TITLE : 死者の学園祭 死者の学園祭 赤川次郎 ------------------------------------------------------------------------------- 角川e文庫 本作品の全部または一部を無断で複製、転載、配信、送信したり、ホームページ上に転載することを禁止します。また、本作品の内容を無断で改変、改ざん等を行うことも禁止します。 本作品購入時にご承諾いただいた規約により、有償・無償にかかわらず本作品を第三者に譲渡することはできません。 目 次 プロローグ 第一部 武蔵野学園 第二部 夏の日の冒険 第三部 死者の学園祭 プロローグ 「真知子、ねえ、真知子。——ここよ、ここよ!」  声のする方を見上げた真知子は信じ難い光景に目を疑い、その場で立ちすくんでしまった。鉄筋校舎の四階のベランダから、クラスメイトの山崎由子が、校庭に立っている真知子へ手を振っている。しかし、何と由子は四階のベランダの手すりの上に立っているのだ。  手すりの幅は数センチしかない。そこを、山崎由子は気軽に散歩でもするように歩いているのである。 「何してるのよ!」  やっと我に返った真知子は叫んだ。 「歩いてるのよ」  上からは呑《のん》気《き》な声が返って来た。 「危ないじゃないの! 降りなさいよ!」  ベランダの下はコンクリートの通路なのだ。真知子は、誰《だれ》かを呼ばなくては、と思った。 「大丈夫よ……」 「だめよ! 落ちたらどうするの! 降りて! 降りるのよ、由子」  すでに放課後の校舎だ。近くに知らせる相手などいない。…… 「馬鹿な事しないで! 降りるのよ!」 「分かったわよ」  由子が手を振った。真知子は、ほっと息をついた。そして由子が、手すりから降りた。手すりの外側へ。  真知子は人が落ちる所など、見た事もなかった。映画などでは、人はゆっくりと落ちて来る。叫び声が長く余韻を引きながら、墜落して来る。しかし現実は、そんなものではなかった。  手すりの上から、山崎由子の姿が、不意にかき消すように消えた。同時に、ズン、という鈍い微かな音がして、真知子の数メートル前に、由子がうずくまるように横たわっていた。  何が起こったのか、納得するのにしばらくかかった。 「由子……」  真知子は両手で顔を覆って、駆け出した。用務員室だ。あそこなら誰かいるはずだ。真知子は走り続けた。……  五月の黄《たそ》昏《がれ》時であった。  結《ゆう》城《き》真知子は十七歳。ここ、大阪の私立「M学園」の高校二年になったばかりだったが、それもこの日で最後だった。父、結城正造の仕事の都合で東京へ転居する事になったのである。父が貿易会社の部長で、転居、転校には馴《な》れている真知子だったが、この日、もう一度ゆっくりと学校を見て来ようと思い立ち、暮れかけた、人《ひと》気《け》のない学園へやって来た。  町の中の学校なので、アスファルトのグラウンド、ままごとのような花壇、総《すべ》てが、狭苦しい敷地に押し込められていた。真知子はくすんだ灰色の校舎の中をそぞろ歩いて、ホームルームでしばし感傷に浸り、それから赤い陽が斜めにさし入る校庭へぶらりと出た。鉄棒や、旗ざおの影がほとんど校庭一杯にのびて、不思議に懐かしい感じだった。ここにもそう長くいたわけではないが、十七歳という、何もかもが新しい日々を送ったせいか、ここが母校だという気がする。  しばらく校庭をぶらぶら歩いて、鉄棒にぶら下がってみたりしてから、校舎の方へ戻りかけた。その時、あの声がしたのである。 「真知子、ねえ、真知子。——ここよ、ここよ!」 第一部 武蔵野学園 1 Tホテルにて 「パパはまだ来てないようね」 「早く着いたもの。座ってましょうよ、ママ」  真知子と母の結城恵子は、手近なソファに体を沈めた。 「いやだ、このソファ」  真知子は笑って、「一度座ったら立てなくなっちゃいそう」  東京日《ひ》比《び》谷《や》のTホテル。重い回転扉を入った広いロビーである。金モールの制服のボーイがきびきびと動き回り、出入りする客も半分は外国人だ。  真知子は傍《そば》を通り過ぎて行く外人たちの会話の断片に耳を傾けた。英語あり、フランス語あり、それ以外は何だか分からない。それでも分からないなりに、何となく自分が外交官にでもなって、国際会議場にいるような気がする。 「何だかいやねえ」  母の恵子はクッションの中で腰をもじもじと動かしている。太っているので、一度どっしり身体《 か ら だ》を沈めたら、それこそ立つのが大変なのである。それに恵子はこういう場所があまり得意でない。東京の下町育ちなので、固苦しいのが苦手なのだ。 「ねえ、真知子、そのワンピースには、何かネックレスがあった方がいいね」 「そう?」  真知子は淡いブルーのワンピースを見おろした。 「そうよ。パパを待ってる間に何か見て来たら? 行ってらっしゃい。私はここにいるから」 「いいのよ、ママ、気を遣ってくれなくても」 「何のこと?」 「分かってるわよ」  真知子は微《ほほ》笑《え》んだ。大阪で、由子の自殺を目撃した事が真知子に大きなショックだったろう、とあれ以来何かと気を回してくれるのだ。 「もう大丈夫よ、私。心配しないで」 「だって、真知子……」 「本当よ。そりゃあ、あの時はショックだったわよ。でも、今はむしろ興味があるの」 「何て事言うの!」  恵子が目を丸くした。 「だって、そうじゃない。どう考えても、由子は自殺したとは思えないのよ」 「警察は自殺だって——」 「自分で飛び降りたのは確かよ。でも彼女、手すりの上を曲芸みたいに歩いてたわ。普段は目立たない、おとなしい人だったし、自殺するにしてもあんな事をする理由が分からないの」 「死んだ人の気持ちは分かりませんよ」 「謎《なぞ》ね。きっと警察は何かつかんでるんだと思うわ」 「警察の話はよしてちょうだい」  恵子が渋い顔で言った。「あんな不愉快な思いをしたのは初めてだわ」 「ママったら。警察はあれが仕事なんだから……」 「まるであんたを不良扱いしてさ、あの刑事、気に食わないったら、ありゃしない」  真知子は由子の死の唯《ゆい》一《いつ》の目撃者として、警察で事情聴取をされたのだが、そこへ恵子が怒鳴り込んで来たのである。 「一体どういうつもりなんです。家《うち》の娘をつかまえて! あの子は感じやすい、デリケートな性質なんですよ。友達が目の前で死んだだけでもショックなのに、こんな薄汚いバイ菌だらけのゴミ捨て場に何時間も閉じ込めとくなんて、無神経にもほどがあります! すぐ帰してもらいましょう! それに狭い部屋に男と二人で入れておくなんて、危険です! 刑事だろうが警視総監だろうが男じゃありませんか。何です、その顔は。そんな蛙《かえる》のオバケみたいな顔を見たら、娘はひきつけを起こすかもしれませんよ! さっさとあの子をここへ連れてらっしゃい!」  刑事と一緒に応接室にいた真知子は母の啖《たん》呵《か》を聞いて、吹き出すのを必死にこらえていた。  刑事の必死の説得で、恵子は自分が同席するのを条件に、真知子の事情聴取を承知したのだが、それからがまた大変だった。何しろ刑事が一つ質問する度に、「そんな訊《き》き方がありますか!」「文法が間違ってます!」「そんなどぎつい表現をしないで!」などと口を出すのである。まだ新米の刑事はハンカチで額の汗を拭《ぬぐ》いながら質問を進めなければならなかった。……   正直な所、真知子は死んだ山崎由子とそれほど親しかったわけでもなく、めったに口もきかなかった。  一体、なぜ由子は死んだのか。自殺としても、あんな風に自殺する人間など聞いた事がない。真知子は警察の調査が終わらないうちに大阪を離れてしまったのが、残念だった。仲の良かったクラスメイトに、何か判《わか》ったら手紙をちょうだい、と頼んで来たのだが、自分一人が目撃した謎の死を、自分で解決してみたいと秘《ひそ》かに思っていたのだ。——真知子は大のミステリ・ファンであった。 「ほら、パパよ」と恵子が言った。  背の高い、粋な身なりの紳士がきびきびした足取りでロビーへ入って来た。 「パパ」  真知子が手を振ると、父、結城正造は、すぐに気づいてやって来た。 「やあ、待ったかい?」 「ついさっき来た所ですよ」 「パパ、お腹すいたわ」 「よし、じゃ上へ行こう」 「何を食べるの?」 「フランス料理がなかなか旨《うま》いよ」  三人はエレベーターへ向かった。 「フランス料理って、ナメクジを食べるんでしょう?」  母の恵子が気味悪そうに言った。 「いやね、ママ。エスカルゴはカタツムリよ」 「似たようなもんじゃないの。カツ丼はないんでしょうね」 「訊《き》いてみてもいいが、多分無理だろうね」 「いいわ。仕方ありません」  エレベーターに乗り込むと、恵子は観念したように目を閉じた。  真知子は、いつも不思議で仕方ないのだ。こうも正反対の父と母が、どうして一緒になったんだろう。そしてまた、この二人、どうしてこうも、よく似合うんだろう。  正造は若い頃ドイツに留学した事もあり、今も商用で度々ヨーロッパを訪れる。髪に少し白いものが混じってはいるが、四十五歳の男盛り。いつも学校の友人たちから、「真知子のパパって素敵ねえ」と言われる。真知子にとっても、出張で家にいない日が多い点を除けば、本当に魅力的なパパなのだ。一方、母の恵子は下町気質丸出しの生活派で、経済的にもゆとりがあるのに、デパートの特売場漁《あさ》りを一番の趣味にしている。もっともこれは大いに汗をかいて、少しでも細くなろうという努力の一つでもあるのだが。  真知子は、万事に楽天的で呑気な、こんな母が大好きだった。  ところで真知子自身の紹介も忘れてはいけない。何と言ったって、彼女こそこの物語のヒロインなのだから。  まず、ヒロインであるからには、絶世の美女——とは行かないまでも、やはり可《か》愛《わい》い娘であるに越した事はない。その点、真知子は父親譲りの端正な顔立ちに、笑うとえくぼのおまけまで付いている。美しくてもツンとお澄まし、では困るが、気さくで人を打ち解けさせるのが特技である所は、下町型の母譲りである。  また、ヒロインの一般的イメージから言って、一メートル八十センチのノッポでは少々難があるし、体重八十キロでは読者の想像力に余る事になりかねないが、真知子の体つきは中肉中背よりやや細目、細目といっても、バスト、ウエスト、ヒップは——いや、これはこの際関係ないので、公表は控えよう。まずは均整のとれた体、とだけ言っておく。  他にも、ヒロインの条件はいろいろあって、五十メートルも走ったら、息を切らしてへばってしまったり、何か怖い目に会う度に失神してしまうのでは、具合が悪いが、真知子は運動神経、度胸とも、決して同年齢の男子に劣るものではない。  ——と、まあいい所だらけの真知子みたいだが、好奇心の人一倍旺《おう》盛《せい》なこと、想像力が豊かで、先の先まで考えすぎてしまうのが、欠点といえばいえようか。  ともあれ、正反対の父と母の、上出来なカクテル——それが真知子である。そしてこの絶妙な味は誰しもを酔わさずにはおかない。…… 「学校の方はどうでしたの」  恵子が舌《した》平《びら》目《め》のムニエルを相手に奮闘しながら訊いた。 「すっかり済ませて来たよ」 「また理事をなさるんですの?」 「仕方ないさ。校長は古い友人だからね。今日も、食事を終わったら、理事会へ出なくちゃいけない」 「これからですの? まあ、大変だ」  恵子がぼやいた。 「どんな所なの?」  真知子が好奇心をあらわに訊いた。 「環境のいい点は折り紙付きだよ」 「何だ、つまんないの」 「結構じゃありませんか。ええと……何ていいましたっけ?」 「校長の手塚が創立者でもあるんでね、手塚学園というんだが、印象というか、そのたたずまいから言えば——そうだね、『武蔵野学園』とでも呼ぶのが、ぴったりくるな」 2 奇妙なカセット  結城親子がTホテルでフランス料理を楽しんでいる、ちょうどその頃、当の手塚学園の一室を恐る恐る覗《のぞ》き込む、三つの顔があった。 「……ね、帰ろうよ。……ねえ」  心細い声で言ったのは、見た所、少々の事にはビクともしそうもない、大柄な太った娘だった。 「そうねえ……。見つかったら大変じゃない」  何だかはっきりしない発音で、ぼそぼそ呟《つぶや》くように同調するのは、前の娘とは対照的にひょろりとノッポでやせた娘だ。 「何言ってんのよ! ここまで来て帰るっての? 見つかりっこないって。大丈夫よ」  他の二人をたきつけているのは、一番小柄で、度の強いメガネをかけた娘である。  三人とも、その制服からいってこの学園の生徒である事は間違いない。制服といっても、いわゆる不粋なだぶだぶのセーラー服ではない。あっさりしてスマートなグレーのジャンパースカート型で、ブルーのブラウスに、IVY《アイヴイ》風の細いネクタイをしている。なかなか洒《しや》落《れ》た制服である。まるで体型の違うこの三人にも、しっくり合っているのは、制服が指定デパートのオーダーメイドだからである。 「だって、見つかったらまずいのよ、私、英語、危ないんだもの」  と太めの娘が言った。 「見つかったら見つかった時の事よ。平気だって」  見かけによらず気の強いメガネの娘が、いらいらした口調で決めつけた。 「そうねえ……。その時はその時ね……」  ノッポの方はあまり定見がないらしく、すぐ意見が変わる。 「ともかく入ろうよ。さあ!」  三人が入って来たのは、視聴覚教室の裏のコンソールルーム(調整室)である。狭苦しい部屋に、十六ミリの映写機、スライド映写機が数台、それにビデオカセットのデッキが置いてあるので、ちょっとよそ見をして歩くと、何かに頭をぶつけそうだ。ビデオカセットデッキは、教室の方の二台の大型テレビに映像を送るためのものだ。  機械類と反対側には、スチールの棚が並んでいて、十六ミリのフィルム、スライドを収めた箱、録画済みのビデオカセットが並べてある。 「カセットはここよ。さあ、捜そう!」  三人の目当ては「物理」の実験のTV放送を録画したカセットである。そんなものをなぜ忍び込んでまで捜しているかというと、勉強熱心なためでは、もちろんなくて、最近、ちょっとした噂《うわさ》がどこからともなく生徒たちの間に広まっているせいだ。  というのは——物理の教師、小田先生というのは何しろオッカナイ先生で、テストでもびしびし〇点を出す。小田先生のために大勢のか弱き(?)女生徒が泣かされているのである。ところが、この岩みたいに厳格な小田先生が、実は、目下若い男の子たちのアイドル的存在の、ある少女歌手の熱烈なファンらしいというもっぱらの噂なのだ。定期入れにちゃんと彼女の写真を入れて持っていて、人目のない時に取り出して眺《なが》めてはニヤニヤしている。しかも、テレビの物理の時間を収録したビデオテープの残りに、彼女の歌っている歌謡番組を入れ、放課後ひそかにここで見ているというのだ。  この噂が本当なら、日頃の恨みを晴らす絶好の機会。かくて、この三人組が噂の真偽を確かめるべく出陣して来たという次第である。 「ええと……『地理』……『化学』……」 「そっちそっち! その辺よ」 「これは『野鳥の生態』。『生物』よ」 「あった! これだ」  目当てのカセットを見つけると、三人ともさっきのこわごわした様子はどこへやら、キャアキャア大喜びである。 「早くかけてみようよ」とメガネ。 「まさか、小田先生、これを見に来ないでしょうね」 「今、PTAの席で、父兄相手に熱弁を振るってんのよ。来るわけないじゃない」  さっそくデッキに入っていたカセットを外して、目当てのカセットをセットする。 「扱い方知ってる?」 「任しといて」  今度はノッポの娘が言った。「家にあるから、馴《な》れてんの」 「へえ、初耳だ」  PLAYのボタンを押す。映写窓から教室を覗いていた太めの娘が、指で丸く環を作ってOKのサイン。 「よし、じゃ早送りして」  テープをしばらく送ったり止めたり、くり返して、やっと物理の放送『終』の所まで来た。そら行け、とばかり三人は、がらんとした教室へ駆け込み、テレビの真ん前に陣取って、画面を見つめた。——ところが画面は白くチラチラするばかり。 「——なあんだ」 「何も入ってないじゃない」 「ガッカリねえ……」  三人が口々にグチっていると、突然画面にかの少女歌手の顔が大写しになり、「私の恋人……」と調子外れに歌い出した。 「やった、やった!」  三人は飛び上がって喜んだ。 「さあ、今度の時間が見ものね」  とノッポ。 「どうするの?」  太めの方が訊《き》いた。 「先生に、ぜひこの物理の放送を見せて下さいって頼むのよ。そうすれば先生喜んで見せてくれるわ」 「そこで、デッキの方は生徒に扱わせるでしょ」  メガネが言った。「だからその役を買って出て、わざと早送りして、これを流すのよ」 「どんな顔するか見ものね!」  三人はコンソールルームへ戻って、テープを巻き戻すと、元の場所へ返した。 「ねえ」  とメガネが言った。「せっかくだから、何か他のも見てみない?」 「最初入ってたのはなに?」  と太めが話いた。 「さあ……」  ノッポが覗き込んで、「何も書いてないわ。何だろ」 「何も書いてないって所が気に入ったわ。ね、回してみて」  PLAYボタンを押して教室へ行ってみると、テレビの画面には、何やら古くさい肖像画が映っている。 「何の絵かしら」  画面が変わると、今度は風景画だ。続いて、抽象絵画らしいのが三枚続いた。 「美術の番組よ、きっと」  とノッポ。 「でも音が入ってないのは変ね」  とメガネ。  すると今度は画面に、大きなルビーの指環が映し出された。 「宝石よ!」 「きれいねえ」  王冠、ネックレス、イヤリング……。目のくらむような宝石が次々に現れて来て、三人はうっとりと眺めていた。こんな年齢から、女は宝石に弱いのである。 「何をしているんだね」  三人は椅子から十センチも飛び上がった。いつの間にか一人の教師が入って来て、背後に立っていたのだ。 「何をしているんだね」  その教師はくり返した。 「あの……」  ノッポが弁解しようとすると、メガネがひじでノッポの横腹を突っついた。こういう時は黙っているのが一番いいんだ、とメガネは豊富な経験で知っているのだ。 「誰かテープを止めて来たまえ」  ノッポが走って行ってデッキをストップさせ、戻って来た。 「ここへ無断で入ってはいけない事は承知してるだろうね」  三人は黙ってじっとうなだれていた。こうして口をきかずにいるのが最上の方法なのだ。教師はしばらく三人を眺めていたが、やがてため息をついた。 「いいだろう。僕も学生時代にはよくこんな事をやったものだ」  三人はほっとした表情で、少し顔を上げた。教師の方も優しい微《ほほ》笑《え》みさえ浮かべている。 「この事は黙っていてあげよう。しかし、君たちも、ここであった事、僕が見逃した事は誰《だれ》にも言うんじゃないよ」 「はい!」  メガネが元気よく返事をした。 「一応、クラスと名前を聞いておこう。——なに、担任の先生に言いつけたりはしないよ」 「二年C組、小野治子」  とメガネが言った。 「同じく、柳田真弓」  とノッポ。 「同じく、細川恭子です」  と残った太めの娘。 「よろしい。もう行きたまえ」 「失礼します!」  現金なもので、いつもなら帰り道ですれ違っても挨《あい》拶《さつ》などしたためしがないのに、頭まで下げて、三人は教室を飛び出した。 「ああ、ひやりとした」 「だからよそうって言ったのよ」  太めの娘——恭子が言った。 「どうって事なかったじゃない」  メガネの治子が愉快そうに、「ね、大胆にやってりゃ、道は開けるのよ」  視聴覚教室は三階なので、三人は急いで階段を駆け下りると、他の教師に見つからないうちに、と早々に校舎を離れた。  三人は、視聴覚教室の窓から、さっきの教師が自分たちをじっと見おろしている事など、少しも気づかなかった。もし三人がその教師の顔を見たなら、さっきの優しさとは似ても似つかぬ、異様な冷酷さを感じさせる表情に、きっと身震いしたことだろう。…… 3 新入生  国立。「こくりつ」ではない。「くにたち」と読む。手塚学園はここにある。  ここは文教地区といって、ずいぶん多くの学校があり、有名なH大学、T学園、それに音楽学校や都立高校もある。学校町という雰囲気が、駅から一直線に銀《いち》杏《よう》並木の続く緑豊かな環境に漂っている。  五月晴れの朝、結城真知子は初めてこの銀杏並木の道を歩いた。学園までは駅から十五分ほどだ。父が一緒に来るはずだったのだが、急に仕事で北海道へ行ってしまって、一人で初登校する事になったのである。  空がべらぼうに(こういう表現は母譲りである)青いな、と思った。吸い込まれそうな青さ。空中で逆さになって、深い海を見おろしているみたいだ。  自然に足が跳びはねそうになる。新しい学校へ行く、その期待と不安、爽《さわ》やかな天気に躍る胸、色々なものが、ごちゃまぜになって、真知子の頬《ほお》をぽっと上気させていた。  教えられた道を辿《たど》って、難なく手塚学園へついた。まだ八時前だ。生徒の姿はさっぱり見えなかった。八時に校長室へ行く約束だったが、少し時間があるので、校庭をぶらぶら歩いてみよう、と思った。  それほど大きな学校ではない。中学高校六学年に、それぞれ三クラスずつしかないのだ。  鉄筋の真新しい三階建ての校舎が二棟並んでいて、各階とも渡り廊下で結ばれている。その向こうに体育館とプールがあった。校庭は広々としていた。いや、そう広くもないのかもしれないが、いつも町中の学校に通っていた真知子には、広く思えるのだ。それに、校庭をぐるりと縁取る桜の木。その上に、灰色のビルでなく、青空が頭上まで切れめなく弓なりに覆いかぶさっているのが、素晴らしかった。  ぼんやりと校庭を眺めていると、背後から、「ねえ」と声がした。 「何してるの?」  振り向くと、トレーニングシャツにタイツ姿の女の子がにこにこ笑っていた。  その娘は、制服姿の真知子を見て、 「あなた、何年生なの?」 「高校二年」 「見覚えないわね」 「今日から来たのよ」 「ああ!」娘は分かった、という様子でうなずいた。 「そういえば倉林先生が新入生があるって言ってたっけ。じゃ私と同じクラスよ」 「あら、よろしく。私、結城真知子」 「長池幸《ゆき》枝《え》よ」  幸枝は丈夫そうな体つきで、ごく自然に陽焼けしているのが、とても健康そうな印象を与える。ちょっとママに似てる、と真知子は思った。からっとした気性を思わせる笑顔が、とても人なつっこい感じだ。 「何のトレーニング?」真知子は訊《き》いた。 「空手」 「へえ」と目を丸くする。 「冗談よ」幸枝は笑って、「何しろ私ってよく食べるの。だから毎朝こうやって汗を流して太りすぎの防止よ」  そこまでママに似てるわ。 「どう? 中を案内してあげましょうか」 「お願いするわ」 「その代わり、ちょっと軽くランニングするわよ」 「いいわよ。これでも前の学校では千五百メートルでトップになった事があるのよ」 「やるじゃない。じゃ、スタート!」  真知子は制服姿で鞄《かばん》をかかえて走り出した。二人は適当に走ったり歩いたりしながら、校舎の周囲をぐるりと回ったり、三階まで駆け上がったり、駆け下りたりして、あれが食堂(幸枝は真っ先に教えてくれた)、あれがロッカールーム、あれが私たちの二年C組……と、指さして行った。  元の場所へ戻って来ると、さすがに少々息がきれ、汗ばんでいた。しかし、何とも言えず快い疲れだ。 「あら、もう八時十五分」真知子は腕時計を見て、「校長先生にお会いしなきゃ。じゃ後でね」 「担任の倉林先生って、カッコいいのよ」 「楽しみにしてるわ」  真知子は校長室へ向かいながら、早くも友達ができた、と満足気に思った。  校長の手塚一郎は、ゆったりとソファに腰を下ろして、真知子を眺めた。 「いや、確かに結城君にそっくりだ。——お父さんは忙しいのかね、相変わらず」 「はい。今、北海道です」 「よく飛び回る男だな。昔からそうだったが」  手塚校長は父の旧友という事だったが、年齢は父より大分行っていた。初老の人の好い紳士という感じで、偉ぶった所はなかったが、その親しげな調子は少々押し付けがましい所がある。まあ大体教育者はそういうもんだから、しょうがないわ、と真知子は思った。  ドアにノックの音がして、すらりと長身の青年が入って来た。 「お呼びですか」 「やあ、倉林先生。こちらが新入生の結城真知子君です。よろしく頼みますよ」 「今日は」 「よろしくお願いします」  カッコいい、と幸枝が言うのも当然だ。長身で彫りの深い顔立ち、浅黒く陽焼けした肌はスポーツマンらしく逞《たくま》しい。いくらか長髪で、スタイルもタートルネックのセーターに紺のブレザー、と一分の隙《すき》もなく決まってるのだ。さぞやクラスの女の子の憧《あこが》れを一身に集めてるんだろうな。  倉林先生について二年C組のクラスへ向かった。三階である。 「前の学校の成績を見たよ」途中で倉林先生が言った。「なかなか優秀だね」 「そうですか」 「英語がいいのが気に入った」  倉林先生は英語リーダーの担当だ。 「ミステリを原書で読むんです」 「なるほど。それはいいね。僕もクリスティやクイーンの大ファンだよ」 「あら、素敵!」真知子は思わず声を上げた。 「君もそうかな? それは楽しみだね」  教室へ入って行くと、生徒がドヤドヤと席へ着く。倉林先生に紹介してもらっている間、真知子は傍にじっとかしこまっていた。クラス中の視線が自分に集まっているのを意識して、少々固くなっていたが、注目の的になるというのは悪い気分ではなかった。若年とはいえ、女は女である。  長池幸枝が席からちょっとウインクして見せた。うまい具合に幸枝の隣の席が空いていて、紹介が終わると、真知子はそこへ座る事になった。二人はそっと笑顔を見交わした。  クラスは大体四十人。教室はゆったりした広さがあり、机も椅《い》子《す》も、総てゆとりのある大きさだった。こういう所は大変ぜいたくにできている。  この手塚学園が創設された時は、金持ちの子女が多いという事で、ちょっとマスコミの話題になったほどだ。授業料も決して安くないが、さすがに設備、環境は充実しているという評判だった。今でも、かなり遠くから娘を通わせている会社社長などの財界人がずいぶんいるらしい。それだけに、寄付金などを募っても、極めて集まりがいい。当然、先生の給料も他の学校よりいいので、この近くの私立校では先生を引きとめるために賃上げしなければならなかったとか、嘘《うそ》のような本当のような話が伝わっていた。  朝のホームルームが終わると、たちまち、真知子の周囲には、賑《にぎ》やかな人垣ができた。 「ねえ、お家どこ?」 「お父さんのお仕事なに?」  といった身《み》許《もと》調査的質問から、 「趣味は? スポーツは?」  という、お見合い用身上書型のもの、 「恋人いる? 何か男女間の悩みは?」  と、これは女性週刊誌型、 「英語部に入らない?」 「バレーボール部へどうぞ」  なんていう勧誘型もある。 「宿題で困った時は私に言って。東大生のスタッフを抱えて、低料金で承ります」  という傑作なのもあった。  何とも賑やかで、屈託がないのは、たぶんみんな、割合裕福な家の苦労知らずのお嬢さんばかりだからなのだろう。真知子もたちまち、その雰囲気に溶け込んで、まるでもう何年も一緒に机を並べているような気がして来た。 4 最初の事件 「本当に楽しい学校よ」  夕食の時、真知子は母に言った。 「よかったね」  恵子は梅ぼしをつまみながら、「お高くとまった子ばっかりだったらどうしようかと思ってたんだよ」 「一度PTAにでもいらっしゃいよ」 「ああいうのは苦手でね」  真知子は、なぜママはいつもPTAとか何かを嫌うんだろう、と不思議に思った。以前からというわけでもないのだが、真知子が高校へ入ってからは、特に学校へも来たがらない。柄に似ず、きっと照れ屋なんだ、と思った。 「パパはあそこの理事になるんでしょ?」 「らしいね」恵子はそっけなく言った。 「私のために、いつも面倒ばかり引き受けてるのね」 「お前がそんな事心配しなくたっていいよ。忙しくしてる方が性に合う人なんだからね」 「今夜は札《さつ》幌《ぽろ》かしら?」 「さあ、どこかね」  その時、電話が鳴って、恵子が出て行った。 「ああ、パパ——今どこです?——え?」  と、母の声が聞こえて来る。戻って来た母へ真知子が、 「札幌ですって?」 「いえ、今羽田に着いた、今から帰るって」  真知子と恵子は顔を見合わせて、大笑いした。 「全く、何て忙しい人だろ」  真知子は、ふと耳を澄ました。 「——あら、雨」  窓へ立って行って、暗い戸外を覗《のぞ》いてみる。 「ずいぶん降ってるわ。昼間、あんなに天気よかったのに……」 「こういう所はいやね、中にいると天気も分かりゃしない」  急の転居だったので、差し当たり一家は中《なか》野《の》のあるマンションの六階に入っていた。かなり広いのだが、純日本家屋が好みの恵子には、窮屈で仕方ないらしい。  真知子はひさしのついたベランダへ出て、目の前をきらきら光りながら落ちて行く雨にじっと見入った。  はるか下の路上を見おろしながら、ふと、ベランダから飛び降りた由子の事を思い出した。  あれから何か分かったかしら。大阪の友達に電話してみよう。急いで真知子は自分の部屋へ戻った。  プールに飛び込むようなスタイルで、ベッドへ飛び込むと、机の電話へ手をのばす。廊下の電話と親子になっていて、あっちが使っていなければ外へもかけられるのだ。真知子の部屋に電話を置くのには、恵子はあまり賛成しなかったが、父正造が、「まあ、真知子は一人っ子なんだし……」と言って許してくれたのだ。当分、真知子は、電電公社の上得意という事になるだろう。  大阪は「〇六」だったっけ。真知子はベッドに横になったまま、向こうの出るのを待った。 「もしもし……あ、令子? 真知子よ。うん、元気?……こっちは元気よ。……どう、学校の方?……私の方は上々よ。あのね、とってもいい場所なんだ」  学校の説明に、ほぼ十五分を費やしてから、 「ね、令子、由子の件だけど、何か分かった?」 「ああ、あれね……」電話の向こうで、何やらためらっている様子だ。「あのねえ……これは誰にもしゃべっちゃいけないって言われてんのよ」 「令子ったら! そんな仲だったの、私たちって。分かったわよ。じゃもう二度と——」 「待って、待ってよ! 話すわよ。……あのね、ほら私の叔《お》父《じ》さんが新聞記者でしょう。で、耳に入ったんだけどさ、新聞も書くのを止められてるらしいの」 「口の固いのは知ってるでしょ」 「うん。……あのね、由子は死んだ時、麻薬をうってたんだって」 「麻薬?」  真知子は思わずベッドに起き上がった。 「そう。ほら、覚《かく》醒《せい》剤《ざい》ってやつね」 「LSDとか……」 「そうなの。だから、ああいうのをうつと、何だか自分がこう、鳥になって空を飛べるとか、そういう幻覚を起こす事があるらしいのね」 「それであんな……」 「ベランダの手すりの上を歩くなんて、自分なら、簡単だとか、そんな風に思えちゃうらしいのよ」 「由子が麻薬ねえ……」 「私もびっくりよ。叔父さんの話でなかったら、絶対信用しないところだわ」 「で、警察はどうしてるの?」 「叔父さんもそれ以上は何も知らないのよ。きっと警察はこっそり捜査を進めてるんだと思うわ。ね、真知子、誰にも言わないでね」 「分かってるわよ。絶対にしゃべらないって誓うわ。パパやママにも!」  由子が麻薬……。電話を切ってから、真知子はベッドに寝そべって、じっと天井を眺めていた。それにしてもあのおとなしい由子が麻薬をどこで憶えたんだろう。あの子の家は確か学校のすぐ近くで、繁華街とはほど遠い場所だった。不良じみた娘でもなかったし、そんな友人もいなかった。  ——でもまあ、誰にでも秘密はあるものだ。あの由子と麻薬とは、ノーベル賞とアカデミー賞ほども結びつかないが……。  きっと警察は、由子の背後の麻薬組織に、密《ひそ》かに探りを入れているのだろう。単なる女子高校生の自殺が、とんでもなく大きな事件になってしまいそうだ。——真知子は、自分の事のように、胸が騒ぐのを覚えた。  しばらくすると、ドアの外に、話し声が聞こえて来た。パパだ! 真知子はベッドから飛び出した。 「パパ、お帰りなさい!」と、ドアを開ける。  いやになっちゃうな、この雨。——細川恭子は夜道を小走りに急ぎながら、思った。そう、あの視聴覚教室に忍び込んだ太めの娘である。  今日は本当にツイてないんだから……。朝、目覚ましが止まっていて寝坊。学校へ駆けつけた時は五分の遅刻で、先生に油を絞られるし、おまけに家を慌てて飛び出して来たので、数学の教科書は忘れるし、さんざん。  