TITLE : 殺人はそよ風のように 本作品の全部または一部を無断で複製、転載、配信、送信したり、 ホームページ上に転載することを禁止します。また、本作品の内容 を無断で改変、改ざん等を行うことも禁止します。 本作品購入時にご承諾いただいた規約により、有償・無償にかかわ らず本作品を第三者に譲渡することはできません。 目 次 プロローグ 1 アイドルを追え 2 盗《ぬす》まれた歌声 3 流れた血 4 マネージャーを捜《さが》せ 5 飛び込《こ》んだアイドル 6 夢《ゆめ》か現実か 7 それぞれの思《おも》惑《わく》 8 大《おお》物《もの》、来《きた》る 9 素人《しろうと》探《たん》偵《てい》、動き出す 10 わき腹にナイフ 11 人《ひと》違《ちが》いの誘《ゆう》拐《かい》 12 夜のオフィス 13 誘《ゆう》拐《かい》犯《はん》へ、愛をこめて 14 明日《あした》のアイドル 15 暗い夜、海の底に…… 16 清算の時 17 スポットライト プロローグ  夜の道を、一人の男が歩いていた。  男は紳《しん》士《し》でもなく、殺し屋でもなかった。  ともかく、「ない物だらけ」の男だった。  金がなかった。持ち物といって、鞄《かばん》一つ持っているわけではなかった。服は——着てはいたが、「服」と呼んだら、そのボロ布《きれ》が赤面するかもしれないと思えるほどだった。  加えて、靴《くつ》もはいていない。右と左で別々の、さんざん底のすり減ったサンダルをはいていた。  男には、職もなく、家もなく、歩いてはいても、どこへ行くというあ《ヽ》て《ヽ》もなかった。  要するに、薄《うす》汚《よご》れた一人の浮《ふ》浪《ろう》者《しや》だったのである。  ところで、この浮浪者にとって、今、何時かというのはあまり問題にはならないが、ともかく、まだ夜の、そう遅《おそ》い時間ではなかった。  行くあてもないのに、この浮浪者が歩いているのは、食べ物にありつける所まで行かなくてはならないからだった。今歩いている通りは、いやに人通りも少なくて、少々薄《うす》暗《ぐら》かった。  何やら大きな建物が目に入った。駐《ちゆう》車《しや》場《じよう》があって、その入口の所に、何とかいう〈ホール通用口〉という札《ふだ》が見えた。  要するにここは裏側なのだろう。ホール、といっても、食堂やら何やらがあって、食べ物にありつける場所ではなさそうだ。  それに、もう閉まっているのか、人の姿もなくて、いやに静かだった。  浮《ふ》浪《ろう》者《しや》が捜しているのは、こんな場所ではない。小さな店が——ラーメン屋だの、うどん屋だのが、軒《のき》を並べている通りだ。  そのまま素通りしようとして、浮浪者は、すぐそばに人がいるのに気が付いてびっくりした。しかし、アルコールで反《はん》応《のう》の鈍《にぶ》くなった体のほうは、一向にびっくりしなかった。  まだ若い男だった。いや、「少年」と呼んだほうがいいかもしれない。  十七か十八か。——ともかく浮浪者は、自分も、昔《むかし》、こんな年《ねん》齢《れい》だったことがあったのだ、と、ちょっと感傷的に考えた。  しかし、今の若者は、背も高いし、体も大きい。目の前の少年は、ヒョロリとのっぽで、ほっそりしていた。  ジャンパーを着《き》込《こ》んで、そのポケットに両手を突《つ》っ込んでいる。オートバイ——というには小さい、よく最近、奥さん連中が乗り回している、オモチャみたいなバイクが置いてあって、少年はそれにもたれて立っているのだった。  浮浪者を見ると、ちょっとギクリとした様子だったが、何でもないと分かると、目をそらした。  彼《かの》女《じよ》と待ち合わせかね、おい。  浮《ふ》浪《ろう》者《しや》は、そう冷やかしてやろうかと思ったが、腹が減って、声が出ない。もっとも、腹が減っているのは、いつものことだ。  その少年が、バイクの上の紙《かみ》袋《ぶくろ》から、紙にくるんだものを出し、広げると——中味はハンバーガーだった——食べようとして、ためらった。それから、浮浪者の目が、じっとその「包み」を見ているのに気付くと、  「食べる?」  と、差し出した。  「——いいのかい?」  かすれた声が出て来た。  「食欲ないんだ。いいよ」  ハンバーガーは、少年の手から消えると、アッという間に浮浪者の胃におさまっていた。  「——ありがとうよ」  浮浪者は少し力の入った声で言った。「誰《だれ》か待ってんのかね?」  「うん、ちょっとね」  少年の目は、そのホールの建物の方へ向いていた。  しかし——恋人でも待っているにしては、その表情はあまり浮《う》き浮きしているとはいえなかった。  俺《おれ》だって昔《むかし》は恋なんてものをしたことがあったんだ、と浮《ふ》浪《ろう》者《しや》は思った。いつのことだったか、どんな女だったかも、忘れちまったが……。そうさ、恋ってのは、ちっとも楽しくなんかねえんだ。苦しくて、辛《つら》いことばっかりさ。——それだけは、しっかり憶《おぼ》えているぜ。  「ここにいると危いよ」  と、少年が言った。  「危ねえって……何が?」  「だから、もうすぐあそこから——」  少年がそう言いかけたとき、建物の中から、バラバラと人影が走り出て来た。  「来た!」  少年は、ヘルメットをつかんで頭にかぶると、バイクに飛び乗り、エンジンをかけた。  何事だ?——浮浪者は呆《あつ》気《け》に取られていた。  走り出て来たのは、何だかいやに真っ白な、フワッと裾《すそ》の広がった服を着た女の子と、男が三人。駐《ちゆう》車《しや》場《じよう》に停《と》めてあった車に飛び込《こ》むと、すぐに車が動き出した。  どうやら運転手が中で待機していたらしい。車はグルリと回って、駐車場を出て行った。車が、少年と浮浪者の前を走り抜けて行くと、少し間を置いて、少年のバイクが、その後を追った。  「ありがとよ!」  浮浪者は声をかけたが、少年には届かなかったろう。  しかし、何をやってるのかな?  浮《ふ》浪《ろう》者《しや》は、そのとき、何だか妙《みよう》な物音が近づいて来るのに気付いて、振《ふ》り返った。  ドドド……。何だか地鳴りのような音と、そして、キャーキャーと入りまじる叫《さけ》び声。  何だ、一体?  戸《と》惑《まど》って突《つ》っ立っていた浮浪者は、目を見開いた。——道の角から、少年少女が飛び出して来た。何十人——いや、何百人だ。  アッという間に、道一杯に広がって走って来る。いや、押《お》し寄せて来る。戦争か、これは?  「あれだ! あの車だ!」  と いう叫び声。  キャーッ、ワーッ、と、人間とは思えない凄《すさ》まじい声が、塊《かたまり》となってぶつかって来る。  危いや、こりゃ。浮浪者は、わきへどいていよう、と思った。  しかし、思ったときには、少年少女の急《ヽ》流《ヽ》が、浮浪者を飲み込《こ》んでしまった。  突き飛ばされてひっくり返った浮浪者は、あわてた。やっと、「危い」という意識に、体がついて、起き上がりかけた。  そこへ誰《だれ》かがつまずいた。——ともかく、目の前、それも足《あし》下《もと》なんか、まるで目に入らないのだ。浮浪者はけとばされ、踏《ふ》みつけられて、呻《うめ》いた。  一人——また運の悪いことに、かなり太った女の子が、つまずいて、浮浪者の上に、でん、と尻《しり》もちをついた。浮浪者は、苦しくて声も出ない。  その上にドタドタと、つづいて何人かが折り重なった。  薄《うす》れていく意識の中で、浮浪者は、何重にもハムや野菜をはさんだ、サンドイッチのことを考えていた……。 1 アイドルを追え  車は、少しスピードを落とした。  「今日は成功だったな」  と、永《なが》原《はら》幸《ゆき》男《お》は言った。  まだ息を弾《はず》ませている。ホールの裏口から車まで走っただけなのだが、それでもくたびれてしまうのだ。  四十七歳《さい》という年《ねん》齢《れい》のせいもあったし、また、目が回るほど忙《いそが》しいのに、七十キロから一向に減ろうとしない体重のせいでもあった。  「でも、この次はもう、この手はきかないよ」  と言ったのは、助手席に座ったもう一人の男だ。  「明日のことは、また明日考えるさ」  と、永原は肩《かた》をすくめる。  「一度やってみたい方法があるの」  後部座席の左側に座ったア《ヽ》イ《ヽ》ド《ヽ》ル《ヽ》が言った。  「どんな手だい?」  と、永原が訊《き》く。  本気で訊いている、という口《く》調《ちよう》ではない。訊いてやらないと、アイドルの機《き》嫌《げん》が悪くなるからである。  「お客と一《いつ》緒《しよ》に正面から出るのよ」  「そいつはいいな。しかし、もしばれたら、命も危いよ」  永原はそう言って笑った。  アイドルは、別に反論するでもなく、窓の外へと目をやった。——その額には、まだ汗《あせ》が乾《かわ》き切らずに光っている。  大《おお》内《うち》朱《あき》子《こ》は、マンションのバスルームはちゃんと掃《そう》除《じ》してあったかしら、と考えていた。——確か、出て来るときに覗《のぞ》いたはずだけど。でも、考え出すと自信がなくなってしまう。  考えれば考えるほど、忘れたような気がして来るのだ。これは朱子の持って生まれた性格というものだった。  大内朱子は、アイドルではない。後部座席の真中に座っている。  ——あの浮《ふ》浪《ろう》者《しや》が、「男が三人」と思ったのは、朱子が、ジャンパーにジーパンという格《かつ》好《こう》をして、髪《かみ》も、ちょっとした男の長《ちよう》髪《はつ》よりも短く、切ってしまっていたからである。  それに、朱子は、もともと男っぽい、肩《かた》の張った、いかつい体つきをしていた。  大内朱子は十九歳《さい》だ。——このアイドルの「付《つき》人《びと》」をしている。  アイドルは、いつの間にかまどろんでいるようだった。——今、おそらく、日本人で、ごくたまにでもテレビを見、週刊誌の車内吊《づ》り広告を眺《なが》める人間なら、知らない者はまずない顔だった。  たとえ、中年過ぎの男たちが、彼女と他《ほか》のアイドルの見分けがつかなくても、少なくとも名前ぐらい、知らぬはずはなかった。  星《ほし》沢《ざわ》夏《なつ》美《み》。——これがアイドルの名である。芸名らしい名だが、実は本名だった。  十七歳。あと一か月足らずで、十八になる……。  「明日は久しぶりに休みだよ」  助手席の男が言った。永原よりも大分若いくせに、頭はかなり薄《うす》くなっている。  星沢夏美は、返事をしなかった。  「——寝《ね》ちゃったみたいだ」  と、永原がそっと首をのばして、様子をうかがう。  「そうか。——でも、朱子君、ちゃんと風《ふ》呂《ろ》に入るように、夏美に言ってくれよ」  「はい」  と、朱子は答えた。  朱子は、ちゃんと心得ている。いちいち言われるまでもなく、夏美はお風呂に入るだろう。  ともかく、何が好きといって、お風呂くらい、夏美の好きなものは、他にないのだから。  朱子が夏美の付《つき》人《びと》になって、もう二年たつ。その頃《ころ》、まだ夏美はやっと少し名前を知られかけた新人に過ぎなかった。  だから、朱子の仕事もそれほど忙《いそが》しくはなく、夏美の仕事がない日には、適当に休みも取れた。それが今は——この前、いつ休みを取ったか、思い出せないくらいだ。  「——眠《ねむ》っちゃったわ、本当に」  と、朱子は、夏美が軽く寝《ね》息《いき》を立て始めたのを聞いて、言った。  話をするのが面《めん》倒《どう》で、タヌキ寝入りをしているのか、それとも本当に眠り込《こ》んでしまったのか、それが分かるのは朱子ぐらいのものだろう。  「今週はそんなに詰《つ》まってなかったんじゃないか?」  と、助手席の男が言った。  朱子は、この男が嫌《きら》いである。一言で言えば、「やり手」ということになるのだろうか。名は安《やす》中《なか》といった。夏美の所属するプロダクションの常務である。  社長が、いささか昔《むかし》風《ふう》の、「太っ腹」なタイプなのと好対照で、安中はいかにも計算高い「実利派」である。タレントを、稼《かせ》ぎ高の数字でしか見ていない。  「でも、移動ばかりで、よく眠ってないんですよ」  と、朱子は言ってやった。  夏美の平均睡《すい》眠《みん》時間は四時間。それも、車内、機内での仮《か》眠《みん》を含めてである。今週は多少眠る時間があったと言っても、移動が多かったから、それだけ眠れたはずだ、というだけのことだ。  「明日は一日寝《ね》かしといてやれよ」  と、マネージャーの永原がのんびりと言った。  「あんまり寝すぎても、却《かえ》って疲《つか》れが出るぞ」  と、安中が言った。  ともかく、人の言うことに、必ず文句をつけなければ、気の済《す》まない男なのだ。  「明後日《あさつて》は早いんだっけ?」  と、永原が手帳を出すと、車内灯を点《つ》ける。  「君がよくつかんでなきゃ、仕方ないじゃないか」  「分かってる。——八時、TBSか。六時半だな、迎《むか》えは」  「私も分かってますから」  と、朱子は言った。  「ああ」  永原は肯《うなず》いた。「君がしっかりしててくれるんで助かるよ」  ——朱子は、さっきから気になっていた。小さなライトが、ずっと後ろをついて来るのである。  オートバイか? いや、きっとミニバイクみたいなものだろう。偶《ぐう》然《ぜん》、同じ道を走っているにしては、間《かん》隔《かく》も、ほとんど変らない。  「運転手さん」  と、朱子は言った。「少しスピードを上げてみて」  「はあ」  運転手は、戸《と》惑《まど》ったような声で答えて、アクセルを踏《ふ》み込んだ。ぐい、と体がシートに引き寄せられる感じがする。  「——スピードを落として」  と朱子は言った。  「どうしたんだ?」  と、安中が振《ふ》り向く。  「やっぱりそうだわ」  と、朱子は言った。「後ろから誰《だれ》かついて来ます」  永原が振り向く。  「——あのバイクか。ヘルメットをかぶってるな」  「ええ。さっきからずっとついて来てるんです」  「よく気が付くね」  永原は感心した、というよりは呆《あき》れたような調子で言った。  「そうついて来れやしないさ」  安中は、むしろ楽しそうだった。「運ちゃん、振り切ってくれよ」  「分かりました」  ぐん、とスピードが上がる。朱子は、振り向いて、後ろのライトが、どんどん遠ざかって行くのを見ていた。やがて見えなくなる。  「——もう大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》だ」  と、永原は息をついた。「やれやれ、物好きな奴《やつ》がいるもんだな」  「その物好きな連中が、夏美のレコードを買ってくれるんだぜ」  と、安中が言った。「——ああ、僕は次の交差点で降りる。ちょっと停《と》めてくれ」  「何だ、会社へ戻《もど》るのかい?」  「ポスターの打ち合わせで、デザイナーを待たせてるんだ」  「じゃ、僕も降りるよ、Fホテルに寄りたいんだ」  と、永原は朱子を見て、「後は大丈夫だね?」  「ええ。構いません」  朱子は、むしろホッとしている。永原はともかく、安中が一《いつ》緒《しよ》だと、何だか息が詰《つ》まるような気がするのだ。  ——安中と永原が降りて、車の中が急に広くなったような気がする。  車が、また走り出すと、夏美が、半分眠《ねむ》ったままの顔で、  「着いたの?」  と訊《き》いた。  「まだ。寝《ね》てていいわよ」  「ふうん……」  夏美は、またすぐに寝入った。朱子の方へ寄りかかって来る。朱子は、膝《ひざ》の上に、そっと夏美の頭をのせてやった。  マンションまで三十分はかかる。  「運転手さん。少しゆっくりやって」  と、朱子は言った。  ——大内朱子は、もともと、芸能界に憧《あこが》れて、この世界に入ったわけではない。  芝《しば》居《い》が好きだ、というのならともかく、鏡を見れば、スターとかアイドルとかには無縁であることは、公平に見て明らかだった。  朱子は、もともと看護婦になりたかったのである。それが、同じ「人の世話」でも、スターの付《つき》人《びと》になろうとは、自分でも思っていなかった。  九州から一人で上京して、あてにしていた就職先が、何とその前日に倒《とう》産《さん》していると知ったとき、朱子は途《と》方《ほう》にくれてしまった。  中学のときの同級生を尋《たず》ねて、朱子はあるTV《テレビ》局に行った。そこで、たまたま、永原に紹《しよう》介《かい》され、聞いたこともない新人の付人をやらないか、と言われたのだ。  長くやるつもりは別になく、看護学校へ入るまでの、ほんのアルバイトのつもりだったのだが、周囲の状《じよう》況《きよう》の急変が、朱子をも巻《ま》き込《こ》んでしまった。  朱子は、少し口を開き加減に、眠《ねむ》り込んでいる夏美を見下ろした。——そこにいるのは、華やかなスポットライトの中で歌っているアイドル、星沢夏美でなく、どこにでもいる十七歳《さい》の少女だった。    車がマンションの地下の駐《ちゆう》車《しや》場《じよう》へと滑《すべ》り込《こ》んで停《と》まった。  「ありがとう。——夏美さん、起きて」  軽く揺《ゆ》さぶると、夏美は目を開いた。  「——着いたの?」  「そう。さ、早くお風《ふ》呂《ろ》に入って寝《ね》たほうがいいわ」  「そう……」  起き上がると、アイドルは大欠伸《あくび》をした。  ——マンションの最上階、八階が二人の部《へ》屋《や》である。表《ひよう》札《さつ》は出ていない。  都心のマンションのせいか、普《ふ》通《つう》のサラリーマンはあまりいないようで、他《ほか》の住人に出会うことは滅《めつ》多《た》にない。  「——目が覚めた?」  明りを点《つ》けて、朱子は言った。  「何とかね」  夏美は思い切り伸《の》びをした。  「何か食べる? お風《ふ》呂《ろ》に入ってる間に、買って来ようか」  「そうねえ……。脂《あぶら》っこいものはいや。お茶《ちや》漬《づけ》でも食べたい」  無理もない。外へ出れば、弁当や丼《どんぶり》物《もの》ばかりで、脂っこいものに、うんざりしているのだ。  「じゃ、冷《れい》凍《とう》のご飯でも買って来ようか」  と、朱子は、夏美のドレスの背中を開けながら言った。  「お願い。海苔《のり》とお茶でアッサリと食べたい」  「じゃ、買って来ておくわ。のんびりお風呂に入っていてちょうだい」  「一時間はたっぷり入るから」  と言って、夏美は笑った。  やっと目が覚めた、という様子である。多くのファンを魅《ひ》きつける笑《え》顔《がお》が、そこにあった。  「お湯を入れて行くから」  と、バスルームのほうへ朱子が行きかけると、  「自分でやるからいいわ」  と、夏美が止めた。「買物に行って来て。遅《おそ》くなるわ」  「そう?——じゃ、着《き》替《が》えはいつもの所」  「うん、分かってる」  と、夏美は肯《うなず》いた。  朱子は財《さい》布《ふ》を手に、部《へ》屋《や》を出た。鍵《かぎ》をかけて、エレベーターのほうへと歩き出す。  ——場所柄《がら》だろうが、二十四時間開いているスーパーが、近くにあって、夜中まで結構繁《はん》盛《じよう》している。  「明日のおかずもいるか……」  一階のロビーを抜《ぬ》けて、顔見知りのガードマンへ、  「今晩は」  と声をかけ、外へ出る。  少し、風が出ていた。  寒い、というほどでもないが、ちょっと足を早めた朱子は、マンションの向かい側に置かれたミニバイクに気付かなかった。    朱子が通りを急ぎ足で渡って行くのを、星沢夏美はカーテンの隙《すき》間《ま》から見ていた。  玄《げん》関《かん》のほうへと歩いて行くと、チェーンをかけ、居間へ戻《もど》った。  セーターとスカートを身につけて、大きく息をつく。  それから、隣《となり》の部《へ》屋《や》へ入って、明りを点《つ》けた。——夏美の寝《しん》室《しつ》である。  朱子の手で、きれいに片付けられていた。十七歳《さい》の女の子らしい、可愛《かわい》い部屋である。  歌手の部屋らしいものといえば、アップライトのピアノ、そしてオープンリールのテープデッキ。スピーカーが、ベッドの両サイドに置かれている。  夏美は、本《ほん》棚《だな》の下のほうへ身をかがめると、オープンリールのテープを取り出した。  慣れた手つきで、デッキにかける。アンプの電源を入れて、ボリュームを上げて行くと、スピーカーから、かすかにブーンという音が聞こえて来た。  テープデッキのプレイボタンを押《お》すと、低いテープノイズがスピーカーから聞こえて来る。少しボリュームを絞《しぼ》った。  低い絃《げん》の響《ひび》きが、部《へ》屋《や》に広がって行った。  木《もつ》管《かん》楽《がつ》器《き》が、哀《あい》愁《しゆう》を感じさせる旋《せん》律《りつ》を奏《かな》でると、夏美は、そっとピアノの蓋《ふた》を開け、椅子《いす》に腰《こし》をおろした。  絃《げん》楽《がく》が、さざ波のような音型で伴《ばん》奏《そう》をつける、その上に、夏美の指が、木管の吹いたメロディを描《えが》いて行った。  夏美の顔からは、幼なさが消えていた。じっと目を閉じたまま、右手だけで、旋律を弾《ひ》いて行く表情は、ひどく大人《おとな》びて見える。  ——しばらく進んだところで、手が止まった。  夏美は、立ち上がると、テープデッキへと歩み寄り、テープを止めて、巻《ま》き戻《もど》した。そして、また初めから、テープを回し始めた。  だが、今度はピアノの前には座らない。部屋の中央へと進み出ると、真っ直《す》ぐに立って、両手を胸の前でかるく握《にぎ》り合わせた。  心もち、顎《あご》を引いて、瞼《まぶた》を軽く閉じる。  木管のメロディが、ゆるやかに部屋をめぐり始めると、夏美は大きく息を吸い込《こ》んだ……。 2 盗《ぬす》まれた歌声  「克《かつ》彦《ひこ》、いい加減に起きなさいよ」  という声が耳もとで聞こえた。  何だよ、せっかくいいところなのに……。  もうちょっと寝《ね》かしといてくれればいいじゃないか。  「ほら、克彦!」  克彦は、ハッと頭を上げた。——首が痛い。  それも当然で、机に突《つ》っ伏《ぷ》したまま寝ていたのだ。  あれは夢だったのだろうか?  「あんた、ゆうべ何時に帰ったの?」  と、母親の雅《まさ》子《こ》が言った。  「うーん、二時か三時……」  「いくら大学に入ったからって、いい加減にしなさいよ」  「分かってるよ」  と、克彦は言った。「何か食べるもの、ある?」  「起きたばっかりで、よく食べられるわね」  と、雅子は呆《あき》れたように首を振《ふ》った。「今、お昼を食べるから、降りてらっしゃい」  母親が出て行くと、克彦は、頭を振った。——ああ、畜《ちく》生《しよう》!  机の上に、軽いヘッドホンが落ちている。ウォークマンを見ると、テープは、完全に終わって、スイッチが切れていた。  聞いている内に眠《ねむ》っちまったんだ。  「じゃ、やっぱり夢じゃなかったのか……」  と、克彦は呟《つぶや》いた。  巻《ま》き戻《もど》しのボタンを押《お》す。もう一度、聞いてみよう。  克彦は、テープがせっせと巻き戻されている間に、洗面所に行って顔を洗った。  「ああ眠い!」  変な格《かつ》好《こう》で眠っていたせいか、首が痛くて仕方ない。  「タオル、タオル……」  と、手を伸《の》ばすと、ヒョイと、その上にタオルが落ちて来た。「——ん?」  急いで顔を拭《ふ》いて振《ふ》り向く。  「何だ、お前、いたのか」  「失礼ねえ。お礼ぐらい言いなさいよ」  妹の千《ち》絵《え》が腕《うで》組《ぐ》みをして立っていた。  「学校、さぼってんのか」  「何を寝《ね》ぼけてんの。今日は創《そう》立《りつ》記念日」  「へえ。生意気にも、そんなものがあるのか」  「昨日《きのう》そう言ったじゃない」  「忘れたよ」  と、克彦はタオルをヒョイとかけて、部《へ》屋《や》へ戻《もど》る。  千絵がノコノコついて来た。  「何だよ、くっついて来て」  「悪い? 私の家よ」  「勝手にしろ」  克彦は、ベッドにひっくり返った。  ——本《ほん》堂《どう》克彦は十八歳《さい》、妹の千絵は十六歳の生意気盛《ざか》りだった。  この二人、とてもよく似ている。もちろん、克彦はヒョロリと背が高く、千絵はどっちかといえば小《こ》柄《がら》なほうだが、顔立ちは、並《なら》んで歩けば、一目で兄《きよう》妹《だい》と分かるくらい、そっくりだった。  おかげで、克彦は友人たちから、  「お前が女の格《かつ》好《こう》すりゃ、姉で通るぜ」  とからかわれている。  しかし、千絵のほうは、兄に似ているということを、公《ヽ》式《ヽ》に《ヽ》は《ヽ》認めていない。友だちから、  「お兄さん、そっくりね」  と言われると、いつもむきになって、  「ちっとも似てないわよ!」  と反論していた。  しかし、断っておくが、この千絵、丸顔で少しふっくらしているが、モデルにならないかと誘《さそ》われたこともあるくらい、可愛《かわい》い顔立ちなのだ。  従って、当然のことながら克彦もなかなかもてるのである。  兄妹は、この家に母の雅子と三人で住んでいる。父親は二年前に、急に心臓発《ほつ》作《さ》で死んでしまった。  まるでその徴《ちよう》候《こう》もない、元気な働き盛《ざか》りだったのに、朝、ちょっと気分が悪い、と、寝《しん》室《しつ》へ戻《もど》り、三十分して、雅子が、  「もう行かないと遅《おく》れるわよ」  と呼びに行ったときは、既《すで》に冷たくなりかけていたのである。  一流企《き》業《ぎよう》の課長で、近々、最年少の部長かとさえ噂《うわさ》されていたエリート。この家も、つい半年前に建てたばかりで、さて、頑《がん》張《ば》るぞ、と、本人も張り切っていた、その矢先だった。  ——でも、保険に入っていたから、この家のローンは払《はら》えたし、それに、貯金や保険金で、三人の生活は充《じゆう》分《ぶん》にやって行けた。  加えて、雅子はのんびり屋で、いつまでもくよくよしている性質ではなかったから、今はすっかり立ち直って、趣《しゆ》味《み》のクラスへ通ったりして、飛び回っていた。  しかし、そのとき十六と十四だった克彦、千絵の兄《きよう》妹《だい》には、父親の突《とつ》然《ぜん》の死は、大きく影《えい》響《きよう》を与えた。  人の運命なんて分からない……。  十六にして、克彦はそう悟《さと》っていた。  おませな千絵のほうは、十六になったら早く結《けつ》婚《こん》して楽をしようと決心していた。——もっとも、今、その年《ねん》齢《れい》になっても、別に亭《てい》主《しゆ》を連れて来る気配はなかったが。  ともかく、克彦のほうは、父のいない家の中で、男は俺《おれ》一人なんだから、と思っていたし、千絵は千絵で、うちの兄貴は頼《たよ》りにならないからね、などと考えていた……。  ——さて、それはともかく、千絵は、赤いセーターとキュロットスカートというスタイルで、兄の部《へ》屋《や》の中を見回すと、  「——ゆうべ、どうだったの?」  と、訊《き》いたのだった。  「あ、そうだ」  克彦は起き上がった。「そのウォークマン、取ってくれよ」  「何が入ってんの?」  「録《と》って来たんだ、彼《かの》女《じよ》の歌」  「へえ。星沢夏美の?」  千絵は、まるでその曲が目に見えるとでもいうように、カセットテープを目の前に持って来て眺《なが》めた。「何を録ったの?」  「分からないんだ」  「だらしないわね! 彼女のレコード、全部持ってるくせして」  「そうじゃないんだよ。貸せよ」  克彦は、カセットを入れたウォークマンを、妹の手から引ったくるようにした。  「乱暴ねえ。もてないよ」  「妙《みよう》なんだ。——どうなってんだか、まるで分かんねえ」  「何が?」  克彦は、ちょっと天《てん》井《じよう》へ目をやって、  「変なんだ」  と言った。  「変な兄さん」  と、千絵が肩《かた》をすくめる。  克彦はベッドに起き上がった。  「聞けよ。——俺《おれ》、ついて行って、見付けたんだ、彼女のマンション」  「本当?」  「本当だよ。で、一番上の階——八階だったんだ」  「そこまでついて行ったの?」  「下で見てたのさ。パッと明りが点《つ》いたから分かったんだ」  「それで?」  「で、マンションの中に入ろうとしたけど、入口はガードマンがいて、入れないんだ」  「そうでしょうね」  「非常階段を上がることにしたんだ。ちょうどベランダのすぐわきを上がってる」  「八階まで上がったの?」  「もちろんさ! 途《と》中《ちゆう》でちょっと休んだけどな。あんまり足音たてちゃまずいだろ」  「で、どうしたのよ?」  と、千絵がジリジリしながら言った。  「ベランダに飛び移ったんだ! スリルあったぜ」  「嘘《うそ》だあ」  と、千絵が目を丸くした。「本当なら、お兄さん、馬《ば》鹿《か》だね」  「よく言うよ、こいつ!」  克彦は千絵の頭をこづいた。「ベランダとは五十センチしか離《はな》れてなかったんだ」  「なんだ。——でも、家宅侵《しん》入《にゆう》じゃない」  「黙《だま》って聞けよ! それで、カーテンの隙《すき》間《ま》から、中を見てたんだ。——あれ、きっと彼《かの》女《じよ》の部《へ》屋《や》なんだな。テープデッキとか、ピアノとかが置いてあった」  克彦は続けた。「——しばらくすると、彼《かの》女《じよ》が入って来て、テープをかけた。ガラス戸の上の小窓が開いていて、音楽が聞こえて来た。だから、急いで、このウォークマンで録音したんだ。聞いてみろよ」  ヘッドホンを千絵につけさせ、克彦は、プレイボタンを押《お》した。——雑音が多いが、その中から、やがて木《もつ》管《かん》のメロディが流れ出た。  「——これ、何の曲?」  「分かんないんだ。でも、どう考えたって、彼女の持ち歌じゃない」  ピアノの音が入って来た。  ピアノをやっている千絵が、ちょっと耳をそばだてる。  「このピアノ、誰《だれ》が弾《ひ》いてるの? テープの音じゃないみたい」  「うん、生《なま》の音だよ。彼女が弾いてるんだ」  「嘘《うそ》! だって——」  「そうなんだ。おかしいだろ。でも、確かに彼女が弾いてる」  「あの人、ピアノは弾けないって——」  「そうさ。いつもショーの中で、ピアノを弾いてるけど、人さし指だけでポツン、ポツン、とやってるんだぜ」  そうなのだ。星沢夏美はピアノを弾けない。それを、たどたどしく弾いてみせるので、またファンは大喜びするのだった。  「——でも、これは、かなり慣れた弾《ひ》き方だわ」  と、千絵が言った。「右手だけで弾いてるのね。——うまいわ。相当弾ける人よ」  「だろう? でもな、それだけじゃないんだ」  「あ、止まった。まだあるの?」  「聞いててみな」  克彦は、またベッドに寝《ね》そべった。  「——同じテープを回してるのね」  千絵は目を閉じて聞き入った。  木《もつ》管《かん》楽《がつ》器《き》が、哀《あい》愁《しゆう》のこもったメロディを奏《かな》でる。そして、ピアノが入って……、いや、そうじゃない!  歌だ!——ピアノでさっき弾いたメロディを、歌っている。  千絵は、しばらく、その「歌」に聞き入っていたが、やがて、ヘッドホンを耳から外し、テープを止めた。  「——誰《だれ》の歌?」  「彼《ヽ》女《ヽ》だよ」  「嘘《うそ》!」  「本当さ。ちゃんと、歌ってるところを、この目で見たんだ」  「——信じられないわ」  と、千絵は言った。  「あのテープには、歌は入ってなかった」  「きっとMMOのテープなのよ」  「何だ、それ?」  「ミュージック・マイナス・ワンのこと。ソロ(独奏)を抜《ぬ》いた、伴《ばん》奏《そう》だけのテープ」  「カラオケか、要するに」  「そうね。でもクラシックの場合は、あんまりカラオケとは言わないわ」  「ピアノにもあるのか、あんなの?」  「もちろん」  と、千絵は肯《うなず》いた。「大きなレコード屋さんに行けば、売ってるわ。ピアノ協奏曲で、ピアノだけ抜いたのとかね。——でも、あの歌は……」  「何の歌か分かるか?」  「イタリア語みたいね。きっとオペラのアリアだわ」  「アリアって——」  「ほら、『女心の歌』とか『闘《とう》牛《ぎゆう》士《し》の歌』とかあるじゃない、オペラの中で歌うのが」  「何て歌だろう?」  「オペラは弱いんだ。でも、これが本当に星沢夏美の声だったら……」  「正《しよう》真《しん》正《しよう》銘《めい》、生《ヽ》録《ヽ》音《ヽ》だよ」  「凄《すご》いソプラノじゃない! 音程だって、きちっとしてるし、ずっと高い声も出てるし」  「それに凄《すご》い声量なんだ。そばで聞いてて、びっくりしたもんな」  「つまり——どういうこと?」  克彦は首を振《ふ》った。  「分からねえな、あの下手《へた》な歌と、同じ人間が歌ってるんだ。——変な話だろ?」  千絵は肯《うなず》いた。  星沢夏美は、典型的な「アイドル歌手」である。テレビがない時代だったら、とても歌手にはなれなかったろう。  ともかく、可愛《かわい》い。若い世代だけでなく、大人たちをも魅《ひ》きつけるものを持っていた。  TVのCMも、五、六本に顔を出している。ただ——歌はひどいものだった。  正《まさ》に、現代の録音と「加工」の技術が、夏美をスターにした、といってもいいだろう。  音程定まらず、声ものびず、音域は狭《せま》いと来ている。作曲家が、彼《かの》女《じよ》に合わせた歌を作るのに苦労するという話が、ごく当然のように週刊誌にも出ていた。  芸能人を持ち上げる記事で埋《う》まっている週刊誌ですら、「歌は上手じゃないけど、ハートがある」という表現にせざるを得なかった。  星沢夏美は、思い切りエコーをかけたマイクと、歌がかすれそうな、バックの音楽とで何とかもっているのだった。  それに、歌詞もほとんど聞き取れない。それでも、ファンは、そこに本《ヽ》物《ヽ》がいる、というだけで満足するのである。  「ゆうべのワンマンショーは、どうだったのかしら?」  と、千絵が訊《き》いた。  「うん……。前半だけ聞いたけど、いつもの通りだよ。ちっとも、うまくなんてなっていない」  千絵は、またテープを進ませた。ヘッドホンからは、きれいにか細くのびた、高音のピアニシモが聞こえて来る。  「私、声楽のことは分からないけど、この歌は大したもんじゃない?」  「うん、俺《おれ》もそう思う。——お前、誰《だれ》か、その手の歌に詳《くわ》しい人、知らないか?」  「そうねえ……」  千絵はちょっと考えて、「あ、音楽の先生なら、きっと知ってるわ。オペラ・ファンなの」  「へえ。あんなわけの分かんないものに夢《む》中《ちゆう》になる奴《やつ》もいるんだな」  と、克彦は、素直な感想を述べた。  「一度これを聞いてもらって——どうしたの、このテープ?」  千絵は、あわててヘッドホンを外して、頭を振《ふ》った。「急にガーンと来たわ」  「見付かっちまったのさ」  「ええ?」  「ベランダに、何だか植木があったんだ。つい、それ引っくり返してな」  「ドジ! で、どうしたの?」  「逃《に》げたよ。同じルートで」  「非常階段から?」  「うん。向こうはベランダに出て来て、見てたけど、追っかけちゃ来なかった」  「捕《つか》まったら、泥《どろ》棒《ぼう》よ。全く、危いことやって! お母さんに知れたら大目玉だわ」  「おい、しゃべるなよ」  「分かってるって。でもね——」  「何だよ」  「そろそろ食べに行かないと、怒《おこ》られるんじゃない?」  