TITLE : 孤独な週末 孤独な週末 赤川次郎 ------------------------------------------------------------------------------- 角川e文庫 本作品の全部または一部を無断で複製、転載、配信、送信したり、ホームページ上に転載することを禁止します。また、本作品の内容を無断で改変、改ざん等を行うことも禁止します。 本作品購入時にご承諾いただいた規約により、有償・無償にかかわらず本作品を第三者に譲渡することはできません。 目 次 孤《こ》独《どく》な週末 少 女 尾《び》行《こう》ゲーム 凶《きよう》悪《あく》犯《はん》 孤《こ》独《どく》な週末 一日目、夕方  夫の運転する緑色のBMWが立木の合間を見え隠《かく》れしていたのも、ほんのわずかの間だったが、すっかり見えなくなってしまってからも、小《こ》杉《すぎ》紀《のり》子《こ》はなおしばらく、その方向から目を離《はな》さなかった。車が緑色だっただけに、遠い木々の緑が揺《ゆ》らぐのが、車の姿のように思えたのだ。いや、思いたかったのである。  紀子はひとつ大きなため息をつくと、林の中の道をもどりはじめた。——いつまでも寂《さび》しがっていたって仕方ないんだわ。彼《かれ》が三日間帰って来ないのは、どうすることもできない現実なんだもの。  思ったよりも山《さん》荘《そう》から遠くまで来ていたんだわ。紀子は歩きながら思った。山荘の前で見送るのはあまりにそっけなくてやり切れなかったから、少し乗せて行って、と強引に乗り込《こ》んでしまったのだ。彼も渋《しぶ》い顔をしながら、目もとは笑っていた。目《め》尻《じり》に細かいしわができるのでわかるのだ。  山荘からこのいくらか広い道まで、車一台がやっと通れるくらいの私《し》道《どう》が二百メートルほどもある。彼は私道の出口の所で車を止めると、紀子を抱《だ》いてキスした。紀子のほうではもっと先まで期待していたのだが、彼はそれだけで紀子を離《はな》した。彼《かの》女《じよ》も無理にはせがまなかった。ただ、もう少し先まで乗せて行って、といった。もどるのが大変だといわれても、大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》、いい散歩よ、と答えた。  少し走って、車を止め、彼はもう一度紀子にキスして、さあ、もう本当にもどりなさい、と穏《おだ》やかに、しかしきっぱりといった。今度は彼女も素直に車を降りた。  行ってらっしゃい。気をつけて!  彼女の声をBMWのエンジンの音がかき消したとき、彼女は車を憎《にく》らしいと思った。しかし彼は最後に車窓から手を振《ふ》って、できるだけ早くもどるからね!——そう叫《さけ》んだ。  紀子はすっかり心が軽くなって、手を振った。車は木立の間の曲がりくねった道を、素《す》晴《ば》らしい加速で遠ざかって行った……。  私道の入口へと歩きながら、紀子は、彼のキスでまだからだがほてっているのを感じていた。でも、彼が車の中で彼女を抱こうとしなかったのは、仕方のないことだ。なにしろ彼はもう四十歳《さい》だ。そんな刺《し》激《げき》的《てき》な遊びに興味はないのだろう。——しかし、紀子はまだ二十四歳の若さだった。そして何よりも、ふたりは結《けつ》婚《こん》してまだ三日にしかならないのだ……。  紀子は小《こ》杉《すぎ》紳《しん》吾《ご》の秘書であった。といってもそれは三か月前までのことだ。  小杉紳吾は、中《ちゆう》規《き》模《ぼ》ながら、その急成長ぶりで注目されている、あるショッピング・センターのチェーン会社で、営業部長の要職にあった。以前はライバル会社の営業の第一線にいたのを、引き抜《ぬ》かれて、初めから部長として着任した。三十八歳《さい》という、異例の若さである。  