TITLE : 探偵物語 探偵物語 赤川次郎 ------------------------------------------------------------------------------- 角川e文庫 本作品の全部または一部を無断で複製、転載、配信、送信したり、ホームページ上に転載することを禁止します。また、本作品の内容を無断で改変、改ざん等を行うことも禁止します。 本作品購入時にご承諾いただいた規約により、有償・無償にかかわらず本作品を第三者に譲渡することはできません。 探偵物語 プロローグ  ふと眠《ねむ》気《け》を誘《さそ》われるような、春の宵《よい》である。  そろそろ真夜中。——一人《 ひ と り》の、中年サラリーマン氏が、一《いつ》杯《ぱい》機《き》嫌《げん》、いささか足もとの覚《おぼ》束《つか》ない状態で家路を辿《たど》っていた。  ついさっきまでは大声で歌など歌って——いや張り上げていたのだが、今は何となく口の中でムニャムニャとハミングするに止《とど》まっている。  何しろ、この辺り、「高級住宅地」の上に「超」の字がつくほど、塀《へい》と門構えが黙《もく》々《もく》と続いているだけなので、自然、大声を上げるのがはばかられて来るのだ。——ここを通り抜《ぬ》けてマッチ箱《ばこ》の如《ごと》き我が家へ帰る度《たび》に、このサラリーマン氏は、自分が少しトシを取ったような気がするのだった。  このサラリーマン氏、別に名はどうでもいい。この後登場する予定はないのだから。  万一登場することになれば、そのときにご紹《しよう》介《かい》しても差し支えあるまい。 「どうして同じ人間でこうも違《ちが》うんだ?」  と、サラリーマン氏は、高い塀を見上げながら独り言を言った。  もちろん、そんなグチは何の役にも立たない。承知の上で、なお言うからグチなのかもしれない。  ともかく、この「お屋《や》敷《しき》街《まち》」を早く通り過ぎちまおう、と足を早めたサラリーマン氏は、五、六歩進んで、足を止めた。 「あれ?」  と、首をかしげたのは、今しも、高い塀の一つによじ登らんとしている人《ひと》影《かげ》を見かけたからである。  もちろん、それは普《ふ》通《つう》なら泥《どろ》棒《ぼう》とか空《あき》巣《す》とかのすることなのだが、今、サラリーマン氏の目に、街灯の明りに照らされて映っているのは、スカートからすんなり伸《の》びた白い足。ということは、塀によじ登らんと足をバタつかせているのは、女に他《ほか》ならないのだった。それも、どう見ても若い女で——まあ娘《むすめ》といった方がピンと来る。 「よいしょ、よいしょ」  と、声をかけつつ、塀の上へ、足をかけようと必死で頑《がん》張《ば》っている。  ちょうど、塀の内側から、一本の木の枝が道へのびていて、その木へ取りついて中へ降りようというところらしい。  しかし、妙《みよう》な光景である。あんな泥棒もあるまいが、といって、この家の人間なら、ちゃんと玄《げん》関《かん》から入ればいいではないか。  サラリーマン氏は、その塀の下へ行って、ポカンと上を眺《なが》めていた。やっとこ塀の上に上ったその娘は、ふと下へ目をやってサラリーマン氏に気が付くと、別にあわてる風でもなく、 「今晩は」  と、声をかけて来た。 「やあ」  と、サラリーマン氏は言った。「大変だね」 「ええ、まあね」 「どうして……門から入らないの?」 「意地悪なまま母がいて、入れてくれないの」 「ふーん」 「じゃ、おやすみなさい」 「おやすみ……」  サラリーマン氏は、また歩き出した。——金持だからって、みんなが楽してるわけじゃないんだ、と一人で納《なつ》得《とく》して肯《うなず》きながら、家へ向う足取りも多少早くなった。  一方、塀の上の娘は、笑いをかみ殺しながら、サラリーマン氏を見送っていたが、やがて、木の枝へと、そっと手をかけた。ヒョイと枝を分けて、庭を覗《のぞ》く。  ちょっと愛《あい》嬌《きよう》のある顔である。いや、美人でないとも言えないが、美人というと少しイメージに外れている。普通の状態でも、多少びっくりしているように見える大きな目。鼻筋が通って、そのくせ、口元は、いたずらっ子の面《おも》影《かげ》を残していた。  木の下から、芝《しば》生《ふ》が広がっていて、その向うに、どっしりとした大《だい》邸《てい》宅《たく》が、今はひっそりと暗く、眠《ねむ》りについている。 「よし……慎《しん》重《ちよう》に、慎重に……」  と、自分に言い聞かせながら、娘は塀から木の幹へとゆっくり体重を移した。 「キャッ!」  ちょっとバランスを崩《くず》したのか、ふらっとよろけて、細い枝につかまると、メリメリッと音を立てて、枝は折れた。つまり、ここは重力の法則に従って、娘は落下したのである。 「あ——いた……いてえ!」  こういう邸宅の庭で吐《は》くには、少々ふさわしくないセリフだったが、いやというほどお尻《しり》を打ったら、そんなことを気にしちゃいられないのだ。 「ついてないなあ、もう……」  娘はブツブツ言いながら、やっとの思いで立ち上った。それから、先に塀越《ご》しに放り込《こ》んであったらしいバッグを拾い上げると、お尻をさすりながら、芝生を横切って行く。  テラスには、白いテーブルと椅《い》子《す》がいくつか並《なら》べられている。その間を抜《ぬ》けて、ガラス戸の前に来ると、 「さて……。開くかな」  と呟《つぶや》く。「どうせこのままじゃ、開きゃしないんだから——」  手をかけて引いてみると、ガラッとも音をたてずに、戸が動いた。 「変だな。——長《は》谷《せ》沼《ぬま》さん、鍵《かぎ》をかけ忘れたのかしら」  と、重いカーテンを寄せて、暗い室内へ……。  突《とつ》然《ぜん》、明りが点《つ》いて、娘は飛び上った。 「——お帰りなさいませ」  きっちりと和服を着込んだ、五十歳前後の婦人が、頭を下げた。 「ああ、びっくりした」  と、新《あら》井《い》直《なお》美《み》は口を尖《とが》らして、「起きてたの?」 「年を取りますと、そう眠らなくてもよろしいのでございます」 「その内、いつまででも眠れるようになるわよ」  直美はバッグをソファの上に放り出した。 「お帰りは玄関からの方がお楽かと存じますが」  と、長谷沼君《きみ》江《え》は、勢い余って床《ゆか》に落ちた直美のバッグを拾い上げながら言った。 「少し太り気味だからやせたかったのよ」  と直美は言った。「疲《つか》れた。——お風《ふ》呂《ろ》に入るわ」 「お湯が張ってございます」 「その前に何か食べたい」 「いつでもお仕《し》度《たく》ができております」  直美は、長谷沼君江をにらんで、 「たまには、『うっかりしておりました、申し訳ございません』って言ってみたら?」 「お嬢《じよう》様《さま》のことなら、自分のことのように分っておりますので」  それはそうだ。何しろ、この長谷沼君江は直美が生れるずっと前から、この新井家で働いているのである。 「じゃ、お風呂を先にするわ」  と、直美は居間を出ながら言った。 「着《き》替《が》えは置いてありますので」 「あ、そう」 「パンツは花《はな》柄《がら》でよろしいですか?」 「何でもいいわよ!」  直美は真《ま》っ赤《か》になりながら、言った。  新井直美、二《は》十《た》歳《ち》。——ちょっと幼くて、十八歳ぐらいにしか見えないが、都内の名門私立大の三年生である。  思い切りよく裸《はだか》になると、大理石を貼《は》った浴室へ入って、大きな浴《よく》槽《そう》に、エイッとばかり、飛び込んだ。頭まで潜《もぐ》って、ザバッと顔を出し、雨で濡《ぬ》れた犬みたいに、ブルブルッと頭を振《ふ》る。 「あーあ」  ため息とも欠伸《 あ く び》ともつかぬ声を発して、ウーンと両手を伸《の》ばす。まるで、天《てん》井《じよう》を突《つ》き抜けて、夜空の星でもむしり取って来ようとでもするかのようだった。 1 「——普通にお食べになりますか?」  直美がタオルのバスローブをはおって、ダイニングルームへ入って行くと、長谷沼君江が訊《き》いた。 「食べて来たから、いいわ。お茶《ちや》漬《づけ》か何か食べたいわ」 「かしこまりました」  直美は、濡れた髪《かみ》を、タオルで拭《ぬぐ》いながら、椅《い》子《す》に腰《こし》をかける。——広々とした、六人はゆったり座れるテーブル。  いつも、ここで直美一人が食事をするのだ。君江の手早さは、正に魔《ま》法《ほう》であって、一体どこでどうやっているのか、と、直美は首をかしげる。  お茶漬が出て来るまでに、三分とはかからなかった。 「お父さんから、何か連《れん》絡《らく》は?」  直美は、熱いお茶をご飯に注ぎながら訊いた。 「夕方、お電話がございました。お嬢様のことを心配しておいでですよ」 「心配なら向うが帰って来りゃいいのよ」 「お仕事がございますから」 「アメリカまで通勤すりゃいいのに」 「無茶をおっしゃるものではございません」 「お父さんの方が無茶よ。私に、アメリカへ来いだなんて。——私があっちに行って、何かいいことでもあるって言うの?」 「親子は一《いつ》緒《しよ》に住むのが一番でございます」 「親子はね」  と直美は言った。 「——おかわりなさいますか」 「もういいわ。ここにお茶だけ入れて」 「かしこまりました」  直美は、空になった茶《ちや》碗《わん》へ、お茶を注ぐ君江の、落ち着いた手つきを見ながら言った。 「長谷沼さんは何とも思わないの、あの人のことを」 「奥《おく》様《さま》のことですか?」 「奥様か」  直美は息をついて、テーブルに顎《あご》をのせた。 「お父さんの女《によう》房《ぼう》でも、私のお母さんじゃないわ」  長谷沼君江は、ちょっと笑顔を見せて、 「割合とナウくないんですね、お嬢様も」  と言った。  直美がキョトンとして、それから吹き出した。 「——そりゃ、私だって、お父さんに一生女っ気なしで過せとは言わないわ。でも、あんな——私と十歳ぐらいしか違《ちが》わないのよ。お父さんの妻なら妻でいいわ、無理に母親になろうとしなきゃね」 「ともかく、お父様は一人っ子のお嬢様を、そばに置いておきたいんですわ。——もうお済みですか」 「うん、片付けていいわ。——だけどね、私はもう二《は》十《た》歳《ち》よ。五つや六つの子供なら分るけど……」 「親から見れば、子供は常に子供です」 「二十歳といえば、選挙権もあるし、お酒もタバコも——」 「もっと前から、飲んでらしたじゃありませんか」  ともかく、君江は直美のことを何でも承知しているのだ。不公平だわ、と直美は思った。 「それに——そう、二十歳になったんだから、親の承《しよう》諾《だく》なしに結《けつ》婚《こん》できるのよ、好きな相手と」 「それはそうです」 「そうか……」  直美は、初めて気が付いた様子で、「結婚しちゃえばアメリカに行かずに済むわね」  と、肯いた。 「アメリカへお発《た》ちになるまで、後五日しかございませんよ」 「五日もありゃ充《じゆう》分《ぶん》よ。フィーリングさえ合えば、一日だって……」 「お嬢様——」  と、君江の顔色が少し変った。  直美は声を上げて笑った。 「冗《じよう》談《だん》、冗談!——いくら私でも、そんなことしませんよ。ああ、眠くなっちゃった」  と立ち上ると、「もう、休学届、出しちゃったから、大学行く気しないわね。といって、他に行く所もないし……。明日《 あ し た》はお昼頃《ごろ》までに起きて来なかったら、起こしてちょうだい」 「かしこまりました」  直美はダイニングルームを出ようとして、振り向くと、 「私、ウエディングドレスとうちかけと、どっちが似合うと思う?」  と訊いた。「おやすみ」 「おやすみなさいませ」  長谷沼君江は、直美がポンポンと階段を一段おきに駆《か》け上って行くのを、ドアの所で見送ってから、ちょっと笑って、キッチンの方へ歩いて行ったが……。 「まさか……」  と、ふっと真顔になって呟《つぶや》いた。  直美がベッドへ飛び上ったのか、二階から、ドスン、という音がかすかに聞こえて来た。君江は、ちょっと不安気に、天井を見上げて立っていた……。 「もう半月よ! 半月にもなるのに、何一つつかめないってのはどういうこと!」  典型的なヒステリー症《しよう》状《じよう》だった。 「奥さん、探《たん》偵《てい》というのは、大変にデリケートな作業でございまして——」  と、社長の平《ひら》本《もと》は、どうにも捉《とら》えどころのない、ウナギかドジョウのような笑顔を見せながら言った。「万が一、ご主人が尾《び》行《こう》や監《かん》視《し》に気づかれては、もうおしまいです。ですから、私どもとしましては、慎重の上にも慎重に——」 「慎重に料金をふんだくってるわけね?」  その夫人は、正に短剣の如く突き刺《さ》さりそうな言葉を、平本社長へ向って投げつける。「長引けば長引くほど、お宅は儲《もう》かるわけですものね」  ヒステリーは冷ややかな皮肉へと形を変えた。 「奥さん、私どもは決してそんな悪どい商売はいたしません。確かに、同業者の中には、そういう悪質な者がいるのも事実です。しかし、私どもは決してお客様の信《しん》頼《らい》を裏切るような真《ま》似《ね》は——」 「父がね、よく言ってたわ」  と、夫人は遮《さえぎ》った。「しゃべりすぎる男は信用するなって」  平本は急いで口をつぐんだ。夫人は続けて、 「主人も口の巧《うま》い男なの。すっかりごまかされたわ、本当に」  夫人は、組んでいた足を戻《もど》した。スカートがフワリと持ち上って、一《いつ》瞬《しゆん》、ピンクの下着が平本の目に飛び込んで来た。 「ともかく、主人の浮《うわ》気《き》の現場を押《おさ》えた、動かぬ証《しよう》拠《こ》を三日以内に届けてちょうだい」  と、夫人は立ち上りながら言った。「主人はあの女と、一日置きに会っているのよ。三日あれば充分でしょ」 「ですが、奥さん——」 「もし、三日たっても、何一つつかめないときは」  と、おっかぶせるように、「——この探偵社はモグリだって言いふらしてやるわ。私はとても顔が広いの。お宅の仕事にも、多少、影《えい》響《きよう》があるんじゃないかしらね」  と言って、唇《くちびる》の端《はし》で、ちょっと笑った。 「あなたが言葉だけじゃない男だってことを祈《いの》るわ」  クルリと振り向き、応接室のドアを派手に音を立てて開け放つと、足音も高く、出て行った。  お茶をのせた盆《ぼん》を手に、この探偵事務所、唯《ゆい》一《いつ》の女子事務員、坂《さか》下《した》浩《ひろ》子《こ》が顔を出したが、 「あら、もうお帰りになったんですか?」 「ああ。——お茶は二杯《はい》とも俺《おれ》が飲む」  と平本は営業用の愛《あい》想《そ》の良さから、社内向けの仏《ぶつ》頂《ちよう》面《づら》に表情を切り換《か》えて、言った。 「はい」  と、坂下浩子が出したお茶を一口飲んで、 「——おい、辻《つじ》山《やま》の奴《やつ》から電話はないのか」  と平本は言った。 「ええ、昨日《 き の う》から全然」 「あいつ! 何をやっとるんだ!」  平本はかみつきそうな顔で言った。 「さあ」  坂下浩子が知っているわけはない。——平本はぐいとお茶を飲み干した。 「うすいな。これでもお茶か?」 「社長が茶っぱを節約しろとおっしゃったんですよ」 「そうだったかな……」  と、平本は咳《せき》払《ばら》いした。 「あ? お客様らしいですね」  受付でチーンとベルの鳴るのが聞こえて、坂下浩子は出て行こうとした。 「おい、坂下君!」  と、平本は呼び止めて、「ちょうどいい。客なら、このお茶をそのまま出そう」  受付へと急ぎながら、坂下浩子は、早く次の勤め先を見付けておかなくちゃ、と考えていた。 「いらっしゃいませ」  と、いつもの笑顔に戻《もど》る。 「お仕事をお願いしたいんですけどね」  いかにも上品な和服姿の婦人だった。坂下浩子は、お茶を淹《い》れかえよう、と思った……。 「——すると仕事というのは、お嬢さんのボディガードですか」  と平本は言った。  この客は逃《のが》せないぞ、と内心、考えていた。金がある人間の顔をしている。 「私の娘ではありません。私がもう三十年近く住み込ませていただいているお宅のお嬢様です」  何だ、家政婦か、と平本は内心がっかりした。 「四日間、お嬢様がアメリカに発たれるまで、護衛していただきたいのです」 「何かその……狙《ねら》われるような理由でもあるんですか」 「いいえ! もちろん、お嬢様にもしものことがあるようなときは、守っていただかなくてはなりませんが、むしろ、どちらかというと、お嬢様がとんでもないことをしでかす可能性の方が強いのです」 「ははあ」 「いわばお目付役、兼ボディガードというところでしょうか」 「それはなかなか難しい仕事ですね」 「承知しております。料金はいくらかかっても構いません」  平本は相手をちょっと見直した。 「すると——ずっとそのお嬢さんのそばについていろとおっしゃるんですね?」 「できれば、お嬢様に気付かれずにやってほしいのです」  と、長谷沼君江は言った。「私がこんなことをお願いに上っているとは、お嬢様はご存知ありませんから」 「それは……難しいですね」 「知れれば知れたで、やむを得ませんけれど、できるだけ隠《かく》しておきたいのです」 「お話は分りました」  平本は肯いた。——しかし、内心は、断った方が賢《けん》明《めい》かな、と思っていた。  ともかく、この探偵社、このところ経営不《ふ》振《しん》で、優秀な人材を次々によそに引っこ抜かれて、はっきり言ってろくなのは残っていなかった。  こんな難しい仕事をやれる者はあるまい、と考えたのである。それに、「いくらかかってもいいから」と言っておいて、後で一杯のコーヒー代にもケチをつける客は珍《めずら》しくない。 「ええ……お話をうかがいますと、どうも特《とく》殊《しゆ》な仕事のようで」 「もちろん、料金も別になりましょうね」 「そうですな。やはり多少割高に——」 「差し当り、ここに五十万円持って来ました」  と、君江が、封《ふう》筒《とう》を出して、テーブルに置いた。「不足分は後で精算していただければ……」  平本は、指の震《ふる》えを悟《さと》られないように、分厚い封筒を取り上げた。 「それでは——その——受け取りをさし上げますので、少々お待ちを」  と、応接間を出ると、急いで席に戻った。 「——もうお帰りですか?」  と、坂下浩子が訊く。 「待ってる!」  平本は、封筒から一万円札《さつ》の新札の束《たば》を出し、指をなめなめ、数え始めた。 「あら、それニセ札か何かですか?」 「縁《えん》起《ぎ》でもないことを言うな!——あるぞ! 五十万だ!」  平本はホーッと息をついて、「おい、坂下君、コーヒーを注文したまえ」 「私の分もいいですか?」  平本は一《いつ》瞬《しゆん》ためらったが、 「ああ、いいとも」  と、気の大きな(?)ところを見せた。  しかし、問題は、誰《だれ》にこの件を担当させるかである。平本は、社員の一人一人の顔を思い出してみた。——あいつ、こいつ、そいつ、それに……。ん? もう一人いたはずだな。  電話が鳴って、坂下浩子が取り上げる。 「——あ、辻山さん? はい、待ってね」  そうだ、辻山がいた。 「辻山か? おい、何をしてるんだ? 浮気の現場は押《おさ》えたのか?」 「はあ、昨夜、確かに」  と、不完全燃焼気味の声が聞こえて来る。 「そうか! さっきも奥さんが来て、散々喚《わめ》き散らして行ったぞ。ともかく良かった」 「それが、あまり良くないので……」 「どうした? 見失ったのか?」 「いえ、ホテルへ二人《 ふ た り》で入るところをちゃんと見届けました」 「すると——また、カメラにフィルムを入れ忘れたのか!」 「違います、ちゃんと入っていますよ」 「じゃ、どうした?」 「入るところは後ろ姿なので、顔が分りません。で、出て来るところを狙おうと待ち構えていたんですが……」 「気付いて逃げたのか?」 「いえ、こっちが眠っちまったんです。で、さっき目を覚ましたというわけで……」  向うはそう言って、黙《だま》った。——当然、平本が怒《いか》りを爆《ばく》発《はつ》させる、と予期しているのである。  実際、平本の顔は紅潮し、雷《かみなり》は、すでに放電開始の状態にあった。しかし——平本は、ふと考え込んだ。  そしてゆっくりと肯くと、ニヤリと笑って、 「そいつはご苦労だった。まあ君も疲れているだろうからな」  と言った。 「はあ?」 「実は君にピッタリの仕事がある。すぐに社へ戻って来てくれ」 「は、はい」 「君には打ってつけだ。仕事は看視とボディガードと子供のおもりという簡単なものだ。君向きだろう?」 「社長、あの——」 「それにな、これにはすばらしい条件がついているのだ」 「と、おっしゃいますと……」 「この仕事でしくじったら、クビ、というんだ!——どうだやりがいのある仕事だろう。分ったらすぐ戻って来い!」  尻上りに怒《ど》鳴《な》って、平本は電話を切った。 「——おい、坂下君、コーヒーは頼《たの》んでくれたか?」 「はい。ケーキもつけてくれと言っておきました」  と、坂下浩子は言った。 「そんなに怒鳴らなくたって……」  と、辻山秀《しゆう》一《いち》は、受話器をフックにかけながら呟いた。  狭《せま》苦《くる》しい電話ボックスの中を、まだ平本の怒《ど》声《せい》が反《はん》響《きよう》しているような気がする。つい、無意識に辻山の指が十円玉返《へん》却《きやく》口《ぐち》にのびた。一枚しか入れていないのだから、戻るはずが……。 「ん?」  指に何かが触《ふ》れた。十円玉一枚。前にかけた奴が、戻ったのに気付かなかったのだろう。 「しめた!」  辻山はポケットにその十円玉を入れようとして、ためらった。——迷うほどのことじゃない。たかが十円じゃないか!  しかし、たかが十円を、喜んでポケットへ入れるのかと思うと、却《かえ》って惨《みじ》めな気がして来て、辻山は十円玉を返却口に戻した。  電話ボックスを出ると、辻山は大欠伸をした。——疲れと眠気。こればっかりは、平本社長の一《いつ》喝《かつ》でも、どうすることもできない。  辻山秀一、四十三歳。  人によってはまだまだ、これからが男盛《ざか》りという年《ねん》齢《れい》であるが、人によっては、そろそろ方々にガタが来るという、微《び》妙《みよう》な年齢である。  辻山がどちらのグループに属するかは言うまでもない。——ひげがざらつく顎《あご》を、辻山は手でこすった。  くたびれているのは、当人だけでなく、身を包んでいる背広——元背広というべきか——と、コート、それにかつては茶色かった靴《くつ》も同様に、原価償《しよう》却《きやく》を終えて、なお酷《こく》使《し》されている。その内に革命でも起こりそうな様子であった。  しかし、辻山のいい所は、怒鳴られたからといって、社長の馬《ば》鹿《か》野《や》郎《ろう》め、などと悪態をついたりしないことだ。実際、いつクビになっても仕方ない状《じよう》況《きよう》なのである。  さっきも平本が言った如く、やっと浮気の現場を押えたら、カメラにフィルムが入っていなかったとか、盗《とう》癖《へき》のある主婦を尾行していて、逆にスリと間違えられて捕《つか》まったり、車での追《つい》跡《せき》にレンタカーを借りたら、接《せつ》触《しよく》事故を起こして、修理代を払《はら》わされたり……。  このところ、失敗続きで、ろくなことがないのだ。 「全く、だめな奴だよ……」  と、辻山は呟いた。  とたんに、「そうだ」といわんばかりに、ワン、と足下で犬が吠《ほ》えた。薄《うす》汚《よご》れて、どうやら野《の》良《ら》犬《いぬ》らしい。辻山の方を、何かを期待するような目で、じっと見上げている。 「お前も一人ぼっちか。おい同類」  と、辻山は犬に声をかけた。  辻山は一人暮《ぐら》しである。妻は——かつて、いた。  辻山は、適当に、大通りへと見当をつけて歩き出した。——ラブホテルが並ぶ一角で、夜こそ華《はな》やかで活気があるが、こうして朝の光の中で見ると、そのけばけばしさがどことなくわびしくて、厚《あつ》化《げ》粧《しよう》の女の起きぬけの素顔を見たような気分になるのだ。  辻山は、つい無意識に足を早めていた。——こんな所にいたくない。一刻もだ。  ほとんど駆け抜けるようにして、ホテル街を出る。息を弾《はず》ませて足を緩《ゆる》め、気が付くと、さっきの犬がついて来ていた。  彼《かれ》の方を見上げて、尻《しつ》尾《ぽ》を振っている。 「おい、よせよ」  と、辻山は言って歩き出した。  こんな仕事柄《がら》、あの手のホテルへ出入りすることは年中である。その度に、辻山の胸は締《し》めつけられた。  もう五年も昔のことになってしまったが……。妻が、見たこともない若い男と、ラブホテルのベッドの中にいる。そこへ飛び込んで行った辻山。  その光景が、まるで映画の一場面のように、今でも辻山の脳裏にまざまざとよみがえるのだ。だから、あんな所には、いたくないのである。  因果な商売だよ、全く、と呟く。他人の浮気を追い回している内に、自分の女房に浮気されていれば世話はない。  さて……会社へ戻らなきゃならない。タクシーで帰ったら、あのケチな社長が怒《おこ》るだろう。  ふと、気が付くと、まだ野良犬がついて来ている。 「おい、いい加減にしてくれよ」  と、辻山は言った。「何も持ってないよ。お前にやるようなもんはないんだよ!」  辻山はズボンのポケットを引張り出して、はたいて見せた。——犬はヒョイと肩《かた》をすくめて(辻山には、そんな風に見えたのである)トットッと戻って行った。 「——明《あ》日《す》は我が身か」  と、辻山は呟いた。  それからバス停を捜《さが》して、大通りを歩き始めた。 2 「昼飯に行って来るぞ」  と、平本社長は坂下浩子へ声をかけて、探偵社を出て行った。 「行ってらっしゃい」  と、坂下浩子は席から声をかけ、「ごゆっくりどうぞ」  と、付け加えた。 「全く、ケチなんだからね、本当に」  ここへ勤めて二年、一度だって、平本に昼食をおごってもらったことがない。大体上役というのは、部下のために多少身《み》銭《ぜに》を切って然《しか》るべきではないか。それが、平本と来たら節約、節約だ。  さっきのコーヒーとケーキは、正に、この探偵社としては画期的な出来事であった。 「どうせやめるのなら、潰《つぶ》れない内でないとね……」  と、新聞を広げて、浩子は求人欄を眺《なが》めた。倒《とう》産《さん》してからじゃ、退職金も出ない。  突然、バタン、とドアが開いて、浩子はびっくりして飛び上った。入って来たのは、見るからに人相の良くない男たちで、二人——いや三人もいる! 「おい!」  頬《ほお》に凄《すご》い傷のある男が、浩子を呼びつけた。 「は……あの……何かご用で……」 「ここに辻山って奴がいるだろう」 「辻山さん……ですか。ええ、いますけど」 「ここへ出せ」 「今、出かけています」 「どこへ?」 「分りません。人を尾行して歩いてるんですから……」 「ふーん」  男は鋭《するど》い目で、探偵社の中を見回した。「隠すとためにならねえぞ」  あんな人、隠してどうするんです、と言おうとして、やめた。 「よし、また来る」  と、男は、他の二人を促《うなが》して出て行った。  浩子は、大きく息をした。——辻山さんたら、何をやらかしたのかしら?  とたんにヒョイと辻山が入って来た。 「おい、何だ、今のは?」 「辻山さん!——今の人たちに会ったの?」 「すれ違ったけど……依頼人にしちゃ柄が悪いじゃないか」 「あなたを捜しに来たのよ」 「僕を?」  と、辻山は目を丸くした。 「何かやったんじゃないの? ヤクザのボスの愛人に手を出したとか」 「やめてくれ」  辻山は苦笑した。「そんな元気があると思うかい?」 「思わない」 「社長は?」 「お昼食べに出てるわ」 「またソバ屋だな。よく飽《あ》きないよ、全く」  辻山は自分の席に座って、「いつか出社して来てみると、ここに他の奴が座ってるって夢《ゆめ》を、よくみるよ」  と言った。 「私も、よく夢を見るわ」 「君も?」 「ええ、会社へ来てみると、社員が全部、若くてハンサムな人に入れ替《かわ》ってるの」  辻山は苦笑いした。 「かなり厳しいね、君も」 「あら、これぐらい、どうってことないでしょ。——辻山さん、また何かしくじったの」 「また、は余計だぜ」 「今度の仕事、頑《がん》張《ば》ってよ」 「へえ、珍《めずら》しいね。励《はげ》ましてくれるのかい?」 「まだ倒産してもらっちゃ困るもの」  と、坂下浩子は言った。  ドアが開いて、今度は、ちょっと辻山と似た感じの男が入って来た。もっとも、そう言われたら、きっとお互《たが》いに、 「あんな奴と一緒にするな」  と、怒るかもしれない。  多少、辻山よりは太り気味の、くたびれた背広、ネクタイというスタイルではそっくりのその男は、辻山の顔をしげしげと眺めて、 「辻山か?」 「どなたです?」  と、訊き返して、「ああ、こりゃ——驚《おどろ》いたな。高《たか》峰《みね》さんか」 「見違えたぞ。ずいぶん老け込んだもんだな、おい」 「お互い様ですよ」  と、辻山は言った。「坂下君、お茶でも出してあげてくれ。高峰刑《けい》事《じ》殿だ」 「お巡《まわ》りさんですか」 「いや、構わんでくれ」  と、高峰という刑事は手を振って、「おい、辻山、お前に話がある。ちょっと外へ出ようぜ」 「何事です?」  と、辻山は立ち上りながら言った。 「辻山さん、やっぱり何かやったんでしょ」  と、浩子が言った。「当分留置場?」 「よせやい、縁起でもない」  辻山は顔をしかめた。  高峰は、昔、ちょっとした事件が縁で知り合った古顔の刑事である。何となくウマが合うというのか、辻山は何度か高峰に便《べん》宜《ぎ》をはかってもらったこともあった。もっとも、このところ、とんと顔を見ていなかったので、お互い、顔をじろじろと見つめ合ったというわけである。 「——一体何事です?」  近くの喫《きつ》茶《さ》店《てん》に入って、辻山は訊いた。 「ここはお前払えよ。これは公費じゃ落ちない」  と、高峰は言った。  どうも、いやに真《しん》剣《けん》な口調である。 「何かやりましたか? 覚えがないけどな」  と、辻山は、できるだけ気軽な調子で言った。 「最近、奥さんに会ったか?」  高峰の言葉に、辻山は面食らった。 「幸子にですか? あれはもう女房じゃありませんよ」 「分ってるよ、そんなことは」  と、高峰は苛《いら》々《いら》した様子で手を振った。「会ったのか、どうなんだ?」 「全然です」 「最後に会ったのは?」 「離《り》婚《こん》の届に、印を押《お》しに来たときですから、もう五年近くになりますね」 「電話は?」 「そういえば、大分前に一度電話して来たな。でも、二、三年はたっていますよ」 「そうか」  辻山は、高峰の、重苦しい顔を見て、 「あの——幸子、死んだんですか?」  と訊いた。 「どうしてだ?」 「いえ……だって、何だか高峰さんの話し方が……。一体どうしたんです?」 「奥さんは人を殺したらしいんだ」  辻山は、ちょっとポカンとしていたが、 「まさか」  と言って、笑った。「冗談でしょ」 「俺がそんな冗談を言うために、わざわざここまで来ると思ってるのか?」 「でも……。幸子はえらく気の小さい女ですよ。確かに調子良くて図々しいけど、あれで結構気が弱いんです。ともかく血を見ると貧血起こして倒《たお》れちまうんですからね。その幸子が人殺しなんて——」  と、言いかけて、「誰《だれ》が殺されたんです?」  と訊いた。 「矢《や》代《しろ》という男だ」 「矢代。——知りませんね」 「厄《やつ》介《かい》なことになるぞ」 「どうしてです?」 「矢代は、国《くに》崎《さき》の息《むす》子《こ》なんだ」 「国崎?」 「知りませんなんて言うなよ」 「国崎って……まさか、あの国崎ですか?」 「その国崎だ」  辻山は、椅子に座り直した。 「何てこった! どうしてその国崎の息子が——」 「どうやら、奥さんは、国崎の女だったらしい」 「幸子が!」 「まあ、そこで息子と父親の間に何があったのかは分らんが、ともかくごたごたがあって、息子の方が刺《さ》されて死んだ。奥さんは逃げた。——というわけだ」  高峰の説明は至って不充分なものだったが、しかし、肝《かん》心《じん》な点は分った。つまり、辻山の元の妻、幸子が、いわば大ボスの一人である国崎の愛人になっていて、どういういきさつかは分らないが、その国崎の息子を殺してしまったというのだ。  その結果は容易に推察できる。幸子は、どこへどう逃《に》げても、結局は殺されるに違いない。 「そうか」  と、辻山は呟いた。 「何かあるのか?」 