帰りは帰りで、むしゃくしゃするので友達の家へ寄って、ロックを聞いているうちに、この雨だ。誰かに迎えに来てもらおうにも、今日は家中が留守と来ている。友達の家で余っていた傘を借りて来たのだが、これが古くて雨が漏るのだ。  早く家へ着きたい。もうそれしか恭子の頭にはなかった。髪もブラウスも濡《ぬ》れて冷たいし、靴には、水たまりに突っ込んだ時に水が入ってしまうし、全く泣きたい気持ちだった。  私鉄の駅から家まで、歩いて十分ほどだったが、今日はもう三十分も歩いたような気がする。道は、ひっそりと静かな住宅地を抜けていく。  十時を少し過ぎていて、他には人影もなかった。街燈の光が雨にきらきら光っている下を、恭子はひたすら道を急いだ。後ろを振り返る余裕などなかったから、一台の車が、ライトを消したまま、自分の後ろからついて来ている事など少しも気が付かなかった。  右へ左へと、何度か道を折れて、やっと家への真っ直ぐな道へ出た。もう二、三分だ、とほっとした。  恭子の後ろをつけて来た車はその道へ出て来ると、まるで一息入れる、といった様子で一旦止まった。それから、ライトをつけて猛烈な勢いで飛び出した。獣がカッと目を見開いて獲物へ襲いかかっていくように。  雨の音で、車のエンジン音は聞こえなかった。背後からのライトで、車が来ると知って、恭子は振り向いた。道のわきへどいた方がいいかな……。まぶしいライトが、もう目の前に迫っていた。驚くだけの余裕もなかった。  ——車が雨と闇《やみ》の中へ走り去ると、後には水たまりに突っ伏すように倒れている恭子と、めちゃめちゃに折れ曲がった傘が、冷たい雨に打たれていた。  何かあったんだわ。真知子は、倉林先生が教室へ入って来たとたん、思った。みんな同じ思いのようで、何となく不安気に先生を見つめている。生徒というのは、教師の様子に敏感なものなのだ。  昨日の笑顔はかけらもなく、倉林先生は、やや青ざめ、表情をこわばらせていた。礼をし、クラス委員の宮原昭子がいつもの通り出席を取ろうと立ち上がった。 「いや、いいんだ」  倉林先生は宮原昭子を止めると、クラスを見渡しながら、言った。 「悪い知らせがある」  ぴたり、とクラス中が静まった。 「細川恭子君が、ゆうべ交通事故に遭った」 「ええっ!」  声を上げたのは、あのメガネの小野治子だ。 「先生! 具合はどうなんですか?」  倉林先生は治子の視線を避けて、目を伏せると、 「細川君は亡くなった」  ——声もなかった。倉林先生が、ポケットから千円札を出すと、まだ立ったまま呆《ぼう》然《ぜん》としている宮原昭子の方へ差し出した。 「すまないが、花を買って来てくれないか」  金を受け取ると、宮原昭子はのろのろとドアの方へ歩いて行った。それから急にワッと泣きながら、教室を飛び出して行った。治子が大声を上げて机に泣き伏した。クラスの方々ですすり泣きが広がった。 「校長先生からのお話がある……」  倉林先生の言葉も、みんなの耳には入らない。  真知子は泣かなかった。死んだ細川恭子といっても、顔もよく思い出せない。昨日一日ここにいただけなのだから。しかし、全く別の意味で、真知子は愕《がく》然《ぜん》とした。ついこの間、由子の異常な死を目撃して、今またここで……。こんなに若い娘の死が続くなんて。こんな不幸な偶然があるのだろうか。  真知子は、ただ一つ、ぽっかりと空いた机を、じっと見つめていた。  細川恭子の葬儀には、理事として、真知子の父正造も出席した。  晴れてはいるが、風の強い日で、焼香の列に並んだクラスメイトたちも、髪が風で乱れて、何だか、いっそう悲しみにくれているように見えた。恭子の父親はある建設会社の部長で、会社関係の参列者も加わって、かなりの人数になった。 「ひき逃げなんて、卑劣ね!」 「捕まったら八つ裂きにしてやればいいんだわ」 「いいえ、絶対火あぶりよ!」  ぶっそうな言葉が、焼香を待つ真知子の耳に入って来た。けれども一番悲しんでいるのは、親友の小野治子と柳田真弓だ。この二人は何をするのも恭子と一緒だった。治子も真弓も、ちょっと泣きやんでは、また棺《ひつぎ》の方を見て泣き出してしまうのだった。  真知子は、焼香をして、恭子の両親に一礼した。まだ四十代半ばの若い両親は、真っ赤に泣きはらした虚《うつ》ろな目で、機械的に頭を下げていた。いやなものだな、と思った。  受付の所で、父の正造が、誰やら、学校の関係者らしい男としゃべっていたが、真知子の姿を見ると、近寄って来て、 「パパはまだここに残っているから、お前、先に帰っておいで」 「うん。でも早く帰ってね」 「分かってるよ。気をつけてな」  父の顔も、いつになく重々しく、深刻そうだった。 「真知子、帰る?」  長池幸枝が小走りに追いついた。 「うん。悪いけど、気の毒でいられないわ」 「私も。やり切れなくって。こっちまで死んじゃいそうだわ」 「じゃ行こうか」  二人は細川家を後にして歩き出した。数十メートル行った所で、黒塗りの中型車がすれ違ったと思うと、細川家の少し手前に止まり、中から、いささかくたびれた感じの背広を着た男が二人、降りて来た。  足を止めて見ている真知子へ、 「どうしたの?」と、幸枝が不思議そうに声をかけた。 「刑事よ」 「え?」 「あの二人、刑事よ」 「どうして分かるの?」 「見慣れてるもの」  目を丸くしている幸枝へ、 「ね、何か、ひき逃げ犯人の事が分かったのかもしれないわ。行ってみましょうよ」  そう声をかけて、真知子は細川家の方へ、さっさと戻って行く。幸枝が慌てて後を追って来た。 「どうするの?」 「分かんないわよ。ただ、行ってみたいのよ」  刑事らしい男たちは、細川家の裏口へ回って、台所への上がり口の所で、細川家の親類らしい女性に何やら話していた。その女性はうなずいて姿を消した。 「何やってるのかしら?」と幸枝。 「もっと近くに行ってみましょうよ」 「おこられない?」 「見つかったら、出口が分かんなくなったって言えばいいのよ。さ、行こう」  真知子と幸枝は、家の外壁に沿って、刑事たちの声が聞こえそうな近くの茂みへ辿《たど》りつくと、そっと身を潜めた。  台所から、恭子の父親が出て来た。 「何か分かったんでしょうか?」 「どうも……。こんな時にお邪魔してまことに——」 「そんな事はいいです」恭子の父は、刑事の言葉を遮って、「犯人は捕まりましたか?」 「まだです。——しかし全力を尽くして調査に当たっていますから、間もなく、きっと……」 「そうですか……。いや、わざわざおいでになったので、てっきり——。しかし、今日は何のご用で?」 「実はですね……」刑事のうち、年の行った方が、言いにくそうに、「こんな事をお話するのは、心苦しいんですが……」 「何です?」 「実は現場検証の結果、ちょっと意外な事が分かりまして」 「といいますと?」 「お嬢さんをひいた車ですが、一切ブレーキをかけた形跡がありません」 「止まりもせずに逃げてしまったんですね? 何てやつだ!」 「いや、停止してはいるんです。二十メートルばかり先で。ところが、その後、車はバックしているんですよ」  恭子の父は、意味がよくつかめない様子で、 「——車がバックを」と呟《つぶや》いた。 「そうです。お嬢さんをはねておいて、車は一旦停止し、バックして、お嬢さんをひいたんです」  恭子の父は真っ青になって、 「では……では、車は、わざわざ恭子をひき殺しに戻って来たとおっしゃるんですか?」 「そうです」  恭子の父が、グラッとよろけ、背を壁にもたせかけてようやく立ち直った。 「しかし……それでは、まるで犯人は恭子を始めから狙《ねら》って……」 「どうもそのようです。つまり、これは計画的殺人じゃないかという事になりまして……」 「それで何かお心当たりがないかと思ってお伺いした訳です」ともう一人の刑事。 「まさか……。いや……とても考えられません……そんな……」  恭子の父は呆然と首を振るばかりだった。真知子と幸枝は、そっと茂みを離れた。 5 活動開始 「ねえ、ちょっとお願い」  真知子が声をかけると、窓際の席でうとうとしていた小野治子は、眠そうにメガネを外して、目をこすった。 「真知子さんか。何の用?」 「お願いしたいの」 「何を?」 「例のやつ」 「ああ!」治子はうなずいた。  宿題を格安料金で引き受けます、というのは、このメガネの治子なのだ。 「でも真知子さん、珍しいのねえ」  真知子がこのクラスへ来て二週間しかたっていなかったが、かなり勉強ができる、という定評はすでに広まっていた。 「ちょっとボーイフレンドと出かけるのよ。それで数学の宿題やる暇なくなっちゃって」 「いいわよ。引き受けた。ええと明日までにいるのね。——そうすると速達になるから、ちょっとお高いわよ」 「結構。今払うの?」 「ううん。出来てからでいいのよ。明日の帰りに家まで来てくれる? 渡すから」 「ええ。行くわ。お願いね」 「毎度どうも!」  治子も、ようやく恭子の死のショックから立ち直ったようで、おどけた顔をして指でソロバンをはじくまねをして見せた。  昼休み、真知子と幸枝は、学生食堂の奥まったテーブルに座って、昼食をとっていた。学生食堂といっても、その辺の、衣《ころも》ばかりのカツとか、実の入っていないおみおつけとかが出る学食とは少々違って、セルフサービスではあるが、エビフライ、ポークソテーからグラタン、スパゲティ、ハンバーグと、レストラン並みのメニューが揃《そろ》っていて、また味も悪くないのである。  食後にはアイスクリームやらコーヒーやらもあって、コーヒーだって自動販売機でない、ちゃんとサイホンでいれたのを飲ませるカウンターがあるのだから、ごていねいである。——もっともそれだけあると値段の方も安くはない。しかし食欲旺《おう》盛《せい》な年代である。ひと通り食べ終わって、なおもソフトクリームをなめなめ食堂を出て行く生徒も少なくないのだ。 「——どうだった?」  幸枝がモグモグやりながら訊《き》いた。 「上々よ。明日、帰りに治子さんのお家に寄るわ。何か聞き出して来るわよ」 「でも何だか私、今でも信じられないわ」 「何が?」 「恭子さんが殺されたって事。だって、なりの大きな割には気が小さくて、おとなしい人だったんだもの」 「でも警察は、はっきりそう言ってるのよ」 「そうね。でも新聞や何かには、そんな事少しも出ないのね」 「こっそり調べてるのよ。犯人に警戒させないようにね」 「犯人か……」 「コーヒーどう?」 「いいわね」  真知子がカウンターからコーヒーを二つ持って来た。 「殺人犯って、どんな風なんだろ」と幸枝が言った。 「きっと、どこにでもいそうな人間よ」 「でも、よくそんな事ができるわねえ。車でわざわざ戻ってひき殺すなんて……」  幸枝は顔をしかめて首を振ると、 「ねえ、恭子さんが、誰かとまちがって殺されたって事、ないかしら?」 「私も最初そう考えてみたの。ほら、彼女、帰りに友達の家へ寄って、傘を借りて帰ってるでしょう」 「じゃあ、その傘のせいで、その友達とまちがえられて……」  真知子は首を振って、 「そんなはずないのよ。恭子さんが、その友達の家の近くでひかれたのならともかく、ずっと電車で帰って来て、自分の家へ行く道でひかれてるんですもの」 「そうか」 「犯人はかなり恭子さんの事をよく知ってたと思うの。だって、あの雨の中でしょう。犯人だって、他の人間をまちがってひいたら大変だし、恭子さんだと確信があったから、わざわざ念入りにひき殺したんでしょう」 「車の方から犯人が分からないのかしらね」 「ペンキのかけらとか何か残っていれば、必ず分かるっていう話だけどね。今まで捕まらないところを見ると、犯人はかなりの知能犯なのよ」 「気を付けてよ」 「何が?」 「調べるのはいいけど、今度はあなたが狙《ねら》われでもしたら……」 「大丈夫よ」真知子は微《ほほ》笑《え》んで、「私を狙って、犯人が現れれば、願ったり叶《かな》ったりじゃないの」 「冗談じゃないわよ」  幸枝が眉《まゆ》をひそめて心配そうに言った。  食堂を出て、二人は残りの時間、校庭をぶらぶらと歩いた。もう六月に入って、じめじめした梅雨も間近の気配だった。晴れた日も、空気はどこか湿っている。  校庭では、先生たちが、野球をやっていて、生徒たちがキャーキャー声を張り上げて観戦していた。  この学校は面白い先生が揃っているな。真知子はしばらく授業を受けてみて、そう思った。たとえば今、バッターボックスに入っている、数学の林先生だ。なぜだか知らないが、「オバケ」のニックネームがある。もういい加減にとしなのに、山登りが大好きで、山の話になると、授業も忘れてしゃべりまくる。ところが突然、今は授業中だと気づくと、パタッと話を中断して、「さて、練習問題の (a) は……」とやり出す。それがいかにも唐突なので、みんな大笑いする。  それからピッチャーの西田先生。美術の担当で、まだ三十代の初め。小柄で童顔なので母性本能の強い生徒からは「カワイーイ」先生と慕われ(?)ているが、本人は芸術家らしい風格を醸し出さんと、パイプをいつも口にくわえて、超然と構えている。  あ、林先生、打ちました。走っております。まあ、あれでも走ってるつもりなのだ。打球は平凡なショートゴロ。これをショートの小泉先生がトンネルして、観客大騒ぎ。おかげでいくら林先生の足でも一塁セーフ。  頭をかいている小泉先生は、少々中年太りの国語の教師。自称「仏《ほとけ》の小泉」、生徒の方は「鬼の小泉」と極端に評価が分かれているが、大体教師は、その両方の混合物なんだ。  さて、バッターボックスは我らが倉林先生。抜群に足も長くてスタイルもいいのだから、観衆の「がんばってぇー」の声も一オクターブ高くなろうというもの。——期待に違《たが》わず第一球をレフトへグンとひっぱって、外野の老教師——これは漢文の花村先生——がハアハア息を切らして転がる球を追っかける。打った倉林先生の長い足なら、ゆうゆうランニングホームラン、という所だが、何しろ前を林先生がのそのそ走っている。で、結局、二塁打どまりとなった。  さて、二、三塁の絶好のチャンス。と、そこへ、 「私に打たして!」  と飛び出したのは、さっきから、うずうずしながら見ていた幸枝である。生徒の方からワッと歓声が上がる。幸枝は先生たちの間でも人気があるので、ピンチヒッター長池幸枝の登場となった。  真知子も声を張り上げて応援するうち、西田先生、第一球投げました。「えいっ!」とかけ声入りで振ったバットが実にいい音をたてて、白球がはるかかなた、校庭の外へ飛んで行く。  西田先生、呆《ぼう》然《ぜん》。生徒が大喜びするうち、幸枝、意気揚々とベースを回る。……  一方、打球の方は、グラウンド沿いの道に落ちて二、三度バウンドすると、向かいの家の塀に当たって道へ逆戻りして転がった。  そのボールを拾い上げたのが、二十歳ぐらいの若者。明るいクリーム色のスポーツシャツに、ブルーのピシッと折り目のついたスラックス、端正な顔立ちで、やや髪を長くしている。ボールを手に、さてどこから飛んで来たのかと見回していると、 「すみませーん」  裏門から走り出て来た女学生が声をかけて来た。真知子だった。幸枝のホームランボールを部屋へ飾っておこうと、取りに来たのだ。  真知子は、振り返った青年を見て、パタッと足を止めた。 「——ボール、返していただけます?」  青年は笑顔を見せて、 「はい」とボールを放った。「君が打ったの?」 「いいえ、友達です」  真知子は、何となくその青年が自分を妙に長く見つめているような気がした。私の顔に何か付いているのかな……。 「どうも、すみませんでした」  真知子はちょっと頭を下げると、くるりと背を向けて、裏門の方へ走って行った。門を入る時、ちらっと見ると、あの青年が足早に歩いて行く。何となく、がっかりした。  もちろん真知子はあの青年とまた会う事になろうとは、知るはずもない。  昼休みの終わりを告げるチャイムが校庭に鳴り響いて、真知子はかけ足で校舎へ急いだ。  小野治子の家は吉《きち》祥《じよう》寺《じ》の駅から、いささかごたごたした繁華街を抜けて十分ばかりの所だった。二階建ての大きな家で、ずらりと窓が並んでいる。まあアパートなのだから、当然の話だが……。  治子の父はこのアパートと、他にも三つばかりアパートを経営して、かなり裕福な暮らしをしているようだった。治子の一家は、このアパートの一階の半分を自宅にして住んでいる。治子には兄と姉がいるのだが、もうどちらも結婚して、父親のアパートを安く借りて暮らしている。 「ちゃっかりしてんだから」  治子は笑って、「でも、私も結婚する時はそうしようと思って。ただし、家賃を安くしてはもらわないの」 「ちゃんと払うの?」 「ただにしてもらうの!」 「ちゃっかりの上は何ていうのかなあ」  真知子は笑いながら言った。  治子は自分の部屋に真知子を待たせて、二階の間借人の東大生の所へ行って、十分ばかりで戻って来た。 「お待たせ」 「ありがとう。——じゃお金ね」  真知子は規定の二千五百円に、「速達料金」を加えて、三千円を払った。 「領収書は差し上げられませんよ」  治子は真《ま》面《じ》目《め》くさった顔で言った。 「じゃ、お客様にお茶ぐらいいれるから、待っててね」  真知子は、治子が台所へ立って行くと、東大生のやった宿題を見た。実はもう自分でもやってあるのだ。 「——何だ、間違ってるじゃない」  真知子は苦笑いした。  治子の部屋は六畳の和室に、辛子色のカーペットを敷きつめ、ソファ兼用のベッド、机、本棚、洋服ダンス、といった家具と、雑多な人形、ぬいぐるみの類、それに壁一面のポスター、写真類で、いやに狭苦しい感じだった。ソファにもたれて上を見ると、天井から、ビートルズが真知子を見おろしていた。  本棚の一番上の棚に、治子と、柳田真弓、それに死んだ細川恭子の三人が、肩を組んでいる写真が写真立てに入って置いてあった。  写真を見ていると、治子が紅茶を作って運んできた。 「あら、悪いわね」 「いいのよ、私が買った紅茶じゃあるまいし」  二人はビスケットをつまみながら紅茶をすすった。——どう切り出したものかと真知子が考えていると、治子の方から口を切った。 「恭子が死んじゃってから、一年間、お菓子を食べるのよそうって、真弓と決めたの。でも、一週間しかもたなかった。真弓にごめんねって言ったら、あっちは四日しか我慢できなかったんですって」 「いいじゃないの。気持ちだけで、恭子さん喜ぶわよ」 「私もそう思って、前よりずっと食べる事にしたの」治子はうなずいた。 「早く犯人が捕まればいいのにね」 「捕まらなくたっていいの」 「え?」 「私にさえ分かればいいの。私が自分で復《ふく》讐《しゆう》するから」  冗談でもないらしい。本気で言っているのだ。 「ねえ、真知子さん、あなた何か聞いてない?」 「何を?」 「この間、学校の帰りにね、刑事に呼び止められたのよ」 「へえ。どうして?」 「恭子の事を聞きたいっていうの。誰かに恨まれていなかったか。ボーイフレンドはどんな男の子か。その子とはうまくいってたか……」  なるほど、警察としてみれば、両親よりも親友の方が、何か恭子の秘密を知っているのではないかと考えるのは、当然の事だろう。 「ただのひき逃げにしては変じゃない? まるで——誰かが、わざと恭子を殺したみたい……」 「何か心当たりでもあるの?」 「とんでもない!」  治子は即座に否定した。「恭子は誰からも憎まれるような子じゃなかったわ」  治子は立って行って、棚の写真をじっと眺めながら、 「いろいろいたずらもしたけど、いつも言い出すのは私で、恭子はただ私について来るだけだったわ。私のせいでずいぶん先生たちに叱《しか》られて——悪い事したと思うわ。今さら謝ったって仕方ないけど」 「そんな事考えないで。恭子さんだって恨んじゃいないわよ」 「そうね……。底抜けのお人好しだったからね、彼女」 「ボーイフレンドってどんな人だったの?」 「彼女ロックが好きでね、そのコンサートで知り合ったとか言ってたわ」 「あなたは知ってるの?」 「会った事はあるわ。同じ年《と》齢《し》で、背高ノッポで、結構気のよさそうな男の子だったわね。でも、どうして?」 「ううん、訊いてみただけ」  真知子は紅茶を飲みながら、何か聞き出す事はないだろうか、と考えてみた。しかし、いざとなると、なかなか思い浮かばないものだ。  治子は、真知子に、今まで三人でやったいたずらの事をいろいろ話してくれた。西田先生のパイプに紙火薬を込めておいて、吸っているうちに、バンと大きな音をたて、先生が椅《い》子《す》ごとひっくり返った話、チョークに青インクをしみ込ませて全部青いチョークにしてしまった話、テストの採点をする先生の万年筆に赤インクの代わりに水を入れておいた話……。 「楽しかったな、本当に」治子はため息をついて、「何だか妙なのよね。三人揃ってないと、いたずらする気にもなれないの。——でも途中で見つかっちゃったいたずらで打ち止めにするのもしゃくね。何かもう一つやってからでなきゃ卒業できないわ」 「一番最近のはばれちゃったの?」 「そうなの。恭子が死ぬ前の晩だったわ。私たち視聴覚教室に忍び込んで——」と言いかけて、治子は慌てて手で口を押さえ、「いけない、これ、秘密にする約束だったんだ」 「あら、教えてよ」 「うん……どうしようかな……」 「いいじゃないの」 「あのねえー」  廊下で電話が鳴った。 「ちょっと、ごめんね」  治子は急いで飛び出していった。真知子は残りの紅茶を飲みほした。 「はい、私です」治子の声が聞こえて来る。「——え? いえ、知りません、来てませんけど。——帰ってないんですか?——さあ……今日は別々でしたから。——ええ、分かりました……」  治子は、何やら心配そうな様子で戻って来た。 「どうしたの?」真知子が訊いた。 「うん……」 「どこから?」 「真弓のお母さんなの」  三人組のもう一人、あのノッポの柳田真弓の事だ。 「柳田さんの? 何ですって?」 「真弓がまだ帰らないっていうのよ」  真知子は腕時計を見て、 「まだ六時よ、早いじゃない」 「彼女、ピアノのレッスンの日なのよ。五時半からで、いつも楽しみにしているんで、遅れたためしがないの。それが……」  真知子は、ふと不安な気持ちになった。もしかして……。いや、まさか! 「どこか、真弓さんの行きそうな場所の心当たりないの? ボーイフレンドとか?」 「いないわ。いれば、私が知らないはずないもの」 「でも、何とか捜してみましょうよ」  何か得体の知れない不吉な予感に駆り立てられて、真知子は言った。 「ねえ、真知子さん、あなたも何だか妙だと思うの?」 「——ええ」  治子はメガネの奥の目をパチパチとしばたたいて、 「私も、なの。何かこう——胸騒ぎっていうのか……」 「ね、治子さん、恭子さんはね、計画的に殺されたのよ!」  治子は、ちょっとの間、話が呑《の》み込めない様子だった。真知子は、先日、恭子の葬儀の時、刑事が恭子の父に話していた事をくり返した。治子は顔を真っ赤にして、 「何てひどい!……殺してやるわ。絶対、私が犯人を見つけて——」 「待って、待ってよ。目下は真弓さんの方よ」 「真弓? 真弓まで?」 「恭子さんがなぜ殺されたか、分からないけど、何か私たちの知らない理由があったとしたら、真弓さんだって危ないかもしれないわ」  治子は、すっくと立ち上がって、 「学校まで行ってみるわ。まだ何か用事で残ってるのかもしれない」 「私も行くわ!」  二人は急いで表へ飛び出した。何事もありませんように……。真知子は祈るような思いだった。  まだ明るい町並みを抜けて、二人は駅へと急いだ。 6 第二の事件  真知子と治子が急ぎ足で駅へ向かうのに先立つこと二時間、四時少し過ぎに、柳田真弓は、学校の講堂へ、そっと入って行った。  普通、講堂といっても体育館と兼用している学校も少なくないのだが、ここの講堂は、ちょっとしたホール並みの造りである。映画館のように傾斜のついた床に、クッションのいいシートが並んでいて、内装のデザインといい、音響効果といい、普通の演奏会に使用しても少しもおかしくない出来栄えである。  舞台は広く、学園祭などで演劇の上演ができるよう、舞台装置も整っている。その他、映画も映写できるし、特別な講演などのための、オーバーヘッド・プロジェクターなどの設備もあった。  真弓は脇の小さな階段を上がって舞台へ立った。舞台の隅の方に、グランドピアノが置いてある。真弓の目当てはこれなのだ。そっと前に立って、蓋《ふた》を持ち上げる。鍵《かぎ》はかかっていない。音楽の三沢美子先生は忘れっぽくて、めったに鍵をかけておかないのだ。  真弓は持って来た楽譜をピアノの上に置くと、ビロードの布を取って、鍵《けん》盤《ばん》の一つを叩《たた》いてみた。ジーンとしみ入るような音が、広い講堂に波紋を描いて広がって行く。  真弓はピアノの前に座り、早速、今習っている練習曲を弾き始めた。最初は、おずおずと小さな音で、しかし、そのうち、熱中して来ると、思い切りフォルテを叩き出した。  家のピアノで弾くのとは、何て違うんだろう! 真弓は思った。家ではたて型のピアノだし、それも近所迷惑にならないようにと、下に分厚い絨《じゆう》毯《たん》を敷き、音があまり響かないようにしている。響かないピアノなんて! 何とかのないコーヒーだわ、ほんとに。  真弓は時々講堂へ来ては、このグランドピアノを弾いているのだった。三沢先生も知らないわけではないし、もちろん、無断でこんな所へ入ったりしてはいけないのだが、せっかく熱心に練習しているんだから、と、黙認しているような格好になっていた。  講堂の時計は四時三十分を指していた。まだ三十分は大丈夫だわ。ピアノの先生が来るのは五時半で、真弓の家は国《こく》分《ぶん》寺《じ》の駅のすぐ近くなので、五時頃ここを出れば間に合うのだ。  真弓は、まるで大ホールでリサイタルでも開いているような気分で、わざと目をつぶったり、頭を振ったりして、弾き続けた。弾くのが面白くてたまらない時期だった。それに、彼女が習っているピアノの先生の門下生の発表会が秋に開かれる事になっていて、それを目指して夏の間に練習しておかなくてはならなかった。 「何を弾こうかな……」  大体、よほど無理なものでない限り、自分の弾きたい曲を弾いていい事になっていた。あまり難しい曲でも大変だけれど、あまり有名な曲だと、他の人とかち合う心配もある。適度に知られていて、知られすぎていなくて、難しすぎない程度に難しい曲——。 「そんな都合のいい曲あるかしら」  真弓は、持って来た楽譜をめくって、ショパンのエチュード、作品一〇の三を弾き始めた。 「別れの曲」という名で知られている曲である。  ピアノに向かっている真弓の後ろ姿を舞台の袖《そで》から、じっと見つめる目があった。その人物は、舞台の裏手へと回って行くと、金属製のはしごを上って行った。 「頑張ってるわね」  背後の声にびっくりして真弓は振り向いた。 「あ、先生」  音楽の三沢先生だった。年齢は四十代の終わりといった所だろうか。温和な顔立ちで、幼稚園の先生の方が似合いそうな感じだ。 「すみません、勝手に……」 「いいのよ。どうせ使ってないんですもの」 「構いませんか?」 「ええ、構いませんとも。発表会で何を弾くか決めたの?」 「いいえ、まだ迷ってるんです」 「そう、ともかくぜひ聞かせてもらいに行きますからね。しっかりやってちょうだい」 「はい!」 「じゃあね。私がいちゃ弾き辛《づら》いでしょ」 「五時まで弾いていていいですか?」 「いいわよ。どうせ夜には用務員のおじさんが見に来て鍵をかけるから、そのままにしておけばいいの」 「分かりました」  三沢先生がいなくなると、真弓はまたピアノに向かった。  その人物は、真弓を舞台の真上から見おろしていた。そこは、幕の上げ下げの装置や照明器具、背景の出し入れなどの機械類を修理点検するために、舞台の上に縦横に走っている、狭い通路だった。  思いがけない三沢先生の出現に一瞬慌てたものの、また真弓が一人になったのを見て、ほっと安《あん》堵《ど》の息をつく。大事をとって少し待って、ポケットからドライバーを取り出し、舞台を照らす大きな重いライトを取り付けてあるネジを外し始めた。 「別れの曲」は、真弓の好きな曲の一つだった。歌詞をつけて歌うこともあるけれど、もともとピアノだけの演奏に「歌」が溢《あふ》れている。もう一度、始めから弾きはじめる。  ショパン。やはりショパンにしようか……。ふと、手をとめた。舞台で何か音がしたのだ。見ると、銀色に光るものが舞台の中央に転がっている。 「何かしら……」  ピアノの前から立ち上がって、真弓は舞台の中央へ歩いて行った。メガネはかけていないが、それほど視力はよくない。近くへ行ってかがみこんでみる。 「何だ。ネジじゃないの」  銀色に光って見えたのは、太いネジだったのだ。どこかからゆるんで落ちたんだろう。拾っておかないと、誰かが踏んだら危ないから……。  ネジを拾おうと手をのばした時、頭上から、重いライトが音もなく、真弓めがけて真っ直《す》ぐに落下して来た。  真知子と治子が学校へ着いたのは七時近くだった。さすがにもう空はほの暗く、付近はすでに濃い闇《やみ》が立ちこめていた。 「校門は閉まってるわよ」 「任せといて」  治子はぐるっと学校のわきへ回ると、塀が破れて金網になっている所へ真知子を連れて行った。 「この金網を乗り越えるの?」  真知子が見上げると、治子は黙って金網を両手でつかんで、えいっと揺さぶった。 「あら!」  真知子は目を丸くして声を上げた。金網が——いや、金網の張ってある鉄骨の枠が丸ごと外れて、どしんと向こう側へ倒れたのである。 「ちょっと分かんないでしょ。遅刻して来たときとか、途中で脱け出す時は便利なのよ」  倒れた金網を乗り越えて中へ入ると、また元通り立てかけておく。そこはちょうど体育館の裏手なので、ちょっと目に付かない場所だ。 「どこを捜すの?」真知子が言った。 「まずホームルームね。それから英語部の部室。後は……」 「後はそれからにしましょう」  二人は急いで二年C組の教室へ向かった。教室は暗くて、人影はなかった。二人は渡り廊下を通って、もう一つの棟へ行った。各クラブの部室が、その棟の三階の半分を占めて、並んでいるのだ。  テニス部、卓球部、バレーボール部……。 「ね、見て!」治子が声を上げた。 「英語部」と書いたドアの下から明かりが洩《も》れている。二人は、ほっとした顔を見合わせた。 「ここにいるのよ、きっと」治子が言った。 「全く人騒がせなんだから……」  治子はドアを大きく開けて、 「真弓、あなたったら——」 「やあ、君たちか」  倉林先生が机から顔を上げた。 「何だい、こんな時間に?」  治子と真知子の二人は、しばらく言葉を失って立っていた。やがて、真知子が、 「私たち、柳田さんを捜しに来たんです」 「柳田君? どうかしたのかい?」 「まだ家へ帰ってないんです」と治子。 「先生、見かけませんでしたか?」  倉林先生は首を振って、 「いいや、見かけなかったね。——僕は英語部の仕事で、五時前からずっとここにいたんだけど、柳田君は来なかったよ」 「私たち、心配なんです」治子が訴えるように、「この前は恭子があんな目に会うし、今日は真弓が、いつも楽しみにしているピアノのレッスンがあるのに、家へ帰ってないっていうし……」  倉林先生も持っていたペンを置いて、考え込んだ。 「うん……。まさか、とは思うが——」 「先生は恭子さんが、計画的に殺された事、ご存知でしょう」と真知子が訊《き》いた。 「警察の人から聞いたよ。信じられなかったね。犯人の心当たりは全くないと答えておいたが……」 「私たち、もしかして柳田さんまで、と思って、駆けつけて来たんです」 「教室には行ってみたかい?」 「はい、誰もいませんでした」  何か考え込んでいた治子が、急にはっとした様子で、 「講堂だ!」と言った。 「え?」 「講堂よ! きっとあそこだわ。真弓、よくあそこのグランドピアノを放課後に一人で弾いてるのよ」 「行ってみましょう」 「よし、僕も行く」  治子が真っ先に飛び出し、次いで倉林先生、真知子がちょっと遅れて続いた。  一階まで駆け下りると、廊下を急ぐ。講堂へは廊下からそのまま真っ直ぐ、通路で連絡しているのだ。人《ひと》気《け》の絶えた廊下に、三人の小走りな靴音が入り乱れる。  講堂の入り口の重い扉が見えて来て、三人がいっそう足を早めた時だった。扉が中から開いて、用務員のおじさんが、転がり出て来た。 「おじさん、どうしたんだい?」  倉林先生が声を上げた。用務員のおじさんは、真っ青になって、腰が抜けたように床に座り込んでしまった。 「せ、せんせい……た、た、大変で……」 「どうした? 何だ?」  おじさんは震える指で扉を指して、 「な、中で……倒れて……生徒が……」  治子が短い悲鳴を上げて、口を押さえた。  