TITLE : 過去から来た女 本作品の全部または一部を無断で複製、転載、配信、送信したり、 ホームページ上に転載することを禁止します。また、本作品の内容 を無断で改変、改ざん等を行うことも禁止します。 本作品購入時にご承諾いただいた規約により、有償・無償にかかわ らず本作品を第三者に譲渡することはできません。 目 次 1 帰《き》 郷《きよう》 2 埋《うも》れた時間 3 失《しつ》 踪《そう》 4 墓《ぼ》 地《ち》 5 疑《ぎ》 惑《わく》 6 死の恐《きよう》怖《ふ》 7 孤《こ》独《どく》の夫《ふう》婦《ふ》 8 再《ふたた》び村へ 9 沈《ちん》黙《もく》の村 10 焼《やけ》跡《あと》の男たち 11 深《しん》夜《や》の逢《あい》引《び》き 12 薬 13 幽《ゆう》 霊《れい》 14 廃《はい》 屋《おく》 15 闇《やみ》の襲《しゆう》撃《げき》 16 推《すい》 理《り》 17 弓《ゆみ》と銃《じゆう》声《せい》 18 夜の乗《じよう》降《こう》客《きやく》 19 田《でん》村のミス・マープル 20 秘《ひ》 密《みつ》 21 仮《か》面《めん》の下の顔 22 エピローグ 1 帰《き》 郷《きよう》  「時間だぜ」  欠伸《あくび》しながら、駅長の金《かね》子《こ》が言った。  「はい」  今《こ》年《とし》から駅員の見《みな》習《らい》をしている庄《しよう》司《じ》鉄《てつ》男《お》は、改《かい》札《さつ》口《ぐち》の方へ、ぶらぶらと歩いて行った。  どうせ、降《お》りる客なんて、いやしないのだが。  それでも一《いち》応《おう》は改札口に立たなくてはならないのが決りである。まず決りを憶《おぼ》えるのが、大人《おとな》になる第一歩なのだ。  「おい、鉄《てつ》、ちゃんと帽《ぼう》子《し》かぶれ!」  と駅長は口やかましく言って、それから、あわてて列車の来る方へと顔を向けた。  欠伸するところを見られないように、である。だが、実《じつ》際《さい》は心配することはなかったのだ。庄司鉄男の方も欠伸をしていたからである。  しかし、眠《ねむ》くなるのも当然という感じの、小《こ》春《はる》日和《びより》だった。  風もない、暖《あたた》かな日。空は、都会では見られない青さで、輝《かがや》いていた。  赤字国鉄の中で、なぜか廃《はい》線《せん》にならずに済《す》んでいるこの路線の駅は、元来なら、無《む》人《じん》駅《えき》で充《じゆう》分《ぶん》だった。ただ、あまりに小さすぎて、目につかなかったのかもしれない。  ホームは、気を付けて見なければ見落としてしまいそうな、ただの、のっぺりとした台《ヽ》に過《す》ぎない。  金子駅長は、懐《かい》中《ちゆう》時《ど》計《けい》を見て、肯《うなず》いた。——ほぼ正《せい》確《かく》にやって来る。  列車を待つ者もなければ、降《お》りる者もほとんどなかった。  駅長は、この両《りよう》隣《どなり》の駅長も兼《か》ねているが、いつもは、この真《まん》中《なか》の駅にいた。  レールを伝って、列車の震《しん》動《どう》が聞こえて来る。——この駅の手前はトンネルで、そこに列車が入る、ゴーッという音がしてから、ホームへ出て来ても、充《じゆう》分《ぶん》に間に合う。  今日《きよう》は、しかし、陽《ひ》を浴びていたいような気候なのだった。  駅長はエヘンと咳《せき》払《ばら》いした。もちろん、ここにはアナウンスの設《せつ》備《び》はない。大声を張《は》り上げなければいけないのである。  しかし、それには、この駅の名前は、不《ふ》適《てき》当《とう》であった。——この駅、名前を「でん」という。〈田〉一《ひと》文《も》字《じ》である。  どんなにいい声でも、  「でん!」  とやって、大向うを唸《うな》らすわけにはいかない。  まあ仕方ない。駅長が勝手に駅の名前を変えるわけにもいかないのである。  列車がトンネルへ入った。ゴーッという響《ひび》きがする。駅長は帽《ぼう》子《し》をかぶり直した。  列車は、スピードを落として、ホームから車体をはみ出させて停止した。  「でん!——でん!」  とやると、必ず、乗っている子《こ》供《ども》が笑《わら》うのである。  昔《むかし》は、駅長もそれが気になって仕方なかったものだが、最近は悟《さと》りの境《きよう》地《ち》にあるのだ。  さて、今日も別に降《お》りる客は……。  若《わか》い女《じよ》性《せい》が一人《ひとり》、ホームに降り立った。  ボストンバッグを手に、肩《かた》からはちょっと洒落《しやれ》たバッグを下げている。  ワインカラーのスーツのせいで少し落ち着いて見えるが、まだ若そうだった。駅長は、その女性が、改《かい》札《さつ》口《ぐち》の方へと歩いて来るので、面《めん》食《く》らった。  「今《こん》日《にち》は」  と、その女性は言った。  「どうも。——ここで降りられるんですか」  「ええ。だって、ここは『でん』でしょ」  と、彼女《かのじよ》は言った。  駅長はちょっと驚《おどろ》いた。田《でん》村の人間は、この駅の名を呼《よ》ぶのに、ちょっと独《どく》特《とく》のアクセントをつける。今、彼女がその言い方で言ったのが、それだった。  金子駅長は、その娘《むすめ》の顔を眺《なが》めた。  二十五、六というところだろうか。いかにも洗《せん》練《れん》されて、都会的な美人である。  「ここにお知り合いでも?」  と、駅長は言った。  「ええ」  娘《むすめ》は肯《うなず》いて、微《ほほ》笑《え》んだ。「大勢います」  「はあ……」  「じゃ、切《きつ》符《ぷ》を——あら」  と改《かい》札《さつ》口《ぐち》の庄司鉄男に気付いて、「あっちで渡《わた》しますわ」  と歩いて行った。  鉄男は、列車が来たときは目が覚《さ》めていたのに、この一、二分の間についウトウトしていた。  娘は、鉄男の前に切《きつ》符《ぷ》を置いて、歩いて行こうとしたが、ふと足を止めて振《ふ》り返った。  「まあ……鉄男君ね!」  鉄男は目を開いて、彼女《かのじよ》を見ると、あわてて頭を振った。  「鉄男君ね? そうでしょ!」  「ええ……庄司鉄男ですけど」  「やっぱり」  娘は息をついて、「もうこんなに……」  と呟《つぶや》いた。  「あの……」  「じゃ、またね」  娘《むすめ》は、舗《ほ》装《そう》もされていない、田舎《いなか》道《みち》をさっさと歩き出した。  「——おい、鉄男」  と、駅長は、居《い》眠《ねむ》りを叱《しか》るのも忘《わす》れて、「今の女——知ってるのか?」  「いや……分んねえな」  鉄男は首をかしげた。  「村へ行くぞ」  「何の用かな」  「俺《おれ》が知るか」  と金子駅長は言った。「あんな子、ちょっと見《み》憶《おぼ》えがないぞ」  「俺も……」  「——こら、駅長にその口のきき方があるか!」  「すんません」  鉄男は頭をかいた。      「変ってないな」  と、その娘は呟《つぶや》いた。  村の目《め》抜《ぬ》き通りは、奥《おく》さんたちの立ち話の輪や、かけ回る子《こ》供《ども》たちで、にぎやかだった。  いくらか、家が新しくなり——つまり建て直したり、手を入れた所がだが——また、古ぼけていた。  しかし、そんな変化は、東京で、真新しいビルが一年もたつと薄《うす》汚《よご》れて来るのとは、比《ひ》較《かく》にならぬ、小さなものだった。  通りを歩いて行くと、誰《だれ》もが、彼女《かのじよ》の方を見た。  世間話に夢《む》中《ちゆう》だった奥《おく》さんたちも、ピタリと話をやめて、見《み》慣《な》れぬ旅人を見送った。  「——誰だね、あれ?」  「さあ……」  「村のもんに、あんな親類がいたかね」  「さあ、法事でも見たことないけど……」  「何かの売り込《こ》みじゃないの?」  と、用心深い一人が言った。  「そうかもしれんね。用心した方がいいよ」  「でも何を売るのさ?」  「化《け》粧《しよう》品《ひん》か何か……」  「もしかすると保《ほ》険《けん》の外交員かも……」  「そうねえ」  「ああいうのは口だけ巧《うま》いんだよ。この前もうちの弟が、ほら大《おお》阪《さか》に行ってるんだけど——」  話は、あの娘《むすめ》からそれて行った。  彼女《かのじよ》は、村の外れに向って、歩き続けていた。  家は、かなり村の外へ外へと、建ち並《なら》んでいる。  その中に、戸を打ちつけて、完全に廃《はい》屋《おく》になっている家があった。その前で、彼女は、足を止めた。  意外そうな表《ひよう》情《じよう》——そして、ちょっと寂《さび》しげな顔になって、その古ぼけた家を眺《なが》める。  最近建ったらしい隣《となり》の家は、小さな、都会でよく見る建売住宅風の造《つく》りだった。  そこの主《しゆ》婦《ふ》らしい、小太りな女が出て来ると、玄《げん》関《かん》先《さき》を掃《は》き始めた。  娘は、その主婦の顔をじっと見ていた。  「——何か用ですか?」  と主婦が顔を上げる。  一方は、洒落《しやれ》たスーツ姿《すがた》、もう一方はエプロンをして、髪《かみ》もボサボサと来ては、比《ひ》較《かく》にはならないが、よく見ると、同じくらいの年《ねん》齢《れい》であることが分る。  「あの——失礼ですけど——」  「はい?」  「この家の方は……」  と、廃《はい》屋《おく》の方を指す。  「ここの人?——亡《な》くなったんですよ」  「亡くなった?」  「ええ、そう」  あまり話したくないようだった。娘《むすめ》は何か言いかけたが、また口をつぐんだ。  「どうもありがとう」  「いいえ」  と、主《しゆ》婦《ふ》の方が、また掃《そう》除《じ》を始める。  「百《もも》代《よ》さん」  と、その娘が言った。  「え?」  主婦が顔を上げる。  「またいずれ」  娘はちょっと頭を下げて、歩き出した。  百代と呼《よ》ばれた主婦の方は、キョトンとして、その後《うしろ》姿《すがた》を見送っていた。  「どこかで……」  と首をかしげていると、  「母《かあ》ちゃん! 何かおやつ!」  と、男の子が駆《か》けて来て叫《さけ》んだ。  「うるさいね! 食い意地の張《は》った子だ、全く!」  杉《すぎ》山《やま》百代は、イライラと怒《ど》鳴《な》った……。  ——村を出ると、道は一本で、畑の間を、うねるように縫《ぬ》って行く。  山に囲まれた、手《て》狭《ぜま》な土地だが、ぎりぎり一《いつ》杯《ぱい》まで、畑になっていた。  古びた、立《りつ》派《ぱ》な屋《や》敷《しき》があった。白《しら》壁《かべ》の塀《へい》が、真夏のように白く光っている。  娘《むすめ》は、その開け放った門の前で、足を止め、ちょっとためらっていたが、やがて思い切ったように、中へと入って行った……。  玄《げん》関《かん》に、自転車が置いてある。  警《けい》察《さつ》用《よう》のもので、ずいぶん古い。  彼女《かのじよ》は、二階建の家の周囲を、ゆっくりと回って行った。  庭へ面した縁《えん》側《がわ》に、警官が腰《こし》をおろしてお茶をすすっている。  「まあ、若《わか》い内は、多少のことは仕方ないじゃないかと言ったんですが、親《おや》父《じ》さんはカッカ来て、聞いちゃくれんのですよ。全く困《こま》ったもんで、あの石頭にも……」  座《すわ》って話を聞いているのは、五十歳《さい》前後と見える、上品な顔だちの婦《ふ》人《じん》で着《き》物《もの》姿《すがた》で座《ざ》布《ぶ》団《とん》に端《たん》然《ぜん》と座った姿は、いかにも血《ち》筋《すじ》の良さを感じさせた。  ——しばらく、木の陰《かげ》からその様子を見ていた娘は、やがて、ちょっと息をついて、歩いて行った。  「いや、この先が思いやられます。私《わたし》はもうそう長くないからいいが——」  警《けい》官《かん》が言葉を切って、その娘《むすめ》を眺《なが》めた。婦《ふ》人《じん》が、ちょっと目をしばたたいた。  娘は足を止め、真《まつ》直《す》ぐに立った。  「お母《かあ》さん」  と彼女は言った。「ただいま帰りました」  そして、頭を下げた。 2 埋《うも》れた時間  常《つね》石《いし》公《きみ》江《え》は、驚《おどろ》いた様子も見せなかった。  「お帰り」  と、ただ肯《うなず》いて、微《ほほ》笑《え》んだ。  「それじゃ……文《ふみ》江《え》さんですか!」  警官の方は、仰《ぎよう》天《てん》した様子で、茶《ちや》碗《わん》を手にしたまま、座《すわ》っている。  「文江です」  と娘は言った。「長いこと、ご心配かけてすみません」  「いや……これは……大変だ!」  「白《しら》木《き》さん」  と、常石公江が言った。「私《わたし》が申したでしょう。文江は必ず生きている、と」  「お母さん。——上ってもいい?」  「ええ、お前の家だもの」  「入れてくれないかと思ったの」  と、文江は微《ほほ》笑《え》んだ。  「そんな、TVドラマに出て来るような母親とは違《ちが》うわよ」  と公江は言った。「——お父《とう》さんは亡《な》くなりましたよ」  「知ってるわ」  と文江は肯《うなず》いた。「この地《ち》域《いき》の新聞を、よく読んでたのよ。まだ、あのときは、とても帰れる状《じよう》態《たい》じゃなくって」  「いいからお上り。——白木さん、あなたも」  「はあ……」  白木巡《じゆん》査《さ》は、まだ狐《きつね》につままれたような顔で、上り込《こ》む。  「白木さん、大分、髪《かみ》が白くなったわね」  と、文江が言った。  「もう七年ですからな。——しかし、どこにおられたんですか?」  「東京です。一生懸《けん》命《めい》、働いていました」  「なるほど……」  長年、ここで働いている、うめが奥《おく》から出て来た。  「奥様、お風《ふ》呂《ろ》場《ば》の——」  と言いかけて文江を見る。  「ただいま、うめ」  「——お嬢《じよう》様《さま》!」  「文江、あんまりうめをびっくりさせないで。最近すぐ腰《こし》を抜《ぬ》かすんだから。——ほらね」  と公江は言って、座《すわ》り込んでしまったうめに笑《わら》いかけた。      父の遺《い》影《えい》に手を合せた後、文江は、母の前に座った。  「——お前が帰って来てくれたのは嬉《うれ》しいけれど」  と、公江は言った。「お前がいなくなった後のことを、知らないんでしょう?」  「後のこと?」  「そう。——恐《おそ》ろしいことが起ったんですよ」  公江はそう言って、息をついた。  「恐ろしいことって?」  「お前は黙《だま》って出て行ってしまったろう。私《わたし》はお前の気持も分っていたし、お前が自殺なんかする娘《むすめ》ではないと知っていましたからね、生きていると信じていたけれど、村の人たちは、お前が死んだと思っているのよ」  「なぜ?」  ——白木巡《じゆん》査《さ》が言った。  「しかも、あなたは殺されたもんだと思っとったんです」  「殺された?」  文江は呆《あつ》気《け》に取られていた。「私がどうして……」  「さあ——今となっては、不思議な気がしますが」  白木巡査はため息と共に言った。「なぜかあのときは、そんなことになってしまったんですわ」  「恐《おそ》ろしいこと、っておっしゃいましたね」  と、文江は言った。「それは、どういう意味ですか」  「はあ……」  白木は困《こま》ったように、かなり薄《うす》くなりかけた頭をさわって、公江の方を見た。  「お嬢《じよう》様《さま》」  やっと落ち着いた様子のうめが、お茶を運んで来た。「相変らず濃《こ》いお茶をお好《この》みなんでございますか?」  「そうでもないわ。貧《びん》乏《ぼう》暮《ぐら》しをして、お茶の葉が買えなかったこともあるから、いつも薄くして飲んでたのよ」  「まあ!」  と、うめは呆《あき》れたように、「そう言って下されば、お持ちしましたのに」  と言った。  公江が苦《く》笑《しよう》して、  「何を言ってるの。——文江、お腹《なか》は空《す》いていないの?」  「ええ、大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》」  「本当にねえ」  と、うめが独《ひと》り言のように言った。「お嬢《じよう》様《さま》はてっきり坂《ばん》東《どう》のところの息子《むすこ》に殺されなさったと思っていましたよ」  公江と白木が目を見《み》交《か》わした。  文江は、うめの顔を見つめた。  「坂東って……坂東和《かず》也《や》さんのこと?」  「はい。ご存《ぞん》知《じ》なかったんですか?」  「和也さんが——私《わたし》を殺したって?」  文江は、ゆっくりと言って、「どうしてそんなことを……」  「色々とあったんですよ」  と白木が言った。  「そういえば、途《と》中《ちゆう》で見たけど、坂東さんの家は閉《しま》ってしまっていたわね。どこへ行ったの?」  「分らないのよ」  と公江は言った。「ご両親は、黙《だま》って村を出て行ってしまった……」  「そりゃ無《む》理《り》ありませんよ」  と、うめが口を挟《はさ》んだ。「息子《むすこ》が人殺しと言われて、首をくくってしまったんじゃ、村にはいられませんよ」  「うめ。あなたは退《さ》がっていなさい」  「はいはい。では、今夜は久しぶりにお嬢《じよう》様《さま》の好《こう》物《ぶつ》でも作らせていただきましょうかね」  と、うめが退がって行く。  「——文江。大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》?」  「ええ……」  文江は額《ひたい》に手を当てて、目を閉《と》じていたが、やがて、大きく息を吐《は》き出した。「本当なの? 和也さんが……」  「事実です」  と白木が言った。「本当に悲《ひ》劇《げき》でしたな、あれは」  「どうしてそんなことに?」  と文江は、母と白木を交《こう》互《ご》に見ながら言った。  「待ちなさい」  と公江は抑《おさ》えて、「あの朝のことから、順を追って話さなくてはならないわね。——お前がここを出たのは、何時頃《ごろ》だったの?」  「三時だったわ。——一時過《す》ぎまでは、起きている家もあるし、四時になると起き出す人がいる。だから三時にここを出たの」  「それからどっちへ向ったの?」  「駅へ行けば、人目につくに決ってるし、列車に乗るわけにはいかない。知ってる人が大勢いるはずですものね。だから、逆《ぎやく》に、山の方へ歩いて行ったのよ」  「しかし、凄《すご》い早足でしたな」  と白木が言った。「山《やま》越《ご》えには、半日かかるでしょう。向うの町には、もう、朝の内に連《れん》絡《らく》が行っとって、山からの道を見《み》張《は》っていてくれたはずでしたが」  「運が良かったんです」  と文江は言った。「山へ上る前に、車が一台、村の方から走って来たの。東京の人で、家族で旅行していたんだけど、道に迷《まよ》ってこんな所へ入りこんでしまったのね。で、私《わたし》を見て道を訊《き》いたんです」  「で、乗せてもらったんですか」  「ええ。男一人の車なら乗りませんけど、あちらは親子連れでしたから。車はUターンして駅の方へ戻《もど》り、旧《きゆう》道《どう》と川の土手を抜《ぬ》けて、国道へ出たんです」  「それで東京まで?」  と、公江が訊《き》いた。  「そうなの。ともかく、新《しん》宿《じゆく》の駅のところで降《お》ろしてもらったわ。おかげで、列車代が助かって、二、三日は食べていられたの」  「呆《あき》れたものね。十九歳《さい》の身で、よくそんなことを……」  と公江は言ったが、怒《おこ》っている様子ではなかった。  「でも、お母さんに恥《は》ずかしいようなことは、どんなに苦しくてもやらなかったわ。額《ひたい》に汗《あせ》して働いて」  「そうね。まだ訊いてなかったけど、お前、まだ独《ひと》りなの?」  「そりゃそうよ。恋《こい》人《びと》ぐらいはいるけれど」  「子《こ》供《ども》もいないのね」  「今のところは。そんなことより——」  「お待ちなさい。どう話したらいいかと思って考えているのよ」  公江は、ちょっと視《し》線《せん》を宙《ちゆう》にさまよわせて、考えている様子だった……。  「最初にお前がいないことに気が付いたのは、うめだったわ」 3 失《しつ》 踪《そう》  何かが起った。  公江には、うめの足音で、すぐにそれが分っていた。  よほどのことでなければ、うめはあんな走り方をしない。  「奥《おく》様《さま》!」  襖《ふすま》の向うから声がかかったときには、もう公江は布《ふ》団《とん》に起き上っていた。  「どうしたの?」  襖がガラリと開く。うめが、ハアハア息を切らしている。  「お嬢《じよう》様《さま》が——いらっしゃいません」  と、切れ切れの言葉で言った。  「いないの?——じゃ、どこかへ出かけたんでしょう」  「それが——お部《へ》屋《や》の中が——ともかく、ご覧《らん》になって下さい」  文江の部屋へ行ってみて、なるほど、うめが取り乱《みだ》すのも当り前だと思った。  押《おし》入《い》れや洋服ダンスが、開け放してある。中の物が床《ゆか》に散《さん》乱《らん》していた。  「——持って行った服もあるようね」  公江は、ちゃんと何と何が失《な》くなっているか、見定めていた。「冬物ばかりだわ。うめ、そこの上の戸《と》袋《ぶくろ》を開けて」  「はい!」  「——ボストンバッグがあるでしょう」  「ございませんよ」  「そう。じゃ、やはり、出て行ったんだわ」  「ど、どうします、奥《おく》様《さま》?」  「落ち着いて。——何時頃《ごろ》出て行ったのかしら」  「私《わたし》は五時には起き出しておりました。——お嬢《じよう》様《さま》が出て行かれれば分ったと思いますけどね」  「ともかく夜の内ね。今から追いかけて間に合うかどうか……。今、何時?」  「六時半でございます」  「じゃ、白木さんへ電話をして。駅にも一《いち》応《おう》連《れん》絡《らく》してもらうように」  「はあ。でも……」  と、うめはためらっている。  「どうしたの?」  「内々に済《す》ませた方が、よくはございませんか? 私が駅まで——」  「むだよ」  と、公江は遮《さえぎ》った。「お前が走り回れば、村の人には何か起ったと、すぐに分ります。どうせ同じことよ」  「さようで」  「お前一人で、いろいろな場所を見《み》張《は》るわけにいかないんですからね」  「旦《だん》那《な》様《さま》には……」  「今日はどちらだったかしら」  夫は、商用で出かけていた。二、三日は戻《もど》らない予定である。  「今夜は大《おお》阪《さか》にお泊《とま》りの予定でございましたが」  「いつもの宿ね。分りました。私から電話しておくわ。それにしても、ただいなくなっただけでは、連《れん》絡《らく》の取りようもないから、まず白木さんへ電話しておくれ」  「かしこまりました」  うめが、今度は素《す》直《なお》に出て行った。  公江は部《へ》屋《や》の中を見回した。——どこか引っかかるものがあった。  文江が、この家を出て行きたがっていたことは事実である。公江としては、無《む》理《り》はないと思っていた。  十九歳《さい》で、こんな所の、ろくに顔も知らない男と結《けつ》婚《こん》させられるのでは、かなうまい。  しかし、文江は一人《ひとり》娘《むすめ》、一人っ子である。夫としては、婿《むこ》を取らなければ、この常石の家が絶《た》えることになってしまうから、仕方のないことであった。どっちの気持も、良く分っていた。  実のところ、文江が出て行ったと知っても、さほど驚《おどろ》かなかったのは、多少、それを予《よ》測《そく》していたせいもあっただろう。  それにしても、どうにも引っかかるのが、部屋の中の乱《らん》雑《ざつ》さだった。  文江は、若《わか》いなりに、少々面《めん》倒《どう》くさがりやではあったが、部屋を片《かた》付《づ》けておくのは、ほとんど習《しゆう》慣《かん》のようになっていた。  当人の気が済《す》まないのである。——いくら出て行くからといって、こんなに乱雑にしておくものだろうか?  ふと思い付いて、公江は、文江の机《つくえ》の上を見た。  置き手紙のようなものがないかと思ったのだ。——しかし、それらしいものは、机の上にも、引出しの中にもなかった。  どうもおかしい、と公江は思った。文江は、必ず何か残して行くはずだ。  娘《むすめ》の性《せい》格《かく》は良く飲み込《こ》んでいる。公江には、文江が出て行ったことよりも、そのことの方が、気にかかってならなかった。      その朝早く、吉《よし》成《なり》百代が、家の使いで、村を出ていた。  百代は、文江と同じ十九歳《さい》で、小太りな、人のいい娘である。文江の数少ない友だちの一人だった。  文江は何といっても、この辺では名士の一人娘であり、学校でも、何となくみんなに敬《けい》遠《えん》されることが多かった。百代は、文江と幼《おさな》い頃《ころ》からよく一《いつ》緒《しよ》に遊んでもいたので、長いつきあいが今も続いていたのである。  「おお寒い」  百代は、山の方へと向いながら、思わず呟《つぶや》いた。  よく晴れていたが、寒さは厳《きび》しい。風がないのが幸いだった。  毛糸の手《て》袋《ぶくろ》をはめていても、指先はかじかんで来た。  「この寒いのに、もう——」  と、ついグチが出る。  山を越《こ》えて、向うの町まで出なくてはならない。列車やバスを乗りついでも、行けないことはないのだが、えらく遠回りであり、お金もかかる。  時間は同じぐらいかかるが、交通費が浮《う》いた分だけは、百代がもらえるということになっていた。  だからこそ、百代も朝から張り切って、出かけて来たのである。  それにしても冷い朝だ。——町で用を済《す》ませたら、何か熱いものを食べて帰ろう。おでんがいいかな。  そんなことを考えながら、百代は山道を上り始めた。  山の中《ちゆう》腹《ふく》を、ぐるっと巻《ま》いているこの道は、少し上って行くと、後は平《へい》坦《たん》である。だからそうきついことはなく、ただ、右へ左へ曲りくねっていて、かなり距《きよ》離《り》があるのだった。  とはいえ、百代にしろ文江にしろ、子供のころから、よく通った道で、危《き》険《けん》はなかった。  上りを越すと、後は平らな道が、だらだらと続く。——つい、気がせいて、足が早まる。  フウッ、と息をついて立ち止ったのは、三分の一ほどの辺りだったろうか。  山の上から流れて来る小さな川が、ここで、ちょっとした滝《たき》を作っている。古い木の橋がかかっていた。  さて、もう一息、と歩きながら、百代は、橋から下を見下ろした。  滝の下が、ちょっとした河《か》原《わら》になっていて、夏にはよく裸《はだか》で水遊びをするのである。  そこに、誰《だれ》かがいた。流れのへりにかがみ込《こ》んで、何かやっている。  この寒いのに。——誰だろう?  百代が見ていると、その男は、立ち上って手を振《ふ》って水を切った。  「何だ、和ちゃんか」  と声に出して言ったが、滝《たき》の音で、聞こえなかったらしい。  坂東和也といって、文江や百代たちと、同級だった男の子である。  文江や百代とも、よく一《いつ》緒《しよ》に遊んだ仲《なか》で、男女の仲というより、兄妹のような感じであった。  この寒いときに、冷たい水で、何してるんだろう?  百代がいぶかしく思ったのは当然だったろう。  何か銀色に光るものが見えた。包丁か何か——ともかく刃《は》物《もの》のようだった。  和也は、それを傍《かたわら》へ置くと、今度は手《て》拭《ぬぐ》いらしいものを、川の水に浸《ひた》して、洗《あら》い始めた。  百代はいささか近《きん》眼《がん》なので、はっきりとは分らなかったが、何だか手《て》拭《ぬぐ》いが赤く——血でもついているように見えた。  けがでもしたのだろうか? しかし、それにしては元気そうで、たとえけがしているとしても、大したことはないのだろう。  えらく必死になってゴシゴシと洗っているが、一向に汚《よご》れは落ちないようで、和也も、その内に諦《あきら》めたらしい。  今度は、その手拭いを、引き裂《さ》き始めた。できるだけ細かく裂くと、川へ流してやる。  百代はポカンとそれを眺《なが》めていたが、  「あ、いけない、急がんと」  と肩をすくめて、歩き出していた。  そのとき、何か物音でも耳に入ったのか、和也が橋の方を見上げたのである。百代は手を振《ふ》ろうとしたが——やめてしまった。  キッと百代をにらんだその目つきは、見たこともない、恐《おそ》ろしいものだった。  百代はあわてて歩き出した。いや、歩いているつもりだったが、いつの間にか走り出していた……。      「——一《いち》応《おう》、手配は全部、済《す》ませました」  と、白木巡《じゆん》査《さ》が言った。  「お手数をかけて申し訳《わけ》ありません」  と、公江が言うと、白木はあわてて、  「いいや、とんでもない」  と、手を振《ふ》って、「これが本官の任《にん》務《む》ですからな」  と言った。  常石家の玄《げん》関《かん》先《さき》である。  「——しかし、お嬢《じよう》さんも、ずいぶん思い切ったことをされましたな」  と白木は言った。  「ええ……。しっかり者ですから、心配はしていませんが、でも、それだけに一人で暮《くら》そうと考えるのですから」  「良し悪《あ》しですな、何事も」  「本当に」  公江は、少しも動《どう》揺《よう》を見せていなかった。この村の名士夫人としての風《ふう》格《かく》が、その動じない表《ひよう》情《じよう》の中に現《あらわ》れていた。  「ご主人には……」  「今、出先で連《れん》絡《らく》が取れませんの、今夜にでも知らせます」  「それまでに何とかしないと、どやされそうですな、ご主人に」  と、白木は表情を緩《ゆる》めた。  「——では、何か分ったら、お電話をいただいて」  「もちろん、そうしましょう」  白木は立ち上って敬《けい》礼《れい》した。「失礼します!」  ——よくもまあ、ああして落ち着いていられるもんだ、と白木巡《じゆん》査《さ》は外へ出ると、呟《つぶや》いた。  一人《ひとり》娘《むすめ》の家出である。もっとオロオロとあわてふためくのが普《ふ》通《つう》ではないか。やはり、名士ともなると、心《こころ》構《がま》えが違《ちが》うのかもしれない……。  白木は、感心しながら歩いていて、ハッとした。自転車を、置いて来てしまったのだ。白木はあわてて、常石家の門の方へと駆《か》け戻《もど》って行った。  ——白木は、文江は遠からず帰って来る、と考えていた。  何といっても、良家のお嬢《じよう》さんである。家出といっても、ちょっとたてば心細くなって戻って来るだろう、と思っていたのだ。  駅への手配も、一番列車に間に合ったし、いくら何でも、田駅から乗るとは思えないので、近くの駅にも全部連《れん》絡《らく》した。  その他、バスや、駅前の交番、駐《ちゆう》在《ざい》所《しよ》へも連絡は行っている。  残るは山道だけだったが、たとえあそこを越《こ》えても、町に出て、そこからはバスか列車しかない。  そこにも連絡はつけてある。山道は一本だし、どこか他《ほか》へ出るというわけにはいかないのである。  これで見付からないはずがない。——白木は、のんびりと構《かま》えていた。  ところが、その夜までに、情《じよう》報《ほう》は二つ、三つ入ったものの、どれも人《ひと》違《ちが》いで、それ以後の手がかりは、パッタリ途《と》絶《だ》えてしまった……。  次の日、常石勇《ゆう》造《ぞう》が、急いで大阪から戻って来た。  「——お帰りなさいませ」  と、公江が迎《むか》えると、  「どうだ?」  と玄《げん》関《かん》に立ったままで訊《き》く。  「今のところ、何も……」  と公江が答えると、  「白木の奴《やつ》、何をしとる!」  と吐《は》き捨《す》てるように言って、「行って来るぞ」  そのまま村へと出て行ってしまった。  白木巡《じゆん》査《さ》は、常石の質《しつ》問《もん》に汗《あせ》をふきふき応《おう》対《たい》した。  「この通り、精《せい》一《いつ》杯《ぱい》の手は打ったんでございますが……」  「ふむ。——しかし、娘《むすめ》も馬《ば》鹿《か》ではない。その辺が手配されることは良く承《しよう》知《ち》しているはずだ」  「はあ、それはまあ……」  「村のどこかに隠《かく》れているとは考えられんか」  「村の中にですか?」  白木は目を丸《まる》くした。  「分らんぞ。みんなが諦《あきら》めるまで、待つつもりかもしれん」  「しかし——どこに」  「その気になれば、この辺りは、人のいない小屋とか、その類《たぐい》の場所はいくらでもある。そこを当ってみてはどうかな」  常石の言葉には、白木としては逆《さか》らうことなど思いもよらない。  「はあ……。しかし、それにはかなりの人手も……」  「手当は出す。村の若《わか》いのを集めて、やってみてくれ」  「は、はい!」  白木は早《さつ》速《そく》、実行に移《うつ》った。  七人の若《わか》者《もの》たちが集まって、村の中の捜《そう》索《さく》が始まった。  しかし、物置小屋や、人の隠《かく》れていられそうな所には、文江の姿《すがた》は見当らなかった。  常石は、山道を調べるようにと言い出した。山道の途《と》中《ちゆう》で、一晩《ばん》や二晩なら、寒さをしのいでいることもできる、というのだ。  しかし、昼間はともかく、夜中や明け方の寒さは並《なみ》大《たい》抵《てい》のものではない。  そんなことはあるはずがない、と白木も思ったが、ともかく、常石の気が済《す》まないというのでは仕方なかった。  その次の日、今度は大人《おとな》たちも含《ふく》めて、十五人の村人が、山道から、そのわきへ入った一帯を調べ始めた。  しかし、これは大変な仕事である。夕方近くになって、ようやく、あの橋の辺りまでやって来た。  白木は、いい加《か》減《げん》ばて気味で、馬《ば》鹿《か》らしくなり始めていた。  いくら常石の希望でも、こんなむだなことをやっても……。  それに、村人には手当が出ているが、まさか白木が警《けい》官《かん》の身で手当をもらうわけにはいかない。白木の疲《つか》れは、それが一《いち》因《いん》でもあった。  「やれやれ……」  白木が、立ち止って息を弾《はず》ませていると、  「白木さん!」  と呼《よ》ぶ声がした。  上の方である。  「何だ!」  と怒《ど》鳴《な》り返す。  「ちょっと来て下さいよ!」  上って行くのか。——白木はため息をついた。仕方ない。  息を切らしながら、やっとの思いで上ってみると、ちょっとした草地になっている所で、三、四人が集まっていた。  「何だね?」  「これを見て下さい」  「何かを燃《も》やしたらしいな」  焼けこげた灰《はい》が、草を汚《よご》している。  燃え残ったらしい白い布《ぬの》を、白木はつまみ上げた。  「服の切れ端《はし》かな」  「ワイシャツかブラウスじゃねえのか」  と一人が言った。  「どうして分る」  「生《き》地《じ》の感じがさ」  なるほど、そう言われてみると、そんな手《て》触《ざわ》りである。  「ふーん。どうしたんだろう?」  「下にも何かあるぜ」  ともう一人が言った。  灰《はい》の下を探《さぐ》ってみると、また燃えさしの、布《ぬの》が出て来た。  そこへ来て、白木の顔がこわばった。疲《つか》れも一度に吹《ふ》っ飛んだ。  今度は少し厚《あつ》手《で》の、水色の生《き》地《じ》だったが、その半分近くまで、明らかに血と思える、赤茶けたし《ヽ》み《ヽ》が広がっていたからだ。  「——こいつは大変なことになった」  白木は布を置いて、立ち上った。「おい、誰《だれ》か、村へ戻《もど》って、駐《ちゆう》在《ざい》所《しよ》から電話をかけてくれないか」  「何事だね」  「いや……まだ分らんが、こいつは、ただごとじゃないかもしれん」  白木は、額《ひたい》の汗《あせ》を拭《ぬぐ》った。その汗は、ここまで上って来た、運動のせいではなかった……。      公江は、布《ぬの》の切れ端《はし》をしばらく見ていたが、ゆっくりと首を振《ふ》って、  「何ともこれだけでは……」  と言った。  「分らんのか」  常石が、腹《はら》立《だ》たしげに言った。  「申し訳《わけ》ありません。でも、最近は、あの子、自分の着る物は勝手に買って来ていましたから」  白木が言った。  「一《いち》応《おう》警《けい》察《さつ》の調《ちよう》査《さ》では、布が燃《も》やされたのは、三、四日前、血《けつ》液《えき》は人間のものに違《ちが》いなく、血液型はAということなんですが」  常石が公江の方へ、  「文江の血液型は?」  と訊《き》いた。  「A型です」  「そうか」  「ま、A型といっても、大勢いますからね」  白木が、できるだけ軽い調子で言った。  しばらく、三人とも口をきかなかった。  「——つまり」  と、常石が言った。「文江は殺されているかもしれん、と言うんだね」  「いや……それはまあ……最悪の場合の話でして」  「物事は常《つね》に最悪を覚《かく》悟《ご》しておく必要があるのだ」  と常石は言った。  「でも、あなた、文江は家出したんですよ」  「山道で誰《だれ》かに出会ったのかもしれん」  常石は、白木を見て、「——山を調べてくれるんだろうね」  と言った。  「それはもう……。県《けん》警《けい》から人を出してくれることになっておりますし。しかし、何分広いですから、多少時間はかかるかもしれません」  「村の人たちにも手伝ってもらってくれ。何十人、何百人でもかまわん。手当はこの前の倍出す」  「はあ……」  常石の顔には、一《いつ》徹《てつ》な気《き》質《しつ》を示《しめ》す、厳《きび》しさがあった。  捜《そう》査《さ》は、焼け跡《あと》の場所を中心に、始まったが、一日目は何の収《しゆう》穫《かく》もなかった。  日が落ちて、白木が駐《ちゆう》在《ざい》所《しよ》に戻《もど》ってみると、吉成百代が、何となく落ち着かない様子で座《すわ》っていた。  「やあ、百《もも》ちゃん。何だね?」  「山の方……どうだったの?」  「うん、今日は何も出なかったよ」  「そう」  百代は肯《うなず》いて、「良かった」  と言った。  「そうだなあ。百ちゃんは文江さんとは仲《なか》良《よ》しだったものな。なまじ何《ヽ》か《ヽ》見付かりゃ、悲しいわけだ」  「きっと——町へ出て、どこかへ行ってるわ、大阪とか東京とか」  「そうだといいと思っとるよ、わしも」  白木はぐったりと椅《い》子《す》にへたり込《こ》んだ。  百代は、何やら言い出そうか、どうしようかという様子で、モジモジしていた。  「——何だね? 何か話があるんなら、言ってごらん」  「ええ」  百代は、ためらいがちに、「こんなこと……言いたくないんだけど、でも、やっぱり黙《だま》っていられなくて」  「うんうん」  と、白木は肯《うなず》いた。  「あのね——別《べつ》に私《わたし》は、はっきり見たわけじゃないの。ただ遠くからだったけど——橋の上からで——」  「橋? どの橋?」  「山の上の」  「あの橋がどうしたんだね?」  白木は、真《しん》剣《けん》になって訊《き》いた。  「はっきりしないんだけど——でも、和ちゃんと、それから包丁らしいものと——」  「和ちゃん? 坂東和也のことかね?」  「ええ」  「包丁というのは?」  「洗《あら》ってるのを見たの。それから、手《て》拭《ぬぐ》いを細かく裂《さ》いて、川へ流してた」  「手拭いを?」  「赤かったわ。でも、もとは白くて、大部分が赤く染《そま》ってたみたいで——」  「待ってくれ! そりゃ——血で、ということかね?」  「分らない。遠かったもの。でも——せっせと洗おうとして、諦《あきら》めて、裂いて流したのよ」  「いつ、見たんだね?」  少しためらって、百代は言った。  「文江がいなくなった朝よ」      翌《よく》日《じつ》、流れの下流から、裂いた手拭いの切れ端《はし》が、いくつか見つかった。流れに浸《ひた》ってはいたが、まだ血は充《じゆう》分《ぶん》にしみ込《こ》んでいて、検《けん》出《しゆつ》されたのはA型の血《けつ》液《えき》だった。  坂東和也は、白木の質《しつ》問《もん》に、確《たし》かにあの朝、あの河《か》原《わら》で包丁を洗《あら》って、手《て》拭《ぬぐ》いを裂《さ》いて流したことは認《みと》めたが、文江を殺したりしない、と言い張《は》った。  「包丁は何に使ったんだ?」  と訊《き》くと、  「用心に持ってただけです」  と答えた。  両親の話によると、雑《ざつ》貨《か》屋《や》をしているので、夜、荷物を持って、町から戻《もど》ることがよくあり、あの日も、そうだったという。  町へ行った和也は、荷物をもらうのが遅《おく》れて、町を出るのがもう夜中近くになってしまった。懐《かい》中《ちゆう》電《でん》灯《とう》を持って、山道を歩いていたのだが、あの橋の近くまで来たとき、懐中電灯が故《こ》障《しよう》してしまった。  真っ暗で、足を踏《ふ》み外して崖《がけ》を落ちる心配もあったので、しかたなく、朝が来るのを待っていた。  あの包丁は荷物の中にあった売り物で、包みが破《やぶ》れて外へ落ちてしまったものだ、と言った。  手《て》拭《ぬぐ》いについての説明は、大分こみ入っていた。——町で、荷物が来るのを待つ間、パチンコ屋に入って時間をつぶしていると、喧《けん》嘩《か》に出くわした。  一人が殴《なぐ》られて、ひどく鼻血を出しているのに、みんな見ているだけなので、仕方なく和也が手拭いを貸《か》してやった、というのである。  そんなに血がついていると思わず、ズボンのベルトに挟《はさ》んでおいたのだが、後で気付いて、川で洗《あら》ってみたのだと言った。  「どうして、わざわざ引き裂《さ》いて川に流したんだ?」  「だって、捨《す》てる所もないし、それこそ持って帰ったら、何と思われるか分らないし」  と、和也は肩《かた》をすくめた。  この説明には、どうにも無《む》理《り》があったが、白木でなく、県《けん》警《けい》の刑《けい》事《じ》が、もっと厳《きび》しく調べても、和也は、主《しゆ》張《ちよう》を変えなかった。  ——その一方で、捜《そう》索《さく》も進められていたが、何しろ山の中全部を、くまなく捜《さが》し回るというのは、無《む》理《り》な話で、ついに、一週間後、捜索は打ち切られた。  和也に自白させて、死体を隠《かく》すか、埋《う》めた場所を言わせた方が早い、ということになったのである。  しかし、刑《けい》事《じ》の、並《なみ》の大人《おとな》でも音《ね》を上げるような厳《きび》しい追《つい》及《きゆう》にも、和也は頑《がん》張《ば》り抜《ぬ》いてしまった。  結局、二週間後には、和也は一《いつ》旦《たん》釈《しやく》放《ほう》されたのである。  警《けい》察《さつ》としては、文江が殺されている可《か》能《のう》性《せい》は高いとしても、確《かく》証《しよう》はなく、死体が見つからないのでは、たとえ逮《たい》捕《ほ》しても、起《き》訴《そ》はできないだろうという考えだった。  ——和也は、村に帰って来た。  しかし、この二週間に、村はすでに和也に有《ゆう》罪《ざい》の判《はん》決《けつ》を下してしまっていたのである。      「——その一か月後でした」  と白木巡《じゆん》査《さ》が言った。「朝早く、知らせを聞いて村外れの木のところへ駆《か》けつけると、和也は首を吊《つ》っていたんです」  「本当に気の毒でした」  と、公江は言った。「私《わたし》も主人も、一度だってあの子を犯《はん》人《にん》だと責《せ》めたことはありませんよ。だって、昔《むかし》からよく知っているんですからね。文江を殺す理由なんかないじゃありませんか」  「その通りです」  と、白木は肯《うなず》いた。「しかし、村の連中一人一人の口に戸は立てられませんからな」  「結局、 ご両親も、 和也さんのお葬《そう》式《しき》を済《す》ませると、 すぐに村を出て行ってしまいましたよ」  と公江は言った。  「そう……。いつの間にか、いなくなっていたんですな。あんまり長く店が閉《しま》ってるんで、不《ふ》審《しん》に思って、私が裏《うら》から入ってみると、もう誰《だれ》もいなかった……」  「たぶん、夜の内に、山を越《こ》えて行ったんでしょう。——気持は分ります。村に火でもつけたい思いだったでしょう」  ——しばらく話は途《と》切《ぎ》れた。  文江は青ざめた顔で、じっと話を聞いていたが、やがて、ゆっくりと息を吐《は》き出した。  「何も知らなかったわ。