「さっき、会社へ戻ったとき、入れ違いに、柄《がら》の悪いのが二、三人出て行ったんです。僕に用だったらしいんですがね。どうやら国崎の所の若い奴らですね」 「そうか。まあ、奥さんもお前の所へはやって来ないだろうが、連中としては、お前のアパートにも張り込むかもしれん。用心するんだな」 「『奥さん』はやめて下さい。もう離婚してるんだ」 「しかし、気になるだろう」  辻山は肩をすくめた。 「まあ、多少はね。でも、五年も前ですよ。他人と同じだ」 「そうか」  高峰はコーヒーカップを取り上げると一気に飲みほして、「——奥さんがどうなるか、お前にも見当はつくだろう」 「大体はね」 「それでも平気か?」 「何です、一体?」  と、辻山は苦笑した。「いいですか、僕はクビになるかどうかの瀬《せ》戸《と》際《ぎわ》にいるサラリーマンに過ぎないんです。自分の食べる物に気を使わなくちゃならないのに、他人のことまで心配しちゃいられませんよ。そうでしょう?」 「それなら、わざわざ知らせることもなかったな」  と高峰は立ち上った。 「いいえ、おかげで自分の身を守らなきゃならないことが分りましたよ」 「お前払っといてくれ」 「いいですよ。うちの社じゃ、交際費はつかないですけどね」  と言いながら、辻山は伝票を取って、立ち上った。  店を出ると、高峰は、 「万一、奥さんから連絡があったら、俺を呼べ」  と言った。 「ずいぶん、あいつのことを、気にかけてくれるんですね」 「逃げた女房かもしれんが、人知れず殺されて、海に投げ込まれるのは気の毒だろう」 「そりゃまあ、僕だってそうは思いますけどね。——まさか、とは思うけど、連絡があれば、電話します」  高峰は、黙って肯いて見せると、辻山と別れて歩き出したが、ふと振り向くと、 「おい」  と声をかけて戻って来た。 「何です?」 「一つ言っとくことがある」 「はあ」 「女房の浮気は亭《てい》主《しゆ》にも半分責任があるんだ。憶《おぼ》えとけよ」  そう言って、高峰は、さっさと行ってしまう。——辻山は、呆《あつ》気《け》に取られて見送っていたが、 「高峰さんも逃げられたのかな」  と、首を振りながら呟いた。  社へ戻ると、平本社長が帰って来ていた。 「おい、辻山。刑事が何の用だったんだ?」  辻山は、ちょっと迷って、 「——別に何でもありません。古いなじみなんです。近くへ来たから寄ってみたんだと……」 「ふん」  平本はジロッと辻山を見て、「ゴタゴタを起こしたら、今度の仕事にしくじらなくてもクビだぞ」 「何をすればいいんです? 子供のおもりとかいう話でしたね。ベビー・シッターの仕事も始めたんですか?」  辻山は話をそらした。やはり、いくら関係ないとはいえ、幸子のことを、社長に話す気にはなれなかったのだ。  辻山はチラリと坂下浩子の方を見た。どうやら、その筋の連中が辻山を訪ねてやって来たということは、黙ってくれているらしい。 「いいか、これが依《い》頼《らい》人《にん》だ。——この娘の後を尾《つ》ける」  一枚の写真が、辻山の前に置かれた。  直美は、大学の図書館で、昼《ひる》寝《ね》していた。前の晩、遅《おそ》かったにせよ、充分寝てはいるのだが、それでも眠いのである。  図書館に来るのは久しぶりだった。 「ちょっと」  と、肩を叩《たた》かれて、 「うるさいなあ……」  と、直美はグチった。「もう少し寝かしといてよ」 「ここはホテルじゃありません!」 「あ、ご、ごめんなさい!」  図書館名物、知的ゴリラとあだ名のある、太《おお》田《た》女史が、腰に手を当てて立っていた。 「たまには勉強しに来たら?」  と、いや味を言うが、しかし、おっかない反面、サバサバしていて、後まで尾を引かないので、結構みんなに親しまれていた。 「すみません」  直美は立ち上った。「もう帰らなきゃ」 「午後の講義は?」  と、訊いて、「ああ、そうだったわね、あなた留学するんだっけ」 「そんなカッコいい話じゃないんです」  直美が出口の方へ歩き出すと、太田女史もついて来た。 「もう休学の届、出したんでしょ」 「ええ」 「だったら、来ることないのに」 「来なくていいとなると、却《かえ》って来たくなるんです。変なもんですね」 「明日は日曜日よ。間《ま》違《ちが》えて来ないでね」 「あ、そうか」  と、直美はポンと頭を叩いた。「曜日の感覚がなくなっちゃって……。友達に言ったら、優《ゆう》雅《が》ねえ、って言われちゃいました」 「そりゃそうでしょうね」 「でも——何だか寂《さび》しいわ。自由になるって寂しいですね」  直美はキャンパスの中を見回した。 「いつ戻るの?」 「さあ……。そのまま行きっ放しになるかも。父があっちをえらく気に入ってるんです。父と——奥さんが」 「そう」  と、太田女史は肯いた。「色々大変ね。まあ頑張って。——いつ出発?」 「後四日です」 「また来るの?」 「たぶん」 「じゃ、そのときにね」  太田女史は、その太目の体つきからは想像のつかないような軽い足取りで、図書館へ入って行った。  いいな、と直美は思った。充《じゆう》実《じつ》している人の軽やかさだ。それに比べて今の自分は、まるで年寄りみたいに、すぐ疲れてしまうのだから。  直美は、大学の正門へ向う道を歩き始めた。——前庭に充分な広さがあって、ずっと向うに正門が見える。  午後の講義がもう始まっているので、芝生には学生の姿は見えなかった。  直美は足を止めた。  これでも、高校のときは陸上の選手だったのだ。小柄だから、長距離は苦手だったけれど、短距離では、しばしば校内大会に優勝したものである。  それが、大学へ入って、とたんに走らなくなった。  直美は、手にしていたバッグを、傍《そば》のベンチに置いた。それから、正門に向って真《まつ》直《す》ぐに立って、両足を揃《そろ》えた。  あそこまで——百メートルはある。  誰か見てないかな。気になって振り向くと何やら、見なれない、ちょっとくたびれた感じの中年男が、コートを肩にかけて、ぶらついている。  誰だろう? どう見ても大学生ではないし、といって教授や講師という柄でもなさそうである。  しかし、見たところ、そう性《た》質《ち》の悪い男とも見えない。 「すみません」  と、直美はその男に声をかける。「ちょっと——すみません」  男は、聞こえているはずなのに、急に向きを変えて、行ってしまいそうにした。 「あの、ちょっと——」  直美は追いかけて行って、呼び止めた。 「僕《ぼく》に用?」 「ええ。大学の方ですか」 「いや……。ちょっと知り合いを訪ねて来てね」  と、男は出まかせっぽい言い方をした。 「すみませんけど、ちょっとお願いがあるんです」 「何か?」 「一緒に走っていただけません?」 「走って?」 「ええ。そこから正門まで全力疾《しつ》走《そう》で」 「僕が?」 「お急ぎなんですか?」 「いや別に——」 「じゃ、いいでしょう」 「しかし——」 「一人じゃいやなんですもの。ね、お願い」  直美は、その男を無理に引張って来ると、 「——さ、ここから。いいですか?」  男は諦《あきら》めたように苦笑すると、コートを芝生の上に放り投げた。 「まあいいや。どうせ運動不足だ。——声をかけてくれ」 「ええ。疲れたら、途中でやめてもいいですよ」  男はムッとした様子で、 「早くしろよ」  と身構えた。 「じゃ、行きますよ。——用意。——ドン!」  直美は飛び出した。足下を地面が流れて行く。視界が、細かく揺《ゆ》れながらどんどん拡大されて来る。正門が見える。近づいて来る。——もう少し。もう少し。  最初重かった足が、どんどん軽くなって来る。地面を蹴《け》って、空を飛んでいるようだ。  風が髪を揺らし、空気を切り裂《さ》いて、駆け抜ける。  正門を駆け抜けて、直美は足を緩めた。  すぐには止まらない。十メートル近くも走ってしまった。正門の前も並《なみ》木《き》道《みち》だからいいようなものの、自動車道路だったら、飛び出して一巻の終りだろう。 「気持いい!」  息を弾ませながら、直美は叫《さけ》んだ。心臓が今になって鼓《こ》動《どう》を早める。——大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》。若いんだもの。そう簡単にヘバってたまるかって。 「何だね、一体?」  正門の受付にいる年寄りが出て来て、不思議そうな顔で訊いた。 「ちょっと走りたくなったの。気持いいもんね、本当に」 「若いのう」  と、老人が笑った。 「あら。もう一人一緒に走ってたんだけど……。どこへ行ったのかしら?」  と、直美は周囲を見回した。 「もう一人?」 「ええ」 「それじゃ、あの芝生で倒れてるのがそうじゃないのかね?」  と、指さす方を見ると、芝生の上に大の字になって、あの中年男が倒れていた。 3 「一時的な貧血よ。たいしたことないわ」  と、医務室の女医が言った。 「どうも……」  と、直美は頭を下げた。 「寝てりゃ治るわよ。何か急に激《はげ》しい運動でもしたんじゃない、きっと」 「そ、そうですね」 「いい年《と》齢《し》して、無理するからよ。馬鹿みたいね」 「はあ……そうですね」  直美は、あの男に聞こえるんじゃないかと気が気ではなかった。 「じゃ、あなたいてくれる? 私、ちょっと事務長に呼ばれてるの」 「ええ、私、ここにいます」 「まあ、放っといたって構やしないけどね」  と、勝手なことを言って、女医は出て行った。 「参ったな……」  直美は、息をついた。何といったって、自分が無理に言って、走らせたのだ。責任を感じる。  心臓麻《ま》痺《ひ》でいちころ、というわけではなくて良かった。——直美は、そっと衝《つい》立《たて》の陰《かげ》から顔を出して覗《のぞ》いて見た。  ワイシャツのボタンを外して、ネクタイをゆるめ、男は、目を閉じて、まだ荒《あら》い息をしていた。しかし、さっき、ここへかつぎ込んだときよりは、大分顔色も戻って来ているようだ。  直美は、ふと、男の上《うわ》衣《ぎ》が、椅子の上に投げ出されているのに気付いて、取り上げると、入口のわきのコートかけに引っかけた。コトン、と音がして、何やら、定期入れらしき物が落っこちた。  拾い上げると、ずいぶん使い古した定期入れである。すっかり角がすり切れてしまっていた。  定期券の名前を見ると、辻山秀一とある。中を覗いてみたくなって、カードのようなものを抜き取ってみた。——身分証明書が出て来た。 「——探偵社?」  直美は目を丸くして、その身分証明書を眺めた。名前も辻山秀一になっているし、貼ってある写真は、ちょっと昔のものらしいが、確かにあの当人である。  探偵社。——探偵があんなことじゃ、犯人を追っかけるとき、どうするのかしら?  まあ、冗談はともかく、現実の探偵が、素行調査とか、浮気の証拠集めとかをやっていることは、直美も知っている。しかし、大学で何をやっていたんだろう? 「——まさか」  直美は、思わず口走った。  だが、あのとき、周囲には、自分とこの男の他には誰もいなかった。そして、声をかけると、この男、気付かないふりをして、逃げようとした。  ということは、つまり……。 「長谷沼さんだわ!」  直美は頬を紅潮させた。 「——やあ、どうも」  と、声がして、直美は振り向いた。  あの男が、頭をかきながら立っている。 「無茶はするもんじゃないね。もう体が言うことを聞かないよ」 「ねえ、あなた探偵さんなのね」  と、直美は言った。 「え?——ああ、まあね」 「私の後を尾《つ》けてたの?」 「いや、そんな——」 「隠さないで! 分ってるわよ。長谷沼さんでしょう。私のこと信用できないからって……」 「人のポケットの中を勝手に覗くのは良くないぞ」 「これが勝手に飛び出して来たのよ」 「まさか」 「どうだっていいわ。ともかく、私の言う通りでしょ?」 「君に教えとくけどね」  辻山は定期入れをヒョイと取り上げると、「探偵にとって、依頼人の名は最高の秘密なんだ。たとえ刑事に訊かれたって、答えられない」 「かっこつけたってだめよ。分ってんだからね。——いいわ、もうここであなたの仕事は終りよ」 「何だって?」 「尾け回されるのなんてごめんだわ。絶対にお断り!」 「君は依頼人じゃない」 「依頼人の雇《やと》い主よ」 「依頼人が誰かは明かさないと言ってるだろう」  辻山も負けずに言い返した。 「あなたって頭に来る人ね!」 「お互い様だ。君のおかげで死ぬところだった」 「どうぞご遠《えん》慮《りよ》なく」 「まだ仕事が終ってないんでね」  直美は口を尖《とが》らして辻山をにらみつけていたが、 「いいわ。いくら払《はら》ったらやめてくれる?」  とバッグを取り出し、財布を開けた。「十万円持ってるわ。全部あげたっていいのよ」 「十万! 子供にそんな大金を持たせるなんて間違いだな」 「子供とは何よ」 「大人《 お と な》じゃあるまい」 「ともかく、もうついて来ないで!」  直美はバッグを手に医務室を出た。 「おい待て!——おい!」  辻山は、上衣とコートを引っつかむと、急いで後を追った。 「ついて来ないでよ!」  外へ出ると、直美は振り向いて怒鳴った。 「仕事なんだ!」  辻山はネクタイを締《し》め直すと、上衣に腕《うで》を通しながら、怒鳴り返した。 「見失ったって言えばいいでしょ!」 「君を見失ったら、こっちは即《そく》座《ざ》にクビなんだ!」 「あんたのクビなんて、私には関係ないわよ」 「そっちにはなくても、こっちは生活がかかってるんだ!」  辻山は足を早めて、直美と並んで歩き出した。 「尾行なら、それらしく、隠れてついてらっしゃいよ」 「どうせ分ってるんだ。この方が見失わなくて済む」  直美はため息をついて、 「私をどうする気? 真直ぐ家へ送り届けるの?」 「いや、ともかく君の行くところについて行けってことだ」 「それで?」 「ボディガード、兼、見張り役だそうだ。君はかなりワルなんだな、きっと」 「大きなお世話よ! 頼《たよ》りになるボディガードだこと。ちょっと走ったくらいで息切らしてひっくり返るなんて」  辻山は、ぐっと詰《つ》まった。 「あれは——準備運動をしていなかったからだ」 「へえ」 「それにこのところ睡《すい》眠《みん》不足なんだ」 「遊び過ぎ?」 「そんな金があるか。君みたいに何もしないでポンと十万円もらえる身分じゃないんだ、こっちは」 「ともかく目《め》障《ざわ》りよ」 「悪いね。しかし、諦めてもらうよ」 「ゴミ運《うん》搬《ぱん》車《しや》がいたら運んでってもらうのにね」  と直美は言って、足を止めた。  講《こう》義《ぎ》棟《とう》の前に来ていた。 「私、講義を聞いていくわ」 「君はもう休学になってるんじゃないのか?」 「どうせ教室はガラガラですからね、構やしないのよ」  直美はさっさと建物の中へ入って行く。  辻山はあわてて後を追った。 「あなたも講義を聞くの?」 「君についてなきゃならないんだ。どこへだって行く」  直美は、でたらめに教室の一つの扉《とびら》を開けた。三百人近く入る大教室で、そこに学生の数はせいぜい二、三十人か。それも大体は座席の後ろの方に座って、居眠りしたり、本を読んだりしていた。  直美は適当に席に座った。辻山の方は、仕方なく、入口のわきに立って、目立たないように——といっても、中年男が入って来て突《つ》っ立っているのでは、いやでも目につく。  辻山は、やっと少し気分が良くなって来ていた。  さっきは正に死ぬかと思った。——つくづく、我ながら体力が衰《おとろ》えたと思う。それも当り前かもしれないが。  不規則な生活、外食ばかりで、しかもろくなものを食べていない。スポーツどころか散歩さえしていない。  これで衰えなければ、その方が不思議だ。それに、何といっても、生活に目標も張りもない。  辻山は、いい加減頭に来ながらも、あの新井直美に漲《みなぎ》っている若さをまぶしいように見ずにはいられなかった。  走り出した、あの瞬《しゆん》間《かん》、体がまるでバネのように弾んでいた。スカートを翻《ひるがえ》して、風を切って走って行く直美は、正に、辻山の目には、まぶしかったのだ。  もっとも、すぐに辻山は胸が苦しくなってそれどころではなくなったのだが。 「——何か質問は」  と、かなり投げやりな調子で、講義していた教授が言った。  どうせみんな聞いちゃいねえんだろ、という感じである。こういう調子でしゃべられたら、どんな名講義だって聞く気がなくなる。 「先生!」  と手を上げたのは、何と新井直美だった。図々しい! 本来はここにいる学生ではないのだろうに。 「何だね?」  と教授が面《めん》倒《どう》くさそうに訊く。 「教室に学外の人間が入り込んでいます! これは大学の自治の侵《しん》害《がい》です!」  辻山は目をむいた。 「誰なんだ?」  教授が辻山を見て言った。 「きっと刑事です!」  と、直美が言った。  学生が騒《さわ》ぎ出した。 「出て行け! 権力の手先は出て行け!」  と誰かが叫び出すと一《いつ》斉《せい》に、 「出て行け! 出て行け!」  の大合唱になった。  もちろん、本気で怒っているわけではない。退《たい》屈《くつ》しのぎで、面《おも》白《しろ》がっているのである。しかし、教授の方は、割と真剣に、 「君! ちょっと来たまえ!」  と、むきになって声をかけた。  辻山は、ニヤニヤ笑っている直美の方をひとにらみしてから、急いで教室を逃げ出して行った。 「——あら、まだいたの」  正門を出て歩き出した直美は、いつの間にかヒョイと横に現れた辻山に、「ご苦労様な話ね」  と言った。 「言ったろう。生活がかかってんだ、こっちは」 「あなたの生活なんて関心ないわ。どうせそのなりじゃ、奥さんに逃げられたんでしょ」  辻山は咳《せき》払《ばら》いした。 「大きなお世話だ」  直美は、ちょっと目を見開いて辻山を見ると、 「え?——じゃ、本当に逃げられたの? わあ、愉《ゆ》快《かい》!」  直美は笑い転げた。いや、もちろん路上でだから、本当に転がったわけではないが、キャッキャと笑いながら、飛びはねた。 「何がおかしいんだ!」  と、辻山は真っ赤になって怒鳴った。 「だってえ……おかしいじゃないの! 奥さんに逃げられた人が、人の浮気を調べて歩いてるなんて! これが笑わずにいられますかって!」  何とも、胸にグサッと来るようなことを平気でいう奴だ、と辻山は、直美をにらんだが、その内に、自分も苦笑いした。——確かに、はた目にはおかしなことに違いない。  それに、直美は、本当に愉《たの》しげに笑うので、そこに皮肉や冷ややかさがない。 「おい、いい加減に笑うのやめろよ。人が見てるぞ」  と、辻山は言った。 「いいじゃない。それとも、泣いてる方がいい? 女の子を泣かせるなんて、何てひどい男かってにらまれるわよ」 「勘《かん》弁《べん》してくれよ。ともかくこっちは仕事なんだ。何もトイレの中までとは言わないから、ついて歩かせてくれ」 「じゃ、まあご自由に」  と直美は言った。「でも、私の邪《じや》魔《ま》はしないでよ。お友達と会うことになってるんだからね、今日は」 「ああ、分ってる。目立たないように離《はな》れてる」 「本当に?」 「こっちはプロだぞ。目立たないようにするのは慣れてるんだ」 「そう。じゃよろしくね」  と、直美は言った。 「——ね、何なのかしら、あの男の人?」  と、直美の高校時代の親友、大《おお》津《つ》智《とも》子《こ》が言った。 「え?」 「ほら、あそこのテーブルに座ってるじゃないの。変なむさ苦しいおじさん」  直美は、フルーツパーラーの、女の子ばかりの中に、一人、ブスッとした顔で座り込んでいる辻山の方を見て、そっと笑った。辻山の目の前には、ドカッと山《やま》盛《も》りのフルーツパフェが置いてある。 「きっとロリコン趣《しゆ》味《み》なのよ。いやねえ」  と、直美は言った。 「そういえば目つきがどことなく普通じゃないわよ。ああいうの、前もって取り締《しま》ってくれないのかしら」 「そうねえ。でもそれは問題あるんじゃない?」 「それなら、女の子はピストルを持っていいことにするとかさ」 「でも、ああいうのは、割と意気地がないのよ。気にすることないわ」  自分のことを話しているとは、知る由もなく、辻山は、溶けて来るパフェと悪《あく》戦《せん》苦《く》闘《とう》していた。 「——ねえ、直美」 「ん?」 「あなたの送別会をやろうって、ノンコたちと話してんだけどさ」 「いいわよ、そんなこと」 「だって、やっぱりしばらくは会えないわけじゃない。どこかでやろうよ。思い切り酔《よ》っ払う会とか、男の子を一人呼んでみんなでいじめる会とか——」 「面白そうね」 「ねえ……」  と、智子は少し声を低くして、「これ、内《ない》緒《しよ》だけどさ、マリファナもその気になれば手に入るの。私の彼氏がその筋の人、知ってるもんだから」 「本当?」 「いっちょマリファナパーティでもやる? どうせアメリカ行きゃ、いくらでも手に入るかもしれないけど」 「どうせなら乱交パーティにするか」 「言うわね!」  一見して秀《しゆう》才《さい》タイプの——本当に頭は抜《ばつ》群《ぐん》にいいのだ——智子は、メガネを直して身を乗り出し、「本当にやるなら、人揃《そろ》えるけど、どうする?」  直美は、ちょっと曖《あい》昧《まい》に微《ほほ》笑《え》んだ、——どうせ日本を離《はな》れて、当分は戻《もど》って来ないんだからと思えば、何でもできそうなものだが、でも、何だか、そこまで自分を粗《そ》末《まつ》にしたくない、という気もした。ちょっと頭が古いのかな、私。  ふと、辻山の方を振り向くと、目を白黒させながら、フルーツパフェに取り組んでいる。  きっと、あれは必要経費で落とすので、食べなくては申し訳ないと思っているのだ。——あの年代はそういう意味では、やたらと律《りち》儀《ぎ》なのかもしれない。 「——ね、直美、何考えてんの?」  と智子が訊《き》く。 「え?——ああ、何でもないのよ。ね、智子、そういうのも面《おも》白《しろ》いとは思うけどさ、私、むしろぐっと健康的に行きたいんだ」 「健康的? じゃ、ホームパーティくらいにしとく?」 「ううん、もっと健康的にやりたいの」 「もっと? 美容体操でもやる気?」  と、智子は目を丸くして訊いた。 「——いらっしゃいませ。これは、新井様のお嬢《じよう》様《さま》で」  都内でも指折りの、フランス料理店の一つである。直美はよく父と一《いつ》緒《しよ》にここへ来ていた。 「席はある?」 「はい。お嬢様のお席でしたら、いつでもご用意いたします」  支配人自らが、直美を窓際のテーブルへ案内した。 「今日《 き よ う》は何かおいしいものある?」 「鹿《しか》肉《にく》のいい所が入っております」 「おいしそうね。いただくわ」 「では、すぐにメニューを。お飲物は何か?」 「そうね。シェリーをちょうだい」 「かしこまりました」  直美は、グラスに注《つ》がれたシェリーを半分ほど流し込《こ》んで、胸の熱くなる感覚を、快く味わった。  ふと、店の入口の方を見ると、あの探《たん》偵《てい》が、コートを手に覗《のぞ》き込んで、店の人間に文句を言われている。——直美は、ふっと微笑んだ。 「ちょっと」  と支配人を呼んで、「——あの、入口の辺りをウロウロしてる人、このテーブルに連れて来て」 「お連れ様ですか?」 「まあそんなもんなの」 「かしこまりました」  辻山は、わけの分らないという顔で、やって来た。 「ここの方が見張るのに便利でしょ」  と直美は言った。 「まあね。いい加減足が棒だよ」  と辻山は息をついた。 「お年なのね。お気の毒に。——あなたもどうせ夕ご飯は食べるんでしょ? 一緒にどう?」 「うん、まあ、それじゃ……」  辻山は、メニューを渡《わた》されて、見て仰《ぎよう》天《てん》した。大体、料理の名前を見ても、どんなものか、見当もつかない。それよりも、値段の方を見てまた仰天した。 「——お決りでございますか」  と、支配人がやって来る。 「私、エスカルゴとオニオングラタンスープ。それに鹿肉ね」 「かしこまりました。そちら様は?」  辻山はエヘン、と咳《せき》払《ばら》いして、 「ええと……コンソメスープ」 「コンソメスープ」 「それだけでいい」 「は?」 「スープだけでいい」 「かしこまりました……」  直美は、不思議そうに辻山の顔を眺《なが》めた。 「減量中なの?」 「会社から出る食事代は七百円が限度なんだ。このスープだって百円オーバーしてる」  直美は吹き出した。 「面白い人ね、あなたって」  辻山はちっとも面白くなかった。——直美がいとも優《ゆう》雅《が》に食事を続けている間、冷め切ったスープをボソボソとすすっていた。 「ワインくらい飲んだら?」  と、直美が言った。「もう一つグラスをもらうから」 「いや、結構」 「お金払えとは言わないわよ」 「探偵が尾行している相手にごちそうされるのは、買収されるのも同じだ。それはできない」  直美は肩《かた》をすくめた。 「じゃ、ご自由に」  ググーッと妙《みよう》な音がした。辻山のお腹《なか》が鳴ったのである。  辻山はあわててそっぽを向いた。 「——ここが君の家か」  と辻山は言った。「凄《すご》い家だな」 「そう。ここに長谷沼さんと二人で住んでるんだもの。スペースのむだね」 「僕《ぼく》のアパートは、君の家のガレージぐらいだな、きっと」 「外車が三台入る?」 「ミニカーならね」  と、辻山は言った。「今日はもう出かけないのかい?」 「ええ。——まだ十一時じゃない。こんなに早く帰って来たら、長谷沼さん、びっくりするわ、きっと」 「子供は早寝早起きが一番だ」 「失礼ね」  と言ったが、直美は笑っていた。「明日《 あ し た》は朝早いの。早々にベッドに入るわ」 「へえ。日曜日だぜ」 「そうよ。朝八時にはここを出るからね」 「本当だろうな」 「来なきゃ置いてくわよ」 「分ったよ」  直美は、インタホンのスイッチを押《お》した。 「長谷沼さん、ただいま」 「すぐ参ります」  と、返事があった。 「じゃ、また明日」  と、直美は何となく楽しげに言った。  辻山は、少し離れて、直美が門の中へ入って行くのを見届けると、駅の方へと歩き出した。腹が減って死にそうだった。  ラーメン屋を見付けて飛び込むと、 「ラーメンライス!」  と怒《ど》鳴《な》った。 「お早いお帰りですね」  と、長谷沼君江は言った。 「たまにはいい子でなきゃね」  と、直美は言った。 「まさかこれからお出かけではございませんでしょうね」 「もうお風《ふ》呂《ろ》に入って寝《ね》るわよ。明日、七時に起こして」  長谷沼君江はちょっと当《とう》惑《わく》顔《がお》で、 「夜の七時でございますか?」 「朝の七時よ!」 「どちらかへお出かけで?」 「そう。お友達が送別会をやってくれるのよ。お弁当、作っといてちょうだいね」  そう言って、直美はさっさと階段を上って行く。——長谷沼君江は、呆《あつ》気《け》に取られて見送っていた。 4 「ああ、畜《ちく》生《しよう》!」  と、朝一番の辻山のセリフは、あまり意気の上るものではなかった。  体中が痛い。慣れぬ全力疾《しつ》走《そう》などやるからだが、仕事となれば仕方ない。  目覚し時計を見ると、六時半になっていた。——よく目が覚めたもんだ、と辻山は自分を賞《ほ》めてやった。 「ええと……あの娘、八時に出かけるとか言ってたっけ」  と呟《つぶや》きながら、洗面台で思い切り水を顔へ叩《たた》きつける。やっと少し頭がすっきりした。 「今日もフランス料理じゃかなわないな」  夕飯時近くになったら、弁当でも買っておこう。レストランでおにぎりを頬《ほお》ばるというのも、乙《おつ》なもんだ。  年《と》齢《し》を取ると、朝の始動に時間がかかる。若い頃《ころ》は、ぎりぎりに目が覚めて、飛び起きると、パンをくわえてネクタイを引っかけ、家を飛び出すまでに十五分もあれば充《じゆう》分《ぶん》だったものだ。  それが今は、のんびり新聞を広げ、牛乳をコップに一杯《ぱい》飲んで、ひげを剃《そ》って、家を出るまでに、四、五十分もかかる。古くなったエンジンと一緒で、動き出すのに時間が必要なのである。  しかし、今《け》朝《さ》はそうのんびりもしていられなかった。あの新井邸まで、一時間近くかかる。七時過ぎに出て行かないと……。  しかし、錆《さ》びついた歯車は如《いか》何《ん》ともしがたく、やっと仕《し》度《たく》を終えて出たのは、七時十分だった。  外はいやに静かだった。——いつも、こんな時間には、出勤して行くサラリーマンたちが、列をなして駅に向っているはずだが。 「そうか。今日は日曜日だ」  そう分ると、ますます元気は失《う》せて来る。畜生。俺《おれ》一人《ひ と り》がどうしてあんな娘《むすめ》っ子のおもりに行かなきゃならないんだ?  グチは言っても、仕事はするのが、辻山の世代である。駅へ向う足をいくらか早めた。  黒塗《ぬ》りの、大型の乗用車が停《とま》っているわきを通り抜《ぬ》けようとしたとき、車のドアが不意に開いて、行手を遮《さえぎ》るように、男が立った。 「どいてくれよ」  と言いながら、辻山は相手が誰《だれ》なのか、見当がついていた。 「辻山さんだね」  四十がらみの、色の浅黒い小《こ》柄《がら》な男だ。しかし、胸の厚さは、黒の背広を盛《も》り上げて、辻山の倍もありそうに見えた。 「そうだけど」 「乗って下さい。お話があります」  言葉は丁《てい》寧《ねい》なのだが、声は、有無を言わせぬ力を持っていた。  後ろのドアを男が開けた。——仕方なく、辻山は乗り込んだ。  たまに仕事で乗るタクシーと違《ちが》って、凄いシートだった。高級ホテルのロビーにでも座っているようだ。小柄な男が、運転席に着いた。  後ろの座席には、先客があった。六十は越《こ》えているらしい老人で、きちんと三つ揃いに身を包み、ネクタイを締《し》めている。同じ背広と呼ぶのが、辻山としてはいやになるような高級品に違いなかった。  老人は、どこか内臓を悪くしているように、辻山には思えた。少し顔が黄色味がかっている。 「仕事かね」  老人は訊《き》いた。見かけよりは、ずっとしっかりした声である。 「ええ。何のご用です?」 「日曜日なのにご苦労だね」 「仕方ありません。こういう商売です」  老人はちょっと間を置いて、言った。 「私は国崎という者だ」  辻山は思わず身がすくんだ。突《とつ》然《ぜん》目が完《かん》璧《ぺき》に覚める。 「時間をむだにしては申し訳ない」  とその国崎という老人は言った。「どこへ行くのかね?」 「あ、あの——」 「住所を言いたまえ。この男は、たいていの所なら知っている」  辻山は、直美の家の住所を言った。 「高級住宅地だね」  と、国崎は言った。「おい、車を出せ」  車が、滑《なめ》らかに動き出した。いつの間にか走っているという感じだった。 「私の用は分るかね」 「見当はつきます。昨日《 き の う》、高峰という刑《けい》事《じ》が来て話してくれました」 「それなら早い。——君には迷《めい》惑《わく》な話かもしれんが、私は何としても、息《むす》子《こ》を殺した人間を、見付けたい」 「警察が見付けますよ」 「どうかな。それはどうでもいい。私は自分で見付けたいのだ」 「僕はもう幸子とは五年前に別れたんです」 「知っている。しかし、色々と調べてみたのだが、あの女が、どこかへ逃《に》げるのに頼《たよ》る相手といえば、君しか考えられないのだ」 「僕に愛《あい》想《そ》をつかして逃げたんです。今さらやって来ませんよ」 「かもしれん。しかし、来るかもしれん」 「僕にどうしろと言うんです?」 「下《へ》手《た》にかばったり、隠《かく》したりしないでほしい。我々に知らせろとは言わんよ。君も、いくら何でもかつての奥さんだ、首に縄《なわ》をかけたくはあるまい」  辻山は答えなかった。 「——ともかく、我々は必ず見付ける。そのときに、我々の邪《じや》魔《ま》をしないでくれ。一一〇番するとかね」  国崎は辻山を見て、「分ったかね」  と念を押した。 「お話はよく分ります」  と辻山は言った。「しかし……幸子が殺したというのは、確かなんですか」 「どうしてかね」 「どうして、ですって? 間《ま》違《ちが》いで殺されるんじゃ、いくら何でも可《か》哀《わい》そうだ」 「間違いない。彼《かの》女《じよ》が息子を殺したんだ」  辻山は、じっと車の前方を見つめていたが、やがて訊いた。 「幸子は……あなたの女だったんですか」  国崎はちょっと肩をすくめて、 「女《によう》房《ぼう》だったんだよ」  と言った。  辻山は驚《おどろ》いて国崎を見た。 「ところが……私には若すぎたのか、息子の奴《やつ》が、幸子に熱を上げた。幸子は、知っての通り、あまり貞《てい》操《そう》堅《けん》固《ご》な女ではない。