倉林先生は扉をぐいと押し開けて中へ入った。真知子と治子も続く。ロビーを抜け、扉を開けて、三人は中へ入った。  ちょうど舞台のすぐ下に三人は出て来た。ピアノの前には誰《だれ》もいない。蓋は開いていて、楽譜が置いたままになっている。  倉林先生は裾《すそ》の階段から舞台へ上がって、ぴたりと足を止めた。 「来るな! 来ちゃいけない!」  だが、もう真知子も治子も舞台へ上がって来ていた。 「——真弓」治子が囁《ささや》くような声で言った。  柳田真弓は舞台の中央にうつ伏せに倒れて、長い身体《 か ら だ》をぐったりとのばしていた。頭を割られている。見るからに重そうなライトが、傍《そば》に血に染まって転がっていた。 「真弓!」  治子が駆け寄ろうとした。真知子が、抱き止めて、 「だめよ! 行っちゃだめ!」 「離して!」 「もうだめよ! 死んでるわ!」  治子がワッと床に泣き崩れた。真知子も治子を抱きかかえるようにして、泣いた。  倉林先生は、そろそろと真弓の死体に近付いて、呆《ぼう》然《ぜん》と見つめていたが、やがて我に返ったように、 「警察だ。警察へ知らせなきゃいけない。結城君、君——」 「大丈夫です。……先生、知らせて来て下さい。待ってます」 「よし」  真知子は、倉林先生が走って講堂を出て行くと、涙を拭《ぬぐ》って立ち上がった。ショックは去っていた。もう大丈夫、しっかりするんだ! 放心したように床に座り込んでいる治子を置いて、そっと倒れている真弓のそばへ歩いて行くと、転がっているライトを見て、それから頭上の暗がりを見上げた。  あそこから落ちて来たのだろう。  事故か? それとも誰かが落としたのか?  事故とはとうてい考えられない。こんな時に、たまたまこんな事故が起こるなどという事があり得るはずがない。となれば——殺人だ。なぜか分からないが、恭子に続いて真弓も殺されたのだ。  真知子はちらりと治子の方を見た。次は治子が狙われるかもしれない。……  それにしても妙だ。ピアノは舞台の端の方に置いてあるのに、真弓は舞台の中央で死んでいる。なぜ、わざわざこんな所まで出てきたのだろう。ピアノを見ると、真弓は弾いている最中だったようだ。それをわざわざ立って、このライトの真下まで歩いて来たのだ。  真知子は、ふと真弓の手に、何か光るものを見つけて、かがみ込んで見た。半ば開いた手の中に、真新しい銀色に光る太いネジがあった。 7 疑 惑 「もう、あの学校やめたら?」  母の恵子が言った。 「まさか」  真知子は朝食のトーストを頬《ほお》ばりながら肩をすくめた。 「だって、気味が悪いじゃないか。二人も……」 「偶然よ、ママ。警察だって事故だと断定したんだし」 「警察なんてあてになりませんよ」  真知子は黙って、アメリカンコーヒーを飲んだ。真知子だって、内心そう思っているのだ。偶然だなんて事があるものか。一体、警察は何を考えてるんだろう。しかし、今は転校したくない。実際一部の父兄から、子供を転校させたいという申し入れがあったのは事実のようだが、結局学校側の説得で思いとどまった。  せっかく、といっては、死んだ恭子や真弓に悪いが、こんな大きな謎《なぞ》にぶつかったんだもの、ミステリ・ファンとしては、是が非でも自分で解決してみたい。真知子は、ひそかに心を決めていたのである。 「しかも、お前のクラスの子ばっかり……」  恵子は、まだブツブツ言っている。 「ママったら、心配性ね。私は理事の娘なのよ。私が学校をやめたりしたら、他の生徒だって、ばたばたやめていっちゃうじゃないの」 「よく言った」  父の正造が顔を出した。 「あ、パパ、おはよう」 「おはよう。気分はどうだね?」 「上々よ」 「結構。若い者はそうでなきゃ」 「あなたは心配じゃないんですの?」 「今、真知子が言っただろう。偶然だよ」 「それにしたって、二度ある事は三度あるって言いますもの」  恵子は不満そうだった。 「考えすぎだよ、お前は」  正造が苦笑した。「コーヒーを入れてくれないかね」  二度ある事は三度。——真知子が一番気がかりなものも、それだった。次の犠牲者が出るとすれば、それは三人組の最後の一人、小野治子に違いない、と思えたのだ。 「パパ、今日学校に来るの?」 「うん。午前中、人と会う約束があるが、午後には必ず行く」  真弓の死から、一週間たっていた。父、正造は、ハワイでの商用を早めに切り上げ、昨夜帰国して来たばかりだった。臨時の理事会が、開かれるのだ。  学校の方は、ようやく落ち着いて来ていた。さすがに打ち続く学友の死に、特に真知子のクラスでは、しばらくは笑い声も途絶えて、お通夜みたいだったが、そろそろ前の雰囲気を取り戻しつつあった。  戻りようのないのは、小野治子だった。当然の事ながら、治子も、真弓が殺されたのだと信じているし、口には出さないが、次は自分かもしれないと思っているのだろう。すっかり無口になり、以前のいたずらっ気はどこへやら、クラスメイトとも、ほとんど口をきかなくなっていた。 「じゃ、行ってきます」 「気を付けてね」  母の言葉も、いつになく、不安気だ。  梅雨の、冷たい朝だった。雨がいつやむともなく降りつづいて、傘をさしてもいつの間にか雨が服にしみ込んで来るようだ。  中野から中央線に乗る。次の高《こう》円《えん》寺《じ》で、いつもの通り、長池幸枝が乗って来た。二人はいつも同じ電車の、同じ場所に乗る約束なのだ。 「おはよう」 「おはよう。ね、真知子、英文法の宿題やって来た?」 「一応ね」 「後で見せてね」 「OK。——ね、例の件、どんな風?」  幸枝は渋い顔で首を振った。 「家の人に訊《き》いてみたんだけど、真弓さんは日記なんかつけていなかったって」 「そう……。残念ね」  真知子は柳田真弓が日記か何か残していて、そこに手掛かりがないかと思いつき、真弓と割合親しかった幸枝に調べてくれと頼んでおいたのだ。 「家の人、変な顔してなかった?」 「別に。校内新聞に真弓さんの記事をのせるんで、もしあったら貸してくれませんかって言ったの。私が以前、新聞部にいた事知ってるから何とも思わなかったでしょ」 「へえ? 幸枝が新聞部に?」 「うん。すぐやめさせられちゃったけど」 「どうして?」 「力まかせに刷ったら、ガリ版がこわれちゃったの」 「私、高所恐怖症なんだけど……」  幸枝が金属のはしごを見上げて、心細い声を出した。 「私だってそうなのよ。さあ、我慢して、ワトスン君」  昼休みの講堂には他に人影もない。真知子は、一度上へ上がってみたかったのである。 「でも……私が上ったら、はしごが折れちゃうかもよ」 「鉄でできてるのよ!」 「分かったわよ。上りゃいいんでしょ……」  渋々、幸枝が細いはしごを上って行く。真知子もすぐ後に続いた。舞台の上は薄暗いが、しばらくすると目が慣れて来た。鉄の太いパイプやら、鎖やらロープやらが、あちこちに走っていて、何が何やらさっぱり分からない。その間を鉄の梁《はり》と梁とをつなぐように、狭い通路が渡してあった。ちゃんと板が敷いてあって、腰の高さぐらいの手すりもついている。 「へえ、こんな風なの」  幸枝がこわさも忘れて、珍しそうにあたりを見回している。 「あの辺だわ」  真知子は幸枝を促して、舞台の真上を渡っている通路を進んでいった。下の舞台を照らすライトを取り付けた鉄骨が、通路と平行して走っていて、ちょうど通路に立って、ライトの交換、修理などができるようになっているのだ。真弓を殺したのはこのライトの一つである。 「これだわ」  ちょうど真ん中あたりのライトの周囲に、白い粉が飛び散っていた。警察が指紋を採った時のものだ。格別怪しい指紋は発見できなかったのだが。 「この真下だったのね」  幸枝が、呟《つぶや》くように言って、下を覗《のぞ》き込んだ。真弓が死んですぐ、再びこんな事故があってはと、学校はライトの下二メートルほどの所に、ずっと金網を張って、万一ライトが落ちてもそこでひっかかるようにしたのだった。 「警察は完全に事故だって決めているのかしら」  幸枝が訊いた。 「そのようね」 「だって、こんな頑丈なネジが外れるなんて考えられる? ほら、びくともしないわ。それにピカピカの新品だったんでしょう」 「ネジは新品のほうがゆるみやすいのよ。赤くサビついているようなのは、古くなって折れる事はあっても、まずゆるみはしないわ」 「そうか。——でも、どうして真弓の手の中にあったの?」 「私はこう思うの。犯人はライトをとめてある二本のネジをゆるめておいてから、片手でライトを支え、一本を取って舞台へ落としたのよ。ピアノを弾いてた真弓さんが音を聞いて、何だろう、と見に真下へ来て拾い上げようとする。そこへ——」 「なるほどね。一体誰なんだろ、そんなひどい事したの」 「さあね。ともかくここの様子に詳しい人間で、真弓さんが、よくここでピアノを弾いてるのを知ってた人間ってことね。それにもう一つ。もう五時近くの事件だったでしょう。犯人はその後学校を出て行ったに違いないんだから、遅くまで学校に残っていても怪しまれない人間じゃないかと思うの」 「でも、それじゃ……」 「そうよ、きっと犯人はこの学校の中の人間よ。先生か、生徒か、職員か、分からないけど、きっとその中の……」 「じゃ、私たち、毎日人殺しと一緒に学校にいる訳ね。いやだわ!」 「しっ!」  真知子が鋭く言った。 「誰か、はしごを上って来るわ!」  なるほど耳をかたむけると、さっき上って来たはしごを踏む音が聞こえる。 「どうしよう?」幸枝が低い声で言った。 「ともかく、通路の奥へ。さ、早く」  二人は通路を反対の端まで行って、ちょうど舞台の脇《わき》へ垂れるカーテンが下がっていたので、その中へ身を隠した。 「ここは陰になってるから大丈夫よ」  真知子は、カーテンの端をちょっと寄せて、様子を伺った。幸枝もこわごわ首をのばす。  やがて通路の向こう端に、上って来る男の頭がのぞいた。 「——あれ」幸枝がちょっと声を立てた。 「しっ、黙って!」  倉林先生だった。先生は通路を歩いて来ると、やはり中央の、さっき二人が立っていたあたりで立ち止まって、じっと舞台を見おろしていた。何となく様子が変だ、と真知子は思った。ライトをゆすってみたり、天井の方を見上げたりしていたかと思うと、手すりにじっともたれかかって、普段は見せた事もないような、深く悩んでいるような表情で、何度もため息をついては首を振っている。  五分近くもそうしていただろうか、体を起こすと、誰《だれ》に言うともなく、 「やっぱり、はっきりさせなきゃいけない」  と、きっぱりした口調で言って、通路を戻って行った。  はしごを下りる音がして、足音がホールから消えると、真知子と幸枝は、カーテンの陰から出て来て息をついた。 「あーあ、カーテンって汚れてるのねえ。ブラウスが埃《ほこり》だらけ」幸枝は服のあちこちをパタパタはたいた。 「今の倉林先生の言葉、どういう意味かしら?」真知子は考え込みながら言った。 「私にはさっぱり分かんないわ」 「もしかすると、先生、犯人を知ってるのかもしれないわ」 「まさか! だって、それなら黙ってるわけないじゃない」 「だから、殺人だっていう確信はないんでしょう。事故かもしれないものね。でも何か怪しいと思う事があるのよ。例えば、誰かが嘘《うそ》の証言をしていて倉林先生がたまたまそれが嘘だと知ってたとすれば? 倉林先生だって、それだけでその人間を殺人犯人だと決めつけられはしないでしょう。何か別の事情でその人は嘘をついたのかもしれないんだから。でも倉林先生としては、やっぱり放っておくわけにはいかない。……」  幸枝はちょっと疑わしげに、 「それ、あなたの推測でしょう?」  真知子は、ちょっと迷ってから、 「そうでもないのよ」と言った。 「というと、何か知ってるの?」 「あのね、治子さんと二人で真弓さんを捜しに来た時の事、話したでしょ? あの時、倉林先生は英語部の部室で、五時前から仕事をしてたって言ったわ」 「それが?」 「それがね、真弓さんが講堂にいるかもしれないって治子さんが言い出して、みんなで飛び出して行った時、私、ちらっと机の上を見たの。——レポート用紙とペンが置いてあったわ。でも、レポート用紙には何も書いてなかったの。白紙だったのよ。書き終わった分らしい紙も見当たらなかった。机の上は、他に何も置いてなかったの。おかしいと思わない? 五時前から七時まで仕事をしていたはずなのに、よ」  幸枝は真知子から目をそらして、考え込んでしまった。 「倉林先生は、何か知ってるんだと思うわ」真知子は言った。「でも自分の方にも事情があって、はっきり言い出せないのよ」  二人はしばらく黙り込んで、それぞれ考えをめぐらせていた。 「あら!」真知子がはっとして、「今、何時?」 「いやだ。午後の授業、始まっちゃってる!」  二人は慌ててはしごを下りると、講堂から飛び出していった。——学生探偵の辛《つら》いところである。  名探偵にも息抜きは必要だ、などと理由をつける事もないのだが、その晩、真知子は好きなフォーク歌手のコンサートを聞きに行って、終わったのは九時を回っていた。駅から近道をしようと、あまり人《ひと》気《け》のない通りを急いでいた。雨はようやく上がって、濡《ぬ》れた路面が街燈にきらきらと光っている。  ちょっとした坂道を下って行くと、止めてある小型乗用車のわきに、十七、八歳の男の子が数人集まっていた。みんなはっきり未成年と分かるのにタバコをくわえて(もっとも真知子だって吸ったことはあるが)、派手なシャツにサンダルばき、サングラスなどかけたりして、何となく不良がかっている。  いやな予感がして、真知子は道の遠い側へ寄って通り抜けようとした。急にその中の二人がバタバタ走り寄って来て、真知子の行く手を遮った。真知子は、真っ直《す》ぐに相手の目を見据えて、 「——どいて下さい」と言った。 「結構イケルじゃねえか」一人が言った。「なあ、ちょっとドライブに付き合わねえか」 「お断りします」 「つれない事、言うなよ、なあ」もう一人の方がガムをかみながら言った。「面白えんだぜ。みんなで夜中の海に行くんだ、いいじゃねえか」 「私、急ぎますから!」  強引に二人の間を割って通ると、残りの三人が、また行く手をはばむ。真知子は前後にはさまれてしまった。 「通して下さい! 大声を出しますよ」  怖そうな様子を見せてはいけない、と自分に言いきかせる。 「へえ、出せるもんなら出してもらおうじゃねえか」 「何が気に入らねえんだよ」 「俺たち相手じゃ不足だってのか」  相手がじわじわと近寄って来るとさすがに真知子も、足がすくんで、顔から血の気が引いて行く。その時、 「おい、何してんだ」と声がした。  不良たちが一斉に声のした方を振り向く。背の高い青年が立って、真知子たちを眺めている。 「何でもねえよ。話してるだけさ」と不良の一人が言った。 「からまれてるんです!」真知子が声を上げた。 「おい、つまらないことはやめろよ」その青年が進み寄って来て、「放してやれ」  真知子は何となく、その青年を見た事があるような気がした。 「てめえの口出す事じゃねえ。引っ込んでな」 「しかし——」  不良の一人がポケットから手を出すと、パシッと飛び出しナイフの刃が光った。もう一人がいつの間にかチェーンを手にぶらさげている。 「けがしたくなかったらな、とっとと行っちまいな!」  真知子は息を呑《の》んで、青年を見つめていた。これでは大けがをする事になりかねない。 「誰か呼んで来て下さい! お願い!」  青年が真知子をちらっと見る。不良はナイフを構えて青年の方へ向かって行った。もう一人がチェーンを振り回すヒュッヒュッという音……。  青年は急にくるりと背を向けて、坂道を駆け上がって行ってしまった。 「へっ、だらしのねえ奴だな」 「誰か呼んで来ると面倒だぜ、早く行こう」  真知子は追いつめられて、額から冷たく汗が伝うのを感じた。 「なあ、そうお嬢さんぶらねえで、付き合えよ」  ナイフの刃がいきなり頬に当てられて、真知子はその冷たい感触にぎくりとした。 「おとなしくついて来りゃ、悪いようにゃしねえよ」 「そうだよ、みんなで可《か》愛《わい》がって、楽しい思いさせてやっからよ」  ああ、誰か、誰か来てくれないかしら……。 「さあ行こうぜ」  不良の一人が真知子の肩を乱暴に抱いて、車の方へ連れて行こうとした。 「いや! やめて!」思わず叫ぶ。 「けがしたいのかよ!」  ナイフが首筋に当てられて、真知子は言葉が出なくなってしまった。 「さあ、いい子にしてんだぜ」  ——もうだめだわ。誰も助けてくれない。真知子が思わず目を閉じた時、妙な音が聞こえて来た。何かゴロゴロ転がしているような音だ。不良たちも顔を上げた。 「何だ、あの音?」  突然、坂の上から、一台の手押し車が転がり落ちて来た。途中の工事現場で見かけた、鉄材を積んだ車だ。 「危ねえ!」 「突っ込んで来るぞ!」  真知子は、力のゆるんだ不良の手を押しのけて飛び出した。手押し車がスピードを上げて、おろおろする不良たちの中へ突っ込んで来た。はね飛ばされる者、よけて転がる者、悲鳴を上げて逃げようとするのもいる。 「おい! 早く」  はっと真知子が坂の上を見ると、あの青年が大声で呼んでいる。 「来るんだ!」  よし。元気を取り戻した真知子は、一気に坂を駆け上がる。 「走れ!」  青年と真知子は、夜の道を全力疾走した。——ようやく駅前の、人通りの多い所まで来て、足をとめる。しばらく二人はハアハア喘《あえ》いで口もきけなかった。 「どうも……ありがとう……ございまし……た」 「いや……別に……無事で……よかった……」  真知子は明るい所で、その青年の顔をまじまじと見つめて、「あ」と声を上げた。 「あなた、いつか……ボールを拾ってくれた方ですね」  青年の方も戸惑い顔で真知子をしばらく眺めていたが、やがてうなずいた。 「ああ! あの国《くに》立《たち》の!」  二人は顔を見合わせて、何となく笑った。 「私、結城真知子です」 「僕は神山英人」  彼はちょっとあたりを見回した。「——どこかで一休みして、お茶でもどう?」  夏はいきなり幕を開いた。一夜明けると、梅雨は跡形もなく消え、ぎらつく青空が頭上に広がっていた。昼休み、校庭で遊ぶ生徒の数もめっきり減った。そろそろ陽焼けはシミ、ソバカスの素《もと》、と気になる年代だ。木陰で、二、三人ずつ固まって腰をおろして、おしゃべりするくらいだ。  まだ、六月の下旬というのに、七月半ば頃《ころ》の暑さだった。生徒たちも、夏の間は制服を着なくてもいい事になっていて、思い思いのカラフルなブラウスが、花畑のように目に鮮やかだった。ベランダから空を見上げながら、もうすぐ泳げそうだな、と真知子は思った。  今年の夏はどうするのかな。毎年、父は夏に一週間ほど休暇を取って、真知子をどこかへ連れて行ってくれる。軽《かる》井《い》沢《ざわ》や箱《はこ》根《ね》の貸し別荘を借りて、自炊生活をするのはとても楽しかった。  しかし、今年はあまり気乗りがしない。真知子自身、その理由は分かっていた。この殺人事件だ。直接関《かか》わり合ってはいなかったが、真弓の死体を発見した一人であり、この謎に人一倍興味があるのも事実だった。  それにしても、と真知子は腹立たしげに思った。警察は何をやってるんだろう。ひき逃げの車も見つけられないなんて、推理小説に出て来る警官でもあるまいし、明きメクラ同然じゃないの。 「真知子」 「あら、幸枝。どうしたの?」 「今、職員室で聞き込んで来たの。恭子をひいた車が分かったんですって」  真知子は思わずせき込んだ。 「どうしたの?」 「ううん、何でも——。それで犯人は?」 「それがね、盗んだ車だったんですって。というより、恭子の降りる駅の前に駐車してあったの。それを犯人が合い鍵《かぎ》で開けて使ったらしいのよ」 「車はどうなったの?」 「犯人は元の場所へ返しておいたらしいの。だから実際の持ち主は、何も気が付かなかったんですって。ペンキがはげて、少しへこんでるのは知ってたらしいけど、駐車していた間に、他の車にぶつけられた位に思ってたんだって言ってるそうよ」 「その持ち主は全然怪しくないの?」 「警察も車はすぐ突きとめたらしいのよ。ただその持ち主の言い分が正しいのかどうか、調べるのに手間取って公表しなかったのね。結局、その持ち主は潔白ってことらしいわ」 「すると警察も遊んでた訳じゃないのね。持ち主ってこの学校の人じゃないんでしょう」 「どこかのサラリーマンで、こことも、恭子ともまるで関係なかったみたいよ」  真知子は、考え込んだ。警察がそれだけ調べたのなら、間違いあるまい(コロッと意見が変わった)。とすると、恭子の方からは犯人を見つけるのは難しくなったと言うべきだろう。  となると、真弓の事件だが、警察がなぜあれをいとも簡単に事故と決めてしまったのか、納得できなかった。それともやはり公表していない何かの事情があるのだろうか。 「不公平だわ。そう思わない?」  真知子はストローで、アイスコーヒーの氷を突っつきながら言った。 「何が?」  微《ほほ》笑《え》みながら、訊《き》き返したのは、神山英人である。  二人は映画を見た後、パーラーで涼んでいる所だった。不良にからまれていたのを助けてもらってから半月の間に、もう五、六回のデートを重ねていた。 「だって、小説に出て来る名探偵っていうのは、事件だけに専念して、歩き回ったり、外国まで飛び回ったりできるじゃない。ところが私と来たら、宿題はあるわ、レポートはあるし、期末試験なんてのまであるし、何か調べたくたって、いやいや机にかじりついてなきゃいけないんですもの。これじゃどんな名探偵だって犯人を見つけられやしないわ」  英人は笑って、 「早く大人になるんだね」 「なれるもんならなりたいわ」 「もうすぐ期末試験だろう?」 「そう。いやになっちゃう」 「その後、事件の方は進展しないね」 「ええ。でもその方がいいのかもね」  真知子は渋々言った。治子に死なれでもするよりは、何も起こらない方がいい。 「でもこのまま迷宮入りになっちゃうなんて、しゃくだわ」 「大丈夫、警察は馬鹿じゃないよ」 「私が解決できたらなあ……」 「やめてくれよ」 「どうして?」 「ま、僕だって君の言う通り、二つの事件は関係があると思うけどね。そうだとすると、そこへ首を突っ込めば君が危なくなるんだぜ」 「あら、私の事、少しは心配してくれてるのね」 「迷惑かい?」  真知子は両手で顎《あご》を支えて、向かい合った英人をじっと眺めた。——私はこの人が好きなんだ、と思った。真知子は今までにも何度か異性に熱を上げた事があった。でも今度はどことなく違う。もう真知子自身、子供でもないし、恋することの重大さを知っていた。 「——一度、君のお父さんにお会いしたいな」 「パパに?」 「いつも君がお父さんをほめ讃《たた》えてるのを聞いてるから、どんなすばらしい人かと思ってね」 「じゃ、家に来てよ、今日。——あ、パパ今日は大阪だわ。来週の日曜はいると思うけど」 「ぜひ伺わせてもらうよ。でも——」 「なに?」 「心配だな。父親というのは、娘に寄って来る男性を毛嫌いするっていうからね」 「あら、パパは大丈夫よ。とても理解があるもの」  言いながら、真知子は頬が熱くなるのを感じた。  ——英人が父に、「お嬢さんを僕に……」と言っている所を、ふと想像したのだ。  神山英人は東京のW大学の経済学部三年生だ。家は大阪だそうだが、高校時代から東京で一人住まいなので、今はもう東京育ちも同然に見える。真知子は、英人との機知に富んだ会話を楽しみ、自分を大人扱いしてくれる事を喜んだ。一緒に歩く時など、真知子の方からふざけて腕をからませたりする事はあったが、英人の方は極めて紳士的だった。スリルがないな、などと、真知子は勝手な事を考えていた。 8 第三の事件  七月に入って、期末試験が間近になって来ると、教室の雰囲気も大分あわただしくなって来る。といっても、そうガリ勉型の生徒がいるわけではない。みんな試験の事は、早く終わらないかなと思っているだけで、気になるのは、その後の夏休みをどうするか、なのだ。  クラスの中でも仲のいい同士がいくつかグループを作って、旅行やら海水浴やらの予定を立てていた。時刻表と首っぴきで、計画表を立てて、ああでもない、こうでもないと、キャァキャァ騒いでいるのを見ていると、あれだけ熱心に勉強したら、さぞかしみんな優等生になれるだろうと思えた。  真知子も、いくつかのグループから、「高原へ行こうよ」「海に行かない?」といった誘いを受けていたが、返事をしていなかった。  目下の所、試験勉強で手一杯だったのだ。この学校へ来て初めての試験である。あまり悪い成績を取って父をがっかりさせたくない。もちろん早く試験が終わってほしいと思っているのは真知子も同じだ。心にひっかかっている事がいろいろあった。  英人の方は、まあ別としても、殺人事件は何一つ解決していなかった。生徒たちも、もう事件については何も話そうとはしなかった。何もなかったように、笑い転げ、遊び回っている。しかし、真知子にとっては、そうはいかなかった。  ちょっと不思議なのは幸枝だった。さぞ精力的にあちこち旅行するのだろうと思っていたが、どのグループにも加わらず、 「別にどこにも行かないわ」  と言うのだ。「あんまり出歩くの、好きじゃないの」  何となく本音ではないように思えたが、真知子も別に深くは考えなかった。それに、自分が休み中に色々調べる時にも、彼女がいてくれた方が助かる。  ただ、どうも最近、幸枝は何やら悩んでいる様子で、真知子はそれが気になっていた。 「何かあったの?」  と訊《き》いても、 「何が?」  ととぼけてしまうが、以前のような快活さが見られなくなって、休み時間にも、ぼんやり外を眺めて物思いに耽《ふけ》っている事がしばしばあった。幸枝にだって、いろいろ悩みはあるんだから、と真知子は口を出さないようにしていた。  何はともあれ、総《すべ》ては試験が片付いてからだ。  しかし、その時、次の悲劇は、ひそかに準備を進めていたのだ。  明日から試験、という日の夜だった。日中の今年最高という暑さが、夕方になっても少しも衰えずに、大変なむし暑さだった。  途中、図書館で調べ物をして、八時頃家へ帰って来ると、母の恵子が、 「さっき電話があったよ」 「誰《だれ》から?」 「小野さんって子だよ」 「治子さんだ! 何だって?」 「さあ、まだ帰って来ないって言ったら、『それじゃ結構です』って切っちゃったよ」  治子から電話? 何事だろう。真知子は、急に不安に捉《とら》えられた。 「どんな風だった?」 「どんなって、別に……」 「急いでる風だったとか、何かないの?」  恵子は困ったように、 「別に気が付かなかったねえ……」 「ママったら!」真知子は電話機へ飛びついた。  呼び出し音はしているが、誰も出ない。試験の前日だというのに、家にいないのだ。  何だろう。最近はほとんど口もきいていなかったのに、急に電話をして来るとは。何でもないのかもしれない。しかし、もし重大な用件だったら……。ええい、試験なんて、どうにでもなれだ!  真知子は幸枝に電話した。 「もしもし、幸枝?」 「あら、真知子、どうしたの?」 「さっき、私が帰る前にね、治子さんから電話があったの。何も用は言わないで切っちゃったらしいんだけど、今かけたら、誰も出ないのよ。ちょっと心配なの。家まで行ってみようと思うんだけど」 「分かったわ。高円寺のホームで待ってる」  何の文句も言わずに分かってくれるのが、幸枝のいい所だ。真知子は母へ、 「出かけて来るね」と声をかけた。  普通の母親なら、「明日試験なのに」とブツブツ言う所だが、恵子は、 「遅くなるようなら、電話して」と言うだけだ。  いいママだわ。早くも階段を駆け下りながら、真知子は思った。  治子は、真知子が留守だと知ると、受話器を置いて、しばらく、ためらった。待った方がいいだろうか。一人でやるには危険すぎる。でも、これはもともと三人組の問題だ。私一人で解決しなくてはいけないんだ、と思い直した。これ以上待ってはいられない。恭子と真弓の仇を討つんだ!  治子は教職員・生徒名簿を持って来ると、ページをめくって、目当ての名を捜し出した。そのページを開いて、ぐいと手で押すと、開いたままの名簿を電話台のわきに置いた。  ダイヤルを回すと、聞き憶えのある声がした。 「もしもし」 「先生ですか。小野治子です」 「——誰だって?」 「ご存知のはずです。いつか視聴覚教室に忍び込んだのを見つかった、小野治子です」 「ああ、小野君ね。憶えているよ」 「お話しがあるんですが」 「何かな?」 「今夜十時に学校の体育館の裏手に来て下さい」  相手はちょっと黙ってから、笑いながら、 「ずいぶん妙な所だね」 「人に聞かれると先生の方が困るんじゃないですか?」 「どうしてかね」 「先生が、恭子と真弓を殺したからです」  相手は沈黙した。治子はかぶせるように、 「来たくなければ来なくたってかまわないんですよ。警察へ届けるだけですからね。警察が調べれば、あのビデオカセットの秘密だって、すぐに分かってしまいますよ」 「何の話か、よく分からないがね」 「ならいいです。今から警察へ行きますから」 「待ちたまえ」  相手はしばらく沈黙して、「分かった。十時だったね」 「そうです」 「行こう」  治子は震える手で受話器を戻した。——とうとうやったのだ。治子自身、自分の漠然とした考えに、自信はなかった。しかし、向こうが来るのを承知した事自体、治子の考えが正しかったという何よりの証拠ではないか。  七時四十分だった。九時には向こうへ行っていよう。相手がそんなに早く来る事はあるまい。体育館の裏手は暗くて、目が馴《な》れるまで時間がかかる。待ち構えていて、向こうが暗《くら》闇《やみ》でうろうろしている間に、体当たりしてやる。  恭子と真弓の仇《かたき》を討つのを、警察へ任せる気は、治子にはなかった。大体、逮捕するだけの証拠もない。証拠不充分で釈放されるのがせいぜいだろう。  治子は、引き出しの奥から、ハンカチの包みをそっと取り出し、机の上に置いて、包みを開いた。昼間、デパートで買ってきた大きな登山ナイフだった。皮のケースから抜くと、幅広の刃が銀色にまぶしく光った。  治子は思いつめていた。もともと、あの教室へ忍び込んだのは自分の考えだったのに、それがもとで、他の二人を死なせてしまったという思いが、治子にここまで決心をさせたのである。  たとえ相手が殺人犯でも、殺せばただですまないのは承知の上だ。後がどうなろうと、自分の手で仇を討たなくては気が済まなかった。  鋭く光る刃を見ていると、自分に果して人が刺せるだろうか、と不安になる。しかし、冷酷に車を戻して恭子をひき殺し、真弓の頭上に、重いライトを落とした相手だと思うと、迷いも消えた。  万一を考えて、治子は、机に向かい、真知子へあてた手紙を書いた。犯人と、視聴覚教室で自分たちが見たものについて。真知子なら信じてくれると思っていた。 「真知子さん。  私に万一の事があった場合のために、これを書きます。恭子と真弓を殺したのは……」  手紙を書き終えると八時だった。 「もう出かけよう」  手紙を封筒へ入れ、表に「結城真知子さんへ」と書いて机の上へ置く。両親の帰りは夜中になるはずだった。親《しん》戚《せき》の、何回忌だかで、早くても十二時。もしかすると、「泊まるからね」と電話してくるかもしれない。  手がインクで汚れたので、浴室へ行って、洗面台で手を洗った。ついでにメガネを外してわきへ置くと、顔を洗う。汗ばんだ肌に冷たい水が快い。手さぐりでタオルを取って、顔に押し当てると、大きく深呼吸する。その時廊下で電話が鳴った。真知子さんかな。どうしようかと思ったが、出ないわけにもいかない。  タオルで顔を拭《ぬぐ》って正面の鏡を見る。メガネをかけていないので、ぼやけていたが、自分の背後で何か黒い物が動くのが見えた。振り向く間もなかった。細いロープの輪が治子の頭からすっぽりかぶさって、ぐいと締まった。 「あ……」  声が細く絞るように消えた。治子はロープが首に無情に食い込むのを感じた。ぼやけていた視界が、どんどん暗くなる。不思議に苦痛は感じなかった。……  タイル張りの床に横たわった治子を見おろして、その男は息を弾ませていた。いずれはやらなくてはならないと思っていたが、こうも突然に追いつめられて、さすがに焦った。治子からの電話を切ると、すぐに車を飛ばして来た。何とか治子を自殺に見せかけて殺したかったのだ。治子が何を考えているのか分からないのが不安だった。——しかし、ともかく間に合った。物干しのロープがすぐ見つかったのも幸運だった。何とか自分の思い通りに三人を片付ける事ができたのだ。  廊下で鳴っていた電話は、もう鳴りやんでいた。別に気にするほどの事もあるまい。男は、治子の死体をそのままにして、廊下へ出ると、治子の部屋を捜した。