TITLE : 幽 霊 湖 畔 〈底 本〉文春文庫 平成三年八月十日刊 (C) Jirou Akagawa 2002  〈お断り〉 本作品を「文春ウェブ文庫」に収録するにあたり、一部の漢字が簡略体で表記されている場合があります。 また、差別的表現と受け取られかねない表現が使用されている場合もありますが、作品の書かれた当時の事情を考慮し、できる限り原文の通りにしてあります。差別的意図がないことをご理解下さいますようお願い申し上げます。 〈ご注意〉 本作品の全部または一部を著作権者ならびに(株)文藝春秋に無断で複製(コピー)、転載、改ざん、公衆送信(ホームページなどに掲載することを含む)することを禁じます。万一このような行為をすると著作権法違反で処罰されます。 目  次 第一話 幽 霊 湖 畔 第二話 着せかえ人形の歌 第三話 危 い 再 会 第四話 吸血鬼を眠らせないで 第五話 狼が来た夜 章名をクリックするとその文章が表示されます。 連作長篇 幽 霊 湖 畔 第一話 幽 霊 湖 畔 1  目が覚めたのは、たぶん寒さのせいだったろう。  いくら大島和也が若さ溢《あふ》れる二十歳の大学生でも、この湖畔のボート小屋で、毛布三枚にくるまっているのを、笑ってはいけない。 「全く……」  頭に来て、大島は一晩に少なくとも十回は呟《つぶや》いたものだ。 「一度ここで寝てみろってんだ!」  いや、誰もここが暖かくて快適な場所だと言ったわけじゃない。要するに「八つ当り」というやつなのである。  もっとも、大島自身だって、ここの仕事を手に入れたときには、内心、やった、とほくそえんだものだ。  昨今、夏休みのバイトは正に「夏枯れ」の状態で、かつては家庭教師の口など、捜すまでもなく声がかかって来たのだが、今のガキども──いや、子供たちは塾通いで成績を競い合い、よほど優秀な学生でなければ、家庭教師はできないのである。  残念ながら大島はその部類に入らない、と自分でも認めざるを得ない立場だった。  そうなると、せいぜい時給何百円のハンバーガーチェーンの店員とか、金になる仕事なら、体を壊《こわ》しかねない肉体労働。──楽して金は稼げない、という鉄則を、大島のみならず、今の大学生の大半は思い知らされていた。  そんな仲間内では、この湖のボート小屋の泊り込みのバイトは、割のいい、得な仕事と思えた。 「うまくやったな」  と、いまいましげに大島をこづくのも二、三人はいたくらいで……。  それが、こんなに寒いものだとは──いくら山の中の湖だといっても、真夏なのに──想像もしていなかった。  食事は、この小屋の近くの、社員寮で、まずまともなものが食べられたが、それ以外は、すべて当て外れ。  総《すべ》て、というのは、どうせ、こういうロマンチックな湖には、都会の女学生がドッと押しかけて来るから、その内の一人や二人とは仲良くなれるに違いないという、「希望的観測」も含めてのことだった。何しろ今の女の子たちは、ボートをこぐなんて面倒なことはやりたがらないし、男と一緒に来てるんじゃ、大島の口を出す余地はないし……。  まあ、多少は本人の勝手な思い込みのせいとはいえ、バイト一週間目のこの夜、底冷えのする寒さに目を覚ました大島が、ついグチりたくなるのも、当然と言えたのである。しかも……。 「畜生。──三時だぜ」  枕元《まくらもと》の時計の夜光文字を、苛立《いらだ》つ目つきで眺めて、大島はため息をついた。  これから夜明けまで、一番冷え込むのである。さすがに陽《ひ》が上れば、それなりに夏らしく強い陽射しで、今度は空気が澄んでいる分だけ、肌も焼けてしまう。 「誰か一緒に寝てくれる女でもいりゃ、こごえていなくて済むのに」  と、大島はグチって、毛布をさらに強く体に巻きつけた。  弱々しい月明りが、すっかり模様の消えてしまったカーテンの隙間《すきま》から細く洩《も》れ入って来る以外、明りといえばボート小屋の入口を頼りなげに照らしている裸電球一つだった。  眠れるかどうか分らないまでも、大島はキュッと目をつぶった。そして──何分もたっていない。  キイ、キイ、と板のきしむ音で、大島は目を開いた。何だろう?  足音だった。──誰かがやって来る。  こんな時間に? まさか。夜中にボートに乗ろうって物好きもあるまい。  だが……確かに足音だった。小屋のわきを回って、ドアの方へ近付いて来る。  誰だろう? 大島は体を起こしかけた。  ドアに鍵《かぎ》などかけていない。大体こんな所、盗《と》るようなものなど置いていないのだから。  ドアが開いた。  それから後は、アッという間の出来事で、大島は驚く間もなかった。  白い影がサッと小屋の中へ滑り込んだと思うと、再びドアが閉じられた。表の、弱々しい光は、その姿をはっきり捉《とら》えてはくれなかったが、しかし、フワリと翻《ひるがえ》った白い布地、風をはらんで広がった髪で、それが女だということは分った。  いや、頭でそう理解する前に、その白い影は、大島が半身を起こしかけているベッドの方へと風のように近付いて来て、同時に、衣《きぬ》ずれの音がしたと思うと、まとっていたものが床に沈むように落ちて、大島のベッドの中へと、滑り込むように入って来たのだ。 「あの──」  大島は唖然《あぜん》として、言葉が続かない。毛布の下、押し付けられて来るのは、確かに暖かく柔らかい女の体で、そのすべすべした肌が、指先に触れた。  呆然《ぼうぜん》としている大島に、その女はキスして来た。暗がりの中、しかも、こうも間近では、女の顔まで、とても見分けられない。  一体何事だ? 誰なんだ?  しかし、問いかける余裕など、大島には残っていなかった。女の息づかいと高鳴る鼓動が、ギュッと押しつけられた胸から伝わって来ると、もう相手が誰かなど問題ではなくなってしまった。  大島は、たちまち、大きな渦に巻き込まれるように、その女の中へ、のめり込んで行ったのだ……。 「気になることがあるのよね」  また始まったな、と私は苦笑した。  永井夕子は、ちょっと口を尖《とが》らして、 「何かおかしい?」 「いや、君の口癖が出たな、と思ったのさ。それだけだよ」 「私の《ヽヽ》癖? だって、いつも私が気になることには、何か《ヽヽ》あるのよ。現実の方こそ、悪い癖があるんだわ。名探偵に休暇をやらない、というね」  私に言わせりゃ、名探偵の方で、勝手に事件を見付けてきちゃ、休暇を台無しにさせてしまうのだが、そこまでは言わなかった。  これだけ「恋人同士」として付合って来ると──たとえ年齢的には「親子」に近いとしても──夕子のことは大体分っている。  つまり、警視庁捜査一課の警部という要職にある私、宇野喬一が、多忙の中、せっかく無理に休暇をもぎ取ってきたという事実はこの甚だ自分勝手な女子大生名探偵にとって、何のブレーキにもならないのだ。  しかし、実際に、夕子が何か事件を発掘してきたとなれば、こちらも立場上黙っているわけにはいかない。 「気になることってのは、何だい?」  と、私は訊《き》いた。「凶悪犯の顔でも見付けたのか?」 「そんなつまらないことじゃないわよ」  と、夕子はアッサリ言ってのけた。 「じゃ、この湖から恐竜でも出て来るってのかい?」 「むしろ、そっちの方が近いかもしれないわね」  と、夕子は真面目な顔で言った……。  ──私と夏休みの夕子が、この湖畔のホテルにやって来て、一週間たつ。  ホテルといっても、山小屋を少し大きくした程度の造り。真新しい木の匂《にお》いが、プンと鼻に来る。悪い匂いじゃなかった。 「おはようございます」  と、声がして、このホテルの主人が、私たちの座っているテラスに出て来た。  湖に向って、少し張り出した格好になっているこのテラスは、こんな天候のいい朝には、少しまぶしいほどの陽射《ひざ》しと、湖の涼しげな景色がよく調和して、憩《いこ》いの場所としては、もってこいのムードになる。  といっても、もちろんテラスの椅子《いす》に腰をおろしているのは、私と夕子だけではない。 「今日もいいお天気ですね」  と、神谷という名の主人は、私のわきにやって来て言った。  四十か五十か、よく分らない男で、顔つきは結構若々しいのに頭がきれいに禿《は》げ上っていて、わずかに両側に残った髪もすっかり白くなっているのである。  このホテル、この神谷と、まだ若く──どう見ても三十前の奥さんと二人が大体きりもりしている。ペンションに近い形なのだ。ただ、こういうシーズンには、アルバイトの学生などを何人か使い、また台所に近くの町の奥さんを頼んで、何とか客を捌《さば》いている、ということだった。  夕子の仕入れた情報によると、 「奥さん、まだ若いけど、未亡人だったんですってよ」  ということだ。  一週間もここにのんびりしていると、夕子の鋭敏な鼻は、たいていのことなら探り出してしまう。 「神谷さん、今日、奥様は?」  と、夕子が言った。「朝ご飯のとき、いらっしゃらなかったみたい」  この目ざといこと! 私など、そんなことには一向気付かなかった。 「そうなんですよ」  と、神谷は、ちょっと沈んだ口調で言った。 「ご病気?」 「いや──」  神谷は、テラスにいる他の若いカップルや、女子大生のグループの方をチラッと見やりながら、「警視庁の宇野警部ですね」  と、ごく低い声で言った。  私は面食らって、 「僕のことを──」 「実はお願いしたいことがあるんです。ここではちょっと……。中へ入りませんか」  何だかいやな予感がした。しかし、夕子の方はもう腰を浮かしかけている。  仕方ない。私はため息をついて、立ち上った。  神谷は私たちを、フロントのカウンター(いくら小さくてもホテル《ヽヽヽ》である。ちゃんとフロントというものがあるのだ)の奥の小部屋へ連れて行った。  部屋といっても、事務室みたいな所なので、机二つと戸棚が置かれて、それで一杯になってしまっている。 「こんな所で申し訳ありません」  と、神谷は椅子を出して、「人のいない所というと、ここぐらいなものでしてね」 「それは構いませんがね」  私は、折りたたみの椅子に腰をおろし、 「一体私にどんなご用なんです?」 「実は──」  神谷が、何だかいやにガックリと肩を落として、「千代子が──いなくなったんです」  と言った。 「千代子というのは、奥さんのことですね」  と、私は念のために言った。  神谷は、ちょっと私を当惑したように見て、 「ああ、そうですね。家内の名前まではご存知なくて当然だ。ええ、家内です」 「いなくなったって、いつのことですの?」  と、夕子が訊《き》く。 「今朝、いつもの通り朝五時に目を覚ますと、家内のベッドは空っぽでした。あれは低血圧で、朝が弱いものですから、いつも私が起こしてやるのです。今朝は珍しいな、と思って、起き出したのですが──。どこにも家内の姿が見えない。少々心配になりましてね」 「スーツケースでもなくなっていたんですの?」 「ええ、そうです」  神谷がびっくりしたように、「よく分りますね」  それぐらいのことは、名探偵ならずとも察しがつく。もちろん私でも! 「つまり、家出された、ということですか」  と、私は言った。「それなら、警察へ届けられるのが一番ですよ」 「それがしにくい理由がおありなんだわ。そうでしょう?」 「ええ、実は……」  神谷が言い淀《よど》んでいると、夕子が、 「男の人と逃げたんじゃないか、ってわけですね」  と、いともアッサリ言った。 「そうなんです。──お恥ずかしい話ですが、何しろ私は千代子よりずっと年上で、あれはまだ二十八です。ここへ泊りに来た学生なんかと、これまでにも二、三度親しくなって、私が怒ると泣いて謝るんですが、すぐにケロッとして……」 「駈《か》け落ちしたことは?」 「それはありません。でも……何といっても笑われるのは私ですからね。警察へ届けていいものかどうか、ご相談しようと思ったんです」  何のことはない。深刻そうな顔で、何を言い出すかと思えば……。  好きなようにしたらどうですか、と言いたかったが、そうも言えないので、 「相手の男の心当りはあるんですか」  と訊いてみた。 「大島君よ」  と夕子が言った。  私は面食らって、 「誰だい、そりゃ?」 「あの湖のボート小屋にいるじゃないの。ボートの管理をしてるバイトの学生」  私も、おぼろげながら記憶はあった。 「あのノッポの、昨日テラスに来てた……」 「そう、あの人よ。奥さんを見る目つき、気が付かなかった?」  こちらはそれほどヒマ人じゃないのだ。 「──私もそうじゃないかと思います」  と、神谷がため息と共に、言った。「確かに、向うは若くて足も長いし、元気だし、髪も豊富で──」  最後の一項目には、特に実感がこもっていた! 「さっきテラスから見ていてね、あのボート小屋に、ボートを借りに行く人が五、六人いたけど、誰も小屋から出て来ないの。変だな、と思っていたのよ」 「まあ、もし本当に、奥さんと大島って学生が駈け落ちしたとしても、どうするかはあなた次第でしょうね」  と、私は言った。「何としてもすぐ見付けたいということなら、警察へ届けるべきでしょうし、どうせ飽きて戻って来る、と思えば、のんびり構えてらっしゃるのも結構でしょう」 「そうですね。しかし──実際のところ、家内抜きでは、ここをやって行けません。せっかく、やっと黒字になりそうだというのに……」  そんなグチをこぼされても当方としては困ってしまうのである。 「ともかく──」  と、話を切り上げようとしたときだった。 「神谷さん! ──神谷さん!」  と、表で叫ぶ声がした。 「あれ、恵子君だな。どうしたんだろう?」  恵子というのは、アルバイトに来ている女子学生の一人である。 「ただごとじゃないわ、あの声」  と、夕子が言った。  私たちがフロントへ出て行くと、赤ら顔で丸々と太った恵子が、オロオロして、 「神谷さん!」  と叫んでいる。  体があるので、凄《すご》い迫力のソプラノになる。 「ここだよ。どうした?」 「ああ、神谷さん!」  と、恵子が飛びはねた。  床がズシン、と鳴る。私は原田刑事に従妹《いとこ》か姪《めい》でもいたのかしら、と思った。 「大変です! 湖に男の人が──」 「落ちたのかい?」 「浮かんでるんです。──死んでるらしくて」  急激に、声のボリュームが下った。  私と夕子は顔を見合わせた。  恵子の後について、あのテラスへ戻ってくると、泊っている客も、働いている女の子たちも、みんなテラスへ出て、騒いでいる。 「どいてくれ!」  と、私は人をかき分けて、「どこだ?」  訊くまでもなかった。──死体は、湖に突き出した形のテラスから、ほんの数メートルの所に浮かんでいたのである。 「大島君だわ」  と、夕子は言った。 「そうらしいな……」  私はため息をついた。  仰向けに浮かんだ、その大学生は、溺死《できし》したのではなかった。胸に、深々とナイフが突き立っていたからである。 「急いで警察を呼んでください」  こんな所まで来て殺人事件とはね! 「すぐに──」  神谷は、青くなりながら、あわててテラスから中へ入ろうとしたが……。ピタッと足を止め、唖然として、新たにテラスへ出て来た人物を見つめた。 「千代子……」 「あら、どうしたの、みんな集まっちゃって」  神谷の若い女房は、いとも呑気《のんき》そうに訊いた。「映画のロケでもやってるの?」 「お前、どこへ行ってたんだ?」 「ちょっと気が滅入ったから、旅に出ようと思って。でも、駅で列車を待ってる内に、いいお天気になったでしょ。そしたら気が晴れたから戻って来たの」  神谷が、半ば呆然《ぼうぜん》としたまま、電話をかけに入って行くと、夕子が千代子の方へ歩いて行った。 「そこに死体が上ったんです」 「あらまあ。湖に飛び込んだのかしら?」  と、千代子は大して驚いてもいない様子。 「そうじゃないようですよ」 「うちのお客さん?」 「いえ。あのボート小屋の大島君という大学生ですわ」  それを聞いて、千代子は、しばしポカンとしていたが、 「そんな! まさか、そんなことが──」  と声を上げるなり、いきなり手すりに向って突進した。  私は、まだ手すりの所にいた。少し身を乗り出し、浮かんでいる死体をじっと見ていたのである。  そこへ千代子が駆けて来たと思うと、ドシン、と衝突した。私はバックミラーを持って歩く習慣がないので、不意をくらって、前に大きくのめった──と思うと──。  手すりを越えて、みごと水中に頭から突っ込んでいたのである。 2 「ハクション!」  私がくしゃみをすると、夕子がプッと吹き出した。──全く、冷たい恋人だ! 「もっとあったまってくればいいのに」  夕子は、のんびりベッドで寝そべっている。私は熱い風呂に入って、湖の冷たい水で冷え切った体をやっとあたためて出て来たところだった。  腰にバスタオルを巻いて、小さなタオルで髪を拭《ぬぐ》う。──神谷とは違って、こっちはまだ充分に《ヽヽヽ》残っているのだ! 「冗談じゃないぜ。心臓マヒでも起こしてたら、殺人罪だ」 「大丈夫よ。あなたの心臓なら」 「どういう意味だ?」 「それはともかく、さ──」  夕子は軽くかわして、「どうして大島君が殺されたんだと思う?」 「知らないよ」  と、私は肩をすくめた。「いいかい、僕たちは休暇中なんだ。それにここは警視庁の管轄じゃない」 「私には管轄なんてないわ」  夕子はのんびりと言って、「常識的に考えれば、奥さんをとられた夫が犯人ってことになるわね」 「そして、わざと僕らに、奥さんとあの大学生が駈け落ちしたと話したのかい? しかし、そんなのすぐにばれちまうじゃないか」 「すぐばれるようなことをやるのが、現実の犯罪者だって、いつもあなた言ってるじゃないの」  と夕子は、いつもの私のセリフを先取りして、「でも、それだけじゃないわ。私、大島君から打ち明けられたことがあるのよ」 「何を?」 「愛を──じゃなくて、ちょっと妙な話をね」 「びっくりさせるなよ」  と、私は苦笑した。「一体何のことだい?」  夕子が口を開きかけたとき、ドンドン、と凄い力でドアが叩《たた》かれた。 「あの勢いは恵子さんだわ」  と夕子が起き上る。「どうぞ」 「おい──」  私はあわてた。バスタオル一つの裸なのである。急いでバスルームの方へ行きかけると、ドアが開いて──。 「まあ」  夕子が、さすがに目を丸くした。 「失礼します!」  ドアの代りに、同じくらいの幅で(?)そこに立ちふさがっているのは、何と原田刑事だったのである。 「お前……」  と、私が呆気《あつけ》に取られていると、 「あ、こりゃどうも」  と、原田は私を見て頭をかき、「こんなお昼前の時間から。宇野さんも好きですねえ!」  どうやら誤解しているらしい。そして、原田の誤解をとくのは、容易なことじゃないのである。 「──そいつは妙な話だなあ」  と、私は夕子の話に肯《うなず》きながら、パンをちぎった。  少し早目の昼食を、このホテルの食堂で取っているところである。もちろん、原田が何の用事でこんな所へやって来たのかも、聞かなくてはならないのだが、食事中の原田には何を訊《き》いてもむだなのだ……。  代りに夕子から、夜ごと、ボート小屋の大島を訪ねていた謎《なぞ》の女のことを聞かされていた、というわけだった。 「五日間、続けて毎晩その女がやって来たっていうのよ」 「で、大島に抱かれて、また風のように消えて行くってわけか。──しかし、そんなことまでしてりゃ、女の顔ぐらい、分るんじゃないのか?」 「それが分らないから、彼は悩んでたのよ。私にその話をした後でも、このことは誰にも言わないでくれ、って念を押してたわ」 「相手の女が誰なのか知りたかったら、懐中電灯の一つでも、用意しときゃいいじゃないか」  私の現実的な提案に、夕子はまるで感心した様子もなく、 「そういうデリカシーに欠けたこと言ってるから、女の子にもてないのよ」 「悪かったな」 「大島君の気持、分るでしょ? 相手の女の正体は知りたい。でも、もし、知ってしまったら、もう女は二度と来ないかもしれない……」 「なるほど」  私は肯いた。「すると、彼が殺されたのは──」 「女の顔を見てしまった《ヽヽヽヽヽヽ》からかもしれないわ。そう思わない?」 「怪談めいた話だな」 「でも、お化けがナイフで人を刺したりしないんじゃない?」 「ああ、旨《うま》かった!」  原田は、何が出されていたのか、どんな名探偵でも想像しかねるほどきれいに平らげた皿を前にやって、「昼にもこれを食おう!」  これが昼食ではないと思っているらしい。 「おい、原田。腹が落ちついたところで、どうしてここへ来たのか話してくれよ」  原田は、ちょっとキョトンとして、 「──あ、そうでしたね」  ピシャリ、とおでこを叩く。──全く、幸せな男である。 「実は、東京で殺しが一件ありましてね」 「その犯人を追いかけて来たのか?」 「いいえ。湖を見張りに来たんです」  これだけでは、何のことやら分らない。 「湖が人を殺したとでも言うつもり?」  と、夕子が微笑《ほほえ》んで、「それだったら面白いけど」 「手錠をかけるのがホネだな」 「いえ、犯人はもう捕まっちまってるんです」 「何だと?」 「ケチな喧嘩《けんか》でしてね。酔った挙句に、酒に水を混ぜた、混ぜないの言い争いで」  正につまらない喧嘩である。 「大勢の見てる前で殺したんです。犯人は逃げ回ってたんですが、一週間して──つい昨日、女の所へ寄ったのを、張り込んでいた刑事に捕まりました」 「それがこの湖とどういう関係があるんだ?」 「殺されたのが、身許不明の男で、それがやっとおとといになって、名前が分ったんです」  原田は手帳を取り出した。「ええと──倉田源八という奴《やつ》で」 「倉田源八?」  何か引っかかる名前だった。「手配中の男じゃないか?」 「当り! さすがですね」 「馬鹿、クイズをやってるんじゃないぞ」 「宝石商を襲って、殺した挙句に、二億円相当の宝石を盗んだ一味です」 「そうか」  思い出した。確かあれは──。 「もう五、六年前の事件じゃなかったかな」 「そうです。まだ宇野さんも若かった」 「余計なお世話だ」 「で、その倉田源八がどうしたの?」  夕子は身を乗り出すようにして訊いた。 「そいつの住んでたアパートを調べたら、地図が出て来たんですよ。古いもんで、大分ヨレヨレでした。ちょうど宇野さんの──いや、つまり──」 「先を話せ!」 「はあ。その地図に印がつけてあったんです」 「つまり──確か、あの宝石は見付かっていなかったな。犯人も誰も捕まっていない」 「それじゃ、宝石の隠し場所ってわけ?」  夕子は、もうすっかり浮き浮きしている。 「私、宝石って大好きよ」 「盗まれたのは、特に好きなんだろ」  と、私はからかった。「それで、その地図ってのは?」 「ここ《ヽヽ》の地図なんです」  夕子はもう、今にもその場所へ向って駆け出しそうな気配である。 「ど、どの辺なの、印があったのは?」 「湖の真中です」  と、原田が答えた。 「……真中?」 「そうなんです」 「じゃ、沈めた、ってわけ?」 「そうじゃないんですよ」  原田は、手帳に挟んであった紙を広げた。 「これがその地図のコピーなんです」  覗《のぞ》き込んでみると、×印がついているのは、山と山の間、少し深い谷の底、というように見える。 「これ、湖じゃないじゃないの」  と、夕子は言って、「──ちょっと待ってよ。そうか! 思い出したわ」  パチン、と指を鳴らした。 「この湖、三年くらい前につくられた人造湖なのよね。つまり、その谷が、湖の底になっちゃったんだ」 「そういうことです」  原田がニッコリと笑って(少々薄気味悪いが)、「さすが夕子さんで」 「おい、原田、お前がここへ来たのは、もしかして──」 「その、『もしかして』です」  原田は、嬉しそうに言った。「課長の命令で、宇野さんにも手伝わせろって。女の子相手に、どうせデレデレしとるんだから、少し働かせた方がいい、とおっしゃってましたよ」  私はため息をついた。──俺の休暇は、いつも命がけなんだから!  しかし、それ以上、話はできなかった。  昼食時間が近くなって、ホテルの客たちがゾロゾロと食堂へ入って来たからである。 「さあ、昼でも食べますか」  原田がそう言った。私はただ唖然として、原田の幸せそのものの顔を見ていた……。  私と夕子が先にテラスへ出て、湖を眺めていると、誰かの足音がした。  振り向くと、女の子が一人、おずおずとこっちへやって来る。四、五人のグループでここへ来ている、大学生らしい女の子の一人である。 「何かご用?」  と、夕子が訊くと、その子は、私の方へ目を向けて、 「ちょっと……聞いていただきたいことがあるんですけど」 「あら。それじゃ、私、遠慮するわ」  夕子がわざとらしく言って、ホテルの中へ戻って行く。  大学生ではあるのだろうが、小柄で、いかにも真面目そうなタイプである。 「僕に何か用なの?」  と、私は促してみた。 「あの──おじさん、警察の偉い人なんですか?」 「偉いかどうか分らないがね」  と、私は微笑んだ。「一応警部だよ」 「やっぱり! そんな噂《うわさ》が耳に入ったもんですから。友だちは、あんな薄ぼんやりした人、刑事のわけないじゃない、って言ってたんですけど、私は、やっぱり目つきが鋭いな、って思ってたんです」 「そう……」 「それから他の友だちが、きっとあの二人は不倫の仲だって言ったんですけど、そうなんですか?」 「いや、二人とも独身でね」  私はうんざりして、「君の話って、それだけかい?」 「そうじゃないんです」  と、その女学生は言った。「私、植野加津子っていいます。東京の短大生です」 「ふむ、それで?」 「私、大島君と付合っていたんです」 「あの殺された大学生?」 「ええ。恋人ってとこまで行ってなかったけど、でも、私は彼のこと、好きだったんです」  と、植野加津子は言った。「ここに来たのも、彼があのボート小屋にいたからです。でも……」  と、顔を曇らせて、 「大島君、おかしかったんです。いつもボンヤリしていて──。東京で会ってるときには、そんなことなかったのに」 「ねえ、座らないか」  私は、まだ他の客が出て来ていない、テラスの椅子を、彼女にすすめてやった。 「すみません」  と、頭を下げて、「大島君、本当に殺されたんでしょうか?」 「間違いないね。君、何か心当りでもあるのかい?」 「いえ、そうじゃないんですけど」  と、なぜかあわてたように首を振って、「あの──失礼します。私──」  突然、涙ぐんで、植野加津子はテラスから駆け出して行ってしまった。  入れかわりに、夕子が戻って来た。 「女の子を泣かせて。悪い人ね」  と私をにらむ。 「よせよ。向うが勝手に泣き出したんだ」 「今ね、県警の人が来てるわ」 「そうか、挨拶《あいさつ》した方がいいかな」 「話を立ち聞きしたわ」 「お得意だね」 「検死の結果、大島君は、刺し殺されたんじゃないんですって」 「何だって?」  私は目を丸くした。 「大島君はね、溺死したらしいのよ」  と、夕子は言った……。  午後になると、湖面も風が消えて静かになった。 「本当にいいの?」  夕子が、指先を水に浸しながら言った。  私はオールに力をこめてこぎながら、 「向うから要請があればともかく、勝手に捜査に口出しはできないよ」  と言った。  ボートは、やがて湖の真中辺りにやって来た。 「停《と》めて」  夕子はボートが惰性でゆっくりと進み、やがて軽く左右に揺れながら停《とま》ると、水面下を覗き込みながら、 「この下に二億円か」  と呟いた。 「本当かどうか、怪しいもんだ」 「あら、どうして?」 「もう五年もたってるんだ。もし本当にこの下にありゃ、とっくに引き上げてるさ。そう思わないか?」 「もし、宝石を手に入れていれば、その倉田源八って男、もっといい暮しをしてたんじゃない?」 「うむ……。ま、それも理屈だ」 「仲間の誰かが抜けがけしたってことも考えられるけどね。──ただ、もし本当に宝石を隠した場所が、あの地図の×印だったとしたら、五年間、そのままになっていたのも不思議じゃないわ」 「どうして?」 「深さ《ヽヽ》よ。あの地図で当ってみたけど、あの地点は、この湖でも一番深いわ。ちょっと潜って取って来るってわけにはいかなかったはずよ。本格的な潜水用具をつけて、明りを持って、かなりの経験者が潜る必要があると思うわ」 「すると人目につく、か……」 「そう。三年前、ここを人造湖にして、貯水池として使うことになって、すぐに観光開発も行なわれて、もちろんディズニーランドほどじゃないにしても、いつも観光客が訪れてたわけですもの。そう簡単には捜せなかったはずよ」 「なるほど。──すると、この下にまだ二億円が眠ってる公算が大きいってわけだな」 「はっきりすれば、警察の方で、捜すでしょう?」 「そうだろうな」  私は、ふと気が付いて、「──倉田が死んだと知って、他の仲間は焦ったかもしれないな」 「身許《みもと》が分って、あの地図が見付かったら、宝石が発見されてしまう。それであわてて、ここへ宝石を取りに来たとしたら?」 「ボート小屋にいた大島が邪魔だった、か……。待てよ、大島は溺死《ヽヽ》してるんだ」 「もし、宝石を捜すために潜って死んだとしたら……」 「それを気付かれないために、ナイフでわざわざ刺したのかもしれないな」 「大分調子が出て来たわね」  夕子が微笑んだ。全く、こういうときの夕子が一番輝いているのである。 「しかし、大島が変死した一件は、こっちの管轄じゃないからなあ。倉田の方の事件と係わりがあると立証できればともかく」 「警察は、変なところですぐ縄張り意識を出すからいけないのよ」 「僕にそんなことを言われてもね」 「だから私が──あら、見てよ」  と夕子が私の肩越しに、「原田さんだわ」  振り向くと、他のいくつかのボート──ほとんどが大学生のカップルである──を押しのけるような勢いで、原田がボートをこいでやって来る。 「よく沈まないな」  私は、率直な感想を述べた。  さすがに力はあるから、ひとこぎごとに、ぐんぐんと進む。しかし、当然のことながら、進行方向に背を向けているので、そのまま真直ぐに進んでくると、我々のボートを引っくり返しかねない。 「原田さん、気を付けて!」  夕子が叫んだ。  原田がその声を聞いて、こっちを振り向くと、オールを持つ手を休めて、 「夕子さん!」  と、手を振った。 「危いわよ!」  そう。正に──原田のボートと直角に、女子学生二人が乗ったボートが、進んで来ていたのだ。  原田は逆の方へ体をねじっているので、そのボートには全く気付いていない。 「おい、原田! そっちだ!」  私も叫んだ。しかし──遅かった! 「キャァッ!」  と、女の子たちの悲鳴が上る。  原田のボートが、その女の子二人のボートの横腹を直撃したのである。もちろん、女の子たちのボートは横転して、二人の女の子は、水に投げ出されてしまった。 「おい、原田!」  私は怒鳴った。「俺が一人引き受けるぞ……」  今朝一度落ちたばかりだが仕方ない。  私は水面へと頭から突っ込んだ。向うの方で、原田も飛び込んでいた。  湖の水位が大分上ったかもしれない……。 3 「参ったな……」  と、私は言った。 「はあ」  原田がシュンとしている。  いかに原田がショックを受けているか。──もう夕食時間はとっくに過ぎているというのに、原田はそれに気付いていない! 「元気出してよ」  と、夕子が、原田の肩を叩いた。「死んだとは限らないんだから」 「ありがとうございます」  原田は、やっとかすかに笑顔を見せた。「夕子さんは優しいですね!」  確かに、夕子の言う通りだ。ただし、その可能性は万に一つしかないが……。  私たち三人は、私と夕子の部屋にいた。  もし、生きているとしたら、見付からないはずはないのだ。  そう。──ボートから落ちた二人の女子大生の内、一人が、ついに見付からなかったのである。  原田としては責任を感じてしょげているのも当然だろう。 「でも、困ったわねえ」  と、夕子がベッドに腰をおろして言った。 「地元の警察が、夜通し、捜索してくれることになってる。見付かるさ」 「でも……死んで見付かっても、生き返りません」  原田は、当り前のことを言った。 「事故だったのよ」  と、夕子が慰める。 「いえ、私の不注意です。──もし、どうしても見付からなかったら、私は頭を丸めて、ここで寺を建てます」  と、古めかしい発想をしている。  別に坊主になることはなかろうが、やはり引責辞職は避けられないかもしれない。  大体、ことが本間警視の耳に入ったら、ただじゃ済まないのは明らかだ。そして耳に入らないはずはないのである。  刑事のボートにぶつかって、女子大生二人が投げ出され、一人が行方不明。──新聞にだって出るだろう。  