TITLE : 忙しい花嫁 本作品の全部または一部を無断で複製、転載、配信、送信したり、 ホームページ上に転載することを禁止します。また、本作品の内容 を無断で改変、改ざん等を行うことも禁止します。 本作品購入時にご承諾いただいた規約により、有償・無償にかかわ らず本作品を第三者に譲渡することはできません。 目 次 プロローグ ちぐはぐな取合せ トラックのご来店 血のついた上衣 幻《まぼろし》の事《じ》故《こ》 ありえない殺人 食《しよく》卓《たく》の対話 頼《たの》もしい味方 我《わ》がドン・ファン ドン・ファンの行方不明 林の中の足音 傾《かたむ》いた針《はり》 すれ違《ちが》い ドイツからの電話 聡子の推《すい》理《り》 記者会見の言葉 消えた淑子 引き上げられた車 検《けん》 討《とう》 逃《に》げた花《はな》嫁《よめ》 掘《ほ》り出された秘《ひ》密《みつ》 すり替《か》えられたもの 裏《うら》切《ぎ》られた女 最後のジャンプ エピローグ プロローグ  「キャッ!」  「どこ見て歩いてんだ、この野《や》郎《ろう》!」  「あ——」  「何だ、塚《つか》川《がわ》君か」  この小さな衝《しよう》突《とつ》事《じ》故《こ》は、まだ夏の息《い》吹《ぶ》きがアスファルトに照り返す九月の十七日、金曜日の午前十一時に起った。  もっとも、当事者は双《そう》方《ほう》とも徒歩であったので、負《ふ》傷《しよう》者《しや》はなく、被《ひ》害《がい》は、参考書、並《なら》びにノートが数《すう》冊《さつ》、落ちて少々汚《よご》れたに止まった。  「悪い悪い」  本来なら、女《じよ》性《せい》——塚川亜《あ》由《ゆ》美《み》の方がぼんやりしながら歩いてたのが悪いのだが、男性と女性がぶつかった場合には、どうしても、男性の方が謝《あやま》ることになる。  特《とく》に有《あり》賀《が》雄《ゆう》一《いち》郎《ろう》は塚川亜由美と同じ大学の同じゼミにいて、しばしば亜由美のノートを写させてもらっているという弱味があるので、急いでノートを拾い上げ、汚れを叩《たた》き落とした。  「ありがとう。——何をそんなに急いでるの?」  と、亜由美は言った。  「別に急いじゃいないよ。君がのんびり歩いてるからさ」  と、有賀雄一郎は笑《わら》って、「ゆうべ飲み明かしたんだろう」  「有賀君じゃあるまいし」  亜由美は言い返して歩き出した。  「——じゃ、どうしてぼんやり歩いてたのさ?」  と歩調を合わせる。  「何だか気になるのよね」  「何が?」  「それが分らないから苛《いら》々《いら》してるわけ」  亜由美は眉《まゆ》を寄《よ》せて、小さく首を振《ふ》った。「何か用事があったような気がするのよね。いくら考えても思い出せないの」  「僕《ぼく》から借りた金を返す期《き》限《げん》だったんじゃないか?」  「けっとばすぞ」  と、亜由美は有賀雄一郎をにらんだ。  塚川亜由美は、私《し》立《りつ》大《だい》の文学部に通う二年生——十九歳《さい》の娘《むすめ》である。スラリと背《せ》が高く、一《いつ》緒《しよ》に歩いている有賀雄一郎とほとんど変らない。  キュッと髪《かみ》を上げてヘアバンドで止めているので、広くて形の良い額《ひたい》がくっきりと光っている。目は——今日のところは少々寝《ね》不《ぶ》足《そく》でトロンとしているが、本来なら笑《わら》うとキラッと輝《かがや》く、活《い》き活きとした瞳《ひとみ》の持主なのである。ちょっと丸《まる》っこい鼻と、いたずらっ子のような真一文字の唇《くちびる》。  これに若《わか》さというニスが塗《ぬ》られてつややかに光っているのだから、魅《み》力《りよく》的《てき》でないはずがない。  「何だったかなあ。——ああ、気分悪い」  と、亜由美はため息をついた。  「大学へ着いたらきっと思い出すよ」  と、有賀雄一郎が慰《なぐさ》めた。  「何だかねえ……今日は大学へ行っちゃいけないような気がするの」  「どうして?」  「それが分りゃ苦労ないのよ」  「レポートやってないとか、テストの準《じゆん》備《び》してないとか……」  「そんなの、さぼったことないわ」  「じゃゼミかクラブか……。あ、クラブっていやあ、田《た》村《むら》さん結《けつ》婚《こん》すんだって?」  「それぐらい知ってるわよ」  「相手の女、知ってるかい? 噂《うわさ》じゃね——」  と、有賀が言いかけて、「どうしたの?」  亜由美がピタリと足を止めて、  「そうだ……いけない!」  と声--+を上げた。「今日、田村さんの結《けつ》婚《こん》式《しき》に招《しよう》待《たい》されてるんだ! 忘《わす》れてた!」  亜由美は、あわてて駅への道を駆《か》け出した。  呆《あき》れたようにそれを見送っていた有賀は愉《ゆ》快《かい》そうに笑《わら》って、  「あれじゃ、当人はまだまだだな」  と呟《つぶや》いた。  亜由美は、すれ違《ちが》う人が驚《おどろ》いて振《ふ》り向くほどの勢いで、走っていた。  多少——と一《いち》応《おう》言っておこう——おっちょこちょいのところが、このヒロインにはあるのである……。 ちぐはぐな取合せ  何だか、まだ息が切れてるみたい。  亜由美は披《ひ》露《ろう》宴《えん》の席についても、しばらくは料理に手がつけられなかった。  洋食のフルコースなので、それまでに出た、オードブルだのスープだのが、目の前に並《なら》べられている。猛《もう》スピードで着《き》替《が》えをして、タクシーを飛ばして来たので、辛《かろ》うじて一時間ほどの遅《おく》れで駆けつけることができた。  それにしても……どうしてこうあわてん坊《ぼう》なのかしら、私は、と亜由美は我《われ》ながら感心している。普《ふ》通《つう》、女の子なら結《けつ》婚《こん》式《しき》に出るというのは大《だい》好《す》きで、何日も前から、あのドレスにしようか、この振《ふり》袖《そで》にしようか、と楽《たの》しく思い悩《なや》むものなのに、こともあろうに当日になってケロリと忘《わす》れてしまうなんて……。  お母さんだって、一言注意してくれりゃいいんだわ、本当に! 亜由美は八つ当りした。  亜由美の母、塚川清《きよ》美《み》は至《いた》って社交的な性《せい》格《かく》で、大体昼間家にいたためしがないのだから、苦《く》情《じよう》を言ったところで仕方ないのだが。  「——どうしたのよ?」  と、隣《となり》の席にいるクラブの三年生、桜《さくら》井《い》みどりに訊《き》かれて、  「ちょっと電車の事《じ》故《こ》で」  と、亜由美は言《い》い訳《わけ》した。  運良く、披《ひ》露《ろう》宴《えん》は新《しん》郎《ろう》新《しん》婦《ぷ》がお色直しで中《ちゆう》座《ざ》しているため、もっぱら食事をしながら雑《ざつ》談《だん》という状《じよう》態《たい》であった。  少し息切れも直って、冷めたスープを飲んでいると、  「ねえ、花《はな》嫁《よめ》さん、見たことある?」  と、桜井みどりが声をかけて来た。  「いいえ。今日が初めて」  「美人よ。ちょっと田村さんにはもったいないくらい」  「まあ、悪いわ」  と、亜由美は笑《わら》った。  「だって本当なんだもの。でも何か——こう、イメージ違《ちが》うのね。田村さんが選ぶのなら、全然別のタイプの人かと思った」  田村久哉は、亜由美の所《しよ》属《ぞく》している〈西洋の中世史研究会〉の先《せん》輩《ぱい》である。  今年、学部を卒業して就《しゆう》職《しよく》したので、三年先輩ということになるが、年《ねん》齢《れい》的には一《いち》浪《ろう》組なので四つ上の二十三歳《さい》である。  部長をやっていて、新入生の面《めん》倒《どう》を良くみてくれるので、女《じよ》性《せい》部員にも人気があった。しかしそれは男性としての田村に人気があったということではない。ずんぐり型の体型、いかにも人《ひと》柄《がら》を表わしている穏《おだ》やかな丸《まる》顔《がお》、極度の近《きん》視《し》で、度の強いメガネをかけている、という外見からは、女《じよ》性《せい》にもてるプレイボーイとは正反対の印象しか与《あた》えられない。  女性にとっては、「絶《ぜつ》対《たい》安《あん》全《ぜん》、人《じん》畜《ちく》無《む》害《がい》」という意味で、何かと頼《たよ》りにされていたのである。亜由美のように、ちょっと男っぽいところのある娘《むすめ》にとっては、魅《み》力《りよく》を感じるところまではいかなくとも、妙《みよう》にキザったらしいプレイボーイタイプの二枚《まい》目《め》よりはよほど付き合いやすかった。  「どこで知り合ったのかしら」  と、亜由美が言うと、桜井みどりは、口《く》惜《や》しそうに、  「それが全然分らないのよねえ」  と首を振《ふ》った。  亜由美は笑《わら》いをかみ殺した。桜井みどりはゴシップにかけては絶対に他人にひけを取らないと自負する情《じよう》報《ほう》通《つう》で、それでいて田村の結《けつ》婚《こん》相《あい》手《て》のことが良く分らないというのは、正に屈《くつ》辱《じよく》以外の何ものでもないのだろう。  「ただ、急に決ったことだけは確《たし》かよ」  と、桜井みどりは言った。「前もって全然噂《うわさ》も聞かなかったんだから」  それは確かだろう。亜由美も招《しよう》待《たい》状《じよう》を見て初めて田村の結婚を知ったのだから。  「何か複《ふく》雑《ざつ》な事《じ》情《じよう》がありそうよ」  というみどりの言葉は、たぶんみどりの希《き》望《ぼう》的《てき》観《かん》測《そく》だろうが。  それに、田村の両親は確か学校の教《きよう》師《し》のはずだ。それにしては豪《ごう》華《か》な——いや、いささか派《は》手《で》に過ぎるような披《ひ》露《ろう》宴《えん》である。  ホテルの広間で、客の数も百人は下るまい。かなりの費用がかかっている。今年就《しゆう》職《しよく》したばかりの田村に、とても負《ふ》担《たん》できるはずはない。——花《はな》嫁《よめ》がよほどの資《し》産《さん》家《か》なのか。 招《しよう》待《たい》状《じよう》では、花《はな》嫁《よめ》の名は増《ます》口《ぐち》淑《よし》子《こ》とあった。もちろん、名前だけでは何一つ分らないけれど。  会場にエレクトーンの響《ひび》きが鳴り渡《わた》って、プロらしい司会者が、新《しん》郎《ろう》新《しん》婦《ぷ》の入場を告げると、照明が暗くなった。広間に並《なら》んだ丸《まる》テーブルの中央に、それぞれ色とりどりの、太いローソクが立てられている。  恒《こう》例《れい》のキャンドルサービスだろう。——スポットライトが入口へ当ると、白ずくめの新郎新婦がその中に浮《う》かび上った。  まだ遠くて、よく分らなかったけれど、白のタキシードの田村なんて、想《そう》像《ぞう》しただけで亜由美は吹《ふ》き出しそうになった。  エレクトーンが少々やかましいほど鳴り渡る中を、一つ、一つ、テーブルを回って、花嫁と花《はな》婿《むこ》が近付いて来る。  遠くからは白に見えた花嫁のドレスは、淡《あわ》いピンクの真《しん》珠《じゆ》色とでもいうのか、見るからに目を奪《うば》う豪《ごう》華《か》さであった。そして、確《たし》かに桜井みどりの言葉は何の誇《こ》張《ちよう》でもないことが、亜由美にも分った。  多少、年《と》齢《し》は行っているのかもしれない。二十四、五かな、という気はした。しかし、正に女《じよ》優《ゆう》にしたくなるような美女である。  いささか表《ひよう》情《じよう》に乏《とぼ》しい、というのか、濃《こ》い化《け》粧《しよう》を割《わ》り引いても、やや冷ややかな印象を与《あた》える。しかし、それは美人の宿命かもしれない。  田村と花《はな》嫁《よめ》——淑子が、亜由美のいるテーブルへ移《うつ》って来る。亜由美が手を叩《たた》いた。スポットライトがまともに当って、亜由美は目を細めた。  田村は、額《ひたい》に玉のような汗《あせ》をかいている。具合でも悪いのかしら、と亜由美は思った。田村が亜由美に気付いて、ホッとしたように、こわばった表《ひよう》情《じよう》が緩《ゆる》んだ。亜由美が微《ほほ》笑《え》み返すと、田村は急に目をそらした。  ローソクに火が点《つ》いて、新《しん》郎《ろう》新《しん》婦《ぷ》が次のテーブルに移《うつ》って行くのを目で追って行くと、花《はな》嫁《よめ》が振《ふ》り向いた。一《いつ》瞬《しゆん》、冷ややかな視《し》線《せん》に亜由美は射《い》すくめられた。  拍《はく》手《しゆ》していた手が止まった。——亜由美は、何か寒《さむ》々《ざむ》とした思いで、冷《さ》めた料理に視線を戻《もど》した。  桜井みどりが、そんなことには一向に気付かない様子で、言った。  「どう? 美人でしょ?」  「そうね」  とだけ、亜由美は言った。  ワイングラスを取り上げて口をつける。いいワインだったが、さっぱりおいしく感じられなかった。  確《たし》かに、みどりの言葉ではないが、田村の結《けつ》婚《こん》相《あい》手《て》としては、イメージの違《ちが》う女《じよ》性《せい》である。もう少し、あたたか味のあるというか、おっとりした女性の方が、田村には似《に》合《あ》っているような気がした。  何を考えてるの、人の結婚相手のことなんか! 亜由美はグラスのワインを一気に喉《のど》へ流し込《こ》んだ。  何か、ちょっとした騒《さわ》ぎが起っているらしかった。ざわついた雰《ふん》囲《い》気《き》に気付いて振《ふ》り向くと、どうやらどこかのテーブルで、ローソクにうまく火が点《つ》かないらしいのである。  「しめってんじゃないの」  と、桜井みどりが愉《ゆ》快《かい》そうに囁《ささや》いた。  亜由美はあまりそういうことを面白がるという趣《しゆ》味《み》はなかった。ホテルの係があわてて代りのローソクを手に駆《か》けつけ、ようやく事《じ》態《たい》はおさまったのだが……。  場内が明るくなって、正面の席に新《しん》郎《ろう》新《しん》婦《ぷ》が落ち着くと、再《ふたた》び披《ひ》露《ろう》宴《えん》はスムーズに進行し始めた。  何しろプロの司会者である。その間も巧《たく》みに、席をもたせて行くが、逆《ぎやく》にそのあまりの巧《こう》妙《みよう》さが、いかにも作り物らしくて、亜由美はすっかりしらけた気分になってしまった。  あんなことなら、ただの友達がやった方が、どんなに下《へ》手《た》でも、まだ心を打つものがあったろう。  歌だの、踊《おど》りだの、詩の朗《ろう》読《どく》だのをいかにもバランス良く並《なら》べた宴《うたげ》は、まるでバラエティーショーのようだ。  亜由美は席を立って、廊《ろう》下《か》へ出た。化《け》粧《しよう》室《しつ》へ行こうとして、ふと足を止めた。  「——分りませんよ、どういうことなんだか!」  「しかし実《じつ》際《さい》にこのローソクが立ててあったんだぞ!」  言い合う声に振《ふ》り向くと、廊下の隅《すみ》で、会場の主《しゆ》任《にん》らしい、黒のタキシードの男が、部下の若《わか》い男とやり合っているのだ。  「これだけ違《ちが》うメーカーだなんて、見ただけじゃ分りませんよ」  白のタキシードの、若い方の男は、自分の責《せき》任《にん》と言われて心外な様子だった。  「しかし、どこで紛《まぎ》れ込《こ》んだんだ? 見ろ、中の芯《しん》がボロボロに切れてる。これじゃ、まともに火が点《つ》くはずがない」  「ちゃんとケースから一本ずつ出して、立てて行ったんですから。最初からケースに紛れ込んでたとしか思えません」  「まずいぞ、全く。——よりによって、あのテーブルは、新《しん》婦《ぷ》側《がわ》の親族の席だ。いやな目でにらんでたぞ」  「こっちのせいじゃないですよ」  「怒《おこ》られるのは俺《おれ》だ。——ま、いい。ともかく業者によく言っとけ。二度とこんなことのないように、ってな」  「はい」  若い方の男は、不服そうな様子で、渋《しぶ》々《しぶ》肯《うなず》いた。  火の点《つ》かないローソク。——他のメーカーの粗《そ》悪《あく》品《ひん》が、どうして新品のケースの中へ紛れ込んでいたのだろう。化粧室へと歩きながら、亜由美は何だか悪いことが起りそうな気がした。  ——席に戻《もど》ってみると、食事はデザートに入っていた。友人代表の何人かが、スピーチの最中だった。  もちろん、亜由美は何も頼《たの》まれていないから気《き》楽《らく》なものである。  「——何だか変よ」  と、桜井みどりがそっと囁《ささや》く。  「え? 何が?」  「友人代表って、新《しん》婦《ぷ》側《がわ》ばかりなの。田村さんの方は、誰《だれ》も立たないの。こんなことってある?」  なるほど、それは妙《みよう》である。今、立って、何だか歯の浮《う》くようなお世辞を並《なら》べているのは、新婦のピアノの教《きよう》師《し》だという中年の派《は》手《で》な感じの女《じよ》性《せい》だった。  亜由美がデザートのシャーベットを食べていると、ウエイターの一人が、傍《そば》へやって来て、  「これを」  と、折りたたんだ紙を差し出した。  開いてみると、走り書きで、  〈塚川君。突《とつ》然《ぜん》で悪いけど、一言スピーチを頼《たの》む。僕《ぼく》にとって、信《しん》頼《らい》できる友人といえば、君だけしかいないんだ。どうかよろしく頼む。田村〉  とある。亜由美は戸《と》惑《まど》った。  いや——急にスピーチを頼まれるのも困《こま》るが、それだけではない。たかがスピーチを頼むにしても、〈信頼できる友人〉が〈君だけしかいない〉という言い方は、いささかオーバーに思えた。  冗《じよう》談《だん》半《はん》分《ぶん》でそう言っているのならともかくも、田村は、そういう冗談を言うタイプではないのだ。——何となく、亜由美は落ち着かない気分で、そのメモ用紙を、捨《す》てる気にもなれず、ハンドバッグの中へ、しまい込んだ。  とたんに、  「塚川亜由美さんに、一言、お祝《いわ》いの言葉をいただきたいと存《ぞん》じます」  という司会者の声が耳へ飛び込《こ》んで来て、気が付くと、マイクを握《にぎ》らされて突《つ》っ立っていた。拍《はく》手《しゆ》が静まる。何か言わなくちゃならないのだ。——亜由美はゴクリと唾《つば》を飲み込《こ》んだ……。  ああ、疲《つか》れた。  ホテルのロビーへ降《お》りて来ると、亜由美はぐったりとソファにへたり込んだ。  きらびやかにシャンデリアの下がった、広いロビーの空間には、人々の話し声のざわめきが反《はん》響《きよう》し合い、混《ま》じり合って、絶《た》え間ない海鳴りのように揺《ゆ》れている。  他にも式があったとみえて、盛《せい》装《そう》したグループがそこここに見える。  亜由美は、重たい引出物の包みを下へ置いて、やれやれ、とため息をついた。妙《みよう》な疲《つか》れ方である。  亜由美とて、結《けつ》婚《こん》式《しき》に出て、ウエディングドレスを見たり、同席した女《じよ》性《せい》たちの衣《い》裳《しよう》に目をこらすことも嫌《きら》いではない。だから、普《ふ》通《つう》の披《ひ》露《ろう》宴《えん》ならば、こんなに疲れるはずがないのである。  どこかが、ぎくしゃくしていたのだ。何か不自然で、無《む》理《り》なところがあった。  どこが、と指《し》摘《てき》することはできないが、ともかく、何か亜由美を疲れさせるものが、あの披露宴の中にはあったのである……。  何だか、亜由美には、田村のことがひどく気になった。  「——ここにいたの」  と、桜井みどりがやって来て、隣《となり》にデンと腰《こし》を据《す》える。  亜由美としては、あまりみどりの相手をする気分ではなかった。  「——聞いて来ちゃった」  と、みどりが言った。  「え?」  「奥《おく》さんの実家ね、増口家って、このホテルチェーンの持主なんだって」  「このホテルの?」  と、亜由美は思わず訊《き》き返していた。  「そう。もちろんホテルチェーンだけじゃなくて、他にもスーパーとか、色々持ってるみたいよ。凄《すご》い金持なのね」  「その家の娘《むすめ》さんと田村さんがどうして——」  「そこまでは分らないわよ」  と、みどりは肩《かた》をすくめた。「でも、必ず調べ出してやるから」  私《し》立《りつ》探《たん》偵《てい》か何かのつもりでいるらしい。亜由美は苦《く》笑《しよう》した。  「田村さんうまくやったわね」  と、みどりが言った。「これで将《しよう》来《らい》はどこかのホテルの総《そう》支《し》配《はい》人《にん》とか、行く行くは社長の椅《い》子《す》かな」  「さあ……。でも、田村さんにそんな役が合ってるとも思えないけど」  「そうね、何となく貧《びん》乏《ぼう》性《しよう》の顔してるし」  みどりは遠《えん》慮《りよ》というものを、あまりしない性《せい》質《しつ》なのである。  そのとき、二人のそばを、ダブルのスーツ姿《すがた》の紳《しん》士《し》が通りかかった。でっぷりと腹《はら》が出て、転がしたくなるような球型の体つきをしている。亜由美は、どこかで見たような人だな、と思った。  向うの方で、亜由美に気付いたらしい。ツルリと禿《は》げ上った額《ひたい》を、ちょっとなでて、  「田村君のお友だちの方ですな」  と声をかけて来る。  「はい」  あわてて亜由美は立ち上った。  「淑子の父です。どうもていねいなご祝《しゆく》辞《じ》をいただいて——」  「いいえ——そんな、とんでもございませんわ」  「田村君とは大学で?」  「はい。同じクラブの先《せん》輩《ぱい》なんです」  「どういうクラブに入っとったのかな? 私は忙《いそが》しくて、田村君とあまり話したことがないのですよ」  童顔で、いかにも愛想の良い笑《え》顔《がお》だった。ただ、その笑《わら》い方は、「営《えい》業《ぎよう》用《よう》」というか、永《なが》年《ねん》の仕事で身につけたもの、という印象を与《あた》える。  「西洋の中世の民《みん》衆《しゆう》の生活とか、伝説とか、そういったものを研究するグループなんです」  「ほう。ずいぶん難《むずか》しいことをやっとるんですな。私は商業学校しか出とらんので、いわゆる学問の喜びなどというものはさっぱり分らんのですが……。まあ、私たちの一族にも多少は知的な血を入れなくてはね。田村君も見かけはちょっとぼんやりしておるが、なかなかの秀《しゆう》才《さい》らしい」  「とても優《ゆう》秀《しゆう》な人です」  「それは結《けつ》構《こう》。まあ、娘《むすめ》夫《ふう》婦《ふ》のところへも、遊びに行ってやって下さい」  「ええ、ぜひ……」  「ではこれで」  と、増口は軽く一礼して、歩いて行った。同《どう》年《ねん》輩《ぱい》ぐらいの、たぶん同業者らしい男たちが集まった一角へと増口が近付いて行くと、その男たちが一《いつ》斉《せい》に立ち上って頭を下げる。  どうやら増口というのは、かなりの実力者らしい。  「——本当の大物って、そう見えないもんらしいけど、あれもその口ね」  と、桜井みどりが言った。  「そのようね」  と、亜由美は肯《うなず》いた。  しかし、妙《みよう》なものだ、と思った。あんな大物が、自分の娘を結《けつ》婚《こん》させるのに、相手のことをろくに知らないなんてことが、あり得《う》るのだろうか?  いや、実《じつ》際《さい》には、そんなものなのかもしれない。何しろ、ああいう人間たちは、普《ふ》通《つう》のサラリーマン家庭などが想《そう》像《ぞう》もつかないような生活をしているのだろうから。  「——まだ降《お》りて来ないのかしら」  と、みどりがロビーを見回した。  もちろん、田村と、その花《はな》嫁《よめ》を待っているのである。  「結《けつ》婚《こん》する人って大勢いるのねえ」  みどりはロビーを見回した。日がいいのか、目につくだけでも、二組の新《しん》婚《こん》らしい男女が、友人たちに取り囲まれている。  「あの内一つは離《り》婚《こん》するわよ、きっと」  みどりが不《ふ》謹《きん》慎《しん》なことを言い出した。  「ねえ、君——」  若《わか》い男の声がした。「君だよ、そこの澄《す》まし屋《や》さん!」  亜由美は振《ふ》り向いて、  「私のことですか?」  と言った。  いい加《か》減《げん》酔《よ》っ払《ぱら》っているらしい、背《せ》広《びろ》姿《すがた》の青年——二十六、七というところか、色の浅黒い、スポーツマンタイプの男《だん》性《せい》である。  「そう! 君はあの田村なんとかのガールフレンドだったんだろう?」  どうやら、同じ披《ひ》露《ろう》宴《えん》に出ていたらしい。  「クラブの後《こう》輩《はい》です」  「ただの仲《なか》じゃないと僕はにらんでいるんだがね。——正直に言えよ、彼《かれ》とは愛人関係だった?」  亜由美は、直《ちよく》接《せつ》行動を信《しん》条《じよう》としている。従《したが》って、失礼ね、と怒《おこ》るより早く、平手でその男の頬《ほお》を打った。  大して力を入れなかったつもりなのに、派《は》手《で》な音がして、周囲の視《し》線《せん》が一《いつ》斉《せい》に亜由美の方へ集まった。  相手の男の方は、痛《いた》いよりも面食らった様子で、  「いや……こりゃどうも……」  と頭をかきかき、「冗《じよう》談《だん》だよ、ほんの冗談……」  と呟《つぶや》きながら、照れくさそうに歩いて行ってしまう。  「——塚川さん、やるじゃない!」  みどりとしては大喜びである。これで話の種が一つ増《ふ》えたわけだ。  「だって、あんまりひどいことを言うんだもの……」  亜由美も多少頬《ほお》を赤らめながら、ソファに座《すわ》り直した。  ロビーがちょっとざわめいた。田村と、その妻《つま》、淑子が腕《うで》を組んで現《あらわ》れたのだ。  田村は、何だかあまりしっくり来ない高級スーツ姿《すがた》で、淑子の方は花が開いたように見える鮮《あざ》やかな赤のワンピースだった。  「悪いけど、およそアンバランス」  と、みどりが言った。  司会者の言葉によれば、二人はここから成《なり》田《た》へ行って、そこのホテルで一《いつ》泊《ぱく》。明日の飛行機でヨーロッパへ飛び立つはずである。  「田村さんがヨーロッパかあ」  と、みどりはため息をついて、「私、北極にでも行かなきゃ」  「どういう意味?」  と、亜由美は笑《わら》いながら言った。  田村は、妻《つま》の両親や、親類への挨《あい》拶《さつ》に忙《いそが》しくて、亜由美たちに気付かない様子だった。  田村の両親はどこにいるのだろう? 亜由美はふと思い付いて、ロビーを捜《さが》した。  しかし、どこにもそれらしい姿はない。亜由美も、よく顔を知っているというわけではないのだが、さっき披《ひ》露《ろう》宴《えん》での、花《はな》束《たば》贈《ぞう》呈《てい》のときには見ている。  花《はな》嫁《よめ》の淑子は、同年代の、たぶん学生時代の友人たちに取り囲まれて、にぎやかに談《だん》笑《しよう》していた。  「ああいう名門じゃ、大変でしょうね」  と、みどりが言った。  本当に、みどりではないが、なぜ田村がこんな結《けつ》婚《こん》をしたのか、亜由美にも不《ふ》可《か》解《かい》だった。——しかし、そんなことは、何も他人が口を挟《はさ》むことではない。  「ほら、運転手よ」  とみどりがつつく。  「え?」  「あの男。こっちへ歩いて来る、紺《こん》の制《せい》服《ふく》の。——凄《すご》い外車を運転してるの。今日早く来てたから、見ちゃったんだ」  がっしりした体つきの、運転手というよりは用《よう》心《じん》棒《ぼう》みたいな男が、増口の方へと歩いて行って、何か声をかけた。  「おい、淑子、車の用意ができたそうだ」  と、増口が娘《むすめ》に声をかける。「もう出かけなさい。成田は遠い」  淑子が友人たちに別れを告げて、父親の方へ行く。  「塚川君」  急に田村に声をかけられ、亜由美はびっくりした。淑子の方ばかりを見ていたので、田村が近くへ来たのに気付かなかったのだ。  「あ……田村さん」  おめでとうございます、と言おうとして、なぜかためらった。言葉がつかえて、出て来ない。  「今日はありがとう」  「すてきな奥《おく》様《さま》ね、田村さん」  と、みどりが口を挟《はさ》む。  「どうも。——桜井君も悪かったね、忙《いそが》しいのに」  「どういたしまして。結婚と離《り》婚《こん》の話なら、三度の食事を四度にしても駆《か》けつけて来るわよ」  みどりがソファに置いていた引出物の包みが、置き方が悪かったのか、滑《すべ》り落ちた。  「あら、いやだわ」  みどりが急いで拾いに行く。——そのときだった。  田村の顔から、照れたような微《ほほ》笑《え》みがかき消すようになくなった。そして素《す》早《ばや》く亜由美の耳元へ口を寄《よ》せると、  「聞いてくれ!」  と、切《せつ》迫《ぱく》した口調で囁《ささや》いた。  「え?」  「あの女はぼくの妻《つま》じゃない」  「何を——」  「そっくりだが別《ヽ》の《ヽ》女《ヽ》だ」  亜由美は耳を疑《うたが》った。  「田村さん……」  そこへ、  「——スピーチして下さった方ね」  淑子が、やって来た。  「紹《しよう》介《かい》するよ。塚川亜由美君だ」  田村は、またいつもの呑《のん》気《き》そうな笑《え》顔《がお》に戻《もど》っていた。  「素《す》敵《てき》な方ね」  と、淑子は亜由美に微《ほほ》笑《え》みかけながら、  「あなたに取られなくて良かったわ」  「そんなこと……」  亜由美は、曖《あい》昧《まい》に言った。  「ね、もう出かけないと」  淑子が夫の腕《うで》に自分の腕を絡《から》ませる。  「そうだな。——じゃ、塚川君。これで失礼するよ」  「どうぞ——お幸せに」  ほとんど無《む》意《い》識《しき》に、亜由美はそう言っていた。  ホテルの正面に、黒光りする大型車の車体が横づけされて、二人を待っている。客たちが、二人を見送りに、車《くるま》寄《よ》せへと出て行く。  「塚川さん、行こうよ!」  とみどりが声をかけて、小走りに行ってしまった。  しかし、亜由美はその場から動かなかった。  あれは本当だろうか? 田村は本当に、そう言ったのか?  「あれは別の女だ」  と。——だが——だが、そんなことがあるだろうか?  もしそうだとしても、なぜ田村は亜由美だけに、そっとそのことを告げて行ったのか。  亜由美は、一《いつ》瞬《しゆん》夢《ゆめ》にでも浮《う》かされていたような気がして、ソファの前に立ったまま、歓《かん》声《せい》の中を静かに滑《すべ》り出して行く、田村たちを乗せた車を、遠く見送っていた……。 トラックのご来店  「はい、亜由美」  母親が、目の前に風《ふ》呂《ろ》敷《しき》包みを置いた。  「なあに、これ?」  亜由美は、コーヒーカップを皿《さら》へ戻《もど》して、包みを開けてみた。台紙に貼《は》って、厚《あつ》紙《がみ》のケースにおさまった写真が、ざっと三十枚《まい》。  「今、来てるお話なの。二十八件《けん》あるわ」  夕食後の、めいめいが好《す》き勝《かつ》手《て》に新聞を広げたり、TVを見たりする時間である。  今日は珍《めずら》しく母の清美が家にいて、夕食を作ったので、親子三人が居《い》間《ま》に揃《そろ》っていた。  「お話って……」  「もちろんお見合いじゃないの」  「これ全部——見合写真?」  亜由美は唖《あ》然《ぜん》とした。  「おい、まだ早いんじゃないのか」  父親の塚川貞《さだ》夫《お》がTVから目を離《はな》さずに言った。  亜由美は、母親似《に》の顔立ちで、母親の方も、外出好《ず》きで若々しいから、ますます似て見えるらしい。父親の方は、一見インテリ風の技《ぎ》術《じゆつ》者《しや》であるが、TVはアニメ一《いつ》辺《ぺん》倒《とう》で、スポーツ中《ちゆう》継《けい》などには一《いつ》切《さい》興《きよう》味《み》を示《しめ》さないという変り者だった。  「早くなんかないわよ」  と、清美が切り返す。「いい相手は今の内からツバをつけておかなくちゃ」  「不《ふ》真《ま》面《じ》目《め》ねえ」  と亜由美は苦《く》笑《しよう》した。  「結《けつ》婚《こん》は現《げん》実《じつ》ですよ。夢《ゆめ》を追うのは十八まで。十九になったら現実に直面しなきゃ」  これが清美の哲《てつ》学《がく》である。  「二十八件《けん》も? 良くため込んだもんね、こんなに!」  「どうせなら、きりがいいから三十件集まるまで待とうかと思ったんだけどね。ここ一週間ばかり話がないから、ここで一区切り、と思ったの」  「抽《ちゆう》選《せん》で十名様に記念品って感じね」  「そんなことばっかり言ってないで、見てごらんなさいよ」  急に父親がゲラゲラ笑《わら》い出した。TVの子《こ》供《ども》向けアニメを見ているのである。清美が、それを見て、  「——ああいう人を選ばないように気を付けてね」  と言った。  亜由美は笑いながら、その気もなしに写真を眺《なが》めて行った。そして、ふと手を止めると、  「——今日、何日?」  と訊《き》いた。  「二十四日よ」  「二十四日か……」  田村の結《けつ》婚《こん》式《しき》から、ちょうど一週間がたったわけだ。もちろん、まだヨーロッパから、田村たちは戻《もど》っていないだろう。  今《いま》頃《ごろ》田村たちはどの辺だろう? パリかローマか、ロンドンか。それともヴェニスでゴンドラにでも揺《ゆ》られているのだろうか。  いずれにしても、田村には似《に》つかわしくない光景に思える。  亜由美は、見合写真を一つずつ見ながら、あのときの田村の言葉を思い出していた。  「あれは、そっくりな別《ヽ》の女《ヽ》だ……」  ずっと、その言葉が亜由美の脳《のう》裏《り》を去ったことはない。しかし、亜由美に何ができようか?  あの淑子の父親のところや、田村の両親の家へ行って、いきなりこの話を持ち出せば、とてもまともに取り合ってはもらえまい。といって、友人——特《とく》に桜井みどりなどにこの話をするなど、とんでもないことである。  たちまち、その噂《うわさ》は方々へ広まってしまうだろう。  亜由美としては、田村がハネムーンから戻《もど》るのを待つ以外、どうすることもできなかったのだ。  「——どう、亜由美?」  と、母が訊《き》いた。「会ってみたいっていう人がいた?」  「えっ?——ああ、これ?」  亜由美は見終えた写真の山を見て、  「よく見なかったわ」  と言った。  呆《あつ》気《け》に取られている清美を尻《しり》目《め》に、亜由美は居《い》間《ま》を出て、二階の自分の部屋へ行った。  明りを点《つ》けると、あまり女の子っぽくない——ということは、つまりゴテゴテと飾りつけていない部屋が目に映《うつ》る。すっきりしたのが、大《だい》好《す》きなのである。  亜由美はベッドに弾《はず》みをつけて転がり込《こ》んだ。  「あーあ」  と、声を絞《しぼ》り出しながら伸《の》びをした。  ふと、机《つくえ》の上に、何か置いてあったような気がして、起き上る。——絵《え》葉《は》書《がき》だ。  「田村さん……」  見覚えのある、田村のユニークな筆《ひつ》跡《せき》であった。  〈塚川君。  今はロンドンに来ています。天気はあまり良くない。しかし、歴史的には興《きよう》味《み》のある街《まち》です。少し古本屋を探《さが》して歩くつもりですが、時間があるかどうか。  ではこれで。 田村〉  「田村さんらしいわ」  と、亜由美が笑《わら》いながら呟《つぶや》いたのは、ハネムーンのときまで、古本屋へ寄《よ》ろうというあたり、それに、一体何のために絵葉書をくれたのか分らないような文面について、でもあった。  裏《うら》の写真を見て、もう一度亜由美は笑ってしまった。——ロンドンから出しているというのに、絵葉書は、ヴェニスのそれだったからである。  亜由美は却《かえ》って安心した。これでこそ田村さんだわ、と思ったのである。  もし、〈今、僕たちはハネムーンを楽しんでいます〉などという文面だったら、むしろ心配したに違《ちが》いない。  しかし、この調子なら、まあ心配することもないだろう。——もっとも、花《はな》嫁《よめ》の方が腹《はら》を立てて、帰国したら即《そく》離《り》婚《こん》なんてことにならなければ、の話だが……。  亜由美の机の上の電話が鳴った。  「——亜由美、電話よ」  と母の声。「男の人から」  「誰《だれ》?」  「知らないわよ。つなぐからね」  清美がつなぐと、三回に一回は電話が切れてしまう。しかし、今度はうまくつながった。  「もしもし」  若《わか》い男の声である。聞き憶《おぼ》えはなかった。  「亜由美ですけど……」  「やあ、先日はどうも」  と、相手はいやになれなれしい。  「どなたですか?」  「忘《わす》れちゃったかな。ホテルのロビーで君にノックアウトされた男さ」  「あ——」  亜由美に酔《よ》って声をかけて来た男だ。  「何かご用ですか?」  と亜由美は無《ぶ》愛《あい》想《そう》な声で言った。「第二ラウンドがご希望ですか?」  「まあ勘《かん》弁《べん》してくれよ」  と男は笑《わら》って、「あのときは少々酔ってたしね。それに振《ふ》られて、やけにもなってたんだ」  「振られて?」  「自《じ》己《こ》紹《しよう》介《かい》するよ。僕《ぼく》は武《たけ》居《い》俊《とし》彦《ひこ》というんだ。君は塚川亜由美さんだね」  「知ってりゃ訊《き》くことないでしょ」  「僕は彼女《かのじよ》の婚《こん》約《やく》者《しや》だったんだ」  「彼女って——」  「増口淑子さ」  「でも……」  「振った男を披《ひ》露《ろう》宴《えん》に招《よ》ぶなんて残《ざん》酷《こく》だろう? あの増口って一族には、そういう血が流れてるんだ」  「あなたの一族には、そういう招《しよう》待《たい》にのこのこ出かけて行くような血が流れてるの」  と亜由美が言うと、武居と名乗った男は声を上げて笑った。  「いや……君は面白い人だなあ。君のことは忘れられないよ」  「それより何の用ですか?」  「ちょっと会って話をしたいんだ」  「私に?」  「そう。——明日は土曜日だ。どうかな、時間はある?」  「時間があるかどうかより、用があるのかどうかが問題じゃないんですか?」  「気になることがあってね」  真《ま》面《じ》目《め》な口調になった。  「気になること?」  「そう。君はあの田村って人が彼女と結《けつ》婚《こん》するようになった事《じ》情《じよう》を知ってる?」  「いいえ」  「式の前に彼女に会ったことは?」  「ありません」  「じゃ、やっぱり何も知らないわけだね」  「そんな気をもたせるような言い方、やめて下さい」  「失礼。そんなつもりじゃないんだよ。——ともかく、電話じゃ話にならない。明日、会ってもらえないか」  亜由美は迷《まよ》った。しかし、田村の言葉の意味が、それで分るかもしれない、と思い付くと、  「分りました」  と、ためらわずに承《しよう》知《ち》した。  「夕食でも一《いつ》緒《しよ》にどう? この間のお詫《わ》びに、おごらせてもらうよ」  「夜はデートがありますので」  と、亜由美は出まかせを言った。「昼食なら結《けつ》構《こう》です」  「分った。どこかご希望の店はあるかな」  「ええ」  と亜由美は即《そく》座《ざ》に言った。  「なるほど、なかなか旨《うま》いもんだね」  武居俊彦はハンバーガーにかみつきながら言った。  「食べたことないんですか、マクドナルド」  「うん。この手の店は、頭から無《む》視《し》してかかっていたからね」  「そういうのを、愚《おろ》かというんです」  「手《て》厳《きび》しいね」  と武居は笑《わら》った。  今日は、この間の酔《よ》っ払《ぱら》っていたときに比《くら》べると、大分イメージも変っていた。いかにも一流のビジネスマンという印象で、背《せ》広《びろ》も亜由美の父の物より高級であることは一目で分った。  二人は、ハンバーガーショップの二階のテーブルについていた。亜由美は、少し離《はな》れて座《すわ》っている有賀雄一郎の方へ、そっと目を向けた。有賀もそれに気付いて、ウインクして見せる。  「武居さんは、増口さんの会社に勤《つと》めてるんでしょう?」  「うん。ホテルチェーンの部門で、結《けつ》構《こう》、責《せき》任《にん》ある地位にいるんだよ」  「で、社長の娘《むすめ》を射《い》止《と》めようとしたんですね?」  「まあ——外から見るとそういうことになるかね。しかし、欲《よく》得《とく》ずくで彼女に近付いたわけでは決してないんだ。信じてくれるかどうか分らないが」  「信じたとして、話を進めて下さい」  「僕《ぼく》は淑子さんと婚《こん》約《やく》していた。もう一年くらい前になる。別に社長に押《お》し付けられたわけでもなく、こっちも無《む》理《り》に彼女《かのじよ》へ近付いたわけではない。色々とパーティで顔を合わせたり、テニスコートで一《いつ》緒《しよ》になったりという機会が重なって……まあ、熱《ねつ》烈《れつ》な恋《れん》愛《あい》というわけでもなかったが、一《いち》応《おう》結婚の約《やく》束《そく》をするまでになった」  「両親の反対は?」  「増口社長? いや、全くなかった。僕は、こう言っちゃ何だが、かなり増口さんには気に入られている。増口さんも、僕《ぼく》が淑子さんと結《けつ》婚《こん》するのを喜んでくれているはずだ」  「それはあなたがそう思っているだけでしょう?」  「だが、あの人はそうそう表面を取りつくろうことのうまい人ではないよ。内心面《おも》白《しろ》くなければ、必ず表《ひよう》情《じよう》に出る。——もう何年もあの人の下で働いて来たんだ。それぐらいのことは分る」  「なるほどね」  と、亜由美はミルクシェークを飲みながら、  「で、その話がなぜ破《は》談《だん》になったんですか?」  と訊《き》いた。  