治子があんな電話をかけられるのだから、家の人間は留守に違いないと見当をつけて来たのだが、その勘は当たっていた。外れていたら大変な事になる所だ。  治子が何か手紙のようなものを残していないかと気になった。やっと治子の部屋を捜し当てて、男はほっとした。机の上に封筒があって、「結城真知子さんへ」とある。そのあて名を見て、なぜか男はぎくりとした様子だったが、急いで封筒をポケットへねじ込んだ。やはり探してみてよかった。そのそばにハンカチの包みがある。何気なく開けてみて男は目を見張った。登山ナイフ。——恐ろしいものだ。あの小娘が、こんなものを……。  ナイフも一緒にポケットへしまうと、椅子をかかえて浴室へ戻った。  自殺に見せかけるのは大仕事だった。小柄とはいえぐったりした治子の体は恐ろしく重く、椅《い》子《す》の上へかつぎ上げるのは容易ではなかった。ロープの先を、天井にカーテンレールを取り付けている金具に結びつけようとしたが、死体をかかえあげながらでは大変な苦労だった。  それでも汗だくになりながら、ようやく治子の死体を吊《つ》り下げて、椅子を床に倒し、自殺の場面を作り上げたが、三十分近くもかかってしまった。  ここはアパートだし、いつ誰が来るかもしれない。長居は無用だ。手抜かりはないかと、浴室の中を見回した時、玄関で声がした。 「治子さん! いるの?」  高円寺で落ち合った真知子と幸枝は、吉《きち》祥《じよう》寺《じ》の駅から、治子の家へと急いだ。額に汗が浮き、背中にも汗が流れ落ちて、ブラウスが肌にはりついて気持ち悪かったが、そんな事に構ってはいられなかった。 「思い過ごしならいいんだけど……」  本当に、向こうへ着いたら、治子が出て来て、「どうしたの?」とびっくりするかもしれない。そうなってくれればいいと思った。  玄関に立って呼び鈴《りん》を押そうとすると、幸枝が、 「玄関が開いている」と言った。  なるほど、玄関のドアが細く開いたままになっている。そっと押して顔を覗《のぞ》かせると、 「治子さん! いるの?」  と声をかけた。返事はない。 「いないのかしら?」と幸枝も中を覗き込む。 「開けっ放しなんて、おかしいわ」 「そうね……」 「入ってみよう」  二人は玄関へ入り、靴を脱いで上がり込んだ。 「治子さんの部屋は?」 「この廊下の奥よ」  二人は廊下を進んで行った。途中、真知子は、電話の所で足を止めると、 「ね、幸枝、見て」 「何、その本? 何だ、学校の名簿じゃない」 「そうよ、みんな持ってるやつだわ」 「あなたに電話するので見てたのかしら?」 「そうじゃないわ。見て、ページを開いて、押しつけてあるから。——教員の住所、電話一覧のページよ」 「先生にかけてたのかしら?」 「——どの先生に、かしらね」真知子は名簿を手にして言った。「ともかく、部屋へ行きましょう」  治子の部屋へ入ってみて、真知子は、ちょっと妙な感じに打たれた。ひどく片付いてしまっている。前に来た時は、何やら雑然とした印象の部屋だったのに、今日はずいぶん整理されていて、きちんとした感じなのだ。机の上には、ボールペンと、便せんが乗っていた。表紙をめくってみたが、便せんは白紙だった。 「治子さん!」  もう一度呼んでみる。 「他の部屋を捜してみましょう」  居間、食堂、台所と回って、二人は浴室へやって来た。先に覗き込んだ幸枝が、短い悲鳴を上げた。二人は呆《ぼう》然《ぜん》として、入り口で立ちすくんだまま、しばらく、ぶら下がっている治子を見つめていた。……  真知子は、やっとの思いで一一〇番へ電話をかけた。幸枝が、玄関前の廊下へ座り込んでしまっている。真知子も急に力を失って、並んで座り込んでしまった。 「——下ろしてあげなきゃ」  幸枝が言ったが、真知子は首を振った。死んでいるのは確かだし、そこまでは、とても神経が堪えられない。 「自殺かしら?」と幸枝が言った。 「さあ……。遺書が見当たらなかったわね」 「そうね。——また、殺されたっていう事もあり得ると思う?」 「あると思うわ。私はそうじゃないかと思うけど」 「ひどいわ……」  幸枝は、顔をそむけて、玄関の方を見ていたが、ふと眉《まゆ》をひそめて、 「ね、真知子」 「なに?」 「ドアが……少し開いている。……入って来た時、私、ちゃんと閉めたのよ」  真知子と幸枝は顔を見合わせた。玄関へ視線を戻した真知子は、はっと息を呑《の》んだ。 「靴が!」 「え?」 「靴よ! 入って来た時、男物の皮靴が、隅に置いてあったのよ。なくなってるわ」 「確かなの?」 「もちろんよ! どこにでもある黒い靴だったけど、隅の方にいやにきちんと並べてあるんで、目についたの。それが今はなくなってるわ」 「どういう事?」 「——誰かいたんだわ。私たちが治子さんの部屋にいる間に、出て行ったのよ」 「誰が?」  訊くまでもなく、二人とも分かっていた。二人が来た時、殺人犯が、浴室に潜んでいたのだ。  さすがに真知子も背筋に冷たいものが走るのを覚えた。二人は思わず寄り添って、身震いした。  パトカーのサイレンが近付いてくるまで、二人はじっと身を寄せ合って動かなかった。 9 決 着 「お前が、今度の件に、こんなに首を突っ込んでるとは思わなかったよ」  父、正造が渋い顔で言った。 「ごめんなさい」  真知子はシートにゆっくり身体《 か ら だ》を沈めていた。  もう夜中の二時だった。警察での調べが終わって、迎えに来た父とタクシーで家へ帰るところである。 「取りあえず、明日からの——いや今日からの期末試験は中止だな。帰ったら、さっそく校長へ電話してみよう」  真知子はまだ何か夢を見ているような気がしていた。三人もの同じ年齢の娘が身近で死んだ。しかも三人とも何者かに殺されたのだ。もっとも警察はそうは思っていないようだが。 「可《か》哀《わい》そうな事をしたな、あの娘は」正造が首を振って、「友人を二人続けて失ったのが、よほどショックだったんだろう」 「パパ、本当に自殺だと思うの?」 「警察がそう言ってるじゃないか」 「だって……」 「お前はまだ三人が同じ犯人に殺されたと思ってるのかい?」 「ええ」真知子は頑固に言った。「だって、三人よ。偶然にそんな事件が続くなんて、考えられないわ」 「いやいや、考えてごらん、偶然は一度だけさ。最初の娘は誰かにわざとひき殺された。それはその通りだろう。きっと男の子にでも恨まれてたんじゃないかな。犯人はそのうち警察が見つけるよ。そこへ偶然、その親友が、落ちて来たライトに頭を打たれて死んだ。これは確かに珍しい偶然だ。しかしもっと珍しい偶然だって世の中にはないわけじゃない。そして三番目の娘は、親友を続けて二人も失ったショックで、発作的に自殺した。これは偶然でも何でもない。立派な、といってはおかしいが、ちゃんと理由のある死だ。——これでも納得できないのかね?」  パパにそう言われると、何となくそんな気もしてくる。でも、と真知子は思った。違う! そうじゃない!  そうでない理由だって、いくらも数え上げられる。まず、治子が遺書をのこしていない事。若い女の子が、遺書も書かずに自殺するなんて考えられない。そんな事を信用するのは、警察の人が男で、年寄りだからだ。それに、真知子が見た靴がなくなっていた事、玄関のドアが開いていた事はどうだろう。真知子と幸枝は警察で懸命にそれを訴えたのだが、気の転倒している時に、そんな事に気が付くはずがない、ただの想像の産物だと、あしらわれてしまったのだ。いや、あからさまにそうは言わなかったが、警察が二人の話を本気にしていないのはよく分かった。  それに真知子は、もう一つ妙な事に気付いていた。治子のメガネが洗面台に置いてあったのだ。自殺するのに、なぜわざわざメガネを外したりするだろうか。  一つ一つは、ほんのささいな断片ばかりだが、それらを寄せ集めれば、ジグソーパズルのように、「殺人」という言葉を形作るのだ。  真知子は何も言わなかった。警察なんて、頼りにならないと思っていたし、父も、学校の理事という立場上、治子の自殺を信じたいだろう。——ここは黙っている他はない。 「でも」真知子は、何事か考え込んでいる父に聞こえないように、そっと呟《つぶや》いた。「このままにはしておかないわ。必ず真相を突き止めてみせる」  翌日の学校は大変な騒ぎだった。期末試験は夏休みの後に延期され、本日から夏休みに入る旨が告げられた。学校側としては相次ぐ生徒の死が、他の生徒に動揺を与えるのを心配していたのだ。  若い世代の心は不安定で、微妙なバランスを保っている。特に治子の自殺が、連鎖反応を呼び起こす事を、学校側は恐れたのだ。  倉林先生の心痛は、真知子が見ているのも辛《つら》くなるほどだった。自分のクラスから、三人もの死者を出し、しかも一人は自殺というのでは、担当教師の監督責任が当然問題になる。しかし、校長も理事会も、この件について、倉林先生には一切責任を問おうとはしなかった。生徒たちだって、先生に同情こそすれ、非難の声など全くなかった。  しかし、倉林先生自身にとっては、それは何の救いにもならなかったろう。  全生徒が講堂へ集められ、沈痛な面持ちの手塚校長が壇上に立って、小野治子の死へ哀悼の言葉を述べた後、学校を今日から夏休みにすると告げた。 「みなさんには、これからの休みの間に、人間の生命の問題について、ゆっくり考えてほしいと思います。私たちも考えます。先生方も、理事の方々も、です」  真知子は、聞きながら、道徳めいた話がダラダラ続かなければいいな、と思った。それこそやり切れなくなってしまう。だが、幸い校長は、すぐに話を終えて、 「——最後に、もう一つお願いがあります。亡くなった三人の担任である倉林先生から、今朝、私は辞表を受け取りました」  生徒たちが、どっとどよめいた。倉林先生は舞台の端の方で、他の教師たちと一緒にじっと表情をこわばらせて立っている。 「私は、先生に考え直してくれるように頼みました」と校長は続けた。「しかし、先生の決心はなかなか固いようだ。そこで私からみなさんにお願いしたい。倉林先生をみなさんで、引き留めてほしいのです」  講堂中に、拍手が湧《わ》いた。みんな立ち上がって、拍手したり、叫んだりしている。講堂が揺れているかと思えるほどだった。  校長は、倉林先生の方へ歩み寄ると、内ポケットから白い封筒を取り出した。——拍手が静まって、全生徒が見守っているうちに、校長は、 「倉林先生、この辞表は破っても構いませんね?」と訊《き》いた。 「はい……」  倉林先生は泣いていた。  校長が辞表を二つに引き裂くと、再び、拍手が前に倍する勢いで湧き起こった。真知子は、どよめきの中で目頭がじんと熱くなるのを感じた。クラスの子は、みんな泣いている。隣の幸枝は、と見ると、これは真知子どころではない。両手に顔を埋めて、しゃくり上げながら泣いているのだった。真知子も少々あっけに取られてしまった。 「治子の日記?」 「ええ。——こんな時に申し訳ありませんが」 「いいえ。そういうものがあれば、私たちにも、あの子がなぜあんな事をしたのか少しは分かるんですが……。でも残念ですが、あの子が日記をつけていたとは思えませんわ。そうこまめな子ではありませんでしたから」 「そうですか」 「でも、何でしたらあの子の机の中を探してごらんになったら? 何か見つかるかもしれません」 「構わないんですか?」 「ええ。——私たちは辛くて、あの子のものには何も手をつけていません。そのままになっていますから、どうぞ」 「すみません」  治子の母親は泣きはらした、はれぼったい目をした顔に寂しげな微笑を浮かべると、軽くうなずいて、告別式の席へ戻って行った。  真知子は廊下を抜けて治子の部屋へ入った。部屋は治子の死体を見つけた時と全く変わりがなかった。真知子は、治子が何か手掛かりになるような物を書き残しておいてくれているように祈った。  引き出しを開けるのは、何か死んだ治子に申し訳ないような気がしたが、犯人を見つけるためだから、許してね、と心に呟く。  一つ一つ、引き出しを調べて行ったが、日記帳は見当たらなかった。やはり無駄か——。がっかりした真知子は、それでも諦《あきら》めきれずに、手元の数冊のノートをパラパラとめくって見た。  おや、と思ったのは、数学㈼Bのノートをめくった時だった。ノートは始めの三分の一ほどしか使われていないのだが、最後の数ページに、何か書き込みがあるのだ。  それも数字が並んでいるので、何か計算のメモかと思ったが、よく見るとそうでもない。 「2—11 浅田 三〇〇〇」 「3—7 長井 二五〇〇」  といった風に、日付らしいものと、クラスメイトの名前が入っている。 「何だ、そうか」  例の宿題を代わりに引き受けるアルバイトの収入をメモしていたのだ。見て行くと、ずいぶん繁盛していたんだな、と驚いた。他のクラスの名前や、他の学年の生徒らしい名まである。実際に宿題をやっていた東大生にいくら払っていたのか知らないが、かなりの収入になっているようだ。  最後まで目を走らせて、真知子ははっとした。メモの最後は、真知子自身が頼んだ、あの真弓が死んだ日の記録だったが、その後の余白に、何やら乱れた筆跡で書き付けてあるのだ。   「恭子と真弓の死。視聴覚教室のカセット?    カセットに入っていた絵と宝石に秘密が」  そして一番下に太い字で、 「復《ふく》讐《しゆう》!」  と書かれている。  視聴覚教室。——真知子は、治子から、何か視聴覚教室の事を聞いたような気がして、考え込んだ。確か、ここで話していた時に……。そうか! 真弓が死んだ日、真弓の家から電話がかかって来る直前に、話をしていたのだった。 「視聴覚教室へ忍び込んで見つかっちゃった」と治子は言っていた。そして「これは秘密にする約束だ」とも言った。真知子が詳しい話を聞く前に、真弓の家から電話が入ったのだった。 「カセット」というのは、たぶんビデオカセットの事だ。「絵と宝石」というのは何の事だろう? そんなものを収録したカセットがあるのだろうか。そこに「秘密」があると治子は書いている。そして最後の「復讐」の文字……。  復讐とは、恭子と真弓を殺された事への復讐である事はまちがいない。とすれば、治子は犯人を知っていたのだろうか。 「どうしてその名前を書いておいてくれなかったんだろう」  真知子は思わず口に出して呟いた。  そのノートを手に告別式の席へ戻ると、もう生徒の焼香も終わりに近付いていた。  棺《ひつぎ》を収めた霊《れい》柩《きゆう》車《しや》が、焼けつくような陽射しの中をゆっくりと動き出すと、送り出す生徒たちの間に、またひとしきりすすり泣きが広がった。治子は、その明るい性格で、誰からも愛されていたのだ。  ——治子さん。あなたの復讐は、私が必ず果たしてあげるわ。真知子は、遠去かって行く車の列へ、そう語りかけた。 第二部 夏の日の冒険 1 倉林先生の秘密 「ながら族」なんて言葉がはやったのはもうずいぶん前の事になる。今では誰もそんな風に呼んだりしないが、それは「ながら族」がいなくなったからではなく、誰も彼も、みんながそうなってしまったからだ。  真知子だってステレオをヘッドホンで聞きながら英語の宿題をやり、同時にケーキを口に頬《ほお》ばって、頭の中で明日の予定を立てるぐらいの事はやってのける。  しかし、この夏休みに関しては、そうは行かなかった。宿題と殺人事件の捜査と恋愛をいっぺんにやろうというのは、いかな真知子にもちょっと無理だった。愛の言葉を囁《ささや》きながら、右手は辞書をめくり、左手にピストルを構えて、右足はゆるやかにダンスのステップを踏み、左足で殺人犯を追っかけるなんて、それができたら、妖《よう》怪《かい》変《へん》化《げ》だ。  そうなると、どれかにかかり切るためには、まず手っとり早く終わりそうなものを片付けておくのが、いい手である。そこで、この三つのうちどれを片付けられそうか、というと、殺人捜査も恋愛も、相手が生身の人間だから、そうこっちの思う通り片付いてくれそうもない。残るは宿題。いつもなら、夏休み最後の三日位でワッと片付けるのだが、今回ばかりは一念発起、始めの三日間で片付けた——かというとそうではない。  なぜかというと、取りかかるには取りかかったのだ。しかし、英文和訳の一ページめを三行ばかり訳した所で、ふと考えた。——もし私が殺人事件の捜査中に、犯人の手にかかって、哀れ儚《はかな》い命を終えることにでもなったらどうだろう。宿題なんか、こんなにせっせとやったって、試験勉強に精出したって、総《すべ》て無駄になってしまうではないか。  となれば、捜査を終え、犯人が捕らえられて、宿題が無駄にならないと確実になってからやった方がいい。いや、絶対にそうすべきだ。——真知子はこういう極めて論理的な結論に達したのである。  では、さて差し当たり何をすべきか。英人を次の日曜日、家へ呼ぶことになっていて、正造もやっとその日は家にいられそうだった。その準備をしなければ。 「お料理、私が作るわ!」  父と母に宣言した手前、やらないわけにはいかない。真知子はどちらかといえば、料理は得意でない。具体的に言うと、インスタントラーメンを温めるのは名人級なのだが……。 「本屋へ行って、料理の本を買って来ること」  真知子は机のメモ用紙に書きつけた。それから続けて、「部屋の掃除。去年のカレンダーを捨てておくこと。本棚の整理。写真のアルバムの整理」などと、普通なら、優に三年分の仕事を書きつけた。そしてカレンダー(今年の)をにらみながら、いつまでに何をやろうか、と考える。しかし、何事も、頭の中で計画を立てるのと実行するのでは、まるで違う。今日のところは計画するだけでやめておく事にした。  さて、次は事件の方である。何から手を付ければいいだろう? 目下の所、真知子の手には治子が書き遺した視聴覚教室にあったらしい「絵と宝石」のカセットテープ、それに倉林先生のあの謎《なぞ》めいたひとり言という二枚のカードしかない。しかしそれがどう事件とつながっているのか、まだ見当がつかない。  真知子は、まず倉林先生に会ってみようと思った。  午後二時。暑い盛りだ。武蔵《 む さ し》小《こ》金《がね》井《い》駅で降りると、できるだけ汗をかかないように、ゆっくり歩き出した。  それにしても暑い。大阪も暑かったけど、東京の暑さは一種独特。それもこの小金井あたりはまだしも、都心の暑さは、木陰に入っても逃げられない。涼もうと思えば、喫茶店にでも入るしかないが、これがまた早く客を追い出そうと、強烈な冷房をガンガン入れる。で、たまらなくなって外へ出ると、ムッと熱気が抱きついて来る。冷蔵庫とオーブンに替わる替わる入ってるようなもので、いかに新鮮なヤングだって、おかしくなっちゃう。  真知子はそう汗っかきの方ではないのだが、少し歩くうちに、もう肌がじっとり汗ばんで来るのが分かった。 「失敗したなあ……」  先生をどこか駅前の喫茶店にでも呼び出せばよかった。涼しい所で話をするのと、暑さにうだりながら、二匹のゆでダコよろしく話をするのでは、頭の回転が違って来る。名探偵がこれでは困るじゃないの。しっかりして!  アガサ・クリスティの名探偵ポアロも、船酔いと歯医者には弱かったんだ、と自分を励ましつつ、ようやく捜す番地の近くへやって来た。  近所の人に訊《き》いて、「清泉荘」という涼しそうな名のアパートをやっと見つける。清らかな泉とどう考えても結びつかない、せせこましいモルタル二階建てのアパートである。  部屋は「二〇二」というから二階だろう。鉄の急な階段を上りながら、真知子の頭をチラリと新聞の大見出しがかすめた。 「女高生、教師に殺さる!——教師のアパートで襲われる」  そうなったらマスコミは私が変な下心があってアパートを訪ねたと思うかしら。 「考えすぎよ」と自分に言い聞かせるように口に出して言った。  ちょうど狭い通路を、赤ん坊をおぶった奥さんが買い物カゴさげてやって来た。 「すみません、倉林先生のお部屋、どこでしょう?」 「ああ、先生なら、奥から二番目ですよ」 「どうも」 「今、先生、お留守じゃないかな、さっき出かけるとこを見ましたよ」 「そうですか……」  いきなり会いに行った方が本当の話が聞けるだろう、と電話もしなかったのはまずかったが、それにしても、この暑い中をのこのこやって来て、留守だなんて。真知子はガックリした。 「でもね」その奥さんは続けて、「すぐ帰って来られるんじゃないの? 奥さんがいるから、訊いてごらんなさいよ」  真知子は、あっけに取られて、しばらく突っ立っていた。奥さん? 倉林先生に奥さん? 誰《だれ》か他の人と勘違いしてるんじゃないかしら。  奥から二番目のドア。確かに「倉林」と表札が出ている。呼吸を整え、ピンと背筋をのばして、呼び鈴《りん》を押した。鬼が出るか蛇《じや》が出るか。まさか鼻たれ小僧をつれて、ギャーギャーわめいてる赤ん坊をおんぶした、おかみさんが出て来るんじゃないだろうな。いくらなんでも、そこまで夢を壊されたくない。 「はーい」  若い女性の声がして、ドアが開いた。 「あ……」 「あ……」  お互い、愕《がく》然《ぜん》と、言葉もなかった。真知子は何と、幸枝と顔をつき合わせていたのだ。 「……い、いらっしゃいませ」  幸枝がどもりながら言った。 「ちゃんと説明してもらおうじゃないの!」  真知子は手厳しく言った。エプロン姿の幸枝がシュンと小さくなって座っている。 「私は、今の今まで、あなたを一番の親友だと思ってたのよ。その私に、何も言ってくれないって、どういう事? 私が信用できないの? そうなの? そうなのね。分かったわよ。もう今から、私とあなたは友達でも何でもないんですからね、そのつもりでいてちょうだい!」 「まあまあ、結城君、ちょっと聞いてくれよ」  困り切った顔で聞いていた倉林先生が、割って入った。タバコを買いに行っていただけだったのだが、帰って来るとこの有り様、というわけである。 「先生は黙ってて下さい!」  真知子がぴしりと言うと、倉林先生、目を丸くして口をつぐんでしまった。 「これは私たち二人の問題です!」ここで再び幸枝の方へ向き直って、「一体、いつ結婚したのよ!」 「半年前……」 「他に知ってる人は?」 「誰も」 「本当に?」 「本当よ。先生たちだって知らないわ。校長先生と総務の人以外は」 「絶対ね?」 「絶対」 「今日は七月の十八日……」  真知子は考えて、「私がお小遣いもらうのは月末なのよ」  幸枝がきょとんとしている。 「だから、結婚祝いをあげるのは、来月になるけど、それでいい?」 「……真知子」 「あんまり馴《な》れ馴れしくしないでちょうだい。——奥さん」  真知子はそう言って、くすくす笑い出した。そして幸枝も一緒になって、笑い出す。傍《そば》で、倉林先生が、ほっと息をついた。 「先生」真知子が言った。「口止め料として、チョコレートパフェ!」  暑い中を駅前まで出て、パーラーへ入ると、三人とも、やっと落ち着いた。 「僕たちだって、こんなに早く結婚するつもりじゃあなかったんだよ」  冷たいおしぼりで、ほてった顔を拭《ぬぐ》いながら、倉林先生が言った。「少なくとも幸枝が学校を出るまで待つつもりだった。ところがね、去年の暮れ、田舎《 い な か》へ帰ってみると、何も知らない両親が、僕の見合いの相手を用意して待ってたんだ。結婚する気もないのに、相手に悪いと思って、幸枝の事を話したんだ。ところが、今まで僕がいつもその手の作り話で、結婚話から逃げ回ってたんで、両親が信用しないんだな。それなら連れて来いってわけだ。仕方なく、大《おお》晦《みそ》日《か》にまた東京へ来て、幸枝の家へ行った。向こうの親ごさんも、そりゃびっくりさ。でも何とか分かってもらって、幸枝をつれて田舎へ急いで戻ったんだ」 「元旦の日によ」幸枝が言った。 「僕の両親も幸い彼女を気に入ってくれた。ところが気に入りすぎて、すぐにも結婚しろっていうんだ。僕は何しろ自分が担任してるクラスの生徒だし、まだ早すぎるって言ったんだが、聞きゃしない。母なんか、『私は十六で嫁入りしたよ』、とこうだからね」 「それでどうしたんですか?」 「それでまあ仕方なく、東京へ出て来てから、校長先生へ相談しに行って……」 「ちょっとちょっと」真知子が口を挟んだ。 「何だか、今の言い方、曖《あい》昧《まい》だわ。何か抜かしてるんじゃないですか?」 「いや……そんなことないよ、なあ」 「うん……」 「幸枝、まだ私に隠し立てするの? そのつもりなら——」 「わ、わかったわよ」  幸枝が慌てて言った。「あのね……正月にあちらへ行ったでしょ。で、三日間あちらの家に泊まったのね。ところが、ご両親とも、何とか私たちを早く結婚させようとして……、その、三日めの晩に、私たちの床《とこ》を同じ部屋に敷いちゃったのよ。勝手に他の部屋へ移すわけにも行かないし、廊下は凄《すご》く寒いし……」 「僕は親《おや》父《じ》と少々飲んでね。どうも、それも向こうの計略だったらしいんだが……」 「で、まあ……そういう訳」 「何が、そういう訳よ」真知子はぼやいた。「ますます暑くなっちゃう」 「校長先生は笑って許してくれてね、仲人をやってくれたんだ」 「でも幸枝、あなた、どうして高《こう》円《えん》寺《じ》にいるの?」 「高校出るまでは、何かと不便でしょ。だから週末だけ、こっちへ来てるの」  こういうのを、進んでる、と言うのか……。どっちかといえば、私より野暮ったいと思ってた幸枝が。あーあ、参ったなあ、と真知子はショック。——そうそう、肝心の事を訊《き》き忘れる所だった。  真知子は、講堂での一人言の件を倉林先生に訊いてみた。 「うん、幸枝から、僕も訊かれたよ。でも、自分でもよく憶えてないんだ。どうしてそんな事言ったのかなあ……。たぶん、二人も死人を出した責任を取ろうという意味だったんだと思うよ」 「そうですか、……がっかりだな。でも、先生、あの時、英語部の部室で何やってたんですか?」 「あれか! いや、君の観察力は大したものだね。君は名探偵になれる素質があると思うよ」 「あのね、真知子、また怒られそうだけど……」 「何?」 「あの時、私があそこにいたのよ」  真知子は唖《あ》然《ぜん》として二人の顔を見比べた。倉林先生、慌てて、 「いや、だからといって、変な想像をされちゃ困るよ。何も変な事をしてたわけじゃない。神聖な学校で、そんな事は断じてしないよ」 「私、何も言ってませんよ」 「ただちょっと家計の相談があってね」幸枝が言った。「そしたら足音がしたんで、まさか、真知子たちだと思わないでしょ。やっぱり、英語部員でもない私が、あそこで二人でいるのを見つかっちゃまずいと思って、奥の本棚の陰に隠れてたの」  あーあ、まるで私、馬鹿みたい。さんざん二人ののろけを聞かされに来ただけじゃないの。殺人事件の重要な手掛かりをつかむ気で来たのに。——駅前で別れて、並んで歩いて行く二人の後ろ姿を見ながら、真知子はしきりにブツブツ言った。「週刊テヅカ」なんてのがあったら、 「独占! 倉林先生に十七歳の妻がいた!」なんて記事でも売り込むんだけどな。  帰り道は遠かった。ホームで電車を待っても、急行列車、特別快速、貨物列車の通過でさんざん待たされるし、やっと来た東京行きは込んでて、冷房車じゃないし、おまけに途中ドア故障で立ち往生するし、全くいい事なし。でも真知子が憂《ゆう》鬱《うつ》な顔をしていたのは、そのせいばかりでもない。——倉林先生と幸枝。思いもかけぬ、でもとてもよく似合った取り合わせに、少々やきもちを焼いていたのだ。  まあいいや、私にだって、英人さんがいる。そうそう、料理の本を買ってかなきゃ。  真知子は早速、帰り道、遠回りをして、本屋へ寄った。  料理の本は山ほどあった。しかし、約一時間、捜し回って、料理のできない人でも簡単に作れて、おいしくて、高級に見えて、夏向きの料理なんて、やっぱり、なかなかないものだ、という結論に達した。 2 意外な顔 「神山英人です」 「やあ、私が真知子の父親でね。まあ、かけて楽にしなさい」 「はい」  ソファに座った二人は、何となくぎごちない様子だったが、やがて英人の方から、 「お仕事がお忙しいようですね」 「まあ、何とかね。君は何学部だったかな」 「経済です」 「そうか。じゃ少しは貿易の仕事なんかにも興味があるかな」 「ええ! 将来、できればそういう方面に進みたいと思っています」  英人が、ちょっと見えすいた感じの熱心さで言った。それでも正造は嬉しそうに、あれこれ貿易界の現況などについて話を始めた。戸口でそっと立ち聞きしていた真知子も、やっと胸をなでおろして、台所へ飛んで行った。 「ママ、仕度は?」 「いまやってますよ。冷たいものでも出しておあげ」 「うん」  真知子は今日はカルダンの小《こ》粋《いき》なエプロンをして、ぐっと若奥様風である。もっとも、料理の方は、全面的に恵子が受け持つ事になったのだが。 「なかなかハンサムな子だね」 「そう?」  真知子は冷えたサイダーをタンブラーに入れて、盆に載せると、応接室へいそいそと運んで行く。二人はまだ何やら、貿易論議をやっていたが、真知子が入って行くと、正造が目を丸くして、 「これは珍しい事もあるもんだな。いつもはお茶一つ入れないお前が」  真知子は、きっと父をにらみつけた。英人の方は、ニヤニヤ笑っている。——パパったら、気が利かないんだから! 「——いいお父さんだね」 「そう? 私の事、けなしてばっかりいるんだもの、腹立っちゃった」  二人は、駅への道を歩いていた。もう九時半頃になったろうか。少し風が出て来て、ほてった頬《ほお》に快い。 「また来てくれるわね?」 「君さえ構わなきゃね」 「もちろんよ!」 「一度、海に行かないか。友達の車を借りるから」 「——二人で?」 「いけないかな?」 「そんな事ない」真知子は急いで言った。「いつ行くの?」 「来週あたり。電話するよ。バイトがいつ休めるか、聞いてみないと分からないんだ」  英人は、アルバイトに進学教室の講師をやっているのだ。 「待ってるわ」  真知子は胸がときめくのを感じた。二人で海に。——何て素敵だろう! 「ところで、殺人事件の方はどうした?」 「全然なの」  真知子は、倉林先生と幸枝の事を話した。 「残る手掛かりは治子さんのメモにあった『絵と宝石のカセット』だけよ」 「視聴覚教室に何かあるのかな? でも学校は休みだし、ずっと閉ってるんだろう?」 「夏期講習があるわ。三年生の受験用に」 「受験か。夏休みも休めないなんて、可《か》哀《わい》そうに」 「ほんとね。——その講習が七月一杯あるのよ。私、視聴覚教室を調べてみるわ」 「それはいいけど、でもね、気を付けるんだよ。何か分かっても、僕に連絡してからでなきゃ、何もやっちゃいけないぜ」 「そうするわ」 「約束だよ」 「約束ね」  英人は立ち止まって、 「ああ、こんな所まで来ちゃった。帰り道、大丈夫かい?」 「人通りがあるもの」 「でも酔っぱらいが多いからな、送って行くよ」 「それじゃ、ここまで送って来た意味がないじゃないの」と真知子は笑って言った。 「いいさ!」  二人は、またマンションへの道を辿《たど》って行った。 「じゃあね」  マンションの一階、エレベーターの前で、英人が言った。「今夜は楽しかったよ」 「私も」 「お父さんによろしく。——あ、エレベーターが来たよ」 「ねえ、お願い」 「何だい?」 「おやすみの——キスして」  真知子は真っ赤になって、頬を指さした。英人は微《ほほ》笑《え》むと、 「じゃ、目をつぶって」  真知子は右の頬を向けて目をつぶった。彼の手が頬に触れた、と思うと、彼の唇が唇に触れて来た。ちょっとためらってから、真知子は思い切って抱きついた。彼の腕がしっかりと抱き止めていてくれる……。  唇が離れて、目を開くと、英人の笑顔があった。 「怒ったかい?」 「ちっとも!」  真知子は、鳥が飛び立つように、英人の腕から飛び出して、エレベーターの中へ。 「おやすみ!」と真知子は言った。  閉じる扉の合間に、手を振る英人の姿が見えた。エレベーターがゆっくり昇り始めると、真知子は、壁にもたれて、息をついた。  初めてのキス! こんな素晴らしい日ってあったかしら。 「これで」真知子はひとり言を言った。「少し差をつめたわよ、幸枝」  来年は我が身とはいえ、三年生も可哀そうなものだ。真知子は学校へ入って行きながら思った。普通なら、夏休みでゆっくり休んでいられる所なのに、七月一杯夏期講習、八月に入っても、十日から、特別講習というのがあって、出て来なくてはならない。後の方は受けても受けなくてもいいのだが、みんな受けるので、一人だけ受けないという訳にはいかない。  といっても、そこは女子高、殺《さつ》伐《ばつ》とした受験戦争の趣はさらさらなくて、みんなのんびり遊び半分に出て来る。帰りにどこか寄り道するのが楽しみで来るようなものだ。  高三の夏期講習は午後二時で終わる。