[#表紙(表紙.jpg)] 迷子の花嫁 赤川次郎 目 次  迷子の花嫁    プロローグ  1 大安吉日  2 秘書の笑い  3 すれ違った顔  4 刃物を持った女  5 殴った男  6 浴室の死体  7 殴られて  8 砕けた陶器  9 替え玉    エピローグ  死にそこなった花嫁    プロローグ  1 気を失った女  2 逃げた男  3 霊の声  4 亜由美、誘拐される  5 囚《とら》われの美女  6 ロビーの血  7 追跡行  8 炎の洗礼    エピローグ [#改ページ]   迷子の花嫁 [#改ページ]  プロローグ  ああ……。頭が痛い。  柔らかすぎる枕《まくら》も、こんなときには却《かえ》って逆効果である。  何度もこめかみを押したり、ギュッと目をつぶっては開けたり……。くり返している内に、少し頭痛はおさまって来た。  こういう状況で目を覚ますのが初めて、というわけではない。前田小夜子も二十四歳である。二日酔の経験ぐらいは、ちょくちょくあった。  しかし、こんなにひどいのは、確かに珍しい。——大体、ここはどこだろう?  自分の寝室でないことは間違いない。  でも——。やっとはっきりと目が覚めて、小夜子はハッとした。  見知らぬベッドルーム。誰の[#「誰の」に傍点]部屋なのか。そして、ゆうべは何があったのだろう?  思い出して来る。——大学時代の友だちと飲んだ。  女の子ばかりで、却って度を過して飲んでしまったようだ。——独身時代最後の馬鹿騒ぎ。  というのも、前田小夜子はあさって——いや、もう夜は明けているのだろうから、明日か。結婚することになっているからである。  最後に、いっちょ思い切り遊んじゃいなさいよ!  そう煽《あお》り立てたのは、友だちの中の誰だったか。思い出せない。  パーッと遊んだほうが、結婚してから悔いが残らなくて、却ってうまく行くのよ!  仲間内では、小夜子が結婚一番のり。それなのに、分ったようなことを言ってくれる人がいて……。  それで——どうしたんだろう?  ゆっくりとベッドに起き上って、小夜子は体にかけていた毛布が落ちると、一瞬青ざめた。裸で寝ている!  何となく……そう、憶《おぼ》えてる。男の人に声をかけて、 「私と寝ません?」  なんて言ったような気がする。  何て馬鹿なことを!——小夜子は青くなって、いっぺんに頭痛も飛んで行ってしまった。  本当に——本当にやってしまったのだ。  明日、結婚するというのに!  やっと少し目が慣れて来ると、カーテンを通してかすかに射し込む光で、部屋の様子が分る。ホテルではない。どこかの家の寝室だが、ずいぶん広い。  ともかく、今は早くここを出ることだ。  服は? 脱いだものはどこにいったんだろう?  暗すぎて捜すのは無理だった。小夜子はベッドのわきのナイトテーブルに小さなスタンドがあるのを見て、スイッチを捜した。——これか。  カチッと音がして、明りが広がる。ベッドの周辺は充分に見える。  それにしても、凄《すご》い部屋である。広さは、小夜子が今独りで住んでいるアパートの部屋全部合せたより広いだろう。それに、このベッドの大きいこと! 単なるダブルサイズなんかではない。とんでもなく大きい。そしてアンチックの家具のように、頭部の板や柱には彫刻が施されていた。 「下着……。どこだろう?」  と、キョロキョロ見回して——。  毛布の中にでも紛れ込んでいるのかしら?  パッと毛布をめくると——白髪の男が、カッと白眼をむいて、苦悶《くもん》に歪《ゆが》んだ表情のまま——死んでいた。  小夜子はベッドから落っこちた。腰が抜けて、立つこともできない。  一緒に引きずって来た毛布を体に巻きつけ、ガタガタ震えていると、ドアが開いて、男のシルエットが見えた。 「どうしました?」  と、ベッドの方へやって来ると、「——社長! これは……」  その男は、床に座り込んでいる小夜子へ、 「何があったんです?」  と、鋭い口調で訊《き》いた。 「私……眠っていたの……。今、目が覚めて……。何も、知らないのよ! 本当よ!」  小夜子はそう言って泣き出してしまった。 「すぐ救急車を」  と、その男は言って、「もう——むだでしょうが」  と、付け加えた。  男が廊下で電話している声を、小夜子はぼんやりと聞いていた。まるで、悪い夢を見ているような、そんな気分で……。 「やれやれ」  と、ほっそりした、少しキザな服装の男は言った。「親父《おやじ》も、みっともない死に方をしてくれたもんだ」  内山秀輝、という名前だと小夜子は聞いた。  そのキザな男のことである。三十五、六だろうが、不健康そうな顔色で、どう見ても、真面目に働いているとは見えない。  死んだのは、その父親で、内山広三郎、六十六歳。 「——親父はね、かなり知られた実業家だった。それがこんなことで……。全く、世間に知れたら笑いものだ」 「申しわけありません……」  小夜子は、消え入りそうな声で言った。  居間は、あの寝室にも増して、広い部屋だった。——死体を発見して数時間、もう昼を過ぎている。 「どうなんだ?」  と、内山秀輝は問い詰めるように言った。「親父から何かせしめたのか?」 「何も……私、何も憶えてないんです」  と、小夜子は言った。 「ふん、隠したってだめだ。裸にして、何か盗んでないか調べてやる」  と、内山秀輝は小夜子を見下ろした。 「お兄さん、やめなさいよ」  いつの間にかドアが開いて、黒いスーツを着た女性が立っていた。——内山秀輝とはあまり似ていないが、それでも兄妹らしさを感じさせるのは、どこか投げやりに生きているという印象が共通しているからだろうか。 「有紀か。——遅かったじゃないか」 「知らせを受けたのが箱根の別荘よ。これでも飛んで来たんだから」  と、有紀という女性は小夜子の方へやって来る。 「私、大倉有紀。内山広三郎の娘ですの」 「前田……小夜子です」 「話は兄から大体うかがったわ。——父は、年中別の女性を相手に遊んでたから、あなたの話も本当でしょう。何か父から巻き上げるつもりなら、いつまでも眠り込んでいないでしょうからね」  有紀はきびきびした調子でそう言うと、「お兄さん。この人、帰してあげなさいよ」  と、内山秀輝の方を向いた。 「ま、好きなようにしろよ」  と、内山秀輝は肩をすくめる。  小夜子はホッとした。——下手をしたら、警察へでも突き出されるかもしれないと思っていたのである。 「前田さん、といったわね」  と、有紀は小夜子の隣に座ると、「こんなこと、あなたも人に知られたくないでしょう?」 「はあ……」 「私たちもなの。父は一応その世界では知られた人だった。内山広三郎が、若い女の子を連れ込んで腹上死、っていうんじゃね。ちょっとこっちも世間体がある。——ね、このことについては、あなたもこちらも、全部きれいさっぱり忘れることにしましょうよ」 「ええ……」 「いいわね? 何も[#「何も」に傍点]なかったことにするの。父は眠っている間に心臓発作。これなら世間にも恥ずかしくないわ」 「分ります」 「良かったわ、話の分る人で」  と、有紀は小夜子の肩に手をかけて、「じゃあ、もう帰っていいわ。その代り、もしどこかでお会いすることがあっても、お互いに知らない同士。——もっとも、会うこともないでしょうけどね」 「はい。——分りました」 「約束ね」 「お約束します……」 「玄関まで送るわ」  大倉有紀は、小夜子を、広い玄関から送り出した。  外へ出て、振り返ると、改めてその屋敷の大きさに目をみはる。 「——とんでもない夜だった」  と呟《つぶや》いて、小夜子は足早に歩き出した。  早く忘れよう。何もなかったことにして……。ゆうべの記憶を消してしまうのだ。  もちろん、小夜子はこれで何もかもすんだと思っていたのだ。——あんな大金持の人たちと会うことなんか、決してないだろうし……。  しかし、それは間違っていたのである。 [#改ページ]  1 大安吉日 「ほら、ドン・ファン! 邪魔しないでったら!」  塚川亜由美は、苛々《いらいら》しながら叱《しか》りつけた。 「クゥーン……」  ドン・ファン——こんな変な名前だが、ダックスフントの由緒正しい名犬(?)である——は、つまらなそうに鼻を鳴らした。 「急ぐのよ、こっちは!——聡子も何やってんだろ。もう二十分も遅れてる」  と、亜由美はブツクサ言いつつ、自分も仕度が遅れているので、正直なところホッとしてもいたのだった。 「亜由美」  と、例によって、母親の清美がドアを開けた。 「お母さん! ノックしてって言ってるでしょ。こっちは女子大生なのよ」 「はいはい」  と、清美の方は一向に聞いていない。「神田さんが迎えにみえたわよ。——あら、あんたも、そういう格好すると、結構可愛いじゃない」 「『結構』はないでしょ。自分の娘に向って」  と、亜由美は言った。  確かに、今日の亜由美は少し肩の出た、ピッチリと体のラインを出すドレス姿で、我ながら「魅力的!」と認めないわけにはいかない出来栄えだった。 「どう? 花嫁がかすんじゃってもいけないんだけどね」 「それなら大丈夫よ」 「本当に、お母さんは変なとこばっかり請け合ってくれるんだから」  と、亜由美は苦笑した。「すぐ行くって、聡子に言って」 「はいはい。——亜由美。もし式場で適当な人を見付けたら、酔っ払わせて、結婚しちまったらどう?」 「無茶苦茶言わないで」  亜由美はバッグをつかみ、「行って来るからね。——あれ?」  ドン・ファンの姿が見えない。大方、叱られてすねているんだろう(プライドだけはやたらと高いのだ)。  亜由美はトントンと階段を下りて行った。 「お待たせ」  と、玄関へ出て行くと、親友の神田聡子が、こちらはレース飾りのついた、えらく可愛いワンピースで立っている。 「ハハ、可愛く決めたね」  と、亜由美が言って、「——お母さん! 行って来るね」  と、呼びかけると、居間から出て来たのは、父親の塚川貞夫。 「あら、お父さん、いたの? あ、今日は日曜日か」 「亜由美。——行くのか」  と、塚川貞夫はいやに深刻な表情で、言った。 「うん……。だって、もう出ないと式に遅れちゃう」 「そうか! お前も行ってしまうのだな」  塚川貞夫はひし[#「ひし」に傍点]と亜由美を抱きしめて、「いつかまた、神様の思召《おぼしめ》しで、再び会える日が来る。そう信じていよう」 「あ、あのね、お父さん——」  と、亜由美が焦っていると、 「さ、行った行った」  と、清美がやって来て、「お父さんはね、今見てたアニメの場面を『追体験』してるのよ」  塚川貞夫は、優秀なエンジニアだが、唯一変っているのは、少女アニメの熱狂的ファン、それも「涙、涙」のパターンのものが大好きと来ている。 「行け、娘よ!」  と、赤く目を潤ませて、亜由美を離すと、「神が共にあらんことを!」 「行って来ます」  亜由美は、聡子を押し出すようにして、外へ出た。「——ああ、冷汗が出る」 「でも、可愛いじゃない、お宅のお父さん」 「あれで? その内、家中にスピーカーでも置いて、一言話すたびに『ジャーン!』って音楽が入るんじゃないかしらね」 「楽しいじゃないの。純情なのよね、きっと。——でも、いいお天気になったわね」  五月。お昼に近い空の青さは、まぶしいほどだった。  道に車が一台|停《とま》っている。 「やあ」  と、窓から顔を出したのは——。「お二人とも美しいですな」 「殿永さん!」  と、亜由美はびっくりして、「何してるんですか、こんな所で?」 「お二人をお送りしようと思いましてね」  何かと物騒なことによく係わり合う亜由美たちが、その都度迷惑をかけている(?)、太った男——殿永刑事である。 「でも……お仕事は?」  と、聡子が訊《き》いた。 「クビになったんですか、警察?」  と、亜由美。  殿永は笑って、 「いやいや。そういうわけじゃありません」  と、ドアを開け、「さあ、乗って下さい。〈K会館〉ですね、行先は」 「あの——もしかして母が?」  と、亜由美が訊く。 「そうです。たまたま今日は非番でしてね。『うちの娘たちが襲われたら、殿永さんもお困りでしょ』と言われて」 「全くもう!」  と、亜由美はため息をついた。 「まあいい。乗って乗って。——ちゃんと助手もついてます」 「助手?」  助手[#「助手」に傍点]席から、ヌッと顔を出したのは、ドン・ファンだった。 「あんた、いつの間に……」 「大安吉日ですよ。さあ、参りましょう」  殿永は楽しげに言った。 〈K会館〉は、確かに今日が大安吉日であることを印象づけた。  ともかく、フル回転で、式と披露宴が次々に進み、ロビーや廊下も、人が溢《あふ》れんばかり。 「ドン・ファン。あんた、踏みつぶされたって知らないからね」  と、ロビーへ入った所で、亜由美はそう宣言した。「それから、言っとくけど、ウェディングドレスのスカートの中なんかに入ったりしたら、しめ殺すよ!」 「ワン」  亜由美の迫力に、さしものドン・ファンも素直に肯《うなず》いた(?)。 「やあ、大変な混雑だ」  殿永が車をパーキングへ入れて、やって来た。——いつもと違って、ダブルのスーツとシルバータイ。それなりにさま[#「さま」に傍点]になっている。 「先輩の前田小夜子って人の結婚式なんですの」  と、亜由美は言った。「相手、誰だっけ」 「ええと……。〈久井〉って言うんだ、〈久井隆〉ですって」 「どこへ行けばいいのかな」  ズラッと〈××家・××家結婚式場〉という案内の札がかかっているパネルを眺めて、「——あった。三階だね、〈久井家・前田家〉」 「そうらしいわね、こんなに式があるの? 凄《すご》い」  と、聡子が呆《あき》れた様子で、「これなら、私だって、ねえ」 「関係ないでしょ。——行こう。あれ、殿永さんは?」  殿永が少し遅れてやって来る。 「失礼しました、ちょっと知ってる顔を見たもんで」 「凶悪犯ですか?」 「塚川さん」  と、殿永はため息をついて、「何か他に考えることはないんですか?」 「性格ですの」 「残念ながら犯罪者じゃありません。どこかで見た顔だと思ったんですが。確か——財界人ですよ、有名な」 「TVに出てます?」  と、聡子が訊いた。 「有名か否か」の判断は、TVに出ているかどうか。これが聡子の信念である。 「さ、行きましょう」  亜由美たちは、ちょこまかと人の間をすり抜けるドン・ファンともども、エレベーターへと向った。  エレベーターがゆっくりと三階へ上って行く途中、 「そうだ」  と、殿永が言った。「思い出した」 「何を?」 「今、ロビーで見かけた人物です。有名な実業家ですよ。そう。——内山広三郎[#「内山広三郎」に傍点]だ、あれは」  トントン、とドアをノックされて、控室に一人でいた小夜子は、ドキッとして飛び上りそうになった。 「は、はい!」 「入っていい?」  と、懐しい声がする。 「あ——どうぞ」  変に他人行儀になってしまうのが、我ながら妙である。 「やあ、すてきだ」  と、久井隆が入って来て、小夜子のウェディングドレス姿を眺める。 「そんなにジロジロ見ないでよ」  と、小夜子は赤くなって目を伏せた。 「でも、大丈夫かい? 今朝は何だか青い顔してたって——」 「もう何ともないわ。飲みすぎたの、おとといの夜。本当に馬鹿みたいだった」 「ゆうべじゃなくて良かったよな。二日酔で結婚式じゃ、辛いからね」  と、久井は笑った。  小夜子は一瞬ゾッとする。——二日酔、と言われると、昨日、あの大きなベッドの中で目を覚ましたことを思い出してしまうのだ。  もう忘れなきゃ! 一刻も早く、忘れてしまうこと!  小夜子は、昨日、アパートへ帰ってからも気が気ではなかった。あの内山広三郎という男の親戚《しんせき》とかが、押しかけて来るんじゃないかと……。  しかし、もちろんそんなことはなく、夕方にはやや気をとり直して、上京して来る両親を東京駅へ迎えに行ったのである。 「今夜も、仲間の連中が僕を酔い潰《つぶ》れさせようと企んでるんだ」  と、久井が言った。 「まあ。大丈夫?」 「任せて。大事な夜じゃないか。そんなことさせるもんか」  と、久井はニヤッと笑って、「ちゃんと裏をかいてやることにしてるんだ」 「裏をかくって?」 「二次会の会場へ連中が集まるだろ。そこへドカッと花束と飲物を差し入れて、〈勝手にやっててくれ〉ってメッセージを入れてやる。泊るホテルも、でたらめを教えてあるからね。分りゃしないよ」 「まあ、いいの? そんなことして。お友だちに——」 「友だちだって、礼儀ってもんがある。そうだろう? 一番プライベートな時間を邪魔する権利は、誰にだって、ないさ」  久井の言葉は、小夜子の胸を熱くした。 「嬉《うれ》しいわ。——あなたがそんな風に気をつかってくれてるなんて……」 「当り前だろ。君と結婚できるんだから」  と、久井は屈託なく笑った。  ——久井隆は、二十六歳。小夜子より二つ年上だが、見たところ童顔で若々しいので、同年代に見える。  小夜子と久井は見合結婚である。——故郷の親類の口ききでお見合したときには、小夜子は正直、遊び半分という気持だった。  しかし、久井のほうは一目見るなり小夜子のことが気に入った様子で、かなり積極的にこの話を進めてしまった。小夜子の方でも、「そう嫌いなタイプでもないし……」と思っている内に、いつの間にやらプロポーズされ、OKしていた、という具合だった。  いくらか気楽に考えていた、そんな気分が、あんなとんでもない出来事につながってしまったのかもしれない。  そう思うと、小夜子は久井に申しわけなくて、胸苦しい気持になるのだった。 「ご両親は?」  と、久井が言った。 「ええ、今ちょっと——何だか売店で買って来るって、出て行ったわ」 「じゃ、あんまりここにいても良くないな。僕の方も色々客が来るからね。後で会おう」 「ええ」  と、言って、小夜子は、「——ね、隆さん」  と、呼び止めた。 「え?」  振り返った久井は、「『隆さん』って呼んでくれたのは、初めてだね」  と、微笑《ほほえ》んだ。 「そう……。そうね」  小夜子は、まるで初恋に震える少女のようだった。「ずっと——ずっと、そう呼びたいわ。一生、ずっと」  久井は、小夜子のほうへ歩み寄ると、そっとヴェールを持ち上げ、額に軽く唇をつけた。  そこへ、 「先輩! いますか!」  と、ドアを叩《たた》く音。 「塚川さんだわ」  と、小夜子は笑って、「あなたも会って行って。面白い子なの」 「どんな風に?」 「会えば分るわ」  ——その通りだったということは、改めて述べるまでもないだろう。 [#改ページ]  2 秘書の笑い 「ここにいたの」  と、大倉有紀は言った。「散々捜したじゃないの」  大倉貞男は、ちょっと焦点の定まらない目で妻を見上げて、 「お前か。——捜したのはそっちの勝手だろ。俺が捜してくれと頼んだわけじゃない」 「酔ってるのね」  と、有紀はため息をついた。「みっともない! どこに知り合いがいるか分らないのよ」  ——式場のロビーの奥。このラウンジは、盛装の男女で一杯である。  もちろん大倉貞男も一応はスーツにシルバータイという格好ではあったが、目の周りを赤くして、少しトロンとした目つきでいるところは、あまりそのスタイルに似つかわしいとは言えなかった。 「ビールなんか飲んで」  と、有紀は腹立たしげに言って、「ちょっと!」  と、ウエイトレスを呼んだ。 「あのね、コーヒー、ブラックで。うんと濃くして」 「はい」  と、ウエイトレスが興味ありげに二人を眺めて、戻って行く。 「コーヒーはだめだ。眠れなくなる。分ってるだろ」  と、大倉は文句を言った。 「いつも眠ってるようなもんでしょ」  と、有紀がはねつける。「少しはシャンとしてよ。親類がみんな来るっていうのに」  大倉は苦笑して、 「みんな知ってるさ。働きのない亭主のことくらい」 「だからこそ、きちんとしてくれなきゃ! 困った人ね」  と、有紀は怖い顔でにらんだが——本気で怒っているという風でもない。 「親父《おやじ》さんは?」  と、大倉が訊《き》く。 「え?」  有紀はちょっとドキッとした様子で、「父がどうかした?」 「いや——来るのかい、今日?」 「ああ……。そう、来てるわよ、もう」 「そうか。じゃ、挨拶《あいさつ》しなきゃまずいだろうな」 「でも、いいわよ、無理しなくて」  と、有紀が少しあわてた口調で言った。 「そうか?」  大倉は不思議そうに妻を見た。  コーヒーが来て、大倉は気が進まない様子ながら、素直に一口飲んで顔をしかめた。 「これがコーヒーか? 苦いばっかりじゃないか」 「だから効くのよ」  と、有紀は言った。「ね、あなた。大切な話があるの」 「何だ?」 「今はだめ。あなたがそんな様子じゃね。それにこんな人目のある所じゃ」 「じゃ、どうすりゃいい?」 「今日、終ったらちゃんと家へ帰るのよ。真直ぐね。一人でフラッと飲みに出たりしないで」  有紀は、大倉がちょっと目をそらしたのを見て、やはりどこかへ出かける気だったのだと知った。 「——いいわね? 約束して」 「ああ、分った。ちゃんとコーヒーも飲んでるだろ。せめて砂糖だけでも入れさせてくれよ」 「いいわよ、どうぞ」  と、有紀は言った。「もう一つ、約束してほしいことがあるの」 「はいはい。何でも約束するぜ」 「真面目に聞いてよ!」  前田さん。いやあ、お久しぶり……。どうも、その節は……。  ——近くのテーブルでの会話が、何となく耳に入っている。前田さん。——前田[#「前田」に傍点]さん。 「あのね」  と、有紀は言った。「今日一日、父に一切話しかけないで[#「話しかけないで」に傍点]」 「何だって?」  大倉がキョトンとしている。「話しかけるな?」 「そう。事情は後で説明するけど、ともかく父と話をしないで。いいわね」 「ああ……」  いつもとは逆の有紀の「命令」に、大倉貞男は面食らっている。「しかし何だって——」 「後でゆっくり話してあげる。だから、今日はちゃんと一緒に帰るのよ。いいわね?」 「ああ……」  じゃ、小夜子ちゃんにはまた後で。  そうですか。たぶん小夜子のやつ、控室にいるはずですがね。女房がついてますから。  ——小夜子[#「小夜子」に傍点]。  前田……小夜子。  有紀は、ぼんやりとその名を聞いていたが……。 「まさか」  と、呟《つぶや》いて振り向く。  少し頭の禿《は》げた、温厚な感じの中年男が、親類らしい男と挨拶を交わして、 「では後ほど」 「どうも、ご苦労様です」  と、挨拶をくり返している。  前田小夜子?——でも、まさか。 「おい、どうかしたのか」  と、大倉が、妻の様子を見て言った。 「何でもないわ」  と、有紀は首を振ったが、何でもないどころじゃないことは、顔を見れば分った。 「——あ、大倉さん」  と、やって来たのは、キリッとした感じの細身の男だ——。 「野口さん。ごめんなさい、捜した?」 「いえ、何か用というわけじゃないんです。ただ、大倉さんがおいでになっているのを確かめられれば」  内山広三郎の秘書は、大倉の方へ、「ごぶさたして」  と、頭を下げた。 「いや、どうも」  大倉は、コーヒーにドサッと砂糖を足して、 「今、酔いを覚ましているところさ。いつも女房が世話になってるね」 「何言ってるの?」  と、有紀が眉《まゆ》をひそめて、「野口さんは父の秘書よ」 「分ってるさ。君は別の方面で女房の面倒をみてくれてるらしい。そうだろ?」 「馬鹿なことを……」  有紀がサッと赤くなる。  野口のほうは表情一つ変えないで、 「何のお話か分りかねますね」 「分らなきゃいいんだ。酔っ払いの独り言だよ」  と、大倉は笑った。「先に行けよ。ちゃんと後で行くから。〈内山家控室〉ってとこへ行きゃいいんだろ?」 「ええ……。じゃ、必ず来てね」  と、有紀は立ち上った。「十分したら。いいわね。野口さん、行きましょう」  有紀は野口を従えて、ラウンジを出た。  出口でチラッと振り向くと、大倉がコーヒーをまずそうに飲み干している。 「払っておきました」  と、野口が財布を内ポケットへしまうところである。  いつの間にか、ちゃんと片付けておいてくれるのだ。野口は、その点、優秀な秘書である。 「ね、野口さん——」  と、急いで歩きながら、「主人に何か……」 「見当もつきません」  有紀は足を止めた。ロビーの隅で、ちょっと人気のない場所だ。 「野口さん……。この前のことは……」  と、有紀は口ごもりながら、「一回きりのものだと思って下さいね。私も酔ってて、普通じゃなかったし……」 「よく分っています」  野口の口もとに、やっと笑みらしいものが浮かんだ。「しかし、奥さんは美しい。一度抱いたら、忘れられるもんじゃありませんよ」 「そんなこと……」  有紀はポッと赤くなった。「でも——今はそれどころじゃないの」 「何です? 例の方は順調ですよ。内山広三郎様は、変り者としても通っています。一人で休みたいからと言って、別室にいても、誰も不思議には思いません」 「ええ、その点は安心してるわ。あなたのお膳立《ぜんだ》てですものね。手抜かりはないでしょう。これが兄なんかにやらしてたら、とんでもないことになるわ、きっと」  と、有紀は言った。「ただね、今、ちょっと気になったの。昨日の女の子、憶《おぼ》えてる?」 「内山さんが連れて来た子ですか?」 「ええ。名前、確か前田小夜子だったわよね?」 「そうでした」 「今聞いたの、『前田小夜子』って名を。今日、ここで式を挙げるらしいわ」 「——まさか」  と、野口は目をみはった。「いくら何でも、そんな偶然が——」 「私も、もちろんそう思ってるわ。でも、万に一つ、ってこともある」 「分りました」  と、野口は肯《うなず》いて、「すぐに当ってみましょう。〈前田〉って名で今日ここで式を挙げるのなら、捜すのは簡単だ」 「そうね」 「しかし、あまり気になさる必要はないと思いますよ。この混雑だし、当人が花嫁なら、他の客の顔など、見ている余裕はないでしょうしね」 「ええ、分ってるわ」  と、有紀はホッと息をついて、「あなたにそう言ってもらうと、何となく安心するの」 「僕は精神安定剤ですか」  と、野口は笑った。 「安定させるだけじゃなくて、乱れさせることもあるわよ」 「そうですか?」  