「突《とつ》然《ぜん》、理由もなくだよ」  と、武居は両手を軽く広げて見せた。  「理由もなしで?」  「僕は、六月に、増口社長から、ヨーロッパのホテルチェーンを視《し》察《さつ》して来て、うちのホテルと提《てい》携《けい》できないか打《だ》診《しん》して来てくれと言われた。六月の半《なか》ばに日本を発《た》って、僕はフランス、ドイツ、スペイン、イタリア……。ヨーロッパ中のホテルを泊《とま》り歩いた」  「会社のお金ででしょ?羨《うらやま》しい!」  と、亜由美はため息をついた。  「仕事となるとね。色々辛《つら》いこともあるよ」  と、武居は苦《く》笑《しよう》した。「設《せつ》備《び》、待《たい》遇《ぐう》、食事、立《りつ》地《ち》条《じよう》件《けん》。あらゆる点をチェックして、これはと思うホテルをリストアップした。直《ちよく》接《せつ》支《し》配《はい》人《にん》とも話をした。——まあ、大変ではあったが、二か月間、楽《たの》しい仕事でもあった」  「一人で行ったんですか?」  「もちろん。——それで、帰国したのが八月の二十日過《す》ぎだった。ところが……」  武居は言葉を切った。  「——ところが?」  「前もって手紙を出しておいたのに、成田に、淑子さんの姿《すがた》はなかった。まあ、何か用があったんだろうと思って、そう気にもせず、ともかく、会社へ直行した。——社長室へ入ると、増口社長は僕《ぼく》を笑《え》顔《がお》で迎《むか》えて、労をねぎらってくれた。そして……そこにいた男を、淑子の婚《こん》約《やく》者《しや》だと紹《しよう》介《かい》してくれたのさ」  「田村さんですね」  「そう。——僕の受けたショックは、君にだって分るだろう」  「そういう経《けい》験《けん》ありませんけど、想《そう》像《ぞう》はつきます」  と亜由美は肯《うなず》いた。「で、増口さんはどう説明したんですか?」  「何も」  「何も?」  「そう。何も、だ。もちろん僕にもプライドというものがある。当の、淑子さんの婚約者を前にして、増口さんと争いたくはない。だから、その場では、動《どう》揺《よう》を隠《かく》して、田村という男と挨《あい》拶《さつ》をしたよ。そして、後で増口さんと二人になったとき、僕は一体、これはどういうことなのか、訊《き》こうとした。だが、増口さんは、僕が何も言わない内に、  『何も訊かないでくれ』  と、僕の肩を叩《たた》いたんだ。『君には済《す》まないなと思う。しかし、他に方法がなかったんだよ』とね」  他に方法が……。亜由美は頭の中で、その言葉をくり返した。  「で、あなたもそれ以上、訊かなかったんですか?」  「そうさ。もちろん、僕は淑子さんが心変りしたんだと思った。当然そう思うだろう?」  「そうでしょうね」  「それをくどくど言うのも男らしくない。そう思って何も言わなかったんだ。ただ、いくら、心変りしたからといって、結《けつ》婚《こん》式《しき》が早過《す》ぎるような気はしたがね」  「で、披《ひ》露《ろう》宴《えん》でやけ酒ってわけですか」  「まあ君には失礼なことを言ったが、そんなわけだったんで、勘《かん》弁《べん》してくれ」  「それはまあ……」  亜由美としては、平手打ちまで食らわしたのだから、あまり偉《えら》そうなことは言えない。  「しかし、僕《ぼく》もあの後、田村君という人とは多少会う機会もあったんだが、淑子さんがなぜ、あんなにも急いで田村君と結《けつ》婚《こん》したのか、どうしても分らないんだ」  「私もです」  「ほう、君も?」  武居は亜由美を見つめた。「それはどういう意味?」  「何て言うか……田村さんらしくない相手だと……。そんなに田村さんのこと、良く知ってたわけじゃないし、男女の仲《なか》なんて、ほかの人間には分らないもんだと思いますけど……でも、それでもよく分らないんです。もし田村さんがあの人と恋《こい》に落ちたとしても、あんな派《は》手《で》な式をやったりするかしら、と……」  亜由美は肩《かた》をすくめて、「何だか巧《うま》く説明できませんけど……」  「いや、よく分るよ」  武居は肯《うなず》いて、「僕も田村君という人は、いい人だと思う。最初はどうしても、この野《や》郎《ろう》、という気持でいたが、ともかく、話をしてみると、憎《にく》めない人だね。だから、まあこの男になら、彼女《かのじよ》を取られても仕方ない、くらいには考えていたんだよ」  亜由美は、初めて、好《こう》感《かん》を持って、この男を眺《なが》めた。——なかなか分ってるじゃないの、この人。  ふと、あのことを話してみようか、と亜由美は思った。田村が亜由美に囁《ささや》いて行った謎《なぞ》めいた言葉を。  「実は、今日君を呼《よ》び出したりしたのはね」  と、武居が続けた。「ちょっと妙《みよう》な電話があったからなんだよ」  「どういう……」  「一昨日の夜なんだが——」  と、武居が言いかけたとき、ピーッ、ピーッと笛《ふえ》がつぶれたような、変な音がした。  「おっと。ポケットベルだ」  武居は上衣の内ポケットに手を入れて、音を止めると、  「ちょっと電話をかけて来るよ。失礼」  と、席を立って、一階のカウンターのフロアへと階《かい》段《だん》を降《お》りて行った。  有賀が立ち上ってやって来る。  「——何かキザな奴《やつ》だなあ」  「でも、そう悪い人でもないみたい。わざわざ見《み》張《は》ってもらって悪いけど」  「そういう油《ゆ》断《だん》が怖《こわ》い。きっと君をどこかのホテルへ連れ込《こ》む気だぞ」  「やめてよ」  と、亜由美は苦《く》笑《しよう》した。「それに、田村さんの結《けつ》婚《こん》、どうも気になることがあるの。あの人の話が、その辺に関係してるかもしれないわ」  「気になることって?」  「うん……。ちょっとね」  亜由美は、有賀にも、もちろんあの田村の言葉については、何も言っていないのだ。  「ともかく、時間あるから、僕はそこに座《すわ》ってるよ」  「悪いわね。何か用があるなら——」  と言いかけたとき、ドーンと凄《すご》い音がして、足下が揺《ゆ》らいだ。テーブルの上でグラスが音を立てて動いた。  「何、今の?」  と腰《こし》を浮《う》かす。  「キャーッ!」  「誰《だれ》か!」  「助けて!」  下の階から悲鳴が上った。亜由美は階段を一気に駆《か》け降《お》りた。有賀もあわてて後につづく。  「——ひどい!」  一階へ降り立った亜由美は、思わず立ちすくんだ。  通りへ面して、一階はガラスばりになっている。そこへ、小型トラックが突《つ》っ込《こ》んでいた。  ガラスを突き破《やぶ》って、車体はほとんど店の中へ、入り込《こ》んでいた。立ち食い用のテーブルが一つひっくり返って、その周囲で、けがをした女の子たちが泣《な》き出している。  「——有賀君! 早く助けなきゃ!」  「う、うん」  亜由美と有賀は、けがをした女の子を、抱《だ》き起して、店の奥《おく》へと運んで行った。  呆《ぼう》然《ぜん》としていた店員たちも、やっと我《われ》に返った様子で、一一九番へ電話したり、救《きゆう》急《きゆう》箱《ばこ》を持って来たりし始める。  「何て運転手だ」  と、有賀が腹《はら》立《だ》たしげに言った。  「そうだわ。運転手は? けがしてるんじゃない?」  「見て来る」  有賀は、トラックのドアを開けた。  「——どう?」  「誰《だれ》もいないよ」  「まさか!」  「見てみろよ」  と、有賀が亜由美を手《て》招《まね》きした。  なるほど、運転席は空っぽである。  「じゃ、どうして突《つ》っ込《こ》んだわけ?」  「知らないよ。どうなってるんだ?」  亜由美は、ふと武居のことを思い出した。そうだ。下で電話をかけているはずだった。  「武居さん!——武居さん!」  と亜由美が呼《よ》ぶ。  「おい、あれ——」  と、有賀が亜由美の腕《うで》を引《ひ》っ張《ぱ》った。  「え?」  有賀の指さす方へ目をやって、亜由美は目を見《み》張《は》った。赤電話の台が押《お》し倒《たお》されていて、その下から、受話器をつかんだ手が、のびていた。  「引《ひ》っ張《ぱ》り出さなきゃ! 早く!」  亜由美と有賀はあわてて駆《か》け寄《よ》った。    「——全くもう、何事かと思ったわ」  母の清美が、亜由美の服を広げて見ながら、言った。「こんなに汚《よご》して、血までついてるんだもの」  「仕方ないでしょ。人助けしたんだから」  ソファへ寝《ね》転《ころ》がって、亜由美は言った。  「本当なんでしょうね、その話?」  と、清美が言った。  「どういう意味?」  「もしかして……お前、どこかで強《ごう》姦《かん》されたんじゃないの?」  「凄《すご》いこと言ってくれるわね!」  亜由美は呆《あき》れて、「ニュースを見なさいよ、ちゃんとTVに映《うつ》ってるから!」  とかみつきそうな顔で言った。  「分ったわよ……」  清美は肩《かた》をすくめて、「で、その何とかさんって人、死んだの?」  「武居さん? いいえ、奇《き》跡《せき》的に軽いけがで済《す》んだの。一《いち》応《おう》入院してるけどね」  「ふーん。で、お前に何の用だったの?」  「ええと……まあ大した用じゃないのよ」  玄《げん》関《かん》でチャイムが鳴ったのを幸い、亜由美は逃《に》げ出した。玄関へ出て、ドアを開けると、父親が飛び込《こ》んで来た。  「馬《ば》鹿《か》! 早く開けんか!」  と、靴《くつ》を脱《ぬ》ぎ捨《す》て、居《い》間《ま》へと駆《か》け込《こ》んで行く。  「どうしたの?」  びっくりした亜由美がついて行ってみると、父親はTVをつけて、  「電車が遅《おく》れたんだ。危《あや》うく見《み》逃《のが》すところだった!」  と息を弾《はず》ませた。  少女向けアニメ番組がスタートしたところで、にぎやかなテーマソングが流れて来た。  ——二階の部屋で、亜由美が珍《めずら》しく(?)勉強していると、電話が鳴った。  「有賀さんよ」  と母の声。有賀のことは知っているのである。  「——おい、ニュース見た?」  出るなり、有賀はいきなりそう言った。  「見てないわよ。我《わ》が家のチャンネル権《けん》は、父が握《にぎ》ってんだから」  「あ、そうだったな」  「どうしたの?」  「例の事件さ。さっきNHK見たら、君も映《うつ》ってたぜ」  「美人にとれてた?」  亜由美は呑《のん》気《き》なことを訊《き》いた。  「そんなことよりさ、警《けい》察《さつ》の調べじゃ、あのトラックは誰《だれ》かが運転して、わざと突《つ》っ込《こ》んだらしいってんだ」  「わざと?」  「あの車の運転手は、近くのソバ屋で昼飯食べてたんだってさ。ちゃんとエンジンも切ってあったし、ハンドブレーキもかけてあった。誰かが乗り込んで、トラックを走らせたんじゃないかっていうんだ」  「ひどいことするのね! 誰がやったか、分らないの?」  「目《もく》撃《げき》者《しや》捜《さが》してるけど、分んないみたいだぜ、まだ」  「でも……そんなに簡《かん》単《たん》に動く?」  「だから、これはただのいたずらとか、そんなもんじゃないだろうって言うんだ。もっと具体的に誰《だれ》かを狙《ねら》ったとか……」  「警《けい》察《さつ》でそう言ってるの?」  「いや、こりゃ僕《ぼく》の推《すい》理《り》」  「何だ」  「何だ、ってことないだろ」  「ごめん、ごめん。——じゃ、もしかしたら、あの武居さんって人が狙《ねら》われたのかもね」  「考えられるよ。だって、他にけがしたの、中学生とか高校生ばっかりだよ」  「そうか。——電話台はあのガラスの方に面してたわね。車で突《つ》っ込《こ》めば真正面、てわけか」  「電話してるところが、表から見えたはずなんだよな」  「じゃ……本当に武居さんが狙われたのかしら?」  「分んないけど、ま、あんまり近付かない方がいいんじゃない?」  亜由美はちょっと考え込《こ》んで、  「——わざわざありがとう」  と、電話を切った。  田村の言葉、そして淑子の元の婚《こん》約《やく》者《しや》だった武居が狙《ねら》われかけたこと……。  加えて、なぜ淑子が急に武居から田村へ乗り換《か》えたのかという謎《なぞ》。  「何かありそうだわ……」  大体が、この手のTVや小説の大《だい》好《す》きな亜由美である。ちょっと胸《むね》をわくわくさせながら、そう呟《つぶや》いた。  「ニュース、ニュース!」  今夜は父親をけちらしてもニュースを見てやろう、と亜由美は決心して、部屋を飛び出して行った。 血のついた上衣  「——亜由美、どこかに出かけるの?」  玄《げん》関《かん》で亜由美が靴《くつ》をはいていると、清美が声をかけて来た。  「今日は月曜日よ。大学あるの」  「ああ、そうだったわね」  と、清美は呑《のん》気《き》に肯《うなず》いた。  だが亜由美の方もいい気なもので、大学へ行く気はまるでないのである。  出がけに郵《ゆう》便《びん》受《うけ》を覗《のぞ》いてみると、絵葉書らしきもの。  出してみると、田村からである。亜由美はびっくりした。一枚《まい》よこしただけでも大したことなのに、こんなにすぐ、二枚目が来るなんて……。  〈塚川君。  今はパリにいる。ごみごみしていて、あまり面《おも》白《しろ》くはない。疲《つか》れる。しかし、こちらはしょせん旅行客だ。たった一日二日の滞《たい》在《ざい》で、そんな判《はん》断《だん》を下すのは、不当かもしれない。では。 田村〉  相変らず、ハネムーンの便りとは思えない。一体田村さんは何をしに行ったんだろう?  裏《うら》を見ると、パリからだというのに、イタリアのヴェローナの風景が映《うつ》っていた。  亜由美はそれをバッグへしまうと、表通りへと歩いて行った。  よく晴れて、少し涼《すず》しい風も吹《ふ》いているようだ。    ホテルのロビーをぶらつきながら、亜由美は、結《けつ》婚《こん》披《ひ》露《ろう》宴《えん》の客らしい人々を眺《なが》めていた。  毎日、毎日、よくまあ結婚する人がいるもんだわ、と思った。自分もその内の一人になるのだろうか。いつかは……。  「——やあ、どうも」  声に振《ふ》り向くと、武居が、軽く右足を引きずるようにしてやって来た。  「武居さん、大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》なんですか?」  「おかげでね。どうもありがとう。君が引《ひ》っ張《ぱ》り出してくれたんだって?」  「そんなこと……」  と、亜由美は、ちょっと柄《がら》にもなく照れた。  「でもびっくりしました。病院に行ったら、もう退《たい》院《いん》したって聞かされて」  「もう二、三日は、って言われたんだけどね、そうそう仕事も休めないし」  「ちょっとがっかりだわ」  「がっかり?」  「そんなにモーレツサラリーマンだとは思わなかったの」  武居は笑《わら》って、  「そんなことはないさ。こうやって抜《ぬ》け出して来たじゃないか」  「今はいいんですか?」  「うん。ちょっとそこでコーヒーでも飲まないか」  ロビーのわきにあるコーヒーハウスで、亜由美は武居と向い合って席についた。  「昨日のこと、警《けい》察《さつ》に訊《き》かれました?」  「もちろん。しかし、電話中っていうのは、結《けつ》構《こう》他に気の回らないものでね。特《とく》に手帳を見ながら話をしていたので、トラックが突《つ》っ込《こ》んで来るのに全く気が付かなくて……」  「良く助かりましたね」  「電話台の下になったのが、かえって良かったみたいだね。台が真四角じゃなかったんで、隙《すき》間《ま》ができて、そこへちょっと入り込む形になったらしい」  「原《げん》因《いん》、分らないんでしょ?」  「そうらしいね。全くふざけた話だ」  と、武居は首を振《ふ》った。  亜由美にコーヒー、武居にはアイスミルクが来た。  「ミルク党《とう》ですか」  「仕事で、やたらにコーヒーを飲むもんでね。いい加《か》減《げん》うんざりだよ」  と、武居は苦《く》笑《しよう》した。  「ところで、あの話の続きをうかがいたくて——」  「あの話?」  武居は訊き返して、「あ、そうか! 例の電話のことだね」  「そうです」  「ええと……あれは木曜日のことだな。ホテルの事《じ》務《む》所《しよ》へ電話がかかって来た」  「夜っておっしゃいませんでした?」  「夜も帰りは十時以《い》降《こう》になるからね。あれは九時ごろだったかな」  「どんな話だったんですか?」  「男の声だった。変にこもっていて……。きっと何か、声が分らないようにしていたんだろう。『あなたに教えておきたいことがある』と言うんだ」  「何と言いました?」  「『彼女《かのじよ》は死んだよ』と言った」  「死んだ……。彼女というのは——」  「僕も訊《き》き返した。一体誰《だれ》のことだ、とね」  「で、向うは?」  「『あなたのフィアンセのことですよ』と言った」  「つまり——淑子さん?」  「僕《ぼく》は他に婚《こん》約《やく》したことはない」  「その他には?」  「誰なのか訊いたが、名乗らなかった。そして、『嘘《うそ》だと思ったら、塚川亜由美に訊いてみろ』と言うんだ」  「私に?」  亜由美は目を丸《まる》くした。  「そうなんだ。君は何か知らないか」  「私は——」  亜由美はためらった。あのことを話すべきだろうか?  この男——武居は信用できるだろうか?  もし、本当にあのトラックで殺されかけたのだとしたら、武居にも、それを知る権《けん》利《り》はあるかもしれないが……。  「あの電話が誰《だれ》からかかって来たにせよ、君の名前を知っていたというのは——」  「わけが分りません」  と、亜由美は言った。  「しかし、何か知ってるんじゃないか?」  武居が、じっと亜由美を見つめる。  亜由美が口を開こうとしたとき、  「失礼します」  と、ウエイターがやって来た。「武居様、国《こく》際《さい》電《でん》話《わ》が入っております」  「そうか。分った」  武居が席を立つ。  「社長のお嬢《じよう》様《さま》からです」  「淑子さんから?」  武居と亜由美は目を見交わした。  武居が急いでカウンターの電話へと走る。——亜由美も座《すわ》っていられず、立ち上ると、電話の方へ歩いて行く。  「もしもし。——淑子さん? 今どこだい?——もしもし、どうしたんだ?」  武居の声が急に不安げに鋭《するど》くなった。  「——何だって?——よし、分った。今はどこのホテル?——すぐに人を行かせる。フランクフルトに誰かいるはずだ。——心配しなくて大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》だよ。——落ち着くんだ!」  亜由美は膨《ふく》れ上って来る不安をじっと押《おさ》えながら、武居の顔を見ていた。武居が、やっと受話器を置く。  「一体どうしたんです?」  武居は、もう一度受話器を上げると、ダイヤルを回してから、亜由美の方へ向って言った。  「淑子さんだ。ドイツで、田村君が行方《ゆくえ》不《ふ》明《めい》になったらしい。——あ、社長ですか? 武居です。お嬢《じよう》さんがドイツから電話を。——そうです、実は——」  亜由美は、もう武居の声が耳に入らなかった。急いで席に戻《もど》ると、冷たい水を一気に飲み干《ほ》した。  「行方不明……」  と呟《つぶや》く。  田村さんが……行方不明。そんなことが……。  いつの間にか、武居が戻って来ていた。座《すわ》らずに、立ったままで、  「聞いた通りだ。しかし、彼女《かのじよ》もかなり神《しん》経《けい》がたかぶっている。事《じ》情《じよう》は良く分らないんだよ」  「行方不明って……」  「ホテルを昨日出たまま帰らないらしいんだ。今、地元の警《けい》察《さつ》へ手配してもらっている」  「田村さんなら……きっと迷《まい》子《ご》になったんだわ」  「そう願いたいね。幸い近くにうちの駐《ちゆう》在《ざい》員《いん》がいる。連《れん》絡《らく》して直行させる」  「心配だわ……」  「そうだね。僕も気になる」  「武居さん」  と、呼《よ》ぶ声がした。「社長です」  「今行く。——じゃ、何か分ったら連絡するから」  「お願いします」  武居が足早に行ってしまうと、亜由美は急に力が抜《ぬ》けたようで、しばらくそこに座ったまま動けなかった。  「あの……コーヒーをおつぎしましょうか?」  ウエイターの声で、やっと我《われ》に返った。  「い、いえ、結《けつ》構《こう》です」  立ち上ってお金を払《はら》おうとすると、  「これは公用ですから」  と、言われた。  なるほど、武居といたせいだろう。  「どうも」  ピョコンと頭を下げてロビーに出る。こんなときなのに、コーヒー代、助かった、などと考えていた。  ロビーの奥《おく》の方で、武居が、増口と話をしている。淑子の父親だ。  娘《むすめ》がヨーロッパで立ち往《おう》生《じよう》しているのだから、もっと心配してもいいようなものだが、見たところは、至《いた》って落ち着き払っているらしい。  亜由美は、ホテルを出ると、駅の方へ向って歩き出した。  「——田村さん、心配だね」  と、母親が言った。  亜由美は、TVのニュースに、じっと見入って、返事をしなかった。  しかし、何度ニュースを見ても、新しい事実は分っていないらしかった。  はっきりしているのは、ただ一つ、田村が行方不明になったということだけである。  ハンブルクは大都会だから、場所によっては危《き》険《けん》な所もある。しかし、ドイツの治《ち》安《あん》は、かなりいい方であり、特《とく》に、多少ドイツ語もできる田村は、迷《まい》子《ご》になるとも思えなかった。  それに、田村は、歓《かん》楽《らく》街《がい》などへ足を向ける男ではない。それもハネムーンだというのに!  「どこへ行っちまったのかしらねえ」  と、清美がため息をつく。「お前は新《しん》婚《こん》旅《りよ》行《こう》、国内にしておくのよ。やっぱり安全第一だからね」  「相手もいないのに、旅行のことまで考えられないわよ」  と、亜由美は母をにらんだ。  玄《げん》関《かん》のチャイムが鳴って、清美が出て行ったが、すぐに戻《もど》って来ると、  「亜由美、お客様」  「私に?」  「警《けい》察《さつ》の方よ」  ——入って来たのは、大分、亜由美の抱《いだ》いていた刑《けい》事《じ》のイメージと違《ちが》う、肥《ひ》満《まん》体《たい》の中年男だった。  「どうも……。殿《との》永《なが》部長刑事です」  四十歳《さい》ぐらいか、背《せ》もあって、かつ太目というので、いかにも巨《きよ》漢《かん》に見える。  「あの……ご用は?」  「はあ。その前にちょっと水をいただけませんか」  えらく汗《あせ》をかくらしく、ハンカチで額《ひたい》をせっせと拭《ぬぐ》っている。  清美が手回し良く、冷たいお茶を運んで来ると、大きなグラス一《いつ》杯《ぱい》、あっという間に飲み干《ほ》して、  「いやどうも……。すみませんがもう一杯」  体が大きいと、水分も大量に必要とするらしい。  「——実は、例のハンバーガーショップの事《じ》件《けん》について調べていましてね」  と、殿永という、肥満刑事は言った。  「何か分りまして?」  「残念ながらまだです。で、目下、現《げん》場《ば》に居《い》合《あわ》せた方から一人一人お話をうかがっているんですよ」  「そうですか」  亜由美は、ちょっとがっかりした。  「あのときは、救助に大分ご協力いただいてありがとうございました」  「いいえ。——けがも、みなさん大したことがなくて良かったですね」  「全くです。あの状《じよう》況《きよう》では死人が出てもおかしくなかったんですが。ところで、あなたはあの店に良く行かれましたか」  「ええ。三日に一度は」  「じゃ、店内の様子を良くご存《ぞん》知《じ》でしょう。ちょっと図面を描《か》いていただけますか?」  「ええ」  亜由美は、広告の裏《うら》に、ボールペンで、大体の見取り図を描いた。  「この子は昔《むかし》から絵が上手で」  と、清美が余《よ》計《けい》なことを言い出す。  「学校でも美《び》術《じゆつ》の時間はいっつも賞められていたんですよ」  「お母さん、あっちに行っててよ」  「はいはい」  亜由美はそっと殿永刑事の顔を盗《ぬす》み見《み》た。しかし、別に笑《わら》ってもいないようだ。  「——こんなもんだと思いますけど」  と、亜由美は言った。  「なるほど。——これは正《せい》確《かく》に描けてますなあ」  「これが何か?」  「いや、どうもあの一件は事《じ》故《こ》でなく、故意に誰《だれ》かがトラックで突《つ》っ込《こ》んだものと思われているんです」  「知っています」  「すると、何か目的があるはずですね。まあ、発作的な無《む》差《さ》別《べつ》殺《さつ》人《じん》未《み》遂《すい》という可《か》能《のう》性《せい》もあるが」  「そうですね」  「もし、誰かを狙《ねら》ったものだとしたら、その目標は誰だったのか? しかも、なぜ、そんな非《ひ》常《じよう》手《しゆ》段《だん》に訴《うつた》えて、殺そうとしたのでしょう?」  亜由美は黙《だま》って肩《かた》をすくめた。殿永刑事は続けて、  「一つ疑《ぎ》問《もん》なのは、この全面がガラスばりだったのに、なぜ犯《はん》人《にん》に中が見えたか、ということです」  「え?」  と亜由美は訊《き》き返した。「でも——ガラスばりだから見えたんじゃありませんか?」  「しかし、外は明るかった。外より中の方が明るかったとは思えません。よく晴れていたんですからね」  「ええ、確《たし》かに——」  「つまり、外から見ると、ガラスには、外の風景が映《うつ》っていて、中はとても見にくかったはずなんです」  「分りました」  亜由美もやっとそれに気付いて、「じゃ、犯《はん》人《にん》は、目当ての人間がどこにいるか、分らなかったはずだとおっしゃるんですね?」  「いや、全く見えなかったということはないでしょう。ガラスにかなりくっついて立っていた人は、目に入っただろうと思うのです」  「つまり……」  「電話をかけていた人ですね」  殿永は、そう言って、少し間を置き、  「あの、あなたが助け出した男性——名前は武居だったかな。ご存《ぞん》知《じ》の方だったんですか?」  「あの……そうです。といって、良く知ってるわけじゃなくて……」  「どういうご関係です?」  「それは……」  亜由美は、どう話していいものやら、迷《まよ》ってしまった。話し出せば、全部しゃべらなくては分ってもらえまい。しかし、それでは、ますます話がややこしくなりそうだ。  「この間、ある人の結《けつ》婚《こん》式《しき》で一《いつ》緒《しよ》になって……それで、何か話があるというんで、あそこで会っていたんです」  これなら嘘《うそ》ではない。多少省《しよう》略《りやく》しすぎた気味はあるが。  「どこへ電話をかけていたか、ご存知ですか?」  「いいえ。仕事の話でしょう。ポケットベルが鳴って、かけに行ったんですから」  「ポケットベルがね。——そうですか」  「どうして、本人に直《ちよく》接《せつ》お訊《き》きにならないんですか?」  「訊きますよ、もちろん。しかし、常《つね》に、証《しよう》言《げん》には『裏《うら》を取る』ということが必要でしてね」  殿永は、刑《けい》事《じ》らしからぬ、おっとりした口《く》調《ちよう》で言った。「他の人の証言とぴったり合うか、食い違《ちが》うか。——そこを見るんですよ、我《われ》々《われ》は」  何となく、腹《はら》の立てられない相手である。  「もう武居さんと話したんですか?」  「いや、これからです。病院の方へ今日行ってみると、もう自分で退《たい》院《いん》して行かれたとかでね」  殿永はニヤリと笑《わら》って、「私なら、できるだけ長く入院してさぼりますがね。エリートは辛《つら》いもんですな」  と言った。  電話が鳴って、亜由美は立って行って取った。  「武居です」  「あら。——今どこから?」  「成田空港です」  「どこかへお発《た》ちですか」  「ドイツへ行きます。淑子さんを一人では帰せないでしょう」  「それじゃ……田村さんは?」  「これはまだ未《み》確《かく》認《にん》情《じよう》報《ほう》ですが」  と、武居は少し声を低くした。「ハンブルクの、かなりいかがわしい場所で、田村君の上《うわ》衣《ぎ》が見付かったらしいです」  「まさか!」  思わず声が高くなっていた。  「まだ断《だん》定《てい》はできませんがね。——上衣には血がついていたということです」  亜由美は受話器を握《にぎ》りしめた。  「じゃ、田村さんは……殺された?」  「その可《か》能《のう》性《せい》はあります。——あ、もう行かなくては。では、これで」  「気を付けて。あの——」  もう電話は切れていた。  「——何事です?」  殿永が言った。「殺されたとかいうのは……」  「あの——」  と言いかけて、亜由美は、ちょっとめまいがして、よろけた。  「大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》ですか?」  「ええ……。すみません」  殿永に支《ささ》えられて、亜由美はソファに落ち着いた。こんなことで動じる亜由美ではないはずなのだが、やはり、刑事と話をしているという緊《きん》張《ちよう》感《かん》のせいだろうか。  「田村さんというのは?」  「あの……今、ドイツで行方不明になっているんです」  「ああ、あれですか。——ご存《ぞん》知《じ》なんですか?」  「ええ。大学の先《せん》輩《ぱい》で」  「そりゃご心配ですね。いや、悪いときには悪いことが重なりますよ」  刑事は、田村の件《けん》が、武居と関係があるとは思っていない様子で、早々に引き上げて行った。亜由美も、あえて引き止めなかった。  居《い》間《ま》に戻《もど》って、ソファに座《すわ》っていると、清美が顔を出して、  「どうしたの? 何のお話?」  「大したことじゃないわ」  「お前、顔色が悪いね」  「今、ちょっとめまいがしてね」  「まあ」  清美は亜由美に近付くと、声をひそめて、  「つ《ヽ》わ《ヽ》り《ヽ》じゃないだろうね?」  と言った。  亜由美は、思い切り母親をにらみつけてやった。 幻《まぼろし》の事《じ》故《こ》  「人の噂《うわさ》も七十五日なんて、あれは嘘《うそ》ね」  塚川亜由美は、腹《はら》立《だ》たしげに言った。「七十五日どころか、七・五日も怪《あや》しいもんだわ」  「仕方ないよ。何しろ色々ニュースが沢《たく》山《さん》あるんだから」  と言って、有賀雄一郎は亜由美にキッとにらまれ、あわてて目をそらした。  十月になって、秋の長雨もやっと上った。短かった夏が、九月の末に残暑となってぶり返し、一転、冷たい雨が降《ふ》り続いて、この二、三日、やっと秋らしい晴天が広がっていた。  大学のキャンパスも、活気に溢《あふ》れていた。  ——今の大学生は、早く大人《おとな》びるというのか、夏には、  「暑いからいやだ」  と外へ出たがらないし、冬には、  「寒いから」  と言って、昼休みも学生食堂に固まっておしゃべりばかり。  男の学生でもそうなのだから、大人たちから見れば、嘆《なげ》かわしいに違《ちが》いない。  しかし、こんな爽《さわ》やかな秋の日ともなると、いかに無《ぶ》精《しよう》な学生たちも外へ出て、亜由美と有賀の如《ごと》く、芝《しば》生《ふ》に腰《こし》をおろしておしゃべりしている。  しかし、空が青く、風が快《こころよ》いだけ、亜由美の心は沈《しず》んでしまうのだった。  田村久哉が、増口家の令《れい》嬢《じよう》、淑子との新《しん》婚《こん》旅《りよ》行《こう》の途《と》上《じよう》、ドイツのハンブルクで行方《ゆくえ》不明になって、もう半月近くたつ。ハンブルクの歓《かん》楽《らく》街《がい》で発見された、血のついた上《うわ》衣《ぎ》は田村のものと判《はん》明《めい》したが、その持主の行方は杳《よう》として知れなかった。  淑子を迎《むか》えに、あわただしく発《た》って行った武居からも、あの後、連《れん》絡《らく》はない。ハンバーガーショップへ突《つ》っ込《こ》んで来て、武居を初め、数人にけがをさせたトラックの事《じ》件《けん》も、一向に解《かい》決《けつ》のきざしはなかった。  要するに、何が何やら、さっぱり分らないままだったのである。  わずかに、TVのニュースなどに映《うつ》し出されたのは、傷《しよう》心《しん》の花《はな》嫁《よめ》、淑子が、武居にかかえられるようにして、成田空港へ帰って来た光景ぐらいのもので、その後、彼女がどうしているのか、週《しゆう》刊《かん》誌《し》をむさぼり読んでも、まるで分らなかった。  父親の増口は財《ざい》界《かい》で、かなりの力を持つ人間らしいから、好《こう》奇《き》心《しん》に溢《あふ》れたマスコミを娘《むすめ》に近付けないことぐらい、いともたやすいのであろう。  しかし、それにしても、新《しん》婚《こん》旅《りよ》行《こう》に旅立つ直前、田村がそっと亜由美に耳打ちした、  「あの花嫁は別の女だ」  という一言の謎《なぞ》は、今も亜由美一人の胸《むね》の中へしまい込《こ》まれているばかりであった。  田村自身が行方をくらましてしまったのだから、亜由美としても疑《ぎ》惑《わく》の持って行き場がないわけである。  「田村さん、どうなっちゃったのかしら?」  と、亜由美は言って、芝《しば》生《ふ》に寝《ね》転《ころ》がった。  「この間、TV見てたら、たぶんもう生きてないだろうって、評《ひよう》論《ろん》家《か》が言ってたよ」  「何の評論家が?」  「旅行評論家」  「そんなのいるの? 何でもすぐ評論家ね。評論評論家なんてのができるわ、その内」  「でも、ヨーロッパってのは、やっぱり一歩裏《うら》へ入ると危《き》険《けん》だって。田村さん、割《わり》とのんびりしてたものなあ」  「やめてよ、『してた』なんて。もう死んじゃった人みたいじゃないの」  と、亜由美は有賀をもう一度にらんだ。  「ごめんごめん。おっかないんだからなあ。田村さんを秘《ひそ》かに慕《した》ってでもいたのかい?」  今度は亜由美はにらみつけなかった。有賀の足をけっとばしたのである。  「イテテ……」  大げさに引っくり返る有賀を見て、亜由美は笑《わら》い出した。——同時に、自分がひどく神《しん》経《けい》質《しつ》になって、苛《いら》々《いら》していたことに気が付く。  「ごめんね。何だか有賀君に八つ当りしちゃって」  「君のためなら」  と、有賀はオーバーに胸《むね》に手を当てて言った。  「ついでに、明日、ちょっと用があって休みたいんだ。ノート頼《たの》むよ」  「そんなことだと思ったわ。いいわよ。たぶん出て来るから」  と、亜由美も呑《のん》気《き》に笑いながら答えた。  「——塚川さん」  と呼びかけてやって来たのは、クラブの先《せん》輩《ぱい》、桜井みどりだった。「そこにいたの、捜《さが》しちゃった」  みどりは、亜由美の隣《となり》に腰《こし》をおろした。  「何か用?」  「ちょっと話があるの」  みどりはチラリと有賀の方を見た。  「僕《ぼく》、向うへ行ってようか」  と、有賀が立ち上った。  「ねえ、有賀君、女の子にはやさしいんでしょ。食堂からコーヒーを二つ持って来てくれない?」  と、みどりは言った。「おごってくれとは言わないからさ」  「運び賃《ちん》、一杯《ぱい》百円」  と言って、有賀は小走りに芝《しば》生《ふ》を横切って行く。  「話って——」  と亜由美は言いかけて言葉を切った。  みどりが、いつになく、真《しん》剣《けん》そのものという表《ひよう》情《じよう》をしていたからである。  「田村さんのことよ。——塚川さん、あの後で、例の男に会ったんでしょ?」  「例の男?」  「武居っていう、あなたがひっぱたいた相手よ」  「ええ。——でも、どうして知ってるの?」  「TVで見たもの。あのマクドナルドの一《いつ》件《けん》。あなたが人助けてて、その負傷した人の中に、例のホテルの人っていうのがいたから、調べてみたの。そうしたら、あの男じゃない」  「ええ、武居さんと会ったわ。でも、よく調べたわね! どうして?」  「手はあるわよ。だけど……」  みどりは言い淀《よど》んだ。  「どうしたの? 何だかずいぶん深《しん》刻《こく》そうじゃない」  「あんまりあの男には近付かない方がいいわよ」  と、みどりは急に低い声になって言った。  「えっ?」  「あのね——」  と言いかけ、みどりは、有賀が紙コップを二つ、手にしてやって来るのを見て言葉を切った。  そして、「今日、午後の講《こう》義《ぎ》が終わったら、部室へ来てくれる?」  と低い声で言った。「待ってるから」  「——さあ、お待たせしました」  と、有賀がコーヒーを亜由美とみどりに手渡す。  「サンキュー。百五十円だっけ」  みどりは、もういつもの調子に戻っている。  「いいよ。それぐらいの金、持ってるさ」  「無《む》理《り》しちゃって。じゃ、またね、塚川さん!」  みどりは紙コップを手にしたまま、歩いて行ってしまった。亜由美は、呆《あつ》気《け》に取られてその後ろ姿《すがた》を見送った。  誰《だれ》も彼《かれ》もがおかしい。「あの男には近付かない方がいい」って?——武居のことを、桜井みどりがなぜそんな風に言うのか、亜由美にはさっぱり分らない。  みどりは一体何を、どうやって調べたというのだろうか。  「何をボンヤリしているのさ」  と有賀に訊《き》かれて、亜由美は我《われ》に返った。  「別に、何でもないわ」  「コーヒー、こぼれてるぜ」  「キャッ! いやだ、もったいない!」  亜由美は、一つのことに熱中すると、他に頭が回らなくなる性《せい》質《しつ》なのである。    少々寝《ね》不《ぶ》足《そく》のところへ、昼食で満《まん》腹《ぷく》になり、退《たい》屈《くつ》な講《こう》義《ぎ》を聞かされたら、これはもう立《りつ》派《ぱ》な睡《すい》眠《みん》薬《やく》である。  亜由美は、それまでの経《けい》験《けん》から、眠《ねむ》気《け》がさして来ることは予期していたので、わざと後ろの方の席に着いた。案の定、講義が始まって十五分としない内に、ウトウトと瞼《まぶた》が上下一体となって、快《こころよ》い眠《ねむ》りに引き込《こ》まれていった……。  妙《みよう》な夢《ゆめ》を見た。  どこまでも暗い廊《ろう》下《か》が続く。そこを亜由美は歩いていた。押《お》し潰《つぶ》されそうな闇《やみ》の中なのに、前へ前へ、迷《まよ》いもせずに歩を進めて行くと、突《とつ》然《ぜん》、白いドアが現《あらわ》れた。  開けようと手をのばすが、ノブも、何もない。ただのっぺりと白い板なのである。  押《お》してみても、びくりともしない。拳《こぶし》を固めて、力一《いつ》杯《ぱい》ドアを叩《たた》くと、その音は、まるで寺の鐘《かね》の音のように、重々しく、向う側の、見えない空間へと響《ひび》き渡った。  ドアが不意に向う側へと開いて、そこに田村が立っていた。  「田村さん……」  亜由美はホッとしてドアの中へと足を踏《ふ》み入れた。田村は、あの披《ひ》露《ろう》宴《えん》のときと同じ、白いタキシード姿《すがた》だった。  「やあ、塚川君」  田村は微《ほほ》笑《え》んだ。「僕《ぼく》が信じられるのは、君だけだよ」  「そんなこと……」  亜由美は照れて肩《かた》をすくめた。  ふと、田村の白いタキシードの胸《むね》のあたりに赤いものが見えて、亜由美は最初赤いバラか何かでもつけているのかと思った。しかし、そのバラは、徐《じよ》々《じよ》に大きくなりつつあった。  違《ちが》う。——バラではない。  血が広がっているのだった。  「田村さん、胸《むね》に——」  亜由美はそう言いかけたが、血、という言葉を口にすることができなかった。  「え?」  田村はちょっと戸《と》惑《まど》ったような表情になったが、すぐに気付いて「ああ、これかい?大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》。何でもないんだよ。ほんのかすり傷《きず》でね。でも、このタキシードは貸《かし》衣《い》裳《しよう》だからな。弁《べん》償《しよう》しなきゃならないかな」  「そんなこと言っていいんですか?」  亜由美は気が気ではない。赤い血のしみがどんどん広がって、田村の上半身が、もう朱《しゆ》色に染《そ》まりつつあったのだ。  「うん、大丈夫なんだ。もういくら血を流しても死にはしないんだよ」  そう言うと、田村は、フフ、と軽く笑《わら》った。  「だって、もう僕は死んでるんだからね」  田村がメガネを外した。レンズが光っていて見えなかった目——いや、そこにはただ黒い穴《あな》があるだけだった。  全身、冷水を浴びたような思いで、亜由美は立ちすくんだ。逃《に》げようとしたが、動くことができない。  「塚川君」  田村の手がのびて来た。それはいつしか、ひからびたミイラのような手に変っていた。  「僕《ぼく》が信用しているのは、君だけなんだよ……」  「やめて!——向う行って!」  と、亜由美は叫《さけ》んだ。  「僕の友達は君だけなんだ……」  田村が口を開けて笑《わら》った。その口は、赤く、火のように燃《も》えていた。  「来ないで! やめて!」  「塚川君……」  「誰《だれ》か!——助けて!」  「塚川君……」  「おい、塚川君」  肩《かた》をつかむ手。——ハッと亜由美は頭を上げた。  有賀の顔があった。  講《こう》義《ぎ》が続いている。——亜由美は、何度か深《しん》呼《こ》吸《きゆう》した。  「大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》かい? 