TITLE : 忘れられた花嫁 本作品の全部または一部を無断で複製、転載、配信、送信したり、 ホームページ上に転載することを禁止します。また、本作品の内容 を無断で改変、改ざん等を行うことも禁止します。 本作品購入時にご承諾いただいた規約により、有償・無償にかかわ らず本作品を第三者に譲渡することはできません。 目 次 1 大《たい》安《あん》吉《きち》日《じつ》 2 余《あま》り、なし 3 変死、怪《かい》死《し》 4 ショックの朝 5 二つの死 6 にわか探《たん》偵《てい》 7 絶《ぜつ》望《ぼう》的《てき》結《けつ》婚《こん》 8 理想的結《けつ》婚《こん》 9 密《みつ》 会《かい》 10 尾《び》 行《こう》 11 大《だい》邸《てい》宅《たく》 12 賭《か》 け 13 塀《へい》の外 14 遊びは終り 15 恐《きよう》 喝《かつ》 16 謎《なぞ》の〈仕事〉 17 学友の話 18 謎《なぞ》の相《あい》棒《ぼう》 19 悲《ひ》壮《そう》な決意 20 明子の危《き》機《き》 21 天の助け 22 第二のバイト 23 哀《かな》しげな男 24 運命の皮肉 25 千春との再《さい》会《かい》 26 人《ひと》違《ちが》いのナイフ 27 皮肉の結《けつ》論《ろん》 28 パーティ 29 プロポーズ、その後 30 死体をもう一つ 31 塀《へい》の中の秘《ひ》密《みつ》 32 決 闘! エピローグ 1 大《たい》安《あん》吉《きち》日《じつ》  「いい加《か》減《げん》にしろい、全くもう!」  やくざまがいの男が言ったのなら、このセリフ、別に何の不思議もないのだが、今年やっと二十一歳《さい》という、若《わか》き女《じよ》性《せい》が発したとなると、ちょっと苦々しく眉《まゆ》をひそめる向きもあろう。  しかし、そこには、多少、無《む》理《り》からぬ事《じ》情《じよう》もあって……。  ところで、この日は十月の初め、そろそろ秋風が時に冷たくも感じられるころ。しかし、この日は晴天で、動き回ると少し汗《あせ》ばむような暖《あたた》かさであった。  北の風、風力3、気《き》圧《あつ》は——いや、そんなことは、差し当り問題ではない。  場所は東京の、ある結《けつ》婚《こん》式場。言葉を発したのは——いや、その前に結婚式場のどこなのかを記しておかなくてはならない。  そりゃそうだろう。結婚式場ったって、玄《げん》関《かん》から披《ひ》露《ろう》宴《えん》会場、調理場からトイレまで、甚《はなは》だ広いのだから。  そしてここは花《はな》嫁《よめ》の控《ひかえ》室《しつ》なのである。これから、キリスト教式の結婚式を挙げようという物《もの》好《ず》きが——いや、幸せそのものの花嫁がチョコンと椅《い》子《す》に腰《こし》かけている。  当然、衣《い》裳《しよう》はウエディングドレス。白いヴェールが、フワリと顔の前にかかって、お世辞にも奥《おく》床《ゆか》しいとは言えない顔をカバーしてくれている。  ただし、断《ことわ》っておかなくてはならないが、冒《ぼう》頭《とう》の捨《す》てゼリフを吐《は》いたのは、この花《はな》嫁《よめ》ではない。そのそばについている、制《せい》服《ふく》を着た若《わか》い女で、当然、制服を着ているからには、この式場の従《じゆう》業《ぎよう》員《いん》なのである。  仕事で毎日毎日、結《けつ》婚《こん》式《しき》を見ていると、ちっとも感《かん》激《げき》しなくなるとはいえ、それなりに、一生一度の晴れ姿《すがた》(最近は一度とは限《かぎ》らないようだが)が、少しでも引き立つようにと駆《か》け回っている。  しかし、今日ばかりは……。  全く、いい加《か》減《げん》にしろ、と言いたくもなったのである。  「だって……」  花嫁の方は、グスン、グスンと、風《か》邪《ぜ》でも引いたみたいに、鼻をすすり上げている。泣《な》いているのである。  「もうここまで来たんだから、諦《あきら》めなさいよ!」  と、制服の娘《むすめ》は言った。「どうせ、ここで辞めたって、大した男が出て来るわけじゃなし、さ」  「そりゃ私だって……」  と、すすり上げ、「あの人となら一《いつ》緒《しよ》になってもいいと思ったから……グスン、ここまでついて来たのよ」  「じゃ、いいじゃないの!」  「だけど……あの人ったら、他に女がいて……子《こ》供《ども》まで作って……グスン、それが、ゆうべになって初めて分って……」  「じゃ、ゆうべやめりゃ良かったじゃないのよ」  「そんな……いい笑《わら》い者だわ」  「だけどねえ、今さら、気が変りましたから帰りますなんて言われたって、困《こま》んのよね。ともかく、今日は何の日か知ってる?」  「——私の結《けつ》婚《こん》式《しき》」  「馬《ば》鹿《か》。大《たい》安《あん》吉《きち》日《じつ》なの。大安吉日。分る? 大ラッシュなのよ。この式場」  「私は仏《ぶつ》滅《めつ》だって良かったのよ。でも彼《かれ》のお母さんが大安でなきゃだめだって——」  「そんなこと関係ないでしょ!」  と、制《せい》服《ふく》の娘《むすめ》は、かみつきそうな顔で言った。「いい? ともかく、時間通りに式を始めてくれないと、後がつかえてんの。次の組までに五分しかないんだから!」  「だって……これは一生の問題ですもの」  と、花《はな》嫁《よめ》の方は、まだこだわっている。  「迷《まよ》うんなら、もっと早く迷いなさいよ!——ああもう時間じゃないの。前の組が終るころだわ。いい? ちゃんと式を済《す》ませてね!」  と、制服の娘は、控《ひかえ》室《しつ》を飛び出した。  前の組が終って、ゾロゾロと出て行く。  これで式場を空にし、飾《かざ》りつけや花を、注文のあった通りのものに取り替《か》える。それから、両家の参列者を案内して来て、着席させる。  これを十分間でやってしまわなくてはならないのだ。——式場が空になるのを待って、中へ飛び込《こ》む。  さて、制《せい》服《ふく》姿《すがた》の娘《むすめ》が、この物語のヒロインである。名前は明子。  「あきこ」と読む。  姓《せい》は——忘《わす》れた。いや、本当は永《なが》戸《と》というのだが、ともかく、誰《だれ》でも、ちょっと知り合いになると、  「明子」  としか呼《よ》ばない。  それくらい「明子」という名が、ぴったりしているのである。  二十一歳《さい》——という年《ねん》齢《れい》は、先に述《の》べた。大学生である。  といって、ここでさぼってアルバイトをしているわけではない。わけあって、停学処《しよ》分《ぶん》を受けているのだ。  その辺の事《じ》情《じよう》はまた改めて述べるとして、この永戸明子、いかにも現《げん》代《だい》っ子らしく、スマートで、足もスラリと長い。ちょっと見には、きゃしゃな体つきなのだが、その実、当人も美《び》貌《ぼう》よりは体の方に自信があるというのが本音。  色は健康に陽《ひ》焼《や》けして、夏に海へ一週間行っていたのが、今もってき《ヽ》い《ヽ》て《ヽ》いる。  クリッとした目、大きめの口、さぞかし食べるだろうな、と思わせる。そして事実、よく食べる。  それでいて太らないという、羨《うらや》ましい体《たい》質《しつ》である。  特《とく》別《べつ》に美女というわけではない。六《ろつ》本《ぽん》木《ぎ》あたりを歩いていても、「モデルにならない?」と声をかけられたことは一度もない。  可愛《かわい》くないわけじゃない。いつも、ボーイフレンドには、  「可愛いよ」  と言われている。  言わせている、という方が正《せい》確《かく》かもしれない。  しかし、ともかく、明子は人気がある。性《せい》格《かく》が、サッパリしていて、クヨクヨとか、グズグズとは縁《えん》がないせいだろう。付き合っていて、気持いい、というタイプなのだ。  元気がよくて、さっぱりした気《き》性《しよう》。少々元気がよすぎるのが玉にキズであるが……。  ——さて、明子は、式場の手配をすっかり終えると、ホッと息をついた。  これで、参列者を呼《よ》びに行けば、後は式に移《うつ》れる、というわけである。  あんな風に、間《ま》際《ぎわ》になって、何のかのと言い出す花《はな》嫁《よめ》も、いないではない。そういう手合は、せかしてさっさと事を運んでしまうのが一番なのである。  「どうぞ式場の方へ」  と、両家の控《ひかえ》室《しつ》へ声をかけると、明子は花《はな》嫁《よめ》の控室へ戻《もど》って来た。  「さあ、すぐ式ですよ。覚《かく》悟《ご》はできま——」  変なところで言葉が切れた。  明子はポカンとして、そこに脱《ぬ》ぎ捨《す》てられたウエディングドレスを見つめていた……。    オルガンが、結《けつ》婚《こん》行進曲を奏《かな》でる。  花《はな》婿《むこ》は先に牧《ぼく》師《し》の前に立っている。花嫁の入場である。  白いウエディングドレスに身を包んだ花嫁は、いやにうつむいて、足もとが危《あぶな》い感じで進んで来る。  大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》かな、というように、花婿は首をかしげた。——しかし、辛《かろ》うじて、転びもせずに花嫁が到《とう》着《ちやく》する。  花婿はホッとして、微《ほほ》笑《え》みかけた。花嫁が顔を上げる。——花婿は、アッと声を上げるところだった。  花嫁は別人だったのである。  「君……」  と言いかけた花婿のわき腹《ばら》を、花嫁が肘《ひじ》でどんとついた。  「静かに」  と低い声で囁《ささや》く。  「どうしたんだ?」  「彼女《かのじよ》、逃《に》げちゃいましたよ」  「何だって?」  「気が変ったんですって」  「君は……」  「私、ここの従《じゆう》業《ぎよう》員《いん》」  「一体どうして——」  「困《こま》るんですよ、もめごとは。ちゃんと時間通りに終ってくれないと」  「だけど——」  「この場はともかくおとなしくして下さい。対《たい》策《さく》を立てるのは、後で」  もちろん、この花《はな》嫁《よめ》、明子である。  式が終って送り出しちまえば、明子の責《せき》任《にん》の範《はん》囲《い》の外になる。——何とか、そこまでは強引に持って行きたい。  「参ったな……」  と、花《はな》婿《むこ》は当《とう》惑《わく》顔《がお》(当然だ)。  「自《じ》業《ごう》自《じ》得《とく》でしょ」  「うん……しかし……。君、披《ひ》露《ろう》宴《えん》の方にも出てくれるの?」  「冗《じよう》談《だん》じゃない! 忙《いそが》しいんですよ」  「じゃ、どうすりゃいいんだ?」  「知るもんですか」  明子は肩《かた》をすくめた。  ——何しろ、この大《たい》安《あん》吉《きち》日《じつ》。こんなとぼけた事《じ》件《けん》はあったのだが、この程《てい》度《ど》のことなら、あまり害はない。  もっと大きな事件が、明子を待ち構《かま》えていたのだ。  ところで、この式、そのものは、一《いち》応《おう》無《ぶ》事《じ》に終った。  明子は控《ひかえ》室《しつ》へ戻《もど》ると、急いでウエディングドレスを脱《ぬ》いだ。——これでこっちはお役ごめんだ。後のことなんか知るか!  制《せい》服《ふく》を着ようとしていると、急にドアが開いて、明子は、飛び上りそうになった。  「いや——失礼」  見れば、たった今、式を挙げた花《はな》婿《むこ》である。  「何よ! 出てって!」  「いや——つまり——その、今、一《いつ》緒《しよ》に式を挙げて、君に惚《ほ》れちまったんだ」  「何ですって?」  「ねえ、どうせ、これから披《ひ》露《ろう》宴《えん》だし。僕《ぼく》と結《けつ》婚《こん》しないか?」  「気は確《たし》かなの?」  「もちろん! いや、そうでもない」  と、いきなり花《はな》婿《むこ》は控《ひかえ》室《しつ》へ入りこんで来ると、「君を離《はな》さないぞ!」  と、叫《さけ》んで、下着姿《すがた》の明子めがけて飛びついた。  ここで、ヴァイオレンスポルノ並《な》みの強《ごう》姦《かん》シーンを期待される向きにはお気の毒ながら、明子は、そんなときにキャーキャーとわめいているだけの娘《むすめ》ではないのである。  明子がサッと身を沈《しず》めると、花婿の方は目標を失って前のめりになる。  次の瞬《しゆん》間《かん》には、花婿の体は宙《ちゆう》を一転して、床《ゆか》へいやというほどの勢いで叩《たた》きつけられていた。ウーン、とうめいて、花婿、しばし起き上る気力もないらしい。  「甘《あま》く見ないでよ」  と、明子の方は息も乱《みだ》さず、制《せい》服《ふく》を着ると、  「じゃ、毎度どうも。この次もぜひ当式場でね」  とPRしてから、控室を出て行った……。 2 余《あま》り、なし  終った!  フウ、と、明子は息をついた。  全くもう——忙《いそが》しい一日だった。それに、この式場たるや、経《けい》営《えい》者《しや》がガメツイので、早目に仕事の終る者は、披《ひ》露《ろう》宴《えん》の方を手伝わねばならない。  「ご苦労さん」  と、声をかけて来たのは、主《しゆ》任《にん》の保《ほ》科《しな》光《みつ》子《こ》である。  「どうも」  「疲《つか》れたわ、今日は」  と、保科光子も、ドサッとソファに並《なら》んで腰《こし》をおろす。  保科光子は、三十代の後半——だろう、と明子は考えている——の、独《どく》身《しん》女《じよ》性《せい》。  よく仕事もでき、それでいて、カリカリしたところがない。  「明子さんのおかげで助かるわ」  と、光子は言った。  「保科さんも大変ですね。たまには休みでも取ったら?」  他の主任の中には、わざわざ、  「主任さん」  と呼《よ》ばせる人もいるが、保科光子はそんなことはしない。  その点も、明子は大いに気に入っているのである。  「私なんか独《ひと》り暮《ぐら》しだもの」  光子は笑《わら》って、「休み取ったって、することもないし。——却《かえ》って、忙《いそが》しくて目が回りそうな方が楽でいいのよ」  と手を振《ふ》った。  そんなものかな、と明子は思った。しかし、気楽そうに振《ふる》舞《ま》っているこの人の、どことなく寂《さび》しげな陰《かげ》の部分。  明子は、そんなものを、感じることがあるのだった。  「そうそう」  と、光子が言った。「花《はな》嫁《よめ》さんに逃《に》げられちゃった人、どうした?」  「ああ。結局披《ひ》露《ろう》宴《えん》は、一人でやったみたいですよ」  「一人で?」  「ええ。『花嫁が疲《ひ》労《ろう》で倒《たお》れまして』とか言って。——客の間じゃ、きっとあれはつわりだ、って言い合ってましたけど」  「冴《さ》えない話ね。どうする気なんだろ。でも、こっちにはもう関係ないけど」  と光子は欠伸《あくび》をした。  「——あ、そうだ!」  と、明子が手を打った。  「どうしたの?」  「忘《わす》れてたわ。あのウエディングドレス、控《ひかえ》室《しつ》に置いたまま——」  「貸《かし》衣《い》裳《しよう》? じゃ、しわにならない内に、戻《もど》しておかなくちゃ」  「そうですよね。取って来ます」  「私も行くわ。どうせ式場の点《てん》検《けん》があるものね」  明子と光子の二人は、式場の方へと足を早めた。明子は控《ひかえ》室《しつ》のドアを開けた。  明りが消えていて暗い。——手《て》探《さぐ》りで、スイッチを押《お》す。  チカチカと蛍《けい》光《こう》灯《とう》が点《てん》滅《めつ》して、明るくなると、明子は、  「キャッ!」  と声を上げた。  「どうしたの?」  保科光子も覗《のぞ》いたが、「まあ——」  と言ったきり、絶《ぜつ》句《く》。  そこには、花《ヽ》嫁《ヽ》が座っていた。  明子がここへ脱《ぬ》いで置いて行ったウエディングドレスを着て、じっと顔を伏《ふ》せている。  「ああ、びっくりした」  明子は、胸《むね》を押《おさ》えて、「帰って来たんですか? もうとっくに披《ひ》露《ろう》宴《えん》も終っちゃいましたよ」  と言った。  ふと、明子は妙《みよう》な気がした。  この花《はな》嫁《よめ》は、うつむいたきり、一向に動かないのだ。——そういえば、ヴェールがかかってはいるが、あの、逃《に》げた女とは別人のようにも思える。  「何だか変よ」  と、光子が言った。  「そうですね……。あの、ちょっと——」  明子は近づいて、花《はな》嫁《よめ》の肩《かた》を、軽く叩《たた》いてみた。  すると——花嫁がゆっくりと動き出したのである。  立ち上った、というのならともかく、座ったまま、真横へと、体が傾《かたむ》き始めたのだ。明子は、愕《がく》然《ぜん》としていた。  その花嫁は、そのまま、ゆっくりと勢いをつけ、椅《い》子《す》から落ちながら、床《ゆか》に倒《たお》れてしまった。  まるで、スローモーションの画面を見ているようだ、と明子は思った。  いや、そんな呑《のん》気《き》なことを言っている場合じゃない。大変だ。何とかしなきゃ。  思うばかりで、体が動かない。  さすがに、光子の方が素《す》早《ばや》く動いた。  倒れた花嫁へ駆《か》け寄《よ》って、ヴェールを上げる。明子は、息を呑《の》んだ。  カッと見開いた目。半ば開けた口、土気色の顔。——死んでいるのだ、と直感的に分った。  「明子さん! 救急班《はん》へ、早く!」  と、光子が叫《さけ》ぶように言う。  「はい」  明子は控《ひかえ》室《しつ》を飛び出して、廊《ろう》下《か》を走った。そして、走りながら、あの女《じよ》性《せい》は、逃《に》げ出した花嫁とは違《ちが》う、と気付いていた。    「妙《みよう》な話だな」  部長の村川が、渋《しぶ》い顔で言った。  大体いつも飛びきりの渋いお茶をがぶ飲みしているような顔なので、あまり変化はなかった。  「身《み》許《もと》は分らないのか」  と村川は、保科光子へ訊《き》いた。  「証《しよう》明《めい》書《しよ》とか、その類《たぐい》の物を何も持っていないんです」  と、光子は言った。  「しかし……うちの控《ひかえ》室《しつ》で死ぬことはないじゃないか!」  いかにも村川らしい言い方に、こんなときでも、明子は吹《ふ》き出しそうになってしまった。  「警察へは?」  「連《れん》絡《らく》しました。もう来ると思いますけど」  と、光子が答える。  村川はムッとしたように、  「私に相談してからにすべきじゃないか!」  と言った。  「通《つう》報《ほう》は当然だと思います」  と、光子はひるむことなく言い返した。  「そりゃまあ……。しかしだね、これが人目についたら——」  「裏《うら》口《ぐち》へ回っていただくように、お願いしてあります」  「そ、そうか。——そうならそうと言えばいいのに」  村川は咳《せき》払《ばら》いをして、「ところで、私はちょっと、これからどうしても外せないパーティがある。できるだけ早く戻《もど》って来るが、もし——」  「どうぞ、ご心配なく。警《けい》察《さつ》の方は私に任《まか》せておいて下さい」  「そうかね? じゃ、よろしく頼《たの》むよ」  村川が、早々に行ってしまうと、  「だらしない人!」  と、光子は肩《かた》をすくめた。  「怖《こわ》いのかしら」  と明子が言った。  「自分の責《せき》任《にん》になるのがいやなのよ。責任逃《のが》れ。お得《とく》意《い》だわ」  「でも——どうしたらいいんでしょう?」  「仕方ないじゃない。警察の人に任せておくしかないわ」  光子は、時計を見て、「もう来ると思うんだけど……」  「私、行って見て来ます」  「いいわ。ここにいてくれる? 私が行って来るから」  「はい」  明子は肯《うなず》いた。  死人のそばで待っているというのも、いい気持じゃないが、大して長いことでもあるまい。  でも、この花《はな》嫁《よめ》、一体どこの誰《だれ》なのだろうか?  明子は腕《うで》を組んで考え込《こ》んだ。  ともかく、今日、式を挙げた、本《ヽ》物《ヽ》の花嫁でないことは確《たし》かである。花嫁が一人余《あま》るなんてはずがない。  それに、ドレスはたまたまここに置いてあったものである。  ということは、何かの用でここへ来て、たまたまドレスを見付け、着てみた、ということになる。  しかし、それで、なぜ死んでしまったのか? 死《し》因《いん》はまだ分らないにしても……。  もう一つ、妙《みよう》なのは、ドレスを着るために脱《ぬ》いだはずの服《ヽ》が《ヽ》な《ヽ》い《ヽ》ことだ。面白半分にでも着たのなら、その辺に服や持物があるはずではないか。  だが、何の理由もなく、こんな所の、こんな奥《おく》にまで来て、自殺するという物《もの》好《ず》きがいるだろうか?  「もしかしたら……」  と、明子は呟《つぶや》いた。  これは殺《ヽ》人《ヽ》かもしれない。    「すると、まるで見《み》憶《おぼ》えがない?」  刑《けい》事《じ》が、欠伸《あくび》をかみ殺しながら訊《き》いた。  明子は少々呆《あき》れながら、  「ええ、私は全然」  と答えた。  「私もです」  と、光子が言った。  「しかし、ここで死んでるからには、何か理由があるんだよね」  「そこまで、私どもには——」  「うん。しかし……初めて来た人なら、こんな部《へ》屋《や》に入らないんじゃないか?」  「それは分りませんわ。色々なお客がいらっしゃいますもの」  と光子が言った。「他の方の式へ平気で入りこんだり、ドアを見ると、片《かた》っ端《ぱし》から開けて行ったり……。ここへ入っても不思議はありません」  「なるほど。——今日は何組の式があったんだね?」  「十二組。——本当に忙《いそが》しくて」  「客の顔なんかが頭に浮《う》かぶことは?」  「無《む》理《り》です。全部のお客様は、とても……」  「何か、今日の式で、変ったことはなかったかな?」  「いえ、特《とく》には——」  と光子は言った。  「ただ——」  と明子。  「ただ? 何なんだい?」  「式の直前に逃《に》げちゃった人がいます」  「その人は——女《じよ》性《せい》?」  「はい。このドレスは、その人が借りていたものなんです」  「それを被《ひ》害《がい》者《しや》が見付けたのか。なるほどね」  「被害者ですか?」  と、光子が訊《き》き返した。「じゃ、あの人は殺されたということなんですか」  「ああ、いや——」  と、刑《けい》事《じ》はあわてて、「そういうわけじゃないんだ。ただ、一《いち》応《おう》はね、疑《うたが》ってみないと……」  現《げん》場《ば》は写真におさめられ、さらに色々と調べられていた。  明子は、物《もの》珍《めずら》しさも手伝って、熱心に、その様子を眺《なが》めていた。  「待たせたね」  と、声がして、初老の男が、フラリと入って来た。  検《けん》死《し》官《かん》であることを、明子は後で聞かされたのだった……。 3 変死、怪《かい》死《し》  「どうです?」  と、刑《けい》事《じ》が訊《き》いた。  「うーん」  と、その初老の男は唸《うな》った。  死体を前にしているので、唸ってもおかしくない。  明子は、部《へ》屋《や》の隅《すみ》に立って動かなかった。  主《しゆ》任《にん》の保《ほ》科《しな》光子が、  「明子さん、用があるなら、帰ってもいいわよ」  と言ってくれたが、明子としては別にそう急ぐわけでもなく、それに少々大切な用があったって、こんな風に殺人(かどうか、はっきりしないが)の現《げん》場《ば》に出食わすなんて、めったにないことなのだから、動く気はなかった。  「いいえ、大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》です。見《み》届《とど》けたいわ、せっかくですもの」  「若《わか》いのね」  と、光子はちょっと笑《わら》った。  「あの人、何かしら?」  と、明子は低い声で言った。  「あの、年取った人? きっと偉《えら》い人よ。警《けい》部《ぶ》さんとか——」  「それにしてはパッとしないけど」  「大体そんなものじゃない?」  二人はあわてて口をつぐんだ。その初老の男が二人の方へやって来たのだ。  「死体を発見したのは……」  「私たちです」  「そうですか」  と、その男は肯《うなず》いた。「いや、びっくりしたでしょう」  「ええ、まあ……」  と、光子が言った。  「私も昔《むかし》、若《わか》かったころですが、初めて死体を見てひっくり返ったことがあります」  「はあ」  「それに比《くら》べると今の若い方は落ち着いておられる」  光子と明子は顔を見合わせた。  ——何だかずいぶんのんびりしたおっさんだわ、と明子は思った。  「私はそう若くありませんけど」  と光子が言うと、相手はちょっとキョトンとして、それから笑《わら》い出した。  「冗《じよう》談《だん》を言ってはいけません! あなたなど、私から見りゃ娘《むすめ》のようなものだ」  光子たちも仕方なく苦《く》笑《しよう》した。  ——どうなってるの?  「先生、どうなんですか?」  と刑《けい》事《じ》の一人が、しびれを切らした様子で、やってきた。  「や、済《す》まん。——しかし、ここでは結《けつ》論《ろん》が出んよ。要するに変死だ」  「先生にはかなわないな」  と刑事は苦《く》笑《しよう》して、「じゃ、早いとこ結論を出して下さいよ」  「ああ分ったよ。しかし、晩《ばん》飯《めし》ぐらい食わせてくれ」  その「先生」は、来たときと同じようにフラリと出て行った。  「あの——」  と、明子が刑事に声をかけた。  「今の方はお医者さんですか?」  「検《けん》死《し》官《かん》ですよ。変ってましてね。名物なんです。志《し》水《みず》さんといって。——あれ、戻《もど》って来た」  その検死官、明子たちの方へ戻って来ると、  「さっき訊《き》き忘《わす》れましたが、この死体を見つけたとき、何か変ったことには気付きませんでしたか?」  「変ったことって……別に。ともかく、死体に気を取られて」  「なるほど、無《む》理《り》もありませんな。——服はなかったですか?」  「ええ、この通りです」  「そうか。——分りました。では」  と、さっさと出て行く。  「あれで結《けつ》構《こう》優《ゆう》秀《しゆう》なんですよ」  と刑《けい》事《じ》が言った。「ただ、時々、とんでもないことを言い出しますけどね」  「あら、また——」  と光子が言った。  検《けん》死《し》官《かん》は、また戻《もど》って来ると、  「言い忘《わす》れた。私は検死官の志水。『清い水』でなく、『志《こころざし》のある水』です。お名前は?」  「は——あの——保科光子です」  「私は、永戸明子」  「そうか! では、これで失礼」  と、今度はまたのんびりと、散歩でもしに行くように、出て行った。  明子と光子は、ポカンとして、その後《うしろ》姿《すがた》を見送っていた。  「——変った人でしょ」  と、刑事が言った。  それから、  「きみ、もう運び出してくれ」  と声をかける。  「あの——その衣《い》裳《しよう》、うちの貸《かし》衣《い》裳《しよう》なんですけど」  と、光子が言った。  「そうですか。しかし、何しろ重要な証《しよう》拠《こ》ですので」  「じゃ、上司にその旨《むね》を説明していただけませんか」  「分りました。じゃ、案内してもらえますか」  ——光子が刑《けい》事《じ》と一《いつ》緒《しよ》に控《ひかえ》室《しつ》を出て行く。  明子は、ウエディングドレスの、名も知らぬ女《じよ》性《せい》が運び出されるのを見ていた。  何となく侘《わび》しい光景である。——一体、あの女性がどういうつもりでここへ入り込《こ》んだのか、そしてなぜあの衣裳を身につけたのか、明子には知るすべもないが、いずれにしても、幸福を包むべきあの白い服が、今は死に装《しよう》束《ぞく》になってしまったわけだ。  死体の顔も、一目見たときはギョッとして、あまり良く見なかったが、慣《な》れて来てよく見ると、ずいぶん若《わか》い。  たぶん明子と同じくらい——せいぜい二つ三つしか違《ちが》うまい。  あの若さで死ぬなんて。  何だか、明子は、虚《むな》しい気分になって来てため息をついた……。    「——お待たせ」  と、光子が出て来た。  従《じゆう》業《ぎよう》員《いん》出入口を出ると、もうすっかり外は暗くなっている。  「とんだ残業だわ」  と光子は、薄《うす》い地味なコートをはおって、首を振《ふ》った。「手当はつかないし」  「でも、面白かったわ」  と言ってから、明子はあわてて、「もちろん、亡《な》くなった人は気の毒ですけど——」  と付け加えた。  「分るわ」  光子も微《ほほ》笑《え》んだ。「あんなこと、目の前で見るのなんて、めったにないことですものね」  「そうですね。——どうかしら? 殺人だと思います?」  明子は歩きながら言った。  「そうね、いずれにしても殺人じゃない?」  「いずれにしても、って?」  「直《ちよく》接《せつ》手を下して殺したか、それとも彼女《かのじよ》が自殺したのか、それは分らないけど、たとえ自殺だとしても、あんな所で死ぬからには、きっと男に捨《す》てられたかどうかしたんでしょう」  「そうでしょうね」  「それなら殺人も同じよ。罰《ばつ》せられないだけ、罪《つみ》が深いわ」  光子の話し方は、いやに真《しん》剣《けん》だった。明子は、おや、と思ったものだ。  しかし、光子はすぐにいつもの笑《え》顔《がお》に戻《もど》った。  「さあ、私、どこかで夕ご飯を食べて帰らないと」  「保科さん、お一人でしたっけ」  「そうなの。つまらないもんよ、一人暮《ぐら》しなんて。あなたはご両親と、でしょ?」  「ええ。口やかましくて困《こま》ります」  「一人でいると、その口やかましいのが恋《こい》しくなるわ。じゃ、また明日」  と、光子は手を振《ふ》って別れて行った。  「さよなら!」  元気に言って、明子は少し足を早める。  これで帰ると、たぶん家につくのは九時ごろだろう。  両親が心配するといけない、と明子は足を早めた——というのは表向きで、本当はお腹《なか》が空《す》いていたのである。  駅へ入ろうとして、明子は定期券《けん》を出そうとバッグを探《さぐ》った。  「あれ?」  入っていない。——おかしいな。  ここから出した憶《おぼ》えはないのだけれど。  「変だな」  と引っかき回していると、  「失礼」  と声をかけられた。  「はあ」  「これを落としませんでしたか?」  それは明子の定期券《けん》だった。  「あ、すみません」  「いえ」  若《わか》い男だった。——定期入れを明子へ渡《わた》すと、そのまま行ってしまう。  「ああ、良かった」  と、改《かい》札《さつ》口《ぐち》を入りかけて、ふと、おかしいな、と思った。  今の男、駅から、明子がやって来た方向へと歩いて行った。——すると、この定期入れを、どこで拾ったのだろう?  明子は振《ふ》り向いた。もう男の姿《すがた》は見えなかった。    「お帰り」  母の啓《けい》子《こ》は、大《おお》欠伸《あくび》をしながら言った。「早いね、今日は」  「皮肉ばっかり言って」  と、明子は言った。「娘《むすめ》が労働に疲《つか》れて帰って来たというのに!」  「何を気取っているの。——お腹《なか》は?」  「飢《う》え死にしないのが奇《き》跡《せき》よ」  「大げさだね。——電子レンジで温めるから待っといで」  明子の「強さ」は、どうやら、この母譲《ゆず》りである。  ともかく、がっしりしていて、大きい。頼《たよ》りがいがあるという感じだ。  「お父さんは?」  「出《しゆつ》張《ちよう》」  「へえ。——じゃ、帰って来ないのか。ねえ、今日、殺人事《じ》件《けん》があったのよ」  「ふーん、そう」  と、啓子は一向に気にしていない様子。  「びっくりしないの?」  「どうせTVか映画の話だろ」  「違《ちが》うのよ!」  明子は、詳《くわ》しく説明した。「——きっとあの人、殺されたんだと思うわ。私が死体を発見したのよ!」  劇《げき》的《てき》効《こう》果《か》のために、明子は自分一人で死体を見付けたことにしたのである。  「大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》?」  と、啓子が心配そうに言った。  「何が?」  「そういうときは、死体を見つけた人が疑《うたが》われるんだよ。何か悪いことをしていたら、今の内に白《はく》状《じよう》しておきなさい」  「冗《じよう》談《だん》じゃないわよ!」  と、明子は顔をしかめた。  手早く食事を取ると、明子は風《ふ》呂《ろ》へ入った。  明子は——ここはあくまで湯気の白い幕《まく》を通して見ていただきたいが——なかなかいいプロポーションをしている。  細身だが、やせているのでなく、締《しま》っている体つきの良さだ。  ところで明子の欠点——というほどでもないが——の一つは、長風呂である。  「もういい加《か》減《げん》に出なさい」  と、啓子に言われて、それから二十分はかかる。  これが自然に美《び》容《よう》にプラスしているのかもしれない。  「化《け》粧《しよう》石ケンか」  と、明子は呟《つぶや》いた。  明子は一番安物の白い石ケンが好《す》きなのである。やたら香《かお》りの強い石ケンでは、その匂《にお》いの残るのが気になった。  そんな風だから、色っぽさに少々欠けているのかもしれない。  石ケンの匂《にお》いをからだに漂《ただよ》わせているのは好《す》きだが、香《こう》水《すい》の匂いをプンプンまき散らしているのは苦手だ。  大体あんなのは、当人だけが喜んでいて、周囲は迷《めい》惑《わく》してるものなんだから……。  「——そうだ!」  と、明子は思わず口走った。  あの、定期入れを拾った男。——いや、本当に拾ったかどうか怪《あや》しいものだが、あの男、いやに香水をプンプンさせていた。  男のくせに、とチラッと思ったのを思い出したのだ。  男があんなに香水をふりかけることってあるかしら?  しばらく考えて、思い当った。  ——結《けつ》婚《こん》式《しき》だ!  「明子! いつまで入ってるの!」  いつもの通り、啓子の声がした。 4 ショックの朝  結《けつ》婚《こん》式《しき》というのは、そんなに朝早く、六時とか七時とかからやるものではないが、その準《じゆん》備《び》は至《いた》って早い。  もっとも、明子は午後の担《たん》当《とう》なので、出《しゆつ》勤《きん》はゆっくりだった。  これが母の啓《けい》子《こ》には気に入らないようだ。  「朝起きて働きに出る。これが本当の仕事ってもんよ」  と、非難するが如《ごと》き目で、娘《むすめ》を見るのである。  その代り、夜が遅《おそ》いのだから、といくら言っても、聞いてくれない。  おかげで大体いつも明子は十時には朝食の席につく。  「眠《ねむ》いよう」  とブツブツ言いながら、ブラックコーヒーをがぶ飲みしていると、玄《げん》関《かん》に誰《だれ》かが来たらしい。母が出て応《おう》対《たい》している。  こういう時間はセールスマンが多いものだ。どんな押《おし》売《う》りだって、啓子にかかれば、あわてて逃《に》げ出さざるを得《え》なくなる。  「これだけ言っても分らないの!」  と、腕《うで》まくりをしたときの啓子の迫《はく》力《りよく》は大変なものなのである。  だが、どうも今朝《けさ》はそうでもないらしい。——少しして顔を出すと、  「明子、お前にお客よ」  「私?」  と、明子は訊《き》き返した。  「そう。何だか——保《ほ》科《しな》さんて人に頼《たの》まれたって」  「あら、何かしら」  明子は、パジャマのままだったので、あわててTシャツとジーパンに着《き》替《か》えた。  玄《げん》関《かん》へ出てみると、若《わか》いOLらしい女《じよ》性《せい》が立っている。  「あの——私が明子ですが」  「ああ、永戸さんですね。私、保科さんと同じアパートに住んでるんです」  「そうですか。あの、何か伝言でも?」  具合が悪くて休むのかと思ったのだ。しかし、考えてみれば、それなら電話一本かけて来れば済《す》むことである。  「いえ、そうじゃないんです。これを——」  と、その女性が取り出したのは、何やら、お弁《べん》当《とう》箱《ばこ》ぐらいの大きさ、形の紙包みであった。  「それは?」  「中は分りません。ただ、保科さんが、今朝こちらへ届《とど》けてくれって」  「保科さんはどうかしたんですか?」  「ゆうべ、遅《おそ》くに、出かけたみたいでしたよ」  「ゆうべ?」  「ええ。十二時過《す》ぎに、私の所へみえて、これを置いていかれたんです。そのとき、旅《たび》仕《じ》度《たく》でした」  「旅の仕度を?」  「どこへ行くのかは聞きませんでしたけど、しばらく留《る》守《す》にするとおっしゃってました」  「留守に……」  明子は面《めん》食《く》らった。——そんな風に突《とつ》然《ぜん》、いなくなってしまうとは。  何があったのだろう。  部《へ》屋《や》へ戻《もど》ると、明子は包みを開けてみた。中にもう一つ包みが入っていて、一通のメモがつけてある。  間《ま》違《ちが》いなく、保科光子の、きれいな書体であった。  〈明子さん。突然ごめんなさい。この包みを預《あず》かって下さい。もし、私の身に万一のことがあったら、これを開けて下さい。光子〉  明子は、三回、読み直した。  わけが分らない。「万一のことがあったら」というのは、どういうことだろう?  明子は、すっかり眠《ねむ》気《け》もさめてしまった。    少し早目に出《しゆつ》勤《きん》した明子は、上司の村川の所へ行った。  「失礼します」  と、声をかけると、ちょうど廊《ろう》下《か》に出ていた村川は、  「ちょうど良かった! 君に用があったんだ!」  と、明子の腕《うで》を取るようにして、自分の部《へ》屋《や》へと連れて行った。  ドアを閉《し》めると、  「一体どういうことだ?」  といきなり言った。  「何のことです?」  「とぼけることはないだろう」  と村川は仏《ぶつ》頂《ちよう》面《づら》だ。  「だって、分りません」  「保科君が突《とつ》然《ぜん》辞表を出した」  やはりそうか。それを調べたくて、来たのだ。  「知っていたのか?」  「いいえ」  「少しもびっくりした風じゃなかったぞ」  「今朝《けさ》聞いたんです」  「本当か? 理由は?」  「知りません。直接会っていないんです」  「フム」  村川は肩《かた》をすくめた。「——仕方ない。こんな風に突然辞められては全く困《こま》ってしまうよ」  「村川さんはお会いにならなかったんですか?」  「会わないよ。今朝《けさ》出て来ると、机《つくえ》の上に辞表が置いてあった」  「文面は……」  「ただ、〈一身上の都合〉だ。——こっちだって一身上の都合で逃《に》げ出したいよ!」  文句ばかり言っている男が、明子は大《だい》嫌《きら》いである。  さっさと部《へ》屋《や》を出た。  自分の仕事の時間には少し早い。——明子はロビーへ行って、コーヒーを飲んだ。  最初の組が、そろそろ終って出て来る。  ロビーでは、あちこちで、久しく会わなかった親《しん》戚《せき》同士の挨《あい》拶《さつ》がくり返されていた。  「結《けつ》婚《こん》式《しき》ってのは、いいもんだな」  と、急に近くで声がして、明子は仰《ぎよう》天《てん》した。  「——尾《お》形《がた》君! ああびっくりした!」  「失礼、おどかすつもりだったんだ」  と、尾形は笑《わら》った。  「大学の方はいいの?」  「うん、今日は休講さ」  「さぼってばっかり!」  「人聞きの悪いこと言うなよ。学生は喜ぶ。こっちも楽だ。一石二鳥じゃないか」  「変なの」  と明子は笑《わら》った。  尾形和《かず》敏《とし》。——明子の通っている大学の講《こう》師《し》である。  