と、千絵が言ったとき、下から、  「克彦! いつまでも何やってるの!」  と、雅子の声が聞こえてきた。 3 流れた血  大内朱子は、久しぶりの休日を、ただあてもなくぶらついて過ごした。  どこかへ行くにも、もう、予定に追いまくられる毎日に慣れ切ってしまって、足が向かないのだ。  本当なら、朱子は、部《へ》屋《や》の中で、じっとしていたい性格である。しかし、自分が出かけたほうが、夏美はよく休めるだろう。そう思って、出て来たのである。  ただ——正直なところ、ちょっと気になっていた。  ゆうべ、夏美がいやに神経質になっていたからである。何かあったのかと訊《き》いてみたのだが、否定するばかりだった。  これだけ生活を共にしていると、夏美のことは、家族以上に、よく分かっているつもりである。  人間は、疲《つか》れて、苛《いら》々《いら》したとき、つい本《ほん》音《ね》が出る。夏美のような若い女の子なら、それが当然だ。  そのために、朱子がいるのである。ヒステリーやわがままをぶつけさせるのも、朱子の仕事の一つなのだ。  だが、昨日《きのう》は、ちょっと様子が違《ちが》っていた。——何かあったことは確かなのに、朱子に隠《かく》しているし、苛々をぶつけても来ないのだ。  あんなことは珍《めずら》しい。いや、初めてかもしれない。  だから、朱子は気になっていたのである。  ぶらぶらと、六《ろつ》本《ぽん》木《ぎ》を歩きながら、途《と》中《ちゆう》、何度もマンションへ電話してやろうかと思ったが、もし夏美が眠《ねむ》ってでもいたら、と、ためらってしまう。  午後も四時になって、朱子は、マンションへ戻《もど》ることにした。  たぶん、夏美ももう起きているだろう。  タクシーでマンションまで戻ると、朱子はロビーへ入って行き、  「あら」  と、声を上げた。  ロビーには、ちょっとした客となら、話が済《す》むように、簡単な応接セットが置いてある。そこの椅子《いす》に、マネージャーの永原が座っていたのだ。  背広は着ているが、その下は、スポーツシャツだった。夏美が久しぶりの休日なので、永原のほうも休みを取ったのだろう。  それでいて、何をしに来たのか。——そして、どうしてここで眠《ねむ》っているのだろう?  朱子は、そばへ行って、永原の肩《かた》をポンと叩《たた》いた。  「ん……。ああ、何だ……」  永原は目を開いて、朱子を見ると、大きく息を吐《は》き出し、頭を振《ふ》った。  「こんな所で、何してるんですか?」  と、朱子は訊《き》いた。  「昼《ひる》寝《ね》しに来たわけじゃないよ。もちろん、我がお姫《ひめ》様《さま》のご機《き》嫌《げん》をうかがいにだ」  永原が、こんな冗《じよう》談《だん》を言うのは珍《めずら》しい。笑いたくなるほどの冗談じゃないけど、気分がいいのは結構だわ、と朱子は思った。  「お休みですよ、今日は」  「分かってる。ただ、急に取材の申し込《こ》みがあってね」  「そんな……」  朱子は顔をしかめた。「明日にすりゃいいのに」  「間に合わない、って言うんだ。社長を通して来たんだよ。これじゃ断れない」  「そこをうまく断るのが、永原さんの腕《うで》じゃありませんか」  「無茶言うなよ。俺《おれ》だってクビになりたくないからな」  こういうセリフが、本《ほん》音《ね》に聞こえると、ちょっと惨《みじ》めだが、永原は、ややおっとりした性格のせいか、あまり嫌《いや》味《み》ではない。  朱子としては、永原がいくらかは本当に夏美の健康を心配しているのを承知していたから、そう悪い印象を持ってはいなかった。その点、計算高い安中とは、ちょっと違《ちが》う。  「それなら、どうしてこんな所に座ってるんですか?」  「降りて来るのを待ってるのさ。——だけど」  と、永原は腕時計を見た。「あれ、もう三十分もたってるな」  「それぐらいかかりますよ。特に一人じゃ。——ちょっと見て来ます」  「頼《たの》む。そろそろ出ないと間に合わない」  エレベーターに乗ると、  「勝手ばっかり言って、もう!」  と、朱子は口に出して言った。  たとえ五分や十分のインタビューだって、当然写真を撮《と》るのだから、ちゃんと化《け》粧《しよう》もし、服を選んで、頭もきちんと整えなくてはならない。それが、依《い》頼《らい》して来るほうには分かっていないのだ。  「ほんの五分だから——」  「ワンカット撮るだけ、十秒もありゃ」  と、気安く言ってくれるが、そのためには一時間も仕《し》度《たく》にかかっているのである。  疲《つか》れているときは、化粧のの《ヽ》り《ヽ》も悪いし、無理に作った、不自然な笑《え》顔《がお》になってしまう。——できることなら、今日はゆっくり休ませてやりたかった。  朱子も、そう沢《たく》山《さん》のタレントや歌手たちを知っているわけではない。ただ、夏美について行って、控《ひかえ》室《しつ》やスタジオで、他《ほか》のタレントたちを見かけることもあった。  今の歌手やタレント、特にアイドルと呼ばれる子たち——本当に「子たち」である——の中では、夏美が、一《いつ》風《ぷう》変って見えることに、朱子は気付いていた。  同年《ねん》齢《れい》の、TVの人気者たちが、一《いつ》旦《たん》、画面から外れると、わがまま放題に、付《つき》人《びと》に当たり散らしているのに比べて、夏美は至って穏《おだ》やかだった。  やはりトップスターという意識のせいもあっただろうが、それだけではないように、朱子には思えた。  よく、他のタレントの付人から、  「いいわねえ、あんた」  と、羨《うらや》ましがられる。  もちろん、夏美だって、不《ふ》機《き》嫌《げん》になることも、わがままを言うこともある。しかし、感情をむき出しにして、周囲へぶつけて来ることはなかった。  その点、夏美は、年《ねん》齢《れい》に似ず、大人《おとな》だった。仕事は仕事、と割り切っている雰《ふん》囲《い》気《き》を持っていた。  だからこそ、朱子も何となく夏美から離《はな》れられないのだ。  ——エレベーターを降り、部《へ》屋《や》へと急ぐ。  鍵《かぎ》を開けて中へ入りながら、  「——夏美さん。——どこ?」  と、声をかける。  ドアが開いている間、風が抜《ぬ》けた。ベランダへ出る戸が開いているらしい。  暑い、という気候でもないのだが。  「どこにいるの?——夏美さん」  返事がない。  きっと、眠《ねむ》っちゃったんだわ、と思った。  今行くから、と返事をしておいて、ついそのまま眠り込《こ》んでしまうことが、よくある。  いいわ、永原さんは待たせておけば。大体、突《とつ》然《ぜん》こんな話を持ち込むほうが悪いんだから。  寝《しん》室《しつ》のドアを開けて、朱子は初めて戸《と》惑《まど》いの表情を見せた。  ベッドは、起き出したままに乱れていたが、夏美の姿はなかった。  「お風《ふ》呂《ろ》かしら……」  居間を横切り、バスルームのほうへ歩いて行く。  途《と》中《ちゆう》、ちょっと気になってベランダを覗《のぞ》いた。戸がやはり、少し開いていて、カーテンがかすかに風ではためいている。  ベランダに出ることも、めったにない。人にみられることを気にするからだ。  このマンションに、住んでいることが知れたら、ファンやカメラマンがやって来て、しつこく追い回されるのは目に見えている。  だから、朱子もかなり気を使っているのだった。  バスルームのドアを、軽くノックして、  「夏美さん。——入ってる?」  と、声をかけてみる。  返事がない。それに、水音も一向に聞こえて来なかった。  まさか、お風呂へ入ったまま、眠《ねむ》っちゃったわけじゃないだろうけど……。  「夏美さん。——開けるわよ」  朱子はそっとドアを開けた。  ——目の前のものが、信じられなかった。立ちすくんで、動けないまま、どれくらい時間がたったか……。  夏美は洗面台の前、浴《よく》槽《そう》のわきに、うずくまるように倒《たお》れていた。  ブルーのTシャツとジーパンという格《かつ》好《こう》は、朱子が、家を出たときのままだ。そして、左の手首が血に濡《ぬ》れて、そこから、タイルの床《ゆか》へと、血が赤黒く広がっていた。  その血《ち》溜《だま》りの中に落ちている、剃《かみ》刀《そり》。——手首を切ったのだ。  「夏美さん!」  朱子は、やっと我に返った。かがみ込《こ》んで、呼びかける。——青ざめたアイドルは、じっと目を閉じて、動かなかった。  「夏美さん……ああ、こんなことして!……一体、どうしたの!」  落ちついて! 冷静になるのよ!  朱子は自分に言い聞かせた。——そう。私だって、看護婦になりたかったんじゃないの。こんなとき、取り乱していちゃ仕方ないわ。  朱子は、夏美の右の手首の脈をみた。——打っている。まだ生きてる!  急いでタオルをつかむと、それで、切った左手の上《じよう》膊《はく》部《ぶ》を強く縛《しば》った。  「救急車だわ」  居間へ飛び込んで、電話を引ったくるようにつかんだ。  ——救急車がどこの病院へ連れて行くかも問題だった。  この近くで、しっかりした病院でなくては。  朱子は、インタホンで、一階の受付を呼び出し、永原を呼んでもらった。  ——待つほどもなく、玄関のドアが開く。  「おい、まだ仕《し》度《たく》ができないのかい?」  と、のんびり声をかけて来る。  「永原さん。夏美さんが手首を切ったんです」  永原はポカンとしている。朱子は続けた。  「今、救急車が来るわ。下にいて下さい。大きな病院へ運び込まないと、後が大変だと思いますから、急いで、心当たりの病院へ、受け入れてくれるかどうか、当たってみて下さい。いいですね?」  「おい、何の話だい? 救急車だの入院だのって——」  「来て下さい」  苛《いら》々《いら》して、朱子は、永原の腕《うで》をつかんで引っ張った。  「おい——転《ころ》ぶじゃないか! 靴《くつ》をはいたままだぞ!」  永原は文句を言った。しかし、バスルームの中を見て、もう何も言わなかった。  「——早く、どこの病院へ運ぶか、決めなくちゃ」  と、朱子は言った。  「ああ。——えらいこった」  永原のほうも真っ青になっている。  「社長さんに訊《き》いて、病院を手配していただいたほうがいいんじゃありませんか」  「そう。——そうだな。よし、すぐ電話する」  永原は、口の中で、えらいこった、と呟《つぶや》きながら、居間へと戻《もど》って行った。  朱子は、タイルに膝《ひざ》をつくと、夏美の上にかがみ込《こ》んだ。  可哀《かわい》そうに……。疲《つか》れ切ってたのね。  「私に八つ当りすればよかったのに……」  そっと、夏美の額にかかった髪《かみ》をのけてやる。  すると——夏美の瞼《まぶた》が細かく震《ふる》えた。  「夏美さん……。聞こえる?」  と、朱子は、そっと囁《ささや》きかけた。  アイドルが目を開いた。だが、朱子を見ているのかどうか、定かでない。  「夏美さん——」  「うみ……」  と、唇《くちびる》から言《こと》葉《ば》が洩《も》れた。  「え?」  朱子が耳をそばだてる。「何なの?」  夏美の唇から、かすかな言葉が、細い糸のように、洩れ出て来た。  「海の……底……」  と。  そして、また瞼《まぶた》が閉じられた。  海の底?——何のことだろう?  確かに、そう聞こえたけれど。  「——はい、——はい、かしこまりました」  居間のほうから、永原の声が聞こえる。「——申し訳ありません。——はい、そっちの対策は何とか——」  何も、あの人が謝《あやま》ることはないのに、と朱子は思った。謝るのなら、みんなが夏美に謝るべきなのだ。  朱子は、サイレンの音に気付いた。——来たらしい。  「永原さん」  と、朱子は声をかけた。「救急車が」  「分かった。——社長、今、救急車が来たようです。——はあ、後で連《れん》絡《らく》します。——では、よろしく」  永原は、額一杯の汗《あせ》を拭《ぬぐ》った。「やれやれ……。俺《おれ》は血を見るとゾッとするんだ」  「誰《だれ》だってそうですわ」  と、朱子は言った。「下へ行って、話をして来て下さい」  「分かった」  永原が急いで出て行く。  朱子は、ベランダへ出て、通りを見下ろした。救急車が、マンションの前に停《と》まって、白衣の男たちが降りて来る。  何だか、いやにのんびりしているように見えて腹が立ったが、考えてみれば、向こうにとってはただ日常的な仕事に過ぎないのだ。  朱子は大きく何度か深呼吸をした。——ずっと夏美についていてやらなくてはならない。  ベランダから中へ入ろうとして、朱子の目は、ふと、路上に停《と》まっている、バイクに止まった。  ミニバイクというやつだ。——ちょうど、ゆうべ、車の後ろをつけて来たような。  でも、あんなバイク、道を歩けば二、三台は出くわすのだから、別に気にすることもないのだろう……。  朱子はバスルームへと、しっかりした足取りで戻《もど》って行った。 4 マネージャーを捜《さが》せ  人の話が耳に入るときというのは、たいてい、肝《かん》心《じん》の点は抜《ぬ》けているものである。  「星沢夏美——」  という名前が、本堂千絵の耳に飛び込《こ》んで来たのは、学校帰りの電車の中だった。  いつも一《いつ》緒《しよ》に帰る近《ちか》子《こ》が、ともかくおしゃべりなので、他人の話が耳に入ることは珍《めずら》しい。  「だからさ、私、言ってやったのよね、それちょっとおかしいんじゃない、って。そしたら、あいつったら——」  うん、うん、と肯《うなず》きながら、千絵のほうは、まるで近子の話が頭に入っていなかった。  星沢夏美がどうしたのかしら?  もちろん、今や「国民的」とすら言われるアイドルである。人の話に夏美の名前が出て少しもおかしいことはない。  しかし、今の話し方は、どことなく気になった。話そのものは分からなくても、声の調子や、しゃべり方で、いい話か、悪い話かは見当がつくものだ。  そして、今、耳にしたのは、何だかあまりいい話とは思えなかったのである。  「——ね、ドロップなめる?」  と、千絵は近子の話を遮《さえぎ》って言った。  「うん」  千絵は、鞄《かばん》からドロップの缶《かん》を出した。その間は、近子の話も途《と》切《ぎ》れるというものである。  「——きっとTVのレポーターなんかが殺《さつ》到《とう》してんだろうな」  「決ってるよ、大《おお》騒《さわ》ぎだぜ」  しゃべっているのは、大学生らしい男の子二人だった。——やはり何かあったらしい。  「原因、分かんねえんだろ?」  「ノイローゼじゃねえの? 可愛《かわい》い子ぶってっけど、本当は分かんねえからな」  「失恋かなあ」  「失恋で死ぬほど純情じゃねえだろ」  死ぬ? 死ぬ、って——。千絵はギクリとした。星沢夏美が死んだ?  「あれ、お前、ファンのくせして冷たいじゃない」  「スターなんて、作られた虚《きよ》像《ぞう》じゃねえか。こっちも、それを承知でファンになってんだからさ」  「へえ、冷《さ》めてんな、お前!」  「でも、自殺未《み》遂《すい》なんて、やるだけ、人間らしいじゃないか」  自殺未遂! 千絵は息を飲んだ。近子がまた、  「そんでさ——」  と話し始めたが、千絵は黙《だま》っていられなくなって、二人の大学生の方へ向くと、  「すみません、星沢夏美がどうかしたんですか?」  と訊《き》いた。  大学生たちは、ちょっと面《めん》食《く》らったように千絵を見たが、  「——うん。手首を剃《かみ》刀《そり》で切って、自殺を図《はか》ったんだ。さっき、ニュースでやってたよ」  「手首を……」  千絵は呟《つぶや》くように言って、「で、具合、どうなんですか」  「知らないよ。命には別状ないみたいだったよ、そのときの話じゃ」  「そうですか」  千絵は、ホッと息をついた。「どうもすみません」  「いいや、構わないよ。君、ファンなの?」  「兄が大ファンなんです」  千絵は、そう言って、もう一度、「どうも」  と、くり返した。  「——千絵、どうしたの?」  さすがに、近子も、不《ふ》思《し》議《ぎ》そうな顔をしている。  「ううん。ちょっと気になってることがあるの」  と、千絵は言って、窓の外の風景に目をやった。  星沢夏美が手首を切った。——きっと、週刊誌などが大《おお》騒《さわ》ぎするだろう。  それにしても、と千絵は思った。兄が彼女のマンションのベランダに忍《しの》び込《こ》んで、あの不思議な歌声を録音して来た、その次の日に、自殺を図《はか》ったというのは、果して偶《ぐう》然《ぜん》だろうか?  でも——もし、偶然でないとしたら……。    「じゃ、俺《おれ》のせいだって言うのか!」  克彦が、食《く》ってかかるように言った。  「そんなこと言ってないじゃないの」  「じゃ、何だって言うんだ! 俺は何もしちゃいないんだぞ!」  克彦は、ふてくされた顔で、ベッドに横になっていた。——千絵は、椅子《いす》に腰《こし》かけると、言った。  「そうやって、すぐ怒《おこ》るのは、気にしてる証《しよう》拠《こ》じゃないの」  克彦は、ちょっと妹のほうをにらんだが、やがてヒョイと肩《かた》をすくめて、天《てん》井《じよう》に目をやった。  「だって……俺《おれ》が、あれをテープにとったこと、彼女は知りゃしないんだぞ」  「そう?」  「そうさ! 気付かれた、と思って、すぐにウォークマン、ポケットに突《つ》っ込《こ》んだんだから。あんな物、持ってちゃ、非常階段に飛び移れないからな」  「そうか。——でも、彼女、お兄さんのこと、見たんでしょ?」  「よせよ」  と、克彦は、ちょっと笑った。「そんなにのんびりしてないぜ、俺」  ——ベランダから、非常階段へ飛び移ったとき、ベランダの戸が開いた。そして、克彦が振《ふ》り向くと、夏美が室内の明りに照らされて立っていたのだ。  二人の目が合った。——夏美にも、克彦の姿が見えたはずだ。二人は、見つめ合っていた。  克彦は、あのときの、彼女の顔が、忘れられない。それは、「アイドル」の星沢夏美ではなかった。  紛《まぎ》れもなく同じ顔で、それでいて、他人のようだった。  あの表情は何だったのだろう?——驚《おどろ》きだけではない。びっくりしたように、克彦を見ていたのは、ほんの一《いつ》瞬《しゆん》で、すぐに表情は変化した。  そして、克彦は戸《と》惑《まど》った……。  「ともかく、心配なんでしょ、彼《かの》女《じよ》のこと?」  と、千絵が訊《き》く。  「当たり前だ」  「じゃ、お見《み》舞《ま》いに行ったら?」  「会えっこないよ」  「そこを会うのが、熱狂的ファン、ってものでしょ」  「病院の周囲は、TV《テレビ》局や記者で一杯だぜ。近づけないよ」  あの表情……。  普《ふ》通《つう》なら、勝手にベランダへ侵《しん》入《にゆう》した男を見て、怒《おこ》るに違《ちが》いない、キッとにらみつけて来るのが当然だろう。  しかし、夏美の表情は、少しも怒っていなかった。何だか、ホッとしたような、というか——ちょっと妙《みよう》だと克彦自身も思ったのだが——むしろ感謝さえしているように思えたのである。  もちろん、それは、克彦の勝手な想《そう》像《ぞう》かもしれない。都合のいい解釈をするな、と怒られそうだ。  だが、あの反《はん》応《のう》が、どう見てもまともでないことは確かである。やはり、何かあるのだ。  「——おい、千絵」  「何よ?」  「入院してる病院、どこだ?」  「行くの?」  と、千絵は目を輝《かがや》かせた。  「もし、俺《おれ》が何か——俺のしたことで、彼《かの》女《じよ》がどうかしたのなら、黙《だま》ってるわけにいかないもんな」  「だからって、どうしてあげることもできないんじゃない? お医者さんじゃないんだから」  「お前が行け、って言ったんじゃないか」  「もちろん、行くべきよ」  と、千絵は肯《うなず》いた。「私も一《いつ》緒《しよ》にね」    大内朱子は、椅子《いす》にかけたまま、頭をガクッと前に垂れて、ハッと目を覚ました。——眠《ねむ》っちゃったのか。  でも、ほんの十分そこそこだ。  朱子は、腰《こし》を浮《う》かして、ベッドの夏美の方へと身を乗り出した。  夏美は、目を閉じて、静かな息づかいをしている。——落ちついたようだ。  朱子はホッとした。  もちろん、ここへ運び込《こ》んだ時点で、命に別状ないということは分かっていたが、それでも、やはり気が気ではなかった。  輸血をして、少し熱が出たようだ。  ベッドの上に出ている左手——その手首の白い包帯が痛々しい。  「可哀《かわい》そうに……」  朱子がそう呟《つぶや》くのは、もう何度目かになる。  夏美が、意識を取り戻《もど》さない——鎮《ちん》静《せい》剤《ざい》を射《う》たれているせいもあるが——ので、こんなことをした動機を、直接聞くことはできないでいる。  ともかく、忙《いそが》しすぎる日々の集積が、原因の一つになっていることは間《ま》違《ちが》いない、と朱子は思っていた。  これを機会に、少し休ませなくては。  病室のドアを、いきなりノックする音がして、朱子はびっくりして飛び上がりそうになった。——何て無神経な!  記者か何かだったら、けっとばしてやろう、と朱子は勇ましいことを考えていた。  ドアを開けると、常務の安中が立っている。  「まあ、やっとおいでになったんですか」  朱子は、ちょっと咎《とが》め立てするように言った。安中は、事件以来、初めて病院にやって来たのである。  「忙《いそが》しかったんだ」  安中はぶっきら棒《ぼう》に言った。「どうだ、具合は?」  「お医者さんと話していただいたほうがいいと思いますけど」  朱子の言《こと》葉《ば》に、安中はムッとした様子で、  「君に訊《き》いてるんだ!」  と言った。  「病院ですよ。大きな声を出さないで下さい」  朱子は負けていない。  ともかく、別にクビになったって、朱子としては一向に惜《お》しくもないのだ。安中にいくらにらまれても、ちっとも怖《こわ》くない。  「分かった。——医者はどこだ?」  「あちらの看護婦さんの所で訊《き》いて下さい」  「退院は時間がかかりそうか?」  「そう簡単には——」  「君がちゃんと見ててくれなきゃ困る。こんな事件で、スター生命が終りになることもあるんだ」  朱子は、怒《いか》りがこみ上げて来るのをこらえながら、  「問題は原因でしょう。誰《だれ》だって、彼女に二十四時間ついてるわけにはいかないんですから」  と言い返した。  朱子は、安中が真《ま》っ赤《か》になって怒《ど》鳴《な》りつけて来るのではないかと思った。——が、意外なことに、安中は朱子から逃《に》げるように目をそらせた。  そして、目を病室のドアのほうへと向けて、  「何か言ったか」  と訊《き》いた。  「え?」  「どうしてあんなことをしたのか、話したのか?」  「いいえ。まだ鎮《ちん》静《せい》剤《ざい》がきいていて、目を覚ましません」  「そうか」  安中は、ちょっと息をつくと、「じゃ、医者と話をして来る」  と、歩いて行きかけて、足を止めた。  そして振《ふ》り向くと、  「夏美を頼《たの》むよ」  と言った。  朱子は、ちょっと呆《あつ》気《け》に取られていた。  どうして、急に安中の態度が変ったのだろう? 最後の言《こと》葉《ば》では、本《ヽ》当《ヽ》に《ヽ》夏美のことを気づかっているように聞こえた。  もちろん、夏美はプロダクションのドル箱《ばこ》なのだから、安中が心配するのは当たり前のことだ。しかし、それはあくまで、「収入源」としての夏美でしかない。  ただ、今の安中の言葉には、それを超《こ》えたものがあったように、朱子には思えたのである……。  そっとドアを開け、病室の中へ戻《もど》る。  音をたてないように気を付けながら、ドアを閉めると、  「朱子さん」  と呼ばれて、キャッと声を上げた。  「——ああ、びっくりした。目が覚めたの?」  「うん」  「気分は?」  「何だか——半分眠《ねむ》ってるみたい」  病室の中は、明りを消してあるので、薄《うす》暗《ぐら》い。  「眠ればいいわ。まだ夜中よ」  「そう……」  夏美は、静かに息をついた。——また寝《ね》入《い》ったのかと思っていると、  「ごめんね」  と、囁《ささや》くような声。「大変だったでしょう」  「こっちがショックで倒《たお》れるかと思ったわ」  と、朱子は明るい調子で言って、椅子《いす》に座った。「何か欲しいもの、ある?」  「お水、ちょうだい」  朱子が水のコップを渡してやると、夏美は少し体を起こして、ゆっくりと水を飲んだ。  「食べたいもの、ある?」  「今はいいわ。——ありがとう」  夏美は、半分ほど残ったコップを返して、「TV《テレビ》や週刊誌が来てる?」  と訊《き》いた。  「山ほどね」  と、朱子は肯《うなず》いた。「今は大分引き上げたんじゃない? でも、大《だい》体《たい》各社一人や二人は残って、粘《ねば》ってるようよ」  「そう」  夏美は、ちょっと笑ったようだった。「ニュースを提供しちゃったわね」  「これで週刊誌は当分困らないわ」  「——さっき、声がしてたのは、安中さん?」  「そうよ。今ごろやって来て、仕方ないわね、全く!」  「何か言ってた?」  「一応、大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》か、とは訊いてたけど……」  朱子は、ちょっと夏美のほうへ顔を寄せて、  「あんまり話すと疲《つか》れるわ。また明日にしたら?」  「そうね……」  夏美は、軽く息を吐《つ》いた。「——朱子さん」  「うん?」  「ごめんね」  「いいのよ。ともかく、今は寝《ね》なさい」  「うん……」  ——しばらくして、夏美は寝入ったようだった。規則的な、静かな寝息が聞こえて来た。  朱子は欠伸《あくび》をした。  安心したせいか、眠《ねむ》気《け》がさして来たのだ。ソファででも、少し眠ろうか、と椅子《いす》から立ち上がった。  窓辺に歩いて行って、表を見下ろす。  相変らず、何台かの車が、路上に停《と》まっている。——TV局、週刊誌、スポーツ新聞あたりの人間たちだろう。  夜明かしで、たった一人の女の子のことを見張っているのだ。大《だい》の大人たちが。  ご苦労様なことだわ、と朱子はおかしくなった。  遠くから、救急車のサイレンが聞こえて来た。  どうやら、こっちへ近付いて来る。  もちろん、ここは救急病院なのだから、色々と、急《きゆう》患《かん》が運ばれて来て当然だ。  救急車が見えた。やはりここへ来るのだ。——赤い灯《ひ》が路上を照らす。  救急車が病院の中へと入って来ると、報《ほう》道《どう》陣《じん》の車から、何事かと出て来た者もあった。  そうそうアイドルスターが入院するわけもあるまい。  朱子は、窓から離《はな》れ、病室から静かに廊《ろう》下《か》へ出た。  急患のせいか、廊下の奥《おく》のほうが、何となくざわついている。看護婦も、急ぎ足で下へ降りて行く。  安中が、何だかせかせかした足取りでやって来た。  「どうしたんですか?」  と、朱子が訊《き》くと、ちょっと顔をしかめた。  「医者の話を聞いていたら、急に患者だとか言われて。——しかし、一応大したことはないということだったな」  「少し休ませてあげて下さい」  と、朱子は言った。「いい機会ですよ。ここでちゃんと元気にさせておかないと、また同じことのくり返しになります」  「それは僕の一存じゃ決められんよ」  と、安中は肩《かた》をすくめた。  また、いつもの「計算高い」安中に戻《もど》ったようだ。  「さしあたり、マスコミにはどう言うんですか?」  「頭が痛いよ」  と、安中はため息をついた。「ともかく、自殺未《み》遂《すい》ということで、まだ夏美のイメージにはそう傷がついていない。むしろイメージ・ダウンはプロダクションの側さ」  仕方ないでしょ、言われても。朱子は心の中で呟《つぶや》いた。  「しかし、この一件で、TV《テレビ》のスケジュールは全部狂《くる》った。そのマイナスは大きいぞ。それに、肝《かん》心《じん》のリサイタルがある」  「それで夏美さんを責めちゃ可哀《かわい》そうですよ」  「分かってるよ」  安中は苦笑して、「君は夏美の保護者みたいだね」  「そう思ってますけど、自分では」  「ともかく——誰《だれ》に何を訊《き》かれても、君は答えちゃいかん。分かるな? 一《いつ》切《さい》応じるんじゃないぞ」  「はい」  「こっちから、時期をみて、ちゃんと発表する。訊かれたら、そう言っとけ」  「分かりました」  「永原はどうしたんだ?」  そういえば、姿を見ない。  朱子は、すっかり永原のことなど忘れていた。  「あいつ、夏美のそばについていなきゃいかんのに」  と、安中は不《ふ》機《き》嫌《げん》な顔で言った。  「血を見て、気持悪くなったんじゃありませんか」  「電話してみろ」  「夜中ですよ」  「構わん。明日の朝までのんびり待っていたら、打ち合わせもできん。電話して、ここへ来るように言ってくれ」  よっぽど、ご自分でどうぞ、と言いたくなったが、そこまで逆《さか》らうのも、ちょっと大人《おとな》気《げ》ないような気がして、朱子は電話をかけに、一階へと降りて行った。  入口の近くでは、受けいれた急《きゆう》患《かん》のことで、当直の医師と看護婦が、あれこれ動き回っている。  朱子は、少々気の進まないままに、公衆電話で、永原の家へかけた。  しばらく鳴らすと、  「はい……」  と、眠《ねむ》そうな女の声がした。  「あ、永原さんですか。私、夏美さんに付いてる大内です」  「あ、どうも——」  「ご主人、いらっしゃったら、ちょっとお願いしたいんですけど」  「え?」  と、向こうは当《とう》惑《わく》した様子で、「いませんよ。夏美さんが入院している病院に、今夜はずっと詰《つ》める、と電話がありましたけど……」  「病院に、ですか?」  朱子は面《めん》食《く》らった。  確かに、夏美が入院したとき、永原はついて来た。しかし、その後は、集まって来たマスコミの相手をするばかりで、病室には姿を見せなかったのだ。  「じゃ、そっちへ訊《き》いてみます。すみません、夜中に」  朱子は電話を切った。  おかしい。——永原はどこへ行ってしまったのだろう? 5 飛び込《こ》んだアイドル  「さあ、出て、出て!」  これでも女かと思うような怪《ヽ》力《ヽ》で、克彦と千絵は病院の通用口から押《お》し出されてしまった。  「あーあ」  千絵が兄をにらんで、「お兄さんがいけないのよ! 変なところで悲鳴を上げるから」  「だけどな、お前、何を注射されるか分かんないんだぞ」  克彦は、苦《にが》い顔で振《ふ》り向いて、「それにしても、あの看護婦、凄《すご》い力だな。女子プロレス出身じゃないのか」  「馬《ば》鹿《か》言わないで」  千絵はウーンと伸《の》びをした。「せっかく私が頭を絞《しぼ》って名案をひねり出したのに!」  まともに病院の受付に行って、  「星沢夏美の病室はどこですか?」  と訊《き》いたって、教えてくれるわけがない。  そこで、千絵の思い付きで、この近くから一一九番、兄を急病人に仕立てあげて、救急車で目《め》指《ざ》す病院に運び込まれるように図《はか》ったのである。  計画は図《ず》に当たり、うまくかつぎ込《こ》まれた——までは良かったが、得《え》体《たい》の知れない注射をされそうになって、克彦が、  「もう大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》です! 良くなりました!」  とあわてて叫《さけ》んだので、怪《あや》しまれ、ついに白状してしまった。  かくて——当然のことながら——二人は叩《たた》き出されたのである。  「まあ、叱《しか》られただけで済《す》んだのが儲《もう》けものよ」  と、千絵が言った。「学校へ通報されたら、停学処分ものだわ」  「お前が考えたんじゃないか」  「お兄さんが、どうしても彼《かの》女《じよ》に会いたい、って言うからじゃないの」  「でも、俺《おれ》は——」  と二人がもめていると、  「本堂君じゃないか」  と、男の声がした。  びっくりして振《ふ》り向くと、何だか使い古した小型車の窓から、メガネをかけた細長い顔が覗《のぞ》いている。  「あ、仁《に》科《しな》さん」  「夏美のことで来たの?」  車から出て来たのは、二十七、八の、ちょっとくたびれた感じの青年で、どことなく神経質で繊《せん》細《さい》で、頼《たよ》りなげで、それでいて、何だか現実離《ばな》れした目つきの……。  早く言えば「詩人のなりそこない」という印象の青年だった。  「あの——妹の千絵です」  と克彦が言った。  「やあ。僕《ぼく》はCタイムスの仁科」  と、その青年は言った。  「お名前、兄から聞いてます。星沢夏美の担当されてるんでしょ」  「十七歳《さい》の女の子を、雨の日も風の日も追い続けてるわけさ」  と、仁科は、ちょっと苦《にが》々《にが》しい調子で言った。  「夜明かしなんですか?」  と克彦が訊《き》く。  「うん。朝になったら交《こう》替《たい》が来る。——どうだい、コーヒーでも飲みに行くか」  「離《はな》れてていいんですか?」  「そう急に容《よう》態《だい》が変ることもないさ。行こうぜ」  仁科に促《うなが》され、克彦たちも、それを断る理由もない。三人で、車を置いて、近くのファミリー・レストランに入った。  国道沿《ぞ》いにあるせいか、終夜営業の店である。夜中なのに、結構客が入っている。  三人は軽くサンドイッチなどつまむことにした。  「原因は何だか分かったんですか?」  と、克彦が訊《き》いた。  「さあね。——あの忙《いそが》しさじゃ、失恋ってこともないだろう。きっと、過労から来たノイローゼだろうな」  仁科はあまり関心なさそうに言った。  「そういうの、調べたりしないんですか?」  と、千絵が訊いた。  「どうせ明日になりゃ、プロダクションのほうから説明がある。こっちは、それを記事にすりゃいいのさ」  と、仁科はかなり、投げやりな調子。「こっちは、プロダクションに嫌《きら》われたら、取材できなくなる。そのほうが怖《こわ》いんだよ」  「はあ……」  千絵は何だか拍《ひよう》子《し》抜《ぬ》け、という顔だった。  克彦が仁科と知り合ったのは、もちろん、夏美を追いかけ回しているときのことである。別に、事件といえるほどの出会いがあったわけではなく、ただ、何度も夏美のショーやTVの公開番組に足を運んでいるうち、何となく顔見知りになっていたのだ。  克彦は、いわゆる芸能記者とか、レポーターの類《たぐい》が好きでない。面《つら》の皮の厚さが何センチあるのかと思うほど図《ずう》々《ずう》しい手合いが多いからだ。  しかし、そんな連中の中で、仁科はどことなく違《ちが》っていた。あまり押《お》しも強くないし、記者会見などでも前のほうへ出ようとして他《ほか》の社の記者と争うなどというみっともないことはしなかった。  だから、一向に出《しゆつ》世《せ》もできないようだが、仁科は、そんなことには興味がない様子だった。  いつも自分の仕事をどこか恥《は》じているようなところがあり、冷《さ》めていた。  「ところで、君たち、病院から出て来たみたいだったね」  と仁科が言った。  「ええ、そうなんです」  千絵が、救急車で病院へ運び込《こ》まれるという計画と、実際のてんまつを話すと、仁科は笑い転《ころ》げた。  「——いや、大したもんだ! 