。征行のはげしい水音がすぐそばまで近づいていた。峻太郎は、本気で溺《おぼ》れた振りを続けるほかはなかった。  ゆっくりと湖上に頭を出した峻太郎の眼の前に、征行の浅黒い顔があった。水に濡れた視野のなかで、その顔は荒々しい動物を思わせた。美しい若い牡《おす》の動物だった。そして、峻太郎は舟を見た。見たと思ったときは、もう水の中であった。ひとつの嘘《ヽ》がそこにあった。『方角がちがったのかな』と、峻太郎は最初思った。思うと、やにわに水面にはねあがった。その体を、大豊征行はがっしりと抱え込んでくれた。  峻太郎は、夢中で湖上を見渡した。  やはり、それは嘘としか言いようのない出来事だった。  舟も姉も、かき消すように、跡形もなくなっていたのである。 「お兄さんっ……あれっ……あれを見てっ! あれをさっ!」  振り返った征行も、指さしている峻太郎も、ただ呆然《ぼうぜん》として、その湖面を見つめていた。     2  伊佐峻太郎は、ぼんやりと、薄暗い裸木の藪の水ぎわにかがみ込んでいた。  十五年前、一|艘《そう》の小舟が舫《もや》っていた場所である。  彼はつと手をのばして、その深いよどみに指を浸した。水は、刃物のように肉を裂く気がした。 (なぜ帰ってきたんだろう……)  と、彼は、思った。  帰る場所などありはしないのに。  生まれた土地、故郷は、この水の底。刃物のような凍り水の彼方にあった。しかし、ふしぎに今、この湖の底にある村で、小学校に入学する年まで母と姉と三人で暮らした遠い日のことが、むしょうに懐かしいのであった。  姉が死んだ日にも、自分は、ふとそんなことを思った。狂気のように姉をさがして、行きつける筈のない湖の底へ向かって潜りながら、このまままっすぐに潜りつづけて行くならば、確実に自分は、故郷の村に帰れるのだ、と不意に思った。ふしぎな、気の遠くなるような、誘惑感だった。  眼をつぶっていても歩ける道があり、小川があり、段々畑があり、水車や牛小屋があり……そして、あの高月の家がある。祖父が死に、父が死に、母と姉と三人で暮らした家。柿の木の林や、水洗い場の石段や、神社の森や、無花果《いちじく》のなる崖《がけ》や、農協や、公会堂や、坂の上の小学校の跡が……すべてそのまま、この水の底には今もあるのだ。  峻太郎は必死に潜り、息のとまるのも忘れて姉をさがし求めながら、理由もなくそんなことを思ったのだった。 (もしかしたら、姉も、溺《おぼ》れ落ちて行きながら、同じことを考えたのではないだろうか……)  死の直前に、姉が高月の村を想いうかべたであろうことが、峻太郎にはわかるのだった。  姉の屍体《したい》は、地元の人間たち総出の探索にもかかわらず、三日三晩、水からは揚がってこなかった。その間中、 (姉を殺したのは、自分だ)  と言う呵責《かしやく》の念に、峻太郎はせめさいなまれた。  実際、峻太郎があんなばかなまねを考えつきさえしなかったら、大豊征行は水にとび込むことはなかっただろうし、征行がとび込まなかったら、たとえ舟が沈んだとしても、姉は決して死ぬことはなかっただろう。 (征行さんが、そばにさえいたならば、姉は何が起こっても、無事だったのだ)  その思いが、峻太郎を、打擲《ちようちやく》した。  眼をつぶると、大きく揺らいでいる舟が見え、仁王立ちとなった征行が一瞬その舟板を蹴って身をおどらせる姿がうかんだ。湖面が征行を呑み込んだときの騒然たる水しぶきが、峻太郎の眼の裏を灼《や》いた。  あのとき、老朽舟は、浸水をはじめたのだ。  おそらく姉はあわてたであろう。動転した姉の動きが、さらにその浸水を速める結果になっただろうことは、容易に想像がつくのである。沈みはじめた舟に征行が気づかなかったのも、彼が一途に峻太郎の救助に没頭していた証拠であった。  峻太郎が絶望的になるのは、この点だった。  姉はきっと、浸水をはじめた舟に仰天し、助けを求めたかったにちがいない。叫んで、征行にそれをしらせたかったにちがいない。しかし、それをすれば、征行はどうしただろう。三百メートル近く離れた前方と後背で、婚約者とその弟が同時に溺れかけようとしているのだ。どちらかを見殺しにするほかはあるまい。この緊急のときに、彼にその選択を迫らねばならぬようなまねが、姉にできた筈はないのであった。いや、もし姉が声をあげて征行にしらせれば、征行はまず身近な姉のもとへ引き返すだろう。当然である。二人は愛しあっているのだから。 (姉は……)と、峻太郎は思う。(姉は、声ひとつあげずに死んだのだ。すぐ眼の前を泳ぎ去って行く征行を……姉は、黙って見送ったのだ)  みなぎるような両眼を裂き、姉のいなくなった湖面へ一声、 「東子《とうこ》ーっ!」  と、ほえるように叫んだ征行の獣じみた咽声《のどごえ》を、峻太郎は忘れることができない。 「行ってっ! 早く行ってっ! ぼくは……足がひきつっただけなんだっ……大丈夫だよっ……もう泳げるようっ……」  峻太郎は、このとき、自分は生涯償うことのできない罪を犯したのだと、はっきり自覚した。  征行の後を追いながら、峻太郎が姉のいたあたりの湖面へ泳ぎついた折、そこに残っていたのは、二本の櫂と二枚の舟の底板だけだった。底板は、舟の持主の言葉を裏書きするように、虫食いの部分から無残に折れたものだった。 「そりゃ、あの上でちょっとひどう舟板を踏んだが最後、ベリベリ行くんが当り前じゃ」  と、持主の百姓はこの板を見て言ったが、確かに、姉の足がかなり大きく舟板を踏み破ったことが歴然とする板ぎれだった。  水深五、六十メートルといわれるこのあたりの湖の水は、四、五メートル潜るともうどんよりと闇がかかり、眼を凝《こ》らしても、視界ははっきりしなかった。ある深みから水はわずかな水深の差で急に曚《くら》くなり、いきなり闇黒に変るということを、峻太郎はこのときはじめて知った。  峻太郎より早く現場にたどりついた征行は、ゆっくりと闇をかぶって沈み落ちて行く舟らしきもののおぼろな影を、はるかな水の足下に見たという。呼吸が続かず、とても追いすがれはしなかったが、底に大きな抜け穴のできた船体は浮かんでいたときのままの姿勢でまっすぐに落下して行ったのではなかったか、と思われたという。  峻太郎が、泳ぎついて、その水中で見たものは、一枚の荒筵《あらむしろ》きりであった。筵は、五、六メートルの深みの宙で、まるで沈むのをやめたみたいにひっそりといつまでも揺れて、とどまっていた。  姉の姿だけが、どこにも見当らないのであった。  四日目の昼、水深三十メートル付近で、樹林の梢にひっかかっている姉の屍体を、潜水夫が見つけた。姉は、さしかわす無数の枝につつまれて、顔を底にむけ、真逆さまの姿勢をとっていたという。  溺死《できし》だった。肺いっぱいに水を吸い込んでいた。  峻太郎は、潜水夫の話を聞かされたとき、姉が死の間際、やはりこの西野湖の底にある村のことを想ったのだと、納得した。  姉の死が、思わぬ事故死、ふって湧いた災難であったのはまちがいのないことだったけれど、闇の底へ沈んで行く舟の影は見とどけている征行の眼に、なぜ姉の姿はさがせなかったのだろうか──という疑問が、心のどこかにわだかまっていた。  底板の抜けた舟は、ただ沈むだけの、意志を持たぬ物体である。  姉の溺死が、最後には観念した死であったとしても、生身《なまみ》の体だ。無意識のうちにでも、もがきながら浮きあがる努力はしたのではあるまいか。まして、しあわせの絶頂期にいた筈の姉である。自力で生きのびられる限りは、どんなことをしてでも、生きのびようとしたにちがいないのだ。  ひたすら沈むにまかせた物体である舟の方が後に残り、おそらく最後の最後まで必死で浮上を試み続けたであろう姉の体が、先に消えてなくなったのはなぜなのだろうか……。  もっともこれが、急激なショック死、つまり心臓麻痺のようなものであったとすれば、瞬間に機能をとめた肉体が、一個の落下物体に変ったと考えられないこともないが、姉はやはり、水を呑んで苦しみながら死んでいたのである。  しかし、湖底の樹林に真逆さまにわけ入っていたという姉の姿勢が、峻太郎のこの疑問を解いてくれるような気がしたのだ。生きのびられぬと知ったとき、姉は故郷をめざしたのだ、と。  そして、舟よりも速く沈み、手をつくした探索にもかかわらず、三日三晩揚がろうとはしなかった姉の屍体に、峻太郎は、ある姉の決然とした意志のようなものを感じとった。  すると、自ら湖底の村へ向かって急ぐ姉の姿が、ありありと脳裏をよぎるのだった。  それは、姉が、『見ろ』と、峻太郎に教えている姿のような気が、彼にはした。 『見て頂戴、峻ちゃん。ちゃんと見て。あなたが生きるということの方が、大切なのよ。姉さん、そう思ったから、村へ帰ることにしたのよ。ほら、見て。姉さん、悲しそうな顔してる? 恨めしそうな顔してる? ここにいれば、ちっともさびしくなんかないわ。それに、姉さん、しなきゃならないことをしただけなのよ。あなたに生きててもらうために、姉さんそうしたのに……あなたが今、ここへ帰ってきて、どうするの。姉さん、よろこぶとでも思ってるの。そんなことして、すむとでも思ってるの。母さんはどうなるの。あなた一人がこの先頼りなのに……母さんのことは、考えないの。あなたは、そんなに意気地なしなの……』  小学校六年生の夏、十二歳の伊佐峻太郎は、そんな姉の声を、西野湖のある藪の水ぎわにしゃがみ込んで、眼を泣き腫《は》らしたまま、じっと聞いていたのである。  結局、その年の夏の事件は、一艘の小さな虫食い舟を、ごく普通の空き舟だと思い、気軽に無断使用した峻太郎達にまちがいがあったのだが、舟の持主が言うように虫食い穴が二つ空いていれば、舟はとても湖の中央まで漕ぎ出せはしなかったし、また水から揚げてあったなら、峻太郎達はこの舟にのることもなかったであろう。  持主の話が事実であったろうことは、舟が湖の上で見せた異常な浸水の素速さからも、うなずける。となれば、持主には断りなく、この舟をとり繕《つくろ》い、そっと扱う限り使用可能な状態にして、ひそかに借用していた者があったということになる。おそらく土地の人間であろうが、事件が事件だっただけに、誰も名乗り出たりはしなかった。うやむやのまま、その詮議は立ち消えになった。  沈んで行った虫食い舟は、今も闇の湖底に残されている筈である。誰の関心もよばない、沈むのがしごく当然な老朽舟であったから。  伊佐峻太郎は、ぼんやりと水のおもてに眼をあずけて、『なぜ帰ってきたのか』と、とりとめもない考えを右に左に頭のなかで転がしでもするように、また思った。  彼をこの場所へ連れ戻したのは、一本の『矢』であった。  一本の、いや、正確には二十三本あるといわれる、正倉院御物の内の『投壺《とうこ》の箭《や》』が、ここへ彼を呼び帰したのだ。  それはよくわかっていた。わかってはいたが、とりとめのない考えのような気もするのだった。  姉を探して、探しきれないとわかったとき、真夏の西野湖は一瞬、煮えたぎる火焔《かえん》の海のように思え、また闇の氷原と化したかにも思われた。  峻太郎は、虚脱状態で、仰《あお》のけに湖の中央に浮いて、ただ空を眺めていた。  ちょうどそんなときであった。手の先に触れるものがあり、意味もなくそちらへ首をまわし、指に触れているものを見た。見はしたが、見えていはしなかった。  実際、この一時《いつとき》の峻太郎は、完全に空白のなかにいた。空を眺めてはいたが、決してそれは空になど見えはしなかった。だから峻太郎は、征行に耳もとで声をかけられるまで、夢遊病者も同然であった。 「あがるんだっ。とにかく、あがろう……おい、峻太郎君っ」  征行は一、二度、峻太郎の頬《ほお》を引っぱたいた。それで峻太郎は我に返った。  征行は、しっかりと峻太郎の体を抱くようにして、みぎわへ泳いだ。このとき気がついたのだが、大豊征行はシャツもズボンも着けたままの格好だった。一瞬、舟から身をおどらせたときの征行の姿が蘇《よみがえ》り、猛然と胸を衝いた。 (僕のせいなのだ、なにもかも!)  峻太郎は、姉にも、征行にも、償いきれないことをしたのだと、このときはじめて自覚したのだった。  這《は》うようにして岸辺にあがり、体中の力を使い果していることが、つぶさにわかった。 「とにかく、僕はダムの監理事務所にしらせてくる。いいかい、ここで待ってるんだぞ。いいな。しっかりするんだぞ」  征行は、何度も強く峻太郎の体をゆさぶりながら、そう言った。 その征行の眼が、不意に峻太郎の手の先で瞬間、とまったのだ。峻太郎は、その視線をたどり返して、自分の手を見た。そんなものを自分が握っていたことに、峻太郎はまるで気づいてはいなかったのである。 「……なんだい? それは」  と、征行は、言った。  峻太郎は、黙って首をふった。峻太郎にも、わからなかったからだ。  それは、長さ十センチ程度の、笏状《しやくじよう》をした細長いヘラ板のような形の、薄い木片だった。片端が広く、片端が狭くすぼまっていて、裏表両面に浅い彫り込みと彩色でV字型の縞模様が描かれていた。  一枚の奇妙な木製の鳥の羽──そんな印象がした。  峻太郎は無論、そんなものに注意を払っておれる状態ではなかった。征行がそれに眼をとめたから、峻太郎もこのときのことを記憶にとどめているのであって、そうでなければ、意識の端にも残ってはいなかったであろう。峻太郎は、無造作にその木片を捨てた。  今想い出してみても、それ以上のことは思いつかない。多分、あの痴呆状態で水の上に浮いていたときに、手に触れたのがそれだったにちがいないと思い当るのだ。意味もなく把《つか》んで、意味もなく持ってあがった、湖面の上の浮遊物。彼にとっては、塵芥《ちりあくた》も同然のものだった。  十五年たって、東京の工房で、いきなりその記憶が蘇り、いま峻太郎の心をとらえているということが、峻太郎には奇怪なのであった。  十五年ぶりに帰ってくるなり、この藪の草むらを這いまわってそれを探した自分が、自分でもよく理解できないのであった。見つかる筈はないと思いながら、一方では、もしあれがたまたま湖面に浮いていた単なる|ゴミ《ヽヽ》も同然のものならば、朽ち果てて消滅しない限り、捨てた場所に今でも残っていなければならないという気がするのだった。誰にもかえりみる必要のないものなら、藪のどこかにまだある筈だ。峻太郎は、本気でそんなことを考えている自分に、そしてあきれてもいたのである。  しかし、そのために自分は帰って来たのだ。  一枚の鳥の羽に似た小さな彩色木片。  それを探しだすために。 (あれは確かに、『投壺《とうこ》』の矢羽だ)  正倉院の『投壺の箭』の長い幹の部分をもぎとれば、あの木片とそっくり同じものとなる。奇妙なヘラ型をした矢羽なのだった。  中国|周《しゆう》の時代にはじめられたという古代遊戯の矢の羽が、どうして西野湖の水の上にあったのだろう。  姉の沈んだ湖面の上を漂っていた一枚の矢羽。それが、世俗の品《しな》ではないと思われるだけに、伊佐峻太郎には黙殺できないのであった。  しかし≪正倉院の矢≫は、思った通りにと言うべきか、意に反してと言うべきか、十五年目の西野湖の藪の草むらからは見つけ出すことができなかった。  峻太郎は、音もなく雪をかぶりはじめた藪の水ぎわに、いつまでもしゃがみ込んでいた。     3  西野市《にしのいち》の旅館に帰り着いたのは、夜に入ってからであった。  雪は、西野湖畔を立ち去る前にふりはじめた。淡いぼたん雪だった。湖面にふれると、たちまち消えた。消えはしたが、後から後からきりもなくふりしきり、まるでそれは決して消えないもののようにさえ見えたのだった。  正倉院の『投壺』。  それも、いま峻太郎の脳裏で消えないものだった。  いわゆる正倉院御物といわれる奈良東大寺の宝庫のなかの文化貴財は、見ようと思っても簡単に|ま《ヽ》のあたりにできるものではない。宮内庁の厳重な監理下におかれ、無論、遊戯具の調査に当った峻太郎達にも実物は拝むことができず、美術資料や写真類に頼るしかなかった。  正倉院宝物の内の遊戯具は、いずれも大陸伝来のもので、世界でこの院庫にしか現存しないといわれる貴重品ぞろいである。点数は多いが、遊戯具の種類は次の四種である。   碁《ご》。   雙六《すごろく》。   弾弓《だんきゆう》。   投壺《とうこ》。 『投壺』という遊戯は、簡単に言えば、ある距離を保った壺のなかへ、矢を投げ込んで勝負を争う遊びである。つまり弓を使わない、手投げの矢遊びと思えばよい。  周の時代の書にこの遊戯の記述があり、宴席などで余興としてさかんに行われ、起源は民間のものであったが、漢、唐と時代をへて、遊戯法も複雑となり、定式ができて、専《もつぱ》ら貴族社会の作法にとり入れられ、重要な儀礼の遊戯となったのである。  峻太郎が見た写真の正倉院に遺《のこ》る『投壺』は、唐代の品で、金銅《こんどう》製、高さ三十一センチ、長い頸《くび》の両脇に翼形の環《わ》になった耳飾りがあり、この環のなかにも矢が投げ込めるようになっている。金銅製の壺の頸部は獅子・樹下人物図文様、耳環は花卉飛鳥《かきひちよう》、胴に飛雲花卉蝶鳥、高台には波文様を線刻した、魚子《ななこ》打ちの古色華麗な壺であった。  主客わかれて十二本ずつの矢を競う遊戯であるから、この正倉院の『投壺』にも、箭《や》は二種類ついている。竹製と木製の箭《や》だ。  箭《や》の先端はとがった鏃《やじり》ではなく、牛の角でできた円球がとりつけられ、いわゆる鏑矢《かぶらや》なのである。この先端のまるい球、鏑《かぶら》の部分をのぞけば、あとはすべて矢羽まで、木製は木、竹製は竹一材でできあがっている。  木の箭《や》は矢羽を赤紫の染料|蘇芳《すおう》で描き、幹に樺《かば》をまきつけて、牛角の鏑《かぶら》の球は緑青塗《ろくしようぬ》り。  竹の箭《や》は矢羽が金泥《きんでい》、幹が黄土《おうど》と朱土墨《しゆどすみ》のまだら塗り、鏑《かぶら》が朱塗り。  木と竹、十二本ずつ、二十四本あるべきだと思われるが、正倉院の箭《や》は、二十三本しかない。その内わけは、なぜか木製九本、竹製十四本。あわせて二十三本、となっている。  しかし、この数の不揃いは別に問題ではない。現存している二十三本も、それぞれ補修や手入れの跡が著しく、重い鏑《かぶら》の部分は特にそうで、遊戯の途中折れたり、紛失したりした箭《や》は多かったであろうから、予備や不足があっても不思議はない。  峻太郎が西野湖で見た矢羽と思われる木片は、この正倉院の『投壺』の木製の箭《や》に、色も形も実によく似ていたのであった……。  峻太郎は、旅館の二階の部屋の硝子戸をあけた。闇景色の奥に川の音がした。かつて、五年間だけであったが、螢《ほたる》を追い、魚も突いて遊んだことのある川であった。闇と雪が、今その川を見えなくしていたが、高月の村から流れてくる、西野湖の水であった。  高月は不在地主の多い村で、峻太郎の家も、わずかな持ち畑はあったけれど、もともと他人の田を耕してまかなう小作百姓だった。ダム立退きの補償金もそんなに多額ではなかったが、西野市の県道ぞいに小さな土地を手に入れて、うどん屋を開く位は出来たのだった。村の者は散り散りとなり、父が早く死んで男手のない峻太郎の家は、これを汐《しお》に百姓稼業を見切ったのだが、西野市に住みついたのも、少しでも高月に近い場所でという気持が、母にも峻太郎にもあったからだ。しかし馴れない商売で気苦労が多かったせいか、百姓仕事ではへこたれなかった母が三年目に倒れ、それから寝たり起きたりで、五年目にやっと姉の結婚がきまり、大豊は西野きっての名家であったし、峻太郎の家にも明るいきざしが見えはじめた矢先のことだった。  姉が死に、死縁は続きやすいと言うが、四カ月後には母があっけなく肺炎で死んだ。峻太郎は、西野市にきて五年目の暮れには、家族をすべて失ったのだった。その年の暮れ、遠い身寄りの養子に入って、服部から伊佐へと姓も変った。服部の姓をなくしたとき、峻太郎は西野市の町をきっぱりと頭のなかから消したのである。頑《かたくな》な気性のせいか、懐かしい町という気は、まったくしないのであった。  しかし、川の音を聴いていると、母の咳《しわぶき》などが、ふと幻のように耳に湧いた。ときどき母は、わけもなく洗濯物などを抱えて、あの川へ出かけて行った。高月の家の前の小川で洗っている気にでもなっていたのだろうか。 「おやまあ、寒うありませんか……」  仲居が食膳を運んできて、峻太郎は急に我に返った。硝子戸を閉めて席に戻ると、仲居は少しガス・ストーブの火を大きくして、 「川魚のお料理ですが、お口にあいましょうかねえ……」  と、せっせと茶や飯器なども膳に並べた。  そんな仲居に、峻太郎は声をかけた。 「ここに、大豊って家があるでしょう?」 「はあ?」と、仲居はけげんな顔をあげて峻太郎を見た。「あの本陣の大豊でしょうか?」  西野では、大豊は本陣《ヽヽ》でとおっていた。 「そう、その大豊です。あなたご存じないですか……あの家に、昔女中さんがいたでしょう? 女中さんと言ったって、そうだな……もう今は六十位のお婆さんだろうけど……」 「高月のお咲《さく》さんですか?」 「ああ、それだ。そう、そんな名前だった。あのひと、今どうしてるか、知りませんか?」 「おってですよ、本陣に」  仲居は、いともあっさりと答えた。  お咲というのは、同じ高月の村の百姓家の女で、一度出戻り、二人の息子を村の親もとにあずけて、大豊家へ奉公に出ていた女だった。そのお咲の上の息子が姉と同い年、下の子供が峻太郎と同年だった。  上の息子は小児麻痺で小学校にもろくに通えなかったが、姉は気の毒がって、しょっちゅう彼の面倒を見に行ってやっていた。弟の方がまた、「ウス」「ウス」とみんなから呼ばれて馬鹿にされ、欠唇で風采のあがらない子であった。峻太郎だけがよく彼と遊んだ。上下の唇がうまくあわないせいで唾液《だえき》をいつもたらしていたが、ただ無口なだけで、「ウスノロ」では決してなかった。峻太郎姉弟は、このウス少年兄弟とは縁が深かったけれど、当時高月にはほとんどいなかった母親のお咲には馴じみがなかった。お咲を知ったのは、だから西野市に移って、姉が大豊家と関わりを持つようになってからだったと言ってよいだろう。  高月の村を出たウス少年一家は、西野市とは反対側のもっと山深い奥の村へ移って行き、それ以来めったに逢えなくなったが、お咲は相変らず大豊家に住み込んでいた。愛想のない、勝気な感じの女だった。  峻太郎は、それとなく大豊家の様子を聞き出すにはこのお咲に会うのが一番だろうと思ったのであるが、彼女が今でも大豊にいるというのは意外だった。自分の息子達よりも、遂に大豊と暮らしを共にした女だったと言えるかもしれない……。峻太郎は、なにか高月の村の幸《さち》の薄さを、彼女のなかにも見るような気がしたのであった。  ついでに征行の消息も、と、口にしかけて、峻太郎はそれをやめた。仲居に妙なせんさく心を持たれるのが厄介だった。さいわい、 「じゃ、ご用がありましたら、そのお電話で」  と、仲居は気にもとめずにさがって行った。  表通りを、しきりに車の走る音がした。昔はこんなに交通量の頻繁な道ではなかったがと、峻太郎はふと思った。  川の音をさがす風に、彼は束《つか》の間耳を澄ませ、魚料理をみつめたまま箸《はし》の手を宙にとめた。     4  大豊家は、西野市の家並みの迫った旧街道筋を出て、田んぼ道をまっすぐに山際へとると、白い土壁をめぐらした小森の奥にある。  姉について一、二度訪れたきりの、ふだんは外から眺めて見馴れた屋敷なのであった。西野の山は、あらかたこの大豊家のものだと言われている。  峻太郎は、玄関へはまわらずに、脇道から裏門をくぐった。できれば、お咲だけに会いたいと思ったからだ。屋敷内は、昔と変ってはいなかったが、全体にひどく荒れた感じがした。それは、のび放題の森庭《もりにわ》の木や、内壁の土の崩れや、硝子戸などに散っている雨だれの古いしみや、雨戸を閉めた部屋が目につくことや……そんなちょっとした、なにげないものの変りざまが寄せ集まってつくる印象だった。 「やあ」と言って、格好のいい乗馬着のまま、磨きあげられた長靴の踵《かかと》で白金色の拍車をひびかせ、白手袋の手にコペンハーゲンの鞭《むち》をつかみ、びゅんびゅん鳴らしながらさっそうと現れた大学出たての頃の征行が、にこにこ笑って迎え入れてくれた大豊家の面影は、どこかで消え果てているようだった。  峻太郎は、お咲の寝起きしていた部屋が裏庭の厠《かわや》の傍にあったのをおぼえている。そのあたりにうまく出られればよいがと思いながら、垣根の露地を抜けようとしたときだった。 「どなたです?」  と、いきなり背後で呼びとめられた。  背の低い小太りの猪首《いくび》の女が、鶏舎の入口から顔を突き出していた。それが、お咲だった。餌袋をさげて、歯のない口もとをもぐもぐさせながら射るような眼をなげかけてきた。 「高月の、服部峻太郎です。おぼえていらっしゃいませんか? ほら、五郎ちゃんといっしょだった……」  五郎というのは、ウス少年の名前である。 「ああ……」と、お咲は唇を開き、しばらくぽかんと峻太郎の顔を眺めていた。「東子《とうこ》はんの……」と、そして姉の名を口にした。  峻太郎は、いっさい余分なことは言わないつもりだった。十五年前、もし西野の地に『投壺』の矢が存在したとすれば、その可能性はこの大豊家をおいて他には考えられない。大豊に、もしその古代遊戯具があるならば、お咲が知っているかもしれない。あるかないか、それだけがこの女から聞き出したかったのだ。  峻太郎は、お咲の眼の前に一枚のカラー写真をとり出した。正倉院の『投壺の箭《や》』を写したものである。この一瞬に、彼は賭《か》けた。  お咲はわけのわからぬまま、つられてひょいとそれに眼を落した。そしてその眼は、かなり長い時間、写真の上を動かなかった。彼女が息をとめたのが、峻太郎にはわかった。 「……どうして、これを」  と、お咲は独り言のように呟《つぶや》いた。  峻太郎は、急に乱れ立つ呼吸をおさえた。 「ご存じなんですね? この矢を」  しかし、その後でお咲が口にした言葉も、とった行動も、峻太郎には思いがけないことばかりであった。 「やっぱり……」と、お咲は言った。「やっぱり、あんたじゃったんかいの……」 「え?」 「あんた、そりゃあ筋ちがいと言うもんどね。東子はんが、あげなことになりなさったんは、そりゃお気の毒とは思うわいね……けど、うちの大将恨む筋あいはないじゃろ? 東子はんに運がなかっただけじゃないのかの?」 「ちょっと待って下さい。いったい、なんの話をしてらっしゃるんですか」 「とぼけなさんな。あの事件があってからこっち、うちの大将に縁談がまとまりかけるたんびに、この矢の絵を、紙にいたずら書きして送って寄こすのは、あんたじゃろうがの」 「ええ?」 「また、大将も大将や。その絵の入った封筒が送られてくるたんびに、折角の縁談いつも断り続けなさって……それもこれも、目の前で東子はん死なした……不憫《ふびん》や、申訳ない……思うとってじゃからこそなのよ。それをええことにして。いったい、なんね。この矢がどうしたというんかいね。東子はんが、あんたになにを喋《しやべ》りなさったかしらんけど、ええかね、この矢に恨みがあるちゅうたら、そりゃあ、あんた方じゃのうて、うちの大将の方なんどね」  お咲は凄《すさ》まじい剣幕で、いきなり食ってかかってきた。 「こんな話、わたしの口からは金輪際、ひとに話せることじゃないけど、あんたが、なにかとんでもない思いちがいをしとってようじゃから、今はじめて言うんどね。なるほど、この矢は、うちのお蔵にあったわいね。わたしは見るのも厭な矢じゃったけど……昔からこのン家《ち》に伝わっとるちゅう、古い矢遊びの矢じゃわいね……」  お咲は口もどかしそうに、にわかに峻太郎の腕を把《つか》んだ。「ちょっとこっちにきておくれ。わたしが言うて聞かせるより、その目で見てもらいましょうい。その方が早い」  お咲は、どんどん先に立って、内庭の大|蘇鉄《そてつ》に囲まれた海鼠壁《なまこかべ》の蔵のなかへ入って行った。峻太郎にはすべてが唐突で、事情を呑み込むひまもなかった。やがて彼女は、黄褐色の畳み目のあるぼろ布のような楮紙《こうぞし》を一枚持って、蔵の土間へおりてきた。その紙は、古い樟脳の匂いがした。 「さあ、見ておみ。矢遊びの絵が、ぎょうさんのっとるじゃろ。何百年も前の、支那から渡ってきた絵じゃそうな」  ……峻太郎は、ただあっけにとられるだけであった。彼は眼を疑った。  黄変した楮紙を開くと、一枚紙の全面に戯画風な筆致がおどっていて、それは素朴な毛筆描きの男女の秘戯図百態なのであった。どの体位の女体にも、矢が使用されていた。無数の矢が、千変万化、女体の秘奥を攻めたてているのであった。  古代の遊戯具『投壺』の矢に、このような裏《ヽ》の世界があろうとは、想いもつかぬことだった。 「……このン家《ち》のお寝間にはな、そのお遊びがつきものなんよ」と、お咲は吐《は》き捨てるように言った。「代々みなさん、そうしてきなさったんじゃろうけどの……若い大将は、それが厭でならなんだのよ。わたしじゃってそうじゃわいね。先代の大将には、もうほとほとあきれ果てたんじゃからの……こんなおかしげなもののどこがええのか……まあ奥《おごう》はんがまた、すっかりとりつかれなさって……はじまると、昼間っからでも、お寝間の声が筒《つつ》抜けじゃったんじゃからね。ええかね」と、お咲は峻太郎を見た。「若い大将はね、東子はんに、好きでこのいたずら矢遊びしかけなさったのとちがうんどね。こんなことの好きでないお嫁さんが、大将は欲しかったんよ。それを試しなさったんよ。東子はんが、きっぱりはねつけてくれるんを、大将は願うてなさったんよ。つっぱねて、怒って、泣いてくれるんを、待ってなさったんよ。そんなお嫁さんが欲しかったのよ。……ところが、どうかいね。なにをされても……東子はんは、すなおに、言うとおりにされてなさった……この絵のとおりに、されてなさった……。大将がどんな気持やったか、あんたわかるかいね。はじめて男に抱かれる女が……この絵のとおりのことをしたんよ」  お咲は睨みつけるような眼をあげた。 「それでもの、うちの大将は……黙って許しなさった。辛抱しなさったんよ。東子はんは知ってなさらんやろうけどの……そんなことがあった翌日、お蔵の矢はみんな叩き折られて竈《かまど》のなかへくべられとった……。若い大将の気持が、そんなときわたしにはハッとわかったのよ。なにしろあんた、代々家宝の、そりゃあ値打もんの矢なんじゃぞね。……わたしは、黙ってそれに火をつけて燃《も》してしもうた……」お咲は、ちょっと言葉を切った。「後で、矢がのうなっとるのが先代にしれて……そりゃあもう、一騒動あったんじゃけど……大将はね、そんときも、一言も東子はんのことは口にしなさらんじゃったのよ。『僕が捨てた。僕の代には、あんなものはいらないからね』きっぱりとそう言いなさった。わたしはの、お蔵で大将に抱かれなさっとる東子はんをつい見てしもうたときから……正直言うて、この話は壊れるかもしれんと思うとったのよ。それやのに大将、お式の日どりもちゃんと決めなさったじゃろうがね。東子はんを、しんから好きやったからとちがうかね? あのダムの災難さえなかったら、大将は心底《しんそこ》、東子はんをこの家に入れるつもりじゃったんぞね。そんな大将を、なんで恨む筋あいがあんたにあるんかいね!」  なにか大きな思いちがいをしているのは、明らかにお咲の方であったけれど、峻太郎は言葉もなく、呆然とその話を聞いていた。聞いていると、自分の知らなかった世界が見えてくるのだった。  姉の隠された一面も垣間覗《かいまのぞ》けたような気がした。そして、改めて思った。姉も征行も、しんから愛し合っていたのだと。  姉がこの矢の淫戯を受け入れたという話が事実なら、それはほかならぬ征行が望んだことだったからこそ、そうしたのだ。姉の淫蕩《いんとう》のせいではない。それは、征行自身にもよくわかったであろう。わかったからこそ、征行は悔いたのだ。矢を折って、姉を試した自らの愚を責めたのだ。  そして峻太郎は、姉にその矢を試さざるを得なかった征行に、深いかなしみに似た感情を持った。  古い樟脳の匂いのたちこめる一枚の楮紙に描き綴られて遺っているこの秘戯図を見ていると、ふしぎな戦慄が走るのだった。代々伝わる『投壺』の矢が、年古るごとに大豊家にはりめぐらせ、しげりを重ねた、眼に見えない密《ひそ》かな糜爛《びらん》の枝や根が、身に迫る気がするのであった。この古い中国の秘戯図と共に遺されてあったからには、大豊家の『投壺』も、おそらく相当な年代物にちがいあるまい。破損をおそれ、またときにはそのおそれに挑むスリルも手伝いして、肉のよろこびをつくる楽しみが、この骨董遊戯具にはあったのではないだろうか。大豊家の人間達だけが知り、代々伝え継いできた歓楽の妖《あや》しい世界が。  征行は、生まれ落ちると、その淫靡《いんび》な世界に身を置いて、育ったのだ。姉に『投壺』の矢を試みなければ、女体のすがすがしさを信じることができなかった征行。そんな征行に、峻太郎は、矢への絶望的な彼の嫌悪のはげしさを、逆に見るのだった。矢を試し、試した己れをどんなにか恥じ、罵《ののし》ったであろう征行が眼に見えるようで、かなしかった。  しかしそれはともかくとして、お咲の話では、この『投壺』の矢を一本絵に描いて、封筒に入れ、征行宛に送り続けている者があるという。縁談の起こるたびにそれが届き、届くたびに征行は妻帯を諦めるという……。誰が、何のためにそんなことをするのか。  どうやらお咲は、峻太郎が、この|矢遊び《ヽヽヽ》の一件を姉から打ち明けられ、添いとげられずに終った姉の不幸が忘れかねて、厭がらせをしているのだとでも思い込んでいるらしかった。そして峻太郎の内にも、話を聞いた今、それに似たある恨みの感情が湧かなかったかと言えば、そうではなかった。一途に無垢《むく》に征行を愛したがために受け入れた矢が、|試しの矢《ヽヽヽヽ》であったと知らされれば、姉を辱《はずか》しめた征行に恨みは恨みとして湧くのである。  峻太郎はふとこのとき、もしかして姉が、冥土《めいど》から送るのではないだろうか……とさえ思ったのである。思った自分が、笑えなかった。添いとげられずに終った姉は、どんなにか無念であったろう。送られてくる封筒が誰の仕業にしろ、それは姉の声を代りに伝えてくれているのだ、と。征行を他の女に渡したくはないであろう。姉はあの世で、そう思っているにちがいない……。そして峻太郎はまた、そのたびに縁談を諦めるという征行も、同じことを考えるからなのではないだろうか……と、思った。征行も、いまだに姉への想いを捨てきれずにいるのだ、と。  そう思うと、唐突に強い感情におそわれた。 「征行さんに……会わせて下さいっ」  峻太郎はやにわに、お咲を見た。 「おってじゃありません」  お咲は、にべもなく答え返した。 「じゃ、どこへ行けば会えるんです……いつお帰りになるんですか」 「あんたはっ……」と、お咲は、甲《かん》高い声を放った。放ちながらむしゃぶりつくようにして、峻太郎へとびかかってきた。 「まだ足りんのかっ……これだけ大将を虐《いじ》めまわしてっ……まだ気がすまんとあんたは言うのかっ……恥を知れ、恥をっ……高月が、いくら貧乏百姓の集まりじゃと言うたって……あんたのようなさもしい人間はおらんわいっ……そんなにこの家に未練があるのかっ」 「やめて下さい!」  峻太郎は、お咲の手をふりはなした。背筋に、ぞっとするものをおぼえた。 「僕じゃありません。決してありません。それを、あの人に伝えたいのです。僕の口から、伝えたいのです。そして……あの人からも、話して聞かせて欲しいことがあるのです」  西野湖の水の上にあった一枚の矢の羽が、峻太郎の頭のまんなかに幻のごとく浮かんでいた。  お咲はよろよろとしゃがみ込み、ヒィーッと、嗚咽《おえつ》の声をほとばしらせた。 「誰にでも聞きゃあええじゃろうっ……この西野の町の人間なら……誰に聞いたって知っとるわいっ……大将の居所《いどころ》はみんな知っとる……さあ、早う行って聞けっ……そんで、その眼で見てくるとええっ……」  そして、お咲は、もう何をたずねても一言も口をきかなかった。ただ、泣き続けるだけであった。  伊佐峻太郎は、お咲の言葉どおり、大豊の家を出て一番最初に出会った、田んぼの中の百姓にそれを聞いた。そして、峻太郎は瞬間、耳を疑ったのである。 「原沢《はらざわ》?」と、彼は聞き返した。 「あの……原沢の病院ですか?」 「そうじゃがの」と、その百姓は答えた。  原沢といえば、この近辺では精神病院の代名詞にまでなっている土地であった。 「……いつ頃からのことなんですか……」 「そうじゃのう……もう七、八年はなろうかの……出たり入ったりしとりなさるけえ、そねえひどい按配《あんばい》でもないのじゃろうがの……」 「じゃ、今、大豊の家族の方《かた》は……」 「家族ちゅうても……先代の大将が卒中での。一昨年《おとどし》死にんさって、奥《おごう》さんが一人おりなさるだけじゃ。あとはお咲婆さんと、まあ、婆さんの息子がときどき帰ってきて、寝泊りさせてもろうとるけどな。淋しいもんよ」  峻太郎は、力が抜けて行くような気がした。しかし、この思いがけない百姓の言葉のなかで、お咲からは聞き出すことのできなかったウス少年の消息にも、接したのである。 「息子って……五郎ちゃんのことですか?」 「ほう、知っとってかの」 「どうしてますか、今、五郎ちゃん……」 「ありゃあ、薬の行商をしとるいの。日本中歩きまわっとるらしいどね……一年に二、三度はこっちに帰ってくるがの。帰っとる間は、大豊の山の仕事に出とっての。まあ、よう働く男いの。実際、お咲さん親子がおらんじゃったら、今の大豊はたっていくまいで」 「そうですか……」  峻太郎はこのとき、やみくもに懐かしさのようなものをおぼえた。まっ暗な四方ふさがりの穴底からほんの少し息のつける場所へ逃れ出せた、という気がした。昔のウス少年が、いま大豊を手伝ってくれている……そのことが、峻太郎には感動的だった。大豊をこんなにしたのは自分だ、という想いが峻太郎のどこかにはある。姉さえ死ななければ、おそらく今のような征行もなかったであろうから。  本来なら、いま大豊の手助けをするべき人間は、自分のような気がした。五郎が、その代りをつとめてくれているようにさえ、思えたのである。昔から、黙々とよく働く少年だった。ノロマでなんか決してなかった……。  そう思ったとき、峻太郎は、泪《なみだ》ぐみそうにさえなった。無口な、かつてのウス少年が、むしょうに想い出されてならなかった。  五郎と最後に会ったのは、姉が死ぬ三、四カ月前だった。彼の小児麻痺の兄が、心臓性の喘息《ぜんそく》で急死したと人づてに聞き、彼が引越して行った山奥の三つ先の村まで姉といっしょに訪ねたときのことだった。葬式は一週間前にすんでいて、五郎は「ありがと」と、舌たらずな口で一言だけ言った。姉も峻太郎も声をあげて泣いたのに、五郎は泣かなかった。そのときの五郎が、峻太郎には想い出された。  そういえば五郎は、高月にいた頃からめったに泣かない少年だった。「ウス」「ウス」と呼ばれても、黙って耐えていた。そんな五郎が、峻太郎は好きだったのだ。不しあわせにじっと耐えている彼を、人といっしょにウスノロとは呼べなかったのだ……。  峻太郎は、十五年ぶりに、ウス少年に会いたい、と、このとき思った。 「いないんでしょうね、五郎ちゃんは今」 「ああ、まだ見んようじゃのう」と、百姓は言った。「けど、もう帰ってくる頃じゃろうで。節季《せつき》じゃけえの」  峻太郎は、田んぼのなかから大豊の屋敷をふり返った。屋根に、昨夜の雪がうっすらと残っていた。外から見れば、美しい絵のような屋敷であった。     5  原沢は中国山脈のはずれを北へ越えた、山陰の海ぎわにある。合歓《ねむ》の並木山道をのぼりきった丘の上に、病院は建っていた。 「ノイローゼの強い奴です」と、医者は言った。「しかし大丈夫です。ここにいると落着くんです。今はほとんど正常ですよ。話しかけてやって下さい。そういうことが必要なんです。畠に出てる筈ですから」 「畠?」 「ええ。規則正しい作業をさせることも、治療のひとつです。かまいませんから、自由に行って喋《しやべ》って下さい」  大豊征行は、Gパンにセーター姿で、鍬《くわ》を持って畠の土を耕していた。他にも五、六人、手拭で鉢巻《はちま》きをしたりシャツ一枚の男達が、その菜園のなかにはいた。誰も、患者とはとても思えなかった。  大豊征行は、遠くから手をとめて、峻太郎が近づいて来るのを待っていた。いや、待っているように、峻太郎には見えたのである。  十五年前の征行は、跡形もなく消え果てていて、額のはげあがった中年の男がそこにはいた。その男が、遠くからなぜ一目で彼だとわかったのか、峻太郎にはふしぎであった。 「征行さん……ですね?」  峻太郎は、舌の根がからからに乾いていた。  二度、こくんこくんと区切りをつけて、征行はうなずいた。その瞳は、しずかに峻太郎の眼の奥へ注がれたままであったが。 「峻太郎です……僕です、服部峻太郎です……」  征行は、また、うなずいた。わかっている、君は峻太郎君だ──彼の眼が、そう言っているのが、峻太郎にはよくわかった。  征行は、鍬を捨てた。そして黙って、菜園のはずれの土手までゆっくりと歩いた。彼はとてもしずかだった。しずかで、やさしい感じがした。土手に並んで腰かけたとき、峻太郎は、征行の瞳が泪であふれたっているのを見た。 「……とうとう、きたね」と、征行は言った。  しっかりとした、落着いた声であった。 「いつくるか、いつくるかと、待ってたんだよ」 「征行さんっ……」  彼は、うん、うん、と、またうなずいた。 「そうだよ」と、そして言った。 「僕が、殺したんだよ」  峻太郎は、呼吸をとめた。やはりこの人は正常ではないのだ、と、とっさに思った。 