二人の視線は絡み合ったが、それも一瞬のことで、 「主人が気付いているとしたら、うかつなことはできないわ」 「僕はうかつ[#「うかつ」に傍点]なこともたまにはしたいですがね」  と、野口は言ってニヤリと笑うと、「じゃ、もう行きます。——では後ほど」  パッとみごとに「父の秘書」の顔に戻って、野口は立ち去った。  ——有紀は、軽く息をついた。  野口とあんなことになるとは、実際にそうなるまで、思ってもみないことだったのだ。しかし、それは一回だけのことで……。夫とひどくやり合った後、大勢の客の前で「仲むつまじい夫婦」を演じなくてはならなかった、その反動のせいだった。  格別野口にひかれていたというわけでもないのだが。——しかし、一度でもそんなことがあれば、野口はもう単なる「秘書」ではない。  有紀はため息をつくと、気をとり直して、広い階段を上って行った。  ——その有紀の姿を、少し離れて眺めていたのは、夫の大倉貞男である。  有紀と野口が出て行ってすぐ席を立ったのだ。  二人が話をしているのを、遠くから見ていた。もちろん話は聞こえなかったが、二人の表情には「共通の秘密を持つ者」の、独特な親しさがあった……。  野口の奴《やつ》……。とり澄ました顔をしやがって。  しかし——有紀の様子も何となくおかしかった。  いつもなら、父親に挨拶しろ、愛想良くしろとうるさいのに、今日は「口をきくな」だって? 妙な話だ。  大倉は、もう酔いもすっかり覚めていた。すぐ顔には出るが、大して酔ってはいないのである。  ちょっとネクタイをしめ直すと、有紀と同じ、広い階段を上って行く。  途中、ウェディングドレスの花嫁とすれ違った。  今日は、内山家の親戚筋の女の子の結婚式である。  結婚か……。初々しい花嫁姿を見送って、大倉は、ちょっと苦い笑みを浮かべた。  有紀の奴だって、結婚式のときは緊張し、ウェディングケーキにナイフを入れるときには、涙さえ浮かべていたものだ。  まあ、そんな風に盛り上げる演出がしてあるとはいえ、いくらかは、厳粛な思いで、「永遠に!」と思っているはずなのである。  その真心の、何と儚《はかな》いことか。——もちろん、今さら嘆いても仕方ないことだ……。  大倉は階段を上って行く。  内山広三郎氏に会いに行くかな。——なぜ有紀が会わせたがらないのか、興味があったのだ……。 [#改ページ]  3 すれ違った顔 「——なかなかだったじゃない」  と、神田聡子が言った。 「うん。感動的だった」  と、亜由美が素直に肯《うなず》く。「やっぱりいいわねえ結婚式って」 「違うわよ、あのお婿《むこ》さん。結構見られる顔だし」 「何言ってんの」  と、亜由美がにらむと、足下で、 「ワン」  とドン・ファンが笑った[#「笑った」に傍点]。 「いや、立派なものでしたな」  と、殿永が二人の後から出て来て、「私も若いころを思い出した」 「あ、殿永さんにも若いころがあったんですね」  と、聡子が言った。 「失礼よ、聡子。殿永さんだって、若いころも、細い[#「細い」に傍点]ころもあったのよ。ねえ?」 「どっちが失礼よ」  とやり合っていると、式場の係の人が、 「恐れ入ります。後がつかえておりますので、お早めに披露宴会場のほうへ移動して下さい!」  と、叫んでいる。 「大混雑ね」 「大儲《おおもう》けだ」  と、聡子が現実的な感想を述べる。「ね、写真、とるんだよね」  ——キリスト教式の式場で、久井隆と小夜子の結婚式が終ったところである。  この後は披露宴。その間に、記念撮影があるはずだった。 「写真室が大変混み合っておりますので、順番が来しだい、アナウンスいたします」  と、係の人が大声で言っていた。  廊下を、何組もの花婿花嫁がすれ違うという、信じがたい盛況ぶり。 「あ、前田先輩」  と、聡子が言った。  ウェディングドレスに、頬《ほお》を上気させた小夜子がやって来た。 「塚川さん、どうだった?」 「感動的でした」  と、亜由美は言った。 「そう? 二人の足どりが合わなくて。リハーサルの時間がないんだものね」  と、小夜子は笑って、「二人とも、時間あるんでしょ? 全部終ってから、ゆっくりお茶でも飲みましょうよ」 「はい。旦那《だんな》様をじっくり拝見します」 「いくらでも、見てちょうだい」  と、小夜子は楽しげに言った。「あ、お父さん」 「おい、今スタジオが空いてるから、新郎新婦の写真だけ先にとってくれ、と言って来た。久井君の方は呼びにやったぞ」 「そう。じゃ、行くわ。——塚川さんたちも見に来る?」 「はい!」  いやと言うわけがない二人である。ついでに、 「ワン」  と、足下でドン・ファンも同行する旨を告げた。 「じゃ、行きましょう」  小夜子を先頭にゾロゾロと廊下を歩いて行くと——あっちから、同じようなウェディングドレスの花嫁がやって来る。  もちろん、あちらも後ろに何人も連れているのだが……。すれ違うのには一応充分な幅があるが、それでも花嫁同士、何となく互いに会釈を交わして行く。  そして、小夜子は真直ぐに顔を上げ、ドレスの裾《すそ》を少しつまんで、歩いて行ったのだが——。  小夜子がピタリと足を止める。後を歩いていた亜由美たちは、危うく追突しそうになった。 「前田さん、どうしたんですか?」  と、聡子が訊《き》いたが、 「そんなこと……」  と、呟《つぶや》きながら、ゆっくりと振り向いた小夜子には、聡子の声など全く聞こえていない。小夜子の目は、今すれ違って行った人々の方を向いていて、その顔からは血の気がひいていた。 「——おい、小夜子、どうしたんだ」  と、父親に言われて、小夜子はやっと我に返った様子。 「あ……。何でもないの。何でも……」  と言いつつ、小夜子は歩き出したが、亜由美は、ドレスの裾をつまんだ手が、細かく震えているのを見てとっていた。  ——スタジオでは、久井が待っていて、 「さ、急いでくれってさ。全く、一生一度のことなのにね」 「すみませんね」  と、カメラマンが恐縮している。「何しろ今日は特別で。でも、腕によりをかけてとりますから」 「頼みますよ」  と、久井は笑った。「——どうした? 青い顔してるよ」 「何でもないの。大丈夫」  と、小夜子は首を振った。「私でも、少しは緊張するのよ」  二人が並んでの写真。  亜由美たちは、邪魔しないように、スタジオの隅の方に立って眺めていた。 「きれいね」  と、聡子が呟く。「いい男だ」  でも——亜由美には、さっきの小夜子の驚きようが、気になっていた。あれは普通にびっくりしたというのとはわけが違う。  一体何があったのだろう?  ——写真を無事にとって、 「じゃ、お二人はそれぞれ控室でお休み下さい」  と係の男が言った。「披露宴まで、少し間がございます。それと全体写真もありますので」  小夜子は、久井へ、 「じゃ、後で」  と、声をかけた。 「何か食べといた方がいいんじゃないか? パーティじゃ食べられないよ」 「大丈夫。胸が一杯よ」  と、小夜子は笑顔を見せた。  そして、急に亜由美のほうへやって来ると、 「塚川さん、聞いて」  と、小さな声で早口に、「控室へ来てほしいの。一緒に来た方、刑事さんですって?」 「そうです」 「じゃ、お二人で。他の人には内緒よ!」  何とも答える間もない内、小夜子は両親と何やら話しに行ってしまった。 「どうしたの?」  と、聡子がやって来たが、 「何でもない」  と、亜由美は首を振った。  私と殿永さんだけで?——亜由美はまた、何か起りそうな気がして、足下のドン・ファンを見下ろした。 「クゥーン」  ドン・ファンは亜由美の顔を見て、鳴いた。 「分ってるわよ。あんたはお腹が空いてるんでしょ」  と、亜由美は言ってやった……。 「馬鹿なことをしました」  と、小夜子は言った。「もう遅いけど、もう二度とお酒なんか飲まないわ」  ——花嫁の控室。  亜由美と殿永は、頼まれた通りここへやって来た。ただし、オブザーバー(?)として、亜由美の足下には「茶色い用心棒」ドン・ファンがうずくまっている。  それにしても——まさか、こんな告白を聞かされようとは思わなかった。 「とんだことでしたな」  と、殿永が言った。「まあ確かに感心したことでもない。しかし、それはあなたご自身の問題でしょう。我々は決して口外しませんが……」 「お願いします。塚川さんもお願いね」 「もちろん!」  亜由美とて、しゃべっていいこと、悪いことの区別はつく。 「——それだけじゃないのです」  と、小夜子は続けた。「お二人に来ていただいたのは、これまでにも、塚川さんが色々事件に係わり合って来た、と聞いていたからで——」 「係わったどころじゃありません」  と、殿永が言った。「留置場へ入るわ、犯人と格闘するわ、大変なんです、この人が出て来ると」 「ちょっと! それはないんじゃありませんか? 私がまるで大変な不良みたいでしょ、それじゃ」 「いや、別にそういう意味では——」 「でも、そう聞こえました!」 「待って」  と、小夜子は笑って、「——仲がいいのね、お二人」 「ワン」 「変なとこで鳴くな」  と、亜由美が足でちょいとつつく。 「——実は、とんでもないことがあって」  小夜子が真顔になった。「その——同じベッドで死んでいた老人と、さっき出会ったんです」 「え?」  亜由美が目を丸くする。 「死んだのは、実業家として有名な人だそうです。内山広三郎[#「内山広三郎」に傍点]といいました」 「誰ですって?」  今度は殿永が仰天する。「内山広三郎? 確かですか?」 「そうです。その人の屋敷で目を覚まし、息子さん、娘さんともお会いしたんですから。——さっきお話しした通り、どっちも沈黙を守るという条件で、何もなかったことにしたんですけど……。今、廊下ですれ違った花嫁さん、あの後ろについていた人たちの中に、確かにあの老人がいたんです」 「間違いありませんか」 「はい。今思い出すと、あのとき会った息子さんと娘さんも、あの中にいました。いくら似た人がいたとしても、三人もなんて、あり得ないでしょう?」 「それは……、でも、前田さん」  と、亜由美は言った。「もしかすると、死んでたんじゃなくて、一時的な発作だったとか? 後で意識を取り戻したのかもしれないじゃありませんか」 「ええ……。そうかもしれない。でも——あのときのあの老人の様子……。とても生きてたとは思えないわ」  と、小夜子は言った。 「確かに妙ですな」  と、殿永が言った。「——万一、死んでいなかったとしても、昨日の今日。こんな席に出られるほど回復していたとは、とても思えない」 「じゃ、殿永さん——」 「待って下さい」  と、殿永は亜由美に言って、「前田さん。死んでいるのを発見した男というのは?」 「ええ……。確か秘書だとか言ったと思います」 「その男もここにいたと?」 「それは分りません。寝室は暗かったし、その人の顔はよく見ていないんです」  と、小夜子は首を振った。 「その男は『救急車を呼ぶ』と言ったんですね?」 「ええ。——でも、そうだわ。救急車が来た様子はありませんでした」 「しかし、電話をしていた、と……」 「でも、どこへかけていたかは分りません。すっかり震え上っていて……」 「そりゃそうでしょうね」  と、亜由美は肯いた。  殿永が考え込んでいる。——小夜子は言った。 「私、今心配なのは、あのことが隆さんに知れることなんです。その心配さえなければ、別にあの人がどうなっていても、構わないんですけど」 「お気持はよく分ります」  と、殿永は静かに言った。「しかし、お話を伺ってると、いささかきなくさいものを感じますね。——まあ、何でもなければ幸い。もし、何かあっても、できる限り、あなたのプライバシーは守ります」 「お願いします」  と、小夜子は頭を下げた。 「前田さん、元気出して下さい。これから楽しい披露宴ですよ」 「そうね……」  と、小夜子はやっと微笑を浮かべたのだった……。  ——亜由美たちは廊下へ出て、ソファを置いたちょっとしたコーナーへ行って腰をおろした。 「どう思います?」  と、亜由美は言った。 「ワン」  と、殿永は言った——いや、ドン・ファンが鳴いたのだった! 「いや、結婚直前に、大したことを! そっちの方にびっくりしてしまいますよ」  と、殿永はハンカチを出して、汗を拭《ふ》いた。 「茶化さないで答えて下さい」 「もちろん、あの女性の思い過しなら結構。しかし、あの話しぶりでは、かなり信用してもいいと思いましたね」 「しっかりした人です。確かに、酔うとわけが分らなくなることもあるんですが」 「目を覚ましたときは酔っていなかったでしょうしね。——そうなると問題です。確かに私も今日、内山広三郎を見ている。しかし、本当に死んでしまったのだとしたら、今日この式場にいる内山広三郎は偽者ということです」 「偽者?」 「何かの理由で、そっくりな人間を雇い、内山広三郎として、ここへ出席させている、ということです。そうなると、理由は何か、ということになる」 「でも、色々知ってる人が大勢集まってるわけでしょ? 偽者なら、すぐ分っちゃうんじゃありません?」 「そこは、周囲がうまくカバーしているんでしょう。ところが、ここに、内山広三郎が死んだと知っている[#「知っている」に傍点]人間が居合せた」 「前田さんが……」 「前田小夜子という名前も、顔も知っている。——向う[#「向う」に傍点]も前田さんに気付いたかもしれませんね」 「そうですね。よく見とけば良かったけど」 「まあ、特別犯罪の匂《にお》いがするというわけでもないが、用心に越したことはありませんからね」 「どうします?」 「私が、見張っていましょう。もちろん、あの花嫁さんにピッタリくっついているわけにはいきませんが、このソファから、廊下と控室も見通せる」  振り返った亜由美は、殿永がちゃんとそれを考えてソファを選んでいるのを知った。 「さすがにプロですね」 「持ち上げんで下さい。まあ、披露宴が始まってしまえば、人目もある。大丈夫でしょうがね」 「前田さんに言って、殿永さんの分の席もちゃんと用意してありますから」 「どうも。——今日の食費が助かります」  殿永は至って現実的な感想を述べたのだった……。 [#改ページ]  4 刃物を持った女 「生の音楽ってすてきね」  いつもロックばかりに夢中の聡子が珍しい感想を述べたのは、披露宴での席だった。  新郎新婦の入場から始まって、ケーキカットへと続いた披露宴は、二人が「お色直し」のために席を外している今、小休止というところだった。  そう盛大な宴ではないが、ほど良い人数で気の置けないムードになっていた。  花婿《はなむこ》の久井隆が、大学時代にオーケストラでバイオリンをひいていたということがあって、そのときの友人たちがカルテットを組んで、今ステージで演奏し、それをBGMに食事が進められていた。  しなやかな弦楽の音が会場に流れて、どこかホッとさせる。——聡子の感想も、ごく自然なものであった。  大いに食欲も進み、亜由美もパンを三つも食べていた。——ついでに付け加えると、テーブルの下では、ドン・ファンがひそかに宴に加わっていたのである。 「——この分なら何もなさそうですね」  と、亜由美は殿永に言った。 「何のこと?」  と、聡子が訊《き》く。 「何でもないの」 「フン! 二人で内緒の話ね。いいもん。ね、ドン・ファン。仲良くしようね」 「クゥーン……」 「この浮気者」  と、亜由美は笑って、ドン・ファンをにらんでやった。  殿永は、お色直しに何人も人がついて行くから大丈夫と思って、座っていたのだろうが、ふと席を立つと、 「ちょっと様子を見て来ます」  と、亜由美の方へ小声で囁《ささや》いた。  亜由美は、殿永の皿がきれいに空になっているのを見て感心したりしていた。 「ねえ」  と、聡子が言った。 「何よ」 「あの久井隆さんって、見かけによらず苦労人なのね。びっくりした」  そう。亜由美も、祝辞の中で、新郎がずいぶん若いときから働いて、親兄弟の生活を支えて来たと聞いて、感心してしまった。  人当りはいいが、それが妙に世慣れた印象でなく、人柄の良さと思わせるのが、快かったし、またそれが本当でもあったろう。  前田小夜子の話には少々びっくりしたものの、あの久井隆となら、きっと幸せになれるだろう、と亜由美は考えていた……。 「あそこに亜由美が座るのは、いつのことかね」  と、聡子が花嫁の席へ目をやって言った。 「お互いさまでしょ」  と、亜由美がつついてやる。 「クゥーン……」  ドン・ファンが、下で「何か食べさせて」と要求していた。  ロビーには、珍しく人の姿が少ない。  ちょうど今はいくつもの披露宴が同時進行中で、その分、ロビーが空いているらしかった。  内山秀輝は、ソファに座って足を組むと、タバコに火を点《つ》けた。——シャンパンやワインの酔いが少し回って、ボーッとしている。  もっとも、ボーッとしているのがいつもの状態という見方も、この男の場合には成り立つのである。 「——息抜きですか」  突然声がして、内山秀輝はギクリとした様子だった。 「何だ、あんたか」  と、大倉貞男を見て、「逃げ出して来たのさ。ああいう席は苦手だ」 「僕も、好きにはなれませんがね」  大倉は、もう一つのソファに腰をおろした。 「——仕事のほうはどうしたんだい?」  と、内山秀輝は訊いた。 「一向に。——一度|潰《つぶ》れると、世間は冷たいもんでね」  と、大倉は肩をすくめた。 「そうだろうね。俺も、もし何か始めたら、たちまち大損さ。分ってるから働かない。——これが我が内山家のためなのさ」  内山秀輝は三十五歳。三十八歳の大倉より若いが、見かけはずっと老けている。  不健康な老け方で、頭のほうも少し薄くなりかけていた。 「しかし——」  と、大倉が言った。「いつか、秀輝さんがお父さんの後を継がなきゃならんでしょう」 「親父はそんなこと考えてないさ」  と、秀輝は笑って、「もう諦《あきら》めてるよ、俺のことは」 「そうですか」 「ま、俺より有紀のほうが、まだ父の血を継いでるだろうな。しっかり者だ」 「確かに」  と、大倉は肯《うなず》いた。「しかし、現実問題として、有紀に後は継げないでしょう」 「そのときになりゃ考えるさ。親父だって、何か考えてるよ」  秀輝の言葉に、大倉は奇妙な笑みを浮かべて、 「そうでしょうかね」  と、言った。 「——どういう意味だい?」  と、秀輝が大倉を見る。 「いや、何か考えておられるのかな、と思ってね」  大倉は、ゆっくりとソファに座り直した。 「——いつも、有紀は、お義父《とう》さんに挨拶しろとうるさいのに、今日に限って、なぜか会うなと言う。そこで会いに行ったんですよ、一人でね」 「会ったのか?」  と、秀輝が訊く。 「いや。なぜかお一人で別室におられるという。そこへ行くと、見たことのない『部下』が、絶対に中へ入れてくれない。義理の息子を、ですよ。——おかしいじゃありませんか」 「しかし……」 「確かに、式のときは出ておられた。しかし、有紀とあなたがピタリとくっついて、他の人間を寄せつけない。そして、今、披露宴の席でもそうだ。有紀は僕と並ばず、お義父さんの隣にいる。——これは、どう考えたって、普通じゃない」 「何が言いたいんだね」  と、秀輝はじっと大倉を見つめて言った。 「ごく当り前のことですよ。——内山広三郎氏に何が[#「何が」に傍点]起ったのか?」  大倉は、少し間を空けて、続けた。「それとも、あの、内山広三郎と名のっている男は何者か、と訊きましょうか」  秀輝の目に、ふと危険な光が見えた。 「——勘違いしないでいただきたいな」  と、大倉は言った。「僕はあなたや有紀が何をやろうと、構わない。ただ、自分がその仲間に入れてもらえないことが不満なんですよ」 「仲間か……。あんたは内山家の人間じゃない」 「確かにね。しかし、有紀はそうだ。僕は有紀の夫で——。そう、たとえ有紀が野口と密通していても、ですな」 「何だって?」  秀輝が唖然《あぜん》として、「有紀と野口が?——そんな馬鹿な!」 「じゃ、当人にお訊きなさい」  と、大倉が言った。「僕は有紀を愛しているし、有紀の方もそうだと思う。しかし、野口は……。あれこそ[#「あれこそ」に傍点]、内山家の人間じゃないんだ。用心することです」  大倉は、ゆっくりと立ち上った。 「——では、そろそろ席へ戻ります。お色直しも、もう終るでしょう。二人が入って来るときは、拍手してあげた方が……。人を祝福するのは楽しいもんですよ」  そう言って、大倉は戻って行った。  内山秀輝は、じっと考え込んでいた。  ——その唇の端は、ピクピクと神経質に震えている。 「お待たせいたしました!」  と、司会者の声が響きわたった。「新郎新婦、装いも新たに入場です。拍手をもってお迎え下さい!」  主な照明が消えると、スポットライトが会場の入口をくっきりと照らし出す。  白のタキシードの久井隆と、真紅のドレスに身を包んだ小夜子が、腕を組んで、ゆっくり入場して来ると、ワーッと拍手が湧《わ》き起った。 「ウーン、さまになる!」  と、聡子が唸《うな》ったのは、二人のどっちのことを言ったのか。  亜由美も拍手していたが——ふと気が付くと、殿永が席に戻っている。いつの間に?  太っているのに、動きが静かで、目立たないのだ。——今も、その目は油断なく、テーブルの間を巡る二人に向けられている。  亜由美は、何かあったのかと訊いてみたかったが、音楽と拍手で、話し声は聞こえないだろう、と思ってやめた。 「ドン・ファン、あんたも拍手しな」  と、無茶を言ってテーブルの下を見ると……いない!  どこへ行った?  亜由美はキョロキョロと左右を見回したが——あの「背の低さ」では、とても見えないのである。  でも、まさか……。  あの、小夜子のドレス。正にドン・ファンの好み[#「好み」に傍点]にピッタリである!  その下へ潜り込むなんてことは……ないだろうけど。  亜由美は気が気でなく、腰を浮かして、必死でドン・ファンの姿を捜したが、むだだった。  その間に、久井と小夜子の二人は、各テーブルの間をぐるっと回って、もとの席へと歩を進めている。  ——まあ、何とか大丈夫か。  亜由美はホッとして、正面の席へ向って行く二人の姿を見ていたが……。  ふと——小夜子のドレスの裾《すそ》へと、後ろから近付いて行く黒い影(?)。  あいつ……。やっぱり!  亜由美があわてて立ち上ろうとしたときだった。 「キャーッ!」  と、叫んだのが、入口近くに立っていたウエイトレスの一人だったということは、後で分った。  ともかく——一人の女が、そのウエイトレスを突き飛ばし、会場の中へと飛び込んで来たのだ。  正面の席へ戻ろうとしていた新郎新婦めがけてその女は、テーブルの間を駆け抜けた。 「いかん!」  殿永が飛び出す。同時に亜由美も。  そのときにはパッと会場の明りが点《つ》き、その女が刃物を手にしているのが、目に入った。 「逃げて!」  と、亜由美が叫ぶ。  そのとき、ドン・ファンがタタッと駆けて行ったと思うと、駆け寄って来る女めがけて、あの短い足でよくぞ、と思うほどのジャンプを見せたのである。  まさかこんな所に犬がいるとは思わなかったのだろう、女はギョッとした様子で足を止め、ドン・ファンにかまれまいと両手で防いだ。その拍子に刃物が床へ落ちる。  殿永が女の腕をつかむと、 「おとなしくして! 落ちつくんだ!」  と、お腹の底に響くような声で言った。  女はまるで夢から覚めた、とでもいった様子で、ぼんやりと周囲を見ている。  殿永は、司会者へ、 「続けて下さい」  と、一言言って、女を会場から連れ出して行った。  で……亜由美は?  もちろん、亜由美もその女へと駆け寄る——つもり、だったのだが、途中、何かのコードに足を引っかけ、みごとにすっ転んでしまい、いやというほど膝《ひざ》をぶつけて、しばし起き上れなかったのである。 「——大丈夫?」  と、聡子に助け起されて、 「何とか……。いたた……」  と、顔をしかめる。  亜由美の英雄的行動は、残念ながらほとんど評価されなかった。というのも、ドン・ファンが女に飛びかかったことが、二人を救ったというわけで、 「凄《すご》い犬ね!」 「頭が良さそうよ」 「ねえ! 品があるわ」 「知性さえ感じさせますな!」  と、大評判。  飼主たる亜由美の方は、ほぼ全くと言っていいほど、無視されていたのである。 「亜由美……」 「大丈夫よ」  と、すっかり不機嫌になった亜由美は、「こうなったら、意地でもデザートまで食べてやる!」 「何ですって?」  と、久井隆は言った。「僕に振られた?」 「そう言っています」  と、殿永は言った。 「馬鹿な! 全く知らない女ですよ」  と、久井は言った。  ああ、痛い……。亜由美はまだ膝をさすっている。  披露宴は、あの騒ぎが一瞬で終ってしまったので、何とか予定通りにすんでいた。  今、久井と小夜子は、控室で殿永の話を聞いているところだった。 「ともかく」  と、殿永は言った。「女の話では、あなたと結婚の約束をしていたのに、一方的に裏切られた、と言うのです」 「全く覚えはありません」  確かに、久井としてはそう言うしかないだろう。——小夜子はやや青ざめた顔で、じっと床を見つめている。 「どうしますか。女は一応ここのガードマンが押えてくれています。傷害未遂にはなるでしょう。警察へ届けたほうが——と私が言うのも変ですが」 「いけませんわ」  と、小夜子が言った。「そんな……。可哀そうです」 「小夜子」  と、久井が小夜子の手を握って、「まさか君は、その女の言うのが本当だと思ってるんじゃないだろうね」 「私には……分らないわ。そうでしょう?」 「僕は知らない! あんな女、見たこともない。誓って言うよ」 「ええ……。信じたいわ。でも……」 「君——」 「久井さん」  と、亜由美が止めて、「一人にしてあげた方が」 「ありがとう」  と、小夜子は立ち上って、「これも脱がなきゃいけないし……」  と呟《つぶや》くように言って、出て行く。 「——何てことだ」  久井は、首を振って、「いくら何でもないと言っても、信じてくれないのか」 「動揺してるんですよ、彼女。少し冷静になれば」 「そうですね」  と、ため息をつく。「やれやれ。——どうしてこんな目にあうんだ?」 「確かに、全く見も知らない男と愛し合っていると夢想する女もいますからね。