今は一時十五分だ。視聴覚教室あたりには、誰《だれ》もいないだろう。——手前の校舎を通り抜けて行くと、中は冷房が適度に入っていて涼しいが、ガラス戸を開けて渡り廊下へ出るとむっとする暑さ。ああ、プールにでも飛び込みたい!  視聴覚教室のドアは鍵《かぎ》もかかっていなかった。階段状に机が並び、正面に二台の大型テレビ。真知子は、教室の中を抜けて、裏側のコンソールルームへ入って行った。  このコンソールルームには、フィルムやテープが保管してあるので、冷房が入っていて涼しい。ほっとして少し涼んでから、棚に並んだカセットテープのタイトルを一つずつ見て行った。 「——それらしいのはないわねえ」  何か秘密のあるカセットだったら、こんな所に並べてはいないだろう。あるいは、全くそれらしくないタイトルが付いているか……。 「捜し物かい?」  急に声がして、真知子は飛び上がりそうになった。——美術の西田先生が、パイプをくわえて、微笑んで立っている。 「あ、西田先生、すみません。つい入って来ちゃって……」 「いいさ。別に壊れるようなものもないし。——何か捜してるのかい?」 「いえ、そういうわけじゃないんです。ただどんなのがあるのかと思って……」 「面白いのはないだろう。どれも教育番組ばかりだからね。たまには映画でも入れて見せてやりゃいいのに」 「いいですね、そんなの」 「まあ、ポルノやオカルトじゃちょっとまずいかもしれないがね」と笑って、「そうだ、この間、音楽の三沢先生が入れた演奏会の中継があるよ。聞いてみるかい?」 「ええ!」  西田先生はカセットの一つを出して来て、デッキにセットした。  テープはフランスの若いピアニストの演奏だった。真知子はそれほどクラシック音楽に詳しいわけではない。しかし、なかなかピアニストがハンサムなので、面白かった。クラシック音楽も最近はフィーリングで聞く時代だ。曲はショパンか何からしい。西田先生も、少し離れた椅《い》子《す》にかけて聞いていたが、ふと気が付いたように、 「君は亡くなった柳田真弓君と同じクラスだったね」  真知子は急に現実に引き戻された。 「はい」 「柳田君もピアノを弾いていたんだねえ」西田先生はしみじみとした口調で言った。「三沢先生は、なかなか才能のある子だったと言っていたよ。——可哀そうな事をしたね」 「そうですね」  真知子は、西田先生が若い頃、音楽にもかなりの才能があって、美術とどちらへ進むべきか、さんざん迷ったあげく、美術を選んだのだという話をクラスの誰かから聞いていた。 「先生もピアノ、お弾きになるんでしょう?」 「昔の話さ。今は全然だ」  西田先生の温和な顔に、ふっと影がさした。美術を選びはしたものの、結局成功したとはいえない。今になって、あの時、もし音楽を選んでいたら、という後悔の念が消えないのかもしれない、と真知子は思った。 「一学期は不幸な事件が続いたね」 「ええ」 「しかし、若いうちに死ぬというのも、悪くはないよ。一番希望に溢《あふ》れ、未来に夢を持っている瞬間に死ねるのは、幸せというものかもしれない」 「ええ……」  真知子は曖《あい》昧《まい》に返事をした。西田先生の口から、こんな言葉を聞くとは思わなかった。いつもの明朗で、生徒と友だち付き合いをしているような西田先生のイメージはそこにはなかった。  ふと、真知子は、怖い、と思った。西田先生と私は、今二人きりで、この教室の中にいる。そもそも西田先生がなぜこんな所へ来るのだろう。先生の家はたしか三《み》鷹《たか》の方だし、夏期講習は、大学受験に必要な課目だけで、美術などはないはずだ。  ——西田先生は何をしに、ここへ来たのだろう。それも真知子が視聴覚教室へ入ると、後を追うように現れた。ここを見張ってでもいたのだろうか。  真知子の視線が、西田先生の靴に落ちた。黒い皮靴で、少し砂《すな》埃《ぼこり》で白くなっている。どこにでもある安物だった。——あの時、治子の家の玄関から消えた靴は、これだったろうか? 「死ぬより怖いのはね」西田先生は話を続けていた。「希望を失って生きる事だ。それより悪いのは、自分自身を浪費していると知りながら生きる事だよ。……そうなんだ」  テレビの画面では、白くしなやかな指が、鍵《けん》盤《ばん》の上をはね回っていた。真知子は、テレビの中のピアニストの頭上に、今にも重いライトが落ちて来るような気がした。 「僕も時々、自分がいやになる。なぜあんな事をやってしまったんだろう、と考え込む。いくら考えたって、今さら取り返しはつかないのに」  真知子は、西田先生が、自分自身に向かって話しかけているのだ、と思った。まるで真知子など存在しないように、その目はじっと遠い一点を見据えている。一瞬、ひやりとした。その目に、何か異常なものを見たような気がしたのだ。——西田先生が? まさか! 西田先生が、人を殺すはずはない……。 「西田先生」  教室の入り口で声がした。振り向くと、手塚校長が、この暑いのに、きちんと紺の上下のスーツに身を包んで立っている。西田先生は、振り返って校長の姿を見ると、一瞬のうちに、いつもの温厚な表情に戻っていた。 「ああ、校長先生」 「音楽鑑賞ですか」校長は微笑を浮かべて入って来ると、「私も聴衆に加えていただきたいな」 「いいですとも。ただし入場料はお高いですよ」西田先生は笑いながら言った。 「やあ、君は」校長は真知子を見て、「結城君のお嬢さんじゃないか」 「今日は」 「西田先生、この生徒は大切にして下さいよ。わが学園の大パトロン、結城理事のお嬢さんだ」 「そうですか! いや知らなかったな。それならもう少しましな話をするんだった。給料を上げるようにお父さんにお願いしてくれ、とかね」  三人は声をあげて笑った。——しかし、その笑い声がどこかよそよそしく、わざとらしく聞こえたのは、真知子の、気のせいだったろうか……。 3 恋人たち  南伊豆の、ほとんど緑に近いエメラルド色の海が、白く燃える太陽をぎらりとまぶしく反射した。  色とりどりの水着、女の子たちの歓声、水しぶきの真っ白な輝き、濡《ぬ》れたつややかな小麦色の肌の群れ……。  海ってすばらしい! 夏ってすばらしい! 「少し休んだら?」 「ああ、そうするよ」  海から上がって来た英人は、息を弾ませて、砂浜に腰を下ろした。真知子は、若くしなやかな、引き締まった英人の体をまぶしいような思いで眺めた。服を着ている時はやせて見えるが、どうして筋肉質の立派な体格をしている。 「何かスポーツやってるの?」 「高校時代はバスケットをやってたよ。今はクラブなんて面倒でね」 「割と逞《たくま》しいのね、見直しちゃった」 「ありがとう」英人は笑って、「君もすてきだよ」 「私なんかだめよ」真知子はちょっと頬《ほお》を赤らめた。「太ってて、スタイルも悪いし」 「そんな事あるもんか!」  真知子は、明るいオレンジのセパレーツの水着だった。あまり陽焼けしないたちなので、色白な肌が、滑らかな陶器のような艶《つや》を帯びている。英人は、すらりとのびたその白い足を眺めた。 「そんなに見ないで」  真知子は両足を手で抱きかかえるようにして、ちぢこまった。 「美しいものを出し惜しみするのは、人類への罪だよ」 「オーバーね」真知子は微《ほほ》笑《え》んで、頭上の青空をまぶしく見上げた。「でも、すばらしい天気ね。これこそ夏だって感じ——」  ウイークデーなので、人出はそう多くなかった。来ているのは若者たちのカップルやグループがほとんどで、家族連れは少ない。  ビーチボールが二人の足下へ転がって来た。 「すいませーん」  ビキニ姿の女の子が走って来ると、英人の投げたボールを受け取って、戻って行った。真知子は、ふと思い出して、 「私もボールを返してもらったんだわ」 「そうだったね」 「あの時、あんな所で何してたの?」 「友達がH大学にいてね、あの近くに下宿してるんだ。そこへ遊びに行った帰りさ」 「私の事、目もくれなかったわね」 「そんな事ないよ。可愛い子だな、と思って見とれてたんだぜ」 「そうだったかしら?」真知子は笑って、「どうでもいいけど、今は他の子をそんな目で見ちゃだめよ」 「君に比べりゃ他の子なんて……」 「あら、今のビキニの女の子を見る目は、ただ事じゃなかったわよ」  真知子はからかった。 「そろそろ退散しようか?」 「あら、もう?」と不服げな真知子。 「近くのホテルでひと休みして、夕食をとってから帰るのはどう?」 「素敵! 大賛成だわ!」そう言ってから、急に心配そうな様子になって、「——でも、ホテルでひと休みって……まさか……」 「馬鹿だな、変に気を回すなよ」  英人は笑いながら言った。真知子も一緒に笑った。——内心、ちょっとがっかりしながら。  英人が、真知子のマンションの少し手前に車を止めたのは、もう夜十時頃《ころ》だった。帰りの道が込んだのと、時間が遅くなって、途中でコーヒーを一杯飲んで来たからだ。 「マンションまで連れてってくれないの?」  真知子が不思議そうに言うと、 「後でね」と英人はエンジンを切った。  真知子は気付く間もなく英人の腕の中にいた。目を閉じて優しいキスを唇に受けながら、身体《 か ら だ》中が燃えるように熱くなるのを感じた。胸の高鳴りが、頭の中にまで響いている。  ——これからどうなるんだろう? これ以上はいや! これ以上は……。  英人が急に身を離して、シートにもたれた。深々と息をつく。眉《まゆ》を寄せて、何か辛《つら》いのをじっと堪えているように見えた。 「——どうしたの?」  真知子は心配になって訊《き》いた。 「何でもないよ」と首を振る。 「怒ってるの? 私何か怒るような事、したかしら」  英人は微笑んで、 「君はいい子だよ」と言った。 「いい子、なんて子供扱いしないで」真知子はちょっとむくれて、「もう大人《 お と な》なのよ」 「ごめんごめん」と英人が笑った。  英人は車を動かして、マンションの前につけた。 「——それはそうと、視聴覚教室の方はどうしたの?」 「それがね……」  真知子は視聴覚教室での事を話して聞かせた。 「僕に言わないで、何かしちゃいけないって言っただろう」英人は苦い顔で、「もし、その先生が犯人だったら、君も殺されてるかもしれないんだぜ」 「ごめんなさい……」 「で、これからどうするんだい?」 「分からないわ。ともかくもう一度調べに行ってみようと思っているんだけど」 「よし、次は僕も一緒に行くよ。電話してくれよ」 「ええ」  二人は、おやすみの代わりに、もう一度軽く唇を触れて、別れた。  家へ入ると、父が居間で新聞を見ていた。 「やあ、楽しかったかい?」 「ええ。まあまあね」 「それならよかった」 「今日は大阪じゃなかったの?」 「どうせ明日には戻らにゃならんからね、ちょっと早い便で帰って来たのさ」 「こっちで用事?」 「三十日がPTAと理事会だろう。できるだけ欠席しないようにしたいからね」  PTAか。真知子はふと考えた。PTAと理事会のある日なら、先生たちも全部そっちへ出席しているはずだ。視聴覚教室をゆっくり調べるには絶好の機会ではないか。 「PTAって何時頃から?」 「そうだね、午後三時頃かな、確か。理事会はその後だから、もっと夜遅くなる。——何だい? 何か用事?」 「別に。訊いてみただけ」  真知子はさり気なく言って、「久しぶりで泳いだら、疲れちゃった。お風呂に入って寝るわ」 「ああ、おやすみ」 「おやすみなさい」  真知子は、本当に疲れていた。陽焼けしたせいか、体がだるい。風呂へ入って、ベッドへ潜り込む。——英人の事を考えた。そしてあの車の中での素敵に情熱的なキスの事を。そしていつの間にかぐっすり眠り込んでいた……。  自分の部屋のポータブルテレビで、古いフランス映画を見ていると、廊下で電話の鳴るのが聞こえたが、真知子は最初気にもとめなかった。いつもの通り、ママが出てくれるだろうと思って放っておいた。今出かけているのだった、と思いつくまで、しばらくかかった。画面からは目を離さず、机の電話を手さぐりで取った。廊下と親子電話なので、どちらでも取れるのだ。結城です、と言おうとした時、 「結城です」と答える父の声がした。  父が廊下で電話を同時に取ったのだ。真知子は、もしかして自分にかかって来たのなら、と思ってそのまま聞いていた。—— 「K探偵社の者ですが……」 「困るじゃないか」父が声を低くした。「自宅へかけるなと言ったはずだ」 「はあ。ですが、お急ぎのようでしたので……。会社へお電話すると今日はお休みだと言われまして」 「まあいい……で、どうだったね?」  真知子は、受話器を置く事ができなかった。今さら置けば音がして、聞いていたことが分かってしまう。それにしても、父が一体探偵社に何の用だろう? 「お嬢さんと縁談のある三人の方について調べましたが——」  真知子はもう少しで声を上げる所だった。 「——Mさんは現在同じ会社の女子社員と深い関係がおありのようです。ですからちょっと……」  真知子はそんな男性の名など聞いた事もなかった。次に探偵社の男が挙げた名も、まるで知らない。ただただあっけに取られていた。 「——三人めの方ですが、ええと、神山英人さん」  真知子は思わず息を呑《の》んだ。 「学生さんですね。W大学の経済学部の三年生。家は大阪で、父親は堅実な公務員です。……」  探偵社の男は、履歴書風に色々と並べてから、 「まあ、学校での成績も良いようですし、女性関係も特にないようです。最近、よく女性と会いに行くと言って出かけているようですが、これは——」 「たぶん家《うち》の娘だろう。他には?」 「特に、これといった事はないようです」 「分かった、ご苦労さん」正造が言った。「請求書は会社の方へ『私信』として送っておいてくれ」 「かしこまりました」  電話が切れると、自分も受話器を下ろし、ベッドへ座り込んでしまった。——やっと事情が呑み込めた。父は英人の事を調べるために、他に自分の知っている適当な男性を二人でたらめに並べて、縁談の身許調査だといって調べさせたのだ。もっともらしい理由をつけないと、さすがに気がとがめたのだろう。 「パパったら、ひどい!」  真知子は猛烈に腹が立って来た。すぐに父へ文句を言いに行こうと立ち上がりかけたが、ちょうどテレビの映画がいい所で、これを見てからにしよう、と思い直した。  映画が終わる頃には、真知子の腹立ちもだいぶ収まっていた。パパにしてみれば、それだけ私の事を心配してるんだわ。それに、調べても、何一つまずい事は出て来なかったんだもの、これで却《かえ》って英人さんの事を見直すかもしれない。  それでも父の所へ行って、「どう? 英人さんがどんなに立派な人か分かった?」と言ってやりたいと思ったが、まあ、こらえる事にした。——そうだ、ともかく明日の事を打ち合わせておかなくては。  真知子は英人のアパートへ電話した。部屋には電話はないが、呼び出してくれる事になっている。 「もしもし」 「旭《あさひ》荘です」  面倒くさそうな女性の声が答えた。 「神山英人さんをお願いします」 「ああ——ええと、結城さんですか?」 「そうですが……」 「神山さんから伝言でね、三日ほど急に留守にするって事でした」 「まあ」真知子は驚いて、「——他に何か?」 「いいえ、別に」 「そうですか——どうも——」  真知子が礼も言い終わらないうちに、向こうがガチャンと電話を切ってしまった。 「どうしよう……」  真知子は英人がなぜ電話の一つもかけてくれなかったのかと腹が立った。何かよほど急な用事でもできたのだろうか。それにしても視聴覚教室の調査をどうしよう? 一人で調べに行ったら、また英人さんに叱《しか》られるかな。けれども、理事会の日というのは、やっぱりいいチャンスだと思えるし、別に危ない事もあるまい。危なかったら、逃げて来ればいいんだ。——恐るべき(?)気楽さでそう考えると、真知子は一人で行ってみようと決心した。  例の謎《なぞ》のカセットを見つけて、今度英人に会ったら「はい、これよ」と目の前に出してやるんだ。さぞびっくりするだろう……。 4 視聴覚教室へ  ちょっと仕度が早すぎたかな。——真知子は時計を見ながら思った。六時二十分だ。八時に行くのだから、七時に家を出れば、充分間に合う。  何時頃《ころ》行けばいいか、色々考えたのだが、夏の夜は何しろ七時近くまで明るくて、見つかりやすいし、PTAは六時頃までかかり、理事会は、さらにその後、かなり遅くまでやっているらしい。結局八時頃に行くようにすれば、PTA帰りの父兄に会う心配もないし、理事会の最中だから、先生たちが校内をふらふらしている事もあるまい、と思ったのである。  父はPTAにも出るので、午後からずっと出かけている。一体夏休みだというのに、何をやるのか。どうも夏期講習のあり方とか、夏休み中の素行をいかにチェックするか、といった事を話し合うらしいのだが、生徒に言わせれば、「大きなお世話!」という所だろう。でもまあ、それで親が安心するのなら、親の精神安定剤として、やらせておいてもいいかもしれない。  真知子は、幸枝を呼ぶかどうか迷ったが、結局やめておく事にした。幸枝は何しろ人妻なのだ。危ない目に会わせては、「ご主人先生」に恨まれてしまう。  真知子は、少々浮わついた気持ちでいる自分を戒めた。すでに三人の女学生が殺されているのだ。遊びではない。本当に、もしかしたら、命にかかわる結果にだってなりかねないのだ。  しかし、よく分かっていても、やはり、真知子の胸は、快い興奮でときめくのだ。どんな危険でも、やはりそこに冒険があれば、若者には一つのスポーツのようなものなのだ。若者の無鉄砲さが、大人の慎重さよりも、時として危機を切り抜けさせるのは、そこに一種の気楽さがあるから、リラックスした心があるからだろう。  真知子はさんざん何を着て行くか迷った。名探偵としては変な格好もしたくないが、といって、ワンピースにハイヒールってわけにもいかない。走って逃げたり、忍び込んだり、格闘したり(!)という事だってあるかもしれないのだ。そういう時に楽な服装で、しかも洒《しや》落《れ》たもの……。  至難の選択をようやく終えて、六時四十分。結局、紺のスポーツシャツに、Gパンのスタイル。もっと派手な色のシャツにしようかと思ったが、暗い所で目立っては困るので、紺を選んだ。ただピンクのネッカチーフを首に巻く事にした。アクセントになるし、けがをした時は、包帯代わりにもなる。  真知子はベッドへごろりと横になった。  今夜の探検で、何かが分かるかどうか、いささか心もとなかった。手掛かりとしては余りに曖《あい》昧《まい》だ。しかし今の所、手掛かりはこれしかないのだから仕方ない。真知子は、つくづく小説の中の名探偵とのハンディキャップの大きさを感じて、ため息をついた。警察が手足となって動いてくれて、情報も総《すべ》て集まって、後はただそれを積み木のように組み立てて行けばよい小説の探偵と違って、真知子の方は、データらしいデータも与えられず、まるで白紙の状態から出発しなくてはならない。 「これで犯人を捕まえられたら、大したもんだわ、本当に」  真知子は、自分でそう思った。  ——六時四十五分、まだ十五分あるのか。真知子は、自分が殺人犯を捕らえた所を想像してみた。新聞の大見出しが目に浮かぶ。 「女子高校生、殺人犯を逮捕!」「殺人犯を捕まえた若きカップル!」——二人の写真が新聞の紙面を華々しく飾る。そのうち、テレビからも、二人に出てほしいと言ってくるかもしれない。  一足飛びに論理を飛躍させて、真知子は、英人と結婚した自分を思い浮かべた。小ぎれいなマンションに、朝の光が一杯に溢《あふ》れて、英人は食堂で新聞を広げている。真知子は可愛いエプロンをして、コーヒーを入れ、ハムエッグなんか作って、「どうぞ」と出す。英人がやさしく微《ほほ》笑《え》んで、そっと朝のキス……。「早くしないと遅れるわよ」真知子は照れかくしに言って、トーストを焼く。朝の風景か。「ねえ、早く行かないと……」「早く行かないと……」  結局、どんな冒険をするかもしれない、と思って、夕食を満腹するまでつめ込んだのが悪かったのだ。いつしか真知子は眠ってしまったのである。  はっと目をさましてベッドへ起き上がる。 「いけない! 眠っちゃった」  目をこすって、でもせいぜい五分か十分だろう、と時計を見る。八時三十分。——八時三十分? どう見ても間違いない。文字の出るデジタル時計なのである。 「どうしよう……」  泣き出したい気分だったが、どうしようもない。急いでかけつけるだけだ。  真知子は部屋を飛び出して、 「行ってきます!」  ひと言、姿の見えぬ母へ大声で知らせて、玄関のドアを開けるのももどかしく、廊下を駆け出して行った。  真知子が学校へ駆けつけた時は、九時半を少し回っていた。走ったので、はあはあ喘《あえ》いで、背中に汗が流れていた。  理事会だってもう終わってしまっているかもしれない。ハンカチで汗を拭《ぬぐ》ってから、例の治子が教えてくれた、秘密の出入り口へと急いだ。金網を外して、中へ入る。 「いけない!」  慌てたので、針金の端にシャツをひっかけて、かぎ裂きを作ってしまった。  出る時に手間取らないよう、金網は軽くたてかけておくだけにして、そっと構内へ足を進めた。月明かりで、それほど不便もなく、周囲の様子は見てとれる。  校舎の方へ近付いて行った真知子は、ぎくりとして足を止めた。——車だ! それも大型の乗用車ばかりが、十台余りも、校舎と校舎をつなぐ渡り廊下の下に、駐車しているのだ。一体あんな所で何をしているのだろう? 車をとめておくなら、駐車場は別にあるのに、なぜ、こんな所にとめているのだろう。  駐車してある車の運転手たちが、手持ちぶさたにタバコを吸いながら、おしゃべりをしている。真知子は、このまま近付けば見つかってしまうので、一番手近な入り口から、校舎の中へ入り込んだ。三階まで上がって教室の中を抜けてベランダへ出れば、ベランダ伝いに、視聴覚教室の表まで行く事ができる。  真知子は、暗い階段を静かに上がって行った。懐中電燈くらい持って来るんだった、と悔んだが、今さら仕方ない。三階へ上がると、教室の中を通って、ベランダへ出た。ベランダのずっと向こうの方、ちょうど視聴覚教室のあたりに、光がちらちら洩《も》れているのが見えた。視聴覚教室に誰《だれ》かいるのだろうか。そうなるとまた出直しか、とちょっとがっかりしたが、ともかく様子を見てみよう。  ベランダを進んで行く。視聴覚教室は階段状の造りなので、入り口は三階だが、一番低い、正面のテレビの置いてある教壇は、ちょうど二階と同じ高さになっている。三階のベランダからは、高い窓越しに、中を見おろす格好になるのだ。  真知子は、足音を殺して、明かりの洩れる窓へ近付いて行った。スポンジ底の靴なので、ほとんど音はしない。窓は遠隔操作でブラインドが下りているが、中を覗《のぞ》くには充分のすき間があった。膝《ひざ》をついて、そっと中を覗き込む。  階段状の席に、十数人の男が座って、教壇の方を眺めていた。どれも恰《かつ》幅《ぷく》のいい、中年過ぎの、立派な身なりの紳士ばかりだ。見憶えのある顔はなかった。一体何をしているのだろう。理事会? それにしては人数が少ないし、こんな場所でやるはずもない。窓に手をかけてそっと引いてみると、鍵《かぎ》はかかっていなくて、少し開いた。中から、マイクを通した男の声が聞こえて来る。 「——いかがですか? 早速、始めたいと思いますがね」  話している男は、教壇に立っているらしい。残念ながら、真知子のいる位置からは、死角になって、教壇そのものは見えないのだ。 「八百」  席にかけた男の一人が言った。 「千」と別の男がすぐに声をかける。 「千二百」 「千三百」  次々に声が上がった。マイクの声が割って入った。 「さあ、どうですか、そんな程度ではお譲りできませんね。何しろこれは大変な値打ち物ですよ」 「千五百」 「千六百」  ——何か、せりのような事が行われているらしいのは、真知子にも分かった。しかし、一体何を売ろうというのだろう?「値打ち物」とは、何なのだろう? 真知子ははっと思い当たった。治子のノートにあった絵と宝石だ。カセットに入っていた絵と宝石。だが、ただ絵と宝石を売るのに、なぜこんな、謎《なぞ》めいたやり方をするのか。しかも、学校の中で……。 「品物は確実に手に入るのかね?」  男の一人が訊《き》いた。 「一週間以内に私どもの手もとに」とマイクの声が答える。 「なら二千万出そう」  二千万! 二千万円だって! 真知子は唖《あ》然《ぜん》としてしまった。 「では決まりましたね」 「我々の方へすぐ回してもらう訳にはいかんのかね?」 「それは危険です」マイクの声が答えていた。「ご説明申し上げたように、品物はかなりかさばりますし、慎重な取り扱いを必要とします。ですから、郵送や配送に任せる事はできませんから、直接、受け取っていただかねばなりません。となると、相当慎重に、その手段を選びませんと……」 「何かうまい手があるんだね?」 「お任せ下さい。しばらくご辛抱いただけば、安全な方法でお手元へお渡しします」 「信用しよう」 「次の品を見せてくれ」別の男が言った。  ざわざわとして、次の品物をせりにかける準備をしているようだった。  真知子は何とかして教壇を見たかった。マイクを通して聞こえてくる男の声に、何となく聞き憶えがあるような気がしたのだ。マイクの声は反響して、よく分からないが、それでも確かに、聞いた事のある声だと思った。  教壇を見るには、もっと先の窓から中を覗くしかない。真知子は、そっと窓から離れて立ち上がると、ベランダを先へ進もうとした。  突然、背後に人の気配を感じた。はっと振り向こうとしたが、それより早く、二本の腕が後から真知子を捉《とら》えて、同時に、ハンカチのようなものが口と鼻をふさいだ。甘ずっぱい匂《にお》いがして、頭が急にくらっとした。  薬だ! 眠らせようというんだ! 真知子は暴れて逃れようとしたが、手足が言う事をきかない。頭が重くなって、目の前が、ぼおっとぼやけた。甘ずっぱい匂いが、頭の中までしみ通って行くようで、瞼《まぶた》が重くなって、閉じた。そしてそれきり、もう何も分からなくなった。  ——自分の息遣いが聞こえた。目が開いているのに気付いてからも、しばらく、何が見えるのか分からなかった。暗い。暗い所だ。横になっている。どうしたんだろう? 何があったんだろう?  そうだ、思い出した。誰かに薬をかがされて、眠ってしまったのだ。——ここはどこだろう?  どこへ連れて来られたんだろう?  しだいに視界がはっきり焦点を結び、暗がりに目が馴《な》れて来る……。  がばっと真知子は起き上がった。目を見開いて、まわりを見渡す。 「……まさか……そんな……そんな……」  呆《ぼう》然《ぜん》として、座っていた。そこは物置の隅でも、人《ひと》気《け》のない森の中でもなかった。そこは、真知子の部屋だった。真知子は、自分の部屋のベッドに座っているのだった。 5 危 機 「何も言わないで、急に行っちゃうなんて、ひどいわ」 「ごめんごめん」  中野駅に近い喫茶店。むくれた真知子を、英人がなだめるのにけんめいだ。 「——急に親《しん》戚《せき》の人が危ないってんで、呼ばれてね、電話する暇もなかったんだ」 「行ってからだって、電話ぐらいできたでしょう」  真知子は、しつこくからんだ。「いいのよ、どうせ私の事なんか、すぐ忘れちゃうんだから」 「そんな事ないよ。——ねえ、そう怒らないで」 「今《いま》頃《ごろ》、私は殺されてたかもしれないのよ。それなのに——」 「何だって?」 「何でもない」 「どういう意味なんだい、それは?」 「いいのよ」 「よかないよ。何かあったのかい?——何か一人でやったんだね?」 「だって、あなたはいなくなっちゃうんだもの」 「一人でやっちゃいけないって、あれほど言ったじゃないか……。それで、どうしたんだい」  そう真剣に訊《き》かれると、今度は真知子の方が、ちょっと照れくさくなって、 「ううん、大した事じゃないの。ちょっとね……」 「だから、話してくれよ」 「それが……ねえ……」 「何かあったのかい?」 「あったような、なかったような——」 「どういう意味?」 「ねえ、笑っちゃいやよ。約束して、絶対に笑わないって」 「約束するよ」  英人は不思議そうな顔で言った。  真知子は、三日前の夜のできごとを一切話して聞かせた。出かける仕度をして、つい八時半まで眠ってしまった事、慌てて学校へ駆けつけ、怪しい乗用車をたくさん見かけた事、そして視聴覚教室の中で行われていた奇妙な「せり」の事……。 「それで? マイクで話してる男の顔は分かったのかい?」と英人は熱心に訊いた。 「見ようと思って動きかけたのよ。その時、急に後ろからつかまえられて——」 「誰《だれ》に?」 「分からないの。薬をしみ込ませたハンカチで顔をふさがれて、そのまま眠っちゃったのよ」 「ええ?——で、よく無事に戻って来れたね」英人は真知子をまじまじと見つめて、「まさか幽霊じゃないだろうね」 「やめてよ。ともかく、それで意識を失って——」 「それで?」 「——気が付くと——部屋にいたの」 「どこの部屋に?」 「自分の。——ベッドで寝てたの」  英人がポカンとした顔で目をパチパチさせた。真知子は慌てて、 「笑わないでよ! 約束よ! 笑っちゃいやよ!」 「わ、わかったよ……」そう言って、英人はたまらず吹き出した。「——でも——そいつは——」 「笑っちゃやだ! ここで大声で泣いちゃうからね!」 「分かった、分かった」英人は急いでコップの水をぐいぐい飲んで、笑いを抑えると、「だって、君が、そんな話し方をするからさ。最初から夢だったって言えばいいのに」 「私だって、何が何だか分からないのよ」  コーヒーが来たので、二人はしばし、考え込みながら、熱いコーヒーをすすった。暑い時に熱いコーヒー。これがいいのだ。 「でも夢にしちゃ、詳しすぎると思わない? 私、ちゃんと一つ一つの細かい点まで、全部憶えてるのよ」 「それはそうだがね。まるで映画を見るようにちゃんとできてる夢ってのもあるんだよ」 「そうね」真知子は情けない顔で、「何しろママが、私がすっかりよく眠っちゃってたんで、別に起こそうともしなかったって言ってるし、パパも理事会から九時頃帰って来ると私が眠ってたっていうの。これじゃ、どうしたって私が夢を見たんだとしか思えないでしょ? いやんなっちゃう、もう」 「まあ、そうしょげるなよ」 「だって……。それにね、服だって、そうなのよ」 「服って?」 「あの晩着てた服。紺のスポーツシャツ着てたんだけど、私、金網外して、中へ入る時に、針金にひっかけて、ちょっと破っちゃったの。でも目を覚ましてみたら、穴も何も開いてないの。Gパンも汚れてるはずなんだけど、全然きれいだし。どうしたって、私が夢を見てたって事になりそうなのよ」 「なるほどね。しかし夢でよかったじゃないか。夢でなかったら、今ごろ命がないかもしれないんだぜ」  真知子はガッカリした様子で、コーヒーを飲んでいたが、ふっと手を止めた。 「——ちょっと待って。——そうだわ、どうして気が付かなかったんだろう!」 「どうしたんだい?」 「ね、今から学校まで行きましょう!」 「国《くに》立《たち》まで? どうして?」 「金網よ! 私が入った秘密の入り口よ! あそこは誰も知らないはずなのよ」 「だから?」 「あの時ね、私、中へ入ってから、出る時にすぐ出られるように、元通りにしないで、軽く立てかけておいただけなの。でも、ちょっと見た所では分からないのよ。だから、あの事が事実起こったんなら、まだ金網は、軽く立てかけたままになってるはずだわ」 「なるほどね。でも……この暑さだぜ……」 「いいわよ! 私、一人で行って来るから」 「分かったよ、分かったよ」  英人は慌てて立ち上がった。  ——夏の昼下がり。暑さは真っ盛りである。二人はハンカチで汗を拭《ぬぐ》いつつ、国立駅から、炎天下を急いだ。ゆっくり行けばいいのに、真知子の方が「早く早く」としきりにせかせるのだった。 「あそこよ!」  問題の場所へやっとたどり着くと、真知子は急いで駆け寄った。 「どうだい?」 「——ちゃんと、はまってる」  真知子は今にも泣き出しそうだった。 「やれやれ、暑い所、ご苦労さんだ」 「ごめんなさい」 「いいさ。ついでに『現場』を見て行こうよ。せっかく来たんだ」  真知子は、あまり気乗りしなかったが、金網を外して、中へ入った。 「どこにシャツを引っかけたんだい?」 「このあたり……」  金網を調べてみたが、服をひっかけそうな、尖《とが》ったり飛び出したりした所は見当たらなかった。——二人は校舎の方へ歩いて行った。真知子が言った。 「あの辺りにずっと車が止まってたの」  英人はその辺の地面を調べていたが、 「砂利が敷いてあるんじゃ、車の跡は分からないね。——ええと他には何かなかった?」 「さあ……」 「そうだ。