「そうじゃないよ……そんなことを聞きにきたんじゃないんです……」  しかし征行は、おだやかに首をふった。 「僕もね、こんなことを君に言わなくて済んだら、どんなにいいだろうなって、思うんだ。でも、それができないんだよ。僕が、殺したんだから。そうだろ? 君は、あの矢羽のことを聞きにやってきたんだろ? いつかきっと、こんな日がくると思った。君が、あの矢羽の正体に気づいたら、きっとやってくるだろう。その日には、僕も話さなきゃあと思ってたんだ。今朝、お咲がやってきたよ」  峻太郎は、瞬間顔をあげた。 「いいんだよ。なにもかも、君が知ってくれた方が。そうだろ? 君は、あれが投壺の矢だとわかったとき、すぐに思いついたんだろ? 矢の先についてる丸い玉を」  峻太郎に恐怖が走ったのはこのときである。 「そうだろ? 君は心のどこかでそれを考え、どこかでそれを打ち消し続けた。そんなことがある筈はないからね。でも、どうしてもそれが忘れられない……だから、やってきたんだろ?」  征行は、独りで深くうなずいてから言った。 「そうなんだ」と。「あの舟の底板の虫食い穴をふさいでいたのは、投壺の矢の鏑《かぶら》なんだ。鏑《かぶら》の玉に少し布をまきつけてね、舟底の下から穴にさし込んどいたんだ……ちょうどこの指が通るくらいの虫食い穴だったからね。ぴったりだった。虫食い穴さえつぶせば、あの舟は、乱暴に扱わない限り、まだ十分に用を足せた。ほんとにもってこいだった。そうなんだ。あの舟を見つけたとき、僕は誘惑に負けたんだ……」 「どうしてっ……」と、峻太郎は、気狂いじみた叫びを発した。叫びながら、征行の言うように、自分は心のどこかで無意識に、そのことを考え続けていたのだと、はじめて気づいた。 「どうしてっ……あなたが姉さんを殺すのっ、殺さなきゃならないのっ……」 「そうだよな。殺さないで済んだら……どんなによかったか。……でも、あの頃、僕は、毎日毎日……君の姉さんを殺すことばかりを考えて生きていた……」 「だから、なぜっ……」  峻太郎は、拳《こぶし》をにぎりしめた。  征行は、しばらくなにも言わなかった。 「姉さんがね……」と、やがて、やはりおだやかな声で口を開いた。 「妊娠していたからなんだよ」 「えっ?」 「子供ができた、と姉さんは言った。僕は、とても信じられなかった……いや、信じたくはなかったよ。でも、ほんとうだったんだ。勿論、おろしてもらったがね……」 「おろした……!」  峻太郎の眼は、血走っていた。征行の次の言葉を聞かなかったら、峻太郎はとびかかっていっただろう。子供ができた。それがなぜ殺人の理由になるのだ。あんたは姉を愛した。だったら当り前のことじゃないか。 「僕はね……」と、征行は言った。「いや、僕の子供はね……決して、この世には生まれてこないんだよ」  一瞬その言葉の意味が、峻太郎にはよく理解できなかった。 「僕は、子供はつくれないんだ」征行は、そう言った。「いや、つくるまいと、心に決めていたんだよ。これは、子供の頃からの決心でね。変えるわけにはいかなかったんだ。僕が成人してまっ先にやったことは、そういう手術を受けることだった。医者は、とめたけれどもね。……僕は、子供は欲しくない。いや、僕に子供ができると思うだけで、僕はもう……生きて行けそうな気が吹きとんでしまうんだ。僕の父、僕の母……僕の祖父、僕の祖母……そのまた前のたくさんの僕の先祖達……あの投壺の矢と馴じみ……あの投壺の矢と暮らしてきた連中の血を、僕の代で、どうしても断ち切りたかったんだ。君にはわからないだろうけどね……僕は小さい時から、そのことだけを一心に思って……大人になったんだ。あの投壺の矢が憎かった。あの投壺の矢に狂わされる人間達が憎かった。……こんなことを言うと、君は笑うかもしれないね。僕自身でも、おかしいと思うことがあるよ。だったら、投壺の矢を捨ててしまえば済むことじゃないかとね。でも、そうじゃないんだ。僕は、もう見てしまったんだから。子供のときから、あんな矢ひとつに狂わされ、正体をなくしてしまう人間達を見せられてしまったんだから。かりに矢が大豊の家からなくなったって、人間はそうしたものだということを、僕はもう知ってしまったのだから。……僕の子供だけには、こんな想いはさせたくはなかった。しかし、果たして僕にそんな誓いが守れるだろうか。僕だって人間だ。しかも、大豊の血の流れている人間だ。この先、どんな人間になりさがるか……僕にだってわからない。そう思ったとき、僕は決心したんだ。子供のつくれない体になることをね」  征行はどこか遠くを見ているような眼になった。「でもね」と、そして言った。 「君の姉さんに会って、後悔した。もとの体に戻りたいと本気で思った。彼女となら、僕はまともな人間で暮らして行けそうな気がしたんだ。自分の馬鹿さかげんに呆《あき》れながら、そう思った。思うようになっていた。再手術を受けようとね。……けど、まだ手術はしていなかったんだよ」  峻太郎は、びくっと体をひきつらせた。 「嘘だっ」と、狂暴にかぶりをふった。「姉はそんなことはしないっ……そんな女じゃないっ」  征行はしかし、平静な声で答えた。 「これは、医者に何度も確かめてもらったんだから、まちがいないんだ。僕はまだ、今でも子供のつくれない体なんだよ」  峻太郎は闇につつまれていた。言葉がなにも出てこなかった。「姉は……」と、一度言った。その声も途中でかすれた。「……姉は……そのことを、知っていたんですか?」 「いいや」と、征行は、言った。 「じゃ……なにも知らずに死んだんですか?」 「そうだ」 「……おろした子供も……あなたの子だと、思い込んでいたんですか?」  征行は、無言で、うなずいた。 「それじゃ……どうしてあなたに殺されるのか……知らずじまいで死んだんですか?…」 「君は、そう思うかい? 僕の子供ができてもおかしくはない時期に……僕以外の人間の子供ができたんだよ」  征行も、峻太郎も、長い間、沈黙した。 「……ほんとうに毎日、僕は、君の姉さんを殺すことばかりを考えたんだ。勿論、決してそんなことは僕にはできないと思っていたけどね……。そんなときだったんだ。あの舟を見つけたのは。……魔がさした。でも、その魔に僕は勝てなかった。僕は、駄目な人間になっていた。悪い人間になりさがっていた。その頃なんだよ、姉さんにあの矢遊びを試したのは……」  峻太郎は、はげしく両手で耳をおおった。 「……後悔した。僕の恥知らずな行為を、ただ一心に耐えているいじらしい彼女を見たとき、何があっても、この女《ひと》を手離してはならないと思ったんだ。式の日どりを決めたのも、そのためだった。彼女を殺したいという衝動から逃れ出るためだった。でも、負けた。投壺の矢が二本さえあれば、あの舟が使えるという誘惑に負けたんだ。僕は、こっそり出かけて行っては、舟を試した……ほんとに、あの頃の僕は普通じゃなかった。姉さんは殺されても当然な人間だと、思い続けたんだからな。……僕の計画には、鏑《かぶら》の玉の下に長い幹のついた矢はもってこいだった。水にとび込んですぐ、一気に鏑《かぶら》を二つ穴から抜きとらなきゃならない。サッと把《つか》める長い幹が必要なんだ。投壺の矢は、そんな点でピッタリだった。抜きとった後、二つに折って、羽の部分を軽くしてやれば、矢は鏑《かぶら》の重みでまちがいなく水底に沈んで行く。羽は僕のパンツのなかにでも隠しとけばいいんだ……あの日も、そうするつもりだった。君が自分から泳いでくれたんで助かったけど、そうでなかったら僕が誘うつもりだった。実際、僕の思い通りにどんどん舟を離れてくれたんで、気味が悪いくらいだった。僕の計画じゃ、泳ぎっこでもするつもりだった。君を先に舟から離しといて、僕がとび込む。大声で君をけしかけながら追って行けば、君は調子づくにちがない。その間に舟は少しずつ沈んでくれる。君と僕が舟から離れきったところで、沈む舟に気づけばいいんだ……その舟は、沈んでもちっともふしぎではない舟なんだから」 「ただ」と、征行は続けた。「僕には予想できないことが、一つだけ起こった。僕が泳ぎ出す前に、君が溺れはじめたことだ……」  峻太郎はもう、それを訂正する気力も失せていた。溺れたのではないと説明してみても、何もはじまりはしなかった。すべては、終っているのだから。 「僕はあわてた……確かに、あわてたんだ。服のままでとび込まなきゃならなくなったし……君に溺れられては困るからだ。君がいるから、あの殺人はできたんだからね。沈む舟を、君にはしっかり見てもらわなきゃならないのに……。僕はあわてたはずみに、ズボンのポケットに入れた矢羽を一枚水中で流してしまった……しかし、皮肉だよね。君がその羽を持ってあがってこようなどとは、思いもしなかった……」  征行はそう言って、柔らかい微笑をうかべた。ほっと肩の荷をおろしでもしたような、安らいだ表情だった。  峻太郎は、もう何も聞きたくはなかった。だが、やはりそれを口にしないわけにはいかなかった。 「姉には……」と、彼はくぐもった声で呟《つぶや》いた。「舟底の鏑《かぶら》を抜くあなたが……わかったかもしれませんね」 「わかったさ」と、征行は答えた。「わかっていいんだ。僕の殺意だけは、はっきりと伝えたかったんだからね。どうして自分が死ぬのかを……彼女には知ってもらいたかった。君にさえわからなければ、それでよかったんだ……」  峻太郎は、ただひたすら湖底をめざしたかのような姉の屍体がとっていた姿勢を、このとき想った。十五年前、死をもってしか償《つぐな》いきれぬと思いつめていた幼い峻太郎に、その死を思いとどまらせた、姉の姿《ヽ》であった。未練げもなく死を選んでみせてくれた姉の姿《ヽ》は、峻太郎に『お前は生きよ』と伝えるための必死の姿《ヽ》だったのだと、峻太郎は信じていた。自分がこれまで生きてこれたのも、姉がその死にざまにこめた心の声を、聞いたと思えたからであった。 (何という思いちがいだったのか!)  姉は、峻太郎のためにではなく、征行のために、自ら死すべき人間だということを知ったのだ。征行に殺されていい人間だと知ったからこそ、あの姿勢をとったのだ。一路、死の村へ急いだのだ。 「征行さん」  と、峻太郎は顔をあげた。 「教えて下さい。姉の子供の父親は……誰だったんですか」  征行は一瞬、苦悶《くもん》の表情をうかべた。だがその顔は、すぐに元のしずかさをとり戻した。 「そんなこと、僕にわかる筈はないじゃないか。また、知ってどうなるというものでもない」  とつぜん、噛《か》み殺すような嗚咽の声が起こったのは、このときだった。その声は、征行と峻太郎がいる土手のすぐ背後に並んだ合歓《ねむ》の木の裏側から聞こえてきた。  ふり返った峻太郎は、そのまましばらくは動かなかった。  合歓の幹の根に、一人の男がうずくまっていた。地味なジャンパーを着た五分刈り頭の屈強な若者だった。嗚咽を洩らす薄くひらいた欠唇の口許さえなかったら、峻太郎にはその男の見分けはつかなかったであろう。見るからに逞《たくま》しい若者だった。 「……五郎ちゃんっ……」  五郎は、太い咽を鳴らして足許の地面へ泣き伏した。 「許してやってつかあさいっ……おれの兄ちゃんなんじゃっ……東子はんを孕《はら》ませたんは……おれの……兄ちゃんなんじゃっ……」 「五郎ちゃん……」  峻太郎は、あっけにとられた。  征行は、むしろ表情のない顔で、地面を掻《か》きむしって泣く五郎の姿を眺めていた。 「知らなんだっ……まさか……東子はんが……そんな体になりなさっとったじゃなんじゃ……知らなんだっ……たった一っぺんじゃ……一っぺんきりのことじゃったんじゃっ……それも……東子はんのせいとちがうっ……おれの兄ちゃんがっ……兄ちゃんが……手を合わせて頼んだんじゃっ……」  五郎は長いこと泣きわなないてから、まるで地面に向かって呟きでもするように、とぎれとぎれに語りはじめた。 「……兄ちゃんが、死んだ日じゃった……峻太郎さんは知ってじゃないじゃろうけど……東子はんが……うちの家に来てじゃった……昔から……寝たっきりの兄ちゃんの話し相手になってくれてたのは、東子はんだけじゃったけえ……そりゃあ兄ちゃんは喜んだ……高月の村を出た後、東子はんともめったに会えん奥の村へ移らにゃならんじゃったのが……兄ちゃんには、淋しゅうてこたえられんじゃったんじゃ……小児麻痺にもってきて、心臓喘息わずろうとったけえ……齢《とし》はもう一人前じゃいうのに……ガキみたいにやせ細って、ごろんごろんしとるんが、かわいそうでならなんだ……兄ちゃん、先はもう長うない言われとったんや……じゃけえ、東子はんに来てもらえたんは、ほんまにおれも嬉しかった……手ェとって、泪ながして、兄ちゃん喜んだんじゃから……。東子はんが、結婚式の日がきまったちゅうて、兄ちゃんに話しなさったんは……帰っての際《きわ》じゃった……おれ、はしゃいどった兄ちゃんの声が、急にせんようになったんで……障子の隙間《すきま》から、覗いてみたんじゃ……兄ちゃん……手ェ合わしとった……もとらん口で……一言、言うた……『抱いて』ちゅうたんじゃ……」  五郎は肩をふるわせた。 「ガキみたいな声じゃった……。たぶん、お袋みたいに抱かれたら……兄ちゃんは満足した筈じゃ……じゃけえ、東子はんが、着とる物を脱ぎはじめたときにゃ、おれも、びっくりした……兄ちゃんも、驚いとった……東子はんは……『いいのよ』て言いなさった……同じ高月の人間が、一人だけしあわせになってええ筈はない……て、言いなさった……許してつかあさいっ……」  五郎は、再び地面に顔をこすりつけた。 「東子はんのせいじゃないっ……兄ちゃんが……兄ちゃんが手を合わせたけえっ……」  五郎は、はげしく号泣した。  五郎の兄が死んだのは、その晩であったという。急な心臓発作だったが、死ぬ前に『ありがと』と、何度も声に出したという。姉に伝えてくれという言葉だったにちがいない──と、五郎は言った。  峻太郎は、姉と二人で五郎の家を見舞ったとき、葬式がすんだと聞かされて、声をあげて泣いた姉を想い出していた。そして、あのとき決して泣かなかった五郎が、今声を放って泣く姿に、胸をゆすぶられた。 「許してつかあさいっ」と、五郎はもう一度、叫ぶように言った。そして、いきなり身を翻《ひるがえ》し、土手の下の道を駈けおりて行った。  五郎を見たそれが最後の姿であった。 「あいつだったのか……」  と、征行は独りごちた。 「え?」 「あの矢の絵さ。郵便で送りつけてくる……」 「まさか……」 「いや。多分、あいつに見られてたんだ。僕が舟に細工をしてるところをな……。あいつはときどきお咲をたずねて、あの頃もうちに来てたから……。僕が殺したことを、勘づいてたんだ。けど、あいつには、それが公にできない。人に喋れるような人間じゃない……また、なぜ殺したのかも、今日まであいつにはわからなかったんだ……あいつはただ、僕に一生、君の姉さんを忘れたりする日がこないように……監視し続けるつもりだったんだ」  征行は、微笑んでいるように見えた。 「君と、君の姉さんの……代りをしていてくれたんだよ。そうだろ? 君だけだったんだろ、あいつを『ウス』って呼ばなかったのは。そういう奴だよ、あの男は」  峻太郎は、絶句した。  とつぜん、湖底の村へ向かって急ぐ姉の姿が蘇った。  姉はやはり、征行一人を愛して、征行を裏切ったりはしなかったのだ。おそらく生涯、女の肌に触れることさえ知らずに終るであろう五郎の兄への姉の行為は、姉のなかではちっとも疚《やま》しい事柄ではなかったのだ。きっと姉は、殺されることに、征行の愛を見たにちがいない。姉は、満足して、湖底の高月へ帰って行ったのだ。峻太郎は、そう思った。思いながらあげた眼に、征行は、やさしい笑顔を返してきた。  そして、「さあ」と言って立ちあがった。 「作業に帰らなきゃあ」  それは、この病院を心から安らぎにしている人間の声であった。  五郎の消息は、この日を最後にして、誰にもわからなくなった。 [#改ページ]  シーボルトの洋燈     1  安政六年、長崎奉行所記録によると≪各国官吏往復留≫に次のような記述がみえる。これは、長崎奉行所宛にしたためられた一状の差出書の綴《と》じこみ記録である。      差出書 [#ここから1字下げ]  私荷物は家具類、書籍類、究理術機械類天工之珍物類シケイフ画具并狩筒持用武器、教示用之船雛形并蒸気機械雛形及ひ種子類、乾燥之草木又其内ニ右手本物帳も御座候  右箱之記号并入付左之通 一番二番三番  書籍并機械類 四番五番    持用硝子器、陶器、砂糖瓶、ブリキ鑵其外 六番      船雛形 七番八番    蒸気機械雛形 九番      画用紙 拾番拾壱番   狩筒狩用具短筒 拾弐番拾参番拾四番拾五番拾六番 書籍オクタント地図 拾七番     書籍書付類、衣類 拾八番     究理術用器、測量器、音曲器 拾九番     乾燥草木其外天工珍物 弐拾番     書机、書付類、狩具、火燈、銀食器、硝子器、錫器 弐拾壱番    書机、書付類、書籍 弐拾弐番    金石類 弐拾参番    エレキトル器具 弐拾四番    穀類其外有益之種子類 但日本用之積 弐拾五番    衣類、夜具類、布麻類 弐拾六番弐拾七番 鉄寝床、曲録、日時計 [#ここで字下げ終わり]   於本蓮寺千八百五十九年十二月一日 十一月八日     イハプヲアン・シーボルト    右之通和解差上申候以上 [#地付き]西 慶太郎   [#4字下げ]未十一月  差出人は無論、フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト。彼が一八五九年、安政六年、オランダ商事会社顧問として再度渡日し、長崎に駐在した折、本国より持ち込んだ日用品、家財道具類の内容を荷物の箱番号ごとに逐一《ちくいち》あげて、長崎奉行所へ届け出た書状である。  通訳の手をとおしてしたためられている関係上、珍奇な訳語も目についておもしろいが、それはさておき、岡藤七郎にとってこの書状が関わりをもつのは、箱荷番号「弐拾番」と書き出されている荷物の内容である。  そこに、『火燈』という二つの文字がみえる。 『火燈』、または『燈台』、或いは『洋燈』とも後に称《よ》ばれ、言うまでもなくこれは『ランプ』を指《さ》した訳語である。  まったく、ものの記録というのは、どんなところで、なんの役にたつかわからない。シーボルトのこの長崎奉行所宛の差出書は、じつにこの『火燈』の二文字が書き込まれているがために、わが国の洋燈史上貴重な文献となっているらしいのだ。  というのは、洋燈すなわちランプが、幕末期、わが国に渡来した最初の時期を知る、これは数少ない記録資料の一つに数えられているからだ。  このほかにも、『明治事物起源』『横浜見聞記』『横浜奇談』『時事新報』などの記事に、渡来当時のランプに言及した記録はあり、これらの文献資料によると、日本にランプが上陸した時期は、安政の開国後、外国貿易が開始されてからというのが通説となっている。  文献としては、外交官シーボルトが長崎へ持ち込んだランプよりも、兵器商人として名高いオランダ人、エドワード・スネルが開港直後、横浜へ持ってあがったというランプがあり、この方が時期的には一歩先んじているらしいが、いずれにせよ、西洋の光『ランプ』の日本上陸は、記録の上では同じ年、安政六年のことであった。  無論、正高の友人岡藤七郎は、まだこの世に生を稟《う》けてはいなかった。     2  矢吹正高が、十数年ぶりで岡藤七郎に出会ったのは、まったくの偶然というほかはない。  しかし正高は、その折、奇妙な思いにとらわれた。世の中にはふしぎな見えない道があって、人と人とを出会わせる。その道は、あらかじめ歩くべくして定められた道であるのに、人はそれと知らずに歩き、世の中の玄妙さにおどろきの思いをもつ……そんな、眼には見えない道が、人の世にはひそかに存在するのではあるまいか、と。  その日正高は、自分には見えないその道を歩き、道はひとすじ、岡藤七郎に出会うべくして正高の前に用意されていた、という気がふとしてならないのであった。  夏の近い、少し歩くと汗ばむような夜であった。  正高は、商船会社の倉庫が並ぶ人通りのまばらな街なかを、西から東の繁華街へ向かって歩いていた。  十数年前……中学を出た直後に、正高はこの街を離れたのだったから、その後二度ばかり九州での仕事の帰りに立ち寄ったことはあるが、一度は駅のプラットホームで停車中のデッキから煙草を買いに降りただけだし、いま一度は、山陰線への乗りかえ時間を待つ間、駅前周辺を二、三十分ぶらぶら歩いてみただけだったから、いわばその夜、矢吹正高は、文字通り十数年ぶりで、この海峡をかかえた港都市Aの街なかへ足を踏み入れたと言ってもよいのだった。  この街に住んだ月日よりも、しかし、この街を出てからの歳月の方が、もう長かった。  生まれた街、故郷にはちがいなかったけれど、べつにとりたててそれらしい感慨も湧《わ》いてこない。一年の大半を旅で暮らす稼業のせいか、Aは、仕事でやってきた一つの街、行きずりに足をとめた旅先の街、そんな感じしか、しないのだった。  生まれ故郷であるその海峡のある街が、旅先で立ち寄ったほかの多くの街々とさして変らなく眼にうつるその感じが、正高をひどく落着かなくさせていた。 (まさかこの街で仕事をとることになろうとは……)  それは、思ってもみないことだった。  旅は、今回も九州の仕事で、鹿児島を振り出しに、熊本、宮崎、大分、福岡と、春先から流してまわり、ゆうべ小倉での仕事を打ちあげに、本来ならば今日は名古屋へ帰る予定になっていた。  ゆうべ小倉の川沿いの旅館で、最後の座敷をつとめた後、勧進元《かんじんもと》の山野がその話をもち出したとき、正高は、即座にことわった。 「せっかくですけど、あとのスケジュールもありますんで」  無論、スケジュールというのは言いわけだった。名古屋へ帰っても、半月は体が空けてある。もっとも、そのあと、六月いっぱい大阪に出て、七月から夏場にかけて北海道まわり──と、予約はこなしきれないほどたてこんでいたが、長旅のあとは必ず半月は仕事から遠ざかる。それが習慣だった。  だから、ここ一、二日、帰りが遅れたからといって、名古屋で自分を待ってくれている者があるわけではなし、あるのは鍵《かぎ》のかかったマンションの留守部屋だけであったから、べつに日程に不都合はなかったのだが、ただA市で仕事をする気にだけはなれなかった。 「そこをなんとかならんかねえ」  と、山野は、ボストン・バッグに身のまわりの物をつめ込んでいる正高へ、食いさがった。 「悪い話じゃないと思うよ。いや、ぶっちゃけたことを言うとね、先方は某造船会社のおエライさんでね、ごく内輪の集まりなんだ。もう先《せん》から、とにかく、あんた達にご執心でね」 「そりゃあどうも」 「まあ、そんなすげない返事ば、しなさんなって。ここであんた、コネつけとったら、先々、あんた達のええ客筋になることうけあいだから。いや、そのおエライさんってのがね、またこっちの好きな人でね、とにかく世界各国のを見てまわっとるいう人なんだよ。まあ、わしとは懇意《こんい》にしてもらっとるんでね、こないだも、そんな話になってね……外人のショーは、たしかに迫力はあるけども、もひとつ親しみが持てんという話が出たんだよ……そこへいくと、日本人のは、まあ身近は身近にちがいはないが、これもどうもねえと、そのおエライさん、えらく慨嘆しよってね……つまり、身近すぎて、妙に所帯じみたり、うすでな感じがしたりしてね、逆に白《しら》けてたのしめないって言うんだな。まあ、この世界にゃ、いままでそういう連中が多かったからね。出番の前にかき込んだ味噌汁かタクアンの匂いでもしてきそうなのがね。商業的というか……一応段どりだけはこなしてみせるが、実に寒々とするんだなあ。いかにも裏稼業って感じが肌にしみついとってね。いや、正直言って、わしもあんた達に出会うまでは、こっちの商売、身を入れてやる気はしなかったんだ。この道は、なんちったって、演技者だよ。演技者の素質だよ。ただ持ち物がいいってだけじゃ、もう勤まらん。見せさえすりゃいいって時代じゃないよ、もう。その点、あんた達のは凄《すご》い。極上品だよ。何べん見てもあきん。いや、見るたんびに、このわしが唸《うな》りっぱなしのていたらくなんだからな。ボルテージが高い」  五十がらみの、血色のいい小太りの山野は、柔和な言葉遣いをするが、気ざっぱりな、太っ腹の、性格にいや味のない男だった。  北九州一円の仕事を、好待遇でまわしてくれる、話のわかった勧進元だった。 「だから、言ってやったんだよ。日本人にも凄いのがいるってな」と、山野は言った。 「奴さん、それ以来、もうあんた達を待ち焦《こ》がれてるんだよ。会うたんびに、まだか、まだこんのかって催促《さいそく》だよ」 「じゃ、今夜のやつでも見てもらやあよかったのに」 「勿論、見たさ。かぶりつきで眺めとったよ」 「なんだ。そいじゃもう、たのしんでもらえたんじゃないですか」 「ところが、たのしみすぎたんだな。あんた達を、ぜひ借りたいって言い出したんだから。おエライさん仲間が二、三人集まる席なんだがね……ペイは二カケで、前金。勿論これは、わしとあんたのビジネス以外の口《くち》だから、全額あんたにそっくり渡すよ。ほら、置いていきよった」  と、山野は、白い紙封筒を正高の前に押し出した。  二カケというのは、倍額のことだ。  一仕事が、なか休憩を二十分ばかりはさんで二時間。正高は、一日一仕事以上は決して受けなかったが、パートナーの蜜子《みつこ》とのコンビが、容姿、肉体、技術ともきわだって絶妙で、この世界では破格の高額ギャラが支払われていた。旅の仕事は、このほかに旅費、滞在費、食費もすべて先方持ち。呼び屋としても、ちょっとした売れっ子タレントを呼ぶよりも金がかかったが、それでも十分に商売になった。  裏稼業で、客集めも大っぴらにはできないこの商売は、密《ひそ》かな闇《やみ》の歓楽業だ。客の動員数にも限りがあった。それでもなお十分に商売になったのだから、正高と女の寝技《しんぎ》に魅入られた客達が、いかにがっしりと闇の底でこの肉体の競演者達をガードし、信奉しているかがわかろうというものである。  山野が持ち出したA市での仕事は、二日間。その造船会社の重役という人物の別宅で、酒席の余興にという話であった。  たしかに、悪い話ではない。  場所がその港街でさえなかったら、文句なく乗るところだ、と、正高は思った。 「客筋は、わしが保証する。Aの財界でも大物どころという顔ぶれだ。金はある。地位も名誉もそろっとる。あと、ままならんのはそっちの道って連中だ。どうだね。功徳《くどく》をほどこしてやっちゃあくれんかね」 「どうする?」  と、正高は、傍の蜜子をちょっと見た。 「いいわよ、わたしは」  と、蜜子は、長い髪を胸先までたらして、福岡で買った小さな博多人形の雄雛《おびな》と雌雛《めびな》を、大事そうにスウツケースのまんなかへ収めながら、心持ちそっけない声で答えた。  ふと正高は、その黒髪が猛然たる火炎をふいて散りみだれるときの、蜜子の可憐《かれん》な乳房の眺めを、頭にうかべた。乳頭にからみつく毛の一すじ一すじが黒炎のようにおどり、曙色《あけぼのいろ》のふくらみへ見るまに官能の潮《しお》がさしのぼる、あの幼さと花々しさが危うげに、だが燦爛《さんらん》と眼下にひらける光景は、正高の気に入っている眺めの一つだった。 (あの眺めがなくなった)  と、正高は、不意によぎった思念のあとをもみ消しでもするかのように、蜜子から眼をはなした。  不意の思念などではなかった。今年、この旅がはじまって、それは正高がずっと考えていたことだった。  正高には、仕事の上で、はっきりとしたけじめがあった。けじめと言うよりも、それは正高の主義、あるいは癖とでも言った方がよいかもしれぬ。彼独特の仕事への対し方であった。  正高は、仕事のなかでは蜜子を完全に自分の女とし、惚《ほ》れ込むことができるのだが、仕事の外まで、その情念を持ち出しはしなかった。また、蜜子にも、決してそれを許さなかった。  だから蜜子とは、仕事がはじまればコンビを組み、仕事が終れば、赤の他人の間柄にもどった。  この種の仕組みをとっているコンビは、この世界ではべつに珍しいことではない。きわめて事務的にコンビを組み、事務的に別れる。仕事のときだけのカップルなのだ。そしてそれが、プロのプロたるゆえんであるかのごとくにさえ、思い込んでいる連中もある。  しかし、正高達の場合はちがっていた。  事務的にコンビを組む赤の他人同士ではなかった。正高は蜜子に惚れ込んでいたし、蜜子も正高以外の男に眼もくれはしなかった。愛や恋や情などという言葉を使って正高は二人の間柄を考えてみようとしたことはなかったが、もしそうしろと言われるなら、それらのどの言葉にも置きかえられるつながり合いが、二人の間にはあると言えた。  つまり、正高達の場合、事務的にコンビを組む赤の他人同士ではなく、事務的にコンビを組む赤の他人同士の関係を、自らに課《か》し、そのことで、愛や恋や情などというものの世界をきっぱりと斬り捨てた、自らにきびしく禁じた、とでも言えばよいだろうか。そんな間柄だった。  正高は名古屋。蜜子は東京住まいだった。仕事を離れれば、それぞれ干渉のない単独の生活にもどった。だから、旅に出た折にしか、二人が一つ宿に泊るということはなかった。その旅も、必要な仕事の話以外には、正高はほとんど口をきかない。仕事のない日や空き時間は、二人はたいてい別行動をとっていた。  今度の旅も三月《みつき》かかって九州をまわった日程だったが、仕事をとる日は約その半数。平均して二日に一度の割合だった。  したがって、それぞれの勧進元がかかえ込む旅の費用も、三月分丸がかえというわけにはいかない。ほぼ半額は自腹を切ることになる。それを承知で組んである日程だった。  旅は、正高と蜜子にとって、否応《いやおう》なく同じ場所で、身近に寝起きを共にして過ごせるただ一つの機会だった。赤の他人。これが、二人のまもらねばならぬ生活の鉄則ではあったが、とにかく同じ土地で、毎日顔だけは合わすことのできる、得がたい共同の環境を二人に与えてくれるのだった。  手を触れることもなく、口をきき合うこともなく、見知らぬ他人が交わし合う些細《ささい》な言葉、挨拶《あいさつ》程度のとぼしい会話……あるのはそんなものだけだったが、旅は、二人にはぜひ必要な、なくてはならないものだった。  ときに鋭くからみつく眼、無言で睨《にら》み合う視線……それは、ほんの一瞬だったり、ときにはきりもなく長く、果てしもない時間だったりもするが、そんなとき、二人は激しく相手を求めた。いくら求めても求めきれない、むさぼりつくせぬ、強い、濃密な感情が、やみくもに湧き、心に狂暴な刃《やいば》や牙《きば》のひらめきさえおぼえることもあるのだった。  きりもなく二人は濡《ぬ》れた眼をからませ合い、そんなとき、燃えた。禁断の垣根は、決して越えはしなかったけれど。  正高が旅の日程をゆったりと組むのは、贅沢《ぜいたく》でも、浪費のためでもなかった。旅が、二人の生活に、いや仕事に、なくてはならないものだったからである。 「恋しい」  と、蜜子は、よく言った。  恋という言葉が、彼女は好きだった。 「恋しいのよ、あなたが」 「仕事のなかで、言え」  と、正高は、答え返すだけだった。 「逢うくらい、いいじゃない。逢って、話すくらい……お喋《しやべ》りするくらい」 「逢ってるじゃないか」 「イヤ、仕事は。仕事の外でよ」 「じゃ、やめろ。おれと縁を切れ」 「やめていいの?」 「いいさ」 「困らない? あなた」 「困るさ。けど、仕方ないだろ。おれは、ヤクザでも、ヒモでもないんだ。やめたいと言うのを、無理にとめたりはしない」 「やめたいなんて言ってるんじゃないわ。仕事が終れば、ハイサヨナラ。そんな暮らしが、たまらないのよ。いつまで、こんなこと繰り返したらいいの」 「おれといっしょにやってく間は、いつまでもだ」 「そんなのイヤよ!」 「だったら、サヨナラすりゃあいい」 「そんなこと言ってるんじゃないわ。そばにいるだけでいいの。いつも、あなたのそばにいたいのよ」 「ふざけるな。何年つきあってるんだ。おれは、こういう男だ。この商売をやってる限り、これは変らん」 「じゃ、いつになったら、この商売をやめるの?」 「そんなことが、おれにわかるか。この商売が、とにかくいま、一番おれに向いてるんだ。当分やめるつもりはない」 「でも、いつかはやめるんでしょ? いつまでもつづけて行けるって仕事じゃないわ。ね、そうでしょ。お金が溜まったら、何かをするとか……何歳になったら、やめるとか……ほかに、もっとあなたに向いた仕事が見つかったら、足を洗うとか……そんなことでいいの。ね、何かあるでしょ。そんなことを、聞かせてほしいの。おおよその心づもりは、あるんでしょ? まさかあなた、よぼよぼにしなびてお払い箱になるまで、こんな商売、つづけてるってわけじゃないわよね」  正高は手をあげた。つい一週間前にも、別府の宿で、そんなことがあった。皮膚のうすい蜜子の頬に、しばらく赤いあざが残っていた。 「先のことは、わからんと言っただろ。この商売がどんな商売だろうと、それをとやかく言うのはよせ。どんな商売だろうと、とにかく、おれ達はいま、これで食ってるんだ。人に見せる。おれ達は、|見せ屋《ヽヽヽ》。それでいい。これが職業なんだ。職業なら職業らしく、そいつに徹する。他人にまねができないような仕事を見せる。おれは、それをやってるだけだ。そうだろ。ふだんイチャツイてる手前ェの女や女房と、ナァナァでやってるやつを見せたって、見せられる方で|おくび《ヽヽヽ》が出らあ。おれはいつも、心底《しんそこ》、お前を抱きたいと思って抱いてる。だからこそ、買手もつくんだ。この仕事をやってる以上、この仕事で一級品になりゃあいい。おれ達は、真剣なやつを見せてるんだ。そうするためにゃ、この行き方しかないんだ。おれとお前は、いつも他人。それでいいんだ。他人《ひと》にできない暮らしだから、おれはこいつが気に入ってるんだ。人並みな暮らしがしたけりゃ、いつでも逃げ出せ。とめはせん」  蜜子は、眼にいっぱいの涙をためる。 「それができたら……こんなこと、あなたに頼みやしないわ」  愛も恋も情も、はじまりには、他人同士という関係が、あった。  どんなに激しい愛も、熟《う》れさかった恋も、情も、他人同士のなかから生まれでるからこそ、劇的なのだ。  正高は、そんな男と女の世界を、肉体の上で見せたい、と思った。蜜子はたえず、馴《な》れ合いでない、新鮮な競技者でなければならなかった。そして、コンビを組んで五年。蜜子は、十分にその役目を果たしていた。 (この旅がはじまるまでは……)  と、正高は、思った。  この旅がはじまって、何かが蜜子の肉体の上から消え、何かがそのあとへ加わった。 (余分なものを欲しがりすぎる……)  と、正高は、仕事の途中で何度も思った。  そんな動きが、仕事のなかで蜜子の体の上に出てきていた。  恋人同士なら、あるいは夫婦なら、それは女の成熟の度合いが深まさりゆく一つの証《あか》しのようなものだと、よろこぶべきことかもしれなかった。  だが、正高の仕事には、余計なものだと、正高には思われた。  見せ物は、あくまでも見せ物である。気ままで、無際限な二人っきりの個室のなかでの歓楽とは自《おの》ずと異なった。定められた時間の内で、序曲もあれば、破曲も、急曲も、終曲もつくり出さなければならなかった。正高は、その真剣一本勝負の劇の、構成者であった。正高が与えるもの、正高が狙《ねら》ったもの、正高が描き出したいもの、それを、適確に受け、あますところなく知り、奔放《ほんぽう》自在にくりひろげきる演者。それが、正高には要《い》るのだった。 (五年……)  と、正高は、考えた。  仕方のないことであった。そろそろ、そんな時期に入るのかもしれぬ。蜜子は、得がたい女であった。過去のどんな女よりも、すぐれて、正高と|そり《ヽヽ》が合った。愛していた、とさえ正高は、思う。この先、もうこんな女にはめぐり逢えないだろう。 (だが、おれがおれである以上、仕方がない……)  と、正高は、思うのだった。  蜜子との別れの日が、そう遠くない歳月の彼方に、影絵のように浮かぶのだった。  コンビを解消した後の蜜子に、少しはまとまった|もの《ヽヽ》を残してやりたい。正高は、この旅のはじまりに、そう思った。これから二、三年……いや、一、二年かもしれない。蜜子のために、稼《かせ》げるだけは稼いでおきたい。  そんな思いが、正高の頭にあったことは事実である。  生まれ故郷A市での仕事を、正高が引き受ける気になったのは、そのためである。  山野の言うそんな上層階級の客筋なら、正高の知り合いがいる気遣いもない。また、いまの正高を見て、昔を想い出せる人間があろうとも思えなかった。  問題は、正高の心のなかだけのふんぎりなのであった。そして、そのふんぎりは、つけてさえしまえば、ほんの一|跳《と》びだった。 (故郷の街でだけは、すまい)  と思っていた自分が、むしろ逆にみすぼらしく、くだらない人間だったような気さえしたのである。  夜の人通りの絶えた街を歩きながら、正高の足は自然、昔見おぼえのある街並みへ、あるいは建物へと、さがしながら向くのだった。  胸が揺れ、なつかしさがこみあげ、身内に何かいくばくかのおどり騒ぐ気配があってもよさそうなものだと、正高は思うのだった。だがそんな気配は、ふしぎに正高にはおとずれてきはしなかった。  仕事が終り、独《ひと》り夜の街を歩く。それは、正高の、いつの間にか身についた習慣のようなものになっていた。 (見知らぬ街を、あまりにも多く歩きすぎた……)  正高は、ふと、そう思った。  この街にきて、この索漠《さくばく》感が、なぎ払えぬとは……。  正高の眼は少し狂暴な色をおび、足はがむしゃらに何かをさがしでもする風に速度を増した。  この街が、ただの旅先の街ではない、と正高にしらせてくれる何かをさがし求めでもするように。  太い、しわがれた汽笛を聞いたのは、ちょうどそんなときであった。     3  海の匂いがした。  とつぜん、正高はその匂いにめぐりあった。夜のなかに、潮のながれる音を聞いた。  正高は、まっすぐに道をよぎり、コンクリート倉庫の並ぶ引き込み線の荷役鉄路を一|跨《また》ぎにして、倉庫と倉庫の間を抜ける細い闇の路地へ入り、その先の商港|埠頭《ふとう》へ走り出た。  埠頭は長く、海峡にそって一直線に、遠く夜闇の彼方までのびていた。その岸壁には、幾艘《いくそう》もの甲板灯をともした外国船が碇泊《ていはく》していた。  人気《ひとけ》ない、暗い、華麗な岸壁だった。  華麗だと正高が思ったのは、たぶん倉庫の路地からその埠頭へ走り出たとき、眼の前の海峡をゆっくりと通りすぎる大型船の灯の、眼をみはるようなきらびやかさのせいだったにちがいない。  形も船種も夜にとけ、おぼろだったが、無数の光飾りが動くような束の間の光景は、黒い波間にもゆらめいて、圧倒的だった。  正高は、しばらくその場に立ちつくしていた。  海が、さかんな潮の匂いを放っているのに気がついた。  満ち潮なんだな、と彼は思った。  暗い埠頭の左右を見はるかし、彼の足は東の方向へむいた。連絡船の船|溜《だま》りがその前方にある筈だった。歩き出してはじめて、人気ないと見えた岸壁のあちこちに、三々五々、黒い人影のあるのがわかった。釣人達だった。  正高がそのほのゆらぐ小さな明りに眼をとめたのは、そんなときだった。少し前方の足もとの闇に、それは柔らかな光の環《わ》をにじませて、ひっそりと灯《とも》っていた。まるで路上に捨てられたかえりみられない明りのように、ひめやかな灯であった。 (ランプ……)  正高はなにげなしにそう思い、思ったとたん、夢の気にしのびよられでもするような、胸の底を淡い昂奮がかすめてよぎるのをおぼえた。  正高は、しずかにゆっくりとその明りへむかって近づいて行った。  やはり、ランプだった。  小さな丸ホヤが、ガラス製の油壺と口金《くちがね》の上についた巻芯《まきしん》のアルガン燈で、鉄の吊《つ》り金に縁《ふち》の赤い乳白色ガラスの波笠をかけた、小型の吊りランプなのだった。  ジャンパー姿にゴム長靴の男が一人、その脇にうずくまっていた。前びさしのある野球帽のような帽子をかぶっていた。 「何が釣れるんですか?」  正高は、地べたに置かれたランプの光の上へ顔をさしのべ、男の足もとにある歪《ゆが》んだ小さなバケツのなかを覗き込んだ。 「スズキ、クロダイ、メバル、メジナ……だね」  と、男は振り向きもせず、ぼそっとした声で答えた。  リールのついた竿《さお》が二本、仕かけてある。男は、暗い波間に眼をあずけていた。バケツの底で、水がはねた。二、三匹、釣りあげているらしかった。 「いいですね、ランプってのは……」  と、正高は、べつに話しかけるつもりもなかったが、自然に口をついて出た言葉を声にした。 「この岸壁に、ぴったりですね。ランプをさげて夜釣りってのは、いいなあ」  正高は、ランプのそばに腰をかがめ、吊り手の下にぶらさがっている煤受《すすう》けの小笠をちょっと指先で突《つつ》いてみたりした。  真鍮《しんちゆう》製の小笠はカラカラと鳴った。 「昔のものなんでしょう? でも、よく油を吸いあげてるなあ」  正高は、独り言のように呟《つぶや》いた。その声の調子に、そして自分でおどろいた。まるで小猫かなんぞの頭を撫《な》でていとおしみでもするような、柔らかな、見知らぬ人間の声を聞いた気がしたのである。  すうっと釣竿を手もとに引いて、男が顔をあげたのは、そのときだった。男は、ブリキ罐《かん》からつまみ出した生餌《いきえ》を針につけかえて、びゅんと竿を一唸りさせた。させながら、ふたたびちらっと、正高の方をうかがい見た。 「明治の頃のもんだろうがね、|がらくた《ヽヽヽヽ》ランプだよ」  と、そして、言った。 「あんた、ランプが好きそうだね?」  男は潮のながれに眼を投げたままで、ぽつんとつけ足した。 