僕《ぼく》なんかより、よほど、特ダネ精神旺《おう》盛《せい》だね」  「失敗しちゃ仕方ないですよ」  と、克彦は照れながら言った。  「いやいや、君たちの場合は、それでスクープしようとか、金にしたいとか思ってるわけじゃない。純《じゆん》粋《すい》に、星沢夏美のことが心配で、病院に入りこんだわけだからね。僕らとは違《ちが》うよ」  仁科は、欠伸《あくび》をした。「——ただぼんやりと外で待ってて、給料をもらうんだ。全《まつた》くいい商売だよ、記者なんてのは」  言《こと》葉《ば》とは裏腹に、仁科の顔は、いやな商売だよ、と言っているようだった……。    「ちょっと——」  と、病院の廊《ろう》下《か》で呼び止められて、朱子は振《ふ》り向いた。  夏美の病室へ戻《もど》ろうとしていたのである。呼び止めたのは、ガウンをはおった、ほっそりした女性で、入院患《かん》者《じや》らしいことは一目で分かった。  「はい。何か……」  私のことを、看護婦と間《ま》違《ちが》えてるのかしらと朱子は思った。  「あなた、もしかして——違ってたらごめんなさい——星沢夏美さんの付《つき》人《びと》をしてる方じゃない?」  「ええ。——そうです」  「やっぱり!」  と、その女性は肯《うなず》いた。  髪《かみ》がぼさぼさだったりして、やつれて見えるせいもあるだろうが、四十代の半《なか》ば、と思えた。  「どこかでお見かけしたな、と思っていたのよ」  「どなたでしょうか、失礼ですけど」  「ごめんなさい。私、自分のことを何も言わずに。——私、安中貴《き》代《よ》といいます」  「安中……。あの、安中常務の——」  「家内ですの。ここに入院しているのよ」  「存じませんでしたわ」  朱子は急いで頭を下げた。「大内朱子です」  「そうそう、そんなお名前だったわね。——夏美さん、大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》なの?」  「ええ、今は落ちついているようです」  「それならいいけど……」  安中貴代は、ちょっと曖《あい》昧《まい》に言った。  夏美をこの病院へ入れたのは、安中が、妻が入院していて、ここを知っていたからだろう。しかし、安中自身は、一言もそんなことを言っていなかった。  「もういい加減長いの」  と、貴代は言った。「病院の主《ぬし》になりそうだわ」  「どこがお悪いんですか?」  朱子の問いに、貴代は答えなかった。  「主人は、ここへ来るのかしら?」  「安中さんですか。みえてますよ」  「ここに来てるの? まあ、知らなかったわ」  貴代の顔が急に硬《かた》くなったので、朱子はしまった、と思った。言わないほうが良かったのかもしれない。  いくら長く入院しているといっても、妻の所に、ちょっと顔を出すぐらいのことは、して当然ではないか。それをしないというのは——たぶん安中と、この妻との間が、あまりうまく行っていないということだろう。  「主人は、どこにいるのかしら?」  貴代は、平静を装《よそお》ってはいたが、顔はやや引きつっている。  「あの——夏美さんの病室じゃないかと思いますけど」  「案内して下さいな」  ——言い方は穏《おだ》やかだが、断りようがない押《お》しの強さがあった。  あまり気は進まなかったが、朱子は安中貴代を連れて、夏美の病室へ向かった。  廊《ろう》下《か》に、当の安中がいた。——何だかソワソワしている。  「安中さん」  と、朱子が声をかけると、ギョッとした様子で振《ふ》り向いた。  「君か! どこへ行ったんだ!」  「どこって、永原さんの所へ電話したんですよ」  「そりゃ分かってる。君のことじゃなくて、夏美のことだ」  「夏美さん?」  朱子は思わず訊《き》き返していた。  「ああ。病室にいないんだ」  「知りませんよ、私。下で電話してたんですから。——安中さん、ここにいらしたんじゃないんですか?」  「俺《おれ》は——」  と、言いかけて、安中は妻に気付いた。「貴代、何してるんだ?」  「こっちがうかがいたいわ」  と、貴代が冷ややかに言った。「ここへ来ていて、私の所に顔も出さない、ってのはどういうこと?」  「何を言ってるんだ。こっちは仕事なんだぞ!」  「仕事だって、私の病室へ顔を出すぐらいの時間はあるでしょ」  「いいか、今は大変なときなんだ!」  朱子としては、安中夫婦の喧《けん》嘩《か》につき合っている気はなかった。  病室の中へ入る。  明りが点《つ》いていて、ベッドは空《から》っぽだった。  どこへ行ったのだろう? あんなによく眠《ねむ》っているようだったのに。  朱子は廊《ろう》下《か》へ出た。  「いいか、俺が働かなきゃ、お前だって、こんな所に、のんびり入っちゃいられないんだぞ!」  「のんびりとは何よ! 人が好きで入院してるとでも——」  やり合っている二人の間へ、朱子は割って入った。  「待って下さい!——安中さん、夏美さんがいなくなったのは、いつですか?」  「知らんよ。今、来てみたらいないから——」  「じゃ、捜《さが》さなきゃ! 彼《かの》女《じよ》は自殺未《み》遂《すい》をやったばかりなんですよ。またどこかで死のうとするかもしれないじゃありませんか!」  「そ、そうか」  いつもの冷静な顔はどこへやら、安中は青くなった。  「私、トイレを見て来ます。看護婦さんを捜して、いなくなったと話して下さい」  「分かった」  二人が行ってしまうと、安中貴代は、つまらなそうに鼻を鳴らして、欠伸《あくび》をしながら、のんびりと歩いて行った……。    「——何かあったのかな」  病院まで戻《もど》って来て、仁科は足を止めた。  明らかに、様子がおかしい。看護婦や医師たちが、病院の外を駆《か》け回っているのだ。  「他《ほか》の社の連中の姿が見えないな」  「どうしたんでしょうね」  と克彦が言った。  「あ、あそこにTV《テレビ》局の知ってる奴《やつ》がいる。——おい、どうしたんだ?」  と、仁科は、マイクを片手にした男へ声をかけた。  「仁科か! まだ見付からないんだよ」  「見付からないって、何が?」  相手は呆《あき》れたように仁科を見て、  「お前、どこへ行ってたんだ?」  「ちょっと一休みさ。——何かあったのかい?」  「それでお前、よくクビにならないな! 星沢夏美が病院からいなくなったんだよ!」  「本当かい? 参ったな! よりによって俺《おれ》のいないときに——」  これで出《しゆつ》世《せ》できるはずがない。  「ともかく、社へ電話して来るよ」  と、仁科は、克彦と千絵に言った。  「ご心配なく。私たち、ちゃんと車拾って帰りますから」  と、千絵が言った。  仁科が、  「赤電話って、どこかにあったかなあ」  と呟《つぶや》きながら行ってしまうと、克彦たちは顔を見合わせた。  「やっぱり、死ぬつもりなのかしら?」  と、千絵が言った。  「分かんないな。しかし、病院からどうやって出たんだろう?」  それは確かにその通りだった。病院の出入口は、ちゃんと人もいるし、報《ほう》道《どう》陣《じん》の車も、何台か停《と》まっている。  出て来れば目に付きそうなものである。  「あーあ」  千絵が大欠伸《あくび》をした。サンドイッチなどつまんで、お腹が満たされたので、今度は必然的に眠《ねむ》くなったのである。  「お前、不《ふ》真《ま》面《じ》目《め》だぞ。彼《かの》女《じよ》が今にも死のうとしているかもしれないってのに」  「だって、私たちにできることなんて、ある?」  そう訊《き》かれると、克彦のほうも何とも言えなくなる。  「だけど……」  「もう帰ろう。お母さんだって心配してるわ」  克彦としても、今ここに自分がいても、どうにもならないことは、よく分かっている。それでも、ついぐずぐずしてしまうのは、何だか妹の言うことを聞いては、兄としての面《めん》目《ぼく》にかかわる、という、つまらない意地のせいだった。  「よし、じゃ、帰るか」  と殊《こと》更《さら》に大きな声で、「お前、どうする?」  などと訊いてみる。  千絵はクスクス笑って、  「帰るわよ、もちろん」  と、兄に調子を合わせた。  「じゃ、タクシー捜《さが》そう」  克彦としては、病院の人と一《いつ》緒《しよ》になって夏美を捜したいのはやまやまである。  しかし、何しろさっきも叩《たた》き出されたばかりだ。却《かえ》って怪《あや》しまれて混《こん》乱《らん》することにもなりかねなかった。  ここは、帰って、夏美が見付かるのを祈《いの》っているしかないだろう。  「——ほら、タクシー来たよ」  と、千絵が言った。  克彦が手を上げると、空車が寄って来て停《と》まる。——千絵が先に、克彦が続いて乗り込んだ。  突《とつ》然《ぜん》、誰《だれ》かが克彦のあとからタクシーへ入って来た。克彦はびっくりして、  「何だよ! おい——」  と振《ふ》り向いたが……。  「お願い! 乗せて行って!」  克彦は仰《ぎよう》天《てん》した。  いつもTVや、舞《ぶ》台《たい》でしか見たことのない顔が、いきなり目の前に迫《せま》って来たら、びっくりするのは当たり前だろう。  いや、克彦は、あのベランダで顔を見合わせている。しかし——こんなに間《ま》近《ぢか》に見たのは、初めてのことだった。  「お兄さん!」  と、千絵が言った。「つめてあげないと、窮《きゆう》屈《くつ》よ」  妹のほうが、よほど落ちついているのである。  「ああ——そうだな」  やっと我に返って、克彦は体をずらした。  千絵が運転手に行《ゆく》先《さき》を説明している。  星沢夏美は息を弾《はず》ませながら、座席にもたれた。——はおったコートを、固く抱《だ》きしめるようにしていた。  これ、本当のことなんだろうな?  克彦は、そっと自分で太ももをつねってみた。——確かに痛かった!    「——分かりませんね」  と、当直の医師は、渋《しぶ》い顔で首を振《ふ》った。  「落ちついているように見えたんですが」  「しかし、現にいなくなったんです!」  安中は、額の汗《あせ》を拭《ぬぐ》った。  夏美が姿を消した。——社長に怒《ど》鳴《な》られるのは当然だが、これで夏美の身に何かあったら——クビも危いかもしれない。  朱子は、病室に入って、息をついた。  「変だわ……」  夏美の様子からは、また失《しつ》踪《そう》するとは、とても考えられなかった。  しかし、病院の出入口は、ちゃんと人が見ているのだから、やはり本人が、こっそり出て行きたいと思わなければ、出ることはできなかっただろう。  もちろん、一番心配なのは、また夏美が自殺を図《はか》ることだ。  ただ——こんなときに、妙《みよう》なことだが、朱子はあまりその心配はしていなかった。といって、一度自殺し損《そこ》なった者は二度と死のうとしない、という俗説を信じているわけではない。  これだけ夏美に付き合って来た者の勘《ヽ》といおうか、何となく、そうは思えなかったのである。  それに——理《り》屈《くつ》めいた言い方になるが——死のうと思えば、いくらでも病院の中で、方法があったのではないか。苦労して病院を抜《ぬ》け出したこと自体、それだけ頭を使う余《よ》裕《ゆう》があったということでもある。  死ぬほど追いつめられていたら、そんな真《ま》似《ね》ができるだろうか?  ただ、死ぬつもりでないとしたら、夏美は何か理《ヽ》由《ヽ》があって、病院を出たことになる。それは何だろうか?  「もしかして——」  マンションにでも戻《もど》ったのだろうか?  まさか、とは思ったが、一応電話してみても悪くないだろう。  病室を出ようとして——本当に突《とつ》然《ぜん》のことだったが、その考えが浮《う》かんだのだ。  本当に突然のことで、自分でそれを意識するより早く、朱子は行動に移っていた。すなわち、床《ゆか》に腹《はら》這《ば》いになって、ベ《ヽ》ッ《ヽ》ド《ヽ》の《ヽ》下《ヽ》を覗《のぞ》き込んだのである。  そんな所に、まさか夏美が……。  そう。——確かに、夏美はそこにいなかった。  しかし、すでに生命を失った一《いつ》対《つい》の目が、朱子を見返していた。——永原幸男の目が。 6 夢《ゆめ》か現実か  誰《だれ》だって、朝早く——まだ明るくなるかならない内に叩《たた》き起こされたら、面《おも》白《しろ》くはない。  特に、前の晩、寝《ね》たのが十二時過ぎとなれば、睡《すい》眠《みん》は五時間にも満たないわけで、いくらよく「出来た」人間でも、不《ふ》機《き》嫌《げん》になろうというものだ。  加えて、門《かど》倉《くら》刑《けい》事《じ》のことを、「出来た人だ」と賞《ほ》める者は、あまりいなかった。  もちろん、全《まつた》くいなかったとは言い切れないが、少なくとも門倉の周囲には、あまりいなかったのである。  もっとも、刑事があまり良く出来ていて、人格者だったら、却《かえ》ってやりにくいかもしれないが。  「何だってこんな時間に」  と、門倉は、欠伸《あくび》をしながら、ふてくされて、言った。  しかし、殺人事件などというものは、朝九時から夕方五時までの間に都合良く起きてはくれない。むしろ、夜とか、深夜に多いだろう。  パトカーは、まだ明けぬ町の中を、駆《か》け抜《ぬ》けていた。  「現場はどこだ?」  と、門倉は運転している警官に訊《き》いた。  「病院です」  「病院か。——どうせなら犯人も、死体を他《ほか》の患《かん》者《じや》の中に紛《まぎ》れ込《こ》ませとけば分からなかったのにな」  それなら、こんな時間に呼び出されることもなかったろう、という門倉の理《り》屈《くつ》である。  ——門倉は、グチっぽい割りには、まだそれほどの年《ねん》齢《れい》でもない。  やっと四十になったばかりだ。もちろん、若い女の子から見れば、もう充《じゆう》分《ぶん》な年齢だが、停年までは大分ある。  せめて、警部にまでは昇《しよう》進《しん》してから死にたい、と門倉はいつも思っていた。  大《だい》体《たい》、いつも機《き》嫌《げん》が悪い。——殺人事件などと年中付き合っているのだから、同情すべき余地はあるが、いくぶんかは当人のせいもあった。  門倉は独《ひと》り者だ。未《み》婚《こん》ではないが、女《によう》房《ぼう》に逃《に》げられたのである。それ以来、ずっと不《ふ》機《き》嫌《げん》な顔をしている、と言われていた。  それが事実なら五年間、不機嫌のまま、ということになる。  「まだ五分以上かかるか」  と、門倉は訊《き》いた。  「いえ、二、三分ですよ」  「そうか」  門倉はがっかりした。五分以上あれば眠《ねむ》っておこうと思ったのだ。  「——あそこです」  言われて、前方を見て、門倉は目を見張った。——やたら沢《たく》山《さん》の車が、道を塞《ふさ》いでしまっている。  オートバイもあるが、何とTVの中《ちゆう》継《けい》車《しや》が来ている!  「何だ、病院でプロ野球でもやるのか?」  と、門倉は言った。  パトカーが停《と》まると、駆《か》けて来た若い刑《けい》事《じ》がドアを開けてくれた。  「本庁の門倉さんですか」  「そうだ」  「お待ちしてました」  門倉は、TVカメラが自分のほうへ向かないので、ちょっと不《ふ》愉《ゆ》快《かい》になった。そのくせ、もし向けられたら、  「うるさいな」  とにらみつけるのである。  女《によう》房《ぼう》に逃《に》げられた四十男の心情は屈《くつ》折《せつ》しているのだ。  「えらい騒《さわ》ぎで——」  若い刑《けい》事《じ》は、病院へ入りながら言った。「朝の放送が始まったら、もっと、もっと大変ですよ」  「何をそんなに騒いでるんだ?」  門倉の言葉に、若い刑事はちょっと面《めん》食《く》らった様子で、  「ご存知ないんですか?」  と言った。  「眠《ねむ》い所を叩《たた》き起こされたんだ。何も聞いとらん」  「そうですか。いや——殺されたのは、永原って男でして」  「有名な奴《やつ》か」  「いえ、そうじゃありません。でも、星沢夏美のマネージャーだったんです」  門倉は、ちょっと間を置いて、  「——誰《だれ》のマネージャーだって?」  と訊《き》き返した。  「あ、星沢夏美っていうのは、今、若い子たちに凄《すご》い人気のアイドル歌手なんです」  「ふーん。歌い手か」  「その子が自殺未《み》遂《すい》を図《はか》りまして」  「自殺?」  「カミソリで手首を切ったんです」  「死んだのか?」  「いえ、大したことはなかったようです。でも、一応ここに入院したいと——」  「で、殺しのほうはいつ起こったんだ?」  「星沢夏美の病室で、永原が刺《さ》し殺されていたんです」  「ほう」  「死体はベッドの下に押《お》し込《こ》んでありました」  「それで——そのアイドル歌手は?」  「それが妙《みよう》でして……」  「どう、妙なんだ?」  「行《ゆく》方《え》不《ふ》明《めい》なんです」  門倉は、ゆっくりと肯《うなず》いた。  「病院から出て行ったのか」  「今、手分けして、もう一度捜《さが》していますがたぶんむだでしょう。病院を脱《ぬ》け出したらしいです」  若い刑《けい》事《じ》は、ちょっとため息をついて、「僕《ぼく》も彼《かの》女《じよ》のファンなんですけどね……。まさか彼女が——」  「その子がどうしたというんだ?」  門倉がそう言うと、若い刑《けい》事《じ》は、ちょっと面《めん》食《く》らって、  「いえ——つまり——彼女がいなくなって、死体が後に残って——」  「つまり、その何とかいう歌手が犯人だ、と思っているわけだな。そうか?」  「はあ……。たぶん——」  「そういう先入観が、捜《そう》査《さ》を誤《あやま》らせるんだ!」  門倉は、いきなり凄《すご》い声で怒《ど》鳴《な》った。「よく憶《おぼ》えとけ!」  「あ、すみません」  刑事のほうは青くなって、直立不動の姿勢を取った。  「病院の中では静かにして下さい」  と、看護婦が飛んで来て言った。  門倉は咳《せき》払《ばら》いをした。  「現場はどこだ?」  「ここです」  と、若い刑事がドアを指さす。  「そうか」  門倉は中に入って行った。  「やあ、あんたか」  検死官が、門倉を見て、言った。  「俺《おれ》で悪かったな」  「そうひねくれるな。——この殺しは慎《しん》重《ちよう》にやらんと。間《ま》違《ちが》っても、容疑者は星沢夏美だなんて発表するなよ」  「夏美さんは人殺しなんかしません!」  と、突《とつ》然《ぜん》割り込《こ》んだのは——。  「何だ、君は」  と、門倉は、その女を見た。  「夏美さんの付《つき》人《びと》です。大内朱子といいます」  「ふーん。付人か。——ちょうどいい。話を聞こう」  門倉は、空《から》のベッドへ目をやった。「ここに寝《ね》てたのか、その娘《むすめ》は?」  「夏美さんですか? そうです」  「よし。——ともかく、順序立てて説明してくれ。自殺未《み》遂《すい》をやったそうだが、その話から」  「分かりました」  朱子は、ちょっと考えをまとめようとするかのように、間《ま》を置いてから、話し始めた……。    もう、昼に近かった。  克彦は、ドンとけとばされて、飛び起きた。  「ああ、びっくりした!」  「いつまで寝てんのよ」  もちろん、やったのは千絵である。  「——ひどい妹だな。けとばすことないだろ!」  「何時だと思ってんの?」  「十一時じゃないか。まだ午前中だ」  克彦は、ブツブツ言いながら、起き上がった。  「お母さん、出かけちゃったわよ」  「そうか。——何か食うものあるのかな」  「レンジで温《あたた》めるだけになってる」  「分かったよ。お前、珍《めずら》しいじゃないか、出かけないなんて」  克彦がベッドから出て大欠伸《あくび》をする。  「呆《あき》れた。出かける気になんてなれないわよ」  「へえ。でも——あ! そうだ!」  克彦はパジャマを脱《ぬ》ぎながら、「ゆうべ凄《すご》い夢《ゆめ》見ちゃった。彼《かの》女《じよ》がうちへ来て泊《とま》るんだ」  「彼女って?」  「星沢夏美だよ。決ってるじゃないか」  克彦は、服を着て、洗面所でアッという間に顔を洗《あら》った。「何か、凄くリアルな夢だったな。仁科さんまで出てきてさ」  「へえ。面《おも》白《しろ》そうね」  ——克彦は、ダイニング・キッチンへと入って行きながら、  「彼《かの》女《じよ》が病院を脱《ぬ》け出してさ、僕《ぼく》らのタクシーに飛び込《こ》んで来るんだ。ドラマチックだろ。母さんにいかにして隠《かく》すか——」  「おはよう」  ダイニング・キッチンのテーブルに、見知らぬ女の子が座っていた。いや、見知らぬ女の子じゃない!  「あの——」  と、克彦はポカンとして、その顔《ヽ》を眺《なが》めていた。  「ゆうべはご迷《めい》惑《わく》かけて、ごめんなさい」  と、夏美が言った。  「じゃ——本当だったんだ」  克彦は、椅子《いす》に座った。  「お兄さんも頼《たよ》りないわね」  と、千絵がため息をつく。「そんなことじゃ、彼女を助けてあげられないわよ」  「助けるって?」  克彦はキョトンとして、言った。  「いいの」  と、夏美が急いで言った。「これは私の問題ですもの。あなた方に迷《めい》惑《わく》はかけられないわ」  「そんな!」  千絵は首を振《ふ》って、「お兄さん、こう見えても、結構、頑《がん》張《ば》り屋なんですよ」  「こう見えても、ってのは何だよ」  「馬《ば》鹿《か》。新聞、見てごらんなさいよ」  「馬鹿って、お前なあ——」  新聞が目の前に置かれた。  克彦の目に、〈殺さる〉という文字が飛び込《こ》んで来た。そして、夏美の写真、〈アイドル歌手、姿を消す〉の見出し……。  「私のマネージャーが殺されたの」  と、夏美は言った。  「マネージャーが?」  「しかも、彼女の病室で死んでたのよ」  と、千絵が言った。「疑いが、彼《かの》女《じよ》にかかってるわけ」  「私、永原さんを殺したりしないわ。——信じてくれる?」  克彦がTVやレコードのジャケット写真で憧《あこが》れて来た瞳《ひとみ》が、今、迫《せま》って来ている。  これが現実かしら?  「おい、千絵、コーヒーくれ」  「OK」  千絵が、カップを出して来て、兄の前に置くと、サーバーからコーヒーを注《つ》いだ。  克彦はブラックで一口飲んで、目を白黒させた。  「——信じる」  と、息をつきながら言った。  「ありがとう」  夏美はホッとしたように言った。  「でも——」  克彦はコーヒーにクリームと砂糖を入れながら、「病院を出て来ちゃって、傷《きず》のほうは大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》なの?」  「ええ」  夏美は、包帯を巻《ま》いた左の手首を、見下ろした。「あまり傷は深くなかったの。だから……」  克彦は、やっと気持が落ちついて来た。  落ちついて緊《きん》張《ちよう》した、というか……。妙《みよう》な言い方だが、少し落ちついて、やっとこれが現実の出来事だと実感できたのである。  いざ実感すると、今度は固くなってしまった。  「そ、それで——あの——僕《ぼく》はあなたのファンで——」  「お兄さん」  千絵が克彦の頭をポンと叩《たた》いた。「今さら余計よ。どうするの? 夏美さんを助けるの?」  「もちろん」  克彦は肯《うなず》いた。「でも——」  「今は、何も訊《き》かないで」  と、夏美が言った。「あなたは、私の秘《ヽ》密《ヽ》を見たわ。それについては、まだ話したくないの」  克彦は、ちょっと間を置いて、  「うん」  と肯《うなず》いた。「分かった。何も訊かない。約束するよ」  「ありがとう」  夏美はホッとしたように微《ほほ》笑《え》んだ。  克彦は、その笑《え》顔《がお》を初めて見た。——今まで数え切れないほど見て来た彼女の、どの写真の笑顔とも違《ちが》っていた。  「さあ、食べようっと!」  千絵が、テーブルにつく。  「おい、千絵、母さん、このことを——」  「知りゃしないわよ。大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》。二、三日泊《とま》ったって、気付かないわ」  無茶なやつだ、と思ったが、妹のことを言えた柄《がら》ではない。  しかし、千絵のほうが、こんなときは、遥《はる》かに落ちついている。その点は、克彦も、認めざるを得ない。  食事の間、千絵は、わざと肝《かん》心《じん》の点には触《ふ》れず、夏美に、日常の話題で話しかけていた。  夏美もすぐに打ち解《と》けて話をするようになった。  女同士の会話には、克彦が入れない何《ヽ》か《ヽ》がある。しかし、どうせ今の克彦は、ただうっとりと、憧《あこが》れのアイドルを見つめているだけなのである。  「——ともかく、私は、永原さんを殺してないわ」  と、食事を終って、夏美が言った。  千絵の服を借りているので、何だかいやに可愛《かわい》く見える。  「永原さんって人を、誰《だれ》か恨《うら》んでたの?」  と、千絵が言った。  「あの人、とても大人《おとな》しかったわ。殺されるなんてとても……」  と、夏美は首を振《ふ》った。「ただ、考えられるのはね——」  「何かあるの?」  「私の移《い》籍《せき》の問題じゃないかと思う」  「プロダクションを移るの?」  克彦がびっくりして、言った。  ともかく、今、夏美のいるプロには、他《ほか》にスターらしいスターがいない。  夏美がいなくなったら、大変なことになるだろう。  「移りたい、ってことは、もう半年前から言い続けてるわ。社長が記事にならないように必死なのよ」  「何かまずいことが?」  「いいえ」  と、夏美は首を振った。「今のプロだって、そう不満はないわ。いえ——なかったの。でも、今は、自分の力を試《ため》したいの。外へ出て、新しい試《こころ》みができる……」  「その永原って人とはどう関《かかわ》るわけ?」  と、千絵が訊《き》いた。  「実は、私が、こ《ヽ》れ《ヽ》と思った、小さなプロダクションがあって——」  夏美は首をかしげて、「でも、極《ごく》秘《ひ》にしておくということだし、その連《れん》絡《らく》係《がかり》を、永原さんに頼《たの》んでおいたの」  「なるほど」  克彦は肯《うなず》いて、「他《ほか》に病院にいた人は?」  「あのときは——付《つき》人《びと》の朱子さん、常務の安中さん、それに——そうだわ、きっと安中さんの奥《おく》さんも」  「奥さんが駆《か》けつけたの?」  と、千絵は訊《き》いた。  「いいえ、安中さんの奥さん、確か、あの病院に入院してるのよ」  「同じ病院に?」  「奥さんが入院していて、よく知ってるんで、私をあそこへ入れたんだと思うわ」  なるほど、そういうことか、と克彦は思った。今は、入院一つも簡単じゃないんだ。  「その人たちの中に、永原って人を恨《うら》んでいた人間がいたのかもしれないわね」  「恨みだけとは限らないぜ」  と克彦が言った。「殺人の動機は色々とあるさ。何か秘密を知られたから、とか、まずいところを見られたから、とか……」  「それはそうね」  「だけど、僕《ぼく》たちで、そんなことまで調べられるかなあ」  「もう弱気になってる」  と千絵がちょっと兄をにらむ。  「そうじゃないけど——」  克彦が言いかけたとき、玄《げん》関《かん》のチャイムが鳴った。  夏美が反射的に腰《こし》を浮《う》かす。  「大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》。まだお母さんは帰らないわよ。待ってて。出てみる」  千絵が席を立って行く。  克彦は、夏美と二人になったので、急に照れて、真っ赤になった。夏美がクスッと笑って、  「ごめんなさい」  と言った。「でも、いい人ね、あなたも妹さんも」  「でも、まだ高校生だからね……。僕よりあいつのほうが、よほどしっかりしてんだ」  「嬉《うれ》しいわ、私のこと、信じてくれる人がいて」  克彦は、また照れて、頭をかいた。  千絵が戻《もど》って来て、  「お兄さん」  と、声を少し低くして言った。「仁科さんよ、記者の」  「ええ? まさか彼女のこと——」  「違《ちが》うわよ。ゆうべのこと記事に書くのに、ちょっと訊《き》きたいことがあるんですって」  「そう。——分かったよ。それじゃ」  克彦は、ホッとして、出て行った。  秘密を持ってる、ってことは、緊《きん》張《ちよう》するものなのである。     7 それぞれの思《おも》惑《わく》  安中貴《き》代《よ》は、いつも不《ふ》機《き》嫌《げん》だった。  もちろん、具合が悪くて入院しているのだから、あまり上機嫌でないのは仕方ないとしても、貴代の不機嫌は、ちょっと性質が違《ちが》っている。  門倉刑《けい》事《じ》も、いつも不機嫌だったが、それは世の中、面《おも》白《しろ》くないことばかり起こるからだ。貴代の場合は、自分がも《ヽ》っ《ヽ》と《ヽ》大事にされないことへの不満だった。  病人なのに、夫ときたら、めったに見《み》舞《ま》いにも来ない。電話してみると、  「忙《いそが》しいんだ」  と、そればかり。  留《る》守《す》番《ばん》電話の応答テープじゃあるまいし、たまには違ったことが言えないのか、と思ってしまう。  それに——そう、どうも怪《ヽ》し《ヽ》い《ヽ》のだ。このところ、安中は、女ができたらしい。  妻としての勘《かん》である。——当たっているかどうかは、あまり問題ではない。  そう信じ込《こ》んで、夫のことを心の中で、あれこれ罵《ののし》ってやる。浮《うわ》気《き》の現場へ踏《ふ》み込んで、夫があわてふためく様子を、思い描《えが》く。  それが、単調な入院生活の、気晴しになるのである。  考えてみれば、侘《わび》しい日々だが、そう悟《さと》ってしまっては、惨《みじ》めになるばかり。せいぜい、目先の話題を追うしか、時間潰《つぶ》しはない……。  「——どうですか」  入って来たのは、もうすっかり顔なじみの看護婦である。早《はや》野《の》岐《みち》子《こ》といった。  二十五、六か、いかにもこういう仕事に向いた、がっしりと大《おお》柄《がら》な体つきだ。  「ああ、早野さんね……」  貴代は、急に生気を失ったような声を出して、「良くないわ、気分が……。ゆうべの騒《さわ》ぎで、よく眠《ねむ》れなかったせいかしら」  「大変でしたよ」  と、早野岐子は、貴代の手首を取って、脈をとる。「あんなこと、この病院、始まって以来ですものね」  「そうねえ。——人殺しなんて! 怖《こわ》いわ、本当に」  「病院の周り、大変ですよ、TV《テレビ》局やら何やらが一杯来ていて」  「見付かったの?」  貴代としては、好《こう》奇《き》心《しん》を抱《いだ》かざるを得ない。  「星沢夏美ですか? いいえ、まだらしいですよ」  と、早野岐子は言った。  「どうして人殺しなんかしたのかしらねえ……」  貴代は、そう呟《つぶや》いた。  窓からは、病院の中庭が見える。そっちへ貴代は目を向けた。  「警察は、まだ彼女が犯人とは言ってないようですよ」  「そう? でも——姿をくらましたのが、なによりの証《しよう》拠《こ》じゃないの」  と、貴代は言った。  貴代としては、本来なら、星沢夏美が無実であることを祈《いの》るべきだろう。夫が、専《もつぱ》ら夏美の稼《かせ》ぎで儲《もう》けているのだから。  しかし、内心、夫が困った顔を見たい、という思いもあるのかもしれない。  「今の若い子なんて、考えることも、することもめちゃくちゃよ」  と、貴代は言った。  早野岐《みち》子《こ》は、黙《だま》って、ベッドの傍《そば》に立っている。  貴代は、そっちへ顔を向けて、  「そう思わない?」  と言ってから、戸《と》惑《まど》った。  そこには、「看護婦の顔」ではなく、早野岐子、当人の顔があった。  「どうかしたの?」  と、貴代は訊《き》いた。  「いいえ、別に」  と、早野岐子は首を振《ふ》って、「めちゃくちゃなのは、大人《おとな》も同じだ、って思っていたんです」  「大人も……」  「私、お金がいるんです」  貴代は、ちょっと面《めん》食《く》らった。  「何ですって?」  「百万円もあればいいんですけど。——貸していただけません?」  「どうして——あなたに私がお金を貸すの?」  「正確に言うと、いただきたいんです」  「百万円も? あなた、ちょっとおかしいんじゃない?」  「そうでしょうか」  早野岐子は平然としていた。「あの殺された男の人が、ここへ出入りしていたことは、知られないほうがいいんじゃありませんか」  貴代の顔がこわばった。口が開いたが、言《こと》葉《ば》が出て来ない。  「それに、奥《おく》さんは別に悪いところなんかないんです。いわばわがまま病で。——この病室をサロン代りに使われる元気も充《じゆう》分《ぶん》におありですわ」  「——何が言いたいの」  貴代の声は震《ふる》えていた。  「黙《だま》っていてさし上げますわ。私、とてももの分かりがいいんですもの」  早野岐子は肩《かた》をすくめた。「ご主人にも、警察にも、ね。特に、あなたが、あの男の人とここで口論していたことを……」  「口論なんて、そんな——」  「奥さん、おっしゃってましたね、『そんなことしたら、殺してやるから』って。たまたま耳に入ってしまったんです」  貴代は青ざめた顔で、じっと早野岐子を見つめていた。  「さあ、次の部《へ》屋《や》へ行かなくちゃ」  と、早野岐子は息をついて、「たった、百万円ですよ」  笑《え》顔《がお》でそう言うと、病室を出て行った。  貴代は、毛布を握《にぎ》りしめていた。我知らず、力一杯、握りしめていた。その手は、小刻みに震《ふる》えていた。    「表にも出られん」  と、その男は苦笑した。  自《じ》宅《たく》——といっても、いくつか持っているマンションの一つだ。  ソファに座って、手にしたウィスキーのグラスを揺《ゆす》っている、この男、五十がらみの見るからに「やり手」という印象である。  色が浅黒く、がっしりした体《たい》躯《く》。  「参りました」  と、安中は言った。  「困っていたって、一《いつ》向《こう》に事態は良くならんぞ」  その男——松江はいった。  星沢夏美の所属するプロダクションの、社長である。  「どうしますか」  安中は両手を広げた。「夏美は見付からないし、永原を殺した犯人も挙《あ》がらない。——どうなるか、もうはっきりしてます」  「分かってるとも」  松江は肯《うなず》いた。「TV《テレビ》を点《つ》けてみろ、もうマスコミは、完全に夏美を犯人扱《あつか》いしている」  「そうです。——むしろ、警察がそう言わないのが不《ふ》思《し》議《ぎ》ですよ」  「なぜかな」  「分かりません」  と、安中は首を振《ふ》った。「——一杯いただいていいですか。すっかりバテてしまって……」  「ああ、勝手にやれ」  「どうも」  安中は、ホームバーのほうへと歩いて行った。ホームバーといっても、大したものではないが、一応、いい酒が並《なら》んでいる。  自分でグラスを出し、安中はウィスキーを注《つ》いだ。——あまり注ぐとうるさいかな、などと考えて、少な目にしておく。  「警察は何かつかんでるのかな」  と、松江はいった。  「そうかもしれませんね」  と、安中はグラスを手に、ソファの方へと戻《もど》った。「そうでなきゃ、夏美に逮《たい》捕《ほ》状《じよう》が出ないというのは、説明できませんよ」  「永原を誰《だれ》か別の人間が殺した、ということか」  「見当もつきませんが……」  グラスを傾《かたむ》けながら、安中は言った。  