最初のうち、部下の間にくすぶっていた反感は、小杉のめざましい仕事ぶりと市場の読みの的確さ、つぎつぎに打ち出すアイデアの斬《ざん》新《しん》さ、などが吹《ふ》き飛ばしてしまった。一年足らずのうちに、チェーン店の売上げは三割増を示し、新たな支店がふたつ誕《たん》生《じよう》した。紀子がビジネス・スクールの秘書科を出て、小杉の下についたのは、ちょうどそのころのことだった。  正直なところ、紀子はあくせく働くよりも、同世代のボーイフレンドのように人生を楽しもうという主義で、いわゆる猛《もう》烈《れつ》サラリーマンというのはきらいだったから、入社早々に「業界でいちばん多《た》忙《ぼう》な男」とあだ名される小杉部長の秘書になると知ったときは、内心うんざりしたものだ。ところが驚《おどろ》いたことに、この会社では、個人秘書を持っているのは小杉だけで、社長にさえ秘書はついていないのであった。  出勤初日、挨《あい》拶《さつ》をしようと小杉の机の前へいくと、彼はいきなり、  「きょうの予定は?」  ときいて来た。面《めん》食《く》らった紀子が、それでもしどろもどろになりながらメモを読み上げると、  「これを十部コピーしてくれ」  と資料のファイルを渡《わた》され、  「十五分後に車を呼んでくれ。そのコピーを持って一《いつ》緒《しよ》に来るんだ」  と、ただもうあおり立てられるような気ぜわしさ。コマネズミのように動き回って、その日の仕事が終わったのは夜の九時だったが、まるで一か月も働きつづけだったような、それでいてほんの二、三時間しかたっていないような、妙《みよう》な気分であった。  出先から会社へもどる車の中で、小杉は初めて気づいたようすで、  「きみ、名前は?」  ときいた。  翌日も、その翌日も、同じような日が続いた。仕事が終わるのは、ときとして深夜になったが、それでも次の日は、八時半には仕事を始めなければならなかった。  なんてひどい所へ来ちゃったのかしら。——紀子は何度そう思ったことだろう。他の女子社員たちも、昼食の最中でも呼び出される紀子に同情してくれた。中には、組合へ訴《うつた》えればいい、という者もあった。  しかし、彼《かの》女《じよ》自身、驚《おどろ》いたのだが、その多《た》忙《ぼう》が二か月、三か月と続くうちに、その張りつめた毎日が、彼女の生きがいにすらなって来たのである。  小杉が、若い紀子を完全なプロとして扱《あつか》ってくれたことも彼女にはうれしかった。どこへ行くにも小杉は紀子を伴《ともな》って行った。泊《と》まりがけの出張でも遠《えん》慮《りよ》しない。北海道から沖《おき》縄《なわ》まで、小杉が飛び回るのに、紀子は影《かげ》のようについて歩いていたのだ。  むろん泊まるときはちゃんと紀子の部屋を取ってくれたし、上司としての限度以上になれなれしくはしなかったが、一《いつ》緒《しよ》に食事をとり、お茶を飲みながら、ときおり交わす雑談の中で、紀子は、小杉が四年前に妻を亡くし、いまは正《まさ》実《み》という名の息《むす》子《こ》とふたりでいることを知った……。  紀子が、小杉という男性に惹《ひ》かれるようになるのに、そう時間はかからなかった。しかし、彼《かの》女《じよ》は用心深くその気持ちを押《お》し隠《かく》し、表面上は部長とその秘書の、全く変りばえのしない忙《いそが》しい日々が続いた。  その見かけの平《へい》穏《おん》が変わったのは、四か月前、ある地方の小都市へ出張したときのことである。その都市へのチェーン店進出に反対する地元の商店街の店主たちとの話合いが目的だったのだが、ともかく、ショッピング・センターができれば商店はつぶれる、と信じ込《こ》んでいる地元の人びとは、小杉の話に全く耳を貸そうとしなかった。  従来の実績を示して、ショッピング・センターができると、客がふえて、地元商店もむしろ売上げをのばしていると説明しても、相手は全く受け付けない。