二十七歳《さい》という若《わか》さ。しかも、見た目が若いので、大体学生と言って通用するのだ。  明子も友だち扱《あつか》いで、  「尾形君」  と呼《よ》んでいる。  尾形の方も、そう呼ばれるのが楽しいらしいのだ。——といって、この二人、恋《こい》人《びと》同士というわけではない。  単に仲《なか》のいい友だちなのである。  「何かあったの」  と、明子は訊《き》いた。  「君の処《しよ》分《ぶん》のことさ。どうやら今度の理事会で解《と》けそうだよ」  「そう」  「——あんまり喜ばないね。せっかく僕《ぼく》が努力して、こぎつけたのに」  「ありがとう。でもね……ちょっと気になることがあるのよ。——学長さんは、事《じ》情《じよう》を分ってくれたの?」  「うん。ともかく君が暴《ぼう》力《りよく》を振《ふ》るって、三人の男をけがさせたのは、中学生の女の子を守るためだった、ってことは評《ひよう》価《か》しているようだ」  「あんなもの、暴力の内に入らないわ」  「しかし、ともかく君は合《あい》気《き》道《どう》をやるわけだから、少し手《て》加《か》減《げん》すべきだった、と学長は言ってたよ」  「向うは三人よ。いくら私だって、そんなこと言ってらんないわ」  「僕もそう言ったがね。——学長は渋《しぶ》い顔をしていたよ」  「あれより渋い顔ができる?」  と言って、明子はぎゅっと顔をしかめて見せた。  「君は愉《ゆ》快《かい》だな」  と、尾形は笑《わら》って、「ところで君の方の気になることって?」  「うん。実はね……」  と言いかけて、明子は言葉を切った。  「どうした?」  「あれ……あそこに……」  明子は立ち上った。  ロビーの入口が見えている。その扉《とびら》から入って来たのは、保科光子だった。  しかし、明らかに様子がおかしい。——服《ふく》装《そう》は、外出するようなワンピースだったが、足もとが、ふらついている。  「保科さん——」  明子は、駆《か》け出した。  保科光子は、二、三歩進んで、明子のことに気づいたようだった。右手を、明子の方へ伸《の》ばす。  そして、そのまま、その場に倒《たお》れ伏《ふ》してしまった。  「——保科さん!」  明子は駆け寄《よ》った。「どうしたんですか! しっかりして!」  尾形もやって来て、保科光子をかかえるようにして体を起こしてやった。  「この血!」  と、明子が息を呑《の》んだ。  抱《だ》き起した尾形の手に、べっとりと血がついた。背《せ》中《なか》に、血のしみが、広がっているのだ。  「誰《だれ》か呼《よ》んで来るんだ! それと救急車! 早くしろ!」  尾形の声が別人のように鋭《するど》い。  明子は、驚《おどろ》く人々を尻《しり》目《め》に、ロビーを駆け抜《ぬ》けて行った。 5 二つの死  明子は走っていた。  いや——正《せい》確《かく》に言うと、歩いていた。  ただ、その勢いが、あまりに迫《はく》力《りよく》を感じさせたので、まるで走ってるみたいだったのである。  廊《ろう》下《か》ですれ違《ちが》った者は、みんな思わず振《ふ》り向いたし、仕事をしていて、明子に気付いた者は、しばし手を休めて、その姿《すがた》を目で追っていた。  まるで、式場の中に、つむじ風でも巻《ま》き起こそうとしているかのような勢いで、明子は、絨《じゆう》毯《たん》を踏《ふ》んで行った。  目指すは、〈社長室〉である。  およそ社長に呼《よ》ばれるような用のない明子も、社長室の場所ぐらい知っている。  ドアが近づいてきた。行進曲が聞こえて来ないのが、不思議なくらいである。  ドアがびっくりしそうな勢いで、明子はぐいと開けた。  正面に机《つくえ》があり、秘《ひ》書《しよ》らしい娘《むすめ》が仕事をしていた。明子が入って行くと、びっくりして顔を上げ、  「あの——何か——」  と、言葉も出ない様子。  「社長は!」  明子は怒《ど》鳴《な》るように言った。  およそ、「訊《き》く」という感じではない。  「私だが」  横のほうで声がした。——わきにもう一つ机があり、そこに、六十ぐらいの、ちょっと貧《ひん》弱《じやく》な老人が座っていた。  「そんな所に隠《かく》れてたのね」  と明子は言った。  「私の席はもともとここだ」  と、社長は立ち上って、「君は何だ? 制《せい》服《ふく》を着とるところを見ると、うちの社員だね?」  「ほんの二分前まではね」  と言ったと思うと、明子は、社長につかつかと歩み寄《よ》り、「エイッ」  と声を発した。  どこをどうやったのか、社長の体はみごとに一回転して、床《ゆか》にドシンと落下した。  分《ぶ》厚《あつ》いカーペットの上だったので、助かったが、そうでなければ、キュッといっていたかもしれない。  「社長!」  と、女《じよ》性《せい》秘《ひ》書《しよ》が駆《か》け寄《よ》ってくる。「大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》ですか?」  「う、うん……何とか……生きとるようだ……」  社長は腰《こし》を押《おさ》えつつ、起き上った。「この女は何だ!」  「はい、すぐにガードマンを——」  と秘《ひ》書《しよ》が飛び出して行くのを、明子は止めようともしなかった。  社長の方はハアハアいいながら、椅《い》子《す》に戻《もど》って、ぐったりと座り込《こ》んだ。そして、明子が、腕《うで》組《ぐ》みをして立っているのを見ると、  「どうして逃《に》げんのかね?」  と訊《き》いた。  「自分のしたことの責《せき》任《にん》は取ります」  と明子は言った。  「そうか」  「正しいと思ったことをやったんだから、なおさらです」  「フム」  社長はハンカチを出して口を拭《ぬぐ》うと、「ところで、君は正しいことをやって満足かもしれんが、私にも説明してくれんかね。なぜ自分が投げ飛ばされたか知りたい」  「投げ飛ばすなんて、オーバーな」  と、明子は言った。「ちょっとひねっただけです」  「まあひねりでもいいがね——」  「じゃ、申し上げます」  と、明子はピンと背《せ》筋《すじ》を伸《の》ばして、「三日前、こちらのベテラン従《じゆう》業《ぎよう》員《いん》、保《ほ》科《しな》光子さんが亡《な》くなりました」  「ああ、刺《さ》し殺されたそうだね。気の毒だった。私はちょうど出《しゆつ》張《ちよう》中《ちゆう》だったが。犯《はん》人《にん》はまだ見つからないとか?」  「そのようです」  「で、それが何か関係があるのかね?」  「彼女《かのじよ》には死亡による退《たい》職《しよく》として、退職金が支《し》払《はら》われました」  「当然だな」  「ところが」  と、明子がぐっと身を乗り出したので、社長はあわてて椅《い》子《す》ごと後ろへ退《さ》がった。「——その退《たい》職《しよく》金《きん》から、五十万円も、差し引かれていたんです! 何のお金だと思います? 保科さんが倒《たお》れて、その血でロビーのカーペットが汚《よご》れたから、買いかえた、その代金ですって! こんな馬《ば》鹿《か》な話ってありますか?」  明子の顔は、真っ赤になった。  「誰《だれ》が、刺されたときに、いちいち倒れる場所のことなんか考えてられますか! それを退職金からさっぴくなんて、人間のすることじゃありません!」  社長は、じっと明子を見ていたが、  「そんなことがあったのか」  と肯《うなず》いた。  「知らなかったふ《ヽ》り《ヽ》してもだめです! ちゃんと部長の村川さんが『これは社長の命令だ』と言ったんですからね!」  そこへ、ドタドタと足音がして、ガードマンが駆《か》けつけて来た。  「この女です!」  と、秘《ひ》書《しよ》が叫《さけ》ぶ。「社長に暴《ぼう》行《こう》を働いたんです」  「そうか。おい、一《いつ》緒《しよ》に来い。警《けい》察《さつ》へ引き渡《わた》してやる」  とガードマンが腕《うで》を取ろうとするのを振《ふ》り切って、  「触《さわ》るな! 行くわよ!」  と明子はさっさと歩き出した。  「待ちなさい」  と、社長が止めた。「もういい。ご苦労さま」  「はあ?」  ガードマンが面《めん》食《く》らって、「しかし、この女が——」  「無《む》理《り》もないのだ」  と社長は肯いて、「私がしつこく言い寄《よ》っていたので、彼女《かのじよ》が手を払《はら》ったら、私は軽いので一回転してしまった。——騒《さわ》がせてすまない。もう引き取ってくれ」  ガードマンは呆《あつ》気《け》に取られながら、戻《もど》って行ったが、もっとびっくりしたのが、当の明子で、  「——何のつもりです?」  「いや、これから昼食に出ようと思っていたんだ。一《いつ》緒《しよ》にどうかね」  明子は、社長をにらんで、  「警《けい》察《さつ》に引き渡《わた》さない代りに、言いなりになれ、なんて言ってもだめですよ」  「まだ命は惜《お》しいよ」  と、社長は笑《わら》い出した。「さあ、おいで」  結局、一番わけが分らないのは、残された秘《ひ》書《しよ》であった。    「——そのお金はすぐ遺《い》族《ぞく》へ返すよ」  と、社長はナイフを握《にぎ》りながら言った。「村川にも、きつく言っとかなくちゃいかんな。仕方のない奴《やつ》だ」  「お願いします」  と、明子は言って、「ついでにもう一つ——」  「何だね?」  「デザートにアイスクリームを取ってもいいでしょうか?」  社長は笑い出した。  「いいとも! 好《す》きなものを食べたまえ」  いつもの社員食堂とは違《ちが》って、かなり上等な店なのである。  「すみませんでした、早とちりして」  と明子は言った。  「いや、君には感心した。なかなかそこまで同《どう》僚《りよう》のことを思いやることはできないものだよ」  「誰《だれ》かに刺《さ》されて、犯《はん》人《にん》も分らないなんて、あんまり可哀《かわい》そうで」  「そうだねえ。そういえば、この前、うちの控《ひかえ》室《しつ》で死んでいた女《じよ》性《せい》は——」  「まだ身《み》許《もと》も分らないみたいで——」  と言いかけて、明子は、「あら」  と声を上げた。  店に入って来てキョロキョロしているのは——確《たし》かに、あのときの検《けん》死《し》官《かん》だ。  「志水さん。ここです」  「ああ、ここにいたのか」  志水は、足早にやって来た。「ここじゃないか、と聞いて」  明子は、社長と志水を互《たが》いに紹《しよう》介《かい》した。  志水もすすめられるままに席につく。  「あの女性の身許がやっと分りましてね」  と、志水は言った。  「まあ、良かった」  「地方から一人で上京して来た娘《むすめ》でね。名前は、茂《も》木《ぎ》こず枝《え》。小さな会社のOLだったらしい」  「それがどうして——」  「あれは自殺かもしれんのですよ」  「自殺?」  「薬を服《の》んでいる。もちろん、一服盛《も》られた可《か》能《のう》性《せい》はあるが、自殺とも考えられる」  「でも、彼女《かのじよ》の服や荷物がありませんでしたよ」  「それが気になりますな。しかし、結《けつ》論《ろん》として、自殺とみなすことになってしまったのでね」  「そんなこと……」  「警《けい》察《さつ》としては手が出ない。一《いち》応《おう》それをお知らせしたくてね」  「自殺だなんて思えません。だって、それなら、男への当てつけに死んだわけでしょ? それなら、名前や身《み》許《もと》をはっきりさせるはずですよ」  「私もそう思うがね。しかし、こうなってしまったので……」  「役所って、それだから嫌《きら》い」  と、明子は仏《ぶつ》頂《ちよう》面《づら》になって、言った。  「それは問題ですな」  と、社長が言った。「つまり、うちの式場で、挙式した花《はな》婿《むこ》の一人が、その茂木こず枝という女《じよ》性《せい》を、いわば騙《だま》して捨《す》てた、ということですか」  「そういうことでしょうな」  と、志水は肯《うなず》いた。「彼女《かのじよ》に恋《こい》人《びと》がいたということは分ったようです。しかも、このところ、うまく行っていなかったようで、苛《いら》立《だ》っていたということです」  「相手の名前は分らないんですか?」  「分らないらしい。彼女も口は固かったようなんです」  「そんな奴《やつ》をのさばらしとくなんて!」  と明子はカッカしながら、アイスクリームをつっついた。「許《ゆる》せないわ! 社会的制《せい》裁《さい》を加えてやるべきです!」  「いや、元気がいいね、君は」  と、社長は笑《わら》った。  「笑いごとじゃありません!」  と明子は一人でむくれている。  「——ところでね」  と、志水が言った。「この間、あなたと一《いつ》緒《しよ》に、死体を発見したという女性がいましたな」  「はい。保《ほ》科《しな》さんです」  「彼女が殺されたと聞いてね」  「そうなんです。ひどい話で——」  と言いかけて、明子は、志水を見つめた。「じゃ、もしかして、その二つの死に関連がある、と?」  「そこが気になったのでね」  と志水は言った。「もし、保科さんが、あのとき、何《ヽ》か《ヽ》を見ていたとしたら。——あるいは、誰《ヽ》か《ヽ》を」  「でも、それなら言うはずですわ」  「見たときには、それが何の意味を持っているか気付かないことがある。しかし、見《ヽ》ら《ヽ》れ《ヽ》た《ヽ》方にとっては、いつ、彼女《かのじよ》が、その意味に気付くか、気が気でない…‥」  「そうかもしれませんね。じゃ、すぐに捜《そう》査《さ》を——」  「まあ、待って」  と志水は押《おさ》えて、「警《けい》察《さつ》としては、どうしようもないのですよ。もちろん、彼女が、偶《ぐう》然《ぜん》刺《さ》されたという可《か》能《のう》性《せい》もありますがね」  明子は、ふと眉《まゆ》を寄《よ》せた。——何か忘《わす》れているぞ。保科光子のことで。  何だったろう?  「——そうだわ!」  明子がいきなり立ち上ったので、志水が仰《ぎよう》天《てん》して、ソースを飛ばしてしまった。  「あ、すみません。でも——忘れてたんです! 保科さんから預《あず》かった包みがあったんだわ。それなのに、あの騒《さわ》ぎでうっかりしていて」  「包み?」  「ええ。万一のことがあったら、開けてくれ、と手紙がついていて」  「それは面白い」  と、志水は肯《うなず》いた。「それはまだお宅《たく》にあるんですね?」  「そのはずです」  「では見せていただきたい。中に何が入っているのか」  「ええ! もちろん構《かま》いませんわ。じゃ、ご一《いつ》緒《しよ》に——」  もう食事の終った明子は、まだ食べ始めたばかりの志水の腕《うで》を引《ひつ》張《ぱ》った。 6 にわか探《たん》偵《てい》  「なあに、これ?」  明子は言った。  明子の家の居間。——テーブルの上に、包みが解《と》かれて置かれている。  それを見ているのは、明子と志水、それに、成り行きでついて来てしまった社長……。  弁《べん》当《とう》箱《ばこ》ほどの大きさの包みを開いてみると、中は本当の弁《ヽ》当《ヽ》箱《ヽ》だった。  しかも中は空っぽ。——一体何のつもりで保科光子は、こんなものを明子へ、預《あず》けたのだろう?  「妙《みよう》ですな」  と社長が言う。  「妙です」  と、志水は肯《うなず》いて、「手紙は、いやに意味ありげだが。——何の意味なのか」  「確《たし》かにこの包みなのかね?」  と社長が言った。  「だと思うんですけど……」  そう訊《き》かれると、明子にも自信はない。  「でも、ずっと家に置いてあったんですもの、他のものと入れ代わるなんてこと、考えられません」  「それはそうだな」  社長が考え込《こ》む。大分明子に感化されてきたようである。  「ともかく、残念ながら警《けい》察《さつ》を事《じ》件《けん》の捜《そう》査《さ》に乗り出させるには、この弁《べん》当《とう》箱《ばこ》ではちょっと無《む》理《り》だろうな」  「だからって、みすみす怪《あや》しいと分ってるのに……」  明子は不満げである。  「そうだ。君、さっき、私を殴《なぐ》ったね」  「殴《なぐ》ったりしませんよ!」  と、明子は目をむいた。「放り投げただけです」  「同じようなもんだ。あの件《けん》に関して処《しよ》罰《ばつ》をしなくてはならんな」  「あ、ずるいですよ。さっきはあんなかっこいいこと言っといて!」  しかし、社長は、明子の抗《こう》議《ぎ》には一向知らん顔で、  「差し当り、謹《きん》慎《しん》処《しよ》分《ぶん》にしようと思うが、どうかね?」  「お好《す》きなように」  明子はプーッとむくれて言った。  「その間、社長の個人的な用《よう》件《けん》を果《はた》してきて欲《ほ》しい」  「何をするんですか?」  「伝《でん》統《とう》ある結《けつ》婚《こん》式場で、女を死に追いやるような男が式を挙げたとなると、これは大きな問題だ。私は経《けい》営《えい》者《しや》として、それを許《ゆる》しておくわけにはいかん。そこでだ——」  と、明子のほうを向いて、「君にその調《ちよう》査《さ》を命ずる」  「調査ですって?」  明子は、やっと社長のいわんとするところが分って、今度は目を輝《かがや》かせた。「じゃ、この事《じ》件《けん》を調べていいんですね」  「やってくれ。費用は私が持つ」  「分りました!」  しかし、志水はあまり気が進まないようだった。  「それは考えものですな」  「あら、どうしてですか?」  「万一、あの花《はな》嫁《よめ》衣《い》裳《しよう》で死んでいた女が殺されたのだとすると、それを探《さぐ》る者にも危《き》険《けん》が及《およ》ぶとみるべきです。つまり、あなたにもね」  と、志水は言った。  「なるほど。そこまでは考えなかった。これはやめておいたほうがよさそうだ」  しかし、一《いつ》旦《たん》その考えを吹《ふ》き込《こ》まれて、明子がすんなり引っ込むはずがない。  誰《だれ》が何を言おうと、絶《ぜつ》対《たい》に事《じ》件《けん》の真相をさぐり出して見せる。そう、固く決心していた。保《ほ》科《しな》光子のためにも……。    「何だって?」  と、うんざりしたように明子を見たのは尾形である。  「分ってるわよ。言いたいことは」  と、明子はソフトクリームをペロリとなめた。「そんな危《あぶな》いことはやめとけ、でしょ?」  「分ってるじゃないか」  尾形は、ベンチに腰《こし》をおろした。  「君は大体、無《む》茶《ちや》をやりすぎるよ」  「いいじゃない。それでも生きてんだもの」  「当り前だろ」  尾形は、本を持ち直した。  大学の庭である。——今は講《こう》義《ぎ》中なので、学生の姿《すがた》はあまり見えない。  「いいかい、これは、少々の問題とはわけが違《ちが》う」  「殺人事《じ》件《けん》なんだ」  「そうさ。君のとこの社長も無《む》責《せき》任《にん》な人だな、そんなことを言い出して」  「だって、私がぜひ、と言ったんだもの。——ねえ、保科さんは刺《さ》されて死んだのよ。私、同《どう》僚《りよう》として、そして友人として、放っておけないわ」  明子は、決然として、ソフトクリームをなめた!  「だけど、万一……」  と言いかけて、尾形は肩《かた》をすくめた。「OK、好《す》きにするさ」  「分ってくれると思ってたんだ! ねえ、お金貸《か》して」  「何だよ、いきなり」  「軍《ぐん》資《し》金《きん》よ」  「だって費用はその社長が——」  「友情のために働くのよ。お金なんかほしくないわ」  「僕《ぼく》からなら、いいのか?」  「いいの」  尾形は苦《く》笑《しよう》した。  「君にはかなわないよ。いくらいるんだい?」  「そうね、まあ取りあえず……」  と明子は言った。「二、三十万もあれば——」  尾形がベンチから落っこちた。    明子は、バスを降《お》りて、息をついた。  「この辺なんだけどな……」  手の中のメモを見る。  しかし、東京都内、住所だけで家を探《さが》すというのは、容《よう》易《い》なことではない。  「この探《たん》偵《てい》、貧《びん》乏《ぼう》だからね」  と、明子は呟《つぶや》いた。  やはり、多少良心というものがあるので、尾形から借りた(そして、返す気のない)お金で、タクシーを乗り回してはいけない、と思っているのである。  手にしている住所は、あの、控《ひかえ》室《しつ》で死体が見付かった日に、あそこで式を挙げたカップルの住所だった。  あの日は十二組の式があったが、被《ひ》害《がい》者《しや》——つまり茂木こず枝との関係がありそうもない男《だん》性《せい》を除《のぞ》いて、結局、可《か》能《のう》性《せい》がある男が四人残った。  その一人を、訪《たず》ねて行こう、というわけである。  といって、訪ねて行って、  「あなた、茂木こず枝さんと関係があったんじゃありませんか?」  と訊《き》いても、答えるはずがない。  そこはそれ、一《いち》応《おう》式場の職《しよく》員《いん》という立場をうまく利用するのである。  あちこちで訊いて、やっと訪ね当てる。  「ここか」  ——男の名前は、湯《ゆ》川《がわ》元《もと》治《はる》。妻は雅《まさ》代《よ》である。  昼の時間だから、男の方はいないかもしれない。しかし、妻の方と話をして、却《かえ》って何か得《う》るところがないとも限《かぎ》らないのである。  家は、小さな建売で、うっかりすると、素《す》通《どお》りしてしまいそうだ。  玄《げん》関《かん》のチャイムを鳴らすと、  「はい」  と声はあったが、なかなか出て来ない。  どうしたのかな、と思っていると、ドアが開いた。  「あの、先日挙式のお手伝いをさせていただきました者ですが——」  と言いかけて、明子は言葉を切った。  出て来たのは妻の雅代だろう。大《おお》柄《がら》で、迫《はく》力《りよく》がある。  旅行仕《じ》度《たく》で、玄関にもトランクが見えていた。  「あ、失礼しました。まだお戻《もど》りになったばかりでしたか」  「いいのよ。何なの?」  「はい。実は、私どもの会計の手《て》違《ちが》いで、料金を一万円多くいただいておりましたので、お返しに参りました」  これは、明子の苦心の作である。  ——金を返してもらって怒《おこ》る者はいないだろう、という計算だ。  もっともその金は、尾形からの借金でまかなっていたが。  「まあ、そうなの?」  「おそれいりますが、印をいただけますでしょうか」  明子の作戦は図に当り、向うは急に愛想が良くなった。  「はいはい。ここじゃ何だから、ちょっと上って」  と、促《うなが》す。  遠《えん》慮《りよ》なく上り込《こ》むと、居《い》間《ま》へ通された。  ちゃんとお茶まで出てくる。一万円のご利《り》益《やく》である。  「じゃ、ここに領《りよう》収《しゆう》印《いん》を。——ありがとうございます」  と、明子は言って、「でも、ずいぶん長いこと、ハネムーンへ行ってらしたんですねえ」  と、居間を見《み》渡《わた》す。  「違《ちが》うのよ」  と、雅代は言った。  「といいますと?」  「私、家出しようとしてたところなの」  雅代の言葉に、明子は唖《あ》然《ぜん》とした。 7 絶《ぜつ》望《ぼう》的《てき》結《けつ》婚《こん》  「家出って……」  「家を出るの。分る?」  と、湯川雅代は言った。  「ええ、そりゃまあ」  と、明子は肯《うなず》いた。「でもどうしてまた……?」  「我《が》慢《まん》できなくなったのよ」  雅代は、タバコを一本出すと火を点《つ》けて、ゆっくりとふかし始めた。  「ご主人に、ですか?」  「そう。人間、辛《しん》抱《ぼう》にも限《げん》度《ど》ってもんがあるわ」  まあ、湯川雅代の言葉そのものは分らぬでもない。しかし、結《けつ》婚《こん》してわずか二週間しかたっていないとなると、話は別である。  「一体何があったんですの?」  雅代がジロリと明子を見た。  「そんなこと聞いてどうするの! もしかしてあんたじゃないの?」  「何がですか?」  「主人の愛人よ。決ってるじゃないの」  「と、とんでもない!」  と、明子はあわてて言った。「私、ご主人にはお目にかかったこともないんですよ!」  「フーン、そうなの」  と、雅代は言った。「まあ、そうね。あの人の好《この》みじゃないな。あの人は顔にこだわるから」  こりゃ凄《すご》い、と明子は内心、舌《した》を巻《ま》いた。雅代だって、明子の目には、「顔にこだわる」男が気に入るタイプとは思えなかったのである。  しかし、そんな風に愛人を作っているとなると、この亭《てい》主《しゆ》が、あの茂《も》木《ぎ》こず枝《え》の恋《こい》人《びと》だったという可《か》能《のう》性《せい》もある。  「でも、ご主人、あなたみたいにきれいな方がいて、どうして愛人なんか作るんでしょうね」  嘘《うそ》をつくのは嫌《きら》いだが、ここはあえて無《む》理《り》をしてみた。  「そう! そうなのよ!」  雅代はぐっと身を乗り出して来る。明子はあわてて、のけぞった。  「あなた、話分るじゃないの! 一《いつ》杯《ぱい》やろうよ!」  「はあ……」  明子が呆《あつ》気《け》に取られている内に、雅代は、ウイスキーのボトルとグラスを二つ持って来た。  「いけるんでしょ、あんた?」  「多少は」  「じゃ、一つ、ストレートで行こう! 男なんかに、こんな高いウイスキー飲ませてなるもんか!」  雅代は威《い》勢《せい》がいい。仕方なく、明子はグラスに口をつけた。  雅代の方は、アッという間にグラスを空にしてしまう。  「ご主人、結《けつ》婚《こん》前からそうだったんでしょうか?」  「そうだった、って?」  「つまり——女遊びが派《は》手《で》とか」  「そりゃね。独《どく》身《しん》の頃《ころ》はソープランドにも行くし、金がないときは、適《てき》当《とう》につまみ食いもしてたみたいね」  「じゃあ……。でも、良かったですね」  「本当」  と肯《うなず》いて、「——何が?」  「よく、あるんですよ。式場に昔《むかし》の恋《こい》人《びと》が押《お》しかけて来るとか。あんまり、体《てい》裁《さい》のいいもんじゃありませんものね」  「そんなことなら大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》!」  と雅代は笑《わら》って、「あの人は、そりゃあ狡《ずる》いからね。絶《ぜつ》対《たい》に恨《うら》まれるような別れ方はしない人よ。何だか、哀《あわ》れっぽく芝《しば》居《い》をするの」  「芝居?」  「そう。その手で、私もコロッと騙《だま》されたのよね」  と、雅代は首を振《ふ》った。「ああ! 一生の不覚よ!」  あっちもそう思ってるかも、と明子は思った。  「で、結《けつ》婚《こん》後も、ご主人と、その恋人の間が切れてない、というわけなんですね?」  「さあね。ともかく、今、恋人がいるのは確《たし》かなの。——人を馬《ば》鹿《か》にしてるじゃない? 出てってやるわ、こんな家!」  もう一《いつ》杯《ぱい》、と、雅代はグラスを満たして、  「あんたは? もういいの?——遠《えん》慮《りよ》しなくていいのよ」  「いえ、本当にもう。——大して強くないんですもの」  「そう。そりゃいいことよ。お酒なんて、百薬あって一利なしよ」  ちょっと違《ちが》ってるんじゃないかと思ったが、あえて追求はしないことにした。  ——その後は、雅代の一人舞《ぶ》台《たい》。  ぐんぐんとウイスキーをあおり、その傍《そば》で、二人の結《けつ》婚《こん》までのいきさつを、身《み》振《ぶ》り手振りで熱《ねつ》演《えん》した。  特《とく》に彼《かれ》が酔《よ》った彼女《かのじよ》をホテルへ誘《さそ》い込《こ》み(逆《ぎやく》じゃないかしら、と明子は思った)、ベッドへ連れ込むシーンは、リアルで、明子に抱《だ》きつこうとしたので、明子はあわてて逃《のが》れた。  「——どうなってんの?」  明子は、フウッと息をついた。  ついに、熱演一時間、雅代は、カーペットに大の字になって、グーグーいびきをかきつつ、眠《ねむ》ってしまった。  これ以上いても仕方ない。  「帰ろうか」  と、玄《げん》関《かん》へ来ると、ヒョイとドアが開いて、  「ただいま」  と、入って来た男……。  「あの——失礼しております」  と、明子はキョトンとした顔の、その男へ事《じ》情《じよう》を説明した。  「そりゃご苦労様。雅代はいませんでしたか?」  「いえ、そちらに」  「そうですか」  と上がって、「——何だ、また酔《よ》って寝《ね》ちゃったのか」  と頭をかいた。  明子は、首をひねった。——この、頭の薄《うす》くなった中年男が、若《わか》い愛人を?  「あの、ご主人でいらっしゃいますね」  と、明子はつい念を押《お》していた。  「うちのが、家出すると言ったんでしょう。——いや、びっくりさせてすみません。何しろこれの口ぐせなんですよ」  「はあ……」  「毎日、帰って来ると、トランクが置いてあって。なに、中は空なんですよ。出て行く気なんかないんですよ」  「そうなんですか」  「お騒《さわ》がせしましたね」  「何だか——あの——ご主人に若い恋《こい》人《びと》がいて、と——」  「こいつの作り話ですよ」  と、湯川元治は言って、笑《わら》った。「大体、こんな年《とし》寄《よ》りが、若い子にもてるはずがないでしょう」  「はあ」  明子は、  「では失礼します」  と、玄《げん》関《かん》へ降《お》りようとして、「あの、すみません」  「何か?」  「もしかして、茂木こず枝という人をご存《ぞん》知《じ》ありませんか?」  「茂木?」  と湯川は首をかしげて、「さて、知りませんね。どういう人です?」  「いえ、それならいいんです。——私の友だちで、こちらと同じ名の方を知ってると言ってましたので……」  「じゃ他の人のことでしょう」  「そうですね。——お邪《じや》魔《ま》しました」  表に出て、明子は、息をついた。  探《たん》偵《てい》ってのも疲《つか》れるわね。  あの湯川という亭《てい》主《しゆ》は、至《いた》って感じがいい。しかし、あまりに愛想が良すぎるというきらいもあった。  ああいう笑《え》顔《がお》は、いわば営《えい》業《ぎよう》用《よう》である。  ちょっと本心の分らない男だ、と明子は思った。  もっとも、茂木こず枝の名前に、全く反《はん》応《のう》しなかったのは、おそらく本当に知らないのだろう。  でなければ、突《とつ》然《ぜん》言われて、ああはとぼけられないに違《ちが》いない。  「一人は済《す》んだ、か」  と、明子は伸《の》びをした。  次は明日《あす》にしよう、っと。——お腹《なか》も空《す》いたしね。  名《めい》探《たん》偵《てい》は、かくて、目に入った食堂へ向かって、突《つ》き進んで行ったのである……。    「ええと二人目がね、白《しら》石《いし》っていう夫《ふう》婦《ふ》なのよ」  と明子は、メモを見ながら言った。  「ふーん」  と、尾《お》形《がた》がハンバーガーをかじりながら肯《うなず》く。  「こら! 真《ま》面《じ》目《め》に聞け!」  と、明子がにらんだ。  「聞いてるよ」  と、尾形はあわててハンバーガーを飲み込《こ》んで、  「それにしても、君は学生、僕《ぼく》は講《こう》師《し》だぜ。どうして僕が怒《ど》鳴《な》られるんだい?」  「ブツブツ文句言わないの」  「はいはい」  尾形は肩《かた》をすくめた。  大学に近い、ハンバーガーのチェーン店の二階席。  昼前なので空《す》いている。  「ねえ、白石ってのも面白い夫《ふう》婦《ふ》だったわよ、これが」  「どんな風に?」  「何しろね、夫が十九歳《さい》、妻《つま》が十七歳と来てるの」  「何だって?」  尾形は目を丸《まる》くした。「子《こ》供《ども》同士じゃないか」  「まるっきり、おままごとなの。『ねえ、あなた』『何だい』とか言っちゃって」  「呆《あき》れたね。何やってんだい、その二人?」  「学生よ」  「収入は?」  「親の仕送り」  「へえ、優《ゆう》雅《が》だね」  「五千万円也《なり》のマンション住い。もちろん親のお金。二人とも親は社長なの」  「気に食わないね。そいつがきっと、犯《はん》人《にん》だ」  「まさか! 十九歳よ!」  「どうしてそんなのが候《こう》補《ほ》に残ってたんだい?」  「ただね、この夫——十九歳《さい》ね。この子が、死んだ茂木こず枝のいた会社でバイトをしたことがあるのよ」  「へえ」  「もっとも、たった三日で『仕事が辛《つら》い』って辞めちゃったそうだけど」  「荷物運びか何かやったのかな」  「本を、整理したらしいの。そしたら、手が汚《よご》れて、堪《た》えられない、って……」  「神よ」  と尾形は天《てん》井《じよう》を仰《あお》いだ。「それが大学生かと思うと、たまらんね」  「まさかとは思うけど、一《いち》応《おう》、チェックしてみないとね。——でも、もし茂木こず枝が、年下の美少年好《ごの》みなら、可《か》能《のう》性《せい》はあるわ。ともかく、可愛《かわい》い子なの」  「おい、まさか君まで……」  と、尾形が身を乗り出す。  「やめてよ。あんな、なよなよしたの、大《だい》嫌《きら》い」  と、明子は、尾形の鼻を指で弾《はじ》いた。  「いてて!」  「三番目はね、また凄《すご》いの。久《ひさ》野《の》って家なんだけどね」  「またお子様ランチ?」  「ううん。夫は二十八歳。妻《つま》、二十四歳」  「バランスは取れてる」  「ところが、さにあらず。——奥《おく》さん、もう死にそうなの」  「死にそう?」  「夫の母親が一《いつ》緒《しよ》なのよ。これが凄《すご》い人でね。お嫁《よめ》さんを、こき使うのよ」  「へえ」  「夫は徹《てつ》底《てい》したマザコンで、『ママ』だものね。聞いててゾッとしたわ」  「今はよくいるらしいじゃないか」  「でも、本当に出くわしたの初めてだもの。びっくりしたわ。——ともかく母親と夫はいい身なりなのに、お嫁さん一人、まるで、大正時代の古着って感じなの」  「やれやれ。よく我《が》慢《まん》してるじゃないか」  「ねえ。そういう意味では、珍《めずら》しい女《じよ》性《せい》よ。文句一つ言わずに働いて」  「しかし、危《き》険《けん》だな。その内、爆《ばく》発《はつ》するかもしれない」  「そう思ったわ、私も。——あの男にだって女の一人や二人いたと思うの。そういうことに罪《ざい》悪《あく》感《かん》を覚えるタイプじゃないのよ。きっと母親の教育のせいね」  「どこに勤《つと》めてるんだい?」  「それが、外《がい》務《む》省《しよう》のエリートなの」  尾形はため息をついて、紙コップのコーヒーをガブリと飲んだ。  「日本の行く末は闇《やみ》だな」  「それはともかく、あともう一組よ」  「今度はどんな怪《かい》物《ぶつ》なのか、楽しみだな」  「お化《ばけ》屋《や》敷《しき》ね」  と、明子は笑《わら》ったが、ふっと真顔になって、「でも——本当にね」  と呟《つぶや》くように言った。  「何だい?」  「結《けつ》婚《こん》なんて、やんなっちゃうわ、あんなの見てると」  「おいおい——」  「青くなった」  と、明子は笑《わら》って、「まだいい方よ。子《こ》供《ども》ができたから結婚してくれって言われて青くなるよりね」  「人をからかうな」  と、尾形は苦《く》笑《しよう》した。「でもね、充《じゆう》分《ぶん》に気をつけてくれよ。その四番目が、問題の男かもしれないからな」  「分ってるわよ」  明子は、自分のハンバーガーにぐいとかみついた。  「——じゃあね」  明子は、大学へ行く尾形と別れ、駅の方へ歩き出した。  最後の一組は、佐《さ》田《だ》という名だった。  「これはまともでありますように」  と明子は、祈《いの》るように言った。 8 理想的結《けつ》婚《こん》  「わざわざご苦労様です」  と、お茶を出してくれたのは、正に「新《にい》妻《づま》」という言葉がぴったり来る、初《うい》々《うい》しい女《じよ》性《せい》だった。  「奥《おく》様《さま》は千《ち》春《はる》さんとおっしゃるんですね」  と、明子も気分が良くなって、「すてきなお名前ですね」  「そうですか?」  「千の春が本当にあるみたい。この家、とっても明るくて、すてきだわ」  「まあ、お世辞の上手な方ね」  と千春は笑《わら》った。  佐田房《ふさ》夫《お》、二十三歳《さい》。千春、二十二歳《さい》。——若《わか》いな、と思って来てみたが、部《へ》屋《や》の中は、少しもぜいたくをしていない。  二人だけの力で、堅《けん》実《じつ》にやるのだという思いが、部屋を快《こころよ》くさせているようだった。  「ご主人は、お勤《つと》めなんですか」  明子は訊《き》いた。  「ええ。でもエリートとは程《ほど》遠《とお》いので、五時には退《たい》社《しや》してしまいます。出世は諦《あきら》めているもので」  「その方が気が楽じゃありません?」  「ええ、本当に」  と、千春は肯《うなず》いた。  プリント柄《がら》のエプロンが、とても良く似《に》合《あ》う。小《こ》柄《がら》だが、パッと目につく、明るさがあった。  「職《しよく》場《ば》結《けつ》婚《こん》なんですか?」  「いいえ。私たち幼《おさな》なじみなんです」  「じゃ、お生まれが——」  「ええ。二人とも、九州の方で。赤ん坊《ぼう》のころから、一《いつ》緒《しよ》に遊んだ仲《なか》でした」  「まあ。お幸せですね。それで、今はこうして——」  「でも、親の転《てん》勤《きん》で、私たち、小学校の頃《ころ》、東京と九州に、離《はな》れてしまったんです。——それが、私が高校を出て上京して来たとき、ひょっこり東京駅で、彼《かれ》に会って……」  「東京駅で偶《ぐう》然《ぜん》に?」  と、明子は目を丸《まる》くした。「嘘《うそ》みたいな話ですね!」  「それが本当なんですもの。面白いもんですね」  「ご主人は何の用で?」  「会社の用で、偉《えら》い人を送りに来ていたんです。で、私がホームを歩いてると『佐田君、社へ戻《もど》ろうか』という声がして。佐田っていう名が耳に入って、ハッとしたんです」  「そしたら本当に……」  「ええ。向うも何となくこっちを見ていて——。何年ぶりだったのかしら。もう七、八年は会ってなかったんですけど、すぐに分りました」  「感動的ですね!」  明子は、心底感《かん》激《げき》していた。  「そのとき、もう二人とも結《けつ》婚《こん》の決心をしたんです。——運命なんて言うと、笑《わら》われそうだけど」  「いいえ、それはきっと本当に運命ですよ」  「四年間、一生懸《けん》命《めい》、働いて、お金を貯《た》めて。やっと式にこぎつけたんです。どっちの家も不景気なので」  「その間に、一《いつ》緒《しよ》に暮《く》らすとか——」  「いいえ」  と、千春は首を振《ふ》った。「あの人がそんなことはいけない、と言って。——辛《つら》かったけど、それだけのことはありました。もし、赤ちゃんでもできて、仕方なしに結婚なんてことになったら、こんな風に楽しい新《しん》婚《こん》生活じゃなかったでしょう」  へえ。——こんな人がまだいたのね。  明子は、まるで違《ちが》う時代——『野《の》菊《ぎく》の如《ごと》き君なりき』とか、『二十四の瞳《ひとみ》』といった時代に紛《まぎ》れ込《こ》んでしまったような気がしていた……。  玄《げん》関《かん》のドアが開いた。  「ただいま。——お客さん?」  「結《けつ》婚《こん》式場の方。一万円、多くいただいたからって返しにみえたの」  「そりゃあご丁《てい》寧《ねい》に。——一万円あれば、大いに助かります」  「いいえ」  と明子は照れて頭を下げた。  いかにも若《わか》々《わか》しい青年である。