——東京へ出てしばらくは無《む》我《が》夢《む》中《ちゆう》だったもの」  「お前の責《せき》任《にん》ではありませんよ」  「でも、私さえ家を出なかったら……」  「済《す》んでしまったことよ」  と公江は静かに言った。  文江は立ち上った。  「どうしたの?」  「私の部《へ》屋《や》、どうなってるの?」  「あのときのままよ。また今日から使いなさいね」  「ええ」  文江は出て行こうとして、「いいの、一人で行かせて」  と、立ち上りかけた母を止めた。  「一人になりたいの」  「——分ったわ」  公江は、文江が出て行くと、白木の方へ向いて、  「このことを、村の人たちに知らせなくてはね」  と言った。  「大《おお》騒《さわ》ぎになるでしょうな……」  白木はため息をつきながら、言った。      文江は、襖《ふすま》を閉《と》じた。  自分の部屋だ。——七年ぶりに見る部屋は、記《き》憶《おく》の中よりは狭《せま》かった。  もちろん、片《かた》付《づ》いてはいるが、机《つくえ》も、タンスも、元のままである。  扉《とびら》や引出しを開けてみると、中もそのままになっていた。——奇《き》妙《みよう》な気分だった。  まるでタイム・マシンに乗って、七年前のあの日に帰って来たようだ。  カーテンは、同じものだが、七年間、陽《ひ》を浴びて色が褪《あ》せていた。  文江は、椅《い》子《す》に座《すわ》った。少しきしんで、苦しげな音を立てた。  ——何ということだろう。  自分がいなくなった後の村で、何が起っているのか、何も知らずに、自立するのだ、と、いい気になって勝手なことをやっていた。  せめて、東京からでも、母へ、元気でいると、一本の電話を入れておけばよかったのだ……。  今ごろのこのこと帰って来て、得《とく》意《い》げに、今はデザイナーとして自立し、成功していますよ、と鼻高々で語って聞かせるつもりだったのだ。  本当に——本当に、いい気なものだ。  しかし、白木と母の話でも、分らないことがあった。  それを、文江は黙《だま》っていた。自分の胸《むね》の中だけにしまって、そして自分の力で必ず真相を明らかにしてやろう、と思った。  それは、母の疑《ぎ》問《もん》、そのもの——つまり、この部《へ》屋《や》が、散らかっていたことと、書置きがなかったという、その二つである。  母が考えたように、実《じつ》際《さい》、文江は、部屋の中をきちんと片《ヽ》付《ヽ》け《ヽ》て《ヽ》おいたのだし、書置きも、書《ヽ》い《ヽ》て《ヽ》、机《つくえ》の上に置いて行ったのだ。  自分がここを出てから、うめと母が、この部屋へ来るまでの間に、何かがあったのに違《ちが》いないのだ。  それは一体何だったのか……。  ダダダッと階《かい》段《だん》を駆《か》け上って来る足音がした。  振《ふ》り向くと同時に、襖《ふすま》がガラリと開いて、百代が、息を切らしながら、現《あらわ》れた。  「——文江!」  と、百代は言ったきり、そこにただ立っていた。 4 墓《ぼ》 地《ち》  「黙《だま》って行っちゃうなんて、ひどいよ」  と、百代が言った。  「ごめん。——だって、まず母に挨《あい》拶《さつ》してから、と思ったのよ」  文江と百代は、庭に出ていた。  「それに——」  と文江は付け加えた。「母に、もうお前のいる所はない、って追い出されるんじゃないかと思ったしね」  「まさか」  「——でも、そうされても仕方のないようなことをして来たんだものね」  文江は、微《ほほ》笑《え》んで、「あなた、誰《だれ》と結《けつ》婚《こん》したの?」  「杉《すぎ》山《やま》っていうのよ、今は。——文江、知らないでしょ。学校の先生なの。二十歳《さい》のときかな、私《わたし》、小学校の事《じ》務《む》に勤《つと》めてて、そのときに……」  「そう。子《こ》供《ども》は一人?」  「二人。下はまだ赤ん坊《ぼう》よ」  「すっかりお母さんね」  「太っちゃって、いやになるわ」  と、百代はポンとお腹《なか》を叩《たた》いた。「——文江は若《わか》いわ。そのスタイル、服《ふく》装《そう》、凄《すご》いじゃない!」  「だって、デザイナーなのよ。デザイナーが変な格《かつ》好《こう》できないでしょ」  「花形ね。高級マンションに住んで、外国のスポーツカー乗り回して、男と恋《こい》を楽しんで……」  「TVドラマの見《み》過《す》ぎよ」  と、文江は笑《わら》った。「本当は忙《いそが》しくて、恋人と会う暇《ひま》もないわ」  「恋人、いるの?」  「一《いち》応《おう》ね。でも——結《けつ》婚《こん》しないと思うけど」  「やっぱりTVドラマだ!」  「私のマンションは、2DKのちっちゃなものよ。それも外国の雑《ざつ》誌《し》やら、スケッチが至《いた》るところに積んであって……」  「でも、面《おも》白《しろ》いでしょうね」  「色々と疲《つか》れることも多いわ。まあ、何とか食べてはいける程《てい》度《ど》に稼《かせ》いでるけど」  二人とも、一番肝《かん》心《じん》の話には触《ふ》れていなかった。  話さなくてはならないが、しかし、最後に回したいのだ……。  「子供さんは?」  「亭《てい》主《しゆ》がみてるからいいの。今日は早い日だったから。——文江のこと、すぐに後で分ったんだけど、子供かかえて、追いかけても行けないでしょ。だから、亭主の帰るのを待って、パッと押《お》し付けて来たの」  「とんだ災《さい》難《なん》ね」  と、文江は笑《わら》った。  何となく、二人は黙《だま》った……。  「文江」  「ん?」  「聞いた?」  「うん。——白木さんもいたから、すっかり」  「そうか……」  百代は首を振《ふ》った。「今でも毎日考えるのよ。あのとき、私《わたし》があんな話をしなかったらって……」  「あなたのせいじゃないわよ。——話したのは当り前だわ」  「そう? でも、そのせいで、和也君は死んじゃったわ」  「百代は、別に和也君が犯《はん》人《にん》だと言ったわけじゃないんだし……」  「同じことよ」  「もとはと言えば、私の責《せき》任《にん》よ。もちろん、そんなことになるなんて、思いもしなかったけど……。でも現《げん》実《じつ》にそうなってしまったんだもの」  「もう取り返しはつかないものね」  「そう……。ね、百代、和也君のご両親がどこへ行ったか、何か耳にしてない?」  なぜか、百代は一《いつ》瞬《しゆん》、ためらったようだった。  「分らないわ、全然。——誰《だれ》も知らない内にいなくなっちゃったんだもの」  「そう……」  「私、あそこの隣《となり》にいるのなんて、いやなのよ。いつも和也君のこと、思い出して。でも、今の家が安かったし、あの雑《ざつ》貨《か》屋《や》は取り壊《こわ》してくれるって話だったの。それが、いつまでたっても……。また当分、悩《なや》まされそうね」  文江はちょっと間を置いて、  「ね、和也君のお墓《はか》知ってる?」  「ええ。毎年、命日にはいくのよ」  「そう。じゃ、連れて行って」  「今?」  「そう。せめて、お詫《わ》びだけでもね」  「いいわ、行きましょう」  と、百代は肯《うなず》いた。      合《がつ》掌《しよう》していた文江は、しばらくしてから、ゆっくりと顔を上げた。  後ろに足音がして、振《ふ》り向くと母が立っていた。  「このお墓《はか》は、私《わたし》が立ててあげたのよ」  と、公江は言った。「せめて、と思ってね。——今となっては、本当に良かったと思ってるわ」  「和也君は、もう戻《もど》らないわ」  「それはそうよ。でも、お前が自分を責《せ》めることはないわ。人の力ではどうにもならないことがあるものなのよ」  「そうね……」  と、文江は肯いた。  「あの——」  と、少し退《さ》がっていた百代が、やって来て言った。「そろそろ帰らないと、子《こ》供《ども》のことが——」  「そうね。ごめんなさい。私は大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》。またゆっくりね」  「うん。——しばらくはいるの?」  「そのつもりよ。電話するわ」  「そうして。主人にも紹《しよう》介《かい》したいし」  百代は、急ぎ足で帰って行った。  「——ああやって、毎日の生活の中に、過《か》去《こ》の傷《きず》が埋《うも》れて行くのよ」  と、公江が言った。  「私の傷は深すぎるわ」  と、文江は言った。  「文江」  「なあに?」  「東京へお戻《もど》り」  文江は、ちょっと目を見開いて、  「どうして?」  と訊《き》いた。  「ここにいても、いいことはないよ」  「娘《むすめ》を、そうすぐに追い返さなくてもいいじゃないの」  「ごまかさないの。お前が何か思いつめてることぐらい、分りますよ」  「そう?」  「そうよ。七年前も、お前はそんな顔をしてたわ」  「それなら分ってるでしょう。私《わたし》の気持は変らないことぐらい」  文江は墓《はか》を見つめながら、言った。  「何をする気なの?」  「本《ヽ》当《ヽ》に《ヽ》何が起ったのか、はっきりさせたいのよ」  「七年も前のことよ。——それでどうなるっていうの?」  「お母《かあ》さん」  文江は微《ほほ》笑《え》んで言った。「——無《む》茶《ちや》はしないわ。私に任《まか》せて。もう子供じゃないのよ」  公江は、ため息をついて、言った。  「子供じゃないから心配なのよ」  「一人にして。少し考えることがあるんだから」  「分ったわ。——もうすぐ暗くなるわ。その前に帰りなさい」  「そうするわ」  公江が帰って行く。  文江は一人、残って、墓《はか》の前に立っていた。  文江の頭《ず》脳《のう》は、ここで育った頃《ころ》より、ずっとドライに、実《じつ》務《む》的になっている。——そういう点、母は理《り》解《かい》していないのだ。  東京で、女一人、競争の激《はげ》しい社会に飛び込《こ》んでやって行こうと思えば、ともかく、感《かん》傷《しよう》は二の次である。  まず計算ができ、そして行動できなくてはどうにもならない。  母が言った通り、一《いつ》旦《たん》東京へ帰る必要がある、と文江は思った。  この事《じ》件《けん》を洗《あら》い直して、真相を見つけるには、何か月かはかかるだろう。その間、東京での仕事はキャンセルしておかなくてはならない。  今度の帰《き》郷《きよう》では、一週間しか休みを取って来ていないのだ。  幸い、今、文江は仕事を多少キャンセルしても、後で仕事がなくなることはない。文江は割《わり》合《あい》に売れているデザイナーだし、それに、今までキャンセルしたことがないので、信用がある。  一度だけのキャンセルなら、向うも快《こころよ》く承《しよう》知《ち》してくれるだろう。  それに、東京へ戻《もど》らなくては、この地方の七年前の新聞など、どこへ行っても、見られまい。もちろん新聞社へ行くという手もあるが、今さら新聞種になるのも、ごめんだった。  まず、新聞で、分るだけのことを調べ、それから、県《けん》警《けい》で、和也のことを調べた記録が見られるように、何とか手を打つ。  そう。——それにもう一つ、和也の両親の行方《ゆくえ》が気になっていた。  夜中に黙《だま》って出て行ったというが、その思いを、何としても、晴らしてやりたい。  それは、警《けい》察《さつ》で調べればすぐに分るだろうが、できることなら、警察の手を借りずに自分で調べたかった。  墓《ぼ》地《ち》を出て、文江は、ゆっくりと家へ戻《もど》って行った。  畑の中の道を歩いて行くと、ブルル、という音が後ろから近付いて来た。  振《ふ》り向くと、婦《ふ》人《じん》用《よう》のミニ・バイクに、中年の男がまたがってやって来る。  「どいて!」  と男が叫《さけ》んだ。「そこを、どいて下さい!」  文江があわててわきへよけると、バイクは目の前を通り過《す》ぎ——ようとして、みごとに引っくり返った。  その格《かつ》好《こう》がおかしくて、文江は、つい笑《わら》ってしまった。  「いや——参った!」  背《せ》広《びろ》姿《すがた》の男は立ち上ると、ズボンや上《うわ》衣《ぎ》の汚《よご》れを手で払《はら》って、「急ぐからと思って乗って来たのに、これだ!」  「大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》ですか?」  とまだ笑《わら》いを残して、文江は訊《き》いた。  「ええ。——しかし、乗りにくいものですな、これは」  「後ろに泥《どろ》が」  「え?——ああ、こりゃどうも」  文江は、ハンカチを出して、背広の背中についた泥を拭《ふ》いてやった。  「いや、申し訳《わけ》ありません」  と男は礼を言って、バイクを起こすと、  「では、急ぎますので」  と一礼して、またバイクを始動させ、またがって、走り出した。  「何だか頼《たよ》りないわね」  と、呟《つぶや》いて、文江は首を振《ふ》った。  誰《だれ》だろう?——見たことのない顔だった。  もちろん、七年の間には、村の顔ぶれも、多少、変っていよう。  文江は、また歩き出した。  ずっと先の方で、今の男が、またバイクごと引っくり返るのが見えた。      「——今夜、東京へ戻《もど》るわ」  と、夕食の席で、文江は言った。  「何ですって?」  と、うめが目を丸《まる》くした。「今日、おいでになったばかりですよ!」  「そう。でも、早い方がいいの」  「そんなこと——」  「うめ」  と、公江が抑《おさ》えて、「好《す》きにさせてやりなさい」  と言った。  「最後の列車が一時間後ね。それに乗るわ」  「気を付けてね」  「ええ」  文江は手早く食事を終えて、立ち上った。  「ごちそうさま。——久《ひさ》しぶりで、おいしかったわ」  「さようでございますか」  うめが、ふくれっつらで言った。  「じゃ、仕《し》度《たく》するわ」  文江は部《へ》屋《や》へと上って行った。  「——奥《おく》様《さま》」  とうめが言った。「どうしてお止めにならないんです?」  「止めて聞く子じゃないでしょ」  と、公江は言った。「それに、もう二十六なのよ」  「でも、今度こそ、お帰りにならなかったら——」  「大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》。帰って来るわよ、あの子は」  公江は、自信ありげに言った。「お茶をおくれ」  「はい」  うめは、どうにも不満顔であった。 5 疑《ぎ》 惑《わく》  「お帰り」  と、草《くさ》永《なが》達《たつ》也《や》がグラスを上げた。  「どうも」  文江は、あまり気のない返事をした。  「どうしたんだ? あんまり嬉《うれ》しそうじゃないね」  と草永は言った。  「どうして嬉しくなきゃいけないの?」  「ご挨《あい》拶《さつ》だな。恋《こい》人《びと》と別《わか》れてるのが寂《さび》しくて、たった二日で帰って来たんだろ?」  文江は、ちょっと笑《わら》った。  「相変らずね」  「変りっこないじゃないか、前に会ってから、四日しかたってない」  「ずいぶんたったような気がするわ」  と、文江は言った。  銀《ぎん》座《ざ》の地下のレストランだ。小さな店だが、草永の会社が近いので、よくここで待ち合せる。  草永達也は、広告会社に勤《つと》めている。  といって、夜も昼もなく飛び回るエリートというわけでなく、至《いた》って呑《のん》気《き》な、庶《しよ》務《む》の人間だった。  さほど二《に》枚《まい》目《め》でもないが、おっとりした人《ひと》柄《がら》の良さが、競争の社会で疲《つか》れている文江にとって、救いのように感じられる。  あまり付き合ってスリルのある相手ではないが、何でも打ちあけて話せる男だった。  「僕《ぼく》も、君がいない間は寂《さび》しかったよ」  「意味が違《ちが》うのよ」  と、文江は言った。  「まあそうがっくりするな。仕方ないじゃないか。七年間、生死不明だったんだ。その内に、お母《かあ》さんの怒《いか》りも解《と》けるよ」  「違うのよ。そんなことなら、こう深《しん》刻《こく》になりゃしないわ」  「へえ。何事だい、一体?」  「とんでもないことになったのよ」  「もう君に亭《てい》主《しゆ》がいたとか?」  「まさか」  と、文江は苦《く》笑《しよう》した。  食事をしながら、文江は一部始終を話して聞かせた。  「そいつは辛《つら》いね」  と、草永は言った。  「そう。——いやになっちゃうの、分るでしょ?」  「うん。しかし……」  「私《わたし》、必ず、真相を暴《あば》いてやるわ」  「つまり、君の部《へ》屋《や》が荒《あら》されていたことと——」  「書き置きが消えていたことよ」  「それに、その男——和也といったっけ? 彼《かれ》の言うこともおかしいね」  「どうして?」  「包丁の話、手《て》拭《ぬぐ》いの話、どれも本当とは思えないよ」  「そうねえ……」  「彼には彼で、何か、隠《かく》していることがあったんだ。——例の焼いた跡《あと》のことだって、彼の話じゃ解《かい》決《けつ》できないじゃないか」  「それもそうね」  「彼はやっぱり、何《ヽ》か《ヽ》やったんだと思うね、僕《ぼく》は」  「何を?」  「誰《だれ》かを殺して、埋《う》めたのさ」  「まさか!」  「他に考えられるかい? 起《き》訴《そ》するには死体が見つからないと無《む》理《り》だけど、状《じよう》況《きよう》証《しよう》拠《こ》は充《じゆう》分《ぶん》だよ」  「でも、誰を?」  「そりゃ分らないさ」  「行方《ゆくえ》不明になれば、誰かが届《とど》け出るでしょう」  「どうかな」  「だって——」  「考えてみろよ」  と、草永は言った。「君だって、通りすがりの車に乗って東京へ出て来た。どこかの女の子が、町から山道へ迷《まよ》い込《こ》んで、困《こま》っている。そこへその、和也が通りかかって、村まで案内しよう、と言い出す」  「それで?」  「途《と》中《ちゆう》、色々話をするだろう。女の子は家出して来たと分る。しかも、かなり遠くから来ている。——暗い山中で、二人きりだ。和也が、妙《みよう》な気を起こしてもおかしくない」  「やめてよ。幼《おさ》ななじみなのよ」  「だが君は女で、僕《ぼく》は男だ。男のことは、僕の方が良く分る。十九歳《さい》は、体が大人《おとな》で、まだそれを制《せい》御《ぎよ》し切れない年《ねん》齢《れい》だよ」  「でも殺すなんて……」  「殺す気だったのかどうかね。乱《らん》暴《ぼう》するだけのつもりだったかもしれない。でも女の子の方が、大人《おとな》しくしていなかった。隙《すき》を見て彼の荷の中にあった包丁をつかんで——」  「逆《ぎやく》に刺《さ》された……」  「ほんのはずみだったかもしれないよ」  文江は、じっと草永を眺《なが》めて、  「見て来たようなことを言うのね」  「可《か》能《のう》性《せい》さ。——ともかく、何かあったことは確《たし》かだと思うね」  草永はそう言って食事を続けた。  「あなたって、割《わり》合《あい》に鋭《するど》いのね」  「割合に、はないぜ」  と、草永は言った。「——本当に、やるのか?」  「事《じ》件《けん》のこと? そうよ」  「やめといた方がいいと思うけど……。まあ言ってもむだだろうね」  「むだよ」  と文江は言った。「考えてみてよ。人一人、私《わたし》のために死んでいるのよ」  「うん、分る」  と、草永は言った。「ワイン一本分には充《じゆう》分《ぶん》相当するよ」  「同感だわ」  文江はワインのグラスをぐいっとあけた……。      「——今夜は帰るの?」  と、文江はベッドの中から言った。  「いや、泊《とま》ってもいい。でも君の気持次《し》第《だい》だな」  「そう」  文江は裸《はだか》の腕《うで》をのばして、草永を抱《だ》き寄《よ》せた。「——私はあなた次第よ」  二人の唇《くちびる》が絡《から》むように触《ふ》れ合う。  そこへ、チャイムが鳴った。  「——誰《だれ》だい?」  「さあ、分らないわ。もう十一時ね。——こんな時間に……」  「出てみろよ。何か着てね」  「当り前でしょ」  と、文江は言って、ベッドから出ると、裸《ら》身《しん》にガウンをまとった。  インタホンで、  「どなた?」  と声をかける。  「警《けい》察《さつ》の者です」  と、返事があった。  文江は、草永の方へ肩《かた》をすくめて見せ、玄《げん》関《かん》へ出て行った。  チェーンをしたまま、細く開けてみる。  「ええと……常石文江さんですか」  「はあ」  「実はちょっとお話が……」  どこかで聞いた声だ、と思って、文江は首をかしげた。  ともかく中へ入れる。  「夜分、申し訳《わけ》ありません」  居《い》間《ま》へ入って、明るい光の下に立つと、やっと分った。  「ああ、あの、バイクでひっくり返ってた方ですね!」  「え?——じゃ、あなたが、あのときの……」  男は照れくさそうに頭をかいた。  「——じゃ、県《けん》警《けい》の刑《けい》事《じ》さんなんですか」  と、草永の淹《い》れてくれたコーヒーを飲みながら、文江は言った。  「はあ。室《むろ》田《た》といいます」  刑《けい》事《じ》はそう言って、「いや、てっきりお一人と思ったので……。お邪《じや》魔《ま》をして申し訳ありませんね」  「いや、いいんですよ」  と、草永が気楽に言った。「朝までは長いですからね」  「いや、お若《わか》い方々は羨《うらやま》しい」  と、室田刑事は言った。  「で、どういうご用でおいでになったんでしょう?」  「あなたが行方《ゆくえ》不明になって、坂東和也という若《わか》者《もの》が捕《つか》まった。——ご存《ぞん》知《じ》ですね?」  「はい。母から昨日、初めて聞きましたわ」  「そのとき、彼《かれ》を調べたのが、私だったのですよ」  「まあ」  「もちろん私一人ではありません」  と、室田刑事は続けた。「何人かの同《どう》僚《りよう》は、彼がクロに違《ちが》いない、と言っていました。しかし、私はシロだと思っていたのです」  「そうでしたか」  「結局、彼の自殺で、たぶんクロだったのだろう、ということになって、それきり終ってしまったのですが、ずっと気になっていたのです」  「そこへ私《わたし》が帰ったので……」  「ええ、それを聞いて、駆《か》けつけたんです。ところが、あなたはもういらっしゃらなくて」  「それはすみませんでした」  「いや、あのときに気が付いても良かったんですよ」  と室田刑《けい》事《じ》は、ちょっと照れたように笑《わら》った。  「——で、私に何のお話だったんでしょうか?」  「あなたが、どうやって村を出られたのか、うかがいたかったのです」  「それは——」  文江は、母に話した説明をくり返した。  「すると山の方へは行かなかったんですね」  「ええ。行きかけて、車が来たので、やめたんです」  「山道を行けば、途《と》中《ちゆう》で、坂東和也に会っていたでしょうね」  そう言われて、文江は、ちょっとハッとした。  「そうですね。考えてもみませんでした」  「実は、私にも、あの和也という若《わか》者《もの》の言うことは信用できないんですよ。しかし、あなたを殺してはいない。——そうなると、あの若者は、なぜ、あんなでたらめを言ったのでしょう?」  文江は、ちょっと草永の方を見た。  「——分りませんわ」  「ともかく、彼には、隠《かく》したいことがあったのです」  「それは分ります」  「しかし、そのおかげで、彼は殺人の容《よう》疑《ぎ》をかけられている。——それほどまでにして、隠していた秘《ひ》密《みつ》は何だったのでしょう?」  「別の殺人だったのじゃありませんか?」  と、草永が言った。  「鋭《するど》いですな」  と、室田刑事が肯《うなず》く。「私もそう考えました。しかし、あの夜、確《たし》かに、彼は、町から出て山道を村に回っています。途中、誰《だれ》か女と会って、殺したとして、その死体をどこかへ埋《う》める——近くではないのですよ。あの辺一帯を捜《さが》したのですからね。そして、服を焼く。それだけのことをやる時間が、あったでしょうか?」  「なるほど」  「しかも、まだ暗い中でです。そして、包丁と手《て》拭《ぬぐ》いの件《けん》……。埋《う》めるなら、なぜそれも一《いつ》緒《しよ》に埋めてしまわなかったのか?」  「分りませんわ」  と文江は首を振《ふ》った。  「つまりですね、彼は殺したかのような痕《こん》跡《せき》を、作っていたのではないか、と私は思っているのですよ」  と、室田刑《けい》事《じ》は言った。 6 死の恐《きよう》怖《ふ》  「ええ、そんなわけで……。本当に申し訳《わけ》ありません。二度とこんなことはいたしませんので。——はい、一か月で戻《もど》ります。それで大変に図《ずう》々《ずう》しいお願いなんですけど、戻りましたら……。——そうですか! 本当に助かります、そうしていただけると!——はい。すぐにご連《れん》絡《らく》を取りますので。——よろしく……」  電話を切って、常石文江は息をついた。  手帳をめくって、  「これでもう落とした所はないかしら……」  と呟《つぶや》く。「——大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》だわ、全部連絡した!」  「あんまり張《は》り切ると、老《ふ》けるぜ」  と、草永達也が言った。  「ドキッとするようなこと言わないでよ」  「本当さ。若《わか》いからって無《む》理《り》しない方がいいよ」  文江のマンションである。  そろそろ昼、正午になろうとしていた。文江は、Tシャツにジーンズの軽《けい》装《そう》で、ソファに寝《ね》転《ころ》がって、電話をかけていたのだ。  ちょっと、ファッション・デザイナーには見えないスタイルだった。  草永は、ワイシャツにネクタイのスタイルで、そろそろ出社しようか、というところ。半日休《きゆう》暇《か》が取れるので、朝、ベッドの中で会社へ連《れん》絡《らく》し、その後、文江と少々運《ヽ》動《ヽ》をしてひと眠《ねむ》りしたのである。  「どうせ一時までに行けばいいんでしょ? 一《いつ》緒《しよ》にお昼を食べましょうよ?」  と、文江はソファからはね起きた。  「いいよ。この下で食べる?」  「この格《かつ》好《こう》で通用するのはあそこぐらいね」  マンションの一階に入っている、ちょっとしたキッチンだ。独《ひと》り暮《ぐら》しで、つい外食が多くなる文江には、ありがたい店だった。  「今日もいいお天気ね」  ベランダのカーテンを開けて、文江は伸《の》びをした。  「これからの行動予定は?」  と、草永が上《うわ》衣《ぎ》を着ながら言った。  「これから考えるのよ。一か月、時間ができたんだもの」  布《ぬの》のバッグを手にして、文江は草永と一《いつ》緒《しよ》に部《へ》屋《や》を出た。ここは五階である。  「——でも、凄《すご》いでしょ。私との契《けい》約《やく》、断《ことわ》りたいって人、いなかったわ」  「美人は得《とく》だ」  「あら、それじゃ私に才《さい》能《のう》がないみたいじゃないの」  エレベーターに乗って、文江は笑《わら》いながら言った。  一階に着いて、車《くるま》寄《よ》せの下を曲って、店のドアを押《お》す。  「やあ、おはよう」  コロコロと太って、いかにも料理人という感じのマスターが、文江に笑《わら》いかけた。  「おじさん、何か作って。任《まか》せるから」  カウンターだけの小さな店である。他《ほか》に客はなかった。十二時に十分ほどある。  「OK。昼休みになる前に、スパゲッティがゆで上るよ」  「それでいいわ。この人にもね」  「了《りよう》解《かい》。——まだ結《けつ》婚《こん》せんのかね?」  と、手早くスパゲッティにかかりながら、マスターが訊《き》く。  「彼女《かのじよ》がその気になってくれなくてね」  草永は言って、ポケットを探《さぐ》った。「おっと、いけない。禁《きん》煙《えん》中《ちゆう》なんだ、忘《わす》れてた」  「何だ、また禁煙してるのかい」  とマスターがからかった。「——文ちゃんは、田舎《いなか》へ帰ったんじゃなかったのか?」  「一《いち》応《おう》はね。ちょっと思うところあって、引き返して来たのよ」  「さては見合の相手を押《お》し付けられたな? 図星だろう」  「ご想《そう》像《ぞう》にお任《まか》せします」  と、文江は言って、水を飲んだ。「コーヒーもお願いね」  「分ってるさ。——なあ、文ちゃん、さっきあんたのことを訊《き》きに来た男がいたぜ」  「私のこと?」  「ああ。身《み》許《もと》調《ちよう》査《さ》じゃないのかい、縁《えん》談《だん》の、さ」  「そんな話、ないわ、本当よ」  「へえ。じゃ、一体何なのかな」  文江は、草永と、ちょっと顔を見合わせた。  「——で、おじさん、何て訊かれたの?」  「いや、あんたの写真見せてさ、この女《じよ》性《せい》を知ってるかって。このマンションにいるはずだけど、見たことないかって訊《き》いてたよ」  草永が、  「どんな男?」  と、口を挟《はさ》んだ。  「さて……。中《ちゆう》肉《にく》中《ちゆう》背《ぜい》ってやつかな。あんまり目立たない奴《やつ》だったよ。グレーのコートを着てね」  「で、何て返事したの?」  と文江は言った。  「開店したばっかりなんで、よく分らねえ、と言ったよ。理由はどうでも、人のことをかぎ回ったりするのは好《す》きになれないからね」  「おじさんらしいわ」  文江は笑《わら》った。  しかし、一体誰《だれ》なのだろう?——文江には心当りがまるでなかった。  スパゲッティを食べ始めると、十二時になって、昼食に出て来た近所のサラリーマンやOLたちで店はたちまち満席になる。  マスターは一人で料理から会計、注文取りまで大《おお》忙《いそが》しである。しかし、額《ひたい》に汗《あせ》を光らせて駆《か》け回っているときが、このマスター、一番楽しそうなのである。  「——誰なんだろう」  コーヒーを飲みながら、草永が少し大きな声で言った。店の中が、ぐっとやかましくなっているのである。  「分らないわ。あんまりいい気分じゃないわね」  「気を付けろよ」  と草永が言った。  「あら、何に?」  「分らないが……。ともかく色んなことに、さ」  「まず男《だん》性《せい》に注意、ね」  文江は冗《じよう》談《だん》めかして言ったが、草永は笑《わら》わなかった。  「いいか、まあその男は関係ないかもしれないが、君は七年前の出《で》来《き》事《ごと》をほじくり返そうとしてるんだ。それは必ず何か波《は》乱《らん》を起す。——充《じゆう》分《ぶん》用心した方がいい」  草永が、こんな風に、真《しん》剣《けん》にものを言うのは珍《めずら》しい。いや、いつも軽《けい》薄《はく》というわけではないのだが、人に忠《ちゆう》告《こく》したりする柄《がら》ではないのである。  「分ったわ」  文江は、真顔で肯《うなず》いた。  草永が、しつこく、やめろと言わないことが、ありがたかった。——文江は、やり抜《ぬ》くと決めたことは、途《と》中《ちゆう》で投げ出さない。  元来、そういう性《せい》格《かく》でもあったのが、七年間の生活で、一《いつ》層《そう》拍《はく》車《しや》がかかった。苦しくなることは何度もあったが、結局投げ出さないことで、それを乗り切ったのである。  今となっては、その信《しん》条《じよう》を変えろと言われても不《ふ》可《か》能《のう》だった。  マンションの玄《げん》関《かん》の所で、草永と別れた。少し歩いて、振《ふ》り返った草永に、もう一度手を振った。  ふと、まるで新《しん》婚《こん》家庭の朝みたいだわ、と思った。出《しゆつ》勤《きん》していく夫と、見送っている新《にい》妻《づま》と……。  だが、決してそんなことにはならないだろう、と文江には分っていた。  自分が選んだ生き方は、そんなものではない。——あの、百代のような、ごく当り前の妻や母の姿《すがた》に憧《あこが》れる気持は、文江の中にはなかった。  後になって、いつか何十年かたって、それを後《こう》悔《かい》することがあるかもしれないが、それでも構《かま》わない。ともかく、文江は自分をごまかして生きることのできない人間なのである……。  マンションへ入って、エレベーターの方へ歩いて行く。——草永が言ったことは、胸《むね》の中に、小さな魚の骨《ほね》のように、ひっかかっていた。  確《たし》かに、自分は無《む》用《よう》な波《は》乱《らん》を、あの静かで平和な田《でん》村に引き起こそうとしているのかもしれない。今さら、何をしたところで、坂東和也は生き返っては来ないし、七年前の事《じ》件《けん》の真《しん》相《そう》を明らかにすることは不《ふ》可《か》能《のう》かもしれない。  しかし、自分のせいで——総《すべ》てが自分の責《せき》任《にん》とは言えないにせよ——一人の人間が死んだという事実は、何十年を経《へ》ても消えるものではないのである。  エレベーターに乗って、五階のボタンを押《お》す。  「ともかく、やるしかないんだわ」  と口に出して言った。  一か月、仕事はストップした。一《いち》応《おう》、いくらかの貯《たくわ》えもある。その全部を費やしても、充《じゆう》分《ぶん》かどうか……。  しかし、もう石は坂を転り始めた。誰《だれ》もそれを止めることはできないのだ。  あの室田という刑《けい》事《じ》が和也の両親の居《い》所《どころ》を捜《さが》してくれることになっていた。事《じ》件《けん》に直《ちよく》接《せつ》関係あるかどうか分らないが、ともかく坂東夫《ふう》婦《ふ》に会うべきだ、と文江は思っていた。  五階でエレベーターを降《お》り、〈503〉のドアを開ける。ふと、風が抜《ぬ》けて通った。  おかしい、と思った。  ドアを開けても、窓《まど》が開いていなければ、風は抜《ぬ》けて行かない。窓や、ベランダに出るガラス戸は、全部、閉《しま》っているはずだ。  居《い》間《ま》へ入って、中を見回す。——別《べつ》段《だん》、変りはないように見えた。  電話が鳴り出して、ギクリとした。気のせいだろうか、さっきの風は?  電話が鳴り続ける。ともかく、出ることにした。  「常石です」  「やあ、室田ですよ」  「あ、昨《さく》晩《ばん》はどうも」  と、文江はホッとした気分で言った。  「お邪《じや》魔《ま》してすみませんでしたね」  「いいえ、構《かま》わないんです」  「実は、県《けん》警《けい》の方で急に用が出来まして、戻《もど》らねばならないんです。それで申し訳《わけ》ないのですが——」  「何か分ったことでも?」  「例の坂東和也の両親ですが、東京へ出て来ているようですよ」  「まあ、東京へ?」  「今、詳《くわ》しいことを調べてもらっています。分り次《し》第《だい》そちらへ連《れん》絡《らく》させるようにしましょう」  「お願いします。すぐに行ってみますわ」  「一、二時間の内に電話が行くと思いますが、私《わたし》が行けなくて申し訳《わけ》も——」  突《とつ》然《ぜん》、背《はい》後《ご》からのびて来た手が、電話のフックを叩《たた》きつけるように押《お》した。ハッとする間もなく、電話のコードが、鞭《むち》のように、蛇《へび》のように、文江の首に巻《ま》きついた。  「あ——」  声が短く切れた。コードが首に食い込《こ》む。  文江は、息ができなくなって、目の前が暗くなるような気がした。  「動くな」  耳もとに、男の声が囁《ささや》いた。「動くと、強く絞《し》めるぞ」  文江は、身《み》震《ぶる》いした。  「——よく聞けよ」  と声は続いた。「もうやめるんだ。余《よ》計《けい》なことに首をつっこむな。——分ったか?」  文江は、意《い》識《しき》が薄《うす》れて行くのを感じた。このまま、死ぬのか、と思った。  「昔《むかし》のことをつついて回っても、ろくなことはない。——分ったか?」  男の声が、遠くへと吸《す》い込《こ》まれて行くようだ。  「今度は命がないぞ。お前だけじゃない。誰《だれ》も彼《かれ》もが、死ぬぞ」  ——不意に、コードが緩《ゆる》んで、受話器が床《ゆか》まで落ち、はね返って、宙《ちゆう》に揺《ゆ》れた。  文江は床に崩《くず》れて、うずくまった。  誰かが居《い》間《ま》を出て行き、玄《げん》関《かん》のドアが閉《し》まる音が、ずっと遠くで聞こえた。——文江は、何度も喘《あえ》いだ。  床に寝《ね》転《ころ》がって、じっと動かなかった。  息をするのも、苦しい。喉《のど》が痛んで、そっと手で触《さわ》ると、皮が破《やぶ》れて、少し血がにじんでいるらしかった。  何が起ったのか、考える余《よ》裕《ゆう》もなく、ただ横になって、時が過《す》ぎるのを待った。  どれくらい時間がたったのか、文江はゆっくりと起き上ると、ぶら下っている受話器を、フックに戻《もど》した。  殺されかけたのだ。やっと、その恐《きよう》怖《ふ》が実感された。  受話器を取って、ダイヤルを回そうとしたが、手が細かく震《ふる》えて、何度もかけそこなってしまった。  「もしもし——」  声が、びっくりするほどしゃがれていて、二、三度言い直さなくてはならなかった。  「庶《しよ》務《む》の草永さんを……」  時計の方へ目をやると、もう一時四十分である。一時間近く、動けなかったことになる。  「草永ですね? ちょっとお待ち下さい」  女《じよ》性《せい》の声がした。  文江は、自分がどうして草永に電話しているのか、分らなかった。電話して、どうするというのか?  助けて、と叫《さけ》ぶか、それとも泣《な》くか。——文江には分らなかった。  「お待たせしました」  と、草永の声がした。「もしもし、どちら様ですか?」  文江は、じっと草永の声を聞いていた。  「もしもし?——もしもし。——どなたですか?」  文江は、そっと受話器を戻《もど》した。電話が、チーンと音を立てた。 7 孤《こ》独《どく》の夫《ふう》婦《ふ》  シャワーを浴び、鏡を見ながら、首《くび》筋《すじ》の傷《きず》の手当をする。  思ったほどの傷ではなく、ほとんどそれと分らないほどで、ホッとした。  服を着て、熱いコーヒーを淹《い》れ、ソファで一《いつ》杯《ぱい》飲むと、大分気持が落ち着いて来た。——とはいえ、恐《きよう》怖《ふ》はまだ肌《はだ》にまとわりついていたが。  文江は考え込《こ》んだ。あの男が何者か、捜《さが》す手がかりは何もない。  顔は見ていないのだし、声も、耳もとで囁《ささや》かれたのでは、どんな声やら見当がつかない。  確《たし》かなことは、あの男が言った、  「余《よ》計《けい》なこと」  というのが、今度の田《でん》村での一《いつ》件《けん》であることだ。  しかし、それにしても、草永の警《けい》告《こく》が、こんなに早く事実になるとは……。  殺されかけたのだ。しかし、なぜだろう? 一体、自分が何を知っているというのか。  まだ、実《じつ》際《さい》に、何一つ捜《そう》査《さ》にも取りかかっていないのに、あんな風に向うから出向いて来るというのは、よほど彼女《かのじよ》の動きに神《しん》経《けい》を尖《とが》らせているせいだろう。  だが、文江が田《でん》村へ戻《もど》り、真相を探《さぐ》る決心をして、まだごくわずかの時間しかたっていない。その間に、一体誰《だれ》が、文江のことを知ったのか。  大体、このマンションの場所さえ、文江は母にも言って来なかったくらいだ。  それなのに、あ《ヽ》の《ヽ》男《ヽ》は、やって来て、留《る》守《す》中《ちゆう》のこの部《へ》屋《や》へ忍《しの》び込《こ》み、彼女を待ちうけていた……。  「どうなってるの?」  と、文江は口に出して呟《つぶや》いた。  何でも、つい口に出してしまうのが、長い独《ひと》り暮《ぐら》しから来る癖《くせ》であった。  電話が鳴って、文江はちょっとギクリとした。また後ろから首を絞《し》められそうな気がして、あわてて振《ふ》り向きながら、手をのばした。  「はい、常石です」  「やあ、室田です」  「あ、刑《けい》事《じ》さん」  「さっきは、電話が途《と》中《ちゆう》で——」  「ああ、すみませんでした。ちょっと、客があって」  「実は、坂東和也の両親の居《い》所《どころ》が分りましたのでね」  「まあ、どこですの?」  「渋《しぶ》谷《や》の方のアパートなんです。電話がないので、連《れん》絡《らく》がつけられません」  「行ってみますわ。場所を教えて下さいますか」  「それじゃ、私《わたし》も行きます。待ち合せましょう」  「でも、田《でん》村の方で、何かご用とか——」  「ああ、構《かま》わんのですよ」  と、室田は気楽に言った。「電話して、一日、警《けい》視《し》庁《ちよう》を見学したいと言っておきましたから」  何となくユーモアのある男だ。文江はつい笑《え》顔《がお》になった。  「じゃ、すぐに仕《し》度《たく》しますわ」  「お願いします。ではハチ公の前で。——どうもアベックばかりで、気がひけますが」  「そんなこと……。では後一時間ほどしたら参ります」  「結《けつ》構《こう》です。では」  室田は、いささか馬《ば》鹿《か》丁《てい》寧《ねい》に言った。  坂東和也の両親。——ともかく、第一歩は順調に踏《ふ》み出せそうだ。  いや、そうでもないか。文江は、そっと首に手をやって、思った。      ハチ公の像《ぞう》の周囲は、相変らず人で溢《あふ》れている。  文江が歩いて行くと、室田の方から、見つけてやって来た。  「ここから歩いて十五分ということです。行ってみましょうか」  と室田は言った。  「ええ」  文江は肯《うなず》いた。  「和也君のお父さんは何をしているんですか?」  「坂東は何か仕事をしてるんでしょう」  と、室田は言った。「しかし、夕方なら戻《もど》っていると思いますがね」  「何だか気が重いですわ」  と、文江は言った。  「あなたが責《せき》任《にん》を感じることはありませんよ。——といっても、無《む》理《り》だろうとは思いますがね」  室田の話し方は、淡《たん》々《たん》として、どこかユーモラスですらある。それが、文江には、嬉《うれ》しかった。  坂東のアパートを捜《さが》し出すのに、大分時間がかかってしまった。  「全く、東京は大変ですな、家一《いつ》軒《けん》捜《さが》すのも」  と、室田は息をついた。  「ややこしいですものね。田《でん》村なら、誰《だれ》それの家、といえばすぐ分ったのに」  「ああ、あそこですね。——しかし、そういう小さな村だからこそ、坂東和也は死んでしまったわけですからね」  室田の言う通りだ、と文江は思った。  もちろん、あの村の暖《あたたか》い人《にん》情《じよう》や、肌《はだ》のぬくもりすら感じさせるような近所付合いは、それ自体、都会に長く暮《くら》していると、烈《はげ》しいほどの郷《きよう》愁《しゆう》をかき立てることがあった。  しかし、その人情は、常《つね》に、仲《なか》間《ま》意《い》識《しき》と、その裏《うら》返《がえ》しの排《はい》他《た》的な風土とに裏打ちされている。一度その中で、仲間に背《そむ》いた者は、決して許《ゆる》されることがないのだ……。  和也は仲《なか》間《ま》を殺すという、大きな罪《つみ》を犯《おか》した。いや、実《じつ》際《さい》はどうでも、村の人々はそう思った。  それは村にとって、正《まさ》に死に値《あたい》する大《たい》罪《ざい》だったのだ。——そこでは法よりも、村人の噂《うわさ》や、視《し》線《せん》や、言葉が人を裁《さば》くのである。  今さらのように、文江は坂東和也の父に会うのが怖《こわ》くなった。  本当に、父親に詫《わ》びねばならないのは、しかし、村人たちである。  だが、村人たちの誰《だれ》一人として、和也の死が自《ヽ》分《ヽ》の《ヽ》責《せき》任《にん》だなどとは、感じていないに違《ちが》いない……。  それが本当に恐《おそ》ろしいことなのである。  「——どうしました?」  室田の言葉に、文江はハッと我《われ》に返った。引き返すわけにはいかないのだ。ここまで来た以上は……。  「行きましょう」  文江は自分から足を早めた。  〈坂東〉という表《ひよう》札《さつ》はどこにもなかった。  「確《たし》かこの部《へ》屋《や》ですがね」  と、室田が足を止めたのは、ただ白紙の表札が、ピンで止めてある部屋の前だった。  「字が消えちゃってるんだわ」  よく見ると〈坂〉の字が、かすかに読み取れた。  室田がドアを叩《たた》いた。——三度、くり返したが、返事がなかった。  「留《る》守《す》ですよ」  と、隣《となり》のドアが開いて、中年の女が顔を出した。  