TITLE : 泥棒物語 本作品の全部または一部を無断で複製、転載、配信、送信したり、 ホームページ上に転載することを禁止します。また、本作品の内容 を無断で改変、改ざん等を行うことも禁止します。 本作品購入時にご承諾いただいた規約により、有償・無償にかかわ らず本作品を第三者に譲渡することはできません。 目 次 夜の電話 その日—— 決 行 長い夜 生れ変った朝 夢《ゆめ》の中の王子様 幻《まぼろし》の設《せつ》計《けい》 見《み》舞《ま》いに来た女 ちょっとした冒《ぼう》険《けん》 危《き》険《けん》な予《よ》感《かん》 小さな食《くい》違《ちが》い 裏《うら》切《ぎ》り 京子の多《た》忙《ぼう》な日 華《はな》子《こ》の危機 歯《は》車《ぐるま》が狂《くる》った 駈《か》け落ち 冷たい火 すれ違《ちが》い 突《とつ》発《ぱつ》事《じ》 空《くう》虚《きよ》な家 幸運・不運 津《つ》村《むら》の負《ふ》傷《しよう》 破《は》局《きよく》の朝 二人の秘《ひ》書《しよ》 何かが…… それぞれの終り エピローグ 夜の電話   夜、十時を過《す》ぎてかかって来る電話には、必ず明《あけ》美《み》が出る。  これが、塚《つか》原《はら》家の、いわば「不《ふ》文《ぶん》律《りつ》」だった。  実《じつ》際《さい》、十本の内九本までは、高校一年生の一人《ひとり》娘《むすめ》、明美にかかって来るものなのだから、それは合理的な決りでもあったのである。  この夜も、十時を少し回ってかかって来たクラスメートからの電話を取って、明美は三十分近くもしゃべっていた。  「——よく、ああもしゃべることがあるもんだな」  茶の間で新聞を開いていた塚原は、呆《あき》れて言った。「毎日、学校で会ってるんだろうに」  「出歩かれるよりいいでしょ」  妻《つま》の啓《けい》子《こ》が、やっと台所の片《かた》付《づ》けを終えて入って来ながら言った。「向うからかかったんだから、うちが払《はら》うわけじゃないし」  啓子は、ケチというほどでもないが、至《いた》って現《げん》実《じつ》的《てき》なタイプである。  「すっかり手が荒《あ》れちゃって……。今の洗《せん》剤《ざい》は強いのね」  「手《て》袋《ぶくろ》をすりゃいいじゃないか」  「はめてやったら、二日で三枚、お皿《さら》を割《わ》ったわ。もったいなくて」  塚《つか》原《はら》は黙《だま》って、新聞を眺《なが》めていた。——今夜も、かかって来ないのかな。  塚原修《しゆう》造《ぞう》は、今《こ》年《とし》四十八歳《さい》になる。頭が禿《は》げ上っているのは、もう三十代の後半からで、三十で結《けつ》婚《こん》するときには、早くも多少薄《うす》目《め》になりかかっていたのだ。  丸《まる》顔《がお》で、どちらかといえば童顔の印象があり、また、その印象の通り、至《いた》って控《ひか》え目でおとなしい性《せい》質《しつ》だった。  妻《つま》の啓《けい》子《こ》も似《に》たようなもので、目立つ女ではない。夫より五つ若《わか》い四十三だが、むしろ少し老《ふ》けて見えるのは、あまり格《かつ》好《こう》や着る物に構《かま》わないからかもしれなかった。  「——じゃ、明日《あした》ね。バイバイ」  やっと、明美の電話が終る。  至って物静かな両親から、どうして生れて来たのかと首をかしげたくなるくらい、陽気で明るい娘《むすめ》である。  「あんまり長話は悪いわよ」  と、啓子が言った。  「こっちからかけても同じくらいしゃべるんだもん。お互《たが》いさまよ」  素《す》直《なお》に、「はい」と言わなくなって、すでに久《ひさ》しい。もう、啓子も諦《あきら》めの境《きよう》地《ち》だった。  明美が二階へ上りかけると、また電話が鳴った。——啓子が、ため息をついた。また三十分!  「はい、塚《つか》原《はら》です。——はい、ちょっとお待ち下さい」  明美は廊《ろう》下《か》から、「お父《とう》さん、電話よ」  と呼《よ》んだ。  「そうか」  「女の人。会社の人だって」  とうとうかかって来た! 塚原は、興《こう》奮《ふん》を押《お》し隠《かく》して、立ち上った。  「お父さんの彼女《かのじよ》じゃないの?」  と、からかう明美をちょっとにらんでおいて、塚原は受話器を手に取った。  「もしもし。——ああ、君か。どうした?——うん。——うん、そうか。間《ま》違《ちが》いないね。——分った。どうもありがとう」  話は至《いた》って簡《かん》単《たん》に終った。一分もかからなかったろう。  しかし、受話器を戻《もど》すとき、塚原の手は小《こ》刻《きざ》みに震《ふる》えていた。  もし、目のいい明美がそばで父親の顔を見ていたら、緊《きん》張《ちよう》と興奮に表《ひよう》情《じよう》も失《う》せ、顔面の筋《きん》肉《にく》がこわばっているのに気付いたに違《ちが》いない。だが、幸い明美はさっさと階《かい》段《だん》を上ってしまっていた。  「——何のご用だったの?」  塚原が茶の間に戻《もど》ると、妻《つま》の啓《けい》子《こ》が訊《き》いたが、塚原の方は耳に入らない様子で、  「おい、電話帳はどこにあった?」  と言い出した。  「電話帳? あの分《ぶ》厚《あつ》いやつ?」  「いや、うちで作ってる——電話番号の控《ひか》えだ」  「それなら、台所よ。どこへかけるの?」  「津《つ》村《むら》のところだ」  「あなた、津村さんのところなら、年中かけてるじゃないの。憶《おぼ》えてるでしょう」  「いや、こんな時間だ。万一かけ違《ちが》えたら、相手に迷《めい》惑《わく》だ」  ——啓《けい》子《こ》は当《とう》惑《わく》顔《がお》で夫を眺《なが》めた。いつもなら、そんなに気の回る夫ではないのである。  塚原は台所の柱に引っかけてあったメモ帳を持って来ると、電話の所へ戻《もど》った。  「津村、津村……」  と呟《つぶや》きつつ、〈つ〉のページをめくる。  ダイアルを回す手も、まだ少し震《ふる》えていた。——念のため、申し添《そ》えておくと、塚原の家の電話は、プッシュホンなどという洒落《しやれ》たものでなく、オーソドックスなダイヤル式であった。  呼《よび》出《だ》し音が二度聞こえたところで、向うの受話器が上った。  「津村でございます」  妻《さい》君《くん》だ。一種独《どく》得《とく》の、甘《あま》ったるい声を出すので分る。  「あ、あの——塚原です」  声が喉《のど》に引っかかって、なかなか出て来ない。  「まあ、いつもどうも。——お風邪《かぜ》ですの?」  「いや、そういうわけではありません」  塚《つか》原《はら》は、咳《せき》払《ばら》いをして、「——失礼」  「ちょっとお待ち下さい。今、お風《ふ》呂《ろ》から出たところなので。——あなた」  少し間があって、「塚原さんよ」  と言っている津《つ》村《むら》華《はな》子《こ》の声が聞こえた。  「もしもし、お待たせしました」  津村の、いかにも生《き》真《ま》面《じ》目《め》な声。  「ああ、塚原だ」  と、少し声を低くして、言った。「今、電話があったよ。明日《あした》だそうだ」  電話の向うで、津村が緊《きん》張《ちよう》する気配が、塚原にも感じられた。  「明日ですか」  と、津村が言った。「間《ま》違《ちが》いないんですね?」  「大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》だと思うよ。予定通り、確《かく》認《にん》してくれ」  「ええ。よく分っています」  津村は、気持を落ちつかせるためか、大きく息をついた。「いよいよですね。待ちに待った日が——」  「おい、津村君」  塚《つか》原《はら》はちょっとあわてて、「奥《おく》さんに聞こえないか?」  「今、風《ふ》呂《ろ》へ入《はい》るとこですから、大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》ですよ」  「そうか。——まあ、あんまりかたくならないようにしよう」  「そうですね。何も心配はないんだし……」  「そう。大して難《むずか》しい仕事じゃない」  「今夜はぐっすり眠《ねむ》るようにしますよ」  「そうしよう」  塚原の顔に、やっと笑《わら》いが浮《うか》んだ。  ——電話を切って、塚原は茶の間に戻《もど》った。何だか、一仕事して来たようで、疲《ひ》労《ろう》を感じる。  「明日《あした》は、ちょっと遅《おそ》くなるかもしれない」  と、塚原は言った。  「そう」  「打ち合せというか、要するに接《せつ》待《たい》なんだ。帰りは何時になるか分らない。先に寝《ね》ていてくれ」  「珍《めずら》しいわね。最近は、あんまり交《こう》際《さい》費《ひ》も出ないんでしょ?」  「安く切り上げるさ」  塚原は、少し冷《さ》めかけたお茶を飲んだ。もう、手は震《ふる》えていない。  「安く、っていえば……」  と、啓《けい》子《こ》は、ちょっと二階の方を気にして、「明美のピアノの先生、月《げつ》謝《しや》がまた上るのよ。どうしようかしら……」  「どうするっていっても——」  「別に音楽学校へ進むわけでもないんだし、もっと安い先生に変えさせようかしら」  「当人が、今の先生をいやだって言ってるのならともかく、楽しんで行ってるみたいじゃないか」  「そりゃそうだけど」  「それぐらい、何とかなるさ」  ——そうだとも、と塚《つか》原《はら》は、心の中で呟《つぶや》いた。  明日《あした》になれば——うまく行けばの話だが——一億円が俺《おれ》たち三《ヽ》人《ヽ》の手に入るんだ。  少々の月謝の値《ね》上《あが》りなんか、どうってことないさ。あの、中古のピアノだって、買い替《か》えられる。グランドピアノにでもするか……。  「それで、いくら上るんだって、月謝?」  と、塚原はつい無《む》意《い》識《しき》の内に、啓子に訊《き》いていた。    塚原からの電話を終えて、津《つ》村《むら》は、せかせかと部《へ》屋《や》の中を歩き回った。  といって、そんなに広いわけではない。公《こう》団《だん》住《じゆう》宅《たく》の3DKに、やたらと家具が多い。  歩けるスペースは限《かぎ》られているから、同じコースをグルグル回っているだけなのである。  「とうとう来たぞ……。ついに、その日はやって来た!」  いささか芝《しば》居《い》がかった口調で呟《つぶや》いている津《つ》村《むら》光《みつ》男《お》は三十六歳《さい》。いわゆる「ベビーブーム」に生れた世代で、入学、就《しゆう》職《しよく》、結《けつ》婚《こん》、と常《つね》にラッシュにもまれて来た。  だから、まださほど老《ふ》けているという年齢《とし》ではないのだが、どことなく諦《あきら》めの境《きよう》地《ち》に達した人間の穏《おだ》やかさをそなえている。  激《はげ》しい執《しゆう》着《ちやく》心《しん》とか、どろどろした欲《よく》望《ぼう》とかにはあまり縁《えん》のない人《ひと》柄《がら》だった。アッサリと淡《たん》泊《ぱく》で、く《ヽ》せ《ヽ》がない。  誰《だれ》からも嫌《きら》われもしないが、目立つこともない。また、自ら目立とうという意思も持っていない。  従《したが》って、当然のことながら、あまり出世もしないのである。  見た目も、まあ「十人並《なみ》」というか「平《へい》凡《ぼん》」というか、良く言えば「見《み》飽《あ》きない」顔をしている。このところ少し太って来たのは、ビールを飲むせいかもしれない。  「ハクション!」  津村は派《は》手《で》に一つクシャミをした。  それも当然で、風《ふ》呂《ろ》上りで塚《つか》原《はら》の電話に出て、そのまま裸《はだか》にバスタオル一つ、腰《こし》に巻《ま》きつけて、歩き回っていたのである。  「——そうか。電話をかけなきゃ」  津村は、クシャミのおかげで、ハッと我《われ》に返った。  先に服を着ようか、と思ったが、もし妻《つま》の華《はな》子《こ》が風《ふ》呂《ろ》から出て来てしまうと困《こま》る。  「そう長話になるわけでもないしな」  と呟《つぶや》くと、電話に手を伸《の》ばした。  向うがなかなか出ないので、津《つ》村《むら》は、ちょっと苛《いら》々《いら》しながら、浴室の方へ目をやった。  しかし、向うは独《ひと》り暮《ぐら》しなのだから、なかなか出られないことだってあるだろう。それは仕方ない。  「——はい、浦《うら》田《た》です」  ああ、やっと出たか。  「あの、もしもし。——津村です」  「どうも」  何だ、いやに落ちついてるな、と津村は思った。  「ええと——塚《つか》原《はら》さんから電話をもらったんで、それで……。明日《あした》、ですね」  「そうです」  「じゃ、予定通りで……」  「そうです」  浦田京《きよう》子《こ》の言い方は、いつもながら、素《そつ》気《け》ないものだった。——明日、一億円が手に入るかどうかという期待に、胸《むね》を踊《おど》らせている風でもなかったのだ。  津村は、電話を切った。  浦田京子から塚原へ、塚原から津村へ、そして津村が浦田京子へと、確《かく》認《にん》電話を入れる。——「三人組」の打ち合せ通り、連《れん》絡《らく》網《もう》は終結した。  「やれやれ……」  津村は、浦田京子の冷静な口調で、少し緊《きん》張《ちよう》がほぐれるのを感じた。  そうだ。あんまり固くなってピリピリしてたら、何かヘマをやるぞ。リラックスして、いつも通りの顔で出社して、仕事をするんだ。  三人の中で一番落ちついているのは、浦田さんかもしれないな、と津村は思った。  「ハクション!」  津村は、また派《は》手《で》にクシャミをした。——まだバスタオル一つの裸《はだか》だったのだ。  これじゃ、明日《あした》風邪《かぜ》を引いて熱でも出しかねない。津村はあわてて下着を出して来た。  「あら、あなた——」  妻の華《はな》子《こ》が、風《ふ》呂《ろ》から出たところだった。  当然、夫と同様、バスタオルを体に巻《ま》きつけただけである。  「まだ裸でいたの?」  「え? いや——ちょっと電話をかける用があったんだ」  「服を着てからにすればいいのに」  と、華子はクスクス笑《わら》った。  華子は二十九歳《さい》だが、子《こ》供《ども》がいないせいか、まるで自分が子供みたいなものである。五人兄《きよう》妹《だい》の末っ子で、のんびりおっとり育ったので、およそ浮《うき》世《よ》離《ばな》れしている。  「うん。ただね。思い立ったときにかけないと忘《わす》れちまいそうで……」  と、津《つ》村《むら》は曖《あい》昧《まい》に笑《わら》いながら言った。  「私が出て来るのを待ってたの?」  津村はキョトンとして、妻《つま》の顔を見た。  「——たまには悪くないわね。新《しん》婚《こん》のころにはよくあったわ。一《いつ》緒《しよ》にお風《ふ》呂《ろ》に入って、そのままベッドに——」  「そ、そうだったね。でも、シーツが濡《ぬ》れて後で大変だったぜ」  「洗《せん》濯《たく》するのは私なんだから、構《かま》やしないじゃないの……」  華《はな》子《こ》の目がトロンとして来る。——こりゃ、だめだ。もうその気になっちまってる。  津村は、抱《だ》きついて来た華子の、まだ湯上りのほてりの残った体を抱きとめて、明日《あした》のことばっかり考えて、変に緊《きん》張《ちよう》して眠《ねむ》れなくなるよりは、いっそ……と思った。  「よし、行こう!」  津村は、華子をヒョイとかかえ上げて、言った。    浦《うら》田《た》京子は、ちょうどそのころ、自分のアパートのお風呂に浸《ひた》っていた。  六畳《じよう》一間に、三畳くらいのダイニングキッチンという、ごくありふれた造《つく》り。お風呂も、のんびり手足を伸《の》ばすほどの大きさではなかった。  「明日《あした》だわ……」  と浦《うら》田《た》京子は呟《つぶや》いてみた。  いよいよ、明日が決行の日。  そう自分に言い聞かせてみても、浦田京子は一向に興《こう》奮《ふん》も緊《きん》張《ちよう》もして来なかった。それは、ある意味では寂《さび》しいことでもある。  既《すで》に、会社に十八年。三十八歳《さい》になった独《どく》身《しん》OL。  少々のことでビクついたり、あがったりすることのないのは当り前としても、何しろ明日は一億円という大金を——それも、まともな手《しゆ》段《だん》でなく——手に入れようとしているのだ。少しは気負いや恐《おそ》れの気持があってもいいような気がするのだが、まるでなし。  何だか、手帳にでもメモしておかないと、忘《わす》れて帰っちゃいそうだわ、と浦田京子は、苦《く》笑《しよう》混《まじ》りに思った。  会社の中でも、「怖《こわ》いものなし」で通っている京子だが、当人は、デリケートな神《しん》経《けい》の持主と自負している。  「これじゃ、ちょっと怪《あや》しいわね」  と、湯《ゆ》舟《ぶね》につかって、京子は呟いた。  一人で、のんびりとお風《ふ》呂《ろ》に入っている、この時間が、京子は一番好《す》きだった。これでもっと広いお風呂——温《おん》泉《せん》みたいな——だといいんだけど。  京子の趣《しゆ》味《み》は、時々一週間ぐらい休みを取って、田舎《いなか》の温泉に行き、一日に五回も六回もお湯に浸《ひた》って、のんびりと過《すご》して来ることだった。  これはもうずっと若《わか》いころからのことで、  「年《とし》寄《より》じみてる」  と、よくからかわれたものだが、最近は結《けつ》構《こう》若い人たちの間で、温《おん》泉《せん》ブームになっている。分らないものだ。  京子はたっぷり一時間近くかけて入浴を済《す》ませてから、パジャマを着て、TVをつける。教育TVの、ドイツ語講《こう》座《ざ》を見るのである。  ちょうどTVの真正面にちゃぶ台を持って来て、寺小屋よろしく正《せい》座《ざ》する。テキストとノート、鉛《えん》筆《ぴつ》。きちんと並《なら》べる。  学校と違《ちが》うのは、大きなモーニングカップでインスタントコーヒーを飲むことぐらいだ。  仕《し》度《たく》を終えると、ちょうど番組が始まる。このタイミング、いつも十秒とずれることはない。  TVに、日本人の講《こう》師《し》が出て来て、  「皆《みな》さん今《こん》日《にち》は」  とにこやかに挨《あい》拶《さつ》する。  京子の方も、つい、今日はと言いそうになってしまうのだ……。  京子は、地味で目立たない女《じよ》性《せい》である。  もちろん、その辺の係長辺《あた》りよりはずっと古顔だから、みんなも一目置いているが、別に口やかましいとか、とげとげしいところはない。仕事もきちんとこなすので、上司に頼《たよ》りにされている。  しかし——虚《むな》しいのだ。どこか、ポカッと穴《あな》があいたようで。時々、寒々とした風が、京子の中を吹《ふ》き抜《ぬ》けて行くのである。 その日—— 目《め》覚《ざま》し時《ど》計《けい》が鳴り出した。  塚《つか》原《はら》啓《けい》子《こ》は、すぐに目を覚《さ》まして、急いで時計の方へ手を伸《の》ばした。ベルを止めて、ホッと息をつく。  もっとも、こんな音ぐらいで目を覚ます夫ではないから、あわてて止めなくてもいいのだが。そう思って、ヒョイと隣《となり》の布《ふ》団《とん》を見る。  「あら」  と、啓子は起き上った。  夫の布団は、もう空《から》だった。——トイレにでも行ったのかと思ったが、それにしては、きちんと直してあるし、シャツや靴《くつ》下《した》も見えなくなっている。  起き出したのだ。啓子は、時計を見直した。  いつもの通りだ。別に、寝《ね》坊《ぼう》したわけでもない。それなのに……。  「どうしたのかしら……」  啓子は呟《つぶや》きながら、布《ふ》団《とん》を出て、大《おお》欠伸《あくび》をした。  茶の間へ行くと、塚《つか》原《はら》が、ちゃんとネクタイまでしめて、新聞を開いている。  「あなた——」  「ああ、おはよう」  塚原は、顔を上げた。  「こんなに早く、どうしたの?」  「いや、何となく目が覚《さ》めただけさ」  「また寝《ね》ればいいのに……。すぐ仕《し》度《たく》するから待ってて」  洗《せん》面《めん》所《じよ》へ急ぐ啓子に、  「ゆっくりでいいよ」  と、塚原の声が追いついて来た。  ——妙《みよう》だわ。どうしたのかしら?  啓子は顔を洗《あら》い、服を着て、まだ少しぼんやりしている頭をブルブルッと振《ふ》った。  朝の仕度といっても、そう時間がかかるわけではない。このところ、塚原の朝食は、パンとミルクだったからである。それに、弁《べん》当《とう》も持って行かない。  「すぐ、パンを焼くわ」  と、啓子が台所へ入って行くと、  「おい」  と、塚原が声をかけた。  「ゆうべのみそ汁《しる》は残ってるか?」  「残ってるけど——どうして?」  「今朝《けさ》はご飯とみそ汁が食べたいんだ」  「そう……」  啓子は、ちょっと面くらって、「でも——おかずがないわよ」  「構《かま》わん。何か漬《つけ》物《もの》でもあれば」  「卵《たまご》でも焼く?」  「ああ、そうしてくれ」  啓子は、すっかり調子が狂《くる》ってしまっていた。塚原が、時々気まぐれを言い出す性《せい》格《かく》の男なら、そうびっくりもしないのだが、実《じつ》際《さい》はまるで逆《ぎやく》で、何事も一《いつ》旦《たん》これと決めたら、そう簡《かん》単《たん》には変えない男なのだ。  ネクタイだって、背《せ》広《びろ》だって、啓子が適《てき》当《とう》に時期を見て変えてやっているので、そうでなければ、いつまでも同じものを身につけているに違《ちが》いない。  塚原は、啓子が急いで焼いた目玉焼と、ゆうべの残りのみそ汁で、いかにも旨《うま》そうにご飯を食べた。  その様子を、啓子は、複《ふく》雑《ざつ》な気分で眺《なが》めていた。——夫がいつもと違うことをする。  これは、結《けつ》婚《こん》生活始まって以来の珍《ちん》事《じ》と言っても、よかった。  「——早く起きると、ゆっくり食べられていいもんだな」  と、残ったご飯にお茶をかけながら、塚原は言った。  「そうね……」  「この家も、もうずいぶん住んだもんだなあ……」  と、しみじみとした口調で言って、茶の間の中を見回す。「お前にも、ずいぶん苦労をかけた」  啓《けい》子《こ》は、気《き》味《み》が悪くなった。夫がこんなことを言い出すなんて、どうしちゃったんだろう?  「明《あけ》美《み》も、あんなに大きくなったし。——俺《おれ》は幸せだよ」  「あ、あなた」  と、啓子は思わず身を乗り出していた。「早まったことはしないでね! 何があっても、三人で助け合って生きて行けばいいんだから!」  今度は塚原の方がキョトンとして、  「早まったこと? 何だ、そりゃ?」  「いえ——別に」  啓子は、あわてて首を振《ふ》った。「だって、あなたが何だか変なこと言うから……」  「そうかい? 考え過《す》ぎだよ」  と、塚原は笑《わら》って、お茶《ちや》漬《づけ》をかっ込《こ》んだ。「さて、そろそろ出かけるか」  「あなた、お小づかいが足りないんじゃない? 少し入れる?」  「先週もらったばっかりだぜ」  塚原はニヤリと笑《わら》って、「どうしたんだ? 今朝《けさ》はいやに優《やさ》しいじゃないか」  「そうでもないけど……」  啓子としては、どう考えていいのか、分らないのである。確《たし》かに、夫の様子は、いつもとは違《ちが》う。でも、どこがどう違うかという点になると、さっぱり分らないのだ。  塚原は、何か忘《わす》れ物でもしたのか、二階へ上って行った。  「でも——変だわ」  と、啓子は、呟《つぶや》いた。  啓子は、夫が必ずしも会社で、充《じゆう》実《じつ》した日々を送っていないことを知っていた。  塚原は、至《いた》っておとなしい、気の優しい男である。生来の人の良さが、何をしても現《あら》われる。  会社でも、人を押《お》しのけても出世したいとは思っていなかった。だから、一向にパッとしない……。  「キャーッ!」  二階から、明美の叫《さけ》び声が聞こえて来て、啓子はびっくりした。  あの度《ど》胸《きよう》のいい明美が悲鳴を上げるなんて——。  啓子があわてて茶の間を出ると、塚原がドタドタと階《かい》段《だん》を降《お》りて来て、  「行って来る!」  と一《ひと》言《こと》、上《うわ》衣《ぎ》を着ながら、玄《げん》関《かん》へと駆《か》け出して行った。  「——どうなってるの?」  啓子は思わず呟《つぶや》いた。  「お母《かあ》さん」  と、声がして、明美がパジャマ姿《すがた》で、降《お》りて来る。  「明美、どうしたの? あんな凄《すご》い声出して」  「こっちこそ訊《き》きたいわよ!」  と、明美は憤《ふん》然《ぜん》として言った。「せっかく人がぐっすり眠《ねむ》ってるのに」  「どうしたっていうの?」  「何だか気《け》配《はい》を感じたの。誰《だれ》か、こう——すぐ近くにいるような。で、ふっと目を開くと、お父《とう》さんが、私の顔をじーっと覗《のぞ》き込《こ》んでるんだもの」  「お父さんが?」  「そうよ。私の顔から二十センチくらいのところに、顔があって。——もう、びっくりして、悲鳴ぐらい上げるわよ」  あーあ、と明美は頭を振《ふ》って、「どうしちゃったの? まさか、お父さん、欲《よつ》求《きゆう》不満で私《わたし》の方に——」  「変なこと言わないでよ!」  と、啓子は顔をしかめた。「でも……」  確《たし》かに、どうかしてるわ、あの人。  啓子は、不安な面《おも》持《も》ちで、ため息をついた……。    やれやれ、こんな風じゃだめだな。しっかりしろ!  塚原は、バスに乗り込《こ》んで、ホッと息をついた。  ——やっと、この辺も、朝の寒さはやわらいで来た。もう三月になろうというのに、ついこの間までは、身を縮《ちぢ》めるほどの寒い朝が続いたものである。  ともかく郊《こう》外《がい》なのだから仕方ないとはいえ、駅の周辺なら、そう寒くもない。しかし、塚原の家は、駅から、さらにバスで二十分も乗るのだった。  明美の通っている私《し》立《りつ》校は、割《わり》合《あい》に近いので、通学は楽だが、その代り父親の通《つう》勤《きん》は、正にちょっとした「遠足」だった。  塚原は、バスの一番奥《おく》の方へ行って、空席を見付けると、腰《こし》をおろした。  こんな「奥《おく》地《ち》」の建売住《じゆう》宅《たく》だが、それでも塚原が越《こ》して来てから、年々人口は増《ふ》え続けている。バスの本数もいくらか増《ふ》えたが、それでも、以前なら半分も席が埋《うま》っていなかったのに、今は空席を捜《さが》すのに手間取るようになった。  もう半年もすれば、座《すわ》れなくなるだろうな、と、塚原は思った。それまでに、どこか、もっと便利な所へ引《ひつ》越《こ》せるだろうか?  一億円。  塚原のような、ごく平《へい》凡《ぼん》なサラリーマンにとっては、単なる数字に過《す》ぎない金《きん》額《がく》である。  もちろん、会社の取引などで、何億という金が動くことはあるが、それはただ、伝票と、小切手と、そして銀行口《こう》座《ざ》への振《ふり》込《こみ》用紙の上だけのことだ。  もし、その金《きん》額《がく》の札《さつ》束《たば》が目の前にあって、全部、自分のものだとしたら、どんな気がするだろう? 塚原には見当もつかなかった。  しかし、今、そ《ヽ》れ《ヽ》を現《げん》実《じつ》のものにするべく、塚原は会社へと向っているのだった。  今日がその当日だといっても、一向に実感はない。おそらく、津《つ》村《むら》もそうだろう。  浦《うら》田《た》京子は? 彼女《かのじよ》は、この計画に加わった三人の中でも、一番落ちついている。  現実の問題として、あれこれ可《か》能《のう》性《せい》を考えていることだろう。  頼《たよ》りないもんだな、男なんて、と塚原は苦《く》笑《しよう》した。万一失敗して、逮《たい》捕《ほ》されたりしたとき、家族の受けるショックを考えると、塚原もつい気が弱くなる。  だから、あんな風に、まじまじと明美の寝《ね》顔《がお》を覗《のぞ》き込《こ》んだりして、驚《おどろ》かせてしまったのだが……。  「だめだな、こんなことじゃ——」  と、塚原は呟《つぶや》いた。  やっと、バスは駅に着いた。時間に余《よ》裕《ゆう》のないグループが、ワッと駅の改《かい》札《さつ》口《ぐち》へと駆《か》け出して行く。塚原は、早目に出ているので、ゆっくり降《お》りて間に合うのだ。  いつもの通り、定期券《けん》を見せて、改札口を通る。何も考えなくても、手の方が勝手に動いてくれるのも、長年の習《しゆう》慣《かん》だ。  ——そう。  何もかも、いつもの通りである。  電車も遅《おく》れているし(朝は、遅れているのが、いつもの状《じよう》態《たい》なのだ)、ホームには、二本目の電車を待つ列までできている。  二本目だと——運さえ良ければだが——座《すわ》って行けるのである。塚原は、そこまでする気にはなれなかった。  もっとも、あと何年かして、混《こ》んだ電車で立って行く五十分間が、体に応《こた》えるようになったら、どうなるか分らないが……。  「——乗って来るかな」  と、塚原は、やって来た電車に乗り込《こ》みながら、呟《つぶや》いた。  津村が、時々、この三つ先の駅から、同じ電車に乗って来るのだ。  電車が動き出す。——まだ、身動きもならないという混み方ではない。  窓《まど》の外の景色が、山や林の間に家がある、という光景から、徐《じよ》々《じよ》に家《いえ》並《なみ》で埋《う》め尽《つ》くされて来ると、当然、車内も人で一《いつ》杯《ぱい》になる。  この朝、津村は乗って来なかった。前の晩《ばん》、華《はな》子《こ》を相手に頑《がん》張《ば》って、寝《ね》坊《ぼう》してしまったのである……。    「おはようございます」  浦田京子が、いつもの通り、席《せき》から声をかけて来た。  「おはよう」  塚原は、自分の席の方へ歩きながら、改めて感心していた。  全く、いつもの通りの様子をしている。大した女《じよ》性《せい》だ。  もちろん、俺《おれ》だって、いつも通りに振《ふる》舞《ま》ってはいるつもりだが……。しかし、はた目にもそう見えるか、自信はない。  まあ、もともと、あまり人の目をひく存《そん》在《ざい》ではないのだから、その点は楽である。  始業まで、まだ十五分あるので、オフィス内はガラ空《あ》きだ。  塚原は、〈脇《わき》元《もと》通商株《かぶ》式《しき》会社〉の総《そう》務《む》課《か》の係長である。四十八歳《さい》で係長だから、あまり威《い》張《ば》れたものではない。しかも、この先、停年まで勤《つと》め上げても、よほど、予想外の出来事が起らない限《かぎ》り、課長になれる見《み》込《こ》みもなかった。  決して入社が遅《おそ》かったわけではない。二十三歳で入社。二十五年間、真《ま》面《じ》目《め》に勤めて来た……。  「どうぞ」  浦田京子が、いつもの通りお茶を持って来てくれる。  「ありがとう」  と、塚原は言った。「やっと暖《あたた》かくなって来たね。——いや、都心の方はとっくに春になってたのかな」  「アパートへ帰ると寒いですわ」  と、浦田京子は言った。「独《ひと》り住いだと、布《ふ》団《とん》も干《ほ》せませんし」  何となく生活の匂《にお》いを感じさせない浦田京子が、「布団を干す」なんて言うと、どうも妙《みよう》な感じだった。  といって、別に彼女《かのじよ》が女らしくない、というのではない。  中肉中《ちゆう》背《ぜい》で、きりっとした顔立ち。容《よう》姿《し》は整っている、と言ってもいいのではないか。  しかし、およそ「華《はな》やかさ」のない女《じよ》性《せい》なのである。服《ふく》装《そう》などからいってもそうだ。  「係長」  と、浦田京子は、いつもの声で言った。「お昼休みに、打ち合せを」  「うん?——ああ、そうか。分った」  一《いつ》瞬《しゆん》、塚原は戸《と》惑《まど》った。てっきり仕事の話かと思ったのだ。  「津村君にも言っておくよ」  と、塚原は、湯《ゆ》呑《の》み茶《ぢや》碗《わん》を取り上げた。  「私《わたし》から伝えましょうか」  「そうだな。君の方が確《かく》実《じつ》そうだ」  塚原の言葉に、浦田京子は初めて微《び》笑《しよう》を見せた。  同じ電車で来たらしい十人ばかりが、ワッとオフィスに入って来て、浦田京子は席へと戻《もど》って行った。  さて。——始まるぞ。  塚原は、まだ空席の目立つオフィスの中を見回した。  昼休みまでが、いやに長かった。  いつもなら、割《わり》合《あい》に忙《いそが》しい時期なのだが、今日に限《かぎ》って、あまり仕事がない。却《かえ》って、苛《いら》立《だ》ちがつのった。  津村は、かなり忙しそうで、電話をかけまくっている。浦田京子は、いつもマイペースだ。  三者三様で、やっと十二時のチャイムを迎《むか》えた。  塚原は、いつも通り、財《さい》布《ふ》を手に、少しのんびりとオフィスを出た。たいてい一人で食べているので、誘《さそ》われることもない。  脇《わき》元《もと》通商は、八階建のビルの一階から五階までを使っていた。大体、ビル自体が〈脇元ビル〉というのだ。  七年前に建ったときは、なかなかモダンないいビルだと思ったものだが、今では両側にもっと立《りつ》派《ぱ》なビルが建って、見すぼらしい感じになってしまった。  塚原のいる総《そう》務《む》課《か》は四階だった。  エレベーターで一階に降《お》り、ビルの裏《うら》手《て》の通用口から外へ出る。  打ち合せの場所は、前もって決めてあった。近所にある、うなぎ屋の二階だ。  そこならまず、同《どう》僚《りよう》とかち合うことはない。  二階の座《ざ》敷《しき》に上ると、もう津村と浦田京子は、先に来ていた。  「遅《おく》れて済《す》まん」  と、塚原は、畳《たたみ》にあぐらをかいた。  「そう時間はかかりませんわ」  と、浦田京子は言った。  「単《たん》純《じゆん》な戦《せん》略《りやく》こそ、いい戦略ですよ」  と、津村が肯《うなず》いて言った。  多少浮《う》かれているようだが妙《みよう》に思われるほどではない。  「今日《きよう》だというのは——」  「間《ま》違《ちが》いありません」  と、浦田京子が言った。「今朝《けさ》、出社の途《と》中《ちゆう》で、社長のマンションの前を通ったんです」  「何かあったのかい?」  「これまでの例からみて、前の晩《ばん》は必ず、秘《ひ》書《しよ》の久《く》野《の》が、社長のマンションに泊《とま》ります」  「なるほど」  「十分くらい、マンションの表で見ていたら、久野が出て来ました。スーツケースを持って」  「間違いないな。それが目的のものですよ」  津村がポンと膝《ひざ》を叩《たた》いた。「そっくりいただきだ!」  「うまくやろう。落ちついて、計画の通りにだ」  塚原は、穏《おだ》やかに言った。  うな重が来て、三人は食べ始めた。  「——あ《ヽ》れ《ヽ》が手に入ったら、毎日でもうなぎが食えるな」  と、津村が言ったので、塚原も浦田京子も笑《わら》い出した。  津村の「ささやかな」夢《ゆめ》が、いかにもおかしかったのだ。その笑いが、三人の固さをほぐしたようでもあった。 決 行  午後四時。  普《ふ》通《つう》の会社なら、まだこれから一仕事、という時間である。もちろん、脇《わき》元《もと》通商だって、営《えい》業《ぎよう》部員などは、これから会社に戻《もど》って来て、仕事である。  しかし、塚《つか》原《はら》のいる総《そう》務《む》課《か》は、大体五時で帰れる日が多かった。楽ではあるが、当然給料はあまり良くない。  五時で終り、となると、四時ごろから、何となく、課全体がのんびりムードになって来る。気の早い女子社員などは、トイレに立って、お化《け》粧《しよう》を直したりしているのである。  塚原は、大体、急ぎの仕事を片《かた》付《づ》けてしまうと、さめたお茶をちょっとすすって、オフィスの中を見回した。  雑《ざつ》然《ぜん》として、十年一日の如《ごと》く、どこも変りのないオフィス。ただ、変っていくのは人の顔だけである。  津《つ》村《むら》も、浦《うら》田《た》京子も、いつもの通りの様子で、仕事をこなしている。  ——怪《あや》しまれないように、会社に残る。これが、計画の第一歩である。  塚原は、係の会議を招《しよう》集《しゆう》しようと思っていた。急な議題があるわけではないが、そんなものは何とでもできる。  五時ピタリに終らせず、少し引き延《の》ばして、人が減《へ》るのを待つ。——これが一番自然な方法だ。  「おい、塚原君」  と、課長の呼《よ》ぶ声で、塚原はハッと我に返った。  「はい!」  課長の河《かわ》上《かみ》が、手《て》招《まね》きしている。河上の場合、向こうからやって来ることは考えられない。何しろもう停年直前である。  しかも、数年前に大病をして、めっきり弱ってしまった。七十といっても通用するくらいなのだ。  だから、実《じつ》際《さい》にはほとんど席を暖《あたた》めているだけの課長で、よくコックリコックリ、居《い》眠《ねむ》りをしていることもある。  それでも、人がいいので、あまりにらまれることも、苦《く》情《じよう》を言われることもない。河上の後《こう》任《にん》として決っている男が、かなりの「やり手」なので、河上が退《たい》職《しよく》するのを残念がる、のんびり社員も少なくなかった。  「——何か?」  「うん。君、今夜、何か予定あるか?」  河上は、テープの回転速度を間《ま》違《ちが》えたような、間のびした声で言った。  「といいますと……」  「何もなかったら、すまんが、会議に出てくれんか」  「会議ですか……」  「五時から、せいぜい一時間くらいで、話を聞いてるだけでいい。俺《おれ》はどうも具合が悪くてな……」  「はあ」  塚原は、ちょっと迷《まよ》った。確《たし》かに、河上の顔色は、いいとは言えなかった。  「すまんが、頼《たの》むよ、塚原君」  河上課長に重ねて頼まれ、塚原は、今日、他の係長がみんな外出していて、席にいないことに気付いた。  待てよ。これはいい機会かもしれない。  「分りました」  と、塚原は言った。「議事録は明日《あした》、お目にかければ——」  「いらんいらん」  と、河上が面《めん》倒《どう》くさそうに手を振《ふ》る。「どうせ読みゃせんよ。じゃ、頼《たの》むぞ」  「はい。ただ——私一人では、ちょっと心もとないので、津村君を同席させてもよろしいでしょうか」  「ああ、構《かま》わんよ」  「——係長」  いつの間に来たのか、浦《うら》田《た》京子がすぐ後ろに立っていた。「こちらに印を」  「ああ、分った」  「私、お茶を出しましょうか」  と、浦田京子が言った。  「そうしてくれるか?」  「はい。ご自分で、お淹《い》れになるのも大変でしょう。特に予定もありませんから」  「じゃ、頼むよ」  と、塚原は言った。  「浦田君はいいねえ、やさしくて女らしくて」  と、河上が相《そう》好《ごう》を崩《くず》す。  「ありがとうございます」  浦田京子は微《ほほ》笑《え》んだ。  臨《りん》機《き》応《おう》変《へん》に、パッと対《たい》応《おう》して来るところはさすがに浦田京子だ、と塚原は思った。  ともかく、これで、社に残る口実ができたわけである。しかも、自分から進んで残ったのではない。それなら疑《うたが》われることもあるまい。  なかなか好《こう》調《ちよう》だぞ、と塚原は席に戻《もど》りながら考えていた。椅《い》子《す》にかけると、  「おい、津村君!」  と、声をかける……。    いいことばかりでもなかった。  ともかく、会議が退《たい》屈《くつ》そのものだったのである。——忙《いそが》しい営《えい》業《ぎよう》あたりの人間が見たら、腹《はら》を立てたかもしれない。  回《かい》覧《らん》でも回せば済《す》むような伝達事《じ》項《こう》の朗《ろう》読《どく》が延《えん》々《えん》と続き、さすがに塚原も何度か欠伸《あくび》が出た。十人ぐらいの出席者の半分は、二十分後には居《い》眠《ねむ》りしていたのである。  しかも、一時間ぐらいと聞いていたのに、一時間半たっても、まだいつ終るか分らないような状《じよう》態《たい》で、塚原も、少し苛《いら》々《いら》して来た。  お茶を替《か》えに来た浦田京子が、  「係長、ちょっと」  と、声をかけた。  会議室を出ると、浦田京子は、周囲を素《す》早《ばや》く見回し、  「今、秘《ひ》書《しよ》の久《く》野《の》が社長室へ入って行きました」  と言った。  久野が社長室へ入って行った。  つまり、塚原たちの狙《ねら》う一億円が、今、社長室にあるということなのだ。塚原の胸《むね》は高鳴った。  「急ぐことはありませんわ」  と、浦田京子が言った。「いつも、出るのは夜中です。たっぷり時間はあります」  会議室から、津村が出て来た。  「どうしたんです?」  「おい、三人でヒソヒソやってちゃ、怪《あや》しまれるぞ」  と、塚原は声をひそめた。  「だって、眠《ねむ》くて仕方ないんですよ。顔でも洗わないことにゃ」  津村はそう言って大《おお》欠伸《あくび》をした。それがうつったのか、塚原も欠伸をして、それから笑《わら》い出した。  「よし。——会議の片《かた》付《づ》けを、わざとぐずぐずやって、残るようにしよう。タイムレコーダーは押《お》し忘《わす》れないようにしないとな」  「三人一度に押さないようにした方がいいですね」  と、浦田京子は言った。「私はロッカールームにいます。女子は他《ほか》に一人もいませんから」  「僕《ぼく》らは適《てき》当《とう》に、トイレかどこかにいよう。ともかく、オフィスの方は施《せ》錠《じよう》してしまうからな」  「会議が終って三十分したら、エレベーターの前に集まることに」  「分ってる」  塚原は肯《うなず》いて、会議室の中に戻《もど》った。少し立ち話をしたせいか、頭がスッキリした。  ——会議は、思ったほど長引かなかった。議長をしている部長が——もう七十五、六だったが——くたびれて来て、  「まあ、後は目を通しといてくれ」  の一言で、残りの三分の一くらいを片《かた》付《づ》けてしまったからだ。  これじゃ、我《わ》が社も少し合理化した方がいいな、と塚原は苦《く》笑《しよう》しながら考えていた。  寝《ね》ている課長たちを起こして回ったり、机《つくえ》を元の形に動かしたりして、やっと片付いたのは、それでも会議が終って二十分もたってからだった。  「——ご苦労さん」  と、塚原は言った。  「まだ誰《だれ》かいますかね」  「営《えい》業《ぎよう》の方はいるさ。このフロアにはいないだろう」  営業のセクションは、遅《おそ》いときには十二時ごろまで残っている。  それだけに、総《そう》務《む》のフロアは一《いつ》旦《たん》暗くして、鍵《かぎ》をかけてしまわないと、却《かえ》っておかしなものなのである。  「誰《だれ》も残ってないか?」  「今、見て回りました」  「よし、俺《おれ》たちも帰るか」  塚原は、「帰る」というところに、ちょっとアクセントをつけて、言った。  夜、十一時。  脇《わき》元《もと》ビルの前に、やたら車体の長い外車が停《とま》った。黒塗《ぬ》りの、いかにも重くて、ガソリンを食いそうなその車から、一人の男が降《お》り立つ。  脇元嗣《つぐ》夫《お》は、運転手がドアを開けるのを待っていない。車の運転はできないので、人任《まか》せにするのも仕方ないが、自分でできることに、人の力を借りる必要はない、というのが、脇元の考えだった。  いくら社長は遅《ち》刻《こく》にならないといったところで、こんな時間に出《しゆつ》勤《きん》して来るのは珍《めずら》しい。もちろん、ごく普《ふ》通《つう》の意味での出勤ではないのである。  脇元は五十五歳《さい》になったばかりだ。人に比《くら》べても、小《こ》柄《がら》で、体つきもどっちかといえば貧《ひん》弱《じやく》だったが、それでいて一種の威《い》圧《あつ》感《かん》のようなものを、周囲に感じさせた。  メガネの奥《おく》に光る目は、やはり鋭《するど》い。それに、あまり顔に表《ひよう》情《じよう》がないのも、特《とく》徴《ちよう》の一つだった。社員はほとんど、社長の笑《わら》った顔を見たことがない。  「——社長」  秘《ひ》書《しよ》の久《く》野《の》が、エレベーターの前に立っていた。「準《じゆん》備《び》は済《す》んでおります」  脇《わき》元《もと》は黙《だま》って肯《うなず》いた。  久野がエレベーターのボタンを押《お》す。社長室は五階にあった。  久野は、いかにも几《き》帳《ちよう》面《めん》に髪《かみ》をきちんと分け、三つ揃《ぞろ》いに身を固めて、誰《だれ》が見ても、  「あれは誰かの秘書じゃないか」  と思うようなタイプである。  見かけ通り、正《せい》確《かく》この上もない男だった。  「今夜はどうなさいますか」  と、久野が訊《き》いた。  「うむ」  脇元は、少し間を置いて、  「——麻《あざ》布《ぶ》にしておこう」  と言った。  「かしこまりました」  脇元には本《ほん》宅《たく》の他に、三つのマンションがあり、それぞれ、別の女《じよ》性《せい》が住んでいる。今夜は麻布の方へ泊《とま》る、という意味だった。  秘書の久野としては、緊《きん》急《きゆう》の際《さい》の連《れん》絡《らく》をどこへつけたらいいのか、知っておく必要があったのだ。  「誰《だれ》か残ってるのか?」  と、脇《わき》元《もと》はエレベーターを出ながら、訊《き》いた。  「営《えい》業《ぎよう》に二、三人。もう帰り仕《じ》度《たく》をしていました」  「仕事熱心で結《けつ》構《こう》だな」  と、脇元は、ちょっと唇《くちびる》の端《はし》を動かした。  笑《わら》ったつもりらしい。  社長室に入ると、中央のテーブルに、トランクが置かれて、そのわきに、ガードマンが座《すわ》っている。——おかしい、と気付いたのは久野だった。  ガードマンが、軽く頭を前に垂《た》れて、二人《ふたり》が入って来たのに、立とうともしなかったのだ。  久野がガードマンへと駆《か》け寄《よ》った。  「どうしたんだ?」  と、見ていた脇元が声をかける。  「分りません! どうも——」  久野がそう言いかけて、言葉を切った。——ガードマンが、ゆっくり横に体を傾《かたむ》けると、そのまま椅《い》子《す》から転げ落ちた。  「何てことだ!」  久野はガードマンの上にかがみ込《こ》んだ。  「死んでるのか?」  と、脇元が訊《き》く。  「いいえ。——息はしています。意《い》識《しき》を失っているだけのようで……」  「そのお茶は?」  テーブルに、ほとんど空になった湯《ゆ》呑《の》み茶《ぢや》碗《わん》が置かれている。  「さあ。多分、自分でいれて来たんだと思いますが……。では、中に薬でも?」  久野がハッと息を呑んだ。  「トランクを開けてみろ」  脇元は、無《む》表《ひよう》情《じよう》なままで言った。  久野がポケットから鍵《かぎ》を出し、トランクを開ける。冷静沈《ちん》着《ちやく》が背《せ》広《びろ》を着て歩いているような久野も、さすがにあわてているようで、取り出した鍵を、落としてしまったりしている。  やっと、トランクの蓋《ふた》が開いた。  「——やられました!」  久野の声は、かすれていた。脇元はテーブルの所まで、足早にやって来ると、空っぽのトランクをチラリと眺《なが》め、そのまま自分の椅《い》子《す》へと歩いて行った。  「すぐに一一〇番を——」  と言いかけて、久野は言葉を切った。  脇元が机《つくえ》の上の電話に手を伸《のば》していたのだ。  「——ああ、もしもし。脇元だが。——うん。実は、今夜はちょっと具合が悪くなったんだ。——いや、別にまずいことがあったわけではない。ただ、ちょっと私の体の具合がね。——ああ、いや、大したことはないよ。まだまだ長生きさせてもらうさ。——二、三日中に電話をする。間《ま》違《ちが》いなく。——それじゃ、おやすみ」  脇元は受話器を戻《もど》すと、ゆっくりと両手を組んで、息をついた。  「一一〇番するわけにはいかん。そうだろう? これはまともな金ではないんだ」  「はい」  久野は、目を伏《ふ》せた。「申し訳《わけ》ありません」  「問題は誰《だれ》がやったか、ということだ」  脇元は、立ち上った。「——明らかに、この金のことを知っていた人間だ」  「しかし、このことは、社内でも……」  「噂《うわさ》というやつは、どうしたって、防《ふせ》ぐことはできんものさ」  と、脇元は言った。  「何としても、犯《はん》人《にん》を見付けます」  と、久野が強い口調で言った。  脇元は、テーブルに近づくと、空のトランクを眺《なが》めた。  「いいか、間違えるな」  と、脇元は、久野に言った。「一番の問題は金ではない」  「は?」  久野が眉《まゆ》を寄《よ》せた。  「もちろん、大金だ。取り戻《もど》せれば、それに越《こ》したことはないが、しかし、この程《てい》度《ど》の損《そん》失《しつ》で首を吊《つ》る必要はない。分るか? 一番問題なのは、これを盗《ぬす》んだ奴《やつ》が、この金のことを知っている、という点だ」  久野は、ゆっくりと肯《うなず》いた。  「分りました」  「おそらく、そいつも、我《われ》々《われ》が警《けい》察《さつ》へ通《つう》報《ほう》できないと見《み》抜《ぬ》いているんだ。しかし、だからこそ、そいつを放っておくわけにはいかないぞ」  「必ず、見付けてごらんに入れます」  久野の口元が、細かく震《ふる》えていた。珍《めずら》しいことだ。怒《いか》りを、じっと押《おさ》えているのである。  「それにしても」  と、脇元が首を振《ふ》った。「鮮《あざ》やかにやられたもんだな」  その顔には笑《え》みさえ浮《う》かんでいた。    「ここでいいだろう」  と、塚《つか》原《はら》が言うと、津《つ》村《むら》はブレーキを踏《ふ》んだ。  車は、静かに停止した。——都内でも指折りの住《じゆう》宅《たく》地の一角である。  両側には、ただ高い塀《へい》が続いているだけだった。車はレンタカーである。津村が借りたのだった。  「ここなら、誰《だれ》も通らんさ」  と、塚原は言って、「——どうだね?」  と助手席から振《ふ》り向いた。  後部座《ざ》席《せき》では、浦《うら》田《た》京子が、札《さつ》束《たば》を一つ一つ、細かく点《てん》検《けん》していた。三つの山に、分けながら、である。  「もう少しです。急ぎますから」  「いや、のんびりやって下さい」  と、津村が言った。「どうせ今日は遅《おそ》くなると言って来たんだ」  「この辺は有名人も多いですから、パトロールが来るはずですわ。見られたら説明のしようがないでしょう?」  「そうか。気が付かなかった!」  塚原は首を振った。「他の所へ行くか」  「いいえ。これで終りですから」  浦田京子が、最後の札束を点検し終えた。  「大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》です。印のついているものも、続き番号もありません」  「やった!」  津村がギュッと拳《こぶし》を固めた。「一億円が僕《ぼく》たちのもんだ」  「いいえ、一億円じゃありませんでしたわ、今日は」  と、浦田京子は静かに言った。「二億円ありました」 長い夜  「さあ、乾《かん》杯《ぱい》だ」  と、塚原が言った。  「お疲《つか》れさまでした」  と、浦田京子が、コップを持ち上げる。  「成功に!」  津村が一番興《こう》奮《ふん》しているようだ。頬《ほお》が紅《こう》潮《ちよう》している。  三人は、二十四時間営《えい》業《ぎよう》のチェーンレストランに入っていた。乾杯、といっても、津村は運転をしなくてはならないので、みんなジンジャーエールである。  「アルコール抜《ぬ》きでも酔《よ》えそうだ」  と言って、津村は笑った。「急に腹《はら》が減《へ》って来たな。でも——大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》かな」  急に不安になった様子で、窓《まど》から駐《ちゆう》車《しや》場《じよう》を見下ろす。わざわざ、目の届《とど》く所に停《と》めて来たのだ。  「大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》だよ。誰《だれ》も知らないんだから」  と、塚原は笑《わら》った。「さあ、ゆっくり食事をしよう」  「私もお腹《なか》が空《す》きました」  と、浦田京子がメニューを開く。  「浦田さんが、お腹が空いたなんて言うの、初めて聞いたな」  「まあ。ガソリンでも補《ほ》給《きゆう》するロボットだと思ったんでしょ」  と、浦田京子は笑った。  車の中の二億円のことは、みんななぜか口に出さない。まるで、話題にしたら消えてなくなるとでも思っているように。  「——お決りですかあ」  と、眠《ねむ》そうな声を出して、ウエイトレスがやって来る。  「ええと……浦田君は?」  「私、このステーキを」  「ああ、僕《ぼく》もそうしよう。ライス大《おお》盛《もり》で」  津村が言った。  「じゃ、同じでいい」  塚原は言って、「おい、セットにすると、スープとコーヒーがついて二百円高いだけだ。これにしようか」  「ステーキセット三つですね」  と、ウエイトレスはメニューを集めて、退《さ》がって行く。  三人は、顔を見合わせて、何となく笑《わら》い出してしまった。  「二百円高いだけ、か。——どうもみみっちいなあ」  塚原は首を振《ふ》った。「身にしみついた経《けい》済《ざい》観念は変らんね」  「それはいいことだと思いますわ」  と、浦田京子は言った。「急にお金を使ったりしたら、目立ちます。これまで通りの生活をしないと」  「そりゃそうだけど、せっかく手に入れたんだ。