何だかうなされてたぜ」  亜由美は、手でそっと額《ひたい》に触《ふ》れてみた。汗《あせ》がふき出している。急いでハンカチを取り出し、拭《ぬぐ》った。  「ごめんなさい。夢《ゆめ》を見てて……」  「よっぽど怖《こわ》かったんだな」  「ええ……。生きた心地もしなかったわ」  亜由美は、あれが夢だったことを確《たし》かめるように、教室の中を見回した。  「大丈夫か? まだ真っ青だぜ」  「もう平気よ。ええと……後二十分か。少しはノート取らなきゃ」  「手《て》遅《おく》れだと思うけど」  と、有賀は笑った。  有賀の笑《え》顔《がお》を見て、亜由美は、やっと少し落ち着いて来た。全く、自分らしくもない、と思うのだが、夢《ゆめ》であんな思いをしたのは初めてだ。  夢が、田村の死を暗《あん》示《じ》していたような気がして、亜由美は、やはり気が重かった。  講《こう》義《ぎ》が終って、教室の中がざわついた。誰《だれ》か、事《じ》務《む》の女《じよ》性《せい》が入って来て、講《こう》師《し》へ話をしている。  「——塚川君。塚川亜由美君、いるかね」  講師に呼ばれて、亜由美は一《いつ》瞬《しゆん》、返事ができなかった。  「おい、君だぜ」  と、有賀につつかれ、  「あ——はい」  と、立ち上る。  「電話だそうだ」  「すみません」  亜由美は急いで教室を出た。事務の女性が待っていて、  「今ね、病院から電話があって——」  「病院?」  「お母さんは清美さんっておっしゃるの?」  「そうです」  亜由美の顔から血の気がひいた。  「事《じ》故《こ》に遭《あ》われたんですって。この病院へすぐ来てほしいって——」  メモを受け取る。教室の中へ戻《もど》る。教科書やバッグを手に取る。——いつの間にか、それだけのことをやっていたらしい。  気が付くと、校門の前で、有賀にタクシーの中へ押《お》し込《こ》まれていた。  「一《いつ》緒《しよ》に行こうか?」  「ありがとう。大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》よ。連《れん》絡《らく》するわ」  行先も、有賀がちゃんと運転手に告げておいてくれたらしい。タクシーが走り出すと、亜由美は、やっと少し頭が回転し始めるのを感じた。有賀の親切が、ありがたかった。  母の事《じ》故《こ》。——一体どうしたというのだろう?  ともかく出歩くのが好《す》きな人だ。車にでもはねられたのか。それとも……。  「何も考えない方がいい」  と、亜由美は呟《つぶや》いた。  ただ、どんなことがあっても、冷静に対《たい》処《しよ》するだけの心《こころ》構《がま》えをしておこう、と思った。  病院はかなり遠かった。タクシーは車のラッシュに巻《ま》き込《こ》まれ、なかなか進まない。苛《いら》々《いら》と、亜由美は窓《まど》の外を見ているばかりだった。  それでも、四十分ほどで病院に到《とう》着《ちやく》した亜由美は、ともかく、病院へと駆《か》け込《こ》んで行った。  受付の女《じよ》性《せい》の返事は一向に要《よう》領《りよう》を得《え》なかった。その挙《あげ》句《く》に、  「救急病《びよう》棟《とう》の方へ回って下さい」  とやられて、亜由美は怒《ど》鳴《な》りつけたいのを我《が》慢《まん》しながら、〈救急〉と書かれた矢印を辿《たど》って行った。  が、そこでも答えは曖《あい》昧《まい》で、  「ちょっと調べますから、お待ち下さい」  と、相手は立って行ってしまう。  亜由美は苛立ちながら、廊《ろう》下《か》を眺《なが》め回した。赤電話が目に付く。  「そうだわ」  父は知っているだろうか? まだここへ来ていないところを見ると、連《れん》絡《らく》が行っていないのかもしれない。  亜由美は、急いで父の会社へ電話を入れてみた。  「——何だ、亜由美か。どうした」  のんびりした父の声が伝わって来る。  「ね、お母さんが事故に遭《あ》ったの」  「何だと?」  「今、病院なのよ。まだ様子は分らないんだけど……」  「おい、ちょっと待て。いつ頃《ごろ》だ、それは?」  「さあ……。大学へ連《れん》絡《らく》が入ったの。一時間くらい前かな」  「そんな馬《ば》鹿《か》な」  「どうして?」  「俺《おれ》は五分前に家へ電話して、今夜は遅《おそ》くなると母さんへ言ったばかりだ。ちゃんとしゃべったんだぞ」  「ええ? 本当」  「いたずらじゃないのか。家へかけてみろ」  ——亜由美は、狐《きつね》につままれたような気分で家へ電話した。  「あら、亜由美なの? どうしたの?」  母の声が聞こえて来る。亜由美はポカンとしていたが、  「あ、あのね——何でもないの」  「え?」  「お母さん、元気?」  「ええ。元気よ。どうして?」  「良かったわね」  亜由美は電話を切った。きっと向うでは、母の清美も目を白黒させているに違《ちが》いない。  「——塚川さん」  受付の女《じよ》性《せい》が呼《よ》ぶ声がする。亜由美は、こっそり逃《に》げ出してしまった。  「全くもう!」  表通りへ出ると、亜由美は八つ当り気味に、声に出して言った。「どこのどいつだ一体!」  こんな悪《あく》質《しつ》ないたずらをするような知り合いは思いつかない。しかし、ともかく、実《じつ》際《さい》にいたずら電話はかかっているのだ。  亜由美はムシャクシャするので、目についたフルーツパーラーに飛び込《こ》んで、思い切り甘《あま》いものを食べることにした。あまり理《り》論《ろん》的な解《かい》決《けつ》法とは言えないが、実《じつ》際《さい》、精《せい》神《しん》的《てき》ストレスの解消にはいい方法なのである。  フルーツパフェを平らげ、ケーキを二個《こ》お腹《なか》へ入れて、やっと落ち着くと、亜由美は、これが本当に単なるいたずらだったのだろうか、と考えてみた。  もしかすると、何かの目的があって、亜由美をおびき出したのかも……。もっとも、おびき出しても何もなかったわけだが。  アイスコーヒーのコップを、亜由美はテーブルに戻《もど》した。  「そうだ、いけない!」  桜井みどりと、部室で会うことになっていたのだった。——もう遅《おそ》いだろうか?  亜由美は、大学へ戻ってみることにした。みどりの様子では、かなり重要な話のようだった。  亜由美は急いでアイスコーヒーを飲み干《ほ》すと、店を出て、タクシーを拾った。大学までではなく、近くの駅までタクシーで行こうと思ったのである。  学《がく》生《せい》探《たん》偵《てい》には、経《けい》済《ざい》的《てき》制《せい》約《やく》も大きいのだ。  「駅まで」  と、言って座《ざ》席《せき》に落ち着いてから、ふと、ある疑《ぎ》念《ねん》が頭をもたげて来た。  もしかすると、いたずら電話の目的は、自分をみどりと会わせないようにすることだったのではないか。——まさか、とは思ったが、一《いつ》旦《たん》そう思い始めると、それに違《ちが》いないという気がして来る。  「あの——」  と、大学まで直《ちよく》接《せつ》行ってもらおうかと身を乗り出したが、車が混《こ》めば、却《かえ》って遅《おく》れる、と思い直した。  窓の外を見ると、良く晴れていた空に、今は雲が出ているのか、少し暗くなりかけていた。——亜由美は、いやな予感がして、眉《まゆ》をくもらせた。 ありえない殺人  大学へ駆《か》け込《こ》んだときは、もうキャンパスは閑《かん》散《さん》としていて、運動部のトレーニング姿《すがた》がチラホラ目に付く程《てい》度《ど》だった。  亜由美は、校《こう》舎《しや》のわきの歩道を急いだ。  校舎の裏《うら》手《て》に、クラブ用の棟《むね》が一つ、別になっていて、中に全部のクラブが入っていた。  三階建の、一《いち》応《おう》鉄《てつ》筋《きん》のしっかりした建物で、今も、いくつかの窓《まど》に、明りが見えている。  亜由美はあまりクラブ活動というのが好《す》きではない。別に嫌《きら》いというわけでもないのだが、先《せん》輩《ぱい》だ、後輩だとやたらうるさかったり、合宿だの何だのと時間を取られるのがやり切れなかったのである。  だから、そういう拘《こう》束《そく》の少ない研究会にだけ所《しよ》属《ぞく》していた。もっとも、研究会だから、部室というものはない。いつも歴史部の部室を借りて、使っているのである。  亜由美は、クラブ棟《とう》の中へ入って行った。歴史部の部室は三階にある。階《かい》段《だん》を上って行くと、どこの部屋からか、女の子たちがキャッキャ笑い合う声が響《ひび》いて来た。  二階から三階へ上りかけると、上から、五、六人の女の子たちが降《お》りて来るのに出くわした。  「あら、亜由美」  と、一人が足を止めた。  神田聡《さと》子《こ》といって、亜由美と高校で一《いつ》緒《しよ》だった子である。  「何だ、聡子。クラブ?」  「うん」  聡子は社会科学のクラブに入っていて、やはり部室が三階にあるのだ。  「ね、亜由美」  と、聡子が言った。「もしかして桜井さんと約《やく》束《そく》?」  「そう」  「さっきから苛《いら》々《いら》して、出たり入ったりしてたわよ」  「まだいる?」  「うん、いるよ」  「良かった!」  亜由美はともかくホッとした。まだいてくれさえすれば、事《じ》情《じよう》は説明すれば分ってくれるだろう。  「じゃ、聡子、またね」  と、すれ違《ちが》って上って行く。  「——あ、そうだ、亜由美!」  聡子が追いかけて来た。聡子は、かなり太目、かつ重量級なので、もう、息を切らしている。  「何なの?」  「同《どう》窓《そう》会《かい》のこと、連《れん》絡《らく》あった?」  「知らない」  「あら、変ね。だって、井上君からさ、この間電話あったのよ」  「あの人、いい加《か》減《げん》だもの」  二人は、廊《ろう》下《か》を歩きながらしゃべっていた。——階《かい》段《だん》を上ったすぐ右手の突《つ》き当りが、聡子の所《しよ》属《ぞく》する社会科学部の部室なのである。その前に、ずっと廊下がのびていて、右手にドアが並《なら》んでいる。  奥《おく》から二つ目のドアが、〈歴史部〉の部室だった。  「——ともかく同窓会なんて出る気ない」  と、亜由美は言いながら、ドアをノックした。  「私も出たくないんだけどさ、私の彼《かれ》氏《し》、井上君の友達なのよね」  と聡子が言って、肩《かた》をそびやかした。「まあいいや。じゃ、またね」  「うん。——桜井さん」  亜由美はもう一度ノックした。返事がない。  「変ね。いるはずよ」  聡子が行きかけて、また戻《もど》って来る。  亜由美はドアを開けた。  「桜井さん……」  部室は、明りが点《つ》いていた。細長い、四角の部屋で、入ってすぐ正面に、衝《つい》立《たて》があり、その向うに、古ぼけたソファやテーブル。そしてその奥《おく》は、ただもう雑《ざつ》然《ぜん》とした物《ヽ》置《ヽ》になっていた。  衝立といっても、スチール製《せい》の、肩《かた》までぐらいの高さ。部屋の、真正面には窓《まど》があり、そこに、ドアの方へ背《せ》を向けて立っている桜井みどりの姿《すがた》が見えた。  「桜井さん。すみません、遅《おそ》くなっちゃって」  と、亜由美は声をかけた。  桜井みどりは、じっと窓に向って立ったまま、身動き一つしない。——怒《おこ》ってるのかな、と亜由美は思った。  「変な電話があった。それで……」  亜由美は衝立を回って、桜井みどりの方へ歩いて行った。「ね、桜井さん」  近付いてみて、何となく変だ、と亜由美は思った。みどりは窓に向って立っているのではなかった。窓の方へもたれかかるようにしている。両手はダラリと垂《た》れていた。  「桜井さん」  亜由美は声をかけてみた。  「立ったまま寝《ね》てるんじゃない?」  衝《つい》立《たて》越しに眺《なが》めていた聡子が笑《え》顔《がお》で言った。だが、亜由美はとても笑う気分ではなかった。  「ねえ——」  と手を桜井みどりの肩《かた》へのばしかけて、亜由美はふと視《し》線《せん》を足下へ落とし、ギョッとした。  みどりの足下に、赤い池が広がっていた。  ——血だ。血《ち》溜《だま》りだ。  亜由美はよろけそうになって、思わず、みどりの肩へ手を触《ふ》れた。  みどりはゆっくりと後ろ向きに倒《たお》れて来た。床《ゆか》に大の字になって倒れたみどりの、虚《うつ》ろな目が、亜由美をじっと見上げる。  みどりの胸《むね》から腹《はら》にかけて、ブラウスは朱《あけ》に染《そ》まっていた。  亜由美が悲鳴を上げずに済《す》んだのは、その光景が、講《こう》義《ぎ》中に見たあの夢《ゆめ》——田村の夢を一《いつ》瞬《しゆん》連想させ、そのことの方に、注意をひかれたせいだろう。  その代り、背《はい》後《ご》でドスン、と音がして、亜由美は飛び上った。振《ふ》り向くと、衝立が部屋の中へ向って倒れていて、聡子がその場にヘナヘナと崩《くず》れ落ちるところだったのである。    「——何も知らんはずはないだろう」  その刑《けい》事《じ》は、まるで亜由美が犯《はん》人《にん》であるかの如《ごと》く、脅《おど》しつけるような声で言った。  そうなると、却《かえ》って反《はん》抗《こう》したくなるのが亜由美の性《せい》質《しつ》である。  「知らないものはしようがないでしょう!」  とやり返した。  「ここでこっそり待ち合せて何をやる気だったんだ? 麻《ま》薬《やく》か、マリファナか、それとも、君らは恋《ヽ》人《ヽ》同《ヽ》士《ヽ》だったのか?」  亜由美の、手が先に出るという癖《くせ》が、また発《はつ》揮《き》されようとした。が、そこへ、  「おいおい」  と、おっとりした声がかかって、亜由美の手は止ってしまった。「——証《しよう》人《にん》を犯人扱《あつか》いは気の毒じゃないか」  「殿永さん!」  と、亜由美は思わずホッとしながら、言った。  殿永部長刑事——あのハンバーガーショップへトラックが突《つ》っ込《こ》んだ一《いつ》件《けん》で、亜由美の家へやって来た刑事である。  「あ、殿永さん……どうも」  若《わか》い刑《けい》事《じ》は、ちょっと頭をかいて、  「この娘《むすめ》、ご存《ぞん》知《じ》ですか」  「うん。他の件《けん》で大変役に立ってくれた人だ。そんな怪《あや》しい女《じよ》性《せい》じゃないよ」  「どうも、存じませんで」  呆《あき》れるほど、ケロリと変って、亜由美は腹を立てるのも忘《わす》れていた。  「——大変ですね」  と、殿永は、のんびりと言った。「事《じ》件《けん》のことを小耳に挟《はさ》みましてね。大学の名前を聞くと、あなたの通っている大学だ。詳《くわ》しく聞いてみると、あなたが死体の発見者だと分りましてね。びっくりしてやって来たんです」  殿永は、死体の方へ歩いて行き、しばらく眺《なが》めていたが、軽く首を振《ふ》って、戻《もど》って来た。  「まだ若いのに気の毒なことですな」  「クラブの先《せん》輩《ぱい》なんです」  「ここで待ち合せを?」  「ええ。何か話があるっていうことだったので…‥」  「殺されるような、理由に心当りは?」  「ありません」  と、亜由美は言った。  どこまで、殿永に話すべきだろうか? あのいたずら電話のこと、みどりが、武居のことについて言った言葉……。  「でも変だわ」  やっと落ち着きを取り戻した様子の、聡子が言った。  「何が?」  と殿永が顔を向ける。  「私たち、社会科学部の部室で、話をしてたんです。私と——部員、四人。その間、ドアは開けてありました。閉《し》めると、あそこは風通しが悪く、暑いもんですから」  「ちょっと——ちょっと待って下さい」  と殿永は制《せい》して、「どこのドアです?」  「廊《ろう》下《か》の突《つ》き当りです」  と、聡子は言って、廊下へ出た。  亜由美も殿永もそれについて出て行く。  「あの正面の、階《かい》段《だん》のわきのドアです」  と、聡子が指さしながら言った。  「あれが開けてあったわけですね」  と、殿永が訊《き》いた。  「そうです」  「どれくらい? 細くですか、それとも一《いつ》杯《ぱい》に」  「半分くらい……かな」  「やってみましょう」  殿永は、その肥《ひ》満《まん》体《たい》の体からはちょっと想《そう》像《ぞう》できないような身軽さで、歩いて行った。  聡子は、社会科学部の部室のドアを、三分の二くらい開けた。  「これぐらいだったと思います」  「なるほど。中には五人いたわけですね」  部屋の明りが点《つ》くと、中央に、集められた五つの椅《い》子《す》が目に入った。「——これに座《すわ》っていたんですか?」  「そうです」  「あなたの席は?」  「ちょうどドアの正面です」  「座ってみて下さい」  聡子は、開いたドアから、廊下を真直ぐに見通す席に座った。  「あ、ドア、もうちょっと開けて下さい。——それくらいです」  「私に座らせて下さい」  殿永は、聡子と代った。それから、他の椅子にも一つずつ座って、  「——この二つの席からは、少なくとも廊下がいつも見えていたわけですね」  「ええ。だから妙《みよう》なんです」  と、聡子は言った。「誰《だれ》もあの部屋へ入った人なんかいないんですもの」  「確《たし》かですか?」  「ええ。——誰かが階《かい》段《だん》を上って来れば、ドアのすぐ前に出て来るでしょ。目に入らないはずがないし、その後、ずっと廊《ろう》下《か》を歩いて奥《おく》から二番目のドアまで行くのに、全然こっちが気付かないなんてことはありません」  「ふむ……」  殿永は腕《うで》組《ぐ》みをした。  亜由美も、聡子の席に座《すわ》ってみた。確かに、特《とく》別《べつ》廊下を注意していなくても、誰かが来ればすぐ気付くに違《ちが》いない。  「席を立ったことはありませんか?」  と、殿永が訊《き》く。  「ありません。二時間ぐらいですもの。一人もトイレに立たなかったし……」  「どうも——こいつは難《なん》題《だい》だな」  殿永が頭をかく。  「もとから犯《はん》人《にん》が部屋の中にいたとしたら?」  と、亜由美は言ってみた。  「でも、私たちの方が、桜井さんより早かったのよ」  と聡子は首を振《ふ》って、「ここで話を始めて、十分ぐらいしてから、桜井さんが上って来たの。そして、あの部屋の鍵《かぎ》を開けていたわ」  「中に隠《かく》れていたとか……」  「でも、少なくとも、三回は廊下に出て来たわ。何かこう……苛《いら》々《いら》してる感じで、階段の所まで来て下を覗《のぞ》いたりしてたわ」  「何か話をした?」  「いいえ。でも、一度、『遅《おそ》いなあ』って呟《つぶや》くのが聞こえたわ」  「そうなると……」  殿永はそっと顎《あご》を撫《な》でた。「あの部屋には、そんなに長い間、一人の人間が隠《かく》れていられるほどのスペースはありませんでしたね」  「ええ、不《ふ》可《か》能《のう》だと思います」  と、亜由美は言った。「他の部室に隠れていたとは考えられませんか?」  「それを考えていたのです」  と殿永は肯《うなず》いて、廊《ろう》下《か》へ出ると、ドアの一つ一つを調べて行った。  「全部鍵《かぎ》がかかっていますね。——鍵はどこにあるんですか?」  「ええと……確《たし》か、事《じ》務《む》室《しつ》です。校《こう》舎《しや》の方にあるんです」  「だけど——」  と、聡子がいぶかしげに言った。「他の部室に隠れてたとしたって、い《ヽ》つ《ヽ》、やったっていうの?」  「聡子さんたちが階《かい》段《だん》を降《お》りかけて来たわね。上って来る私と出会って……」  「すぐ一《いつ》緒《しよ》に上って来たわ。その間に、桜井さんを殺すなんてこと、できっこないわよ」  「そうね。それに、たとえ殺せたとしても、逃《ヽ》げ《ヽ》ら《ヽ》れ《ヽ》な《ヽ》い《ヽ》わ《ヽ》」  「これらの部屋は全部調べさせましょう」  と殿永は言った。「だが、妙《みよう》な話ですね、これは」  本当に、と亜由美は思った。これは、推《すい》理《り》小説でよく言うところの、〈密《みつ》室《しつ》状《じよう》況《きよう》〉の一つということになる。  もちろん、歴史部の部室のドアに、鍵はかかっていなかった。しかし、犯人は、聡子たちの目に触《ふ》れずに、あの部屋へ出入りできなかったはずなのである。  「殿永さん」  と、さっきの意地の悪い刑《けい》事《じ》がやって来て声をかけた。「検《けん》死《し》官《かん》とお話になりますか」  「ああ、そうしよう」  殿永は肯《うなず》いて、現《げん》場《ば》へ戻《もど》った。  亜由美と聡子は、廊《ろう》下《か》に残って、何となく顔を見合せた。  「えらいことになったわね」  と、聡子は言った。  「本当にね」  と亜由美は同意したが、本当に、どんなに『えらいこと』になっているか、聡子には想《そう》像《ぞう》もつくまい、と思った。  みどりが殺されたのは、田村の行方不明、そして武居が狙《ねら》われたとみられる、あのハンバーガーショップの事《じ》件《けん》と、どこかでつながっているに違《ちが》いないのだ。  こんなややこしいことになるなんて! 亜由美はため息をついた。  「でも、大学の中で殺人なんて」  と聡子は、ちょっと目を輝《かがや》かせて、  「スリルがあるじゃない?」  亜由美とて、第三者ならば、そう思ったかもしれないのだが……。  部室へ戻ると、中の捜《そう》索《さく》が徹《てつ》底《てい》的《てき》に行われていた。殿永が二人の方へやって来た。  「——刃《は》物《もの》でやはり一《ひと》突《つ》きですね。凶《きよう》器《き》は見当らない。窓《まど》もしっかり閉《しま》っています。どうも殺人者は、煙《けむり》の如《ごと》く消え失《う》せたようですね」  殿永の言葉は、推《すい》理《り》小説の中で、名《めい》探《たん》偵《てい》が吐《は》くセリフを思わせて、亜由美は少々不《ふ》謹《きん》慎《しん》ながら、笑《え》みを浮《う》かべてしまった。  「これで、凶器も見当らない、他の部屋からも手がかりが出ないとなると、どういうことになるんですか?」  聡子は、胸《むね》をわくわくさせているようだ。  「さあ、私にも分りませんな」  殿永は、至《いた》ってのんびりと言った。聡子は少々がっくり来た様子で、不服そうに口を尖《とが》らした……。  「——どうしたの、一体?」  さすがに、呑《のん》気《き》な母の清美が玄《げん》関《かん》まで飛び出して来た。  それはそうだろう。もう夜の十一時を回っているのだから。  「何かあったの?」  「うん、ちょっと警《けい》察《さつ》でね」  説明するのも面《めん》倒《どう》で、亜由美は居《い》間《ま》へ入って行った。しかし、『警察で』と聞かされて、  「ああ、そう」  と安心する親は少なかろう。清美も心配そうについて来て、  「どうしたの? 何やったの、一体?」  「殺《さつ》人《じん》事《じ》件《けん》」  亜由美が大欠伸《あくび》をして、「お腹《なか》空《す》いた! 何か食べさせてよ」  「お前が殺したの?」  「まさか。だったら、帰って来られるわけないでしょ」  清美も、これで納《なつ》得《とく》したらしく、台所の方へと姿《すがた》を消した。  納得、と言えば、亜由美としても、どうにも納得できないことがあった。いや、密《みつ》室《しつ》状《じよう》況《きよう》の謎《なぞ》などではない。  今まで警察に引きとめておかれ、しかも、住所、氏名などを訊《き》かれただけで、帰っていいと言われたのだ。  桜井みどりとの関係、何の用で待ち合せていたのか。——そういったことを、しつこく、根掘り葉掘りイモ掘り(?)訊かれるに違《ちが》いないと覚《かく》悟《ご》していたのだが、担《たん》当《とう》刑事は、亜由美に何も訊かない。  訊かれなくてホッとしたのも事実である。亜由美としては、何をどこまで話していいものやら、決心をつけかねていたのだから。  しかし、やはり気になった。なぜ、何も訊《き》こうとしなかったのだろう?  ふと、亜由美は、あの、おっとりした殿永刑《けい》事《じ》の顔を思い出した。——もしかすると、あの人が、そう指《し》示《じ》したのかもしれない。それなら目的は?  ここでまた行き詰《づ》まってしまうのだ。ともかく、まともではない。何か、意図があるのだ……。  電話が鳴った。  「はい、塚川です」  と亜由美が出る。  「亜由美さん? 僕《ぼく》は武居だけど」  「まあ、どうも——」  「すっかり失礼しちゃったね。実は、色々と話したいこともあって、一度会えないかな」  「構《かま》いませんけど……」  「もっと早く、と思っていたんだけどね、ともかく、あの後が大変で……」  「そうでしょうね」  「じゃ、今度の週末は?」  「今のところは……」  「バレエの公《こう》演《えん》があるんだ。いや、うちのホテルがそのバレエ団の宿になってね、その関係で、いい席が手に入るんだよ」  「それじゃぜひ」  本当のところ、亜由美はあんまりバレエには詳《くわ》しくないのだが、ともかく武居に会って、ドイツでの捜《そう》査《さ》の様子などを訊《き》きたかったのである。  「何を踊《おど》るんですか?」  と亜由美が訊く。  「〈白鳥の湖〉だよ」 食《しよく》卓《たく》の対話  幕《まく》間《あい》のロビーは、着《き》飾《かざ》った人々でごった返していた。  それでも、NHKホールは文化会館より大分ましである。寛《くつろ》ぐという場所はないが、一《いち》応《おう》広いから、立ち話ぐらいはできる。  「——退《たい》屈《くつ》じゃない?」  と、武居が粋《いき》なスーツ姿《すがた》で立っている。  「いいえ、ちっとも」  多少は正直なところで、亜由美はそう答えた。亜由美とて〈白鳥の湖〉ぐらいは知っている。  「——色々話はある」  と、武居は言った。「しかし、今はやめとこう。場所にふさわしい話っていうものがあるからね」  「そうですね」  亜由美も、今日はちょっと気取って、思い切り上等なスタイルでやって来た。  もちろん中にはジーパンスタイルの女の子もいる。  「最近はヨーロッパのオペラ劇《げき》場《じよう》なんかも、同じようなものさ」  と武居は言った。「日本人が固まって座《すわ》っている。居《い》眠《ねむ》りする奴《やつ》もいる。アメリカ人は客席で平気でフラッシュをたく……。しかし、そういう客が全部いなくなったら、それこそオペラは潰《つぶ》れちまう」  「本当に好《す》きな人には、苦《にが》々《にが》しいでしょうねえ」  「たぶんね。——日本はその点気が楽《らく》さ」  「来て良かったわ」  と、亜由美はバッグを持った手を後ろに組んで、ゆっくりとロビーを歩いた。  「そう言ってもらえると嬉《うれ》しいね」  「いやなことが続き過《す》ぎるんですもの」  「ああ、そうだ」  と、武居は思い付いた様子で、「君の通っている大学で人殺しがあったんだねえ」  「ええ。クラブの先《せん》輩《ぱい》なんです」  「へえ。身近にそんなことがね……」  「武居さんもご存《ぞん》知《じ》のはずですよ」  「僕《ぼく》が?」  「あの披《ひ》露《ろう》宴《えん》に出ていたんです」  「じゃ、君にひっぱたかれたとき、隣《となり》に座《すわ》ってた……。あの子かい? それは知らなかったなあ」  もしこれが演《えん》技《ぎ》なら、武居は名《めい》優《ゆう》に違《ちが》いない。反《はん》応《のう》はごく自然だった。  「犯人はまだ捕《つか》まらないんだね」  「ええ。そうらしいです」  「大学の中で殺人か。キャンパスも平和じゃなくなったね」  亜由美は、表《おもて》玄《げん》関《かん》の近くまで来て足を止めた。——外で、有賀君、待っていてくれるかしら?    「デートなのよ、明日」  大学の帰り道、亜由美はスパゲッティの店で、有賀に会っていた。  「へえ。僕なら時間あるぜ」  「良かった!」  「じゃ、どこに行く?」  「間《ま》違《ちが》えないで。相手は武居さん」  「あのにやけた野《や》郎《ろう》かい?」  有賀はつまらなそうな顔になった。  「そうむくれないでよ」  と、亜由美は笑《わら》って、「田村さんのことが気になるじゃない。会って話を聞きたいのよ。新聞や週《しゆう》刊《かん》誌《し》じゃ、どこまで正《せい》確《かく》な話か分らないもの」  「話だけかい?」  「食事ぐらいするかもね」  「何食べるんだ?」  「そんなことまで分るわけないでしょ」  「せいぜいスパゲッティぐらいでやめとけよな」  有賀は、やけになってスパゲッティを大量に口へ放り込み、目を白黒させた。  「ねえ、有賀君、もう一度頼《たの》まれてくれない?」  「何を? また見《み》張《は》りはいやだよ」  「見張りなんて頼まないわよ」  「じゃ何だ?」  「監《かん》視《し》よ」  「同じじゃないか!」  有賀は、笑《わら》い転《ころ》げる亜由美をにらみつけていたが、その内、一《いつ》緒《しよ》になって笑い出してしまった。  「参ったよ、塚川君には」  「じゃやってくれる? ありがとう。——あの人、桜井さんの事《じ》件《けん》にも関係してるかもしれないのよ」  「どういう意味?」  亜由美は、桜井みどりが武居のことを口にしていたことを教えてやった。  「そしてあのいたずら電話。——ね? どうも怪《あや》しいでしょ?」  「武居が犯《はん》人《にん》だよ、決ってる!」  「待ってよ。あわてないで。だからこそ、監視を頼んでるんじゃないの」  「そういうことなら」  と有賀は腕《うで》まくりする真《ま》似《ね》をして、  「任《まか》せといてくれ! 危《あぶな》いときは逃《に》げ出すから」  どこまで真《ま》面《じ》目《め》なのかよく分らないのが、亜由美の世代なのである。  「塚川さん、ここでしたか」  聞き憶《おぼ》えのある声にびっくりして顔を上げると、殿永部長刑《けい》事《じ》の、大きな体が立っていた。大きいくせに、なぜか目立たないというか、控《ひか》え目《め》な存《そん》在《ざい》なのである。  「殿永さん。——私にご用なんですか?」  「ええ。大学へ行ったら、もう帰ったところだということで、歩いて来るとあなたの顔が外から見えたものですからね」  殿永は、席につくと、スパゲッティの大《おお》盛《もり》を頼《たの》んで、「少し減《げん》量《りよう》せんといかんので、一日三食に減《へ》らしとるんです」  と言った。  「以前は何食だったんですか?」  「五食ぐらいでしたかね、平《へい》均《きん》すると」  太るはずだ。——亜由美は、  「何か分りましたか?」  と訊《き》いてみた。  「どうもねえ……。あのハンバーガーショップに突《つ》っ込《こ》んだトラックの一《いつ》件《けん》はさっぱりです。現《げん》場《ば》の混《こん》乱《らん》で、誰《だれ》も運転していた人間を見ていない」  「エンジンキーは?」  「運転手が持っていたんです。しかし、どうやったか、ちゃんとエンジンをかけている」  殿永は水をコップ一《いつ》杯《ぱい》、一気に飲み干《ほ》すと、「武居さんが狙《ねら》われたとして、どんな動機が考えられるでしょう?——そこで、例の、あなたの先《せん》輩《ぱい》の一件が気になりましてね」  「先輩の……」  「田村さんが行方不明になった件です。向うへ問い合せてみましたが、新しい事実は出ていないようですよ」  「上《うわ》衣《ぎ》の血は?」  「田村さんのものかどうか、判《はん》別《べつ》できなかったそうです。何しろ、かなりひどく汚《よご》れていたらしいので」  「じゃ、死んだとも限《かぎ》らないんですね?」  「死んだものと向うの警《けい》察《さつ》はみています。だから、これからもあまり新しい発見は期待できませんね」  「そして今度の——」  「そうです。桜井みどりさんが殺された」  スパゲッティがやって来た。殿永は、豪《ごう》快《かい》な食べっぷりを見せながら、  「食べながらで……失礼します。桜井さんの身辺、あれこれ調べてみましたが、どうも殺意を抱《いだ》くほど恨《うら》んでいた人間はいないらしいのです」  「私もそう思います」  「彼女《かのじよ》は、田村さんの結《けつ》婚《こん》式《しき》に出ていたそうですね」  「ええ、一《いつ》緒《しよ》に出ました」  「この三つの事《じ》件《けん》。田村さんの失《しつ》踪《そう》、武居さんが殺されかけ、桜井みどりさんが殺された。——何か関連がありそうですね」  「どんな関連が?」  「それは分りません」  と、殿永は首を振《ふ》った。  大《おお》盛《もり》のスパゲッティは、もう半分以上、消えて失くなっていた。  「しかし、三つの事件が偶《ぐう》然《ぜん》にこうたて続けに起るというのは妙《みよう》だと思いませんか。やはり関連があるとしか思えない」  「私もそう思います」  「塚川さん、武居という人と、個《こ》人《じん》的なお付合いはおありですか?」  「あ、あの——それは——」  と亜由美はためらったが、あまり隠《かく》しておくのもどうかと思った。「明日からある予定なんです」  亜由美はそう答えた。    「さあ、第三幕《まく》だ」  と、チャイムが鳴り渡《わた》るのを聞いて、武居は言った。「一番華《はな》やかなところだよ」  「楽《たの》しみだわ。あんまり詳《くわ》しくはないんですけど」  と、亜由美は一緒に席の方へ戻《もど》りながら言った。  「確《たし》か黒鳥の踊《おど》りがあるんでしたね」  「うん。一番の見せ場でね。同じ人が踊《おど》るんだけど、衣《い》裳《しよう》が白から黒になると、急に雰《ふん》囲《い》気《き》が変る」  席について、広いホールの中を見《み》渡《わた》す。客がゾロゾロと戻《もど》り始めていた。  「白鳥とそっくりな黒鳥に、王子がだまされる……」  亜由美は呟《つぶや》いた。  「何か言った?」  「いいえ、別に」  ——あの花《はな》嫁《よめ》は、そっくりな別の女だ。  白鳥と黒鳥のように、か。  「淑子さんはもう大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》なんですか?」  と、亜由美は訊《き》いてみた。  「淑子さん? ああ、もう大分元気になったようだ。と言っても、ショックで寝《ね》込《こ》んでいたのが、起き出して来たということだがね」  「今、どこに?」  「別《べつ》荘《そう》だ。何しろ、新《しん》婚《こん》旅行で夫が失《しつ》踪《そう》、しかも大《だい》企《き》業《ぎよう》の社長令《れい》嬢《じよう》と来てる。週《しゆう》刊《かん》誌《し》などには、絶《ぜつ》好《こう》のネタだからね」  「いいですね、隠《かく》れる別荘がある人は」  「全くだな」  と、武居は笑《わら》った。「確《たし》か増口さんは、十何か所か、別荘を持っているはずだよ。一つ一つ歩いても、当分は姿《すがた》を隠していられるからね」  「一つぐらい分けてくれないかな」  と、亜由美は冗《じよう》談《だん》めかして言った。「武居さん、淑子さんとゆっくり話しました?」  「いや、連れて帰る間は、ほとんど口もきかなかったからね。——家へ入ってしまってからは、一度会ったきりだ。それも、ちょっと挨《あい》拶《さつ》を交わしたくらいでね」  本当に、あの花嫁は別の女なのか。増口淑子と良く似《に》た誰《ヽ》か《ヽ》なのだろうか?  ——華《はな》やかに、舞《ぶ》踏《とう》会《かい》の幕《まく》が上った。    ギターを鳴らしながら、イタリア人が、亜由美たちのテーブルへやって来た。  亜由美のよく知らない、甘《あま》いメロディのカンツォーネを歌うと、武居が千円札《さつ》を小さくたたんで、ギターの中へ入れた。  「——ワインはどう?」  「もう結《けつ》構《こう》です。酔《よ》っ払《ぱら》っちゃいそう」  亜由美は、息をついた。肝《かん》心《じん》の話が終らないうちに、酔ってしまっては困る。  「武居さんはどう思います?」  と亜由美は訊《き》いた。  「どうって?」  「田村さんは死んだんでしょうか?」  「何とも言えないね」  と、武居は首を振《ふ》った。「ヨーロッパは地続きで、それこそ、色々な犯《はん》罪《ざい》組《そ》織《しき》が動き回っている。日本人の旅行者は無《む》邪《じや》気《き》だからね、よく簡《かん》単《たん》に引っかかって、行方不明になるんだよ」  「でも、男の人が——」  「金を持ってるとね。しかし、そう金を持って出たとも思えないが」  「田村さんは、たとえお金を持って出ても、それを見せびらかす人じゃありませんよ」  「そうだね。僕《ぼく》も同感だ」  「およそ狙《ねら》われるタイプじゃないと思うんだけどなあ」  「あれが偶《ぐう》発《はつ》的《てき》な事《じ》件《けん》じゃないとしたら? どう思う?」  「理由があって、田村さんが殺された、っていうことですか?」  「うん。——あの怪《かい》電《でん》話《わ》が気になってしかたないんだ」  「フィアンセが死んだ、という……」  「そう、まさかと思うが、もし本当に淑子さんが……」  その先は、武居は口にしなかった。  「もし、淑子さんと見分けがつかないくらいそっくりな人がいたとして、入れ替《かわ》ったら、騙《だま》し通せるでしょうか?」  と亜由美は言った。  「大《だい》胆《たん》な仮《か》定《てい》だね」  武居は、苦《く》笑《しよう》しながら言ったが、意外そうな様子は全く見せなかった。ということは、おそらく武居自身もそう考えたことがあるのだろう、と亜由美は思った。  「まず不《ふ》可《か》能《のう》だね」  しばらく間を置いてから、武居は言った。「普《ふ》通《つう》なら」  「普通なら、ということは…‥あの増口家では?」  「あの家は普通じゃない」  と武居は言った。「ただ金持だというだけでなく、変ってるんだ。増口さんは金持に珍《めずら》しく、あまり女を作るとか、囲うとかいうことをしない。要するに、そんなことのために金を使う気がしないんだな」  「じゃ、真《ま》面《じ》目《め》人間なんですか、あの人?」  「あの人の愛人は仕事だね」  と、武居は言った。「ベッドに入っていても、食べていても風《ふ》呂《ろ》につかっていても、仕事のことを考えている」  「そんな風にも思えませんわ」  「自分がコマネズミのように働くというわけじゃない。しかし頭の中は仕事のことだけで一《いつ》杯《ぱい》さ」  と武居は言って、「——これがどういう結《けつ》果《か》を招《まね》くか分るだろう」  と、亜由美の顔を見た。  「奥《おく》さんのノイローゼ」  「そう。いや、ノイローゼだったのは、ほんの一年くらいでね。夫が『仕事』という好《す》きなことをしてるのなら、私も好きなことをします、というわけで、遊び狂《くる》ったんだ」  「というと……」  「初めの内は、旅行、買物くらいだったのが、その内、お定まりのコースで……」  「男ですか」  「まあ同《どう》情《じよう》すべき余《よ》地《ち》もあるけどね、あのご主人では。——いや、増口さんは、そりゃ経《けい》営《えい》者《しや》としては一流だよ。しかし、夫としてはね」  「で、家を放ったらかしっていうわけですね」  「むしろ、たまに家へ帰って来るんじゃないかな」  「分りました」  と亜由美は肯《うなず》いた。「つまり、ご両親のどっちも、めったに娘《むすめ》の淑子さんと顔を合せなかったというわけですね」  「そうなんだ。普通の家庭では、とても考えられないことだがね」  「じゃ、たとえば入れ替《かわ》っても分らないとか——」  「それはどうかな。可《か》能《のう》性《せい》として、ないことはない。しかし、現《げん》実《じつ》には、大勢使用人もいて、毎日淑子さんの顔を見てるわけだからね。そう簡《かん》単《たん》にはいくまい」  「それに、そんなに淑子さんと似《に》た人を見付け出すのが大変でしょう。美人ですものね」  「それに、目的だ。なぜそんなことをする必要があるのか」  「財《ざい》産《さん》とか……」  「相続となれば色々大変だよ。それに増口さんは奥さんも元気で、死にそうもないからねえ」  「じゃ、やっぱり怪《かい》電《でん》話《わ》はただのいたずらで——」  「その可能性は強い。しかし、ごくわずかだが、そうでない可能性もあるということだ」  亜由美は、ちょっと考え込んでから、言った。  「武居さん。殺された桜井みどりさんと会って話をしたことはありません?」  「僕《ぼく》が? いいや」  武居は目を見開いて、「どうしてそんなことを?」  と訊《き》き返して来た。  「いえ……。彼女《かのじよ》が、ちょっと武居さんを知っているようなことを言ったんで」  「それは妙《みよう》だね。——僕は全然知らないよ」  武居はワイングラスを取り上げた。そのグラスは空だった。そのあわてた様子は、何となく武居に似《に》合《あ》わない、と亜由美は思った。  「おい、武居じゃないか」  と声がかかった。同《どう》年《ねん》輩《ぱい》の、やはりサラリーマンらしい男が、店へ入って来たところだった。  「何だ、またお前か」  武居は、ちょっと顔をしかめた。  「よく会うな。ええ?」  少しアルコールの入っているらしい、その男は愉《ゆ》快《かい》そうに、「相変らず来てるね。今度はまたこの間と違《ちが》う子じゃないか」  「そんなんじゃないんだ」  「隠《かく》すなよ。——お嬢《じよう》さん、気を付けなさいよ。こいつは若《わか》い娘《むすめ》が趣《しゆ》味《み》だからね」  「おい——」  と武居が少し気《け》色《しき》ばむ。  「冗《じよう》談《だん》だよ。じゃ、また会おうぜ」  と、奥《おく》の席へと歩いて行く。  「お友達ですか」  と、亜由美は言った。  「大学時代の悪友でね。——出ましょうか」  武居は立ち上った。  何だかあわてている、と亜由美は思った。  