真《ま》面《じ》目《め》そうだ。  「お酒なんかは?」  と、明子は訊《き》いた。  「付き合いでは少し。でも、好《す》きじゃないですね。どっちかというと甘《あま》党《とう》で」  「この人、外に出ると、私にチョコレートパフェなんか注文させて、自分で食べてるんですよ」  「おい、ばらすなよ!」  と、佐田は笑《わら》いながら言った。  いい雰《ふん》囲《い》気《き》だなあ、と明子は思った。  あの「お子様夫《ふう》婦《ふ》」のマンションに比《くら》べれば、犬小屋並《なみ》の小さなアパートだが、どんなにか、こっちの方が居《い》心《ごこ》地《ち》がいいか。  「そうだ。よろしかったら、夕食を一《いつ》緒《しよ》に。いかがです?」  と言われて、ついその気になってしまったのも、そのせいでだろう。  しかし、明子は、後《こう》悔《かい》することになった。  まず千春の料理の腕《うで》に舌《した》を巻《ま》き、二人の愉《たの》しげな様子に当てられっ放し。  結局、「のけ者」であることを思い知らされて、早々に退《たい》去《きよ》することになった。  外へ出て、  「ああ熱い」  と、息をついたのは、別にやっかみではない。  狭《せま》い部《へ》屋《や》なので、本当に三人でいると暑いのだ。——やっぱりあそこは二《ヽ》人《ヽ》にちょうど良くできているのだ。  もう夜になっている。  駅への道を急いでいると、足音が追いかけて来た。  「永《なが》戸《と》さん!」  振《ふ》り返ると、佐田がサンダルで走って来る。  「あら、何でしょう?」  「これ、忘れましたよ」  と、佐田が出したのは、一万円の領《りよう》収《しゆう》書《しよ》だった。  「まあ、すみません、わざわざ」  どうせでっち上げなのだ。気がひけて、  「すみませんね」  と、くり返した。  「いいえ。駅の道、分りますか?」  「はい。——早く奥《おく》様《さま》の所へ帰ってあげて下さい」  「では、ここで」  と、佐田が頭を下げて行きかける。  そのとき——何となく、つい口を開いていたのだ。  「佐田さん」  「何ですか?」  「あの——茂木こず枝って人をご存《ぞん》知《じ》ですか?」  明子の方がびっくりした。佐田が、突《とつ》然《ぜん》顔を別人のようにこわばらせて、青ざめたのである。  「いや——知りません! そんな人なんか、聞いたこともない!」  と、口走ると、佐田は、駆《か》けて行ってしまう。  ——明子は、しばし、その場に立ちつくしていた。    知っているのだ。  佐田はあの女を知っている。——どんな知り合いかはともかく……。  明子は、気が重かった。  あのすばらしい家庭に、自分が、不幸の種をまいたのでなければいいけれど……。  家に帰ると、母が夕食の仕度をして待っていた。  「食欲がないの」  「具合でも悪いの?」  と、啓《けい》子《こ》が訊《き》いた。  「食べて来たのよ」  「そうなの。でも少しは食べなさい」  「でも——」  「いいから。一《いつ》杯《ぱい》でも。ね?」  「分ったわ」  食《しよく》卓《たく》についたとたん、電話が鳴り出した。  啓子が出たが、すぐに、  「明子、電話よ」  と呼《よ》んだ。「志《し》水《みず》さんですって」 9 密《みつ》 会《かい》  「やあ、向う見ずのお嬢《じよう》さん」  志水の声が聞こえて来ると、明子は何となく気分が軽くなったような気がした。  「どうも」  「いや、このところ忙《いそが》しくてね。検《けん》死《し》官《かん》が忙しいというのは、あまり結《けつ》構《こう》なことではないが」  「そうですね」  「何か分りましたか。いや、気になってはいたんですよ。どうもあなたは、一人で危《あぶな》いことをやりかねない人ですからな」  なかなかよく見ている。  「一《いち》応《おう》、四組の夫《ふう》婦《ふ》に当ってきたんですけど……」  「それらしいのはいましたか?」  明子は一《いつ》瞬《しゆん》ためらってから、  「いいえ、はっきりとは」  と、言った。  「すると多少は手《て》応《ごた》えが?」  「ええ。でも、はっきりしないんです」  「なるほど。で、どうしますか」  「もう少し調べてみたいんですけど」  「危《あぶな》いことはだめですよ」  「充《じゆう》分《ぶん》に用心します」  「用心しても、やられるから事《じ》件《けん》は絶《た》えないんです。——分ってますね」  「ええ。でも、まだお知らせできるほどのことじゃないんです。少しでもはっきりした事実をつかんだら、必ずご相談しますから——」  「分りました」  と、志水は、苦《く》笑《しよう》しているようで、「ではもう少し当ってみて下さい。あなたを信じましょう」  「ありがとう!」  と明子は言った。「また電話をかけますから」  「そうして下さい。——いいですね。くれぐれも、無《む》理《り》をしないで。あなたの検《けん》死《し》をやるはめにはなりたくないですからね」  明子はぐっと胸《むね》を突《つ》かれる思いがした。なかなか厳《きび》しいことを言うな、あのおじさん!  食《しよく》卓《たく》へ戻《もど》ると、  「何の電話?」  と母の啓子が、不思議そうに、訊《き》いた。「用心するとか報《ほう》告《こく》がどうとか——」  「化学実験のことなのよ」  「危《あぶな》いのかい?」  「火薬を使うの」  「へえ! そんなことやらせるの? 大学の学長さんに抗《こう》議《ぎ》に行こうかね」  と言ってから、啓子は、「でも、お前、今は停学になってたんじゃない?」  と訊いた。  母親を何とかごまかして、明子は、軽くお茶《ちや》漬《づけ》をかっ込《こ》んだ。  佐田夫《ふう》婦《ふ》の所で夕食を取って来たくせに、ちゃんと二杯《はい》食べているのだ。若《わか》さというものである。  さすがに少々食べ過《す》ぎたのか、気分が悪くなり、風《ふ》呂《ろ》へ入ると、今度はのぼせてしまった。  こんなときは寝《ね》るに限《かぎ》る!  明子は、さっさとベッドに潜《もぐ》り込んだ。  もっとも、いつだって、明子のモットーは、  「寝るに限る!」  なのである。  ただし、この「寝る」には、男《だん》性《せい》と一《いつ》緒《しよ》にという意味は含《ふく》まれていない……。  ともあれ、早く寝て、たっぷり眠《ねむ》ったおかげで、翌《よく》朝《ちよう》の明子の目覚めは、爽《そう》快《かい》であった!    昼の新《しん》宿《じゆく》は、これが平日かと思うような、人、また人。  一体この人たち、何やって暮《く》らしてんだろう?  自分のことは棚《たな》に上げて、明子は感心していた。もっとも、大学生でも、停学処《しよ》分《ぶん》中の学生がそんなに多いわけはないから、ここを一人で、あるいはアベックでぶらついているのは、サボリ組であろう。  恋《こい》人《びと》の尾形が見れば嘆《なげ》くに違《ちが》いない。若《わか》いとはいえ尾形は教える立場の講《こう》師《し》なのだから……。  さて、明子も、別に遊びに来ているわけではなかった。  佐田の妻《つま》、千《ち》春《はる》を尾《び》行《こう》していると、ここへ来てしまったのである。  千春を尾行するというのは、何とも気の重い仕事だった。  あんなにいい人なのに……。  しかし、夫の佐田房夫が、「茂木こず枝」の名に、あんなに激《はげ》しく動《どう》揺《よう》を見せた以上は、放っておくわけにいかない。  といって、佐田はもう明子に警《けい》戒《かい》心《しん》を抱《だ》いているだろうから、容《よう》易《い》には近づけないはずだ。  そこで、まず妻の方から迫《せま》ってみようと考えたわけである。  給料でも出たのだろうか。千春はデパートに行くと、いくつか特《とく》売《ばい》場《じよう》を回った。  デパートの人ごみは、尾行するのは楽ではないが、姿《すがた》を隠《かく》すには便利である。  千春が、割《わり》合《あい》に目立つオレンジの服を着ていたので、明子も容易について行くことができた。  千春は、下着を何点か買っただけで、昼になったので食堂に入った。  これはチャンスである。  食堂は、何といっても平日で、それにまだ十二時に少し間があったせいか、そう混《こ》んでいない。  千春は奥《おく》の席についた。  明子は頃《ころ》合《あい》を見はからって、食堂へ入って行った。  「どこにしようかな」  と呟《つぶや》きつつ(リ《ヽ》ア《ヽ》ル《ヽ》に《ヽ》やるのだ!)、ぶらぶら歩いて、千春の席の斜《なな》め前の席に座った。  ここはもちろん相手が気付くまで待っているところである。  オーダーを取りに来たので、わざと少し大きな声で、  「このランチにしてくれる?」  と頼《たの》んだ。  昨日の今日である。声に少しは聞き憶《おぼ》えがあるはずだ。  明子の狙《ねら》いは当った。千春がこっちを見ている様子。  明子も何気なく顔をめぐらして、二人の視《し》線《せん》が合う。  「——あら」  「やっぱり昨日《きのう》の!」  と千春が楽しそうに言った。「びっくりしましたわ」  「本当ですね。お買物?」  当り前だろう。  「ええ。あなたは、お休みなんですか?」  「そうなんです。たまにはデパートでも見て歩こうと思って」  「いいわね、気ままな独《どく》身《しん》で」  と千春は言った。「よかったら、こちらへ移りません?」  「いいかしら」  「ええ。一人で食べてもおいしくないわ。——さあ、どうぞ」  正に狙《ねら》い通りである。  「——たまに家にいるのがいやになると、こうして出て来るんです」  と、ランチを食べながら千春は言った。  「奥《おく》さんでも、おうちがいやになるなんてことあるんですか?」  と明子は訊《き》いた。  「そりゃあ——」  「だって、もう、楽しくて仕方ないみたいに見えましたけど」  「苦労はありますよ。だって貧《びん》乏《ぼう》ですもの、うちは」  千春は、傍《そば》の買物袋《ぶくろ》を手で叩《たた》いて、「いつもね、今日はワンピースを買ってやろう、セーターも、スカートも、たまにはそれくらい、いいじゃないの、って思って出て来るんですけどね」  「で、結局——?」  「主人のパンツとシャツ」  と言って千春は笑《わら》った。  「たまにはご自分のものを買った方が——」  「ええ。今日はそのつもりで来ましたの」  と千春は言って、「でも、早くしないと」  「ご主人が帰るの、夕方なんでしょう?」  「ええ」  と千春は肯《うなず》いた。「でも、私、セーター一枚買う決心するまでに、二、三時間はかかるんですもの」  「凄《すご》い」  「あなたは?」  「私、割《わり》合《あい》に突《とつ》進《しん》型《がた》なんです。これ! と決めたら、他のを見ずに買っちゃって、そのまま帰るんです」  「まあ」  「だって、見て歩いて、もっといいのがあるとシャクでしょ。だから見ないで帰るの」  千春は笑った。  「面白い方ね。——お名前、何ておっしゃったかしら。永戸さんでしたね」  「そうです。よく『水《み》戸《と》』って間《ま》違《ちが》えられます」  「黄《こう》門《もん》様ね」  「それも良く言われます。似《に》てるんですって」  「あなたが?」  「笑《わら》い方が豪《ごう》快《かい》で、そっくりだって。いやですね、本当に」  千春は愉《たの》しげに笑った。——本当に愉しそうだった。  ふと、明子は、この人は、見かけよりずっと寂《さび》しいのかもしれない、と思った。  でなければ、ろくに知りもしない相手に、こうも楽しげに語りかけたりするだろうか……。  「——あら、もうこんな時間」  と、千春は腕《うで》時《ど》計《けい》を見て、びっくりしたように言った。「ごめんなさい、すっかり時間を取らせて」  「いいえ、とんでもない」  と、明子は言った。「良かったら、ご一《いつ》緒《しよ》に買物して歩きません?」  だが、なぜか、千春の顔に、急にか《ヽ》げ《ヽ》が射《さ》した。  「遠《えん》慮《りよ》しますわ」  と千春は笑《え》顔《がお》に戻《もど》って、「こんな物買うのかと思われるのも恥《は》ずかしいし」  「そんなこと——」  と言いかける明子を、遮《さえぎ》るように、  「とても楽しかったわ。ありがとう。——またいつか会えるといいですね」  と、千春は立ち上った。  「じゃ、私、これで」  千春は、自分の分の代金をテーブルに置くと、急ぎ足で去った。  ——おかしい。  何かありそうだ。明子が、すぐに立って、後を追ったのは当然のことである。    「——お姉さん、遊んでかない?」  男が声をかける。  明子はもちろん相手にしない。もし相手にしていたら、向うが声をかけたことを後《こう》悔《かい》するだろう。  裏《うら》通《どお》り。——ポルノショップやら、今はやりの「覗《のぞ》き部《べ》屋《や》」だのが、ひしめき合った通りである。  明子は、わけがわからなかった。  千春の後をつけて来たら、こんな所へ来てしまったのだ。  ——もちろん、まだ昼間だが、こんな時間にも、結《けつ》構《こう》、こんな所をぶらついている男はいる。  よっぽどヒマなのね、と明子は思った。  それはともかく、女である千春が、どうしてこんな所へ来ているんだろう?  千春の足取りは、別にブラついているというのではなく、はっきりどこかへ向かっていた。  ——どこへ?  明子は、千春が、店の前を掃《そう》除《じ》している男へ、  「こんにちは」  と挨《あい》拶《さつ》するのを見た。  「遅《おそ》いよ」  と男が文句を言う。「今日は結《けつ》構《こう》入りそうだからね」  「はい。すみません」  千春が、狭《せま》い入口を入って行く。〈のぞき部《べ》屋《や》・個《こ》室《しつ》〉と、ピンクの看《かん》板《ばん》が出ている。  明子は目を疑《うたが》った。  しかし、今入って行ったのは、間《ま》違《ちが》いなく、佐田千春である。  こんな所で、働いているとは!  「——何か用?」  と、男が声をかけて来た。  「え?」  「ここで働きたいの?」  男は明子を頭の天辺から足下まで、眺《なが》めて、「ウーン、少し骨《ほね》っぽいけど、結構悪くないね」  と言った。  「どうも」  「裸《はだか》になるの平気?」  「お風《ふ》呂《ろ》に入るときならね」  男は笑《わら》った。  「面白いね、君。どうだい金になるよ」  「ここは——何時間ぐらい仕事すれば、いいんですか?」  「人によるさ。色々事《じ》情《じよう》があるからね。——今、入ってった若《わか》い女いるだろ?」  「ええ」  「あれは亭《てい》主《しゆ》持ちなんだ。だから、一時から夕方四時まで。時間が悪いから、あんまり稼《かせ》ぎにならないね。しかし、どこかでパートなんかするよりも、よっぽど手っ取り早いよ」  何だか、明子は侘《わび》しくなった。  「——ねえ、君は大学生? 女子大生ってのは人気あるんだよ」  男の手が、明子のお尻《しり》を撫《な》でた。——とたんに、男はクルリと一回転して、道に尻もちをついていた。  「——お邪《じや》魔《ま》しました」  明子はさっさと歩いて行った。——男の方は、お尻が痛《いた》いのも忘《わす》れ、ポカンとして明子を見送っていた……。 10 尾《び》 行《こう》  「女って哀《あわ》れだわ」  と、明子は言った。「もう一《いつ》杯《ぱい》」  「大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》かい?」  と、尾形が言った。「もうやめといたらどう?」  「平気よ。飲ませてよ、ミルクぐらい」  「うん……」  尾形のアパートである。  あまりアルコールに強くない尾形なので、冷《れい》蔵《ぞう》庫《こ》にはビールもない。  尾形は、紙パックの牛《ぎゆう》乳《にゆう》を出して来て、コップに注《つ》いだ。  明子はぐっとコップをあけて、ゲップをした。  「——ああ、お腹《なか》一杯になっちゃった」  「当り前だよ」  尾形は苦《く》笑《しよう》した。「しかし、その奥《おく》さん、どうしてそんなアルバイトをやってるんだろう?」  「決ってるじゃないの。夫が悪いのよ」  「どうして?」  「女は常《つね》にしいたげられてるんだから」  「理《り》屈《くつ》にならないよ」  「いいのよ、そんなこと」  明子は、ゴロリと横になった。「ショックだったわ」  「でもさ、もし家計の足しにするぐらいだったら、そんなことまでする必要はないだろう」  「そうね」  「つまり、きっと他《ヽ》に《ヽ》金の必要なことがあるんだよ」  「どういうこと?」  「その出費を夫に話せない。といって、へそくりや、多少のやりくりで出せる金《きん》額《がく》ではない。そこで、仕方なく、手っ取り早い、その手のバイトに——」  「どこへ金を出してるのかしら?」  と明子は言った。「でも、まさか彼女《かのじよ》に直《ちよく》接《せつ》訊《き》いてみるってわけにもいかないしね……」  「帰りまでは待ってなかったのかい?」  「だって、あんな所でボケッと立ってられる?」  「それもそうだな」  「私も、あそこでバイトしようかな。そうすれば、彼女のことも分るかも……。何よ、おっかない顔して。冗《じよう》談《だん》よ」  「当り前だ」  「じゃ、どう? あなた、お客になってあそこへ行くの。そして彼女《かのじよ》を指名して、話を聞いて来る。——やってみる?」  「僕《ぼく》がその『のぞき部《べ》屋《や》』に?」  「そうよ」  尾形は、エヘンと咳《せき》払《ばら》いして、  「そう……。まあ、気は進まないけど、これも研究のため、君の頼《たの》みとあれば、仕方なく——」  「冗《じよう》談《だん》よ」  と言って明子は大《おお》笑《わら》いした。  「何だ。つまらない」  「え?」  「いや、別に、——僕はお腹《なか》空《す》いたから食事に出るよ。君は?」  「家で食べないと母がうるさいの。帰ることにするわ」  「じゃ、ついでに送ろう」  「ついでに食べて帰ろう、って言うのよ。そういうときにはね」  「あ、そうか。僕はこれだからもてないんだな、女子学生に」  「もててるじゃないの。この私に」  「まあね……」  尾形は少々複《ふく》雑《ざつ》な顔で言った。    「遅《おそ》くなっちゃった」  と、明子は呟《つぶや》きながら、足を早めた。  結局、尾形と夕食を一《いつ》緒《しよ》に取ってしまったのである。のんびりおしゃべりして来たら、もう九時を回っていた。  家への道は、割《わり》合《あい》と静かである。  よく痴《ち》漢《かん》が出るというので、明子も、もっと子《こ》供《ども》のころには、母親と一緒でないと、夜は出られなかったものだ。  しかし、今は、家がズラリと立ち並《なら》んでいるので、そんなこともなくなった。  車が一台停《とま》っている。  明子は、そのわきをすり抜《ぬ》けて、先を急いだ。——二十メートルほど行ったとき、ブルルとエンジンのかかる音がした。  ライトが、明子を照らす。明子は振《ふ》り向いた。  車が一気に加速して迫《せま》って来る。  危《き》険《けん》を感じるのと、駆《か》け出すのが、同時だった。  道《みち》幅《はば》が狭《せま》いから、左右へ逃《に》げるわけにいかない。車は、ぐんぐんと追い上げて来た。  どうしようか、などと考えている余《よ》裕《ゆう》はなかった。正に、体の方が、勝手に動いた、という感じだった。  塀《へい》から、道へ突《つ》き出した、枝《えだ》ぶりのいい木。明子はその太い枝へ向かって、一気にジャンプした。  両手がうまく引っかかる。両足を大きく振《ふ》った。体が持ち上ったと同時に、車が、枝の下を駆《か》け抜《ぬ》けた。  そのまま、赤いテールランプが遠ざかって行く。  明子は、道へ、飛び降《お》りた。  「何よ、あれ……」  明子は呟《つぶや》いた。息を切らしていた。  いくら元気な明子でも、こう急に走ったのでは、息が切れる。  あの車。——はっきりと、彼女《かのじよ》を狙《ねら》っていた。  はねるつもりで、突っ込《こ》んで来たのだ。  なぜ? 今度の事《じ》件《けん》と関係があるのだろうか?  ない、と考える方が不自然だろう。  誰《だれ》かが、私を殺そうとした。——明子はもう、何も見えなくなった、暗い道の先を見つめていた。    佐田千春は、毎日、あの店へ通っているわけではないようだった。  あの次の日には家にいて、ごく当り前の生活をしていた。  しかし、その翌日には、また新宿へと出かけて行ったのである。  雨の日だった。  明子は、尾《び》行《こう》も楽じゃない、とため息をついた。  傘《かさ》をさして、雨の中、あの〈のぞき部《べ》屋《や》〉から、千春がいつ出て来るかと、待っていなくてはならないのだ。  天気が良くて、気候も良きゃ、見《み》張《は》ってるのも悪くないけどね、と明子は調子のいいことを考えていた。  千春はこの日は十二時過《す》ぎに店へ入って行った。  少し早い。帰りを急ぐのだろうか?  一時間たったころ、このごみごみした裏《うら》通《どお》りへ、少々不《ふ》似《に》合《あい》な外車が入って来た。  「金持の道楽かしら」  と、呟《つぶや》いて眺《なが》めていると、その車、例の〈のぞき部屋〉の前で停《とま》ったのである。  運転手がドアを開けると、出て来たのは、初老のパリッとした身なりの男。  それが、堂々と、そこへ入って行く。  どうなってんの? 明子は首をかしげた。  そして、五分としない内に、その紳《しん》士《し》は出て来た。その後から一人の女——千春が出て来たのだ!  見ていると、千春は、外車に乗り込《こ》んだ。  車が、ゆっくりとバックして来た。  この先が通行止になっているのだ。明子はあわてて身を隠《かく》した。  外車は、広い通りへと入って行こうとしていた。  明子は走り出した。雨の中、いやだったが、そうも言っていられない。  通りへ出ると、タクシーを停《と》める。あの外車は、図体が大きいせいか、まだ流れに入れずにいる。  「あの大きな外車をつけて」  と、明子は言った。  「尾《び》行《こう》?」  と運転手が訊《き》いた。「厄《やつ》介《かい》事《ごと》じゃないだろうね」  「スターのゴシップなのよ。私、記者なの。いいでしょ、追いかけてよ」  「へえ、美人が乗ってるの?」  「絶《ぜつ》世《せい》のね」  「よし来た!」  男なんて単《たん》純《じゆん》ね。——明子は、そっと舌《した》を出した。  それにしても、あの男は何者だろう? そして、千春は、どこへ行こうというのか。  車はゆっくりと走り始めた。タクシーの方も、ピタリとその後についている。  雨の中での追《つい》跡《せき》が始まったのである。 11 大《だい》邸《てい》宅《たく》  雨の中での尾《び》行《こう》、というのは、楽ではない。  といって、明子はタクシーに乗っているので大して困《こま》っていたわけではないが、運転手は必死だった。  「いや、骨《ほね》だな、畜《ちく》生《しよう》!」  赤信号で一息ついたとき、首を振《ふ》りながら言った。  「ごめんなさいね」  と、明子も珍《めずら》しく殊《しゆ》勝《しよう》なことを言っている、「少し割《わり》増《まし》で払《はら》うわ」  「そうしてくれなくちゃ合わねえよ」  と言ってから、運転手はニヤリと笑《わら》って、「と、言いたいところだが、結《けつ》構《こう》だよ」  「あら、だって——」  「一度こういうスリルのある仕事をやってみたいと思ってたんだ」  「まあ、そうなの?」  「これで、どこまで食いついて行けるか、面白いじゃないか。料金は規《き》定《てい》通りでいいからね」  「悪いわね」  本当は、少し安くしてくれないか、と言いたかったのだが、さすがにやめておくことにした。    「また走り出したな。——どうも、住《じゆう》宅《たく》街《がい》へ入って行くぜ」  タクシーは、その外車について、やたら坂の多い、大《だい》邸《てい》宅《たく》の並《なら》ぶ道へと入って行った。  「凄《すご》い家ばっかりね」  と、明子は、ついつい、両側の家に目をとられながら言った。  「この辺はみんなそうさ。俺《おれ》もあんまり入らないけどね」  「へえ。——あ、曲った」  外車は、わき道へ入って、ぐるっと回ると、大きな門《もん》構《がま》えの前に出た。  「停《とま》ったな。あそこへ入るらしいぜ」  「じゃ、私、ここで降《お》りるわ。どうも、ご苦労さま」  「頑《がん》張《ば》れよ」  「ありがと」  明子は料金を払《はら》って、外へ出た。まだ雨はかなり降《ふ》っている。  あの車は、門の前に停っていた。目につかないように、電柱の陰《かげ》に立って見ていると、門《もん》扉《ぴ》が、ギリギリと音をたてながら、ゆっくりと開いた。  「電動なんだわ」  と、明子は呟《つぶや》いた。  待てよ。——電動ということは、人動(?)でないということだ。  つまり、あの門を開け閉《し》めするのに、人はいらないのである。  車が、静かに邸《てい》宅《たく》の中へと、滑《すべ》り込《こ》んで行くと、明子は、雨に濡《ぬ》れるのも構《かま》わず、突《つ》っ走った。  車が入る。門が閉《と》じる。——その間に、明子は、中へとうまく入り込んだのだ。  「どんなもんです」  と、いばっても、誰《だれ》も賞《ほ》めちゃくれないのだが。  門がピタリと後ろで閉《しま》った。  「あ——」  と、思った。  出られなくなっちゃった! ま、いいや、何とかなるでしょ。  ここもまた、隣《となり》近《きん》所《じよ》に劣《おと》らぬ大邸宅であった。いや、他と比《くら》べても、かなりの大邸宅だと言ってもいい。  車は、前庭を回って、玄《げん》関《かん》へつく。  明子は、すぐに近くの木の陰《かげ》に隠《かく》れた。  何しろ、木だの植《うえ》込《こ》みだのがあちこちにあるので、便利である。  あの初老の紳《しん》士《し》に促《うなが》されて、千春が車から降《お》りる。玄関に姿《すがた》を消すと、車は、ガレージへ入るのだろう、建物のわきへと回って行った。まあ、車はあまり犬小屋には入らないものである。  しかし——この家に比《くら》べたら、明子の家は(父親には悪いが)正に、「犬小屋」だった。  どっしりとした、洋館で、しかも古びているが、一向に汚《よご》れた感じがない。  「こんな家にお嫁《よめ》に行きたいわね」  などと、明子は感心していた。  「——いけね!」  こんなことをしていられないのだ。  明子は、ともかく裏《うら》に回ってみることにした。——カサをさしている。  これが素人《しろうと》なのである。こっそり隠《かく》れて動き回ろうというのに、カサをさす者もあるまい。  しかも、明子のカサは、真っ赤で、スヌーピーのマンガ入りであった。  しかし、奇《き》跡《せき》的《てき》に、見とがめられることもなく、建物の裏《うら》手《て》へ出て来る。  ため息の出るような広い庭。サッカーができそうな——は、オーバーだが、軽い運動をやるには充《じゆう》分《ぶん》な広さであった。  「——言うことはないのか」  と、男の声がして、明子は、ハッと頭を低くした。  えい! ひさしの下まで行きたいけど、そこまで行くと見付かっちゃう。  そこで、仕方なく、カサをさして、茂《しげ》みの奥《おく》から顔を出してみたのだった。  明るい居《い》間《ま》が、ガラス戸と、薄《うす》いレースのカーテンを通して見える。  千春が、両手を後ろへ組んで、立っていた。  その背《はい》後《ご》には、あの紳《しん》士《し》が立っていて、しかし今の言葉は、別の所から出て来ていた。  「ありません」  と、千春が言った。  「こっちには何もかも、分っているんだからな」  「そうでしょうね」  と、千春は、小《こ》馬《ば》鹿《か》にしたような言い方をした。  「お金をつかえば、できないことはないと思っているんだから」  「事実、その通りさ」  ——男の声は、ソファの中から聞こえているのだった。  つまり、明子の方へ背《せ》を向けているソファに、誰《だれ》かが座っているわけだ。  「私は調べた。——お前の亭《てい》主《しゆ》が、何もしないで、ただ家を出て、ぶらついて帰って来るだけだってことをな」  「今は不景気なのよ」  と千春は言い返す。  「女《によう》房《ぼう》に、あんなアルバイトをさせて平気でいるのが男《ヽ》なのか?」  「お父さんには分らないわ」  千春の言葉に、明子は仰《ぎよう》天《てん》した。  お父さんだって?  千春が、この家の娘《むすめ》?——明子は、ただ呆《ぼう》然《ぜん》としていた。  「分っても分らなくても、事実は事実だ。違《ちが》うか?」  千春は首をすくめた。  ソファの男が立ち上った。  こんな大《だい》邸《てい》宅《たく》の主《あるじ》じゃ、どんなにか立《りつ》派《ぱ》な、堂々たる人物——かと思いきや、何だか見すぼらしい、小《こ》柄《がら》な老人である。  「旦《だん》那《な》様」  と、あの初老の紳《しん》士《し》が言った。  二人のイメージからすると、まるで逆《ぎやく》であった。  「何だ」  「当の『のぞき部《べ》屋《や》』の支配人に確《たし》かめてまいりました」  「何をだ?」  「千春様は、客と外へはお出にならなかったそうです」  「外へ?」  「はあ。つまり——その——」  と、言い渋《しぶ》っている。  「体までは売らなかったっていうことよ」  と、千春が言った。  ——何だか別人みたいだわ、と明子は思った。  あの、新《しん》婚《こん》家庭で、ほのぼのとした新《にい》妻《づま》だった千春が、確かに、こうして見ると、この大《だい》邸《てい》宅《たく》の居《い》間《ま》に、うまく溶《と》け込《こ》んでいるのである。  「体を売らなかった、だと?」  父親の方は、せせら笑《わら》うように、  「男に裸《はだか》を見せて金を取ってるんだ。どこが違《ちが》うんだ?」  と言った。  「お父さんにとっては、同じかもしれないわね」  「おい、それはどういう意味だ」  「分るでしょ?」  雰《ふん》囲《い》気《き》が険《けん》悪《あく》になって来た。  「まあ、お二人とも、冷静になって下さい」  と、あの紳《しん》士《し》が言葉を挟《はさ》む。  「私は冷静よ」  「私も冷静だ」  これじゃ、話が進まない。  当人たちとしては深《しん》刻《こく》なのだろうが、明子は、申し訳《わけ》ないと思いつつ、おかしくてたまらなかった。  「ともかく、佐田という男の所へ、お前を帰すわけにはいかん!」  と、父親が言う。  「私は法《ほう》律《りつ》的《てき》に、自由に夫を選べるのよ」  と、千春が言い返す。  「私はお前のために言っとるんだ」  「大きなお世話よ」  やれやれ、この分じゃ、当分終りそうにないな、と明子は思った。  「おい、大《おお》原《はら》」  と、父親があの紳《しん》士《し》に声をかける。  「はあ」  「千春をどこかへ閉《と》じこめておけ」  「しかし、旦《だん》那《な》様——」  「早くしろ!」  「いやよ! 私、帰る!」  と、千春がドアの方へ歩き出す。  「怖《こわ》いのか」  と、父親が言った。  千春が、ピタリと足を止めて、  「どういう意味なの?」  と、振《ふ》り向いた。  「お前の亭《てい》主《しゆ》に会ってやる。そして、金をやるから別れろ、と話をする」  「馬《ば》鹿《か》言わないで」  「本気だ」  千春は、じっと父親を見《み》据《す》えて、  「そんな話にあの人が乗ると、本気で思ってるの?」  「思っているとも」  「残念ながら、あの人は、そんな男じゃないわ」  「そう思うのか」  「私の夫よ」  「だからといって、どれくらい、分っているのかな?」  「お父さんよりは分っているつもりよ」  「それをためしてみようじゃないか。どうだ?」  なるほど、なかなか、説《せつ》得《とく》力《りよく》のある人物である。  金持になるだけの才覚のある人間なのだろう。  千春と父親は、長いことにらみ合っていたが、やがて千春は肩《かた》をすくめた。  「やりたければやりなさいよ」  「そうか。——よし。じゃ、今夜、彼《かれ》をここへ招《しよう》待《たい》することにしよう」  「好《す》きにしたら」  千春は、居《い》間《ま》を横切って、庭へ面したガラス戸の方へ歩いて来た。  いけない、と明子は思ったが、逃《に》げるには遅《おそ》すぎて——。  千春が、明子を見て、アッと声を上げた。  「どうした?」  と、父親が振《ふ》り向く。  「いえ。——何でもないわ」  と、千春は言った。「ちょっと、欠伸《あくび》をしただけよ」  明子はホッと息をついた。  「そうか。大原、一《いつ》緒《しよ》に来てくれ。——お前は?」  「私、ここにいるわ。少し、一人になりたいの」  「まあ、好きにしなさい」  男二人で、居間を出て行くと、千春は、ちょっとの間様子をうかがってから、ガラス戸を開けた。  「入って! 早く!」  明子はためらったが、どうせ見付かっちゃったのだ。ここは一つ、「ご招待」を受けることにしよう。  「——すみません、こんな所から」  「いいから、早く入って!——カサを貸《か》して。そのソファの下へ——」  千春は、ちょっとドアの方へ向いて、「たぶん、あれでしばらくは戻《もど》って来ないと思うわ」  「そうですか」  と明子は言った。  どう言っていいものやら、分らないのである。  まさか、  「今日は、お元気ですか? 私も元気です」  なんて、英語の初歩みたいなことは言えない。  「びっくりしたわ」  と千春は言った。  「お互《たが》い様でしょ」  「それもそうね」  と、千春は笑《わら》った。「でも、どうしてここへ?」  答えないわけにはいかない。  明子は、仕方なく、この一《いつ》件《けん》に関り合いになるきっかけから喋《しやべ》り始めた。 12 賭《か》 け  「——そうだったの」  と、千春は肯《うなず》いた。  「ごめんなさい」  と、明子は、まず、アッサリと謝《あやま》ってしまった。  「いえ、いいのよ」  と、千春は言った。「だって、あなたとしては当り前のことをしてるだけですものね」  「そう言われると……」  「その、茂木こず枝さんって人を、主人が知っている、っていうわけね」  「どうもそうらしくて……」  「でも、あの人、そんな風に、女《じよ》性《せい》を振《ふ》ったりする人じゃないのよ」  「はあ……」  「つまり、いつも振られてばっかりいる人だから」  明子は、何だかおかしくて笑《わら》い出してしまった。  「——でも、どうしてあんな作り話をしたんですか?」  と、明子は訊《き》いた。  「だって、まさか、私は大金持の娘《むすめ》で、この人との結《けつ》婚《こん》に反対されたので、家を出て一《いつ》緒《しよ》になったの、とは言い辛《づら》いでしょう」  「それもそうですね」  「割《わり》合《あい》と、ドラマチックな話が好《す》きなんで、あの筋《すじ》書《がき》をでっち上げたの」  千春は愉《ゆ》快《かい》そうに、「でも、みんな結《けつ》構《こう》信じてるみたい」  「名《めい》演《えん》技《ぎ》ですもの」  と明子は言った。  「ありがとう。——でも、いいところへ来てくれたわ」  「いいところ?」  明子の判《はん》断《だん》では「いいところ」どころか、最悪のときにやって来たような気がしていた。  「一つ頼《たの》まれてちょうだい」  「いいですよ」  「家へ行って、主人と会って」  「ご主人と?」  「そう」  「で、どうするんです?」  「父の企《たくら》みを話してやって」  「つまり、招《まね》かれても、ここへは来るな、と?」  「いいえ、来ないわけにはいかないわよ。それに、あの人、きっと来るわ」  「それじゃ——」  「父の出す条《じよう》件《けん》は裏《うら》があるから、決して承《しよう》知《ち》するな、と言ってちょうだい」  明子には、ちょっと妙《みよう》な気がした。  夫を信じていたら、何も、そんなことをいちいち言う必要はない。  「どうして、そんなことを、っていう顔つきね」  目ざとく、明子の表《ひよう》情《じよう》に気付いて、  「でも、人間、貧《びん》乏《ぼう》しているときに、お金をつまれたら、ついフラッとなるもんじゃない?」  私なんか、貧乏してなくても、フラッとなるわ、と明子は思った。  しかし、千春の言葉は、どこかごまかしているように聞こえた。——何か、あるのだ。  「でも、どうやってご主人の所へ行くんですか?」  と明子は言った。  「ここから車で行って」  「車で?」  「そう。父に言って、車を出させるから」  「そこまでしていただかなくても」  「いえ、主人を迎《むか》えに行かせるの」  「あ、そう」  と、明子は肯《うなず》いた。  「そのトランクに隠《かく》れて行けばいいわ」  なるほど、トランクに隠れるか。  これはなかなか、探《たん》偵《てい》という雰《ふん》囲《い》気《き》が出ている。  「やりましょう! 車、どこかしら?」  「案内するわ」  と、千春が立ち上った。    しかし、ことは千春の言うほど、楽ではなかった。  ガレージまではスンナリ行けた。トランクにも入りこめた。  しかし——当然のことだが、トランクは人間向きには、出来ていない。  ソファもなく、クッションもない。しかも、大きな外車とはいえ、やはり窮《きゆう》屈《くつ》である。  走ったのは、せいぜい一時間だったろうが、明子には丸《まる》一日とも思えた。  車が停《とま》り、ドアがバタンと音を立てる。  運転手が降《お》りて行ったらしい。  明子は、やっと、トランクから出ることができた。  もう雨は上っていた。  「ああ……痛《いた》い」  どこが、という段《だん》階《かい》ではない。体中が痛いのである。  やっと腰《こし》を伸《の》ばして、周囲を見回すと、佐田と千春のアパートの近くだと分った。  そこへ——佐田が歩いて来るのが目に入ったのである。  何だか、ポカンとして、元気がない。半分眠《ねむ》りながら歩いている、という感じなのである。  「佐田さん!」  と、明子が声をかけると、  「はあ……」  と、顔を向けて、「どちら様ですか?」  「永戸明子です」  しばらくぼんやりしていて、それからやっと分ったのか、  「ああ、どうも……」  と会《え》釈《しやく》した。  どうしちゃったんだろう? この前のときとは別人のようだ。  「奥《おく》さんのことでお話が……」  「家内ですか。——千春は出て行きました」  「いえ、それが——」  「無理もありません。僕《ぼく》が働かないものだから——」  「それがね、実は——」  「愛想をつかしたんですよ。当り前のことです」  「ですから、そうじゃなくて——」  「もう帰って来ませんよ。僕《ぼく》も捜《さが》す気になれません。帰ってくれと頼《たの》むには、何の自信もありませんし」  「いいですか、奥《おく》さんは——」  「分ってるんです。アルバイトに何をしてたかも。やめてくれと言ったのに、あれは好《す》きでやってるんだからいいのよ、と」  「ねえ、佐田さん——」  「強がりを言って。僕も悪かったんです。ひっぱたいてでもやめさせておけば良かったのに」  「黙《だま》って聞け!」  と、明子は思い切り怒《ど》鳴《な》った。  「すみません」  佐田が目をパチクリさせている。  「奥さん、実家にいるんですよ」  「そうですか」  「で、そこに迎《むか》えの車が来てます」  「あれですか?」  と、外車を指さし、「へえ。——ちょっと古い型だな」  などとやっている。  こりゃかなりおかしい。——こと、この夫のことに関しては、明子は、中《なか》松《まつ》の意見に賛《さん》成《せい》したくなった。  中松というのが、あの父親の名前で、つまりは千春の結《けつ》婚《こん》前の姓《せい》なのである。  「聞いて下さいな」  と、明子が言いかけたとき、運転手がやって来た。  