「失礼——。どちらへ出かけたか、ご存《ぞん》知《じ》ですか」  と室田が訊《き》く。  「知りませんね」  と、そっけない返事である。  「実は……」  室田が頭をかいて、「ちょっとこちらの坂東さんご夫《ふう》婦《ふ》のことを調べてましてね。興《こう》信《しん》所《じよ》の者なんですが」  「へえ」  と、隣《となり》の主《しゆ》婦《ふ》は、急に好《こう》奇《き》心《しん》をそそられたようだ。  なるほど、巧《うま》い、と文江は思った。これが、  「警《けい》察《さつ》です」  と名乗ったら、向うは口をつぐんでしまったろう。  厄《やつ》介《かい》事《ごと》に巻《ま》き込《こ》まれたくないからだ。しかし、興《こう》信《しん》所《じよ》となれば話は違《ちが》う。  もともと、他人の噂《うわさ》ぐらいしかすることのない主婦らしい。いくらでも話の種はあるだろう。  「そうね、二人とも何だかブラブラしてるわよ」  と、しゃべり始めた。「旦《だん》那《な》の方は、時々出かけるみたい。金を受け取りにね」  「お金を?」  「銀行に行くんじゃないの。たぶん、そうだと思うわ。その度に、あれこれ買物に出てるから」  「暮《くら》しぶりはどうです?」  「悪くないんじゃない。たまに上ることもあるけど、結《けつ》構《こう》小ぎれいにしてるよ。まあ、アパートそのものがボロだから、たかが知れてるけどさ」  「じゃ、特《とく》に働いている様子はないんですね」  「ないね。きっと子《こ》供《ども》からお金でも送って来てるんじゃない?」  「なるほど」  と、室田がもっともらしく肯《うなず》く。「客はありますか」  「めったにないね。——たまに、それでも、同じくらいの年《ねん》齢《れい》のおじさんが来てたけど、それもせいぜい二、三か月に一度じゃないかな」  「この辺の人ですか?」  「全然見たことないね。ちょっと言葉に訛《なまり》があったよ」  文江は、田《でん》村の誰《だれ》かだろうか、と思った。  「このアパートで親しい方はいますか?」  「いないね」  と、即《そく》座《ざ》に返事があった。  「すると、割《わり》に付合いの悪い——」  「割《わり》に、どころか、ひどく悪いよ。結《けつ》構《こう》金はあるとにらんでんだけどね。共同で下水の修《しゆう》理《り》するときだって、金を出さないと言ったりして」  「じゃ、ちょっと偏《へん》屈《くつ》な感じですか」  「かなり、ね」  とその主《しゆ》婦《ふ》は顔をしかめて見せた。  「今日、お出かけになったんですか」  と、室田が訊《き》く。  「でしょう。私《わたし》は奥《おく》さんの方だけしか見てないの。朝の十時頃《ごろ》かな、私が表に出ると、ちょうどドアが開いてね、奥さんが出て来たのさ」  「何か言っていませんでしたか?」  「うん。私の顔を見ると、『ちょっと二人とも留《る》守《す》にしますので、よろしく』って言って行ったよ」  「二人とも、と言ったんですね?」  「そう。あんなこと言われたの初めてだから、ちょっとこっちも面食らっちゃった」  「いつもは黙《だま》って?」  「そうよ。旅行に出たって、おみやげ一つ配るでもないしね」  「今度は旅行のようでしたか?」  「さあ。少し大きめのバッグは持ってたけどね」  「そうですか。どうも……」  室田が礼を言いながら、千円札《さつ》を出して、主《しゆ》婦《ふ》の手に握《にぎ》らせた。  「あら、悪いわね。いいのに……」  と言いながら、さっさとエプロンの中へ突《つ》っ込《こ》む。  「また夜にでも来てみます。それじゃ」  と、室田と文江がアパートを出ようとすると、  「ねえ、ちょっと!」  と、その主婦が呼《よ》び止めた。  「——何か?」  「これはまあ……関係あるかどうか分んないけどさ」  と、その主婦は声を少し低くした。  「何です?」  「ゆうべ、あのご夫《ふう》婦《ふ》、えらい喧《けん》嘩《か》をしてたんだよ」  「夫《ふう》婦《ふ》喧《げん》嘩《か》ですか。よくやるんですか?」  「全然!」  と、主《しゆ》婦《ふ》は首を振《ふ》って、「だからびっくりしたのよ。もうあの人たち、ここへ来て四年ぐらいになるけど、一度だって、喧嘩なんてしなかったわ」  それから、言い訳《わけ》するように、  「ほら、ここは壁が薄《うす》いでしょ、だから、ね——」  「分りますよ。聞く気でなくても耳に入って来る」  「そう! そうなのよ」  文江は、室田が主婦を扱《あつか》う手《て》並《なみ》の鮮《あざ》やかさに、思わず笑《え》みを洩《も》らした。さすが、と言うべきだろう。  「で、ゆうべの喧嘩、どんな具合でした?」  「そうねえ……。きれぎれにしか聞こえなかったけど、何でも子《こ》供《ども》のことだったみたい」  「子供の?」  「『だから、あの子のことを信用しろって言ったでしょう』とか、『あの子がやったとは限《かぎ》らんだろう』とか……」  「なるほど。面《おも》白《しろ》いですな。——二人から、子供の話は聞いたこともおありでしたか?」  「いいえ。大体、そういう、私《し》生《せい》活《かつ》に立ち入った話は絶《ぜつ》対《たい》にしない人たちなのよ。いつも私、主人に言ってたの。あの二人、どこか影《かげ》があるわよ、って」  「なるほど、いい目をしてますな。どうも、助かりました」  室田は、アパートを出ると、「——いや、ああいう奥《おく》さん連中は、正《まさ》に情《じよう》報《ほう》の宝《ほう》庫《こ》ですな」  と笑《わら》った。  「でも、何だか怖《こわ》いわ。ああいう人たちにいつも見られてるのかと思うと」  これはまた、田舎《いなか》とは違《ちが》った、都会でのわずらわしさだ。  ただ、都会ではみんな自分の生活で手《て》一《いつ》杯《ぱい》だから、人のことに口出しまではしない。好《こう》奇《き》心《しん》で耳を尖《とが》らせてはいるが、それはあくまで自分一人の楽しみなのである。  「これからどうします?」  と、文江は訊《き》いた。  「夜になったら、もう一度訪《たず》ねてみます。あなたは——」  「私も行きますわ。じゃ、それまで、私、ちょっと用を済《す》ませてしまいますから」  「分りました。じゃ、夜、八時にあのアパートの前に」  「結《けつ》構《こう》ですわ」  文江は、室田と別れると、草永の会社へ電話を入れた。——なぜか、急に声が聞きたくなったのである。      「何だって?」  草永がスプーンをスープの中へ落とした。「殺されかけた?」  「しっ! レストランよ! そんなにびっくりしないで」  「これでびっくりするなと言われたって……」  草永は、スープからスプーンを取ろうとして、「アチチ!」  と、飛び上った。  「落ち着いてよ。いやねえ」  と、文江は笑《わら》った。  「しかし……どうするんだ、一体?」  「どうってことないわ。一度こうと決めたら、変えないわよ、私」  「君には呆《あき》れたな」  と、草永は首を振《ふ》った。「これから、僕《ぼく》がどうするか分るか?」  「私と別れるの?」  「違《ちが》う」  「じゃ、何?」  「君を山《やま》奥《おく》へ連れて行く」  「どうして?」  「その山小屋へ閉《と》じ込《こ》もって、君と二人で過《すご》すんだ」  「それで?」  「君が妊《にん》娠《しん》して、お腹が大きくなって動けなくなるまで、外へ出さない。それで諦《あきら》めるだろう」  文江は声を上げて笑《わら》った。  「——あなたっていい人だわ。でも、私の気持を変えることはできないわよ」  「やれやれ。君はジャンヌ・ダルクの生れ変りかい?」  「それを言うなら、クレオパトラとか、トロイのヘレンとか、もうちょっと美人にしてちょうだい」  「敵《かな》わないよ、君には」  と、草永は苦《く》笑《しよう》して、「しかし、気を付けてくれよ。まだ死んでほしくない」  「分ったから、早く食べて」  と、文江は腕《うで》時《ど》計《けい》を見た。「八時までに、あのアパートへ行くんだから」  しばらく食事を続けてから、草永は言った。  「その坂東って夫《ふう》婦《ふ》さ、ちょっと妙《みよう》だね」  「そうでしょう?——あんな風に村を出て、一体誰《だれ》が生活費を送ってるのかしら」  「たまに訪ねて来るという年《とし》寄《よ》りも、気になる」  「そう。——単《たん》純《じゆん》に哀《あわ》れな老《ろう》夫《ふう》婦《ふ》とも言えないようね」  「大体、世間はそんなもんだよ」  と草永は、哲《てつ》学《がく》的な表《ひよう》情《じよう》で言った。「しかし、その隣《となり》の人が聞いたっていう夫《ふう》婦《ふ》喧《げん》嘩《か》も面《おも》白《しろ》いじゃないか。その夫婦、君が村へ帰ったことを知ってるんだぜ。誰が知らせたんだろう?」  「そこなのよ。——ねえ、とても反《はん》応《のう》が素《す》早《ばや》いと思わない? 私が帰って、まだ二日しかたっていないのに、誰かが私を殺そうとして、あの夫婦にも連《れん》絡《らく》を取ったのよ」  「しかも、君が村にいるときならともかく、東京へ戻《もど》って来てからだ」  「謎《なぞ》ね。——村の中に、私のことが広まるのは、アッという間だったに違《ちが》いないけど、その後は……」  「その後は——誰《だれ》かが東京へ出て来てるのかもしれないな」  「誰が?」  「そりゃ分らないさ。しかし、なぜそれを室田って刑《けい》事《じ》に言わないんだ?」  「何だか、言いにくかったのよ。自分の中に、それを止めるものが何かあって……」  文江は首を振《ふ》った。「うまく説明できないけど」  「分るよ、君の気持は」  と、草永は言った。「さあ、早く食事を終えて出よう。八時に遅《おく》れるぜ」  「あなたも行くの?」  「当り前さ」  と草永は言った。「君を他の男と二人にしてたまるかい」      八時五分前に、アパートの前に着くと、ほとんどすぐに室田がやって来た。  「やあ、失礼。また迷《まよ》っちゃいましてね」  と照れくさそうに言った。「じゃ、早《さつ》速《そく》——」  「今、外から見ましたけど、部《へ》屋《や》に明りは点《つ》いてないみたいですわ」  「まだ帰っていないのか」  室田はちょっと眉《まゆ》を寄《よ》せた。  「入ってみちゃどうです?」  草永の言葉に、  「そんな無《む》茶《ちや》な——」  と、文江は言いかけたが、意外なことに、室田が、  「そうですね」  と、すぐに肯《うなず》いたのである。  「でも——」  「いや、大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》。責《せき》任《にん》は私が持ちます」  と、室田は言った。「坂東の妻《つま》の方だけが一人で出かけたというのが、どうも気になるんですよ」  室田は本当に不安そうな表《ひよう》情《じよう》をしていた。急に、文江も不安になって来た。  「こんなドア、すぐに開くでしょう」  と、草永が言った。「手伝いましょうか」  「いや、あなたは手を出さないで下さい。後で面《めん》倒《どう》なことになると困《こま》ります。私一人で何とか——」  と、室田はドアのノブをつかんで、ガチャガチャと揺《ゆ》さぶった。  必死でやっているのは分るのだが、いかにオンボロなドアでも、意地というものがあるらしく(?)頑《がん》として抵《てい》抗《こう》している。  「やれやれ……」  室田は顔を真赤にして息をついた。  「手伝いますよ」  「そうですなあ」  室田はちょっと考え込《こ》んでいたが、やがて手を打って、「——そうだ! それじゃ、草永さん、私の体を引っ張って下さい。それならドアに触《ふ》れないから大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》だ」  「うるさいんですねえ」  「法というものは、そんなものですよ」  と、室田は真《ま》面《じ》目《め》くさった顔で言った。  せーの、とかけ声こそ出さなかったが、ドアのノブをつかんだ室田を、後ろから抱《だ》きつくように草永が引《ひつ》張《ぱ》るという、あまりはた目には美学的といえない光景は、しかし、長く続ける必要はなかった。  さすがに草永も若《わか》いだけに力がある。バリッと音がして、ドアの鍵《かぎ》は一度で壊《こわ》れてしまった。  「——やれ、助かった。じゃ、お二人は外にいて下さい。中へ入ると、やはり家《か》宅《たく》侵《しん》入《にゆう》に——」  と室田が律《りち》儀《ぎ》に言いかけると、  「誰《だれ》か倒《たお》れてる!」  と、中を覗《のぞ》き込《こ》んだ文江が声を上げた。  「これは……」  中へ入って、室田が明りを点《つ》ける。「——草永さん、すみませんが、一一〇番に知らせてくれませんか」  「分りました。じゃ隣《となり》の家で」  草永が飛び出して行く。  文江はゴクリとツバを飲み込んだ。——殺されかけたことはあっても、殺された人間を見るのは初めてである。  「どうやら坂東らしい」  と、室田が上って言った。  「奥《おく》さんの方は——」  「いないようですね。捜《さが》してみましょう」  さすがに室田は落ち着いている(当然のことだが)。文江も恐《おそ》る恐る上り込《こ》んで、倒《たお》れている老人の方へかがみ込んだ。  確《たし》かに坂東和也の父親だ、と信じるのに多少時間がかかった。  一つには、七年前とは別人のように老《ふ》け込んでいるからであり、もう一つは、首に細い紐《ひも》が深々と食い込んでいて、カッと目を見開き、口がポッカリと、まるで大きな穴《あな》のように開いて、苦《く》悶《もん》の表《ひよう》情《じよう》で、顔を歪《ゆが》めていたからでもある。  「——奥さんの方はいませんな」  と、室田は戻《もど》って来て言った。「どうです? 顔には見《み》憶《おぼ》えは?」  「ええ……。あります。でもこんなに……」  と言ったきり、胸《むね》がむかついて来て、文江は部屋を飛び出してしまった。 8 再《ふたた》び村へ  絞《こう》殺《さつ》。  犯《はん》人《にん》はあの男だろうか?——文江としても、こんなことになっては、襲《おそ》われたことを室田に話さないわけにはいかなくなってしまった。  「——何かあったのかな、とは思っていたんですがね」  と、室田は渋《しぶ》い顔で言った。「すぐに連《れん》絡《らく》してもらえば……」  「申し訳《わけ》ありません。何だか、私《わたし》個《こ》人《じん》の戦いだ、っていう気がして」  「まあ、気持は分りますがね」  室田は文江の首の傷《きず》を見て、「こいつは、なかなかのプロですな」  と言った。  「そうですか?」  「こんな風に、強すぎず弱すぎずの力で絞《し》めるのは難《むずか》しいもんですよ。まあ、別《べつ》に感心するつもりはありませんがね」  室田がそう言ってニヤリと笑《わら》ったので、文江はホッとした。  アパートの部《へ》屋《や》は、ただでさえ狭《せま》いのに、白《しろ》手《て》袋《ぶくろ》をはめた刑《けい》事《じ》たちや、鑑《かん》識《しき》の人間たちで、ますます狭くなっていた。  検《けん》死《し》官《かん》は死体をじっと見て、  「絞《こう》殺《さつ》だね」  と、よく分っていることを言った。「死後半日はたっている。正《せい》確《かく》なところは分らないが」  「つまり、十二時間以上ということですか?」  と、室田が訊《き》いた。  「そう。それ以上は確《かく》実《じつ》にたっている」  ということは、と文江は思った。——朝の八時には、もう坂東は殺されていたことになる。  隣《となり》の主《しゆ》婦《ふ》の証《しよう》言《げん》が正しければ、坂東の妻《つま》がここを出たのが朝十時。ということは……。  「まさか、室田さん」  と文江は言った。  「どうも坂東は妻に殺されたらしいですな」  室田は難《むずか》しい顔で言った。  「でもどうして?」  「動機は窺《うかが》い知れませんが、現《げん》在《ざい》のところでは、妻の容《よう》疑《ぎ》が濃《こ》いということですよ」  「でも、奥《おく》さんに殺せるでしょうか? それも首を絞《し》めてですよ」  「それは何とも言えません」  と、室田は肩《かた》をすくめた。「可《か》能《のう》性《せい》の問題なら、たぶん可能でしょう。しかし、それが真相だったのかどうかは別問題ですからね」  「私を襲《おそ》った男が犯《はん》人《にん》じゃないでしょうか、同じように首を絞《し》めているし……」  「その可《か》能《のう》性《せい》もあります。——ともかく、ここは私の出る幕《まく》じゃないのです。何しろ警《けい》視《し》庁《ちよう》の所《しよ》属《ぞく》じゃありませんからね。あなたのマンションへ行ってもよろしいですか? 例の男が何か残していないか、調べてみたいと思うんですが」  「ええ、もちろん」  と、文江は肯《うなず》いた。「でも、あの男、手《て》袋《ぶくろ》をはめていたみたいだし、何も残っていないと思いますけど」  そこへ、警官がやって来た。  「室田さんですか」  「はあ」  「無《む》線《せん》が入ってます」  「どうも」  室田が行ってしまうと、文江も、部屋を出て、外の空気を吸《す》い込《こ》んだ。坂東の父親が殺された。そして母親が姿《すがた》を消した。——なぜだろう? 一体何が起ったのか?  文江は坂東の両親のことを思い出してみた。父親は確《たし》か坂東市《いち》之《の》介《すけ》といった。役者みたいだといつもみんなが言っていたのを、憶《おぼ》えている。  母親の方は?——至《いた》って記《き》憶《おく》が薄《うす》い。  名前は何といったろう? それさえ定かではない。  いつも「和ちゃんのお母さん」であり、「坂東のとこのかみさん」であった。大体が目立たない、寡《か》黙《もく》な人だった。  万事控《ひか》え目で、何事にも夫を第一、次に息子《むすこ》を立てた。村人たちの、噂《うわさ》話《ばなし》の環《わ》に加わらなかったというだけでも、ちょっと変ったタイプの人だったということは分る。  父親は、かなりおおらかで、気の大きな人だったが、それだけに、ああして老《ふ》け込《こ》んでしまうと、違《ちが》いが大きいのだ。  息子の和也は、どちらかというと母親似《に》だった。  少し神《しん》経《けい》質《しつ》なところがあって、一人っ子だったせいもあるのだろうが、母親っ子であった。よく父親が苦々しい顔で息子を見ていたのを、文江は憶《おぼ》えている。  しかし、何といっても坂東市之介にとって和也は自分の夢《ゆめ》をかけた一人息子だったのだ。その息子が殺人容《よう》疑《ぎ》者《しや》となり、そして自殺してしまったとなると、父親の絶《ぜつ》望《ぼう》感《かん》は想《そう》像《ぞう》がつく。  あの老けようも、納《なつ》得《とく》できるというものだ。だが、あの二人の生活を助けていたのは、誰《だれ》なのだろう? おそらく、村人の中の一人に違《ちが》いないが。  そして、ごくたまに訪《たず》ねて来たという年《とし》寄《よ》りは……。  どうやら、坂東夫婦の暮《くら》しも、単《たん》純《じゆん》に、故《こ》郷《きよう》を追われた人のそれではなかったようだ。  あの母親——静かではあるが、田舎《いなか》育ちの婦《ふ》人《じん》らしく、がっしりとした体つきだったあの婦人はどこへ行ったのだろう?  「——おい、もういなくてもいいんだろう」  と、草永がやって来た。  「室田さんを待ってるのよ」  と言ったところへ、当の室田が戻《もど》って来る。  「いや、申し訳《わけ》ないんですが、やはり急いで帰らにゃなりません。あなたの件《けん》は、明日、地《じ》元《もと》署《しよ》の刑《けい》事《じ》が伺《うかが》うそうですから」  「分りました」  「充《じゆう》分《ぶん》に用心して下さいよ」  と、室田は言った。  「僕《ぼく》がついています」  と、草永が真《ま》面《じ》目《め》くさった顔で言う。  「また田《でん》村へ、戻《もど》りますか?」  「そのつもりです」  と文江は言った。  「じゃ、あちらでお目にかかれるでしょう。——何か、例の男のことで思い出したことがあれば、連《れん》絡《らく》して下さい」  室田が急ぎ足で行ってしまうと、文江と草永は、現《げん》場《ば》を離《はな》れて、夜の町を少し歩いた。  「——にぎやかね。この辺は、いつも」  「そうだな」  「人一人、死んでも、別に誰《だれ》も気にしないんだわ」  文江は、少しこわばった声で言った。  「あんまり考え込《こ》むなよ」  「無《む》理《り》言わないでよ」  と、文江は食ってかかるような言い方をした。  「分った。でも、飲んで忘《わす》れようなんてのはやめた方がいいぜ」  「飲むもんですか」  文江は言った。「こんなときに酔《よ》えやしないわ。お金のむだよ」  「そうそう。それでいいんだ」  草永が文江の肩《かた》を抱《だ》いた。  「——分る? 私《わたし》が帰《き》郷《きよう》したばっかりに、死ななくてもいい人が死んじゃったわ」  「うん……。しかし、君が殺したんじゃない。それを忘《わす》れるなよ」  「忘れちゃいないわ。だから憎《にく》らしいのよ、犯《はん》人《にん》が」  「あの男か、それとも坂東の奥《おく》さんか……」  「きっとあの男だと思うわ」  と、文江は言った。「あなたも首を絞《し》められたら、そう思うわよ」  「——どこかへ行こうか? 今夜はずっと付き合うよ」  「そうね……」  文江は、ちょっと考えて、「ホテルもバーもお金がかかるわ。ベッドならマンションにあるんだから、マンションに帰りましょう」  「女は不思議だな」  と、草永は笑《わら》って、肩《かた》を抱《だ》く腕《うで》に力を入れた。      「——帰るのか?」  と、草永が言った。  毛布の下でまどろんでいた文江は、目をトロンとさせたまま、  「ここ、私のマンションよ」  と言った。  「違《ちが》うよ。君のデンデン村のことさ」  文江は笑《わら》って、  「デンデン村か。——そうね、帰るわ。今度こそ、事《じ》件《けん》が片《かた》付《づ》くまで戻《もど》って来ない」  「心配だな」  「じゃ、ついて来てよ」  「いいとも」  文江は起き上った。  「冗《じよう》談《だん》でしょ?」  「本気さ」  「会社は?」  「休《きゆう》暇《か》を取る。——クビならクビでも、別に構《かまい》やしない。何しろ、各社引《ひつ》張《ぱ》りダコだからね」  文江は草永にキスした。  「そうなったら、養ってあげるわね」  「失業保《ほ》険《けん》があるさ」  と、草永は言った。  「いつまでもくれるわけじゃないのよ。——あら」  電話が鳴った。文江は裸《はだか》の体にバスローブをはおって、ベッドから出た。  「はい、常石です」  「文江なの? まだ起きてた?」  「あら、お母《かあ》さん。こんな夜中に——。母からよ」  と、草永の方へ言う。  「どなたかいらっしゃるの?」  と公江が訊《き》いて来る。  「ええ、恋《こい》人《びと》がいるの」  「あら、そうなの。かけ直す? 途《と》中《ちゆう》なら悪いから」  「お母さんたら——」  と、文江は笑《わら》った。  「今度紹《しよう》介《かい》しておくれ」  「連れて行くわ。泊《と》めてあげてね」  「いいよ。でも、部《へ》屋《や》は別にしないと、うめがやかましいからね」  「そうね。——お母さん、聞いた?」  「坂東さんのことね。さっき白木さんが来て話してくれたよ」  「ひどいことになっちゃったわ。——奥《おく》さんの方、何ていう名だっけ?」  「坂東雪《ゆき》乃《の》さんというのよ。行方《ゆくえ》が分らないんですって?」  「そうなの。まさかあの人が殺したとは思えないんだけど……」  「強い人だったけどね。——ああ、ところでね、こんな時間に悪いと思ったんだけど、お寺の方から、ぜひお前に顔を出してほしいって言われて」  「お寺?」  「何しろ、お前の葬《そう》式《しき》が済《す》んでるだろ。お墓《はか》もあるしね。何とかしないと」  「あ、そうか」  なるほど、もう自分の墓があるわけだ。  「ちょっと早手回しね」  「私もまだしばらく使う気はないし。帰って来たら、顔を出しとくれ。和《お》尚《しよう》さんも会いたがってたからね。——え? 何?」  「どうしたの?」  「うめが来てるの、待って」  少し、モゴモゴという声がして、もう一度母の声がした。  「お客様なの。またかけるよ」  「こんな時間に?」  「そうなんだよ」  と、公江の声は、少し低くなっていた。「坂東雪乃さんだって」      汽《き》笛《てき》が鳴った。  ホームへ降《お》りると、草永が荷物を持ち直した。  「さあ、行こう」  文江は、改《かい》札《さつ》口《ぐち》の方へ歩き出した。風の強い日だ。  「やあ、文江さん」  駅長の金子が、声をかけて来た。「この間は見《み》違《ちが》えてしまってね」  「ごぶさたしてます」  と文江は言った。  何だか妙《みよう》だが、他に言いようもない。  「すっかり、いい娘《むすめ》さんになったね」  と、金子は言った。  言い方に、どこかぎこちないところがあるのは仕方あるまい。文江の帰《き》郷《きよう》と、それが引き起こした事《じ》件《けん》のことが、この狭《せま》い村の中に、知れ渡《わた》っていないはずはないのだ。  「お母さんがお待ちだよ」  と金子が言った。  駅の前に、公江が、うめと一《いつ》緒《しよ》に立っているのが見えた。  「——お母さん! わざわざお出《で》迎《むか》え?」  文江の声は弾《はず》んでいた。  「お前はどうせ荷物を彼《かれ》氏《し》に持たせてるんだろうと思ってね。やっぱり思った通りだわ。うめ、持っておあげ」  「あ、いや、大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》です」  と、草永があわてて言った。  「まあ、任《まか》せなさい」  と、うめが草永の手から荷物をもぎ取る。  文江が、草永を母に紹《しよう》介《かい》した。  「まあ、いつも娘《むすめ》がお世話になって」  と公江は草永に言った。  「いえ、こちらこそ——」  「この子の相手は大変でしょう」  「何よ、お母さん、その言い方」  と、文江は苦《く》笑《しよう》した。  「さ、ともかく家へ参りましょう」  四人は村の中を歩き出した。  「——村が静かね」  と文江は言った。  奇《き》妙《みよう》に、人の姿《すがた》が見えない。ひっそりとして、もちろん店などは開いているのだが、そこにも客の姿はあまりなかった。  「この二、三日、こんな風よ」  「どうして?」  「雪乃さんが帰って来たからでしょう」  文江は母の顔を見た。——マンションに、母から電話があったのが三日前である。  「あの後、結局どうなったの?」  と文江は訊《き》いた。  「それがちょっと、妙な具合になってね」  公江は首を振《ふ》って言った……。      公江が玄《げん》関《かん》へ出て行くと、坂東雪乃が、立っていた。  いや、一人の老《ろう》婦《ふ》人《じん》が立っていた、と言うべきだろう。  人の顔を憶《おぼ》えることには自信のある公江でも、その婦人が雪乃だということを納《なつ》得《とく》するのに、しばらくかかった。  「——まあ、雪乃さん! お久しぶりね」  公江は、静かに呼《よ》びかけた。  「ごぶさたいたしまして」  と雪乃は頭を下げた。  「お上りなさいよ、そんな所じゃ、話も——」  「いえ、すぐに失礼しますから」  「そんなことを言わないで……」  「いえ、本当に」  「そうですか」  公江は、上り口に座《すわ》った。「うちの娘《むすめ》のために、とんでもないことになって、本当に申し訳《わけ》ないと思っていますわ」  「いいえ、奥《おく》様《さま》」  と、雪乃は遮《さえぎ》って、「とんでもないことでございます。うちの子は、お宅《たく》のお嬢《じよう》様《さま》とはとても仲《なか》が良かったのですから」  「そうでしたね」  「あんなことになったのも、和也自身にも責《せき》任《にん》があります」  と、雪乃は言って、ちょっと目を伏《ふ》せた。  「でも……」  「奥《おく》様《さま》」  と、雪乃は、真《まつ》直《す》ぐに公江を見つめた。  その視《し》線《せん》は、公江ですら、一《いつ》瞬《しゆん》たじろぐほど冷たく、そして異《い》様《よう》な火で輝《かがや》いていた。  「もうお聞き及《およ》びでしょう?」  公江は少し間を置いて、  「ご主人のことですね」  「そうです。主人は亡《な》くなりました」  と雪乃は言った。  「お気の毒でしたね」  「いいんです。あの人はいわば自《じ》業《ごう》自《じ》得《とく》ですから」  公江はいぶかしげに、  「どういう意味です?」  と訊《き》いた。  「私《わたし》は殺していません」  雪乃は言った。「それは信じて下さい。私はやっていません」  「信じていますよ、もちろん」  「ありがとうございます」  雪乃は、ホッとしたように言った。「この村で、私が信じられるのは奥《おく》様《さま》だけでございます」  「信じていてくれるなら、上って、ゆっくり話をしましょう」  「いいえ」  と、雪乃は首を振《ふ》った。「これから用がございますので」  「こんな夜中に? どこへ行こうというんです?」  「私の用は長くかかります。たぶん、何か月も」  「——その間、どこにいるつもりですか?」  「さあ……」  雪乃は、ちょっと笑《え》みを浮《う》かべた。「どこにでも。山の中、水の中、雪の中でも」  「そんな謎《なぞ》めいたことを言って——」  「決して、もったいぶっているわけではございませんの」  雪乃は一つ息をついて、「村の方々にお伝え下さいませんか」  「何と言えば?」  「村の方々から、お借《か》りしたものを、近々、お返しにあがります、と」  雪乃の言い方には、何か、ねっとりと絡《から》みつくような調子があった。  「それは、どういう意味ですか?」  と公江は膝《ひざ》を進めた。「——雪乃さん、妙《みよう》な考えは捨《す》てて下さいね」  「ご心配なく。決して、無《む》茶《ちや》はいたしませんから」  雪乃は、深々と頭を下げた。「では本日はこれで失礼いたします」  「雪乃さん——」  公江は呼《よ》びかけたが、もう雪乃は、玄《げん》関《かん》から出て行っていた。      「——じゃ、つまり」  と文江は言った。「雪乃さんは、息子《むすこ》の死の復《ふく》讐《しゆう》に来たとでもいうの?」  「彼女《かのじよ》の言葉をどう取るか、よ、それは」  と公江は言った。  「で、村の人たちが、引っ込《こ》んじゃってるんですか?」  と、草永が訊《き》いた。  「それに色々と尾《お》ひれがついてね」  「尾ひれ?」  「出て行った雪乃さんを私が追いかけて玄関から出ると、もうどこにも姿《すがた》は見えなかった、ってことになってるの。つまり、まるでこの世の者じゃないように、ね」  「でも、どうして?」  「うめがね、みんなにそう話して回ったのよ」  うめは、ヒョイと横を向いて、聞こえないふりをしている。文江は苦《く》笑《しよう》した。  「ともかく、そんなわけで、村は今、静まり返っているのよ」  「でも、まさか、そんな年《とし》寄《よ》りが村中をどうこうするわけがないと思いますがね」  と、草永は言った。  「村の人たちも、多少後ろめたさは感じているのよ」  と、文江は言った。「だから、そんな噂《うわさ》に怯《おび》えているんだわ」  「白木さんがあちこち駆《か》け回って、雪乃さんがどこにいるのか、調べているけど、まだ分らないのよ」  「でも、こんな小さな村なのに……」  「妙《みよう》な話ね、本当に」  と、公江は肯《うなず》いて、「うめがそばにいなかったら、私《わたし》もあれが夢《ゆめ》だったかと思うところよ」  村を抜《ぬ》けて、常石家へ向う。途《と》中《ちゆう》、閉《と》ざしたままの、坂東の家の前で、何となく四人は立ち止った。  「ここがそうなのよ」  と、文江が言った。  「そうだろうと思ったよ」  と、草永が肯く。「今は誰《だれ》の持物なんだい?」  「さあ。知らないわ」  そういえば、文江は、それを知らなかった。坂東夫《ふう》婦《ふ》のものだったら、売って行ったのではないか。  もちろん、今、村には雑《ざつ》貨《か》屋《や》があって、こんな村の外れで雑貨屋を開く人はないだろう。しかし、取り壊《こわ》せば、立《りつ》派《ぱ》に家の二軒《けん》は建つ広さである。  「——文江!」  と声がして、杉山百代が、赤ん坊《ぼう》を抱《だ》いて出て来た。「帰って来たの? この前は、アッという間にいなくなっちゃうんだもの」  「ごめんね。東京での用を片《かた》付《づ》けてから、ゆっくり来ようと思って。——あ、こちら、ボーイフレンドの草永さん」  百代は草永を見て、  「やっぱり、スマートねえ! うちの亭《てい》主《しゆ》なんか、もう禿《は》げて来ちゃって」  と言ったので、みんな笑《わら》い出してしまった。文江は母に言った。  「少し先に行ってて。後から追いつくから」  草永と、公江、うめの三人が先に行ってしまうと、文江は、真顔になって、  「私のせいで、あなたにも迷《めい》惑《わく》かかってんじゃない?」  と訊《き》いた。  「いいのよ、そんなこと」  「じゃ、やっぱり——?」  「いらないお節《せつ》介《かい》を焼く人がいるわ。しばらく村を出てた方が安全だ、とかね。馬《ば》鹿《か》らしいったらありゃしない!」  百代は赤ん坊《ぼう》を抱《だ》き直して、「私は亭《てい》主《しゆ》と二人の子《こ》供《ども》をかかえてるのよ。これで村を出てどこへ行けっていうのかしら?」  文江は微《ほほ》笑《え》んだ。母親になると、こうも女は強くなるものだろうか?  「聞いてるでしょ、和也君のお母さんが——」  「うん。だけど、忙《いそが》しくって怖《こわ》がってる暇《ひま》なんかないわ。それに恨《うら》まれる覚えもないしね。そりゃ私の証《しよう》言《げん》が、和也君をあそこまで追いやるきっかけになったのは事実だけども、だけど、和也君だって、怪《あや》しまれるようなこと、してたわけだし……」  言葉とは裏《うら》腹《はら》に、やはり、怯《おび》えないまでも、かなり気にしている様子はよく分った。  「和也君は、私を殺していない代りに、やっぱり何《ヽ》か《ヽ》していたのよ。それが何だったのか、調べたいの」  「でも、どうやって?」  「何とかするわ。昔《むかし》から、やると言ったことは必ずやりとげたでしょ?」  「じゃ、探《たん》偵《てい》になるの? 凄《すご》いなあ!」  と百代は愉《たの》しげに言って、「私も仲《なか》間《ま》に入りたいけど、でも、コブつきじゃね」  「あなたを危《あぶな》い目にあわせるわけにはいかないわよ」  「ねえ、さっきの彼《かれ》氏《し》とは同《どう》棲《せい》中《ちゆう》?」  「そうじゃないわ。別々よ。時々、お互《たが》いに行き来するだけ」  「でも、泊《とま》ってくんでしょ?」  「まあね」  「やるわね! 私なんか、初夜の晩《ばん》まで娘《むすめ》のままよ。つまんないこと——」  百代は笑《わら》って言った。  少しも変っていない。文江は、百代の笑《え》顔《がお》で、すっかり心が軽くなるのを感じた。  母たちの後を追って、文江は歩いて行った。——向うからバイクがやって来る。  「転ばないで下さい!」  と、文江は大声で言った。  室田刑《けい》事《じ》だったのだ。  「やあ! お帰りですか!」  と室田が片《かた》手《て》を上げた。  「危《あぶな》い!」  ドシン、とみごとにバイクはひっくり返った……。 9 沈《ちん》黙《もく》の村  「——一《いち》応《おう》、坂東雪乃は、重要参考人として手配されています」  と、室田が言った。  常石家の居《い》間《ま》である。うめがお茶を運んで来た。  「あの奥《おく》さんがご主人を殺すとは思えませんわ」  と、公江は言った。  「でも、ご主人が殺された時間には、まだ奥さんはあのアパートにいたのよ」  と文江がお茶をすすりながら言った。  「そうなんです。ただ、ああいう、年を召《め》した婦《ふ》人《じん》が、男を殺そうという場合、まず刃《は》物《もの》で刺《さ》すとか、あまり強い力を必要としない方法を取るのが普《ふ》通《つう》です。首を絞《し》めてというのは、ちょっとひっかかるところなんですよ」  「酔《よ》い潰《つぶ》れていたら、どうですか?」  と、草永が訊《き》く。  「その可《か》能《のう》性《せい》はあります。しかし、あの部屋の中には、アルコール類の容《よう》器《き》は一つもなかったです」  さすがに室田はちゃんと見ているのだ。  「坂東さんが、なぜ殺されたのか、不思議ですね」  と、公江が言った。  「そうなのです。いや、さすがにいい所に目をつけておられる」  どうやら、室田は女《じよ》性《せい》をの《ヽ》せ《ヽ》る《ヽ》ことにかけてはベテランらしい。「——坂東夫《ふう》婦《ふ》の暮《くら》しについては、色々と疑《ぎ》問《もん》が多いのです」  「まず、どこで生活費を得《え》ていたか、ですね」  と文江が言った。  「そうです。地元の警《けい》察《さつ》の調べで、毎月、坂東市之介の口《こう》座《ざ》へ、金が振《ふ》り込《こ》まれていたことが分りました。月に二十万です」  「二十万。——東京で暮《くら》すにはぎりぎりの収《しゆう》入《にゆう》ね」  「しかし、老人二人ですからね。誰《だれ》が振り込んでいたのかは分りません。同じ東京都内の支《し》店《てん》から入れられているんです」  「じゃ、東京の人が? 親類でもいたのかしら?」  「そうではないようです。少なくとも血《けつ》縁《えん》関係のある者で、東京にいる者は、一人もいません」  「じゃ、誰《だれ》が——」  「分りません。これは一つの謎《なぞ》です」  「ですが」  と、公江が言った。「毎月二十万円のお金といったら、決して少ない額ではありませんよ」  「そうなんです。ある程《てい》度《ど》、自分の生活にゆとりのある人でなくては、できないことでしょう」  草永が口を挟《はさ》んで、  「しかし、二十万という額《がく》は、たとえば、口止め料とか、そういう類《たぐい》の金としては、多いとはいえませんね」  「口止め料ってどういうこと?」  「たとえば、の話さ。和也君の死に責《せき》任《にん》がある誰かが払《はら》っていたとすれば——」  「やはり、二十万という金額は、かなりゆとりのある人が、好《こう》意《い》で送っていた、とみるべきでしょうね」  と、室田は言った。「もっとも、却《かえ》って、それが良くなかったようですが」  「というと?」  と、公江が不思議そうに訊《き》いた。  「坂東は働けば、まだ働ける体だったのに、まるで仕事を捜《さが》そうともしなかったのです。どうやら、七年の間に、すっかり人《ひと》柄《がら》は変ってしまっていたようですよ」  「難《むずか》しいものですね、人間というのは」  「全くです。——まあ、妻《つま》の雪乃の方は、もともと地味な性《せい》格《かく》の女だったようですね」  「そうです」  「ここへやって来て、なぜあんなことを言って行ったのでしょう?」  「さあ……」  「本当に、誰《だれ》かに復《ふく》讐《しゆう》するつもりなら、そんなことを匂《にお》わしたりはしないものですからね」  室田の言葉は、少し文江の気持を楽にしてくれた。  「でも、村の人たちは、びくびくしているようですわ」  と公江が言った。  「いつまでも続きはしませんよ。何日かたてば、人間の生活は元に戻《もど》ります」  室田の言葉に、公江は微《ほほ》笑《え》んで、  「あなたは私とよく似《に》た考え方をなさる人ですね」  と言った。  室田は照れて頭をかいた。      眠《ねむ》りに入りかけた文江は、ふと冷たい風に目を開いた。  障《しよう》子《じ》が開いている。——誰《だれ》だろう?  エイッとばかり、布《ふ》団《とん》に一気に起き上ると、  「ワッ!」  と、びっくりして草永がひっくり返る。  「何だ、あなただったの。声をかけりゃいいのに」  「だって……眠ってるかと思ったんだよ」  草永は、部《へ》屋《や》へと這《は》入《い》って来て、「まだ十一時だぜ」  「こういう所に来ると、早《はや》寝《ね》早起きの習《しゆう》慣《かん》がつくわね」  「あの、うめって人、何時頃《ごろ》起きるんだ?」  「五時には起きるんじゃないかしら」  「五時!——じゃ、自分の部屋で寝なきゃだめだな」  「当り前よ」  「でも——その前なら大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》だろ?」  と、布《ふ》団《とん》へ潜《もぐ》り込《こ》んで来る。  「私《わたし》たち、新《しん》婚《こん》旅行に来てるわけじゃないのよ」  「分ってる」  「殺人事《じ》件《けん》の捜《そう》査《さ》なのよ」  「分ってる」  「それなのに——そんなことしてて——」  「分ってるってば」  草永の唇《くちびる》を、文江の唇が受け止めて、二人は抱《だ》き合った。——が、すぐに邪《じや》魔《ま》が入ることになっていた。  「——あの音は?」  と、体を起こしたのは、草永の方だった。  「え?」  「ほら——ジャンジャン鳴ってる」  「半《はん》鐘《しよう》だわ。火事だわ、きっと!」  文江は飛び起きて、窓《まど》へと駆《か》け寄《よ》った。  「見て! 村の方よ!」  都会と違《ちが》って、本当の闇《やみ》が続く夜の奥《おく》で、赤く、明るい一角があった。  「大変だわ!」  「行ってみよう」  草永は自分の部《へ》屋《や》へと駆け戻《もど》った。  二人が服を着て一階へ降《お》りて行くと、公江が出て来た。  「お母さん、火事?」  「そうらしいよ。駅の方だって。——行ってみてくれる?」  「いいわ。草永さん、行きましょう」  「よし。——燃《も》え広がると危《あぶな》い」  「ここまでは来ないわよ」  と文江は言った。「でも村は危いわね」  村まで、二人は走った。文江も、若《わか》いつもりであるが、何しろ運動不足は如何《いかん》ともしがたい。  途《と》中《ちゆう》で大分息切れがした。  「大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》かい?」  「平気——平気。こんなことで——へばってたまるかって!」  「無《む》理《り》すんなよ」  村外れまで来ると、子《こ》供《ども》を抱《だ》いた百代が、道に出ていた。  「百代! どうなの?」  「あ、文江。——何だか駅の向う側らしいのよ」  「駅の向う?」  と文江は訊《き》き返した。「何もないじゃないの。倉庫ぐらいで」  「その倉庫らしいわ。今、消火しているところよ。主人も駆《か》けつけて行ったけど」  「よし。行ってみよう」  文江は、草永の後を追って駆け出した。  駅の近くでは、村の人たちが総《そう》出《で》で、火の様子を見守っていた。  「駅の向う側に、木《もく》造《ぞう》の倉庫があるの。それが燃《も》えてるらしいわ」  と、文江は言った。「——大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》よ、ほら。大分火が弱まってるわ」  「残念。僕《ぼく》の出る幕《まく》がなかったか」  「何言ってるの。——それにしても変ね。あんな所から、どうして火が出るのかしら?」  「放火かな」  「まさか」  と反《はん》射《しや》的に言って、文江は、草永の顔を見た。「あの犯《はん》人《にん》が?」  「かもしれない」  二人が、村人たちから少し離《はな》れて立っていると、  「やあ、来ていたのかね」  と、やって来たのは、駅長の金子だ。  「どうしたんですか?」  「いや、分らん。そんな危《あぶな》い物は一つも入ってなかったはずなんだよ」  「じゃ、原《げん》因《いん》は分らなくて——」  「うん。どうも付け火じゃないかな」  「でも誰《だれ》が?」  「子《こ》供《ども》が、坂東のとこの奥《おく》さんらしい女を見たとか言っとるんだが、ちょっと怪《あや》しい。しかし、村の連中は信じるかもしれないよ」  まずいな、と文江は思った。  こういう噂《うわさ》が、また一つの罪《つみ》を作り出してしまう。  「でも、あの人は七年間、ここにいなかったわけでしょう。なぜ子供が顔を知ってるんです?」  と、草永が訊《き》くと、金子は、ちょっと肩《かた》をすくめて、  「知らんね」  と言った。  