「え?」  と、正高は、そんな男を見た。  自分がランプを好きだなどと考えてみたことは、一度もなかった。ランプ。そんなものの存在を、特別にとやこう頭のなかに思いうかべてみたことさえついぞなかったことなのに、正高は確かに先刻、この灯を闇の岸壁の道端に見つけたとき、 (ランプ……)  と、とっさに思った。思って、かすかに胸の芯《しん》にやさしい動揺を自覚したのだった。  華麗な夜行船の満艦灯に眼をうばわれた直後だっただけに、その道端のひそやかな灯が、ことさらに印象的だった。  しかし、ランプを見つけた刹那《せつな》、胸に湧いたなつかしさが、正高自身にもふしぎだった。  夜の商港埠頭の道端に灯《とも》っていた一つのランプが、この地が故郷であることを自分に教えてくれた気がするのはなぜだろうか……。ほっと息のつける、なごやかな気分に正高がさせられていたことだけは、確かである。  男にも、そんな正高の様子が伝わったのかもしれなかった。  けれども、『ランプが好きそうだね』と言われたとき、不意に、正高は、自分が気づかなかった性癖をだしぬけに指摘されたような気がして、うろたえた。なぜうろたえたのかが、正高にはわからなかった。 「近所かね?」  と、急に、男が尋《たず》ねた。 「え?」 「いや、あんたよ。この近所の人かね?」 「いいえ……ちょっと、旅行でね」 「ああ。よその人かね」  男は、相変らず、海を見たままで物を言った。 「そいじゃ、荷物になるじゃろうね」  独り言のような声だった。 「え?」 「いや、ランプが気に入っとるみたいじゃからね、なんならと思うたんよ」 「……なんならって?」  正高は、男の顔を斜《なな》めうしろから見るような位置にいた。  男はちょっと肩を揺するようにした。 「よかったら、これ、ゆずってもええよ」 「そんな……」と、正高は面くらった。「いや、結構ですよ」 「そうかね。いらんかね」  と、言って、男は正高の方を振り向いた。 「こりゃあ、あんた、ガラクタて言うたけど……今頃はあれじゃろうがね、都会の方じゃ、古道具ブームたら言うじゃろうがね。あっちの骨董屋《こつとうや》なんかで売ったら、これでも、六、七千円は値がつくよ。半値じゃったら、ゆずるがねえ」  どうやら男は、急にこのランプを金に代えることを思いついたらしい、と、正高は思った。  そう言えば、ジャンパーもくたびれていたし、魚籠《びく》代りのバケツなんかも、まるで焼跡から掘出してでもきたような歪んだみすぼらしいものだった。男の印象にも、うらぶれた匂いがあって、中年の労働者風な感じがしみついていた。しかし、このランプなら、ほんとに六、七千円はするかもしれないという気が、正高にはした。  けれども、このとき正高は、実際にはもっとべつのことの方に気をとられていた。  足もとの地面に置かれた波状形のランプの笠の光をうけて、こちらを向いている男の顔を、正高は熱心に見つめていた。いや、男の顔を、と言うのは正確ではない。正高が見ていたのは、男がかぶっている帽子だった。  野球帽のような白っぽい帽子のその布地の上に、墨でカナ文字が書き込んである。  ──オカフジ  と、それは読めるのであった。 (オカフジ……)  正高はしきりに、口のなかで、そのカナ文字をくり返していたのである……。  ランプが『オカフジ』という文字を解読《ヽヽ》させてくれたのか、『オカフジ』という文字がランプの謎《ヽ》を解いてくれたのか、正確には、正高自身にもわからなかった。  二つのものが、ほとんど同時に、正高めがけてとびかかり、彼をわしづかみにして、十数年前へ引き戻した──。正高は、そんな感じの小さな襲撃感を、とっさに、味わった。 「あのう……岡藤さん……て、おっしゃるんですか?」  男はけげんそうに正高を見た。やがて帽子の記名に気づき、 「ああ……ええ……」  と、戸惑ったようなうなずき方をした。 「もしかしたら……あの、白縫《しらぬい》町におられた……」  男は、みなまで言わせずに、おどろいた顔になり、まじまじと正高を見返した。 「……やっぱり、そうですか」  正高は、少し上気ぎみだった。 「それじゃ……確か、七郎さん……って言ったと思うんですが、ご存じですか……」  男は、束の間、身じろいだ。 「……七郎は、僕だけど?」  と、そして言った。 「え?」 「あんた……どなた?」  正高は、すぐには信じられなかった。  急に思い出した記憶のなかの名前である。思い出してみれば、その名前の周囲に、一時にひらけてくる情景がいくつかあった。けれども、フィルムの映像を眺めるようには、鮮明に岡藤七郎の顔を再現させる自信はない。  だが、記憶のなかの岡藤七郎は、坊主頭《ヽヽヽ》の精悍《ヽヽ》な、|がっしり《ヽヽヽヽ》とした体つきの、大柄《ヽヽ》な、|荒っぽい美貌《ヽヽヽヽヽヽ》の青年《ヽヽ》だった。青年という感じがするのは、七郎のたくましかった体躯のせいもあったが、彼の言動がすべて、当時の正高には、大人の世界のものとして印象づけられているそのためであったにちがいない。  確か、二つ三つしか、齢《とし》の差はなかった筈である。正高が中学生、七郎は高校二年か、あるいは三年だったかもしれぬ。しかし、正高はまだ子供という自覚があったが、七郎は、もう完全に大人だったという記憶が、はっきりとある。正高が幼かったのか、七郎の成熟が早すぎていたのか。  それはともかくとして、正高の記憶によみがえった岡藤七郎は、いま眼の前にしているジャンパー姿の男とは、まるで重ならないのであった。 「ほんとに……七郎さんですか?」 「そうだけど……」 「いやあ、おどろいたなあ……ほら、矢吹ですよ。三年ばかり、白縫町にいた……。あなたのお家《うち》の下に、遊園地があったでしょう……ほら、どう言やいいのかなあ……お風呂屋さんの方に抜ける小路《しようじ》があって……倉石山からおりてくる石段のそばに……社宅が何軒かあったでしょう……」 「U製鋼の……」 「そうそう、その社宅ですよ。おぼえてませんか。矢吹です」  男はふと、瞳孔をひらいて、とめた。 「……矢吹の……正ちゃん?」 「そうです。正高です」  二人はとっさに、しかしひどくぎごちなく、どちらからともなく手をさしのべ合っていた。  信じられないといった顔つきが、どちらにもあった。  ランプが、ジジ、ジジ、と巻芯《まきしん》の焦げる音をたてた。透明なホヤのなかを、うす黒い煙が一瞬たちのぼった。  小さなひとすじの黒蛇《くろへび》を、それは思わせた。  すぐに消えて、宙に見えなくなったけれど。  商港埠頭は、しずかだった。     4  岡藤七郎の屋敷は、A市の東側の山の手、倉石山へのぼる途中の見晴らしのよい高台にあった。  山と言っても、倉石山は、小さな丘山のようなものである。現在では市街地開発計画が進み、A市はあらかた平坦化されつつあるが、当時はまだ、こんもりと茂った森や木立をもった丘が、街のなかにも周辺にもいくつも見られた。倉石山は、街のなかからいきなり石段でのぼり、迷路のような入り組んだ石畳《いしだたみ》の小径《こみち》がたくさんあって、途中までは人家が斜面をおおっていた。  岡藤家は、その一段高い所にあり、芝生の庭に煉瓦造《れんがづく》りの洋館風な建物もあって、付近の者は、「家」とは言わずに、 「岡藤の屋敷」  と、言う風な呼び方をした。  七郎の父親は、A海峡国際航路のパイロット、つまり水先案内人だった。  A海峡は、横浜、神戸、横須賀、佐世保などと同列の、大型外国船の通る国際航路をもっており、強制水先区に指定されている。潮流、地形の複雑なこの海峡に乗り入れる外国船には、なくてはならないのが水先案内人である。  パイロットは、A海峡を通る船に乗り込んで、無事海峡を通過させるだけの役目だが、職業的な地位はおどろくほど高かった。  岡藤家は、明治の代からの水先案内人の家系だと正高は聞かされていた。七郎の父親も、もと外国航路の船長を経てパイロットになった腕利《うでき》きで、その裕福な暮らしぶりは別世界の人間を見るようだった。  正高が岡藤家についてもっている知識は、ほんのわずかなものである。そのほとんどは、だいたい以上に尽き、世間誰もが心得ているようなごく遠見《とおみ》の輪郭だけである。  実際、七郎との関わりあいの周辺にある二、三の記憶を除いては、正高は、岡藤家のことを何も知らないと言ってもよかった。  その七郎とのつきあいも、正高がA市を離れる年か、その前年かに、ほんの一、二度、もったにすぎないのであった。  正高は、A市の西部、漁港寄りの町内で生まれたが、借家住まいで二度ばかり引越し、東の白縫町に移ったのは、中学に上がる前後のことだった。  学業一辺倒と言えば聞こえはいいが、学校の成績はずばぬけてよかった。進学戦争時代には向いているタイプであった。家にいるとき以外は、学校か、図書館か、塾にいた。したがって、交友関係も限られてくる。実際、正高には、A市で深い友達づきあいを交わしたと言えるような相手は、いま振り返っても、すぐには思い当らないのだ。  市内を三度も移り変ったせいもあろうが、十代も前半までのいわばまだ少年期とでも呼んでいい頃のことだ。つきあいの|たか《ヽヽ》も知れている、と言えばそれまでのことではあったが。  しかし正高は、当時、そんな生活を、べつに不満とも不自由とも思わなかった。  学校と図書館と塾とを渡り歩くことで一日が暮れる生活は、正高にとってごく当り前のことだった。無論、正高のような生活《ヽヽ》を決して当り前だとは思わない連中がいることも知っていた。だが、そんな連中が過ごしている学生生活に、正高は関心をもたなかった。  正高と同じクラスの中学生に、一日中、性的な話題ばかりを口にしている男がいた。よくもまあタネがつきないものだと、あきれるほど、彼は次から次へと新知識を披露する。制服の第一ボタンを外し、帽子を少しアミダにかぶり、手のふさがっているとき以外はたいてい、彼の左手はズボンのポケットにおさまっていた。正高は、そのポケットの内側に大きな切り穴があることも知っているし、その奥のビキニのブリーフがいつも裏返しにはかれていることも承知している。 「こうするとな、前びらきが反対にくるだろうが」  彼は、左利きなのである。  勿論、彼とはちがったタイプの連中もたくさんいた。絵や演劇やスポーツや……趣味の腕をのばしたり……それはそれでいいのである。人それぞれに、身に似合った行き方をすればいい。自分には、この行き方が一番ぴったりしてふさわしいのだ。  正高は、そんな風に考える少年だった。  いつもズボンのポケットに左手を入れている同級生は、青田といった。白縫町の正高の家の隣に住んでいて、同じU製鋼の社宅の人間だった。  岡藤七郎に正高を紹介したのは、この青田である。  中学二年の夏だったと思うのだが、あるいは三年のときだったかもしれぬ。とにかく、夏休みのことだった。  その出来事に出会った日の前後の記憶は脱落していて、どういう事情で山へのぼったのか思い出せないが、場所は倉石山であった。  正高は、山の裏手の藪道《やぶみち》を歩いていた。  道の片側がかなり深みの谷間をつくり、谷の底は墓場だった。倉石山は、この裏手の森が樹木の茂りも濃密だった。歩きながら正高は、谷間の墓地に人影を見た。木洩《こも》れ陽《び》に白い布地がちらちらし、最初なにげなくそれに眼をとめた。よく見ると、上半身裸の男が肩にシャツをひっかけて、墓地のなかを歩きまわっているのである。それが青田だった。青田は、ぴょこんと墓石の上にすわってみたり、墓垣から墓垣ヘ八艘《はつそう》とびのようなことをやってみたり、供《そな》え花を花筒から引き抜いて空中にばらまいたりした。  歩いているかと思うとひょいと奇矯《ききよう》なしぐさをして、そのタイミングがじつにおかしく、またなにか異様な気がして、正高は道から声をかけるのをやめ、枝道を迂回《うかい》して下へおりてみたのである。  おりてみると、青田の姿はもうなかった。  蝉《せみ》しぐれにつつまれて、山は風ひとつ渡らず、人の気配など探しようもないのだった。  正高は不意に汗を感じ、その汗の冷やっこさに身をすくめた。道の上から覗き見た青田の行動が、なにか尋常さを欠いていただけに、正高はゾッとした。ここが墓場だったということを、あらためて急に頭に浮かべた。正高が踵《きびす》を返さなかったのは、青田がその無言劇《ヽヽヽ》のなかでばらまいた花のことを、すぐに思い出したからだ。正高は花を探して、そろそろと墓地のなかをめぐりはじめた。  椎《しい》の木にかこまれた奥まった一角に、墓小屋がある。「墓小屋」と土地の人間達が呼んでいる、掃除道具や手桶《ておけ》などが入れてある物置き小屋だ。正高がその傍をとおりすぎようとしたとき、小屋の裏手から誰かが急に顔を覗かせた。青田だった。 「……何してるんだ、青ちゃん」  青田はおどろいたような顔になり、それからあわてて、口に人差し指をあてた。  ひょいとまた例の身軽《みがる》な動作で、彼は足音を忍ぶようにして、正高のそばまでやってきた。  Gパンの前びらきから、黄色いビキニの布地が見えた。 「お前こそ、何やっとるんだ、こんなところで」  青田は押し殺した声でそう言い、ふと正高の視線に気づいて、Gパンのファスナーをひきあげた。 「ヘヘヘ」  と、彼は笑った。  それから急に正高の腕をつかみ、もう一度唇に指をあてて、黙ってついてこいというしぐさをした。  青田がひそんでいた小屋の裏側の藪のなかへ、正高はいざなわれた。青田は、すいと板目の破れ穴に顔を寄せ、お前も覗けという風に正高へ顎《あご》をしゃくった。  小屋のなかには、笹提燈《ささぢようちん》や熊手帚《くまでぼうき》や手箕《てみ》などが雑然と投げ込まれていて、筵《むしろ》を重ねた土間の上に花|茣蓙《ござ》が一枚敷かれてあった。板戸の隙間《すきま》から、真昼の光線がその色茣蓙のあちこちに射し込んでいて、格闘している二つの人体は、まるで縞目《しまめ》の動物を見るようだった。衣服が、そのまわりに散乱していた。  正高は覗くまでもなく、小屋の裏手に導かれたときから、その物音や喘《あえ》ぎ音《ね》がどういう種類のものかは察しがついていた。ついていたが、見るのははじめてのことだった。  浅黒い強靭な艶《つや》をおびた動物の体は、光につかまるとき不意に明るい褐色を曝《さら》し、獰猛《どうもう》に花やいだ。その褐色と黒の縞目は、たえず下に組み敷いた柔らかな白い動物をなぶり、精悍《せいかん》に犯していた。太味の若々しい低い声で、褐色の動物は話しかけ、言葉にならないかぼそい声で、白い動物は咆哮《ほうこう》を放ちつづけた。  そのとき、正高は、破れ穴のすぐ真下に、もう一つ動くものの気配を感じた。束ねた笹提燈のかげになって気がつかなかったのだが、小屋のなかには、学生帽をかぶった少年が二人、隅《すみ》の方にうずくまっているのだった。彼等は、頭を寄せあって、熱心に花茣蓙の上を見つめていた。  青田の息づかいが荒くなり、正高はそれが、自分の呼吸音ででもあるかのような気がし、とつぜん青田の手を引っぱってその場をはなれた。 「よせよ、おい……もうちょっとじゃないかよ」  青田のファスナーは、また引きおろされていた。首すじに、汗の玉がふいていた。 「なかにも人がいるじゃないか」 「いるよ。S中の竜野と大島だ」  正高の中学ではなかったが、青田がよく連れだって歩いている連中だった。 「じゃ、見せてるのか?」 「そうよ。今日はおれが見張り番よ……チキチキコンチキ。ついてないよ。今日のは特別気がはいってるみたいだからな」 「あきれたね……いつも、こんなことやってるのか?」 「まあな」  と言って、青田はニヤっと正高を見た。 「喋るなよ。見張り番サボってたのがばれるとよ、当分見張り専門なんだ。お前、もう帰れよ。ここにいられちゃ、おれがヤバイんだ。いいな。お前だから、見せてやったんだぞ。ぜったいに喋るなよ」  青田は早くもとの場所に戻りたいらしく、 「ほら、行けって」  と、正高の肩を小突いた。 「誰なんだ?」  と、正高はたずねた。 「何が」 「やってるやつさ」 「お前、顔見なかったのか?」 「見えなかったよ」 「どこ見てたんだ?」 「だって、向うむきだったから……」 「まあいいだろ」  と、青田は、耳のそばヘ口を寄せた。  汗と藪草の匂いがした。 「岡藤?」 「ばか。聞えるじゃないかよ」  青田は、正高を墓石のかげへ連れ込んだ。  岡藤七郎の名前を知ったのは、このときである。  正高も、学校の行き帰りや近所の町のなかで、その高校生を見かけたことは何度もあった。長身のがっしりとした体躯によく似合った美貌が、ふしぎな荒っぽさと、花やぎをもっていた。いつもきちんとした服装が、彼を端正《たんせい》に見せ、その端正な部分に学生らしい匂やかさがあった。岡藤の屋敷の息子だとは知っていたが、それだけのことで、べつに関心は湧かなかった。  青田が彼とつきあいがあることなど、だからまったく初耳だった。だが考えてみれば、岡藤七郎も青田も、根っからの白縫町の人間だった。つきあいがあって当然なのだった。  青田は、「岡藤の七郎さん」と、言った。  どこか、熱心な信奉者が教主を呼びでもするときのような、心酔のひびきがその声にはあった。  青田の話によると、青田と竜野と大島は、子供時分から七郎のとりまきらしく、小学校に入ってからは、鞄《かばん》持ち、走りづかい……性の手ほどきを受けたのも、七郎からであったらしい。七郎は、中学に入ると、女の子との実地現場を、物かげにひそんでいる彼等に見せ、高校に入ってからは、堂々と彼等の前で歓楽に耽《ふけ》ってみせるようになったのだという。 「女の子は、何とも言わないのかい?」 「見ただろ、その眼で」 「でも、よく平気で、そんなことができるなあ……」 「そいつも、いま確かめただろうが」 「しかし……いるかなあ、ほんとに、そんな女の子……」 「あれ、Y女学院の一年生だぜ。名前は言えないけどもよ。もう何人目か、おれ達にも数えきれないんだ」 「ほんとに、君達がいても厭《いや》がらないのかい?」 「ふしぎなんだよな、これが。七郎さんの手にかかっちゃうと、みんな、ああなんだ。彼に抱かれてると思うだけで、酔っちまうんだな。二、三回、おれ達のいる前でな、なんとなく肩を抱かれたり……ちょっとキスされたり……そんなことやられてるうちに、逆に見せつけたくなるんだよな。彼にそんな風にされるってことが、誇らしくさえ思えてくるんだよな。もうそうなったら、彼の言いなり。いつの間にか、ああいう具合よ。まあ、おれ達が、七郎さんにはぜったい服従。人には喋らないってことがわかるとよ、とたんにああなんだ。もっとも、七郎さんがうまいんだけどもよ。おれ達のことなんか、てんで気にならなくなるらしいんだ。もちろん、ゼーンブ、良家の子女だぜ」  青田は「全部《ゼーンブ》」と言う部分を強調した。 「信じられんね」 「無理もないよな。おれだってよ、そう思うときあるもんな。まったく、女ってわからんもんだぜ。ま、そういうわけだからよ、今日のことは、内緒だよ。いいか」  青田は、念を押すようにして、「じゃあな」と片眼をつぶり、そそくさと小屋の方へ戻って行った。  墓地は、木立を焦がすような蝉の声と、夏の光で、暗い陽かげの深みまでも、くまなくもえたっているようだった。 「くだらない」  と、正高は、独りごちた。そして、振り返りもせずその墓地を出た。  その夜しかし、正高は就寝前、青田の左手がいつも行なっていることを、行なった。週に一度ときめている予定日には、まだ少し早かったけれど。 (これは、決して昼間の出来事のせいじゃないんだ)と、思いながら。  ただ、ふだんのようには、さっぱりとした睡《ねむ》りがやってこなかった。     5  図書館からの帰り道だったと思うのだが、正高が七郎に呼びとめられたのは、そんなことがあって間もない頃だった。 「遊びにこないか」  と、七郎は、いきなり言った。  正高は、墓地でのことがあった翌日、青田から聞かされていた。 「おれ、喋っちゃったよ」と、青田は言った。 「お前に見せたこと、ばれたんだ。問いつめられてな、ゲロしちゃった」 「へえ」 「七郎さんな、今度連れてこいって言うんだ。お前に興味もったらしいな……そういう子、おもしろいじゃないかって言うんだ」 「なにがおもしろいんだ?」 「つまりさ、折伏《しやくぶく》するのがだろ」 「しゃくぶく?」 「お前を教育《ヽヽ》したいんじゃないの?」 「冗談じゃない」 「そうだよな。だめだよな。おれも、そう言ったんだ。あいつだけは、よした方がいいって。お前みたいな|ドまじめ《ヽヽヽヽ》なのに入られるとよ、おれ達がしらけるもんな」 「こっちも、しらけるよ」 「そうだろ? ま、おれがうまく言っとくよ」  青田のそんな報告が入っていた後だったから、きっぱりと拒絶の態度を示すべきだったかもしれないが、正高は、とっさに意をひるがえした。 (僕を教育したいんだって? ばかにするな)  できるならやってみろ、という反撥心《はんぱつしん》だったにちがいない。  それに、間近で見る七郎の眼は、涼しく澄んでいて、むしろ清冽《せいれつ》な気品をたたえていたと言った方がよく、その意外感も手伝っていただろう。青田が語った放縦な歓楽の性癖が、この男の暮らしのどこかにひそまされているとは思えなかったのだ。好奇心が湧いた。  そんなとっさのおどろきや好奇心のせいもあるにはあったが、やはりそれは、長い暑い夏休みの、正高は正高なりに退屈した、ふと気ゆるみの忍び込みやすい時期だった、と言えるかもしれないのである。 「明日……うかがいます」  正高は、そう言う意味の返事をしたのをおぼえている。そして急に、墓小屋のなかにいた二匹の動物のからまりあいを頭に浮かべた。遊びに行くということは、あれを見たいという意思表示にほかならなかった。少なくとも、七郎はそうとっただろう。と、思ったとたん、意に反して、正高の頬はかっと火照《ほて》った。火照った頬に、正高は憎悪を感じた。ぱっと七郎のそばを離れ、やみくもに駈《か》け出した。そして、駈け出した自分が、それにもまして、数倍も腹立たしかった。  七郎の眼がかすかに微笑《ほほえ》んだ、と思ったのをおぼえている。  正高が倉石山の岡藤家をたずねた日、七郎はいなかった。  若い女性が、正高を応接間に招じ入れた。確か……と、正高は記憶のなかを点検しながら思うのだが、その女性は赤い……ワイン・レッドのブラウスとスラックス姿だった。ブラウスのレッドが淡く、夢のような柔らかさにかすみ、その下のスラックスがやや濃艶《のうえん》なワイン色だった、という記憶がある。  七郎の姉かなと思ったから、彼よりは年上だったにちがいない。 「矢吹さんね?」と、彼女は、少し小首をかしげたような、おっとりとしたしぐさで、言った。「七郎ちゃん、ちょっと留守してますけど、待っててもらうようにって言って出かけましたから」  一時間ばかり、正高は、岡藤家にいた。  その応接間に、ランプがあったのだった。  吊りランプ、台ランプ、壁掛けランプ、提灯ランプ、手燭ランプ、豆ランプ、二重のガラス容器でかこんだ箱ランプ、舷燈《げんとう》、軒燈……大小、形体、彩色とりどりのランプが、いたるところに飾られていた。  大理石の油壺。ロココやバロック装飾の模様吊り手。瓔珞《ようらく》や多燈の燭台で技巧をこらしたシャンデリヤ。裸婦や天使やライオン像を彫刻したブロンズ台座。陶製、銀製、黒檀《こくたん》の台。色エナメルの焼付けや七宝《しつぽう》細工、漆文様の金|蒔絵《まきえ》、グラビールやエッチングの模様彫りで彩られた絢爛《けんらん》たるガラス笠。フランス製、イギリス製、ドイツ製、イタリア製……日本のランプも何点かあって、時代、国種さまざまな、それは豪華な眺めであった。  無論、当時の正高に、ランプの専門的な知識があるわけはない。正高にいろいろと説明してくれたのは、そのワイン・レッドの服を着た女性だった。もっとも、正高は、その説明のほとんどを、すぐに忘れてしまったけれど。  しかしそのランプが、いずれも高価で、選《よ》りすぐられた品ばかりであろうことは、正高にもわかった。そして、その贅沢な美術品の群れがかもし出す、ふしぎな異国情緒にみちた美しさに、しばらく眼をみはったのは事実である。 「これ、みんな……七郎さんのお父さんが、集められたんですか?」 「そう。半分くらいは、そうでしょうね。でも、その前の代からのもあるわよ。この家は、代々外国航路の|船乗り《ヽヽヽ》の家だから」 「……高いんでしょうね、すごく」 「さあ。蒐集家《しゆうしゆうか》ってのはね、一種の気ちがいみたいなもんだから、お金に糸目はつけないけど……このランプの値段が、そのままランプの値打ちとは限らないわね。一種の病気よ、こんなの集めるの」  女は、物静かに微笑んで、透きとおるような声で、そう言った。 「あなた、こんなランプ、好き?」 「さあ……でも、美しいとは思います」 「そう。なんだか、とても熱心に見てらっしゃるから。よかったら、ほかにもあるわよ。ご覧になる?」 「え? ええ……」  正高はちょっとまごついた。べつに熱心に見ていたわけでも、興味があったからでもない。ほかにすることがなかったし、美しいにはちがいない眺めであったから、つい眼をとめていたにすぎない。好きか? と聞かれても、答えようがないのであった。自分とは縁のない世界の品物なのだから。  女に案内された部屋は、どっしりとしたマホガニーの調度や、古い煉瓦の暖炉がある、落着いた部屋だった。中央に広々とした時代物らしい豪華なベッドがあったから、寝室にちがいない。それにしても、岡藤家の人間はこんな寝室で寝起きするのかと、正高は瞬間圧倒された。そこが寝室だったから、入るのがためらわれたせいもあるが、なんとなく辞退したい気分になった。 「どうぞ。かまわないわよ」  と、女は、尻込《しりご》みしている正高を振り返った。  なるほど、その部屋にも、ランプは四、五点置いてあった。  だが、正高の記憶にいま鮮明に浮かびあがるのは、ランプではなく、その部屋にあった古い珍しい置時計の方なのだった。  その時計は、ベッドと揃《そろ》いのサイド・テーブルの上にあった。市松《いちまつ》模様のチェスの盤がそっくり置時計になっていて、ネジをかけると、盤上の対《むか》い合った駒《こま》が動き出す仕組みになっていた。王や、女王や、僧正や、騎士達が、ひとりでに動いて時を刻み、盤上の対戦図で時刻を告げるという、複雑な時計だった。  正高があまり興味をもったので、女は、一通り時鐘の鳴る時刻の盤面だけは教えてくれたが、 「わたしにもわからないのよ、こまかな時間は。でも、とても精巧に作ってあって、チェスに強い人なら、分《ふん》まで読みわけられるそうよ。わたし達には、猫に小判よね」  と言って、笑った。 「あら、いけない。あなたにまだお茶も出してなかったわね。七郎ちゃんに叱られるわ」  と、彼女が急に思い出して部屋を出て行った後も、だから正高は、そのチェスの時計にすっかり夢中になっていた。駒に手を触れて機械の振動音を確かめたり、重いオーク材の盤ごと持ちあげて裏返してみたりした。そんな、もののはずみであった。僧正の駒が、ポロッと盤面からこぼれ落ち、床に転がったのである。  正高があわてて、駒を盤上に戻し、元の位置だったと思われる通路にはめ込んだ瞬間だった。いきなり時鐘が鳴りはじめた。  ドキンとしたその動転の束の間のことである。  体のどこで触れたのか、同じサイド・テーブルの上にあった一台のランプを、正高は横倒しにしてしまったのだ。  青い深鉢型の大きな笠が、一箇所、割れて笠金からはずれ落ちていた。  お茶を運んで女が入ってきたのは、ちょうどそうしたときだった。  色を失って突っ立ったままの正高と、倒れたランプを、彼女は瞬時見つめていた。それから、走り寄って、割れた破片を笠の裂け口に当ててみた。一かけらだけだったので、笠の縁金にはめ込めば、ぴったり元のままの形に戻った。 「いいわ」と、彼女は、正高の緊張をときほぐすような、むしろ明るい声で、言った。「いいの。いいの。わたしにまかして。こうやってれば、ちょっと見にはわからないもの。いい? あなたは今日、この部屋には入らなかったことにするのよ。心配しないで。大丈夫だから」  正高はこのときの、おそらく正高のために笑ってみせてくれたのにちがいない、彼女のやさしい微笑みかけを、いま思い出すのである。  その日、一時間ほど待っても、七郎は帰ってこなかった。  正高は、「すみません」と、何度も謝って岡藤家を出たのだが、長い石畳の坂道の途中で、恰幅《かつぷく》のいい日に灼《や》けた顔の老紳士とすれちがったとき、不意に深い不安にとらわれた。七郎の父親にちがいないと、直感的に思ったのだった。すると急に、「いいの。いいの」と笑ってみせてくれた女のことが、気になり出したのだ。正高は、途中から岡藤家へ引き返した。老年……と言うよりも、まだ逞《たくま》しい感じのするその紳士は、やはり屋敷のなかへ入って行った。正高は、しばらく屋敷のまわりをうろうろした。落着かなかった。といって、何をすればよいのか、それがわからなかった。素直に手をついて、あの老紳士に謝るべきだと思ったり、それはあの女の折角の思いやりに反《そむ》くことになりはしないか、と考え直したりして……正高は、いつの間にか庭先へ踏み込んでいた。家のなかはひっそりして、どの部屋にも人影は見えなかった。正高の足は、自然に|その部屋《ヽヽヽヽ》へ向かった。ベランダのある寝室のその窓の下で、正高は人声を聞いた。そう長くはためらわなかった。正高は手すりを越えて、寝室の窓へ近寄った。正高が覗き込んだとき、女は立ったまま、部屋の中央で老紳士に抱きすくめられていた。ワイン・レッドの|夢がすみ《ヽヽヽヽ》のような布地を、太い日に灼けた手が掻《か》きみだしていた。やがて男女は、もつれあったままベッドへ倒れ込んだ。  その瞬間の、女の手の動きが……(いや、からみあったまま大きく宙に泳いだ男女の二つの腕が、と言うべきかもしれない)正高の眼をみはらせた。二つの腕は、ごく自然に、その水色のどっしりと重量感のあるランプの笠を、横|薙《な》ぎにしたのである。鈍い、ガラスの砕け散る音がした。正高は、眼をつぶった。その正高の耳もとへ、はっきりとその声は聞こえてきた。 「いい。いいから、そのままにしとけ。放っておけ」  正高はもう、その後に続く声を聞いてはいなかった。走り出しながら、岡藤家をあとにした。  老紳士と女の間柄がなんであろうと、当時の正高には関心のないことだった。ただ、女が、「いいの」と言ったことは、ああいうことだったのかと、半ばおどろき、半ば感嘆して納得したのだった。いずれにしても、彼女が自分をかばってくれたことには変りはなかった。少なくとも、老紳士にとっては、あのランプよりも、あのとき彼女とベッドを共にすることの方が、価値があったのだ、と、正高は了解した。了解すると、肩の荷が一時に消えてなくなるような気がした。 (男ってのは、そうした生き物なのだ。そして、女ってのも)  正高は、そう思った。  無論、ワイン・レッドの夢のような衣服を着た彼女への感謝の気持は、忘れたりしはしなかったけれど。  倉石山をおりたところで、向こうからくる七郎の姿を見た。だが、とっさに正高は身をかくした。七郎は気づかずに正高の前を通りすぎ、小走りに石段をのぼって行った。  正高はその後、何度か街なかで七郎に声をかけられた。そのたびに、正高は、「近いうちに……」と、答えた。やがて、七郎は声をかけなくなった。  そのうちに、A市を離れねばならなくなった日が、正高の上におとずれたのである。  U製鋼の会計主任を務めていた父が、業務上横領の告訴をうけた。その全額が賭博《とばく》の穴埋めに当てられていたというのだ。父に賭博癖があったことを、このとき正高ははじめて知った。青天の霹靂《へきれき》だった。  一家は、夜逃げ同然のようにして、A市を出た。父が取調べ中に死んだのは、東京に落着いて間もなくしてであった。  母と妹は、現在も東京にいる。だが正高は、もう十年近く会ってはいない。この先もおそらく、会いはしないだろう。ただ、二人の生活費だけは送り続けているけれど。  それは、正高が学業の道を捨てた日から、正高の上に定まった暮らしだった。闇の道を選んだことを、彼はいま悔いてはいなかった。  岡藤七郎と別れた頃が、思えば、自分がA市での生活に訣別《けつべつ》した頃だった、と、正高は、ふしぎななつかしささえ胸に湧く思いがしたのである。  十数年ぶりで立った商港埠頭は、そのなつかしさを与えてくれた……と、正高は、野球帽にジャンパー、ゴム長靴の七郎を見ながら、思った。  彼が、ほんとうの友人のような気が、正高にはした。     6  翌日の昼間、正高は蜜子を宿に残して、街へ出た。七郎から聞いた住所をたずねながら、彼の家をさがしあてた。  七郎は、まさかたずねてくるとは思わなかったらしく、多少困惑ぎみな様子を見せたが、正高を部屋の中へ招じ入れた。一所帯二間続きの小さなアパートだった。 「おどろいただろう」  と、彼の方が、先にそれを口にした。 「じゃ、あのお屋敷は……?」 「あるよ、いまでも。おれの物じゃないけどね」 「え?」 「もっとも、まわりはずいぶん変った。公団住宅がバカバカ建ってるよ」 「あなたの物じゃないって言うと……?」 「くれてやったのさ、親父の女に」 「女?」 「いろいろあってね」と、七郎は自嘲めいた口調で言った。「そう……そう言えば、あんた達が引越してった後だったねえ……ウチも一騒動あったのさ」 「?」 「親父を刺してね、おれ」 「え?」 「大学出た年だったかな。親父の女と駈落ちしたんだよ」 「何ですって?」正高は、息をのんだ。 「したらよかったんだがね……しそこねちゃったんだよ。する前に勘づかれてね、ゴタゴタやったんだ。そいで……刺しちゃった」 「まさか……」正高は、頭を振った。 「ばかみたいだね、いま考えると。親一人、子一人……世のなか、二人っきりの肉親だったのにね。女をとり合って、あげくが刃物三昧《はものざんまい》だ。実際、あほみたいだね」 「じゃ、あの頃……あのお屋敷には、あなたとお父さんと、二人っきりで……」 「そうだよ。お袋が早く死んでね。女中がいたんだけど、齢《とし》とっちゃってね……その女が家事をやってくれてたんだ。おれの従姉《いとこ》だけどね」 「従姉……?」  正高は、口のなかで呟《つぶや》いた。 「まあ、表沙汰《おもてざた》にはならなかったけどね。おれは、家を出たんだよ。親父の傷は、たいしたことはなかったけど……死ぬまで、帰ってこいとは言わなかった。おれも、帰るつもりはなかったけどね」 「なくなられたんですか……」 「ああ。もう七、八年になるかなあ。死んで、さっぱりしたよ。あの家と手が切れてね」 「でも、その女の人は……」 「いまでも、いるよ。親父の女房になった女だからね。刃傷《にんじよう》沙汰のあと、籍を入れたんだ、親父が」  正高は、暗然とした。 「見てくれよ。おれも、ざまあないだろ。この齢になって、女房と共稼ぎだよ。昼間はたいてい、この部屋は鍵《かぎ》がけだ。子供も託児所《たくじしよ》にあずけるしな……お寒い限りさ」 「ま、お茶でもいれるよ」と、言って、七郎は台所へ立った。「今日はおれの非番でな、女房が飯炊いて行ってくれてる。どうだい、昼、まだなんだろ? いっしょにやるかい?」 「いえ、いいですよ。すぐに失礼しますから」  正高が、その品物を見つけたのは、この直後だった。  それは、部屋の隅の粗末な座り机の上に置かれていた。  高さ六、七十センチ。厚い紅ガラスのカット飾りのある油壺を、三人の裸婦が背で抱えるように彫刻されたブロンズの台座が支えている。燃え口に竹ホヤが直立して、青い深鉢型の重厚な石笠が、その上に優然とひらいていた。(石笠と言っても、石でできているわけではない。ガラス製のランプの笠の名称である)  正高は、魔ものでも見るように、そのランプを凝視した。確かに、笠は砕け散った筈のランプである。そのランプに、相違なかった。 「ああ、そいつか……」と、言いながら、七郎が茶をいれて戻ってきた。「そうか。あんたは、ランプに趣味がありそうだったんだっけな」  七郎はそう言うと、立って押入れから、同じようなランプの笠を、五つ六つとり出してきた。同じような笠ではなかった。それは、まったく同一のものと思われる笠であった。  いずれも青い、深みを帯びた重厚な深鉢型の笠なのであった。 「どうだい。このなかから、あのランプにいちばん調和する笠を一つ選ぶとしたら、あんたは、どれにする?」  よく見れば、それは同じ色の、同じ材質の、同じ型の、寸分ちがわぬ笠に見えて、実際は微妙にどこかわずかずつ感じが異っているのだった。 「これは……」と、正高は、絶句した。 「うん。実はね、この笠みんな偽物《にせもの》なんだ。あのランプの本物の笠はね、割れてなくなったんだ。で、昔どおりの笠をね、あいつに掛けてやろうと思って、こうして特別に注文つけて造らせてみてるんだけどね……どうも思うようなのができないんだ。図面を書いてね、色もこまかく指定してね、毎回修正しながら、元の姿に近づけようとするんだけどね……どうも一味ちがうんだ。なにしろ、記憶が頼りの作業だからね……」  そして、七郎は、静かに苦笑した。 「実を言うとね、この笠のないランプ一本が、おれが岡藤の屋敷から持ち出した財産なんだよ」 「……え?」  七郎は、また静かに笑った。 「そうだろ? 縁を切った人間の遺《のこ》した財産なんて、一文だってもらう筋合いはないだろ? そんな金、おれは欲しくない。この意地だけは、通してきた。このランプも、笠がないから、持ってきたんだ。どんな名燈だって、笠がなきゃ、一文の値打ちもない。だから、持って出れたんだ。このランプね……何だと思う? もしかしたら、日本に一番最初に入ってきたランプかもしれないんだよ」  正高は、血の気を失った。 「ほら、見てみなさいよ」と、言って、七郎はランプを抱えて、正高の前に置いた。 「台座の裏に、刻《きざ》み字《じ》が入ってるだろ?」  それは、あたかも釘《くぎ》かなにかでブロンズの表面を引っ掻いたような文字であったが、  ──Ph.F.V.S.  と、筆記体で、明確に読めた。 「フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト……つまり、シーボルトのランプなんだよ」 「シーボルト?」  正高は鸚鵡《おうむ》返しに、聞き糺《ただ》した。 「そう。ウチにあったランプの内で一番古いものなんだ。曾祖父《ひいじい》さんの代からある。勿論、その刻み文字も、その頃から入ってたそうだがね。まあ、シーボルトの筆跡かどうかは、わからないんだ。ま、シーボルトは、この街にゆかりの深い人だからね。彼の書いた『江戸参府紀行』にも、この街に滞在した折の記述がたくさんある。ウチにシーボルトのランプがあったって、べつにふしぎはないんだよ」  七郎は、ちょっと言葉を切ってから言った。 「シーボルトはね、ランプを日本に持って揚がった一番最初の人なんだよ」  そして、その眼をふと宙に泳がせて、独り笑いした。 「このランプの偽せ笠ね、一つ造るのに……おれの給料ふっとぶんだ……いつも女房と喧嘩《けんか》のタネさ」  正高は、言葉を失った。震えが、体を走ってならなかった。 (もしかして……)と、彼は、しきりに思っていたのである。  あの青い笠が砕け散った日、倉石山の石段の下でやり過ごした岡藤七郎の姿が、眼にちらつくのだ。あの後、七郎は、見たのではあるまいか。青い笠の砕け散っている寝室の、ベッドの上の光景を。  すると、シーボルトのランプの復元に執心する岡藤七郎の、あるかなしさが、不意に胸をえぐるような気がするのだった。 (もしかして、七郎は、あの日はじめて、女と父親の光景をまのあたりにしたのではあるまいか……)  ランプが割れたあの夏の日に。  正高は、ワイン・レッドの夢のようなブラウスを着た女性の顔を、つぶさに思い出そうとした。そして、はじめて気づいたのだ。自分はもう、その女《ひと》の顔をほとんど忘れきっている、と。  正確に思い出せるのは、ただ一つ、ワイン・レッドの夢のような着衣《ちやくい》だけだった。記憶は、その着衣の鮮明さにたすけられて、おぼろな女の顔のまわりにかろうじて散在しているのであった。記憶とは、おぼつかないものであった。  しかし、もし彼が、十数年ぶりにこの日、倉石山をたずねたとしたら、彼は知ることになるだろう。ワイン・レッドの夢のようなブラウスを着ていた女が、蜜子にひどくよく似ているということを。  記憶とはふしぎなことを、知らぬ間に人間に強《し》いているものである……。  ともあれ、矢吹正高は、この先とも、そのことに気づきはしないだろう。  彼が、なぜ現在の職業についているのか……そのほんとうの原因にも、彼は気づいていないのだから。  彼は信じている。自分でこの道を選んだのだと。  だから、生きておれるのであった。 [#改ページ]  蜥蜴《とかげ》殺しのヴィナス     1  フランス船ベトナム号の上空に、荷はクレーンで吊《つ》りあげられ、ゆっくりとあるかなきかの動きをみせて慎重に横移動を続けていた。  |世界の美神《ヽヽヽヽヽ》・|世紀の芸術《ヽヽヽヽヽ》・|ルーブル美術館門外不出の秘蔵品《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》・|フランスの至宝《ヽヽヽヽヽヽヽ》・|美の理想像《ヽヽヽヽヽ》………などなどと、ほとんど最大級の讃辞と肩書きをほしいままにして、ギリシャ彫刻名物中の大名物といわれる≪ミロのヴィナス≫が日本にやってきたのは、昭和三十九年三月二十二日、横浜港で、朝のことだ。  縁《えん》の妖《あや》しさといえばいえるが、この日はまさに、江藤博基の誕生日でもあった。  鉛いろの薄陽《うすび》の射す埠頭《ふとう》にたつと、まだ海風は荒い塩気をふくんでいて、春には遠い感じであった。  