「パッとしない男だったからな」  「そうです。夏美のマネージャーの仕事は、ちょっと無理かな、と思っていたんですが……」  「俺《おれ》もそのつもりだった」  と、松江は肯《うなず》いた。「あいつは、駆《か》け出しの新人の世話が似合っていた」  ——少し、沈《ちん》黙《もく》があった。  「どうします?」  と、安中は訊《き》いた。  「今、考えてるんだ」  「もし、取り止めということになると、大損害です。TV《テレビ》も入ってますしね。それに映画も撮《と》ることになっています。ライブでレコードも作ろうと準備してるんです。——全部がパーになったら、大変ですよ」  「分かってる」  松江は、ちょっと苛《いら》立《だ》ったように言った。  一週間後に、夏美のリサイタルが予定されていた。ただの公演ではなく、新曲の発表を兼《か》ねた、一大イベントになるはずだ。  安中が言った通り、TV中《ちゆう》継《けい》、ビデオ制作、映画、レコード……。あらゆるメディアで、夏美の人気を一気に押《お》し上げようという企《き》画《かく》なのである。  客数は一万人に上《のぼ》る。しかも、切《きつ》符《ぷ》は発売当日に完売していた。  もし、このイベントが中止になれば、その切符の払《はら》い戻《もど》しだけで莫《ばく》大《だい》な金額になる。  「手首を切ったと聞いて、心臓が停《と》まるかと思ったよ」  と、松江が言った。「しかし、大したことはなくて、落ちついていると聞いてホッとした。ところが今度は行《ゆく》方《え》不《ふ》明《めい》と来ている」  「申し訳ありません」  と、安中は頭を下げた。  「今さら謝《あやま》っても始まらん。ともかく、当面の問題だ」  「リサイタルを中止にするかどうか、ですね」  「中止すれば、おそらく、うちは潰《つぶ》れる」  と、松江はあっさりと言った。「分かっているだろうな?」  「はい」  今、プロダクションは苦しかった。夏美の後に、と期待をかけて売り出した新人が、スキャンダルを起こして、やめてしまった。  その少女にかけた何億円かが、丸々、損になってしまったのである。  夏美の、今度のイベントが企《き》画《かく》されたのは、そのせいもあった。成功すれば、損害を補《おぎな》って余りある収入をもたらしてくれるはずである。  「しかし、中止にせず、このまま当日まで、夏美が現われなかったら、どうします?」  「何とかして捜《さが》し出すんだ」  と、松江は言った。「どんな手を使ってもいい。——警察は、夏美を犯人だとは言っていない。だから、見付かったとしても、逮《たい》捕《ほ》されることはないだろう」  「一週間の内に、状《じよう》況《きよう》がどう変るか、分かりませんよ」  「悪くなるかもしれん。だが、良《ヽ》く《ヽ》なるかもしれん。——ともかく、うちとしては、あいつに賭《か》けるしかないんだ。分かってるだろうな?」  「それはもう」  「ならいい。——このまま行こう。それしかない」  と、松江は言った。「もちろん、危険は大きい。しかし、逆《ぎやく》に、夏美の無実が立《りつ》証《しよう》されたら、これは、最高の宣伝になるぞ。TV《テレビ》の視《し》聴《ちよう》率《りつ》も上がる。スポンサーは大喜びだろう」  「分かりました」  と、安中は言って、グラスを空《あ》けた。「予定通り、進めます」  「何か訊《き》かれたら——」  「どう答えましょうか?」  「リサイタルの日までには必《かなら》ず戻《もど》る、と本人から連《れん》絡《らく》があった」  「そう——言うんですか?」  「そうとも。マスコミが大いに報道してくれるさ」  松江はニヤリと笑った。「金のかからない広告だ。活用しなくてはな」  安中は、ちょっとホッとした様子で、  「社長がその意気でしたら、安心です」  と言った。「ともかく、夏美しか残っていないんですから……」  「しかし、夏美を、必《かなら》ずその日までに見付けることが絶対条件だ」  「どこを当たりましょう?」  「どこでもだ」  と、松江は言った。「少しでも可能性のある所は全部当たれ。——それから、見付けても、すぐには発表するな」  「どうしてですか?」  と、安中は不《ふ》思《し》議《ぎ》そうに訊《き》いた。  「考えてみろ。もし、夏美を無《ぶ》事《じ》に見付けて、発表したら、たちまち警察が連《つ》れて行って、あれやこれやと訊かれるだろう」  「なるほど」  「夏美は、ただでさえ自殺未《み》遂《すい》をやらかしているんだぞ。神経が参って、リサイタルどころじゃない」  松江は、ちょっと間を置いて、続けた。「もう一つ。——ぎりぎりまで夏美がリサイタル会場に現われるかどうか分からないほうが、ずっと効果的だ。そう思わんか」  「そうですね」  安中は、目を輝《かがや》かせた。「——我々にも、夏美がどこにいるか分からない。ただ、来るという本人の言《こと》葉《ば》を信じるしかない、ということにしておけば……」  「会場では一万人のファン、TV《テレビ》カメラ、報《ほう》道《どう》陣《じん》も待っている。——開演時間の五分前になっても夏美はやって来ない。四分前、三分前、二分、一分……」  「そして——夏美が駆《か》けつけて来る! これは凄《すご》い興《こう》奮《ふん》を呼びますよ」  「大変な騒《さわ》ぎになるだろうな。もちろん警察には文句を言われるかもしれんが、構やせん。やってしまえばこっちのものだ」  「歴史的なイベントになりますよ」  「しかし——」  松江は立ち上がった。「それも、夏美が見付かったとして、の話だ。もし、本当にやって来なかったら、俺《おれ》たちはファンに踏《ふ》み潰《つぶ》されかねない」  「必《かなら》ず見付け出しますよ」  安中が、こんな風に、はっきりした見通しもなく、ものを言うことは、珍《めずら》しかった。  「頼《たの》んだぞ」  と、松江は肯《うなず》いて見せた。「差し当たり、どこをどう当たるかな……」    「知りませんよ、私だって」  と、大内朱子は言った。「分かってりゃ、自分で捜《さが》しに行きます」  「しかし、君が、一番夏美の身近にいたはずだぞ」  と、安中は食い下がった。  「ええ、それはそうですけど……。でも、超《ちよう》能《のう》力《りよく》があるわけじゃないんですから、今、彼《かの》女《じよ》がどこにいるかなんて分かりませんよ」  夏美のマンションに近い喫《きつ》茶《さ》店《てん》である。  朱子は、一応マンションに戻《もど》っていたのだが、安中に呼び出されたのだった。  もう、夜になっていた。夏美の失《しつ》踪《そう》から、やがて一日たとうとしている。  「ともかく、何とかして、彼女を見付けなきゃならん」  と、安中は言った。  「私だって見付けたいです」  「どこか心当たりはないのか? 友だちの所とか——」  安中は、少し声を低くした。「男はどうだ?」  「男?」  朱子は目を丸くした。「夏美さんに、ですか?」  「誰《だれ》かいたんじゃないのか? ちっとも珍《めずら》しい話じゃない。君だけは知ってるだろう。一《いつ》緒《しよ》に暮《くら》してたんだからな」  「夏美さんに、そんな時間があったと思ってるんですか?」  と、朱子は顔をしかめた。「あれだけのスケジュールをこなして」  「それでも、結構男はできるもんさ」  「ともかく、夏美さんには、そんな人はいませんでした」  「——そうか」  安中はため息をついた。  「それより」  と、朱子は言った。「殺人事件のほうはどうなんですか?」  「夏美が疑われても仕方ない状《じよう》況《きよう》だ。しかし、どういうわけか、警察は何とも言っていないんだよ」  「どうしてでしょう?」  「分からん。——他《ほか》に、犯人の目星をつけているのかな」  「永原さんが殺されるなんて、ちょっと考えられないわ」  と、朱子はコーヒーを一口飲んで、言った。  「あんなに大人《おとな》しい人なのに」  「あいつのことはどうでもいい」  と、安中は肩《かた》をすくめた。「今は夏美を捜《さが》すのが先決だ」  「どうでもいい、だなんて……。奥《おく》さんだっていらっしゃるのに」  安中は、ちょっと呆《あき》れたように朱子を見て、  「何だ、知らなかったのか」  「何をですか?」  「女《によう》房《ぼう》の方は、どうってことないよ。永原の奴《やつ》は、男にしか興味がないんだ」  朱子は、ちょっとポカンとして、それから赤くなった。  「そんなこと——知ってるわけないでしょう!」  「この世界じゃ珍《めずら》しくない。だから、夏美にくっつけといても安全だったのさ」  安中は、コーラを飲んでいた。氷が溶《と》けて、もういい加減薄《うす》まっている。「——なあ、朱子君」  「はあ」  「一週間後には、夏美のリサイタルがある。君にも分かってるだろう。一万人分のチケットはもう売り切れてる。何としても、それまでに夏美を見付けないと、僕《ぼく》も君も、路頭に迷《まよ》うことになる」  「さっき、うかがいました」  「よく分かってるね? もし連《れん》絡《らく》があったら、すぐ僕《ぼく》へ知らせるんだ。警察や記者たちに気付かれるんじゃないぞ」  「気を付けます」  朱子は少々うんざりして、言った。「マンションへ戻《もど》ってないと。もし彼《かの》女《じよ》から電話があっても、ここじゃ出られません」  「それもそうだ。じゃ、早く戻ってくれ!」  安中は急に朱子を追い立てた。  朱子は呆《あき》れながら席を立ったが、ふと振《ふ》り向いて、言った。  「そうだわ」  「何だ? 何か思い出したのか?」  と安中が身を乗り出す。  「夏美さんを見付けたいんだったら、お風《ふ》呂《ろ》屋《や》さんを捜《さが》したら、いいかもしれませんよ」  安中が目をパチクリさせるのを尻《しり》目《め》に、朱子はさっさと喫《きつ》茶《さ》店《てん》を出て行った。 8 大《おお》物《もの》、来《きた》る  「遅《おそ》くなっちゃった」  と、本堂雅《まさ》子《こ》は玄《げん》関《かん》を上がりながら、呟《つぶや》いた。  「克彦、千絵。——いないの?」  食事に出かけたのかしら、と思った。  友だちの家に行って、つい長居してしまった。一応、電話をして、  「夕ご飯は適当に食べてね」  と言っておいた。  それでも、できるだけ急いで帰って来たので、電話では十時ごろになると言ったのだが、まだ九時を少し回ったところだ。  まあいいわ。——ともかく、二人とも、どこかでご飯を食べてるんだろうから。  雅子は、母親として、決してこまめに働くほうではない。しかし、おっとりと構えて、子供たちのことは子供たちに任《まか》せていた。  そのやり方が、頭の中で作った信条に基《もと》づいたものでなく、生《せい》来《らい》の気質から来ていることで、この家のなごやかな雰《ふん》囲《い》気《き》が作られている、と言えるだろう。  「——お湯ぐらい沸《わ》かしておこうかしら」  と、雅子は、やかんをガスにかけた。  さて、その間に着《き》替《が》えをして……。  廊《ろう》下《か》に出て、雅子はふと足を止めた。  何か物音がしたようだ。——気のせいかしら?  肩《かた》をすくめて歩き出そうとして——やっぱり、何か音がする。  浴《よく》室《しつ》のほうだ。千絵がお風《ふ》呂《ろ》にでも入ってるのかしら?  雅子は、浴室のほうへ歩いて行った。  「千絵なの?」  ヒョイとドアを開けると、目の前に、女の子が裸《はだか》で立っていた。いや、浴室なのだから、裸なのは当たり前として、問題は、その少女が、千絵でもなく、もちろん克彦でもなかったことだった!  少女のほうも、びっくりしたらしく、  「キャッ!」  と声を上げて、バスタオルをあわてて胸に当てた。  雅子は、ちょっと呆《あつ》気《け》に取られていたが、  「ええと……ごめんなさい」  と、言って、ドアを閉めた。  別に謝《あやま》ることはないのだが、つい、言《こと》葉《ば》が出て来たのである。  あの女の子は、誰《だれ》だろう?  雅子は首をひねった。大《だい》体《たい》、見も知らぬ他人が、勝手に人の家の風呂に入っているということは、珍《めずら》しい。  見も知らぬ?——雅子は、ふと、今の女の子を、どこかで見たような気がした。  どこだろう? 千絵の友だちかしら? それとも克彦の……。  そう考えて、雅子は、ちょっと不安になった。もし克彦のガールフレンドだったとしたら……お風《ふ》呂《ろ》に入っているというのは問題だ!  「克彦ったら、まさか——」  母親の留《る》守《す》に、女の子を引張り込んで……。まさか、とは思ったが、女の子が風呂に入っていたのは事実である。  雅子が立ち止まって考えていると、玄《げん》関《かん》が開いた。  「——あら!」  千絵がびっくりして、「お母さん、帰ったの?」  克彦が続いて顔を出した。  「早かったんだね」  「早くて何かまずいことでもあるの?」  と、雅子が言うと、克彦と千絵は顔を見合わせた。  「ね、お母さん、もしかして……」  千絵が、上《うわ》目《め》づかいに雅子を見ながら言った。「彼《かの》女《じよ》と……会ったの?」  「お風呂場でね」  「お風呂!」  克彦が素《すつ》頓《とん》狂《きよう》な声を上げた。「そうか! 彼女、大の風呂好きなんだ」  「克彦!」  雅子は目をむいた。「お前、あの子とどういう関係なの?」  「どういう関係って……複《ふく》雑《ざつ》なんだ。ちょっと一言じゃ説明は——」  そこへ、千絵の服を着た、少《ヽ》女《ヽ》がやって来た。  「あの——すみません」  と、声をかける。「克彦君のお母様ですね?」  「ええ、そうですよ。あなたは?」  と、雅子は仏《ぶつ》頂《ちよう》面《づら》で言った。  「星沢夏美と申します」  「星沢さん? 一体、うちの息子とどういう仲なの?」  「ねえ、お母さん——」  「あんたは黙《だま》ってなさい」  雅子はピシャリと言って、「この子の口から聞かせてもらうわ」  「長くなるわよ」  と、千絵は言った。「座って話さない?」    電話が鳴り出したとき、朱子は浅い眠《ねむ》りに入っていた。  ハッと目を開く。反射的に時計を見た。  夜中——三時に近い。  朱子は、頭を強く振《ふ》ってから、受話器を取った。  「はい」  ——ちょっと沈《ちん》黙《もく》があった。夏美だろうか?  大《だい》体《たい》、この電話を知っている人間は、限られているのだ。  「もしもし」  と、朱子は言った。「夏美さんなの?」  「大内朱子さんだね」  夏美とは似ても似つかぬ、太い男の声が聞こえて来た。  「はい……。どなたですか?」  朱子には、まるで聞き憶《おぼ》えのない声である。  「私のことは知っていると思う。Mミュージックの坂《ばん》東《どう》という者だよ」  朱子は、ちょっと面《めん》食《く》らった。Mミュージックといえば、この業界でも最《さい》大《おお》手《て》のプロダクションだ。  もっとも、ほとんどの歌番組を、Mミュージックの歌手たちが独《どく》占《せん》していたのは数年前の話で、このところ、その勢力は大分衰《おとろ》えてきていた。  それでも、政界にもつながりを持つ、社長の坂東は、まだまだこの世界で、隠《いん》然《ぜん》たる力を持っていた。  「君のことはよく知ってる。夏美の面《めん》倒《どう》をよくみているそうだね」  「どうも……」  と朱子は曖《あい》昧《まい》に言った。  「一度、ぜひ会って話がしたいんだがね」  「私に——ですか」  「そう。君に、だ。夏美はまだ見付からないんだろう」  「そうです」  「心配だろうね。君はあの子のことを本気で思いやっている、おそらくたった一人の人間だからな」  「どういうことなんでしょうか?」  「私も夏美には興味があるんだ。どうかね、二人で、どうすれば夏美のためになるか、考えてみないか」  妙《みよう》な話だ、と朱子は思った。夏美はいわば、Mミュージックの歌手たちのライバルである。一時、夏美を引《ひき》抜《ぬ》きにかかったという噂《うわさ》が流れ、坂東はきっぱりと否定していたが、事実であることは、朱子自身、よく承知していた。  「お話するのは構いませんけど……でも、私はここから動けないんです。いつ夏美さんから電話があるか分かりませんから」  「それもそうだ。よろしい、私がそこへ出向こう。構わんだろうね」  「ここへおいでになるんですか? でも——」  「もちろん、おたくのお偉《えら》方《がた》には見られんようにするさ。いいね? では後で」  「あの——もしもし——」  もう電話は切れていた。  朱子は受話器を置いて首をかしげた。——坂東のような大《おお》物《もの》が、こんなただの付《つき》人《びと》に何の用事があるというのだろう?  それに、このマンションだって、これまでは秘密にしてあったが、夏美が自殺未《み》遂《すい》を図《はか》ったせいで、すっかり知れ渡ってしまい、今も何人かのカメラマンや記者が周囲をうろついている。  ガードマンが下でにらみをきかせていなければ、この部《へ》屋《や》までやって来てしまうだろう。そんな所へ、坂東がのこのこやって来たら……。  一応、朱子だって、夏美のプロから給料をもらっている身である。もしここへ坂東がやって来たことが知れたら、やはりうまくない。  でも、向こうだって、そんなことは分かっているだろうが……。  まだ朱子が考え込《こ》みながら立っていると、玄《げん》関《かん》のチャイムが鳴った。——誰《だれ》だろう?  「いくら何でも、もう来た、ってこともないわよね」  と呟《つぶや》きながら、玄関へ行き、ドアのスコープから外を見た。——目を見張った。  間《ま》違《ちが》いなく、坂東が立っているのだ!  ドアを開けると、坂東はニヤリと笑った。  「やあ」  「あの——どこからいらしたんですか」  「六階からだ」  と坂東は言った。  「六階?」  「知らなかったろうが、私はここに住んでるんだよ」  呆《あつ》気《け》に取られている朱子を尻《しり》目《め》に、坂東はさっさと上がり込《こ》んだ。  「——びっくりしたかね」  と、坂東は言った。  「ええ」  「もちろん、私の家はあちこちにある。その一つ、というだけだ。めったに来ることはないから、顔を合わさなくても不《ふ》思《し》議《ぎ》はない」  確かに、ここに住んでいるというのは嘘《うそ》ではないのだろう。坂東は、茶のカーディガンを羽《は》織《お》って、いとも気楽な雰《ふん》囲《い》気《き》だった。  ゆっくりとソファに腰《こし》をおろすと、  「どうだね」  と言った。  「何でしょう?」  「私の力になってくれることだ。考えてもらえたかな」  「考えるなんて、そんな時間が……。それに、何をしろとおっしゃるんですか?」  「まあ、かけたまえ。——といって、ここは私の家じゃなかったんだな」  と、坂東は笑った。  朱子は、自分のところの松江社長にも、そう度《たび》々《たび》会っていたわけではなかったが、坂東を見て、やはり同じような仕事をしているだけあって、よく似ている、と思った。  ひいき目に見ても、坂東のほうが大《おお》物《もの》に違《ちが》いないと一目で分かるが、人間のタイプとして、似ているのである。  朱子もソファに腰をおろした。  「どういうお話ですか」  「ズバリと言おう」  と、坂東は手を組んだ。「私は夏美が欲しい」  「それは存じてますけど」  「手は尽《つ》くした。もちろん君も知っているだろうが、半年ほど前のことだ」  「ええ」  「金を積んだし、政治家にも動いてもらった。しかし——最終的には、夏美自身の意志だ。彼女は結局、移《い》籍《せき》を拒《こば》んだ」  「週刊誌に書かれたでしょう。あのときは、大変でした」  「そう。——あれで、こっちとしては手を引かざるを得なくなった」  と、坂東は渋《しぶ》い顔をした。  どうやら、よほど応《こた》えたらしい。  「あの報道は、おたくの松江君が流したんだよ。知ってるかね?」  「社長さんがですか?」  「そうさ。もちろん当人は怒《おこ》って否定していたが、あれは演技だ。こっちが動きにくいように、騒《さわ》ぎを起こしたんだよ」  「知りませんでした」  「まあ、それはいい。逆《ぎやく》の立場なら、私だってやったろうからね」  と、坂東は笑った。「しかし、夏美の意志はかなり固いようだ。——どうだね、君の見たところでは。彼女が何か不満を洩《も》らしているようなことはないか」  「さあ……」  朱子は、ちょっと迷《まよ》うように言《こと》葉《ば》を切った。  「心配しなくていい。君のしゃべったことを、松江君に言ったりしないよ」  「いえ——そうじゃないんです。確かに、夏美さん、一《いつ》緒《しよ》にいると、色々グチを言います」  「ほう?」  坂東は興味深げに身を乗り出した。  「でも、それは、会社へのグチっていうんじゃないんです。今の仕事そのものに対して——」  「歌手をやってるのがいやだ、ということかな?」  「そうですね。いやというより、疲《つか》れた、というか……」  「それは誰《だれ》だって言うものだよ」  「でも、夏美さんは十七歳《さい》の割には、とても大人《おとな》です。世の中を冷《さ》めた目で見てる、というか……」  「それはよく分かるね」  と、坂東は肯《うなず》いた。「あの子には、どこか他《ほか》のタレントと違《ちが》うところがある」  「何か——凄《すご》く辛《つら》いこととか、悲しいことに出会ったことがあるんじゃないかと思うんです」  「そんなことを言ったことがあるのかね?」  「いいえ。ただ、私がそう感じる、というだけなんですけど」  朱子は、ちょっと口をつぐんだ。——いつの間にか、ペラペラとおしゃべりをしてしまった。  松江や、安中とでも、こんな風にしゃべったことはないのに。どうやら、この坂東という男には、相手をしゃべりやすくする雰《ふん》囲《い》気《き》があるようだ。  「ともかく、夏美をもしこっちの手に入れられないということになると、別の手を考えなくてはならん」  と、坂東はのんびりと言った。  「どうするんですか?」  「彼《かの》女《じよ》に消えてもらうのさ」  と、坂東は言った。  朱子は目を丸くした。    「ご迷《めい》惑《わく》をかけて申し訳ありません」  と、夏美は頭を下げた。  「いえ、そりゃまあ……私は構わないけどね……」  雅子は、克彦と千絵のほうへ目をやった。  「彼《かの》女《じよ》を置いてあげてよ。いいでしょ、お母さん?」  と千絵が言った。「今出て行っても、どうしようもないのよ、彼女」  「長くはありません」  と、夏美が言った。「一週間。それ以上にはなりませんから」  「一週間?」  「あ、そうか」  と、克彦が言った。「リサイタルがあるんだね」  「そんな呑《のん》気《き》なこと!」  と、千絵が呆《あき》れたように言った。「それどころじゃないんじゃない?」  「でも、きっとあの社長、やめないと思います」  と、夏美は言った。「今、うちのプロダクションは、とても苦しいの。あのリサイタルと、そのライブ盤《ばん》で息をつくことになっていたのよ」  「なるほど。そりゃ大変だ」  と、克彦は肯《うなず》いた。「でも君がもし逮《たい》捕《ほ》されたら——」  「ええ、だから、それまでは出て行くわけにいかないの」  「リサイタルをやるつもり?」  千絵に訊《き》かれて、夏美は、ちょっと間を置いて、  「やるわ」  と答えた。「あのリサイタルは、一万人のファンが集まるわ。その人たちのために、やめるわけにいかないもの」  「それはそうかもね……。でも、あなたは、プロダクションをやめたいんでしょう?」  「でも、潰《つぶ》してやめたくはないの。ちゃんと、会社が次のスターを育てられるくらいの、余《よ》裕《ゆう》を持ったところでやめたいと思ってるのよ」  「偉《えら》いわねえ」  と、母の雅子は感服の様子。「今の若い人で、そこまで考えてる人はなかなかいないわよ。あんたたちも見習いなさい」  と、変なところで、とばっちりが来る。  「ね、お母さん、だから——いいでしょ、彼《かの》女《じよ》にいてもらっても?」  千絵が念を押《お》す。  「どうぞ。大したもてなしはできませんよ、言っとくけど」  「ありがとうございます!」  と、夏美は頭をさげた。  「もう食事は済《す》んだの? じゃ、何か果《くだ》物《もの》でもむこうかしらね」  雅子が台所へ行くと、克彦と千絵は、ホッと胸を撫《な》でおろした。  「お兄さんが変なこと言い出すんじゃないかと思って、気が気じゃなかったわ」  「変なことって何だよ?」  「殺人事件の捜《そう》査《さ》、とか」  「そんなこと言ったら、目をむいて怒《ど》鳴《な》られるよ」  「お母さんには、ただ一週間、ここに隠《かく》れてる、ってことにしときましょう」  と千絵が言った。「どうせお母さん、よく出歩くから大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》よ」  「でも、やっぱりあなた方には危いわ。私が自分で——」  「これは君のためだけじゃないよ。人類のためだ」  いささか大げさだったかな、と克彦も、言ってから思った……。 9 素《しろ》人《うと》探《たん》偵《てい》、動き出す  「これでいい?」  と、夏美が振《ふ》り向くと、千絵が笑い出してしまった。  髪《かみ》型《がた》をわざと野《や》暮《ぼ》ったく引っつめ、化《け》粧《しよう》っ気を完全になくして、眉《まゆ》を少し剃《そ》って形を変える。そしてメガネ。  これで完成!——どう見ても、アイドルという顔ではない。  どこにでもいる、ちょっとガリ勉タイプの高校生というところだ。服が千絵のものなので、かなり幼い感じに見える。  年《ねん》齢《れい》は一つしか違《ちが》わないが、千絵のほうがずっと「可愛《かわい》い」感じなのである。  「いやだ、笑わないで」  と、夏美のほうも笑っている。「そんなにおかしい?」  「いいえ、そうじゃないの。ただ——あんまり別人みたいで……。お兄さん! 入っていいぞよ」  「やっと、かい?」  部《へ》屋《や》の外で待ちくたびれていた克彦が入って来る。そして、夏美の変身ぶりに目を丸くした。  「まるで別人だな!」  兄と妹で、言《こと》葉《ば》づかいもよく似ている。  「じゃあ、出かけようよ」  と、千絵が言った。「お母さんは?」  「さっき出かけたよ。『今日はどこ?』って訊《き》いたら、ちょっと考えて、『歩きながら思い出すわ』だって」  夏美がクスクス笑いながら、  「お母さんも、ユニークな方ね」  「ユニークすぎるき《ヽ》ら《ヽ》い《ヽ》はあるけど」  と、千絵は言った。「でも、だから私とか兄さんみたいなのが生まれたんだしね」  「どういう意味だ、それ?」  克彦はちょっと顔をしかめた。「さあ、どこかで朝飯を食いながら、今日の作《ヽ》戦《ヽ》を練《ね》ろうじゃないか」  「お兄さんは、食べるほうだ《ヽ》け《ヽ》に、興味があるんじゃないの?」  と、千絵が冷やかした。  三人は、揃《そろ》って家を出ると、近くのハンバーガーショップへ入った。  コーラとハンバーガーという取り合わせ。最初はちょっと奇《き》妙《みよう》でも、慣れというのは恐《おそ》ろしい。  今は、ごく当たり前にコーラでハンバーガーを流し込《こ》むのだ。  店は、朝食には遅《おそ》いし、昼食には早いという中《ちゆう》途《と》半《はん》端《ぱ》な時間のせいか、ガラ空《あ》きだった。三人は隅《すみ》のテーブルを囲んで座った。  食べていると、店の女の子たちが、  「ねえ、星沢夏美、どこに行っちゃったのかしら?」  「人殺して逃《に》げてんでしょ?」  「でも、手配されてないみたいよ」  「そう?」  「男と駆《か》け落ちしたって噂《うわさ》もあるのよ」  などと話をしている。  その当人が、まさかここにいるとは思わないだろうな、と考えて、克彦は妙《みよう》な気分だった。  「さて、まず手始めにどこを調べる?」  と克彦が言うと、千絵が押《おさ》えて、  「待って。その前に、一つ訊《き》いていい?」  「ええ、どうぞ」  と、夏美が肯《うなず》いた。  「夏美さんが病院から逃《に》げ出して来たときの事情を聞きたいの」  「ああ、そうね。肝《かん》心《じん》のことを話してなかったんだ」  と、夏美は、ゆっくりコーラを飲みながら言った。「ごめんなさい。うっかりしてたわ」  「でも、もし話したくなければ——」  と、克彦が言いかける。  「いえ、それははっきりしておかないと、今日、これからの行動も決められないの」  夏美は、ちょっと考えてから、口を開いた。  「私、うとうとしてたのね、ベッドの中で……。そのとき、廊《ろう》下《か》でちょっとした騒《さわ》ぎがあって、フッと目を覚ましたわ——」    何か、金属の物を落っことしたような、派手な音だった。  夏美は目を開いた。——病室は薄《うす》暗《ぐら》い。  誰《だれ》もいない。  別に心細いことはなかった。一人でいることには慣れている。  朱子にも、あまりそばについていてもらうのは申し訳がない。  それにしても——何の音だろう?  でも、大《だい》体《たい》、病院という所は、色々と音がする。決して静かな所ではないのだ。  足音が、廊《ろう》下《か》をやって来た。  「どうしたの?」  もう一つ、逆《ぎやく》のほうから足音がした。少し偉《えら》い看護婦さんらしい。  「分かりません。凄《すご》い音がしたんで、来てみたんです」  「誰《だれ》かが倒《たお》したの? たぶん、患《かん》者《じや》さんでしょ」  こんな時間に、一体誰が廊下を歩いているんだろう、と夏美は思った。  でも、いずれにせよ、どうということはないだろう。  夏美は、大して気にもとめなかった。  「ちゃんと片付けてね」  と、声がして、「——ここの人は?」  と、どうやら、夏美のことを言っているらしかった。  「さっきは眠《ねむ》ってました」  「付き添《そ》いの人は?」  「今、どこかへ行ってるみたいですけど」  「そう。——分かったわ」  廊《ろう》下《か》は、また静かになった。  ——一《いつ》旦《たん》、目が覚めてしまうと寝《ね》つけなくなる。  夏美も、いやに目が冴《さ》えてしまって、何度も目をつぶったが、とうとう諦《あきら》めて、目を見開いたまま、自然に眠くなるのを待つことにした。  その内、ベッドから起き出して、窓のほうへと歩いて行く。  手首の痛みは、大分おさまっていた。  すっかり大《おお》騒《さわ》ぎになって……。  夏美は、カーテンの端《はし》をそっと細くからげて、表を眺《なが》めた。  何しろ、最近は高感度フィルムで、病室を狙《ねら》っているカメラマンがいるのだ。うっかり外へ顔も出せない。  何台かの車が見える。たぶん、どれもが、新聞や週刊誌や、TV局の車だろう。  「ご苦労さま」  と、夏美は呟《つぶや》いた。  朱子さんはどこに行ったのかしら? 何だか、少し顔がべとついている。  ちょっとためらってから、夏美はドアをそっと開けた。  廊《ろう》下《か》には、人《ひと》気《け》がない。  夏美は、あまりスリッパの音を立てないように気を付けながら、廊下を歩いて行った。  病院は、いつも誰《だれ》かが起きているような気配がある。咳《せき》込《こ》む音、何かのきしむ音。  歩いていても、何だか落ちつかないのである。  夏美は、洗面所に行って、顔を洗《あら》った。少しぬるめのお湯で洗うと、べとついた感じがなくなって、さっぱりする。  余計に目が覚めちゃった、と夏美は苦笑した。——でも、眠《ねむ》れない、という、苛《いら》々《いら》した感じではなく、頭がスッキリした、という快さがあった。  そうだ。——外の風にでも当たろうかしら。  不意にそう思った。なぜなのか、自分でもよく分からない。  といって——病室の窓なんか、開けようものなら、何事かと記者が駆《か》けつけて来るに違《ちが》いない。  そう、屋《おく》上《じよう》しかないわ、と夏美は思った。  ちょっとためらいがあったのは、もし朱子でも戻《もど》って来て、ベッドにも洗面所にもいないと知ったら心配するのではないか、ということだった。  でも、すぐ戻って来ればいいわ……。  そう自分に言って、夏美は、エレベーターのほうへ歩いて行った。  一番上の階で降りると、夏美は、階段を上がって行った。  屋上に、出られるかしら?  病院によっては、夜は出られないようにしている所もあるけれど……。  ドアを押《お》してみると、軽く開いた。  風が吹いて来る。その強さに、一《いつ》瞬《しゆん》迷《まよ》った。  でも、せっかく来たのだから——。  一旦外へ出てみると、風は大して吹いていなかった。  ほとんどそよ風、といっていいような緩《ゆる》やかさだ。  快い涼《すず》しさだった。  屋上は、もちろん暗かったが、ずっと張ってある、何本もの洗《せん》濯《たく》物《もの》を干すビニールの紐《ひも》が、風に波打っているのが、見ていて、何だか面《おも》白《しろ》い光景だった。  誰《だれ》かが、シーツを干したままにしている。入れ忘れたのか。いや、もしかしたら——亡《な》くなったのだろうか?  夏美は頭を振《ふ》った。  「変なこと、考えないで!」  と、呟《つぶや》く。  夏美は、胸より少し高い手すりに両手をかけて、遠くを眺《なが》めた。  もう、残っている灯《ひ》は、数えるほどである。  ふと、夏美の目に涙《なみだ》が浮《う》かんで来た。  こんな寂《さび》しい夜景などを見ると、無《む》性《しよう》に恋しくなって来ることがある。  「疲《つか》れてるのかな」  と、ポツリと言ってみた。  風の音ではないようだった。——背後に、サッ、サッと、こすれるような足音が聞こえたと思うと、何かがスッポリと夏美の頭からかぶせられた。  「いや! 何よ!」  夏美は、手を振《ふ》り回した。大きな布が、腕にからみついて、動きが思うようにならない。  誰かが、ぐいと体を押《お》して来る。夏美は、手すりに押し付けられた。  そして、夏美は、足をかかえ上げられそうになった。——突《つ》き落とされる!  はっきりした殺意を感じて、夏美はゾッとした。誰がやっているのか、そんなことを考えている暇《ひま》はなかった。  必死で足をばたつかせる。  手が、手すりに触《ふ》れたので、しっかりと握《にぎ》りしめた。  左の手首が痛い。しかし、それでも、両手で、必死に手すりをつかんでいた。  突《とつ》然《ぜん》、相手の手が離《はな》れた。諦《あきら》めたらしい。タッタッと走り去る足音。  夏美は、頭にかぶせられた布を、はぎ取った。さっき見た白いシーツだ。  肩《かた》で、激《はげ》しく喘《あえ》ぎつつ、その場にしゃがみ込《こ》んでしまった。  誰《だれ》だろう? 一体誰が——。  夏美は、そっと屋《おく》上《じよう》の暗がりを見回した。足音は、どこかへ去っていた。おそらく、もう屋上には、誰も残っていないだろう。  しかし——夏美は、今になって、突然、激しい恐《きよう》怖《ふ》に襲《おそ》われた。  病室へ——早く病室へ戻《もど》ろう。  思いもかけないことだった。自分を殺そうとした人間がいる。  なぜ? 何のために?  それは、あまりにも思いがけない不意打ちだった。    「もちろん、私がここへ来るまでには——」  と、夏美は言いかけて、言《こと》葉《ば》を切り、克彦と千絵を見た。