そのためにも、ちゃんと女を調べたほうがいい」  と、殿永が言うと、 「そうです! ぜひ調べて下さい。根も葉もない言いがかりだと分れば、彼女も納得してくれる」 「そうしましょう」  と、殿永が廊下へ出ると、亜由美も追いかけて出た。 「——どうですか、殿永さんの印象では」  と、廊下を歩きながら訊く。 「よく分りませんな。しかし、刺そうとしたにしても、持っていたのは、果物ナイフなんです。あれじゃ人は殺せない」 「じゃ、やっぱりおかしいですか」 「ま、どこがどうおかしいかが問題でしてね」  と、もっともな意見を述べる。 「何て女なんですか?」 「名前も言わんのです。ボーッとしているだけでね」  と、殿永が首を振って、「しかし、あの花嫁にしてみれば、本当に何か[#「何か」に傍点]あったとしても、当然、彼は否定するでしょうから、悩むでしょうな」 「そうですね。なかった、という証明はむずかしい」 「その通りです」  ——二人は、会館の奥の警備室へ向った。  ドアを叩《たた》いて、 「失礼」  と開けると——。「こりゃいかん!」  制服のガードマンが、床にのびていて、他には誰もいない。 「しっかりしろ!——おい!」  殿永に揺さぶられて、ガードマンは、やっと目を開けた。 「あ……どうも。いてて……」  と、頭をかかえて、「お茶をくれと言うんで、つい……。後ろからガンとやられて……」 「逃げるのは見なかったのか?」 「ええ……。すみません」  殿永はハッと立ち上って、 「花嫁が危いかもしれない!」  と言った。  亜由美と殿永は、また[#「また」に傍点]一緒に駆け出していた。  今度こそ、転ぶもんか!  亜由美は勇ましくスカートを翻して、ロビーを駆け抜け、大いに注目を集めたのであった……。 [#改ページ]  5 殴った男 「まあ、人間誰しも間違いというものはありますよ」  と、塚川亜由美が殿永刑事を慰めている。  ——何だか逆ではないかと思われそうだが、この文章はこれで正しいのである。 「いや、どうも……」  と、殿永は大分落ち込んでいる。「もう私もぼけて来たのかもしれません」 「そんな……。そうだとしても、まだ大したことありませんわ」  これじゃ慰めていることにならない。  結婚式場K会館のロビー。  昼の挙式、宴会が一段落して、今度は夕方から夜にかけての組がもう準備に入り、客も集まって来ている。  ——殿永と亜由美は、前田小夜子の身に何かあっては、と花嫁の控室へと駆け出して行き……そこに小夜子の血まみれの死体を発見した——わけではなかった。  もしそうなら、ロビーには警官が大勢来ていることになっただろう。 「小夜子さんが殺されていたとか、そんなことになるより、ずっと良かったんじゃありません?」 「ワン」  ドン・ファンも賛意を表した(?)。 「どうも。——私もそう考えて自分を慰めているところです」  と、殿永は肯《うなず》いた。  それというのも——控室へ駆けつけた殿永たちは、ノックもせずにドアを開け(そんな余裕はなかったのである)、ウェディングドレスを脱いで、下着だけでいた小夜子を見出したのだった……。  そこへ小夜子の母親が来合せたから、ますますタイミングが悪く、 「痴漢!」  などと騒がれて、ガードマンが駆けつけるという結果になってしまったのだ。  もちろん、すぐに誤解はとけたし、小夜子は怒ってはいなかったが、それにしても——というわけで、殿永は落ち込んでいるのだった。 「あの女はどこへ行ったんでしょうね」  と、亜由美は言った。 「ただ逃げただけなのかもしれません。しかし、久井さんにとっては深刻でしょう。身に覚えのないことだと証明するのが、むずかしくなった」 「そうですね」  まあ、小夜子の方にも、酔って内山広三郎と寝てしまったという弱味がある。しかし、逆に言うと、それだけに久井と、あの女の関係をつい疑ってもしまうのだろう……。 「——クゥーン」  と、ドン・ファンが鳴いた。 「あ、あの人たち……」  と、亜由美が、ロビーを歩いて行く、内山広三郎と、その親族たちに目を留めた。 「あれが果して本物か偽物か——。まさか当人に訊《き》くわけにもいきませんしね」  と、殿永は言った。  内山広三郎は胸をそらし、今にもひっくり返るんじゃないかと思えるほどそっくり返って、歩いている。そのすぐわきについているのは、小夜子の話に出て来た、娘の大倉有紀であろう。  そのすぐ後ろにいる人相の悪いのが、内山秀輝かな、と亜由美は思った。「秀輝」って名前に完全に負けている。  少し遅れて、投げやりな調子で歩いているのは、有紀の夫の大倉貞男だろう。頭はそう悪くないようだが、人生を投げている、という印象。  小夜子の人物描写は、なかなか的確だった、と言うべきか。  内山広三郎たちが、ロビーから、広いガラス扉の方へと歩いて行くと——。  何だか、ごく当り前の格好をした女が(妙な言い方だが、要するに結婚式に出るという服装でないということ)、スタスタと内山たちの方へ歩いて行った。  誰もその女を気にもとめなかったのは、その歩き方とかが、全く普通で、少しも緊張したものを感じさせなかったからだろう。  そして、その女は、内山広三郎の所へ行くと、いきなり拳《こぶし》をかためて、広三郎の頭を、ポカッと殴ったのである。  誰もが呆気《あつけ》にとられていた。  大倉有紀が、 「何するの!」  と、声を上げる。  するとその女は、フンと鼻を鳴らして、 「この助平じじい!」  と一声、プイと背を向けて、玄関から出て行く。  誰もが、あまりに思いがけない出来事に、唖然《あぜん》としている様子。  殿永が、進み出て、 「失礼」  と言った。「私は警察の者ですが、今の女を暴行の現行犯で逮捕しましょうか」 「あ、いえ——」  と、有紀が急いで言った。「それほどのことでも。ねえ、お父さん?」 「いや、やはり逮捕しましょう」  と殿永は駆け出した。  そのときには、亜由美も表に出ていて、その女の腕をつかんで引き止めていたのである。 「何よ! 手はなしてよ」  と、その女が目をつり上げて怒っている。 「人を殴っといて、それはないんじゃありません?」 「殴られて当り前の奴《やつ》を殴っただけ。どこが悪いのよ」  三十五、六といったところだろうか。あまり化粧っ気のない、普通のOLという様子である。  殿永が駆けつけて来ると、 「警察の者だ」  と、手帳を覗《のぞ》かせ、「一緒に来てもらおうか」 「フン、逮捕するの? 勝手にしなよ。こっちは平気よ」  と、女はつっかかって来る。 「あの——刑事さん」  と、あわてた様子で出て来たのは、大倉有紀。 「もういいんです。その人、何か人違いをしたんですわ。ねえ、そうでしょ?」 「人違いなんかしないわよ」  と、女は言い返した。「内山広三郎の奴をぶん殴ってやったの。間違いなくね」 「後はお任せ下さい」  と、殿永は女の腕をとって、「さ、来るんだ」 「はいはい。どこへ行くの? 三泊四日で温泉旅行?」 「留置場ホテルさ。五ツ星とはいかないが、天井と壁はある」 「結構寝られるわよ」  と、亜由美が、経験から(?)言った……。 「すると、内山広三郎と、深い仲だったんだね?」  と、殿永が訊いた。 「そうよ。一年間ぐらい」  女は、まるきり隠しだてはしなかった。 「きっかけは?」 「うちの社へ内山が仕事でやって来て……。まあ何ていばってるじいさんだろう、って思ったのね。私は課長にくっついて、お茶出したりしてただけ」  結城美沙子、というのが、その女の名前だった。  取調室でも、大いに話は弾んだ。珍しいことである。 「そしたら、帰ってから二、三日して、課長が、『夜、ここへ行ってくれ』って。——Tホテルのスイートルームだったの。何だか分んないで行ったら、内山が待ってて……。シャンパンだの、料理を並べて。——私のこと、取引の条件にして、課長もOKしてたのね」 「ひどいわね」  と、聞いていた亜由美が言った。 「頭に来たけど、それなら、好きなだけ食ってから帰ろうと思って。——ところが、途中で飲んだワインに薬が入ってたらしくて、眠り込んでしまい、目が覚めたら、内山のベッドの中……。やけになって、それから一年近く、愛人って身分で、こづかいもらっていたの」  亜由美にはその辺のことは理解できなかったが、まあそこは人生観の違いかもしれない……。 「それで、どうして突然ぶん殴ったりしたんだね?」 「だって——昨日になって、急にあの野口って奴が来てさ」 「野口?」 「内山の秘書よ。何考えてるんだか、よく分らない奴」  と、結城美沙子は、「タバコ一本くれる?」 「ああ……」 「ありがと」  と、タバコに火を点《つ》け、フーッと煙を吐き出すと、「野口がね、『内山さんはもうあんたに飽きたと言ってる。これで手を切る』と、こうよ。百万円の小切手出して。——頭に来るじゃない? いやならいやでいい。でも、自分で言いに来いっての。ベッドを何回も共にしといてさ、飽きたからって、秘書を寄こすなんて、失礼だと思わない?」 「そりゃまあ……。それで殴ったのかい?」 「そう。ぶん殴って、小切手を目の前で破ってやろうと思ったの。気持いいでしょ」 「で、小切手は?」 「考えたら、もったいないから、破るのやめたわ」  亜由美はふき出してしまった。  この結城美沙子という女、相当にいい加減ではあるが、どこか憎めないものを持っている。 「ま、向うは君を訴える気はないらしいが。どうするね、君?」 「またOLでもやるわ」  と、肩をすくめて、「どうせ、ずっと勤めてたんだし。おこづかいだけじゃ食べて行けないから、パートで働いてたの」 「それがいい。地道に働くのが、一番いいんだよ」  結城美沙子は、殿永を見て、 「あんた、面白い刑事さんね」  と、言った。 「ところで、一つ訊きたいんだが」 「え?」 「さっき君が殴った相手、間違いなく内山広三郎だったかね?」 「どういう意味?」  と、目をパチクリさせる。 「いや、どこかいつもの内山広三郎と違うってところはなかったかね」 「そんなによく見なかったけど……。でも、どうして?」 「まあ、色々あってね」  殿永は、美沙子の肩を軽く叩いて、「いいかね、もし、内山家の誰かか、その野口とかいう秘書が君に連絡をとって来たら、私に知らせてくれないか」 「いいけど……。何があるの?」 「分らないから言ってるのさ」  と、殿永は真顔で言った。「万に一つ、君の身に危険が及ぶことも考えられるからね」  美沙子も、真剣な表情になって、肯いたのだった……。 「——妙な一日でしたな」  と、殿永は車を運転しながら言った。 「何か起ると思います?」  と、亜由美は助手席で言った。  後ろの座席には、ドン・ファンと神田聡子が、くたびれて、仲良く眠っている。 「起らないでほしいが」  と、殿永は首を振って、「問題は内山広三郎が、果してどうなったか、です」 「そうですね。——もし死んで、偽者が入れ替ってるとしたら……」 「その目的は何か。そして、事情を知っている、前田小夜子と、愛人だった結城美沙子の二人は、邪魔になるかもしれない」 「小夜子さんが狙《ねら》われる?」 「いや——そこまで考えるには根拠が薄いですがね。いずれにしても、今の段階じゃ、こっちとしては、手が出せない」 「つまり——」  と、亜由美が言った。「私たち[#「私たち」に傍点]なら、ってことですね」 「そんなこと言ってませんよ。自分に都合良く解釈しないで下さい」  と、殿永が顔をしかめる。 「私、殿永さんの心が読めるんですもの」  と、亜由美はすまして言った。 「——あの久井隆と小夜子さんのことも、問題です。あの女が姿を消した以上、果して本当に恋人だったかどうか、知りようがないわけですからね」 「でも今夜は……二人の初めての夜でしょう」  と、亜由美は言った。「——どうなるのかしら」 「うまく行ってくれるといいですがね」  ——もう夜になっていた。  車は、亜由美の家に着いて、 「ドン・ファン! 起きないと置いてくよ!」  と、亜由美に怒鳴られ、ドン・ファン、あわてて窓から出て来る。 「ウァー」  と、聡子が欠伸《あくび》して、「もう朝?」 「何、寝ぼけてんだ」  と、亜由美は笑って、「じゃ、殿永さん、何かあったら、知らせて下さい」  と手を振って……。  さて——家に入ろうとドン・ファンを促して——。 「——何してるの?」  ドン・ファンが、一向に動かないのである。  すると、道の暗がりから、 「塚川さん」  と、出て来たのは——小夜子だった。 「あ……。どうしたんですか?」 「うん……。何だか、どうしても今夜はあの人と一緒にいたくないの」  と、小夜子は言った。「泊めてくれないかしら」 「もちろん。でも……知ってるんですか。久井さん」 「手紙、置いて来た。心配してもいけないしね。あなたの所へ行くって」 「じゃ、大丈夫ですね。——どうぞ、花嫁さん[#「花嫁さん」に傍点]」  亜由美が冗談めかして言うと、小夜子はホッとした様子で笑ったのだった。 [#改ページ]  6 浴室の死体  翌、月曜日は、亜由美も一応[#「一応」に傍点]大学へ行くことになっていた。  読者がお忘れだといけないので、念のため申し上げると、亜由美はこれでも(?)大学生なので、そういつも留置場へ入っているわけじゃないのである。  しかし、昼からの講義なので、起き出して来たのは、朝十時である。  ダイニングキッチンでは、小夜子がもう起きてコーヒーを飲んでいる。 「あ、もう起きたんですか」 「ごめんね、ゆうべは迷惑かけて」  と、小夜子は微笑《ほほえ》んだ。 「そんなこといいんですけど……。どうするんですか、今日?」 「うん」  と、小夜子は肯《うなず》いて、「ゆうべ、ゆっくり考えたの。——もしあの女と隆さんの間に本当に何かあったとしても、私も非難できる立場じゃないわ。それなら、彼の言うことを信じておこうって。今日からハネムーンだし、その間、いくらでも話し合う機会はあるでしょ」  小夜子の表情は、どこかふっ切れたようで、爽《さわ》やかだった。  亜由美はホッとして、 「そうですよ。もう夫婦なんですから」  と言った。 「あんたは一向に、そういう話がないのね」  突然母の清美が入って来て言った。 「お母さんは関係ないでしょ!」  と、亜由美がにらむ。  小夜子がそれを見て笑い出した。 「——あ、そうそう」  と、清美がテーブルを片付けながら、「あの刑事さんから電話があったわよ」 「殿永さん? 何だって?」 「さあ、聞いてないけど、用件は」 「じゃ、電話してみる」 「わざわざかけなくとも」 「だって、気になるもの」 「今、かかってるんだから、出れば、それですむのに、何でかけるの?」 「早くそう言ってよ!」  むだと知りつつ、母に文句を言って、電話へと駆けつける。 「——やあ、まだいたんですね」  と、殿永が言った。 「今起きたところで——。何かあったんですか?」 「そっちへ、前田小夜子さんから何か連絡は?」 「小夜子さん? うちにいます」 「何ですって?」 「ゆうべ来て……。泊ったんです、ここに。今から、ホテルへ戻るって言ってますけど」 「そうですか。いや、ともかく居場所が分って良かった」  と、殿永が息をついた。「まだお宅にいるように、伝えて下さい」 「どうしてですか?」 「女が殺されたのです」  多少、ぼんやりしていた頭が、一度にすっきりしてしまった。 「女って——結城美沙子ですか」  と、訊く。 「いや、彼女のことはこっちも用心していたのですが……」  と、殿永が言いかけてためらい、「——昨日、久井隆を刺そうとした女、あの女が殺されたんです」 「何ですって?」 「ホテルの久井隆の部屋で。——死体は首を絞められていました」 「じゃあ……。まさか……」 「久井隆は行方が分らないんです」  亜由美は、小夜子に何と言おうかと、途方にくれて、電話を切った。 「——もう行かなきゃ」  と、小夜子が明るく言って、廊下へ出て来た。 「ホテルへ電話しないと。あの人、心配してるわ」  小夜子は、亜由美の表情に気付いて、 「どうかした? 顔色、良くないわよ」 「ここです」  と、殿永が言った。  亜由美は、これまでもあれこれ巻き込まれているから、死体を見るのも初めてではない。  しかし、事件に首をつっこむのは好きでも、死体を見るのは、どうにも好きになれなかった……。  バスルームは広かった。  ハネムーン用の、セミスイートルームである。バスルームもそのせいで広くとってあるのだろう。  女は、バスタブの中に、裸で、体をねじるようにして倒れていた。首には、細い紐《ひも》が深く巻きついて、顔は見るに堪《た》えない恐怖の表情を浮かべていた。 「紐は、このバスタブについている、洗濯物を干すための紐を切ったものですね」  と、殿永が言った。 「確かにあの女ですね」  と、亜由美も、さっと見分けた。 「ハンドバッグの中身から、身もとが分りました」  と、ベッドルームの方へ戻りながら、殿永が言った。「小田久仁子という名前です」 「小田久仁子……」 「ええ。——OLですね。どういうことなのか、これから当ってみますが」  亜由美も、気が重かった。 「で——久井さんは?」 「まだ行方が分りません」  と、殿永は首を振った。 「どう思います?」  亜由美の問いに、殿永はすぐには答えなかった。 「——お分りでしょう、大方のところは」 「そうですね」  亜由美は気が進まないながらも、口を開いて、「小田久仁子が久井さんの本当の恋人だったとしたら……。久井さんは、小夜子さんが出て行ってしまって、心配してたでしょうし、腹を立ててたでしょう、小田久仁子に。そして、小田久仁子がこの部屋へやって来る……」 「いやがらせ、というわけですかね」 「久井さんは、怒りを隠して、もう一度、彼女と寝ようと誘う。——小田久仁子がバスルームで体を洗っているところを、絞め殺す……」 「もう邪魔はさせない、ってわけですな」  と、殿永が肯く。「それが普通の解釈ということになるでしょう」 「ワン」  びっくりして、亜由美は部屋の入口へ目をやった。  ドン・ファンが入って来て、その後からは、小夜子が姿を見せた。青ざめた顔で、 「今、聞いてました」  と言った。「嘘《うそ》です。彼は、人を殺せるような人じゃありません」 「小夜子さん」  と、殿永は言った。「我々も、久井隆さんが犯人だとは思いたくない。しかし、姿をくらましているのは、何といっても不利でしてね」 「でも……こんな所で殺せば、捕まるに決ってるじゃありませんか」 「確かに」  と、殿永は肯いて、「しかし、現実の殺人犯は、そう理屈通りに動くわけじゃないのです。後で死体をどこかへ運ぶつもりで殺しておいて、いざとなると、自分のやったことのショックで呆然《ぼうぜん》自失。どこかへフラフラと出て行ってしまうことも、充分にありえます」 「じゃ、彼もそうしたと——」 「警察の一般的な見解は、そうならざるを得ないだろう、ということです」  しばし、重苦しい沈黙がつづいた。 「ともかく——」  と、小夜子は、気をとり直したように、「私、彼を信じています」 「結構」  と、殿永が微笑んで、「真相がはっきりするまで、信じていて下さい。その方がいい」  亜由美は小夜子の肩へ手をかけて、 「大丈夫ですよ。私たちで、本当の犯人を見付けてみせましょ」 「ありがとう」  小夜子が、亜由美の手を握った……。 「——何ごとだい?」  と、声がした。  入口の警官が何をしていたのか——。そこには、久井隆当人が立っていたのである。 「隆さん……」 「小夜子! どこへ行ってたんだ?」  久井は、小夜子の方へ駆け寄って来ると、しっかりと抱きしめた。「一晩中、捜してたんだ!——良かった」  あんまり良くもないのである。 「失礼」  と、殿永が声をかけると、 「やあ、刑事さんですね。何してるんです、こんな所で?」  と、久井が不思議そうに訊いた……。 「ハネムーン、キャンセル?」  と、神田聡子が訊いた。 「当り前よ。それどころじゃないでしょ」  と、亜由美は苦笑いした。「新郎は警察で取り調べ、新婦は泣いて暮してるってんじゃね」  大学の帰り道。  一応大学生である(しつこいか?)亜由美は、講義に出ての帰り、聡子と一緒に駅への道を歩いていた。  小田久仁子の死体が見付かって三日たっていた。  その間、殿永はもちろんあちこち歩き回って——いくつかの事実を探り当てていた。  小田久仁子に「恋人」がいたことは確かで、OL仲間にも、よく、 「今夜はデートよ」  なんて話していたらしい。  しかし、それが久井のことかどうか、その確証は得られなかったのである。  いずれにしても、久井としては不利な立場で、逮捕も時間の問題かと見られていた。 「でも、いくつか分んないところがあるのよね」  と、亜由美が言った。 「たとえば?」 「小夜子さんは、ホテルを出るとき、書き置きを残して来た。それは間違いないって言ってるの。でも、久井さんは見てない、と言ってる。もし、見てれば、私の所にいると分ってたわけだから、心配して捜し回ったりしないでしょ」 「その手紙、あったの?」 「見付からない」  と、亜由美は首を振る。「それと、もし久井さんがいない間に、誰かが小田久仁子を中へ入れて、殺したとしたら……。その人間はなぜ部屋へ入れたのか、ってことよ」 「あ、そうか。当然自動ロックだもんね」 「開くはずがないわよね。——そう考えると、やっぱり久井さんがやったことなのか……」 「小夜子さん、可哀そうね」 「うん……。うちにいるの、実をいうと」 「亜由美んとこに?」 「そう。——ご両親の所にいたら、もし事件がマスコミで話題になったとき、やかましいだろうし、本人も傷つくでしょ」 「そうか……。じゃ、亜由美の部屋で?」 「ドン・ファンがお相手してるわ」  と、亜由美は言った。「こんなときには役に立つ。何しろ面食いだからね」 「あの犬も、結構役に立ってんじゃないの。ま、背が低いからドアは開けらんないけどさ」  と、聡子が言うと、 「ドン・ファンがドア開けて入って来たら、気味悪いよ」  と、亜由美は笑った。 「今ごろ、クシャミしてるかな」  と、聡子は言って——。「亜由美、どうかした?」  亜由美が足を止めて、目はあらぬ方を見つめていたのである。 「亜由美! しっかりして! まだ死んじゃだめよ!」  と、聡子が腕をつかんで揺さぶる。 「失礼ね。誰が死ぬのよ」 「だって、急に馬鹿みたいな顔するから」 「悪かったわね」  と、口を尖《とが》らし、「あのね、ホテルに行こう」 「どこへ?」  と、聡子は面食らって言った。「男でも待ってるの?」 「男がいなきゃ、ホテル行っちゃいけないの?」 「そうじゃないけど」 「ピンと来たの。——ドアの話でね」  と、亜由美は得意げに言ったのだった……。 [#改ページ]  7 殴られて 「はあ、確かに」  と、そのフロントの係は言った。「『キーを忘れて、部屋へ入れなくなっちゃって』とおっしゃったものですから」 「この女ですか」  と、殿永が写真を見せる。 「はあ……。大分、服装とかで、印象が違いますが。たぶん……」 「それで、マスターキーで開けてやったわけですな」 「はあ。そういうお客様は珍しくございません。特にハネムーナーの方には、よくございますので」 「分りました。どうも」  殿永は、事件のあったセミスイートルームを見回して、「やれやれ。我々が思い付かなきゃいけないことでしたな」  と、首を振った。 「私、よくやるんです。自動ロックなのに、キーを中へ忘れて出ちゃうこと。で、もしかしたら、と思って」  亜由美にしては控え目な自慢の仕方であった。 「これで、小田久仁子がどうやってここへ入ったかは分ったわけだ」 「久井さんが入れたんじゃないってことですね。そうなると、犯人は久井さんじゃないかも」 「その可能性が出て来ますね。誰にせよ、小田久仁子が開けてやれば、中へ入れたわけだ」 「小夜子さんの置手紙とかも、小田久仁子が捨てちゃったんじゃないですか」 「おそらくね。——久井は初め、小夜子さんがいないというだけで、びっくりして手紙なんか目に留らなかったのかもしれない」 「だけど」  と、聡子が言った。「どうして二人がこのホテルにいるって分ったわけ?」 「式場のK会館から、後を尾《つ》けるのは、むずかしくない。ルームナンバーは電話でもかければ、分りますからね」 「何だか、罠《わな》って気がしません?」  亜由美の言葉に、殿永は顎《あご》をなでながら、 「たぶんね。——しかし、むしろ今は久井が犯人らしいということにしておいた方がいいでしょう」 「犯人が油断しますね」 「そう……。しかし、分らないのは、なぜ小田久仁子を殺したのか、ということです。久井に殺人容疑をかけて、誰が得をするのか……」  亜由美も、殿永と一緒に、考え込んでしまった。  マンションの鍵《かぎ》を開けると、大倉有紀は中へ入った。  めったに使わない部屋なので、何となく空気が良くない。明りを一杯につけて、あちこちの換気扇を全部回す。  大分、気分的に違って来る。 「——もったいない話だわ」  と、有紀は呟《つぶや》いた。  ここも父、内山広三郎の持物である。  以前はちょくちょく女を住まわせていたりしたものだ。——内山広三郎は、妻を亡くして、もう十年以上たつから、女がいても、別にそれで家の中がもめるということはなかった。  もちろん、有紀としては、父があちこちの女に手を出すのを、黙って見ている他なかったわけだが、やはりあまり気持のいいものではなかった。  母の生前から、父に女がいなかったわけでもないし、それは当然、息子の秀輝や、娘の有紀にも分っていて、少なからず人生観に影響を与えただろう。  有紀は、あんな風な夫婦にだけはなりたくない、と娘心に誓って、誠実そうな大倉と結婚した。  大倉は確かに真面目な男で、少々固すぎるのが欠点というくらいだったが、そこが有紀には魅力だったのである。  有紀の方は、大学生のころ結構遊び回っていて——しかし、男との間では決して深い仲にならなかった。両親を見ていて、潔癖にならざるを得なかったのだろう。  有紀は、夫を持って、初めて男を知ったのだった。——大倉のほうはちょっと意外だったようだ。しかし、二人の間は、結構うまく行っていた。  