丈高二・六三メートル、重量一・五トン、水に沈んでも浮きあがり、火につつまれても燃えることのない特別装備のほどこされている白い頑丈な木の箱荷は、その肌を刺す潮風を総身に浴びて動いていた。  日仏両国の出迎え関係者たち、各国の報道陣、カメラマン、警察官、白バイ・パトロール、吹奏楽隊、花束を抱えた振袖姿の女の子、船上からも荷揚げを見守るデッキに鈴なりのフランス船員たち……それらのなかで、荷の水切り作業に専従している大ぜいの作業員らの緊張した眼──すべての視線が、この風に鳴る白い一つの巨大な木箱に釘《くぎ》づけとなっていた。  今にして思えば、この時、当時まだ十一歳だった博基が、ふと理由もなく考えついた事柄は、虫のしらせというやつだったか……。  少なくとも、江藤博基は、幼い肌で無邪気にある不吉なものの予感に触《ふ》れていた、ということだけはできそうだ。  鉛いろのひかりを揺らす潮風の空中高く浮かんでいたその立方体の白い箱荷は、なぜか博基には突然、巨大な柩《ひつぎ》のように見えたのだった。 「お棺みたいやね」  と、確か博基は口に出して、率直にそれを言った記憶がある。  博基は兄の崇男《たかお》と並んで、賑《にぎ》やかなベトナム号の接岸埠頭からはかなり離れた、人気のない港湾倉庫の壁際に立っていた。  崇男がグイと双眼鏡を眼からはずし、やにわに背後を振り返り、あわただしく周囲を見廻したのは、ちょうどそうした時であった。  多少うろたえ、多少緊張した、鋭い感じのする動作だった。 「畜生。やりやがったな」  と、崇男は呟《つぶや》いた。独り言のような、けれどもきびしい口調であった。 「どないしたんや? お兄ちゃん」  博基は、双眼鏡を独り占めにして離さない崇男に半ば腹をたて、半ば退屈していた時だったから、 「ねえ、僕にも見せてェな」  と、ちょっと興味を示しはしたが、ほんとうはそんなことどっちでもよかった。要するにもう帰りたかったのだ。 (こんな荷揚げ、いつまで見てたってはじまらない。ついてくるんじゃなかった)  と、心の中ではぼやいていた。  しかし、何かがこの時、起こったことに間違いはない。少なくとも、江藤崇男にとっては見過ごすことのできない重大な何かを、崇男はこの時見たのだ、と、博基はすぐ後になって気づかねばならなかった。  だが、彼方の埠頭では、別にそれらしい何の気配も見てとれはしなかった。白い箱荷は、相変らず少しずつ静かに廻転しながら、ベトナム号の上空を陸へ向かって移動を続けていたし、おびただしい人間たちの眼が、その箱を見あげている光景にも、異常はなかった。  変事は、確実に、それらの視線のまっただなかに曝《さら》されたこの空中の木箱の上で起こったのだが……博基は無論のこと、この日埠頭にいた人間たちの誰もが、ただそのことに気がつかなかっただけなのだ。  おそらく崇男と、それから、この時箱荷の中にいた当の≪ミロのヴィナス≫自身だけが知ることのできた……いいかえれば、それは、誰もが見ていて見えなかったアクシデントであった、ということになる。  崇男の覗《のぞ》いていた双眼鏡の視界には、その折、ちょうど箱荷の側面上部が捉《とら》えられていた。つまり、ヴィナスの肩から上の部分に該当する場所だ。その中央部付近の板目が、一瞬小さく弾《はじ》けたように、ごく微細な木屑《きくず》をとばした。銃弾は多分、四ミリ程度の鉛弾ではなかったか、と崇男は思った。鉛は木肌の奥に深くめり込んでしまったのか、それとも弾《はじ》かれて箱の表を浅く削《けず》っただけだったのか、弾痕はほとんど目立たず、何かの汚れか釘傷《くぎきず》くらいにしか見えなかった。それも箱の表に刷り込まれた黒いフランス文字の合い間に没した形となり、間近で見ても、それと知って見ない限りは見過ごされるにちがいない痕《きず》であった。  事実、そして見過ごされたからこそ、今もって世間には、この奇妙な≪ミロのヴィナス≫狙撃事件を知るものは、誰一人として存在しないのであるが。  けれども、≪ミロのヴィナス≫は聴いた筈だ。耳許《みみもと》で「ピシッ」と、彼女の咽首《のどくび》のあたりを狙って、適確に撃ち込まれた一発の小さな鉛弾の音を。  崇男は、いったん眼に当てた双眼鏡をすぐにまた外すと、ケースの中へしまい込んだ。 「ヒロキ、探すんだ!」  と、そして唐突な声で、低くいった。 「空気銃を持ってる男だ。まだこの近くにいる筈だ。そいつを探せ」  崇男はいい終らぬうちにもう、倉庫の裏手の方角へ向って猛然と走り出していた。 「空気銃?」  博基は一瞬ポカンとして、わけがわからず、俄《にわか》にヴィナスの箱荷の方をチラッと振り向き、やがてわからないままに、とにかく崇男の後を夢中になって追いかけた。  しかしその日、結局、空気銃を持った男の姿など、どこにも見つけ出すことはできなかった。  ……あの日、と、博基は思うのだ。横浜港の水切り場で、悠然《ゆうぜん》と高空に浮かんでいた白い木箱は、やはり『お棺』だったのだ、と。 (僕達の不幸は、みんなあいつが運んできた)  ヴィナスは、古来、海の泡《あわ》から生まれてきたと伝えられる。 (あいつもあの日、鉛いろの海から水揚げされたのだ……そして、僕達へ、いきなり腐爛《ふらん》の肉の臭いを運んできた)  江藤博基は、今もって、この一つの想念に脳裏をむしばまれ、消せないのである。  記録によれば、≪ミロのヴィナス≫が東京に運びこまれたのは、昭和三十九年三月二十二日、その日の内だ。第二京浜国道を白バイに護られながら、時速三十キロの大名道中を組み、上野国立西洋美術館の搬入場で荷ときされて、〈世紀の美神〉の素肌を出現させたのは、同三月二十二日、夜、十九時となっている。     2  翌月の四月八日。  ヴィナスが一般公開された初日は、暦の上では花まつりの当日だったが、前日から降り続いていた雨が朝方には霙模様《みぞれもよう》に変り、北関東では雪の積もったところさえ出た。いわゆる|寒の戻り《ヽヽヽヽ》の悪天候だった。  公開時刻は午後二時だったが、崇男は勤めを休み、朝八時前にはもう駒込の家を出た。博基は、小学校の始業式を済ませるとその足で、上野の森へ駈けつけた。 ≪ミロのヴィナス≫が日本へ上陸して以来、崇男を、時々|上《うわ》の空にさせたり、ふと黙り込ませたりする重い翳《かげ》りの表情は、尋常ではなかった。博基には、それが気掛かりでならなかった。横浜港での出来事についても、崇男は、何をきいても話してはくれない。 「お前には関係ないよ」と、いうだけだった。 (関係ないことあらへん。僕の誕生日やったんや)  と、博基は心の内では思った。  だが、口に出しはしなかった。  誕生日の日の朝、博基は起きると一番に崇男に声をかけた時のことを想い出す。 「お兄ちゃん。今日は何の日か覚えてる?」 「ん?」  と、崇男はちょっと虚をつかれたような表情を見せ、あわてて、 「お前は学校があるんだろ?」  と、トンチンカンな答え方をした。 「厭《いや》やな。今日は日曜日だよ」 「日曜?」と、崇男はまた怪訝《けげん》な顔をした。 「そうか。お前も連れてくって約束したか」 「連れてくって? どこへ行くの?」 「横浜だろ? ミロのヴィナス見に行くんじゃなかったのか?」 「ミロのヴィナスて? それ、なに?」  と、今度は博基の方がキョトンとした。  博基はこの時、意外な感じがしたのだった。  昨年も、その前の年も……博基が、江藤の家の人間になってから、崇男は決してこの日を忘れるようなことはしなかった。  崇男が突然大阪の施設に現れ、博基の身柄を引きとってくれることになった日から、崇男は博基を実の弟のように扱ってくれた。見ず知らずの崇男が、なぜ自分の面倒をみてくれるのか、崇男と施設の間でどんな話し合いや手続きがあったのか、詳《くわ》しい事情はわからなかった。博基が知っているのは、自分が生まれてすぐ母に捨てられた人間だということだけである。崇男に引きとられる八歳の年まで、とにかく母は一度も施設に顔を見せたことはない。行方《ゆくえ》はおろか、生死さえ不明であった。  施設を離れる日、園長は博基に言った。 「本当のお兄さんができたんやと思いなさい。ええな? お兄さんも、家族を亡くされて、お前と同じ一人ぼっちや。婆やさんと広いお家に住んでなさる。お前を、ぜひ弟に欲しいいうてくれてはる。ええ弟にならなあかんぞ」  博基はどうでもよかったのだ。園長が行けと言い、先方が貰《もら》ってくれると言うのなら、それもいいだろうと無関心に成行《なりゆき》にまかせただけだ。だが崇男は、実際博基には勿体《もつたい》ないくらいいい兄《ヽ》だった。大阪の施設からいきなり東京の他人の家へ移された戸惑いも、一月足らずで忽《たちま》ち消え、博基はすなおに江藤の家が自分の家だと思うことができるようになっていた。  崇男の母親は子供の頃死に、有名な画家であった父親も、二、三年前に死んだのだと、崇男は博基に話してくれた。 「家も広い。食うには困らないくらいのものは、親父も残してくれている。俺は若くてモリモリ働ける。ヒロキみたいないい子がいたら、面倒みなきゃ嘘《うそ》じゃないか」 「でも」と、博基は、一度だけ尋ねてみたことがある。「どうして僕を……?」 「縁さ」と、崇男はいった。「縁があったのさ、ヒロキと俺は」  博基も、それ以上は聞かなかった。聞く必要がなかった。大きな頼もしい兄ができたということだけで、博基は心《しん》から有頂天だった。(縁だ)と、博基も、疑わずに信じた。  そんな崇男が、誕生日を忘れたということが、やはり博基には不思議だったのだ。いや、それを忘れさせたものが、この日初めて耳にする≪ミロのヴィナス≫という|モノ《ヽヽ》であるらしいとわかった時、博基は急に、この≪ヴィナス≫に関心を待ったのだ。  三月二十二日。横浜港へついて行く約束などした覚えはなかったが、不意にその気になったのである。 ≪ヴィナス≫が、崇男にとって、何か|いわく《ヽヽヽ》あるモノなのだということは、もう疑いようもない。  それが何か。博基はそれが知りたかった。  ──空気銃を持った男。  ──≪ミロのヴィナス≫  それは二つながら、この二週間、幼い博基の心を平安にしない、薄墨《うすずみ》いろの謎《なぞ》であった。  ロダンの彫刻と≪カレーの市民考える人≫で飾られた美術館前の雨の広場は、すでに千人を越す長蛇の列ができていた。  崇男の格好いいブルージンの長い足と、ちょっと猫背に首をかしげてコートを羽織った|イカス《ヽヽヽ》姿は、その行列の先頭近くですぐ見つかった。  息せききって駈け寄った博基を、崇男は抱きとるように自分の傘の内へ入れてくれながら、 「物好きだな、お前も」と、言った。「体操選手になるんだろ? ヴィナス見たって、しょうがないだろうにナ」 「お兄ちゃんかて」と、博基も崇男を見上げながら、やり返した。「大学の理工科出たんやろ? なんでヴィナス見なならんのや?」 「こいつ」  と、崇男は、博基の頭を小突いて笑った。  だが博基には、その眼が、しんから自分を見て笑ってはいないのがよくわかった。  崇男はどこかぼんやりとして、眼は絶えず雨の広場の行列のそこかしこへと、さまよい出ているのであった。  それが博基を、また途端に、落着かなくさせた。 (この人……一体、誰を探してはるんやろ)  博基は急に、崇男が自分の傍《そば》から遠ざかって行くような恐れと、心細さに見舞われるのだった。  ギリシャの澄んだ青空の〈青〉、エーゲ海の太陽に灼《や》かれる砂浜の〈白〉、そして、ギリシャ文明の豪華|絢爛《けんらん》たる生命と栄光を象徴する〈金〉の三色で構成されたという円筒型の建物、≪ミロのヴィナス≫特別展示館は、激しい雨しぶきに打たれて霞《かすみ》たっていた。  博基のすぐ横にいた女学生が、素《す》っ頓狂《とんきよう》な悲鳴をあげたのは、そんな時である。 「きゃぁーっ」  と、彼女はとび退《の》きながら、叫んだ。 「トカゲ!」  女学生は、博基の胸元を指さしていた。  見ると、蜥蜴《とかげ》は、博基の洋服の上にいた。  体長十七、八センチ、目のさめるような青|蜥蜴《とかげ》だった。藍色《あいいろ》の背を、明るい緑と濃青の線鱗が流れるように走っている。垂れた長い尾のしなやかな青の深さが、殊に強烈で、鮮やかだった。蜥蜴《とかげ》は、不意に首を立て、次の刹那《せつな》、ボタンの合せ目から服の下へサッと潜り込んで消えた。 「キャッーッ」  と、女学生は再び身を竦《すく》ませてとび上った。 「だめじゃないか、ヒロキ」  と、崇男は困ったような顔をして、女学生へは頭をさげた。 「大丈夫なんですよ。こいつが飼ってる蜥蜴《とかげ》だから。しょっちゅう、ポケットに入れたりして持ち歩くもんだからね、馴《な》れちまってるんですよ」  女学生は、ますます薄気味悪そうな顔をして、博基から身を遠ざけた。  博基は、胸のあたりへ手を突っ込んで造作もなく蜥蜴《とかげ》をつかみ出すと、わざとその濡れた鼻の頭にチュッとキスしてみせ、それからおもむろにポケットの中へしまいこんだ。 「ヒロキ」と、崇男は、たしなめるように言った。「またお前、持ち出してるのか?」 「そうじゃないよ。今日はさあ、特別や」 「あんまりいじりまわしてみろ。死んじまうぞ」 「そやかて、餌箱《えばこ》いま穴あいてるもん。逃げたらかなわんし」 「よし。じゃ今日帰ったら、直してやるよ」  博基はなぜか、とたんに平安を感じた。  崇男が今、自分だけに向かってものをいってくれていると、満足できたからである。 「大丈夫や。僕にかてできるさかい」  博基はそして、そっと布地の上からポケットを撫でた。優しい手応えが懐かしかった。  青い蜥蜴《とかげ》は、博基が江藤の家にきてすぐの時分、庭の草むらで生捕《いけど》ったものだった。  ミミズや蜘蛛《くも》や昆虫類が好物だったが、餌づけするまでが一騒動だった。見ている崇男の方が根負けして音《ね》をあげた。 「庭で生かしてたらいいじゃないか。ここはお前の庭なんだから」  もう一日、もう一日といって、博基はきかなかった。今では、博基の掌の上ででも餌を平らげた。二、三度、蜥蜴《とかげ》は逃げ出したこともある。だが、いつのまにか戻ってきて、博基の目の届《とど》きそうな身辺に、必ずチラッと姿を見せたりする。そんな時、博基は歓声をあげた。動くと一瞬、そこに真青い海がこぼれおちて、俄《にわか》にその底にすい込まれでもしそうな……そんなスリリングな美しさを、この生き物は持っていた。陽の下を走る時、海《ヽ》は透明な底の水影までかがやかせて揺らして見せた。手にとって覗き込む時、蜥蜴《とかげ》は殊に博基を夢中にさせた。際限もない海の青みが掌の中にあった。  崇男と、そしてこの青|蜥蜴《とかげ》は、どちらも博基を骨抜きにする、博基の暮らしにはもうなくてはすまないものなのであった。  外に連れ出す時にだけ蜥蜴《とかげ》の片方の後足は細い紐《ひも》で結《ゆわ》えられる。紐の長さはたっぷりとって、その先端を、博基はいつも洋服のボタン穴に繋《つな》ぎとめておく。こうしておけば安心だった。 「お前のは、猿廻しじゃなくて、トカゲ廻しだな」  と、崇男は腹をかかえて笑ったことがある。  あんな大きな笑い声が、ここ暫《しばら》く、崇男の口からは聞けなかった。  博基は、崇男のさした傘の中で心持ち身を寄せるようにして、崇男の胴に手を巻いてみた。すると、もっとしっかりとしがみついていたい不思議な切《せつ》なさが全身を浸《ひた》した。 「ヒロキ」と、崇男の声が、頭上でした。  崇男は急にコートを脱いで、そんな博基の肩にきせかけ、 「ちょっと待ってろ。すぐ戻ってくるからな」  そういうと、やにわに博基の小さい方の傘を把《つか》んで、アッという間に雨の中に出て行った。何かに突然せきたてられ、とび出すような、慌《あわただ》しい仕草《しぐさ》だった。長い人の列の後にその姿はすぐに消え、見えなくなった。  博基がこの時、 (行ったらあかん!)  と、思ったのは、いわばとっさの感情である。すぐに恢復《かいふく》する筈の、気まぐれな淋しさのせいだった。博基は、そう思おうとした。しながら、眦《まなじり》をあげ、崇男が残したひろい大きな傘の内をグイと見あげた。だが、そこでまた、彼は小さく怯《おび》えたのだ。  見あげた闇黒の傘の布地が、突然翼をおしひろげて天頂をおおった不吉なものの到来のような気がしたからなのであった。  雨が、その傘を乱打していた。     3  特別展示館の会場は、入口をはいるとすぐに階段で天井近くの正面テラスへ導かれ、大ホールの中央に立つヴィナスを、まず上から眺めおろす仕掛けになっている。そこから円形状に建物の外周にそってスロープを降り、下の大ホールへ入る仕組みだった。  二メートル近い台座の上に、更に二メートルを越す美神の大理石像が立つのだから、大ホールでは、ヴィナスは下から見あげる形となる。  像の周囲は手摺《てすり》のついた円柵《えんさく》でへだてられ、見物人はこの柵囲いを一周しながら、ヴィナスの全容を裏表くまなく鑑賞できるようになっていた。  博基は、なだれ込む観客にもまれながら、崇男の手をしっかりと把《つか》んで廻廊のス口ープをおりていた。ヴィナスのことなど、頭の中にはまるでなかった。博基は奇妙に昂奮していた。 (この手を、もう放したらあかん)  しきりに、そんなことだけを繰り返し思った。  崇男が、雨の行列の中へかえってきたのは、もう開館時刻寸前になってからだった。 「待ったか?」  と、崇男は、何事もなかったように、大きな手を無造作に博基の頭の上に置いた。  博基は、わけもなく、泪《なみだ》があふれそうになった。どうして、あの時、 (どこへ行ったの? 誰を一体探してるの? 何のためにそうしてるの?)  と、きけなかったんだろう。きいても、崇男は喋《しやべ》ってくれはしなかっただろう。喋ってはくれなくても、自分は何度でもきくべきだった……と、博基は妙に熱にうかされたように、そう思った。それができなかった自分に腹をたて、腹をたてている自分が、またむしょうにかなしかった。  崇男はスロープを降りきると、大ホールの中央へは進まずに、壁際に立って、暫く遠くからヴィナスを眺めていた。  なぜか博基には、その時の崇男は、深く睡《ねむ》っているように見えた。眼は大きくみひらかれているのに、何も見てはいないような、睡《ねむ》り落ちた感じが不意にした。博基が握りしめている崇男の手も、力が脱け、まるで夢の中の人間の手や指を把《つか》んでいるような気がしたのである。 「お兄ちゃん……」  と、博基は思わずその手を強く引いてみた。 「うん?」  崇男は、ゆっくりと博基を見おろし、「ああ」と、夢から醒《さ》めたみたいに首肯《うなず》いた。 「ヒロキは前の方に行きなさい。お兄ちゃん、ここにいるから。一番前で見ておいで」 「いいよ」と、博基は、なぜかホッとしながら、首を振った。 「ここでいい」 「フランスの、パリに行かなきゃ、見れないんだぞ。本物のヴィナスだぞ」 「本物て? 偽物《にせもの》のヴィナスもあるの?」 「ん?」  後で思えば、博基の手の中の崇男の指に、ふと勁《つよ》い力がこの刹那流れ込んだ気がするのだった。ビクッと脈打つような力だった。  博基は、顔をあげて崇男を見た。  しかしそれっきり、崇男は何もいわなかった。再び放心したように、ヴィナスをみつめていた。  博基も、黙ってじっとしていた。じっとしながら、仕方なく、はじめて≪ミロのヴィナス≫の方へ眼をあげたのだった。  それは不思議な瞬間であった。  ヴィナスは、観衆の背に遮《さえぎ》られて、博基の視野には、やや前屈したその左上半身だけが辛《かろ》うじて見えた。いきなりとび込んできたその若い女の顔と、乳房のふくらみが、腕のない左肩の付根にパックリと口を開《あ》けたグロテスクな釘穴と対照して、奇怪としかいいようのない眺めであった。  博基は、美しさより先に……いや、美しさなど感じなかった。何よりも真先に、そのもぎとられたか、或いは引きちぎられ、叩《たた》きおとされたかしたのでもあろうか……そこには無い、無残な見えない腕のことを考えた。  そして、曝《さら》し物になっている一人の若い女を、そこに見たのである。  暫く、小さな|胸やけ《ヽヽヽ》が無数に咽元へ押し寄せてきて、落着かない不快な気分に耐えていた。  崇男の腕がグイと博基を引っぱるように動き、いきなり歩き出したのは、その直後のことであった。  崇男は少しずつ観衆をわけ、博基の体を前へ押し出すようにしながら、ヴィナスへ向かって近づいて行った。この時にも、博基は、気づかなければならなかったのだ。崇男が大ホールの入口で、暫く遠くからヴィナスを眺めていたのは、後からスロープを降りてくる誰かを待っていたのではなかったか……と。  しかしそれも、後になって博基が考えることであった。  いつのまにか博基は、群衆の最前列に押し出されていて、円形の手摺《てすり》につかまっていた。  巨大な女神像は近々と眼前に迫ってあった。  彫刻はおろか、美術品などというものにいっさい無縁な博基には、間近で仰ぐ裸像のヴィナスは、ひどく息苦しく、得体のしれない苦痛をおぼえた。その息苦しさや苦痛の中で、実はこのヴィナスの真の美の恐ろしさに自分が触《ふ》れていることなど、この時の博基には、わかろう筈もなかったのである。  ほの白い青みを帯びた石の肌に淡い枇杷《びわ》いろをひそませた肉の隆起は、匂うようになめらかでいてザラザラと荒廃しつくし、息づきたつかに見えて死に果てていた。死に絶えていると見える時、ヴィナスは不意に美しかった。息づいて見える時、美神は生々《なまなま》しく奇怪な無腕の曝《さら》し女にかえるのだった。  不思議な感動に博基は戸惑いしていたといえる。  ……ふと我に返り、博基は、うしろにいる筈の崇男を振り返った。  そこには、別の男がいた。  博基はドキッとなぜか慌《あわ》てた。だがすぐに、崇男は、その男の左隣りにいることがわかった。ヴィナスを、正面から直視していた。  博基は安堵《あんど》し、一度首をもとに戻して、その途端、ギクリと大きく硬直した。確かに何か、異様なものを眼の端《はし》に見た気がしたのだ。  博基は、血の気が失せていくのがよくわかった。胴震いをこらえながら、体を少しずつ左へ移しかえ、手摺を把《つか》んで更に左へと慎重に崇男の前へ体をずらせた。そして恐る恐る……だがごく何気ない風に、崇男の手許《てもと》をもう一度盗み見たのだった。  間違いではなかった。  崇男は、博基のうしろにいた若い男に背後から半ば寄り添うように密着し、体の陰で、その男の利《き》き腕をしっかりとおさえていた。そして、左腕にかけたコートの内に、博基はまぎれもなくナイフの切っ先を見たのである。刃物は、若い男の脇腹に、ピタリとその切っ先を当てていた。 (お兄ちゃんっ……)  超満員の見物客たちは、誰もそんな二人には気がつかなかった。  背筋が、いきなり粟《あわ》立った。  若い男は、崇男より二つ三つ年下に見えた。強い鼻筋と襟足にみだれている短い髪に、けだものじみた感じがあった。崇男に腕首を捩《ねじ》りあげられ、刃物を突きつけられながら、その男は昂然と顔をあげ、平静な息さえたてて、やはりヴィナスを正視していた。  二人共、一見何事もない顔つきに見え、また若い男のこめかみに漲《みなぎ》る脂《あぶら》の照りは、ただの汗の光ではなさそうにも思えるのだった。  何が起こったのか。いや、起ころうとしているのか。博基にはまるでわからなかった。 〈世紀の美神〉が、柵一つ跨《また》ぎさえすればどこからでもすぐに手の届《とど》くこの会場の中には、おそらく私服や監視員も入っている筈である。誰かが、この光景を目にしたら……咄嗟《とつさ》の間に、博基はそんなことを思った。いや、目にしなくとも、この混雑だ。何かのはずみで、群衆が一揺れして雪崩《なだ》れでもしたら……。  そう思うと、博基の頭に血がのぼった。  血がのぼったとたんであった。もう一つ、思いがけない出来事が博基の身辺に持ち上ったのだ。  最初、眼の先を何かが走った、と博基は思った。青いすばしこい光だった。その光は手許の柵を躍《おど》りこえ、一直線にヴィナスの台座をかけのぼった。女神像の脚にまとわりつく腰布の襞《ひだ》から臀肉へ、下腹部から傲然《ごうぜん》と露出した胴へ、引きしまった腹からくびれた上胸《うわむね》へ、さらに乳房のふくらみから咽へ、そして、永遠の美をたたえるといわれるヴィナスの顔面へ……と、するすると、青い鮮やかな光の尾鱗をかがやかせて、その生き物はかけめぐった。  一部の観衆にかすかなざわめきが起こり、それが小さく沸《わ》いたのは蜥蜴《とかげ》がヴィナスの顔面を足蹴にして、左乳房の盛り上りに静かにすべりおりた時である。蜥蜴《とかげ》は、一時休息の姿勢をとり、ひときわ花やかな長い尾と短い足でピタッと乳房の肉にはりつき、ふくらみを全身で巻きとるようにしておもむろに頭をもたげた。そして、その先端の反《そ》りかえった堅い乳首に鼻孔を寄せた青い蜥蜴《とかげ》は、やっぱりここだとでもいう風に、可憐《かれん》な舌を赤く口から吐いたのだった。  時ならぬ椿事《ちんじ》にあっけにとられていた観客は、そこでドッと哄笑《こうしよう》し、その笑いはやがて微妙にたち消えた。  乳房の上でじっと動かない青|蜥蜴《とかげ》には、ふと固唾《かたず》を呑むような濃い淫蕩《いんとう》の気配があった。  蜥蜴《とかげ》はあたかも、ヴィナスの肌に出現した突然の無頼な刺青《いれずみ》を思わせた。  ヴィナスはこの瞬間、確実に果肉の肌をむさぼられていた。むさぼられるヴィナスを、人々は垣間《かいま》盗み見た、といった方がいい。  美と威厳、高貴と艶冶《えんや》の名で世界に並ぶもののないといわれるこの女神像が、それはほんの短い束の間の出来事だったが、公衆の面前で弄《もてあそ》ばれ、なぶられて蹂躙《じゆうりん》されるさまをほうふつとさせさえした。ヴィナスは、誇り高い神秘の肌を、いっぴきの蜥蜴《とかげ》によってというよりも、蜥蜴《とかげ》にすいよせられた観客の視線によって凌辱《りようじよく》されていた。  博基は、完全に動転していた。  思わず身をのりだした時には、蜥蜴《とかげ》はもうヴィナスの腹へすべりおち、腰布のながれの内ヘ消えていた。  博基は夢中で、手摺《てすり》にそって人波をかきわけ、ヴィナスの周囲を一巡した。蜥蜴《とかげ》は確かに白い台座の上に落ちた筈なのに、台座の外へは出てこなかった。台座の高さは一メートル七、八十センチはある。或いはその上で一休みでもしているのかもしれぬ、と博基は思った。そう考えて、とっさに崇男のことを忘れていた自分に思い当ったのだった。  やにわに、博基は振り返った。振り返って、息をとめたのであった。 (───)  ある筈の崇男の姿は、そこにはなかった。  崇男ばかりではなく、あの若い見知らぬ男の姿も、一緒に消えてしまっていたのである。 (いない。お兄ちゃんがいない)  博基は前後のみさかいもなく手摺の上によじのばった。よじのぼると、会場はホールの出口まで一目で見渡せた。首を反《かえ》せば、ヴィナスの台座の上も見えた。しかし、どちらにも、博基の探すものの姿は跡形もないのであった。  監視員らしい男が、何かを叫んでいた。だが、そんな声は博基の耳には入らなかった。博基は人の肩につかまりながら、手摺の上を、ヴィナスの後側が見える位置まで一気に歩いた。気がはやっていた。崇男を探さなければ、としきりに思った。そんな博基の眼に、ヴィナスの腰布の裾先《すそさき》で、チラッとしたたるような青い光の動きが見えたのである。 (帰ってこいっ)  夢中で彼は叫んでいた。言葉にはならなかったが、聞こえた筈だと、博基は思った。  だがそれっきり、台座の上は森閑《しんかん》としてただ白く、塵影《じんえい》一つ舞わなかった。  眼の迷いだったのか……。 (どこへ消えたのか……)  博基は混乱した頭でそう思い、思いながら、再び崇男を求めてホールの出口へ眼を投げ返そうとした。はずみで、博基の足は手摺を踏み外して宙に泳いだ。  転落の時、博基は見た。いや、見たと思った。  ヴィナスの高く前方にもたげた左足が、瞬間、腰布の裾の奥で微かに或る意志をおびて動いたのを。 ≪ミロのヴィナス≫は、右足をぴたりと地面につけ、左足は前方に浮かして、滑りおちんとする腰布をその逞《たくま》しい大腿《だいたい》部で辛《かろ》うじて支えとめている。世に有名なポーズである。この左足は、すべて大理石の布垂れの奥にかくれて見ることはできない。外部からは、布の中で、彼女が左足裏の踵《かかと》をわずかに浮かせて遊ばせている風情《ふぜい》が想像できるだけである。  博基が見たと思った足は、この大理石の布の中で遊ばされている左足だ。見える筈のないその左足裏の踵《かかと》で、なぜか、彼女が何かを踏み潰《つぶ》すのを確かに見た、と博基はこの時思ったのだった。  そんな気がした。ヴィナスが、蜥蜴《とかげ》を踏み潰したのだ、と。  それ以外に、消えた蜥蜴《とかげ》の行方は納得しようがなかったのである。  ……その日、江藤博基は、昏《く》れおちて闇が上野の森をとざしてからも、雨の美術館前庭を立ち去らなかった。 「待ったか?」  と、崇男は、何事もなかったように帰ってくる筈であった。こない筈はないのであった。  また、どこかにもし生きていれば、あの小さな|青い海《ヽヽヽ》も、足許の水溜りをはねあげて、すばしこく博基の眼先をよぎってみせてくれる筈だった。 (あのヴィナスが、踏み殺してさえいなければ……帰ってくる筈だ)  博基は一人、闇の雨の森を動かず、いつまでもそう思った。  雨は、熄《や》まなかった。     4  四月八日に蓋《ふた》を開けた『世紀の≪ミロのヴィナス≫展』は、五月十五日には東京展示を打ちあげた。ヴィナスは、二十一日からの京都公開に向かうため、再び特別装備の白い頑丈な木箱におさめられ、東京を発《た》った。  博基は、この年の春の一カ月余を、ほとんど毎日上野公園でついやしたと言っていい。  江藤の家には、ただ寝起きに帰るだけであった。学校に出ていても、連日上野の森へ押しかける人波を思っただけで、いても立ってもおられなかった。こうしている間にも、崇男があの裸像の前にたたずむのではあるまいかと、気は転倒するのだった。  五週間で八十万人の入場者を動員したというヴィナス騒ぎであったから、花の時期にもかさなった上野公園が、毎日|十重二十重《とえはたえ》の人の列で埋めつくされたのも当然である。  博基は一日中、その人出と行列の間を歩きまわっていた。  刃物を突きつけ、また突きつけられして、どちらもヴィナスを見あげていたあの若い二人の男の顔が、絶えず並んで博基の脳裏を出入りした。  あの折の顔が、崇男を見た最後であった。  捜素願は、婆やの昌《あき》の手で出された。  法律では、失踪《しつそう》宣告を受けた者は、七年間満了の後、死亡したと看做《みな》されるという。  江藤崇男は、あの春の|寒の戻り《ヽヽヽヽ》の雨の日から、すでに九年、博基の前には姿を現さないのであった。     5  昭和四十八年三月二十二日。  江藤博基は、満二十歳の誕生日を、婆やの昌《あき》と二人で迎えた。  崇男の消息は、まるでわからなかった。  駒込の家の庭は、特に手入れが行きとどいているとは言えないが、崇男がいた時と同じ程度に、|荒れ《ヽヽ》はきちんと落してある。手を入れすぎることも、入れなさすぎることも、博基はしなかった。あずかっている庭、あずかっている家──その思いが、いつもしっかりと博基の胸の内にはあった。 「駄目ですよ。出掛けたりしちゃ。今日だけは、この婆やにつき合って下さらんと」  婆やの昌は、上半身裸で鉄亜鈴《ダンベル》を上げ下げしている庭先の博基へ声をかけた。 「わかってるって。だからこうして、強化合宿抜け出してきてるんじゃないか」  昌は不意に泪ぐんだ。もうすっかり総白髪の小さな脆《もろ》い体をしていた。 「そらきた。アキさんの今日の泣き初《ぞ》めだ」 「だって、声まで崇《たか》さんに似てきなさるもの……そうやってなさると、まるで崇さん」  博基は笑って、上膊筋《じようはくきん》を盛りあげてみせた。 「お兄ちゃんもココ、こんなだったかい?」 「わたしは|モリモリ《ヽヽヽヽ》は嫌いです。トンボ返りも|ウルトラC《ヽヽヽヽヽ》も、みんな嫌い。毎日毎日、あんな鉄棒の軽業《かるわざ》みたいなまねやってなさると思ったら、もう夜の目も眠れません」  博基は、鉄亜鈴《ダンベル》を把んだまま広縁までやってきて、昌の傍へ腰掛けた。 「ごめんよ」と、急に真顔になって、そして言った。「おれ、頭の出来がちがうからな。お兄ちゃんの代りはとても勤《つと》まらないよ。そのかわり、怪我だけはしないようにするからさ」 「いいえ」と、昌はまた鼻をつまらせ、目を細めて博基を見ながら、首を振った。 「体操選手が怪我を恐れてどうします。わたしはもういくじがないから、博《ひろ》さんが何をしなさってもハラハラしどおし……でも、こんな年寄りに構《かま》ってなさったらいけません。崇さんは、よういってなさった。『あの子が鉄棒の上で、|ウルトラC《ヽヽヽヽヽ》をジャンジャン見せてくれるようになったら、この家の血も変るだろうな。そしたら、この家にも春がくるよ。パッとくるさ。あの子が一人で、この家を沸《わ》かせてくれるよ。賑《にぎ》やかにしてくれるよ。今に見てごらん。きっとそうしてくれるから』」  昌はいきなり顔をおおった。猫のように背を丸め、はげしく咽《むせ》んだ。 「その通りだと、思ってるんですよ……」  博基は無言で、そんな昌をみつめていた。言葉がうまく口から出てきてくれなかった。 (この家の血……)と、胸の内で、その言葉を反転させるしかなかった。  江藤の家に博基が入籍して、すでに十二年──その間、現在に至るまで、博基が一度も覗いたことのない部屋が、その家には一つだけあった。  庭に面した廊下ぞいの一番奥の洋間だった。崇男の父親がアトリエに使っていたという部屋である。窓も扉も厚い板で頑丈に釘づけされていて、昔は大きく切ってあったという天窓も、瓦葺《かわらぶ》きにふきかえられている。 「親父の仕事道具が入ってる。俺たちには必要ないものだ」と、崇男はいつか言った。「とにかく、ここへは入るな。まあ入ったって、お前には興味のないものがつまってるだけだがな」  博基は、崇男が入るなといえば、それを守る人間だった。しかし、崇男がいなくなってからは、何度かこの部屋に入ってみたいと思わないわけにはいかなかった。≪ミロのヴィナス≫と崇男が結びつきそうな糸《ヽ》は、ただ一つ、画家だったという父親しかないではないか。博基は何度か、昌にそれを言い、必死に頼んだ。だが昌は、その度にこう言った。 「崇さんがそう仰言《おつしや》ったのなら、わたしにも開けることはできません」 「だってお兄ちゃん、いなくなっちゃったんだぜ。アキさんは心配じゃないのかい? いつまで待ったって、帰ってこない。僕が探さなきゃ、誰がお兄ちゃん探せるんだ!」  博基が確か、中学生の頃であった。  昌は黙って、泪《なみだ》ぐんでいるだけだった。 「捜索願出した時だってそうだ。あの若い男のことは言うなって、アキさんは言った。僕も、刃物持ってたのはお兄ちゃんの方だったし、それを言うのが怖《こわ》かったから、ただ会場ではぐれたって言ったんだけど……何もかも、ちゃんと話した方がよかったんだ」 「博さんは……」と、昌はそれには答えずに言った。「どうして蜥蜴《とかげ》の餌箱《えばこ》を、今でもお部屋に置いてなさるの? 網の破れたあの箱を、どうして大事にしまってなさるの?」  博基は一瞬、昌を見た。 《よし。じゃ今日帰ったら、直してやるよ》  崇男がいなくなった日に、雨の行列の中ではっきりと、博基に約束した餌箱だった。 「直してもらうんでしょ? 崇さんに。帰ってきなさると……信じてなさるでしょ? その時に、刃物沙汰のことが知れてたら、崇さんの傷《ヽ》になりませんか? あの人は、間違ったことのできる人じゃありません。心のやさしい……やさしいお人です」 「わかってるよ、そんなこと!」と、中学生の博基は苛立《いらだ》って、言い返した。「でも、お兄ちゃんにもしものことがあったら……どうするんだい!」  |もしものこと《ヽヽヽヽヽヽ》が起こったからこそ、崇男は帰ってこないのだ──博基も昌も、ほとんどそれを疑ってはいなかった。いなかったが、現実に承認することはできなかった。  何度も繰り返してきたいさかいである。  昌は泣き、ただ泣いているだけの昌をみると、自分よりも何十倍も長くこの家に住み、何十倍も詳《くわ》しく崇男を知っている筈《はず》のこの女が、そうしろというのなら、そうすることが一番いいのかもしれぬ、とも博基は思ったのであった。崇男がいなくなってから、昌は日に日に小さな凋《しぼ》んだ女になっていった。一皮ずつ精気の皮を剥《は》がれ、小さくなっていく昌に、博基は自分よりももっと深い心痛の跡を見る気がするのだった。 「どうしてもと言いなさるなら、博さんが大人になんなさった時にして下さい。そしたらわたしも、もうとめはいたしません。この家の、立派な跡取りがなさることですからの」 「跡取りなんかじゃないよ、僕は!」  博基は憤然として言い返した。なぜか、泪が両眼にあふれた。「もういいよ」と、そして首を振った。「開けなくったっていいよ。見ないよ。見たいとは言わないよ」  昌は、また泣くのだった。 「崇さんが、自分の手で閉《と》じなさったお部屋です。きっと、博さんにも、見てはほしゅうないお部屋じゃないでしょうかの……」 「わかったよ」と博基は、むしろ自分自身に言いきかせでもするように答えたのだった。  その日以来、博基は、この部屋のことは決して口にはしなくなった。  崇男の父親は、画壇ではかなり高名な日本画家である。だが、江藤の家には、その絵はなぜか一枚も残っていない。崇男がすべて処分してしまったらしい。無論博基は、この画家の絵を見られるだけは見て廻った。美術館、画廊、所蔵家の手持ち、雑誌や書籍、画集に残されているもの……などである。典雅《てんが》華麗、繊美淡彩《せんびたんさい》な風景画や美人画が多かった。  絵には素人の博基だったが、見|漁《あさ》った限りでは、古代ギリシャの女神像≪ミロのヴィナス≫と重なりあうような要素は、その作品や作風からは見つけ出すことはできなかった。六十五歳の年、制作中に脳卒中で死亡──結局、その程度の知識しか、博基は持ち合わせてはいなかった。  持ち合わすことが崇男への裏切りになり、裏切らなければ崇男を知ることができないとしたら、博基には、どちらの道も選べないのであった。 (この家の血……)  それを崇男は、あの部屋に封じこめたのだ、と博基は思った。思って、ただ手も足もだせず暮らすだけだったのだ。 「さあ、もう泣きはしませんからの。二十歳になんなさったお祝いの日ですからの」  と、昌が背をかがめて立ちあがろうとした時だった。裏庭の方角で人声が起こった。 「何だい? あの騒ぎ……」 「ああ」と、昌は和《なご》やかな、生き返ったような表情になった。「植木屋がきたんですよ」 「植木屋?」 「ええええ、そうですよ。桜の木を持ってきたんです」 「桜の木って?」 「このお庭に、桜の木が入るんですよ」  昌は弾《はず》んだ声でいうと、急にしみじみとした目を放って、広い庭内を見渡した。 「崇さんからのプレゼントですよ」 「お兄ちゃんのっ?」  博基は、咽《のど》のつまったような声をあげた。 「そうですよ。崇さんがいなさったら、崇さんがなさったことです。ヒロキが成人する日がきたら、この庭に桜の木を入れるからねって、もう先《せん》から言うてなさった……そりゃ、楽しみにしてなさった。すぐに花が咲く大きな木にしようって……大きな木がないんですよ。ずいぶんあちこち探したんですけどね。崇さん、きっと怒られるでしょうけど、かんにんしてもらいましょう」 「アキさん……」  博基は棒立ちになったまま、拳《こぶし》を強く握りしめていた。全身に火のようなものが湧いた。 「アキさんじゃありません。今日からは、アキと呼んで下さい。あなたはもう、この家の立派な主《あるじ》なんですからね」  唐突に博基は、目頭を拭《ぬぐ》った。みなぎり出るものがおさえられなかった。 「教えておくれよ! おれは一体……何者なの? どうしておれを拾ってくれたの?」  叫ぶような声だった。  長年、口に出したくて、出せなかった声だった。  昌は暫く、そんな博基を見つめていた。 「拾いなさったんじゃありませんよ」と、やさしく首を横に振った。「しんから、一緒に暮らしたいと思うてなさったんですよ」 「だからなぜなの! なぜこのおれを!」  長い間、心の底におさえこみ、わだかまっていた言葉であった。 「アキさんには隠してたけどね……」と、博基は言った。「おれ、中学の時一度、昔の施設を訪ねたことがあるんだよ」  修学旅行の帰途であった。大阪で途中下車した。施設の園長はもう亡くなっていて、顔見知りの古い保育婦長がいた。博基は彼女に食いさがった。だが、結局何も聞きだすことはできなかった。 「だったら、お袋の名前だけでも聞かせて下さい。お袋がここへ預《あず》けたんでしょ? 知りたくもない名前だけど、自分の名くらいは言って行ったでしょう」  保育婦長は、黙って博基を見まもっていたが、やがて彼を、園庭の門の脇に立つ古い桜の大樹の下に連れて出たのであった。 「あなたももう子供やないのやから、話してもええでしょう。あなたはね、この桜の木の根元で生まれたのよ。園長さんが見つけはって、博基と、名前もつけてくれはったのよ」 「捨てられたんですね?」  と、博基は意外に平静な声で念をおした。 「やっぱり……捨て子やったんか」と、そしてふと自分の口をついて出た関西|訛《なまり》の呟《つぶや》きが、今不思議に鮮明に耳の奥に蘇《よみがえ》ってくるのだった。 「ねえ、アキさん」と、博基は言った。「お兄ちゃんは、どうしておれの面倒見る気になったんだい?」 「そうですか……」と、昌は独りごちた。 