「佐田さんですね」  「はあ」  「お迎《むか》えに参りました」  「そうですか。わざわざどうも」  と、佐田は頭を下げた。  明子は、ため息をついた。——どうなってんの、この人?  「さあ、どうぞ」  と、運転手がドアを開ける。  佐田が乗り込《こ》み——続いて、明子も乗り込んでしまった。  「付き添《そ》いです」  と言うと、運転手はキョトンとしていたが、黙《だま》ってドアを閉《し》めた。  車が走り出す。  「——心配だったでしょう」  と、明子は言った。「奥《おく》さんが見えなくなって」  「ええ」  「捜《さが》し回ってらしたんですか? それで疲《つか》れて——」  「いや、駅前でパチンコをやってたんです」  「はあ……」  「なかなか出なくてね。——すっかりくたびれました」  明子は、ぶん殴《なぐ》ってやりたくなった。  この前のときとは百八十度のイメージ転《てん》換《かん》である。  「聞いて下さい」  と、明子は、運転手を気にしながら、低い声で囁《ささや》いた。「奥さんのお父さんが、あなたにお金をやって、別れさせようとしてるんです。そんな手に乗らないように、って、奥さんから——」  明子は言葉を切った。  佐田はシートにもたれて、スヤスヤと眠《ねむ》っていたのだ。  自分の車なら、ドアを開けて、突《つ》き落としてやるのに、と明子は憤《ふん》然《ぜん》として腕《うで》を組んだ。 13 塀《へい》の外  「何だい、えらくふくれてるな」  と、尾形が言った。  「当り前でしょ」  と、明子はぐいとやけ酒を——いや、やけコーヒー(?)をすすった。  いくらやけでも、アルコールに溺《おぼ》れるには早過《す》ぎる、お昼休み。大学の学生食堂である。  「どうしてそんなにカッカしてるんだい?」  「昨日《きのう》、屈《くつ》辱《じよく》的《てき》な出来事があったのよ」  「へえ」  明子は尾形をキッとにらんで、  「恋《こい》人《びと》がひどい目に遭《あ》ったっていうのに、『へえ』で終りなの?」  「だって、どんなことだか聞いてないよ」  尾形は大体が、おっとりのんびり型である。  「——頼《たよ》りない恋人ね。私が目の前で乱《らん》暴《ぼう》されてても、後の予定が詰《つま》ってないか考えてから、助けるかどうか決めるんでしょ」  「そんなことないよ」  と、尾形は言った。「助けを呼《よ》びに行くよ、すぐにね」  「その間に私は哀《あわ》れ——」  「そんなことより、本当に起ったことの方を話してくれよ」  「あ、そうか」  明子は、佐田千春が中松という大金持の一人娘《むすめ》と分ったこと、夫の佐田房夫を迎《むか》えに行って、中松の屋《や》敷《しき》へ戻《もど》ったことを、話した。  「へえ! 分らないもんだね、人間は」  と、尾形は首を振《ふ》った。  「私もそう思ったわ」  と、明子は言った。「千春さんなんか、見かけは本当に地味で堅《けん》実《じつ》な主《しゆ》婦《ふ》なのに。——こっちがそのつもりで見ると、そう見えるものなのよね」  「それが人間の心理ってものだろうね」  と、尾形は肯《うなず》いた。「それからどうしたの?」  明子は肩《かた》をすくめた。  「それだけ」  「それだけ?」  と、尾形は不思議そうに、「中松って屋敷に戻ってからはどうしたの?」  「入れてもらえなかったの」  「へえ」  「もちろん、素《そ》知《し》らぬ顔して、入って行ったわよ。でも、例の、千春さんを迎《むか》えに来た男と、もう一人、運転手が私に襲《おそ》いかかって——」  「な、何だって?」  現《げん》実《じつ》の話となると、尾形の顔色も変る。「そ、それで大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》だったの? どこかへ連れ込《こ》まれたとか——」  「連れ込まれりゃ良かったのよ」  と、明子は穏《おだ》やかでないことを言い出した。「実《じつ》際《さい》は、そのまま門から表へ放り出されたの」  「何だ。そうだったのか」  と、尾形は胸《むね》をなでおろした。「しかし、君を放り出すとは、相当な連中だね」  「油《ゆ》断《だん》しているところを、後ろからひねられちゃったのよ。あの運転手、柔《じゆう》道《どう》ができるんだわ、きっと」  明子は、いまいましそうに言った。「まともにやれば、負けないのに!」  「変なことにファイトを燃《も》やすなよ」  と、尾形は苦《く》笑《しよう》した。「で、その後、佐田夫《ふう》婦《ふ》がどうなったのか、分らないんだね?」  「そうなの」  と、明子は肯《うなず》いた。「しばらく、諦《あきら》め切れなくて、塀《へい》の外をウロウロしてたんだけどね」  「結局は——」  「何も分らなかったの」  明子は、ランチのホットドッグにかみついて、口中に頬《ほお》ばりながら、  「そういえわ……ムニャ……なぬかへんの人——」  「ちゃんと食べてからしゃべれよ」  明子はコーヒーで、ホットドッグを流し込《こ》むと、  「そう言えば、何か変な人に会ったのよ」  「どこで?」  「その塀《へい》の外を歩いてたときよ」  「どう変なんだい?」    「むだだよ」  といきなり声がして、明子は飛び上りそうになった。  振《ふ》り向くと、三十歳《さい》ぐらいか、ジャンパー姿《すがた》の青年が立っている。  「何ですか?」  と明子は訊《き》いた。  「むだだと言ったんだよ」  「何が?」  「この塀は越《こ》えられない。中には、猛《もう》犬《けん》が放してあるんだ、夜になるとね」  明子は、耳を澄《す》ました。  なるほど、時々、庭のどこかで、犬の低い唸《うな》り声や鳴き声が聞こえている。  「あの……」  明子はその青年を見て、「あなたはどなた?」  と訊《き》いた。  「僕《ぼく》はこの家の主《あるじ》なんだ」  青年は言った。  「え?」  と、明子が思わず訊き返す。  「あるじ。主人」  「分りますよ、それくらい」  と、明子はムッとして言った。「でも、それ、どういう意味ですか?」  「文字通りの意味だよ」  と、青年は肩《かた》をすくめて、「この家や土地、総《すべ》ては、本来、僕のものなんだ」  「はあ」  「だから、主だって言ったんだ」  なるほど、と明子は思った。——こりゃ、少々おかしいのに違《ちが》いない。  「でも、私、別にここへ忍《しの》び込《こ》むつもりじゃないんですけど」  と明子は言った。  「ああ、そう」  青年は大して気のない様子で、「じゃ、何してるの、こんな所で?」  そう訊《き》かれると困《こま》ってしまう。  「ええと……知ってる人が中にいるんですけど、それがどうなったか心配で」  と言った。  当らずさわらずの表《ひよう》現《げん》である。  「でも、塀《へい》の外を歩いてたって、中のことが分るわけじゃないだろう」  「それはまあ、そうだと思いますけど」  「じゃ、諦《あきら》めた方がいいよ。足が疲《つか》れるだけ損《そん》だ」  「そうですね」  「お茶でも飲まない?」  いきなり話が変って、明子は調子が狂《くる》ってしまった。  「いえ、——別に——あの」  と、口ごもっている間に、相手の男は、  「じゃ、行こう。すぐそこに、いい味のコーヒー店があるよ」  明子は、わけの分らない内に、十分ほど歩いたコーヒーショップに入ることとなった。  ——なるほど、店の構《かま》えはみすぼらしいが、コーヒーは旨《うま》かった。  これで、多少この青年を見直す気にもなった……。  「あなたは?」  と明子が訊《き》くと、青年は首を振《ふ》って、  「そういうときは自分から名乗ってくれなくちゃ」  と、うるさい。  「私は永戸明子」  「僕《ぼく》は中松進《しん》吾《ご》」  「中松……」  確かに、あの大《だい》邸《てい》宅《たく》と同じ名だが。「で、あなたは何をしてたんですか?」  「見回りさ」  「見回り?」  と、明子は目をパチクリさせて、「ガードマンでもやってるんですか」  中松進吾と名乗ったその青年は、いたくプライドを傷《きず》つけられた様子で、  「自分の土地を視《し》察《さつ》してるんだ」  と言って、胸《むね》をそらした。  「あ、どうも失礼」  と明子は舌《した》をペロリと出した。  中松が笑《わら》い出して、  「いや、面白い人だな」  と言った。「永戸明子さんだったかな」  「一度で憶《おぼ》える人って珍《めずら》しいんですよ」  明子は、賞《ほ》めたつもりで言った。  「知り合いが中にいるって?」  「ええ」  「何という人?」  「あそこの娘《むすめ》さんとか。——千春さんというんです」  とたんに、中松の顔がサッと青ざめた。明子はびっくりして、  「ど、どうかしました?」  と訊《き》いた。  「今、千春といった?」  「ええ……」  「帰って来たのか!」  今度は、中松の顔は紅《こう》潮《ちよう》した。忙《いそが》しい男だ。  「知ってるんですか」  「もちろん!」  「同じ中松というと——兄《きよう》妹《だい》か何かで——」  「いや、僕と千春は婚《こん》約《やく》してるんだ」  今度こそ、明子は引っくり返りそうになった。  「婚約?」  「そう。——しかし色々な事《じ》情《じよう》があって、僕《ぼく》らの仲《なか》は裂《さ》かれ、彼女《かのじよ》は行《ゆく》方《え》をくらましてしまった」  「それで?」  「彼女の心は変っていない。だからこそ帰って来たんだ!」  また明子は首をひねった。——この喜びようも、まともではない。  それに、「彼女の心は変っていない」どころか、ちゃんと彼女は結《けつ》婚《こん》しているではないか!  「いや、きっと帰って来てくれると信じていたんだ! ずっと信じ続け、待ち続けたか《ヽ》い《ヽ》があった」  「あの……」  「千春は元気だった?」  「ええ、まあ……」  「良かった! いや、実に嬉《うれ》しい知らせだ。ありがとう」  「いえ、どういたしまして」  と明子は、曖《あい》昧《まい》な気分で言った。  千春がすでに結婚していることを、話すべきだろうか、と迷《まよ》ったのである。  「いや、実に良かった!」  と中松は、浮《う》かれているようで、「さあ、何でも好《す》きなものを取って下さい!」  と言ったが、コーヒー専《せん》門《もん》店《てん》で、ステーキを頼《たの》むわけにもいかない。  二杯《はい》コーヒーを飲んで、その場は諦《あきら》めることにしたのだが——。    「どうしたの?」  と、尾形が訊《き》いた。  「呆《あき》れてものも言えないってのはこのことよ!」  「どうして?」  「その人、お金持ってなかったの。『や、忘《わす》れて来た』ですって。結局、こっちが払《はら》うはめになったのよ」  明子は憤《ふん》然《ぜん》として言った。  「そりゃ君は恨《うら》みに思うね」  「当り前でしょ。何が大地主だか、聞いて呆れちゃう」  「しかし、そんなもんかもしれないぜ」  と、尾形は言った。「割《わり》合《あい》、お金の感覚がないというか——」  「そうかもね。でも、どうでもいいわ」  「本当に、その千春って人の婚《こん》約《やく》者《しや》だったのかな?」  「それも分らないわ。でも、その後、何も話さなかったから。——金払《はら》わされて、頭に来てさっさと帰って来ちゃったの」  「君らしいや」  「でも、どうなってるのかしら?」  と、明子はため息をついた。「あの、亭《てい》主《しゆ》の佐田の方を、調べてみたいんだけどね」  「あんまり深入りすると危《あぶな》いぜ」  「大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》。危い目には別に——」  と言いかけて、明子は、車にはねられそうになったことを思い出していた。  「これから、どうするんだい?」  と、尾形は訊《き》いた。  「家へ帰るわ」  「いや、事《じ》件《けん》の方さ」  「ああ。——あの夫《ふう》婦《ふ》のアパートへ行ってみるつもり」  「なるほど」  「今朝《けさ》、寄《よ》ってみたけど、誰《だれ》もいないの」  「帰ってないんだな」  「もう帰って来ないのかも……」  と明子は呟《つぶや》くように言った。  しかし——あの中松という、一風変った青年。  いやに、明子の印象に焼きついてしまっている。  ——明子は犬が水を切るように、ブルブルッと頭を勢い良く振《ふ》った。 14 遊びは終り  白石知《とも》美《み》は、三十分前から、レストランの窓《まど》際《ぎわ》の席に座って、外を眺《なが》めていた。  「早く来ないかな」  と呟《つぶや》く。  ちゃんと時間も言ってあるのに。——時間にルーズなのが彼《かれ》の欠点。  それ以外は、とってもすてきな人なんだけど……。  知美は、一《いつ》杯《ぱい》のコーヒーを、三十分、もたせていた。  途《と》中《ちゆう》で、また何か頼《たの》もうかと思ったが、思い直した。  もったいない! 家計を預《あず》かる身としては、むだづかいをなくして行かなくては!  店のウエイトレスが、チラチラと知美の方を見ている。知美は平気だった。  寄《よ》り道してボーイフレンドと会っているとでも思われるかもしれない。  でも、そう言われたら、面白い。  「あら」  と言い返してやる。「私たち夫《ふう》婦《ふ》なんですよ」  って。  はた目にそう見えないのは仕方ない。  何しろ知美は十七歳《さい》。今は学校帰りで、セーラー服と、学生鞄《かばん》というスタイルなのである。  いくら左手の薬指にリングをはめているからといって、まさか、この女学生が「人《ひと》妻《づま》」だとは思わないだろう。  人妻か。——何だかこの言葉を耳にすると、恥《は》ずかしくなる。  まだまだ二人とも新《しん》婚《こん》ホヤホヤなんだもの……。  白石紘《こう》一《いち》は、十九歳の大学生だ。  大学生と女子高生の夫婦——はた目には、ずいぶん変でしょうね、と知美は思った。  あれこれ、人に言われていることも、知美は知っていた。  「親のスネかじり」  「甘《あま》えている」  「おままごと遊び」  ——でも、知美は本当に紘一を愛していたし、紘一だってそうだ。  だったら、結《けつ》婚《こん》して悪いわけがあるだろうか?  それに、法《ほう》律《りつ》的《てき》にも、ちゃんと二人は結婚できる年《ねん》齢《れい》なのだ。  ただ——親にマンションを買ってもらい、生活費をもらっているというのは、そりゃあ汗《あせ》水《みず》たらして働いている人たちから見れば、腹《はら》立《だ》たしいかもしれない。  でも、金持の家に生れたのは、何も子《こ》供《ども》の責《せき》任《にん》じゃないだろう。  いいんだ。何と言われたって。  あと何十年かたって、  「あの二人は理想の夫《ふう》婦《ふ》だね」  と言われるようになって見せるわ。  しかし——知美にも多少の心配はあったのだ。  夫、紘《こう》一《いち》のことである。  デリケートで、繊《せん》細《さい》で、とても感受性《せい》の強いタイプなのだ。  しかし、それが大学を出ても続くのでは困《こま》る。  今は学生だから仕方ないが、卒業すれば、親の仕送りなしでやって行く。それが知美の考えだった。  ところが、紘一の方は、あまりそんな気にもなれないらしい。  「いいんじゃない、そのとき考えれば」  と言って、その手の話を避《さ》けてしまうのである。  そして、  「外国の貴《き》族《ぞく》は働かないで、財《ざい》産《さん》だけで暮《くら》してるんだよ」  と、そういう生活に憧《あこが》れていることをほのめかす。  「でも、私たち、貴《き》族《ぞく》じゃないわ」  と、知美はいつも言っている。  紘一はただ笑《わら》うだけだ。  知美としても、もちろん身を粉にして働けるというタイプではない。でも、その気になれば、タイプも打つし、多少英会話もできる。  少なくとも、ずっと親の仕送りを受けて、何もしないで暮《くら》すという生活はしたくなかった。  困《こま》るのは、二人の親たちなら、ずっとお金を送ってくれるに違《ちが》いない、ということである。  まあ、紘一の卒業はまだ先の話だ。でも、そのときになって、もめるのもいやだし……。  紘一が道をやって来るのが見えて、知美は手を振《ふ》った。  しかし、紘一は、気付かずに、入口の方へ回って行く。  「——やあ、ごめんよ」  と、紘一は座って、「ついうっかりして寝《ね》過《すご》しちゃったんだ」  この笑《え》顔《がお》を見ると、知美はポーッとして、怒《おこ》るのも忘《わす》れてしまうのだ。  「夕ご飯、食べて帰りましょ」  「どうせなら、もっといい店に行かないか?」  と紘一は言った。  「そんなお金、ないわ」  「親父《おやじ》のつ《ヽ》け《ヽ》のきく所がいくつだってあるよ」  「そういうの、やめよう、って話だったじゃない」  「そうか。——分ったよ」  紘一は軽く肩《かた》を揺《ゆ》すった。  相手に譲《ゆず》るのも楽しい時代なのである。  「私、この定食のAでいい。六百八十円」  「僕《ぼく》は——これだ」  「あ、千二百円もしてる」  と言って、知美は笑《わら》った。「いいわ、許《きよ》可《か》する!」  注文して、知美は窓《まど》の外を見た。  「——今日、ちょっとある人と話をして来たんだ」  と、紘一が言った。  「ある人って?」  「名前は言えない」  「どうして?」  「約《やく》束《そく》なんだ」  「へえ」  知美は首をかしげて、「何の話だったの?」  と訊《き》いた。  「仕《ヽ》事《ヽ》さ」  と、紘一は言った。  「仕事? 何のこと?」  「アルバイトをやるんだ。それを決めて来たのさ」  知美はポカンとして夫を見ていた。  「——何だよ、そんな顔して」  「だって——びっくりするじゃないの、いきなり」  「だめだったら、がっかりするだろ。だから、黙《だま》ってたんだ」  「凄《すご》いわ! おめでとう!」  知美は席で飛びはねた。  「よせよ、みっともないよ」  と、紘一は赤くなった。  「だって——嬉《うれ》しいわ!」  「ありがとう」  「どんなお仕事なの?」  「うん……」  紘一は、なぜか、ちょっとためらった。  「どうしたの?」  「いや……あんまり人に話しちゃいけないと言われてるんだ」  紘一はそう言ってから、「でも、そんな怪《あや》しい仕事じゃないよ!」  と、付け加えた。  「信じるわよ」  「サンキュー。その内、詳《くわ》しく説明するよ」  紘一は、「ちょっとトイレに行って来る」  と、席を立った。  一人になると、知美は、また胸《むね》が熱くなって来るのが分った。  あの人は、やっぱり立《りつ》派《ぱ》な人なんだわ! 私の旦《だん》那《な》様ですものね!  言いたくないというのは、あんまりたいした仕事ではないのだろう。  〈でも、いいじゃないの〉  どうせ、二人とも若《わか》いんだ。どんなにだって変って行ける。  知美は急にお腹《なか》が空《す》いて来て、料理が来たら、先に食べていよう、と思った。  ——料理が二人分とも来た。  しかし、紘一は戻《もど》って来ない。  「何やってんのかな」  と、呟《つぶや》く。「食べちゃうぞ」  ——すると、紘一がトイレの戸を開けて、出て来るのが見えた。  呑《のん》気《き》なんだから、あの人は。  紘一が、ひどくゆっくりした足取りで、戻って来る。  「先に食べようかと思ってたのよ」  と、知美は言った。「早く食べないと冷めちゃうわ」  ナイフとフォークを手に食べ始めても、まだ紘一が立ったままなので、  「——何してるの?」  と、知美は、紘一を見上げた。  紘一の目は、虚《うつ》ろで、知美を見てはいなかった。  「どうしたの?」  と、知美は言った。  急に、紘一の体が、まるで支えを失った布《ぬの》の塊《かたまり》のように、崩《くず》れて、床《ゆか》に沈《しず》んだ。  知美は立ち上った。  ナイフとフォークが床に落ち、金《きん》属《ぞく》音《おん》を立てる。  足下で、紘一はすでに、生命を失った、「もの」となって横たわっていた。 15 恐《きよう》 喝《かつ》  「あらまあ」  と、啓《けい》子《こ》が言った。  母、啓子の「あらまあ」には、明子も慣《な》れっこであるが、それが何の意味なのかは、  「どうしたの?」  と訊《き》いてみないことには、よく分らない。  「殺されたんですって。可哀《かわい》そうに」  「へえ。誰《だれ》が?」  明子はあまり関心も示さずに言った。  ともかく食事中に、明子の目を向けさせようと思えば、かなり思い切った手《しゆ》段《だん》を取るしかないのである。  「十九歳《さい》の夫、殺さる、ですって。ずいぶん若《わか》いのね」  「本当ね」  「未《み》亡《ぼう》人《じん》は十七歳ですってよ。——どうなってるのかしら」  啓子は新聞をガサゴソとたたんだ。  殺されたことに「あらまあ」なのか、夫《ふう》婦《ふ》が若いことに「あらまあ」なのか、その辺は判《はん》断《だん》に苦しむところだった。  「そんなに珍《めずら》しいこともないわよ」  と、明子は言った。「私だって、十九歳と十七歳っていう夫婦、知ってるわ……」  待てよ、と思った。——十九歳の夫。十七歳の妻?  それにしてもピッタリだ。  「ちょっと新聞貸《か》して」  と、明子は手をのばした。  「危《あぶな》いじゃないの、おはしを持ったまま手を出して——」  明子は新聞を広げた。  「まさか!」  と言ったきり、絶《ぜつ》句《く》。  あの夫《ふう》婦《ふ》だ! 白石夫婦ではないか!  「どうしたの、明子」  と啓子が言った。「ご飯が冷めるわよ」  「いいの、私、お腹《なか》空《す》いてない」  と、明子は言った。  いかにショックが大きかったか、分ろうというものだ。  「じゃ、お茶《ちや》漬《づけ》一《いつ》杯《ぱい》」  ——それほどでもなかったのかもしれない。  「知ってる人なの?」  と、啓子が不思議そうに訊《き》いた。  「ちょっとね。——会ったことがあるの」  「へえ。可哀《かわい》そうにね。じゃ、お葬《そう》式《しき》にでも行って来たら?」  「そういう関係じゃないのよ」  と言ったものの、待てよ、と思い直した。  それもいいかもしれない。——ともかくあの女の子——いや、未《ヽ》亡《ヽ》人《ヽ》とも話をしたかった。  これは偶《ぐう》然《ぜん》の殺人事《じ》件《けん》なのだろうか?  しかし、新聞で読む限《かぎ》りでは、喧《けん》嘩《か》とかそんなことではない、妻の知美という女の子も、  「全く理由が分りません」  と語っている。  つまり、計画的殺人という線も考えられるわけで、そうなれば、ちょうど、明子が捜《そう》査《さ》している事件と関連があると思える。  もちろん、明子もあの白石という夫に、  「茂《も》木《ぎ》こず枝《え》」  という名をぶつけてみたのだが、一向に反《はん》応《のう》はなかったのである。  だが、たとえ白石が直《ちよく》接《せつ》茂木こず枝と関係なくても、何《ヽ》か《ヽ》を知っていたとも考えられるし、それに、白石は茂木こず枝の勤《つと》めていた会社でアルバイトをしていたのだ。  明子に訊《き》かれたときは忘《わす》れていて、後になって何か思い出したという可《か》能《のう》性《せい》もある。  ともかく、まず当ってみることだ……。    殺された白石紘《こう》一《いち》が社長の息子《むすこ》だったせいか、さすがに葬《そう》儀《ぎ》は盛《せい》大《だい》だった。  もっとも、来ているのは、大部分が父親の関係らしく、年《ねん》輩《ぱい》の人が多かった。  明子は一《いち》応《おう》、弔《ちよう》問《もん》客《きやく》とも見えるように、紺《こん》のワンピース姿《すがた》でやって来て、門の前をウロウロしていた。  しかし、あんまりうろついていても、香《こう》典《でん》泥《どろ》棒《ぼう》か何かと間《ま》違《ちが》えられそうだ。  どうせこんなに大勢来ているのだ。一人ぐらい顔の分らないのが焼《しよう》香《こう》したって、おかしくあるまい。  というわけで、明子は一《いち》応《おう》焼香の列に並《なら》んだ。  凄《すご》い家だ。明子の家の何倍あるか……。  まあいいや。そんなことは考えないようにしよう。  順番が来て、明子は型通り焼香した。遺《い》族《ぞく》の方へ一礼しながら、妻《つま》の知美を見ると、黒のスーツ姿で、大分落ちついてはいるが、青ざめて、目を赤く充《じゆう》血《けつ》させている。  明子が頭を下げると、知美も頭を下げたが、ふと明子の顔を見て、思い当ったような表《ひよう》情《じよう》になる。  思い出したんだわ。——へえ、意外とボンヤリじゃなかったのね、と明子は、葬《そう》式《しき》にしては少々不《ふ》謹《きん》慎《しん》なことを考えた。  表に出て、どうせ出《しゆつ》棺《かん》までそう時間もないようなので、しばらく待つことにした。  周囲を見回すと、同様に、出棺を待つ人たち……。  ——ふと、明子は妙《みよう》な気がした。  あまりにも、若《わか》い人が少なすぎるのである。  考えてみれば、死んだ白石は大学生だったのだ。  大学の友人たちなどが、もっと大勢やって来てもいいではないか。それなのに……。  周囲を見回しても、父親関係の知人らしい、中年過《す》ぎの人ばかり。  どうなっているのかしら?  明子は首をひねった。  「——もし」  と、誰《だれ》かの手が肩《かた》に触《ふ》れる。  「はあ」  振《ふ》り向くと、ちょうど明子の父親ぐらいの年《ねん》齢《れい》の男が立っている。別に黒服ではなかった。  「何か?」  「つかぬことをうかがいますが、亡《な》くなった紘《こう》一《いち》さんのお知り合いで?」  「ええ……。まあ、そんなところです」  「では、ちょっとこちらへ——」  わけが分らなかったが、ともかく、その男について、少し離《はな》れた所の、小さな公園まで歩いて行く。  そこに、十八、九の女の子が待っていた。  ——いや、 顔は若《わか》くて、 たぶん十八、 九だと思えるのだが、 一見して、 お腹《なか》の大きいのが分る  「これは娘《むすめ》です」  と、その男は言った。「あの男に騙《だま》されて、こうなりました」  「あの男?」  「白石紘一です」  明子が目をパチクリさせて、  「本当ですか?」  と、思わず訊《き》いた。  「本当よ」  と、その娘は恨《うら》みがましい目で、  「あの人がまさか結《けつ》婚《こん》してるなんて……。時期が来たら親に正式に話をして、結婚しようとか言って——」  「白石さんが?」  「あなたも、やっぱり騙《だま》された口なの?」  明子はあわてて、  「いいえ」  と首を振《ふ》った。「私は、ただ仕事の上で、知っていただけよ」  「そうなんですか」  と父親が頭をかいて、「いや、それは失礼。てっきりうちの子と同じような女《じよ》性《せい》かと思いまして……」  「そんなに何人も?」  「私の知ってるだけで他に三人もいたのよ」  と、女の子がカッカしながら、「結《けつ》婚《こん》の約《やく》束《そく》してたっていうのよ、みんな! 許《ゆる》せない!」  これには明子もびっくりした。  あの知美が聞いたら、どう思うだろうか。  「それで——どうするつもりなんですか?」  と、明子は言った。  「もちろん、訴《うつた》えてやるわ」  と、女の子が言った。「もう子《こ》供《ども》は七か月よ。おろせないんだもの。あいつが死んだって、親からでも、お金を出させてやらなくちゃ」  「当然の権利だと思いますよ」  と、父親も腹《はら》立《だ》たしげに言った。  もちろん、それが事実なら、当然請《せい》求《きゆう》する権利はある。  しかし、——明子はちょっとがっかりしていた。  この調子では、白石を恨《うら》んで、殺す動機のある人間が、他に、もっといるかもしれない。  そうなると、白石の死は、明子が調べている事《じ》件《けん》とは無《む》関《かん》係《けい》かもしれないのだ。  「お気持、分りますわ」  と、明子は言った。  「そうでしょう?」  「でも今は——ともかくお葬《そう》式《しき》が済《す》むまで待ってあげた方が良くありませんか?」  「いや、そうはいかん」  と父親が首を振《ふ》る。  「どうしてです? 白石さん当人はともかく、 あの奥《おく》さんには凄《すご》いショックですよ、 きっと」  「だからこそ、じゃない」  と女の子がお腹《なか》を撫《な》でて、「これを見せて、この子の父親は白石紘一です、って大声で騒《さわ》いでやる、っておどかすの。お客たちの手前、向うも高い額《がく》でもあわてて承《しよう》知《ち》するわよ」  明子は、どうもそういうやり方は好《す》きでなかった。——しかし、この親子に意見する立場でもない。  「パパ、そろそろ出《しゆつ》棺《かん》よ」  「そうか。待とう。出て来るところを捕《つか》まえるんだ」  「じゃあね、バイバイ」  と、娘《むすめ》の方が明子に手を振る。  明子は首を振った。——どうなるのかしら?  明子は、しばらくその場に立って、様子を見ていた。  棺《かん》が出て来て、霊《れい》柩《きゆう》車《しや》に納《おさ》められる。  白石紘一の父親らしい男《だん》性《せい》が、代表して挨《あい》拶《さつ》を述《の》べる。  そして、霊柩車と何台かのハイヤーが、列を作って、走り出し、集まっていた人々が帰り始めた。  「おかしいわ……」  と、明子は呟《つぶや》いた。  じっと見ていたのだが、妻の知美が、出て来なかったのだ。  そんなことがあるのだろうか?  見落としかもしれない、と思ったが、あれだけ用心して見ていたというのに……。  門の前が、閑《かん》散《さん》として来ると、明子は、門の中を覗《のぞ》き込《こ》んだ。  受付などを手伝いに来た人たちが、片付けをしている間を抜《ぬ》け、家の裏《うら》手《て》に回ってみる。  「——ともかく、話は分ったんでしょうね、ええ?」  と、甲《かん》高《だか》い声。  さっきの、お腹《なか》の大きな女の子だ。  「ともかく、これで娘《むすめ》の一生はめちゃくちゃなんですよ」  と言っているのは父親の方だ。「それはあんたのせいじゃない。よく分ってはいるが、しかし、やっぱりあんたのご亭《てい》主《しゆ》のやったことだからね」  そっと覗いてみると、庭へ面した和室で、あの親子と、知美が向かい合っている。  「申し訳《わけ》ありません」  と知美が頭を下げる。「父とも相談しまして、必ずご返事します」  「当り前よ。冗《じよう》談《だん》じゃないわ」  女の子の方は、やくざっぽい口調だ。  「ともかく、差し当り、入院や出産の費用として、三百万ほど用意してもらいましょうかね」  と、父親が言った。「後のことは、できれば、こっちも裁《さい》判《ばん》沙《ざ》汰《た》にせずに、穏《おだ》やかに済《す》ませたいんですよ。分ってもらいたいな。——もっと騒《さわ》ぎ立てて、金《きん》額《がく》をつり上げてもいいが、私どもはそこまでやりたくない」  知美は、じっと顔を伏《ふ》せたままだ。  「まあ、よく相談してもらいましょう」  と父親が立ち上る。「さあ、帰ろう」  「うん」  娘《むすめ》は、どっこらしょ、と立ち上り、「あんたはどうなの? できてるの?」  と言って、笑《わら》った。  「おい、行くぞ」  と、父親が促《うなが》す。「——ああ、奥《おく》さん、三百万は来週にはほしいですね」  「かしこまりました」  知美は、青ざめた顔で、言った。  ——父親と娘《むすめ》が出て行くと、知美は、彫《ちよう》像《ぞう》のようにじっとして、動かなかった……。 16 謎《なぞ》の〈仕事〉  「フフ、あの女《によう》房《ぼう》ったら、青くなって、見らんなかったね」  と、歩きながら、娘が言った。  「ちょっと哀《あわ》れになったよ」  と父親の方がタバコをくわえて、火を点《つ》ける。  「あら、仏《ほとけ》心《ごころ》なんか出したらだめよ」  と娘の方は澄《す》まして、「せいぜいお金をふんだくってやらなきゃ」  「しかし、大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》か?」  「何が?」  「あの女はともかく、父親となると、あれこれ調べて回るかもしれん」  「その隙《すき》を与《あた》えないことよ」  「どうするんだ?」  「このスキャンダルを、あちこちに売り込《こ》むと言っておどすのよ」  「なるほど」  「向うは、事実かどうかなんてことより、書かれるかどうかであわてるわ。素《す》早《ばや》くやるのよ」  「お前は利口だ」  と、笑《わら》って、「さすがに俺《ヽ》の《ヽ》女《ヽ》だよ」  と肩《かた》に手を回す。  「でも、うまい具合に、本当にあいつと一時期同《どう》棲《せい》してたしね」  「ぶっ殺してやりたかったぜ」  「殺さなくて良かったでしょ」  「全くだ」  と父親——いや、男は笑った。  「一度じゃもったいないわ。何度だって絞《しぼ》り取れる」  「じわじわ、とな。——それは俺《おれ》に任《まか》せろよ。ベテランだ」  「なるほどね」  と声がして、二人はギョッと振《ふ》り返った。  明子である。  「お話はうかがいましたよ。——たちの悪い人たちね」  「黙《だま》ってた方がいいよ」  と女が言った。「この人、おとなしそうに見えても、怖《こわ》いんだからね」  「そうとも。——お前も馬《ば》鹿《か》じゃあるまい?」  「あなたたちほどはね」  「何だと?」  男がカッとしたように前へ出る。  「少し痛《いた》い思いをさせた方がいいわ」  と、女が言った。「でも、骨《ほね》は折らないようにね」  「任せとけ」  と男が進み出て、ぐいと明子の腕《うで》を——つかんだはずだったが、明子の体がスッと沈《しず》んだと思うと、男の体はぐるっと一回転して、地面に叩《たた》きつけられた。  「ウ……」  と、呻《うめ》いて、喘《あえ》ぐ。  「あなたたちのことを、知美さんへ話して来るわ」  と、明子が戻《もど》って行く。  「待て! 畜《ちく》生《しよう》、ふざけやがって!」  男の方は、顔を真っ赤にして起き上ると、明子の背《せ》中《なか》へと駆《か》け寄《よ》った。  明子はクルリと振《ふ》り向くと、前かがみになって、男が突《つ》っこんで来る、腰《こし》の辺りへ頭を入れた。  男の体はそのまま宙《ちゆう》を真直ぐに進んで、落下した。  「——のびちゃった」  明子は、ポンと手を払《はら》って、「鼻の骨《ほね》が折れたかもね。医者へ行ってレントゲンとった方がいいわ」  と言った。  女の方は真っ青になっている。  「ねえ、あんた」  明子に声をかけられると、ピクッと身をちぢめて、  「助けて! 勘《かん》弁《べん》してよ!」  と悲鳴を上げる。  「妊《にん》娠《しん》中なんでしょ。何もしないわよ。でもね、今度知美さんに近づいたら、腕《うで》の一本ぐらい折られると思っといた方がいいわ。分った?」  女がコックリと肯《うなず》く。  明子は悠《ゆう》然《ぜん》と立ち去った。    明子が、白石の家へ戻《もど》ってみると、奥《おく》の和室に、もう知美の姿はなかった。  火《か》葬《そう》場《ば》へ行ったのかしら?  明子がまた表へ回ろうとしていると、  「知美さんは?」  と、声がした。  「さあ、さっきまでそこにおられましたけど——」  使用人らしい女《じよ》性《せい》の声。  してみると、どうやら出ているわけでもないらしい。  「もしかして……」  まさか、とは思ったが、いやな予感がして、明子は裏《うら》へ戻《もど》った。  廊《ろう》下《か》から、家の中へと走り込《こ》む。  「失礼……」  さっきの和室を通って、その奥《おく》の襖《ふすま》を開け、明子はギョッと立ちすくんだ。  鴨《かも》居《い》から紐《ひも》が下って、そこに知美が——。今まさに乗っていた椅《い》子《す》をけったところだった。  「だめ!」  明子は駆《か》け寄《よ》って、知美の体をかかえ上げた。「外しなさい!」  「死なせて! お願い!」  と、知美が暴《あば》れる。  離《はな》してなるものか、と明子は必死で、知美の足にしがみついて、体を持ち上げていた……。    「まあ、そうだったの?」  知美は、頭を下げた。「ごめんなさい、何も知らなくて」  「いいえ……」  明子は頭を振《ふ》りながら言った。「それにしても、よく殴《なぐ》ってくれたわね」  「本当にごめんなさい」  「いいの。石頭だから」  と、明子は苦《く》笑《しよう》した。  「今、お茶を——」  「コーヒーある? 少しはスッキリすると思うの」  探《たん》偵《てい》は時には殴られ、けられることに、じっと堪《た》えなくちゃいけないんだわ、と明子は思った。  ——和室でコーヒーというのも、少し妙《みよう》だったが、ともかく、やっと明子の頭も正常な活動を取り戻《もど》し始めていた。  「ご主人は気の毒だったわね」  「本当に——今でも信じられなくて」  と、知美は言った。「だから、火《か》葬《そう》場《ば》にも行かなかったの」  「どうして?」  「もしかして、死んだのは、あの人とそっくりの別の人で……。よく言うでしょう。世の中には、そっくりの人がいるって」  「ええ」  「だから、ヒョイと帰って来るんじゃないかって——。そして、『今日は誰《だれ》のお葬《そう》式《しき》なんだ?』って訊《き》くの」  そう言って知美は、ちょっと笑《わら》った。  もちろん、そんなことがないのは、彼女《かのじよ》にも分っているのだ。——しかし、明子には、知美の気持も、よく分った。  「ご主人が殺されたときのことを聞きたくて来たの」  と、明子はわざと事《じ》務《む》的《てき》な調子で、言った。  「まあ。どうして?」  「実は、この間、あなた方の所へ行ったのは、お金を返しにじゃなかったの」  明子は、あの式場で死んでいた謎《なぞ》の花《はな》嫁《よめ》のことから説明した。  「——そんなわけで、あの日の何組かの夫《ふう》婦《ふ》のことを調べていたのよ」  「そうだったの」  「騙《だま》してごめんなさいね」  「いいえ、そんなこと……」  と、知美は首を振《ふ》って、「茂木こず枝……。私も聞いたことないわ」  「そう。——それはともかく、あのとき、ご主人は——」  「ええ、私たちレストランへ入っていて……」  知美は、夫が死んだときのことを、思い出しながら話した。  「——警《けい》察《さつ》は何と?」  「ただの通り魔《ま》的《てき》な犯《はん》行《こう》じゃないか、って……」  「その可《か》能《のう》性《せい》はあるわね」  「でも——ちょっと気になることがあるの、私」  「どんなこと?」  「彼《かれ》が、アルバイトをやる、と言ってたでしょう」  「ええ、それが?」  「その仕事の中身を、あの人、全然、話してくれなかったの」  「というと?」  「訊《き》いても、話しちゃいけないことになっている、って……」  「何か——よからぬことでも?」  「そうかもしれないわ。後になって、そう思ったの」  「何かそれらしいことが?」  「いいえ」  と、知美は首を振《ふ》った。「でも、正直言って、あの人は、仕事するのが嫌《きら》いだったの。怠《なま》け者だったわ。人は良かったけど」  なかなか良く見ている。  「あの人が、誰《だれ》からも押《お》し付けられずに、仕事を捜《さが》すなんて、ちょっと考えられないわ。後で主人の父なんかにも訊《き》いてみたけど、そんな話は知らない、って」  「すると、その仕事のことで、ご主人は殺されたのかしら?」  「そうかもしれないわ。あんな風に突《とつ》然《ぜん》、殺されるなんて、おかしいでしょう? 前から誰かと争ってたとかいうのなら、ともかく」  「そうねえ」  「あの人が『仕事』を見付けて来て、すぐ殺された。——それが偶《ぐう》然《ぜん》とは思えないの」  知美の言葉に、明子は肯《うなず》いた……。 