運転手たちがタバコを吸ってたって言ったね」 「ええ、その辺よ、確か」  英人はしばらく捜し回って、 「吸いがらは見当たらないね」 「もういいわ。私がおばかさんなのよ。あーあ、死んじゃいたい」 「元気出せよ。じゃ、君が通った通りに、中へ入ってみよう」  二人は、三日前の夜に真知子の通った(らしい)順序に従って、校舎へ入り、三階へ上がってベランダへ出た。 「——ほら、ここから中が覗《のぞ》けるの」 「なるほど。教壇の方は見えないんだね」 「この辺でつかまったのよ」 「暴れた形跡はないかな。壁が崩れてるとか」 「キング・コングじゃあるまいし」 「よし、じゃ最後に中へ入ってみようよ」  二人は表から回って、視聴覚教室の中へそっと入り込んだ。  二人は教室の中やコンソールルームを調べてみたが、何一つ目ぼしいものはなかった。 「くたびれ損ね」真知子が投げやりな調子で言った。 「まあ、探偵活動の実地訓練になったと思えばいいじゃないか」 「ね、どこかに遊びに行きましょうよ。やり切れない気分だわ」  家へ帰ると、ちょうど幸枝から電話があった。手料理をごちそうしたいから、一度遊びに来ないかというのだ。ちょうど、幸枝に結婚祝いもあげなくてはならなかったし、英人と二人で行く事にした。  翌日、新宿で英人と待ち合わせ、デパートでお祝いの品を買ってから、幸枝の家へ向かった。小金井の倉林先生のアパートでは少々狭いので、高《こう》円《えん》寺《じ》の幸枝の実家へ行く事になっていたのだ。倉林先生も来ているはずだった。  ちょうど昼頃、幸枝の家へ着いた。真知子は二、三度来た事があるが、幸枝の両親に会うのは初めてだった。どちらも物にこだわらない、おっとりした夫婦で、父親は幸枝とおかしいくらいよく似ていた。家は薬屋だが、店は別にあるので、日本風の家は広々として、両親と娘一人の所帯では少々広すぎるくらいだった。 「まあ、ゆくゆくは、先生にもここへ住んでもらおうと思っとります」  と父親は楽しそうに言った。  幸枝はすっかり奥さん風で、花柄のエプロンなど着けて、いそいそと立ち働いている。英人は制服姿の幸枝しか知らないので、目を丸くしていた。 「やあ、いらっしゃい」  倉林先生が奥から出て来た。真知子は、英人を先生に紹介した。 「カッコいいでしょう、彼」幸枝が英人を見て倉林先生に言った。「あなたと違って若いから」  英人は苦笑して、そっと真知子へ囁《ささや》いた。 「あてられに来たみたいだね」  四人は奥の幸枝の部屋へ集まって昼食にサンドイッチを取り、色々話の花を咲かせた。  真知子は、倉林先生と幸枝を見ていて、つくづく素敵だな、と思った。ちょっと目を合わせるだけで、あるいは先生が軽くうなずいて見せるだけで、幸枝はすぐに立って行って灰皿を持って来たり、紅茶を入れて来たりする。  何か話す事があると、顔を寄せて、小声で二言、三言、言葉を交わすのが、いかにも夫婦だな、と思わせた。恋人と違う所だ。羨《うらや》ましい、と思うのは、早すぎるのかな。何しろまだ私は十七なんだもの……。  事件の話は、ことさら避けていた。もちろん夢の中の冒険の話は、英人に絶対口止めしておいたのだ。  夕食までごちそうになって、幸枝の家を出たのは八時半頃だった。倉林先生と幸枝が、駅まで送るといって着いて来た。駅までの五分ほどの道を、四人はぶらぶらと歩いて行った。  歩いているうちに、男同士、女同士に別れ、元気よく笑い声を上げながら歩く真知子たちに少し遅れて、先生と英人がのんびり歩いていた。倉林先生も大学時代、バスケットボールをやっていたとかで、二人はスポーツの話に熱中していた。  駅の近くでは、あちこち、大きなビルが建築中だった。 「昼間はうるさくって」幸枝が文句を言った。 「小金井の方へ行っちゃったら?」 「今の方がいいわ、飽きが来なくて」 「何言ってんのよ」 「へへ……」幸枝はちょっと舌を出した。  二人はちょうどビルの工事現場のそばを通りかかっていた。倉林先生と話がちょっと途切れて、英人は前を行く二人の方を見た。それから何気なく上の方へ目を向けた。  あれは何だろう? 何かが落ちて来る。何かが——。 「危ない!」英人は叫んだ。  数本の鉄材が、真知子たちの頭上へ落ちて来た。二人は上を見た。英人が飛び出したが、とても間に合わない。その時、幸枝が、力まかせに真知子を突き飛ばした。鉄材が凄《すさま》じい音をたててコンクリートの路上にはねた。 「幸枝!」  倉林先生が駆けつける。——真知子は辛うじて鉄材にぶつからずにすんだが、幸枝は、腕を血に染めて、ぐったりと倒れていた。 「幸枝!」  真知子が飛び起きた。英人が鋭く、 「救急車を呼ぶんだ!」  そして頭上を見上げた。はるか上の鉄骨の足場に、ちらりと何かが動いた。 「誰かいる!」  英人は工事現場の中へ駆け込んだ。積み上げてある資材に足を取られながら、あたりを見回す。所々ついているランプで、辛うじて様子が分かる程度だ。少し離れた所に階段がずっと上まで続いている。鉄板むき出しのままだ。  英人は、猛然と駆け上がった。あれは何階ぐらいだったろう? 七階か八階か。ともかく最上階に近いあたりだった。息を切らしながら、四階位まで上がった時、ふと耳を澄ました。ブーンというモーターの唸《うな》りが聞こえる。音はずっと離れた所を、下へどんどん降りて行くようだった。 「——しまった! エレベーターだ!」  作業用のエレベーターに違いない。英人は階段を飛ぶように駆け下りた。間に合うかどうか。——一階へ下り着くと、見当をつけて、エレベーターを捜し回ったが、やっと見つけた時には、もう中は空で、近くには、誰の姿もなかった。諦《あきら》め切れずにあたりを歩き回っていると、救急車のサイレンが近付いて来た。 6 追 跡  やがて夜が明ける。——真知子は、病院の待合室で、うとうとしていた。 「真知子、起きろよ」  目を開くと、英人が覗《のぞ》き込んでいる。 「英人さん——。幸枝は?」 「大した事はない。奇跡だよ。鉄骨は直接には一本も当たらなかったんだ。はね返った鉄骨に腕を打たれてけがをしただけさ」 「よかった!」 「ただ、ショックが大きいんで、今は睡眠薬を飲んで眠ってる。君はもう帰った方がいいよ」 「うん。警察は?」 「僕と先生とで話しておいた。今ごろ現場を調べてるさ」 「怖いわね。一体なぜ私たちが……。私が、かしら?」 「さあね」 「幸枝はきっと巻き添えを食っただけなのね。ああ、先生に申し訳ないわ」 「そんな事、考えるなよ」 「先生は?」 「幸枝さんのそばについてる。さ、送っていってあげるよ」 「ええ」  英人に肩を抱かれて、真知子はほの暗く静まりかえった病院の廊下を歩き出した。エレベーターで五階の病室から一階へ降りる。エレベーターを降りて、右手の深夜用出入り口へ折れた真知子は、隣のエレベーターの扉が閉まるのを何気なく見て、足を止めた。 「どうした?」 「今のエレベーターに乗ってたの……西田先生だわ」 「西田先生?」 「美術の。ほら、この間、少し妙だった……」  英人は受付へ駆け寄った。当直の看護婦へ、 「今、エレベーターへ乗った人、何か訊《き》いて行きましたか?」 「ええ。ゆうべ事故でけがをなさった娘さんのお部屋はどこか、と」 「何の用か言いましたか?」 「親族の者だと……」  真知子がエレベーターの階数表示を見て、 「ねえ、三階で止まってるわ!」 「よし、もう一台の方で上がろう。先に五階へ着けるかもしれない」そして当直の看護婦へ、「五階の詰め所に警官が一人います。すぐ電話して、病室を警戒してくれと言って下さい!」  二人は今降りて来たばかりのエレベーターへ駆け込むと、五階へ上がって行った。古いエレベーターなので、じりじりするほど遅い。 「畜生! 階段を上がるんだった!」 「やっぱり西田先生が犯人なのかしら……」 「他に何の用がある? 死んでいないと知って、殺しに来たとしか考えられないじゃないか。大体、この事件をまだ誰《だれ》も知らないはずなんだぜ、犯人以外は」  ようやく五階へ着いて、扉が開く。 「うまいぞ! あっちは今着く所だ」  隣のエレベーターが上がって来た。英人は、正面で身構えた。扉がガタンと音を立てて開いた。  ——誰も乗っていない。二人は顔を見合わせた。 「三階で降りたのよ、きっと!」 「病室へ行こう」  幸枝の病室の前に、制服の警察官が立ちはだかっていた。万一を考えて警察が残しておいたのだ。英人は手短に事情を説明した。 「僕はここにいます。階段を見て来てくれませんか」 「承知しました。気を付けて下さい」  警官は階段の方へ走って行った。 「来るかしら?」 「さあ。君に見られたと知って逃げたかもしれない。ともかくここに頑張っていれば、無理に入ろうとはしないよ」  二人はドアの前に立って油断なく目を光らせた。階段の方からも、何の物音も聞こえない。 「——逃げたかな」 「そうならいいけど——」  その時、病室の中から、ガチャンとガラスの砕ける音がした。  幸枝は静かな寝息をたてて眠っていた。倉林先生は、傍《そば》に椅《い》子《す》を寄せて、じっと幸枝の寝顔に見入っている。明かりを消した病室は薄暗いが、窓のカーテンを開けてあるので、外のネオンの赤い光が、わずかに洩《も》れて来て、天井に奇妙な模様を描き出している。  倉林先生はそっと手をさしのべて、幸枝の額に当てた。幸枝が大きく息をついて、少し身動きしたが、またそのまま眠り続けた。倉林先生は、このまだあどけなさの残る妻を、愛情のこもった眼差しで見つめていた。しかし、その額には、深い苦悩のしわが刻まれて、何か心中の並々ならぬ闘いを物語っていた。 「——どうしたらいいんだろう」  思わず口に出して呟《つぶや》くと、先生は深いため息をついて、両手に顔を埋めた。  窓にかすかな物音がして、倉林先生は顔を上げた。——一つの顔が、ガラス越しにこっちを見ている。  倉林先生は素早く立ち上がると、座っていた椅子を振り上げて、窓へ向けて投げつけた。窓が粉々に砕ける。  英人と真知子が病室へ飛び込んで来た。 「あいつだ!」先生が窓を指さして、「あいつが窓から!」  英人は大きく穴の開いた窓へかけ寄ると、破片に用心しながら、押し上げて、外へ頭を出した。窓の下のわずかな出張りの上を、そろそろと小柄な男が外壁にぴったり張りつくようにして窓から数メートルの所にある非常階段の方へ進んでいた。  真知子も窓から顔を出して、 「西田先生よ!」と叫んだ。  英人は下の路上へ目をやった。さっき階段を下りて行った警官の姿が、病院の玄関あたりに見えた。 「おーい!」  声をふりしぼって叫ぶと、警官があちこち見回している。西田の方はやっと非常階段へ辿《たど》りついて、手すりを乗り越えていた。 「おーい! こっちだ! こっち!」  警官はやっと英人に気付いて窓の真下へ走って来た。 「非常階段だ! 捕まえてくれ!」  警官は非常階段を下りて来る人影を認めて、下からかけ上がって行った。警官に気付くと、西田は急に足を止め、今度は非常階段を逆に上がり出した。 「上へ行くぞ!」  英人は病室を飛び出した。真知子も後に続く。  非常階段へ出ると、西田と警官はもう頭上にいた。英人も上がり始めた。真知子がついて来るのに気付いて、 「君は下にいろ!」 「いやよ!」  押し問答する暇はない。英人はどんどん階段をかけ上がって行く。真知子も遅れながら、上がり続けた。  真知子は息を切らしながら、やっと屋上へ上り着いた。平《へい》坦《たん》でかなり広い。一隅に階段とエレベーターの降り口、水のタンクがあり、TVの大きなアンテナが、明けて来る空に黒くシルエットを描いている。洗濯物を干すひもがずっと張りめぐらされていて、まるで目の粗い網の下に入り込んでしまったような気がする。  みんな、どこだろう? 見回していると、遠い隅の方から、 「馬鹿なまねはよせ!」  という声がした。急いで駆けつけてみると、警官と英人が、西田を隅へ追いつめている所だった。西田の手にはナイフらしいものが光っている。 「馬鹿な事はよせ。ナイフを捨てるんだ」  警官が拳《けん》銃《じゆう》を抜いて構えながら、じりじりと近付く。  真知子は悪夢のような光景を呆《ぼう》然《ぜん》と見つめていた。あの西田先生が、今はナイフを手に、まるで別人のように邪悪な顔つきで立ち向かっている。 「おお、君もいたのか!」  西田が真知子に気付いて声を上げた。「このナイフが誰のものか知ってるかね? 小野治子のものさ。あいつは俺を殺すつもりだったんだ。友人の仇《かたき》だ、とね。そうは行かない! こっちが先手を取ってやった」 「なぜ? なぜ殺したの!」真知子は叫んだ。 「——みんな若くて、夢があった。未来があった。一番いい時に死んだんだ。一番幸せな時に死なせてやった。感謝してほしいくらいだよ。君だって美しい。若くて美しくて……」  西田がナイフを投げつけようと振り上げた。警官の拳銃が鋭い銃声と共に発射されて、西田の体が一メートルほど飛び上がって転がった。  恐ろしい静寂がやって来た。——真知子は凍りついたようにその場に立ちすくんでいた。警官と英人が、西田の傍へ駆け寄った。しばらく、二人が何やら西田へ言葉をかけているのが聞こえたが、やがて、警官が急いでエレベーターの方へ走って行くと、英人も立って真知子の方へ歩いて来た。 「たぶんもうだめだろう」 「やっぱりあの人だったのね……」 「気が狂ってたんだ、きっと」 「そうね……」  やがてエレベーターから、数人の医師が降りて来ると、西田を担架へ載せて運んで行った。  真知子は思いきり、英人に抱きついた。 「これですんだのね。何もかも」 「ああ、もう大丈夫だよ」 「——キスして」  二人は唇を重ねた。——背後で、エヘンと咳《せき》払いがした。 「あの——」若い警官は、言いにくそうに、「あまり目立つと、その、軽犯罪法違反になりますので……」  だが、これで何もかもすんだ訳ではなかった。  西田はあの後、間もなく死亡し、供述が取れなかったので、真知子と英人は警察で、長い事情聴取を受けなければならなかった。  マスコミは「連続殺人犯は高校教師!」と大見出しを掲げ、手塚学園もしばし、週刊誌や雑誌記者で溢《あふ》れそうになった。しかし何分夏休みの最中でもあり、生徒たちにはそれほどの悪影響はないようだった。  手塚校長は理事会へ辞表を出したが、理事会は全員でこれを拒んで、慰留した。校長もかなり迷ったあげく、新たに理事の一人を副校長に置いて、校長の職を続ける決心をした。  全体として、学校側が心配したほどは学校の評判は落ちなかった。一教師の異常性格による犯罪という事で、学校の責任は別に問われなかったからだろう。むしろ、この事件のせいで、手塚学園の名が全国に知れ渡り、週刊誌の記事などで、「恵まれた環境」「のびのびとした自由な校風」などと書かれたりしたので、入学の問い合わせがずいぶん来て、事務室をてんてこまいさせた。この分では、来年の入学試験は大変な競争率になりそうだった。  マスコミが好意的に扱ってくれたのは、父兄に有力者が多いせいもむろんあっただろう。真知子は新聞でも名を伏せてくれたので、マスコミ攻勢に悩まされる事もなく、ほっとするやら、がっかりするやら。  英人が大活躍して真知子を守ってくれたというので、父正造も、すっかり英人を気に入った様子だった。卒業したら、ぜひ私の会社へ入ってくれと言い出して、英人を喜ばせた。真知子が喜んだのは言うまでもない。  おまけに、ある晩、居間でテレビを見ていて、正造がこんな事を言い出した。 「真知子」 「なに?」 「お前、神山君が好きなのか?」 「ええ。どうして?」 「どうなってるんだ?」 「何が?」 「二人の間さ。結婚の約束でもしてるのか?」 「いやね、パパ、何言い出したの。まだそんなことまで——」 「赤くなったぞ。——もう総《すべ》てを捧げたってわけじゃないんだろうな」  真知子は首筋まで赤くなった。 「変なこと言わないでよ!」 「まあいい。ともかく、子供ができんように気を付けろよ」 「パパったら! 酔っぱらってるの?」 「いいや。しかし、私としてはお前に大学まで行ってほしいな」 「分かってるわ。そのつもりよ」 「ならいい。その前に結婚したいならしてもいいが、大学には行けよ」  真知子は、父の顔をまじまじと見つめた。 「パパ。——本気なの?」 「したくなきゃ、もちろんしろとは言わんがね。しかし相手が神山君なら、私も文句は言わん」 「ありがとう、パパ! その時になったら、言うわ!」  真知子は、考えていた。高校を出るまで、あと一年半余り。そうしたら結婚しよう。英人さんは会社へ行って、私は大学へ行く。子供は?——急ぐ事ないわ。大学を出てからで充分。  英人も、今は公の婚約者のように振る舞っていた。といって二人の仲は、まだ別れの時のキスから先へは進んでいないのだ、念のため。  夏休みか。——八月ももう後半。九月になったら、延びていた試験もある。そろそろ宿題もやらなきゃ。でも、何ていう夏休みだったろう! 悲劇も冒険も恋もあった。こんな夏休みって二度とないだろうな。……  ところが、夏休みは、これで終わったわけではなかった。  倉林先生と幸枝が、失《しつ》踪《そう》したのである。小金井のアパートを引き払って、二人とも姿を消してしまったのである。幸枝の両親の心配は大変なものだった。あんな事件の後だけになおさらだ。  しかし、間もなく両親の手元へ、幸枝からの手紙が届いた。「二人とも元気ですから、心配しないで。捜さないで下さい。きっと近々戻りますから」というだけの文面で、差出人の住所はなく、消印は大阪になっていた。何だか訳の分からぬままに、それでも両親は胸をなでおろしたのだが……。 「きっと二人きりで、考えたい事でもあったんだよ。そっとしておいてあげよう」  英人はそう言った。 「そうね……」  真知子はうなずいた。二人きりで、考えたい事か……。どんな事情があるにしても、二人きりで、誰にも知られず、どこかにいるなんて、何となく羨《うらや》ましいような気がした。  夏は、そろそろ終わりに近づいていた。 第三部 死者の学園祭 1 新学期始まる  二学期は九月八日から始まった。登校して来た生徒たちは、しばらく話題に事欠かなかった。話題の中心は、もちろん真知子である。みんなから、あの時はどうだった、この話は本当なの、と質問攻めにあって閉口した。  その他、C組の担任が音楽の三沢先生になっていた。倉林先生が幸枝と姿を消した事は、学校としても公表したくなかったので、倉林先生は急に田舎《 い な か》に用ができて、しばらく戻れないのだ、と三沢先生から説明させた。生徒たちは不平たらたらだったが、三沢先生が、 「長池幸枝さんは、倉林先生の奥さんなので、ご一緒に行かれて、やはりしばらく休学します」  こう告げた時のクラス中の驚きたるや、ゴリラが授業を受けに入って来ても、これほどではあるまいと思えるほどだった。  ひそかに倉林先生に憧《あこが》れていた生徒など、今にも泣き出さんばかり。 「ひどいわ、あんまりだわ」  嘆きの声があちこちから上がった。真知子も初めて聞いたような顔をして驚いてみせた。前から知ってて黙っていたなんて言おうものなら、正に殺されかねない雰囲気だったからだ。  しかし、冷酷非情に、試験は始まった。五日間の試験が終わると、クラスの中も、何となく興奮がさめ、落ち着いて来た。  もう九月半ばになって、みんな、新たな対象に熱中し始めた。——学園祭である。 「学園祭は十一月三、四、五日」  ポスターが貼《は》り出されると、それを合図に、各クラブは一斉に準備に入った。今年のテーマは。目玉は何にしようか。アッとみんなを驚かす趣向はないか。アイディア、アイディア、アイディアだ!  各クラブとも部屋の中でひそかに策を練り、互いに自分の所の展示を秘密にし合って競うのである。学園祭では、見学に来た父兄や、教師たちで投票が行われ、最もユニークで、優秀と認められたクラブは、次期のクラブ予算を倍増してもらえる。だから、みんな必死である。  真知子はどのクラブにも属していないので、高みの見物、のんきなものだが、何しろ大事件の経験者である。話をしてくれとか、顧問に名前だけ貸してくれとか、代議士並みの扱いだった。  ちょっと変わった所では、「二科展」ならぬ「一科展」と称して、美術部が、一般生徒から絵を募集し、コンクールをやって一等には賞金五万円を出すと公示したのが目立った。「技術より着想の面白さを重視する」との事なので、「五万円もくれるんならやってみようかなあ」という子が、結構いた。また作品は、学園祭当日、父兄が希望すれば販売する、とも書いてあったが、生徒の絵を買って行く馬鹿が果たしているだろうかと、みんな噂《うわさ》し合った。  そんなある日の帰り道、真知子は、演劇部の幹事をしている貴島美樹に声をかけられた。美樹は、すらりと背の高い美人で、B組では秀才の一人だった。 「ねえ、結城さん、ちょっとお話しがあるの」 「なに?」 「どこかで甘いものでも食べながら、どう?」 「いいわよ」  駅に近い甘い物の店に入って、お汁粉を食べる。真知子は、美樹が、瞬く間にお汁粉を平らげ、二杯めを頼むのを見て目を丸くした。 「私って、甘い物に目がないの」  美樹はそう言ってから、「ところでね、結城さん——真知子さんって呼んでいい?」 「いいわよ、もちろん」 「じゃ、私は美樹って呼んで。——実は今度の学園祭での演劇部の演《だ》し物の事なの」 「私に何か?」 「何をやるか、色々みんなで騒いだんだけど、まとまらないのよ。それでね、一人が、『身近であんなドラマチックな事件が起こっているんだもの、あれを劇にしましょうよ』って言い出したの。つまり、あなたの冒険の話を舞台でやろうっていう訳よ」 「また、物好きねえ」 「亡くなった人たちには、何となく悪いような気もするけど、でも、決してふざけた気持ちで取り上げるんじゃないの。本当よ。やっぱり、私たちにとっては大事件だったし、あれがどういう意味を持っていたのか、もう一度考えてみるのも悪くないと思ったの。——ちょっと失礼」  美樹は二杯めのお汁粉を、あっという間に空にすると、 「もう一杯ちょうだい。——で、どうかしら。あなたの手で台本にしてみない?」  真知子はびっくりして、 「私、台本なんて書いた事ないわよ」 「いいのよ。ただ大筋と、事件の具体的な所を書いてもらえば。後は私たちで舞台にかけられるように形を整えるから。どう?」 「そうねえ……」 「ぜひ、お願い! この通りよ!」  美樹は両手を合わせて拝んだ。 「やめてよ、そんなの。——ちょっと考えさせてちょうだい」 「困っちゃったわ」  真知子が事情を話すと、英人は興味を持ったようだった。 「しかし、その考えは悪くないじゃないか。みんな事件の事は曖《あい》昧《まい》な形でしか知らされていないからな。ここではっきりとさせておくのはいい事だと思うね」 「でも、私、台本なんて書けないわよ」 「台本か……」  英人は何か考え込んでいたが、やがて、 「僕が書こうか」と言った。 「あなたが?」 「そんなにびっくりしなくたっていいだろう」 「だって——書いた事あるの?」 「真似ごとをやった程度だがね。どうだい、やらせてみないか」 「いいけど、もちろん。それじゃ、演劇部の人に会わせてあげるわ。でも……」 「何だい? 気に入らないなら——」 「そうじゃないのよ」 「でも、気が進まないみたいだよ」 「彼女、美人なのよ」 「誰が?」 「演劇部の子。貴島美樹っていうの。頭が良くってスマートで、その上美人と来てるの。会わせるのはいいけど、浮気されたら……」 「考えすぎだよ」  英人は笑って真知子を抱き寄せると軽く唇を合わせた。——お断りしておくが、二人は、真知子の部屋にいたのである。 「——ね、あの二人、どこにいるのかしら」 「幸枝さんと先生かい?」 「うん。——あの後、便りがないのよ。どうしてるのかな」 「あの二人なら心配ないさ」 「私だってそうは思うけど。でも、何か事件と関係があるのかしら」 「事件は終わったじゃないか」 「そうね。——たぶん」 「何か気になるの?」 「うん……」真知子は考え込みながら、「西田先生が犯人だったのは分かったわ。でも、なぜ、あの三人が殺されたのかしら? たまたま選んだにしても、何か理由があるんじゃないかと思うの。それに、『絵と宝石』のカセットの事だって、分かってないし。私が視聴覚教室で見た事は全部夢だったとしても、治子のノートにカセットの事が書いてあったのは事実よ。あの件は何一つ分かっていないじゃないの」 「治子さんの思い過ごしだったのかもしれないよ」 「でもそうだとすると変よ。治子さんは西田先生をどうして犯人だと知ったのかしら? あの登山ナイフをわざわざ買い込んだりしたのはなぜかしら?」  英人は考え込んでしまった。  その時、母が顔を出した。 「真知子、お客さんよ」 「誰《だれ》?」 「さあ、学生さんみたいだけどね」  真知子は英人と一緒に、応接間へ行った。ソファに座っていたのは、何となく薄汚れた感じの、度の強いメガネをかけた学生だった。 「あの、私が真知子ですが」 「ああ、どうも始めまして。僕は金山といって、その——小野さんの家に下宿してたものなんですが……」 「小野さん? ああ、治子さんのアパートに」 「そうです。治子さんに頼まれて、ちょくちょく人の宿題をやって、稼がせていただいてました」 「ああ! じゃ、あなたが東大生?」  金山という男、苦笑いして、 「どうも治子さんは、そうふれ込んでたようですが、正確に言いますと、東大に三浪してる浪人なんです」 「そうなの」真知子は笑って、「治子さんらしいわ」 「そうです。いい娘さんでした。全く——気の毒な事で」  金山は何となくしみじみと言って、 「で、実は今日お伺いしたのはですね、今度僕もついに東大を諦《あきら》めて、田舎へ帰る事にしまして」 「まあ」 「で、今頃になって何ですが、ちょっとお耳に入れておいた方がいいかと思う事があったもんですから」 「どういう事ですか?」 「はあ、実は治子さん、僕の部屋へよく遊びに来ていまして、例の宿題を僕がやっている間、よく、部屋に置いてある雑誌やら本やらをめくって時間をつぶしていたんです。で、殺される前の日も、治子さんが遊びに来まして、部屋に置いてある美術全集をひまつぶしにめくっていたんです」 「美術全集?」 「ええ。いや、僕はさっぱり絵なんかには興味がないんですが、友達から借金のかたに取り上げた全十巻の全集なんです」 「それで?」 「ところが、治子さん、何だかいやに熱心にそれを見始めましてね、そのうち僕は用があって出かけたんですが、ずっと見ていていいか、といやに真剣な様子で訊《き》くんですよ。僕は自由に見ていいよと言って、出かけたんです。用が長びいて、帰ったのは、三時間もしてからでした。ところが、驚いた事に、治子さん、まだ美術全集を見てるんですよ。一冊残らず箱から出して積んでありました。僕が、『何を捜してるんだい』と訊くと、目を輝かせて、『分かってきたわ、ありがとう』と言って、本を箱へ戻しもしないで、出て行ってしまいました。その様子が何かこう、重大な決心をしているようで、ただ事でなかったもんですから、気になったんですが、まさかその次の日に、あんな事になろうとは……。僕にも大変ショックだったものですから、美術全集の事はすっかり忘れていたんです。ところが昨日、荷造りしながらいらない本を売り払おうと選んでいるうちに、ふっと思い出しましてね。——で、治子さんを殺した犯人を見つけたのがあなただって、治子さんのお母さんに聞いたもんですから、あなたに一応お話ししておいた方がよさそうだと思って、こうしてお邪魔したわけです」 「わざわざすみませんでした」 「ちょっと訊きたいんですが」英人が口を挟んだ。「治子さんが、全集のどの絵を特に見ていたか、分かりませんでしたか?」 「それが、僕は出かけちゃったもんでね……」 「一つでもいいんですが」 「——すみませんが、さっぱりです」 「そうですか」  英人は落胆した様子で言った。 「どうも、曖昧な話で……」 「いいえ、本当にありがとうございました」  帰りかけた金山へ、英人が、 「その美術全集、まだ手元にありますか?」 「いや、実は古本屋が昨日、持っていっちまいました」 「残念だな……。どこの古本屋です?」  英人は、金山から、古本屋の場所を聞いてメモした。 「どうするの?」  金山が帰ってから、真知子は英人に訊いた。 「まだその店に置いてあったら、見せてもらおうと思ってね」 「カセットに入っていた『絵』と何か関係があるのかしら?」 「分からない。ともかくちょっと僕はこの古本屋へ行ってくるよ」 「私も行きたいけど、これからママと待ち合わせしてるの」 「ああ、そうだったね。後で電話するよ」 「お願い」  英人は急いで帰って行った。  美術全集から、治子は何か「絵」についての手掛かりをつかんだのだろうか。その翌日、治子が殺されたのは偶然ではあるまい。そこにおそらく西田が犯人である事を示す何かが隠されていたのだ。  犯人の西田が死んでしまっても、総《すべ》ての謎《なぞ》が解明されない限り、真知子は心が晴れなかった。——今度こそ何か分かるかもしれない。  しかし、期待は裏切られた。英人がかけつけた時、すでに美術全集は誰かに買われた後だったのだ。 2 計 略 「どうだったね、料理は?」正造が訊《き》いた。 「満腹です。あんなステーキ、初めてですよ」  英人は大仰に息をついた。 「君のような若い者は、あんなステーキぐらい二、三枚平らげんといかんよ」 「パパったら」真知子が言った。「動脈硬化の原因になるのよ、お肉の食べすぎは」 「いや、ご心配なく」英人が言った。「食べすぎるほど肉を食べられる身分になる頃は、もう歯がなくなってるよ」  Tホテルのレストランで、三人は食事を取っていた。——もう十月も半ばで、広い窓越しに、眼下に広がる夜景も、澄んだ、冷たい大気の中に沈んで見える。  真知子は、淡い紫のワンピースを着て、いつになく、大人《 お と な》びた格好だった。英人の方もきちんと紺の背広を着込んで、一見新入サラリーマンといったイメージだ。 「おい、真知子、あまりワインを飲みすぎるなよ」 「平気よ。酔ったら英人さんが運んでってくれるもの」 「酔うだけならいいけど、暴れないでくれよ」 「あら、失礼ね。女のトラって魅力的なんですってよ」 「いくら魅力的でも、かみつかれるのはごめんだよ」  三人で食事をするのも、もうこれで何度めだろう、と真知子は思った。今では、父と英人もすっかり打ち解けて話ができるようになった。 「——そうだ。この間、ちょっと聞いたんだが、神山君、今度の学園祭でやる劇の台本を書いたんだって?」 「あれですか」英人は頭をかいて、「いや、どうってしろものじゃないんですよ」 「いや、演劇部の連中はすっかり夢中になって、練習しとるそうじゃないか。もっとも中身は極秘扱いで、誰《だれ》にも教えてくれんがね」 「私にも教えてくれないのよ」真知子が英人をにらんで、「いくら訊いても、とぼけてるんだから」 「その方が面白いじゃないか。それに事件は君だってよく知ってるんだし」  本当にしゃくにさわるったら、ありゃしない。真知子は内心不平たらたらだった。いくら台本を読ませてくれと頼んでも、英人はのらりくらりと逃げてしまうのだ。——事件、といえば、倉林先生と幸枝の行方は依然知れなかった。そろそろ学校側も何とか手を打たなくては、と考え始めているようだ。 「パパ、学園祭には来られそう?」 「まあ、理事としての立場もあるからね、何とか出るようにしたいと思ってるよ」 「パパの約束はあてにならなくて」 「こいつめ、そのあて外れのおかげで、お小遣いをもらっていられるんだぞ!」  三人は大笑いした。  食事を終えて、下へ下りると、三人はロビーをぶらぶらと歩いてみた。色々な外国製品を売る、洒《しや》落《れ》た店が並んでいて、覗《のぞ》いて歩くだけでも、飽きないものだ。 「ねえ、あの指環、すてきね!」 「どれどれ」正造がウインドを覗いて、「なに、余りいい石じゃないよ」 「そう? きれいじゃない」 「見る目がおありなんですね」英人が言った。 「そうでもないがね」正造は笑って、「商売柄、どんな物でも、一流品を見分ける目を持っていないとね」 「大したもんですね」  三人はまた歩き出した。すぐ目の前の花屋から、青いブレザーを着た娘が出て来て、三人と向かい合う格好になった。 「——幸枝!」  真知子は足を止めて、呆《ぼう》然《ぜん》とした。 「真知子……」  幸枝は一瞬、懐かしそうに、微《ほほ》笑《え》みかけたが、突然、何を思ったのか、くるりと背を向けて、駆け出して行ってしまった。 「幸枝! 待って!」 「ここにいろ、僕が追っかける」  英人は真知子を制して、駆け出して行った。 「パパ、一体、どうしたのかしら? なぜ逃げちゃったのかしら?」 