金子が行ってしまうと、文江と草永は顔を見合わせた。  「——ああいういい加《か》減《げん》なところが、悪いんだな」  「仕方ないわよ」  と文江は金子を見送って、「下手《へた》すれば、自分の責《せき》任《にん》になるでしょ。だから、ともかく、犯《はん》人《にん》を見付けないとね」  「なるほど。しかし、村の住人としても、犯《はん》人《にん》を外《ヽ》に《ヽ》捜《さが》したいんだろうな。その気持、分るね」  「きっと、雪乃さんの仕《し》業《わざ》だって話が、アッという間に広がるわ」  と、文江は言った。  火は急速に衰《おとろ》えつつあって、村人も少しずつ家に戻《もど》り始めていた。      「おはよう」  食卓について、草永は言った。  「起こされた?」  「ああ、五分遅《おく》れたら、朝食がなくなる、とおどかされたよ」  文江は笑《わら》って、  「都会風の朝食にしてあげたわ。——さ、コーヒー。ゆうべは寝《ね》不《ぶ》足《そく》じゃない?」  「いや、そんなことないさ。仕事の忙《いそが》しいときは、もっと睡《すい》眠《みん》時間が短いこともあるからね」  「へえ、意外と働き者なのね」  「意外と、ってことないだろ」  草永はトーストにかみついた。  「今日は、まず、ゆうべの火事のことを調べましょう。何か関係ありそうだわ」  「偶《ぐう》然《ぜん》にしては、ちょっとおかしいね」  「やっぱり放火の線ね。でもなぜ?」  「一種の象《しよう》徴《ちよう》かもしれないぜ。村の人たちをおどかすための……」  「そうかなあ」  「そうでないとすると——」  と言いかけて、草永は、ふとコーヒーカップを持つ手を止めた。  「なあに?」  「もしかして、村の人たちが外へ出て来るように仕向けたのかもしれない。火事に気を取られている間に——」  「まさか、そんな!」  「しかし、他《ほか》に何か考えられるかい?」  「分らないけど……」  文江は思い切りコーヒーを飲み干《ほ》すと、立ち上った。「じゃ、村へ行ってみましょうよ!」  二人は、村への道を急いだ。  今日は風もない、穏《おだ》やかな日で、まだ時間が早いせいもあって、爽《さわ》やかな朝である。しかし、二人は、そんな雰《ふん》囲《い》気《き》を味わっている気分ではなかった。  「——ねえ」  と文江が言った。  「何だい?」  「本当に、坂東さんの奥《おく》さんが村の人に仕返しに来たんだと思う?」  「僕《ぼく》は村の人間じゃないから分らないな。でも、よほどのことがなければ——」  「見て! 白木さんよ」  白木巡《じゆん》査《さ》が、自転車を飛ばして来るのが見えた。  「——白木さん! どうしたの?」  と、文江が声をかける。  「や、こりゃ文江さん」  と、白木が自転車を止めて、「えらいことになって……」  「ゆうべの火事のこと?」  「火事? ああ、それもそうですがね、金子駅長が、死んだんですよ」  文江は、息を呑《の》んだ。そして、思わず、草永の手を、しっかり握《にぎ》っていた。 10 焼《やけ》跡《あと》の男たち  金子駅長が死んだ。  文江には、正《まさ》に予想もできないことであった。  「金子さんが……。でも、ゆうべ火事のときに、会ったわよ」  「ええ、私《わたし》ももちろん、あそこで会って話もしましたがね」  「でもなぜ——」  「どうやら睡《すい》眠《みん》薬《やく》の服《の》み過《す》ぎだったらしいんですわ」  と白木巡《じゆん》査《さ》は言った。  「すると自殺ですか?」  と草永が訊《き》いた。  「さあ、それは……。何しろ、ついさっき、奥《おく》さんから届《とど》け出があったばかりでして。じゃ、急ぎますので——」  白木は、自転車にまたがって、文江の家の方へ向けて急いで行った。  「君の所へ行くのかな」  「そう。母に話しに行くんでしょ。何しろ、村の主《ぬし》みたいなものですからね」  「へえ、大したもんだな。——じゃ、どうする?」  「そうねえ。せっかく出て来たんだし、ともかく、火事の現《げん》場《ば》まで行ってみない?」  「そうするか」  二人は、また歩き出した。  「ところで、君のお母さんは別に村長さんってわけじゃないんだろ?」  「もちろんよ」  と、文江は笑《わら》った。「でも、新しく村長さんが決ると、必ず母のところへ、いかがでしょうか、っておうかがいをたてに来るのよ」  「へえ! 大したもんだなあ」  と、草永は目を丸《まる》くした。「拒《きよ》否《ひ》権《けん》があるのかい?」  「そんなんじゃないのよ。ただの習《しゆう》慣《かん》ね。別に、こんな人じゃだめ、なんて言ったことないんだもの」  二人は、坂東の、閉《し》め切った家の前を通りかかった。杉山百代が、玄《げん》関《かん》の前をはいている。  「おはよう!」  と、文江が声をかけると、  「お揃《そろ》いで散歩?」  と百代が冷やかす。  「そんなところ。——働き者になったじゃない、ずいぶん」  「昔《むかし》からよ」  百代は笑《わら》って、言った。それから、少し声を低くして、  「ね、さっき白木さんが、えらい勢いで吹《ふ》っ飛んでったけど、会った?」  と訊《き》く。  「うん。——金子さんが亡《な》くなったんですって」  百代は、一《いつ》瞬《しゆん》ポカンとしていた。  「——駅長さんが?」  「そうらしいわ。私も今聞いてびっくりしたのよ」  百代は胸《むね》に手を当てて、目をつぶった。必死で息を鎮《しず》めているという格《かつ》好《こう》である。  「どうしたの?」  と、文江が訊《き》く。  「大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》。——ただ、びっくりして。文江ったら、少し予告ぐらいしてよ。『大変なことがあったのよ』とか。みんながみんな、文江ぐらい度《ど》胸《きよう》があるとは限《かぎ》らないんだから」  文江は、チラッと草永の方を見た。——私ってそうなのかしら? 少し感《かん》受《じゆ》性《せい》が鈍《にぶ》くなってるのだろうか。  もっとも、都会の中で、一人の力で生き抜《ぬ》いて来るには、このあたりで暮《くら》すより、男《おとこ》勝《まさ》りの度《ど》胸《きよう》を必要とするのは事実である。  「ごめんね、百代」  「いいの。——ただ、金子さんは、私たちの結《けつ》婚《こん》のときの媒《ばい》酌《しやく》人《にん》だったし……」  「そうだったの。知らなかったわ」  「どうして亡《な》くなったの? まさか——その——」  百代は、「殺されたの?」という問いを言外に含《ふく》ませて、文江を見つめた。  「睡《すい》眠《みん》薬《やく》の飲みすぎですって。まだ詳《くわ》しい事《じ》情《じよう》は分ってないのよ」  「そう。でもともかく——急いでお悔《くや》みを言いに行かなくちゃ」  「それは少し落ち着いてからの方がいいよ」  と、草永が言った。「何しろまだ届《とど》けがあったばかりだっていうから」  「そうね。その方がいいわ」  と文江も肯《うなず》いた。「どうせ村の人たちも、みんな行くでしょうからね」  「分ったわ。でも一《いち》応《おう》、いつでも行けるように仕《し》度《たく》しておかなきゃ。主人にも知らせて、戻《もど》って来てもらうわ。じゃ、文江、また後でね」  百代は、そそくさと家の中へ姿《すがた》を消した。  「——村の様子はどうかしら」  と、文江は言った。「きっともう知れ渡《わた》っているわよ」  「行ってみよう」  草永は、文江の肩《かた》を軽く抱《だ》いて、言った。  村は、異《い》様《よう》なほど、静かだった。  人っ子一人、道に出ていない。まるで真夜中のように、戸が閉《と》じられ、カーテンが引かれたままだった。  「——ゴーストタウンね、まるで」  と文江は歩きながら言った。  「いつもこんなに、朝は遅《おそ》いのかい?」  「いいえ。——ずいぶん早くから開くのよ、どの店も。みんな中に閉《と》じこもってるんだわ」  眠《ねむ》っているわけではないのだ。気を付けて見ていると、時々、カーテンが少し動いて、誰《だれ》かの目がチラリと覗《のぞ》いている。  「——何だかいやなムード」  「よくこういうの、西《せい》部《ぶ》劇《げき》にあるぜ。よそ者が来ると、みんながそっと窓《まど》から覗いていて、突《とつ》然《ぜん》、撃《う》ち合いが始まる——」  「冗《じよう》談《だん》じゃないわよ」  と文江はため息をついた。  幸い、鉄《てつ》砲《ぽう》の弾《たま》は飛んで来なかった。  駅の前までやって来ると、庄司鉄男が、ホームにぼんやりと立っているのが目に入った。  「鉄男君」  と、文江が呼《よ》ぶと、  「わっ!」  と、鉄男が飛び上りそうになる。「あ——何だ、お嬢《じよう》さんですか」  「何をそうびっくりしてるの?」  「いや——別に」  と、口ごもって、「一人だから、何だか……何かあったらどうしようって、わけ分んなくて……」  「あ、そうか。駅長さん、大変だったわねえ」  「ええ……」  鉄男は、何だかいやにソワソワして、落ち着きがなかった。  もちろん、駅長が急死して、見習の身で一人になってしまったのだから、心細いには違《ちが》いあるまいが、当然、よそから応《おう》援《えん》もやって来るのだろうし、そう不安がるほどのこともないはずであった。  「——火事の方はどうなった?」  と、文江はホームへ入りながら、訊《き》いた。  もちろん、入《にゆう》場《じよう》券《けん》はいらないのである。  「え?」  と鉄男はキョトンとしている。  「昨夜の火事よ」  「ええ。——消えました」  「そりゃ分ってるけど。今は誰《だれ》がいるの?」  「さあ。——さっきは県《けん》警《けい》の人が来てたみたいですよ。でももういないんじゃないかなあ……」  「ありがとう。行ってみるわ」  文江は、身軽にヒラリと線路に飛び降《お》りた。  「行きましょう」  「よし!——君もやっぱり都会っ子じゃないね。その身軽さは」  草永が、よっこらしょ、という感じで降りて来る。  「線路に降りちゃいけないんだろ」  「めったに列車、来ないもの。——あっちよ」  と、文江は歩き出した。線路わきの土手を下りると、腰《こし》ほどもある草が生《お》い茂《しげ》っていて、その向うが少し小高い丘《おか》になっている。その丘の真中辺りに、ちょっとした建《たて》売《うり》住宅くらいの大きさの、木《もく》造《ぞう》の小屋がある。  いや、あった、と言うべきか。  今は、ほぼ右半分が焼け落ちて失《な》くなっており、焼け残った部分も、真黒く焦《こ》げてしまっていた。  昨日焼けたばかりだというのに、何だか、ずっと昔《むかし》の焼け跡《あと》みたいだった。もともとが古ぼけていたからだろう。  縄《なわ》は一《いち》応《おう》張《は》りめぐらしてあるが、別に警《けい》官《かん》の姿《すがた》は見えない。  「呑《のん》気《き》なもんだな田舎《いなか》の警察は」  と草永が微《び》笑《しよう》した。  「人手がないのよ」  「あの駅員、知ってるのかい?」  「庄司鉄男っていって、まだ十八よ。だから、私がここを出たときは十一だったのね。どうも子《こ》供《ども》のイメージしかなくって」  「何か知ってるんじゃないかな」  文江は草永を見た。  「どういうこと?」  「いや、心ここにあらずって顔だったぜ。何かを知っていて、話そうか話すまいか、迷《まよ》ってるんだ、きっと」  「そうね。——実は私もそんな印《いん》象《しよう》を受けたの」  「気が合うね。さて、中へ入ってみようか」  「だめよ、ロープが張《は》ってあるじゃないの」  「そうかい?」  と、草永はヒョイとロープをまたいで、「気が付かなかったよ」  と言った。  文江も笑《わら》って、ロープをまたいだ。  「——ここは何が入ってたんだい?」  「分らないわ。確《たし》か駅の付《ふ》属《ぞく》の倉庫なのよ。だからきっと道具類とか、そういうものが……」      「中に入ったことはある?」  「そうね……。たぶん、小さい頃《ころ》にはね。でも、はっきりした記《き》憶《おく》はないわ」  「しかし……見ろよ」  と、草永は言った。「燃《も》え残ってるものはガラクタばっかりだぜ」  本当にそうだった。古いベンチ、椅《い》子《す》、机《つくえ》、スコップ、シャベルの類、それに古い布《ふ》団《とん》まである。  「あんまり中へ入らない方がいいんじゃない?」  「うん。後で調《ちよう》査《さ》があるだろうからね」  二人は、残った半分の方へと二、三歩入った所で、足を止めた。  さすがに、少し鼻をつくような匂《にお》いが立ち上って来る。  「放火かしら?」  「こんな所、火の気はなさそうだものな」  「でもなぜ……」  「さっき言ったように、ここへ村の人たちの注意をひきつけるためか、でなければ——」  と草永は中を見回して、「ここに、焼いてしまいたい何《ヽ》か《ヽ》があったのか、だな」  「何か……。でも、こんな所に何を置いておくかしら?」  「正《まさ》に、こんな所、だからさ。——誰《だれ》もこんなガラクタ置場に大切な物があるとは思わないだろうからね」  「鍵《かぎ》はかかってたはずよ」  「誰《だれ》が開けられたんだろう?」  「たぶん……駅長さんだわ」  文江と草永は顔を見合わせた。  「当然、その辺は警《けい》察《さつ》も調べるだろうけど」  と草永は言った。  メリメリ、と、どこかで音がした。  「——あれ、何の音?」  「さあ。板が折《お》れるような……」  と言いかけて、草永は、バラバラと、木《もく》片《へん》が降《ふ》って来るのに気付いた。  二人は、焼け残った屋根の端《はし》の方の真下に立っていた。ギーッという、きしむ音とともに、屋根が落ちて来た。  「危《あぶな》い!」  草永は、文江を抱《だ》きかかえるようにして、逃《のが》れた。燃《も》えて落ちた木材に足を取られて、二人は、濡《ぬ》れた灰《はい》の中へ転《てん》倒《とう》した。  しかし、崩《くず》れ落ちて来た屋根の下《した》敷《じき》にはならずに済《す》んだ。叩《たた》きつけるような音の後に、もうもうと灰《はい》が舞《ま》い上った。  「大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》……かい?」  草永は、むせ返りながら言った。  「ええ。——ああ、びっくりした」  文江も灰を吸《す》って咳《せき》込《こ》んだ。  「けがはない?」  「何とか無《ぶ》事《じ》みたい。——ああ、ひどいわ、真っ黒」  灰やす《ヽ》す《ヽ》が水で溶《と》ければ、正《まさ》に黒いペンキみたいなものである。その中へまともに転り込《こ》んだのだから、ひどいことになる。  顔まで黒い汁《しる》が飛んで、文江は泣《な》きたくなって来た。  「しかし、あの下敷きになることを思えば、まだしもだよ。——さあ、立って」  文江は、草永の手につかまって、立ち上った。  「危《あぶな》かったわね」  「全くだ。しかし、あの音は、自然に折《お》れる音にしては、ちょっと変だったな」  「どういうこと?」  「つまりもしかしたら、誰《だれ》かが——」  と、草永が言いかけたとき、  「見て!」  と、文江は草永の腕《うで》をつかんだ。  男が三人、ロープをまたいで、入って来た。  どの男も、ジャンパーにジーパンというスタイルで、若《わか》いようだった。ようだったというのは、みんな、お面《めん》をつけていたからである。  よく縁《えん》日《にち》で売っているような、ヒョットコ、オカメの面である。それが却《かえ》って無《ぶ》気《き》味《み》に見えた。  手に手に、バットや棒《ぼう》をつかんでいる。  「何だ、君たちは」  と、草永が言った。  「村を出て行け!」  と、面の下から、くぐもった声がした。  「お前らのおかげで、人が死んだんだ!」  「そうだ! とっとと出て行かねえと、叩《たた》き出してやる!」  村の青年たちらしい、と文江は思った。  「あの屋根を落としたのも君たちだな」  「ああ」  「下手《へた》すれば、殺人未《み》遂《すい》だぞ」  「構《かま》うこっちゃねえ。村のためだ」  「そうだ!」  三人の男たちが、一歩進んで来る。文江は後ずさりしたいのを、ぐっとこらえた。  「いい加《か》減《げん》にしなさい!」  文江の声が空気をビリビリと震《ふる》わせるように響《ひび》き渡《わた》って、三人はギョッとしたように身構えた。  文江は、ゆっくりと三人を見回して、  「私は常石文江よ。常石家の娘《むすめ》に乱《らん》暴《ぼう》しようというのね?」  「関係ねえ!」  「そう。じゃ、あなた方のお父《とう》さんにでも、私《わたし》を殴《なぐ》り殺して来たと自《じ》慢《まん》してごらんなさい。あなた方が殴りつけられるでしょうよ」  文江は、きっと三人を見《み》据《す》えた。「やれるもんならやってごらん!」  三人は、明らかにひるんでいた。文江がぐいと前に出ると、あわてて後ずさりする。  「こ、怖《こわ》かねえぞ! こんな小《こ》娘《むすめ》、裸《はだか》にむいてやりゃ、泣《な》いてわめき出すに決ってらあ!」  「そう思うならやってごらんなさい」  文江は、抑《おさ》えつけるような声で言った。「あんたたちの指一本は、かみ切ってみせるからね」  文江は、常石家の娘に戻《もど》っていた。そこには、一種近《ちか》寄《よ》りがたい、威《い》厳《げん》のようなものがあって、見えない壁《かべ》を、男たちの前に立てているようだった。  「——畜《ちく》生《しよう》、今に見てやがれ!」  一人が叫《さけ》んで駆《か》け出すと、後の二人も、あわてて走り去って行った。  ——文江は、体中で息を吐《は》き出した。  「驚《おどろ》いたな」  草永はホッと息をついて、「君が急に倍も大きくなったように見えたぜ」  「やめてよ」  文江はムッとしたように顔をしかめて、「もう常石家とは縁《えん》を切ったつもりでいたのに……」  と呟《つぶや》くように言った。  「母には内《ない》緒《しよ》よ。きっと見たら喜ぶでしょうからね」  バタバタと足音がした。  「お嬢《じよう》さん! どうかしたんですか?」  庄司鉄男である。  「大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》。ちょっと転んだだけよ」  「でも凄《すご》い音がして……。屋根が落ちたんですね!」  「そうなの。——駅の方はいいの?」  「ええ。今、一本行ったところです。すぐに駆《か》けつけたかったんだけど、ちょうど列車が来て、離《はな》れられなくて」  「いいのよ。心配してくれてありがとう」  「けがはありませんか? 何なら俺《おれ》んとこで顔でも洗《あら》ったら……」  「そうね。でも、駅はいいの?」  「一時間しないと次の列車、来ないですからね」  「鉄男君の家はその線路のわきだったわね」  「ええ、ボロ家ですけど、お袋《ふくろ》はまだ元気にしてますから」  「じゃ、ちょっと寄《よ》らせていただこうかしら。家まで帰るにも、この格《かつ》好《こう》じゃね」  と文江は言った。  鉄男が先に立って、線路沿《ぞ》いの道を走って行く。——少しポツンと離《はな》れて、小さな古びた家が建っていた。  「父親はいないのかい?」  と、歩きながら、草永は訊《き》いた。  「しっ。鉄男君のお母さんはね、いわば未《み》婚《こん》の母なのよ」  「へえ」  「かなり村の人からは冷たく見られていたけど、ついに父親が誰《だれ》なのか、言わなかったの。今じゃ、ごく普《ふ》通《つう》に村の人とも付き合っているけど、やっぱり家は外れにあるでしょ」  「うん。——厳《きび》しいもんだね」  「でも、鉄男君はいい子でね、ひねくれてもいないし。さ、あなたも顔を洗《あら》ったら?」  「そうするか」  二人は、小さな家の玄《げん》関《かん》を、くぐるようにして入った。実《じつ》際《さい》は四十代なのだろうが、もう五十過《す》ぎに見える母親が出て来て、  「まあ、常石様のお嬢《じよう》様《さま》!」  と、頭を下げる。「お帰りと聞いて、喜んでおりました」  「お久しぶりね、おばさん。鉄男君も、すっかり大人《おとな》になって」  「いいえ、まだヒヨッ子で。——そちらの方は?」  「私の婚《こん》約《やく》者《しや》なの。草永さん。——悪いけど火事場を見物していて、転んじゃったの。ちょっと手と顔を洗《あら》わせてくれる?」  「どうぞどうぞ。——お風《ふ》呂《ろ》へ入られては? すぐに沸《わ》きますので。何しろ小さい湯《ゆ》舟《ぶね》ですから」  「あら、でもそんなことまで——」  「構《かま》いませんですよ。さあ、早くお上りになって。汚《よご》れたっていいです、どうせ古い畳《たたみ》ですから。——ともかく、そのコートを——。今、お湯をくんできますから——」  あわただしく動き回る、鉄男の母を見ていた草永は、そっと文江に言った。  「やっぱり君は、常石家のお嬢《じよう》さんなんだよ」 11 深《しん》夜《や》の逢《あい》引《び》き  文江と草永は、言われるままに、風《ふ》呂《ろ》をつかって、さっぱりして上った。  もちろん別々に入ったのである。一《いつ》緒《しよ》に入ろうにも、風呂場が狭《せま》くてとても無《む》理《り》であったが。  「——さあ、熱いお茶でも、どうぞ」  「ありがとう。助かったわ」  文江はお茶をすすって、「鉄男君は?」  「今、列車が来るからと言って出て行きました。また戻《もど》って来るでしょ」  「いいわねえ、のんびりしていて」  と、文江は言った。「それはそうと、金子さんはお気の毒だったわね」  「ええ。——色々と私にも親切にしていただいてましたけど。今夜、お通《つ》夜《や》とか、さっき知らせがありました」  「そう。——話は聞いた?」  「薬ののみ過《す》ぎとか」  「そうらしいわね。でも、金子さん、どうして睡《すい》眠《みん》薬《やく》なんか……」  「それは——」  と、鉄男の母は少し声を低くして、「まだみんな知らないことなんですけど」  と言い出した。  「なあに?」  「金子さんは、体を悪くしておられたんですよ」  「体を?」  「ええ。もう一年ももたないかもしれないって……」  「まあ」  文江は目を見《み》張《は》った。「それじゃ、そのせいで薬を?」  「痛《いた》み止めだったんじゃないでしょうか。眠《ねむ》れないくらい痛むことがあったらしいですわ」  文江の、想《そう》像《ぞう》もしていない話だった。  「その話を、どこから聞いて来たんですか?」  と、草永が訊《き》いた。  「金子さん、ご本人からです」  「本人が言ったんですか」  「——駅長さんは、よくここへ息《いき》抜《ぬ》きにみえてましたね。村の方へ行って休《きゆう》憩《けい》するわけにもいきませんでしょう。ここなら、村の人の目にもつかないし」  「そうね。で、そのときに話を?」  「はい。ほんの……一か月くらい前でしたかね」  文江は肯《うなず》いた。  鉄男の母に金子がそんなことまで打ちあけたというのは、ちょっと奇《き》妙《みよう》な感じがするかもしれないが、文江にはよく分る。  鉄男の母は、他の村人たちと違って、噂《うわさ》話《ばなし》の輪に加わって、ペチャクチャとおしゃべりをするようなことがないのである。  自分自身が、そういう中《ちゆう》傷《しよう》の的になっていた経《けい》験《けん》があるからだろうが、実《じつ》際《さい》、公江も、いつか、  「村で一番秘《ひ》密《みつ》の守れる人といったら、庄司さんだよ」  と言っていたことがある。  だから、村の奥《おく》さんたちも、人に知られて都合の悪いような相談を、ときどき、こっそりとここへ持ち込《こ》んでいるらしかった。  たとえば、夫が留《る》守《す》の間に、子《こ》供《ども》ができてしまった奥《おく》さんが、医者へ行く間、ここにいたことにしてくれ、とアリバイ作りを頼《たの》みに来る、ということもあったらしい。  鉄男の母から見れば、ずいぶん勝手な話だと腹《はら》が立ちそうなものだが、そこは快《こころよ》く引き受けて、その積み重ねで、自然、村の人たちも、彼女《かのじよ》を受け容《い》れざるを得《え》ないようになって行ったのだった。  だから、駅に近いこの家に、金子が来ていたとしても、不思議はない。  「じゃあ、自殺したという可《か》能《のう》性《せい》もあるわけね」  と、文江は言った。  「さて……それはどうでしょうか。責《せき》任《にん》感《かん》はとても強い方でしたけど」  すると事《じ》故《こ》か。——それとも殺《ヽ》人《ヽ》か、だが……。  「——やあ、さっぱりしましたか」  と、鉄男が入って来る。  「お前、さぼってばかりいちゃ、すぐにクビになるよ」  「平気さ。手伝いの人は明日来るって、今電話があったんだ」  鉄男は帽《ぼう》子《し》を取って、座《すわ》り込《こ》んだ。「何か甘《あま》いもんないか?」  「お前はもう……。いいとしして、大《だい》福《ふく》とかマンジュウばかり食っとるんですよ」  「いいじゃないか。そう太っとらんし」  「当り前だよ。そのとしで太ったらどうするんだね。——さ、おせんべいでもかじってなさい」  鉄男は渋《しぶ》々《しぶ》と、アラレをつまんだ。  「——お嬢《じよう》さん、七年前のことを調べに帰って来たって、本当ですか?」  「そんなこと、誰《だれ》が?」  「村の若《わか》いのが、みんなそう言ってましたけど——」  「お面《めん》をかぶって?」  「え? 何です?」  「ううん、こっちの話。——私《わたし》もね、多少責《せき》任《にん》を感じてるのよ。坂東和也君があんなことになって……」  「お嬢《じよう》様《さま》のせいではございませんよ」  と、鉄男の母は言った。「人間の力ではどうにもならないことというのがございますからね」  「そう言われると余《よ》計《けい》に辛《つら》いわ」  と、文江は言った。「それに、私が戻《もど》って来たせいで、こんな騒《さわ》ぎをひき起こしてしまって」  「この世で起きたことは、この世で清算しなくてはならないんでございますから、仕方ありませんですよ」  「母さんのお得《とく》意《い》が始まった」  と、鉄男が笑《わら》った。  「こら! 人をからかってるヒマがあったら、仕事をしておいで!」  「へーい。おおこわ」  と首をすぼめる。  「ここは線路に近いし、駅の方も見通せますね」  と、草永は言った。「ゆうべの火事騒《さわ》ぎのとき、何か気が付いたことはありませんか?」  「私はぐっすり眠《ねむ》っちまうものですからね。——鉄男、お前は、何か聞いたかい?」  「いやぁ……別に……」  と、鉄男が、曖《あい》昧《まい》な返事をすると、  「隠《かく》してることがあるね。言ってごらん」  と母親が、逆《さか》らい難《がた》い威《い》厳《げん》を持って、言った。  「そうだな……。でも、俺《おれ》もはっきり分らねえんだよ」  「ともかく聞かせてくれないか」  「はあ。——ゆうべ、母さんが寝《ね》ちまってから、俺、ちょっと出かけたんだ。その——散歩したくなって」  「バーに行ったんだろ」  と母親がにらんで、「隣《となり》の町のバーに年中行ってるんですよ、十八のくせに」  鉄男は咳《せき》払《ばら》いして、  「で、まあ……十時頃《ごろ》だったかな、家を出て、でも向うの店が一《いつ》杯《ぱい》でさ。何だか、どこかの宴《えん》会《かい》の流れたのが、ドッと来てたもんで、ちっとも面《おも》白《しろ》くないんだ」  「そりゃそうね」  「で、面白くねえから、帰って来たんですよ。こっちへ着いたのは——十時四十分か、そんなもんだと思うけど」  「ずいぶん細かく憶《おぼ》えてるんだね」  と、草永が言った。  「ええ。うちのお袋《ふくろ》、十一時半には必ず手《て》洗《あら》いに起きて来るんで、その前に着いてないとまずいでしょ。だから、時計をちゃんと見てるんです」  「そんなこと、どうだっていいよ」  と、母親が苦《にが》笑《わら》いする。  「で、隣《となり》の町からの道は、ずっと線路沿《ぞ》いなんです。明りも何もないけど、慣《な》れてるから平気なもんで……。それで、駅が見える辺りまで歩いて来ると、誰《だれ》かが、ホームを歩いてるのが見えたんです」  「誰《だれ》だったの?」  「それは遠くて。——それにぼんやり、影《かげ》になって見えただけなんですよ」  「それから、どうした?」  「ちょっと気になりましてね。誰かな、と思って……」      その人《ひと》影《かげ》は、ホームを、行きつ戻《もど》りつしているようだった。  鉄男は、足を止めて、線路ぎわの茂《しげ》みに、腰《こし》をかがめて、様子をうかがっていた。  田舎《いなか》の夜は、暗く、そして静かである。虫の声が、どこからともなく、聞こえていた。  あまり近付くと、身を隠《かく》すところがない。鉄男は、じっと暗がりの中へ、目をこらしたが、その人影が誰《だれ》なのか、分らなかった。  ただ、体つきや、足が二本、ちゃんと分れて見えたので、男らしいということぐらいは分った。  大女がズボンをはいてりゃ、同じようなものかもしれなかったが、彼《かれ》としては、そこまで考えてはみなかった。  その男は——一《いち》応《おう》、男として——かなり苛《いら》立《だ》っているように見えた。  何度も腕《うで》時《ど》計《けい》を見ていたし、足で、何度もホームをけとばしたりしている。  そうして、十分近くも見ていただろうか? 村の方から、一つの灯《ひ》が近づいて来たのである。——小さなライト。音がしない。  自転車である。  その小さな光は、駅前で停《とま》ると、消えた。白っぽい影《かげ》が、駅の中へ入って行った。  女だった。白っぽいスカートが、急いでいたせいか、フワリと広がったので、よく分った。  二人が、ホームの上で何か低い声で話をしていた。もちろん、鉄男には聞き取れない。誰の声かも分らなかった。  二人は、ホームから線路に降《お》りた。  まず男の方が降りて、女を抱《だ》きかかえるようにして降ろした。  二つの影は、線路の反対側へと渡《わた》って、土手から降りて見えなくなった。  鉄男は、どうしようかと迷《まよ》っていた。  さっさと帰って寝《ね》ちまえ、というのが、正《せい》論《ろん》だったが、しかし、駅員として、怪《あや》しげな人物が勝手にホームへ入りこんだりするのを、放っておいていいのか、とも思った。  正直に言うと、あの二人が逢《あい》引《び》きに来たのは間《ま》違《ちが》いないと思ったので、ちょっと覗《のぞ》いてやろうか、と思ったのである。  ——迷《まよ》ったのは、実《じつ》際《さい》にはほんの十秒ほどで、鉄男は茂《しげ》みから出ると、土手を上って、線路を横切り、あの二人の後を追った。  どこへ行ったのか、大体の見当はついている。——あの古びた倉庫である。  お年《とし》寄《より》たちは知らなかったが、あの倉庫は、今や恋《こい》人《びと》たちの秘《ひ》密《みつ》の場所の一つになっていたのである。  もちろん、高級ホテル並《なみ》とはいかなかったが、中へ入ると、古い布《ふ》団《とん》もあり、それに人家が近くにないから、見付かる心配はまずない。  それに、何といってもタダであった。  鉄男は、線路を渡《わた》って、反対側の土手を降《お》りた。そのときに、倉庫の方へ向って丘《おか》を上って行く白っぽい姿《すがた》を、チラリと目にした。  だが、鉄男の方も、足下に気を付けて歩かなくてはならないので、ずっとその方を見ているわけにはいかない。  ともあれ、行先は分っているのである。あわてることはない。  却《かえ》って、急いで覗《のぞ》くと、向うがまだ仕《ヽ》度《ヽ》中《ヽ》で、気付かれることもある。  一《いつ》旦《たん》夢《む》中《ちゆう》になってしまえば、まずそんなことはないのだ。ゆっくり行った方がいい……。  鉄男はのんびりと茂《しげ》みをかき分けて行くと、足音が聞こえないように、丘《おか》の、少し離《はな》れたところを、辿《たど》って行った。  倉庫は、何の変りもないように立っている。  扉《とびら》には、鍵《かぎ》がかかっているのだが、これが古くなっていて、強く叩《たた》くと簡《かん》単《たん》に外れるのである。  だが、そばへ来て、鉄男は戸《と》惑《まど》った。——鍵が、かかったままなのである。  どうなってるんだ?  鉄男は倉庫の裏《うら》側《がわ》へと回った。ここに、ちょうど覗《のぞ》くのに格《かつ》好《こう》の割《わ》れ目がある。  鉄男は、そこへ目を当ててみた。——中はもちろん暗いが、古くなって、方々の板が少しずつ裂《さ》けているので、光が洩《も》れ入ると、中がぼんやり見えて来るのである。  しばらく目をこらしていると、中の様子が目に入って来た。——何だかおかしかった。  あの二人の姿《すがた》はない。それだけでなく、色々積み上げてあったガラクタが、見えないのだ。  もちろん、そこから見えるのは、倉庫の中のごく一部だが、それにしても、前に見たときは、床《ゆか》一《いつ》杯《ぱい》に、ほとんどガラクタが転がっていたものである。  それが今は、きれいに片《かた》付《づ》けられている。——一体誰《だれ》がそんなことをしたのか?  二人で寝《ね》るために布《ふ》団《とん》を敷《し》くにしても、これはちょっとおかしい。あんなに広く開けなくたって充《じゆう》分《ぶん》場所はある。  それに、あの二人はどこへ行ったのだろう?  ちょっと薄《うす》気《き》味《み》が悪くなって、鉄男は、覗《のぞ》いていた割《わ》れ目から目を離《はな》した。  周囲を見回す。——どこかから、見られているような、そんな気がしたのである。  鉄男は、あわてて、倉庫のわきを回って、丘《おか》を駆《か》け降《お》りた。  茂《しげ》みを抜《ぬ》け、土手を上って、線路を越《こ》える。ホーム、改《かい》札《さつ》口《ぐち》を抜《ぬ》け、やっと足を止めた。息を弾《はず》ませて、家へと向う。  玄《げん》関《かん》の戸を開けようとしたとき、何となく、振《ふ》り向いてみた。  目を見《み》張《は》った。——あの倉庫が、赤く炎《ほのお》を上げて燃《も》え始めていたのだ。      「じゃ、半《はん》鐘《しよう》を鳴らしたのは、あなた?」  「ええ、俺《おれ》です」  と、鉄男は言った。  「全く、お前はそんな恥《は》ずかしい真《ま》似《ね》をしてたのかい!」  母親ににらまれて、鉄男は小さくなっている。  「まあ、お母さん、若《わか》い人なら当然のことですよ」  と、草永が取りなすように言った。  「鉄男君の話で、あの扉《とびら》の鍵《かぎ》が簡《かん》単《たん》に開けられるものだってことが分ったわね。それはみんな知ってるの?」  「若《わか》い者なら、たいていは」  と肯《うなず》いて、「隣《となり》の町からも来るぐらいですから」  「出《しゆつ》張《ちよう》か。ご苦《く》労《ろう》だな」  と、草永は笑《わら》った。  「そして、中がき《ヽ》れ《ヽ》い《ヽ》に《ヽ》なってたのね。それはどういう意味なのかしら?」  「分らないな。そのときは誰《だれ》も中に入っていなかったんだとすると……」  「ねえ、鉄男君」  と、文江が言った。「今の話、警《けい》察《さつ》の人には?」  「まだ何も訊《き》かれてないんで」  「でも、話した方がいいわ」  「ええ……」  と鉄男は頭をかいている。  いざ、相手が警察となると、やはり気が重いのだろう。  そのとき、  「失礼——」  と玄《げん》関《かん》の戸がガラガラと開いた。「県警の者ですが」  「あら、室田さん」  文江を見て、室田は目を見《み》張《は》った。  「いや、これは先を越《こ》されましたな」      「全く、呑《のん》気《き》なもんだ」  焼《やけ》跡《あと》の前に立って、室田は首を振《ふ》った。  「これで雨でも降《ふ》ったら、証《しよう》拠《こ》はオジャンなのに……。早《さつ》速《そく》、県《けん》警《けい》から人をよこしましょう」  「何かここにあったんでしょうか?」  と、文江は言った。  「何とも言えませんね。——灰《はい》を調べれば、何かつかめるかもしれないが」  「その灰をめちゃくちゃにしてしまって、すみません」  と、文江は照れたように言った。  「いや、ともかく無《ぶ》事《じ》で良かった。——その連中のこと、調べさせますか?」  「いいえ」  と文江は首を振った。「そんなことをすれば、ますます村の人たちの反感を買うでしょう」  「かもしれませんな」  と、室田は肯《うなず》いて、「それにしても、あまり勝手に動き回ると、危《あぶな》いですよ。といったって、気が変るような方ではありませんね」  「そりゃそうです」  と、草永が言った。「何しろ、常石家の誇《ほこ》り高き令《れい》嬢《じよう》ですから」  「何よ!」  と、文江がにらみつける。  「お手やわらかに」  と、草永がおどけた。「——どうでしょうね、刑《けい》事《じ》さん。ここへ度々、恋《こい》人《びと》たちが来ていることは、大人《おとな》の人たちは知らなかった。つまり、ここに何《ヽ》か《ヽ》を隠《かく》している人間がいるとしたら、その人間は、まさか見付けられるはずはないと安心し切っていたでしょう」  「その点は同感です」  と、室田が肯《うなず》く。  「ところが若《わか》いカップルが、しばしばここへ来ていたわけね。そして——そ《ヽ》れ《ヽ》を見付けた……のかしら?」  「見付けたとしても、不思議はないね。しかし、もしそれが七年前の事《じ》件《けん》のことに関する何かだったとしたら、そんな若い人たちには、それが何を意味していたか、分るまい」  「そうね。でも、私が帰って来たことで、あの事《じ》件《けん》のことが、また口に上るようになり——」  「それを聞いて、誰《だれ》かが、それに気付いたのかもしれない」  「というより、隠《かく》した誰かが、発見される危《き》険《けん》を感じたというべきですかな」  と室田が言った。  「だから火を点《つ》けた……」  「考えられます」  と肯《うなず》く。  そのとき、誰かが走って来る足音を、文江は耳にして振《ふ》り向いた。 12 薬  走って来たのは、白木巡《じゆん》査《さ》だった。  「こちらでしたか!」  とハアハア喘《あえ》いで、「いや、息が切れて——もうトシですな」  「何かあったのか?」  と、室田が訊《き》くと、  「あ、そうでした。本部から電話が入っておりまして」  「ありがとう。すぐ行く」  「では——」  と、白木巡査は、また走って行ってしまった。  室田は、文江、草永と一《いつ》緒《しよ》に、戻《もど》りながら、言った。  「あの庄司鉄男の話は面《おも》白《しろ》いですな」  「その男女って、誰《だれ》だったんでしょう?」  「しかも、あの倉庫へ入《ヽ》ら《ヽ》な《ヽ》か《ヽ》っ《ヽ》た《ヽ》というのが愉《ゆ》快《かい》です。一体何の目的で、あの倉庫の方へ行ったのか」  「つけられているのに気付いたのかな」  と草永は言って、「しかし、どうでしょうね、僕《ぼく》がちょっと気になったのは、火が出るまでの時間なんです」  「時間って?」  と文江が訊《き》く。  「鉄男君の話だと、あの倉庫から、家へ戻《もど》るまでの間に、犯《はん》人《にん》は、倉庫へ入り、火を点《つ》けた。そして、火が、遠くからも見えるくらいに燃《も》え上ったってわけだろう」  「そうか。そんな短時間にね」  「どうでしょうね、刑《けい》事《じ》さん?」  「さあ、ああいう木《もく》造《ぞう》の倉庫ですからね、至《いた》って簡《かん》単《たん》に火は回ったでしょうが……」  室田は言った。「私が気になっているのは、むしろ逆《ぎやく》なんです」  「というと?」  文江が室田を見た。  「つまり、なぜ、あの倉庫は燃《ヽ》え《ヽ》尽《ヽ》き《ヽ》な《ヽ》か《ヽ》っ《ヽ》た《ヽ》のか、ということです」  室田の言葉に、文江と草永は顔を見合わせた……。      「ああ、お帰り」  公江が、縁《えん》側《がわ》で縫《ぬ》い物をしていた。  「ただいま。——遅《おそ》くなっちゃった」  「うめが、またいなくなったって騒《さわ》いでたわよ」  「行方《ゆくえ》不明にされそうね」  と文江は笑《わら》った。  「——金子さんが亡《な》くなったのは、聞いたろう?」  「うん。それで、駅まで行ってたの。庄司さんに久しぶりに会って話して来たわ」  「ああ、それは良かったね。変らないだろう、あの人は」  「本当ね」  「この村で、変らないのは、あの人ぐらいだろうからね」  「それとお母さん、でしょ」  「私《わたし》も老《ふ》けたよ。めっきり疲《つか》れやすくなったしね」  と、公江は言った。「——孫《まご》の面《めん》倒《どう》をみさせるつもりなら、私が元気のある間にしておくれ」  「当分、お母さんは大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》よ」  「七年前とは違《ちが》うよ」  と公江は微《ほほ》笑《え》んだ。「それはそうと、お寺の方に顔を出しておくれ。色々、手続きがあるらしいよ」  「うん。でも大変じゃないの。金子さん亡くなって」  「ああ、そうだねえ。じゃ、お通《つ》夜《や》のときにでも、きっと何かおっしゃるよ」  文江は畳《たたみ》に寝《ね》転《ころ》がった。  「お腹《なか》空《す》いたな。——ね、こうしていると、パッと食べるものが出て来る光景ってこたえられないね。一人でいると、つくづく思うわ」  「お前らしくもないよ、弱《よわ》音《ね》を吐《は》いて」  「弱音じゃないわ。素《す》直《なお》な感想よ。それでも、一人でいることには、換《か》えがたい良さがあるのよ」  「——奥《おく》様《さま》、お食事の——あら、お嬢《じよう》様《さま》、お帰りでしたか」  「私の分も何か作ってよ。何でもいいから」  「用意してございます」  と、うめは、得《え》たりとばかり、にっこり笑《わら》った。  昼食の後、文江は二階に上って、窓《まど》から、ぼんやりと外を眺《なが》めていた。  「——何してるんだ?」  と、草永がやって来る。  「考えてるの」  「何を?」  「帰っては来たものの、私に何ができるのかって」  「君らしくもないね」  「違《ちが》うの。弱気になってるんじゃないのよ。ただ——却《かえ》って、悪いことばかり巻《ま》き起こしてるような気がするの」  「さっきの連中のことが気になるの?」  「まさか。——いえ、多少はそうかもしれない」  と、文江は肯《うなず》いた。「でも、金子さんの死は必ずしも、私のこととは関係ないかもしれないでしょ」  「それはそうだよ」  「でも村の人はどう思うか。私のことをどう思われたって、それは平気よ。でも、連《れん》鎖《さ》反《はん》応《のう》のように、またそこから何かが起こるとしたら……」  「ねえ、忘《わす》れるなよ」  と、草永は言った。「七年前、村の人たちは、一人の若《わか》者《もの》を死に追いやった。そして、その責《せき》任《にん》は、今まで追《つい》及《きゆう》されずに来たんだ」  「でも——」  「まあ待てよ。それに、坂東が殺されている。これは君が動き出したことと関係があるだろう。でも君《ヽ》が《ヽ》殺したんじゃない。いいかい。あの老人の首に紐《ひも》を巻《ま》きつけて、絞《し》めた犯《はん》人《にん》がいるんだ」  「ええ」  「そんな残《ざん》忍《にん》な人間のやったことに、君が責《せき》任《にん》を感じる必要はない。そうだろう?」  「そうね……」  文江は肯《うなず》いた。  「治《ち》療《りよう》には薬がいる。そして、それには、どうしても多少の副《ふく》作《さ》用《よう》がつきものだよ」  文江は、草永の目を見て、軽く息をついた。  「ありがとう。気が軽くなったわ」  「僕《ぼく》は気を軽くする名人だからね」  文江はかがみ込《こ》んで、草永にキスした。  エヘン、と咳《せき》払《ばら》いが聞こえて、二人はあわてて離《はな》れた。うめが、澄《す》ました顔で座《すわ》っていた。  「室田様がおみえです」  ——降《お》りて行くと、室田が、玄《げん》関《かん》先《さき》でぶらついている。  「室田さん。——上りません?」  「いや、お誘《さそ》いに来たんですよ」  と室田は言った。  「え?」  「これから、金子駅長の家へ行きますので、いかがですか?」  「でも——いいんですか?」  「もちろん。そのために来たんです。いや、実のところ、私はこの村ではよそ者ですからね。ぜひ一《いつ》緒《しよ》に行っていただきたい、というわけで」  文江は、室田の心づかいが嬉《うれ》しかった。  