「つまり、こういう風な、スターになるまでは、ってことね」  「うん、分かるよ」  と、克彦は肯《うなず》いた。  「それまでには、色々なことがあったわ」  夏美はコーラを一口飲んで、続けた。「途《と》中《ちゆう》、人に恨《うら》まれたことだって、あるかもしれない。でも、たいていのことは、私の意志じゃなく、プロダクションが決めているんだけど、それでも、表に出てあれこれ言われるのは、私ですものね。ただ……殺されるような——命を狙《ねら》われるようなことなんて、まるで思い浮《う》かばないのよ。何も思い当たらないのに、殺されそうになるなんて、そんな怖《こわ》いことってないわ」  「なるほどね」  と、千絵が肯く。  「それで——ともかく、私、急いで病室に戻《もど》ったの。病室の前には、人もいなくて、ちょっと辺《あた》りを見回してから、ドアを開けたわ。中は暗かった。そして——一歩中へ入ったとき、いきなり後ろから突《つ》き飛ばされたの」  「誰《だれ》に?」  「分からないわ。誰かが、ドアの陰《かげ》に隠《かく》れていたのよ。そして私を突き飛ばした。私は、床《ゆか》にうつ伏《ぶ》せに倒《たお》れたの。誰かが廊《ろう》下《か》へ出て、走って行った……」  「あなたを、屋《おく》上《じよう》で襲《おそ》ったのとは別の人間かしらね」  と、千絵が言った。  「たぶんね。でも、そのときは、そんなこと、考える間もなかった。ドアが開いていて、廊下の明りが部《へ》屋《や》の中を照らしていたわ。そして、私、起き上がろうとして、ふっと横を見ると……」  夏美が、軽く目を閉じて、首を振《ふ》った。「永原さんが死んでいるのが見えたのよ」  少し間があった。——夏美は、ちょっと目を天《てん》井《じよう》の照明のほうへ向けて、  「びっくりしたわ。もう、何がどうなっているのか分からなくて……。そんなはずないのに、きっと永原さんは私の代りに、私と間《ま》違《ちが》って殺されたんだと思ったの」  「そりゃ無理ないわよ」  「それで、ともかく、私、逃げ出そうとしたの。犯人は病《ヽ》院《ヽ》の《ヽ》中《ヽ》に《ヽ》、平気で入って来ているんですもの。このまま中にいたら殺される、とそう思ったのよ」  「それで病院を脱《ぬ》け出したんだね」  「でもよく出られたわね」  と、千絵が言った。  「看護婦さんの白衣をはおったの。——ちょうど、一階へ降りて行ったら、椅子《いす》に引っかけてあったのよ」  「椅子に?」  「患《かん》者《じや》さんたちが待っている長椅子があるでしょ? あの背にかけてあったの」  千絵は、眉《まゆ》を寄せて、  「ちょっとおかしいわ」  と言った。「看護婦さんが、そんなことするかしら?」  「じゃあ……」  夏美は、ハッとしたように言った。「もしかして犯人が?」  「その可能性あると思うわ。お兄さん、どう思う?」  「そうだなあ……。犯人が病院の中を歩き回ろうとしたら、白衣姿が一番、目につかないだろうな」  「じゃ、私、犯人が着てた白衣をはおって、外へ出たのかしら? いやだわ!」  夏美は首を振《ふ》った。  「その白衣は?」  「コートの上からはおってたから、外へ出たら、そのまま植《うえ》込《こ》みの辺《あた》りへ捨てちゃったわ」  「でも、待てよ」  と、克彦が言った。「そうなると、犯人は女だってことになるぜ」  「そうだって、悪いことないわ。少なくとも、永原って人を殺したのは女かもしれない」  「私を屋《おく》上《じよう》から落とそうとしたのは……」  「そうね。男でも女でも、やれないことはないわ」  「でも、永原を殺した犯人は別だとすると……」  と、克彦は腕《うで》組《ぐ》みをして考え込んだ。  「お兄さんたら、分かってるの?」  と、千絵が冷やかすように言った。  「何が、だよ」  「お兄さんには、名探《たん》偵《てい》は似合わないわ」  「大きなお世話だ」  と、克彦は渋《しぶ》い顔で言った。  「ともかく、まず、永原さんの奥《おく》さんに会ってみたいわ」  と、夏美は言った。「ご主人を殺した人の見当がつくかどうか」  「それは、でも警察が調べてんじゃない?」  「でも、警察に話せることと、話せないことがあると思うの」  夏美は、何か知っていることがある様子だった。  「OK。じゃ、こいつを片付けたら、出かけよう」  克彦が、ハンバーガーの最後の一口を口の中へ投げ入れながら、言った。  「一人だけ、電話しておきたい人がいるの」  と、夏美が言った。  「誰《だれ》、それ?」  「朱子さん。大内朱子っていって、私の付《つき》人《びと》なの」  「ああ、見たことあるよ、何度か」  と、克彦が言った。「いつもそばにいる、ちょっと男っぽい感じの人だろ」  「ええ。あの人は、本当に親身になって、私のことを心配してくれるの。だから、一応、無《ぶ》事《じ》だってことだけ、知らせておくわ」  店を出て、夏美は、表の電話ボックスに入った。——マンションへかける。  「はい」  すぐに朱子が出た。  「もしもし、私、夏美よ」  ちょっと間があって、  「——びっくりした! 待ってたけど、びっくりしたわ」  と、朱子がため息をつくのが聞こえて来る。  「ごめんなさい。あんな風に姿を消したくなかったんだけど」  「元気なの? 傷《きず》の具合、大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》?」  夏美は、どこにいるのかも訊《き》かず、まず体のことを心配してくれる朱子の気持が嬉《うれ》しかった。  「ええ、大丈夫よ。——ね、警察のほうはどう?」  「よく分からないの。あなたのことも、もちろんあれこれ訊かれたけど……」  「私、何とか自分の力で、犯人を見付けたいわ。たぶん——永原さんも、私のせいで殺されたんだろうし」  「そうとは限らないわ。あんまり考え込《こ》まないほうがいいわよ」  と、朱子は言って、「——ね、ともかくマンションは、報《ほう》道《どう》陣《じん》や警察に見られてるから、危いわ。どこかで会えない?」  「でも、あなただって、見張られてるでしょう?」  「その点は大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》。いつも人目を逃《のが》れる工《く》夫《ふう》をしてるじゃないの」  「それもそうね。でも——」  「ちょっと話したいことがあるの。電話じゃ無理だわ」  「そう。——いいわ。それじゃ、どこで?」  朱子が、代《よ》々《よ》木《ぎ》公園の一角を説明した。以前、二人で散歩に出たことがある。  「分かったわ。じゃ、一時間後に?——そうね」  電話を切ると、夏美は、また十円玉を何枚か入れて、永原の家へかけた。  しばらく鳴らしていると、やっと向こうが出る。  「はい、永原です」  「あ——私、夏美ですけど」  「あら! どこにいるの?」  「ちょっと、お話がしたくて」  「いいわよ。やっと、うるさい連中も帰ったしね。じゃ、家へ来る?」  「構いませんか?」  「こっちはね。——ああ、あなたのことは黙《だま》ってるから、大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》よ」  「じゃ、今から——三十分ぐらいしたら、うかがいます」  「近くへ来たら、電話して」  ——夏美はボックスを出た。  「永原さんの奥《おく》さんの所へ行きましょう。その後で、朱子さんと会うことにするから」  「行動開始ね!」  千絵は、至って楽しげだった。 10 わき腹にナイフ  「——変だわ」  夏美は受話器を置いた。  永原の自《じ》宅《たく》の近くで、もう一度電話してみたのだが、今度はさっぱり出て来ないのである。  「行ってみる?」  と、克彦が言った。「いなきゃいないで、帰って来りゃいいし」  「お兄さんったら。もし、向こうで警察でも待ってたら、どうするのよ」  と千絵がにらんで、「でも——それなら、当然電話に出るか」  「自分で言って、自分で否定してりゃ、世話ないや」  と、克彦がからかった。  「ともかく時間が……」  と、夏美は言った。「朱子さんと一時に待ち合わせたのに、もう十五分しかないわ」  「だから、行ってみようよ」  と、克彦が言った。  「ねえ、私が、その朱子さんって人のほうに行ってあげる」  と、千絵が言った。  「え? でも——」  「大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》よ。ちょっと遅《おく》れて来るって伝えれば、待っててくれるでしょう。そうでないと、場合が場合だから、来ないのかと思って、帰っちゃうかもしれない」  「じゃ、申し訳ないけど、お願いできる?」  「任《まか》しといて。行けば、分かるでしょ」  夏美から場所を聞いて、千絵は、足早に駆《か》け出して行った。  「じゃ、行ってみましょうか」  と、夏美は言った。  「うん」  歩き出して、克彦は、「その奥《おく》さんが何か知ってる、と思ってんだね?」  と訊《き》いた。  「たぶん……。奥さんといっても、実際は永原さんの秘書みたいなものだったの」  「秘書?」  「そう。浜子さんというんだけど、面《おも》白《しろ》い人なのよ。——私、デビュー前、少しの間だったけど、あの家にお世話になったことがあるの」  「なるほど。ご主人が殺されて、がっくりしてるところに訪《たず》ねて行くってのも、何だか悪いみたいだね」  「そうね。でも——」  と、夏美は首をかしげた。「でも普《ふ》通《つう》の夫《ふう》婦《ふ》ほどには、ね」  「普通の、って?」  「あの二人、法律上だけの夫婦なの」  「法律上だけ……?」  克彦が、キョトンとしている。  「永原さんは、男だけの恋人しか持てなかった人。浜子さんは逆《ぎやく》に女だけの恋人しか持てない人なんだもの」  「そ、それじゃ——」  克彦は、赤くなって、どきまぎした。  「照れないで。こういうこと、この世界じゃ珍《めずら》しくないのよ。永原さんたちは、だから、お互《たが》いに、便《べん》宜《ぎ》的《てき》に夫婦になってただけなの」  「へえ」  克彦は首を振《ふ》った。「やっぱり、ちょっと変った世界だねえ」  「そう」  夏美は、ちょっと笑って、「あんまり深入りすると、夢《ゆめ》も希望もなくなるわよ」  と言った。  「どの家だい?」  「ええと——あの角を曲がったところよ。確か、曲がってすぐだったと思うわ」  「待った!」  克彦が、夏美の腕《うで》をつかんだ。「見ろよ」  角から、警官が出て来た。歩いて来るのではなく、その辺をぶらついている感じだった。  「警官ね」  「何だか、おかしいと思わない?」  克彦と夏美は、顔を見合わせた。  「まさか——」  夏美の口から、言《こと》葉《ば》が勝手に出て来た。「まさか、奥《おく》さんまで——」  「君はここにいて。ちょっと僕《ぼく》、様子を見て来る」  克彦も、やっと少し探《たん》偵《てい》気分になって来た。  何気なく歩いて行って、角を曲がる。  「分からねえのか、この野郎!」  いきなり罵《ば》声《せい》が飛んで来て、克彦はギョッとした。——が、見れば、何のことはない、要するに、軽自動車とオートバイが接《せつ》触《しよく》して、ドライバー同士が大喧《げん》嘩《か》をしているのだ。  オートバイのほうは革《かわ》ジャンパーの若者、自動車のほうは、どこかの商店の親父《おやじ》さんというところだ。  「まあ、少し二人とも頭を冷やして——」  と、警官が困ったように言った。  「冗《じよう》談《だん》じゃねえよ! こっちは商売道具なんだ、傷《きず》つけられちゃ、たまったもんじゃーねえ!」  「何だ、そんなボロ車! もともと傷だらけじゃないか」  「何だと、てめえ——」  と、つかみかかる。  「やめろってば! おい!」  ——克彦は、待っていた夏美の所へ戻《もど》って、事情を説明した。  「よかった! まさか、とは思ったけど……」  と、夏美が胸を撫《な》でおろす。「じゃ、行きましょう」  二人が角を曲がって歩いて行くと、例の二人は、まだ怒《ど》鳴《な》り合っていた。  「この家だわ」  ごく当たり前の——というか、むしろ最近ではあまり見ない、日本的な古い木造の家である。  もちろん、近年は木造のほうが豪《ごう》華《か》ということになっているが、これはそんな家ではない。ただ、古ぼけているだけだ。  格《こう》子《し》戸《ど》の玄《げん》関《かん》へ入ると、  「ごめん下さい」  と、夏美は声をかけた。  「はあい」  すぐに返事があって、出て来たのは、かなり太った、呑《のん》気《き》そうな女性。黒いスーツが、やけに窮《きゆう》屈《くつ》そうだった。  「まあ、夏美さん! 見《み》違《ちが》えちゃったわ。そういう格《かつ》好《こう》してると、分からないわね」  「すみません、お電話したんですけど、お出にならないので、来ちゃいました」  「ああ、ごめんなさい。私、買物を忘れちゃって、外へ出てたの。さあ、上がって」  と、言って、克彦に気付き、「あら、この子は?」  「彼《かの》女《じよ》のファンの一人です」  と、克彦は、至って謙《けん》虚《きよ》な言い方をした。  「ちょっと事情があって、助けていただいてるんです」  「まあ、そうなの。私、またどこかのニューアイドルかと思ったわ。さあ、どうぞ」  克彦は、この一言で永原浜子のことがすっかり気に入ってしまった!  「大変でしたね、永原さんのこと」  と、畳《たたみ》の部《へ》屋《や》にカーペットを敷《し》いた居間に落ちつくと、夏美が言った。  「あなたはよく知ってるでしょ。特別に、悲しいってことはないはずなんだけど……。でも——いい人だったからね。可哀《かわい》そうだとは思うわ」  と、浜子は、お茶を出しながら言った。  「お葬《そう》式《しき》はいつ——?」  「まだ警察が遺体を返してくれないの。たぶん、二、三日かかるんじゃない? 検死解《かい》剖《ぼう》ってやつがあるわけだから」  夏美は肯《うなず》いて、  「たぶん——私はお葬《そう》式《しき》に出られないと思います。すみません」  「いいのよ。気にしないで。それより、あなた自身が大変でしょ」  「私、命を狙《ねら》われてるんです」  「何ですって?」  と、浜子が、ただでさえ大きな目を、もっと見開いた。  夏美が、病院での出来事を説明して、  「——ですから、こんな風に逃《に》げ回ってるんです」  と言った。「本当なら、警察へ行って、正直に話をするべきでしょうけど、きっと信じてくれないと思うんです。あんな風に姿を消してしまったし——」  「そうよ、やめなさい、警察なんて」  と、浜子が顔をしかめた。「はっきりは言わないけど、あんたを疑ってるのよ」  「そうでしょうね」  「刑《けい》事《じ》がね、何度も来たのよ」  と、浜子はもっと渋《しぶ》い顔になった。「何だか——倉——倉倉とかいう——」  「クラクラ?」  と、克彦が思わず訊《き》き返したとき、玄《げん》関《かん》の戸がガラガラと開く音がして、  「失礼! 奥《おく》さん、おいでですか! 門《かど》倉《くら》刑事ですが」  と、ちょっと間のびした声が飛び込《こ》んで来た。    ここじゃないのかな? 千絵はキョロキョロと周囲を見回した。  代々木公園の一角。——あまり人の通ることのない場所である。  夏美から、詳《くわ》しく場所は聞いて来たつもりだった。相手は、若い女性一人。  すぐ分かると思っていたのだが……。  向こうが、何かの都合で遅《おく》れているのかもしれない。少し待ってみよう。  千絵は、コンクリートの花《か》壇《だん》の端《はし》に、チョコンと腰《こし》をおろした。  「——いよいよ謎《なぞ》ね」  女は怖《こわ》いというか、冷静というか、千絵のほうは、兄と違《ちが》って夏美にイカレてるわけではないので、割合に客観的に事態を眺《なが》められる。  もちろん、千絵とて、星沢夏美を助けたいとは思っている。しかし、一方では、全面的に彼《かの》女《じよ》の話を信じる気にはなれないのである。  病院での出来事は事実だろう。特に、屋《おく》上《じよう》で殺されかけたことも。  しかし、それで、夏美が病院を出て来てしまったというところが、どうも引っかかるのである。  人間、そういう時には、冷静な判断ができないのかもしれないが、しかし、自分が疑われる、と思う前に、死体を見付けたりしたら、大声で助けを求めるのが普《ふ》通《つう》じゃないかしら?  しかし、夏美はそうしなかった。そして、病院を脱《ぬ》け出した。——なぜ?  今、警察は、夏美を指名手配してはいない。一応重要参考人にでもするのが当然のような気もするが、なぜか、それもしていないのである。  つまり、本《ヽ》当《ヽ》に《ヽ》夏美が疑われているとは限らないのだ。  でも、夏美は疑われていると思っているらしい。——本当に?  だとすれば、それは何か理由あってのことだ。つまり、夏美に、永原を殺す動機がある、ということである。  だからこそ、夏美は、警察へ行かずに、自分で犯人を見付けたいのではないか。  ——もう一つ、夏美が病院を出て来たのは、殺人の容《よう》疑《ぎ》をかけられるからでなく、何か他《ほか》の理由があったため、とも考えられる。  何かは分からない。しかし、何か、外でやっておきたいことがあったのではないか。  千絵には、もちろん他にも色々と妙《みよう》に思われることがある。その辺《へん》は、克彦など、もうきれいさっぱり忘れてしまっている。  第一は、あの、克彦の録《と》って来たテープの歌声である。  あれが本当に、夏美の声だとしたら、なぜ夏美は歌が巧《うま》いのを隠《かく》して、わざと下手《へた》に歌って聞かせているのか。  そして、あのオペラのアリアらしい歌の意味は?  それから、夏美が手首を切って、自殺を図《はか》ったこと。  本気ではあったろう。しかし、実際には、ああして、克彦たちと元気に歩き回っているのだ。  考えようによっては、あれは狂《きよう》言《げん》だったのかとも、思えて来る。  「そこまで言っちゃ、気の毒《どく》かな」  と、千絵は呟《つぶや》いた。  でも、推理は非情なのだ。その可能性は否定できない。狂言なら、その理由が何だったのか、という問題は残るが……。  ともかく——これは、一見して単純に見える事件だが、何か裏があるはずだ。見かけ通りの事件でないことだけは、確かである……。  誰《だれ》かが歩いて来た。  来たのかな? 顔を上げると、人違《ちが》いだった。ともかく、男だったのだから、大内朱子のはずがない。  四十がらみの、ちょっとガラの悪い感じの男だった。  千絵は目をそらした。男が足を止める。  千絵は男を見た。  「何ですか?」  「星沢夏美……」  「え?」  千絵がちょっと面《めん》食《く》らって、「じゃ、あなた、大内朱子さんの——?」  「やっぱりそうか」  男は肯《うなず》いて、「さすがに可愛《かわい》いや」  「え?」  千絵は目をパチクリさせた。  「一《いつ》緒《しよ》に来てもらうぜ」  と、男が言った。  「私、人と待ち合わせてるんです」  「こっちにも待ってる人がいてね」  と、男は言った。  ナイフが、千絵のわき腹《ばら》へ、ぐいと突《つ》きつけられた。  「分かったわ」  と、千絵は、さすがに青くなって言った。  まだ、生まれて一度も手術というものを受けたことがないのだ。しかも、こんな素《しろ》人《うと》(?)にお腹《なか》を切られちゃかなわない!  千絵は、男に促《うなが》されて、歩き出した。    「——あの、刑《けい》事《じ》さん」  と、永原浜子が、門倉刑事にお茶を出しながら言った。「夏美さんを犯人だと思ってるんですか?」  門倉は、ちょっと心外という面《おも》持《も》ちで、  「いつ、私がそんなことを言いました?」  と訊《き》き返した。  「いえ——ただ——何となくそう思ったんですの。だって、こんなに度《たび》々《たび》おいでになって、夏美さんのことを、あれこれお訊きになるんですもの」  「これは単に、聞き込《こ》みの一部に過ぎませんよ」  「そうですか」  浜子は、自分も腰《こし》をおろして、「じゃ、今日はどういうことで?」  「お断りしておきますが——」  と、門倉は改《あらた》まって、「警察は、決して単なる勘《かん》で、こいつが犯人だろうという見《み》込《こ》みをつけて、捜《そう》査《さ》しているのではありません」  「はあ……」  「中には、そういう者がいるのは事実です。しかし、少なくとも、この私は違《ちが》います」  門倉は、なぜか胸を張って堂々と(?)言った。そして、手帳を開くと、  「星沢夏美の好きな食べ物は?」  と、言った。  奥《おく》の部《へ》屋《や》で話を聞いていた克彦と、当の夏美は、思わず顔を見合わせた。  「何だい、あの刑《けい》事《じ》?」  と、克彦が訊《き》いた。「あんなこと訊いて、事件と何か関係あるのかなあ」  「シッ! 大きな声出さないで。——分からないわよ、刑事なんて、何を考えてるんだか」  ——門倉は、浜子が、  「スパゲッティ、ラーメン、ザルソバ……。そうね、大《だい》体《たい》め《ヽ》ん《ヽ》類が好きでしたよ」  と言うのを、せっせと手帳に書き取っていた。  「ラーメンは、ただのラーメンですか? 塩ラーメン、みそラーメン、チャーシューメンなど色々ありますが」  「その都度、あれこれ……。でも、そんなことが何か役に立つんですの?」  「事件解決の鍵《かぎ》はどこにあるか分からないんですよ」  「はあ。でも——」  「甘《あま》いものと辛《から》いものでは、どっちが好きでしたか?」  門倉は真《ま》面《じ》目《め》に質問を続けた。  「さあ……。あんまり太らない体質のようでしたけど、でも、やっぱり若い子ですから、甘いものも食べてたようです」  「和《わ》菓《が》子《し》とケーキでは?」  「どっちかといえばケーキでしょうか」  浜子は、もはや諦《あきら》め顔である。  「なるほど」  と、門倉は手帳へ、きちんと書きつけ、「では次に着るものについてですが——」  「刑《けい》事《じ》さん」  と、浜子は言った。「下着の色までお訊《き》きになりたいんでしたら、私より、付《つき》人《びと》の大内さんにお訊きになったほうがいいと思いますよ」  「なるほど」  と、門倉は肯《うなず》いて、「しかし、証《しよう》言《げん》は複数で、というのが原則です。——で、彼女の下着の色は?」  ——答える前に、浜子は長々とため息をついた。 11 人《ひと》違《ちが》いの誘《ゆう》拐《かい》  「日本の警察って、あれで大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》なのかしらね?」  浜子は、柄《がら》にもなく憂《うれ》えて見せた。  「本当だな」  と、克彦が言った。  門倉が帰ったのは、一時間後だった。克彦も夏美も、奥《おく》で聞いているだけで、いい加減に疲《つか》れてしまったのである。  「あの調子で、朱子さんの所へ行って、私の下着の色なんて質問したら、廊《ろう》下《か》へ叩《たた》き出されちゃうわよ」  と、夏美も苦《にが》笑《わら》い。  「何考えてんだろう?」  「ともかく、考えてもむだよ。訊《き》くわけにいかないんだもの」  と、浜子は言って、「さて、さっきの話の続き——」  「私が知りたいのは、永原さんを殺す動機のあった人がいるか、ってことなんです」  と、夏美は言った。「もちろん、刑《けい》事《じ》さんにも訊かれたんでしょう?」  「そうよ。もちろん、心当たりは全《まつた》くありません、って答えといたけど。——たいてい、残された妻って、そう答えるじゃない? 心当たりがあるなんて言うと、つまりは、人に恨《うら》まれる人間だった、ってことだもんね」  なかなか面《おも》白《しろ》い発《はつ》想《そう》をする人だ、と克彦は感心した。いや、感心してちゃいられないのだ。  「私と永原が、表面上だけの夫《ふう》婦《ふ》だったなんて、いちいち刑事に説明しても仕方ないものね」  「ええ。——すると実際には、何か心当たりがあるんですね?」  「そうねえ……。はっきり誰《だれ》とは言えないわよ」  「一つは私の移《い》籍《せき》のことがあると思うんですけど」  「そうね。それは永原からも聞いてたわ。もちろん極《ごく》秘《ひ》ってことでね。あの人も、ずいぶん慎《しん》重《ちよう》に動いてたようだった」  「私は、なかなか永原さんと二人になることがないんです。だから、詳《くわ》しいことは聞けず終《じま》いで。——何か感《かん》触《しよく》は確かなように聞いたんですけど」  「そうらしいわ。つい四、五日前に、結構得意そうにしてたからね」  「そのことが、たとえば社長の松江さんや、安中さんに知れてるってことは、ありませんでしたか?」  「なかった——と思うわよ」  と、浜子は首をひねって、「もちろん、私にもはっきりした返事はできないけどね」  「少なくとも、永原さんは、気付かれてない、と——」  「そう思ってたわね」  「でも——」  と、克彦が口を挟《はさ》んだ。「それが殺人の動機にまでなるかな?」  「ならないとは言えないわ」  と、浜子は言った。「カッとなれば、殺すことだってある。冷静に考えりゃ、やらないことでもね。——それに、これは莫《ばく》大《だい》なお金が絡《から》んでるわけだもの。夏美が動けば、何十億って収入がごっそりと他《ほか》のプロダクションへ入る。人一人殺すには、充《じゆう》分《ぶん》すぎる金額よ」  そんなものかな、と克彦は思った。  僕《ぼく》だったら、いくらお金が入るったって、人までは殺さないけど。——まあ、ゴキブリ一匹《ぴき》ぐらいなら、殺してもいいけどね。  「他に何か、思い当たることは?」  と、夏美が言った。  「そうねえ。これは、私がはっきり確かめたことじゃないんだけど——」  と、浜子はためらいがち。  「何ですか?」  「あの人ね——このところ、女《ヽ》性《ヽ》に《ヽ》も《ヽ》興味を持ち始めたみたいなのよ」  夏美は意外そうに、  「本当ですか?」  と言った。「そんなことってあるのかしら?」  「あるわよ、もちろん。現に、男も女も大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》って人が沢《たく》山《さん》いるし。——もちろん私はだめなんだけど」  「それは——つまり、永原さんに女性の恋人ができた、ってことですか?」  「そうだと思うわ。いつだったか、いやに香《こう》水《すい》の匂《にお》いをさせながら帰って来たことがあったの。そりゃ、商売柄《がら》、そういうこともなかったわけじゃないわ。でも、冗《じよう》談《だん》半分に『あら、彼《かの》女《じよ》でも出来たの?』って訊《き》いたら、凄《すご》くどぎまぎして、『そんなはずがないじゃないか』って……。そのときのあわてぶりが、どうもおかしかったのよ」  夏美は肯《うなず》いて、  「相手が誰《だれ》かは分かりません?」  「そこまではね。興味もなかったし」  と、浜子は肩《かた》をすくめる。  「そうですか……」  夏美は、少し考え込《こ》んでいたが、「——永原さんの、本《ヽ》来《ヽ》の《ヽ》恋《ヽ》人《ヽ》の方は、誰なんでしょう?」  と訊いた。  「男の? それは知らないわ」  「どんな男とか、何をしてるとか。——どんなことでもいいんですけど、何かありません?」  「それだけは、お互《たが》いに秘密を尊重してたし、関心もなかったからね」  「そうでしょうね」  夏美は、ちょっとがっかりした様子。  「ああ、そうか。あんたの考えたことが分かったわ。つまり、永原に女の恋人ができて、本《ヽ》来《ヽ》の《ヽ》恋人が嫉《しつ》妬《と》した、ということね」  「あり得ると思うんです」  「それはあるでしょうね。特にこういう世界では、独《どく》占《せん》欲《よく》とか嫉《しつ》妬《と》心《しん》が、普《ふ》通《つう》の男女の恋愛よりずっと強いものだから」  「持物とか、遺《のこ》した物の中に、手がかりはありませんか?」  「一応、ざっと整理はしたけど……」  と、浜子は考えて、「それらしいものはなかったわね。大《だい》体《たい》、ここ、掃《そう》除《じ》なんかを、通《かよ》いのお手伝いさんに頼《たの》んでるでしょう? 覗《のぞ》かれて困るようなものは、何も置かないことにしてたのよ」  「じゃ、事務所とか、そっちにあったかもしれませんね」  「そうね。その可能性はあるわ。向こうにはまだ顔を出してないから」  夏美は少し間を置いて、  「——分かりました。どうもありがとう」  と頭を下げた。  「いいのよ。でも、大変ねえ、これからどうするの?」  「何とか、手がかりをたぐってみます。そして犯人を……」  「充《じゆう》分《ぶん》用心してね。あんた、かけがえのない体なんだから」  「ありがとうございます」  夏美は微《ほほ》笑《え》んだ。  克彦は、何となくホッとした。そこに、ブラウン管でいつも見なれた夏美の笑《え》顔《がお》があったからだ。    「——いないわ」  約束の場所へ来て、夏美は周囲を見回した。  「あいつ、どこか場所を間《ま》違《ちが》えたんじゃないかな」  と、克彦が言った。  もっとも、もしこの言《こと》葉《ば》を千絵が聞いていたら、怒《おこ》るだろう。  何しろ、どっちかといえば兄の克彦のほうが、凄《すご》い方向音《おん》痴《ち》なのだ。千絵はその点、しっかりしている。  「でも、朱子さんもいないわ。——ね、ここにいてくれる? 私、電話をかけてみるから」  「うん、いいよ」  その程度なら、お安いご用だ。  夏美は、しばらく歩いて、やっと公衆電話を見付けた。  マンションへかけてみる。すぐに受話器が上がった。  「朱子さん? 私よ」  「夏美さん! ごめんなさい! 出ようとしたら、記者に捕《つか》まっちゃったの。それを振《ふ》り切って出たら、今度はぴったりと尾《つ》けられちゃって。——ついに買物して帰って来ちゃったのよ」  「いいのよ。事情はよく分かってるわ」  「どこか——夜になってからなら……」  「うん。実は、そのこともあってね。あなた、事務所の鍵《かぎ》は、まだ持ってるでしょ?」  「ええ、もちろん」  と、朱子は不《ふ》思《し》議《ぎ》そうに、「でも、どうして?」  「今夜、事務所へ来て。中へ入って、調べたいものがあるの」  「いいけど……。何をするつもり?」  「そのとき説明するわ。今夜、十二時に」  「真夜中に?」  「誰《だれ》もいなくなるのは、そんなものでしょ?」  「分かった。何とかして行くわ」  「お願いね。気を付けて」  「私のセリフだわ」  と、朱子は言って、ちょっと笑った。  ——夏美は、克彦が待っている場所へと戻《もど》った。  「何だ、そうだったのか」  と、克彦は、話を聞いて、「じゃ、千絵の奴《やつ》、待ち呆《ぼう》けで、帰っちまったんだ、きっと」  「悪いことしちゃったわね」  「いいんだよ。じゃ、一《いつ》旦《たん》家へ戻る?」  「そうね。じゃ、夜、また出かけるわ」  「おともするよ」  「だめよ! 夜中なのよ」  「君のためなら、何時までだって起きてるよ」  克彦としては、精一杯のサービスであった。  「——おかしいな」  家へ戻って、克彦は首をひねった。「千絵の奴《やつ》、どこをうろついてるんだろう?」  千絵も、母親の雅子も、まだ帰っていなかったのだ。  「いいじゃないの。きっと、どこかに寄り道してるのよ」  と、夏美は言った。「十六か。——若いっていいわね」  「変だよ、そんなの」  と、克彦は笑って、「君と一つしか違《ちが》わないんだぜ、あいつ」  「私はもうトシだわ」  夏美は、ソファに身を沈めて、「仕《ヽ》事《ヽ》ってものを持つようになると、人間は急に一年に何歳《さい》もトシを取るのよ」  「そんなものかなあ」  「あなたにも、いつか分かるわ。社会へ出たときにね」  克彦は苦《にが》笑《わら》いして、  「年下の君に、お説教されるとは思わなかったなあ。——あ、ごめん、それがいやだって言ってんじゃないよ」  「分かってるわ」  夏美は微《ほほ》笑《え》んで、「子供が大人《おとな》になる。その、ちょうどむずかしい時期に、私たち、みんないるんですものね」  と言った。  「でも、君はずっと年上に思えるよ」  と、克彦は真顔で言った。  「そうでしょうね。年《ねん》齢《れい》は時間じゃなくて、経験で取っていくものなのよ。その点でいえば、私は貧《びん》乏《ぼう》もしたし、お金も稼《かせ》いだし、働いてるし、大人たちのいい面、悪い面、みんな見て来たわ。——大人になるのには充《じゆう》分《ぶん》な経験よ」  彼《かの》女《じよ》、ずいぶん辛《つら》い思いをして来たんだなと、克彦は思った。  TVなどで見ていると、いかにも年《ねん》齢《れい》相応に若々しいが、こうして間近になると、その素顔は、ひどく大人びている。  そういえば、夏美の過去——というと大げさだが、要するに、プライベートな部分は、ほとんど知られていない。  両親が何をしていて、兄弟は何人なのか、どこに住んでいるのか、どこにも出ていない。世間では、謎《なぞ》めいた雰《ふん》囲《い》気《き》を作るために、プロダクションが、わざと隠《かく》しているのだと噂《うわさ》していた。  しかし、こんな風に、十七歳《さい》で、大人《おとな》のような落ちつきを感じさせるのは、本当に人に明かしたくないような、辛い生活を経験したからかもしれない、と克彦は思った。  「あの——コーヒーでも淹《い》れようか」  「ありがとう。いただくわ」  「じゃ、ちょっと待ってて」  克彦は、いそいそと台所へ行って、湯を沸《わ》かした。  ドリップで、コーヒーを落としていると、ふと、何かのメロディが、洩《も》れ聞こえて来た。  夏美だ。ハミングしている。——そのメロディは、あのとき、克彦がベランダで録音した歌のものだった。  あれは何の歌だろう? 克彦は、夏美に訊《き》いてみたかったが、彼《かの》女《じよ》のほうから、訊かないでくれと言われている。  そう言われると、却《かえ》って知りたくなるのも事実だ。  そうだ。——なぜ彼女が、わざと下手に歌っているのかは訊かず、何という歌なのかだけ訊くのは構わないんじゃないか。  多少こじつけめいてはいたが、克彦はコーヒーカップを夏美の前に置いて、  「それ、いい歌だね」  と言ってみた。  「え?」  夏美は戸《と》惑《まど》い顔。  「今、口ずさんでたろう? そのメロディさ。何て歌なの?」  夏美はゆっくりとコーヒーをすすって、  「哀《かな》しい歌なのよ。オペラのアリアなの」  「やっぱり! そうじゃないかと思ってたんだ」  「あら、分かるの?」  「いや——そうでもないけど」  「私は、好きだったわ。小さい頃《ころ》から」  と、夏美は、少し視線を遠くへ向けて、「ただ、なかなかオペラなんて、耳にする機会がないでしょう。だから……」  「でも——」  と、話をつなごうとしたとき、電話が鳴り出して、克彦は内心舌打ちした。  きっと千絵の奴《やつ》だ。どこをふらついてんだか……。  「はい、本堂です」  と克彦が出ると、  「もしもし」  と、千絵の声とは程遠い、男の声がした。  「はい」  「克彦ってのは?」  「僕《ぼく》ですけど——どなたですか?」  「俺《おれ》のことはいいんだ」  「はあ?」  何のことだ? 克彦はいたずら電話なのかと思って、首をひねった。  「彼《かの》女《じよ》は俺《おれ》の所でしばらく預かるからな」  「彼女?