私としても、他ならぬ原田のことだ、かばってやりたいのはやまやまだが……。 「私も捜索に加わります」  と、原田が言った。 「疲れてるわ。少し休まないと」 「いえ、大丈夫です!」  原田は、力を込めて言った。とたんに原田のお腹がグーッと力強い音をたてて、空腹を主張した。 「何か食べてから行った方がいいわ」 「そうします」  原田は素直に言って、部屋を出て行った。  私も一緒に行ってやりたいが、ともかく必死に捜し回って、クタクタだった。 「しかし、あんなにすぐ飛び込んだのに、どうして見付からなかったんだろう?」 「それは不思議ね」  夕子も肯いて、「湖に怪物でもいるんじゃないの?」 「できて三年目の湖にかい?」 「行方不明の子は、高田啓子。見付かって助けられたのは、植野加津子……」  そう。私に話しかけて来たあの娘である。  私が助け上げたのだ。 「奇妙な縁だったな」  と、私が言うと、夕子は、 「縁?」  と訊き返した。 「そうさ。あの植野加津子って子、本当に大島が殺されたのか、って訊きに来たじゃないか」 「そして泣いて立ち去った。──大島君の本当の死因が溺死だってことが分ったのは、そのすぐ後」 「つまり、彼女は大島が殺されたと思っていたわけだな」 「そして泣き出した。──なぜ?」  夕子の言葉に、私はちょっと当惑した。 「なぜって──そりゃ、大島のことが好きだったからだろ」 「それなら、ただ死んだ、っていうことだけで充分じゃない? 殺されたのかどうか、なぜ関係があるの?」 「そりぁまあ……色々だ」  と、私は、非論理的返事をした。「つまり君の言うのは……」 「好きな相手が死んで悲しんでいるのに、友だちと二人でのんびりボートに乗ってるって心理がわからないのよ」 「ふむ……」  私も、そこは考えなかった。 「行方不明の子──高田啓子っていったっけ? それもちょっと変よ。そんなにすぐ沈んじゃうなんて。私も見ていたけど、いくら泳げない人でも、水に落ちたら、暴れるぐらいのことはあるものよ。でも、あのときは何もなかった」 「なるほど」 「だから、必ずしも、原田さんが頭を丸める必要、ないと思うのよ」  夕子は、相変らず、分ったような分らないような調子で言った。  原田が出家するかどうかはともかく、早速その夜、九時ごろ、本間警視から電話がかかって来た。  そのとき私と夕子は、下のテラスから、湖の捜索活動の様子を見ているところだった。 「宇野さん」  と、あの太った女の子──恵子が声をかけて来た。「東京からお電話が」  急いでフロントの電話に出てみると、本間警視だったのである。 「どうなっとるんだ」  いきなり、そう切り出して来た。私が大まかな事情を説明すると、 「ふん。すると、まだよく分らんのだな」 「そうです。課長、早まって声明なんか出さないで下さいよ」 「どうして俺がそんなことをするんだ? クビは原田と君で沢山だ」 「はあ?」  私は思わず訊き返した。 「ともかく、やりたいようにやれ、ここまで来たら同じだ」 「はい」  そう言われると心強い。なに、無愛想ではあるが、人は悪くないのだ。ただ、少々ひねくれた表現をする、というだけなのである。  テラスへ戻ってみると、どこへ行ったのやら、夕子の姿は見えない。  湖面は、あちこちでライトが動き回っていて、それがまた暗い湖面に映っているのは、遠目には蛍の乱舞のようにも見えた。  原田はたぶん、あれに加わって、必死で、高田啓子という娘を捜し回っていることだろう。──私も、手伝いに行こう、と思った。  二度も「水泳」をして、少々くたびれてはいるが、そんなことは言っていられない。  足音がして、振り向くと、神谷千代子が立っていた。 「奥さん。──どうしたんです?」  と思わず訊いたのは、彼女がいやにぼんやりしているように見えたからだった。  心ここにあらず、という感じなのである。 「奥さん」  もう一度声をかけると、ハッと我に返ったようで、 「ええ。──何か?」 「いや、何だか……。気分でも悪いんですか?」 「いいえ。そんなことありませんわ」  と首を振った。「光がきれいですね」  目は、湖を見ている。 「確かにね。しかし、ウットリと見ているわけにはいきません」  私は、ふと思い付いて、「あなたと、大島君とは、どういう仲だったんですか?」  と訊いた。 「大島君……。ええ、彼のこと、私、とても好きでしたわ」  やはり、どこか力のない声だ。 「彼の所を毎晩訪ねて行ったのは、あなたですか?」  それを聞くと、千代子はちょっと眉《まゆ》をひそめて、 「私、彼の所を訪ねて行ったりしませんわ」  と言った。  本当かどうか、ともかく、心外だ、という表情ではあった。  それ以上、こっちが何も言わない内に、 「失礼します」  と一礼して、さっさとテラスから立ち去ってしまう。  入れ違いに、夕子が戻って来た。 「どうしたの?」 「何だかよく分らないよ。昼間とはずいぶん様子が違ってて」 「何だか変ね」  と夕子は首をかしげた。 「何のことだい?」 「あなたがいやにもてるじゃない、今度の事件は」  夕子は本気とも冗談ともつかぬ口調で、そう言った。 「僕は原田を手伝って来るよ」 「原田さんを?」 「うん。知らん顔をしてるわけにもいかないからね」 「そう……」  夕子は、ちょっと不思議そうに、「居眠りをどうやって手伝うの?」 「──何だって?」 「食事して、そのまま食堂の椅子で眠ってるわよ」  あいつ! 人が気をつかってやってるのに! ──しかし、腹を立てても、相手が原田では仕方ない。 「あら、引き上げるみたいよ」  と、夕子が湖の方へ目をやって言った。  見れば、なるほど、灯が岸辺の方へと動いて行く。見付かった様子もない。 「諦《あきら》めたのかな」 「そうね。後は明日、ってことでしょうね」  夕子は、じっと腕組みをして、ボートの灯が動いているのを眺めている。 「おい、何を考えてるんだ?」  と、私は言った。 「え? ──別に」  夕子が肩をすくめる。 「怪しいぞ。今の顔は、何か企《たくら》んでるって顔つきだ」 「失礼ねえ」  と、夕子は笑った。「ね、あなた、先に寝ててくれない?」 「まだ早いよ」 「分ってるけど、私はちょっと遅くなりそうなの」 「どこへ行くんだい?」 「それは内緒」  夕子がウインクした。──私はため息をついて、 「おい、また何か危いことをやらかそうってんじゃないだろうな?」 「ご心配なく」  夕子は涼しい顔で言った。「そのときは、ちゃんと起こしに行くから」  危いことをしない、とは言わないのである。  しない、と言っても何かやらかす夕子なのだ。──一体何を考えていることやら。  私は仕方なく、 「じゃ、寝る前に一杯付き合ってくれよ」  と提案した。  ホテルには、小さなバーがある。ちょっと山小屋風の、薄暗いムードになっているのだが、入って行くと、 「いらっしゃいませ!」  と、威勢のいい声が飛んで来た。  あの恵子という子が働いているのだ。バーというよりお好み焼か何かの店みたいだった。 「──あら、あなた」  夕子が、一人で座っている植野加津子に気付いて、声をかけた。 「あ、どうも……」  と、植野加津子は、あわてて腰を浮かす。 「どうぞ、座ってて。心配ね、お友だちのこと」 「ええ……」  と、加津子は曖昧《あいまい》に言った。「こんなときにお酒なんか飲んでちゃいけないと思うんですけど、考え出すと泣けて来ちゃって……」 「いいのよ。それが当り前だわ」  夕子は、そう慰めて、加津子の肩を軽く叩いた。  夕子と二人で、加津子から離れた席に座る。──結構若い客が入っていて、おしゃべりでにぎやかだった。他に行く所もないのだ。 「ご注文は?」  と、恵子がやって来る。 「ビール!」  と、声がして、原田がやって来ると、ドカッと私の隣に座った。「ああ、よく寝た!」 「おい、ビールなんか飲んだらまた眠くなりゃしないか?」 「大丈夫です。これから湖へ出たら、寒いですから、体を暖めておかないと」 「捜索は打ち切ったらしいぞ」 「打ち切った?」  原田が目をむいて、「一体誰が打ち切ったんです? 許せん!」 「お前が怒ったって仕方ない」 「いいです。たとえ一人になっても、捜し続けます」 「でも原田さん」  と、夕子が言った。「夜はとても能率も悪いわ。ゆっくり休んで、明日、朝早くから湖に出た方がいいんじゃない?」 「しかし……」 「万が一、原田さんが水に落ちたりしたら、大変だもの」  津波が起こるかもな、と私は心の中で呟いた。 「夕子さん! 優しいそのお言葉だけで、私は幸せです!」  原田は大感激で、運ばれて来たビールのジョッキを、ぐっと一飲みであけてしまった。 「──凄い!」  と、恵子が目を丸くする。 「もう一杯」  原田はジョッキを差し出した。「今のは水みたいなもんです」  ──本間警視はどう言うか知らないが、私としては、原田がいつもの原田に戻ってくれた方が嬉しかった。  そして原田は、戻った《ヽヽヽ》のである。──バーのソファで、グウグウ眠ってしまったのだ……。 4  夕子が帰ってきたのか……。  夢うつつの状態ながら、私は、ドアが開いて誰かが入って来るのに気付いていた。  夕子が何をやらかすつもりか気になったので、起きているつもりだったのだが、それも夜中の一時ともなると、さすがに瞼《まぶた》の方が言うことを聞かず、ベッドに横になって、スッと眠ってしまったのだ。  そして、どれくらい眠っていたのか、ドアが開く気配で目を開くと……。  部屋はもちろん暗い。近付いて来る気配がして──。 「どうしたんだ?」  と訊くつもりが、声がまともに出ない。 「ウーン」  と、唸《うな》るような声を出したら、突然、私の上に、のしかかって来たのは、暗い中でもはっきりと分る──女の体だった。  そして──夕子じゃなかった! 「おい」  仰天して、目を開くと、いきなり女の顔が迫って来て、強引にキスされる。  呆気にとられつつ、私は、女を押し戻そうとした。しかし、女の方も、凄い勢いで抱きついて来る。 「やめなさい──誰なんだ?」  しかし、女の方は一切口をきかないで、私にのしかかって来るのである。 「ちょっと──重いじゃないか」  変なところで苦情をつけていると、ドアが開いて、廊下の明りがサッと射し込んだ。 「お邪魔するわよ」  夕子が入って来たのだ。  私の上になっていた女が、ハッと起き上った。明りに照らされた顔は──神谷千代子だった。  ポカンとしている内に、神谷千代子は、脱ぎ捨てたネグリジェを拾い上げると、それを胸に押し当てるようにして、部屋から駆け出してしまった。 「──何だ、今のは?」  私は起き上って頭を振った。 「残念でしたわね」  と、夕子が腕組みして言った。 「冗談じゃないぜ! 僕は──」 「分ってるわよ」  と、夕子は笑って、「仕度して。出かけるわ」 「どこへ? ──まだ夜中だろう?」 「夜中だから出かけるのよ。ね、急いで」  ──刑事稼業は、仕度だけは素早い。  二人で廊下へ出る。 「どこへ行くんだ?」 「しっ。──外へ出てからね」  足音を殺して、階下へ下り、私たちは、人気のないロビーを抜けて、表に出た。  夏とは思えないほど、空気は冷たい。 「こっちよ」  夕子が歩き出す。方角から、見当はついた。 「ボート小屋か」 「その通り」 「今は閉めてるんだろ?」 「夜中以外はね」  と、夕子は言った。  湖に沿って少し歩いて行くと、ボート小屋が見えて来る。 「明りが見えるぞ」 「そうよ。──見られないように、林の中を回りましょう」  私たちは、頭を低くして、木々の間を進んで行った。ボート小屋が見える辺りまで近付くと、木の幹の陰に身を潜める。  誰かがボートを湖の方へこぎ出しているのだ。小屋で泊っている者もあるらしい。 「あれは……宝探しなのか?」 「そうよ。決ってるじゃないの」  と夕子は言った。「倉田源八が死んだと分って、仲間たちは焦ったのよ。あの地図が警察の手に渡って、もし本当に宝石がそこにあるとなったら、当然、警察の手で引き上げられてしまうわ」 「そりゃそうだな」 「犯人たちは、本当ならほとぼりがさめるのを、もう少し待つつもりだった。たぶん、仲間の誰かが、潜水の技術を習っていたのかもしれないわ」 「なるほど」 「ところが、倉田源八の死で、急いで宝石を上げなきゃいけなくなった。でも、それにはボートがいる」 「大島を仲間に引き込むために、あの神谷千代子が?」 「それにしちゃおかしいでしょ? あなたの所へ押しかけて来たのを見たって、あの人、まともじゃないわよ」 「うん……。それもそうだ」 「病気なのよ、きっと。大島君に、何か妄想《もうそう》を抱いて、彼の所を訪れて行った……」 「じゃ、宝石騒ぎとは関係ないのかい?」 「大ありよ」  と、夕子は言った。「ボートはほしい。でも、急にボートなんて用意できやしないわ。あの小屋の下につないであるボートを使うしかない」 「それを大島に気付かれては困る、か」 「そう。女を抱いて夢中になってれば、その間に、ボートを拝借していたって、分りゃしないわ」 「しかし、なぜ大島が溺死したんだ?」  と私は言った。  よほど足音をたてずに近寄って来たらしい。 「動かないで!」  突然背後から声をかけられて、私と夕子はどうにもなすすべがなかった。  明りが射す。──ゆっくりと振りむくと、散弾銃を手に、神谷千代子が立っていた。  が、どこか変だ。さっき私の所へやって来た女とは違う《ヽヽ》ような気がする。 「──分った?」  と、その女がニヤリと笑った。「私は神谷由子。千代子は姉よ」 「双子だったのか」 「そう。──さ、小屋の方へ歩きなさい」  仕方ない。夕子と二人でボート小屋の方へ歩いて行く。 「どうしたんだ?」  小屋の前に立っていた男──神谷が言った。 「だから用心しろと言ったじゃないの」  神谷は、水に潜っていたらしく、ゴムのスーツを着ていた。 「見張っていて良かったわ」  と、千代子──いや、由子が言った。 「こっちへ貸せ」  神谷は、息を弾ませながら、散弾銃を由子から受け取った。「余計なことをしてくれたもんだな」 「君らが夫婦なのか?」  と、私は言った。「じゃ、あの千代子というのは……」 「少しおかしいのさ。気に入った男がいると、つきまとう癖があるんだ。大島に熱を上げててね。こっちは困って、奥の部屋へ閉じこめておいたんだが」 「そこへ、倉田が死んだ、という知らせが入って来たのね」  と、夕子は言った。 「その通り。こっちは焦ったよ。せっかくの苦労が水の泡だからな」 「そこで、夜になると、千代子さんを部屋から出して、大島君の所へ行かせていたのね」 「こっちは毎晩、水に潜って大変だったんだぜ。まだ潜水のベテランってわけじゃなかったからね」 「大島が溺死したのは──私の推測だけど──千代子さんが無理心中しようとしたんじゃない?」  神谷は、ちょっと笑って、 「いい勘だ。──あの朝早く、起きて外へ出てみると、大島が岸に打ち上げられてたんだ。千代子の姿は見えなかった。すぐに事情は察したよ」 「宝石のことに警察の注意が行くのを恐れて、ナイフを刺し、また湖へ押し戻したのね」 「そんなこと、どうでもいいわよ」  と、由子が苛々《いらいら》したように言った。「宝石は?」 「あわてるな。その箱の中だ」  黒ずんだ色の金属製の箱が、地面に置かれている。 「早いとこ逃げるのよ。この二人、どうしたらいいかしら?」 「さあな。男はともかく、女の方は殺すにゃ惜しい」 「恐れ入ります」  と、夕子が呑気《のんき》なことを言っている。  由子が、箱を力を込めて開けると、中からビニールの包みを取り出した。 「中を確かめた方がいいと思うけど」  と、夕子が言い出した。 「何だと?」 「開けてごらんなさい」  神谷と由子が、チラッと目を見交わす。  私は、もちろん隙《すき》さえあれば神谷に飛びかかるつもりだったが、向うもそこまでの油断はしなかった。 「これがどうだって──」  包みを開いた由子が、言葉を切った。包みから、バラバラと小石《ヽヽ》が落ちた。 「何よ、これ!」 「そんな馬鹿な!」  神谷が一瞬、呆然とした。  その機を逃さず、私は頭を低くして、突っ込んだ。ズドン、と発砲する音。しかし、神谷は私の頭突きを食らって、後ろに吹っ飛んだ。  起き上ろうとする神谷へ手刀で一撃を加えると、呆気なくのびてしまう。  由子がそれを見て、林の方へと駆け出して行った。あわてて後を追おうとする私を、 「大丈夫」  と、夕子が止めた。 「しかし──」 「キャアッ!」  と悲鳴が上って、由子が転がり出て来た。 「逃すもんですか!」  と、姿を現わしたのは──。 「恵子君じゃないか!」  恵子の後ろから、植野加津子が現われた。 「大島君は、この二人に殺されたようなものなんだわ」  加津子が、怒りを抑えた口調で言うと、私の方へ、「すみませんでした。ご迷惑をかけて」  と、頭を下げる。 「どうなってるんだ?」  私がキョトンとしていると、夕子がフフ、と笑った。 「ボートから落ちた二人の女子大生、一人は加津子さんで、もう一人は恵子さんだったのよ」 「何だって?」 「恵子と啓子。──ね?」 「恵子さんは、私が大島君のこと好きだったのを知っていて、同情して手伝ってくれたんです」  と加津子が言うと、恵子は得意げに、 「私、潜りには自信がありまして」  私は、ゆっくりと肯いた。 「君のアイデアだな?」  と、夕子をにらむ。 「まだ神谷たちが逃げ出さないから、宝石が手もとにはないんだな、と思ったの。恵子さんの力を借りて、探ってもらったのよ。それに、行方不明の彼女を警察が捜索してれば、神谷たちも手が出ないでしょ」 「じゃ君が宝石を?」 「宝石は、ボート小屋のすぐ近くにあったんです。神谷が底から引き上げて、浅い所に一旦隠したんですね。私、それを見付けて、小石とすり替えておいたんです」 「宝石は、ホテルの私の部屋にあります」  と、加津子が言った。 「OK。じゃ、ホテルへ戻ろう」  私は散弾銃を拾い上げた。 「じゃ、誰も死ななかったんですね!」  原田の喜びようったらなかった。──見ているこっちまで楽しくなる。  朝食のテーブルである。  肝心の持ち主が夫婦で逮捕されてしまい、恵子と、それに加津子が手伝って、客に最後の朝食を出して、忙しく動き回っていた。 「千代子さんは、病院へ入ることになるわね」  と、夕子がパンをちぎりながら言った。 「そうだな。しかし、神谷はなぜ千代子が行方不明になったと僕に話したんだ? それに本当の女房は由子なのに──」 「それは、あなたが言ったのよ」 「僕が?」 「神谷は、千代子さんも溺死したと思ってたのよ。でも、見付からなければその方がいい。だから、ただいなくなったと私たちに話して、客の間にそれとなく話が広まるようにするつもりだったのよ。千代子さんのことを、みんなが知っていると思っていたから。もちろん見かけてはいたけど、私も同一人物──神谷の妻だとばかり思ってたわけ。で、あなたが、千代子って名を聞いて、『奥さんのことですね』と念を押したのを聞いて、神谷はとっさに、女房の名前なんか、きっと誰も知らないだろうと思い付き、女房が逃げた、って話にしてしまったんだわ」 「でも由子が──」 「由子は、私たちの話を、きっと奥で立ち聞きをしてたのよ。それで夫に話を合わせたんだわ」 「やれやれ! ──で、千代子が後でフラッと戻って来た」 「そう。あなたとテラスで話したときよ。今度は彼女、あなたに夢中になり始めて……」 「願い下げだな」  と、私は首を振った。「君一人で手一杯だ。こんな物騒な恋人はね」 「何よ!」  と夕子がジロッと私をにらむ。 「──お待たせしました」  恵子が、私たちのテーブルに、ハムエッグの皿を三つ、運んで来ると、原田の目が輝いた。 「思い切り食うぞ!」  原田の言葉の迫力に、私は思わず自分の皿を両手でしっかりと押えていたのだった。 第二話 着せかえ人形の歌 1  こんなことって……。本当にあるんだろうか?  何の変哲もない、そのドアの前に立って、阪田和子は、しばらくためらっていた。  そこは貸しビルの三階で、和子は、いやにガタガタ揺れるエレベーターで、三階まで上って来たのだった。ビル自体、古かったし、お世辞にも立派とは言いかねる。  本当にここなのかしら? 和子は、もう一度、そのドアの文字を見直した。  和子でなくても、少し芸能界や、アイドルスターの情報に詳しい女子高生なら、誰でも知っているプロダクションの名前が、そこには書かれていた。でも──もうちょっと立派なビルか何かを、和子は想像していたのだ。  それが……。こんな古いビルの、それも、この階だけでも、別々の会社が三つぐらい入っていて、このプロダクションは、その一つに過ぎない。  こんなものなのかしら?  誰かが歩いて来て、和子は、つい顔を伏せてしまった。他の会社の人だろう、だらしなく着込んだ背広、サンダルをパタパタさせながら歩いて来て、和子の方をチラッと見ると忙しげに、階段を下りて行ってしまう。  あの人の目に、私、どう映ったかしら?  和子は気になった。──妙なものだろう。平日の昼、セーラー服姿の女の子が、学生鞄《かばん》を下げて、こんな所に来ているのだから。  帰ろうか。──はっきり、和子は後悔していた。  何しろ、学校をサボって来たのだ。そんなことしたのも、初めてだった。  和子は、高校一年生としては、至って真面目な部類である。他の子は、結構、憧《あこが》れのスターの映画初日とか、リサイタルとかのために学校を休んだり、サボったりするが、和子はそんなことをしたことがない。  それが……。今日は、こうしてサボって来ている。  今ごろ、家へでも連絡が行って、大騒ぎになっているかもしれない。お父さんに殴られるかもしれない……。  でも──今から学校へ戻っても、もう遅いのだ。こんな都心まで、出て来てしまったのだから。  そもそもの始まりは、二週間前の日曜日、小学校からの友だち、大津啓子と二人で、原宿を歩いていた時のことだ。──電車で一時間半もかかる郊外に住んでいる和子は、父がうるさいこともあって、原宿に来るなんて、まだやっと三回目だった。  凄《すご》い人出と、物珍しさにキョトンとしながら歩いていて、くたびれた二人は、スタンドのソフトクリームを買って、道端のガードレールに腰をかけて一休みしていた。そこへ、 「君、ちょっと」  と、声をかけて来た中年男がいる。 「え?」  和子は、ちょっと警戒した。大体、見も知らない大人が声をかけて来るなんて、ろくなことじゃないに決っている。 「君たち、どこの学校?」  ツイードの上衣、少し禿《は》げ上った、五十かそこいらの男だ。そう人の悪そうな印象ではないが、でも、人間なんて、一目見ただけじゃ分らないのだから。  しかし、和子ほど「箱入り」じゃない、啓子の方が、面白がって返事をする。──もちろん、相手は和子たちの通っている高校の名なんか知らなかった。 「一年生? そうか。原宿にはよく来るの?」 「たまに」  と、啓子が答える。「おじさん、何なの?」  よしなさいよ、と和子は肘《ひじ》で啓子をつついた。大体、啓子はちょっと軽薄なところがある。 「僕はね、こういう者だ」  と、その中年男が名刺を取り出した。 「──へえ! 知ってる、このプロダクション」  と、啓子がその名刺を受け取って、声を上げた。 「君たち、TV局を見に来ないか? 僕の所のタレントが出てるときに、来てくれれば案内してあげるよ」 「へえ! 面白そう」  啓子は、すっかり乗り気である。 「でも、めったにこっちへ出て来ることありませんから」  と、和子が、たまりかねて口を挟むと、「啓子、行こうよ」  と立ち上った。 「うん……」  啓子は、何だか未練のある様子。でも、和子が強引に引張ったので、仕方なく、 「じや、さよなら」  と、その中年男の方へ手を振った。 「電話してくれ。その名刺の番号に。──待ってるよ!」  中年男は、二人の後ろ姿へ呼びかけた。 「──面白そうじゃない」  と、啓子は、もらった名刺を、自分のポシェットへ入れた。 「そんなもん、捨てちゃいなさいよ」  と、和子は仏頂面《ぶつちようづら》である。 「何怒ってんの?」 「怒ってないわよ」  そう。──でも、本当に何をこんなに苛々《いらいら》してるんだろう?  和子は、自分でも不思議だった。  でも、そんなことは、二人とも、帰りの電車に乗るころにはほとんど忘れてしまっていたのだ……。  電話がかかって来たのは、その二週間後だった。ちょうど和子が一人で留守番していた土曜日の夕方。 「やあ。阪田和子君?」 「私ですけど……」 「この前原宿で会った、禿げたおじさんだよ」 「あ──。どうしてここが……」 「友だちに訊《き》いてね」  啓子ったら! 電話したんだわ。 「あの、何かご用ですか」 「うん。君、歌手にならないかね」  和子は、耳を疑った。──その耳に注ぎ込まれて来る、巧みな言葉。  初々しさ、素人っぽさの魅力、歌は練習すればうまくなる、君には光るものがあるんだ。私の目には狂いがない……。 「──馬鹿げてるわ」  そして今、和子はそのプロダクションのドアの前まで来ているのだ。  和子だって女の子だから、きれいなドレスを着て、TVに出る、なんて考えると、ちょっとワクワクする。でも──あの小関という男の言葉にのせられて、何となくそんな気にさせられたものの、ここまでやって来る遠い道のりの間には、後悔の気持の方が大きくなって来てしまっていた。  当然だろう。相手が果してどこまで本気なのか、分ったものじゃない。もう忘れてしまっているかも……。  そして、もし──もし、小関が、和子を歌手として売り出したいと思ったとしても、和子の父が承知するかどうか。  父は公務員で、子供のしつけに関しては、ともかく古風で厳しいのである。  そんなことを色々考えると、とても不可能に思えて来る。──そうだ。このまま帰ろう。  運が良ければ、学校をサボって来たことも知られずに済むかもしれない。  そう。帰ろう。──帰ろう。  和子は、そう思いながら、いつか、そのドアを開けていた。 「──半田かず子か」  と、夕子がTVの方へ目をやって、言った。 「誰だって?」  私は面食らって、言った。 「半田かず子。──今、TVで歌ってる子よ」  私は、TVの画面に出ている、ポッチャリした顔の女の子を眺めた。 「有名なのかい?」  と、私が訊くと、夕子は、ちょっと冷やかすように、 「知らないの? 捜査一課の警部さんは、こういうこともよく勉強しとかなきゃいけないのよ」  と、ラーメンの方へとりかかった。 「今のアイドルタレントってのは、みんなそっくりなんだから。見分けがつかないよ」  と、私はため息をついた。 「全くですねえ」  と、珍しく、食事中に口を開いたのは、巨漢の原田刑事だ。「私だって、よく分らないんですから、ましてや《ヽヽヽヽ》宇野さんには」 「おい、そりゃどういう意味だ?」  私は、原田をにらんでやった。 「私、あの子の家庭教師をやってたの」  と、夕子が言った。 「──誰の?」 「阪田和子よ、あの子」  と、夕子はTVの方を指して言った。 「阪田? ──いま、半田、って言わなかった?」 「それは芸名。本名は阪田和子。『阪』の字は、転がり落ちて縁起が悪いからって、『はん』と読んで、『半』の字をあてたのね。それと名前の方をひらがなにして、半田かず子」 「へえ」  どっちにしても、私には関係ない。私はチャーハンを食べながら、今夜はどこへ行こうか、と考えていた。  この可愛い女子大生の恋人、永井夕子とデートするのも久しぶりのことだった。このところ、大きな事件が続いていたのだ。  久しぶりの休みで、夕子と二人、のんびり過そうと思っていたのだが、二人して待ち合せて夜の町を歩いていると、ヒョッコリ会ったのが、原田刑事……。 「いや、お二人の邪魔をしちゃ悪いですからね、ワハハ!」  と言いながら、結局くっついて来て、この中華料理店へ入った。  恋人とのデートコースには、少々ロマンに欠けているかもしれないが、今さら気取ってフランス料理でなきゃデートでない、というほど、夕子も私も俗物ではない。どうせ四十男と女子大生の取り合わせなのだ。少々苦笑いがまじるくらいでちょうどいいのである。  しかし、この原田みたいなでかいのがまじると、少々やりにくいのは事実だし、それ以上に心配なのは、夕子の大好物《ヽヽヽ》──事件《ヽヽ》が起こることの方だった……。 「夕子さん、今でもこの子を教えてるんですか?」  と、原田が言った。 「まさか。彼女、もう学校へ行ってないわよ。とっても地味な子で、こんなことになるなんて、信じられないみたい」 「スカウトされたのかい?」 「そんなとこね。──家は遠かったけど、真面目な、いい生徒だったから。本人も大学を受けるつもりでね。半年ぐらい通ったのかな、週に二回」 「それがどうして──」 「女の子だもの、スターにしてあげる、なんて誘いには弱いわよ。──今でも憶えてる。いつもの時間に彼女の家に行ったら、家の中がいやに重苦しくてね、和子さんはワンワン泣いてるし、父親は顔を真赤にして、娘をにらみつけてる。母親と、男の子──弟がいるんだけど──その二人は、ただ困ったように見てるだけで……」 「じゃ、その子が歌手になりたい、と言い出して?」 「そう。学校をサボって、こっそり、声をかけてくれたプロダクションへ行っちゃったらしいのね。そしたら、向うはもうベテランでしょ。TV局へ引張って行って、重役に会わせたり、作曲家の先生に挨拶《あいさつ》に行ったりで、和子さん自身、わけが分らない内に、もう断り切れないような状態になっちゃったのよ」  それはそうだろう。プロダクションの海千山千の連中にかかったら、そんな女子高生など、思いのままだ。 「それが分って、親が怒った、というわけだな」 「そう。でも、プロダクションの方は、もうその子のためにお金もつかっているし、今さら断られても困るって……。それは口実だと思うけど。──ともかく、私は部外者だし、とても勉強って雰囲気じゃないから、帰って来ちゃったのよ」  と、夕子は言った。「その三日後に、和子さんから電話があって、歌手としてデビューすることになると思うので、大学の方は諦《あきら》めますって……」 「なるほど」 「でも、和子さん、とても不安そうだったわ。お父さんは口もきいてくれない、って言って、寂しそうに笑ってた」  私は、TVの方へ目をやった。もう、全然別のアイドル歌手が、そこには登場していた。  別の子だということは分るが、しかし、もう私は、その半田かず子という女の子の顔を、思い浮かべることができなかった。 「──やあ、どうもごちそうさまでした!」  原田が、腹をポンと叩《たた》いた。 「じゃ、出ましょう」  と、夕子が、椅子《いす》を動かして、立ち上る。 「それじゃ原田さん、またね」 「ええ。──ごゆっくり」  と、原田はニヤニヤしながら言った。  表に出て二人になると、私はホッと息をついた。 「やれやれ、原田の奴が、どこまでついて来る気かと思って、苛々《いらいら》してたんだ」  私がそう言うと、夕子は笑って、 「ああいう風にサラッと言うのがコツなのよ。変に苛々してたら、ちっとも楽しくないじゃない」  そう言えるのは、夕子が若いからだろう。そう思ったが、しかし、私は口には出さなかった。 「──どこか、洒落《しやれ》たホテルに泊りたいわね」  と、夕子が私の腕に腕を絡めてくる。 「うん……。安くしてくれる所なら知ってるよ」 「あなたが顔のきく所って、事件の起こりそうな、物騒なホテルばっかりなんだもの」  と、夕子は苦笑いした。 「よし、今日は高級ホテルのスイートルームで……」 「高い所は一泊十五万円もするってよ」 「ツインルームにしよう」  と、私は即座に言った。 「ね、私たち──」 「何だい?」 「はた目には、不倫のカップルに見えるかしらね」  そうかもしれない。私は男やもめだから、別に、浮気でも不倫でもないのだが、それでも、この年で、若い夕子とホテルへ入るなどというと、何となく後ろめたさを覚えて、つい下を向いてしまったりする。──まあ、プレイボーイを気取っても仕方ない。しょせん、こちらは冴《さ》えない中年男なのだから。 「何を考えてるの?」  と、夕子が言った。 「え?」 「落ち込んでたでしょ。本当に中年男って仕方ないんだから!」  夕子はそう言うと、素早く私の頬《ほお》にキスした。──と、まあこのまま夕子との甘いラブシーンが続けば文句はなかったのだが……。  ピーッ、ピーッ。  無情なポケットベルの音が、二人を引き裂いたのである。 「何だ畜生! 待っててくれ。間違いかもしれない」 「面白い事件なら、結構よ」 「こっちが困るよ」  と、私はしかめっつらをして、手近な赤電話へと駆けて行った。  