だが——大倉は変ってしまった。  事業に失敗して、一旦|挫折《ざせつ》してしまうと、プライドが崩れてしまうのも、早かったのだ。やけ[#「やけ」に傍点]になった夫は、有紀を失望させた。  打たれても、二人で力を合せれば立ち上れる。  有紀はそう信じていたし、夫にそう求められたら、どんな苦労でもするつもりだった。それなのに……。  大倉は、妻の実家の援助で養ってもらうことを、受け入れ、そして今はそれに慣れてしまった……。  有紀は、ソファに座って、息をついた。  やり直せないだろうか、もう一度?  ——あの日、前田小夜子という娘を見ていて、有紀は複雑な気持だった。  自分と比べて、何という違い。結婚直前に、「遊びおさめ」などと言って、見も知らぬ男と寝てしまう。  呆《あき》れると同時に、こんな子が、何くわぬ顔で、「初々しい新妻」を演じるのかと思うと腹も立った。  ただ、あの子の場合、酔った勢いのことで、後では青くなって悔んでいたのが救いではあったが……。  玄関のドアをノックする音がした。  出て行って開けると、秘書の野口が入って来る。 「どうも……」  と、野口は上って、「色々厄介なことになってるようですね」 「私は知らないわ」  と、有紀は、少し突き放すように言って、居間へ戻った。「何の用で呼び出したの、野口さん?」 「そりゃ決ってますよ」  と、野口は、有紀に身を寄せて座ると、肩に手を回した。 「やめて。——もうあれきり、と言ったでしょ」  と、有紀は逃れようとした。 「言葉通りに受け取る気はありません」 「本当に——いやなの。やめて」  有紀は身をよじった。野口が、有紀をソファの上に押し倒す。 「奥さん——」 「お願い……。私、そんな気になれないのよ!」  二人がもみ合っていると、 「いい眺めだ」  と、声がした。 「あなた」  有紀がハッと起き上る。 「遠慮するなよ。せっかく盛り上ったところだ」  と、大倉は笑った。 「いや、どうも……」  と、野口はネクタイの曲りを直して、「何かご用で——」 「そっちと同じさ」 「と言いますと?」 「空いたマンションを利用する。ホテル代の節約にもなるしね」  大倉は、後ろを向いて、「入れよ。——大丈夫さ」  姿を見せたのは、結城美沙子だった。 「あ。あんた——」  と、野口が目を丸くする。 「百万円でけり[#「けり」に傍点]つけたつもり? 冗談じゃないわ」  と、美沙子は野口に向って舌を出してやった。 「あなた」  有紀は固い表情で立ち上って、「どういうことなの?」 「お前と同じさ。ただそっちが先口[#「先口」に傍点]だった、ってだけだ。仕方ない。おい、どこかよそへ行こう」  大倉が美沙子の腕をとる。 「——待って」  と、有紀は呼び止めた。「ここを使っていいわよ。私、もう出るところだったの」 「そうか、悪いな」 「いいえ。ごゆっくり」  有紀は走るように出て行った。野口が、あわてて後を追う。 「——いいの」  と、美沙子が訊《き》いた。 「ああ、いいとも。どうだ、こんなマンション、むだに遊ばせてるんだぜ。もったいない話だろ」 「本当ね」  と、美沙子は、マンションの中を一通り見て回ると、「——すてきだわ」 「どうだ。シャワー浴びたら? さっぱりしてからのほうが——」 「私……帰る」 「え?」 「帰るわ」 「せっかく来たのに?」 「奥さんに悪くて」  と、美沙子は言った。「奥さん、あんたのこと、好きなのよ。顔見りゃ分る。帰ってあげなさい」  大倉は、ソファに腰をおろすと、 「意外に真面目なんだな」 「あんたもよ。奥さんのこと、好きなくせして。別に私なんか好きでもないくせに。——ワルぶってもだめよ。見りゃ分る」  美沙子の言葉に、大倉はちょっと笑った。 「そうかもしれないな……。君は——しかし、百万の手切れ金で満足してるのか?」 「百万が一万だって、働いて手にしたお金じゃないでしょ。ほしいわけじゃないの。くれるもんは断らないけど、こっちからもっとよこせなんて、いやじゃない。そりゃ、こっちが働けない体ならともかく、OL勤めなら、いつでもできるんだから」  美沙子はそう言って、「——どうする? 私、帰るけど」  大倉は、それには答えず、 「いや、君を見くびっていたようだ」 「人に借りを作るのがいやなの。それだけのことよ」  と、美沙子は笑った。 「じゃ、こうしよう」  大倉は立ち上って、「晩飯をおごらせてくれ。誘ったほうのプライドってもんがある」 「OK。じゃ、おごらせてやる」  二人は、一緒に笑うと、マンションを出た。  大倉は、不思議にさっぱりした気持になっていた。——もうずいぶん長いこと、こんな気分になったことがないような気がした……。 「ワン」  と、ドン・ファンが亜由美を出迎えて鳴いた。 「あんた、何してんの?」  と、亜由美は言って、「一人?——あ、一匹[#「一匹」に傍点]か。小夜子さんは?」 「ワン」  と、何やら不服そうである。 「何よ? お腹空いたの? 台所に何かあるかな……」  と、上って、台所へ行こうとすると、 「ワン!」  と、ドン・ファンが吠《ほ》える。 「何よ、うるさいわね」  と、振り向いたとたん——。  ゴン、と何かで頭を殴られ、亜由美は気を失ってしまったのだった……。  ——気が付いたときは、聡子と殿永が心配そうに、覗《のぞ》き込んでいて、 「大丈夫?」  と、聡子が訊いた。「私のこと、見えてる?」 「気分はどうです?」  と、殿永が言った。 「ワルツを踊る気分じゃないですね」  と、亜由美は言って、「——二人がいるんじゃ、ここは天国じゃなさそうね」 「嫌味言ってる元気ありゃ、大丈夫」 「いてて……」  と、頭をさすって、「コブができてる……。ああ、ひどい目にあった」 「しかし、良かった。神田さんから連絡をもらって、ゾッとしましたよ」 「心配して下さった割にゃ、救急車も呼んでないんですね」  亜由美は家の居間でソファに横たわっていたのである。 「まあ……一応、目を覚まして、本人に訊いてから、と思ってね」  と、聡子が言った。 「生きてますか、って?」  亜由美は、下に控えているドン・ファンに目を向けると、「この頼りない用心棒! 小夜子さんのときは、犯人に飛びかかって助けたくせして!」  ドン・ファンは、聞こえないふりをしてそっぽを向いた……。 「——しかし、小夜子さんの姿が見えませんね」  と、殿永が言った。「皆さんお出かけだったようだ」 「そう。私がたまたまやって来なかったら、亜由美、今でも廊下で寝てたわよ」 「風邪ひくぐらいよ、せいぜい」  亜由美は頭を振って「殴られたせいか、ひらめいちゃった」 「何が?」 「どうして小田久仁子が殺されたか。——久井隆を犯人と思わせて、小夜子さんが『自殺』してもおかしくない状況を作ろうとしてたのよ、きっと」 「なるほど」  殿永は肯《うなず》いて、「すると、誰かが、小夜子さんを殺して自殺に見せかけようとした、と」 「で、ここへ来てみたけど、小夜子さんを殺す前に、私が帰って来ちゃった、と。——で、私をのして……」 「ワン」  ドン・ファンが抗議するように鳴いた。 「そうか。いくらあんたでも、そうなったら黙ってないね。——じゃ、きっと小夜子さん、自分で出かけちゃったんだわ」 「出かけた?」 「久井さんの無実を信じれば、あれが何かの罠《わな》だってことになる。やっぱり、自分が見た、『内山広三郎の死』と係わりがあるに違いないと……」 「じゃあ——」 「たぶん……内山広三郎の家へ行ったんじゃないかしら」  殿永は肯いて、 「その推理は正しいかもしれませんな。しかし、勝手にこっちも内山家へ入りこむわけにはいかんし」 「入れるのもいますわ」  と言って、亜由美はドン・ファンのほうをジロッと見たのだった……。 [#改ページ]  8 砕けた陶器 「ええ?」  結城美沙子は、食事の手を止めて、「内山広三郎が、偽者?」 「大きな声、出さないで」  と、大倉は言った。 「ごめん」  と、美沙子は首をすぼめて、「でも……どういうことなの?」 「いや、例のK会館でのことさ」  大倉は、食事をしながら、あの日、妻の有紀と、内山秀輝が、大倉を内山広三郎に会わせまいとしていたことを話してやった。 「——へえ、不思議ね」  と、美沙子は言って、「それであの刑事が変なことを訊《き》いてたのか」 「どうもおかしい。内山広三郎とそっくりの替え玉を使って、みんなの目をごまかしてたんじゃないか、って気がするんだ」  二人は、割合気楽に入れるレストランで食事をとっていた。  美沙子は、見ていて気持いいほど、よく食べた。 「そっくりの人ねえ……」  と、美沙子は信じられない、といった様子である。 「君、内山広三郎を殴っただろ。どこかおかしいと思わなかったか?」 「よく見なかったわ。タタッと行って、ポカッとやって、サッと引き揚げちゃったもん」  と、美沙子は言った。 「そうか。——しかし、どうもおかしい」  と、大倉は首を振って、「何かを隠してるんだ、誰もが」 「だけど——」  と、美沙子が言った。「いつごろ本物が死んだと思うの?」 「さあ……。よく分らない。この前会ったときは、まだピンピンしてた」 「でしょ? 私だって、この前会ったの、そんなに前じゃないわ」  と、美沙子は、「デザートね」  と、しっかりオーダーしておいて、 「そんな短期間に、よく似た人を、見付けられる? 内山広三郎って、かなりあちこちで顔を知られてるでしょ」 「まあ、そうだね」 「それをごまかそうっていうのは大変よ。一日や二日で、うまくそっくりの人が見付かるかしら?」  大倉は肯《うなず》いて、 「君の言う通りだな。——すると、この裏にあるのは何なんだろう?」 「何か[#「何か」に傍点]あることは確かよね。でも……」 「いや、君には関係ないさ。妙なことを言って悪かったね」  大倉はコーヒーだけ注文した。 「——これから、どうする?」 「今夜のこと? それとも将来のこと?」  大倉は笑って、 「両方だ」 「将来は——年齢《とし》をとって、死ぬ。今夜は……そうね。あなたと寝るのは気がすすまないから」 「どうして?」 「私、面食いで」 「おいおい」  と、大倉は苦笑した。 「ね、内山広三郎の家へ行ってみましょうか」 「何だって?」 「百万くらいで手を切ろうなんて、甘く見るなって、タンカを切りに。——内山に会わせろって喚《わめ》くの。どう思う?」 「しかし君——」 「興味あるわ。本物かどうか確かめるだけでも、面白いじゃない」  と、美沙子が楽しげに言った。 「そうか。——よし、じゃ送って行こう」 「デザート食べてからね」  と、美沙子が言った。 「広い屋敷だ」  と、野口が言った。 「何を言ってるの、いつも出入りしてるくせに」  と、有紀は笑った。「——兄も追っつけ帰るでしょ」 「しかしね……奥さん、どうするんです」  野口が、居間のソファにゆったりと身を沈めた。 「何のこと?」  内山広三郎の屋敷である。——もちろん有紀もここで育ったのだから、勝手に飲物を出して飲むくらいはできる。 「これからです。——内山広三郎さんの後を継ぐのは誰か……」  有紀はチラッと野口を見て、 「あなたには関係ないわ」 「そうはいきませんよ。僕は内山広三郎の秘書だ」 「あなたは内山家の人じゃないのよ。間違えないでね」  と、有紀は少し厳しい口調で言った。 「おやおや。僕は奥さんのために心配してあげてるんですがね」 「ご心配は無用よ。私たちで決めることですからね」 「秀輝さんに、広三郎さんの後が継げますか? まあ無理だ。本人もやる気がないし。そうなると、大倉さん? しかし、あなたとは決定的に溝ができている」 「決めつけないで。——やり直せるかもしれないわ」 「それはどうかな」  と、野口は笑って、「昼間から飲んだくれていてはね」 「夫のことで、あなたにとやかく言われる筋合はないわ」  と、有紀は野口をにらんだ。 「そう怖い顔をしなくてもいいでしょう」  野口の態度は、秘書のものではなくなっていた。「ご主人はあの女と今ごろベッドの中だ。あなただって——」 「主人は主人よ。だからってあなたと寝なきゃいけないわけじゃないでしょ」 「そりゃそうです。しかし——」 「何よ」  野口は、ちょっと笑って、 「僕にあまり冷たくしないほうがいいですよ。一度は寝た仲だ」  有紀はサッと赤くなった。 「放っといて!」 「いいですか。確かに、僕はこの一族の人間じゃない。しかし、その秘密の部分には、深く係わって来た人間です。僕を怒らせないほうが利口だと思いますがね」  有紀はじっと野口を見て、 「私をおどすつもり?」 「とんでもない。力を合せた方が得だと言ってるんです」 「必要ないわ。出て行って!」  と、有紀は叫ぶように言った。「今日限りクビよ!」 「あなたに僕をクビにする権限はない」  と、野口は涼しい顔で言った。「僕がマスコミにこのネタを売り込んだら? 高く売れますよ」  有紀は、ゆっくりと息をついた。 「——分ったわ。どうしろって言うの?」 「それで結構。——僕は欲のない男ですからね。然《しか》るべきポストと、あなた[#「あなた」に傍点]。その二つさえあれば、それ以上は何も言いません」  有紀は、ちょっと眉《まゆ》を上げて、 「ポストは私じゃあげられないわ」 「分ってますとも。秀輝さんに話していただければ」 「兄に?」 「お兄さんが後を継ぐしかない。そうでしょう? しかし、どうせお兄さんは社長の椅子《いす》に座っているだけだ。——それをかげから操るのは面白いですよ」  野口の目は、不気味な光を放っていた。 「あなたが……?」 「僕と奥さんで。——どうです」  有紀は、立ち上ってテーブルにもたれると、肯いて、 「面白いわね」  と言った。 「そうでしょう」  野口が近付いて来る。「僕とあなたが組めば思いのままだ。——こんな面白いことはありませんよ」 「そうね……」 「どうです?」  野口の腕が、有紀の腰を抱く。そして引き寄せると、 「ご主人なんか、放っておきなさい」 「そうね。——放っとけばいいわね」 「そうですとも……」  野口が、有紀を抱き寄せると——有紀の手がつかんでいた、唐時代の大きな陶器の人形が、野口の頭に砕けた。 「——おい」  と、居間の入口に、いつの間にやら内山秀輝が立っていた。「高いんだぞ、その人形は!」 「兄さんが買ったわけじゃないでしょ」  有紀は、大の字になって倒れている野口を、見下ろした。——身動きする気配はない。 「——死んだのか?」  と、秀輝がこわごわ近寄る。 「知らないわ。見てよ」 「いやだよ、俺は」 「臆病《おくびよう》なんだから!」  有紀はかがみ込んで、野口の手首を取った。「——大丈夫。生きてるわ」 「しかし、ふざけた奴だ」 「怒ることだけ一人前ね」  と、有紀は言った。「どうする?」 「さあ……」  と、秀輝は頭をかく。  何ごとも自分で決められない男なのだ。——有紀は苛々《いらいら》した。  そのとき、玄関のチャイムが鳴りひびいて、二人はギクリとした。 「誰だ?」 「玄関よ。門じゃないわ。——うちの人かしら」  有紀は、野口をチラッと見下ろして、「ともかく、どこか隣の部屋へでも放り込んどいて!」  と言うと、居間を出て行った。 「何ですって?」  と、有紀が言った。 「まあ、お前にしてみりゃ、信じられない、と言うところだろう。しかし、広三郎さんとこの人とは一年近く、関係があったんだ。こういうことになっても、おかしくない」 「私も、つい最近なんですよ、気付いたのは」  と、結城美沙子が言った。「どうも体の調子がおかしいので、お医者さんへ行って……。そしたら、おめでたですって」  有紀は、チラッと夫のほうへ目をやって、 「それを信じろって言うの?」  と、言った。「もし本当に子供ができてたとしても、父の子だとどうして分る?」 「間違いありません。内山さん以外の人とはこの一年、ずっと寝てないんですもの」 「あなたとも?」  と、有紀が夫を見る。 「今日も何もなかった。本当だ」 「そう。偶然ね。私もよ」  有紀は、甲高い声で笑った。 「ともかく」  と、美沙子が言った。「内山さんに会わせて下さい」 「会ってどうするの?」 「知ってもらいたいんです。このことを」 「お金? お金なら出すわ」 「いいえ」  と、美沙子は真直ぐに有紀を見つめて、「お金じゃないんです。ともかく、ご本人の口から、どうしてほしいか、聞きたいんです」  有紀と美沙子が、互いに一歩も譲らない様子で、じっと見つめ合う。  ——有紀が立ち上った。 「待ってて」  有紀は、客間を出ると、二階へ上って行った。  奥の部屋のドア。鍵《かぎ》をとり出して開けると——明りを点《つ》ける。 「お父さん[#「お父さん」に傍点]」  と、有紀は言った。「困ったことになったわよ」  そして有紀は、ふと、クロゼットのほうで物音がしているのを聞きつけ、眉をひそめた。 「ネズミでもないだろうけど……」  と、歩いて行くと、ちょっとためらってからパッと扉を開ける。 [#改ページ]  9 替え玉 「クゥーン」 「しっ」  と、亜由美がドン・ファンをつつく。「見付かっちゃうでしょ。静かにして」  ドン・ファンの身になりゃ、「そっちの方がよっぽどうるさい」と言いたかったかもしれない。  忍び込んだのはいいが、ともかく庭の広いこと。——ここは、内山広三郎の屋敷である。  もちろん、亜由美は、殿永の許しを受けて来ているわけではない。  こんな無茶なことを……やっても、別にびっくりはしないだろうが、きっと大いに嘆くことだろう。 「いい? あんたはね、いざってときには、命がけで私を守るのよ」  と、亜由美はドン・ファンに言いきかせている。  さて——二人(というか一人と一匹というか)が、庭をそっと進んで行くと、明るく光の溢《あふ》れた部屋が見えて来た。 「あれが居間ね、どうやら」  と、亜由美は呟《つぶや》いた。  庭は芝生になっているので、あんまり近付くと、向うから目に入ってしまうだろう。しかし、幸い植込みがあって、頭を低くして行けば、大分近くまで行ける。 「——あれ[#「あれ」に傍点]だ」  居間がはっきりと見えた。  そしてソファには、あのK会館で見た内山広三郎が、ゆったりと座っていたのである。  しかし、何となく——様子がおかしい。  内山広三郎の目は、じっと正面を見すえていて、何も見てはいないようだった。  すると——人の姿が現われた。 「——さあ、父よ」  と言ったのは、大倉有紀である。  その後からやって来たのは、有紀の夫、大倉貞男と、そして女——あの、結城美沙子である。 「何してんだろ、こんな所で?」  と、亜由美は呟いた。  中の声が聞こえて来るのは、庭に面した窓の上の方が換気用に小さく開いているせいだろう。 「どうも」  と、大倉が内山広三郎に会釈する。「ごぶさたして……。お義父《とう》さん。——お義父さん」  大倉が呼びかけても、広三郎は一向に返事をしない。 「——有紀。どうしたんだ?」 「見た通りよ」  と、有紀は言った。「生きてはいるけど——それだけ」 「何だって……」  大倉が愕然《がくぜん》としている。 「——違うわ!」  と、結城美沙子が叫ぶように言った。「この人じゃない! 私が愛人だったのは、この人じゃないわ」 「君……。確かか?」  と、大倉が訊《き》く。 「ええ。何度も寝た仲よ。分るわ、それくらい」  と、美沙子はきっぱりと言い切った。 「有紀」  大倉は妻のほうへ向いて、「どういうことなんだ? この男は誰だ」 「父よ。内山広三郎」 「しかし——」 「もう、ずっと[#「ずっと」に傍点]こうなの。一年以上」  ——しばし、沈黙があった。 「何ですって?」  と、美沙子が言った。「私……内山さんと会ったのは、一年前よ」 「あなたが会っていたのは別の男。父の身代りをずっとつとめていた、売れない役者なのよ」  大倉も美沙子も唖然《あぜん》としている様子だった。 「——一年間も?」 「そう。父が突然、脳に障害を起こして、ほとんど何も分らなくなったの。——もし、それが知れたら、会社はめちゃくちゃになるわ」 「それで、替え玉を?」 「前から、父は具合の悪いとき、その男をときどき代理で使っていたの。どこかの完成披露パーティでテープを切るとか、そんなことなら、父でなくともいいわけでしょう」 「それにしても……」 「父が倒れて、私と兄は途方にくれたわ。今は誰も父を継げる人はいない。とりあえず、重役会やパーティを、その男でしのいでいたの」 「じゃ……私、その〈替え玉〉の愛人だったの」  と、美沙子がポカンとして、言った。 「ええ。——ある程度好きにさせておかないと、いつ秘密を洩《も》らすか分らないでしょ」  と、有紀は言った。「その内何か考えなくちゃ、と言ってる内に、一年もたってしまったの」 「で——その替え玉は?」 「死んだの」 「何だって?」  大倉が目を丸くする。 「あの、前田小夜子って娘をここへ連れ込んで腹上死。——焦ったわ。次の日には、結婚式でしょう、例の。それで、何とか父を出すことにして。でも——」 「誰とも口をきかないように、か」  大倉が肯《うなず》く。「それで分ったよ」 「ところが、その式場で、前田小夜子が式をあげることになってたの。廊下でバッタリ。——運の悪いことよね」 「全くさ」  と、秀輝が入って来る。 「お兄さん」 「あの娘をどうした?」 「縄をといてやったわ。薬で眠らせたのね。ひどいことを」  と、有紀は言った。 「あいつはここへ忍び込んで、親父《おやじ》を見ちまったんだ。仕方ないじゃないか」  秀輝は、身じろぎもせずに座っている父の肩に手をかけて、「——こうなったら、もう隠しちゃおけないだろう。しかし、こっちはまずいことになるんだよ」 「新しい体制がスタートすると、何かまずいことがあるのね」  と、有紀が言った。 「ああ」  秀輝は肩をすくめて、「死んだ替え玉と組んで、大分金を流用させてもらってたからな、俺は」 「そんなことだと思ったわ」  有紀は首を振って、「それであの娘も、消すつもりだったの?」 「あの娘の口から、本当のことがばれると困るんでね。——俺の女に、あの娘の結婚式に乱入させた。亭主の恋人ってことにしてな」  ——小田久仁子は、内山秀輝の愛人だったのか!  話を聞いていて、亜由美は肯いた。 「その女を殺したでしょう。なぜ?」  と、有紀が言った。 「あいつも、色々欲が深かったし」  と、秀輝が言った。「あいつを殺して、久井って奴がやったように見せる。これで、前田小夜子の死体が出ても、自殺と思われるだろう」 「呆《あき》れた人!」  と、有紀は言った。「そんな話が通用すると——」 「するとも」  秀輝が、拳銃《けんじゆう》を取り出した。「さあ、俺と協力して、うまくやるか。それとも、ここで死ぬか」 「どうするつもり?」  と、美沙子が言った。 「親父が急死したことにする。強盗にうたれてね。それで世間も疑いを持たないし、あれこれ、せんさくもされないだろうさ」 「殺すつもりか」 「どうせ死んでるのも同じさ。もうこれ以上生きてても仕方ない」  と、秀輝はちょっと笑った。「もちろん後は俺が継ぐ。——この一年の間に、相続対策はやれるだけやった。後は、俺が社長になって、使った金をごまかす。簡単なことよ」 「お兄さん……」 「賛成するだろうな。——ここで死んでも、強盗がやったってことにできるんだ」  誰も、口をきかない。 「——よし」  と、秀輝は肯いて、「じゃ、親父に死んでもらおう」 「やめて!」  と、有紀が叫んだ。「いくら何でも——」 「生かしといてどうする?」  秀輝が銃口を、内山広三郎の方へ向けた。すると——内山広三郎の頭が、ゆっくりと動いたのである。 「何だ……。こんな馬鹿な!」  広三郎の顔が、真直ぐ秀輝の方へ向く。そして、その右手が、そろそろと持ち上り、秀輝の方へと伸びて来る……。 「やめろ!」  秀輝が引金を引く。銃声がして、同時に大倉が、秀輝を殴った。  秀輝は呆気《あつけ》なく床にのびてしまった。  ——亜由美は、ガラス戸をトントンと叩《たた》いた。 「あら、あなた……」  と、美沙子が戸を開ける。 「全部見てました」  亜由美は言って、「小夜子さんは?」 「そこよ」  と、有紀が指さす。  内山広三郎の座ったソファの後ろから、小夜子が顔を出した。 「大丈夫ですか?」 「ええ……。ここへ来て、その男にいきなり縛られて……」  と、小夜子は立ち上って、「どうでしたか?」 「うまくいったわ」  と、有紀が肯く。 「ワン」  と、ドン・ファンが吠《ほ》えた。 「あ、そうか。小夜子さんが後ろから動かしてたんですね?」  と、亜由美は肯いて、「怖かった!」 「でも効果満点」  と、美沙子が首を振って、「こっちが本物だったのね」 「とんでもない騒ぎだったわ」  と、小夜子がため息をついた。「久井さんの疑いは晴れるわね」 「キャッ!」  と、美沙子が声を上げた。  いつの間にか、頭から血を流した野口が、居間へ入って来て、秀輝が落とした拳銃を拾い上げたのである。 「動くな! 畜生!——何もかもおじゃんだ」 「そうか」  大倉が肯いて、「君が企んだんだな。どうも秀輝さんの考えにしちゃ、うまくできてると思った」 「裏切りやがって。——こうなったら逃げるぞ。金を出せ! 現金だ」 「野口さん——」  と、有紀が言いかける。  亜由美は、そっとドン・ファンの腹をつついた。——出番[#「出番」に傍点]だよ。  何しろ背が低いのは得である。  スッとソファの下へ潜り込んだと思うと、野口の後ろへ回り、その足首に、思いっ切りかみついたのだ。 「ギャーッ!」  野口の悲鳴が、表まで聞こえたとか、後で亜由美は聞かされた……。 [#改ページ]  エピローグ 「行ってらっしゃい」  と、亜由美は手を振った。 「色々ありがとう」  と、小夜子が言った。「あなたたちのおかげだわ」 「さ、行こう」  と、促したのは、もちろん久井隆。  少し遅れたハネムーンに、成田から飛び立つところである。  亜由美、聡子、ドン・ファンの三人[#「三人」に傍点]は、見送りに来たのだった。 「——いいご主人ね」  と、聡子が言った。「あんなことあっても、怒りもしないで」 「人間誰しも過ちはあるって」  と、亜由美は言った。 「クゥーン……」 「あれ?」  と、亜由美が目を丸くしたのは——。 