少しは使わなきゃ」  「でも当分は控《ひか》えた方がいいですわ」  と、浦田京子は、他の二人《ふたり》の顔を見て、「危《き》険《けん》です。充《じゆう》分《ぶん》に用心しましょう」  ステーキが来て、三人はしばし食べることに専《せん》念《ねん》した。  「月に一度、これからは一流ホテルへ行って飯を食おう」  と、津村は言った。  もう、真先にステーキを平らげてしまっている。  「それくらいなら、怪《あや》しまれることもないでしょうね」  「浦田君はどうするんだ?」  と、塚原が訊《き》いた。「会社を辞《や》めるんだろう?」  「すぐには辞められません。目をつけられますもの」  「そんなに用心しなくたって。競馬で当てたとでも言っときゃ分りませんよ」  津村は呑《のん》気《き》なものである。いや、少々浮《う》かれているのかもしれない。  「社長が、この一《いつ》件《けん》を警《けい》察《さつ》へ届《とど》けないことはまず確《かく》実《じつ》です」  と、浦田京子は言った。「でも、それだからって、犯《はん》人《にん》を探《さが》さないとは思えません。見付かれば、表《おもて》沙《ざ》汰《た》になっていないだけ、却《かえ》って危《き》険《けん》ですわ」  「そうかもしれんな」  塚原は肯《うなず》いた。「まあ、ともかく慎《しん》重《ちよう》の上にも慎重に、だ。金があると思うだけでも、いい気分じゃないか」  「そうですね。僕《ぼく》も、会社なんて辞めちまいたいと思ってましたが、いざ、辞めても大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》なくらい金があると、辞めようとも思いませんね」  そんなものかもしれない、と塚原は思った。辞めたくても辞められないからこそ、人は辞めたいと願うのだ。  しかし、意外だった。塚原は、事があまりに簡《かん》単《たん》に運んだので、信じられないような思いだったのだ。  秘《ひ》書《しよ》の久《く》野《の》が金の入ったトランクを社長室へ運び込《こ》む。ガードマンが一人《ひとり》、そこにつく。久野が脇《わき》元《もと》を迎《むか》えに出る。  その間、ガードマンは一人になる。そのガードマンが、いつも自分でお茶を淹《い》れに行くく《ヽ》せ《ヽ》のあることを、浦田京子がつかんでいた。  給湯室の入口から、社長室のドアが見通せるので、油《ゆ》断《だん》するのも無《む》理《り》はないのだ。  津村が、エレベーターを、わざと無《む》人《じん》で、社長室のある五階のフロアへ上げる。エレベーターの扉《とびら》の開く音で、ガードマンがびっくりして様子を見に行くと、その間に、女子トイレに隠《かく》れていた浦田京子が、給湯室へ走って、お茶に薬を入れる……。  ——総《すべ》ては、あまりに計画の通りに運んだ。油断というのは怖《こわ》いもんだ、と塚原は思った。  一億、二億という金を、こんなにやすやすと盗《ぬす》まれるとは、向うも考えてもいなかったろう。油断大《たい》敵《てき》。——その言葉が今度は俺《おれ》たち三人に向けられることになるんだな、と塚原は心の中で呟《つぶや》いた。  「二つ、問題があります」  と、食後のコーヒーになったとき、浦田京子が言った。「一つは、金《きん》額《がく》が予想より大きかったことです。倍ですものね。この扱《あつか》いをどうするか……」  「一人六千万としても……二千万余《あま》る」  と、津村は夢《ゆめ》心《ごこ》地《ち》。  「全部分けてしまうか、それとも、予定外の分は別にしておいて、何か考えるか……」  「そうだなあ」  と塚原は腕《うで》組《ぐ》みをして、「突《とつ》然《ぜん》のことだし……。今夜、ゆっくり考えてみようじゃないか」  「そうですね」  浦田京子は微《ほほ》笑《え》んだ。「もう一つは、今夜あのお金をどうするか、なんです」  「銀行は明日《あした》にならんと開かないね」  もちろん、預《よ》金《きん》をするのではない、貸《かし》金《きん》庫《こ》を利用するのである。  「浦田さん、持ってて下さいよ」  と、津村が言った。「うちは女《によう》房《ぼう》の目があるし」  「そうだな。うちにも娘《むすめ》がいる。浦田君の所が一番安全だろう」  「ただ……」  と、浦田京子は言いかけて、ためらった。  「誰《だれ》も、浦田さんが持ち逃《に》げするとは思いませんよ」  「そうじゃないんです。もし、私が疑《うたが》われていた場合——そういうことも、あり得《え》ないわけじゃありませんわ——お金を全部、取り返されてしまう危《き》険《けん》があります。もちろん、誰が一《いつ》緒《しよ》にやったか訊《き》かれても、私は答えませんけど、分けておけば、それぞれ自分の分は助かるわけです」  塚原は、浦田京子の言葉に感心した。自分は年《ねん》齢《れい》的《てき》にもリーダーの立場にいながら、そんなことは考えてもみなかったのだ。  「——分けて持とう」  と、塚原が言った。「浦田君一人に危険を負わせるわけにいかない」  「分りました」  津村も肯《うなず》いて、「華《はな》子《こ》の奴《やつ》に見付からないようにしなきゃ」  と考え込《こ》んだ。  「じゃ、明日《あした》、朝、どこかで落ち合いましょう。私、それを貸《かし》金《きん》庫《こ》へ入れてから出社しますわ」  「変だと思われないかな」  「大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》です。歯医者にも寄《よ》って来ますから。そのために予約しておいたんです」  塚原は、浦田京子の話に、また感心した。  「——じゃ、行くか」  少し休んで、三人は立ち上った。  「せいぜいいい夢《ゆめ》を見ましょうか」  と、津村が笑った。  「ここは僕《ぼく》が払《はら》う」  と、塚原は言った。  ほんの何千円かだが、初めてのぜいたくであった。    塚原は帰《き》宅《たく》して、まだ明りが点《つ》いているのにびっくりした。  明《あけ》美《み》が起きているのかな、と思った。今の高校生は夜ふかしなど平気である。  しかし、玄《げん》関《かん》の鍵《かぎ》を開け、入って行くと、妻の啓《けい》子《こ》が出て来た。  「お帰りなさい」  「何だ。起きてたのか」  塚原は、ギクリとした。何しろ、手に下げた紙《かみ》袋《ぶくろ》には、七千万の現金が入っているのだ。  「何だかあれこれやってる内に十二時になっちゃったの。ついでだからと思って、起きてたのよ」  「そうか——」  塚原は上り込《こ》んだ。「明美はもう寝《ね》たのか?」  「残念でした」  ヒョイ、と明美が顔を出す。  「何だ、早く寝《ね》ないとだめじゃないか」  「何言ってんの、お父《とう》さんを待ってたんじゃない」  「俺《おれ》を?」  「そうよ。だって、今朝《けさ》の様子がおかしかったから、お母《かあ》さんが心配してたの。もしかしたら、会社で失敗でもして自殺するんじゃないかって」  「明美!」  と啓子がにらむ。「そんなこと言わないでしょ」  「そう思ってたくせに」  そうか。——塚原は苦《く》笑《しよう》した。自分では、今朝のことなどもうすっかり忘《わす》れていたのだ。  啓子と明美が、自分のことを心配して起きていてくれたと思うと、やはり嬉《うれ》しかった。  「それ、何のおみやげ?」  明美が、塚原の紙《かみ》袋《ぶくろ》に手を伸《の》ばした。塚原はあわてて、  「これは会社へ持って行く資《し》料《りよう》なんだ! 大事なもんだから、触《さわ》るなよ」  「ふーん」  明美は、ちょっと小《こ》生《なま》意《い》気《き》声を出して、冷やかすように、「お父さん、そんなに信用あるの、会社で」  「何を言ってるの」  と、啓子が明美をせき立てるようにして、「さあ、早く寝《ね》なさい!」  「はいはい。お邪《じや》魔《ま》はしませんわ」  ——口ばっかり達者になって、と塚原は苦《く》笑《しよう》した。しかし、父親が、さほど会社で重きをなしていないことは、分っているらしい。  「あなた、お風《ふ》呂《ろ》に入る?」  「うん。——ともかく、これを置いてくる」  塚原は、金の入った紙袋を手に、寝《しん》室《しつ》へ入って行った。持って帰って来たものの、どこへしまっておくか、考えていなかったのである。  もし、今夜強《ごう》盗《とう》でも入ったら、きっと大喜びするだろうな、と塚原は思った。  人間、誰《だれ》しも考えることは同じようなものらしい。  津村も、家へ入りながら、もし今夜強盗が入ったら、などと考えていた。何しろ七千万の現《げん》金《きん》があるのだ。こんな家は、めったにあるまい。  ただ、塚原と違《ちが》ったのは、こちらは妻《つま》の華《はな》子《こ》が起きていなかったことである。  津村は寝《しん》室《しつ》を覗《のぞ》いて見た。華子は、かなり壮《そう》大《だい》な寝《ね》息《いき》をたてて眠《ねむ》りこんでいる。  どんなに疑《うたぐ》り深い医者だって、この寝息を聞けば、華子の健康に太《たい》鼓《こ》判《ばん》を押《お》したに違《ちが》いない。  津村は安心して、まず金の入った紙《かみ》袋《ぶくろ》を、カメラとか、大工道具の類の入れてある戸《と》棚《だな》へ押《お》し込《こ》んだ。華子が、開けそうもない所である。  「——一風《ふ》呂《ろ》浴びるか」  と、服を脱《ぬ》ぎながら呟《つぶや》く。  明日《あした》の仕事のことを考えれば、さっさと寝た方がいいだろうが、ともかく、興《こう》奮《ふん》しているせいで、ちっとも眠くない。風呂にでも入って体をほぐさないと、とても寝つけまい。  風呂のお湯はもう落としてあった。新しくお湯を入れながら、津村は、のんびりTVをつけ、新聞を広げた。  何だか見る気にもなれないバラエティー番組も、こういう気分のときは、腹《はら》が立たない。人間、金があると思うと、こうも寛《かん》大《だい》になれるものか、と津村は思った。  地《じ》獄《ごく》の沙《さ》汰《た》も金次第、ということは、この世の沙汰はもっと金次第なのだ。ちょっと情《なさけ》ない話だが、それが現《げん》実《じつ》なのである。  七千万円。——少々減《へ》ったとしても、五、六千万にはなる。  一戸建てのマイホームを買うか、それともここにいて、車でも買うか。——そりゃ、浦田京子の言うように、金づかいが突《とつ》然《ぜん》荒《あら》くなったら、怪《あや》しまれるだろうが、家や車なんて、ローンで買った、と言っておけば分りはしない。  せっかく手に入れた金だ。少しは使わなくちゃ。——何のために危《あぶな》い橋を渡《わた》ったのか分らないじゃないか!  ——お湯が入って、津村はたっぷり一時間近く、風《ふ》呂《ろ》に入っていた。元来はそう長風呂でもないのだが、このちまちました風呂が、まるで温《おん》泉《せん》の大浴場みたいにすら思えたのである。  いい加《か》減《げん》のぼせて、やっと出て来ると、津村は大きな欠伸《あくび》をした。これで、気持よく眠《ねむ》れそうだ。  「——あなた」  突《とつ》然《ぜん》、華《はな》子《こ》の声がして、津村はギョッとした。  「華子! 起きてたのかい?」  「目が覚《さ》めたのよ。——あなた、これ、どういうこと?」  リビングのテーブルに積み上げられた札《さつ》束《たば》を見て、津村の眠《ねむ》気《け》は一度にふっ飛んでしまった。  「そ、それは……」  津村は、突然のことで、もっともらしい説明を、どうにも思い付けなかった。  もっとも、どんなに口達者な男でも、普《ふ》通《つう》のサラリーマンが急に七千万もの現《げん》金《きん》を持って帰って来たのを、妻《つま》に納《なつ》得《とく》させるのは容《よう》易《い》でない。  「お隣《となり》の人に、カメラを貸《か》してくれって昼間頼《たの》まれたの。今、目を覚《さ》ましてから、思い出したんで、忘《わす》れない内に出しとこうと思ってね。——これ、本物のお金?」  華子の方も、訳《わけ》が分らない様子だ。まさか夫が盗《ぬす》んで来たとは思うまい。  「う、うん。まあ——たぶんね」  「あなた、パンツぐらいはいたら?」  言われて、津村は初めて、腰《こし》に巻《ま》いていたバスタオルが落っこちてしまっているのに気付いたのだった……。    「——拾った?」  と、華子は訊《き》き返した。  「うん、そうなんだ。タクシーに乗るときに、酔《よ》ってたんで、気が付かなかったんだ。きっと前の客が置いて行ったんだよ」  と、津村は言った。  パジャマを着ている間に、やっと思い付いたのが、この面白くもない説明だった。  「じゃ、運転手さんに言えばいいのに」  「それが、タクシーの中でウトウトしちまってね。降《お》りるとき、つい無《む》意《い》識《しき》に一《いつ》緒《しよ》に持って来ちまったんだよ」  「——いくらあるの?」  と、華子は訊いた。  「うん……。さっき数えたら——七千万ぐらいかな」  「七千……」  華子はポカンとして夫を見つめた。  「まあ——どうしたもんか、明日《あした》にでも相談しようと思ってたんだよ。よく眠《ねむ》ってるみたいだったから、起こすのもどうかと思ってね」  津村は、せっかく風《ふ》呂《ろ》に入ったのに、また汗《あせ》をかいていた。——これで華子が、この金を警《けい》察《さつ》へ届《とど》けるなどと言い出したら、どうしよう?  落し主が出ないのはともかく、こんな話が知れ渡《わた》ったら、脇《わき》元《もと》社長には、誰《だれ》が金を盗《ぬす》んだか分ってしまう。ここは何とか、金を隠《かく》すように、華子を説《せつ》得《とく》しなくてはならない。  「落した人が大《おお》騒《さわ》ぎしてるでしょうね」  と、華子は言った。  「そ、そうだろうね、うん」  「もし、届《とど》け出なかったら?」  「僕《ぼく》が?」  「いえ、落し主が。——そしたら、このお金、きっといわくのあるものだってことね」  華子の顔に、やっと笑《え》みが浮《うか》んだ。「ねえ、私、前からミンクのコートが欲《ほ》しいと思ってたのよ!」 生れ変った朝  塚《つか》原《はら》は、口《くち》笛《ぶえ》を吹《ふ》きながら起き出して来て、啓《けい》子《こ》をびっくりさせた。  「おはよう!」  「あなた……。何だか楽しそうね」  啓子は、ちょっと無《む》理《り》にこしらえた笑《え》顔《がお》を見せて言った。  「いい朝じゃないか! こんなにいい朝は生れて初めてだ!」  塚原は、やおらエイ、ヤッ、と体《たい》操《そう》などを始めた。  「あなた。——今朝《けさ》も、みそ汁《しる》とご飯にする?」  「うん? ああ、何でもいい。ステーキだって食えるぞ! ハハ……」  啓子は、ポカンとして夫を眺《なが》めていた。  昨日《きのう》の朝は何だか妙《みよう》なことばっかり言ってたと思ったら、今日《きよう》はやたら張り切っちゃって……。どうかしちゃったのかしら?  「じゃ、ベーコンエッグか何かで……」  「ああ、いいね。卵《たまご》は二つにしてくれ」  「はいはい」  啓子は頭を振《ふ》って台所へと急いだ。  塚原は、ガラス戸を開けて、猫《ねこ》の額《ひたい》、といったら猫から苦《く》情《じよう》が出るかもしれない、狭《せま》い庭に下りた。  いい朝だ、ったって、実《じつ》際《さい》にはどんより曇《くも》っていて、今にも雨になりそうだ。それでも塚原は大いに活力に満ち溢《あふ》れていた。  それが、あの七千万円のせいだということは塚原にも分っていた。金があるから元気が出るなんて、俗《ぞく》物《ぶつ》的《てき》でいやだな、とも思うのだが、事実は素《す》直《なお》に認《みと》めるしかない。それに、にわか成金のように、馬《ば》鹿《か》げたことに金をバラまくつもりはなかった。  食《しよく》卓《たく》につくと、塚原はアッという間にベーコンエッグを平らげ、啓子を再《ふたた》び唖《あ》然《ぜん》とさせた。  「そうだ、啓子、お前、今夜は何か予定があるのか?」  「今夜? 私に予定なんてあるはずないじゃありませんか」  啓子は、最近の「カルチャーセンターブーム」を支《ささ》える主《しゆ》婦《ふ》たちとは違《ちが》って、あまり家から出ない。我《が》慢《まん》しているのなら、体に毒かもしれないが、生来、出《で》不《ぶ》精《しよう》で、家でのんびりしているのが性《しよう》に合っているのだ。  積極的に外へ出て行く、親しい主婦たちのことが羨《うらや》ましくはあった。あんな風に自分も出て行けたら……。新しい世界がひらけるかもしれない。  でも、啓子は、至《いた》って人見知りをする性《せい》格《かく》で、慣《な》れない所へ行くと疲《つか》れてしまうのだ。  「予定がなきゃ、たまには外で食事をしないか? どこか、一流のホテルで。どうだい?」  「あなた——突《とつ》然《ぜん》どうしたの?」  「いいじゃないか。おい、明《あけ》美《み》の奴《やつ》にも早く帰るように言っといてくれ。会社から電話するからな!」  正《まさ》に問答無《む》用《よう》である。    「津《つ》村《むら》君」  塚原は声をかけた。  「あ、おはようございます」  喫《きつ》茶《さ》店《てん》の奥《おく》の方のテーブルで、津村は、ちょっと腰《こし》を浮《う》かした。  まだ、朝の八時三十分である。  会社から少し離《はな》れた喫茶店が、三人の待ち合せ場所だった。こういうオフィス街《がい》の喫茶店は、遠方から出《しゆつ》勤《きん》して来るサラリーマンのためにモーニングサービスをしていて、八時ごろから開く店が多い。  ここも、その一軒《けん》だった。ただ、遠いので脇《わき》元《もと》通商の社員は、まず立ち寄《よ》らない。  「ゆうべはご苦労さん」  椅《い》子《す》に腰をかけて、塚原は言った。紙《かみ》袋《ぶくろ》をさり気なく足下に置く。津村の方は、ピッタリと体のわきに抱《だ》き寄《よ》せていた。  「眠《ねむ》れましたか?」  と、津村が訊《き》いた。  「君は?」  「ええ、まあ……。でも、寝《ね》不《ぶ》足《そく》って気分じゃないんですよ」  「僕《ぼく》もだよ。爽《そう》快《かい》だな」  塚原はニヤリと笑《わら》った。熱いおしぼりで顔を拭《ふ》き、コーヒーを頼《たの》む。  「浦《うら》田《た》君がまだとは意外だな」  「そうですね。先に来てるとばかり思ってたんですが」  八時半に、ここで会うことにしてあったのだ。浦田京子が時間に遅《おく》れて来るのは、珍《めずら》しい。  「彼女《かのじよ》も、さすがに興《こう》奮《ふん》して寝つけなかったのかもしれませんよ」  「そうだな。——今度のことも、彼女なしでは不《ふ》可《か》能《のう》だった」  塚原は、ちょっと肯《うなず》いて、言った。  ——津村は、それきり黙《だま》って、コーヒーを飲んでいた。  妻《つま》の華《はな》子《こ》に、金を見付けられてしまったのを、しゃべったものかどうか、ためらっていたのである。おまけに、華子は百万円の束《たば》を一つ、  「これぐらい、大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》よ。どこかに落としたことにしたって」  と、抜《ぬ》き取ってしまったのだった。  これで、あの服とこのブラウスとあの靴《くつ》を買って——などと喜んでいる恋《こい》女《によう》房《ぼう》の顔を見ていると、津村としても、だめだとは言えなくなってしまった。  ともかく、金を「拾った」ことは誰《だれ》にも言うな、と口止めして、残る六千九百万円を紙《かみ》袋《ぶくろ》に戻《もど》し、持って出て来たのである。  こんなこと、浦田京子に知られたら怒《おこ》られるだろうな、と津村は思った。やっぱり黙《だま》っていた方が良さそうだ。  「——おかしいな」  と、塚原が言った。「ちょっと電話してみよう」  八時四十五分になっていた。塚原は、店の電話で浦田京子のアパートへ電話を入れたが、いくら呼《よ》んでも、一向に出て来ない。  「変ですね」  と津村は、眉《まゆ》を寄《よ》せて言った。  「うん」  塚原も、深《しん》刻《こく》な顔になっていた。  浦田京子が、約《やく》束《そく》の時間になっても現《あらわ》れないのは、正に「事《じ》件《けん》」だった。何かあったのだろうか?  「彼女《かのじよ》のアパートに行ってみましょうか」  「いや、昨日《きのう》の今日《きよう》だ。遅《ち》刻《こく》すれば目立つ。一《いつ》旦《たん》会社へ行くしかない」  「これ、どうします?」  津村が、金の入った紙《かみ》袋《ぶくろ》を軽く手で叩《たた》いた。  「そうだなあ……」  持って出社するわけにはいかない。  「そうだ、駅のコインロッカーへ入れましょうよ。それしかありません」  「そうだな」  塚原はチラリと腕《うで》時《ど》計《けい》を見て、「もう出ないと九時に間に合わん。——よし、行こう」  二人は、急いで支《し》払《はら》いを済《す》ませ、店を出た。  コインロッカーへ二つの紙《かみ》袋《ぶくろ》を入れ、二人して会社へ駆《か》けこんだのは八時五十九分。  正に滑《すべ》り込《こ》みセーフ、というタイミングだった。  息を弾《はず》ませて席につく。浦田京子はまだ出社していなかった。  いや、彼女《かのじよ》はどうせ今朝《けさ》は歯医者に寄《よ》って来るということで、遅《ち》刻《こく》の届《とどけ》が出ている。しかし、なぜあの待ち合せた店に姿《すがた》を現《あらわ》さなかったのだろう?  塚原はやや落ち着かない気分で、ともかく仕事を始めていた。  会社の中に、何か妙《みよう》な雰《ふん》囲《い》気《き》はあるだろうか? 塚原は、仕事にかこつけて、時々席を立っては、他の課にも顔を出してみた。  途《と》中《ちゆう》、社長秘《ひ》書《しよ》の久《く》野《の》ともすれ違《ちが》ったが、いつもと少しも変りのない、取り澄《すま》した顔をしていた。内心は、それどころではないはずだ。  十時半ごろ、トイレに入って、津村と顔を合せた。  「——どうしたんでしょうね」  と、津村が低い声で言う。  「分らん。歯医者に寄《よ》ったとしても、もう出て来ていいころだが……」  塚原は首を振《ふ》った。——他の社員がトイレに入って来たので、二人はそれきり口をつぐんだ。  塚原が席に戻《もど》ると、課長の河《かわ》上《かみ》が、  「おい、塚原君」  と手《て》招《まね》きした。「——ゆうべは代ってくれてありがとう」  「いえ、とんでもない」  「それから、今、電話があってな。浦田君、少し休むそうだ」  「どうしたんでしょう?」  「うむ。ゆうべ、急性盲《もう》腸《ちよう》炎《えん》で入院したんだそうだ」  塚原は愕《がく》然《ぜん》として、一《いつ》瞬《しゆん》立ちすくんだ。    「社長——」  久野は、社長室のドアを開けた。「よろしいでしょうか」  「ああ、構《かま》わん」  脇《わき》元《もと》は、書類から顔を上げた。「全く、要《よう》領《りよう》の悪い報《ほう》告《こく》書《しよ》には苛《いら》々《いら》するよ。どうした?」  久野はポケットからメモを出して、脇元の前に置いた。  「ゆうべ、残業していた者のリストです」  「そうか。しかし、やった奴《やつ》が必ず残業していたとは限《かぎ》らんぞ」  「それは承《しよう》知《ち》しております。ただ、多少は確《かく》率《りつ》が高いかと思いまして」  「それはそうだがな。これは、と思うのがいるか?」  「営《えい》業《ぎよう》の方は大勢残業しています。中には、割《わり》合《あい》派《は》手《で》に金をつかっている者もあるので、少し当ってみようかと思いますが」  「ギャンブル好《ず》きの奴《やつ》を特に注意しろ。ああいうものだと、何千万もす《ヽ》る《ヽ》のはすぐだ」  「かしこまりました」  「他の課では?」  「これ、というのはいませんが……。総《そう》務《む》で三人ほど残業していました。会議に出ていただけですが」  「誰《だれ》だ?」  「河上課長の代りというので、塚《つか》原《はら》係長、それと津《つ》村《むら》、それからお茶出しに浦《うら》田《た》京子」  「ああ、あの女か。なかなか良く仕事をしてるじゃないか」  「ええ。ただ——」  「何だ?」  「昨日《きのう》残業した者の中で、今日一人だけ休んでいるのが、浦田京子なんです」  「ほう」  脇元は、メガネを直した。「前もって届《とどけ》が出ていたのか?」  「いえ、ゆうべ盲《もう》腸《ちよう》で入院したとか」  「盲腸か……」  脇元は、ちょっと考え込《こ》んだ。  「もし、高飛びするつもりで、入院したと嘘《うそ》をついたのなら……」  「本当に入院しているのかどうか、調べてみろ」  と、脇元は言った。  「かしこまりました」  「あの女が。——まさか、とは思うがな」  脇元は、少しお茶を飲んで、顔をしかめた。「ぬるいぞ。いれかえさせてくれ」  「はい、ただいま」  久野は、急いで社長室を出ると、秘《ひ》書《しよ》室《しつ》の女の子に、社長のお茶をいれかえるように言って、机《つくえ》の電話へ、手を伸《の》ばした。だが、ふと思い直した様子で、秘書室を出て行く。  久野が総《そう》務《む》課《か》のある四階へ下りて来ると、ちょうど塚原がエレベーターホールへ出て来たところだった。  「塚原さん」  久野は、さり気ない様子で、声をかけた。  声をかけられる前に、塚原の方で久野に気付いていたのは、幸運だった。  そうでなければ、こんな時だけに、ギクリとして、それが表《ひよう》情《じよう》にも出てしまっていたに違《ちが》いない。しかし、前もって気付いていたので、声をかけられても、当り前に、  「ああ。何か?」  と応《おう》じることができた。  「浦田さんが盲《もう》腸《ちよう》で入院したとか?」  「うん。突《とつ》然《ぜん》でびっくりしたよ。まあ、ああいうことは突然で当り前だけどね」  「大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》なんですか?」  「今、病院に電話してみたんだ。緊《きん》急《きゆう》手術をして、大事には至《いた》らなかったらしい」  「そうですか。そりゃ良かった」  「あの通り、しっかり者だから、却《かえ》って少々の痛《いた》みは我《が》慢《まん》しちゃうんだね。手《て》遅《おく》れになると、盲腸だからって、馬《ば》鹿《か》にはできないからな。まあ、間に合って良かったよ」  「全くね。いや、さっき社長と話をしてたら、浦田さんのことが話に出ましてね、社長も気にしておられたので」  「そりゃ光栄だな。津村君が、今日帰りに見《み》舞《まい》に寄《よ》ると言ってたから、彼女《かのじよ》に伝えておくよ」  「そうして下さい。——病院はどこですって?」  「ええと、何ていったかな。津村君なら知ってるよ。浦田君に何か伝えることでも?」  「いや、別にそういうわけじゃ……。まあ、お大事に、と伝えて下さい」  「ありがとう」  塚原は、久野が階《かい》段《だん》の方へ戻《もど》って行くのを、ちょっと見送って立っていた。  あいつ、あれだけのことを言いに来たのか。どういうつもりなんだ?  「——どうしました?」  津村が出て来る。「今、久野が……」  「見てたのか。浦田君のことを訊《き》きに来たのさ」  「何かかぎつけたんですかね」  津村は、声を低くして言った。  「いや、そうじゃあるまい。昨日《きのう》の事《じ》件《けん》の後、彼女《かのじよ》が入院したと聞いたから、もしかしたらどこかへ逃《に》げたのかと思ったんじゃないかな」  「そうですね。怪《あや》しんでるふうでは——」  「そんなことはなかったよ」  塚原は首を振《ふ》った。「——病院へ寄《よ》って、その後、どこかで落ち合おうか」  「はあ、それが……」  と、津村はためらった。  「用事かい?」  「ちょっと、女《によう》房《ぼう》の奴《やつ》と待ち合せてまして」  そう言われて、塚原も、アッと思った。どこかのホテルで食事をしよう、と今朝《けさ》、啓《けい》子《こ》に言って来たのを忘《わす》れていた。  「そうか。俺《おれ》もそうだった。——仕方ない。明日《あした》にしよう」  「で、あ《ヽ》れ《ヽ》はどうします?」  津村は、ちょっと不安げな顔になった。  津村が「あれ」というのは、もちろん、駅のコインロッカーに入れてある金のことだ。二人分、合せて一億四千万円もある。いや、華《はな》子《こ》が百万円抜《ぬ》いたから、正《せい》確《かく》には一億三千九百万だ。  「うん……。仕方ないな。今日のところは、また持って帰ろう」  「そうですねえ」  貸《かし》金《きん》庫《こ》は、浦田京子の名義で借りてあるのだ。もちろん、彼女《かのじよ》の印《いん》鑑《かん》と鍵《かぎ》がないと、使えない。  「彼女に話をしてみてくれ。彼女の分も心配だ。たぶんアパートに置きっ放しだろう」  「分りました。じゃ、帰りがけ、一《いつ》緒《しよ》にコインロッカーへ行って……」  二人の立ち話は、それきりになった。女子社員が二、三人、ワイワイやりながら出て来たのである。    「出てないわ!」  と、津村華子はホッとしたように言った。  華子の周囲には、新聞紙が散乱していた。ともかく、駅まで行って、手に入る限《かぎ》りの新聞を、スポーツ紙、競馬新聞まで、全部買い込《こ》んで来たのである。  それらを全部、隅《すみ》から隅まで目を通している内に、もう夕方近くになってしまった。  どこにも、大金を落とした、という記事は出ていない。七千万円だ。もし、まともな金なら、どんな金持だって、あわてて届《とど》け出ているだろう。  それが、全く届け出ていない、ということは……。  「うまく行けば、私たちのものだわ!」  と、華子はウットリした表《ひよう》情《じよう》で、呟《つぶや》いた。  とたんに、お腹《なか》がグーッと鳴った。  「いやだわ!」  そういえば、新聞を見るのに夢《む》中《ちゆう》で、お昼ご飯を抜《ぬ》かしてしまった。  ま、いいや。夜はどうせ待ち合せて外で食事なのだ。今は我《が》慢《まん》しておこう。  華子は、口《くち》笛《ぶえ》など吹《ふ》きながら、出かける仕《し》度《たく》をした。——めったに着ない、高級なワンピースを選ぶ。  「どうせ新しいのを買うんだから、着とかなきゃ」  かなり浮《う》かれてはいたが、そこはそう若《わか》くもない。ただやたら細かい物を買っていても仕方ない。  何か、大きな買物に充《あ》てた方が利口というものだろう。せっかく、七千万というまとまったお金があるんだもの!  ——華子は、もうすっかり七千万が自分のものになった気でいるのだ。  「いくら持って行こうかな……」  華子は、抜《ぬ》いておいた百万円の束《たば》から、一万円札を二十枚ほど抜き取り、財《さい》布《ふ》へ入れた。その厚《あつ》味《み》! 華子がまたウットリしていると、お腹《なか》が空《くう》腹《ふく》を訴《うつた》えて鳴ったのだった……。 夢《ゆめ》の中の王子様  浦《うら》田《た》京子の病室は、すぐに分った。  津《つ》村《むら》は、見《み》舞《ま》いといっても、果《くだ》物《もの》のカゴ一つ下げて来るでもなかったので、病院の入口に売店が出ている花屋で、小さな花《はな》束《たば》を作ってもらって、手にしていた。  病院そのものは、あまり新しいとも言えなかったが、看《かん》護《ご》婦《ふ》の応《おう》対《たい》は至《いた》って気持良かったし、いかにもてきぱきと、しかも愛想よく行動し、患《かん》者《じや》に接《せつ》しているという印象を受けた。  津村はまだ大病というものをしたことがないので、入院の経《けい》験《けん》はなかった。華子にしても同様だ。  「あ、そうか」  華子と待ち合せているのだった。浦田京子との話は手っ取り早く済《す》ませる必要がある。——どうせ華子の方は、たっぷり三十分、遅《おく》れて来るに決っているのだが。大体が、大変なのんびり屋なのである。  「——ここか」  病室は四人部《べ》屋《や》だった。〈浦田京子〉の名《な》札《ふだ》がある。  そっとドアを開ける。  もちろん、津村も、入院したことはなくても、見《み》舞《ま》いに来たことぐらいはあったが、病室のドアを開ける瞬《しゆん》間《かん》というのは、何だか気が重く、後ろめたい思いがするものだ。  眠《ねむ》りかけた患《かん》者《じや》を起こしてしまうかもしれないし、それに——こちらの方が辛《つら》いのだが——自分が見舞う当人以外の患者が、誰《だれ》か来てくれたのかと期待をこめた目を向けて来る。当て外《はず》れと分って、がっかりする表《ひよう》情《じよう》を見ると、いつも津村は、何だか自分がひどく残《ざん》酷《こく》なことをしたように思えて、胸《むね》が痛《いた》むのだった。  こんな風だから、出世もできないのかもしれない。  しかし、このときは、胸を痛めずに済《す》んだ。左手の二人の患者はTVを見ていて、津村の方に目も向けなかったし、右手の奥《おく》、窓《まど》に近い方の患者は、津村の方を見はしたものの、別に落《らく》胆《たん》した様子もなく、彼《かれ》のことを観察しているようだったのだ。  それは見たところ十歳《さい》そこそこの女の子だった。何の病気なのか分らないが、結《けつ》構《こう》丸《まる》々《まる》として元気そうに見える。  ベッドに起き上って、マンガ雑《ざつ》誌《し》を開いていた。  「津村さん……」  もう一つ、右手の手前のベッドから、浦田京子の声がした。  「やあ、どうです」  津村は笑《え》顔《がお》になって、ベッドのわきにあった小さな椅《い》子《す》に腰《こし》をかけた。  「わざわざ、すみません」  浦田京子は、髪《かみ》が乱れているせいもあってか、少し青ざめて見えたが、声はいつもの通りだった。「おいでいただいて良かったわ。気になっていたんですの」  そう言って、枕《まくら》の下から、小さな財《さい》布《ふ》を取り出した。  「びっくりしましたよ」  と、津村は言って、「あ、これ、そこで買って来たんですけど……」  花《はな》束《たば》をどこかへ、と思って見回したが、花びんがない。  「お気持だけで充《じゆう》分《ぶん》。お宅《たく》へ持って行って下さいな」  と、浦田京子は微《ほほ》笑《え》んだ。  「いや、そういうわけには——。畜《ちく》生《しよう》、花びんも買って来るんだった。全く、僕《ぼく》はどこか抜《ぬ》けてるんだから!」  津村がため息をついていると、  「ここの、使って」  と、声がした。  奥《おく》の方のベッドでマンガ雑《ざつ》誌《し》を読んでいる女の子である。  「ここに空《あ》いたのがあるから、使って」  「ああ。でも——いいの?」  「うん、構《かま》わない」  と、女の子は言った。「どうせ、私のとこ、お花なんか来ないもの」  別に、すねてもひねくれてもいない。アッサリした言い方だったが、それだけに津村はその言葉にギョッとした。  「じゃ、その花びんにさしてその窓の所に置きましょう」  と、浦田京子が言った。「それなら、ここからも良く見えるし、陽《ひ》も当るし」  「そうか。それがいいな」  津村は、その花びんを持って廊《ろう》下《か》へ出ると、洗面所で水を入れて来た。  誰《だれ》も花を持って来ない、か……。あんな子《こ》供《ども》が入院しているのに、見《み》舞《ま》いに来ないのだろうか?  「——まあ、きれい」  窓《まど》辺《べ》に置いた花は、もちろん夜のことでもあり、大して見《み》映《ば》えがしなかったが、浦田京子は、  「本当にすみません」  と、戻《もど》って来た津村にくり返した。  「具合はどうです?」  「ええ。ただの盲《もう》腸《ちよう》で、大したことは……。会社の方、どんな様子です?」  「別に、これといって動きはありません」  「そうですか」  浦田京子は、軽く息をついた。「本当に私って、ドジな女なんだわ」  「浦田さんなしじゃ、僕《ぼく》も塚《つか》原《はら》さんも、どうにもなりませんでしたよ」  「これを——」  と、浦田京子は、小さな財《さい》布《ふ》を、津村の手に預《あず》けた。「部《へ》屋《や》の鍵《かぎ》と、メモが入っています。あ《ヽ》れ《ヽ》の入れてある場所と、それから、印《いん》鑑《かん》、貸《かし》金《きん》庫《こ》の鍵のある所」  「分りました。責《せき》任《にん》を持って、お預《あずか》りします」  「——ゆうべは、何度も夢《ゆめ》を見て……。アパートに戻《もど》ったら、何もかも無《な》くなっている……」  「大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》ですよ」  と、津村は笑《え》顔《がお》で言った。  浦田京子も、ちょっと微《ほほ》笑《え》んで、  「そうですね。でも——一人でこうして寝《ね》たきりでいると、人間って、悪いことばっかり考えるんです」  「盲《もう》腸《ちよう》なんて、一週間ぐらいで退《たい》院《いん》でしょう?」  「そうだと思います。でも、あ《ヽ》れ《ヽ》は、明日《あした》にでも——」  「もちろん、予定通りにやります。心配しないで任《まか》せて下さい」  津村は、浦田京子から預かった財布を、内ポケットに入れた。「じゃ——あの——ちょっとこれから女《によう》房《ぼう》と待ち合せているもので」  「まあ。どうぞ、早くいらして。待たせちゃお気の毒ですわ」  「いや、待たせてもいいんですけどね、あんなのは」  華《はな》子《こ》の目の前では到《とう》底《てい》言えないセリフである。  ——津村がそそくさと帰って行くと、浦田京子は、もう一度大きく息をついて、天《てん》井《じよう》を見上げた。  手《しゆ》術《じゆつ》の跡《あと》が痛《いた》む。しかし、彼女《かのじよ》は、じっとこらえて、表《ひよう》情《じよう》には出さなかった。  京子は、自分の気持を殺すことに、慣《な》れて来ていた。感《かん》情《じよう》を制《せい》御《ぎよ》することにも。  時々、京子は怖《こわ》くなる。抑《おさ》えることに慣れ過《す》ぎて、その内「感情」というものを持てなくなるのではないか、と思うことがあるのだ……。  あのお金を使って、人間らしい歓《よろこ》びのある生活を取り戻《もど》したい! それが京子の願いだったのだ……。  「痛《いた》くない?」  その声に顔を向けると、あの少女が、京子の方を見ているのだった。  「どうして?」  と、京子は微《ほほ》笑《え》みながら訊《き》き返した。  「盲《もう》腸《ちよう》の手術した人って、たいてい一日ぐらいは凄《すご》く痛がるもん」  「そう?——そうね。私も痛いわ、正直言うとね」  「我《が》慢《まん》してんの?」  「ええ、そう」  「王子様のこと、考える?」  と、女の子が訊《き》いた。  「王子様って?」  「白い馬に乗った王子様が会いに来る、って、私、痛《いた》くて泣《な》きたいときとか、考えるの」  「まあ、そうなの」  「王子様が会いに来たとき、泣いてたり、顔しかめてたりしてたら、がっかりさせちゃうでしょ。だから、一《いつ》生《しよう》懸《けん》命《めい》こらえるの」  「偉《えら》いのねえ。おばちゃんも真《ま》似《ね》しようかしら」  「うん、やってみるといいよ」  と、女の子は嬉《うれ》しそうに肯《うなず》いて、言った。  そして、ふと気付いたように、  「まだ『おばちゃん』に見えないよ。『お姉《ねえ》ちゃん』でいいんじゃない?」  と言った。    「お父《とう》さん、宝《たから》くじにでも当ったの?」  と明美が言ったので、塚《つか》原《はら》は目をパチクリさせた。  「何を言い出すんだよ、おい」  「だって、急にこんな所に来ちゃってさ」  と、明美が店の中を見回す。  ほの暗い照明——といっても、電気代をケチっているわけではない。もちろん、ムード作りのためである。  都心のホテルの最上階、フランス料理のレストランだった。  明美は、それでも結《けつ》構《こう》シラッと落ちついているが、母親の啓《けい》子《こ》の方は、すっかり緊《きん》張《ちよう》して、オードブルも喉《のど》に通らない様子だ。  「たまにはいいじゃないか、一流の店に入るのも」  と、塚《つか》原《はら》は、馴《な》れている風を装《よそお》っている。  内心は塚原だって妻《つま》と似《に》たり寄《よ》ったりで、かなり「あがって」いるのだ。もちろん、接《せつ》待《たい》などで、こういう店に来たことはあるが、営《えい》業《ぎよう》にいるのでもなければ、そう度《たび》々《たび》は来られない。  たぶん、一番リラックスしていたのは明美だろう。  「結構イケル味だね」  とやって、塚原を面くらわせた。  「まあ、お前ももう十六だ。少しはこういう雰《ふん》囲《い》気《き》に慣《な》れておくのもいい」  「でも、私は一番下の、コーヒーハウスぐらいで良かったわ」  と、啓子が言った。「ハンバーグやトンカツはないんですもの、ここ」  「そりゃそうだ。フランス料理だからな」  「フランス人って、ハンバーグを食べないのかしら?」  啓子は、ちょっと情《なさけ》なさそうな顔で言った。  「お母《かあ》さんも、少し出歩いて、いいもの食べりゃいいのよ」  と、明美が笑《え》顔《がお》で言った。  「メニューを見たって、何だかさっぱり分らない店なんて、困《こま》っちゃうじゃないの」  「お前も、本当に、少し趣《しゆ》味《み》を持った方がいいぞ」  と塚原が言った。「——うん、なかなかいいワインだ」  「そうよ、お母さん。私がお嫁《よめ》に行ったら、することなくなって、困っちゃうわよ。早く老《ふ》け込《こ》んだりして」  「変なこと言わないでよ」  と、啓子は苦《にが》笑《わら》いした。  「——明美、今のピアノの先生、どうなんだ?」  と、塚原が言い出した。  「どうって?」  「いや——もっといい先生に変りたい、とか——」  「そんな必要ないわ」  明美は首を振《ふ》った。「替《か》えたいのは、むしろピアノの方よ」  そこへスープが出て来て、塚原一家三人は、しばし熱いスープを飲むことに専《せん》念《ねん》した。  「スープはおいしいわ!」  料理の方は、名前から「実物」のイメージが湧《わ》かなくて、まだ不安が残っていた啓子も、スープには大いに満足した。  「あんまり大きな声で言わないのよ」  と、明美がたしなめる。  「だって、賞《ほ》めたんだから、いいじゃないの」  「まあ、向うだって、賞められりゃ悪い気はせんさ」  塚原も、少々「通」ぶって、分ったようなことを言っている。「——おい、明美」  「ん? なあに?」  「ピアノを買い替《か》えたいのか?」  明美はちょっと戸《と》惑《まど》って、  「そ、そりゃあね。もう、今のもいい加《か》減《げん》古いし、それに音がよく出ないのよ。でも——どうして? 新しいピアノを買ってくれるの?」  「まあ、考えんでもない」  塚原も、慣《な》れぬワインのせいで、少々酔《よ》っていた。いや、この雰《ふん》囲《い》気《き》に、酔っていたのかもしれない。  あんまり大《おお》風《ぶ》呂《ろ》敷《しき》を広げてはいけないぞ、と思いつつ、つい口から出てしまうのだ。  「本当? わあ、嬉《うれ》しい!」  明美は、ちょっと椅《い》子《す》の上で、体をバウンドさせた。  「椅《い》子《す》を壊《こわ》すなよ」  「でも、あなた——」  びっくりしているのは啓子の方で、「そんなこと言って……。ピアノって高いのよ」  「分ってるさ。何もすぐ買うとは言っとらん。考えておこう、と言っただけだ」  「それにしたって……」  「長期計画を立てて、いい物を揃《そろ》えて行かないと、出費のむだだからな」  「そりゃそうですけどね」  啓子は、わけが分らないという顔だ。  スープ皿《ざら》が下げられて行くと、明美は、立ち上った。  「ちょっと、お友だちの所に電話するのを忘《わす》れてたんだ。——あ、お母《かあ》さん、小《こ》銭《ぜに》持ってない?」  「あるわよ。十円玉?——何枚《まい》?」  「三枚あれば。——サンキュー」  明美は、店の入口の方へと歩いて行った。電話の場所を訊《き》くと、これをどうぞ、と店の電話を出してくれる。  三十円儲《もう》かった、と明美は思った。  「——もしもし。あ、由《ゆ》佳《か》? 私。——うん今ね、ホテルCのフランス料理の店。——え? パパのおごりなの。——そう。ね、明日《あした》、帰りに会える?——うん、ちょっと面白い話がありそうなんだ。——え?——違《ちが》うわよ、男の子のことじゃないの。まあ、まだはっきりしないけど、それをこれから調べるとこなの」  明美の左手の中に、テーブルの上から、巧《たくみ》にかすめて来た荷物の預《あずか》り札《ふだ》があった……。  五、六分して、明美がテーブルに戻《もど》ると、塚原が入れ替《かわ》りにトイレに行くと言って、席を立った。  明美は、気付かれない内に、荷物の札を元の場所に戻《もど》した。啓子は、およそ注意深い方ではないので、たとえ気付いても、何も言わなかったろう。  「お父《とう》さんったら、どうしたのかね」  と、啓子は首を振《ふ》って、「急に気前良くなっちゃって」  「そうねえ……」  「どこか、具合でも悪いのかしら?」  「まさか。それなら、お母さんに黙《だま》ってるってことないし、お金を使わないようにするはずでしょ」  「それはそうねえ」  「きっと、急に家族へのサービス精《せい》神《しん》に目《め》覚《ざ》めたのよ」  「それならいいけど……」  と、啓子は曖《あい》昧《まい》に呟《つぶや》いた。  明美は、父のグラスに手を伸《のば》すと、半分ほど入っていたワインをぐっと一気に飲み干《ほ》してしまった。啓子が目を丸《まる》くして、  「明美、お前——」  「平気よ。これぐらい、友だちの家では飲んでんだもの」  「まあ、呆《あき》れた!」  呆れたのはこっちの方よ、と明美は思った。実《じつ》際《さい》、少しはアルコールでも入れなきゃいられないわよ! あんな札《ヽ》束《ヽ》の《ヽ》山《ヽ》を見た後じゃ。  父が、いやに大事そうに預《あず》けていたのと、急にピアノを買い替《か》えてやるなどと言い出したので、どうもあの荷物が怪《あや》しいと思い、  「ちょっと出したい物があるんですが」  と札《ふだ》を見せて、出してもらったのだ。  しかし——いくら明美の想像力が人《ひと》並《なみ》外れていたとしても、袋《ふくろ》の中身は、それを遥《はる》かに上回るものだった。  あの札《さつ》束《たば》!——もちろん、数えてみるわけには行かなかったのだが、それでも何千万の単位に違《ちが》いないことは分った。  父が、どこで、あんな大金を手に入れたのだろう?  あんな風に、昨日《きのう》から持って歩いているのを見ると、ま《ヽ》と《ヽ》も《ヽ》なお金でないのは確《たし》かなようだ。盗《ぬす》んだのだろうか?  父に盗みができるとは、明美にはとても思えなかった。道《どう》徳《とく》とか良心とは関係なく、そんなに器用じゃないという、「技《ぎ》術《じゆつ》的《てき》」な理由で、そう思ったのである。  それに、盗《ぬす》んだものなら、もっと父がビクついていても良さそうなものだ。いつ発《はつ》覚《かく》するか、いつ刑《けい》事《じ》がやって来るか、と……。  違《ちが》う。——どこか、違っている。  盗んだ金を、レストランのクロークへ預《あず》けるという神《しん》経《けい》も、ちょっと信じられない。  きっと裏《うら》に何か事《じ》情《じよう》があるんだわ。  明美は、運ばれて来た魚料理——ムニエルだった——に、ナイフを入れながら思った。 幻《まぼろし》の設《せつ》計《けい》  「知らなかった?」  と、華《はな》子《こ》が言った。「私、悪女なの」  「へえ、そうかい……」  と、津《つ》村《むら》は答えたつもりだったが、実《じつ》際《さい》には「ワアワア」という音《ヽ》を発したに過《す》ぎなかった。  華子の方は、もう午前二時だというのに、ますます目が冴《さ》えて——いや、目がギラギラ輝《かがや》いている。  一方の津村の方は半分、いや八割《わり》方眠《ねむ》りかけていて、瞼《まぶた》をトロンと閉《と》じかけていた。ともかく、「七千万円、拾った記念」というわけで、二人《ふたり》して、ハネムーン以来泊《とま》ったことのない高いホテルの一室にチェック・イン。明日《あした》は休《きゆう》暇《か》を取る、と津村が口を滑《すべ》らせたせいもあるのだが、華子の方がすっかり張り切って……。  かくて津村はクタクタ、華子は絶《ぜつ》好《こう》調《ちよう》、という次第だった。  「もう……寝《ね》ようよ」  津村は辛《かろ》うじて、瞼《まぶた》を開いて言った。  「あら、もったいない! こんな高い部《へ》屋《や》に泊《とま》って、もう寝《ね》ちゃうの?」  華子は不服そうに言った。  「しかし……もう俺《おれ》はだめだよ」  「馬《ば》鹿《か》ね」  華子はクスクス笑《わら》って、「誰《だれ》も、そんなこと言ってないでしょ。他《ほか》に色々考えることがあるじゃないの」  「考えること?」  「そう。——あのお金の使いみち」  津村は、頭を振《ふ》って、少しスッキリさせた。  二人は大きなダブルベッドに入っていた。華子はあまり寝《ね》相《ぞう》のいい方ではないのだが、この特大のベッドなら、まず津村も、けとばされる心配はなかった。  「使いみち、ったってなあ……」  「私、今日《きよう》の新聞、全部見たわ。どこにも、お金を落としたなんて記事なかった。大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》よ。あれ、きっと、いわくのあるお金なんだわ」  華子は自信たっぷりに言った。  まあ、確《たし》かにその点では、華子の言うことも、当っていないでもない。しかし、まさか夫が盗《ぬす》んだのだとは、思ってもみないのである。  「だけどな——」  「あら、あなた、あのお金を交番へ、はいどうぞ、って届《とど》ける気?」  「いや、しかし——」  「私、いやよ。もう、ちゃんと決めてあるんだから」  「決めて? 何を?」  「いくら貯金して、何を買うか、よ」  「気が早いんだな!」  「あら、計画性《せい》があるって言ってよ。いくら大金でも、何となく使ってたら、どんどん無《な》くなって行くもんなのよ」  津村は苦《く》笑《しよう》した。——大体が華子は経《けい》済《ざい》観念の乏《とぼ》しい女なのである。  「しかし、よく考えた方がいいぞ」  津村はベッドに起き上って言った。「あの七千万が、もしいわくのある金だったとして、そりゃあ落し主は届け出て来ないかもしれない。しかし、誰《だれ》かが拾ったってことは分るだろう。もし俺《おれ》が拾ったんだと知ったら——」  「心配性《しよう》ねえ」  と、華子は笑《わら》った。「タクシーのお客が誰《だれ》だったなんてこと、分るわけないじゃないの」  「そりゃまあ……」  「大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》よ。心配しないで私に任《まか》せて」  津村は、初めて不安になった。  その場逃《のが》れに、タクシーで見付けたと嘘《うそ》をついたのだが、今さら、実はそうじゃないとも言えない。  といって、もちろん自分が盗《ぬす》んだなどと言えるわけもない。浦田京子が、充《じゆう》分《ぶん》に用心しないといけない、と言っていたのを思い出して、津村はため息をついた。  華子の方は、もうすっかり七千万が我《わ》がものになったつもりで喜んでいる。こうなると、華子を止めることはできないのだ。——その点、津村もよく承《しよう》知《ち》していた。  「明日《あした》、お休み取ったのなら、ちょうどいいわ」  と華子は言った。「一《いつ》緒《しよ》に見に行けるわね。私、一人で行こうかなと思ってたんだけど」  「どこへ?」  「マンションを三つと建売住《じゆう》宅《たく》二つ。ちゃんと短時間で回れるように、スケジュールも組んであるのよ」  津村は唖《あ》然《ぜん》として、声もなかった……。    その朝、社長秘《ひ》書《しよ》の久《く》野《の》は、入社以来初めて、遅《ち》刻《こく》して行くことにした。  もちろん、寝《ね》坊《ぼう》したわけではない。久野は目《め》覚《ざま》し時《ど》計《けい》などなくても、必ず同じ時間に目を覚《さ》ますという才《ヽ》能《ヽ》を持っていた。  久野は何よりも秩《ちつ》序《じよ》を重んじる男である。物事が手順通りに運ばないと苛《いら》々《いら》して来るのだ。  脇《わき》元《もと》の金、二億円が盗《ぬす》まれたことは、もちろん久野にとって、大きなショックだった。直《ちよく》接《せつ》ではないにしても、間接的には久野にも責《せき》任《にん》があったし、これまで脇元の秘書として公《こう》私《し》共に、完《かん》璧《ぺき》にその役《やく》割《わり》をつとめて来たという自負を、打ち砕《くだ》かれてしまった、その屈《くつ》辱《じよく》感《かん》が大きかった。  脇元は、それについて、久野を責《せ》めるようなことを一切口にしないが、それでいて、ある日突《とつ》然《ぜん》、  「もう君は不要になった」  と言いかねない。  ——脇元はそういう男である。  久野は、タクシーを降《お》りると、ポケットから地図のコピーを出して、周囲を見回した。  「確《たし》か、この辺だがな……」  久野は呟《つぶや》いた。——浦《うら》田《た》京子のアパートを捜《さが》して、やって来たのである。  浦田京子が本当に入院していることは、久野も承《しよう》知《ち》していた。  もちろん、実《じつ》際《さい》に病院まで行って、確《かく》認《にん》したのだ。その限《かぎ》りでは、浦田京子を疑《うたが》う理由はない。  しかし——どうも久野は気になっていたのである。  理由のない行動を取ることが滅《めつ》多《た》にない久野としては珍《めずら》しく、直感に頼《たよ》ってここへやって来たのだった。  もちろん、いくらかの根《こん》拠《きよ》はある。浦田京子が入院したのは、二億円が盗《ぬす》まれた、その夜のことで、つまり盗まれた後だった、ということだ。