夕子がそばへやって来て、ニヤニヤしながら眺めている。私のがっかりした顔を見ようという、変な趣味の恋人なのだ。 「──もしもし、宇野だ。──ああ。──ここにいるけど、どうして?」  私は夕子の顔を見た。「──誰だって? ──分った」  私は受話器を置いた。夕子が不思議そうに、 「私にご用? 逮捕状が出たとか?」 「いや、そうじゃない。TV局へ来てほしいと伝言だ」 「TV局? 私、出ることになってたかしら?」 「そうじゃないよ。阪田和子──半田かず子からの伝言だ」  と、私は言った。 2 「一体どういうことです!」  と、その男は食ってかかっていた。「和子はレコードの売上げではトップなんだ! それなのに、和子が一曲で、あの新人が二曲ってのは、おかしいじゃないか!」 「まあ、落ちついて下さいよ」  TV局のマークの入った服を着た若い男は、苦笑していた。「二曲ったって、一曲は自分の持ち歌じゃないのを、ふざけて歌っただけじゃありませんか」  私と夕子は、TV局のロビーに入って、受付の女性に話をしていた。  半田かず子に呼ばれた、と言っても、なかなか信用してもらえず、私が仕方なく警察手帳を見せると、今度は青くなって、 「あの──すぐ社の重役と相談して参りますので、弁護士立ち会いの上で──」  とやり出す。  それをなだめて、夕子が、かず子の知人なのだと説明し、やっと受付の女性も、安心した様子だった。内線電話で連絡すると、 「──こっちへマネージャーが参りますので」  とのことだった。  夕子と二人、ロビーの椅子に腰をおろしていると、その男たちの口論が耳に入って来たのである。 「不愉快だ!」  と、顔を赤くして、怒っているのは、もう五十になろうという、小太りな男で、 「あんたの番組じゃ、いつも和子はわきへやられてる。こりゃ俺だけの意見じゃないぞ」  と、まだ文句をつけている。 「誤解ですよ。あの番組は、ベテランも新人も特別扱いしない建前です。その点は、かず子ちゃんも分ってますよ」 「かず子ちゃん、だと? 気安く呼ぶな!」  と、もう八つ当り気味。 「ともかく、後の仕事がありますので」  と、若い男の方は、相手をするのも馬鹿らしいという様子で、さっさと行ってしまった。 「──このままじゃすまさんぞ!」  と、中年男は、その後ろ姿へ、大声で怒鳴った。 「半田かず子のプロダクションの人間かな」  と、私がそっと言うと、夕子は何だか複雑な表情で、 「そうじゃないわよ」  と、首を振った。  その男が、苦虫をかみ潰《つぶ》したような顔で、こっちへやって来る。夕子は、立ち上ると、 「阪田さん」  と、声をかけた。「家庭教師にうかがっていた、永井夕子です」 「──ああ、こりゃ、先生! いや、和子が色々お世話になりました」  と、打って変って笑顔になる。  私は唖然《あぜん》とした。これが阪田和子──半田かず子の父親? 娘の芸能界入りに猛反対した公務員の、厳格な父親だったはずだが。 「和子さん、大活躍で、すばらしいですね」  と、夕子が言うと、阪田は嬉しそうに、 「いや、あの子にあんな才能があったとは思いませんでしたよ。好きにさせてやって、良かったと思ってます。そうそう、今度映画にも出ることになったんです。もちろん主演でね。ぜひ見てやって下さい」 「ええ、拝見しますわ」 「これまでも、何十件も話はあったんです。しかし、何といっても『半田かず子』のデビュー作ですからね。題材を選ばないと。それに主演でなきゃだめだ、と。当り前の話ですよ」 「そうですね」 「プロダクションの小関さんは、初めは準主役でも、とおっしゃってたんですが、私と家内が絶対に反対したんです。初めに安売りすれば、相手になめられてしまう。待っていたおかげで、いい役が来たんですよ」  阪田は、至って満足そうである。──私は、聞いている夕子の、複雑そうな表情を見ていた。 「──お父さん」  と、声がした。「やめてよ。先生、ご迷惑だわ」  さっきTVに出ていた少女が、そこに立っていた。それは、そっくりな、しかし、別の少女のようにも思えた。 「和子さん。久しぶりね」  と、夕子が微笑《ほほえ》む。 「和子、どうしたんだ」  と、父親が戸惑った様子で、「お前、インタビューが入ってたろう、休憩の間に」 「断ったわ。私、先生とお話があるの」 「そんな勝手なことを……」  阪田は顔をしかめた。「あの雑誌は発行部数が多いんだぞ」  少女は、何も言わなかった。なぜその少女が、TVに出ていた子と別人のように見えたのか、やっと私にも分った。笑っていないのだ。  いつも、TVの画面に出ている間、ずっとアイドルの顔にはりついているあの笑顔が、消えているのだ。 「先生。こっちへ来て」  と、和子が夕子の手を引いて言った。「あの人が宇野さん?」 「そう。私の彼氏」 「じゃ、ご一緒に。──時間があんまりないの。早く!」  何だかわけが分らなかったが、私は、冷たく光るTV局の廊下を、夕子たちの後を追って、ドタドタと走って行った。阪田の方は、取り残されて、ポカンとしているようだった。  ──和子は、途中のドアの一つを開けて、中へ入って行った。  空いた会議室で、誰もいない。私が入って、ドアを閉めると、和子は、 「先生……私……」  ワッと泣き出して、夕子にすがりつく。  TVに出る、あの信じられないようなデザインの衣裳《いしよう》のまま、泣きじゃくっている少女の姿は、何とも哀れだった。  夕子は、慰めるようなことを何も言わずに、ただ黙って、彼女を抱いていた。──やがて、少し落ちついた様子の和子は、顔を上げて、 「メイクが落ちちゃう……」  と、呟《つぶや》いた。 「座りましょう。──いつからあんな風なの、お父さん」  夕子の問いに、和子は、深々とため息をついた。 「初めの内は、渋い顔して、『お前が出てもTVは見ない』なんて言ってたんです。でも……人気が出始めて、CFに出ると……。うちのプロは月給制ですから、大してもらってはいないんですけど、CFの出演料は半分私に入るんです。それがたちまち何百万になって……。父も母も、ガラッと変ってしまいました」 「お父さん、お勤めは?」 「半年前に辞めて、今は私の事務所の社長です。副社長が母で」  夕子は首を振って、 「変れば変るもんね」 「TV局のプロデューサーや、映画会社の人に接待を受けて、父は、公務員のころ、そんなことに全く縁がなかったんで、すっかりいい気になってしまったんです。私の仕事の予定も、父が決めて、取材にはお金を取るし、サイン会、握手会も次から次に……」 「困ったもんね」 「私が忙しいのはいいんです」  と、和子は言った。「こういう仕事ですから、二、三時間の睡眠で働くのは覚悟してます。ただ──たまらないんです。父や母、それに公平も……」 「弟さんだっけ。今、十七?」 「ええ。高校を中退して、バンドをやってます。──もちろん、一人前で通用するような腕じゃないんですけど、私の弟ってことで、結構仕事はあって」 「そう。──辛《つら》いわね」 「父も仕事を辞めて、あんな風ですし、母はあんなに家庭的な人だったのに……」  和子は、ちょっと言葉を切った。「ともかく、私が、家族中の生活をめちゃくちゃにしてしまったんです」  夕子は肯《うなず》いて、 「あなたの気持、よく分るわ」  と、和子の肩に、そっと手を置いた。「私に何かできる?」 「以前、先生が、刑事さんの恋人がいるって話してらしたの、思い出したんです。すみません、突然呼び出したりして」 「いや、構わないよ。どうせ今日は非番でね」  と、私は言った。 「先生、私──」  と、和子は言った。「何とかして防ぎたいんです。殺人が起こるのを」  夕子と私は、顔を見合わせた。 「和子さん。『殺人』っていったの? それはどういうこと?」  夕子がガラリと変って、厳しい口調で訊いた。 「実は私──」  と、和子が言いかけたとき、廊下の方で、バタバタと駆ける足音がしたと思うと、ドアが開いた。 「ここにいたのか」  さっき、阪田と言い争っていた、若い男である。「捜してるよ、君のことを。大騒ぎだ」 「ごめんなさい」  和子は立ち上った。「先生、すみません。もう一つ、番組の収録があるんです。終るまで待っていてくれますか」 「ええ、いいわよ」 「じゃ、スタジオを見にいらして」  と、和子は、アイドルの顔に戻りながら言った。「どんなにチャチなものか、よく分りますから」 「行こう。衣裳も変えなきゃならない」 「うん」  若い男に促されて、和子が出て行くと、 「やっぱり、あんただったのね!」  と、甲高いヒステリックな叫び声が廊下に響き渡った。「木下さん! この子に手を出さないでと言ったはずよ!」 「いや、僕は別に──」  と、あの若い男が言いかける。 「じゃ、そんな所で、二人で何をしてたの!」  ヒステリックな声は、一段と高くなった。夕子が、ヒョイと出て行って、 「阪田さん、お久しぶりです。永井夕子ですわ。今、ここで、和子さんと話し込んでしまってたんです」 「あら……」  と、その派手なスーツを着た女性は、夕子と私を見て、「まあ、先生。──そうでしたの。いえ、この子が、この木下ってディレクターと付合ってるので、私、目を光らせてるんですよ」  木下というその若い男は、渋い顔で、黙っている。和子は、冷ややかに、母親を見つめると、 「お母さん、私のことを言うのなら、自分と小関さんの関係をきれいにしてからにしてちょうだい」  と言ってのけた。「木下さん。行きましょう」  木下と和子が急ぎ足で行ってしまうと、 「まあ……。あの子ったら、何てことを、人さまの前で……。ちょっと先生、失礼しますわ」 「どうぞ」  夕子は、うんざりしたような声で言った。うんざりしているのは、私も同じだったが……。 「かず子ちゃん!」  と、声が飛ぶ。  今の男の子は、中学生ぐらいでも、いい加減体が大きいから、一見すると大人みたいに見える。  その「一見、大人」が、「──ちゃん!」なんて叫んでいるのを見ていると、何だか妙に寂しい気分になるのだった……。 「スタジオに、ファンを入れてるのね」  と、夕子は言った。  やたらにコードが這《は》い回って、セットの壁やらドアやらが並べてあるスタジオの隅で、私と夕子は、歌番組の収録を、見物していた。 「ちょっと、ごめんなさい」  と、女の子が一人、私と夕子の間に入って来る。  私は、おやと思った。──明るいライトの当ったステージでは、和子──いや、半田かず子が立って、バックのバンドと合わせている。私と夕子の間へ入って来た女の子が、その、半田かず子と、全く同じ衣裳をつけているのだ。 「あら」  と、夕子が言った。「あなた啓子さんでしょう」 「え?」  と、振り向くと、「──どなたですか?」 「私、永井夕子。和子さんの家庭教師だったのよ」 「まあ! 和子の所で会いましたね」  と、その女の子も、思い出したらしい。 「あなたも、歌手に?」 「いいえ、私、和子の替え玉」  と、啓子という子は笑顔で言った。 「替え玉?」 「ええ。和子、歌の後で、ステージの高い所から飛び下りるんです。演出ですけど、もちろん。下にマットも敷いてあるし、大丈夫なんだけど、もし足でも挫《くじ》いたら、大変でしょ、スケジュール詰ってるから」 「で、あなたが?」 「ええ。私、運動神経は和子より上だから。顔では負けるけど」  と、笑った顔は、しかし、なかなか爽《さわ》やかだった。 「おい、大津君」  と、あの木下というディレクターが、やって来る。「準備はいい?」 「うん、大丈夫よ」 「じゃ、一度やってみてくれ」 「はあい」  と、大津啓子は、器用にコードを飛び越えながら走って行く。ステージの上の和子と、手を取り合って騒いでいるのが見えた。 「──本当かしら」  と、夕子が言った。 「何が?」 「和子さんと、あの木下って人」 「そうなっても無理ないね。しかし──」  と、私は首を振った。「気になるのは、『殺人』の一言だな」 「そう……。誰が殺されるんだと思う?」 「うん……。彼女の話し方じゃ、はっきりしなかったな」 「そうなのよ。自分が殺されるっていうのか、それとも、他の誰かなのか……」  夕子も不安そうだった。 「──おい! 何やってるんだ!」  と、ディレクターの声が飛ぶ。「バック、しっかりしてくれよ!」 「ピアノが悪いんだよ」  と、ギターをかかえている男の子が、言い返した。 「あれ、公平君だわ」  と、夕子が言った。 「彼女の弟?」 「そう。──十七に見えないわね」  夕子は、ため息をついた。確かに、髪を肩まで乱暴にのばしたその若者は、どこかすさんで老け込んで見えた。不健康な生活をしている人間に特有の、疲れた雰囲気がある。 「すみません、ちょっと待って下さい」  と、和子がディレクターに言って、弟の方に歩いて行った。「公平、あなたが間違えたのよ。ちゃんと素直に謝りなさい!」 「何だよ、姉のくせに俺のことを──」  と、文句を言いかけた弟を、和子は、いきなり平手で打った。  バシッという音が、びっくりするほど大きく、スタジオの中に響いて、誰もが口をつぐんでしまう。──ガヤガヤと騒がしかったスタジオの中が、シンと静まり返ってしまった。 「何するんだよ!」  と、公平が顔を真赤にして、怒鳴る。 「やめたまえ」  と、木下が、急いで割って入ろうとしたが、 「いいの、木下さん」  と、和子が止めた。「これは姉弟のことですから」 「何だ、こんな番組!」  と、公平が、声を震わせた。「どいつもこいつも、下手《へた》くそな奴《やつ》ばっかりで! そんな奴のバックなんて、やってられるかよ!」 「じゃ、やめなさい」  和子の方も、頬を紅潮させて、負けずに弟をにらみつけている。 「ああ、やめてやらあ」  公平はギターを外すと、「俺はロックミュージシャンなんだ! こんなポップスやら歌謡曲なんて、阿呆《あほ》らしくって!」 「何がロックよ!」  と、和子が叫ぶように言った。「あんたはただの怠け者よ! 音楽をそんな口実に使わないで!」 「何だと──」  公平が手を上げかける。 「やめろ!」  木下が、公平の腕をつかんだ。公平は、その手を振り切ると、 「さわんなよ! ──フン、顔も見たくねえや!」 「こっちこそ。好きにしなさい」 「好きにしてやらあ」  公平が、スタジオのセットを踏み潰《つぶ》しかねない勢いで、大股《おおまた》に歩いて、出て行った。  ホッとした空気が、スタジオの中に流れる。 「──ご迷惑かけました」  和子が、大きな声で言って、深々と頭を下げた。 「気にするなよ、かず子ちゃん」  と、バンドのマスターらしい男が笑顔で言った。「いくらでも代りはいるからね。すぐ用意できるよ」 「すみません」  和子の、素直な態度には、誰もが好感を持ったようだった。──またスタジオの中は、ガヤガヤした雰囲気に戻っている。 「大変だな、あの子も」  と、私が言うと、夕子はため息をついて、 「私、アイドルにならなくて良かった」  と、言った……。 3  私は、いい加減くたびれて、スタジオの外へ出た。  何といっても、四十男が何曲も続けて、アイドルたちの歌を聞くというのは、辛いものだ。特に、お世辞にも、うまいとは言いがたい子が大部分なのだから……。  それに加えて、スタジオに集まった(集められた、というべきか)少年少女たちのやかましいこと。自分のひいきのアイドルに声援を送るというのは結構だが、分らないのは、当人が歌い始めても、手拍子だけでなく、「──ちゃん!」とか、合の手を入れて、歌が聞こえないくらいにやかましいことである。  一体何のファンなのだろう、と私は首をかしげざるを得なかった。  しかし、これもまた「中年のグチ」に過ぎないのか、夕子は一向に参った様子もなく、面白がって眺めている。私は、結局、頭痛に負けて、一人で廊下へ出たのだった。  ──この番組は生中継ではなく、VTRにとっているので、途中、録《と》り直しがあったり、出演者が遅れて来て、待ち時間があったりで大分時間がかかっていた。まだ、例の半田かず子の出番は来ていない。  私は、人気《ひとけ》のない廊下を歩いて行って、ちょっと引っ込んだ場所に、ソファが並んでいるのを見付けると、そこに座り込んで、タバコに火をつけた。──どうやら、今夜の夕子とのデートは、「TV局見学」で終ってしまいそうである。 「──ごまかさないで!」  突然、女の声がして、私はびっくりした。  誰やら、廊下で立ち話をしているようだ。 「奥さん、こんな所で大声を出さないで下さい」  と、男のうんざりしたような声。 「小関さん、私、主人とも別れるつもりです。和子はあなたの思い通りになるんですよ」 「いけませんよ。別れるなんて。今でも、あの子はお二人のことで悩んでいる。これ以上、負担をふやしたら、あの子はノイローゼになる」 「和子のことはともかく……。私はあなたを愛してるんですもの」  女の声は、聞き憶えがあった。和子の母親である。──さっき和子が言っていた、母と小関との仲というのは、事実だったようだ。 「奥さん、やめましょう」  小関の口調は、和子の母親のそれとは、あまりにも対照的だった。母親の方は、真剣そのものだ。いや、思い詰めてさえいる。  それに対して、小関の方は、まともに取り合っていない様子だ。 「大人同士の遊びじゃありませんか。僕は女房もいる身ですよ」 「小関さん……」 「──そんな怖い目でにらまれても困りますね。あなただって楽しい思いをしたはずだ。そうでしょう?」  小関という男、笑って済まそうとしている。しかし、相手は無気味に、黙りこくっているだけだ。 「もう行きますよ。──用事がありましてね。じゃ、これで」  と、歩きかけると、 「和子のことね」  と、母親が言った。「あの子のことを──」 「何がいいたいんです?」  と、小関が足を止める。 「そりゃ、私より、若い和子の方がいいでしょう」  私はびっくりした。そっと覗《のぞ》いてみると、小関というのは、もう五十近いと思える、頭の禿げた男だ。  こいつと、あの和子が? ──まさか!  それとも「スターにしてやるから、俺の言うことを聞け」というやつだろうか?  今どき、そんなことがあるのか? 「誤解されては困りますね、奥さん」  小関の口調は、脅迫めいたものにと変った。「あの子だって子供じゃない。納得した上で、ああいうことになったんですからね」 「和子の方がいいのね……。そうなのね」 「あの子とは、あれっきりですよ」 「でも、それからだわ。あなたが急に冷たくなったのは」 「冷たくなるも何も……。私はね、あなたに熱くなったことなんかありませんよ」 「──分ったわ」 「ま、よく頭を冷やして下さい」  と、小関が歩き出すと、和子の母親が、言った。 「和子にあなたを盗《と》られるなんて……」  しかし、その言葉は、もう小関の耳には入らなかったろう。  和子の母親は、小走りに立ち去った様子だった。──私は、タバコを灰皿にもみ消した。  いやなものを聞いてしまったものだ。  娘に嫉妬《しつと》している母親。しかも、夫を裏切り、当の娘の働きで生活している。 「何て世界だ」  と、思わず呟《つぶや》いた。  私は、もう少し廊下の先まで歩いて行った。  ほとんど窓のない、不思議な建物である。  ただ十時と言われたら、午前やら午後やら分るまい。住む者の生活も、考え方も、大分世間一般から遠いように思えた。  曲り角の向うで、話し声がして、私は足を止めた。──あまり足音のしない靴をはいていたので、気付かれなかったのだ。 「何とかなるさ……」  と、言ったのは、あの若いディレクター、木下らしかった。「いいかい。何があっても僕の気持は変らない」  立ち聞きは趣味でないが、これは情報収集である、と口実をつけて、私は、そっと角から向うを覗いた。  木下と話しているのは、半田かず子──阪田和子だ。華やかなドレスの後ろ姿が、寂しげに震えて、木下の胸に抱かれている。  やはり、少々気まりが悪くなって、私はスタジオの方へ戻って行くことにした。 「──何してたの?」  夕子が突然ヒョイと目の前に立ったので、私はびっくりして、飛び上りそうになった。 「おい、驚かすなよ! いつ来たんだ?」 「今よ。何だか、立ち聞きでもしてるみたいだったから」 「しっ。木下とあの子だよ」  と、私は夕子を押して、スタジオの方へ歩き出した。「それより、面白いものを聞いたよ」 「へえ、何を?」  私が小関と、和子の母親の話をくり返してやると、夕子は、顔を曇らせた。 「ひどい話ね。──和子さんも、すっかり人生が狂っちゃって……。もちろん、自分で選んだ道でもあるけど、本当のところはね……」 「それにしても、小関ってのも、ひどい奴だな。母親も娘も、なんて」 「そうねえ……。あんなんじゃなかったんだけど、お母さん。──あら」  私と夕子は、スタジオの扉が見える所まで来ていた。ちょうど中から出て来た者がいる。 「公平君だわ」  和子の弟である。私たちには気付かずに、急いで歩いて行ってしまったが……。 「何だか様子が変だったな」 「そうね。びくびくしてるみたいだった」  夕子も私と同じ印象を持ったようだ。  スタジオへ入ると、また、頭の痛くなりそうなやかましさが襲って来て、私は、思わずため息をついた。  しかし──ため息をつくぐらいのことでは事は終らなかったのである。  本番だった。  ライトを浴びて、歌っているのは、和子である。しかし、マイクを通した声はスタジオの中には聞こえないので、見ているこっちには、バックのバンドの音ばかりが大きく聞こえる。そして、相変らずの、 「かず子! かず子!」  というコール。  ──どうして、身替りの大津啓子が、わざわざ飛び降りたりするのか、歌詞を説明してもらって、やっと分った。  この歌が、「恋へのダイビング」というのだ。歌も、最後が、 「あなた目がけて、ダイビング」  という文句で終っている。  だから、それに合わせて、本当に飛んでやろうというわけだった。  セットのステージが階段になっていて、歌いながら和子は、その一番高い所まで上って行く。そして、歌が終ると同時に、背景になっている窓を破って──ガラスでなく、紙がはってあるのだ──床まで飛びおりるという設定だ。  だが、実際は同じ窓の裏側がもう一つ作ってあって、カメラが切りかわると、そこを破って、大津啓子が飛び出し、そのまま床へとダイビングすることになっているらしい。  私と夕子は、壁伝いに、セットの裏側へと回って見た。  床からの高さは、三メートル半はある。かなりの度胸が必要だろう。  木下が、山積みにしたスポンジを、手で押してみている。そして、上の方へ、手を上げて見せると、紙の窓のわきから、大津啓子が顔を出し、愉快そうに手を振っていた。  歌が終りそうだった。──木下がちょっと緊張した面持ちで、カメラの方へと向いた。  カメラが下から、ダイビングして来る啓子を、写そうというわけだ。もちろん、TVを見ている方は、それが和子だと思って見るに違いない。 「──大した度胸ね」  と、夕子が呟いた。「私なら、ごめんだわ!」  いくつもの危険をくぐり抜けて来た夕子がそう言うと、何だかおかしい。──私は、微笑んだ。  歌が終った。タタッと足音がして、本物の《ヽヽヽ》和子が、窓へと飛び込む。しかし、その窓は、飛び出しても、下には落ちず、目の前のクッションへと着地《ヽヽ》するのである。  同時に、啓子がみごとに、窓を破って、ダイビングして見せた。スポンジの山の中へ、頭から突っ込む。  ワーッと拍手と歓声が上った。 「──OK!」  木下が、駆けて行った。「良くやったぞ! タイミングもぴったりだ!」  木下は、スポンジの山の中に埋れてしまった啓子を引張り出そうと、その中へ入って行った。 「おい、もういいよ。──大丈夫か?」  と、声だけが聞こえていたが……。 「ワッ!」  木下が、飛び上った。「た、大変だ!」  木下は、スポンジの山の中から、転ぶように出て来た。私は息を呑《の》んだ。木下の両手が、血だらけだったからだ。 「どうした!」  私は、木下の方へ駆け寄った。  木下は青くなって、ガタガタ震えている。 「あの子が……中で、血だらけに……」  と言うのがやっと。  私と夕子は、スポンジの山へと駆け寄ると片っ端から、スポンジを放り出した。  ──大津啓子は、うつぶせに、頭を低くして、倒れていた。胸が、血に染っている。  そして、もう息がないことは、一目で分った。 「──これが、殺人《ヽヽ》?」  夕子が、そう呟くのが、耳に届いて来た……。 「──これか」  スポンジの山を、やっとかき分けて、私は、その重いスパナを取り上げた。もちろん、指紋には用心してのことだ。  スパナの先に、ナイフが、強い力で挟まれて、その鋭い刃が上を向いていた。 「まあ……」  夕子が、顔をしかめた。「このナイフで……?」 「これが、スポンジの下に置いてあったんだ。刃を上に向けてね。──上はスポンジで隠れているから分らない」 「──僕のミスです」  木下が、真青になっている。「ちゃんと調べておかなきゃいけなかった……」 「上から手で探ったくらいじゃ、分らないよ」  と、私は言った。「あの子が落ちたときに、スポンジが押されて、下のナイフが、あの子を突き刺したんだ。ひどいことをするよ」  ──スタジオの中は、やっと騒ぎも静まっていた。とはいえ、現場に居合わせた人間には一応話を聞く必要がある。  局の人間はともかく、ファンとしてやって来ていた少年少女は、大騒ぎだった。早く帰してくれなきゃ、叱られる、と泣く女の子もいれば、面白いから、死体を見せてくれ、という子もいたり……。  とても四十男ではついて行けない。  死体……。そう、結局、大津啓子は、ほとんど即死の状態だったのである。 「──失礼します」  と、声がして、振り向くと、でっぷりと太った、今どき珍しい重役タイプの男。 「何かご用ですか?」  と、私は言った。 「責任者の方で? 私はこの局の制作部長をしております」  と、名刺をくれる。 「どうも。その辺を踏まないで下さい。犯人が何か残しているかもしれない」 「いや、誠に困った話で。ご協力はぜひさせていただきますが──」 「よろしく」 「ただ……。このスタジオが使えないと、制作上、色々困ったことがありまして」 「できるだけ早く、こちらもやっています。しかし、何といっても殺人事件ですからね」 「全く──信じられませんな」  と、その部長は、ため息をついて、「これが生放送だったらどうなるか。考えただけでゾッとしますよ」  私はちょっとその部長氏をにらんで、 「私は、まだ十八の女の子が殺されたことの方に、ずっとゾッとしますがね」  と言ってやった。 「ええ、そりゃもう……。気の毒なことをしました。しかし、半田かず子でなくて良かった。もし、かず子本人だったら、後の──」 「番組に支障が出る、ですか。そのセリフを殺された娘の両親におっしゃってみるんですな。感激のあまり一発ぶん殴ってくれるでしょう。捜査の邪魔です。あっちへ行っていて下さい」 「はあ……。それじゃよろしく」  腹を立てるでも、恥じ入るでもない。少々のことには何も感じなくなっているのかもしれない。この手の人間には、怒るだけ損である。──そう分っていても、つい腹が立ってしまう。  その部長氏が歩いて行くと、スタジオの床を踏み鳴らしながら、原田がやって来る。 「宇野さん! あの若い連中はどうしますか? 訊いても何も知らんと言うだけですよ」 「しょうがないな。一応住所と名前を控えて、帰してやれ」 「はい、じゃ、そうします」  原田が、戻りかけると、 「ちょっと失礼」  と、あの部長氏が呼び止める。「おたくは刑事さん?」 「はあ」 「いや、もったいない!」 「は?」 「今、TVの怪獣物で、ぬいぐるみを着て暴れる役者が足りなくて困ってるんです。どうです、一つ? 忙しければ、アルバイトにでも。いいお金になりますよ……」 「怪獣ですか」 「そうです。時には、いい怪獣の役も回って来ますから──」 「すると、こういうことをするんですね?」  と言うなり、原田はあの重そうな部長氏をヒョイと持ち上げてしまった。 「ワッ! ──お、おい、下ろしてくれ!」  見かけほどには重くないようだ。「重役」でなく、「軽役」なのかもしれない。 「た、助けて! 下ろしてくれ!」  と、わめいている部長氏をかつぎ上げたまま、原田がスタジオを出て行く。 「──やれやれ」  と、私は呟いて、ふと、夕子の姿が、いつの間にやら見えなくなっているのに気付いた。  また、きっと一人で何やら調べ回っているのだろう。  と──目の前のスポンジの山が、急に盛り上った。目を丸くしていると、ヒョイと顔を出したのは、他ならぬ夕子だった。 「おい! 何してるんだ、そんな所で?」  と、私が呆《あき》れていると、 「誰かこの中に隠れていられたかしらと思って、やってみたのよ」  夕子は、スポンジをはねのけて出て来た。 「やっぱり殺人が起こったな」 「そうね。でも──」 「分ってる。気に入らない点はいくつもあるさ」  と、私は遮《さえぎ》って、「殺すには極めて不確実な方法だ」 「そう。それはもちろんよ。それを仕掛けた人間は、殺すつもりじゃなくて、ただ、うまくいけば、けがをさせるぐらいのことはできると思っていたのかもしれないわ」 「そうだろう、きっと」 「でも、誰に《ヽヽ》? ──誰にけがをさせるつもりだったの?」 「そうか。分りました」  と、木下が言った。「あの替え玉の子が狙《ねら》われたわけじゃなくて、本当の狙いは、かず子だった、と……」 「あのダイビングで、替え玉を使うってことは、みんな知ってたんですか?」  と、夕子は訊いた。 「いや、いちいち説明してはいません。必要なスタッフと当人たち以外はね」 「しかし、同じ衣裳だったぞ」  と、私が言った。 「ええ、だから二人が一緒にいるのを見てた者は、何かあるんだな、と思ったかもしれませんね。でも、歌の終りでダイビングするなんてことは、話してありません。それじゃ、みんなびっくりしてくれませんからね。あのファンの子たちも、モニターのTVを見ていて、てっきり、かず子本人が飛び下りたと思って、アッと声を上げたんですよ」 「なるほど。──すると、犯人も、半田かず子が飛び下りると思っていたのかな」 「その可能性の方が高いでしょうね」  と、夕子は肯いた。「大津啓子を殺そうとする人がいたとしても、何もこんな所でやるとは思えないわ」 「うむ、それはそうだ」  ともかく、狙《ねら》われたのが半田かず子、ということになると、その当人は助かっているわけなのだから、直接話が聞けるわけだ。これは捜査の上で、大きな利点である。 「それにしても……」  夕子は、もう死体の運び出されたセットの方を眺めて、呟いた。「可哀そうなことをしたわ……」  そのとき、ふと私は思い出した。  夕子と二人で、ここへ戻って来るとき、いやにこそこそと、逃げるように出て行った公平のことを。 4  ここには、昼間ってものが来ないのだろうか。──扉を押して入ると、私は、ふとそう思った。  タバコの煙、ほの暗い照明、メロディのあるのかないのか分らないような音楽が、頭をしびれさせるように鳴っている。  目が慣れて来ると、丸テーブルが十個ほど、黒い床に並んで、三分の二は埋っているのが分った。  どのテーブルも、十代と覚しき若者たちである。酒を飲んでいる。  全く、こういう連中は、何のために生れて来たんだ? ──年寄りくさいと言われようと、私はそう思わずにはいられない。 「──何か用?」  と、寄って来たのは、髪を紫色に染めた若い女だった。 「俺は──」 「刑事でしょ。分るわ」 「分りゃ話が早い」 「みんな成人よ。少なくとも当人はそう言ってるから、店としちゃ、お客を信用するしかないもんね」 「アルコールのことで来たんじゃない」  と、私は、周囲を見回しながら、「ここに阪田公平が来てるだろう」 「公平? 公平ならよく来るけどね」  と、女は肩をすくめて、「でも今日はまだだよ」 「本当か?」 「疑うんなら、調べてよ。──ねえ、刑事さん」 「何だ?」  私は、テーブルの間を、ゆっくりと歩きながら、言った。何しろ、どの男も似たようなスタイルなので、近くで顔を見たって分らないのだ。 「公平が何やったか知らないけど、もっと他に調べることがあんじゃないの? 人殺しとか誘拐《ゆうかい》とか」 「だから来てる」  少し間があった。女は、後からついて歩いている。 「──何やったの?」 「殺し」  と、私は言った。 「嘘《うそ》。──公平はそんなことしないよ」  女の言い方に、私は足を止めて、振り返った。 「恋人か?」 「私の? まさか」  と、女は言って、「あいつは半田かず子の弟よ。私なんか、目じゃないわ」 「ふーん」  私は、その女を眺めた。女というより少女だろう。