息子相手の火遊びだった。しかし——息子が、熱を上げすぎたのだ」  国崎は、ちょっとため息をついて、「やめておこう。年寄のグチは見っともない」  と苦笑した。 「しかし……息子さんは刺《さ》し殺されたとか」 「うむ」 「たぶん、あなたの所じゃ、幸子は料理なんかしなかったでしょう。私の所にいた時は、あまり好きじゃなかったが、まあ料理も作っていました。でも、幸子は血を見ると貧血を起こして倒《たお》れちまうんです。ちょっと手を切ったりしただけで、もうダウンする始末で……。その幸子が人を殺すなんて、僕にはちょっと信じられませんね」 「その点は疑う余地がないのだ」 「そうですか」  辻山は肩をすくめて、「その先で降ろして下さい」  と言った。  国崎は辻山を見て、 「どうしてかね。送るよ」 「いや……。いくら僕でも、昔の女房を殺そうという人に送ってもらうわけにはいきません」 「まだ未練があるのかね」 「とんでもない。でも、それとこれとは別です」  国崎は運転手に、車を停《と》めるように言った。車が歩道に寄って停ると、辻山はドアを開けて降りた。 「もう会わずに済めばいいがね」  と国崎が言った。 「全くですな」  辻山はそう言って歩道に上った。車が走り去るのを見送って、ホッと息をつく。——これが夢《ゆめ》で、今から覚めるのならいいのに、と思った。 「いけねえ! 遅《おく》れるぞ!」  辻山は、地下鉄の駅へ向って駆け出した。  門の前で、直美はぶらついていた。 「遅《おそ》いじゃないの」  辻山が駆けつけると、直美は言った。「二十分遅《ち》刻《こく》!」 「すまん。出がけに客があってね」  と辻山は息を弾《はず》ませて言った。「待っててくれたのか?」 「そうよ。クビになっちゃ可哀そうだもの」 「ふーん。また急に思いやりのあることを言い出したじゃないか」  今日の直美はコバルトブルーのスラックスに、オレンジ色の厚手のスポーツシャツ、テニスシューズといういでたちである。手には、布のバッグをさげていた。 「スポーツでもやりに行くのかい?」 「ええ。昨日走ってみて、やっぱり運動不足だな、と思ったのよ。だから、少し汗を流そうと思ってね。行きましょうよ」  と、直美はさっさと歩き出した。 「おい待てよ。——こっちは昨日から足腰が痛くて仕方ないんだ」 「だらしない探《たん》偵《てい》ねえ」  と直美は笑った。「朝ご飯は食べたの?」 「パンを一枚ね。食べただけ上等な方だよ」 「侘《わび》しそうね」 「慣れちまったよ」  と、辻山は言った。 「——どうかしたの?」 「え? 何が?」 「何だか元気ないじゃない」 「そうかい。中年男は、こんなもんさ」  駅前へやって来ると、直美は、 「あ、来てる来てる」  と手を振《ふ》った。 「直美! 遅いぞ!」  と大津智子が声を上げた。  辻山は面食らっていた。女の子ばっかり、五人——いや六人も集まっている。みんなスラックス姿の軽《けい》装《そう》で、手に手に、ナップザックやスポーツバッグを持っている。 「お待たせ! 悪いわね、みんな、日曜日なのに」 「何言ってんの! 直美の送別会に出ないわけにいかないじゃないの」 「じゃ、出かけようか。——あ、そうだ。紹《しよう》介《かい》するわね。私のボディガードの辻山さん。探偵なのよ」 「へえ!」 「柔《じゆう》道《どう》とか空《から》手《て》できるのかしら?」 「ピストル持ってる?」 「日本じゃだめなんじゃない?」  辻山は、何だか見《み》世《せ》物《もの》にされているようで、 「おい、これはどういうことだい?」  と、直美に訊いた。 「送別会にね、ちょっと山へハイキングに行こうってことになったの。どうする? 山の下で待ってるならそれでもいいわよ」  と、直美は言って、「ただし、予定と違う方向へ降りるかもしれないけどね」  と付け加えた。  辻山は直美をにらんだ。体力に差があると思って……。わざとハイキングなんか計画したな! 「もちろんついて行くよ」  と、辻山は言った。「それが仕事だからね」 「それでこそ、プロね!」  と、直美は肯《うなず》いて、「じゃ、悪いけど、その箱《はこ》持ってくれる?」  見れば、足下に、段ボールの箱が置いてある。両手で抱《かか》え上げると、やたらに重い。 「コーラが入ってるの。頼《たの》むわね」 「さ、行こうよ」 「じゃ、出発!」 「——畜生!」  と、辻山は呟《つぶや》いた。  しかし、ついて行かないわけにはいかないのだ。辻山は諦《あきら》めて、駅の階段を、馬《ば》鹿《か》みたいに重い箱をかかえて上り始めた……。 「——ほらもう少し!」 「もう一息で頂上よ!」 「頑《がん》張《ば》れ!」  女の子たちの声が、頭上から降って来る。 「憶《おぼ》えてろ、畜生!」  と、辻山は喘《あえ》ぎ喘ぎ言った。  汗《あせ》がひっきりなしに背中を伝い、とっくにネクタイは外してしまっているし、ハンカチは汗を拭《ふ》いて、クシャクシャだった。  その気で登れば、大したことのない、山とも言えないような山である。しかし、何しろ、辻山は、背広に革《かわ》靴《ぐつ》なのだ。  それに、箱の中のコーラの缶《かん》は、上って来る途中で大分減って、軽くなっていたが、女の子たちが、疲れて来て、 「私のバッグ持って!」 「ねえ! 私のも」  と、次々に辻山へ預けてしまったので、今や四つものバッグとナップザックをかかえていた。  足下の土は滑《すべ》るし、全くもってやり切れない。——こんなのは仕事に含《ふく》まれてないぞ、と思った。別料金を請求してやる! 「——着いた! 頂上よ!」  と、ずっと上の方で、誰かの声がした。 「やれやれ……」  ありがたい。もう大したことはなさそうだ。  辻山はよいしょ、とバッグを持ち直して、ちょっと近道になりそうな、石の端《はし》へ足をかけた。しっかりして見えた石が、グラッと揺《ゆ》れて、バランスが崩《くず》れた。  アッという間もない。ズルズルと、粘《ねん》土《ど》質《しつ》の土の上を靴が滑った。道の端で踏《ふ》み止《とど》まろうとしたが、勢いがついていて、止めようがなかった。  草と木の生い茂《しげ》った急斜面を、辻山は滑り落ちて行った。 「あーあ」  頂上に着いて、直美は、思い切り深呼吸をした。  頂上は、狭《せま》くて、家族連れや、高校生ぐらいのグループが、いくつか弁当を広げているので、もうあまり空《あ》いた場所がなかった。 「結構登っちゃったじゃない」  と、智子が言った。「絶対、途中でへばると思ってたわ」 「ほんと! たまにはいいわね、こういうのも」 「ああ、疲《つか》れた!」  と息を切らしている子もいる。 「お腹《なか》空《す》いたね。——荷物係はどこ?」  と智子が言った。「まだ着かないみたいじゃない」 「あの荷物じゃね」 「さっきは、下の方に見えてたんだよ」 「元気のある人、見て来ること!」 「私行く!」 「凄い元気ね」 「お腹空いたのよ!」  と言い返して、一人が、道を降りて行く。 「ちょっと気の毒だったかなあ」  と、直美は手近な岩に腰《こし》かけて言った。 「いいじゃないの。少しはこらしめなきゃ。人を尾《つ》け回すなんて、ふざけてるわ」  と智子が言った。 「でも、あの人にとっては仕事だものね」 「大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》。きっとこれにこりて、もうやめるわよ」  やめないんじゃないかな、きっと。直美はそう思った。——中年男は頑《がん》固《こ》だもの。 「ねえ、大変よ!」  様子を見に行った子が戻って来た。 「どうしたの?」  直美は立ち上って、「倒《たお》れちゃった?」 「そうじゃないの。落っこっちゃったみたいよ!」 「まさか」 「だって……ちょっと来てよ」  直美は、急いで道を駆け降りて行った。 「——ほら、そこ。石が外れてるでしょ。道の端まで滑った跡《あと》があるし」  確かに、それらしい跡が、道の端まで続き、そこからは、急な斜面が、遥《はる》か下の、渓《けい》流《りゆう》まで落ち込《こ》んでいるのだ。 「——見て、私のバッグよ!」  一人が指さした方を見ると、途中の木の枝に、スポーツバッグが一つ、引っかかっている。 「大変だわ……」  直美の顔から、血の気が引いた。  この高さから転落したら、おそらく——命はない。助かっても重傷だろう。こんなつもりじゃなかった! 「ほんの遊びのつもりだったのに……」  と直美は呟いた。 「私のお弁当……」  と、全く別のことを気にしている子もいた。 「どこかに見えない?」 「その辺に引っかかってない?」 「洗《せん》濯《たく》物《もの》じゃないわよ」  直美は身を乗り出していた。 「私、降りてみる」 「直美! 馬鹿言わないのよ。降りられるわけないでしょ」 「だって、智子、私のせいよ。あんな風に引張り回して——」 「そんなことないわ。向うはついて来るのが仕事なんだもの。いわば殉《じゆん》職《しよく》よ」 「そんなに割り切れないわ、私」 「だって不可能よ。ともかく、ロープか何かなきゃ、降りるなんて——」 「どこかにないかしら? 頂上にいた人たちに訊いてみて、もし持ってる人がいたら——」 「それにしたって、自分でなんて無理よ。警察に届けて、下の河《か》原《わら》を捜《そう》索《さく》してもらえばいいのよ」  智子は至ってクールなのである。  そのとき、数メートル下った辺りの茂みがザザッと動いた。——辻山が、道に迷った熊《くま》よろしく、顔を出す。 「出た!」  一人がお化けなみの声を上げた。 「生きてるわ!」 「当り前だ!」  と、辻山は怒鳴り返して来た。  直美は胸を撫《な》で降ろした。 「ねえ、上れる?」 「大丈夫だ。——落ちたバッグを捜《さが》してたんだ。どうしても一つ見付からない」 「そんなのいいわよ! 上って来て!」 「ともかく、バッグを放り投げるぞ」  辻山が、ナップザックとバッグを投げ上げて、それから、草をつかみ、木に足をかけてよじ登って来た。  ちょっとハラハラする場面もあったが、何とか這《は》い上って、道にペタンと座り込んで息をつく。 「大丈夫?」  と、直美が訊いた。 「生きてるよ、たぶん」  と辻山は言った。 「ねえ、お弁当食べようよ!」  と、一人が叫《さけ》んだ。  辻山は、岩の上に腰をおろして、遠くにかすんでいる山《やま》並《なみ》を眺《なが》めていた。——山の静けさ、と言いたいところだが、誰《だれ》が鳴らしているのか、ラジカセから、ロックらしき音楽が流れている。 「——辻山さん」  声に振《ふ》り向くと、直美が立っていた。「サンドイッチとコーラ持って来たわ。食べて」 「いいのかい?」 「買収に当らないでしょ、これぐらい」  辻山は、ちょっと笑って、 「助かった。飢《う》え死にしそうだったんだ」  と、サンドイッチにかぶりついた。 「——ごめんなさいね、ひどい目に遭《あ》わしちゃって」  と、直美は言った。 「君が突《つ》き落としたわけじゃないからな」 「だって……あなたをからかうつもりで、ハイキングなんて好きでもないのに計画したんだもの」  辻山は笑って、 「いやな上役と飲むのと似たようなもんさ。サラリーマンは、そんなことにゃ慣れてるよ。気にするな」  辻山は、遠くへ目をやった。 「何か心配事?」 「そんな顔してるかい」 「うん、そう見える」 「ちょっとね……」 「私なら、もう逃げないわよ」 「そうじゃない。女房がね——」 「奥さん?」 「元、女房だ。——死ぬかもしれない」 「病気?」 「それなら、そう気にしない。もう別れちまったんだからな。——ちょっとややこしいことになってるんだ」 「まだ愛してんじゃないの?」 「よせよ、子供のくせに」  と、ちょっと苛《いら》立《だ》って、辻山は目をそらした。  もう愛してはいない。それは事実である。しかし、だからといって、見殺しにしていいということではないし、死んだからといって、知らない人間と思うこともできない。  ともかく、一度は結《けつ》婚《こん》し、暮《くら》した仲なのである。 「こんなこと、してていいの?」  と直美が言った。 「え?」 「奥さんのこと心配だったら、すぐ帰ったら?」 「いや、僕じゃどうにもならないことなんだ」  気を取り直して、辻山はサンドイッチを頬《ほお》ばった。「——旨《うま》いね」 「長谷沼さんが作ってくれたの」 「ふーん。君の家にずっといるの?」 「私の生れる前からよ」 「大したもんだな」 「凄いな、と思うの」 「何が?」 「一つのことをさ、三十年もやってられるってこと。私たちなんて、もう二《は》十《た》歳《ち》過ぎたら、オジンだオバンだって言ってるけど、あんな人からみたら、私なんて、ほんの赤ん坊《ぼう》みたいなものなんでしょうね、きっと」 「いやにしおらしいじゃないか」 「人が真《ま》面《じ》目《め》に話してるのに、からかわないでよ」  と、直美は辻山をにらんだ。「明日はフィールドアスレチックに行こうかな」 「おい!」  辻山は青くなった。 5 「お疲れさん」 「バイバイ、直美」  と友人たちが手を振って別れて行く。 「——ねえ直美」  と、一人残った大津智子が言った。「ディスコにでも行かない?」 「うん……。悪いけど、ちょっと疲れちゃった」 「そう。出発までにまた会えるよね」 「三日あるもん。明日、電話するわ」 「了解。じゃ、またね」 「今日はありがとう」  智子は、ぐったりした様子の辻山の肩をポンと叩《たた》いて、 「おじさん、頑《がん》張《ば》ったじゃない」  と言った。「サロンパス貼《は》って寝《ね》た方がいいわよ」 「ご親切にどうも」  辻山は苦笑した。 「——さて、と」  直美は、息をついた。駅前の広場に、灯が灯《とも》り始める。空が、少しずつ、青から紺《こん》へと変り始めていた。 「あなたの服、ひどくなっちゃったわね」  と、直美は言った。  斜《しや》面《めん》を滑《すべ》り落ちたので、方々泥《どろ》がこびりついていて、ポケットの所は、枝にでも引っかかったのか、少し裂《さ》けていた。 「もともとひどかったんだ。大して変りないよ」 「でも、それじゃ会社にも行けないわ」 「そんなにひどいかい?」 「浮《ふ》浪《ろう》者《しや》と一《いつ》緒《しよ》にいれば立派に見えるかもしれないけどね」  辻山は、自分の服を見下ろした。——確かにひどい。それに靴《くつ》も、泥だらけで、もとが何色だったのか、当人にもよく分らなくなっている。 「まあいいよ。夏用の薄《うす》い背広でも着るさ」 「替《か》え、ないの?」 「だから、夏と冬と一着ずつあるよ」  直美は息をついて、 「父は三十着ぐらい持ってたわ。仕事用の背広だけで」 「チリ紙交《こう》換《かん》に出すのはないかい?」  直美はちょっと考えていたが、 「来て!」  と、辻山の腕《うで》をつかんで引張った。 「な、何だよ?」  タクシー乗場へ来ると、直美は辻山をさっさとタクシーへ押し込んだ。 「高島屋、日本橋のね」 「何か買物かい?」 「ええ。ちょっとティッシュペーパーが欲しいの」 「ティッシュペーパーを買いに日本橋まで?」 「知らないの? フランス直輸入のティッシュペーパーって、とても鼻をかむのによくできてるのよ」  直美は真面目な顔で言った。 「——ねえ、困るよ」  と、辻山は抗《こう》議《ぎ》した。「これはどう見ても買収に——」 「おとなしくしてないと、ズボンの丈《たけ》が分らないでしょ」  と直美は言った。「あら、割と足が長いのね」 「『割と』は余計だ!」  デパートの中を、辻山はグルグル引張り回されていた。直美は大の得意先らしく、外商部の人間が、もみ手しながら、直美について回っていた。 「はい、ズボンの丈はこれでいい、と。一時間で直してね」  と直美が言うと、 「かしこまりました」  と返事が返って来るのには、辻山もびっくりした。  背広上下、フィンテックスでこそないが、辻山の給料ではとても手の出ない値段だ。 「はい、ワイシャツとネクタイ。ついでにハンカチもここでね」 「カルダンのものなどいかがでしょう?」 「なあ、僕はカルダンとか階段とか、そんなもの持つ柄《がら》じゃないよ。駅の売店で売ってる白いハンカチが——」 「あなたは黙《だま》ってて」  と、直美は言った。「この人の言うことは気にしないでね。凄《すご》いテレ屋なの」 「かしこまりました」  デパートの方としては、金を払《はら》ってくれる人間を信用すれば良いわけで、結局、辻山は何を言っても無視される結果となって、その内には諦めて、されるままになっていた。 「——ねえ、パンツの替えは持ってるの?」 「当り前だ!」 「良かった。らくだのシャツって年《と》齢《し》でもないしね。じゃ、下着はいい、と。次は靴と靴下ね」  辻山は観念した。ともかく買うそばから身につけさせられて、今までのもの全部くずかご行きの運命となっているのだ。これでは、いやでも諦めざるを得ない。  見て回っている内に、ズボンは仕上り、上《うわ》衣《ぎ》にもちゃんと名前が入って、これで出来上りということになった。 「わあ、若くなった!」  試着室から出て来た辻山を見て、直美は手を叩いた。「それで少しお腹《なか》も削《けず》りゃいいのにね」 「粘土の人形じゃないぞ。そう簡単に削れるか」  と辻山はため息をついた。「一体、全部でいくらかかった?」 「知らないわ。いいの。どうせ父の口座から落ちるんだもの。——さ、行きましょ」  店の中を見回して、辻山はびっくりした。 「もう閉店かい?」 「とっくにね。通用口から出られるわ」 「ご案内いたします」  と、デパートの男が、先に立った。 「気にしないでね。私があなたの損害を弁《べん》償《しよう》しただけなんだから」 「分った。ありがたくいただいとくよ」  辻山は肯《うなず》いた。「多少良心は痛むけどね」 「職業倫《りん》理《り》の問題?」 「そんなところだ」 「もう少し、良心に眠ってもらってくれない? 昨日のレストランで夕食にしましょ」 「しかし——」 「今日は私の言う通りにして、その後、素直に帰って寝るから」  辻山は肩をすくめる。 「ここまで来たんだ。同じことだな」 「そうよ」 「良心にワインを飲ませて酔い潰《つぶ》れててもらうよ」  と辻山は言った。  表はもうすっかり夜で、街灯が美しく一点透《とう》視《し》の夜景を描《えが》き出していた。 「——そうだったの」  直美は、ワイングラスをゆっくりとテーブルに戻した。「じゃ、奥さん、見付かれば殺されるの?」 「『奥さん』はやめてくれ。もう女房じゃないんだ」 「だって他《ほか》に言いようがないもの」 「全く……厄《やつ》介《かい》な話だよ」  辻山は言った。——食事らしい食事をしたのは久しぶりだ、と思った。 「でも……気になるんでしょ」 「そりゃ、全然気にならないことはない。しかし、気にしたって、どうなるもんでもないじゃないか。こっちは探偵ったって、小説やTVの中の腕っぷしの強いのとは違う。ああいう世界にコネがあるわけじゃなし、こっちからどうすることもできないよ」  直美はじっと辻山を見つめた。辻山は不思議そうに、 「何だい?」  と訊いた。 「でも、きっとあなた、奥さんを助けると思うな」  と直美は言った。 「買いかぶるなよ」 「買いかぶったりしてないわ。走って貧血起こして引っくり返るとこ見てるんですからね。買いかぶりたくたって無理よ」 「言いにくいことをはっきりと言うよ、君は」 「あなたはね、責任感っていう、時代遅れのものを持ってるのよ。今どき、はやらないけど、生きた化石としては貴重だわ」 「僕が化石?」 「アンモナイト、三葉虫、そして辻山秀一」  直美はグラスを手にした。「乾《かん》杯《ぱい》!」  辻山は怒《おこ》るわけにもいかず、自分もグラスを取った。——実際、この娘には怒れない。別にクビのことを心配するのではなく、若さがまぶしくて、それだけで何もかも許されてしまうのだ。 「いいねえ、若いってことは」  と辻山は言った。 「ねえ、まだ何か食べる?」 「もう入らないよ」 「私、デザートもらおう。——ちょっと。——あのね、デザートにクレープとシャーベット。それにケーキを何か……」  辻山はまた年齢の差を思い知らされた。  二人が、新井邸の近くにやって来たのは、十時を少し回っていた。 「後三日ね。——まだ、私と付き合う気、ある?」  直美はからかうように訊いた。「それとももう息切れ?」 「クビがかかってるんだよ。それに、中年だからって、馬鹿にしちゃいけない。これでも昔はスポーツマンだったんだ」 「へえ。じゃ、負けてないってわけね」 「そうとも」  辻山は、見えて来た新井邸の門を指さすと、 「よし、どうだ? 門まで走るか?」  と言った。 「やめなさいよ。今度は命がないかもよ」 「見くびるなよ。本気でやりゃ負けやしない」 「それなら……」  直美は、バッグを左手にかかえた。「一、二、三!」  夜の道を、二人は同時に駆《か》けた。二人の足音が、長い塀《へい》にはね返り、街灯の光が二人の影《かげ》をのばしては縮めた。 「——ほら勝った!」  直美は門に着くと、振り向いた。 「畜生! この靴だ。慣れてないから、負けたんだ。同じ格好で走れば……」  辻山は肩で息をした。しかし、充分に食べたせいか、今度は貧血を起こす気配はなかった。 「出発までに、私を負かしてごらんなさい」 「よし、やってやる!」  辻山は笑った。こんな、若々しい笑いは久しぶりだった。何だか、急に若返ったような気さえする。 「じゃ、おやすみ」  辻山は、そう言って歩き出した。——少し行って振り向くと、思いがけず、直美がまだ辻山の方を見送っている。そして、手を振ってよこした。  夜道を歩きながら、いつの間にか口《くち》笛《ぶえ》を吹《ふ》いている自分に、辻山は気付いた。  辻山がアパートへ帰り着いたのは、十一時半頃《ころ》だった。  その頃になって、昼間の山歩きと、さっきの全力疾走の疲れが出たのか、膝《ひざ》がガクガクして来た。 「やっぱり若くないんだ……。早く寝なきゃ……」  階段を上るのが大変だった。膝が震《ふる》えて、力がてんで入らないのである。  やっと二階へ上って、部屋へ辿《たど》り着く。鍵《かぎ》を開けて中へ入ると、明りをつけた。 「お帰りなさい」 「ああ、ただいま」  靴を脱《ぬ》いで、辻山はその場に釘《くぎ》付《づ》けになった。 「おい……」 「遅かったのね」  妻の——いや、元、妻の幸子が、あぐらをかいて座り込んでいた。  一時間も、辻山はその場に突っ立っていた——ような気がした。  もちろん、実際には一分間ぐらいのものだったろう。 「どうしたの? 根が生えたの?」  幸子は、少しも変っていなかった。——年齢の割には、太っても来ずに、ほっそりとしている。着ているものは、しかし、昔より大分上等になっていた。 「ここで何してるんだ? どうやって入った? どうして俺《おれ》のところなんかへ来たんだ?」 「相変らず悪いくせがぬけないのね」  幸子は、ハンドバッグからシガレットケースを出して、タバコを一本抜《ぬ》いた。「一度にいくつも質問するの、あなたのくせね」 「おい、幸子——」 「マッチある?」 「マッチ?——ライターでいいんだろ?」 「百円ライターか。これが一番ね。国崎と来たらいつもダンヒルだのデュポンだの、カルチェだの……。たかが火じゃないよ」 「ライターの話をしてるんじゃない」 「分ってるわよ」  幸子は気持良さそうに煙を吐《は》き出した。  少しも変らない。——俺が、めっきり老け込んだのとは、えらい違いだ、と辻山は思った。  幸子は、生来の華《はな》やかさを持った女である。美人というには、ちょっとアンバランスな、大きすぎる目と、厚い唇《くちびる》をしていた。しかし、どこか男の目をひきつけて、離《はな》さないものを持っているのだ。  幸子と離《り》婚《こん》した後、ある先《せん》輩《ぱい》と酒を飲んだとき、大体、お前とあの女じゃ、続くはずがないと思ってたよ、と言われた。  大体どうして幸子が辻山と結婚する気になったのか、誰もが——辻山自身も——首をかしげたものだ。見るからに派手で、男に不自由しない幸子の目に、辻山のような、堅《けん》実《じつ》一点張りのタイプは、却《かえ》って新《しん》鮮《せん》に映ったのかもしれない。  しかし、目新しさは、いつまでも続かない。それに、幸子にとっては、服やバッグや、靴にぜいたくをするには、辻山の収入は不充分だった。もちろん、そんなことは承知で結婚したはずではあるが。 「私、逃げて来たのよ」  と、幸子が言った。「亭《てい》主《しゆ》がいじめるもんだから……」 「おい、もう知ってるよ。国崎にも会った」 「ここへ来たの?」 「ああ。——悪いことは言わない。警察へ行けよ。保護してくれる」 「何もしてないのに、どうして警察へ行かなきゃなんないの?」 「何もしてないって?」 「そうよ。私は、和《かず》也《や》を殺したりしないわ」 「しかし国崎は——」 「老いぼれてボケてんのよ。私のことをちっとも理解してないんだから」  幸子を理解するのは至難の技だ、と辻山は思った。 「逃げ出さなきゃ殺されると思ってさ、家を出たものの、考えてみると行くとこないのよね。で、結局ここしかないと思ったわけ」 「呑《のん》気《き》なもんだな。どうやって入った?」 「私、ここにいたとき、よく鍵を失《な》くしたでしょ。そういうとき、台所の窓を開けて、隙《すき》間《ま》から、廊《ろう》下《か》を掃《は》くほうきを突っ込むと、ちょうど鍵に届くわけ。よくそうやってたの思い出してさ、やってみたら、ちゃんと開いたの。どう?」 「何を威《い》張《ば》ってるんだ。——ここだって見張られてるかもしれないのに。全く、無茶をやってくれるよ」 「あら、私だって、だから気を使って、明りを点《つ》けずに帰りを待ってたんじゃない。少しは努力を認めてよ」  辻山は、やっと少し驚《おどろ》きからさめて来た。 「分った。ともかくここは冷静に考えなきゃ」 「やめてよ、考えるのなんて」  幸子は畳《たたみ》の上に引っくり返った。「考えると疲れるのよ、私」 「しかしね、現実にお前は追われてるんだぞ。頭を使わなきゃ、逃げられやしない」 「あなた使って。私、少し休まなきゃ」 「これからどうする気だ?」 「お風呂に入って寝るの」  と幸子は言った。「ねえ、お湯入れて来て」 「そんな呑気な——」 「じゃ、自分でやるわよ」  幸子は起き上ると、風呂場へ入って行った。浴《よく》槽《そう》に湯のはねる音がした。——辻山は、絶望的な気分で、頭をかかえた。  幸子は少しも変っていない。要するに、面《めん》倒《どう》なことは他人がやってくれると思っているのである。  しかし、事は生死にかかわる問題だ。朝早く起きてゴミを出すとか、そんなこととはわけが違う。 「そうだ」  高峰刑事だ! 高峰が、何かあったら知らせろと言っていた。彼なら巧《うま》くやってくれるだろう。  辻山は手帳をめくった。高峰の自宅の番号がどこかに……。これだ。辻山が電話へ飛びついてダイヤルを回し始めると、 「どこへかけるの?」  と、幸子が戻って来て言った。 「どこだっていいだろう」 「分った。私のことを国崎に売り渡《わた》すんでしょ。いくらもらえることになってるの?」 「何だと!」  辻山は受話器を置いた。「俺がそんなことをすると思ってるのか?」 「じゃどこへかけるのよ」 「顔なじみの刑事だ」 「警察だって同じよ。国崎がその気になれば、留置場だって、刑務所の中だって殺せるわ」  それは確かに、幸子の言う通りかもしれなかった。 「じゃ、どうしろっていうんだ?」 「あなた考えてよ。亭主でしょ」 「今は違うぞ」 「私、お風呂に入って来る」  幸子はさっさと服を脱《ぬ》ぎ始めた。 「おい——」 「何よ、どうせトルコかどこかで女の裸《はだか》なんて見慣れてんでしょ」 「そんな金があるもんか」 「前の女房じゃないの。恥《は》ずかしいって年齢でもないでしょ」  幸子はあっさりと全裸になると、大《おお》欠伸《あ く び》をして、浴室に入って行った。  辻山はポカンとして、それを見送っていた。  ——本当に、何もかも五年前の通りだ。ちょっと細身に見えて、スタイルはいい。今でもほとんどむだな肉がついていない。 「ストレスがたまらないんだな、きっと」  と、辻山は呟いた。  幸子にあんなことを言われてしまっては、高峰に電話するのもためらわれる。といって、いつまでもここに置いて、かくまい切れるものではない。  風呂から、幸子の鼻歌が聞こえて来る。辻山は、 「勝手にしろ」  と呟くと、上衣を脱いで、畳の上にゴロリと横になった。 6 「このところ、すっかりいい子におなりですね」  長谷沼君江は、直美に朝食の卵を出しながら言った。 「そう。心を入れかえたのよ」 「結構でございます」 「つまんないでしょ、心配事がないと」 「お嬢様の心配をいたしますのも飽《あ》きました」 「言ってくれるわね」  と、直美はジュースを飲みながら言った。 「長谷沼さんも男を見る目がないわ」 「何のお話で?」 「こっちの話よ。——さて、今日はどこへ行こうかな」 「お嬢様。お分りとは存じますが、そろそろ出発のお仕《し》度《たく》を」 「分ってるわよ」 「今日、やっておしまいになっては? お手伝いいたしますよ」 「今日は気が乗らないの。芸術家は気難しいのよ」 「普《ふ》通《つう》、荷造りを芸術とは申しませんが」 「私にとっちゃ芸術よ。正に奇《き》跡《せき》だわ。出発までにはやるから、心配しないで。禿《は》げるわよ」 「その代りに、大分白くなりました」 「嘘《うそ》ばっかし。真っ黒じゃないの」 「染めているのです。お嬢様にしては、お気付きにならなかったとは、うかつですね」  と君江は笑った。  しかし、直美は真顔で君江の黒々とした髪《かみ》を眺めた。——染めている。そんなこと、考えもしなかったのだ。  私が白くさせたのかしら。直美はそう思った。胸が、ちょっと痛んだ。 「どうかなさいましたか」 「ううん。——ね。コーヒーちょうだい」 「ただいま……」 「長谷沼さん」  と、直美は呼び止めた。 「何か?」 「荷物、明日造るわ」 「かしこまりました」  君江が台所の方へ姿を消すと、直美は目玉焼きを食べ始めた。——朝の十時。いつもの直美からすると、驚《きよう》異《い》的な早さである。  ——洋服選びに時間がかかって、家を出たのは、十一時近くになった。  門を出て、直美は戸《と》惑《まど》った。辻山の姿が見えないのである。 「変ね……責任感の塊《かたまり》が」  さては、昨日、帰ってから心臓発作でも起こしたかな。黒っぽい服にしてくりゃ良かった、などと考えて立っていると、誰やら、見なれぬ若い男が走って来た。  ジョギングにしては、背広にネクタイというスタイルというのが妙である。 「失礼します」  と、その男は、直美の方へやって来ると、足を止めた。「新井直美さんですか」 「ええ」 「辻山の代りに来ました。遅くなってすみません」 「辻山さんの?」 「ええ。電話があったのが、十時頃で、それから急いで出て来たものですから」 「辻山さん、どうかしたんですか」 「さあ。何だか、ちょっと具合が悪いとか、で」 「具合が?」 「でも、本人の電話ですからね、大したことはないと思います。よろしくお伝えしてくれとのことでした。——どこへでもおともしますが」 「どうも……」  あの、責任感の強い辻山が休むというのは、よほど具合が悪いんじゃないか、と直美は思った。別に直美としては、辻山のことをそう気にする義理があるわけではないのだけれど……。 「どちらへ行きますか」  と、若い男が言った。 「ええ、あの——辻山さんの住い、知ってますか?」 「ええ。どうしてですか?」 「ちょっと——預かってもらってる物があるんです。場所を教えて下さる?」 「はあ。じゃご一緒に——」 「いいんです。あの……一人で行きたいんです」 「困ったな。どこへでもついて行けという命令なので」 「じゃ、ご一緒に」  と直美は言った。  タクシーを拾って、乗り込むと、若い男が運転手に場所を告げる。走り出すと、 「あ、いけない!」  と、直美が言った。 「どうしました?」 「運転手さん、ちょっと停《と》めて。——あの、すみませんけど、あそこの薬局で、頭痛の薬、買って来て下さらない? 私、頭痛持ちなんです」 「分りました」  若い男が薬局へと走って行くと、直美は財布から五千円札《さつ》を出して、運転手に渡した。 「行っちゃって」 「え?」 「あの人は置いてって構わないの。今、言った所へやって」 「しつこくつきまとってんですか、あの野郎?」 「そうなの。逃げ出すのが一苦労なのよ」 「了解」  タクシーは走り出した。直美は、ちょっと舌を出した。 「——この辺ですね。ああ、あのアパートのことじゃねえかな」 「訊いてみるわ。ありがとう。