だから入院したことで浦田京子を容《よう》疑《ぎ》者《しや》のリストから外《はず》すわけにはいかない。  もう一つは——これは単なる先入観かもしれないが——脇元も言ったように、浦田京子が、とてもそんなことをやりそうもない女《じよ》性《せい》だ、ということだった。  ああいう、常《つね》に冷静沈《ちん》着《ちやく》で、感《かん》情《じよう》を露《あら》わにしない女性は、心の中では、時として、とんでもないことを考えているものである。  久野には、多少の焦《あせ》りもあった。早く、二億円を盗《ぬす》んだ人間を見付けないと自分の足下に火がつきかねないのだ。  それに、時間がたてばたつほど、二億円を取り戻《もど》せなくなる可《か》能《のう》性《せい》が強まる。もちろん、使われてしまうからだ。  脇元は、金よりも犯《はん》人《にん》を見付ける方が大切だと言ったが、金が戻《もど》ればそれに越《こ》したことはないのだ。何といっても、二億円といえば大金である!  浦田京子を疑《うたが》うほどの、具体的な理由は久野にもなかったのだが、それでも一《いち》応《おう》、こうしてアパートまでやって来なくては、胸《むね》の中のモヤモヤが消えないのだった。  十分ほど歩き回って、久野は、やっと浦田京子の住むアパートを見付けた。  誰《だれ》かに訊《き》けば、もっとスンナリ見付けられたのだろうが、性《せい》格《かく》上、人に道を訊《き》いたりするのはいやなのである。  「やれやれ……」  と、久野は、パッとしない、そのアパートを見上げて息をついた。  後は、何とかして浦田京子の部《へ》屋《や》へ入ることだ。——もちろん、この程《てい》度《ど》のアパートでも、管理を任《まか》されている人間はいるだろう。  それさえ分れば、後は金次第でどうにでもなる。  たいていは一〇一号室の家が、そういう仕事をしているものだが……。  アパートの方へ歩いて行こうとして久野は足を止めた。  ドアの一つが開いて、思いがけない人間が出て来たのである。  久野は、ほとんど反《はん》射《しや》的《てき》に、わきの電柱の陰《かげ》に身を隠《かく》した。——あいつ、こんな所で、何をしてるんだ?  浦田京子のアパートから、風《ふ》呂《ろ》敷《しき》包《づつ》みをかかえて出て来たのは津《つ》村《むら》だったのである。  津村が、久野に気付かなかったのは——久野にとっては——幸運だった。  電柱の陰に隠れるといっても、完全に身が隠せるわけでもないので、ちょうど通りかかった津村が、カバそこのけの大《おお》欠伸《あくび》をしなかったら、きっと久野に気付いていたに違《ちが》いないのだ。  ——うまくやり過《すご》して、久野はホッと息をついた。しかしあいつ……。ここへ何しに来たのだろう? 久野は、少し間を置いて、津村の後を尾《つ》けて行った。  風《ふ》呂《ろ》敷《しき》包《づつ》みを両手でかかえている。——それに、なぜ津村が浦田京子の部《へ》屋《や》の鍵《かぎ》を持っているのか?  「そうか」  と、久野は呟《つぶや》いた。  ごく当り前の説明も、つけられないわけではない。  津村は昨日《きのう》、浦田京子の見《み》舞《ま》いに行っている。急な入院だったから、色々足らないものもあろう。それを持って来てくれるように、浦田京子が津村に頼《たの》んだのかもしれない。  しかし、それなら、持って来る物は、着《き》替《が》えとか、寝衣《ねまき》といった類の物だろう。そんなことを、浦田京子が男性である津村に頼むだろうか。  どうも変だぞ。久野は、「手《て》応《ごた》え」を感じた。  「——畜《ちく》生《しよう》!」  久野は、津村がタクシーを停《と》めるのを見て舌《した》打《う》ちした。自分も、と思ったが、そう都合良くタクシーが通りかかるわけもなく、久野の尾《び》行《こう》もここまでだった。  しかし、久野には、「目標」ができた。差し当っては、それも一つの収《しゆう》穫《かく》ではあったのだ……。    塚《つか》原《はら》は電話を取った。そろそろ津村からかかって来るころだったのだ。  「津村です」  「やあ、どうだった?」  「問題ありませんでしたよ。浦田さんの分も、ちゃんと貸《かし》金《きん》庫《こ》へ納《おさ》めました」  「そうか。まあ取り敢《あ》えずは安心だ」  「そうですね。で——すみませんが、今日は——」  「うん、分ってる。休《きゆう》暇《か》の届《とどけ》は明日《あした》出してくれ」  「はあ、よろしく……」  電話の向うで、津村は大《おお》欠伸《あくび》しているらしかった。  「疲《つか》れてるようだな」  「いえ、別に……。では、失礼します」  塚原は、ホッとした気分で、受話器を戻《もど》した。今朝《けさ》、津村に、金を渡《わた》して、貸金庫へ預《あず》けてもらった。  ともかく、手もとに置かなくていいと思うと、肩《かた》の荷が下りた思いだった。  もちろん、塚原ならずとも、大金を家に置いておくというのは、気が重いことに違《ちが》いない。  特に、家族に知られないように、というのだから、なおさらだ。塚原がホッとしたのも当然だが、娘《むすめ》の明《あけ》美《み》が、七千万円のことを、ちゃんと承《しよう》知《ち》しているとは、もちろん思ってもいないのである……。  ところで、その明美は、学校の昼休み——  「何か変だよ、明美」  校庭をぶらつきながら、そう言ったのは、明美とは小学校からの親友という、大《おお》友《とも》由《ゆ》佳《か》である。  明美よりは大《だい》分《ぶ》大《おお》柄《がら》で少々太目でもあるが、メガネをかけた丸《まる》顔《がお》は、いかにも人が良さそうで、人気者だった。  「うん……」  明美の方は、確《たし》かに、いつになく元気がない。  「どうしたのよ?」  と由佳は、明美の肩《かた》を軽く叩《たた》いた。「明美らしくないよ。昨日《きのう》言ってた、『面白いこと』って何なの?」  「それがね」  と、明美はため息をついて、「あんまり面白くなかったの」  「へえ。どんな風に?」  「正《せい》確《かく》に言うと、面白いどころじゃない、ってことかな」  「かなり深《しん》刻《こく》?」  「まあね」  「お父さんの浮《うわ》気《き》、とか?」  「やめてよ」  明美は笑《わら》い出した。「そういう方面の心配は、まるでないんだ、うちは」  「じゃ、何なのよ?」  「うん……」  明美は、しばらく迷《まよ》っていたが、やがて足を止めると、由佳の方を向いて、「ね、絶《ぜつ》対《たい》秘《ひ》密《みつ》を守ってくれる?」  と言った。  「私を疑《うたぐ》ってんの?」  「そうじゃないの。でもね、これは少々やばいことかもしれないのよ」  「話して」  由佳は即《そく》座《ざ》に言った。「秘密ってのは、知ってる人が多くなればなるほど、危《き》険《けん》は減《へ》るのよ」  「サンキュー。そう言ってもらえると、気が楽だ」  「誰《だれ》もいない所へ行こう」  と、由佳が促《うなが》した。  ——雑《ざつ》草《そう》が伸《の》び放題の裏《うら》庭《にわ》で、明美は由佳に事《じ》情《じよう》を説明した。  「じゃ、明美のお父《とう》さんが?」  「とっても信じられないわ」  と、明美は首を振《ふ》った。「お金って、その辺に放り出してあるわけじゃないでしょ? 盗《ぬす》み出すなんて器用な真《ま》似《ね》、父にできるはずないのよね」  由佳は、明美の言葉に肯《うなず》いて、  「じゃ、どういうことになるの?」  と、訊《き》いた。  「だから、あのお金を、もし盗《ぬす》んだんだとしても、父一人《ひとり》じゃないと思うの。きっと何人かでやったのよ」  「だけど……お父《とう》さんが、どうしてお金を盗むの? お宅《たく》、そんなに困《こま》ってるの?」  「そんなことない——と思うけど」  と、明美は、ちょっと自信なげに言った。「そりゃ、私だって、いつも家《か》計《けい》簿《ぼ》覗《のぞ》いてるわけじゃないけどね、そんなに苦しけりゃ、家の雰《ふん》囲《い》気《き》で分るもんじゃない?」  「そりゃそうね」  と、由佳は肯いた。「どこかから盗んだとしても、お父さんが落ちつき払《はら》ってるってのが不思議ね」  「そうなの。大体、そんなに度《ど》胸《きよう》のある方じゃないし、そんなことやったら、夜もうなされるタイプだもん」  明美も、父親の性《せい》格《かく》をよく呑《の》み込《こ》んでいるのである。  「会社のお金を横《おう》領《りよう》したとしても、盗んだのと変らないわよね」  「そうよ。それに横領って、たいていは、少しずつ、分らないようにやるもんでしょ? あんなにまとめてドカッと横領すりゃ、ばれないわけがないわ」  と明美は言って、大げさに首を振《ふ》った。「あーあ、親の非《ヽ》行《ヽ》化《ヽ》の心配しなきゃいけないなんて、子《こ》供《ども》稼《か》業《ぎよう》も疲《つか》れるわね」  由佳が吹《ふ》き出した。明美も一《いつ》緒《しよ》になって笑《わら》ってしまう。  「——でも、笑いごとじゃないわよ、明美。宝《たから》くじにでも当ったんならともかく、そんな大金、ろくなことにならないわ」  「私もそう思うの。でも、父に正面切ってそんなこと、訊《き》けないわ」  「そうねえ……」  由佳は考え込《こ》んで、「何かわけがあって、預《あず》かってるんだとしたら——」  「だったら、ホテルで食事したり、ピアノを買い替《か》えるとか言わないでしょ」  「そうか……。やっぱり怪《あや》しいわね」  「そう。そう思いたくはないけど、怪しいわよ」  と明美はため息をついた。  「もし、お父さん捕《つか》まったら、明美、どうする?」  「知らないわよ」  明美は肩《かた》をすくめた。「ともかく、人生、一番大切なのはお金じゃないってことを、父に教えてやらなきゃね!」 見《み》舞《ま》いに来た女  その女は、正《まさ》に「つむじ風」の如《ごと》く、病室へと襲《ヽ》来《ヽ》して来た。  病院の夕食は早い。——専《もつぱ》ら、人手の関係なのだろうが、ともかく外の明るい内から夕食では、なかなか食《しよく》欲《よく》も出ないというものである。  「そう。エミちゃんは、ずっと学校に行ってないの」  浦《うら》田《た》京子は、肯《うなず》きながら言った。  「今《こ》年《とし》になってからね」  エミが念を押《お》す。「去年は結《けつ》構《こう》行ってたんだけどなあ」  浅《あさ》倉《くら》エミ。——浦田京子の、隣《となり》のベッドの少女である。  「つまんないわね、それじゃ」  「学校に行ける子は、行きたくないって言うし、行けない子は行きたがるし、面白いね」  「そうね」  と、京子は笑った。  大分、痛《いた》みもおさまっていた。それに、この女の子と話をしていると、何だか気持が軽くなる。そういう天《てん》性《せい》のものを、少女は持っているようだった。  もちろん、京子も、エミの詳《くわ》しいことは聞いていない。  京子が入院してから、エミの所には誰《だれ》も家族がやって来ないので、何か事《じ》情《じよう》があるのだろうとは思っていたが、そこまで踏《ふ》み込《こ》むべきではない、という気持が京子にはあったのである。  どうせ、京子の方はそう長い入院ではないのだ。  「お姉《ねえ》ちゃんは、おつとめしてるんでしょ」  と、エミが訊《き》く。  京子は、この年齢《とし》で、「お姉ちゃん」と呼ばれて、くすぐったい思いだった。  「そうよ。ごく普《ふ》通《つう》の会社にね」  「お休みすると叱《しか》られる?」  「お病気のときは仕方ないわね」  「そうだね」  エミがちょっと肯《うなず》いて、「きちんと治した方がいいもんね」  と言った。  入《にゆう》退《たい》院《いん》をくり返しているらしい、この少女としては、そう言いたくなるのだろう。  「ええ、ちゃんと治るまではここに入ってるわ」  と、京子が笑《え》顔《がお》を見せる。  そのとき——病室のドアが、いやにけたたましい音を立てて開いた。  京子がそっちを振《ふ》り向いたときには、もうその女は、エミのベッドの方へと歩いて来ていた。  何とも場《ば》違《ちが》いな、毛皮のコートをはおり、ニワトリのトサカみたいな、珍《ちん》妙《みよう》な帽《ぼう》子《し》を頭にのせている。いかにも顔立ちからして派《は》手《で》な女《じよ》性《せい》だった。  年齢《とし》は三十そこそこ。もしかすると三十前かもしれない。京子は少々呆《あき》れて、その女性を眺《なが》めていた。  「どう?」  といきなりその女は言った。  「うん」  エミの方は、ただちょっと肯《うなず》いただけだった。  十歳《さい》の子にただ「どう?」と訊《き》いたって、返事ができるはずはない。見ていて、浦田京子の方が、ムッとしてしまった。  「色々忙《いそが》しくってね。来ようと思うんだけど、ついつい——」  毛皮のコートのその若《わか》い女は、ちょっと言い訳《わけ》がましく言って、「何か欲《ほ》しいものある? 何でも言いなさいよ」  「別にいいや」  エミの方は、あまり気のない様子だった。  「そんなこと言わないで、お菓《か》子《し》とかオモチャとか本とか言ったら? そういう風だから、可愛《かわい》げがないなんて言われるのよ」  女は病室中に響《ひび》きわたるような、甲《かん》高《だか》い声で言った。他の患《かん》者《じや》がいることなど、忘《わす》れてしまっているようだ。  エミの方が、よほど気にしているらしく、チラッと京子の方へ目を向けた。それから、エミは女の方へ向いて、  「パパは?」  と訊《き》いた。  「今日《きよう》、アメリカから帰るわ。でも明日《あした》、九州に行くとか言ってたからね。ここへ来られるかどうか分んないわよ」  「うん。いいけど……」  「いい子にして、早く良くなることね」  女はブレスレット型の腕《うで》時《ど》計《けい》を見ると、「あ、もう行かなきゃ。ちょっとお約《やく》束《そく》があるの。——何か、食べたいもんでも思い付いたら、電話しなさい。分った?」  「うん」  「じゃあね」  女は、毛皮のコートが旗のようにひるがえるかという勢いで、病室から出て行ってしまった。バタン、と音をたててドアが閉《しま》る。  何と無《む》神《しん》経《けい》な! 京子は腹《はら》が立った。  その女がいなくなると、急に病室が静まり返った。いや、元に戻《もど》っただけなのだが、いやに静かになったように思えたのである。  いかにあの女の声がやかましかったか、ということだ。  エミの方を見ると、向うもこっちを見ていた。——二人は何となく笑《え》顔《がお》になった。  「うるさくてごめんね」  と、エミが言った。  「いいわよ」  京子は首を振《ふ》って、「あの人は?」  「ママ」  「そう!——お若いのね」  「二度目のママ。まだ三十くらいだよ」  「そうなの。若《わか》いから元気がいいのね」  「もう少し元気がなくなるといいんだけど……」  エミがため息をついた。それがいかにも大人《おとな》みたいで、京子はちょっとドキリとした。  まだ少し痛《いた》みはあったが、京子は、あまりじっとしているのも却《かえ》って苦《く》痛《つう》だったので、屋上に出てみることにした。  誘《さそ》ってみると、エミも喜んでついて来た。  屋上は、よく陽《ひ》が当って、暖《あたた》かい。風も、ほとんどなかった。シーツや寝衣《ねまき》が、所狭《せま》しと干《ほ》してある。  古ぼけたベンチに腰《こし》をおろして京子は息をついた。——こんなにのんびりした気分を味わうのは、何年ぶりのことだろう。  病気になって、やっとのんびりできるなんて、何だか惨《みじ》めな感じだが、それが普《ふ》通《つう》の勤《つと》め人というものなのかもしれない。  エミは、洗《せん》濯《たく》物《もの》の間を、一人で隠《かく》れんぼでもしているように、歩き回っている。  あれは、どういう子なのだろう。——家自体は金持らしい。たぶん母親が亡《な》くなって、父親が若《わか》い女と再《さい》婚《こん》した、というところか。  あの毛皮のコートにしても、ブレスレットの宝《ほう》石《せき》にしても、安いまがい物でないのは京子にも分った。  父親は、多《た》忙《ぼう》なビジネスマンか、でなければ何か事業をしているか……。  京子は頭を振《ふ》った。いけない、いけない。人のことに、関《かかわ》り合ってはいけないのだ。私は私。一人で生きて来たのだから、誰《だれ》とも、距《きよ》離《り》を置かなくては……。  それは京子の人生哲《てつ》学《がく》でもあった。だからこそ、危《き》険《けん》を犯《おか》しても、お金を手に入れたかったのだ。  ぜいたくをするためではなく、誰にも頼《たよ》らずに生きて行くために。  「あら、エミちゃん、珍《めずら》しい」  と声がした。  エプロンをかけた、四十がらみの女《じよ》性《せい》で、もう八十近いかという老人ののった車椅《い》子《す》を押《お》して、京子のそばに来ていた。  老人は、居《い》眠《ねむ》りをしている。京子は声をかけてみた。  「あの女の子、ご存《ぞん》知《じ》ですか」  「ええ。もうずいぶん長いんですよ」  と、その女《じよ》性《せい》は肯《うなず》いて、「うちの父も長いけど、あの子はその前からだから」  「そうですか……」  京子は、少し離《はな》れた所にいるエミの方へ目をやった。「今、同じ病室にいるものですから」  「じゃ、あのスピッツみたいなお母《かあ》さんもご覧《らん》になった?」  「スピッツ?」  「ええ、キャンキャンほえるでしょ」  京子は、思わず笑《わら》い出していた。  「ええ、さっき。——本当に、『ほえる』って感じでしたね」  「名物なんですよ。でもあの子もねえ……可哀《かわい》そうに」  と、エミの方へ目をやって、その女性は、「もう助からないってことだから」  と言った。  京子は、愕《がく》然《ぜん》とした。    そのマンションに着いたとき、津《つ》村《むら》はもうヘトヘトだった。  それに引きかえ、華《はな》子《こ》の方は、歩き回る度《たび》に、それだけ元気になるみたいだ。生物学的にそんなことがあるのだろうかと津村は疑《ぎ》問《もん》に思った。  もちろん、体力だって足の丈《じよう》夫《ぶ》さだって、華子に負けないだけの自信はある。いや、かなり上回っているつもりだった。  それでいて——マンションのロビーへ入って行く華子の、颯《さつ》爽《そう》とした足取りに比《くら》べて、津村の方は、ほとんど、よろけていると言ってもいいくらいだった。  「ここ、素《す》敵《てき》じゃないの! ねえ、あなた、どう?」  「うん……」  津村としては、どうでもいいという気分だった。「ともかく、どこかに座《すわ》りたい!」  「いやねえ、まだたった三つ見て回っただけじゃないの」  これまでの所、華子の気に入った物《ぶつ》件《けん》はなかった。建売にしても、マンションにしても、確《たし》かに津村の目から見ても、安っぽい印象だったのである。  それに比べると、ここはなかなかしっかりした造《つく》りのように見える。  「これは、津村様で」  と、見るからに営《えい》業《ぎよう》マンという様子の男が軽やかな足取りでやって来る。  も《ヽ》み《ヽ》手《ヽ》でもしかねない感じである。  「ちょっと遅《おそ》くなってしまって——」  「いえいえ、とんでもありませんです。お疲《つか》れでございましょう。ともかく、一息お入れ下さい」  ありがたい! 津村はホッと息をついた。  「いえ、早くお部《へ》屋《や》の方を見せていただきたいわ」  華子は、夫のバテ気《ぎ》味《み》な様子には一向頓《とん》着《ちやく》せずに言った。「休むのはその後で。ねえ、あなた?」  「う、うん……」  目が回りそうなのを、津村は何とかこらえて、言った。  ——津村が、管理人室のソファにドカッと身を沈《しず》めたのは、その四十五分後のことだった。もう二度と立ち上れないんじゃないかという気がした。  「お疲《つか》れさまでございました」  と、マンション会社の男は、愛想がいい。「こういうものを見て歩くのは、本当に疲れるものでございますからね。——お腹《なか》の方はいかがでございますか? 何でしたら、うな重でもお取りしましょう」  「お願いします!」  津村が思わず悲《ひ》痛《つう》な(?)叫《さけ》びを上げると、同時にお腹がググーッと鳴った。  「——ここは、本当にお買得《どく》でございますよ」  と、マンション会社の男は言った。  「私もそう思うわ!」  華子が目を輝《かがや》かせて肯《うなず》いた。  このマンションは新《しん》築《ちく》ではない。  しかし、まだ古いというほどでもなく、特に、売りに出ている部《へ》屋《や》は、もともと他にいくつも家を持っている金持のもので、ろくに住んでもいなかったというだけに、至《いた》ってきれいなものだったのである。  しかも、その割《わり》には値《ね》段《だん》も安い。——華子が気に入るのも、当然といえば当然だった。  団《だん》地《ち》住いに慣《な》れた身には、一戸建ての家というのは、何かと煩《わずらわ》しいことも多いのだ。  「いや、実はもう何人もの方が、ご覧《らん》になっておりましてね」  と、マンション会社の男は言った。「まあ、これは正直なところですが、今日《きよう》、明《あ》日《す》にも売れておかしくない物《ぶつ》件《けん》なんです。ですから、もし、心が動かれたようでしたら、早目にご検《けん》討《とう》いただいて、ご返事下さるとありがたいのですが……」  これは、営《えい》業《ぎよう》マンの得《とく》意《い》な手である。それぐらいのことは、聞かされる方だって分っている。しかし、分っていても、それが絶《ぜつ》対《たい》にでたらめだとは言い切れないのが、弱いところなのだ。  「私、気に入ったわ!」  と、華子は断《だん》言《げん》した。「こういうものって、タイミングがあるのよ」  「その通りでございます。奥《おく》様《さま》のおっしゃるように、こういうことには、縁《えん》というものがありまして——」  確《たし》かに、津村も、ここは悪くないと思っていた。少なくとも、駅からの距《きよ》離《り》にしても、せいぜい歩いて七、八分だし、通《つう》勤《きん》時間もいくらか短くなる。  商店街《がい》もすぐ近くだし、その割《わり》には、周囲も静かだった。条《じよう》件《けん》的《てき》には、まず申し分ない。しかし、何といっても、安い買物ではないのだ。やはり、よく考えてからでないと……。  「ねえ、あなた」  と、華子が言った。「今、決めちゃいましょうよ」  「決めるって、何を?」  「ここを買うことよ」  「おい——」  津村が仰《ぎよう》天《てん》して華子を見る。  正にタイミングよく、うな重が届《とど》いた。  人間、気が大きくなるときが二つある。  一つは、やけになって、どうにでもなれ、という気分のとき。もう一つは満ち足りて、何だか偉《えら》くなったような気になったときである。  津村の場合、「やけ気《ぎ》味《み》」から「満足感」へと、途《と》中《ちゆう》の段《だん》階《かい》を経《へ》ずに、いきなり移《い》行《こう》したのだった。  どっちにしても「どうにでもなれ」という気分なのである。その二乗で、正に、いつになく気が大きくなっていた。  「ねえ、あなた……」  華子がちょっと甘《あま》えた声を出す。  「まあいいだろう」  津村はちょっと胸《むね》をそらして言った。    もう、夜も九時ごろとなると、病院の中はひっそりと静かになって来る。  もちろん、みんながみんなというわけではなくて、TVを見ている人もいるし、ラジオの野球中《ちゆう》継《けい》などを聞いている患《かん》者《じや》もいた。  しかし、何となく病院全体が、眠《ねむ》りにつくという雰《ふん》囲《い》気《き》になって来るのである。——それだけに、却《かえ》って、ちょっとした物音も耳につくということもあるのだが……。  浦《うら》田《た》京子は、もちろん眠る気にもなれなかったが、といって、週《しゆう》刊《かん》誌《し》や雑《ざつ》誌《し》をめくる気にもなれなかった。  隣《となり》のベッドでは、浅倉エミが、静かな寝《ね》息《いき》をたてている。京子は、視《し》線《せん》でエミが目を覚《さ》ますかもしれないと心配でもしているように、そっと目をそっちへ向けた。  確《たし》かに、エミの顔色は良くない。しかし、それは当り前のことで、入院するくらいなのだから、どこか具合が悪いに決っているのだ。  しかし——まさか、命にかかわるような病気だとは、思ってもみなかった。  この子が、もう助からない? 死んでしまうなんて、本当だろうか?  信じられない! 京子は、大きく息をついた。これが夢《ゆめ》でありますように……。  病室のドアが、そっと開いた。京子が目を向けると、四十代の半ばくらいと思える男《だん》性《せい》が、顔を覗《のぞ》かせ、それから静かに中へ入って来た。  会社帰りらしい、スーツ姿《すがた》で、手にコートをかけて持っている。  その男《だん》性《せい》は、京子の方へちょっと、目を向けて、会《え》釈《しやく》すると、エミのベッドの方へと歩み寄って行った。  京子は、その紳《しん》士《し》が、眠《ねむ》っているエミの顔にじっと見入っているのを、あまり気付かれないように、そっと横目で見ていた。  五、六分もそうしていただろうか、その紳士は、ちょっと息をつくと、足音を立てないように気を付けながら、病室を出て行った。  京子は、ベッドから出ると、スリッパをはいて、病室を出た。廊《ろう》下《か》を歩いて行く、紳士の後ろ姿《すがた》が見える。  早足に追いつくと、  「失礼ですけど——」  と、京子は声をかけた。  その紳士が振《ふ》り向く。  「浅倉エミちゃんのお父《とう》様でいらっしゃいますね」  と、京子は言った。  「ええ。そうです」  「エミちゃんを起こしてでも、お話しして行かれた方がいいと思います。——他人の私が、さしでがましい言い方ですけど」  「しかし——」  「後で、エミちゃんがおいでになったと知ったら、可哀《かわい》そうですわ」  京子の言葉に、エミの父親は、ふと目を伏《ふ》せた。 ちょっとした冒《ぼう》険《けん》  昼休みのチャイムが鳴ると、塚《つか》原《はら》は、大きく伸《の》びをして、ゆっくりと席を立った。  物《ぶつ》価《か》高で、昼食代も馬《ば》鹿《か》にならない。この二、三年、中年の男性社員たちにも、弁《べん》当《とう》持参組が増《ふ》えた。  一向に値《ね》上《あ》げされない小づかいの目《め》減《べ》りを少しでも食い止めようという、ささやかな抵《てい》抗《こう》である。中には、いつも前の晩《ばん》のおかずがお弁当になるので、  「ゆうべ、今朝《けさ》、昼、と三食、同じものを食うんだぜ、全く!」  とこぼす者もある。  しかし、それに堪《た》えて、小づかいをあまらしておかないと、一《いつ》杯《ぱい》やって帰る回数を減《へ》らすことになるのだ。  こういう中年組を除《のぞ》くと、弁当持参なのは若《わか》い女の子たちである。チャッカリ親に作ってもらって、月給をまるまる小づかいにしよう、というわけだ。  エレベーターの前に立っていると、給湯室から、お茶を運んで来る女の子がいた。  ごく最近、入社した子だ。——課が違《ちが》うので、塚原は名前を憶《おぼ》えていなかった。それでも、何となく視《し》線《せん》が合って微《ほほ》笑《え》みを交わす。  「課長さん、いつもどこで食事されるんですか?」  と言われて、塚原は、つい笑《わら》ってしまった。  「あら、何か変なこと言いました、私?」  と、大きなクリッとした目をますます大きくする。  「いや、申し訳《わけ》ないけどね、僕《ぼく》は係長なんだよ」  と塚原が言うと、  「えっ?——すみません!」  ペロッと舌《した》を出して、「でも、とっても落ちついてらっしゃるから……。すみません、失礼なこと言っちゃって」  「いいんだ。これが、下に見られちゃガックリだけどね」  塚原はそう言って、「君、何ていったっけ?」  「南《みなみ》千《ち》代《よ》子《こ》です」  ペコンと頭を下げる。——可愛《かわい》い娘《むすめ》である。小《こ》柄《がら》で、ちょっと小太りな印象だが、丸《まる》顔《がお》なので、バランスが取れていた。笑うと、両《りよう》頬《ほお》に、きれいに、針《はり》でつついたようなえ《ヽ》く《ヽ》ぼ《ヽ》ができる。  そこへエレベーターが来た。——別に言うこともないので、塚原はちょっと肯《うなず》いて見せただけで、エレベーターに乗り込んだ。  南千代子は、会《え》釈《しやく》して、オフィスの方へ歩いて行く。エレベーターの扉《とびら》が閉《しま》る。  塚原の顔に、また、笑《え》みが浮《うか》んだ。なかなかいい娘《むすめ》だな。  今の若《わか》い子にしては、言葉づかいもきちんとしている方だし、それに、服《ふく》装《そう》なども、至《いた》って地味である。  地味なワンピースなども、ああいう子が着ると、若さを際《きわ》立《だ》たせる効《こう》果《か》があるんだな、と塚原はエレベーターの中で考えていた。  塚原は、静かなレストランで昼食をとった。もちろん、以前なら、めったに——月給日くらいしか、入ることのない店だった。  それが、このところ毎日のように利用している。  あの金が手に入って、十日たつ。——塚原も、大分気分が落ちついて来ていた。  「コーヒーをお持ちしましょうか」  店のマスターらしい男が、声をかけて来る。  「ああ、頼《たの》むよ」  と、塚原は肯《うなず》いた。  店の方でも、塚原の顔を憶《おぼ》えてくれているのである。それは、なかなかの快《かい》感《かん》だった。  塚原は、のんびりと、椅《い》子《す》に座《すわ》り直した。  ——まず、危《き》険《けん》は去った、と思っていいかもしれない。  といっても、たった十日だ。もちろん安全というわけではない。しかし、犯《はん》行《こう》が、直後にばれる、ということは、なかったのである。  手がかりを残したり、目につく行動はなかった、ということだ。つまり、犯《はん》人《にん》を探《さが》す側から見れば、これは長期戦になったのである。  あまり派《は》手《で》に金をつかいまくったりしなければ、まず大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》だろう。怪《あや》しまれている気配もない。  浦《うら》田《た》京子も、もう退《たい》院《いん》していた。経《けい》過《か》は良《りよう》好《こう》ということで、数日中には出社して来るだろう。  塚原も、徐《じよ》々《じよ》に自分が変わりつつあるのを、感じていた。疲《つか》れることが少なくなったのである。  余《よ》裕《ゆう》というか、自信というか、ともかく、少々のいやなことには寛《かん》大《だい》に目をつぶることができるし、腹《はら》が立つばかりだった上司も、憐《あわれ》みの目で見ることができるようになった。  妻《つま》の啓《けい》子《こ》にも、この前の日曜日には、  「何だかあなた、顔のツヤが良くなったみたいよ」  と言われたばかりだ。  金も多少、つかっている。もちろん、小づかいに少々加えるくらいだが、その何枚《まい》かの一万円札が塚原の気持を、ぐっと落ちつかせるのだ。  ——コーヒーを飲んでいると、津《つ》村《むら》が入って来た。  まだ一時の始業には十五分ある。塚原は声をかけようとして、やめた。津村は一人ではなかったのだ。  一《いつ》緒《しよ》にいる男は、どこかの営《えい》業《ぎよう》マンという感じだった。至《いた》って愛想がいいし、しゃべり方も、そういう印象を与《あた》える。  塚原は、少し奥《おく》まった席にいたので、津村の方では気付かなかった。その男と二人してテーブルにつくと、飲物だけを取って、それから何やら書類を広げて話を始めた。  いや、あれは図面だ。——何だろう?  塚原の席からは、二人の話は聞き取れなかったが、どうやらそれは、家の見取図のようだった。  塚原はいささか当《とう》惑《わく》していた。  津村が家の図面を?——何のために?  いくら塚原でも、まさか津村がもうマンションを買い込むと決めてしまったなどとは、思いもしないのである。  しかし、津村と話している男は、どう見ても、客に接《せつ》している態《たい》度《ど》だった。売り込んでいるのだろうか?  いや……そうではない。津村が、図面を指して、あれこれ言っている。相手が、  「できますよ、それなら」  と言っているのが聞こえて来た。  営業の人間の声はよく通るのだ。  あれはどうやら、家の改《かい》造《ぞう》を指示しているところらしい。  話は、ほんの五、六分で済《す》んだ。相手の男は忙《いそが》しそうで、先に伝票を持って、出て行ってしまった。津村は、腕《うで》時《ど》計《けい》を見て、あと五分ぐらいは大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》と見たのか、コーヒーをゆっくり飲み始めた。  塚原は、席を立って、津村のテーブルの方へ歩いて行った。  「津村君」  津村が顔を上げて、ギョッとしたように目を見張る。——白《はく》状《じよう》したようなものだった。  「——申し訳《わけ》ありません」  と、津村は頭をかいた。「そんなわけで、ついフラフラと……」  「そうか」  塚原はため息をついた。——まあ、津村の気持も分らないではない。  特に、奥《おく》さんに見付かってしまったのでは、そう言い抜《ぬ》けるしかなかっただろう。  「浦《うら》田《た》さんに知れたら、大目玉ですね」  と、津村が言った。  「いや、問題はそんなことじゃない」  と塚原は首を振《ふ》った。「我々三人の間なら、別に知ってたってどうってことはない。ただもし社長の方に知れたら——君の財《ざい》力《りよく》で、マンションを即《そつ》金《きん》で買えるわけはないからな」  「その辺は、何とか言い訳《わけ》を考えとくつもりです」  「うん。二、三日の内に、浦田君も出て来る。そしたら、一度三人で集まって相談しよう」  塚原は息をついて、「やれやれ、もう一時十五分だ。早いとこ会社へ戻《もど》ろう」  ——二人はレストランを出た。  「会社の近くで、マンション会社の人間と会ったりしない方がいいぞ」  と、急ぎ足で歩きながら、塚原は言った。  「分ってます。今日は急に電話して来て……。ちょっと部《へ》屋《や》を手直しするので、そのことでどうしても、と……」  「それから、奥《おく》さんだ。絶《ぜつ》対《たい》に口外しないように言い含《ふく》めておかないと」  「それはもう。——僕《ぼく》の話通り、拾ったものだとしても、使っちまうのは違《い》法《ほう》ですからね」  「それならいいが」  初めて、塚原の胸《むね》に、不安が芽《め》生《ば》えて来ていた。    もう、明日《あした》からは出社しなくては。  タクシーの中で、浦田京子はそう考えていた。——こんな風に出歩いたりしているのだから。  「すっかり怠《なま》けぐせがついちゃったわ」  と、京子は呟《つぶや》いた。  手《しゆ》術《じゆつ》のあとも、もうほとんど痛《いた》まない。倒《たお》れたときは大《おお》騒《さわ》ぎだったが、その割《わり》に、後は順調だった。  退《たい》院《いん》してから、アパートの人たちには、一通りお菓《か》子《し》を持って回った。もちろん、救急車を呼《よ》んでくれた人には別にお礼をした。  その辺、京子はきっちりしているのだ。  昨日《きのう》は、久しぶりに部《へ》屋《や》の片《かた》づけまでやってしまった。もちろん、体にさわるといけないので、ほどほどにはしておいたのだが。  「あ、その先を右へ行って下さい」  と、京子は運転手へ声をかけた。  ヒヤリとした。うっかり、曲るべき角を通り過《す》ぎてしまうところだった。  「——その病院の前で。——どうも」  料金を払《はら》って、降《お》りる。反《はん》射《しや》的《てき》に腕《うで》時《ど》計《けい》を見た。四時か。もちろん、まだ面会時間だ。  五時になると、夕食が出る。ちょうどいい時間だろう。  病院の玄《げん》関《かん》へと歩いて行くと、中から出て来た男と顔を見合わせた。  「あ——」  京子の方は、すぐに気付いた。浅倉エミの父親だ。しかし、向うは一《いつ》瞬《しゆん》考えている様子だった。  「——あ、エミと同じ病室にいらした方ですね」  やっと気付いて、照れたように頭をかいた。「失礼しました。もう退院された、とエミから聞きましたが」  「ええ。——ちょっとエミちゃんのお顔を、と思って」  「そうですか。じゃ、わざわざ——」  「退《たい》院《いん》のとき、あわただしかったものですから、気になって」  「それはどうも。ただ……今、エミはちょうど検《けん》査《さ》で病室にいないんです」  「まあ。そうですか」  京子は、ちょっとためらって、「すぐ、戻《もど》られるんでしょうか?」  「一時間ぐらいはかかると思います。私はそれが済《す》むまではいられないものですから、出て来たところなんです」  「分りました。じゃ、どこか近くで待っています」  と、京子は微《ほほ》笑《え》んで言った。  「そうしていただけると、きっとエミも喜びます」  浅倉は、ホッとしたように言った。「三十分ほどでしたら、ご一《いつ》緒《しよ》にお茶でも——いや——もしよろしければですが」  「私は別に……」  京子にしては珍《めずら》しく、曖《あい》昧《まい》な口調になっていた。  病院の周囲には、薄《うす》汚《よご》れて、入る気のしないスナックしかなく、京子は、浅倉の車で、少し離《はな》れた店に行った。  「——ちゃんと病院までお送りしますから」  ちょっと洒落《しやれ》た喫《きつ》茶《さ》店《てん》に入って、浅倉はやっと少しのんびりした様子になった。  「お忙《いそが》しいんでしょう?」  と、京子は訊《き》いた。  「いつものことです。予定ばかりが詰《つま》っていて」  と、浅倉は微《ほほ》笑《え》んだ。  京子は、エミの様子を訊いてから、少し間を置いて、言った。  「——この間は、申し訳《わけ》ありませんでした。出しゃばったことをしまして」  「いや、とんでもない!」  浅倉は強い調子で言った。「あなたには感《かん》謝《しや》しています。本当ですとも。エミのあの嬉《うれ》しそうな顔を見たら……。あのまま、起こさずに帰っていたら、本当に恨《うら》まれるところでした」  「そうおっしゃっていただけると、私も気持が……」  京子は、ちょっと表の方へ目をやった。  「——ともかく、ほとんど東京にいない身ですので」  と、浅倉は軽く息をついた。「家内が、いつもエミの所へ行ってやっているとばかり思っていました。当人もそう言っていたし」  紅《こう》茶《ちや》が運ばれて来た。京子は、小さじに半分くらいの砂《さ》糖《とう》を入れて、静かにかき混《ま》ぜた。  「奥《おく》様《さま》を責《せ》めてはお気の毒ですわ」  と、京子は言った。「ご自分の生活もおありですし、それに、エミちゃんも、充《じゆう》分《ぶん》になついていないようですもの」  「ええ。それは仕方のないところもありますが……」  「エミちゃんは、奥《おく》様《さま》のことはそう気にしていないみたいです。ただ、パパに会いたいんだなということだけ、とても強く感じます」  「ずっと一《いつ》緒《しよ》にいてやれたら、と思いますが——そうも行きません」  浅倉は、沈《しず》んだ口調で言った。それから、京子を見つめて、  「優《やさ》しい方ですね、浦田さんは」  「とんでもない。ただ——エミちゃんに、色々とお世話になったので」  「エミの話では、お一人でお住いとか」  「はい。勤《つと》めてますの。今は休んでいますけど」  「そうですか」  ——何となく、話が途《と》切《ぎ》れた。  京子は、なぜか真直《まつす》ぐに浅倉の顔を見ることができなかった。いつになく「あがって」いる自分を感じた。  しっかりして! 女学生じゃあるまいし。  「あの——」  「僕《ぼく》は——」  二人は同時に話し始めて、言葉を切ると、一《いつ》緒《しよ》に笑《わら》い出してしまった。  「僕は、明日《あした》の夜から、またアメリカへ発《た》たなくてはなりません」  と、浅倉は言った。  「まあ、そうですか」  「一週間ほどで戻《もど》るんですが……」  浅倉は、少しためらってから、コーヒーカップを両手で包むように持ちながら言った。「明日《あした》は、どこかへいらっしゃいますか」  「明日——ですか」  京子は、当《とう》惑《わく》して、「もう、出社しませんと。あまり会社に迷《めい》惑《わく》もかけられません」  「そうですか。いや、よく分ります」  浅倉は急いで言って、「実は——もしお時間があれば、お昼の食事でもご一《いつ》緒《しよ》に、と思って」  「私と? まあ、そんな……」  「いや、エミがとても喜んでいまして。せめてお礼の気持だけでもと思ったものですから。もちろん、お勤《つと》めがおありでは、仕方ありません」  京子は、頬《ほお》が熱くほてっているのを感じた。  「奥《おく》様《さま》がおられるんですから、奥様と——」  「あいつはどこかの仲《なか》間《ま》と旅行に出ています」  浅倉はちょっと苦《く》笑《しよう》した。「もう少し家庭的な女かと思っていたんですが、大分当てが外れまして」  「まあ、そんなことおっしゃってはいけませんわ」  と、京子は少し強い口調で言った。「私は赤の他人です。相手をお考えにならないと」  浅倉は、ハッとしたように京子を見た。  「——全くです。申し訳《わけ》ありませんでした」  京子は、なぜあんなに、むきになって言ったのだろう、と自分でも不思議だった。  「ご自分でお選びになった奥《おく》様《さま》なんですから」  「郁《いく》江《え》は——ああ、家内の名前ですが、悪い奴《やつ》ではないんです。ただ、子《こ》供《ども》っぽいといいますか、すぐ調子に乗ってしまう性《せい》格《かく》でしてね」  「まだお若《わか》いんですもの」  「そうですね」  ——それから、話は浅倉の仕事のことに移《うつ》った。  二十分ほど話をして、二人はその店を出た。浅倉の車で、また病院へと向う。  ほんの五分の道が、いやに長く、京子には感じられた。——いいじゃないの、と心の中で声が聞こえた。  たまには、男の人と食事するぐらいのことしたって。せっかく思い切って、大金をつかんだのに。いつまでも、そう引《ひつ》込《こ》み思案じゃ仕方ないわよ。  でも、いい。私はこういう女なのだから。京子は自分にそう言い聞かせた。  病院の前で、京子は車を降《お》りた。浅倉の車が遠ざかって行くのを見送って、京子の胸《むね》が、ちょっとしめつけられるように痛《いた》んだ。 危《き》険《けん》な予《よ》感《かん》  「係長、お電話です」  朝、まだ九時早々である。  出《しゆつ》勤《きん》して来たものの、どうも眠《ねむ》気《け》が残って頭がスッキリしないので、塚《つか》原《はら》はトイレで顔を洗って来たのだった。といって、別に体調が悪いわけではない。  今朝《けさ》は妻《つま》の啓《けい》子《こ》の方も寝《ね》不《ぶ》足《そく》で——要するに昨夜、少々頑《がん》張《ば》った挙《あげ》句《く》の寝不足なのである。二人《ふたり》して朝、欠伸《あくび》ばかりしているので娘《むすめ》の明《あけ》美《み》に、  「ギックリ腰《ごし》なんかにならないでよ」  と冷やかされてしまった。  「——電話? 誰《だれ》から?」  と、席の方へ戻《もど》りながら、塚原は訊《き》いた。  「浦《うら》田《た》さんです」  「おお、そうか」  塚原は急いで受話器を取った。「——やあどうだね、具合は?」  「ご迷《めい》惑《わく》をかけて申し訳《わけ》ありません」  いつもながらの几《き》帳《ちよう》面《めん》な浦田京子の声が聞こえて来た。  「いや、そんなことは心配しなくていいよ。それで、どんな様子?」  「ええ、もう大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》です。——今日《きよう》から出社するつもりでいたんですが……」  「無《む》理《り》をするなよ」  「はい。ちょっと色々、整理したいこともありまして、明日《あした》から、出社させていただきます」  「そうか。分った。まあ、ともかく完全に治すことを考えてくれ」  「ありがとうございます」  浦田京子は、少し間を置いて、「会社の方で、何か変ったことはありませんか」  と訊《き》いて来た。  「うん。別に、これといってないね」  「そうですか。では、明日」  浦田京子からの電話が切れて、塚原は少し考え込《こ》んだ。  何もない、か。——果《はた》してそうだろうか?  津村は早々とマンションを買い込んでしまうし、自分だって、このところ、高いレストランばかり昼食に利用している。  こんなことだって、はた目には、自分で考えているより、ずっと目立つものかもしれない。  また、少しその辺のそば屋にでも行って、ザルソバの昼食にしておこうか。いや、そうすると、却《かえ》って、珍《めずら》しいので目につくことも考えられる……。  塚原は少々考えすぎる傾《けい》向《こう》があるのだ。  ちょうど外出する用事があったので、塚原には、ありがたかった。頭を悩《なや》ませていても仕方ない。  「戻《もど》りは午後だよ」  と、言っておいて、塚原はエレベーターホールの方へ歩いて行った。  「おい、塚原君」  と、呼《よ》ぶ声に振《ふ》り返ると、同期の野《の》田《だ》がやって来る。  その後からついて来るのは、南千代子だった。  「おい、塚原君、特《とつ》許《きよ》庁《ちよう》へ行くんだって?」  と野田が言った。  「うん。何か用かい?」  「悪いけどな、この子、連れてってやってくれないか」  と、南千代子の肩《かた》を軽く叩《たた》く。「ちょくちょく行ってもらうことになりそうなんだが、まだ連れてってないんだよ」  「そうか。構《かま》わんよ。一度行きゃすぐ分る」  と、塚原は肯《うなず》いた。  「よろしくお願いします」  南千代子が、ピョコンと頭を下げた。  ——爽《さわ》やかな晴天で、仕事で出歩くのが、もったいないような陽気だ。  塚原は、地下鉄の乗り口を教えたり、どの辺に乗れば、乗り換《か》えのときに便利かを説明しながら、アッという間に目的地に着いた。  塚原の用事も、意外に簡《かん》単《たん》に済《す》んだ。もちろん、小一時間はかかったのだが、何といっても向うはお役所である。ひどいときは二時間も待つことがあった。  「——やあ、待たせたね」  ホールをぶらついている南千代子へ声をかける。  「あ、もう終ったんですか」  「うん。——まだ昼前だな。どうしようか」  「私、どうでも……」  「昼食でも食べてから戻《もど》るか。君、誰《だれ》かと約《やく》束《そく》でも?」  「いいえ」  と、南千代子は首を振《ふ》った。「いつも何人かで一《いつ》緒《しよ》に食べに行くんですけど、今日《きよう》は午後にならないと帰らない、って言って来ましたから」  「そうか。じゃ、どこかに入ろう」  といって、塚原もこの辺《あた》りには詳《くわ》しくない。  迷《まよ》ったって、いい考えが浮《うか》ぶほど、店を知らないのだ。塚原は、この前、啓《けい》子《こ》と明《あけ》美《み》を連れて行った、ホテルのレストランを思い出した。  「じゃ、ホテルにでも行こうか」  と、塚原は歩きながら言った。  「え?」  南千代子が、足を止めて、塚原をキョトンとした顔で、見つめている。  「おい、どうしたんだ?」  「だって——そんなこと——いきなりホテルなんて言うから……」  塚原の方が、今度は面《めん》食《く》らった。  「おい、冗《じよう》談《だん》じゃないよ! 僕《ぼく》はただ、食事しようと言ってるだけだぜ」  「え?——なあんだ!」  南千代子は、キャッキャ、と、けたたましい声を上げて、笑《わら》い転げた。そばを通って行く人たちが、目をパチクリさせて眺《なが》めて行くので、塚原はきまりが悪くて仕方なかった。  「ああ、おかしい!」  やっと笑いが途《と》切《ぎ》れると、南千代子はニッコリ笑った。  ホテルのレストランに入ると、そろそろ昼食時とはいえ、さすがに空《す》いている。  「へえ、塚原さん、素《す》敵《てき》な所、知ってるんですねえ」  と、南千代子は、店の中を見回しながら言った。「意外だったなあ」  「そんなに貧《びん》乏《ぼう》くさく見えるかい?」  「あら、そんなつもりで言ったんじゃないんです。気を悪くしました?」  「いや、そんなことはないよ」  と、塚原は笑《わら》った。  実《じつ》際《さい》、何を言われたって、本気で怒《おこ》る気にはなれない。どっちかといえば、南千代子は塚原自身よりも、娘《むすめ》の明美の方に近い年代なのだ。  「塚原さんって、もてるんでしょうね」  食事をしながら、南千代子がそんなことを言い出した。  「あんまり年《とし》寄《よ》りをからかうなよ」  「あら、そんなこと!」  「僕《ぼく》は出世の見《み》込《こ》みもない中間管《かん》理《り》職《しよく》だぜ。エリートでもないし、カッコ良くもないし、生活に疲《つか》れて……」  何だか、自分でも、しゃべっている内に、惨《みじ》めな気分になって来た。  「今は、世界を飛び回るエリートなんて、はやらないんですよ」  「そうかね」  「だって、いくら英語ペラペラのエリート商社員だって、サラリーマンには違《ちが》いないじゃありませんか。お給料もらって、安いランチを食べて。——カラオケバーに行けば、上役の下《へ》手《た》な歌にだって、拍《はく》手《しゆ》しなきゃいけないのは、同じでしょ。だったら、最初から出世なんて狙《ねら》わないで、そこそこに働いて、人生を楽しむ人の方が勝ちですよ」  「へえ」  今の若い子の考え方は、変って来てるのかな、と塚原は思った。  「それに、エリートなんかと結《けつ》婚《こん》したら、不幸だわ。ろくにうちにはいない、帰りは夜《よ》中《なか》、朝は早くて、日曜日はゴルフ……。奥《おく》さんのことなんか、ちっとも構《かま》ってやらない」  「まるで経《けい》験《けん》者《しや》みたいだね」  と、塚原が微《ほほ》笑《え》みながら言うと、南千代子は、ちょっといたずらっぽい顔で、  「塚原さんにだけ、言っちゃおかな」  と言った。  「何だい?」  「私ね、年《とし》上《うえ》の人と同《どう》棲《せい》してたこと、あるんです」  塚原は唖《あ》然《ぜん》とした。とてもそんな風《ふう》には見えない。——いや、「そんな風」と言ったって別にそれが 「どんな風」だか、はっきりしたイメージがあるわけでもないのだが。  「それこそエリートビジネスマンとね。でも、結《けつ》局《きよく》はグチの聞き役。馬《ば》鹿《か》らしくなっちゃって。——三か月で別れちゃった」  こうもアッケラカンと言われると、塚原としても、説《せつ》教《きよう》じみたことを言う気には、なれない。  塚原はちょっと咳《せき》払《ばら》いして、  「結《けつ》構《こう》、君も——苦《く》労《ろう》したんだね」  と言った。  南千代子は吹《ふ》き出してしまった。  「苦《く》労《ろう》なんてしてません。だって、好きで同《どう》棲《せい》して好きで別れたんですもの。——好きで別れた、って何かおかしいですね」  「ふむ……」  もはや、塚原の理解力の範《はん》囲《い》を越《こ》えている。男女が別れるときは、お互《たが》い辛《つら》いものだというのが、塚原の感覚なのである。  「でも、塚原さんだって、浮《うわ》気《き》の一度や二度はしたことあるんでしょ?」  気《き》軽《がる》に訊《き》かれて、塚原は戸《と》惑《まど》った。  「僕《ぼく》は——ないよ。全《ぜん》然《ぜん》、ない」  「え? ウソ!——本当に? へえー! そんな人っているんですね!」  やたらと「?」や「!」のつく文章になってしまったが、大《だい》体《たい》、南千代子の話し方そのものが、少々けたたましいのだ。  「——僕はどうやら大分時代遅《おく》れらしいね」  食後のコーヒーを飲みながら、塚原は苦《く》笑《しよう》した。  「あら、でもやたら若い人に合わせようとしてる中年って、却《かえ》って見っともないですよ。素《す》直《なお》なのが一番」  「素直、ね……」  「私、素直に言うと——」  と、南千代子は、ちょっと腕《うで》時《ど》計《けい》を見た。  「何だい?」  「塚原さんと一時間ばかりホテルの部《へ》屋《や》で休《きゆう》憩《けい》したいな」  塚原は、コーヒーカップを危《あや》うく取り落とすところだった。    津村華子は、正《まさ》に「この世の春」という気分である。  大《だい》体《たい》が、インテリアの雑誌とか、モデル住宅の写真集とかを眺《なが》めるのが大好きで、通りすがりにちょっと洒落《しやれ》たマンションのモデルルームなんかが目につくと、買う気もないのに入ってみたりするたちなのだ。  それが今や「現《げん》実《じつ》に」マンションを買い込《こ》もうというのだから! その熱中ぶりは推《お》して知るべしである。  連《れん》日《じつ》、デパートの家具や小《こ》物《もの》の売場に出向いて、あれがいいか、これにしようかと頭を悩《なや》ませていた。こんな楽しい悩《なや》みなら、いつまでだって悩んでいたいようなものだが、そうもいかない。  「いらっしゃいませ」  と、家具売場の女店員が、ソファを眺めていた華子に声をかけて来る。  何度も来ているので、すっかり顔なじみなのである。  「あの、この間見せていただいたテーブルなんだけど、ちょっとソファの色とのバランスが悪くないかな、って気がして来てね……」  と、華子は言った。  「今日、新しい品が二、三入りましたから、よろしければどうぞご覧《らん》下さい」  若いのに、なかなか有《ゆう》能《のう》そうな女店員である。  「いつも悪いわね」  さすがに華子も少々気がねしていた。  「いいえ、とんでもない。