武居がカードで支《し》払《はら》いを済《す》ませている間に、亜由美は店の表に出た。  この間と違う子、とあの男の人は言った。武居は、同じくらいの年《ねん》齢《れい》の娘を連れて来ていたのだろうか。  もしかして——桜井みどりとか……。  「やあ、待たせたね」  武居が出て来た。  「ごちそうになりまして」  「いや、そんなこといいんだ。——どう、ちょっと一《いつ》杯《ぱい》やっていかないか?」  「でも、もう帰らないと……」  「ちゃんと車で送るから。三十分だけ。いいだろう?」  誘《さそ》い方は巧《たく》みで、強《ごう》引《いん》に思えぬ強引さだった。断《ことわ》る余《よ》裕《ゆう》を与《あた》えない、というのであろうか。  「タクシーを拾おう」  と、武居が道の端《はし》に立った。そのとき、大きな外車が、どこから走って来たのか、武居の前に停《とま》った。  「社長!」  武居が声を上げた。  車の後ろの窓《まど》から顔を出しているのは増口だった。  「用がある、乗れ」  と、増口が言った。  「はい」  否《いや》応《おう》なしに、武居がドアを開けて乗り込《こ》む。  「じゃ、私、これで……」  と、亜由美が言いかけると、  「君もだ」  と、増口が遮《さえぎ》った。  「私ですか?」  「君にも用がある。乗ってくれ」  運転手が出て来て、ドアを開けてくれる。こうなっては、しかたない。亜由美は意を決して、その外車に乗り込んだ。  「どこへ行くんですか?」  と、亜由美が言った。  「私の家だ。家の一つ、というところかな」  増口は、ちょっと愉《ゆ》快《かい》そうに言った。 頼《たの》もしい味方  「ごめんごめん」  亜由美は珍《めずら》しく平《ひら》謝《あやま》りである。  「いいよ、もう」  と、有賀はふくれっつらのままで、  「僕《ぼく》のことをケロッと忘《わす》れてたなんて。いくら何でも——」  「だから謝ってるじゃないの」  「もう遅《おそ》いや」  と、有賀は言って、カーペットに寝《ね》転《ころ》んだ。  日曜日。——亜由美の部屋である。  明るい陽《ひ》射《ざ》しが、部屋に溢《あふ》れていた。  「そんなに有賀君が必死で追って来てるなんて思わなかったのよ」  「君らが高級イタリア料理を食ってる間、こっちは立ち食いハンバーガーで飢《う》えをしのいでたんだぞ」  「オーバーねえ。——ともかくおかげで無《ぶ》事《じ》生《せい》還《かん》しました」  有賀は苦《く》笑《しよう》して、  「女は得《とく》だよ」  と言った。  「まだすねてる」  亜由美は、寝《ね》転《ころ》がった有賀の上にかがみ込《こ》むと、キスした。有賀が面食らった。——まだキス一つしたことのない仲《なか》だったからだ。  ドアが開いて、母の清美が入って来た。二人はあわてて起き上った。  「あら、有賀さん」  「ど、どうも……」  「だめですよ」  「すみません」  「カーペットに寝てそんなことしたら、糸くずが付きます。ちゃんとベッドの上でやらなきゃ。——さ、紅《こう》茶《ちや》。ごゆっくり」  清美が出て行くと、  「君のお母さん、ユニークな人だね」  と、有賀は笑《わら》いながら言った。  「さすがに私の母親って言いたいんでしょ」  「当り」  二人は一《いつ》緒《しよ》に笑った。  「——じゃ、あの後、増口の屋《や》敷《しき》に行ったのかい?」  「うん。凄《すご》い邸《てい》宅《たく》よ。一部屋分でこんな家一《いつ》軒《けん》建つんじゃないかって感じ」  「何の話だったの?」  「それがね——」  と、亜由美が言いかけたとき、またドアが開いて、清美が顔を出した。  「亜由美、葉書よ」  「はい。——お母さん、ノックぐらいしてちょうだい」  「はいはい。まずいときは札《ふだ》でもかけといてちょうだい」  と清美はドアを閉めた。  「全くもう——」  と言いかけて、亜由美は愕《がく》然《ぜん》とした。  「どうしたんだい?」  「まさか……こんなことが……」  「どうしたのさ?」  「見て!——田村さんからの絵葉書よ!」 〈ミュンヘンは風が強い。のんびりとぶらつくにも時間がない。もうあまり時間は残っていないんだ、僕《ぼく》らには。ではまた。 田村〉  亜由美は、消印を読み取ろうとしたが、どうしても分らない。  「行方不明になる前に投《とう》函《かん》したんだよ、きっと」  「もう半月以上よ! そんなにかかる?」  「たまたま遅《おく》れたんだろう」  と有賀が言った。  「ミュンヘン、ね……。あの二人の行《こう》程《てい》はどうなってたのかしら」  「しかし、まさか幽《ゆう》霊《れい》が出しちゃ来ないさ」  と有賀は言った。  「それとも生きてるのか……」  「それにしちゃ、呑《のん》気《き》な文じゃないか」  「そうね。でも、意味が良く分らないわ。旅の便りって感じじゃないわよ」  「そりゃそうだな」  と、有賀は裏《うら》の写真を見て、「——ミュンヘンだって? でも、写真は違《ちが》うよ」  「どこになってる?」  「デンマークだ」  いつもそうだ。文中に必ず都市の名はあるが、裏《うら》の写真は別の場所なのだ。  一度や二度ならともかく、三度となると、わざとそうしているのかと思えて来る。  「待って。前の二枚《まい》を出すわ」  亜由美は、田村から来た二枚の絵葉書を引き出して来た。  「——一枚目はロンドンから。でも、写真はヴェニス。二枚目はパリから。写真はヴェローナ。そして三枚目がミュンヘンで、写真はデンマーク……」  「めちゃくちゃだな」  「待って」  と亜由美は言った。「——ヴェニス。ヴェローナ。デンマーク。何か思いつかない?」  二人はしばらく黙《だま》っていた。  「——シェークスピアだ」  と、有賀は言った。  「そうよ! 『ヴェニスの商人』、『ロミオとジュリエット』がヴェローナ、『ハムレット』がデンマーク」  「偶《ぐう》然《ぜん》かな」  「そんなはずないわ! 何か意味があるのよ、きっと!」  亜由美は興《こう》奮《ふん》して歩き回った。そして電話に飛び付くと、  「確《たし》かめてみましょ」  とダイヤルを回した。  「何を?」  「あの二人の新《しん》婚《こん》旅《りよ》行《こう》のコースよ」  と、亜由美は言った。  しばらく捜《さが》してもらって、やっと武居が出た。  「やあ、ゆうべはご苦労様」  「武居さん、一つ教えていただきたいんですけど」  「何だい?」  「田村さんたちのハネムーンのコースに、ミュンヘンは入っていましたか?」  「ええと……入ってたね、確《たし》か」  「ハンブルクで行方不明になる前に、行ってるんですか?」  「いや、ミュンヘンはもっと後だ。僕《ぼく》が自分でミュンヘンのホテルをキャンセルしたからね。確かだよ」  「ありがとうございます」  「何かあったの?」  亜由美はちょっとためらって、  「今度会ったときに説明します」  と電話を切った。  「——またあいつと会うのかい?」  と有賀は面白くなさそうである。  「もう監《かん》視《し》はいいの」  「でも、何の用なんだい?」  「ゆうべ、増口さんにね、依《い》頼《らい》されたのよ、仕事を」  「仕事?」  「そう。——果《はた》して淑子さんが本物かどうか、調べてくれってね」  「淑子は偽《にせ》物《もの》かもしれん」  と増口はブランデーのグラスを手の中であたためながら言った。  広い居《い》間《ま》のソファで、亜由美と武居は顔を見合わせた。  「そうびっくりした顔でもないな」  と増口は言った。「察していたのかね?」  「私は……その……」  と、口ごもりながら、武居は、例の、『フィアンセが死んだ』という怪《かい》電《でん》話《わ》のことを説明した。  「君は?」  増口の視《し》線《せん》が移《うつ》って来ると、亜由美は、しらを切り通すことができなかった。  「実は、田村さんが、囁《ささや》いて行ったんです、あのときに……」  亜由美はそう言って、田村の謎《なぞ》の一言を、初めて口にした。  「——すみません。でも、あのときは、どうしていいものか分らなくって……」  「当然だよ」  と増口は肯《うなず》いた。「よく話してくれた」  「するとやはり淑子さんは……」  「うむ。——親の私に分らんというのは、全くもって情《なさけ》ないが、しかたない。何しろ顔を見るのが月に一度あるかどうかだ。髪《かみ》型《がた》でも変れば、もう別の女かと思う」  増口はブランデーをあけた。  「で、社長、どうなさいます?」  「事は秘《ひ》密《みつ》を要する」  「はい」  「人知れず、真相を探《さぐ》り、突《つ》き止め、解《かい》決《けつ》し、片《かた》付《づ》けてしまわねばならん。分るだろう、君には」  「分ります」  「警《けい》察《さつ》沙《ざ》汰《た》にはしたくない。そこで……君たちに、淑子が果《はた》して偽《にせ》物《もの》かどうか、調べてもらいたいんだ」  亜由美は唖《あ》然《ぜん》とした。  「どうして私が……」  「淑子は女だ。いくら武居君が優《ゆう》秀《しゆう》な探《たん》偵《てい》になったとしても、しょせん、男は男でしかない」  亜由美とて、増口の言うことが分らないではない。しかし……。  「でも、私にはそんな経《けい》験《けん》も知《ち》識《しき》もありません」  「大丈夫。すべては素《そ》質《しつ》だよ」  と、増口は言った。「私は長年の社長生活で、それを悟《さと》った。素質のある人間は、初めての重大な任《にん》にも、充《じゆう》分《ぶん》堪《た》えられるものだよ」  「素質だって、私……」  「私の目に狂《くる》いはない」  頭の方にあるんじゃないですか、と言いたいのを、亜由美はぐっと抑《おさ》えた。  「で、引き受けて来ちゃったのか? 無《む》茶《ちや》だなあ!」  と有賀が呆《あき》れたように言った。  「仕方ないじゃないの。どうしたって断《ことわ》れないんだもの」  亜由美はベッドにゴロリと横になって、「それにね、やっぱり田村さんのこと心配だしさ」  「自分だって好《す》きなんだろ、そういうことが?」  「え?——まあね。勉強よりは面白そうじゃない」  「でも、よく考えろよ。いいか、殺人まで起ってんだぞ」  「分ってるって」  「分ってないよ。いつ命狙《ねら》われるか分んないんだ。遊びじゃないんだぞ」  「遊びだなんて誰が言った?」  「じゃ何だ?」  「仕事よ。れっきとした」  「じゃ、報《ほう》酬《しゆう》もあるの?」  「もちろん」  亜由美は、寝《ね》たまま手をのばして、机《つくえ》の上のバッグを取ると、中から何かを取り出して、有賀の方へ投げた。  「こ、これ……」  と言ったきり、有賀の目がギョロッと開いて、動かなくなった。  有賀の膝《ひざ》に落ちたのは、一万円札《さつ》の束《たば》だった。  「百万円あるわ。本物よ。それが前金。解《かい》決《けつ》したら、あとで二百万円」  「三百……万?」  「良くできました」  「ねえ、僕《ぼく》がボディガードになるよ」  と、有賀の目の色が変っている。  「そう頼《たの》むつもりだったの」  と、亜由美はクスクス笑って言った。  「でも、お金もらったからには、ちゃんとやらないとね」  「まずいかなあ、こんな金……」  「いいんじゃない? あの人にとっちゃ、一日の食費ぐらいにしか思えないんだもの」  「凄《すご》いなあ! これだけバイトで稼《かせ》ごうと思ったら……」  「他にも助手がいるのよ」  「誰《だれ》?」  「分んないの。今日、うちへ訪《たず》ねて来ることになってるんだけど」  ——少し興《こう》奮《ふん》がおさまると、  「どうとりかかるか考えなきゃ」  と、有賀が言い出した。  「まず直《ちよく》接《せつ》彼女《かのじよ》に会うことよ」  と亜由美は言った。  「君、知らないんだろ」  「でも、それしか手はないわ。それに、田村さんのことで、と言えば理由はつくし」  「どこにいるんだい?」  「別《べつ》荘《そう》。——場所は聞いて来たわ」  「乗り込《こ》んで、『素《す》直《なお》に白《はく》状《じよう》しろ』ってやってやるか?」  「それで済《す》みゃ簡《かん》単《たん》だけどね」  「三百万じゃ、もう少し手間がかかるだろうなあ……」  と、有賀は言った。  「ともかく、あの武居さんとも、うまく連《れん》絡《らく》を取ってやらないとね」  「あいつかあ」  と、有賀は顔をしかめたが、「ま、いいや、三百万、三百万」  「現《げん》金《きん》ね、正に」  亜由美が笑《わら》った。  ドアがトントンとノックされて、  「亜由美、お客様よ」  と母の声。  「来たようね」  二人は階《かい》段《だん》を降《お》りて行った。玄《げん》関《かん》に、昨日の運転手が立っている。  「増口様の使いで参りました」  「どうも。あの……」  「増口様から、優《ゆう》秀《しゆう》な助手なので、信《しん》頼《らい》してくれ、とおことづけで」  「あなたが?」  「いえ、とんでもない!」  と運転手は言って、表の方へ「さ、入りなさい。照れないで」  と声をかけた。  おずおずと、〈助手〉が入って来た。  つややかな茶色の肌《はだ》をした、ダックスフントだった。  「——その犬はね、淑子が可愛《かわい》がっていたんだ」  と、電話口の向うで、増口の声は笑っていた。  「でも犬が……」  「結《けつ》婚《こん》式《しき》の少し前に、ちょっと具合を悪くして入院していたんだよ。だから、本物かどうか、かぎ分けてくれるんじゃないかと思ってね」  「分りました」  亜由美は受話器を戻《もど》すと、「——淑子さんの犬なんだって」  と、言った。  「なるほど。でも……ちょっと頼《たよ》りない感じするけど」  有賀が言うのも道理で、今、かのダックスフントは、亜由美のベッドの上で長々とのびて眠《ねむ》っていた。  「番犬にはなりそうもないわね」  と、亜由美は肯《うなず》いた。  「一発で、偽《にせ》物《もの》かどうか分りゃ、楽《らく》勝《しよう》じゃないか」  と、有賀はもう三百万円、手に入れたような顔をして言う。  しかし、亜由美には、そう物事が簡《かん》単《たん》に運ぶとは思えなかった。  電話が鳴った。  「——亜由美、女の方から電話。つなぐよ」  と清美の声がして、  「——もしもし」  あまり表《ひよう》情《じよう》のない声が聞こえて来た。  「塚川亜由美ですが」  「私、増口淑子です」  亜由美はギョッとした。  「は……あの……どうも……」  「その節はどうも」  「こ、こちらこそ」  「色々とあわただしくて、一度お電話しようと思っていたんですけど」  「あの——何か?」  「一度ゆっくりお話したいんです」  と、淑子が言った。「私のいる別《べつ》荘《そう》へ、おいでになりませんか?」 我《わ》がドン・ファン  「じゃ、増口淑子の方から、別《べつ》荘《そう》へ招《しよう》待《たい》して来たのかい?」  と、有賀が目を輝《かがや》かせた。「ついてるじゃないか! これこそ、飛んで火に入る夏の虫ってやつだ」  「ちょっと場《ば》違《ちが》いじゃない?」  と、亜由美は言った。「こういう場合は、渡《わた》りに船って言うのよ」  「どっちだって大して変んないよ。三百万円はもうこっちのもんだぞ!」  「慎《しん》重《ちよう》にしろって言っといて、自分の方がよっぽど浮《う》かれてるじゃないの」  と、亜由美は冷やかした。  「いつ出かけるんだい?」  「明日。迎《むか》えの車が来るんですって」  「明日?——月曜日だぜ。大学、どうするんだ?」  「休むわ。しかたないじゃない。有賀君、行ったら?」  「三百万円、ふいにできるか!」  有賀は断《だん》固《こ》として言った。  「でも……何の用で呼《よ》ぶのかしら?」  「何か言わなかったのかい?」  「ただ話がしたい、って……」  実《じつ》際《さい》、ちょっと奇《き》妙《みよう》な感じではあった。  亜由美の方には、淑子と会いたい理由がある。しかし、淑子の方には何の理由もないような気がするのである。  もし、淑子が偽《にせ》物《もの》だとすると、わざわざ人を招《まね》いたりするまいとも思えた。では、淑子は正《しよう》真《しん》正《しよう》銘《めい》の本物なのだろうか?  「早速、このワン公の出番だ」  と有賀が、亜由美のベッドに寝そべっている茶色い円《えん》筒《とう》形《けい》の(?)ダックスフントの頭を指先でつついた。ダックスフントはちょっと頭を上げて、クゥーンと悲しげな声を上げた。  「よしなさいよ、そんなことするの」  と亜由美は有賀に言って、「これが頼《たよ》りなんだから」  と、そっと頭を撫《な》でてやった。むろん、有賀の頭ではなく、犬の頭を、である。  「そういえば、こいつの名前、聞いてなかったな」  「あ、そうだ。——どうしよう? 電話で訊《き》こうかしら」  「適《てき》当《とう》につけたら?」  「そういうわけには行かないわよ」  「じゃ、ダックス、とでもしようよ」  「単《たん》純《じゆん》ねえ。毛《け》並《なみ》の良さそうな犬じゃないの。もっと上品な名前よ、きっと」  「ハイセイコーにするか」  「冗《じよう》談《だん》ばっかり言って!」  と、亜由美は有賀をにらみつけた。  電話が鳴って、取ってみると、  「増口さんって方だよ」  と母親の声。  「——亜由美です」  「やあ、増口だ。さっきはすまん」  淑子かと思ったら父親の方である。  「忘《わす》れていたことがあってな。その犬の名前を教えなかったろう」  「まあ、ちょうど良かった。今お電話してうかがおうと思ってたんです」  「そうか。その犬はドン・ファンと言うんだ」  「ドン・ファン?」  「そう。なかなか乙な名前だろう」  「はあ……。あんまり犬らしくありませんね」  「いや、そいつにはピッタリの名前なんだ。その内分る。じゃ、よろしく頼《たの》む」  「あの——」  「ああ、それから、食べ物はかなりぜいたくしとるから、大体人《にん》間《げん》並《なみ》に扱《あつか》ってやればよろしい。食後は紅《こう》茶《ちや》を一《いつ》杯《ぱい》やってくれ」  「紅茶を……」  「そう。ウイスキーを一《いつ》滴《てき》落とすともっと喜ぶ。では、忙しいので、これで失礼する」  「あ、増口さん、あの——」  淑子の方から招《しよう》待《たい》の電話があったことを伝えようとしたが、もう電話は切れてしまっていた。  「——へえ、お前、ドン・ファンなの」  有賀がダックスフントの鼻先をチョイとつついた。  「俺《おれ》の彼女《かのじよ》、取るなよ」  亜由美はいやに難しい顔で考え込んでいる。  「おい、どうしたんだ?」  と有賀は声をかけた。  「うん……。どうも気になって来たのよ」  「何が?」  「増口さんのこと。——娘《むすめ》の夫が行方《ゆくえ》不明、娘は別《べつ》荘《そう》へ引きこもってる。そこへ娘が偽《にせ》物《もの》かもしれないという疑《ぎ》惑《わく》が起る。それはどういう意味だと思う?」  「意味って?」  「つまり——偽物が娘になりすましているとしたら、本《ヽ》当《ヽ》の《ヽ》娘はどうなったのか、それが親としては心配になるでしょう」  「そりゃそうだろうな」  「ところが、増口さんは、その調《ちよう》査《さ》を人《ひと》任《まか》せにしてるわ。武居さんはともかく、私のような、見ず知らずと言っていい娘に任せるなんて、無《む》茶《ちや》じゃない?」  「なるほどね」  「他の女が娘になりすましているということは、本物の娘は、もしかしたら殺されているかもしれない。それぐらいのこと、あの増口さんが分らないわけがないのよね」  亜由美は名《めい》探《たん》偵《てい》よろしく、じっと眉《まゆ》を寄《よ》せて考え込《こ》んだ。「それなのに、あんな呑《のん》気《き》なことを言って……。何かあるのよ。きっとそうだわ」  「何かある……ってどういうこと?」  「つまり——私たちに話したのと別の事《じ》情《じよう》が——もしくは、それ以外の何かがあるんだと思うわ」  「どんなことが?」  「そんなもの分るわけないでしょ」  と、亜由美はちょっと苛《いら》立《だ》って、「有賀君も少し考えてよ」  「僕《ぼく》はボディガードだぜ。頭を働かす方は任《まか》せるよ」  と、有賀はてんで頼《たよ》りない。  亜由美は、ベッドに長々と——正に、ダックスフントは長々という感じである——寝《ね》そべっている〈ドン・ファン〉と、有賀を交《こう》互《ご》に眺《なが》めて、ため息をついた。何だか心細いトリオだこと。  「どうしたんだい?」  有賀が不思議そうに訊《き》いた。  「いえね、あなた方、そうやって寝そべってると良く似《に》てるから、ひょっとして、従兄弟《いとこ》同《どう》士《し》か何かかと思ったの」  と亜由美は言った。  「——そうなんです。淑子さんの方から、ご招《しよう》待《たい》いただいて」  夜、もう寝ようかと思っているところへ、武居から電話が入った。亜由美が事情を話すと、  「それはいいチャンスだね」  と武居は言った。「僕も一《いつ》緒《しよ》に行きたいがそれでは向うも警《けい》戒《かい》するかもしれない」  「ええ、大丈夫ですわ」  「まあ、無《む》理《り》をしないで、充《じゆう》分《ぶん》に気を付けてね。もし何か危《あぶ》なそうだと思ったら、ホテルへ電話してくれ。いいね?」  「よろしく」  ——亜由美は電話を切った。どうも、色々考えて、明日、淑子と会うのが怖《こわ》くなっていたのだが、武居の声を耳にして、大分落ち着いた。  居《い》間《ま》へ戻《もど》ると、母親の清美が、  「本当に紅《こう》茶《ちや》をおいしそうに飲んだわよ、この犬!」  と言いながら入って来た。  亜由美はつい笑《わら》い出した。清美の腕《うで》の中で、ドン・ファンが、何とも窮《きゆう》屈《くつ》そうな迷《めい》惑《わく》顔《がお》をしていたからだ。  「おいで、ドン・ファン」  と亜由美が声をかけると、清美の腕からスルリと脱《だつ》出《しゆつ》したしなやかな茶色の体が、トットと床《ゆか》を滑《すべ》って、亜由美の膝《ひざ》の上に飛び上った。  「わあ、重たい。あったかくって、面白いわね、お前は」  「明日、どこかに行くの?」  「ちょっと知り合いの人の別《べつ》荘《そう》にね」  「へえ。泊《とま》って来るのかい?」  「大学あるもの。もし泊るなんてことになったら、電話するわ」  「立《りつ》派《ぱ》な所なのかね」  「だと思うけど」  「——一泊いくらだって?」  と清美は真面目な顔で訊《き》いた。  亜由美はドン・ファンをかかえて、二階の部屋へ上った。  風《ふ》呂《ろ》を済《す》ませて、さて寝《ね》るか、と伸《の》びをする。  しかし、本当に妙《みよう》なことが続くものだ。  田村の失《しつ》踪《そう》、血のついた上《うわ》衣《ぎ》。武居を襲《おそ》ったトラックの謎《なぞ》。大金持の娘《むすめ》の、身《み》替《がわ》りの疑《ぎ》惑《わく》、それに対する父親の奇《き》妙《みよう》な態《たい》度《ど》。  そして——そう、桜井みどりが殺されたこと。消えるはずのない状《じよう》況《きよう》で、犯《はん》人《にん》はどうやって逃《に》げたのか?  みどりが、殺される前に、『武居に近付くな』と言ったのはなぜなのだろう?  それに、殿永刑《けい》事《じ》のこともある。桜井みどりの件《けん》で、取り調べがいとも簡《かん》単《たん》に終ってしまったのはなぜなのか。何か特《とく》別《べつ》な理由でもあったのかどうか……。  考え出すと、分らないことばかりである。  考えながら、ゆっくりと服を脱《ぬ》いでいると、何となく、足下に何かあるのを感じて、ヒョイと目を下へ向けた。  ドン・ファンが目の前にチョコンと座《すわ》って、じっと亜由美を見ている。  「まあ、失礼ね! レディが着《き》替《が》えをしてるところを見るなんて、お前も趣《しゆ》味《み》が悪いわよ」  手早くパジャマを着る。——明日は、増口淑子の別《べつ》荘《そう》だ。  早く眠《ねむ》って、殺《さつ》人《じん》犯《はん》と取っ組み合っても負けないようにしなくちゃ——というのは、もちろん空想の上での話である。  しかし、実《じつ》際《さい》、桜井みどりを殺した犯人がいるのだから、その危《き》険《けん》も、全くないとは言えない。  「ま、いいや」  と呟《つぶや》いて、亜由美は明りを消し、ベッドへスルリと潜《もぐ》り込んだ。  しかし、どうにも目が冴《さ》えてしかたないのだ。一《いつ》旦《たん》、人殺しなどということを考え始めると、桜井みどりの死体を見付けたときのショックがよみがえって来る。そして、講《こう》義《ぎ》中の居《い》眠《ねむ》りで見た、あの、死んだ田村が迫《せま》って来る、恐《おそ》ろしい夢《ゆめ》。  そうだ、謎《なぞ》といえば、もう一つの、田村からの、絵葉書のことがある。  そっけない文面と、裏《うら》の写真が、どれもシェークスピアと関《かかわ》りのある地のものであること……。あれは何の意味なのだろう?  亜由美の知っている限《かぎ》り、田村は、シェークスピアを、それほど愛読してはいなかった。もちろん、勉強家の田村である。読んでいないはずはないが、シェークスピアについて話すのを聞いた憶《おぼ》えはないのである。  そうなると、あの葉書には、何か隠《かく》された意味があるのだろうか?  だが、それをなぜ、亜《ヽ》由《ヽ》美《ヽ》へ《ヽ》出しているのか。そして、行方不明になったあ《ヽ》と《ヽ》で《ヽ》立ち寄《よ》るはずだったミュンヘンから、投《とう》函《かん》されているのはなぜか?  田村が実は生きていて、自らポストへ入れたのか、それとも誰《だれ》かが、田村が生きていると見せかけるために入れたのか。  考え出せば出すほど、謎《なぞ》が深まり、出口がない迷《めい》路《ろ》をさまよっているような気さえするのだ……。  こんなことしてちゃ、朝まで眠《ねむ》れないわ、と亜由美は目をつぶって眠ろうとした。眠れそうもない、と心配しながら、いつしか眠りに引きずり込《こ》まれて……。  ドアが開いた。  あ、また夢《ゆめ》だわ、と亜由美は思った。ドアの外は、青白い光が満《み》ち満《み》ちて、真暗な室内にその光が流れ込《こ》んで来る。  誰《だれ》かが入って来る。——田村さんかしら?  しかし、光を背《せ》に受けたシルエットは、どことなく田村らしくなかった。武居さん?  それとも——増口ではなさそうだ。あのずんぐり、丸っこい体型とは、大分違《ちが》っている。  「誰なの?」  ベッドの中から、亜由美は声をかけた。その人《ひと》影《かげ》は、まるで宙《ちゆう》を浮《う》いているかのように、音もなく近付いて来て、ベッドの足下の方へ立った。  「誰? 返事してよ」  と、亜由美は呼《よ》びかけた。「——やめて!」  と叫《さけ》んだのは、その男が、ベッドの毛布をめくったからだ。  「何するのよ、失礼ね!」  亜由美は起き上ろうとして、愕《がく》然《ぜん》とした。体が動かないのだ。手も足も、指一本動かせない。——男は毛布の中へ頭を突《つ》っ込《こ》むと、亜由美の足の間へ、潜《もぐ》り込んで来た。  「やめて! やめてよ! 出てって! やめて!」  男の体重が、亜由美の上を進んで来て、脚《あし》の膨《ふくら》みを圧《あつ》迫《ぱく》した。  「重いわ、苦しい……。どいて……向うへ行ってよ!」  亜由美は身をよじろうとした。辛《かろ》うじて、少しずつ体が動くようになって来る。  「やめて! 何するのよ!」  その男の頭が、パジャマの下へ、潜り込んで来たのだ。「いやよ!——やめて!」  と亜由美は叫《さけ》んだ。  男が悲しげな声を出した。  「クゥーン……」  ——亜由美はハッとベッドに起き上った。胸《むね》が苦しいのも当り前だ。上に、あのドン・ファンが、のっかっているのである。  「こら! どきなさい!」  と手で押《お》しやると、ダックスフントは、床《ゆか》へストンと降《お》りて、亜由美の方を見上げ、クゥーンとまた声を上げた。  「ああびっくりした……」  亜由美は胸までまくれていたパジャマをあわてて引きずりおろした。どうやら、あの犬がベッドの足の方から潜り込んで来たらしいのだ。  「お前……どういう趣《しゆ》味《み》の持主なの?」  亜由美は呆《あき》れて言った。「——あ、そうか、それで、ね」  きっとこのダックスフント、女の子のベッドに潜り込むのが好《す》きなのだろう。なるほど、それで〈ドン・ファン〉か。  増口が言った言葉の意味が、やっと分った。 ドン・ファンの行方不明  「おい、寝《ね》るなよ」  有賀につつかれて、亜由美は目を開いた。  「あ——ごめん、つい、ね……」  亜由美は目をこすりながら、「今、どこ走ってるの?」  と車の外を見た。  山の中の道である。といって、そんな山《やま》奥《おく》ではなさそうだ。  「奥《おく》多《た》摩《ま》の辺りだな」  と、有賀は言った。  「じゃ、昔《むかし》ハイキングなんかに来た所ね」  ——良く晴れて、快《こころよ》い日和《ひより》だった。  増口淑子からの迎《むか》えの車は、十時ぴったりにやって来た。ベンツで、見るからに高級車の貫《かん》禄《ろく》。母の清美が、目を丸くしていた。  有賀とドン・ファンを従《したが》えて乗り込《こ》み、走り出すと、さすが大型車で、滑《なめ》らかな走りと乗り心地の良さ。ついつい、眠《ねむ》気《け》がさして来て、という次第であった。  「ゆうべ夜ふかししてたんだろ」  と有賀が言った。  「まあね」  亜由美は欠伸《あくび》しながら、「何しろベッドに侵《しん》入《にゆう》して来る不《ふ》届《とど》き者がいて……」  「何だって?」  有賀が顔色を変えて、「そ、それは誰《だれ》だい?」  「ドン・ファンよ。——もう、追い出しても追い出しても入って来るんだもの。参っちゃう」  「何だ、そうか」  と有賀が笑《わら》いながら言った。「きっと、美女は分るんだぜ」  「それは確《たし》かなようね」  亜由美は澄《す》まして言った。「——まだ大分かかるのかしら?」  「もう間もなくですよ」  と、運転手が言った。  「どうも……」  亜由美は、その運転手を見たとき、何だか、どこかで見たような人だ、と思った。しかし、どこで見たのかは思い出せないのだが……。  若《わか》くて、まだせいぜい三十くらいだろう。なかなか知的な容《よう》貌《ぼう》の男だった。ベンツのような高級車を運転するにふさわしく、きちんと背《せ》広《びろ》にネクタイ、白《しろ》手《て》袋《ぶくろ》だ。  たぶん、結《けつ》婚《こん》式《しき》のときにでも見かけたのだろう、と亜由美は思ったが、それでも、どこか引っかかるものが残っていた……。  車は、林の間の細い砂《じや》利《り》道《みち》へと入って行った。  「この奥《おく》です」  と運転手が言った。  「静かな所ね」  と、亜由美が言い終らない内に、白い、山小屋風に造《つく》られた、洒落《しやれ》た山荘が現《あらわ》れた。  「——素《す》敵《てき》!」  思わず、亜由美は呟《つぶや》いていた。  ベンツが入口のドアの前に横づけになる。運転手は急いで表に出ると、後ろのドアを開けてくれた。  亜由美と有賀が降《お》り立つと、ドン・ファンもヒョイと出て来て、ここには慣《な》れているのか、尻尾《しつぽ》を振《ふ》りながら、別《べつ》荘《そう》のわきの方へと走り出した。  「あ、こら! ドン・ファン!」  と亜由美は追いかけようとしたが、ドアが開いて、  「よくいらして下さったわね」  と、淑子が姿《すがた》を見せたので、足を止め、  「どうもお招《まね》きいただいて——」  と、頭を下げた。「こちらは私の友だちなんです。あの——有賀君といって、同じ大学にいます」  亜由美は、淑子の表情をじっとうかがっていたが、そこには、迷《めい》惑《わく》そうな気配は、全く見られなかった。  「ようこそ。どうぞお入りになって」  と、微《ほほ》笑《え》んで見せる。  「し、失礼します」  有賀の方が少し緊《きん》張《ちよう》している。  亜由美が、ドン・ファンの走って行った方を気にしていると、  「どうかしまして?」  と、淑子が訊《き》いた。  「あ——いえ、別に。静かでいい所だな、と思ってたんです」  「その点だけは、ね。でも、静かすぎて、墓《はか》場《ば》のようですよ」  新《しん》婚《こん》早《そう》々《そう》、夫を失った女《じよ》性《せい》にしては、〈墓場〉とは大《だい》胆《たん》なことを言うもんだわ、と亜由美は思った。  「どうぞ中へ——」  と、淑子が促《うなが》した。  広々とした居間のソファで寛《くつろ》ぎながら、  「突《とつ》然《ぜん》、こんな風にお呼《よ》び立てしてごめんなさいね」  と、淑子は言った。  ——この別《べつ》荘《そう》には、もちろん淑子一人でいるわけではない。手伝いの女性が二人、一人は中年の太ったおばさん風、もう一人は、まだ若《わか》い——たぶん亜由美より若いくらいの娘《むすめ》だった。  若い娘が、淑子と亜由美、有賀に、紅《こう》茶《ちや》を出した。  「色々大変でしたわね」  と、亜由美は言った。  「ええ。もう二度と外国なんか行きたくありませんわ」  「当然でしょうね」  と、亜由美は肯《うなず》いた。「それで……あの……お話というのは?」  「田村さんのことなんです」  と言ってから、淑子は、ちょっと照れたように、  「——変ですね、結《けつ》婚《こん》したんだから、『夫』とか『主人』と言えばいいのに、つい田村さんと呼《よ》んでしまいますわ」  「私も心配しているんですけど」と、亜由美は言った。「どうでしょう? 田村さんは生きていると思われますか?」  淑子がどう答えるか、亜由美は興《きよう》味《み》があった。  「生きています」  淑子は、あっさりと言った。  「確《たし》か……ですか?」  亜由美は、念を押《お》した。  「証《しよう》拠《こ》を出せと言われれば、何もありません。でも、あの人がそんな目に遭《あ》うということが考えられないんです」  「つまり——」  「あの人は危《あぶ》ない所へ行くような人じゃないと思うんです。——そんなに長くお付合いしたわけじゃありませんけれど、その程《てい》度《ど》のことは分ります」  「同感ですわ」  と、亜由美は肯いた。  「ありがとう。そうおっしゃっていただけると嬉《うれ》しいわ」  「田村さんは、何か好きなことのためなら、本当に我《われ》を忘《わす》れちゃうんですけど、それ以外なら、とても慎《しん》重《ちよう》な——というか、気の弱い人だと思います」  「本当にそうね。ああいう、ちょっと世《せ》間《けん》離《ばな》れしたところにひかれたんだけど……」  全く、田村という人間は浮《うき》世《よ》離れしたところがあるのだ。  「じゃ、田村さんはどうなったんでしょうか?」  と、亜由美は言った。  「私には見当もつきません」  と、淑子は首を振《ふ》って、「あなたに、何か考えはあります?」  「さあ……」  亜由美は、偽《にせ》物《もの》かもしれない淑子へ、あれこれ打ち明けるわけにもいかないので、曖《あい》昧《まい》に首をかしげて見せた。  「実は、今日わざわざ来ていただいたのは、わけがあるんです」  と、淑子は立ち上ると、飾《かざ》り棚《だな》についた小さな引出しを開けに行った。  亜由美は、そっと有賀と視《し》線《せん》を合わせた。——ドン・ファンのことが気にかかっていた。  どこへ行ったんだろう? 肝《かん》心《じん》なときなのに……。  「これを見て下さい」  と、淑子が差し出したのは、一枚《まい》の絵葉書だった。  「まあ、この字は——」  「彼《かれ》の字でしょう?」  「ええ、そう思えます」  宛《あて》名《な》は〈田《ヽ》村《ヽ》淑子様〉となっていた。  差出人の名前はない。  そして、通《つう》信《しん》欄《らん》も空白のままである。ただ、宛名だけが書かれているのだ。  「どういう意味だと思いますか?」  と、淑子は訊《き》いた。  「分りませんけど……。消印は——」  「よく見えないんですけど、何とか解《かい》読《どく》しました。ハンブルクなんです」  「じゃ、田村さんが行方不明になった所ですね」  「ただ日付は読み取れないんです」  「いつこちらへ着いたんですか?」  「ここへ着いたわけじゃありません。新《しん》婚《こん》旅行から帰った後、私たちが住むことになっていたマンションに届《とど》いていたんです。昨日、あれこれと必要な品も置いてあるので、行ってみると、それが郵《ゆう》便《びん》受《うけ》に入っていました」  「じゃ、いつ配達されたかは分らないわけですね」  「そうなんです。でも——あの人は、ハンブルクに着いて、その日の夜に失《しつ》踪《そう》したんですから、絵葉書を——それも自分の妻《つま》宛《あて》に出すなんておかしいと思いませんか?」  淑子の様子は、今までのところ、ごく自然だった。偽《にせ》物《もの》なら、本物らしく見せるために、却《かえ》ってわざとそれらしく振《ふ》る舞《ま》うのではないかという気がしたが、少なくとも、亜由美の目には、そんな印象はなかった。  淑子は、ごく地味なワンピース姿《すがた》で、いかにも、いい育ちの令《れい》嬢《じよう》という様子だった。あの結《けつ》婚《こん》式《しき》のときの、冷ややかな印象は薄《うす》れている。  あれは、濃《こ》い化《け》粧《しよう》と、緊《きん》張《ちよう》感《かん》のせいだったのだろうか。  「つまり——田村さんは、失踪した後《ヽ》で《ヽ》、これを出した、と?」  「他に考えられませんわ。そうじゃありません?」  「でも、何も書いてないのはどうしてなんでしょう?」  「分りません。書けなかったのか、それともわざと書かずに出したのか……。ただ、自分が生きていることを私に知らせるために出したのかもしれません」  「向うで何をしているにせよ、生きていれば、何か連《れん》絡《らく》があるんじゃないでしょうか。連絡できる状《じよう》態《たい》ならば」  「私もそう思うんです」  淑子は肯いて、「何か、とんでもない犯《はん》罪《ざい》にでも巻《ま》き込《こ》まれたのかも……。ヨーロッパはあれこれと、密《みつ》輸《ゆ》だの何だの、犯《はん》罪《ざい》者《しや》がいるでしょう。特《とく》にハンブルクは港町ですから……」  確《たし》かに、まるで小説のような、荒《こう》唐《とう》無《む》稽《けい》に思える話だが、そういう事《じ》件《けん》が実《じつ》際《さい》に起りうるのがヨーロッパという所らしい。  「じゃ、田村さんも、何かを見てしまったりして、捕《つか》まったのかもしれませんね」  と、亜由美は言った。  「それが心配なんです。そんな夢《ゆめ》を見て、うなされてしまうのもしばしばですわ」  と淑子は言った。  亜由美は、絵葉書を裏《うら》返《がえ》してみた。古《こ》城《じよう》の写真だ。  城《しろ》といっても、戦《せん》闘《とう》用の武《ぶ》骨《こつ》なものではなく、貴《き》族《ぞく》の館というような建物だ。  どこだろう? ドイツではなさそうだ。——コーダー。コーダー?  どこかで聞いた名前だ、と思った。  「妙《みよう》でしょう?」  と、淑子が言った。「ハンブルクの消印なのに、写真はイギリスのお城なんですもの」  「コーダーですね。どこかで聞いたことのある名前だわ」  そこへ、有賀が口を挟《はさ》んだ。  「〈マクベス〉だ」  「え?」  「コーダーの領《りよう》主《しゆ》だよ。シェークスピアの〈マクベス〉がコーダーを舞《ぶ》台《たい》にしている」  「まあ、そうだわ、気が付かなかった」  と、淑子が言った。「良くご存《ぞん》知《じ》ね」  「いえ、まあ……」  などと、有賀は照れて口ごもっている。  シェークスピア! またしてもシェークスピアなのだ。  一通だけが、淑子の所へ届《とど》いている。これは何の意味なのだろうか?  「——失礼します」  お手伝いの若《わか》い娘《むすめ》が入って来た。「お嬢《じよう》様《さま》、神岡さんが——」  「何かしら?」  「ちょっとお話があるそうですけど」  「じゃ、ここへ入ってもらって」  「はい」  「それから、『奥《おく》様《さま》』って呼《よ》んでね、分った?」  「はい、すみません」  淑子は、亜由美の方へ、  「神岡さんって、あなた方を乗せて来た運転手さん」  と、説明した。「若いけど、腕《うで》のいい人なんですよ。——ああ、どうかしたの?」  あの運転手が入って来ると、  「失礼します。実は犬のことで——」  「犬? 何のこと?」  「あの——」  と、亜由美は言った。「実は、お父様から頼《たの》まれて、犬のドン・ファンを連れて来たんですの」  「まあ! ドン・ファンが来てるなんて……」  淑子は嬉《うれ》しそうに手を打った。「神岡さん、すぐ連れて来て」  「はあ、それが逃《に》げてしまいまして」  「逃げた? ドン・ファンが?」  「さようです。車から出ると林の中へ飛び込《こ》んで行ってしまって」  「それじゃきっと、骨《ほね》か何かを埋《う》めてある所へ行ったのよ。思い出したんでしょ」  「戻《もど》ってくるのを待っていたのですが……」  「何かあったの?」  「突《とつ》然《ぜん》、林の中でキャンキャンと激《はげ》しく吠《ほ》える声がして、それきりバッタリと——」  「ドン・ファンの声?」  「そうだと思います」  「いやだわ。何かに襲《おそ》われたのかしら」  と、淑子は心配そうに言った。  「この辺に、そんな大きな動物はいないと思いますが」  「捜《さが》してみましょう」  淑子は立ち上った。「あの、すみませんけど、ちょっと失礼しますわ」  「私たちもお手伝いします」  「でも——申《もう》し訳《わけ》ないわ」  「いいえ。ねえ、有賀君?」  「う、うん。——もちろん一《いつ》緒《しよ》に捜《さが》しますよ」  「すみません。