17 学友の話  「そろそろ——」  と、知美が立ち上った。  若《わか》い未《み》亡《ぼう》人《じん》である。しかし、そういう目で見るせいか、それとも、黒いスーツのせいか、とても十七歳《さい》には見えない。  人間は悲しみに堪《た》えて大人になるんだわ、と、明子は、一人で納《なつ》得《とく》していた。  私なんか大人になるはずだわ。お小《こ》遣《づか》いの少ない悲しみ、恋《こい》人《びと》のいない悲しみ、憂《う》さ晴らしに放り投げる相手のいない悲しみ……。  あんまり大したことのない悲しみばかりを数え上げて、明子は一人で肯いていた。  「お骨《こつ》が帰って来るのね」  と、知美は言った。「あの人が焼かれてるなんて思うと、辛《つら》くって。一《いつ》緒《しよ》に死んじゃいたくなるわ」  そんなもんかしら、と明子は思った。  私なら、どんなにいい亭《てい》主《しゆ》が死んだって、一緒に死ぬ気にはなれないけどね。  といっても、亭主のいない身では、そう断《だん》言《げん》もできないが。  「一つ訊《き》きたいことがあるの」  と明子は言った。  「何かしら?」  知美は明子の方を見た。  「ご主人、大学生だったわけでしょう?」  「ええ」  「それにしちゃ、お友達でご焼《しよう》香《こう》に来た人が少ないように思ったけど」  知美は、もう一度明子の前に座った。  「私、そんなこと、考えてもみなかったわ」  「私も、別にずっと見てたわけじゃないから、よく分らないけど——」  「いえ、本当にそうよ。その通りだわ」  知美はゆっくりと肯《うなず》いた。「ほとんど——いいえ、一人も来なかったんじゃないかしら。こんなことってないわよね」  「何か事《じ》情《じよう》があるのかしら」  知美はじっと考え込《こ》んだが、やがて首を振《ふ》って、  「思い当らないわ。——私、放っておきたくない。何人か、主人のお友達も知っているから、訊《き》いてみるわ」  「私、お手伝いしてもいい?」  「お願いできる?」  こっちからお願いしたいくらいだ。明子はもちろんしっかりと知美の手を握《にぎ》ったのだった。  玄《げん》関《かん》の方に、車の音がした。  「帰って来たんだわ」  知美は立ち上ると、シャンと背《せ》筋《すじ》を伸《の》ばし、夫の遺《い》骨《こつ》を出《で》迎《むか》えるべく、玄関の方へと歩いて行く。  その後ろ姿《すがた》には、一種、悲《ひ》壮《そう》な美しさすら漂《ただよ》っていた……。    その二日後のことである。  明子は、知美に呼《よ》び出されて、白石紘《こう》一《いち》の通っていたA大学の校門前にある喫《きつ》茶《さ》店《てん》へ出向いた。  「あら……」  知美を見て、明子は戸《と》惑《まど》った。  淡《あわ》いグレーのセーターに、水色のスカート。ちょっと小《こ》柄《がら》ではあるが、大学生といって通りそうな印象だった。  「どうもすみません、わざわざ」  と、知美はピョコンと頭を下げた。  「いいのよ。——大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》?」  「ええ。いつまで泣《な》いてたって、あの人が生き返るわけじゃなし……」  若《わか》さというものなのか、その微《び》笑《しよう》には、か《ヽ》げ《ヽ》り《ヽ》がなかった。  悲しくないわけではないのだろうが、体の方が生命力に溢《あふ》れているのだ。  「そう、その調子よ」  と、明子は座りながら、言った。「人生、こういう悲しみを、いくつも通《つう》過《か》しなきゃならないんですからね」  何だか分ったようなことを言って、自分で照れくさくなり、  「あの——コーヒー一つ」  と、注文した。  「実は、主人の親しかったお友達に電話してみたの」  と、知美が言った。  「で、何か分った?」  明子が身を乗り出す。  「それが——」  と、知美は肩《かた》を寄《よ》せて、「誰《だれ》も話してくれないの」  「話してくれない?」  「ええ。お葬《そう》式《しき》には出たかったんだけど、どうしても外せない用があって、とか……。みんながそう言うの。おかしいでしょう?」  「何か事《じ》情《じよう》がありそうね」  「それに会ってお話がしたい、って言うとみんな、『ちょっと忙《いそが》しくて』とか、『その内に』とかって逃《に》げちゃうの」  「いくら何でも冷たすぎるわね、お友達にしては」  「ねえ、そうでしょう?」  「それで……ここへ来たのは?」  知美は大学の正門を、窓《まど》越《ご》しに眺《なが》めて、  「この席からよく見えるでしょ? よく紘一さんが出て来るのを、ここで待っていたの。だから、ここで、主人のお友達が誰か出て来るのを見ていようと思って」  「そうね。向うがそうも逃げるとなれば、ますます追っかけなきゃ」  明子は肯《うなず》いた。  「下手《へた》をすると、ちょっと待たなきゃいけないけど……」  「構《かま》やしないわ。どうせこちらは停学中で——」  と言いかけて、明子はあわてて口をつぐんだ。  しかし、知美の方は、ちょうど校門を出て来た数人のグループに気を取られている様子だった。  「あの人——いいえ、違《ちが》うわ」  と、がっかりしたように首を振《ふ》る。  「まあ、のんびり待ってましょうよ」  ちょうどコーヒーが来たので、明子は、ミルクを入れながら言った。  「あの人!」  と知美が言った。  「え?」  「今入って行く青いセーターの。あれ、きっとそうだわ」  と知美が腰《こし》を浮《う》かす。  明子は、まだコーヒーに口をつけていない。置いて行くのはもったいない!  「待って」  と、知美を抑《おさ》えて、「ここへ連れて来てあげるわ」  「ええ?」  「ここの方がゆっくり話もできるでしょう」  「それはそうだけど——」  「待ってらっしゃい」  明子は、急いで席を立つと、店を出た。  青いセーターの、少々——いや、かなり肥《ひ》満《まん》タイプのその学生は、薄《うす》っぺらい本と、分《ぶ》厚《あつ》い漫《まん》画《が》週《しゆう》刊《かん》誌《し》をかかえて、大学構《こう》内《ない》へ入って行った。  大体、もうお昼過《す》ぎだ。こんな時間に大学へ出て来て、勉強する気なんかあるのかしら?  明子は、自分のことは棚《たな》に上げて、思った。  足早にその青いセーターを追い越《こ》すと、やにわに振《ふ》り返り、  「あら! 久《ひさ》しぶりねえ!」  と声を上げた。  青いセーターは、自分が声をかけられたとは思わないのか(当然だが)、チラッと明子を見て歩いて行こうとする。  明子は、その腕《うで》を、ぐいとつかんだ。合気道で鍛《きた》えているから、そう簡《かん》単《たん》には振り離《はな》されはしない。  「な、何するんです?」  と、面《めん》食《く》らって明子を見る。  「本当に懐《なつか》しいわ、元気そうね!」  「あの——」  「少し太ったんじゃない? 大分かな?」  「何ですか、僕《ぼく》は——」  「ゆっくり話でもしましょうよ。ちょうどそこの喫《きつ》茶《さ》店《てん》が空《す》いてるみたいだから」  と、腕《うで》を引《ひつ》張《ぱ》る。  「待って——待って下さいよ! 僕はあんたなんか——」  「どうしているかと思って、ずっと気にはしてたのよ。さあ、つもる話に時を忘《わす》れましょう!」  ぐいぐい引張って行く。  「ちょっと——困《こま》りますよ、——僕、これから、授《じゆ》業《ぎよう》が——」  と青いセーターが抗《こう》議《ぎ》しようとすると、明子は、その手首をエイッとねじってやった。  「痛《いた》い! 痛……」  青いセーターは飛び上りそうになった。だらしがないんだから!  「逆《さか》らって動くと、手首の骨《ほね》が折れるわよ」  と、明子は低い声に凄《すご》みをきかせて、言った。「分った?」  青いセーターが無《む》言《ごん》でコックリ肯《うなず》く。  「じゃ行きましょう。会えて良かったわ!」  明子は、青いセーターを、喫茶店の中へと、ぐいと押《お》しやった。  席から知美が立ち上る。  「西川さんでしたね」  「あ——白石の——」  「知美です。何度か家にみえて——」  「はあ、どうも……」  青いセーター——いや、西川という名前もあるらしいから、そっちで呼《よ》ぶことにすると——西川は、ヒョイと頭を突《つ》き出すように頭を下げた。  「ゆっくり座んなさいよ」  明子がポンと肩《かた》を叩《たた》くと、西川は、あわてて椅《い》子《す》にドシンと腰《こし》をおろした。キーッと、椅子が悲鳴を上げた。  「ちょっと! 壊《こわ》さないでよ」  と明子は言って、自分の席に腰をおろした。  良かった! コーヒーはまだ冷めていない。  「お葬《そう》式《しき》に行けなくてどうも……」  と、西川は頭をかいた。「どうしても行かなきゃいけない所があって——」  「ちょっと」  と、明子が言った。  「え?」  「また腕《うで》をねじられたいの? 友達のお葬式に出られないような用なんてもんがあるはずないでしょ。正直に言わないと首をねじっちゃうわよ」  西川が、あわてて太い首を手でさすった。  「いや……つまり……」  「西川さん」  と知美が言った。「主人のお葬《そう》式《しき》に、お友達が一人も来なかったんです。いくら何でも、これは偶《ぐう》然《ぜん》とは思えませんわ。そうでしょう?」  「はあ……」  「わけを知りたいんです。それにあの人は、事《じ》故《こ》で死んだのでも、病気で死んだのでもありません。殺されたんです! だけど、警《けい》察《さつ》の捜《そう》査《さ》は一向に進まないし。  ——私、事実が知りたいんです!」  西川はもじもじしていたが、やがて諦《あきら》めたように、  「分りました」  と、肯《うなず》いた。「でもその前に——」  「なあに?」  と明子が訊《き》く。  「チョコレートパフェを頼《たの》んでもいいですか?」  と、西川は言った。 18 謎《なぞ》の相《あい》棒《ぼう》  「あの人が退《たい》学《がく》になってたって?」  知美は目を見開いた。  西川は肯《うなず》いた。  「もう二か月以上前かな。あいつ、何も言わなかったんですね?」  西川の前には、明子ですら胸《むね》がむかつくような、チョコレートパフェの「大《おお》盛《も》り」が置かれている。  「まるで知らなかったわ」  知美は首を振《ふ》った。「でも、一体どうして?」  「それがね……」  西川は言いにくそうに、「ばれちゃったんだな、アルバイトが」  「アルバイト? あの人、何のアルバイトを?」  「いや、普《ふ》通《つう》のアルバイトなら、みんなやってるんだし、構《かま》やしないんだけど、あいつの場合はね、ちょっとまずかった」  「どういうことですか? はっきり言って下さい」  西川はため息をついて、  「つまり——あいつはね、大学の中の女子学生に売春のあっせんをしてたんです」  「何ですって?」  知美の声は、囁《ささや》くように低かった。  「でも、女の子の方から持ちかけた、ってのが本当のところだと思うんですけどね。つまり、あいつ、割《わり》と調子が良くて、女の子にももてたでしょ。で、少しまとまったお金を手っ取り早く稼《かせ》ぎたい、って女の子が、彼《かれ》に頼《たの》んだんですね、お客、いないかしら、ってわけで。あいつ、顔が広いから、あちこち声をかけて、客を紹《しよう》介《かい》してやっている内に、段《だん》々《だん》、他の女の子たちも頼みに来る。——それでいつの間にか、何パーセントかの礼金を取って、組《そ》織《しき》的《てき》にやるようになったんですよ」  「あの人が……」  やはり、若《わか》くて潔《けつ》癖《ぺき》な知美にはかなりのショックだったようで、顔からは血の気がひいている。  「あんた、友達でしょ」  と、明子が言った。「どうして止めなかったのよ!」  「そ、そんなこと言ったって——」  西川はあわてて椅《い》子《す》をずらし、明子から少し離《はな》れた。「何か、やってるらしいな、ってことは知ってたけど、詳《くわ》しくは分らなかったんですよ」  「いい加《か》減《げん》なこと言うと——」  「本当ですってば!」  「ともかく——」  と、知美が言った。「それが、ばれたわけですね」  「ついてなかったんだな。たまたまね、その女の子の一人を紹《しよう》介《かい》した相手の男《だん》性《せい》が、大学の教《きよう》授《じゆ》の友達だったんですよ。で、彼女《かのじよ》のことを、見たことがあって憶《おぼ》えていた。それを教授へ話したもんだから……」  「それで捕《つか》まったわけ?」  「いえ、教授がその女の子に付き合えと言ったんです」  「ひどいわね!」  と、明子は呆《あき》れて言った。  「それを、たまたま、仲《なか》の悪いもう一人の教授が知って、大学当局へ訴《うつた》えた。で、後はズルズルと……」  「なるほどね」  明子は肯《うなず》いた。「そんな事《じ》情《じよう》があるから、大学の中で処《しよ》理《り》しちゃったわけね」  「そうなんです。あいつは退《たい》学《がく》、教授は健康上の都合で辞《じ》職《しよく》……」  「で、万事丸《まる》くおさまった、と」  「そういうわけです」  西川は、ちょっと上《うわ》目《め》づかいに知美を見て、  「お葬《そう》式《しき》に行かなくてすみません。まだ大学の方はピリピリしてるんです。あいつと一《いつ》緒《しよ》に、そのアルバイトをやってた奴《やつ》がいるというんで」  「一緒に?」  と、知美は身を乗り出した。「それは誰《だれ》ですか?」  「僕《ぼく》は知りません」  と言ってから、西川は明子の方を向いて、「本当ですよ」  と付け加えた。  「誰も嘘《うそ》だなんて言ってないわよ」  「だから、あいつと付き合いのあった連中はびくびくしてるんです。共《きよう》犯《はん》と思われて退《たい》学《がく》になるんじゃないか、って」  「だらしない! 私なんか停——」  と言いかけて、明子は咳《せき》払《ばら》いした。「ともかく、それでお葬式にも来なかった、ってわけ? 友《ゆう》情《じよう》も地におちたわね」  「すみません」  西川はすっかり小さくなっている。  小さくなっても、大《おお》盛《も》りのチョコレートパフェを食べる手の方は休まずに動いて、容《よう》器《き》はほぼ空になっていた。  「警《けい》察《さつ》はそのこと知らないわけね」  と、明子は言った。  「てっきり、通り魔《ま》犯《はん》罪《ざい》だと思ってるわ」  と、知美は肯《うなず》いて、「でも、あの人が、『アルバイトを見付けた』と言ってたことと、そのすぐ後に殺されたことを考えると、無《む》関《かん》係《けい》じゃないようね」  「その線から調べた方が良さそうだわ」  明子は、考え込《こ》みながら言った。  「ええと——僕《ぼく》はこれで——」  パフェを平らげた西川が立ち上りかける。  「ちょっと待ちなさいよ」  「ま、まだ何か?」  「あんたは、その相《あい》棒《ぼう》に心当りないの?」  「全然」  「本当ね?」  「もちろん!」  「そう……」  明子は少し考えて、「じゃ、もう一つ訊《き》くわ。そのアルバイトの世話をされていた女の子の方はどうなったの?」  「ああ。——そっちは、誰《だれ》と誰だかはっきりしなかったせいもあって、目をつぶっちゃったみたいですよ」  「いい加《か》減《げん》ね! その教《きよう》授《じゆ》のお相手した女子学生は?」  「下手《へた》に退《たい》学《がく》にでもなりゃ、外でしゃべりまくると心配したんじゃないのかな。まだちゃんと通って来てますよ」  「へえ! 図《ずう》々《ずう》しい!」  明子は呆《あき》れて言った。  「誰《だれ》だか分ってるんでしょう?」  と知美が訊《き》いた。  「ええ、まあ……」  「じゃ、教えてよ。いえ、会わせてもらいたいわ」  と、明子があっさりと言った。  「僕《ぼく》が?」  「そう。何も、面《めん》倒《どう》なことじゃないでしょ。名前だけ聞いたって、こっちには分らないんだもの。当人を指さして教えてくれるだけでいいのよ」  「だけど……」  と、西川は渋《しぶ》っている。  「何なの?」  「それでもし僕が退学にでもなったら……」  「いやならいいのよ。大学当局へ電話をするだけ」  「電話?」  「そう。西川って学生が、売春の黒《くろ》幕《まく》だったんですってね」  「やめて下さい! せっかく、いい会社から話が来ているのに!」  と、西川は青くなって言った。  「じゃ、頼《たの》みを聞いてくれる?」  頼みというより脅《きよう》迫《はく》である。  西川は情《なさけ》ない顔で肯《うなず》いた。  「じゃあ……明日なら、彼女《かのじよ》きっと出て来ますよ。あの課目、出ないと単位落としちゃうから」  「詳《くわ》しいのね」  「僕《ぼく》のガールフレンドですからね」  明子は目を丸《まる》くした。    人は見かけによらぬもの——とは古い言い回しだが、正にそれしか言いようがなかった!  「川《かわ》並《なみ》はるかです」  と、前日と同じ、校門前の喫《きつ》茶《さ》店《てん》に入って来た女の子は、頭を下げて言った。  小《こ》柄《がら》で、とても十九には見えない。しかも、白いセーター、赤のスカートがよく似《に》合《あ》って、いかにも良家のお嬢《じよう》様タイプ。  この子が売春?——少々のことには動じない明子ですら、半信半《はん》疑《ぎ》だった。  「西川君から話は聞きました」  と、はきはきしている。「白石君の奥《おく》さんだったんですってね」  「私じゃないわよ」  と、明子はあわてて言った。「こっちの方——」  「まあ若《わか》い!」  と、知美を見てびっくりした様子。「白石さん、気の毒でしたね。とてもいい人だったのに」  「どうも」  知美の方も、少々呑《の》まれている。  「話は西川君から聞きましたけど、何を知りたいんですか?」  「つまりその——」  明子は咳《せき》払《ばら》いをして、体勢を整えた。「白石さんがあなたに仕事を世話していた、と……」  「そうです」  「白石さんには、その——相《あい》棒《ぼう》というか、一《いつ》緒《しよ》にやってる人がいたらしいけど、それが誰《だれ》かは知らない?」  「いたのは事実です」  と、川並はるかは肯《うなず》いて、「でも誰なのかは……。会ったこともないし。いつも連《れん》絡《らく》は白石君からもらってましたもの」  「名前とか、何か憶《おぼ》えていることはないかしら?」  「さあ……」  川並はるかは、首をかしげて、「名前なんかは知らないけど、たぶん、大学の人じゃないと思います」  「大学の人じゃない、って、どうして分るの?」  「たぶん、ですけど」  と、川並はるかは、言った。「だって、相手のお《ヽ》客《ヽ》の方は、普《ふ》通《つう》のサラリーマンとか、そういう人でしょ? 大学の中で捜《さが》してたって見付からないと思うんです」  なるほど、と明子は思った。  「それにね、一度白石君とホテルに行ったことあるんですけど——ああ、結《けつ》婚《こん》する前ですよ——彼《かれ》、ホテルの部《へ》屋《や》からどこかへ電話してたのね。あれ、たぶん、その相《あい》棒《ぼう》にかけてたんだと思うんです」  「何て言ってた?」  「よく分りません。シャワー浴びてて、うるさかったから。でも、『仕事が忙《いそが》しいだろうけど』とか、『こっちはあんたと違《ちが》って学生なんだ』と言ってるのが耳に入ったんですもの」  「なるほどね……」  「でも白石君って凄《すご》く上手だったわ! 私、結婚したって聞いて、凄く奥《おく》さんに嫉《しつ》妬《と》してたんです。西川君なんて、重たいばっかりで下手《へた》くそで……。本当にすてきな人でしたねえ、白石君、って……」  「はあ」  知美は、ただ唖《あ》然《ぜん》としているばかりだった……。 19 悲《ひ》壮《そう》な決意  「死にたい」  と、白石知美は言った。  「やめてよ、この間やりかけたばっかりじゃないの」  と、明子は顔をしかめた。  しかしいかに鈍《どん》感《かん》な——いや神《しん》経《けい》の太い——いや、しっかりした明子でも、知美の気持は分らないでもない。  愛し、信じていた夫が、実は大学内で女子学生の売春のあっせんをし、退《たい》学《がく》になっていたというのだから……。  「気持はよく分るわよ」  と、知美の肩《かた》に手をかけて、「私だってあなたの立場だったら——」  でも、死にたいとは思わないわね。  よくも今まで私を騙《だま》してくれたわね! 死んでせいせいしたわ、というところか。  白石は殺された。  なぜだろう?——その売春のあっせんと関係があるのか。  「よく考えてみましょうよ」  と、明子は、知美と二人で公園のベンチに座り込《こ》んだ。  「死にたい……」  「大学は退《たい》学《がく》になっても、女の子たちと連《れん》絡《らく》が取れないわけじゃない。それなら、退学になって、ますますそのアルバイトに、精《せい》を出していたとも考えられるわ」  「死にたい……」  「そうなると、殺された理由も、それに関係があると思って良さそうね。差し当り、その相《あい》棒《ぼう》っていうのを、何とかして捜《さが》し出す必要があるわ」  「死んじゃいたい……」  「警《けい》察《さつ》に話せば、ご主人のしていたことが分っちゃうし、ここは私たちで頑《がん》張《ば》って、何とか——」  「死にたいわ……」  明子は突《とつ》然《ぜん》大声で、  「死ぬなーっ!」  と怒《ど》鳴《な》った。  知美が仰《ぎよう》天《てん》して飛び上り、その拍《ひよう》子《し》にベンチの端《はし》から落っこちた。  明子もびっくりして駆《か》け寄ると、  「大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》?」  と抱《だ》き起す。  「え、ええ……」  知美は目をぱちくりさせながら立ち上って、「凄《すご》い声ね」  「だって、あなたが『死ぬ、死ぬ』ばっかり言ってんだもの。だめよ、いくつだと思ってんの? そんなこと言うには十年——いえ五十年は早いわ」  知美は、ちょっと泣《な》き笑《わら》いのような顔になった。  「分ったわ。ごめんなさい」  「分りゃいいのよ。——じゃ、何か甘《あま》いものでも食べましょ」  明子にとっては、生きる希望は常《つね》に、食《しよく》欲《よく》と結びついているのである。  「——おお、熱い」  明子と知美は和風喫《きつ》茶《さ》なる所へ入って、おしるこを食べた。  「その点はあなたの言う通りだと思うわ」  と、知美は肯《うなず》いて、言った。  「ね? 警《けい》察《さつ》へ知らせれば、ことが公になるし——」  「できないわ、とても。彼《かれ》のご両親はいい人なんですもの」  知美は首を振《ふ》った。「でも、それじゃあ、どうやって、主人の相《あい》棒《ぼう》だった人を捜《さが》すつもり?」  「それなのよ」  と、明子は肯《うなず》いた。「何かいい方法ないかしら」  二人はしばらく考え込《こ》んだ。  「ともかく——」  と、明子は言った。「ご主人が死んだことで、あの大学の女子学生は、仕《ヽ》事《ヽ》を失ったかもしれないわね」  「それきり、何《ヽ》も《ヽ》しないかしら?」  「そこよ!」  明子はパチッと指を鳴らして、「いい? 女子大生を売り物にしてるあの手の商売って沢《たく》山《さん》あるけど、たいていは眉《まゆ》ツバものなのよ」  「へえ」  「本物の女子大生なら、男たちが鼻の下を長くして、大いに稼《かせ》げる。その貴《き》重《ちよう》な供《きよう》給《きゆう》源《げん》を、その謎《なぞ》の相棒が、そう簡《かん》単《たん》に諦《あきら》めるわけがないわ」  「というと?」  「ほとぼりがさめれば、必ず、またあの大学の女子学生たちに、手を伸《の》ばして来るに決ってるわよ」  「そこを捕《つか》まえるの?」  「捕まえたって、ご主人が殺されたことの真相をペラペラしゃべってくれるとは限《かぎ》らないでしょ」  「それはそうね」  「まず、素《そ》知《し》らぬ顔で近づく必要があるわ」  と、明子は言った。  何やら思い付いた顔つきである。  「近づく、って……。でも、一体、どうやって?」  と知美は訊《き》いた。  「その相《あい》棒《ぼう》も、あの大学で、誰《だれ》と誰がアルバイトをしてたのか、当然、知ってたはずだわ」  「あの川並はるかさんみたいな人ね?」  「まず、その子たちに、声をかけるでしょうね」  「あの人たちも、アルバイトの収《しゆう》入《にゆう》がなくなってるわけですものね」  「そうよ。一度、男と付き合って何万円かになるわけでしょ。そんなアルバイト、他にないものね」  「話が来れば喜んで飛びつくでしょうね、きっと」  「そこが狙《ねら》い目だわ」  と、明子は考え込《こ》んだ。  しばらく、考えてから——もっとも、その間は、黙《もく》々《もく》とおしるこを食べていたのだが——明子は、  「よし!」  と力強く言った。  「どうしたの?」  「それしか手はないわ」  「どういうこと?」  「その組《そ》織《しき》に入り込《こ》むの」  ——知美は、ちょっとの間、ポカンとしていたが、  「つまり……」  「女子大生なのよ、私だって。お金の欲《ほ》しい可愛《かわい》い女子大生」  可愛い、という所は、少々気がとがめたのか、声がやや低くなった。  「あなたがやるの?」  知美は目を丸《まる》くした。「いけないわ、そんな!」  「本当にやりゃしないわよ。ただ、相《あい》棒《ぼう》というのを見付けりゃいいわけなんだから。分る?」  「ええ、でも……」  知美は不安げに言った。「あなたに、もしものことがあったら……」  「大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》。私はね、そう簡《かん》単《たん》には死なないんだから」  「でもスーパーマンじゃないんでしょう?」  「失礼ね、これでも女よ」  と、明子は腕《うで》を組んだ。  「だけど、どうやって組織に入るの?」  「それはこれから考えるわ」  明子は呑《のん》気《き》に言った。  「でも——気を付けてね」  と、知美は言った。「あなたに万が一のことがあったら申し訳《わけ》なくて、私——」  そう。そういえば、白石は殺されたのだ。  それに茂木こず枝も謎《なぞ》の死をとげ、保《ほ》科《しな》光子も殺された。  それぞれが、どう関り合っているのかは分らないが、何も関係がないとは、思えなかった。  つまり——下手《へた》をすれば「消される」こともある、というわけだ。  しかし、言ってしまった以上、後には退《ひ》けない。  何とかなるさ、と明子は、口の中で、呟《つぶや》いた。    「アルバイトしようと思うの」  と明子が言った。  「ふーん」  尾形は、食事を終えて、一息つくと、「探《たん》偵《てい》ごっこには飽《あ》きたのかい?」  と言った。  「失礼ね! 『ごっこ』とは何よ!」  と明子は食ってかかった。  「ごめんごめん」  尾形は笑《わら》って、「しかし、改まって僕《ぼく》にそんなことを言うなんて、どことなく怪《あや》しげだなあ」  ——ちょっと高いレストランである。  当然、尾形のおごりだった。  「で、何をやるんだい?」  尾形はワインのグラスを取り上げて、言った。  「うん、ちょっと女子大生売春ってのをやってみようと思って」  尾形はむせかえって、咳《せき》込《こ》んだ。  「大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》?」  と、明子が身を乗り出す。  「君が——びっくりさせるじゃないか」  尾形は水をガブ飲みして、息をつくと、「冗《じよう》談《だん》はそれらしく言ってくれよ」  と、言った。  「あら、本気よ」  尾形はポカンとして、  「しかし——まさか——」  「安心して。これは手《しゆ》段《だん》なの」  「手段って、何の手段?」  「今、話したでしょ。白石のやっていた売春組《そ》織《しき》ってのが、どうも、そもそもの花《はな》嫁《よめ》変死事《じ》件《けん》に関係があるような気がするのよね」  「だからって——」  「他に方法、ないじゃない」  尾形はグッと詰《つま》ったが、  「——し、しかし、やはりそれは問題だよ」  「どうして?」  「いいかい、もし、その組織に潜《もぐ》り込《こ》めたとしても、すぐに、その相《ヽ》棒《ヽ》というのに会えるとは限《かぎ》らないぜ」  「そりゃそうよ」  「じゃ、仕事がも《ヽ》し《ヽ》来たら、どうするつもりだ?」  「も《ヽ》し《ヽ》って何よ? あなた、私みたいな女じゃ声がかからないと思ってんの?」  「変なところでむ《ヽ》き《ヽ》になるなよ」  「当然、仕事が来りゃ、やるしかないじゃないの」  尾形は顔をこわばらせた。  「だめだ! 君にそんなことはさせられない!」  「じゃ、あなた、代りにやる?」  「僕《ぼく》が?」  「いくら女《じよ》装《そう》したって無《む》理《り》でしょ」  尾形は、ゴクリとツバを飲み込《こ》んだ。椅《い》子《す》に座り直すと、  「よく聞け」  と言った。「どうしても、そんなアルバイトをやる、というのなら、二つに一つだ!」  「どの二つ?」  「僕と別れるか、アルバイトをやめるか」  尾形の真《ま》面《じ》目《め》な顔を見ていた明子は、ゲラゲラ笑《わら》い出した。  「いやだ!——本気でそんなことをやると思ったの?」  「君は——全く、もう!」  尾形は真っ赤になって、「ひどいぞ、年上の男《だん》性《せい》をからかって!」  「でも、なかなか可愛《かわい》かったぞよ」  と、明子はワイングラスを取り上げた。「乾《かん》杯《ぱい》しましょ」  「何に?」  「私と尾形君の未来に」  「人をの《ヽ》せ《ヽ》る《ヽ》のがうまいんだからな」  尾形は、苦《く》笑《しよう》しながら、それでも楽しげにグラスを手に取った。 20 明子の危《き》機《き》  「お嬢《じよう》さん」  と、声をかけて来たのは、一向にヤクザ風でもない、ごく普《ふ》通《つう》の中年の主《しゆ》婦《ふ》だった。  「私ですか?」  と、明子は顔を上げた。  A大学の裏《うら》門《もん》に近い、スナック。  まだ昼前なので、ガラ空きである。  「そう。——ちょっとお話があるの」  明子は、困《こま》ったな、と思った。  例の「アルバイト」の口をかけて来る人間に、見られようとして、ここ三日間、A大学の近くの店をうろついているのだが、一向に声もかからない。  たまにかかれば、こんな、どこかのおかみさんタイプの女《じよ》性《せい》。  きっと、生命保《ほ》険《けん》の話でもする気じゃないのかしら。  いいとも言わない内に、その主婦は、明子の向いの席に座っていた。  「あなたここの大学生なの?」  「ええ」  と、明子は肯《うなず》いた。  「大学に行かないの?」  「面白くないんだもの」  と、明子は、ちょっとワルぶって見せた。  「何をしてるわけ?」  「何をしようかって考えてるの」  「そうなの。でも、お金、あるの?」  「少しならね」  と明子は肩《かた》をすくめて見せた。  「お金、ほしい?」  「もちろんよ」  これは、ちょっと怪《あや》しいな、と明子は思った。  「いいアルバイトがあるの。どう? やらない?」  「封《ふう》筒《とう》貼《は》り? あて名書き?」  主《しゆ》婦《ふ》は笑《わら》って、  「そんなんじゃ、一か月かかって、やっと何千円かよ」  「アルバイトなんて、大体そんなもんじゃないの」  「一時間で二万円。どう?」  明子は、目をパチクリさせて、主《しゆ》婦《ふ》の顔を眺《なが》めた。  この主婦が、売春のあっせん?——まさか!  「どういうバイト?」  と、明子は聞いた。  「楽しいわよ。面白くてためになって、お金になるわ」  明子は、フフ、と笑《わら》って、  「じゃ、決ってるわね」  と、言った。  「そう。そ《ヽ》う《ヽ》い《ヽ》う《ヽ》バイトよ」  と、主婦は微《ほほ》笑《え》んだ。  「どうやって、相手と会うの?」  「待って。その前に、言っとくけど、三万円の約《やく》束《そく》なの。その内、一万円をこっちへ納《おさ》める」  「いいわ。もっとチップをもらったら?」  「それはあなたのものよ」  「へえ。——でも、何だか心配だな」  「今は危《あぶな》い時期?」  話が生々しくなって来て、明子はエヘンと咳《せき》払《ばら》いした。  「そうじゃないけど——変な相手じゃいやだしさ。こう——まともじゃないのは」  「その点は大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》。うちのお客は、上等だし、お金もあるわ。それに年《ねん》齢《れい》の行ってる人が多いから、上手よ」  「そう?」  「それに、若《わか》いのみたいに、ただやればいいってのと違《ちが》って、ムードがあるわ。絶《ぜつ》対《たい》に、楽しめるわ」  明子は、迷《まよ》っているふ《ヽ》り《ヽ》をして、  「でも、一つ心配なのよ」  と言った。  「なあに?」  「暴《ぼう》力《りよく》団《だん》とかさ、そんなののヒモつきだと、あとで怖《こわ》いじゃないの」  「その点は大丈夫」  「でも、おばさんだって、責《せき》任《にん》者《しや》じゃないんでしょ?」  「私は外交員よ」  保《ほ》険《けん》だね、まるで。  「上の人に会わせてよ。そしたら安心できるから」  「それは、まず腕《うで》を見てから」  「腕?」  「そう。お客が満足して、また会いたい、って言うようなら、合格よ」  明子は、ゴクリとツバを飲み込《こ》んだ。——こうなると、やめるわけにもいかなくなってしまう。  「いいわ」  と明子は言った。「じゃ、これが試験ってわけね」  「じゃ、商談成立ね」  と主《しゆ》婦《ふ》は、肯《うなず》いて、「待ってて」  店の赤電話の方へ歩いて行くと、どこやらへ電話をしている。  呆《あき》れたもんだわ、と明子は思った。  あんな普《ふ》通《つう》の主婦が、こんな仕事をしているんだ!  「はい。——じゃ、すぐにそこへ。——はい、それじゃ」  主婦は急ぎ足で戻《もど》って来た。  「良かったわ、ちょうど今、お客がいるの」  「え?」  「案内するわ。行きましょ」  と促《うなが》される。  明子は迷《まよ》ったが、ここで、いやだと言い出せば、もう声はかかるまい。  何とかなるさ! 明子は椅《い》子《す》をずらして立ち上った。    連れて行かれたのは、ちょっと小ぎれいなマンションの一階にある喫《きつ》茶《さ》店《てん》。  主《しゆ》婦《ふ》は店に入って、中を見回すと、週《しゆう》刊《かん》誌《し》を開いている中年の男の方へ歩いて行った。  「お待たせして」  「君が?」  と中年男が目を丸《まる》くした。  「違《ちが》いますよ」  と主婦は笑《わら》って、「入口に立ってる子です」  と、明子の方へ目をやった。  「いかがです?」  「——うん、なかなかいい」  と、中年男は肯《うなず》いた。「結《けつ》構《こう》だね」  こっちはコケコッコーだわ。明子は、仏《ぶつ》頂《ちよう》面《づら》で立っていた。  「じゃあ……」  と主婦は明子の方へやって来ると、「一時間したら、ここに来て待ってるわ」  と言って、ポンと肩《かた》を叩《たた》いた。  「しっかりね」  「どうも——」  成り行きとはいえ、少々困《こま》った事《じ》態《たい》であった。  中年男は、見たところ、そういやな男でもない。  まずは上級のサラリーマンである。  「出ようか」  と、席を立ってやって来る。  「はあ」  どうしようか?  明子が割《わり》合《あい》のんびりしているのも、いざとなれば、合《あい》気《き》道《どう》がある、と思っているからである。  ともかく、まず、どこへ行くのかを確《たし》かめよう、と思った。  それから、例の「相《あい》棒《ぼう》」の手がかりがつかめるかもしれない。  ところが、その中年氏は、外へ出ずにそのままマンションのホールへと入って行ったのだ。  「どこに行くの?」  と、明子は訊《き》いた。  「何だ知らんのか?」  「ええ」  「じゃ、本当に初めてなんだな」  と、中年氏はニヤリと笑《わら》った。  「このマンションの中に部《へ》屋《や》があるのさ」  「ここに?」  これは有力な手がかりだ、と思った。  マンションであるからには、その部屋の持主がいるはずだからだ。  よし、後で調べてみよう。  エレベーターで四階に上る。  「——四〇二号室だよ」  と、中年氏が廊《ろう》下《か》を歩きながら言った。  静かだった。どの部屋にも、人がいないのかしらと思うほどである。  「ここだ」  中年氏が鍵《かぎ》を出して、ドアを開ける。「この鍵が三万円とはね。——まあ、入って」  明子は、上り込《こ》んだ。  ごく普《ふ》通《つう》の、2LDKぐらいのマンションである。  「ここがいつも?」  と、明子は訊《き》いた。  「ああ。他にもいくつか部屋があるんだ」  「このマンションの中に?」  「あちこちさ。——さあ、時間がない」  いきなり後ろから抱《だ》きしめられて、明子はあわてて身をよじった。  「あ、あの——ちょっと——いくら何でもムードが——」  「なるほど」  と中年氏はすぐに手をほどいて、  「じゃ、アルコールをちょっとやろうか」  「そ、そうね……」  明子はホッと息をついた。  どの辺でやっつけるかな。——もう少し聞き出してから。  このおっさん、何度かここを利用しているらしい。  「——さあ、カクテルだ。甘《あま》いからね」  とグラスを二つ持って来た。  アルコールなら、明子は少々のことではへばらない。  「じゃ、乾《かん》杯《ぱい》だ」  「ええ。——乾杯」  と、明子はグッとグラスをあけた。  頭がクラクラした。足がもつれる。  手から、グラスが落ちた。立っていられない。  「私——どうして——」  明子は、床《ゆか》に座り込《こ》んでしまった。  「薬に慣《な》れてないね」  と、中年氏が楽しげに言った。「よく効《き》いたな」  「薬ですって?」  「そう。薬で動けなくなったところで楽しむのが好《す》きでね。——シャワーを浴びて来よう。その間に、君は身動きできなくなる」  口《くち》笛《ぶえ》を吹《ふ》きながら、中年氏がドアの一つの向うへ消える。  明子は這《は》って出口の方へ進もうとしたが、一メートルと行かずに、手足がしびれて、動けなくなってしまった。 21 天の助け  さすがに呑《のん》気《き》な明子も焦《あせ》っていた。  バスルームからは、中年男がシャワーを浴びている音が聞こえる。早く逃《に》げ出さないと、体が薬で言うことをきかない内に、思いのままにされてしまう!  畜《ちく》生《しよう》、薬を使うなんて、男のくせに、汚《きた》ないぞ!  しかし、今はそんな文句を言ってみたところで、助かるわけではない。自分の力で何とか切り抜《ぬ》けるしかないのだ。  さあ、明子、頑《がん》張《ば》って!  もう一度、必死で這《は》いずってみる。少しだが、体が動いた。  そうよ! その調子!  しかし、玄《げん》関《かん》までは、まだまだ距《きよ》離《り》があった。  男の方はよほどこういうことに慣《な》れているらしい。ちゃんと、動けなくなる程《てい》度《ど》の薬の量を心得ているのだろう。  居間から体半分ほど這い出たところで、バスルームから男が出て来た。  「——おや、大分頑《がん》張《ば》ったな」  と男は笑《わら》った。「しかし、残念ながら、とても間に合いそうもないね」  ああ、悔《くや》しい! 何とか手はないのかしら!  明子は、唇《くちびる》をかんだ。