「あら、来てたの」  大倉貞男と有紀の二人である。 「お二人で?」 「ええ。第二のハネムーンでね」  と、有紀は微笑《ほほえ》んだ。 「もう一回やり直そうってことになってね」  と、大倉は言った。 「いいなあ、羨《うらや》ましい」  と、聡子が言って、亜由美につつかれている。  大倉夫妻もついでに[#「ついでに」に傍点]見送って、亜由美たちは、息をつくと、 「さて、帰るか」  と、歩き出した。「聡子、途中で何か食べてくでしょ」 「うん。——あの人が、内山広三郎の会社を継ぐんでしょ?」 「らしいね」 「就職の世話してくれないかなあ」 「夢は小さいね」  と言って、亜由美たちは大笑いした。  成田の混雑の中を、ドン・ファンは、行き交う人々に踏みつぶされないよう、必死ですり抜けながら、二人の後について行くのだった……。 [#改ページ]    死にそこなった花嫁 [#改ページ]  プロローグ  期待が大き過ぎると、たいていは失望する。——人生とは、えてしてそういうものである。  もっとも片瀬幸子の場合、「人生」というのは正しくないかもしれない。目を開けて、ぼやけていた視界が少しずつはっきりと焦点を結んでくるにつれ、頭のほうもすっきりして来て、 「ああ……。これが天国[#「天国」に傍点]なんだわ……」  と、考えていたのである。「どんなにすてきな所なのかしら? 徹男さんはもう先に来て待ってるのかな。いつも私のほうが約束の時間に遅れてたから、こんなときくらい、早く着いときたいけど……。でも、天国に行くのに、〈特急〉とか、〈各駅停車〉とかあるわけじゃないだろうし……」  次第にはっきりと見えて来た世界は、いささか幸子を失望させるものだった。  まず目に入ったのは、あちこちしみ[#「しみ」に傍点]のできた、汚ない(元はきれいだったのだろうが)天井で、所々、ペンキがはげ落ちていたりした。  なに、これ? 天国もこんなに古くなってるのかしら。まあ、天国が古い[#「古い」に傍点]っていうのは当然としても……。でも、ちゃんと手入れしてないのかな。  天国も人手不足なのかな。それとも——。 「幸子! まあ幸子! 目を開けたわ!」  突然、母の顔が出て来たので、幸子はびっくりして心臓が止るかと思った。——心臓が止るかと?  ということは……。母までが天国へ来ているわけがない。するとここは……天国じゃないのだ。  幸子は、至ってはっきりした結論を出さないわけにはいかなかった。  助かっちゃったんだ、私……。 「幸子! お母さんが分る? ね、分ったら返事して!」  うるさいなあ……。死にそこねてがっかりしてる人間に、そう多くを要求されても困るのよね。 「お母さん……」  と、仕方なく幸子は返事をした。  少し元気のない声を出さなきゃ、と考えて加減したくらいだから、かなり落ちついていた、と言ってもいいだろう。 「幸子……。まあ、良かった……。良かったわ」  母がグズグズ泣き出して、幸子はいささかうんざりした。そんなに「生きててくれて良かった」と思ってくれるのなら、もう少し私の気持を大切にしても良かったんじゃないの?  そう言ってやりたかった。しかし、やはり自殺しかけた身としては、母とやり合うほどのエネルギーはないので、黙っていることにした。 「幸子……。もう、こんなことやめとくれ。もしお父さんに分ったら……。どんなに怒られるか」  母、片瀬知子の言葉は、幸子をがっかりさせた。娘と恋人との仲に反対して、心中[#「心中」に傍点]にまで追い込んでおきながら、父に叱《しか》られることばかりを気にしている。  幸子の幸福とか、そんなものは、はなから頭にないのである。確かに父、片瀬隆治がとても厳しい人間であることを、幸子はよく知っている。だからといって——。  幸子は、そのときになって、思い出した。そうだ、あの人[#「あの人」に傍点]のこと……。 「お母さん——」 「なあに? 何かほしいものがあったら言ってごらん」 「そうじゃないの……。徹男さんはどこ?」  幸子の問いに、母は目をそらした。 「ね、幸子……。あんたは疲れてるんだから、もう少し眠ったら?」 「ねえ、徹男さんはどこにいるの?」  そのとき、病室のドアが開く音が聞こえた。 「——何だ」  父が、幸子を見下ろしていた。 「あなた、今、気が付いたんですよ」 「それなら何も急いで来ることはなかったな」  片瀬隆治はいつもと変らぬ口調で言った。 「全く、馬鹿をしてくれたもんだ。世間のもの笑いだ」  世間。——世間か。  幸子は、もう父の言葉に腹も立たなかった。父が哀れにすら思える。  堂々たる体つきも、人の上に立つ者の貫禄《かんろく》も、一度死を決意した幸子の目には虚しい。 「お前、ついててやれ」 「ええ、それはもう……」 「もうこいつも、二度とこんな真似はせんだろう。相手は死んじまったんだ。いっそせいせいしたってもんだ」  と、父が言って、「俺は戻るぞ。仕事があるんだ。のんびりしておられん」  娘に言葉一つかけるでもなく、病室から出て行ってしまう。  ——相手は死んじまったんだ。  死んじまった? 誰が?  幸子は、母が娘から目をそらして、お茶をいれたりしているのを、ぼんやりと眺めていた。 「お母さん……」  と、幸子は言った。「徹男さんは?」 「丸山さんはね、助からなかったのよ」  と、母は娘の顔を見ずに言った。「流れに呑《の》まれて。——あんた一人が、流木に引っかかって……。それも浅い所に浮かんでいたんで、少しは呼吸ができたのね。本当に運が良かったわ。もうあんなことは二度と——」  幸子は、どこか少し離れた場所から、自分[#「自分」に傍点]がベッドを出て、ふらふらと窓のほうへ歩いて行くのを見た。  そして窓を開け、下を見下ろす。——五階の高さである。落ちれば確実に死ねる。  まだ[#「まだ」に傍点]追いつけるかもしれない。徹男に。  徹男。今、どこにいるの? 「やめて!」  母が、後ろから幸子を抱きとめる。 「はなしてよ、お母さん! 死ぬんだ、私!」 「いけない! やめて! 誰か——誰か来て!」  母の声が、響きわたった。  はなして!——はなして! 「はなして」  と、幸子は言った。「お願い」  それでも、彼は手をはなそうとはしなかった。  雨が、少し強くなる。 「濡《ぬ》れるわ」  と、幸子は言った。 「構わない」 「でも——」 「君が、うん、と言ってくれるまで、手をはなさないよ」  冷たい雨の中で、三上につかまれた両手だけが、あたたかかった。 「三上さん……」 「君がためらうのは分る」 「お話ししたでしょ。分ってくれたと思ってたのに」 「しかし、もう七年たってるんだよ、君が心中しかけてから。忘れていいころだ」 「忘れられないわ」 「忘れなくともいい。でも、君は生きてるんだ。幸せになる義務がある。——死んだ彼のためにもね」  幸子は、ふっと目を伏せた。雨が、肌までしみ通って来ると、不思議にそれは冷たさでも寒さでもなく、くすぐったいようなあたたかさであり、嬉《うれ》しさでもあった。 「——お願いだ」 「三上さん」 「頼む。——結婚してくれ」 「ええ……」 「ええ、と言ったね。いいんだね」 「ええ」  やっと顔を上げる。  七年ぶりに、顔を上げたような気がした。  三上の腕の中に、幸子はいた。しっかりと寄せ合った胸と胸の間には、雨のひとしずくも入る余地がないようだった……。 [#改ページ]  1 気を失った女 「何でこんな所で待ち合せたわけ?」  と、神田聡子が文句を言った。 「私が決めたんじゃないわ」  と、言い返したのは、もちろん本編のヒロインたる塚川亜由美である。「向うが、ここ、と言って来たんだもん。仕方ないでしょ」 「それにしたって……。不愉快だ」  と、聡子はむくれている。 「そうね。当てつけがましいわ」 「本当よ」  ——何が当てつけなのか、というと、今二人が突っ立っているのは、Nデパートの家具売場。  秋の結婚シーズンを控えて、デパートでは、「婚礼家具大バーゲン」をやっていたのである。  安かろう悪かろうではなく、いい品が安くなるという評判のせいもあってか、タンスだの三面鏡だのといったクラシックな家具から、モダンなシステムキッチンまでズラッと並んだ売場は、仲の良さそうなカップルで一杯。  女子大生の二人、亜由美と聡子としては、別にまだ「お呼びじゃない」世界なのだが、それでも「恋人」の一人や二人いてもおかしくない年ごろ。  それが、どっちも「一人もいない」というわけで、 「何も焦るこたない」 「そうだそうだ」  と、いつも言いつつ、 「目のない奴《やつ》ばっかり」 「本当!」  とも言い合っているのである。  それにしても——こんな風に家具を選びに来てるくらいだから、もう「売約済」のカップルばかりなのだろうが、それ故にか、ただの「恋人同士」とはどこか違った落ちつきが感じられる。 「——ね、亜由美」 「なに?」 「いい男、いた?」 「いない」  ちゃんと見てはいるのである。 「ま、好き好きよね、男も」  と、亜由美は言って……。「あの二人、なかなか」 「どれ?——あ、本当だ」  珍しく二人の意見は一致した。  スーツ姿の男性、明るい色のワンピースの女性。どっちも二十六、七というところだろうか。 「——この戸棚、すてきね」  と、女の方が言った。 「寸法、入るかな?」 「見てみるわ」  女のほうが、ちゃんと巻尺を持って来ている。  大きさを測って、 「——寝室には無理かも。でも、これなら、どこにでも置けるわ」 「じゃ、候補だな」  と、男が肯《うなず》いた。「他も見てから決めよう」 「ええ」  と、女が肯く。  すると、館内アナウンスが流れた。 「K区からおこしの、三上公平様。お電話が入っておりますので、お近くの電話口までおいで下さい」  その男女が顔を見合せる。 「——今、三上って言った?」 「三上公平って。——そう聞こえた」 「何だろう? ここへ来るなんて、誰にも言ってないのに」  と、首をかしげて、「ちょっと待っててくれ」 「ええ、この辺にいるわ」  ——何だか年齢の割に、落ちついた女性だな、と亜由美は思った。  両手を後ろに組んで、少し大きめのバッグを揺らしながら、並んだ洋服ダンスの間を歩いて行く……。  ポロン、ポロン、と、また館内アナウンスの呼出し音がして、 「S市よりおこしの、片瀬幸子様」  その女が、びっくりしたように、足を止め、何となく宙へ目をやる。  二人とも?——確かに、珍しいことだろう。 「丸山徹男様が一階正面入口でお待ちです」  亜由美は、その女がアナウンスを聞いてサッと青ざめるのを見た。 「——危い!」  と、亜由美は叫んでいた。  そのワンピースの女性が、フワッと床に倒れてしまったのだ。  亜由美は、ほとんど無意識に、その女性へと駆け寄っていた。 「どこにいても、あんたはそうなのね」  と言ったのは、塚川清美。  おなじみの、亜由美の母である。 「どういう意味よ、それ」  と、娘のほうは不服げに眉《まゆ》を寄せる。 「よしなさい、そんな顔。しわがふえるわ」 「人の顔のことは放っといて」  母と娘が仲良く(?)やり合っているのは、デパートの、いわば裏側[#「裏側」に傍点]。医務室の前である。 「——どうなった?」  と、神田聡子がやって来る。 「あ、聡子。あの男の人は?」 「うん、今、呼んでもらって、こっちへ来るって」 「本当にすみませんねえ」  と、清美が言った。「うちの子がこんな風だから、神田さんも縁遠くて」  聡子としては、亜由美の手前もあり、「そうですね」とも言えないので、 「いえ……まあ……その……」  と、わけの分らないことを言っておいた。 「でも、どうして急に倒れたの?」 「知らないわよ。アナウンスを聞いたとたん、青くなってひっくり返っちゃったの」 「へえ」  と、清美が肯いて、「館内アナウンス恐怖症かしら」 「そんなの聞いたことない」 「私もよ」  あまり実りのないやりとりを続けていると、さっきの連れの男性が足早にやって来た。 「あの——申しわけありませんが——」 「三上さんですね。片瀬さん、その中です」  と、亜由美が言った。「気を失って。でも、もう大丈夫だそうですから」 「そうですか」  と、息をついて、「いや、お手数かけて、すみませんでした」 「いいえ。よくある立ちくらみじゃないですか」  とは言ったが、亜由美自身、そう信じているわけではない。  ともかく、三上公平が医務室へ入ると、別に必然性はなかったのだが、亜由美たちもそれについて中へ入ったのだった。  片瀬幸子は、診察用の固いベッドに腰をかけて、少しまだ青白い顔をしていたが、三上公平を見ると、少し微笑《ほほえ》んで見せた。 「大丈夫かい!」 「ごめんなさい……。ちょっと——」  と、首を振って、「きっと悪い夢でも見たんだわ」 「何があったんだ?」  三上が、幸子の手をとる。 「呼出しが……。あなた、電話は誰から?」 「それが妙なんだ」  と、三上は首を振って、「出てみると、すぐ切れちゃったんだよ。何も言わずに」 「それじゃ、誰からか、分らなかったの?」 「そうなんだ。呼出しって……。君も?」 「本当にあったのか。それとも聞こえるような気がしただけなのか。自分でもよく分らないの」  と、幸子が言うと、 「あの——すみません。口出しして」  と、亜由美は言った。「私たちも、聞いてました。確かに呼出しはしてましたよ」 「本当ですか」  と、幸子は亜由美を見て、「じゃあ……聞かれました? 待っていると言った人の名前も」 「ええ。でも——一回聞いただけじゃ。ね、聡子」 「何とか……てつ……てつお?」 「丸山徹男[#「丸山徹男」に傍点]ですか」 「あ、そう。そんな名前でしたね」  と、亜由美は言って、「どうして、その名前を聞いて気を失ったんですか?」 「馬鹿な!」  と、三上が突然激しい口調で言った。「誰の悪ふざけだ!」 「公平さん」  と、幸子が三上の肩に手をかける。「きっと、あの人が私の結婚を知って怒ってるんだわ」 「馬鹿なこと言うなよ」  と、三上は幸子の手をギュッと握りしめた。「君は生きてる! 彼は死んだんだ。それは間違いないことだ」 「でも、それならどうして私を呼び出したりしたの?」  ——何となく、第三者がいてはうまくないような雰囲気だったが、亜由美の性格からして、放って行ってしまうわけにもいかなかった。 「あの……。失礼ですが」  と、やや[#「やや」に傍点]遠慮がちに声をかける。 「あ、どうも。——お手数かけてすみません。お礼を申し上げなくて」 「そんなこといいんです。今、『死んだ』とおっしゃいました?」  三上が、ちょっと咳《せき》払いして、 「申しわけないんですが、これはプライベートなことでして」 「あら、公平さん。助けて下さった方に、そんなこと言っちゃいけないわ」 「そうですよ」  と、突然口を出したのは、清美である。「人は助けを必要とするときには、堂々と助けてもらえばいいんです」 「あの——母ですの」  と、亜由美はあわてて紹介した。「よかったら話して下さい。その——丸山徹男って人は——」 「誰が彼女を呼び出したか知らないが、丸山徹男でないことは確かですよ」  と、三上が言った。「丸山徹男はもう七年も前に死んだんですから」 「私、その人と心中したんです」  と、幸子が言った。「でも、私だけは助かって……。それからずっと男の人を避けて来ました」 「もう忘れたと思ったのに」 「ごめんなさい。——もちろん、私の気持は変らないわ」  と、幸子は、三上の手をそっと握り返した。 「私、現実主義者ですの」  と、亜由美は言った。「聡子。一階正面入口へ行って、誰がアナウンスを頼んだか、調べてみよう」 「ほい来た」  二人がタッタッと出て行くと、清美がため息をついて、 「娘は、この手[#「この手」に傍点]のことが大好きなんですの。何かお役に立つようでしたら、使ってやって下さい。きっと喜びますわ」  と、言ってから、「——いい相手とお見合させるよりは、殺人犯と会う方が面白い、という子ですから」  ハクション! 廊下から亜由美の派手なクシャミが聞こえて来た。 「——面白い人たちだったわね」  と、幸子が言った。 「ああ。お節介という言い方もあるけどね」 「そんな言い方しちゃ失礼だわ」 「分ってる」  夜道を歩く二人は、何となく黙りがちだった。——もちろん昼間の出来事が影を落としているのだ。 「しかし、あの二人が調べてくれたじゃないか。アナウンスを頼んだのは、ちゃんと足もある人間[#「人間」に傍点]だったんだ。幽霊なんかじゃなくてね」  と、三上公平は言った。「大方、君のことで、やきもちをやいてる奴がいるんだよ。君に恋してる男は何人もいる」 「そんな……」  と、幸子は笑った。「いやしないわよ、そんなに何人もなんて」 「少なくとも、ここに一人いる」  と、三上は言って、立ち止る。  幸子は、三上にキスされるに任せていた。いつもの通り、幸子は控え目で、おとなしい。しかし、どこか今夜は違っていた。 「——もう帰って。大丈夫よ。すぐだから」 「何言ってるんだ。お宅まで送らなかったら、君のお母さんに叱られる」  三上は幸子の腕をとった。  ——歩いて十分ほど。閑静な住宅街に、幸子の家はある。 「お帰りなさい」  と、母親の知子が出て来た。「三上さん、いつもすみませんね」 「いいえ」  三上は、少し不安げに、「君、大丈夫かい?」 「ええ、何ともないわ」 「何かあったの?」  と、知子が訊《き》いた。 「何も。——じゃ、公平さん」 「うん……。おやすみ」  心残りな様子ではあったが、三上は上らずに帰りかけた。と、外から玄関のドアが開いて、 「何だ」  と、片瀬隆治は三上をジロッと見て、「今ごろまでいたのか」 「あなた!」 「お送りして来たんです」 「そうか。じゃ、もう帰るんだな」  片瀬は、靴を脱いで上ると、「おい、風呂」  と言い捨てて奥へ入ってしまう。 「ごめんなさいね」  と、知子がため息をついて、「本当に、このところ、ますます気むずかしくなって」 「いや、娘を盗む不届き者ですからね、僕は」  と、三上は笑って、「じゃ、これで」 「お気を付けて。——おやすみなさい」  知子はロックをして、「幸子。どうかしたの?」 「別に……」  幸子は、少し足早に二階へ上った。  自分の部屋へ入ろうとドアに手をかけて、父が着がえをして寝室から出てくるのを見た。 「お父さん」 「何だ。あんな奴とよく付合ってられるな」  めっきり白髪もふえ、片瀬隆治はしかめっつらが「普通の顔」になってしまっていた。 「今日ね——」 「何だ? 途中でやめるな」 「ええ。懐しい人の名前を聞いたわ」 「誰だ?」 「丸山徹男。——憶《おぼ》えてる?」  片瀬は、じっと娘を見つめて、 「どこでそんな名前を聞いたんだ」  と、言った。 「私を[#「私を」に傍点]待ってるって伝言があったの。あの人、私のことが忘れられないのね」  幸子の目は、どこか宙をさまよっていた。 「幸子……」 「私、先にお風呂に入ってもいい?」 「——ああ」 「じゃ、すぐ仕度するわ」  幸子は部屋へ入ってドアを閉めた。  片瀬隆治は、閉じたドアを、じっと見つめて動かなかった。 [#改ページ]  2 逃げた男 「ちょっと、ドン・ファン! 何してるのよ!」  亜由美に叱られて、ソファの下から這《は》い出して来たのは、おなじみ、「胴長のプレイボーイ」である。ドン・ファンといっても、犬。しかし、由緒正しいダックスフントで、当人(?)も気位は至って高いようである。  趣味が女の子のスカートに潜り込むこと、というのも、王様がすぐ愛人を囲ったり、ハレムを作ったりすることを考えると、そう不思議でもない。 「クゥーン……」  と、ドン・ファンはいつも亜由美に甘えて見せる。 「本当にもう、お客様はね、残念ながら女の子じゃないの」 「ワン」  それを見ていた、でっぷり太ったブルドッグ——いや違った、殿永刑事は、笑い出した。 「いや、この家に来ると、心は平和になります」  と、殿永は出された紅茶を飲み、清美の手作りケーキを食べながら、言った。 「そうですか?」 「塚川さんが、古い殺人事件を掘り返したりしない限りは、です」 「私、何も掘り返してませんけど」  と、亜由美はすまして言った。「でも——丸山徹男は殺されたんですか?」 「そんなこと言ってませんよ」 「だって今——」 「一般論です」  殿永の得意なおとぼけで、「もっとも、不思議な偶然ではあります」 「何がです?」 「丸山徹男。——この名前が、ごく最近[#「最近」に傍点]、私の所にも届いてましてね」  亜由美は、眉《まゆ》を寄せて、 「でも——丸山徹男は、七年前に心中して、死んだんですよ」 「確かに」  殿永は肯《うなず》いて、「塚川さんの頼みとあっては、調べないわけにもいかない。当時の記録を調べてみました」 「何か出て来たんですか」 「一応[#「一応」に傍点]、丸山徹男は死んだことになっています」  気を持たせるような言い方をして、「丸山徹男と片瀬幸子は二人して川へ身を投げた。片瀬幸子は助かりました。しかし、男の方は、そのままずっと流され、大きな川へ合流したところで、航行中の船のスクリューに巻き込まれたのです」  亜由美が、思わず顔をしかめた。 「もちろん、そのときには死んでいたことは間違いありません」  と、殿永は言った。「しかし、死体はバラバラの状態に近く、ほとんど確認は不可能という状況だったのです」 「じゃあ……」 「丸山徹男の親も、全く見分けがつきませんでした。ただ、片瀬幸子と飛び込んだ丸山が流されたとすれば、ちょうどそのタイミングに合うということで、間違いないとされたのです」 「じゃ、別の死体だったということも?」 「可能性としては、あり得ます」  と、殿永は肯いた。「しかし、その場合、なぜ七年間も、名のり出て来ないのか、という疑問があります」 「そうですね……」  亜由美は考え込んだ。「じゃ、やっぱり丸山徹男は死んでいて、デパートで片瀬幸子を呼び出したのは、誰か、彼女の過去を知っている、別の人間ということでしょうか」 「そうかもしれません。——デパートの案内嬢にも話を聞いてみましたが、あのアナウンスを頼んだ男のことはよく憶《おぼ》えていませんでした。ひどい風邪をひいていたらしく、顔はマスクで隠れてしまっていたのです」 「わざと隠したんでしょ」 「おそらくね」 「でも、殿永さん……。どうしてそんなことまで?」 「さっき言ったでしょう。私の耳にも、丸山徹男の名前が入っていたのです」 「何があったんです?」 「これはまあ……。本来なら秘密にしなくてはいけないのですがね」 「ケチなこと言わないで。晩ご飯、ごちそうしますから」 「刑事を買収するんですか?」  と、真面目な顔で言う。  すると、居間へ清美が入って来て、 「晩ご飯ったって、どうせ私が作るんじゃないの。——殿永さん、紅茶をもう一杯、いかが?」 「や、どうも」 「お母さん。立ち聞きはやめてよ」  と、亜由美がにらんだ。 「何言ってるの。私があのデパートで待ち合せると決めたのよ。もし他の場所にしてたら、あんたは今度のことなんか、何も知らなかったんですからね」  自慢するようなことでもないと思われるのだが、清美が自信たっぷりに言うと、正しく聞こえてしまうのである。 「私と聡子に、恋人たちを見せつけようなんて、せこいこと考えたんじゃないの」 「少しはあんたたちが考えるかと思ったのよ。どうして自分がもてないか。でも、結局、そこでも殺人事件だ何だっていうんじゃ……。絶望的ね」 「あのね——」  と、亜由美が言いかける。 「まあまあ」  殿永が愉《たの》しげに割って入る。「私も、お二人のケンカを見物しに来たわけじゃありませんからね。——実は、つい先日、ある精神病院から、一人の患者が逃げ出したのです」 「何ですって?」 「その男が、『丸山徹男』と名のっているのですよ」  と、殿永が言った。 「ワン」  ドン・ファンが頭を持ち上げて、一声|吠《ほ》えた。 「——おい、竜男。お客さんだ」  声をかけられたとき、尾崎竜男は修理中の車の下へ入って、オイル洩《も》れを点検しているところだった。 「途中だよ」  と、尾崎は手を止めずに言った。「他に誰かいるだろう?」 「仕事じゃない。お前に用なんだとさ」  仲間の言葉に、尾崎はやっと作業の手を止め、車の下から車輪のついた台をぐいと押してガラガラと滑り出て来た。 「誰だい、俺に用って?」 「名前は知らん、パリッとしてて、お前のその油まみれの手じゃ、握手はしてくれそうもないぜ」  と、仲間はそっと言った。  やれやれ……。尾崎は、立ち上ると、伸びをした。  長いこと車の下に入って、上を向いて仕事をするというのは、重労働である。特に腕が鉛のように重くなる。  タオルで手を拭《ふ》きながら、表に出て行くと、尾崎は足を止めた。 「あんたか」 「——やあ」  と、三上公平は言った。 「何の用だい? 仕事中なんだ」  と、尾崎は不愉快さを隠そうともしないで言った。 「こっちもさ。君の仕事と違って、こっちは、一時間会社を空けると何千万の損ってこともある」  フン、と尾崎は笑って、 「そのお偉いビジネスマンが、こんな修理工に何の用だい」 「君は——。まあいい。単刀直入に言おう。幸子さんに妙な真似をしてるのは、君じゃないのか」 「何だって?」  尾崎の顔から皮肉な笑いが消えた。「幸子さんがどうかしたのか」 「どうもしないさ。彼女は幸せ一杯。僕とだからね」 「それなら、何だってこんな所へ来たんだ?」 「幸子さんに、悪質ないたずらをしかけてる男がいる」 「いたずら?」 「そうだ。彼女は、君も知っている通り、繊細で神経質な女性だ。いつまでも自分の過去にこだわっている」 「過去って……あのことか」 「知ってるんだろう。彼女が心中未遂をやったこと」 「知ってる」 「彼女は助かり、一緒に川へ飛び込んだ恋人は死んだ」 「しかし、もうずいぶん前のことなんだろう?」 「七年前だ。ところが、その幽霊[#「幽霊」に傍点]が出てね」 「何だって?」  尾崎は、三上の話に唖然《あぜん》とした。 「——こんなことをするのは、幸子さんと僕の結婚に反感を持ってる人間に違いない。そうだろう」  尾崎はふっと苦笑して、 「それで、ここへ来たってわけか」  と、言った。「確かに、俺はあの人に振られた。