どうぞこちらへ」  と、割《わり》合《あい》に高級な家具の並《なら》ぶ、静かな一《いつ》角《かく》へ案内してくれる。  もちろん、いくらお金が入ったといっても、とんでもなく高いものは買えないけれど、やはり、今使っている家具では、何となくバランスが取れないものもある。  いくつか、主《おも》なものは買い直さなくては……。  「いいわねえ!——この色、すてき!」  と、声を上げて、「でも——一桁《けた》高過ぎるわ」  と笑《わら》った。  「あの……奥《おく》様《さま》」  女店員が、ちょっと声を低くして言った。  「え? 何か?」  「ちょっとお話し申し上げたいことが……」  「ええ。——何でしょう?」  「どうぞ、おかけになって下さい」  売り物のソファに座《すわ》ると、女店員は、「こんなことをお訊《き》きして、気を悪くなさると困るんですけど……」  「何ですの?」  華子は、見《けん》当《とう》もつかずに訊《き》き返した。  「このお買物のこと、ご主人はご承《しよう》知《ち》でいらっしゃいますね?」  「主人が? ええ、もちろん!」  「それでしたら、よろしいんですけど……」  「私《わたし》が主人に黙《だま》って、買物をしてる、とでも?」  「いえ、そういうわけでは……。ただ、ちょっと妙《みよう》なことがありましてね」  「妙なこと?」  「ええ。先日、おいでいただいたときです。お帰りになってすぐ、私、男の人に声をかけられたんです」  「どんなことでしたの?」  「今しがた買物をしていた女性は、どれくらいのものを買ったのかとか、何か大《たい》金《きん》が入ったようなことを言ってなかったかとか……」  「まあ」  華子は、ちょっと目を見開いた。「それで……」  「もちろん、私《わたし》の方は、お客様のことをあれこれしゃべるわけにいきません、と言いました。でも、向うはかなりしつこくて、君がしゃべったことは秘《ひ》密《みつ》にするからとか、ちゃんと礼はするとか……。私、気味が悪くなって、忙《いそが》しいから、って逃《に》げちゃったんです」  「その人——男の人、どんな人でした?」  「さあ。ごく当り前の勤《つと》め人に見えましたけど」  と、女店員は首を振《ふ》った。「ともかく、お知らせしておいた方がいいと思いまして」  「教えてくれて、ありがとう」  と、華子は礼を言った。  「いいえ。世の中には色んな人がいますからお気を付けになった方がよろしいですよ」  と、女店員は微《ほほ》笑《え》んだ。  「そうするわ。心当りはさっぱりないけどね」  ——華子は、その後、一人《ひとり》でソファを見て回りながら、考え込《こ》んでいた。  華子のことを訊《き》いていたという、その男は、何者なのだろう?  少なくとも、華子の所に大《たい》金《きん》が入ったことを承《しよう》知《ち》している男に違《ちが》いない。でなければ、パッとしない平《へい》凡《ぼん》なサラリーマン家庭のことを、調べたりしないだろう。  しかし、七千万円を拾《ひろ》ったことは、津村と華子の他《ほか》は、誰《だれ》も知らないはずだ。すると……。  可《か》能《のう》性《せい》として一番大きいのは、あの金を落した当人が、津村のことを捜《さが》し出して来たということだ。  夫《おつと》の話を、華子はまともに信じているから、金の落し主が現われるなどとは、思ってもいなかったのである。  どうしたもんかしら……。  華子は、珍《めずら》しく不安げに小首をかしげて、それでもソファを見る目の熱心さには、変りがなかった。    「——お電話をいただいて、嬉《うれ》しかったですよ」  浅倉が微《ほほ》笑《え》みながら言った。  「お忙《いそが》しいんじゃありませんか」  浦田京子は、少し目を伏《ふ》せがちにして、言った。  「構《かま》やしません」  「でも今夜からご出《しゆつ》張《ちよう》なんでしょう?」  二人《ふたり》は、浅倉の会社に近い喫《きつ》茶《さ》店《てん》に入っていた。浦田京子が、近くまで来て電話をかけたのである。  「出発前にやらなきゃいけない仕事は、全部昨日《きのう》片付けておきましたから。今日は大してすることもないんですよ」  と、浅倉は言った。  「奥《おく》様《さま》は——ご旅行でしたわね」  と京子は低い声で言った。  「昨日《きのう》からです。あさって帰るとか……。まあ、どうせこちらも海外出《しゆつ》張《ちよう》は年中ですからね」  「お寂《さび》しいんですわ」  「家《か》内《ない》がですか。いや、そんな……」  と言いかけて、浅倉は京子を見つめながら、「あなたは?」  「私《わたし》、ですか……」  「寂しくありませんか、お一人で」  「自分でそうしているんですもの」  と、京子は言った。「これが一番気《き》楽《らく》なんです」  そうだろうか? それならなぜ浅倉に会いに来たのだろう、と京子は思った。 小さな食《くい》違《ちが》い  休《きゆう》憩《けい》。——そうだとも、俺《おれ》は休憩に入っただけなんだ。  ホテルの入口にだって〈ご休憩〉とあったし。そうなんだ。ここはただの休憩所だ。  いや、もちろん「ただ」じゃなくて、金は前《まえ》払《ばら》いで取られたが。  塚原は、あたかも遊《ゆう》園《えん》地《ち》に初めてやって来た子供みたいに、部《へ》屋《や》の中を、キョロキョロ見回していた。  「フフ」  と、南千代子がちょっと笑《わら》って、「塚原さん、本当にこういう所って初めてなんですねえ。私《わたし》、半《はん》信《しん》半《はん》疑《ぎ》だったのに」  「うん。——何だか落ちつかない所だねえ」  塚原は、特《とく》大《だい》サイズのベッドの端《はし》に、ちょこんと腰《こし》をかけている。  「あんまり落ちついちゃっても困るでしょ、こんな所で」  と、南千代子が、塚原と並《なら》んで腰《こし》かける。  塚原はあわてて横に体をずらして、三十センチの空間を確《ヽ》保《ヽ》した。  「女の子に興味ないんですかあ?」  と、少々呆《あき》れたように南千代子が言った。  「そ、そんなことはないけどね」  と、塚原は口ごもって、「ただ——今のところ女《によう》房《ぼう》一人で手一《いつ》杯《ぱい》というか……間《ま》に合ってる、というか……」  「私《わたし》、何だか押《お》し売りみたい」  と、南千代子はふき出した。「——あとでゴタゴタするのがいやだとか心配してるんだったら、大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》ですよ。私だって恋《こい》人《びと》いるんですもん」  「君に?」  「あら、私《わたし》に恋《こい》人《びと》がいちゃおかしいですかあ?」  と、南千代子が、心《しん》外《がい》という表情になる。  「いや、そうじゃなくて——その彼《かれ》氏《し》にばれたらまずいんじゃないかね?」  「だから、お互いに安全でしょ? 私が塚原さんにおこづかいをせびったりしたら、私とのことを恋人に知らせるぞ、って言ってやりゃいいんですもの」  「なるほど」  と、塚原は素《す》直《なお》に感心した。「でも、僕《ぼく》は君の恋人を知らないよ」  「今《いま》井《い》さんです」  「今井君?——そうか」  若手の独《どく》身《しん》社員の中では、なかなか女の子に人気のある男だ。塚原は肯《うなず》いて、  「君と今井君ね。お似《に》合《あ》いだな」  「どうも」  「君と僕《ぼく》じゃ、その点、まるでつり合わないよ。やっぱりやめとこう」  「あら、もったいない。お金払《はら》ったんですもの、楽しまなくちゃ」  南千代子はアッケラカンとしたもので、「私、お先にシャワー浴《あ》びて来ますから」  と、バスルームへさっさと入ってしまう。  塚原は青くなった。  バスルームからは、南千代子がシャワーを浴びている音が聞こえている。  塚原の方は、ベッドから立ったり座《すわ》ったりをくり返していた。——男の方が青くなるというのも、少々情ない話だが、何といっても、塚原は、妻《つま》以外の女性とこういう状《ヽ》況《ヽ》になったことがないのだ。その点、南千代子の方がよほど慣《な》れている感じだった。  「参《まい》ったな、しかし……」  と、塚原は呟《つぶや》いた。  大《だい》体《たい》、これまで、若い女の子にもてた、なんてことがないのである。嬉《うれ》しいよりは恐《おそ》ろしい。いや、当《とう》惑《わく》している、というのが正《しよう》直《じき》なところだった。  これもあの七千万円のご利《り》益《やく》だろうか? 気持の上でも余《よ》裕《ゆう》が出て、それが中年男らしい落ちつきのように、若い南千代子の目には映《うつ》ったのだろうか?  「いい気になるな!」と、塚原は自分を叱《しか》りつけた。  向うは、ただ、ちょいとした気まぐれなのだ。たまにこういう中年をからかってみようというぐらいの、遊びのつもりなのだ。  そうさ。俺《おれ》の魅《み》力《りよく》とは関《かん》係《けい》ない。  塚原は、強く頭を振《ふ》った。——向うの気持なんかどうでもいい! 問題は、今《ヽ》、どうするか、だ。  もうすぐ、あの子はバスルームから出て来る。そしたら……どうするんだ?  やっぱり、そういうことはいけないよ、とさとしてここを出るか。だらしがない、と思われるかもしれないが、それだって構《かま》わない。  しかし——と、塚原は考えた——たとえ何もしないでここを出たとしたって、一《いつ》旦《たん》、二人《ふたり》でホテルへ入った以上、何か「あった」と見られて当然である。その点は、いくら否《ひ》定《てい》したって、誰《だれ》にも分りゃしないのだから。  つまり、実《じつ》際《さい》にあろうがなかろうが、はた目には 「あった」ことになる。  それじゃ、何もしないで出るのは丸《まる》損《ぞん》じゃないか……。  塚原は、我《われ》知《し》らず、男が浮《うわ》気《き》するときに共通の、都《つ》合《ごう》のいい理《り》屈《くつ》を組み立てていた。  「——お先に」  と、バスルームのドアが開いて、南千代子が出て来る。  バスタオル一つを体に巻《ま》きつけただけだ。  「早く塚原さんも浴《あ》びてらっしゃいよ。のんびりしてると時間なくなっちゃうわ」  「う、うん……」  「ほら、上《うわ》衣《ぎ》脱《ぬ》いで。私《わたし》、ハンガーにかけておいてあげる」  「そ、そうかい……」  何だか、ためらっている間《ま》もなく、上衣を脱ぎ、ネクタイを外《はず》している。そうなると後はもうやけ気味で——どうにでもなれ、という気分で、塚原はワイシャツのボタンを外して行った……。  そのころ、塚原の家では、妻《つま》の啓子が派《は》手《で》なクシャミをしていた。  「変だわ。風邪《かぜ》ひいたのかしら」  グスン、と鼻《はな》をすすって、啓子は呟《つぶや》いた。  まさか、夫《おつと》の塚原が今しも浮《うわ》気《き》をしようとホテルでシャワーを浴《あ》びているなどとは、思いもしないのである。  「——買物にでも出ようかしら」  啓子は、時計を見ながら、独《ひと》り言《ごと》を言った。天気もいいし、少しぶらぶらと歩いてみるのもいい。  大《だい》体《たい》が出《で》無《ぶ》精《しよう》の啓子にしては、珍《めずら》しい気分だった。いや、それほど快《かい》適《てき》な天候だったと言った方がいいかもしれない。    「あら、塚原さん」  声をかけられて、啓子は顔を上げた。——よくこのスーパーで会う、近所の主婦である。しかし、啓子は名前が思い出せなかった。  「どうも」  と、曖《あい》昧《まい》に微《ほほ》笑《え》む。  「珍《めずら》しいじゃないの、こんな所に」  相《あい》手《て》の方は、やたら親しい仲のつもりらしく、断《ことわ》りもせずに、さっさと同じテーブルについてしまった。  スーパーでの買物が一段落して、啓子はスーパーの上にある食堂街《がい》の、喫《きつ》茶《さ》店《てん》に入っていたのである。  「もう買物、済《す》んだの?」  と、相《あい》手《て》が訊《き》く。  「ええ……」  「私《わたし》、これから。一《いつ》服《ぷく》してからでなきゃ、足を棒《ぼう》にして安いものを捜《さが》し回る長旅になんて出られないわよねえ」  この人、何て名だっけ。啓子は必《ひつ》死《し》で考えていたが、大《だい》体《たい》、人の名や顔を憶《おぼ》えるのが苦《にが》手《て》な啓子である。焦《あせ》ると、ますます思い出せなくなる。  同じくらいの年《ねん》輩《ぱい》だが、啓子よりは大分派《は》手《で》な感じで、髪《かみ》も染《そ》め、きれいにマニキュアした爪《つめ》、タバコを取り出して、いかにも慣《な》れた様子で煙《けむり》を吐《は》き出す。  「お宅、このところ景気良さそうねえ」  と、その奥《おく》さんが言い出したので啓子はびっくりした。  「うちがですか?——普《ふ》通《つう》のサラリーマンですもの、いつもと変りありませんわ」  「あら、そんなことないわよ。ご主人も、この間、お帰りのところをお見かけしたけど、前よりずっとパリッとして、私、重役にでもなったのかと思っちゃった!」  「まさか」  と、啓子は笑《わら》った。「相《あい》変《かわ》らずの係長ですわ」  「あら、そう? でも、風《ふう》格《かく》が出て来たわ」  「太っただけじゃないかしら」  「それに、あなたの、そのブラウスも、この間、デパートで見たわ。高いやつでしょう。余《よ》裕《ゆう》なきゃ、そんな物、買えないわよ」  啓子は、ブラウスに値《ね》札《ふだ》でもつけたままだったかと、一《いつ》瞬《しゆん》、思わず目を下へ向けたほどだった。  啓子は、しばらく話してみて、やっと相《あい》手《て》の名前を思い出した。  「ねえ、塚原さん、あなた、手もとにいくらお持ち?」  と増《ます》田《だ》清《きよ》子《こ》は訊《き》いて来た。  それがこの女性の名前だったのである。  「え?」  啓子はちょっと戸《と》惑《まど》って、「今は——大してありませんけど。あの——急に必要なことでも?」  「そうじゃないわよ」  と、増田清子は、タバコを灰《はい》皿《ざら》に押《お》し潰《つぶ》して、笑《わら》った。「手もと、って、自分のお金ってこと」  「自分のお金……」  「要するに、へそくりってことよ」  「へそくり、ですか」  「あるでしょ、もちろん?」  そう訊《き》かれて、啓子は、つい、  「え、ええ、もちろん——」  と答えていた。  そんなもの、ありゃしないのである。  「でも大してありませんわ」  と、気が咎《とが》めたのか、付け加える。  「少しでもいいのよ。まとまったものがありゃね」  「何のお話ですか?」  「いい投《とう》資《し》があるの。これはね、絶《ぜつ》対《たい》に内《ない》緒《しよ》よ」  と、増田清子は身を乗り出して、声をひそめる。「あなただけに教えてあげるんだからね」  名前もなかなか思い出せなかった程《てい》度《ど》の知り合いだけに、こっそり打ちあけてくれる「秘《ひ》密《みつ》」というものに、啓子は大して関《かん》心《しん》も持てなかったが、一《いち》応《おう》、聞いているふりをすることにした。    ——車の中で、脇《わき》元《もと》は目を閉じていた。  社長というのは、社長室の椅《い》子《す》でふんぞり返っていればいい、というのは昔《むかし》の話だ。  今はこうして大型の外《がい》車《しや》で移《い》動《どう》する間にも、じっと目を閉じて疲《つか》れを休めなくてはならないほど忙《いそが》しい。  電話が鳴った。脇元は、軽《かる》く息をつくと、受話器を取り上げた。  「脇元だ。——何だ。車にかけて来たりしちゃ、だめじゃないか」  と言いながら、声は笑《わら》っている。  麻《あざ》布《ぶ》のマンションに置いてある愛《あい》人《じん》からだ。  「うむ?——今夜はだめだ。——他《ほか》へ行くんじゃない、仕事なんだ。——本当だよ。——ああ、約束は忘れないさ」  張《は》りつめた毎日である。たまに、こうして、女と話をするのも、気《き》晴《ばら》しになっていい。  五、六分おしゃべりをして切ると、脇元は大分頭がスッキリしたような気がした。  目《もく》的《てき》地《ち》まで、あと十分ぐらいかな、と思ったとき、また電話が鳴った。  脇元は受話器を取った。  何も言わない内に、  「久野です」  という声。  「ああ、何かあったのか?」  「お出かけ前の電話の件は、処《しよ》理《り》しておきました」  「ご苦《く》労《ろう》だった」  「それから、実《じつ》は……」  「何だ?」  「例の一件ですが、一人、怪《あや》しいのが浮《う》かびました」  と、久野は少し声を低くして言った。  「誰《だれ》だ?」  「津村です。あの日、残《ざん》業《ぎよう》していた者の一人です」  「ふむ。何かこれという——」  「マンションを買い込《こ》んでいます。会社の方にはローンの申《しん》請《せい》をしていないんです。今、不《ふ》動《どう》産《さん》会社の方を当っています」  「そうか。しかし、一人とは限らん。すぐにあまり追《つい》及《きゆう》しない方がいいぞ」  「承《しよう》知《ち》しております。津村との関《かん》連《れん》で、二、三人目をつけているのもおりますので」  「分った。しかし、くれぐれも用心しろよ」  脇元としては、もちろん金も問題だが、その金のことを、公《おおやけ》にされるのはまずいのである。  犯《はん》人《にん》を見付けたとしても、警察に告《こく》発《はつ》できない。そこが、脇元としてもむずかしいところだった。  電話を切って、脇元は、またゆっくりと目を閉じた。もちろん、眠《ねむ》るほどの時間はないのだ……。    「——匂《にお》わないかい?」  と、塚原は、くり返した。  「大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》。外を歩いてれば消えちゃいますよ」  と、南千代子が、クスクス笑《わら》いながら、「本当に塚原さん、初めてだったんだ」  「そう言ったじゃないか」  塚原はネクタイをしめ直した。「ここを出るのを、誰《だれ》かに見られないかな?」  「大丈夫よ。だって、この辺にいる人なんて、みんな同《どう》類《るい》なんだから」  南千代子は、いとも楽しげである。  塚原は、しかし、気が重かった。——浮《うわ》気《き》したのだ。  結《けつ》婚《こん》以来、初めてのことである。いや、浮気したといっても、その気になって、というよりは、相《あい》手《て》に押《お》し切られてしまったようなものだが、それでも浮気には間《ま》違《ちが》いない。  シャワーで汗《あせ》を流した後、石ケンの匂《にお》いが残っていないかと、それを気にしているのである。  「さあ、会社へ戻《もど》りましょ」  と、南千代子が、腕《うで》を絡《から》めて来た。  会社へ向うタクシーの中で、  「塚原さん、そんなに心配?」  と、南千代子が訊《き》いた。  「心配というか……」  「罪《つみ》の意識?」  「まあ、そんなところかな」  「真《ま》面《じ》目《め》なんだから」  と、南千代子は笑《わら》って、「でも、そこがいいとこなのね。私《わたし》のことなら心配しないで。つきまとったりしないから」  「ありがとう」  塚原は、いともまともに礼を言った。——やっぱり俺《おれ》は、浮《うわ》気《き》なんかするようにはできていないんだ。  後になって、こんなに気分が咎《とが》めるようじゃ、浮気しないでいた方がよほどいい。  それに南千代子だって、もうこれにこりて、二度と俺とホテルへ行こうなんて思わないだろうし……。  俺はもう若くないんだ。こんな若い女の子を楽しませるような元気は、もう残っていない。  会社の前でタクシーを降りて、ビルへ入って行くと、もちろん顔見知りの同《どう》僚《りよう》とすれ違《ちが》う。  俺たちが今、ホテルで一《いつ》緒《しよ》だったと察《さつ》する奴《やつ》はいないのだろうか? 案《あん》外《がい》、分らないものなんだな……。  エレベーターの前で、南千代子が、ふっと微《ほほ》笑《え》むと、  「でも、塚原さん、とてもすてきだったわ!」  と言った。  エレベーターの扉《とびら》が開く。塚原は、少ししてから、頬《ほお》が熱くなるのを感じた。    「どうしたの、一《いつ》体《たい》?」  と、明美が目を丸くした。  「そうびっくりしなくたっていいじゃないか」  塚原が照れたように笑《わら》う。  「それにしたって……」  明美としては気に入らなかった。  いや、父親の買って来たケーキが気に入らなかったのではない。なかなかおいしそうだった。  気に入らないのは、父がそんなものを買って来たことの方だった。  「たまには、俺《おれ》だって甘《あま》いものが食べたくなってな」  という父親の言い訳《わけ》も、いかにもわざとらしい。  こいつはどうやら、後《うし》ろめたいことがあるのだ。明美は、慎《しん》重《ちよう》に父親を観《かん》察《さつ》した。  あの大《たい》金《きん》のことも、明美は忘れたわけではない。しかし、学校の勉強が忙《いそが》しくて、そっちの方まで頭が回らないのである。  目《もつ》下《か》のところ、刑《けい》事《じ》が張《は》り込《こ》んでいる様《よう》子《す》もないし、父が高飛びする気《け》配《はい》もない。しかし、今夜のケーキは……。  ちょっと怪《あや》しいぞ、と明美はひそかに考えていた。 裏《うら》切《ぎ》り  「こんなことが……」  久野はそう呟《つぶや》きながら、社長室へと急いでいた。「俺《おれ》としたことが、何てざまだ!」  いまいましげな言《こと》葉《ば》が、つい口に出る。  社長室のドアを開け、  「失礼します——」  と言って、久野は足を止めた。  社長の椅《い》子《す》からあわてて立ち上ったのは、秘《ひ》書《しよ》室《しつ》の若い女の子だった。  「何をしてるんだ?」  久野は不《ふ》機《き》嫌《げん》な顔で言った。  「すみません。お留《る》守《す》だったんで、ちょっと——座《すわ》り心《ごこ》地《ち》はどうなのかしら、と思って——」  「社長に知られたら大変だぞ」  「でも——言いつけたりしないでしょ?」  と、甘《あま》えたような声を出して、久野の肩《かた》に手をかけて来る。「ね、久野さん?」  ちょっと男心をくすぐるようなタイプなのである。久野は苦《にが》笑《わら》いして、  「黙《だま》っててやるよ」  と言った。  「わあ、優《やさ》しいのね、久野さん」  と、いきなり久野の頬《ほお》にキスした。  「おい、何するんだよ」  久野は急いでハンカチを取り出して、口《くち》紅《べに》のあとを拭《ぬぐ》うと、「社長はどこなんだろう? 知らないか?」  と訊《き》いた。  「お出かけですよ。十分ぐらい前に」  「お出かけ?——外出かい?」  「ええ。車を用意してくれって、私《わたし》、言われて……」  では俺《おれ》の間《ま》違《ちが》いではなかったのだ。それにしても……。  久野は、首をかしげた。どうもおかしい。  「どうかしたんですか?」  と、女の子が不《ふ》思《し》議《ぎ》そうに言った。  「いや、何でもないよ」  久野がぶっきらぼうに答えると、女の子はちょっと肩《かた》をすくめて、社長室を出て行った。  久野は、一人で残ると、脇元社長の机の前に立った。  手帳を取り出し、今日のページを開く。  久野は脇元の秘《ひ》書《しよ》として、脇元の二十四時間をつかんでいる。何時に起き、何時に眠《ねむ》るかまで久野は分っていた。  どの女の所で、どれくらい過しているか、どの女に飽《あ》きかけているまで、久野にはつかめているのだ。いや、もしかしたら、脇元当人よりも、よく分っているかもしれない。  びっしりと隙《すき》間《ま》なくスケジュールを埋《う》めたはずの手帳を、さっき眺《なが》めていて、久野は、ポッカリと、この一時間が空《くう》白《はく》になっているのに気付いたのだった。  こんなことはありえない!  てっきり、自分が脇元の指示を聞き落としたか、でなければ、時間か日《ひ》取《ど》りを勘《かん》違《ちが》いしているのだと思った。そして青くなって、社長室へと飛んで来たのであった。  どう考えても、妙《みよう》だ。  久野は苛《いら》々《いら》していた。——脇元社長が、自分に黙《だま》って、車で出かけている。なぜだろう?  久野は、脇元の私《し》生《せい》活《かつ》の、どんな細《こま》かい点までも承《しよう》知《ち》している。何の用で出かけるにしても、久野には必《かなら》ず行《ゆき》先《さき》を告げているのだ。たとえ久野を同行しないときでも。  海外から入る刻《こく》々《こく》の市《し》況《きよう》などによっては、たとえ脇元が女のベッドの中にいるとしても、大至急連《れん》絡《らく》を取らなくてはならないこともある。それが一時間も、久野に行先も教えずに出かけるとは……。  久野は、今は空《あ》いたままの社長の椅《い》子《す》を、じっと見つめていた。  脇元は何を考えているのだろう? 理《り》由《ゆう》もなしに何かをする男ではない。その点は、久野もよく分っていた。  久野の苛《いら》立《だ》ちは、微《び》妙《みよう》なものだった。  秘《ひ》書《しよ》としてのプライドが傷《きず》つけられたこともある。それだけ久野が神《しん》経《けい》質《しつ》になっているのは、もちろん、あのお金を盗《ぬす》まれたことが、大きな失点になっていると分っているせいでもあった。  ——社長は、秘《ひ》書《しよ》としての俺《おれ》を見限ったのだろうか? 久野は自分にそう問いかけて、ゾッとした。そんなことが——そんなことがあるもんか!  俺は、二十四時間、自分の生活の総《すべ》てを、脇元に捧《ささ》げて来たのだ。俺以外の誰《だれ》に、こんなことができるというんだ?  久野は自分を安心させようとして、却《かえ》って不安に駆《か》り立てられるのだった。  早く——こうなったら一《いつ》刻《こく》も早く、あの金を盗《ぬす》んだ奴《やつ》を、この手で見付け出して、脇元の前に突《つ》き出してやることだ。  久野は元《がん》来《らい》、乱《らん》暴《ぼう》なことの嫌《きら》いな男だった。しかし、自分のクビにかかわるとなれば、話は別だ。  津村の奴をしめ上げてみるか。——他《ほか》に仲間がいるかどうかはともかく、あいつが現金強《ごう》奪《だつ》に一枚かんでいるのはまず間《ま》違《ちが》いのないところだ。  久野は、社長室を出た。  エレベーターで一階へ降りる。会社の電話では、そんな用件の話はできない。  「待てよ……」  エレベーターを降りながら、久野は考え直した。  津村の奴《やつ》はなかなか頑《がん》丈《じよう》そうだ。あいつにしゃべらせるには、少々痛めつける必要があるかもしれない。痛めつけるのが、少々やり過ぎて殺してしまうことにでもなると、いくら何でもやばい。  警察の手が脇元に伸《の》びて来ることは、何としても避《さ》けなくてはならないのだ。  「そうだ」  久野は、受付のわきの赤電話の前に立って、肯《うなず》いた。  久野は、赤電話のダイアルを回した。  「——もしもし。久野だ。——うん、どうなってる?——そうか。一つ、やってほしいことがあるんだ」  久野は、周《しゆう》囲《い》にチラリと目をやった。誰《だれ》もそばにはいない。それでも声を低めて、  「津村の女《によう》房《ぼう》を、尾《び》行《こう》してるな?——よし。ちょいとおどかしてやるんだ。——そうだ。どこかへ誘《さそ》い出して、監《かん》禁《きん》しろ」  向うが、びっくりして声を上げたらしい。  「——落ちつけよ。誘《ゆう》拐《かい》じゃない。——そうだ。心配するな。それに向うには、届け出るわけにいかない事《じ》情《じよう》があるんだからな」  久野は穏《おだ》やかに言った。  「——分ったな?——うん、明日ということにしよう。うまい場所を捜《さが》しておいてくれ。——ああ、よろしく頼《たの》む」  久野は、受話器を置いて、軽《かる》く息をついた。  これでよし、と。女《によう》房《ぼう》を人《ひと》質《じち》にすれば、津村の奴《やつ》、何だってしゃべるだろう。  これが一番手っ取り早い方法だ。  久野は、エレベーターの方へ歩いて行ったが……。ふとビルの正《しよう》面《めん》に大きな外《がい》車《しや》が停《とま》るのが目に入った。脇元だ。  久野は、小走りに車の方へと急いだ。そして、足を止めた。  車から降りて来たのは、脇元一人ではなかったのだ。もう一人、三十そこそこの男が、久野と同様、ピシリと決った三つ揃《ぞろい》に身を包《つつ》んで、車から降り立った。  久野は、ほとんど無《む》意《い》識《しき》の内に、手近な柱の陰《かげ》に、身を隠《かく》していた。ガラス戸越《ご》しなので、脇元の方は、まだ久野に気付いていなかった。  ビルの中へ入って来ると、脇元は、若い男の方を振《ふ》り返って、  「君はもうここでいいよ」  と言った。  「はい」  「会社の人間に見られるとうまくない。もう引き取ってくれ」  「かしこまりました」  「用があるときは、また私の方から連《れん》絡《らく》する」  と、脇元は言って、「少しずつ秘《ひ》書《しよ》の仕事の中身も、憶《おぼ》えてもらわんといかんしな。しかし、まあ焦《あせ》ることはない。君ならすぐに呑《の》み込《こ》めるさ」  「ご期《き》待《たい》に沿《そ》うよう、努力いたします」  「頼《たの》むよ」  脇元は、軽《かる》く、若い男の肩《かた》を叩《たた》くと、ちょっと微《ほほ》笑《え》んで見せ、それから、エレベーターの方へ、いつも通りの足取りで歩いて行った。  若い男の方は、脇元がエレベーターに乗るまでその場で立って見送っていた。そして、軽《かろ》やかな足取りでビルから出て行く。  ——久野は、柱の陰《かげ》から出て来て、あの若い男が、タクシーを停《と》めて、乗って行くのを、じっと見つめていた。  顔からは血の気がひいていた。「秘書の仕事」だって?  畜《ちく》生《しよう》!  久野は、すぐには社へ戻《もど》らず、近くの喫《きつ》茶《さ》店《てん》に入って、気持を鎮《しず》めた。  常《つね》に冷静沈《ちん》着《ちやく》な久野にとっても、今の光景は大きなショックだったのだ。すぐに脇元の前に顔を出せば、動《どう》揺《よう》を見《み》抜《ぬ》かれてしまうかもしれない、と思った。  畜生! 畜生!  コーヒーを飲みながら、久野は何度もそう呟《つぶや》いていた。  俺《おれ》は何もかもを犠《ぎ》牲《せい》にして、脇元につかえて来たのだ。——そう。正に「つかえる」という言い方がふさわしい働きぶりだった。脇元が、ふとその気になれば、女のマンションに寄って「一戦交《まじ》えて」いる間、ぼんやりと表で待っていたこともある。  一《いつ》体《たい》俺は何をしているんだろう? そんなことを自分に問いかけたことも、ないではない。  しかし、それでも、自分が脇元の成功を支《ささ》えているのだという自《じ》負《ふ》があればこそ、ここまでやって来れたのだ。脇元だって、その点はよく分っているはずだった。  それなのに——あんな若《わか》造《ぞう》に、俺の代りをやらせるつもりか!  おそらく、久野だって、即《そく》クビというわけではあるまい。どこか他《ほか》の管《かん》理《り》職《しよく》でも当てがわれるか、それとも多少の金をつけて、系《けい》列《れつ》会社へ出すか……。  久野は、脇元の「裏《うら》の顔」を知っているから、敵《てき》に回すのは得《とく》策《さく》でない、と脇元も分っているはずだ。  しかし、今のポストを外《はず》されたら、久野としては脇元の下にとどまっている気にはなれなかった。潔《いさぎよ》く身を退《ひ》いてもいい。  だが、た《ヽ》だ《ヽ》じゃ引き退《さ》がらないぞ。そうとも。——これまでの仕事に相当する見返りはいただく。  やっと、少し冷静さを取り戻《もど》して、久野はふっとほくそ笑《え》んだ。  そうだ。津村の女《によう》房《ぼう》の件はどうしようか?  脇元のためにそこまで危い橋を渡《わた》る必《ひつ》要《よう》もないだろうが。いや——待てよ。  久野はしばらく考え込《こ》んでいたが、やがてある考えがまとまった様《よう》子《す》で、一人、ゆっくりと肯《うなず》いた……。    「浦田さん、お電話」  と呼ぶ声に、浦田京子は、ちょっとハッとした。  コピー室へ、コピーを取りに来たのだが、もうとっくに終ったのに、ぼんやりと小さな椅《い》子《す》に腰《こし》かけていたのである。  「はい。——ごめんなさい、すぐ戻《もど》るわ」  京子は、取り終えたコピーを束《たば》ねて、揃《そろ》えると、急いでコピー室を出た。  もう、手《しゆ》術《じゆつ》の跡《あと》も、何ともない。以前の通りの日々だった。  席に戻って、受話器を取ると、  「国際電話です」  という交《こう》換《かん》手《しゆ》の声がした。  国際電話と聞いて、浦田京子は素《す》早《ばや》く左《さ》右《ゆう》を見回した。  席を立っている者が多い。聞き耳を立てられることはなさそうだ。  「もしもし」  と、男の声がした。  「浦田です」  「やあ、浅倉ですよ。お仕事中でしょう。すみません」  「いいえ。アメリカからですか」  「そうです。忙《いそが》しく駆《か》け回ってて。やっと一息ついたら——あなたのことを思い出しましてね」  京子は、顔が熱くほてって来るのが分った。浅倉の、穏《おだ》やかで、どこか人を安心させる声《こわ》音《ね》が、遠い距《きよ》離《り》を越えて伝わって来る。  それは思いもかけないほどの懐《なつか》しさで、京子の胸を揺《ゆ》さぶった。  「京子さん」  浅倉は、名の方を呼んだ。「実《じつ》は、うまく仕事がはかどりましてね、二日くらい早く帰れそうなんです」  「まあ、良かったですね。エミちゃんもきっと喜びますわ」  「ええ。確かにそれは……。実《じつ》は、あなたをお誘《さそ》いできないかと思っているんです」  「私《わたし》を、ですか」  「ほんの一日、二日の時間しかありませんが、あなたとどこかへ行ってみたいんです」  「浅倉さん、それは——」  「もちろん、あなたが承《しよう》知《ち》して下されば、ですが」  京子は、ちょっと間を置いて、  「——ここではご返事ができません」  と言った。  「ああ、そうですね。すみません。つい、そちらがお仕事中だというのを忘れていました。じゃ、アパートの方へかけ直してもいいでしょうか?」  「ええ。そうしていただけると……」  「分りました」  ——京子は、国際電話が切れた後、しばらく、受話器を持ったままだった。  どうなってしまったんだろう? 以前の自分なら、  「奥《おく》さんがいらっしゃるのに!」  と、一《いち》言《ごん》ではねつけただろうに。  変ってしまった。私《わたし》は変った。——もちろん、あの大《たい》金《きん》を、盗《ぬす》み出したのは、「変るため」だったのだが、それはこんな風《ふう》な変り方を期《き》待《たい》したわけではなかったのだ。  浅倉の出発の日、京子は成田まで彼を送って行った。  海外出《しゆつ》張《ちよう》といっても、浅倉のような立場では、そう珍《めずら》しいことでもないらしく、会社の人間の見送りもなかったのだ。  成田へ向う途《と》中《ちゆう》、二人で夕食を取り、そして彼の車の中で、京子はキスされたのだった。  それはいかにも自然なことだった……。  妻《さい》子《し》ある男との恋《こい》。  浦田京子としては、自分とは最も縁《えん》遠《どお》いものだと思っていた。しかし、いざ、自分がそうなってみると、少しも不《ふ》自《し》然《ぜん》でなく、もともと予定されてでもいたかのように、そうなったのだった。  もちろん、今のところは、深い関《かん》係《けい》になっているわけではない。しかし、あの浅倉の出発の日、もし、飛行機が出るまでに充《じゆう》分《ぶん》な時間があったとしたら、どうなっていたか……。  京子にも自信はなかった。  今度の浅倉の誘《さそ》いを受け容《い》れたら、それはもう決《けつ》定《てい》的《てき》な一線を踏《ふ》み越えることになる。京子にもよく分っていた。  そうなってはいけない。浅倉には妻《つま》があり、病《びよう》床《しよう》の娘《むすめ》まであるのだ。  そこへ自分が立ち入るのは、不要な混《こん》乱《らん》を巻《ま》き起こすだけだ……。  そんなことは、もちろん京子にも分っている。ただ、京子は、自分の中にふくれ上って来る、何か得《え》体《たい》の知れないもの——自分の意志とは無《む》関《かん》係《けい》に、爆《ばく》発《はつ》してしまいそうな何かに、ほとんど怯《おび》えるような気持だった。  また電話が鳴って、京子はびくっとした。——まさか、浅倉がそう何度もかけて来るわけはない。  「はい、浦田でございます」  と、いつもの、仕事用の声を出す。  「あ、浦田さんですか?」  若い女の子らしい声だ。「私《わたし》、塚原明美といいます。塚原の娘《むすめ》です」  「まあ、係長の……」  京子は、ちょっと塚原の席を見た。「係長、今出かけてらっしゃるんですよ」  「ええ、今朝《けさ》そう言ってたんで、知ってます。あの——私《わたし》、浦田さんのこと、憶《おぼ》えてるんです。一度、うちへおいでになったでしょう」  「ええ、そうでしたわ。明美さんって、あのときはまだ小さくて……。今、おいくつ?」  「十六です」  「まあ! もうそんなに?——私も憶えてますよ、もちろん」  「良かったわ。この間、父へ電話して来られたでしょ? 後で声を思い出して」  「嬉《うれ》しいわ、そう言って下さると」  「あの——実《じつ》はちょっとご相談があるんですけど」  と明美の声が少し変った。  「私に? 何かしら?」  「父に知られたくないんです。父に——ちょっと気になることがあって」  「分りました。じゃ、どこかでお会いしましょうか」  「そうしていただけます?」  「たいてい会社は五時でひけるから、その後なら構《かま》いませんけど」  京子は、待ち合せの場所と時間を決めながら、何となく気分が若返ったようで、ワクワクしていた。 京子の多《た》忙《ぼう》な日  たいていの会社は、五時が一《いち》応《おう》の終業時間になっている。  しかし、女子のトイレは大《だい》体《たい》その十分前ぐらいから混《こん》雑《ざつ》し始める。帰り仕《じ》度《たく》や後片付けも勤《きん》務《む》の内、という根《ね》強《づよ》い思想があって、これは若い男性社員にも、結《けつ》構《こう》広まっているようだ。  「浦田さん」  ——浦田京子が給《きゆう》湯《ゆ》室《しつ》で、湯《ゆ》呑《の》み茶《ぢや》碗《わん》を洗っていると、早くも帰り道用の(?)化《け》粧《しよう》を済《す》ませた女子社員が一人《ひとり》、ぶらりとやって来た。  「今日《きよう》は早いのね」  と、その女性が言ったのは、いつも京子が終業のチャイムの鳴るのを待って、初めて帰り仕度をしているからだった。  といって、別に京子が若い子たちのことを苦《にが》々《にが》しく思っているわけではない。彼女《かのじよ》たちの考え方にも、それなりの理《り》屈《くつ》はある。ただ、京子自身は、どうしてもそれについて行けないだけである。  「ちょっと約《やく》束《そく》があってね」  と、京子は言った。  約束とは、もちろん塚原明美と待ち合せていることである。  「あら、デート?」  「だといいんだけど、残《ざん》念《ねん》ながら外《はず》れ」  と、京子は笑《わら》って言った。  そこへ、さらに若い子が二、三人加わって、何ともにぎやかになった。  「今日は係長、戻《もど》らないんでしょ?」  と一人が言った。  「ええ、〈直帰〉になってたわ」  と、京子は肯《うなず》いた。「きっとあちらの用事が長引いてるのよ」  「でもさあ——」  と、一人が急に声をひそめて、「気が付いた?」  「何をよ?」  「今日、千代子さん、お休み取ってんのよ!」  「えーっ! 本当? じゃ、もしかして——」  「きっと外で待ち合せなのよ。私、そうにらんでんだ」  聞いていた京子は、ちょっと当《とう》惑《わく》して、  「それ、何の話?」  と、口を挟《はさ》んだ。  「あら、浦田さん、知らないんですかあ?」  と若い子が、何だかいやに愉《たの》しげに言った。  「知らないって、何のこと?」  「係長さんと、千代子さんのことですよ」  「千代子さんって……南千代子さん?」  「ええ。あの二人《ふたり》、できてる、ってもっぱらの評《ひよう》判《ばん》なんです」  「まさか」  京子は、思わず笑《わら》い出していた。「他《ほか》の人と間《ま》違《ちが》えてるんじゃないの? 塚原さん、そんなことしないわよ」  まるで本気にしていない。京子としても、塚原のことなら、よく分っているという自信があったのである。  「浦田さん、甘《あま》いんですよ。男なんて、ちょっとおだてられたら、すぐ浮《うわ》気《き》の虫が動き出すもんなんだから」  ねえ、というように他の女性たちを振《ふ》り向く。みんな、気《き》軽《がる》に肯《うなず》いた。  初めて、京子は不安になった。塚原が南千代子と浮気?  まさか、という思いは消えない。しかし……。  「その話、南さんから聞いたの?」  と、京子は訊《き》いた。  「いくら何でも、そんなこと直接しゃべったりしませんよ! でも——分るじゃないですか、ちょっとすれ違《ちが》ったときの目《め》配《くば》せとか、声をかける調子とか」  それは確かだ。  京子にしても、十八年もOL生活を送って来ている。社内で特別に親《した》しい仲になった男女というのは、不《ふ》思《し》議《ぎ》にすぐ気付かれるものだと分っていた。  それに、女子社員たちの、そういう方面に関するアンテナの感度は大したものなのである。ちょっとでも「怪《あや》しい」という情《じよう》報《ほう》が入れば、特別に注意して目を向ける。  そうなれば、まず、どんな秘《ひ》密《みつ》の仲でも、隠《かく》し通すことは不《ふ》可《か》能《のう》に近い。  塚原が浮《うわ》気《き》。しかも、あんなに若い南千代子と……。京子には小さからぬショックだった。  そして、ふと思い当った。塚原明美が相談したいと言って来たのは——。    「明美……さん?」  京子は、恐《おそ》る恐る声をかけた。  「こんにちは。すみません、わざわざ来ていただいて」  京子は、またまたショックを受けた。  待ち合せた喫《きつ》茶《さ》店《てん》に来て、それらしい娘《むすめ》は他《ほか》に見当らないので声をかけたのだが、ずっと昔《むかし》に、塚原の家へ招《よ》ばれたとき見かけた小学生が、こんなに女らしく、立派に成長しているとは!  「まあ驚《おどろ》いた。——顔を突《つ》き合せても、とても分らないところだわ」  と、京子は腰《こし》をおろしながら言った。  「浦田さんのこと、よく憶《おぼ》えてます」  と、明美が言った。  「ずいぶんおばさんになっちゃったでしょ」  「いいえ。あのころと少しも変りません」  「あら、お世《せ》辞《じ》も上《じよう》手《ず》になったのね」  と、京子は笑《わら》った。  お互《たが》いのこと、家のことなどを少し話し合ってから、少し二人《ふたり》は黙《だま》って、運ばれて来た飲《のみ》物《もの》に口をつけていた。  京子は、軽《かる》く息をついた。こちらから切り出した方が良さそうだ。  「それで、私《わたし》に相談したいことって?」  「ええ、実《じつ》は——」  明美が、ちょっとためらってから、言った。「私、近《ちか》々《ぢか》、学校を辞《や》めて、結《けつ》婚《こん》しようと思ってるんです」  「け、結婚?」  京子は、危《あや》うくコーヒーカップを取り落すところだった。  明美が相談というから、てっきり塚原の浮《うわ》気《き》のことだと思っていたのである。それが——明美当人が、結婚したいと言い出したのだから、仰《ぎよう》天《てん》するのも当然だ。  「ええ」  と、明美は微《ほほ》笑《え》んで、「私《わたし》、もう十六ですから、法《ほう》律《りつ》的にも、結《けつ》婚《こん》できる年《ねん》齢《れい》なんです」  「そ、それはそうね」  京子だって、それぐらいのことは知っている。もっとも、京子の方は、もちろん法律など気にする必要のない年齢であるが。  「それに、私、肉体的にも健康で、もう出《しゆつ》産《さん》にも堪《た》えられますし——」  「ちょっと待って!」  京子はあわてて言った。「明美さん、それはもしかして現《げん》実《じつ》に——」  「違《ちが》いますよ」  明美はいたずらっぽい笑《え》みを浮《う》かべて、「ただ可《か》能《のう》性《せい》を言っただけです」  「ああ、びっくりした」  京子は胸を撫《な》でおろした。「あんまり大人《おとな》をびっくりさせないでよ」  「すみません。でも、私、本気なんです。結婚しようと思ってます」  明美が、こともなげに言う。  「だけど——ご両親はご存《ぞん》知《じ》?」  「いいえ」  「でしょうね……」  もし知っていたら、いくら呑《のん》気《き》な塚原だって、ああも平然とはしていられないに違いない。  「でも、明美さん」  と、京子は言った。「十六歳《さい》で結《けつ》婚《こん》するには、親の許《きよ》可《か》が必要なのよ」  「分ってます。それで、浦田さんにご相談したかったんです」  「私《わたし》に? でも——」  「父も母も、こんなこと聞いたら反対するに決ってます」  「そうでしょうね。私だって、きっと、もう少し待て、と言うわ」  「でも、母の方はうまく言いくるめる自信があるんです」  「妙《みよう》な自信ね」  と、京《きよう》子《こ》は苦《く》笑《しよう》した。  「問題は父なんです。何といったって、お金を稼《かせ》いでるのは父だし、結婚したって、おこづかいはせしめるつもりですから」  何ともちゃっかりしている。——京子は、「お金」という言《こと》葉《ば》を聞いて、ちょっとギクリとした。  お金か。——塚原が南千代子と浮《うわ》気《き》しているのが、事《じ》実《じつ》だとしたら、あのお金に手をつける危険がある。何しろ、塚原は、家でもらうこづかい以外に、金の入る途《みち》はないのだから。してみると、あの七千万円が、塚原を浮気に走らせたのだろうか?  明美の話に目を丸くしながら、京子は、塚原があの金のことを、南千代子にしゃべったりしていないかと気になっていた。  もし、本当に塚原が南千代子とちょくちょくホテルへでも行っているとしたら、ホテル代は当然塚原が持っているはずだ。——ただの係長の身で、何万円ものホテル代が出せるのを、南千代子は妙《みよう》だと思うだろう……。  「父を説《せつ》得《とく》するってのは、難《むずか》しいと思うんです」  と、明美が続けた。「どうせ父親って、娘《むすめ》の結《けつ》婚《こん》には反対するもんでしょ」  「そう……ねえ」  「だから、父の弱《よわ》味《み》を握《にぎ》って、無《む》理《り》にでも承《しよう》知《ち》させようと思うんです」  「弱味?」  「ええ。それで浦田さんにお願いがあって」  「どういうこと?」  「今、父が浮《うわ》気《き》してるの、ご存《ぞん》知《じ》でしょ?」  今日一日で、京子は二、三年分のショックを一度に受けた気分だった。  「塚原さんが……」  「父は大《だい》体《たい》、馬《ば》鹿《か》正《しよう》直《じき》な人ですから、隠《かく》しごとなんかできやしないんです」  と、明美はアッサリ言った。「わざわざ買って来たこともないおみやげなんか買って帰ったりして。あれじゃ、〈浮気して来ました〉ってプラカードでも持ってるようなもんだわ」  笑《わら》っている場合ではないのだが、京子はそんな塚原の様《よう》子《す》が目に浮《うか》んで、つい笑ってしまった。塚原なら、きっとそうだろう。  「あれで気が付かないのは、うちの母ぐらいのもんだと思います」  「じゃあ——お母《かあ》様《さま》は、何も?」  「ええ。母は世《せ》間《けん》知《し》らずですから」  京子は少しホッとした。塚原の浮《うわ》気《き》が、まだ妻《つま》にばれていないのなら、今の内にやめさせれば、まだ救《すく》われる余《よ》地《ち》がある。  「それで、浦田さん」  と、明美は少し身を乗り出して、「父の浮気の相手、ご存《ぞん》知《じ》ありませんか?」  京子も、面《めん》食《く》らった。  「相手?——さあ、それは——」  「父のことだから、どこかへ出向いてまで女の子と知り合うことなんて、まず考えられないと思うんですよね。だから、十中八、九、会社の女の人だと思うんです。そういう噂《うわさ》、耳に入っていませんか?」  明美の見方は何とも鋭《するど》い。父親のことをよく分っているのだ。  「私も……よく知らないわ」  と、京子は答えた。  「そうですか。残《ざん》念《ねん》だなあ。父に反対されたら、じゃ、お父さんはどうなのよ、って言い返してやろうと思ったのに。自分が浮気しといて子供に説《せつ》教《きよう》なんてできないでしょ」  明美の言《こと》葉《ば》を聞いて、京子はギクリとした……。    病室のドアをそっと開けて、京子が顔を覗《のぞ》かせると、エミが目ざとく見付けて、  「お姉《ねえ》ちゃん!」  と、手を振《ふ》った。  「見付かっちゃった」  と、京子は笑《わら》いながら、エミのベッドの方へ歩いて行く。  京子が使っていたベッドは、今は空《から》になっていた。  「元気そうね。少し太ったみたい」  「お姉ちゃんも太ったみたい」  「あらあら、そりゃ大変だわ」  京子は大げさに目を丸くした。「——ご本をね、何冊《さつ》か買って来たのよ。エミちゃん、何がいいかよく分らなかったんだけど……」  「ありがとう! 本、大好き」  エミは、本当に嬉《うれ》しそうだった。  「そう! 良かったわ。でも、あんまりご本に夢《む》中《ちゆう》になってくたびれないようにしてね」  京子はホッとして、言った。  「パパから絵ハガキが来た」  「そう。もうすぐ帰って来るんでしょ?」  「うん。そしたらエミの所に飛んで来てくれるよね」  「そりゃそうよ! 何てったって、エミちゃんはパパの宝物だもの」  京子は、エミの傍《そば》に座《すわ》っていて、奇《き》妙《みよう》な安らぎと、胸の痛みを覚えていた。——この子が、あとどれくらい生きられるのか、それは京子にも分らない。しかし、そんなに何日も親《した》しくしていたわけでもないのに、京子は、エミの笑《え》顔《がお》を見ていると何ともいえず幸《しあわ》せな気分になるのだった。  やっぱり、だめだわ。アメリカから帰ったら、浅倉はまず、ここへ来なくてはならない。妻《つま》でもない女とどこかへ行こうなんて、とんでもないことだ……。  京子は、塚原明美の言《こと》葉《ば》に、ハッとしたのだった。  自分が浮《うわ》気《き》なんかしていて、人に説《せつ》教《きよう》できるものか。——その通りだ。  京子は、塚原に忠告しようと思っていた。南千代子との噂《うわさ》が、もし事《じ》実《じつ》ならば、である。しかし、考えてみれば、自分も同じことをしているのではないか。  まだ関《かん》係《けい》を持つところまでは行っていないにしても、半《なか》ばそうなるのを期《き》待《たい》すらしていたのではないか。  エミの顔を見ていると、京子は、浅倉への熱い、ドロドロした想《おも》いが、スーッと冷えて、澄《す》んだものに変って行くのを感じた。浅倉のことが好きなら、それはそれでいい。  人は、好きとか嫌《きら》いとかまで、意志の力でコントロールはできない。  しかし、それを抑《おさ》えることはできるはずだ。エミのためにも、そうしなくては。  しばらくエミのそばについていて、少し眠《ねむ》そうになったので、京子は帰ることにした。  「また来てね」  エミが、ちょっと寂《さび》しそうな顔で言った。  病《びよう》院《いん》を出ると、京子は夜の道を歩き出した。  今日は色々なことでびっくりさせられたわ、と思った。——塚原の浮《うわ》気《き》の情《じよう》報《ほう》、明美の結《けつ》婚《こん》話《ばなし》……。しかし、エミに会うと、そんなことなど大して気にもならなくなる。  子供っていいもんだわ。京子はそう思った。  結婚して、子供を産《う》んで育てたい。京子は不意にその想《おも》いに捉《とら》えられて、息苦しいほどになった。  でも——でも、そんなことが可《か》能《のう》だろうか? もうこんな年齢《とし》なのに……。  できないことはない。その気になれば、きっと……。  ——京子は、道の左側を歩いていた。歩《ほ》道《どう》の上だ。ガードレールはないが、一段、高くなっている。  車が、京子と同じ方向へ、追いかけるような格《かつ》好《こう》で、走って来た。  ガタン、と音がした。京子は振《ふ》り向いて、目を疑った。  車が、歩道に乗り上げて、自分の方へ迫《せま》って来るのだ!  ライトが正《しよう》面《めん》から京子を照らして、目がくらんだ。  ともかく、どうやってよけたのか、京子自身、よく分らなかった。気が付いたときには、車道の方へ飛び出して転《てん》倒《とう》していた。  膝《ひざ》や肘《ひじ》を打って、痛みが頭までひびいた。しかし、車の方は、ほんのわずかの差でそれて、そのまま歩道を少し先まで行って、再《ふたた》び車道の方へガタン、と車体を落し、走り去って行った。  京子は、急いで起き上った。また車が来るかもしれない。  足を引きずるようにして、歩道へ上った。——胸が激《はげ》しく波打っている。  ひかれるところだった。  しかし、あの車は……。わざわざ歩《ほ》道《どう》へ乗り上げて来るなんて!  京子は、傷《きず》の具《ぐ》合《あい》を見た。ずきずきと痛むが、すりむいたくらいで済《す》んだようだ。  少し行くと、小さな公園があったので、京子はそこへ入って、水呑み場の水道でハンカチを濡《ぬ》らし、傷を拭《ふ》いた。  大したことはない。血もそう出ていなかったし、アパートへ戻《もど》ってから手当すれば充《じゆう》分《ぶん》だろう。  