じゃ、行ってみましょう」  神岡という運転手を先頭に、四人は、別《べつ》荘《そう》の表に出た。  「あっちで声がしたようでした」  と、神岡が指さしたのは、さっきドン・ファンが駆《か》けて行った方向である。  「じゃ、少し離《はな》れて歩いてみましょう。あれは頭のいい犬ですから、呼《よ》べば返事をしてくれます」  ——かくて、ダックスフントを求めて、四人の声が林の中を、『ドン・ファン!』『ドン・ファン!』と響《ひび》き渡ったのである。 林の中の足音  三十分近く、四人は林の中をぐるぐると歩き回った。  「——ああ疲《つか》れた」  日《ひ》頃《ごろ》から運動不足である。亜由美も少々へばって来て、淑子たちと少し離《はな》れたので、木にもたれて休んだ。  それにしても、あのドン・ファン、どこへ行ってしまったのだろう? 何かに襲《おそ》われたとしても……いや、〈何か〉ではなく、〈誰《だれ》か〉かもしれない。  ドン・ファンが淑子に会ってはまずいと思った誰かが、ドン・ファンを殺して……。  いや、そこまではちょっと考え過《す》ぎだろう。——まさか淑子がドン・ファンを殺させたなどとは……。  突《とつ》然《ぜん》、手がのびて来て、亜由美の肩《かた》に置かれた。  「キャッ!」  亜由美は飛び上った。  「びっくりした?」  立っているのは、有賀だった。  「何よ、もう!」  亜由美は有賀をにらみつけてやった。  「さぼっちゃだめじゃないか」  「そっちだってさぼってんでしょ。私は考えてたのよ」  「何を?」  「決ってるじゃない。あの人が本当の——」  「しっ! 聞こえたらどうすんだよ」  「あ、そうか」  亜由美はチョイと舌《した》を出した。「——でも、今のところごく自然ね。そう思わない?」  「うん……。美人だな」  「何を考えてんのよ!——ともかく、ドン・ファンが見付からない以上、私たちで探《さぐ》る他はないわ」  「どうやって? 大体さ、考えてみると無《む》茶《ちや》なんだよな。こっちは、本物も何も、全然増口淑子ってのを知らないわけだろ? 比《くら》べようがないものな、もし偽《にせ》物《もの》だとしても」  「それはその通りね」  「それなのに、三百万も出すなんて、やっぱり増口って、どこかおかしいんだよ」  「分ってるのよ、きっと。分らないはずはないわ」  「それでも僕らを行かせようとする。なぜだい?」  亜由美は首を振《ふ》った。そして、ふと、思い付いた様子で、  「そうだ! どうして気付かなかったのかしら」  と拳《こぶし》でコンと自分の頭をつついた。  「何を?」  「使用人よ! あの運転手とか、お手伝いの人——あの女の子がいいわ。一番、淑子さんの身近にいるわけじゃない」  「そうか。おかしなことがあれば気が付くはずだな」  「もちろん、誰《だれ》かが淑子さんになりすましてるとしたら、充《じゆう》分《ぶん》に詳《くわ》しく淑子さんのことを調べてると思うわ。だけど、毎日の習《しゆう》慣《かん》やく《ヽ》せ《ヽ》までは、とても真《ま》似《ね》できっこないわ」  「そうだな、毎朝起きてから、顔洗《あら》うのが先か便所に行くのが先かとか——」  「もうちょっとましな例が出て来ないの?」  と、亜由美は顔をしかめた。  「ごめん」  「ともかく、その辺を訊《き》いてみましょ。あの若《わか》い方のお手伝いさんなら、きっと話ができるわ」  「何なら僕《ぼく》が迫《せま》ってみようか、この二《に》枚《まい》目《め》の魅《み》力《りよく》で」  「三枚目のホットケーキみたいな顔して何言ってんの。ここは私に任《まか》せてよ」  と亜由美は言って、「さて、また少しドン・ファンを捜《さが》してみる? 淑子さんたちの声、ずいぶん遠くなっちゃったわね」  「あっちに任《まか》せて、僕らは休んでようよ」  「怠《たい》惰《だ》ねえ」  「くたびれるんだよ、こういう所歩くのは」  「だらしない」  と、亜由美は笑《わら》って、「じゃ、一つ元気づけてあげるわ」  と言うと、有賀にヒョイとキスした。  「もう一度、ゆっくりしてくれると、元気が出るんだけど」  「残念でした。腹《はら》八分目よ。それじゃ——」  と言いかけて、亜由美はギョッとした。  背《はい》後《ご》の茂《しげ》みの奥《おく》で、ガサッと何かが音を立てて動いたのだ。  二人は、顔を見合わせた。  「今の……」  「誰《だれ》かいる」  「ど、どこだった?」  「あの辺だ。動いたからな。——犬じゃないぞ」  「そうね。あの犬ならもっと低い所で音がするわ」  亜由美は、有賀の背《せ》中《なか》をつついた。  「ほら……ボディガードでしょ」  「え……うん、分ってるよ」  有賀は、あまり気の進まない様子で、こわごわ、その茂みの方へ足を進めて行った。  「こ……こら……誰かいるのか?」  声が少々震《ふる》えている。あんまり頼《たよ》りにはならない。  「——有賀君、気を付けて」  と亜由美が声をかけた。「殺《さつ》人《じん》犯《はん》かもしれないわ。中からいきなりナイフが出て来るかも……」  こういうときは、ついおどかしてみたくなるのが、亜由美の悪いくせである。  「よ、よせよ……。おい、出て来い! 誰《だれ》かいるんだろ! いないのか?」  「ぐっと踏《ふ》み込《こ》んで捕《つか》まえてよ」  「人のことだと思って気《き》楽《らく》に言うない」  と、有賀は文《もん》句《く》を言いながら、茂《しげ》みの方へ頭を突《つ》き出し、「おい……出といでよ。いい子だから……」  「迫《はく》力《りよく》ないなあ」  と、亜由美はため息をついた。——と、突《とつ》然《ぜん》、  「ワッ!」  と悲鳴を上げて、有賀が茂みの中へ吸《す》い込《こ》まれるように消えた。そして、  「この野《や》郎《ろう》! 何するんだ!」  と、有賀の声がして、「いてえ!」  ドサッと倒《たお》れる音。  「有賀君!」  と亜由美は呼《よ》んだ。「しっかりして!」  ザザッと音がして、  「どうしました?」  と、駆《か》けつけて来たのは、運転手の神岡だった。  「あ、あの——そこの茂みに何かいて、有賀君が——」  神岡が茂みを飛び越《こ》えようとして、  「——大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》ですか!」  とかがみ込んだ。「倒れてますよ」  「まあ!——有賀君!」  亜由美が茂みをかき分けて行くと、有賀が頭をかかえながら、起き上るところだった。  「どうしたの? 大丈夫?」  「うん……。何だかいきなり後ろから取っ捕まってコツン、と……。ああいてて……」  有賀は顔をしかめた。  「相手は?」  「さあ。全然見えなかったよ。でも、あの犬じゃないことだけは確《たし》かだ」  「逃げたようですね、何もいない」  神岡は有賀を支《ささ》えて立たせた。「この辺に浮《ふ》浪《ろう》者《しや》が出るって話も聞かないけど、一《いち》応《おう》用心した方がいいですね。おけがは?」  「いいえ、どこも。——ちょっと頭にコブができたくらいかな」  「手当しといた方がいいですよ。もう中へ入りましょう。お嬢《じよう》様《さま》も、ドン・ファンを捜《さが》すのを諦《あきら》めたようです」  「結局見つからずに?」  「どこへ行っちまったんでしょうかね」  と、神岡は首を振った。「別に死体もないし、血の跡《あと》があるわけでもないし……」  「心配ですね」  と、亜由美は言った。  「こっちのこともちょっとは心配しろよ」  有賀がふくれっつらで言った。    「——じゃ、泊《と》めていただけるんですか?」  と、亜由美はナイフを止めて言った。  といって、別にナイフを突《つ》きつけていたわけではない。まるで都内の一流レストランが引《ひつ》越《こ》して来たような、みごとな夕食の最中だったのである。  「ええ、もちろん。よろしいんでしょう?」  「それはもう……。うちには別《べつ》荘《そう》なんてものはありませんから、一度泊ってみたかったんです」  「よろしかったら、いつまででも」  と淑子が微《ほほ》笑《え》む。  「それじゃ大学を退《たい》学《がく》させられます」  と、亜由美は笑顔で言った。  「もちろん有賀さんもご一《いつ》緒《しよ》に、ね」  淑子に言われて、貪《むさぼ》るように食べていた有賀は、あわてて水をガブ飲みした。  「——ど、どうもありがとうございます」  と、やっとの思いで言う。「しかし、おいしいですね、この肉は」  「よろしかったら、おかわりなさって下さい」  「いいんですか?」  と、目を輝《かがや》かせる。  亜由美は、ちょっと横目で有賀をにらんだ。——そんなに食べて、苦しくて動けなくなっても知らないからね!  ——食事の後、あの若《わか》いお手伝いの娘《むすめ》が、コーヒーポットを運んで来た。  「ああ、邦代さん」  と、淑子が呼《よ》びかける。「今夜、お二人ともお泊《とま》りだから。お部屋の仕《し》度《たく》をね」  「かしこまりました」  と、邦代と呼ばれたその娘は、コーヒーを注ぎながら、「お二人、一《いつ》緒《しよ》のお部屋でよろしいんですか」  と訊《き》いた。  「どうします?」  「もちろん別々にして下さい!」  と、亜由美は断《だん》固《こ》として言った。「この人は押《おし》入《い》れでも構《かま》いません」  「面白いわ。お二人とも」  淑子は屈《くつ》託《たく》なく笑《わら》った。「じゃ、お隣《となり》同《どう》士《し》の部屋を用意しますわ。それならいいんでしょ?」  「鍵《かぎ》はかかります?」  と、亜由美は真顔で訊《き》いた。  食事の後、居《い》間《ま》へ移《うつ》ると、淑子は、亜由美に、大学での田村のことを何でもいいから話してくれ、と言い出した。  「あの人のことを少しでも知りたいの。きっと帰って来ると信じてるから」  と淑子は言った。  亜由美は、とりとめのない、エピソードを思い出すままに話したが、淑子の方は、じっと、身を乗り出すようにして聞いている。  そして、亜由美は、淑子の目に涙《なみだ》が光っているのに気付いた。——これはきっと本物の淑子なんだ、と思った。  偽《にせ》物《もの》が、なりすましているのなら、できるだけボロがでないように、田村の知り合いの人間に、泊《とま》って行けとすすめたり、あれこれ訊《き》いたりはしないだろう。  これが演《えん》技《ぎ》なら、正に名演である。  「——淑子さん」  と、亜由美は言った。「実は、私のところにも、絵葉書が来ているんです」  「え?」  淑子は、ちょっと意味をつかみかねているようだったが、すぐに、頬《ほお》を紅《こう》潮《ちよう》させた。  「一《いち》応《おう》、文章も書いてあります。でも、あんまり意味はない内《ない》容《よう》ですけど」  「どういう内容ですか」  亜由美は記《き》憶《おく》を頼《たよ》りに、大体のところを説明した。  ——しゃべってはいけなかったかな、と思ったのは、話し終った後で、それは、大体があわて者の亜由美としては、いつものことであった。  しかし、口から出てしまったものを、もう取り戻《もど》すことはできない。チラッと有賀の方へ目をやると、肝《かん》心《じん》のボディガードは、満《まん》腹《ぷく》になったせいか、スヤスヤと眠《ねむ》っていた。  「やっぱり生きてるんだわ、あの人は」  と、淑子は声を弾《はず》ませる。「今度、その葉書を見せて下さいな」  「ええ、もちろん。でも、一つ分らないのは、なぜ、シェークスピアが出て来るのかっていうことです」  「本当ね。ええと——ヴェニスとデンマークと……」  「ヴェローナです。そして淑子さんのところへ来た、コーダー」  「『マクベス』『ハムレット』『ヴェニスの商人』『ロミオとジュリエット』ね。——あんまり内容的な関連はないわね。悲《ひ》劇《げき》も喜劇もあるし……」  「ともかく、田村さんが出していることだけは確《たし》かですね」  淑子は深々とため息をついて、  「あの人は何をしてるのかしら」  と呟《つぶや》いた。  「——失礼します」  邦代という娘《むすめ》が入って来る。  「ああ、もう片《かた》付《づ》けてちょうだい」  「はい、お部屋の方は仕度しました」  「どうもありがとう。ご案内してあげて」  淑子は立ち上ると、「じゃ、どうぞごゆっくりなさって下さい。まだお休みにならないようでしたら、どうぞこの部屋を自由にお使いになって構《かま》いませんから」  亜由美と、やっと目を覚ました有賀は礼を言って、邦代という娘について居《い》間《ま》を出た。  「お二階です」  と、邦代が、先に立って階《かい》段《だん》を上って行く。  「——あなたは住み込《こ》みなの?」  と、亜由美は訊《き》いてみた。  「ええ。一階の奥《おく》の部屋で休みます」  「大変ね」  「いいえ、却《かえ》って、朝早く出て来るより楽ですし。お金の節約にもなりますもの」  見かけによらず、がっちりした現《げん》代《だい》っ子らしい。  二階の廊《ろう》下《か》を挟《はさ》んで、いくつかドアが並《なら》んでいる。  「ずいぶん部屋があるのね」  「お客様を、十人までお泊《と》めできるそうです」  「十人ね!」  まだ眠《ねむ》そうな有賀は、頭を振《ふ》って、  「うちは客なんて一人も泊る余《よ》裕《ゆう》がないぜ。せいぜい軒《のき》下《した》で野《の》良《ら》猫《ねこ》一《いつ》匹《ぴき》だな」  と言った。  「——こちらが塚川様。あちらが有賀様の部屋です」  「ありがとう」  「失礼します」  邦代が行ってしまうと、亜由美はドアを開けた。——客間としては立《りつ》派《ぱ》なものだ。超《ちよう》一流ホテル並《な》みとはいかないにしても、なまじのペンションやビジネスホテルより、よほどゆったりして、ベッドも広い。ちゃんとトイレとシャワーまで付いている。  「——同じ造《つく》りか」  と、有賀が入って来る。「ただ、左右対《たい》称《しよう》だな」  「何よ、レディの部屋へ入るときはノックしなさい」  「まだ裸《はだか》でもないんだからいいじゃないか」  「当り前よ。——後であの邦代さんって子の所へ行ってみるわ。何か聞き出せるかもしれない」  「気を付けろよ。こんな目に遭《あ》わないようにね」  有賀は頭のコブを撫《な》でて見せた。  「——ドン・ファンがいなくなったのは気になるわね。それに、あなたを殴《なぐ》った人間……」  「今夜は用心した方がいいぞ」  「何よ、そのためにボディガードがついて来たんでしょ」  「今夜はだめ。たらふく食ったら、もう眠《ねむ》くて眠くて……」  「ひどいなあ。朝になったら、私が殺されてた、なんてことになったって知らないわよ」  「そしたら泣《な》いて悔《くや》むよ」  「それだけ?」  「香《こう》典《でん》も出す」  亜由美はつい笑《わら》ってしまった。——ドアをノックする音。  「塚川さん。いいかしら?」  淑子の声だ。ドアを開けると、有賀に気付いて、  「あら、お邪《じや》魔《ま》したかしら?」  「いいえ、とんでもない」  「あの——ちょっと妙《みよう》なことを訊《き》くようですけど、さっきの田村さんからの葉書、どこへ行ったかご存《ぞん》知《じ》ありません?」  亜由美と有賀は顔を見合わせた。  「——ないんですか」  「ええ。いざ、しまっておこうと思って、捜《さが》したんですけど、見当らなくて。引出しも調べましたし、邦代さんに手伝ってもらって、居《い》間《ま》の中をくまなく捜したんです。でも、どこにも……」  「変ですね。有賀君、知ってる?」  「いいや。全然、分らない」  「そう……」  淑子は、ちょっと落ち着かない様子で、  「何だかいやなことでも起りそうだわ」  と独《ひと》り言《ごと》のように呟《つぶや》いた。  「淑子さん——」  「いいえ、きっとどこかから出て来るわ。ごめんなさいね、お邪《じや》魔《ま》して」  と、淑子は会《え》釈《しやく》して出て行った。  亜由美と有賀はしばらく黙《だま》り込《こ》んでいた。  「誰《だれ》かが盗《と》ったのかしら?」  「さあ……。ともかく、彼女、ずいぶん気落ちしてる様子じゃないか」  「そうね。本当に田村さんのことを愛してるのよ。——私、そう思うわ」  亜由美は、自分に言い聞かせるような口《く》調《ちよう》で、そう言った。 傾《かたむ》いた針《はり》  有賀におやすみを言って、一人になると、亜由美は時計を見た。  十時半だ。まだ宵《よい》の口、とは行かないにしても、寝《ね》るには早い。  「そうだ。家へ電話しておこう」  と呟《つぶや》く。  さすがにホテルではないから、各室に電話までは付いていない。インターホン式のものがあるが、外へかけられるような電話はないのである。  「確《たし》か二階にも、廊《ろう》下《か》にあったような——」  部屋を出て、廊下を見《み》渡《わた》すと、あったあった。——受話器を上げてみると発信音も聞こえる。  早速自《じ》宅《たく》へかける。  「はい、塚川です」  「あ、お母さん、私よ。今夜は、こちらの別《べつ》荘《そう》にお世話になるからね」  「そう、ついでに二、三日泊《と》めていただいたら?」  「まさか。明日は帰るから」  「分ったよ」  と清美は言って、「有賀君も一《いつ》緒《しよ》なんだね?」  「そうよ」  「じゃ、まあ巧《うま》くやりなさい」  「——巧くって?」  「妊《にん》娠《しん》しないように気を付けなさい。それじゃ」  「あの……」  電話は切れていた。亜由美は、呆《あき》れ顔で受話器を戻《もど》した。  物分りのいい母親、と感《かん》謝《しや》すべきなのかどうか……。  カチリ、とドアの閉《しま》る音がした。亜由美はギクリとして振《ふ》り向いた。  廊《ろう》下《か》に人《ひと》影《かげ》はなく、どのドアも閉《と》ざされていた。そのどれがカチリと鳴ったのか、亜由美には見当もつかない。  誰《だれ》かが、ドアを開けて、亜由美の電話を聞いていたのだ。しかし、誰が?  亜由美は、急に寒々としたものに捉《とら》えられて、部屋に戻《もど》った。  まだ、あの邦代という娘《むすめ》の所へ行くのは早いだろう。その前にシャワーでも浴びてしまおうか。  亜由美はドアのかけ金をかけて、それからベッドのわきに服を脱《ぬ》いだ。  裸《はだか》になってシャワールームへ入り、カーテンを引く。コックをひねると、ちょうど少し熱めの、快《かい》適《てき》な雨が降《ふ》り注いで来る。  手早く浴びるつもりが、気持いいので、つい手間取って、バスタオルを体に巻《ま》いてシャワールームから出たときは、少しのぼせ気味ですらあった。  「——さあ、服を着て、と……」  亜由美は、時々、やらなくてはならないことを口に出して言ってみて、自分を動かす、ということをやる。そうしないとなかなか動かない、怠《たい》惰《だ》人《にん》間《げん》なのかもしれない。  服を着て、バスタオルを戻《もど》そうとしてベッドの上から取った。そして——手が止った。  ベッドの上に、一枚の絵葉書があった。  取り上げる手が震《ふる》えた。間《ま》違《ちが》いない。コーダーの城《しろ》の写真。表の宛《あて》名《な》だけの筆《ひつ》跡《せき》。  それは、淑子が失くなったと言っていた、田村からの絵葉書であった。  事の意外さに、亜由美はしばらくその場に突《つ》っ立《た》っていた。そこに絵葉書があったことそのことも驚《おどろ》きだったが、自分がシャワーを浴びている間に、誰かがここへ入って来たのだということも、亜由美を不安にさせていたのだ……。  一体誰《だれ》が、こんなことをしたのだろう? 何のために?  亜由美には、見当もつかなかった……。  しかし、一体、この絵葉書、どうしたものだろう?  亜由美はベッドに座《すわ》って考え込《こ》んでいた。淑子の所へ返しに行っても、どう説明しよう?  シャワーを浴びて出て来たら、ベッドの上にのっていた。——そんなことを信用してくれるとは思えない。  実《じつ》際《さい》、確《たし》かめたのだが、ドアのかけ金は、ちゃんとかけてある。誰かが入って来たという形《けい》跡《せき》はないのだ。  淑子に妙《みよう》な疑《ぎ》惑《わく》を持たれるよりは、黙《だま》っていよう、と亜由美は決めた。絵葉書を、バッグにしまい込む。  さて、もう十一時過《す》ぎだ。そろそろいいだろう。  亜由美は部屋を出て、一階へ降《お》りて行った。居《い》間《ま》の方から、光が洩《も》れている。  まだ淑子は起きているのだろうか? そうなると、ちょっとまずいのだが。  ドアが細く開いているので、覗《のぞ》いてみようと思った。そっと近付き、隙《すき》間《ま》に目を当てる。  ——人の姿《すがた》は見えなかった。  いないのか。それとも、死角になったところにいるのかな……。  不意に、クスクス笑《わら》う声がして、亜由美はギョッとした。中から聞こえて来るのだ。  少しドアを開いて、頭を入れてみた。  声はするのだが、どこにも姿は——と、思うと、ソファの、背《せ》の向うから、ピョコンと女の足が出て来た。——男の笑い声、女のクスクス笑い……。  事《じ》情《じよう》はピンと来た。そのとき、ドアがキーッと音を立てたので、ソファの向うは、急に静まり返ってしまった。  恐《おそ》る恐る、ソファの背《せ》から覗《のぞ》いた顔は、運転手の神岡……そして、相手は邦代であった。  「あ——どうも」  神岡があわてて立ち上る。邦代も、はだけたブラウスの胸《むね》のボタンをせっせととめていた。  「おやすみなさい」  神岡は、そそくさと出て行ってしまった。  邦代の方は、ちょっとすねたように、亜由美を見て、  「ご用ですか。私の仕事時間は十時までなんですけど。後はどうしようと勝手でしょ」  「邪《じや》魔《ま》してごめん。でも、何もこんな所で……。どこか他のお部屋でしたらいいのに」  「ここが一番スリルがあって面白いって、神岡さん、言うんだもの」  邦代は、屈《くつ》託《たく》なく笑《わら》った。  「負けそう、って感じね」  「彼《かれ》氏《し》のところに行かないんですかあ」  「彼氏? ああ、有賀君? 彼は、ただのお友達よ」  「じゃ、まだ一《いつ》緒《しよ》に寝《ね》てないんですか?」  まさか、という顔。亜由美は何とも言いようがない。  「遅《おく》れてんのかな、私。まだ未《み》経《けい》験《けん》組《ぐみ》なんだもの」  「嘘《うそ》! そんな人いるんですか?」  変に小《こ》馬《ば》鹿《か》にしたように言われると腹《はら》が立つものだが、邦代の言い方は、子《こ》供《ども》っぽいほど素《す》直《なお》なので、却《かえ》って怒《おこ》る気にもなれないのだ。  「週《しゆう》刊《かん》誌《し》に出てるほど進んでないのよ、実《じつ》態《たい》は」  と、亜由美は言った。「ねえ、ちょうどいいわ。あなたにちょっと訊《き》きたいことがあったの」  「何ですか?」  「淑子さんのことなんだけど」  「お嬢《じよう》さんの?」  「あなたはいつからここで働いてるの?」  「まだほんの一か月くらいです。この別《べつ》荘《そう》では」  「というと……前は?」  「やっぱり、増口さんの、他の別荘にいたんです」  「じゃ、こっちへ移《うつ》って来たわけ」  「そうです。お嬢《じよう》さんのご希望だったそうですよ」  「淑子さんの?」  「おばさんもです」  「おばさんって、もう一人の——」  「ええ。やっぱり他の別荘から、私と同じ頃《ころ》、こっちへ来たんです」  「じゃ、それまでこの別荘は使ってなかったの?」  「いいえ。でも他の人が働いてたんです。その人たちは、どこかよその——確《たし》か軽井沢の方へ移ったそうですよ」  「どうしてそんな面《めん》倒《どう》なことをしたのかしら?」  「さあ、お金持って、大体気まぐれでしょ」  「それにしても……。よほど、淑子さんは、あなたを気に入ったのね、きっと」  「いいえ。だって、私、ここへ来る前は、お嬢さんにお会いしたことないんですもの」  「え? じゃ、ここで初めて?」  「そうです。おばさんもですよ」  つまり、結《けつ》婚《こん》する前の淑子を、二人とも知らないというわけだ。  「——淑子さんのご主人の事《じ》件《けん》、知ってるでしょ」  「ええ」  「じゃ、ご主人にも会ったことないわけね」  「私は一度、見かけたことがありますよ」  「どこで?」  「増口さんに何か物を届《とど》ける用で、会社まで行ったんです。そのときに、お二人が出て来られるのを見ました」  「二人……。つまり、田村さんと、淑子さんね?」  「そうです」  「じゃ、一《いち》応《おう》、淑子さんの顔もそのときに見たわけね」  「チラッとですけど」  それでは、とても、良く似《に》た別人かどうか判《はん》断《だん》はつくまい。  しかし、考えてみれば妙《みよう》な話である。夫が行方不明で、傷《しよう》心《しん》の花《はな》嫁《よめ》さんが別《べつ》荘《そう》にこもるのは分るとしても、身の回りの世話をさせるのに、わざわざ、全くなじみのない者を選ぶというのは、おかしい。むしろ、気心の知れた人間の方が、心が休まるのではないか。  「どうして、お手伝いの人を替《か》えたのか、知ってる?」  と亜由美は訊《き》いてみた。  邦代は黙《だま》って肩《かた》をすくめただけだった。  「——どうもありがとう」  と、亜由美は言った。「淑子さん、気落ちしてるでしょう。よく面《めん》倒《どう》みてあげないと」  「そうですね。でも——」  と邦代がクスッと笑う。  「どうしたの?」  「いいえ、ご主人が姿《すがた》くらまして、殺されたらしいっていうんでしょ? その割《わり》には、お嬢《じよう》さん、太ってるんですもの」  「太ってる?」  「ええ。本当はご主人いなくなってホッとしてんじゃないのかな」  「太ってるって、どうして分るの?」  「洋服が合わないんですよ」  と、邦代は言った。「——この別荘の洋服ダンスに入ってる服、あれこれ合わせてみてるんだけど、どれも、ちょっときついんです。だから、全部新しく買い直さなきゃなんないみたい。いくつかは私、もらって自分用に直しちゃおうと思って。お金持は、新しく作っちゃうんでしょうけど、私たちは、そんなお金ありませんものね」  洋服が合わない。——女《じよ》性《せい》の服は、ちょっとサイズが違《ちが》っても着られない。  別人ならば、着られなくて当然だろう。  これは、淑子にとってはマイナスの材料である。そして、お手伝いに、知らない者を入れたこと。  淑子を本物だと信じかけていた亜由美だったが、どうも、形勢は逆《ぎやく》転《てん》しつつあるようだ。  「でも、どうしてそんなこと訊《き》くんです?」  と、邦代が言った。  「いいえ、別に。——ただ、淑子さんのことが心配でね。いなくなったご主人を知ってたものだから」  「そうですか。私、ああいうダサイ人って好《す》きなんだな」  ダサイ、か。——亜由美は苦《く》笑《しよう》した。  二階へ上って、自分の部屋のドアを開ける。まあ、収《しゆう》穫《かく》ゼロでもなかった。  「——おい」  急に声をかけられ、キャッと飛び上りそうになった。  「有賀君!」  有賀が、シャツとパンツのスタイルで、ドアの陰《かげ》に立っていた。「——何してるのよ! 出てって! 私のことを——」  「違うんだ! 落ち着いてくれよ」  有賀は必死の形《ぎよう》相《そう》で、「廊《ろう》下《か》に誰《だれ》かいなかった?」  「いないわよ。どうして?」  「じゃ、諦《あきら》めたのか……」  有賀がホッと息をつく。  「何かあったの?」  「いや……びっくりしたぜ。ぐっすり眠《ねむ》ってたんだ。そしたら——何だか気配ってやつだな。誰《だれ》かいるな、と思った」  「部屋の中に?」  「うん。別にこっちは鍵《かぎ》なんてかけてないしさ。目を少し開けると、何か白いものが立ってて——」  「まさかお化けじゃ……」  「違《ちが》うよ。暗いから、ぼんやりしか見えないんだ」  「よかった!」  亜由美は胸《むね》を撫《な》でおろした。危《あぶ》ないことが好《す》きなくせに、幽《ゆう》霊《れい》とか、その手の話には弱いのである。  「見てると、女らしい。てっきり君だと思った」  「私が行くわけないでしょ」  「だって他に思い当らないじゃないか」  と、有賀はベッドに腰《こし》をかけた。「スルッと音がして、女がネグリジェを脱《ぬ》いだらしい。僕《ぼく》のベッドの方へ近《ちか》寄《よ》って来て、毛布の中へ入って来るんだ」  「そこで目が覚めたとか言うんじゃないでしょうね」  「まぜっ返すなよ。女の顔が間近に来て、目を開くと——」  と、一息ついて、「増口淑子じゃないか」  「淑子さん?」  亜由美は目を丸《まる》くした。「嘘《うそ》でしょ!」  「本当だよ。こっちはびっくり仰《ぎよう》天《てん》、ベッドから這《は》い出した。そしたら、彼女《かのじよ》、裸《はだか》で追って来るんだ。で、廊《ろう》下《か》へ飛び出して、君の部屋へ逃《に》げ込《こ》んだってわけさ」  「そんなことって……。あの淑子さんが!」  「きっと、すぐ旦《だん》那《な》がいなくなって、欲《よつ》求《きゆう》不《ふ》満《まん》なんだな」  「でも、だからって、むやみやたらと男の人のベッドに潜《もぐ》り込《こ》むなんて……」  「二《に》枚《まい》目《め》だからじゃない?」  「誰《だれ》が?」  と亜由美が訊《き》いた。  「傷《きず》つくな、僕は」  「どうでもいいから、もう部屋へ戻《もど》ってよ」  「今夜だけここにいてもいいだろ? 何もしないからさ」  「だめだめだめーっ!」  「分ったよ! そんなかみつきそうな顔すんなってば」  有賀はあわてて、亜由美の部屋を出て行った。 すれ違《ちが》い  ——奇《き》妙《みよう》だわ。  眠《ねむ》いはずなのに、一向に眠りは亜由美を訪《おとず》れては来なかった。  亜由美は、暗い天《てん》井《じよう》をじっと眺《なが》めた。  増口淑子。いや、今はまだ田村淑子と言うべきか。  ——そのイメージが、あまりにバラバラなのだ。  田村の葉書に涙《なみだ》ぐむし、田村のことをあれこれ知りたがり、彼が死んだとは信じたくないらしい。その一方で、有賀のベッドへ入り込《こ》もうとする。  本物らしいかと思えば、偽《にせ》物《もの》らしい。  一体どれが本当の淑子なのだろうか?  しかし、ここまでのところでは、どうも、別人の可《か》能《のう》性《せい》の方が高いような気がする。もちろん、確《たし》かな証《しよう》拠《こ》があるわけではないにしても。  ともかく、いくつかの事実はつかんだのだから、これを武居に話して、今後のことを相談してみよう。  「さて、寝《ね》なきゃ……」  亜由美は目をつぶった。そう眠くはないがじっと目を閉《と》じていれば眠れるだろう。  そう言えば、ゆうべは、あのドン・ファンがベッドに入り込《こ》んで来て、一晩中ろくに寝てないのだ。——ドン・ファンか。一体どこへ行ったんだろう?  「クゥーン」  ——亜由美はベッドに起き上った。今の声は……ドン・ファンだ!  「ドン・ファン?——ドン・ファン、どこなの?」  どこから聞こえて来たのか、はっきりしない。しかし、そう遠くでもなさそうである。  「ドン・ファン!——どこにいるの?」  返事はなかった。亜由美はベッドから出て、部屋の明りを点《つ》けると、服を急いで着た。  廊《ろう》下《か》にいるような声だったけど……。  廊下へ出てみる。——犬も人も、影《かげ》も形もなかった。  「ドン・ファン。——ドン・ファン?」  低い声で、囁《ささや》くように呼《よ》びながら、亜由美は廊下をゆっくりと歩いて行った。  しかし、ドン・ファンの姿《すがた》はどこにもない。  「空耳かしら」  いや、そんなことはない! 確《たし》かに聞こえたのだ。  あれは、ドン・ファンの声に違《ちが》いない。  すると、この別《べつ》荘《そう》のどこかにいるのだ。なぜ、林の中から、ここへ来られたのだろう?  ——廊下の端《はし》まで来て、亜由美は諦《あきら》めて戻《もど》ろうとした。  不意に、目の前のドアが開いて来た。亜由美はあわてて壁《かべ》にピタリと身を寄《よ》せた。  幸い、ドアが亜由美の側へ開いて来たので、気付かれずに済《す》んだようだ。  出て来た男が、  「じゃ、お嬢《じよう》さん、おやすみなさい」  と挨《あい》拶《さつ》した。  神岡である!——さっきは邦代で、今度は淑子か。忙《いそが》しいことだ。  いや、たぶん、淑子に呼《よ》ばれて来たのではないか。有賀の所で、思いを果《はた》せなかった淑子が、いわば「代役」として、神岡を呼んだのだろう。  「おやすみ」  と淑子の声がした。  神岡が階《かい》段《だん》の方へ歩いて行く。淑子はずっと見送っているらしかった。——神岡が見えなくなったのだろう、淑子はドアを少し閉《と》じかけてから、  「塚川さん、おやすみなさい」  と言ってドアを閉《し》めた。  亜由美は、返事もできずに、ポカンとして、閉じたドアを見つめていた……。  自分の部屋へ戻《もど》って、亜由美はかけ金をかけた。  やれやれ、気付かれちゃったのか。しかし、何も好《この》んで立ち聞きしていたわけではない。ちゃんと、訊《き》かれれば事《じ》情《じよう》は説明できるのだが。  だが、淑子が、田村のことを案じながら、他の男に抱《だ》かれるという神《しん》経《けい》が、亜由美には分らない。  田村のことを心配していたのも口先だけのことか、と、不《ふ》愉《ゆ》快《かい》になって、早々にベッドへ潜《もぐ》り込んだ。  目を閉じて——眠《ねむ》れるな、と思った。  ふと、足の先がムズムズする。  「ん?」  足をのばしてみる。何やら柔《やわ》らかくて、あったかいものに触《ふ》れた。  もしかすると……。  「ドン・ファン?」  亜由美は毛布をめくった。  「クゥーン」  という声がして、ドン・ファンが亜由美の胸《むね》の上にのって来た。  「ちょっと——重いわよ。どいてったら……いやだ、ほら——」  ペロペロと舌《した》で顔をなめられて、亜由美は笑《わら》い出してしまった。  「ドン・ファン……どこに行ってたの? いやね、心配させて!」  ドン・ファンは、亜由美にぴったり寄《よ》り添《そ》って、快《こころよ》さそうに鼻声でないた。  「甘《あま》えちゃって——こいつ」  こうもベタベタくっつかれては、怒《おこ》るに怒れない。  「さ、今夜はもう寝《ね》るわよ」  と、亜由美は言った。  しかし、よくこの部屋にまで入って来れたものだ、と亜由美は思った。どこをどう通って、外から入って来たのか。  「お前に口がきけたらね」  と、亜由美は言った。「おやすみ、ドン・ファン」  「クゥーン」  と、ドン・ファンは応《おう》じた。  今日こそは。  亜由美は、ドン・ファンを抱《だ》いて、朝食の席へと降《お》りて行った。  ドン・ファンが、淑子にどういう態《たい》度《ど》を取るか、それが大きな決め手になる。  「おはよう」  と、食堂へ入って行くと、もう有賀が席について、せっせとオムレツを食べていた。  「早いのねえ」  「うん。腹《はら》減《へ》ってね。それに、家じゃこんな朝飯、食えないからね。——おい、その犬——」  「ゆうべ見付けたの。——ねえ、淑子さんは?」  「さあ、まだ見ないよ」  そこへ、邦代が入って来た。  「おはようございます。卵《たまご》はどうしますか?」  「あの——淑子さんは?」  「お出かけになりました」  「出かけた?」  亜由美は訊《き》き返した。  「ええ、今朝、ずいぶん早く起きて来られて、急に思い立って、出かけるから、とおっしゃって……」  「どこへ?」  「さあ。何もおっしゃいませんでした」  と、邦代は言った。「——卵の方は?」  「え?——あ、あの——スクランブルに……」  淑子が出かけてしまった。——あまりに突《とつ》然《ぜん》ではないか。  ゆうべの、神岡とのことを知られているので、亜由美と顔を合わせたくなかったのだろうか?  それとも、このドン・ファンのせいか。  「残念だわ。せっかく、この犬と対面できると思ったのに」  「帰りを待つか?」  「そんなことできないわ。今日中に帰るかどうかも分らないのに」  「あ、そうか」  「また出直して来る他、ないようね」  ——朝食を終えると、ドン・ファンにも少し紅《こう》茶《ちや》を飲ませた。  邦代がすっかり面白がって、あれこれと食べ物をやっていた。  「じゃ、神岡さんも、淑子さんと一《いつ》緒《しよ》に?」  と、亜由美は訊《き》いた。  「ええ、もちろん神岡さんの車で」  と邦代は言って、「あ、そうそう。お客様の分は、ハイヤーを呼べと言われています。お帰りのときはおっしゃって下さい」  「——豪《ごう》勢《せい》だなあ」  有賀がため息をつく。  「そんなことより、ゆうべ、あの後は大丈夫だった?」  「うん。ぐっすり眠《ねむ》った。ちゃんとかけ金をかけて、ドアを押《おさ》えといたんだ」  「オーバーね」  と、亜由美は笑《わら》った。  「これからどうする?」  「一《いつ》旦《たん》家へ帰らないと。このドン・ファン君を連れちゃいけないでしょ」  「そうか。僕《ぼく》は大学へ直《ちよく》接《せつ》行くかな」  「珍《めずら》しい。勉強したくなったの?」  「おい、珍しいはないだろ」  「私、今日は休《きゆう》講《こう》にする」  「何するんだい?」  「武居さんに会うわ。この報《ほう》告《こく》もしなきゃならないからね」  「あいつか」  と、有賀はいい顔をしない。「僕《ぼく》も行くよ。ボディガードだもの」  「もっと危《あぶ》ない所へついて来てよ」  と、亜由美は言った。「武居さんなら安心よ」  「分るもんか」  と、有賀は腕《うで》を組んだ。    「やあ!」  ホテルのロビーへ入ると、武居がすぐに二人を見付けてやって来た。  「お仕事中にすみません」  「いいんだよ。この時間はまだ比《ひ》較《かく》的《てき》楽《らく》なんだ」  「淑子さん、どこか他の別《べつ》荘《そう》あたりへ移《うつ》ったようですわ」  「本当かい? 初耳だな」  「おかげで、ドン・ファンに会わせる機会がなかったの」  「まだチャンスはあるよ」  と武居は言った。  亜由美が昨日の一部始終を聞かせると、武居は肯《うなず》いていたが、  「大分核《かく》心《しん》に迫《せま》ったね」  と、微《ほほ》笑《え》んだ。  「でも、もうお手上げ。これ以上は調べられないわ」  「そうだね。無《む》理《り》しちゃいけない。また何かあったら——」  ウエイターがやって来た。  「武居様、お電話が入っております」  「ありがとう。——誰《だれ》かは分らないか」  「男の方で、ドイツからだとか」  「ドイツ?」  「はい。——あ、田《ヽ》村《ヽ》というお名前でした、確《たし》かに」  とウエイターは言った。 ドイツからの電話  「田村だって?」  と武居は訊《き》き返した。  「まさか——」  と亜由美が口走る。  ウエイターが不思議そうな顔で二人を交《こう》互《ご》に眺《なが》めていた。  「よし、どの電話だ?」  と、武居は立ち上った。  「フロントです」  武居と亜由美は、フロントへ向かってロビーを駆《か》け抜《ぬ》けた。他の客がびっくりして眺めている。  田村さんから、電話!——亜由美としては、ここがどこかの王宮だって、走らずにはいられない。  武居が、置かれていた受話器を引ったくるように取った。  「もしもし! 武居です、もしもし!」  亜由美も武居のそばに立つと、耳を受話器に寄《よ》せた。  「もしもし、田村君か? 武居だ!」  やや沈《ちん》黙《もく》があって、やがて細い感じの声が聞こえて来た。  「もしもし……武居君か?」  「田村君か?」  「うん。——本当に武居君なのか」  亜由美はじっと耳を傾《かたむ》けた。確《たし》かに田村の声らしく思えるが、しかし、弱々しいので、はっきりしない。  「僕《ぼく》だ。田村君、大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》なのか? 今、元気なのか?」  「うん。——正《せい》確《かく》に言うとあまり元気じゃない。でも生きてるからね」  田村さんだわ、と亜由美は思った。田村らしい言い回しである。  「心配してたんだぞ! 今、どこにいる?」  「ドイツだよ。ハンブルクだ」  「そうか。ともかく、ホテルへ戻《もど》れ。戻れるか?」  「ああ、すぐ近くにいる」  「よし。今すぐホテルへ連《れん》絡《らく》しておく。いいか、危《あぶ》ないようなことがあれば、警《けい》察《さつ》か大《たい》使《し》館《かん》へ行け」  「分ってる。大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》だ」  「どこからかけている?」  「カフェだ。電話を借りてる」  「今、ここに塚川亜由美君がいる。代ろうか?」  「塚川君が?」  亜由美は我《が》慢《まん》できなくなって、武居の手から受話器を引ったくるように取った。  「田村さん! 塚川です!」  「やあ……。心配かけたね」  「元気ですか? あの——奥《おく》さんが心配なさってます。何かお伝えすることは——」  亜由美が言いかけたのを、田村は急に遮《さえぎ》った。  「彼女には黙《だま》っていてくれ!」  「え?」  「彼女には何も言わないでくれ。頼《たの》むよ」  「でも田村さん——」  「もう切るよ。また連絡する」  「待って! 田村さん!」  亜由美が呼《よ》びかけたときは、もう電話は切れていた。  振《ふ》り向くと、もう武居が増口へ知らせているらしい。他の電話で熱心にしゃべっていた。  淑子さんへは知らせるなというのは、どういうことなのだろう? 