尾形の言うことを聞いて、おとなしくしてりゃ良かったかな。  でも、明子だって、そんないくじなしではない。  自分から危《き》険《けん》を承《しよう》知《ち》で飛び込《こ》んだのだ。自分で何とか対《たい》処《しよ》しなくては。  「さて、ゆっくり楽しむには、君をベッドの方へと運んで行かなきゃね」  男は、裸《はだか》にバスタオルを腰《こし》に巻《ま》いただけというスタイルで、明子の傍《そば》に立ってニヤついている。  「さあ、もう諦《あきら》めろ。——後になりゃ、楽しかったと感《かん》謝《しや》するようになるさ」  冗《じよう》談《だん》じゃないわよ、誰《だれ》があんたみたいな——。しかし、明子は、口も思うようにきけなかった。  「さて、どうするかな」  と男は明子を眺《なが》めて、「ここで裸《はだか》にしてから連れて行くか。それともベッドでか。——やっぱり順《じゆん》序《じよ》通り、まずベッドへ運ぼう」  男は、明子の体を仰《あお》向《む》けにすると、両《りよう》腕《うで》で、明子の体をかかえて、持ち上げようとした。  外国映《えい》画《が》で、よく逞《たくま》しい男《だん》性《せい》がヒョイと美女をかかえ上げているが、あれは日本の男性には少々危《き》険《けん》である……。  「お、割《わり》合《あい》重いな」  そうよ! 鍛《きた》えてあるんだからね!  男が真っ赤な顔をして、エイッ、とかけ声をかけて持ち上げる。  そのとたん、悲鳴が上った。  状《じよう》況《きよう》から言えば、ここで悲鳴を上げるのは明子の方だが、実際に悲鳴を上げたのは、男の方だった。  もっとも、いきなり放り出された明子だって、痛《いた》さに、ウッと呻《うめ》いたのだったが。  男の方は、それどころではない。ウーンと唸《うな》りながら、床《ゆか》に倒《たお》れて、身《み》悶《もだ》えしているのだ。  明子は苦《く》痛《つう》の中でも、一体何が起ったのかしら、と考えた。——男が、腰《こし》に手を当てて、唸りながら、喘《あえ》いでいる。  そうか。「ぎっくり腰《ごし》」だわ。  こんなときだったが、明子は笑《わら》い出しそうになってしまった。だからやめとけ、って言ったのに!  合《あい》気《き》道《どう》をやっていて、明子も、こういうは《ヽ》め《ヽ》になるといかに苦しいか、よく知っている。  あの様子では、相当にひどいらしい。  当分は動けまい。——そうなると、明子の方が有利な立場である。  明子は薬のせいで痺《しび》れているだけなのだから、効《き》き目が薄《うす》れて来れば、元に戻《もど》る。  しかし、あの、ぎっくり腰というやつは、そう簡《かん》単《たん》に治らないのだ。  ——薬の効《こう》果《か》は、意外に早く消え始めた。十分もすると、手足の感覚が戻って来て、上体を起せるようになった。  相手も何とか動こうとはしているが、苦《く》痛《つう》で脂《あぶら》汗《あせ》を浮《う》かべて、呻《うめ》いているばかり。  「——天《てん》罰《ばつ》よ、いつもこんなことしてるから」  口がきけるようになると、明子は言った。  「頼《たの》む……。誰《だれ》か呼《よ》んでくれ……」  と、男は喘《あえ》ぎ喘ぎ言った。  「前にもあったの?」  「い、いや、初めてだ」  「相当ひどいわね」  と明子が首を振《ふ》った。「それじゃ当分入院よ」  「ねえ君……お願いだから……あ、いたた……」  「いいわよ、人を呼《よ》んでも」  と、明子は肯《うなず》いて、「でも、誰《だれ》を呼ぶの? 奥《おく》さんでも?」  「おい! ふざけてる場合じゃ——」  「だって、そうじゃない。救急車を呼んだっていいけど、そうなったら、あなたの家にも連《れん》絡《らく》が行くのよ。どうして、こんなマンションで、バスタオル一つで倒《たお》れてたのか、どう奥さんに説明するの?」  男はハアハア言いながら、  「しかし——じゃ、どうすりゃいいんだ!」  「知らないわよ」  明子は頭を振った。「若《わか》い女の子に薬なんかのませて、まともな男のすることじゃないわ」  そして、ゆっくりと手足に力を入れてみる。  ——何とか立てそうだ。  「ああ、生き返った」  ソファに腰《こし》をおろすと、明子は、息をついた。——天は我《われ》を見《み》捨《す》てなかった!  男の方は転がろうとして呻《うめ》き、起きようとして叫《さけ》び、本当にひどいようだった。  「こ、こんなことをしていられないんだ!——夕方には会社へ戻《もど》らないと……」  男は必死の形《ぎよう》相《そう》で立ち上ろうとして、アーッと悲鳴を上げ、また転がる。  「会社の方にもまずいでしょうね」  と、明子は愉《ゆ》快《かい》そうに言った。「仕事さぼって、こんな所で女子大生と遊んでた、なんてね」  「ね、ねえ、君」  と男は情《なさけ》ない声で言った。「何とか立たせてくれないか。手を貸《か》してくれ」  「無《む》理《り》よ」  と、明子は言った。「そんなにひどいのは、しばらく寝《ね》てないと治らないわ。お気の毒ですけど」  「そ、そんな……冷たいことを言わないでくれ!」  「仕方ないでしょ、自分のせいなんだから」  明子は、すっかり手足の痺《しび》れも取れて、立ち上ると、ウーンと伸《の》びをした。  「でも見《み》捨《す》てて帰るのも可哀《かわい》そうね」  と、男の方へ歩いて来る。  「何をするんだ?」  男が怯《おび》えたように明子を見上げる。  「たっぷりお礼をさせてもらうわ」  明子が指をポキポキ鳴らした。  「やめてくれ!——触《さわ》られただけで死んじまうよ!」  「あなた、会社へ行きたいんでしょ」  と、明子は言って、うつ伏《ぶ》せになった男の腰《こし》の辺りをまたいで立った。「少々荒《あら》療《りよう》治《じ》をするわよ」  「おい! 何をする気だ!——やめてくれ!」  「静かにしてなさいよ」  明子が右足で男の腰をぐいと踏《ふ》んだから、男の方は、正に断《だん》末《まつ》魔《ま》の悲鳴。  「助けて! 人殺し!」  「どっちが、助けてだか……」  明子は苦《く》笑《しよう》した。「いいこと、我《が》慢《まん》するのよ——」  ——次の瞬《しゆん》間《かん》、男は凄《せい》絶《ぜつ》な叫《さけ》び声と共に気《き》絶《ぜつ》してしまった。    「いや、何とも恥《は》ずかしいよ」  ソファに腰をかけた中年男、やっと、シャツとパンツを身につけて、頭をかいた。  「どう、腰の方は?」  と明子が訊《き》く。  「うん。大分楽になった。何とかタクシーでも拾って、会社まで行くよ」  「でも、ちゃんと病院へ行かなきゃだめよ。放っとくと、また同じようになるわよ」  「ああ、そうする」  と男はため息をついた。「いや、もうこりごりだ」  「これで、少しは心を入れかえるのね」  「君は変ってるな」  と、男は明子を見た。「どこで、ぎっくり腰《ごし》を治す方法なんて憶《おぼ》えたんだい?」  「合《あい》気《き》道《どう》やってるの」  男は目を丸《まる》くした。  「手を出さなくて良かった!」  そして、ちょっと戸《と》惑《まど》い顔で、「どうして僕《ぼく》と一《いつ》緒《しよ》にここへ来たんだい?」  と訊《き》いた。  「あなたに訊きたいことがあってね」  「僕に?」  「教えてくれる?」  「何だい、一体?」  明子は、もう一つのソファに腰《こし》をおろすと、言った。  「あなた、ここを何度ぐらい使ってるの?」  「ここ、っていうと——この部《へ》屋《や》のことかい?」  「そうじゃなくて、あのおばさんの持って来た話のことよ」  「ああ……。つまり、何度ぐらいあ《ヽ》そ《ヽ》こ《ヽ》を利用してるのか、ってことだね」  「そう」  「そうだなあ」  と、男は考えて、「五、六回じゃないかな、まだ」  「五、六回ね。——そもそも、どこで知ったの?」  「町で声をかけられたんだ。——夜、飲んだ後だったな」  「声をかけて来たのは?」  「そいつが、よくあるチンピラ風の奴《やつ》だったら、こっちもごめんこうむるんだがね、一見ごく当り前の主《しゆ》婦《ふ》なんだよ」  「さっきみたいな?」  「うん、そうなんだ。で、ちょっと話を聞くと、三万円で本物の女子大生だ、っていう。そのときは本気にしてなかったんだ。酔《よ》ってたしね。ま、若《わか》い子ならいいや、と……」  「で、ついて行ったのね」  「そのときは、渋《しぶ》谷《や》の方のマンションだったな」  「その奥《おく》さん風の女って、さっきの人とは違《ちが》うのね」  「いつも別だよ。どうしてかは、よく知らないけど」  「それで、女の子と楽しんだわけね」  「まあね。——それが、どう見ても本物の女子大生なんだ。しかも可愛《かわい》くてね。すっかり気に入って……」  「病みつきってわけね」  「そういうことさ」  男は肩《かた》をすくめて、「その内、何か、変った刺《し》激《げき》がほしくなって——」  「薬で女の子を動けなくさせて、なんて、ポルノ映《えい》画《が》の見すぎじゃないの?」  「いや、でも結《けつ》構《こう》喜ぶ子もいるんだ。本当だよ」  「女子大生の方も、いつも違《ちが》う子が来ていたの?」  「うん、そうだったね。——一時、なぜだか、途《と》切《ぎ》れてて、ちょっとヤバくなったのかな、と思ってたんだけど、また久《ひさ》しぶりに声がかかって——」  「喜び勇んでやって来た、ってわけね」  「そんなところだ」  男は苦《く》笑《しよう》した。「こんなことになるとは思わなかった」  「この組《そ》織《しき》のこと、何か知ってる?」  と、明子は訊《き》いた。  「さあね。どうして?」  「それを調べてるの。ちょっと事《じ》情《じよう》があって」  「へえ。じゃ、君はアルバイトのつもりで来たんじゃないのか」  「そうよ」  「どうも、ちょっと様子が違うな、と思ったよ」  「何か知らない?」  男は考え込《こ》んだ。  「ウーン、そうだなあ……」  「何でもいいの。どんな細かいことでもいいから……」  「連《れん》絡《らく》はいつもあっちから会社へかかって来るんだ。仕事の電話みたいに見せかけてしゃべるんだけどね」  「電話をかけて来るのは?」  「男だよ、いつも」  「知ってる?」  「いや、会ったことはない。でも前は、えらい若《わか》い感じだったけど、今日は違ってたな」  その「若い男」というのは、白石だったのかもしれない、と明子は思った。  「で、あなたが、その気があると——」  「うん、約《やく》束《そく》するんだ、何時でどこ、という風にね。そこに誰《だれ》か主《しゆ》婦《ふ》らしい女が一人でやって来る」  「でも、あなた、さっきあの女の人を見て、びっくりしてたじゃないの」  「普《ふ》通《つう》は、女の子も一《いつ》緒《しよ》だからさ、君は店の入口の所にいただろう」  「あ、そうか。——でも、不思議ね。なぜ、ああいう、普通の奥《おく》さんみたいな人が出て来るのかしら?」  「それは僕《ぼく》も考えたよ。たぶん、女子大生に話をもちかけるとき、向うが安心するんだと思うね。変な男が声をかけるよりも、同《どう》性《せい》の、それも年《ねん》齢《れい》の上の人から言われた方が、何となく安心だろう」  なるほど、そうかもしれない。  しかし、それだけでは、ああいう主《しゆ》婦《ふ》が、何《ヽ》人《ヽ》も《ヽ》加わっていることの理由には、ならない……。  他に何かあるのだ、もっと……。  「——もう会社へ行く時間だ」  と男は言って、そっと腰《こし》へ手をやった。  「立てる?」  「何とか……ね。君には世話になった」  「しっかりして。手伝ってあげるわ」  明子は、男が服を着るのに手を貸《か》してやった。  「何とかなったわね」  「ありがとう。そうだ、君に——」  男は財《さい》布《ふ》を出すと、一万円札を三枚出して、「さあ、これが料金だ」  「あら、いいのよ。あのおばさんに渡《わた》す一万円札だけもらえば」  「いや、取っといてくれ。ぎっくり腰《ごし》の治《ち》療《りよう》代《だい》だよ」  明子は——あまりためらわずに受け取ることにした。  男に肩《かた》を貸して、部《へ》屋《や》を出ると、エレベーターで下へ。  「そうだ」  と男が言い出した。「一つ、思い出したぞ」  「なあに?」  「その案内役の女の一人がね、一度、どたん場で女の子に逃《に》げられてね、あわてて電話をかけてたんだ」  「へえ。どこへ?」  「どこだか分らない。でも番号がね、妙《みよう》に覚えやすくて——」  「何番?」  明子は、その番号をメモした。しかし、男の方も記《き》憶《おく》が曖《あい》昧《まい》で、局番などははっきりしないのだった。  「どこかの企《き》業《ぎよう》の代表局番だろうな」  と、男は言った。  「そうね。一が並《なら》んだりして、そんな感じだわ」  どこかで見たような番号である。——どこかしら?  エレベーターが一階につく。  あの主《しゆ》婦《ふ》が待っていた。  「ご苦労さま。——あら、どうかなさったんですか?」  と、男の方がよろけそうなのを見て言った。  「うん、実はね……」  男は明子の方をちょっと見て言った。「この子、凄《すご》くてね、こっちが腰《こし》を痛《いた》めちまったんだ……」 22 第二のバイト  話を聞いて、尾形は青くなった。  「いいか、よく聞け」  と、明子をにらみつけて、「僕《ぼく》がどうするか教えてやろう」  「このお昼をおごってくれるんでしょ?」  明子は平然とランチを平らげている。  「そうじゃない! 君のお尻《しり》を百回、ひっぱたいてやる!」  「あら、そういう趣《しゆ》味《み》があったの? 私ならどっちかというとマゾよりサドの方なんだけど」  「ねえ、君——」  「分ってるわ。でも、食べないと冷《さ》めるわよ」  「構《かま》うもんか!」  「あらそう」  明子は首をすくめて、「いいわよ、別に。どうせ私が食べるんじゃないから」  尾形はため息をついて、自分の皿《さら》に手をつけた。  「——全く、無《む》茶《ちや》ばっかりして!」  「でも、何でもなかったのよ」  「たまたま、助かったんじゃないか。もし、そいつがぎっくり腰《ごし》にならなかったら、どうなってたと思うんだ?」  「さあね」  と、肩《かた》をすくめて、「過《か》去《こ》のことに、『もしも』は無《む》意《い》味《み》よ」  「呑《のん》気《き》なこと言って……」  「問題はね、なぜ女子大生の売春に主《しゆ》婦《ふ》が出て来るか、よ」  「解《かい》決《けつ》の方法は簡《かん》単《たん》だ」  「あら、そう?」  「ああ」  「教えてよ」  「君は一切の探《たん》偵《てい》ごっこから手を引く。それで終りだ」  「ねえ、尾形君」  「何だ」  「私があのとき、何を考えてたか、分る?」  「あのときって?」  「体が痺《しび》れて、動けなかったときよ」  「知るもんか」  と尾形はふくれっ面である。  「こんなことなら、どうして尾形君にあ《ヽ》げ《ヽ》て《ヽ》おかなかったのかしら、と悔《くや》んでたのよ」  尾形の顔に、何ともいえない表《ひよう》情《じよう》が広がった。  「——本当かい?」  「本当よ」  尾形は微《ほほ》笑《え》んだ。  「ねえ、もっと、食べるかい? 何なら、AランチからCランチまで全部——」  「食べられっこないでしょ」  明子は苦《く》笑《しよう》した。  「しかし、君の言う、主《しゆ》婦《ふ》の役《やく》割《わり》だが……」  「主婦を装《よそお》ってるのかしら? でも——」  と、明子は首をかしげて、「どう見ても、本物の主婦だったけど」  「もしかすると、白石は、女子大生ばかりじゃなくて、主婦の売春にも手を出してたのかもしれないな」  「それは言えるわね」  と明子は肯《うなず》いた。  「そして主婦たちは、客とホテルへ行くだけじゃなくて、そんな風に、女の子を見付けたりすると、またいくらか手もとに入るようになってたのかもしれない」  「鋭《するど》いじゃない」  「からかうな」  と、尾形は明子をにらんだ。  「それと、茂木こず枝との関連……」  明子は、ふと眉《まゆ》を寄《よ》せた。「茂木こず枝か——」  「どうかしたのかい?」  「電話番号よ」  明子は、あの中年男から聞いた、やや不《ふ》正《せい》確《かく》な番号のメモを見て、「これはきっと会社なのね。もし、茂木こず枝のいた社のものなら——」  「会社の電話は?」  「名前は分ってるわ。白石が一時アルバイトをしていて……」  「すると白石とも接《せつ》点《てん》がある、というわけだな」  「何《ヽ》か《ヽ》ありそうね」  と明子は目を輝《かがや》かせた。「待ってて、電話帳を借りて、調べてみる」  明子はレストランのレジの方へと飛んで行くと、分厚い電話帳をめくった。  少しして戻《もど》って来る。  「どうだった?」  「どうもね……」  「だめか」  「何だか、局番がまるで違《ちが》うの。——下の番号は0と1で、よく似《に》てるけど」  「すると別なんだろう」  「どこの番号かしら?」  「かけてみたら?」  「かけてみたわよ、むろん」  「それで?」  「どれか番号が違うのね。今使われておりません、って返事よ」  「そうか……」  「ともかく、またアルバイトだわ」  と明子が言うと、尾形が、  「やめてくれよ!」  と青くなった。  「ご心配なく」  「心配するよ」  「そのバイトじゃないの。もっとちゃんとしたアルバイトよ」  「へえ」  「茂木こず枝のいた会社に、入りたいと思っているの」  尾形は、諦《あきら》め顔で、ため息をついた。    「今は求人はしておりませんが」  と、受付の女《じよ》性《せい》は冷たく言い放った。  「分ってますけど、来たんです」  明子がめちゃくちゃなことを言い出した。「ともかく、せっかく来たんですから、追い返しちゃ可哀《かわい》そうです」  明子の言うべきセリフではない。受付の女性も、仕方なく笑《わら》い出してしまった。  「じゃ、ちょっと待って」  と立ち上ると、「総《そう》務《む》の人に訊《き》いてみるわ」  「すみません」  明子は、ピョコンと頭を下げた。  押《ヽ》し《ヽ》の一手である。  受付の女《じよ》性《せい》は、すぐに戻《もど》って来た。  「——ちょうど、今なら仕事があるってことですよ」  「助かったわ!」  と、明子は飛び上った。  助からないのは尾形だったろう……。 23 哀《かな》しげな男  「私、永戸明子は、こんなことをしていていいのだろうか? 有《ゆう》能《のう》な人物が、封《ふう》筒《とう》のの《ヽ》り《ヽ》付などをやるのは、社会的損《そん》失《しつ》ではないか?」  ——まあ、しかし、アルバイトの身、それも「押《お》しかけ女《によう》房《ぼう》」ならぬ「押しかけバイト」なのだから、あまり偉《えら》そうな口もきけないのである。  茂木こず枝が働いていた、この会社、まあ「中小企《き》業《ぎよう》」という呼《よ》び名がふさわしい、パッとしない会社であった。  今どきはやらないタイムレコーダーなどを備《そな》えつけ、コピーの機械も、やたらに大きい、旧《きゆう》式《しき》なもの。封筒だって、今はギュッと手で押《お》すだけでくっつくのがあるのに、大きなは《ヽ》け《ヽ》で、ベタっとの《ヽ》り《ヽ》をつけて一つずつ封《ふう》をするのである。  オフィスの十年前、といったTV番組でも見ているような気分だった。  しかし、それだけに、働いている人間も、のんびりしている。  どうも、現《げん》代《だい》の猛《もう》烈《れつ》なOA戦争、マイコン、コンピューターといったものからは、ポツンと取り残されている感じなのである。  封《ふう》筒《とう》にの《ヽ》り《ヽ》をつけている今は、午後一時半で、当然、午後の仕事は始まっているのだが、何人かの男《だん》性《せい》社員は、スポーツ新聞などを広げている。  女子社員は、といえば、これはおしゃべりに時を忘《わす》れているのだ。  あまり、「充《じゆう》実《じつ》した時間」とはいえないが、明子の如《ごと》く、情《じよう》報《ほう》収《しゆう》集《しゆう》のためにやって来た人間には、ピッタリの職《しよく》場《ば》とも言えた。  「あんまり精《せい》を出さなくてもいいわよ」  タバコをふかしながら、フラリとやって来たのは、どこの会社にも、たいてい一人や二人はいる、「主《ぬし》」のような女《じよ》性《せい》。  四十代か五十代か、見分けのつかない化《け》粧《しよう》をして、女の子たちににらみをきかせている。——社長だろうが部長だろうが、何だってのよ、って感じである。  「はい」  ちっとも精を出してなんかいなかった明子は、少々後ろめたい思いで、でも言われるままに手を休めた。  「うちはバイト料も安いんだからさ、それくらいのことをやっときゃいいの」  と、大《おお》欠伸《あくび》をする。  「はあ」  「よくうちなんかで働く気になったわね」  「別に、どこでも同じようなものかと思って——」  「大《おお》違《ちが》いよ、あんた」  と手を振《ふ》って、「普《ふ》通《つう》の所なら、バイト料はうちの一・五倍よ。あんたも、よそを捜《さが》した方がいいよ」  やれやれ、こういう人にかかっちゃ、会社も大変だな、と明子は思った。  「今はいい稼《かせ》ぎ場所があるじゃないの」  と、その「主《ぬし》」は続けて、「ソープランドとか、ノーパン喫《きつ》茶《さ》とかさ。あんたなんか、結《けつ》構《こう》可愛《かわい》い顔してんだし、そっちでガバッと稼いだら?」  まさか、このおばさんまで、売春の仕事をしてるわけじゃないだろうな、と明子は思った。  いや、そんな感じではない。一見怖《こわ》そうだが、実《じつ》際《さい》は——やっぱり怖いのだ。  しかし、こういう人は、結構、若《わか》い人の相談相手になったりもする。  大体、この手の人は二通りで、底意地が悪くて、若い子たちに嫌《きら》われるか、口やかましいが、その割《わり》に頼《たよ》りにされるかだ。  この人の場合は、いい方じゃないのかな、と明子は思った。  「ここはね、三時から三十分間休めるのよ」  と「主」は言った。  「え? でも、そんなこと、説明されませんでしたけど」  「当り前よ。これは慣《かん》例《れい》、ってやつなの。既《き》成《せい》事実よ。——社長だって、何も言わないのよ」  「へえ」  「だから、バッチリ休んで構《かま》わないのよ」  と、ウインクして見せる。  「また、八《はつ》田《た》さんは——」  と、若《わか》い男の声がした。「だめですよ、純《じゆん》情《じよう》な若い女の子に、そういうことを教えちゃあ」  やって来たのは、声の印象ほど若くもない、三十前後の、こんな会社にしては、ちょっと目につく、いい男だった。  「よっ、色男」  と、八田、と呼ばれたその「主《ぬし》」が、からかった。  「早速若い子の所へ寄《よ》って来たね」  「人聞き悪いなあ」  と、その男は苦《く》笑《しよう》した。  丸《まる》顔《がお》のポチャッとした、童顔で、目がクリッとして可愛《かわい》い。  しかし、あまり明子の好《この》みではなかった。  「僕《ぼく》は丸《まる》山《やま》。——このおばさんは、八田吉《よし》子《こ》っていうんだ。あんまり近寄《よ》らない方がいいよ。売れ残り病が移るからね」  「何よ、こいつ!」  と、八田吉子が殴《なぐ》るふりをする。  適《てき》当《とう》にじゃれ合っている感じなのだ。明子は笑《わら》ってしまった。  「永戸明子です」  「丸山君はね、三十になって独《どく》身《しん》なのよ。プレイボーイの評《ひよう》判《ばん》高いの。——気を付けなさい」  「噂《うわさ》だけですよ」  丸山はタバコに火を点《つ》けた。  「あんた大学生?」  と、八田吉子が、明子に訊《き》く。  「ええ。でも、停学処《しよ》分《ぶん》を食らっちゃって——」  「へえ! 何をやったの?」  「強《ごう》盗《とう》か、殺人か——」  「まさか」  と明子は笑って、「自殺未《み》遂《すい》なんです」  と言った。  「まあ! その若《わか》さで、もったいない!」  これは明子の、もちろんでたらめである。  何とか、茂木こず枝のことへ、話を持って行きたいので、創《そう》作《さく》したのだった。  「どうしてまた……」  「正《せい》確《かく》に言うと、心中未《み》遂《すい》なんです」  と、明子は言った。  「まあ、今でも心中する人なんているの!」  と、八田吉子は感心したように言った。  「私も、カーッとなってたもんですから」  「で、相手は? 死んだの?」  「いいえ、二人とも大したことなくて。睡《すい》眠《みん》薬《やく》服《の》んだんですけど、今の睡眠薬って、そう死なないんですよね。——結局、見付かって大《おお》騒《さわ》ぎ」  「で、その彼《かれ》とは?」  「変なもんで、そんなことがあると、フッ切れちゃうんです。別れて、今は未《み》練《れん》もありません」  ウム、なかなか名《めい》演《えん》技《ぎ》である。明子は自分でも感心していた。  さり気ない哀《かな》しさ、というのは、なかなか出せないものである。——私、女《じよ》優《ゆう》になろうかしら、などといい気になっている。  「そうよ。男なんて、どれも似《に》たり寄《よ》ったりで、大したことないの。それを悟《さと》ると、私みたいに独《どく》身《しん》も楽し、ってことになっちゃうのよ」  と、八田吉子は言った。  ふと、明子は、丸山が、目をそらしているのに気付いた。  どこかわざとらしい。話を聞いていないふ《ヽ》り《ヽ》をしているようだ。  「この会社だって、あのこず枝さんがさ——」  と八田吉子が言いかけると、  「八田さん、だめですよ」  と、丸山が遮《さえぎ》った。「社長から、しゃべるなと——」  「何よ、あんなカボチャ」  カボチャ?——社長をカボチャとは、大したもんだ。  「こず枝さんって?」  と、明子が訊《き》く。  「茂木こず枝、ってね、ここの社員だったのよ。ところが自殺。——ほら、結《けつ》婚《こん》式場で花《はな》嫁《よめ》衣《い》裳《しよう》のまま死んでいた、って、記事、見なかった?」  明子は、少し考えるふりをして、  「——ああ、憶《おぼ》えてますわ。ウエディングで死んでいたんでしたわね。じゃ、ここの方だったんですか?」  「そうなのよ。もしかしたら他殺かも、なんていわれてね、警《けい》察《さつ》が来て、何だかんだ訊《き》いて行ったりして、大変だったのよ」  「そうでしょうね」  と、明子は肯《うなず》いた。  「あ、そうだ、電話をしなきゃ」  と、丸山が、ちょっとわざとらしく言って、席へ戻《もど》って行く。  どうやら、丸山と茂木こず枝の間に、何《ヽ》か《ヽ》あったらしい。  明子のアンテナは、鋭《するど》く第六感を働かせていた。  「そのこず枝さんって方は、やっぱり失《しつ》恋《れん》だったんですか?」  と、明子は訊《き》いた。  「さあ、それが分らないのよ」  と、八田吉子は首を振《ふ》った。「私も、そういうことはよく知ってるんだけどね。でも、あの子は、割《わり》合《あい》にいつも一人でいる子だったわ」  「お友だちでもいれば違《ちが》ったんでしょうけどね」  「そうね。やっぱり、あれこれ推《すい》測《そく》が飛んでたけど、きっと、許《ゆる》されない恋《こい》に身を焦《こ》がしてたんじゃない?」  八田吉子の口から、思いもかけず、ロマンチックな表《ひよう》現《げん》が出て来て、明子はびっくりした。  働いていると、一日は短い、とよく言われている。  しかし、明子のこの一日は、至《いた》って長かった。——あまり熱心に働いていなかったせいかもしれない。  「ご苦労様」  と、隣《となり》の席の女の子が声をかけて来た。「真直ぐに帰るの?」  「いえ、別に、どうでも——」  「じゃ、ちょっと飲んでかない?」  「お酒ですか?」  「コーヒーとケーキ」  と言って、クスッと笑《わら》う。  なかなか、気さくな感じの女の子だった。  「——茂木さんって変ってたのよ」  と、その女の子——小《こ》沼《ぬま》宏《ひろ》子《こ》は、ケーキを食べながら言った。  ——会社の近くのケーキ屋。二階が、喫《きつ》茶《さ》になっているのである。  「変ってるって?」  「どう言ったらいいのかしら……。つまり変ってるのよ」  明子はため息をついた。——今の若《わか》い世代の表《ひよう》現《げん》力《りよく》の貧《まず》しさたるや!  「恋《こい》人《びと》って社内の人だったのかしら?」  「そう思うわ」  と、小沼宏子は肯《うなず》いた。  「よく分るわね。八田さんは、分らないって……」  「私、電話を取るもの」  と、小沼宏子は言った。  「え?」  「外からの電話を取るの。だから、男《だん》性《せい》からかかって来れば、私には分るのよ」  「ああ、なるほど。で、茂木さんにはかかって来なかったのね?」  「そう。といって、彼女、休み時間にも、外へあまり出なかったから、自分からも電話してないわけでしょ。——男とそんな深い仲《なか》になって、一回も電話のやりとりがないなんて考えられないわ」  これは、なかなか、説《せつ》得《とく》力《りよく》のある意見だった。  座席からは、ちょうど会社の入っているビルの出入口を見下ろすことができた。  ちょっと話が途《と》切《ぎ》れて、何気なく外を見た明子は、あの丸山という男が、出て来るのを目に止めた。  あの人、きっと何か知っている。  「あっ!」  と、明子は突《とつ》然《ぜん》、声を上げた。  びっくりした小沼宏子が、ケーキをつまらせてむせ返る。  「ごめんなさい! 大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》?」  「ええ——何とか」  「ちょっと、約《やく》束《そく》があったの、忘《わす》れてた。悪いけど失礼するわ」  代金を置いて、まだむせている小沼宏子を残し、明子は表に飛び出した。 24 運命の皮肉  どこへ行くんだろう?  明子はいい加《か》減《げん》くたびれてしまった。  ずっと丸山の後をつけているのだが、一体どこへ行くつもりなのか、さっぱり分らないのだ。  バーへふらりと入ったと思うとすぐに出て来るし、かと思うと、女の子ばっかりの甘《かん》味《み》喫《きつ》茶《さ》へ入ったり、次は焼鳥屋を覗《のぞ》いたり。  ——どうやら、誰《だれ》かを捜《さが》しているらしいのだが、ちょっと様子がおかしかった。  コートをはおって、えりを立て、顔を、半ば埋《う》めるようにしている。  そして背《せ》中《なか》を丸《まる》めて、うつ向き加減に、顔を見られないようにしながら、歩いているのだった。  秘《ひ》密《みつ》めいている。——ちょっと明子は興《きよう》味《み》が湧《わ》いて来た。  スナックやバーがひしめき合っている細い通りを尾《び》行《こう》していると、フッと丸山の姿《すがた》が見えなくなってしまった。  「あれ?」  と、キョロキョロ見回してみるのだが、どこにもいないのだ。  とすると、この近くの店に入ったに違《ちが》いないのだが……。  明子は、手近なバーを覗《のぞ》いてみた。  いない。では、その隣《となり》。やはり、いない。  ——残るは一軒《けん》だけだ。  ちょっと重々しいその扉《とびら》を引いて、中へ入る。  ——明子は、やや戸《と》惑《まど》った。  いやに静かなのである。他のバーとはまるで違う。  そして、笑《わら》い声だの、カラオケだのも一切聞こえず、店の中は割《わり》合《あい》と広いのに、薄《うす》暗《ぐら》くて、よく見えないのである。  「——何か用?」  とやって来た女を見て、明子は、ちょっと妙《みよう》な感じがした。  「あの——人を捜《さが》して——」  「じゃ、入ったら?」  「どうも……」  カウンターには客の姿《すがた》がなく、みんな、テーブルの方にいるらしい。  そしてテーブルは一つ一つ、仕切りがあって、見えないようになっているのだ。  こりゃ、何だか妙な所へ来ちゃったわ、と明子は思った。  「ねえ、誰《だれ》を捜しに来たの?」  と訊《き》かれて、  「ええ、あの——」  と、相手の顔を見る。  目を見《み》張《は》った。——男なのだ!  化《け》粧《しよう》をして、髪《かみ》も染《そ》め、ホステス風のスタイルだが、男《ヽ》だ《ヽ》。  そうか。ここはそういう店なのだ。  丸山がここへ入って来たとしたら……。  「おい!」  怒《おこ》ったような声がした。振《ふ》り向くと丸山が立っている。  「何しに来たんだ!」  仕方ない。これじゃ、さり気なく話を切り出すわけにもいかない。  「お話があるんです」  と言った。  「何だ? 君は一体——」  「茂木こず枝のことで」  丸山の顔色が変った。    「そうか」  丸山は、公園のベンチに腰《こし》をおろしながら言った。  「じゃ、君は、彼女《かのじよ》の死について調べているんだね」  「そうです。——何か知っていたら、教えて下さい」  明子は、丸山が、考え込《こ》んでいるのを、じっと見ていた。——どことなく、哀《かな》しげな光景である。  「しかし、僕《ぼく》はよく知らないんだよ」  と、丸山は言った。「本当だ。——確《たし》かに、彼女とは仲《なか》が良かった。でも、恋《こい》人《びと》同士とか、そんなことじゃなかったんだ」  「じゃ、どういうことで……」  「僕は、君もさっき見た通り、女《じよ》性《せい》と話はできても、愛するということはできない。そういう人間なんだ」  「で、こず枝さんとは——」  「彼女も、どちらかといえば、無《む》口《くち》で、孤《こ》独《どく》なタイプだった。よく、オフィスでは話もしたよ。——その彼女が、一年くらい前かな、僕に相談したいことがある、と言って来たんだ」  明子は肯《うなず》いた。  「僕はちょっと心配になった。もし、彼女に愛してるとでも言われたら、と思ってね。——彼女《かのじよ》がとてもいい人だったから、余《よ》計《けい》に心配だったんだ」  「何となく分ります」  「彼女の話を聞いて、僕《ぼく》はびっくりした。——彼女は僕のことを、よく知ってたんだ。でも、今まで通り友だちでいてほしい、と言った」  「相談っていうのは?」  「うん。で、彼女は、妻《さい》子《し》持ちの男と恋《こい》をしている、と打ち明けてくれたんだ」  「妻子持ちの男……」  「名前は言わなかった。そして、彼《かれ》が必ず奥《おく》さんと別れて、結《けつ》婚《こん》してくれる、というんだ」  丸山は首を振《ふ》った。「怪《あや》しいもんだ、と思ったが、そうは言えなかった。——彼女は相手を信じ切っていたんだよ」  「気の毒に……」  「で、彼女は、その男と付き合っていることを、会社の他の人たちに知られたくない、というんだ」  「当然でしょうね」  「で、僕と表向き、付き合っていることにしてくれないか、と言った。  僕の方も、それぐらいなら構《かま》わない、と承《しよう》知《ち》したんだ。——彼女は涙《なみだ》を流さんばかりにして喜んでいたよ」  「それで、一《いち》応《おう》恋《こい》人《びと》同士ということに?」  「しかし、何も、わざわざ宣《せん》伝《でん》することもない。だから、もし、どうしても仕方ないときだけは、そういうことにしよう、と決めたんだ」  「それで、みんなあまり知らなかったんですね?」  「そう。——彼女《かのじよ》の恋《こい》は、しかし、うまく行ってなかったようだったな」  「つまり、相手の男が——」  「いつまでも、はぐらかして逃《に》げていたらしいよ。彼女も、段《だん》々《だん》男が信じられなくなって来て、よく僕《ぼく》と二人のときに泣《な》いていたよ」  許《ゆる》せない!  明子は怒《いか》りが湧《わ》き上って来るのを感じた。  「あの日——つまり、彼女が死んだ日だね、あの前の日に、彼女と会っていたんだ」  「何か言ってましたか」  「ずいぶん明るい表《ひよう》情《じよう》だったね。——僕に『私、目が覚めたわ』と言った。『もう、あんな人のこと、忘《わす》れるわ』ともね」  「そうですか」  「僕も、その方がいい、と言ってやった。まさかその次の日に……」  丸山は、ため息をついた。「ショックだったよ。彼女を愛していたわけでは、もちろんない。でも彼女は本当にいい人だった」  明子は、丸山の横顔を見ていた。  ——嘘《うそ》ではあるまい。  「よく分りました」  と、明子は言った。「相手の男のことで、何か憶《おぼ》えてません? どんな細かいことでもいいんですけど」  「さあねえ……」  と、丸山は首をひねった。「あんまり話さなかったからね、彼女《かのじよ》は」  「そうですか……」  明子はがっかりした。  「でも——」  「え?」  「何か言ったような気もするな。——何だったかな」  丸山は考え込《こ》んでいた。「何か、その男の職《しよく》業《ぎよう》……。仕事のことを言ってたな」  「どういう仕事でした?」  「それが、よく憶《おぼ》えてないんだ。何だか、『こんな仕事をしてるなんて、皮肉なもんだわ』って言ったのを憶えてるよ」  「皮肉?——そう言ったんですか?」  「うん。それはよく憶えてるんだ。しかし——何の仕事だったかな。どうしても思い出せない」  「そうですか」  明子は、無《む》理《り》に押《お》さないことにした。「じゃ、もし思い出したら、ぜひ電話をして下さい」  「うん。分った。僕《ぼく》も、あの相手の男には、何とか思い知らせてやりたいからね。頑《がん》張《ば》ってくれ」  「ええ、必ず見付けてやります」  と、明子は言って立ち上った。  「あ、そうだわ」  「まだ何かある?」  「いえ、アルバイト、すみませんけど、一日でやめることにしました。そう伝えといていただけません?」  と、明子は言った。    明子は家へ帰ると、自分の部《へ》屋《や》のベッドにゴロリと横になった。  謎《なぞ》はいよいよ深まるばかりである。  しかし、あの丸山から、もし、男の仕事でも分れば、手がかりになるかもしれない。  それにしても、「皮肉」というのは、どういう意味なのだろう?  信じ続けて裏《うら》切《ぎ》られた茂木こず枝。  これは正に殺人以上に罪《つみ》が深い、といってもいい。  「——明子」  母の啓子が、声をかけて来た。「お電話よ」  「誰《だれ》から?」  「佐田さんっていう人」  佐田?——佐田房夫だ!  「男の人?」  「いいえ女の方よ」  すると千春からだ。  明子は急いで部《へ》屋《や》を飛び出した。  「——もう少ししとやかにしなさい!」  啓子の言葉は、とうてい追いつかなかった。 25 千春との再《さい》会《かい》  〈二十四時間営《えい》業《ぎよう》〉  この文字を見ると、明子は何となくホッとする。  といって、明子がいつもそんな店のお世話になっているわけではないが、ともかく、何時に閉《し》まる、というのでなく、  「い《ヽ》つ《ヽ》も《ヽ》開いている」  という点が、安心感をもたらすのである。  しかし、その手の店が、「味は二の次」となるのもまた仕方のないところだろう。  明子は夜、十二時十五分前に、ファーストフードの店へと入って行った。  ハンバーガーだの、フライドポテトなんかを売っている、若《わか》者《もの》向けの店だ。  中を見回す。——まだ佐田千春は来ていなかった。  十二時の約《やく》束《そく》だ。少し早かったな、と明子は思った。  「いらっしゃいませ」  カウンターで、男の店員が眠《ねむ》そうに声をかける。  「あ、えーと、ハンバーガーとコーヒー」  ちゃんと夕食は取ったのだが、何か頼《たの》まないと悪いような気になっているのだ。そういう点、明子は意外と(?)気が弱いのである。  他には、いいトシのおじさん風の客が一人いるだけ。静かなものだった。  椅《い》子《す》に座って、電子レンジで温めたハンバーガーをパクつく。  