本来なら、公の捜《そう》査《さ》に、自分のような部外者を連れて行ってくれるはずがない。それを文江に負《ふ》担《たん》にならないような言い方さえしてくれる。  文江は、その親切に甘《あま》えることにした。  「すぐ仕《し》度《たく》して来ます」  ここは、草永が遠《えん》慮《りよ》して、文江と室田、二人で行くことになった。  文江は、グレーのスーツにした。通《つ》夜《や》の席というわけではないから、黒では却《かえ》っておかしいだろう。  金子の家では、あわただしい様子で、近所の人たちが動き回っている。  室田が来意を告げると、すぐに、金子の未《み》亡《ぼう》人《じん》が出て来た。  文江は、もちろん久《ひさ》しぶりに見るのだったが、印《いん》象《しよう》が変ったのに、ちょっとびっくりした。  前は、少し太り気味の、おっとりしたおばさんタイプだったのだが、ずいぶんやせて、少しきつい感じになった。  ただ年《ねん》齢《れい》のせい、というわけでもなさそうである。  「まあ、常石さんの——」  「お久しぶりです。この度は、本当に——」  と、言いかけるのを、  「まあ、どうぞお上り下さい」  と、夫人は遮《さえぎ》った。  室田と文江は、奥《おく》の座《ざ》敷《しき》に通されて、五、六分待たされた。  「——突《とつ》然《ぜん》だったもので、もう、どうしていいのか分りません」  と、夫人は入って来て言った。  室田は自《じ》己《こ》紹《しよう》介《かい》した後、すぐに質《しつ》問《もん》に入った。  「はい。主人はガンで、もう半年ぐらいだろうと聞かされておりました」  夫人——金子正《まさ》江《え》は、肯《うなず》いて、言った。「主人も知っておりました」  「それは、何となく察しておられたという意味ですか?」  「いいえ、お医者様から、直《ちよく》接《せつ》うかがっていたのです」  「それは珍《めずら》しいですね」  と室田は言った。「普《ふ》通《つう》、患《かん》者《じや》には告げないものでしょう」  「実は、たまたま、聞いてしまったんですの。お医者様が私《わたし》に話すのを。——で、お医者様も仕方なく……」  「なるほど。睡《すい》眠《みん》薬《やく》をお使いになり始めたのは、その頃《ころ》ですか?」  「もう少し前でした。多少、痛《いた》みがあって、眠《ねむ》れないことがあったようです」  「そして、診《しん》断《だん》を聞いてからは毎日?」  「はい」  「いつも何《なん》錠《じよう》飲んでおられました?」  「二錠です。それ以上は禁《きん》じられていましたので」  「すると、昨夜は……」  「あの火事騒《さわ》ぎがあったときには、まだ起きておりまして、すぐ飛んで行きました。——外の寒さも応《こた》えたようですわ」  「お戻《もど》りになって、どんな様子でした?」  「そうですね。——疲《つか》れていた、といいますか……」  「何か、おっしゃっていましたか?」  「はあ」  少し間を置いて、金子正江は言った。「俺《おれ》も充《じゆう》分《ぶん》働いたな、と申しまして……」  充分に、働いた。——いかにも、自殺しようという人間の言葉にふさわしい、と文江は思った。  しかし、少しふさわし過《す》ぎるような気もする……。  「その後は何を?」  「はい。薬を飲んで寝《ね》るから、と申して……」  「薬のことを、わざわざ言われたんですか」  「たぶん、いつもは私が用意していたから、今日は自分でやる、という意味だったんだと思います」  「それで、おやすみになったのは、何時頃《ごろ》でした?」  「火事騒《さわ》ぎが、あれこれ長引きまして……。もう一時近かったと思いますが」  「失礼ですが、おやすみになる部《へ》屋《や》は別々でいらっしゃる?」  「はい。何しろ主人は仕《し》事《ごと》柄《がら》、朝が早いものですから。主人の方から別にしてくれと言われたのです」  「なるほど。分りました。そしてそのままおやすみになった……」  「はい。で、今朝《けさ》、私がいつも通り、七時過《す》ぎに目を覚《さ》ましてみますと、いつもなら、もう出かけている主人が寝《ね》ているのです。昨夜の疲《つか》れのせいかしらと思って、少しそのままにしておきました。一《いち》応《おう》、庄司さんの所の息子《むすこ》さんもいることですし……」  「当然でしょうね、それは」  「でも、七時半になっても起きて来ないので、ちょっと気になりまして。後で、起こさなかったと叱《しか》られそうですから、行ってみたのです」  「で、様子がおかしいというので、連《れん》絡《らく》なさったわけですね」  「お医者様にすぐ来ていただいて……。でも、もう大分前にこと切れている、と言われたんです」  「その医者というのは?」  「宮《みや》里《さと》先生でしょう?」  と、文江が訊《き》いた。  「そうですわ」  「ここでは一番古くて、親しまれている先生です」  と、文江が、室田に説明した。「私も、ずっとお世話になっていました」  「なるほど。——で、奥《おく》さん、そのときに、薬のことに、気付かれましたか?」  「はあ……」  金子正江は、ちょっとためらって、「実は良く分りませんの。もう——何といいましょうか、頭に血が上がって、ポーッとなってしまって」  「それは無《む》理《り》ありませんよ」  と、室田が例によって同《どう》情《じよう》心《しん》溢《あふ》れた声で言った。  「それで、その後、宮里先生が、『これは一《いち》応《おう》警《けい》察《さつ》へ届《とど》けなくてはならん』とおっしゃったんです。変死ということで。——それで、初めて薬のことに気が付きました」  「薬が減《へ》っていた?」  「たぶん……。はっきりどれだけとは申し上げられないんですけど、少なくとも見た感じでは、大分減《へ》っていたようですの」  「なるほど」  と室田は肯《うなず》いた。  少し沈《ちん》黙《もく》があった。  「あの——」  金子正江は室田の顔を見ながら、「主人の遺《い》体《たい》はどうなりますでしょうか?」  と訊《き》いた。  「あ、その件《けん》ですか。いや——どうなっているか、私は報《ほう》告《こく》を受けとらんのですが。早《さつ》速《そく》調べて、お知らせします」  「どうぞよろしく」  と、正江は頭を下げた。「——お分りとは思いますけれど、こういう所では、警《けい》察《さつ》で調べがあったというだけで、色々と言われるものですから」  「ああ、そうでしょうな。よく分ります」  「今夜、通《つ》夜《や》の予定なのですが……」  「そうか。分りました。早急に連《れん》絡《らく》を取ってみましょう」  室田は、立ち上る様子を見せてから、「お子さんはいらっしゃらないんですか」  と訊《き》いた。  「はあ……。うちには一人も」  と正江は答えた。  「そうですか。どうぞお気を落とされないように」  室田は丁《てい》重《ちよう》に言って、立ち上った。  金子の家を出て、少し歩いてから、室田は文江に言った。  「どう思いました?」  「さあ……。室田さんは何か?」  「睡《すい》眠《みん》薬《やく》というのは、少々飲み過《す》ぎたって、死ぬようなもんじゃありませんよ」  「それじゃ——」  「いや、だからどうこう言ってるんじゃありませんがね」  「調べれば死《し》因《いん》は分りますわね」  「もちろんです。あの奥《おく》さんには申し訳《わけ》ありませんが、司《し》法《ほう》解《かい》剖《ぼう》ということになるでしょう」  「もし——毒《どく》殺《さつ》だとしたら——」  「ああ、もちろん、あの奥さんの犯《はん》行《こう》だとは言えませんよ。例の薬びんに近づける人間なら可《か》能《のう》だったでしょう。しかし、その場合は、睡眠薬と金子さんが思い込《こ》むほど似《に》ていなくてはならない」  「じゃ、薬以外の、水とかに入っていたとしたら?」  「そうなると、あの奥さんが疑《うたが》われても仕方ないでしょうね。他にあの家には人がいないのだから」  「でも、そんなことをするかしら? 自分が疑われるに決ってるのに」  「そうですよ。予《あらかじ》め計画した上でのことなら、そんな真《ま》似《ね》はしないでしょう。しかし、何かでカッとなると、後のことは考えませんからね」  「カッとなるって……。でも、どうせご主人は後何か月かで亡《な》くなるところだったわけでしょう?」  「そうです」  室田は肯《うなず》いた。「そこがこの一《いつ》件《けん》のポイントですな」  「——自殺、と考えるのが一番自然じゃありませんか?」  「夫人も、そう望んでいるようですな。しかし、さっきも言った通り、死ぬ気なら、少なくとも、睡《すい》眠《みん》薬《やく》を一つ残らず飲むくらいでなければ」  「そうか……。不自然ですね。いずれにしても」  「その通りです。——さて、その宮里という医者の話を聞きたい。案内してもらえますか?」  「ええ。すぐ近くですわ」  ——文江は、古ぼけた、懐《なつか》しい建物の前で足を止めた。  「まだ看《かん》板《ばん》を書き直してないんだわ」  と、笑《わら》った。「これでも、〈宮里医院〉って書いてあるんですよ」  「ただの板ですな」  「七年前には、まだ〈宮〉の字は残ってたんですけど……」  文江は、相変らずきしんだ音をたてる扉《とびら》を開けて中へ入った。  「よお、これはお久《ひさ》しぶりだな」  医者というより、柔《じゆう》道《どう》か空《から》手《て》の教《きよう》師《し》みたいな、むさ苦しい様子の宮里医師が、のっそりと出て来た。  「先生、お変りないみたい」  「変りようがない。人口も増《ふ》えんから、病人も増えん。一向にもうからん」  「ちょっとお話があるんですけど」  「いいとも。間《ま》違《ちが》って子《こ》供《ども》でもできたか」  「先生ったら」  文江は吹《ふ》き出してしまった。  宮里は、室田の話に肯《うなず》いて、  「確《たし》かに、金子さんは薬物死でしたな」  と言った。  「睡《すい》眠《みん》薬《やく》は、こちらで?」  「いや、それは、隣《となり》町《まち》の総《そう》合《ごう》病《びよう》院《いん》で、もらっていたようだ」  「死《し》因《いん》に疑《ぎ》問《もん》を感じられましたか?」  宮里は両手を広げて見せ、  「こんな田舎《いなか》の医者ですぞ。変死を診《み》ることなど十年に一度だ。おかしいと思えば、後は警《けい》察《さつ》に任《まか》せる他《ほか》はない」  「ごもっともです。それが一番賢《けん》明《めい》なやり方ですな」  「しかし——」  と、宮里は言った。「寂《さび》しいものだ。あの夫《ふう》婦《ふ》とも長い付き合いだったが」  「あのご夫婦は、うまく行っていたんでしょうか?」  宮里は、ちょっと室田を見つめて、  「あんたも、見かけによらず鋭《するど》い方ですな」  と言った。  「先生と同じよ」  と文江が言うと、宮里は声を上げて笑《わら》った。  「かもしれん。——いや、このところ、あの二人、少しおかしかった。それは事実だ」  「おかしい、というと?」  「表立って喧《けん》嘩《か》するとか、そんなことはない。しかし、口のきき方や何かが、どことなく、よそよそしかった。特《とく》に女《によう》房《ぼう》の方が」  「変ですね」  と、文江は言った。「ご主人が不《ふ》治《じ》の病なんて分ったら、優《やさ》しくしてあげるのが、普《ふ》通《つう》でしょう」  「もちろん、しっかりさせようとして、却《かえ》って突《つ》き放すということもある。だが、あれはそれとも違《ちが》っていた。ただ冷たくなっていたんだ」  「——気の毒な駅長さん」  と文江は言った。  「当然、解《かい》剖《ぼう》になるでしょうな」  「そう思います」  「また、村の中は大《おお》騒《さわ》ぎになろう」  と宮里は、ふと立ち上って、埃《ほこり》で汚《よご》れ切った窓《まど》から、表を眺《なが》めた。「——なあ、文ちゃん」  「はい」  「あんたが帰って来て、この村は昼《ひる》寝《ね》から叩《たた》き起こされた羊《ひつじ》みたいに、駆《か》け回り始めたよ」  文江は、胸《むね》が痛《いた》んだ。  「——謝《あやま》りたいけど、そうはしません」  「もちろんだ! 偽《いつわ》りの上の眠《ねむ》りは、どうせいつか覚《さ》める。あんたは、いいときに戻《もど》って来たよ」  文江は微《ほほ》笑《え》んだ。——何となく、救われたような気がした。 13 幽《ゆう》 霊《れい》  「おはようございます」  うめの声で、目が覚《さ》めた。  「ああ——おはよう」  文江は目を開いて、息をついた。「——あら、どうしたの?」  うめが、障《しよう》子《じ》を開けて、向うを向いて座《すわ》っているのだ。  「お食事の用意ができております」  と、うめは言った。「お連れ様も」  文江は、やっと気が付いた。自分の布《ふ》団《とん》に、草永が一《いつ》緒《しよ》に寝《ね》ていたのだ。  ゆうべは火事騒《さわ》ぎもなくて、おかげで二人でのんびりと……楽しんだのはいいが、そのまま、疲《つか》れて眠《ねむ》り込《こ》んでしまったのである。しかも布《ふ》団《とん》はかけているにせよ、二人とも裸《はだか》のままである。  うめは、背《せ》中《なか》を向けたまま、障《しよう》子《じ》を閉《と》じて、行ってしまった。  「あーあ、まずった!」  と、文江は笑《わら》った。「——ちょっと! 起きてよ!」  と、草永を揺《ゆ》さぶる。  「ウーン」  と、唸《うな》って目を開き、「もう会社かい?」  ——朝食の席は愉《ゆ》快《かい》だった。  うめが、草永には、ご飯もミソ汁《しる》も、たっぷりと出して、  「お疲《つか》れでしょうから、いくらでもお代りをどうぞ」  と、澄《す》まして言っている。  文江は笑《わら》いをかみ殺して、目をパチクリさせている草永を見た。  「まあ、朝から頑《がん》張《ば》ってたの?」  と、公江が訊《き》く。  「い、いえ、そんな——」  草永があわててミソ汁《しる》をすする。  「いいじゃない。朝一番は子《こ》供《ども》ができやすいのよ」  公江もなかなか言うのである。  草永はすっかり小さくなって食べ始めた。  玄《げん》関《かん》の方で、  「文江! 文江、いますか!」  と大声がした。  「あら、百代だわ」  文江が腰《こし》を浮《う》かす。  「何だかずいぶんあわててるようね」  と公江が言った。  文江が出て行くと、百代がハアハア息を切らして立っている。  「百代、どうしたの?」  「あ、あのね——あの——あれ——あれが——」  「ちょっと落ち着いて。入ったら?」  「うん……」  百代は上り込《こ》んで、やっと息をついた。  「ああ、怖《こわ》かった!」  「怖いって、何が?」  「幽《ゆう》霊《れい》が出たのよ」  と百代は言った。  「幽霊?」  文江は訊《き》き返した。「だって、お通《つ》夜《や》は結局延《えん》期《き》になったのよ」  「違《ちが》うわよ! 金子さんのや《ヽ》つ《ヽ》じゃないの」  「じゃ、誰《だれ》の幽霊?」  「和也君よ」  「坂東和也君の? だけど——ずいぶん昔《むかし》の幽霊じゃない」  「呑《のん》気《き》なこと言って! こっちは、ゆうべ一《ひと》晩《ばん》、生きた心《ここ》地《ち》もしなかったっていうのに!」  と、百代は、文江をにらんだ。  「ごめん。だって、あんまり突《とつ》拍《ぴよう》子《し》もないこと言うから——」  「それは面《おも》白《しろ》いね」  と、草永が入って来た。「つまり、あの、隣《となり》の家に何かがいた、ってことなんだね」  「そうなんです」  と、百代は肯《うなず》いた。「でも、ちっとも面白くありませんよ」  「いや、ごめんごめん」  と、草永は笑《わら》って、「詳《くわ》しく聞かせてくれないか」  「ゆうべ、上の子が夜中に私を起こしたんです——」  と、百代は言った。      「なあに、おしっこ?」  と、百代は目をこすりながら、起き上った。  「うん」  と、男の子が、コックリ肯《うなず》く。  「仕方ないわね。寝《ね》る前にお水なんか飲むからよ」  百代は布《ふ》団《とん》から起き出した。夫がウーンと唸《うな》って、寝《ね》返《がえ》りを打つ。  「さ、おいで」  百代は子《こ》供《ども》を廊《ろう》下《か》へ押《お》し出した。  「——一人でできるでしょ」  「ウン。開けといて」  「はいはい」  トイレのドアを開けて、百代は立って待っていた。  男の子のくせに、意《い》気《く》地《じ》がないんだから、本当に! 先が思いやられるわ。  百代は欠伸《あくび》をした。——でも、あんまり早く目を覚《さ》まされなくて良かった。  今夜は久しぶりに、夫と「語らった」からである。あの最中に、「おしっこ」などと言い出されたら、あわててしまう。  夫はそのまま、グーグー音を立てて寝《ね》てしまった。こっちは寝入りばなを起こされて迷《めい》惑《わく》な話だ……。  また欠伸《あくび》が出る。  「——もう出た? 早くしなさい」  そのとき、何やらガチャン、と壊《こわ》れる音がした。百代は、ちょっと目をパチクリさせた。  何だろう? 空《そら》耳《みみ》かしら、と思った。しかし、あんなにはっきりと……。  ガタン、ガタン、と、また物音がする。  どこから聞こえているのか。——少し遠い音だ。  「母《かあ》ちゃん、出たよ」  「はいはい」  百代は、子供のパンツを上げて、トイレから出た。寝《しん》室《しつ》へ連れて行って、布《ふ》団《とん》に子供を入れると、もう一度、一人で廊《ろう》下《か》へ出てみた。  また、何かの動くような、ガタゴトいう音。  ちょっと薄《うす》気《き》味《み》悪くなったが、元来、そう気の弱い方でもない。夫を起すまでのこともあるまい、と思った。  家の中じゃない、と思ったが、一《いち》応《おう》、茶の間や台所を見て回った。何の異《い》常《じよう》もない。  すると表だろう。しかし、この辺には、夜中にうろつくような人間はいないはずだが……。  泥《どろ》棒《ぼう》?——まさか! こんな貧《びん》乏《ぼう》な家に入る物《もの》好《ず》きな泥棒があるかしら?  百代は、庭へ出るガラス戸の方へ歩いて行くと、カーテンを少し開けて表を見た。別に誰《だれ》の姿《すがた》も見えないが。  また音がした。今度はちょっとびっくりするような、ガチャン、という派《は》手《で》な音であった。  これはやはり、放っておくわけにはいかない。——どうも、隣《となり》の廃《はい》屋《おく》から聞こえているらしいのだ。  あそこも、ずいぶん長く閉《し》め切ったままである。あちこちガタが来ているだろう。  野《の》良《ら》犬《いぬ》か野良猫《ねこ》でも入り込《こ》んだのかもしれない。この辺は都会と違《ちが》って浮《ふ》浪《ろう》者《しや》というのはいないから、その点は百代も考えなかった。  ともかく、廃屋に入る泥棒はいない。百代は、犬か猫《ねこ》なら怖《こわ》くもない。子供のバットをつかむと、玄《げん》関《かん》の方へ歩いて行った。  ドタン、ガタン、という音は、まだ続いている。——今に見てなさいよ。  百代は玄関から、サンダルをつっかけ、鍵《かぎ》を開けて外へ出た。  外は暗い。——都会なら、まるで真昼のように明るいのだが、こういう場所では、本当に夜は暗いのである。  百代は左右を見回した。——そこからでは、隣《となり》の廃屋が目に入らない。  そっと外へ出ると、通りへ出て、廃屋を眺《なが》めた。音はやんで、シン、と静まり返っている。  「——確《たし》かにこの中だわ」  と百代は呟《つぶや》いた。  廃屋のわきへ回ってみる。板を打ちつけた窓《まど》。——坂東夫《ふう》婦《ふ》が姿《すがた》を消してから、しばらくして、いつの間にか、誰《だれ》かが打ちつけたのだ。  百代は裏《うら》手《て》に回った。広い窓《まど》があって、ここはそのままになっている。  しかし、埃《ほこり》やごみで、まるですりガラスみたいになってしまっている。  ガチャン! 中で派《は》手《で》な音がして、百代は飛び上った。  一人で来たのを、少々後《こう》悔《かい》し始めていた。しかし、どうせ隣《となり》なのだ。  いざとなったら、大声出せば……。  百代はバットを握《にぎ》りしめると、窓の方へと近《ちか》寄《よ》った……。      「それで?」  と、文江が訊《き》いた。  「そしたら、急に光が——」  「光が?」  「そう! 白い光が、窓《まど》の所をスーッと音もなく通って行ったの」  「音もなく?」  「そう。——二つ、三つ、とね。スーッ、スーッて」  「それで、どうしたの?」  「もう、キャーッ、って叫《さけ》んで飛び上ったわよ。そのまま家へ吹《ふ》っ飛んで帰っちゃったわ」  「ご主人には?」  「今朝《けさ》、話したわ」  「じゃ、ゆうべは……」  「布《ふ》団《とん》かぶって、寝《ね》てたのよ」  と百代は言って、「笑《わら》わば笑え!」  「何言ってんの。でも、確《たし》かに誰《だれ》かが中にいたのね」  「そうよ、間《ま》違《ちが》いないわ」  「その光っていうのは」  と、草永が言った。「きっと懐《かい》中《ちゆう》電《でん》灯《とう》だろうな。窓が汚《よご》れてるから、光が通らなかったんだ」  「私も今朝《けさ》になって、そう思ったわ」  と、百代は肯《うなず》いた。「でも、ゆうべは、とっても考えつかなかったわ」  「そりゃ無《む》理《り》ないな」  と、草永は、室田みたいなことを言い出した。  「でも、一体誰かしら?」  と文江が考え込《こ》む。  「考えてたって仕方ないよ。調べてみることさ」  「そう簡《かん》単《たん》に——」  「我《われ》々《われ》だけじゃだめさ。あの家だって、持主がいるはずだろ。下手《へた》に入ると、不法侵《しん》入《にゆう》だ」  「じゃ、室田さんを呼《よ》んで一《いつ》緒《しよ》に入ればいいわけだ」  と、文江は指を鳴らした。「早《さつ》速《そく》電話してみるわ」  電話の所へと走って行き、教えられていた直通電話の番号を回す。  「——あの、室田さん、お願いしたいんですけど」  「お嬢《じよう》様《さま》」  と、うめがそばへ来て、「あの——」  「待って。——あ、お出かけですか。お帰りになるのは——」  「室田様ですが」  と、うめが言った。  「——あの空《あき》家《や》のことは、急いで持主を調べましょう」  村の方へ歩きながら、室田が言った。「その上で、合法的に入りませんとね」  「同感です」  と草永が言った。  室田、草永、文江の三人は、村への道を辿《たど》っていた。  百代は先に帰っていた。子《こ》供《ども》二人かかえている身としては忙《いそが》しいのである。  「——で、何か結《けつ》果《か》が出ましたの?」  と文江が訊《き》いた。  「金子さんですか? ええ。やはり毒物が使われていました」  「まあ、それじゃ……」  「猛《もう》毒《どく》というわけではないが、少々弱い心《しん》臓《ぞう》には致《ち》命《めい》的です」  「でも、それは専《せん》門《もん》的な知《ち》識《しき》が必要でしょうね」  「専門的というほどではないとしても、多少の知識はね」  「つまり、素人《しろうと》ではない、と?」  「いや、多少勉強すれば大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》ですよ」  「じゃ、犯《はん》人《にん》を特《とく》定《てい》できませんね」  「無《む》理《り》ですね。しかし、身近な人が疑《うたが》われるのは仕方ないでしょう」  文江は室田を見た。  「つまり——奥《おく》さんですか」  「普《ふ》通《つう》ならね」  と肯《うなず》く。  「というと?」  「火事があったでしょう」  「ああ。——きっと奥さんも外へ出て、火事の様子を見ていたでしょうね」  「そうです。その間に、家に入って、薬を混《ま》ぜるのは、不《ふ》可《か》能《のう》ではない」  「そうですね」  と文江は言った。「都会のマンションとは違《ちが》って、この辺の家は、庭からでも入れますものね」  「だから厄《やつ》介《かい》ですよ。——ともかく、なぜ金子さんが狙《ねら》われたのか、それをまず明らかにしなくては」  「あの人を殺そうとするなんて……」  と、文江は首を振《ふ》った。  「地味な方、でしたな」  「そうです。本当に——」  「しかし、人間、どこかに秘《ひ》密《みつ》があるものですよ」  「金子さんに、ですか?」  まさか、とは思ったが、そうでなければ、殺されるはずがないのだ、と考えると、やはり金子にも、人の知らない面があるのか、と思えて来る。  「今日は、どうするんですか?」  と草永が訊《き》く。  「まあ、視《し》察《さつ》、といいますかね」  「視察?」  「村の様子を見たいのです。——何といっても、犯《はん》人《にん》は、この村の中にいるに違《ちが》いないのですから」  ——三人は、あの廃《はい》屋《おく》の前で、足を止めた。  「ねえ、見て!」  と、文江が言った。  表の戸が、ほんの一センチほどではあるが、開いているのだ。  「——文江!」  と、先に帰っていた百代が、飛び出して来る。  「百代、ここの戸——」  「そうなの! 帰って来るときに見付けてね、電話したけど、出た後だったのよ」  「ゆうべは開いてなかったの?」  「たぶんね。開いてれば気が付いたと思うわ。暗かったけど、まるきり何も見えないってわけでもなかったから」  「そう。——今朝《けさ》は?」  「あなたの所へ行くときは、ろくに見てなかったから」  室田はガラス戸に近付いた。手をかけて動かすと、ガラガラと軽やかに動く。  「こいつは妙《みよう》だ」  室田はかがみ込《こ》んだ。「——レールに油がさしてありますよ」  「じゃ、やっぱり誰《だれ》かが……」  「そうらしいです。入ってみましょう」  と室田が言った。  「ええ? でも——」  と、文江が言いかけると、  「ご心配なく」  室田は肯《うなず》いた。「空家の戸が開いているので、防犯上の見地から、入っても構《かま》いませんよ」  「難《むずか》しいもんね」  と、百代が感心したように言った。  「入ってみましょう」  百代は、  「ああ、悔《くや》しい! 子供、放っといて来ちゃったからだめだわ!」  と叫《さけ》んで、家へ駆《か》け戻《もど》った。  文江がクスッと笑《わら》った。  「気が若《わか》いんだから!」  室田が、埃《ほこり》だらけのカーテンを、ゆっくりとあけた。フワッ、と埃が宙《ちゆう》を舞《ま》った。  三人は、中を覗《のぞ》き込《こ》んだ。 14 廃《はい》 屋《おく》  ムッとするような、匂《にお》いがした。  「何かしら、これ?」  「埃とカビと、色々ですね」  と室田は中へ入った。  文江と草永も続いた。  目が慣《な》れると、思ったより、きれいになっているのが分った。  雑《ざつ》貨《か》屋《や》だった頃《ころ》の、ガラスケースや、棚《たな》がそのまま残っている。もちろん、埃《ほこり》だらけだし、鴨《かも》居《い》のあたりにクモの巣《す》も見えるが、お化《ばけ》屋《や》敷《しき》というわけでもない。  「店の奥《おく》が座《ざ》敷《しき》ですね」  「ええ。そこを上ると——」  室田が足下を見た。  「物音の正体は、これだな」  割《わ》れた茶《ちや》碗《わん》のかけらが散っている。  「ここにあったのかしら?」  「いや、そうではないようです」  と、室田はかがみ込《こ》んだ。「きれいなもんですよ。これは埃がつもっていない」  「つまり——」  草永が言った。「誰《だれ》かが、ここに茶碗を持って来て、わざわざ壊《こわ》したんでしょうか」  「そういうことになりますな」  「でも、どうして?」  「ここに人の注意を引きたかったのかもしれません」  「なぜでしょう?」  「分りません」  室田は、靴《くつ》を脱《ぬ》ぐと、座敷に上った。「——上ってもいいですが、靴《くつ》下《した》が汚《よご》れますよ」  「構《かまい》やしません」  と、文江は言った。「洗《あら》えばいいんですもの」  茶の間は六畳《じよう》ほどの広さである。  もっとも、ここの六畳は、都心のマンションなら、八畳ぐらいである。  「憶《おぼ》えてるわ。——よく、ここへ来たんですもの」  「他の部《へ》屋《や》も、見て回りましょうか」  室田が、ゆっくり左右上下に目を向けながら、歩いて行く。  やはり、窓《まど》の近くなどは、埃《ほこり》が入って汚れていたが、廊《ろう》下《か》などは、思ったよりきれいである。  「人のいない家は、ネズミやゴキブリも、エサがないので寄《よ》りつきませんからね。——あまり汚れないものですよ」  と室田は言った。  「埃の上に足《あし》跡《あと》でもついているかと思ったのにな」  と草永が言った。  「砂《すな》嵐《あらし》でもあれば、そうかもしれませんがね」  「ねえ、見て!」  と、台所に立っていた文江が叫《さけ》んだ。  「——どうしました?」  「あの窓《まど》……」  台所の窓は、うっすらと埃で白くなっていた。そこに、指で書いたのだろう。  〈床《ゆか》の下〉  と書かれてあった。  「床の下、か……」  「誰《だれ》が、こんなことをしたのかしら?」  「字はあまり特《とく》徴《ちよう》がありませんね。——触《さわ》らないで下さい」  「ええ。でも、床の下って——」  「この床下ということかな」  「きっとその下だわ」  と、文江は言った。「そこの床が開くんです。下が、お米とかミソの置き場になっていて」  「なるほど」  室田は、床の丸《まる》い穴《あな》に指をかけて引《ひつ》張《ぱ》ってみた。  大きな板が、持ち上って来る。  「何かあります?」  「いや……この下は、どうなってるんですか?」  「さあ、そこまでは——」  文江も覗《のぞ》き込《こ》んだ。  まだ米びつが置いたままになっている。その下は、板が何枚も敷《し》いてある。  「この下は地面ですな」  「そうでしょうね」  室田は米びつを持ち上げようとした。  「——こりゃ重いや。手伝って下さい」  草永と二人で、持ち上げ、やっと上に出す。蓋《ふた》を開けると、三分の二くらいまで、米が残っている。もちろん、変色してしまってはいるが。  「下の板が外れてますよ」  と、室田が腹《はら》這《ば》いになって、底板へ手をのばした。  釘《くぎ》で打ちつけてあるかのように見えるが、ヒョイと外れてくる。  「どうなってるのかしら?」  「この板もだ。——この隣《となり》も」  結局、ほとんどの板が外れて、すぐ下に地面がむき出しになった。  「——何かありますの?」  「いや、分りませんね」  室田は立ち上った。「しかし、下の地面が、盛《も》り上っています」  文江は、草永と顔を見合わせた。  「ということは……」  「この下に、何か埋《う》まっているんですな」  と、室田は言った。      「えらいことになったわね」  と、百代が言った。  「うん……」  文江は、百代の家に上り込《こ》んでいた。  室田が、県《けん》警《けい》から人を呼《よ》んでいる間、草永は、あの台所で見《み》張《は》っている。そして文江はここで待つことにした、というわけである。  「どうしたの、文江?」  「え?」  「何か考え込《こ》んじゃって」  「そう?——ただ、えらいことだ、と思ってるだけよ」  「仕方ないじゃない」  「うん」  文江は、百代の出してくれたお茶を飲んで、ホッと息をついた。  「仕事、忙《いそが》しいの?」  「まあね」  「羨《うらやま》しいな。自分の手に仕事持って」  「そうかなあ。こういうことって、向き不向きがあるのよ」  「私《わたし》は顔で落第って言いたいんでしょ」  文江は笑《わら》い出した。  「——百代って相変らずね」  「でもさ」  「何よ」  「本心じゃ、文江のようにならなくて良かったと思ってるわ」  「どういうこと?」  「だって——文江は昔《むかし》から辛《つら》そうだったじゃない」  「辛い、って?」  「常石の名前が、よ」  文江は目を伏《ふ》せた。  「どこへ行っても、みんな、文江のこと知っててさ」  「そうね。すぐ『お嬢《じよう》様《さま》』だったもんね」  「私、可哀《かわい》そうだなあ、って思ってたのよ、いつも」  「ありがと」  「都会へ出て、誰《だれ》も自分のことを知らない町を歩くってことに憧《あこが》れても、当り前だと思ったわ」  「そうね……」  「ただ、手紙の一本ぐらい、くれりゃ良かったじゃないの」  「ごめん。やっぱり、意地があってね。ともかく、一人前になって、帰ってやろう、って」  「それで七年?」  「アッという間よ。七年間。——がむしゃらに生きて来たわ」  「でも、あんな恋《こい》人《びと》もできてるじゃない」  「ごく最近よ」  「初めての人?」  文江は、ちょっとおどけて、  「ご想《そう》像《ぞう》にお任《まか》せします」  と逃《に》げた。  「ずるい!」  「でも、売れないときは、ずいぶん色々あったのよ」  「色々って?」  「体と引き換《か》えで、デザインを任《まか》せる、とかさ」  「へえ! ドラマみたい」  「本当にあるのよ」  「で、文江は?」  「そこまでは、ね。やっぱり気位が高いんでしょ」  「常石家の令《れい》嬢《じよう》ね」  「そんなとこかな」  文江は軽く笑《わら》った。「——最初は大学生とだったわ」  「へえ。——長く続いたの?」  「一度っきり」  「へえ、どうして?」  「一度寝《ね》たら、急に威《い》張《ば》り始めてね、がっかりして、サヨナラしちゃった」  「それ、あるわね。うちの亭《てい》主《しゆ》だって、初夜のときまでは優《やさ》しかったけど、それ過《す》ぎたら急に関《かん》白《ぱく》よ」  「でも、百代、威張ってんじゃない」  「当り前よ。権《けん》力《りよく》に屈《くつ》してたまりますかって!」  「闘《とう》争《そう》したわけね」  「断《だん》固《こ》、夜の生活を拒《きよ》否《ひ》したの。三か月よ」  「凄《すご》い」  「ついに亭主も折《お》れたわ。以来、良く言うこと聞くようになったもの」  文江は笑《わら》い出した。  なごやかな、女同士の他愛ない会話。——こういう会話は久《ひさ》しぶりだ。  文江は、一種の郷《きよう》愁《しゆう》を覚えた。  妙《みよう》な話だ。実《じつ》際《さい》に、こうして故《こ》郷《きよう》へ帰って来ているのに。  だが、文江の中の故郷は、「七年前の故郷」なのである。  自分の帰《き》還《かん》で、混《こん》乱《らん》している、今の故郷ではない……。  「——失礼」  と、草永が入って来た。  「あら、見《み》張《は》りは?」  「うん、今、室田さんが戻《もど》って来た」  「じゃ、お茶いれますね」  と百代が立ち上って出て行った。  草永と文江は、しばらく黙《だま》っていた。  「ねえ」  「うん?」  「どう思う?」  「何が?」  「あの床《ゆか》下《した》よ」  「ああ。——どうって——」  「何か埋《う》めてあるのかしら?」  草永は肩《かた》をすくめた。  「掘《ほ》ってみなきゃ分らないさ」  「でも、何か、事《じ》件《けん》に関係のあることでしょうね」  「室田さんはそう思ってるようだ」  「何でもないものを、あんな所に埋めないでしょうからね」  「しかし、何が考えられるかな」  と草永は腕《うで》を組んだ。「君はこうして生きてるから、君の死体じゃない」  「もう!」  と、文江は草永をにらんだ。  「僕《ぼく》が前に言ったろう」  「何を?」  「坂東和也のことで、さ」  「ああ。——他《ヽ》の《ヽ》殺人ってことね」  「そうだ」  「その死体が、あそこに?」  「可《か》能《のう》性《せい》はある」  文江はしばらく考えていた。  「でも、おかしいわ」  「どうして?」  「死体隠《かく》すのに、わざわざ床《ゆか》下《した》に埋《う》めることないわよ」  「そうか」  と草永は肯《うなず》いた。  「そうでしょ?」  「裏《うら》山《やま》には、いくらでも場所がある、か」  「そうよ。それなのに、わざわざ自分の家の床下に——」  「しっ。——来たらしい」  表に車の音がした。  「行きましょう」  「ねえ、君は——」  「何?」  「行かない方がいいんじゃないか? もし、死体だったりしたら……」  「あなたこそ、引っくり返らないでよ」  と、文江は言った。  外へ出て、文江と草永は目を見《み》張《は》った。  「まあ! いつの間に——」  村の人たちが、何十人も、集って来ているのだ。  「——どこから話が伝わったのかしら?」  「これじゃ、隠《かく》し事はできないな」  と草永は苦《く》笑《しよう》した。「さあ、入ろうか」  中では、室田の指《し》示《じ》で、台所の床《ゆか》下《した》のものを掘《ほ》り出す作業が始まっていた。  「入らないで!」  と、警《けい》官《かん》に止められる。  「ああ、その二人はいいんだ」  と、室田が声をかけた。「さあ、こっちへ」  他に、鑑《かん》識《しき》班《はん》らしい何人かが、壊《こわ》れた茶《ちや》碗《わん》のかけらを集めたり、窓《まど》の指で書いた〈床の下〉の文字を、カメラにおさめたりしていた。  「——退《さ》がっていて下さい」  と室田が言った。「土がかかりますよ」  文江と草永は、少し離《はな》れて立っていた。  「——何かあるぞ」  と、掘っていた一人が言った。「ビニール包みだ」  「出してみてくれ」  と室田が言った。  かなりの大きさのビニール袋《ぶくろ》が、取り出された。  文江は、ゴクリとツバを飲んだ。  「ゴミですよ」  と、中を覗《のぞ》いた男が言った。  気が抜《ぬ》けたような、戸《と》惑《まど》いが広がる。  「その下を掘《ほ》れ」  と、室田が言った。  「もっとですか?」  「ただのゴミをこんなにして埋《う》める奴《やつ》はいないよ」  と室田は言った。  なるほど、それはそうだ。文江は、じっと息をつめて見守った。  ——かなり、穴《あな》は深くなった。  「もう何もありませんよ」  「もう少し掘れ」  室田の言い方は、穏《おだ》やかであった。  土が、床《ゆか》の上にも積まれた。——十五分が過《す》ぎた。  「何かある!」  と、声が上った。  「出してみろ」  ガサゴソと音がした。  「トランクですよ。ずいぶん大きいけど」  「上げろ」  引《ひつ》張《ぱ》り上げられたのは、黒い、大型のトランクだった。  「横にしろ。開けるぞ」  と、室田が言った。  「鍵《かぎ》がかかってます」  「壊《こわ》していい」  鍵は、楽に壊れた。ゆっくりと、蓋《ふた》が開いた。——文江は、一《いつ》瞬《しゆん》目をつぶった。  「布《ぬの》がかけてある」  「めくってみろ」  ——そこには、またトランクが入っていた。今度は手で持てる程《てい》度《ど》のものだ。  空いたところには布《ぬの》がつめてあるのだった。  「何だか、人を馬《ば》鹿《か》にしてるな」  「よし。こいつを開けよう」  メリメリ、と音がして、今度の鍵は、やや抵《てい》抗《こう》があったらしい。  「——おい!」  声が上った。  「たまげたな!」  文江は近《ちか》寄《よ》って、そのトランクを覗《のぞ》いた。  トランクには、びっしりと、札《さつ》束《たば》が詰《つま》っていた。      「驚《おどろ》いたわ」  文江は、パトカーの走り去るのを見送って言った。  「あれは何でしょうね?」  と草永が訊《き》くと、  「調べてみないと分りませんが……」  と、室田は言った。「七年前、あの事《じ》件《けん》があったころ、隣《となり》の町で、銀行が襲《おそ》われているのです。——確《たし》か、四、五千万円がやられました」  「それが今の——」  「日付を見てみましょう。おそらく間《ま》違《ちが》いないでしょうが」  「何てことかしら!」  「じゃ、和也は、その一味だったんでしょうか?」  「さあね。それにしては、金に手をつけていないのが妙《みよう》です」  「そうですね」  「あれだけ深く埋《う》めるには、当分使わないという決心があったんでしょう」  「その和也が、なぜ自殺を……」  「こうなると、考え直す必要があるようですね」  「というと?」  「和也の死は、自殺だったのかどうか、ですよ」  と、室田は言った。      「ますます分らなくなって来たわ」  文江は、草永と二人で、家への道を歩きながら言った。  「こいつは、何だか、複《ふく》雑《ざつ》な事《じ》件《けん》だね」  と草永が首を振《ふ》る。  「あのお金……。もし本当にその銀行のものだったら……」  「和也としては、アリバイが証《しよう》明《めい》できなかったのも当然だな」  「まさか強《ごう》盗《とう》してましたとは言えないものね」  「和也は自殺するはずがないよ。あのお金があれば、ここを出て、どこへでも行けるんだから」  「そうね」  「また殺人が一つふえた」  「坂東和也殺人事件か……」  と、文江は呟《つぶや》いた。  二人は、黙《もく》々《もく》と、道を歩いて行った。  そろそろ、陽《ひ》は傾《かたむ》きかけていた。 15 闇《やみ》の襲《しゆう》撃《げき》  「どうした?」  文江が寝《ね》返《がえ》りを打つと、草永が言った。  「え?」  「眠《ねむ》れないのかい?」  「うん……。まあね」  文江は、大きく伸《の》びをした。  うめが、気をきかしたのか、皮肉のつもりか、最初から文江の部《へ》屋《や》に草永の布《ふ》団《とん》も敷《し》いてしまったのである。  「もう何時?」  「ええと……」  草永は、わずかな明りの中で、腕《うで》時《ど》計《けい》を手に取って、見た。「二時ぐらいかな」  「いやね、眠《ねむ》れないって気分。少し散歩して来ようかな」  「そうするか」  「あなたは寝《ね》ててもいいわよ」  と、文江は起き上りながら言った。  「冗《じよう》談《だん》じゃないよ。人殺しがどこかにいるんだぜ」  「あら、心配してくれるの。優《やさ》しいわね」  文江は、セーターとスカートという軽《けい》装《そう》で、部《へ》屋《や》を出た。草永が、急いで後を追う。  下へ降《お》りて行くと、居《い》間《ま》の明りが灯《とも》っている。——文江は、不思議そうに、  「誰《だれ》かしら、こんな時間に?」  と呟《つぶや》いた。  「また幽《ゆう》霊《れい》かな」  「やめてよ!」  と文江はにらみつけた。  「——誰なの?」  居《い》間《ま》から母の公江の声がした。  「何だ、お母さん。びっくりした。どうしたの?」  「ちょっと眠《ねむ》れなくてね」  と、公江は微《ほほ》笑《え》んだ。「お前も一《いつ》杯《ぱい》どう?」  「お母さん、ウイスキーなんかやってるの?」  「やあ、こいつは散歩よりよほどいいや」  と、草永も入って来て、「僕《ぼく》もお付き合いしましょうか」  「じゃ、文江、そこからグラスを持っといで」  公江が愉《ゆ》快《かい》そうに言った。別に酔《よ》っているという様子ではない。  「じゃいいわよ。私も付き合う」  文江も負けてはいられない。  かくて、深夜の酒《しゆ》宴《えん》となった。  「——銀行強《ごう》盗《とう》ねえ」  公江は、ちょっと考えて、肯《うなず》いた。「そういえば、そんなこともあったね」  「私が家を出た日?」  「というか……はっきり憶《おぼ》えていないけど、同じころだよ。こっちも、お前のことで、てんてこまいしてたから、あまり気にしてなかったけどね」  「室田さんから、何か言って来たのかい?」  草永が文江に訊《き》く。  「まだ、何も。——何しろ大分昔《むかし》のことだもの。そう簡《かん》単《たん》には分らないんでしょ」  「隣《となり》の町のことだしね」  と、公江がグラスをあけて、「——この田《でん》村の人にとっては、村の中の出《で》来《き》事《ごと》だけが、現《げん》実《じつ》なんですよ」  「そうですね。こういう所では、考え方も都会とは違《ちが》って来る」  草永は、肯《うなず》きながらそう言った。  「もし、あれがその強《ごう》盗《とう》の盗《と》ったお金だったとすると、和也君がその一味だったってことね」  文江は首を振《ふ》った。「信じられないなあ。あのおとなしい和也君が……」  「でも、何となく分るわよ」  と公江が言った。  「何が?」  「若《わか》い人たちにとっては、この田村での暮《くら》しは息がつまるでしょ。何とかして、ここから脱《ぬ》け出したい。そう思うんじゃなくて?」  「そうねえ」  文江は考え込《こ》んだ。