——お金足りた? おつりいらないわ」 「こりゃどうも」  直美は、どうにも高級とは言い難いアパートを見上げた。一階の郵便受を見ても、名前はみんなかすれて読み取れない。 「あの、失礼します」  と、ちょうど買物かごをさげて出て来た中年の主婦へ声をかける。「辻山さんって方、いらっしゃいますか?」 「辻山さんなら、二階の三番目の部屋よ」 「どうも」  ホッとして、直美は、階段を上って行った。 「三番目……と。ひどい表札ね。これじゃ〈十川〉だわ」  ブザーを鳴らすと、少し間があって、 「誰だ?」  と辻山の声がした。 「救急車のご用はございませんか?」  と直美が言うと、すぐにドアが開いた。 「君……何しに来たんだ?」  辻山が目を丸くして立っている。シャツとステテコという自分の格好にも気付かないようだった。 「何だ、生きてたの」  と、直美は玄関へ入って、「代りの人が来るから、びっくりしちゃったの。また倒れたのかと思って」 「それでわざわざ——」 「そうよ。マホメットと山の話、知ってる? マホメットが山に『こっちへ来い』と命じたけど、山が動かないんで、マホメットが山の方へ歩いて行ったの」 「そりゃありがたいけど、今はちょっと大変な——」  と、辻山が言いかけたとき、洗面所から、幸子が出て来た。男物のパジャマの上だけを着込んで、スラリとのびた肢《あし》をむき出しに、歯ブラシを口の中へ突っ込んだままだった。 「あら——お客様?」  と、幸子が直美を見て言った。  直美は、裸に近い格好の幸子に、一《いつ》瞬《しゆん》、目を見張った。そして表情をこわばらせると、 「どうもお邪《じや》魔《ま》しました」  と、言って、ドアを開け、外へ出た。 「おい、君!——ちょっと——」  辻山は呼びかけたが、もう直美は、階段を駆け降りていた。 「今の、誰なの?」  と幸子が訊いた。 「あの背広を買ったスポンサーだよ」 「あら、あなた、いつから、女のヒモになったの?」  幸子は愉《ゆ》快《かい》そうに言った。  直美はアパートを出ると、一《いつ》旦《たん》足を止めた。——どうしてこんなに腹が立つのだろう?  あの中年の冴《さ》えない探偵が、誰と寝ようが、どんな女と一緒にいようが、そんなこと、自分には何の関係もないことだ。それなのに、やたら腹が立つのだ。  そう。せっかく見《み》舞《まい》に来てやったのに、その実は女と一緒で寝過ごしただけなのに違いないと分って、それで腹が立つのだ。 「冗《じよう》談《だん》じゃないわ、全く!」  直美は、さっさと歩き出した。二、三十メートル行った所で、さっき、辻山の部屋を訊いた主婦が、何だかちょっと柄の悪そうな若い男に声をかけられているのを見て、足を止める。 「——辻山さんの所? ええ、そういえば昨夜は女の人の声がしてたわね」  とその主婦が言った。 「女の声が? 本当か?」  相手の男は、なぜかひどく勢い込んで、「間違いないな、ええ?」  と念を押した。 「間違いないと思うけど……」  と主婦が不思議そうに言った。 「ありがとうよ!」  男はアパートとは逆の方へ突っ走って行った。直美が見ていると、男は、少し先に停めてある車の方へ駆けて行き、中に乗っている誰かに、熱心に何やら話している。  あの男……辻山の部屋に女……。  直美は、 「それじゃ、あれは——」  と呟くと、ハッとしてアパートの方を振り向いた。  間違いない。あれは辻山の元の妻なのだ。追われて、辻山の部屋へやって来た。あの男たちは、彼女を追っている連中なのだろう。  どうしよう? 戻って知らせても、間に合うだろうか? まさかあの格好で逃げるわけにはいくまい。  車から、男が二人、降りて来た。——こっちへ来る!  直美は、アパートへ急ぎ足で戻《もど》った。階段を一気に駆《か》け上ると、ノックも何もする暇《ひま》はない、ドアを開けて中へ入った。  相変らずシャツとステテコ姿の辻山が、布《ふ》団《とん》の上にあぐらをかいていた。 「おい、君——」 「大変よ! こっちへ来るわ!」  直美は靴《くつ》を脱《ぬ》いで上ると、置いてあった幸子のものらしい女物の靴をつかんで、台所の流しの下へ放り投げた。 「何してるんだい、こっちへ来るって、誰《だれ》が?」  辻山が目を丸くしている。そこへまた、パジャマ姿の幸子が出て来た。 「あら、さっきの子ね。どうも、この人に背広買ってもらって——」 「あなた、辻山さんの奥さんでしょ。早く隠《かく》れて! 追って来た連中がここへ来るわ」 「あら、私、この人の、かつての妻よ」 「いいから早く!」 「おい、本当かい、連中が——」 「ここに女の人がいるって、アパートの人に聞いたのよ」 「私の声大きいからなあ」  と、幸子は呑《のん》気《き》に頭をかいた。 「早く! お風《ふ》呂《ろ》場《ば》にでも隠れて!」 「はいはい」  幸子は一向に怯《おび》える風でもなく、風呂場に入って扉《とびら》を閉めた。 「君もどこかに隠れろ。ここは僕《ぼく》に任せて」 「馬《ば》鹿《か》ね! 三人を相手にして、勝てると思うの?」 「三人も来るのか?」 「しっ!」  と直美は言った。  階段をドタドタと上って来る足音。 「来たわ。——ね、布団に入って」 「え? しかし——」 「いいから早く!」  辻山がわけも分らずに布団へ入ると、直美は、バッグを投げ出し、ワンピースの後ろのファスナーを一気に降ろした。辻山が目を丸くしている前で、ワンピースを脱ぎ捨ててシュミーズになった直美は、布団をめくって、辻山の傍《そば》へ滑《すべ》り込《こ》む。 「おい——」 「黙って! じっとして!」  と直美は、辻山の胸に顔を押しつけるようにして、言った。「寝《ね》てるふりをして!」 「わ、分ったよ……」  辻山が枕《まくら》へ頭を落とすと、同時に玄《げん》関《かん》のドアが勢い良く開いた。 「おい! 辻山!」  先頭に立っているのは、黒いスーツの、大《おお》柄《がら》な男だった。靴のままで上り込んで来る。 「——何だ、お前は!」  辻山は起き上った。「人の家に靴のままで——」 「隠すとお前も生かしちゃおかねえと言っといたぜ」 「隠すって、何の話だ?」 「とぼける気か」  その男が言った。  直美は、その騒《さわ》ぎで目が覚めたというように顔を上げた。 「どうしたの?——キャッ!」  と、悲鳴を上げて、辻山の腕《うで》にすがりつき、「なあに、この人たち?」  と身をすくめる。 「おい……。女《によう》房《ぼう》じゃねえぞ」  と、その男が言った。「若すぎらあ、いくら何でも」 「あれ? 確かに女の声がしたって——」  さっき、主婦と話していた若い男である。 「こいつも女にゃ違《ちが》いねえけどな」 「すみません」 「よく確かめろ!——今日《 き よ う》は引き上げるぞ」 「礼でも言わせる気か」  と、辻山は言った。  ドアの所まで行って、兄貴分らしい男は、振《ふ》り向いた。もう割合に年齢が行っている——たぶん四十五、六と見える。 「おい、その娘、いくつだ?」  と、その男が訊《き》いた。 「私?——二《は》十《た》歳《ち》よ」 「うちの娘は十九だが、そんな真《ま》似《ね》しやがったら、尻《しり》をひっぱたいてやるぜ。父親は何やってんだ?」 「——外国に行ってるわ」 「そいつはいけねえな」  と男は首を振った。「家族はいつも一《いつ》緒《しよ》に住むもんだ。いいかい、そんな野《や》郎《ろう》にくっついているとろくなことはないぜ。悪いことは言わねえ。早いとこ手を切りな」 「どうも……」  男は出て行って、ドアを閉めた。足音が遠去かって、階段を降りて行く。  辻山は大きく息をついた。 「ああ、やれやれだ……」 「ずいぶんお説教好きな人ね」 「え? ああ、あの男か。あれは国崎の片腕と言われている男だよ」 「へえ。結構大物なのね」 「岡《おか》野《の》という男だよ。何かというとすぐ教訓めいたことを言うって評判だ」  辻山は、直美の方を見て、「いや、助かった。ありがとう」 「いいえ、別に——」  と言いかけ、直美は自分の格好に気付いて、 「見ないでよ!」  と叫《さけ》んで、毛布を辻山の頭からスッポリかぶせた。 「——どうもありがとう」  風呂場から、幸子が顔を出す。「あんた、なかなかやるじゃない!」 「いいえ、どういたしまして」  直美は布団を出ると、ワンピースを着た。それを幸子は眺《なが》めていたが、 「——ねえ、あなた、辻山と寝たの?」  と訊いた。 「おい、何てこと言うんだ!」  辻山があわてて言った。「この人は、俺《おれ》の——何というか——仕事だ!」 「そんなことどうでもいいでしょ」  と、直美はぶっきら棒に言った。「これからどうするかを考えた方が良くってよ」 「そりゃそうだな」 「あの連中、見張ってるかしら?」 「まず十中八、九ね。人手はいくらもある。ここへ二、三人回しとくぐらい、どうってことはないさ」 「じゃ、出て行くのが大変ね」 「君にはこれ以上迷《めい》惑《わく》はかけられないよ。もう帰りたまえ。僕の代りが行っただろう」 「途中で落っことしちゃったのよ」  と直美は言った。「ともかく二人とも、ここを出なきゃ! こんなアパート、人の話し声も筒《つつ》抜《ぬ》けだもの。奥さんのいること、すぐにばれちゃうわ」 「しかし、どうやって出るんだ?」  と、辻山は肩《かた》をすくめる。「どうせ連中も、幸子の顔は知ってる」 「良く知ってるわ。特にあの岡野さんなんてね」  と、幸子はタバコをふかしながら言った。相変らず、パジャマの上だけ。 「おい、お前も服着たらどうだ。すぐにも逃げ出さなきゃならんかもしれないんだぞ」 「そうね。でも、どうせ着て来た服じゃ走れないけど」  幸子は、直美の目などてんで気にしない様子で、さっさとパジャマを脱いで、服を着始めた。直美はあわてて目をそらした。 「——三人で一緒に出る他《ほか》ないわ」  と直美は言った。 「向うが見張ってるのに?」 「待って。——ちょっと手伝ってくれる人さえいれば……」  直美は何を考えたのか、電話を急いで取ると、自宅の番号を回した。 「おい、何をする気だい?」  と、辻山が訊いた。 「ここにいるわけにはいかないんでしょ」 「そりゃそうだけど——」 「じゃ、決ってるじゃない。引《ひつ》越《こ》すのよ」  と、直美は言った。「——あ、もしもし、長谷沼さん? あのね、私のお友達が急に引越すことになったの。それで至急部《へ》屋《や》を捜《さが》してあげてくれる?」 「お嬢《じよう》様《さま》……。いつから不動産屋になられたんですか?」 「余計なこと言わないで。——ねえ、これは私の命にかかわることなの。お願い、黙《だま》って頼《たの》みを聞いて」  長谷沼君江のため息が伝わって来た。 「また何かやっておいでですね。もうご出発まで日がございませんのに」 「だからよ。これが最後、ね?」 「——どの辺を捜せばよろしいんですか?」 「都内の適当な所。造りは並《なみ》の上ぐらいで充《じゆう》分《ぶん》。今の所が下の中ぐらいだから、たいていの所なら、ここよりましだわ」 「分りました。いつまでにお捜しすればよろしいんですか?」 「そうね、三十分以内、それから、すぐに引越しトラックを頼んで。ここ……ええと」  直美は呆《あつ》気《け》に取られている辻山の方へ、「ここの住所!」  と怒《ど》鳴《な》った。  直美は住所を伝えると、 「ここへトラックをね。一時間後ぐらいには着くようにしてちょうだい」 「かしこまりました」  まるで動じないところが、君江の君江たるゆえんである。「他に何か?」 「新しい部屋の借り賃をね——」  直美は辻山の方へ、「ここ、いくら?」 「こんな所でも二万八千円だ」 「——ええと、五千円にしてもらって。足らない分はうちが出すと言って」 「かしこまりました。そちらの電話番号は何番でございますか?」  落ち着き払った声で君江が訊いた。  そばで聞いていた幸子は、辻山の方を見て、「この子、少しイカレてるのと違う?」  と囁《ささや》いた。 7 「さて、と。これで引越しの方は大丈夫だわ」  と、受話器を置いて、直美は言った。 「だけど、何も準備なんかしてないぜ」  辻山は、まだ夢《ゆめ》でも見ているような気分で言った。 「いいのよ、別にあなたが引越すわけじゃないんだから」  と、直美は言った。 「僕じゃない?」 「当り前じゃないの。あなたが引越しなんてすれば、見張っている連中が見《み》逃《のが》すはずないわ」 「そりゃまあ……そうか。じゃ、誰が引越すんだ?」 「お隣《となり》の人。ええとここが三号室ね。階段からもう一つ遠いのは、四号室か」 「隣が引越すってどうして分るんだ?」 「これから、あなたが説得するのよ」  と直美は言った。  辻山は頭をかかえた。もう事態は辻山の理解の範《はん》囲《い》を越《こ》えている。 「ねえ、考えなさいよ」  と直美は言った。「ここから何とかして逃げ出さなきゃ、遠からず、奥さんのいることが知れるわ。私とあなたは出て行けても、奥さんを連れ出すのはとても無理よ。向うが奥さんの顔まで知ってるんじゃ、変《へん》装《そう》するわけにもいかない。でも、奥さん一人置いて行くわけにいかないでしょ?」 「平気なんじゃない?」  と幸子が言った。「どうせ逃げた女房なんだから」 「よせ!」  と、辻山は言った。「いくら何でも、僕の部屋で殺されてるなんてのはごめんだ」 「それに、あなたも、奥さんをかくまってたと分れば、ただじゃ済まないんでしょ? そうなったら、もう後は、三人でここを出て行くしかないじゃないの」 「でも、どうやって——」 「だから隣の部屋の人に引越してもらうのよ」  辻山はため息をついた。 「引越しですって?」  やって来た四号室の主婦は、直美の倍以上は確実にあろうかという巨《きよ》体《たい》で、いともおっとりしたタイプだった。「そりゃ、こんなボロアパート、一日だって早く出たいに決ってるじゃないですか」 「そうですか。いや、実は耳よりな話がありましてね」  と辻山は言った。「いい部屋を格安で貸してくれるというんです」 「まあ」  直美がそばから、 「うちで借りるつもりだったんですけど、急に父がニューヨークへ何年か出かけることになって、それでその部屋を、空けておくのももったいない、と……」 「そうですか。でも……安いといっても、ここより安いってことがあるのかしら」 「五千円でいいんです」 「五千円!」  主婦が目を丸くした。「ただの——五千円?」 「そうです。借りていただくんですから。それに、敷《しき》金《きん》とか権利金は一切不要なんです」 「詳《くわ》しく聞かせて下さい」  と主婦が座り直した。  電話が鳴って、直美が飛びつく。 「あ、長谷沼さん?——ええ、そうよ。——ありがとう。待ってね。メモするから」  直美は手早く書き取ると、「ありがとう。それから、今日、二人お客を連れて帰るから、よろしくね」  隣の主婦の方へ向き直って、 「3DKの部屋で、去年建ったばかりの所です。まず間違いない所ですから」 「そ、そこを月、五千円で?」 「ええ」 「本当は僕が借りたいところなんですが、残念ながら、ここを動けない事情があるもんですからね」  と、辻山は残念そうに首を振った。 「ただ一つ条件があるんですの」  と、直美が言った。 「というと?」 「今日中に引越していただきたいんです」  相手の主婦が目を丸くした。 「そんな——とても無理だわ! お金がありませんよ」 「引越しの費用も、全部こちらで持たせていただきます」 「引越しまで面《めん》倒《どう》をみていただけるんですか?」 「一時間するとトラックが来ます。荷造りも全部、業者に任せて下さればいいんです」 「引越します!」  と主婦は断固たる口調で言った。 「良かった!——でもご主人に相談なさらなくていいんですの?」 「構やしませんよ。いやだなんて言ったら、離《り》婚《こん》してやります」  結構本気かもしれないわ、と直美は思った。 「ところで、お宅、洋服ダンスはあります?」 「ええ。二つばかり」 「二つですか……。もう一つ何かありません?」 「ファンシーケースなら……」 「あれじゃ、底が抜けてしまわないかしら」  と直美は呟《つぶや》いた。  主婦が、子供を学校から連れて帰って来る、と言って飛び出して行くと、辻山は額を拭《ぬぐ》った。 「おい、君、本気でやるつもり?」 「他にいい方法がある? 引越し荷物がこのドアの前を通るとき、一人ずつ中に隠れるのよ。それしか、見張りの目を逃れて出て行く方法はないわ」  言われてみりゃそうかもしれない。しかし、それにしても無茶苦茶だ! 「さあ、あなたも仕《し》度《たく》した方がいいわ。大切な物は身につけて」 「別になくなって困るような物はないけどな」  と、辻山は苦笑した。  風呂場に隠れていた幸子が出て来ると、 「あんたって独創的なこと考える子ねえ」  と呆《あき》れ顔で言った。 「おい、幸子。礼ぐらい言ったらどうだ。お前のために、みんな苦労してるんだぞ」  辻山がちょっと顔をしかめて言った。 「あら、そんなこと——」  直美は笑顔を見せて、「私、好きでやってるんだもの。いいんですよ」  と立ち上った。 「ちょっと、表を覗《のぞ》いてみるわ」  直美が廊《ろう》下《か》へ出て行くと、幸子は、新しいタバコに火を点《つ》けた。 「面《おも》白《しろ》い子ね」 「金持の娘なんだ。退《たい》屈《くつ》してるのさ」  と、辻山は言った。 「それだけ?」 「何だ、それだけ、とは?」 「あの子、あんたに惚《ほ》れてんじゃない?」  辻山は、ちょっと面食らって、かつての妻を見つめ、それから笑い出してしまった。 「冗《じよう》談《だん》も休み休み言えよ。こんなくたびれた中年男に、誰が惚れるもんか。そりゃあ、それなりに渋《しぶ》いエリートか何かならともかく、何の取り柄《え》もない男にさ」 「何の取り柄もないってことないでしょ」  と、幸子は辻山の肩《かた》にもたれかかって来る。 「おい、重いよ。肩、こってるんだ。やめてくれ」 「まあ、冷たいのね。——少なくとも、あなただって、私が結《けつ》婚《こん》する気にはなったんだもの、少しはいい所もあったのよ」 「ご親切に」  と、辻山は言った。 「ねえ……。本当にあの子と寝なかったの?」 「商売の相手だぞ。手なんかつけたら、クビが飛ぶ。邪《じや》推《すい》はよせ」 「邪推じゃないわ。ちょっと嫉《や》いてるだけよ」  幸子は、指先で、ひげのざらついた辻山の頬《ほお》を撫《な》でた。辻山は腹を立てて、払《はら》いのけると、 「よくそんなことが言えるもんだな! 勝手に男を作って出て行っといて」  と幸子をにらみつけた。  ドアが開いて、素早く直美が入って来る。 「若いのが二人、見張ってるわ。さっきの説教くさいおじさんはいないみたい」  と、辻山と幸子の、何となく気まずい沈《ちん》黙《もく》に気付いた。「——どうかしたの?」 「何でもないよ」  辻山は立ち上った。「さて、僕もひげでも当って、仕度するか。おい、幸子。荷物、ないのか」 「そんなもん、持って逃げる暇なかったわ」 「じゃ、どうするんだ? 金は?」 「五、六万なら」 「じゃ、安ホテルならしばらくは泊《とま》れるな。——まあいい。ともかくここを出ることだ」  辻山が洗面所へ行く。電気カミソリの音が聞こえて来た。調子が悪いのか、時々音が途切れて、 「畜《ちく》生《しよう》!」  という辻山の声が聞こえて来る。 「まだ使ってるのか、あのカミソリ」  幸子が、クスッと笑った。「私がいた頃《ころ》からああだったのよ。カミソリの方も可《か》哀《わい》そうね、ああこき使われちゃ」  直美は、膝《ひざ》を立てて座ると、そこへ顎《あご》をのせて、まじまじと幸子を眺めた。 「——なあに? 私の顔ってそんなに珍《めずら》しい?」 「本当に……人、殺したんですか?」  と直美は訊いた。 「私じゃないわよ。でも、連中、そう思ってんだから。いくら言ってもむだね。ああいう子分たちは、言われた通りにするしか能がないから」 「でも——それなら他に殺した人がいるんじゃありませんか」 「そういうことになるわね。でも、わざわざ殺されようって物好きはいないでしょ。名乗り出ちゃくれないと思うわ」  幸子は、直美を見返しながら、「どうして私や辻山を助けるの?」  と訊いた。  直美は黙って肩をすくめた。——本当になぜなんだろう、と思った。私と縁《えん》もゆかりもないこの二人《 ふ た り》。なぜ放って置かないんだろう……。 「でも——それを言うなら、辻山さんだってそうでしょ」  と直美は言った。「あなたのこと、助けずにいられないんだわ。律《りち》儀《ぎ》な人なんですものね」 「そう。救いようのないガチガチね」  と幸子は肯《うなず》いた。「二言目には『これが仕事だ』、『俺には責任がある』……。義理を立てるほどの給料なんかもらってなかったくせにね」 「でも結婚したときは、そういう人だと分ってたんでしょ?」 「結婚なんて病気だものね。カーッと熱が出て、意識モーローとしてる内に結婚しちゃうのよ。そして一生後《こう》遺《い》症《しよう》に悩《なや》むってわけ」  後遺症か。幸子の言葉に、つい直美は笑ってしまった。 「何がおかしいの?」  ちょっとムッとした様子で訊き返した幸子だが、その内、自分も笑い出した。 「——何事だ?」  様子を見に来た岡野は、大きな引越しトラックがアパートの前を塞《ふさ》いでいるのを見て、若い者へ訊いた。 「引越しです」 「目があるんだ、それぐらい分る。まさか辻山の奴《やつ》の所じゃねえだろうな」 「違いますよ。隣の部屋らしいです」 「よく見てろよ。このどさくさに、逃げ出そうとするかもしれねえ」  と岡野は言った。 「大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》です。何せ、ここから、奴の部屋のドアが見えてますからね。絶対逃がしゃしません」 「大丈夫、と思ったときが一番危いんだ。よく憶《おぼ》えとけよ」  と、岡野は言って、もう少し、何か説教したい様子だったが、思い直したのか、トラックに荷物を積み込む作業へ目を向けた。 「おい、気を付けろよ!」  と、運送会社の作業員が、声をかけ合って、洋服ダンスを階段の下まで降ろして来る。 「よーし、積み込《こ》め」  岡野は、このボロアパートにしては、引越しトラックが大型の四トン車で、作業員も、四人も来ているのが、何となく気になっていた。  当節、引越しも安くはない。このトラックに四人も使っちゃ、かなり値が張るはずである。 「よし、押《お》せ!——いいか、引張るぞ」  ずいぶん重そうな洋服ダンスだ、と岡野は思った。死体でも詰《つ》め込んであるのかな、と考えて、岡野はちょっと笑った。 「あの女、ここへ来ますかねえ」  と若い男が言った。 「さあな」  岡野はぶっきら棒に答えた。 「俺たち、いつまでここで見張ってりゃいいんです?」  岡野はジロリとにらんで、 「お前らは言われたことをやっていりゃいいんだ!」  と底力のある声で言った。 「す、すみません……」 「よく見てろ! また来るからな。居《い》眠《ねむ》りでもしてやがったら、ただじゃおかねえぞ!」  岡野は足早に立ち去った。残った二人は大きく息を吐《は》き出した。 「ああ、おっかねえ」  と、一人《 ひ と り》が、そっと岡野の後ろ姿を振り向いて言った。 「珍《めずら》しく苛《いら》々《いら》してるみたいじゃねえか」 「殺された矢代ってのは、岡野さんが預かってたらしいぜ。だから、それが女と問題起こして殺されちまったんじゃ、岡野さんの面目が丸《まる》潰《つぶ》れだからな」 「しかもその女が……」 「最悪だぜ。岡野さんもクビがかかってんだ」 「苛々するわけだな」  二人は肯き合った。 「おい、トラックが出るみたいだぜ」 「素早いな、さすがに。商売だけある」 「俺なんか、いつか引越しの手伝いさせられてよ、腰《こし》痛めて二、三日起きられなかったもんだぜ」 「じっと寝てたのか」 「いや、無理にトルコに行ったら治っちまった。逆《ぎやく》療《りよう》法《ほう》だ」 「おい、トラックがこっちへ来るぞ」  二人が道の端《はし》へ寄ると、四トントラックは地《じ》響《ひびき》をたてて、走り出して行った。 「——やっと静かになった」 「ただ見張ってるってのも退屈だなあ」  と一人が欠伸《 あ く び》をすると、うつったのか、もう一方も仲良く欠伸をした。  インタホンの鳴る音に、長谷沼君江は、急いで玄関へやって来た。 「はい、お嬢様ですか?」 「あの、引越し会社の者ですが、トラック着きましたんで」  と声がした。 「あら、引越し先はここじゃないでしょ」 「でもここで降ろすもんがあって……」 「そう。ちょっと待って」  君江は、サンダルをつっかけて、表に出ると、門の方へと小走りに急いだ。 「——何を降ろすの?」  と、外へ出て訊くと、 「今、後ろ、開けます」  二人がかりで、トラックの扉《とびら》を開ける。 「——ただいま」  と、直美が身軽に飛び降りて来た。「ああ、腰が痛くなっちゃった」 「お帰りなさいませ」  と君江は、さして驚《おどろ》いた様子も見せなかった。「乗り心《ごこ》地《ち》はいかがでした?」 「やっぱりうちの車の方がいいわ。——あ、お客様よ。今夜、食事の仕度をね」  降りて来た辻山は、腰を押《おさ》えて、 「畜生……ああ、痛い!」  と呻《うめ》いている。 「しっかりしなさいよ、神経痛?」  と、幸子は涼《すず》しい顔である。 「どうして俺が一番小さいタンスに隠れなきゃならないんだ!」  君江は、直美の方へ、 「お友達にしては、少々お年を召《め》しておいでですね」  と言った。 「社長……」 「岡野か。入れ」  と国崎は言った。 「失礼します」  社長室は、少しもそれらしくない、ごくありふれた私室という感じである。  国崎の趣《しゆ》味《み》の、帆《はん》船《せん》の模型だけが、至る所に飾《かざ》られて、その奥のデスクについている小《こ》柄《がら》の老人は、さながら、ヨットハーバーに迷い込んだ晩年のガリバーというところだろうか。  今も、国崎の前には、組み立ての途中の帆船が置かれていた。 「——このマストはどうもバランスが悪い」  と、国崎は呟いた。「幸子は見付かったか?」 「手を尽くしておりますが——」 「つまり、見付かっていないんだな」 「申し訳ありません」 「女一人と思ってなめてかからない方がいい。女で身を滅《ほろ》ぼす男は、いくらでもいる」 「はあ」  国崎は、造りかけの帆船を、少し後ろに体をそらして眺めた。 「私は船に乗ったことがないんだ」  と国崎は言った。「もともと胃が弱い。ああいうものに乗ると、すぐに酔《よ》うたちでな」 「飛行機はお乗りになりますね」 「仕方なくだ。いつも平気な顔はしているが、内心はビクビクものさ」  国崎はちょっと唇《くちびる》を歪《ゆが》めて笑った。「しかし船は——船だけは乗る気がしない。一時間ともつまいな。いっそ死にたいと思うだろう。こうして模型の船を眺めていると、自分が船を征《せい》服《ふく》したような気がして、いい気分だよ」  岡野は黙って話を聞いていた。国崎は視線を岡野へ移した。 「警察の動きは?」 「そう大がかりとも言えません」 「当然だろうな。たかがギャングのぐうたら息《むす》子《こ》が一人死んだくらいで、騒ぐこともあるまい……」 「社長」  と岡野は、ややためらいがちに言った。「私が息子さんをお預りしていたのに——あんなことになって、申し訳ありません」 「もうよせ。和也も幸子も子供じゃない。お前には責任はない」  岡野は目を伏《ふ》せた。国崎が、少し間を置いて、言った。 「何か、言いたいことでもあるのか」 「はあ……。実は——」  と、岡野が言いかけたとき、社長室のドアが開いた。 「勝手に入って来るな!」  と、怒鳴りながら、岡野が振り向く。 「面会謝絶なら、そう札《ふだ》を下げとけ」 「——高峰さんか」  国崎は、ちょっと微《ほほ》笑《え》んだ。「こいつは懐《なつか》しい。まあ座ってくれ」 「仕事だ。忙《いそが》しいんだ、刑《けい》事《じ》って商売はな」  高峰は、デスクの方へやって来ると、「相変らず模型いじりか」 「私の唯一の趣味だからね」  と国崎は肯く。「何か話かね」 「こいつを外へ出してくれ」  と岡野の方を見る。  国崎が肯いて見せると、岡野は無表情のまま一礼して出て行った。 「——さて、刑事さんが何の用かな」 「分ってるはずだ」  と、高峰は言った。「あんたの息子を殺した犯人は我々が見付ける。あんたは手をひけ」 「私は何もしていないよ」 「若いのがあちこちかぎ回っている。それくらい知らんと思っているのか」 「みんな私のことを慕《した》ってくれている。だから、こっちの言わないことまで、気をきかせてやってくれるのさ」 「それで罪を逃《のが》れられると思ってるのか? そうはいかんぞ。——もう、女を捕《つか》まえたのか」 「私は何も知らんよ」  国崎は、じっと高峰の目を見返した。 「——いいか、あんたは船の模型を造るのが好きだ。模型なら、あんたがそれをキング・コングみたいに叩《たた》き潰《つぶ》そうが、火を点けて燃やそうが、構やせん。しかし、現実に人を殺せば、そうはいかん。わら人形に五寸釘《くぎ》でも打ち込んで、それでやめておくことだ」 「話はそれだけかね」  国崎は、ピンセットで、小さな旗をつまみ上げると、マストの先に取り付けようとした。しかし、手の震《ふる》えが、それをしくじらせた。旗は、船の甲《かん》板《ぱん》に落ちた。 「——あんたはもう年《と》齢《し》なんだよ」  と、高峰は言った。「その体で、刑務所は応《こた》えるぞ」  高峰は、ドアの方へ歩いて行って、ノブに手をかけて、振り向くと、 「悪いことは言わんよ。もう引退して、おとなしく庭いじりでもしていることだ」  と言って、出て行った。  国崎は、造りかけの帆船を、じっと見つめていたが、やがて、デスクの端に置かれた、大理石の重い灰《はい》皿《ざら》をつかむと、それを高々と振り上げ、船の上に打ちおろした。船は、大波の一撃を食らったように、大破した。 8 「——すっかりごちそうになって」  辻山は、席を立つと、何度も頭を下げた。 「いいえ。お口に合いましたかしら」  長谷沼君江はにこやかに微笑んだ。「——居間でお休み下さい。お茶をお持ちしますわ」 「あのお……」  幸子が立ち上がると、「片付けるの、手伝いましょうか」  と言った。 「いいえ、とんでもない。どうぞ、あちらへいらしていて下さいな」 「すみません」  幸子は、ピョコンと頭を下げた。  直美は、辻山の方へ、 「こっちよ」  と、声をかけて、ダイニングルームを出た。  居間で、ソファに寝そべるように座って足をのばすと、 「長谷沼さんの料理、天下一品なのよ」 「全くだな。——あんな旨《うま》い晩飯、何十年ぶりだ」 「私が作ってあげたのを、おいしいおいしいって食べてたじゃないの、少なくとも結婚したての頃は」  幸子が、テーブルの上のシガレットケースからタバコを出しながら言った。 「無理してたんだ。とても食えたもんじゃなかった」  と、辻山は言った。 「まあひどい」  幸子は笑いながらタバコに火を点けた。 「——おい、幸子。笑ってる場合か。これからどうする気だ?」  幸子はヒョイと肩をすくめた。 「なるようになるわよ」 「お前はいつもその調子だな」  ——そして、不思議なことに、いつも、それで〈何とかなる〉のだった。  世の中には、そういう、〈楽をするタイプ〉の人間と、ちょっとしたことにもあれこれと悩《なや》み抜《ぬ》く〈苦労するタイプ〉の人間がいて、それは生れつきのものなのだ。  幸子は正に前者の典型で、困ったときには必ず誰かが手助けして何とかしてくれるのだった。もちろん、それには、幸子が、男の心をひきつける魅《み》力《りよく》の持主であることも重要な役割を果していた。しかし、そもそも、そういう魅力を持って生れついたこと自体が、幸子のつきであるとも言えた……。 「しかし、今度ばかりは、それじゃ済まない」  と、辻山は言った。 「あら、そんなことないわよ」  幸子はタバコの煙《けむり》を天《てん》井《じよう》へ向って吐き出した。「洋モクね。軽くっていいわ。あなた、相変らずホープなの?」 「タバコはやめた。お前が出て行ってからな」 「へえ。——国崎の所じゃ、ダンヒルだったわ、ずっと」 「そんなことより、どうするつもりなんだ? 今夜から、どこに泊る」 「うちに泊って。長谷沼さんにも言ってあるわ」  と直美は言った。 「そうはいかないよ」 「いいのよ。どうせ、部屋は余ってんだし、ここなら、あの連中もやって来ないわ」 「しかし——」 「あなただって私を見張ってられるじゃないの」  辻山はため息をついた。 「ああ言ってくれてるんだから、泊めてもらいましょうよ」  と、幸子は呑気に言った。 「しかし、このお嬢さんは後二日で、アメリカへ発《た》つんだ。