本来なら、妻へ真先に連《れん》絡《らく》してくれと頼《たの》むべきだろうに。  「あ、そうだわ」  田村の両親へ教えてあげなくては。亜由美は急いでダイヤルを回してから、  「この電話——使っていいですか?」  と、そばの女《じよ》性《せい》に訊《き》いた。    家へ帰ってみると、珍《めずら》しく母親の清美が家にいる。大体毎日出かけている、忙《いそが》しい人なのである。  「田村さんが見付かったんだって? 良かったね」  と、TVを見ながら、清美が言った。  「——どうして知ってるの?」  亜由美がびっくりして訊き返すと、  「さっきTVの〈ニュース速報〉に出てたよ」  日本のマスコミの素《す》早《ばや》いこと!  しかし、こうして報《ほう》道《どう》までされているのでは、淑子に知らせるなと言っても、無《む》理《り》なことだ。  「ドン・ファンは?」  と、亜由美が訊《き》いた。  「お前の部屋よ」  亜由美は二階へ上って行った。  それにしても、なぜ田村はああも淑子のことにこだわるのか。やはり、あの淑子は別人なのだろうか?  部屋のドアを開けて、  「ドン・ファン、ただいま」  と見回して——吹《ふ》き出してしまった。  ドン・ファンが、亜由美のベッドで寝《ね》ている。——それも、ちゃんとタオルケットを首までかけ、枕《まくら》に頭をのせて、人間風に寝ているのだから、笑《わら》い出さずにはいられない。  「変な犬ね、お前は」  ヒョイと頭をもたげて亜由美を見たドン・ファンは、嬉《うれ》しそうにキャンキャンと吠《ほ》えると、ベッドからドスンと降《お》りて来て、亜由美の足にからまりついた。  「いやだ! こら——ひっくり返っちゃうでしょ!」  亜由美は笑いながら、ベッドに座《すわ》って、ドン・ファンの頭を撫《な》でてやった。  田村が生きて戻《もど》ったのは何よりだが、淑子の謎《なぞ》、田村が亜由美へ囁《ささや》いていった謎《なぞ》の一言は、一向に解けない。もちろん田村が日本へ帰って来れば、分ることだろうが……。  しかし、武居が狙《ねら》われ、桜井みどりが殺された事《じ》件《けん》が、すべて田村の失《しつ》踪《そう》に関連していたとすると、これはドイツで起った事件というだけでなく、もともとは日本で、端《たん》を発していると考えなくてはならないだろう。  淑子が偽《にせ》物《もの》だとすると、それは一体、何のために仕組まれた陰《いん》謀《ぼう》なのか?  亜由美はベッドに横になって、ぼんやりと天《てん》井《じよう》を眺《なが》めていた。  そうだ。——淑子はもう、別《べつ》荘《そう》へ戻《もど》ったのだろうか?  亜由美は、別荘の番号をメモした手帳を開き、電話をかけた。  「——もしもし、増口です」  と若い女《じよ》性《せい》の声。あのお手伝いの邦代らしい。  「邦代さん? 塚川亜由美よ。淑子さんはお戻りになった?」  「いいえ。何か、さっき電話があって、ここは当分使わないから、よろしくって」  「だと思います。何かパッパッとしゃべって、切っちゃったんで、よく分りませんけど……」  「今、淑子さんはどこにいるのかしら?」  「分りません。何ともおっしゃいませんでしたけど」  「そう……。もし淑子さんから何か連《れん》絡《らく》があったら、淑子さんがどこにいるか分ったら、教えてくれない?」  「そちらへですか?」  「そう。お礼は充《じゆう》分《ぶん》にするわ」  増口から預かった百万円がある。ケチケチしないで出すべきだろう。  「そんなお礼なんて……」  と、邦代はためらって、「——いくらいただけます?」  亜由美は笑いをかみ殺した。チャッカリしてるんだから!  「そうね。それは情《じよう》報《ほう》次《し》第《だい》だわ」  「分りました」  と邦代は言って、「あの——夜でもいいですか、電話するの?」  と訊《き》いた。  「ええ、いいわよ。何かありそう?」  「たぶん。じゃ、またお電話します」  邦代は、なぜかあわてたように電話を切った。そばに誰《だれ》かがいるようだった。  どうやら邦代は何か情報をつかんでいるらしい。それを売り込むには、ちょっと確《たし》かめたいことがある、といったところだろう。  電話を下へ切り換《か》えておこうと手をのばすと、「ちょっと待った」と言うように、電話が鳴り出した。  「——はい塚川です」  「あ、亜由美さんお願いします」  「何だ聡子?」  桜井みどりの死体を発見したときに一《いつ》緒《しよ》にいた神田聡子である。  「亜由美なの?」  「そうよ。誰《だれ》だと思ったの?」  「お母さんかと思った。そっくりね、あなたの声」  「あ、そう」  亜由美は冷ややかに言った。そりゃ、母が類《たぐい》まれな美声の持主というのなら、似《に》てると言われて喜ぶだろうが、しかし……。  「何か用なの?」  と亜由美は言った。  「うん、あのさ、桜井さんが殺されたときのことでね、ちょっと思い出したことがあるんだ」  「え? 犯《はん》人《にん》の手がかりでも?」  「そこまでいかないんだけどさ」  「じゃ何よ? もったいぶんないで、早く言え、こら!」  亜由美のそばで、ドン・ファンがワンワンと珍《めずら》しく、犬らしい(?)声を上げた。  「あら、亜由美の所に犬なんていたっけ?」  「私の助手なの」  「へえ!——ね、それじゃ、さ、電話で話してもよく分んないと思うから、学校へ来てくれない?」  「大学へ?」  「そう。あの現《げん》場《ば》に。——ね?」  「いいけど……。聡子、今、どこにいるのよ?」  「大学の近くのラーメン屋。今日もクラブの会合があってさ、その帰りなの」  「分ったわ。じゃ四、五十分で行く」  「部屋で待ってる」  と言って、聡子は電話を切った。  聡子が、何か気付いたことがあるという。——一体何だろう?  亜由美は、首をひねった。しかし、ともかく出かけなくては。  「ちょっと出て来るわよ」  とドン・ファンに声をかけると、クンクンと鼻を鳴らし、尻尾《しつぽ》を振《ふ》って、スカートの中に頭を突《つ》っ込《こ》んで来る。  「やだあ、こら! この——痴《ち》漢《かん》! 痴《ち》犬《けん》!」  〈痴犬〉なんて言葉あったっけ、と思ったが、「分った! 分ったわよ、お前も連れて行くから……」  この「押しかけ助手」、ちっとは役に立つのかしら、と亜由美は考えていた。    亜由美が大学の門をくぐったのは、もう大分暗くなってからだった。  すぐ行くつもりが、多少、腹《はら》ごしらえの必要があると気付いて、母親に手っ取り早くできるものを作ってくれと注文したのだが、  「ああ、いいよ」  と清美が作り出したのが、ビーフシチューだった。  家で食べるのを諦《あきら》め、途《と》中《ちゆう》の立ち食いハンバーガーに駆《か》け込んで、二、三十分、時間を食ってしまったのである。  「やれやれ——」  クラブ用の棟《とう》までやって来ると、亜由美は一息ついて立ち止った。「聡子、怒《おこ》ってるかな。三十分待たせちゃったものね」  クゥーン、とドン・ファンが鳴く。何しろこの助手を連れているので、余《よ》計《けい》厄《やつ》介《かい》なのである。  階《かい》段《だん》を上って行く。——今日は静かで、どこの部も会合を開いていない様子であった。三階へ上り、桜井みどりの殺された現《げん》場《ば》である歴史部の部室のドアを開けた。  中は真っ暗だ。  「ここじゃないのかな……」  亜由美は明りを点《つ》けてみた。——事《じ》件《けん》の後は、ここを気味悪がって使っていないので、発見したときのままである。  みどりの死体のあった位置に、白《はく》墨《ぼく》で人の形が描いてあり、血《けつ》痕《こん》も黒々と残っている。  「何だかいやね……。聡子、どこなのかな」  と呟《つぶや》きながら、廊《ろう》下《か》へ出た。  社会科学部の方にいるのかしら?——亜由美は廊下を歩いて行った。  「聡子。——聡子、いる?」  と、ドアを叩《たた》く。  返事はなかった。ノブを回すと、ドアは開いた。中はやはり暗い。  「聡子……」  と呼んでみる。  手で明りのスイッチを探《さぐ》ったが、この部屋は慣《な》れていないので、なかなか見付からない。すると、ドン・ファンが足下をすり抜《ぬ》けて、部屋の中へ入って行った。  「ドン・ファン、どうしたの?」  中でゴトゴトと何やら動く音。そして——  「キャーッ!」  と突《とつ》然《ぜん》、悲鳴が響《ひび》き渡《わた》った。  同時に亜由美の手がスイッチを押《お》していた。——明るくなると、聡子の姿《すがた》が目に入った。床に引っくり返って、這《は》いずり回っている。  「——聡子!」  「亜由美! 誰《だれ》かが私のスカートの中へ入って来たのよ!」  と青くなっている。  亜由美はプッと吹《ふ》き出していた。  「何がおかしいのよ!」  「そこの——ほら、そのワンちゃんよ」  椅《い》子《す》の陰《かげ》から、ドン・ファンがヒョイと顔を出した。 聡子の推《すい》理《り》  「全くもう、人を馬《ば》鹿《か》にしてるわ!」  聡子はプンプンである。  「そう怒《おこ》らないの。犬なんだから」  「それにしたって……。ドン・ファンとはよくつけたもんね」  当のドン・ファンは涼《すず》しい顔で、寝《ね》そべっていた。  「聡子、あなたは何してたの、こんな暗い所で?」  「亜由美が来るのが遅《おそ》いんだもの、昼《ひる》寝《ね》してたのよ」  「こんな夕方に?」  「疲《つか》れたから横になってたの、その椅《い》子《す》並《なら》べて。そしたら、いつの間にか眠《ねむ》っちゃってたわけ」  「呑《のん》気《き》ねえ。——ま、遅《おく》れたのは悪い。で、何の話なの?」  「あ、そうだった。忘《わす》れてたわ」  大体が太目、大《おお》柄《がら》な聡子である。見かけ通りに大らかで呑気なのだ。  「桜井さんが殺されたときのことで、何か気が付いたって言ったじゃない」  「それくらい憶《おぼ》えてるわよ!——あのね、この前色々話したでしょ、ここから廊《ろう》下《か》を見てれば誰《だれ》もあの部屋へ入れなかったはずだって」  「うん」  「それに絶《ぜつ》対《たい》間《ま》違《ちが》いないと思うの。だから、桜井さんは、私たちが行く直前に殺されたんじゃないかと思うのね」  「直前って言っても、私たち、階《かい》段《だん》で会って、そのまま上って行ったのよ」  「だからさ、犯《はん》人《にん》が私たちの中にいるとしたら? それしか考えられないじゃない!」  「……私たち?」  亜由美はポカンとして、「つまり——私と聡子のこと?」  「いやあね、どうして私が桜井さん殺さなきゃなんないの?」  「じゃ、誰《だれ》のこと、『私たち』って?」  「この部屋にいた連中よ。社会科学部のメンバー」  亜由美は目をパチクリさせた。  「聡子! 大《だい》胆《たん》なこと言うわねえ」  「論《ろん》理《り》的《てき》帰《き》結《けつ》よ」  と、言い慣《な》れない言葉に舌《した》をもつれさせながら、  「つまり、ここにいた連中には、桜井さんが誰《だれ》かを待ってることが分ってたはずでしょ。それを見て、桜井さんがあなたと会ったらまずいと思ったかもしれない」  「でも、どうやって殺すの?」  と、亜由美が言った。「誰も席を立たなかったって、あなた言ったじゃないの」  「そうよ。だけど、帰《ヽ》り《ヽ》際《ヽ》にならできるんじゃない?」  「帰り際《ぎわ》——」  「ね、みんなゾロゾロとここを出る。階《かい》段《だん》を降《お》りて行くでしょ。そのとき、わざと少し遅《おく》れて部屋を出て、歴史部の部屋まで走り、桜井さんを刺《さ》して、また階段へと駆《か》け戻《もど》る。みんなノロノロ降りてるもの。追いつけると思うわ」  亜由美はしばらく考え込《こ》んだ。——確《たし》かに、かなり離《はな》れ技《わざ》ではあるが、不《ふ》可《か》能《のう》ではなさそうだ。  「どうかしら?」  と、聡子は目を輝《かがや》かせている。  殺《さつ》人《じん》事《じ》件《けん》が楽《たの》しくて仕方ない、などと言っては叱《しか》られそうだが、何しろ好《こう》奇《き》心《しん》の強い年代なのである。  「一つ、やってみようか?」  と、聡子が言った。  「そうね」  亜由美は肯《うなず》いた。「じゃ、私の方が身軽だから、犯《はん》人《にん》の役をやってみる」  「何よ、私がよっぽど重たいみたいじゃないの」  と、聡子はちょっとむくれて、「ま、軽《ヽ》い《ヽ》とは言いませんけどね」  「文《もん》句《く》言わないで。ね?——じゃ、あなたが先に出る。私はその後。あなたが階《かい》段《だん》を降《お》り始めたら、走るわ」  「OK。おしゃべりしながらだから、かなりゆっくりよ」  「じゃ、いい?——出て」  聡子がヨッコラショという感じで廊《ろう》下《か》へ出て、階段を降り始める。亜由美は一気に歴史部の部屋へと走った。ドアを開け、衝《つい》立《たて》を回って、桜井みどりの立っていた窓《まど》際《ぎわ》に行き、すぐに引き返した。廊下へ出て、階段へと走る。  聡子はもう二階に着いていた。  「——だめだ。こんなに早くできないわよ」  息を弾《はず》ませながら、亜由美は言った。  「そうかなあ。亜由美、動作が鈍《にぶ》いんじゃない?」  「失礼ね! だって、考えてみなさいよ、桜井さんを刺《さ》して、そのまますぐ戻《もど》ってこれる?」  「待って!」  と聡子は言った。「ね、亜由美と会ったの、この辺だっけ?」  「ええと——私は二階から三階へ上りかけてたわ」  「そうよ! そしてここでちょっと立ち話して、あなたが上りかけた」  「それを聡子が呼《よ》び止めて追いかけて来たわ」  「それなら時間はあったかもしれないわよ。私たち、しゃべりながら三階へ上ったでしょ。入れかわりに降りて来る人がいても、気が付かなかったんじゃない?」  「気が付いたわよ、きっと」  「でも、社会科学部の人なら、降りて来て当り前だもの」  「じゃ……聡子憶《おぼ》えてる?」  「分んないわ」  と聡子は首を振《ふ》った。「でも一人だけ、誰《だれ》かが遅《おく》れて来たのよ。きっとそうだわ」  亜由美は考え込《こ》んだ。確《たし》かに、聡子の言う通りかもしれない。それ以外に可《か》能《のう》性《せい》はないだろうか?  「——でも、聡子が言う通りだとすると、犯人が社会科学部の人間だってことよ」  「それらしき人、いるの?」  「さあ、分んないけど、別に犯《はん》人《にん》になっていけないってこともないでしょ」  「聡子も凄《すご》いこと言うわね、割《わり》と」  亜由美は苦笑した。「もし本当だったら、大変じゃないの」  「でも他に考えられないじゃないの」  「ウーン」  亜由美は考え込んだ。「——で、これからどうするの?」  聡子は肩《かた》をすくめた。  「そこまで考えてないわ」  「じゃ、こうしましょう。まだ、今、この考えを警《けい》察《さつ》へ話すのは早すぎるって気がするの」  「そうね」  「あのとき、一《いつ》緒《しよ》にいた人たち——社会科学部のメンバーの名前、書いてみてくれる?」  「いいわよ。それをどうするの?」  「さあ、どうしようかしら。ともかく、私に任《まか》せて。何か考えるから」  「了《りよう》解《かい》」  聡子は社会科学部の部屋に戻《もど》ると、メモ用紙に、名前と学年を書きつけた。  「——これで誰《だれ》も落ちてないと思うわ」  「じゃ、もらっとくわ。聡子、帰らないの?」  「私、ちょっとやらなきゃいけないことがあるの。明日までに会合の資《し》料《りよう》作んないと」  「じゃ、先に帰るわよ」  「どうぞ」  「——ほら、ドン・ファン、行くわよ」  と、亜由美が呼《よ》びかけると、床《ゆか》に寝《ね》そべっていたドン・ファンが、大きな欠伸《あくび》をしながら、立ち上った。  「ねえ、これが助手で大丈夫なの?」  と、聡子が笑《わら》いながら言った。  亜由美がドン・ファンを連れて行くと、聡子もつられたのか、大欠伸をした。  「やあだ……」  と、呟《つぶや》いて、「さて、やっちまわないと……」  と、雑《ざつ》然《ぜん》としている机《つくえ》に向った。  「この資料の……こことここ……。これはコピーを付ける、と。この次には……これが来るのか?」  階《かい》段《だん》を、亜由美の足音が遠ざかって行く。ドアが、少し開いたままになっていた。  聡子はあまり器用な方ではない。せっせと切《き》り貼《ば》りしているのだが、巧《うま》く切れなかったり、貼ったのが歪《ゆが》んだり、なかなか巧くできないのである。  「苛《いら》々《いら》しちゃうな、もう!」  と、グチった。  ドアがキーッと鳴った。ちょうど、微《び》妙《みよう》な貼《は》りつけ作業中だった聡子は、振《ふ》り向かずに、  「亜由美なの?」  と訊《き》いた。  返事はなかった。ドアが閉《し》まった。聡子が振り向くと同時に、明りが消えて、部屋の中は、真っ暗になった。  「誰《だれ》?……誰なのよ?」  聡子は声をかけた。「いたずらするの、やめてよ。——ねえ、誰なの?」  ゴトン、と音がした。椅《い》子《す》が動いた音だ。そして、引きずるような足音が近付いて来る。  聡子は、全身から血が失われていくような気がした。——誰《だれ》かが襲《おそ》おうとしている。  落ち着いて、落ち着いて。  一対一なんだからね。聡子は、机《つくえ》の上を手で探《さぐ》った。ハサミが触《ふ》れる。聡子はそれを握《にぎ》りしめた。  コトン、とまた何かにぶつかった音。相手は、少しずつ近付いて来ている。  逃《に》げなきゃ、と思った。このままここにいては、やられてしまう。  こっちも見えないが、向うだって見えないはずだ。——そうだ、部屋の中の様子なら、こっちの方が詳《くわ》しい。  聡子は、そっと横へ動いた。テーブルにぶつかるはずだ。——よし、これだ。  これを引っくり返せば、かなり凄《すご》い音がする。向うも混《こん》乱《らん》するはずだ。  ドアは真正面のはずである。左手の壁《かべ》に沿《そ》って行けば、着ける。  聡子はテーブルの端《はし》に手をかけた。    亜由美は、すっかり暗くなった大学の構《こう》内《ない》を歩いていた。  「早くおいで、ドン・ファン」  と振《ふ》り向く。  何しろ、ドン・ファンがいつにも増《ま》して、のんびりペースでやって来るのである。  「何やってるの?」  ドン・ファンは、じっと立ち止って、今出て来た棟《むね》の方を振《ふ》り向いている。  「——どうしたの?」  と、亜由美が戻《もど》って行くと、やおらドン・ファンが今来た方へと走り出した。亜由美はびっくりして、  「こら! ドン・ファン!」  と駆《か》け出した。「どこに行くのよ!——待ちなさい!」  あの犬、聡子のスカートの中が忘《わす》れられないのかしら、と思った。  「待って!——ドン・ファン!」  いかに短足のドン・ファンでも、本気になって駆けると、かなり早い。亜由美はフウフウ息を切らして、足を緩《ゆる》めると、  「勝手にしなさい!」  と怒《ど》鳴《な》る。  ドン・ファンが、クラブの棟《とう》の前に着くと、振《ふ》り向いて、ワンワンと吠《ほ》え立てた。  「何なのよ?」  と、歩いて来て、亜由美は言った。「何か忘れもの?」  そのとき、ドシン、と何かが倒《たお》れる音がして、  「キャーッ!」  と悲鳴が響《ひび》き渡《わた》った。  「聡子だわ! おいで!」  亜由美も夢《む》中《ちゆう》で階《かい》段《だん》を駆け上った。もちろんドン・ファンも続いたが、とても亜由美と一《いつ》緒《しよ》には上れない。  「聡子!——聡子!」  亜由美が社会科学部のドアを開けると、廊《ろう》下《か》の光が射《さ》し込《こ》んで、聡子が、ひっくり返った机《つくえ》や椅《い》子《す》の間に倒れているのが目に入った。  「聡子——」  と足を踏《ふ》み入れたとたん、亜由美は後頭部を一《いち》撃《げき》されて、そのまま闇《やみ》の中へ放り出されてしまった。   ——何やら、冷たいタオルで顔をこすられているような感じがして、亜由美は目を開いた。目の前にドン・ファンの顔がある。  「——あんたがなめてたの?」  と言いながら、体を起こそうとすると、頭がズキッと痛《いた》んで、あ、と顔をしかめる。  どうなったんだろう? ここは?  周囲は暗かった。そして廊《ろう》下《か》の光が洩《も》れて来る。  そうだ。ここは社会科学部の部室で……聡子が……。  「聡子!」  亜由美は、痛む頭をかかえつつ、立ち上ると、ドアの方へよろけながら歩いて行き、明りをつけた。  聡子が、床《ゆか》に倒《たお》れている。駆《か》け寄《よ》ると、額から血が一《ひと》筋《すじ》、顎《あご》へ流れ落ちていた。  「聡子! しっかりして!」  亜由美が抱《だ》き起こすと、聡子はウーン、と呻《うめ》いた。  「生きてるんだわ! 良かった!」  亜由美もかなりあわてていた。  「ドン・ファン、早く救《きゆう》急《きゆう》車《しや》を呼《よ》んで!」  と叫《さけ》んでいたのである。  「——そうなの。私もちょっとけがしてね」  と、電話で亜由美が言うと、母親の方は、  「あら、入院?」  と訊《き》き返して来た。  「ううん、そんな大けがじゃない。簡《かん》単《たん》に手当すればいいみたい」  「じゃ、今夜、帰るのね?」  「分んないわ。聡子の具合次第。もうしばらくは病院にいる」  「分ったわ。今夜、出かけようと思ってたから。そういうことなら、しばらく帰らないわね。じゃ、お友達に家へ来ていただきましょ」  呑《のん》気《き》なことを言っている母親にムッとして、  「娘《むすめ》がけがしたんだから、少し心配しなさいよ」  と文句を言った。  「だって、けがは顔じゃないんだろ? それなら、お見合いには差《さ》し支《つか》えないから」  ——母の発想にはついて行けない。  亜由美が電話を切って、聡子の病室の方へ戻《もど》って行くと、見たことのある男が、医者としゃべっていた。  「殿永さん!」  「やあ、災《さい》難《なん》でしたね」  殿永部《ぶ》長《ちよう》刑《けい》事《じ》は、いつもと変らぬ微《び》笑《しよう》を浮《う》かべている。  「よく分りましたね!」  「あの大学でまた事《じ》件《けん》、というのが耳に入ったんです。けがしたとか?」  「殴《なぐ》られたんです、頭を」  「災難でしたねえ」  「私より聡子の方が心配です」  「ああ、今、医者と話しました。命に別《べつ》状《じよう》はないそうですよ」  「よかったわ!」  亜由美は胸《むね》を撫《な》でおろした。  「強く頭を打ってるそうですが、レントゲンの結《けつ》果《か》、ひびも入っていないということです。他にも特《とく》に後《こう》遺《い》症《しよう》は出ないだろうという話でしたよ」  「聡子、石頭だから。良かったわ、でも」  「一体何があったんです?」  と、殿永が訊《き》いた。  亜由美は、ちょっと迷《まよ》ったが、しかし、誰《だれ》かが聡子を襲《おそ》ったことは間《ま》違《ちが》いないのだ。特に、亜由美が社会科学部の部室を出てすぐにそれが起っている。  つまり聡子を襲った人間は、亜由美と聡子の話を聞いていたのだろう。そして聡子が一人になったとき、襲いかかった……。  それは、聡子の言った推《すい》理《り》が正しいということではないだろうか。——断《だん》言《げん》できないまでも、少なくともその可《か》能《のう》性《せい》はある。  「実は、私たち、桜井さんが殺された事件について、ちょっと考えがあって——」  殿永は興《きよう》味《み》を示《しめ》した。  亜由美は、聡子の説明を、そのまま殿永を相手にくり返した。  「——もちろん、いずれにしても、かなりギリギリの離《はな》れ技《わざ》なんですけど、でもやってみるとできないこともないみたいなんです」  「しかし、危《あぶ》ないですねえ」  と殿永は苦《く》笑《しよう》しながら言った。「あなた方も、まあ軽いけがだから良かったようなものの、これが命でも落としたら、私が責《せき》任《にん》を感じますからね。何かやろうと思ったら、ぜひ私に知らせて下さい」  「はあ……」  そう言われると、亜由美としても、一言もない。しかも、実《じつ》際《さい》には、もっと危《あぶ》ないことをやっているのだから。  「その、社会科学部のメンバーのメモはお持ちですか?」  「ええ。——これです」  殿永はメモを受け取ると、  「預《あず》かっておきましょう」  とポケットへ入れて、「ああ、田村さんという方が、見付かったそうですね」  「ええ、そうらしいです。良かったわ、本当に」  「三、四日の内には帰国するでしょう。となれば、今度の事《じ》件《けん》の真相も、明らかになるかもしれません」  「そうですね。そうなってくれるとありがたいんだけど……」  と、亜由美は、独《ひと》り言のように呟《つぶや》いた。  「お宅《たく》までパトカーで送らせましょうか?」  と殿永が言った。  「あ——いえ、私、もう少し聡子のそばについています」  「意《い》識《しき》が戻《もど》ったら、事《じ》情《じよう》を訊《き》きに来ます」  「はい。あ、そうだわ。あの——」  「何ですか?」  「犬を一《いつ》匹《ぴき》、家へ連れてっていただけません?」  殿永が目を丸《まる》くした。 記者会見の言葉  成田空港の送《そう》迎《げい》ロビーへやって来た亜由美は、TVのカメラマンや、新聞記者たちが何十人と集まっているのを見て、目を見《み》張《は》った。  「マスコミがうるさく追い回すことも考えられるから、到《とう》着《ちやく》時間は秘《ひ》密《みつ》です」  と、武居から、昨夜電話があったのである。  しかし、どうやら情《じよう》報《ほう》は洩《も》れていたようだ。  亜由美は、できるだけ目立たないように、ロビーの隅《すみ》の方へ行って立っていた。予定通りなら、あと二十分ほどで飛行機が着くはずだ。  田村と少しでも話ができるかと思ってやって来たのだが、これではとても話どころではなさそうである。  田村は、ハンブルクでも警《けい》察《さつ》に話をしているが、ともかく疲《つか》れ切っているから、詳《くわ》しい話のできる状《じよう》態《たい》ではないということだった。だから、謎《なぞ》の解《かい》明《めい》は、田村の帰国を待つ他はないわけである。  ただ、田村が、誰《だれ》かに襲《おそ》われて、どこかに監《かん》禁《きん》されていたことは確《たし》かであり、田村はそこから、何とか自分で脱《だつ》出《しゆつ》して来たのだった。  亜由美はロビーを見回した。武居がいるかと思ったのである。  しかし、武居はもう、中に入っているのかもしれなかった。亜由美ももう少し早く来るつもりだったのだが、成田まではともかく遠い。早目に出たつもりが、こんな時間になってしまったのである。  「早く着けばいいのに……」  と、亜由美は呟《つぶや》いた。  到《とう》着《ちやく》時《じ》刻《こく》が迫《せま》るにつれて、報《ほう》道《どう》陣《じん》の数も増《ふ》えて行った。——これで、色々な事《じ》情《じよう》が明るみに出ると、ますますマスコミには格《かつ》好《こう》の話題になろう。  淑子はどこにいるのだろう、と亜由美は思った。武居の電話でも、  「どこにいるか分らないんだ」  ということだったし、あの別《べつ》荘《そう》へも電話してみたのだが、  「まだお戻《もど》りになりません。——ええ、連《れん》絡《らく》もなくて——」  という邦代の話だった。  一体、淑子はどこにいるのか。  もちろん、田村が帰国したのは、承《しよう》知《ち》しているだろう。ここ二、三日の新聞、TVでは、必ず取り上げられているのだから。  それでいて姿《すがた》をくらましているのだ。マスコミが取り上げるだけの要《よう》素《そ》は充分にある。  新《しん》婚《こん》旅《りよ》行《こう》で失《しつ》踪《そう》した夫。そして夫が生きて戻《もど》ると、今度は妻《つま》が行方不明。  武居が狙《ねら》われた事《じ》件《けん》、桜井みどりの殺害が、田村の失《しつ》踪《そう》に関連しているということは、まだマスコミは感づいていない。もし誰《だれ》かがそこに目を付けたら、たちまち週《しゆう》刊《かん》誌《し》のトップを飾《かざ》る記事になるに違《ちが》いない。  亜由美は二、三分おきに腕《うで》時《ど》計《けい》を見ていた。——もうすぐ田村の乗った飛行機が着くはずだ。  亜由美の肩《かた》に、誰かの手が触《ふ》れた。振《ふ》り向くと、  「どうも」  と、殿永部《ぶ》長《ちよう》刑《けい》事《じ》が微《ほほ》笑《え》みながら立っていた。「捜《さが》してたんですよ」  「知ってる顔に会うとホッとしますね」  「田村さんもかなり歓《かん》迎《げい》されそうですな」  「ねえ、疲《つか》れ切って帰って来るんだから、そっとしておいてあげればいいのに……」  「日本のマスコミ界は厳《きび》しいんですな。そんな思いやりの心を持っていては、競争に勝てない」  「警《けい》察《さつ》の出《で》迎《むか》えですか?」  「いや、これは公式のものではありません。私自身の好《こう》奇《き》心《しん》ですよ」  「でも、田村さんから事《じ》情《じよう》を聞くんでしょ?」  「それはもちろんです。しかし、多少回《かい》復《ふく》してからでないとね」  二人は、やや黙《だま》り込《こ》んだ。報《ほう》道《どう》陣《じん》がざわついて、  「着いたぞ」  「あの飛行機か」  といった声が飛び交った。  「着いたようですね」  と殿永が言った。「まあ、出て来るまでに少しかかります」  亜由美は何か胸《むな》苦《ぐる》しいものを感じた。——田村がどんな様子で出て来るだろうか、と思った。  ふと、あの大学の講《こう》義《ぎ》室《しつ》で居《い》眠《ねむ》りしているときに見た悪《あく》夢《む》を思い出し、ちょっと身《み》震《ぶる》いした。  「どうかしましたか?」  と殿永が訊《き》く。  「いいえ、別に」  亜由美は急いで首を振《ふ》った。「あの——聡子が書いたメモの学生たちのこと、何か手がかりになりそうなことはありまして?」  「いや、だめですね。残念ながら。あの部員の中には、特《とく》に今度の事《じ》件《けん》に深くかかわっているような人は見当りません」  「そうですか……」  すると聡子は誰《だれ》に襲《おそ》われたのか。そして、なぜ?  「それで私、机《つくえ》をひっくり返して、ドアの方へと駆《か》け出したんです。そしたら、暗がりの中で、突《とつ》然《ぜん》、後ろからぐいと腕《うで》をつかまれて……」  額《ひたい》の包帯も痛《いた》々《いた》しい聡子が、ベッドでしゃべっている。  亜由美がベッドの足の方に、殿永が、聡子のわきに立ってメモを取っていた。  「それからどうしました?」  「私、悲鳴を上げました」  と聡子が言った。  「私がそれを聞いて、飛び込《こ》んだんだわ」  と亜由美が肯《うなず》く。  「その後は、いきなり額のところにガンと何かが当って……。それきり、何も分らなくなったんです」  「犯《はん》人《にん》のことで、何か憶《おぼ》えていることはない? たとえば、靴《くつ》の音だったか、そうでなかったか。革《かわ》靴か、布の靴か」  「たぶん——革靴じゃないでしょうか。ともかく、底の硬《かた》い靴だと思います。でも、入って来てから、暗がりの中は、すり足で進んで来たから、はっきり、どうとは……」  「相手が男だってことははっきりしてた?」  「さあ……」  聡子は当《とう》惑《わく》顔《がお》で、「男だと思いますけど、あんなに力が強いんだもの」  「なるほど、——他に何か気が付いたことは?」  聡子は、しばらく考えてから、  「ありません」  と言った。  頭を動かすと傷《きず》が痛《いた》むのか、目だけを亜由美に向けて、話しかけた。  「ねえ、話したの?」  「何を?」  「私たちの推《すい》理《り》よ」  「ええ、話したわ」  「大変立《りつ》派《ぱ》な推理だと思いますがね、神田さん、ともかく命を落としては馬《ば》鹿《か》らしいですよ」  殿永の言葉に、聡子は神《しん》妙《みよう》な顔で肯《うなず》いた。  ——殿永が引き上げて行った後で、亜由美が言った。  「良かったわ、大したことなくて」  「大したことない、ですって?」  聡子は顔をしかめて、「まだ嫁《よめ》入《い》り前の顔に傷《きず》つけられて、大したことない、だなんて!」  「でも、傷は消えるわよ」  「そうね。——でもさ、亜由美、私が狙《ねら》われたってことは、取りも直さず、私の推理が正しかったってことじゃない?」  「絶《ぜつ》対《たい》そうとも言い切れないけど、可《か》能《のう》性《せい》はあるわね」  「じゃ、私が殺《さつ》人《じん》犯《はん》を見付けたってことになるのよ! 新聞に出るかなあ」  「よしなさいよ」  と、亜由美は苦《く》笑《しよう》した。「それに、一つおかしなことがあるわ」  「何よ!」  「もし犯人があそこで、あなたと私が話をするのを聞いてたとしたら、あなただけを襲《おそ》うなんて、おかしいじゃない。私ももう聞いてしまっているんだし、あのメモも持ってたわけよ。あなたを殺したとしても、何にもならないじゃないの」  「そりゃそうか……」  と聡子は呟《つぶや》いて、「でも、それじゃ、私はどうして襲《おそ》われたの?」  「私、犯《はん》人《にん》じゃないから、分んないわよ」  と亜由美は言った。   「——来たようですよ」  と、殿永が言った。  報《ほう》道《どう》陣《じん》が、ワッと出口へ群《むら》がった。フラッシュが光り、TVカメラのライトが揺《ゆ》れる。  「どいて! 通して下さい!」  と、男が叫《さけ》んでいた。  あれはどうやら武居の声らしい。  亜由美は、その人《ひと》垣《がき》の方へと近付いて行ったが、ともかく、とても割《わ》って入れるような雰《ふん》囲《い》気《き》ではない。  「凄《すご》い……」  と思わず呟《つぶや》いて、立ち往《おう》生《じよう》。  田村も武居も、頭の先も見えないのである。ただ、人の塊《かたま》りが、ゾロゾロと移《い》動《どう》するので、田村が歩いているらしいということだけが分る。  「何か一言」  「帰国の感想を!」  と、いった声が聞こえると、亜由美は腹《はら》立《だ》たしくなった。  疲《つか》れ切って、ろくに話もできない人間に、  「何か一言」  もないものだ。  「あっちへ行ってくれ! 話すことはないんだ!」  武居が怒《ど》鳴《な》っている。  「あんたに訊《き》いてんじゃないよ!」  と、誰《だれ》かが怒鳴り返した。  突《とつ》然《ぜん》、ワーッと人《ひと》垣《がき》が崩《くず》れた。マイクを手にした男が一人、床《ゆか》にひっくり返っている。どうやら、頭に来た武居が、一発食らわしたらしい。  「こいつはいかんな」  と、殿永が歩み出ると、報《ほう》道《どう》陣《じん》の中へ割《わ》って入った。  「頭を冷やせよ。相手は病人だぞ」  言い方は穏《おだ》やかだが、殿永の顔を知っている者が何人かいるとみえて、  「でも、こっちも何か談話を取らないと帰れないですよ」  「察して下さいよ、殿永さん」  といった声があった。  「よし、ちょっと待っててくれ」  殿永は、まだ憤《ふん》然《ぜん》とした表《ひよう》情《じよう》で立っている武居の方へ向いて、何やら話を始めた。  亜由美は、やっと田村の姿《すがた》を見ることができた。——ひどく疲《つか》れている様子で、記《き》憶《おく》の中の田村より、一回り、細く、小さく見えている。  亜由美は、よほど田村のそばへ行って、元気づけてやりたかったが、そんなことをすれば、また報道陣が大《おお》騒《さわ》ぎをするのは目に見えているので、じっと我《が》慢《まん》していた。  殿永の話に、武居は、あまり気の進まない様子ながら肯《うなず》くと、田村の方を向いて、何か話し始めた。田村は、顔を伏《ふ》せたまま、武居の話に聞き入っていたが、やがて、面《めん》倒《どう》くさそうに肯いた。  「じゃ、場所を改めて、五分間だけ、質《しつ》問《もん》に答えるそうです」  と武居が言った。「ただし——」  ざわついた報道陣をピシリと押《おさ》えるように、  「答えたくない質問には答えません。それをしつこく訊《き》いたりしないというのが条《じよう》件《けん》です。それでよければ——」  「すぐやってもらえますか?」  と誰《だれ》かが言った。  「本人は非《ひ》常《じよう》に疲《つか》れています。三十分ほど休ませたい。空港近くのMホテルで、三十分後に、ということにしたいと思いますが、どうです?」  別に異《い》議《ぎ》も出ないようだった。「——じゃ、よろしく」  と、武居が行きかけると、  「逃《に》げるなよ」  と、一人のレポーターらしい男が言った。  武居がまたカッとなって、拳《こぶし》を固めて向かって行くと、相手は、テープレコーダーをかかえて走って行く。その様子が、何とも愉《ゆ》快《かい》で、笑《わら》いが起った。  却《かえ》って、これで気まずい空気が一《いつ》掃《そう》されたようだった。  亜由美は、武居たちの方へ行こうとしたが、アッという間に、いなくなってしまう。  殿永が戻《もど》って来て、  「やれやれ、こういうトラブルは難《むずか》しいですよ」  と息をついた。  「でも、うまくさばかれましたね」  「幸い、知ってる顔も何人かいましたのでね。——あなたはどうします?」  「もしよければ、そのホテルの話を聞きたいですわ」  「じゃ、一《いつ》緒《しよ》に行きましょう」  と殿永が促《うなが》した。「私ももちろん聞くつもりですよ」    ホテルのロビーに、臨《りん》時《じ》の席が作られ、マイクが林立する前に、田村が、落ち着かない様子で座《すわ》っている。  傍《そば》に、武居が腕《うで》組《ぐ》みをしながら、妙《みよう》なことを言い出す奴《やつ》はぶっとばしてやると言いたげな顔をしていた。  少し離《はな》れた所で、その様子を眺《なが》めながら、亜由美は——多少大げさに言えば、感動していた。  武居は、決して田村と古い付合いというわけではない。むしろ、田村に恋《こい》人《びと》を奪《うば》われたのである。  それなのに、今、ああして、田村をかばって、本気で心配している。——男同士っていいな、と亜由美は思った。  もちろん女同士だって、親友はいるが、こういうかかわり合い方をした相手を、これほどまでしてかばうことは、なかなかできまい。  「——じゃ、何か質《しつ》問《もん》があったら」  と、ぶっきら棒《ぼう》に、武居が言った。  「失《しつ》踪《そう》の事《じ》情《じよう》について話して下さい」  と、どうやら代《だい》表《ひよう》格《かく》に選ばれたらしい記者が言った。  田村は水のコップを取り上げて一口飲むと、ゆっくり口を開いた。  「ええと……よくは分らないんです。ともかく、あの日、ホテルに電話がありました」  「どんな電話ですか?」  「男の声で、ビザの点で不《ふ》備《び》があったから、旅行代理店まで来てくれ、と言うのです。そこで、パスポートを持って、ホテルを出ました。——十メートルも歩かない内に、何だか二、三人の男に囲まれて、そのまま車へ押《お》し込《こ》まれたんです」  「男たちはドイツ人?」  「たぶんそうでしょう」  「それで?」  「車の中でクロロホルムをかがされて、意《い》識《しき》を失いました。気が付いたときは、どこかの倉庫か何かの部屋に閉《と》じ込《こ》められていました」  「縛《しば》られてたんですか」  「いいえ。でも、扉《とびら》は頑《がん》丈《じよう》で、窓《まど》は天《てん》井《じよう》近くに小さく開いているだけでしたから、どうやっても出られませんでしたよ」  「そこに、ずっといたんですか?」  「そうです。食事は、毎朝、目が覚めると、ドアの内側に置いてありました」  「すると眠《ねむ》っている間に——」  「そうらしいです」  「ずっと起きていて、犯《はん》人《にん》を確《たし》かめてみようとは思わなかったんですか」  「それが——とても体力が持たなくて。食事もそんな具合で一日一回でしたからね」  「犯人の姿をチラッとでも見るとか、声を聞くとかは?」  「ありませんでした」  と、田村は首を振《ふ》った。  「失礼」  と、殿永が割って入った。「誘《ゆう》拐《かい》の事《じ》情《じよう》、その他の詳《しよう》細《さい》については、これから警《けい》察《さつ》でもうかがわなくちゃならない。あまり立ち入って質《しつ》問《もん》しないで下さい」  「それでは——」  と、レポーターは方向を変えて、「新《しん》婚《こん》旅《りよ》行《こう》でご主人が失《しつ》踪《そう》してしまったんですから、奥《おく》さんは本当に心配されてたと思うんですが……。もうお話になりましたか」  「いいえ」  「電話でも?」  「していません」  「どうしてです? 真先に奥さんへ知らせないと——」  「あ《ヽ》れ《ヽ》はいいんです」  田村の返事に、報《ほう》道《どう》陣《じん》はどよめいた。  「それはどういう意味です?」  「説明して下さい!」  代表も何もあったものではない。口々に叫《さけ》んで、詰《つ》め寄《よ》って来る。  「もうこれで充《じゆう》分《ぶん》でしょう!」  武居が立ち上って、大声で言った。「これ以上、質問されても、答えません!」  「それはないよ」  「今の言葉を説明してもらわないと」  「奥さんのことを、『あれはいいんだ』ってのは——」  武居は、無《む》視《し》して田村を立たせようとした。——すると田村が、言った。  「あれは僕《ぼく》の女《によう》房《ぼう》じゃないんです」  これだけ騒《さわ》がしい所で、田村がボソッと口にしたのだから、本来なら聞き取れなくて当り前なのだが、なぜかこのときの、田村の言葉は、気味が悪いほどはっきりと、誰《だれ》にも聞き取れたのである。 