せいぜい十八か十九。紫の髪を、ごく普通にしたと想像すれば……。 「そんなことはない」 「何のことよ?」 「君の方が、あいつなんか目じゃないってことさ」  と、私は言った。「本当に、公平は来てないんだな?」 「うん……」  かすかにためらいがあった。 「──隠すなよ。どこにいるか、知ってるんだろ?」  女は、ちょっと困ったような顔で、 「でも──女と一緒なのよ」  と言った。 「どこだ?」 「あの……」  だが、返事を聞く必要はなかった。店の奥の方で鳴っているスピーカーの後ろから、壁越しに、 「何よ!」  という女の声がしたと思うと、バリバリッという凄い音と共に、ベニヤの板を破って、公平が飛び出して来たのである。  正確には、放り出された、というべきかもしれない。公平は、店の床へ転がって、ウーン、と呻《うめ》いている。 「なめるんじゃないわよ」  と、女がパッパッ、と手をはたきながら、破れ目から顔を出した……。 「あら、来てたの?」  夕子だった。 「──じゃ、君に乱暴しようと?」  外へ出て、話を聞いた私は、店へ戻りかけた。「逮捕してやる! 二、三十年もぶち込んでやれば──」 「よしなさいよ」  と、夕子が笑って、私の腕をつかむ。「あの公平ってのが乱暴しようとして、やられる子なんて赤ん坊くらいのもんだわ」 「しかし……。君も勝手にそんなことをやっちゃ困るぜ」 「話を聞くつもりだったのよ」  夕子はタクシーを停《と》めた。 「どこへ行くんだ?」 「和子さんの所。──もう話ができるらしいから」 「僕は聞いてない!」 「そりゃ、警察を信用してないからよ」  私はため息をついて、タクシーに乗り込んだ。  和子は、自分の代りに、親友が死んだというショックで、自分のマンションへ閉じこもっていた。──事件から三日たっている。もちろん、TVや新聞、週刊誌でも大騒ぎだった。 「──公平は何か言ってたかい?」  と、私はタクシーの中で訊いた。  何しろ、夕子にのされて、完全にのびてしまっていたのだ。 「あのときスタジオからそっと出たのは、一旦、ああして飛び出ちゃってから、やっぱり心配になって戻ったんですって。でも、見たら、ちゃんと代りのギターがいて、自分よりよっぽど巧《うま》いんで、こっそり抜け出したんだそうよ」 「あり得るね」 「例の、スパナは? 指紋、出たの?」 「いや、ついていない。あのスパナも、局のもので、誰だって使えたらしいよ」 「ナイフは?」 「このところよく出ている品らしい。新製品でね。持ち主を当るのは難しいだろうな」 「つまりは、手がかりなし、ってわけか」 「はっきり言うなよ」  と、私は渋い顔で、「きっと、あの子の話を聞けば……」 「どうかしらね」  夕子は、窓の外へ目をやった。「どうも、もう一つ、はっきりしないのよね……」 「何が?」 「何となく」  また夕子の「名探偵」が始まった。たいてい、こういうわけ《ヽヽ》の分らないことを言い出すと、何か考えているということなのだ。  タクシーを、近くで降りると、私たちは和子のいるマンションの方へ歩いて行った。 「──わ、凄い」  夕子が目を丸くした。  私も、同様である。ともかく、マンションの前、向いの家のベランダ、塀の上まで、カメラマンやら記者らしいのが、合計三十人は下るまい。 「突破しましょ」  と、夕子が言って、「一、二の三!」  ワッと二人で駆け出すと、誰もが呆気にとられている内に、マンションの中へ入り込んだ。 「やあ、いらっしゃい!」  マンションの玄関を入ったところに、原田が立っていた。 「お前、何してんだ?」 「変なのが入って来ないように、見張ってるんです。どうぞ、エレベーターはあっちです」 「ありがとう」  私は、息を弾ませながら、歩き出した。「ああいう仕事をしていると、あいつは実に楽しそうだな」  ──阪田和子の部屋には、両親と、それにプロダクションの小関も来ていた。 「母の靖子でございます」  と、挨拶される。  こちらは、もう見知っているのだが。 「どう、和子さん?」  と、夕子が訊く。 「ええ……。取り乱してすみません」  和子は、セーターとスカートという、普通の格好をしていた。そうしていると、とてもTVで見るアイドルとは思えない。  少し青ざめてはいるが、しっかりした表情だった。 「啓子に申し訳なくて……」  と、和子は呟いて、首を振った。 「どうも、犯人は君を狙って、あのナイフを仕掛けたと思われるんだがね」  と、私は言った。「あの夜、君は『殺人』を防ぎたい、と言ったね」 「はい」  と、和子は肯いた。 「お前、そんなことを?」  と、父親の阪田良平が、びっくりした様子で、「何かあったのなら、どうして私に言わないんだ。ちゃんと手を打ってやったのに」 「そうよ。お母さんだって、色々知ってる人もいるし……」 「いや、そんなことより」  と、阪田は妻を抑え、「今はこれが妙なスキャンダルにならないようにするのが先決だよ」 「そう。その通りよ。──和子、今が大切な時なんだからね」 「お母さんのおっしゃる通りだよ」  と、小関が口を挟む。「幸い、今度の事件では、君は被害者の立場だ。まだイメージに傷はついていない」 「そうですとも」  と、阪田が肯く。「和子のマイナスになるような記事をのせる所があったら、今後一切の取材に協力せん、と言い渡してやる」 「映画の方も、方針は変らないしね」  小関は、タバコに火をつけた。「君をメインに、製作発表が来週にはある。いい作品にしなくちゃな」 「そうよ、和子。私たちであなたを守《も》り立ててあげるから、あなたも負けずに頑張って!」  ──聞いているこっちは、馬鹿らしくなって来た。正に茶番劇である。 「和子さん」  と、夕子が言った。「あなた、何か言いたいことあったんでしょ?」 「ええ」  和子は、両親と、そして小関の三人を、順番に見て、言った。「私、結婚するわ」  三人が、ポカンと口を開いたままになってしまった。和子は続けて、 「木下さんと。──今夜からのツアーが終ったら発表するの。それから、芸能活動は続けるつもりよ」 「そうか……」  阪田が、やっと気を取り直した様子で、「しかし、お前、そういうことは、事前に我々に相談して……」 「そうだよ」  と、小関は、不愉快げに、「そんな発表は、君の人気が定着してからにすべきだ。少なくとも、二年は待たなくては」 「とんでもないわ」  と、和子は笑った。「私、待つ気なんかない。──私が言った『殺人』っていうのはね、お父さん、お母さん、そして、小関さんの三人の、誰が誰を殺してもおかしくない状態だったからよ」  三人が、一斉に青くなった。 「でも、啓子が死んでしまった。──どうしてあんなことになったのか分らないけど、ともかく、私、そのおかげで命拾いをしたわ。早く、幸せをつかめるときにつかんでおかなきゃ。そう思ったのよ」  和子は、有無を言わせぬ調子で、「もし、あなたたちの一人でも、私の結婚の邪魔をしたら、私、何もかもばらしてやるわ。お母さんと小関さんのこと、私と小関さんのこと、プロの売れない女の子に手を出してるお父さんのこと」  ──誰も、言葉がない。 「いい? 私を不幸にするつもりなら、三人とも道連れよ!」  和子は、とても十八とは思えない目で、三人の大人たちを見据えていた……。 「──わざわざ、恐れ入ります」  と、大津啓子の母親が、頭を下げた。  私と夕子は、啓子の家にやってきていた。遺影に手を合わせてから、私は、 「全力で、犯人を見付けるべく努力いたしておりますので」  と、頭を下げた。 「よろしくお願いいたします」  こういうときは、私も辛い立場である。  特に相手が、恨み言一つ言わないときは、余計に辛い。  しかし、ただ狙われただけの、阪田和子の所には、あの報道陣。それにひきかえ、殺された大津啓子の家には、別に誰がやって来るでもないようだ。 「啓子さんのことは、本当にお気の毒でした」  と、夕子は言った。 「一番いい年齢《とし》でねえ……」  と、母親は、半ば放心しているよう。「恋もしていたようですのに。──このところ、そんな様子で、気にしていたんですが、ゆっくり話す暇もなくて」  と、写真を見上げる。  パタッと、なぜか啓子の写真が倒れて、落ちて来た。 「おっと!」  私は、危うく手をのばして、それをつかんだ。「──壊れるところだ」 「まあ、すみません」  と、母親が立ち上って、「やっぱり、いやがっているんだわ。高い所の苦手な子でしたから。低い所へ移してやりましょう」  と、写真を大切そうに抱きかかえる。  夕子が、言った。 「高い所がだめだったんですか?」 「ええ。啓子は小さいころからで。結構お転婆でしたけど、高い所だけはだめでしたわ」 「じゃ、飛び下りるとかいうことも?」 「火事になったって、二階から飛び下りるくらいなら焼け死んだ方がいい、なんて言っていました。──もう火事に遭《あ》う心配もないわけですね」  母親の目から涙が落ちる。  夕子と私は目を見交わした。  なぜ、高い所の苦手な啓子が、あんなダイビングをやったのだろう? 「やあ、こりゃ、先生!」  と、阪田が、私と夕子を見付けてやって来る。「和子にご用ですか? もうすぐ終りますよ」  ステージの袖《そで》。──中央に、スポットライトを浴びた和子がいた。マイクを握りしめて、アンコールの曲を歌っている。 「──この曲で終りですか?」  と、夕子が訊いた。 「え? ああ──あと一曲です。いや、ファンも、三曲ぐらいはアンコールを期待してますからね」  と、阪田は上機嫌である。「全公演、即日完売ですよ! 大したもんでしょう?」 「そうですな」  と、私は肯いた。 「いや──実は、家内ともよく話し合いましてね。今は和子も大事な時だし。仲直りすることにしました。これからはうまくやりますよ」 「良かったですね」  と、夕子が言う。「和子さんには、これから、支えが必要ですもの」 「そうですとも! 心機一転の意味もあって、家を買うことにしました。半田かず子にふさわしい家をね。──木下と結婚して、そこへ我々と一緒に住めばいい。少々高い買物ですが、なに、大丈夫ですよ」  拍手が沸いた。和子が、深々と頭を下げると、袖の方へやって来る。 「──先生! 来てくれたんですか」  と、タオルで、顔の汗を拭《ぬぐ》い、「歌は下手だから、恥ずかしいわ」 「ちょっと話があるの」  夕子は、和子をわきへ連れて行った。 「何か?」 「実はね──」  と、私は言った。「木下が自供したよ」  和子の顔が、仮面のようになった。汗で光る仮面だった。 「啓子さんは極度の高所恐怖症だったのに、なぜ、あんなダイビングを引き受けたのか」  と、夕子が言った。「それは恋人《ヽヽ》のためだったのよ。恋のためなら、どんな怖さも克服できた。──スタジオへ何度か来ている内に、啓子さんは木下を好きになったのね。そして木下は軽い遊びのつもりで、啓子さんを抱いた」  和子は目を伏せて、言った。 「啓子は、私に嫉妬してたのよ。私がスターになって、自分はその替え玉。──だから、木下さんを誘惑したんだわ」 「ともかく、木下は、啓子さんに手を焼いていた。そして君と木下との結婚話を聞いた啓子さんは、何もかもばらすと言い出した」  そう。TV局の廊下で、木下に抱かれていたのは、啓子だったのだ。私は後ろ姿で、てっきり和子と思ったのだが。 「木下は、あのダイビングを利用して、啓子さんを殺すことにしたのね。あんなナイフの仕掛けなんてなかったのよ。木下は、スパナを、予《あらかじ》めスポンジの山の下へ入れておいた。そして飛び下りた啓子さんを助け起こしに行くふりをして、そのときに、隠していたナイフで刺したんだわ。それから、指紋を拭ってスパナに挟んでおいた……」 「ああすれば、君が狙われたと誰でも思うからね。木下の話では、君は一切、知らなかったということだがな。本当かね?」  和子が、ふと微笑した。 「あの人……私が知らないと言ったんですか」 「うん」 「自分だけでやったことだって? ──そう言ったんですね」  和子は、独り言のように呟いた。 「おい、和子! もう出ないと」  と、阪田が叫んだ。 「はい! ──先生」  と、夕子の方へ向いて、「私、何もかも知ってました。私が計画したんですもの。本当です」  そう言うと、和子は、再びステージへ出て行った。凄い歓声と拍手。 「──ありがとう、みなさん!」  と、和子が汗を光らせながら、叫ぶように言った。「今度の曲でお別れです。──聞いて下さい。私の、最後の歌です……」  ──照明が落ちて、ただ、ステージの上の和子だけを、スポットライトが捉《とら》えている。  和子が歌い出した。  私と夕子は、袖に立って、じっとその光景を見つめていた。 「可哀そうに」  と、私は言った。 「そうね。でも……彼女は幸せなのよ。恋人の愛情だけは信じられたから」  夕子にしては、素直な言葉だった。 第三話 危 い 再 会 1 「早苗──」  と、永井夕子は言った。  病室から出てきた三沢早苗は、 「悪いわね」  と、ほとんど囁《ささや》くような声で言った。「講義、あったんでしょ?」 「何言ってんの」  夕子は、友人の肩をポンと叩《たた》いて、「どうせ年中さぼってんだから。荷物、持とうか?」  早苗は、大きな袋の、手さげの紐《ひも》のついたのを、両手に三つ、下げていた。 「いいわよ……それじゃ、これ、持ってくれる? 少し重いの」 「うん。他のは?」 「いいの。これは持って帰るやつじゃないから」  三沢早苗は、まだ顔に血の気も薄く、いかにも疲れ切った様子に見えた。それも当然だろう。つい五日前に、出産という大仕事を終えたばかりなのだから。  しかし、早苗が青白い顔をしているのは、必ずしも肉体的な疲労のせいばかりでもなかった……。 「早苗、行こうか」  夕子が促すと、早苗は心細げに廊下を見回して、 「吉岡先生、いないかなあ」  と、呟《つぶや》くように言った。  その言葉が終らない内に、パタパタとサンダルの音がして、当の吉岡医師が廊下をやって来るのが見えた。  吉岡則子はもう五十歳に近い、この病院の産婦人科に二十数年在籍するベテランである。背は高くないが、どっしりとした堂々たる体格で、いかにも子供好きのする顔をしている。──現実に四人の子持ちでもあり、初めてお産を目前にした若い母親は、吉岡則子がニコッとするのを見ただけでホッと安心するのだった。 「ごめんね、早苗さん」  と、吉岡則子は、男のような太い声で言った。「急に電話でつかまっちゃってね。間に合って良かったわ」  しかし、吉岡則子の威勢のいい声も、今の早苗を元気付けるわけにはいかなかった。 「色々お世話になりました」  と、早苗は頭を下げた。 「うん。──体を大事にね。しばらくは無理しちゃいけないわよ」 「はい」  早苗は、肯《うなず》いてから、「あの……これ」  と、紙袋の一つを差し出した。  重くはなさそうだが、何やら大きくふくらんでいる。 「何なの、これ?」 「私──縫ったんです、自分で。オムツ。あの子の親になる方に、渡して下さい」 「そう」  吉岡則子は、微笑《ほほえ》んだ。「分ったわ。必ず渡してあげる」 「お願いします」  紙袋を吉岡則子に渡すと、早苗はもう一度頭を下げた。 「出口まで送るわ」  吉岡則子は、早苗の肩に、軽く手をかけた。  夕子は、その二人の後から歩きながら、何ともいえない、やり切れない怒りが胸の中に渦巻くのを押えられなかった。  三沢早苗から、大学の講師、堀口功一と付合っていると聞かされたのは、半年ほど前のことだった。夕子は即座に、 「やめなさいよ」  と忠告した。  堀口は名うてのプレーボーイとして知られていたからだ。早苗は、小学校から高校まで女ばかりの学校に過し、大学へ入ったばかりの一年生だった。正に堀口にとっては格好の「獲物」だ。  しかし、早苗は夕子の言葉に戸惑ったような顔で、 「でも──もう、結婚することにしてるの」  と言ったのだった。  夕子は、早苗が妊娠していることも知った。こうなると、すっかり堀口を信じ切っている早苗に、それ以上は何も言えなかったのだ。ただ、堀口が今度こそ本気で早苗と結婚するつもりでいるのを祈るばかりだった。  堀口が、突然結婚できないと言い出したのは、出産予定日まであと二カ月もないころだった……。  それから、早苗と堀口、そして早苗の両親、堀口の母親の間に何があったのか、夕子は知らない。  ただ、早苗は、堀口を訴えなかった。たとえ裏切られても、早苗は最後の最後まで、彼が思い直してくれる、と信じていたらしい。  ──もちろん、それは虚《むな》しかった。  加えて、早苗は自分の両親とも闘わなくてはならなかった。自分一人で育てたいという早苗の望みを、両親が断固拒んだからだ。  早苗は十八歳の若さで、堀口に裏切られたことで充分すぎるほど疲れていた。結局、生れた赤ん坊を養子に出すことに同意したのだった……。 「──先生」  廊下を歩いていた早苗は、足を止めて、吉岡則子を見た。 「どうしたの?」 「もう一度──会って行きたいんです」  吉岡則子は、ためらっていたが、やがて、 「じゃ、そうしなさい」  と肯いた。  早苗が、小走りに廊下を戻って行く。 「走ったら、体にさわるわよ」  と、夕子は、急ぎ足で、早苗の後をついて行った。  途中、早苗がどこをどう曲ったのか分らなくなり、夕子は立ち止ってキョロキョロしていた。ふと、目が〈新生児室〉という矢印に止る。  その矢印を追って行くと、早苗がいた。  新生児室の広いガラス窓に、顔をくっつけるようにして──いや、実際、両手をピッタリとガラスに当て、顔を押し当てて、その奥の我が子に見入っているのだった。  早苗の体が、小刻みに震えたと思うと、こらえ切れなくなったのだろう、声を上げて泣き出した。──夕子にはどうするすべもない。ただ、じっと立って、早苗が泣き止《や》むのを待つだけだ。  長くは泣かなかった。夕子の方を向くと、うつむいて、歩いて来る。  夕子に、声もかけずに、そのまま早苗は歩いて行った。  夕子は、早苗の涙がまるで雨滴のように筋を引いて残ったガラス窓から、しばらく目を離すことができなかった。  振り切るように、夕子も早苗の後を追う。  ──永井夕子、大学一年も終りに近い、春のことだった……。 2 「夕子! ──夕子じゃない」  弾んだ女性の声が飛んで来て、夕子が足を止めたので、彼女と腕を組んでいた私は、前のめりにずっこけそうになった。 「ええ? 早苗なの?」  夕子は、私のことなど放ったらかして、久しぶりに会ったらしいその友だちと、大声でキャアキャアやっている。  まあ、私のような四十男が、にぎやかな地下街の真中で一緒になってはしゃぐわけにもいかないので、ただポカンと眺めているばかりだった。女子大生の夕子と、同年輩の女性──この二人の、感激の再会となると、かなり音量も周波数も高くなるのは止むを得ないところだ。  騒音防止条令に引っかかるとしても、これを取り締るのは、私の仕事ではない。私の仕事はあくまで殺人──警視庁捜査一課に所属する警部なのだから。 「じゃ今はOLなの?」  と、夕子が訊《き》く。「ぐっと大人っぽくなっちゃって! 差つけたわね」 「安月給で、やりくりは大変よ。──こちら、夕子の……」  と、その女性は私の方を見て、言い淀《よど》んだ。 「宇野さんっていうの。警視庁の警部なのよ、こう見えても」  一体どう《ヽヽ》見えるんだ? 夕子の説明は、いつもどこか引っかかるのである。 「へえ! 警部さん。でも、こんなに優しそうなの、警部さんって」  私は、すっかりこの女性が気に入った! 「三沢早苗といいます」  と、その女性は挨拶《あいさつ》して、「夕子とは高校のころ一緒で」 「ねえ、もう仕事済んだんでしょ? 私たち、これから夕ご飯食べるとこ。一緒にどう? ね、いいでしょ?」  夕子の押しつけがましさは、相手がつい喜んで従ってしまうのがいいところである。  私としては、久々に大きな事件を片付けて、今夜は夕子と二人、ゆっくり過したいと思っていたのだが……。まあ、まさか夜中《ヽヽ》まで三人一緒ってこともあるまい。 「でも──何だか悪いわ」  と、ためらう三沢早苗だったが、夕子ともっと話をしたいという気持も強かったのだろう、私の方も、一緒にと誘うと、それ以上は断らずについて来た。  警部の給料では、そうそう高級フランス料理店というわけにはいかない。──三人して、至ってご家族向きのレストランへ入った。 「私、下宿してるの。おばさんに、夕ご飯はいらないから、って電話して来るわ」  一旦、席についてから、三沢早苗は、店の入口の赤電話へと、立って行った。 「君の友だちか。なかなか頭の良さそうな子だな」  と、私が言うと、夕子は急に笑顔を消して、 「可哀そうな人なのよ」  と言った。 「可哀そう?」 「同じ大学に入ったんだけど、入ってすぐ、早苗、堀口って講師に引っかかって──」  夕子の手短かな説明でも、およその見当はついた。 「ひどい話だな……。で、彼女は?」 「ご両親とのしこり《ヽヽヽ》が消えなくてね、結局、大学やめて、一人で家を出て働き出したの。それ以来、ずっと会ってなかったんだ」 「そうか。──しかし、元気そうじゃないか」 「うん……。でも、まだやっと二年……まだまだ傷は治っていないはずよ」 「それはそうだろうな。相手の男はどうしてるんだ?」 「堀口? さすがに大学にはいられなくなって、確か予備校の講師か何かになった、って聞いたわ」 「ふーん」  そんな話を聞くと、まだまだ男女平等なんてのは先の先、という気がして来る。──私と夕子の間柄では、「平等」よりはむしろ……。ま、言わぬが華、ということにしておこう。  三沢早苗が戻って来て、食事の席は、大いににぎやかになった。  大学の様子、友人たちのことなど、早苗の方からどんどん持ち出して来て、夕子も大分ホッとしているのが、見ていて分る。その内、私と夕子の間柄にも話が及び──。 「へえ! じゃ、凄《すご》くすてきな関係なのね」  と、早苗は、冷やかすように言った。 「どうかしら。──ご意見は?」  夕子が私をからかうように見て、言った。 「いいなあ、夕子……。やっぱり、しっかりしてたものね」 「早苗──今は何の仕事?」  夕子は、話が少ししめっぽくなりそうなので、急いで切り換えた。 「ホテルに勤めてるの。叔父がホテルの偉い人を知ってて」 「へえ。どんなことしてるの?」 「受付とか、エレベーターガール。足は疲れるけど、でも結構やってみると面白いわ」 「どこのホテル? 入る時には気を付けるから」  と、夕子が言ったので、早苗は楽しげに笑った。  少なくとも、こうして見る限りでは、すっかり立ち直っているように見える。しかし、目の前に一組の恋人たち(念のため、申し上げるが、私と夕子のことである)を見ているのが、少しも辛《つら》くないわけはない。  ただ、その気持を巧みに隠しておくだけ、大人になったのかもしれない……。  その時、レストランの入口の方で、赤ん坊の声が聞こえた。三沢早苗がハッとしたように、言葉を切って、振り向いた。それは全く反射的な動作だった。  若い母親が、やっと一歳ぐらいの赤ん坊を抱いて、入って来たのだ。 「いらっしゃいませ」  と、レストランのマネージャーが声をかける。「お二人《ヽヽヽ》様ですか」 「赤ん坊も一人に数えてるのね」  と、早苗は少し無理な笑顔を作って、言った。 「今、主人が車を置いて来ます」  と、その母親が言っている。  早苗は、ちょっと息をつくと、 「今でもね──赤ん坊見かけると、キュッと胸が痛くなるわ。あの子、どうしてるんだろう、って考えて」 「早苗。──まだこれからよ、私たちの人生は」  夕子が、珍しく素直に励ます。それがふさわしい場面だった。 「そうね。分ってるんだけど」  早苗は、入口の方に背を向ける格好で座っていた。ちょうど入口が見える位置に座っていた私は、そこへ、その赤ん坊の父親が入ってくるのを何となく見ていた。 「一杯?」  と、その父親が言うと、 「大丈夫みたいよ。ほら、空いてる所、あるから」 「そうだな。こいつが泣き出すといけないから、少し奥の方がいいかもしれない」 「大丈夫よ。さっきよく寝たから」  こんなやりとりは、聞く気はなくとも耳に入って来る。  まず、夕子が目をみはって、言葉が出ない様子だった。そして、夕子ですら《ヽヽ》分ったのだから、三沢早苗も。  もうそれが誰なのか、彼女にも分っている様子だった。顔からスーッと血の気がひいて、早苗は、ゆっくりと振り向いた。 「──ご案内いたします」  と、店のマネージャーが、メニューを手にして、その親子を案内して行く。  マネージャーの後に赤ん坊を抱いた母親、そして、父親は最後だった。その小さな行列は、私たちのテーブルのすぐわきを通り抜けた。  早苗が、パッと立ち上った。ちょうど目の前を通って行こうとする父親が、足を止め、早苗の顔を見た。──すぐには誰だか分らなかったらしい。 「君……」  と、口の中で呟くように言った。  両方の顔から、血の気がひいている。早苗の目に燃える憎しみは、正に火を噴くようだった。座っている私にすら、感じられる。  ──何も気付かずに席についた母親の方が、やっと戸惑った様子になって、 「あなた──どうしたの?」  と、声をかけた。 「いや、今行く」  と、少しあわてたように、「──じゃ、失礼」  と、早苗に会釈して歩いて行く。  早苗は、突っ立ったまま、手にしていたナプキンをギュッと固く握りしめていた。 「早苗──」  と、夕子が言いかけると、 「ごめんね、夕子」  と、早苗が低い声で、「私、帰る」 「うん、──また電話する」 「そうね。宇野さん、申し訳ありません」 「いや、一向に。ああ、構いませんよ。これぐらいは持たせて下さい」 「じゃ──ごちそうになります。申し訳ありません」  早苗は、あわただしく、席を立って、出て行ってしまった。無理もないところである。 「分るでしょ」  と、夕子は言った。 「いくら僕が鈍くても、分るよ」  と、私は言った。「今のが──」 「堀口よ。早苗のかつて愛した人」  私は、彼らのテーブルに背を向けていたが、それでも、堀口が妻と低い声で話している気配は感じ取れた。  もちろん、堀口が結婚して、子供がいるということ自体を、他人がどうこう言うことはできない。しかし、それを見せつけられた三沢早苗の胸中はどうだったか……。 「男なんて!」  と、夕子が一言、痛烈な調子で言った。  この夜は私も「被害者」の一人になってしまった。せっかく夕子とのんびり過すつもりだったのに、「男の身勝手さとその社会的責任」についての講義を延々と聞かされるはめ《ヽヽ》に陥ったのである……。 3  私たちのような、いい加減古手の刑事が一番気を付けなくてはいけないのは、 「よくある事件だよ」  と、つい言いがちなことだ。  口にするだけならともかく、そう思い込んでしまうと、出来あいのパターンに、当てはめて、事件を先入観に頼って見てしまうことになる。  しかし、確かに、世間には、いやになるくらい良く似たパターンの、同じような事件があるものなのだ。 「──ホテルの殺しか」  私は、そのホテルの従業員用の出入口から、入りながら言った。  一緒にいるのは、この従業員用の出入口には少し窮屈な感じの大男、原田刑事である。 「殺されたのは女。──ま、よくある男女関係のもつれ、ってやつでしょうね」  と、原田が言った。 「さあな。何も調べない内から、そう思い込むのもよくないぞ」  と、私は言った。 「でも、こんなホテルでも、ラブホテル代りに使う奴がいるんですねえ」  原田の言葉に、私も同感だった。ここは決してラブホテルではない。  都内でもまあ一流の内に入る大きなホテルである。しかし、最近はこういうホテルで「デート」するのが若者たちの間に流行《はや》っているらしい。  ホテルの方としても、競争も激しく、こういう客でも客には違いないのだから、断るわけにもいかないらしいのである。  従業員用の出入口から奥の方へ入って行くと、エレベーターの前に、小太りで禿《は》げ上った男が、神経質そうに目をパチパチさせながら立っていた。 「あの──警察の方ですか」  と、ちょっと調子が狂うようなテノールの声で訊いて来る。 「捜査一課の宇野です」 「支配人の水田と申します。いや、全く困った話で……」 「分ります。まあ、できるだけ目立たないようにしますから」 「お願いしますよ。ここは、今までこんな事件なんかなかったんですから」 「そうですか」 「ええと──現場は、かなり長期間、使えないんでしょうか」 「いや、捜査が終れば構いませんよ」  エレベーターに乗り込みながら、私は言った。──何も知らずに、殺人現場に泊るアベックが気の毒、という気もする。 「いや、全く困ったことで──本当に」  水田という支配人、しきりに困っている。 「まあ、殺された方は、もっと困った《ヽヽヽ》わけですから」  と、私は言ってやった。 「そ、それはそうですな」  水田は、顔をギュッと歪《ゆが》めた。笑ったつもりらしい。 「両隣の部屋は?」  と、エレベーターを降りて、私は訊いた。 「は?」 「客はいたんですか」 「いえ、空いてました。昼間ですから、まだチェック・インする方は少なくて」  それはそうだろう。  ──もう初夏の陽気である。日も長くなって、みんな六時を回っても、まだ公園をぶらついている時期だ。  二十五階の、〈2503〉が現場だった。 「──どうも、宇野さん」  と、声をかけられて、私は振り返った。  ちょっとの間、誰なのか分らなかった。 「ああ! この間の──」 「三沢です」  三沢早苗が頭を下げる。ホテルの制服を着ているので、まるでイメージが違うのである。 「じゃ、ここなんですか、働いているホテルって」 「ええ」  と、早苗は肯いて、「警視庁の方がみえるというので、今、休憩時間なのでやって来たんです」 「偶然だな、それは。──エレベーターに?」 「はい」 「すると、犯人を乗せたかもしれませんな」 「そうですね」  早苗は、ちょっと目を見開いて、言った。 「そんなこと、考えもしませんでしたわ」 「じゃ、後で話を聞かせてください」  ともかくは現場《ヽヽ》だった。 〈2503〉のドアは、開いたままにしてある。自動ロックだから、こうしておかないと不便なのだ。 「──やあ、あんたか」  顔なじみの検死官がヒョイと顔を出した。 「どこだい?」 「バスルームだよ」 「そうか。しかし……暴れたもんだな」  と、私は、ごくありふれたツインルームの中を見回して、言った。  もちろん、ホテルの部屋というのは、そう大したものが置いてあるわけでもない。しかし、こうして見ると、結構色々な品物があるんだな、と思ってしまう。  ベッドはもちろんだが、ナイトテーブル、スタンド、電話、メモ用紙、ボールペン、聖書にガイドブック。──他にも、ソファ、テーブル、お茶を入れるためのポット、茶碗《ちやわん》、ティーバッグ、TVのリモコン、灰皿……。  並べて行くと、相当な数になる。どうしてこうも並べたてたかというと、ほとんどの品物が、床の上に散らばったり、引っくり返ったりしていたからである。 「大暴れしたんですね」  と、原田も呆《あき》れ顔である。 「そうだな」  こうなると、両隣の部屋に客がいなかったというのが残念だ。これだけ大暴れしていれば、きっと怒鳴る声でも耳にしていただろうから。 「──死体はバスルームか」  私は、呟きながら、バスルームへ入って行った。  被害者は、若い女だった。せいぜいまだ二十歳ぐらいではないか。  浴槽の中に仰向けに倒れていたが、浴槽自体、それほど大きなものではないので、まるでギュッと上から押し込まれたように見える。 「絞殺だな」  と、検死官が言った。 「うむ……」  首の周りに巻きついている太めの布の紐は、どうやら、部屋のカーテンをまとめてとめておくものらしい。 「外傷は?」 「詳しくは、運び出して調べんとね」 「頼む。殺される前に、男と寝ているかどうかも」 「寝てなかったんじゃない?」 「そうかな」  と、つい反射的に言って、それから私は面食らって振り返った。「──夕子!」  何と、夕子がバスルームに入って来て、一緒に死体を眺めていたのである。 「君──何してるんだ?」 「あなたと同じよ」 「いや、そりゃ分ってるけど……」 「どうしてここにいるのか、って訊きたいのね?」 「もちろんだよ」 「答えは簡単。彼女に会いに来たの」 「ああ。──三沢早苗?」 「そう。そしたら、何だかざわついてるし、どうしたのかな、と思ってたの。早苗に会ったら、あなたが来てるって」 「どうも、ロマンチックな出会いじゃないな」  と、私は苦笑した。 「犯人の目星は?」 「今のところはまださ。