「それで桜の木をと仰言ったんですね……」 「じゃ……アキさんは、知らなかったって言うの?」 「そうですよ」と、昌は静かに首肯《うなず》いた。「今はじめて聞くんですよ。崇さんはね……ただ、こう言いなさっただけなんです。『アキ、俺に弟が一人できるけど、いいね? |きかん《ヽヽヽ》子だぞ』って」 「……それっきり?」 「そうですよ。それでわたしは充分です。崇さんが、あんなに晴々として、楽しそうに物を言いなさったのは久し振りのことでしたからね」  昌はちょっとの間、遠くを追う眼になった。 「わたしはね」と、そして言った。「博さんの方が、崇さんを助けてくれなさったと思ってるんですよ」 「助ける?」博基は怪訝《けげん》な顔をした。「おれが?」 「ええ、そうですよ。博さんがきてくれなさらなんだら、あんな……あなたが知ってなさるような、あんな明るい崇さんは、一生見られやしませんでしたでしょうからね……」 「?」  博基が口を開きかけた時であった。庭職人たちがドヤドヤと入ってきた。昌は立ち上り、そっちの方へ声をかけながら出て行った。  突然、施設の庭で年々満開の花を吹きこぼしていた桜の老樹が、博基の眼前に蘇った。  無心に遊び馴《な》じんだ頃の美しい花樹であった。     6  昌が釘抜きと長い赤|錆《さ》びた鍵を博基の前に置いたのは、その日の午後、植木職人たちが帰った後のことである。  博基は瞬間、かすかな恐怖に襲われた。 「いいよ……」と、反射的に押し返した。 「いいえ」と、昌はたじろがない声で言った。 「博さんが成人しなさったら、博さんの手でここは開けていただこうと思ってました。この家の厭《いや》なことは……みんな、この部屋で起こりました。いつも、ここでした。何もかも、ここでした。それが怖かったんですよ。あなたを迎えるために、崇さん、ここを釘づけにしなさった……あなたに、この部屋とは関係のないところで、大きくなってほしいと思いなさったからですよ。崇さん自身も、そうなりたいと……思ってなさったんです。でも、蓋《ふた》を閉《し》めてとじ込めてたら、この部屋はいつまでたってもここにあります。誰かが開けて、風を通して……何でもない、ただの部屋にしてしまわなきゃ……。崇さんにも、わたしにも、それが出来ませんでした。あなたが、それをしてくださる日を、待っていたんですよ」 「おれに……どうしてそんなことができるの」 「あなたはもう、立派な一人前。崇さんがいなくても、ちゃんとこの家をみてくれてなさってるじゃありませんか」 「それは、アキさんがやってくれるからだよ」 「いいえ。この家の物は、みんなあなたの物なのに、自分で働いて、アルバイトをしなさって、大学にまで入りなさった。好きな体操選手にもなりなさったじゃありませんか」 「そうじゃないよ。お兄ちゃんに黙って、ずいぶんこの家のお金も使わせてもらったよ」 「当り前のことじゃありませんか。そのために、崇さんはあなたを江藤の人間にしなさったんだから」 「お兄ちゃんの代りが勤《つと》まるようなことは、何もしてないよ」 「いいえ。今日からは、この江藤のお家のことは、みんな博さんに取り仕切ってもらいます」 「できないよ、そんなこと」  博基は慌《あわ》てて、昌を見た。 「できなくても、していただきます。あなたは、この家の当主なんですからね」 「アキさん」 「当主が」と、アキは言った。「自分の家の内に、知らない部屋があったでは、済みますまいがの」  昌はそう言って、赤く錆びた長い柄の鍵をしっかりと博基の手に把《つか》ませた……。  部屋は、十畳近い板張りの床とペルシャ絨毯《じゆうたん》敷きの洋間、その奥に一段高床の日本間画室とが続き部屋の感じに同居していた。時代物の長椅子、キャビネット、背高椅子、書棚……など、凝《こ》った造りの家具や調度品の間を埋めて、書籍や絵画関係の道具類|一切合財《いつさいがつさい》が、この一室に集められ詰め込まれて、足の踏み場もないほどだった。  黴《かび》とほこりの湿気た臭いが澱《よど》みついているその部屋の中へ、一歩踏み込んで、いきなり博基の眼を射たのは、白い等身大の一つの石膏《せつこう》彫刻の立像であった。  その彫刻像は、薄闇の奥で、古風な緋色《ひいろ》の天蓋《てんがい》がついた寝台の傍に立っていた。 (ミロのヴィナス)  と、瞬間、博基は昂奮しながら眼をみはった。だが、よく見ると、そうではなかった。  その女人像は、二本の優美な腕を持っていた。つまり、両腕のある裸婦が、腰から下にまつわり落ちんとする薄布を纏《まと》ってたたずんでいる像なのであった。 「ミロのヴィナスですよ」  と、しかし、昌は言ったのである。言うと、静かに近づいて行き、こともなげに、その両腕を石膏像の体から抜き取ってしまったのだ。 (ヴィナス……!)  そこには、まぎれもない、|腕無し《ヽヽヽ》の上体をやや右に傾け、ゆるやかに胴をひねって露出した右腰をひきあげながら、まさに落ちんとする腰布を浮かせた左大腿部で辛《かろ》うじて支えとめている。あの遥かな神秘の彼方を見つめて立つ有名な美神像の姿が出現したのであった。 「旦那様の、これがご趣味なんですよ」と、昌は言った。「このヴィナスの両腕を、元通りに復元させることが、旦那様の楽しみになさってたことでした。いえ、趣味なんてものじゃございません。楽しみや片手間の道楽にしなされることじゃございません」  昌はそう言って、天蓋つきの寝台の横の壁に嵌《は》め込まれた両開きの戸棚を開いた。扉はほこりを舞いたたせ、重い悲鳴のような軋《きし》みをあげた。博基は、思わず息を呑んだ。  幾百……いや、千を越すと思われる無数の腕《ヽ》が、その奥の棚の曚《くらが》りにひしめいていたのである。 「これは、お気に入った物のほんの一部です。出来の悪い腕は、みんな砕いておしまいになりましたから……」  博基はなぜか、急に引き返したいという衝動にかられた。今すぐ、この部屋を出なければ、と理由もなく思った。小さな戦慄《せんりつ》が湧いた。 ≪ミロのヴィナス≫は別名、≪謎のヴィナス≫とも言われている。美術史学界に、永遠の論議を繰り返させている彫刻像である。  一八二〇年四月八日。エーゲ海メロス島で、畑仕事をしていた一農夫によって発掘されたこの美神像は、その素姓《すじよう》、その作者名、その制作年代、すべてに識者間の異論があり、結局、現在に至るもそれらは未解決である。  わけても、最も花やかな謎の中心点は、このヴィナスの劇的な両腕の欠損にある。  発見直後、トルコ船とフランス軍隊の奪い合いに遭《あ》った際、破損したとか、発掘当時すでに両腕は無かったのだとか、また、ヴィナスの発掘現場近くから出た二、三箇の腕の断片や、林檎《りんご》を持った手の彫刻片が、このヴィナスのものなのだとか、そうではなく全く別像のものだとか……とにかく、おびただしい臆測《おくそく》と伝説に包まれている。  それはともかく、謎の花々しさはこの女神像の腕の復元に集約されると言っていい。  腕は、|上っていた《ヽヽヽヽヽ》か|下っていた《ヽヽヽヽヽ》か。何かを持っていたかいなかったか……その持物は、ヴィナスの象徴物〈林檎《りんご》〉だったか。恋人の軍人アレスの〈盾《たて》〉だったか。或いは海神の〈三叉の鉾《ほこ》〉だったか。また、彼女は何をしているのか……水浴前後のヴィナスか。盾に姿を映している化粧のヴィナスか。人目に驚いて顔をあげた驚愕《きようがく》のヴィナスか。更には、このヴィナスは単像ではなく、軍神アレスと並んで立つ二人像の片割《かたわ》れなのではなかったか……。  これらの謎は、ひとえに、その欠落した二本の腕の先にあったであろう筈の、見えない手とその動き一つにかかっている。  いわば≪ミロのヴィナス≫は、その無腕の腕の想像一つで千変万化する、見えていて見えない幻《まぼろし》のヴィナスとも言えるのであった。 「この石膏の腕が……」と、昌は言った。「崇さんのお母さんを殺したのです」 「ええ?」博基は、虚をつかれた。 「崇さんを生みなさった直後でしたわ。難産で、産褥熱《さんじよくねつ》がひどうて……そりゃお苦しみでしたの。その奥様を、この部屋に立たせて、腕のモデルにしなさったんです……思いつくと、矢も楯《たて》もない旦那様でしたからね……」 「でも」と、博基は生唾《なまつば》を呑んだ。「モデルなら、他の人を頼んだらいいじゃないか……」 「ヴィナスの腕は、奥様でのうては駄目なのです。ヴィナスに似た体とお顔を持ってなさったからこそ……奥様にお貰《もら》いなさったのですからね」  博基の体から血の気がひいた。 「二日目にお亡くなりになりました……」と、昌は言った。「お亡くなりになる前、奥様はこう仰言いました。『あの人を責めては駄目よ。あれがあるから、あの人、好きでもない日本画が描《か》いておれるんだから。世間では、あの人の彫刻なんて見向きもしないけど……ほんとはあの人、彫刻でこそ身を立てたかったんですからね』……」 「二年ばかりしてからでしたでしょうか……」と、昌は言葉をついだ。「代りの女が、この部屋に出入りするようになりましてね……」  博基は、咽に渇きをおぼえた。 「それも……ヴィナスに似てたんだね?」 「さあ……わたしにはそうも思えませんでしたがの……|なり《ヽヽ》の大きい、気性の強い女でしたわ。子供ができましての……」 「子供?」博基は、ビクンとした。 「どこかに家を持たせなさったようでした。子供を連れて、その後もずっとここへは来とりました。子供の方は崇さんともすっかり馴《な》じんで、いつも一緒に遊んどりました……わたしは厭でしたがの……崇さん、一人っ子で遊び相手もありますまいがの? でも、小学校にあがる時分から、女もさすがに子供連れでは来んようになりました……」  昌の話では、画家が崇男にデッサンを始めさせたのは、この頃だったと言う。デッサンの対象は、いつも≪ミロのヴィナス≫だった。 「このヴィナスが満足に描けんようでは、画家にはなれんと……そりゃもうつきっきりで、明けても暮れてもヴィナスでした……」 「じゃ、お兄ちゃん……絵かきになるつもりだったの……?」 「はい。最初の内はそうでした。夢中になると、旦那様は打つ、蹴る、殴る……それでも、中学を卒業する頃までは、崇さん、よう辛抱しなさいました……。その頃でした。次の新しいモデルがやってきたんです」 「それも……ヴィナスの腕の?」 「はい。きた当時は、まだ十七、八の……若い、はちきれるような……体だけは立派な子でしたがの。この女が、疫病神《やくびようがみ》でした……」 「疫病神?」 「はい。今でいう、フウテンみたいな……頭の弱い、そのくせ色事の好きな、自堕落《じだらく》な女で……一、二年して、ふっと姿を消したかと思えば、また二、三年してケロッと顔を見せるような……そりゃもう気楽な、恥も外聞もないような女でした。最初の女とこのフーテンと……取っ掴《つか》み合いのスッたモンだはしょっちゅうでした。そんな暮らしが、長いこと続いたんです……」  昌は何か、恐ろしげにふと小震《こぶる》いした。  或る日、画家とフウテン女がベッドで痴戯《ちぎ》にふけっている現場に、古い女の方が血相を変えて乗り込んできたのだという。女はフウテンを引きずりおろしながら、わめいた。 「この色気狂いっ……親子|丼《どんぶり》っ……ここの家の親子だけじゃ食い足りんのかっ……畜生っ、ウチの息子にまで手をつけやがってっ……まだ高校生だよっ……このあばずれっ……人でなしっ……」  画家はさすがにその言葉に仰天し、ぶるぶる震え立ちながら、奇妙な唸《うな》り声を発して女達へとびかかった。たちまち三つ巴《どもえ》の騒動となり、この直後に、部屋は急に静かになったという……。  昌は、想い出したように頭《かぶり》を振った。手で顔をおおっていた。ヴィナスの傍の緋色の天蓋つきベッドは、その時一瞬|瘴気《しようき》を放ち、悪夢が立ち搦《から》むようであった。 「……脳卒中、だったんだね?」  と、博基は、寒気《さむけ》を感じながら、呟《つぶや》いた。 「いいえ」と、昌は、言った。 「子供の母親の方に殺されなすったんです」 「何だって?」 「そりゃまあ、過《あやま》ちではありましたでしょうがの……母親は石膏の腕を把《つか》んどりました。物のはずみでしょうけれど……旦那様は後頭を打たれなさって、死んどられました。……二人の女にはよう言い含めましての、世間では卒中いうことになっとりますの……」  博基は暗然と、言葉もなかった。 「母親の方は二日後に、ガス管くわえて死にました」 「死んだ?」  部屋の内は静まりかえって、ふと足許を冷えがのぼってくるようだった。 「自殺したの?」 「はい」  博基は身じろいだ。  博基の頭の中を黒い影が走った。 「アキさん」と、博基は振り返った。「お兄ちゃんが……刃物突きつけてたの……その女の息子だね?」  昌は、俯《うつむ》いて咽《むせ》んでいた。 「崇さんは」と、咽びながら言った。「祐介さんに、何度も何度も仰言ったんですよ。この家に来い、一緒に住もうって……祐介さん、まだ高校生でしたからね。でも、『自分は一生、こんな家の世話になるつもりはない。赤の他人だと思ってくれ』……そう言いなさったそうです。遺産分けも、突っ返してこられました。それっきり……消息を絶ってしまいなさったんです」 「ユウスケ……って、いうんだね、その人」  博基は、九年前、ヴィナス展示館で自分の背後にいた鼻筋の強健な、短い髪の、若いけだものじみた男の顔を想い出していた。 「……その頃、東京のあちこちでね」と、昌は言った。「美術品の店やデパートの陳列部が荒される事件が、ちょっと新聞沙汰にもなったんですよ。ミロのヴィナスの模像が、片っ端から壊されたんです……犯人は、わからずじまいでしたけどね……」 「ヴィナスの模像……」博基は眼を瞑《つぶ》った。  そういえば、このヴィナスほど、世界中に大小雑多な模像や石膏像がばらまかれている美術品はあるまい。どこに行っても、≪ミロのヴィナス≫は氾濫《はんらん》している。この家にある等身大のヴィナスも、その内の一つだった。  叩き壊しても、壊しきれない無数の≪ミロのヴィナス≫が、この世にはあった。本物ではない、偽《にせ》のヴィナスだ。本物がつくり出す無数の分身だ。叩き壊したところで甲斐《かい》のない、いわば無限のヴィナスの影《ヽ》だ。このヴィナスから逃げ出すことなど、不可能だった。  逃げ出そうとした祐介の、若い必死な姿が眼に浮かんだ。  ──空気銃を持った男。  ──横浜港で、双眼鏡を眼から離さなかった崇男。  博基には今、あの時見えなかった……聴こえなかった一発の銃声の鋭さが、俄《にわか》にわかり、擦過《さつか》して耳殻《じかく》で炸裂《さくれつ》するのであった。 「そうですよ」と、昌は言った。「きっと、崇さんは必死でとめてなさったんですよ。あの人が他人《ひと》に刃物を突きつけなさる……それは|よくせき《ヽヽヽヽ》のことですよ。そうしなきゃ、祐介さんはとめられなかったんですよ。わたしにはよくわかります。祐介さんを一人ぼっちにして放り出しなさったことを、そりゃ崇さん、どんなに後悔してなさったか……崇さんのせいでも罪でもないのに、自分を責めて……可哀想なことをした……アイツが可哀想だって……口癖のように言うてなさった。その祐介さんを、やっと見つけなさったんだもの……崇さん、離れられないんですよ。目が離せないんですよ……」  睨《にら》みつけるようにヴィナスを見あげていた祐介の顔が、眼前に想い出された。憎しみにもえた顔であった。 「祐介さんがどんな暮らしをしてなさるか……いえ、どんな暮らしをしてなさろうと、崇さんも、その同じ暮らしをしようと決心しなさったんですよ、きっと。そういう人です、崇さんは。一生懸命……他人《ヽヽ》じゃない、血の通《かよ》った兄弟になりきろうとしてなさるんですよ……」  昌は、また小さくなって肩を丸めて、泣いた。  |ヴィナス《ヽヽヽヽ》が今、この家をさんざんに踏み荒し、蹂躙《じゆうりん》しているのを、博基は感じた。蜥蜴《とかげ》を踏み殺したヴィナスであった。 「でも」と、博基は、自分ではわかっていながら、しかしそれを口にせずにはおれなかった。 「だったら、連絡くらいしてくれたっていいじゃないか。生きてるって……一言、しらせてくれたっていいじゃないか!」  天涯《てんがい》孤独の祐介と、同じ暮らしをしようと決めた崇男に、連絡先などあり得よう筈はなかった。それはよくわかった気がした。わかった自分が、むしょうにかなしかったのだ。  開《あ》かずの部屋は、やはり開けずにおくべきだったか……。 (崇男……祐介……博基)  博基はふと、理由もなく、三つの名前を頭の中に並べていた。  並べたことに別に意味はなかったが、並べた後で、意味はできたような気がした。それは奇妙に、恐ろしい瞬間だった。     7  横浜市中区、横浜文化体育館で行われたN杯争奪体操競技会第一日目の男子規定問題で、江藤博基は、総合順位六位という予想外な高位置に、自分の名前をほうりあげていた。  ほうりあげるという表現は、博基の場合ぴったりだった。オリンピック選手など一流の顔ぶれが出揃うこの競技会で、N杯争奪には初出場、どちらかといえば着実に辛抱強く技《わざ》をまとめていく博基のような無名選手が、蓋開け早々いきなり獲《と》れる成績ではなかった。幕が上ったら、思いがけない高みにほうりあげられていた自分を、博基も感じた。  中一日おいて、自由問題の日の朝、博基は、しかしごく平静な状態で宿舎をでた。彼が、横浜の朝の街角で、ほんの束の間気まぐれにわき目をふりさえしなければ、この平静さはそのまま会場まで持ち込まれた筈である。  場内には、一日目には感じなかった蒸し暑さがみなぎっていた。博基は、動転している自分を感じた。炭酸マグネシウムの白い粉が、何度はたいても掌《てのひら》で溶《と》け出した。得意の|あん馬《ヽヽヽ》が、早めの種目に組まれていたことも、かえって博基には不運だった。普段なら、馬体を眼の中心にひき据《す》え、ゆっくりと第一手をさしのべて触れたとたん、不思議に落着く筈の気持が、逆に火のようにもえたった……。  それは、何気なく見あげた街角のショー・ウインドウだった。黒のディスプレーに真珠の環や首飾りが硝子の奥に見えたから、多分、貴金属品店かなにかの陳列コーナーだったにちがいない。黒|天鵞絨《ビロード》の上の硝子に、博基は呆然とその人影を眺め、それからやにわに振り返ったのだった。  奇妙な衝動と、奇妙な懐かしさが、爆発しそうに咽《のど》元へ向かって駈けのぼってきた。束の間、博基は動けなかった。 (人違いではなかった!)と、何度も思った。  しかし、振り返った向かい側の歩道には、もうその人影は見つからなかった。  何か黄土《おうど》いろの作業衣のようなものを着ていた。長い格好いい足と、ちょっと猫背に首をかしげてポケットに手を突っ込んでいたその姿は、見間違える筈のないものだった……。  会場へ入ってからも、博基は夢中で客席を見廻した。どこかにいるんだ、とそして思った。どこかにいてくれることを、祈りつづけた。その昂奮が、博基を逆上させていた。  手許の馬体が、絶えず長く飴《あめ》のようにゆがんで見えた。(いいんだよ、お兄ちゃん)と博基はその馬体の上で、辛抱強く旋回にたえながら、心で必死に話しかけた。(おれはいいんだ。お兄ちゃんが帰ってこれるようになるまで……待ってるからね……いつまでも、おれ、待ってるからね)  博基は、高くフィニッシュ前の腰を宙に振りあげて浮上した。腕が突然ガクガクと鳴った。鳴ると同時に、馬体の表を横にすべった。反転しながら、博基の体は雪崩《なだ》れるように床の上へ胴から落下したのである。  |あん馬《ヽヽヽ》のつまずきは最後まで恢復せず、その日最終種目をおわった博基は、規定問題の高得点をすべて吐き出した形となった。  だが博基は、どの競技会の時よりも晴々とした顔をしていた。法外な規定問題の得点があったからこそ、自分の名が有名選手と肩を並べて新聞紙上に発表されたのだ。そのことが、この日をつくってくれたのだと、博基は思った。それだけで、満足だった。  演技を終って、博基が自分のベンチへ引揚げて来た時だった。ドッと会場が沸き立った。鉄棒のコーナーで、スター選手が空中に舞っているところだった。見るともなしに、博基もその曲芸技に視線を向けた。その視線の先で、階上席のドアから消える作業衣の男の後姿をチラッと眼に捉《とら》えたのであった。瞬間、猛然と博基は走り出していた。  体育館の表玄関をとび出たところで、博基は、運送トラックの運転席へ乗り込む作業衣を見た。しかしトラックは、そのまま走り去って行った。  江藤博基が、U運送会社の営業所を訪ね、その足で江東区亀戸の古い木造アパートを探し出すことができたのは、翌々日の日暮れ近い時分であった。  土足でそのまま上っていける二階の一番外れの部屋は、訪ねた時、誰もいなかった。一時間ばかり、博基はその部屋の前で待った。薄暗くなって、見覚えのある作業衣が上ってきた時、息のとまる思いをしたが、それは崇男ではなかった。男はちょっと博基を見、きわめて無感動な顔つきで、そのまま部屋へ入って行った。博基はその戸へ走り寄った。 「阿部祐介さんですね?」 「そうだよ」  と、男は表情のかけらも浮かばない顔で、やはりちょっと博基を見返しただけだった。 「江藤崇男に会わせて下さい」 「いないよ」  と、男は言った。こともなげな口調だった。  赭《あか》黒い疲れた皮膚に、九年の歳月があった。もう若くはないその顔に、博基は不意に崇男を重ね合せて、胸がつまった。 「申し遅れました。僕は……」 「待て」と、男はニべもなく遮《さえぎ》った。「お前さんの名前なんかに興味はない。待ってたって、アイツはここにはもう帰っちゃこないぜ」 「こない……と、いいますと?」 「出てったのさ」 「出てった?」  博基は、小さな悪寒《おかん》を感じた。 「そうさ。俺の女とな。出てったのさ」 「女?」  男は煤《すす》けた硝子窓をガラッと開け、そこからチッと痰《たん》をとばした。 「お前さんに見つかったんで、あいつ泡食ったっていうことさ」 「何ですって……?」 「つまりな」と、男は胡座《あぐら》を組みながら言った。「俺の女を、お前さんに会わすことができないんだよ、アイツにはな。ばかな男さ。手前《てめえ》一人で苦労|背負《しよ》って歩いてるんだからな」 「あ、あなたの女ってのは……」  博基の声はうわずっていた。 「くだらねえ女よ。四十婆さんでよ、年がら年中乗っかっててやりゃ喜んでる女さ。それでも昔はまだ抱きがいがあったけどよ……お前さんの家《うち》に、腕無しの石膏女《ヽヽヽ》がいるだろ。あいつにそっくりの体つきでよ。虐《いたぶ》る分にゃもってこいの女だった」ハハハ……と、男は空笑《からわら》いのように頤《おとがい》を揺すった。「ちげェねえ。あんな女に構われてたらよ、碌《ろく》なことはねえ。嬲《なぶ》って暮らしてるうちによ、このザマだ。お前さんにゃ近づけられねえよな。あんな女がお袋でいちゃ、人生闇だ」  博基は、足下の床が落ちるような浮遊感の中にいた。 「あの堅物《かたぶつ》の崇男サマがよ、手もなくコロッと筆おろしさせられちまった位の女だ。その寝物語によ、あんたの弟を施設の庭に捨ててきたってケロリと喋《しやべ》れるような女さ……」 「教えて下さいっ」と、博基は殆《ほとん》ど暴力的に叫ぶように言った。「お兄ちゃんはなぜ……なぜ、ここで暮らすようになったんですか!」 「お前さんのためさ。お前さんと俺のために、アイツはそうしたって……多分、自分じゃ信じきってるだろうよ。そういう男さ」  祐介はふと言葉をきって、呟いた。 「……いきなりナイフを突きつけて、俺の前に現れやがった……アイツが邪魔さえしなけりゃ、あの女、無事にパリへ帰したりしやしねえ」  独り言のように言った祐介の眼が、その時だけギラッと重く濁って光った。  それから祐介が話した言葉を、博基は、むしろぼんやりと耳の奥で聞いた。祐介は、爆薬を懐《ふところ》にしのばせていたのだという。それに手をかけたとたん、崇男のナイフが脇腹に食い込んできたのだ、と祐介は言った。「出ろ」と、崇男は耳許で声を殺した。利き腕をおさえられながら、祐介は展示会場の外へ連れ出されたのだ。 「俺の塒《ねぐら》へ連れて行けとアイツが言った時、俺は気を変えたんだ。逃げようと思や逃げられただろうがな。ヤツに、俺の女の顔を見せてやりたくなったのさ」祐介はニヤッと笑った。「実際、この部屋にあのフウテンがいるのを見た時のヤツの顔ったら、なかったぜ。それからヤツが何をしたと思う? いきなり俺を縛りあげたのさ。そのまま二月間、俺をこの部屋に監禁したんだ。ミロのヴィナスが日本を離れる日までな。けどまあ、ヴィナスが帰りゃ、ヤツも手前《てめえ》ン家《ち》へ帰ると思ったのが間違いよ。今度は俺よりか、俺の女の方がヤツには心配の種《たね》になったのさ。見なきゃ忘れておれたものを、見たが因果さ。あの女が、お前さんにとってこの先どんな厄介物になるか……その怖ろしさをしみじみと想い出したんだ。女から目が離せなくなっちまったのよ。ザマぁ見ろってもんだ。その頃、俺は土方に出てた。ヤツもくっついて働きだした。俺が職を変える度に、ヤツも変えた……離れねえんだ。しまいには、根負けしちまってよ。勝手にしろってもんだ。ヤッコさん、とうとう隣のボロ部屋に住みついちまったのよ」  祐介は、投げ出すように言った。 「ばかな男さ。俺みたいな男のどこに構《かま》い甲斐《がい》があるってのかよう。ベラ棒め。聖人君子づらしやがって……手前《てめえ》だって、ほんとはあの|カタワ《ヽヽヽ》のヴィナス……一番叩っ壊したい人間じゃねえのかよ。え、そうだろ? お前さんだって、そう思うだろ? 俺は厭だ。あんなヤツ、兄貴だなんて、金輪際《こんりんざい》思やしねえ。兄弟なんかじゃねえ」  祐介は、不意に激した声になって顔をそむけた。その声が濡れているのを博基は感じた。 「さあ帰ってくンな」と、祐介は言った。立ち上って、卓袱台《ちやぶだい》の上から一枚の便箋紙をわし把《づか》むと、博基の前へ突き出した。 「とっとと消えてくれ、お前さんもな」  その紙上には、鉛筆の走り書きがあった。  ──祐介。世話になった。楽しかった。もっと早く、こうすればよかったと今思っている。女は僕が連れて行く。誰かがこの女の面倒を見てやらなきゃならないとしたら、それは僕だ。博基が訪ねてくるだろう。そしたら言ってやってくれ。僕を探すなと。駒込の婆やを頼むと。祐介。出来たら、博基と仲よくしてやってくれ。 [#地付き]崇男。   博基は、体中の力が脱《ぬ》けた。 (僕達のために!)と、博基は思った。  疫病神《ヽヽヽ》を、崇男は連れて逃げたのだ。 (僕達から、一生遠ざけておくために!)  博基は、叫び出しそうになる声をじっと呑んだ。呑みながら、その木造アパートを走り出た。泪が、とどめようもなかった。  ……どこをどう歩いたか、わからなかった。気がつくと前方に、荒川放水路の濁った水の光があった。闇いろに底のない水であった。  潮風の匂いがした。  唐突に、その夜の潮風は、博基の眼の先に一つの大きな白い木箱の幻を運んできた。  柩《ひつぎ》のような木箱であった。  巨大な木箱は、ゆっくりと漆《うるし》の闇の宙に吊り揚げられ、横移動を続けていた。 (やはりあの時)と、博基は信じた。(あの足は僕の蜥蜴《とかげ》を踏み殺したのだ)  すると今でも、現実にあのヴィナスの大理石の足の下に、海いろの光は踏み潰《つぶ》されて、悲鳴をあげているように思えた。  白い柩は腐爛《ふらん》の肉の臭いを放ち、傲然《ごうぜん》と前方の虚空《こくう》を動いていた。 [#改ページ]  京の毒・陶《とう》の変     1  烏丸《からすま》通り上立売《かみたちうり》を上った民家の並びに、ぽつんと赤い正方形のネオンを出して、白抜きの活字体で《スナック・悪い家》という看板の文字が、表通りからでもみえる。  赤い火色の壁に、四角い幾つものオーク材のブロックをはめこみ棚にして、洋酒|壜《びん》やグラス類を飾った、洒落《しやれ》た小さな細長い店。幅広の低いカウンターに、これも真紅の深い絨毯《じゆうたん》。化粧屋根裏ふうの高い天井は、棟木《むなぎ》の奥から総鏡張りになっている。山形に張りわたされた黒光りのする簡素な木材と、この鏡を組みあわせた合掌造りの天井が、古さと新しさをたくみに、しかもぜいたくに共存させていて、いかにも京都らしい構《かま》えになっている。キッチンはこの部屋の奥にあって、店全体は小さいが、抜けめなく華美をつくしたという感じがどこかにあって、京都の夜を競う店のなかでも出色の、心憎い味が雰囲気にあった。  古風な化粧屋根裏ふうの合掌骨の群列をとおして、下の店内でくりひろげられる若者達の現代風俗が、そのまま鏡張りの天井に、さながら絵天井の絵柄の如くにうつしとられる。つまり、≪悪い家≫の天井は、古い時代建築の様式をもちながら、同時に現代《ヽヽ》を重要な構成要素として、その内に併存させているわけである。古さと新しさが、美の世界で、お互いにはたらきあって均衡を保つ、その効果が心憎かった。  いうなればそれは、京都という都市のもつ或る性格を、うまく象徴的にとりこんだ店ともいえた。  ただ一つ気になることは、その鏡天井に逆《さか》さまに投影してうつし出される現代《ヽヽ》が、ときに、格調のある合掌組みの黒い建材の列のせいで、さながら、頑丈な檻《おり》格子の奥の風景にみえたりする一瞬があることだ。つまり或る瞬間、下の店内の情景が、その天井では、まるで強固な牢獄のなかに封じこめられたかにみえる、囚《とら》われの光景にみえたりする……そのことにさえ目をつぶれば、≪悪い家≫は、いかにも洒落て気のきいた、申し分のない、美しい、若者達の溜《たま》り場といえた。  そして、夜がふけるにしたがって、その美しさは、いちだんと賑やかに磨きがかかり、花めいた。  アルマン・ベガーグが、長身のスポーツ選手のような背を折るようにして、その店の押し扉をあけて入ってきたとき、≪悪い家≫には、十人ばかりの客があった。  殆《ほとん》どが常連で、市内のクラブで仕事をすませたバンド・グループのジャズメンたち、アングラ映画集団のメンバー、挿友禅《さしゆうぜん》の若い職人、陶芸《とうげい》家、ヘヤア・デザイナー、学生……などといった顔ぶれであった。  十月も半ばすぎの、或る金曜日。時刻は午前二時に近かった。  三時を過ぎれば表の看板の灯《ひ》はおとすが、≪悪い家≫には、これといって正確な閉店時刻はない。顔なじみの連中が、興にのって腰をおちつけると、朝まででも話しこんでいく。つまりある時間がすぎれば、営業と私的な団欒《だんらん》との区別がつかなくなり、またその自由さ加減が客達の嗜好《しこう》にうまく合って、逆に営業的にも商売になっていた。  栗色の柔らかい巻き毛が、うなじにも揉《も》みあげにもうずをまいた、どこか動物質の、その精悍《せいかん》な顔つきのアメリカ人が入ってきたのは、だから、この店にしてはそう遅い時間ではなかった。  外人がやってくることも別にめずらしくはない。常連客にも外人はいたし、時は秋、京都は観光シーズンたけなわな時期でもあった。連日、国内は無論、国外の方々から繰《く》りこんでくる観光客で、市中はごった返していた。だから、そのアメリカ人が入ってきたとき、誰も特別な関心をはらったりするものはいなかった。  茨木美広《いばらぎよしひろ》も、またそうであった。  絨毯のうえにあぐらを組んで、低いオーク材のカウンターに両|肘《ひじ》をつき、水割りと煙草とに交互に口をつけながら、彼は他の連中の仲間には加わらず、独りでぼんやりと、店内に充満するロック・コレクションを聴いていた。別に興味があるわけではなかった。いやでも耳にとびこんでくるから、しかたなくそうしているに過ぎなかった。防音設備ができているので、時間にしては派手な音量ではあったのだが、それでも、宵の口にくらべれば、ずっとボリュームはおとしてあった。ひどくファナティックな曲であった。 「これナニ?」 「エルトンやないか。エルトン・ジョン」 「それ、曲の名か?」 「かなんなア。ロックのスターやねんで」 「へえ……」 「この盤、国産とちゃうのやで。ちょっとは粋な苦労もわかってえな。モトかけてるつもりやねんで」 「そうか?」 「これやからねえ。泣けてくるわ」 「えらいスンマセン」 「美広《ビコ》ちゃんも芸術家やろ。痺《しび》れてええもんと悪いもんのカンどころくらい、わかったるやろ」 「なんや、マスターのお説教か?」 「土ばっかりいじってると、体の芯《しん》まで冷えてくるんとちゃうかいな」 「おいとけ。熱い血潮がたぎったあるわ」 「どや。いっぺん本物のステージ聴きにいかへんか」 「本物て、外国にか?」 「それが来るねや、東京に。ほれ、切符はあるで。ナマ聴いたら、ちょっとは美広《ビコ》ちゃんもアクメがわかって、気がいく体になるのとちがうか」 「阿呆くさ。不感症みたいな言われかたやな」 「そうやがな。いま売り出しの新鋭陶芸家が、そんなしょぼくれた顔してロック聴いてたら、サマにならんがな。だいたいあんたは、いつでもこう、どこかもうひとつ冷《ひや》っと覚《さ》めてるさかいにな。ま、それがあんたのええとこやけど……。そやけどな、ウチは≪悪い家≫やで。ここにいてるときくらい、もすこし悪うなってえな。酒飲むやろ、飲んだらパーツと酔うたらええねや、ロック聴くやろ、聴いたらとことん痺れてみるねや。とびこんでみんことには、ええもんか悪いもんか、わからへんやろ。あんたはバカにしてるけど、ロックにかて、京焼《きようやき》の伝統ひっくりかえすような、新しヒントがあるかもしれへんで」 「ええことマスター言うやんか」 「これやからな。エルトン・ジョンも、あんたにかかったらカタなしや」  ……そんな他愛もない会話を、この店のマスターと、つい今し方|交《かわ》したばかりのところだった。  要するに茨木美広は、そのとき妙に所在なく、ただぼんやりと、耳|許《もと》に流れこんでくるホットな喧噪《けんそう》を、聴くともなしに聴いていた。少なくとも、外見からは、そんなふうにしかみえなかった。そして事実、ときどきヒステリックに炸裂《さくれつ》するタンバリンの耳ざわりな夾雑《きようざつ》音を除いては、そのロック・コレクションも、彼にとって別にこの店を出ていかなければならないほど、不快で落着かないものではなかった。  或る意味では、それらはすべて、そのとき茨木美広にとっては、まったく関心外の世界の事柄だったともいえる。  一人の背の高いアメリカ人が押し扉をあけて入ってくるのを茨木美広は、ちょうどそんなふうな状態で、みるともなしに顔をあげて、天井の鏡のなかにチラッとみた。だが、それはみないも同じことであった。  彼の頭のなかには、一つのやや大振りな、赤暗色と白と、そしてほんのひとはけあるかなきかの強烈な真紅色とで、ふしぎな美しさをたたえている楽焼《らくやき》茶碗がみえているだけだったのだから。  その頭のなかの茶碗の横には、一枚のま新しい木札がたてかけてあって、 〈大賞楽焼茶碗「橋姫」。茨木美広〉  と、墨書してあった。  今年の春、全国陶芸展で最高賞を獲得した、彼自身の作品である。東京M百貨店の特別陳列室のケースのなかで、深くて淡い、だが妖しい凄味《すごみ》をたたえて、ひときわ光彩を放っていたその楽焼茶碗を、彼は眼底にみつめていた。  みつめていたというよりは、眼の底から、そのこびりついて片時もはなれない映像を、自分の力では引き剥《は》がすことができなかったという方が、この場合正しいだろう。もう長いことそうであった。その楽焼茶碗は、彼の脳裏《のうり》の中央に根がはえたようにどっしりと居坐り、時と所を選ばず彼の視界に大きくたちはだかり、彼の全神経を吸いあげて、憑《つ》き物のように彼にとり憑き、その結果、彼を深いところでしばしばひどく虚《うつろ》な人間にした。できれば引っ剥がして、ドブにでも叩き捨ててしまいたい映像であった。だが、いつも逆に、彼の眼は、ときどき甘い恍惚の手にさそいこまれでもするように、うっとりと陶酔のいろにけむりたちさえするのだった。  しかし、いずれにしてもそれらの私《ひそ》かな表情は、彼の外見にまでは、あらわにうかびでてはこなかった。  彼の注意がはじめてその外人に向けられたのは、ロックの間《あわい》をぬってきれぎれにとびこんできた、外人とマスターが交す会話の断片のせいだった。特に、そのなかの或る言葉のためだった。  外人の声はよくききとれなかったが、 「ガイド?」  と、確かにマスターがそう訊きかえすのを、はっきりと彼はきいた。  茨木美広は、反射的に耳をすませて、ゆっくりと意識的に顔をおこして、天井の鏡のなかをのぞきこんだ。  ビールの中壜とポテトチップスの皿がおかれた、入口に近めのカウンターを中にはさんで、外人とマスターはむかいあって話していた。外人の太い毛深い手の金属指環が、赤い火色の壁の反射をうけて、ルビーのようにきらめいていた。 「ガイドねえ……あんたら、知ってるか?」  と、マスターは、傍《かたわら》のボーイ達を呼んで、なにかをたずねているふうであった。  美広は、少し体をよじって、彼等の話がききとれる位置に、さりげなく移動した。 「サター……」と、外人が言うのがきこえた。 「ミスター・サター」と、その外人はかさねて言って、ちょっと肩をすくめ、一人でうなずくように小さくニヤッと笑い、マスターと二人のボーイを交互にみつめた。 「サター?」と、マスターがききかえした。 「ミスターいうたから、サトウのこととちがいますか……」と、ボーイの一人が、マスターの方をみながらいった。 「ミスター・サトウ?」と、マスターは、それを口移しに外人に問いかえした。 「ノオ。ちがいますネ。サトウさんではありません。サター。ミスター・サター。ニックネイムね」 「オウ、ニックネイム……」と、マスターも思わずつりこまれて、変な外人|訛《なま》りの声をあげた。 「知ってはるんですか」と、ボーイが言った。 「知らん。サターって何や?」 「スペルきいてみたらどうですか」 「辞書あるか?」 「あったと思いますねんけど……」  そして彼等は、鏡のなかで逆さまの頭を寄せあって、外人がメモ用紙にかいた綴りと英和辞典とを、しばらくあれこれとひっぱりまわしていた。 「あったか?」 「ありました。Satyr。サター」と、ボーイの一人が声にだして読みはじめた。 「(1)〈ギリシャ神話〉バッカス神に従う半人半獣の、森の神。サター神……カッコ、してあってな、(酒と女が大好物の)と、書いたあるわ。  (2)〈転義〉好色家。淫乱者。色情狂……いろきちがい……ごっついことかいたあるな、これ結局、助平いうことやないか」 「ということは、ミスター・サターは、つまりミスター助平か……」と、もう一人のボーイが笑いながら、おどけて言った。 「オウ、ノウ」と外人は、真面目な顔つきで、そのボーイ達を制した。 「スケベちがいます。彼はノーブル。そして、ハンサムボーイね」  そのあと外人は、グッド・ルッキングとかファインとかエレガンスとかいった言葉を、幾つか並べてまくしたてた。 「こりゃ難儀《なんぎ》やな……」と、マスターも、しまいにはもてあましたような格好で、苦笑しながら言った。 「言うたら、男はみんなミスター・サターやさかいな、もうちょっと特徴のあるこというてもらわな……」  明らかにそのアメリカ人は、誰かを捜してこの店にやってきていた。誰か……。ミスター・サターというニックネイムの、ノーブルでハンサムな若い男。そして、その若者は、京都の観光ガイドをしており、一昨年の冬、この外人を案内して古都のガイド役をつとめたらしい。その折、サターはこの≪悪い家≫にも一度外人を連れてきたという。彼は、マスターともボーイ達とも他の大勢の客たちとも顔見知りだったから、この店にくれば、また彼にガイドが頼めるだろうと思って(少なくとも、どこに行けば彼に会えるかが、教えてもらえるだろうと思って)、自分は楽しみにしてやってきたのだと、その外人はマスターに説明した。多分、この店の常連客に間違いない筈だ。一昨年の、ちょうどクリスマス・イブだったという。 「あかんわ」と、マスターは言った。 「あんなドサクサな日にやってこられたら、ウチのカミさんの顔やっても、おぼえとられへん。……そやけど、いったい誰やろな。せっかく海の向こうからやってきてくれはったんやし、知ってたら、どないでもして連絡とってあげるねんけどなあ……」  結局、そのアメリカ人は、また出直して顔を出してみるからといって、自分の連絡先を紙にメモし、三十分くらいいて、店を出て行った。  そのアメリカ人の話では、昨日京都にやってきて、ここ一週間はIホテルにいるが、その後二カ月の滞在期間は、某茶道家家元の研修寮に移ることになる。一昨年もそうだったが、自分は茶道の研究生として、京都にやってきているのだ。今度の研修がおわると、もうまたいつ京都にやってこれるかわからない。ぜひこの滞在中に、彼に会いたいと思っている──というような事情であるらしかった。 「ミスター・ベガーグですね」と、マスターはメモを見ながら、帰りぎわに、もう一度確認するように言った。 「そうです。アルマン・ベガーグ」 「オーケー。わかったら、必ず連絡してあげますよ」  茨木美広は、そのマスターの声をききながら、突然、ボーイに手をあげて、 「お勘定」と、言った。  そのとき、茨木美広の顔からは、もう今までの、所在なげでぼんやりとした表情は跡形《あとかた》もなく消えさっていて、かわりに、どこか猟犬を思わせる滾《たぎ》ったするどい光が、その眼の端《はし》のあたりにあった。そして、彼は微《かす》かに呼吸を整えでもするように、二、三度小さな強い喘《あえ》ぎをのみ殺した。  茨木美広は、そのアメリカ人が店を出て、きっかり三十秒後に、スナック≪悪い家≫の押し扉をあけて表通りに出た。  アルマン・ベガーグは、ちょうど二、三十メートル前方の路上でタクシーをとめ、乗りこもうとするところであった。     