消えた淑子  「参ったよ……」  武居が言った。  ホテルのロビーである。  記者会見した成田のホテルではなく、武居のホテルへ戻《もど》って来ていた。  もう夜になっている。武居は、大きくため息をついて、亜由美を見た。  「——どうだい、お腹《なか》空《す》かない?」  「そう言われてみれば、多少……」  「一《いつ》緒《しよ》に食べよう。こっちも今日は食事どころじゃなかったものな」  全く、その点は、亜由美も同感だった。  二人は、フランス料理の店に入って、奥《おく》まった席に着いた。  「いいか、ここに電話があっても、絶《ぜつ》対《たい》に俺《おれ》はいないからと言えよ」  武居はウエイターに言った。「たとえ友人だと言ってもだ」  「分りました」  武居はメニューを広げて、  「記者だというと出てくれないから、大学のときの友人で、とか言うんだよね。全く、大した連中だ」  亜由美が軽《かる》目《め》に魚料理を頼《たの》んだのに対して、武居は、ステーキを注文して、  「苛《いら》々《いら》してると腹《はら》が減《へ》るんだ」  と言った。  真《ま》面《じ》目《め》な顔で言うのがおかしくて、亜由美はつい笑《わら》ってしまった。武居もつられたのか、一《いつ》緒《しよ》に笑った。  「——田村さん、どこへ行ったんですか?」  「都《と》内《ない》某《ぼう》所《しよ》さ」  「私にも教えてくれないんですか」  と、亜由美は武居をにらんだ。  「まあ勘《かん》弁《べん》してくれ。彼《かれ》はまだ入院治《ち》療《りよう》が必要な患《かん》者《じや》なんだ。話ができるまでに回《かい》復《ふく》したら、必ず会わせてあげるよ」  「信用しますわ」  「ありがとう。——さ、ワインが来た。乾《かん》杯《ぱい》といくか!」  景気をつけるように、武居は大げさな声を上げた。  「肝《かん》心《じん》の淑子さんはどこにいるんでしょう?」  「さあね。何しろ、別《べつ》荘《そう》はあちこちにあるし、しかも僕《ぼく》なんかの知らないのもいくつかあるはずだ」  「増口さんはご存《ぞん》知《じ》なんですか?」  「知らないと思うよ。知ってれば言うだろうからね」  「でも妙《みよう》な話ですね。娘《むすめ》がどこにいるのか分らない。しかも、偽《にせ》物《もの》かもしれないっていうのに、気にもしないなんて」  「あれが増口さん流の子育てなのかもしれないよ」  「それにしても——」  亜由美は、スープが来たので、言葉を切った。今は事《じ》件《けん》より、食《しよく》欲《よく》の方が重要であった……。  メインの料理が来て、ナイフを入れていると、ウエイターがやって来た。  「お電話でございます」  「おい、いないと言えって——」  と武居が言いかけると、  「いえ、こちらの方にでございます」  と、ウエイターは、亜由美の方へ微《ほほ》笑《え》みかけた。  「私に?——誰《だれ》かしら?」  「邦代、と言ってくれれば分る、と……」  「まあ、邦代さん?」  亜由美は急いで席を立った。  「もしもし、塚川亜由美です」  「あ、邦代です」  「何か?」  「お嬢《じよう》様《さま》が、ここへみえたようなんです」  「淑子さんが?」  「ええ、多分。お屋《や》敷《しき》の方から、至《し》急《きゆう》来るようにって電話があったんです。それで行ってみると、呼《よ》んでなんかいないって」  「じゃ、偽《にせ》の電話だったのね」  「そうらしいです。で、さっき、別《べつ》荘《そう》の方へ戻《もど》ってきたんですけど——」   「ご覧《らん》の通りです」  と、邦代は言った。  亜由美は、淑子の部屋の中を見回した。  洋服ダンスの扉《とびら》は開いて、中には一着の服もない。引出しも全部引出されて、空になっている。  「徹《てつ》底《てい》的《てき》ねえ」  と、亜由美は感心して言った。  「頭に来ちゃいますわ、私」  と、邦代はプンプン怒《おこ》りながら、「少し古い服をもらおうと思ってたのに」  そこへ、武居も上って来た。  「やあ、こりゃひどい」  「お宅《たく》の方では?」  「いや、何も知らないと言ってる。もちろん、ここのお手伝いさんたちを呼《よ》んだこともないそうだ」  「じゃ、やっぱり淑子さんが——」  「電話して来たのは、男? 女?」  と、武居が邦代へ訊《き》いた。  「男の声でしたよ」  「すると淑子さんじゃない。一体、誰《だれ》だろう?」  亜由美は首をひねった。——邦代がエヘンと咳《せき》払《ばら》いして、  「あの……もう一つあるんです」  と言い出した。  「何が?」  「運転手の神岡さん。あの人も、行方が分らないんです」  「ということは——つまり、神岡さんの運転するベンツで、淑子さんはどこかへ行っちゃったというわけね」  「そうらしいです」  「車自体は、そうそうめったやたらと走ってるわけじゃないからね。遠からず見つかるとは思うけど——」  「どこへ行くつもりなんでしょう?」  「見当がつかないわ」  「でも、失《しつ》踪《そう》にしても、変だと思いませんか?」  「何が?」  「これです」  亜由美は、空っぽの戸《と》棚《だな》やタンスを手で示《しめ》して、  「いくらひんぱんに着《き》替《か》える人でも、人目につかないように逃《に》げようというのに、何から何まで着るものを持って行こうっていうのは、おかしくありませんか」  「なるほどね」  「私も変だと思いましたわ」  と、邦代が言った。「だって、夏物、冬物、構《かま》わず持ち出してるんですもの」  「ねえ、邦代さん」  と、亜由美がふと思い付いた様子で、  「あなたに電話して来た男って、もしかしたら、神岡さんじゃなかった?」  「まさか!」  と、邦代は言った。「それなら分りますよ」  「でも作り声とか——」  「分りますよ。だって……」  と言いかけて、邦代はちょっと照れたように頭をかく。  そう言えば、彼女は神岡と「いい仲」なのだ。恋《こい》人《びと》の声なら、間《ま》違《ちが》えはしないだろう。  「それじゃ、やっぱり別の男……」  「一体誰《だれ》なんだ?」  と、武居がブツクサ言って、「ともかく、彼女《かのじよ》の行方を捜《さが》さなきゃ」  だが、亜由美の方は、なぜ淑子が、棚《たな》を空にしてまで、総《すべ》ての服を持って行ったのだろうか、という点に心が動いた。  そう小さな荷物ではないはずだ。そんなにまでして、なぜ運んだのか。  「——身体《からだ》に合わないのを知られないように、か」  と、武居が言った。  「それしか考えられませんね」  と亜由美も肯《うなず》く。「でも、理論的に考えると、やっぱり変です」  「何が?」  「こんなことしたら、それこそ、自分が偽《にせ》物《もの》だと白《はく》状《じよう》してるようなもんです」  「それはそうだけど……」  「私、何か別のわ《ヽ》け《ヽ》があったんじゃないかと思うんです」  「まだ分りません」  亜由美は首を振《ふ》った。「何だか頭の中がこんがらがって来て……」  「果《はた》してあの淑子さんは本物かどうか……」  二人が考え込んでいると、  「へえ、面《おも》白《しろ》い話ですね」  と邦代が言った。  亜由美と武居がハッとして、顔を見合わせた。しゃべってはいけないことを、邦代の前で、つい口にしてしまったのだ。  「じゃ、あのお嬢《じよう》様《さま》は、他の女なんですか?」  武居は渋《しぶ》々《しぶ》言った。  「かもしれないってことなんだ。——いいかい、この話は誰《だれ》にもしちゃいけない。分ったか?」  「分りました」  と、あっさり邦代は肯《うなず》いたが、武居はどうにも不安らしい。  仕方なく、一万円札《さつ》を何枚《まい》か、邦代の手に押《お》し付けて、やっと安心したようだった。  別《べつ》荘《そう》から、武居の車で送ってもらうと、亜由美が家へ着いたのは、もう夜中過《す》ぎであった。  「じゃ、田村さんと話ができるようになったら——」  「連《れん》絡《らく》する。約《やく》束《そく》するよ」  「お願いします」  車を出て、亜由美が家の方へ歩きかけると、  「ねえ、ちょっと」  と武居も車を出て来た。  「何ですか?」  振《ふ》り向いた亜由美に、武居はいきなりキスした。——とっさのことで、亜由美は何が何やら分らなかった。  「おやすみ」  武居は、そう言って車に戻《もど》った。  武居の車が走って行くのを、亜由美はポカンとして見送っていた。  家へ入ると、驚《おどろ》いたことに、母の清美がまだソファに座《すわ》っている。  「待っててくれたの?」  へえ、多少は母親らしいところもあるんだね、と居《い》間《ま》へ入って、つい笑《わら》ってしまった。  清美は、ソファでいとも気持良さそうに眠《ねむ》っている。TVが、とっくに放《ほう》映《えい》を終って、白い画面になっていた。 引き上げられた車  翌朝——と言っても昼近くだが、起き出して来た亜由美は、朝《ちよう》刊《かん》を広げて、目を見《み》張《は》った。  武居のつかませた何万円かは、どうやらむだになったようだ。  〈花《はな》嫁《よめ》は偽《にせ》物《もの》?〉  〈帰国した田村氏の発言とも符《ふ》合《ごう》〉  といった見出しが、派《は》手《で》に躍《おど》っている。  おまけに、邦代の写真まで、ちゃんと出ていて、サイズの合わない服……といった談話が掲《けい》載《さい》されていた。きっと大分謝《しや》礼《れい》をもらったのだろう。  これは大変だ。  もう週《しゆう》刊《かん》誌《し》あたりが動いているに違《ちが》いないし、田村の居《い》場《ば》所《しよ》を必死で捜《さが》しているだろう。  騒《さわ》ぎになる前に、一度田村と話したかったのだが……。  「——亜由美、電話よ」  と清美が顔を出す。  「はあい」  武居さんかな。昨夜《ゆうべ》のキスは、まだ何となく余《よ》韻《いん》が残っている。  「亜由美です」  「あ、塚川亜由美さんですか」  「そうですが……」  「〈週刊××〉ですが、田村さんの結《けつ》婚《こん》式《しき》に出席されましたね。そのときの花《はな》嫁《よめ》の印象などを一言——」  「失礼します!」  亜由美は叩《たた》きつけるように電話を切った。またすぐに電話が鳴る。  取ってみると、  「ええと、〈女性××〉ですが——」  「失礼」  と切ると、また鳴る。  頭へ来た亜由美は、受話器を上げると、  「いい加《か》減《げん》にしてよ!」  と怒《ど》鳴《な》った。  「ああびっくりした。どうしたんだい?」  「あ、有賀君か、ごめん。ちょっとね——」  亜由美が事《じ》情《じよう》を説明すると、  「何だ、そっちにも電話行ってるのか」  「そっちにも?」  「大学で待ち構《かま》えてるのが何人かいるぜ。それを教えてやろうと思ってさ」  「大学に? 呆《あき》れた!」  「今日は出て来ない方が良さそうだよ」  「そうね……」  いつもなら、出て来ない方がいいと言われりゃ飛びつくのだが、こういうときは反《はん》抗《こう》的《てき》になって、却《かえ》って出て行きたくなる。  「私、行くわ」  「ええ? 大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》かい?」  「頑《がん》として口を開かないから。——もし私に触《ふ》れる者がいたら、ボディガード、頼《たの》んだわよ」  「これは別口じゃないの?」  「いいから! じゃ、後でね!」  と電話を切って、「お母さん、もう電話出なくていいからね」  と言った。  「どうしたの?」  「週《しゆう》刊《かん》誌《し》がやかましいのよ」  「へえ」  清美はまじまじと亜由美を見て、「お前も週刊誌で取り上げられるようになったのかい?」  と言った。  大学へ行くと頑《がん》張《ば》ったものの、もうお昼である。あまり午後は授《じゆ》業《ぎよう》もない。  「やめとこうかな」  と呟《つぶや》いたが、とにかく、有賀へ行くと言ってしまった。  亜由美は、服を着《き》替《か》えて、家を出ようとした。その間にも、電話が五、六回は鳴った。  「じゃ行って来る」  と、家を出ようとすると、また電話が鳴った。「放っといていいよ」  「いいや、この電話は特《とく》別《べつ》だよ」  と、清美が電話を取った。「——ほら、亜由美、殿永って刑《けい》事《じ》さんよ」  亜由美は、母親の〈超《ちよう》能《のう》力《りよく》〉に仰《ぎよう》天《てん》した。  「やあ、塚川さん」  「あの——記事のことなんですけど……」  「いやびっくりしましたね。ともかく、まだ田村さんは眠《ねむ》り続けていて、話のできる状《じよう》態《たい》じゃないことを伝えようと思いましてね」  「どうもご親切に」  「こちらも困ってるんです。淑子さんも行方不明だし……」  殿永は、少し間を置いて、「淑子さんが偽《にせ》物《もの》じゃないかということは、あなたもご存《ぞん》知《じ》だったんですね?」  と訊《き》いて来た。  亜由美としては、どう返事をしていいものやら、迷《まよ》うところである。  「あの実は——」  と言いかけたとき、向うで、  「待って下さい」  と、言った。「——何だって?」  殿永の驚《おどろ》きの声が聞こえて来る。  「どこだ?——よし、すぐに行く!」  何か、かなりの緊《きん》急《きゆう》事《じ》態《たい》らしい。まさか、今度の事《じ》件《けん》のことでは、と思った。  「塚川さん、今、電話がありましてね」  「何か?」  「淑子さんの車が、海に転落しているのが発見されたそうです」   クレーンがきしむ。  「よーし、上げろ!」  と叫《さけ》ぶ声。  モーターが唸《うな》り、ワイヤーが、巻《ま》き取られて行く。ピーンと張《は》りつめたワイヤーが、少しずつ上って行くと、淑子のベンツが、水中から姿《すがた》を現《あらわ》した。  亜由美は、その光景に、どこかぞっとするものを感じた。  「あの中に淑子さんが?」  「それはまだ何とも」  と、殿永は言った。  ベンツの車体が水から完全に持ち上げられると、海水が、車体のあちこちから、滝《たき》のように流れ落ちる。  「もう少し上げろ。——OK。道路の上に回せ!」  クレーンが、ゆっくりと回転して、ベンツはまだ水をしたたらせながら、亜由美たちがいる、道の上に運ばれて来た。  「よーし、降《お》ろせ。——静かに。——静かに。——OK!」  ちょっと弾《はず》みがついて、ベンツは、ドシンと音をたてて路面に置かれた。そのとたん、ドアが、ガタンと音をたてて開いた。  「キャッ!」  亜由美は思わず声を上げる。  殿永が車へと駆《か》け寄《よ》った。  運転席に、神岡の死体があった。それが、ドアが開くと、外へ倒《たお》れて来たのである。  「あの……淑子さんは?」  と、亜由美は、恐《おそ》る恐る訊《き》いた。  「いません」  「じゃ……」  「海へ投げ出されたのか、それとも、もともと乗っていなかったのか……」  と、殿永は言った。  「死んだと見せかけるために?」  「かもしれません」  「でも……なぜ神岡さんが……」  「自殺する気ではなかったようですよ」  「というと?」  「刺《さ》し傷《きず》があります。背《せ》中《なか》です」  「刺し傷?」  「致《ち》命《めい》傷《しよう》かどうか分りませんけどね、ともかく、神岡を刺して、その上で車を海へジャンプさせた」  「淑子さんかしら? そんな恐ろしいことを——」  「偽《にせ》物《もの》なら、やりかねないかもしれませんよ。どうです?」  「ええ……」  亜由美は、もう水が流れ出てしまって、また今にも走り出しそうに見えるベンツを眺《なが》めた。  「一度ゆっくりお話しなくてはね」  と、殿永は言った。  亜由美は、殿永が考える時間を与《あた》えてくれたのが、嬉《うれ》しかった。  クレーンが、まだギシギシと音をたてて、外されたワイヤーが、空を横切って行った。 検《けん》 討《とう》  「すみません、どうも……」  亜由美はそう言って、殿永の顔を上目づかいに見た。  殿永は、いつもながらのおっとりした表《ひよう》情《じよう》で、何やらせっせと手帳にメモをしていた。  「あの……今まで隠《かく》していて、すみませんでした」  殿永があんまり黙《だま》っているので、亜由美はもう一度謝《あやま》った。  「え?」  と殿永が顔を上げて、「ああ、もういいんですよ。済《す》んでしまったことはしかたありません」  と手を振《ふ》った。  その手ぶりが大きかったせいか、レストランのウエイトレスがやって来て、  「追加のご注文ですか?」  と訊《き》いた。  「え?——あ、いや——それじゃ、アイスクリームを」  殿永は注文してから苦《く》笑《しよう》して、「ああいうときに、何でもないと断《ことわ》るのが悪いような気がしてね」  「気が弱いんですね」  亜由美は少し気持がほぐれて微《ほほ》笑《え》んだ。  「さて、一《いち》応《おう》、問題点を整理してみたんです」  と殿永は言った。「まず、田村淑子——増口淑子と言うべきかな、彼女が偽《にせ》物《もの》かどうかという点」  「田村さんはそう言っています」  「そう。それに父親も良く分らないと言っている。服のサイズが合わない。田村さんが帰国すると、彼女《かのじよ》の方は姿《すがた》を消した。一《いつ》緒《しよ》に行ったとみられる運転手は殺された。——これらの点を並《なら》べてみると、どうやら彼女が偽物らしいという結《けつ》論《ろん》が出ますね」  亜由美は肯《うなず》いた。  「でも、目的は何でしょう? 財《ざい》産《さん》かしら?」  「それしか考えられませんね。しかし、私が気になっているのは、そこじゃないんです」  と殿永は言った。  「というと?」  「——まあ、それは置くとして、次の問題は、あのハンバーガーチェーンの店にトラックが突《つ》っ込《こ》んだ一《いつ》件《けん》です」  「武居さんが狙《ねら》われた……」  「故《こ》意《い》か偶《ぐう》然《ぜん》かという問題が一つ。故意の犯行だとすれば、武居さんが狙われたのはなぜか」  「ただの事故ってことも、考えられないことはありませんね」  「そうでしょう? さて、次の問題は——」  「桜井みどりさんが殺された件」  「そうです。彼女《かのじよ》の一件については、分らないことだらけですよ。な《ヽ》ぜ《ヽ》殺されたのか? どうやって殺されたのか? 誰《だれ》に殺されたのか……」  「なぜ、という点はあんまり考えませんでしたわ。あの状《じよう》況《きよう》にばっかり気を取られていて」  「無《む》理《り》ありませんよ」  「彼女は何かを知っていたわけですね。——武居さんに近付かない方がいい、と言いましたけど、武居さんに何か秘《ひ》密《みつ》があるんでしょうか」  「そこなんですよ」  と殿永は言った。「あなたの話では、桜井さんが、武居に近付かない方がいい、と言ったということですが」  「ええ」  「桜井さんは、『武居に近付くな』と言ったのですか? 名前をあげて?」  亜由美は、思い出してみた。——あのキャンパスの芝《しば》生《ふ》で、桜井みどりと話をしていたのだった……。  「いいえ……確《たし》か……」  と、亜由美はゆっくりと言った。「武居さんに、とは言いませんでした。『あの男には』と言いましたわ」  「確かですね?」  「ええ。——でも、話の流れというか、それまで武居さんの話をしていたんで、当然武居さんのことだと……。彼女が別の男のことを言っていたとおっしゃるんですか?」  「可《か》能《のう》性《せい》の問題ですよ。どうですか、その場に他の男がいたとか、そんなことはありませんでしたか」  「いいえ、誰《だれ》も。——たぶん、桜井さんは武居さんのことを言っていたんだと思いますけど」  「分りました。すると、武居さんが怪《あや》しいとも考えられますね」  「でも、そんなことが……」  「一つ妙《みよう》なことがあります」  と、殿永は言った。「桜井みどりがあなたと話をした。そして、その後、講《こう》義《ぎ》中にあなたは呼《よ》び出された。それはお母さんが事《じ》故《こ》に遭《あ》われたという偽《にせ》の電話だったわけです」  「ええ」  「その偽電話の目的は何でしょう?」  「それは……」  亜由美は少し間を置いて、「桜井さんと会うのを遅《おく》らせるためです」  「そうでしょう。その間に犯《はん》人《にん》は桜井みどりを殺す決心をし、実行した。あなたを偽電話でおびき出したのは、その時《じ》間《かん》稼《かせ》ぎだった」  「それはそうでしょうね」  「では、犯人はなぜ、桜井みどりがあなたと会うことになっているのを知っていたんでしょう?」  亜由美は言葉が出て来なかった。——本当にそうだ! どうして今までそれを考えなかったのだろう?  「桜井みどりがあなたに会いたいと言ったのは、お昼休みですね」  「そうです」  「その後、午後の講義中にあなたは電話で呼び出された。つまり、その間に、犯人は、あなたが桜井みどりと会うことになっているのを知っていたことになります。その短い時間に、ですよ」  「すると……どういうことになるんでしょう?」  「分りません。しかし、武居に、それを知る機会があったとは考えにくい。そうじゃありませんか?」  亜由美は肯《うなず》いた。  「桜井みどりの事《じ》件《けん》については、もちろん、誰《だれ》が、どうやって殺したのかの問題が残っています。方法については、神田聡子さんが言ったようなやり方だったのか。その可《か》能《のう》性《せい》はありますが、いずれにしろ、かなりの離《はな》れ技《わざ》でした。それを敢《あ》えてやったのは、犯人側にとっても、かなり危《あぶ》ない瀬《せ》戸《と》際《ぎわ》に追いつめられていたからでしょう」  「何が何だか分りませんわ、もう……」  と亜由美はため息をついた。  「ともかく、桜井みどりの件《けん》にしても、それだけ分らないことがあるわけです」  「まだあるんですか?」  と、亜由美は少々くたびれて来て、言った。  「ええ。もう一人殺されていますからね」  「運転手の神岡ですね」  「そうです。彼《かれ》はなぜ殺されたのか」  「車ごと崖《がけ》から落として、事《じ》故《こ》と見せかけるつもりで——」  「事故と見せかけようとして、刺《さ》し殺す人間はいませんよ」  「そうですね。すぐに分ってしまう」  「田村淑子が、彼を殺したのか? それならば何のために? これも難《むずか》しいところです」  亜由美は考え込《こ》んでしまった。——この手の話が好《す》きな亜由美としても、現《げん》実《じつ》の事《じ》件《けん》となると、とても手に負えない。  「手がかりはいくつかあります」  と、殿永は言った。  「何ですか?」  「まず田村さんです。今はまだ話を聞いていませんが、田村さんから直《ちよく》接《せつ》話を聞くことができれば、いくらか真相は明らかになりそうですよ」  「そうですね。私も会いたいわ」  「それから、増口氏」  「淑子さんの父親ですね。あの人も何だかおかしいわ」  と亜由美は言った。「いくら何でも娘が本物かどうか分らないなんて——」  「いや、それはむしろありうることだと思いますよ」  と、殿永は言った。  「だって——」  「金持の生活というのは、我《われ》々《われ》には想《そう》像《ぞう》もつかないようなところがありますからね。まるで作り話としか思えない実話には事《こと》欠《か》きません」  「それじゃ、本当に増口さんは淑子さんのことを疑《うたが》っているんでしょうか?」  「私《わたくし》が興《きよう》味《み》があるのは、増口さんが、なぜ娘《むすめ》さんのことを偽《にせ》物《もの》かもしれないと思うようになったか、ということです」  と殿永は言った。  「そう言えば……そのことは何も言っていませんでしたわ」  「だから一つ訊《き》いてみたいんですよ」  殿永は腕《うで》時《ど》計《けい》を見ると、「実はこれから増口氏に会う約《やく》束《そく》になっているんです。一《いつ》緒《しよ》に行ってみますか?」  「よろしいんですか?」  と、亜由美は胸《むね》をときめかした。  「構《かま》いませんよ。もうあなたはこの事《じ》件《けん》に、いわば首までつかっているんですからね」  殿永の言葉は、亜由美には、何となく嬉《うれ》しいような、恐《おそ》ろしいような、複《ふく》雑《ざつ》な想いを引き起した……。 逃《に》げた花《はな》嫁《よめ》  前に増口に会ったときは、自《じ》宅《たく》の広い居《い》間《ま》で話をしたが、今日は社長室である。  あの大《だい》邸《てい》宅《たく》の居間に劣《おと》らず広い。その奥《おく》に、馬《ば》鹿《か》でかい机《つくえ》があって、増口が座《すわ》っていた。  「やあ、いらっしゃい。そこへかけてくれたまえ」  増口はいつもの、愛想の良い営《えい》業《ぎよう》用《よう》の笑《え》顔《がお》で、二人を迎《むか》えた。  不思議な人だ、と亜由美は思った。自分の娘《むすめ》が偽《にせ》物《もの》かもしれず、しかも行方不明になっていて、当然その知らせも受けているはずなのに、一向にその様子は変らないのだ。  こんな父親があるだろうか?  広い社長室の一角、衝《つい》立《たて》があって、そこに高級な応《おう》接《せつ》セットが置かれている。殿永と亜由美がそこに腰《こし》をおろすと、  「入口のところで止められんかったかね」  と、増口は言いながら、自分もソファに身をどっかと沈《しず》めた。「何しろ週《しゆう》刊《かん》誌《し》やTV局が押《お》しかけて来て、うるさくて仕方ないんだ」  「大変ですね。どこかへ身を隠《かく》されては?」  と殿永が言った。  「何も悪いことをしたわけではないからな」  増口は笑《わら》って言った。「——ときに、何か訊《き》きたいことがあるという話だったが」  「お嬢《じよう》さんが行方不明になっていますが」  「うん、聞いとる。まあ、そこの娘さんにも言った通り、あれが本当に娘かどうか、分らんがね」  「あまりご心配の様子ではありませんね」  「心配して何になる? どこにいるかも分らんのだ。どうせ私《わたくし》には何ともしてやれんのだからな」  「それはつまり——」  「おいおい、君」  と、増口は遮《さえぎ》って、「君も警《けい》察《さつ》官《かん》だろう。しかも、なかなかの切れ者と見たぞ。淑子が私の本当の娘《むすめ》でないことぐらい、先《せん》刻《こく》ご承《しよう》知《ち》だろうが」  と言った。  これには亜由美も仰《ぎよう》天《てん》した。殿永は、微《ほほ》笑《え》んで、  「そちらから言い出して下されば幸いです」  と肯《うなず》いた。「淑子さんは、あなたの妹さんに当るわけですね」  「妹ですって?」  と、亜由美は思わず言った。  「そう。淑子は私の親《おや》父《じ》が、女《によう》房《ぼう》以外の女に生ませた子だ。それを私が養女として引き取った」  と、増口は言った。「いや、はっきり言えば押《お》し付けられたのさ。こっちは父親の命令には逆《さか》らえん。財《ざい》産《さん》を継《つ》ぐには、それが条《じよう》件《けん》だったのだ」  なるほど。そうなると、淑子は増口にとって、妹にして娘ということになるわけだ。とても愛《あい》情《じよう》など湧《わ》くまい。  「しかし、誤《ご》解《かい》せんでくれよ」  と、増口は言った。「私は、ちゃんと、やるだけのことは淑子にしてやった。別に淑子をいじめたりした覚えはない」  「淑子さんはそのことを?」  と亜由美が訊《き》いた。  「知っていた。かなり早くからな。うちの家内が、やはり素《す》直《なお》には可愛《かわい》がることができなかったのだな。子《こ》供《ども》の頃《ころ》にしゃべってしまったのだ」  それは淑子には大きなショックだったろう。しかし、増口とその妻の気持も、分らぬでもないが。  「その件《けん》はともかく——」  と、殿永は話を変えた。「淑子さんが偽《にせ》物《もの》かもしれないと考えたのは、なぜですか?」  「ああ、それは、匿《とく》名《めい》の電話があったからだ」  「どんな声ですか?」  「男の声だった。しかし、押《お》し殺した声で、よく分らなかったな。ともかく淑子が他の女と入れ替《かわ》っていると言うんだ。それだけ言って切れてしまった」  「ご自分で確《たし》かめようとしなかったんですか?」  「自分の目には自信がなかった。それに、もし誰《だれ》かが淑子になりすましているのだとすれば、それを気付いた人間を殺そうとするかもしれん。それが怖《こわ》くてな。こう見えても、私は死ぬのが好《す》きではないのだ」  「好きな人はいませんわ。じゃ、私か武居さんなら殺されてもいい、と思われたんですね」  亜由美がにらむと、増口は笑《わら》って、  「そうとも。君らが殺されても、私《ヽ》は《ヽ》死なずに済《す》む。そこが肝《かん》心《じん》のところだ」  と、増口は平然としている。  亜由美は、怒《おこ》るのも忘れてポカンとしていた。こうでなくては、金持にはなれないのかもしれない。  「じゃ、今、淑子さんがどうしているか、気にならないんですか」  と、亜由美が訊《き》くと、増口は肩《かた》をすくめて、  「別にならんね」  と言った。   「——呆《あき》れたわ!」  社長室を出ると、亜由美は息をついた。  「殿永さん、淑子さんのことをご存《ぞん》知《じ》だったんですね」  「ええ。黙《だま》っていてすみませんね。それを増口氏にぶつけて反《はん》応《のう》を見ようと思っていたんです。しかし、向うから言い出されてしまった」  「一《ひと》筋《すじ》縄《なわ》で行かない人ですね」  「正に、その通りですな」  殿永は、タクシーを拾うと、ある病院の名を告《つ》げた。  「どこへ行くんですか?」  「さっき連《れん》絡《らく》を取ってみたんです。どうやら田村さんが、話ができる程《てい》度《ど》には回《かい》復《ふく》したようですよ」  と殿永は言った。  二人の乗ったタクシーは、郊《こう》外《がい》の、割《わり》合《あい》に小さな個《こ》人《じん》病院の前で停《とま》った。  「ここに、田村さんが?」  「都内の大病院じゃ秘《ひ》密《みつ》を保《たも》てませんからね」  と、殿永は言った。  病院の入口に、警《けい》官《かん》の姿《すがた》があったが、それ以外は、どこといって変るところのない、静かな緑に囲まれた病院である。  「やあ、どうも」  院長らしい、初老の医師が出て来て、  「もう大分元気になりましたよ」  と、先に立って病室へと案内してくれる。  明るく陽《ひ》の射《さ》し込む病室で、田村はベッドに起き上って、窓《まど》の外を眺《なが》めていた。  「田村さん」  と亜由美が声をかけると、田村がゆっくり振《ふ》り向く。  「やあ、塚川君か」  声は弱々しくて、頬《ほお》がこけていたけれど、田村らしい笑《え》顔《がお》が戻《もど》っていた。  「気分はどうですか?」  「うん。まあまあだ。——君にも大分心配かけたようだね」  「まあ多少は」  と、亜由美は微《ほほ》笑《え》んだ。  「失礼します」  と、殿永が自《じ》己《こ》紹《しよう》介《かい》をしてから、「二、三うかがいたいことがあるのです」  と言った。  「ええ。——成田で、記者たちとの仲《ちゆう》裁《さい》に入って下さった方ですね。憶《おぼ》えていますよ。何をお話すればいいんですか?」  「奥《おく》さんのことです」  「淑子さんの? いや、妻《つま》のことを『さん』づけじゃおかしいかな。しかし、どうも何と呼んでいいのか分らないので……」  「この塚川さんに、あなたは、結《けつ》婚《こん》式《しき》の当日、花《はな》嫁《よめ》が別の女だと囁《ささや》いたそうですね」  田村はちょっと間を置いてから、肯《うなず》いた。  「それはどういう意味だったんです?」  田村は、言葉を選ぶように、しばらく迷《まよ》ってから、言った。  「そう見えたんですよ。——本当に妙《みよう》な気分でした。それまで淑子さんとは、何度か付き合っていたし、彼女《かのじよ》の方が僕《ぼく》との結婚に熱心でした」  田村は苦《く》笑《しよう》して、「本当ですよ。僕にだって信じられないくらいでしたが、結婚を申し込《こ》んで来たのは、彼女の方だったんです」  「いや、別におかしくありませんよ」  「そうですか?——ともかく、僕は結婚が決ってからも、仕事が忙《いそが》しくて、それに、その手のことはまるで苦手なので、披《ひ》露《ろう》宴《えん》の手配など、万端、彼女へ任せきりでした」  「なるほど」  「ところが、当日は彼女とはあまり話をする機会がありません。で、いざ、披露宴の席で彼女と並《なら》んで座《すわ》っていると、どうも彼女の様子がおかしいんです」  「どういう風に?」  「何というか……。話しかけても、口もきかないし、それに心もちやせたようで、少し顔の感じが違《ちが》うんです」  「つまり別の女だ、と?」  「そんなこと、まさか、と思っていましたがね。——化《け》粧《しよう》が濃《こ》いせいかとも思いましたが、どうも、そうでもない。どこかおかしいんです」  「それで、塚川さんに……」  「あれは、とっさのことで、僕《ぼく》も混《こん》乱《らん》していたんです。しかし、あのときには、どうにもその疑《ぎ》惑《わく》がふくれ上って来ていて……。ともかく、誰《だれ》かにそのことを話しておきたかったんです。僕の勘《かん》違《ちが》いなら、後で笑《わら》って済《す》むことですしね」  「びっくりしましたわ」  と、亜由美は言った。  「すまないね。驚《おどろ》かせる気じゃなかったんだが……」  「ああ言われて驚くなって方が無《む》理《り》だわ」  と、亜由美は笑った。  「しかしですね」  と殿永が真《ま》面《じ》目《め》な口調で続ける。「お二人はハネムーンに発《た》って、何日か一《いつ》緒《しよ》におられたわけでしょう。その間に、彼女《かのじよ》が偽《にせ》物《もの》なのかどうか、分ったんじゃありませんか?」  「そこなんですよ」  と、田村はため息をついた。「僕も、旅行に出れば、はっきりすると思っていました。二人きりになって話せば……。化粧を落とした素顔も見られるわけですからね」  「それで……」  「ところが、だめなんです」  「というと?」  「ハンブルクであんな目に遭《あ》う前、何日かあったわけですが、二人で過《す》ごした時間なんて、ほとんどなかったんですよ。向うへ着くと、増口さんのホテルチェーンの人間が待ち構《かま》えていましてね。市内観光や、名所へ案内してくれるんです」  「なるほど」  「そして夜は毎晩、増口さんと何らかの仕事で付合いのある、かなりのお偉《えら》方《がた》に夕食に招《しよう》待《たい》されましてね。——もう、食事は多いし、ワインは飲まされるし、ホテルへ帰ると胃の薬を服《の》んで、そのままベッドへドタッと倒《たお》れるというくり返しだったんです」  「それはお気の毒に」  「大体、僕《ぼく》はアルコールに強い方じゃないので、悪《わる》酔《よ》いして、大変でした。とてもじゃないけど、向うの人の食《しよく》欲《よく》にはついて行けません」  「では、奥《おく》さんとゆっくり話をする機会は?」  「全然ありませんでした」  殿永は、チラッと亜由美の方を見て、エヘンと咳《せき》払《ばら》いした。  「しかし……その……ハネムーンなんですから、夜はその……つまり……お二人だったわけでしょう? まさか寝《ね》るときまで誰《だれ》かがそばにくっついていたわけは……」  亜由美は赤くなって殿永をにらんだ。  「私に気をつかって、変に遠回しな言い方しないで下さい!」  「いや、どうも……」  と殿永が頭をかく。  「お話は分りますよ。——実は、全くだらしのない話ですが、ついに彼女《かのじよ》とは寝《ね》ずじまいでした。毎晩酔《よ》って帰るんじゃ、とても無《む》理《り》です。——あの、ハンブルクが、その意味では、初めての機会だったんです」  「つまり、二人きりで過《す》ごされたわけですね?」  「ええ、夕食の約《やく》束《そく》もなく、案内してくれる人もいませんでした。ホテルに着いて、本当にホッとしたのを憶《おぼ》えています」  「で、彼女《かのじよ》と話をすることができたんですか?」  「それが……」  田村はちょっとためらいがちに言った。「まあ僕も、結《けつ》婚《こん》したからには、夫の義《ぎ》務《む》を果《はた》さなきゃと思っていましたし……。部屋で落ち着いたのは、昼過《す》ぎでしたが、彼女とベッドに入ろうとしたんです。彼女もちょっとためらっていましたが承《しよう》知《ち》してくれて、じゃシャワーを浴びようということになり、僕《ぼく》が先にバスルームへ入ったんです。ところが出てみると、彼女、いなくなっていたんですよ」  「いなくなって?」  「要するに逃《に》げられたんじゃないですか。こっちは途《と》方《ほう》に暮《く》れてしまいました。そこへ、例の、呼《よ》び出しの電話がかかって来たんです」  「すると、つまり、淑子さんが偽《にせ》物《もの》かもしれないという疑《うたが》いは、最後まで残っていたわけですね」  「そうです。——信じてもらえないかもしれませんが、事実なんですよ」  田村はそれだけ話すと、疲《つか》れたのか、息を吐《は》いて、ベッドに横になった。  「どうも、お疲れのところ、すみませんでした」  と殿永は会《え》釈《しやく》して、病室を出て行こうとした。  「——刑事さん」  と、田村が、少し弱々しい声で、言った。  「彼女を見付けて下さい」  「力を尽《つ》くしますよ」  と、殿永は言った。  亜由美は、殿永と一《いつ》緒《しよ》に病室を出ると、  「やっぱり彼女、そっくりな偽物だったんですね」  「そのようですね」  と殿永は言った。「しかし、そうなると、問題は一つ増《ふ》えます」  「え?」  「本物はどこにいるのか、ということです」  何となく、二人は口が重くなり、黙《だま》って病院の出口へと歩いて行った。 掘《ほ》り出された秘《ひ》密《みつ》    「一人かい?」  玄《げん》関《かん》のドアを開けると、有賀が立っていた。  「ええ。入って」  と、亜由美は言った。「——ちょうど良かったわ。誰《だれ》かと話したかったの」  「何だ、それじゃ誰でも良かったみたいじゃないか」  と、有賀は笑《わら》って言った。  居《い》間《ま》へ入ると、ドン・ファンが長々とソファの中央を占《せん》領《りよう》している。  「何だ、このワン公、まだここに居《い》座《すわ》っているのか?」  「アルコールはまずい。今、絶《た》ってるんだ」  「へえ。飲み過《す》ぎて暴《あば》れたの?」  「よせやい。来週、山に行くからさ」  「あら、まだ山登りなんてやってるの?」  「見くびるなよ。こう見えたって——大したことはないんだぞ」  「変な自《じ》慢《まん》ね」  と、亜由美は笑った。「じゃ、紅《こう》茶《ちや》でもいれるわ」  有賀と話していると、それだけで何となく気が晴れるのだ。こういうボーイフレンドも貴《き》重《ちよう》である。  「——田村さん、まだ退《たい》院《いん》できないのかな」  と、紅茶をすすりながら、有賀は言った。  「もう大分元気になったようね。でも難《むずか》しいところじゃない? 増口さんのところで働くことになっていたのに、淑子さんが行方不明じゃね」  「彼女《かのじよ》の行方も分らないのか」  「そうらしいわね」  「週《しゆう》刊《かん》誌《し》あたりじゃ、随《ずい》分《ぶん》騒《さわ》いでるな。彼女の出生の秘《ひ》密《みつ》とか言って」  「いやね、あんな記事。——あの環《かん》境《きよう》については、私、淑子さんに同《どう》情《じよう》するわ」  「逃《に》げているのが偽《にせ》物《もの》だとしたら、本物の淑子さんは殺されているのかな」  「そうね。——これだけ騒がれてるんだもの。生きていれば出て来るでしょう」  「もう週刊誌の連中は来ない?」  「ええ。でも昨日、何だか電話があったみたい。お母さんが出たんで、向うは早々に切っちゃったようよ」  「君のお母さん、変ってるものな」  「私も年取ったら、ああなるのかな、と思うと心配よ」  ドン・ファンが、亜由美の膝《ひざ》の上に来て、クンクンと鼻を鳴らした。  「何なの?——あ、そうか。ごめん、お前の紅《こう》茶《ちや》、忘《わす》れてたわ」  仕方なく、亜由美は、まだ飲み始めたばかりの紅茶を、ドン・ファンの皿《さら》へあけてやった。ドン・ファンがペチャペチャと音をたてて飲み始める。  「我が家は犬まで変ってる」  と亜由美は言って笑《わら》った。  電話が鳴って、亜由美は、  「きっとお母さんよ」  と言いながら、受話器を上げた。「はい、塚川です」  「あの、私、邦代ですけど」  あの別《べつ》荘《そう》の、手伝いの娘《むすめ》である。  「あら、何か?」  「実は、ちょっと妙《みよう》な物を見付けたんです」  「妙な物って?」  「あの——別荘へ来ていただけません?」  亜由美はちょっと迷《まよ》ってから、  「ええ、いいわ」  と言った。「でも、今から行くと夜になるわね」  「どうせ私、今一人なんです」  「あら、もう一人の方は?」  「他の別《べつ》荘《そう》へ移《うつ》っちゃって。ここはどうせ当分使わないでしょう?」  「それもそうね。分ったわ。これから行く。それじゃ」  「あの——」  と邦代があわて気味に言った。「この間のことはすみませんでした」  「この間のこと?」  「武居さんから、お嬢《じよう》さんのことを黙《だま》っててくれって、お金までいただいたのに……」  「ああ、あのことね。いいわよ。