まずはこの被害者の身許《みもと》だ」 「男でしょうね」 「たぶんね」 「でも、どうしてバスルームで服を着たまま殺されてるの?」  ──そうなのだ。浴槽に、押し込められるようにして殺されているこの女性、ブラウスにスカートをきちんと身につけているのである。 「それで言ったのか、男と寝てなかったんじゃないか、って」 「そう」  夕子は肯いた。「もちろん調べた上でなきゃ、はっきり分らないけどね。でも、それだけじゃないの」 「というと?」 「その紐。首を絞めるのに使ったやつ、カーテンの紐でしょ?」 「そうらしい」 「そうよ。今見て来たもの。窓の両側に半分ずつ絞るようになってて、片側は同じ紐でまとめてあるけど、もう一方は、紐がなくなってるもの」 「それがどうして、男と寝てないってことになる?」 「寝る時は、普通、カーテンを引かない?」 「そりゃ引くだろうな」 「いくら二十五階でも、この近くはこれより高いビルがいくつかあるんだから、必ずカーテンを引くでしょ。開けたままになってるってことは、引かなかったのよ」 「殺した後で開けたのかもしれない」 「いちいちどうして開けるの? しかも片側だけ、わざわざ凶器の紐と同じもので、ちゃんとまとめるなんてこと、しないわよ」 「それもそうだ」  私と夕子は、バスルームを出て、部屋の方へ戻った。  夕子は、探偵の目になって、やたら散らかった室内を見回した。 「物を踏んだり、けとばしたりしないで歩くのは大変だな」  と、私は言った。 「チェック・インしたのは?」  と、夕子が言うと、そばに立っていた支配人の水田が、 「あの──午後三時ごろです」  と答えて、「ええと……こちらの方は?」  夕子が刑事には見えなかったのだろう。 「捜査一課の顧問なんですよ」  と、私は、いつもの夕子のでたらめな説明を拝借して、「シャーロック・ホームズの隠し子の直系の子孫でね」  水田は呆気に取られて、夕子を眺めていた。夕子はまさに、ホームズの子孫にふさわしく、床のカーペットの上を、四つん這《ば》いになって這い回り、落ちている品物の一つ一つに顔を近付けて見入っているのだった。 「チェック・インしたのは、あの女性の方です」  と、水田は言った。「連れは後から来る、ということでした」 「なるほど。宿泊カードは?」 「持って来ました」  と、水田はカードをこっちへ渡した。 「ふむ。──〈西原規子、十九歳〉か。本名かどうかね」 「チェック・アウトは?」  と、夕子が床に四つん這いになったまま、言った。 「していません。黙って出て行きゃ分りませんから」  それはそうだ。こういう大都市のホテルは、中にいくつもレストランやパブがあって、年中人は出入りしているから、いちいちホテルの人間も目にしてはいない。 「この部屋のキーは?」  と、夕子が言った。 「ベッドの上にあったよ。指紋を採らせてるが、残っていないらしい」 「そう。──じゃ、ここへ入ったのが、どんな男か、誰も見ていないのね」  夕子は立ち上って、息をついた。 「身許がはっきりすれば、容疑者も浮かぶだろう」  と、私は言った。 「そうね……」  夕子は、何か他のことに気を取られている様子だった。 「何か気になるのか?」 「うん……。こんなに品物が散らばってるのは──」 「そりゃ、あの女の子が逃げ回ったからだろう。その内、バスルームへ逃げ込んで、犯人につかまった」 「でも、争ったにしては、あの女性の服、破れたり乱れたりしていなかったわ」 「それはそうだな」  と、私も肯いた。 「それにね、気になってるのは、そのことじゃないの。今、見ると──」  夕子が言いかけるのを遮《さえぎ》って、 「宇野さん!」  と、原田がでかい声を出して、ドアから顔を覗《のぞ》かせた。 「どうした?」 「今、掃除の係の人がこれを届けて来たんです。廊下の屑《くず》入れに捨ててあったって」  原田が持って来たのは、赤いハンドバッグだった。 「きっとあの女性のだわ」  と、夕子が言った。「色やデザインが、服に合ってるもの」 「身許を隠そうと思って捨てたんだな。──よし、これも指紋だ」  私は用心しながら、ハンドバッグの口を開けた。定期入れらしいものを抜き出してみる。 「おい、チェック・インは本名だよ。西原規子。学生だ」 「どこの?」 「ええと……身分証明書があるな。〈M予備校〉だ。予備校生か」  夕子は、何とも言えない顔で私を見ていた。 「──M予備校?」 「うん。どうかしたかい、それが?」 「そこ、確か……堀口が講師をしている予備校だわ」  と、夕子は言った。 4  赤ん坊の泣き声が、ドア越しに耳に入って来る。  ちょっとチャイムを鳴らすのにためらったのは、私がお人好しのせいだろうか……。 「──はい」  すぐに返事はあった。 「さっきお電話した、警視庁の者ですが」  と、私は言った。  ドアが開くと、堀口の妻が出て来た。──いや、一瞬、私は、家を間違えたのかと思った。  何しろ団地の高層アパートの一室だから、廊下にズラッと同じドアが並んでいるのだ。しかし、それが堀口の妻だということは、確かだった。堀口芳恵という名で、二十四歳。  この前、レストランで見た、同じ顔である。しかし、私が、一瞬別人かと思ったのは、あの時のいかにも若々しい、明るさがすっかり消え去って、ひどく疲れたような、やつれ、老け込んだ印象を受けたからだった。実際、この前から十歳も年齢《とし》を取ったようにすら見える。 「どうぞ」  と、堀口芳恵は無表情な顔で言った。  まあ、ごく平均的なリビングルームへ入って、私はソファにかけた。お茶を出されて、一口すする間、芳恵は一言も口をきかなかった。  もちろん、こうも突然やつれたのが、病気や他の理由によるものでないとはいえない。しかし、あのレストランでの、三沢早苗との出会いで、芳恵は堀口から、過去の出来事を耳にしたのではないか。  私には、その心労からのやつれ、と見えた……。 「主人は、夕方でないと戻ってきませんが」  芳恵はそう言って、「早ければ、あと三十分ほどで戻ることもありますけど」  と、付け加えた。 「ご主人にも話をうかがいたいとは思っていますが、奥さんともお話をしたかったので、少し早目にうかがいました」  私は手帳を広げた。「西原規子という女性をご存知ですか」 「いいえ」  否定は少し早過ぎた。思い出そうともしていない。知っている、と言うのと同じだ。 「ご主人の教えておられる予備校の生徒さんですがね」 「主人の仕事のことは、一向に分りません」 「実は、昨日、ホテルで殺されたんです」 「まあ」  大して驚いた様子も見せない。 「男と会って、その男に殺されたと思われます」 「そうですか。でも、珍しい話ではないのじゃありません?」 「確かにそうですが、犯人はつかまえなくてはなりません」 「それはもちろんです。でも、なぜ私に、その女《ひと》のことを?」 「実は──」  と、少し間を置いて、「予備校の関係者に話を聞いたのですがね。彼女──殺された西原規子さんはご主人とお付合いがあったとか」 「嘘《うそ》です」  と、芳恵は、ショックを受けるほどの間もなく、言い返して来る。 「しかし──」 「まだやっと一つの子供がいるんですよ。どうして主人が浮気なんか!」  芳恵の声は震えた。知っているのだ。何があったのかを。 「奥さん」  と、私は穏やかに言った。「正直に話して下さい。我々も別にお宅のご主人が犯人と決めてかかっているわけじゃありません。本当のことを話していただければ──」 「主人は昨日、ずっと私とここにいました」  と、芳恵は言った。「本当です。嘘じゃありません」 「なるほど」  私は、ため息をついた。 「もし、主人を見かけたという人がいたとしたら、人違いです。似た人なんていくらでもいるもんですわ」  芳恵は早口にまくし立てた。「そうじゃありません? でなきゃ、その人がでたらめを言っているんです」  私は妙な印象を受けた。こっちは堀口を見たという目撃者をつかんでいるわけではない。それなのに、芳恵の方は、夫が誰かに見られたと思っているらしい……。 「奥さん──」  と、言いかけたとき、玄関の方で物音がして、堀口が帰って来た。  堀口のほうも、私のことは全く憶えていない様子だった。まあ、あの場合は当然のことだろう。  堀口は、妻より大分落ちついていた。 「──ええ、西原君のことは新聞で見て、びっくりしました」  と、肯いて見せ、「しかし、僕が西原君と特別な仲だったということはありません」 「そんな噂《うわさ》があるのはご存知でしたか」 「さあ……。みんなその手の話は色々、無責任にでっち上げるもんですからね」  と、堀口は笑ったが、その笑顔は、かなり引きつっていた。  どうもびくついているな、と私は思った。しかし、本当に殺したのでなくても、もし西原規子と関係があったのなら、びくびくしていて不思議はない。  まあ、取りあえずは泳がせておこう、と思った。逃げる心配もないではないが、それでは自白したも同然だ。誰か一人、監視をつけておけばいいことだし。 「念のためですが、昨日の午後はどちらにいらっしゃいました?」  と、私が訊くと、堀口が口を開く前に、芳恵が、 「さっき申し上げたじゃありませんか!」  と、甲高い声で言った。「私とずっと家にいたんです!」 「ええ、そうです。間違いありません」  と、堀口は肯いた。  そして、じっとこっちの顔色をうかがっている。──どうも気に入らなかった。 「何かあるのね」  と、夕子は言った。「でなきゃ、そんなにびくついちゃいないわ」 「確かにね」  私は肯いて、「一番可能性が高いのは、堀口が犯人ってことだ」  ──ホテルのラウンジ。  夜、八時を回ったが、大学生の女の子──いや、高校生、中には中学生くらいの女の子も、結構目につく。  私など、若いころには(今でも若いが!)ホテルで食事をするとかお茶を飲むというのは、大変なぜいたくだった。  しかし、今の若者たちは、その辺の喫茶店を利用するのと変らない感覚で、ホテルへフラリとやって来るのだ。  私も夕子と食事を取って、一息ついたところだった。 「もう、彼女、来ると思うわ」  と、夕子が腕時計を見た。 「誰が?」  夕子が返事をしない間に、その「彼女」がやって来るのが目に入った。三沢早苗である。 「──どうも」  と頭を下げて、「今、勤務が終ったものだから」 「そう。もう、落ちついた?」 「何とかね」  早苗は席につくと、サラダだけを注文した。「ダイエット中なの」  と、照れたように笑う。 「でも、あまり大騒ぎにならなくて良かったわね」  と、夕子が言うと、早苗は肯いて、 「そう。ここのホテルの親会社の社長は、TV局の社長も兼ねてるの。だから、報道なんかも控え目だったみたい」 「なるほどね。そういうことか」 「──宇野さん、犯人の手がかり、あったんですか?」 「いや──まあ、ぼちぼちね」  と、私は曖昧《あいまい》に言った。 「ねえ、早苗」  と、夕子はコーヒーを飲みながら、「あなたエレベーターに乗ってたんでしょ、あの時間?」 「そうよ。でも、エレベーターったって、三基もあるし、それに結構人の出入り、多いからね」 「うん。そりゃ分ってるんだけど」 「何なの?」 「誰か、知ってる人を乗せなかった?」 「知ってる人? 私の?」 「そう」 「さあ……。もちろんホテルの人は知ってるけど」 「堀口功一とか」  早苗の顔がこわばった。 「堀口……。あの人が──」  と、言いかけて、「そうなのね。あの殺された人──」 「堀口の勤めてる予備校の生徒。その予備校での聞きこみによると堀口と西原規子は付合いがあったようなの」 「呆《あき》れた人ね」  と、早苗は首を振った。  サラダが来て、食べ始める。──早苗は至って落ちつき払っていた。 「それで、彼が犯人なの?」 「まだ、そうと決ったわけじゃないのよ」 「しかし、アリバイはないしね」  と、私が言った。「妻は、彼が家にいたと証言しているが、どう見てもでたらめだ」 「じゃ、怪しいですね」  早苗は、またサラダを食べ続けた。「──でも、夕子、どうして私がエレベーターで堀口に会ったと思ったの?」 「ううん、別に」  と、夕子は首を振った。「ただ、もしかしたら、と思って」 「残念ね。もしそうなら、会いたかったわ」  と、早苗は微笑んだ。「私が堀口の容疑を決定づける目撃者になる、なんて、ドラマチックじゃない」 「じゃ、会わなかったのね?」 「もちろんよ! 会ってれば、訊かれなくたって真先に話してる。そうでしょ? あんなひどい仕打ちをした男なんだもの。何の遠慮もいらないんだから」 「そりゃそうね」  夕子は軽く言った。「その内、自分でボロを出すわ、きっと」 「それにしてもねえ……」  早苗は、サラダを食べる手を、ふと休めると、言った。「私を捨てておいて、一年もしない内に他の女と結婚、自分はあんな赤ちゃんがいて……。私はあの子を見も知らない人に渡さなきゃならなかったのに。──ひどい奴《やつ》だわ!」  その言い方は、しかし、生々しい怒りを感じさせなかった。  苦しみを乗り切って、立ち直った人間の強さを感じさせた。もちろん、深く胸の奥でうずく痛みはあっただろうが……。 「もう忘れるのよ、早苗。それしかないよ」  と、夕子が言うと、早苗は微笑んだ。 「うん、分ってる。別にこだわってるわけじゃないの。これからだもの。うんと恋をして、すばらしい夫を手に入れる!」  早苗は明るく笑った。 「──や、楽しそうですな」  と、声がした。 「あ、支配人」  早苗が腰を浮かすと、水田支配人は、 「ああ、三沢君、いいよ、座っててくれ。もう勤務外だろ」  ポン、と肩を叩いて、「いや、宇野さん、色々お気づかいいただいて、どうも」  と、礼を言った。 「いや、別に、それほどのことは──」 「私としても、まだ支配人になって、日が浅いものですからね、処理次第ではどういうことになるか、心配で──。おい、私にもコーヒー」  と、ラウンジのマネージャーに声をかけておいて、「しかし、まだ犯人の目星はつかないんでしょう?」 「まあ、色々当ってはいますがね」  と、私は言った。  実際、話すほどのこともないし、何か分っていたとしても、水田にペラペラとしゃべるわけにはいかない。 「何か私でお力になれることがありましたら、何なりとおっしゃって下さい」  と、水田が強調する。 「でしたら、一つお願いしたいことがあるんです」  と、私は言った。 「どうぞどうぞ。何でしょう?」 「あの日、午後に掃除やベッドメークに当っている人たちです。誰か、犯人らしい男を見ているかもしれない。一応話を聞いてみたいのですがね」 「そりゃ、もちろん構いませんが、しかし……」  と、水田は、やや戸惑い顔で、「一応、声はかけております。何か見た者は申し出るように、と」 「それはよく分っています」  と、私は肯いた。「しかし、直接会った方が、ちょっとしたことを聞かせてもらえると思いますのでね。申し出るとなると、大したことじゃないから、と勝手に判断して黙っている場合もあるでしょうし」 「ああ、なるほど! いや、よく分ります」  と、水田は大げさに肯いた。  大体、こういう仕事をしている人間は何でも表現がオーバーなので、逆に言うと、実際のところ、どれくらい本気なのかがわからない。 「分りました。では早速、その係の人間に言いつけて、集めさせましょう」 「いや、一度に集めていただくと、時間がかかります。連絡先を教えていただければ結構。後はこちらでやりますよ」  と、私は言った。 「かしこまりました。では、すぐ一覧表を作らせましょう。ちょっと失礼。まだ係が残っているでしょうから」  水田は、自分が言いつけたコーヒーが来たのに、口もつけず、さっさと席を立って行ってしまった。 「せっかちな人ねえ」  と、夕子が呆れたように言った。 「有名よ」  と、早苗が笑って、「まだ支配人になって間もないから、張り切ってる、と思うでしょ? でも、そうじゃないの。当人の性格みたいよ」 「へえ。せっかち?」 「それに、細かいの。各室のトイレットペーパーの減り方とか、ボールペンを持って帰るのは、どのタイプの客が多いか、とか、何の役に立つのかよく分らない統計を、しょっちゅう作らせてる、って話よ」 「へえ」  夕子が楽しげに、「そうだ、頼んだら割引してくれるかなあ」 「そりゃ、してくれるんじゃない? 私だってできるわよ、一応ここの従業員なんだから。夕子、いつ泊るの?」 「さあ」  と、夕子は私の方を見て、「この人、次第ね」  と、ウインクして見せた。 「まあ。──ごちそうさま」  早苗は、フフ、と短く笑った。そして、腕時計を見ると、 「じゃ、私、これで。──ちょっと買物をして帰るから。お店が閉《しま》っちゃうの」 「うん。じゃ、また電話する」 「いつでも遊びに来て」  早苗は、私の方にも、にこやかに会釈して帰って行った。 「彼女は見てないんだな」  と、私は言った。 「そうかしら」  夕子は真顔になっている。 「だって──そうだろう? 彼女も言ってたけど、堀口と会ってれば、何も訊かれなくたって話してるさ」 「どうかなあ、それは」  夕子は、首を振って、「女心が分ってないわよ」 「しかし……。それじゃ何かい? まだ堀口に未練があって、かばってる、と?」  夕子は、もう一度、 「女心が分ってないわ」  と言った。「──原田さんは?」 「原田? うん、君が言った通り、ここの従業員用出入口で、三沢早苗を待ってるはずだよ。しかし、必要なのか?」 「もちろんよ」  夕子は、肯いて、「早苗が狙《ねら》われる危険が一番大きいわ」  と、言った。  私には、さっぱり分らなかった。 「──失礼します」  と、ウエイトレスがやって来て、声をかける。「宇野夕子《ヽヽヽヽ》様ですか」 「原田の奴だ」  と、私はため息をついた。「僕が出ます」  夕子はクスクス笑っている。  原田はよく、私と夕子のことをからかって、「永井喬一」とか、「宇野夕子」とか呼んだりするのだ。  いや、こっちだって、永井夕子を宇野夕子にしたいのはやまやまだけれど……。  原田の電話は、至って簡潔だった。私は大急ぎで、テーブルへ戻った。 「出よう」 「どうしたの?」  と、夕子が言って歩き出す。 「原田だ」  と、私は出口へ急ぎながら言った。「従業員用出入口で、堀口芳恵が待っているんだそうだ」 「まあ、奥さんが?」 「うん。僕らもついて行こう」 「いい勘だったでしょ」  夕子は、ちょっと得意げに、「只《ただ》で使っちゃ申し訳ないと思うでしょ」  と、言った。 5  三沢早苗が、急に足を止めて、振り返った。  少し離れて、ついて歩いていた堀口芳恵がハッと足を止める。 「私に何かご用ですか」  と、早苗は言った。  人気《ひとけ》のない公園だった。──他人に聞かれたくない話をするには、格好の場所だ。  私と夕子、それに原田の三人は、その芳恵の更に後を尾《つ》けていたのだが、二人が向き合ったのを見て、急いで木の陰に身を隠した。 「あの──」  と、言いかけて、堀口芳恵はためらった。  早苗が、芳恵のほうへ歩み寄る。芳恵は、後ずさりしかけて、何とか踏み止まった。 「堀口さんの奥さんですね」  と、早苗が言った。 「ええ」  芳恵は肯いて、「三沢早苗さんですね」 「そうです。私、あのレストランでお見かけしてよく憶えていますわ」  早苗は、少し間を置いて、「何のご用ですか」  と、促すように言った。 「あの──私、あの後、聞きました。夫から」  芳恵は目を伏せていた。 「そうですか」 「あなたには申し訳ないことをした、と夫は悩んでいます」 「恐れ入ります」  早苗は、冷静そのものだ。 「私も……何も知りませんでしたけど、お詫《わ》びしたいと思います。女として───どんなに辛い思いをなさったか」 「やめて下さい」  少し強い調子で遮る。「もう過去のことです。忘れられはしませんけど、忘れようと努めてるんですから」 「ええ……」 「それで、何のご用ですか、私に?」  堀口芳恵は、しばらくためらっていたが、やがて思い切った様子で、早苗を正面から見つめながら、 「うかがいたかったんです。あなたが──あなたが、夫のことを、どう思っておられるのか」 「ご主人のこと?」 「そうです。まだ──今でも、夫のことを……」 「憎んでいます。当然のことじゃありませんか」  早苗は、淡々とした口調で言った。「あなたでも、同じ立場なら憎むでしょう」 「ええ。でも、なぜ、それなら黙っていらっしゃるの?」 「何をです?」 「あの女の子──西原規子が殺された日、夫をエレベーターに乗せたことを、です」  芳恵の言葉に、私と夕子は顔を見合わせた。──やはり、早苗は堀口をエレベーターに乗せたのだ。  早苗は、黙っていた。芳恵は続けて、言った。 「主人を憎んでおられるのなら、なぜ、そのことを警察へ話さないんですか?」  芳恵の問いを聞いて、早苗は、微笑んだ。いささか、皮肉な笑顔だった。 「妙なことをおっしゃるんですね」  と、早苗は言った。「奥さんは、ご主人を逮捕させたいんですか?」 「とんでもない!」  と、芳恵は首を振った。「夫はあの女生徒を殺していません」 「そうですか」 「本当です! 主人に人殺しなんか、できません」 「あの人は、二年前、私と赤ん坊を捨てたんですよ。殺したも同じです。いいえ、もっとひどいかもしれない。私は赤ん坊を手放さなくてはならなかったんです。──そんなことを平気でやって、人は殺せない、なんて、ずんぶんな言い方ですね」  早苗の声に、さすがに怒りがあった。 「それは……。でも──今度のことに関しては、夫は無実です」 「どうして分るんです?」 「夫がそう言ったからです。──笑っても構いませんよ」 「笑ったりしませんわ」  と、早苗は言った。「信じておられるのは当然ですもの。それに、私も、ご主人がその女の子を殺すところを見たわけじゃないんですから」 「でも──それならなおのこと、なぜ夫のことを黙っておられるんですか」 「さあ」  と、早苗は肩をすくめた。「ただ、その気になれないからでしょう」 「それじゃ納得できません!」 「だったら、どうすればいいんです? 私がご主人を見た、と届け出れば、ご満足?」 「いいえ! それはやめて!」 「じゃ、何がお望み?」  早苗は、あくまで落ちついている。  なるほど……。  私は、夕子の言った意味を、やっと了解した。──いや、堀口が、誰かに見られたのだ、ということは分っていた。  しかし、それがまさか早苗だとは思わなかった。それなら当然、早苗は私に話したはずだと思ったからだ。  堀口も、芳恵も、当然、早苗の証言が私の耳に入っていると思っていた。だから、あんなに落ちつかなかったのだ。  ところが、早苗は黙っていた。──なぜか?  夕子の女の直感は正しかった。  早苗は、堀口と会うのを黙っていることで《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》、堀口に仕返ししているのである。  なぜ、早苗が黙っているのか。──そのことが、芳恵の中に、疑惑を呼びさます。  早苗が、今でも堀口を愛しているのではないか、という疑いである。  しかも、ある意味で、早苗の一言に、夫の身の安全がかかっている。  早苗がエレベーターで堀口と会ったと証言すれば、まず堀口を逮捕するぐらいには充分である。これも、早苗としては堀口への仕返しの一つの方法だろう。しかし、方法は一つだけではない。  早苗は、もう一つの方法を選んだのだ。  つまり、妻に、疑惑を起こさせることで、堀口の家庭を破壊することだ。  しかも、当分、早苗は、その証言を切り札に、堀口を言うなりにさせる力を持っていることになる。 「主人のことを──どうするつもりですか」  と、芳恵は訊いた。 「どうって?」 「黙っている代りに、何がお望み?」  芳恵の言葉を聞いて、早苗は、微笑んだ。薄暗かったが、弱い街灯の明りに照らされて、早苗の笑顔は、はっきりと、異様な美しさを湛《たた》えている。 「そうですね。──何がいいかしら」  早苗は、ちょっとわざとらしく首をかしげると、「ご主人は今さら《ヽヽヽ》ね。わざわざ苦労の種はほしくないわ」 「はっきり言って下さい。──お金?」  芳恵の言葉に、早苗は、軽く声を上げて、笑った。 「一人暮しですよ。お金なんてあっても仕方ありません。何億円というお金ならともかく、お宅だって、そんなにお金はないんでしょう?」 「ええ……」 「じゃ、そんなことおっしゃらないで。期待しちゃうじゃありませんか」  と、早苗は笑った。「──赤ちゃん、可愛いですね」 「え?」 「男の子?」 「──女の子です」 「女の子……。私が産んだのも、女の子でした。今、どこでどうしているのか、知らないけど」  早苗は、じっと芳恵を見据えて、「私、あなたの赤ちゃんをいただこうかしら」  と言った。 「何ですって?」  芳恵がサッと青ざめるのが分った。  早苗が、高い声で笑った。 「──冗談ですよ! 何も欲しいものなんてありませんわ。本当です」  早苗は肩をすくめると、「じゃ、これで。お店が閉っちゃうんで」  クルッと背を向け、歩き出す。  芳恵は、身動きもせずに、早苗の後ろ姿を見送っていたが……。突然、バッグを探って何かをつかみ出した。 「危い!」  夕子が私を押す。芳恵の手に、ナイフがあったのだ。  私は飛び出した。芳恵がナイフを振りかざして、早苗の背中へと駆け寄る。 「待て!」  と、怒鳴って、私は、芳恵の手首をつかんだ。  ナイフが足下に落ちる。芳恵は、うずくまって泣き出した。  早苗は、少しも驚いた様子ではなく、私と夕子を見ていた。 「──早苗」  と、夕子は、泣いている芳恵を見やりながら、「刺されるつもりだったの?」 「そうなってもいいかな、と思ってた」  と早苗は言った。 「いけないよ」  夕子は首を振った。「何のために苦しんだの? 死ぬためじゃないわ」 「うん。──分ってる」  早苗は、泣いている芳恵の方へ、かがみ込むようにして、落ちたナイフを拾った。 「これ、私が落としたんだわ」  早苗は、ナイフを自分のバッグへ入れた。そして、夕子の方へ、 「その人、送ってあげてね」  と、言うと、足早に歩き出した。 「早苗!」 「──悪いけど、お店、閉っちゃうから」  と、早苗はちょっと振り返って、「またね!」  と、手を振って見せる。 「──おい、どうするんだ?」  私は、当惑していた。「こいつは殺人未遂だぞ」 「そう。何も凶器を持たないで?」  夕子が、澄まして言った。 「分ったよ」  私は、肩をすくめた。──夕子には、かなわないのだから! 6 「正直に話して下さいよ」  夕子が、ピシャリと言うと、堀口は、 「分ってる。家内に散々言われて来たからね」  と、頭をかいた。  ホテルへ入って行くと、私は、フロントで、水田を呼んでもらった。  どこにいたのか──もし遠くにいたのなら、ジェット機ででも飛んで来たとしか思えないスピードで、水田が現われた。 「これはどうも! 三沢君からうかがっています」  と、満面笑みを浮かべて、「最上のツインルームをご用意しますよ!」 「何です?」  と、私は訊き返した。 「それともダブルの方がよろしいですか?」  夕子がクスクス笑って、 「ちょっとした勘違いですね」  と言った。 「いや、これは捜査です」  と、私はあわてて言った。「現場と同じタイプの別の部屋をちょっと拝借したいんですがね」 「はあ、そうですか。いや、失礼しました」  水田は平然と、「お仕事、ご苦労様でございます」  と、頭を下げた。 「──くたびれるでしょうね、ああいう仕事も」  と、エレベーターホールへ来て、夕子が言った。  エレベーターの扉が開く。 「上でございます」  と、中で案内しているのは──早苗だった。「あら、夕子」 「やってるね」  夕子は、ニッコリ笑った。  早苗は、私と、小さくなってついて来ている堀口を見ると、 「事件のこと?」  と訊いた。 「そう。──二十五階をお願い」 「かしこまりました」  早苗は、〈25〉のボタンを押した。  ──二十五階へ着くと、早苗も一緒に降りて来てしまった。 「いいの、早苗?」 「大事なお客をご案内してたってことにするから。──現場じゃないの?」 「うん。右の、同じタイプの部屋」  夕子は、その部屋のドアを開け、中に入った。現場の客室と全く同じ造りの部屋だ。 「堀口さん」  と、私は言った。「あなたは、あの部屋で、西原規子と待ち合わせていたんですね」 「ええ……」  堀口は、すっかりやつれてしまっている。 「彼女とは、いつごろから?」 「ここ三カ月ほどです」 「このホテルは、何度か来ていたんですか」 「いや──ここで待ち合わせたのは、初めてです」  と、堀口は言った。「彼女が、どこかホテルを捜して、学校の方へ連絡してくれることになってたんです」 「なるほど」 「いつもだと、その手の──ラブホテルを使うんですが、あの日はどこも一杯で。彼女は、ここに知ってる人がいるんで、取ってもらったと言って……」 「で、あなたもここへ来た」 「約束の時間に、三十分ぐらい遅れていたんです。急いで来てみると、ドアが少し開いていて……」 「開いて? しかし、ここのドアは、自動ロックですよ」 「ええ。閉じないようにチェーンが挟んであったんです。──もちろん、たまたま挟まったのかもしれませんが」 「で、中へ入ると……」 「彼女の姿が見えなくて。捜してバスルームへ入ると、彼女、殺されていたんです。本当ですよ!」  堀口は額の汗を拭《ぬぐ》った。 「で、逃げ出した、というわけですか」 「ええ……。ともかく、早く現場から離れたい、と……。幸い、掃除の人などとは顔を合わせずに済みました。エレベーターに乗ってホッとしていると……」 「私と目が合ったんです」  と、早苗が言った。「スーッと顔から血の気がひいたので、何かあったのかしら、と思いました」 「しかし、彼女を殺していない、というわけですな」 「やっていません! 本当です。──それに、僕はあの西原君にとっては、何人かの恋人の一人に過ぎなかったんですから」 「他の恋人というのは?」 「さあ……。詳しくは知りませんが、学生仲間に一人、中年の、金のある男……。僕を入れて、少なくとも三人の男と付合っていたようです」 「なるほど」  もちろん、堀口が出まかせを言っているとも言えるわけだ。 「私、ちょっとやってみたいことがあるの」  と夕子は言った。 「何だい?」 「少々危いわ。──部屋を出ててくれる?」 「何をやらかすつもりだ?」 「あなたは、いてもいいわ」 「え?」 「丈夫だから」  人のことを何だと思ってるんだ?  ──ともかく、早苗と堀口を一旦廊下へ出し、夕子は、ドアを閉めた。 「ラブ・シーンやるわけじゃないからね」 「当り前だ」 「ええと、どれからやろうかな」  夕子は、ちょっと指をポキポキ鳴らすと、 「この辺から行くか」  いきなり、ポットと茶碗、ティーバッグの入った缶などののったお盆を、持ち上げて放り投げたのだ。これには私もびっくりした。 「おい──」 「いいの!」  夕子は、スタンドを引っくり返し、テーブルをけとばし、電話を床へはたき落とした。引出しを開けて中身をぶちまけ、ご丁寧にけっとばす。  聖書が私の足下に飛んで来た。──神よ、お許し下さい、と私は口の中で呟いた。  アーメン。  夕子は、あらゆる物をぶちまけ、放り投げ、けとばした。  私は、と言えば、刑事としては、止めるべきだったかもしれないが、夕子のやることだ、何か意味があるのだろう、とのんびり眺めていたのである。 「──こんなもんか」  夕子は、軽く息をついた。 「何か分ったのか?」 「うん。──見て。茶碗は二つとも欠けちゃったし、ティーバッグも缶の蓋《ふた》が開いて、飛び出してる。こぼれた粉が、カーペットに散ってるわ」 「うむ」 「現場の方はどう? 茶碗もこわれていないし、カーペットにしても、きれいなものだわ。物が転がれば、カーペットの上にも跡が残るのよ」 「なるほど。すると、あの室内の荒れようは──」 「カムフラージュよ。物を一つ一つ、床へ置いて行ったんだわ」 「つまり──乱闘があったように見せるためだった」 「ということは、乱闘なんてなかったのよ」  と、夕子は言った。「でも、彼女は犯人を中へ入れた」 「知ってる人間だったのか」 「さっき、堀口が言ったじゃない。このホテルの誰かを知っていたって」 「じゃ、その男が?」 「そう。──男は出て行く時に、チェーンを挟んで、ドアが閉じないようにしておいた。堀口が来て、入れるようにね。普通なら、殺人犯はそんなことまで頭が回らないでしょうね」 「しかし、犯人は、やってる」 「ホテルの部屋に相当慣れた人間ね。特に、両隣も向いも、客のいない部屋をちゃんと取って、人に聞かれないようにしてるわ。そこまで考えてるのよ」 「しかし、なぜバスルームで殺したのかな。