「分からんね。——しかしあの娘がここにいるんだから、倉林先生も東京へ戻っているに違いないね」  ——幸枝は、驚く客の間をすり抜けて、入り組んだ廊下を右へ左へ、めちゃくちゃに走った。しばらく走ってから、足を止めると、振り向いて、誰もついて来ないのを確かめ、やっとほっとした表情になった。さすがに息が切れて苦しかったが、あまりうろうろしてはいられない。あちこち見回して、「エレベーター」という矢印を見つけると、急いで歩いて行った。  突然、行く手を人影が遮って、幸枝はぎくりとして立ち止まった。 「いつまでも逃げてはいられないよ」英人は言った。「一度、ゆっくり話をしよう」  ——真知子はじりじりしながら、英人の戻るのを待っていた。 「ああ、やっと戻って来たわ。どうしたの?」 「だめだ」英人は首を振って、「あちこち捜し回ったけどね、見当たらないんだ。ごめんよ」 「仕方がないさ」正造が言った。「ホテルの中じゃ、いくらでも姿を隠す所があるからね」 「でも、どうして逃げたりしたのかしら? いくら考えても分からないわ」 「まあ、そう考えていても仕方がない。さ、帰ろうじゃないか」  三人は帰路についた。——真知子は、車の中でほとんど口をきかなかった。幸枝の顔に一瞬浮かんだ微笑は、以前の通りの親しみのこもったものだった。それなのに、なぜ、急に逃げ出してしまったのだろう。なぜ? なぜ? 真知子は考え続けた。 「今《こん》日《にち》は」 「あら、結城さんのお嬢さま、いらっしゃいませ。ずいぶんお久しぶりですわね」  赤坂にある、真知子のなじみのブティックである。決して広くはないのだが、Gパンから、イヴニングドレスまで、何でも揃《そろ》っていて、しかも趣味が良くて上品なのだ。店を経営しているのは、水木靖子という四十歳ぐらいの、上品な婦人だった。  真知子は東京へ来てすぐ、母の知り合いに紹介されて来てみてから、たいていの服はここで買っているので、水木靖子の方でもちゃんと真知子に似合いの服を選んで取っておいてくれるのだ。 「とてもお嬢さんに似合いそうなワンピースが入りましてね、取ってあるんですよ」 「わあ、着てみたいな。でも、ちょっと太ったから、大丈夫かしら」 「大丈夫ですよ、着てごらんになったら」 「そうするわ」  試着してみて、すっかり気に入った。まるであつらえたようにぴったりして、窮屈でない。 「ぜひいただくわ」 「ありがとうございます。博子さん、お包みして」  これも顔なじみの若い女性が、早速、ワンピースをたたんで箱へしまう。そこへ電話がかかって、水木靖子が奥の事務室へ入って行った。真知子はフロアにある布地や、型見本をぶらぶら見て歩いていた。 「ああ、そういえば」博子がふと気が付いたように、「この間のシャツとGパン、間に合いまして?」 「シャツとGパン?」真知子は訊き返した。「何のこと?」 「あら、いけない」と口に手を当てて、「お嬢さんには内緒だったんだわ」 「内緒って? ねえ、博子さん、教えてちょうだい。何なの?」 「困っちゃったな。ね、私がしゃべったってこと、先生には黙ってて下さいね。口止めされてるんですから」  先生というのは水木靖子のことで、博子はここで服飾デザインを勉強しているのだ。 「絶対にしゃべらないわよ。何のことなの?」 「じゃ、全然お気付きにならなかったんですね。それなら大成功だわ」 「ねえ、早く言ってよ」 「いえ、この間——もう大分前ですけど、夜中の十二時頃、お宅のお母様が店にみえましてね」 「ママが?」 「ええ。ちょうど私たち急ぎの仕事で残ってたんです。でもびっくりしましたわ」 「一体何の用で?」 「それがね、お嬢さんが前にここでお買いになったスポーツシャツとGパンに、タバコの火で焼けこげを作っちゃったんですって。ところが、お嬢さんは次の日にピクニックがあって、それを着て行こうと出しておかれたんですね。お嬢さんはあれがとっても気に入ってるんで、だめにしちゃったと知ったら大変だっていうわけなんです。で、何とか店に全く同じものがあったら、いただいて行って、お嬢さんが眠ってる間にすり替えておけば、分からないで済むんじゃないかっておっしゃるんですの。他ならないお母様のお頼みですし、本当に真剣なご様子でしたから、私と先生で、在庫をひっくり返しましてね、やっと同じのを見つけたんですの」 「どんなシャツ?」 「ほら、六月頃にお買いになった紺の無地の……。Gパンと一緒にお持ちになったでしょう」 「ええ——ええ、憶えてるわ」真知子は必死に平気な風を装って、「で、ママはそれを買って帰ったのね」 「ええ、表にタクシーを待たせておいでで、急いでお帰りになりました。お嬢さんには絶対知らせないでくれっておっしゃって」 「それ——いつ頃のこと?」 「さあ、いつだったかしら……」 「七月の……終わり頃?」 「ええ、そうです! 七月の三十日の夜だわ。確かです。翌日が友達の結婚式だったんで、早く帰りたいなと思ってたのを憶えてますわ。夏の真っ盛りに結婚式なんてねえ、変わってるでしょう? だいたい招《よ》ばれた方だって着る物に困っちゃいますわ。でも大体ちょっと変わった人なんですの、その友達」  しかし、真知子はもう話を聞いてはいなかった。いつの間にかワンピースの入った箱を下げて、店を出ていた。  赤坂の町の中を、ただやみくもに歩き続けた。どこへ向かって歩いているのか、全く考えもしなかった。——ああ、何てことだろう!  あのシャツに穴があいていなかったのも、Gパンが汚れていなかったのも当たり前だ。全く同じ新品を着ていたのだから。一体これはどういう事なのだろう? 答えは分かり切っていたが、それを真っすぐ見つめるのが怖かった。しかし、いや応なく、納得しなければならなかった。  真知子が七月三十日の夜、学校へ忍び込んだ事、視聴覚教室で見聞きした事、そして誰かに薬をかがされて気を失った事——それは全部、実際に起こったのだ! 夢でも何でもなかったのだ。真知子にあの出来事を夢だと思い込ませようとして、わざわざ同じ服を捜し、部屋のベッドへ寝かせておいた。そして学校の方も、運転手たちのタバコの吸いがらから何から、何一つ痕《こん》跡《せき》を残さないように片付けたのだ。あの秘密の入り口は? そんなものは、とっくに知られていたのに違いない。シャツを引っかけた針金の端もペンチで切って丸めておけば分かりはしない。——真知子一人のために、何と手間のかかる事をやったのだろう。  それにしても、自分の母が、その計略の一端を受け持っていたというのは、真知子には大変なショックだった。母が知っていたのなら、父だって知らないはずはない。一体何がどうなっているんだろう? 一体、誰を信用すればいいんだろう? 3 前 夜 「いよいよ明日は学園祭だね」 「ええ……」  英人は真知子をじっと見て、 「どうしたの?」 「何が?」 「最近元気がないね」 「そう? そんな事ないわ」 「いや、いつも何か考え込んじまってるよ。何かあったのかい?」 「別に何も」  部屋のステレオから、ヴィヴァルディが流れていた。——真知子は、父と母が自分をだましていた事を、英人に話さなかった。話せば、ずいぶん気が楽になるのかもしれない。けれど、なぜか話す気になれなかったのだ。 「明日は僕も朝から行ってるよ。舞台げいこを見たいからね」 「ずいぶん熱心にやったわね」 「なに、珍しいからさ。そう期待してもらうほどのものでもないよ」 「パパも明日は行くっていってたわ」 「それはよかった。楽しんでもらえるといいんだけど」 「題は何ていうの? まだ教えられないの?」 「もう言ってもいいな。『死者の学園祭』」  真知子は、何となくぞっとした。 「陰気な感じね」 「仕方ないよ。中身が中身だからね」 「怖いの?」 「失神するほどじゃないと思うけどね」  真知子は時計を見て、 「もう九時ね。——帰る?」 「そうだな」 「コーヒー一杯飲んで行く? 入れるわ」 「頼むよ」  真知子がコーヒーの盆を手に、部屋へ入って行くと、英人はぼんやり窓際に立って、外を眺めていた。ベッドに腰をかけてコーヒーを飲みながら、 「外を見て何考えてたの?」 「こう考えてたのさ。——きっと君は、いい奥さんになるだろうってね」  英人の言い方が、何だかよそよそしく聞こえて、真知子は気になった。 「愛していれば、誰だっていい奥さんになれるんじゃない?」 「さあ——それはどうかな」英人は真知子の手を取ると、「お互いが好きだって事と、いい夫婦になる事とは別さ」 「どうしてそんな事言うの? 何だか変よ、英人さん」 「そうかい? いや、ちょっと落ち着かないだけさ。明日の事でね」 「何だか学園祭が人生の一大事みたいね」  英人はちょっとびっくりしたような目で真知子を見つめていたが、やがて、 「——じゃ、今日は帰るよ。お父さんお母さんによろしくね」と立ち上がった。 「分かったわ。じゃ明日は向こうでね」  玄関まで来て、真知子は上を向いて目をつぶった。いつも軽くキスして帰るのが習慣なのだ。英人がいきなり真知子を抱きしめた。真知子はちょっとびっくりして逃れようとしたが、すぐに力を抜いて抱かれるままになっていた。いつものやさしいキスと違った、燃えるような激しさを感じた。真知子は怖くなった。どうしたんだろう?  いつもと違う。こんなに情熱的だったことないのに。どうしようって言うのかしら。……  英人は、真知子を離すと、じっと刺すような目つきで、真知子の目を見据えた。 「——じゃ、明日ね」  そう言うなり、英人はほとんど走るように玄関を飛び出して行ってしまった。  後に残った真知子は、今のキスのときめきがまだ収まらぬままに、ぼんやりと立っていた。——何だかおかしい。今のキスは、まるで、もうこれで二度と会えない時の、別れのキスみたいだった……。  自分の部屋へ戻ると、真知子は明かりを消して、ベッドに横になった。こうして暗く沈んだ部屋の中で、じっと横になっていると、不思議に気持ちが落ち着く。窓から洩《も》れて来る光が、天井にほの白く、淡い帯を描いている。  一人きりでいるって、いいものだ、と思った。英人と二人でいるのは、もちろん楽しい。でも恋は感情の激しい波立ちで、安らぎではない。——安らぎか。  真知子は、あの秘密を知って以来、家の中にいても、心が安らぐ事がなくなってしまった。父も母も信じられないとなったら、家なんて一体何だろう。  それにしても、あの視聴覚教室の奇妙な光景は何だったのか。父と母が、それとどう関係しているのだろう。あの時までに、すでに三人の生徒が殺されていたのに、真知子だけは傷一つつけずに、あんなに手の込んだことまでして、夢だと思わせようとしたのは一体なぜなのか。真知子は、西田があの三人を殺したにしても、その理由は、視聴覚教室のできごとと関係があるに違いないと今では確信していた。  しかし、そうなると、父と母もまた、三人の生徒の殺害事件に関係があることになる……。  何もかも、分からない事だらけだ。倉林先生と幸枝が姿をくらましているのも、何か関係があるのだろうか? まさかあの二人まで殺人事件に関わっていたはずはあるまい。けれど、あの落ちて来た鉄骨は真知子を、でなく、幸枝を狙《ねら》ったものかもしれないし、事実、西田は、幸枝の病室へ忍び込もうとしていた。という事は、幸枝たちも、何かを知っていたと見るべきだろう。  倉林先生の、「はっきりさせなくては」というひとり言についての説明も、ごまかしだったのではないだろうか。やはり先生は犯人が西田だと気付いていたのではないか。それならなぜ黙っていたのだろう……。  みんな信じられない。みんなが、嘘《うそ》をついて、陰で舌を出しているんだ。真知子は、むしょうに悲しくなった。  玄関で物音がして、しばらくすると恵子が部屋を覗《のぞ》きに来た。 「真知子。——眠ってるの?」 「起きてるわよ」 「神山さんは帰ったの?」 「さっきね」 「そう。おいしい和菓子を買って来たんだけどね、食べない?」  真知子はちょっと迷ってから、 「行くわ」と起き上がった。  居間へ行くと、恵子が苦い日本茶を入れて待っていた。 「パパは遅いのね」 「そうね、そろそろお帰りだと思うけどね」  真知子は、ふと母の顔に、今まで気付いた事のなかった、疲れを見たような気がした。  ——急に、何もかも言ってしまいたい、という思いに駆られた。 「ママ、訊《き》きたいんだけど——」 「なに?」  口を開いてみたものの、どう言っていいのか、しばらく言葉が出ない。 「どうかしたの?」恵子は心配気に、「神山さんの事かい?」 「ううん、そうじゃないの。ママの事よ。ママとパパの」 「私たちの? 何だろうね、一体」 「ママ!」  真知子は心の中のものを一度に投げ出すように、言った。 「私に何を隠してるの? パパもママも、一緒になって、私をだまそうとしてるじゃないの! 何もかも知ってるのよ! 言って! 何を隠してるの?」  恵子は、大きく目を見開いて、真知子の燃えるような眼差しを受け止めていたが、ふっと目をそらして、 「——何を急に言い出すの? びっくりしちゃうじゃないか」 「ママ! ママらしくないわ。私だってママが嘘のつけない人だって、充分承知してるわよ。それを無理に平気な顔をしてなきゃいけなかったなんて、ママには大変な苦労だったでしょう。きっとよほどの事だろうって思うわ。でも私は子供じゃないのよ。何を聞かされたって平気だわ。だから、お願い、何があったのか、教えてちょうだい!」  恵子は顔をじっと伏せて、黙っていた。二人の間に、長い沈黙が続いた。真知子は、母が迷っているのだと感じた。きっと話してくれる。きっと……。  恵子が顔を上げた。 「——真知子」  その時、電話が鳴った。恵子は救われたように急いで立って行った。 「はい——私です。——ああ、大島さんの奥さま、ごぶさたしております。——いいえ、とんでもない……」  真知子は部屋へ戻った。——もう少しだったのに。  母の電話が終わらないうちに、父が帰って来た。真知子は急いでベッドへもぐり込んだ。ドアが少し開くと、 「——もう寝たのか?」と父の声がした。  真知子はじっと枕《まくら》に顔を埋めて動かなかった。やがてドアが閉まって、母が、「お帰りなさい」と言うのが聞こえた。  真知子の目に涙がにじんで来た。一体何があるんだろう。一体何が起ころうとしているんだろう……。  得体の知れない予感に、真知子は身震いした。明日の来るのが、怖かった。 4 学園祭  十一月三日。朝からすばらしい快晴だった。真知子も、ゆうべの陰《いん》鬱《うつ》な気分はいくらか消えていた。  今日は学園祭だ。何もかも忘れて、楽しむ事にしよう。せめて今日一日は。  朝食も早々に、家を出る。父は昼頃までには来る事になっていた。国《くに》立《たち》で電車を降りると、生徒たちが、大勢学園へ向かっている。みんな普段の登校日には思いもよらない軽い足どりだ。  英人はもう学校へ行っているのだろう、と真知子は思った。本当に、ちょっとびっくりするほどの熱中ぶりだった。「死者の学園祭」か。——陰気くさい題名だけど、実際に起こった事件が陰惨なのだからしかたない。ともかく楽しみに見物するとしよう。劇の開演は午後二時だ。午前中は他の展示を見て歩く事にしようか。  校門には、パリの凱《がい》旋《せん》門《もん》を型取ったアーチが作ってある。ボール紙などではない。ちゃんと板で造った立派なものである。門の上に、「武蔵野祭」と大きな文字。手塚学園の学園祭はこういう名で呼ばれているのだ。そういえば、と真知子は思った。パパもこの学校を、「武蔵野学園」と呼んだっけ。  校門を入ると、入り口で実行委員会の委員がプログラムと案内図をくれる。プログラムをめくってみたが、演劇部の演目の所は、大きく「?」が入っているだけだった。  大体、生徒数も多くないから、クラブ活動といってもそう活発ではないのだが、そこは熱意と経済力でカバーして、どのクラブもなかなか凝った趣向を見せていた。  真知子は時々、顔見知りの子に会う度に、ちょっと言葉を交わしながら、ぶらぶらと展示を見て回った。  まだ時間が早いので、父兄はそう大勢来ていない。展示の方も、間に合わなくて、まだ最後の仕上げに必死になっている所もあった。大体人気があるのは、音楽部や映画研究会。ジャズやロック、映画音楽を流したりして、それに冷たい飲み物をサービスしてくれるので、みんな歩き疲れると集まってくるのだ。  こういう一般受けするクラブに比べると、社会部、新聞部、歴史研究会とか、その他、化学部なんていうのは、どうしても展示も勉強の延長みたいなもので、人気がない。化学部の部屋を覗《のぞ》くと、同じクラスの子が、空っぽの部屋で、ぶすっとしている。 「もっと人が来れば入るわよ」  真知子が慰めると、 「絶対当たる企画があったのよ。でも先生が認めてくれないもんだから」とぼやいている。 「どんな企画?」 「『やさしい爆弾の作り方』っていうの」  驚いたのは地学部だ。教室一杯にかぶさるように、おわんのお化けみたいなのが天井からぶら下がっている。 「これなに?」 「プラネタリウムです」  なるほど、床の真ん中に変てこな機械が置いてあり、それを囲んで円形に椅子がいくつか並べてある。 「大変だったでしょうね、これ作るの」 「ええ」係の子は嬉しそうに、「予算のほとんど、これにつぎ込みました」 「どうやってぶら下げてるの?」 「ロープで」 「落っこちない?」 「さあ」係の子は首をかしげて「たぶん、大丈夫だと思いますけど……」  校庭には、模擬店が並んで、屋台のおでんやら、タコ焼きやらタイ焼き、やきとりまである。さすがに一杯飲み屋はなかったが。  グラウンドでは、タコ上げをしている。「タコ上げ同好会」というのがあって、色々変わった形のタコを上げて腕を競っているのだ。広い青空に、色とりどりのタコが、とてもよく似合った。何だか正月と錯覚しそうだ。  真知子は美術部の展示室へ行った。例の「一科展」というのが開かれていて、賞金五万円をめざして集まった作品がずらりと並んでいる。見て歩いたが、父兄に売れそうなのはどうも見当たらなかった。コンクールの方は今日の昼に発表になって表彰式があり、後はこの絵の中で何枚が売れるか見ものという所だ。 「絵をお買い求めの方はこちらへ」というカウンターがあり、驚いたことに手塚校長が、てれくさそうな顔で座っている。  真知子が挨《あい》拶《さつ》すると、 「いや、何しろこの売り上げを図書館の本の購入にあてるっていうんでね、少しでも売れるように、出ろ出ろと言われて——」と笑っている。  やがて昼になった。真知子は英人がいるかと思って講堂へ行ったが、開演までは誰も入れない、と演劇部員が入り口に頑張っている。ちょっと凝りすぎだな、と真知子はおかしくなった。  十二時になったので、食堂へ行った。父も来られれば来る事になっていたのだが、見当たらない。忙しいのだろう。  食事を終えて食堂を出ると、ずいぶん父兄の数も多くなって来て、格段ににぎやかさも増して来ていた。校内アナウンスが流れた。 「ただ今から、美術部主催『一科展』コンクールの一等入賞者発表と表彰式を行います。美術部展示室へお集まり下さい」  校庭の模擬店でタイ焼きを食べてから行ってみると、美術部展示室はあふれんばかりの人。三年生の誰かが五万円を獲得したらしく、大騒ぎしている。同じクラスの子が声をかけて来た。 「結城さん、聞いた?」 「何を?」 「展示の絵ね、買いたいって父兄がずいぶんいるんですってよ」 「へえ! 本当?」 「もう七、八枚売れたとか。それも五千円とか一万円出して買ったんですって。今、校長先生、一人で包装にてんてこまいしているわ」 「物好きもいるもんね」 「例のお芝居、そろそろでしょ。行かない?」 「そうね」  人ごみをかき分けて、中年の紳士が、新聞紙の大きな包みをかかえて出て来た。どうやら例の物好きの一人らしい。大きなカンバスを持ち辛《づら》そうにかかえて、歩いて行く。  ふと、真知子はその紳士の顔に見憶えがあるような気がした。どこで見かけたんだろう? 考えたが、思い出せない。 「ねえ、何しているの?」  クラスメイトに促されて、真知子は講堂へ向かった。 「ずいぶん前評判が高いみたいよ」 「そうね」 「あなたも登場人物に入っているの?」 「知らないわ。全然聞いてないのよ」 「あら、そう。でも色々、私たちの知らなかった事を説明してくれるなんて楽しみね」  あれが総《すべ》てじゃないわ、と真知子は思った。英人にも話していない秘密。あそこにこそ、事件の鍵《かぎ》があるのかもしれないのに……。  真知子は、はっとして立ち止まった。——今の絵をかかえて行った中年の紳士。そうだ、あの晩、視聴覚教室に座っていた男の一人だった。きっとそうだ。  戻ろうかと思ったが、もうずっと遠くに来てしまっていたし、諦《あきら》めて、講堂へ入って行った。    開演二十分前だというのに、もう七分の入りだった。ガヤガヤザワザワと騒がしい。 「パパ、どうしたのかしら……」  気になって見回してみるが、父の姿は見えなかった。そのうち、どっと客が入って来て、たちまち席が埋まってしまう。  あと五分、という時になって、やっと父と校長先生が入って来るのが見えた。真知子が手を振ると、父も気が付いて手を上げる。父と校長先生は、前の方にとってある席へ歩いて行った。  さて、始まりだ。真知子は期待と不安とで落ち着かなかった。開始のブザーが鳴って、場内が暗くなり、ざわめきが、潮がひくように静まると、アナウンスが、 「ただ今より、劇『死者の学園祭』を上演いたします」と告げた。  静かに、幕が上がる。——真知子は、思わず声を上げそうになった。暗い舞台の上に、セーラー服姿の娘の黒いリボンをかけた大きな写真が、下がって、そこだけがライトを当てられていた。その写真の少女は、小野治子でも、細川恭子でも、柳田真弓でもなかった。  それは、あの大阪の高校で、ベランダから墜死した、山崎由子だった。   『死者の学園祭』   作・神山英人     口 上 真っ暗な舞台。上から山崎由子の写真が下がっていて、そこへライトが当たっている。 作者、スポットライトを浴びて登場。 作者「皆様、本日はようこそおいで下さいました。作者が舞台へ顔を出すなど、全くもって見っともない話ではございますが、本にも献《けん》辞《じ》というものがございまして、それを一つ、ここでやらせていただこうというわけであります。私はこの劇を、亡くなった皆さんの三人のお友達、そしてこの(山崎由子の写真を指して)女学生に捧げたいと思います。この女学生は、どなたもご存知ないことと思いますが、実は今度の悲劇と決して無縁でない死に方をした、少女なのです。それはやがて劇の中で明らかになりましょう……。では劇を始める事といたします」 作者退場。舞台暗くなる。 *  英人が山崎由子を知っていた……真知子はあまりの驚きに、椅《い》子《す》から立ち上がりかけて、やっと思いとどまった。由子の事件を英人に話した事はある。しかし英人は、由子を知っていたなどとは、素振りも見せなかった。そういえば、英人は大阪から出て来たのだった……。 *  第一場 舞台の中央にライトが当たると、三つの白木の棺《ひつぎ》が、並んでいる。(荘重な音楽) どこからともなく、太い男の声が、 声「……目覚めよ! 目覚めよ! ここは死の国。お前たちの国だ。ここには太陽も月もなく、昼もまた夜もない。あるのはただ無……。空虚のみだ。若き盛りのうちに哀れにもこの世界へ送られて来た者たちよ……。目覚めよ!」 棺の蓋《ふた》が、きしみながら、少しずつ開く。蓋が全部開くと、中から、小野治子、細川恭子、柳田真弓の三人が、制服姿で立ち上がる。 *  一瞬、場内のあちこちに悲鳴が上がった。それはまるで、本当にあの三人の亡霊が現れて来たかのようだった。真知子も背筋を戦《せん》慄《りつ》が貫くのを感じた。よく似ている。体つきも、髪型も、そっくりに造っていて、不気味なほどだ。——やがて場内に死のような沈黙が満ちた。 * 恭子「(身震いして)……寒い……寒いわ」 真弓「本当に……。ああ、ここはどこ? どこなの? こんなに暗く、こんなに寂しい……」 治子「しっかりして! ここは死の世界なのよ。私たちが生きている間は決して見る事のない、そして一度見たからには、決して戻る事のできない……」 突然、さっきの「声」が、 声「そうだ! ここは死の世界なのだ」 三人、驚いて、あちこちを見回す。 治子「誰? 誰なのですか? どこにいるのですか?」 声「私はどこにでもいる。どこにもいない。死の国の番人だ」 治子「おお! では教えて下さい。死の国は、いつでもこんなに暗いのですか?」 真弓「こんなに寒いのですか?」 恭子「こんなに寂しいのですか?」 声「死は安らぎだ。平和と憩いに満ちた国もある」 治子「どこに?」 声「すぐ近くに……。だが、お前たちは、そこへは入れない」 治子「なぜ? なぜです?」 声「お前たちの死が、まだ終わっていないからだ」 恭子「どういう意味です?」 声「それはお前たち自身の方がよく知っておろう。お前たちは殺された。殺した者が、お前たち自身に分かるまでは、お前たちの死は終わらないのだ」 治子「そんな!……では犯人が見つからない限り、私たちはここにいなくてはならないのですか?」 真弓「この暗がりの中に?」 恭子「おお、いやだ!」 突然、舞台の奥から、男女何人かの声が、歌うように。 男たちと女たちの声「誰《だれ》だ……誰だ……私を殺したのは誰だ……」 恭子「あれは何?」 真弓「何て悲しそうな声!」 声「あれはお前たちと同じように、殺されてここへ送られて来た者たちだ。今なお、自分を殺した人間を捜し求めてさすらっている」 治子「いつまでも?」 声「何年も……何十年も……何百年も……」 恭子「そんなに!」 声「お前たちも捜しに行くがよい。自分を殺した人間を……さらば、その時に会おう!」 治子「待って! 待って下さい!」 声「何か訊《き》く事があるのか?」 治子「私たちはみんな同じ人間に殺されました。でも殺した人間を、私は知っています。それなのに、なぜここへ来たのでしょう」 声「それは、真実の犯人を知らぬからだ」 治子「真実の? では、犯人が他にいると言うのですか?」 声「手を下した人間ばかりではない。その人間を人形の如く操っていた人間がいるはず。その人間を知らぬ限り、真の犯人を知ったとは言えぬ」 真弓「陰に誰かが……」 恭子「それは誰なの?」 治子「(「声」へ向かって呼びかける)お願いです! 私たちに力を貸して下さい。私たちはみんなまだ若い高校生です。哀れと思われたら、私たちに力を貸して、真犯人を見つけて下さい!」 恭子・真弓「お願いします!」 しばし、沈黙。——やがて、「声」が答える。 声「——よろしい。ともかく、話を聞いてみよう」 治子「ありがとうございます!」 声「……まず、一人一人、死んだ事情を話してみよ」 恭子「始めは私でした。……雨の夜、私は友人の家から帰る所だったのです」 舞台、暗転。     第二場 薄暗い舞台。雨の音が激しい。傘をさして、上手より急ぎ足で、恭子、登場。 恭子「……ああ、いやになっちゃう。この雨。こんなに遅くまで遊んでるんじゃなかったわ……」 下手から、レインコートの男(西田)が、えりを立てて、顔を隠すようにしながら登場、あっという間に、恭子とすれ違って行くと、そのまま退場。 恭子、立ち止まって、レインコートの男の後ろ姿を見送る。 恭子「変だわ……。今の人、何だか見た事があるような気がする。誰かしら?——そうだ、あの先生に似てる。でも、まさか。先生がこんな所にいるわけないし。でも何だか顔を見られないように隠してたみたいだった。……まあいいわ。思い違いでしょう。先を急ごう。濡《ぬ》れて寒くって仕方ないわ」 数歩行って、恭子、あっとつまずく。 恭子「いやだ。足をひねっちゃった。……痛い!……ああ、何てついてないんだろう」 しゃがみこんで、足をさすり始める。背後に自動車の音がして、明るくライトが射して来る。 恭子「自動車だわ。わきへどかなきゃ……」 突然、自動車の音が大きくなって、恭子、はっと棒立ちになる。 恭子「助けて!」 ライトが上手から下手へ舞台を駆け抜け、ガン、と何かがぶつかる音。 舞台の中央に、倒れている恭子。傍《そば》に、折れ曲がった傘。 レインコートの男が、下手より登場する。 レインコートの男「とうとうやってしまった。……人殺しか。思ったより簡単なものだな。可《か》哀《わい》そうな事をしたが、仕方ない。運が悪かったと諦《あきら》めろよ」 レインコートの男、倒れている恭子に近寄って、調べてみる。急にはっと立ち上がる。 レインコートの男「まだ生きている! 何て事だ! 畜生め……どうしよう? いや放っておくわけにはいかない。さっき顔を確かめるためにすれ違ったので、俺に気付いているかもしれん。……気は進まんが、やるしかあるまい」 レインコートの男、下手へ姿を消す。下手から自動車の音が、しだいに大きくなって来る。舞台、暗くなる。 恭子の声「——こうして、犯人は、まだ息のある私を、もう一度車を戻して、ひき殺したのです……」 声「何と非情な、むごい事だ!」 恭子の声「その後の事は、私には何も分かりません」 真弓の声「次は私です」 声「話してみよ」 真弓の声「その日、私は学校に残っていました。講堂にあるグランドピアノを弾くのを楽しみにしていたからです。もうすぐ発表会があるので、練習にはげんでいました。今となっては、もうピアノに触れる事もできません……」 暗い舞台から、ピアノの音が聞こえて来る。     第三場 舞台、明るくなる。 一方の端にピアノが置かれ、真弓が弾いている。曲はショパンだ。楽しげに、どんどん弾き続けている。 舞台の反対の袖《そで》に、西田が現れる。 西田「弾いているな。音楽のリズムが、まるで心臓の鼓動のように快く聞こえる。ああ! 俺も芸術家のはしくれなのだ。彼女がああして音楽の女神の懐《ふところ》に抱かれているのを、もぎ取るのは辛《つら》い! しかし、今はためらっている時ではない。俺の命がかかっているのだ。——許せよ。宿命だ。これが運命だ」 西田、舞台の傍のはしごを上って行く。 やがて、舞台中央を見おろす、天井下の通路に、西田、現れる。(ライトがずっと西田を追っている) 西田「……何も知らずにピアノを弾いている。哀れなもんだ。だが、青春の、一番美しい時に死んで行けるのは、考えようによっては、幸せなことさ。一生の苦労の、まだ十分の一、百分の一も知らずにいるんだ。——そうさ。まだ汚れを知らない花のうちに散るんだ。さあ、ぐずぐずしてはいられない!……しっ! 誰か来る」 三沢先生、登場。ピアノを弾いている真弓の方へ歩み寄って、 三沢「真弓さん、頑張ってるわね」 真弓「あ、三沢先生」 三沢「ずいぶん巧くなったじゃないの。発表会ももうすぐね」 真弓「ええ。——自信ないんです」 三沢「何言ってるの。あなたなら大丈夫。ゆっくり練習していてね」 真弓「はい! ありがとうございます」 三沢先生、退場。 真弓、またピアノを弾き始める。 西田「(ほっと息をついて)やれやれ、はらはらさせやがるぜ……。さあ、取りかかろう」 西田、ドライバーを取り出し、取り付けてあるライトの一つのネジを外し始める。 西田「……よし、これで手を離せば、この重いライトがまっすぐ舞台へ落ちて行く。さて、そのネジの一本を……」 西田、外したネジを一本、下へ落とす。ネジが、カタンと音を立てて舞台に転がる。 真弓「(手を休めて)あら、何の音かしら?……何だろう? 何か光る物が落ちてるわ」 真弓、ピアノの前から立って、舞台の中央へ出て来て、かがみこむ。 真弓「ネジだわ。どこから外れたんだろう……」 西田「そこにいろ。動くなよ。今、懐かしい友達が待っている所へ送り込んでやる」 うつむいた真弓へ向かって、西田の手を離れたライトが落ちる。 舞台、真っ暗に。——ぶつかる音。 *  思わず、場内に「危ない!」「やめて!」という声が上がった。真知子も一瞬、本当にライトが真弓役の生徒に当たるのではないかと、ぎくりとした。しかし、当然あのライトは、ボール紙か何かの作り物だろう。——その場面は、自分が推理したそのままだ。あの通路の下にはった金網を、わざわざまた外したのだろうか。面倒な事をやったものだ、と思った。  問題は三人めの治子の死の事情である。英人は、一体どう描いたのだろうか……。 * 真弓の声「——こうして私は殺されたのです。ピアノで弾いた『別れの曲』が、本当に、別れになってしまいました……」 声「哀れな、全く哀れな話だ!」 治子「最後が私です。親友二人を殺されて、私は犯人への復《ふく》讐《しゆう》の思いに燃えていました。ああ、今でもくやしい! せめて死ぬ前に、犯人の体にナイフを突き立ててやれたら!」 声「落ち着け! 落ち着け!」 治子「はい。……私は犯人が西田先生ではないかと疑っていました。その事情は後からお話ししましょう。