どうせ分ることだったんだもの」  「そうですか」  と、邦代はホッとした様子で言った。  「それじゃ、今度もいくらかいただけます?」  亜由美は、つい笑《わら》い出しそうになった。チャッカリ屋だが、どこか憎《にく》めない相手なのである。  電話を切ると、亜由美は有賀に、  「——こんなわけ。一《いつ》緒《しよ》に行ってくれる?」  と訊《き》いた。  「どうせそのつもりだろ?」  「もちろんよ。だって私、道が分んないんだもの」  と亜由美が澄《す》まして言った。  ドン・ファンがクゥーンと鼻を鳴らして、亜由美の足に体をこすりつけて来る。  「あ、分ったわよ。お前も行くのね」  「じゃ車をどうにかしなきゃ」  「借りられる?」  「誰《だれ》か貸《か》してくれると思うぜ。——二十分待ってろ。都合つけて来る」  有賀は急いで飛び出して行った。    実《じつ》際《さい》には十五分で、有賀は戻《もど》って来た。  「ちょっと中古だけど、まあいいだろう。乗れよ」  と、亜由美とドン・ファンを乗せて、いささか息切れのしそうな〈老車(?)〉はガタゴトと走り出した。  あまりスピードが出ないので、ちょっと時間はかかったが、それでも何とか別《べつ》荘《そう》へ辿《たど》り着く。——もうすっかり陽《ひ》は落ちて、闇《やみ》が周囲を包んでいた。  「邦代さん!——邦代さん!」  と、亜由美は呼《よ》んだ。  玄《げん》関《かん》のチャイムを鳴らしてみたが、一向に出て来る気配はない。  「——開いてるわ。入りましょう」  「どこにいるのかな」  「ちょっと気味悪いわね」  中は、明りが点《つ》いているが、物音はしない。  「邦代さん!——塚川亜由美よ!」  と、声を上げる。  「探《さが》してみようか?」  「こんな広い所を? きっと戻《もど》って来るわよ」  「でも、開けっ放しで出て行くかい?」  「それはそうね……」  亜由美は、不安な思いで、周囲を見回した。——突《とつ》然《ぜん》、玄関のドアがガタッと音をたてて開いて、亜由美たちは飛び上りそうになった。  「あら、いらしてたんですか、すみません」  と、邦代が、何やら大きな包みをかかえて入って来る。  「ああ、びっくりした」  亜由美は胸《むね》を撫《な》でおろした。「一体何事なの?」  「これなんです。居《い》間《ま》の方で広げましょう」  と、邦代が、ひとかかえもある大きな包みを、居間の方へ運んで行く。  「僕が持つよ」  と、有賀がナイトぶりを発《はつ》揮《き》しようとした。  「すみません」  手《て》渡《わた》そうとしたとたん、包みが解《と》けて、中身がドッと床《ゆか》へ落ちた。——服だ。女物の、ワンピースやブラウス、スーツなどである。  「洋服ね」  と、亜由美がその一つを取り上げた。  「あ、こら、ドン・ファン!」  ドン・ファンが、床に山となっている服の中へ首を突《つ》っ込《こ》んで、キャンキャンと甲《かん》高《だか》く吠《ほ》え始めたのだ。尻尾《しつぽ》を振《ふ》り、中をかき回すので、服が四方八方へ飛び散った。  「こら! ドン・ファン、やめなさい!」  やっとの思いで、ドン・ファンをかかえ上げる。  「——この服はどこで見付けたの?」  「林の中です」  「林の?」  「ええ」  と、邦代は肯《うなず》いた。「埋《う》めてあったんです。——私、昼間、ゴミをどこかへ埋めようと思って、林の中へ入ったんです。そしたら、何かこう、掘《ほ》り起して、また土をならしたようなあとがあって、何だろう、と思って掘り返してみたんです。そしたら、これが」  「埋めてあったのね」  「もう一つあります。居《い》間《ま》に置いてありますけど」  「この包みが二つ?」  「それ、もしかしたら、いなくなった淑子さんのじゃないのか」  と、有賀が言った。  「そうらしいわ。邦代さん、服に見覚えはない?」  「あります。間《ま》違《ちが》いありませんわ」  居間へ、服を全部運び込《こ》むと、もう一つの包みを解いて、ソファに並《なら》べてみた。かなりの量である。  「——じゃ、持ち出して、すぐ近くに埋《う》めたんだな」  と有賀が言った。  「どうしてそんな面《めん》倒《どう》なことしたのかしら?」  亜由美は手近な服を取り上げてみた。ドン・ファンが相変らず服の匂《にお》いをかいでは吠《ほ》えている。  「ドン・ファンが、匂いを憶《おぼ》えてるってことは、きっとこれは本当に淑子さんの服だったのよ」  と、亜由美は言った。  「だから、偽《にせ》物《もの》には合わなかったんだな」  「でも、ちょっと変ね」  「何が?」  「持ち出したりすれば、偽物だって言ってるようなもんだし、それに、そんなすぐ近くに埋めるなんて……どこか遠くへ行って捨てるか燃《も》やすかすればいいじゃないの」  「そりゃそうだな。でも、犯《はん》人《にん》なんて、やっぱりあわててんだよ。だから冷静に判《はん》断《だん》できないのさ」  「そうね、たぶん」  と、亜由美は肯《うなず》いた。「ともかく、殿永さんに知らせなきゃ」  「あ、この服だわ」  と、邦代が、赤のワンピースを取り上げて、  「これがほしかったんだ!——ねえ、この服、全部警《けい》察《さつ》で持ってっちゃうんですか?」  「たぶん、そうでしょうね」  「一枚《まい》ぐらいくれないかしら」  邦代は残念そうに言って、その服を体にあてている。亜由美は微《ほほ》笑《え》みながら、  「じゃ、殿永さんに訊《き》いてあげるわ。後でもらえるかどうか。電話借りるわね」  亜由美は殿永へ電話を入れた。  「もしもし、塚川です。殿永さん——」  「今、どこです?」  殿永の声は、いつになく緊《きん》張《ちよう》している。  「あの——別《べつ》荘《そう》です。増口さんの。実は服が——」  「病院に彼女《かのじよ》が現《あらわ》れたんですよ」  「彼女って——」  「淑子です。いや、偽《にせ》物《もの》かもしれませんが」  「どこの病院ですか?」  「田村さんのですよ。今から急行するところです」  「私もすぐ行きます!」  亜由美は電話を切ると、「有賀君、車!」  と叫《さけ》んで、ドン・ファンをかかえ上げた。  「どこに行くの?」  「後で説明するわ。急いで!——邦代さんまた連《れん》絡《らく》するから、これは大事に取っておいてね」  「ええ、でも……」  と、邦代は何やら首をひねっている。  玄《げん》関《かん》の方へ急ぎながら、亜由美は、邦代が呟《つぶや》くのを聞いた。  「おかしいなあ……」 すり替《か》えられたもの  「もう、びっくりして心《しん》臓《ぞう》が止るかと思いましたわ!」  と看《かん》護《ご》婦《ふ》は、まだ青くなって震《ふる》えている。  「落ち着いて、ゆっくり、話して下さい」  殿永がなだめるように言った。  「ええ……。私、ちょうど体温を計る時間だったので、体温計を持って、あの病室の前を通りかかったんです。他の病室へ行くところだったんですけどね」  「すると中で音がした」  「はい。何かこう——ドシン、って物の倒《たお》れるような音がして——。後でみたら、椅《い》子《す》が倒れてました。きっとあれですわ」  「なるほど、それで?」  「その音で、ふっと足を止めました。そして耳を澄《す》ましていると、『ワーッ』って叫《さけ》び声が——」  「それは田村さんの声ですね」  「ええ。『やめてくれ』って叫び声がして、私、びっくりしてドアをパッと開けたんです。そしたら、女が立っていて、キッとこっちを振《ふ》り向いて——」  「この女ですか」  殿永が、淑子の写真を見せる。  「ええ、この人です。もっとこう……怖《こわ》い顔でしたけど」  「どんな格《かつ》好《こう》をしていました?」  「そうですね、ええと……コートを着てましたわ、白っぽい。で、髪《かみ》がこう乱《みだ》れた感じで……。もう目が恐《おそ》ろしくって、ギラギラ光ってる感じでした……」  亜由美は話を聞きながら、ちょっと脚《きやく》色《しよく》してあるわ、と思った。  「そして手にナイフを握《にぎ》ってました。その刃《は》がキラッと光って……」  「で、あなたはどうしました?」  「もう怖《こわ》くって、悲鳴を上げてしまいました。そして手にしていた体温計や器具を落っことして——あれ、壊《こわ》れちゃったかしら」  と、変なことを心配している。  「そして廊《ろう》下《か》へ出て助けを求めた」  「そうなんです、『誰《だれ》か来て』って叫《さけ》びました。大声で言ったつもりだったんですけど、何だか囁《ささや》くような声だったらしいですわ」  「しかし、あなたのおかげで、女は逃《に》げました。田村さんも助かったわけですよ」  「まあ、そんな……」  と、看《かん》護《ご》婦《ふ》は照れたように赤くなった。  「——殿永さんは、女《じよ》性《せい》の相手がお上手ね」  と、亜由美は後で言った。  「皮《ひ》肉《にく》ですか、それは」  と、殿永は笑った。  「田村さんの様子は?」  「今、鎮《ちん》静《せい》剤《ざい》で眠《ねむ》っています。まあ、無《ぶ》事《じ》で良かった」  「でも淑子さんがどうしてこの病院を知ってたのかしら」  「それも問題ですが、しかし方法はあります。現《げん》に、二、三の記者がかぎつけて来ていますしね。隠《かく》していても限《げん》度《ど》がある」  「そんなものですか」  「むしろ私が気になるのは、なぜあの女が田村さんを殺そうとしたか、です」  「というと?」  「つまり、偽《にせ》物《もの》であることはもうばれてしまっているわけでしょう。それならば後は逃《に》げるしかないんじゃありませんか」  「田村さんを殺しても、何の利《り》益《えき》もありませんね」  「そうでしょう? 警《けい》官《かん》が張《は》り込《こ》んでいる病院へ、危《き》険《けん》を犯《おか》して忍《しの》び込《こ》むというのは、よほどの恨《うら》みを田村さんに対して抱《いだ》いているとしか思えません」  亜由美は肯《うなず》いた。  「それじゃ——一体どういうことになりますの?」  「分りません。いや、考えはあるのですが、もう一つぴったり来ないんです」  「あ、そうだわ、そう言えば——」  亜由美は、別《べつ》荘《そう》の近くで、淑子の服が見付かったことを話した。  「確《たし》かに彼女《かのじよ》の服ですか?」  と、殿永は言った。  殿永にしては珍《めずら》しく興《こう》奮《ふん》の面持ちである。  「あの邦代って子が言ってたから、確かだと思いますけど」  「そうですか。もしそれが——」  と、殿永は独《ひと》り言《ごと》のように呟《つぶや》いた。  「田村さんは大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》でしょうか」  と、亜由美が言うと、殿永は、ふと我《われ》に返った様子で、  「ここは心配ありません。 警《けい》備《び》も増《ふ》やしたし、 あの女も、 もう無《む》理《り》だと思っているでしょう」  「そうですか」  殿永はちょっと考え込《こ》んでいたが、  「どうです? もう一度、ドライブに付き合いませんか」  と言い出した。  「ええ。でも、どこへ?」  「別《べつ》荘《そう》です。その、出て来た服というのを見ておきたいんですよ」  殿永の目は輝《かがや》いていた。  「よほど何か意味がありそうですね。——もちろんご一《いつ》緒《しよ》しますわ」  と、亜由美は言った。  何となく胸《むね》がときめいて来る。殿永の興《こう》奮《ふん》が伝《でん》染《せん》したのかもしれない。  「では——」  と殿永が言いかけたとき、武居が急いで廊《ろう》下《か》をやって来た。  「一体何があったんです?」  と、武居は問《と》い詰《つ》めるように言って、  「田村君は?」  「無事です。今、眠《ねむ》っていますよ」  「ちゃんと警備してくれなくちゃ困りますよ。信《しん》頼《らい》して預《あず》けてるんですからね」  と厳《きび》しく言ってから、ちょっと落ち着いた様子で、  「いや……ついカッとして。すみません」  「いいえ、当然のことです。何と言われても仕方ありません」  「犯《はん》人《にん》はあの女なんですね?」  「ええ。危《き》機《き》一《いつ》髪《ぱつ》でした」  「執《しゆう》念《ねん》深いなあ。一体何者なんだろう」  と、武居が言った。  「そこですよ」  と殿永が肯《うなず》く。  「——何がです?」  「もしあれが偽《にせ》物《もの》なら、本物の淑子さんはどうしたのか。そして、そんなに良く似《に》た偽物を、どこで見付けて来たのか」  武居は殿永の顔を見つめて、  「それが——何か分ったんですか?」  「これから分るんじゃないかと思うんですよ、武居さん」  と、殿永は言った。  結局、武居も加えて、殿永、亜由美、車を運転して来た有賀の四人で——いや、ドン・ファンも加えて、四人プラス一匹で、再《ふたた》びあの別《べつ》荘《そう》へ向かうことになった。  別荘に着いたのは、もう夜中だった。明りも消えている。  「——起すのも気の毒ね」  と、亜由美が言った。  「忍《しの》び込《こ》んだら、もっとびっくりするぜ」  と、有賀が言った。  武居がチャイムを鳴らすと、しばらくして、  「どなた?」  と、邦代の声がした。  「警《けい》察《さつ》の者だが……」  「邦代さん。私、塚川亜由美よ」  ドン・ファンがワンと吠《ほ》える。  ガチャガチャと音がして、ドアが開いた。  「あの——何か?」  パジャマ姿《すがた》で邦代が立っている。  「あの、淑子さんの服を見せてほしいの」  「こんな夜中に?」  「ごめんなさい。でも、みんなそのために、こうしてやって来たんだから」  「それはいいんですけど……」  と、邦代はためらっていたが、やがてヒョイと肩《かた》をすくめて、「どうぞ。今、帰らせますから」  「誰《だれ》を?」  と、亜由美が訊《き》く。  「ちょっとした知り合いです」  と言って、邦代は、「ねえ、ちょっと! お客さんだから今夜は帰って」  と、奥《おく》の方へ声をかけた。  おずおずと出て来たのは、若《わか》い男で、  「今《こん》晩《ばん》は」  ピョコンと頭を下げると、逃《に》げるように出て行く。  「あの人は?」  「デパートの配達の人なんです。ちょっと気が合ったもんですから、つい話し込《こ》んじゃって」  邦代は澄《す》まし顔で言った。亜由美は苦《く》笑《しよう》した。  「——淑子さんの服を見せてくれる?」  「ええ。居《い》間《ま》に置いたままです」  邦代が居間のドアを開けて、明りを点《つ》ける。——服の山が、ソファの上に築《きず》かれていた。  「これは間《ま》違《ちが》いなく淑子さんのものなんだね?」  殿永が服を一つ一つ取り上げながら言った。  「ええ、たぶん……」  邦代の答は、やや曖《あい》昧《まい》だった。  「たぶん? はっきりしないのかい?」  「実は、ちょっと妙《みよう》なことがあるんです」  と邦代は言った。  「言ってみてくれないか」  「その服なんです。赤いやつ。——それです。これ、私が特《とく》に気に入ってたんです。お嬢《じよう》様《さま》が、服が合わないので、一度、『これをいただいていいですか』って訊いたことがありました」  「淑子さんは何と?」  「着られるなら構《かま》わないっておっしゃいました。で、そのときに、私、これを着てみたんです」  「それで?」  「丈《たけ》が長すぎたんで、少しつめなきゃな、って思ったんです。ともかくその場は、この服を洋服ダンスに戻《もど》しておきました」  邦代は、赤い服を手に取ると、自分の体に当てて、  「でも——見て下さい」  「長くないじゃないの、別に」  と、亜由美は言った。  「そうなんです。でも、前に合わせたときには長かったんですよ」  「どういうことだい?」  と、武居が眉《まゆ》を寄《よ》せて、「つまり、縮《ちぢ》んじまったってことか」  「そんなはずありません。だって、こんなワンピースを、クリーニングに出さないで、自分で洗《あら》うなんてこと、ありませんもの」  「クリーニングには出さなかったのね?」  と亜由美は訊《き》いた。  「出しません」  「じゃ、きっとここで洗ったんだろう」  と武居が言った。  「洗えば分かりますよ」  と、亜由美は言った。「これは洗っていません」  「ということは……」  有賀がキョトンとして、「この服が縮んだんじゃなくて、彼女の背《せ》がのびたってこと?」  「そんな短い期間に、そんなことあるわけないでしょ」  と、亜由美は言った。  「じゃ、一体——」  「つまり、それは違《ヽ》う《ヽ》服《ヽ》なのよ」  しばらく、誰《だれ》も口をきかなかった。  「私もそう思いました」  と、邦代が言った。「これは、前に私が着たのとは違《ちが》う服ですわ」  「すると、どういうことになるんだ?」  と有賀が頭をひねった。  「こ《ヽ》の《ヽ》服《ヽ》な《ヽ》ら《ヽ》、淑子さんに合ったんじゃないかな」  と殿永は言った。「つまり、淑子さんが服が合わなかったのは、淑子さんが別人だったからでなく、服《ヽ》の《ヽ》方《ヽ》が《ヽ》別物になっていたからだった、としたら?」  「まさか!」  と武居が言った。「だって、これが、そもそもの淑子さんの服だってことがどうして分るんです?」  「これは淑子さんの服ですわ」  と亜由美は言って、服の一つを取り上げると、ドン・ファンの方へ投げてやった。  ドン・ファンはその匂《にお》いをかいでは、ワンワンと吠《ほ》えた。  「分ったわ、この別《べつ》荘《そう》へ最初に来たとき、ドン・ファンが林の中へ走って行ってしまったわけが。——これが埋《う》めてあることを、知っていたのよ」  「つまり、淑子さんが帰国したとき、服は全部、別物と入れ替《か》えられていた。同じ品で、サイズが少し違《ちが》うものを、揃《そろ》えておいたのです」  と殿永は言った。  「どうして、そんな厄《やつ》介《かい》なことを?」  と、有賀が言った。  「淑子さんが偽《にせ》物《もの》だと思い込《こ》ませるためですよ」  「ということは……」  亜由美はゆっくりと言った。「あ《ヽ》の《ヽ》淑子さんは、本《ヽ》物《ヽ》だったんですね!」  「そもそも、婚《こん》約《やく》者《しや》や親にも見分けのつかないような似《に》た女《じよ》性《せい》がそうざらにいるはずがありません。つまりこの事《じ》件《けん》は、本物の淑子さんを、偽物で、かつ本物を殺してすり替《かわ》ったのだと見せかけるように仕組まれたのです」  殿永の言葉に、みんなが顔を見合わせた……。 裏《うら》切《ぎ》られた女  「——分りませんわ」  と、亜由美は言った。  「何がです?」  殿永が訊《き》く。  二人は、もう夜明けの近い街《まち》を車で走っていた。殿永が、亜由美を自《じ》宅《たく》まで送ることにしたのである。後ろの座《ざ》席《せき》には、ドン・ファンが、のんびりと眠《ねむ》っている。  「淑子さんが本物だとしたら、なぜわざわざ田村さんに、別人のように思われるようなことばかりしたんでしょう?」  殿永は、しばらく黙《だま》って車を走らせていた。そして、急にブレーキをかけて、車を停《と》めた。  「どうかしたんですか?」  と、亜由美は訊いた。  「どうです? どうせなら、これから全部の謎《なぞ》を解《と》いてみますか」  殿永は恐《おそ》ろしいほど真《しん》剣《けん》だった。こんな殿永の顔を見るのは、初めてだ。  亜由美はゆっくり肯《うなず》いた。  「お待ちなさい」  殿永は車を出ると、近くの電話ボックスへ走って行き、電話をかけていたが、すぐに戻《もど》って来た。  「では、行きましょう」  「どこへ?」  「あの病院へ戻ります」  殿永は車をUターンさせた。  「——病院へ行ってどうするんですか?」  「彼女《かのじよ》を待つんです」  「淑子さんを? でも——」  「警《けい》備《び》を解《と》くように、今命令しました。淑子さんはもう一度現《あらわ》れますよ」  「まさか!」  「いや、きっと来ます。——ともかく待ってみましょう」  殿永の口調は自信に満ちていた。  「もし……現れなかったら?」  「現れるようにします。あなたも協力していただきたいんですがね」  亜由美は当《とう》惑《わく》顔《がお》で殿永を見た。    病室は、まだ暗かった。  外は空が白み始めているが、カーテンが引かれて病室の中は、まだ夜の闇《やみ》に満たされている。  田村は、ちょっと苦しげに息をして、身動きした。  ——目が開く。  まだ眠《ねむ》っているのかと思うような、暗がり。しかし、しばらくその暗がりを見つめていると、少しずつ物の形が判《はん》別《べつ》できて来る。  田村は、鎮《ちん》静《せい》剤《ざい》の効《こう》果《か》がまだ残っているのか、多少、夢《ゆめ》うつつの状《じよう》態《たい》だった。  ドアのノブが回る音がした。ドアが静かに開いて来る。  看《かん》護《ご》婦《ふ》か、と田村は思った。ずいぶん早いな。——いや、本当はもう朝になっているのかもしれない。  女のシルエットが、一《いつ》瞬《しゆん》チラッと目に映《うつ》った。中へ入って来ると、その女はドアを、細く開けたまま、ベッドの方へ進んで来た。  白っぽい服だけが分る。やはり看護婦だろう。  「早いね」  と、田村は、いくらかもつれる口調で言った。——そして、目を見《み》張《は》った。  看護婦ではない。  白いのは、白衣でなく、コートだった。手に握《にぎ》ったナイフが見える。見上げると、女はマスクで顔を隠《かく》していた。  田村は叫《さけ》ぼうとした。しかし、声にならない。  女がナイフを振《ふ》りかざして近付いて来る。  「やめてくれ……」  押《お》し出すような声が洩《も》れた。手をのばそうとするが、薬のせいだろうか、手が持ち上らないのだ。  「許《ゆる》してくれ……」  田村は言った。ナイフは、彼《かれ》の心《しん》臓《ぞう》をめがけて、振《ふ》り降《お》ろされようとしていた。  「助けてくれ!——君を——君を殺す気はなかったんだ!」  田村は必死で体をずらそうとした。「僕《ぼく》は——僕は——あいつの言いなりに動いていただけだ! 本当だ!」  ズルズルと滑《すべ》って、田村は床《ゆか》へ落ちていた。床を這《は》って、逃《に》げようとする。  「君を——愛していた。本当だ! でも——でも、僕は——金が欲《ほ》しかったんだ。それだけなんだ!」  女はベッドの傍《かたわ》らに立って動かなかった。田村は、ドアへ向かって四つん這いになって進んで行くと、体ごとぶつかるようにしてドアを開けた。  「どうも」  頭の上で声がした。——殿永が、田村を見下ろしている。  「あなたは……」  「殿永刑《けい》事《じ》です。そして——あなたの良くご存《ぞん》知《じ》の方ですよ」  田村は振《ふ》り向いた。廊《ろう》下《か》の明りに照らされて、女が立っている。マスクを外《はず》した。  「塚川君!」  田村の口から、震《ふる》えるような声が洩《も》れた。  「田村さん」  亜由美はコートを脱《ぬ》いでその場に落とすと、  「あなたは……淑子さんを殺そうとしたんですね!」  田村は、床《ゆか》に座《すわ》り込んだまま、うなだれていた。殿永は、亜由美の手から、ナイフを受け取った。  「田村さんのようなタイプの人は、おそらく大学に残って研究生活を送っていれば良かったんでしょうね」  田村は深々と息をついた。  「僕《ぼく》だって——そうしたかったよ。しかし、とてもそんな経《けい》済《ざい》的《てき》余《よ》裕《ゆう》はなかった」  「あなたのようなタイプの人に、会社勤《づと》めは辛《つら》かったでしょう」  「辛いなんてものじゃなかったよ」  田村は苦々しい笑《わら》いを浮《う》かべた。「あんな上役連中に頭を下げ、心にもないお世辞を言うなんて——堪《た》えられなかった!」  「それでお金目当てに、淑子さんに近付いたんですか」  「それだけじゃない。——僕には恋《こい》人《びと》ができた。子《こ》供《ども》も生まれる。だが、僕は恐《おそ》ろしかったんだ。そのために、一生、あの惨《みじ》めな生活を送るのかと思うとね。だが……あるパーティで、たまたま知り合った淑子が、増口の娘《むすめ》だと知って、あんな女と結《けつ》婚《こん》したら、さぞ楽《らく》な暮《くら》しができるだろうと思った。——でも、僕には恋人がいたし、本気でそんなこと考えたわけじゃなかった……」  「それじゃどうして——」  「ちょうどそのパーティに、あ《ヽ》い《ヽ》つ《ヽ》も来ていたんだ。そして僕を見付けると、飲みに誘《さそ》って来た。僕は酔《よ》って、何もかも、そいつにぶちまけた……」  「で、彼《かれ》が、あなたに、その計画を吹《ふ》き込《こ》んだわけですね」  「そう……。こっちは最初本気にしてなかった。でも、あいつは、根っからの悪《あく》党《とう》だった」  田村は、少し間を置いて続けた。「あいつの計画が、僕の耳の中で、毎日毎日、鳴り渡《わた》った。鐘《かね》の音みたいにね。——やれるだろうか? やれるかもしれない。いや、きっと大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》だ。——そう思うようになるのに、時間はそうかからなかった……」  「恋《こい》人《びと》にはどう言ったんです?」  「彼女《かのじよ》は僕《ぼく》をいさめるどころか、たきつけたよ。それで僕も決心した。——淑子と出会う段《だん》取《ど》りは、あいつがつけてくれた。信じられないくらいだったが、淑子は僕にすっかりのぼせ上っていたんだ。たぶん、こういうタイプが珍《めずら》しかったんだろうな」  「淑子さんと結《けつ》婚《こん》しておいて、彼女を殺す。——財《ざい》産《さん》は手に入るが、夫が疑《うたが》われるのは避《さ》けられない。あなた方の計画は、まず淑子さんが、偽《にせ》物《もの》で、本当の淑子さんを殺してすり替《かわ》っていると他人に思わせた上で、あたかも彼女が自ら逃《に》げたように見せて、殺す、という手順ですね」  「そう……。巧《うま》くできてるだろう? こっちは被《ひ》害《がい》者《しや》でいられるんだ。疑われることもない。——ところが、肝《かん》心《じん》のところでしくじったんだ」  「運転手の神岡を買《ばい》収《しゆう》して、淑子さんをさらったものの、神岡を殺している間に、淑子さんが逃げてしまった」  「そうなんだ。淑子は、真相を知って、僕に仕返しに来た。まあ、殺されたって文《もん》句《く》は言えないがね」  田村は笑った。  それは、亜由美の見たことのない、田村の姿《すがた》だった。  「田村さん。その計画を立てた『あいつ』って、誰《だれ》なんですか?」  と亜由美は訊《き》いた。  「何だ、知らないのか?」  田村は笑いながら、立ち上がった。  「君が知らないとはね……」  「誰なんですか?」  田村は口を開きかけた。——一《いつ》瞬《しゆん》の出来事だった。  田村の背《はい》後《ご》に、突《とつ》然《ぜん》、コートがひるがえった。  「危《あぶ》ない!」  と、殿永が叫《さけ》んだ。  同時に、ナイフが田村の背に深々と呑《の》み込《こ》まれていた。  田村は、目を大きく見開いて、  「淑子……」  と呟《つぶや》くと、その場に崩《くず》れ落ちた。  淑子が立っていた。その表《ひよう》情《じよう》は、むしろ晴れやかでさえあった。  「死ぬときに私の名なんか呼《よ》んで……」  と、淑子は独《ひと》り言《ごと》のように言った。  「恋《こい》人《びと》の名を呼んで死ねば、まだ尊《そん》敬《けい》してあげたのに……」  殿永が、田村の上にかがみ込む。——しかし、とても助からないことは、亜由美にも分っていた。  亜由美は淑子を見た。淑子の頬《ほお》に涙《なみだ》が落ちていた。  「彼《かれ》を罰《ばつ》するのは我《われ》々《われ》に任《まか》せて下されば良かったのに」  「いいえ」  淑子は首を振《ふ》った。「この人は——私が、生《しよう》涯《がい》で初めて、心から信じた人なんです。それなのに……。許《ゆる》せなかったんです。私自身の手で、罰してやらなくては、と……」  いつも疎《そ》外《がい》されて生きて来た娘《むすめ》。——その気持は、亜由美にも、分るような気がした。 最後のジャンプ  「田村さんが死んだ?」  有賀が目を丸《まる》くした。  「ええ……」  亜由美は、肯《うなず》いた。「刺《さ》されたの。淑子さんに」  田村の死は、まだ公表されていなかった。  ——次の日の、午後。  二人は、桜井みどりが殺された、歴史部の部室にいた。ドン・ファンが、床《ゆか》でのんびりと寝《ね》そべっている。  亜由美が事《じ》情《じよう》を説明すると、  「あの田村さんが——」  有賀は呆《ぼう》然《ぜん》とした様子で、首を振《ふ》った。  「でも、事《じ》件《けん》は終ってないのよ」  「まだ?」  「そうよ。だって、桜井さんが殺されたのは、田村さんが犯《はん》人《にん》じゃないのははっきりしてるわ。その間、田村さんはドイツにいたんですもの」  「こっそり帰ってたとか——」  「そんなこと簡《かん》単《たん》に調べられちゃうわ。だって、田村さんがかなり衰《すい》弱《じやく》して帰って来たのは事実よ。淑子さんに殺されかけたと見せるために、わざわざ血をつけた上《うわ》衣《ぎ》を捨てておいて、飲まず食わずで日を過《す》ごしたのよ」  「じゃ、その間、こっちで動いていた奴《やつ》がいるのか」  「そう。そもそもの計画を立てた人間がね」  と亜由美は肯《うなず》いた。  「誰《だれ》なんだ、一体?」  「考えてみれば、分るはずよ」  亜由美は、ドン・ファンの頭を撫《な》でた。「桜井さんが、あのとき、ここで待っていることを知って、犯人は私を偽《にせ》電《でん》話《わ》でおびき出したのよ。その間、ほんのわずかの時間しかなかった」  「そうだね」  「じゃ、なぜ犯《はん》人《にん》は、桜井さんがここで私を待っていることを知っていたのか?——私は誰《だれ》にも言わなかったし、桜井さんだって、そんなことを人にしゃべるとは思えないわ。そうなると、犯人は、私と桜井さんの話を、あ《ヽ》の《ヽ》場《ヽ》で《ヽ》、聞いていたことになるわ」  「それじゃ、つまり、犯人は——」  「あ《ヽ》な《ヽ》た《ヽ》よ《ヽ》、有《ヽ》賀《ヽ》君《ヽ》」  と、亜由美は言った。    有賀は声を上げて笑《わら》った。  「おい、びっくりさせるなよ!」  「本気よ、私」  「考えてもみろよ! 君が、お母さんが事《じ》故《こ》に遭《あ》ったという電話を聞いたときは、僕は一《いつ》緒《しよ》に講《こう》義《ぎ》に出てたんだぜ」  「そう。でも私は眠《ヽ》っ《ヽ》て《ヽ》た《ヽ》わ《ヽ》。そして、電話には、直《ちよく》接《せつ》出たわけじゃないのよ。事《じ》務《む》の人から伝言を聞いただけだったわ」  「しかし——」  「待って。あなたは、コーヒーを持って、戻《もど》って来た。私と桜井さんは、それまで武居さんの話をしていた。そして、桜井さんは、『あの男には近付かない方がいいわよ』と言ったわ。——私は当然、桜井さんが武居さんのことを言ったんだと思ったわ。でも、実《じつ》際《さい》は、あなたのことを言ってたのよ。ちょうどあなたが戻って来るところだったから、それ以上、彼女は言わなかった。そしてここで私を待っているから、と言ったのよ。あなたは、それを耳にしてしまった……」  有賀は平然として、話を聞いていた。  「桜井さんは、ゴシップにかけては、誰よりも詳《くわ》しかったわ。そして、田村さんと、淑子さんの結《けつ》婚《こん》についても、あれこれ訊《き》いて回ったんだわ。その内に、どうも、あの結《けつ》婚《こん》はおかしいと思い始めた。そして陰《かげ》にあなたがいたことも、耳にしていたのね。桜井さんが色々調べ回っていることを、あなたも知っていた。だから、桜井さんが私と会う約束をしているのを聞いて、何とかしなきゃいけない、と思った。——講《こう》義《ぎ》中、私が眠《ねむ》っているのを見て、あなたは教室を出て行き、赤電話で事《じ》務《む》所《しよ》へかけて、急いで戻《もど》って来たのよ。私が目を覚ましたときは、あなたは、ちゃんとそばに座《すわ》っていたというわけね」  有賀は顎《あご》を撫《な》でながら、  「しかし、僕《ぼく》は、桜井君を殺せなかったぜ。そうだろう。君と神田君に見られずに殺すことはできない」  「そこなのよ」  亜由美は立ち上って窓《まど》を開けた。「——桜井さんは、窓《ヽ》に《ヽ》向《ヽ》か《ヽ》っ《ヽ》て《ヽ》立っていたわ」  「だから?」  「そこをよく考えるべきだったのよ。犯《はん》人《にん》は窓《ヽ》か《ヽ》ら《ヽ》来たんだっていうことをね」  「空中を飛んで?」  と、有賀は笑《わら》った。  「屋上からロープを伝ってよ」  と亜由美は言った。「あなたは、桜井さんを殺す決心をして、ここへ上って来ようとした。ところが、社会科学部のドアが開いていて、目につかずにはここへやって来られない。あなたは一か八かで、山登りの経《けい》験《けん》を生かしてみることにしたのよ。屋上からロープをこの窓のわきに垂《た》らし、ナイフを口にくわえて降《お》りて来る。そして、窓を叩《たた》く。——桜井さんは、何かと思ってやって来て、窓を開け、外を覗《のぞ》く。そこを一《ひと》突《つ》き!——窓は、ガタンと落ちれば、ロックされたような状《じよう》態《たい》になる。後は、そのまま下へ降りて、ロープを下から外す。そんなことはお手のものでしょう」  「君の想《そう》像《ぞう》力《りよく》には、敬《けい》意《い》を払《はら》うよ」  と、有賀は肩《かた》をすくめた。  「もう諦《あきら》めて。屋上にちゃんとロープの跡《あと》も見付かったし、それに、あなたが田村さんをたきつけていたことは、田村さんの恋《こい》人《びと》も証《しよう》言《げん》してるわ」  有賀はいつものとぼけた表《ひよう》情《じよう》で、  「やれやれ、君にそこまで信用がないとはなあ」  と言った。「例のハンバーガーの店へトラックをどうやって突《つ》っ込《こ》ませたのか、君の推《すい》理《り》を聞きたいね」  「あれは純《じゆん》然《ぜん》たる事《じ》故《こ》だったのよ。ブレーキが完全にかかっていなかったのね。でも、あなたにとっては、幸いな事故だったわ。武居さんが狙《ねら》われているようにも見えるし、自分には絶《ぜつ》対《たい》のアリバイがある」  「なるほど。それで筋《すじ》は通るわけか」  「田村さんは死んだけど、あなたは自首してほしいわ」  「どうして?」  「友だちだと思うからよ」  「そいつはどうも」  と、有賀は窓《まど》辺《べ》に立った。「——警《けい》察《さつ》が待ってるのかい?」  「この外でね。でも、あなたが進んで警察へ行くのなら、一人で行かせてくれるわ」  「そのまま逃《に》げたら?」  「無《む》理《り》よ」  「でもね、君の言うことには証《しよう》拠《こ》がないぜ」  「調べれば、いくらでも出て来るわ。あの服を作らせたこともそうよ。あなたの顔を憶《おぼ》えていた店員がいるわ」  「そうか」  と、有賀は笑《わら》った。「あんまりやり過《す》ぎるもんじゃないな」  「有賀君……」  「田村さんが、財《ざい》産《さん》を継《つ》いで、その上で巧《うま》くいけば増口の後を継いで社長になれるかと思ったんだがな。そうすりゃ、遊んで暮《くら》せる。——僕《ぼく》は楽《たの》しく生きるのが好きだからね」  「そのために人を殺しても?」  「一度やりゃ、簡《かん》単《たん》さ」  「あなたが言ったこと——あの別《べつ》荘《そう》で、淑子さんがあなたの所へやって来たというのは嘘《うそ》ね」  「うん。逆《ぎやく》なんだ。僕が彼女《かのじよ》の所へ行った」  「どうして?」  「もちろん追い返される。でもね、そんなことがありゃ、翌《よく》日《じつ》顔を合わせたくないだろう。だから、僕らが起き出さない内に出かけると思ったんだ。巧《うま》く行ったよ」  神岡が、淑子の部屋から出て来たのは、次の日のことを指《し》示《じ》していただけなのだろう。  「それに、君に、彼女が偽《にせ》物《もの》だという印象を植えつけようとも思ってね」  「あの服は——」  「まずかったよ。新しい服と取り替《か》えたのはいいけど、前の服を持って遠くまで行くのが大変だと思って、近くへ埋《う》めちゃったんだ。それをそのワン公が見てた。あの林の中を探《さが》しているとき、君は、そのすぐそばにいたんだ。茂《しげ》みで音がしたろ? そいつだったのさ。僕は、誰《だれ》かに殴《なぐ》られたふりをして、そのワン公を追《お》っ払《ぱら》った。しかし、あの邦代って子に見付かるとはね」  「もう一つ教えて」  「何だい?」  「あのシェークスピアの絵葉書は? 何の意味なの?」  「あれか」  と有賀は愉《ゆ》快《かい》そうに言った。「田村さんへ言っておいたんだ。何か意味ありげな葉書を寄《よ》こしておいてくれってね。田村さんのアリバイにもなるし、ともかく、彼《かれ》が生きているかどうか分らない、中《ちゆう》途《と》半《はん》端《ぱ》な気分に、淑子さんを置いておく必要があった。  田村さんが、たまたま〈シェークスピア〉劇《げき》の劇場であの絵葉書を買ったんだよ。しかし、シェークスピアは正体の分らないところのある作家だからね。あれにはふさわしかったかもしれないね」  有賀は窓《まど》枠《わく》にヒョイと腰《こし》をかけた。  「どうするの?」  と亜由美は言った。  「逮《たい》捕《ほ》されて監《かん》獄《ごく》行きなんていやだね」  と、有賀は言った。「僕《ぼく》は楽《たの》しく生きる主義だ」  不意に、有賀の姿《すがた》が消えた。  「有賀君!」  亜由美は窓《まど》辺《べ》に駆《か》け寄《よ》った。——有賀が、大の字になって倒《たお》れているのが、見下ろせた。  「有賀君……」  クゥーンと、ドン・ファンも窓から首を出して、低く鳴いた。  ドアが開いて、殿永が入って来た。  「殿永さん……」  殿永は窓から下を見て、  「証《しよう》拠《こ》はほとんどなかったんです。しかし……」  と、呟《つぶや》くように言った。 エピローグ  大学のキャンパスは、いつもの通りだ。  昼休み。——学生たちはおしゃべりに余《よ》念《ねん》がない。  しかし、亜由美は一人で芝《しば》生《ふ》に座《すわ》って、まるで見も知らぬ世界にいるような気がしていた。 傍《かたわら》には、ドン・ファンが寝《ね》そべっている。——事《じ》件《けん》のことも、もう学生たちの話題から消え去ろうとしていた。  亜由美は、何だか、突《とつ》然《ぜん》、冷たい現《げん》実《じつ》と顔をつき合わせて、そのショックから、まだ立ち直れないでいたのだ。  大学、講《こう》義《ぎ》、クラブ……。  何もかもが空しく思える。——あんな経《けい》験《けん》をした後では、まるで子《こ》供《ども》の遊びのようだ。  武居が、遠回しに、付き合ってほしいと言って来たが、それも断《ことわ》った。増口からの謝《しや》礼《れい》も、返してしまった。  もう、早く忘《わす》れたいのに、一向に亜由美の中から、重い鉛《なまり》のような苦さは、出ていかないのだった。  この事《じ》件《けん》で得《え》たものなんて、一つもない、と亜由美は思った。——失うばかりだった。  「あ、そうか。お前がいたわね」  増口に言って、ドン・ファンだけを、もらうことにしたのだった。  「亜由美、元気ないね」  と、声がして、聡子が隣《となり》に座《すわ》った。  「聡子か」  「しっかりしなさいよ。亜由美らしくもない」  と聡子は言った。「でも、私もがっかりだわ。推《すい》理《り》はみごとに外れたものね」  「え?——ああ、桜井みどりさんの殺された件ね」  「そう。社会科学部に犯《はん》人《にん》がいると思ったんだけどなあ。——あ、そうだ。あのことだけ未《み》解《かい》決《けつ》よ。私と亜由美が殴《なぐ》られて気を失ったこと。あれ、誰《だれ》だったのかしら?」  「あれは事《じ》件《けん》と関係なかったんじゃない? 何しろクラブ棟《とう》にあなた一人しかいなかったのよ。不《ふ》心《こころ》得《え》者《もの》があなたを襲《おそ》おうとしても、不思議はないじゃないの」  「そうか。やっぱり美女はつらいわ」  と聡子が真《ま》面《じ》目《め》な顔で言うので、亜由美は笑《わら》い出してしまった。そして、ふと気が付くと、  「あら……。ドン・ファン!」  いつの間にか、ドン・ファンがいなくなっている。  「——ドン・ファン! どこなの!」  と呼んでいると、  「キャーッ!」  と女の子の悲鳴が起った。  ドン・ファンが、女子学生のスカートの中へ頭を突《つ》っ込《こ》もうとしたのだ。  「いや! この犬!」  女の子たちが逃《に》げ出すと、ドン・ファンはますます面白がって追いかける。  それを見ている内に、聡子と亜由美は笑い出した。  ——キャンパスに、ドン・ファンの吠《ほ》える声と、女の子たちの悲鳴と、そして亜由美たちの笑《わら》い声が響《ひび》き渡《わた》った。 忙《いそが》しい花《はな》嫁《よめ》  赤《あか》川《がわ》次《じ》郎《ろう》 ------------------------------------------------------------------------------- 平成12年12月8日 発行 発行者  角川歴彦 発行所  株式会社 角川書店 〒102-8177 東京都千代田区富士見2-13-3 shoseki@kadokawa.co.jp Jiro AKAGAWA 2000 本電子書籍は下記にもとづいて制作しました 角川文庫『忙しい花嫁』昭和61年9月25日初版刊行 平成10年3月10日52版刊行