話合いにならない話合いは十時間余に及び、深夜になってなんの結論も見ずに閉会したときは、さすがに小杉の顔にも疲《ひ》労《ろう》の色が見えた。  その夜、ホテルで紀子がシャワーを浴《あ》び、寝《ね》ようとしていると、ドアがノックされ、小杉が立っていた。——紀子にはわかった。黙《だま》ってドアチェーンをはずし、彼《かれ》を中へ入れた。  翌日、奇《き》跡《せき》が起きた。昨夜あれほどかたくなに反対していた商店街が、自分のほうから和解を申し入れて来たのである。  東京へもどって次の日の朝、小杉は紀子にいった。  「すまないが、きみにはここをやめてもらいたい」  紀子は、やはり、と思った。仕事に厳しい小杉である。秘書と関係を持っていたのでは仕事にさしつかえると思ったのであろう。紀子は恨《うら》みがましいことはいっさいいうまい、と思った。納《なつ》得《とく》した上での関係だったのだから。  「で、今後のことだが——」  と小杉は続けて、  「きみにはぼくの家の家事に専念してもらいたい」  これが彼のプロポーズであった。  てれくさかったのか、わざととぼけていたのか、そのまじめくさった顔を、いまでも紀子はよく覚えている……。  「——あら」  我に帰って、紀子は足を止めた。  「いやだわ! 何やってるのかしら、私?」  山《さん》荘《そう》へ通じる私道の立て札《ふだ》を見落として、だいぶ先まで来てしまったようだ。紀子は逆に向いて歩き出した。本当に、何をぼんやりしてるんだろう!  この山荘へのドライブが、ふたりの新《しん》婚《こん》旅行だった。といっても、山荘ではまだひと晩過ごしただけだ。都内のホテルでごく内輪の式を挙げ、その夜はホテルに泊《と》まって、きのう、ここへやって来たのだが、夕食の特別デザートは、本社からの電話だった。  紀子はべつに文句はいわなかった。彼の忙《いそが》しさは自分がいちばんよく知っている。そんな彼に惹《ひ》かれたのだから。——それにしても、これから先が思いやられるわ。五時に会社が終わっても、そのまま帰れる人ではない。家で夕食を食べてくれる日があるだろうか?  それよりも、当面の問題は、正実だった。  正実は十一歳《さい》である。こどもではあっても、単なるこどもではない年《ねん》齢《れい》だ。紀子は、小杉がどんなに多《た》忙《ぼう》で家をほったらかしにしていても、それが自分たちの結婚生活を危《あや》うくすることは心配していなかった。もし——もし、この結婚が失敗することがあるとしたら、それは正実のせいだろう。  いまのこどもは発育がいい。紀子が小《こ》柄《がら》なせいもあるだろうが、正実はもう彼女の肩《かた》くらいまで身長があった。いきなり、そんな大きなこどもを持った戸《と》惑《まど》い……。  むずかしい年《ねん》齢《れい》だから、気長に付き合ってやってくれ。彼《かれ》はそういっていたが。  そう、自分は実の母ではないのだから、無理に母親になろうとしてはいけないのかもしれない。最初はただの友だちとして……。  紀子はまた足を止めた。  「変ねえ……」  確か、私《し》道《どう》への入口はここだったはずだ。それなのに、『小杉』という立て札《ふだ》が見当たらないのである。彼がいっていたとおり、細い、茂《しげ》みに囲まれた私道は、立て札がなければ気づかずに通り過ごしてしまいそうだ。  紀子はかがみ込んで、札の立ててあった跡《あと》を見つけた。やはりここだったのだ。——でも、立て札はどうしたのかしら? 立ち上がって見回したが、どこにも見当たらなかった。  だれかいたずらをしたのかしら? ずいぶんたちの悪いことをするものだわ。  もっとも、高速道路などでミラーを壊《こわ》したり、標識を倒《たお》して行ったりする若者もいるのだから、不思議もないが、それにしてもこの辺は、この季節に通る人もほとんどないはずなのに……。  