……私は自分の手で仕返しをする決心で、西田先生へ電話をかけました……」     第四場 舞台が明るくなると、治子の家の中。舞台左半分に、治子の部屋。机と椅《い》子《す》、本棚など。 右半分は廊下と浴室。洗面台、鏡。廊下に電話がある。 治子、電話をかけている。 治子「もしもし——西田先生ですね。私、小野治子です。——そうです。恭子と真弓の親友の治子ですよ。お話しがあるんです。学校でお会いしたいんですが。——そう今からです。夜の方が都合がいいですか?——話はお分かりでしょう。先生が恭子と真弓を殺したんですもの。——分かってるんですよ、私には。では今夜十時に、学校の裏門の所で……」 治子、電話を切る。 治子「さあ、もう後戻りはできないわ。これで、どうしてもやらないわけには行かなくなった……」 治子、部屋へ戻ると、机から、鋭く光るナイフを取り出す。 治子「ああ! 恭子、真弓、このナイフで、必ずあなた方の仇《かたき》を討ってみせるわ。血を見るだけで気分が悪くなってしまう私だけど、今度だけは、憎いあいつに、何度だってこのナイフを突き刺してみせる! 殺されたっていい、死ぬ前に、あいつの喉《のど》をかみ切ってやるわ! 恭子、真弓、死ぬ時は、どんなにか苦しかったでしょう。許してね、みんな私が言い出したいたずらのせいだったのよ。今、やっと私には分かったわ……」 治子、ふと気が付いて、 治子「そうだ。万一の事を考えて、書き置きを残しておこう……」 治子、机に向かって、手紙を書き始める。 舞台、数秒間暗くなる。 舞台、再び明るくなる。 治子、机から立ち上がって、 治子「さあ、これで書き上げた。もし私が死んでも、これで真実が分かるはずだわ。——ああ、インクで手が汚れちゃった」 治子、廊下を抜けて、浴室へ入る。洗面台で、メガネを外すと、手と顔を洗う。 廊下の奥から、西田、現れる。手に、洗濯物を干すロープを持っている。 西田、浴室へそっと入り込む。 治子、洗い終わって、タオルを取って顔をふく。西田、その背後へ忍び寄り、輪にしたロープをいきなり、治子の首へかける。 治子「あっ!……あっ……あう……」 治子、手足をバタつかせるが、西田が、固く輪をしめて行く。 やがて治子、ぐったりとして、床へ横たえられる。 西田「全く危ない所だった……。これで三人全部、片付いたわけだ。そうだ、何か書いた物でも残しているといけない」 西田、治子の部屋へ行き、手紙とナイフを見つける。 西田「何だ、このナイフは! (手紙をざっと読んで)……驚いたな! これで俺を殺すつもりだったのか! あんな小娘が」 西田、ナイフと手紙をポケットへしまうと、椅子を持って浴室へ戻る。 西田「さあ、後は、こいつを自殺に見せかければいいんだ」 西田、治子の体を持ち上げる。 舞台、暗くなる。 治子の声「こうして、私は仕返しも果たさないまま、殺されてしまったのです。犯人は私を首つり自殺したように見せかけようとしました……」 スポットライトが、浴室で、首をつってぶら下がった治子を照らし出す。 舞台、暗くなる。     第五場 第一場と同じ。空っぽの舞台に、三つの空の棺。 治子、真弓、恭子の三人。 声「お前たち三人が殺された事情はよく分かった。では、三番目の娘に訊《き》こう」 治子「はい!」 声「お前はなぜ犯人を知ったのだ?」 治子「それには、五月のある晩から始めなければなりません。その夜、私たちが見てしまった事が、私たち三人の命を奪う結果になったのです」 声「よし。その話から聞こう」 舞台、暗くなる。 治子の声「五月のある晩、私たち三人は、学校の視聴覚教室へ忍び込んだのです……」     第六場 舞台中央正面の奥に、何も映っていない大きなテレビ。その傍に電話機、画面が客席の方を向いている。その前に長椅子が五、六列並んでいる。上手の方に衝《つい》立《たて》があり、ビデオカセットデッキが置いてある。 治子、恭子、真弓の三人、あたりを伺いながら、そっと出て来る。 恭子「ね、ね、大丈夫? 見つからない?」 真弓「こんな所、誰も来ないわよ」 治子「それに今日はPTAで、先生たちもみんなそっちへ行ってるんだから、大丈夫。見つかったら、謝ればいいのよ」 三人、ビデオカセットデッキを見つける。 治子「あった、あった」 真弓「回してみようよ」 恭子「何が入ってるの?」 真弓「分からないから回してみるのよ」 治子「ねえ、西田先生が後生大事にカセット抱えてここに入るの見たでしょう? あれはただ事じゃないわ。よほど珍しいものが入ってるのよ」 恭子「じゃ早く回して!」 治子がスイッチを入れる。三人、テレビの前へ集まる。テレビに、古い肖像画らしいものが映る。 恭子「絵じゃないの」 肖像画が消えて、風景画に変わる。 真弓「今度も絵よ」 色々な絵が次々に出て来る。 治子「なんだ。……美術放送か何かを入れてあるのよ、つまんないの」 テレビの画面に、目もくらむような宝石が映し出される。 真弓「ね、見て!」 治子「きれいね!」 恭子「すてき!」 次々に宝石の写真が出て来て、三人は見とれている。 治子「でも変ね。どうしてこんなのが入ってるんだろう?」 真弓「そんなこといいわ、すてきじゃない」 下手から、パイプを手にした西田が出て来る。三人は気付かない。 西田、カセットデッキへ歩み寄ってスイッチを切る。 三人びっくりして、「キャッ」と振り向く。 西田「君たち、何をしてるんだね」 三人、神妙に立っている。 西田「ここに入っちゃいけないことは知ってるんだろうね」 治子「すみません。つい、好奇心を出して……」 恭子「何か面白いものがあるかと思って……」 西田「まあ、いい。今回は見逃してあげる。ここに入った事を誰にも言うんじゃないよ」 三人「はい!」 西田「早く行きなさい」 三人「すいませんでした」 三人、頭を下げて、早々に退場。 西田、急いで電話を取り上げ、ダイヤルを回す。 西田「もしもし、西田です。……困った事になりました。生徒が勝手に入り込んで、あのカセットを見てしまったんです……。申し訳ありません。つい、ちょっと目を離した隙《すき》に。……どうしましょう?……その三人ですか? もちろん分かりますが。……はい。……分かりました。やってみます」 西田、電話を切る。 西田「馬鹿なやつらだ。あんなものを見てしまって。可哀そうだが仕方ない。やらなければ、こっちの命が危ないんだからな。よし、さっそく三人の住所を調べて、策を練らなくては……」 西田退場。 *  真知子は、絵と宝石の入ったカセットを見て、驚いた。一体英人はどこであんなのを見つけて来たのだろう。それにしても英人はあの絵と宝石の謎《なぞ》も、総《すべ》て解き明かしているのだろうか。そうでなければ劇は終わるまい。しかし、なぜ彼はそれを真知子にまで黙っていたのだろう……。 * 舞台、暗くなる。 声「——この場面はどういう意味なのだ?」 治子の声「私にもその時は分かりませんでした。でも今は分かります。私はある時、美術の本をめくって見ていて、あの画面に出て来た絵を見つけたのです。そして調べてみると、どの絵にも、一つ、大きな共通点のある事が分かったのです」 声「それは何だ?」 治子の声「どの絵も、現在、盗まれて行方不明になっているものばかりだったのです」 声「なるほど……」 治子の声「それで、私たちにあれを見られた西田先生が私たちを殺そうとしているのだと考えたのです。それは正しかったと信じています。けれども私にもそれ以上は何も分かりません。誰が、西田先生を操っていたのかは……」 声「待て! 私が教えてやろう」 治子の声「あなたがですか!」 声「私は時間をさかのぼって旅をする事を許されている。むろん特別な場合に限られてはいるが……。お前たちの悲運は私の心を動かした。何が分かるか、定かでないが、今の場の続きを再現してやろう。——見ているがよい」 舞台明るくなる。前と同じ情景。長椅子に背広の男A、B、C、Dが座っていて、正面のテレビの前に、メガネの男が一人立っている。傍で、治子、真弓、恭子がそれを見ている。 テレビの画面に風景画が映し出される。 メガネの男「さあ、いかがでしょうか。ゴッホの絶品ですよ」 男A「これは確か三年前に盗まれた——」 メガネの男「そうです。いろいろなルートを辿《たど》りまして、我々の手に入りました。何しろこれは値打ち物ですからね」 男B「一千万!」 メガネの男「(笑って)ご冗談を。普通にお買いになるのとは訳が違いますよ」 男C「千二百万!」 メガネの男「ゴッホがあなた一人のものになるのですよ。自宅の奥深くにそっとしまって、一人で楽しめるのです。美術館で、何も分からぬ大勢の連中にもまれながら見物するのとは違うのです」 男B「千五百万!」 メガネの男「もっとお声はありませんか? 手に入れるにも、ずいぶん苦労したんですよ。そこを充分お考えいただいて」 男D「千七百万!」 男B「二千万!」 治子「これは何ですか? あの絵を売っているんですか?」 声「そうだ」 恭子「じゃ、盗まれた絵を、ここで売っていたんですか?」 治子「学校で! 何という事なのかしら!」 その間もせりが続いている。 治子「では、宝石の方もそうなのですね。やはり由緒ある高価な品で、盗まれた物なんでしょう」 真弓「では、あのカセットは……」 治子「現物を動かすのは危険だから、ビデオテープに入れて、それで取引していたのよ」 恭子「教室でそんな事をするなんて! でも、あのメガネの男は誰なの? 西田先生じゃないわ?」 声「待て! 今少し聞いてみよう」 せりが続いている。 男C「三千万!」 メガネの男「他に声はありませんか。——では三千万で、この絵はお譲りしましょう」 男C「いつ渡してもらえるのかね?」 メガネの男「お渡しするには充分に慎重を期しませんと。万一警察の目につくような事になると大変です。その方法については、私どもの方に考えがありまして」 男C「時期はいつごろになるのかね?」 メガネの男「その期日をはっきり申し上げられます。——十一月三日です」 男C「十一月三日? 何か理由があるのか?」 メガネの男「はい。その日、この学校では学園祭が催されます。お客様方には、その一般見物客としてご来場いただき、大勢の人間の目の前で、絵をお渡しいたします」 男A「目の前で? 危険じゃないか、そんな大きなものを」 メガネの男「当日は生徒が描いた絵を展示即売いたします。その絵を皆様にお買い上げいただくのですが、絵を包装するのは私ですので、中身は本来の商品にすり替わっているわけです……」 舞台、暗くなる。 *  真知子は凍りついたように、席で、身動きもしなかった。今、はっきりと思い当たった。あの夜、視聴覚教室で、マイクを通して聞こえて来た説明役の男の声は、手塚校長の声だった!  新聞紙にくるんだ絵を大事そうにかかえて、男は校舎から出て来ると、駐車場を急いで横切って止まっていたベンツへ乗り込んだ。 「おい、帰るぞ」と声をかける。 「もうお帰りですか」運転手が不思議そうに訊《き》いた。 「ああ、やってくれ。ただし、そっとだぞ。あまりスピードを出さんでな」 「かしこまりました」  車が動き出すと、男はシートへもたれて、ほっと息をついた。やっと手に入ったわい! 隣の席へ置いた包みを大事そうに撫《な》でて、満足気に微《ほほ》笑《え》む。何しろこいつは二千万の代物だからな!  校門を滑り出た所で、ベンツが急にガクンと停止した。男は運転手へ怒鳴った。 「おい! 気を付けろと言ったろう!」  窓の外を見て、男は愕《がく》然《ぜん》とした。——パトカーだ。パトカーが道を埋めつくすように、ずらりと並んでいる。一体何台いるだろう。いや何十台だ……。  ばたばたと刑事らしい男たちが車へ走り寄って来た。 「なんだね、君たちは!」男は窓を開けて言った。「どいてくれ!」 「降りていただきます」 「何だと、一体——」 「そこにある絵を拝見しますよ」  男の顔から、血の気がひいた。震える声で、 「これは……これは今、学校で買って来た生徒の絵だよ」 「そうですか? 一応中を改めます」  刑事が窓越しに絵の方へ手をのばした。男が慌てて、その手を払った。 「よせ! 乱暴にするな! こいつは貴重な——」 「貴重な——何ですか?」  男は、諦《あきら》めてぐったりとシートにもたれかかった。汗が青ざめた額に浮いている。  手塚校長は、一般客の間を、目立たないように隠れながら、裏門へ向かって急いでいた。劇半ばで席を立って、講堂を抜け出して来たのである。一体何がどうなったのか、さっぱり分からない。ただ、分かっているのは、総《すべ》てが露見したという事だ。警察の手はもう家の方へも回っているのだろうか?  しかしともかくここを出なければ。——校舎を離れると、幸い人影もほとんどない。小走りに手塚校長は裏門へと急ぐ。裏門の向こうに、パトカーの赤く点滅するランプを見て、ぎょっと立ちすくんだ。万事休すだ!  何とか姿を隠さなければ……。 「そうだ!」  手塚校長は、結城の娘が出入りしていた金網張りの取り外しできる箇所があったのを思い出した。あそこなら外へ出られるだろう。——体育館の裏だったな。  息を切らしながら、やっと目的の場所へやって来ると、あたりに人の気配がないか、様子を伺う。——大丈夫らしい。  手塚校長は金網を揺さぶって外すと、内側へ倒し、それを乗り越えて、表へ飛び出した。とたんに両側から、がっしりした手が手塚校長を捉《とら》えた。 「これはこれは、校長先生じゃありませんか」刑事が言った。 「こんな場所から出入りするとは、生徒の手前、感心できませんな」     第七場 第一場と同じ。中央に空の三つの棺。治子、真弓、恭子の三人、呆《ぼう》然《ぜん》と立ちすくんでいる。 声「——さあ、これでお前たちに死をもたらした人間も明らかになろう。お前たちは、安らぎと平和の国へ入る事を許されるのだ!」 治子「でも……分かりません! 誰なのですか? それは一体——」 声「(突然、重々しいセリフ調が変わって)もうここまでだ! 台本通りにやるのはここまでだ! 僕が話そう、総てを。総ての秘密を!」 *  スポットライトを浴びて、「声」の主が現れると、場内がどっとどよめいた。「声」を演じていたのは、エコーをきかせていて分からなかったが、倉林先生だったのだ。  倉林先生は、前よりいくらかやせて、やつれているようだったが、舞台を進み出て来る足取りはしっかりとして、微笑さえ浮かべていた。そして、場内のざわめきを手で抑えて、静まるのを待って口を開いた。 「やあ、みんな。久しぶりだね。僕は考えたい事があって、しばらく妻の幸枝と二人で姿を消していた。できることなら、ずっと姿を消していたいとも思ったが、そうはいかない。僕には辛《つら》い使命がある。それを果たすために、今日ここへやって来たのだ。——みんな、しっかり聞いてくれ。これは芝居でも何でもない。今まで舞台で演じられていた事も総て事実だ。しかし、それだけではない。真相はもっともっとひどいんだ。——君たちにとっては、これは大変なショックだと思う。しかし、しっかり聞いてほしい。君たちはもう試練に立ち向かうに充分に大人《 お と な》になっているはずだ。僕はそう信じている」  場内は、水を打ったように静まりかえっていた。 「決定的なことから、まず言ってしまおう。それは、この学校は、学校自体が、大きな犯罪組織のカムフラージュのために設立されたという事だ。学校の理事に、なぜ大金持ちが多いか。なぜ有力者の娘がこの学校へ集まったか。それは、この学校が裏側では大規模な国際的密輸組織であり、理事はその幹部たちだからだ。美術品集めに血まなこになっている金持ちが、この学校へ集まったのは、盗品の名画を手に入れるためだったのだ。学校経営自体は堅実で、世間の信用も大きい。一体誰が、その裏で密輸が行われているなんて考えるだろう。——もちろん、教師の中にだって、その組織のために働く人間がいた。西田先生も、そして僕もそうだった……。ただ、言っておくが、全部の先生、父兄が犯罪に関係していたわけではない。これには何の関係もない先生や父兄がほとんどなのだ。それは言っておきたい。——僕は何も知らずに、この学校にやって来た。やがて、校長に呼ばれて、組織のために働くように言われた時は、ずいぶん悩んだのだ。しかし他にどうする事もできなかった。もう十年も昔の話になるが、僕は、喧《けん》嘩《か》の末、はずみで相手を殺した事がある。軽い罪に問われただけだったが、校長はそれを知っていた。むろんその事件が分かれば、どこでも教師にはつけなくなるだろう。僕は幸枝と結婚したばかりだったし、どうしても拒《こば》めなかったのだ。——だが、やがて僕はこの組織が、絵や宝石ばかり扱っているのではない事を知った。麻薬だ。麻薬にも手を染めていたのだ。これはショックだった。絵や宝石の密輸ぐらいなら、別に大した害はないと自分を納得させる事もできたが、こればかりはそうもいかなかった。麻薬は人をほろぼす、恐ろしいものだ。事実、この劇の始めに写真の出た少女は、麻薬からくる幻覚に弄《もてあそ》ばれて死んでいる。これはとても僕の良心が許さなかった。——そこへ、西田先生の生徒殺しだ。僕は、柳田真弓君が殺された日、学校に残っていて、西田先生の姿をちらっと見かけていた。ところが後で西田先生は学校には昼までしかいなかったと話していたので、怪しいと思った。けれども西田先生の事を警察へは届けられない。西田先生は、組織の下で、盗品の絵や宝石の真偽を鑑定し、値打ちを調べてビデオに収録し、PTAの日の夜に開かれる『競売』の準備をする重要な役目を持っていたのだ。それでもまだ、僕は三人とも本当に事故か自殺だったのかもしれないと自分に言い聞かせて来た。だが、今度は幸枝までが狙《ねら》われたのだ。——西田先生は僕の様子がおかしくなったのを、幸枝が何か知っていてしゃべったせいだと思ったらしい。西田先生は自分がカセットを見られてしまった責任を取らされて、消されるのではないかという恐怖に駆り立てられて、次々に、何か少しでも知っていそうな人間を殺して行ったのだ。僕は幸枝をつれて逃げた。組織に狙われて殺されるよりは、と思ったのだ。しかし、いつまでも逃げていられるものではなかった。組織を叩き潰《つぶ》さねば、死んだ三人の生徒に申し訳ない。むろん、僕自身も罪の償いをするつもりだ。しかし、罰せられなければならない人間は他にもいる。一人は校長だ。だが、校長も実は、組織の中ではただの配下にすぎなかったのだ。この組織を率いていた人間は他にいる」  突然、スポットライトが方々から客席の前の方の一角へと集中して走った。 「この男だ!」倉林先生が叫んだ。「結城正造だ!」  場内は大変な騒ぎになった。立ち上がる者、出て行こうとする者、「何なの?」「お芝居じゃないの?」と声が飛び交う。 「嘘《うそ》だ……嘘だわ……」  真知子は放心したように呟《つぶや》いていた。  そして、会場の明かりが一斉につくと、座っていた生徒たちも次々に立ち上がって、出口へ向かって行った。真知子は椅《い》子《す》に座ったまま、石になったように動かなかった。目の前を学友たちがどんどん通りすぎて行く。みんな今の場面をどう考えればいいのか、戸惑っているようだった。不安に駆られて、一刻も早く、講堂から出て行こうとしている。  混乱がしばらく続いてから、ようやく場内は閑散として来た。ずっと前の席から、父がゆっくり立ち上がるのを見て、真知子は初めて目がさめたように席を立ち、通路へ出た。講堂のいくつかの入り口に、同時に、一見して刑事と分かる男たちが姿を現した。真知子は通路を父の方へ走った。 「パパ! 逃げて!」 「真知子……」 「早く逃げて。捕まるわよ」 「むだだよ」正造は静かに言った。  刑事たちが、全部の通路をふさいでいた。 「手塚は途中で逃げ出したが、どうせ逃げられはしないさ」 「パパ……」 「すまんね、真知子」 「パパ……」と真知子はくり返した。  舞台からは倉林先生の姿は消えていたが、代わりに、数人の刑事たちが現れて、真知子たちの方へ下りて来た。その中に、英人の姿があった。青ざめた顔をこわばらせて、じっと正造だけを見ている。  刑事の一人が逮捕状を示すと、正造はうなずいた。 「手錠はかけません。どうぞ」 「それはありがとう」正造は英人の方へ、「君は何者なんだね?」 「ただの学生ですよ。——大阪で死んだ山崎由子は僕の幼なじみだったんです」 「ベランダから飛び降りた娘だね」 「あなたはあの学校でも理事をしていましたね。そして麻薬を生徒の間に流した」 「そうか。それで、警察は今度の殺人事件の捜査を手控えていたんだね」 「目立たないように捜査を進めていたんです。組織そのものが目標でしたから」 「みごとにやってのけたね、君は。私は全く疑いもしなかった」  正造は穏やかに言った。 「さあ、行きましょうか。真知子、家へお帰り。ママを頼んだよ」  真知子は、ただ一人取り残された。英人はついに一度も真知子を見ようとはしなかった。 5 さらば学園 「ママは何もかも知ってたのね」 「ええ、そりゃ夫婦だものね。仕方ないよ。分かった時には、もうパパは大物になっていたし」 「それでママ、学校へ来たがらなかったのね」 「パパが悪い事をしてる、その実際の場へ行く気にはなれなくってね」  二人はマンションの居間に座っていた。今何時だろう。昼なのか、夜なのか。 「これからどうするの?」 「何とかなるわよ」恵子がにっこり笑った。 「これでまた忙しくなった。私にはね、こういう方が向いてるの。どうも今までは暇で困ってね。つい色々余計な事を考えちまうだろ。忙しくって何も考えられない方がずっとましだね」 「何をするの?」 「パパに毎日差し入れに行くのさ。何せあの人は口がおごってるだろ。留置場や刑務所の食事じゃ口に合わないだろうからね。忙しいよ。定期券でも買う事にしようかねえ。でも通学定期でもないし、通勤定期でもないし……。何定期になるんだい?」 「知らないわ」 「じゃ、ともかく弁護士さんの所へ相談に行ってくるからね」 「うん」 「真知子、お前、大丈夫かい?」 「私は大丈夫よ。心配しないで」 「パパを恨んでるかい?」 「いいえ。——今だって好きよ」 「弁護士さんにそう伝えてもらおうね。きっと喜ぶよ」  母が行ってしまうと、真知子は部屋へ入ってベッドに横になった。——ママって本当にいい人だ。こんな時に、ああして明るく考えていられるなんて、すばらしい。パパって幸せな人だわ。  真知子は本心、父を今でも好きだった。しかし、それで総《すべ》てが差し引かれるには、あまりに事件は大きすぎる。  玄関のチャイムが鳴った。新聞記者なら出るのをやめよう。玄関まで行って覗《のぞ》き窓から客を見た。幸枝だ。急いでドアを開ける。 「幸枝!」 「真知子。——入っていい?」 「いいわよ。どうぞ。一人なの、今」  居間に落ち着くと、幸枝が言った。 「真知子、私たちの事、恨んでるでしょう?」 「どうして?」 「だって、あなたのお父さんを——」 「恨んでなんかいないわよ。当然の事じゃないの。パパの方こそ、倉林先生を苦しめたんですもの」 「あの人もずいぶん悩んだの。私もよ。あなたをどんなに傷つけるかとも思ったし、学校のみんなの事を考えると、黙っている方がいいのかとも思ったし……。一度は二人で死のうって決心もしたの。許してちょうだいね」 「許すなんて……」 「ホテルであなたに会った日ね、私たちあそこに泊まっていたのよ」 「そうだったの」 「死ぬ前に一度一流ホテルに泊まりたいって、馬鹿みたいに、私がだだをこねて。——でも神山さんに説得されて、思いとどまったの」 「じゃ、英人さん、あなたに追いついたのね。なかなか戻って来なかったわけだわ」 「後で私たちの部屋へ来て、本当にあなたや学校の事を思うなら、自首しなきゃいけないって話してくれたの。それで私たち決心して……」 「英人さんが、そう言ったの」 「ええ。ね、真知子、神山さんは本当にあなたを——」  真知子が遮って、 「やめて、幸枝、それだけはやめて」 「でも——」 「今は聞きたくないの。英人さんの事は、何も言わないで」  真知子は声をつまらせて、溢《あふ》れそうになる涙をこらえた。幸枝も口を閉じてうなずいた。真知子は、やっと涙をのみ込むと、 「——それで、幸枝、あなたこれからどうするの?」 「どうって……。一応両親もあの人の事、許してくれたから、私はともかく高校を出て、勤め口を捜して、そしてあの人が出所して来るのを待つわ。結構忙しいと思うの。できるだけ度々差し入れに行きたいしね」  真知子は思わず笑った。 「幸枝、あなたって、本当にうちのママにそっくりね」  真知子は無人の校庭に立って、人影のない校舎を眺めた。北風が冷たくえり元を巻いて駆け抜けて行く。灰色の、どんよりと重い空が、寂しい風景を、いっそう寂しくさせている。  手塚学園の実体が暴かれ、マスコミをにぎわして、もう半月がたった。組織に関わっていた理事、教師は全員逮捕され、ここから日本全国にのびていたルートも次々に暴かれて行った。  学園はどうなったのか?——解散し、廃校になったのである。生徒たちは、めいめい、別の学校へと移って行った。後には、この近代的な校舎だけが残った。どこかの私立大学が買い取る話が進んでいるとの事だったが、いずれにしろ、手塚学園は、もう存在しなくなったのだ。  ここへ入学して半年——。たった半年しかたっていないのだ。何という変わりようだろう。こんなに幸せでいいのかしらと、いい気になって考えていた半年前が、まるで遠い昔のようだ。今の自分は、犯罪者の娘で、明日どうすればいいのかも知れぬ身なのだ。  母は真知子を親《しん》戚《せき》へ預けるつもりらしかったが、真知子は、せめて母と一緒にいたいと思っていた。  探偵ごっこは終わったんだわ。——何て皮肉な結果だろう! 真知子は自分を笑った。いくら笑っても足りない。何ておめでたい、世間知らずだったんだろう。自分以外はみんな、真実を知っていたのだ。父も母も、英人も、幸枝も……。ただ一人、自分だけが知らずに、探偵気取りで、ああでもない、こうでもないと頭を悩ませていたなんて。まるでピエロだ! 本当に笑わせる!——胸がしめつけられるように痛んだ。  真知子は校舎をじっと見上げていたが、やがて校舎の中へ入ると、階段を上がって三階のベランダへと出た。  ふと、山崎由子の事を思い出した。ベランダの手すりを歩いていた姿を。彼女は麻薬をうっていた。真知子の父が売っていた麻薬だ。その死を真知子が見届けたのも、妙な因縁だ。真知子は、あの時の由子になりたいと思った。自分は何でもできるんだ。鳥になって空も飛べるんだと信じて死んで行けたら、こんなに幸せな事はない……。  真知子は、ハーフコートを脱ぎ捨てると、靴のまま手すりの上へよじ登り、真っすぐに立った。幅五センチの道が一直線に続いている。  行くのよ、さあ! 歩いて行くの。何の事はない。ただ歩けばいいのよ!  一歩、一歩、真知子は手すりの上を歩き始めた。時折、風が強くなって、体が揺れる。それでも、真知子は歩いていった。 「何してるんだ!」  下から声がした。英人だった。 「危ないじゃないか! 降りるんだ! 聞こえないのか!」  真知子は黙って歩き続けた。英人は校舎へ飛び込んで、三階へ駆け上がって来た。 「近くへ来ないで!」  英人がベランダへ出て来ると、真知子は叫んだ。「それ以上近付くと飛び降りるわよ!」  英人は足を止めた。 「分かった。分かったよ。——ねえ、聞いてくれ、真知子」 「何も聞きたくないの。もう行って、英人さん」 「僕の事を憎んでるだろうね。当然だよ。でも頼むから聞いてくれ」 「やめてよ。憎んでなんかいないわ。私は自分が憎らしいだけよ。ただ、自分が生まれて来たのを、後悔してるだけよ」  真知子の目から涙が溢れて流れた。 「真知子。僕は確かに、お父さんに近付くために君と知り合うように企《たくら》んだ。それは本当だ。卑劣なやり方だが、それしか方法がなかったんだ。——だがね、僕は本当に君の事が好きだった。君をだまし続けているのは辛《つら》かったんだ。どんなに自分の事がいやになったか、知れやしない。何度も途中で投げ出そうと思った。君を傷つけるのは、死ぬほど辛かったんだ。しかし死んだ由子さんや、三人の生徒の事を考えると、やめるわけには行かなかった。君にどんなに恨まれようと、投げ出す事はできなかった」  真知子は、じっと立ち尽くしていた。 「馬鹿なまねはやめるんだ。さあ、降りて」  真知子はじっとはるか下の地面を見おろした。あそこに、自分の求めてる平和があるんだ、と思った。ちょっと飛ぶだけだ。それで何もかもおしまいだ。簡単な事だ。さあ、飛んで!  急に強い風が吹いて来て、真知子の体が揺らいだ。英人が飛び出す。—— 「真知子!」  次の瞬間、真知子は、英人の腕の中で泣きじゃくっていた。 「真知子……真知子……」  英人はしっかりと真知子を抱きしめた。  泣きやむと、真知子は微笑を浮かべて英人を見た。 「ありがとう。英人さん」 「もう大丈夫だね? あんな真似はしないね?」 「ええ。もうしないわ。大丈夫」 「じゃ、下へ下りよう」  二人は校庭へ出て、校舎を見上げた。 「悪い夢だったみたい」 「そうさ。またこれから新学期が始まるんだ」 「英人さん。ここで別れましょう。ありがとう。幸せだったわ、私」 「真知子。僕はいやだ。絶対に君から離れないよ」 「だって——あなたは、由子さんが好きだったんでしょう」 「幼なじみだったけど、恋人でも何でもなかったんだよ。僕が好きなのは君だけだ」 「でも——やっぱりだめよ。パパは——」  英人は遮って、 「僕は今、お父さんに会って来たんだ」  真知子は驚いて、 「パパに?」 「君が高校を卒業したら結婚させてくれと頼んで来た」  真知子は呆《あき》れて、叫んだ。 「あなたって——どうかしてるわ!」 「そうさ。恋をしてれば誰《だれ》だってどうかするもんだ」 「パパは何だって?」 「笑ってたよ。君さえ承知すれば構わないってね」  真知子は、じっと英人の優しい目の中を覗《のぞ》き込んだ。そして力一杯抱きついた。 「——それじゃ、今からお父さんの所へ報告に行こう」 「何だか変だわ」 「変だっていいさ。結婚は変な事じゃないからね」 「そりゃそうだけど。——でもやっぱり変わってるわ」 「変わってるのはいやかい?」  真知子は微《ほほ》笑《え》んだ。 「ちっとも」  歩き出そうとして、真知子が、ふと思いついたように、 「ねえ、ちょっと訊《き》きたいんだけど」 「何だい」 「あの劇、あれから先はどうなるはずだったの?」 「それは永遠の謎《なぞ》さ」 「ずるいのね」 「しかし、演劇部の人には悪い事をしたよ」 「あのカセットはどうやって手に入れたの?」 「僕が作ったのさ。例の東大浪人が売り払った美術全集を調べてみたら、治子さんがいくつかの絵に印をつけていたんだ。で、それをビデオにとったのさ」 「あら、あの全集は、売れちゃってたって言ったじゃないの」真知子は英人をにらんで、 「ずいぶん私に嘘《うそ》をついてたのね」 「まあ、そう言うなよ」 「もう嘘はつかないでよ」 「分かってる。誓うよ。——ああ、それからもう一つ君に知らせておく事があるんだ」 「なに?」 「あの三人を殺したのはね、西田の独断だったんだ。お父さんの命令じゃなかったんだよ」 「本当?」 「お父さんは、あの三人にカセットを見られた事も知らなかったんだよ。だからまさか西田が犯人だとは思いもしなかったらしい。知っていたら、そんな事は許さなかったろう。この話は他の幹部も確認しているんだ」  真知子の顔に晴れ晴れとした表情が広がった。 「よかったわ! それがずっと気にかかってたの」  真知子は、父があの三人を殺させたのなら、自分も死ななければならない、とひそかに心に決めていたのだった。 「じゃお父さんの所へ行こう」 「でもその前に……」 「何だい? まだ妙な曲芸でもやろうっていうんじゃないだろうね」 「そうじゃないわ。だって今、もう三時でしょう。お腹すいちゃって。私、お昼何も食べてないのよ」  英人は笑って真知子の肩を抱いた。——二人は若々しい足取りで校庭を横切って行った。一度も学校をふり返って見ようともせずに。 死《し》者《しや》の学《がく》園《えん》祭《さい》 赤《あか》川《がわ》次《じ》郎《ろう》 ------------------------------------------------------------------------------- 平成14年6月14日 発行 発行者  角川歴彦 発行所  株式会社  角川書店 〒102-8177 東京都千代田区富士見2-13-3 shoseki@kadokawa.co.jp (C)Jiro AKAGAWA 2002 本電子書籍は下記にもとづいて制作しました 角川文庫『死者の学園祭』昭和58年4月25日初版発行             平成12年6月25日90版発行