2  茨木《いばらぎ》の家は、古い陶家《とうか》で、東山の山麓、左京区|粟田口《あわたぐち》にある。清水《きよみず》五条坂にも陶房をもち、美広《よしひろ》の父親は、京都でも名の通った陶芸家の一人に数えられている。  美広は、美大を出ると家に入って、家業についた。今年、二十六歳である。商品としてのいわゆる清水焼《きよみずやき》は、割りきって抵抗もなく焼いてきたが、それはあくまでも身すぎ世すぎで、自分の本道ではないという自覚が彼にはあった。頑固に古来の京焼の伝統をまもる父親の流れは汲まず、新しい京焼をめざす陶芸集団Vのメンバーに所属していたのも、そのためである。  確かに一時期、具体的には大学を卒業した当初、美広には短いひらめきの時期があった。  生まれついて陶家に育ち、京焼の匂いと風《ふう》に染まって、物心ついた彼には、或る意味で〈焼物〉の感覚は日常茶飯なことであり、体をおおう皮膚のようなものであった。手先が器用で呑みこみの早い彼は、焼物の技術的な点においては、ひどく早熟な子供であった。轆轤《ろくろ》をまわさせても、粘土の|より《ヽヽ》を巻きあげさせても、生半可《なまはんか》な若い職人よりは鮮やかな手ぎわにしあげてのけた。釉《ゆう》掛けや絵つけのコツも、すでに中学時代には一通りのみこんで、商品としても立派に通用する技術を身につけていた。そうした彼の、焼物に対する手の切れが、ともすれば焼物を、より技巧の面で捉《とら》えようとする彼の体質をつくりあげてしまったのかもしれぬ。  そしてもう一つ、この傾向に拍車をかけたのは、そうした技術的にはかなり年季の入った職人芸に比べても遜色《そんしよく》のない彼の焼物に、美広の父親が一|顧《こ》だにあたえなかったということもあるだろう。  実際、美広の父は、完全に彼の作品を黙殺した。もともと、あまり多くを言わない人間ではあったが、それでも彼が中学に入った頃までは、なにかと手をとり指図もし、指導にもあたってくれていたのである。それが、人もほめ、自分もやっと手応えのある焼物らしい作品が焼けはじめたと思った頃から、途端に手のひらを返すように相手にされなくなったのだ。それでもまだ、最初のうちは、父の眼にかなわぬのだという真摯《しんし》な自覚が美広にはあり、ときどき、なかでも出来のいい作品を、黙って仕事場の棚や書斎の文机のうえに置いておいたりした。ほめてもらうためではなく、教えてもらうためであった。疑いや、問いかけや、見えなさを……焼物についてのそれらの無数の不可解や未知や不正さを、指摘し、解きほぐし、そして、その上の明らかな世界へ引きあげてもらうためであった。……だが、父は、まったくそれを無視した。まるでとりつくしまもなかった。 (何とかして父の気に入られるものを焼きたい)  と、いう気持が、 (何としてでも父の眼を自分の焼物にむけさせてみせる)  と、いう意地に変り、美広はそんな毎日のなかで、中学、高校時代をすごした。一人前の焼物を一人前の焼物をという彼の思いが、いきおい、まだ若い彼を技術の世界にだけむかって背のびをさせ、追いこんだのも、無理のないことだったかもしれない。  ちょうど、大学一年に入ったばかりの頃であった。美広は、伊賀、信楽《しがらき》の山中をまわり、自分の足で採土してきた土を使って、水指《みずさし》を焼成した。  京都は、日本でも屈指《くつし》の花やかな陶芸地であり、事実、その意匠を凝《こ》らした高い華麗な作家的技巧は群をぬいていて、現在も日本のすぐれた代表的作家をたくさんかかえている土地柄だ。つまり、他の追従《ついじゆう》をゆるさない花めきの頂点にありながら、しかし、ふしぎなことにこの陶芸の殿堂には、陶器のもととなる肝心《かんじん》の土《ヽ》がないのである。地土《じど》とか、原土とかいわれるが、大抵、有名な陶磁器の原産地には、その土地特有のすぐれた、或いは味のある土があるものである。それが、この京都にはない。したがって、京都の焼物は、殆どその原土を他の地方からとりよせて、何種類かをまぜあわせ調合作成されたものなのだ。  つまり、或る意味では、この原土をもたぬという土地柄が、逆に、この地の作家に土の高度な調合技術をせまり、研究や試みの必要性をせまり、結果として京都独自の味わいをもつための、さまざまな焼物技法を強《し》いたということがいえるかもしれない。つまり、この地の高度で多彩な作家的技巧は、或る意味で苦肉の逆手、また或る意味で、起こるべくして起こった現象といえなくもないのである。  無論、清水焼も、その素地となる土に、家によって違いはあるが、だいたい五種類くらいの土をまぜあわせて使っている。  だから信楽《しがらき》土は、京焼には、陶器にも磁器にもさかんに使われる別にめずらしくもない原土ではあったが、茨木美広にしてみれば、自分の足で採土し精製した粘土でつくった水指であっただけに、思ったより美しい出来映えにしあがったその京焼に、或る自分をこめたという実感があったのである。  美広はそれを、茶室の床の脇にそっと置いて、学校に出かけた。帰ったとき、その京焼の水指は、庭の蹲踞《つくばい》のうえで、粉みじんに砕けてとび散っていた。そして父は、やはり一言もそのことについて口はひらかなかった。  茨木美広が、心のなかで清水焼を捨てたのはこの時である。そして、父がもっとも嫌っていた前衛的な若い陶芸家たちの集団Vに参加したのも、またこの直後のことであった。  それは、新しい陶芸をめざすというよりも、美広の場合、自分のなかから、あの華麗な色絵磁器の世界をしめ出すという、いわば反清水焼的な意図をもった、反抗行動であった。  美広は、がむしゃらに無骨なもの、粗暴な、破綻《はたん》にみちた、無頼な造形力を眼目にした作品にうちこんだ。  そして、大学を卒業した年、彼のその父親への戦闘的な造反意欲が、(彼の意志に反して)生まれついて体にしみついている華麗で繊細な清水焼の風色と期せずして結びつき、思いがけない風変りな、新奇な叙情味をもつ作品を焼きださせることになった。しかしそれは、後から考えれば、むしろ怪我の功名とでもいうべき、一つの僥倖《ぎようこう》なのであった。  茨木美広は、この作品で、陶芸界の最初の関門であるといわれるN展に初入選し、陶芸家としての自負と、独り立ちできたというつよい自信を、胸にもった。 〈陶《とう》・大皿《おおざら》〉というその作品は、長方形を斜めに圧しつぶしたような変形の、やや歪《ゆが》んだ肉の厚い大皿で、皿の底が奔放にいたるところぶちぬかれている。早くいえば、大小不揃いな穴の無数にあいた、角網《かくあみ》状の底をもつ皿であった。大胆なデザインと、破壊的な構成のなかに、造形力の確かさがあり、逆に、磁器に似たきめのこまかい硬質の陶器の肌あいには、デザインの荒々しさとは反対の、優美なおもむきがどこかにあって、その対立的な二つの要素が、奇妙な不安定の美と荒涼《こうりよう》とした風景とを、この作品にあたえていた。  それは確かに、彼の技巧的な才能を十分に証明するものだったし、また、その才能がうまく或る状況と合致して、ひらめきをみせた作品でもあった。  美広は、これで、清水焼を捨てきれたと確信した。  間違いは、そこにあった。 〈陶・大皿〉が高い評価をえた最大の理由は、どこか不安定な美しさが微妙な均衡を保っている、その点にこそあった。  そして、その不安定な美しさこそは、とりもなおさず、彼の父へのつよい反抗心と、それにもかかわらず彼の体にしみついて逃げださないでいる清水焼の残色とが、おたがいにせめぎあい、はたらきあってつくり出されたものであった。二つの相反するものが、タイミングよくぶつかりあって火花をちらしてこそ、生まれた美しさなのであった。  だが、茨木美広は、そのことにまったく気づいていなかった。  N展入選の〈陶・大皿〉にも、やはり美広の父はまったく関心を示さなかった。しかしながら、彼はもう、以前のように失望はしなかったし、つよい憎悪も感じなかった。無論、長年の馴れと諦《あきら》めの感情も手伝ってはいたであろう。だがそんなことよりもむしろ、美広には、自分が清水焼ではない陶器でもって世に出たことが、なぜかむしょうに深く、痛快なよろこびだったのである。目の前が一時にひらけ、解き放たれて、自分の道がその先にはっきりとみえてくるような充足感であった。そして、その充足感はそのまま、父への快《こころよ》いうっぷん晴らしにもなっていた。  つまり、美広はこのとき、父親へのがむしゃらな抵抗心を捨てたのである。というより、失ったのだ。自分には新しい道がひらけたと、信じたのである。  この時期をさかいにして、茨木美広の焼物は、目にみえてだめになった。なまじ器用な技術が手にあるだけに、やたら技巧にすぎた、新奇な技《わざ》をひけらかすだけの焼物と堕した。  おまけに、これまでは父への抵抗心がつよい歯どめとなって、適度におさえ殺されてきた彼のなかの清水焼が、ふたたび少しずつ頭をもたげ、新しい陶器で出発した筈の彼の足許に重くまとわりついて、ぶらさがりはじめもした。  今年の春、突然(それはまったく突然という印象がぴったりであった)、彼が全国陶芸展で大賞を獲得するまでの五年間、美広はどの会にも入選しなかったし、どの展示会でも問題にされなかった。二、三度開いた個展もさんざんの不評で、陶商たちも口ではお茶をにごしているがとりあおうとはしなかった。  つまり、〈陶・大皿〉でパッと光を浴び、途端に彼の焼物はなぜだかその光彩を失ったのである。  土は生きものだとか、人の心を映すとかいわれるが、焦《あせ》れば焦るほど、美広の焼物も袋小路に迷いこんだ。  茨木美広が、高校時の学友で、ホテルのバアに勤めているバアテンダーGから、奇妙なアルバイトの話をもちかけられたのは、ちょうどそうした苦しい自暴自棄の、いわばどん底にいた時期であった。  その頃美広は、毎晩のように木屋町筋から花見小路、新京極|界隈《かいわい》を飲みあるき、俗にいえば荒れた生活をかさねていた。 「どや? ええアルバイトになると思うねんけどな。君やったら、京都の地理にも詳しいし……それに、君はごっつ歴史に強いねんさかいな、うってつけやと思うけど?」  と、白にこげ茶のふち取りのあるユニホームを着たGは、声をひそめるようにして言った。  Iホテルの屋上にある、スターライト・ルームのカウンターでのことであった。偶然このバアでGにあってから、ちょくちょく顔を出すようになり、半年くらいたった夜のことだ。 「飲み代くらいは、キレイに浮くで。半日やったら五千円……一日体あけてくれたら一万円にはなる。それにチップなんかもあるやろし……悪い話やないと思うけど」 「ガイドねえ……つまり、もぐりのコール・ボーイか?」 「あほくさ。そんなもんとちがうて。誤解してもろたら困るで。商売でこんなことしてみ……いっぺんで首や。これは、あくまでも純粋なガイドの話やで。つまりな、こんな仕事してると、そんなお客さんがぎょうさんあんねん。観光バスにスシ詰めになって、トコロテン式に十把一からげの京都まわりはしとうない……かというて、タクシーでまわンのも味気ない。それに、見ず知らずの運転手相手や。感じのええのもあるし、悪いのもあるやろ。何をきいても知らんのもあるし、よけいなことべらべら喋るのもある。例えばお寺にいくやろ。説明人がおるわな。商売ずれして、ただ説明文を棒読みに暗誦してるだけや。次ハコレ、ソノ次ハアレ……客は金魚のクソみたいにゾロゾロくっついてあるいて、ハイ、コレデオシマイ。一丁アガリッ、や。それかというて、地図をたよりに一人でテクテクあるいてたんでは、時間がなんぼあってもたらんやろ。  それにな、京都いうたかて、古寺仏閣、名所旧跡に限らへん。それ以外の京都知りたいいう人もあんねん。例えば、夜の京都がまわりたい。そやけど、まったく京都に不案内や。仕方ないから、こうしてここで酒飲んでんのやいう滞在客が、ぎょうさんあんねん。そりゃ、ホテルにしたら、有難い客やで。そやけど、折角京都にきて……なんぼこのバアからの眺めが美しいいうたかて、京の夜景みてるだけやったら気の毒やないか?  つまりな、ここには、そんないろんなお客さんがくンねん。どの人も、気ままに自由に京都を満喫《まんきつ》したい思うてはるお客さんやねん……そんな人達みてるとな、だれかこの人の満足いくようなガイドつとめきる人間はおらんかな、つくづく思うねん……」 「ただな……」と、Gは、ちょっと言葉をきって、それから言った。 「これは、あくまでも真面目なガイドや。僕としても、立場上、ええ加減な人は推薦でけへん。まず、京都の土地柄に明るうて、ちゃんとした歴史や学問の知識もあって、人当りが感じがようて、身許のはっきりした信用のできる人間で……そのうえ、時間に融通のきく人間やないとあかんやろ? 外人も多いさかい、英語も喋れんとあかへんし……」 「硬《かた》いところも、やわらかいところも、変幻自在によう心得ててか?」 「そうやがな。そんな人間、なかなかあらへん」 「当り前や。あったら専門のガイドになったあるわ」 「さあ、そこやがな。専門のガイドいうたら、これはビジネスになるやろ? それではあかんねん。あくまでも、親しい友達、……気楽な話相手……ときには、気のおけない遊び相手……そんな雰囲気がだせる人間やないとあかんねん。商売やないねさかい。楽しかった、有難ういうて、お礼もらうねやさかい……これはアルバイトやいうタテマエがのうてはあかんねん」 「それで、君はいくらになるんや?」 「またそれや。僕は商売してるのとちゃうて。僕はただ、自分の友人をお客さんに紹介するだけや。紹介する以上は、友人に迷惑かけるのやさかい、アルバイト料の交渉はせんならん。はっきりいうたら、奉仕してんのや。一銭にもならへんわ」 「へえ。優《やさ》しい気持あんねんな……ま、そんなこと、どっちゃでもええことやけど……」  と、美広はそのとき、かなり酔いのまわった眼で、ガラス張りの外の夜景を追うように眺めわたした。冥《くら》い、墨色に塗りつぶされた夜と、花やかなネオンにきらめきたつ夜とが、同時にみえた。あのかがやきや花めきを、自分のものにしたい……と希《ねが》う旅人の心が、なぜかそのときふと切実に身近なものに思われた。そして、自分も今、もしかしたら、何かの案内《ガイド》をもとめている人間なのではあるまいか……と、いう気が美広にはしたのである。 「ヨッシャ」と、美広は、自分でもなぜそんな気になったのかわからぬままに、不意に、言った。「立候補するわ。君のリストに入れといて」 「またそれや。リストなんてもん、あるかいな」 「但しやな、僕の気がむいたときだけいうことにしてや」 「勿論やて。それでええて」  あのとき……と、美広は、後になって何度思ったかしれない。(あの話にさえ乗らなんだら……こんなことにはならなかった。ならずに済んだ)  そして事実、茨木美広がその夜、Gの話に乗らなかったら、事は何も起こらなかったのだ。  彼が真家《まいえ》五郎と会うこともなかっただろうし、また、真家五郎と会うことさえなかったら、あの〈大賞・楽焼茶碗「橋姫」〉も、決してこの世に生をうけてうまれてきはしなかった筈だから。  事件は、何も起こらずに済んだのだ。  ……考えてみれば、もう三年ばかり前になる、そのGと会ってついなにげなくアルバイト・ガイドを引きうける気になった一夜が、すべての間違いの発端であり、その意味で、茨木美広にとっては、おそろしい夜だったといえるのである。     3  烏丸《からすま》通り上立売《かみたちうり》のスナック≪悪い家≫からアルマン・ベガーグの後を追って出た茨木美広は、そのアメリカ人が、確かにIホテルに車を乗りつけ、フロントで鍵《キー》を受けとるところまで見届けて、その夜は、引きかえした。  引きかえすとき、彼はふと振りかえって、灯の消えた屋上のスターライト・ルームをみあげた。冥《くら》い夜空に、多宝塔を形どったガラス張りのその無人のルームは、黒々とそびえたち威圧的にさえみえた。灯が入れば宝石のようにきらめき出す塔であった。あの塔のなかの花やいだバアで、Gにさえ会わなければ……と、悔《くや》んでもどうしようもないことを、美広は一瞬、また思った。すると、その明るいバアのカウンターのなかに立って、受話器をとりあげるGの姿が眼にうかんだ。「Gです。ご機嫌さん。その後どうや? きばってるか?」……その挨拶が、いつもGとの連絡暗号であった。「あかん」といえば電話をきり、「ああ、きばってるで」と答えれば、日時が指示され、美広はホテルのすじ向かいにあるティーショップで待機していればよいのであった。客の選択はすべてGにまかせた。実際その点ではGは、心憎いほどよく心得ていて、美広の肌にあう、感じのよい上質な客ばかりを送ってよこした。日本人もあれば外人もあった。男も女もとりどりだったが、大抵、三十代から四十代にかけての、分別のある、どちらかといえば古都の味をじっくりとたずねたいという客ばかりであった。気骨はおれたが、美広には意外に肌にあった、むしろ快適な仕事であった。歴史にも、芸術にも、京都の地理にも、味の店にも、骨董《こつとう》にも……そして夜の京都にも、その気になれば今まで見過ごしてきたさまざまな知識が改めて必要となり、自分の勉強にもなったし、京都の再発見というたのしみにもつながった。何よりも美広に有難かったのは、それが、土と釉薬《うわぐすり》の匂いにみちた陶房のなかで、ただ苛《いら》だちと苦渋《くじゆう》にまみれて凝然《ぎようぜん》としてすごさねばならぬ時間からの、格好の逃避、息ぬき、気晴らしになってくれたということである。客は大抵別れ際に、アルバイト料が少なすぎるのではないかという気になってくれた。一月に一、二度。シーズンに入ればそれが毎週になり、多いときには週に二、三度ということもあった。Gは、ほんとうに客からは一銭もとっていないらしく、彼の言葉にその点で嘘はなかった。Gは、ごく良心的な、善意の仲介作業をしていたのである。……そんな生活が、今年の初めまで、約二年とちょっと、美広のうえで続いた。  今年の初め。そう、あの粟田口《あわたぐち》の家の裏庭にある楽焼の初|窯《がま》で、一つのやや大振りな楽茶碗が焼きあがるまではそうだったのだ。  暗い赤紫に発色した釉《ゆう》のあわいを、幻のように駘蕩《たいとう》とささえている豪華な白のしずかなかがやきが、いきなり猛然と美広の脳裏によみがえった。彼は、夢中で捩《ねじ》りふせるようにして、そのあやかしをもみ消した。  あの楽茶碗で、N展以来、長い間殆ど瀕死《ひんし》の状態であった茨木美広の名は、突然奇跡的に息をふきかえした。新進陶芸家としての面目が保てたのだ。しかしまた、あの楽茶碗で、茨木美広は完全に死にもした。 (殺されたんだ!)と、美広は再び思った。  誰のせいでもなかった。まして、あのGのせいなどではない……。  茨木美広は、夜空にそびえるスターライト・ルームの、冥《くら》い無人の窓を見あげながら、そう思った。 (あそこへのぼって行きさえしなければよかったのだ。のぼって行った自分が、悪いのだ)  しかし……その眼の奥で強く、一瞬、煮えたぎるような憎悪がひかった。  あれは一昨年のちょうど今時分、つまり京都は秋の観光シーズンに突入していて、朝早くから深夜まで、どこへいっても慌《あわ》ただしく、あふれたつ観光客の喧噪でふみにじられているような気のする頃であった。  美広は、アルバイトの斡旋《あつせん》料を受けとろうとしないGに、高島屋のちょっと値張った商品券をもって、Iホテルのエレベーターに乗った。まだ宵の口だった。ロビーも売店も、エレベーターも屋上もそしてスターライト・ルームも、国際色ゆたかな人波の往来できらびやかにごったがえしていた。 「いや、そんなことしたらあかんて……」とカウンターのなかのGは言ったが、忙しさからと、大袈裟《おおげさ》になるのをはばかってか、「ほんなら遠慮せえへんで。おおきに」といって、快く受けとった。 「そらそうと、グッドタイミングや。今、君のこというてたばっかりや」 「道理で耳が痒《か》ゆかったわ」 「実はな……」と、Gはカウンターの反対の端にいた客に手をあげながら、言った。「君に紹介したい人間がいてるねん」  立ちあがって近づいてくるその若者は、すっきりと思いきり気持よくのびた、人目を惹く体をもっていた。清潔な容貌と、ひき締まった熟《う》れた肉づきに、爽快なあらあらしさがあり、ジャケットを脱いで手にもった、シャツ姿の胴から腰にかけての昂然《こうぜん》たる肉の線に、殊にそのあらあらしさが花やかにのっていた。 「五郎ちゃん……真家《まいえ》五郎いうねん」と、Gは、美広の隣の席に移ってきた若者を紹介した。「D大の四回生や。彼がね、ぜひ君に頼んでみてくれいうねや」 「何を?」と、美広は、その花のような容貌の若者に眼を注ぎながら、訊きかえした。 「いやな、この男、こうみえて、実は妙な趣味もってんねん……まだ若いのにな」 「へえ。面白そうやな」 「はあ。それが何やと思う?」 「何や?」 「土いじりやがな」 「土いじりて?」 「どや、驚いたやろ? 焼物やいてんのやで」 「へえ……」と、美広も、ちょっと意外そうな声をあげた。「そうはみえへんなあ……」 「いやあ、そんなんとちがいますよ」と、その学生は、いささか照れたように大きく手をふった。「粘土細工やってるだけです」 「それがな」と、Gが引きとった。「狭い部屋に、手廻し轆轤《ろくろ》も電気窯ももっとんのやで。電気食うてかなんて、下宿移るたびに、それが騒動の種やねん。変った男やねん」 「楽《ヽ》やな」と、美広は学生の方をみて言った。 「ええ。楽焼です」  と、真家五郎は、屈託《くつたく》のない声で答えた。  正確にはこのとき、茨木美広は、この学生を以前にどこかで見た、という記憶に襲われたのである。唐突な発見であった。だが、そう思ってみると、そのときは無論気にもとめなかった行きずりの二、三の情景が、急に鮮明な納得のいく意味をもって思い出された。  一度は確か夏。山科《やましな》の谷間、「わらびの里《さと》」という山菜料理を食べさせる料亭であった。草庵風な数寄屋造りが、音羽川の流れをとりこんで野趣のある高低にとんだ庭園のなかに散在し、市街をはなれたぜいたくな野の雰囲気がすがすがしい店であった。美広は、東京の客をガイドして同道した折のことだ。内庭を通りぬけるとき、流れぞいの一室の白い障子戸をたてに立った若い男が、確かにこの真家五郎だった。彼の美貌と、はだけたポロシャツの胸にあった官能的な印象が、妙に心にのこっていた。日に灼けた五郎の肉づきのいい太い腕を、内側からからみつくようにきつく掴《つか》んでいた女の手を、その折、美広は一瞬みた……。  いま一度は冬。正月の終り頃だった。人気《ひとけ》のない静かな寺ばかりを歩きたいという客を案内して、車で周山の奥北桑田郡にある常照皇寺まで遠出しての帰途、山峡の栂《とが》ノ尾《お》に入って高山寺の下をかけ抜ける時であった。紅葉の季節でもなし、冬枯れの北辺で、人影も絶えた石水院への山道をのぼろうとしていたのが、彼だった。見た顔だと思って、その人目を惹く均整のとれた体の若者を、走り過ぎるサイドガラスのなかで振り返って確かめたのを覚えている。男の外人と二人連れだった……。 (そうか……こいつもガイドやってたんや)  と、茨木美広は、改めて五郎のどこかまだ子供っぽさの残る横顔をみつめながら、水割りのグラスに手をのばした。  真家五郎の頼みというのは、薪焚《まきたき》の本窯で一度自分の作品を焼かせてはもらえまいか、というのであった。小さな電気窯で物理的に焼くのではなく、古い本焼窯のなかで松の木の自然灰をあびて焼きあがる自分の作品が、一ぺんでいいからみたいのだ、と彼は言った。  焼物のなかで、比較的低い温度で誰にでも簡単に焼きあげられるという関係から、素人や初心者がまず最初に手をつけるのが、楽焼である。簡単な絵つけをしたり、炭火で即席焼もできるという点で、この楽焼は、殆ど素人の趣味焼の観さえある。  唐津、志野、織部、薩摩……などという陶器や、有田、九谷、清水……などという磁器の類は、千度から千三、四百度あたりの高い焼成温度が必要となり、設備も技術も専門的な領分にたち入ってきて、とても素人の手におえるものではない。  しかし、玄人の陶芸家の世界では、焼物のなかで何が一番むつかしいかと問われたら、ためらわずに「楽焼」をあげる人が多い。  素人にでも焼けるこの焼物に、芸の世界の高さやきびしさを知りつくした手練者たちが、口をそろえて最高度の芸境をみようとするところに、楽焼のおもしろさがあり、ふしぎさがある。そしてそれはそのまま、芸術のおもしろさであり、ふしぎさであり、また、恐ろしさであるにちがいない。  楽焼はそして、陶器や磁器のように中国や朝鮮から渡来してきたものではなく、日本でつくり出された、わが国固有のただ一つの焼物なのであった。  つまり、最もやさしくて、最もむつかしい、いうなれば最も奥行きの深くて広い、無限の焼物なのであった。  真家五郎が、下宿の六畳間に電気窯をすえて、この楽焼を焼いていたとしても、考えてみればそれはちっとも不思議なことではなかった。不思議なのはむしろ、みるからに現代的なこの若者と焼物というとりあわせの、そのアンバランスな印象の方であった。 「理由? 理由なんかありませんよ」と、五郎は、こともなげに言ってのけた。 「好きだからです。あなたは今、水割りを飲んでらっしゃる。なぜ自分が水割りを飲むんだろうって、考えてみますか? それに、水割り飲んでると、いい気分になるでしょ? 僕も、楽焼つくってるといい気分になるんですよ。酔っちゃうんだナ……特異体質なのかナ?」  そして五郎は実にさわやかな声で言った。 「女性をお好きでしょ? なぜ好きかなんて考えませんよね。それと同じなんだナ。僕、女を抱いてると、ふっとおそろしくなることがあるんですよ、真剣に、猛烈にはなれられなくなっちまって……。そんなことありませんか?」  茨木美広が、その夜、真家五郎の頼みごとというのをあっさりと引きうけたのは、ほんの気まぐれな気持からであった。  焼物を水割りや女に例える、この現代的な青年の直截《ちよくせつ》な物の考え方を面白いとは思いはした。そしてそのことで、軽い嫉妬《しつと》を感じたことも事実である。自分はかつて、今まで一度だって焼物を「好きだ」と思って焼いたことがあっただろうか……と、そのとき、ほんの瞬間、美広は考えたのだ。(それは、ほんの軽い一瞬のめまいのような気の騒ぎであったが、後になって思えば、妙にザラッと胸の芯《しん》を撫でてとおった、うす気味の悪さがあったような気もした)  しかしそれらは要するに、一瞬影をおとして通りすぎた、空をはしる鳥の翼のようなものであった。すぐに跡形もなくみえなくなった。素人の遊びに、窯の一隅を貸してやるという軽い気持に変りはなかった。 「いいよ」と、美広は言った。「いつでももっておいで。僕も楽焼やってるさかい、焼くだけでええのやったら一緒に焼いたげるよ」 「お願いします」  と、真家五郎はぺこんと一度頭をさげた。  体はガッシリと大きかったが、そんなところにまだ稚気《ちき》をのぞかせる五郎に、むしろ美広は好感をもった。  その年の暮、クリスマス・イブの夜だった。美広は、烏丸|上立売《かみたちうり》のスナック≪悪い家≫で、思いがけず五郎に出会った。 「やあ、君もこの店知ってたのか」 「ええ、もう二、三年になりますよ。しかしよく鉢合せしませんでしたね」  店はその夜超満員で、美広は立ったまま水割りを一杯飲んですぐに店を出たのだが、その折、五郎はちょっと面白い土が手に入ったので、早速粘土にして壺のなかで寝せてある。この一冬寝せきったら轆轤《ろくろ》をまわすから、そしたら持って行きます……と、いくぶん酒気のまわった陽気な顔で、たのしそうに言ったのをおぼえている。  しかし、それっきり、真家五郎からは何の音沙汰もなかった。彼が不意に電話をかけてきたのは、それから一年とちょっとたった、美広もすっかりそのことを忘れかけていた、つまり、今年の春先の頃であった。 「釉薬《くすり》がもう乾いてきてるんですが、よろしいでしたでしょうか」  と、彼はいきなりそう言った。  いかにも彼らしいやり方のような気がして、美広は、思わず苦笑した。 「いいよ、ちょうどよかったわ。楽の初窯を明日にしようかと思うてたとこやねん。お天気もようなってきたしな」  そして美広は、電話をきりながら、ふと夏の山科《やましな》を、冬の栂《とが》ノ尾《お》を、思いうかべた。彼がもしガイドをしていたとしたら、おそらく自分とはずいぶん違った形の仕事をやってのけるにちがいない。美広はふと、五郎のガイドぶりを想像して、微苦笑をもらした。  彼がガイドをしていたとしても、そのときはまだ、別にそれ以上のせんさく心も好奇心も、美広には湧かなかったのである。  茨木美広が、真家五郎に、はげしい関心をもたざるをえなくなったのは、間違いなく、あの楽焼の初窯をひらいた、紅桃の花の匂うあたたかい春先の一日、その信じられない一日が、この世に現実に存在したからなのである。     4  焼き冷《さま》した窯の取り出し口を割って、あつくうす鼠色の木灰をかぶった焼成品をとり出しにかかったのは、美広と家の若い陶工の二人であった。  真家五郎は、火を焚きはじめた直後に、下宿から電話が入り、郷里の母親が倒れたという電報をしらされ、結局窯出しまで待てずに、後を美広に托して帰郷したのであった。 「あのいちめんに灰をかぶって、うす汚いぶざまな格好で出てくるところが見とどけたかったんですが……諦めます。ちょっと残念だけど……仕方ないですよね。じゃ、よろしくお願いします」  五郎がもってきた茶碗は、やや大振りの半筒風な底びらきのもので、ただ一箇、それだけであった。心もち内側にまがった受け口形がみえ、低い高台がうまく均整を保っていた。すでに自分の電気窯で一度|素焼《すやき》され、その上から釉《ゆう》がかけてあった。下地掛けの白釉《はくゆう》の残し方に、オヤッと思わせる手際《てぎわ》のよさがあったが、美広はそれほど注意してみたわけではなかった。強いていえば、素地の土の白さとキメに、気のせいみたいな何とはなしの或る違和感のようなものを、感じたといえば感じたといえる。それは土の乾き具合などにもよるし、要するに素人のモノという先入観が、はじめから美広にはあった。  楽焼窯だから焼成点数は少なく、一応自分のものの始末をつけてから、一番最後に五郎の灰まみれの茶碗を手にとった。美広は、馴れた手つきで表面にこびりついた灰の層をまずとりのぞき、キメの細かい紙ヤスリで、釉面の粗《あら》いザラつきをけずりおとしにかかった。最初、美広は気づかなかったが、しだいになめらかな釉の本肌が、掌のなかでその光のある姿をあらわしはじめるにつれ、少しずつ確実に、息のできぬ胸苦しさにつつまれていく自分を感じた。現実の咽《のど》のあえぎが自分のものでなく、胸の動悸《どうき》もまるで他人事のような気がし、それでいて、全身がはっきりと身うごきできなく金縛りにギリギリとしめつけられ、硬張《こわば》っていくのがよくわかった。  紙ヤスリで研《と》ぎ出しおわったとき、美広は、殆ど放心状態に近かった。 「うむ……」  と、いう低い唸り声が、そのとき背後で不意にしたのも、彼は上《うわ》の空できいていた。 「出来たやないか、ええ出来や」  と、その背後の声は、しばらく間をおいて吟味《ぎんみ》するように、重々しく言った。  冷水を浴びたような身顫《みぶる》いと同時に、美広がふりかえったとき、父親は、もう仕事場の外へ立ち去るところだった。 「親父さん!」  美広は、思わずその父親の背にむかって叫んだ。(違うねん、待って! これはそうやないねん……!)  だが……その声は、咽の外へは出なかった。 「その呼吸、忘れたらあかんで」  父親は背をむけたまま、静かな声でそう言った。ここ十二、三年間、それは久しく耳にしたことのない、やさしいうるおいのこもった父親の声だった。どこかにほっと、肩の荷をおろしたような安堵《あんど》のひびきさえ、美広はそのとき、ききとった。 「親父さん……」  渋い赤紫の光沢を放つその楽茶碗は、光の底で、ひろい海をおもわすふしぎな白と深くかさなり、明らかに窯変《ようへん》とおもわれる真紅色のひとはけが、胴の部分で土質を透《とお》して表から内へとけてにじみ出ながら走っている。  その赤釉《せきゆう》が、顫《ふる》える美広の掌のなかで、指間をしたたる幻想の血のようにみえた。  茨木美広は、それから一週間後に、帰洛《きらく》した真家五郎の下宿をたずねた。 「よく焼けてますね」と、五郎は一|瞥《べつ》しただけで、別に感動したふうもなく言った。 「僕はね、焼きあがった自分の作品には、まったく興味がないんですよ。あの土や石を砕いてこねまわした冷《ひや》っこいゴロンとしたヤツがね、火になってもえるってのがいいんだナ……赤くなったり、青くなったり……だんだん火の色に近づいてきてさ、透明な炎をふきはじめるでしょ。めらめらゆれて……とけはじめて……しまいにはもうそれ以上すき透りきれなくなって、あの泥上が白い火の色そのものになっちまうでしょ。あの感じが僕には信じられなくて……だから、こたえられないんです。たまらないんだナ。あのたまらなさが、僕に土遊びをさせるんですよ、きっと」  美広は、きりがなく生唾《なまつば》のようなものが口中にあふれた。「土は……」と美広は嗄《しやが》れた咽の奥で辛うじて言った。「土は……自分で調合するの? それとも買ってくるの?」 「自分でやんなきゃつまんないでしょ? 無論、土屋サンにも行きますよ。勝手な注文つけて、方々の土もとりよせてもらいます。火に強いのや弱いのや、いろいろ教えてくれるんですけどね、結局、自分でやってみるのが一番ですね。それが、僕の楽しみなんだから。あなた方は、焼きあがりを考えるでしょ? 僕は焼けてる火の色が目的なんです。いろんな泥が、いろんな火の色に変ってくの……いいもんですね。だから僕、あなたは笑うでしょうけど、しょっちゅう電気窯のフタあけてるんです。あなた方は、焼きあがったモノが問題でしょ? 僕は、焼けてるモノが問題なんです。そのために、土をいじるんです。いろんな泥土で、いろんな火の色がみたいんです。だから、焼成品には興味がないんです。ごらんなさい、この部屋に焼物は一つもないでしょ? 焼きあがったら、僕はいつも叩きこわすんです、みんな。……こんなの、変ですか?」  と、五郎は言った。そして「変でしょうね」と、微笑しながら、また言った。 「でも、電気窯には、窯そのものに炎《ほのお》ってものがないでしょ? だから、薪の本物の炎のなかで、火になる泥がみたかったんです。灰をかぶって、灰と一緒にとけて炎になる泥が。この茶碗は、ちょっと自信があったんです。無論、火の色にね。一年ばかり、粘土にして|ねせ《ヽヽ》てたんですから。足掛け二冬《ふたふゆ》越したことになります……だから、楽しみだったんですけどネ……」 「真家君」と、そのとき、美広は、平静をつとめながら思いきって口に出した。「この楽焼茶碗……よかったら、僕にゆずってくれへんか」 「いいですよ」と、五郎は、きわめて無造作に彼に答えた。「どうせ壊してしまうんですから」  その無造作な、こともなげな五郎の言葉に、ほっと救われたような緊張感のゆるみをおぼえながら、茨木美広は、そのときはじめて、火のような憎しみを、この若い学生に抱いた。  しかしともかく、これで急場はしのげたのだと、茨木美広は思ったのである。この茶碗を、自分の手で粉みじんに砕き割ってしまえばいい。そうすれば、すべては元の状態に戻るのだ。  そして、茨木美広は、ほんとうにそうするつもりであったのだ。  実際、茨木美広は、何度その茶碗をふりかざし、叩き割ろうとしたかしれない。そのたびに、一刻のばし一日のばしに彼の決断をにぶらせていた原因は、まさしく、その楽焼茶碗のふしぎな美しさなのであった。  どの土を使い、どんな釉薬の調合をすれば、この土味と、この発色がうまれるのか……どのように考えても、つきとめられない秘密の部分が、もうひとつ霞の向こうにあって、つかめなかった。素人の五郎に焼けたものが、玄人の自分に分析できないという苛立ちが、日を追うにしたがって、そのまま自分への、また五郎への、つよい腹立たしさとなり、激しい憎悪に変って暴《あば》れた。  誰に訊き、誰に相談することも出来なかった。これは〈自分が焼いたもの〉だからである。自分一人でつきとめなければならない事柄であった。  問題は、この楽焼の原土になっている白い土である。そして、釉全体に妖しい底光をあたえている、その光沢のちからである。特に白く釉を残した部分にきわだつ、白のねばり気のある光のかがやきが、美広には、未知のもののような気がした。自分も、土には敏感な方だという自負が、美広にはある。どちらかといえば、むしろ必要以上に技巧を凝らす人種の方だ。現在日本で、普通使われている土ならば、大凡《おおよそ》の見当くらいはつく筈だ。実際にあれこれ手がけてもみているし、また、いい焼物をつくるすぐれた土は、そう数多くあるものではない。この楽焼茶碗が、瀬戸か美濃方面の白い土を基本に使っていることはわかる。だが、もう一つその白のなかに、自分のしらない奥行があるのである。  そのわからなさが、この楽焼茶碗全体の謎の美しさをささえていることは、間違いなかった。そして、その謎の美しさをつきとめるために、美広はこの茶碗をどうしても打ち砕けなかったのだが、同時に打ち砕かなかったから、その謎の美しさにとらえられ、いつまでも毒されていなければならなくもあったのだ。  そして、次の間違いが、待っていた。  彼の交通事故である。終日、憑かれたように心そこにない美広を、その事故は突然五条大通りの交叉点で襲った。頭部強打で、意識不明のまま、美広は病院に担ぎこまれた。 〈楽焼茶碗「橋姫」〉は、この間に、美広の父の手によって、無断で全国陶芸展の公募部門に送り出された。期日ぎりぎりの応募出品であった。父親はめずらしくこの出品に乗り気で、早くからその意向をもらし奨《すす》められていたのだが、美広が頑《がん》として受けつけなかったのである。父親にしてみれば、楽《ヽ》というこうした本筋のまともな行き方で、正々堂々と名乗りをあげよという|さとし《ヽヽヽ》があったにちがいない。  茨木美広の入院は意外に長引き、彼は朦朧《もうろう》状態のまま、ときどき意識をとり戻したりしたが、結局殆ど正常にたちかえるまでに、三カ月と旬日を要した。その間に、〈大賞・楽焼茶碗「橋姫」〉は、世間に出る運びとなった。 「いいんですよ」と、真家五郎は、退院後すべてのいきさつをさらけ出して赦《ゆる》しを求めた美広に対して、そう言った。 「大賞を辞退する必要なんかありませんよ。焼物は、土と、それから火がつくるものなんでしょ? 僕は確かに〈土〉の部分をつくったけど、あとの〈火〉の部分は、確実にあなたがつくりあげたんだもの。あれは、或る意味で間違いなくあなたの作品ですよ。それに、僕にはまったく用のない、無意味なガレキも同じものなんですからね」 (無意味なガレキ!)  と、茨木美広は、そのとき、殆ど気の狂いだしそうな粗暴な敵対感情におしつつまれた。それはどこか、恥《はじ》の姿をもっていた。そして、それ以上に鮮明な、憎しみの貌《かお》をもった激情であった。     5  スナック≪悪い家≫で、アルマン・ベガーグが捜していた人物が、真家五郎に間違いないという確信は、直感的にひらめいたものであったが、理由のないことではなかった。  一昨年のクリスマス・イブに(外人が一緒だったかどうかはわからないが)、茨木美広は確かに≪悪い家≫で五郎に会っている。それに、ベガーグが茶道の研修生という点にも、楽焼を焼く五郎と繋《つな》がる要素がある。五郎は、ベガーグがいう、ハンサムにもグッド・ルッキングにもノーブルやエレガンスにも、すべてまさしく該当《がいとう》する。そして、何よりも決定的なのは、「ミスター・サター」という言葉であった。  サター。この言葉を和訳して、分解した意味を拾うと、言葉自体の輪郭も分散して、どの定義づけからも少しずつすべりおち、ほんとうのニュアンスを伝えなくなる。  半人半獣の、森の神。(酒と女が大好物の)サター神。好色家。淫乱者。色情狂……。それらの言葉は、どれも真家五郎の或る一面を言い当てているようでもあり、どれもみな、少しずつそうでない気もする。しかし、それらの言葉を総合すると、少なくとも美広が知っている真家五郎の或る雰囲気が、うまくうかびあがってくることは確かであった。  茨木美広は、退院の日以来、殆ど連日のように真家五郎の身辺をひそかにうかがい、うろついた。土の秘密を追ってのためか、五郎への憎しみの感情のせいなのか、例えば何かの報復の機会を狙ってのためか、それとも、もっと違った何かの理由によるものなのか……美広自身にも、はっきりとはわからなかった。正確に言おうとすれば、五郎のまわりから離れられなかった、という以外にない。  そして、他でもなくこの間に、美広は、真家五郎についての「サター」なる印象をもたざるを得ない、幾つかの奇妙な場面に遭遇したのである。  茨木美広の尾行メモをみると、  ──七月三十日。大原・三千院。客・女性。内庭の離れ入母屋、往生極楽院の堂内にて。フェラチオ。  その間、カレの眼は、如来結跏趺坐《によらいけつかふざ》像を、観世音菩薩像を、大勢至菩薩像を、須弥壇《しゆみだん》の黒漆欄干の螺鈿《らでん》文様を、彩色模様の柱や長押《なげし》を、板壁の極彩色の曼陀羅を、三千仏画を……それらの上を、せわしなく絶えずかけめぐる。ときには凝《じ》っと、ときにはすばやく、鋭く柔らかく、つかず離れず、睡たげに、遊ぶように、ときには冷《さ》めて、ときには狂おしく……なめるように……そして突然、カレは激しく両眼をみひらき、唸り声を発しながら、くすんだ極彩色の天井画の中に舞う飛天をあおいだ。恍惚たる眼! 外は雨、沛然《はいぜん》たり。他に人影はなし。  ──八月七日。深草《ふかくさ》・石峰寺《せきほうじ》。客、なし。