しかしな、幸子さんに幸せになってほしいんだ。たとえ相手が俺でなくてもな」 「いい心がけだ」  と、三上は言った。「それは本心だろうね」 「信じるかどうかは、そっちの勝手さ。しかしな——」  と、尾崎は厳しい口調になった。「もし、幸子さんに危害を加えようとする奴がいたら許さない。それに、あんたには幸子さんを守る義務があるんだ。もし、幸子さんを守れなかったら、あんたを許さないからな」  三上は、やや尾崎の言葉に圧倒されている様子だったが、 「——分ってる。念を押されるまでもないさ」  と言うと、「邪魔したね」  クルッと背を向けて歩いて行く。  尾崎は、三上のきびきびした後ろ姿を見送っていたが、やがてフッと笑って、 「キザな奴」  と、呟《つぶや》いて、作業場へ戻ろうとした。 「ワン」 「何だ?」  尾崎は足下を見下ろした。いやに毛並のいいダックスフントが、尾崎を見上げている。 「何か用か? 腹空かしているようにも見えないな」 「ワン」 「そんなこと言われると、プライドを傷つけられて怒るのよ」  と言ったのは、もちろんその犬じゃなかった。 「君は?」 「塚川亜由美」  と名のるところは、ジェームス・ボンドが映画の中で登場する場面みたいだった。  もっとも、こっちは誰も知らない名前だろうが。 「片瀬幸子さんに振られた尾崎竜男ってあなたね」  尾崎は顔をしかめて、 「あのな……、ずいぶんはっきり言ってくれるじゃないか」 「どう言っても同じでしょ」  と、亜由美が言った。「少し時間ある?」 「仕事中だ」 「私、大学生で、時間あるの」 「そっちに合せる義理はないぜ」 「女子大生としゃべるチャンスを逃すのは惜しいと思わない?」  尾崎はふき出してしまった。 「——面白い奴だな、全く」 「ワン」 「ドン・ファン。お前まで何よ」 「ドン・ファンってのか。それにしちゃ足が短いな。ワッ!」  ドン・ファンにかみつかれそうになって、尾崎は飛び上った。「分った!——取り消す!」 「仕事、きりがつくまで待ってるわ」 「ああ……。じゃ、三十分したら、そこの喫茶店に行く。待っててくれ」 「了解」  と、亜由美は言った。「おいで、ドン・ファン」 「ああ、塚川君——って言ったか? あの店で頼むのは、エスプレッソにしな。他はひどくて飲めない」  と、尾崎は声をかけて、「——変な奴」  と、首をかしげたのだった。 「患者のことは、外部へ洩らしちゃいかんことになってるんですがね」  と、院長は仏頂面で言った。  院長とはいいながら、ゴルフで焼けたとすぐに分る顔色。白衣が一向に似合わない。どこかの中小企業のオーナー社長という感じだ。 「それは、ここにいる[#「いる」に傍点]患者の場合でしょう」  と、殿永がおっとりと言った。「ここから逃げ出した患者のときは別だと思いますがね」  院長は、ちょっといやな顔をした。 「そりゃまあ……。警察の方には、こちらとしてもご協力したいですけどね」 「そうして下さるとありがたい」  と、殿永が肯く。殿永は一人ではなかった。亜由美も一緒に来ていたのである。当然院長は亜由美のことを不思議そうに眺めていたが、殿永はあえて何の説明もしなかった。 「こちらに丸山徹男という患者が入ってどれくらいたつんですか?」  と、殿永が訊《き》く。 「そう……。かなり長いですな。もう……七年くらいになりましょうか」  七年、という言葉に、殿永と亜由美はチラッと目を見交わした。——やはり、丸山徹男は生きていたのだろうか。 「しかしですね」  と、院長は言い添えた。「その患者が本当に丸山徹男という名前なのかどうか、分らないのですよ」 「どういう意味です?」 「つまり、当人はここへ入ったときから、ずっと自分のことが分らないのです。それに話しかけても返事もしない。自分でも一切口をきかない。そういう状態で七年間、過して来たのです」 「それならなぜ丸山徹男という名を?」 「入院させようと服を脱がせたとき、小さな紙きれが出て来たのです。そこに丸山徹男という名が記されていたというわけで」 「なるほど」 「こちらとしても、名前がないままでは困りますのでね。結局、その名前で呼ぶようになったのです。もっとも、何度その名で呼びかけても、さっぱり反応は示しませんでした」 「ふむ……。では、その患者が逃げ出したというのはおかしくありませんか。口もきかず、何にも反応しないのに、どうして逃げ出す気になどなったんでしょう?」  院長は、ぐっと詰った。 「まあ……確かに、その点は不思議です。ひょっとすると、何か思い出したのかもしれない。しかし、治療に当っている医師の話では、全く、そんな様子はなかったとのことです」  院長は、早口にしゃべると、「これ以上お話しすることはないと思います。では——」  と、立ち上った。  殿永がもっと粘るかと思うと、 「いや、どうもお忙しいところを」  と、素直に立ち上る。  亜由美は少々不服だったが、一緒に院長室を出た。 「これ以上は、こっちで調べた方が、良さそうですよ」  と、小声で殿永が言った。  二人は病院の玄関のほうへと歩いて行った。 「——じゃ、その心中相手が生きてるっていうのかい」  と、尾崎は亜由美の話に、目を丸くした。 「可能性ですけどね、あくまで」  と、亜由美は言った。「もし生きてたとしても、七年もの間、入院していた男が、デパートで幸子さんを呼び出したりするなんて、そんなことができるかどうか。私は疑問だと思ってるの」 「そうだな」  と、尾崎はエスプレッソを飲みながら、「君はどうしてそんなことを話しに来たんだ?」 「会いに来たの。でも、あなたと三上公平さんの話を聞いちゃったからね」 「あれがどうした?」  亜由美はニッコリ笑って、 「あなたの方が気に入ったのよ」  と、言った。 「何だよ」  と、尾崎はどぎまぎして赤くなる。「まあ——あの三上って奴、好きじゃないけどな、確かに。でも、俺と比べりゃ、あっちを取っても仕方ないかな、と思うよ」 「そんな気の弱いこと言って」  と、亜由美は首を振って、「勝負はこれからよ。幸子さんは、七年前の死んだはずの恋人の名前を聞いて動揺してるわ。あなたが、その苦しみを取り除いてあげれば、事情[#「事情」に傍点]は変るかもしれない。そうでしょう?」 「——本当にそう思うか?」 「思うわ」  尾崎はじっと亜由美を見つめていたが、やがてちょっと笑って、 「俺のことをたきつけに来たのか、お前は」 「そうよ」  亜由美は肯いて、「でもね、『お前』って呼ぶのはやめてくれない?」  と、言ったのだった。 [#改ページ]  3 霊の声  亜由美は家へ帰って、 「ただいま」  と、声をかけたが……。「お母さん?」  居間のほうから、TVの音が聞こえてくる。——またか。  お父さん、今日休みだったのかね。  亜由美の父、塚川貞夫はある企業のエンジニア。エリートと呼んでもいい、優秀な技術者である。  ただし、少々変った趣味がある。今、亜由美の耳に入っている、センチメンタルなメロディ。そして「アーン、エーン」という泣き声。  聞き慣れたTVのアニメ番組なのである。塚川貞夫の趣味は、TVの「少女アニメ」を見ること。それも、「たっぷり泣かせてくれる」超センチメンタル路線のものに限るのである。 「物好きなんだから」  と、父の邪魔をしないように、廊下を回って、台所へ入る。  父がグズグズ泣いているのが、台所まで聞こえてくる。——あれでストレスの解消ができるというのだから、安上りと言えば安上り。しかし、あんまり他人には知られたくない趣味には違いない。  一人でウーロン茶など飲んでいると、 「あの……」  と、突然、女の声がして、亜由美は仰天した。 「あ……。あなた——」 「どうも、その節は」  と、頭を下げたのは、片瀬幸子。 「どうも。——あの、いつ、いらしたんですか?」 「さっきです。お父様がTVを見ていらしたので、ついご一緒してしまいました」  と、幸子は言った。 「はあ。あの——」  亜由美は焦った。「父はその——少し変ってますけど、おかしいわけじゃないんですよ。ええ、確かに」 「おかしい、だなんて」  と、幸子は真顔で、「本当に純情な心をお持ちの方なんですわ。私、感動してしまいました」 「はあ……」  ホッとするやら、情ないやら。「じゃ、お茶もさし上げていないんですね。失礼しました!」  と、あわてて用意をする。  居間へお茶を持って行くと、 「そうなんです! 少女アニメの中には、現代人の忘れた心の潤いが残っている!」  と、父が力説している。「センチだ、『お涙ちょうだい』だと馬鹿にするのは間違っている。涙こそ人間の真実なのです」 「おっしゃる通りだと思いますわ」  と、片瀬幸子は、真剣に肯《うなず》いている。 「いや、あなたはすばらしい! うちの妻や娘には、こんなすばらしいものが理解できんのです。全くぼんくらというか何というか」 「お父さん」 「おお、亜由美か。お前も、こういうすばらしい人と結婚しなさい」  どうも混乱しているらしい。 「いや、全くすばらしい……。あのセリーヌのやさしい心が、どうして人には分ってもらえんのだろう……」  ブツブツ呟《つぶや》きつつ、父は居間を出て行った。  亜由美はやれやれとため息をついて、 「お茶どうぞ。——父はとても喜んでたみたいです」 「でも、すばらしいわ。あんなお年齢《とし》になられても、人間らしい心をお持ちで」 「そうですか」  いささかむずがゆい。「あ、ドン・ファン。ご挨拶《あいさつ》しな」 「クーン」  と、茶色いダンディは、いつになく気どって入って来る。 「まあ、きれいな犬」  ドン・ファンは幸子にやさしく撫《な》でられてウットリしている。——ドン・ファンの好みのタイプなのである。 「——塚川さん」  と、幸子は座り直すと、「本当にあなたにはすっかりご迷惑をおかけして」 「いいえ。で、あの後、お化けからの呼出しはありまして?」  相手が気を悪くするかもしれないと思ったが、わざとふざけた口調で言ってみる。 「いいえ」  幸子は真面目に首を振って、「でも、感じるんです。あの人[#「あの人」に傍点]が近くにいることを」 「あの人って……」 「丸山徹男です。あの人は死んでも、きっと魂が地上にとどまって、私の心変りを怒っているんですわ」 「でも、幸子さん——」 「今日は、お願いがあって、伺いましたの」  と、幸子は言った。 「何ですか」 「実は——これは、公平さんにも内緒なんですけど。聞けばきっと怒りますから」  と、幸子は少しためらって、「私、徹男さんと会うつもりなんです。で、塚川さんに同席していただけないかと思って」 「は?」  と、思わず亜由美は言っていた。「今、誰に[#「誰に」に傍点]会うって——」 「徹男さんです」 「はあ」  亜由美も好奇心は人一倍|旺盛《おうせい》だが、どうも「お化け」に会いに行くというのは気が進まない。 「あ、ご心配なく」  と、幸子が言った。「ちゃんと戻って来られますから」  戻れなかったら大変だろう。 「どうやって会うんですか?」 「あの——ある人の紹介で、霊媒っていうんですか、死んだ人の代りになってしゃべってくれる……」  亜由美も、ここに至ってホッとした。そういうことね。びっくりさせないでよね、全く! 「じゃ、いわゆる降霊術みたいなものをやるわけですね」 「そうなんです。でも、きっと公平さんが聞いたら怒ると思うんで。——こっそり訪ねて行きたいんです」 「分りました」  そんなことならお安いご用、と引き受けた亜由美だったが……。 「——座って」  薄暗い部屋の中は、よくTVなんかで見るのと同様に、色々な星の形の絵とか、鳥の剥製《はくせい》、ゆっくりと振れる振り子、そして——そう、これがなくちゃね! 水晶球が、テーブルの真中にのせられていた。 「——占いをしに来たわけじゃないのね」  と、その太った女は、長い裾《すそ》を引きずるようなガウンをはおって、言った。 「死んだ人と、話をしたいんです」  と、幸子が言った。 「そうそう。聞いてるわ。心中した相手ですって? 若かったのね。今の私くらいの年齢になりゃ、男なんて、命を賭《か》けるほどのもんでもないってことが分るわよ」  と、女はえらく現実的なことを言った。「でも、あんたには霊を呼ぶ力がありそうね」 「私にですか?」 「そう。間違えないで。私はあくまで仲介役なの。あんたが霊を呼びたいと真剣に祈ってなくちゃ、霊は私の心にやって来ないのよ」 「はい」 「こっちの人は——」  と、亜由美のほうを、少々うさんくさそうに見る。 「あ。私の知人です。一緒に来てもらったんです。いけなかったでしょうか」 「構わないけど、この人は霊感がゼロね」  大きなお世話だ、と亜由美は思った。 「じゃ、ここへ座って」  と、女は幸子を椅子《いす》にかけさせて、自分も膝《ひざ》がくっつくほど間近に、向い合った椅子に腰をおろした。 「——さあ、その人のことを、じっと考えて。少しでも他のことを考えちゃだめよ」 「はい」 「目を閉じて。——自分が七年前に戻ったように……。その人と一緒にいるんだと思いなさい……」  ずいぶん、やり方が違うのね。——亜由美は、分厚いカーテンに囲まれた、その狭い部屋の中で、隅の方の椅子にかけて、じっと、様子を見守っていた。  降霊会とか、よく映画やTVでも見るけれども、もう少し霊媒の方が催眠状態に入ったりして、ドラマチックになるもんだ。  しかしこの雰囲気は……。  今夜のおかずでも当ててくれそうな、そんな感じなのである。  しかし——霊媒の女が、ゆっくりと体を揺らし始めて、少しそれ[#「それ」に傍点]らしいムードになって来た。  太った女の口から、呻《うめ》き声ともハミングともつかないものが洩《も》れてくる。——幸子はじっと目を閉じて、それこそ心底、女を信じているようだ。  女が突然、体を震わせた。そして——急に若々しい男の声が、その口から飛び出した。 「君……。君か。幸子か!」 「——あなた? 徹男さん?」  と、幸子が目を見開く。「あなたなのね?」 「ああ……。会いたかった」  と、男の声。 「徹男さん……」 「よく呼び出してくれたね」 「どうしても——話したかったの」 「幸子……。僕のことを、もう忘れちまったのかい」 「徹男さん! 忘れるわけがないでしょう」 「でも、他の男と結婚しようとしている。そうだろう?」  幸子は、辛そうに目を伏せた。 「それは……。でも、徹男さん。その人は私のことを、愛してくれてるのよ」 「悲しいね。人の心なんて、そんなものか」  と、男の声は自嘲《じちよう》的に言った。「七年……たった七年。ねえ、僕は、この辛い世界で、ずっと君が来るのを待ってるんだ。でも、君はもう、僕を捨てようとしてる」 「違うわ。そうじゃない」 「どうして違うんだ? 僕のことを忘れていないのなら、他の男に心を許すなんてこと、できっこないだろう。もし、君の気持が変ってないのなら、生涯別の男を愛したりできないはずだ。それとも、君は愛してもいない男と結婚するつもりなのかい」 「徹男さん……」  幸子は苦しげに息を吐いた。 「いいさ。君は一人で幸せになるといい」  と、その声は言った。「僕は忘れない。君が裏切れば、僕は永久に死に切れないままで、さまようんだ。それがどんなに辛いことか、分るかい?」  幸子がすすり泣く。 「——僕はね、君が一緒に死んでくれると思ってた。あのとき、君が助かったことは、偶然で、仕方のないことだった。でも、君はもう自由[#「自由」に傍点]だ。そうだろう? 今からでも遅くない。僕の所へ来ておくれ」 「徹男さん——」  亜由美は、パッと立ち上ると、 「やかましい!」  と、怒鳴っていた。「あんたなんか死んで良かったのよ! 甘ったれんじゃないわよ。本当に幸子さんを愛してたら、そんなわがまま言えるわけないでしょ! 引っ込んでろ!」  霊媒の女がポカンとして、亜由美を眺めている。 「さ、帰ろ」  と、亜由美は幸子の手を引っ張って、その部屋から飛び出したのだった。 「ごめんなさい」  と、夜の道を歩きながら、亜由美は言った。「——でも、あんまり勝手ばっかり言うんで頭に来て」 「いいんです」  と、幸子は首を振って、「私も頭に来てた[#「頭に来てた」に傍点]から」  亜由美がびっくりして見ると、幸子はちょっと笑った。亜由美はホッとした。  その笑いは、至って健全な、当り前の笑いだったからである。 「——ご心配かけてすみません」  と、幸子は言った。「もちろん、私はあの人のことを忘れてはいません。でも、七年前……、私も、あの人も子供だったんです」  夜風がスッと快く吹き抜けて行く。 「今思うと……。あの人も私も、大人になり切れていなかった。だからこそ、あんなことになったんでしょう」  と、幸子はつづけた。「でも、今の徹男さんの言葉……。もし、あれが本当にあの人だったとしても、私、分るんです。あの年齢のままだったら、ああ言うのも当然です」 「わがままな子供……。そうね。そうかもしれない」  と、亜由美は肯いた。「これから、どうするんですか」 「私、やっぱり公平さんと結婚します」  と、幸子はきっぱりと言った。「もし、徹男さんが恨んで出て来たら、肘鉄《ひじてつ》を食わせてやります」  亜由美は笑った。——この幸子のことが、すっかり気に入って来ていた。 [#改ページ]  4 亜由美、誘拐される 「帰るの?」  と、女が体を起こした。 「何だ、目が覚めたのか」  片瀬隆治は、ネクタイをしめながら、言った。 「やってあげる。下手なんだから」  女はベッドから出ると、裸身にガウンをまとって、片瀬のほうへやって来た。「すぐばれるわよ、奥さんに」 「いいさ」  と、片瀬は、ネクタイを任せながら、「どうせ分っても何も言わんよ、女房は。そういう女だ」 「そういうもんじゃないのよ。——これでいいわ」  女は、少しさがって、片瀬を眺めた。「そう変ってないわね」 「そうか。じゃ、行くぞ」  と、片瀬は言った。 「待って。——何か飲んで行ったら?」 「いや、もういい」  片瀬は、時計に目をやった。「これ以上いると遅くなり過ぎる」 「そうね……」  ——寺田祐子。  二十八歳になる彼女は、この二年近く、片瀬の「愛人」として、このマンションの一室に住んでいる。  片瀬が社長をつとめている(オーナーでもある)会社に入社して一年ほどで、今の暮しに変ったのである。  見たところはずっと若々しく、二十四、五、という印象である。美人というより、丸顔で「可愛い」アイドル顔。片瀬隆治の好みなのだった。 「おい、祐子」  と、玄関へ出て、片瀬は言った。 「何?」 「お前……。幽霊ってのを信じるか」  祐子は呆気《あつけ》に取られて、 「何よ、突然」 「いや、何でもない」  と、片瀬は首を振った。「また来るからな」 「いつ来られる?」 「そうだな。来週はちょっと忙しい。その次の週は何とか……」 「約束よ」 「ああ」  祐子は、片瀬の肩に後ろから頭をもたせかけた。 「おい……」 「いつもちゃんと帰してるでしょ。今度——一度でいいから、旅行にでも連れてって」 「分ってる」  片瀬は、祐子の手に、自分のごつい手を重ねた。 「その内な」  片瀬は、廊下へ出て、歩き出した。  ドアが開いて、 「ねえ。——TV、買いかえてもいい?」  と、祐子が顔を出した。「映りが悪いの」 「ああ、構わん」  と、片瀬はホッとしたように肯《うなず》いて見せ、「いつでも買え。請求書は会社へ回せと言え」 「分ったわ」 「じゃあ」  片瀬がエレベーターの方へ歩いて行くのを、廊下の隅の暗がりから見ている人影があった。もちろん、祐子も気付かなかったが。  ——祐子は、部屋へ入って、ロックすると、欠伸《あくび》をした。  夜、十時を少し回っている。  これから帰って、片瀬が家へ着くのは、十一時を回るだろう。それで、妻が何とも思わないかどうか。  祐子が、ネクタイをできるだけ元の通りに近くしめたのも、片瀬の妻の気持を考えていたからである。  もしや、夫が浮気しているのでは、と思っても、その一方で、自分の思い過しであってほしいという気持も、必ず妻にはあるだろう。ネクタイが、まるで違ったようにしめてあるのと、「見ようによっては」変っていないように思えるのと、全く違う。  妻が夫を信じられるように、祐子は手を貸しているのである。  一方では、祐子は片瀬にも気をつかう。——旅行に行きたいというのは、もうずっと前から言っていることで……。片瀬の方も気にはしている。  TVを買いかえてもいい、と言ったことで、片瀬はいくらか気が楽になっているはずだ。金ですむことなら、と。  本当なら、もっとわがままを言ってやってもいいと思う。しかし、祐子はお金のためだけでなく、少しは[#「少しは」に傍点]本当に片瀬のことが好きなのである。  少しは……。少しは、か。  祐子はちょっと笑った。  すると——玄関のドアを叩《たた》く音。  空耳かしら? でも、もしかしたら。 「どなた?」  と、祐子は声をかけた。 「僕だ」  その声は祐子の胸をたちまち熱くした。鍵《かぎ》を開けるのももどかしい。 「——来てくれたの」 「ああ」 「嬉《うれ》しい!」  祐子は、急いで男を中へ入れる。「ね、ゆっくりできるの?」 「そうだな。——あいつさえ、戻って来なきゃ」 「片瀬? もう帰ったのよ、今。戻って来やしないわ」 「じゃあ……。いいんだな」 「ええ」  祐子の声は、少しかすれていた。  二人はベッドへともつれ込んだ。——夜はまだ長い。  祐子と、その男[#「その男」に傍点]にとっても。 「何よ、一体……」  亜由美は、電話へ手をのばしながら、目をこすった。  夜中の一時。——もっとも、亜由美はベッドに入っていたわけではない。TVを見ている内、ソファで眠っていたのである。  電話のおかげで目が覚めた、というところだ。 「はい。もしもし」  少し間があった。「——もしもし?」  いたずらだったら、ぶっとばすからね。 「あの……」  と、男の声がした。「塚川亜由美さんですか」 「ええ。あなたは?」 「僕は……丸山徹男です」  丸山? どっかで聞いた名ね。 「——丸山?」  パッと目が覚めてしまった。「もしもし? あなた本当に——」 「ちょっとお会いしたいんですが」  少しおっとりした口調。声がずいぶん近くに聞こえる。 「あの——今、どこに?」 「お宅のそばです」  と、その声は言った。「出て来てもらえませんか」 「分ったわ」  亜由美は、チラッと、殿永へ連絡しないとまずいかな、とも思った。しかし、こんな時間である。どうせ連絡しても、来るにはずっと時間がかかる。 「どこにいるの?」 「お宅の裏手に電話ボックスが。そこにいます」  と、その男は言った。「すみません、夜中に」 「どういたしまして」  亜由美は、電話を切って、急いで玄関へと出て行った。 「ワン」  ドン・ファンがのっそりと出て来る。 「あんた、待っといで。今、幽霊を連れてくるから」 「ワン」  ——分ってるのね。亜由美はちょっと笑って、玄関から外へ出た。 「裏の電話ボックスね」  と、呟《つぶや》いて、サンダルばきで、スタスタと急ぐ。  夜道にポカッと明るく光っているそのボックスに、人の姿はなかった。  どこへ行ったんだろう?  亜由美は周囲を見回した。——人のいる気配はない。 「どこ?」  と、声を出して呼びかけてみたが、返事もない。  すると——車の音がした。振り向くと、ライトが目を射る。  通りかかった車だろうか。それとも、何か関係があるのか。  車は、亜由美から数メートル手前で停《とま》った。ライトが吸い込まれるように消える。  亜由美は車の方へと歩いて行った。そして暗い窓の中を覗《のぞ》き込もうとしたが——。  ドアがパッと開く。そして、逃げるだけの余裕もなかった。顔を布が覆って、同時に後ろから、太い腕がぐいと巻きつく。 「誰——」  声は途切れた。口に押し当てられた布に、薬がしみ込んでいた。  ツーン、としびれるような感覚が体まで貫くようだった。  何、これは? どうして……。  めまいがした。体はフワッと宙に浮かんでいるようで、そのままどこか柔らかいものの上に投げ出される。  そこが車の中で、車がプルル、と身震いして動き出したのを、亜由美はぼんやりと感じたが——。  しかし、その先は何も分らなくなった。亜由美は深い闇《やみ》の中へ引きずり込まれて行ったのである。 「尾崎さん?」  と、聡子は言った。 「ああ」  尾崎は、車のそばから離れて、やって来た。「何か用かい?」  と、タオルで手の油を拭《ふ》く。 「ワン」  と、声がして、尾崎が嬉《うれ》しそうに、 「何だ。ドン・ファンじゃないか」  と、言った。 「塚川亜由美のこと、知ってますね」  と、聡子は言った。 「この間、ここへ来たよ」  と、尾崎は肯いて、「君は?」 「神田聡子。亜由美の友人です」 「そう。——何か用?」 「亜由美がどこにいるか、知りませんか」  尾崎は、戸惑った様子で、 「待ってくれ。どこにいるか、って……」 「亜由美、おとといから、行方が分らないんです」  と、聡子は言った。 「そりゃあ、心配だな。しかし——どこかへ出かけたんじゃないのかい? 旅とか」 「亜由美は、よく好きで色んな事件に首を突っ込むんです。危いからよせって言うんですけど」 「分るね」  と、尾崎は言った。「じゃ、何かに巻き込まれて?」 「その可能性が強いと思うんです。夜中に、サンダルばきで出かけています。何も持たずに」 「そりゃ変だね」 「心配なんです。——ここへ来ると言ってたので」 「うん。話をしてね。七年前に死んだはずの男が生きてるんじゃないかとか、とんでもない話をしていたよ」 「他に何か言っていませんでしたか」 「さあ……。僕が、もう一度幸子さんにアタックするべきだって励ましてくれたね」 「そういう子なんです」  と、聡子は言った。「でも、今度みたいに、突然姿を消すなんて……。もし、自分でどこかへ行ったのなら、必ず連絡して来ます」 「つまり……さらわれた、ってことかい?」  尾崎は、緊張した表情で言った。 「たぶん」  と、聡子が肯く。 「待っててくれ」  尾崎は、そう言うと、駆け足で奥へ入って行くと、五分ほどで出て来た。ブレザー姿になっている。 「早退、と言って来た。塚川君を捜しに行こう」  聡子は、少し面食らっていた。 