「私も、直《ちよく》接《せつ》の動機は別として、やっぱり、ここから出て行きたい、と思ったものね」  「問題は誰《だれ》とやったか、だな」  と草永が言った。  「——何の話?」  「強盗のことさ、もちろん」  「つまり、一人じゃないってわけね」  「当り前さ。そんな若《わか》い子一人じゃ、とてもやれない。仲《なか》間《ま》がいたはずだ」  「というより、和也さんは、使われたんだと思った方が良さそうね」  と公江が言った。「そんな計画を立てて、リーダーになるようなタイプじゃありませんよ」  「同感ね。——和也君には、そう悪い仲間はついてなかったと思うけど」  「そんな、不良少年ぐらいで、銀行強《ごう》盗《とう》なんてやれないさ。背《はい》後《ご》には大人《おとな》がいるんだ。まず間《ま》違《ちが》いなく、そうだ」  「この——田村の人?」  「それは分らないけど……」  「そう考えるのが自然ですよ」  と公江が言った。「一《いつ》緒《しよ》に強盗をやって、しかもその盗《ぬす》んだお金を、和也さんの所へ預《あず》けるんだから、相当に信用し合っているんでしょう。村の人間でなきゃ、とてもそんなに親しくなれるはずがありません」  「なるほど」  草永は肯《うなず》いた。「いや、お母さんのお話は、説《せつ》得《とく》力《りよく》があります!」  「ありがとう。あなたは、とてもしっかりした方ね。娘《むすめ》にはもったいないわ。私がもう二十年若《わか》かったら——」  「いや、恐《おそ》れ入ります」  「どんどん飲みましょう」  「いいウイスキーですねえ」  「高級品が置いてありますの。悪《わる》酔《よ》いしませんしね」  「文江さんと一《いつ》緒《しよ》になっても、なかなか、こんなのは飲めませんよ」  「何なら、あなた、うちの養子におなりなさい。大して仕事しなくていいんですよ」  「それもいいですね、ハハ……」  ——文江は、母と草永が二人で勝手に楽しげにやっているのを、呆《あき》れ顔で眺《なが》めていた。  一時間後には、二人揃《そろ》って、仲《なか》良《よ》くソファで居《い》眠《ねむ》りを始めてしまった。  「何やってんのかしら、全く!」  母が酒を飲むのは、あまり記《き》憶《おく》になかった。もちろん、飲めないわけではなかったが、好《この》んで飲む方ではなかった。  母も年齢《とし》を取って、あれこれと苦労が多いのかもしれない。いや、まず娘《むすめ》が行方《ゆくえ》不明になっていたことが、心労となっていただろう。  草永が、母に付き合って、眠《ねむ》り込《こ》んでしまったのも、彼《かれ》なりに気をつかってのことかもしれなかった。草永だって、そうアルコールに強い方ではないのだから。  時計を見ると、三時二十分だった。もう一時間もすると、朝の気配になって来よう。  文江は、二人を残して、居《い》間《ま》を出た。——あの二人なら、浮《うわ》気《き》する心配もないものね……。  玄《げん》関《かん》から、表に出る。  都会の空気は、いつも生ぬるくて、埃《ほこり》っぽいが、田舎《いなか》の夜の寒さは、水《すい》晶《しよう》のように固く、透《す》き通っている。  身の引き締《し》まる寒さ、とでもいうのだろう。  ぶらり、と文江は歩き出した。——夜の散歩、というのもなかなか優《ゆう》雅《が》なものである。  都会の夜は、場所によっては昼間と見分けがつかないくらい明るかったりして、本当の「夜」がない。一《いつ》寸《すん》先《さき》も見えない闇《やみ》、なんて停電にでもならなければ、経《けい》験《けん》できないのである。  家の明りが届《とど》かなくなると、かすかな月の明りで、村へ行く道を、少し辿《たど》って行った。そして、ふと足を止めると、今度は逆《ぎやく》に、山への道を辿り始める。  山まで行く気はないのだが、七年前、夜中に、この道を一人、歩いて行ったときのことを思い出しているのだ。あれもちょうど三時過《す》ぎだった……。  あのとき、和也や、他の誰《ヽ》か《ヽ》は、銀行を襲《おそ》って、逃《に》げ帰る途《と》中《ちゆう》だったのだろうか。——もし、車に出会わず、あのまま山道を歩いていたら、途中で和也たちに出くわしていたかもしれない。  人生なんて、ほんのささいなことで、変ってしまうものだ。  和也たちに出会っていたら、その場で殺されて、山の中に埋《う》められていたかもしれない。いや、行動を共にして、今ごろは女ボスにでもなって、機《きか》関《んじ》銃《ゆう》片《かた》手《て》に、各地の銀行を荒《あら》し廻《まわ》っていたかも……。  ちょっと悪のりかな、と一人で笑《わら》った。  夜は静かで、人の気配など、まるでなかった。  あまり遠くまで行くと、戻《もど》るのも大変だ。  ——文江は足を止めた。  そのとき、どこか、右手の離《はな》れた所で、茂《しげ》みのざわつく音がした。風のせいではない。どこか一《いつ》箇《か》所《しよ》から聞こえた。  何かが動いたのだ。  ヒュッと口《くち》笛《ぶえ》のような鋭《するど》い音がした。文江の右の頬《ほお》を、何かがかすめて飛んで行った。  文江は戸《と》惑《まど》って立っていた。——何だろう?  ただ、直感的に、危《き》険《けん》を感じた。ヒュッという音がして、今度は左の腕《うで》に鋭い痛《いた》みを覚えた。  狙《ねら》われている!  文江は道に伏《ふ》せた。ザザッと茂《しげ》みを駆《か》け抜《ぬ》ける音。ザッザッと足音らしいものが遠去かって行った。  文江はしばらく動かなかった。左《ひだり》腕《うで》が少し痛《いた》む。  そろそろと起き上った。——どうやら無《ぶ》事《じ》のようだ。  一体誰《だれ》が、狙って来たのだろう?  文江は、高鳴る心《しん》臓《ぞう》を、鎮《しず》めようとじっと目を閉《と》じて立っていた。けがをしたようだ。手当をしなくてはならない。  ホッと息をつく。——それを、向うは待っていたかのようだった。  ヒュッと空を切る音が、顔の正面に走った。アッと顔をよけるのが、十分の一秒遅《おそ》かったら、死んでいたかもしれない。  右の頬《ほお》が、引き裂《さ》かれるように痛んで、文江はよろけた。  一《いつ》瞬《しゆん》、気を失いかけて、その場にうずくまった。視《し》界《かい》を、赤い光が駆《か》けめぐる。  やっとの思いで顔を上げると、二つの目が見えた。——光った目だ。  いや……あれはヘッドライトだ。車が停《とま》っている。誰《だれ》か来てくれたのだ。——文江はホッとした。  低い唸《うな》り声と共に、その「二つの目」が、近付いて来た。唸り声の周波数が上る。  こっちへ来る。突《とつ》進《しん》して来る。——危《あぶな》い。危い! 危い!  文江は、目を見開いて、真《まつ》直《す》ぐに突《つ》っ込《こ》んで来るライトの光を見つめた……。      「びっくりしたぜ」  草永が言った。  「ごめん」  「無《む》鉄《てつ》砲《ぽう》なんだよ、大体」  「ごめん」  「殺人事《じ》件《けん》なんだぜ。TVドラマや遊びじゃないんだ」  「ごめん」  「全くもう……。君に死なれたら、僕《ぼく》はどうすりゃいいんだ」  「ごめん」  「しかし……本当にびっくりしたよ。泥《どろ》かぶって、泥のお化《ばけ》みたいになって入って来るんだもの。一《いつ》瞬《しゆん》誰《だれ》かと思った。そしたら、そのまま気を失って……」  「一つ訊《き》きたいんだけど」  「何だい?」  「私が襲《おそ》われているとき、あなたは何してたの?」  「それは……ちょっと居《い》間《ま》で居《い》眠《ねむ》りして……」  「酔《よ》っ払《ぱら》って寝《ね》てたのね」  「まあ……そういう言い方もできるかな」  「で、何か言いたいことは?」  「うん。まあ……けがが軽くて良かったね」  「もう一つ訊きたいんだけど」  「何だい?」  「私を玄《げん》関《かん》の所で裸《はだか》にしたのは誰《だれ》?」  「そりゃ……君のお母さんとうめさんさ」  「さっきうめさんに訊《き》いたら、うめさんが駆《か》けつけて来たら、もう私は裸にされてたってよ」  「そ、そうだったのかな。——気が転《てん》倒《とう》して、分らなかったよ」  「もう、いい加《か》減《げん》ね!」  ——二階の、文江の部《へ》屋《や》。左の腕《うで》の包帯、右《みぎ》頬《ほお》の、大きなガーゼの白さが痛《いた》々《いた》しい。  すっかり朝になっていた。  「しかし、一体誰《だれ》がやったんだろう」  「話をそらして……」  と、ちょっとにらんでから、文江は笑《わら》った。「もう少しで車にひき殺されるところだったのよ。何だか信じられないようだわ」  「向うだって、暗くて君の姿《すがた》がはっきりとは見えなかったはずだしな。殺す気なら、どうして、もっと明るいときを狙《ねら》わなかったのかな」  「何だか残念そうね」  「よせやい」  と、草永は顔をしかめた。  「室田さんには連《れん》絡《らく》してくれたの?」  「うん。すぐ来てくれると言ってたんだがな……」  噂《うわさ》をすれば、とでも言うのか、廊《ろう》下《か》にうめの声がした。  「室田さまです」  ——居《い》間《ま》へ降《お》りて行くと、室田が落ち着かない様子で歩き回っていた。  「何とも——ひどいですな」  と、文江を一目見て、「相手を見ましたか?」  「いえ、真っ暗で」  文江は、少し顔をしかめた。大きな声を出すと、頬《ほお》の傷《きず》が痛《いた》むのである。  「現《げん》場《ば》へ案内していただけますか」  「ええ、もちろん。でも、暗かったので、はっきりどの辺と分るかどうか——」  「痕《こん》跡《せき》があるでしょう。ともかく行ってみましょう」  室田、草永、文江の三人は、外へ出た。  穏《おだ》やかな天気である。  山へ続く道を歩きながら、  「あの銀行強《ごう》盗《とう》のことは分りまして?」  と、文江が訊《き》いた。  「やはり、まず間《ま》違《ちが》いないという感じです。金《きん》額《がく》がぴったり一《いつ》致《ち》しました」  「番号は控《ひか》えてあったんですか?」  「いや、新札ではないものですからね」  「それにしても、額が一致するということは——」  と、草永が言いかけると、室田が肯《うなず》いて、  「つまり、盗んだ金は、全く手を付けていなかったということです」  「そうですか。しかし、あれだけの金を……」  「仲《なか》間《ま》がいたとしたら、七年間、知りながら手をつけていなかったというのは妙《みよう》な話ですな」  「それは……」  と、文江が言った。「つまり、和也君が、お金を一人占《じ》めしようとしてたってことかしら?」  「どうも、他に考えようがないようですね」  「そして和也君は死んだ……。その仲間に殺された、と……」  「そこがよく分らないんですよ。隠《かく》し場所を訊《き》き出すつもりなら、殺しはしません。金が手に入らなくなってしまいますからね」  「でも、つい、やり過《す》ぎて、ということも考えられますよ」  「確《たし》かに」  と、室田が肯く。  どうも殺《さつ》伐《ばつ》とした話になって来て、文江は憂《ゆう》鬱《うつ》になった。  「——この辺りだと思うんですけど」  と、文江が言った。「でも、暗かったから、はっきりとは……」  「道の様子で分りますよ。タイヤの跡《あと》が……しかし、これじゃ無《む》理《り》かな」  室田は、舗《ほ》装《そう》などしていない道を見下ろして言った。  「君が道のわきの溝《みぞ》へ落っこちた跡があるんじゃないか?」  「そうね。——あれじゃないかしら?」  「なるほど、泥《どろ》がはねていますね。ここらしいですね」  室田はその場に立って、周囲を見回した。  「どっちから狙《ねら》われたんですか?」  「ええと……山の方へ向かって立ってて……。あっちから音が聞こえたんです」  「あの茂《しげ》みの辺りかな」  「たぶん、そうだと思いますわ」  室田は、その茂みと、文江の立っていた辺りを、目に見えない線で結ぶと、それを延《えん》長《ちよう》して、反対側の木《こ》立《だ》ちの中へ入って行った。  「——何か見付かりまして?」  と、文江が声をかける。  「あなたを傷《きず》つけたのが何なのかと思いましてね」  室田は、キョロキョロとその周辺の地面を見回しながら、「少なくとも銃《じゆう》ではありませんからね。傷口がもっと焼けているはずですから」  「痛《いた》いには変りありませんわ」  と、文江は渋《しぶ》い顔で言った。  「——ああ、これだ!」  と室田が声を上げる。  文江と草永が駆《か》けつけてみると、室田は、ハンカチで、一本の矢《や》をつまみ上げたところだった。  「——へえ! 弓《ゆみ》矢《や》ですか。また、えらく古風だな」  と草永が珍《めずら》しそうに眺《なが》めた。  「いや、これはいわゆるアーチェリーの矢ですよ。あれは現《げん》代《だい》のスポーツでしょう」  「こんなもので……。しかし、まともにくらったら、やっぱり死にますか」  「そりゃそうです。先がわざと尖《とが》らしてありますよ。首《くび》筋《すじ》にでも当ったら、一《いつ》巻《かん》の終り、です」  文江は、ちょっと身《み》震《ぶる》いした。  「あと二、三センチで死ぬところだったんだわ!」  「しかし、この辺でアーチェリーなんてやってる人間は、多くないんじゃありませんか」  と草永が言った。  「同感ですな」  と、室田が肯《うなず》く。「もう一つ、問題なのは、文江さんをひこうとした車に乗っていた人物と、この矢《や》を射《い》た人物が同じだったかどうかという点です。——いかがです?」  文江は首をかしげた。  「たぶん……別でしょう。この傷《きず》を負って、ちょっと気が遠くなりかけましたけど、気を失うところまでは行きませんでしたから」  「その人物が車へ駆《か》け戻《もど》って、あなたをひこうとする時間はなかったわけですな」  「まず無《む》理《り》だと思います」  「すると相手は二人組か」  「ともかく」  と、室田が言った。「アーチェリーの趣《しゆ》味《み》のある人を捜《さが》すことですな」 16 推《すい》 理《り》  「文江! どうしたの?」  村へ出て、通りを歩いていると、百代の声がした。  「あ、百代。大きな声が出せないのよ」  「どうしたっていうの?」  買物に来たらしい百代は、重そうな袋《ふくろ》をぶら下げて、駆《か》け寄《よ》って来た。「夫《ふう》婦《ふ》喧《げん》嘩《か》?」  「まさか。夫婦でもないのに。——ねえ、村で、アーチェリーやってる人、知らない?」  「アーチェリー? 何だっけ、それ?」  「弓《ゆみ》じゃないの。ほら——」  「ああ、そうか。そうねえ……。でも、何で弓《ゆみ》なんか——」  文江が頬《ほお》の傷《きず》を指して見せる。  「ええ? じゃ、弓《ゆみ》矢《や》で? ひどいことするのね!」  「誰《だれ》か私《わたし》を殺そうとしたらしいの」  「そんな、平気な顔して……。本当に命落としてたら、どうするの?」  百代は眉《まゆ》をひそめた。「犯人は?」  「分んないから、訊《き》いてんじゃないの」  「あ、そうか。——弓、弓と。どこかで聞いたわね。誰かがやってたはずよ」  「村の人?」  「そう。——誰だったかなあ」  と、百代は首をかしげた。  「思い出してよ!」  と、文江が突《つ》っつく。  「こら! 袋《ふくろ》押《お》すと卵が壊《こわ》れるよ」  「あ、ごめん。割《わ》れたら弁《べん》償《しよう》するわ」  文江と百代がもめていると、  「やあ、何をやっとるんだ」  と、白木巡《じゆん》査《さ》がのんびりとやって来た。  「あっ、白木さん」  と、文江は言った。「今、室田さんが会いに行きましたよ」  「え? こりゃいかん。——その傷《きず》はどうしたんです?」  「そのことで、室田さん、白木さんにお話があるようですよ」  「そうですか。じゃ、急いで戻《もど》らんと」  白木巡査があわてて行ってしまうと、百代が、  「そうだ!」  と手を打った。  「どうしたの?」  「白木さんよ。あの人、アーチェリー、やってたんだ!」  「本当?」  「もう大分前だけどね。ちょっとやって、みんなに散々冷やかされて、すぐやめちゃったんじゃなかったかな」  「でも道具は持ってるかもしれないわね」  「捨《す》てないでしょ、あの人、ケチだもの」  百代の言い方に、文江は吹《ふ》き出した。  それにしても……まさか白木が文江を狙《ねら》うわけもなし、これはどういうことだろう?      「盗《ぬす》まれたって?」  室田が目を丸《まる》くした。「それはいつのことだ?」  「はぁ……」  白木巡《じゆん》査《さ》は、頭をかいた。「かれこれ一か月くらいになりますか」  「——放っといたのかね」  「それが——大体、裏《うら》の小屋へ放り込《こ》んどいたので、ろくに見なかったんです。一か月くらい前に、他の物を捜《さが》しに行きまして、見えないのに気が付きまして、でも、きっとその辺に紛《まぎ》れ込《こ》んでるんだろう、と気にもしなかったんです。ところが一週間くらい前、久しぶりにやってみようかと思い、捜してみたのですが、どこにも見当らず……」  「どこの小屋だね?」  「この駐《ちゆう》在《ざい》所《しよ》の裏《うら》です」  「案内したまえ」  室田の不《ふ》機《き》嫌《げん》な顔に、見ていた文江はおかしくてたまらなかった。  裏の小屋へ案内されながら、室田は、  「大体、凶《きよう》器《き》ともなり得《う》るものを、簡《かん》単《たん》に盗《ぬす》まれるとは——」  とブツブツ言っている。  「室田さん、あんまり白木さんを責《せ》めないで下さいな」  と、文江は言った。  白木は冷《ひや》汗《あせ》を拭《ぬぐ》っている。  「鍵《かぎ》はかかっていたのか?」  と室田が訊《き》く。  「それがその……あるにはあるのですが、すっかり錆《さび》がついておりまして……」  「取り変えればいいだろう!」  「はあ、予算の関係もありまして、その……」  「南《なん》京《きん》錠《じよう》一つ、何十万もせんぞ」  「それはまあそうですが……」  こんな田舎《いなか》の村の駐《ちゆう》在《ざい》といって、はた目にはヒマそうであるが、その実、大いに忙《いそが》しい。何しろ、細々した用事ですぐ呼《よ》び出されるのだ。  結《けつ》構《こう》、多《た》忙《ぼう》な職《しよく》務《む》なのである。  「ここです」  と、白木は、今にも倒《たお》れそうな小屋の前で足を止めた。  「ひどい小屋だな。倒れて誰《だれ》かけがをしたらどうする」  と、室田も八つ当り気味である。「開けてみろ」  「はあ」  鍵《かぎ》はなくても、戸はガタガタして、なかなか開かない。白木の方は、焦《あせ》っているから、なおのこと戸が開かず、エイッと力を入れると、戸が手前に外れて、一《いつ》緒《しよ》に引っくり返ってしまった。  「何をやってるんだ」  と、室田は苦《く》笑《しよう》して、中を覗《のぞ》き込《こ》んだが——。「おい、あれは何だ?」  と、声を上げた。  白木が戸をはねのけて、中を覗き、  「あれっ!」  と、ポカンと口を開けた。  文江も覗き込む。——中に、アーチェリーの弓《ゆみ》が、転がっていた。      「もう、わけがわからないわ」  と、昼食の席で、文江は言った。  「分らないことがあれば一年放っておけ、とよく父に言われました」  うめが真《ま》面《じ》目《め》な顔で言った。  「一年待ったら、殺《さつ》人《じん》犯《はん》は逃《に》げちゃうわよ」  「この世の出来事は、総《すべ》てこの世で帳《ちよう》尻《じり》が合うものです」  うめらしい哲《てつ》学《がく》だわ、と文江は思った。  「お前も無《む》茶《ちや》ばかりやるから」  と、公江が、昨夜草永と飲んで眠《ねむ》っていたことなどケロリと忘《わす》れたように言った。  「で、弓《ゆみ》の方から、何か分ったの?」  と草永が訊《き》いた。  「だめね。ちゃんと指《し》紋《もん》は拭《ぬぐ》ってあったそうよ」  「抜《ぬ》け目のない奴《やつ》だな」  「それに、ずいぶん律《りち》儀《ぎ》な人ね」  と公江が言った。「何もその場所へ戻《もど》さなくても、その辺に捨《す》てておけばいいのに」  「それはそうね」  と、文江は肯《うなず》いた。「そこは考えなかったわ」  「君よりお母さんの方が探《たん》偵《てい》の素《そ》質《しつ》がありそうだね」  と、草永が笑《わら》って、文江にジロリとにらまれ、口をつぐんだ。  「——ともかく謎《なぞ》だらけよ」  と、文江は言った。「まず和也君が銀行強《ごう》盗《とう》の一人だったということは、まず間《ま》違《ちが》いないとして、それならなぜ、殺されたのか」  「誰《だれ》に、ということもあるね」  「普《ふ》通《つう》に考えれば、仲《なか》間《ま》でしょうね。そして、お金は七年間、埋《う》めたままになっていた」  「それから、君の帰《き》還《かん》だ。そこへどうかかわって来るか、も問題だぜ」  「そうね。——そして、私を東京で脅《きよう》迫《はく》しかけたのは、誰か?」  「何の話?」  と、公江がキョトンとして訊《き》いた。  「いいの。こっちの話。それから、東京で、坂東老人を殺したのは、果《はた》して、夫人だったのか?」  「そして、夫人はどこへ消えたか、だな」  「それから倉庫の火事。目的は何か?」  「駅長の死。——毒殺とすれば、犯《はん》人《にん》と動機は?」  「奥《おく》さんの様子がおかしかったという点もあるわ。それから、あの幽《ゆう》霊《れい》騒《さわ》ぎ」  「あれは分らないね。少なくとも幽霊のふりをした人物は、金があそこに埋《う》めてあることを知ってたわけだろ」  「欲《よく》のない人なのよ、きっと」  「なぜ、わざわざみんなに知らせたのか」  「自分で盗《ぬす》む気はなかったのね」  「それから私を狙《ねら》った人物。アーチェリーを使ったのと、車でひこうとしたのは、別の人間らしい。——となると、仲《なか》間《ま》でしょうね」  「当然だね。何だかてんでんバラバラの事《じ》件《けん》ばかりだな」  「ね、だからわけが分らないのよ」  文江はため息をついた。  「お金ですよ」  と、うめが言った。  「え?」  「人間、万事、お金です。お金の欲《ほ》しくない人間なんていません」  「そりゃね……」  「だから、お金が総《すべ》ての中心なんですわ」  うめが引っ込《こ》むと、文江は、ちょっと考え込んだ。  「——うめも、なかなかいい事を言うじゃないの」  と、公江が言った。  「そうね。——総ては七年前にさかのぼるんだわ。でなきゃ、私《わたし》が狙《ねら》われたりするはずがないもの」  「あなたが帰って来たことで、何《ヽ》か《ヽ》が起ったのよ」  「そうか」  草永は肯《うなず》いた。「君が帰ったことで、一体どういうことが起ったのか」  「起った、って……色々よ」  と文江は肩《かた》をすくめた。  「和也さんがあなたを殺してい《ヽ》な《ヽ》い《ヽ》ことが分ったわ」  「そうね。それから……それぐらいじゃないの」  「和也さんが無《む》実《じつ》だった。そ《ヽ》こ《ヽ》か《ヽ》ら《ヽ》、今度は何が起ったのか、を考えるのよ」  と公江は言った。  「両親を呼《よ》び戻《もど》そうとしたわ……」  「それは当然考えられるね」  と草永は言った。「いいかい、君が帰って来た時点で、誰《ヽ》か《ヽ》が、坂東夫《ふう》婦《ふ》が村へ帰って来るに違《ちが》いないと思ったんだ」  「でも、その人物は、帰って来られては、まずかったわけね」  「そうだ。特《とく》に、君が、坂東夫婦の所を訪《たず》ねて行くに違《ちが》いないと知っていたんだ。そして君を襲《おそ》った。諦《あきら》めさせようとしたんだろう」  「でも、むだだった」  「だから坂東老人を殺した」  「でも、どうしてご主人だけを殺したのかしら?」  「それは分らないね。奥《おく》さんは危《あや》うく、難《なん》を逃《のが》れたのかもしれない」  「だとしたら、なぜ奥さんは警《けい》察《さつ》へ行かないで、この田《でん》村に、戻《もど》って来たのかしら?」  「忘《わす》れちゃいけないよ」  と、公江が言った。「あの夫《ふう》婦《ふ》は、息子《むすこ》が無《む》実《じつ》の罪《つみ》で、死へ追いやられたと思ってたからね」  「警察を信じなくても当然か……。そうなると、あの夫婦へ、生活費を送っていたのは誰《だれ》だったのかが問題になるわね」  「そうだな。しかし、それは別じゃないかな、つまり——」  「殺人とは切り離《はな》して考えろってこと?」  「そうさ。金を送ってたのは、ただあの二人に同《どう》情《じよう》していた人物かもしれない」  「それはそうね」  と、文江は肯《うなず》いた。  「これで、一つのつながりができたじゃないか。君の帰《き》郷《きよう》から、坂東老人の殺害まで」  「でも、どうして坂東さんが戻《もど》って来たらまずいの? 真《しん》犯《はん》人《にん》が出て来て、坂東さんが仕返しに来る、とでもいうのならともかく」  「そうだな。あんな年《とし》寄《よ》り——といっちゃ失礼だけど、どういうまずいことがあったんだろう?」  草永も考え込《こ》んだ。  「——お金ですよ」  と公江が言った。  「え?」  「さっき、うめが言ったでしょ。人間、万事お金だ、って」  「そうか!」  草永が指を鳴らした。「あ《ヽ》の《ヽ》家《ヽ》だ《ヽ》!」  「あの家へ帰られるのが、まずかったのね!」  と、文江も思わず声を高くした。  「そうだ。もしかすると——」  草永は考えながら、「あの家が空家になって、それから誰《だれ》かが金を埋《う》めたかもしれないぞ」  「じゃ、和也君は強《ごう》盗《とう》の一人じゃなかった、っていうの?」  「それはどっちとも言えないよ。しかし、あんな風に空家になってしまった家だ。あそこなら、安全に隠《かく》しておけるかもしれない、と思ったんじゃないかな」  「そこへ坂東夫《ふう》婦《ふ》が戻《もど》って来ると……」  「あの金を見付ける可《か》能《のう》性《せい》があるからね」  「だから殺した。——なるほどね。その可能性は大ありだわ」  文江は、すっかり興《こう》奮《ふん》していた。  「ちょっと待って」  と公江が声をかけた。「でも、あの空家が、もし取り壊《こわ》されて、家が建っちゃったらどうなるの? むしろ七年間、手つかずだった方が不思議なのよ」  「それはそうね。——だから、そうはならないと犯《はん》人《にん》が知《ヽ》っ《ヽ》て《ヽ》い《ヽ》た《ヽ》としたら?」  「つまり、持主の問題になる」  と草永が言った。  そのとき、エヘン、と咳《せき》払《ばら》いがして、文江は仰《ぎよう》天《てん》した。  「失礼しました」  室田が立っていたのである。「いや、みなさんのすばらしい推《すい》理《り》に聞き惚《ほ》れておりまして」  「お人が悪いわ。さあ、どうぞ」  と、公江が言った。「ご昼食は?——ではせめてコーヒーぐらい、お付き合い下さいね」  「恐《おそ》れ入ります」  室田は、席につくと、「今のお話は、大変面《おも》白《しろ》い。おそらく、真相をついているのではないかと思います」  「室田さん。あの空家の持主は、誰《だれ》なんですか?」  と文江が訊《き》く。  「あそこは何ともややこしいことになっていましてね。抵《てい》当《とう》に入ったことが何度もあるのです」  「というと、坂東さんが借《しやつ》金《きん》を?」  「そのようです。理由は分りません。ともかく、少なくとも三回、抵《てい》当《とう》に入っているんです」  「変ね、そんな話、初耳だわ」  「私は耳にしたことがありますよ」  と、公江が言った。「坂東さんは賭《か》け事《ごと》が好《す》きだったようね」  「なるほど。その借金ですかね。ところで、最終的には、あそこは誰《だれ》の持物になっていたと思います?」  室田が三人の顔を見回した。  「——分らないわ」  と文江が言った。  「金子さんでしょう」  と公江が言った。  「どうしてお分りになったんです?」  室田が目を丸《まる》くした。  「金子さんが、よくみんなにお金を貸《か》しているという話は、聞いていましたからね」  「お母さんは狡《ずる》いわ」  と、文江は母をにらんで、「年の功ですものね」  「まあね。でも、坂東さんに貸《か》していたのは初耳ね」  「じゃ、七年間、ずっとあの家は金子さんのものだったんですね」  「そういうことになります」  と、室田は肯《うなず》いた。「金子駅長が、なぜ、あの家を、そのままにして放っておいたのかは分りません。まあ、そう高く売れるわけではないでしょうが、それでも、ただ持っているよりはいいと思いますがね」  文江は肯《うなず》いた。——現《げん》に、あの隣《となり》には百代が住んでいるのだ。  「それはつまり——」  と草永が少し身を乗り出して、「金子さんが、あそこに金を埋《う》めてあるのを知っていたということですか」  室田は、ちょっと考えて、  「可《か》能《のう》性《せい》はあります」  と慎《しん》重《ちよう》に返事をした。  「でも、それなら、なぜ掘《ほ》り出さなかったの?」  「そいつは分らないけど、他に理由が考えられるかい?」  「まあ、金子さんにしてみれば、村では、もちろん顔は知られているし、もし金がどこかにあると知っていても、具体的な場所を知らなかったら、とても夜中に忍《しの》び込《こ》んで来て捜《さが》し回るわけにいかなかったでしょう」  「そうね。もし見付かったら大変だし」  「奥《おく》さんもやかましい人ですもの」  と公江が言った。「ついつい、捜しそびれている内に、七年たったのかもしれませんよ」  「そうね……。そこで金子さんの死もつながって来るわけだわ」  「金子さんは毒殺された。すると——」  「犯《はん》人《にん》は、金子さんが、死を間近にして、何もかもしゃべってしまうかもしれない、と恐《おそ》れた、ってのはどう?」  と文江は目を輝《かがや》かせた。  「なるほど。それなら筋《すじ》が通る」  と、草永が肯《うなず》く。  「ね、つまり、金子さんが、お金の秘《ひ》密《みつ》を、誰《だれ》かに話したのよ。七年間ですもの。何かの弾《はず》みで、ついしゃべってしまうことがあるでしょう」  「なるほど。そいつは金子さんにしゃべられちゃ、困《こま》るわけだな」  「で、先の短い金子さんを、わざわざ毒殺したってわけよ」  「でも、それは誰なんだい?」  文江は肩《かた》をすくめて、  「分るわけないでしょ、私に」  と言った。 17 弓《ゆみ》と銃《じゆう》声《せい》  ともかく、金子駅長が、この事《じ》件《けん》に、直《ちよく》接《せつ》関《かかわ》っているという可《か》能《のう》性《せい》は高くなった。  もつれからまる事件が、少しずつ見通せるようになって来て、文江は胸《むね》のふくらむのを覚えた。  「君は変ってるよ」  村への道すがら、草永が言った。  「あら、何が?」  「普《ふ》通《つう》の女《じよ》性《せい》は、恋《こい》とか、甘《あま》い物とかに胸をときめかせるんだぜ。ところが君と来たら、殺人事件に胸をときめかせている」  「仕方ないでしょ。性《しよう》分《ぶん》よ」  と、文江は言って、「何なら、東京へ帰ったら?」  と、草永を見た。  草永は苦《く》笑《しよう》して、  「そういう君に惚《ほ》れてるんだから、しようがないよ」  と、言った。  文江はちょっと笑《わら》った。内心、申し訳《わけ》ないと思わぬでもない。  草永は、仕事を放り出してここへ来ているのだ。いつまでも長びくようなら、本当にクビかもしれない。  「ねえ、あなた、無《む》理《り》なら東京へ帰ってもいいのよ、本当に」  「ここまで来てか? 冗《じよう》談《だん》じゃない。こっちにも好《こう》奇《き》心《しん》ってものはあるんだよ」  「じゃ、いいけど……」  と、文江は言った。  もちろん、内心は嬉《うれ》しいのである。  「——ねえ、ちょっと話があるんだが」  と、急に草永が言い出した。  「話なら、いつもしてるじゃないの」  「そうじゃないよ。——ちょっと座《すわ》らないか?」  「ここに?」  と文江は言った。  そこは道の真中だったからだ。  「どこか、その——喫《きつ》茶《さ》店《てん》はないのかい?」  「当り前でしょ」  と、文江は笑《わら》った。「じゃ、いいわ。ほら、その細い道へ入りましょう」  「奥《おく》に喫茶店があるの?」  「まさか! 神社があるの。静かで、人のいない、いい所よ」  「静かで人がいない、というなら、ここだってそうだぜ。ただ座る所がないだけだ」  「神社なら、小さな椅《い》子《す》ぐらいあるわ」  「よし、行くか」  と歩き出して、草永は、「席料は取らないだろうね?」  と訊《き》いた。  かなり、都会病に毒されているようである。  行ってみると、確《たし》かに、人のいない、静かな境内《けいだい》である。——普《ふ》通《つう》なら。  子《こ》供《ども》たちが駆《か》け回って遊んでいるのだ。  境内狭《せま》しと駆け回り、奇《き》声《せい》を発する子供たちに、目をやりながら、  「喫《きつ》茶《さ》店《てん》よりうるさいぜ」  と草永は言った。  「いいじゃない。子供の声って、私《わたし》、大《だい》好《す》きよ」  「しかし、話をするときは……」  「大声で言えば?」  「早く結《けつ》婚《こん》してくれ、と大声で話すのかい?」  「まあ……」  文江はちょっと真顔になって、「だめよ。この事《じ》件《けん》が片《かた》付《づ》くまでは」  「そりゃ分ってる。しかしね、実《じつ》際《さい》に、僕《ぼく》らは結婚してるも同然なんだし——」  「『同然』と結《けつ》婚《こん》は違《ちが》うわ」  「うん。しかし、お母さんもいい人だし、僕はますます、君と結婚しよう、と決心したんだよ」  文江は、ちょっと微《ほほ》笑《え》んで、  「ありがとう」  と言った。「嬉《うれ》しいわ。でも、やっぱり事件が片付かないとね」  「それでもいいから、約《やく》束《そく》してくれ」  「だって——いいじゃない、その後で」  「だめだ! 今、約束してくれ」  と、草永が食い下がる。  「どうして、今するの?」  と、文江は言い返した。  「君のお母さんと約束した」  「母と? 何を約束したの?」  「君と結婚の約束をすると約束した」  「ややこしいのね」  「ともかく、君のお母さんに誓《ちか》った手前、結《けつ》婚《こん》してくれないと困《こま》るんだ」  「勝手言って——」  「そりゃ分ってる。しかし、大体恋《こい》なんて、自分勝手なもんだよ」  「それこそ勝手よ」  「ともかく、いいだろ?」  と、草永はしつこい。  「いやだと言ったら?」  「いいと言うまで訊《き》く」  文江は笑《わら》い出してしまった。草永は大《おお》真《ま》面《じ》目《め》でそんなことを言うので、笑い出さずにいられないのである。  「すぐに笑うんだからね、君は」  と、渋《しぶ》い顔をしたと思うと、やおら、文江を抱《だ》き寄《よ》せてキスした。  とっさのことで、文江もされるままになっていた。  「ワーイ!」  と子《こ》供《ども》たちの歓《かん》声《せい》に、文江は、あわてて、草永を押《お》し戻《もど》した。  子供たちが、七人、八人、みんな集って来て、冷やかし半分の声を上げている。  「もう、あなたが変なことするから——」  と、文江は赤くなって、にらみつけた。  「いいじゃないか、婚《こん》約《やく》者《しや》同士なんだから」  子供たちが、  「やーい、もういっぺんやれ!」  などと拍《はく》手《しゆ》をしている。  「全くもう、今は、どこの子供もませてるんだから!」  と、文江は腕《うで》組《ぐ》みをして、言った。  「それより、返事はOKなんだろうね」  と草永が訊《き》いたが、文江の方は、何だか目をひかれたものがあるようで、  「あれは……」  と立ち上り、「ねえ、ちょっと、その子!——怒《おこ》らないから、こっちへ来てよ」  と、歩いて行く。  草永の方は肩《かた》すかしで、がっくり来た顔をしている。  「ねえ、草永さん! これを見て」  と、文江が手にしていた物を見せる。  それは一本の矢《や》だった。      「なるほど、これはアーチェリーの矢ですよ」  室田が、文江の手にした矢を見て言った。  「あの矢とはどうですか?」  「同じ物です。メーカーも同じ。違《ちが》うのは、先を尖《とが》らせていないことですな」  再《ふたた》び、神社の境内《けいだい》。もちろん一時間ほど後のことである。  「で、その子供がこれを拾ったというのは、どの辺です?」  と、室田が訊《き》いた。  「あっちです」  文江が先に立って歩いて行く。  木立ちの奥《おく》に、小さな古ぼけた石の仏《ぶつ》像《ぞう》が立っている。  「この近くだったそうです」  「なるほど。まさかこの仏《ほとけ》様《さま》に矢《や》を射《い》かけてたわけでもないでしょうが……」  室田は境内《けいだい》の方を振《ふ》り向いて、「的を外れてここへ落ちたとすると……ちょうどいい木はどれかな」  室田は、一番幹《みき》の太い木へと歩いて行くと、ぐるりとそれを一回りした。  「——これですよ」  「その木ですか?」  「ごらんなさい。幹の境内の側は、こんなに穴《あな》が開いている」  「本当だわ」  「この木に、的を貼《は》りつけて、練習したんでしょう」  「私を射《う》つために?」  「たぶん。——それでも、最初は的からそれて後ろへ行ってしまうものがあった。あの一本は、その中の、見付けられなかったものでしょう」  「弓《ゆみ》なんて、そんなに早く上達するもんでしょうか?」  「昔《むかし》やった人間ならね」  と室田は言った。「しかし、もとが上手《うま》くないとね」  「まさか白木さんが……」  「それは違《ちが》うでしょう。必ずしも、村の人が知っているとは限《かぎ》りません。それに、弓というのは、かなり優《ゆう》雅《が》な趣《しゆ》味《み》ですからね」  「しかし、わざわざ練習して、君を狙《ねら》うなんて、憎《にく》らしい奴《やつ》だな」  と、草永が憤《ふん》然《ぜん》として言った。  「どれくらい練習すれば、上手になるものかしら?」  「まあ普《ふ》通《つう》にやって一年だろうね」  「草永さん、やったことあるみたいなこと言うじゃない」  「もちろんさ。あるんだもの」  「——本当?」  文江は目を丸《まる》くした。  「ああ。なかなか上手《うま》いもんだぜ」  と、草永は言った。  「それはいい。ちょうど弓《ゆみ》を持って来たし、一つやってみて下さい」  と、室田が言うと、草永はためらいもせずに、  「いいですよ」  と引き受けた。  面食らったのは文江である。〈弓を引くへラクレス〉というのは知っているが、〈弓を引く草永〉では、せいぜい〈森《もり》永《なが》〉のキューピッドぐらいしか連想しない。  「じゃ、何か的をつけましょう」  室田が、近くの木の方へ歩いて行く。「どんなものがいいですか」  「名《めい》刺《し》がありますか」  「ええ、一《いち》応《おう》はね」  「それを一枚《まい》、枝《えだ》に突《つ》き刺《さ》しておいて下さい」  「——こうですか?」  と、室田が、くたびれた名《めい》刺《し》を、少し太目の枝の一本へと刺した。  「ええ、結《けつ》構《こう》です」  文江は、草永の方へ、  「ねえ」  と、そっと声をかけた。  「何だい?」  「私、後ろに立ってるけど……」  「それがどうした?」  「大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》? 矢《や》に当らない?」  「おい、よせよ……」  草永はため息をついた。  弓《ゆみ》を取り、矢をつがえる。——文江は目を見《み》張《は》った。なかなか、さ《ヽ》ま《ヽ》になっているのだ。  きりりと引き絞《しぼ》って本当に——キリキリという音がした——指を離《はな》す。  ヒュッという音で、襲《おそ》われたときのことが一《いつ》瞬《しゆん》、文江の頭を走った。  ピシッと音がして、名《めい》刺《し》を刺《さ》した枝《えだ》が、みごとにふっとんでいた。  文江は唖《あ》然《ぜん》とした。  「お見事!」  と、室田が拍《はく》手《しゆ》する。  「だめだな、久しぶりだから」  と、草永は首を振《ふ》った。「本当は名刺だけ狙《ねら》ったんですよ」  「しかし、立《りつ》派《ぱ》な腕《うで》前《まえ》ですよ」  と、室田は感心の態《てい》。  「本当ね。びっくりしたわ」  と文江は言った。「人間って、何か取り柄《え》があるものね」  「どういう意味だい?」  と、草永が言った。  「ともかく、ここで練習していた人間がいるのは事実ですな」  室田は、そう言って、草永から弓《ゆみ》を受け取った。  「その子《こ》供《ども》は、矢《や》を拾っただけですか?」  「そう言ってましたわ」  「ふむ……。しかし、練習しようと思えば、明るくなくてはならない。そうなれば、一度くらいは子供の目に触《ふ》れてるんじゃないかと思いますがね」  「他《ほか》の子たちにも訊《き》いてみれば良かったですね」  「しかし、しゃべるかどうか。——子供は秘《ひ》密《みつ》を大切にするものです。まして相手がよその人では……」  よその人。  文江は、その言葉に、ちょっとショックを受けた。しかし、考えてみれば、あのとき遊んでいた子たちなど、自分が村を出たときには、まだ赤ん坊《ぼう》だったわけなのだ。  彼《かれ》らから見れば、「よそ者」には、違《ちが》いない。  「白木から、少し話をさせましょう」  と、室田は言った。「あれも自分なりに必死です。心当りの子供たちへ話してくれるでしょう」  「もし、練習していた人間がいるとしても、犯《はん》人《にん》とは限《かぎ》りませんね」  と、草永が言った。  「もちろん逮《たい》捕《ほ》はできません。しかし、ああいう場所で練習すること自体、危《き》険《けん》です。それを理由に調べることはできますよ」  室田が急ぎ足で行ってしまうと、文江と草永は何となく立ち止って、黙《だま》りこくっていた……。  もう子供たちの姿《すがた》もなくて、本当に二人きりだった。だが、却《かえ》って、何だか気《き》恥《は》ずかしいのである。  「——さあ行こうか」  と、草永が言うと、文江もホッとして、  「そうね」  と、草永の腕《うで》を取った。  こういうことは気楽にできるし、寝《ね》るのも平気で楽しんでいるのだが、いざ結《けつ》婚《こん》の話となると、尻《しり》ごみしてしまう。  要するに、結婚して失うものがあるということがやはり不安なのである。  いつか、そうなるかもしれないが、しかし……今は……。      「——あの倉庫ね」  駅まで来て、文江は言った。  半焼した倉庫が、ホーム越《ご》しに見える。  「やあ、お嬢《じよう》さん」  と、やって来たのは、庄司鉄男である。  「仕事はどう?」  「ちっとも憶《おぼ》えらんなくて」  と、鉄男がため息をつく。  こんな暇《ひま》な線で、憶え切れないのでは、東京の山手《やまのて》線あたりへ来たら、失神するに違《ちが》いない。  「ねえ、一つ訊《き》きたいんだけど」  と、文江は言った。「——今、大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》でしょ?」  「ええ。後三十分来ません」  「あのね、私《わたし》が、ここに戻《もど》った日のこと、憶《おぼ》えてる?」  「七年ぶりにお帰りになったときですか。ええ、もちろん憶えてますよ」  「私、あの日の最終で東京へ戻ったの」  「あ、そうでしたね」  「あの後、私《ヽ》以《ヽ》外《ヽ》で、この村から発《た》って行った人はいたかしら?」  「お嬢《じよう》さんの後ですか?」  「ずっと後じゃなくて、次の日とか、その次ぐらいに」  「うーん」  と、鉄男は考え込《こ》んだ。「さて、誰《だれ》かって言われても……。年中、村の人はここを利用してますからね」  「でも、隣《となり》の町とか、そんなんじゃなくて、何日かの泊《とま》りがけで出かける人は、そういないでしょ」  「ええ。ああ、そういえばあのとき、誰かいたな」  「本当?」  「ええ。でも……」  「思い出せない?」  「いえ、憶《おぼ》えてますけど——」  「じゃ教えてよ」  「でも、お嬢《じよう》さんの後《ヽ》じゃありません」  「私の戻《もど》る前じゃ仕方ないの」  「いいえ。その日の夕方です」  文江と草永は目を見《み》交《か》わした。