紀子はなんとなく薄《うす》気《き》味《み》悪い思いで周囲を見回した。  ここは軽《かる》井《い》沢《ざわ》——といっても、夏ににぎわうあたりから、また山の中へかなりはいった所で、林の中に、ところどころ、大海の孤《こ》島《とう》のように別《べつ》荘《そう》が建っているだけだ。夏にはまだ人の気配もあるけれど、いまはもう十月になっていて、銀《ぎん》座《ざ》と呼ばれるあたりも普《ふ》段《だん》は閑《かん》散《さん》としている。  ましてや、このあたりの別荘は、どこも閉め切って、人の姿は見られない。水入らずで過ごすには絶好だが、ひとりでは寂《さび》しすぎる。——いや、ひとりではない。  紀子は山荘への私道を歩いて行った。そろそろ夕方で、木立のすき間からのぞく空は灰色にかげりはじめている。  山荘は、二階建ての木造で、もうかなり前に建てられたものらしかった。どこかの金持ちが持っていて、古くなるままにほうってあったのを、五年ほど前に小杉が買い取って改修したのだという。  黒ずんだ板の色は、古びた感じだが、家自体は改修で近代的に生まれかわっている。外見は北《ほく》欧《おう》風《ふう》とでもいうのか、出窓や天窓をつけて、少しごてごてとした、それでもいかにも別《べつ》荘《そう》風《ふう》の造りである。  玄《げん》関《かん》にポーチがあり、前庭に小さなフォルクスワーゲンが一台置いてある。買物が町まで遠いので、彼が紀子のために買っておいてくれたのだ。紀子はつい二週間前に免《めん》許《きよ》を取ったばかりだった。  くよくよしていたって始まらないんだわ。もうすぐ夕方になる。夕食の支度にかからなくちゃ……。  ポーチを上がりながら、ふと紀子は、さっき夫を見送りに出て来たとき、強《ごう》引《いん》に車へ乗り込む彼女を、このポーチの手すりの所にもたれてじっと見ていた正実の顔を思い出した。  あんなまねをすべきじゃなかったわ。  紀子は後《こう》悔《かい》していた。ただでさえ、正実は彼《かの》女《じよ》のことをきらっている。いや、きらいだとはいわないが、好いていないことは態度でわかる。無理にひとりで途《と》中《ちゆう》まで送って行ったりして、正実の反感をあおり立てたようなものだ。  「済んだことだわ」  と紀子は口に出していった。  「もう忘れましょう」  玄《げん》関《かん》のドアを開けようとして、紀子は驚《おどろ》いた。鍵《かぎ》がかかっているのだ!  「どうしてこんな……」  イライラと紀子は呼び鈴《りん》を押した。あの子だわ。わざとかけたのだろうか? いや、と紀子は思い直した。ただ神経質で、なかなかもどらないから鍵をかけたのかもしれない。  まさか、そこまで意地の悪い子とは思えない……。  しばらく待ったが、いっこうに正実がやって来る気配はない。紀子は二度、三度、と呼び鈴を鳴らした。奥《おく》でポロンポロンとチャイムの鳴っているのが聞こえているというのに、相変らず返答はない。  「何をしてるのかしら……」  紀子はため息をついて玄関から離《はな》れると、ポーチを回って、裏口のほうへ行った。台所から出入りするドアがあるのだ。——やはり、そこも鍵がかかっていた。  ここは確かに開いていたはずだわ。  紀子はけさ、ここを開けて、ごみを裏庭の焼《しよう》却《きやく》炉《ろ》へ持って行ったのをはっきり覚えていた。その後、鍵《かぎ》をかけた記《き》憶《おく》はない。それとも知らないうちにかけていたのだろうか?  紀子はドアをドンドンと叩《たた》いた。  「——正実君!——正実君!」  正実の名を呼ぶのは、なんだか妙《みよう》な気がした。「正実ちゃん」か、「正実君」か、「正実さん」か、それとも、ただ「正実」と呼ぶのがいいのか。紀子は結婚前、ずいぶん悩《なや》んだものである。「正実ちゃん」では、あまりに赤《あか》ん坊《ぼう》扱《あつか》いをしているようだが、といって相手はこどもには違《ちが》いない。