落ちついて来ると、今度は却《かえ》ってショッキングな事《じ》実《じつ》を認めざるを得なくなって来る。あの車は、京子を狙《ねら》って来たのだ。そうとしか考えられない。  しかし、なぜ?  京子は、また、ゆっくりと夜道を歩き出した。  誰《だれ》が京子をひき殺そうなどとするのだろうか? あの二億円のせいか。——おそらくそうだろう。他《ほか》には考えられない。  しかし、何か怪《あや》しまれるようなことをしたかしら? いくら考えても思い付かないのだ。  ともかく狙《ねら》われたのは事《じ》実《じつ》である。他の二人《ふたり》にも、気を付けるように言っておかなくては。——とんでもない一日だったわ、と京子は思った。 華《はな》子《こ》の危機  塚原は、家から少し離《はな》れた所でタクシーを降りた。  やはり、バスで帰って来たことにしておかないとまずいのである。前から、よくタクシーで帰っていたというのならともかく、そんなむだな出《しゆつ》費《ぴ》に堪《た》えるほどの余《よ》裕《ゆう》は、塚原の財《さい》布《ふ》にはなかった。  家の前までタクシーを乗りつけて、妻《つま》の啓子や明美に見られてはまずい。それに、タクシーでなくては帰れないほど遅《おそ》い時間ではなかった。  「やれやれ……」  と、塚原は呟《つぶや》いた。  暑くもなく寒くもなく、ちょうどいい気候である。しかし、のんびりと散歩する気分にはなれなかった。  気が重い。——南千代子と会った帰り道はいつもこんな気分である。  だったら、やめりゃいいのだ。そうは思うのだが、別れぎわ、南千代子にキスされて、  「ねえ、こんどはいつ会える?」  と訊《き》かれると、もうやめようとは言いにくくなってしまう。  「あんまり先じゃいやよ」  などと甘《あま》えて来られると、やはり塚原も男で、ついニヤニヤしてしまうのだった。  啓子には悪いと思っている。どうせ南千代子の方だって、一時の遊びのつもりなのだから、そう執《しゆう》着《ちやく》しているわけではないに違《ちが》いない。  そう思っていながら、しかし、やめられないのが浮《うわ》気《き》というものなのだろう。却《かえ》って、これが本《ヽ》気《ヽ》だったら、危険に怯《おび》えて、スッパリと諦《あきら》めるかもしれないのだが。  タバコをやめられるのは、むしろヘビースモーカーの方で、一日に五、六本という人間は却ってなかなかやめられない、というのと似ている。  南千代子との仲は、その気になればいつでも清《せい》算《さん》できる。だからこそ、断《た》ち切れないのである。  塚原が多少後《うし》ろめたいのは、啓子に対してだけではなく、浦田京子に対しても、であった。南千代子との付合いで、食事やホテル代、タクシー代など、つい出《しゆつ》費《ぴ》もかさんでいて、あの金に手をつけないわけにはいかなくなっていたからだ。  こんなことのために、危い橋を渡《わた》ったわけではないのに……。  塚原は、家の少し手前で、足を止めた。  「——やあ」  と、塚原は、そこに立っている浦田京子に言った。「どうしたんだい?」  「お話があるんです」  と、浦田京子は言った。  「上ればいいのに」  「お宅では、話し辛《づら》いことですから」  と、浦田京子は言った。「ゆっくりお話できる所はありません?」  塚原はバス停《てい》の方まで戻《もど》って、そこの小さな喫《きつ》茶《さ》店《てん》に、浦田京子を連《つ》れて行った。  「もうすぐ閉店ですよ」  と、店の主人がいやな顔をしたが、  「すぐ出るから」  と、強《ごう》引《いん》に入ってしまった。  「——突《とつ》然《ぜん》ですみません」  と、京子は言った。  「いや、そんなことはいいけど。——足、けがをしたのかい?」  京子は、店の主人が、TVの方に夢《む》中《ちゆう》になっているのを、チラッと見やって、それでも聞こえないように低い声で言った。  「車にはねられそうになったんです」  「そりゃ危かったね」  「狙《ねら》われたんです」  「何だって?」  塚原は思わず訊《き》き返した。  「低い声で。——間《ま》違《ちが》いありません。私《わたし》を殺す気で狙って来たんです」  「それは……。しかし、一《いつ》体《たい》誰《だれ》が……」  「分りません」  と、京子は首を振《ふ》った。「社長さんの命《めい》令《れい》かとも思ったんですが、それにしては、ただ殺すのは単純すぎると思うんです。お金をどうしたのか、向うも知りたいでしょうし」  「そうだね」  「塚原さんの方は、何か変わったことはありませんでしたか?」  「いや——別にないよ」  「そうですか」  京子は肯《うなず》いて、「それならいいんですけど……。でも、念のためです。用心して下さいね」  「うん、分った」  ——手っ取り早く、コーラをとって、二人《ふたり》は黙《だま》ってグラスの半分ほど飲んだ。  「塚原さん」  と、京子は言った。  「うん?」  「南千代子さんが、社長の命《めい》令《れい》で近付いて来たとは考えられませんか?」  塚原はギョッとした。  「そ、それは……君……」  「社内では噂《うわさ》になっています。事《じ》実《じつ》なんでしょう?」  少しも責《せ》めるような口《く》調《ちよう》ではない。  「うん……。いや、本当に面《めん》目《ぼく》ない」  と、塚原が頭を下げると、京子は笑《わら》って、「私《わたし》に謝《あやま》られても困りますわ。謝るのなら奥《おく》様《さま》へどうぞ」  「うん……」  塚原は頭をかいている。  「そのことは、私が口を出す問題ではありません。ただ、もし千代子さんが——」  「それはないと思うよ。そんな風《ふう》に探《さぐ》りを入れられたことはない」  「お金を上げてるんですか」  「いや、何一つ買ってやったこともないよ」  と塚原は言った。  「それならいいんですけど」  と、京子は言った。「でも、充《じゆう》分《ぶん》用心して下さいね。あまりお金があるように見せると、それだけでも怪《あや》しまれますわ」  「うん、分った」  塚原は、ため息をついた。「まさか僕《ぼく》と南君のことが、社内で噂《うわさ》になってるとは思わなかった」  「女の子は、そういう勘《かん》が鋭《するど》いんですわ」  と、京子は微《ほほ》笑《え》みながら言った。  「早くけ《ヽ》り《ヽ》をつけなきゃいけないとは思うんだがね。女《によう》房《ぼう》にも悪いと思ってるし……」  「よく分ります。塚原さんは真《ま》面《じ》目《め》な方ですから。——でも、奥《おく》様《さま》にはもちろんですけど、千代子さんの方にも、気をつかってあげて下さいね」  塚原は、京子の、暖かくて厳《きび》しい視線を受け止めた。  「奥様も、千代子さんも、一人の女なんです。千代子さんは気《き》楽《らく》に遊んでいるだけと思われているかもしれませんけど、必ずしもそうとばかりは言えませんわ。見かけと心の中は違《ちが》うものです」  「そうだね」  塚原は肯《うなず》いた。「——その通りだ」  「——それじゃ、私、これで」  と、京子は立ち上った。  店を出ると、塚原は、  「送ろうか。また何かあると危い」  と、京子に言った。  「大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》です。用心しますから。それより早くお帰りにならないと」  京子は微《ほほ》笑《え》んで、「少し石ケンの匂《にお》いがしますよ」  塚原は赤くなった。京子は、バス停《てい》の方へ行きかけて、振《ふ》り向くと、  「お嬢《じよう》様《さま》、大きくなられたでしょうね」  と言った。  「明美かい? うん、もう十六だからね」  「一度、親子でゆっくり話し合われるとよろしいですわ。——それじゃ、津村さんの方にも充《じゆう》分《ぶん》用心されるように伝えて下さい」  「分った……」  塚原は、ちょっと戸《と》惑《まど》いながら言って、「——ありがとう!」  と、京子の後姿に声をかけた。  明美と話し合う? どうして彼女は突《とつ》然《ぜん》そんなことを言い出したんだろう?  塚原は首をかしげながら、再《ふたた》び家への道を辿《たど》って行った。  ——京子はバスを待ちながら、塚原が、おかしくなっていないことが分って良かった、と思った。  あれなら決定的なところまでは行くまい。以前の自分なら、塚原を責《せ》め立てていたかもしれないが、その点では確かに、自分は変ったのだ。  京子はそう思って、満足だった。  バスが来るのが目に入った。    スーパーマーケットは、相《あい》も変わらぬ人出である。  津村華子は、久しぶりでスーパーへやって来た。久しぶり、というのはちょっとオーバーだったが、当人としてはそんな感じであった。  このところ、引《ひつ》越《こ》しのための家具選びで、デパートばかりへ足が向くようになっていたのである。  デパートだって、食料品は買って来れるが、卵とか牛乳とかを、かかえて帰って来るのは楽でない。やはりそういうものは、スーパーへ来て買うことになる。  その類の品が、空《から》っぽになってしまったので、スーパーへやって来たのである。  華子は買物を済《す》ましてからスーパーの食堂へ入った。  いつもだと、安いランチでも注文するところだが、財《さい》布《ふ》に余《よ》裕《ゆう》があるので、ちょっと気取って……高いものを、と思った。でも、大《だい》体《たい》こんな店に何千円もするステーキなんかない。それに昼からそんなものを食べたいとも思わなかった。  仕方なく、ランチとあまり変らない値段のグラタンを頼《たの》んで、ただ、デザートを追加したのが、ちょっとしたぜいたくだった。  見回すと、見知った顔も、いくつか見えたが、どうせ近《ちか》々《ぢか》引《ひつ》越《こ》すのだと思うと、あまり話をする気にもなれない。  でも——本当に引越すのかしら?  何だか、まだ信じられないような気分である。  華子も、デパートの売場の女性にあれこれ訊《き》きに来たという男のことが、心配でなかったわけではない。しかし華子は、そのことを、ついに夫に話さずじまいだったのだ。  どうして——と訊かれると、華子も困ってしまう。  もちろん、話すべきだったのは分っているが、マンションを買い、家具を選び、引越しの手配をして——もちろん内《ない》装《そう》工事の関《かん》係《けい》ですぐに引越すわけにはいかないのだが——今、夢《ゆめ》が実《じつ》現《げん》しようとしているのだ。  それにブレーキをかけるようなことを、したくなかったのだ。  そう、その男だって、誰《だれ》か他《ほか》の女性と間《ま》違《ちが》えたのかもしれない。そんな無《む》茶《ちや》な理《り》屈《くつ》で、華子は自分を納《なつ》得《とく》させていたのである。  ——食事を済《す》ませて、華子はスーパーを出た。  しばらく買物に来ていなかったので、やたら荷《に》物《もつ》が大きくて重い。華子は車の運転などできない。  タクシーで帰ろうかしら、と考えながら、歩いていると、一台の白い車が、華子の方へ寄って来て停《とま》った。  「すみません、ちょっとうかがいたいんですが——」  ごくありふれた中型車から、若い男が顔を出し、助手席には恋《こい》人《びと》らしい女が乗っていた。  「何ですか?」  華子は、重い荷《に》物《もつ》を持ったまま、車の若者へ訊《き》き返した。  「この団地へ行きたいんですけど、道、分りませんか」  若者が、メモを取り出して、華子に見せた。  「あら。——うちの方だわ」  と、華子は言った。  実《じつ》際《さい》、その住所は、華子のいる棟《むね》の一つ隣《となり》だったのだ。  「そうですか」  若者はホッとした様《よう》子《す》で、「道、分ります?」  「ええ、もちろん。ただ……団地の中は、割《わり》と分りにくいですよ」  「そうでしょうね。——あの、失礼ですけど、奥《おく》さん、今からお帰りですか」  「ええ」  「じゃ、乗って行きませんか? お送りしますから、道を教えて下さい」  「まあ。でも悪いわ」  「いいんですよ、こっちは。迷《まい》子《ご》になるんじゃ困りますものね」  と若者は言って、隣《となり》の女の子に、「おい、お前、後《うし》ろに行けよ」  「うん」  女の子が後《うし》ろの空《くう》席《せき》に移《うつ》る。  「さあ、どうぞ」  若者が荷《に》物《もつ》を、後ろの座席の空《あ》いた所に置いてくれ、華子は、助《じよ》手《しゆ》席に腰《こし》をおろした。  助かったわ、と華子は思った。この荷物、タクシーの乗り場まで持って行くのだって楽《らく》じゃない。  華子だって、これが男一人の車だったら、乗るのをためらっただろうが、ちゃんと女の子がいたし、それに若い人には珍《めずら》しく、礼《れい》儀《ぎ》正しいので、すっかり気を良くしていたのである。  「じゃ、この道を真直《まつす》ぐに行って、あの信号を右へ行くんです」  と、華子は言った。  「分りました」  若者が、車をスタートさせる。  「団地にお知り合いがいらっしゃるの?」  と、華子は訊《き》いた。  「ええ、そんなところです」  と、若者が肯《うなず》く。  「——あら、違《ちが》うわ」  と、華子は急いで言った。  「信号を右なの。私、右って言わなかったかしら」  車は左へ曲っていたのだ。  「大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》ですよ」  と若者は言った。「あなたは、右と言いましたから。津村華子さん」  「え?」  華子は戸《と》惑《まど》った。「あの——」  「静かに」  後《うし》ろの女の子が、乗り出すようにして、華子の肩《かた》へ手をかけた。「ナイフを持ってるのよ。声をあげると、命はないからね」  ナイフ? 命がない?  そう突《とつ》然《ぜん》言われたところで、華子には何のことだか分らなかった。  「あの——あなた方は——」  「ただ、ちょっとお付合い願うだけですから」  と、若者は、ハンドルを握《にぎ》ったまま、相《あい》も変らぬ愛《あい》想《そ》の良さで、言った。  「でも、私……」  「静かに、と言ったよ」  女の方は、ガラッと変って、不《ふ》良《りよう》っぽい口のきき方だ。「口をきかずに、そこで座《すわ》ってりゃ、何もしないよ」  華子は、やっと自分がとんでもない立場に置かれているのだということを悟《さと》った。  どこかへ連《つ》れ去られようとしている。しかし——一《いつ》体《たい》何のために?  華子は、表に目をやった。車は団地の方とは反対の、華子の知らない辺《あた》りへとどんどん入って行く。  どこへ行くんだろう?  車は二十分以上、走り続けた。——かなり郊《こう》外《がい》まで出て来ている。  やっと、華子も少しものを考える余《よ》裕《ゆう》が出て来た。  この二人《ふたり》は、彼女《かのじよ》の名前を知っていた。ということは、声をかけて来たのも偶《ぐう》然《ぜん》でなく、初めから狙《ねら》って近づいて来たわけだ。  目的は?——誘《ゆう》拐《かい》?  華子は、やっと、この二人と、夫が拾《ひろ》って来た大金を結びつけて考えた。あのお金が、もしよほど 「いわくのある」お金だったら……。それを使ってしまったことを知って、腹を立てた人間が、この二人を使って、華子を誘拐させたのか。  事《じ》情《じよう》はどうにせよ、ただの安サラリーマンの妻《つま》を誘拐する物《もの》好《ず》きはあるまい。あのお金のことを知っているのだ。  でも——お金はまるまる残っているわけではない。マンションの代金を払《はら》ってしまったからだ。  どうなるんだろう? どこかへ監《かん》禁《きん》されて、身《みの》代《しろ》金《きん》の要求、ということになるのだろうか?  初めて、華子の胸に恐《きよう》怖《ふ》心《しん》が湧《わ》き上って来た。  「——ここだ」  車がスピードを落として、カーブした。  道《どう》路《ろ》沿《ぞ》いに、いくつか見えるモテルの一つへ入って行く。  「いい? 逃《に》げようなんて気を起すんじゃないよ」  車が停《とま》ると、女が、ナイフをチラつかせて言った。  若者の方が、手続を済《す》ませて戻《もど》って来る。  「さて、部《へ》屋《や》へ入って、のんびりするとしようか」  「三人で仲良く遊びましょうよ」  女がそう言って、クックッと笑《わら》った。華子はゾッとして、青ざめた。 歯《は》車《ぐるま》が狂《くる》った  久野のポケットベルが鳴った。  「——食事ぐらい、させてほしいもんだな」  久野はそうぼやきながら、ナイフとフォークを置いて、立ち上った。  顔見知りのレストランなので、電話を借《か》りることにする。今日、脇元は夕方まで来《らい》客《きやく》で家にいるはずだが。  社へ電話を入れると、秘《ひ》書《しよ》室《しつ》の女の子が、  「お電話が入ったんで……」  「社長から?」  「いいえ、ええと……田《た》中《なか》一《かず》夫《お》様からです」  「分った。伝《でん》言《ごん》は?」  「ええ、荷《に》物《もつ》は無《ぶ》事《じ》に届《とど》けましたから、って、そう伝えてほしいってことでした」  「分ったよ。ありがとう」  久野は電話を切ると、席に戻《もど》って、食事を続けた。  田中一夫というのは、もちろんでたらめの名前である。——荷物が届いた、というのは、予定通り、津村の女《によう》房《ぼう》を監《かん》禁《きん》してあるという意味なのだ。  どうやら、うまくやったらしい。久野は、少しのんびりと残りの食事を味わった。  時《と》計《けい》を見る。——余《よ》裕《ゆう》はある。  脇元の家に迎《むか》えに行くのは、六時でいい。社には五時まで外出と言って来てある。  話をつけるには、充《じゆう》分《ぶん》だろう。  「コーヒーをくれ」  と、久野は、ちょっと手を上げて言った。  さて、どうしたものか……。  久野としては、女房を人《ひと》質《じち》に、津村に、金を盗《と》った仲《なか》間《ま》が誰《だれ》なのか、白《はく》状《じよう》させようという考えで、計画を立てたのだが、必《かなら》ずしも脇元に義理立てしなくて良くなった今では、事《じ》情《じよう》が変っているのだ。  盗《ぬす》まれた二億、手みやげ代《がわ》りにいただいて、脇元の下を去ることも考えている。もちろん、脇元とは、あくまで友好的な関《かん》係《けい》を保ちつつ、別れなくてはならない。  向うも、充《じゆう》分《ぶん》に支《し》払《はら》ってくれるに違《ちが》いないからだ。脇元は、その点、馬《ば》鹿《か》ではない。  何もかも知り尽《つ》くした久野を、辞《や》めるからといって、裸《はだか》で放り出すようなことはしない男である。  その他《ほか》に二億、入るか入らないか。これは大違いだ。  ただ、その手順は、臨《りん》機《き》応《おう》変《へん》に考えるつもりだった。  「——電話を借《か》りるよ」  久野は、ウエイターに声をかけて、もう一度、社へ電話を入れ、脇元から、予定変《へん》更《こう》の連《れん》絡《らく》が入っていないことを確かめた。  レストランを出て、今度は電話ボックスから、例のモテルへ電話を入れる。  ——相《あい》手《て》が出るまで、少し間があった。  「もしもし」  と、男の声だ。「久野さんですか」  「そうだ。どうした?」  久野は、少し不安になって、言った。  「伝《でん》言《ごん》は聞いてもらえましたね?」  と、男は言った。  「ああ。——異《い》常《じよう》ないのか」  久野は、何となく、受話器を持ったまま、電話ボックスの外を見回した。  「ええ。楽《らく》なもんでしたよ」  と男が言った。  「そうか」  ——どこかおかしい、と久野は思っていた。  そういう点、敏《びん》感《かん》な男である。相《あい》手《て》の話し方に、ちょっとした、ひけ目のような響《ひび》きを、聞き取っていた。  「金は……いただけますね」  「もちろんだ。そこにいろ。これから行くからな」  と、久野は言った。  「ここで、ですか」  相手が、ためらった。  「そこじゃまずいのか」  「ええ……。どこか、外でいただけませんかね」  「そこで渡す」  と、久野は言った。「行ったとき、そこにいなかったら、金は払《はら》わん」  絶《ぜつ》対《たい》に譲《ゆず》らない、という言い方に、向うも諦《あきら》めたようで、  「分りました。待ってます」  と、素《す》直《なお》に返事をした。  久野は、電話を切って、ちょっと舌《した》打《う》ちした。——何か、まずいことがあったのだ。  もちろん、殺してしまったというわけではあるまいが、ともかく、必《かなら》ずしも注文通りには行かなかったから、向うは早く金を欲《ほ》しがったのだ。  仕方ない。ともかく、行ってみよう、と久野は思った。  自《みずか》ら車を運転するのは珍《めずら》しいのだが、ここはやむを得ない。  道はそう混《こ》み合っていなかったが、生《せい》来《らい》慎《しん》重《ちよう》な男である。安全運転で、多少、思ったより時間がかかった。  しかし、充《じゆう》分《ぶん》に、脇元の家に迎えに行くには間に合う。  目《め》指《ざ》すモテルで車を停《と》め、他《ほか》の部《へ》屋《や》を借《か》りてから、津村の妻《つま》を監《かん》禁《きん》してある部屋へ行った。  ドアを軽《かる》く叩《たた》くと、  「誰《だれ》だ?」  と、男の声がした。  「私《わたし》だ」  と、久野は言った。  ドアが開く。  「どうも。——遅《おそ》いんで心配しましたよ」  その若い男、いやに愛《あい》想《そ》がいい。  「問題はないのか?」  と、久野は訊《き》いた。  「ええ、もちろん」  久野がジロリと見つめると、相《あい》手《て》の男が目をそらした。  久野は部《へ》屋《や》の中へ、入って行った。  ベッドに、女が横たわっている。——見覚えがあった。津村華子である。  「この通りですよ」  と、男は言った。「あの……金をいただければ、もう帰りたいんですが」  津村華子は、体を丸めて、身を縮《ちぢ》めて、動かなかった。久野は、ベッドに歩み寄ると、そっと華子の肩《かた》に手を触《ふ》れた。  ハッ、と息をのんで、華子が久野を見る。しかし、その目は、なんとなくうつろだった。  久野は、華子のブラウスが裂《さ》け、ボタンが飛んでしまっているのに目をとめた。頬《ほお》が少しはれている。よく見ると、足にも、あざのようなものがあった。  久野は、ゆっくりと男の方を振《ふ》り向いた。  「手を出すなと言ったはずだぞ!」  男は、ちょっと唇《くちびる》をねじるようにして、舌《した》打《う》ちした。  「仕方なかったんですよ。暴《あば》れたもんで……」  「それだけじゃないな」  「ええ……。女の方がね」  「女?」  「手伝わせた女ですよ。そいつが、面《おも》白《しろ》がって、この女をからかってる内に、俺《おれ》もつい——」  「女はどこにいる?」  「外です。——あんたの顔、見せない方が、と思って」  久野は、冷ややかに、  「お前に頼《たの》んだのが間《ま》違《ちが》いだったな」  と言った。  「でも、ちゃんと言われた通りに——」  「条《じよう》件《けん》を守って、初めて仕事をしたことになるんだ。本当なら半額でも払《はら》わないところだぞ」  「そんな!」  「払ってやるさ」  久野は、ポケットから封《ふう》筒《とう》を出して、男に渡した。「その代《かわ》り、この女のことも、俺《おれ》のことも忘れるんだ」  「分ってますよ」  金をもらえば用はない、というわけか、男は、早《そう》々《そう》に出て行ってしまった。  久野は、ベッドの津村華子の方を振《ふ》り向いた。——誤《ご》算《さん》だった。あの男が、こんな真《ま》似《ね》までするとは思わなかったのだ。  あいつ一人なら、何もしなかっただろう。女がついていたのがまずかった……。  「——奥《おく》さん」  久野は、ベッドに近寄って、できるだけ穏《おだ》やかに話しかけた。「私をご存《ぞん》知《じ》ですか」  華子は、まだいくらかぼんやりした顔で、久野を見上げて、  「主人の……会社の方?」  と、かすれた声で言った。  「そうです。ゆっくりお話ししたいですね」  久野は、椅《い》子《す》を持って来て、腰《こし》をおろした。    「何ですって?」  塚原の話に、津村は一《いつ》瞬《しゆん》、顔色を変えた。  「しっ! あんまり大きな声を出さないで」  塚原は、周《しゆう》囲《い》を見回した。ビルの一階、入口のわきに、ちょっとしたスペースがある。塚原は、そこで、ちょうど外出から帰って来た津村を捕《つか》まえたのだった。  「ここは声が響《ひび》く。静かにしゃべろう」  と、塚原は言った。「もっと早く話そうと思ったんだが、今日、君は一日外出してたから……」  「すみません。ちょっと仕事で忘れてた手《て》続《つづき》があって」  と津村は恐《きよう》縮《しゆく》して言った。「でも浦田さんが狙《ねら》われたって、確かなんですか?」  「彼女《かのじよ》が言うんだ。間《ま》違《ちが》いあるまい。明らかに彼女を狙って来た、ということだ」  「じゃ、脇元にばれたんでしょうか?」  「分らん」  塚原は首を振《ふ》った。「彼女の言う通り、いきなり殺そうとするのも不《ふ》自《し》然《ぜん》に思える。といって、浦田君を殺そうとする人間が、他《ほか》にいるとは思えないがね」  「同感です」  津村は肯《うなず》いた。「用心しなきゃいけませんね」  「うん。まあ、用心に越《こ》したことはない。特に君の所がマンションを買うというのも、社内に結《けつ》構《こう》知っている者がいる。もう、脇元や久野の耳にも入っているかもしれない」  「しゃべってないつもりなんですがね……」  と、津村は首をひねった。  そうだろう、と塚原は内《ない》心《しん》、自分と南千代子のことを考えていた。塚原だって、南千代子だって、誰《だれ》にも洩《も》らしてはいないはずなのだ。それなのに、社内に広く知れ渡ってしまっている。  本当に、噂《うわさ》というやつは恐《おそ》ろしいものなのだ。  「ともかく、お互い、充《じゆう》分《ぶん》に用心しよう」  と、塚原は言って、「じゃ、僕《ぼく》は先に上るよ。もうすぐ五時になる。——今日は残《ざん》業《ぎよう》かい?」  津村は、ちょっと考えてから、  「そのつもりでしたが、何だか今の話を聞くと心配になっちまいました。五時で帰ります」  「それがいい」  塚原は先にエレベーターの方へ歩いて行った。  ——津村は、少し待つことにする。二人《ふたり》して一《いつ》緒《しよ》に上って行って、久野の目につくのを避《さ》けるためである。  「そうだ」  この時間を利用して、華子に電話をしてみよう。  津村は、赤電話で、自宅へかけてみた。  呼出し音は何度も鳴っていたが、一《いつ》向《こう》に出ない。出かけているのだろうか?  「変だな」  と、受話器を置いて、津村は呟《つぶや》いた。  もう五時になるというのに、華子が家にいない。どこへ行っているんだろう?  津村としても、浦田京子が狙《ねら》われた話を聞かなければ、大して気にも止めなかったのだろうが、今、話を聞かされたばかりでは、少々気になる。  もちろん、華子は外出がもともと好きな性質だし、いなくて不《ふ》思《し》議《ぎ》というほどでもないのだが……。  ただ、何となく落ちつかなかったのだ。いわゆる「胸《むな》さわぎ」というやつなのかもしれない。  華子に何かあったのかもしれない!  そう思い始めると、不安でたまらなくなってしまう。  津村が席に戻《もど》ったとき、ちょうど五時のチャイムが鳴った。アッという間に机の上を片付けて、津村は社を飛び出した。  女子社員が呆《あき》れて、  「よっぽどいいことがあるのかしら、津村さん」  と言ったほどである。  津村は、家まで、いつもの倍近くも時間がかかったような気がした。  もちろん、そんなわけはないのだし、普《ふ》段《だん》五時で帰宅するときより、早い電車にも乗ったのだから、いつもより、ずっと早く家に着いてはいたのだった。  ただ、途《と》中《ちゆう》、色々な想《そう》像《ぞう》に苦しめられて来た。——ヤクザまがいの男が、華子に刃《は》物《もの》を突《つ》きつけていたり、泣き叫《さけ》ぶ華子を縛《しば》り上げて、金のありかを言えと迫《せま》ったり……。  考えれば考えるほど、悪いことばかりが頭に浮《う》かぶのである。  やっと玄《げん》関《かん》のドアを開けたときには、津村は目も血《ち》走《ばし》って、心配のあまり、今にもぶっ倒《たお》れそうだった。  「華子!——華子!」  いない!——やっぱり、華子の身に何かあったのだ。  津村は、頭をかかえた。  どうしよう? 華子の身にもしものことがあったら——マンションが、七千万円が何になるのだろう。  そんなもの、クズ同然じゃないか!  「華子……」  と、津村が呟《つぶや》いたとき——ザーッと、トイレの水の流れる音がして、  「——あら、あなた早かったのね」  華子が顔を出した。  「華子!」  津村がポカンとして、「大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》か? 何ともないか?」  「え?」  「いや……トイレに入ってたのか。そうか。君の姿《すがた》が見えないんで、心配になって……」  津村は笑《わら》い出した。——少し間《ま》を置いて、華子も笑い出していた。  「ちょっと出かけてたもんだから」  と、華子は言って、おかずの皿《さら》を並《なら》べた。「買って来たものばかりで、ごめんなさいね」  「いや、構《かま》やしないよ」  津村は、華子が無《ぶ》事《じ》だったので、それだけで上《じよう》機《き》嫌《げん》である。「元気でご飯が食べられる。それだけだって、神に感《かん》謝《しや》しなくちゃ」  「急に信心深くなったのね」  と、華子は笑《わら》った。  「本当だよ。君さえ幸《しあわ》せでいてくれりゃ、僕《ぼく》は満足だ」  津村は、映画のセリフみたいな言《こと》葉《ば》を口にして、照れて赤くなった。  華子は、ただ微《ほほ》笑《え》んだだけだった。  もし、津村が、妻《つま》の無事な姿《すがた》に安心し切ってしまわなければ、その目が、自分を見ないようにしていることに気付いただろうが……。  ——夕食を終えて、津村がTVを見ていると、電話が鳴った。  「僕《ぼく》が出るよ」  と、台所の華子に声をかけておいて、津村は電話の方へ歩いて行った。「——はい、津村です。——あ、塚原さん。今日はどうも。——え? 明美さんですか?」  「そうなんだ」  塚原の声は、不《ふ》安《あん》気《げ》だった。「まだ帰らない。妻の話じゃ、今日は遅《おそ》くなるとも言って行かなかったというんだ。——こんなことはないんで心配でね」  「それはそうですね」  「いや、もし、君の所にでも、寄っていたらと思ってね。——邪《じや》魔《ま》したね」  「いえ。何かあったら、すぐご連《れん》絡《らく》しますから」  「うん、よろしく頼《たの》む」  そう言って、塚原の電話は切れた。  津村にも、塚原の不安は分る。今日、自分が抱《いだ》いたのと同じ不安が、塚原を捉《とら》えているのだ……。  「どうしたの、あなた?」  と、華子が顔を出す。  「塚原さんだよ。娘《むすめ》さんが、まだ帰らない、って心配してるんだ」  「娘さん? いくつだったっけ?」  「確か、高校一年だと思ったな」  「じゃ、どこかへ寄り道したって、おかしくないじゃないの」  と、華子は笑《わら》って、「父親は、自分の子供のことを一番良く分ってないのよ」  「そりゃそうかもしれないな」  津村も、深くは考えなかった。「もう——片付けは終ったのかい?」  「もう少しよ」  華子は、台所へ戻《もど》って行った。  津村は、ついて行くと、流しに立った華子を、後《うし》ろから抱《だ》こうとした。  「やめて」  華子は首を振《ふ》った。——いつになく、素《そつ》気《け》ない言い方だった。 駈《か》け落ち 「もう十一時だぞ!」  と、塚原は言った。  そんなことぐらい、啓子にだって分っている。でも、いくらそうやって怒《ど》鳴《な》っていたところで、明美が帰って来るわけではないのだから。  もちろん啓子だって不安で仕方ないのは、塚原と同様である。明美が、無《む》断《だん》でこんなに遅《おそ》くまで外出していたことはない。  それでも啓子の心の底には、あの子はしっかりしてるから、という安心感があった。母親としては、少々頼《たよ》りない話であるが、啓子はどうもお嬢《じよう》さん育ちのところが、いまだに抜《ぬ》け切らない。  心の中では、娘《むすめ》の明美に頼《たよ》っているところがあったのである。——あの子のことだ、めったなことはあるまい、と……。  しかし、一《いち》応《おう》親としては心配でもあり、考えられる限りの、明美の友人には電話してみた。塚原は津村の所にまで電話している。  どう考えたって、明美が津村の所へ寄っているなんてわけはないのだが。  「畜《ちく》生《しよう》! 何をしてるんだ、一《いつ》体《たい》!」  塚原は心配の余《あま》り、腹を立てて、「帰って来たら、ただじゃおかないぞ!」  などと言っているが、なあに、本当に帰って来たら、ホッとして怒《いか》りなど忘れてしまうに決っているのである。  「でも、心当りには、全部電話してみたんですから……」  と啓子が言うと、  「この近所は? よその家に、間《ま》違《ちが》って帰ってるってことはないか?」  「まさか」  塚原は、少しもジッとしていない。  湯上りのパジャマ姿《すがた》のまま、腕《うで》組《ぐ》みをして、部《へ》屋《や》中を歩き回っているのだ。  「——捜《そう》索《さく》願《ねがい》を出しますか」  と、啓子が言った。  「うむ。それも考えたんだが、しかしなあ……」  と、ためらって見せたのは塚原の見《み》栄《え》で、実《じつ》のところ、今、啓子に言われて、やっと〈捜索願〉という手があるのだと思い付いたのだった。  「じゃ、もうちょっと待ってみて——」  「いや、その何分間のためらいが、明美の生死の分れ目になるかもしれない。今は外《がい》聞《ぶん》を気にしているときじゃないよ。捜《そう》索《さく》願《ねがい》を出そう」  「そうね。じゃ——」  「捜索願の届《とどけ》ってのは、どこで用紙をもらうんだ? 区役所か?」  塚原も全然落ちついちゃいないことがすぐにばれてしまう。  「そんな必要ないんじゃありませんか? ただ一一〇番へかければ……」  「一一〇番か! よし、かけてみよう」  塚原が、電話へ歩《あゆ》み寄って手を伸《のば》したとき、突《とつ》然《ぜん》電話は鳴り出したのだった。  今まで明美から電話でもあるか、と待ち続けていたのに、いざ本当に鳴り出すと、ギクリとして、塚原はすぐには受話器を上げることができなかった。  電話が鳴り続ける。啓子があわててやって来て、  「あなた、電話——」  「分ってる!」  塚原は、やっと一つ咳《せき》払《ばら》いして、受話器を上げた。「もしもし?」  「ああ、お父《とう》さん? 私《わたし》」  明美の声だ。塚原はホッとして、  「どこにいるんだ? 遅《おそ》くなるときはちゃんと連《れん》絡《らく》しなきゃだめじゃないか」  言《こと》葉《ば》だけは怒《おこ》っているようなことを言っているが、言い方は至《いた》って優《やさ》しい。ともかく一人《ひとり》娘《むすめ》にはとことん甘《あま》い。  「ごめんね。ちょっと連《れん》絡《らく》できなくって」  明美の方は、一《いつ》向《こう》に平然とした口《く》調《ちよう》である。  「今、どこだ? もう遅《おそ》いから危い。駅まで迎えに行ってやる」  「今夜は帰らないの」  「——ん? じゃ、友だちの所にでも泊《とま》るのか? しかし、明日《あした》学校があるんだろ?」  「あのね、お父さん」  「何だ?」  「びっくりしないでね。私、駈《か》け落ちしたのよ」  「駈け……」  駈け落ち? 駈け落ちってのは何だったかな。  「将《しよう》棋《ぎ》でもやったのか?——あれは、『角落ち』か」  「違《ちが》うわよ」  向うで明美がクスクス笑《わら》っている。「駈け落ち。男性と二人《ふたり》での家《いえ》出《で》。——分る?」  「うん、そりゃあ……分るが、しかし……」  「だから、当分は帰れないと思うわ。学校も休むから、うまく言っといてね」  「おい、明美、お前——」  「心配しないで、私はちゃんとやって行くから。お母《かあ》さんに、あんまり心配しないで、って言っといてね」  「おい、待てよ。明美、どういうことなんだ、一《いつ》体《たい》?」  「だから、恋《こい》人《びと》が出来たから、駈《か》け落ちするのよ」  「そうか……」  「じゃ、また少し落ちついたら連《れん》絡《らく》するからね。元気でやるから、あんまり心配しないでね」  「ああ……」  「じゃ、またね」  「ああ……」  塚原はポカンとした顔で、受話器を置いた。  「あなた、——明美、何ですって?」  と、啓子が夫《おつと》の顔を覗《のぞ》き込《こ》む。  「うん……。何だかしらんが、駈け落ちするんだそうだ」  と、塚原は言った。  「駈け落ち、って……あなた、明美が、ですか?」  啓子は目を丸くした。  「俺《おれ》じゃないぞ」  「当り前でしょ、ここにいるのに!」  啓子は、頭を振《ふ》った。「明美が駈け落ちなんて——一体相《あい》手《て》は誰《だれ》なんです?」  「さあ。言わなかったな」  「そんな呑《のん》気《き》なこと言って……」  塚原も、やっと今の明美の話が頭に入って来て、青くなった。  「ど、どうしよう? 〈駈《か》け落ち願い〉を出すか? 明美が捜《そう》索《さく》した、と言って——」  かなり混《こん》乱《らん》しているのである。  「あなた、しっかりして!——ねえ、明美の冗《じよう》談《だん》じゃないの?」  「冗談?」  「そうよ。私《わたし》たちをからかってるんじゃない?」  「そうかな……」  塚原は自信なげに言った。  「だって、あなた、考えてみてよ。駈け落ちっていうのは、親に結《けつ》婚《こん》を反対されてするものよ。あの子、そんな話、したことないじゃないの」  「うん、それもそうだ」  「いきなり駈け落ちなんて。——どんな様《よう》子《す》でした? 思い詰《つ》めてるような?」  「いや、普《ふ》通《つう》だったよ」  「それじゃ、本気じゃなくて、きっと私たちをからかってるんだわ」  「そうかもしれんな」  まだ半《なか》ば頭がぼんやりしているせいか、塚原も、啓子が言う通りかもしれない、と思っていた。  「ともかく、明日まで待ってみましょ。学校を休んだら、やっぱり問題だから、考えることにして」  「そうだな」  「私、お風《ふ》呂《ろ》へ入って来ます」  啓子の方は、いやにのんびりしている。  これは、ともかく明美が無《ぶ》事《じ》と分って安心したからである。無事でさえあれば、たとえ本当に駈《か》け落ちしていたって、どうってことはない——ことはないが、しかし、それで女性の一生が終るわけでもないのだ。  啓子が風呂へ入ってしまうと、やっと頭が正常に回《かい》転《てん》し始めた塚原は、やはり気が気でなくなって来た。  駈け落ち? 明美が?——娘《むすめ》が、他《ほか》の男と一《いつ》緒《しよ》にいるというだけで、父親たる塚原の胸は痛むのだった。  「そうだ」  浦田京子が、ゆうべ、妙《みよう》なことを言っていたのを、塚原は思い出した。明美と話し合ってみたら、とか、そんなことを……。  もしかしたら、彼女《かのじよ》は何か知っているのかもしれない。  塚原は、急いで浦田京子のアパートへ電話を入れた。    浦田京子は、例によって、TVのドイツ語講《こう》座《ざ》を見終って、そろそろ床《とこ》に入ろうかと思っていた。  そこへ、塚原からの電話で、明美が駈《か》け落ちしたらしいという知らせだ。そろそろ眠《ねむ》くなりかかっていた目が、パッチリと覚《さ》めてしまった。  「——まあ! 大変じゃありませんか!」  「うん……」  塚原の方は、すっかり当《とう》惑《わく》しているばかりで、「どうだろうね、その——君は本当だと思うかね?」  「ちゃんと申し上げたじゃありませんか。お嬢《じよう》さんと話し合いをなさるように」  「う、うん。だがね……」  「頭ごなしに押《おさ》えつければ、子供はバネと同じです、反《はん》発《ぱつ》するに決っているんですよ。明美さんの気持も分ってあげなくちゃ」  分るも何も、塚原はまるで何も知らないのだ。  「君、明美から何か聞いたのかね?」  「ええ。——結《けつ》婚《こん》したい、とおっしゃってましたわ」  「け、結婚?」  「それに——今、奥《おく》様《さま》はそこにいらっしゃるんですか?」  「いや、風《ふ》呂《ろ》に入ってる」  「明美さん、塚原さんが浮《うわ》気《き》していることをご承《しよう》知《ち》でしたよ」  「明美が!」  これこそ塚原には大ショックだった。あんなに気をつかったのに……。  変に気をつかうから、却《かえ》って気付かれるのだが、それをまるで分っていないのである。  「明美さんは、一番感じやすい年《とし》頃《ごろ》ですわ。父親が浮気していると知って、どんなに傷《きず》ついたか……」  「うん……」  「それなら私《わたし》だって、好きなことをするわ、っていう気になっても、不《ふ》思《し》議《ぎ》じゃありません」  「そうだね」  「塚原さん一人の問題じゃないんです。奥《おく》様《さま》はまだお気付きになっていないようですが、もし気付かれたら、それこそ家庭崩《ほう》壊《かい》ですわ。明美さんの家《いえ》出《で》が、その第一歩です。ここで食い止めないと」  ——塚原と浦田京子の、この真《しん》剣《けん》な対話をもし、明美が聞いていたとしたら、照れてペロッと舌《した》を出したかもしれない。  明美は父親の浮気ぐらいで非行に走るほど軟《なん》弱《じやく》じゃないのだ。  しかし、塚原の方は、かなり本気で反《はん》省《せい》していた。  「分った。——南千代子君との仲は清《せい》算《さん》するよ」  「それがよろしいと思いますわ。もちろん彼女《かのじよ》の方にも責任はあるでしょうけど、あくまで塚原さんが悪《わる》者《もの》になるべきです」  浦田京子の言《こと》葉《ば》は、厳《きび》しかった。  「分った」  と、塚原は、浦田京子の言葉に心を打たれた様《よう》子《す》で、言った。「今から僕《ぼく》は総《すべ》てを妻《つま》に告《こく》白《はく》し、許《ゆる》しを請《こ》う。許してくれなきゃ、首を吊《つ》る」  「馬《ば》鹿《か》をおっしゃらないで!」  京子はあわてて言った。「もしもし?——いいですか、奥様には黙《だま》ってらして下さい。せっかく浮《うわ》気《き》をやめる決心をなさったんですから、わざわざ奥様に知らせる必要は——」  「いや、それでは僕《ぼく》の気が済《す》まん。知らん顔をして、妻と顔を合わせてはいられない。やはり告白して——」  ともかく、今はまずい、明美さんが戻《もど》られるのが先《せん》決《けつ》で——と、京子が説《せつ》得《とく》して、やっと、塚原も納《なつ》得《とく》した。  電話を切って、京子はフッと息をついた。  「——大変なことになったわ」  明美の駈《か》け落ち。まさか、とは思うが……。  あの明るい様子からは、とてもそこまで思い詰《つ》めているとは想《そう》像《ぞう》できなかったが、しかし表面は明るく振《ふる》舞《ま》っていても、意外に内面は傷《きず》ついているかもしれないのだ。  父親の浮《うわ》気《き》への当てつけだとしたら、かなり無《む》茶《ちや》なことでもやりかねない。  「——もっと突《つ》っ込んで話し合いをしておくんだったわ」  と呟《つぶや》いて、京子は首を振《ふ》った。  さて——そろそろ寝《ね》ようか、と思っていると、玄《げん》関《かん》のドアを、トントン、と叩《たた》く音がする。  こんな時間に?  京子は、緊《きん》張《ちよう》した。何しろ、昨日《きのう》狙《ねら》われたばかりである。  トントン、とまた音がする。  京子は、台所へ行くと、包《ほう》丁《ちよう》を取って来た。  何かバットみたいなものでも用意しとくんだったわ、と思ったが、今は間《ま》に合わない。  また——トントン。  京子は包丁を握《にぎ》りしめながら、玄《げん》関《かん》へ下りて、  「どなたですか?」  と声をかけた。  「夜遅《おそ》くすみません。塚原明美ですけど」  京子は仰《ぎよう》天《てん》した。——めったに驚《おどろ》くということのない京子だが、この二日間は目が回りそうだ。  「——明美さん!」  ドアを開けて、明美を入れる。「あなた……どうしたの? あの——一人なの?」  「ええ」  明美はにこやかに笑《わら》って、「あ、さては、父から電話があったんですね?」  「ええ。今しがた……。じゃ、あなた、駈《か》け落ちしたっていうのは——」  「も《ヽ》ち《ヽ》ろ《ヽ》ん《ヽ》嘘《うそ》です。ショック療《りよう》法《ほう》ってやつですわ」  明美は部《へ》屋《や》の中を見回して、「わあ、よく片付いてるんですねえ。上っていいですか?」  と訊《き》いた。  京子は、明美を座《すわ》らせて、あわててお湯をわかした。  「ごめんなさい。お料《りよう》理《り》なさってたんですか?」  と明美が訊《き》く。  「いいえ。どうして?」  「だって包《ほう》丁《ちよう》を持ってらしたから」  「あ、ああ——これはね、護《ご》身《しん》用《よう》」  と、京子は笑《わら》って見せた。「女の独《ひと》り暮《ぐら》しだと、何かと物《ぶつ》騒《そう》でしょ」  「大変なんでしょうね、きっと」  明美は部屋の中を見回した。  「あなた……今夜、どうするの?」  「ここへ泊《と》めていただけません?」  「それは構《かま》わないけど」  「良かった! 足をくずしていいですか?」  「どうぞ」  京子は微《ほほ》笑《え》んだ。「でも、よくここへ来てくれたわね。嬉《うれ》しいわ」  「当てにしてた友だちの所が、急に親《しん》戚《せき》が上京して来たとかで、だめになっちゃって。——かなり迷《まよ》ったんですけどね」  「どうして?」  「一《いち》応《おう》、お独《ひと》りだってうかがってたけど、来てみたら男性がいた、なんていうんじゃ、泊《とま》れないでしょ」  京子は笑《わら》い出してしまった。——本当に憎《にく》めない子だわ。  「残《ざん》念《ねん》ながら、そういう色っぽい話とは縁《えん》がないのよ」  「でも、恋《こい》人《びと》はいるんでしょ?」  と真《ま》顔《がお》で訊《き》かれて、京子はちょっとドキッとした。  「いいえ。どうして?」  「そうかなあ。でも、浦田さんって、とっても潤《うるお》いがあるんですよね。恋人でもいなきゃ、こうはいかない、と思って」  「まあ、おませさんね」  京子は苦《にが》笑《わら》いした。「それより、あなたの駈《か》け落ちの方《ほう》は?」  「これは正《しよう》真《しん》正《しよう》銘《めい》の嘘《うそ》です」  明美はアッサリ言った。「でも、目的があってやってるんですよ」  「どんな目的?」  「それは——ちょっと内《ない》緒《しよ》」  明美としては、父が、あの怪《あや》しげな大金を持っている理《り》由《ゆう》を知りたかったのだが、まさか、京子がそれに一枚かんでいるとは、思ってもいないのである。  「そう。じゃ、ここに二、三日いるつもり?」  「もし、お許《ゆる》しいただけば」  「いいわよ、もちろん」  「わあ、助かった!」  明美は、アッケラカンとした笑《え》顔《がお》で言った。  ——もちろん、京子としても、塚原が心配しているのは承《しよう》知《ち》の上だが、ここは明美の言うように、「ショック療《りよう》法《ほう》」も必要か、と思ったのである。  「お風《ふ》呂《ろ》に入っていいですか?」  明美がウーンと伸《の》びをしながら言った。 冷たい火  「社長——」  久野は、会《かい》議《ぎ》が終ると、脇元の前に立って、言った。  「何だ?」  脇元は顔を上げた。  もう、会議室には、脇元と久野の二人《ふたり》しか残っていない。脇元は時間をむだにはしない男だった。会議も、至《いた》って手短かに済《す》ませてしまう。  「お願いがございまして」  「ほう。珍《めずら》しいな、君がお願いとは」  脇元が微《ほほ》笑《え》んだ。「言ってみろ」  「実《じつ》は、これから三時間ほど外出して来たいのですが」  「そんなことか」  脇元は笑って、「また、改まって、何を言い出すのかと思ったぞ」  「構《かま》いませんでしょうか」  「もちろん構わんさ。私もこの後は用事もない。——ああ、今日《きよう》は原《はら》宿《じゆく》に泊《とま》るよ」  「かしこまりました」  「このところ、麻《あざ》布《ぶ》が多かったもんだから、後の二人《ふたり》がうるさくてな。取りあえず、今日は原宿だ」  脇元は立ち上がると、「君も女の所にでも行くのか?」  と言った。  「そういう色っぽい話とは縁《えん》がありませんので」  「少し、その手のことも憶《おぼ》えておいた方がいいぞ。秘《ひ》書《しよ》というのは、何でも心得ていなくてはならん」  「機会さえありましたら」  久野は、いつも通りに、無《む》表《ひよう》情《じよう》な調子で言った。  ——会《かい》議《ぎ》の後の雑《ざつ》用《よう》を片付けると、久野は社を出て、タクシーを拾《ひろ》った。  女の所にでも、か……。  久野は、脇元の言《こと》葉《ば》を思い出して、苦《く》笑《しよう》していた。ある意味では、その通りだったからだ。  ——タクシーを降りて少し歩くと、ホテル街の一《いつ》角《かく》に道を辿《たど》る。午後、まだ陽《ひ》は高いが、結《けつ》構《こう》それらしいアベックがすれ違《ちが》う。  久野は、そのホテルの一つへと入って行った。予《あらかじ》め、部《へ》屋《や》は取ってある。  「先にみえてますよ」  フロントの男が、ぶっきら棒《ぼう》な口《く》調《ちよう》で言った。  久野は、その部屋のドアを軽《かる》く叩《たた》いた。妙《みよう》に胸《むな》苦《ぐる》しい。——本当に彼女《かのじよ》が来ているのだろうか。  いや、電話では、行きますと答えたのだが、頼《たよ》りない声だった。来るかどうか、確《かく》率《りつ》は半々、と久野は見ていた。  もう一度ドアを叩《たた》くと、人の気《け》配《はい》がしてドアが開いた。  「やあ」  久野は、素《す》早《ばや》く中へ入って、津村華子に笑《わら》いかけた。  「私、そんなにゆっくりしていられないんです」  と、華子は、久野から目をそらしたまま、言った。「帰りにお買物をしなきゃいけないし、夕ご飯《はん》の仕《し》度《たく》も……。主人は帰りが早いですから」  「大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》」  久野は、部《へ》屋《や》の中を見回しながら、椅《い》子《す》に腰《こし》をおろした。「それにしたって、一時間やそこらは時間がある。——まあ、かけなさいよ」  華子は、相《あい》変《かわ》らず久野から目をそらしたまま、少し離《はな》れた椅子に、浅く腰《こし》をかけた。  それきり、二人はしばらく黙《だま》り込《こ》んだ。  久野は、不安そうに、身を固くして、じっと床《ゆか》に目を落としている華子を、眺《なが》めていた。  「あの——」  華子が、久野を見ないまま、言った。「何のご用でしょう? 私《わたし》……」  「それは電話で言ったでしょう」  と、久野は言った。  「ええ。でも——大金のことなんか、私《わたし》、知りません。夫からも聞いていません」  「マンションまで買って?」  「ですから、それは——」  「タクシーで拾《ひろ》った、と。——まあ、それがでたらめなのは、この前説明した通りだ」  「私には分りません」  と、華子は首を振《ふ》った。  「残りの金を、こちらとしては取り戻《もど》したいんですよ、奥《おく》さん」  「主人にお訊《き》きになったらいかがなんですか?」  「それに、奥さんが見たのは七千万。——残る一億三千万の行方《ゆくえ》も問題です」  久野は、ちょっと投げやりな格《かつ》好《こう》で座《すわ》っている華子を見ながら、次《し》第《だい》に奇《き》妙《みよう》な興《こう》奮《ふん》で口の中がカラカラに乾《かわ》いて来るのを覚えていた。——こんなことは初めてだ。  「ご主人の仲間がいるはずです。それが誰《だれ》なのか……」  「私、存《ぞん》じません」  華子は、苛《いら》立《だ》ったように言って、「もう帰ります」  と、立ち上ると、ドアの方へ歩き出した。  久野は、弾《はじ》かれたように立ち上り、華子の方へ駆《か》け寄ると、後《うし》ろから抱《だ》きしめた。  「やめて下さい……。もう……この前で充《じゆう》分《ぶん》でしょう」  華子が身をよじって逃《のが》れようとしたが、久野は、ますます固《かた》く、華子を抱《だ》きしめている。  「奥《おく》さん……」  久野は、華子の耳もとで囁《ささや》いた。「金のことなんか、本当はどうでもいいんですよ。本当はあなたに会いたかったんです」  「私に……」  「あなたのことが頭から離《はな》れなくてね」  久野は、華子を振《ふ》り向かせると、荒《あら》々《あら》しく唇《くちびる》を奪《うば》った。  「やめて下さい……」  華子は、久野に抱きしめられて、口では弱々しく抗《こう》議《ぎ》したが、実《じつ》際《さい》には全く抵《てい》抗《こう》しなかった。  ——もう、一度久野に身を任《まか》せているのだ。諦《あきら》めてしまうのも、早かったのである。  もちろん、この前のときは、あの男女二人《ふたり》組に監《かん》禁《きん》され、ひどい目にあわされて、抵《てい》抗《こう》する気力も残っていなかったのだが、今回はそういうわけではない。  