——文江が到《とう》着《ちやく》した日の夕方に、ここを発《た》った者がいるのだ!  文江の帰《き》郷《きよう》は、アッという間に村中に知れ渡《わた》っているはずだ。あわてて、その日の内に旅立つ者がいてもおかしくない。  もしかすると、その人間が、文江を襲《おそ》い、坂東を殺したのかもしれない。  「それは誰《だれ》?」  と、文江は勢い込《こ》んで訊《き》いた。  「宮里医《せん》師《せい》ですよ」  と、鉄男は言った。  「——参ったなあ」  と、草永と二人で、村の道を戻《もど》りながら、文江は言った。  「どうして? 昔《むかし》からこの村にいる医者なんだろ?」  「ええ。凄《すご》くいい先生なのよ。〈医は仁《じん》術《じゆつ》〉なんて古い言葉を実行してる、まれな人物なの」  「すると、どうも殺《さつ》人《じん》犯《はん》とは関係ないようだな」  「でも——一《いち》応《おう》、疑《うたが》ってかかるべきだと思う?」  「僕《ぼく》がその先生なら、訊《き》いてほしいね」  文江は肯《うなず》いて、  「そうね……。あなた、どこか悪くない?」  と言った。      「東京へ?」  と、宮里医《い》師《し》は訊《き》き返した。  「はい。私が帰ったとき、入れ違《ちが》いに行かれませんでしたか」  「さて、そうだったかな」  と、宮里は天《てん》井《じよう》を見上げて、「ひどい天井だ。雨もりがするんだぞ」  と言った。  「大変ですね」  「いいかね。確《たし》かに、その日、村を出て東京へ行ったよ。しかし、あんたが戻《もど》ったことは噂《うわさ》しか知らなかった」  「そうですか」  と文江は肯《うなず》いた。「あの——失礼だとは思うんですけど——」  「何だ?」  「東京にどんなご用だったのか、教えてもらえませんか?」  「お安いご用だ」  と、宮里は言った。「若《わか》い女を囲っとるんだ。それで月に一回、小《こ》遣《づか》いをやりに行くことに——」  「先生!」  と、文江は宮里をにらみつけて、「私は真《ま》面《じ》目《め》にうかがってるんです!」  「いや、すまん」  と、宮里は笑《わら》って、「実は、招《まね》かれとったんだ」  「何にですか?」  「ノーベル医学賞のパーティではないが、やはり医者の集りでな。金があるから、食い物がいいのだ」  「そのために東京へ?」  「そうとも。他に何かあるのか?」  「いえ、それならいいんです」  文江は、早々に宮里医院を出た。  何でもないのに注《ちゆう》射《しや》でも射《う》たれちゃかなわない、と、表で待っていた草永は、文江の話に、  「それじゃ、別に怪《あや》しくないじゃないか」  「でも一《いち》応《おう》調べなきゃ。——疑《うたが》うわけじゃないけどね」  「どうやって?」  「そのパーティのあった会場に訊《き》いてみる。主《しゆ》催《さい》がどこだったのか、そして、先生は本当に出席したのか」  「大分本《ほん》格《かく》的だね」  「そうよ。探《たん》偵《てい》は辛《つら》いわ。たとえ、愛する人でも、弓《ゆみ》の名手だから、疑《うたが》わなくてはならない」  「おい.冗《じよう》談《だん》じゃないぜ」  と、草永は言った。「——しかし、それが正しいかもしれない」  「え?」  文江が見ると、草永は、ポケットへ、何やらしまい込《こ》んでいる。  「どうしたの?」  「髪《かみ》をとかしたのさ」  「それがどうしたの?」  「鏡を見てたんだ。——今のお医者さん、我《われ》々《われ》をずっと見送ってたよ」  「へえ。じゃ、一体——」  「妙《みよう》だろ? それに、鏡の中で見ただけだけど、ずいぶん、暗い顔をしていたぜ」  そう。——文江も、そう感じた。  先生、どこかおかしい。だからこそ、調べる気になったのだった。      「——やっぱり事実だったわ」  と、文江は家の二階へ上って来て、言った。  「うん……」  草永は、あまりTVなんか見ないのに、ただ点《つ》けておきたいようだった。  「ホテルへ、行ってるわ、あの先生」  「そうか」  「でも一泊《ぱく》じゃないらしいの。一泊なら、滞《たい》在《ざい》費《ひ》も出るらしいけど、先生は少し長くいたらしいの。パーティの後、どこへ行ったかは不明」  「で、これからどうするんだ?」  「そうねえ……」  と、文江は考え込《こ》んだ。  「室田さんへ知らせないのか?」  「どう思う? あんまり気は進まないんだけど……」  と、ためらいがちに言っていると、  「失礼します」  と、うめの声がした。  「はい。どうしたの?」  「お電話でございます」  「すぐ行くわ」  ——もう夕食も終え、時計は九時近くになっていた。  下へ降《お》りて、電話に出る。  「はい、文江です。——もしもし?」  「お、お嬢《じよう》さんですか」  「何だ鉄男君? どうしたの?」  「昼間の話なんですけど——」  「昼の、って……」  「お嬢さんの後、東京へ——」  「ええ。宮里先生ね?」  「実はも《ヽ》う《ヽ》一《ヽ》人《ヽ》いたんです」  「もう一人?」  「ええ。ついさっき思い出したもんですから」  「それは誰《だれ》なの?」  「ええ、あの次の日に東京まで行ったのは、二人いて——」  「二人も?」  「はい。僕もびっくりしちゃったんですよ」  「誰と誰?」  「それは——」  突《とつ》然《ぜん》、ドンという鈍《にぶ》い音が、送話口から伝わって来る。  「もしもし? どうしたの?——鉄男君」  ——沈《ちん》黙《もく》。  「鉄男君!——鉄男君!」  カチリ、と音をたてて、電話が切れてしまっている。  あの音は? もしかすると、銃《じゆう》声《せい》だろうか?  そうなると、いても立ってもいられない。  文江はあわてて二階へと駆《か》け上った。 18 夜の乗《じよう》降《こう》客《きやく》  「銃《じゆう》声《せい》だって?」  草永は飛びはねるような勢いで、立ち上った。  「分らないの。でも、そんな風に聞こえたのよ」  「すぐ行ってみよう!」  「ええ。でも——」  「何だい?」  「鉄男君がどこからかけてきたのか、分らないわ」  「なるほど」  草永はちょっと考えて、「ともかく、自《じ》宅《たく》へ行ってみよう。どこか他の所にいるとしても、ここじゃ調べようがない」  「そうね」  と、文江は肯《うなず》いた。  ——二人が駅の近くまでやった来たとき、途《と》中《ちゆう》の家から、ヒョイと出て来た人《ひと》影《かげ》と、あやうくぶつかりそうになった。  「——あら、お嬢《じよう》様《さま》」  と、言ったのは、鉄男の母だ。「こんな時間にどこかへお出かけですか?」  「鉄男君は?」  「鉄男にご用ですの? 駅で仕事だと思いますけど」  そうか、と文江は思った。そういえば、まだ最後の列車には間がある。するとあの電話は駅からだろうか?  「じゃ、ご一《いつ》緒《しよ》に駅まで参りましょうか」  と、鉄男の母が歩き出す。  文江と草永は、電話の銃《じゆう》声《せい》のことはまだ話す気になれず、その後をついて行った。  駅《えき》舎《しや》は、ポツンと明りが灯《とも》っているだけで、静かなものであった。  もちろん、最後の列車に、乗《じよう》降《こう》客《きやく》はほとんどいない。バスなら、常《つね》に「通《つう》過《か》」というところだろう。  実《じつ》際《さい》、駅が失《な》くならないのが不思議なほどである。  「どこにいるのかしら、鉄男は」  と、母親は駅舎の方を見て、「あそこにはいないようですね。——鉄男」  呼《よ》びながら、ホームの方へ入って行く。  文江と草永は、少し遅《おく》れてホームへ入ったが、別《べつ》に広いホームでもない。人っ子一人いないことは一目で分る。  「変ですね……」  文江は、誰《だれ》もいないように見える駅舎の方へと近づいて、中を覗《のぞ》き込《こ》んだ。——古ぼけた机《つくえ》、椅《い》子《す》、キャビネット。  「見て!」  と、文江は言った。  机《つくえ》の下から、足が出ている。  「大変だ!」  草永は、ドアを開けて中へ飛び込《こ》んだ。文江も続く。——やはり殺されていたのか?  すると……机の下から、モゾモゾと鉄男が這《は》い出して来たのである。  そして、呆《あつ》気《け》に取られている文江と草永を見上げると、  「やあ、お嬢《じよう》さん!」  と、ヒョイと起き上って、「何かご用ですか?」  と訊《き》く。  「鉄男君……。どうしたの?」  文江はすっかり面食って訊いた。  「いえ、机の下のコンセントがいかれちゃったんで、直してたんです」  鉄男は立ち上って、ズボンの尻《しり》をはたいた。  「そうじゃなくて——さっき、どうして電話を切ったの?」  文江の問いに、鉄男はキョトンとして、  「電話って何です?」  と訊《き》き返して来た。  「さっき、かけて来たじゃないの。昼間の話のことで」  「さっきって……。かけませんよ、僕《ぼく》」  「かけないって?」  文江は耳を疑《うたが》った。「あなたから電話で……急にズドンって音がして……」  「ズドン? 何です、それ?」  文江は頭を叩《たた》いた。もちろん自分のである。  「——つまり、偽《にせ》電《でん》話《わ》だった、ってわけだな」  と草永は言った。「ともかく君が無《ぶ》事《じ》で良かったよ」  「どうも……」  鉄男の方も、文江に劣《おと》らず、わけの分らない様子で、二人の顔を見ている。  「——鉄男」  と、母親が顔を出す。  「あ、母さん。どうしたんだい?」  「出かけた帰りよ。真《ま》面《じ》目《め》にやってるのかい?」  「当り前だよ」  と、鉄男はシャンと背《せ》筋《すじ》を伸《の》ばした。「俺《おれ》一人がこの駅をしょって立ってんだぜ」  「いきがってるのはいいけどね」  と、母親が言った。「何だか列車の音がするようだよ」  「いけねえ!」  鉄男は、あわてて帽《ぼう》子《し》をかぶると、ホームへ飛び出して行く。トンネルに、ゴーッと列車の轟《ごう》音《おん》が響《ひび》き、先頭の、目玉のようなライトが、光を投げながら近づいて来た。  母親がため息をつくと、  「日本の国鉄は大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》なんでしょうかね、あれで」  と、社《しや》会《かい》評《ひよう》論《ろん》家《か》の如《ごと》きことを言い出した。  だが、文江の関心は、差し当り、国鉄の未来よりも、あの電話の方にあった。  「鉄男君の声のように聞こえたけど……」  「でも、撃《う》たれもしないでピンピンしてるじゃないか」  「そうなのよね……どうなっちゃっているのかしら、全く!」  と、苛《いら》々《いら》した声を出す。  草永が何か言った。しかし、ちょうどホームへ入って来た列車の音でかき消されてしまう。  「——何て言ったの?」  と、文江は訊《き》き返した。  「——そこが君とお母さんの違《ちが》う所だ、と言ったのさ」  「どういうことよ?」  「つまり、妙《みよう》なことが起ると、君は頭に来て放り出す。君のお母さんはおっとりと受け止めて考える」  「そりゃ、年齢《とし》の差よ」  と、文江は言い返した。「——あら、珍《めずら》しい」  「え?」  「ほら、降《お》りる人がいたわ」  振《ふ》り向くと、なるほど、人《ひと》影《かげ》が一つ、ホームへ降り立ったところである。  明りの届《とど》く所まで歩いて来ると、コートに身を包み、顔を伏《ふ》せがちにした婦《ふ》人《じん》だと分った。かなりの年《ねん》齢《れい》と見えた。  「——切《きつ》符《ぷ》を」  と、鉄男に言われて、その老婦人は、急いで切符を鉄男の手に押《お》しつけ、小走りに改《かい》札《さつ》口《ぐち》を抜《ぬ》けて、出て行った。  「——まあ、あの人」  と、少し間を置いて、鉄男の母が言った。  「知ってる人?」  と文江が訊《き》くと、  「ええ、ちょっと見たときは分らなかったんですけどね」  と、肯《うなず》いて、「あの人、坂東さんですよ」  「坂東?」  草永が驚《おどろ》いて、「坂東和也の母親ですか?」  「ええ、間《ま》違《ちが》いありません。ずいぶん老《ふ》けてしまったので、すぐには分りませんでしたわ」  「あれが坂東雪乃さん……」  文江は呟《つぶや》いた。もちろん、文江とて知っているはずなのだが、やはりあまりに変ってしまっていたのだ。  あまりに思いがけない出《しゆつ》現《げん》に、二人はしばし呆《ぼう》然《ぜん》としていたのだが——。  「草永さん! あの人を見失わないようにしなきゃ」  我《われ》に返って、文江は駆《か》け出した。  「そうだ!」  少なくとも、坂東雪乃は、夫が殺された事《じ》件《けん》で、警《けい》察《さつ》が捜《さが》しているのである。見付けたからには、警察へ通《つう》報《ほう》しなくてはならない。  が、今の二人は、そんなことは別に気にもしていないのはもちろんである。ともかく、事件を解《と》く鍵《かぎ》の一つが、彼女《かのじよ》なのだ。それこそ肝《かん》心《じん》なことだった。  文江は改《かい》札《さつ》口《ぐち》を出て、町への道を走った。坂東雪乃が、こっちへ来たのは見ていたのである。  年《とし》寄《よ》りの足だ。そう遠くへ行くはずはない。しかし、しばらく走っても、雪乃の姿《すがた》は見えなかった。文江は足を止めた。  「おい、どうしたんだ?」  草永が追いついて来る。「いなくなっちゃったじゃないか」  「変だわ、この道しかないはずよ」  「だって、いないよ、本当に」  「そうねえ……。どこへ行っちゃったのかしら?」  「まさかあの婆《ばあ》さんが、百メートルを一〇秒で走ってったわけないだろうし……」  「途《と》中《ちゆう》、どっちかへ隠《かく》れたのかもしれないわよ」  と、文江は言った。「ねえ、捜《さが》してみましょう。あなたは右側、私、左側を捜すから」  「OK」  文江と草永は手分けして道の両側を見て回った。——しかし、ついに、坂東雪乃の姿《すがた》は見当らなかったのである。      「ああ疲《つか》れた」  文江は、玄《げん》関《かん》にペタンと腰《こし》をおろして、息をついた。  疲れるはずだ。その怪《かい》電《でん》話《わ》でここを出たのが九時過《す》ぎ。もう十二時を回っている。  三時間も歩き回っていたことになるのだ。  「お帰りなさいませ」  と、うめが出て来る。  「まだ起きてたの」  と、文江は上りながら言った。  「はい。お客様がおいででしたので」  「まあ、お母さんに?」  「さようでございます。——お風《ふ》呂《ろ》へ入られますか?」  「ええ、そうするわ、お母さんはもう寝《ね》たの?」  「お休みになったようです」  「じゃ、こっちも休むことにするわ」  と、文江は欠伸《あくび》しながら言った。  「ご一《いつ》緒《しよ》にお入りになりますか?」  とうめが訊《き》くと、  「いや、別々ですよ」  と、草永があわてて言った。  階《かい》段《だん》を上がりながら、文江はクスクス笑《わら》って言った。  「分って言ってるのよ、うめは。本気にしないで」  「本当は一緒でもいいんだけどね」  と、草永が言うと、  「お断《ことわ》りよ」  と、文江が舌《した》を出す。  「こいつ!」  草永が笑って抱《だ》きつこうとしたので、文江は素《す》早《ばや》く逃《のが》れる。二人は笑いながら、二階の廊《ろう》下《か》で追いかけっこをしていた。  急にガラリと障《しよう》子《じ》が開いて、公江が顔を出す。  「あ——お母さん」  文江があわててピタリと立ち止ったので、草永が止り切れずに追《つい》突《とつ》した。二人は一《いつ》緒《しよ》に廊《ろう》下《か》で引っくり返った。  「若《わか》いのはいいことだけど、家を壊《こわ》さないでよ」  と公江は澄《す》ました顔で言った。  「し、失礼しました」  草永が立ち上りながら頭をかく。  「お母さん、二階で何してるの?」  「お客様とお話ししてたのよ」  と公江は言って、「そうね、お前もお話があるんじゃないの? 入りなさい」  と、障子を大きく開けた。  「まあ——」  文江は言葉を呑《の》み込《こ》んでしまった。  そこに座《すわ》っていたのは、さっき、駅で見た老《ろう》婦《ふ》人《じん》——坂東雪乃だったからである。  「坂東さんよ」  と、公江が言った。「文江、入ったら?」  「ええ……」  文江は、ポカンとして、部《へ》屋《や》へ入ると、座《すわ》り込《こ》んで、「じゃ、お母さんは——」  「姿《すがた》が消えた謎《なぞ》が分ったね」  と草永が微《ほほ》笑《え》んだ。「要するに、お母さんが迎《むか》えに行っていたんだ」  「で、車でさっと連れて来たのね。見付からなかったはずだわ」  「お久《ひさ》しぶりです」  と、坂東雪乃は、文江の方へ頭を下げた。  「こちらこそ……。あの——和也君のことは本当にお気の毒でした。私のせいでもあるんです。申し訳《わけ》ありませんでした」  とっさのことで、うまい言葉が出て来ないのだ。  「ところで——」  と、草永が助け舟を出す。「今までどこにおられたんです?」  「隣《となり》の町に」  と、雪乃は言った。  「隣の町?」  「はい」  雪乃は、笑《わら》って穏《おだ》やかに言った。  「待って下さい」  と、文江が言った。「じゃ、お母さん、それを知ってたのね?」  「私のお友達の家にいたのよ」  と、公江は平然と言った。  「——お母さんたら!」  「私はずっと坂東さんを助けて来たんだもの、今さら見《み》捨《す》てるわけにはいかないでしょ」  「じゃ、生活費を送っておられたのは——」  と草永が言いかける。  「私ですよ。ともかく、この村を追われるようにして出て行った人の面《めん》倒《どう》をみるのは常石家の者の義《ぎ》務《む》ですからね」  「お母さんらしいわ」  と、文江は肯《うなず》いた。「でも——坂東さんがあんなことになって——」  「主人を殺したのは、私じゃありません」  と雪乃は言った。  「じゃ誰《だれ》が?」  「分りません」  と、雪乃は首を振《ふ》った。  「時々お宅《たく》を訪《たず》ねていたというお年《とし》寄《よ》りはどなたなんです?」  と草永が訊《き》く。  「あれは、昔《むかし》この田《でん》村にいた人ですよ」  と、公江が答えた。「一時、この家で働いていてね。それから東京へ出て行ったの。今でも私のためにあれこれ働いてくれます」  「すると、文江さんが帰って来たとき、すぐに坂東さんへそのことを連《れん》絡《らく》なさったんですね?」  「あの晩《ばん》にね」  「でも坂東さんは殺された……」  と、文江が考え込《こ》む。「——奥《おく》さんがアパートを出られたのは十時頃《ごろ》でしたね」  「そうです」  と、雪乃が肯《うなず》く。  「ご主人はその前に殺されていたと聞いていますが」  「そうらしいですね」  と、雪乃は当《とう》惑《わく》顔《がお》で言った。「よく分りません——主人はあの朝一番の列車でこちらへ向うはずでした。私は荷物を持って追いかけて行くことになっていて……」  「じゃ、別々に出られたんですの?」  「はい。主人がアパートを出たのは七時頃でしょう」  「奥さんが十時ぐらい——ですね」  「ええ。お隣の奥さんと挨《あい》拶《さつ》をしましたわ」  「その間にご主人は殺されているんです」  「——つまり外で殺されて、アパートへ運び込《こ》まれたんだ」  と、草永は言った。「ご主人は、出かけるとき、誰《だれ》かと会うようなことをおっしゃいませんでしたか?」  「いえ、何も」  「じゃ、奥《おく》さんは事《じ》件《けん》のことを知らずに、この村へ来たんですか?」  「隣《となり》の町よ」  と、公江が言った。「その方がいいと思ったの。突《とつ》然《ぜん》帰って来たら、村の人たちも動《どう》揺《よう》するでしょう」  「で、お母さんのお友達の家に?」  「そこで初めて主人のことを知らされました」  と、雪乃はため息をついた。「——運の悪い人です。やっと、和也の罪《つみ》が晴れたというのに」  「その点は申し訳《わけ》ありません」  と、文江は言った。  「いえ、お嬢《じよう》さんのことをどうこう申しているんじゃありません」  雪乃は急いで言った。「聞けば、和也は銀行強《ごう》盗《とう》までやっていたとか。——いつかはあんなことになる運命でした」  「そこなのよ」  と公江が言った。  「え?」  文江が母の顔を見る。「そこ、ってどういうこと?」  「どうもね、考えてると簡《かん》単《たん》なことが、実《じつ》際《さい》やってみると割《わり》合《あい》に手間取ったり、こりゃ大変だなって思うことが、やってみると呆《あつ》気《け》なくできたり……。そんな憶《おぼ》えがない?」  「そりゃあるけど、この事《じ》件《けん》と何の関係があるの?」  文江は少々苛《いら》々《いら》しながら言った。  「まあ待てよ」  と、草永が抑《おさ》える。「お母さんの話、何となく分るよ」  「ねえ、そうでしょう? やっぱりあなたの方が娘《むすめ》より一《いち》枚《まい》上《うわ》手《て》ですわ」  文江は草永をにらんだ。  「何なら母と再《さい》婚《こん》したら?」  「おい、そんなに目を三角にするなよ。つまり、お母さんがおっしゃりたいのは、お金をあそこに埋《う》めるのが、いかに大変なことか、ってことでしょう。違《ちが》いますか?」  「その通りですよ」  と公江が肯《うなず》く。「大体、警《けい》察《さつ》があのお金を掘《ほ》り出すのに、どれだけ手間がかかったか、考えてごらんなさい。あんなに深く埋めるのは大仕事ですよ」  「そうか……」  と、文江が肯く。「でも和也君は、あのすぐ後に、警察へ引張って行かれた……」  「家へ帰されてからも、あんなことをやる暇《ひま》があったかしら?——ともかく、ご両親も家に引きこもっていたはずですもの」  「ええ、とてもそんなことができたはずありませんわ」  と、雪乃が言った。  「ということは、あそこが空家になってから、お金が埋《う》められた、ってわけね」  と、文江は言った。「じゃ、誰《だれ》が……?」  「あの家の持主は金子駅長だった」  と草永。  「そうです。金子さんから、主人はお金を借りていましたから」  「つまり、金子さんはあの家の鍵《かぎ》を持っているんですね?」  と文江が訊《き》いた。  「はい。お持ちのはずです」  「じゃ、金子さんがあのお金を埋めて、それきり掘《ほ》り出せなかったのね。やっぱり推《すい》理《り》は正しかったんだわ」  「まあ百パーセントとは言えないけどね」  草永が同意した。「すると、金子さんは、銀行強《ごう》盗《とう》の一味だったのかな?」  「ちょっと考えにくいけど……」  しばらく誰《だれ》も口を開かなかった。  「——どうやら、こんな狭《せま》い田《でん》村でも、隠《かく》された生活があったようね」  と公江が言った。  「金子さんみたいに実直な方にも?」  「そう。——なまじ、真《ま》面《じ》目《め》と思われている人ほど、暗い部分を表に出せなくて、苦しむものよ」  「よく分ります」  と草永が言った。「僕《ぼく》もそうですから」  ちょっと間を置いて、文江がプッと吹《ふ》き出し、笑《わら》い転げた。いささか不《ふ》謹《きん》慎《しん》な行動ではあったが……。 19 田《でん》村のミス・マープル  文江は、目を覚《さ》ますと、枕《まくら》もとの時計を手に取った。——十時だ。  「もう十時。——ね、起きようよ」  と、文江は、布《ふ》団《とん》の中の、草永を突《つ》っついた。  「え?——ああ、もう朝か」  草永は大《おお》欠伸《あくび》をしながら、起き上った。  「たっぷり眠《ねむ》ったでしょ」  「そうでもないよ。運動不足だ」  「ゆうべ、あれだけ運動しといて?」  「まだ足りない。朝のトレーニングに付き合わないか?」  草永が、文江の上に体をずらして行って、キスしながら言った。  「こういうトレーニングなら付き合ってもいいわ」  文江がいたずらっぽく笑《わら》って、草永を抱《だ》き寄《よ》せた。それから、そっと草永の耳もとへ、  「見られてるわ……」  と囁《ささや》いた。  「また、うめさんかい? 構《かまい》やしないさ」  「母よ」  草永があわてて飛び起きた。  公江がニコニコしながら障《しよう》子《じ》を開けて、  「お忙《いそが》しいところをごめんなさいね」  と言った。  「お、おはようございます」  「——お母さん、何か用なの?」  と、文江はのんびりと起き出して、「出かける仕《し》度《たく》?」  「そうよ。あなた方だけに任《まか》せておくと、いつまでたっても進《しん》展《てん》しませんからね」  「ご出《しゆつ》馬《ば》というわけですね」  草永は微《ほほ》笑《え》んで、「これは楽しみだな」  「ともかく、最初は金子さんの奥《おく》さんに会ってきましょう。お昼前に伺《うかが》うと約《やく》束《そく》してあるから、一《いつ》緒《しよ》に来るのなら、早く朝ご飯を食べてちょうだい」  公江が行ってしまうと、文江は呆《あき》れ顔で、  「母ったら……ミス・マープルにでもなったつもりなのかしら?」  「いいじゃないか。なかなか良く似《に》合《あ》うぜ、お母さん」  「私の母だものね」  と、文江は言った。  「正《まさ》に同感だな」  「何よ!」  文江は、脱《ぬ》いだパジャマを草永の頭へ投げつけた。  ——手早く朝食を採《と》り——と思ったのだが、そこは、うめのプライドの問題もあって、適《てき》当《とう》に、  「さすがに旨《うま》い!」  などと言いながら食べ終える。  やっと外へ出たときは、十一時半になってしまっていた。  「私の車に乗って行きましょ」  と公江が言った。  「お母さん、いつ免《めん》許《きよ》取ったの?」  と、文江が信じられない面《おも》持《も》ち。  「三年くらい前かね。何しろヒマで、することもないじゃないの。——それに白木さんが口をきいてくれて、ろくに習わないで取っちゃったのよ」  ひどい話だ。いや、その話よりも車の方はもっとひどかった。  「お父《とう》さんが昔《むかし》使ってたのよ。こんな田舎《いなか》道《みち》、新車を乗り回しても、面《おも》白《しろ》くもなんともないからね」  もはや文江や草永の世代では型名も定かではないポンコツであった。  「——僕《ぼく》が運転しましょうか」  と、草永は恐《おそ》る恐る申し出た。  「大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》。任《まか》せて。それにこの車、ちょっとクセがあるの」  と、公江は言った。  「時々ブレーキが効《き》かなくなるんじゃないでしょうね」  「あら、良く分ったわね」  公江がニッコリと笑《わら》った。  車が、まるでゴール寸《すん》前《ぜん》のマラソンランナーの如《ごと》き喘《あえ》ぎを洩《も》らしながら走り出すと、文江は、そっと低い声で草永に言った。  「ミス・マープルは免《めん》許《きよ》持ってたっけ?」      「——まあ、常石の奥《おく》様《さま》」  金子駅長の未《み》亡《ぼう》人《じん》が、ていねいに頭を下げた。  「お邪《じや》魔《ま》しちゃってごめんなさい」  「とんでもありません」  と、金子正江は言った。「——主人が、あんなことになって、本当にどうしていいものやら、途《と》方《ほう》にくれておりますの」  「そうでしょうね」  と公江が肯《うなず》く。  「それに、警《けい》察《さつ》の方のお話では、何だか主人は殺されたのかもしれないということで……。でも、信じられませんわ。主人は人に恨《うら》まれるようなことはなかったんですのに」  「誰《だれ》が犯《はん》人《にん》か見当がつかないということなんですね」  「もうまるきり……。何だか私が疑《うたが》われてるようでもあるんですの」  「あなたは、そんなことをする人じゃないでしょ」  「みんながそう思ってくれるとありがたいんですけど」  と、正江は言った。  公江が黙《だま》って肯《うなず》く。——そして、しばらく話が途《と》切《ぎ》れた。  文江は、チラリと草永の方を見た。このまま帰るんじゃ、何の収《しゆう》穫《かく》もない。ミス・マープルまではとてもいかないじゃないの、というわけだ。  「でも、金子さん」  と、文江は言った。「ご主人が、あの坂東さんの家を持っておられたのはご存《ぞん》知《じ》なんでしょう?」  「ええ、それは——」  と、正江は少し曖《あい》昧《まい》な調子で言った。  「まあ私に任《まか》せて」  と公江は文江を抑《おさ》えて、「——ねえ、正江さん」  と、ちょっと改まった調子で言った。  「はい」  「あなたは、今、ご主人を殺そうと思う人間なんか思い当らないと言ったわね」  「ええ」  「でも、私は、あなたのご主人を殺したいくらい憎《にく》んでいた人を、少なくとも五人は知っていますよ」  ——再《ふたた》び沈《ちん》黙《もく》がやって来た。  しかし、それは、さっきの空白とは違《ちが》って、重く、張《は》りつめた沈黙であった。  「奥《おく》様《さま》——」  と、言いかけたものの、金子正江は、言葉が続かない様子であった。  「金子さんは、一種の高《こう》利《り》貸《がし》をしていたのね。もちろん表向きは、温《おん》厚《こう》で実直な人だったけど……。いえ、きっと駅長さんとしては、至《いた》って真《ま》面《じ》目《め》な人だったでしょうね。でも、裏《うら》では田《でん》村や、隣《となり》の町の人にもお金を高い利子で貸《か》しつけていた。払《はら》えなければ、容《よう》赦《しや》なく家や土地を差し押《おさ》えたと聞いているわ。それで町や村を出て行かなくてはならなかった人も、一人や二人じゃないはずね」  文江は母の話に、ただ唖《あ》然《ぜん》とするばかりであった。  あの金子駅長が!——冷《れい》酷《こく》な高利貸だったなんて!  未《み》亡《ぼう》人《じん》は、頭を垂《た》れて、  「奥《おく》様《さま》は何でもご存《ぞん》知《じ》でいらっしゃいます」  と言った。  「——それでも、犯《はん》人《にん》の心当りはないの?」  「さあ……。あれは火事騒《さわ》ぎの夜でした。それに、このところは、主人も体の具合のせいもあって、金《かね》貸《か》し業は避《さ》けていたはずでございますし……」  「たとえば、まだお金の催《さい》促《そく》をされて、切《せつ》羽《ぱ》詰《つま》っていたような人はいないの?」  「それは……私はよく分りません。何もかも主人が一人でやっていたことですから」  文江は、その未《み》亡《ぼう》人《じん》の言葉に、ふと責《せき》任《にん》逃《のが》れをしようとする気配を感じた。——夫のしていたことを、この人が知らないわけはない。  「奥さん」  と文江は言った。「その貸した先や、返《へん》済《さい》の記《き》録《ろく》はないんですか? 帳《ちよう》簿《ぼ》のようなものは」  「さあ、それが……」  と、正江は困《こん》惑《わく》顔《がお》で、「主人が亡《な》くなりまして、いちど捜《さが》してみたのですけれど、見付かりませんでした」  「そう」  と、公江が肯《うなず》いた。「——どうも、いやな話でごめんなさいね」  「いいえ、とんでもない」  あくまで、未亡人は丁《てい》重《ちよう》な応《おう》対《たい》を変えなかった……。      「びっくりしたわ!」  と文江が言った。「——あの人の良さそうな駅長さんが。信じられないくらいよ」  文江と草永、それに公江の三人は、駅の方へ歩くことにした。  よく晴れて風もない、暖《あたた》かな日だった。  「人間には表と裏《うら》があるものよ」  と、公江は言った。  「そりゃ分ってるけど。——でも、金子さんの金《かね》貸《か》し業と、今度の事《じ》件《けん》とどう結びつくわけ?」  「それは考えてみれば分るじゃないか」  と草永が言った。「あの銀行強《ごう》盗《とう》さ。つまり——」  「言わないで!」  と、文江が遮《さえぎ》る。「分ったわ。つまり、金子さんから金を返せと迫《せま》られて、追いつめられた誰《だれ》かがやったのね」  「そう考えていいんじゃないかな」  「すると、ますます、金を貸《か》した先が知りたいわね。——お母さんは知ってるんでしょう?」  「ええ、何人かはね」  「誰《だれ》なの?」  公江は、ちょっと微《ほほ》笑《え》んだ。  「説明は最後よ」  と言った。  「お母さんったら! ずるいわよ」  「ただね、あの奥《おく》さんは、なかなかの人だってことは言っとかないとね」  「未《み》亡《ぼう》人《じん》ですか?」  「そうよ。あの人は、何も知らなかったと言ってるけど」  「それは嘘《うそ》ね。私もそう思ったわ」  「それどころか」  と公江は言った。「私の見たところでは、ご主人よりむしろ、奥《おく》さんの方が熱心だったんじゃないかしら。たぶん奥さんがご主人にやらせていた、っていうのが真相だと思うわ」  「そこまで?」  「もうご主人が亡《な》くなってる以上、真実は分らないけどね。金子さんは苦しんでいたんだと思うのよ」  文江も、何となく、〈高《こう》利《り》貸《がし》〉よりは〈悩《なや》める男〉のイメージの方が、金子にはぴったり来る、という気がした。  「——どこへ行くの?」  と、文江は訊《き》いた。「このまま行くと駅じゃないの」  「そうよ。でも、駅に行くわけじゃないの」  「それじゃ、どこへ?」  「庄司さんの家よ」  「鉄男君のところ?」  「母親の方に用があるの」  「へえ」  と文江は言った。  あまり色々と質《しつ》問《もん》するのも、しゃくなので、文江は黙《だま》って歩き続けた。  「鉄の男か」  と、草永がふっと呟《つぶや》くように言った。  「え?」  「いや、今思いついたんだ。あの駅員、鉄男君っていうんだろ?」  「ええ、そうよ。それがどうしたの?」  「いや、父親が分らないって話だったけど……」  「あ、そうか!」  文江が手を打った。「——金子さんが父親だったのね!」  「鉄道の〈鉄〉をとったんじゃないかな。それに、あの家へ年中来ていたというし。——すぐ気が付いても良かったな」  「お母さんは知ってたんでしょ」  と、文江が言った。  「もちろんよ。何十年もこの村にいるんですからね。それぐらいのこと、分らないはずがないでしょ」  もう! ずるいんだから、このミス・マープルは!  手がかりを隠《かく》しておくのはフェアじゃない、と文《もん》句《く》を言ったところで、どうにもならないのだ。  「その話をしに行くの?」  「違《ちが》うわよ。私に任《まか》せておきなさい」  と、公江は、自信たっぷりの、威《い》厳《げん》のある姿《すがた》で歩いて行く。  つまりは、いつもながらの様子ということである。      「まあ奥《おく》様《さま》……」  と、鉄男の母は、恐《きよう》縮《しゆく》の様子である。  「実は金子さんのことで、訊《き》きたいことがあるの」  「駅長さんのことですか?」  「金子さんは亡《な》くなる前に、あなたに何か預《あず》けなかった?」  「預ける……。どんな物を、ですか?」  「何でもいいの。ともかく、あなたへ渡《わた》して行った物はない?」  「さあ……」  と、首をかしげて、しばらく考え込《こ》んでいたが、  「——思い当りませんね」  「そう」  公江は、ちょっと当て外れのようだった。  「お母さん、どういうことなの?」  文江が訊《き》いたが、公江の方は答えず、  「——金子さんが殺されたのかもしれないって話は聞いてるわね」  と言った。  「はい。恐《おそ》ろしいことです」  「金子さんは、そんな話をしたことはなかった?」  「殺される、ということをですか?」  「そう、誰《だれ》かに狙《ねら》われている、とか」  「特《とく》別《べつ》何も……。ただ、金《かね》貸《か》しのせいで、みんなに口をきいてもらえないと嘆《なげ》いておいででした」  「やっていたのは奥《おく》さんなんでしょ?」  「もちろんです!」  鉄男の母の口《く》調《ちよう》に、初めて強い感《かん》情《じよう》がこもった。  「金子さんがそう言ったの?」  「はい。いつもぼやいておいででした。——俺《おれ》は別《べつ》に大金も名《めい》誉《よ》も欲《ほ》しくないのに、女《によう》房《ぼう》が欲しがってたまらないんだ、って……」  「最近、その件《けん》で、何かこじれていたようなことはなかった?」  「最近ですか?——気付きませんでしたけど」  「そう。——残《ざん》念《ねん》だわ。金子さんが心の中を打ちあける所があるとすれば、ここだと思って来たのよ」  「それは間《ま》違《ちが》いありません」  と、鉄男の母は肯《うなず》いて、「もう、最近の話といえば——鉄男のことばかりでした」  と、チラリと文江たちの方を見る。  「いいのよ。娘《むすめ》も知ってるわ」  「そうでしたか……」  文江は少し前へ出て、  「鉄男君自身はどうなのかしら」  と言った。  「父親のことですか? 特《とく》に何とも言っていませんけど、やっぱり、薄《うす》々《うす》は分っているらしくて」  「そうでしょうね」  「でも実《じつ》際《さい》に、父《ヽ》親《ヽ》同《ヽ》然《ヽ》に、仕事を仕《し》込《こ》まれましたでしょう。やっぱり慕《した》っているんですよね」  「立《りつ》派《ぱ》な将《しよう》来《らい》の駅長さんね」  「ありがとうございます」  と、鉄男の母は頭を下げた。「駅長さんは、あの子が鉄道の仕事を継《つ》いでくれるのを、願っていたんですね」  ——噂《うわさ》をすれば何とか、で、ちょうど、鉄男が帰って来た。  「母さん、昼飯!」  と怒《ど》鳴《な》って上って来る。  そして中を覗《のぞ》き込《こ》むと、びっくりして、  「あ——すみません」  あわてて頭を下げた。  「いいのよ。仕事を続けて」  「昼休みです。大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》ですよ」  鉄男は帽《ぼう》子《し》をとって、傍《かたわら》へ置いた。  「立《りつ》派《ぱ》な帽子ね」  と、公江が言った。  「ええ! これ、駅長さんにもらったんですよ」  「まあ。金子さんに?」  「そうなんだ、母さん」  「そんなこと言わなかったじゃないの」  「だって、亡《な》くなる前の日だよ。亡くなってからじゃ、みんな忙《いそが》しいんだ」  「ねえ」  と公江が言った。「その帽《ぼう》子《し》を見せて」  「これですか?」  と、鉄男が不思議そうに言った。  公江は鉄男から帽《ぼう》子《し》を受け取ると、手に取って眺《なが》めていた。  「お母さん、何をしてるの?」  と、文江が不思議そうに言った。  「これだけが、金子さんの形《かた》見《み》ならね、もしかしたら、この中に……」  公江は、帽子のヘリに沿《そ》って、指を這《は》わせた。「——何か詰《つ》めてあるようね」  「ええ」  と鉄男が肯《うなず》いた。「ちょっと大き目だから紙を詰めておいた、って——」  「駅長さんが?」  「そうです」  公江は、帽子の内側を、バリバリとはがして行った。  「お母さん——」  「いいから」  公江は、中から、細長く折《お》りたたまれた紙を、抜《ぬ》き出した。帽子の形に沿《そ》って、丸く環《わ》になっている。  「何か書いてあるよ」  と草永が覗《のぞ》き込《こ》む。  公江が紙を押《お》し広げた。文江は、信じられないような思いで、それを覗き込んだ。  「やっぱりね」  と公江が言った。  そこには、名前と、数字が細かく書き記してあった。——数字が金《きん》額《がく》であることは、すぐに分る。  「お金を貸《か》した記《き》録《ろく》?」  「そうよ。金子さんは、これをどこかへ隠《かく》しておきたかったのね」  「——名前があるわ。村の人たちね。——見て!」  文江が唖《あ》然《ぜん》とした。  そこには宮里医《い》師《し》の名前もあった。そして……。  「白木って……あのお巡《まわ》りさんじゃないのか?」  と草永が訊《き》いた。「呆《あき》れたな!」  「ともかく——」  公江は、その紙を折《お》りたたんだ。「これは私が預《あずか》りますよ。いいわね?」  「はい、もちろん」  と、鉄男の母が言った。「お前も黙《だま》ってるんだよ」  「うん」  鉄男は、わけが分らないといった顔をしていた。 20 秘《ひ》 密《みつ》  「驚《おどろ》いたわ」  と、文江は表に出ると、言った。  「村の生活だって、平《へい》穏《おん》じゃなかった、ってことよ」  と公江は言った。  「でも、宮里先生がどうして?」  「たぶん、法事があったときの借金じゃないのかしら。それに、町へ出ると、あの人は結《けつ》構《こう》、遊んでいたようだしね」  「何だか幻《げん》滅《めつ》したわ」  「大人《おとな》の世界だもの。きれい事では済《す》みませんよ」  それはそうだ、と文江は思った。期待する方が間《ま》違《ちが》っているのかもしれない。  都会で、散々、醜《みにく》い人間模《も》様《よう》を見て来てつい、無《む》意《い》識《しき》の内に、故《こ》郷《きよう》の素《そ》朴《ぼく》な人々、というイメージを作り上げていたのだろう。  どこであろうと、そこが人間の社会である限《かぎ》り、きれいごとでは済《す》むはずがないのだ……。  「すると、どうなるんでしょうね」  と草永が言った。「金に困《こま》っていたのは、一人や二人じゃなかったわけですか」  「そういうことになるわね」  と公江が肯《うなず》く。「——暖《あたたか》くなったわね。そこへ座《すわ》りましょう」  「どこへ?」  「駅のベンチよ」  「だって——」  「当分、列車は来ないわよ。平気よ」  人のいないホームへ入ると、三人は、古ぼけたベンチに腰《こし》をおろした。  「このベンチ、昔《むかし》からあったやつかしら?」  と、文江は言った。  「そうよ。憶《おぼ》えてる?」  「うん。——でも、こんなにガタついてなかったと思うけど」  「年月がたてば、くたびれて来るわよ」  と、公江は言った。  「見たところは変らないように見えても、変っているのね」  「そう」  ——平和な静けさだった。  ホームには人もなく、レールは眠《ねむ》りこけている。その眠りを覚《さ》ます列車の響《ひび》きは、まだしばらくやって来ない。  「——どういうことなんでしょうね、今度の事《じ》件《けん》は」  と草永が言った。「お母さんには何か考えがおありのようですけど」  「お金が総《すべ》ての中心だった、と言っていいのかしら」  と文江が言った。「つまり、金子さんが——というより、金子さんの奥《おく》さんが、みんなにお金を貸《か》しては、取り立てていた。そして誰《だれ》かが、銀行からお金を奪《うば》って来ようと思いついた……」  「それは逆《ぎやく》じゃないかな」  と草永が言った。  「え?」  「いくら借金してて、困《こま》ってるからって、銀行強《ごう》盗《とう》までやるかね」  「そこが問題ね。だけど、実《じつ》際《さい》にお金は盗《ぬす》まれているわ」  「こう考えたら?」  と、公江が言った。「強盗が他にいたとしたら?」  「まだ他に?」  「銀行を襲《おそ》った人は、どこに逃《に》げると思う?」  「あの町からなら……山の方ね」  と文江は言って、肯《うなず》いた。「そうか。強盗が山に隠《かく》れていて、和也君が、それに出くわしたんだわ!」  「そう考えた方が自然でしょうね」  「すると、どうなったのかな」  と草永が考え込《こ》む。「強《ごう》盗《とう》と、和也との間で、格《かく》闘《とう》になる。——和也が強盗を殺したんだ!きっとそうだ。それであの血《ち》染《ぞ》めの手《て》拭《ぬぐ》いのことも、説明がつく」  「ところが、和也君は、お金を見て、欲《よく》を出したのね」  「無《む》理《り》もありませんよ」  と公江は言った。「この村じゃ、まずお目にかかれない大金だしね。ついフラフラッとしたんでしょ」  「で、強盗の死体をどこか山の奥《おく》へ埋《う》めたんだ。そして金を持って帰った。——まさか、君が行方《ゆくえ》不明になってて、その殺人容《よう》疑《ぎ》をかけられるとは思わなかったんだろう」  「それじゃ、しゃべれなかったわけね」  と、文江は肯《うなず》いた。「ごまかし通せば、お金は自分のものになるわけだし」  「すると、どこにお金を隠《かく》してたんだろうな?」  