彼女も、別に何とも思わずにバスルームへついて行ったということか」 「このホテルは初めてだって言ってたじゃないの。バスの使い方を説明してあげる、と言って、彼女が浴槽の中へ身をのり出したところを、絞め殺したんだわ」 「なるほど」  私は肯いた。「しかし、肝心の犯人は誰なんだ?」 「そうね。──物が壊れないように床にわざわざ《ヽヽヽヽ》一つずつ置いた、っていうのも、おかしいじゃない?」 「うむ。──そりゃそうだが」 「もったいなかった《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》んじゃないかしら。こわれたら損をする。責任者《ヽヽヽ》としては、少しでも損害は少なくしておきたい……」 「おい、待てよ。それじゃ君は──」  私は、目をみはって言った。「まさか!」  廊下へ出ると、早苗と堀口、それに水田支配人が待っていた。 「あの──何かあったんですか?」  と、水田が心配そうに、言った。 「まあね。ちょっと犯人の目星がついた、ってとこですよ」  と、私が言うと、水田はサッと青ざめたのだった……。 「──このホテル、大変だわ」  と、早苗が言った。 「そうね。支配人が女の子を中で殺した、なんて……」  ラウンジは、しかし、相変らずの人出である。 「でも、潰《つぶ》れないでしょ?」  と、夕子が言うと、早苗は目を見開いて、 「潰れるなんて! お客がドッとふえてるのよ」 「へえ」 「都会の人は物好きだからね」  と、早苗は言って、笑った。 「早苗……」  と、夕子が、静かに言った。「もう、振り返らない方がいいわよ」 「うん」  早苗は肯いて、「でもね。──忘れたくはないの。私の産んだ子が、どこかで生きて、成長してるってことは。それはそれで、私にとっては嬉しいことだもの。堀口のことなんて、どうでもいいの」 「そう! その気持よ」  早苗は、私の方を向くと、 「すみませんでした。堀口と会ったこと、もっと早く申し上げれば良かったんですけど」 「いいんだ。それじゃ、堀口を犯人だと思い込んでたかもしれない。あれで良かったんだよ」 「芳恵さんに、伝えて下さい。どうか、子供さんをしっかり育てて下さい、と」 「分った。伝えるよ」 「あ、勤務時間だわ」  早苗は、立ち上ると、「じゃ、夕子」 「うん。またね」 「黙っててあげるね。夕子が他の人とここを利用しても」  早苗は、夕子にウインクして見せると、急ぎ足でラウンジを出て行った。 「そうか……」  夕子は、腕組みをして、「ホテルに知り合いがいると、便利なことも、不便なこともあるなあ」  と、独り言にしては大きな声を出した。  その言葉の意味は、私には分りかねた。  大体、名探偵の言うことは分りにくい、と決っているのだ。──私はあえて、考えないことにした。 「ねえ」  と、夕子が少し身を乗り出して、「今夜、泊ってく?」 「いいね。しかし、彼女には……」 「大丈夫。少しは早苗を刺激してやった方がいいと思うの」 「じゃ、早速、部屋を取ろうか」  私が立ち上りかけると、夕子はニッコリ笑って、ルームキーを取り出し、テーブルに置いた。 「気がきくね」 「たまにはね」  二人して立ち上った時だった。  私の上衣で、ポケットベルが無情な音をたてて、鳴り出したのは……。 第四話 吸血鬼を眠らせないで 1 「うちの子にも困ったもんだわ」  と、三木朋子はため息をついた。  いや、三木というのは、私が知っていたときの名前だ。今は……。 「ええと、何ていったっけ、今は?」  と、私は訊《き》き直した。 「え?──ああ、名前? 昇一よ」 「いや、息子さんのじゃなくてさ、君の姓の方」 「あら、いやだ」  と、彼女は笑って、「小谷よ。小谷朋子っていうのよ、今は」 「いや、失礼」  と、私は照れ笑いをして、「あんまり君が昔と変らないもんでね。つい三木君と呼びたくなっちまうんだ」 「まあ、悪い冗談よ、それは」  と、小谷朋子は笑って言った。「お互い、もう四十なのに、変らないわけはないじゃないの」 「そりゃそうだがね。しかし、君はそんなに変らないぜ、本当に」 「十キロも太ったのに?」 「体重の話はやめよう」  と、私は言った。「君の子供──昇一君といったかな、いくつになるんだい?」 「今、十四歳」 「じゃ、まだそう悪くなる年齢《とし》でもないじゃないか」  仕事を終えて、永井夕子と待ち合わせた喫茶店。  いつもは私の方が遅れて駆けつけるのだが──夕子は女子大生、こっちは警視庁捜査一課の警部なのだから、仕方ない──今日ばかりは、私の方が二十分も前に着いてしまった。  そこでバッタリ会ったのが、小谷朋子だったというわけだ。といっても、かつて怪しい仲だったというわけでは全然《ヽヽ》ない。  ただ単に、大学で同期だったという、古い顔見知りに過ぎないのである。 「宇野さん、子供さん、いないの?」  と、朋子が訊いて来る。 「女房に死なれてね。男やもめさ。子供もなくて、一人暮し」 「まあ」  と、朋子は目を見開いて、「ごめんなさい。ちっとも知らなかった」 「いいんだよ、別に」 「でも、それじゃ分らないわね。今の十四歳なんて、大変よ。しかも男の子でしょ」 「──何か問題になるようなことを?」 「幸い、警察のご厄介になるところまでは行ってないの。でもね、学校が私立でしょ。今日も先生に呼ばれて行って来た帰りなのよ」  朋子は、ため息をついた。「疲れるわ、本当に!」 「難しい年代だからね」 「おとなしいの。それは性格的にね、昔からそうなのよ。でも──部屋に閉じこもっちゃってね。何だか変なことに熱中してるんだもの」 「別に人に迷惑かけないなら、いいんじゃないか」  と、私は言った。「たいてい、男の子は、それぐらいの年齢のころには、何かに熱中するもんさ」 「主人に似たのよね、きっと」  と、朋子がため息をついたので、私はつい笑ってしまった。 「いや、失礼。──君がため息をついてるところなんて、何だか想像できなかったんでね」 「ため息ぐらいつくわよ、私だって。もう四十よ」  と言って、朋子も笑った。「離婚経験もあるんだから」 「離婚?」 「そう。──今は息子と二人で、実家にいるの。もう三年以上になるわ」  そうか。大学時代は活発で、元気で、ちょうど──そう、今の永井夕子に似たタイプの女の子だったのだが……。  人生には色々なことがある。誰にだって、だ……。 「あら、お邪魔かしら」  気が付くと、夕子がすぐそばに立っている。今来た、そんな様子ではない。話に聞き耳を立てていたのかもしれない。 「やあ。今日はちょっと早く出られたんだ」  夕子は私の言葉など耳に入らない様子で、朋子の方へ、 「永井夕子といいます」  と、挨拶《あいさつ》した。 「小谷です」  朋子は、曖昧《あいまい》な笑顔で会釈すると、私を見た。「宇野さん……」 「ああ、夕子、こちらはね、僕の大学時代の知り合いで、三木──いや、小谷朋子さん。離婚したんなら、また三木に戻ったのかい?」 「完全にはまだなのよ。事実上、離婚してるんだけど、主人の方がね。それより、この方、宇野さんの──」 「私、恋人なんです」  夕子も、以前は「姪《めい》です」なんて言っていたのだが、このところ、はっきりと立場《ヽヽ》を主張するようになった。 「まあ! あなた、大学生?」 「ええ」 「宇野さんも、やるじゃない!」  と、朋子は愉《たの》しげに笑った。  その笑いがいかにもカラッとしていて、夕子も朋子のことが気に入ったようだ。 「私、宇野さんの助手もしてますの」 「助手?」 「ええ。捜査一課の顧問」  いつも二人の時には、こっちを助手扱いするくせに! 「ああ、そうだったわね。宇野さん、刑事になったのね」  朋子は頷《うなず》いた。「じゃ、万一の時にはお世話になるかもしれないわ」 「何だい、万一の時って?」 「うちの子の研究《ヽヽ》と関係があるの」 「何のことですか?」  と夕子が訊く。  何しろ好奇心の塊みたいな夕子である。 「いえ、うちの息子がね、吸血鬼の研究をしてるの」 「何だって?」  と、私は訊き返した。「ドラキュラとか、ああいう?」 「今は珍しくないんじゃありません?」  と、夕子が言った。「ホラーブームだし。ビデオを集めたりするぐらいなら」 「そんなものなら心配しないんですけどね」  朋子は首を振って、「一度ご覧になれば分るわ」  と、言った。 「この匂《にお》いは?」  と、夕子は、三木家の玄関を入ると、顔をしかめた。 「おい」  と、私はつついたが、しかし、確かに匂うのである。 「あの子の部屋からなのよ」  と、朋子が言った。「──ごめんなさい、父は今、出かけてるみたい」 「お構いなく」  と、夕子が言った。「広いですね!」  私は大学時代、クラブの用事で、ここに一度来たことがある。そのころと少しも変っていない。  もちろん、木造の家屋は、年月をへて古びていて、少し暗いように感じられるが、それは今、明るい所で生活しているせいだろう。 「こんな広い所に、父と私と息子の三人。──寂しいより怖いわよ」 「じゃ、息子さんの部屋を」  と、夕子が言った。 「そうね。じゃ、その後でゆっくりお茶でも」  二階へ上って行くと、その匂いはますますひどくなって来た。 「──何の匂いだろう?」  と、私が呟《つぶや》くと、夕子が呆《あき》れたように、 「決ってるじゃないの。吸血鬼につきものなのは?」 「──ニンニクか」  そう。ニンニクの匂いだった! 「昇一、入っていい?」  と、朋子がドアをノックする。 「待って」  と、中から声がした。  少ししてドアが開く。 「あのね、お客様が──」  と、朋子が言いかける。 「お客?」  と、ドアを細く開けたまま。 「そう、古いお友だちなの。ちょっとご挨拶しなさい」 「うん、じゃ、ちょっと待って」  と、またドアを閉めてしまう。 「すみません、こんな調子で」  と、朋子がため息をついた。  ややあって、ドアがまた開いた。 「どうぞ」  と、言われて、私と夕子は部屋へ入った。  とたんに──ザバッ!  私と夕子は頭上から降り注ぐ水で、びしょ濡《ぬ》れになっていたのだった……。 「──うん、大丈夫」  と、その少年は肯いた。「その水、教会から取ってきた聖水《ヽヽ》なんだ。吸血鬼なら、大火傷《やけど》するはずだからね」 「──昇一!」  と、朋子が絶望的な声を上げた。 「ねえ、あなた」  と夕子が昇一に言った。「吸血鬼が仏教徒だったら、どうするの?」 「もう、服、乾いた?」  と、夕子が訊いた。 「いや、もう少しだな」  私は、バスルームから出て、欠伸《あくび》をした。 「すっかり真夜中だ」 「そうね。私はいいけどあなた、明日は早いの?」 「大丈夫。外を回ってから出るよ」  私はドサッとソファに腰をおろした。  あの昇一という少年に「聖水」で聖《きよ》められて、大いに迷惑したのは事実だが、その結果、 「びしょ濡れで歩いてちゃ風邪《かぜ》引くわ。どこかに泊ろうよ」  という夕子の、願ってもない言葉を引き出したのだから、これぞ、けがの功名というやつだろう。  ちょっと高級なホテルの一室を取って、服が乾くのを待っているところだ。まあ──もちろん、待っていただけ《ヽヽ》じゃないが。 「でもユニークな子だったわねえ」  と、夕子がベッドの中で言った。「気に入ったわ、私」 「変った趣味だな」  と、私は笑った。  確かにユニークであることは間違いない。  びしょ濡れになりながら、眺め回した昇一少年の部屋の中ときたら……。  天井からまるで装飾のようにぶら下げられた、おびただしいニンニク。  そして、窓は閉めたきり、黒いカーテンを引いてあって、部屋の中に十字架がズラッと並んでいる。それから、鏡も。 「吸血鬼は鏡に映らないのよ」  という夕子の説明を聞いて、やっと私も理由が分った。 「しかし、ありゃまともじゃないよ」  と、私は何かルームサービスを取ろうと、メニューを広げながら言った。「いくらマニアでも、本物の木の杭《くい》を護身用《ヽヽヽ》に持ってるなんて。それも先を鋭く尖《とが》らしてだぜ」 「吸血鬼を倒すのはそれしかないんだもの」  と、夕子が楽しそうに言った。 「しかし、物騒だよ。あれは凶器になるぜ」 「身を守るためのものなのよ。もし、攻撃するためなら、他に何でもあるわ」 「あれを見ると、どうもあの子、本気で《ヽヽヽ》、吸血鬼を信じてるようだな。母親の心配も分るよ」 「あの人、昔の恋人?」 「おい、よせよ」  と、私は苦笑した。「ただの同窓生さ」 「でも、なかなかすてきな女性よ。私、ああいう人、好き」  夕子の好みのタイプ、というのは、よく分る。カラッとしていて、爽《さわ》やかなのである。 「あれじゃ、あの子、友だちもできないでしょうね」  と、夕子が言った。「きっと、ニンニクの匂いがしみついて、学校へ行っても、プンプンさせてるでしょうからね」 「いい子に見えるがなあ……」  と、私は首をかしげた。  十四歳にしては、少し小柄で、ほっそりしている。しかし、病弱という印象は特になかった。  頭のいい子ではあるようで、メガネをかけたその顔立ちは、母親に似てなかなか可愛く、かつ、知的なものを感じさせた。 「なかなか頭のいい子よ」  と、夕子も言った。「吸血鬼を本当に信じているとは思えないけど」 「どうしてだい?」 「もし、本当に《ヽヽヽ》信じてるとしたら、あんな風に、安手な吸血鬼映画の真似なんかしてないと思うわ。もっと自分で調べて、学術的な対策を立てると思うの」 「しかし──じゃ、どうしてあんなことをしてるんだ?」 「さあね」  と、夕子は首を振った。「それは分らないけど……。何か意味のあることなのよ、きっと。あの子だって、いろいろ、複雑な立場なんだろうし」 「まあ、両親が別れてるってことはあるんだろうな」 「でも、ご主人の方が同意してないんでしょ? 子供は母親が引き取っている。きっと、ご主人の方に責任があったのよ」 「そうかもしれないな」 「小谷って人は知らないの?」 「僕が? いや、全然知らない」 「彼女のお父さんは?」 「三木って人かい? あ、昔、会ったことがあるな。何だかこう──古武士みたいな、風格のある人だったけどね」 「あの孫が、可愛くてしょうがないでしょうね」 「そうだろう。彼女は確か一人っ子だからね。よく嫁に出したもんだ」 「もう手放したくないでしょうね、きっと」  私は、ベッドの方へ歩いて行くと、 「僕も手放したくないね」  と、夕子へにじり寄った。  と──ピーッ、ピーッとベルの音。 「お呼びのようよ」  と、夕子は言った。 「畜生!」  私は、部屋の電話へ手をのばした。 「私、熱いシャワーを浴びて来ようっと」  夕子がベッドから出て、バスルームへ姿を消す。  五分ほどして、夕子は出て来た。 「ご出勤?」 「うん。──まだすっかり乾いてないが、仕方ない」  私は、ズボンをはきながら、言った。「君も服を着た方がいいぜ」 「私、いやよ、半乾きのなんて」  と、夕子は言って、「何か理由があるの?」 「殺人だ」  と、私は言った。「それも、杭で胸を刺し貫かれてるそうだ」 「すぐ服を着るわ」  夕子は即座に言った。 2 「ハクション!」  夕子がクシャミをすると、目の前の壁《ヽ》が振り向いた。 「あ、夕子さん! やっぱり夕子さんのクシャミだと思ったんですよ」  原田刑事である。「いや、実に色っぽいクシャミですね」 「クシャミに色っぽいってのがあるのか?」  と、私は苦笑した。「──ハクション!」 「宇野さんもですか」  原田は呆《あき》れたように、「宇野さんでも風邪引くことってあるんですね」  原田に言われると、腹も立たない。 「おい、現場は?」  と、私はハクション《ヽヽヽヽヽ》の──いや、マンションの建物を見上げて訊いた。 「この三階です。いや、びっくりしました。何しろズブッと──」  原田は咳《せき》払いをした。「夕子さんのような優しい方には刺激が強すぎるかも……」 「何言ってるんだ。おい、案内してくれ」 「はい」 「原田さんって、とても気をつかってくれるのね。嬉しいわ」  夕子にニッコリされただけで、すっかり舞い上ってしまうのが原田である。この巨体でよく「舞い上れる」もんだ、と感心する。  エレベーターを三階でおりると、廊下に警官が何人か立っている。すぐに現場の部屋は分った。他の部屋のドアが細く開いて、何人かがこわごわ顔を出していた。 「──おや、今日も一緒だったのかね」  と、顔なじみの検死官が、私と夕子を見てからかう。  殺人現場で、不謹慎な、と思われるかもしれないが、ここも「仕事の場」なのである。あまり深刻にやっていては、神経がもたない。 「どこだい?」 「寝室。──ちょっと凄《すご》いぞ」 「聞いてるよ」  私たちは、さして広いとは言えない居間を抜けて、寝室へ入って行った。  ダブルベッドに、女が寝ていた。首のところまで、シーツで覆われているが、その胸の辺りに、真直ぐに太い杭が打ち込まれている。もちろん血はシーツのほとんど半分近くの面積を、朱《あけ》に染めて、凄絶《せいぜつ》な光景だった。 「──まともじゃないぜ」  と、検死官は首を振った。 「即死」 「当然さ」 「かなりの力で打ち込んだのかな」 「そうだろう。しかし、杭の先が、相当尖らしてあるようだ。必ずしも男でなきゃだめってこともあるまい」 「つまり──女でも?」 「うむ。もちろん、ハンマーのようなものを使ったはずだ。その大きさにもよる」  女でも、か。──ということは、少年《ヽヽ》でもということだ。  夕子は、一向にショックを受けたわけでもないようで、死体へ近付いて、まじまじと眺めている。 「──おい原田。分っていることを話してくれ」 「はい」  と、原田は手帳をめくった。  女の名は、沖田良江。三十七歳。この部屋に一人で住んでいた。 「時々、かなりの年輩の男が来て泊っていくようです。囲われてたんじゃありませんかね」 「その男を洗わなきゃならんな」  と、私は言った。「発見者は?」 「隣の部屋の人です」  と、原田は言った。「会いますか」 「いるのか?」 「ええ、台所の方で待っててもらっています」  ──いかにも女教師然とした、気丈な感じの女性だった。 「平井則子と申します。中学校の教師をしておりまして。この隣で、一人暮しです」  と、メガネを直す。  四十近いだろう。化粧っ気もないので、余計に少し老けて見えるのかもしれない。 「悲鳴を聞かれたとか?」 「ええ。そりゃもう凄い声でした。──ここと私の部屋は、ちょうど左右対称になっているんです、部屋の配置が。パイプや水回りの関係でしょうけど」 「なるほど」 「ですから、寝室同士、くっついてます。あの悲鳴は、まるで壁なんかないみたいに聞こえてきましたよ」 「悲鳴の前に、声は?」 「いいえ。こっちも眠っていました、朝が早いので。沖田さんは、いつも昼ごろでないと、起き出さないようでしたけど」 「悲鳴を聞いて、どうしました?」 「すぐに飛び起きて駆けつけましたわ」 「玄関のドアは?」 「鍵《かぎ》は開いていました」 「そうですか。しかし──危いとは思いませんでしたか。もし犯人がまだ中にいたら……」 「これで!」  と、平井則子は、バットを取り上げた。「のしてやりましたわ、見掛けたら」  勇ましいが、こういう「協力」は困る。もしかしたら、もう一人被害者が出ているところである。 「で、入ってくると、あの状態で」 「そうです。びっくりしましたわ。すぐ一一〇番して、それから、部屋の前に立っていました。誰も中に入らないように、と」 「いや、大変助かりますよ」  と、私は言った。「悲鳴を聞いて、駆けつけるまで、どれくらいの時間がありました? 大体のところで結構ですが」 「すぐですわ」 「すぐ、といっても──」 「いつもバットは、手の届く所に置いてあります。すぐに起きて、このガウンをはおって、それから廊下へ出て……。どんなにかかっても、三分ぐらいでしょう」  これだけ落ちついていれば、そう時間の感覚も狂いはあるまい。人によっては、「すぐ」というのが、三十分もたってのことだったりする。 「逃げて行く姿とか、足音とかに気付きませんでしたか?」 「いえ、何も」  すると、犯人は相当素早く逃げ去ったことになる。 「ここの沖田さんという人とは、お付合いがありましたか?」 「いいえ、顔を合わせれば挨拶はしますけどね。──ご存知でしょうけど、沖田さんは、どこかのお年寄りの二号さんだったんです。私は仕事がありますし。お隣といっても、生活のパターンが全く違うので、お付合いはしませんでした」 「なるほど。──その老人というのを、ご存知ですか?」 「私は見たことありませんの。このマンションの他の方がよく噂《うわさ》してるので」 「じゃ、今夜、ここへその老人が来ていたかどうかも、分りませんね」 「誰か来ていたんでしょうね。殺されているんですから」  と、平井則子は、もっともなことを言った。 「どうも、ご協力を感謝します」 「いいえ」  と、平井則子は微笑んだ。「何かありましたら、またいつでも」  平井則子が出て行こうとすると、ちょうど夕子とすれ違った。  平井則子はチラッと夕子を見てから、私の方を振り返り、 「この方は?」 「あ──いや、ちょっと警察の仕事を頼んでいるんです。アルバイトみたいなもんです」 「そうですか」  と、平井則子は肯いて、「最近は女性がこんな所にも進出してらっしゃるのね。いいことだわ。頑張ってね!」  夕子は握手されて、 「頑張ります!」  と、調子を合わせている。「あの──」 「何かしら?」 「バットをお忘れです」 「あら、本当だ」  と、平井則子は笑って、「いやねえ、怖い目にあって、つい取り乱したんだわ」  どの辺が? ──私はそう訊いてみたかった。 「大した女性ね」  と、夕子は首を振って言った。 「聞いてたのか」 「でも、もし今の話の通りなら、犯人はずいぶん素早く逃げ出したのね」 「そうだ」  私は肯いた。「今の女性、少し落ちつき過ぎているとは思わないか」 「彼女がやった、とでも?」 「いや……そうは言わないけど」 「その悲鳴も、果して本物《ヽヽ》だったのかどうかね」 「どういう意味?」 「テープとか、何か殺した後で悲鳴を聞かせる仕掛はできると思うわ」 「そりゃそうだな。しかし、何か残ってるだろう。仕掛けたものが」 「そうね。あの寝室には、それらしいものはなかったし……」  夕子が考え込んでいると、原田がやって来た。 「死体を運び出すそうですが」 「分った。──しかし、偶然とは思えないな。あの少年に会って、今夜この事件というのはね」 「偶然とは思えないのなら、偶然じゃないのよ、きっと」 「──どういうことだ?」 「宇野さん」  と、原田が言った。「ここを借りている奴《やつ》は、きっとタオル屋ですよ」 「タオル屋? どうしてだ?」 「バスルームに行ったら、タオルが下に積んでありました。きっと余って、入れる所がないので、下へ置いたんでしょうね」 「下にタオルが?」 「ええ。ドサッと」  私は夕子と顔を見合わせた。 「戸棚の中にタオルが入らなかったのは──」 「戸棚に、他のもの《ヽヽヽヽ》が入ってるからかもしれないわ」 「原田、来い」  私はバスルームへ入って行った。「あの戸棚だ」 「高い所のですか? 中は見ましたよ」  原田が戸棚の戸を開ける。タオルが積んであった。 「ね、こんなに入ってるのに、そこにも──」 「そのタオルをどかしてみろ。全部出してみるんだ」 「宇野さん、そんなに使うんですか?」  と、原田がタオルを取り出そうとしていると、 「分った」  と、その奥から声がした。「出て行くから、待ってくれ」  タオルが口をきいたわけではない。──積んであったタオルがドッと落ちて来ると、中から男が出て来た。 「おい、すまねえが、ちょっと手を貸してくれないか」 「世話が焼けるな。おい、原田、手伝ってやれ」 「はあ」  原田はまだ呆れたようにポカンとしている。 「──よく上ったな、そんな所に」  と、私は言った。「何だ、お前か」 「こりゃ宇野さん。どうも……ごぶさたしまして」 「お知り合い?」  と、夕子が訊く。 「コソ泥の常習だ」 「そんな! 人聞きの悪い。ただの泥棒ですよ。コソ泥ってのはどうもイメージが」 「ぜいたく言うな。こっちへ来い」 「はあ」  もう五十がらみの、前科十犯は下らない、通称「安」で通っている男だ。商売柄、身は軽いし、小柄なので、あんな棚の上にも上れたのだろう。 「おい、安。まさかお前がやったんじゃあるまいな」 「とんでもない。──殺しですか」  と、死体はもうなかったが、ベッドのシーツに残る血を見て目を丸くした。 「そうだ。知らなかったのか?」 「悲鳴は聞きましたけど……。ここの女ですか?」 「そうだ。知り合いか?」 「ええ、まあ……」 「どういうことだ?」 「昔、ちょっと知ってたんでさ。良江っていって、あまり性質のいい女じゃないんですが」 「他人のことが言えるのか?」 「そりゃそうですね。──でも、宇野さん、こちらの若い方が、噂の恋人ですか」  私は苦笑して、 「よせよ。ともかく今日は何の用で来てたんだ?」 「ええ……。ま、色々世間話といいますかね」  と、安は照れたように頭をかいている。 「おい、それじゃ──。ここの沖田良江って女と?」 「ええ。ま、時々飯を食べさせてくれる程度の仲で」 「そうか。しかし、おまえがここに囲ってたわけじゃないんだろう?」 「とんでもない!」  と、安は目をむいた。「そんな金、俺にあるわけないじゃありませんか」 「それもそうだ。──良江を囲ってた男のことは?」 「よく知りません。名前も言いませんでしたからね」 「本当か?」 「本当ですよ。旦那《だんな》にゃ嘘《うそ》はつきません」  何とも調子のいい男なのである。 「じゃ、本当に名前も知らないのか?」 「わざわざ訊こうとも思いませんしね」 「仕事とか、住んでる所とか、は?」 「一向に」  と、首を振って、「ともかく良江は、『あのじいさん』としか呼んでいませんでしたね」 「年寄りには違いないか」 「そのようです」 「それで……。今日はどうしてあんな所へ隠れてたんだ?」 「ええ、実は──」  安は、ちょっと考えてから、「いや、今日は、そのじいさんが来ない日のはずだったんですよ。それで、夕方からここへ転がり込みましてね。──少々眠って、目が覚め、さて、と飯でも食おうかと話していた時、玄関のチャイムが鳴ったんです」 「すると、その男が?」 「良江が台所のインタホンで出て、仰天しましてね。『シャワーを浴びてたから、ちょっと待って』と言って。俺をあの戸棚へ上げて、タオルで隠したんです」 「じゃ、その後は、何も見てないんだな?」 「ええ」 「男の顔とか声とか──」 「あの中に入ってちゃ、聞こえませんよ」 「それはそうだな」  私は肩をすくめた。「で──中でじっとしてたんだな?」 「そうです」  安は肯いて、「そしたら、凄い悲鳴が……、びっくりしましたよ」 「飛び出して助けに行こうとは思わなかったのか?」 「いや──そりゃね、心配はしました。いても立ってもいられないっていうか……。もっともね、あの中じゃ、立てやしませんけど」 「要するに、怖かったってわけだな」 「そりゃそうです。──それにね、あの悲鳴じゃ……。とても助かりませんよ」  都合のいい解釈だと思ったが、他人に命を捨てろとは言えない。 「それから、後、何か気が付かなかったか?」 「後ですか……。いえ、何も」  と、安は首を振った。  すると、夕子が、 「じゃ、どうして逃げなかったの?」  と訊いた。 「え?」 「何も気付かなかったんでしょ? それなら、逃げ出せば良かったのに」 「え──いや──まあ、それもそうですが……。もしかして、その犯人がまだいるかもしれないと……。その内、ガヤガヤして、刑事さんたちが──」 「ガヤガヤは聞こえたのか」 「何となく、雰囲気ですね。その──分るでしょ?」 「ともかく、一応話を聞く。署へ連れてってくれ」 「旦那、でも──」 「手錠はかけんよ。話だけだ」 「そうですか」  と、安はホッとした様子で、「宇野さんは信用できるからね。最近の警察はどうも信用できませんから」 「何を言ってるんだ」  私は苦笑した。  ──夕子と二人、現場に残ると、私は、ゆっくりと中を見回した。 「妙だな。──なぜあんな物を凶器に使ったんだ?」 「どうしてかしら。でも、見た限りでは、あの杭、例の昇一君の所にあったのと、そっくりだったわよ」 「つまり……」 「はっきりしてるじゃないの」  と夕子はあっさりと言った。「この沖田良江を囲ってたのは、三木さんって人なのよ」 3 「まあ、宇野さん」  玄関へ出てきた朋子は、ちょっと意外そうな様子で、「昨日は失礼して──」 「いや、構わないよ。ちょっと、上ってもいいかな?」 「ええ……」  朋子は、家事の途中だったのか、エプロンをつけたままだった。 「──どうぞ」  と、お茶を手早く出してくれる。 「今日は、一人?」  と、私は訊いた。 「ええ」 「お父さんは?」 「父? あれでも忙しいの。あの年齢《とし》で、結構手広く仕事をしてるでしょ」 「そうか。──昇一君は?」 「学校よ、もちろん」 「それもそうだね」  私はお茶を飲んだ。──どう切り出したものか、と考えていたのだ。 「宇野さん」  と、朋子は言った。 「うん?」 「二階に行く?」 「二階?」 「寝室のカーテンは引いたままよ」  朋子はそう言って、ちょっと顔を伏せた。 「ああ、そうか。いや……すまないね」  私も、やっと彼女の言葉が分った。「いや実はそうじゃないんだ。他にちょっと話があって」 「そうなの」  朋子は、フフ、と笑った。「がっかりさせて!」  私はホッとした。夕子には、また、 「デリカシーがない!」  と叱られそうな場面である。 「ゆうべ、女が一人、殺された」 「女の人? 知ってる人なの?」 「いや、君は知らない。──もしかしたら、お父さんが知らないかと思ってね」 「父が?」 「沖田良江というんだ」 「沖田……。私は知らない名だわ」 「そうだろう」 「どうして父が知ってると?」 「かなり年齢のいった男性に囲われていたらしい。そして──沖田良江は、胸に杭を打ち込まれて、死んでいたんだ」  朋子がさっと青ざめた。 「杭を? ──まさか!」 「何かあったね?」  私は身を乗り出した。「教えてくれ。何があったんだ?」 「でも──あの──きっと何も関係ないわ。それとは。ねえ、そうでしょ?」 「教えてくれ」 「ええ……」  朋子はそっと額を拭った。汗をかいているのだ。 「ゆうべ、昇一が夜中になって、騒ぎ出したの」 「騒ぐ?」 「でも、変な意味じゃないのよ。ちゃんと理由があるの」 「どんな理由が?」 「あの──杭が一本、なくなった、って……でも──」 「いや、おそらくそれだね。他の杭を見せてくれないか」 「ええ、もちろん」 「念のため、全部、僕が持って帰るよ」 「分ったわ。そうして」  朋子は立ち上った。  階段を上りながら、 「父に女の人がいるのは知ってたわ。でも、名前も何も、聞いたことない」 「再婚する気はなかったのかな?」 「さあ……。私は昇一のことで手一杯。父の方まではとても──」  朋子は昇一の部屋のドアを開けた。「あら……」 「どうした?」 「私、カーテンを、出かける前に開けて行ったのよ。それなのに……」  カーテンが閉めてあって、部屋の中は薄暗くなっていた。 「明りをつける?」 「いいえ、カーテンを開けるわ。体に悪いもの。少し風を通さないと」  朋子はカーテンを開けた──なぜカーテンが閉っていたか。その理由はすぐに分った。部屋の中から、杭が一本残らず、なくなっていたのだ。 「──やあ、どうしたんだい?」  私は、喫茶店に入って、息をついた。 「忙しいんでしょ。ごめんね」  夕子がいやにしおらしい時は要注意である。 「三木さんに会いに行く途中さ」 「例の? 何かつかめた?」  杭が全部消えてなくなったことを話すと夕子はゆっくりと肯いた。 「面白いわね。でも──」 「何だい?」 「それは何となく分るような気がするわ」 「本当かい?」 「──あ、来たわ、あの人よ、きっと」  振り向くと、いかにもどこかの会社の課長クラスというタイプの男が、店の中をキョロキョロ見回している。 「誰だい?」 「待って。──あの、小谷さん」 「はあ、あなたたちですか、ここへ呼び出したのは」 「ええ。こちら、捜査一課の宇野警部」  私を見て、小谷はギョッとしたようだった。 「──朋子をご存知なんですか」  小谷は私の話を聞く内に、やっと少し落ちついた様子だった。 「実はゆうべの殺人事件を調べていましてね」 「殺人事件?」  私の話に、小谷は目を丸くした。「──じゃ、あの女が、義父《ちち》の? そうだったんですか」 「いや、そう決ったわけじゃありませんよ」 「しかし、それなら確かでしょう。