別に、久野は、おとなしくしないとこの前のことを亭《てい》主《しゆ》へ教えてやるぞ、と脅《きよう》迫《はく》しているわけでもなかった。  ともかく——よく分らないが、夫への愛情とは、まるで違《ちが》う所で、冷たい炎《ほのお》のようなものが、燃え上っているのだった。  一つには、夫《おつと》が、あの金のことで嘘《うそ》をついていた——本当は拾《ひろ》ったのでなく、盗《ぬす》んだのだということを、自分に隠《かく》していたことへの腹立ちもある。  しかし、その点では自分だって、似たようなものだ。あんないい加《か》減《げん》な話を信じてしまったり、気にもせずに使ってしまったり……。  夫《おつと》のことを責《せ》められた立場ではない。それはよく分っているのだが。  久野から、ここへ出て来るように、誘《さそ》いの電話があったとき、華子は、断《ことわ》らなくては、と思った。  久野が、わざわざこんなホテルを選んだのは、ただ話をするだけのつもりでなかったことは当然で、それは華子とて、よく承《しよう》知《ち》していた。  それでいて、華子は、やって来てしまったのだ……。  私《わたし》、一《いつ》体《たい》どうしてしまったのかしら?  久野にベッドへ押《お》し倒《たお》されながら、華子はそう問いかけていた……。    「——まだ三十分はある」  久野は、ベッドから手を伸《のば》して、腕《うで》時《ど》計《けい》を取って見た。  もちろん、ちゃんと時計だって部《へ》屋《や》にあるのだが、自分の時計しか信じないというのが、久野らしいところである。  「何だかよく分らない……」  と、華子は呟《つぶや》いた。  「こちらも同様だ」  と、久野は言った。  二人して、一つベッドの中で身を寄《よ》せ合っている。普《ふ》通《つう》なら、恋《こい》人《びと》同士ということで、甘《あま》い囁《ささや》きでも交《か》わすのだろうが、この場合は、何だか借《しやつ》金《きん》取《と》りと借り手が話し合いでもしているような、冷ややかなよそよそしさが漂《ただよ》っていた。  「妙《みよう》なもんだ」  と、久野は言った。「ちっともあなたを好きだとは思わないのに、のめり込んじまう」  「私だって、あなたなんか大《だい》嫌《きら》いよ!」  華子は、憎《にく》しみを込めて言った。    「そうか」  塚原は、がっくりと肩《かた》を落として、「じゃ何かあったら、また電話してくれ」  と言うと、受話器を戻《もど》した。  ビルの一階まで降りて来て、家に電話をしてみたのである。もちろん、明美が帰っているかと思ったのだ。  しかし、今日一日、啓子は家から出なかったのだが、ついに明美からは電話がなかったらしい。  啓子の方も、今日になってからは、本気で心配し始めているが、塚原は、ゆうべから、もう明美が本気で駈《か》け落ちしたと思い込んでいる。  席に戻《もど》ると、浦田京子が、  「係長、判《はん》をお願いします」  と、伝《でん》票《ぴよう》を持って来る。  「うん……」  心ここにあらず、という様《よう》子《す》で、塚原は判を押《お》した。  「係長——大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》ですか?」  京子は、低い声で訊《き》いた。  「え? ああ。——いいとも、構《かま》わんよ」  「何がですか?」  「うむ?——何か言わなかったか?」  「大丈夫ですか、とお訊きしたんです」  「そうか。いや、だめだ」  塚原が、しょんぼりしているのを見ると、京子は、ちょっと哀《あわ》れになった。  まさか、明美が京子のアパートにいるとは、塚原は夢《ゆめ》にも思うまい。  しかし、明美だって、考えがあってやっているのだ。京子の独《どく》断《だん》で、しゃべってしまうわけにはいかない。  「あんまりご心配にならない方が……」  と京子は慰《なぐさ》めた。  「ありがとう。——身から出たさ《ヽ》び《ヽ》だよ」  塚原は、また席を立つと、「ちょっと顔を洗って来る」  と、歩いて行った。  塚原は、エレベーターの方から歩いて来た南千代子と、バッタリ出くわした。  「あら、係長さん!」  南千代子は、いつも通りの、明るい声をかけて来る。「どこ行くの?」  「うん……。ちょっと顔を洗いに」  「そういえば、眠《ねむ》そうだわ。ゆうべ、遅《おそ》かったの?」  「ちょっと、な……」  塚原は力なく言った。  「分った」  千代子は、腕《うで》組《ぐ》みをして、塚原をにらむと、「他《ほか》の子と浮《うわ》気《き》したんでしょ?」  「おい、やめてくれよ」  塚原は、ため息をついた。「それどころじゃないんだ」  「だめ。許《ゆる》してあげない」  千代子は、塚原の耳元へ口を寄せて、「今日、帰りに、どう?」  と、囁《ささや》いた。  塚原は、ムッとして、南千代子に向かって、  「君のせいで、娘《むすめ》が家出しちまったんだぞ! 何が『今日はどう』だ! もう君とは口もききたくない!」  と、怒《ど》鳴《な》ろう——と思った。  しかし、しょせん塚原は、女性を怒鳴りつけるなんてことのできない男である。  「今日はとてもだめだよ」  と、弱々しい声で言うのがせいぜいであった。  「あら、どうして? 私が元気づけてあげるわよ」  と、千代子の方は、至《いた》って明るい。  「しかし——」  「いつもの所で。ね?」  千代子は、ちょっとウインクすると、さっさと行ってしまった。  塚原は首を振《ふ》って、  「参《まい》ったな……」  と、呟《つぶや》いた。  もちろん、それどころじゃない。今日は急いで帰らなくては。  だが——塚原は、思った。彼女《かのじよ》との仲を、早く清《せい》算《さん》しておく必要がある。明美が、帰って来るか、あるいは連《れん》絡《らく》をして来たときに、千代子とのことを言われて、  「もう、彼女とは別れた!」  と、きっぱり言えるようにしておくことが必要だ。  それなら、いっそ今日、はっきりさせておこうか。そうだ、それがいい。  話だけなら、すぐに済《す》むのだから。  塚原は、一人で肯《うなず》きながら、洗《せん》面《めん》所《じよ》へと歩いて行った。    主婦ってのも、結《けつ》構《こう》忙《いそが》しいもんなのね。  明美は欠伸《あくび》をしながら思った。  もちろん、ここは京子のアパートである。ただ置いてもらうだけじゃ悪いから、掃《そう》除《じ》や洗《せん》濯《たく》はやっておいたし、夕食の買物にでも行こうかな、と考えていた。  もちろん、TVを見たりする時間はあるのだが、しかし、結構何やかやとセールスマンが来たり、郵《ゆう》便《びん》が来たりで、じっとしてはいられないのである。  買物ねえ。——でも、何を買って来りゃいいのかしら?  考えていると、電話が鳴った。ちょっと迷《まよ》ったけど、もしかしたら、京子からかもしれないと思って、出ることにした。  「浦田です」  と、一《いち》応《おう》言ってみる。  「もしもし、浅倉です」  と、男の声。「聞こえますか?」  「はあ。あの——」  「時《じ》差《さ》があるんで、そちらが何時かよく分らなくて。いや、いらして良かった」  「あのどなたですか?」  と、明美は言った。「私《わたし》、留《る》守《す》番《ばん》の者ですけど」  しかし、明美の声は、電話の向うには、よく聞こえないようで、  「ちょっと聞き取りにくいんですが——」  と、言っている。「今、ニューヨークなんです」  「ニューヨーク……」  「明日の夕方、成田に着きます」  「明日の夕方……」  「お会いしたいんです。ぜひ」  「はあ」  「詳《くわ》しいことは、また出発前にご連《れん》絡《らく》しますから」  「はあ」  「お会いするのが楽しみです。——じゃ、また」  「はあ」  ——何だ、この電話は?  明美は受話器を置いた。——本当に、ここへかかって来たんだろうか?  浅倉とかいったっけ。明美は、一《いち》応《おう》メモ用紙にその名を書きとめて、それから、「明日の夕方、成田」と記した。  もしかして、この男性、浦田さんの——?  明美は、首を振《ふ》った。恋《こい》人《びと》がいるなんて、全《ぜん》然《ぜん》言ってなかったのに!  「フン、いいわね」  と、やっかみ半分、明美は言った。  しかし、そうなると問題だ。もし、あの男が、このアパートへやって来たりすることになると、こっちは出て行かなきゃならないだろう。  ま、いいや。浦田さんが帰ったら、よく確かめてみよう。  明美は、近所まで買物に出ようと、財《さい》布《ふ》を手に、サンダルをひっかけて、玄《げん》関《かん》を出た。もちろん、鍵《かぎ》も、預《あず》かっているのだ。  アパートを出て、少し歩いた所で、明美は一人の男とすれ違《ちが》った。  少し行って、足を止める。振り返ると、男の方は、アパートの前で、足を止めて、じっと見上げている。  どこかで見た男だ、と明美は思った。誰《だれ》だろう?  あんまり人《にん》相《そう》は良くないが、着ているものは高そうだ。——誰だったかなあ?  明美は首をひねりながら、また歩き出した。  ——その男は、久野だった。  津村華子とホテルで別れてから、ここへやって来たのである。  浦田京子。津村が、いつか、このアパートから出て来るのを久野は目にしている。  華子は何も知らなかったが、おそらく、浦田京子も、二億円を盗《ぬす》んだ仲間だと久野はにらんでいた。  津村の金は、もう大分つかってしまっている。しかし、浦田京子はどうだろう?  彼女《かのじよ》は、至《いた》って地《じ》味《み》な性格である。それに慎《しん》重《ちよう》で、頭もいい。  ここには、まだ金が、ほとんど残っているのではないかと久野は思ったのである。 すれ違《ちが》い  「本当に手数かけて、ごめんなさいね」  と、浦田京子は言った。  「いいえ、とんでもない」  明美はご飯をよそいながら、「こっちが勝《かつ》手《て》に転《ころが》り込んだんですもの。せめて少しはお役に立たなくちゃ」  「それにしても、こんな風《ふう》に食事をさせていただくなんて、初めてだわ」  と、京子は笑《わら》った。  「それほどの食事じゃないですけどね」  明美は、ちょっと照れたように、「これが私《わたし》のお料《りよう》理《り》の全レパートリーなんですから」  と言った。  「十六歳《さい》でこれだけ作れりゃ立派なもんよ」  京子は、少々のお世《せ》辞《じ》を混《まじ》えて言った。  まあ、実《じつ》際《さい》のところ、明美が「作った」と言えるのは、ミソ汁《しる》ぐらいで、後は冷《れい》凍《とう》食品とか、ただ温《あたた》めるだけ、といったものがほとんどだったのである。  しかし、京子は楽しかった。外で食べるにしろ、アパートで食べるにしろ、ほとんどが一人なのだ。こうして、おしゃべりをしながら女同士——年齢《とし》は親子ほども違《ちが》うとしても——でワイワイと食べることは、まずめったにない。  「——おいしいわ、凄《すご》く」  「そうですか? 私、自信持っちゃうな」  と、明美も楽しげである。「——今日、父の様《よう》子《す》、どうでした?」  「塚原さん? ずっと仕事が手につかないみたいだったわよ」  「いい傾《けい》向《こう》ですね。少しは勝《かつ》手《て》なことをした報《むく》いを受けるべきだわ」  と、明美は至《いた》ってクールである。  「でも、あんまりいじめると可哀《かわい》そうよ」  「浦田さんって寛《かん》大《だい》なんですね」  「そうでもないけど……」  京子は、それ以上、何も言わなかった。これは塚原の家庭の問題であって、他《た》人《にん》があまり口を挟《はさ》むべきことではない、と思ったのである。  「——あ、そうだ」  明美は、ご飯を口に頬《ほお》ばったまま、「忘れてたわ……」  と、電話の方へ立って行った。  「何か電話でもあったの?」  「——これです」  明美は、京子にメモを渡《わた》した。  明日の夕方、成田へ着くという、浅倉からの電話である。受け取った京子は、それを読んで、一《いつ》瞬《しゆん》はしを取り落としそうになった。  「——この人の電話……いつかかって来たの?」  「昼間。午後です」  「で、あなたが出たのね」  と、京子は分り切ったことを言った。  「あちら、私《わたし》のこと、浦田さんだと思ったみたいで……」  明美は、ちょっといたずらっぽく言って、「この人、浦田さんの恋《こい》人《びと》なんでしょ?」  恋人?  明美からそう言われると、何だか奇《き》妙《みよう》な気持だった。  「恋《こい》人《びと》、ね……。そうかもしれないわ」  と、京子は、メモを見直しながら言った。  「私、いつでもここを出て行きますよ、お邪《じや》魔《ま》なら」  明美は、ごく当り前の口《く》調《ちよう》で言った。  「そんな仲じゃないの」  と言って、京子は微《ほほ》笑《え》んだ。「残《ざん》念《ねん》ながらね」  「だけど——」  「そんな仲になってもいい、と思ったことはあるわ」  京子は、じっとメモを見つめて、「でも、この人には奥《おく》さんがあるのよ」  「だから諦《あきら》めるんですか」  「いいえ。——私《わたし》だって、そんな道《どう》徳《とく》家《か》じゃないもの。好きな人がいたら、奥さんがいようといまいと、駆《か》け寄って行くかもしれないわ。でもね、この人には、帰国を待ちこがれてる、もう一人の人間がいるのよ」  明美は、京子を見つめながら、  「話して下さい」  と言った。「もし——良かったら」  「ええ、いいわ」  京子はメモを傍《そば》へ置いて、  「食べながら話しましょ。冷《さ》めてしまうわ」  と、はしを取った……。  ——入院している浅倉エミのこと、その父親のこと、そして後《ご》妻《さい》の郁《いく》江《え》のことを、明美は聞いた。  「——分るでしょう」  京子は、ちょっと寂《さび》しげに笑《わら》って、「私もあなたのお父さんを非《ひ》難《なん》できる立場じゃないの。偶《ぐう》然《ぜん》の成り行きで、ことによったら、同じことをしていたかもしれないんですもの」  明美は黙《だま》って肯《うなず》くだけだった。  いくら明美がませていても、こういう大人《おとな》の話には、口を出すことができない。  「私、浦田さんって、もっと——こんなこと言っても怒《おこ》らないで下さいね——ガチガチの人かと思ってました。いい人で、しっかりしてるけどしっかりし過ぎていて、あんまり女性としては魅《み》力《りよく》ないなって。——ごめんなさい」  「いいのよ。事《じ》実《じつ》その通りだと思うわ」  「そんなことありません」  明美は、きっぱりとそう言うと、「浦田さん、結《けつ》婚《こん》するべきですよ」  「まあ、この何もできない人に、そう言ってくれるの?」  と、京子は笑った。  「私、断《だん》然《ぜん》、浦田さんの相《あい》手《て》、捜《さが》しちゃおうっと!」  「待ってよ。まずこちらを片付けないと」  と、京子は、メモ用紙を取り上げた。  「放《ほう》っとけば?」  明美はアッサリと言った。    さて、明美が浦田京子のアパートにいるなどとは思いもしない父親の方は、そのころ、南千代子に別れ話を切り出しているはずだった……。  「——いつもより、ずっと元気だったじゃないの」  と、南千代子が言った。  「う、うん……」  塚原は、何とも妙《みよう》な気分だった。  二人《ふたり》は、いつもの場所で落ち合って、結《けつ》局《きよく》、いつもの通りホテルへ入り、いつもの通りベッドへ入ってしまったのである。  塚原としては、待ち合せた喫《きつ》茶《さ》店《てん》でその話をするつもりだったのだが、人《ひと》目《め》の多い場所だし、ここで泣き出されでもしちゃかなわんと思い、一《いつ》旦《たん》ホテルへ行くことにしたのだった。  ホテルの部《へ》屋《や》へ入ると、千代子の方のペースでさっさとシャワーなど浴《あ》び、さっさとベッドへ……。何となく、そんなときに、  「もう別れることにしよう」  とは言い出しにくい。  で、結《けつ》局《きよく》のところ、塚原はいつもよりずっと「頑《がん》張《ば》って」しまったのだった。  娘《むすめ》が駈《か》け落ちしてしまったというのに、俺《おれ》はこんな所で浮《うわ》気《き》をしている。何という父親だろう。  塚原は、深い底なし沼《ぬま》のような自《じ》己《こ》嫌《けん》悪《お》に陥《おちい》っていたのだが、そのくせ、千代子に甘《あま》えられたりすると、つい頬の筋《きん》肉《にく》がたるんでしまうのだった。  「ねえ」  と、千代子が、塚原の方へ体をすり寄せて来て、言った。  「何だい?」  「会社でいやなことでもあったの?」  「どうして?」  「だって、元気なかったじゃない。上《うわ》役《やく》にいじめられたの?」  塚原は苦《にが》笑《わら》いして、  「これだけ勤《つと》めてりゃ、いじめられるベテランさ」  と言った。「ちょっと家の方でね……」  「あら、そうだったの」  今こそ、話をする絶《ぜつ》好《こう》の機《き》会《かい》だ。塚原はエヘン、と咳《せき》払《ばら》いをして、  「あのね——」  「風邪《かぜ》引いたの?」  「どうして?」  「咳《せき》してるじゃない」  「いや、そうじゃないよ。ちょっと——喉《のど》の通りを良くしただけだ」  「あら、そうなの。喉がいがらっぽいのは、でも風邪の引き始めよ。気を付けた方がいいわ」  「ありがとう。でもね——」  「油《ゆ》断《だん》は禁《きん》物《もつ》よ。塚原さんくらいの年《ねん》齢《れい》になると、風邪から成《せい》人《じん》病《びよう》になることが多いんだから。——あ、ちょっと待って」  千代子はベッドから裸《はだか》で飛び出した。  「ねえ、君、ちょっと——」  塚原が肝《かん》心《じん》の話をまるで切り出せずにいる内に、千代子は、自分のバッグから、小さなプラスチックケースを取って来て、  「これ、二、三粒《つぶ》なめると、喉がスッキリするわよ。はい、手を出して」  「別に僕《ぼく》は——」  「いいから! はい、口に入れてあげるわ。アーンして」  赤ん坊《ぼう》みたいなもんである。仕方なく口を開けると、小さな粒が二、三個転《ころが》り込《こ》む。ちょっと苦《にが》いが、すぐに冷ややかな感《かん》触《しよく》が口の中に広がった。  「やあ、こりゃ気持いい」  「でしょ?——私、シャワー浴《あ》びて来ようっと。お先にね」  塚原が口を開く暇《ひま》もない。千代子の姿《すがた》は浴《よく》室《しつ》へ消えてしまった。  「やれやれ……」  塚原はため息をついた。——何をしてるんだ! もう別れよう、と一《ひと》言《こと》言ってやるだけのことが、まるでできないのだから!  決《けつ》断《だん》力《りよく》、実行力に乏《とぼ》しいことは自分でもよく分っているのだが、こうまでだめな男だとは……。  塚原は、何だかガックリ来てしまって、さっさとシャワーで汗《あせ》を落として出て来た千代子に、  「ね、早くシャワー浴《あ》びてらっしゃいよ。気持いいわよ」  と言われて、素《す》直《なお》にバスルームへと歩いて行ったのである……。  ——ホテルを出ると、いつもの通り、タクシーを拾《ひろ》って、千代子を送って行く。  「ねえ、お話があるんだけど」  と、タクシーの中で、千代子が言い出した。  「何だい?」  彼女《かのじよ》の方から、別れたい、と言い出すつもりかもしれない、と一《いつ》瞬《しゆん》塚原は期《き》待《たい》したのだが、世の中、そううまく行くわけがない、と思い直した。  「言ってごらん」  「うん。——言いにくいんだけどなあ、ちょっと……」  塚原は、ちょっと青くなった。——まさか子供ができた、とでも……。いや、いくら何でも、こんなに早く分るわけがない。  「あのね。思い切って言っちゃおう」  と、千代子は、何だか楽しげな顔で、「私《わたし》結《けつ》婚《こん》するんです」  塚原も、これにはびっくりした。たった今、ホテルから出て来たばかりで……。  「そ、そりゃおめでとう」  塚原は急いで言った。「もちろん、今井君と、だね」  今井と恋《こい》仲《なか》だというのは、千代子自身から聞いていた。だが千代子はクスッと笑って、  「違《ちが》いますよ。だって、私と今井さん、別に恋人でも何でもないんだもの」  と言ったのである。  「今井君じゃないって?」  塚原は面《めん》食《く》らって、「しかし、君、前にそう言ったじゃないか」  「あれは、ちょっとした嘘《うそ》です」  千代子は、アッサリと言ってのけ、「ああでも言わないと、塚原さん、私のこと相《あい》手《て》にしてくれそうもなかったから」  「——参《まい》ったね」  塚原は正《しよう》直《じき》に言った。「てっきり本当だと思ってたよ」  「ごめんなさい」  と、千代子は、塚原に身をすり寄せるようにして、「怒《おこ》らないでね。——ね?」  これじゃ怒れやしないのである。  ともかく、結《けつ》婚《こん》するというからには、千代子との間もこれきりになる。塚原は、内《ない》心《しん》ホッとしていた。相《あい》手《て》が誰《だれ》だろうと、それは塚原には関《かん》係《けい》ないことだ。  「ともかくおめでとう」  と、塚原は気を取り直して言った。「君はきっといい奥《おく》さんになるよ」  「嬉《うれ》しい! そう言ってもらうと、自信がつくわ」  こうやって喜んでいるところは、何とも無《む》邪《じや》気《き》なものである。  「——で、誰なんだい、結婚の相手は。会社の人?」  と、塚原は訊《き》いた。  「そうよ」  と、千代子は、いたずらっぽく笑《わら》って、「私、塚原さんの奥さんになるって決めたの!」  塚原は、頭をハンマーで殴《なぐ》られたような気がした。  「な、何だって?」  「あら、そんなにびっくりしなくたっていいじゃないの」  「し、しかし……」  塚原はあわてて、運転手に、「ちょっと停《と》めてくれ!」  と言った。  変な所で降りたので、二人は、道《みち》端《ばた》で立ち話をすることになった。  「——ねえ、いいかい、僕《ぼく》は女《によう》房《ぼう》も子供もいる。しかも、五十に近いんだよ」  「分ってるわ」  と、千代子はケロリとしている。  「それに——君だって、これは遊びだと……」  「そのつもりだったわ」  と、千代子は肯《うなず》くと、ちょっと目を伏《ふ》せて、「私《わたし》、結《けつ》構《こう》男の人とは遊んで来たし、中には塚原さんぐらいの人もいたわ。だから、もちろん塚原さんとだって、遊びと割《わ》り切るつもりでいたの」  千代子は、真《しん》剣《けん》な目つきになって、塚原を見つめた。塚原の方はゾッとした。  「でも、私、今までに塚原さんくらい、フィーリングのピッタリ来る人って、会ったことなかったの。その内飽《あ》きる。そう思ってた。でも、会う度《たび》に私、好きになって行くのよ!」  千代子は今や真《ま》面《じ》目《め》そのものだった。  塚原は、唖《あ》然《ぜん》として言《こと》葉《ば》もなかった。  南千代子が本《ヽ》気《ヽ》で俺《おれ》を愛してるって? そんな馬《ば》鹿《か》な!  「いいかい、考えてくれよ。僕は今の女房と別れる気もないし、君と結《けつ》婚《こん》することもできないんだ。僕らのことが社内で噂《うわさ》になってる」  「知ってるわ」  「だから、僕《ぼく》はそれが女房の耳に入らない内に、君との仲を——その——きれいにしておこうと思って、今日その話をするつもりだったんだ」  「じゃ、どうして私《わたし》を抱《だ》いたの?」  そう言われると、塚原としても弱い。千代子は、一つ息をついた。  「いいわ、塚原さんがそのつもりなら……」  「どうするんだい?」  塚原が恐《おそ》る恐る訊《き》く。千代子は、ちょうどやってきた空《くう》車《しや》を停《と》めると、  「私一人で帰るから」  と言って、開いたドアに手をかけ、振《ふ》り向くと、「私、あなたを奥《おく》さんから奪《うば》ってみせるから!」  ——ドアが閉る。  千代子の乗ったタクシーが走り去るのを、塚原は呆《ぼう》然《ぜん》として見送っていた……。    「そうだ——」  脇元は、ふと呟《つぶや》いて、起き上った。  「どうしたの?」  半《なか》ばまどろみかけていた女が、眠《ねむ》そうな声を出す。  「いいんだ、眠《ねむ》ってろ」  脇元はベッドを出ると、電話の方へ歩いて行った。  「電話するの? 忙《いそが》しいのね、社長さんって」  女がブツブツ言って、寝《ね》返《がえ》りを打つ。  脇元は、女が寝息をたてるのを待って、受話器を取った。  「——もしもし。脇元だよ。——ああ、ご苦《く》労《ろう》さん。どうだったね?」  脇元は、しばらく黙《だま》って相《あい》手《て》の話に耳を傾けていた。そして、軽《かる》く肯《うなず》きながら、  「なるほど。分った。——うん、続けてくれたまえ」  これだけの言《こと》葉《ば》では、たとえ、ベッドの女が聞いていたとしても、何の話だったか分るまい。  脇元は、ガウンをはおって、タバコに火を点《つ》けた。  ——久野の奴《やつ》。  津村華子か。津村の女《によう》房《ぼう》とできているのか。してみると、津村は初めから利用されただけだったのかもしれない。  脇元は、ゆっくりと煙《けむり》を吐《は》き出した。 突《とつ》発《ぱつ》事《じ》  「参《まい》った!」  と、塚原は頭をかかえた。  「どうしたらいいと思う?」  「私におっしゃられても……」  と、浦田京子は言《こと》葉《ば》を濁《にご》した。  「まさかこんなことになるとは思わなかったんだ」  塚原は、深々とため息をついた。  もちろん、南千代子とのことを、京子に話したのである。  「どうして、きっぱりと別れようっておっしゃらなかったんですか?」  「うん……。そのつ《ヽ》も《ヽ》り《ヽ》ではいたんだけどね……」  塚原にしてみれば、辛《つら》い立場である。  ——昼休みだった。  塚原と京子は、昼《ちゆう》食《しよく》の後、二人《ふたり》で喫《きつ》茶《さ》店《てん》に入っていた。よく晴れた日で、塚原の心《しん》境《きよう》とは裏《うら》腹《はら》に、澄《す》み渡《わた》った空が、店の中から見上げても、目にまぶしい。  京子は、ふと、このお天気なら、浅倉の飛行機も予定通り成田へ着くだろう、と思った。もちろん、迎《むか》えになんか行かない。  そう。行かないのだ。  「今日、千代子さん、お休みしてますね」  と、京子は言った。  「うん。それも気になってるんだ。まさか、思い詰《つ》めて……」  「あの人のことだから、自殺したりはしないでしょうけど。——でも、人間って、表面の華《はな》やかさだけじゃ分らないものですから」  「全《まつた》くだね」  と、塚原は肯《うなず》いた。「もし、浮《うわ》気《き》が本気になることがあるとしても、それは僕《ぼく》の方で、彼女《かのじよ》じゃないと思ってた。そうだろう? 常《じよう》識《しき》的《てき》に考えりゃ」  「そうですね」  「だから、こっちさえ本気にならなきゃ、その内、向うが飽《あ》きるだろう、と……。それならそれでいい、と思ってたんだ」  「千代子さん、奥《おく》さんから塚原さんを奪《うば》ってみせる、って、そう言ったんですね?」  「うん」  「じゃ、本気なんだわ。そこまでは、なかなか言えないもんです」  「困ったよ!」  塚原は、またため息をついた。  何てだらしがない。だから、言ったじゃありませんか。——以前の京子なら、そう叱《しか》りつけたかもしれない。  しかし、京子自身、浅倉とのキスを経《けい》験《けん》してから、人間、好きとか嫌《きら》いという感情は、どうにもならないものだと知ったのである。それを、不《ふ》道《どう》徳《とく》と言って責《せ》めることはできない……。  もちろん「感情」は抑《おさ》えられなくても、「行動」は抑えられる。それが大人《おとな》の理《り》性《せい》というものだ。——京子は言った。  「奥《おく》様《さま》に打ち明けられた方がいいですね」  「女《によう》房《ぼう》に?」  塚原は思わずギョッとして訊《き》き返した。  「そうです。こうなった以上、千代子さんのことが、奥様の耳にも入ると思わなくては」  「本当に——入るかね」  「千代子さん自身が、直接、奥様に会いに行くことだって考えられます」  と京子は言った。「そうなってからでは、手《て》遅《おく》れですわ」  「なるほど……」  塚原は、そんなことまで考えていなかったのである。  「もしかして——」  と、京子は、ふと思い付いて、言った。  「何だね?」  「今《ヽ》日《ヽ》、千代子さんが休んだのは……」  塚原は青くなった。  「まさか!——彼女《かのじよ》がうちへ行ってると?」  「最《さい》悪《あく》の場合には、考えられますわ」  「——電話してみよう」  塚原は立ち上って、あわててレジのわきの公《こう》衆《しゆう》電話へと走って行った。  京子は、また、青空へ目を向けた。  今日、浅倉が帰って来る。——もちろん、私《わたし》には何の関《かん》係《けい》もないことなんだわ。  京子は、病《びよう》院《いん》で父親の来るのを待ちこがれているエミのことを考えようとした。——そう、私なんかどうでもいいんだわ。大切なのはあの子なんだもの……。  少しして、塚原は席に戻《もど》って来た。  「いや、大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》だった!」  と、額《ひたい》の汗《あせ》を拭《ぬぐ》って、言った。  「奥《おく》様《さま》、いらしたんですか?」  「うん。いつもとちっとも変らない様《よう》子《す》だったよ」  京子は、吹《ふ》き出しそうになってしまった。ろくに用もないのに、夫《おつと》が外から電話して来る。それが却《かえ》って妻《つま》には妙《みよう》な気がするだろうに、そこまでは頭が回らないのだ。  「——ところで、津村さんのことなんですけど」  と、京子は話を変えた。「何だかこのところ元気がありませんね」  「うん? そうかい?」  塚原は自分のことに手一《いつ》杯《ぱい》で、津村のことまで手が回らないのである。  「今《ヽ》日《ヽ》も、お昼を一《いつ》緒《しよ》に、と思ったんですけど、逃《に》げるようにいなくなっちゃって」  「そうかな……」  京子はふっと息をついた。  「——あれで良かったんでしょうか」  「何が?」  「私たちのしたことです。——みんなお金を手に入れて……。でも、あんまり幸《しあわ》せそうでもないんですもの」  塚原は、ハッとした。  そんなことを、今まで考えてもみなかったのだ……。    塚原が自宅へ電話するのが、あと十分遅《おそ》かったら、事《じ》情《じよう》は変っていただろう。  というのは、夫からの、わけのわからない電話に、少々首をひねりながら、啓子が台所の方へと戻《もど》りかけたとき、玄《げん》関《かん》のチャイムが、鳴ったからである。  「明美かしら?」  やはり親としては、娘《むすめ》の安《あん》否《ぴ》が第一に気にかかる。  急いで玄関へ出て、ドアを開けたが——。  「こんにちは」  立っていたのは、若い女性——といっても、明美ほど若くはない。  「はあ」  何かのセールスかしら、と啓子は思った。いや、そんな感じでもないのだが。  「塚原さんの奥《おく》様《さま》ですね」  と、その女性は言った。  「そうですが……」  「私《わたし》、会社でいつもご主人にお世《せ》話《わ》になっている南千代子と申します」  「どうも。あの——主人は会社に」  「はい。実《じつ》は奥様にお願いがあって、参りました」  至《いた》って礼《れい》儀《ぎ》正しい、好《こう》感《かん》の持てる子だわ、と啓子は思った。ともかく、立ち話では仕方ない。  「どうぞ、上って下さい」  ——南千代子を居《い》間《ま》へ通して、啓子はお茶など出してやると、ソファに腰《こし》をおろして、  「で、私にどういうご用ですの?」  と訊《き》いた。  「はあ。実《じつ》は——」  南千代子は、ちょっと言《こと》葉《ば》を切ったが、それは、ためらっているというよりは、相《あい》手《て》の注意をひきつける効《こう》果《か》を狙《ねら》っているという感じだった。  「奥様に、塚原さんと別れていただきたいんです」  と、千代子は言った。  「は?」  思わず啓子は訊《き》き返していた。「——別れる、とおっしゃったんですか?」  「はい、そうです」  啓子は目をパチクリさせて、  「おっしゃる意味が……」  「つまり、離《り》婚《こん》していただきたいんです」  「私と主人が、ですか」  「そうです」  「でも——なぜ?」  「私、塚原さんと結《けつ》婚《こん》したいんです。いえ、そう決心したんです」  啓子は、大《だい》体《たい》が呑《の》み込《こ》みのいい方ではないので、こんな突《とつ》飛《ぴ》な話には、とてもついて行けない。  「あの——あなたが主人と?」  「そうです。私、塚原さんを愛しているんです」  これは決《けつ》定《てい》的《てき》だった。——いや、啓子は怒《おこ》り出したのでなく、笑《わら》い出してしまったのである。  啓子は、自分でも、笑い出したことにびっくりして、  「あら、ごめんなさい。でも——」  と、あわてて口を押《おさ》えた。「あんまりびっくりしたもんですからね」  「当然だと思います」  千代子の方は、至《いた》って平《へい》静《せい》そのもの。「ご存《ぞん》知《じ》なかったんですか」  「——何を?」  「ご主人が、浮《うわ》気《き》しているのを、です」  「浮気?——あなたと?」  「もちろんです」  やっと、啓子の方も、頭の回《かい》路《ろ》が正《せい》常《じよう》に働くようになった。  夫が浮気? まさか!——しかし、即《そく》座《ざ》にこれを笑《わら》い飛ばせなかったのは、少々(かなり、かもしれない)鈍《にぶ》い啓子にも、何だかおかしいな、と思えることが、このところ何度かあったからである。  前はほとんど時間通りに帰って来ていたのに、このところよく遅《おそ》くなる。そんなときは、やたら言いわけめいた説明をするのだが、啓子はろくに聞いてもいなかった。  それに——そう、何度か、夫が帰って来て着《き》替《が》えるとき、石ケンの匂《にお》いがすることもあった。  要《よう》するに、普《ふ》通《つう》の妻《つま》なら、当然、夫の浮気を疑うところだったのだ。  「まあ——どうでしょ」  と、啓子は言った。  他《ほか》に言いようがない。  「私《わたし》、もう塚原さんから離《はな》れられません」  と、千代子は言った。「何としても、一《いつ》緒《しよ》になるつもりです」  「ちょっと——ちょっと待って下さいな」  と、啓子は言った。「でも、あなたはそうでも、主人の方は? 主人もそのつもりなんですか?」  「いいえ」  と、首を振《ふ》って、「塚原さんは、その気はない、とおっしゃいました」  「そうですか」  啓子は少し安心した。  「でも、私《わたし》、諦《あきら》めません。塚原さんは、気が弱いし、女性に引《ひつ》張《ぱ》られる性《た》質《ち》ですから、私、強《ごう》引《いん》に離《り》婚《こん》させます」  啓子は、腹を立てるべきだと思っていたが、その割《わり》には、この人、なかなか主人のことが分ってるわ、などと感心したりしていたのである。  「私と塚原さんは年齢《とし》が違《ちが》います」  と、千代子は言った。「でも、それは愛の力で乗り越えて見せます」  まるでTVのメロドラマである。  「はあ……」  「もちろん、奥《おく》様《さま》にも、すぐご返事はいただけないと思います」  「そう——ですね」  「またうかがいますので」  と、千代子は立ち上った。  呑《のん》気《き》な話ではあるが、啓子は南千代子を玄《げん》関《かん》まで送って、  「どうもご苦《く》労《ろう》様《さま》」  と挨《あい》拶《さつ》までしていたのである。  夫《おつと》の愛人に、ここまでやるのもどうか、と啓子自身考えはしたのだが、それでも性格というのは変えようがない。  ——一人《ひとり》になって、さて、啓子は、しばし呆《ぼう》然《ぜん》として、居《い》間《ま》に座《すわ》り込《こ》んでいた。  ショックでなかった、と言えば嘘《うそ》になる。しかし、明美の駈《か》け落ちをまともに信じ込んでいる啓子としては、それに加えて夫の浮《うわ》気《き》と来ては……。  ともかく、日々が変りなく平《へい》穏《おん》に過ぎて行くに違《ちが》いないと頭から信じ切っている啓子である。  このダブルパンチはあまりに強《きよう》烈《れつ》で、却《かえ》って現《げん》実《じつ》感《かん》がなかった。  「どうなってるの?」  と、啓子は呟《つぶや》いた。  本当に夫は浮気しているのだろうか? しかし、あの女性の話にはリアリティーがあった。  大《だい》体《たい》、あんなことで嘘《うそ》をついたって仕方あるまい。別にお金を出してくれと言うのでもないのだから。  本当に浮気をしているとして……。  啓子は、あまり腹の立たないことが、不《ふ》思《し》議《ぎ》だった。もともとが、怒《おこ》りっぽい性格でないにせよ、こんなときには怒《おこ》るべきではないか!  それにしても、あの子、可愛《かわい》かったわ、と啓子は思った。夫があの子に夢《む》中《ちゆう》になった、というのならともかく、あの子の方が夫に夢中になっている、というのだから、分らないものだ。  「ともかく——」  と、啓子は呟《つぶや》いた。「あの人が帰ったら、訊《き》いてみましょ」  至《いた》ってのんびりしているのである。    「遅《おそ》いじゃない。どこまで行ってたの?」  「ごめん! ちょっとTVを見てて——」  女子社員同士の会話を耳にして、浦田京子は苦《く》笑《しよう》した。  今の若い女の子たちは、のびのびと働いている。まあ、時として「仕事」と「遊び」のけじめがつかないことがあるにしても、いつ上《うわ》役《やく》に怒《ど》鳴《な》られるかとピリピリしているよりは、ずっといいかもしれない。  「飛行機が——」  という言《こと》葉《ば》を耳にして、京子は、ふと、手を止めた。  飛行機?——どうしたんだろう?  「落ちたらしいわよ。今、TVで大《おお》騒《さわ》ぎしてた」  「へえ。しばらくなかったのにね」  「油《ゆ》断《だん》したころ起るのよ、事《じ》故《こ》っていうやつは」  京子は、振《ふ》り向くと、  「どこの飛行機が落ちたの?」  と訊《き》いた。  飛行機が落ちた、といっても、まさか……。  京子は、何《なに》気《げ》なく、訊いてみたのだった。  「え? ああ、私も途《と》中《ちゆう》から見ただけなんでよく分りませんけど、何だかアメリカからの飛行機みたいですよ」  「アメリカから?」  京子は、ドキッとした。  浅倉も、今日アメリカから帰る。夕方、ということだった。ではもしかしたら……。  京子は、動《どう》揺《よう》を気付かれまいとして、机に向った。  そんなことが! 浅倉の乗った飛行機が落ちるなんて……。そんなはずがない!  しかし、そう自分へ言い聞かせようとしても、京子は仕事に注意を集中することができなかった。  墜《つい》落《らく》する飛行機——救《きゆう》命《めい》ボート——波間に漂《ただよ》う人たち……。  色々なイメージが、頭の中を駆《か》け巡《めぐ》った。もし浅倉の乗った飛行機だったとしたら……。  京子は、席を立った。  ——ビルの地下の喫《きつ》茶《さ》室《しつ》へ行くと、TVが点《つ》いていて、そのニュースをやっていた。  京子は席につくと、TVから目を離《はな》さずに、ほとんど無《む》意《い》識《しき》に紅茶を頼《たの》んでいた。  「落ちついて……。冷《れい》静《せい》になって」  と、口の中で呟《つぶや》く。  それくらい、京子はショックを受けていたのだ。  TVで知った限りでは、アメリカから日本へ向った便《びん》が、途《と》中《ちゆう》で消《しよう》息《そく》を絶《た》っているということしか分らなかった。乗客名《めい》簿《ぼ》なども発表されていない。  もちろん、まだ落ちたと決ったわけでもないのだし……。  浅倉が、これに乗っていたかどうか。その、可《か》能《のう》性《せい》はあった。  でも、まさかそんなことがあるわけはない。  そうだわ。あのエミを残して死ぬなんてことがあるはずがない!  ——京子は、気が付くと、もう三十分近くもTVを見ていたので、びっくりした。  もう戻《もど》らなくては。そんなに状《じよう》況《きよう》がすぐ分るわけでもないのだし。  京子は、紅茶には結《けつ》局《きよく》口をつけず、出てしまった。  机の前に戻ると、電話が鳴った。  「はい、浦田です」  と言うと、少しザワついた音がして、  「もしもし?」  京子はハッとした。  「あの——浅倉さんですね」  「やあ、すみません、また会社へかけてしまって」  浅倉の声は至《いた》って屈《くつ》託《たく》がなかった。「今成田へ着きましてね」  ——京子は、ごく自《し》然《ぜん》に胸が熱くなり、目に涙《なみだ》が溢《あふ》れて来るのを感じた。 空《くう》虚《きよ》な家  一夜にして、レパートリーを使い切ってしまうのだから、明美の料《りよう》理《り》の腕《うで》も知れようというものである。  「困ったなあ」  と、冷《れい》蔵《ぞう》庫《こ》の中を覗《のぞ》く。「何かないかしら……」  一《いち》応《おう》、浦田京子の所に世《せ》話《わ》になっているという意識はある。だからこそ、得《とく》意《い》でもない料理をやろうと、思ってはいるのだが。  冷蔵庫の中には、何もないわけではない。卵だの野《や》菜《さい》だの、結《けつ》構《こう》入ってはいるのである。しかし、ありあわせのもので何か作る、という器《き》用《よう》な真《ま》似《ね》は、明美にはできない。  何か作るためには、まずその材《ざい》料《りよう》一《いつ》式《しき》を、料理の本通りに買って来なくてはならない、と信じているのだ。  「うーん」  と、しばし考え込《こ》んで、「何か温めて食べられるもんでも買って来るかな」  と呟《つぶや》いた。  あまり長く明美が居候《いそうろう》していたら、京子の出費はやたらかさんでしまうに違《ちが》いない。  さて、どうするか……。  考え込んでいると、電話が鳴り出した。明美は、ちょっと電話をにらみつけた。  例の、浅倉とかいう、アメリカ帰りのおじさんじゃないだろうか。夕方に成《なり》田《た》へ着くとか言ってたし……。  電話はしばらく鳴り続けた。明美は仕方なく受《じゆ》話《わ》器《き》を取り上げた。  「——良かった! いたのね」  京子の声である。  「何だ。誰《だれ》かと思って、出ようかどうしようか、迷《まよ》ってたの」  「ごめんなさい、突《とつ》然《ぜん》」  「いいえ。どうかしたんですか?」  「あのね、ちょっと急用が出来ちゃって——」  「帰り、遅《おそ》くなるんですね」  「ええ、それが……」  と、京子は、ちょっとためらってから、「帰らないかもしれないの」  「そうですか」  「心配しないで、先に寝《やす》んでてね」  「はい、分りました」  「じゃあ……」  ——明美は電話を切った。  何となく気に入らない。急用か? それにしても、「帰らない」のでなく、「帰らないかもしれない」というのが、気になった。  成り行き次《し》第《だい》、ということか。  あの浅倉という男、ここへは電話して来ていない。ということは、京子の会社へ電話をして……。  「気に入らないなあ」  と、明美は呟《つぶや》いた。  京子が、あれほどはっきりと、浅倉とは会わないと言っていたのを考えて、がっかりしていたのである。  一人で腹《はら》を立てていても仕方がないので、明美は、どこか外で夕食を取ることにして、差し当りはすることもなく、畳《たたみ》の上に引っくり返った。  エミって子が入院してるんだ、って京子さん言ってたっけ。その子に、まず浅倉は会いに行くべきだ、……とも。  会いには行ったのかもしれない。でも、それから二人で……。  「いいじゃないの」  と、明美は、自分へ言い聞かせるように言った。  これは大人《おとな》同士の問題なのだ。しかも、明美とは別に何の縁《えん》もない——多少はあるにしても——二人のことなのだ。  私《わたし》がとやかく言うことじゃないんだわ、と明美は考えようとしたが、完全にうまく行ったとは言えなかった。  いくらドライな明美でも、父親の浮《うわ》気《き》で、多少は傷《きず》ついているのである。  京子は違《ちが》う。あの人は父とは違う。——明美はそう思っていた。  だけど……。  やはり、心の底で、裏《うら》切《ぎ》られた、という思いがあるのは、どうしようもない事実だったのだ。  明美は、畳《たたみ》の上で寝《ね》転《ころが》っていて、そのまま眠《ねむ》り込《こ》んでしまった。  ——目が覚《さ》めると、もうすっかり暗くなっている。  明美は自分の財《さい》布《ふ》を持って、欠伸《あくび》をしながら、京子のアパートを出た。  「——何を食べようかな」  と、ブツブツ言いながら歩いて行く明美を、見送っている人《ひと》影《かげ》があった。  一人ではない。二人——いや三人だ。  「あれか?」  と、一人が言った。  「あの部《へ》屋《や》だ、間《ま》違《ちが》いねえや」  「だけど、いやに若《わか》くないか」  「年齢《とし》まで知るかよ。あの部屋で一人暮《ぐら》しってんだ」  「じゃ、間違いねえな」  「近所まで行ったんだろう。その内、戻《もど》って来る」  「よし。——じゃ、さっきの場所で、待っていようぜ」  三人は、そう決めると、ゆっくり歩き出した。  どれも、あまりまともとはいえない——チンピラ風の格《かつ》好《こう》をしている。  もちろん、そんな連中が、帰りを待ち受けていることなど、明美は知る由《よし》もないのである。  駅の近くの中《ちゆう》華《か》料理の店に入って、明美はチャーハンを食べた。  TVを眺《なが》めると、アメリカからの飛行機が消息を絶《た》って、墜《つい》落《らく》した模《も》様《よう》、というニュースをやっている。  明美は、ふと、京子もこのニュースを見たのかしら、と思った。    「お帰りなさい」  と、顔を出した啓子を見て、塚原は内心ホッとしていた。  これなら大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》だ。  「——明美の奴《やつ》から、何か言って来なかったか?」  と、ネクタイを外《はず》しながら訊《き》く。  「いいえ、全然。あなたの方にも?」  「うん。——まあ、あいつのことだから、心配ないとは思うけどな」  「そうね」  と、啓子は言った。「先にお風《ふ》呂《ろ》に入ります?」  「いや、腹が空《す》いてるんだ。風呂は後でいいよ」  「そう? じゃ、すぐ仕《し》度《たく》します」  啓子が台所へ行ってしまうと、塚原は、やれやれ、と胸《むね》を撫《な》でおろした。  南千代子がここへやって来たのじゃないかと、気が気でなかったのである。  しかし、啓子の様子からして、それは大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》だったようだ。  塚原は安心して夕《ゆう》刊《かん》を広げた。  「——あなた、ご飯よ」  「うん」  塚原は、伸《の》びをして、食《しよく》卓《たく》についた。  「学校の方には、一《いち》応《おう》風邪《かぜ》ということで届《とど》けてありますけどね」  「そうだなあ。仕方あるまい」  「あんまり長くなると……」  「うん」  ——食事をしながら、塚原は、娘《むすめ》の安《あん》否《ぴ》より、自分の立場を気にしている己《おの》れに、ちょっと恥《は》ずかしい思いを抱《いだ》いた。  俺《おれ》は父親なのだ。一人の男である前《ヽ》に《ヽ》父親なのだ。  以前は、当り前のように、そう考えていたのに、どうしたというんだろう?  南千代子のせいだ。あいつのせいで、すっかりめちゃくちゃになってしまった。  いや……。いや、そうじゃない。  やはり、俺がだらしなかったのだ。俺さえしっかりしていれば、こんなことにはならなかったのだ。  「学校へ行って、先生と話してみようか」  と、塚原は言った。  「そうねえ……」  啓子は、少し考えて、「その前に、お友だちの所とか、また、訊《き》いてみましょうよ」  と言った。  「うん……」  「みんなに、明美が家出したと知らせることになるけど、仕方ないじゃない?」  「そうだな。——心当りはないか、仲《なか》のいい子に当ってみよう」  「一番仲《なか》がいいのは、大友さんでしょ。大友——由《ゆ》佳《か》ちゃんだったかしら」  「じゃ、お前から話してみた方がいいかもしれないな」  「ええ、そうするわ」  と、啓子は肯《うなず》いた。  食事の後で啓子は、大友由佳の所へ電話をしてみた。  「——じゃ、病気じゃなかったんですか、明美」  話を聞いて、由佳が言った。  「そうなの。何か心当りはありません?」  「そうですねえ……。たぶん明美のことだから、一度くらい電話して来るんじゃないかと思うけど」  「そしたら、ともかく私《わたし》たちが話したがってる、と伝えて下さいな」  「ええ分りました」  と、由佳は言って、「——ただ、明美、ひどく心配してましたよ」  「心配?」  「ええ」  「何のことかしら?」  「お父《とう》さんのことで。——詳《くわ》しくは知りませんけど」  由佳には、明美が、例の大金のことを打ちあけてある。だから、そのことを言ったのだが、啓子は、そんなこととは思いもしないので、  「そうですか。ともかく、もし電話があったら、よろしくね」  と頼《たの》んでおいて、電話を切った。  「——何だって?」  とそばにいた塚原が訊《き》く。  啓子は、やっと、昼間やって来た、あの南千代子のことと、明美の家出を結びつけて考えた。  明美が父親のことで心配していた、というのは——それしかあり得《え》ない!  啓子がそう考えたのも、無理からぬことである。  「あなた」  と、啓子は言った。  「何だ?」  「今日、昼間、お客様があったの」  「へえ。誰《だれ》だい?」  「南千代子さんという人」  塚原は真《ま》っ青《さお》になった。  啓子は、ため息をついた。——いくら鈍《どん》感《かん》な啓子とはいえ、この夫《おつと》の様子を見れば、あの娘《むすめ》の話が事実だということぐらい、分る。  「浮《うわ》気《き》してたのね」  と、啓子は言った。  「済《す》まん」  と、塚原はうなだれた。  「私《わたし》は鈍《にぶ》いから分らなかったけど、明美は知ってたかもしれないわ」  「うん」  と、塚原は肯《うなず》いた。「あいつは知ってたようだ」  「あなた——それを承《しよう》知《ち》で、浮《うわ》気《き》を続けていたの?」  啓子の頬《ほお》が紅《こう》潮《ちよう》した。  塚原は、結《けつ》婚《こん》以来初めて、妻《つま》の顔が怒《いか》りで震《ふる》えるのを見た。  「あなたは何てことをしたの!」  と、啓子は凄《すご》い声を出した。  「待ってくれ! 啓子——」  塚原は、思わず後ずさった。  それほど啓子の剣《けん》幕《まく》はもの凄かったのだ。  「傷《きず》つきやすい年《とし》頃《ごろ》の娘《むすめ》に、浮気のことを知られて、しかも平気でそれを続けるなんて!」  「いや、そういうわけじゃ——」  「許《ゆる》しません! 私《わたし》、あなたを一生許しませんからね!」  と、叫《さけ》ぶなり、啓子は、ワーッと声を上げて泣《な》き出した。  それも身をよじるようにして、畳《たたみ》に伏《ふ》せて泣きじゃくったのである。  ——塚原はただ呆《ぼう》然《ぜん》としていた。  こんな光景が、自分の家の中で展《てん》開《かい》することがあろうとは、信じられなかったのである。  もちろん、塚原と啓子とて、多少の口《くち》喧《げん》嘩《か》やいさかいはあったが、それは、感《かん》情《じよう》の爆《ばく》発《はつ》というところまではいかなかった。  二人とも、生《せい》来《らい》穏《おだ》やかで、あまり騒《さわ》ぎ立てる性《せい》質《しつ》ではなかったからだろう。  だから、塚原は、啓子がこんな風に声を上げて泣くなどということを、想《そう》像《ぞう》したこともなかったのである。  啓子が泣きじゃくるのを、塚原はただ、じっと黙《だま》って見ているしかなかった。  ——そして、どれくらいたっただろうか。  啓子は、やっと泣きやむと、そろそろと顔を上げた。  「なあ……」  塚原は、蚊《か》の鳴くような声で言った。  啓子は聞いていないようだった。顔を、手の甲《こう》で拭《ぬぐ》うと、思いがけないほどの素《す》早《ばや》さで立ち上り、台所の方へ行ってしまった。  塚原は、フウッと息をついた。  千代子の奴《やつ》……。やっぱりやって来たのか!  ともかく、ここは謝《あやま》るしかない。  千代子とはもう別れる、と誓《ちか》って、啓子に許《ゆる》してもらうしかない。  「参ったな」  と、塚原は呟《つぶや》いた。  しばらく、啓子は戻《もど》って来なかった。  様子を見に行こうかと思っても、また泣《な》き出されたら、と思うと動くに動けず、塚原は、ただボケッと座《すわ》っているだけだった。  ——こんなときの男くらい、何の役にも立たず、無《ぶ》器《き》用《よう》な生きものもあるまい。  若《わか》い千代子を抱《だ》いたときのファイトも、頑《がん》張《ば》りも、嘘《うそ》のように消えて、ただ、今はしょげ返った子《こ》供《ども》のような男がいるだけなのだ。  何やら、ゴトゴトやっている音がして、塚原はホッとした。  ともかく、啓子が何かやり出したので、安心したのである。  そう。——あいつも、これだけ永《なが》く俺《おれ》と連れ添《そ》って来たんだ。  