もちろん、高級フランス料理と比《ひ》較《かく》はできないが、この手のものには、それなりのおいしさがあるのだ。  「それにしても……」  と、明子は呟《つぶや》いた。「二十四時間営《えい》業《ぎよう》で年中無《む》休《きゆう》。入口のシャッターは、何のためについているんだろう?」  あまり大した問題でもなかった……。  千春は、電話で、何一つ詳《くわ》しいことを言ってくれなかった。ただ、  「ごめんなさい、この間は、失礼なことしちゃって」  と、明子を放り出したことを詫《わ》びてから、「お話があるの。今夜十二時に、交差点の角の——」  つまり、この店に来てくれ、ということだったのだ。  何だか話し方からして急いでいるようだったので、明子も、しつこくは訊《き》かなかった。ここで会えるのなら、ゆっくり話ができるだろう。  ダダダ、と機《き》関《かん》銃《じゆう》みたいな音がして、店の前に、オートバイが停《とま》った。  暴《ぼう》走《そう》族《ぞく》の見習いのなりそこないみたいな、高校生ぐらいの男の子が三人、やたらいきがって入って来る。  そしてハンバーガーをパクつきながら、店の中を眺《なが》め回し——運の悪いことに——明子に目を止めたのだった。  「おい、姉ちゃん」  と、一人が寄《よ》って来た。「一人かよ?」  「二人に見えるんだったら、眼《がん》科《か》へ行った方がいいわよ」  と、明子が言った。  「言ってくれるじゃないか」  と、笑《わら》って、「なあ、どうせヒマなんだろ。付き合えよ」  明子は放っておくことにして、コーヒーを飲んだ。  ——もうすぐ十二時だ。  「おい、口がきけねえのか」  と、ちょっかいを出して来る。  「うるさいわよ、坊《ぼう》や」  と、明子は言ってやった。  「何だと?」  サッと顔色が変る。「おい、『坊や』だって? 俺《おれ》たちをなめんなよ」  「猫《ねこ》じゃあるまいし」  と、明子はニヤリと笑った。「猫ならきっと喜んでなめてくれるわよ。ミルクの匂《にお》いがするから」  「この野《や》郎《ろう》——」  三人で明子を囲むように立つと、  「おい、ちょっと顔貸《か》しな」  と来た。  やれやれ……。  明子は、食後の運動にいいかしら、などと考えながら、立ち上った。  「外でゆっくり話そうじゃねえか」  「忙《いそが》しいのよ。あんまり時間ないわ」  「こっちはたっぷりあるぜ」  明子は肩《かた》をすくめて、さっさと表へ出た。三人があわててついて来る。  振《ふ》り向きざま、明子は先頭の一人の腕《うで》を、ぐい、とつかんだ……。    「お先に失礼します」  店の奥《おく》から出て来たのは——千春だった。  「今、出ない方がいいよ」  と、客の男が言った。「女の子が不良にからまれてる」  「まあ」  千春は、ちょっと不安そうに眉《まゆ》を寄《よ》せた。「まさか、永戸さん——」  と呟《つぶや》くと、明子が入って来る。  そして、千春を見て目を丸《まる》くすると、  「あ! それじゃ、十二時って言ったのは——」  「ここの勤《きん》務《む》が十二時までなの」  と、千春は言った。  「何だ、そうだったんですか」  と、明子は笑《わら》って「でも——もういいんですか?」  「ええ。じゃ、出ましょうか」  と、千春はカウンターから出て来て、明子と一《いつ》緒《しよ》に外へ出た。  ウーン、という唸《うな》り声に周囲を見回すと、何やら男が三人、あちこちに倒《たお》れて、唸っているのだ。  「どうしたのかしら?」  と千春が言った。  「たぶん、ハンバーガーにでも当《ヽ》っ《ヽ》た《ヽ》んじゃないかしら?——さて、行きましょうよ」  と、明子は促《うなが》した。    よくまあ似《に》たようなアパートがあるもんだ、と思うほど、前のアパートそっくり。  「ご主人は?」  と、上り込《こ》んで、明子が訊《き》いた。  「私一人」  千春がお茶を出しながら、「あの人、行《ゆく》方《え》不明なの」  と、大して心配そうでもない様子。  「へえ」  明子は、ちょっと目をパチクリさせた。「いいんですか、放っといて?」  「自分から行方不明になったんだから、仕方ないでしょ」  「自分から?」  「隙《すき》をみて、屋《や》敷《しき》から抜《ぬ》け出したのよ、二人で。で、あの人を公園に待たせといて、私はアパートへ戻《もど》ったの。色々と大事な物だけ持って、公園に帰ってみると——」  「いなかったんですか?」  「そういうこと。——あの人、何を考えてるのかよく分んない所があって」  その点は、明子も同感だった。  「で、それきり?」  「ええ。——その内、前のアパートに帰って来るでしょ」  千春は、至《いた》って呑《のん》気《き》なものである。  妙《みよう》な夫《ふう》婦《ふ》だ、と明子は首をひねった。  「あなたの——茂木こず枝——といったっけ、死んだ女の人」  「ええ」  「調《ちよう》査《さ》の方は進んでるの?」  「うーん、何というか……。いくつか手がかりはあるんですけどね」  明子としても、その程《てい》度《ど》のことしか言えない。  手がかりらしきものも、てんでんばらばらで、何ともうまくまとまらないのである。  「でも、ともかく、何とか突《つ》き止めてみせますわ」  と、明子は肯《うなず》きながら言った。「そうでないと、あの人が哀《あわ》れですもの」  「そうねえ。女を、『妻《つま》とは別れるから』って騙《だま》し続けるなんて、本当に残《ざん》酷《こく》なことだわ」  「ああ、そうだわ」  と、明子は思い出した。「この間、お宅《たく》から叩《たた》き出されたとき、妙《みよう》な人に会ったんですよ」  「妙な人って?」  「あの屋《や》敷《しき》と土地の持主だとか自《じ》称《しよう》していて……」  千春が、一《いつ》瞬《しゆん》青ざめた。  「もしかして——その人、中松進《しん》吾《ご》っていわなかった?」  「ええ、そう言ってました。千春さんと婚《こん》約《やく》しているとかいって……」  千春は頭をかかえるようにして、  「ああ——まだそんなこと言ってるのか……」  と呟《つぶや》いた。  「あの人、ちょっとおかしいんですか?」  「いいえ」  と、千春は首を振《ふ》った。「大《ヽ》分《ヽ》、おかしいの」  なるほど、と明子は肯いた。    翌《よく》日《じつ》は、昼ごろやっと起き出した。  何しろ帰ったのが午前三時だ。それでも、寝《ね》不《ぶ》足《そく》なのである。  「一体、何をしてるの?」  母の啓《けい》子《こ》は、半分諦《あきら》め顔で文句を言った。  「まあ、色々忙《いそが》しいのよ」  「危《あぶな》いアルバイトでもしてんじゃないでしょうね」  「危いアルバイトって?」  「ソープランドとか、売春とか。——ああいうのは危いわよ」  「まさか私が——」  と、明子は笑《わら》ったが、内心ヒヤリである。  捜《そう》査《さ》のためとはいえ、その真《ま》似《ね》事《ごと》はやったわけだ。  「そりゃ、大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》だとは思うけどね」  と、啓子は真顔で、「でも、今は男の人も女なら何でもいいって人がいるみたいだから……」  「どういう意味、それ?」  明子が少々頭に来て言うと、ちょうど仲《ちゆう》裁《さい》にでも入るように電話が鳴った。  啓子が出て、  「——あ、どうも、尾形さん。——ええ、おります。やっと起きたところなんですよ。何しろゆうべなんか——」  明子はあわてて受話器を引ったくった。  「ああ、私よ。——え?」  「また危《あぶな》いことをやってるんじゃないのかい?」  「いいえ、とんでもない」  と、澄《す》まして答える。  「怪《あや》しいもんだな。——ともかく、一ついい知らせがあるんだ」  と、尾形は、ここでぐっと改まって、「当大学としては、永戸明子の停学処《しよ》分《ぶん》の解《かい》除《じよ》を決定したので、申し伝えます!」  「え? 解除?」  「そう。大分苦労したんだぜ、僕《ぼく》も駆《か》け回ってさ」  「そう……。良かったわね」  と、まるで他人の話みたい。  「ちっとも嬉《うれ》しくなさそうだね」  「いいえ! そんなことないけど」  「明日からは講《こう》義《ぎ》に出てもいいよ」  「そうね。でも——ちょっと忙《いそが》しいの。これが片《かた》付《づ》いたら、出るようにするわ」  「おい、君ね——」  「ねえ、今日、例のバイト先に行ってみるつもりなの。結《けつ》婚《こん》式場の方よ。あなた、どうせヒマでしょ? 来ない?」  「どうせヒマとは何だ! 講義があるんだよ、僕は」  「あら、よかったら式場の予約でもしようかと思ったのに。——じゃ、またね」  「おい、何だって? おい!」  明子はすげなく、電話を切った。 26 人《ひと》違《ちが》いのナイフ  「なるほど」  と、肯《うなず》いたのは、検《けん》死《し》官《かん》の志水である。「大分、活《かつ》躍《やく》したようですな」  「危《あぶな》いこともやったようだね」  と、社長が愉《ゆ》快《かい》そうに言った。「いや、君は実に面白い女の子だね。大学を出たら、ぜひうちへ来てくれ」  「いや、婦《ふ》人《じん》警《けい》官《かん》にぴったりです」  と、志水。  時ならぬ「スカウト合戦」に、明子は、あせって、  「今、そんなお話をされても——」  ——ここは、結《けつ》婚《こん》式場の社長室である。  志水の方から、その後どうなったのか気にして電話があり、明子の方も、「中間報《ほう》告《こく》」をしようと、やって来たわけであった。  「ともかく、茂木こず枝が、誰《だれ》か妻《さい》子《し》ある男と付き合っていたということは、勤《つと》め先の同《どう》僚《りよう》、丸山の話で明らかなんです」  と、明子は言った。  「しかし、そうなると、この式場で死んだことにどういう意味があったのかな」  と、社長が顎《あご》をなでながら言った。  「そうなんですよね」  「つまり、当日、式をあげた人とは関係ないということになるかな」  と、志水が考え込《こ》む。  「それはどうでしょう。ともかく、佐田房夫って人が、茂木こず枝の名に聞き憶《おぼ》えがあるのは確《たし》かなようですし」  「それが不思議だね」  「それに白石紘《こう》一《いち》が殺されたこと」  「何か関係があるのかな」  「分りません」  と、明子は首を振《ふ》った。「でも、この事《じ》件《けん》が起って、とたんに殺されたというのも、おかしくありません?」  「うん、それはそうだな」  と、社長が肯《うなず》く。  「その女子大生の売春のことと、何か関係があるんでしょう」  と、志水が言った。「その白石という男の検《けん》死《し》をした検死官に、一《いち》応《おう》話を聞いてみました」  「何かおっしゃってましたか?」  「刺《さ》し傷《きず》は至《いた》って鮮《あざ》やかだったそうでね」  「というと——」  「つまり、これは半ばプロのやったことじゃないか、というんですな」  「プロ。——つまり、殺し屋ですか?」  と、明子は目を丸《まる》くした。「そんなの本当にいるのかしら」  「いや、別に『殺し屋』でなくたっていいんです。いわば、刃《は》物《もの》を扱《あつか》いなれた人間、ということですよ」  「となると、やはり、白石という男は、その売春がらみで殺された、というのが正《せい》解《かい》だろうね」  と、社長が肯く。  そこへ、ドアが開いた。  「社長、実は——」  と顔を出したのは、部長の村川である。  明子を見て、ちょっと面白くなさそうな顔になる。  「何だ、君か」  「何だ、部長か」  明子が言い返すと、社長が吹《ふ》き出してしまった。  「ちょっと待ってくれ。すぐに行く」  「はあ……」  村川は、明子をにらんで、出て行った。  「じゃ、私は——」  と、社長が立ち上る。「会議があるので、失礼する」  「どうも」  明子はちょっと頭を下げた。「あの——このまま、捜《そう》査《さ》を続けてよろしいでしょうか」  「うん。やってくれ。もっとも、あんまり危《き》険《けん》なことをやってもらっても困《こま》るが」  「大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》です!」  「じゃ、栄養をつけてくれ」  と、社長は、ポケットから券《けん》を一枚出してサインすると、「ここの食堂なら、何を食べてもこれでいいよ」  「ありがとうございます!——一回限《かぎ》りですか?」  と、明子は訊《き》いた。    志水と明子が社長室を出て、食堂のあるロビーの方へ歩いて行くと、  「おい!」  と、声がかかった。  振《ふ》り向くと、尾形が急ぎ足でやって来るところである。  「あら、講《こう》義《ぎ》じゃなかったの?」  「君が変なことを言うからだ」  と息を切らしている。  「私、何か言ったっけ?」  「予約がどうとか——」  「ああ、あれね!」  と、明子は指を鳴らした。「ちょうどお昼を食べるのにね、テーブルを予約しようかと思って——」  「また、僕《ぼく》をからかったな!」  と、尾形は明子をにらんだ。「授《じゆ》業《ぎよう》を休んで来たのに」  「じゃあ、一《いつ》緒《しよ》にどう? タダなんですって、この券《けん》持ってくと」  尾形も、こうなると怒《おこ》るに怒れない。惚《ほ》れた弱味、というところである。  ——レストランに入って、明子は、ウエイトレスへ、  「ここで一番高いもの何ですか?」  と訊《き》いた。  尾形はもう昼食は済《す》ませて来たので——何しろ午後の二時だ——コーヒーだけを取った。  志水は楽しげに二人のやりとりを眺《なが》めている。  ——尾形も、明子の話を聞くと、  「ふーん」  と肯《うなず》いた。「その茂木こず枝の言った、『皮肉な』仕事って何だろうね?」  「分らないの、それが。ねえ、何か考え、ない?」  「そう言われてもね……」  「それと、白石紘《こう》一《いち》殺しとどう関り合っているかが問題なのよ」  ちょうどステーキが来て、明子はそれにナイフを入れ始めた。  明子はステーキを全部切ってしまってから食べる、という癖《くせ》がある。  これはいい食べ方ではないのだ。おいしい肉《にく》汁《じゆう》が、全部出てしまうからである。  しかし、どうも、一回ごとにナイフを使うというのが面《めん》倒《どう》なのだ。  肉を切り終えると、明子はナイフを置いて、フォークを右手に、食べ始めた。  「大した食《しよく》欲《よく》だね」  と、尾形が苦《く》笑《しよう》した。  ちょうど、そこへ、若《わか》い女《じよ》性《せい》と、中年過ぎの男性が入って来て、三人と少し離《はな》れたテーブルについた。  尾形は、何となくそっちを眺《なが》めていた。  若《わか》い女《じよ》性《せい》の方は、椅《い》子《す》に浅く座って、メニューを開いている。  そのとき、奥《おく》の方のテーブルから、男が一人、立ち上った。そして出口の方へと歩いて行く。  若い女性の後ろを通り抜《ぬ》けるとき、ちょっとその男の足が止った。  ——そして、急に足を早めてレジへ行くと、  「つりはいい」  と言い捨《す》てて、伝票と金を置いて行ってしまう。  「おかしいな……」  と、尾形は呟《つぶや》いた。  「じゃ、私、このランチにするわ」  と、若い女性が言って、椅子に座り直そうとする。  「危《あぶな》い!」  と叫《さけ》ぶなり、尾形は、明子の使ったナイフをつかんだ。  ナイフが宙《ちゆう》を走った。  「キャッ!」  若い女性があわてて机テーブルに突《つ》っ伏《ぷ》す。ナイフがその頭上を越《こ》えて行った。  「何をするんだ!」  と、一《いつ》緒《しよ》にいた男が立ち上る。  「その椅《い》子《す》です! もたれかかっちゃいけない!」  尾形が飛び出した。  「え?」  若《わか》い女《じよ》性《せい》が振《ふ》り向いて、「まあ!」  と叫《さけ》んだ。  椅子の背《せ》を突《つ》き抜《ぬ》けて、鋭《するど》いナイフの刃《は》が十センチも出ていた。  「もたれたら、刺《さ》さっていましたよ」  と、尾形が言った。  明子も駆《か》けつけて、目を丸《まる》くする。  「どうなってるの?」  「今、出て行った男だ」  尾形は駆け出した。もちろん、明子もである。  ロビーには、大勢人が出ている。ちょうど一つ、披《ひ》露《ろう》宴《えん》が終ったところらしい。  「——やれやれ、これじゃ無《む》理《り》だな」  と、尾形は息をついた。  「でも、凄《すご》いじゃない!」  と、明子は尾形をつついた。「どこでナイフ投げを憶《おぼ》えたの?」  「よせやい」  と、尾形は顔をしかめた。「夢《む》中《ちゆう》で投げただけさ」  「でも、人助けしたじゃないの」  「まあね……」  「どうして狙《ねら》われたのかしら?」  と明子は言った。  戻って、話を聞いてみたが、一向に思い当らない様子。  「——それはどうやら、人《ひと》違《ちが》いですな」  と、声をかけて来たのは志水だった。  「え? 人違い?」  と、明子は訊《き》き返す。  「そう。きっと狙《ねら》われたのは、あなたですよ」  「私が?」  「あなたと私は二人でここへ来るところでした。ところが途《と》中《ちゆう》で、こちらの尾形さんが加わった」  「そうか!」  尾形が声を上げた。「それで、こちらの二人連れの方が——」  「じゃ、私を殺そうとしたの?」  明子は、今さらながら、ゾッとした。  しかし——確《たし》かに分らなくはない。  この二人連れ、年《ねん》齢《れい》など、明子と志水の二人に良く似《に》ているのだ。  「よし、このナイフだ」  尾形はハンカチを出して、ナイフを抜《ぬ》き取った。  「警《けい》察《さつ》へ届《とど》けないと」  「そうだ。このナイフから、きっと何かつかめるよ」  「それにしても、どうしてこんな所で——」  と明子は首をひねった。  間《ま》違《ちが》えられた二人は、わけも分らず、ただキョトンとしているばかりだった……。 27 皮肉の結《けつ》論《ろん》  「間違ってたわ」  と、明子が言った。  「そうだ」  尾形が肯《うなず》く。「大体君がこんなことに首を突《つ》っこんだのが間違いだ」  「違うのよ。私たちの捜《そう》査《さ》方《ほう》針《しん》が、間違ってたのよ」  「『私たちの』じゃない! 君《ヽ》の《ヽ》捜査方針だ」  「あらそう」  明子はむくれた。  「まあ、落ちついて」  と、志水が笑《わら》いながら言った。「ともかく無《ぶ》事《じ》だったんですから——」  「冗《じよう》談《だん》じゃないですよ」  と、尾形は仏《ぶつ》頂《ちよう》面《づら》である。「無事でなかったら大変だ」  ——ここは再《ふたた》び社長室である。  警《けい》察《さつ》も駆《か》けつけて、ナイフを調べるべく持って帰った。  肝《かん》心《じん》の犯《はん》人《にん》だが、どうも、はっきり顔を憶《おぼ》えている人間が一人もいなくて、  「中肉中《ちゆう》背《ぜい》の、若《わか》いか中年の男」  という、これより漠《ばく》然《ぜん》とは言いようのない表《ひよう》現《げん》になってしまった。  「しかし、困《こま》ったもんだ」  と、社長もため息をつく。「この式場で、人は死ぬわ、刺《さ》されそうになるわ……。あまり続くと、お祓《はら》いでもしてもらわんと、客が来なくなる」  「でも、今の人、そんなこと気にしませんわ」  と明子が言った。  「そうかね?」  「ええ、お祓《はら》いにかける分を、値《ね》引《び》きしてあげたら、もっと喜びます」  「なるほど、そんなものかもしれんな」  と、社長は肯《うなず》いた。「ところで、君が間《ま》違《ちが》ってた、というのは、どういう意味だね?」  「忘《わす》れていたってことです」  と、明子は言い直した。「そもそもの事《じ》件《けん》はこ《ヽ》こ《ヽ》から始まったんです。だから、ここに戻《もど》って調べ直すべきなんですわ」  「分ったようで分らんな。——何のことを言っているのかね?」  「最初の茂木こず枝は、自殺かもしれない。確《たし》かに、死へ追いやられた、という意味では他殺とも言えますけど、犯人はそばにいなくてもいいわけです」  「それはそうだな」  「そうなると、直《ちよく》接《せつ》、誰《だれ》かが手を下した殺人は、保《ほ》科《しな》光子さん、そして白石紘《こう》一《いち》、それに私……」  「君は生きてるじゃないか」  と尾形が言った。  「残念そうな口ぶりね」  「いや、そんなことは……」  明子ににらまれて、尾形は、あわてて目をそらした。  「その三つの事《じ》件《けん》には共通点があるんです」  「そうか」  と、志水が肯《うなず》いた。「ナ《ヽ》イ《ヽ》フ《ヽ》だね」  「そうなんです。しかも、三つとも、とても鮮《あざ》やかな手口です。今度だって、もし成功したら、犯人はとても捕《つか》まらなかったでしょう」  「失敗したけど、捕まってないよ」  「分ってるわよ!——この三つの事《じ》件《けん》、ちょっと偶《ぐう》然《ぜん》とは思えません」  「同感だな」  と、社長が言った。「これはきっと同一犯《はん》人《にん》の犯《はん》行《こう》だ」  「そうなると、私たち、もっと最初の犯行——保科光子さんが殺された事件を、よく調べてみるべきだったと思うんです」  「なるほど」  社長は、志水の方を見て、「あの事件の捜《そう》査《さ》はどうなってるんです?」  と訊《き》いた。  「今のところ、手がかりがないようですな。お恥《は》ずかしい限《かぎ》りですが」  「何か恨《うら》みを買っていたとか——」  と尾形が口を挟《はさ》む。  いくらか興《きよう》味《み》を覚えて来たようだ。明子は、しめしめ、というように、横目で尾形の方を見た。  「男関係などを中心に洗《あら》ったようですが、何も出て来なかったらしい」  「古いんだよね、警《けい》察《さつ》って」  と明子が暴《ぼう》言《げん》を呈《てい》した。「発想が三十年は遅《おく》れてる」  「それはあるかもしれませんな」  と、志水は愉《ゆ》快《かい》そうに言った。  「通り魔《ま》的《てき》犯《はん》行《こう》とか、そんなことじゃ、解《かい》決《けつ》にはならないと思います。やっぱり、これは一連の事《じ》件《けん》の一つと考えるべきですわ」  「すると、なぜ彼女《かのじよ》が狙《ねら》われたのか」  尾形は明子を見て、「君と間《ま》違《ちが》えられたとは思えないね」  「彼女、三十よ。私は二十一!」  「分ってるよ」  尾形は、あわてて少し体をずらした。  「そうなると……」  「あのお弁《べん》当《とう》箱《ばこ》かしら?」  保科光子が、明子に預《あず》けた、包みの中身である。ごくありふれた弁当箱で、中は空っぽだった。  「うん、そうだな」  と、社長は肯《うなず》いた、「他には考えられん」  「でも、何の変《へん》哲《てつ》もない弁《べん》当《とう》箱《ばこ》だったけど……」  「彼女《かのじよ》の手紙があったね」  「ええ。〈私の身に万一のことがあったら、開けてくれ〉とありました」  「すると、やはり、あの弁当箱には、何か秘《ひ》密《みつ》があるのかな」  「それ、どこにあるんだい?」  と尾形が訊《き》いた。  「うちにあるわ。警《けい》察《さつ》に届《とど》けたって、笑《わら》われるのがオチだし」  「よし、じゃ一つ、調べてみようじゃないか」  「持って来るわ」  明子が張《は》り切って立ち上る。  「ついて行くよ。またナイフで狙《ねら》われでもしたらこ《ヽ》と《ヽ》だ」  尾形が、ナイトよろしく、ついて社長室を出る。  「あなたも、大分乗《ヽ》っ《ヽ》て《ヽ》来たわね」  廊《ろう》下《か》を歩きながら、明子が言うと、尾形はむずかしい顔で、  「早く解《かい》決《けつ》しないと、君が講《こう》義《ぎ》に出席しないからだ!」  と言い返した。  「無《む》理《り》しちゃって」  と、明子はゲラゲラ笑《わら》った。  尾形はため息をついた。——どうして俺《おれ》はこんな女の子に惚《ほ》れちまったんだろう、とでも嘆《なげ》いているかのようだった……。    調べれば調べるほど、どこといって変った所のない弁《べん》当《とう》箱《ばこ》だった。  「——二重底にもなっていないようだな」  と、尾形は言った。  再《ふたた》び社長室、一時間後。顔ぶれも同じで、違《ちが》っているのは、明子の主《しゆ》張《ちよう》で——というほど大げさなものじゃないが——コーヒーとケーキが出ているところだった。  もちろん、これは事《じ》件《けん》に直《ちよく》接《せつ》関係ない。間《かん》接《せつ》的《てき》にも、ない。  「材《ざい》質《しつ》もただのアルミだね。JISマークもついているし、別にどこといって変ったところはない……」  と、志水が言った。  「これに、一体何の秘《ひ》密《みつ》が隠《かく》されているのかな?」  尾形は、弁当箱をひっくり返したり、持ち上げてみたり、叩《たた》いてみたり、食べてみたり——はしなかったけれど、ともかく、色々と調べたのである。  「使ったものかな」  と、社長が言った。  「そうですね。新しいことは確《たし》かだが——」  志水が弁《べん》当《とう》箱《ばこ》を取り上げ、「たぶん、使ってあると思いますよ」  「でも——誰《だれ》が?」  と、明子が言った。  一《いつ》瞬《しゆん》、他の三人がポカンとした。  「そうだわ! まず肝《かん》心《じん》のことを調べなきゃ!」  と、明子は手を叩《たた》かんばかりにして言った。「この弁当箱の持《ヽ》主《ヽ》は誰か、ってことですよ!」  「なるほど——」  と、志水が大きく肯《うなず》いた。「これは保《ほ》科《しな》光子の物じゃないかもしれない」  「違《ちが》うと思いますわ」  と、明子は言った。「光子さんは、いつも食堂で食べてたんです。私、よく一《いつ》緒《しよ》に行きましたから。一人だと、お弁当なんか作るよりも、外食の方が安く上るんです」  「なるほど、すると、彼女《かのじよ》は、この弁当箱の持《ヽ》主《ヽ》のことを教えたかったのかな」  「でも、それにしたって、容《よう》易《い》じゃありませんね」  と、尾形が言った。  「確《たし》かにね。こんな弁当箱を使っている人間はいくらもいる」  と社長が言った。  「でも、光子さんがわざわざ私の所に送って来たのは、きっとこ《ヽ》れ《ヽ》で犯《はん》人《にん》が分るからだったんだと思うんです。つまり、身近にいる誰かだと……」  「そいつは正しい指《し》摘《てき》だな」  と、尾形が言った。「そうなると、問題は、保科光子が教えようとしていた『身近』というのが、どの辺を指すか、の問題になって来る」  「彼女《かのじよ》の近所か、それとも——」  と言いかけた志水を遮《さえぎ》って、  「そうだわ! 分った!」  と、明子は飛び上った。  正に、ソファから十センチも飛び上ったのである。  「ど、どうしたんだ?」  尾形が目を丸《まる》くしている。  「あの言葉よ! 茂木こず枝の言った、『こんな仕事をしてるなんて、皮肉なもんね』という——」  「それがどうした?」  「もし、その男が、この結《ヽ》婚《ヽ》式《ヽ》場《ヽ》で働いていたら、それなら『皮肉』っていうのも分るじゃないの!」  そうだわ。明子は思い当った。あの、ぎっくり腰《ごし》になった男から聞いた電話番号。  どこかで見たと思ったのだが、この式場の番号に似《に》ている。  「そうか……」  尾形も、さすがに唸《うな》った。「それで、その弁《べん》当《とう》箱《ばこ》も、その男のものだとしたら、何もかも分るね」  「きっとこれだわ! それが答えなのよ!」  志水は微《ほほ》笑《え》んで  「どうやら、それが正《せい》解《かい》らしい。しかし、社長さんには、難《むずか》しい事《じ》態《たい》ですな」  明子はあわてて口をつぐんだ。  言われてみればその通りだ。ここの職《しよく》員《いん》の中に、主《しゆ》婦《ふ》売春や、殺人に関った者がいる、というのだから……。  「いや、こいつは参った」  と、社長はふうっと息をついた。  「しかし、こうなった以上、真相はあくまではっきりさせなくては。社長としての責《せき》任《にん》問題になるからね」  「すみません、騒《さわ》ぎ立てて」  と、殊《しゆ》勝《しよう》に明子が謝《あやま》る。  「いや、もし、このまま放っておけば、ずっと事《じ》件《けん》が続いたかもしれん。早く分って幸いだったよ」  「さすがに社長! 大物は違《ちが》いますね」  「持ち上げるな」  と苦《く》笑《しよう》して、「では、どうやって調べるかな?従《じゆう》業《ぎよう》員《いん》は少なくないが」  「それが問題ですね」  と、尾形も、今は真《しん》剣《けん》である。  「いくら多くても、一万人はいないんですから」  明子は大きく出た。  「しかし、弁《べん》当《とう》持参というのは、そう多くないのじゃないかね」  と社長は言った。「よし、じゃ、何か名目をつけて、誰《だれ》と誰が弁当を持って来ているか、アンケートを取ってみよう」  「それは名案だ」  と、志水が言った。  「でも、犯《はん》人《にん》が、もしこの弁当箱のことを知っていたら、嘘《うそ》を書くんじゃありません?」  と明子が言うと、  「それは却《かえ》って、自白してるようなもんだよ。きっと正直に書くと思うね」  と尾形が言った。  「私はこの弁当箱を持って帰って、調べてみよう。指《し》紋《もん》が出るかもしれない」  「なるほど、そういう方法がありますね」  尾形は少々興《こう》奮《ふん》気味。「それで出た指紋と、ここの従業員の指紋を合わせれば——」  「しかし、そんなもの、採《と》っとらんぞ」  と、社長が言った。  「当然ですよ」  と、志水が肯《うなず》く。「何かいい方法があるといいが……」  しばし、みんな考え込《こ》んだが……。  声を上げたのは——やはり明子だった。  「社長!」  「何だね?」  「ちょっとポケットマネーを使ってパーティを開きません?」  「パーティ? そりゃいいが——しかし、何のパーティだ?」  「何だっていいですよ。創《そう》業《ぎよう》何周年とか——」  「この前、済《す》んだばかりだ」  「じゃ、社長の還《かん》暦《れき》祝いとか」  「まだそんな年《ねん》齢《れい》じゃない!」  「もうすぐでしょ?」  「まだ五十八だ」  「じゃ、ともかく——何でもいいですから、パーティを開くんです」  「それでどうするんだ?」  「だからその席で——」  と、明子は得《とく》意《い》げに言った。 28 パーティ  「どういう風の吹《ふ》き回し?」  「知らないわ」  「もう社長、死期が間近いんじゃない? 急にいいことをしようとすると、危《あぶな》いっていうわよ」  あれこれ、噂《うわさ》話《ばなし》が飛び交っていたが、ともかく——。  「夕食代が浮《う》くんだから、遠《えん》慮《りよ》しないようにしましょうよ」  というわけで、何かわけの分らない〈パーティ会場〉へ、ゾロゾロと男女の従《じゆう》業《ぎよう》員《いん》が入って行く。  女《じよ》性《せい》の方も、いつもは制《せい》服《ふく》だが、今日は精《せい》一《いつ》杯《ぱい》のおしゃれをしている。  おかげで、上司の方は部下の見分けがつかず、  「こんな美人、うちにおったかな?」  と正直に言って、けっ飛ばされていた。  「——今日は急な集りなのに、みんなよく出て来てくれた」  とまず社長が挨《あい》拶《さつ》。「いつも頑《がん》張《ば》ってくれている、みんなのために、ささやかな慰《い》労《ろう》の会を開くことにしたんだ。自分がいつも働いている場所でのパーティというのも、何だか気が乗らんかもしれんが、まあ、楽しんでくれ」  拍《はく》手《しゆ》が起る。——立食形式のパーティだったが、早くも、寿《す》司《し》だの、ローストビーフだのは、器が空になりつつあった。    何やってるんだ?  尾形は、明子が家から出て来るのを、苛《いら》々《いら》しながら待っていた。  名《めい》探《たん》偵《てい》が、服を着るのに手間取って、犯《はん》人《にん》を逃《にが》したなんて、ミステリーにならない。  「すみませんね、尾形さん」  と、母の啓《けい》子《こ》が顔を出す。「今、来ると思いますから」  「はあ」  尾形は、友人の車を借りて、運転して来ていた。——それに当人も、一番上等の背《せ》広《びろ》を着ている。  背広は英国製とはいかないが、ハンカチはカルダンだった!  「お待たせ」  と、明子の声がした。  「遅《おそ》いじゃないか、もうパーティは始ま——」  妙《みよう》なところで途《と》切《ぎ》れたのは、尾形がアングリと口を開きっ放しになったからだった。    「全員ここにいますよ」  と、社長は、低い声で志水に言った。  「係を外に待機させてあります」  と、志水が肯《うなず》く。  「あの弁《べん》当《とう》箱《ばこ》から、指《し》紋《もん》は出ましたか?」  「いくつか出ていますが、我々も触《さわ》っていますからね。それらを消して行かなくてはならない」  「もちろん私のも採《と》って下さい」  と社長が言った。  「そうしましょう。ただし——」  志水は付け加えて、「ここで集めた指紋は、必要なもの以外は、全部責《せき》任《にん》を持って処《しよ》分《ぶん》します。信用して下さい」  「分りました」  社長はグラスをぐっとあおって空にすると、「あなたは頼《たよ》りになる方ですな」  と言った。  臨《りん》時《じ》雇《やと》いらしいボーイが、盆《ぼん》の上に、社長の空のグラスをのせ、会場を出た。  廊《ろう》下《か》を進んで、ぐるっと回ると、志水に言われてやって来た鑑《かん》識《しき》班《はん》の人間が、待っていた。  「これが社長のグラスです」  「社長か。OK」  と、袋《ふくろ》に入れて、足下の箱《はこ》へ入れる。番号をふって、メモをしておく。  こうして、全《ぜん》従《じゆう》業《ぎよう》員《いん》の指《し》紋《もん》を集めよう、というわけである。  ——志水と社長は、会場の中を見《み》渡《わた》して、  「彼女《かのじよ》はまだ来ないようですな」  急に会場の中がスーッと静かになった。  やがて拍《はく》手《しゆ》が起こる。  明子が、目にも鮮《あざや》かなカクテルドレスで現《あら》われたのである。  「やあ、永戸君。すてきだね!」  社長が首を振《ふ》って、「私もあと二十年若《わか》ければな……」  と言った。  ついて来た尾形の方も、明子のスタイルに刺《し》激《げき》されてか、ソワソワしている。  「さあ、食べようっと!」  明子は皿《さら》を取ると、テーブルを見回した。「どこが空《す》いてるかしら?」  「ねえ君——」  と、尾形が言った。「少しレディらしくしないと、そのドレスが泣《な》くよ」  「泣いたって構《かま》わないわ。食《しよく》欲《よく》の方が優《ゆう》先《せん》!」  いつもながらの明子に、尾形が少々ホッとしたのも事実だった。  ——パーティは、穏《おだ》やかに進んだ。仕《ヽ》事《ヽ》の方も、順調だった。  明子が、  「あれは××さん、これは〇〇さん」  と、グラスを運び出すボーイへと囁《ささや》く。  これのために、明子としては、あまり酔《よ》っ払《ぱら》うわけにいかないのである。  「やあ、永戸君。謹《きん》慎《しん》はとけたのか?」  と、やって来たのは、嫌《きら》いな村川部長である。  少し酔《よ》っているらしい。  「おかげさまで」  と、そっぽを向く。  「社長の所へ来てたね。何か用だったのか?」  「部長に関係ないでしょ」  「冷たいね。——さてはあの若《わか》いのと、できてるな?」  村川がワハハ、と品のない笑《わら》い方をする。  明子はさっさと逃《に》げ出すことにした。  「——いや、料理もいいですよ」  と、尾形が社長と話している。  「何の話?」  明子がやって来ると、  「いや、僕《ぼく》らも、ここで式を挙げようと言ってたんだ」  「あら、どなたと?」  「もちろん君さ」  「私?」  明子は、わざと大きく目を見開いて、「私はまだ学生の身ですもの。五年たったら考えるわ」  社長は楽しげに笑《わら》った。  「いや、実に愉《ゆ》快《かい》な人たちだ」  「——社長、アンケートの方は?」  と、明子が訊《き》く。  「うん。今日、配っておいたよ。明日には回収させる」  「楽しみですね、結《けつ》果《か》が」  「ところで——どうだね?」  と、社長は会場の中を見回して、  「指《し》紋《もん》の方は全部採《と》れたのかな?」  「あと、四、五人だと思いますけど。まだ、みんな飲んでるし、大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》ですよ」  と、明子は力強く肯《うなず》いた。    「——いいパーティだった」  と、尾形は言った。  「そうね……」  明子は言った。  車が夜の道を走り抜ける。尾形がハンドルを握《にぎ》っていた。  ——何だかロマンチックな雰《ふん》囲《い》気《き》だった。  「ああいう形式も悪くないね」  と、尾形は言った。「僕《ぼく》も結《けつ》婚《こん》するときはああいう風にしよう」  「結《けつ》構《こう》ね」  「君はどう思う?」  「そうね……」  明子は、何やら考え込《こ》んでいる様子だったが——その内、ワーッと大《おお》欠伸《あくび》をした。  尾形はため息をついた。ムードも何もないんだから!  「これで解《かい》決《けつ》するといいわね」  「欠伸で?」  「違《ちが》うわ、事《じ》件《けん》のことよ」  「あ、そうか」  忘《わす》れてしまいそうだったのだ。  尾形は、車を道のわきへ寄《よ》せて停《と》めた。  「ねえ、君……」  「うん?」  「今夜は凄《すご》く魅《み》力《りよく》的《てき》だよ」  「そう? ありがとう」  「僕《ぼく》は考えてたんだけど……その……今は学生同士だって、結《けつ》構《こう》結《けつ》婚《こん》しちまう奴《やつ》がいる。僕はまあ——一《いち》応《おう》講《こう》師《し》だし、君とは年《ねん》齢《れい》も多少違《ちが》ってる」  「うん」  「だから、その……別に具合の悪いことはないと思うんだ。つまり君と僕が……」  「ふん」  「その……だから……」  尾形は、エヘンと咳《せき》払《ばら》いをして、顔を真っ赤にし、思い切って言った。  「結婚しようじゃないか!」  ——長く待ったが、返事はなかった。  見ると、明子は少し口を開いて、スヤスヤと眠《ねむ》り込《こ》んでいる。  尾形は大きくため息をつくと、車をスタートさせるのだった……。 29 プロポーズ、その後  「あーあ」  欠伸《あくび》からスタートするというのは、少々読者に失礼かもしれないが、そこは勘《かん》弁《べん》していただく他はない。  ともかく、明子が起き出したのが十一時。それから三十分の間、ほぼ五分毎に欠伸をしていたのである。  「ねえ、明子」  と、母の啓子がコーヒーを注《つ》いでやりながら言った。  「なあに?」  「尾形さんが言ってたよ」  「ああ、大学のことでしょ。分ってるわよ」  と、うるさそうに言う。「授《じゆ》業《ぎよう》に出ろって言うんでしょ?」  「あら、停学中じゃなかったの?」  と啓子は椅《い》子《す》を引いて座る。  「解《かい》除《じよ》になったのよ」  と明子は言って、「——あれが夢《ゆめ》でなきゃね」  と付け加えた。  「そりゃ良かったわ。じゃ、こんなにのんびりしてちゃいけないんじゃないの?」  「勉強は学校だけでするもんじゃないわ」  明子は分ったようなことを言った。  「でも、月《げつ》謝《しや》を払《はら》ってるのは大学だけよ」  啓子も理《り》屈《くつ》っぽく言って、「ともかく、そんな話じゃないのよ」  「じゃあ、何のこと?」  