それまでだぞ」 「分ったわよ。だって私が殺したわけじゃないんだもの、その内犯人が見付かるわよ。そうなりゃ、大手を振って歩けるわ」 「お前のその楽天的なところを少しわけてほしいよ」  と辻山は苦笑した。 「どなたが殺されたんですって?」  と、君江が、コーヒーをのせた盆《ぼん》を手に入って来る。 「い、いや、これはその——ドラマの話なんです。この間見ていたTVドラマの」  辻山があわてて言い訳すると、直美は笑いながら起き上って、 「大丈夫。長谷沼さんは、この程度のことじゃビクともしないわ。私が人殺しでもして来たって言うのなら別ですけどね」 「弁護士へ電話しますわ」  と君江は言った。「——それで、逃げて来られたんですか?」 「そうなの。美女は妬《ねた》まれる運命にあるのよね」  と幸子がため息をつく。本人はどうやら、本気でそう思っているらしい。 「よく分ります」  と君江が肯いて、「私も若い頃はよくいやがらせされたものですから」  と言い出したので、直美はびっくりして君江を見つめた。——長谷沼さんが冗談言うなんて! 「しかし、国崎は、君が矢代って奴《やつ》を殺したのは間違いないと言ってたぜ」 「そこが私にも不思議で……」  と、幸子は肯いた。「本当に、あのとき、彼を殺せたのは私だけだったのよね。でも私はやってないわ。本人が言うんだもの、間《ま》違《ちが》いないでしょ」 「矢代っていう男は、国崎の息子なのに、なぜ名前が違うんだ?」 「何だか相続がどうこうで、ややこしい話があって、よその養子にしたらしいのよ。もう一人、国崎には息子がいたから。でもその息子が何年か前に殺されて、今は、矢代ってのを引き取って、可《か》愛《わい》がってたわけ」 「その息子と、女房が浮《うわ》気《き》してるとは思わなかったろうな」 「あなたも、ちょっと会わない内に皮肉を言うようになったのね」  と幸子は辻山をにらんだ。「——大体、あの年《と》齢《し》よ、国崎は。結婚するときだって、若い恋《こい》人《びと》の一人や二人、持つのは一向に構わんって話だったんだもの」 「しかし、よりによって息子と——」 「そんなこと、もういいじゃないの」  と、直美は遮《さえぎ》って、「それより、殺されたときって、どんな具合だったんですか?」  と幸子へ訊いた。 「お嬢様、その熱心さで、少し勉強の方もなさってごらんになると、たちまち首席になれますよ」  と、君江が言った。 「うるさいわね」  直美が渋い顔で呟いた。 「——言い寄って来たのは矢代の方なのよ」  と、幸子は言った。「国崎からずっと離《はな》れて育ってたせいか、ともかくおとなしい、およそ父親の後を継《つ》ぐというタイプじゃなかったのね、国崎がよく嘆《なげ》いてたわ。少し鍛《きた》えようと、岡野に任せてたんだけど、当人が全然やる気もないんじゃ、いくら鍛えたって無《む》駄《だ》ってもんよね」 「殺されたときは一《いつ》緒《しよ》だったのか」  と辻山が訊く。 「同じ部屋にはいたわ。——私たち、会うときは、ちゃんとホテルを使ってたの。いくら何でも、家の中じゃちょっとね」  そういうのを、「ちゃんと」と称する感覚が、辻山にはよく分らなかったが、ここは黙っていることにした。 「いつも使ってるホテルだったから、その日も、ごく気楽に二人で外から落ち合って、そこへ行ったのよ。それで——」 「親《おや》父《じ》がね——」  と、矢代和也が言った。 「え?」  ベッドの中で、寄り添《そ》って、うとうとしかけていた幸子は目を開いた。「あの人が——何か言ったの?」 「いや……。でも、何だかこの頃、おかしいんだ」 「気のせいよ。そんな風にびくついてたら、却《かえ》って気付かれるわよ」  と言って、幸子は矢代にキスした。  しかし、内心、幸子は、夫がもうとっくに妻と息子の仲に気付いているのではないかと考えていた。ともかく、国崎のように、互《たが》いの腹を探り合うことで生きて来た男は、他人の秘密など、簡単にかぎ当ててしまうだろう。  矢代は、およそ国崎とは似ていない。もう三十を二、三歳は過ぎているのだが、気弱な坊《ぼ》っちゃんくささの抜《ぬ》け切らない男である。  いくら国崎が自分の跡《あと》取《と》りにと願っているとしても、これほど適当でない人間もいないだろう、と幸子は思っていた。 「君のことが心配だ」  と、矢代は言った。 「私のことなんか気にしないでよ」  と、幸子は言った。「何とかなるんだから、私は」  矢代は笑って、 「君のそのセリフを聞くと何となく安心するよ」  と言った。「——やあ、もうこんな時間か。行かなくちゃ」 「何か用なの?」 「岡野さんが待ってる。何だか知らないけど、どこかへ挨《あい》拶《さつ》に行くんだってさ」 「あなたの家庭教師ってわけね」 「これで親父が……死んだらどうなるんだろう? 怖《こわ》くなるよ」 「何とかなるわよ」  幸子はもう一度言った。 「君は今出るかい?」 「眠《ねむ》くなっちゃった。少し眠ってから帰ることにするわ」 「分った」  ルームサービスで取った、ウイスキーと氷のセットが、ワゴンにのっていた。ベッドから出て、ガウンをはおると、矢代は、残ったウイスキーをあおった。 「氷がすっかり溶けちゃったでしょ」 「いや、アイスボックスに入ってるから大丈夫。君、後で飲めよ」 「うん。置いといて」  と、幸子は言った。  矢代は、シャワーを浴びに、浴室へ入って行く。シャワーの音が聞こえて来た。  幸子は、まどろんでいた。——いつもベッドを共にした後は、ひどく眠くなる。  誰でもそうなのかもしれないが、幸子は特にそうだった。特に、今日のように少々アルコールが入っていれば、なおさらのことだ。  矢代が行ってしまうまでは起きていようと思っていたのだが、何となく目をつぶって——そのまま、寝入っていた。  目を開いて——あ、眠っちゃったのか、と思った。  やれやれ。幸子はベッドの中で伸《の》びをした。この気分だと、二時間は寝たな、と思った。一度眠れば、そうすぐには目を覚まさないのである。 「あら——」  と思わず口をついて出た。  浴室から、まだシャワーの音がしている。それじゃ、ほんの二、三分眠っただけなのかしら?  時計の方へ目をやると、やはり二時間近くたっている。いや、眠った時間ははっきりしないが、それでも、二分や三分前ではないことは確かだ。 「ねえ、まだいるの?」  と、幸子は声を上げた。  しかし、どうせシャワーの音で、聞こえるはずはない。  いくら、矢代がおっとりしていると言っても、二時間もシャワーを浴びているはずがない。あわてて出かけて、シャワーを出しっ放しにして行ったのだろう。  幸子は、ベッドから出ると、ガウンをはおって、欠伸《 あ く び》しながら、浴室の方へ歩いて行った。 「いやねえ、もったいない……」  とドアを開ける。  浴《よく》槽《そう》のカーテンが閉めたままで、シャワーがその中へ注いでいた。 「溺《おぼ》れてんじゃないでしょうね」  と呟きながら、幸子はカーテンを開けた。  浴槽の中に、矢代が窮《きゆう》屈《くつ》そうに倒《たお》れていた。目は開いていたが、もうまるで表情はなかった。 「ねえ!——どうしたの!」  と、幸子はかがみ込もうとして、シャワーの熱い雨の中へ頭を突《つ》っ込《こ》んでしまい、あわてて手を伸ばして、湯を止めた。  発作でも起こしたのかしら、と幸子は思った。——そのとき、全《ぜん》裸《ら》の矢代の胸のあたりに、まるで本当ではないように、ポカッと開いた傷口に気付いたのだった。 「——ずっとシャワーが流れてたから、血が洗い流されてたのよね」  と、幸子は言った。 「それでお前が引っくり返らなかったわけが分ったよ」  と辻山は言った。「血を見てりゃ、お前はその場で気を失ってるはずだからな」 「でも、死体って、あんまり見て楽しいもんじゃないわよ」 「それからどうなったんですか?」  と直美が促《うなが》す。 「私はもう震え上っちゃって……。これは絶対に、国崎と敵同士になってる連中がやったんだと思ったのね。だって、そう思うじゃない? まさか自分がやったことにされるなんて思いもしないしさ」 「一一〇番するとか、ホテルの人を呼ぶとか——」 「そんなことしてる間に、こっちだって殺されるかもしれないじゃない。もう逃げの一手よ。あわてて服着て、部屋を飛び出したわ」 「ちょっと待て」  と、辻山が遮《さえぎ》った。「ドアはどうなってた? 自動ロックなのか?」 「もちろんよ、閉まると自動的に鍵《かぎ》がかかるって、あれね。でも中からはいつでも開くわ」 「すると、お前が眠ってる間に、誰かが鍵を開けて入って来た可能性はあるわけだな」 「そうね。でも——ちょっと待ってよ」  と、幸子は考え込んだ。「それは無理よ。だめだわ」 「どうして?」 「鍵の他にチェーンがあるもの。あれがかけてあったのよ」 「確かか?」 「間違いないわ。逃げようとして、ドア開けたら、チェーンがかかっててだめなの。手が震えて、なかなか開けられなくって、泣きたくなったのを憶えてるもの」 「ふーん」  辻山は顎《あご》を手で支えて考えた。幸子というのは、いい加減で、めちゃくちゃな女だが、嘘《うそ》をつくことはあまりない。特にこの場合は、そんな嘘をついても、一向に自分の得にはならないのだから、まず本当のことを話していると思っていいだろう。  だが、幸子の話が本当だとすると、犯人は幸子だとしか考えられなくなってしまうのだ……。 「そのホテルを出るとき、誰かに見られたか?」 「フロントの人は見てたでしょうね。それに、客らしいアベックとも二、三組すれ違ったし」 「お前は目立つからな」 「こういうとき、美人は損ね」  幸子は真顔でしみじみと言った。 「それからどこへ行った?」 「表でタクシー拾ってね、国崎の会社へ行こうと思ったの。ともかく助けてくれるのは国崎しかいないと思って」 「裏切っといて、よくそんなことが言えたもんだな」 「あら、だって、国崎は私の夫よ。ともかく夫は妻を助ける義務があるわ。当然じゃないの」  幸子の固い信念には、辻山の方が苦笑せざるを得ない。 「それが、どうして気が変ったんだ?」 「タクシーの中で考えたの。もしかしたら、矢代を殺したのは国崎じゃないかって」 「国崎が息子を?」 「当人がやらなくたって、いくらでもやる人間はいるしさ、父が息子に嫉《しつ》妬《と》して、殺したって、不思議はないでしょ?」 「そりゃそうだが……それなら息子でなく、君を殺すんじゃないかな」 「まあ、じゃ、あなたは私が殺されりゃ良かったと思ってるの?」  こういう的外れな怒《おこ》り方をするのが幸子らしいところなのだ。 「——それで、もし国崎がやったんだとしたら、私もどんな目に遭《あ》わされるか分らないでしょ。だからすぐにタクシーの行先を変《へん》更《こう》したの」 「どこへ行ってたんだ?」 「以前にちょっと知ってた男友達の所よ。そこで、様子を見ようと思ったの」 「それで?」 「ニュースに事件が出たわ。ところが、見てびっくり、私が犯人になってんじゃないの。こっちはもうただポカンとしてるだけだったわ」 「その男のところにいりゃ良かったじゃないか」 「冷たいもんよ、男なんて」  幸子はフンと鼻を鳴らして、「そのニュース見たらブルっちゃって、急に旅行へ出なきゃなんないとか言って、部屋を友人に貸す約束になってた、とか……。迷《めい》惑《わく》だから出てけってことなのよね。本当に男って薄《はく》情《じよう》だわ。そのときだけ、きれいだの可愛いだのって巧《うま》いこと言って、いざとなりゃ、自分の事が可愛いんだから」  それは仕方ないだろう、と辻山は思った。大体、その男だって、幸子の方から振ったに決っている。自分を振った女のために、命まで狙《ねら》われてんじゃ、割が合うまい。しかし、そういう理屈は幸子には通用しないのだ。  ともかく、男は総《すべ》て自分のために存在している、と幸子は信じているのだから……。 「で、そこを出てしまったんですか」  と、直美が訊いた。 「そう。私だってね、一度は付き合った男だし、ののしり合って別れたくないじゃない。だから、五万円ばかり小《こ》遣《づか》いもらって出て来たのよ」  金まで巻き上げられたのか。気の毒に、と辻山は同情したくなった。 「それでね、考えたの。こんなときに、本当に信《しん》頼《らい》できるのは、やっぱり夫しかいない、って。いくらいい男でも、心がなきゃね。でも、亭《てい》主《しゆ》ってのは、ずっと生活を共にしたわけじゃない? 一度二度、ベッドを共にしたのとはわけが違うわ。——そう、頼《たよ》れるのは、あなただけだと思ったの」  全く、どうすりゃこう調子良くなれるんだろう? 「おい、言っとくけど、僕はもう亭主じゃないんだぜ」 「でも、私はそう思ってないの。やっぱり私の夫はあなたしかいないわ」  怒る気にもなれない……。 「しかし、僕は何もしてやれない。何もだ。お前を助けてるのは、このお嬢《じよう》さんだ。——僕じゃないんだ」 「あら。その人だって、あなたのために私を助けてくれてるんじゃないの。ねえ?」  直美は返事をしなかった。 「——ともかく、今夜はご厄《やつ》介《かい》になるとしても」  辻山は立ち上って、言った。「この先、どうするか、それを考えとかなきゃな」 「さあ、どうぞお風呂にでも」  と、君江が言った。 「全く、申し訳ありません」  と、辻山は君江に頭を下げた。「悪い奴じゃないんですが、ともかく、ああいう性格というか、……子供みたいなところがあるんです」  幸子は、風呂へ入っていた。 「私は別に……」  と、君江は直美の方を見て、「何しろ、うちのお嬢様と二十年もお付合いして来ておりますので、少々のことには驚きません」  直美は聞こえないふりをした。 「ただ、私としては、あなたにお願いしてあるお仕事を、ちゃんと果していただきたいだけです」 「それなら問題ないわよ」  と直美は言った。「ここにいりゃ、私のこと見張れるじゃないの」 「でも外へ出たときが困るでしょう」 「いや、私も職業意識は持っているつもりです。お嬢さんのことは、たとえ命にかえても——」 「オーバーねえ」 「私が申し上げているのは、逆ですよ」  と君江が言った。「あなたがそばにいるせいで、お嬢様が危い目に遭われるのは困る、ということです」 「ごもっともで……」  辻山としては一言もない。 「それに……お嬢様がアメリカへ発たれたら、その後、あなたと奥様はどうなさるおつもりですか」 「長谷沼さん、奥さんじゃないのよ、あの人は」  と直美が口を挟《はさ》んだ。 「いや、おっしゃる通りです」  と辻山は肯いて、「今、あいつは私の妻じゃありません。しかし、こうして、事件に巻き込まれてしまったからには、私が責任を持つしかないと思います。——ご覧になってお分りの通り、自分勝手な奴ですが、ああいうことで嘘はつきません。たぶん、本当にあれは殺していないんだと思います。してみると、このまま放ったらかして、死なせるのは……何となく哀《あわ》れで、こちらとしても寝覚めが悪いですし——」 「お気持はよく分りますよ」  と、君江は言った。「こうしてお泊めする以上、お二人とも、お客様ですし、お客様に快適に過していただくのが、私の役目でもあります。——ただ、ここに身を隠していても、何一つ問題の解決にはならないのではありませんか?」 「長谷沼さん、いいこと言うじゃない」  と直美は愉《たの》しげに言った。 「年寄りをからかってはいけません」  と君江は涼しい顔で、「お嬢様も、もう少し建設的にものごとを考えるようになさらなくてはいけません」  直美が説教されてしまった。  居間は、ひっそりと静まり返っていた。  明りだけがついているように見えるが、直美が、ソファに座っているのである。ただ、身動きもしないので、まるで眠っているかのようだった。  午前二時。——古風な大時計が、コツコツと時を刻む。この居間の心臓の鼓《こ》動《どう》のようにも聞こえる。  ドアが開いて、長谷沼君江が顔を出した。 「まあ、お嬢様」  と、とがめ立てするように、「また夜ふかしですか。せっかくこのところいい子におなりだったのに」  直美は、君江の方には顔も向けず、 「もう子供じゃないわ。〈いい子〉って呼ぶの、やめて」  と言った。  目はじっと正面の空間を見《み》据《す》えている。 「はいはい、すみません」  君江はおとなしく詫《わ》びると、「でも、もうおやすみになった方が——」  と入って来て言った。 「あの二人——」 「え?」 「辻山さんと幸子さん、どこの部屋へ泊めてあげたの?」 「来客用のお部屋ですよ。二つありますもの、ちょうどよろしいと思って。——何を心配なさってるんです?」 「誰も心配なんかしてないわよ」 「でも、そんなお顔ですよ」 「いつから人相見になったの?」  君江は笑って、 「そんなにすねるもんじゃありませんわ。さ、もうおやすみなさい」 「もう少しここにいたいの」  と直美は言った。 「分りました。でも、できるだけ早くおやすみ下さいね」 「うん……。分ってる」  直美はコックリと肯いた。君江がドアの方へ行きかけると、 「ねえ、長谷沼さん」  と直美は呼びかけた。 「ご用でございますか?」 「一つ訊いていい?」 「どうぞ」  直美は、初めて君江の方に目を向けた。 「長谷沼さんは——恋《こい》なんて馬鹿らしいことだと思わない?」  君江は、ちょっと目をパチクリさせて、 「まあ……また何をおっしゃるのかと思えば……」 「長谷沼さんは、そんなもの、関係なかったんでしょ」 「そんなもの、ってこともありませんでしょう」  と君江は、笑顔になって、直美の方へ戻って行った。「残念ながら、私も女ですから、そういう経験も昔はございました」 「本当に?」 「これでも割合、美人だったんでございますよ、若い頃は」  と君江は、ちょっとえりを直して、「女優にならないかと誘《さそ》われたこともあります」 「本当? 凄《すご》い!」 「もっとも、七つか八つの頃でしたけど」  と君江は微笑んだ。 「——じゃ、恋もしたの? でも——つまらないと思わない? たかが男一人のために——ああでもない、こうでもないと気を回して、考え込んで、やきもきして、じりじりして、いやになったり喜んだりして、疲《つか》れちゃって、不《ふ》眠《みん》症《しよう》になったりして、勉強も手につかないとか色々あって……」  一気にしゃべって、ちょっと息をつくと、 「男ってそれだけの価値、あると思う?」  と訊いた。 「そうですねえ。男によるでしょ。中にゃ下らない男もいますからね」 「下らない男の方が多いんじゃない?」 「そうですね。分ってらっしゃるじゃないですかお嬢様も」 「まあね」  と直美は澄《す》まして、「そんな価値のある男に出くわす可能性なんて、低いわよね」 「そうですね。夢《む》中《ちゆう》になってるときはともかく、さめてしまうと、どうしてこんな男に熱を上げてたのかしら、と思いますもの」 「そうよね。男なんてたいていは自分勝手でさ」 「それは言えますね。男なんて大きな子供ですよ。わがままで、単純で、おだてに乗りやすくて——」 「すぐ威《い》張《ば》りたがって」 「そう! それに、女は男なしでは生きられないなんて思い上りますからね。ここに立派な反証があるのに」 「要するに女なしじゃ男なんてやって行けないのよね」 「そうですとも。女房に逃げられた男なんてどうなるか、あの辻山って人をごらんなさい」  直美は声を上げて大笑いした。 「服は新しいけど、中身はもうくたびれ切ってますよ」 「哀《あわ》れね」 「後はもう年《と》齢《し》を取るだけですね、ああなると。生きていてもあんまり楽しいこともない。朝が来て夜が来て、また朝が来て……。いつの間にか髪《かみ》の毛が抜《ぬ》けて来て、お腹がダブついて来て、まだ若い、まだ若い、と思ってる内に、膝が痛み出し、次に腰が痛み出し、目がかすんで老眼鏡をかけ……」 「ご臨終ね」 「そうなったら、二枚目も三枚目もあったもんじゃありませんよ。——恋なんて、その頃にはかけらもなくて、あーあ、こんなはずじゃなかったのに、とため息をつくのがオチですわ」 「恋なんてするもんじゃないわね」 「結局 幻《まぼろし》ですからね。その男に恋してるんじゃなくて、自分が作り上げた、その男のイメージに恋してるだけなんですよ」 「だから、さめて来るとがっかりする……」 「しますとも。私の好きな人はこんなんじゃなかったはずだって。——でも、そのときはもうお腹が大きくなってたりして」 「やだあ、長谷沼さんも言うのね、結構」 「だって、それは女にとっちゃ現実的な問題ですよ。たいていはそんなことになって、諦《あきら》めちゃうわけですからね」 「子供だけを生きがいに……」 「こんなはずじゃなかった、こんなはずじゃなかった、と思いながら、一生を終えるんです」 「お先真っ暗って感じね」 「恋なんてしない方がようございます。結ばれりゃ幻《げん》滅《めつ》するし、破れりゃ死にたくなりますしね。どっちにしても、あんまりいいことはありませんですよ」  直美はコックリと肯いた。 「そうね。——本当だ。恋なんて、時間のむだだわ。若い内は、やりたいことが沢《たく》山《さん》あるのに、赤ん坊《ぼう》おんぶしてお掃《そう》除《じ》、洗《せん》濯《たく》なんて、バッカみたいだもんね」 「同感です」  直美は立ち上って、ウーンと伸びをした。 「あーあ、話してたら、眠くなっちゃった。恋って、話してるだけでも退屈なもんね。おやすみ!」 「おやすみなさいませ」  直美が出て行くと、長谷沼君江は、ちょっと心配そうな、それでいて、ちょっと楽しそうな笑みを浮かべて、しばらく考え込んでいたが、やがて、我に返った様子で、ソファのクッションを直して、居間を出た。もちろん、明りを消すことも忘れなかった。  ——二階へ上った直美は、自分の部屋の方へ、二、三歩足を運んで、まるで急に重い鎖《くさり》が絡《から》みついたかのように、立ち止った。  振り向くと、廊下の奥に、来客用の部屋のドアが、向い合っている。じっと耳を澄してみたが、物音一つ聞こえない。  自分の部屋へ行きたいのに、なぜか足は動かないのである。 「何よ……下らない。男なんて……」  ブツブツ言いながら、一つ深呼吸。さて、寝るんだ、と歩き出そうとして、 「——いい加減にしろよ」  と、辻山の声が聞こえて、振り向いた。  ドア越《ご》しに、廊下に声が洩《も》れているのだ。寝言とも思えない、してみると……。  直美は、そっと廊下を進んで行った。絨《じゆう》毯《たん》を敷《し》きつめてあるので、足音はしないけれど、それでも忍《しの》び足になった。 「ここは自分の家じゃないんだぞ」  と、辻山の声がした。 「あら、昨夜は、アパートにいたのに、何もしなかったじゃない」  と、幸子がむくれている様子。 「当り前だ。俺《おれ》たちは夫婦じゃないんだぞ」 「昔は夫婦だったわ」 「それぐらい憶《おぼ》えてる」 「そう。じゃ、結婚前に私に散々迫《せま》って来たのは誰《だれ》よ」 「おい、昔の話を——」 「いいじゃないの。——ねえ、やっぱりあなたが一番いいわ」 「よせってば! いいか。お前はまだ国崎の妻なんだぞ。よく考えろ!」 「妻を殺そうとするなんて、夫のすることじゃないわ」 「亭《てい》主《しゆ》の息《むす》子《こ》と寝《ね》るのだって、女《によう》房《ぼう》のすることじゃないぞ」 「あなたもずいぶん変ったわね」 「そうかい? もう寝かしてくれ。眠《ねむ》いんだよ、俺は」 「あの女の子が好きなんでしょ」  少し間があって、 「女の子? 誰のことだ?」 「ここの令《れい》嬢《じよう》よ。あなたに気があるわ」 「まだそんなこと言ってるのか。——大体あの娘《こ》は二日たったら空の上だぞ」 「あなたも荷物にして送るかもしれないわ」 「もう寝ろよ」 「分ったわよ。——私、ここを出て行くから」 「ああ、勝手にしろ」 「死んでもいいのね」 「お前は死なないよ」  ドアのそばに立って聞いていた直美は吹《ふ》き出しそうになった。 「じゃ、おやすみなさい!」  ドアがいきなり開いた。幸い、直美は、開いたドアの陰《かげ》になって、幸子の目には入らなかった。  かなり腹を立てている様子の、幸子は、そのまま後ろ手でドアを叩《たた》きつけるように閉めて、自分の部《へ》屋《や》へ入って行ってしまう。直美は、そっと息を吐《は》き出した。  それから、また忍《しの》び足で、自分の部屋へと歩いて行った。口《くち》笛《ぶえ》でも出そうになるのを、何とか、我《が》慢《まん》していた。 9 「辻山はどうなっとるんだ!」  平本社長は、ドンと机を叩いた。  もっとも、これはかなり意識的なポーズなので、少々ガタの来ている机を壊《こわ》さないように、力は加減しているのである。 「知りません」  と事務員の坂下浩子はむくれて、「私、別に辻山さんのおもりをしているわけじゃありませんから」 「フン」  と、平本は鼻を鳴らして、「一度ぐらいはホテルにでも行ったんじゃないのか」 「社長!」  といきなり浩子が金切り声を上げた。 「な、何だ、びっくりするじゃないか」 「私がどうしてあんな中年のひしゃげたのとホテルに行かなきゃいけないんですか!」 「まあ、君——冗《じよう》談《だん》だよ。冗談」  と、あわててなだめる。 「冗談にしても程度ってものがありますわ」  と、浩子はふくれっ面で、「辻山さんと私じゃ〈美女と野《や》獣《じゆう》〉だわ」  平本は、 「どっちもどっちだと思うがな……」  と、そっと呟《つぶや》いた。  それから一つ咳《せき》払《ばら》いして、 「アパートは全然出ないんだな、電話しても?」 「ええ。三回かけました」 「ふーん。死んでるのかな」 「見に行きます?」 「いや、放っとけ」  と平本は手を振《ふ》った。「ともかく例の仕事には誰かを回さにゃならんな。おい、長谷沼君江という人へ電話してくれ。担当はまだ具合が悪いので代りを行かせる、とな」 「はい」  浩子が受話器を取って、ダイヤルを回そうとすると、急にドアが開いた。「いらっしゃいま——」  入って来たのは、見るからに凄《すご》味《み》のある、男たちで、四人——いや、五人もゾロゾロと入って来る。 「——な、何だ、君たちは?」  平本は、早くも青くなっていた。こういう商売では、たまにこういうこともあるものなのだが、平本はたいていいつも外出していて、その場にはぶつからずに済んで来たのである。  しかし、今度ばかりは、そうも行かない様子であった。 「ここの責任者は?」  と、先頭にいる男が訊《き》いた。  平本は、よっぽど浩子のことを、社長だと答えようかと思ったが、しかしとても通用するはずがないと諦《あきら》めた。 「私だが……あの……そちら様は?」 〈君たち〉、が〈そちら様〉に変っていた。 「辻山はどこにいる?」 「辻山?——いや、知らない。どこにいるか分らんのだ」 「いい加減なことを言いやがると——」 「いや、本当だ。今《け》朝《さ》からアパートへ電話してるが、誰も出ないんだ。心配していたところだったんだ」  よく言うわ、と浩子はそっと呟いた。 「本来なら、朝ここへ電話が入るはずなんだ。しかし、その電話もない。だから——」 「どこへ行ったか、分らないのか」 「分りゃこっちだって捜《さが》して連《れん》絡《らく》してるさ」 「そうか。ともかくこっちも知りたい」  と男は言った。「ふざけた奴《やつ》だ。俺たちに一《いつ》杯《ぱい》食わせやがった」 「そ、それはどうも……」 「お前さんは社長だろう。社員のしたことには責任を取ってくれなきゃな」  平本は青くなった。 「し、しかし……時間外のことについては、その……」 「まあいい。けがさせたりしちゃ気の毒だ。そこの女にもな」 「辻山が戻《もど》ったら、ちゃんと伝えとくから——」 「それだけじゃ困る」  と男は言って、事務所の中を見回した。「ごみごみした会社だな」 「何しろ経営がそう楽じゃないもんでね……」 「きれいにしておかねえと、客が信用してくれないぜ」 「近々……その……コンピューターを導入して整理しようかと思っていたんだ」  浩子は呆《あき》れて平本の顔を見た。コンピューターっていっても、せいぜい電卓を買うぐらいが関の山だろう。 「じゃ、手伝ってやろう」  と男は言った。「二人とも、表に出ていな」 「——え?」 「外に出て待ってろ。びっくりするぐらいきれいにしてやる」  平本はゴクリと唾《つば》を飲《の》み込んだ。そして、あわてて表へ飛び出して行く。  浩子は、呆れて、 「社長!——待って!」  と追いかけた。「女の子を置いて逃げるなんて!」  平本の探《たん》偵《てい》社はオンボロビルの二階である。一階へ降りたところで、浩子はやっと平本を捕《つか》まえた。 「社長!」 「やあ、君も来たのか」 「当り前でしょ! どうするんですか?」 「だって——どうしようもないじゃないか」 「そんなこと言って。一一〇番すればいいじゃありませんか!」 「一一〇番? そうか、そういう手もあったな。しかし考えてみろ、後でお礼まいりにでも来られたら——」  そのとき、二階の方から、ドシン、ガチャン、と凄《すご》い音が聞こえて来た。 「手《て》遅《おく》れみたいですね」 「そうらしい……」  二人《 ふ た り》はビルの外へ出ると、通りに立って二階の窓を見上げた。ドシン、バタン、ガチャン、ガン、と騒《そう》音《おん》はけたたましく、道行く人がみんな窓の方を見上げて行く。 「——やってますね」  と浩子は言った。 「うむ」  平本の方は、まだショックをショックとして感じられないらしい。ぼんやりと、まるで無関係な見物人のように突《つ》っ立っている。  窓がガラガラと開いたと思うと、椅《い》子《す》が一つ飛び出して来た。もちろん自分で身投げするはずもないから、誰かが放り投げたのである。道路に落ちた椅子は、哀れ、足と上とがバラバラになってしまった。続いてもう一つ。 「あ——私の椅子」  と、浩子が言った。座《ざ》布《ぶ》団《とん》をくくりつけてあるので分るのだ。  野《や》次《じ》馬《うま》が集まり始めていた。窓から椅子が降って来れば、珍《めずら》しいに違《ちが》いない。 「俺の椅子だ!」  と、平本が叫《さけ》んだ。  事務所でただ一つ、肘《ひじ》つきの椅子が、窓から押し出されようとしていた。足が窓《まど》枠《わく》に引っかかって、何とか投げ出されまいとしがみついている感じだったが、抵抗空《むな》しく、ついに、平本の椅子も宙を切って、落下した。  ガーンとひときわ派手な音がして、足も、肘かけも吹っ飛んでしまった。  平本は、ただ呆《ぼう》然《ぜん》としているばかりで、少しして、男たちがビルから出て来ても、目を向けなかった。  浩子の方が、キッと男たちをにらみつけてやった。 「おい、辻山によろしく言ってくれよ」  と一人《 ひ と り》が言った。  男たちが車に乗って行ってしまうと、浩子は、呆然と立ちすくんでいる平本の肩《かた》を叩《たた》いた。 「社長——」 「ん? 何だ?」 「まだ退職金出ますか?」  と、浩子は訊いた。 「——変だな、誰も出ない」  電話ボックスから出て来て、辻山は言った。 「留《る》守《す》なの?」 「いや、そんなはずはないんだけどなあ」  と辻山は首をかしげた。  直美は、肩《かた》をすくめて、 「倒《とう》産《さん》したんじゃない?」  辻山は笑って、 「そりゃいいや。——まあ、また後でかけてみるさ」  と言った。「さて。今日はどうするんだい」 「奥さん、放っといていいの?」 「おい、あれはもういいんだ。どうせ好きなようにしてるさ、あいつは」 「でも、このまま黙《だま》ってるわけにいかないでしょ。いつかは、あの連中、奥さんを見付けるわ」 「うん……」  辻山は頭をかいた。  いい天気だった。何となく、心まで軽くなって、弾《はず》み出しそうな日だ。  直美は、辻山の困った顔を、愉《たの》しげに眺《なが》めていた。 「これはまあ……図々しい話だけど……」 「言ってみて」 「君が出発するまでは、僕も仕事だ。君のそばについてなきゃならん。だから——幸子の奴と二人で、もしよかったら、お宅にご厄《やつ》介《かい》になっていたい。その後、二人で何とか身を隠《かく》して——」 「どうするの?」 「いや……警察へでも行くしかないよ。僕の力じゃ、幸子は守ってやれない」 「一つ方法はあるわよ」 「え?」 「真犯人が見付かればいいんでしょ?」 「しかし、警察も幸子がやったと思ってるからな……」 「そこをあなたが犯人を挙げれば、きっと奥さんだって見直してくれるわ」 「あいつが見直してくれたって仕方ないよ。こっちは早いとこ、手を切りたい」  と、辻山は顔をしかめた。 「これから行ってみない?」 「どこへ?」 「ホテル」  辻山はけげんな表情で直美を見た。 「どこのホテル?」 「殺人現場よ、もちろん!」  と、直美は言った。