一度ぐらいの浮《うわ》気《き》は、時間さえたてば許してくれるだろう……。  まだしばらく、啓子はガタゴトやっていた。  塚原も、やっとショックから立ち直って楽観的に考えるようになっていたのである。  「そろそろ風《ふ》呂《ろ》にでも入るか……」  と、独《ひと》り言《ごと》を言って、腰《こし》を浮《う》かしかけたとき、啓子が戻って来た。  塚原は、またペタンと座り込《こ》んでしまった。  啓子は、よそ行きのスーツを着《き》込《こ》んでいた。そして、大型のスーツケースを下げていたのだ。  「啓子……」  啓子は、スーツケースを置くと、塚原の前に座《すわ》った。  「なあ、啓子——」  と塚原が言いかけるのを、遮《さえぎ》って、  「私《わたし》、家を出て行きます」  と、啓子は言った。  「出て……行くって?」  塚原は、ポカンとして訊《き》き返した。  「出て行きます」  啓子はくり返した。  「しかし……どこへ?」  「私にもお友だちぐらいありますわ」  「それにしたって——」  「あなたと違《ちが》って、浮《うわ》気《き》の相手はいませんけど」  啓子は、少しも皮肉っぽくない口調で言い返した。  「啓子。——悪かったよ。この通りだ」  と、塚原は頭を下げた。  「やめて下さい」  と啓子は言った。「ともかく、今は何を言われても、出て行きます」  「だけど——」  「明美のことは心配です。ですから連《れん》絡《らく》は取れるようにしておきます」  啓子は、立ち上った。  「おい、本当に出て行くのか?」  「ええ」  「あの娘《むすめ》とは別れる。本当だ」  「そのことだけを言ってるんじゃありませんわ」  「じゃ、何だ?」  「ともかく——今はここにいたくないんです!」  啓子はスーツケースを手に、出て行った。  塚原は、立とうとしたが、足に力が入らなかった。  ——玄《げん》関《かん》が開き、閉《しま》る音。  かすかな足音も、すぐに聞こえなくなった。  塚原は、ぼんやりと、家の中に一人で座《すわ》っているのだった。  何てことだ。——明美も、そして啓子も、出て行ってしまった。  塚原は、そっと家の中を見回した。まるで知らない家のように思える。  こんなに静かで、こんなに寂《さび》しくて……。そうだ。ここは俺《おれ》の家じゃない。  塚原は、ひどく疲《つか》れ切った気分だった。 幸運・不運  たった一日。——そう、一日だけのことなのだ。  京子は、自分へそう言いきかせていた。  浅倉の帰りが、一日遅《おそ》かったと思えば……。そんなのは、珍《めずら》しくも何ともないことだ。  「——何を考えてるんです?」  と、浅倉が訊《き》いた。  京子はふっと我《われ》に返った。  「あ、いえ——別に」  レストランの中は、静かだった。ピアノのメロディーが、かすかに流れている。  少し薄《うす》暗《ぐら》い照明が、余《よ》計《けい》に静けさを感じさせた。  来てしまった。——京子は、心の中で呟《つぶや》いた。もう何十回目かの呟《つぶや》きだった。  どうして来てしまったのだろう?  決して会わないと、言ったのに。明美にもそう言ったのに。  明美は、気が付いているだろうか?  そう。——たぶん分っている。あの子は、ドライなようで、勘《かん》は鋭《するど》いのだ。  傷《きず》つきやすい若《わか》さを、ドライなポーズで守っている。  後ろめたい思いは、消えなかった。明美に対しても、エミに対しても。そして、自分自身に対しても。  しかし、ここまで来た以上、引き返すわけにいかないということも、よく分っていた……。  「エミのことですね」  と、浅倉が言った。  「ええ」  京子は肯《うなず》いた。「明日《あした》、すぐに行ってあげて下さいね」  「もちろんです。一《いつ》緒《しよ》に行ってやって下さい。エミも喜びます」  京子は、答えずに微《ほほ》笑《え》んだ。  今夜、浅倉と一夜を過《すご》して、明日、エミの前に顔を出せるだろうか?  京子にも、それは分らなかった。  浅倉の乗った飛行機が事《じ》故《こ》にあったかもしれない。——あのニュースが、京子の心を決めさせた。  自分でも意外なほど、京子は動《どう》揺《よう》したのである。  それだけ、寂《さび》しかったのだろうか? そうかもしれない。  長い間、たった独《ひと》りで生活して来て、孤《こ》独《どく》にはすっかり慣れたつもりでいたが、そうでもなかったようだ。  ——二人は、時間をかけて食事を終えた。  心はせいているのに、わざわざゆっくりと食事をしていたような気がする。  「行きましょうか」  「ええ」  「落ちつける所を捜《さが》してあります」  と、浅倉は、立ち上って、京子を促《うなが》した。  もう、ここまで来て、ためらうわけにはいかない。京子は、エミのことも、明美のことも、心の奥《おく》へしまい込《こ》んで、蓋《ふた》を閉《と》じた。  浅倉は、郊《こう》外《がい》まで車を飛ばして、閑《かん》静《せい》な林の中の日本旅館へと京子を連れて行った。  京子としては、浅倉のその気のつかいようが嬉《うれ》しかった。もし、都心のラブホテルにでも連れて行かれたら、惨《みじ》めな気持になったろう。  若《わか》い恋《こい》人《びと》たちというならともかく、人目を忍《しの》んでの、道ならぬ恋なのだ。都会の喧《けん》噪《そう》から離《はな》れて、別世界のような静けさの中で、やっと心も体も休まるというものである。  ——清《せい》潔《けつ》で広い和室で落ちつくと、二人は順番に風《ふ》呂《ろ》へ入って、浴衣《ゆかた》に替《か》えた。  ほんの少し、ビールなど飲んで、隣《となり》の部屋には、もう床《とこ》が敷《し》かれている……。  まるで、映画か小説の中のようだわ、と京子は思った。——大人《おとな》の恋。  大人の恋、か……。  そう、私《わたし》たちは二人とも大人なんだ。見っともなく、すがりついたり、喚《わめ》いたりはしない。  少し落ちつくと、もう夜、十二時に近くなっていた。  「——時差のせいかな。変なときに眠《ねむ》くなりますよ」  と、浅倉は笑《わら》った。  「じゃ、今は?」  「あなたが目の前にいては、眠くなるわけがありません」  「まあ、お上《じよう》手《ず》ね」  と、京子は笑った。  浅倉は、ビールのコップを置いた。  「行きますか」  「はい」  京子は肯《うなず》いた。  二人は、立ち上ると、隣《となり》の部屋へ行った。浅倉が京子を抱《だ》きしめると、そのまま京子は体中の力を抜《ぬ》いて、身を委《ゆだ》ねた……。    塚《つか》原《はら》は、ぼんやりと家の中に座《すわ》っていた。  どれくらい時間がたったのだろう?  啓子が、機《き》嫌《げん》を直して戻《もど》って来るかもしれない。——塚原はそう思っていた。  ちょっと考えれば、啓子だって、あれほどの仕《し》度《たく》をして出て行ったのだ。意地でもやすやすとは帰って来ないことぐらい、分りそうなものだが、ともかく、塚原としては、啓子が出て行ったということ自体が、信じられずにいたのだ。  塚原は、若《わか》いころから、一人で暮《くら》したという経《けい》験《けん》がない。こうして取り残されてしまうと、どうしていいのか分らないのである。  「啓子……」  塚原はポツリと呟《つぶや》いた。  今さらのように、自分がどんなに啓子に頼《たよ》り切って生活していたか、思い知らされた。その啓子を、俺《おれ》は裏《うら》切《ぎ》っていたのだ……。  玄《げん》関《かん》のチャイムが鳴って、塚原は飛び上った。  「啓子!」  と大声で叫《さけ》んで、玄関へと駆《か》けつけた。  塚原は、啓子が帰って来たのだとばかり思っていたから、ためらいもせずに、パッとドアを開けた。  「——やあ」  塚原は、目の前に立っている津《つ》村《むら》に、しばらくしてから、声をかけた。  「すみません。突《とつ》然《ぜん》お邪《じや》魔《ま》して」  と、津村は言った。  「いや……構《かま》わないよ。入ってくれ」  塚原は、津村を中へ入れた。  そうか。考えてみれば、これがもし啓子なら、玄《げん》関《かん》は鍵《かぎ》などかかっていなかったのだから、勝手に入って来ただろう。  「——夜分、すみません」  津村はソファに、ちょっと疲《つか》れた様子で腰《こし》をおろした。  「いや、いいんだ。どうした?」  と、塚原は訊《き》いた。  「はあ、実は、——」  と、言いかけて、津村は、「奥《おく》様《さま》はいらっしゃらないんですか?」  「う、うん」  塚原はあわてて、「ちょっとね——その——親類の所へ急な用事で出かけてるんだ」  「そうですか。いえ、その方が、僕《ぼく》はありがたいんです」  津村は、いやにくたびれているように見えた。  「どうした? 元気ないじゃないか」  塚原だって、そんなことを言えた柄《がら》ではないのだが。  「ええ。——参りました」  津村は、深々と息をついた。  「何か——例の件《けん》で、まずいことでもあったのかね」  「いや……。それが関係あるとは思えないんですが」  と、津村は首を振《ふ》る。  「それじゃ……」  「実は、華子に男がいるらしいんです」  「何だって?」  塚原の声が、思わず大きくなったのも当然と言えるだろう。  「本人にはまだ問《と》い詰《つ》めたわけじゃないんです」  と、津村は言った。「訊《き》くのが怖《こわ》くて。——だらしのない話ですがね」  苦《く》笑《しよう》する津村を、塚原はじっと見つめていた。  「相手は分ってるのかい?」  「いいえ。——しかし、誰《だれ》かいるのは確《たし》かなんです。まさか、あいつが浮《うわ》気《き》するなんてね……」  「それは——大変だなあ」  と、塚原は言った。  他《ほか》に言いようがないのだ。  「どうしたもんでしょうね、塚原さん」  と、津村は訊いた。「こんなときは、一気にワッと喧《けん》嘩《か》した方がいいんでしょうか?」  塚原にも答えられない質《しつ》問《もん》だった。    明美は、どうせ京子も帰らないのだし、と、のんびりパーラーで甘《あま》いものなど食べて、アパートへと戻《もど》って行った。  途《と》中《ちゆう》、もちろん時間は早いので、結《けつ》構《こう》人通りもある。明美は口《くち》笛《ぶえ》など吹《ふ》きながら、歩いていた。  アパートの手前、ちょっと通りから外《はず》れた薄《うす》暗《ぐら》い道へ入る。といっても、ほんの十メートルほどの距《きよ》離《り》なのだ。  その細い道に、ライトバンが一台停《とま》っていた。  「邪《じや》魔《ま》だなあ」  と、明美は呟《つぶや》いた。  車の中は、暗くて、人もいないらしい。  仕方なく、明美はライトバンのわきを、すり抜《ぬ》けるようにして歩いて行った。  突《とつ》然《ぜん》、前に人《ひと》影《かげ》が立った。明美はギョッとして立ちすくんだ。  同時に、背《はい》後《ご》から、抱《だ》きつかれる。  「キャッ!」  と、明美は声を上げた。  口を、布《ぬの》でふさがれた。前にいた男が、明美の両足をかかえ上げた。  恐《きよう》怖《ふ》を覚えて、明美は身をよじった。暴《あば》れようとした。  しかし、ガッチリと押《おさ》え込《こ》まれた手足は、動くに動かせない。  「急げ!」  と、声がした。  どうやら、もう一人いるらしい。ライトバンの後ろの扉《とびら》が開いた。  「中へかつぎ込め!」  明美は、そのまま、車の中へとかかえ込まれた。  「おとなしくしろ!」  男の声がして、同時に、明美の目の前に、銀色に光るナイフが突《つ》きつけられる。  明美も、さすがに血の気がひいた。  「——いいか。騒《さわ》ぐと、ただじゃ済《す》まねえからな」  男はナイフの刃《は》の先を明美の頬《ほお》に軽く当てた。「分ったか?」  明美は、ちょっと肯《うなず》いて見せた。  この男たちは何だろう? どうしようというんだろう?  「OK。しっかり押えとけよ。俺《おれ》が運転するからな」  一人が、運《うん》転《てん》席《せき》へ移る。  残る二人が、しっかりと明美を床《ゆか》へ押《お》しつけるようにしているので、全く身動きはできなかった。  車がブルル、と揺《ゆ》れて動き出した。  「——ここは一方通行なんだな。よし、バックしよう」  車が動き出した。  しかし、運転する方も焦《あせ》っていたらしい。曲り角から後《こう》尾《び》がぐっと出たところへ、自転車がぶつかった。  ガチャン、と派《は》手《で》な音がした。  「畜《ちく》生《しよう》!」  運転していた男が舌《した》打《う》ちした。  「構《かま》わねえ! 行っちまえ!」  と、ナイフを持った男が言った。  だが、天は明美の味方だった。  「おい! 降《お》りろ!」  と、怒《ど》鳴《な》って、運《うん》転《てん》席《せき》の窓《まど》の所へ顔を出したのは——警《けい》官《かん》だったのである。  「逃《に》げろ!」  と、運転席の男が叫《さけ》んだ。  ライトバンの後ろの扉《とびら》を開けて、残る二人が飛び出す。  「待て! おい、待て!」  警官も、突《とつ》然《ぜん》のことで、ちょっと呆《あつ》気《け》に取られていたが、あわてて三人の後を追いかけて行った……。    「塚原さんも……」  津村は、信じられない様子で、「本当に浮《うわ》気《き》してたんですか?」  「うん。お恥《は》ずかしい」  と、塚原は言った。「この年齢《とし》をして、若《わか》い女の子とね」  「南千代子君か。——そうですか」  「君の耳には入ってないか?」  「ええ。女子社員の間だけなんでしょうね、きっと」  「参ったよ!」  塚原は、周囲を見回して、  「女《によう》房《ぼう》に出て行かれて、途《と》方《ほう》にくれてたところだ」  「驚《おどろ》いたなあ。塚原さんは、そんなことには縁《えん》のない人だと思ってたのに」  「僕《ぼく》は意《い》志《し》の弱い男なのさ」  と、塚原は笑《わら》った。  「でも……どうしたもんでしょうね」  「うん」  二人とも、考え込《こ》んでしまった。  もちろん、塚原も、津村も、こうして考え込んでいるだけでは、何も解《かい》決《けつ》しないのは分っているのだが、といって、どうしていいのか分らないのである。  「——ともかく」  と、塚原は言った。「焦《あせ》って解決しようとしてもだめだ、ってことだ」  「そうですね」  「僕《ぼく》は、まず南千代子と別れる。それから時間をかけて、女《によう》房《ぼう》が戻《もど》って来るように、努力するさ」  「僕の方も……華子の奴《やつ》と、ゆっくり話し合えるように雰《ふん》囲《い》気《き》を作りますよ」  「それもいいな」  ——少しして、二人は、ちょっと笑《わら》った。  「どうも男どもはだらしがないな」  と、塚原は言った。  「そうですね。浦《うら》田《た》さんだけかな、しっかりしてるのは」  「うん。——そうだ、浦田君へ電話してみよう」  塚原は、電話の方へと歩いて行った。  塚原は、浦田京子のアパートへ、電話を入れた。  何となく、京子に相談してみたいという気になっていたのである。  しばらく、電話は鳴り続けた。  「——留《る》守《す》かな」  と、塚原が受《じゆ》話《わ》器《き》を置きかけたとき、向うが出た。  「はい、浦田です」  が、京子の声ではない。  「あの——塚原ですが」  「あ、お父さん!」  塚原は、仰《ぎよう》天《てん》した。  「明美! お前——」  「お父さん……」  しばし、沈《ちん》黙《もく》があった。  「明美、そこにいたのか、ずっと?」  「そんなに長くないわよ」  「しかし——浦田君は何も言わなかった」  「私《わたし》が、黙《だま》っててくれって頼《たの》んだのよ」  「そうか……。元気なのか?」  「うん」  「それで——お前、一人か?」  「そうよ」  明美は、ちょっと笑《わら》って、「駈《か》け落ちは嘘《うそ》なのよ」  「何だ、そうか……」  塚原はホッと息をついた。  「ねえ、お母《かあ》さんは?」  「うん、それが——」  「寝《ね》込《こ》んじゃったの?」  「いや。家出した」  明美もさすがに絶《ぜつ》句《く》した。  話を聞いて、明美は、  「自《じ》業《ごう》自《じ》得《とく》よ」  と言った。  「うん、分ってる」  「でも、いいわ。——帰ってあげる」  「本当か?」  「お父さん、飢《う》え死にしちゃうでしょ、一人じゃ」  「すまんな」  「お母さんのことは、明日《あした》にでも心当りを捜《さが》してみましょうよ。きっと、戻《もど》って来ると思うけど」  「そうかな」  「そうよ。——お父さんの後《こう》悔《かい》の度《ど》合《あい》にもよるけど」  「これ以上後悔できないくらいだよ」  明美は笑《わら》って、  「そこがお父さんらしいとこね」  と言った。「でも——ねえ、迎《むか》えに来てくれる。私《わたし》、さっき襲《おそ》われかけたの」  「何だと?」  「私のこと、浦田さんと間《ま》違《ちが》えたのかもね。だから——」  「鍵《かぎ》をかけてじっとしてろ! すぐ行くからな!」  塚原は、受《じゆ》話《わ》器《き》に向って怒《ど》鳴《な》った。 津《つ》村《むら》の負《ふ》傷《しよう》  ドタドタと足音がドアの外に響《ひび》いたと思うと、  「明美! お父《とう》さんだ!」  塚原の声がした。  明美はあわててドアを開けると、  「そんな大声出して! 何時だと思ってるのよ!」  と、父親をにらみつけた。  「そ、そうか、すまん」  塚原は息をついた。何だか今夜は謝《あやま》ってばかりいるみたいだ。  「入ってよ、ともかく。——あら、津村さんも一《いつ》緒《しよ》?」  明美は、父の肩《かた》越《ご》しに、津村の顔を見て、びっくりした。  「ちょうどお邪《じや》魔《ま》してたんで」  と、津村が言った。「まあ、塚原さんよりは力もありますしね」  「わざわざすみません」  と、明美は笑《わら》った。「ともかく上って——といったって私《わたし》の部《へ》屋《や》じゃないんだけど」  もちろん、浦田京子のアパートへ、塚原と津村が駆《か》けつけて来たのである。  「浦田君はまだ帰らないのかい?」  塚原は、座《すわ》り込《こ》むと、言った。  「今夜は帰らないみたいよ」  「そうか。——いや、一言礼を言っていこうと思ったんだが」  「恋《こい》人《びと》とどこかに泊《とま》ってるみたい」  塚原と津村は顔を見合わせた。  「恋人?——浦田君に恋人がいるんだって?」  「あら、いちゃ悪いの? お父さん、失礼よそんな」  「いや、そういうわけじゃないんだ。しかし——初耳だったから」  「そりゃ、お父さんに秘《ひ》密《みつ》を打ちあける物《もの》好《ず》きなんていやしないわよ」  と、明美もなかなか手《て》厳《きび》しい。  「へえ、僕《ぼく》にも意外だったなあ」  津村も目をパチクリさせている。「じゃ、浦田さん、近々辞《や》めるつもりかな」  「そうはいかないみたい」  と明美は言った。「相手は妻《さい》子《し》ある男《だん》性《せい》だと言ってたわ」  塚原と津村、二人《ふたり》ながら、ギョッとした。——それぞれに立場は違《ちが》うにせよ、少々古風に言えば「不《ふ》倫《りん》の恋《こい》」に悩《なや》んでいるわけだ。  偶《ぐう》然《ぜん》とはいえ、妙《みよう》な暗合に思えたのだった……。  「それにしても、明美、お前どうして浦田君の所へ来たんだ?」  と、塚原は訊《き》いた。  「何となく信《しん》頼《らい》できる人だと思って。この間、うちに電話があったでしょ。それで思い出したのよ」  「電話……」  そうか。——二億《おく》円《えん》を盗《ぬす》み出す、あの決行の前日、うちへ電話がかかった。遠い昔《むかし》のような気がする、と塚原は思った。  塚原は、ちょっと時《と》計《けい》を見ると、  「こうしてても仕方ないな。じゃ、明美、家へ戻《もど》るか」  と言った。  「待って」  明美は、父と津村を交《こう》互《ご》に見ながら、「その前に何か言うことがあるんじゃない?」  「言うこと? そりゃまあ……啓子の奴《やつ》には申《もう》し訳《わけ》ないことをしたと思ってるが」  「そうじゃないの。お金のことよ」  「お金?」  「お父さんが盗《ぬす》んだお金のこと」  こうもズバリと言われては、塚原ばかりか津村だって顔色を変えざるを得《え》なかった。  「お前……知ってたのか!」  「私《わたし》にはお見通しよ」  明美にだって、何も分っちゃいないのだが、ハッタリは大の得《とく》意《い》である。  「こりゃ参った!」  津村も、ため息をついて、「塚原さん、ここはもう——」  「うん」  塚原は額《ひたい》の汗《あせ》を拭《ぬぐ》った。「いや、お前の言う通りだ。我《われ》々《われ》三人で、会社の金を盗んだ」  「三人……。じゃ、浦田さんも?」  今度は明美が驚《おどろ》いた。「でも、それなら分るわ。お父さんじゃ、そんな計画、立てられっこないものね」  「変な納《なつ》得《とく》をするなよ」  と、塚原が渋《しぶ》い顔をした。  「でも、よく今まで、横《おう》領《りよう》がばれなかったわね」  「横領じゃない」  と、塚原は首を振《ふ》った。「あの金は、社長がひそかに政《せい》治《じ》家《か》への献《けん》金《きん》につかっていた隠《かく》し金《がね》なんだ」  「隠し金?」  「そうです」  と、津村が肯《うなず》く。「つまり、まともな金じゃない。だから、盗《ぬす》まれても、届《とど》け出ることができないわけでね」  「さすがに浦田さんだわ! いいところに目をつけたわね」  明美は、すっかり感心していた。「で、どうやったの?」  「なあ、今はともかく——」  「どうせ今帰ったって、お母《かあ》さんはいやしないのよ。ね、話してよ」  こうなると、明美の方もすっかり興《きよう》味《み》をそそられている。  言い出したら後に引かない明美の性《せい》格《かく》をよく知っている塚原は、諦《あきら》めて、盗み出すまでの一部始《し》終《じゆう》を話して聞かせた。  明美は、授《じゆ》業《ぎよう》中《ちゆう》には決して見せたことのない(!)熱心さで、じっと話に聞き入っていたが、「二億《おく》円」という金《きん》額《がく》には、さすがに目をまるくした。  「凄《すご》いわねえ! だったら、お小づかい上げてもらうんだった」  「まあ、ともかく」  と、塚原が言った。「二億円がこうして我《われ》々《われ》の手に入ったわけだ」  「二億円かあ……」  明美はため息をついた。「私《わたし》だったら、投《とう》資《し》して増《ふ》やすわ。変なことにはつかわないで」  「しかしなあ……」  塚原は、肩《かた》を落として、「母さんは出て行っちまうし、お前は家出するし、あの金が入っても、大していいことはなかった」  「誰《だれ》も傷《きず》つけずに盗《ぬす》んだってことは、評《ひよう》価《か》できるわね」  と、明美が偉《えら》そうに言った。「でも一人《ひとり》だけ……」  「一人? 誰《だれ》のことだ?」  「ガードマンよ」  塚原は、ちょっと戸《と》惑《まど》って、  「つまり——金の見《み》張《は》りをしていたガードマンか」  「そう」  「でも、あの男はただ、睡《すい》眠《みん》薬《やく》で眠《ねむ》っちまっただけだから」  と、津村が微《ほほ》笑《え》んだ。「大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》。後《こう》遺《い》症《しよう》がのこるようなことはありませんよ」  「そんなこと言ってんじゃないわ」  と、明美が言った。「その人、クビになったんじゃないの、って言ってるのよ」  塚原も津村も、ちょっと言葉が出て来なかった。  確《たし》かに、それは大いにあり得《う》ることだった。何といっても、あんな大金を、目の前で盗《ぬす》まれてしまったのだから。  しかし、塚原も津村も、今の今まで、その男のことなど、考えてもみなかった。  自分たちは、誰《だれ》にも——つまり、社長の脇《わき》元《もと》や久《く》野《の》以外には、という意味だが——迷《めい》惑《わく》をかけずに大金を手に入れたのだ、と信じていた。それが誇《ほこ》りでもあったのだ。  だが、明美に言われて、初めて、「もう一人の人間」のことに気付いたのだった。  「そうだ」  と、津村は肯《うなず》いた。「お嬢《じよう》さんのおっしゃる通りですよ」  「うん。俺《おれ》も見落としていた」  「浦田さんも、でしょう」  「今からじゃ手《て》遅《おく》れかもしれないが……」  「明日《あした》、僕《ぼく》が調べてみますよ。あのガードマンがどうなったか」  「そうしてくれ。もし、クビにでもなっていたら、我《われ》々《われ》で何とかしてやろうじゃないか」  「賛《さん》成《せい》です」  明美は二人の話を聞いて、ちょっと笑《わら》った。  「安心したわ。二人とも、そうおかしくなってないって分ってね」  「大人《おとな》をからかうもんじゃない」  と塚原は苦《く》笑《しよう》した。  「じゃ、家へ帰ろうか」  そう言って、明美は立ち上ると、ウーンと伸《の》びをした。  「鍵《かぎ》は後で返せばいいわね」  明美は、浦田京子の部屋のドアを閉め、鍵をかけた。  後で、京子が帰って来て心配するといけないので、一《いち》応《おう》、置き手紙もして来た。そういう点、明美は抜《ぬ》かりがない。  「——さあ、行こうか」  と、塚原が言った。  「うん。あ、私《わたし》が先に行く。ちょっと足《あし》下《もと》が暗くて危《あぶな》いのよ」  明美は二人を止めて、自分が先に立って歩き出した。  これが不運だった。  アパートの手前の暗がりを、明美がまず一人で通り抜《ぬ》けた。後の二人は、まだ見えないままだ。  「——出て来たな!」  と声がした。  さっき明美を襲《おそ》った三人が、明美の前に立ちはだかったのである。  明美が後ずさると、  「痛《いた》い目に合わせてやらあ!」  と、一人がナイフを振《ふ》りかざした。  「待て!」  と、飛び出して来たのは津村だった。「明美さん! 逃《に》げなさい!」  「何だ、この野《や》郎《ろう》!」  狭《せま》い道だった。ナイフが空《くう》を切る。その切っ先をよけるには、あまりに狭《せま》過《す》ぎた。  「アッ!」  と、津村が声を上げた。  「津村君!」  塚原が駆《か》け寄《よ》る。  二人も男がいると分って、三人組の方もひるんだようだった。  「おい、引き上げろ!」  と声がして、三人はドタドタ足音をたてながら逃げて行った。  「——しつこい連中!」  明美もさすがに胸を押《おさ》えて息をついた。「津村さん! 大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》?」  津村は、右《みぎ》腕《うで》に切りつけられたらしく、道にうずくまって、必死で歯を食いしばっている。  「——こりゃ、かなりひどい」  と、塚原が青くなった。「病院だ、救急車だ」  「待って、浦田さんの部屋から一一九番する」  明美は、もう鍵《かぎ》を手にしながら、駆《か》け出《だ》していた。  「——津村君」  塚原は、津村の傷《きず》口《ぐち》にハンカチを押《お》し当てながら、言った。「悪いことをしたな。娘《むすめ》のためにこんな……」  「いいんですよ……」  津村は、ちょっと無理に笑《わら》って見せた。「これで、何日かは会社をさぼれる……」  「そうだな」  塚原は、泣《な》きたくなって来た。    「主人の具合は?」  やって来るなり、津村華子はそう言った。  病院の中は、静かだった。とっくに眠《ねむ》りについているのである。  時《とき》折《おり》、トイレに行く入院患《かん》者《じや》が、珍《めずら》しそうな顔で、塚原や明美を眺《なが》めて行く。  華子へ電話で知らせて、三十分ほどたっていた。あわてて駆けつけて来たとも見えない。  「いや、命にかかわるようなけがじゃないんですよ」  塚原は、まず安心させようとして、そう言った。  「本当に困《こま》ったもんだわ。どうせ酔《よ》ってケンカでもしたんでしょう」  華子は、心配しているというより、こんな時間に呼《よ》び出されて腹《はら》を立てている様子だった。  「いや、とんでもない」  と、塚原はあわてて言った。「ご主人は、うちの娘《むすめ》を救って下さったんですよ」  「そうですか」  華子は、さして感《かん》銘《めい》を受けたようにも見えなかった。「変に正《せい》義《ぎ》漢《かん》ぶるからいけないんだわ」  明美がたまりかねて、口を出した。  「そんなことおっしゃっては、津村さん、お気《き》の毒《どく》ですわ」  華子は明美を見た。  「塚原さんのお嬢《じよう》さんですわね」  「ええ」  「腕《うで》にけがをするより、ずっと深い傷《きず》を私《わたし》は受けてるんですから」  「——どういう意味ですの?」  「夫《おつと》が泥《どろ》棒《ぼう》だという傷です」  塚原が愕《がく》然《ぜん》とした。  「なぜそれを——」  「教えてくれた親切な人がいましてね」  と、華子は平然と言った。  「誰《だれ》です?」  「誰だっていいでしょ」  と華子は言い返した。「ともかく、あなた方、ご自分で考えてらっしゃるほど、頭がいいわけじゃないんですよ」  明美は、少し考えてから、言った。  「——つまり、父たちの犯《はん》行《こう》だと分ってるってことですね?」  「あなたも聞いたの? ええ、その通り」  塚原は青ざめた。——手《て》錠《じよう》、留《りゆう》置《ち》場《じよう》、刑《けい》務《む》所《しよ》……。  もう啓子も二度と戻《もど》るまい。明美とも会えなくなる……。  「そんなに震《ふる》えることありませんわ」  と、華子はおかしそうに言った。「あちらは警《けい》察《さつ》へ届《とど》け出る気はないようですから。でも、口止めにはお金がいるわ。あなたの手に入れたお金の半分、いただきたい、と言ってますの」  「半分……」  塚原には、やっと分った。「そうか! 久野の奴《やつ》だな」  「名前なんか、どうでもよろしいでしょ」  と、華子は言った。「あなたの分を半分。それから——浦田さんって方も仲《なか》間《ま》なんでしょ? その人も半分。大まけにまけてのことだ、と言ってましたわ」  「待って下さい」  と明美が言った。「あなたはその内、どれだけもらうことになってるんですか?」  華子は明美をちょっと小《こ》馬《ば》鹿《か》にしたように見て、  「そんなの、あなたの知ったことじゃないでしょ」  と言った。  「私《わたし》、ご主人の代りにお訊《き》きしてるんです」  明美はひるまない。  「主人の代り?」  「津村さんが泥《どろ》棒《ぼう》なら、あなたはその泥棒から盗《ぬす》む泥棒だわ。しかも人を助けてけがをしている泥棒から盗むなんて、卑《ひ》劣《れつ》だと思わないんですか」  華子が表《ひよう》情《じよう》をこわばらせた。  「大きなお世話だわ」  「いいえ、そんなことありません」  と明美はきり返した。「人間なんて弱いものです。間《ま》違《ちが》いだって年中やります。今、津村さんも父も、それを後《こう》悔《かい》してるかもしれません。それを笑《わら》って見ているのが奥《おく》さんのすることですか」  「あなたみたいな子《こ》供《ども》に、何が分るのよ」  華子の声が少し震《ふる》えた。  「待ちなさい」  と塚原が間に入った。「僕《ぼく》らのやったことは、確《たし》かにいいことじゃなかったかもしれない。しかし、奥《おく》さん、どうして久野の奴《やつ》なんかと——」  「放っといて!」  そう叫《さけ》ぶように言うなり、華子は、駆《か》け出して行ってしまった。  静かな病《びよう》棟《とう》の中に、彼女《かのじよ》の足音が遠ざかって行った。  「——あの人、や《ヽ》け《ヽ》になってる」  と、明美が言った。  「うん、そうらしいな」  塚原が肯《うなず》いた。「明日になったら、ゆっくり話してみよう」  二人は、廊《ろう》下《か》の長《なが》椅《い》子《す》に並《なら》んで腰《こし》をおろした。  「——お父さん」  「何だ?」  「どうなると思う?」  「うん……、社長秘《ひ》書《しよ》の久野に知られたとなると……。しかし、金を半分よこせとは、妙《みよう》なことを言って来るもんだ」  塚原は首をひねった。  「分ってるのに、社長さんには黙《だま》ってるのかしら?」  「そうらしいな。——何を考えているのか分らん」  塚原は、何となく不安だった。何かが起りそうだ。何かとんでもないことが……。 破《は》局《きよく》の朝  「久野ですって?」  津村はベッドから体を起こした。  「だめだよ、動いちゃ!」  塚原は、あわてて言った。  「久野の奴《やつ》が、華子と?——畜《ちく》生《しよう》!」  津村の方は、話を聞いて、すっかり興《こう》奮《ふん》している。  「寝《ね》てなきゃだめだよ。傷《きず》口《ぐち》が開いちまうじゃないか」  塚原の言葉など、まるで津村の耳には入らないようだ。  「畜《ちく》生《しよう》! 殺してやる! 久野の奴、このままじゃおくもんか……」  津村は、熱に浮《う》かされたように震《ふる》える声で呟《つぶや》いている。  「——ともかく、静かにして。寝てなきゃだめだよ。さあ!」  塚原は必死でなだめている。  ——明美は、そんな二人の様子を、ドアの隙《すき》間《ま》から覗《のぞ》いていたが、やがて、そっとドアを閉じた。  やがて朝になる。  病院の朝は早い。そろそろ、看《かん》護《ご》婦《ふ》たちが忙《いそが》しく動き回り始めていた。  「お父さんったら……」  明美はそう呟《つぶや》いて、首を振《ふ》った。  まるで分ってないんだから。何も、こんなときに、津村さんに話さなくたっていいのに。  気が回らない、というのか、よく言えば正直で、隠《かく》しておけないのだ。  これで津村さんが熱でも出さなきゃいいんだけど……。  ドアが開いて、塚原が廊《ろう》下《か》へ出て来た。  「やれやれ」  と、額《ひたい》の汗《あせ》を拭《ぬぐ》って、「もっと落ちついてから話してやるんだったな」  分ったときは遅《おそ》すぎる。お父さんは、いつもそうなんだ。——明美は、しかし、それを口に出しては言わなかった。  「お父さん、これからどうするの?」  と、明美が訊《き》く。  「うん……。千代子とは手を切って、母さんに謝《あやま》って、許《ゆる》してもらうしかない」  「そんなこと訊いてんじゃないわよ。今日、これからのことよ」  「あ、そうか。——どうしよう?」  頼《たよ》りない二億《おく》円《えん》泥《どろ》棒《ぼう》である。  「お父さん、津村さんのそばについててあげた方がいいわ。私《わたし》、お母さんが戻《もど》ってるかもしれないから、一《いつ》旦《たん》家へ帰る」  「そうしてくれ。学校はどうする?」  「一日ぐらい、どうってことないわよ」  明美は、父親の肩《かた》をポンと叩《たた》いて、「お父さんも元気出して。この世の終りってわけじゃないわ」  これじゃどっちが親だか分らない。  塚原は、複《ふく》雑《ざつ》な微《び》笑《しよう》を浮《う》かべて、肯《うなず》いて見せた……。  明美は、病院を出ると、大分明るくなって来た空を見上げた。  少し、空気がひんやりと冷たい。——まだバスなんか走っていない時間だ。タクシーでも拾って行こう。ちゃんと、父からタクシー代ももらって来てある。  病院の門を出て歩き出した明美は、少し行った所で、足を止めた。  病院の塀《へい》にもたれて、じっとうつ向いて立っているのは——津村華子ではないか。  明美が歩いて行くと、足音に気付いたのか、華子は顔を上げた。  「——あなたなの」  と、華子は言った。  その声にも、眼《まな》差《ざ》しにも、と《ヽ》げ《ヽ》はなかった。明美は、足を止めて、  「中でお待ちになればいいのに」  と、言った。  「あんなこと言った後じゃね……」  華子は、ちょっと肩《かた》をすくめた。  「そんなこと……。津村さんが喜びますよ。行ってあげて下さい」  華子は、ちょっと笑《え》顔《がお》になって、  「あなたって、不《ふ》思《し》議《ぎ》な子ね」  と言った。  「気にさわったらすみません。生《なま》意《い》気《き》なんです、この年《とし》頃《ごろ》は」  「いいえ、そんなことないわよ」  と、華子は首を振《ふ》った。「あなたの言葉、胸《むね》に痛《いた》かったわ」  明美は、黙《だま》って、微《ほほ》笑《え》んだ。華子は、大きく息をついて、  「——あの人、具合はどう?」  と訊《き》いた。  「そんなにひどい傷《きず》ってわけじゃないんですもの。奥《おく》さんが行かれれば、安心すると思います」  「そうねえ……。でも却《かえ》って悪くするかもよ。久野とのことも知ってるんでしょう?」  「父が話したみたいです。でも——」  「無理に、だったのよ、最初はね」  と、華子は言った。「でも、二度、三度と重なる内に、どうでも良くなって来て……。その内、主人だって私《わたし》に嘘《うそ》ついてたんだから、って言い訳《わけ》を捜《さが》して……」  明美は、ちょっと言いにくそうに、  「あの……私、まだそういうこと、分らないんですけど」  と言った。  分らないわけではない。頭では理《り》解《かい》できる。でも、今、自分が聞くべき話じゃない、と思ったのだ。  「ごめんなさい」  華子は、ちょっと笑《わら》って、「つい、あなたのこと、大人《おとな》扱《あつか》いしちゃって」  「嬉《うれ》しいんですけど。でも、何しろ口が軽いですから、私」  明美は真《ま》面《じ》目《め》な顔で言った。  「じゃ、私、主人の所へ行ってみるわ」  と、華子が言った。  「ええ、そうしてあげて下さい」  明美はホッとした。「父がついてると思いますけど——」  そのとき、タタッ、と駆《か》けて来る足音があった。振《ふ》り向くと、明美は目を丸くした。  「お父さん! どうしたの?」  塚原が、あわてふためいた様子で、走って来る。  「おい! 津村が来なかったか!」  「津村さん?」  「主人がどうしたんですか?」  と、華子が進み出た。  「あ、ここにいたんですか。いや——津村君、姿《すがた》が見えなくなっちまったんだ」  「お父さん、ついていなかったの?」  「ちょっとトイレに行ってる間に、いなくなったんだ。今、看《かん》護《ご》婦《ふ》に捜《さが》してもらってる」  塚原は息を弾《はず》ませて、「参ったな! 服もなくなってるんだ。病院から出て行ったらしい」  「でも、どこへ行ったんでしょう?」  華子の言葉に、明美がハッとした。  「もしかしたら——」  「え?」  「久野って人のことを、殺してやる、って口走ってたけど……」  「そんな!——大変だわ! どうしましょう」  華子は青ざめた。  「いくら何でも、そんな無茶はしないと思うが……」  塚原は、ため息をついた。「やれやれ。俺《おれ》が余計なことをしゃべらなきゃ良かったんだ!」  「今さら、そんなこと言っても仕方ないわ」  明美は、ちょっと考えて、「久野って人の家を、津村さん、知ってるのかしら?」  「自《じ》宅《たく》までは知るまい」  「じゃ、出社のときが危《あぶな》いわね。お父さん、会社へ行って、津村さんが来ないかどうか、見てなさいよ。奥《おく》さんはお家へ帰られた方がいいわ。津村さん、戻《もど》ってるかもしれない」  明美が指《し》揮《き》官《かん》みたいになってしまった。  「よし、分った」  塚原は肯《うなず》いた。  ——頼《たの》むぞ。馬《ば》鹿《か》な真《ま》似《ね》はしないでくれよ!    早朝の空気は、爽《さわ》やかさで京子の胸《むね》を満たした。  広い窓《まど》を開けて一《いつ》杯《ぱい》に朝の大気を吸《す》い込《こ》む。——緑の香《かお》りが快《こころよ》く京子を取りまいた。  浴《ゆか》衣《た》姿《すがた》では少し肌《はだ》寒《ざむ》いくらいの気温だが、その冷たさが、却《かえ》って快かった。  京子は、部屋の中を振《ふ》り返った。  浅倉は、まだ眠《ねむ》っている。満ち足りた眠り。  ——それは京子にとっても同じだった。  京子は、後《こう》悔《かい》してはいなかった。  もちろん、浅倉には妻《つま》があり、子《こ》供《ども》もいる。妻と別れてまで、京子と一《いつ》緒《しよ》になる気はあるまい。  それを承《しよう》知《ち》の上での一夜だったのだ。  こんなに物静かな、落ちついた気持になったのは、初めてのことだ、と京子は思った。  もちろん、今までだって、自分を不幸だと思っていたわけではない。しかし、いつも一人であり、その孤《こ》独《どく》に、じっと堪《た》えるよう、自分を訓《くん》練《れん》して来なくてはならなかったのだ。  今、京子は一人ではなかった。いや、少なくともこの一夜、一人ではなかったのだ。  「——戻《もど》らなくちゃ」  と、京子は呟《つぶや》いた。  アパートへ戻るのではなく、一人きりの生活に戻る、という意味である。  浅倉との間は、これきりで終らせなくてはならない。  京子はそう決心していた。  「——おはよう」  浅倉が、目を開いていた。  「おはようございます」  と、京子は言った。「起こしてしまったみたいですね」  「いや、自然に覚《さ》めただけさ」  浅倉は、笑《え》顔《がお》で言って、布《ふ》団《とん》に起き上った。  「もっと、おやすみになっていても構《かま》いませんわ。まだ、やっと夜が明けるところですもの……」  浅倉は、布団から出て、京子の方へやって来た。そして、一《いつ》緒《しよ》に、朝もやの漂《ただよ》う庭を眺《なが》めながら、京子の肩《かた》を抱《だ》いた。  「こんなすばらしい朝は初めてだ」  と、浅倉は言った。  「ええ」  浅倉は、京子の方を見て、言った。  「ゆうべは……僕《ぼく》は心から満足した。あなたは?」  「私《わたし》もです」  と京子が答えると、浅倉はホッとしたように、  「良かった。——もうこれきりだと言われるんじゃないかと思って、ハラハラしてたんだ」  「これきりです」  京子の言葉に、浅倉は戸《と》惑《まど》った様子で、  「でも——」  「一度なら、いい思い出になります。二度になれば、三度、四度と続きますわ」  「僕は続けたい」  「いけません」  京子は、きっぱりと言った。「お互《たが》いに、人を傷《きず》つけない内に、やめるべきですわ」  浅倉は、少し間を置いてから、言った。  「——妻《つま》と別れる、と言ったら、あなたはついて来てくれるかな」  「いいえ」  京子は、首を振《ふ》った。  しばらく、二人は黙《だま》っていた。  京子は、せっかくのすばらしい思い出を、気まずい雰《ふん》囲《い》気《き》で終らせたくなかったので、極力明るく、  「さあ、約《やく》束《そく》ですよ。エミちゃんの所へ行かなくちゃ」  と言った。  「分った」  と、浅倉は、息をついて、「——無理に、とは言わない。でも、いつでも僕《ぼく》に会いたいと思ったら……」  「お気持は本当に嬉《うれ》しいですわ」  京子は微《ほほ》笑《え》んだ。  「あなたはいつも冷静なんだな」  「そんなことはありません。ただ——ちょっと先が見えてしまうだけなんです」  哀《かな》しいことだが、その通りなのだ。  我《われ》を忘《わす》れる、ということがない。それは、寂《さび》しいことだった。  二人は、順番に朝《あさ》風《ぶ》呂《ろ》を浴びて、仕《し》度《たく》をした。  ——旅館を出たのは、八時を少し回ったころだった。  「会社へは、今日帰国すると言ってあるから、あまり早くは行けないな」  車を運転しながら、浅倉は言った。  「ちゃんと奥《おく》様《さま》にも、連《れん》絡《らく》して下さいね」  「あいつは気にしませんよ。亭《てい》主《しゆ》がいつ帰って来ようが」  そうだろうか?——人は、見かけだけでは分らないものだ。  京子は、窓《まど》の外へ目をやって、  「——病院へ行きましょう」  と言った。  「そうします」  浅倉は肯《うなず》いた。  京子は、なぜかしら不安だった。——朝、目覚めたときは、あんなに平《へい》穏《おん》な気持でいられたのに、今は、理由の分らない不安に、捉《とら》えられていた。  そういえば、明美は一人でアパートにいたわけだ。何もなかっただろうか? もしかしたら、もう家へ帰ったかも……。  塚原や津村が、どんな騒《さわ》ぎに巻《ま》き込《こ》まれているか、もちろん京子は知るはずもなかった……。    病院へ入りながら、京子は、花《はな》束《たば》一つ用意して来なかったことに気付いた。  「先に行っていて下さい。私《わたし》お花を買って来ますから」  と、浅倉へ言った。  「わざわざそんな——」  「いえ、気が済《す》みませんから」  「分りました」  「すぐ行きます」  京子は、急いで病院の外へ出た。病院の近くには必ず花屋がある。  まだ開店前の花屋を、京子は無《む》理《り》に開けてもらって、花束を作ってもらった。  花束を手に、京子はエミの病室へと急いだ。  今日は会社を休んでもいい。後で、エミの喜びそうなものを、何か買って来よう。  いくらかは、浅倉を一《ひと》晩《ばん》、独《ひと》り占《じ》めにしたことへの、後ろめたさがあった。  京子は、病室のドアをそっと開けた。——エミと、浅倉が楽しげに話をしているはずのベッドの方へ……目を向けた。  ベ《ヽ》ッ《ヽ》ド《ヽ》は《ヽ》、空《ヽ》だ《ヽ》っ《ヽ》た《ヽ》。  京子は、しばし、そこに立ち尽《つ》くしていた。一《いつ》瞬《しゆん》、顔から血の気がひいた。——これが、さっきから自分を捉《とら》えていた不安の正体だったのか?  でも——まさか——。  そうだ。ベッドが空だといっても、ちょっと診《しん》察《さつ》があったのかもしれないし、トイレにでも行っているのかもしれない。  そんな、悪いことばかり考えちゃいけない!  「——エミちゃん?」  と、声をかけて来たのは、向い側のベッドの女《じよ》性《せい》だった。  「ええ……」  「ゆうべ、具合が悪くなったみたいでね、集中管理室だかへ入ってるわ」  京子は、一《いつ》瞬《しゆん》ふらつくほどのショックを受けた。  「どうも——」  無《む》意《い》識《しき》に礼を言って、花《はな》束《たば》を手にしたまま、病室を出る。  通りかかった看《かん》護《ご》婦《ふ》に場所を教えてもらい、京子は集中管理室へと急いだ。  浅倉がいた。医《い》師《し》と立ち話をしている。  京子は、駆《か》け寄《よ》りたいのをこらえて、じっと立って、待っていた。いや、話を聞くのが、怖《こわ》くもあったのだ。  話が終って、医師が立《た》ち去《さ》ると、浅倉は、長《なが》椅《い》子《す》に、ゆっくりと腰《こし》をおろした。  京子は、そっと近付いて行くと、  「浅倉さん……」  と、声をかけた。  浅倉は顔を上げた。目が光って見える。  「どうなんですの?」  と、京子は言った。  「意《い》識《しき》不《ふ》明《めい》だそうです」  浅倉の声は、少し震《ふる》えていた。「夕方までがや《ヽ》ま《ヽ》だと……」  京子は、知らない内に、花《はな》束《たば》を取り落としていた。  「いつ……そんな風に……」  「ゆうべの……二時ごろだそうです」  「夜中ですね」  京子は、長《なが》椅《い》子《す》に、並《なら》んで腰《こし》をおろした。  二人とも、口は開かなかったが、思いは同じはずだった。  ゆうべ、二人が愛を交わしていたとき、エミの容《よう》態《たい》は悪化していたのだ。  京子は、自分を呪《のろ》った。時計の針《はり》を戻《もど》したい、と思った……。  二人の秘《ひ》書《しよ》  こんなに早い時間に会社へ来たのは初めてだった。  塚原は、ビルの前でタクシーを降《お》りると、周囲を見回した。津村がどこかに立っているかもしれないと思ったのである。  しかし、津村だって、久野がやって来るのを待つのなら、どこかに身を隠《かく》しているだろう。少なくとも、その辺にボケッと突《つ》っ立《た》ってはいるまい。  塚原はビルの中へ入ろうとしたが、入口はまだシャッターが下りたままだ。  それも当然——まだやっと七時になったところである。  どうしようか? 塚原は迷《まよ》ったが、ともかく一《いち》応《おう》、時間外用の裏《うら》口《ぐち》の方へ回ってみることにした。  ビルの脇《わき》をぐるっと回って、裏へ出ると、ちょうど起き出して来たらしい警《けい》備《び》員《いん》が、表に出て、大《おお》欠伸《あくび》しているところだった。  「——何です?」  と、不《ふ》思《し》議《ぎ》そうに塚原を見る。  塚原も、もちろん顔は知っているが、あまり口をきいたことはない。  「いや——あの、ちょっと急ぎの用でね」  と、塚原は言った。  「まだ中には入れませんよ」  警備員は、ちょっといやな顔をした。  「うん、そりゃ分ってるんだけど……。誰《だれ》か来なかったかね?」  と、塚原は訊《き》いた。  「こんな時間に? 来るわけないでしょ」  「そう。それならいいんだけど……」  塚原は、それでもまだためらいながら、「本当に、誰《だれ》も来なかっただろうね?」  と、念を押《お》した。  「来ませんよ」  警《けい》備《び》員《いん》は渋《しぶ》い顔で、「疑《うたが》うんですか?」  「いや、そうじゃないよ。ただ——念のために——」  「今、ビルの中を一回りして来たところです。誰もいやしません」  「分った。分ったよ。いや、どうもありがとう」  塚原は、礼を言って引きさがった。  ともかく、津村はまだここに来ていないようだ。それさえ分ればいいわけである。  塚原は、またビルの正面に出ると、仕方なく、そこで津村がやって来るのを待つことにした。  もちろん、津村がここへ来なければ、それに越《こ》したことはない。しかし、他《ほか》に、どこへ行くだろうか?  塚原は、ため息をついた。——もうこれ以上、何も起ってほしくない。  もとはといえば、二億《おく》円《えん》を盗《ぬす》み出したのが始まりである。大金を手にしたとき、塚原には——おそらく津村もだろうが——どんなことでもできそうな気がした。  しかし、実《じつ》際《さい》には、何をやったのか? 塚原は、そう自分へ問いかけた。  俺《おれ》は、ただ浮《うわ》気《き》をして、女《によう》房《ぼう》に逃《に》げられただけだ、と塚原は思った。  どんな大金でも、啓子の怒《いか》りを消すことはできない。南千代子との浮気を、なかったことにはできないのである。  そもそもが、大金を手にして何をしたい、という気持もなかった。いわば、それは「腹《はら》いせ」だったのだ。  思い通りにならない世の中、決して住みやすいとは言えない世間への、仕返しだった……。  それがどうだ。今は俺の方が仕返しをされている。塚原は苦い思いをかみしめながら、シャッターのおりたままのビルの前に立っていた。  冷たく、暗く、シャッターを閉《と》ざして、入ることを拒《こば》んでいるビルは、まるで、塚原には「世の中」そのもののように見えた。  俺は結局、世の中をう《ヽ》ま《ヽ》く《ヽ》渡《わた》って行くことのできない人間なのだ。  それならそれなりに、幸せを手の届《とど》く所で捜《さが》しておけば良かった。いや——幸せは、啓子と明美との、平和な暮《くら》しの中にあった。  南千代子との浮気には、快《かい》楽《らく》はあっても平和はなかった。快楽には、いつか疲《つか》れてしまうときが来る……。  ——塚原が、沈《しず》んだ面《おも》持《も》ちで、ビルを見上げているとき、津村はどこにいたか?  実は、津村はもうビルの中へ、入《はい》り込《こ》んでいた。    「畜《ちく》生《しよう》……」  と、津村は呟《つぶや》いた。  切りつけられた右《みぎ》腕《うで》が痛《いた》んだ。——無理をして病院を出て来てしまったのを、少々後《こう》悔《かい》していた。  しかし、久野のことを考えると、また腹《はら》が立って来て、やはり、けりをつけなきゃ戻《もど》れない、という気になって来る。  津村は、社長室の中にいた。  入るのは難《むずか》しくなかった。半分寝《ね》ぼけた警《けい》備《び》員《いん》の後をついて、やすやすと入ってしまったのである。そして、社長室の中へ素《す》早《ばや》く身を隠《かく》した。  靴《くつ》だけ脱《ぬ》いで、手に持っていたので、足音は立てなかった。それで全然気付かれずに済《す》んだのである。  社長室の中を、津村は見回した。  もちろん、久野もここへ来るはずだ。秘《ひ》書《しよ》なのだし、一日の予定があるから、おそらく社長の脇《わき》元《もと》より先に姿《すがた》を見せるだろう。  もっとも、必ずそうと決ったものでもあるまい。用心に越《こ》したことはない。  津村は、腕の痛みをこらえながら、まず、何か、武《ぶ》器《き》を捜《さが》さなくてはならなかった。この腕では、久野を叩《たた》きのめしてやるというわけにはいかない。  脇元の机《つくえ》の引出しを開けると、中に、銀色に光るペーパーナイフがあった。  津村は、そのペーパーナイフを左手で取り上げた。  刃《は》はそう切れるようになっていないが、先《せん》端《たん》は充《じゆう》分《ぶん》に尖《とが》っていて、使えそうだ。  そうだ。殺さなくても——いや、殺したって構《かま》やしない。ともかく、体ごとぶつかれば、このナイフでも充《じゆう》分《ぶん》だろう。  津村は、ナイフを上《うわ》衣《ぎ》のポケットに入れると、さて、どこか姿《すがた》を隠《かく》している所はないかと見回した。  幸い、衝《つい》立《たて》がある。その向うは、小さな応《おう》接《せつ》セットが置いてあって、お茶ぐらい飲めるようになっていた。  あそこなら、充分に隠れていられる。津村は、衝立の向う側へ行って、ソファの後ろに座《すわ》り込《こ》んだ。  ちょっと窮《きゆう》屈《くつ》だが、我《が》慢《まん》できないというほどではない。  「よし」  津村は肯《うなず》いた。