——彼女って?」  「分かってるくせに、とぼけるなよ」  「分かりませんよ。何の話ですか?」  「よし、待ってろ。今、代ってやる」  ——やや沈《ちん》黙《もく》。何やらガサゴソやっている気配がする。と思ったら、  「もしもし」  と、千絵の声だ。  「何だお前——」  と、克彦が言いかけるのを遮《さえぎ》って、  「克彦さんね。私、星沢夏美よ」  と、千絵が言った。  「おい、千絵——」  「私、誘《ゆう》拐《かい》されたの」  「何だって?」  克彦は目を丸くした。  「でも大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》。危害は加えられてないから。克彦さん、分かる?」  「おい、これが悪い冗《じよう》談《だん》なら、後でぶっとばしてやるぞ」  「克彦さん、向こうは、私がリサイタルに出られないように、閉じ込めておきたいらしいの。だから、それが過ぎれば、ちゃんと返してくれる、って約束してくれてるわ。だから、心配しないで」  「おい……」  どうやら、冗談じゃないらしいと分かると、克彦は青くなった。「つまり、お前が夏美さんと間《ま》違《ちが》えられて——」  「そうなの。じゃ、よく分かったわね? 決して捜《さが》さないで」  「おい、お前——」  ガタゴト音がして、また男の声に代った。  「いいか、今聞いたように、お前の大事な彼《かの》女《じよ》は、こっちが預かってる。心配にゃ及《およ》ばないぜ」  これが心配せずにいられるか!  「おい、待てよ! 一体あいつ——いや、夏美さんをどうする気だ!——おい!」  電話は切れてしまった。  克彦はポカンとしていた。——今のは本当の電話だろうか? 空《そら》耳《みみ》じゃないのか?  「どうしたの?」  夏美が心配そうにやって来る。  「いや——あの——」  「私と間《ま》違《ちが》えられたとか言ってたわね。誰《だれ》のこと?——千絵さんね?」  克彦は肯《うなず》いた。  「誰《だれ》かに誘《ゆう》拐《かい》されてるんだ」  克彦の話に、夏美は、息を呑《の》んだ。  「どうしましょう! じゃ、きっと朱子さんと待ち合わせた場所へ行ったから、てっきり私だと思われて——」  「でも、今どき、君の顔を知らない奴《やつ》がいるのかなあ」  「そんなこと、どうだっていいわ!」  夏美は、居間の中をやたらと歩き回った。  「変だわ。——私と朱子さんがあそこで待ち合わせることを、どうしてその男が知ってたのかしら?」  「それもそうだね」  と、克彦は言った。「その朱子さんって人は信用できるの?」  「絶対よ」  と、夏美は即《そく》座《ざ》に言った。「それに、彼《かの》女《じよ》とはさっき電話で話したばかりじゃないの。もし、誘《ゆう》拐《かい》に加わってるのなら、人《ひと》違《ちが》いと分かるはずよ」  「あ、そうか」  「そんな呑《のん》気《き》なこと言って! 妹さんが危いのに」  「あいつなら大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》だよ。しっかりしてるから、きっと自分で——」  「ごめんなさい」  夏美は、息を吐《は》いた。「——私のせいで、こんなことになっちゃったのに、偉《えら》そうな口をきいて。でも、どうすればいいかしら?」  「うん……。困ったね」  克彦としても、どう考えていいのか、分からないのである。  「——その犯人は、私のリサイタルの日が過ぎたら、返してやる、と言ったのね?」  「そうらしいよ」  「じゃ——一週間あるわ。でも、その間に、間違いに気付くことだってあるかもしれない……」  「そうだね」  「そうなったら……。犯人は千絵さんをどうするかしら?」  「返して寄こすだろ」  克彦も、割合に呑《のん》気《き》なのである。  「そんな!——でも、間《ま》違《ちが》いだと言ってやりたくても、向こうからは、身《みの》代《しろ》金《きん》の請《せい》求《きゆう》もないわけだし……」  「でも、間違いと分かったら、また君が狙《ねら》われるよ」  「妹さんが大切じゃないの! 私のことなんかどうでもいいわ」  「そんなわけに行かないよ」  と、克彦は言った。  柄《がら》に似ず、頑《がん》固《こ》なところもあるのである。  「あいつは自分から、人違いだとは言わないで、身《み》代《がわ》りになったんだ。そりゃあ——心配にはなるけど、もし君を差し出して、あいつを助けたりしたら、僕《ぼく》があいつに殺されちゃうよ」  夏美が、じっと克彦を見つめた。厳《きび》しくて、でも暖かい——いや、ほとんど「熱い」と形容できる眼《まな》差《ざ》しだった。  そして、いきなり夏美は克彦に抱《だ》きついた。克彦は顔を真っ赤にして、どぎまぎするばかりである。  夢《ゆめ》の中では、何度もこういう場面があったのだが、いざ現実となると対応しきれない。それに——これは恋の抱《ほう》擁《よう》じゃない、感謝の抱擁だということが、分かってもいたからだろう。  「——ありがとう」  夏美は、ゆっくりと克彦から離《はな》れた。「いい人ね。あなたも千絵さんも」  「お人好しで損ばっかりしてんだ」  と、克彦は笑いながら言った。  「笑ってる場合じゃないでしょ」  「あ、そうだ」  「——ともかく、千絵さんのほうは、調べようがないわ。でも——私がリサイタルに出られないようにするために、あんなことまでするというのは……」  夏美は、考えこんだ。  「それで——」  克彦が、おずおずと言った。「今夜はどうするの?」 12 夜のオフィス  朱子は、十二時二十分に、やっと目的地へ辿《たど》り着いた。  「どうも」  タクシーを降り、料金を払《はら》って、やっと息をつく。  用心のために、少し手前で降りたので、事務所のあるビルまで歩かなくてはならない。夏美はもう待ちくたびれているだろう。  どこかのバーから出て来たらしい酔《すい》客《きやく》が、ふらふらとすれ違《ちが》って行く。  事務所のあるビルといっても、大きなものではない。八階建《だて》の雑居ビルというやつである。  この辺《あた》りは、その手の小さなビルが、ひしめき合っている。しかし、どこももう真夜中となれば静かなものだ。  朱子は少し足を早めた。  ちゃんと間に合うようにマンションを出たのだが、どうやら、隠《かく》れて見ていたらしいバイクに尾《び》行《こう》され、タクシーを三回も乗り継《つ》いで、ひどい遠回りをしてやっとここへ来たのだ。  「全《まつた》く、ヒマな連中なんだから!」  朱子は思わず口に出していた。  ビルが見えて来た。——もちろん、どのフロアも真っ暗である。  プロダクションはこのビルの三、四階に入っている。一応、二《ツー》フロアを借り切っているのだ。  でも、最初は、三階の、それも一角の一部《へ》屋《や》を使っていたに過ぎない。夏美の人気が上《じよう》昇《しよう》するにつれ、事務所の面積も広がった。  今では、新しいビルに移ろうという話も出ている。だが、このところプロダクションが苦しいので、その話もストップしたままだった。  もちろん、一週間後の——いや、六日後の夏美のリサイタルが成功して、ライブ盤《ばん》やビデオが売れれば、楽々、新しい事務所へ移れるだろう。しかし、もし、リサイタルが中止になるようなことがあれば、ここの事務所だって、閉《へい》鎖《さ》——つまり、倒《とう》産《さん》ということになりかねない。  全く、その意味では「水もの」の世界だ。そこが面《おも》白《しろ》くもあって、一度こういう商売で味をしめると、やめられなくなるのだろうが……。  ビルの前まで来て、朱子は周囲を見回した。——人の気配はない。  どこへ行ったんだろう? 二十分遅《おく》れたからといって、帰ってしまうような夏美ではないが。  夏美は、事務所の鍵《かぎ》を持っていないから、中で待っていることもあるまい。  朱子は、少し待ってみることにした。  それにしても、夏美がこの事務所に何の用だろう?  もちろん、夏美はこのプロの所属だから、ここへ来ることもある。しかし、月にせいぜい二度か三度、顔を出すだけだ。  ここはあくまで「事務所」だから、タレントは用がない。だから、夏美がここにどんな目的で入ろうというのか、朱子には分からないのである。  十二時四十分になった。——どうしたものかと迷《まよ》っていると、足音がした。  顔を向けると、若者が一人、歩いて来た。男じゃ、どう見ても夏美ではない。  朱子は、もう一度腕《うで》時計を見た。  「——大内さんですね」  と、その若者が言った。  「ええ。あなたは?」  「一人ですか? 尾《つ》けられませんでした?」  「大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》。でも——夏美さんは——」  若者がちょっと手を上げて見せると、道の向かい側の、ビルの細い隙《すき》間《ま》から、夏美がヒョイと出て来た。  「そんな所にいたの! びっくりしたわ」  朱子はホッと息をついた。  「ごめん。あなたが少し遅《おく》れたから、その向こうの通りで、コーヒー飲んでたの」  「見違《ちが》えたわ」  朱子は、夏美の格《かつ》好《こう》を見直して笑った。  「借り物なのよ」  「でも、サングラスなんかかけるより、ずっと垢《あか》抜《ぬ》けしてるわ」  克彦は、これを聞いたら、千絵がさぞ得意がるだろうな、と思った。  夏美が、克彦を朱子に紹《しよう》介《かい》した。もちろん、千絵のことには触《ふ》れなかったが、  「——あなたとあそこで待ち合わせたことを、誰《だれ》か聞いてたような人はいる?」  と、夏美は訊《き》いた。  「いいえ。私、一人で部《へ》屋《や》にいたし……。どうして?」  「いいえ、何でもないの。——鍵《かぎ》はある? じゃ、行こうか」  克彦は、朱子が千絵の誘《ゆう》拐《かい》にかかわってはいない、と思った。少しでもごまかしていれば、こんなにあっさりと否定したりしないのではないか。  暗い階段を、三人は上がり始めた。  「——明りってないの?」  と、克彦は言った。  「ビルの管理してる人がケチでね。昼間なら充《じゆう》分《ぶん》明るいし、夜もネオンの光で足《あし》下《もと》ぐらいは見える、って……」  と、朱子が説明する。  「でも、ネオンが消えたら——」  「自分が案内に立つ気でしょ」  「え?」  「その人、きれいに禿《は》げてんの」  克彦は、朱子という女性がすっかり気に入った。  夏美に比べると、丈《じよう》夫《ぶ》そうでしっかり者のイメージがあり、何となく怖《こわ》そうだが、気のいい女性のようだ。夏美が絶対に信用できると言ったのが、よく分かった。  「三階に行くの?」  と、朱子が訊《き》く。  「四階。永原さんの机は四階だったでしょう?」  「そうね。——夏美さん、あなた、こんな所に来てどうする気?」  「捜《さが》し物」  「何、それ?」  「私にも分からないの」  「じゃ、私には捜せないわね」  と、朱子は苦笑した。  三階へ来た。相変らず暗い階段を、あと一階だ。  何しろ狭《せま》い階段で、しかも真っ暗と来ているから、朱子、夏美、克彦の順に、一列で四階へ。  最後に上がりかけた克彦は、ふと、何か物音がしたような気がして、足を止め、振《ふ》り向いた。三階の事務所の入口。分厚い波ガラスの窓のあるドアが、少し白っぽく見えている。  何の音だろう?——あのドアの向《ヽ》こ《ヽ》う《ヽ》か《ヽ》ら《ヽ》聞こえて来たような気がする。  気のせいかな……。  朱子と夏美がどんどん上がって行ってしまうので、克彦は、取り残されては大変、と、あわてて後を追った。  「本当に暗いわね」  と、朱子が言った。「——今、鍵《かぎ》を開けるわ。待ってて」  ガチャガチャと金具の触《ふ》れ合う音。  「どこが鍵《かぎ》穴《あな》なのか、よく分からないわ。——あ、ここだ。——あら?」  「どうしたの?」  「変だわ。——このドア、鍵がかかってないわよ」  「まさか」  「本当よ。開けたつもりで鍵を回したら、閉まっちゃった。元に戻《もど》したら——ほら、この通り」  ドアが開いて来た。  「本当だ。——何やってんのかしら。きっと誰《だれ》かが、かけ忘れて帰ったのね」  「ともかく入りましょう。明りを点《つ》けるわ」  「待って」  と、夏美が止めた。「そんなことしたら、表から見えるわ。泥《どろ》棒《ぼう》かと思われるわよ」  「似たようなもんだけどね」  と克彦が言うと、夏美がふき出してしまった。  克彦としては、別に意《い》図《と》していたわけではないのだが、何となく重苦しい雰《ふん》囲《い》気《き》が一《いつ》掃《そう》されるという、予期しない効果があったようだ。  「——懐《かい》中《ちゆう》電灯が、どこかドアのわきのほうになかった?——あ、そこの白っぽく光ってるの、そうじゃない?」  「これか。——電池入ってるのかしら?」  朱子が外して、スイッチを押《お》すと、いささか頼《たよ》りなげではあったが、光が走った。  「窓のほうへ向けないで。——永原さんの机ってどこだっけ?」  「ええと……待ってね」  朱子が額にしわを寄せて考え込《こ》んでいる。  「いつも、大して気にもしないで見てるから、分からないわね。——確か壁《かべ》のほうだわ。そう、向こうの……たぶん真ん中じゃない?」  「そうね、その辺《へん》だったかな」  足《あし》下《もと》を照らしながら、朱子が歩いて行く。  「気を付けて。——ゴチャゴチャしてるし、足下に電話線が這《は》い回ってるから。引っかけないようにね」  芸能プロダクションというと、克彦は、やたらタバコの煙《けむり》の充《じゆう》満《まん》している、ごみごみした所を想《そう》像《ぞう》していた。アメリカなんかは、もっと近代的なビジネスオフィスなのだろうが、日本ではどうしても、もっと暗い感じがある。  そして——ここは正に克彦の想像通りの場所だった。  所狭《せま》しと、所属タレントのポスターやら、スチール写真がベタベタ貼《は》ってあり、中にはいい加減古くなって、色のあせたものもある。  家族写真なんかで、少し色の変ったのなんかは、それなりに味も出るが、アイドルのポスターで変色しているというのは、ただ侘《わび》しいだけだ。  「この机ね。——あら!」  と、朱子が声を上げた。  「どうしたの?」  返事を聞くまでもなかった。  懐《かい》中《ちゆう》電灯の光が照らし出したのは——全部の引出しが一杯に飛び出し、中を引っかき回されている机の姿だった。  克彦も加わって、三人でしばしポカンとそれを眺《なが》めていたが……。  「誰《だれ》かが先に来たんだわ」  と、夏美が呟《つぶや》くように言った。  「——ここに何があったの?」  と、朱子が訊《き》いた。  「後で説明するわ。ともかく、もうむだかもしれないけど、一応私たちも中を調べてみましょうよ」  「でも、ちょっとや《ヽ》ば《ヽ》い《ヽ》んじゃない?」  と、克彦が言った。「これを明日出勤して来た人が見たら、当然一一〇番するだろ? そうなって、指《し》紋《もん》なんか採《と》られたら、まずいことになるよ」  「そうか……」  「調べて、その後、適当に片付けて行けばいいかも——」  と、克彦は言いかけて、言《こと》葉《ば》を切った。  「どうしたの?」  「しっ!——聞いて。サイレンかな?」  三人が息をつめて、耳を澄《す》ます。  確かに、遠くからサレインの音が近づいて来るのだ。  「出よう! ここへ来たら、僕《ぼく》らがやったと思われるよ」  「でも、どうして警察が?」  「きっと、ここを本当に荒《あ》らした奴《やつ》が、僕らの入って行くのを見ていて、一一〇番したんだ!——そんなことより早く!」  三人は、あわてて、机の角にぶつかったり、椅子《いす》をけとばしたりしながら、事務所を出た。  「その懐《かい》中《ちゆう》電灯は持って行きましょう」  と、夏美が言った。「階段から転《ころ》がり落ちたくないものね」  ——正に、危機一《いつ》髪《ぱつ》というところだった。  三人がビルを出て、手近な露《ろ》地《じ》の中へ飛び込《こ》むのと、ほとんど同時に、パトカーがやって来たのである。  「——どうなってるの?」  と、夏美が息をつく。  「ねえ」  と、克彦が言った。「もしかしたら、永原さんの奥《おく》さんが、僕らの話を聞いて、自分で先に捜《さが》しに来たんじゃないかな」  「永原さんの奥さんが?」  事情の分からない朱子は、ただ面《めん》食《く》らうばかりである。  「その可能性、あるわね。あの話をして、その直後に、永原さんの机が荒《あ》らされるっていうのは——」  「偶《ぐう》然《ぜん》にしちゃ、できすぎだよ」  「永原さんの所へ行ってみましょう。その間に、あなたには説明してあげる」  と、夏美は朱子の肩《かた》をポンと叩《たた》いた。  「夏美さん、どうしたの?」  歩き出しながら、朱子が言った。  「どうした、って、何が?」  「凄《すご》く活《い》き活《い》きしてるわ。そんなあなた、見たの初めてよ」  「そう?」  「十七歳《さい》っていっても、いつも、あなた二十代の大人だったわ。今は本当に十七歳に見える」  「サバを読んでるみたいじゃないの、それじゃ」  と、夏美は笑った。「ともかく、急ぎましょ。もし、永原さんの奥《おく》さんが何か手に入れているとしたら……」  「どうするだろうね?」  「分からないわ」  夏美は肩をすくめた。「こんな時間だから、タクシーで行くしかないわね」  ——なかなか空車がなく、やっと拾って永原の家に向かったのは、三十分近くたってからだった。  「——でも変だわ」  と、夏美が言った。  「何が?」  「もし、あれが浜子さんのやったことなら、私たちがいることを警察へ知らせたのも浜子さん?」  「そうか……。そこまでやりそうには思えないね」  「もちろん、人は見かけによらないけど。でも、浜子さんは、そんなに悪い人じゃないと思うわ」  三人は、タクシーを降りて、永原の家に向かって歩いていた。例によって、念のために少し手前で降りたのだ。  「その角を曲がったところだったわね」  と、朱子が言った。  「そう。でも、浜子さんが無関係だったら、とんでもない時間に叩《たた》き起こすことになるわね」  と、夏美は言った。  三人が角を曲がろうとしたとき、車のライトが角の向こうから射《さ》して来た。  「こっちへ来るよ」  と、克彦が言った。  三人が足を止める。タクシーが角を曲がって来た。  「あ、中に——」  と、克彦が言った。  「浜子さんだわ!」  と、夏美が声を上げた。  座席に、確かに永原浜子が座っていたのだ。が、タクシーは角を曲がり切ると、一気にスピードを上げて走り去ってしまう。  「こっちには気付かなかったよ」  と、克彦が言った。  「でも、おかしいわ。こんな時間にどこへ行くのかしら?」  夏美が、小さくなって行くタクシーの灯《ひ》を見ながら首をひねる。  「ちょっと!」  克彦が声を上げると、走り出した。  道路に、ミニバイクが停《と》めてあるのが目についたのだ。  「これ、鍵《キー》がついたままだ! 乗れるよ! 追いかけてやる!」  克彦は、エンジンをかけ、走り出した。  「待って!」  夏美が走り出す。バイクと並《なら》んで二、三歩駆《か》けたと思うと、克彦の後ろに飛び乗った。  「夏美さん!」  びっくりしたのは朱子だ。「無茶しないで!」  「電話する! マンションに戻《もど》ってて!」  走り去るバイクから、夏美の声が遠ざかりながら……。  「——もう! 何やってんのかしら!」  朱子は、呆《あき》れたように独《ひと》り言《ごと》を言って、ため息をついた。  ——一方、タクシーをミニバイクで追いかけるという、かなり無理なことをやっている克彦と夏美は、タクシーにどんどん引きはなされながらも、赤信号や、一方通行に助けられて、何とかついて行った。  「——一人乗りだよ、これ」  と、克彦は、走らせながら言った。  「乗り心地の悪いこと! それに、あなた、これを盗《ぬす》んだのよ」  「黙《だま》って借りたんだよ」  「同じことよ」  夏美は笑って、「でも、見直したわ。あなたって意外に行動力があるのね」  「『意外に』ってのは、傷《きず》つくなあ」  「ほら! 右へ曲がったわ!」  「分かってるって、任《まか》しとけよ。君の車だって、これくらいのバイクで、ちゃんと追いかけたんだぜ」  「人のあと、つけ回すのは得意なのね」  「どうも引っかかるなあ……」  「いいのいいの、気にしない。——どの辺《へん》なのかしら?」  「よく分かんないな。裏通りだからね」  裏通りのおかげで、タクシーを見失わずに済《す》んでいるのである。  これが大通りなら、タクシーのスピードにはとてもついて行けないところだ。  「あら、ここは——」  と、夏美が言った。  「知ってるところ?」  「見たことのあるような……」  ——克彦としては、眼前のタクシーのテールランプを見失わないように必死である。ともすれば、あの憧《あこが》れのスターが、後ろから自分の体に腕《うで》を回して抱《だ》きついているという、夢《ゆめ》のような事実、そして、背中に、かすかに感じる、胸のふくらみ——そっちのほうへ気を取られそうになる。  「——停《と》まったよ」  克彦は、バイクをわきへ寄せた。  タクシーは、二十メートルほど先に停まって、永原浜子が、料金を払《はら》って降りるところだった。  「やっぱりそうだわ」  と、バイクから降りて、夏美が言った。「スタジオよ、あそこ」  「スタジオ?」  「レコーディング用の貸スタジオだわ。今はもっと立派な所でやるけど、最初の二、三曲はここで録《と》ったんだもの、よく憶《おぼ》えてる」  「こんな時間に開いてるの?」  「場合によってはね。でも今は真っ暗だから、使ってないはずだわ」  タクシーが走り去ると、永原浜子はスタジオの中へ入って行った。  「開いてたんだな」  「誰《だれ》かが中にいるんだわ、きっと。待ち合わせてたのよ」  「——どうする?」  克彦と夏美は顔を見合わせた。  「中へ入っても、小さなスタジオだから、すぐ目につくわ。表で様子を見ていましょうよ」  「よし」  二人は、そのスタジオの前まで行くと、わきのほうへ寄って、待つことにした。  「窓に明りが——」  と、夏美は、二階の窓を指さした。  カーテンの端《はし》から光が洩《も》れている。  「あそこは何の部《へ》屋《や》だろう?」  「さあ。——忘れたわ。たぶん、色々、機械が並《なら》んでるだけだったと思うけど」  「こんな所で、誰と会ってるのかな」  「さあ……。もし、あの永原さんの机を荒《あ》らして、何かを見付けたのが浜子さんだったとしたら、当の相手を呼び出したのかもしれないわ」  「当の相手って……」  「永原さんの恋《ヽ》人《ヽ》よ。殺す動機があったわけですものね」  「そうか。——で、こんな人《ひと》気《け》のない所で——。でも、危いことするなあ」  「そうね」  夏美は肯《うなず》いた。  ——何だか、これが現実の出来事のようには思えない。克彦は、夏美の横顔を、そっと眺《なが》めながら、思った。  永原が殺され、夏美が殺されかけた。そして、千絵が誘《ゆう》拐《かい》されている。  普《ふ》通《つう》なら、一つだけでも大事件だ。  でも、何となく、現実感がない。まるでTVのサスペンス物にでも出演してるみたいだ。  そう。——大《だい》体《たい》、今、こうして、星沢夏美と二人でいるってこと自体、まるで現実感がないのだから。  「ごめんなさいね」  と、夏美が低い声で言った。  「え?」  「あなたに、すっかり迷《めい》惑《わく》をかけたわ」  「そんなこと……」  「千絵さんのことも、心配ね。——何とかして、永原さんを殺した犯人を見付ければ、私、警察へ行くわ。そしたらきっと、千絵さんも帰って来る」  「うん。あいつは大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》だよ」  兄らしい言《こと》葉《ば》とは言えなかったが、克彦は正直な気持を言った。千絵が知ったら、きっと兄をけとばしたであろう。  「でも——兄《きよう》妹《だい》って、いいわね」  と、夏美は言った。  「君、兄弟はいないの?」  ごく当たり前のように、克彦は訊《き》いていた。夏美の素《す》姓《じよう》を知りたい、といった心理とは無《む》縁《えん》だった。  ごく身近な——いや、ついこの間知り合った女の子に、さり気なく、訊いてみた、という感じだった。  夏美は、ほっと軽く息をついた。  「いないわ。——いつも、寂《さび》しかった」  それ以上、何か訊こうと思えば、できただろう。しかし、克彦はそうしなかった。  夏美は、ちょっと笑った。  「どうしたんだい?」  「——あなたって、変ったファンね」  「そうかな」  「あなたを見たとき——変だったわね、あんな所で」  「そうだね。君はベランダに立ってて——」  「あなたは非常階段にいたわ。変な出会いね」  「でも、ロミオとジュリエットに、ちょっと似てたよ」  と、克彦は言った。  「そう言えばそうだわ」  と、夏美は微《ほほ》笑《え》んだ。「でも——あれは悲《ひ》劇《げき》よ」  夏美は、ちょっと背伸《の》びをして、唇《くちびる》を軽く克彦の唇に触《ふ》れた。  ——車も来ない。人通りもない。  静かだった。克彦の心臓が、遅《おそ》まきながら、早《はや》鐘《がね》のように鳴り出して、辺《あた》りに響《ひび》き渡った(克彦にはそう思えたのだ)。  突《とつ》然《ぜん》、激《はげ》しい音を立てて、あの、明りの洩《も》れていた二階の窓ガラスが砕《くだ》けた。  「——何だろう?」  「行ってみましょう!」  夏美は駆《か》け出した。  克彦があわてて後を追う。  二人は、古ぼけたビルの中へと駆け込《こ》んで行った。 13 誘《ゆう》拐《かい》犯《はん》へ、愛をこめて  ともかく、どうも調子が狂《くる》うのだった。  別に楽器の話ではない。もっと事態は深刻だ。いや、深刻であるべ《ヽ》き《ヽ》だ。  でもねえ……。  千絵は、欠伸《あくび》をしながら、周囲を見回した。  どうやら、ここは港の倉《そう》庫《こ》の一つらしい。  ——今は使われていない、古い倉庫なのだ。  確かに、人を誘拐して、閉じ込めておくにはうってつけである。  「もうちょっと、狭《せま》きゃね」  と、千絵は呟《つぶや》いた。  何しろ広い。——何をしまい込んでいた所なのか知らないけど、学校の体育館ほどもある、と言えば見当がつくだろう。  天《てん》井《じよう》がやたらと高いのも、よく似ている。  ——これだけの広さに、千絵一人。  他《ほか》にあるものといえば、今、千絵のお尻《しり》の下で椅子《いす》がわりになっている段ボール。これは、食《しよく》卓《たく》もベッドも兼《か》ねるという、多目的段ボールである。  いや、もちろん、大きな普《ふ》通《つう》の段ボールなのだ。  それ以外には、ただ、何だかわけの分からない板きれだの、空《あき》箱《ばこ》が二、三個転《ころ》がっている。それしかない。  こんな所に閉じ込《こ》めてくれりゃ、運動不足にはなるまいが、しかし、何となく切《せつ》迫《ぱく》した感じがない。  「——お腹、空《す》いたな」  と、千絵は呟《つぶや》いた。  もう、朝になったようだ。屋根のほうには明りとりの窓があるので、中は明るい。  ナイフを突《つ》きつけられ、車へ押《お》し込められて、目かくしをされる、という辺《あた》りは、正統派の誘《ゆう》拐《かい》(?)で、ゾッとしながらも、ワクワクしたのだが、まず相手がこっちを夏美と間《ま》違《ちが》えているのが分かって面《めん》食《く》らった。  いいトシのおじさんではあるが、夏美の顔も知らないなんて! しかも誘拐すべき当人だというのに。  これでいっぺんに相手を馬《ば》鹿《か》にしてしまった。  ここへ入れられて、縛《しば》られるでもなし、猿《さる》ぐつわをかまされるでもなし。まあ、そんなもの、ほしくもないが。  さて、向こうがどう出て来るか。——千絵としては、兄がカッコ良く救いに来てくれるとは、期待していなかった。  大《だい》体《たい》、どこにいるかの手がかりもまるでないのだ。見付けろっていうほうが無理だろう。  問題は、いかにここがだだっ広くても、外ではないから、家に帰るわけにいかないということだ。  そして、人違《ちが》いであることがいつ分かるか。分かったときに、向こうがどうするか。  誘《ゆう》拐《かい》した犯人は、ただ頼《たの》まれたか、命令されただけだろう。とすれば、その依《い》頼《らい》主《ぬし》が、きっとここへやって来る。  そのときが危機である。——顔を見てしまったのだ、殺せ、ということになるかもしれない。  そう。いくら調子が狂《くる》って、のんびりしていても、誘拐は誘拐なのだ。  「気を緩《ゆる》めちゃいけないんだわ」  と、千絵は肯《うなず》いた。「でも、お腹空《す》いたな……」  ガタン、ガタン、と凄《すご》い音がした。  扉《とびら》がゆっくりと開いている。  何しろ倉庫が大きいから、扉だってそれに合わせて背が高い。開けるのも一苦労だろう。  「おい!——朝飯だ!」  ハアハア息を切らしながら、その男は言った。  まだ四十くらいだろう。それにしちゃ体力ないのね。運動不足なんだわ、と千絵は思った。  「お腹ペコペコよ」  「仕方ねえだろ。店が開いてなかったんだから!」  「何だ、ホカホカ弁当なの? お茶ない? 私、お茶なしじゃ食べられないの」  「ぜいたく言うな」  男は渋《しぶ》い顔で言った。  「ま、いいわ」  千絵は、例の段ボールの上に腰《こし》をかけて、弁当を食べ始めた。  「どうせ、スターなんてのは、うまいものを食い慣れてんだろう。まあ、一週間の辛《しん》抱《ぼう》だ。我《が》慢《まん》しろよ」  「いいのよ。スターってね、いつも楽屋とか、スタジオの隅《すみ》で天《てん》丼《どん》やカツ丼ばっかり食べてんだから」  「ふーん、そんなもんか」  「そうよ。見かけほど派手なもんじゃないんだからね」  と、千絵は、分かったようなことを言って、「おじさん、子供いるの?」  と訊《き》いた。  「どうしてだ?」  男は、なぜかギョッとした様子。  「娘《むすめ》がいたら、タレントやスターにきっと憧《あこが》れるわ。でも、だめよ。ろくなことにならないんだから」  「お前……親はいるのか」  「お母さんだけ」  「親父《おやじ》さんは?」  「死んだわ。働き盛《ざか》りに、心臓をやられて……。可哀《かわい》そうだった。家族と会社のためだけに、一生を費《つい》やしたんだもの。自分のしたいことをする間もなく……。どうしたの?」  千絵は面《めん》食《く》らった。  相手が顔を歪《ゆが》めて、怒《おこ》るのかと思えば、泣き出したのである。  「うるせえ……。放っといてくれ!」  ——どうやら根っから単純な男らしい。  千絵は、ペロリとお弁当を平らげた。  さあ、これでお腹のほうは大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》!  扉《とびら》は、開いたままだ。重いから、いちいち閉めていられないのだろう。  お茶も飲めないんじゃ、やっぱり誘《ゆう》拐《かい》されてるってのも不便だな、と千絵は思った。  いっちょ、逃《に》げ出すか。  「ねえ、おじさん」  「何だよ」  まだグスンと、鼻をすすり上げている。  「トイレに行きたい。ここ、トイレないの?」  「ああ。——困ったな。ここにゃないんだ」  「じゃ、どうするの?」  「その辺《へん》でやれよ」  「やあよ! 女の子にそんなひどいこと——」  「仕方ねえだろ。外へ出すわけにゃいかねえんだから!」  千絵はふくれっつらになって、  「じゃ——いいわよ。その隅《すみ》でするから。でも、あっち向いてて! 目をつぶってよ!」  「ああ、分かったよ」  「絶対よ! ギュッと目をつぶって、いいって言うまでそうしてるのよ」  「いいとも」  男は、千絵のほうへ背を向けた。  「目をつぶった?」  「ああ、つぶってるぜ」  「じゃ、そのままよ。——絶対ね」  千絵は、足音を殺して、出口のほうへ。  「——早くしろよ」  「はいはい」  千絵は、出口の近くまで来ると、一気に駆《か》け出した。  男も、やっと気付いた。  「おい!——待て! こら!」  誰《だれ》が! 千絵は外に出ると、全速力で駆け出した。  もう、朝も十時ぐらいにはなっているだろう。  港の外《はず》れらしい。同じような倉《そう》庫《こ》がズラリと並《なら》んでいるが、人影はなかった。  「待て! こら!」  男の声がする。千絵が走りながら振《ふ》り向くと、男は走るのも弱いようで、どんどん遅《おく》れている。  これなら楽々逃げ切れる! 千絵は一段と足を早めた。何しろ、学校ではリレーの選手なのだ。  少し走って、また振り向いてみて、びっくりした。——あの男が、途《と》中《ちゆう》に倒《たお》れているのだ。  千絵は足を止めた。  男は、もがいている。ただ苦しいというだけではないようだ。  心臓の発《ほつ》作《さ》でも起こしたのだろうか?  「構うこっちゃないや!」  行っちゃえ!——千絵はまた走り出した。  少し行って、止まる。また走って——止まる。  それからまた、走り出す。ただし、逆《ぎやく》の方向へ、だった。  男は、地を這《は》うようにして、悶《もだ》え苦しんである。——芝《しば》居《い》なんかじゃない。  真っ青で、冷《ひや》汗《あせ》が顔一杯に浮《う》かんでいる。  「どうしたの? 大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》?」  大丈夫なわけがない。男は、喘《あえ》ぎ喘ぎ、  「薬を……」  「え? 薬?——薬って、どこにあるの?」  「こ、この……ケースに……」  見れば、銀色の、シガレットケースみたいなのが、少し先の地面に落ちている。それを拾うこともできないらしい。  「待って!——これね? 何粒《つぶ》服《の》むの?」  「二つ……二つだ……」  「二つ、ね。——はい、ほら、口を開けて——ちゃんと開けて!」  世話が焼けるんだから!  千絵は、男の頭をかかえると、口を開けたところへ、錠《じよう》剤《ざい》を二つ、落としてやった。  「——どう? 入った?」  男は、肯《うなず》いた。  二、三分すると、少し苦痛がおさまったらしい。ぐったりと、地面に寝《ね》てしまう。  「——心臓? かなりひどいわねえ」  と、千絵は傍《そば》にしゃがみ込《こ》んで、言った。「お医者さんに行ったほうがいいんじゃないの?」  「そんな——金はねえよ」  と、男がかすれた声で言った。「この薬で、何とか——押《おさ》えられる」  「でも、段々、薬も効《き》かなくなるよ。人間、死んだらおしまいじゃない」  男は、千絵を見た。  「どうして——逃《に》げなかったんだ」  「だって、放っといたら、死んじゃいそうだったもの。——もう大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》みたいね」  千絵は立ち上がった。「じゃ、改めて、逃げるわ」  振り向いた千絵は、目の前に誰《だれ》かが立っているのに気付いた。  いきなり下腹を殴《なぐ》られる。  ウッと呻《うめ》いて、苦痛に体を折った。  