「私たちで犯人を捜してみましょ。だって、時間がたてばたつほど、犯人を見付けるのは難しくなるでしょ。それに、私がついて歩いてりゃ、あなたも仕事をさぼってるわけじゃなくなるし」 「理《り》屈《くつ》はそうだが——」 「じゃ、いいじゃないの。私だって、後であなたと奥さんが殺されたなんて記事読んだら、気分悪いもの、安心してアメリカへ発《た》ちたいわ」  辻山が何も言わない内に、もう直美はタクシーを停《と》めていた。 「——少しは気が変ったのか」  と高峰刑《けい》事《じ》が言った。 「ともかく、こっちまで危くなって来たもんですから」  と辻山は肯《うなず》いた。 「奥さんから連絡はないのか」 「ありません。幸子からは何も」 「ふーん」  署の机の前で、辻山は、じっと立っていた。高峰は、半信半疑の目で辻山を眺めていたが、 「よし!」  と立ち上ると、「連れて行ってやろう」  と、コートを引っつかんだ。 「すみません」 「国崎に会って来た」  廊《ろう》下《か》を歩きながら、高峰は言った。 「どうでした?」 「何が何でも、自分の手でやる気だぞ。いくら奥さんが運の強い女性でも、国崎があそこまで決心すると、やばい」 「僕は幸子じゃないと思います」 「国崎はそうは思っとらん」 「本当の犯人を見付けたいんです」 「お前が?」 「警察がやってくれないもんですからね」  と辻山が言うと、高峰は笑って、 「大いにやってくれ、税金の節約になる」  と言った。 「そこにタクシーを待たせてあります」 「気がきくじゃないか」  ドアが開くと、直美が顔を出した。 「どうも初めまして」  高峰は目を丸くして、 「おい、辻山、お前まさか、そのためにホテルへ案内しろってんじゃないだろうな?」  と言った。 「ええ、何とぞ早く——」 「分ってるよ。くどくど言うとまた遅《おそ》くなるぞ」  と、高峰は、ホテルのマネージャーをじっとにらみつけた。 「はい、すぐご案内いたします」  マネージャーが、マスターキーを手に、エレベーターへ案内する。  殺人のあった部屋が、まだ使えないままなので、早く使わせてほしいと高峰に頼《たの》んだのである。 「全く、殺人事件などがありますと、もう客足がガタッと落ちまして——」  エレベーターで上って行く途中、マネージャーが嘆《なげ》いた。 「そんなことはあるまい。今、駐《ちゆう》車《しや》場《じよう》を覗《のぞ》いて来たが、八割方埋《うま》ってたぞ」 「いえ、普《ふ》通《つう》なら満員になるはずなんです」  とマネージャーが言った。 「大したもんね」  と、直美がほとほと感心しながら、「この手のホテルって初めて入ったけど、そんなにお客がいるの?」 「世の中、暇《ひま》な奴が多いんだよ」  と辻山が肯く。 「そちらのお嬢様は、ご利用いただいたことがございませんか」  と、マネージャーが耳ざとく聞きつけて、「初めてご利用の方には記念品をさし上げております。それにお得な回数券も発売しておりますので、ぜひ一度——」 「どうも」  直美はあわてて言った。「あの——ついでに相手の男性の貸出しもやってません?」 「おい!」  辻山が直美を見て、「僕がクビになる!」 「——さ、どうぞ」  エレベーターを四階で降りると、分厚い絨《じゆう》毯《たん》を踏《ふ》んで、何だかどこかの宮殿を縮小したような、キンキラキンの廊下を歩いて行く。シャンデリアも、安物らしい派手な光を放っているが、ともかく、やたらと明るい。  コソコソと顔を隠して入って行くというムードでは全然ないのである。 「——静かねえ。お客、ほんとうにいるんですか?」  と直美は訊いた。 「ええ、ほぼ満室でして。——普通のホテルですと、室内の声が廊下へ丸聞こえですが、私どもでは、プライバシーの尊重をモットーにしておりますので、完全な遮《しや》音《おん》のドアを使用しております」 「ははあ……」 「つまり、僕のような探偵が、廊下で録音機を回していても大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》なようになっているのさ」  と辻山は言った。「営業妨《ぼう》害《がい》だよ」 「それはまあお互《たが》い様でして」  とマネージャーは涼《すず》しい顔で、「ここで密会を盗《とう》聴《ちよう》されたと言って怒《ど》鳴《な》り込んで来られる奥様もいらっしゃいますから」 「その先の部《へ》屋《や》だな」 「はい。四〇八号で。——今、鍵《かぎ》を開けますので——」  直美が少し離《はな》れて立っていると、隣《となり》のドアが開いた。なるほど分厚くて重そうなドアである。出て来たのは、どこかの重役という感じの、立派な身なりの中年男で、その後からは、若い女の子……。 「——智子!」  と、直美は目を丸くして言った。 「あら、直美」  級友の、大津智子である。  直美はびっくりして、声も出ない。しかし、智子の方は、ペロッと舌を出したきりで、 「変なところで会っちゃったわねえ」  と笑っている。 「おい、行かないのか」  と、エレベーターの方へ歩きかけた中年男が振り向いて呼んだ。 「先に行ってて!——なんだ、そのおじさん、ハイキングに来た探偵さんじゃない。直美ったら、そういう仲になってたのか」  直美はやっと気を取り直し、 「智子……。今の人は?」 「私の恋《こい》人《びと》。ちょくちょくお小《こ》遣《づか》いくれるもんだから、付き合ってあげてんのよ」 「驚《おどろ》いた!」 「あら、みんなこの程度はやってるわ。——直美の方はどうなってんの?」  智子は、辻山と高峰を眺めて、「二人相手にするの? 凄いじゃない!」  と目を見張った。 「やめてよ、冗談じゃない」  直美はあわてて言った。「他《ほか》の用で来てるのよ」 「このホテルに他の用?」  智子はクスッと笑って、「いいじゃないの。お互い様なんだから」 「やあねえ、本当なんだってば。こっちの人はね、刑事さんなのよ」 「え?——わ、やばい! でも別に私、売春してるわけじゃないもん。妻子ある人と、悲しい恋に身を焼いてんだ、ほんと」 「そんな顔してないよ」  と直美は笑い出してしまった。 「あら、その部屋、確か殺人のあった所でしょ?」 「そう。その事件のことを調べに来たの」 「直美、何か関《かかわ》りあるわけ?」 「うーん、ちょっと……複雑なんだけどね」 「ま、いいわ。じゃ、頑《がん》張《ば》って」 「サンキュー」  智子は口笛など吹きながら、さっさと行ってしまった。直美は息をついて、 「ああびっくりした」 「今の大学生は大したもんだな。さあ、中へ入ろう」  と、辻山が促《うなが》す。  部屋は、まあ普通の造りになっていた。よく週刊誌などで見る、遊園地顔負けの施設などはなくて、ゆったりした居間に、特大のベッドが置いてあるという感じだった。 「私どもは子供じみた仕《し》掛《かけ》よりは、ともかくお二人のために、快適な時間と空間をご提供するのが使命と考えておりまして……」  とマネージャーがPRを始めるのを、 「もういい、前にも聞いたよ」  と、高峰は遮《さえぎ》った。  部屋の装《そう》飾《しよく》は、やはり、ちょっと気《き》恥《は》ずかしくなるくらい派手だった。 「このチェーンがかかってたんだな」  と、辻山がドアを試している。「しかし、一《いつ》杯《ぱい》に開ければ十センチは開く。——高峰さん。外からだって刺《さ》せたんじゃないですか」 「それも考えたよ」  と高峰は肯いた。「しかし、あの傷だ。血が多少は流れたはずだぞ。下の絨毯には全く血が飛んでいない」 「なるほど」 「それに、刺されてから、どうしてわざわざ風《ふ》呂《ろ》場《ば》まで行って死ぬんだ?」  直美も、高峰の言葉はもっともだと思った。ドアの所で刺されたら、ベッドへ行って、幸子を起こして助けを求めたに違いない。  ここへ来る車の中で、高峰から状況は説明されていたが、実際にここへやって来てみると、直美は、いささか不《ふ》謹《きん》慎《しん》ながら、一種の興奮を感じないわけにはいかなかった。  ここで殺人が起こったのだ! 「浴室を見せてくれ」  と、辻山が言った。 「あちらのドアです」  と、マネージャーが手で示す。  いかにも、こういうホテルらしい、と直美が思ったのは、浴室のドアが、ガラスで、透明だったからである。 「中が見えるわけね」 「実際には湯気でガラスが曇《くも》りますので、ぼんやりしか見えませんが、それが却《かえ》って想像力を刺《し》激《げき》して、いいという方もいらっしゃいまして」  とマネージャーが説明する。  中もかなり広い。浴《よく》槽《そう》は、もちろん死体があったことを思わせる跡《あと》は全く残っていないが、それでも、直美の目には無気味に映った。 「洗い場が広いんですね」  と、直美が言った。 「はあ。——まあたいていは一《いつ》緒《しよ》にお入りになるものですから、ここでもその——軽い運動はできるようになっていますので……」 「はあ、そうですか」  直美もやっとその意味が分って、あわてて肯いた。 「ふーん。ここに死体が……」  と、辻山は浴槽を覗き込んで、「犯人は排《はい》水《すい》孔《こう》から逃《に》げたんじゃないかな」  と言った。 「まさか!」 「冗談だよ」  と、辻山は言って、「——するとやっぱり幸子が……。いや、あいつじゃないと思うがなあ」  そもそも幸子が疑われたのは、あわてふためいてフロントの前を駆《か》け抜《ぬ》けて行ったのを、ホテルの人間に見られたせいだ。いつも、ここを利用しているということで、ホテルの人間も幸子の顔を憶えていた。  これが推理小説なら、「犯人が、顔を見せながら逃げるはずがない」とでも言えそうだが、現実の犯罪となると、十中八、九、そういう人間が犯人なのである。 「——どうだ、何か分ったかね」  と、高峰が入って来る。「それとも一風呂浴びて行くか?」 「とってもここを使う気にはなれませんね。後で使う客は気の毒だな」 「知らなきゃどうってことないさ」  と高峰は言って欠伸《 あ く び》をした。「——ま、ゆっくり調べてくれ。俺は先に帰るぞ。忙《いそが》しいんだ」 「どうもお手数をかけて」  高峰は浴室を出て行きかけて、ちょっと振り返り、 「マネージャーも下へ行った。帰るときは一声かけてくれよ」 「分りました」 「何ならベッドを使って行けよ。只《ただ》だぞ」  高峰はニヤリと笑って、出て行った。 「——変なところに気を回してくれるよ、全く」  と、辻山は苦笑した。 「面《おも》白《しろ》い人ね」 「ちょっと型破りのところがある。——まあ、それはともかく、これからどうするか、だな」  直美は、浴室の入口に立って、中をグルッと見回した。 「犯人が幸子でないにしても、僕の力じゃとても捜し出せないよ」 「そんな弱気なこと言って。——ともかく、奥さんじゃないという前提でものを考えなきゃ」 「しかし、この状《じよう》況《きよう》じゃ、どうしたって幸子が犯人ってことになるよ」 「待ってよ。犯人はあのドアからは出入りできなかったわけでしょ。チェーンがかかっていたから」 「そうだな」 「チェーンをかけたまま、ドアの隙《すき》間《ま》から刺されたとしたら、被害者がなぜこの浴室まで戻って来たのか理由が分らない。それに血が途中に一滴《てき》も垂れていない。——やっぱり矢代はここで殺されたと思っていいわね」 「そうらしいな」 「すると犯人は、最初から部屋の中にいたんじゃない? どこかに隠れていて、それから、浴室で矢代を殺し、また身を隠した。幸子さんが気が付いて逃げ出した後で、ここを出て行く……」 「しかし、殺した後、幸子はずっと眠ってたんだ。そんなに長く待ってると思うかい? さっさと出て行くんじゃないかな」 「それもそうね」 「しかし、一応どこか人の隠れられるような所があったかどうか、調べてみよう」  二人は浴室を出ると、部屋の中を調べてみた。——しかし、確実に人目につかないように隠れていられる所はどこにもなかった。  ベッドの下にも、ソファの下も、人の入れるほどの空きはなかった。ホテルなのだから、洋服かけはあるが、入って来た客がまずそこは開けるはずであり、到《とう》底《てい》隠れていられたはずがない。  他には、どう考えてみても、隠れる場所はなかったはずなのである。 「だめか」  と辻山は息をついた。 「そうねえ……。とっても、これじゃ隠れてなんかいられないわね」 「分らんなあ」  辻山はソファに腰《こし》をかけた。「探偵は探偵でも、シャーロック・ホームズじゃないんだから、仕方ないよ」 「そう諦めないで」  直美は、特大のベッドの方へと歩いて行って、腰をおろした。「——大きいのねえ」 「どんなに寝相が悪くても、まず落ちる心配はないな」 「本当ね」  直美は、手でそっとベッドのクッションを押《お》してみた。「寝てみてもいいかしら」 「構わないだろう、別に」  直美は、靴《くつ》を脱《ぬ》ぐと、ベッドの上に横になって、天《てん》井《じよう》を見上げた。 「——いやだ」 「何が?」 「天井に鏡がはってあるのね」 「ああ、よくあるやつだ。——いつも、磨《みが》くのが大変だろうなと思うよ」 「本当ね」  と、直美は笑って、「でも、恥《は》ずかしくないのかしら、自分の姿が……見えていても」 「平気な奴は平気さ。君の友達だって、平然としてたじゃないか」 「そうね。びっくりしちゃったわ、本当に。——智子って、大学じゃちっとも進んだ風に見えないのよ。それなのに……。ショックだわ」 「君は恋人とこんな所へ来ることないの」 「私、だめなのよ。何だか知らないけど、男の人っていうと、身構えちゃうの」 「身構える?」 「何だか——意識し過ぎるっていうのかな。智子なんかに言わせると、自意識過《か》剰《じよう》の認識不足だっていうんだけど」 「なるほど」  と辻山は笑って、「男がみんな君を狙《ねら》ってるように見えるんじゃないのか」 「失礼ね、そんな——」  と、直美は辻山をにらんだが、「まあ、でもそんなところかな」  と、また視線を天井の鏡に映った自分へと向けた。  こんな風に自分を眺めたことは、ついぞなかった。姿見に映る、立ち姿を見ることは年中だが、こうして、寝そべっている全身を一目で見ると、まるで知らない女のように思える。そっくりな、未知の女。  直美は、ゆっくりと頭をめぐらして、辻山を見た。辻山は、ソファに座って、考え込んでいる。——疲《つか》れて見えた。  しかし、何かを背負っている男の姿だ。投げ捨てようと思えば、そうもできるのに、捨てる気にはなれない男なのだ。  突《とつ》然《ぜん》、直美は胸が締《し》めつけられるように痛んで目をつぶった。——別に心臓なんて悪くないし、発作を起こしたこともないのだが……。  頬《ほお》が熱くなった。風《か》邪《ぜ》でもひいたように。  横になって見る辻山は、それまでの辻山とは、どこか違っていた。もちろん同じ辻山であって、どこかが違っているのだ。顔を伏《ふ》せ、じっと考え込んでいる。——もう別れて、本当ならばどうでもいい女性のために、苦しんでいる。  男って、大変ね。直美はそう思った。女なら、あの幸子のように、開き直ってしまって、それで済む、というところがある。  でも男は、今夜開き直って、それで済んでも、明《あ》日《す》はまた仕事へと出て行かなくてはならない。  もちろん女だって、あの幸子みたいなのは例外で、やはり取るべき責任は取らなくてはならないが、辻山のように責任感だけは——と言っては可《か》哀《わい》そうか——人一倍強い男は、結局、いつも貧《びん》乏《ぼう》くじを引くはめになるだろう。  計算ずくで動くことに後ろめたさを感じる世代なのだ。今の直美と同世代の男の子たちのように、女の子におごられて一向に気にしないのとは違う。  それはそれで構わないのだけれど、やはり辻山のようなタイプは、一生損ばかりしているには違いあるまい。——直美とて、ボーイフレンドの一人や二人、ほしくないわけでもないし、話し相手ぐらいなら、いなくもないのだが、さっき辻山へ言った通り、どことなく、なじめないのだ。どこか違っていて、どこかずれているのである。 「古いのよ」  と、智子に言われればその通りで、反論のしようもない。  だが、あそこまで割り切って、中年男に小遣いをもらおうとは思わない。別に、小遣いに不自由しない身分だから言うのではなく、もし、小遣いが足らなくて、どうしても欲しいものがあれば、直美ならどこかで汗を流して働く方を選ぶだろう。  男と寝るのを悪いことだとは思わないが、好きで寝た相手から、金を渡《わた》されたら、怒《おこ》るか——幻《げん》滅《めつ》すると思う。  寝ることは寝ることだ。でも、それをアルバイトにまでしたくはない。お金を平気でもらって、バッグや服を買うような感覚では、いたくないのである。  それが悪いというのではなくて、いいとか悪いとか以前の、気持の問題だとしか、直美にも言いようがなかった……。  こうして、辻山は、元の妻——勝手に自分の所から逃げて行った女のために、歩き回っている。多少は自分の安全のためだとしても、ともかく、一文にもならず、およそ得るところのない仕事である。それも、好きでやっているわけではないのに、やめることができないのだ。それもやはり〈気持〉の問題だろう。  人にどう言われるか、はた目にどう見えるか、友だちに笑われないか。そんなことを気にしながら——気にせずに済む人間なんていないのだ——それでも自分の気持に従って行動する。そうするしかない、という思いで行動している人間の姿って、かっこ良くないけども、しかし、決して笑う気にはなれないものだ。  辻山だって——あの薄《うす》汚《よご》れて、くたびれて、ヨレヨレになったコートみたいな男だって、直美は笑うことができなかった。  あれだって一《いつ》生《しよう》懸《けん》命《めい》にやっているんだもの……。  直美は天井の鏡を見つめた。目をつぶっていれば、何でも言えそうな気がする。 「——辻山さん」  と、直美は言った。「キスしてみない?」  ——じっと、目をつぶっていた直美は、長い沈《ちん》黙《もく》に目を開けて、頭をめぐらせた。 「ねえ、辻山さん」  直美は起き上った。ベッドから降りて、近くに行って、 「ねえ——」  辻山は、静かに寝息をたてていた。 10 「——お茶でもいかがですか」  と、長谷沼君江は言った。 「ああ、どうも」  幸子は、ソファから起き上った。横になってうとうとしていたのである。 「悪いわねえ、こんな風にのんびりとしてて。何かできることあったら、やるから言って。といったって、たぶん何でもあなたの方が上《じよう》手《ず》でしょうけどね」 「どうぞゆっくりなさって下さい」  と、君江は微《ほほ》笑《え》んだ。「お客様に、後片付けなどしていただくわけには参りませんから」 「お客様ねえ」  幸子は、紅茶のカップを手に取った。「とんだ客だわね。——ここのお宅、ご主人はアメリカですって?」 「はい。それでお嬢《じよう》様《さま》も行かれることになっておりまして」 「お母さんはいないの?」 「早くに亡くなりまして、その後、ずっと旦《だん》那《な》様《さま》は一人で通されていましたから」 「へえ。でも金持なんでしょ」 「ですから、お忙しかったんです。世間の方は、お金のある家の人は遊んで暮《くら》していると思われるようですけど、実際は、普通の方の何倍も忙しくて、ただ、たまに息《いき》抜《ぬ》きをすると目につくんですね」 「そうねえ……。国崎も忙しかったもんね。若い女房もらっといて、忙しいから、放ったらかし。これじゃ浮《うわ》気《き》するなって方が無理よね」  グチがつい自己弁護になるところが幸子らしさである。 「よろしければ、このクッキーでも……」 「手焼き?——おいしいわ。あなたって一日四十八時間はあるんじゃない? 少なくとも、私の一か月分は一日で働いてるわ」 「働ける間は、働いている方が幸せでございますから」 「本当にいるのねえ、働くのが好きな人って……」  幸子は、違う星の生物でも眺めるように、君江を眺めた。 「他に取り柄《え》もございませんから」 「凄い取り柄よ、働くのが好き、なんて。少なくとも、セックスアピールなんかより、ずっと長続きするじゃない」  と、幸子は真顔で言った。「私なんて、もう若くないしね。どんな美女も、しわくちゃになりゃおしまい。辛《つら》いとこよ。それしかない人間としてはね」 「そんなこともありませんでしょう」 「慰《なぐさ》めてくれるのは嬉《うれ》しいけど、私にも、自分のことは良く分ってるの。だから、こんなにチャラチャラしてるけど、内心は怖《こわ》いのよ。年《と》齢《し》を取るのがね」  君江は黙って聞いていた。 「——辻山も年齢を取ったわ。でも、相変らずだけどね。私も悪いとは思ってんのよ。こんな風に、とっくに別れた亭主へ迷《めい》惑《わく》かけてね。でも、あの人が、あんまりいい人なもんだから……」  幸子は、ちょっと笑って、「勝手なこと言ってると思うでしょうね。だけど……たまに思うのよ。あの人が、あんなにお人好しでなかったら、たぶん私、まだあの人のところにいただろう、ってね」  そう言って、幸子はタバコを取って火を点《つ》けた。  しばらく間を置いて、君江が言った。 「分りますわ」 「え?」 「いい人と一緒にいるのは、時には疲れることですものね」  幸子は、目をパチクリさせて、君江を眺めていた。それから、手にしたタバコを見ると、灰《はい》皿《ざら》へ押し潰《つぶ》した。 「——あの人と、あの女の子、どこへ行ったのかしら?」 「さあ、お嬢様は気まぐれな方ですから」 「面白い人ねえ、あなたも、あの女の子も」 「私は平凡な手伝いの女です。——お嬢様はとてもしっかりしていらして、時にはしっかりし過ぎていて困るくらいですけど、根は甘えっ子で寂《さび》しがり屋です。特に——旦那様が新しい奥様を迎《むか》えて渡《と》米《べい》なさっているものですから」 「そう。へえ、結構見かけによらないのね」 「お嬢様はお嬢様なりに、苦労なさっておいでです。そういう年齢でもありますし」 「年齢かあ。——彼女、いくつ?」 「二《は》十《た》歳《ち》におなりです」 「二十歳! 私にもそんな頃《ころ》があったのね」 「私にもございました」  と、君江が言った。 「そりゃそうね。でもあなたって、何だか生れたときからそんな風だったんじゃないのかって気がするわ」  と言って幸子は笑った。  ポロン、ポロンとチャイムが鳴った。 「あ、魚屋さんだわ。失礼します」  君江はキッチンを抜《ぬ》けて、裏の通用口へと向った。 「どうも毎度——」  と、なじみの魚屋である。 「どうもご苦労様」 「ねえ、ちょっと様子がおかしいですよ」  と魚屋が言った。 「様子が?」 「表の門の前に、変なやくざみたいのが、五、六人集まってます。外へ出ない方がいいですよ」  君江は肯いて、 「ありがとう。じゃ、これ——この間の分と一緒にしておいてね」 「はい、毎度あり!」  魚屋が帰って行くと、君江は、サンダルをつっかけて、外へ出た。裏口の戸を固く閉めておき、キッチンから居間へと戻《もど》って行った。 「——何か手伝いましょうかあ」  と、幸子が言った。 「こちらへ」 「え?」 「早く!」  幸子は、戸《と》惑《まど》い顔で君江について行った。キッチンへ来ると、君江は、カーペットの端《はし》をめくって、床《ゆか》板《いた》を出した。四角く切り取った蓋《ふた》がある。  それを開けると、中はかなり広い貯蔵庫である。 「ここに隠れていて下さい。人一人なら充《じゆう》分《ぶん》入れます」 「どうしたの?」 「ともかく早く!」  わけが分らない様子で、幸子は、貯蔵庫の中へと降りた。小さな踏み段が四、五段あって、降りると、天井に頭をぶつけそうだ。 「じっとしていて下さい。何があっても」  と、君江は声をかけ、蓋を閉めた。  君江が居間へと戻ったとき、表で、ドシンという凄い音がした。君江は、紅茶のカップと灰皿を手にすると、急いで台所に行き、くずかごの中へ放り込んで上から丸めた新聞紙をつめ込んだ。  玄《げん》関《かん》のドアが破られる音がした。  君江は居間へ駆け戻った。男たちがドカドカと居間へ入って来た。 「何ですか、あなた方は!」  と、君江の鋭《するど》い声が飛んで、男たちがギクリと足を止める。 「俺が話す」  と前へ出たのは、岡野である。「時間がないから、手短に訊くぜ。幸子はどこにいる?」 「いきなり何のお話ですか?」  君江は昂《こう》然《ぜん》と訊き返した。 「いいか、もう分ってるんだ。昨日《 き の う》の引《ひつ》越《こ》しトラックに便乗して、ここで降りたってことはな。あの辻山って生意気なくたばり損ないと、その元の女房。その二人をおとなしく渡せば何もしねえ」  岡野は一気に言った。 「何もしないとおっしゃいましたが、あなた方は門を壊して、玄関の扉《とびら》も壊して入って来られましたね。それに土足のままで上っています。それで充分でしょう」 「急ぐんでね。逃げる余《よ》裕《ゆう》を与《あた》えたくない」 「よろしいですか、門や玄関が破られると、警備会社につながっていて、すぐに一一〇番が行きます。とっくにこっちへパトカーが向っていますよ」  一《いつ》瞬《しゆん》、男たちがざわついた。 「——はったりだ!」  と、一人が言った。 「いや、本当かもしれねえ」  と、岡野が言った。「それなら、余計に時間がない。——おい、痛い目にあわせたくないが、早く言わないとけがをするぜ」 「お引取り下さい」  と、君江は顔色一つ変えずに言った。  岡野はナイフを取り出すと、銀色の刃を、君江の喉《のど》に突《つ》きつけた。 「一生しゃべれないようにしてやろうか?」 「もうこれまでに充分しゃべりましたから、お望みならどうぞ」  と君江は言った。 「——兄貴!」  と一人が言った。「サイレンだ!」  岡野は君江を、燃えるような目でにらんだ……。 「——何を怒ってるんだ?」  と、昼のラーメンを食べながら、辻山は訊いた。 「怒ってないわよ!」  直美が、そっぽを向いたまま言った。 「やっぱり、こんなもんじゃ口に合わないかい?」 「とってもおいしい!」  直美はやけ気味に汁《しる》をガブ飲みした。フーッと息をついて、 「これからどうするの?」  と訊く。 「どうしたもんかなあ。死んだ矢代の方から当ってみようかと思ってるんだが」 「地《じ》獄《ごく》まで会いに行くの?」 「違うよ。ともかく、やり方は分らないが、矢代は殺されたわけだ。そして殺したのが幸子でないとすると、他に犯人がいる」 「そりゃそうね」 「つまり、それだけ矢代を恨《うら》んでた奴がいるってことだろう。だから、矢代の周辺を探ってみたいんだ。警察も幸子がやったと思ってるから、その辺は調べてないだろう」 「あなたにしてはいい案ね」  と直美は言った。 「——ともかく一度会社へ顔を出してみるよ。何度かけても電話に出ないってのはおかしい」 「この近く?」 「車なら五分だ。表で待っててくれればいいよ」 「分ったわ。それじゃ、出かけましょうか」  直美は立ち上った。  タクシーを拾って、探偵社の前で一《いつ》旦《たん》停ると、辻山は一人で降りてビルの中へ入って行った。  二階へと階段を上って、事務所のドアを——。 「あれ、誰かガラスを割りやがったな」  と呟きながら、破片を踏まないように気を付けて、ドアを開ける。 「おい坂下君——」  言ったきり、辻山の口はポカンと開きっ放しになった。  ——タクシーに残った直美は、まだいささかむくれ顔である。  それは当然だろう。女性の方から、思い切ってあんなことを言ったのに、相手はスヤスヤ眠っていたのだ。  あれこそ侮《ぶ》辱《じよく》である! 「——早く戻って来ないかな」  と直美は呟いた。  いっそ、このままどこかへ行っちゃってもいいんだけど……。まあ、まだ面白くなりそうだし、今やめるのは、ちょっと惜《お》しい気がする。  これは遊びじゃない。——分ってるんだが、つい、何でも楽しんでしまうのが、直美の世代だ。また、そういうことにかけては、大いに才能がある。  直美は大きく一つ深呼吸して、 「私もちょっと外へ出るわ」  と運転手に言った。  タクシーを出て、オンボロのビルを見上げ、おかしくなった。まるで辻山とそっくりに見えたからだ。  ふとわきを見ると、道路の向い側に、黒い車が停っていて、中から誰かがこっちを見ているように、直美は思った。気のせいかな。  そして——ハッとした。  相手の連中は、もちろん辻山の勤め先を知っているはずだ! アパートでも見張っていたのだから、ここが見張られていても当り前である。  早く出て来ないと——と思ったとたん、ビルから辻山が飛び出して来た。 「おい! 逃げるんだ! タクシーに乗れ! 早く!」  直美はタクシーへ飛び込んだ。続いて辻山が頭から突っ込んで来た。 「早く出せ! 早く!」  と怒鳴ると、タクシーは走り出した。  直美は、ビルから、椅子の足らしいものを振りかざした男が、形相ももの凄く飛び出して来るのを見て目を見張った。 「待て! 殺してやる!」  と、その男はタクシーを追いかけて来たが、幸い、タクシーの方が早かった(当然のことである)。 「あれ、何なの?」  と、直美は訊いた。 「社長だ」 「社長さん?」 「ああ。——もういいよ。どうせ僕はクビだ!」  と、辻山は言った。  直美は後ろを振り向いて、 「ついて来るわ」  と言った。 「まさか!」 「あの車よ。見張ってたの。きっとあなたを待ってたのよ」 「そうか、畜《ちく》生《しよう》! 考えるんだった」 「そういうところが本の中の探偵と違うところね」 「呑《のん》気《き》なことを言って……。何とか逃げなきゃ」 「赤信号よ」 「おい、停らずに行ってくれ!」  と、辻山は言ったが、タクシーは停止した。 「冗談じゃないよ。捕《つか》まるのはこっちなんだからね」  と運転手が言った。  振り向くと黒い車が近付いて来る。 「降りるぞ!」  と辻山は言った。 「はい、お金——」  直美は千円札を渡して、自分の方のドアを開けた。 「走れ!」  と辻山が怒鳴った。  キーッとブレーキがきしんで、黒い車から二人の男が飛び出して来た。 「どうするの!」  と直美は怒鳴った。 「ともかく走れ!」  二人は歩道へ上ると、人の間を駆け抜けた。男たちはしつこく追って来る。 「——ねえ! 見て!」  と直美が言った。 「何だ!」 「あの階段よ!」  と指さしたのは、高台の住宅地へと、急斜面に貼《は》りつくように、長く長く続く階段だった。 「あれを上りましょう!」 「あれを?」 「頑張りなさいよ!」 「——よし、もう一度、競争だ!」  直美は、こんな場合ながら、つい笑い出していた。二人は、階段を駆け上った。  最初の踊《おど》り場、二つ目の踊り場までは大したことはなかった。三つ目あたりから、胸が苦しくなる。四つ目、めっきりペースは落ちた。 「半分よ! あと半分!」 「まだ半分か! 畜生!」  足が、一段ごとに重くなる。加速度をつけて重くなって来るので、その内、足が階段のコンクリートに食い込むんじゃないかという気がして来たくらいだった。  もう声をかけ合う余裕などない。ただ聞こえるのは、自分の喘《あえ》ぐ声と、今にも爆《ばく》発《はつ》しそうな、心臓の鼓《こ》動《どう》。汗が顔から流れる。足を上げたつもりが上らずに、つっかかって、転びそうになる。  直美はヒヤリとした。ここを転落したら、命がない!  もう一息!——でも、何て長いんだろう。こんなはずないのに。もうとっくに着いてるはずなのに。  もうだめだ! もうここまで——。  直美は、上に着いていた。  一瞬、目を疑った。だが、もうそこには階段はなかった。口の中が乾《かわ》いて、どっと体中から汗が吹き出して来る。 「——着いた!」  辻山が上って来て、よろけると、膝《ひざ》を着いた。 「しっかり……して! 追って来るかも……」  直美は、階段の下の方を覗いて見た。「あれ……あそこに……」  直美はそう言って笑い出した。——辻山もよろけながら立ち上り、一緒に下を覗き込んだ。  追って来た二人は、階段の半分ほどの所で、へばって座り込んでしまっていた。到底、追って来られる状態ではない。  二人は顔を見合わせ、もう一度笑った。 「ホテルづいてるわね、今日は」  と、直美は言った。 「一時間でいいと言ったら、フロントの奴、妙な顔してたよ」  二人は、さっきのホテルよりぐっと簡素な町中のホテルに入った。直美が、汗びっしょりなので、シャワーを浴びたいと言い出したのだ。 「ベッドと椅子と——お風呂。必要最低限ってとこね」 「まあ、味気ないけど、その代り安いからね」  辻山は、一息ついて、胸に手を当てた。「まだドキドキしてるよ」 「回復力の差に年齢が出るわね」  と、直美は笑った。 「言ったな!」 