「でも——いいんですか?」 「もちろん。あの子のこと、気に入ってたんだ」  と、尾崎は言った。「さ、何か手がかりは?」  聡子は胸が熱くなり、 「ありがとう!」  と、頭を下げた。 「ともかく、何かあったとすれば、幸子さんを巡ることと関係があるんだ。死んだはずの丸山徹男と——」 「彼女、殿永さんって刑事さんと二人で、丸山のいた病院へ行ってるんです」 「こっちも行きたいね」  と、尾崎は促して、「車がある。行こうじゃないか。おい、ドン・ファン」 「ワン」 「ちゃんと飼主の匂《にお》いを憶《おぼ》えとけよ」 「ワン!」  ドン・ファンが力強く吠《ほ》えた。  重苦しい。胸が……苦しい。  亜由美はそれでも、自分が意識を取り戻しつつあることが分っていた。  どうしたんだろう?——入院しているのかしら、私? 「入院」と思ったのは、たぶん薬の匂いがしていたからだろう。  目がやっと開く。ぼんやりした視界。  天井が見える。しみだらけの、薄汚れた天井。  亜由美は起き上ろうとして、ひどい頭痛に顔をしかめた。それでも何とか体を起こして、しばらく目をつぶっていると、頭痛も治まって来た。 「ああ……ひどい」  と、呟く。  そう。——丸山徹男という名前を聞いて、外へ出た。そして車が……。  その先は? よく思い出せない。  亜由美は、やっとの思いで、その部屋[#「部屋」に傍点]を見回した。  殺風景で狭苦しい。ドアに小さな窓がついている。そして反対側の窓は、鉄格子がはめられて、窓ガラスも汚れていた。  何もない。何も。  そして、亜由美は自分がただの白い布——スポッと頭からかぶる寝衣を着ているのを知った。どうしてたんだろう?  ドアがガチャッと重い音をたてると、ゆっくり開いて来た。 「目が覚めたか」  がっしりした体格の男が、入って来る。 「あの……ここ、どこですか?」  と、亜由美は言った。 「病院さ」 「病院……。私、どうしてここへ?」 「そりゃ、わけがあるからだろ。——さ、うつ伏せに寝て」 「え?」 「ちょっと痛いからな。お尻《しり》に射《う》つ」  男の手に注射器がある。 「冗談じゃないわ!」  と、亜由美は言った。 「さあ、おとなしくしな」  と、男が近付いて来る。 「近寄らないで!」  亜由美はパッと男のわきを駆け抜けて、廊下へととび出した。  逃げるんだ! 亜由美は必死で走り出していた。 [#改ページ]  5 囚《とら》われの美女  廊下を突っ走りながら、亜由美はここが殿永と訪れた、「丸山徹男」の入院していた病院だと気付いていた。  騙《だま》されたんだわ!  病院の中は意外に広かった。右へ左へ、廊下は迷路のように続いている。追いかけてくる男は、体つきががっしりしている分、足はあんまり速くないようで、途中でハアハア息を切らして遅れ始めた。  亜由美は、男をまいた、と思うと、手近なドアの一つの前で足を止め、そのドアをそっと開けてみた。  診察室?——ベッドや椅子《いす》がある。  しかし、ベッドには手足を縛りつける革のベルトがついていて、どうにもゾッとしないしろものであった。  人がいる気配はない。——亜由美とて、夢中だからここまで来たが、薬のきいた目も回るし、足もともふらついていた。  ここで少し休もう。大体、こんな格好じゃ、外へ出られない。  情ない気分で、白い布の寝衣を見下ろした。下はほとんど裸も同然。あの男たちの目にさらされたのかと思うと、改めて怒りがこみ上げてくる。その怒りは、「元気の素」にもなった。  亜由美は、戸棚の中を覗《のぞ》いて、医師の白衣があるのを見付け、それを上にはおる。ついで戸棚の中は充分一人入れる広さなので、ちょっと隠れて様子をうかがうことにした。  戸棚の中に膝《ひざ》を立てて座り、戸を閉める。戸のスリットから明りが入るので、中も真暗というわけではなかった。  でも——どうしてこんなことになったんだろう?   この病院の人間が亜由美を誘拐《ゆうかい》して来たのだ。それは確かだろう。だが、どうして?  殿永と二人でここに来ているから、亜由美のことを調べたのだろうが、こんな真似をすれば、却《かえ》って「怪しい」と白状しているようなものだ。  亜由美も、ここの院長はあんまり信用できないと思ったが、それだけで人を誘拐したりしないだろう。  足音が聞こえて、亜由美は緊張した。 「——や、吉沢先生」  と言うのは、亜由美を追いかけていた男らしい。 「何だ、どうした? えらく息を切らしてるじゃないか」 「患者を——見ませんでしたか? 女なんですが」 「女? 知らないね。逃げられたのかい?」 「なに、この病院の外にゃ出られません。その内、出て来ますよ」  と、男は虚勢を張って、「もし見付けたら、知らせて下さい」 「分った。かみつかれるのはごめんだからね。君に任せる」  カチャッと音がして、この部屋のドアが開く。戸棚の中で、亜由美は思わず息をつめた。  口笛を吹く音。——吉沢といったか。どうやら医者らしい。  声の感じでは、三十代くらいの男という印象だが。  ビリッと紙を裂く音がした。  亜由美の目の高さに、細くスリットが入っているので、そっと覗くと……。見なきゃ良かった!   白衣の男が机に向って、昼食なのか、サンドイッチを取り出して食べ始めるところだった。紙コップのコーヒーの匂《にお》いが、亜由美の所まで届いてくる。  その匂いをかいで、亜由美は自分が空腹であることに気付いた。薬で眠らされてから、どれくらいの時間がたっているのか知りようもないが、腹時計では一年も(?)食べていない気分。  その医師の背中が見える。サンドイッチを食べ始めたのが、音で分る。  つば[#「つば」に傍点]が出て来て、亜由美は自分を叱りつけた。しっかりしなさい! 武士は食わねど高ようじ。——でも私、武士じゃないもんね、と中の自分が反抗するのである。  グーッ。不意のことで、お腹が鳴るのを、どうすることもできなかった。聞かれたかとヒヤリとしたが、その医師の様子は全く変らない。  どうやら、聞こえなかったらしい。  ホッとしていると——医師が何か思い出した様子で、机の上のインタホンのボタンを押す。 「——吉沢だけど」 「あら先生。どうしたんです?」  看護婦だろう、と亜由美は思った。 「昼飯を一緒にどうかと思ってね」 「あら珍しい。喜んで。——どこで食べます?」 「そっちへ行くよ。いや、一人でサンドイッチをつまんでたんだが、何とも味けなくってね」 「こっちの食堂の方がまだましですよ」 「そりゃそうだな。じゃ、これから行く。ランチを頼んどいてくれ」 「はいはい。吉沢先生の食欲じゃ大盛りですよね」 「いや、普通でいいよ。足らない分は君を[#「君を」に傍点]食べる」 「まあ!」  とクスクス笑う。  吉沢という医師は立ち上ると、口笛など吹きながら、部屋を出て行った。パタパタとサンダルの足音が遠ざかり、亜由美はホッとする。  そして……つい、亜由美の目は、机の上に包みを開けたまま置いて行かれたサンドイッイへと知らず知らずひきつけられて行くのだった。  不思議だわ。何かしら、この力は?  どうして私は戸棚から外へ出ているんだろう? どうしてサンドイッチに手を伸しているんだろう?  ま、ちっとも不思議なことなんかないわけで、要するに、亜由美は空腹に負けた、というだけのことである。 「不思議だわ」  と、亜由美は呟《つぶや》いた。「どうしてサンドイッチが、いつの間にか、消えてしまったのかしら?」  食べちゃっただけのことである。  しかし、ともかくこれで何とか当座はしのげる。亜由美は息をついた。まだいくらでも入りそうだったが、それはここから逃げてからのことである。すると——。 「もう食事はすんだらしいね」  と、突然声がして、亜由美は飛び上った。  吉沢という医師が、いつの間にやら、戻って来て、亜由美を眺めていたのである。 「あ——どうも。塚川亜由美と申します」  一見して、吉沢医師はいかにも温厚そうな人柄に見えた。 「こりゃごていねいに。僕は吉沢」  と、会釈をして、「じゃ、君の部屋へ戻ろうか」 「待って下さい!」  亜由美はあわてて言った。「私、何ともないんです! 誘拐されてここへ入れられたんです、本当です」 「誘拐された?」  吉沢は呆《あき》れたように、「君ね、ここがギャングの巣窟《そうくつ》か何かだと思っているのかい?」 「だって本当なんです。聞いて下さい。私、ここから逃げ出した丸山徹男って人のことで、調査していたんです」 「丸山徹男だって?」 「そうです。私、警察の人と知り合いで、一緒に調査に当ってます。もし疑うんでしたら、殿永刑事って人に連絡して下されば分ります」 「ふむ……。それで、何を調べてたんだね?」  と、どうやら吉沢は亜由美の言葉に耳をかたむける気になったらしい。 「丸山徹男は七年前、恋人と心中して死んだことになってるんです。で、そのときの女性が、今度結婚することになって、そこへ死んだはずの丸山徹男が——」 「足音だ」  と、吉沢が振り向く。「誰か来る。君、その戸棚へもう一回入って」 「はい!」 「じっとして、音をたてないでね」 「はい」  亜由美は、また戸棚で窮屈な思いをすることになった。しかし、やっと病院から逃げ出せるかもしれない、と希望が持てるのなら、これくらいのこと、辛くはなかった。  ドアが開いて、 「吉沢先生——」  と、さっき、亜由美を追い回した男の声がした。 「あ、分ってるよ。すぐ行くと院長に伝えてくれないか」 「分りました。急いで下さい」 「ああ、もちろんだ」  ドアの閉まる音。——少しして、 「もう大丈夫だ」  と、吉沢が言った。「出て来たまえ」 「すみません」  亜由美は戸棚を開けて、「この中、埃《ほこり》っぽいんですもの」 「そりゃ悪かったね」  と吉沢が言って——。  亜由美はいきなり後ろからギュッと捕まえられた。アッと思う間もなく、机の上に押えつけられる。 「手こずらせやがって」  あの男だ! 亜由美は必死で身悶《みもだ》えして、 「騙したわね! 許さないから! 憶えてらっしゃい!」  とわめきつつ、吉沢をにらんだ。 「怖いね。まあ、悪く思わないでくれ。君のためだよ」 「何が——。痛い!」  お尻《しり》にチクッと刺される感覚。そして、たちまち亜由美の体から力が抜けて行った。 「かみついて……引っかいてやるから……。生かしちゃ……おかない……」  亜由美が、何度か息をつくと、「ドン・ファン……」  と、呟くように言って、ガクッと机に頭が落ちた。 「——やれやれ」  看護人が、軽々と亜由美の体をかつぎ上げて、 「お手数かけました。助かりましたよ。もう絶対に逃げられないようにします」 「そうだね」  吉沢は、出て行こうとする男へ、「——ああ、君、丸山……徹男って患者がいたかね、ここに?」  と、声をかけた。 「はあ? 丸山ですか。いや、いませんな、そんな奴《やつ》は」 「そうか。僕も記憶がないんだ」 「そいつがどうかしましたか」 「いや、何でもない」  と、吉沢は首を振って、「じゃ、連れてってくれ。——おっと、僕も昼飯だ」  吉沢医師は、食堂へと急いだ。 「——あら、吉沢先生」  と、看護婦でベテランの工藤愛子が、廊下をやって来る。「遅いんで、捜しに来ましたよ。迷子になってるのかと思って」 「ごめんごめん」  と、吉沢は笑って、「ちょっと厄介ごとでね。もう冷めちまったかな?」 「大丈夫。頼んでません」  吉沢はポンと工藤愛子の肩を叩《たた》いた。  吉沢は三十五歳。工藤愛子は三十になったところで、いいバランスではあるし、どっちも独身だが、この二人はちっとも「そういうムード」にならない。そこが気楽に付合っていられるゆえんでもあったのだが。  食堂へ入ろうとして、 「工藤さん。君、丸山徹男って、知ってるかい?」  と、吉沢は訊《き》いた。 「丸山徹男?」  工藤愛子は、少し考えて、「どこかで聞いたわ。でも、ここの患者でないことは確かね」 「そうか」  吉沢と工藤愛子はセルフサービスの盆を手に取った。 「——ああ、そうだわ」  と、少しして、工藤愛子が言った。「さっき、沼田院長の所へ行ったの。そしたら、お客が来てて」 「客?」 「その人たちが言ってたような気がする。『丸山徹男』って」 「ふーん」 「はっきり聞いたわけじゃないですけど」  と、サラダの器に野菜を取って入れながら、「生野菜をたっぷりね」 「農薬もたっぷりだ」 「また、そんな」 「どんな客だった?」 「男と女と——。若いわ、二人とも。それと犬」 「犬?」 「ダックスフントっていうの? 胴長の。ああいうの見ると、吉沢先生も自信が持てますよ、きっと」 「おいおい」 「そうそう」  と、工藤愛子は笑って、「面白いんですよ、その犬。名前が『ドン・ファン』っていうんです」 「ドン・ファンだって?」  吉沢は、少し考えて、肩をすくめ、「ユニークな名だね」  と言ってから、 「さ、主菜はハンバーグかオムレツか……」  と、考え込んだ。 「——おかしいわ」  病院を出て、神田聡子は足を止め、門と高い塀を振り返った。 「何か隠してるって感じだな」  と言ったのは、尾崎竜男。「もし、本当にあの塚川君がここに捕えられているのなら……」 「何とかして助けなきゃ!」  聡子が、いつもの亜由美みたいにファイトを燃やしている。「亜由美、どこかのハレムにでも売られてるかもしれないわ。——でも、そんなに美人じゃないから大丈夫かしら。でも、日本人の好みと外国人の好みは違うし……」  亜由美が聞いたら、目を三角にして怒っただろう。 「ワン」  と、ドン・ファンが存在を主張した。 「そうだわ。お前、亜由美を助けておいで。ピストル貸してあげようか」 「犬がピストルを持って、どうするんだよ」  と、尾崎が言った。「よし、今夜遅く、ここへまた来よう。何とかして中へ潜り込むんだ」 「そうだわ!」  と、聡子は力強く肯《うなず》いてから、「でも、私まで捕まっちゃったらどうしよう?」  と、心配そうに呟いたのだった……。 [#改ページ]  6 ロビーの血 「こちらでございます」  と、ホテルの宴会係はマニュアル通りの笑顔で言った。「広さから申しますと二番目でございますが、一番いいお部屋でございまして」  ——確かに、天井が高く、実際の広さ以上に広々とした印象を与えている。 「すてきね」  と、片瀬幸子は肯《うなず》いて、「とても明るくて、いいお部屋だわ」 「うん」  三上公平は、幸子ほど感激しているわけでもないらしい。 「こちらが司会者の立つ位置になります」  と、係の男が歩いて行く。 「——どうしたの?」  と、幸子がそっと言った。「何か気に入らない?」 「そうじゃないさ」  と、三上は笑顔を作って、「早く君と二人になりたいだけさ」 「何を言ってるの」  と、幸子は笑った。 「しかし、君のお父さんがね——」 「父が? どうしたの」  と、幸子が訊《き》く。 「いかがでございますか」  と、係の男が戻って来る。 「ええ、とても結構ですわ」  と、幸子は言った。「ね、三上さん」 「うん。いいんじゃないか」  と、三上が肯く。 「では何かございましたら、いつでもご連絡を」  と、係の男は言って、手にしたバインダーを開けた。「人数等、分り次第ご連絡のほどを」 「ええ、そうします」  と、幸子は愛想良く言った。 「ええと……。片瀬様と丸山[#「丸山」に傍点]様でございましたね」  と、係の男が言った。 「何だって?」  三上が、低い声で、「今、何と言った?」 「は?」 「あの——間違いです」  と、幸子は急いで言った。「三上公平と片瀬幸子ですわ。そうお願いしてあるはずですけど」 「これはどうも——」  と、係の男もあわてて書類をめくる。「ここにメモが……。初め、〈三上様〉で受付けさせていただきましたが、後で〈丸山様〉に変更、というご連絡が……」 「どこのどいつだ!」  三上は係の男の胸ぐらをつかんだ。「ふざけたこと言うと——」 「やめて! 公平さん」  と、幸子は三上の腕をつかんだ。「この方に怒っても始まらないわ」 「うん……。だけど——」 「行きましょう。——名前を戻しておいて下さい」 「はあ……」  係の男は、唖然《あぜん》として、二人を見送っていた。 「——一体誰なんだ、畜生!」  と、ロビーを歩きながら三上が拳《こぶし》を振り回す。 「他のお客に当るわよ! 落ちついて」  と、幸子はなだめた。 「君は平気なのか?」 「だって……。いちいち動揺していたら、こんないたずらをしてる人間を喜ばせるだけでしょ。無視するのが一番」 「うん」  と、三上は息をついた。「少し休む」 「そうね」  幸子は、三上とラウンジへ入った。 「——しかし、気になるなあ」  と、三上は首を振って、「いたずらにしちゃ手が込んでないかい?」 「ええ……。でも、誰がやってるのか、調べようもないし」  幸子は、そう言ってから、ふと、席から見えるロビーを行き来する客に、目を留めて、「あら……」 「どうした?」 「いえ、別に」  と、幸子は言った。  ちょうどウエイトレスが来て、飲物をオーダーした。  ホテルのロビーは、待ち合せの人や、ただ休んでいる人で溢《あふ》れんばかりだった。 「しかし……」  と、三上が言った。「本当に、丸山が生きてると思うかい?」 「もうやめて」  と、幸子は言った。「たとえ生きていたとしても、私はあなたを選んだのよ。もう関係ないことだわ」 「そう言ってくれると嬉《うれ》しいよ」  と、三上はホッとしたように言った。「正直、あの尾崎って奴《やつ》が怪しいと思ってるんだ」 「尾崎さん? まさか。いい人よ。裏表のない人だわ。そんなことしないわよ」 「そうかな……。ま、いい。こっちがしっかりしてりゃいいことだ」 「そうよ」  三上は、幸子の手を取った。 「ただ——心配なんだ。たとえば、こんないたずらをして来る奴だ。式の当日とか、君に危害を加えることだって、あり得ないわけじゃない」 「まさか!」 「いや、世の中、色んな奴がいるからね」  と、三上は真顔で、「何か対策を立てておいたほうがいいよ。本気だ」 「分ったわ。でも、いくら何でもお巡りさんに来てもらうってわけにもいかないでしょ」 「うん。それを——」  テーブルのわきに、誰かが立った。 「——片瀬幸子さん? そうでしょう?」  その女が言った。「私、以前、お父様の会社でお世話になっていた寺田祐子です」 「ああ! 憶えてますわ。うちへ何度かおいでになって」 「ええ、書類を届けたりしていました。お懐しいわ」 「本当に……。あ、この人、私の婚約者の、三上さんです」 「どうも。寺田です。——結婚なさるんですか。おめでとうございます」 「ありがとう」 「お父様、お寂しいでしょうね」 「どうかしら。いつも仏頂面ですから」 「よろしくお伝え下さい」  寺田祐子は、ロビーへ出て行き、化粧室のあるほうへと歩いて行った。 「可愛い人でしょう? 父が気に入って、よくうちにも来てたのよ」  と、幸子が言うと、ピーッピーッと三上のポケットベルが鳴り出した。 「おっと。——電話してくる。すぐ戻るよ」  と、急いで立って行く。  幸子は一人で、運ばれて来たレモネードを飲み、そして……どこか胸の中は晴れなかった。  いや、三上と丸山の問題ではない。そのことは自分の中でけり[#「けり」に傍点]をつけたつもりである。——いくらか引っかかるものがあるとしても、だ。  今の、寺田祐子のことである。  幸子は、父と寺田祐子の間に、上司と部下という以上に何かを感じたことがある。  実際、そういう男女間の微妙な変化というものは、敏感に知れるものである。  寺田祐子は父の会社を辞め、幸子は正直、ホッとしたものだ。母は何も気付いていない様子だった。それとも、気付かないふり[#「ふり」に傍点]をしていたのか。  ここに寺田祐子が来ている。そして——少し前、幸子はロビーを横切って行く、父の姿[#「父の姿」に傍点]を見たのである。  偶然だろうか?  それとも、父と寺田祐子がここで待ち合せているとしたら……。 「ごめんごめん」  と、三上が戻って来た。 「ご用なの?」 「電話ですんだ。——さて、どこへ行こうか?」  そのとき、ロビーに、甲高い悲鳴が響き渡った。 「あれは何?」  と、幸子が腰を浮かす。 「さあ。——何だろう?」  ロビーに、中年の女性が転がるように飛び出して来て、 「人が——人が死んでる! 殺されてるわ!」  と、大声で叫んだ。  ホテルの従業員が駆けつけて来るのが見えた。 「怖いわ。何ごとかしら?」  と、幸子は言った。 「さあね。——ね、もう出よう。僕らには関係ないことだよ」 「でも……。気になるわ」  幸子は、ロビーへと出て行った。  人が集まっているのは、どうやら女子の化粧室らしい。 「退《さ》がって下さい! 入らないで!」  と、ホテルのガードマンが化粧室の入口で、野次馬を防いでいる。「今、警察が来ます! 手をつけないで下さい!」  いくら押し戻しても、客のほうは人垣《ひとがき》となって、首を伸し、爪先《つまさき》立ちして、中を覗《のぞ》こうとする。野次馬の心理というものだろう。  幸子は別に強引に人をかき分けたわけではないが、何となく後ろの人に押されて前に出てしまい、気が付くと、両手を広げているガードマンと鼻をつき合せそうになっていた。 「入れないんですよ」 「ええ、分ってます」  退がりたくても、後ろが一杯で、動けないのである。しかし——幸子は、ガードマンの肩越しに、化粧室の中を見ることができた。  女が倒れている。洗面台によりかかるようにして、頭をがっくりと落としている。——血が、タイルの床に広がっていた。 「あの人……」  と、幸子は呟《つぶや》いた。 「ご存知の方ですか?」  と訊かれて、 「あ——いえ。さっき見かけた人だな、と思って……」  と、幸子はつい言っていた。  いきなり手をギュッと握られる。 「行こう」  三上だった。 「ええ。でも……」  三上は人をかき分け、強引に幸子を人混みから連れ出した。 「変なことに係わり合うもんじゃないよ」  と、三上は不機嫌そうに言った。 「分ってるわ。でも——」 「何だい?」 「死んでたの、さっき会った寺田祐子さんだったわ」  三上は足を止めて、 「確かかい?」 「間違いないわ。服だって憶えてるし」  と、幸子は言って、「身許が分ってるんだから、ちゃんと警察の人に話さなくていいのかしら?」 「大丈夫だよ。ちゃんと何か身許の分る物を持ってるさ。それが警察の仕事だよ」 「そりゃそうだけど」 「行こう。もし、ニュースとかで、身許が分らないとでも言ってたら、教えてやればいいんだよ」 「そうね……」  少しためらいながら、幸子はホテルのロビーを後にしたのだった。  二人がタクシーに乗り込んで走り出すと、ちょうど入れ違いにパトカーと救急車が相次いでホテルの正面に着いた。人だかりは、ますますひどくなって来ていた……。 「ただいま」  と、幸子は玄関を上った。「——お父さんは?」 「今、お風呂よ」  と、母の知子が出て来る。「早かったのね」 「娘に夜遊びしてほしいの?」 「そうじゃないけどさ」  と、知子は笑って、「お腹は?」 「一杯。食事して帰って来たの」  と、幸子は言った。「——お母さん、寺田祐子って子、知ってる?」  知子が、サッと表情を硬くしたので、幸子はびっくりした。母は——やはりそうだったのか? 「寺田祐子がどうしたの?」  と、知子は言った。 「お母さん……。知ってたの? 彼女とお父さんのこと」 「もちろんよ」  と、知子は言った。「分らないと思ってるみたいだけどね、お父さん」 「ずっと?」 「もうこの……二年くらいかしら」  意外な言葉だった。いつも呑気《のんき》そうにしている母が、父の浮気を知っていたのか。 「そう。——でも、彼女、死んだわ」 「死んだ?」  と、知子は言って、「——お父さんが出たら、お風呂、入りなさいね」  そう言って、台所へ。  幸子は、母が、あんな冷ややかなものの言い方をするのを、初めて聞いた。  そこには、長い間、夫の背信を我慢しつづけて来た女の恨みがこめられているかのようで、一瞬ゾッとするものを覚えたのだった。 「——帰ったのか」  父が、ガウン姿で、居間へやって来る。「どうだった、式場のほうは」  父がそんなことを訊いてくるのは、初めてだった。 「順調よ。いい部屋だったわ」  と、幸子は言った。「今日ね、あのホテルで、人殺しがあったの」 「ほう。物騒だな」  と、ソファに寛《くつろ》ぐ。 「前に会社にいた、寺田さん。寺田祐子さんよ、殺されたの」  父、片瀬隆治の手から、広げかけた新聞が落ちた。 「——誰だって?」 「寺田祐子さん」  片瀬は、青ざめた顔で、じっと床を見つめていたが、 「——そうか。可哀そうにな」  と、呟くように言った。「早く風呂へ入れよ」 「うん」  幸子は二階へ上った。  父と寺田祐子のことを、許すかどうかは別として、父の反応、母の反応、どちらも幸子にはショックだった。  父は、しかし本当に[#「本当に」に傍点]びっくりしていたようだ。  幸子は恐れていたのである。父が、あのロビーにいたこと。——それを父に確かめるのは、ためらわれた。  もしかして、父が寺田祐子を殺したのではないかと……。そう考えると、怖かった。本当のことを知りたいとは、もう考えなくなっていたのである。  それにしても、丸山の名をかたって、いたずら(というかいやがらせというか)をつづけているのは、誰なのだろう?  もし、本当に丸山徹男が生きているとしたら……。  幸子は頭を強く振ると、服を脱ぎ始めた。 [#改ページ]  7 追跡行  夢を見ていた。  ドン・ファンが、若い女の子を追いかけ回している。そして、いくら亜由美が、 「やめなさい!」  と言っても、ちっとも聞こうとしないのである。  その内、ドン・ファンは一人の女の子に飛びついて、押し倒した。そして——。  突然、その女の子が亜由美の前に立っていた。——聡子だった。 「聡子。ごめんね、ドン・ファンが何か変なことしなかった?」 「ね、亜由美。私、結婚することにしたの」  と、聡子が頬《ほお》を染めて言った。 「結婚?——誰と?」 「もちろんドン・ファンよ」  見れば、聡子はいつの間にかウェディングドレスを着ており、ドン・ファンがそのそばに、蝶ネクタイをして、すました顔をしているのだった。 