——まだ時間は大分早かったが、ともかく、ここで待っていれば必ず久野の奴《やつ》はやって来るのだ。  「華子……」  どうして久野の奴なんかと……。津村は胸《むな》苦《ぐる》しい思いで、妻《つま》の名を呟《つぶや》いてみた。  ——津村は、病院で塚原から、久野が華子の愛人だったと聞かされただけだったので、詳《くわ》しい事《じ》情《じよう》はもちろん知らない。  本当なら、華子と二人きりになって、ゆっくりと話したいが、しかし、ここまで来てしまった以上、もう逆《ぎやく》戻《もど》りはできないのだ。  ともかく、久野の奴《やつ》に、借りを返してやる。その後は、その後のことだ。  ——そんなことをしたら、警《けい》察《さつ》に捕《つか》まるとか、捕まれば、動機の追《つい》及《きゆう》から、例の二億《おく》円《えん》の件《けん》も、しゃべらざるを得《え》なくなるということまで、津村は考えていなかった。  ただ、目《もつ》下《か》のところは、妻《つま》を奪《うば》われたという怒《いか》りだけが、津村の頭を一《いつ》杯《ぱい》にしていたのである。  時間のたつのが、いやに遅《おく》く感じられてならない。  右《みぎ》腕《うで》の痛《いた》みは、波が寄《よ》せては引くように、ズキズキと痛んでは、穏《おだ》やかになって、それをくり返した。  早く来い。——早く来いよ。  津村は、左手で、ポケットの中のナイフを何度も確《たし》かめた……。    「本当に人《ひと》騒《さわ》がせなんだから」  と、明美は言った。  「心配かけて悪かったわ」  と言ったのは、母親、啓子である。  家へ戻《もど》ってみた明美は、母が、いとも安らかに布《ふ》団《とん》に入って眠っているのを見付けて、ホッとすると同時に、拍《ひよう》子《し》抜《ぬ》けでもあったのだった。  呆《あき》れて見ていると啓子も目を覚《さ》まして、  「あら、明美、ずいぶん早起きね」  などと言ったのだった。  朝になった。  いつも、明美の起きる時間。——もちろん、ゆうべずっと寝《ね》ずに起きていたので、この時間になって、明美は眠くなって来た。  「——少し寝たら?」  と、啓子が言った。  「うん。でも……」  明美は欠伸《あくび》をした。  「ほら、ごらん。寝た方がいいわよ」  言われるまでもなく、明美だって眠いのである。しかし、何かが起りそうだという予《ヽ》感《ヽ》が、明美にはあった。  「津村さんのけが、大したことないといいわねえ」  啓子は、お茶を淹《い》れながら言った。  明美としては、母にどこまで本当のことを話すべきか、迷《まよ》ったのだが、夫《おつと》の浮《うわ》気《き》だけでもいい加《か》減《げん》ショックを受けているはずだ。  この上、夫《おつと》が泥《どろ》棒《ぼう》と知ったら、どうなるか見当がつかなかったので、一《いち》応《おう》、その件《けん》は伏《ふ》せておいて、津村がけがをしたこと、そして塚原がそれに付き添《そ》っているのだと説明したのである。  ここまで気をつかう娘《むすめ》なんているかしら、と明美は自分のことに感心していた。  「お母さん」  「なあに?」  「——どうして戻《もど》って来たの?」  啓子はちょっと微《ほほ》笑《え》んで、  「戻っちゃ悪かった?」  「そうじゃないよ」  明美も笑《わら》って、「でも、あんまり早く戻って来ちゃ、お父さんをこらしめることになんないじゃない」  「そうだけどね——」  と、啓子はお茶を一口飲んで、「どこへ行こうかって考えたら……どこもないのよ、行く所なんて」  「そう?」  「そりゃ、結《けつ》婚《こん》二、三年目っていうんなら、実家へ帰るってのもいいけど、もう、子《こ》供《ども》が十六にもなって、そんなわけにもいかないわ」  「そんなもんかな」  「お友達の所とか、色々考えたけどね、あの人の所は親と同居だからだめ、この人は子供三人と2DKだから、とても無《む》理《り》——とか考えて行くと、結局、帰って来るしかなかったのよ」  「ふーん」  と、明美は肯《うなず》いた。  「もちろん、お父さんの浮《うわ》気《き》を、これで忘《わす》れる、ってわけじゃないわよ。ともかく、差し当りはあの女の子と別れてもらわないと」  「お父さん、きっと、そういう話、持ち出すの苦《にが》手《て》よ」  「でも、私《わたし》が代りに、ってわけにいかないでしょ。あの女の人のためにも、お父さんが自分できちんとけじめをつけてくれなきゃ」  と、啓子は言った。  「お父さんと離《り》婚《こん》しようとか、考えなかったの?」  明美が訊《き》くと、啓子は、ちょっと首をかしげて、  「そうねえ……。考えなかったわ。ともかく、腹《はら》が立って、混《こん》乱《らん》して……。このままこの人の顔を見てたら、何を言い出すか分らない、って気がしたから、出て行ったのよ」  「やっぱり、生活のこと考えたの?」  「お金のこと、って意味? そうじゃないわね」  「じゃ、どうして……」  「何て言えばいいのかしら」  啓子は、目をちょっと宙《ちゆう》へ向けて、「浮《うわ》気《き》はもちろん腹が立つけど——でも、自分だって、どうだろう、って思うとね」  「お母さんが?」  明美は目を丸くした。「浮《うわ》気《き》したことあるの?」  「ないわよ」  と、啓子は苦《く》笑《しよう》した。「でも、それは、たまたま私《わたし》があまり外へ出ない生活をしていて、機会がなかっただけなのかもしれない、と思うのよ。もし、どこかで、若《わか》くて、ハンサムで優《やさ》しい男《だん》性《せい》に言《い》い寄《よ》られたら、絶《ぜつ》対《たい》に退《しりぞ》けるって言い切れるかしら、と考えたら……自信ないのよね」  「へえ」  明美にとっても、これは意外な話である。  「だから——お父さんが会社の女の子と、ついフラッとああなっちゃったとしても——本当にね可愛《かわい》い子なのよ——まあ、無《む》理《り》ないなって気もするわけ」  「理《り》解《かい》あるんだ」  「そうじゃないわ。やっぱり怒《おこ》ってるわよ。でも——お父さんが、きちんとけじめをつけて、謝《あやま》ってくれたら、許《ゆる》せると思うの」  明美は、母の、意外な心の広さに感心した。  一《いつ》向《こう》に外へ出ない、「万年少女」かと思っていたが、やはり「年《とし》の功《こう》」というのか、人間も練れて来たんだな、と思う。  「——明美はどうなの?」  「私《わたし》? 私は——どうだっていいわ」  「どうだっていい、ってことはないでしょう」  「うん……。そりゃまあ、家の中は平和な方がいいよ」  「お父さんも、今度のことで、大分こりたでしょ」  大分どころか、骨《ほね》身《み》にしみてるはずだわと、明美は思った。  「一つ心配なのはね」  と、啓子が言った。「あの南千代子って人のこと。かなり思い詰《つ》めてたみたい」  「お父さんのことを思い詰めるなんて、よっぽど、他《ほか》に詰める物がなかったのね」  「引《ひつ》越《こ》し荷物じゃないのよ」  「大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》よ。若《わか》い人は、少しすりゃ、ケロッと忘《わす》れる」  明美はあたかも経《けい》験《けん》者《しや》の如《ごと》き口調で、言った。    社長室のドアが、開いた。  津村は、ハッとして、顔を上げた。  つい、いつしかまどろんでいたらしい。右《みぎ》腕《うで》の痛《いた》みが、少しやわらいでいたせいもあろう。  ドアが開く音で、目を開いた。誰《だれ》かが入って来たのだ。  久野か?  津村は左のポケットへ手を入れた。ナイフの柄《え》を握《にぎ》る。  顔を出して確《たし》かめるのが難《むずか》しいので、少し様子をうかがうしかなかった。  脇《わき》元《もと》の机《つくえ》の上を、いじっている。やはり久野だろうか?  津村は、そろそろと体を起こし、ナイフを左手にして、飛び出して行く体勢を整えた。  電話が鳴り出した。——うまいぞ。久野かどうか、確かめられる。  「——はい。——おはようございます」  津村は、その声に眉《まゆ》を寄《よ》せた。  久野の声ではない! 誰だろう?  もっと若《わか》い声のように、津村には聞こえた。  「——はい、承《しよう》知《ち》しております」  と、その若い声は言った。  やはり脇元の秘《ひ》書《しよ》らしい。しかし、津村にはまるで心当りがなかった。  「久野さんの件《けん》は、今日中に調べがつくと思います」  と、その声が言った。  「——はい、もちろん、行動を起す前に、ご報《ほう》告《こく》申《もう》し上《あ》げますので」  久野の件? 調べ? 何のことだろう。  しかし、ともかく、この男が久野でないことは確《たし》かだ。あわてて飛び出さなくて良かった。  少しホッとしたときだった。  「おい」  突《とつ》然《ぜん》、もう一つの声が、入口の方でした。それは久野の声だった!  「——おはようございます」  と、若《わか》い方が、あまりあわてた様子もなく言った。  「おはよう」  久野はゆっくりと歩いて来た。「ここで何をしてる?」  「社長の本日のご予定を——」  「それは俺《おれ》の仕事だ」  「ですが、言いつかっていますので」  「俺の仕事だ」  「僕《ぼく》の仕事です」  ——しばし沈《ちん》黙《もく》があった。  「今、『調べがつく』とか言ってたな」  と、久野が言った。「何のことかな」  「さあ、存《ぞん》じません」  「隠《かく》すな!」  突《とつ》然《ぜん》、久野が甲《かん》高《だか》い声を上げて、若《わか》い男へつかみかかったようだった。 何かが……  何かが倒《たお》れる音がした。  「何するんだ!」  若い男が苦しげな声を上げる。  「言え! 一体何を調べてたんだ!——こいつ!」  久野は上ずった声を上げて、若い男を押《お》さえつけているらしかった。  津村は、思いもかけない出来事に呆《ぼう》然《ぜん》としていた。これでは、隠《かく》れている所から、出て行くわけにもいかない。  「言え! こいつ、言うんだ!」  久野が、我《われ》を忘《わす》れて、怒《いか》り狂《くる》っているのを、津村は、複《ふく》雑《ざつ》な思いで、聞いていた。  いつも冷静沈《ちん》着《ちやく》な人間が取《と》り乱《みだ》しているさまは、はた目には哀《あわ》れなものである。  「苦しい……。言うから……離《はな》して……」  若い男が、ついに音《ね》を上げた。  「最初からおとなしくしゃべってりゃいいんだ!」  久野の方も、息を弾《はず》ませている。  「何も……こんな乱《らん》暴《ぼう》すること……ないでしょう!」  「うるさい! 貴《き》様《さま》なんかに何が分る!」  久野は、怒《いか》りに声を震《ふる》わせている。「俺《おれ》は社長のために一日二十四時間、全部を捧《ささ》げて来たんだぞ。貴様にそんな真《ま》似《ね》ができるのか!」  少し、間があった。——若《わか》い男が言った。  「言われてたんですよ。社長から、あなたのことを調べさせろ、と……」  「俺の、何を調べるんだ?」  「つまり——お金が盗《ぬす》まれたでしょう、ここから」  「それが?」  「その手引きをしたのが——あなただと思われてたんですよ、社長は」  この言葉には、久野も言葉が出て来ないようだったが、津村の方もびっくりした。  まさか脇《わき》元《もと》がそんなことを考えているとは……。  しかし、考えてみれば、久野がもし仲《なか》間《ま》だとしたら、現金が、いつ、どこに運ばれるかも分るわけだし、盗むのも簡《かん》単《たん》である。  あの二億《おく》円《えん》が、あまりにやすやすと盗まれてしまったことで、脇元が久野のことを疑《うたが》ったのも、分るような気がした。  「俺が……。俺が盗んだって?」  久野の声はかすれていた。  「調べたら、あなたは津村華子とも関係があったし、こいつは怪《あや》しいってわけで……」  「怪しい。——俺《おれ》が、か」  「だから、あなたのマンションを調べさせるように手配してたんです。ちょっと——その——泥《どろ》棒《ぼう》のプロを使って忍《しの》び込《こ》ませて……」  しばらく、沈《ちん》黙《もく》があった。  何をしてるんだろう? 津村が、いささか不安になったとき、久野の声が——笑《わら》い声が聞こえて来た。  津村は、一《いつ》瞬《しゆん》ゾッとした。  久野の笑い声は、どことなく、凄《ヽ》味《ヽ》すら感じさせるほどの、暗さを湛《たた》えていた。泣《な》いているような笑い声だった。  笑い声が途《と》切《ぎ》れると、久野は、ごく当り前の口調に戻《もど》って、言った。  「お前はいくつだ?」  「二十九です」  と、若《わか》い男が答える。  「二十九か……。若いな」  久野は、呟《つぶや》くように言うと、「もう行っていいぜ」  と、軽い口調になった。  「しかし——」  「社長が来たら、話があるんだ。お前は消えてろ。——早く行けよ」  首をしめられそうになったせいか、若い男の方は、それ以上ためらうこともなく、社長室を出て行った。  津村は、どうしたものか、ためらっていた。妻《つま》を奪《うば》った久野に仕返しをするつもりで、待ち伏《ぶ》せしていたわけだが、あの騒《さわ》ぎを目の前にしてしまうと、何だか——急に頭が冷えて来るような、激《はげ》しい怒《いか》りが鎮《しず》まって来るような気がしたのだ。  津村は、傷《きず》の痛《いた》みを刺《し》激《げき》しないように、そろそろと立ち上ると、ゆっくり、衝《つい》立《たて》の陰《かげ》から出て行った。  久野は、社長の椅《い》子《す》に、腰《こし》を下ろしていた。机《つくえ》に肘《ひじ》をつき、両手で顔を覆《おお》っている。——何だか、ひどく疲《つか》れて、打ちのめされているように見えた。  人の気配を感じたのか、久野が、顔を上げて、津村を見た。  「あんたか」  と、ちょっと意外そうに言った。「何してるんだ?」  津村は、黙《だま》っていた。久野は、肯《うなず》いて、  「今の話を聞いたね。——そうか、奥《おく》さんのことを知ってて、ここへ来たのか」  「華子とは……」  「そう何度も、ってわけじゃないよ」  久野は、肩《かた》をすくめた。「人間は、一度や二度は悪い夢《ゆめ》を見るもんさ。そうじゃないか?」  津村は、何とも言えなかった。——不《ふ》思《し》議《ぎ》に、華子への、そして久野への怒《いか》りもまた消えて行ったのである。  「皮肉なもんだ」  久野は、唇《くちびる》を歪《ゆが》めるようにして、笑った。「聞いたろう? 脇元は、俺《おれ》を疑《うたが》ってた。俺を。こんなに尽《つ》くして来た俺を!」  久野は、ゆっくりと息をついた。  「なあ、津村、あんたは幸せだ。——そりゃあ、社長にはなれないかもしれない。部長にも。もしかしたら課長にだって、なれないかもしれないな」  そして、ふっと笑《わら》って、「塚原さんだって、あの年齢《とし》で係長。——いいとこ、課長止りだろう。だけど、あんたたちは、自分の人生を、まるごと会社へ捧《ささ》げてるわけじゃない」  久野は津村を見てはいなかった。  視《し》線《せん》は宙《ちゆう》を見て、ずっと遠くを見つめているようだった。  「あんたたちには、帰って休息できる家庭がある。休日ともなれば、仕事のことを忘《わす》れて、家族と過《すご》す楽しみもある。——俺には何もなかった。ただ、脇元に捧げる二十四時間だったんだ」  久野の言葉は、淡《たん》々《たん》として、少しも恨《うら》みがましくなかった。それが、却《かえ》って、津村の心を打つようだった。  「あんたたちは、どうして金を盗《と》ったりしたんだ? 金がなくたって、あんたたちは充《じゆう》分《ぶん》に幸せじゃないか。俺《おれ》に比べれば——何もかも犠《ぎ》牲《せい》にして尽《つ》くして来た相手に、泥《どろ》棒《ぼう》扱《あつか》いされるような、馬《ば》鹿《か》な人間に比《くら》べりゃ、幸せじゃないか」  津村は、何とも答えなかった。久野の口から、そんな言葉を聞こうとは思わなかった。  「何もかも終りだ」  久野は、社長室の中を見回した。「あの若《わか》僧《ぞう》が、俺の後《あと》釜《がま》になると知ったとき、俺は腹《はら》が立ったよ。金を盗《ぬす》まれたのは、確《たし》かに俺の落《おち》度《ど》だが、それだけでお払《はら》い箱《ばこ》とはひどいじゃないか、と思ったんだ。しかし……まさか俺が疑《うたが》われてたとはね」  久野は、ゆっくりと首を振《ふ》った。  「俺は、先を読むことにかけちゃ自信があった。その才《さい》能《のう》で生きて来たんだ。その俺が——脇元の考えだけは見《み》抜《ぬ》けなかった。お笑《わら》いだよ、全く。今度ばかりは、自分の間《ま》抜《ぬ》けさ加《か》減《げん》に腹が立ったよ」  津村は、ポケットから、ペーパーナイフを取り出すと、机《つくえ》の上に置いた。  「あんたを刺《さ》す気だったんだ」  「そうか。——やめるのか?」  「うん」  「それがいい。あんたが刑《けい》務《む》所《しよ》へ入ったら、奥《おく》さんが嘆《なげ》くぜ」  津村は、ちょっとためらってから、  「あんたはどうするんだ」  と訊《き》いた。  「脇元と話し合うよ。穏《おだ》やかにな」  久野は、ニヤリと笑《わら》って付け加えた。「あんたたちのことは言わない。心配するなよ。もう俺《おれ》は、脇元に何の義《ぎ》理《り》もないんだからな」  津村は、腕《うで》の傷《きず》の痛《いた》みに、ちょっと顔をしかめながら、歩き出した。  社長室を出るとき、ちょっと振《ふ》り向《む》くと、久野が、津村の持っていたペーパーナイフを両手で弄《もてあそ》んでいた……。  ——津村がビルを出ると、塚原が駆《か》け寄《よ》って来た。  「津村君! 君、中にいたのか?」  「ええ。塚原さんは——」  「君がここへ来るかと思って、見《み》張《は》ってたんだ。君、まさか久野を——」  と、塚原は言葉を切った。  津村が首を振ると、塚原はホッと胸《むね》を撫《な》でおろした。    病院の前で、タクシーが停《とま》ると、待っていた華子は、急いで駆《か》け寄《よ》った。  塚原に伴《ともな》われて、津村が降《お》りて来る。  「あなた!」  華子は、夫《おつと》の二、三歩手前で、足を止めた。  それ以上、近づくには、後ろめたさがあったのだ。塚原からの電話で、先に病院へ来て待っていたのだが……。  「やあ」  津村は、いつもの笑《え》顔《がお》を見せた。  「けがは……大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》?」  「ああ。何ともない——ことはないな。やっぱり痛《いた》いよ」  「早く中へ」  と、塚原が促《うなが》す。  「塚原さん、すみませんでした」  華子は頭を下げた。「後は私《わたし》がみます。本当に……」  いくら鈍《にぶ》い塚原でも、ここは自分がいない方がいいと思った。  「じゃあ、奥《おく》さん、よろしくお願いしますよ。僕《ぼく》はこのままタクシーで家へ一《いつ》旦《たん》帰りますから」  「塚原さん。色々すみませんでした」  と、津村が言った。  塚原は、津村の肩《かた》を軽く叩《たた》いて、そのままタクシーに乗《の》り込《こ》んだ。  「——さあ、行きましょう」  と、華子は、夫《おつと》を抱《だ》きかかえるようにして歩き出した。  「おい、大丈夫だ。一人で歩けるよ」  「でも……」  「心配かけて悪かったな。病院を脱《ぬ》け出したりして」  「あなた。私《わたし》——」  「もう忘《わす》れよう。そもそも、金を盗《ぬす》んだりした僕《ぼく》が悪いんだ」  津村の言葉に、華子は涙《なみだ》がこらえられなくなって、  「あなた!」  と叫《さけ》ぶなり、力一《いつ》杯《ぱい》抱《だ》きついた。  「い——痛《いた》い! 痛いよ、おい!」  津村が悲鳴を上げた。  そして、二人の泣《な》き笑《わら》いの顔が、病院の中へ消えて行った。    塚原は、ぐったりと疲《つか》れていた。  ゆうべからの事《じ》件《けん》続きで、眠《ねむ》っていなかったことも、あるかもしれない。しかし、それだけではなかった。  津村の方は、たぶんうまく行くだろう。久野との話も、聞いた。二億《おく》円《えん》のことがこれからどうなるか、塚原としても見当がつかない。  少なくとも、久野は、犯《はん》人《にん》を知っているのだ。いつ、塚原の手に手《て》錠《じよう》がかけられるか分らないのである。  久野と、脇元との話がどう結着するか、それは塚原たちの運命をも決めてしまうことになるのだ……。  「やれやれ……」  自《じ》宅《たく》の前でタクシーを降《お》りると、塚原はため息をついた。  啓子のいない我《わ》が家《や》に帰るのが、こんなにも気の重いものか。——疲《つか》れと不安と、その寂《さび》しさで、塚原の足は重かった。  明美は眠っているかもしれない。塚原は自分で鍵《かぎ》をあけ、中へ入った。  「あら、お帰りなさい」  と、啓子が出て来た。  「ただいま」  反《はん》射《しや》的《てき》に言って、「——啓子!」  塚原は目を丸くした。  「津村さんのけがはどう?」  「う、うん。大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》だと思う。——今、奥《おく》さんがついてるから……」  「そう。じゃ、明日《あした》にでも、お見《み》舞《ま》いに行って来なきゃね。あなた、今日《きよう》、会社はどうするの?」  「え? ああ、そうか。会社か」  そんなこと、考えてもいなかった。「うん——どうするかな」  「一《いつ》睡《すい》もしてないんでしょ? 少し眠った方がいいわ」  「うん」  「その前に何か食べる?」  「うん」  「じゃ、顔でも洗ってらしたら? ひどい顔よ」  「うん」  塚原は、胸《むね》が熱くなった。啓子の言う通りにすることが、こんなに楽しいことだなんて!  顔を洗い、ヒゲを剃《そ》ってさっぱりすると、塚原は食《しよく》卓《たく》についた。  「何もないけど……。お昼ごろになったら、買物に行くから」  「啓子」  と、塚原は言った。「ありがとう」  啓子は、ちょっと笑《わら》って、  「それは、きちんとあの女の子のことにけじめをつけてから、言ってちょうだい」  「分ってる。彼女《かのじよ》とは別れる」  「充《じゆう》分《ぶん》気をつけてね。若《わか》い子は、思い詰《つ》めると怖《こわ》いわ」  「うん、分った」  塚原は、ついさっきまでの絶《ぜつ》望《ぼう》的《てき》な気分とは打って変って、何もかもがうまく行きそうな、そんな予感がしていた。  「他《ほか》に恋《こい》人《びと》はいないんでしょうね」  啓子に言われて、ちょうどご飯を口へ入れたところだった塚原はむせ返った。  ——何やってんのかしら。  そっと、両親の様子をうかがっていた明美は、ため息をついた。  少し眠って、父親の帰って来た気《け》配《はい》で目が覚《さ》めたのである。  いつもなら、そんなに眠りが浅《あさ》いわけではないのだが、何か、いやな予感があったのだ。  「お父《とう》さん」  と、明美は、塚原が寝《しん》室《しつ》へ入って来たところへ声をかけた。  「明美か。——寝《ね》たんじゃなかったのか?」  「気になってね。どうしたの、津村さんの方?」  「うん。病院へ戻《もど》ったよ」  「じゃ、何事もなくて?」  「ああ。奥《おく》さんがついてる。きっとうまく行くだろう」  塚原は安心したせいか、大《おお》欠伸《あくび》をした。「さて、少し眠るぞ。お前も寝たらどうだ? 学校へ行くのか?」  「学校もだけど……」  と、明美はちょっと不安げに、「心配なことがあるのよ」  「何だ。また変なことを言い出さないでくれよ」  塚原が顔をしかめる。  「私《わたし》を襲《おそ》った連中のこと」  と、明美は、台所の方を気にして、「お母《かあ》さん、台所ね?——ねえ、あいつら、誰《だれ》だったのかしら」  「うん。そうか。忘《わす》れてたな、それは」  「それに、私を誘《ゆう》拐《かい》しようとか、襲おうとするのに、どうして浦《うら》田《た》さんのアパートの近くでやったのかしら?」  「なるほど。考えてみりゃ変だな」  と、塚原が肯《うなず》く。  「私、さっき眠りかけてて、ふっと思ったの。あの連中、私じゃなくて、浦田さんが目当てだったんじゃないか、って」  「浦田君が?」  「そりゃ、年《ねん》齢《れい》は違《ちが》うし、顔を知ってれば、間《ま》違《ちが》えるわけないわよ。でも、もし誰かに頼《たの》まれたんだとすれば……」  「そうか。お前が、浦田君の部《へ》屋《や》から出て来るのを見て——」  「女一人《ひとり》で住んでると思い込んでれば、私がそうだと思ったかもしれないわ」  塚原は、浦田京子が、一度車にはねられそうになったことを思い出した。  彼女《かのじよ》は狙《ねら》われていたのだ。  「すると——浦田君が、また狙われる可能性もあるな」  塚原は、眠気が覚《さ》めてしまった。  「電話してみたら?」  「分った!」  塚原は、大急ぎで、浦田京子のアパートへ電話を入れた。——しかし誰《だれ》も出ない。  そうか。時間から言えば、もう出社途《と》中《ちゆう》の時《じ》刻《こく》なのだ。いなくて当然だった。  塚原は迷《まよ》わなかった。啓子へ、  「会社へ行ってくる」  と声をかけ、あわてて仕《し》度《たく》をした。  「あなた、大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》?」  「ああ。やっぱり落ちつかないんだ」  塚原の胸《むね》に、再《ふたた》び不安がふくれ上って来た。  ネクタイもしめず、手につかんだまま、塚原は家を飛び出して行った。 それぞれの終り  塚原が会社に着いたときは、九時を十分ほど回っていた。  もちろん、もう仕事は始まっている。  「あら、係長、遅《ち》刻《こく》ですか。珍《めずら》しいわ」  と、入口の所で会った女子社員が言った。  「いや……。ちょっとね。ねえ、浦田君は来てるか?」  「浦田さんですか? いいえ。お休みって連《れん》絡《らく》もないから、どうしたのかなって思ってたんです」  「そうか」  やはり、浦田京子の身に何かあったのだろうか?  塚原は、気が気ではなかった。  「それと、津村さんもみえてないんですけど係長、何か聞いてます?」  「え?——ああ、津村君か。いや、彼《かれ》はいいんだ。分ってる」  「そうですか」  そうだ、津村も、傷《きず》が治《なお》るまで、何日か休むことになるだろう。届《とどけ》を出しておいてやらなくては。  塚原は、一《いつ》旦《たん》、机《つくえ》に向うと、津村の分の休《きゆう》暇《か》届《とどけ》を書いた。それから、ちょっと考えて、自分の分——今日の休暇届を書く。  すぐに浦田京子のアパートへ行ってみようと思っていたのである。  念のため、もう一度、浦田京子のアパートへ電話を入れてみたが、やはり誰《だれ》も出ない。行ってみるしかなさそうだ。塚原は、休暇届を課長の所へ出しに行こうとして、腰《こし》を浮《う》かした。  「失礼します」  と、声をかけて来たのは——南千代子だった。  「な、何か用事かね?」  そうだった! 千代子とも話をつけなくては。  「ちょっとお願いしたいことがありまして」  と、千代子は、真《ま》面《じ》目《め》そのものの、捉《とら》えどころのない表《ひよう》情《じよう》で言った。  「僕《ぼく》に?」  「はい」  「分った。じゃ……」  塚原は休暇届を机《つくえ》の上に置いて、さっさと歩いて行く千代子の後を追った。  廊《ろう》下《か》に出ると、千代子は、足を止めて、振《ふ》り返《かえ》った。  「私《わたし》、奥《おく》様《さま》にお目にかかりました」  と、千代子は言った。  「うん。——聞いたよ」  「どうおっしゃってました?」  「泣《な》かれたよ。そして、家を出て行っちまった」  「そうですか」  「でも、戻《もど》って来てくれたがね」  千代子は、それを聞くと、何だか不《ふ》思《し》議《ぎ》な微《び》笑《しよう》を浮《う》かべた。塚原は戸《と》惑《まど》った。そして、  「ねえ、君。その話は改めて——」  と言いかけたとき、どこかで悲鳴が上った。  塚原は目をパチクリさせた。  何だあれは?——悲鳴。確《たし》かに悲鳴みたいだったが。  「悲鳴だわ」  と、南千代子が言った。  「何だろう?」  「上の方みたいだったけど……」  千代子も不思議そうに、階《かい》段《だん》の方へ目をやった。  そのとき、階段を転《ころが》るようにして、女子社員の一人が駆《か》け降《お》りて来た。  「助けて! 大変よ!」  と、真《ま》っ青《さお》になって、叫《さけ》んでいる。  「おい! どうしたんだ?」  塚原がびっくりして声をかけると、その女子社員は、床《ゆか》へ座《すわ》り込《こ》んでしまった。  「社長室で……社長が……久野さんが……」  言葉が途《と》切《ぎ》れ途切れに出て来るばかりで、意味が通じない。ともかく、何かとんでもないことが起ったには違《ちが》いないようだ。  塚原は、階《かい》段《だん》を駆《か》け上った。社長室は、一つ上の五階である。  社長室のドアが、半開きになっていた。  塚原が、恐《おそ》る恐る近付いて行くと、いきなり、ヒョイと久野の顔が覗《のぞ》いて、飛び上りそうになる。  「塚原さんか。——お入りなさい」  久野は、穏《おだ》やかな口調で言った。  「あの——何だか、今、女の子が叫《さけ》んでたんで——」  「大したことじゃないんですよ」  久野は、ドアを大きく開けた。「入って。——さあ」  お邪《じや》魔《ま》します、と口の中で呟《つぶや》いて社長室へ入った塚原は、その場で足を止めた。  社長の脇《わき》元《もと》が、床《ゆか》に体をねじるようにして倒《たお》れている。——ワイシャツを染《そ》めているのは、血だった。下のカーペットにも、しみ込《こ》んでいる。  「死んでる、と思いますがね」  と、久野は言って、社長の椅《い》子《す》に、腰《こし》をおろし、何やら机《つくえ》の上にポンと投げ出した。  ペーパーナイフらしい。汚《よご》れていた。  「君が……刺《さ》したのか」  と、塚原は言った。  「津村から聞きましたか」  と久野は訊《き》いた。  「うん……」  「全く、お話にならない」  久野は、声を立てずに笑《わら》った。「この男のために、人生を棒《ぼう》に振《ふ》っちまった。これまでも。これからもね」  「——とんでもないことになったなあ」  と、塚原は首を振った。「もし……」  「もし? 何です」  「僕《ぼく》らが——あの金を盗《ぬす》んでいなかったら、君もこんなことをしなくて済《す》んだんだ。そうだろう。——本当に、済まない」  塚原は久野に向って頭を下げた。  「そう言われてみりゃ、そうかもしれませんね」  久野は、大して気にもしていない様子で、「しかし、今度のことがなくても、脇元は心の中じゃ、私《わたし》を信用してなかったわけだから、何かのきっかけがあれば同じことになりましたよ」  「しかしね……」  「人がいいんだな、あなた方は」  久野は息をついて、「よくあの金が盗めましたね。全く不《ふ》思《し》議《ぎ》だな」  「運が良かっただけさ」  と言ってから、塚原は、付け加えた。「本当に運がいいってのはどういうことなのか、僕《ぼく》には分らないけどね」  久野は、塚原の言葉に、ちょっと笑《わら》って、  「色々苦労したようですな」  と言った。「まあ、あの金は政《せい》治《じ》資《し》金《きん》として、さる大《おお》物《もの》代《だい》議《ぎ》士《し》の手に渡《わた》るはずだった、いわゆる裏《うら》金《がね》ですからね。心おきなく使っちまって構《かま》いませんよ」  「そういえば、あのときのガードマンがどうしたか、知ってるかい?」  と塚原が、ふと思い出して訊《き》いた。  「どうしてそんなことを?」  「いや——あの事《じ》件《けん》のせいで、クビにでもなっていたら申《もう》し訳《わけ》ないと思ってね。気になってたんだ」  「全く、お人《ひと》好《よ》しですな」  久野は呆《あき》れたように言った。「ご心配には及《およ》びません。あの盗《とう》難《なん》は、表《おもて》沙《ざ》汰《た》にできないものですからね。あのガードマンは、確《たし》か他の持場へ回っただけですよ」  「そうか。——それを聞いて安心した」  と、塚原は息をついた。  「ちゃんと一一〇番してくれてるんだろうな」  と、久野は心配そうに、「自分で通《つう》報《ほう》した方が早いかもしれませんね」  「していると思うがね。ちょっと訊《き》いてみよう」  何ともお節《せつ》介《かい》な話だが、塚原は、社長室を出て、歩いて行った。  「塚原さん——」  と、階《かい》段《だん》の下の方から、南千代子が顔を覗《のぞ》かせている。  「上はどう?」  「大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》だ。いや——社長は亡《な》くなったようだけど、久野君は落ちついている。警《けい》察《さつ》へ知らせた?」  「はい。すぐ来ると思いますけど」  「そうか」  塚原は、社長室の方へ戻《もど》りかけた。  「待って!」  千代子が階段を駆《か》け上って来る。「危《あぶな》いわ! 行っちゃだめ!」  と、塚原にすがるようにしがみつく。  「おい。大丈夫だよ、僕《ぼく》は。——どうしたんだ?」  塚原はびっくりした。——千代子が、泣《な》いているのだ。  「だって、私《わたし》——」  千代子が涙《なみだ》で声を詰《つ》まらせながら、「塚原さんのことが——心配で」  「ありがとう」  塚原は、感《かん》激《げき》していた。「僕みたいな男のことを、そんなに心配してくれるなんてね。君はいい子だな」  「そんな……優《やさ》しいこと言わないで」  千代子は、泣《な》き笑《わら》いの顔になって、「私、あなたの家庭をぶち壊《こわ》そうとしたのに……」  「そりゃ、僕にとっては自《じ》業《ごう》自《じ》得《とく》さ。君を恨《うら》んだりはしないよ」  塚原は、そう言って、ふと社長室の方を見た。「——変だな」  「どうしたの?」  「風が吹いて来る。社長室から。どうしてだろう?」  塚原は、歩いて行った。千代子が急いでついて来る。  社長室の中は、脇元の死体だけだった。そして、広い窓《まど》が、大きく開け放たれていた。——久野の姿《すがた》は、どこにもなかった。    京子は、洗面所に入って、顔を洗った。  別に、意味はない。ともかく、何かしないではいられなかったのである。  エミの容《よう》態《たい》は、変らなかった。意《い》識《しき》不《ふ》明《めい》のまま、もう何時間かが過《す》ぎている。  浅倉は、会社へ電話をしに行っていた。もちろん、エミのことより仕事が大事というわけではない。  やはり、仕事のことでも考えていなくては、やり切れないのだろう。  京子は、鏡の中の顔を、じっと見つめた。——昨夜、浅倉に抱《だ》かれていたとき、どんな顔をしていたのだろう。  ともかく、今はまた、京子は孤《こ》独《どく》な顔に戻《もど》っていた。  「馬《ば》鹿《か》だわ、あんたは……」  と、京子は呟《つぶや》いた。  もちろん、エミの容《よう》態《たい》が急に悪化したことと、京子と浅倉が一夜を共にしたこととは、何の関係もない。偶《ぐう》然《ぜん》に過《す》ぎないのだ。  しかし、頭で分っていても、そう割《わ》り切《き》れるものではない。  もし——もし、エミに万一のことがあったら……。エミは父親が帰国したことを知らないまま、ということになる。  昨夜、浅倉が真《ま》っ直《す》ぐこの病院へ来ていれば、エミが意《い》識《しき》不《ふ》明《めい》になる前に、会えたはずなのだ。そう思うと、京子はたまらなかった。  ——鏡の中に、もう一つの顔が入って来た。  京子は目を見《み》張《は》った。浅倉の妻《つま》、郁《いく》江《え》である。  「まあ……」  と、京子は呟《つぶや》くように言った。  郁江は、いつもの通りの、派《は》手《で》なスタイルだった。しかし、その顔は、不《ふ》思《し》議《ぎ》な緊《きん》張《ちよう》感《かん》にこわばっていた。  京子はゆっくりと振《ふ》り向《む》いた。  「主人は?」  と、郁江が言った。  「今——電話をかけに行っておられます」  と、京子は答えた。  「そう。あの子……具合はどうなの?」  「意《い》識《しき》不《ふ》明《めい》で、夕方までがや《ヽ》ま《ヽ》だとか……」  郁江は、黙《だま》って肯《うなず》くと、洗面所を出て行く。京子も、それについて廊《ろう》下《か》へ出た。  「——主人とあなたのことは知ってたわ」  郁江は、京子に背《せ》を向けたまま、言った。  「申《もう》し訳《わけ》ありません」  と、京子はうつ向いた。  「いいのよ」  郁江は投げ出すような口調で言った。「あの人は、私《わたし》が勝手に遊び回ってる、とそう思ってるんだから」  「奥《おく》さん——」  「そりゃね。今《ヽ》は《ヽ》その通りよ。でも、私だって、初めからそうだったわけじゃない。あの人は忙《いそが》しくて、ほとんど家にもいないし、黙《だま》って外国へ出《しゆつ》張《ちよう》して、いきなり夜中にニューヨークから電話して来たり……。たまらなかったのよ」  郁江は、京子の方を向いた。——涙《なみだ》が、郁江の頬《ほお》を伝い落ちている。京子は、ハッとした。  「私《わたし》を——車でひこうとしたのは、奥《おく》さんでしたのね」  「そうよ。しくじったから、今度は、人を雇《やと》ってあなたを痛《いた》い目にあわせてくれ、と頼《たの》んだわ。昔《むかし》、そういう世界と付き合いがあったから。でも——あなた、うまく逃《に》げたようね」  もちろん、郁江が言っているのは、間《ま》違《ちが》って明美を襲《おそ》った連中のことである。  「そんなことまでして……。そんなにご主人を愛してらしたんですか」  「愛して?——そうね。これも愛してるってことなのかしら」  郁江は、ちょっと引きつったような笑《え》みを浮《う》かべた。「エミのことだって、嫌《きら》いじゃないのよ。でも、たまに帰って来れば、あの人はエミのことばっかり。——たまにはどこかへ行きましょうと誘《さそ》っても、エミのことを考えろ、って……。あの子が病気なのは、私のせいじゃないわ!」  郁江は、声を震《ふる》わせた。  京子は、じっと立ち尽《つ》くしていた。——遊び好《ず》きな後《ご》妻《さい》。意地悪なま《ヽ》ま《ヽ》母《ヽ》。  表《ひよう》面《めん》ばかりを見ていた自分が、恥《は》ずかしかった。この年齢《とし》まで、一体何を学んで来たのだろう?  誰《だれ》もが、自分の涙《なみだ》を流しているのだ。  「あなた——」  と、郁江は、京子に向って言った。「私《わたし》を訴《うつた》える?」  「奥《おく》さんを?」  「殺そうとしたわ」  京子は首を振《ふ》った。  「とんでもありません。私があなたの立場だったら同じことをしたかもしれない。——私こそ、許《ゆる》していただかなくては」  郁江は、じっと京子を見つめて、言った。  「あんた、いい人ね」  京子は、キュッと唇《くちびる》を結んで、背《せ》筋《すじ》を伸《のば》した。  「私、ご主人が戻《もど》られる前に失礼します」  「でも、エミのことが——」  と、郁江が言いかける。  「エミちゃんのお母さんは、あなたです」  京子は、そう言って、エミの入っている集中管理室の方へ目をやった。「エミちゃん、きっと持ち直します。私そう信じています。——では」  京子は、深々と一礼して、歩き出した。  浅倉とは、どこですれ違《ちが》ったのか、会うこともなく、病院を出た。——もう、昼に近い時《じ》刻《こく》になっていた……。    「浦田君!」  アパートの手前まで来て、京子はびっくりした。塚原が走ってきたのだ。  「まあ、塚原さん。どうなさったんです?」  「良かった! 無《ぶ》事《じ》だったのか!」  「無事って……。私《わたし》が、どうして?」  「いや、ともかく、中へ入ろう。色々、話があるんだ」  塚原は、京子の肩《かた》に手をかけた。  ——京子の部屋へ上って、塚原は、昨日《きのう》からの一部始《し》終《じゆう》を、話してやった。  「大変な一日でしたのね……」  京子は、正《せい》座《ざ》したまま聞き終えると、言った。  「全くだ。でも、君に何もなくて良かった」  「ご心配かけて、済《す》みません」  「いいんだよ。いや、津村君のけがだって、君が責《せき》任《にん》を感じる必要はない。我《われ》々《われ》三人は、お互《たが》い様ってもんだからな」  と、塚原は微《ほほ》笑《え》んだ。「それに、あのけがのせいで、津村君と奥《おく》さんは、またうまく行くようになったんだしね。——まあ、ともかく何もかも終ったんだ」  「そうですね」  京子は、肯《うなず》いた。「久野さんは——即《そく》死《し》だったんですか」  「五階から飛び降《お》りたんだからね。これで、我々があの金を盗《ぬす》んだことは、もう明るみに出ないだろうが……」  「そのことですけど」  と、京子は言った。「私《わたし》の分は、お二人で分けて下さい」  「僕《ぼく》らで? いや、それは困《こま》るな。僕も津村君もね、やっぱり僕らはお金には縁《えん》がないんだってことで意見が一《いつ》致《ち》したんだ」  「まあ。——お互《たが》い貧《びん》乏《ぼう》が性《しよう》に合うんですね」  「全くだ」  と、塚原は笑《わら》った。「ところで君、ゆうべは?」  「恋《こい》人《びと》と静かな旅館に泊《とま》りましたの」  「やあ、これは……。どうやら君が一人で楽しい思いをしてたんだな!」  「本当ですね」  と、京子は笑《え》顔《がお》で言ったが、目には、小さく涙《なみだ》が浮《う》かんでいた……。 エピローグ  「ともかく——」  と、塚原は言った。「全《ぜん》快《かい》、おめでとう!」  「ありがとうございます」  津村が、ちょっと照れたように、「入院中に太っちゃいましてね。今朝《けさ》、ズボンがきつくて参りました」  「奥《おく》様《さま》の差し入れたお料理のせいでしょ?」  と、浦田京子が楽しげに、言った。  ——会社に近い、うなぎ屋の二階。  あの二億《おく》円《えん》を盗《ぬす》む日の昼、集まった同じ座《ざ》敷《しき》である。  「昼休みだから、ビールというわけにもいかないが、まあ、うなぎでも食って、栄養をつけてくれ」  と、塚原は言った。  「これ以上太っても困《こま》ります」  津村がお腹《なか》をさすった。  「でも、津村さんはいいわ。会社が上を下への大《おお》騒《さわ》ぎのとき、ずっと休んでいたんですもの」  それは確《たし》かだ、と塚原は思った。突《とつ》然《ぜん》の脇《わき》元《もと》の死、しかも秘《ひ》書《しよ》に刺《さ》し殺されたとあって、あの後、会社は揺《ゆ》れに揺れた。  脇元が殺された件《けん》そのものは、ともかく犯《はん》人《にん》の久野が死んでいるので、警《けい》察《さつ》としても困《こま》ってしまったようで、結局、動機の点は曖《あい》昧《まい》に終ってしまった。久野の後《あと》釜《がま》だった若《わか》い秘書も、関《かかわ》り合いになるのを恐《おそ》れたのか、まだ正式に社員として採《さい》用《よう》されていなかったのを幸い、名乗り出ても来なかった。  二億《おく》円《えん》盗《とう》難《なん》の一件は、知られることもなく、埋《う》もれようとしている。  むしろ塚原たち、社員の関心は、会社が大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》か、という点の方にあった。何といっても、脇元のワンマン会社だったのだから。  しかし、三週間近い混《こん》乱《らん》の挙《あげ》句《く》、銀行の支《し》援《えん》も取り付けて、何とか会社は存《そん》続《ぞく》していける見通しがついていた。——誰《だれ》もが、ホッと一息というところだった。  「——さあ、食べよう」  うな重が来て、塚原は、はしを割《わ》った。「これからは、そう年中食えなくなるぞ」  「——そのことなんです」  津村が、うな重に早くも手をつけながら、「塚原さんと浦田さんは、あの金を大してつかっちゃおられないでしょう。でも僕《ぼく》は、マンションを買っちまったんです。支《し》払《はら》いも済《す》ませちゃったし……。どうしたらいいでしょうね」  「そうだなあ……」  塚原も、食べながら考え込《こ》んだ。  「私《わたし》、こう思うんですけど」  と、京子が言った。「今度のことで、塚原さんは可愛《かわい》い子と浮《うわ》気《き》をなさったし、私もちょっとした恋《こい》を楽しみました。——いい思いをしたんですから、お金を丸々手放すのも仕方ないと思うんです。でも、津村さんは大けがをして入院までして。大変な目に遭《あ》われたんですから、マンションはその代《ヽ》り《ヽ》、と思って、そのまま引《ひつ》越《こ》されたらいいですわ」  京子の言葉に、塚原は肯《うなず》いた。  「その通りだ」  と、塚原は言った。「津村君も奥《おく》さんも、辛《つら》い経《けい》験《けん》をした。僕《ぼく》と浦田君で、ささやかなプレゼントをしたと思って、そのマンションに移るといい」  津村は、胸《むね》を一《いつ》杯《ぱい》にした様子で、ただ、  「ありがとうございます」  と頭を下げた。  「ところであの金を、どう処《しよ》分《ぶん》するかなんだが……。浦田君、いい考えはあるかい?」  「色々考えてみたんですけど、誰《だれ》かに拾ってもらうのが一番じゃないかと思うんです」  「拾わせるのか。——期《き》限《げん》が来れば、拾った人間のものになる。しかし、その人間の生活をめちゃくちゃにしないかね」  「その点、私《わたし》も心配なんです。だから、たとえば、どこかの施《し》設《せつ》とか、福《ふく》祉《し》のための資《し》金《きん》としてつかわれるように考えて、拾ってもらう人を捜《さが》そうと思います」  「なるほど」  塚原は肯《うなず》いて、「それはいいや。じゃ、その『拾い主』は、浦田君に決めてもらおう。津村君もそれでいいだろう?」  「もちろんです」  「そのために、一週間ほど休《きゆう》暇《か》をいただけますか?」  と、京子は言った。「心当りをいくつか歩いて、回ってみようと思うんです。あんなお金ですけど、どうせなら、有《ゆう》効《こう》に活《い》かしてほしいですから」  「ああ、もちろん構《かま》わないよ」  「浦田さん、さしずめサンタクロースって役回りですね」  と津村が言ったので、京子は笑《わら》った。  「ちょっと季節外《はず》れのサンタさんだわ」  ——三人は、なごやかに、うな重を食べ終えた。  妙《みよう》なものだ、と塚原は思った。せっかく手に入れた大金を、今度は手放す相談をしている。しかし、気分は、今の方がずっと軽いのである。  俺《おれ》には平《へい》凡《ぼん》なサラリーマンの暮《くら》しが似《に》合《あ》ってるのかもしれないな、と塚原は思った。    うなぎ屋を出て、まだ少し時間があったので、塚原は他の二人と別れて、近くの書店へ入ろうとした。  ぐい、と腕《うで》を取られて、びっくりして振《ふ》り向《む》くと、南千代子である。  「やあ……」  「捜《さが》してたんですよ。今日こそ、話を聞いてもらいますからね!」  千代子ににらまれて、塚原は青くなった。——そういえば、あの事《じ》件《けん》以来、千代子と二人《ふたり》で話をしていない。  話がある、と言われていたんだっけ。つい忘《わす》れてしまっていた。  「こっち、こっち」  と、千代子に引《ひつ》張《ぱ》られて、塚原は、逆《さか》らうわけにもいかず、喫《きつ》茶《さ》店《てん》の中へ引張り込まれた。  「き、君ね——話は冷静に」  塚原の方がよっぽど落ちつきをなくしている。  「時間がないから、手っ取り早く言います」  と、南千代子は言った。  「う、うん」  「私《わたし》、塚原さんの子を宿してるんです」  千代子の言葉に、塚原は一《いつ》瞬《しゆん》気が遠くなるかと思った。もちろん、ありえないことではないと分っていても……。  「そ、そいつは——お、おめでとう」  混《こん》乱《らん》して、何を言っているのか、自分でも分っていないのだ。「で、男の子? 女の子?」  生れてもいないのに、分るわけがない。——と、千代子が、こらえ切れなくなったように、笑《わら》い出してしまった。  「塚原さんの今の顔! ああ面《おも》白《しろ》い!」  「わ、笑いごとじゃないよ」  「ふふ。——ごめんなさい。冗《じよう》談《だん》です」  「え?」  「冗談です。言ってみたかったの、一度」  千代子は、アッケラカンとしている。塚原は、フウッと息をついて、額《ひたい》の汗《あせ》を拭《ぬぐ》った。  「びっくりさせないでくれよ!」  そして、コーヒーを、ミルクも砂《さ》糖《とう》も入れずにガブリと飲んで目を白黒させた。  「私、でも、塚原さんのこと、好《す》きですよ」  と、千代子は真顔になって、「だけど、あんまり好きになっちゃったから、困《こま》らせたくないの。私たちの間、何もなかったことにしましょう」  「そう。それがいいよ。僕みたいな年《とし》寄《より》には君のような若《わか》いチャーミングな子は、ふさわしくない」  塚原はホッとして、言った。  「でも、奥《おく》さんがいなかったら絶対逃《にが》さないんだけどな」  と、千代子は、愉《たの》しげに、「それでね、別れるかわりに、お願いがあるの」  「何だい?」  「仲人《なこうど》、やって下さい」  「仲人……。仲人って、結《けつ》婚《こん》の仲人?」  塚原は、呆《あつ》気《け》に取られて訊《き》き返した。  「離《り》婚《こん》にも仲人っているの?」  「いや——君、結婚するのか?」  「ええ」  と、千代子は肯《うなず》いた。「幼《おさ》ななじみで、この間、ヒョッコリ会ったんですよね。そしたら、何となく気が合っちゃって」  「なるほど……」  「熱《ねつ》烈《れつ》な恋《こい》ってほどじゃないんだけど、ま、一《いつ》緒《しよ》に暮《くら》すには、ほどほどで、ちょうどいいかな、と思って」  「それは——おめでとう」  「ありがとう。仲人、やって下さる?」  「それはまあ……」  「良かった! じゃ、今度の日曜日に、彼《かれ》と二人でご挨《あい》拶《さつ》に行きますね」  塚原は、ただ唖《あ》然《ぜん》として、肯《うなず》くだけだった……。    「まあ。それじゃ、仲人《なこうど》を引き受けたの?」  話を聞いて、啓子は呆《あき》れたように夫《おつと》の顔を見た。  「うん……。だって、仕方なかったんだ」  塚原はネクタイを外《はず》しながら、言った。  「そんな話、聞いたことないわ」  「いいじゃないの」  と、話を聞いていた明美が顔を出して、「元愛人の結《けつ》婚《こん》の仲人をやるなんて、ドラマチックだわ」  「あんたは、そんなことに口を出さなくていいの」  と、啓子がにらむ。  「はあい。——ね、お腹《なか》空《す》いたよ」  「すぐご飯よ!」  と、啓子はため息と共に言った。  ——それでも、啓子は、そう怒《おこ》っている風でもなく、食事をしながら、  「仲人って、どうやればいいのかしら? 本でも買って勉強しないと……」  などと呟《つぶや》いている。  塚原はホッとした。——これで、やっと我《わ》が家《や》も、昔《むかし》通りの我が家に戻《もど》るだろう。  「あ、そうだ」  と、明美が言った。「お父さん、あの古い本《ほん》棚《だな》、捨《す》てていいでしょ?」  「本棚? どこの?」  「ピアノのわきの」  「あれか。——まあ、惜《お》しいほどのもんじゃないが……。どうして捨てるんだ?」  と、塚原は訊《き》いた。  「だって、場所をあけとかないと」  「ふーん。何か来るのか?」  「決ってるじゃない。グランドピアノよ」  塚原がむせ返った。  「グ、グランドピアノ?」  「そうよ。あら、お父さん、ピアノを買い替《か》えていい、って言ったじゃないの」  「そ、そうだったかな」  「いやねえ。忘《わす》れちゃったの?」  と、明美はふくれっつらになって、「でももう手《て》遅《おく》れよ。注文しちゃったんだから。それに、みんなにも言っちゃったし」  「そうか。——じゃ、いいとも。買いなさい。それぐらい、何とかなる」  と、塚原は言った。  正直なところ、今度の一《いつ》件《けん》で、明美にも少々借りを作ってしまった塚原としては、弱味がある。  しかし、グランドピアノとなると……。  月《げつ》賦《ぷ》にして、月々、いくらになるのかな。——あの金から、少しだけ出しちまおうか? いや、だめだ! もう、あれは俺《おれ》の金じゃない!  「お父さんいいんでしょ?」  と、明美が念を押《お》す。  「ああ、任《まか》せとけ!」  塚原はドン、と胸《むね》を叩《たた》いて、咳《せき》込《こ》んだ。  それを見て、啓子と明美が吹《ふ》き出してしまう。  ——確《たし》かに、塚原家は、元に戻《もど》ったのである。 泥《どろ》棒《ぼう》物《もの》語《がたり》  赤《あか》川《がわ》次《じ》郎《ろう》 ------------------------------------------------------------------------------- 平成12年12月8日 発行 発行者  角川歴彦 発行所  株式会社 角川書店 〒102-8177 東京都千代田区富士見2-13-3 shoseki@kadokawa.co.jp Jiro AKAGAWA 2000 本電子書籍は下記にもとづいて制作しました 角川文庫『泥棒物語』昭和62年4月30日初版刊行 平成12年1月20日42版刊行