「さ、出ててちょうだい。女性がシャワーを浴びますからね」 「分ったよ。じゃ、終ったら声をかけてくれ。ドアの前に立ってるから」 「了解」  と直美は肯いた。  辻山は、ドアを開けて出て行った。直美は歩いて行って、ロックのボタンを押そうとした。ここは自動ロックではないのである。  手をのばして——直美は押すのをやめた。  ベッドのそばで服を脱ぎ、裸《はだか》になると、浴室へ入った。中も狭《せま》い。  浴槽も、至って小さなものだった。しかし、ともかく今は、お湯が出て、石ケンがあれば差し当りは充分である。  シャワーをひねってみる、水が出て来て、あわてて手を引っ込めた。——しばらく待つと、やっとお湯になったが、今度は滅《めつ》法《ぽう》熱い。調節に散々苦労した。  ちょっと〈熱〉の方へ回すと、猛《もう》烈《れつ》に熱くなり、〈冷〉の方へやると水になる。大分古くなっているせいだろう。  何とか適温にして、体に浴びる。石ケンを思い切りこすりつけて、泡《あわ》だらけにしておいて、一気にお湯で流す。この気持が、何とも言えない。  シャワーを止めて、浴槽を出ると、バスタオルを取った。——浴室の中は、凄い湯気で、何だか濃《のう》霧《む》か吹雪《 ふ ぶ き》の中にでも迷い込んだようだ。 「換気が悪いのね」  と直美は呟いた。  天井を見ると、小さな、換《かん》気《き》孔《こう》らしきものはあるが、金《かな》網《あみ》が、ホコリで詰《つ》まっていて、湯気が一向に出て行かないのだ。これでは、用をなしていない。  浴室を出てホッと息をついた。バスタオルで体を拭《ぬぐ》う。  廊《ろう》下《か》に出た辻山の方は、ドアにもたれて、腕《うで》組《ぐ》みをしていた。直美ではないが、運動は応《こた》える。後の回復が遅いのである。 「やれやれ……」  大《おお》欠伸《あ く び》をして、目をつぶった。  立ったまま眠る——という芸当はできないが、つい、うつらうつらしていた。  女の悲鳴らしいものが聞こえて、辻山はハッと顔を上げた。——どこだ? まさか、この中で……。 「おい、大丈夫か!」  と、辻山はノブを握《にぎ》って——開くとは思わなかったのである。  ドアがいきなり中へ開いて、辻山は前のめりに部屋へ飛び込んだ。 「何するのよ!」  まだ裸のままだった直美が、バスタオルであわてて胸を隠した。「出てって!」 「い、いや——その——」  辻山はどぎまぎしながら、「叫び声を上げなかった? そんな気がして——」 「上げないわよ! 早く行って!」 「分った! ごめんよ」  辻山は廊下へ出てドアを後ろ手に閉めると、「——また心臓に悪いよ」  と呟いた。  女の声がした。悲鳴なんかではない。男と派手に愛し合っているのだ。隣のドアだった。 「紛《まぎ》らわしい、畜生!」  と、辻山は言った。  辻山の眼に、一瞬、直美の裸体が映った。カメラだって、千分の一秒の像を、印画紙に焼きつける。辻山の記憶に、何分の一秒かの、若々しい裸《ら》像《ぞう》が鮮《あざ》やかに焼きついていた。  直美は服を着ながら、何だか妙《みよう》な気持だった。——そっと呼び入れて、抱《だ》かれてみたいという気もしたが、何だか、押《おさ》えがきかなくなって、そのまま突っ走りそうで、怖かった。  辻山が、でなく、自分が、である。  ま、いいや。こんな所じゃいやだしね。  服を着終えて、バスタオルで髪を拭ってから、ドアの方へ歩いて行き、 「お待ち遠さま」  とドアを開けた。  ドアにもたれかかっていた辻山が、部屋の中へ転がり込んで来た。 「——矢代を恨んでそうな人間なんて、知ってるの?」  ホテルを出て歩きながら、直美は言った。 「よくは知らないけど——」  と、辻山は、まだ濡《ぬ》れている髪をせっせとハンカチで拭いながら、「母親が生きてるはずなんだ」 「母親? だって、幸子さんが今は母親なわけでしょ?」 「しかし、矢代の母親は、国崎の正式な妻じゃなかったんだ。高峰さんが教えてくれたんだがね」 「それで養子に出したりしたのね」 「母親の方は、適当に国崎から小遣いをもらって暮らしてるらしい。いい身分だ」 「で、どこにいるの?」 「マンションだとさ。この近くのはずだ」 「手が回ってないでしょうね」 「まさか! 僕らがそんな所へ行くなんて、考えちゃいないさ」  ——あんまり辻山の勘《かん》も当てにならない、と直美は思ったが、まあそれでも今回は、かなり信《しん》頼《らい》性がある、と思った。  マンションは、目を見張るほど大きくて、要するに中級マンションだった。——何百戸入っているだろうか。 「女の名は……ええと」  辻山は手帳を開けて、「前《まえ》田《だ》三《み》千《ち》代《よ》だ」 「前田、前田、と……。こう沢《たく》山《さん》あっちゃ捜すのが大変ね。——あ、これかな?」  と、直美が、名《な》札《ふだ》の列を捜して言った。 「他にないか? ——よし、これらしい」 「十二階よ。十二階の十五号室」 「よし、行こう」  エレベーターで十二階へ上って、長い廊下をずっと歩いて、やっと目指す部屋へ辿《たど》り着く。〈前田〉とだけ表札があった。  チャイムを鳴らすと、 「——何よ、セールスならお断り」  と、女の突っけんどんな声がした。 「セールスじゃありません。ちょっと息《むす》子《こ》さんのことで話があって——」 「息子?」  と、向うが訊き返して来た。 「ええ。矢代和也さんのことです」  しばらく間があって、 「——待って」  と声がした。しばらく待っていると、ドアが開いて、革ジャンパーの若い男が出て来た。どう見ても前田三千代ではない。 「じゃ、またね」  と送りに出て来た女は、派手な化《け》粧《しよう》で、あまり、健全な生活を送っているようには見えなかった。 「前田三千代さんですね」 「そうよ。——ま、入んなさい」  と前田三千代は言った。 「へえ、それじゃ、あんたが、国崎の女房の前の亭主?」  三千代は、ソファに座ると、愉《ゆ》快《かい》そうに辻山を見た。「そっちの子は娘なの?」 「違います」  と、直美は言った。 「まあどうでもいいわ。——あの子は殺されたってね。あんたの前の女房がやったっていうから、詫《わ》びに来たの?」 「いや、実は、あれをやった犯人が別にいるんじゃないかと思って、それで調べて回ってるんです」 「へえ。物好きね。じゃ、別れた女房のために?」 「どうでしょう。息子さんのことを恨《うら》んでいた人間というのは、心当りありませんか」  三千代は、昼間から酒を飲んでいた。かなり荒《すさ》んだ生活をしていることは、直美にも分った。  さっきの若い男は、金をやって、相手をさせているのだろう。もちろん、オセロゲームの相手じゃないに違いない。  三千代は声を上げて笑った。ちっともおかしくなさそうな笑いだった。 「そんなこと私が知ってるわけないじゃないの。あの子は生れるとすぐに、国崎に取り上げられて、養子に出されちまったんだからね。そしてこっちは、わずかばかりの小遣いで、おとなしく引っ込んでろってわけよ」 「息子さんに会うことは?」 「あったよ。年に一、二度ね。でも——およそ親子なんてものじゃなかった」  三千代は、急に険しい目つきになった。顔は笑いを浮かべているので、一層凄味のある表情になる。 「誰があの子を恨んでたかって? 教えてあげようか。一人だけは知ってるよ。私さ!」  と、三千代は声を震《ふる》わせた。「あいつは、大きくなるにつれて、私のことなんか無視し始めた。もうここ五、六年、まるで会ってないよ。——それにね、あいつは国崎に、私へお金を送るのをやめろとまで言ったんだよ! 分る? 母親が食べて行くのに必要な金を、送るな、だって! こんな息子がどこにいるのさ? ええ?」  三千代の声はヒステリックになった。 「それはもしかして——」  と、直美は言った。「働いて生活した方が、あなたのためだと息子さんが考えたんじゃないでしょうか」  三千代は、びっくりしたように直美を見て、 「フン。そんな青くさい話は聞きたくもないよ。ともかく、国崎が、まだ私のことを憶えててくれてるからね。その間は大丈夫さ」 「でも、その後は?」 「その後?——そうだね。どうせ、そんなに生きちゃいないから、構やしないよ」  と三千代は言った。 「じゃ、他《ほか》に誰《だれ》か息《むす》子《こ》さんを殺そうというほど憎《にく》んでいた人間の心当りはないんですね」  と辻山が訊《き》く。 「ないね。だって、あの子がどんな奴《やつ》と付き合ってたのか、全然知らないんだから」 「そうですか」  辻山は、息をついて、「どうもお邪《じや》魔《ま》しました」  と立ち上った。 「もう帰るの?」  迷《めい》惑《わく》そうな顔を見せておいて、帰るとなると、引き止めたそうにする。寂《さび》しいんじゃないのか、と直美は思った。 「ま、女の子連れじゃ、ベッドの相手も頼《たの》めないね」  と三千代は言って、玄《げん》関《かん》まで出て来た。 「しかし、少し生活を考えた方がいいですよ」  と、辻山が言った。「体を壊《こわ》してしまいますよ」 「うるさいわね!」  三千代は、カッとなって、「説教くさい男なんて沢《たく》山《さん》だよ! 出てけ!」  ドアが、壊れそうな勢いで閉められた。 「やれやれ、むだ足か」  と、マンションを出て、辻山は言った。 「そうね。でも、哀《あわ》れね、あの女、何となく……」 「うん。——もう夕方だ。一《いつ》旦《たん》、君の家へ戻《もど》ろうか」 「そうね……」 「何を考えてるんだい?」 「ううん、何だかね、気になることがあったの」 「何だい?」 「それがよく分んないの。あれ、と思って……忘れちゃったのよ」  直美はヒョイと肩《かた》をすくめた。「——その内、きっと思い出すわ」  タクシーに乗ると、直美は言った。 「お腹《なか》が空いて来ちゃった! 早く長谷沼さんの料理が食べたい!」  直美は、少女に戻ったように言って笑った。 11  タクシーを降りて、二人は立ちすくんだ。 「——どうしたんだろう」  門が開け放してある。 「おかしいわ。——見て。門も、壊れてるわ。ほら、こんなに傷がついて……」  二人は顔を見合わせた。辻山が唇《くちびる》をかんだ。 「奴《やつ》らが来たんだ!」 「行きましょう!」  直美は玄関へと走った。玄関の扉《とびら》も、開け放ってある。 「——長谷沼さん!」  と、叫《さけ》んで、直美はギョッとした。  目の前に警官が立っていたのだ。 「じゃ、警報装置が?」  と、直美が訊いた。 「そうなんです。駆《か》けつけてみると、誰もいなくて、ただ門と玄関の戸が開け放ってあって」  と、その警官は戸《と》惑《まど》い顔で、「明らかに壊して入った形《けい》跡《せき》はありますが、ともかく誰もいないので、お話も聞けず、仕方なく私一人が残っていたのです」 「どうもお世話をかけました」  と直美は言った。 「見たところ、中は荒らされてはいないようですが——」 「ええ、盗《ぬす》まれたものはないようです」 「ここには、後どなたが?」 「誰もいません」  と直美は言った。  辻山が、ちょっとびっくりした様子で直美を見た。 「でも、さっき何か名を呼びませんでしたか?」 「ええ。でも、あの人は使用人で、今、実家へ戻ってたんです。それをつい忘れてて……」 「そうですか。いや、侵入したものの、パトカーのサイレンを聞いて逃《に》げ出したのかもしれませんね」 「そうだと思いますわ」 「分りました。では、これで失礼します。——もし何か盗まれていた物にでも気付いたら、後で連《れん》絡《らく》して下さい」 「どうもお手数をかけました」  直美は、玄関へ出て、警官を送り出した。  居間へ戻って来た直美へ、 「おい、どうして——」  と、辻山が言いかけた。 「分らないの?」  直美は苛《いら》立《だ》った声で、「二人とも連れて行かれたのよ、きっとそうだわ!」 「二人とも?——しかし、幸子はともかく、長谷沼さんは——」 「何か理由があったのよ。お金目当てとか、それとも——」  と言いかけたとき、電話が鳴った。  直美は駆け寄って、受話器を上げた。 「はい! もしもし」 「やあ、やっと戻ったのか」  と、聞いたことのある男の声がした。「憶《おぼ》えてるかな、辻山のアパートで会った」 「ええ」  岡野という男だ。 「お前らに一《いつ》杯《ぱい》食わされたよ。しかし、今はこっちが強い札《ふだ》を握《にぎ》っている。お前の所の強情な女は預ってるぜ」 「長谷沼さんに何かしてごらんなさい——」  直美は歯ぎしりした。 「待て、大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》。大切な人《ひと》質《じち》だ。手は出さない。その代り、幸子を連れて来い。交換に、あの女は返す」  直美は、そばへ耳を寄せていた辻山と目を見交わした。 「分ったか?」 「ええ——分ったわ。どうすればいいの?」 「すぐに幸子を連れて来られるか?」 「すぐ——には無理よ」 「よし、明日の夕方まで待ってやる。晴《はる》海《み》の埠《ふ》頭《とう》へ連れて来い」 「場所はどこ?」  直美は、岡野の説明をメモした。「——分ったわ。時間は?」 「今、夕方の六時だな。丸二十四時間だけやる。六時だ。——警察なんかに知らせたら、女の命はないぞ」 「分ってるわ。——待って」 「何だ?」 「長谷沼さんの声を聞かせてよ」 「よし、待ってろ」  少し間があって、 「もしもし、お嬢《じよう》様《さま》」  と、いつに変らぬ長谷沼君江の声が聞こえて来ると、直美はホッとすると共に、胸をしめつけられるような気がした。 「長谷沼さん!——大丈夫なの? どこかけがしてない?」 「別に、何ともございませんから、ご心配なく」 「ごめんなさい、私が変なことに手を出したせいで」 「どうぞお気《き》遣《づか》いなく。ちゃんと予定通りご出発なさって下さいませ」 「そんな! いくら私だって——」  向うで、岡野が受話器を取ったらしい。 「分ったかい。明日《 あ し た》の六時だ。いいな」 「ええ、六時ね」  電話が切れた。直美は、ため息をついて受話器を置いた。 「困ったわ。どうしたらいいのかしら」 「すまないな、こんなことになるとは……」 「私のせいよ。——でも、ともかく今は差し当り、長谷沼さんをどうやって助け出すかだわ」 「幸子の奴、どうしたんだろう? 向うの連中に連れて行かれたのでないことは確かだけど……」 「そうね。どこへ行っちゃったのかしら?」 「風《ふう》来《らい》坊《ぼう》だから、気が向くとどこかに——」  と言いかけて、辻山は言葉を切った。 「どうしたの?」  直美は、辻山の視線を追って、居間の、食堂の方へ続くドアへ目を向けた。「——まあ!」  幸子が、何となくうつ向き加減に立っている。辻山が、やっと我に返った。 「幸子! 一体どうしたんだ?」 「うん……。岡野たちが来たのよ」 「そりゃ分ってる。お前、どこにいたんだ?」 「台所。——何か床《ゆか》の下に穴があって、あのおばさんが、そこに入ってろって私を押《お》し込《こ》んだの」 「貯蔵庫だわ」  と、直美が言った。「お米とか何かをしまっておく所よ」  辻山は、幸子の方へ歩いて行った。 「それじゃ……あの人が引張って行かれるってのに、お前じっと隠《かく》れてたのか?」  幸子は、ちょっとすねたように肩をすくめて、 「だって、あのおばさんが、ここに隠れてろって言ったのよ。だから——」  いきなり辻山は平手で幸子の頬《ほお》を打った。直美が驚《おどろ》いて、 「辻山さん!」  と叫んだ。 「どうして出て来なかったんだ! お前の代りに、あの人は奴らに連れて行かれたんだぞ!」 「だってえ……」  と、幸子が頬を押えたまま、ふくれっ面で、辻山をにらんでいる。 「いいのよ、辻山さん」  と直美が間に入って、「長谷沼さんってああいう人なんだから」 「そうはいかないよ。こいつのために、長谷沼さんにもしものことがあったら……」 「大丈夫。あの人のことだもの。きっと何とか切り抜《ぬ》けるわ」  とは言ったものの、直美自身、君江のことが気になって仕方ない。  君江とて家事のベテランではあるが、スーパーマンではないのだ。実際、こうなってみると、直美は、自分がいかに君江を頼《たよ》りにしているかを痛感させられるのだった。 「ともかく明日までに何とかしなきゃならないのよ」  と、直美は言って、ソファに座り込んだ。「——何かいい方法はないかしら?」 「参ったな」  と、辻山は頭をかかえる。  幸子は、突っ立って、二人《 ふ た り》を交《こう》互《ご》に眺《なが》めていたが、やがて、おずおずと言った。 「ねえ……お腹空《す》いちゃった、私」  辻山が立ち上って、 「何だと……こんなときに……」  とカッカして、またひっぱたきかねない勢い。  幸子はあわててコーナーテーブルの方へ走って行くと、灰《はい》皿《ざら》をつかんで身構えた。 「待ちなさいよ」  と、直美は言った。「幸子さんの言う通りだわ。私もお腹空いた」 「おい、君——」 「私たちが、長谷沼さんのことを心配して、お腹空かしてると知ったら、きっと彼《かの》女《じよ》に叱《しか》られるわ。どこかへ食べに行きましょう」  直美はそう言って微《ほほ》笑《え》んだ。 「——面《おも》白《しろ》いお店ねえ」  幸子は、キョロキョロと中を見回した。  ともかく、どこに国崎たちの目が光っているかもしれないので、あまり目立つ所へは出かけられない。それで、直美が以前よく父と二人で行った店を選んだ。 「お久しぶりでございますね、新井様」  この店の女主人が、挨《あい》拶《さつ》に出て来る。  変った店で、ともかく表に看板も何も出ていない。見たところ、まるで普《ふ》通《つう》の家なのである。  中は全部個室になっていて、落ち着いた気分になれるので、直美はここが好きだった。 「——ともかく食事をしましょうよ」  と、直美は、苦虫をかみつぶしたような顔の辻山のグラスにワインを注《つ》ぎながら言った。 「しかし……」 「お腹空かして、落ち込んでいたって、いい考えが浮かぶとは限らないわ」 「賛成」  幸子は自分でグラスにワインをなみなみと注ぐと、さっさと手に持って、「あのおばさんの無事を祈《いの》って、乾《かん》杯《ぱい》!」  ——ぐっと一気にあけてしまった。  辻山も苦笑しながら、グラスを手に取った。ここまで図々しくやられると怒《おこ》るに怒れないのである。 「鹿《しか》の肉がやわらかくておいしいわ」  と、直美は言った。 「馬と一《いつ》緒《しよ》に食べりゃ、あなたにピッタリ」  と、幸子が辻山を見ながら言った。 「何だと!」 「ともかくメニューを見て!」  直美があわてて言った。 「どうせ何が何だか分らないんだから、いいわ、任せるわ」 「じゃ、あなたは?」 「僕《ぼく》も任せるよ。とても食べる気分じゃないけど……」  と辻山はメニューを閉じた。  ——が、いざ食事となると、辻山はアッという間に皿を空にして行った。やはり、食べ出してみると、空腹が痛感されたのである。 「——道はいくつかあると思うの」  と、デザートになったとき、直美が言った。 「まず警察へ知らせることだな」  と、辻山が言った。「高峰さんが何とかうまくやってくれるかもしれない」 「それは私がいやなの」  と直美は言った。「ともかく、長谷沼さんの身の安全が第一よ」 「そうよ、警察なんて、人質殺されたって、『遺《い》憾《かん》である』の一言で済ましちゃうんだから」 「お前は黙《だま》ってろ」  と、辻山は言った。「しかし、他に方法があるかい」 「考えたんだけど……一つは、矢代を殺した犯人を見付けることね。別に犯人がいると分れば、黙って長谷沼さんを帰してよこすと思うの」 「うん……。しかし、見付かるあてはないぞ」 「そうなのよ。もう一つは——」 「私、分ってるわ」  と、幸子が言った。 「お前が?」 「そう。私を突《つ》き出しゃいいんでしょ? そうすりゃ問題ない。あなただってそう思ってるくせに」 「俺《おれ》がいつそんなことを——」 「顔見りゃ分るわよ」 「それはだめよ。すぐに殺されちゃうわ。それに、殺人となれば、あっちだって目《もく》撃《げき》者《しや》を残しておくわけにはいかないから、長谷沼さんも無事に帰れないかもしれない」 「じゃ、私、行かなくていいの?」  と、幸子が身を乗り出す。 「嬉《うれ》しそうな顔をするな。現金な奴だ」 「私が考えたのはね」  と、直美は言った。「お金で解決できないかってことなの」 「金で? しかし向うは身《みの》代《しろ》金《きん》を要求して来てるわけじゃないぞ」 「ええ、分ってるわ。でも、たとえば、幸子さんが逃げ出してしまって、どこにもいない、見付からなかったということにするの」 「なるほど」 「だから、お金を払《はら》うから、長谷沼さんを返してくれと言うのよ。向うだって、何か見返りがなければ、このまま長谷沼さんを殺してしまうかもしれないわ」 「そうか……」  辻山は肯《うなず》いた。「確かに、それは一つの考えだけど……。しかし、容易じゃないよ、そう納得させるのは」 「分ってるわ。それに、根本的には問題は解決しないんだしね」 「いや、それはもういい。幸子のことは、幸子と僕だけの問題だ。ともかく長谷沼さんを無事に取り戻すこと。その後は、もう君たちは一切関知しないでいてくれ。二度とこんな目に遭わせるわけにはいかない」 「へえ。じゃ、私の面《めん》倒《どう》、みてくれるの?」  と幸子が言った。 「それは後で決める。放っぽり出すかもしれないぞ」 「ああ、そうですか」  幸子はツンとして、そっぽを向いてしまった。  ドアが開いて、コーヒーが運ばれて来た。 「騒《さわ》がしくて申し訳ありません」  と、ウエイトレスが言った。  そう言えば、どこかでにぎやかな笑い声がしている。 「お隣の部屋なの?」  と直美が訊いた。 「いいえ、ずっと奥の方なんですの、でも、エアコンのパイプが通ってますでしょう。それを伝わって聞こえて来るんです」 「エアコンの……」 「一本のパイプがずっと通ってるんだな」  と、辻山が言った。  コーヒーを注ぎ終えて、 「ご用がございましたら、お呼び下さいませ」  と、ウエイトレスが出て行く。 「——よし、ともかく、うまく行くかどうか分らないが、その線で行ってみようか」  コーヒーをすすりながら、辻山が言った。 「問題は、それで向うが納得するかどうかね」  と、直美は言った。 「説得は僕がやる」 「大丈夫?」 「それぐらいはやらんとね。ともかく責任を感じるよ」 「いつ——連絡を取る?」 「明日の六時まで、ともかく待ってみよう。他に何かいい方法があれば……」 「お金はどうするの?」 「明日、ともかく一旦おろして来るわ。それを持って行ってもらえば……。向うも、現金を見れば、話に乗って来るかもしれないし」 「そうだな。僕の話だけより、その方がいいかもしれない」 「取りあえず、一千万ぐらい用意すればいいでしょう」  直美の言葉に、幸子が目を丸くした。 「一千万!——百万円でいいんじゃない?」 「あんまり持って行くと、向うがふっかけて来るかもしれないよ」 「いいわ、いくら吹っかけられても。お金が取れると思えば、長谷沼さんを殺すのはやめるかもしれない。そんなことでケチりたくないわ」  直美はコーヒーカップを手にして、一気に空にした。「——じゃ、一旦家へ帰って、預金通帳や印《いん》鑑《かん》を持って来ないと」 「一旦帰って、って……。どうするんだい、その後は?」 「あの家へ幸子さんが戻るのは危いわ」  と直美は言った。「また連中が見張ってないとも限らないし」 「それもそうだな」 「どこか都内のホテルにでも泊《とま》った方がいいと思うわ。大きいホテルなら、却《かえ》って目につかないんじゃない」 「よし。君と幸子はホテルへ行け。僕は君の家にいるから」 「でも——」 「大丈夫だよ。それに向うから何か電話があるかもしれない」 「そうね。分ったわ」  と直美は肯いた。 「本当は二人になりたかったんじゃない?」  と、幸子が冷やかすように言った。 「そんなこと言ってる場合か!」 「それに、私たち、さっき一緒にホテルに入ったんですものね」  と、直美が言った。 「おい、でもあれは——」 「あら、そうだったの」  と幸子は肯いて、「あなたも本《ほん》望《もう》でしょ、こんな若い子に惚《ほ》れられて」 「いい加減にしろ!」  と、辻山は幸子をにらみつけた。  タクシーで、直美たちはホテルHへ向った。そこで一旦、直美と幸子が降り、部屋を借りて、直美だけが待たせてあったタクシーへと戻った。 「さあ、行きましょう」  タクシーが、新井邸の方へと走り出すと、辻山が言った。 「——君にとんだ迷惑をかけちまったなあ」 「そんなことないわ。自分で招いたことですもの」 「しかし、本来なら僕が一人《 ひ と り》で解決しなきゃならない問題なのに……」 「あなた、きっと殺されてたわ」 「それだって、君には迷惑をかけずに済んだよ」 「そんなことばっかり言ってるからだめなのよ。後《こう》悔《かい》しても始まらないわ。先のことだけ考えましょう」  どっちが大人《 お と な》だか分らない。 「——幸子は、おとなしく部《へ》屋《や》に入ったかい?」 「エレベーターの所で別れたから、分らないけど、たぶん入ったんじゃない?」 「そうか。全く、あいつも人の迷惑ってことを少し考えれば、そう悪い奴じゃないんだけどな」 「二人部屋を取ろうとしたら、一人がいいと言って、結局シングル二つになったの」 「あいつが? 図々しい奴だな、全く!」 「そんなこといいのよ。ただ——どうしてかな、と思って」 「きっと少しは気まり悪いんじゃないのかな」 「そうね……」  直美はシートに身を任せて、口を閉じた。二人は、その後、黙り込んだままだった……。  直美は、眠《ねむ》れなかった。  眠る気にもなれなかった。ベッドに入ったものの、すぐに、寝《ね》るのは諦《あきら》めた。  カーテンを開け放つと、外の明りが入って来て、室内を照らした。十五階の部屋だったが、地上のネオンや、街灯の明りは、ここまで手を伸《の》ばしている。  夜が長い。——いや、君江にとっては、もっともっと長いだろう。  シャワーでも浴びよう、と思った。中途半《はん》端《ぱ》な眠気が、すっきりと覚めるかもしれない。  カーテンを閉め、バスルームへ入って、服を脱《ぬ》いだ。  シングルなので、バスルームもあまり広くはない。浴《よく》槽《そう》にお湯を入れた。たっぷりと、お湯に浸《つか》ってみたいという気になったのである。  充《じゆう》分《ぶん》に体を浸《ひた》せるほど入ると、湯を止めて、浴槽に身を沈《しず》めた。やはり、シャワーだけよりは、ずっと体が休まるという気がした。 「却《かえ》って眠っちゃうかもね」  と、直美は呟《つぶや》いて笑った。  のんびりと、浴槽の傾斜に身をもたせて、天《てん》井《じよう》を見上げる。——シャワーを使っているわけではないので、カーテンは開け放してあった。  天井に換気用の穴が見える。そうバスルームに湯気がたまらないところを見ると、充分に換気がしてあるのだろう。  もちろん、あの殺人現場の浴室にしても……。  直美は、ふと思った。——あの浴室のドアはガラスだった。湯気で曇《くも》っていたとしても、中の人《ひと》影《かげ》は、ぼんやりと見える。 「想像力を刺《し》激《げき》する」  と、あのマネージャーは言った。  つまり、裸《はだか》であることぐらいは、充分に分るのだろう。  ということは……。犯人は、幸子がぐっすり眠っていることを知っていたのだろうか?  いや、知っていたとしても、殺すときに、矢代が声を上げたり、乱《らん》闘《とう》になったりすることもあるかもしれない。幸子が、ふっと目をさまして浴室を見たとき、そこに服を着た男がいれば、すぐにおかしいと気付くだろう。  犯人も裸だったのかもしれない。  それなら、返り血を浴びても、そしてシャワーの湯を多少かぶったとしても、濡《ぬ》れた服で外を歩く必要はないわけだ。  だが、いくらホテルだからといって、裸で廊《ろう》下《か》を歩くわけにもいくまい。  入口のドアから入れず、中に隠れる場所もなかったとしたら、犯人はそれ以外の場所から、中へ入ったのだとしか思えない。そんな所が、あるだろうか?  換《かん》気《き》孔《こう》。——一本のパイプが全部の部屋を結んでいる。  もし、あのホテルの換気孔が広くて、人が出入りできるほどのものだったとしたら?  犯人がそこから忍《しの》び込んで、シャワーを浴びていた矢代を刺《さ》し殺し、またそこから出て行ったとしたら……。  だが、警察が、そんな痕《こん》跡《せき》を見《み》逃《のが》すだろうか。いや、もともと警察は、幸子以外に犯人がいるなどとは、考えてもいないのだ。換気孔や、空調のパイプなど、調べるはずがない。 「もしかしたら……」  直美は浴槽から飛び出すと、急いでバスタオルを体に巻きつけ、部屋の電話へと駆けつけた。  ダイヤルを回して、しばらく待つと、 「はい、大津です」  と、聞き慣れた声。 「あ、智子?」 「何だ、直美? 昼間はどうも、フフ……」 「ねえ、ちょっと教えてくれる。あのホテルなんだけど、浴室に換気孔があるでしょ」 「え?——ああ、もちろんあるわよ」 「かなり大きい? つまり——人一人通れるくらいに」 「そうねえ。でも金《かな》網《あみ》がはってあるわよ。確かに大きいけどね」 「そう。それ確か?」 「あそこで仰《あお》向《む》けになってること、あるじゃない。そうすると、目に入るからね、よく分るわ」 「そ、そう。ありがと」  直美はどぎまぎして言った。 「ねえ、私もさ、ちょっと退《たい》屈《くつ》してんの。今、一人なのよ。——あのホテルに行ってみない? 実際に調べるのが一番だと思うけど」 「智子と?」 「いいじゃない。最近はレズだってホテル利用してるわよ」  直美は、もはやついて行けなかった。 12  ホテルの前でタクシーを降りると、もう智子は先に来て待っていた。 「やあ!——じゃ行こうか。きっと今夜あたり混んでるわよ」 「できれば、あの隣《となり》の部屋がいいけど」 「いつも私たちの使う部屋ね。訊いて来るから待って」  智子がフロントへ行って、マネージャーと話をしている間、直美は、少し離《はな》れて、入口の辺りに立っていた。 「お小《こ》遣《づか》いは弾《はず》むからさ!」  と女の声がして、直美は振《ふ》り向いた。  新しい客らしい。若い男の腕《うで》をつかんでいるのは、サングラスをかけた女で、声の感じでは、もうかなりの年齢らしいと思えた。 「僕は高くつくよ」  きちっと背広上下に身を固めた、甘ったるい二枚目の男は、たぶんいわゆるジゴロなのだろう。中年女の相手をして金をもらう男だ。  直美は何となくわきへ退いて見ていた。 「いいのよ、ちゃんとお金はあるんだから」  と女はかなり酔《よ》っている口調。 「あの声……」  直美は、ふと眉《まゆ》を寄せた。どこかで聞いたことのある声だ。 「ねえ、部屋あるでしょ!」  と、フロントへ行って、女が大声で言った。 「あれは——」  と、直美は思わず声を上げた。  あれは、前田三千代だ。間《ま》違《ちが》いない!  若い男を連れて、いい気なものだが、それにしても、このホテルで、息子が殺されたのではないか。とてもその神経は、直美には理解できなかった。 「——お待たせ」  と、智子が戻って来た。「うまく、少し前に空いたって。他の部屋がって言ってたけど、直美、あそこがいいんでしょ?」 「そうなの。じゃ、行こうか」  直美は、前田三千代に気付かれないように足を早めてエレベーターに向った。  部屋へ入ると、直美は真《まつ》直《す》ぐに浴室へ入った。天井に、金網を張った換気孔がある。 「かなり大きいわね。人一人充分くぐれそう」 「そうね。でも、一体何を調べてるの?」 「ちょっとね……。何か懐中電灯みたいなもの持って来りゃ良かったな」 「あるわよ」 「え?」 「待って」  智子は、すぐに懐中電灯を手に戻って来た。「——停電や火事に備えて、ベッドのわきについてるの。直美、気が付かなかったの?」 「あんまりホテルに泊らないもんですから」  と直美は言い返した。 「ねえ、あの探《たん》偵《てい》さんとはどうなってんのよ?」 「別に……」  直美は靴《くつ》を脱ぐと、便器の上に上った。ちょうど、換気孔に手が届く。 「だって、何だか怪しいムードだったよ」 「そんなこと言ってらんないのよ、今は。——あ、外れる」  呆《あつ》気《け》ないほど簡単だった。金網を手で押し上げると、いとも簡単に、ガタッと音をたてて外れた。 「何をやらかす気?」 「ここから隣の部屋へ行けるかな、と思ってさ」 「盗《とう》聴《ちよう》? 面白そうね」 「違《ちが》うわよ」  と、直美は苦笑した。  