まあその女には気の毒だけど、良かった」 「どうしてです?」 「だって──気が気じゃなかったんです、私も朋子も。義父が、女と再婚すると言い出すんじゃないかと」 「つまり、財産を──」 「そうですよ」  と、小谷は肯いた。「いや、私も朋子も、特別、金に執着しているわけじゃありません。しかし、そんな女にごっそり持っていかれるんじゃ……。そりゃ本当に義父と真面目に付合って再婚するというのならともかく、あの女はそんな殊勝な女じゃない」 「ご存知ないのに、どうして分るんでしょうか?」  と、夕子が訊くと、小谷がぐっと詰った。 「そりゃ──何となく分るじゃありませんか。そんな、金で囲われてる女なんて……」 「沖田良江にお会いになったことは?」 「もちろんありません」 「立ち入ったことのようですが」  と私は言った。「奥さんとはなぜ別居を?」 「え? ──ああ、それは……。私のせいでもあるんです。何といっても、忙しくて、ほとんど家に帰らない、という日が多くて、子供のことでも、何度も言い争いになってしまって……」 「奥さんははっきり別れたい、と?」 「私は、まだ希望を持っているんです」  と、小谷は言った。「やり直しますよ。子供のためにも、その方がいい」  どうも、二言目には「子供」である。  口実に使っている、というのが見えすいていて、私には面白くなかった。 「しかし、義父の愛人を殺したのは、誰なんですかね」  と、小谷が目を輝かせている。 「それはこれからです」  と、私が言うと、夕子が身をのり出し、 「もう一つ伺っていいですか。奥さんのご実家の鍵をお持ちですか?」 「鍵? ──ええ。持っている、と思いますよ……」  小谷は、キーホルダーを出し、「ああ、これがそうだと思います」  と、一本の鍵を指して見せた。  ──小谷がせかせかと帰って行く。 「彼女が、どうしてあんな奴と結婚したのか分らんね」  と、私は少し不愉快になって、言った。 「そう? でも、何となく分るわ、私」 「そうかい」 「しっかりした女性って、どことなく頼りない男性を見てるとね、この人は私がついてなきゃだめだ、って思うのよ」 「なるほど」 「でも、本当に《ヽヽヽ》だめな男は、誰がついててもだめだけど」  と、夕子ははっきりしている。 「小谷ってのは、どうも、彼女の実家の財産が狙《ねら》いだったんじゃないか?」 「当然よ。だから、別れようとしないんだわ」 「うむ。すると……。もし、沖田良江が、三木さんに結婚してくれと迫っていたとしたら──」 「小谷にとっても、都合の悪いことになるわね」 「うむ。こいつは有望だ」  私は手早くメモを取った。「しかも、あの実家の鍵を持っていた」 「杭を盗めたわよ」 「そうだ。アリバイを当らせよう」  私は急いで電話をかけに走った……。  電話して戻ると、夕子は週刊誌を見ていた。 「行くかい?」 「三木さんの所?」 「その前に寄る所ができた」  と、私は言った。「ちょっと殺伐とした所だけどね」 「安の本名は何といったっけな」  と、私は言った。「──忘れちまった」  うらぶれた、という形容がぴったりの裏通り。  小さなバーがひしめき合う街角の、その裏側である。ゴミのバケツが転がり、野良猫が通り過ぎざま、ちょっと不審げな目を向けて行く……。  安は、その一角に、窮屈そうに身を横にしていた。 「──一突きだな」  と、検死官が立ち上る。「ただし、今回は刃物だ」 「凶器は?」 「見付かりません」  と、原田が首を振る。「持って逃げたんでしょう。この辺は、いくらも捨てる所がありますからね」 「死亡推定時刻は?」 「大体、四、五時間前だな」 「真昼間か」 「その時間、この辺なら夜中みたいなもんですね」  と、原田が言った。  そうなのだ。この付近が目覚めるのは、夕方からである。 「目撃者を捜せ」  と、私は言った。「むだだろうけどな」 「──見て」  と、夕子は言った。  少し離れたゴミバケツを覗《のぞ》いていたのだ。 「何だい?」  歩いて行って覗くと、丸めた新聞紙だ。 「ここも調べてあるよ」 「分ってるわ。でも、これは?」  夕子が、そっと指先でつまみ上げたのは──四角く切った新聞紙だった。広げると、ちょうど一万円札ぐらいの大きさ。 「そうか。指紋を採ろう」  私は、他の刑事たちへ、「おい! こんな大切なものを見落とす奴があるか!」  と怒鳴った。 「──恐喝ね」 「安の奴、慣れないことをやろうとするからだ」  安は、何か《ヽヽ》見ていたのだ。あるいは聞いていたか。そしてそれを警察には黙っていて、犯人をゆすろうとした。  犯人は、金を払う気などなかった。新聞紙を切ってたばね、札束に見せかけて、ここへやって来た。そして、安が油断したところを刺したのだ! 「この時間のアリバイを調べなくちゃな」  と、私は言った。「小谷、三木……」 「それに──朋子さん」 「何だって?」  私は夕子を見た。──そうだ。朋子も、確かに動機はある。 「犯人だなんて言ってないわよ」  と、夕子は言った。「でも、疑いを晴らしてあげなくちゃ」 「もちろんだ」  と、私は肯いた。  朋子は、金のために人を殺す女ではないと思う。しかし、それは何十年も前のことである。  年月は人間を変えてしまうものなのだから……。 「──大分捜されたようで、失礼しました」  と、三木宗一郎は言った。 「お忙しいようで」  と、私は言った。  質素だが、いかにも「力」を感じさせる社長室だった(妙な言い方だが)。 「事件のことはTVで見た」  と、三木宗一郎は肯いた。「やがてやって来るとは思っていたよ」 「名乗り出ていただけると助かるのですがね」 「忙しくてね」  と、三木は首を振った。 「沖田良江さんという方は──」 「私があそこに住まわせていた。分っているんだろう?」 「見当だけです」 「そうか。マンションの買手を辿《たど》れば、どうせ分ることだ」 「殺されたと知って、どう思われました?」 「可哀そうに、と思ったね」  と、三木は言った。「葬式は私が出してやる。構わんね?」 「ええ」  私は肯いた。 「長い付合いだ。──疲れた時にはよく行って気持を休めた」 「犯人の心当りは?」 「さあ。見当もつかん」  本音かどうか、つかみどころのない言い方だった。 「彼女に、他の男がいると感じられたことは?」 「もちろんさ」  と、三木は目を見開いて、「私があの女の所へ行くのは、だいたい週に一度。──男なしでいろとは言えない。構わんよ、一向にね」 「すると、誰が来ていたか、ご存知では──」 「知りたいとも思わなかったね」  これでは話にならない。 「ゆうべのことですが」  と、私は言った。「あのマンションへ行かれましたか」 「行った。──しかし、二十分ほどしかいなかったよ」 「なぜです?」 「仕事の電話が入ったんだ」 「夜中にですか」 「中東からだ。時間など関係ない」 「なるほど」 「で、すぐに出てしまった。良江にもいい都合だったようだ」 「どうしてです?」 「そわそわしていた。誰か来ることになっていたんだろう」 「なるほど。──実は、凶器が大変妙なものでしてね」 「知っとるよ。木の杭だったそうだね」 「お心当りは?」 「心当りどころか、私が持っていったものだよ」  と、三木が言った。  私もちょっと面食らった。 「どうしてあんなものを?」 「良江が、怪奇映画が大好きだったのさ。で、つい、孫の昇一のコレクションのことを話してしまった。そしたら、ぜひ見てみたい、と言ってね」 「で、杭を?」 「うむ。マンションへ行く前に、あの子の部屋から、一本持ち出してしまった。後で言っておこうと思ったが、あんなことになっては言いにくいしね」 「杭を見せたんですか」 「大喜びしていた。護身用に持っている、というので、やったのだよ」  三木は、ふと、初めて寂しげな顔になって、「それで命を落とすとはな……。可哀そうな奴だった」 「あなたに結婚を迫ったようなことは?」 「ない。──内心はどうか知らんが、ともかく口には出さなかった。そういうやつだったんだよ」  三木は、鳴り出した電話へ目をやって、「出てもいいかね? それとも、連行するか?」 「どうぞお出になって下さい」  私は手帳をたたんだ。  三木は、受話器へのばした手をふと止めて、 「君には会ったことがあるな」  と、言った。 4 「あの子がいないの」  と言うなり、朋子は私の胸にすがりつくようにして泣き出した。 「落ちついて。──どうしたんだ?」  電話で呼ばれて駆けつけて来ると、いきなりこうである。こっちも面食らってしまったのだ。 「昇一君が?」  一緒に来た夕子が訊く。 「ええ。──ごめんなさい」  夕子がいるのを見たせいか、朋子は、やっと自分を取り戻したようだった。 「家出かい?」 「分らないの。ともかく上って」  安が殺されて三日たっていた。──この午後、私は夕子と遅い昼食を取っていたのだが……。 「学校はとっくに出たって。でも、一向に家へ着かなくて」 「事故とか……」 「問い合わせてみたわ。でももう四時過ぎよ。今日は学校お昼までなのに」 「大丈夫さ。男の子だ。少しはぶらつくこともあるよ」  朋子は首を振った。 「あなたはあの子のことを知らないから……。そういうタイプの子なら、私も心配しないのよ」 「部屋を見せていただけます?」  と、夕子が言った。 「あの子の? ──ええ」  二階へ上って行くと、またニンニクの匂いがして来る。  ドアを開けて、夕子は中を見回した。 「なくなった杭は?」 「出て来ないの」  と、朋子は言った。「でも、そのことは何も言わないわ」 「当然ですよ」  と、夕子は言った。「自分で隠したんですから」  朋子が目を丸くした。 「自分で? 昇一が?」 「そうです。誰だって、全部《ヽヽ》あれを使うとは思えませんもの。それに、もし本当に吸血鬼がいたとしても、杭なんかいくらも作れるんですから、盗んで行かないでしょう」 「じゃ、あの子──」 「お祖父《じい》さんが一本取って持って行ってしまったので、それ以上持って行かせないために自分で隠したんですわ」  と、夕子は言った。「それより……」 「何です?」  夕子は、部屋の中をじっくりと見回し、 「なくなってるわ」  と言った。 「何が?」 「十字架が一つと、鏡が一枚」 「よく分るな」 「ちゃんと数を数えたの、この間。当然のことよ」  と、夕子は澄まして言った。 「そんなもの持って、どこへ行ったのかしら?」 「吸血鬼退治じゃありません?」  と、夕子は言った。 「少し彼女に冷たいんじゃないか」  と、私はタクシーの中で言った。 「あら、そう?」  夕子は、気楽に、「でも、一緒になって深刻になっても、救われないわ」 「ま、そりゃそうだけど」  私は肩をすくめた。「──現場へ行くのかい?」 「行き詰った時は現場を訪ねること」  夕子は外を見た。そろそろ暗くなり始めている。 「小谷、三木宗一郎、朋子、と、誰にもしっかりしたアリバイはない。──しかし、杭からは指紋も出ないし、このままじゃ、困ったもんだな」 「安って人が殺された事件も?」 「うん。──三木はどこか外を回っていた。一人でね。いつもそうなんだそうだ。小谷も社用で外出していた。朋子は家にいたらしいが、誰も証人はいない」 「動機ね。問題は」 「金、かな」 「でも、もし沖田良江が結婚を迫ったとしたら、殺す前に、色々あると思わない?」 「というと?」 「お金で解決しようとするとか。それに、他の男もあそこへ来ていたわけでしょ。そんなことも知られていて、結婚しろなんて言える?」 「それはそうだな」 「別のところに動機はあるのよ、きっと」  夕子はそう言って、目を閉じた。「着いたら、起こして」  やれやれ。──名探偵はおやすみか。  私は窓の外へと目をやった。  マンションに着いた時は、もうすっかり暗くなっていた。  ──沖田良江の部屋へ入ると、夕子は、明りを点《つ》け、 「玄関の鍵は開けておいてね」  と言った。 「どうするんだ?」 「ちょっとやってみたいことがあるの」  夕子は、現場になった寝室へと入って行った。もちろん、ベッドもそのまま置いてある。  血に染ったシーツなどは当然、持ち出してあるが、それ以外は、そのままである。 「──どうするんだ?」 「うん。時間をね」 「時間?」 「少し早いかな、と思って。──一眠りしようかな」 「おい……」 「今日テストだったから、ゆうべあんまり寝てないの」  夕子は欠伸《あくび》をすると、沖田良江が殺されていたベッドの上に横になって、間もなくスヤスヤと寝入ったようだった。  大した度胸だ! ──私もこれには呆れるしかなかった……。  仕方なく、夕子が目覚めるのを待っている内、こっちも眠くなった。寝室に置かれていた椅子《いす》に座って、ついウトウトしていると──。 「キャーッ!」  突然、夕子が凄い悲鳴を上げ、私は完全に椅子から飛び上ってしまった。 「ど、どうした!」 「あら、寝てたの? 呑気《のんき》ねえ」 「冗談じゃないぜ」 「しっ!」  夕子が時計を見る。「果して何分でやって来るか」  私は、ちょっと戸惑ったが、 「隣の平井則子のことか」 「そう。もう眠ってる時間ですものね」 「しかし、ここにはもう誰もいないことになってるんだから──」  と言っている内に、玄関のドアの開く音がした。 「誰かいるの?」 「警察です」  と、返事をすると、平井則子が、相変らずバットを持ってやって来た。 「ああ、びっくりした。──仕事ですか?」 「すみません。ちょっと実験してみただけなんです」  夕子が言うと、平井則子がムッとした様子で、 「人を起こしといて」 「すみませんでした。でも本当に勇気がおありですね」 「恐れ入ります。でも、あんな事件は二度とごめんですわ」 「そうですね。早く犯人を捕まえれば、それが一番です」 「それは当然ね」  と、平井則子は肯いて、「じゃ、私、部屋へ戻ってますわ」 「平井さん」  と、夕子が声をかけた。「そのバット、この間の時と同じものですか?」 「え? ──ええ、もちろん。どうして?」 「じゃ……」  夕子はベッドから出た。「置いて行って下さい」 「何ですって?」 「細かく調べれば分るでしょう。そのバットで、あの杭を沖田良江の胸に打ち込んだことが」  私は目を丸くした。バットだって? 「相当強く打ったはずですから、小さな傷は残っているはずです。それに、血痕《けつこん》も、たぶんいくつかはまだ反応が出るでしょう」 「馬鹿なことを!」 「妙なのは、沖田良江が、眠っていた様子もなく、縛られてもいなかったのに、なぜ、杭をおとなしく《ヽヽヽヽヽ》胸に当てられていたか、ということでした」  と、夕子は言った。「あなたは、本当は良江さんと付合いがあった。そして、あの夜も、ここへ来て話をしていた。バットを隠し持ってね」 「私は……」 「良江はあの杭を面白がって、あなたに見せる。あなたも興味を持つふりをして、訊く。『どの辺に当てるのかしら?』──良江さんはベッドに寝て、心臓の所へ尖《とが》った先を当て、『ここよ』とやって見せる。あなたは、へえ、と感心するように見せて、近付き、やおらバットを振り上げ、その杭の上に打ち下ろした……」  平井則子は青ざめていた。──夕子は、じっと平井則子を見据えて、 「さあ、──バットを渡して下さい」  と、手を出した。  平井則子が、いきなりバットを振り上げる。私は飛び出した。 「アッ!」  と、平井則子は、手からバットを取り落とした。  手の甲から血がにじんでいた。──夕子の手から何かが飛んで平井則子の手に当ったのだ。  下を見ると、落ちていたのは、銀色の、四方の先が尖った十字架だった。 「じゃ、父はその平井則子っていう女性とも……」  朋子が唖然とした様子で言った。 「沖田良江の所へ何度か通っている内に、顔を合わせたんだね。君のお父さんは、確かに魅力のある人だからな」 「それにしても……」 「ただ、問題は、平井則子の方は、沖田良江のようにおとなしく、『遊び』の相手でいる気はなかった、ということだ。沖田良江に嫉妬《しつと》し、彼女がいなくなれば、自分が君のお父さんを独占できると思った」 「プライドもあったのね」  と、夕子が言った。「自分は教養がある。沖田良江なんかに負けるなんて、堪《た》えられなかったんだわ」 「安は、君のお父さんが来て戸棚へ隠れた。その後、お父さんが帰って、すぐに平井則子がやって来た。──安は彼女の声を聞いていたんだ」 「ゆすろうとして、逆に殺されたのね、平井則子に」 「何てこと……」  朋子は首を振った。「もとは、と言えば、父のせいだわ。──私、ここを出て、自活するつもり」 「その方がいいかもしれないね」 「昇一君も、吸血鬼ごっこはお祖父さんへの抵抗だったのかもしれませんよ」  と、夕子は言った。「でも、おかげで助かったけど」 「あの十字架か」 「ちょうど武器になりそうだから、借りて行ったの」  夕子は、玄関の方を見て、「昇一君、帰ったようね。──ほら、二階へ隠れてましょ」  夕子は私を促して二階へ上ると、カーテンを引いて薄暗い、昇一の部屋へと入った。 「隠れるのよ」 「しかし──」 「いいから」  夕子は、何やらやっていたが、すぐに私と一緒に隠れた。  昇一が上って来て、部屋のドアを開ける……。影が、すっと部屋の中へのびて、昇一が入って来ると……。  ザーッと水が昇一の頭から降り注いだのだ。 「ワッ!」  夕子は立ち上ると、 「やった!」  と、得意げに肯いて、「これでおあいこよ!」  と言った。  目をパチクリさせていた昇一は、メガネを外して拭うと、またかけ直し、 「今の聖水だった?」  と訊いた。 「普通の水よ」 「そうでしょ? 聖水なら、おかしいもの。僕、吸血鬼なのに」  ──廊下で、朋子が笑い出す声がして、それから昇一も含めて、みんなが一緒に笑い出した。  昇一は、自分で歩いて行くとカーテンを思い切り開けたのだった……。 第五話 狼が来た夜 1 「ここか」  と、私は低い声で言った。 「裏口も固めてあります」  原田刑事が、さすがに緊張の面持ちで言った。 「──冷えるな」  私は吹きつけて来る北風に、首をすぼめた。「明日あたりは雪かもしれないぜ」  こんな時は、少し余計なおしゃべりをした方がいい。緊張も、度を過ぎると、体の動きを却《かえ》ってぎくしゃくさせてしまうのだ。 「行きますか」  と、原田が言った。 「いや、明りが消えるのを待とう。寝入ってからの方がいい」  私は、そっと息を吐いた。息が白い霧のように、風に流されて行く。  ──ごく平凡な住宅だった。借家で、新しい借り手は、まだここに住んで一週間ほどのはずだ。 「宇野さん」  と、原田が言った。「もし、奴《やつ》が抵抗して来たら?」 「撃ちたくはないがな」  と、私は言った。「強い光を当てて、目をくらませるんだ」 「そうですね」 「奴は女と一緒のはずだ。間違って女を撃つことになりかねないからな。よほどの場合以外は、撃つな」 「分りました」  そう言っている内に、明りが消えた。私は腕時計を見て、 「五分待って、踏み込むぞ。──玄関の鍵《かぎ》は?」 「ここにあります。大家から借りて来ました」  原田が取り出したが、寒くて手がかじかんでいるのか、それとも緊張しているせいか、落っことしてしまう。チーン、と冷たい音が夜の中に響く。 「す、すみません!」  原田のような大きな男が緊張しているのは、どことなく可愛いものだ。私は、その鍵を拾い上げると、 「これは俺が持ってるよ」  と、手の中に握った。「俺が開けよう」 「お願いします」  原田はホッとしたように言って、額の汗を拭《ぬぐ》った。「この寒いのに汗が出て」 「俺だってそうさ」  三人も殺している凶悪犯。しかも、銃を持っている。そいつを、踏み込んで逮捕しようというのだ。緊張して膝《ひざ》が震えるのも当然というものである。  道の反対側に、三人、刑事が現われた。私は手で制しておいて、あと三分、と指を出して見せた。  手がかじかむので、開いたり握ったりして、あたためる。顎《あご》が震えて来た。ま、いかに捜査一課のベテラン警部でも、こういう場合に、口笛なんか吹いちゃいられない。  もしやられたら……。夕子は泣くかな?  それともケロッとして、 「名探偵には悲しんでるヒマはないのよ」  てなセリフを言って、さっさと他に恋人を作るかもしれない……。  そんなことを考えると、何だか知らないが腹が立って来て、絶対に死ぬもんか、と決心する。 「──時間だ」  私は、原田を促した。  玄関へと足音を殺して近づく。もちろん玄関先の明りも消えているので、鍵を鍵穴へ差し込むのも、ほとんど手探り。まさかペンシルライトで照らす、というわけにはいかないし、ガチャガチャ音をたてるのも危険である。  やっと鍵がスッと入った時は、思わずホッと息をついた。寒いのに、すっかり汗をかいている。  カチリ、と小さな音がして、鍵が開く。チェーンも当然かけてあるだろう。刑事の一人が、カッターを構えていた。  だが、チェーンはかかっていなかった。ドアがスッと開いて来る。  中の間取りは、図面を見て頭に入れているのだが、現実とは大分感じが違う。──ともかく、まず奴は寝室にいるだろう。  素早く、刑事たちが中へ入りこむ。私も入って、そっとドアを閉めた。  暗がりに目を慣らす必要はなかった。洗面所の明りが、点《つ》けたままになっているので、廊下は明るい。  寝室は二階の右のドアである。私は一人を玄関の所に残し、先に立って、階段を上って行った。  手に拳銃《けんじゆう》を握っている。まず、めったに撃つことはないし、できるだけ撃ちたくないと思っている。警官が平気で発砲するようになったらおしまいだ。  階段は、いささか造りが良くないのか、きしんで、音をたてた。それに狭くて急だ。一人しか上れないのはもちろん、次の人間は、遮《さえぎ》られて、全く上の様子が分らない。  しかし、ともかく何とか二階へ上ることができた。ドアは閉っている。  私はドアの向う側へ行って、壁にはりつくと、中の様子を窺《うかが》った。──いることは確かだ。ゴソゴソと布団のすれる音がする。  原田は、階段を上るのをためらっていた。大きな音がするのは必至だからである。  廊下も狭い。三人も四人も、一度に飛び込むのは、とても無理だった。それにまだ引越しの荷物が片付いていないのか、段ボールが廊下に積んであって、ますます狭くなっているのだ。  私と、もう一人、強い照明を手にした刑事二人で、ともかく飛び込むことにする。  肯《うなず》き合って、私はドアのノブに左手をのばした。一、二、三!  パッとドアを開けると、強い照明がサッと中を照らす。 「警察だ! 動くな!」  私の声は、やや上ずっていた。 「──畜生!」  私がそう言うと、永井夕子は、 「今夜、もう十七回目よ、『畜生』って言うの。二十回言ったら、帰るわよ、私」  と、宣言した。 「しかし、頭に来るじゃないか。あんな思いをして踏み込んだのに……」 「胃に悪いわよ」  お好み焼を食べるという、私と夕子の至って庶民的なデートも、何といっても時期が悪かった。  夕子は、ペロリとお好み焼を平らげると、 「私、もう一枚食べよっと。──すみません、イカと牛肉でもう一枚!」  女子大生の食欲と、四十男の食欲では、とてもかないっこないのである。 「その人もびっくりしたでしょうね」  と、夕子は熱いお茶をフウフウ言いながらすすって、「いきなり寝室に刑事が拳銃構えて飛び込んで来たら」 「そうさ。しかも──」  と、言いかけて、ためらう。 「しかも? 何なの?」 「いや……。つまり、新婚夫婦だったんだ。ハネムーンから帰ったばかりの。だから、その──」 「じゃ、愛し合ってる最中だったんだ」 「まあね」 「可哀そうに」 「こっちにも同情してくれよ。奥さんの方はキャアキャア泣きわめくし、訴えてやると言われて……。畜生!」 「十八回」  と、夕子は言った。「どうして、そんな間違いをやったの?」 「通報があったのさ。その凶悪犯とそっくりの男が越して来た、ってね。女とも一緒で、その年格好もよく似てたんだ」 「通報か。──市民の協力ってやつね」  夕子は首を振って、「一歩間違えば、暗黒時代ね、中世の。魔女狩りの時代……」 「しかし、そういう情報は貴重だからね」 「もちろんよ。でも、あなた悔しがってるけど、奥さんと愛し合ってるところへいきなり踏み込まれて、手錠かけられた人の方がもっと悔しいのよ」 「うん……。そうだな。あんまり『畜生』と言ってちゃいけないか」 「そう。お好み焼でも食べて、気を取り直すこと」  私は、夕子の笑顔で、やっと少し気持が軽くなったような気がした。 「──どうも、このところ、同じ人間かららしい通報が多くてね」  と、私は言った。「これで三度目さ」 「同じ人から?」 「はっきりはしないが、一度は匿名《とくめい》の手紙、一度はやっぱり匿名の電話。今度の場合は、ちゃんと名乗った電話だ。今度も、結局、調べたらそんな奴はいなかったのさ」 「大分振り回されたのね」 「全く、頭に来るよ。一応、調べないわけにいかんしね」  私も、お好み焼をもう一枚、頼んだ。 「食欲が出て来たわね。その調子」 「もう『畜生』は言わないからね」 「あ、それで二十回!」 「おい、そんなのないぜ。今のは──」 「いいわよ。許してあげる。私は寛大な恋人でしょ?」  夕子は自分でそう言うと、「私に乾杯」と、ワインのグラスをあけてしまった。  ま、大して高いワインじゃないから、こっちの財布は大丈夫だが……。 「あんまり酔っ払うと、眠っちゃわないか」  と、つい心配になって訊《き》いていた。 「大丈夫。──ほろ酔いぐらいの方が気分が出るでしょ?」  夕子が、目の辺りをほんのりと赤くして、微笑《ほほえ》むと、私の心臓がたちまち駆け足を始める……。 「──ね、大丈夫でしょ?」  クルリと場面は変って、二人して久しぶりに入ったホテルの一室。 「うん、ちょうどいい……」  私は、夕子のほっそりした体を抱き寄せた。 「どの辺が?」 「どこもかも……」  二人して抱き合ったままベッドへ──ドサッと倒れた拍子に、ベッドの端に頭を打ってゴン、と音がした。目の前を星が踊ったが、そこは何とかこらえて、 「──痛くなかった?」  と訊く夕子へ、 「平気平気」  と、笑って見せる。 「待って。夜は長いわ。シャワーを浴びましょうよ」  夕子がベッドから出ると、ドアをノックする音がした。「──何か注文した?」 「いいや」  夕子はドアの方へ行って、 「何ですか?」  と、声をかけた。 「お花が届いております」  と、ドア越しに返事がある。 「お花ですってよ」  私が肩をすくめると、夕子はドアを開けた。  とたんに──。  ドアがパッと大きく開いて、夕子は引っくり返ってしまった。 「警察だ! 動くな!」  と、飛び込んで来たのは──。 「原田!」 「あれ?」  原田刑事が目を丸くして、「宇野さん、一足先に?」 「何しに来たんだ?」 「いえ──ここに凶悪犯が潜んでる、と通報があったもんですから」  原田は、床に座り込んでいる夕子を見て、 「夕子さんもご一緒だったんですか」 「まあね」  夕子は、フフ、と笑って、「三十分遅かったら、大変だったわね」  と、私の方を見た。  私は、たとえ何回目でも構わずに、 「畜生!」  と、言わざるを得なかった……。 2 「あの……」  と、ためらいがちに、その声は切り出した。 「何かご用ですか? ──もしもし」  と、私は言った。「宇野ですが」 「あの……実はお知らせしようと思って」  若い男の声だ。捜査一課へ、私に名指しでかかって来る電話というのは珍しい。  待てよ、と思った。どこかで聞いた声だ。 「何を知らせるって?」 「あ……実は、僕のアパートに、指名手配中の犯人がいるんです」  そうだ! この声だった。  夕子とのデートを邪魔されてから、私は頭に来て、何度もその通報電話のテープを聞き直したものだ。  しかし、さすがに、それから一カ月ほど、そのけしからん奴からの電話はなかった。  不思議といえば、なぜ、そいつが私と夕子のことを知っていたのか、ということだった。あの晩、あのホテルへ泊ることにしたのは、単なる偶然に過ぎなかったのに。  しかし、理由はともかく、相手が私のことを知っているのは確かだった。 「なるほど」  と、私は丁重に答えてやった。「で、何という奴ですか?」 「ええと、あの……名前ははっきり憶えてないんですが、確かに、手配のポスターで見た顔なんです」 「ふむ。──宇野喬一じゃなかったですか」  と、私は言った。 「え?」 「あのね、君のいたずらで、こっちは散々迷惑してる。君が誰か知らんが、捕まったら、立派な犯罪だぞ。分ってるのか?」  向うは、ちょっと黙ってから、 「──すみません」  と、謝って来た。「確かに、何度か──その、ちょっとした気まぐれで、でたらめな情報を──」 「ちょっとした気まぐれ? そのために一体何人の刑事が、寒い中を出動したと思うんだね?」 「はあ……」 「君の声はもう、捜査一課の人間ならみんな知ってる。かけて来てもむだだよ。君の言うことなんか、もう誰も信じない」 「分ります。僕が大変な迷惑をかけたことは。でも、今度は《ヽヽヽ》本当です! 信じて下さい。本当に僕のアパートに……」 「狼でもライオンでも、信じてほしかったら、自分で捕まえて連れて来るんだね」  私は、ポンと電話を切ってやった。全く、何度やりゃ気が済むんだ! 「宇野さん」  と、原田がやって来る。 「何だ?」 「昼飯でもどうです? おごりますよ」  原田は、今でも、ホテルへ乱入(?)したことを気にしているのだ。私は笑って、 「いいとも。おごることはないさ。割り勘で行こう」  と、立ち上った。 「そうですか!」  原田はホッとした様子で、「実は、宇野さんにおごることになったらどうしようと思ってたんです」  何を考えてるんだ? ──ともかく憎めない奴である。  お互い、大して財布は豊かでない。二人で近くのソバ屋へ入る。 「──宇野さん」 「何だ?」 「あれ以来、夕子さんとうまく行ってますか?」 「深刻な顔で訊くなよ。こっちまで心配になって来るじゃないか」  と、私は苦笑した。「あれ以来、忙しくて、あまり会ってないよ」 「そうですか……」  原田は、真剣な顔で、「夕子さんもデリケートなところがありますからねえ」  と、そこへポケットベルが鳴り出した。  電話を入れてみると、夕子からの伝言である。至急、どこだかのアパートへ来い、という。〈命にかかわる!〉というただし書きつきと来ては、放っておくわけにもいかない。  私は、食べかけのソバに多少未練を残しながら、原田と一緒にその店を出ることにした。  アパートというから、もっとさびれた感じの建物を想像していたのだが、鉄筋のなかなか洒落《しやれ》た建物だった。  夕子が、その向いの喫茶店の窓から手を振っているのが見えた。ありがたい。晴れていても、寒い日だったからだ。 「──一体何事だい、命にかかわるっていうのは?」  と、店に入って、一息つくと、私は言った。 「あのアパートにね」  と、夕子は外へ目をやりながら、「指名手配中の犯人がいるのよ」 「何だって?」  と、目を丸くしていると、 「すみません」  どこかで聞いたことのある声が、すぐそばで聞こえた。──二十歳《はたち》そこそこの若者である。ヒョロッとノッポで、風が吹いたら飛んで行きそうな感じだ。 「君は──あの電話だな!」  と、私は文法的には問題ある言い方をしていた。 「座って」  と、夕子がその若者に言った。「この人、竹口邦夫君。私と同じ大学なの。今二十歳よ」 「どうも……」  と、頭をかいている。 「どうも、じゃないよ。あれだけの人件費を請求したら、いくらになると思ってるんだ?」 「はあ……」 「待ってよ。この人も充分に反省してるわ」  と、夕子は言った。「もちろん、ちゃんと償いはしなきゃね」 「ええ……。よく分ってます。夕子さんに、厳しく言われました」 「ともかく、今はそれより大切なことがあるの」 「というと?」 「本当に《ヽヽヽ》、手配中の犯人が、あのアパートにいるのよ」 「本当なんです!」  と、竹口邦夫は、身を乗り出すようにして、「二階のどこかの部屋です。僕は一階にいるんで、二階の何号室かまでは分りませんけど」 「どんな男だい?」 「ええと……。割合、普通のサラリーマンです。今もそんな格好をしてるんです。働いてるのかどうか知りませんけど、朝ちゃんと出て行って、夜も七時ごろには帰るみたいです」 「ふむ。──君は、その男と話したことがあるのか」  と、私は訊いた。 「二、三度。朝とか帰りとかに、地下鉄の駅までの間、一緒のことがあって」 「どんな様子だ? よくしゃべる?」 「ええ。