カレは単独にて、赤門の参道をのぼり、裏山に入る。熊笹と密生灌木にうずまって、摩滅《まめつ》した五百羅漢の石仏群。その藪の中で衣服を脱ぐ。全裸。逞しい臀。歩き、寝、坐し……傍若無人、放恣《ほうし》きわまりない姿態。絶えず勃起。一時間近く、林中に在り。訪れる者なし。蝉と、暑熱。  ──八月十日。京都御所。夜。単身。堺町御門より入る。カレは樹間をぬけ、広大なる玉砂利と芝の御苑のまん中に佇《た》つ。闇中に暫し不動。突然、衝動的に砂利のうえを反転して転がる。地面を打ち、もがき……やがて、長々と静止。数刻後、カレはかなぐり捨てるように衣服を脱ぎ、逍遥《しようよう》。アベックや人影の往来かなり多し。片時、カレを見失う。更に数刻後、松林に入るカレを発見する。いぜんとして全裸。樹間を行き、立ちどまり、やがて再び見失う。御所の闇、熱く深し。  ──八月十二日。鞍馬《くらま》・鞍馬寺。単身。山気みちる鬱蒼《うつそう》たる樹林。巨木の岩根。……途中何度もカレを見失う。人跡絶えた路なき急山道より、奥の院へふみこむ。忽然《こつぜん》と、前方|木洩《こも》れ陽の斜光のなかに、老杉の茂りをわたる全裸のカレをみる。巨岩をふみ、やがて岩石群がる奥院・魔王堂ちかきあたりで、再び見失う。山気迫り、森閑たり。  ──八月二十日。小塩《おじお》・善峰寺《よしみねでら》。客・女性。洛西の眺望を眼下にする急峻《きゆうしゆん》な山上、薬師堂裏手にて、性交。カレのみ全裸。  ──同・二十日。大原野・勝持寺《しようじじ》。客・同女性。仁王門裏壁にもたれ、痴戯《ちぎ》。  ──同・二十日。粟生《あお》・光明寺。客・同女性。長い敷石の参道を、殆ど接吻しどおしでのぼる。折から高校生が一人降りてくる。カレの眼中にはなし。参道をのぼった御影堂の裏手台石上にて、着衣のまま再び、性交。参拝者数人あれども、気付く者なし。炎熱。  ……茨木美広は、こんな調子で、真家五郎の奇妙な性向を追跡して記している。だが、美広には、自分が何のためにこんなメモをとるのか、そのことが厳密にはよくわからなかった。わからなくて、やめられない自分に、或る狂いをみていた。自分が何を考え、何をしようとしているのか……それがわからない不安と恐ろしさが、絶えず美広にはあった。それが、狂おしかった。そして一方では、一つの白い土のことが、片時も頭のなかを去らなかった。だが、五郎の身辺からは、その土を探しだす何の手掛かりも得られなかった。  夜、美広は、絶え間なく夢をみた。いつも手に、竹ベラをにぎっていた。土を切る、堅い竹質の尖端《せんたん》が刃物のようにするどい竹ベラであった。その竹ベラで、美広はいつも、一つの美しい動物のような褐色の肉体を刺した。逞《たくま》しい、傲岸《ごうがん》な、花のような肉体であった。何かを叫び、美広はめった突きにその肉体を刺しとおした。それが、真家五郎の肉体であるとわかるのは、いつも汗にまみれて吼《ほ》えながらとび起きる、夢の醒めぎわであった。  茨木美広が、スナック≪悪い家≫で、アルマン・ベガーグに会ったのは、ちょうどこうした毎日がつづいていた時期だったのである。  狂おしく、それでいて所在ない……何か行動を起こさなくてはと思いながら、それでいてその何かがわからない……そんな、とりとめもない時期だったのだ。  美広がアルマン・ベガーグにとびついたのは、何かが新しく展開しそうな、そんなキッカケを、この外人がもっていそうな気がしたからに他ならない。  電話をかけると、Gはその日|遅番《おそばん》で、美広は、このところご無沙汰だったホテルの向かいのティーショップで、久しぶりに彼に会った。 「そうか、あの外人、そんなところまで探してまわっていたか……」と、Gは言った。 「じゃ、やっぱり、あのガイドってのは……」 「そうや、真家五郎やねん。こうなったらいうてまうけどな、実は今、ちょっとそのことで困ってるねん……彼奴《きやつ》は五郎やなきゃあかんいうし、五郎はもう断わってくれいうし……それが執《しつ》っこいねや。バアに入りびたりで、あのガイドあのガイドいうて……こっちかて神聖な職場やさかいな、ええ加減頭にくるわ……同僚の手前もあるしな」 「なんで真家クン、そない毛嫌いするねや? 付き合《お》うてやったらええやないか」 「それがあかんねん。怖いいうねん」 「怖い?」と、美広は反射的にききかえした。  Gは一瞬、しまったという表情をうかべたが、「とにかく……あの外人だけはイヤやいうねん」と、曖昧《あいまい》な口調で言葉をにごした。 「なあ」と美広は、話題をかえるような調子で、Gをみながらいった。「その外人、僕にまわしてくれへんか?」 「君に?」と、Gは駭《おどろ》いたようにいった。 「君もうやめたいうたんやなかったか?」 「そうや。けど、急に気が変ったんや」  Gは、ちょっとの間、まじまじと美広の顔をみつめ、「ひょっとしたら君……何か知っとんのとちゃうか、五郎のことで」といった。 「何かて、何や?」 「……まあええわ」と、そして観念したように言った。「君が何であの外人に興味をもつのんかしらへんけど……話すさかい、五郎の居所だけは喋ったりせんといてや」  Gはふと、暗い眼つきになって美広をみた。 「実は、最近、五郎のことでちょっともめごとがあってな……アイツがもう先《せん》ガイドした客が、ケツまくってきよってん。東京のな、ええ齢《とし》さらした大年増で、五郎にベタ惚れやったクセして……ガイド中に無理やり五郎にナニされたいうて……えらい剣幕やねん。何のことはない。五郎が別口の女客ガイドしてて、鉢合せやったんや。いちゃついているとこみられたらしいのや……前にもちょっとそんなことあったさかい、注意はしてたのやけどな……ま、自由恋愛いうこともあるし、まだ若いのやし、適当にイロ話はあるわいな。あの美貌とあの体やろ。女の方がほうっておかんしな……。そやけど、最近……五郎のヤツ、ちょっとそいつが目にあまるねや。まるで、手当り次第らしいのや。お前、それやったらコール・ボーイといっしょやないかて、僕もちょっときつういうてやったんや。そしたらアイツ……暫くじっと黙ってたけどな……オレ異常なんやないやろかて、こういうねん……」 「異常て?」 「がまんでけへんいうのや。寺とか庭とか仏像やとか古い絵とかな、それから苔《こけ》とか山とか木とか石とか……塔とか建築とか……とにかく、そんな京都の古いもんとか、時代の匂いのしみついたもんとか……僕にはようわからへんけど……そんな古い京都を感じさせるものをみるとな、頭がクラクラして……辛抱でけんようになってくるいうのや……別に女やのうてええ、何でもかまへん……ヤラんとおれんようになってくるいうねや……」  真家五郎は、「だから……女とヤってるって感じじゃないんだ……どういえばいいかな……つまり、そう、京都《ヽヽ》とヤってるって感じなんだ。この古い都が、オレをムズムズさせるんだ……オレをセクシュアルな人間にさせるんだ……ほんとうなんだよ!」と、真剣な眼に思いつめた色をうかべて、言ったという。 「その原因が、あの外人や」と、Gは言った。「あのベガーグいう奴が、五郎をそんなにしてもうたんや。元兇《げんきよう》は、あいつなんや」  一昨年の冬、アルマン・ベガーグのガイドについた五郎は、その翌日、バアがひけたら自分の下宿に寄ってくれないかと、Gに電話をかけてきたという。 「僕がいくとな、いきなり五郎のヤツ、ニヤっと笑ってな、オレを抱いてくれっていうねや。駭《おどろ》いたよ。なんでやいうたら、あの外人にな、京都をバックにしたヌードを撮らせてくれいわれたいうねん。朝昼晩、屋内屋外、ありとあらゆる京都《ヽヽ》をバックに……しかも百枚。その中に、自分とヤっているところも撮らせて欲しいいうんやて。オレ、男の抱かれかた知らんさかい、予行演習や。あんたはその道にも強いいうから、教えてもらおう思うたいうのや。お前、OKしたんか? そうや。バカモンっ……いうことになったんやけどな、アイツ、いかにも楽しそうにニヤついてるねや。ギブ・アンド・テイクやいうてな」 「ギブ・アンド・テイク?」 「物々交換、それが条件や、いうねん。一体何や、そんなご大層なもん……いうたらな、土やいうねん」 「土?」  と、茨木美広は、息の根のとまるような緊張感に、思わずふかく身顫《みぶる》いした。 「そうや」  と、Gはいった。 「何やしらん、ベガーグがな……お茶の家元とか窯元とかいうたけどな、とにかくそこへ持ってく土やねんて。それを横取りするんやいうてたで。日本のモノやないいうてたから、こっそり持ちこんだんやろ。一種の密輸やな。僕も見たけど、ドンブリ二杯分くらいの、しょむない白っぽい土やったわ。ビニールに包んでてな……アレのためやったら、何でもする、何かてさせる、さあ早う抱いて、アイツを満足させたらなあかんのや、タップリ何もかも教えてくれ……いうてな、眼エかがやかせて、あの大きゅうて逞しいのが、子供みたいにソワソワのぼせあがってるのや……けったいな子オやで、まったくアイツは」  真家五郎は、そして、まさしくその土を手に入れたのだ。美しい裸体と、若い肉体とを引換えに。  美広は、そう思った。 「けどどうや?」と、Gは言った。「ミイラ取りがミイラになってしもうたがな……」  白昼、天下の観光地京都で、束の間の人のと絶えや空隙《くうげき》をぬいながら、ほの暗い堂奥で、或いは白日の庭や林で、仏像に囲まれ、襖絵《ふすまえ》にとりまかれ、古遺物に埋《う》まって、廊下で、床で、軒下で……ありとあらゆる無人の瞬間、大胆なポーズをとって裸体になるスリルが、最初ひどく新鮮なショックだったという。それが病みつきの最初だった。アルマンは、着衣のまま裸体の五郎を愛撫し、抱き……ときには、自分も脱衣してセルフタイマーをかけたりした。そんな毎日が、二週間ばかり続いた。しまいには、そのスリルを思うだけで五郎の体はひきつるように炎《も》え、アルマンの濃厚な愛撫が、その炎える感覚をしっかりと現実の肉欲の快感で充《み》たしてくれた。 「ホテルではだめなんだ、下宿の部屋ではもうだめなんだ」と、五郎は言ったという。「|古い京都《ヽヽヽヽ》がなくちゃだめなんだ」  そのとき、目にみえない古い都の、古い気配が……地にひそみ、時代の底に眠りながら生きていた、苔むしてくすんだ、だが豪奢《ごうしや》で贅《ぜい》をつくした、あやしいものの古色の気が、五郎の素肌の皮膚をとおして、彼の内にとり憑くさまが、一瞬、美広の眼にはっきりとみえた。 (めらめらゆれて……とけはじめて……しまいにはもうそれ以上すきとおりきれなくなって、白い火の色そのものになっちまうでしょ、あの泥土が。あの感じが、僕には信じられなくて……だから、こたえられないんです。たまらないんだナ……)  そのたまらなさのために土をもとめ、土をもとめたために、今、真家五郎は、更に新しい次のたまらなさにとり憑かれたというのだろうか。もしその話がほんとうなら、いや、ほんとうにちがいないと、美広は確信をもってそう思った。そしてそのとき、茨木美広は、まっ黒い底なし沼に足をとられて急速に落下していく真家五郎の、苦悶と不幸に染まった姿を、はっきりと予感し、想像することができた。  いずれにせよ、と、美広は不意に思った。  今夜からはもう、あの美しい昂然とした肉体を竹ベラでめった突きにする夢だけは、見ないですむにちがいない、と。するとムラムラと、おさえきれない快さが胸のうちをたちのぼってきた。 「異常やな」と、茨木美広は断定するように、晴れ晴れとした声で言った。「確実に色情狂や。病院行きやで。彼には、もともとそんな体質があるのんや。物に溺れやすいていうな」 「そうやろか」と、Gは言った。「やっぱりベガーグに会わせたらあかんな。カレに伝えてくれ、カレのとびつく土産《みやげ》を持ってきてるからいうて、執《し》つこうからんでかなねんけどな……」 「土産?」と、その瞬間、茨木美広は、ビクンとつよい身顫いにおそわれ、その眼は、あらぬ虚空《こくう》の一点にとまった。  そして、しばらく動かなかった。     6  カオリン種の土だ、と茨木美広は思った。まだ見たことはないが、中国の景徳鎮《けいとくちん》あたりに、凄いのが出るときかされたことがある。  カオリンは、粘土中の王者と言われる、きわめて火に強い白土である。日本でも僅《わず》かにとれはするが、粗悪品だ。焼成火度の高い陶磁器、殊に白色磁器には欠かせない土であった。現在日本で使っているものは、朝鮮の河東《かとう》カオリンか香港カオリンかである。焼物の素地は勿論、その上にかける釉《ゆう》にも、また化粧土としても使われ、焼物の深い光沢を増す役目をもっている。  真家五郎の楽焼茶碗の、カッチリとは焼きしまっていない、あのどこかまだ余裕を焼き残したサラリとしたふくらみの加減は、瀬戸や美濃土を使ったとしても、それだけでは出せないものであった。カオリンの調合だと思わぬでもなかったが、国内で手に入るカオリンとはもう一味どこか違う、見馴れない内容があの楽焼にはあったのである。五郎は、二冬|坏土《はいど》を寝せたという。壺の中で土に微妙な細菌の分泌作用などもあって、土は生きもののように姿を変えたりする。そんな力を得て、見馴れない土が更に複雑な変化《へんげ》をみせたとしたら、あの楽焼の美しさの謎もとけるのだ。  真家五郎が、体を張ってまで欲しがった白い土……それは、日本では手に入らないものだからだ。そしてもしカオリンの種類だとすれば中国だ。日本では手に入らない上質の中国カオリン……茶の家元にしろ、どこかの窯元《かまもと》にしろ、陶芸に関わるものなら、垂涎《すいぜん》のものにちがいなかった。それにしても……と美広は思った。素人の筈の真家五郎が、その白土の価値をいち早く見抜き、知っていたということに、ふと、五郎の底のしれない恐ろしさを感じた。  茨木美広は、その日からホテルの周囲にはりこんで、アルマン・ベガーグを待った。張り込みはじめて三日目に、アメリカ人は、重そうな紙袋を抱えて、ホテルを出た。彼はその紙袋を助手席にのせ、レンタ・カーで外出した。無論、美広は自分の車を、ピッタリとその後に尾《つ》けた。美広の眼は、前を行く赤い車体とそして、未だ見ぬ広大な異国の地の発掘現場で、つよい大陸の陽ざしを浴びながら、白炎をふいて眩《まぶ》しくかがやきたつ白土の山脈《やまなみ》とを、同時にみていた。妖しい、酔いに憑かれた眼であった。  アメリカ人の車は、市内を西へとり、円町から白梅町へ上って、途中|御室《おむろ》の仁和《にんな》寺前で一度停まり、彼はレストランで食事をとった。キイをかけるのを忘れなかった。その後、宇多野から広沢ノ池の池畔《ちはん》を走り、釈迦堂前をへて鳥居本から、西山パークウェイに出た。京都西北の山岳地帯を蛇行しながらのぼるこの景勝路を、快速にとばし、それは、錦雲渓の上方あたりをカーブする地点であった。車寄せがあり、急峻な斜面の下方には清滝川がある筈だった。アメリカ人は、車を停めて車外に出、路肩《ろかた》に立って谷間の風景を眺めたりした。暫くして彼は、低い棚の切れ目の外に出て、崖端の叢《くさむら》へ小用を足しにかかった。車のドアは開いていた。  茨木美広が、何故そんな気になったのか、その時の彼の眼の奥を近づいて覗きこまない限り、誰にも納得はいかない筈だ。とにかく美広は不意に、車のドアをあけ、フラフラと前方の車体に歩みより、何かに誘いよせられでもするような手で、その紙袋をつかんだのである。  怒声と揉み合いは、ほんの一瞬の内だけだった。美広がすさまじい勢いで払いのけた手は、途中から空を泳ぎ、その時はもうアメリカ人の足の下で、粗目の瓦礫《がれき》が動いていた。  そして、彼の大きな体も、間もなくすぐに消えてなくなった。  茨木美広は、事態を正確に察知するより前に、むしゃぶりつくようにして、紙袋の中を覗きこんでいた。  果物とビールの罐詰に、チーズとコーラ。あとはでっかいフランスパンがつまっているだけだった。     7  その後、どこで何をしたか、茨木美広はおぼえていない。気がついたときは、夜だったし、坐っていたのはスナック≪悪い家≫のカウンターだった。彼は水割りを飲んでいた。  扉が開き、カッコいい背広《スーツ》を着た、花のような顔をした若者が入ってき、「やあ」といって、美広の隣に坐った。 「君は……」と美広は、低い咽のふさがるようなもつれた声で、辛うじて言った。「そうやなかったのか、精神病院に行く筈じゃあ」  若者は、「僕も水割り」と注文してから、いつもと変らない声で言った。「聞いたんですね、Gさんに。そうだナ、僕はやっぱり変なんだろうな。いや、またいい土が入りましてね……昨夜Gさんがとどけてくれたんです。ダメなんだな、僕は。あの土には勝てないんだナ。何でもする気になっちゃうんだ……そう、精神病院にだって、どこにだって、行ってもいいって気になるんですよ。とにかく、うまく出来たら、また頼みますね。今度こそは、じっくりと焼けるところが見たいんです」  茨木美広の手が目の前の酒壜をつかみ、奇妙な叫喚《きようかん》とともにそれを放りあげたのは、その直後である。酒壜は、一直線に天井へとんだ。  美広の眼は、完全に焦点を失っていた。  頭上でそのとき、華麗な世界が散乱し、砕けちって、堕《お》ちてくる気配がした。 [#改ページ]  堕天使の羽の戦《そよ》ぎ     1  伊集院猛夫・アート設計事務所にとって、結果的には不幸な事件の幕あけとなったその電話は、冬の朝、雨から薄陽のなかを雪に変りはじめた京都市中の、御池通りにある彼のセカンド・オフィスの方へ掛った。  一階は駐車場、二階はレストラン、三、四階をいくつかの商社や衣料関係の会社が借りて入っているこのビルの四階、表通りに面した一角に、伊集院猛夫は昨年のはじめ頃からセカンド事務所を持ち、東京と京都の間を往復していた。  電話を受けたのは、若い助手の大原だった。 「伊集院クンいる?」  と、太い粘り気のある声が言った。 「今日は午後からでないと、こちらには出てまいりませんが」 「東京じゃないんだろ?」 「はい。正午過ぎには顔を出すと思います……失礼ですが、どちらさまですか?」 「僕は徳光。伊集院クンが出てきたら伝えてくれたまえ。彼の知恵を借りたいんでね。用件はウチの山野が心得てるから。連絡をとってくれるように。頼んだよ。じゃ」  時間にして三十秒たらずの、ごく短い、一方的な電話だった。  押しの強いキビキビしたその口調に、事務所へ入ってまだ一年たらずの新参者の大原は、むしろ高飛車な、不遜《ふそん》な物腰のほうをつよく感じ、正確に言えば不快感をおぼえた。 「どうしたのよ、ポカンとしちゃって」  と、その時声をかけたのは、出勤してきたばかりの新藤竜子だった。  伊集院アートのベテラン・メンバーの一人で、東京事務所創立以来、伊集院の有能な秘書役として手足のように動き、デザイナーとしても充分一本立ちのできる腕を持った女である。三十を越えているが、若く見える。京都進出を機に、伊集院が彼女をセカンド事務所のチーフに据《す》えたのは、この優美な古都を、仕事上の素材の仕込みや販路拡張の新起点として考えたことのほかに、磨《みが》きのかかった日本古典の感覚を地についたパイプから吸いあげ、伊集院アートの新たな戦力増強をはかるという狙《ねら》いがあり、その意味で、新藤竜子の女の腕が最適と見たからである。  事実、彼女はその期待に充分に応《こた》え、事務所本来のインテリアの仕事のほかに、海外の一流デザイナーやインテリア・デコレーターなどからの、日本建築に関する資料の照会や問合せ、古道具、時代調度のこまごました装飾品類の依頼調達まで、相手方の欲求をきびしく読みわけ、独自の美意識で品目を選びあげて捌《さば》いてのけた。  どちらかと言えば、アメリカ的な機能美を強く打ち出す、新現代派感覚でこの世界に売り出した伊集院猛夫の最近の仕事ぶりに、日本古典の造形色が重厚なあつみとなって加わりはじめている昨今、彼女の才能は、伊集院を支える貴重な持駒《もちごま》の一つであった。  新藤竜子は、ブルーのコートを脱ぎながら、それがいつもの癖で、壁の電気時計をチラリと見あげ、仕事着を肩から羽織って、ロッカーの扉《とびら》をカチンと閉めた。  時計の針が、その鋭利な金属音と歩調をあわせて、カチリと正確に出勤時刻を指して動いた。いつもと変らない、順調な、伊集院アート京都事務所の一日のはじまりだった。  ただ一つ、出社時刻直前に掛ってきたその短い電話を除くほかは……。 「なに?」  と、竜子は、大原が黙ってデスクの上に置いたメモ紙へ一|瞥《べつ》をくれながら、椅子《いす》にかけた。 「徳光って人から、ボスにメッセージです」 「徳光?」 「誰ですか。伊集院クン伊集院クンって、ずいぶん失敬な威張った口振りだったけど……」  竜子はメモ紙に眼を走らせると、ちょっと首をかしげ、「フーム」と、不審げに咽《のど》を鳴らした。そして、急に顔をあげた。 「大原ちゃん。今日の伏見のオークション、何時からだった?」 「三時半です。その前に、ボス、離宮の違棚《ちがいだな》を見に行く予定が一つ入ってますよ」 「修学院《しゆがくいん》の『霞棚《かすみだな》』だったわね……」 「方角が逆ですし、遅くとも一時前には顔出してもらわんと」 「修学院か……もう先方には連絡済みだし、これはちょっと外せないわねえ……」  新藤竜子は、瞬時なにかを思案する風だったが、「仕方がないわ」と、決断を下すように言った。 「先生のホテルに電話を入れて頂戴。出たらわたしが代るわ」 「どうしたんですか……そんなに重要な用件なんですか?」  大原は、やや緊張ぎみの竜子と自分のとったメモ用紙とを、改めて怪訝《けげん》な面持で見比べ返した。 「徳光って、一体誰なんです?」 「徳光英央」と、竜子は言った。 「あなたも、もう一年、この世界の水飲んでるんでしょ。徳光と言えば、すぐピーンとくるくらいのアンテナ持ってて欲しいわね。もっとも、ここ二、三年、ウチの先生とのお付合いはバッタリだったから、無理もないけど」 「徳光英央って……あの建築家の?」 「そう。ウチの先生を世に売り出してくれた最初の人。さあ、わかったら急いで頂戴」 「……でも、大丈夫かな。午前中は空《あ》けとくようにって、申し渡されてるからな……」  大原は、昨夜|祇園《ぎおん》のクラブGで伊集院が連れていた若いホステスの顔をチラッと思い浮かべ、独り言のように言った。  竜子も、その席にはいた。このところ、東京での仕事に忙殺されて、暫《しばら》くぶりの西下だった伊集院は、久しぶりに事務所の連中を引き連れて、木屋町、花見小路|界隈《かいわい》を二、三軒まわり、Gでお開きということになったのだった。 「ムダ口を叩くんじゃないの」  と、竜子は、布|屏風《びようぶ》の染色デザイン図を展《ひろ》げた設計台に向かいながら、きわめて事務的な声で言った。眼はもう図案の細密な彩色を点検しはじめていた。だが、どこか心そこにないといった風な、落着かなげな様子もあった。  徳光英央。  青みをおびた浅黒い肌を持つ精悍《せいかん》な男の風貌が、竜子の頭のなかをよぎった。  建築から過剰な人間臭さを排斥しきった彼の数多くの作品が、まわり灯籠《どうろう》のように目先を走って想い出された。どれもみな、建築界の『スター・プレイヤー』と呼ばれる彼にふさわしい話題を呼んだ有名建造物だった。  徳光がその仕事のパートナーに選びあげてくれなかったら、インテリア・デザイナー伊集院猛夫の現在の成功はなかった筈だ。  余分な装飾美を極端に捨象して、機能性にするどい眼目を置いた伊集院猛夫の室内造形は、濃密な情緒や華麗な思索の世界を展開する雰囲気には欠けたが、その清潔感と、むしろ冷たく機能主義に徹した構成力には、鋼《はがね》の肌を思わせる爽快《そうかい》な現代感覚があった。  伊集院猛夫がこの世界にデビューしてから七、八年間、二人の反《そ》りの合ったコンビによる仕事は、矢継ぎ早に発表された。 (素敵なコンビだったわ……)  と、往時を想い起こすように、竜子は思った。  徳光と伊集院の交際がバッタリ|と《ヽ》絶えて、もう三年ばかりになる。喧嘩《けんか》別れをしたわけでもないし、別に仕事上のトラブルがあったわけでもない。なんとなくコンビは間遠となり、伊集院は徳光の息のかからない所でも一本立ちの仕事ができるようになったし、徳光の方でも伊集院の独立を慮《おもんぱか》ってか、意識的に伊集院にかまうことを差しひかえた事情もなくはなかったにちがいない。 (それは、そうにはちがいないのだが……)  と、新藤竜子は、再び遠いものを追うようなふと暗い目つきになって、図面の上で瞳をとめた。  とにかく、徳光英央の声が、伊集院アートの電話線に流れ込んできたのは、実に久し振りのことであった。  それも、仕事上の話はすべて徳光建築設計室のチーフである山野を通して持ち込まれてきていたから、徳光自身が直接電話を寄越すなどということは、絶えて久しかった。しかも早朝、出勤時刻以前にとは……。  竜子は、そのことに、軽い胸騒ぎを感じていた。  とつぜん前ぶれもなく舞い込んできた、徳光の「知恵を借りたい」という用件が、並みのものではなさそうだという察しはつく。それに急いでいるらしい。大きな仕事にちがいない。ひょっとしたら、また二人のコンビの復活が望めるかもしれない。そんな昂奮もあったのだが、一方では、どこか胸の底に冷《ひ》やりとする得体の知れない騒ぎがあった。いずれにしろ、伊集院の出社を待ってはおれない気持であった。  それに、午後からは日程もつまっていた。離宮の参観は宮内庁許可によるものだったのでキャンセルしたくなかったし、伏見のオークションも江戸時代からの旧家が持道具をごっそり競売に掛けるというものだったので、手持ちのインテリア・コレクションを掘り出す意味でも、また資料参考の面でも、伊集院に是非出席させたかった。 (仕方がないわ)と、新藤竜子は、ホテルを呼び出している大原の声を聞きながら、もう一度言い訳のように呟《つぶや》いた。  そして、最近とみに女出入りの激しくなった伊集院猛夫の、睡眠不足で叩き起こされる不機嫌な顔を、チラッと頭の隅《すみ》に思い浮かべた。昔は、むしろ女嫌いでとおっていた、潔癖ですがすがしい若者だった。 (そういえば……)と、竜子は、染色の図面から眼をあげて、不意に思った。このところずっと、それはもう一種の馴《な》れになっていて気にもならなかったが、伊集院の女出入りを自分がふと頭に浮かべたのも、実に暫くぶりのことであった。  徳光の電話が、それを自分に思いつかせたことに、新藤竜子は再び、落着かない心の漂いを感じた。ほの暗い潮騒《しおさい》かなんぞのように、不意に揺れるものが身辺にあった。  虫のしらせだったかと、後になって彼女は思ったりしたのである。  この時、スモーキーな装飾ガラスを透して見た御池通りに舞う雪は、なぜかうす汚れた黒い無数の羽を想わせて、竜子はあわてて眼をそらした。寒い朝だった。 「チーフ、残念でした」  と、助手の大原の声が同時にした。 「ボスは、外出中だそうです」 「外出中?」 「ええ。つまりその、ホテルヘはご帰館ではないそうです。昨夜っからね」  大原は屈託のない白い歯をみせて、ニヤッと笑った。  伊集院猛夫が徳光の建築設計室に電話を入れたのは、結局、その日の夕暮れ近い時分であった。修学院離宮にも出掛け、伏見のオークションも済ませて、再び御池通りの事務所に帰ってきてから、彼は竜子に市外ダイヤルを廻させた。東京はすぐに出た。 「山野です。お待ちしてました」  と、年輩の物柔らかい声が返ってきた。 「暫くです、室長。ご無沙汰《ぶさた》をしております……」  竜子は連絡の遅れた詫びを述べながら、気が気ではなかった。 「只今《ただいま》、伊集院と替ります……」 「やあ、どうも」と、伊集院は受話器を握りかえながら、磊落《らいらく》な口調で引き取った。 「今朝方はわざわざお電話をいただいたそうで……何かお急ぎのご用事ではなかったでしょうか……」  平然とそんな風に喋《しやべ》りかけることのできる彼に、竜子は、改めて歳月の流れを感じた。  徳光からの連絡を伝えた時、伊集院は即座にニベもなく、そう言ったのだ。 「オークションの後でいい」と。  少なくとも、三年前までの彼には、そんな芸当はできなかった。一廻り伊集院が大きくなったということか。プロの太々しさが身についたということなのか。それともやはり、それは、この三年間、徳光との交際が|と《ヽ》絶えていたことと無関係ではない、何かの隠された彼の心の動きの表われででもあるのだろうか。  徳光によって才能を見つけ出されたという恩義は無論のことであったが、それ以上に、若くして建築界のトップ・レベルに駆けのぼり八面六|臂《ぴ》、世界を股《また》にかけて絶えず花形建築家の地位を保ち続けている徳光に、彼は私淑し、心酔しきっていた。徳光設計室からの電話には、何をおいてもとびついていた彼であった……。  竜子は暫く、不思議な生き物でも眺《なが》めるみたいに、均整のとれた肢体の上に端正な首筋をまっすぐに立てた伊集院猛夫の横顔を見つめていた。 「そうですか」と、伊集院は言った。「それは残念なことをしました。久し振りにお会いできると楽しみにしてたんですが……じゃ、そのように致します。明日は、そちらに帰りますので」  至極簡単に、彼は電話を切った。受話器を置いた後、しかし伊集院猛夫は煙草に火を点《つ》けて、瞬時、焦点の定まらぬ眼になった。考え事をする時の、彼の癖だった。 「お仕事ですの?」  と、竜子は、さりげない風に尋ねてみた。  伊集院は急に我に返ったように、点けたばかりの煙草を揉《も》み消し、ふだんの顔に立ち戻った。 「そうらしいな」と、そして言った。 「徳光さんは、アメリカだそうだ」 「あら。でも今朝の電話は……」 「発《た》つ前に掛けたらしいな」 「じゃ、やっぱりわたしからでも、とりあえず一報入れといた方がよかったんでしょうか……」 「その必要はない」 「厄介《やつかい》なお話ですの?」 「わからん。僕|宛《あて》に、封書のメッセージが残してあるそうだ」  伊集院は、無造作にそう言い捨てると、奥のプライベート・ルームに消えた。  別の言い方をすれば、新藤竜子が正常な伊集院猛夫の後姿を見たのは、この瞬間が最後だったと言うことができる。  事務所の外は、相変らず雪だった。     2  徳光建築設計室の応接ルームで、伊集院猛夫が室長の山野から手渡されたハトロン紙の角封筒には、次のような短い文面の私信が入っていた。  ──伊集院猛夫殿。 [#ここから2字下げ]  小生が提供する一室内空間を、次に掲げる条件を満たすことを前提に、貴殿の卓抜なアイデアによって内部造形して頂きたい。  本件は、或る意味で、きわめてプライベートな性格をおびてはいるが、また或る意味では、貴殿の国際的評価を高からしめるまたとない好機とも考えられ、是非々々、快諾されんことを期待する。  詳細は山野にお尋ね願いたし。 [#ここで字下げ終わり]      条 件 [#ここから2字下げ、折り返して4字下げ] ○ この室内は、絶対に人間が住むことを拒絶する空間に設計されること。 ○ インテリア・デザインとして、独立した作品価値を有すること。 [#ここで字下げ終わり] [#地付き]以上。   [#地付き]徳光英央。    伊集院猛夫は、二度紙面を読み返し、その間、きちんと両|膝《ひざ》をそろえ、律義にその上に手を置いて彼の質問を待っていた初老の山野の方へ、顔をあげた。 「……どういうことなんでしょうか? サッパリ呑み込めないんですが」 「ごもっともです」と、山野は答えた。 「ご説明致します。つまり、こういうことなんです。先頃、徳光が国際建築家連盟の集まりに出ました折に、あちらの代表の方達といろいろ懇談する機会がございましてね。これは、くだけたお酒の席で出たジョークがそもそものはじまりらしいのですけれども……つまり、われわれの仕事は、用途や目的は異っても、煎《せん》じつめれば、人間がいかに快適にそこで住めるか、生活できるか……ということが、基本的にはまず大前提としてございますでしょ。人間肯定と言うか……言葉としては変ですが……つまり、人間を受容する空間、それをいつも問題にしているわけですよね。では、人間を否定する……或いは、拒絶する空間、とは一体何なのか。どんな空間なのか。それを、考えてみることも必要ではないか……と、いうような話が出たらしいのですね。具体的に、そんな空間を考えてみる。探してみる……それが逆に、今までわれわれに見えなかった、或いは考えつかなかった、新しい住空間を開拓するワン・クッションにならないか。新境地をひらく、一つの創造のバネにはならないか……と、いうような話らしいのです。裏を知って、表に還《かえ》るというか……逆もまた真というか……そういう考え方でしょうね。誰かが、冗談に面白おかしく喋った……まあ、その場の思いつき、座興みたいな具合だったんでしょう」  山野は「どうぞ」と、女の子が運んできたコーヒーをすすめて、また話に戻った。 「ところが、瓢箪《ひようたん》から駒。それは面白い。ひとつ、真面目に考えてみようじゃないか……ということになったらしくて、まあ、甲論乙|駁《ばく》。いろいろ賑《にぎ》やかな意見が出たそうです。徳光が言いますにはね、その時、フッとあなたのことを想い出したと言うんですよ。あなたなら、やるかもしれないってね。  人間を拒絶する室内空間……つまり、建築はいわば建物の外囲いをつくる仕事ですけれど、直接人間の肌に接する部分は、インテリアの領域ですからね。まず、インテリアの段階で、そんな空間が設計できるものかどうか……やってみようではないかという話になったんだそうです。不可能だ、と言う人もあれば、アホらしい、無意味だ、とつっぱねた人もあったそうです。どうも、あなたにはご迷惑な話ですが、徳光はああいう性格の人ですから、面白いという側に一票入れたらしいのです。ですから、このお話はあなただけではなく、他の国でも、同じ条件で何人かのインテリア・デザイナーが腕を競うということになるらしいのです。  無論、非公式な、裏の試みという形ではあるのですけれど、一種の国際試合みたいな格好に話が発展したらしくて……徳光は、是非あなたに乗って欲しいと申しているのですが……。大体のお話の骨格は、おわかりいただけたでしょうか」  山野は姿勢を崩《くず》さずに、ひかえ目に顔をあげて伊集院を見た。 「よくわかりました」  と、伊集院は、意外にあっさりと応えて言った。 「要するに、お偉い方達のオ遊ビみたいなものなんでしょう?」 「いや……」と、山野は生真面目に恐縮しながら、相変らず物柔らかな口調で言った。 「徳光もその書面に書いていると思いますが……ニュアンスとしては、これはかなり熾烈《しれつ》な、真剣勝負という観があるのではないでしょうか。お話自体は、まことに人を喰ったゲームのようで、お若いあなたには、バカにされたという風なお気持もあるかとも思いますが……なんと申しますか……こう、プロの世界の呼吸というようなものは、妙なもので、案外こうした他愛もない、バカげた側面というか……冗談みたいなモノのはずみのなかで、真価を問われたり、また大きく動いていたりするものなんですよ。私も、その点では、徳光の意見に賛成です。これは、もしかしたら、あなたにとってはめったにない大きなチャンスかもしれませんよ。世界に売り出す素晴らしい檜《ひのき》舞台になるかもしれないと、思ってるんですけれどもね」 「そうですか」と、再び伊集院は、平静な声で答えた。「とにかく、お話はうけたまわりました。問題の重大さも、僕なりに理解したつもりです。徳光さんのお名前にも関《かか》わる事柄ですし、僕にできることかどうか、一両日、考えさせて下さい」 「無論、そうなさって下さい。徳光は、今のところ、他の方に頼む意向は持っておりませんようですので、ひとつ、その辺もお含みいただいて……」 「わかりました。ご期待に副《そ》うよう、努力してみます」  伊集院猛夫は、出掛けにチラッと、応接ルームから奥の設計部に向かう誘導路を可動式のパネルで仕切って展示空間にした数多くの陳列ケースのなかに、一つの模型を見るともなしに、見た。  初めて彼が徳光に見出され、そのロビー構成をデザインした、いわば伊集院猛夫の出世作ともなったC県県立図書館の全容を雛《ひな》形にした模型であった。  その広々としたロビーの壁面に、彼は、メタリックな手法で、巨大な二枚の羽を浮彫りにしたマッスを造形したのだった。羽は、強|靭《じん》な金属音をおび、澄明な大空へ羽撃《はばた》くものの象徴であった。静かな壁面に耳をすませば、その飛翔の風切音が聞こえてくる壁。そんなロビーをデザインした。羽は、また、徳光英央の象徴でもあった。伊集院の上に舞いおりて、伊集院をともない、果てもない、空高く舞いあがってくれた徳光を、伊集院猛夫はそこに描きとどめておきたかった。心ひそかに、 『天使の羽』  と、命名したデザインだった。  そのC県県立図書館のロビーが、いきなり彼の目先を襲った。  磨きこまれたガラスケースの光のなかで、その純白の模型細工は一瞬、けがれを知らぬ白|無垢《むく》の、不落の王城かなんぞのように、伊集院には見えた。  なぜか、もう二度と徳光と組んで、あのように純粋に力を競いあい、結晶させあった作品は、自分にはできない……という気が、その時した。  懐かしい、遠い日の幻を見る想いであった。     3  人間を拒絶する室内空間──。  よく考えれば、それは恐ろしい仕事であった。  インテリア・デザイナーは、早くいえば、建築家の手によってつくり出された外郭の、内側を受け持つ仕事である。建築家が空間の外囲いを決定するとすれば、その囲いの内部造形を設計し、決定するのが、インテリア・デザイナーの職分である。  無論、さまざまなケースがあって、すでにできあがった室内に、ただそれに見あう家具、什《じゆう》器、装飾的な美術品、例えば絵画や観葉植物などを選んできて、配置するだけの仕事もあれば、また建物の施工の最初から建築家と組んで綿密な打ちあわせを繰返し、図面を引いて、家具調度類は勿論、床や壁、照明美術、使用する織物繊維のデザインから、その製作、こまかな手工芸作業まで、すべてやってのけるケースもある。  要するに、その目的と用途は多様でも、人間が活用する一空間を、美的に且《か》つ快適に造形する職種である。  インテリア・デザインとして完成し、しかも絶対に人間を拒否する室内造形とは、一体どのようなものを指すのか……。  人間が住めない部屋──。  人間を排撃する空間──。  伊集院猛夫は、丸二日、結論から言えば、そのことだけを考え暮らした。  何度か考えることをやめようとした。決然と顔をそむけ、その考えを放|擲《てき》しようとした。  何が国際試合なものか。子供|騙《だま》しのコケ威《おど》し。奇趣|奇矯《ききよう》。気狂いじみた空疎な戯事《ざれごと》。  ……だが、その考えはふしぎに彼の頭の底に粘りついて、払っても落せない蜘蛛《くも》のように不意に頭蓋《ずがい》の奥で動き出し、彼を鳥肌立たせるのだった。考えまいとしても、いつのまにか彼は考えはじめているのだった。  ──この室内は、絶対に人間が住むことを拒絶する空間に設計されること。  ──インテリア・デザインとして、独立した作品価値を有すること。  馬鹿げているが、難題であった。その難題な部分が、彼を刺戟《しげき》した。それが職業意識のせいであったか、彼の個人的な感情によるものだったか、彼自身にもわからなかった。わからなかったが、彼は感じていた。眼の前に投げ込まれた一つの餌を。餌は、黒い釣針を隠していたし、激しい毒をひそめていた。ひそめていると知っていて、誘い込まれ、泳ぎ寄って行く自分自身を。  丸二日間、伊集院猛夫は上《うわ》の空だった。  今迄自分がやってきた仕事の、すべて逆を考えればよい、と、最初彼は思った。アイデアもイメージも、すべて逆方向に発展させれば、その先に何かの曙《しよ》光が射し込みそうな、そんな気が割に簡単にした。つまり、室内構成の原理とか法則を、破壊してしまえばよい。例えば、室内構成物の線、その形、色彩、材質、照明、その光と影……そういったもののすべてを、快から不快へ逆転させて考えればよい。そうすれば、必然的に不快至極な部屋がそこにできあがる。この不快さを、更に度数をあげて破壊的な方向へ煮つめて行けば、具体的に人間の住めない空間は完成しそうな気がしたのだ。  不快で、醜悪な、我慢ならない部屋……。  それは、確かに実現可能である。だが、果して、絶対に人間を拒否する部屋となり得るだろうか……。  人間には、|馴れ《ヽヽ》という順応性がある。一時は確かに狂気と呼ぶほどの不快な環境であったとしても、馴れてしまえばそうでなくなるということもある。また、不快でグロテスクな環境こそが、逆に快適で住むに足る空間だと考える人間も出てくるだろう。そうすれば、これはもう無限のイタチごっことなる。  結局はその部屋を、例えばコンクリート詰めにしてしまうか、或いは、超音波とか殺人光線などの類いで破壊的な空間支配を考えるか……とにかく、その種の物理的操作による以外に、真に人間を拒絶する部屋などありようがない、という気も一方ではしてくるのだった。  それに、『独立したインテリア・デザインとしての価値を持つこと』とは、一体どんなことを意味するのか。  破壊の造形──。  人間を拒絶する空間デザイン──。  現実に考えつめれば、それは実にとりとめのない、恐ろしい主題と化す気がするのだった。  徳光英央が、なぜ突然、このような難題を自分に持ちかけてきたのか……。伊集院には、その真意をはかりかねるところがあった。  徳光が、現在も伊集院猛夫の才能によせている信頼度の深さとみればよいのか。それとも、伊集院猛夫に示した、露骨な害意の表われとみればよいのか……。  その判断がつかないまま、伊集院は終日、一つの怪態《けたい》な空間の幻影を、あれこれと想い描いては消し、時々、 (害意……)  と、不意にうす暗く眼の前にたちはだかる一つの想念にぶっつかっては、いらいらとした。  