「ゆうべあんたを送って来てね、尾形さん、ゆっくり話し込《こ》んで行ったの」  「へえ、図《ずう》々《ずう》しい! 何か高いものでも食べさせたの? メロンがあったでしょ」  「出さないよ」  「当り前よ。どうせ、私のこと、ケチョンケチョンに言ってたんでしょ。大体、想像がつくわ」  「そう?」  「もう、お付き合いはこれ切りにしたい、って言ったんじゃない?」  「そうねえ」  と、啓子は、ちょっと考えて、「まあ、そんなようなことだわね」  「分ってるのよ。ああいう男は狡《ずる》いんだから。こっちから願い下げだわ」  「でも、結《けつ》婚《こん》させてほしい、ってことだったよ」  と、啓子が言ったので、明子はポカンとして、  「——誰《だれ》が?」  と、やっとの思いで訊《き》き返した。  「尾形さんよ。決ってるでしょ」  「——私と?」  「私でもいいけど、ちょっと年が違《ちが》うからねえ」  と啓子は真顔で言った。  「お母さん、何て答えたの」  「別に。本人に訊《き》いて下さい、と言っておいたわ」  明子は、ゆっくりとコーヒーを飲んだ。  ブラックコーヒーより、よほど目が覚める話だった。  それは確《たし》かに——尾形とは恋《こい》人《びと》同士といって差し支《つか》えない程《てい》度《ど》には付き合っているし、よく冗《じよう》談《だん》で、結《けつ》婚《こん》の話もする。しかし、尾形が母に話をしたとなると、事は重大と言わねばならない。  つまり、尾形は、明子が心配していた状《じよう》態《たい》——真《ヽ》剣《ヽ》に《ヽ》明子のことを愛し始めたのかもしれない。  いや、明子だって、当節の女子大生としては、週《しゆう》刊《かん》誌《し》やTVで「ああだこうだ」と言われるほど、遊んでるわけじゃないし、「愛」というものを、神《しん》聖《せい》なりと考えるくらいの真《ま》面《じ》目《め》さは持ち合せているのだ。  ただ、それをも《ヽ》ろ《ヽ》に《ヽ》真面目に口に出したりするのを、照れるのである。  他の子たちだって、たいていはそうなのだ。  ホテルへ行ったりして、適《てき》当《とう》に遊んでいるような子でも、実《じつ》際《さい》は、ごく当り前に結《けつ》婚《こん》しようと思っている。それを、ストレートに口に出すと、カッコ悪い、と思っているだけなのだ。  愛人バンクだ、ホテトルだ、と、話題ばかり、にぎやかだが、誰《だれ》も彼《かれ》もが、そんな風ではない。明子だって、たぶん、たいていの友人たちには、男の二人や三人は知っていると思われているが、実のところ、まだまだ未《み》経《けい》験《けん》の一人なのだ。  「尾形さんのこと、どうなの?」  と啓子が訊《き》いて来る。  弱いのよね、こういうの。——何と答えたものやら、困《こま》っちゃう。  「まあ——悪い人じゃないとは思うわ」  と、明子は言った。  「じゃあ、結婚する?」  「ちょっと——ちょっと待ってよ」  と、明子はあわてて言った。「それじゃ、『悪くない人』なら誰とでも結婚しなきゃならないの?」  「そうじゃないけど……」  と、啓子は言った。「でも——いざそうなってからそうするのも何だからね」  明子は目をパチクリさせた。  「何よ、それ? どういう意味?」  「つまり——そうなってから結《けつ》婚《こん》するのも、あんまり感心しない、ってことよ」  「最初の『そうなって』ってのは、どうなって、ってことなの?」  何だかややこしい。  「そりゃもちろん、お前が子《こ》供《ども》でもできてさ——」  「お母さん!」  明子が目をむいた。  「だって、もうホテルぐらいには行ってるんでしょ?」  どういう親なんだ?——明子は呆《あき》れて言葉もなかった。  ちょうど電話がかかって来て、啓子が立って行く。明子は、ため息をついて、コーヒーを飲み干《ほ》した。  親があれじゃ、ホテルへ行かなきゃ、申し訳《わけ》ないみたいじゃないの!  「——明子、会社の方からよ」  啓子が、のんびりと顔を出す。  明子は急いで席を立つと、電話の方へと走った。  「——永戸です」  「君か。村川だ」  「ああ、部長さんですか」  明子は、ぶっきらぼうに言った。「何かご用ですか?」  「おい、君はうちの従《じゆう》業《ぎよう》員《いん》なんだぞ」  「あ、そうでしたね」  と、明子はとぼけた。「でも今日は午後の出社ですよ」  「ひどく忙《いそが》しいんだ。悪いが十二時から出てくれんか」  「でも、お昼休みは?」  「二時から取っていい。ともかく十二時の昼時に、手が足りなくなるんだ」  仕方ないか。一《いち》応《おう》、給料をもらう身だ。  「分りました。じゃ今から出ます」  「助かるよ。じゃ、待ってるからな」  村川の方も、珍しく愛想がいい。  「忙しいときだけだわ」  電話を切ると、また大《おお》欠伸《あくび》。——いつの間にか、啓子がそれを見ていて、  「そんなに欠伸ばっかりしてると、嫌《きら》われるよ」  と言った。    今から出ます、と言っても三十分はかかるのが、女性というものである。  明子の場合は、多少スピーディで、それでも二十八分かかった。  外へ出て歩き出すと、また欠伸《あくび》が出る。  さすがに、大口開けてはやらなかった。多少は、近所の目というものもある。  タクシーで行くか。——ちょうど、空車が来たのを停《と》めた。  行先を告げると、運転手が、  「式場の下見かね」  と言った。  「いいえ、予約の取消し」  と、明子は言った。  そのタクシーが走り出すと、そ《ヽ》の《ヽ》人《ヽ》物《ヽ》は、小さなトランシーバーを取り出して、タクシーの色とナンバーを連《れん》絡《らく》し、角を曲ってタクシーが見えなくなるまで、見送っていた。  タクシーは、坂の下へと近付いた。  坂を上るわけでなく、その下を通り抜《ぬ》けるだけである。  坂の途《と》中《ちゆう》に、かなり薄《うす》汚《よご》れたダンプカーが、一台停《とま》っていた。  タクシーが近付くと、ダンプカーは、ブレーキが外れたものか、ゆっくりと坂道を下り始めた。たちまち加速度がつく。  タクシーの前に、ダンプカーが突《とつ》然《ぜん》、飛び出して来た。急ブレーキ!  しかし、とても間に合うものではなかった。  タクシーは、ダンプカーの横《よこ》腹《ばら》に激《げき》突《とつ》した。    尾形は、講《こう》義《ぎ》をしながら、むやみに苛《いら》立《だ》っていた。  「おい! そこの奴《やつ》、何を居《い》眠《ねむ》りしてるんだ!」  と怒《ど》鳴《な》ったりするので、学生たちの方が面《めん》食《く》らっている。  「どうしたんだ、先生?」  「きっと振《ふ》られたんだ」  「財《さい》布《ふ》落としたんじゃねえか?」  「いや、パチンコで損《そん》したんだよ」  と、みみっちい話も出る始末。  「おい! 何をしゃべっている!」  尾形はますます荒《あ》れていた。  要するに、明子のせいである。——ゆうべ、とうとう、明子の母親に、結《けつ》婚《こん》の話をしてしまった。  もう明子も起き出して、母親から、そのことを聞いているだろう、と思うと、尾形は居ても立ってもいられない気分だったのである。  明子は、それを聞いて、どうしただろう? 感《かん》激《げき》に目をうるませたか? まさか!  大口を開けて、ゲラゲラ笑《わら》ったか?——その方が正《せい》解《かい》かもしれない。  しかし、ともかく——言ってしまったのだから、今さら取り消すことはできない。  考えてみれば、大変な子に結《けつ》婚《こん》を申し込《こ》んだものだ。  夫《ふう》婦《ふ》喧《げん》嘩《か》をしても、とても尾形に勝目はない。ぶん投げられて、目を回すのがオチである。  全く——それでいて、惚《ほ》れちまっているのだから、どうしようもない!  「——失礼します」  と、扉《とびら》が開いて、事《じ》務《む》の女の子が顔を覗《のぞ》かせた。  「何か?」  「先生、お電話です」  「ありがとう」  尾形は、廊《ろう》下《か》へ出た。事務室は少々遠い。  軽くかけ足で、やっと受話器を取ったときは、少し息を弾《はず》ませていた。  「尾形です」  「あ、永戸です。明子の母ですが」  来たか。——この口調では、断《ことわ》られたかな、と思った。  「どうも昨日は——」  と言いかけたのを、向うが遮《さえぎ》った。  「娘《むすめ》が事《じ》故《こ》に遭《あ》いまして」  「な、何ですって?」  尾形は、飛び上らんばかりに驚《おどろ》いた。 30 死体をもう一つ  「タクシーはダンプカーの下へ潜《もぐ》り込《こ》むように、突《つ》っ込んだんです」  と、医《い》師《し》が言った。「タクシーは上半分、削《けず》り取られてしまったんですよ。まあ、普《ふ》通《つう》なら頭が飛ばされて、一巻の終りなんですが……」  「運が良かったのよ」  ベッドでは、明子が元気一《いつ》杯《ぱい》の様子だった。  「ちょうどハンドバッグを開けて、コンパクトを出してたの。そしたら、それを床《ゆか》に落っことしてね、拾おうとして、かがみ込んだのよ」  「そこへドシン、か」  「そう! 頭の上を、ダンプのフレームが通《つう》過《か》して行ったわけね」  「おい、冗《じよう》談《だん》じゃないよ」  と、尾形は苦《く》笑《しよう》した。「一《いつ》瞬《しゆん》の差で、頭が失くなってたところかもしれないんだぜ」  「だったら、もう少しま《ヽ》し《ヽ》なのと取りかえられたのにね」  と、明子は至《いた》って呑《のん》気である。  「で、先生——」  と、尾形は医《い》師《し》の方を向いた。「けがの具合は?」  「ガラスの破《は》片《へん》で、ちょっと切り傷《きず》はできていますが、それ以外は、骨《ほね》も何ともなっていませんよ。運転手の方も、すぐに伏《ふ》せて、無《ぶ》事《じ》だった。奇《き》跡《せき》的《てき》ですな」  「分ったでしょう?」  と、明子が言った。「私は運が強いのよ」  「人に心配かけて!」  と、尾形はにらんだ。「運が強い、もないもんだ」  「ごめん」  明子は、ちょっと舌《した》を出した。「でもね、あのとき、一《いつ》瞬《しゆん》、死ぬのかな、って思ったわ。そして、ふっと思い浮《う》かべたの……」  「僕《ぼく》のことを、かい?」  と、尾形が勢い込《こ》んで訊《き》く。  「ドラ焼きのことを」  医師が吹《ふ》き出してしまった。  病院のドアがノックされて、尾形が開けてみると、  「——やあ、これは」  思いがけない顔だった。検《けん》死《し》官《かん》の志水だ。  「署《しよ》の方から、知らせてくれましてね」  と、志水は言って、「——やあ、しかし、元気そうだ」  と明子の顔を覗《のぞ》き込んだ。  「大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》です。正《せい》義《ぎ》の味方は死にません」  と、明子が言うと、また医《い》師《し》が笑《わら》い出した。  「いや、実に面白い患《かん》者《じや》さんだな」  「いつ退《たい》院《いん》できます?」  と明子が訊《き》く。  「そうだね。一《いち》応《おう》今夜だけ入院しなさい。明日には退院できますよ」  医師が出て行くと、志水はホッと息をついて、  「しかし、危《あぶな》いところでしたねえ」  と言った。  「本当に。——ダンプの方の責《せき》任《にん》を厳《きび》しく追《つい》及《きゆう》しなきゃ」  尾形は今ごろになって、腹《はら》を立てている。  「いや、ダンプの運転席は空だったんですよ」  と志水が言った。  「何ですって?」  明子が頭を上げる。「それ、どういう意味ですか?」  「あのダンプカーは、盗《ぬす》まれたものでね、あそこに朝から停《と》めてあった」  「朝から?」  「そう。そして、ハンドブレーキを誰《だれ》かが外して、坂を下って行ったわけです」  「誰かが……」  明子は、独《ひと》り言のように呟《つぶや》いた。  そういえば、前にも一度、車ではねられかけたことがある。きっと同じ犯《はん》人《にん》だろう。  「つまり、彼女《かのじよ》を狙《ねら》って、誰かが、わ《ヽ》ざ《ヽ》と《ヽ》、やったというんですか?」  尾形は目を見開いて、「それじゃ——あの犯人だ! 君を刺《さ》しそこなった奴《やつ》だよ、きっと!」  「待って」  明子はベッドに起き上った。「でも、私があのタクシーに乗ったことを、なぜ知っていたの? それに今日は大体午後出社だったのに、早く出たんだし——」  そして、突《とつ》然《ぜん》言葉を切ると、  「分ったわ!」  と声を高くした。  「おい、今度は何だい?」  尾形が、うんざりしたような声を出す。  「今日、忙《いそが》しいから、早く出てくれって電話があったの。そして家を出て、タクシーを拾ったのよ。指《し》紋《もん》はどうでした?」  と、志水に訊《き》く。  「まだ、結果が出てないんでね」  と、志水が言った。「今、弁《べん》当《とう》箱《ばこ》の指紋と照合しているんですよ。私たちのもの以外に、誰《だれ》かの指紋があることは事実です」  「それ、きっと村川さんのだわ!」  と、明子は力強く言った。  「村川?」  「部長よ! 村川さんが、私に早く出ろと電話して来たのよ」  明子はベッドから出ると、「ちょっと外へ出て。服を着るから」  「おい、どうするんだ?」  「退《たい》院《いん》するの」  「無《む》茶《ちや》だよ! 今、先生が——」  「どうせ明日退院するのよ。今日だって、同じよ」  名《めい》探《たん》偵《てい》にしては、論《ろん》理《り》を無《む》視《し》した言い方だった。    「何だ、大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》か?」  ロビーへ入って行くと、社長が明子を見付けてやって来た。  「あ、社長」  「事《じ》故《こ》にあったと聞いて、今から病院へ行こうと思っとったんだ」  「ご心配かけて。——ご覧《らん》の通り、ピンピンしてます」  「良かった! 足もちゃんとついとるようだな」  「部長はどこですか?」  「村川か? さあ、知らんな。今日は見ていないが」  「部長は、今日はお休みですよ」  と、受付の女の子が言った。「今朝《けさ》、電話があったんです」  「そうか」  「やっぱりだわ!」  と明子が肯《うなず》いた。  「何が、やっぱり、だね?」  「私、殺されかけたんです。事故じゃなくって」  目を丸《まる》くしている社長へ、明子は事《じ》情《じよう》を説明した。  「——なるほど。すると、例の男というのは村川だったのか」  「アンケートの結《けつ》果《か》は出ました?」  「ああ。社長室へ行こう」  ——社長室で、明子は、社長から、アンケートの結果を見せられた。  村川は、やはり弁《べん》当《とう》持参組の一人だった。  「ちょっと電話を拝《はい》借《しやく》」  と、志水が、社長のデスクの受話器を取り上げた……。  「うん。——そうか。誰《だれ》の指《し》紋《もん》だった?——そうか。分った。——いや、ありがとう」  志水は、受話器を戻《もど》し、  「やはり図星だよ」  と、言った。「弁《べん》当《とう》箱《ばこ》に、村川の指紋があった」  「やったわ!」  明子は飛び上った。  「よし、では、村川の家を手配しましょう。住所を教えて下さい」  志水は、村川の自《じ》宅《たく》に近い署《しよ》へ連《れん》絡《らく》を取った。  「——これで、すぐ自宅へ急行しているでしょう。我々も行ってみますか?」  「もちろん!」  明子が真っ先に答えた。  「まだこりないのか?」  尾形が、ため息をついて、「よし、僕《ぼく》も行くよ」  「私も同行したいが——」  と社長が残念そうに、「大事な客が来るのでね」  「じゃ仕方ありませんね」  と、明子が言うと、社長は、  「うん、仕方ない」  と肯《うなず》いた。「客には待ってもらおう」  大分、明子の好《こう》奇《き》心《しん》が社長にも感《かん》染《せん》しているらしい。  かくて、明子と三人の男たちは、社長のベンツで、村川の自《じ》宅《たく》へと向かった。    「あれらしい」  と志水が言った。  パトカーが、三台ほど停《とま》っているのが、見えた。  「それにしても、ちょっと様子がおかしいな……」  ——かなりの高級住《じゆう》宅《たく》地《ち》である。社長が、  「こんな所に住んでるのか」  と、呆《あき》れ顔で言ったほどだ。「あいつの給料では、とても無《む》理《り》だ」  「やはり何か、陰《かげ》でやってるんですよ」  と、明子は言った。  パトカーの手前で、ベンツを停《と》め、四人は外へ出た。  志水が先に立って行って、警《けい》官《かん》と話をしている。そして、いかにも成金趣《しゆ》味《み》的《てき》な、ごてごてした感じの家から、刑《けい》事《じ》らしい男が出て来た。  志水と顔見知りらしく、親しげに話をしてから、一《いつ》緒《しよ》に明子たちの方へとやって来た。  「古いなじみの刑《けい》事《じ》ですよ」  と、志水が言った。「殺しだって?」  「そうなんです」  と、中年のその刑事が肯《うなず》く。  「じゃ、村川さんが?」  と、明子が訊《き》いた。  「いや、そうじゃないんです」  と、刑事は首を振《ふ》った。「若《わか》い男でね。村川は姿《すがた》を消しているんですよ」  「その男の身《み》許《もと》は?」  「分りません。——見ていただけますか?」  「ええ」  明子は肯いた。死体の一つや二つ、何だ! 村川の家の中は、外見に劣《おと》らず派《は》手《で》で、悪《あく》趣《しゆ》味《み》だった。  「家族は?」  と尾形が言った。  「奥《おく》さんは、実家に戻《もど》っているんです。村川と、うまく行っていなかったのかもしれませんな」  「その若《わか》い男っていうのは——」  「人相や風体を奥さんへ電話で説明したんですが、心当りがない、ということでした」  刑《けい》事《じ》は、居間のドアを、肩《かた》で押《お》した。「ここです」  ——広い居間で、誰《だれ》かが寝《ね》ていた。  いや、本当は死んでいるのだ。しかし、表《ひよう》情《じよう》は穏《おだ》やかだった。  「いかがです?」  と、刑事は言った。  明子は、どこかで見た顔だ、と思った。  こうして、死体となって倒《たお》れているから、よく分らないが。  明子はかがみ込《こ》んで、まじまじと顔を眺《なが》めた。  「おい、気を付けろよ」  と、尾形が言った。「かみつくかもしれないぞ」  「犬じゃあるまいし」  と、明子は言った。  そうだ!——思い出した。  この男。——中松進吾ではないか……。 31 塀《へい》の中の秘《ひ》密《みつ》  「村川が……」  と、社長は首を振《ふ》った。「信じられん」  「でも、他に考えようはありませんわ」  と明子はきっぱりと言った。  「分ってるよ」  社長は渋《しぶ》い顔で肯《うなず》いた。「しかし——考えてみてくれ。うちの商売は何だ?」  「結《けつ》婚《こん》式場でしょ」  「そこの部長が、主《しゆ》婦《ふ》や学生に売春のアルバイトをさせていた、と分ったら……」  「もうだめですね」  明子は社長じゃないから、呑《のん》気《き》なものである。  「気軽に言わんでくれ」  「まあ、元気を出して下さい」  と、尾形が多少同《どう》情《じよう》するように言った。  「そうですよ、社長、紅《こう》茶《ちや》がさめます」  明子の言葉はあまり励《はげ》ましにはならないようだった。  村川の家では、まだ捜《そう》査《さ》が続いている。  明子たちは、村川の家の向い側にある喫《きつ》茶《さ》店《てん》に入って、検《けん》死《し》官《かん》の志水が出て来るのを待っていた。  「それに、あの中松進吾を殺して逃《とう》亡《ぼう》したんですもの」  と、明子は続けた。「それに、保《ほ》科《しな》光子さんを殺させたのも、白石紘《こう》一《いち》も、私を狙《ねら》わせたのも、きっと村川だわ」  社長の方は、ますます落ち込《こ》んでいる。  「あの花《はな》嫁《よめ》は——」  と、尾形が言いかける。  「茂木こず枝さん? 彼女《かのじよ》は、きっと村川に手伝わされていたのよ、売春の仕事を。いやになって、それでも村川から逃《に》げられず自殺した」  「なるほど、わざと花《はな》嫁《よめ》衣《い》裳《しよう》を身につけて、村川の働いている式場で死んだわけか」  「村川が先に見付けたんだわ。身《み》許《もと》がわからないように、服や荷物を隠《かく》したんだと思う」  「私は救われん!」  と、社長は天を仰《あお》いで、ため息をついた。  「ただ……」  と、明子が呟《つぶや》く。  「何だね?」  「今、ちょっと考えたの。——あの村川部長って、そんなに大物だったのかしら?」  社長は肯《うなず》いて、  「うむ。君の言うことは分る」  と言った。「私の見たところ、村川は、そんなでかいことのやれる男ではない」  「ねえ? 社長もそう思うでしょう?」  「どっちかといえば、肝《きも》っ玉の小さな男だ。使い走り、というか」  「そう思ったんです、私も。そうなると、村川の上に、誰《ヽ》か《ヽ》いたのかもしれませんわ」  「まだ終らないのかい?」  尾形がうんざりしたように、言った。  「——まあ!」  明子が、突《とつ》然《ぜん》、声を上げた。もちろん、理由あってのことだ。理由なしで急に叫《さけ》んだりしたら、まともじゃないが——いや、そんなことはどうでもいい。  明子が声を上げたのは、目の前を、ゴキブリが走って行ったから、ではなくて、目の前に、佐田千春が立っていたからであった。  「千春さん!」  千春は固い表《ひよう》情《じよう》で、  「あなたの顔が見えたから——」  と、座り込《こ》んだ。「何があったの?」  「え?」  「あの家よ」  と、村川の家の方へ目を向ける。  「あ——そうだわ! あなたは知ってるのよね。中松進吾って人を」  「彼《かれ》がどうしたの?」  「殺されたの」  千春が、さっと青ざめた。  「ああ——やめておけって言ったのに!」  と、絞《しぼ》り出すような声。  「ねえ、教えて。あの人はどういう——」  と言いかけた明子を遮《さえぎ》って、  「私、もう黙《だま》っていられない!」  と千春は叫《さけ》ぶように言うと、店を飛び出して行った。  「千春さん! 待って!」  明子も、あわてて追いかける。  「おい、明子——」  尾形は、どうしたものやら、一《いつ》瞬《しゆん》迷《まよ》って出《で》遅《おく》れた。  明子は、千春がタクシーを拾って、走り去るのを目にすると、ちょうど道《みち》端《ばた》に停《とま》っていた車の中へ、飛び込《こ》んだ。  びっくりしたのは、運転席で週《しゆう》刊《かん》誌《し》を読んでいた大学生らしい若《わか》者《もの》で、  「な、何だよ、——」  「早く車を出して!」  と明子は命《ヽ》令《ヽ》した。  「ええ?」  「あのタクシーを追いかけるのよ!」  「ねえ、ちょっと——」  「命が惜《お》しくないの?」  明子は、指をポキポキ鳴らした。「空手三段《だん》なんだからね!」  「わ、分ったよ!」  若者はあわててエンジンをかけた。  「早く! 見失ったら、腕《うで》一本へし折るからね!」  「何で俺《おれ》が——」  と、ブツブツ言いながら、その大学生、車をスタートさせた。    その大学生の運転が良かったのか、明子の脅《おど》しが効《き》いたのか、何とかタクシーを見失うこともなく、やって来たのは千春の実家——すなわち、中松邸《てい》である。  千春がタクシーを降《お》りて、邸《てい》内《ない》へと入って行くのが見えた。  「ここでいいわ。ご苦労さん」  と明子は言った。  「料金を払《はら》ってくれないの?」  と大学生は言ったが、明子にジロリとにらまれて、  「冗《じよう》談《だん》だよ!」  と、あわてて首をすぼめた。  「あ、そうだ。——ねえ」  「何だよ?」  「ちょっと降りて」  「車、持ってかないでくれよ」  「持って行くほどの車でもないでしょうが」  乗せてもらっておいて、明子も大した度《ど》胸《きよう》である。  明子は、中松邸《てい》の塀《へい》を見上げた。  「ねえ、ちょっとここへ来て、前かがみになってよ」  「何すんだよ?」  「上に乗るの」  「何だって?」  「塀《へい》を乗り越《こ》えるのよ。心配しないで、強《ごう》盗《とう》じゃないんだから」  「当り前だい」  大学生、渋《しぶ》々《しぶ》、塀の前で、背《せ》中《なか》を丸《まる》めてかがんだ。  「もっと平らに。——そうそう。じゃ、私が中へ入ったら、もう帰っていいからね」  「言われなくても帰るよ」  と、大学生は、ふてくされて呟《つぶや》いた。  「エイッ!」  「いてっ!」  大学生の顔が歪《ゆが》んだが、それはほんの一《いつ》瞬《しゆん》で、アッという間に、明子の姿《すがた》は塀の中へ消えていた。  大学生はポカンとして、明子が姿を消した塀の上を見上げていた……。  「何だ、あいつ……」  ——中へ入った明子は、庭を忍《しの》び足で進んだ。  居《い》間《ま》が見える。  千春と、父親の中松がいた。中松はソファに座って、千春は立ったままだ。  「どうして殺したのよ!」  と、千春が言った。「あの人には、どうせ何も分らなかったのに!」  「仕方なかったのさ」  中松は肩《かた》をすくめた。「村川の奴《やつ》、焦《あせ》ったのだ。逃《に》げようと準《じゆん》備《び》していたところへ、あいつがやって来たらしい」  「それにしたって……。進吾さんは、血のつながった甥《おい》でしょう!」  「しかし、厄《やつ》介《かい》者《もの》だったからな。そのくせ、何かあるとかぎつけて来て、金をせびった」  「そんな! 白石さんを殺しただけじゃ足りないの?」  「こっちへ火の粉がふりかからんようにするのが肝《かん》心《じん》さ」  中松は一向に動じる気配がない。  「まあ、かけろ」  「——村川さんは?」  千春が、腰《こし》をおろしながら言った。  「消させる。それしかない」  中松が、あっさりと言った。  そうか。——中松が黒《くろ》幕《まく》だったのだ。  村川はその部下で……。  よし、ここは逃げ出して、警《けい》察《さつ》へ——。  じりじりと後ずさりして、何かにぶつかった。振《ふ》り向いて、声を上げそうになる。  「しっ!」  と、その男が言った。「気付かれますよ」  「佐田さん!」  千春の夫、佐田房夫だったのだ。  「静かに! こっちへ退《さ》がりましょう」  しかし、どうも様子が違《ちが》う。あの薄《うす》ぼんやりの亭《てい》主《しゆ》とは、別人のようだ。  「——やれやれ、無《む》鉄《てつ》砲《ぽう》な人ですね」  と、佐田は苦《く》笑《しよう》して言った。  「でも、あなた……」  「僕《ぼく》は、白石君の行っていた大学の、学長の息子《むすこ》なんです」  「ええ?」  明子は目を丸《まる》くした。  「大学の中で、売春のあっせんをしている者がある、というので、父から、調《ちよう》査《さ》してくれと言われましてね」  「じゃあ、千春さんと結《けつ》婚《こん》したのは——」  「いや、それは本心から彼女《かのじよ》が好《す》きだからですよ。ただ、近づいたきっかけは、中松が、どうやら陰《かげ》の人間らしいと分ったからですが——」  そうか。——明子は、やっと思い当った。茂木こず枝の死んだ日、駅で定期入れを拾ってくれた若《わか》い男。  あれは佐田だったのだ。  「そうだったんですか」  と、明子は肯《うなず》いた。「で、二人で家を出て——」  「でも、中松は簡《かん》単《たん》に捜《さが》し当てて来た。当り前ですね。村川が中松の部下だったんだから」  「だから、あなた、あんなにぼんやりした夫の役もやってたのね」  「そうでないと命が危《あぶな》いのでね」  「でも——なぜ白石さんは殺されたの?」  「まずかったんですよ、大学の中での売春がばれて退《たい》学《がく》。もう中松にしてみれば、役に立たないし、何かしゃべってしまうかもしれない」  「ひどい人ね!」  明子は憤《ふん》慨《がい》していた。  「村川のことが心配です」  と、佐田は言った。「あの男も、もう役に立たない。消される心配がありますからね」  「今、中松がそう言ってたわ」  「その前に、何とか見付けたい。村川さえ押《おさ》えれば、中松も言い逃《のが》れはできません」  「そうか。——じゃ、この中を捜《さが》してみましょうよ」  「あなたは逃《に》げて下さい。僕《ぼく》が捜してみますよ」  「そんな!」  「いや、警《けい》察《さつ》へ連《れん》絡《らく》して来てもらうんです。ともかく外へ出ないと、どうにもならないと思っていたんですが、ちょうどあなたがやって来た」  佐田がニッコリ笑《わら》った。  余《よ》裕《ゆう》のある笑いだ。  「いいわ、分りました」  と、明子は肯《うなず》いた。「じゃ、門の所から出るわ。塀《へい》を越《こ》えてもいいけど……」  「今、たぶん、門が開いてると思いますよ」  「行ってみます」  と、明子は体を起した。  「気を付けて!」  「あなたも」  明子は、庭の茂《しげ》みの中を、頭を低くして、走って行った。走るくらい広い庭なのだ。うちとは違《ちが》うな、などと、呑《のん》気《き》なことを考えていた。  ——突《とつ》然《ぜん》、誰《だれ》かが前に立ちはだかった。  明子は、素《す》早《ばや》く身《み》構《がま》えた。  それは、村川だったのだ。 32 決 闘!  だが、何だか様子がおかしかった。  村川は、青い顔で、脂《あぶら》汗《あせ》を顔中に浮《う》かべていた。そして、  「永戸君!」  と、息を吐《は》き出すように言った。「助けてくれ!」  「ええ? 何ですって? 私を殺そうとしたくせに、そんな虫のいい——」  明子が言い終らない内に、村川がゆっくり倒《たお》れて来た。  明子は、あわてて、飛びすさった。  村川の背《せ》中《なか》に、血が広がっている。  「——やあ、ここにいたのか」  見たことのない男が立っていた。  ナイフを手にしている。——この男だわ、何人もの人を殺したのは!  「運の強い女だな、あんたは」  と、その男は言った。「だが、それもここまでだ」  その男が無《ぶ》気《き》味《み》なのは、いかにも「殺し屋風」だったからではなくて、ごく普《ふ》通《つう》の、どこにでもいる小《こ》柄《がら》なサラリーマンにしか見えないからだった。  もっとも、目立たないから、殺せるので、これが一見して恐《おそ》ろしい男だったら、誰《だれ》もが逃《に》げてしまうだろう。  「何よ!」  と、明子は言い返した。「私は、そう簡《かん》単《たん》にいかないわよ」  一歩退《さ》がって身《み》構《がま》える。  「勇ましいことだな」  と、男は笑《わら》った。「しかし、ナイフに勝てるかね?」  「やってみれば?」  正直、明子だって怖《こわ》いのである。  刺《さ》されるのは、注《ちゆう》射《しや》だって嫌《きら》いだし、切られるのは電車のキップぐらいでいい。  だが、ここは、強がって見せるしかない。  殺された保《ほ》科《しな》光子のことを考える。——何の罪《つみ》もないあの人を、殺したんだ!  「どうしたの? 女の子が怖いの? 分った、いつも振《ふ》られてたんでしょ」  わざと怒《おこ》らせる。それしか手はない。相手を調子づかせるのだ。  合《あい》気《き》道《どう》は、攻《こう》撃《げき》のための技《わざ》じゃなくて、あくまで身を守るためのものだ。相手が向かって来ないと、どうしようもないのだ。  「おい、今に泣《な》き言を言うなよ」  男がナイフをサッと走らせた。確《たし》かに目にも止らぬ早《はや》業《わざ》という感じだ。  「キャッ!」  明子は、尻《しり》もちをついた。みっともなく、ペタンと座り込《こ》んだまま後ずさる。  「おい、どうした、今の元気は?」  男が笑《わら》って、踏《ふ》み込《こ》んで来る。  今だ! これを待っていたんだ!  明子は足を思い切り伸《の》ばして、男の足を払《はら》った。かすかにそれたが、男は、上体とのバランスを崩《くず》した。  明子は、勢いをつけて立ち上ると、男の懐《ふところ》へ思い切って飛び込んだ。  体当りに、男の体がのけぞる。明子はクルッと向き直って、男の腕《うで》をしっかりとつかむと、身を沈《しず》めた。  会心の背《せ》負《お》い投げ!  男は、大きく空中に円を描《えが》いて、地面に叩《たた》きつけられた。  「——こいつ!」  起き上ろうとして、あわてたせいか、足が滑《すべ》って四つん這《ば》いに、ペタッと伏《ふ》せた格《かつ》好《こう》になる。男が大きく目を見開いて、うめいた。  どうしたのかしら?——男がそろそろと上体を起すのを見て、明子は、アッと声を上げた。  伏せた拍《ひよう》子《し》に、手にしていたナイフで、自分の胸《むね》を刺《さ》していたのだ。  男は、よろけながら立ち上ったが、ナイフを自分で引き抜《ぬ》くと、何だかキョトンとした顔で、それを見下ろし、それから、急に、ガクリと膝《ひざ》をついて、突《つ》っ伏《ぷ》すように倒《たお》れた。  「やった……。やった……」  明子はそう呟《つぶや》いてから、急にガタガタ震《ふる》え出した。  全身から汗《あせ》が吹《ふ》き出して来る。  そして明子はヘナヘナとその場に座り込《こ》んでしまった。  ふと気が付くと、パトカーのサイレンが、近づいて来ていた。    「いや、全く……」  尾形がジロッと明子をにらむ。  「言いたいことは分ってるわよ」  と、明子は澄《す》まして言った。「でも言わない方がいいわ」  「どうしてだ?」  「私に質《しつ》問《もん》してたんじゃなかった? その返事はまだしてないのよ」  もちろん、結《けつ》婚《こん》の申し込みのことだ。  尾形は、渋《しぶ》い顔で黙《だま》り込んだ。  「ともかく無《ぶ》事《じ》で良かった。それに、村川も何とか命は取り止めたから、話を聞けるだろう」  と、志水が言った。  「色々、ご迷《めい》惑《わく》をかけました」  と、頭を下げたのは、千春である。  ここは、結婚式場のレストランだ。  社長を中心に、事《じ》件《けん》の関係者が集まっていた。  「あら、千春さんのせいじゃないわ」  と、明子が言った。「そんな風に言うことないわよ」  「そうですわ」  と、白石知美が言った。  「でも、父が、何かやってるらしい、ってことは察していたんですもの。まさか、あんなひどいことだとは思わなかったけど……」  「もう済《す》んだことだよ」  と、佐田が言った。「お父さんのしたことに、君は責《せき》任《にん》はないんだ」  「でも——」  と、千春は佐田を見つめて、「私と別れないの?」  と訊《き》いた。  「今度そんなこと言うと、ぶん殴《なぐ》るぞ!」  と、佐田が本気で怒《おこ》ったように言った。  「カッコいい!」  と、明子が手を叩《たた》いた。  「そうすぐに別れんで下さい」  と、社長が言った。「うちで結《けつ》婚《こん》したんだから」  「でも、なぜ、保《ほ》科《しな》さんが殺されたのかしら?」  と、明子は言った。  「そりゃ、村川のことを知っていて——」  「なぜ知ってたの?」  「うん……そうか」  と、尾形が腕《うで》を組む。  「それはね、保科さんも、村川の恋《こい》人《びと》だったからです」  と、佐田が言った。  「保科さんが!」  明子は目を丸《まる》くした。  「だから、弁《べん》当《とう》箱《ばこ》などというものも、手に入った。いや、あのお弁当を作っていたのは、保科さんだったんですよ」  「そうか!」  と、明子は言った。「村川さんの奥《おく》さん、実家へ戻《もど》ってたんだわ」  「だから、保科さんも、知らない内に、村川の仕《ヽ》事《ヽ》を手伝っていたんでしょう。でも、茂木こず枝の死を見て、やっと目が覚めた……」  「そうか、それで、お弁当箱を」  「あなたへ届《とど》けたわけです。自分で、村川と話をしようとしたんでしょうね」  「ひどい男だわ!」  明子はカンカンになった。「志水さん」  「ん? 何です?」  「村川が治ったら教えて下さい」  「それはいいが、どうして?」  「思い切り、ぶん投げてやらなくちゃ、気が済《す》まないわ」  「おい、いい加《か》減《げん》にしてくれ」  尾形が、うんざりしたように言った。  「——一番気の毒なことをしたのは」  と、志水が言った。「白石知美さんでしたね」  そう。——知美は十七歳《さい》の未亡人である。  「いえ、私は……」  知美は、静かに言った。「大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》です。生きてるんですもの。——あの人は死んでしまった。たとえ、自分のせいだとしても、可哀《かわい》そうだったと……思います」  千春が、涙《なみだ》を拭《ぬぐ》った。  「でも——」  知美は微《ほほ》笑《え》んだ。「若《わか》いんですもの、私! 大丈夫!」  「そう! その意気よ!」  明子は肯《うなず》いた。「今度結《けつ》婚《こん》するときも、ここを使ってね!」  「一言多いんだよ」  と尾形が言った。  「さあ、ともかく、事《じ》件《けん》は終った。食事をしよう」  と、社長が言った。「みんな、好《す》きなものを食べて下さい。ここの社長として、お礼とお詫《わ》びの気持だ」  「遠《えん》慮《りよ》しなくていいのよ」  と、明子が言った。「どうせ、交《こう》際《さい》費《ひ》で落とすんだから」  みんながドッと笑《わら》った。——知美も、千春も。  食《しよく》卓《たく》は賑《にぎ》やかになった。  「——そうだ」  と、尾形が言い出した。「一つ分らないんだけど、どうして、白石さんや佐田さんのところは、あ《ヽ》の《ヽ》日《ヽ》に式を挙げたんですか?」  「それもそうだ」  と、志水が肯く。「妙《みよう》ですな。事件の関係者が、同じ日に挙式したとは」  「あら、それは偶《ぐう》然《ぜん》でも何でもありませんわ」  と、明子が言った。  「というと?」  「あの日は、式場の何周年かで、特《とく》別《べつ》割《わり》引《びき》があって、安かったんですもの!」  と、明子は言った。 エピローグ  「ねえ、明子」  と、母の啓《けい》子《こ》が言った。「お前、どうするの?」  「何を?」  明子は朝のコーヒーを飲んでいた。  今日はもう出《ヽ》勤《ヽ》ではない。大学生の身分に戻《もど》ったのである。  「尾形さんのことよ」  「ああ、あれ。——もう少し考えるわ」  「そう? もう大分考えてるよ」  「考えてる、ってことにした方が、あっちが言うこと聞いてくれるから、儲《もう》かるのよ」  明子は立ち上った。「行って来ます!」  ——啓子は一人になると、ため息をついて、  「いやになっちゃうねえ」  と、首を振《ふ》って、呟《つぶや》いた。「お父さんに結《けつ》婚《こん》を申し込《こ》まれたときの私とそっくり!」 忘《わす》れられた花《はな》嫁《よめ》  赤《あか》川《がわ》次《じ》郎《ろう》 ------------------------------------------------------------------------------- 平成12年12月8日 発行 発行者  角川歴彦 発行所  株式会社 角川書店 〒102-8177 東京都千代田区富士見2-13-3 shoseki@kadokawa.co.jp Jiro AKAGAWA 2000 本電子書籍は下記にもとづいて制作しました 角川文庫『忘れられた花嫁』昭和62年10月25日初版刊行 平成6年10月15日30版刊行