とても愛想がいいし、何というのか──人当りがいいんですね。ついこっちも話をしちゃうような」 「なるほど」  私は考え込んだ。「しかし、二階のどの部屋か分らないっていうのは困ったもんだな」 「部屋は五つあるわ」  と、夕子が言った。「もちろん、それが誰でも、別の名を使ってるでしょうしね」 「それにどこもサラリーマンなんですよ」  と、竹口が言った。「だから、どの部屋なのか、見当がつきません」 「君の部屋は?」 「一階の一〇四です」 「一〇四か。──その男が今日も出かけていて、いつもの通り帰るとしたら……」  私は腕時計を見た。「あと、三時間ほどで帰って来るわけだ」 「ここから見てれば分るわよ」  と、夕子は言った。「どう?」 「うん。それが一番だな。一部屋ずつ当って行くわけにもいかない。女と一緒としても、女の方も共犯かもしれないからな。わざわざ逃げろと教えてやるようなもんだ」  私は、怪しまれることがないように、喫茶店の持ち主に話をして、店を閉めてもらうことにした。店の中が暗ければ、夜になってもアパートへ入る人間ははっきりと見えるし、向うからこっちが目につくこともない。 「僕、双眼鏡持ってますよ。取って来ましょうか」  と、竹口が言った。 「ああ、頼むよ」  と、私は言った。  竹口は、急いで喫茶店を出ると、アパートへと走っていく。 「──君、あいつを知ってるのか?」  と、私は夕子に訊いた。 「よくは知らないの。学年下だしね。ただ、時々大学では見かけたし、それに、一時ノイローゼで入院してるって聞いたから、憶えていたの」 「なるほど」 「あいつが、例のでたらめの電話を? けしからん奴ですな」  と、原田は今ごろ腹を立てている。 「なるほど、それで君と僕のことも知ってたのか」 「私たちの後を尾《つ》けてたんですって」 「今の大学生は、時間が余ってるのか」  と、私はため息をついた。「しかし、まあ、これで本当に凶悪犯が捕まれば、結構な話だけどな」 「ものはためしよ」  と、夕子は言った。 「──戻って来たぞ」  竹口が、双眼鏡をむき出しにしてかかえて来る。 「あれを、もしその犯人の女房が見ていたりしたらおしまいだな。注意してやればよかった」  竹口は、息を弾ませて、店に入って来た。 「取って来ました!」 「ご苦労さん」  と、私は言った。  竹口の張り切りぶりは、叱られた子供が、何とかご機嫌をとろうと、親のいいつけを守っているところを連想させた。充分に大人になり切っていない連中の一人なのかもしれない。 「さて──」  と、夕子が言った。「後は時間がたつのを待つばかりね」  ──夜になっても、ちょうどアパートの出入口の手前に街灯があって、かなり明るい。  ただ、問題は、地下鉄でどっと降りて来るサラリーマンたちが、ゾロゾロと固まってやって来るので、それに紛《まぎ》れて見えない心配があることだった。  見張り始めて、一時間もたつと、完全に暗くなる。 「まだ来ないだろうな」  と、竹口は、自分も熱心に外を覗《のぞ》いていたが、急に、「あれ?」  と、声を上げた。 「来たか?」 「いえ……。すみません、双眼鏡を」  竹口は双眼鏡を目に当てて、見ていたが、 「やっぱり、千恵の奴だ!」  と、舌打ちした。 「こんな時、よりによって!」  コートをはおった若い娘が、アパートに入るところだった。 「ガールフレンドなんです。すみません」  竹口は、あわてて喫茶店を飛び出して行った。その娘はアパートの中へ入って見えなくなり、すぐに竹口が後を追って入って行った。 「あんなのにもガールフレンドがいるんですね」  と、原田が言った。 「人は好き好きだ」  と、私は言った。 「そうですね。宇野さんだって──」 「何だ?」 「いえ、別に」  原田はあわてて外を見た。  竹口が、すぐに戻って来る。 「──すみません! 古木千恵っていって、付合ってる子なんです。今日来るなんて言ってなかったのに」 「放っといていいの?」 「部屋で待ってろ、って言って来ましたから」  と、竹口は息を弾ませた。「早く来るといいけどな」 「今、六時ごろよ。そろそろ勤め帰りの人がゾロゾロ来る時間でしょ」  夕子が言うと、それが合図だったように、サラリーマンの列が道をやって来た。 「──どれも同じだな、これじゃ」 「待って下さい」  竹口は、じっと目をこらした。  もちろん、今日に限って、そいつの帰りが遅いということもあるのだ。張込みというのは、えてして、そんなものである。 「──あれだ!」  と、竹口が言った。  私は急いで双眼鏡を目に当てた。 「どこだ?」 「ええと──紺のコートの女の人がいますね。その次の次。グレーのコートで鞄《かばん》をかかえてる男」  視野に、その男が入って来た。街灯の明りで、顔が見えた。  その男はアパートの入口で、郵便受けから夕刊を取り出すと、階段の方へと歩いて行った。 「──どう?」  と、夕子が言った。 「河田だ」  と、私は言った。「河田晃。──詐欺師で、殺人犯だよ。こいつは大物だ」 「やった!」  と、竹口が手を打った。 「どの部屋か分らないとね」 「今、郵便受けを見ておいた。あの番号を見れば分る。おい、原田、応援を呼べ」 「分りました!」  原田は電話へと走った。  その間に、私は、アパートの入口まで行って、並んだ郵便受けを見る。  河田が夕刊を取り出したのは、〈二〇四〉の郵便受けだった。 「──名前は〈太田〉となっている。いいか、いざとなりゃ、全くためらわずに人を殺す男だ。油断するな」  と、私は刑事たちに言った。  この喫茶店が、作戦本部になってしまったというわけだ。──アパートの人の出入りが多い間は避けよう、ということになった。  八時になる。大分、道を行く人の数も減った。 「──よし、行くぞ」  と、私は言った。「君たち、ここにいてくれ」  夕子と竹口を残して、外へ出る。 「気を付けて」  と、夕子が言った。  河田は、武器を持っているかもしれない。持っていて使わない男ではなかった。 「行こう」  私は、アパートへ向って歩き出した。 3 〈二〇四〉のドアへ行き着くまでが、手間取った。  思いもかけないことが起こるものだ。──二階へと上って行くと、何やら廊下がざわめいている。  私たちは、足を止めた。 「何でしょうね?」  と、原田が訊く。 「俺が知るか」  耳を澄ますまでもなかった。──隣人同士の喧嘩《けんか》なのだ。 「大体、いつもお宅は廊下に物を出しっ放しにするじゃないの!」  と、一方の主婦が言えば、 「小さい子供がいれば、仕方ないでしょ!」  と、少し若い方がやり返す。 「子供のせいにするの? 親のしつけの責任でしょ」 「じゃ、お宅の子は、小さい時、何一つちらかさなかった、とでも言うんですか?」 「ちらかしたって、ちゃんと私が片付けたわよ」 「へえ。だから今でもお宅の子はハンバーガーの包みを捨てて行くんですね」 「いつ、うちの子が──」 「ちゃんと見ましたよ、この間駅前で」 「そんなことが、今何の関係があるのよ! 私は、ここの廊下を問題にしてるのよ」 「そっちが『いつもよ』なんて言うからじゃありませんか」 「ともかく、今は──」 「廊下はみんなのものです。そりゃ分ってますわ。ですから、さっきから謝ってるじゃありませんか」 「あんた、それでも謝ってるつもり?」 「いけません?」 「ケンカを売ってるとしか思えないけど、私には」 「そっちがそういう態度で来るからでしょ」 「どうでしょ! 自分の方が悪いのに、そんな言い草ってある?」 「じゃ言わせてもらいますけどね、お宅はベランダでウサギを飼ってるじゃありませんか。それは禁じられてるんですよ」 「うちのベランダよ。廊下とは違うでしょ」 「どっちも禁じられてる点では同じです」 「別によそに迷惑かけてないわ」 「かけてないですって? ハ!」 「何よ、その言い方!」 「あのくさい匂いにみんな困ってるんですよ! それをこっちは気の毒だと思って遠慮してるのに──」 「いつ遠慮してくれなんて頼んだのよ!」  私はため息をついた。 「──こりゃ、きりがないぜ」 「どうします?」  ドアが開く音がして、 「どうしたの?」  と、他の部屋の主婦も出て来たらしい。  これ以上待っても、もっとやりにくくなるだけだろう。 「しょうがない。ここで待て」  私は、原田や他の刑事を階段の途中で待たせて、一人で廊下を歩いて行った。  ウサギの話から、更にテーマは小鳥の飼育にまで広がっていた。 「──失礼します」  と、私は丁重に声をかけた。  もし、ここに、河田晃と一緒の女がいたら、まずいことになるからだ。 「何ですか!」  やり合っていた二人の主婦が一斉にキッとこっちをにらむ。凄《すご》い迫力だった。  刑事になったら、凶悪犯の自供をとるのに大いに役に立ちそうだ。 「オブザーバー」の一人は、キョトンとして、この「飛び入り」を眺めている。 「二〇四号の太田さんの奥さんは……」  と、私は、セールスマン風の柔らかい口調で訊いた。  もっとも夕子に言わせると、私がどうやったところで、下からヨロイがチラチラ覗く、というのだが。 「太田さん?」  と、年長の方の主婦が、「知らないわ。部屋にいるんじゃない?」 「じゃ、ここにはおられないんですね?」 「この三人? 違うわよ。何の用?」  私は、二〇四号室のドアを見やって、 「ちょっと、みなさん、お部屋へ入って下さい」  と、言った。 「何ですって? あんた何よ、いきなりやって来て──」  私は、警察手帳を見せて、 「警察です」  と、低い声で言った。  三人が顔を見合わせる。 「いいですか。部屋へ入って、出て来ないように」  と、私は言った。「危険ですから。分りましたね」 「あの……」  と、若い方の主婦が、「太田さんが何か……」 「手配中の殺人犯です。さ、早く部屋へ」  私は拳銃を抜いて、「来い」  と、階段の方へ呼びかけた。  三人の主婦が、アッという間に自分たちのドアから中へ消える。 「──気を付けろ」  と、私は言った。「今の気配で、気付いたかもしれん」 〈二〇四〉のドアを間に、三人ずつの刑事が、並んだ。  私は、拳銃を持った手を、コートのポケットへ入れて、玄関のチャイムを鳴らした。返事があれば、何とでもでっち上げて、このドアを開けさせる。  しかし、返事はなかった。もう一度鳴らしてみる。──もう一度。 「おかしいな」  確かに、ここに入って、それきり出ていないはずだ。  私はためしに、ドアのノブをつかんだ。驚いたことに、ドアが開く! 「入るぞ!」  私は、パッと中へ飛び込んだ。拳銃を構えて、 「警察だ!」  と怒鳴る。  続いて、ドドッと刑事たちが部屋へ駆け上る。 「捜せ!」  私は、部屋へ上った。──しまった、と思った。 「いません!」 「こっちもいません」  報告を聞くまでもなかった。  棚の引出しなどが、開けたままになっている。下に、ハガキや領収証などが散らばり、玄関に靴がない。 「逃げたんだ」  私は、正面のベランダへ出るガラス戸の方へ駆け寄った。案の定、ロックされていない。  ベランダから出て、下へ飛び下りたのだろう。しかし、いつ?  こっち側も、刑事が張り込んでいるのだ。 「おい! 誰かいるか!」  と、私はベランダから怒鳴った。  物かげに隠れていた刑事たちが飛び出して来て、ベランダの下へ集まる。 「逃げたぞ! 出て来なかったか?」 「いえ、誰も!」  と、下から返事があった。 「確かか?」 「確かです!」 「よし」  私は、ちょっと考えて、「二人、残って、他は一階の入口に集まれ!」  と、命令した。 「──宇野さん」 「いいか。奴らはここを出た。しかし、表からも裏からも出ていない。ということは、このアパートの中にいるんだ」 「屋上にでも隠れてるんですかね」 「それならいいが、心配なのは、他の家へ押し入って、人質を取っているかもしれん、ってことだ」 「そりゃ厄介ですよ!」 「三つに分れる。一つは屋上や階段の徹底的なチェック。後は、一つは上から一つは下から、各部屋を片っ端から当るんだ。いいな、用心しろ!」  もう寒さなど感じなかった。  もし、河田が、どこかよその部屋に上り込んで──何しろ顔なじみの住人だ、誰でも疑わずにドアを開けてしまう──母親と子供でも人質に取ったとしたら……。  これは大ごとだ。 「──どうしたの?」  一階の入口から夕子と竹口が入って来た。 「危いぞ。君らは外へ出ていろ」 「逃げたの?」 「部屋にいない」 「まあ」 「しらみつぶしだ。──そうだ、君の一〇四号も調べる」 「分りました。僕が声をかけますよ」  と、竹口が肯《うなず》いた。 「よし。一〇四を先にしよう。君はガールフレンドを連れて、夕子と一緒にあの喫茶店に戻っていてくれ」  私たちは、〈一〇四〉のドアへと急いだ。  もちろん、ここにも、河田が潜んでいる可能性はある。 「おい、千恵、僕だよ」  と、竹口がドアを叩《たた》く。「千恵。──開けろよ」  返事がない。──私たちは顔を見合わせた。 「おかしいな」  と、竹口が首をかしげる。 「窓の方からは?」  と、夕子が訊く。 「テラスになってて、出られるんですが……」 「そっちへ回りましょう」  夕子が駆け出した。 「あの──でも、まさか、千恵の奴に何か──」  竹口が、あわてて夕子を追いかける。 「ここにいろ!」  と、原田へ言って、私も夕子の後を追って行った。  裏へ回って、夕子は低い柵を飛び越えた。 「──戸が開くわよ」  と、夕子は言った。 「ロックしてなかったのかな」  中は明りが点いていた。私たちは、中へ入った。 「──竹口君!」  と、夕子が言った。「しっかりして」  若い娘が、床に、体をねじるようにして倒れていた。首には、カーテンをとめる紐《ひも》らしいものが巻きつき、深く食い込んでいる。 「──やられたか!」  私は、駆け寄ったが、もう死んでいるのは一目で分る。 「中を調べて」  と、夕子が言った。 「そうだ」  私は、玄関へ行って鍵を開け、原田を中へ入れた。  しかし、どこにも河田の姿はなかった。 「──千恵」  竹口はペタンと床に座り込んだまま、ポカンとしている。 「──何てことだ!」  私は、首を振った。 「見て」  と、夕子が言った。  死体の下に、さし込むようにして、白い紙があった。覗き込むと、走り書きのメモらしいもの。 「〈密告した奴は、こうなるもんだ〉か」  と、私は読んだ。 「河田は気付いたのね」  と、夕子が言った。「あの店で見張っているのに。そして、手配する前に、二階のベランダから逃げたんだわ」 「ちょうど真下が、ここか」 「竹口君が知らせたことを知ってたのよ。怪しまれてると思っていたのかもしれないわね、前から」 「で、その戸を叩いて……。何も知らないこの娘は戸を開けた」 「可哀そうなことをしたわ……」  夕子が、ため急をつく。 「──畜生」  と、私は呟《つぶや》いた。  この娘が殺されているのも知らず、とっくに逃げた河田たちをせっせと包囲していたわけだ。 「僕のせいだ……」  と、竹口が情ない声を出した。 「竹口君……」 「僕が知らせたりしなきゃ、こんなことにならなかったんだ。僕の代りに……。千恵の奴……」  竹口が泣き出した。  ──私は表に出た。  パトカーと救急車がやって来る。 「どっちも手遅れだ」  と、私は呟いた。  河田が、私の手配の前に逃げたのなら、今さら非常線を張っても、何の役にも立たない。もう二時間以上もたっているのだから。 「──ひどいことになったわね」  いつの間にか夕子がそばに来ていた。 「僕の手落ちだ」 「仕方ないわよ」 「いや、あの娘も、呼んでおくべきだったよ」 「そこまでは無理よ」  と、夕子は首を振った。「きっと、双眼鏡を取って来た竹口君を、河田の女の方が見ていたんじゃないかしら。でなきゃ、あんなに素早く、仕度して、出られないわ」 「そうだな」  私は肯いた。「ともかく──河田の奴、必ず、この手で捕まえてやる」  夕子が、私の腕を、軽く握った。  パトカーや救急車のサイレンに、アパートの住人たちが何事かと、ゾロゾロ姿を見せ始めている。  私は夕子から離れて、パトカーの方へ歩いて行った。  寒風が、ひときわしみ入るように冷たい夜だった……。 4 「女の名は河田昌世。一応、河田の女房と名乗ってるらしい」  と、私は言った。 「実際は違うの?」 「当然、籍は入っていないからね。女の身許《みもと》は不明さ。河田はもう四十を過ぎてるはずだが、昌世の方はかなり若いようだ」 「あなたと私みたいな取り合わせね」  と、夕子が言ったので私は顔をしかめた。 「変なのと一緒にしないでくれ」  ──河田が女と二人で逃げてから、一週間がたっていた。  大学のキャンパスは、にぎやかだった。寒さの中休みとでもいうか、今日はまた穏やかな日だったのだ。 「──まだ、大分落ち込んでるようね」  と、夕子は、芝生の傍《そば》のベンチに腰をおろすと、言った。 「当然だよ」  私は肩をすくめて、「しかし古木千恵は殺されちまったんだからな」 「落ち込むこともできないものね、彼女には。──何か手がかりは?」 「今のところまるでなしだ」  と、私は首を振った。「あの河田ってのは天才的な詐欺師だからね。人当りがいい。知らずに会ったら、まず誰でも好感を持つと思うね」  実際、あのアパートの住人たちから話を聞いた時にも、 「怪しいと思ってました」  という人は一人もいなかったのだ。  ほとんどは、 「あんないい人たちが……。信じられないわ……」  という反応であり、中には、 「何かの間違いじゃないんですか?」  という主婦さえいた……。 「私もぜひお会いしてみたいわね」  と、夕子が言った。 「よせよ。殺されるぞ」 「あのお婆さんだったら?」  と、夕子が微笑む。 「参ったね、あれには」  私は苦笑した。  アパートの住人の一人、七十を越えて、一人住いの老婦人のことだ。息子夫婦、娘夫婦とうまく行かずに、結局一人暮しをしているという、気むずかしい印象の老婦人だったが、 「あの人たちはいい人です!」  と、河田のことをかばって譲らないのだ。  どうやら、一人でいて気分が悪くなった時、河田夫婦がよく面倒をみてくれたらしい。 「間違いですよ、人殺しなんて!」  と、首を振り、「あんなに年寄りを大切にする人に、悪い人はいません」  確かに、その日一日、そばにいてくれただけでなく、二、三日の間は、 「あんまり無理に動くと、よくありませんよ」  と言って、食事なども作って運んでくれたのだというから、その老婦人がありがたいと思ったのも当然だろう。 「不思議なもんだな」  と、私は言った。「凶悪犯が、他人に親切にすることだってある。それは事実だからね」 「それはそうよ」  と、夕子が肯いた。「別にその二人は、警察の目をごまかそうとか、アパートの中に味方を作っておこうとか思って、親切にしたわけじゃないと思うわ。きっと本当にあのお婆さんのことを心配したのよ」 「それを聞いて、何だかホッとしたのも確かだがね」  と、私は言った。「その一方で、奴らは古木千恵まで殺している」  古木千恵が殺されたことについては、こちらの手落ち、という批判は、まぬかれない。新聞などのマスコミの論調は、河田の非情さを取り上げていたが、書かれないからといって、ホッとしていてはいけないのだ。  警官は、強制力を持っているからこそ、自分に一番厳しく当らなくてはならない。 「河田ってのは、ほとんど身よりのない奴でね」  と私は言った。「だから、捜すのも容易じゃないんだよ」 「時間がかかるかもしれないわね」 「いくらかかっても、必ず逮捕してやる」  と、私は言った。 「落ちついて」  夕子が私の肩に頭をもたせかけて、「必死になってると、目の前の物が見えなくなることがあるわ」 「そうだな」  私は、夕子の手を軽く握って、「忘れるところだったよ。何の用でここへ来たのか」 「何だったの?」 「夕食でもどうかな、と思ったんだ。もちろんこんな時だけどね」 「こんな時だからこそ、必要よ」  と、夕子は微笑んだ。「──あら」 「どうした?」 「ほら、竹口君よ」  見れば、なるほど竹口邦夫が、芝生を横切って来る。女の子が二人、両側から挟むように歩いていて、何とも楽しげだ。 「すっかり元気になったようだね」 「そうね。ずいぶん明るくなったわ、あの子」  と、夕子が肯く。 「何だかこっちはスッキリしないけどね」 「仕方ないわよ。若いんだから。それに、あの一件で、すっかり女子学生の同情を集めちゃって」 「やれやれ……」  ため息をついて見ていると、竹口は私たちに気付いて、一緒にいた女の子たちに、何か言って、一人でやって来た。 「警部さん。みえてたんですか」 「やあ」  と、私は言った。「元気そうで、ホッとしたよ」 「ええ。何だか今までいつも下向いてたのがずいぶん変ったと思います、自分でも。──千恵を殺した、あの河田の行方は、分ったんですか」 「いや、今のところ、さっぱりだよ」 「そうですか……」  竹口は、首を振って、「昨日も彼女の家へ行って、お線香を上げて来たんです。ご両親に顔を合わせるのも辛《つら》くって」  と、殊勝なことを言っている。 「捕まえてみせるよ」  と、私は言った。 「お願いします。──それから、気になってたんですけど、前にご迷惑をかけた件」 「それはもういいさ」  と、私は肩をすくめて、「二度とやらないようにしてくれればね」 「もちろん! 決してやりませんよ」  と、竹口は言って、「じゃ、僕、これで──」  そう言いかけた時、 「あら竹口君」  と、声をかけた女の子がいた。 「え?」  と、その方を見た竹口は、ちょっと戸惑った様子で、「君……」  四年生らしい、少し落ちついた感じの女子大生だが、なかなか垢《あか》抜けした美人だった。 「あら、憶えてないの?」  と、笑いながら竹口をにらんで、「同じゼミにいるのに」 「そ、そうだっけ」  と、竹口はあわてている。 「ね、大変だったのね。ガールフレンドが殺されて。詳しい話、聞かせてよ。いいでしょ?」  と、女の子に腕を取られて、 「うん──まあ、いいけどね……」  なんて口ごもりながら、竹口は、一緒に歩いて行ってしまった。 「いい気なもんだ」  と、私はため息をついた。 「しょうがないわよ。そこまでは、口を出す範囲じゃないわ」  夕子は、私の腕を取って、「じゃ、こっちも行く?」 「夕食には少し早いよ」 「その前に──。今度は、竹口君も私たちのこと、邪魔しないと思うけど」  と、夕子は言った。  そう。──確かに今度は、原田が飛び込んでは来なかった。  しかし……。 「あら、夕子じゃない」  二人でホテルへ入ろうとしたところで、出て来た二人連れとバッタリ。 「何だ、正子か」  と、夕子は笑顔で、「そちらは?」  向うも、四十男と一緒である。 「うん、叔父さんなの」  と、正子というその子は、ニッコリ笑って言った。「夕子もそう?」 「これは恋人」 「へえ。──いい趣味ね」  と、その子は言った。  どういう意味なのか、私は少々考え込んでしまった。 「じゃ、僕は仕事があるから」  と、向うの相手は、先にホテルを出て行ってしまった。  やっぱり、見られて照れくさい、という気分なのだろう。 「今の人、妻子持ち?」  と、夕子が訊く。 「もちろん。夕子も、でしょ?」 「私のこれ《ヽヽ》は独身者よ」 「へえ! 逃げられた口?」  私は、目をそらして、口をへの字に曲げた。 「──ね、夕子、ここ、結構うちの大学の子、使ってんのよ。要注意」 「ご親切に」 「ほら、この前なんかさ、あの子に会っちゃった。例の──何だっけ、ほら──」 「誰のこと?」 「恋人殺されたじゃない」 「竹口君?」 「そう! あの時、一緒にいたのが、きっとその子ね。事件の半月ぐらい前かな」 「へえ。向うも気が付いたの?」 「うん。私、今の彼と一緒でさ、あの女の子はバイトがあるとかで、先に帰っちゃったから、私、竹口君とちょっとお茶飲んで帰ったの。もちろん、あんな陰気なの、好きじゃないけど、コーヒー代でもおごらせりゃ助かるじゃない」 「正子らしい」  と、夕子は笑って、「じゃ、私たちとケーキでも付合う?」 「乗った!」  ──結局、ケーキをおごらされるはめになった。もちろん、夕子とのお楽しみもおあずけ。 「だけどさ」  と、他の話の途中で、突然、正子という子が言い出した。「正直、竹口君ホッとしてるかもよ」 「どうして?」  と、夕子が訊いた。 「あの時もこぼしてたの。もう、千恵の奴とは切れたいんだけど、って」 「へえ」 「可愛い子だけど、割としつこいんだ、とか言ってた。男なんて勝手だわ。自分が言い寄る時は、しつこくないと思ってんのかしら、全く」  そう言ってから私を見た。「あ、こちらの方は、もちろん、そんなことないと思いますけど……」  いかにも取ってつけた言い方で、笑う他はない。  正子という子、ケーキを三つもペロリと平らげて、 「ごちそうさまです」  と、さっさと先に出て行った。 「若さだね」  と、私は言った。 「でも……。不可能だわ」  と、夕子は何やら考え込んでいる。 「何が?」 「え? ──あ、もちろん、あの事件よ」  と、夕子は言った。 「竹口のことかい?」 「そう。──もし本当に、竹口君にとって都合良く……」  ポケットベルが鳴った。──いやな予感がした。  電話すると、また《ヽヽ》原田の大声が、私たちの邪魔をすることになった。 「宇野さん、見付けましたよ!」 「何? 河田の奴を、か」  私も緊張した。 「いえ、写真です」 「写真?」 「あのお婆さんと一緒に三人で撮ったのがあったんですよ。散々うるさく言って、やっと出させました」 「そうか。すると、昌世もうつってるんだな?」 「そうです」  これは手がかりだ。河田の顔は分っていても、昌世の方は写真一つなく、捜しようがなかったのである。 「今、持って来てもらって」  と、夕子がいつの間にやら、そばに来ている。  原田の声なら、充分に近くで聞こえるのである。 「今、ここに?」 「そう。その方がいいわ」 「分った。──おい原田、そいつを持って来てくれ」  場所を説明してやって、私たちは席へ戻った。 「──竹口君が、千恵さんを殺したんじゃないか、とは思ったことがあるの」  と夕子が言った。「だって、いつ警察が来るかも分らない時に、河田がわざわざ必要もない人殺しをするかしら、と思ってね」 「うん。しかし──」 「でも、竹口君が千恵さんを見付けて、部屋に入るように言いに行った時には──」 「ちょっとの間なら、我々の目から見えなくなったよ」 「でもあんな短い時間では、無理よ」  と、夕子は首を振った。「部屋の中へ入って、首を絞めて殺すなんて、数秒の間にはできないわ」 「じゃ、やはり無理だろう」  夕子は、コーヒーをもう一杯頼んだ。 「写真を見たい」 「なぜ?」  夕子は黙って首を振った。──こういう時は、何を訊いてもしゃべらないのだ。  原田は、十五分ほどで、やって来た。 「宇野さん、ケーキですか!」  と、羨《うらや》ましそうな声を出す。 「写真を見せてくれ」 「これです」  と、取り出したのは、フルオートのカメラで撮ったらしい、記念写真風のもの。 「若い女だな。二十四、五ってところか」  私は夕子へ、写真を渡した。 「この人ね」  夕子は肯いた。「やっぱり《ヽヽヽヽ》」 「おい、知ってるのか?」  と、私はびっくりして言った。 「あなたも見てるわ」 「僕が?」  写真を取り返して、女の顔を眺める。確かに、どこかで……。 「そうか!」  ハッと気付いた。「今日、大学で──」 「竹口君に声をかけた女子大生《ヽヽヽヽ》よ。学生っぽくしていたから、イメージは違うけど、その女だわ」 「どういうことだ?」  夕子は立ち上った。 「急いで、あのアパートへ行くのよ」 「──竹口君は、河田のことに気付いていたんだわ、前からね」  と、夕子は言った。  あのアパートへ向うパトカーの中だ。 「で、一方では千恵さんが邪魔になって来ていた。そして、私とあなたの関係についても知っていた……。それで考えたんだわ、この計画を」 「計画?」 「千恵さんを殺す計画よ」 「すると──河田たちを逃す代りに、あの子を殺させたのか」 「いいえ」  と、夕子は首を振った。「自分で《ヽヽヽ》殺したのよ」 「しかし──どうやって?」 「私たちが、あの喫茶店で見張り始めた時、もう千恵さんは殺されてたのよ」 「何だって?」 「双眼鏡を取りに行った時、おそらくね」 「しかし……」 「あの後、私たちが見た、コートの女は、昌世だったんだわ」 「そうか!」 「昌世に、あの役をやらせて、似たコートを着せた。遠くから見てれば分らないわ」 「じゃ、河田たちもぐる《ヽヽ》だったんだな」 「おそらく、誰かが河田のことを怪しみ出したんじゃないかしら。で、竹口君は、二人にそのことを教える。その代りに、千恵さん殺しを手伝わせた」 「自分で手は出さなくても、それぐらいのことなら、やっただろうな」 「だから、総《すべ》て計画の内だったのよ。たぶんそれ以前の、でたらめの情報もね。あなたがすぐには信じなくて、私ごと引張り出すようにして……」 「何て奴だ!」  私は、思わず声を高くした。 「何の話です?」  原田には、さっぱり分っていないのである。  パトカーは、冬の夜を貫いて走り続けている。 「──あと五分ぐらいだな」  と、私は言った。「しかし、なぜ今日、河田昌世が竹口の所へ来たんだろう?」 「そうね」  夕子は、ゆっくりと首を振って、「狼が来た、って叫ぶ少年の話みたいだわ」  とだけ、言った。  アパートの前でパトカーが停《とま》る。 「気を付けて!」  と、夕子が叫ぶように言った。「裏からの方がいいかもしれない」 「よし。原田。おまえ玄関の方を見てろ」  私と夕子は、竹口の部屋の裏手へと回って行った。  明りが点いている。しかし、レースのカーテンが引かれているので、中は見えない。 「どうするかな」 「用心して……。拳銃、持ってた方がいいかもしれないわよ」  夕子がこんなことを言うのは珍しい。  私は拳銃を手に、柵を乗り越えて、テラスの方へ近付いた……。  ガラッとガラス戸が開いた。  こっちもびっくりしたが、向うも面食らったようだ。  当然だろう。目の前に、当の河田が立っていたのだから。 「動くな! 警察だ!」  と、私は叫んだ。 「あなた!」  女の声。同時に、夕子が、 「危い!」  と叫んで、私にぶつかって来た。  銃声がした。河田の背後にいた昌世が撃ったのだ。  私は、起き上って、引金を引いた。昌世が足を押えて倒れる。 「おい!」  と、河田が昌世を抱き起こした。 「逃げて!」  と、昌世が叫んだ。  しかし──河田は逃げなかった。 「銃を捨てろ」  と、私は言った。  玄関から、原田が飛び込んで来る。 「──全く、こいつは厄病神《やくびようがみ》だ」  と、河田が笑った。  拳銃が手の中にある。銃口を、自分の頭に当てた。 「やめろ!」  止められるものではない。──河田は、昌世の上に、かぶさるように倒れた。 「あなた……」  昌世が放心したように、河田に呼びかける。  ──私は、河田の手の拳銃を取り上げると部屋へ入った。  竹口が、腹を血に染めて倒れていた。 「──どう?」  と、夕子が言った。 「もうだめだ」  と、私は首を振った。「原田。救急車だ」 「はい」  原田が出て行く。  私は、河田の体を横たえて、昌世の足の傷を、縛ってやった。 「どうして戻ってきたんだ?」  と、私は言った。 「この人が……」  と、昌世は河田を見て、「やってもいない殺しの犯人にされるのはいやだって、どうしても言うからよ」 「なるほど」 「一緒に撃ってくれればよかったのに」  と、昌世は涙声で言った。 「撃たれなくて良かった、と思う日が来るかもしれないわ」  と、夕子が言った。  そして、竹口の死体を見下ろすと、呟いた。 「──狼が、来ちゃったわね」  やがて、サイレンの音がいくつも近付いて来る。  聞きようによっては、それは狼の遠吠《とおぼ》えのようでもあった。 初出一覧(発表誌=オール讀物) 幽霊湖畔(「幻の湖の伝説」改題) 昭和61年7月号 着せかえ人形の歌 昭和62年4月号 危い再会(「幽霊の誕生日」改題) 昭和62年9月号 吸血鬼を眠らせないで 昭和62年11月号 狼が来た夜 昭和63年2月号 単行本 昭和63年8月文藝春秋刊 文春ウェブ文庫版 幽 霊 湖 畔 二〇〇二年十二月二十日 第一版 著 者 赤川次郎 発行人 笹本弘一 発行所 株式会社文藝春秋 東京都千代田区紀尾井町三─二三 郵便番号 一〇二─八〇〇八 電話 03─3265─1211 http://www.bunshunplaza.com (C) Jirou Akagawa 2002 bb021201