「自《じ》宅《たく》の床《ゆか》下《した》へ埋《う》めるのは、危《き》険《けん》だったでしょうね」  「するとどこか山の中? でも、掘《ほ》り出しに行くのは目につくね」  「もっといい隠し場所があったんでしょう」  と公江が言った。「若《わか》い人たちの『秘《ひ》密《みつ》の場所』になっているところが」  文江は、線路越《ご》しに、半分焼け落ちたあの倉庫を見やった。  「——あの中ね!」  「あそこなら、大して苦労せずにお金を隠しておけるでしょうね」  「なるほど……」  草永は立ち上った。「行ってみよう。もちろん、痕《こん》跡《せき》なんて残ってないだろうけど」  「行きましょう!」  と文江も立ち上る。  「二人で行っといで」  と、公江は言った。「私はくたびれるから、いやよ」  ——文江と草永は、土手を上って、焼け落ちた倉庫の前に立った。  村の若《わか》者《もの》に襲《おそ》われかけた所である。  「——お母さんの言う通りだろう。ここがまず隠《かく》し場所として思いつくよ」  「いつもガラクタで一《いつ》杯《ぱい》だものね」  「問題はその後だ」  と、草永が考え込《こ》む。「なぜ和也は死んだのか?」  「自殺のはずはないとすると……」  「殺されたんだ。——犯《はん》人《にん》は、和也が金を隠していたことを知っていた」  「殺したということは、金の隠し場所を訊《き》き出したってことなのね」  「おそらくね。だが、和也が誰《だれ》にしゃべったんだろう?」  「分らないわ……。よほど心を許《ゆる》せる相手だったのか……」  「その相手が金に困《こま》っていたとしたら? あのリストの中の誰《だれ》かで」  「ありうるわね。話を聞いて、お金を自分のものにしようとした……」  文江は、手でそっと首をこすっていた。  「——どうしたんだい?」  「え? ああ、別に……。ほら、例の、首を絞《し》められたところだわ、ちょっとかゆくて気になるの」  「そういえばそんなこともあったっけ」  「何よ、冷たいのね」  と、文江は笑《わら》った。  「ともかくここまで入りこんだんだから、もう後《あと》戻《もど》りはできないね」  と、草永は言って、焼け落ちた倉庫を眺《なが》めた。「——一体誰がやったのかなあ。金は、人を狂《くる》わせるからね。僕《ぼく》なんか、却《かえ》って金があると落ち着かないよ。結《けつ》婚《こん》しても小《こ》遣《づか》いは少しでいいからね。——ねえ。——おい、どうしたんだ?」  「ねえ、来て」  と、文江は、草永の手を引《ひつ》張《ぱ》った。  「どこへ行くんだよ?」  「いいから」  文江は、青ざめた顔をしていた。  ホームへ戻《もど》ると、公江がベンチに座《すわ》って居《い》眠《ねむ》りをしている。ちょうど鉄男がやって来た。  「やあ、お嬢《じよう》さん」  「母がいるの。お願いね」  「ええ、構《かま》いませんよ。どうせヒマですからね」  と快《こころよ》く肯《うなず》く。  文江は、草永の先に立って、ずんずん歩いて行く。  「おい、どこへ行くんだよ?」  と草永が声をかけても、振《ふ》り向きもしないのだ。  すると、突《とつ》然《ぜん》クルリと振り向いて、  「ねえ、私と結《けつ》婚《こん》したい?」  と言った。  草永は面《めん》食《くら》って、  「当り前だよ」  「じゃ、私の頼《たの》みを何でも聞いてくれる?」  「いいよ」  「本当に何でも?」  「君のためなら、掃《そう》除《じ》でも育《いく》児《じ》でも」  「そんなんじゃないの」  「じゃ、何だい?」  「人を殴《なぐ》ってほしいの」  草永が目をむいた。      「——またおいで」  宮里医《い》師《し》が、子《こ》供《ども》を送り出していた。  「先生、こんにちは」  「やあ文ちゃんか」  「ちょっとお話があるんですけど」  「いいとも」  宮里は診《しん》察《さつ》室《しつ》へ入ると、「——何だね、二人揃《そろ》って。避《ひ》妊《にん》の相談かな?」  と、笑《わら》いながら言った。  文江が草永へ肯《うなず》いて見せた。草永は進み出ると、軽く一礼して、  「失礼します」  と言うなり、拳《こぶし》を固めて、宮里医師を殴《なぐ》った。  宮里は部《へ》屋《や》の隅《すみ》まで吹《ふ》っ飛んで、棚《たな》にぶつかり、床《ゆか》にずり落ちた。——やっとの思いで起き上ると、  「おい——何をするんだ?」  と、目をパチクリさせている。  「お返しです」  と文江は言った。「こ《ヽ》れ《ヽ》のね」  指で、首《くび》筋《すじ》を指す。  宮里は、じっと文江を見上げていたが、やがて、ホッと息をつくと、床の上にあぐらをかいた。  「——どうして分った?」  「あの声。——ずっとお会いしてなかったから分らなかったけど、こうして会ってお話すると思い出して来ますよ。それに、殺さないように、微《び》妙《みよう》なところで止めるなんて、多少でも専《せん》門《もん》知《ち》識《しき》のある人でなきゃ、できないでしょ」  「すまん」  宮里は頭を下げた。  「でも、坂東さんを殺したのは、まさか——」  「違《ちが》う! 私じゃない!」  と宮里はあわてて言った。「そんなことまでするか。——いくら何でも、私は医者だぞ!」  「威《い》張《ば》れませんよ、あんなことしといて」  と、文江はにらんだ。  「うむ……。まあそう言われればその通りだが」  宮里は頭をかいた。  「——私、別に先生を訴《うつた》えるつもりはありません。でも、その気になれば、殺人未《み》遂《すい》で逮《たい》捕《ほ》ですよ」  「分っとる」  「理由を話して下さい。——なぜあんなことまでして、私を田《でん》村に来させまいとしたんですか?」  宮里は、起き上ると、古ぼけた椅《い》子《す》に腰《こし》をかけた。椅子がキュッと鳴った。  宮里は、急に老《ふ》け込《こ》んだように見えた。  「——少しだけ待ってくれんか」  と宮里が言った。  「だめです」  と文江がはねつける。  「なあ、頼《たの》む。——これは私一人の問題じゃないんだ。私だって、自分の身だけが可愛《かわい》くて、お前さんをおどかしたわけじゃないんだよ」  「それは分ります」  「だから一日だけ待ってくれ。必ず、事《じ》情《じよう》を説明する」  宮里は身を乗り出すようにして言った。  「約《やく》束《そく》してくれますか」  「約束する。——信じてくれよ」  文江はしばらく考えてから、  「分りました」  と言った。  「ありがとう」  「明日、また来ます」  「分った。待っているよ」  ——文江は、草永を促《うなが》して、外へ出た。  「いいのかい?」  と草永が訊《き》いた。  「だって、仕方ないじゃないの」  「僕《ぼく》はあのまま、押《お》すべきだったと思うけどね」  「そうね」  文江にも、それは分っていた。——しかし、やはり自分も田村の人間なのだ。つい、相手を信じてしまう。  「もう返事をしてしまったんだもの、いいじゃない」  と、自分に言い聞かせるように、文江は言った。  「——どこへ行く?」  と、草永が足を止める。  「あ、母を迎《むか》えに行かなきゃね。じゃ、駅へ行きましょうか」  二人が駅へと歩いて行くと、向うから、鉄男が走って来るのが見えた。  「どうしたのかしら?」  「何だかあわててるね」  鉄男は、帽《ぼう》子《し》が落ちるのも構《かま》わずに走って来た。  「お嬢《じよう》さん!」  「どうしたの、鉄男君?」  「お母さんが大変です!」  文江の顔色が変った。  「母がどうしたの?」  「ずっと眠《ねむ》っておられて——何だかおかしいんで、声をかけたら——意《い》識《しき》がないみたいなんです」  文江は愕《がく》然《ぜん》とした。  「——お母さん」  文江が駆《か》け出す。草永も、あわてて、その後を追った。      「——心《しん》臓《ぞう》が、かなり弱っていますね」  と、医《い》師《し》が言った。  「そうですか」  「当分は安静にしておかないと」  「どんな具合なんでしょうか」  「まあ、すぐに危《き》険《けん》ということはないと思いますが、大事にしなくてはいけません」  「分りました」  文江は礼を言って、頭を下げた。  ——ここは、田《でん》村の隣《とな》りの町の病院である。  白木巡《じゆん》査《さ》が、すぐ救急車を手配してくれて、ここに運び込《こ》んだ。  この辺では唯《ゆい》一《いつ》の、総《そう》合《ごう》病院なのである。  時計を見て、文江は驚《おどろ》いた。もう夜の八時になっている。  「——どうだい?」  草永がやって来た。  「あ、草永さん」  「具合は?」  「今、眠《ねむ》ってるわ。当分安静ですって」  「そうか」  二人は、廊《ろう》下《か》をゆっくりと歩いた。  「——私がずいぶん苦労をかけたのが、悪かったのかもしれないわ」  と文江が言った。  「それは仕方ないよ。子《こ》供《ども》は親に苦労をかけるものさ」  「ええ。——でも、私の場合は特《とく》別《べつ》よ」  「自分を責《せ》めない方がいい」  「大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》。こんなことで落ち込《こ》む私じゃないわ」  と、文江は微《ほほ》笑《え》んだ。  「それでこそ君だ」  草永は文江の肩《かた》に手を回して、力を込めて抱《だ》いた。  「——あなた、どうするの?」  「うん、この町のホテルを取って来た。ここから歩いて五分、走っても十分って所だ」  「なあに、それ」  と、文江は笑《わら》い出した。  自分を元気づけようとしてくれる草永の心づかいが、ありがたかった。  「その部《へ》屋《や》からここへ交《こう》替《たい》で通おうよ。君もつきっきりじゃ疲《つか》れるだろう」  「そうね。ありがとう」  「ともかく今夜は——」  「私、ついてるからいいわ」  「そうかい?」  「一《いち》応《おう》娘《むすめ》ですからね、これでも」  と文江は言った。  「ちょっと見《み》舞《ま》っていいかい?」  「もちろんよ」  草永が病室へ入っている間に、文江は、湯を沸《わ》かして、お茶を淹《い》れた。  病室へそっと入って行くと、母が目を開いた。  「あら、お母さん、起きたの?」  「僕《ぼく》が起こしちゃったようだな」  と、草永が頭をかいた。  「いいんですよ」  公江の声は、いつもと変りなかった。「文江も、かまわないのよ、ここにいなくたって」  「まさかあ」  と、顔をしかめて、「いくら何でも、私にも子《こ》供《ども》としてのプライドがありますからね」  「ま、いいわ。じゃ、ここにいてちょうだい。——草永さん、すみませんね」  「いいえ、とんでもない」  草永は快《こころよ》く言った。「じゃ、交《こう》替《たい》に来るからね」  「ええ、ありがとう」  文江は、草永を、病院の出口まで送って行った。  「——明日はどうするんだい?」  と、草永は言った。  「明日?——ああ、宮里先生の話ね」  文江は考え込《こ》んだ。「母の具合次《し》第《だい》ね。落ち着いていれば……」  「そうだな、ともかく、明日来るよ」  「うん。——それじゃ」  ホテルの部屋を教えて、草永は病院を出て行った。  文江は、やっと自分に帰ったような、そんな気がして、ゆっくりと病室の方へ戻《もど》って行った。  病院の夜は早い。——もう大部分の病室は眠《ねむ》りについているようだった。  母の病室まできて、ドアを開けようとした文江は、足音に振《ふ》り返った。  「まあ」  と文江は言った。「どうしたの?」  立っていたのは、杉山百代だった。  「——お母さん、どう?」  「ありがとう。心《しん》臓《ぞう》らしいの。今は落ち着いてるわ」  と、文江は言った。  「良かったわね。鉄男君から聞いて、びっくりして……」  「わざわざありがとう。——何しろ娘《むすめ》の出来が悪いと、母親の心臓も、苦労が多いわけよ」  と、文江は言って笑《わら》った。  百代は、何だか目を伏《ふ》せがちにして、妙《みよう》な様子だった。  「どうしたの?」  と文江は訊《き》いた。  「ちょっと……話があって……」  「私に?」  「こんなときにごめんなさい」  「いいわよ、——じゃ、ともかく……どこかに座《すわ》ろう」  文江は百代を促《うなが》して、明りの消えた待合室へ行った。——廊《ろう》下《か》の明りが入って来るので、そう暗くはない。  「何なの、話って」  百代はしばらくためらっていたが、やがて思い切ったように顔を上げて、  「あのメモをちょうだい!」  と言った。 21 仮《か》面《めん》の下の顔  しばらく、文江はポカンとしていた。  「メモって——」  「あなたが手に入れたって聞いたわ。金子さんからお金を借りていた人のメモよ」  「どうしてあなたが——」  「主人の名前も入ってるの」  「ご主人の?」  文江は目を丸《まる》くした。そういえば、あの紙を、細かくは見ていないのだ。  「じゃ、ご主人もお金を借りていたの?」  「ええ。でも、変なお金じゃないわ。——仕方なかったのよ。学校の経《けい》理《り》で、ちょっと穴《あな》をあけてしまって」  「それを埋《う》めるために?」  「そうなの」  百代は、思い詰《つ》めた目で、文江を見つめていた。「——お願い! あの紙をちょうだい!」  「そう言われても……」  「あれが公表されたら、主人はクビになっちゃうわ!」  それはそうかもしれない。——文江としても、辛《つら》いところだった。  「でもね、百代、あれが事《じ》件《けん》を解《と》くための、鍵《かぎ》になるかもしれないのよ。それに、警《けい》察《さつ》だってやたらにそんなものを公表したりしないわ」  「分るもんですか!——そんな話は——いつの間にか、どこからか広まって行くわ。あんな小さな村ですもの。文江、友達でしょ? お願い。——この通りよ」  「やめて。手を上げて。ねえ……。私だって、この事《じ》件《けん》を解《かい》決《けつ》しなきゃならないのよ、分って」  「何が事件よ!」  と、百代は立ち上ると、叫《さけ》ぶように言った。「何年も昔《むかし》のことをほじくり返して、せっかくみんなが平和に暮《くら》してたのを引っかき回して、何を気取っているの!」  「百代……」  「あなたはもう、田《でん》村の人間じゃないのよ! 分る? よそ者なのよ!」  百代は文江の方へかがみ込《こ》んで、低い声で言った。「どうして帰って来たの? どうして東京で好《す》きな男と暮してなかったの? 自分で捨《す》てた村へ、好きなときにノコノコ帰って来るなんて、あんまり勝手じゃないの」  「百代、やめて」  文江は顔をそむけた。「私だって——好きでこんな騒《さわ》ぎを起こしたわけじゃないわ」  「あなたが帰って来なければ、坂東さんだって、金子さんだって、死なずに済《す》んだのよ」  「やめて!」  文江も立ち上って、真《まつ》直《す》ぐに百代の目を見返した。「——ここまで来たのよ。今さら、元には戻《もど》せないわ。今、私が手をひいても、元には戻らないのよ」  「それはあんたの勝手だわ」  百代は言った。「あのメモを渡《わた》して」  「だめよ」  百代が、手にしていた紙《かみ》袋《ぶくろ》から、肉切り包丁を出して、握《にぎ》りしめた。——刃《やいば》が白く光った。  「よこしなさい!」  文江は信じられなかった。——これは夢《ゆめ》だ。悪い夢なんだ、と思った。  「さあ、早く!」  百代の声が震《ふる》えている。  「百代……。あなたに私が刺《さ》せる?」  「昔《むかし》の友《ゆう》情《じよう》なんてあ《ヽ》て《ヽ》にしないで。今は主人と子《こ》供《ども》たちの生活を守らなきゃならないのよ!」  百代は真《しん》剣《けん》だ。文江にも、それは分った。  「刺《さ》すわよ、本当に!」  文江は、恐《おそ》ろしくなかった。ただ、無《む》性《しよう》に哀《かな》しかった。  七年の歳《さい》月《げつ》とは、こんなにも、長いものだったのか。  「——百代さん」  思いがけない声がした。——公江が、入口に立っていたのだ。  「百代さん。おやめなさい」  常石公江の言葉は、重かった。百代は、包丁を取り落とすと、逃げるようにして、走り去った。  文江はペタン、とベンチに腰《こし》を落とした。  「お母さん、私……」  「何も言わなくていいよ」  と、公江は、娘《むすめ》の肩《かた》に手をかけた。「分ってるよ」  文江は、涙《なみだ》が出て来るのを、拭《ぬぐ》いもせずに放っておいた……。      「——帰るって?」  草永が、びっくりしたように言った。  「ええ」  文江は肯《うなず》いた。  病院の近くの喫《きつ》茶《さ》店《てん》だ。——文江は、一《いつ》睡《すい》もしていなかった。  「何があったんだ?」  と草永は訊《き》いた。  文江は、昨《さく》晩《ばん》の出《で》来《き》事《ごと》を話して聞かせた。  「そうか」  草永は肯いた。「なるほどね」  「もともと私が口を出す問題じゃなかったのよ。警《けい》察《さつ》へ任《まか》せておけば良かったんだわ。——もう東京へ帰って、おとなしくしてるわ、私」  草永がじっと文江を見つめて、  「本当にそう思ってるのかい?」  と訊《き》いた。  「ええ、もちろんよ」  と言ってから、文江は、深々と息をつき、うつむいた。「——いいえ。帰りたくないわ」  「そうだろう。ここまで来たんだ。やめちゃいけない」  文江は草永の手を握《にぎ》った。  「でも、あなた、最初は、やめろと言ってたじゃないの」  「あのときはまだやめられた。でも、今はだめだよ」  「みんなが私のことを、憎《にく》むかしら?」  「世の中の人、全部を敵《てき》に回すわけじゃないんだ。——大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》。村の人たちだって、ずっと後になれば、分ってくれるさ」  草永の励《はげ》ましは単《たん》純《じゆん》で、それだけに力強かった。  「分ったわ。——ともかく、やってみましょうか」  「そうだとも!」  草永は肯《うなず》いた。「今日は、宮里先生に会うんだろう?」  「そうだったわね。——でも母にもついてなきゃ」  「じゃ、僕《ぼく》が宮里先生に会って来てもいいよ」  「いえ、私が行くわ! あなた、母をみててくれる?」  「そりゃいいけど……」  草永はためらった。「でも、一人じゃ危《あぶな》くないかい?」  「大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》よ! 相手は宮里先生ですもの」  「忘《わす》れるなよ。君はあの人に首を絞《し》められたんだぜ」  「でも殺さなかったわ。そんな度《ど》胸《きよう》ないのよ、あの人」  「そうかな」  「ともかく、危いことはしないから、心配しないで」  「気を付けろよ」  草永は不安そうに言った。  「分ってるって。これで、宮里先生の話を聞けば、事《じ》件《けん》の真相も、大分はっきりして来ると思うな」  「そうだね。——あんまり調子に乗っちゃ、危《あぶな》いぜ」  「心《しん》配《ぱい》性《しよう》ね」  と、文江は笑《え》顔《がお》を見せた。      ——田《でん》村へ足を踏《ふ》み入れると、文江は何となく奇《き》妙《みよう》な静けさに囲まれて、当《とう》惑《わく》した。  人の姿《すがた》が、あまり見えない。  息をひそめて、静まり返っている、という感じである。——どこか、おかしい。  宮里医院の前へ来て、またまた文江は当惑した。  〈本日休《きゆう》診《しん》〉  の札《ふだ》が、下がっている。  玄《げん》関《かん》の戸を叩《たた》いてみたが、一向に返事もない。隣《となり》の主《しゆ》婦《ふ》が顔を出して、  「常石さんのお嬢《じよう》さんですね」  と言った。  「はい」  「先生が、神社へ来てくれるように、って——」  「神社へ?」  「ええ。そう伝えてくれ、と」  「——分りました。どうも」  神社か。——あの、アーチェリーの矢《や》を見付けた所である。  何となく、気に入らなかった。きっと、草永はやめろと言うだろう。  文江は神社へ向って歩き始めた。——ともかく、自分で始めたことなのだ。自分で、けりをつける。  道でも、人に会わなかった。——百代の家の前で、足を止め、ためらった。  よほど声をかけようかと思ったが、やめておいた。今は、まだ早すぎる。  神社への道が、長く感じられた。疲《つか》れているのか。それとも都会暮《ぐら》しで、足が弱っているのだろうか。  確《たし》かに、百代の言葉通り、自分は、「よそ者」なのかもしれない……。  境内《けいだい》は、静かだった。  晴れ上って、暖《あたたか》いのに、子《こ》供《ども》たちの遊ぶ姿《すがた》もない。気味が悪かった。  文江は、ゆっくりと進み出て、  「宮里先生!」  と呼《よ》んだ。「——先生!——文江です。先生、どこにいるんですか?」  返事はなかった。  誰《だれ》かがいる。——突《とつ》然《ぜん》、文江はそれに気付いた。  目には見えないが、人がどこかに潜《ひそ》んでこっちを見ている。それも一人ではない。  顔から血の気がひいた。——来るんじゃなかった、と思った。  しかし、もう遅《おそ》い。こうなったら、怯《おび》えないことだ。  「誰なの!」  と、強い声で言った。「隠《かく》れてる人、出てらっしゃい!」  林の奥《おく》の茂《しげ》みがザーッと揺《ゆ》れた。  男たち——お面をつけた男たちが現《あらわ》れた。二人、三人——五人。  あの倉庫の焼《やけ》跡《あと》で、襲《おそ》ってきた連中かしら、と思ったが、もちろん、おかめやヒョットコの面で隠《かく》れていて、顔は分らない。  しかし、その物《もの》腰《ごし》や体つきは、どうも、あの若《わか》者《もの》たちのものではなかった。もっと中年男のそれだ。  「誰《だれ》? 何の用?」  文江は、男たちが手に手に、棒《ぼう》きれや、縄《なわ》を持っているのに気付いて、ゾッとした。  私刑《リンチ》!——どこかの木にでも吊《つる》すつもりなのか。  「誰なの……」  と文江は、ジリジリと後ずさった。  突《とつ》然《ぜん》、ある光景が、頭の中を駆《か》け抜《ぬ》けた。  坂東和也の死。あれも、私刑だったのではないか。こうして、同じように自殺に見せかけて、吊されたのではないか。  文江は、もしこのまま首を吊《つ》って死んでいるのが発見されたら、どうなるだろうか、と思った。おそらく、自殺で片《かた》付《づ》けられるのではないか。  そうやすやすとはやられない。  文江は、男たちの間を駆《か》け抜《ぬ》けようと足を踏《ふ》み出した。ヒュッと風を切る音がして、矢が足もとに突《つ》き立つ。ハッとした。  男たちが飛びかかって来るのを、辛《かろ》うじてかわすと、境内《けいだい》を、石《いし》段《だん》の方へと駆《か》け出す。  しかし、前に立ちふさがった人《ひと》影《かげ》に、ギクリとして足を止めた。  「白木さん!」  白木巡《じゆん》査《さ》が、アーチェリーの弓《ゆみ》を手に、立っていた。  「お嬢《じよう》さん。——こんなことはしたくないが、村のためです」  と白木は言った。  文江は唖《あ》然《ぜん》として、振《ふ》り向いた。——男たちが迫《せま》って来る。  「——和也の奴《やつ》が見つけて来た金は、大金だった」  と、白木が言った。「村にとっちゃ、本当に、見たこともない金でした」  「だから、和也君を殺して、金を奪《うば》ったの?」  「あれは自殺ですよ」  「嘘《うそ》だわ。こうして私刑《リンチ》にかけたんでしょう。自分でも分っているくせに!」  「宮里先生も、ちゃんと自殺という結《けつ》論《ろん》を出しましたよ」  「そうだ」  男たちの一人が面を取った。宮里医《い》師《し》だった。  「先生……。それじゃ、みんなでぐるになって——」  「みんなじゃない。——和也は、警《けい》察《さつ》の訊《じん》問《もん》で、あの金のことをしゃべった。それを聞いたのは白木さんで、どうしたものかと、我《われ》々《われ》が相談を受けたんだ」  「盗《ぬす》んだお金よ!」  「しかし、我々は借金で苦しんでいた。金子駅長の女《によう》房《ぼう》が、高《こう》利《り》貸《がし》のようにうるさく取り立てたからね」  「それにしたって……」  「あの金を盗《ぬす》んだ強《ごう》盗《とう》は、和也が殺《ころ》した。そして和也は金をあの倉庫へ隠《かく》したんだ」  「そして和也が死んだ。両親も村を出て行った。あの金のことは、誰《だれ》も気にしちゃいないんだ」  宮里は言った。「返したところで、何もしてくれるわけじゃない。そうだろ? 盗まれたのは銀行だ。金に困《こま》るわけでもないさ。——それなら我《われ》々《われ》が使おう。そう思ったんだ」  「都合のいい理《り》屈《くつ》ね」  「そうかもしれん。しかし、あれで実《じつ》際《さい》に、我々は救われた」  「金子さんはそれを知っていたの?」  「もちろんさ。しかし、あの女《によう》房《ぼう》ががめつくて、金の分け前を取って行った。銀行の金の入っていた布《ぬの》袋《ぶくろ》は、あの倉庫に埋《う》めてあったんだ」  「それで、何もかも無《ぶ》事《じ》に済《す》んだわけね」  「そう。和也は、あんたを殺して自殺、ということで事《じ》件《けん》は終った。ところが——」  「七年たって、私が帰って来た」  「そういうことだ」  宮里はため息をついた。「なぜ帰って来たんだ」  「私もそう思うわ。でも、もう今さら、なかったことにはできないでしょう」  「そういうことだね」  と宮里は肯《うなず》いた。  「それで、まず私をおどかそうとして、首を絞《し》めた。それで諦《あきら》めると思ったのね」  「あのお嬢《じよう》さんが、こんなに気の強い女になっているとは思わなかったんでね」  「坂東さんを殺したのは誰《だれ》?」  宮里が、白木を見た。白木が目を伏《ふ》せる。  「あなたがやったの?」  文江は目を見《み》張《は》った。「警《けい》官《かん》でしょう! それなのに——」  「やる気はなかったんだ」  と白木は言った。「本当ですよ。前の晩《ばん》に坂東の親《おや》父《じ》に会ったんです。ともかく、和也があなたを殺してなかったことははっきりしたわけですからね。——でも、村へは帰って来ない方がいい、と言ってやったんです。ろくなことはないし、村の連中も、却《かえ》っていやな顔をするだろう、って。——ところが、あいつは聞きやしない」  「それが当然でしょう」  「それどころか。——口《こう》論《ろん》している間、ヒョッと向うが口を滑《すべ》らしたんですよ。『あの金のことだって知ってるぞ』って」  「知ってたのね」  「親父の方だけでしょうが、和也が打ちあけてたらしいですな。しかし、坂東としては、そんなことを公にすりゃ、息子《むすこ》の罪《つみ》を上《うわ》塗《ぬ》りするようなもんだ。黙《だま》っていたんですよ。——でも村の様子を、色々と——たぶんあんたのお母さん辺りから聞く内に、どうやら金を手に入れた奴《やつ》がいるらしいと察していた。調べていたのかもしれんですな。どうせ、することもないんですから」  「それで……」  「村へ行って、何もかもぶちまけてやる、と言い出した」  「白木さんのことも、知っていたのね」  「何しろ、当人が、金子さんからの借金の常《じよう》連《れん》で、他に誰《だれ》が借りているか知ってましたからね。その連中が、みんな家を直したり、金回りが良くなったと知れば、おかしいと思いますよ」  ——どうして、あんなに早く、殺《さつ》人《じん》犯《はん》が坂東のアパートを知ることができたのか、文江には不思議だったのだが、警《けい》官《かん》なら調べるのは容《よう》易《い》だろう。  「次の日の朝、もう一度表で会って、話をしましたが、とても聞きやしない。仕方なかったんですよ」  「言いわけは結《けつ》構《こう》よ」  と、文江は言った。「——倉庫へ火をつけたのは誰《だれ》?」  「ありゃ、百代の亭《てい》主《しゆ》さ」  と、宮里が言った。  「百代の?」  「ああ」  文江は少し間を置いて、言った。  「百代のご主人はどこまで知っているの?」  「金のことは知らん。よそ者だしね。——ただ、金子から、やはり借金をしていた」  「知ってるわ」  「そうか、あのメモを手に入れたそうだな」  「ええ」  「どこにある? まあいい。しゃべりそうもないな」  「当り前よ」  「あの亭主は気が弱いんだ。——我《われ》々《われ》は、あの倉庫にある銀行の袋《ふくろ》を、どうにかしなきゃならなかった。しかし、持ち出すのは目につくし、どこへ埋《う》めたって、また心配だ。そこで火をつけて、あの中のガラクタと一《いつ》緒《しよ》に燃《も》やしちまおうと思った。それまで我々がやるより、他の人間をたきつけてやらせた方が、いざというとき、味方もできる、と思った。それで、借金の記録が、その倉庫にあるらしいと吹《ふ》き込《こ》んで、火をつけさせたんだ」  鉄男が見たという、ホームの男女は、百代とその夫だったのだ。  「で、その間に金子さんの薬に毒を混《ま》ぜたのね。——なぜ?」  「金子さんは、弱気になっていてね」  と、白木が言った。「もう病気で長くないことは、みんな知っていた。あの人は、もともと奥《おく》さんに引きずられるようにして生きて来たが、先が長くないと分ると、何もかも白《はく》状《じよう》してしまおうと思ったんです」  「それを止めようとしたのね」  「やったのは宮里さんですよ。私は知らなかった」  「何を言ってるんだ」  と宮里は苦《く》笑《しよう》した。「言わなくたって分ってたはずだ」  「じゃ、あの坂東さんの家に埋《う》めてあったお金は何なの?」  「あれは金子さんが作ったお金なんです」  と白木が言った。  「金子さんが?」  「女《によう》房《ぼう》に黙《だま》って、あの家まで抵《てい》当《とう》に入れて、金を作ったんだ。死んで、後から分って、女房は卒《そつ》倒《とう》しそうだった」  「じゃ、盗《ぬす》んだお金を返すつもりで?」  「ああ。まるで同じ額《がく》にして揃《そろ》えておいたんだ。全くご苦労なことだ。そうしなきゃ、死ねなかったんだろうな」  「お金を返すのに、わざわざあそこへ埋《う》めたの?」  「やっぱり自分がやったことになっちゃ困《こま》る。それで、どこかから出て来るってことにしたんだろう。それにはあの空家が一番だ。七年間、ずっと閉《しま》っていたんだからな」  「そこにずっと埋《うま》っていたと思われるだろうってわけね。でも、それをどうやって知らせる気だったの?」  「分らんね。ともかく、あれは金子一人のやったことだ」  あの空家に出たという〈幽《ゆう》霊《れい》〉は、一体何だったのだろう? あのとき、金子はもう死んでいた。  「——さて、これで気が済《す》んだかね」  と宮里が言った。  「私を矢《や》で射《う》ったのは白木さんね。車でひこうとしたのは、先生?」  「おどかしただけだ。殺す気はなかった。——あんたが、おとなしく東京へ帰っていれば良かったんだ」  文江は、自分を囲む男たちを見回した。白木、宮里の他も、古い、よく知っている村の人たちだ。  「私が帰ったからって、どうにもならないわよ」  と文江は言った。「私を殺してもね。——私の恋《こい》人《びと》や、それに県《けん》警《けい》の室田さんは、もう真相をうすうす察しているのよ。どうするの? みんな殺すつもり?」  一《いつ》瞬《しゆん》、ためらいが、男たちの間に走った。——これなら大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》かもしれない、と文江は思った。  「一度、二度とやる度に、楽になるわ。悪いことはね。これきりだと思っている内に、どんどん深い所へはまっていくのよ」  「説教かね」  「違《ちが》うわ」  文江は、宮里を真《まつ》直《す》ぐに見返した。「時がたてば、総《すべ》てが忘《わす》れられるというわけじゃないのよ。時がたっても、消えない罪《つみ》があるのよ」  「いい度《ど》胸《きよう》だな、さすがに常石の娘《むすめ》だ」  「借金していた人たちのリストも、手に入っているわ。そこから、金子さんを殺したのがあなただって察しがつく。一つ分れば、そこからもう一つ、もう一つ、と真実がたぐり寄《よ》せられて行くわ。——もう諦《あきら》めなさい。いつかは何もかもが明るみに出るのよ」  「今さらそんなことはできんよ」  宮里が、両手でがっしりと文江をつかまえた。——力では逆《さか》らってもむだだ。  白木が、言った。  「やめよう、宮里さん」  「何だと?」  「お嬢《じよう》さんを殺すことはできんよ」  「怯《おじ》気《け》づいたのか お前だって、クビになって監《かん》獄《ごく》行きだぞ」  「分ってる。しかし——」  「じゃ、そこで黙《だま》って見てろ! 縄《なわ》を貸《か》せ。俺《おれ》がやる」  他の男たちが、文江を押《おさ》えつける。宮里が、縄を輪にして、木の太い枝《えだ》へと投げた。  「——さあ、これでいい」  宮里の声が、引きつっている。額《ひたい》に汗《あせ》が浮《うか》んでいる。  「後《こう》悔《かい》するわよ」  と、文江は言った。  「酒でも飲みゃ忘《わす》れるさ」  「一生酔《よ》っ払《ぱら》っているつもり?」  「人のことは放っておけ!——俺《おれ》だって、好きでやるんじゃない」  縄《なわ》の輪が、文江の首にかかった。輪が絞《し》められて、少し首に食い込《こ》む。  これで死ぬのかしら? 何だか妙《みよう》な気持だった。  恐《おそ》ろしくも何ともない。  まるで、お芝《しば》居《い》の一《ひと》幕《まく》のようで……。そう。ここへ誰《だれ》か、ヒーローが颯《さつ》爽《そう》と現《あらわ》れて助けてくれるのだ。  「さあ引《ひつ》張《ぱ》るぞ」  と宮里が枝《えだ》越《ご》しに垂《た》れた縄へと手をかけた。  そのとき、  「こらあ!」  と凄《すご》い声がした。「お嬢《じよう》様《さま》に何をするんだ!」  「うめ!」  と、文江は言った。  うめが、着物の裾《すそ》をはしょって、時代ものの、な《ヽ》ぎ《ヽ》な《ヽ》た《ヽ》を手に、立っている。  「この……悪《あく》党《とう》め!」  と叫《さけ》んだと思うと、ビュンビュンと、なぎなたを振《ふ》り回しながら、突《とつ》進《しん》して来た。  「危《あぶな》い!」  「逃《に》げろ!」  「やめてくれ!」  そのうめの剣《けん》幕《まく》と迫《はく》力《りよく》に圧《あつ》倒《とう》されて、宮里も白木も、飛び上って逃げ出した。  「卑《ひ》怯《きよう》者《もの》!」  うめは、ウオーと、獣《けもの》のような声を上げて追いかけたが、すぐに戻《もど》って来て、  「お嬢《じよう》様《さま》! 大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》ですか!」  「ありがとう。助かったわ」  文江は、縄《なわ》を外して、息をついた。「こんなネックレスは願い下げだわ」  「鉄男から電話があったんですよ」  「鉄男君?」  「ええ。白木さんが、列車で東京へ行ったことを黙《だま》ってろって口止めしたそうで、何か様子がおかしいって。そしたら、子供が駆《か》けて来ましてね。ここでお嬢様が囲まれてるって。——で、あわててやって来たわけで」  「そう。ともかく良かった。——肝《かん》心《じん》の恋《こい》人《びと》はどうしたのかな」  まるでそれに答えるように、  「おい!——大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》か!」  と、叫《さけ》ぶ声がして、見ると、草永と、室田が走って来るのが見えた。      「——村は大《おお》騒《さわ》ぎ」  と、文江は言った。  「そうだろうね」  公江がベッドの中で肯《うなず》いた。  「白木さん、宮里先生……それに、百代のご主人も放火の罪《つみ》で。——百代は関係ないとかばって、ご主人一人の罪になったようよ。気が重いわ」  「お前のせいじゃないよ」  「でも——」  「本当なら、みんなずっと前に、その罪を償《つぐな》ってなきゃいけなかったんだよ。それが遅《おく》れただけ。お前がすまないと思うことはないのよ」  「ええ、それは……」  「安心していなさい」  と、公江は言った。「後は私が何とかするよ」  「お母さんが?」  「そうさ。捕《つか》まった人の家族の面《めん》倒《どう》は、私がみてあげる」  「本当に?」  「それが常石家の仕事よ。代々のね。私が死んだら、お前に継《つ》いでもらおうかね」  「当分は元気でいてね。しばらくは彼《かれ》と新《しん》婚《こん》生活を楽しみたいから」  「お前は勝手ばっかり言って。それでも常石家の娘《むすめ》なの?」  そう言って、公江は笑《わら》い出した。  文江も一《いつ》緒《しよ》になって笑った。  「やあ、にぎやかだな」  と、病室へ入って来たのは、草永だった。  「あら、遅《おく》れて来たスーパーマン」  「おい、皮肉はよせよ」  と、草永は苦《く》笑《しよう》した。「宮里の行先をつきとめるのが大変だったんだから」  「うめがいなかったら、私は哀《あわ》れ、美人薄《はく》命《めい》を証《しよう》明《めい》するところだったのよ」  「証明したじゃないか」  「何ですって?」  「いや別に」  草永は咳《せき》払《ばら》いをした。  「うめとしては、罪《つみ》滅《ほろ》ぼしのつもりだったのよ」  と公江が言った。  「罪滅ぼしってどういうこと?」  「お前が家を出て行ったあと、部屋が荒《あ》らされて、書置きもなくなっていたの憶《おぼ》えてるだろ」  「ええ。不思議だわ、あれが」  「うめがやったのよ」  「うめが?——どうして?」  「うめなりの哲《てつ》学《がく》があるからね。名家の娘《むすめ》が自分から家を出たとなると、常石家の恥《はじ》になると思ったんだよ、きっと。だから、むしろ誰《だれ》かに襲《おそ》われたとも見えるように、部屋を荒《あら》しておき、書置きも捨《す》ててしまったのよ」  「でも、それが、和也君を死に追いやったのよ」  「後になってからは言い出せなかったんだろうよ。気の毒にね。ずっと気にしていたんだと思うよ」  文江は少し間を置いて、  「それは、うめから聞いたの?」  「いいえ、私の想《そう》像《ぞう》よ。でも、ずっとうめのことは見てるからね。——たぶん間《ま》違《ちが》いないでしょ」  文江は、母の言葉が正しいだろう、と思った。——草永が言い出した。  「ねえ、一つ分らないのは、あの幽《ゆう》霊《れい》なんだ。例の坂東の家に出た奴《やつ》さ」  「ああ、あれね」  と、文江は肯《うなず》いて、「あれは私も分らないの。どうなってるのかしら? まさか金子さんの幽霊が本当に……」  「その幽霊なら」  と公江は言った。「ここにいるよ」  「お母さんが?」  文江は目を丸《まる》くした。  「金子さんにね、相談を受けてたんだよ」  と公江は言った。「はっきり言わなかったけど、悪い金に手をつけた。それを返したい、と言ってね。——あそこへ埋《う》めたのも知ってたの。だから、亡《な》くなったとき、何とか金子さんの気持ちを尊《そん》重《ちよう》してあげたくてね。それであんなことをしたのよ」  「人《ひと》騒《さわ》がせね、お母さんも」  と文江は苦《にが》笑《わら》いした。  「気が若《わか》い、って言っとくれ」  と公江は言った。「ああ、お腹《なか》が空《す》いた。うめに食事を運ばせようかね、ここまで」 22 エピローグ  「じゃ、うめ、後はよろしくね」  と、玄《げん》関《かん》へ降《お》りて、文江は言った。  「お世話になりました」  と草永が礼を言う。  「いいえ」  うめがどっしりと座《すわ》って、「ずっとここにいらっしゃればいいのに」  「ともかく、東京で式を挙《あ》げなきゃいけないのよ」  「今《ヽ》さ《ヽ》ら《ヽ》ですか」  とうめが言った。  ——荷物を手に表に出ると、  「あら、室田さん」  と文江が言った。  車が停《とま》っていて、室田が立っていた。  「駅まで送りますよ」  「まあ、すみません」  二人が乗り込むと、室田は車を村の方へと走らせた。  「——マスコミは割《わり》と静かですね」  と草永が言った。  「何しろ昔《むかし》の事《じ》件《けん》だし、それにここは田舎《いなか》ですからね」  「みんなすぐに忘《わす》れて行くわ」  と文江は言った。  「村の人たちは別でしょうがね」  と、室田は言った。「——あなた方には、ずいぶん、お世話になりました。お礼を言いますよ」  「とんでもありませんわ」  と文江は言った。  村が見えて来た。  「——室田さん」  「何です?」  「村の入り口で停《と》めて下さい」  「どうするんですか?」  「歩いて駅まで行きます」  「しかし、それは——」  「お願いします。先に駅へ行って、待っていて下さい」  「——分りました」  車はゆっくりと停《とま》った。  文江は、外へ出ると、続いて降《お》りようとした草永を停めた。  「一人で行くわ」  「でもそれは——」  「お願い。ここは私《ヽ》の《ヽ》故郷なのよ」  草永は、ちょっと笑《わら》って、  「好《す》きにするさ」  と肯《うなず》いた。  文江は、車が走り去ると、ゆっくりと村の通りを歩いて行った。  ——通りに出ていた人たちが、文江を見ると、急いで家の中へ入ってしまう。子《こ》供《ども》をかかえて、母親も家へ駆《か》け込《こ》む。  戸が閉《しま》り、窓《まど》がピシリ、ピシリ、と音をたてて閉《と》じた。  そして、わずかに、隙《すき》間《ま》から覗《のぞ》く目は、敵《てき》意《い》と、冷たい無《む》関《かん》心《しん》を感じさせた。  もう、ここは私の村じゃない、と文江は思った。  静かだった。——風が渡《わた》って行く。その音さえ聞こえる。  自分の足音だけが、耳についた。  村を通り抜《ぬ》けながら、文江は、七年間の空白を、通り抜けていた。文江の足音は、七年の時を刻《きざ》む、時計の鼓《こ》動《どう》だった。  ——帰って来た村。しかし、今は、文江はあの大都会へと「帰る」のだ。  文江が帰ろうとした、七年前の故《こ》郷《きよう》は、もう、どこにも残っていなかった……。  「やあ、お嬢《じよう》さん」  鉄男がいつもの通り、ホームで迎《むか》えてくれた。  「——大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》だった?」  草永がやって来た。  「ええ。——室田さんは?」  「用があるからって……。君によろしくって言ってたよ」  「そう」  文江は、ホームの中央に出て、息をついた。  ——よく晴れていた。  「列車が来ますよ」  と、鉄男が言った。  レールを鳴らして、列車がやって来る。  「鉄男君、元気でね」  と文江は言った。  「どうも。お嬢《じよう》さんも、また来て下さい」  「そうね」  文江は微《ほほ》笑《え》んだ。  列車が停《とま》って、草永が、スーツケースを運び込《こ》む。  がら空きの車内を見回して、この線も、いつまであるかしら、と文江は思った。  窓《まど》際《ぎわ》に座《すわ》ると、列車が一《ひと》揺《ゆ》れして、動き出す。  「おい!」  と草永が言った。  「え?」  「見ろよ」  窓から顔を出して、文江は思いがけないものを見た。  赤ん坊《ぼう》を抱《だ》いた百代が、ホームの外に、立って、こっちへ手を振《ふ》っているのだ。  文江は身を乗り出すようにして手を振った。  「百代! 元気でね!」  と叫《さけ》んだ。  向うも叫び返したが、もう、聞こえなかった。  ゆっくりと座《ざ》席《せき》に戻《もど》ったとき、草永の微《び》笑《しよう》に出会った。文江も、微《ほほ》笑《え》み返した。  列車がスピードを上げた。といっても、大した速度ではなかったが。 過《か》去《こ》から来《き》た女《おんな》  赤《あか》川《がわ》次《じ》郎《ろう》 ------------------------------------------------------------------------------- 平成12年12月8日 発行 発行者  角川歴彦 発行所  株式会社 角川書店 〒102-8177 東京都千代田区富士見2-13-3 shoseki@kadokawa.co.jp Jiro AKAGAWA 2000 本電子書籍は下記にもとづいて制作しました 角川文庫『過去から来た女』昭和62年1月25日初版刊行 平成11年4月20日42版刊行