膝《ひざ》をつく。——痛みが、重く、重く、のしかかって来るようで……千絵は、気を失って地面に伏《ふ》せた。    「あら、おはよう」  と、母の雅子に言われて、  「おはようございます」  と、夏美は頭を下げた。  「ちょっと出かけて来ますから、適当にしていて下さいね」  「はい」  「千絵はまだ寝《ね》てるのかしら。——いい加減に起きろと言って下さいな。それじゃ、私、ちょっと——」  「行ってらっしゃい」  雅子が、いそいそと出かける。  夏美は、憂《ゆう》鬱《うつ》な顔で、ため息をついた。  「——お袋《ふくろ》、出かけた?」  二階から、克彦が降りて来た。  「ええ、今ね」  「じゃ、千絵がいないこと、まだ気付いてないんだな」  「気になるわ、私……」  「でも——今さら言えないよ。誘《ゆう》拐《かい》されて三日もたつんだ、なんて」  「そうね……」  夏美は、台所に来ると、テーブルについて、ゆっくりとコーヒーを飲んだ。  「ああいう母親も珍《めずら》しいな。子供の姿を三日間見なくても気にしないんだから」  「そんなこと、言うもんじゃないわ」  と、夏美は、ちょっときつい目で克彦を見た。「お母さん、何か気付いてるのかもしれない」  「まさか! だったら、何とか言うさ」  夏美は黙《だま》って首を振《ふ》った。  克彦は新聞を広げた。  「——何か出てる?」  「君のことは出てるよ。〈いぜんとして行《ゆく》方《え》不《ふ》明《めい》——一大イベントはどうなる? タイムリミットまであと四日!〉ってね」  「浜子さんのことは?」  「何も——ああ、記事の中に出てる。まだ意識不明のまま、だってさ」  「じゃ、死んではいないのね。良かった!」  と、夏美は息をついた。  「それにしても……怖《こわ》いね、何だか」  ——二人が、あのスタジオへ飛び込《こ》んだとき、中はいきなり真っ暗になった。  そして、誰《だれ》かが、二人を突《つ》き飛ばすようにして、逃《に》げて行ったのである。  やっと明りを点《つ》けて、二階へ上がった二人が見付けたのは、血まみれになって呻《うめ》いている永原浜子だった……。  もちろん、すぐに一一九番し、五分としない内に救急車が駆《か》けつけた。  浜子が運ばれて行くのを、二人は、物《もの》陰《かげ》から見ていた……。  「——やっぱり、君の言った通りだと思うな」  と、克彦が言った。  「え?」  「浜子さんは、何か見付けたんだよ、事務所で。それを相手につきつけて、永原さんを殺したのはあなただろう、と問い詰《つ》めた。それで——」  「たぶん、ね」  と、夏美は肯《うなず》いた。「永原さんを殺したのと同じ犯人でしょうね、やっぱり」  「そういうことになるな」  「私を突き落とそうとしたのは?——あれが分からないの」  「うん……。別の犯人なんだよな、永原さんを殺したのとは」  「動機、犯人、どれも不明か……」  と、夏美は呟《つぶや》いた。  「——これから、どうする?」  「少なくとも、永原さんを殺した犯人は、永原さんの恋《ヽ》人《ヽ》だった男、っていう可能性が強いわけでしょ。そこから探《さぐ》って行くしかないわ」  「どうやって?」  「朱子さんに働いてもらうしかない。だって、そういう関係者だったら、私がどんな格《かつ》好《こう》していたって、すぐにばれてしまうもの」  「そうだね」  と、克彦は肯《うなず》いた。「——ねえ、ちょっと待ってくれよ」  「何?」  「僕の知ってる記者で、Cタイムスの仁科って人がいる。君の担当なんだけど」  「知らないわ」  「うん、ちょっと変ってて、あんまりやる気のない人なんだ。でも記者だから、そういう噂《うわさ》話には詳《くわ》しいかもしれない」  「そういう記者ばっかりだと助かるわ」  と、夏美は微《ほほ》笑《え》んだ。  「待っててくれ。仁科さんと話してみる。君はここにいるといいよ」  「何もかもあなたに任《まか》せるわけにはいかないわ」  「いや、新聞も、君のリサイタル絡《がら》みで、毎日、君の記事を載《の》せてるし、プロダクションは懸《けん》賞《しよう》金《きん》つきで君を捜《さが》してる。出て、下手《へた》に見付かったら、大変なことになるよ」  克彦はCタイムスへ電話を入れてみた。  「——仁科です」  「あ、僕《ぼく》、本堂克彦です」  「やあ、君か」  「呑《のん》気《き》ですね。星沢夏美のことで、飛び回ってるのかと思ってましたよ」  「本当ならね」  「また、さぼってんですね?」  「人聞きの悪いこと言うなよ」  と、仁科が笑って言った。「格下げさ。クビになるのも遠くない」  「——冗《じよう》談《だん》でしょう?」  「本当だよ。この間、彼《かの》女《じよ》が病院から脱《ぬ》け出したとき、ちょうどいなかっただろう。あれで、うち一社だけ早い版が間に合わなかったんだ。それで、上のほうは、すっかりおかんむりさ。まあ、無理もないけどね」  「じゃ、僕《ぼく》らのせいで……」  「いや、そんなことはないよ。気にしない、気にしない。ところで、何か用かい?」  「あの——ちょっと、殺された永原って人のことで、聞きたいことがあるんですけど」  「いいよ。じゃ、社へおいで。どうせヒマで困ってんだ」  「じゃ、これから行きます」  ——克彦は出かける仕《し》度《たく》をした。  「気の毒《どく》ね、その人」  と、夏美は言った。  「本人があんまり気にしてないんだ。あれだから、出《しゆつ》世《せ》できないんだね。じゃ、僕、出かけて来る。すぐ戻《もど》るよ」  「ええ」  「君はのんびりしてて」  克彦が、弾《はず》むような足取りで、出かけて行く。  夏美は、玄《げん》関《かん》の鍵《かぎ》をかけると、居間へ入って、ソファに身を沈めた。  「このままじゃ……放っておくわけにいかない……」  と、呟《つぶや》くと、電話帳に手をのばした。  「ええと……何番だったかしら」  捜《さが》し当てた番号へ、かける。——すぐに交《こう》換《かん》手《しゆ》が出た。  「Mミュージックでございます」  「社長の坂東さんをお願いします」  「どちら様で?」  「私、愛人の一人です」  「は……」  向こうが、呆《あつ》気《け》に取られている。——ややあって、坂東が出た。  「もしもし? 誰《だれ》だい、一体?」  「坂東さんですか。星沢夏美です」  一《いつ》瞬《しゆん》、向こうが沈《ちん》黙《もく》した。  「——君か! 驚《おどろ》いたな!」  「そんなにびっくりなさるのは、どうしてですか?」  「だって当然だろう。君は——」  「あなたが誘《ゆう》拐《かい》しているはずだから?」  「——何の話だね」  「ごまかさないで。私と間《ま》違《ちが》えて誘拐した子を、帰してやって下さい。何の関係もない子なんですから」  「何のことか分からんね」  「そんなはずはないでしょう。リサイタルを潰《つぶ》せば、私のプロは倒《とう》産《さん》します。そんな手を平気で使うのは、あなただけですわ」  「ずいぶん悪党に見られたもんだね」  「本当に悪党ですもの」  「手きびしいな」  と、坂東は笑った。「——しかし、もし私が君の言うように、誰《だれ》かを君の代《かわ》りに誘拐しているとしたら、君はどうするつもりなんだね?」  「誘拐は重罪ですよ。違う子をさらっても仕方ないでしょう」  「そんなこともあるまい」  「というと?」  「もし、君がリサイタルに出たら、その子を殺す。それなら君は出られまい。同じことだよ、君をさらうのと。——もっとも、これは仮定の話だ。それを忘れずにね」  坂東は、フフ、と笑った。  「——どうすれば、その子を返してもらえますか」  「そうだね。もし私が犯人なら、君と引き換《か》えなら、と言うだろうね」  「それはできません。永原さんを殺した犯人を、自分で見付けるまでは」  「では早く見付けるんだね。また電話してくれ。こういうゲームも面《おも》白《しろ》いもんだ」  坂東は静かに言って、電話を切った。  ——夏美は、受話器を置くと、深々と息を吐《は》き出した。  そして、しばらく考え込《こ》んでいたが、やがて何かを決心した様子で立ち上がった。  千絵の、できるだけ可愛《かわい》い服を借りて、メガネをかけ、髪《かみ》をバサバサにする。  「これでいいわ」  と呟《つぶや》くと、夏美は、玄《げん》関《かん》を出て、明るい戸外へと出て行った。  足取りは早く、しっかりしている。 14 明日《あした》のアイドル  「——どうなるんでしょう」  と、安中が言った。  「俺《おれ》に訊《き》くな」  社長の松江がジロリと安中をにらむ。「俺はこのマンションから、一歩も出られん。出りゃ、集中攻《こう》撃《げき》だ」  「しかし、どこへ消えちまったんでしょうね?」  「俺に訊くな!」  松江が怒《ど》鳴《な》った。アルコールも入っているのである。  「リサイタルのほうはどうしますか」  「やるしかない」  「準備の規模です。万一のことを考えて、少しでも被《ひ》害《がい》を小さく食い止めるようにしては?」  「どうするんだ?」  「セットとか、バンドの編成とかを小さくするんです。あんまり節約にはなりませんが、いくらかは……」  「むだだ」  と、松江は手を振《ふ》った。「どうせ倒《とう》産《さん》するなら同じことだ。万に一つ、夏美が現われる可能性に賭《か》けて、最初の予定通りにしておけ!」  「分かりました」  「全《まつた》く、ろくなことがない」  と、松江が舌打ちする。「永原の女《によう》房《ぼう》まであんなことになるんだからな! 具合はどうなんだ?」  「まだ意識不明です。刺《さ》されて、出血多量ってことで……」  「犯人はまだ挙《あ》がらんのだろう」  「そのようです」  「警察は何をやってるんだ!」  と、松江は八つ当たり気味に言った。「もし、永原の女房が死ねば、それもうちにはマイナス材料になるぞ」  「そうですね。——同じ病院にいますから、家内にも様子を訊《き》かせています」  と、安中は言った。  「で、——夏美を見付ける手だては?」  「当たってみたんですが……。もともと、素《す》姓《じよう》のよく分からん娘《むすめ》でしたから」  「怠《たい》慢《まん》だぞ! トップスターの過去もよく知らんとは!」  「申し訳ありません」  と、安中が首をすぼめる。  「都内のホテルは?」  「全部、手を回してあります。ボーイの、かなり上のほうの者に話をつけておきました。それらしい客がいたら、通報してくれるはずです」  「そうか。——病院はどうだ? 偽《ぎ》名《めい》で入院しているかもしれんぞ」  「大きな病院には当たってみました。しかし、個人の病院までとなると、とても……」  「うむ。えらい数だろうな。——分かった。ともかく、後は天に祈《いの》るだけだ」  松江は、グイとウィスキーをあおった。    「——早野さん」  と、安中貴代は声をかけた。  「あら、奥《おく》さん。ご気分はいかがですか?」  看護婦、早野岐子は、にこやかに言った。  「ちょっと、屋《おく》上《じよう》へ出たいんだけど」  「構いませんよ。たまにはいい空気に当たられたほうが」  「ついて行ってくれる?」  「そうですね。今ならいいでしょう」  と、早野岐子は肯《うなず》いた。  ——二人は屋上へ出た。  「風が気持いいこと」  と、早野岐子が帽《ぼう》子《し》を取って、息をついた。  「早野さん」  と、貴代は言った。  「何ですか?」  「いつか言ってた——お金のことだけど」  「ええ。急ぎませんよ。でも、忘れたころじゃ困りますけど」  「半分ずつにしてよ」  と、貴代は言った。「一度に百万も引き出すと、主人がうるさいの」  「結構ですわ」  「そう」  貴代は、ホッと息をして、「じゃ、今夜、半分渡すわ。何時にあけるの?」  「十時です」  「じゃ——十時半に、ここで」  「屋《おく》上《じよう》で?」  「見られちゃまずいでしょう。私も困るわ、もし主人に知れたら……」  「いいですよ。雨天順延ってことはないでしょうね」  早野岐子は、声を上げて笑った。「——じゃ、どうぞごゆっくり」  戻《もど》って行く早野岐子の後ろ姿を、貴代は、厳《きび》しい目で、じっと見つめていた。  風が、貴代の髪《かみ》をかき乱して行く。    「すみませんね、仁科さん」  と、克彦は言った。  「いいんだよ」  仁科は、のんびりとコーヒーを飲みながら、  「どうせ、いつまでもいる気じゃなかったんだ」  ——Cタイムスのビル、一階の喫《きつ》茶《さ》店《てん》である。  「だけど、仁科さん、行くところ、あるんですか?」  「おい、いやなことを訊《き》くなよ」  「すみません」  「ま、行くあてのないのは、事実だけどね」  「じゃあ、大変じゃありませんか」  「僕は独《ひと》り者だし、何とか食って行けるさ」  仁科は肩《かた》をすくめた。「それで——何を訊きたいんだって?」  「実は——永原を殺した犯人のことなんですが」  「何だ、犯人捜《さが》しかい? 星沢夏美を捜してるのかと思ったよ」  「彼《かの》女《じよ》なら——」  と言いかけて、あわてて、「つまり——ともかく、彼女の疑いを晴らすのが先決だと思ったんです。そうすれば、彼女もきっと姿を現わすと——」  「それはそうだな。しかし、警察も一《いつ》向《こう》に、容《よう》疑《ぎ》者《しや》を割り出せないらしいじゃないか」  「それは、夏美さんを疑ってるからじゃないんですか?」  仁科は、ちょっと考えて、  「いや、それがそうでもないらしいんだ」  と言った。  「というと?」  「いや、なまじ、担当を外されたもんだから、却《かえ》って、警察担当の奴《やつ》なんかが、気楽に話してくれるんだよ。どうやら、門倉って刑《けい》事《じ》は、夏美をシロだと思ってるらしい」  「そりゃ結構ですね。でも——」  「そうなんだ。理由が何なのか、さっぱり分からない。つまり、他《ほか》に、犯人の目星をつけているんじゃないかと思うんだが、一向にその気配もない、というんだ」  「大《だい》体《たい》変った刑事ですものね」  と、克彦は肯《うなず》いた。  「うん、そうらしい」  と言って、仁科は不《ふ》思《し》議《ぎ》そうに、「どうして、そんなこと、知ってるんだい?」  「いえ——噂《うわさ》ですよ、噂」  克彦は、あわてて言って、すぐに続けた。「ちょっと、他のファンから聞いたんですが、永原って人は、男《ヽ》の《ヽ》恋人がいたんだとか」  仁科は目をパチクリさせて、  「よく知ってるね!」  と言った。「まあ、この世界じゃ、珍《めずら》しい話ではないけどね」  「そういうことが——つまり、ややこしい感情のもつれが、動機になったんじゃありませんか?」  「うん、可能性はあるね。警察も、その事実は知らないんじゃないかな。永原には、ちゃんと奥《おく》さんもいたしね」  「永原の恋人って、誰《だれ》だったんでしょう? 噂《うわさ》とか、ありませんでした?」  「さあ……。誰だったのかなあ。——ともかく、永原自身、そう目立つ人じゃなかったし、スターのことならともかく、そのマネージャーのことじゃ、あんまりみんな関心を抱《いだ》かないよ」  それもそうだ。  「じゃあ、全然知られてなかったんですか」  克彦は、ちょっとがっかりして、言った。  「うん。もし知ってるとすれば、当の星沢夏美だろうね」  「彼《かの》女《じよ》が? でも、スターがマネージャーの私《し》生《せい》活《かつ》まで知ってますか?」  「あの二人は、ただ単純に、マネージャーとスターというだけじゃないんだよ」  克彦は、戸《と》惑《まど》った。  「どういう意味ですか、それ?」  「うん……。これは、みんな知らないことなんだけど——」  「教えて下さい」  と、克彦は身を乗り出した。  「いいよ。——僕《ぼく》みたいな、もともとと《ヽ》ろ《ヽ》い《ヽ》記者が、どうして、星沢夏美の担当になったか、知ってるかい?」  「いいえ」  「あのプロダクションは、彼女が来るまで、全く無名の、小さなプロダクションだった。僕はそのころの大スターの取材はやらせてもらえず、専《もつぱ》ら小物のスターやタレントの取材をしていた。そのとき、永原ともちょくちょく会ってたんだ」  仁科は、冷《さ》めたコーヒーを一口飲んで、顔をしかめた。「——あれは気のいい男だった。もちろん、小さいプロダクションなんかだと、自分の所のタレントの記事を書いてもらいたいから、僕みたいな記者にも愛《あい》想《そ》がいい。でも、永原は、もともと人がいいという感じで、下心がないだけ、こっちも気が楽だったんだ」  「それで——」  「うん。ある晩、永原に呼ばれてね、あるホテルへ行った。そこのコーヒーラウンジへ行くと、永原はもう来て、待っていた……」    「やあ、仁科さん、すまんね、忙《いそが》しいのに」  「いや、どうせ大した仕事もないんだ。構いませんよ」  と、仁科は言って、永原と向かい合った席に、腰《こし》をおろした。  コーヒーを頼《たの》んで、仁科は、もう一つ、空《から》になったアイスコーヒーのグラスがあるのに気付いた。  「もう一人?」  「うん。今、ちょっとトイレに行ってるんだ」  永原は、何だか落ちつかない様子だった。  「——どうなんですか」  と、仁科は言った。「危いって噂《うわさ》、昨日《きのう》も聞いたけど」  「うん」  永原は肯《うなず》いた。「実際、危いんだ。まあ、松江社長と安中さんが駆《か》け回って、何とか切り抜《ぬ》けたけどね」  「そりゃ良かった」  「しかし、ここで何とか一人、スターを出さないと、もううちはだめだよ」  「大変ですね」  と、仁科は首を振《ふ》った。「僕《ぼく》も大したことはできないけど、もし力になれることがあれば、言って下さい」  「ありがとう!」  永原は、暑くもないのに、額の汗《あせ》をハンカチで拭《ぬぐ》った。「実は——今日来てもらったのは、そのお願いなんだ」  「そうですか。でもねえ……」  仁科は頭をかいて、「おたくのタレントたちじゃ、僕が記事を書いても、編集長に握《にぎ》り潰《つぶ》されちゃうんですよ。何かこう——いいネタはありませんか。少々脚《きやく》 色《しよく》してあっても構わないから」  「実はね、新人を一人、売り出そうと思うんだ」  仁科は、ちょっとびっくりした。  「新人を? 今からですか?」  「うん、今うちにいる子たちでは、とても見《み》込《こ》みがない。一か八《ばち》か、新しい子に賭《か》けてみようということでね」  「それはいいけど……。人気が出るまで、持ちますか?」  「時間との勝負だよ。その子が成功するか、そうなる前に、うちが潰《つぶ》れるか」  「——どんな子なんです?」  「今、来るよ。この子は将来性があると思うんだ」  「誰《だれ》が見付けて来たんです? 松江社長ですか?」  「いや——」  永原は、ちょっと照れたように、「私が見付けたんだよ」  と言った。  「永原さんが?」  仁科は驚《おどろ》いた。新人をスカウトして来るなどということを、およそやらない人間だと思っていたのだ。  「うん。——なかなかいい、と思ってね。でも、これは内《ない》緒《しよ》だ。私が見付けて来たなんて言うと、それだけで、会ってもらえそうもないからな」  「そんなことはないでしょうけど……。僕《ぼく》は、永原さんの見付けた子なら、喜んで応《おう》援《えん》しますよ」  「ありがとう! そう言ってもらえれば——」  と言いかけて、永原は言《こと》葉《ば》を切った。「ああ、戻《もど》って来た」  仁科は振《ふ》り向いた。  その少女は、ほとんどうつむいたまま、仁科に挨《あい》拶《さつ》した。  「よろしく」  と、仁科は言った。「名前は、何ていうんだい?」  少女は、やっと聞き取れるほどの声で、言った。  「星沢夏美です。よろしくお願いします」    「——じゃ、星沢夏美を見付けて来たのは、永原さんだったんですね」  と、克彦は言った。  「そう。そして、大当たりだった。僕《ぼく》がずっと彼《かの》女《じよ》の担当だったのは、最初に彼女のことを書いたのが、僕だったからさ」  「知りませんでした」  「そりゃそうだよ」  と、仁科は笑った。「その後、彼女はあれよあれよという間にスターになった。もう、僕が書かなくても、どの記者も彼女を追いかけるようになったんだ。もう、彼女は僕のことなんか、憶《おぼ》えてもいまい」  「それで、か……」  「ん? 何が?」  「いえ、何でもありません」  と、克彦は言った。  なぜ、夏美が、あんなに熱心に永原を殺した犯人を捜《さが》しているのか、克彦にもやっと分かったような気がしたのである。  夏美にしてみれば、永原は、自分を見出し、スターにしてくれた恩人なのだ。その永原を殺したと疑われるのはたまらないだろうし、犯人を自分で見付けたいと思うのも無理はない。  「——僕で、何か力になれることがあるかい?」  と、仁科がいった。    電話が鳴って、朱子は、受話器を素早く取った。  「はい!——あ、安中さんですか」  「どうだ?」  「どうだ、って、夏美さんのことですか?」  「他《ほか》に用があるわけないだろう」  「私に当たらないで下さい」  と朱子は言い返した。「何も連《れん》絡《らく》はありませんよ」  「そうか。——もう日がないんだ。何か思い出したことでもあれば、言ってくれ」  「ええ、よく分かってます」  朱子は、ちょっとうんざりしながら、言った。「何かあれば、すぐ連絡しますから。——ええ」  受話器を置いて、  「全《まつた》くうるさいんだから!」  と、文句を言う。  朱子とて、夏美のことは心配だ。特に、永原浜子の後を追って行って、その後、浜子は刺《さ》されて重傷を負った。  それから、夏美からの電話はない。  どうしたのだろう?——あの、ファンだという男の子——何とかいったけど、朱子は名前を忘れてしまった。本田とか——本間だったかしら?  克彦という名前は憶《おぼ》えているのだが。——ファンクラブの名《めい》簿《ぼ》を調べてみたが、それらしい名前はない。  「仕方ないわね。本当に!」  と、朱子は苛《いら》立《だ》って、呟《つぶや》いた。  肝《かん》心《じん》の名前を忘れてしまった自分にも、一《いつ》向《こう》に連《れん》絡《らく》してくれない夏美にも、腹を立てているのである。  あの克彦という若者だって、夏美は信用しているようだったが、怪《あや》しいものだ。味方のふりをして、夏美を罠《わな》にかけることだって、充《じゆう》分《ぶん》に考えられる。  悪いことばかりを思い付いて、朱子は余計に苛々するのだった。  「ご飯でも食べに行こう!」  いつ、電話がかかるかと、ずっと部《へ》屋《や》から出ないで、出前を取っていたのだが、動かないので、消化不良になりそうだ。  急いで食べてくれば、せいぜい二十分だ。その間に電話がかかることもあるまい。  じゃ、ともかく、急いで——と、財《さい》布《ふ》をつかんで、ついあわてていた。  足で、電話のコードを引っかけていたのだ。  「キャッ!」  と声をあげて引っくり返る。  しかし、本当に悲鳴を上げたかったのは、電話のほうかもしれない。はね飛ばされて、二、三メートルも宙を飛び、木のテーブルに叩《たた》きつけられたのである。  「いやだ! もう……」  朱子は財《さい》布《ふ》を叩きつけた。  苛《いら》々《いら》していると、ろくなことはない。ため息をついて、電話をたぐり寄せたが……。  「ひどい!」  ぶつかったショックで、受話器がパカッと割れてしまっている。——いや、外れるようにできているのかもしれないが、それにしても……。  「使えるのかしら?」  いじくり回していると、何やら、黒い、四角い小さな箱《はこ》のような物が落ちた。——何だろう?  朱子は、それを拾い上げた。部品にしては、どこにもつないでいないのがおかしい。  しばらくそれを眺《なが》めていた朱子は、  「まさか……」  と呟《つぶや》いた。  これと似たような物を見たことがある。同じではないが、しかし……。  もし、これが盗《ヽ》聴《ヽ》機《ヽ》だったら?  ここへかかって来る電話を、誰《だれ》かが盗《とう》聴《ちよう》している。——なぜ?  それははっきりしていた。夏美から、連《れん》絡《らく》が来るのを、キャッチしようとしているのだ。  しかし、誰に、こんな物が仕《し》掛《か》けられただろう? この部《へ》屋《や》へ入れるのは、安中や松江社長だが、彼らは朱子が夏美からの電話を、隠《かく》しているとは思っていまい。  では……そうか!  「坂東だわ!」  坂東はここへやって来た。そして、いとも愛《あい》想《そ》良く、朱子に、力を貸してくれと言っていた……。  あのとき、もしその気があれば、こんな物をセットするのは簡単だったろう。そして、自分の部屋で受信していればいいのだ。  ふと、朱子は、夏美が妙《みよう》なことを言っていたのを、思い出した。  夏美と待ち合わせていたことを、誰かにしゃべらなかったか、と訊《き》かれたのだ。それはつまり、誰かがそれを知っていた、ということではないか。  夏美は、それ以上、何も言おうとしなかったが、しかし、何かあったのだ。でなければ、あんなことは訊くまい。  「あの人……」  坂東に、朱子は猛《もう》烈《れつ》に腹を立てた。——そう、もしかしたら、坂東が夏美をどこかにとじ込《こ》めているのかもしれない!  朱子は、決然として、部《へ》屋《や》を出た。  坂東は六階にいる。もちろん〈坂東〉という表《ひよう》札《さつ》が出ているわけではないが、どの部屋なのか、見当はついていた。  六階の、そこ以外の部屋の人なら、たいてい顔を見知っていたからだ。普《ふ》段《だん》、あまり人の出入りしていない一部屋、あれが坂東の部屋に違《ちが》いない。  朱子は、階段を六階まで降りた。  エレベーターが見える。——あわてて足を止めた。当の坂東が、廊《ろう》下《か》をやって来るところだったのだ。  坂東の後には、何だかパッとしない、中年男がついて来る。  坂東はエレベーターのボタンを押《お》すと、  「いいか、あの娘《むすめ》から、住所を訊《き》き出せ」  と言った。「甘《あま》いことじゃ、口を割らないぞ。少々おどかしてやってもいい」  「はあ」  「体に傷《きず》をつけると後が面《めん》倒《どう》だ。なに、小生意気な娘だが、しょせん子供だ。ちょっと怖《こわ》がらせてやれば、何でもしゃべる」  エレベーターが来た。坂東は、もう一度、  「いいな、今度へまをやったら、放り出すぞ」  と、その男をにらんで、エレベーターに乗った。  エレベーターの扉《とびら》が閉まると、中年男は、困ったような顔で息をついた。  そして、廊《ろう》下《か》を戻《もど》って行く。  坂東が言っていた、「あの娘《むすめ》」というのは誰《だれ》のことだろう?  坂東の言い方からして、夏美ではないようだが、そうはっきりも言い切れない。ともかく調べてみる必要がありそうだ。  それにしても、「おどかしてやれ」とか、「体に傷をつけないように」とか、まるで、やくざのセリフだ。朱子は腹立ちで頬《ほお》を紅《こう》潮《ちよう》させていた。  あの男、坂東に雇《やと》われているらしい。  朱子は、そっと後をつけて行った。やはり、見当をつけていた部屋へ入って行く。  あそこへ、どうにかして入れないだろうか?  朱子は、ちょっと考え込《こ》んだ。  「——無理かなあ……」  でも、やってみるしかない。そうだとも!  こっち側の部《へ》屋《や》は、ベランダがつながっている。うまく行けば……。  朱子は、坂東の隣《となり》の部屋のチャイムを鳴らした。若い奥《おく》さんがいて、ときどき朱子も立ち話をする。  「——はい」  ドアが開く。「あら、あなた……」  「八階の者です」  「ええ、知ってるわ。何か?」  「ちょっと、上から洗《せん》濯《たく》物《もの》を飛ばしちゃって。こちらのベランダ辺《あた》りに落ちたみたいなんですけど、取らせていただけません?」  と、朱子は言った。  「あら、そう? 気が付かなかったけど。——いいわよ。じゃ、捜《さが》してみて」  「すみません、お邪《じや》魔《ま》します」  と、朱子は会釈《えしやく》して、中へ入った。  ベランダへ出る。もちろん、何も落ちているわけはない。朱子は、仕切の向こうへ身を乗り出した。  昼間だというのに、カーテンが閉まっている。  「——どう、見付かった?」  「いえ、お隣《となり》にあるみたい」  「あらそうなの。——隣って、変なおじさんがいるのよ。私、マンションの回覧なんか持って行くけど、凄《すご》く感じが悪いの。諦《あきら》めたほうがいいわよ」  「ここから入ってみます。ちょっと取って来ればいいわけだし」  「ええ? 危いじゃない! もし落ちたら、一巻の終りよ。——じゃ、いいわ、私、頼《たの》んでみてあげる。いらっしゃいよ」  気のいい奥《おく》さんで、朱子を連《つ》れて、隣の坂東の部《へ》屋《や》の玄《げん》関《かん》へ。チャイムを鳴らすと、  「誰《だれ》だ?」  と、さっきの男の声。  「あの、隣の者です。ちょっと洗《せん》濯《たく》物《もの》がお宅《たく》のベランダに——」  言い終らない内に、ドアが開いた。  「こっちの知ったことじゃねえや!」  と、あの男が、かみつきそうな顔で言った。  「そんな言い方ってないでしょう! 同じマンションに住んでる者同士なのに——」  「うるせえ! ともかく俺《おれ》は関係ねえ! 二度と来るな!」  ドアが、叩《たた》きつけられるように閉まった。  「——何でしょうね、本当に」  と、奥《おく》さんが本気で怒《おこ》っている。  「すみません、ご厄《やつ》介《かい》かけて」  と、朱子は謝《あやま》った。  「いいのよ。本当に頭に来るわね」  「——やっぱり他《ほか》に方法、ないと思うんです」  と、朱子は言った。「ベランダ伝いに行ってみます」  「そう? じゃ、用心してね」  「はい。大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》です」  朱子も、運動神経には自信があった。隣《となり》の部《へ》屋《や》へ戻《もど》ると、  「あの——お願いがあるんですけど」  と、朱子は言った。  「何かしら?」  「もし、私がなかなか戻《もど》って来なかったら、下のガードマンと一《いつ》緒《しよ》に見に来てくれません?」  「いいわよ。でも、何だか、ギャングの本《ほん》拠《きよ》にでも忍《しの》び込《こ》むみたいね」  それに近いんですよ、と朱子は心の中で、呟《つぶや》いた……。 15 暗い夜、海の底に……  朱子は、そっと、仕切りの外側をまたいで隣《となり》のベランダへと入り込んだ。  入るのは簡単だった。——問題はこの後である。  ベランダから、どうやって部《へ》屋《や》の中へ入るか。あの男に気付かれないように、だ。  朱子は、しばらく、ベランダにしゃがみ込んで、中の様子をうかがった。  いくらカーテンがひいてあっても、まだ外は明るい。朱子の影がカーテンに映ってしまうだろう。  しばらく耳を澄《す》ましていたが、何の物音もしない。——このままじっとしていても始まらない。  朱子はガラス戸に手をかけてみた。——開くはずがない、と思っていたが……案に相《そう》違《い》して、スッと動く。  どこか抜《ぬ》けてるんだ、あの男。  朱子は中へ入った。  居間だ。坂東の部《へ》屋《や》らしく、というべきか、何とも悪《あく》趣《しゆ》味《み》な飾《かざ》りつけだった。  ちょっと妙《みよう》な気がした。——どことなく、見たことのある部屋という印象なのだ。  どうしてだろう。  ともかく、のんびり眺《なが》めているヒマはない。朱子は、用心深く、ドアの一つをそっと開けてみた。  大《だい》体《たい》、広さは違《ちが》うが、間取りの基本的なパターンは同じだから、どこがどうなっているかは、見当がつく。  ここは寝《しん》室《しつ》のはずだ。——グォーッという音。  怪《かい》獣《じゆう》でもいるのかと思ったが——まさか!  ——あの男が、ベッドで引っくり返って眠《ねむ》っているのだった。ひどいいびきだ。  鼻でも悪いんじゃないかしら、と、朱子はいらぬ心配をした。  これだけグッスリ寝《ね》ていれば、まず気付かれる心配はあるまい。  そうそう沢《たく》山《さん》部屋があるわけではないから、捜《さが》すのにも、そう手間はかからなかった。  二つ目のドアを開けて、朱子はハッとした。一《いつ》瞬《しゆん》、夏美がいるのかと思ったのだ。  少し小さめの寝《しん》室《しつ》で、窓のない部屋だった。  ベッドに誰《だれ》かが寝《ね》ている。  明りを点《つ》けると、  「ウッ」  という、くぐもった声。  少女が、ベッドに寝かされていた。手足を縛《しば》られて、ベッドの柱につなぎ止められている。猿《さる》ぐつわをかまされ、声を出せないようにしてある。  ひどいことをして!  朱子は、駆《か》け寄って、少女の猿ぐつわを外してやった。  「大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》?」  「ありがとう。——あの男は?」  「眠《ねむ》ってるわ。あなたどうしてこんなことに——」  朱子は、急いで縄《なわ》を解《と》きながら言った。  「星沢夏美と間《ま》違《ちが》えられて……」  「夏美さんと?」  「あ。——あなた、大内朱子さんっていうんでしょ?」  「そう。よく知ってるわね」  「夏美さんから聞いたの。私、本堂千絵」  「本堂……。ああ、じゃ、あなた……。ともかく、そんな話は後でいいわ。早くここから出ましょう」  「待って……。手足がしびれて——」  千絵は、顔をしかめて、自由になった手足を、動かそうとした。  「いいわ、おぶってあげる」  と、朱子は言った。  そこへ、  「その必要ないわよ」  と声がした。  隣《となり》の部《へ》屋《や》の奥《おく》さんが立っていた。  「奥さん……」  朱子が当《とう》惑《わく》顔《がお》で、「どうして入れたんですか?」  「この人、ここの持主の愛人なのよ!」  と、千絵が言った。  朱子が愕《がく》然《ぜん》とした。——あの男が、ナイフを手に、現われた。  「また逃《に》がすところだったじゃないの!」  「すみません」  「お客さんが一人増えたわ。用心して、逃げられないようにね」  と、「坂東の愛人」は言った。  そうか。——どうも居間が見たことのある飾《かざ》りつけだったと思ったのは、隣と、よく似ていたからだ。  朱子は、その男を突《つ》き飛ばして、逃げようかと思った。  「下手《へた》に逃《に》げたりしないことね」  と、女が言った。「あんたが逃げたら、この女の子の顔に、一生消えない傷《きず》が残ることになるわよ」  朱子は、青ざめた顔で、迫《せま》って来るナイフを見つめていた……。    「おかしいな」  と、克彦は、家の中を一回りして、首をかしげた。  夏美がいない。どこへいったんだろう? 出かけるにしても、言って行くだろうけど……。  心配だった。まさか、夏美まで誘《ゆう》拐《かい》されたってことはないだろうが。  「——どうしたんだい?」  玄《げん》関《かん》で、仁科が言った。  「あ、いけねえ! 忘れてた! どうぞ上がって下さい」  「おいおい——」  仁科は笑いながら、「僕《ぼく》に大切な話があると言っといて、忘れちゃった、はないだろう」  と、上がり込《こ》んだ。  