徳光との仲が疎遠になったのには、なるだけの理由があった。八年間、息の合った仕事を続けてきた仲であった。その間に、伊集院は事務所も持ち、人も使える身分になった。別れたくて、袂《たもと》を別《わか》ったのではない。また、「袂を別つ」と、どちらもがはっきり口にしたわけでもない。おたがいが、そうした方がよいと思ったからこそ、自然に二人の仲は遠ざかったのだ。  遠ざかるだけの理由が、自分達にはあった。  それだけでいいではないか。想い出したくはない事柄であった。顔を合わせば、想い出さずには済まないだろう。そうしたくないために、自分達は別れたのだ……。  伊集院猛夫は、一枚のハトロン紙の封筒を睨《にら》みつけた。  断わることは、インテリア・デザイナーとしての自負がゆるさなかった。引き受ければ、一つの地獄へ舞い戻らねばならない気がした。  三年ぶりの沈黙を破って、これが、徳光が見せた何かの意思表示であることはわかった。そしてそこに、伊集院は、なぜか徳光の害意を感じた。  国際試合などというもっともらしい道具立ても、疑わしかった。作り話かもしれぬ。この三年間、これは徳光の考えつづけていたことが、形となって現われたのだ。徳光が考えぬいた、いわば背水の陣なのだ……。 (僕への報復手段なのだ……)  と、伊集院は、思った。  伊集院猛夫は、きっかり二日目の午後に、徳光建築設計室の山野宛に電話を入れた。 「先日のお話、受けさせていただきます。徳光さんは、いつ頃お帰りになるご予定でしょうか?」 「はい。実は、あちらの大学の講座が三月ばかりかたまってあるのです。その後、こまごましたスケジュールが散発してございますので、帰国は六月に入るのではないかと思いますが」 「そうですか。では、早速、僕の方は具体的なスケジュールをうかがいましょう。期限があるんでしょうね? この仕事」 「はい。できれば、徳光が帰ってまいりますまでにプランを練っていただけますと……そう申して出掛けましたものですから……」 「わかりました。で、ご指定の建物といいますのは?」 「はい。これは、京都にございますんです」 「京都?」 「ええ。ご存じでもございましょうが、嵯峨《さが》に徳光の別荘がございます。その一室を提供するようにと、申しつかっております」 「───」  伊集院猛夫は、ゆっくりと物静かに喋りつづける山野の声を耳にしながら、舌の根に軽い痺《しび》れを感じた。舌の根だけでなく、一瞬、全身をこわばらせる冷えた気流が、体の中を激しく吹きとおる感じに彼は耐えた  幻像のように一人の少女の面差しが、同時に眼前に蘇《よみがえ》った。  想い出してはならぬ顔であった。  その別荘に住み、そして、その別荘で弔《とむら》われた少女であった。  可憐《かれん》な、うす薔薇《ばら》色に染まった頬《ほお》。小さな貝がらのように、いつも濡《ぬ》れた唇のあわいにこぼれでた真白い歯。握ると、なぜか清水の冷たさを伝えてよこした細い指。よく撓《しな》うほっそりとした首筋にあった小さな黒子《ほくろ》……。  伊集院猛夫は、息苦しい胸の昂《たかぶ》りを押し殺しながら、眼をつぶった。  若いふしぎな生き物のように軽やかに跳《は》ねまわる少女の姿態が、生々しく瞼《まぶた》の裏で躍《おど》っていて、消えなかった。  山野の声は、まだ何かを喋っていた。     4  その少女をはじめて見たのは、いつ頃だったか……。もう四、五年は前のことだ。  最初は夏だった。  徳光の別荘は、京都市嵯峨小倉山の南に面した山あいにあった。保津川が下方を流れ、南西に嵐山、遥《はる》か東に比叡《ひえい》の連峰が木の間に見えた。  何かの打上げ会だったか、仕事仲間が六、七人、徳光に招かれたことがあった。  無論まだ伊集院アート京都事務所はない頃だったし、伊集院は他の仲間達と一緒に東京からやってきたのだった。 「こんなことでもない限り、僕もめったに京都へくる機会なんかないんだよ」  と、徳光は言った。  料理人が入って、賑やかな宴会だった。  宵《よい》の口であった。小用に立った折、長い廊下の外れをスウッとよぎったものがあった。白いふんわりとした朧《おぼ》ろな物影だった。  伊集院は、ぎょっとして立ちどまった。  それは夜のなかを白い薄靄《うすもや》に似て、夢のような動き方をした。廊下の先から暗|闇《やみ》の庭におり、暫く広い庭のなかを漂うように揺れ動いていた。  伊集院は眼をこらし、その正体を見きわめようとした。したたかに酔いが廻っていた。 「どうした」と、背後で徳光の声がしたのは、そんな時だった。  伊集院は、庭の奥を指さした。 「誰か……いるんじゃないですか?」 「ああ、あれか」と、徳光は、ちょっとすかし見るようにして言った。「うちの女の子だよ」 「女の子? お子さんがいらっしゃるんですか?」 「ばかやろ。僕に子供があるわけないだろ」  徳光は当時、三十七、八だったか。独身だった。もっとも、女関係は決して少ないという方ではなかった。むしろ派手で、おおっぴらに花やかだった。 「あれは、遠い縁続きでな。身寄りがないんで、ここに引き取ってるんだ」 「この別荘に住んでるんですか?」 「そうだ」 「一人で?」 「ばかをいえ。中学を出たばかりだぞ。一人でこんな山ン中に置いとけるわけはないだろ。お袋がいるよ。それに、留守番の爺さんとな」 「お袋って……徳光さんのお母さんですか?」 「そうだ。もっとも、寝たり起きたりしてるんで、僕も気になるしな。東京へ引き取りたいんだが、ここが極楽だって腰をあげないんで、弱ってるんだ。まあ、あの子が身の廻りの面倒をみてくれるんで、助かってるんだがな……」  徳光はそう言って、 「レイっ」  と、庭に向かって大声で呼びかけた。 「何してるんだ、そんな格好で。あがりなさい」  長い薄物のネグリジェの裾《すそ》をなびかせて、その少女は闇のなかをとぶように近づいてきた。素足で芝生を踏んでいた。間近で見ても、ゆるやかな裳裾《もすそ》が、繊《ほそ》い肢体にふんわりと煙のようにからみついていた。あどけない、素朴な少女だった。 「おばあちゃんに、螢《ほたる》とってあげてるの。昨日はたくさんいてたのに、今日は一匹もいてへん。もう夜露おりてるのにな」  少女は濡《ぬ》れた手のひらをひろげて見せ、すぐに引きずるほどの裾をはためかせ、廊下の奥の方へ消えた。  壁燈の火影《ほかげ》のなかで見た少女は、ほんのわずかの間であった。だが、やはり夢のような印象を残した。酒の酔いのせいだったか、伊集院は、その夜泊った別荘のベッドのなかでも、白い裳裾のひるがえる夢を見た。  翌朝起きて、もう一度少女に会いたいと思ったが、彼女は姿を見せなかった。  二度目に会ったのは、それから一年ばかりしてである。  何の都合で京都にやってきた時だったか想い出せないが、祇園祭の当日だったことはおぼえている。山鉾《やまぼこ》巡行日にぶっつかって、街のなかはごった返していた。誰かに電話を掛け終った後だった。伊集院は、公衆電話のボックスのなかにいた。山鉾見物の人出にとり囲まれ、扉をあけて出るに出られず、立往生の形のまま、伊集院は近づいてくる鉾を眺めていた。  少女は、向かい側の歩道を埋めた観衆のなかにいた。いや、少女がいたと言うよりも、伊集院は、そのなかにひときわ背の高いがっしりとした体躯の徳光英央を見つけたのだ。その徳光の前にいる女の子が、レイという少女だった。  最初伊集院は、彼女だとは気づかなかった。一年見ぬ間に、少女はすっかり大人びていた。顔の印象もちがっていた。もっとも、夜の庭先で束《つか》の間に見た少女だったから、白日の下で顔形が別人を思わせたのは、ごく自然なことだったかもしれぬ。  少女は徳光の手首を握っていた。その徳光の手は、少女の両肩の上から前におろされていて、徳光は少女を後ろから引きよせるように体の前へ抱え込んでいた。人混みのなかで、それは少女をかばう当然の姿勢と言えた。誰が見ても、父親と娘の姿に見えただろう。  だが、その時突然伊集院を襲った胸苦しさは、えたいのしれないものだった。伊集院自身にも、説明はつかなかった。なぜなら、それは強《し》いて言えば、嫉妬の感情に近かったからだ。そのことに、伊集院は動転した。  徳光の大きな手のひらが、少女の胸のふくらみの上に置かれていて、ひそかにその果肉を揉《も》みしだいているかの風に伊集院には見えた。  突然あたかも、情交現場に踏み込んでいるようなうろたえを感じ、伊集院猛夫は激しい羞恥と昂奮につつまれた。  長刀鉾《なぎなたぼこ》の前触れが近づいてきて、そんな徳光と少女を、伊集院の視界から消してしまった。鉾は、華麗な音の囃子《はやし》を撒《ま》いてゆっくりと伊集院の眼の前を通り過ぎた。金銀錦のゴブラン織の垂飾りが通り過ぎた後には、もう二人の姿は見つからなかった。  三度目に少女と顔を合わせることになったのは、三年前の冬であった。  長|患《わずら》いだった徳光の老母が死に、葬儀は別荘で営まれた。偶然だったが、伊集院は京都U会館の仕事で、この直後一週間ばかり京都に滞在する予定を抱えていた。 「君さえよかったら、別荘を使えよ」と、徳光は言ってくれた。「いや、そうしてくれると助かるんだ。留守番の爺さんとレイだけになるからな。ま、いずれは東京にあの子は引き取ることになるだろうが……今日明日ってわけにもいかん。君がいてくれると、当座の気はまぎれるだろうからな」  徳光は、葬儀を済ますとすぐ沖縄にとぶスケジュールがあった。  葬儀の間中、眼を泣きはらしていた少女はまるで小学生のようにも見えて、ほうってもおけない気がした。そんなわけでこの一週間、伊集院は小倉山の別荘で寝泊りすることになったのである。と言っても、昼間は大抵仕事関係の時間でつぶれたから、少女と顔を合わせるのは、朝か深夜に限られていた。  伊集院には最初、奇妙な動揺がなかったとは言えない。祇園祭の街頭で突然自覚したえたいのしれない息苦しさが、また蘇《よみがえ》るのではないかと不安であった。不安であったが、どこかで一方それを期待している自分もいた。少女と一つ屋根の下に寝起きすることで、胸のときめきをおぼえる自分が妖《あや》しかった。伊集院は、その妖しさをひそかに怖れた。  だが第一日目に、それは全く取越し苦労であったことが彼にはわかった。  少女は実に淳朴《じゆんぼく》で、いたいけなかった。食事、洗濯、掃除、伊集院の身の廻りのことはすべて手落ちなく気|遣《づか》ってくれた。味噌汁、山菜料理、糠《ぬか》漬け…… 「これみんな君が?」 「はい」と、少女は含羞《はにか》んで首肯《うなず》いた。「おばあちゃんに、教えてもろうたんです」  どんなに夜遅く帰ってきても、坂の途中にある黒木の大門には灯が入っていたし、風呂や夜食の支度をして少女は起きて待っていた。 「僕に構わずに寝てしまいなさい」 「平気です。ほかにすることあらへんし」 「……君は、ほんとなら高校生なんだろ? どうして学校にやってもらわないの?」 「うち、勉強好きやないんです。それに、おばあちゃんほってて、学校なんか行けしまへんし……」  徳光の母は中風で長いこと寝たきりだった。三度の食事は手をすけて口に運んでやらなければならないし、体を拭いたり、排便の世話まで、少女が一人で看《み》ていたと言う。 「うち、そんなことしてるほうが、好きなんです。性《しよう》に合うてるんです」  徳光の老母の話になると、彼女は手放しで泣いた。見ているとまるで子供のようでもあり、かいがいしく気を遣って動き廻る少女は、世故《せこ》にたけた大人を感じさせもした。白い霞のようなネグリジェをまとい螢を追っていた妖精めく少女も、徳光の腕のなかでふと淫蕩な空想を呼んで伊集院をあわてさせた少女も、彼女からは見つけ出すことができなかった。  健康で、働くことが好きな、むしろ野育ちのたくましささえ感じさせる、気持のよい少女だった。老母の話に泪《なみだ》ぐみはしたが、しめっぽい不幸の影は彼女にはなかった。  伊集院は、ふしぎに胸が安らぐのを感じた。 「あれがお袋の面倒をみてくれたんで、お袋も満足な往生ができたと思う」と、徳光は言った。「寝込んだ時には、正直言って僕も参った。看護人やお手伝いを入れる手筈をつけたんだが、あいつがそうさせないんだ。どうしても自分がやるってきかないんだよ。ま、小さい時から、お袋が可愛がってたしな……中学だけで、あいつを病人に縛《しば》りつけるような生活させるのも可哀想で、二の足踏んだんだがな……よくやってくれた。ま、これからは、あいつの好きなことをさせてやろうと思ってるよ」  徳光の言葉も、少女を見ていると首肯《うなず》けた。  この少女なら、病人も気持よく看取《みと》られて死ぬことができたであろう。骨惜しみしない、よく気のつく、すなおな少女だった。  徳光と少女を怪態《けたい》に結びつけた突飛な想像が、恥じられてならなかった。結びつけた自分に、伊集院は吐き気をさえおぼえた。  風呂場に入っていると、 「肩、流しましょ……」  と、言って、ためらいもなくショート・パンツに腕まくりの格好で入ってきた。  ためらったのは、伊集院の方であった。少女は、無心なのであった。  さすがに、やわらかな指の腹や、てのひらのふくらみが、肩先や背をすべりおりる時、伊集院は平静だったとはいえなかった。けれども、そんな戸惑いも、はじめのうちだけであった。じっとまかせていると、ふしぎな平安がおとずれた。少女の手は、氷の花びらが触れるように冷やっこかった。湯をかけても、そのやさしい冷やっこさは変らなかった。幾度も湯を浴びせかけてくれながら、ためらいもなく背なか中を泳ぎまわる手は、思いがけなく新鮮で、さわやかだった。熱い湯のなかで突然清水のながれにめぐりあっているような、すばしこい、みずみずしさがあった。  伊集院は、いわれのない親しさを、その手に感じた。ふしぎな解放感だった。  朝、明るい光につつまれた洗い場でも、伊集院は平気で裸の背を少女にゆだねきることができた。おおらかな、のびのびとした気分であった。  少女の無心さが、伊集院を無心にした。  気がついてみると伊集院は、いつのまにか、少しでも多く少しでも長く、少女と一緒の時間を過ごし、少女と触れ合っていたいと思うようになっていた。その望みが、自分で少しも疚《やま》しくはなかった。  だから、鼠が足許《あしもと》を走ったと言っては伊集院にとびつき、剃《そ》り残りの髭《ひげ》が二、三本、顎《あご》に残っていると言っては笑い転げ、伊集院の顔を両手ではさみ込んだりする少女を、伊集院もうろたえることなく抱きしめてやることができた。そんな時少女は、ほんとうに怯《おび》えきっていたし、心《しん》から可笑《おか》しくてたまらなさそうだったりした。その癖、蜘蛛や守宮《やもり》を平然と指でつまんで捨てたりもする少女だった。大人のような気遣いをするかと思えば、開けっぴろげで、天真|爛漫《らんまん》なのであった。  親身なものにどこかで一|途《ず》に飢えている……そんな感じを持たせる少女が、伊集院にはいじらしかった。  一週間は、またたく間に過ぎたのであった。  保津川が静かに底鳴りのする、沫雪《あわゆき》の降りはじめた夜であった。  明日は東京に帰らねばならぬと思いながら、少女と別れがたい気のするこれは何だろうかと、伊集院は自分の心の奥を覗《のぞ》き込むような思いで、別荘への道をのぼっていた。京都市内で拾ったタクシーは、大門をのぼった坂の道の頂上でUターンした。そこが、別荘の玄関先だった。軒燈が雪でにじんで、ほの暖かな光の輪をつくっていた。別荘中に明りが入っていた。 「今夜は早う帰ってきて。うち、ご飯食べんと待ってますさかい。一緒に食べて下さい」  昼前、別荘を出る時に、少女はニコッと笑ってそう言った。  少し早く帰りすぎたかなと思って、伊集院は足音を殺した。剽軽《ひようきん》な声をたてて伊集院にとびついてくる彼女の顔が、眼に見えた。  別荘中に明りを灯《とも》した彼女の心根が、伊集院にはわかる気がした。胸の奥に、不意に熱いうるみを感じた。  ロビーを抜けていったん二階に上ろうとした伊集院は、思いなおしてキッチンへ通じる廊下の方へ出た。灯はあかあかと長い廊下の先まであふれ、陽気な明るさにみちていた。ふと、伊集院は忘れていたものを想い出しでもするように、その廊下の先に眼をこらした。闇のなかをふわりとよぎる夢のような白い裳裾を追った眼だった。廊下は今、燦然《さんぜん》と明るかった。妖精は、明るさのなかでは姿を見せない。そんなことを、チラッと思った。思った自分に、奇妙なかなしみを持った。  伊集院は、独りで苦笑した。苦笑しながら廊下を歩いた。少年のように胸をはずませている自分が可笑しかった。  廊下の外れを曲った先が、キッチンだった。そこも、明るかった。芳《こうば》しい料理の匂いがたちこめていた。調理台には、レンジに入れればいいだけの下|拵《ごしら》えのできた料理が、幾皿も並んでいた。ちぎりかけのサラダ菜が、水を切ったまま俎《まないた》の上に置いてあった。フォークやナイフやスプーンの入っているキャビネットの引出しが、開きっ放しになっていた。みかんの盛り皿。口を開けたばかりのパイン罐《かん》。その傍に、まだ濡れている罐切りが放り出してある。水道の蛇口も、ゆるく水音をこぼしていた。フライパン掛けの釘《くぎ》にぶらさがっているトランジスタ・ラジオから、歌謡曲が流れていた……。  つい今し方まで、少女がそこにいたことを物語る部屋だった。  けれども、少女はいなかった。  少女の姿は、どの部屋のなかにも見えなかった。  伊集院は、二階も一当り当って、またキッチンへ戻ってきた。  トイレにでも行ったのかな、と最初は思った。外は雪であった。この時刻、出掛ける先がある筈もなかった。裏の留守番の爺さんの部屋か、とも思った。食事を届けに行ったのかもしれぬ。伊集院は、キッチンの椅子に腰をおろして、煙草を一服吸った。  そして、ふと顔をあげたのである。  水音が聞えた、と思ったからだ。蛇口の水は先刻自分の手で切った。伊集院は、煙草をもみ消して立ち上った。  キッチンの奥に、小廊下をはさんで風呂場があった。ドアを開けると、浴室の脱衣部屋は暗かった。だが、その奥の浴室のドアはうすく開いていて、光線を洩《も》らしていた。  伊集院は、立ち竦《すく》んだ。  しきりになにかを促すような、また尋ねかけるような、低い声を聴いた。低いが、太く押しの強い声だった。無論、少女の声ではなかった。粘りっ気のある、男の声だった。 「うん?」と、その声は、言った。 「いいか?」とも、その声は、言った。  もっとほかの、よく聴きとれぬ別の促しや尋ねかけの言葉も、しきりに口にした。  言葉の合間には、ただ、 「?」「?」「?」……  と、尋ねかけに代る暴《あら》い、だがねっとりとした、強靱な動きを伝える、言葉にならない肉体の声が、きりもなく続いた。  伊集院は、知らぬ間にドアの隙間《すきま》の光線のなかに立っていた。  浴室は、まばゆい光の渦をまいていた。渦と見えたのは、もうもうたる湯煙であった。湯煙は、広い浴槽からもたちのぼっていたが、三方の壁にとりつけられた三基のシャワーの口金からいっせいに噴出し続けている湯の滝しぶきから騒然と立ちのぼっていた。  三基のシャワーは、タイル場の一箇所に向けて放出されていた。その激しい湯しぶきの集まる的《まと》の部分に、男は向うむきに胡座《あぐら》をかいてすわっていた。濃褐色の毛深い頑丈な背の左右に、桜色に上気した太|股《もも》が大きく開かれて躍っていた。その柔らかな桜色の足や手は、ある時は夢のように、ある時は獣めいて、間断なく男の体のいたるところにからみつき、また遠ざかりして、蕩揺《とうよう》し続けていたのである。  濃褐色の男の裸体も、桜色の女の肉も、無数の激しい湯の条線に叩《たた》かれていた。  少女の顔は絶えずのけ反りかえっていて、湯気に煙って見えなかった。  伊集院猛夫は、眼の前でゆっくりとドアを押しひらきながら、その時確認するようにして、見たのである。少女の胸のふくらみを、現実に揉《も》みしだいている太い浅黒い男の手を。  その指を。  それは、幻ではなかったのである。     5  徳光建築設計室の山野は、 「一応、ご案内するようにと申しつかっておりますので」  と、言って、徳光が|インテリア《ヽヽヽヽヽ》を設計するようにと提供した部屋のある京都小倉山の別荘まで、律義に伊集院を案内した。  その日は、早朝から吹雪《ふぶ》いていた。  三年ぶりにのぼる坂道であった。  長い楓《かえで》林の坂の途中にある黒木の大門も、昔のままだった。その大門から、雪にけむっている暗緑色の高い変形屋根を前方の竹の葉末《はずえ》に仰いだ時、伊集院猛夫は、瞬時、通り魔のまっ黒い影を見た。いや、見た、と思った。  雪の天空を行く、淋しい一群の葬列だった。  その葬列は高空に浮かび、今しも、飛雪の間《あわい》をしずかに歩み去らんとするところだった。 (レイっ……)  伊集院は、思わず口のなかで小さく叫んだ。  眼を落すと、ほの暗い坂道の上にも、その一団は現われた。小さな白木の骨箱が、伊集院にははっきりと見えた。雪が彼等の足もとを払っていた。 「何かおっしゃいましたか?」  と、山野が、背後から声をかけた。  伊集院には聞こえなかった。伊集院は束の間立ちどまりかけ、再びその坂をのぼりはじめた。瞳をみひらき、前方の一団を正視しながら。まるで、その一団に追いつこうとでもするように。 「あなたもご存じだと思いますが……」と、山野は、ともすれば伊集院の広い歩幅に遅れがちとなりながら、言った。「一階のロビーの奥の、あの広間です……」 「お葬式のあった部屋でしょ」と、伊集院は、構わずに歩きながら応えた。「レイという女の子のいた」  冷然とした口調であった。 「え?」と、山野の聞き返す声を、風が消した。  伊集院の眼は、相変らず前方へ放たれていた。強い、光る眼であった。 「あなたは、知ってらっしゃるんでしょ、山野さん」と、やはり歩きながら伊集院は言った。「この気狂いじみた企画の、ほんとうの目的は何なのか。何なのですか、一体」 「え?」と、山野は、がむしゃらに歩く伊集院に追いつきながら、再び聞き返した。  二人の吐く息のなかを雪が舞った。 「徳光設計室の懐刀《ふところがたな》と言われるあなただ。徳光さんの腹の底は、お見通しなんでしょ?」 「?」  山野はきょとんとして、伊集院を見守った。 「僕を抹殺するためですか」と、伊集院は、重ねて聞いた。依然として前方へ顔をあげたままで歩きながら。「僕が、そんなに目ざわりなんですか、徳光さんには。それとも、僕とは関係のない、何か……徳光さんご自身の問題なのですか、これは」 「伊集院さん……」と、山野は驚いたように伊集院を見直した。 「いえ、わかっています」と、伊集院は言った。「引受けた以上、僕はやらせていただきます。できなければ……多分、できないだろうという予感が僕にはあります。正直に言えば、そうです。しかし……できなければ……デザイナー伊集院の名は死ぬわけです。それは構いません。もともと僕は、徳光さんによって光を当てられた人間です。徳光さんの手で、その光を消されることを、ちっとも不足には思いません。引受けた仕事ができなければ、プロフェッショナルがその生命を失うことは当然です。それはいいのです。それくらいの覚悟は、つけているつもりです。しかしただ、伺っておきたいのです」  伊集院は、雪の走る坂道の上を、ちょっと透かし見るように首をたてた。何かを見失うまいとする確認の眼のようにみえた。 「これは、僕のためなのか。徳光さんご自身のために、必要な仕事なのか。それとも……一人の、女のためになさることなのか」 「女?」と、山野は怪訝な声で、聞き返した。 「徳光レイ」  と、伊集院は、眦《まなじり》を裂くような語気で吐いた。 「徳光さんが養女になさった女の子です。徳光さんにとって……天使のような女の子であった筈です。あの女の子がいなければ……徳光さんのお母さんは……どんな死に方をなさったでしょうか。あの女の子がいたからこそ……徳光さんは、安心してご自分の仕事ができたんでしょ。仕事に打ち込むことができたんじゃありませんか。それを……」 「それをっ……」と、伊集院は、激《げき》した声で、唐突に大きく喉《のど》を波打たせた。 「ま、待って下さい……」と、山野はさえぎるように言った。「何のお話をなさっているのか……」 「知らないと言うのですか。あなたも、いらしたじゃないですか。いらして、お線香をあげられたじゃないですか。たった……十五人の参列者で済ませたあのお葬式……。身内以外は、あなたと僕。この二人だけ。あの、ひどいお葬式……」  伊集院の声は、突然ふるえた。  そして、ふるえながら、彼は言った。 「あのひどいお葬式を……徳光さんに出してもらった女の子です!」  と。  前方の雪の虚空を睨《にら》みすえるように見つめた眼は、憤りとも悲しみともつかぬ熱い光でもえていた。  山野の足は、ぼう然ととまった。二、三歩先で、伊集院も立ちどまった。吹雪が、二人の間を渦をまいて高く舞った。 「……伊集院さん」と、山野は息を呑みながら、伊集院を見守っていた。真剣な眼であった。「……あなたが、何をおっしゃっているのか、私にはわかりません。いえ、お葬式には、確かに私も参列しました。淋しい……お気の毒なお葬式だと思いました。……あんな死に方さえなさらなければと……私も、とても残念に思っております。でも、どうしてそんなお話が、このお仕事と関わりを持つのでしょうか……。わたしには、ほんとうにあなたが何をおっしゃっているのか、わかりません。私にわかりますことは、先日、お話いたしました。勿論、これは大変難かしいお仕事だと思います。でも、あなたなら、これをきっと大きなジャンプ台にして、さらに大成なさる方だと、徳光は信じておるのだと思います。先日も、申し上げた通り、これは、真面目な仕事の発注です。私に言えますことは……それだけです」 「……そうですか」  と、暫くたってから、伊集院は言った。  独り言のような呟《つぶや》きだった。呟きながら、ちょっと背をかがめ、前方を探るように見た。  雪の奥の竹の樹間に、定かではない、揺れる一団の影があった。あやかしの影であった。それはまるで、「来い、来い」と、誘い込むような……伊集院の先を先をと動き、歩み去って行く影であった。  一つの玄関をのぼり、一つの建物のなかへ、消えて行く影であった。  伊集院猛夫は、その黒い淋しい一群の影に向かって、急に大幅に歩を速めて歩き出した……。  激しい湯しぶきの音が、耳のなかで鳴っていた。  その湯しぶきを浴びて、少女は大きく口を開いたまま、伊集院を見つめていた。  徳光は、ゆるやかに粘り強く頭を動かし、そんな少女の胸のふくらみを吸いつづけていた。やがて、徳光もふと顔をあげ、少女の視線をたどるようにして、振り返った。  しかし彼は、充血してうるみきった眼をほんの束《つか》の間、チラッと伊集院の上に投げてよこしただけであった。 「ああ、君か」と、徳光は言った。  言って、再びその頭を、桜色の少女の肌の上に戻した。ゆっくりと強い力で少女の体をしなわせながら、肩も背も腰も臀《しり》も、以前のゆるやかな粘りつくような動きに戻って行った。  一度少女は狂暴に身をゆさぶり、がっしりと彼女をとらえた濃褐色の箍《たが》の輪から逃れ出ようとした。出ようとするかに、伊集院には見えた。繊《ほそ》い両腕が、徳光の肩と争い、必死の力をためてもがいた。だが徳光の容赦ない動きは、そんな少女をひとたまりもなくからめとって、やすやすと肉の輪の中央に封じ込めた。頑丈な肉の箍は、少女をゆっくりと締めつけながら、少しずつ自由を奪って行った。  乳白色の湯けむりのなかで、暫くシャワーの噴出音だけが伊集院の耳を打った。千筋の湯の条線が時々きらめき、光の針を思わせた。  気がついた時、伊集院は雪の小倉山を歩いていた。どこまで歩いても、闇と雪の山道だった。  ……あのまま、山をおりればよかった、と、何度後になって思っただろう。おりなかった自分が、無念だった。  物狂おしい雪の夜が明けた朝、伊集院は別荘の広間のソファーで眼をさました。いつここへ帰ってきたのか、はっきりした記憶がなかった。  いや、一度嵐山までおりたのだ。灯のついている店へとび込んだ。レストランだったような気がする。そこで、ウイスキーをあおった。ほかのことは、何も記憶にはなかった。何故また山へひき返したのだろう……盲酔いだった。  酔いのなかで別荘へ帰ってきている自分が、情《なさけ》なかった。靴下もズボンも上衣も、泥にまみれていた。  伊集院は、厚い毛布をはぎとりながら起きあがろうとした。そして不意に、無意識にはぎとりかけたその毛布に眼をとめた。誰がかけてくれたのか……。ふかぶかとした柔らかな毛布だった。スチームも入っていた。その上、暖炉も燃えていた。薪《まき》はまだ充分に残っていて、芳しい野の匂いをただよわせ、時たまかすかに爆《は》ぜていた……。  強いかなしみがやってきた。酒で忘れ果てた部分があるのに、何故このかなしみだけが消えてなくなっていないのか。朝、いきなり一番最初に、起きがけの自分を襲うのか……。  伊集院は、別荘中に明りを消して陽気な歌謡曲をかけながらくるくるキッチンのなかで働きつめている少女の顔を、想い浮かべようとした。自分を待っていた少女の顔だ。  だがその顔は、どうしてもうまく浮かんでこなかった。一夜にして、少女は遠く駆け去った。そして、このかなしみだけが朝、自分の上に残っている……。そのことが、ふしぎでならなかった。  暫くぼんやりと、伊集院は応接広間の宙に眼を泳がせていた。やがて、立ちあがり、窓際へ歩いてカーテンの合せ目から外を覗いた。帰りの新幹線は何時だったかな、と、そんなことを彼は思った。雪があがっていなければ、早目に車を呼んどかないと……。  一週間、毎朝この別荘の坂道を車でおりたのに、一度も車の手配など自分で考えたこともない伊集院だった。出掛ける時、車はいつも、玄関下へ横づけになって待っていた。彼はただ、玄関を出さえすればよかったのだ。大抵少女は先に出て、タクシーの運転手と話したりして、彼のくるのを待っていた。  毎朝、そうして出掛けた別荘なのだった。  雪はあがって、晴れていた。  伊集院は、鋭い音をたててカーテンを閉じた。外が晴れていることが、いわれのないことのように思われた。明るい視界があることが、ひどく理不尽な気がしたのだった。  伊集院は、乱暴に窓際を離れようとした。  そこに、少女は立っていた。  いつの間に入ってきたのか。少女は、トマト・ジュースのグラスを手に持っていた。そして、黙って伊集院の方へそれを差し出した。  血潮色のグラスであった。  伊集院も、黙ってそれを飲み干した。  レモンの酸味が、口中にひろがった。毎朝飲んだジュースであった。 「ありがとう」  それだけ言って、伊集院は広間を出て行こうとした。  少女が、その言葉を口にしたのは、そんな時だった。最初伊集院には聞こえなかった。かぼそい、恐る恐るの声だった。 「つれて行って下さい」  振り返った伊集院に、少女はうつむいたまま、そう言った。怯えるような声だった。 「?」 「うちっ……」と、少女は顔をおおった。にわかに、嗚咽の声をたてた。「……あんなこと、厭《いや》なんですっ……しとうないんですっ……嫌いなんですっ……でもっ……でもっ……」  と、少女は必死に首を振った。 「わからんようになってしまうんですっ……なんにもわからへん……なんにも考えられへん……頭がっ……この頭がどうかなってしまうんですっ……厭やと思うんですっ……しとうないと思うんです……でも、してしまうんですっ……やめられへんのですっ……やめようと思うんですっ……やめなあかんと思うんですっ……いつも、いつも思うんですっ……でもやめられへんっ……」 「やめられへんっ」と、少女は、子供のような泣き声をあげた。  幼児が泣いているような、いたいけな声であった。  無心に伊集院の裸の背を流してくれた少女が、そこにはいた。みずみずしい清水の流れるような手を持つ少女だった。  伊集院は、その手の爽快な冷たさに、邪心を払い落された。多分……と、伊集院にはわかるのであった。徳光英央も、あの手に心をゆさぶられたのだ。そして、その手の鮮烈さに、負けたのだ。いや、負けたと言うよりも、徳光は徳光らしく、彼の流儀で、その手を愛したのかもしれない。  実際、ふしぎな冷たさを持つ手であった。  伊集院には邪心を落し、徳光には悪心をよびさました……。きわどい、危うげな冷たさを、その手はひそめていた。  伊集院には、その手にそそられて思わず踏み外した徳光の行動が、或る意味では、よくわかるのだった。そしてその過ちが、過ちでは済まなくなった。溺《おぼ》れ込んだ徳光が、伊集院には理解できた。  溺れ込ませる楽しさを、確かに少女は持っていた。大人かと思えば、子供であった。無心のなかに、細心な成熟があった。その危うさが、妖しかった。肉欲をもたぬ少女が、肉欲に溺れきる体を持っていた。自分が魅《ひ》かれたのも、おそらく最初は、そんな少女だった筈だ。その少女が、徳光のすぐ身近にいるのだ。徳光がそれを楽しまない筈はなかった。  この一週間、少女と一緒に暮らしさえしなければ、伊集院にも、徳光の行為は赦《ゆる》せたかもしれない。いや、赦せないまでも、黙認はしたかもしれない……。  徳光の傍若無人な生きざまは、或る点で、伊集院の夢をそそる。憧れのようなものでもあったのだから。  かつて、伊集院は、その憧れを『天使の羽』として、自分の処女作のなかに表現した。『天使』という言葉に、若く一途だった頃の気恥ずかしい感傷はあるのだが、徳光を当時、『強大な天使』とあおいだ気持に嘘はなかった。自分にはない強大さを、徳光は持っていた。その強大さに、彼は憧れ、引きずられてきたのである。強大なものが放つ光彩には、たえがたい悪臭もあった。濁《にご》りのなかからでなければ、真の強大さは育ちはしないのだから。  だが、この一週間少女と暮らし、少女を知った今、徳光英央を、赦す気にはなれなかった。徳光英央の上に見ていた城塔が、一時に色あせてくるのだった。 「もう厭や」と、少女は言った。 「ここにいるの……厭なんですっ」  ほっそりとした首を折って、少女は床に泣きくずれた。  何故あの時、少女に手をさしのべてやらなかったのか。 (わかっている……)と、伊集院は思った。  連れて出ることは、簡単だった。しかし、その後はどうなるのか。いずれ少女は、少女ではなくなるだろう。また、かりに、永久に今のままの少女だったとしても、あの浴室での光景を見てしまった以上、少女はもう伊集院のなかでは決して今までの少女ではあり得ないのだ。いずれは自分も、この少女に、徳光と同じことをするだろう。今するか、先でするかのちがいではないか。  いや、と伊集院は思った。多分、自分も、少女が女になる前に、それをすることになるにちがいない。少女が少女であるからこそ、この子に自分は魅かれるのだ。また、そうだからこそ、この子も素晴らしいのだ。  徳光英央と袂《たもと》をわかち、この少女を引き取ったとしても、この少女の将来がしあわせになるという保証はどこにもない。  少女を連れて出るということは、徳光英央にはっきり反目を宣言することだ。徳光英央に反《そむ》くということは、明日から自分の生活が一変することだ。もしかすれば、もうこの世界で食べてはいけなくなるかもしれぬ。それはいい。自分が好きですることだ。暮らしがたたなくなったとしても、自業自得だ。だが、一緒に連れて出た少女はどうなるだろうか……。  徳光のそばに置いておくことと、自分が連れて出ることと、どちらが少女のためになるのか。それが、伊集院にはわからなかった。わからないというよりも、とっさに判断がつかなかったのだ。  伊集院は、ただ、泣いている少女を見つめているしかなかったのである。 「連れて行くかい?」  と、その時、背後で声がした。  ガウンをひっかけた徳光が、立っていた。  無造作な口調だった。 「君に惚《ほ》れるとは、レイもなかなか眼が高い。うん。男を見る眼は確かだな」  徳光は卓上の煙草入れから一本抜き、火をつけて、ソファーに深々と腰を落した。ふだんとちっとも変らない、磊落《らいらく》な仕草だった。  はだけたガウンの胸もとにも、大きく開いた両|脛《すね》にも体毛が密生していた。体毛は太股の奥の茂りまでつづいて見え、ガウンの下は裸体であるのが一目してわかった。  そのことが、伊集院の平静を奪った。徳光と少女の閨《ねや》の情景が、浴室の痴態の上に重なっていきなり生々しく想像できた。自分の出る幕ではない、と、はっきり伊集院は自覚したのであった。  伊集院は、黙ったまま一礼して、その部屋を出た。 「連れて行かないのかい?」  と、徳光は、やはりこともなげに言った。 「冗談はやめて下さい」  決然と、振り返って伊集院は答えた。  少女が死んだのは、その日の朝の内だった。  保津川と清滝川の合流地点に落合《おちあい》という淵《ふち》がある。川幅の広い深みである。  少女は、その淵へ沈んだ。     6  伊集院猛夫は、丸三カ月、山野が案内した別荘の広間に閉じこもり、外界との交渉を絶った。事務所の連中にも、徳光建築設計室の関係者にも、一切この別荘に近寄ることを厳禁した。広間のなかは、家具調度類をすべて運び出させて、がらんどうだった。  伊集院アート事務所は、東京も京都も、事実上|主《あるじ》不在の形となった。 「せめて電話にだけでも出るように言って下さい……」と、京都事務所の新藤竜子は、電話口で哀願の声をあげた。 「それがあきませんねや」と、留守番の老人は答えた。「まるで受けつけはらしません」 「食事はちゃんと食べてますの?」 「へえ……そらまあ、毎日運んでますけど……ま、食べたり食べなんだりですなあ……」 「体にだけは注意するようにって伝えて下さい……」 「へえ、よろしおす……せやけど、なんですなあ……あんさん方も大変ですなあ……」 「いいえ、事務所の方は心配いらないって言って下さい……順調に行ってるからって……それから、何かお手伝いすることはないかって……東京も京都も、みんないつ声がかかるか……毎日そればっかりを待ってますって……どうか、いいお仕事をなさるようにって……」  伊集院猛夫は、ガランとした部屋のまんなかに坐って、ただ宙を眺めていた。  この部屋に、泣いている少女を残して自分は出て行った。そして、この部屋で、少女の弔《とむら》いが営まれた。ごく内輪な弔いだった。葬壇を前にして、ぽつんと徳光が吐いた言葉が忘れられなかった。 「……アイツ、本気で君に惚れてたんだな」 (惚れていた)  それは、一体どういうことなのか。 「……抱いてやればよかったんだ。そしたらアイツ、死にやしなかったよ」 《僕が殺したとおっしゃるんですか》 《あなたは、あの子に何をしたとおっしゃるんですか》  言いはしなかったが、口まで出かけた言葉であった。 『連れて行かないのかい?』  徳光はあの日、平然とそう言ったのだ。少女が、どんな気持でその言葉を聞いていたか……。あの日、そこまで斟酌《しんしやく》してやることが自分にはできなかった。一途に、この部屋からとび出して行きたかった。泣いて、あの少女は頼んだのに。恐る恐る、怯えるように。 (あの日、〈徳光英央〉は、おれのなかで完全に壊れた。徳光英央が壊れると同時に、少女も、壊れた)  でも、それが、少女の罪だったろうか。  少女は、あの時も、自分が知っている少女とちっとも変りのない、無心で、素敵な少女だったのだ。少女に、変りはなかったのだ。 (ただ、おれのなかで、少女は壊れた)  少女を殺したのは、自分だ。  伊集院猛夫は、毎日同じことを繰り返し思った。あきもせず、思った。 (人間を拒絶する部屋──)  徳光にも、この応接広間は、忘れ去りたい部屋である筈だ。この部屋を地上から葬るために、彼はそのアイデアを思いついたのではあるまいか。二度と入れない部屋にするために。  この部屋で死んだも同然の……そして、この部屋で弔われた少女への、それは、一つの餞《はなむけ》の墓碑ともなるのではあるまいか。  ……奇妙な考え方であった。だが、伊集院猛夫は、本気でそんな考えを追っていた。  ──この部屋に、お前の手で墓碑を建てろ。  徳光英央は、自分にそう言っているのだ、と、伊集院は思った。 (そうすることで、何かの償いを迫っているのだ)  伊集院は、徳光が心《しん》からあの少女を愛していたのではあるまいか、と、ふと思った。  思うと、それは信じられることであった。  人間を拒絶する部屋──。  その気狂いじみた難題を自分に持ちかけてきたことが、何よりの証左のように思えるのだった。  徳光英央の恋の遺恨を、伊集院猛夫はこの注文仕事に感じた。  桜が咲く季節であった。御池通りの伊集院アート事務所の電話が鳴った。 「どうも様子がおかしおすねや……三日前から、パタッとも物音しいへんのどす……食事も食べてはらしまへん……とにかく、来てみておくれやす……」  別荘の老人からの電話であった。  新藤竜子が駆けつけた時、その部屋はしっかりと内側から錠がおろされていた。カーテンのおりた窓|硝子《ガラス》を割って、竜子は入った。  部屋は、異臭を放っていた。  至るところに腐敗した食物の山が築かれていた。伊集院猛夫は、一粒も食事には手をつけず、食器だけを空けて部屋の外に出していたらしかった。  三日前、その作業《ヽヽ》もできぬ人間となったのである。  部屋のなかは、ただ|がらんどう《ヽヽヽヽヽ》だった。  その空白の部屋の真中で、伊集院猛夫は坐したまま頭を前の床につけ、息絶えていた。  衰弱死であった。  新藤竜子は、ぼうぜんとその死を見つめていた。  彼女には、信じられなかった。伊集院猛夫が、なぜ手もつけられないような仕事を引き受けたのか。引き受けた以上、必ずやり遂げる人間であったのに……。 [#地付き]〈了〉  単行本 昭和五十一年九月文藝春秋刊 〈底 本〉文春文庫 昭和六十一年六月二十五日刊昭