穴のへりに手をかけ、エイッと飛び上ってみる。  暗い、トンネルが、ずっと左右に走っていた。——パイプ、といっても、かなり広い。  ゴーッという音がしていて、風が吹きつけている。  隣の浴室の換気孔は、すぐ目の前だった。——水のパイプなどを共用するため、隣の部屋とは、左右対称の造りになっているのだ。  つまり浴室は壁《かべ》一つで、くっついているのである。直美は、懐中電灯を点《つ》けてみた。  ——手が震《ふる》えた。頬《ほお》に血が上る。  そういつも掃《そう》除《じ》しているわけではないのだろう。埃《ほこり》がつもっている。そして、この換気孔から、隣の、殺人現場の浴室の換気孔の間の埃に、何かが通った跡《あと》があるのだ!  ネズミとか、そんな小さいものではない。明らかに人間が腹《はら》這《ば》いになって、通った跡である。犯人がここから来たのだ! 「分ったわ!」  浴室の中へ飛び降りた直美は、真っ黒になった手を、洗面台で急いで洗った。 「何が分ったの?」  と、智子は、キョトンとしている。 「協力してくれてありがとう! これでやっと希望が見えて来たわ」 「もう帰るの?」 「そうよ。急いで知らせにいかなくちゃならないの」 「ちょっと待ってよ。部屋代、払っちゃったのに」 「私が払ったんじゃないの」 「だけどもったいないよ。——ね、じゃ、ここ、私が使っていい?」 「いいけど……どうするの、一人で?」  と直美が訊くと、智子はニヤリとして、 「これから誰か呼ぶの」  と言った。「一人ぐらい都合つくと思うわ」 「呆《あき》れた」  と、直美も笑って、「好きに使ってちょうだい」 「うん、使わせてもらう。じゃ、もう出発のときまで?」 「たぶんね」 「成《なり》田《た》には行くからね」 「サンキュー。じゃ、ごゆっくり」  部屋を出て、ドアを閉めるとき、もう智子が電話の受話器を上げているのが目に入った。 「まめにやるわね」  と感心した。あれぐらいでなきゃいけないのかしら。  直美はホテルを出ると、辻山へ電話しようかと思ったが、すぐに辻山が駆けつけて来ても、どうせあの部屋は智子が使っているのだ。  それより、会って説明しようと思った。タクシーを拾うべく、通りへと直美は駆け出して行った。  居間のソファで、辻山はウトウトしていた……。  本来なら、一人、その家を守っている立場である。しっかりと目を見開いていなきゃいけないのだが、ともかく夕食をたっぷり取りすぎた。  下って来る瞼《まぶた》と、必死に闘《たたか》ったのだが、上り続ける物価が止められないのと逆に、下がる瞼には勝てなかったのである。  ソファというのも、ちゃんと真直ぐ座っている分にはいいのだが、少し傾《かたむ》いて来ると、止めようがない。グウ、グウ、と短い鼻息を立てながら、少しずつ少しずつ傾きを増していた辻山の体は、ついにドサッと横《よこ》倒《だお》しになった。  すっかりこれで目が覚めて、 「ああ……畜《ちく》生《しよう》!」  と頭を振《ふ》る。「顔でも洗うか」  時計を見ると、午前二時である。  辻山は洗面所へ行って、水で思い切り顔を洗った。——まあこれで、二十分ぐらいはすっきりしているだろう。 「しっかりしろよ」  と、鏡の中の自分へ言葉をかける。「お前がだらしないから、こんなことになったんだぞ!」  分ってる。しかし、どうしろっていうんだ? 今さら、若返ることも、人生をやり直すこともできない。もう後は、疲《つか》れて、落ちぶれて、年《と》齢《し》を取って行くだけなのだ……。  辻山は、投げやりな調子で、ため息をつくと、居間の方へ戻《もど》って行った。  ドアを開けて、戸惑った。明りが消えている。——こんなはずはない。 「誰かいるのか?」  と声をかけた。  冷たいものが、背筋を走った。 「おい、誰か——」 「声が震えてるわよ」  と、ソファのあたりから声がした。 「——幸子!」 「明り、点けないで」 「どうしてだ?」 「どうしても」  辻山は、肩をすくめてソファの方へ見当をつけて歩いて行った。 「いてて!」 「方向音《おん》痴《ち》ね、相変らず」  と、幸子がクスクス笑った。 「どうしてここへ来たんだ? あの子は知ってるのか?」 「知らないわよ。でも、あなたと会うのに、あの子の許可がいるの?」 「そうじゃないが——」 「座ってよ」  手を取られて、やっとソファに辿《たど》り着いた辻山は、暗がりの中にじっと目をこらした。  ——少しずつ、闇《やみ》に目が慣れて、幸子の姿が見えて来ると、辻山はもう一度びっくりした。 「おいお前……」  幸子は、裸だった。白い腕が辻山の首に絡《から》みついて来ると、よける間もなく、幸子の唇が、辻山の唇を襲《おそ》った。普通は逆のはずなのだが。 「おい、やめろ! どういうつもりだ!」  と、辻山はあわてて後ずさりした。 「いけないの?」 「当り前だ! どんな時だか考えろ!」 「こんなときだからこそよ」  と幸子は言った。「だって、あなた、明日、国崎の所へ行くんでしょ?」 「それがどうした」 「生きて帰れないかもしれないわ」 「おい、いやなこと言うなよ」 「だって現実よ。現実を見つめなきゃ」 「お前の口から、そんなセリフを聞くとは思わなかったぞ」  幸子はキッとなって、 「からかわないで! 私、真《しん》剣《けん》よ」 「分ったよ。それがどうだっていうんだ? お前はもう——」 「女《によう》房《ぼう》じゃないのね。分ってるわよ。でも、女房以外の女性と寝ちゃいけないの?」 「そうじゃないが……」 「ねえ。以前は、毎晩のように抱《だ》いてくれたじゃないの」 「そうしなきゃ、お前がうるさかったからだ」 「そうよ。ね、もう一度。——一度だけ抱いてよ」  幸子が、柔らかく、キスして来る。辻山としても、女とはごぶさたである。それに、幸子のキスの仕方、絡めて来る腕の感《かん》触《しよく》がかつての、夫婦だった日々を思い起こさせた。 「なあ、やめといた方がいい」 「どうして?」 「今の俺は——もうだめだよ。お前を満足させられやしない」 「そんなこと心配してるの? 馬《ば》鹿《か》ね!」  幸子は低く笑った。「私は満足よ。あなたが満足してくれればね」  暗がりの中で、幸子は、辻山の服を脱がせて行った。——幸子は不器用だが、こういうことは上《じよう》手《ず》であった。  辻山は、昔とほとんど変らない、しなやかですべすべした幸子の肌に手を触《ふ》れて、もう忘れていると思っていた、熱いものが胸を満たすのを感じた。 「抱いて……」  幸子が囁《ささや》く。辻山は幸子をソファに横たえて、そっと体重をかけて行った……。  直美は、居間の、細く開いたドアの外に、じっと立っていた。  中からは、辻山と幸子の愛し合う声が——専ら幸子の声ばかりだったが——洩《も》れて来る。  行かなきゃ。こんな所にいてはいけないんだ。  そう言い聞かせても、なかなか足は動かなかった。無理に、引きずるようにして、歩き出す。  聞くのが辛《つら》いくせに、離れたくなかった。 「——しっかりしなさいよ!」  玄関を出て、直美は呟いた。  どうしてなのか、涙《なみだ》が出そうになる。悔《くや》し涙?——そんな馬鹿な!  あんな中年男——ただ、いやらしいだけの、どこにでもいる男じゃないの。あんな奴のために、泣くはずがない。  そうだ、こんな大事なときなのに、君江さんが命も危いというのに、あんなことをしてる二人への腹立ちのせいで、こんなに心が動くのだ。  門を出ると、直美は待たせておいたタクシーに乗った。 「誰か一《いつ》緒《しよ》じゃなかったんですか?」  と運転手が訊く。 「いいの。——ホテルHにやって」  タクシーが走り出すと、その震《しん》動《どう》のせいか、たまっていた涙が、一粒《つぶ》、頬をこぼれて行った。直美はそれを拭《ぬぐ》おうとはしなかった。  次の朝、直美は十時まで眠ってしまった。カーテンを開けると、すばらしい天気で、今日がどんな日なのか、忘れたわけではなかったが、直美は心が軽く弾《はず》むのを感じた。 「長谷沼さん。——必ず助けてあげるからね」  と呟く。「さて! やることが沢《たく》山《さん》あるんだわ」  バスルームでシャワーを浴びてから、服を着て、電話をかけようと受話器を取って——ためらった。  あの二人、まだ寝てるかもしれない。 「邪《じや》魔《ま》しちゃ可《か》哀《わい》そうか」  と、受話器を戻す。  もう、ふっ切れて、何でもなかった。——いや、あれでいいのかもしれない、と思った。  直美は、隣の部屋をノックしてみたが、もちろん返事はなく、そのまま下へ降りて行った。一階でコーヒーを飲み、どういう手順で行動しようかと考えた。  警察へ行って、あの換気孔から犯人が侵入したことを説明するのが第一だろう。それがニュースで流れれば、国崎も、犯人が幸子でないと納得する。  しかし——果してそうだろうか? たとえ、納得したとしても、君江を素直に返してよこすかどうか。その点は、直美も不安だった。  ともかく、君江が誘《ゆう》拐《かい》されていることを、警察には言えない。一方で幸子が犯人でないことを説明し、一方で、君江を無事に取り戻すことを考えなくてはならない。  警察へは、辻山に行ってもらおう。その間に、直美は銀行に行って一千万円をおろして来る。  そう決めると、直美はホテルを足早に出て行った。  直美が家へ着いたのは十一時少し過ぎだった。  入って行くと、ワイシャツにズボン姿の辻山が、眠そうな顔で出て来る。 「もう昼よ!」 「ああ……。すまん。つい眠れなくてね」  直美は笑いをかみ殺した。 「ねえ、大発見したのよ!」 「何だい?」 「犯人が換気孔から入ったってこと」  キョトンとしている辻山に、直美は、ホテルでの発見を話してやった。 「——そいつは凄《すご》い!」  辻山も、すっかり目が覚めた様子で、「早速高峰さんを引張って行って、見せてやろう!」 「犯人は隣の部屋にいたのよ。そしてあのパイプの中に身をひそめて、矢代がシャワーを浴び始めると、浴室へ降りて行って……。シャワー浴びてると、少々の音は聞こえないものね。それにカーテンを閉めているし」 「そうか。しかし、誰がやったんだろう?」 「それは警察が調べるわよ。ともかく、幸子さんが犯人でないことさえ分れば、差し当りはいいんでしょ」 「そうだ。しかし、まだ長谷沼さんのことがあるよ」 「そこなのよ。もう捕《つか》まえておいても意味ないわけだから、帰してよこすか、それとも、口をふさごうとするか……」 「難しいところだな」  と、辻山は首を振った。「ともかく、国崎はもう年《と》齢《し》だ。体も悪くしてるらしい。——かなりやけになって、何をするか分らないところがあるよ」 「やっぱり身代金は用意するわ。あなた、国崎に交《こう》渉《しよう》してね」 「ああ。任せとけ——と言えりゃいいんだが、自信はないよ」 「それで当り前よ」  と、直美は言った。「幸子さんはどこ?」 「それが、目が覚めてみたら、いないんだ」  と言ってから、「おい、どうして君は——」  と直美を見たが、直美の方は、もっとびっくりした顔で、居間の入口を見ていた。 「ただいま帰りました」  長谷沼君江が頭を下げた。 「幸子が?」  辻山が立ち上った。「幸子が自分から、国崎のところへ?」 「はい。今《け》朝《さ》早く、起こされまして、国崎という人の所へ連れていかれました。奥さんが椅《い》子《す》に座ってタバコをふかしておいででした」  と君江は言った。 「あの——幸子は何か言いましたか?」 「私の顔を見て、『おばさん、おはよう』とおっしゃいました」 「それで国崎は何と?」 「『幸子が自分からやって来たので、約束通りお前は帰す』と。——で、こうして戻って参りました。途中は目《め》隠《かく》しされておりましたので、場所は分りません」 「幸子の奴……」  と、辻山は呟いた。 「ああ、それから……奥様があなた様へ、『よろしく言っといて』とのことでした」  辻山は頭をかかえてソファに座り込んだ。直美は、唇をかみしめた。幸子は、自分から国崎の所へ行くつもりで、昨夜、辻山に抱かれに来たのだ。 「似合わないことしやがって!」  と辻山は頭を振った。 「ともかく、早くしないと」  と、直美は言った。「幸子さんはすぐにも殺されちゃうかもしれないわ!」 「そうだ!」  辻山は、電話へ飛びついた。「国崎に、何とかして思い止《とど》まらせなくちゃ!」 「どこへかけるの?」 「国崎の会社だ!」 「番号知ってるの?」 「——あ、そうか。これは僕の会社だった」  やっと番号を調べてかけてみると、散々待たされはしたが思いがけず、国崎本人が出た。 「やあ、君か。幸子は、自分から帰って来たよ。びっくりした」 「おい、よく聞けよ。犯人は幸子じゃないんだ」  国崎は軽く笑った。 「そんな話をしてもむだだね」 「違う! 出まかせじゃない。いいか、夕方の六時、と昨日《 き の う》言ったろう。それまで待て。必ず本当の犯人を見付けてやる!」  しばらく、間があった。国崎が言った。 「——多少とも手がかりはあるのかね」 「ある。本当だ」  また少し間を置いて、 「よし、分った。では昨日の約束通りの場所、時間ということにしよう。妙《みよう》な小細工をすれば、幸子は殺す」 「分ってる。ともかく、幸子に手を出すな。必ず後《こう》悔《かい》するぞ」  ——辻山は電話を切って、息をついた。 「そんな馬《ば》鹿《か》な!」  と、直美は言った。 「それがその……」  ホテルのマネージャーは、戸惑い顔で、「あのパイプは、月に一度掃《そう》除《じ》することになっていましてね。今日がたまたまその日だったものですから……」  高峰刑事は肩をすくめた。 「君の説明も、確かに可能性としてはあり得るよ。しかし、それだけではね」  諦め切れず、直美は、昨夜の通り、パイプの中へ上ってみた。——きれいに掃除されて跡も残っていない。 「でも——本当に跡が残ってたんですよ!」  と、高峰に食い下ったが、 「しかし、話だけではね」  と、高峰は首を振った。  ホテルを出て、直美と辻山は目の前の喫《きつ》茶《さ》店《てん》に入った。  二人はしばし、コーヒーの冷《さ》めるのも構わず、黙り込んでいた。 「ついてないわ」  と直美はポツリと言った。 「しかし……長谷沼さんが帰って来て、ホッとしたよ」 「でも……幸子さんは……」 「後は僕が何とかするしかない。——君は、明日、アメリカへ発《た》つんだろう」 「そんなこと、どうだっていいわよ!」  と、直美は腹立たしげに言った。 「そうはいかない。君はもともと、この事件には何の関係もないんだ。明日はちゃんと出発してくれ」 「いやよ」 「そんなこと言って——」 「いやよ」 「あいつは運が強い。生きのびるさ」 「ずいぶん無責任なのね。昨日一緒に寝た人に対して」  辻山は目を見開いて、直美を見た。直美は息をつくと、 「——幸子さんは、長谷沼さんのために、進んで命を投げ出しに行ったのよ。それを忘れて、アメリカへ行けって言うの?」 「気持は分るが、君をこれ以上危い目にあわせたくない。君は学生なんだ。いいかい、これは君の世界の出来事じゃないんだ」 「お説教はやめてよ!」  と、直美は怒《ど》鳴《な》って、コーヒーをガブリと飲み、「まずいわよ、このコーヒー!」 「冷めりゃまずいわ」  と、ウエイトレスがブスッとして言った。  直美は、ふと——思い当った。  何か気になっていたのだ。それが……。 「ねえ!」  と、いきなり辻山の腕をつかんだ。 「おい! 落ち着け! 何するんだ!」 「違うのよ! 気になってたことが分ったの! 思い出したのよ!」  と、直美は叫んだ。 13 「まるでギャング映画ね」  と、直美は言った。  六時には少し間があった。海の風が強く吹きつけて来て、直美はちょっと身《み》震《ぶる》いした。 「寒いか?」 「大丈夫」 「——もう、向うへ行ってろよ」  と辻山は言った。 「大丈夫よ。あなた一人じゃ頼《たよ》りなくて」 「言ったな!」  辻山は笑った。  埠頭は、もうほとんど人の姿もない。波の音が、ざわざわと、野《や》次《じ》馬《うま》の囁きのようだ。夕《ゆう》陽《ひ》が、そろそろ落ちかけて、急に暗くなり始めていた。 「口《くち》笛《ぶえ》でも吹いて登場しそうね」  と直美は言った。 「僕はヒーローじゃないからね」 「人間なんて、みんなそうよ」  直美は悟《さと》り切ったようなことを言った。「勇ましいことなんて、仕方なくやるのよ、みんな」 「——車が来た。退がってた方がいい」  大きな、黒塗りの車が一台、近付いて来て、十メートルほど手前で、ピタリと停った。  ドアが開くと、岡野が現れた。そして、国崎が。コートの襟《えり》を寒そうに立てた。 「意外だね。もっと大勢用心棒がついて来ているかと思った」  と辻山は言った。 「お前なんかに、何人もいるか」  と、岡野が笑った。 「幸子は?」 「元気だよ。早くしてくれ、寒くてかなわん」  と、国崎は言った。「息子を殺した犯人というのを連れて来たのかね」  直美が、振り向いて、 「長谷沼さん」  と呼んだ。  君江が、少し離れて停っているトラックの陰《かげ》から出て来た。 「その節は失礼しました」 「やあ、あんたか」  と国崎は、愉《ゆ》快《かい》そうに、「いい度胸だった。感心したよ」  と言って、顔がこわばった。  君江に促《うなが》されて、出て来たのは、前田三千代だった。 「——お前か。こんな所で何をしてるんだ」  と国崎は言った。 「彼女はね」  と、辻山は言った。「矢代が殺されたとき、隣の部屋に男といたんだ」 「何だと?」 「男は、彼女が眠っていると思って、その間に、浴室の換気孔から、空調パイプを通って隣の浴室へ行った。そしてシャワーを浴びていた矢代を殺し、また同じ手順で戻って来たんだ」 「それじゃ——犯人は幸子じゃないというのか?」 「そう言ったろう」  国崎は、三千代の方へ目を向けた。 「三千代。本当か」  三千代は肩をすくめた。 「あのホテルであの子が殺されたなんて、知らなかったのよ」  と、三千代は言った。「後で、殺されたってことは聞いたけど、どこで、いつ殺されたのかなんて、知りゃしなかったもの」 「しかし、そのとき、本当に隣にいたのか」 「そう。聞いてみると確かにそうらしいわ」  三千代は疲れたように息をついて、「だって——あの子はもう私に会おうともしなかったし、送金をやめろってあんたに言ったっていうし……。私、頭に来てたのよ。楽しみは男だけで……」  国崎は眉《まゆ》を寄せた。 「何だと? 送金をやめる? そんなこと、あいつは一度だって言わんぞ」 「だって、確かに——」  と三千代は目を見開いた。 「あなたがそう言ったときに」  と直美は言った。「一体誰がそんなことをあなたに言ったんだろう、と思ったんです。そんなことを耳にできる立場の人間なんて、限られてるでしょう。そしてあなたは、『説教くさい男なんて沢山だ』と怒ったでしょ。それで、思い当ったんです。——そこにいる岡野って人のことをね」  岡野は笑い声を上げた。 「でっち上げるなら、もっと上手にやれよ」  三千代は首を振って、言った。 「私、思い出したのよ。あのとき、あんたといたのは、確かに、あの子の殺された部屋の隣だったわ」 「そして、パイプの中を通った跡が、ちゃんと残っていた」  辻山は言った。「あんたが矢代を殺したんだ」  国崎は、冷ややかな目で岡野を見た。 「どうなんだ。——返事をしろ」  岡野は、ちょっと肩をゆすって笑った。 「まあ、いいでしょう。どうせあんたは先が長くない」 「何だと?」 「あのどうしようもない馬鹿息子を跡《あと》継《つ》ぎにして、あの少し足りない女房をのさばらしとくなんて、我《が》慢《まん》できませんよ。私は、これまで命がけで働いて来た。——当然、私があんたの跡を継ぐべきです」 「貴様……」  国崎は、青ざめた。岡野は落ち着き払っている。 「あんたの息子を殺して、女房に罪を着せる。それで一挙に解決だ、と思ったんだが……。まあいい。ここで死んでも、別に悔《く》いはないでしょう」 「岡野。お前は……」 「海へ一つダイビングしちゃどうです? 心臓が一発でいかれて、楽に死ねますよ。手を貸しましょう」  岡野が前へ出た。  押《お》し殺したような爆《ばく》発《はつ》音《おん》がして、岡野がギョッとしたように足を止めた。  国崎の、コートのポケットから、青い煙がゆっくりと立ち昇《のぼ》っている。岡野の顔が紅潮した。 「——このくたばり損ないめ!」  と叫んで、岡野が、国崎へ襲いかかった。国崎の首へ手が食い込み、二人はもつれ合うように倒れた。  辻山は駆け寄って、岡野を引き離そうとした。 「殺してやる! 殺して……」  岡野の声が、急に絶えた。そして、岡野が、ぐったりとして、地面に這《は》った。  国崎も、苦しげに喘《あえ》いでいた。 「おい! 幸子は!——どこなんだ!」  と、辻山は国崎を揺《ゆ》さぶった。 「あいつは……海に……」  と国崎が途切れ途切れに言った。 「何だと?」 「岡野の奴が……お前の電話の前に……車へ乗せて……海へ……」  国崎は、苦しげに胸を押《おさ》えてうめいた。そして、頭が、ガクッとのけぞった。  辻山は呆《ぼう》然《ぜん》と立ち上ると、海の方へ目を向けた。 「パトカーだわ」  と直美が言った。  サイレンが近づいて来る。辻山は、力なくうなだれた。 「——何にもならなかったよ」 「でも……もしかしたら助かるかも……」  と直美は言いかけて言葉を切った。  パトカーから高峰が降りて、走って来た。 「おい、大丈夫か!」 「刑事さん——」 「現場の浴室の換気孔を調べた。金網の端の部分から、岡野の指《し》紋《もん》が出たんだ。——しかし、遅《おそ》かったようだな」  と、倒れている国崎と岡野を見て言った。 「ええ……」  直美は、とぼとぼと歩いて行く辻山の後ろ姿を、見送っていた。周囲は暗くなり、もう夜の気配だった。 「お嬢様、トランクは一階に降ろしてございますからね」  と、君江は言った。 「ありがとう」  直美は、自分の部屋の椅子に座って、ぼんやりしていた。 「もうおやすみ下さい。明日は少し早く起きられないと」 「分ってるわ。——ね、あの人は?」 「居間で飲んでおいでです」 「まだ?」 「うちのウイスキーを全部空になさるおつもりかもしれません」  直美は、ちょっとためらって、 「ねえ……。どうしても明日発たなきゃだめ?」  と言った。 「予定通りになさった方がいいのです。——あの方のことはお任せ下さい」 「そうね……」 「ちゃんと仕事を見付けて、お家も世話いたします。得意ですから」  君江の言葉に、やっと直美は微《ほほ》笑《え》んだ。 「じゃ、そうするわ。——もう二時か」 「おやすみになった方が」 「ええ、分ったわ」  と、直美は立ち上った。「最後まで心配かけちゃったわね」 「いいえ。お嬢様がいらっしゃらなくなると、きっと退屈します」 「言ってくれるわね!」  と直美は笑った。「——おやすみ」 「おやすみなさいませ」  君江が出て行くと、直美はパジャマに着《き》替《が》えて、ベッドに入った。  暗い天井に、カーテンの造る光と影《かげ》の模様が動いている。  直美は、一時間待ってベッドから出た。そっと階段を降りて行くと、居間から光が洩れているのが見えた。近づいて覗《のぞ》いてみると、床の絨《じゆう》毯《たん》の上に、辻山が大の字になって寝ている。いや、酔《よ》い潰《つぶ》れているのだろう。  直美はそっとドアを開け、中に入った。ドアを閉めると、辻山のそばへ行って、座る。  しばらく、直美は、口を半開きにして、唸《うな》りとも何ともつかぬ声を出している辻山を見下ろしていたが、そっと、身をかがめると、唇を辻山の頬に触《ふ》れた。ひげが、少しざらついた。 「救い難い馬鹿……」  と囁いて、辻山の、ワイシャツのはだけた胸に頭をのせた。「——石頭。中年太り。アル中。ハゲ。健《けん》忘《ぼう》症《しよう》。老眼。神経痛。自律神経失調症……」  ウーン、と辻山が呻《うめ》いた。 「少しは気になった?」  ムニャムニャと呟いて辻山は、またグオーッと音をたて始めた。 「前後不覚でも——大丈夫かな」  と呟くと、直美はヒョイと立ち上った。  ドアの所へ行って明りを消すと、少しドアを開ける。玄関の明りが、洩れて来て、いくらか、居間の中を照らしていた。  直美は、辻山のわきへ来て立つと、しばらく辻山を見下ろしていた。  そして、パジャマを脱いで行った。 14  辻山は、ひどい頭痛で目が覚めた。  いや、目が覚めたら、ひどい頭痛だったのか、どっちとも分らない。 「ああ……畜生!」  起き上って、息をつくと、何と居間の床の上である。そして—— 「おい! 何だこれは!」  辻山は仰《ぎよう》天《てん》した。毛布がかかっているものの、丸《まる》裸《はだか》なのである。あわてて毛布をつかんで握りしめた。 「おはようございます」  という声に振《ふ》り向くと、君江が立っていた。辻山はどぎまぎして、 「ど、どうも……」 「お服をお召《め》し下さい。朝食の仕《し》度《たく》ができております」 「はあ。あの——ちょっとうかがいたいんですが」 「はあ」 「どうして僕はその——こんなことになってるんでしょうか?」 「憶えていらっしゃらないんですか? ゆうべ、お嬢様をお抱きになったのを」  辻山は唖《あ》然《ぜん》とした。 「彼女を……僕が?」 「お嬢様の方から、進んでそうされたのです」  そうか。思い出して来た。白い体を抱いて……。幸子かと思っていた。 「彼女が僕に——」 「はい。あなたへお礼を申し上げておいてくれと」 「今、どこに?」 「成田に向かわれました」  辻山は肯《うなず》いた。そうか。今日、出発するのだったんだ。 「行かれますか? たぶん間に合いませんが」  と、君江は言った。 「車がありますか? それなら——」  辻山は、急いで服を着た。君江は目をそらしていた。 「しかし——」  辻山は、服を着終えて、ふっと手を止めた。「どうしてあなたは怒らないんです? 僕みたいな、こんなくたびれた男が彼女と……」 「お嬢様のことをまず第一に考えておりますので」  と君江は言って、「キーをどうぞ」 「ありがとう!」  と、辻山はそのキーを握りしめたが、急に表情を曇らせて、「いや、これは——だめです。僕は——」  と、そのままソファに座り込んでしまった。君江が言った。 「奥様のことですね」  辻山は肯いた。 「僕は結局、あいつを救えなかった。それを思うと、彼女を追いかけてはいけません」 「そうおっしゃるだろう、とお嬢様が言っておいででした」  辻山は、苦笑した。——俺は単純なのか。仕方ない。こういう人間なのだ。 「このキーはお返しします。彼女も、向うで、もっといい男性に出会うでしょう」 「それでいいの?」  と、ドアの所で声がした。——君江が、 「まあ、幸子さん」  と、珍《めずら》しく、びっくりした声を出した。幸子が腕組みをしながら立っている。 「幸子!」  辻山は呆然としていた。確かに幸子だ。足もある! 「だから言ったでしょ。私は運が強いんだって」  と、幸子は言った。「私を縛《しば》ったのが、若い奴だったの。今の若い子って紐《ひも》の結び方も知らないらしいわね。車ごと海の中へ入る前に、ほどけちゃったのよ。で、後は車の外へ出て、泳いで脱出。私、水泳だけは昔から得意なのよね」  しばし、辻山はポカンとして、幸子を眺《なが》めていた。幸子が言った。 「ほら、急がないと間に合わないわよ。男でしょ!」  辻山はキーを握りしめて、 「——ありがとう!」  と叫ぶなり、居間を飛び出して行った。  それを見送ってから、君江が言った。 「何かお酒でも召し上りますか?」 「お願いするわ。あなたって本当に気がきくのね」  と幸子がソファに座る。 「長くやっているだけでございます」  と、君江は言った。  ホノルル経由、ロサンゼルス行のジャンボ機が、ゆっくりとその巨《きよ》体《たい》を持ち上げた。ぐんぐん上《じよう》昇《しよう》して、やがて雲が眼下に流れて行く。  直美は、窓際の席に座っていた。地上の町が、ずいぶん小さくなった。  直美は、そっと微笑んだ。——朝起きて仰天している辻山の顔を想像したのである。  別に、後悔はしていない。ただ、辻山が、何も憶えていてくれないだろうと思うと、ちょっと寂しかったが、しかし、自分は、総《すべ》てを憶えている。それで充分だわ、と直美は自分に言い聞かせた。  幸子の死に責任を感じている限り、辻山が自分を抱こうとしないことは分っていた。だから、あれで良かったのだ。  もっとも、あの人のことだ、後できっとまた悩《なや》むことだろう。大学生の娘を抱いてしまった責任を感じて。本当に時代遅《おく》れな、責任感の塊《かたまり》なんだから。  よく晴れて、視界はすばらしく良かった。——何だかこの数日の出来事が、全部夢《ゆめ》の中だったような気さえする。  あれは青春の、最後の全力疾《しつ》走《そう》だったのかもしれない。 「お客様にお知らせ申し上げます」  とアナウンスが入った。「本機は都合により、成田空港へ引き返します。お忙《いそが》しいところ——」  何事だろう? 機内がざわついた。  機が、ゆっくり旋《せん》回《かい》を始めている。  理由の説明がないままに、直美の乗ったジャンボ機は、成田空港の、それもいやに端《はし》の方へ停止した。空港のバスが来て、乗客は一《いつ》旦《たん》、ターミナルへ戻るらしかった。  バスの中から、直美は、ぼんやりと、送《そう》迎《げい》の人の列を眺めていた。  あれは——まさか! 直美は目を見張った。  間違いない! 辻山だ!  直美は、目が涙でかすむのを感じて、あわてて、手の甲で拭《ふ》いた。  バスを出ると、空港の職員をつかまえて、 「あの、私、もう乗るのやめます」  と言った。 「え? しかし、すぐ出られると思いますよ」 「いいんです。やめます」 「しかし荷物が——」 「いりません。適当に処分して下さい」  空港の職員は困り切った様子で、頭をかいた……。  ロビーへ駆け出して行くと、辻山が手を振りながらやって来る。直美はその胸へと飛び込んだ。 「——幸子さんが! 生きてたの?」  話を聞いて、直美は歓声を上げた。 「そうなんだ。全く、大した奴だよ」  辻山は、直美の肩を抱いて、歩いていた。「ねえ——君と僕とは、いい取り合せだと思うんだ」 「そうね」 「家《いえ》柄《がら》も財産も」 「本当ね」 「年《と》齢《し》だって、たった二十三しか違わない」 「ちょうどいいわね」 「じゃ、いいのかい?」 「でなかったら、こうして出て来ないわ」  二人は笑った。何だか分らないけど、笑ったのである。すれ違う人が不思議そうに振り向いて行った。 「——でも、ちょうど飛行機が戻って来て、良かった」  ビルを出て、直美が言った。「でも、どうして戻ったのかしら?」 「何でも、あのジャンボに爆《ばく》弾《だん》をしかけたって電話があったんだってさ」 「いやだ!」 「でも、きっといたずらだよ」 「そうね。でも、本当に都合良く——」  と言いかけて、直美はじっと、辻山を見つめ、「あなたがかけたのね!」  と言った。 「僕が? 冗《じよう》談《だん》じゃないよ! こんなに責任感の強い男がそんなことすると思うかい?」  辻山は大げさに顔をしかめて見せた。「——さ、車は駐《ちゆう》車《しや》場《じよう》だ。行こう」 「どこ?」 「ずっと向うさ。場所がなくってね」  と、辻山は顎《あご》でしゃくって見せた。 「歩いて行くには、いい天気ね。——ねえ!」  と直美は目を輝《かがや》かせて、足を止めた。 「何だい?」 「駐車場まで、走らない?」  辻山は笑って、肯いた。 「よし!」 「いい?——それじゃ一、二、三!」  二人は駆け出した。  直美は、弾むような足で、地面を蹴《け》って走った。  どっちが早くても、そんなことはもうどうでもいいのだ。一緒に走っていることの方が大事だった。それがすばらしいことだった。  笑い声を上げて走りながら、直美は何だか、自分が空に向って、駆け上っているような、そんな気がしていた。 探《たん》偵《てい》物《もの》語《がたり》   赤《あか》川《がわ》次《じ》郎《ろう》 ------------------------------------------------------------------------------- 平成14年6月14日 発行 発行者  角川歴彦 発行所  株式会社  角川書店 〒102-8177 東京都千代田区富士見2-13-3 shoseki@kadokawa.co.jp (C) Jiro AKAGAWA 2002 本電子書籍は下記にもとづいて制作しました 角川文庫『探偵物語』昭和59年 8月25日初版発行           平成 9年 6月20日18版発行