克彦は、仁科になら、夏美のことを打ち明けてもいい、と思ったのである。仁科なら、きっと力になってくれる。  そう思って連《つ》れて来たのだが、肝《かん》心《じん》の夏美がいないのでは、どうも話がしにくい。  「もうすぐ戻《もど》って来ると思うんです。座って下さい」  「誰《だれ》が? 妹さんかい?」  「千絵の奴《やつ》、今、誘《ゆう》拐《かい》されてんです」  「何だって?」  仁科が目を丸くした。  「星沢夏美と間《ま》違《ちが》えられて」  「君の妹さんが?」  「ええ、星沢夏美が、今、うちにいるんですよね」  克彦の説明が悪いせいか、仁科はポカンとしている。——電話が鳴り出して、克彦が飛びついた。  「——はい、本堂です。——夏美さん! どこにいるの?——え? 何だって?」  克彦は仁科を手招きした。  「——ごめんなさい。勝手に出てしまって」  夏美の声は、落ちついていた。「でも、これ以上、あなたにご迷《めい》惑《わく》はかけられない」  「待ってよ。ねえ、例の仁科さんって記者の人に、事情を打ち明けて、力になってもらおうと思うんだ。今ここに来てる。——ねえ、戻《もど》っておいでよ」  仁科が、耳を寄せて、話に聞き入っていた。  「——これは、やっぱり私一人でやらなきゃいけないことだわ。私個《ヽ》人《ヽ》の問題なの」  「個人の……。それは、どういう意味?」  少し間があった。——仁科が、受話器を取ると、  「もしもし、夏美君かい? 僕《ぼく》は仁科というんだ。君は憶《おぼ》えてないだろうけど——」  「よく憶えてます」  と、夏美が遮《さえぎ》った。「デビュー前、永原さんが、紹《しよう》介《かい》して下さった方でしょう」  「憶《おぼ》えててくれたの?」  仁科がびっくりしている。  「はい。——あなたはとてもいい人で、信用できる、って、父《ヽ》が《ヽ》いつも言っていました」  ——仁科と克彦は顔を見合わせた。  「夏美さん」  克彦が言った。「今、何て言った?」  間が空《あ》いて、静かな夏美の声がした。  「永原さんは、私の父親なんです」  「——何だって?」  仁科は、愕《がく》然《ぜん》としていた。もちろん克彦だって同じことだ。  「しかし……彼《かれ》は女性のほうはだめだと——」  「そうなる前のことです。母は亡《な》くなって、私は、ずっと永原さんからお金を送ってもらっていました」  「驚《おどろ》いたな! 君はつまり——父親に頼《たの》まれて——」  「そうです。私、地方の音楽高校へ行って、声楽を勉強していました。——父が、あんなに苦しい立場にいるなんて、打ち明けられるまで知らなかったんです」  「父親を助けるために、歌手になったのかい?」  「ええ。——でも頼《たの》まれたわけじゃありません。たまたま東京へ出て来たとき、もうプロダクションは潰《つぶ》れる寸前で、どうにもならなくなっていました」  「それで君が進んで、歌手になろうと……」  「だめでもともとでした。少しでも可能性があれば、と。——一時的に、声楽の発声も、音程も捨てて、アイドル歌手らしく下手《へた》に可愛《かわい》く歌うことに専念しました。まさか本当に人気が出るなんて、思いもしなくて……」  「で、やめられなくなってしまったんだね」  「そうです。——父は、私にいつもすまないと言っていました。私も、プロダクションがしっかりして来れば、引退するつもりでした。でも——」  夏美は言《こと》葉《ば》を切った。  「どうしたの?」  「それは——また、いつかお話しします。ともかく、私は父を殺した犯人を見付けたいんです」  「君一人じゃ危いよ」  「これは私《ヽ》の《ヽ》問題なんです。——仁科さん」  「何だと?」  「もし——事件が解決して、私が無《ぶ》事《じ》だったら、このことを記事にして下さって、構いません」  「僕《ぼく》にどうして——」  「父があなたをいつも信じていたからです。大変な特ダネでしょ?」  「そりゃそうだ。しかし——」  「せめてものご恩返しです」  「ねえ、夏美さん」  と、克彦が言った。「ともかく、差し当たりは、犯人を見付けることだよ。僕や仁科さんが力になるから——」  「ありがとう。でも、他《ほか》にも事情があるの」  と、夏美は言った。  「他に? どんなこと?」  「もし、私の考えが正しければ、なぜ父が殺されたのか、そこから犯人が分かって来ると思うの」  「危い真《ま》似《ね》はいけないよ!」  「心配しないで。何があっても——自分のことは、自分で解決しなきゃ」  「夏美さん……」  「妹さんも、必ず無《ぶ》事《じ》に戻るようにしてみせるわ。色々ありがとう」  「待って! ねえ——」  電話は切れた。  克彦と仁科は、しばし無言だった。  「——驚《おどろ》いたな」  と、仁科は呟《つぶや》くように言って、「どういうことなのか、初めから話してみてくれないか?」  「ええ」  と、克彦は肯《うなず》いた。  そもそもの始まり——克彦が、夏美の後をつけてマンションのベランダへ忍《しの》び込《こ》み、彼《かの》女《じよ》の歌を録音したことから、病院から脱《ぬ》け出した彼女がタクシーへ飛び込んで来たこと、そして永原浜子の事件と出くわしたこと……。  克彦の話に、、仁科は呆《あき》れ顔で聞き入っていた。  「また無茶苦茶をやったもんだなあ!」  「すみません」  「いま、僕に謝《あやま》っても仕方ない。問題は君の妹さんの安全と、夏美の行《ゆく》方《え》だ」  「不《ふ》思《し》議《ぎ》な人ですね、彼《かの》女《じよ》……」  と、克彦は言った。「あの歌を聞いたとき、びっくりしたけど——まだ序の口だったんだなあ」  「しかし……」  「え?」  「いや、彼女が、『これは自分の問題だ』とくり返してたろう? あれが気になるんだ。ただ、父親のことだけじゃないような気がする」  「というと?」  「父親のことを秘密にしてはいたとしても、それが彼女自身の問題とは言えないと思うんだよ。何かもっと他《ほか》にあるんじゃないか……」  仁科は考え込《こ》んだ。「もしかすると——」  「何か、心当たりがあるんですか?」  仁科は、しばらく考え込んでいた。そして、ふと顔を上げると、  「——君の録音した、その歌のテープはあるかい?」  と言った。  「ええ、ありますよ」  克彦は、ウォークマンを持って来た。「でも、オペラのアリアなんだそうですよ」  「僕はオペラファンなんだよ。君は知らないだろうけど」  と、仁科は、ヘッドホンをかけながら言った。  「へえ!」  克彦はびっくりした。珍《めずら》しい動《ヽ》物《ヽ》にでも会ったような気分だった。  「テープを回して。——よく録《と》れてるじゃないか」  「何の歌か分かりますか?」  仁科は、じっと目を閉じて聞き入っている。  「——戻《もど》して、もう一度かけてくれ」  と、仁科は言った。  克彦がもう一度かける。——仁科は、ゆっくりと肯《うなず》いた。  「やっぱりそうか」  「分かったんですか?」  仁科はヘッドホンを外した。  「ボイートという人の作曲した『メフィストーフェレ』の中のアリアだ」  「メフィ……?」  「ファウストの話ぐらい、君も知ってるだろう?」  「ええ、悪《あく》魔《ま》に魂《たましい》を売り渡す学者の話でしょ?」  「その悪魔がメフィストフェレスだ。その話をオペラにしたのが、『メフィストーフェレ』なんだよ」  「へえ。何か意味があるんですか?」  「かもしれない」  仁科は、眉《まゆ》を寄せて、「半年ほど前、ある噂《うわさ》が飛んだ。——夏美に関してね。みんな色めき立ったが、確証がなかったし、松江社長が、あちこち手を回して、抑《おさ》えてしまったんだ」  「何をですか?」  「うん」  仁科は少し間を置いて、「——夏美が流産した、という噂だった」  「まさか!」  克彦は反射的に言った。  「しかし、担当者の間では、事実かもしれない、と囁《ささや》かれていたんだよ」  「でも——誰《だれ》の子供を?」  「分からない。それは見当もつかないよ」  「それと——このアリアとどういう関係があるんですか?」  「このアリアはね、オペラの中で、マルガレーテという女性が歌うんだ」  「マルガレーテ……」  「うん。『暗い夜、海《ヽ》の《ヽ》底《ヽ》に』というアリアでね。——マルガレーテは、ファウストの子を宿し、それを隠《かく》すために、母親を殺し、発《はつ》狂《きよう》して、生まれた子供まで殺してしまう。この歌は、牢《ろう》獄《ごく》につながれたマルガレーテが、母親と子供の死を歌う、悲痛なアリアなんだ」  「子供の死……」  と、克彦は呟《つぶや》いた。  「本当に流産したのか、それとも中絶したのかは分からないが、彼《かの》女《じよ》にとっては、真《しん》剣《けん》な恋の結果だったろう。——遊びでそんなことをするような子じゃない」  「そうですね」  「生まれて来なかった子への罪の意識が、彼女にはあったんじゃないかな。この歌は、ただ、うまく歌っているだけじゃない。心がこもってるよ」  「ええ。それは僕《ぼく》も感じました」  「彼女が手首を切ったのも、それが原因だったかもしれない。——おそらく、彼女が、自《ヽ》分《ヽ》の《ヽ》問題だと言っているのは……」  「父親を殺されたことが、それと何か関係あるんですね!」  「永原さんが、彼女の父親だということは、おそらく誰《だれ》も知らなかっただろう。——至ってパッとしない、大人《おとな》しい人だったしね」  「永原さんは、夏美さんの流産のことを——」  「当然、知っていただろう。そしてその子供の父親が誰だったのか、夏美君に問い詰《つ》めたんじゃないかな。父親なら当然のことだ」  「で、その相手に——」  「たぶん、彼女は言わなかっただろう。しかし、何かの拍《ひよう》子《し》に、永原さんがそれを知った。そして相手と争いになり……」  「刺《さ》し殺されたんだ! だから夏美さんは——」  「父親を刺し殺したのが、かつての自分の恋人だった——いや、今でも恋人かもしれないとしたら、彼女が『自分の問題』だと言うのも、分かる」  と、仁科は言った。  克彦は、あの夏美の、大人びた物《もの》哀《がな》しさのある眼《まな》差《ざ》しを思い出した。  そうだ。きっとそうなのだ。  しかし、それは誰なのだろう? そして、夏美はどこへ行ったのか……。  テープが回っていた。置かれたヘッドホンから、夏美の歌が、かすかに聞こえていた……。 16 清算の時  「——これでいい」  と、男は満足気に肯《うなず》いた。「俺《おれ》は大《だい》体《たい》無器用で、人を縛《しば》るのなんて慣れてないんだが、これは正に会心の出来だ!」  「あんた、こんなことして、ただで済《す》むと思ってんの!」  坂東の愛人は、グルグル巻《ま》きに縛られて、男をにらみつけていた。  「いくら吠《ほ》えても、つないである犬は怖《こわ》くも何ともないさ」  「何ですって、この——」  「静かにしなさいよ」  千絵がウーンと手足を伸《の》ばして、「ああ、やっと自分のものって気がして来たわ、この手足が」  「でも、どうして?」  朱子はキョトンとしている。  「この子の顔に傷《きず》をつけるなんて、人間のやることじゃねえよ」  と、男は言った。「長いこと、辛《つら》い思いをさせて悪かったな」  「いいえ。でも、あなた、大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》?」  「何とかなるさ」  と、男は笑った。  「だめよ。また同じような生活に戻《もど》ったら、その体じゃ一年と生きてられないわ」  千絵は首を振《ふ》って、「警察へ行きましょう。あなたが私たちを助けてくれた、って証言してあげるから。——ちゃんと病院に入れてくれるわよ」  「やさしいなあ、本当に……。よし。じゃあ、言う通りにしよう」  「良かった! きっと後《こう》悔《かい》はしないと思うわよ」  千絵は微《ほほ》笑《え》んで言った。  朱子は、この千絵という娘《むすめ》に感心した。今の今まで誘《ゆう》拐《かい》され、監《かん》禁《きん》されていたとは、とても考えられない。  あの克彦より、妹のほうがしっかりしているようだ。  「ともかく、まず警察へ行きましょう」  と、朱子は言った。「きっと芸能レポーターが目を回すわ」  「この女、どうする? 水にでもつけとくか?」  「塩水につけると赤くならないわ」  リンゴと間《ま》違《ちが》えている。  「いいわよ。少し、縛《しば》られてる身も味わってみると反省するかも」  「あまり期待できないな」  三人は、部《へ》屋《や》を出た。千絵がヒョイと顔を見せて、女に言った。  「今の内に眠《ねむ》っといたほうがいいわ。留《りゆう》置《ち》場《じよう》ではきっと寝《ね》辛《づら》いわよ」  「大きなお世話よ!」  と、女が喚《わめ》いた。  「じゃ、ご機《き》嫌《げん》よう」  千絵はドアを閉めた。    「——何がどうなってるの?」  と、母の雅子がため息をついた。  「ごめん、黙《だま》ってて」  と、克彦は頭を下げた。  「それにしたって——」  と、雅子は納《なつ》得《とく》のいかない顔で、「千絵なんか誘《ゆう》拐《かい》する物好きがいるとも思えないけどね。——うちは大《だい》体《たい》、金持でもないんだし」  「だから、そうじゃないんだよ。千絵の奴《やつ》、星沢夏美と間《ま》違《ちが》えられて——」  「それだって変じゃないか。人をさらおう、っていうのに、顔も知らないなんて」  「そりゃ、まあ……変だけどさ」  「千絵にからかわれてんじゃないの? あの子はいたずら好きだからね」  克彦は困ってしまった。  ついに意を決して、母親に千絵が誘拐されたことを打ち明けたのに、一《いつ》向《こう》に信用してくれないのである。  「大体、あの夏美って子は、姿をくらましてるんだろ?」  「うん」  「姿をくらましてる者を、どうして誘拐するの? おかしいじゃないの」  どこがおかしいというのか、よく分からなかったが、克彦のほうも混《こん》乱《らん》して来た。  「おかしいったって、おかしくないんだから、仕方ないじゃないか!」  「千絵に騙《だま》されてるんだよ。見ててごらん、今に『ただいま』って、帰って来るから」  ——この楽天性を、千絵も受け継《つ》いでいるのに違《ちが》いない。  克彦としては、一《いつ》切《さい》の事情を母親に納《なつ》得《とく》できるよう説明できる自信もなかったし、どうせ同じことなら、放っておくほうがいい、と思った。  「で、あの夏美って子はどこに行ったの?」  「分からないんだ。——自分で出て行っちまった」  「まあ。大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》なのかね? 何だか人殺しを捜《さが》してるんだろ? お前、捜しに行ったらどうなの?」  夏美のほうを心配しているのだ。変った母親である。  「それに何だかリサイタルとかいうのがあるんだろ?」  「うん。あと三日だ」  「やらないと会社が潰《つぶ》れるとか言ってたね。心配だねえ」  「うん……」  克彦は、何とも言いようがなかった。  玄《げん》関《かん》で音がした。  「ほら、きっと千絵だよ」  だったらいいんだけどね。克彦が出て行こうとすると——千絵がヒョイと顔を出して、  「ただいま、お兄さん」  と言った。  「ほら、ごらん」  と、母親が得意そうに言った。  「千絵、お前……」  克彦は唖《あ》然《ぜん》として言《こと》葉《ば》もない。  「大変よ、これから二、三日は」  と千絵が言った。  「どうして?」  「レポーターとか記者が押《お》しかけて来るから。私、手記をいくらで売ろうかな。お兄さん、整理係になってくれる?」  克彦は自分の頭をぶん殴《なぐ》った。——痛い! 夢じゃないのだ!  「ねえ、夏美さんはどうしたの?」  「それより、お前のほうの話が先だ!」  「晩ご飯のほうが先よ」  と、雅子が言った。「千絵、ちょっと手伝ってちょうだい」  勝手にしてくれ! 克彦はふてくされてソファにひっくり返った……。    「今こそ、チャンスだ!」  松江が顔を紅《こう》潮《ちよう》させて怒《ど》鳴《な》った。「坂東の奴《やつ》を見返してやる!」  「社長——」  安中が心配そうに、「あまり興《こう》奮《ふん》なさると血圧にこたえますよ」  「分かっとる!」  松江は、居間の中を、グルグルと歩き回った。「俺《おれ》は喜んでるんだ! 分かるか? こんなにいい気分になったのは生まれて初めてだぞ!」  「それは分かりますが——」  松江は急に立ち止まって、不安そうな表情になった。  「まさか坂東の奴が無罪放《ほう》免《めん》になることはないだろうな?」  「ないでしょう。まあ当人は、知らんと言ってますが、誘《ゆう》拐《かい》された女の子も、ちゃんと坂東を見ているわけですし、言い逃《のが》れはできませんよ」  「フン、いい気味だ。Mミュージックは大パニックだろうな」  「何人かのタレントのマネージャーから、うちへ移りたいという打《だ》診《しん》が来ています」  「そうか! いよいよ、これからは俺の時代だぞ!」  と、松江は握《にぎ》り拳《こぶし》を振《ふ》り上げた。  「しかし、社長、明日のリサイタルに、もし夏美が現われなかったら、それどころじゃなくなりますよ」  安中の言《こと》葉《ば》に、松江はいやな顔をした。  「せっかくいい気分でいるのに、変なことを言うな」  「ですが——」  「分かっとる!」  と、松江は怒《ど》鳴《な》った。「手がかりはないのか? 夏美をかくまっていたという兄妹には訊《き》いたのか?」  「五百万出すと言ってみました。しかし、本当に知らないようです」  松江はソファにドカッと座り込んだ。  「——すると後は、神だのみしかない、か」  「本人が自主的に姿を現わすのを待つしかありません」  松江は、ゆっくりと両手を組み合わせた。  「来ると思うか?」  「分かりません。しかし……責任感の強い娘《むすめ》ですからね。可能性は五分五分だと思いますよ」  「五分五分か」  松江は、ため息をついた。「そこへ賭《か》けてみるしかないな……」  「今となっては、仕方ありませんね」  「明日の——」  「午後六時開演です」  松江は、時計に目をやった。十一時を少し回っている。  「あと十九時間か……」  松江は呟《つぶや》いた。    十二時まで、あと五分。  安中貴代は、ベッドから出ると、サンダルをはいた。  病室のロッカーを開けると、タオルを沢《たく》山《さん》積んだ棚《たな》の奥《おく》から、紙《かみ》袋《ぶくろ》を取り出す。  中から、小さく丸めた白い布《ぬの》を出した。——いや、白衣である。  貴代は、白衣を身につけ、看護婦の帽《ぼう》子《し》を頭にのせた。靴《くつ》をはきかえる。  ちょっと見には、看護婦としか思えない。  鏡《かがみ》の前に立って、自分の姿を見ると、  「大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》だわ」  と、肯《うなず》いた。  それから、机の引出しを開け、厚みのある封《ふう》筒《とう》を取り出す。  「さあ、これでおしまいだわ……」  貴代は呟くと、封筒をポケットに入れ、病室のドアをそっと開けた。  廊《ろう》下《か》は、静まり返っている。人の気配もなかった。  貴代は、廊下へ出て、音のしないようにドアを閉めると、急いで歩き出した。  ——屋《おく》上《じよう》へ出ると、いつもより風が強い。湿《しめ》った、雨の気配を含《ふく》んだ風だった。  手すりにもたれた白い影があった。  「誰《だれ》?」  と、その影が訊《き》く。  「私よ、早野さん」  「——驚《おどろ》いた」  早野岐子は、ホッとしたように息をついた。「そんな格《かつ》好《こう》で来るから、誰かと思いましたよ」  「人に見られちゃ困りますからね」  と、貴代は言った。  「——残りの五十万は?」  「持って来たわ」  「それはどうも。当分、楽ができます」  と、早野岐子は笑った。  「——渡す前に、訊いておきたいことがあるの」  「何ですか?」  「これで百万円、あなたに渡したことになるわ。でも——これで最後だって保証があるの?」  「むずかしいことをおっしゃいますね」  と、早野岐子は笑った。「どうすればいいのかしら? 誓《せい》約《やく》書《しよ》でも書きましょうか?」  「あなたを信用してもいいの?」  「信じていただくしかありませんわね」  貴代は、しばらく早野岐子を見つめていたが、やがて肩《かた》をすくめた。  「分かったわ」  と、ポケットから封《ふう》筒《とう》を取り出し、差し出す。  早野岐子は、それを受け取ると、中をあらためようとした。  「待って!」  と、貴代が鋭《するど》く言った。「誰《だれ》かいるわ!」  「え?」  早野岐子は振《ふ》り向いた。  貴代は、相手の体を、手すりに押《お》しつけながら、その両足をかかえ込《こ》んで持ち上げた。  「何するの!」  と、早野岐子が叫《さけ》ぶ。  封筒が落ちて、中から、札《さつ》の大きさに切られた新聞紙が飛び出し、風に散った。  「死ね! 死ね!」  貴代は、暴《あば》れる早野岐子の体を、手すりの上に押し上げようと必死だった。  「離《はな》して!——人殺し!」  早野岐子の叫び声は、風に吹き散らされて行く。    安中は、妻の病室のドアを開けた。  中は暗く、ベッドの、盛《も》り上がった形が、ぼんやりと見えている。  「眠《ねむ》っているのか?」  と、安中は声をかけた。  ベッドが少しきしむ。身動きする気配。  「——何もかも明日だ」  と、安中は呟《つぶや》くように言って、椅子《いす》に座った。「夏美さえ、リサイタルに現われたら、総《すべ》てはうまく行く。——俺《おれ》たちの仲も、そのときになったら考えよう」  静かな息づかいが聞こえる。  「俺は疲《つか》れた……。当分、一人になって、どこか遠くへ行きたいよ」  安中は息をついた。「何もかも忘れて……。このまま警察が何もかぎつけなけりゃ、安心なんだが……」  ドアが開いた。安中はギクリとして立ち上がった。看護婦が立っている。  「あなた!」  と、その看護婦が言った。  「貴代、お前——」  安中が唖《あ》然《ぜん》とした。  「やって来たわ! あの看護婦を、今、屋《おく》上《じよう》から突《つ》き落として来てやった!」  「待て! 明りを点《つ》けろ」  部《へ》屋《や》が明るくなると、ベッドに、星沢夏美が起き上がった。  「夏美……」  と、安中が呟《つぶや》いた。  「やっぱりあなただったのね」  と、夏美は言った。  「聞いたわね!」  と、貴代が目を燃え立たせて、夏美をにらんだ。  「私を屋《おく》上《じよう》から落とそうとしたのは、あなたね。——そして、その間に、安中さん、あなたは、私の父を殺したんだわ!」  「君を突《つ》き落とそうとしたって?」  安中は愕《がく》然《ぜん》とした。「本当か、貴代!」  貴代がじっと夫を見つめた。  「そうよ! あなたは私の体に手も触《ふ》れなかったくせに、この女には子供を作ったじゃないの!」  安中は青ざめた。  「貴代……。どうしてそれが分かった?」  「永原さんに聞いたのよ。あの人は私の所へ来て、夏美を妊《にん》娠《しん》させたあなたを絶対に許さない、と言ったわ」  貴代は、夫を、憎《にく》しみの目で見ていた。「——凄《すご》い怒《いか》りようだったわよ。あのおとなしい人がね。当たり前でしょうね。自分の娘《むすめ》を、それも、ただ歌手をやめさせないため、それだけのために、騙《だま》し、引っかけて妊娠させた男を、許せるわけがないでしょう」  「そんな言い方はよせ!」  と、安中は目をそらした。「僕《ぼく》は——夏美、君のことが好きだった。でなきゃ——ずっと男しか相手にできなかった僕が、君を抱《だ》けるはずがない」  「言い訳はもういいわ」  夏美は冷ややかに言った。「あなたは父を殺した。それで充《じゆう》分《ぶん》だわ」  「仕方なかったんだ! あれは争っているときのはずみだった。殺す気はなかったんだ」  と、安中は首を振《ふ》った。  「でも、殺したわ。——その事実は消えないのよ」  貴代は、看護婦の帽《ぼう》子《し》を取って、投げ捨てた。  「あなた。この娘を殺しましょう」  「何だと?」  「この子は、私とあなたの殺人を知ってるのよ! 生かしておけないわ」  「馬《ば》鹿《か》を言うな! 夏美は——」  「何なの? この十七の女の子が、一体何なのよ?」  「夏美なしでは、僕《ぼく》は破《は》産《さん》する」  「それがどうしたの! お金が手に入っても、刑《けい》務《む》所《しよ》でどうやって使うのよ!」  「待って」  と、夏美は静かに言った。「誰《だれ》も、あなたたちを告発するとは言っていないわ」  「夏美——」  「明日のリサイタル——いいえ、もう今日のリサイタルね。私、行ってもいいのよ」  「本当かい? 全部、準備は整ってるよ! 凄《すご》いニュースになるぞ」  安中の目が輝《かがや》いた。  「今まで通り、歌手としてやって行ってもいいわ。その代り——」  「君の取り分は上げるよ。充《じゆう》分《ぶん》に払《はら》うようにする」  「そんなことじゃないの」  と、夏美は首を振《ふ》った。  「じゃあ、何だい?」  夏美はベッドから出ると、ゆっくりと安中に近づいた。そして、安中の首に、両手をかける。  「前のように、私を抱《だ》いて」  「夏美……」  「できる?——そうしてくれたら、私は今まで通り、仕事を続けるわ」  「あなた!」  と、貴代が言った。「騙《だま》されてるのよ! そんな女の子のために——」  「黙《だま》ってろ!」  と、安中は怒《ど》鳴《な》った。「夏美のおかげで、俺《おれ》たちは食って来れたんだぞ!」  「食べるぐらいが何よ! あんたの妻は私なのよ!」  「静かにしないと」  と、夏美が言った。「聞きつけて、人が来るわ」  貴代は青ざめた。——夫が、夏美を抱いてキスするのを、見て、貴代の体が震《ふる》えた。  「やめて!——やめてよ!」  叫《さけ》び声を上げて、貴代が夫へと背後から飛びかかった。  安中が、低くうめいた。  夏美は、素早く身を引くと、ドアを開けて、病室を出た。  夜勤らしい看護婦がやって来た。  「どうかしました?」  「あの病室で、けが人が出たみたいです」  「まあ、けが人?」  看護婦が急いで入って行く。  夏美は、急ぎ足で階段のほうへ歩いて行った。  「——誰《だれ》か来て! 人が刺《さ》されてる! 誰か!」  看護婦の叫《さけ》び声が、夏美の背後で響《ひび》き渡った……。 17 スポットライト  「凄《すご》いなあ」  と、克彦は会場を見回した。  一万人、と一口に言っても、この大ホールに詰《つ》め込まれていると、その熱気だけでも大変なものだ。  「あと十五分よ」  と、千絵が言った。「彼《かの》女《じよ》、来ると思う?」  「どうかな」  二人は、舞《ぶ》台《たい》の袖《そで》に立っていた。  リサイタルの準備は、主《ぬし》のいないまま、進められていた。  TVカメラも、何台も入っている。  もちろんリサイタルの中《ちゆう》継《けい》もあるが、それ以外の局も、果してアイドルが現われるかどうか、ニュースとして取材に来て、待ち構えているのだ。  「もし来なかったら、大変ね」  と、千絵が言った。  「暴《ぼう》動《どう》になるよ」  と声がした。  「あ、仁科さん。——どうですか、楽屋のほうは」  「お通夜みたいだ。もう松江社長は死にそうな顔をしてる」  「当然だわ、安中常務が犯人だったなんてね」  「しかも、奥《おく》さんも看護婦と安中を殺したんだからな。——坂東もだが、松江だって、ただじゃ済《す》むまい」  と、仁科は言った。  「永原浜子さんを刺《さ》したのも、貴代なんでしょう?」  「うん。君らが行く前に、浜子さんは事務所へ行った。そして、貴代が出てくるところを見たんだ」  「じゃ、机を荒《あ》らしたのは、貴代だったんですね」  「永原の机に、夏美の恋人が安中だったという証《しよう》拠《こ》が残っていないかと、気になったんだね。で、浜子さんが貴代を後でスタジオへ呼び出した」  「警察を呼んだのは貴代だったのか。で、浜子さんは貴代に、どうしてあんな真《ま》似《ね》をしたのか、問い詰《つ》めたんですね」  「そういうことらしいな」  克彦が肯《うなず》いて、  「安中が、夏美さんを妊《にん》娠《しん》させたんですね?」  「うん、そうらしい。ともかく、まだ安中貴代が興《こう》奮《ふん》していて、話がはっきりしないようなんだが……」  「夏美さんが引退したいと言い出すのを恐《おそ》れて、安中が誘《ゆう》惑《わく》したんですね」  「もしかしたら、それも松江の命令だったかもしれない。当の安中が死んじまってるんじゃ、立証できないがね」  「ひどい話ね」  と、千絵が言った。「私、タレントになるの、やめよう」  「なれないから心配するな」  「あら! いくつか話はあったのよ。TV《テレビ》のインタビュー見て、結《けつ》婚《こん》して下さい、って手紙も来たし」  仁科が笑って、  「それを考えるのは、もう少し先でいいさ」  と言った。  「でも、仁科さん」  「何だい?」  「夏美さんのこと——父親のこととか、今度の事件の背景とか、記事にしてませんね」  仁科は肯《うなず》いた。  「うん。永原さんのことを考えるとね。——もちろん、今度の事件で、あちこちが、かぎつけて書くだろう。でも、僕《ぼく》はそんなハイエナの一匹《ぴき》になりたくない。書くのなら、夏美の『夢《ゆめ》』の姿を書きたいね」  「じゃあ……」  「アイドルなんて、しょせん虚《きよ》構《こう》じゃないか。小説の主人公のようなものさ。映画のヒーロー、ヒロインのような、ね。映像が消えれば消えてしまう。それなら、アイドルは、幸福な少女のままでいればいいのさ」  克彦は、ちょっと笑って、  「それじゃ出《しゆつ》世《せ》できないや」  と言った。  「言ったな!」  と、仁科も笑った。「——さあ、五分前だ。あちこちでレポーターが声を張り上げてるだろうな」  「秒読み開始ね」  と、千絵が言った。  朱子がやって来た。  「あら、ここにいたの? お客に殴《なぐ》り殺されないように、裏口から逃《に》げたほうがいいと思うけど」  「朱子さんは?」  「私は夏美さんの付《つき》人《びと》だもの。ここで待機してなきゃ」  「来ると思う?」  「さあ」  朱子は首を振《ふ》った。「もう、こんな世界にいや気がさして、来ないんじゃないかしら。それが当たり前のような気がするけど」  「でも、ファンがいるよ」  と、克彦が言った。「間《ま》違《ちが》いなく、これだけの数のファンがね」  「でも、その義務感で縛《しば》るのは、気の毒《どく》よ」  と、千絵が言った。「いくらアイドルだって、一人の人間だわ」  「——ありがとう」  と、声がした。  みんなが、信じられないという表情で、振《ふ》り向くと、夏美が立っていた。  「——どうやってここまで来たの!」  と、朱子が、やっと我に返って言った。  「お客と一《いつ》緒《しよ》に入ったの。この格《かつ》好《こう》でメガネかけてたら、誰《だれ》も気付かなかったわ」  夏美は、まだ千絵の服を着ていた。  「どうするの、夏美さん」  と、朱子が言った。  「まだ迷《まよ》ってたの、ここへ来たときは」  と、夏美が言った。「芸能界に復《ふく》讐《しゆう》してやりたい、とも思ったわ。私の歌《ヽ》を取り上げて、父を殺した。そして——もう一つの命もね」  「これだね」  と、克彦が、カセットテープをポケットから出した。  夏美が克彦を見る。  「君の歌だ。ベランダで録音した」  「あのときに?」  「うん。——もし今日会ったら返そうと思ってたんだ」  「どうして? 取っておこうと思わなかったの?」  「これは、君の——人間としての君の歌だ。僕《ぼく》は、やっぱり、音程の怪《あや》しい歌を聞いてるほうが安心するよ」  夏美はテープを受け取ると、じっと見ていたが、  「——歌の意味を、知ってる?」  と、訊《き》いた。  「うん。『暗い夜、海の底に』っていう歌だろ? 意味も聞いたよ」  朱子がハッとした。——夏美が手首を切ったとき、呟《つぶや》いた「海の底」という言《こと》葉《ば》は、それだったのか。  夏美は、克彦の目を見て言った。  「それでも——私のファンでいるの?」  「もちろんさ」  夏美は、克彦をそっと抱《だ》いて、唇《くちびる》を触《ふ》れさせた。  「——前にも一度、ね」  「うん。二度あることは三度ある、と期待してるよ」  と、克彦は言った。  夏美は、声をあげて笑った。  そして、克彦から離《はな》れると、朱子のほうへ、  「時間は?」  と訊いた。  「あと一分」  「それじゃ——もう一度キスしてあげられるわ」  夏美と克彦が抱き合っているのを、千絵は横目でにらんでいた。——つけ上がるのが怖《こわ》いわね!  「もう、手首を切ったりしないね」  「ええ。——私、誰《だれ》かにあの歌を聞いてほしかったの。あのとき、あなたと目があって、もう、これでいい、と思った。あの歌を聞いてもらえて、これで私の重《おも》荷《に》がおりた、と……」  「分かるよ」  場内が騒《さわ》がしくなった。  「時間だわ」  と朱子が言った。  夏美が克彦から離《はな》れた。——もう、そこにはアイドルの顔があった。  「マイクは?」  「センターにあるわ」  ざわめきが広がる。——夏美は千絵のほうへ、  「この服、もう少し借りておくわね」  と言った。  「プレゼントするわ」  と千絵は肯《うなず》いた。「今度の記念に」  「ありがとう」  夏美は微《ほほ》笑《え》んだ。  それから、ステージのほうへ向いて、大きく一度息をつくと、真直ぐに背筋を伸《の》ばして、歩き出した。  ——凄《すご》い歓《かん》声《せい》が、ホールを揺《ゆる》がした。  そして拍《はく》手《しゆ》、口《くち》笛《ぶえ》、「ナツミ」という叫《さけ》び声。  夏美がステージの中央に出て、深々と頭を下げると、興《こう》奮《ふん》は最《さい》高《こう》潮《ちよう》に達した。  克彦も熱心に手を叩《たた》いていたが、仁科につつかれて、振《ふ》り向いた。  仁科が指さす先を見ると——最前列に、見たことのある顔が、熱《ねつ》狂《きよう》的《てき》に叫《さけ》び声を上げているのだった。  なるほど。夏美がどうして容《よう》疑《ぎ》者《しや》として手配されなかったか、克彦も、やっと納《なつ》得《とく》がいった。他《た》を圧するような大声で、  「夏美ちゃん!」  と怒《ど》鳴《な》っているのは、あの変った刑《けい》事《じ》、門倉だった。 殺《さつ》人《じん》はそよ風《かぜ》のように  赤《あか》川《がわ》次《じ》郎《ろう》 ------------------------------------------------------------------------------- 平成12年12月8日 発行 発行者  角川歴彦 発行所  株式会社 角川書店 〒102-8177 東京都千代田区富士見2-13-3 shoseki@kadokawa.co.jp Jiro AKAGAWA 2000 本電子書籍は下記にもとづいて制作しました 角川文庫『殺人はそよ風のように』昭和62年10月10日初版刊行 平成6年9月20日19版刊行