「聡子……。結婚するって……。ドン・ファンは犬よ!」 「あら、いいじゃない。愛し合ってれば。ねえ、ドン・ファン?」 「クゥーン……」  ドン・ファンが甘えた声を出して、聡子にすり寄っていく。——亜由美は絶望して目をつぶった。 「——君。——君」  何よ、うるさいわね。こっちは頭に来てんのよ! 「大丈夫か? 僕のことが分るかい?」  え?  亜由美は、目を開けた。——妙な気分である。眠っているのと起きているのの、ちょうど中間とでもいうか、フワフワと漂っているような気分。  男の顔が見えた。 「——あんた!」  と、亜由美は、吉沢という医師をにらみつけ、「よくも騙してくれたわね!」 「しっ。大きな声を出さないで」  と、吉沢はあわてて言った。「その元気なら大丈夫だ」 「ちっとも大丈夫じゃないわ」  確かに、亜由美は病室へ再び閉じ込められただけでなく、拘束衣という奴を着せられてしまったのである。——手も足も動かせない。何とも惨めな格好だった。  しかも、あの看護人——大下と名のったが——が、注射を射《う》って行ったので、亜由美は、半分眠っているような状態になっているのである。 「今、これを脱がしてあげる」  吉沢が拘束衣を脱がす。「——さあ、これでいい」  亜由美はホッと息をついた。自由って、すばらしい! 「この注射をしよう」  と、吉沢が白衣のポケットから金属のケースを取り出した。 「何? 変なことするんじゃないの?」 「そんなつもりなら、それを脱がしたりしないさ。そうだろう?」 「怪しいもんね……。ま、いいわ」  どうせ、何をされても逆らえないのだ。  腕にチクリと痛みがあって、ちょっと顔をしかめる。 「下手くそ!」 「——我慢しな。薬の効果が、これで消えるはずだ」  と、吉沢は言った。「——君の服、これだろう?」  と、包みを出して、広げる。 「そう! 良かった。これじゃ情なくて」  確かに、次第に頭がすっきりしてくる。 「どうしてこんなことしてくれるの?」  と、亜由美は言った。 「君が言ったことさ。丸山徹男。ドン・ファン。——どうやら、君の言うこともでたらめでもなさそうだと思ってね」 「当然でしょ! 私は、嘘《うそ》なんかつかないわ。何しろキリストの生れ変りって言われてるのよ」  吉沢は笑い出した。 「いや、君は面白い子だ」 「服を着るわ。外に出てて」 「はいはい」  亜由美は、吉沢が出て行くと、急いで自分の服を着た。靴はなくて、仕方なくここのスリッパのまま。  廊下へ出ると、 「こっちだ」  と、吉沢が促す。「——この時間は、当直が入口の近くにいるだけさ。そう心配しなくてもいい」 「丸山徹男のことを?」 「いや、全く知らない」  と、吉沢は言った。「ただね、院長の沼田先生が、個人的に診ている患者がいるんだ。これは誰も手が出せない。どうも、以前からおかしいと思ってた。もしかすると、それが丸山という男なのかもしれないね」 「その患者はどこにいるの?」 「院長の山荘さ」 「山荘?」 「そう。わざわざ人をつけてね。だから、よほど因縁のある患者なんだな、とは思っていたんだ」  吉沢は足を止めた。二人は窓の所へ来ていた。外は暗い。夜になっているのだ。 「院長の車だ」  と、吉沢が言った。  亜由美が窓から覗《のぞ》くと、大きなベンツが、ライトを点《つ》けて、病院の門から出て行くところだった。 「これから帰るらしい。——君、どうする? 家へ送ってもいいけど」 「院長の山荘へ行ってみましょうよ」  と、亜由美はためらわずに言った。「その患者の正体を知りたいわ」 「元気のいい子だな」  と、吉沢が愉快そうに言った。 「あの注射のせいかもしれないわよ」  と、亜由美が言った。「さ、行きましょう」  張り切って、亜由美は先に立って歩いて行ったが——。廊下の角を曲ろうとして、 「ワッ!」  と、危うく誰かとぶつかりそうになった。 「——お前!」  と、目の前に立った大下が目をむいた。「どうやって出て来たんだ!」 「こうやってよ!」  亜由美は、いきなり相手の向うずねをけとばした。 「いて……いてて……」  大下が片足をかかえ込んで呻《うめ》く。亜由美は拳を固めると——バシッと一発、パンチを食らわした。大下はあっさりと伸びてしまった。 「——君、凄《すご》いね」  吉沢が唖然《あぜん》としている。  正直、亜由美もびっくりしていた。  やっぱり、さっきの注射のせいだろうか? 「見て」  と、聡子が言った。「あの車に乗ってるの、院長じゃない?」  ベンツが、病院を出て、夜道を走って行く。——聡子と尾崎、そしてドン・ファンの三人[#「三人」に傍点]は、尾崎の小型車の中で、病院の様子をうかがっていたのである。 「確かにそうだ。どうする? 尾行してみるか」 「そうね」  と、聡子が肯《うなず》く。  尾崎は車のライトを点けずに、ベンツの後を追い始めた。——運転の腕は確かである。  何とかして亜由美が無事かどうか確かめたい、とやって来たものの、病院の塀も高く、中へ忍び込むのは、TVや映画で見るほど楽ではなさそうだった。  で、仕方なく表で様子をうかがっていた、というわけである。 「郊外へ向ってるな」  と、尾崎が言った。「安心してな。車に関しちゃ自信がある。——女の子に関しちゃないけど」 「ワン」 「そうだろう、と言ってるわ」  と、聡子が言った。  尾崎の車は、確実に同じ間隔を保ちながら、ベンツにピタリとついて行く。 「——本当に、あの殿永さん、何を考えてるんだろ」  と、聡子が口を尖《とが》らしている。  亜由美が姿を消してしまったことを、何とか殿永へ知らせようとしたのだが、なかなか捕まらず、やっと向うから連絡があったのが、今日の夕方。  聡子の話を聞いても、殿永は大して焦るでもなく、 「塚川さんは運の強い方です。大丈夫ですよ」  なんて言っている。聡子はすっかり頭に来てしまった。 「——尾崎さん」 「何?」 「どうしてあの片瀬幸子さんに振られたの?」 「振られるのに理由がいるのかい? それは向うに訊《き》いてくれよ」  と、尾崎はぶっきらぼうに言ってから、「まあ、仕方ないけどね。こっちは高校も中退のしがない修理工さ」 「どうして知り合ったの?」  尾崎は、的確にハンドルを捌《さば》きながら、 「初めは、彼女が父親の運転する車でやって来たのさ。ドライブ途中で、エンジントラブル。何とか動くが、あの工場が目に入って、飛び込んだってわけだ」 「へえ。偶然ね」 「俺は一目|惚《ぼ》れ。もちろん、相手にはしちゃくれないと思ってたが、手紙を出したら、会ってくれたんだ」  と、尾崎は言った。「信じられなかったよ。だってそうだろ? たった一度、車の修理をしただけなのにさ」 「で、デートしたの?」 「うん。もちろん、食事したり話をしたり、それだけさ。——でも、俺は充分に幸せだった」 「そのとき、例の心中未遂の話は出たわけ?」 「聞いた。——昔のこととはいっても、彼女にとっちゃ、傷はいえていなかったんだろうな」 「そうでしょうね」  と、聡子は肯いて、「で、どうして振られたわけ?」 「そりゃあ……。俺のせいさ」 「分った。力ずくで、いやらしいことしようとしたんでしょ」 「馬鹿言え! ちゃんと紳士的に、プロポーズしたんだ」  と、むきになる。「で、断られた。——それでおしまい」 「そう。ま、信じとくわ」  尾崎は、寂しくなって来た林の中の道で、前を行くベンツのテールランプを見落とさないようにするのに神経を集中していた。 「——しかし、正直言って……。これはやっかみかもしれないけどな。あの三上って奴、どうも好きになれない」 「そう。亜由美もそうだったみたい」 「幸子さんは、あんな男と結婚しない方がいいと思うぜ。もちろん、俺ならいいとは言わないけどな」 「ワン」 「この野郎! 変なところで合の手入れるない」  と、尾崎はドン・ファンに言った。「——おっとどこかわきへ入る。林の中だな。どこへ行くんだ?」 「知りっこないでしょ、私が」  林の中を、ライトなしで走るのは、あまりに危い。仕方なく尾崎はライトを点けた。 「気が付くかしら?」 「運転してる奴からは見えないと思うんだけど。——前方のことで頭が一杯さ。バックミラーに入るほど近付いちゃいないはずだぜ」  やがて、前の車がスピードを落した。 「着くらしいな」  再びライトを消して、こっちもスピードを落とす。  やがて、林の奥に、古びた山荘風の建物が見えて来た。——窓に明りは点いているが、人が住んでいるのかしら、と思うような、荒れた感じの家である。 「謎《なぞ》めいてるわね」  と、聡子が言った。 「うん。——この辺で停めとこう」  尾崎が車を停め、エンジンを切ると、辺りは急に静寂に包まれたのだった。  いささか無気味なほどである。 「——どうする?」 「もちろん、行ってみましょ、近くへ」 「しかし、ベンツの運転手がいるよ、表に」 「じゃ、裏へ回るのよ」 「忍者じゃないぜ。足音もするし」 「ドン・ファン。あんたの出番」  と、聡子が言うと、 「ワン」  と、ドン・ファンは短く答えたのだった。  運転手は、ベンツの外へ出て、深呼吸をした。山の中の空気はひんやりと冷たく、車の中でいささか息苦しかった——ベンツでも!——運転手には、快い刺激だった。  沼田は、 「ちょっと、待ってろ」  とだけ言って中へ入って行った。  いつものことだが、この「ちょっと」が、本当に数分のこともあるし、半日も待つこともある。  運転手の宿命みたいなものだ。——タバコを出して、火をつける。中では喫えないから、停っている間に喫っておくことにする。  と——木立ちのほうでガサガサと音がして、運転手はびっくりした。 「おい!——誰かいるのか?」  と、声をかけるが、あんまり出て来てほしくない様子。「おい……」  と……スタスタと出て来たのは、いやに背の低い犬。 「犬か」  ホッと息をつき、「何してるんだ、こんな所で?」  足の短い、ダックスフントというやつ。しかも、なかなか毛並は悪くなさそうである。 「どこから来た? ええ?」  と、しゃがみ込んで相手をしている。  その後ろを、聡子と尾崎が、足音を殺して駆けて行く。——ドン・ファンは、欠伸《あくび》をすると、建物の玄関へとスタスタ歩いて行った。 「中へ入るのか?」  こんな犬、飼ってたのかな? しかし、運転手はこの中が「どうなっているのか」、全く知らないし、この犬が、いかにも慣れた感じで、「中へ入れろ」と要求しているので、きっとここの飼犬なのだと思った。 「よしよし」  と、ドアを開けてやると、その犬は長い茶色の胴体をスルリと隙間《すきま》に通して、山荘の中へ入って行った……。  尾崎と聡子の二人は、ドン・ファンが運転手の注意をそらしてくれている間に、うまく山荘の裏手へ回ったが、裏へ回ったからといって、入口があるわけではない。 「——どうする?」 「そうだな。中を覗《のぞ》いてみよう。明るい窓がある」 「そうね」  二人は手近な窓の下へと頭を低くして近付くと、そっと頭を上げて行った。  ——居間らしい。  外側が古ぼけている割には、中は一応きちんと生活できるようになっている。  沼田がいくらか落ちつかない様子で、居間の中を歩き回っている。何かよほどの心配ごとがあるのだろう。 「誰か他にいないのかしら」 「しっ。人が入って来る」  居間のドアが静かに開く。  沼田は振り向いて、 「お前か」  と、言った。  声は、窓のガラスの割れた所から、外へ洩《も》れてくる。 「何を暗い顔してんだい?」  と、言ったのは——三上公平[#「三上公平」に傍点]だった。 [#改ページ]  8 炎の洗礼 「どこへ行ってたんだ。こっちは心配してたんだぞ」  と、沼田は言った。 「もう大人だぜ」  と、三上は言った。「俺は正常さ。どこも悪くなんかない」  三上が楽しげに笑う。 「あいつ……」  と、尾崎が呟《つぶや》く。「いつもと別人みたいだぞ」 「お前が自分をごまかしても、私には分ってる」  と、沼田はソファにかけて、「何かやって来たな。隠すな」 「どうかね。明日の新聞辺りに出るだろうさ!」  三上は、ソファに寝そべった。 「何をやったんだ? 言ってみろ」  と、沼田が厳しい口調で言った。 「知らない方がいいさ」  と、三上は小馬鹿にしたように、「お互い、何も知らない。その約束だろ?」 「それは、何でもうまく行ってるときのことだ。今となっちゃ事情が違う」  と、沼田は苛立《いらだ》った口調で言った。 「落ちつけよ。何があったっていうんだい?」  と、三上は言った。  沼田が、ため息をつくと、言った。 「彼は死んだ」  ——しばらく沈黙があった。 「何だって?」  と、三上が言った。「今、何て言った?」 「死んだのさ。もうおしまいだ」  沼田は首を振って、「お前の話なんかについのせられたのが間違いだ」 「おい、待てよ」  と、三上は言いかけて、パッと窓のほうを向き、「誰だ!」  と怒鳴った。 「まずい!」  と、尾崎が言った。 「逃げる?」 「こっちだ!」  二人は駆け出したが——。聡子がつまずいて転んでしまった。 「待って!」 「早く!」  尾崎が聡子を助け起こすと——。  ズドン、と腹に響くような太い銃声がして、目の前の地面が大きくえぐれた。 「この次は、そっちの腹がえぐれるぞ」  三上が、散弾銃を構えて、窓から狙《ねら》っている。 「こっちへ来い」  銃の前では仕方ない。——二人は、居間の窓の方へと戻って行った。 「——うまくないな」  と、三上は言った。「全くうまくない」 「お前の言う通りにしたんだ」  と、沼田が言った。 「分ってる。しかし、こんな連中がここへやって来るとは思わなかったろ」  三上は、居間の床に縛られて転がされている尾崎と聡子を見下ろし、靴の先で、ちょいとつついた。 「何すんのよ!」  聡子が怒鳴ると、 「気の強い女だな」  と、三上は笑った。 「何て奴だ!」  尾崎が三上をにらみつける。 「世の中は金さ。幸子はどうでもいいんだ。問題はあの親父《おやじ》さん。——分るだろ? あの親父さんが死ねば、後は幸子の夫が継ぐ。何もかもね」 「じゃ、丸山徹男の名前を使ってたのは、あんたなのね」  と、聡子は言った。 「いいや。丸山徹男は本当に[#「本当に」に傍点]生きてたのさ」  と、三上は言った。「この沼田から、それを聞いて、この計画を思い付いた。丸山は、昔のことを憶えてるが、今は薬づけで、何とか生きのびてる。薬をエサにすりゃ、何でも言われた通りのことをやる」 「——もうおしまいだ、それも」  と、沼田は言った。「薬のやり過ぎで、ショック死してしまった」 「何てひどいこと……」  と、聡子は言った。 「それが、今分っちゃ困る」  と、三上は考え込んで、「片瀬隆治は、丸山の手で殺されたことにするんだからね。結婚式当日に」 「それは無理だ」 「できるさ」  三上は、山荘の天井を見上げて、「二人が灰になっちまえばいい。——死体の身許なんか分らないさ」 「何だと?」  沼田は目をみはった。「そんなことまで——」  三上は嘲笑《あざわら》うように、 「もう遅いぜ。とことん、やったんだ。人殺しまでな」 「あれは……薬のせいだ」 「丸山のことじゃない」  三上の言葉に、沼田は一瞬絶句した。 「誰のことを言ってるんだ?」  声はかすれていた。 「女。——片瀬の愛人だった、寺田祐子って女さ」  三上はニヤリと笑って、「俺の女でもあった。ところが、女がこっちにご執心《しゆうしん》でさ、片瀬に何もかもしゃべる、と言い出した。ホテルヘ呼び出し、化粧室へ入ったところを、しゃべれなくしてやった」  沼田が青ざめ、よろけた。 「自分の手にかけたのか!」 「当り前さ。幸子との結婚まで立ち消えになるからね」  と、三上は平然としている。「分っただろ? ここを焼いて、灰にするしかないよ」 「お前は……」 「心配するな。俺がやる」  三上は、ライターを取り出し、カチッと炎を出すと、窓のカーテンの房に火をつけた。  たちまちカーテンが白い煙を上げて燃え出す。聡子は、煙でむせ返った。 「苦しかないさ。焼け死ぬ前に、繊維の出すガスで死ぬ。——ま、俺も死んだことはないけどな」  と、三上は笑って、「さ、行くぜ」  沼田がハンカチで口を押えつつ、三上の後から飛び出して行く。 「畜生!」  尾崎は、必死で、縛られた手足を動かし、聡子の手首の結び目を口でとこうとした。 「無理よ! とても——。苦しい」  涙が出て来る。火は天井へと広がって、木造の家は、たちまち炎に包まれていく。  ここで死ぬのか。——聡子は、もっとおいしいものを食べとくんだった、と悔んだ。 「ワン」  そのとき、居間の中へ、茶色い英雄[#「英雄」に傍点]が飛び込んで来た。 「ドン・ファン!」  ドン・ファンが聡子の手首の縄をギュウギュウかんで、緩める。 「——とけた!」  聡子は、急いで足首の結び目をとくと、尾崎の縄をといた。  しかし、もう火は居間の中を回ってしまっていた。出口も、窓の方も火が包んでいる。 「出なきゃ!」 「しかし——どこから?」  そのとき、窓のほうで、ドカン、と凄《すご》い音がして、車の鼻先が窓を突き破って、中へ乗り上げて来た。 「ここから出て!」  と、亜由美の声。 「亜由美!」 「急げ!」  尾崎たちは、車が突っ込んで、一旦火が途切れた場所から、車の上をのり越えて、表へ転がり出た。 「早く離れて! 車が燃える!」  亜由美が聡子を抱きかかえるようにして、駆け出す。  車が炎に包まれ、たちまち激しく火を吹き上げた。 「——助かった!」  と、地面にへたり込んで、聡子は息を吐いた。 「ごめんね。三上が行っちゃわないと、助けにも行けなかった」  亜由美は、「こちら吉沢先生。私を助けてくれたのよ」 「いや、しかし驚いた」  と、吉沢医師も唖然としている。「こんなことが……」 「丸山って人は死んだそうだ」  と、尾崎が言った。「きっと、あの中に……」  もう山荘は、ほとんど完全に火に包まれていた。  夜を裂かんばかりの火の柱が、窓へ向って伸びて行く。  亜由美たちの見ている前で、山荘は次々に柱だけの姿と化し、それもやがて輝く炎の中へ崩れ落ちて行った……。 「——三上さん。どうしたの?」  幸子は、玄関へ出て来て、当惑した。 「夜遅く、悪いね」 「そんなこともないけど……」 「今、出られるかい?」 「これから?」  もう十二時近い。しかし、父も母も、もうやすんでいた。 「少しなら」 「じゃ、ちょっとだけ」 「ええ……」  幸子は、表に出た。  三上は車の助手席に幸子を乗せると、五分ほどの公園のわきまで走らせて、停めた。 「何なの?」  と、幸子は訊《き》いた。 「うん……。あのホテルで殺された女のことだ」  幸子は、少し青ざめて、 「寺田さん?」 「うん。あの人が、お父さんの恋人だったことは——」 「知ってるわ」 「そうか。じゃあ……」  三上は、ためらった。 「何なの?」 「いや……。言おうかどうしようか、迷ったんだけどね」  と、息をついて、「あのとき、僕は電話しに行ったろ?」 「ええ」 「見たんだ、そのときに。——君のお父さんが、女子化粧室から急いで出て来るのを」  幸子は息をのんだ。 「——どうしたらいいか、迷った。本当なら、警察に話すべきだ。しかし、君のことを考えると……」 「三上さん。お願い。黙ってて」  と、幸子は、三上の手を両手で包み込むように握った。「父のことは——よく知ってるわ。きっと、刑務所へ入るより苦しむはずよ」 「幸子さん……」 「無理なお願いだってことは分ってる。でも、どうか、お願い」  幸子の眼は涙で光っていた。 「分った」  と、三上は肯《うなず》く。「——僕にとっては君が大事だ」 「ありがとう!」  幸子の声が震えた。  三上が……幸子を抱き寄せ唇を重ねる。幸子もされるままに、逆らわなかった。 「——幸子さん。これから……ホテルヘ行かないか」 「え?」 「いいだろう? もう結婚間近だ。不自然なことではないよ」 「でも……」  と、幸子はためらっていたが、やがて、頬《ほお》を染めつつ、「——いいわ」 「いいんだね? 嬉《うれ》しいよ」  三上が声を弾ませる。「君を幸福にしてみせるからね」 「え、え」  と、幸子が肯く。  三上がエンジンをかけ、車を出すと——突然、車の前を何かが横切った。 「ワッ!」  急ブレーキをかける。 「どうしたの?」 「何だか……犬かな? 車の前を。びっくりした。はねちまうところだ」  と、息を吐いて、「さ、行こうか」  トントン、と窓を叩《たた》く音がして、三上はギョッとした。 「——何です?」  と、窓を下ろすと、 「警察の者ですがね」  と、その太った男は言った。「三上さん。あんたに逮捕状が出ています」 「何だって?」 「寺田祐子を殺害した容疑、放火。殺人未遂……。相当の年数になるね、合計すると」 「何を馬鹿な——」  と言いかけて、三上は、刑事の後ろから現われた、聡子、尾崎の顔を見て、青ざめた。 「三上さん! どういうこと?」  幸子は、体を震わせた。「あなたが寺田さんを?」 「降りてくれ」  と、三上は言った。「全く——うまくいかないもんだね、世の中は」  三上は声を上げて笑った。 「さ、外へ出て」  と、殿永が促す。 「ああ。——じたばたしてもむだか」  と、三上は、幸子が車を出たのを見ると、いきなり、アクセルを踏んだ。  三上の車は、真直ぐに突っ走って——車止めの柵《さく》へと激突した。車が宙へ逆立ちするようにして、ガラスの粉が飛び散った。 「やれやれ」  殿永は首を振って、「あんな死に方が、かっこいいとでも思ってるんですかな」  三上の車が火に包まれた。 「哀れな人……」  と、幸子が呟いたのだった。 「——じゃ、三上は沼田院長の息子?」  と、亜由美がびっくりして言った。 「そうなのです」  殿永は肯いて、「や、どうも」  と、片瀬知子の出してくれたお茶をすすった。 「姓が違うのは……」 「沼田が愛人に産ませたのが三上で、ずっと面倒はみていたのです。しかし、三上は一時、沼田の病院で治療を受けていたこともあるんです」 「それで、沼田は三上の言うなりになっていたのね」  と、聡子が言った。  ——片瀬家の居間に、片瀬親子と亜由美たち(もちろんドン・ファンもこみ[#「こみ」に傍点]で)、そして尾崎も来ていた。 「丸山徹男さんとの関係は?」  と、亜由美が言った。 「幸子。お前に詫《わ》びねばならん」  と、片瀬隆治が言った。「丸山は生きていたのだ」 「そうだろうと思ったわ」 「丸山はな、助け上げられて、意識不明だった。私は、お前に知られないよう、前から知っていた沼田に頼んで、入院させてもらった。しかし、病院では何かと不便ということで、沼田の山荘に移したのだ。もちろん、沼田には充分な金をやってな」 「丸山さんは——」 「長いこと、何も分らなかった。この二、三年、徐々に過去を思い出し始めていたんだ。それに三上が目をつけ、利用してやろうと考えた」 「丸山さんのせいにするつもりだったんですね、何もかも」  と、幸子は言った。 「そうなんです。三上はあなたと一緒になってから、父親を殺し、丸山に罪をなすりつける、という計画を持っていた」 「そのために、丸山の存在を印象づける細工をあわててやってたんですね」  と、亜由美は言って、「でも、わざわざ丸山が失踪《しつそう》したという届をなぜ出したんですか?」 「丸山はあの病院にもいないことになっていましたからね。届を出しておかないと、もともと存在しない人間ということになる。まさか、それをわざわざ探りに来る人間がいるとは思わなかったんでしょう」 「沼田が、三上に力を貸したのは——」 「もちろん、息子ということもありますが、病院そのものが経営難で、金の魅力にひかれて、ということですね」  と、殿永は言った。 「でも、ひどい目にあったわ」  と、亜由美は言った。「どうして私のことを、あんな風に——」 「沼田です」 「沼田の指図?」 「あなたのことが気に入っていたようです。ああして、薬で言うことを聞かせようというつもりだったんですよ」 「——何て奴!」  と、亜由美は改めて怒っている。 「物好きもいるんだ」  と、聡子が言った。 「何よ!」 「まあ、落ちついて」  と殿永が笑って、「ともかく、お二人が無事で何よりでした」 「それにしても、私のこと、放っといて! ひどいじゃありませんか」  と、亜由美が苦情を述べる。 「その点はお詫びします」  と、殿永が頭をかいて、「いや、姿が見えないというので、まさか誘拐されたとは思わず、てっきり潜入したんだと思ったんですよ」 「日ごろの行動のせいね」  と、聡子がからかい、亜由美も何とも言えなかったのである……。 [#改ページ]  エピローグ 「——おい、尾崎」  と、呼ばれて、尾崎竜男は、また車の下から、 「何だ?」  と答えた。 「客だぜ」 「客?」 「うん」 「分った」  ガラガラと車の下から台にのって出て来て、立ち上ると、「誰だって?」 「行きゃ分るよ」  同僚がニヤニヤしている。  首をかしげながら、外へ出ると——尾崎は呆気《あつけ》にとられた。  大型の高級車が停って、運転手がドアを開けると、中から降りて来たのは、純白のウェディングドレスに身を包んだ、片瀬幸子。 「幸子……さん」 「尾崎さん」  と、幸子は言った。「あなたにもらっていただきたくて、来ましたの」 「何です?」 「結婚して下さい」  尾崎はポカンとして突っ立っている。 「しっかりして!」  と、大声をかけたのは亜由美。 「ワン!」  と、ドン・ファンも吠《ほ》えた。 「しかし……僕なんか……」 「愛してるんですもの」  と、幸子が言った。「本当です」 「はあ……」  尾崎は、雲の上、という様子。 「ほら、抱いてキスしてあげなさい」  と、聡子がたきつける。 「でも……油だらけだ」  と、作業服の尾崎が言うと、 「構わないわ!」  幸子がウェディングドレスのまま、力一杯尾崎に抱きつく。  拍手が起り、ドン・ファンは再び威勢よく鳴いたのだった。 本書は、一九九二年十一月、実業之日本社より刊行されたものの文庫化です。 角川文庫『迷子の花嫁』平成8年5月25日初版発行            平成10年6月10日6版発行