そして自分は母親なのだから、おとな扱いするのもかえってよくない、と思った。  結局、「正実君」と呼ぶことに決めたのだが、正実がそれを気に入ったかどうかは、確かではなかった……。  なんの返答もなかった。——まさか、窓からはいり込むわけにはいかない。紀子は家のわきへ回った。広い芝《しば》生《ふ》になっていて、その上へ張り出したバルコニーは正実の部屋のものなのである。紀子は芝生のほうへあとずさりして、  「正実君!」  と呼びかけた。  「いないの?——正実君!」  たっぷり間を置いて、バルコニーの奥《おく》から声が返って来た。  「なんなの?」  面《めん》倒《どう》くさそうな、投げやりないい方だ。  「玄《げん》関《かん》の鍵《かぎ》を開けてちょうだい!」  ちょっと間を置いて、また声だけが聞こえた。  「鍵はかけてないよ」  「かかってるわよ!」  「ぼくはかけなかったよ」  「でも実際にかかってるのよ! 開けてちょうだい!」  「かかってないよ」  と正実のほうもくり返す。紀子はいら立って来た。  「早く開けて! いいわね!」  といい捨て、玄関へ回る。あれはきっとわざととぼけているのにちがいない。全くなんという——。  「まさか!」  紀子は足を止めて目を見張った。玄関のドアが、半開きのままになっているのだ。  玄関を上がると、紀子は廊《ろう》下《か》を通って、台所へはいった。台所といっても、いわゆるダイニング・キッチンとしても十分の広さがあり、テーブルと椅《い》子《す》がある。朝や昼はここで食べ、夕食だけは隣《となり》の食堂で食べることにしていた。  時計を見ると、四時半になっている。夕食の支度にかかるには、ちょっと間があるので、紀子はコーヒーをいれて飲むことにした。  あのドアは開いていたのかしら?  そんなはずはない!——確かに鍵《かぎ》がかかっていたのだ。正実が……おそらく、そう疑いたくはなかったが、正実は、ちゃんと玄《げん》関《かん》のドアの内側で、彼女の帰って来るのを待ち受けていたのにちがいない。彼女が諦《あきら》めて裏口のほうへ回るのを待って、開けておいたのだろう。  頭の回る子だ。それだけは認めなければなるまい。しかし、親をばかにするようないたずらは感心できない。  親を?——いや、正実のほうでは紀子のことを母親とは思っていまい。  「どうだった?」  出しぬけに正実の声がして、紀子はびっくりした。慌《あわ》ててドアのほうを見たが、正実の姿はなかった。  「ドアは開いていたでしょう?」  また声がした。そのときになって、紀子は、正実の声が傍《そば》のインターホンから聞こえて来るのだと気づいてホッとした。  「え、ええ……」  「だからぼくがいったろう」  紀子はムッとしたが、叱《しか》る言葉を思いつけなかった。そんないたずらをしても、こっちはなんとも思っていないのだということを見せてやろう。怒《おこ》ればかえっておもしろがらせるだけだ……。  「部屋にいるの?」  紀子はきいた。  「さあね」  と人を小ばかにしたような答え。  「クッキーでも食べない?」  と紀子は腹立ちをこらえていった。  「いまはいらない」  「そう」  勝手になさい。——紀子は肩《かた》をすくめた。  この山《さん》荘《そう》は部屋数が七つもある。だから、各部屋や廊《ろう》下《か》にインターホンがつけてあって、どことでも相《そう》互《ご》に話ができるようになっているのだ。  紀子はコーヒーをゆっくりとすすりながら、クッキーをつまんだ。彼《かれ》がいなくなると、急にこの山《さん》荘《そう》が、だだっ広く、寂《さび》しい場所に思えて来る。  三日後には彼が帰る。しかし、その三日間、いったい何をしていよう? テレビを見るか、本を読むか……。いずれにせよ、退《たい》屈《くつ》にはちがいない。  それでも、あの少年の相手をするよりは、気楽かもしれないが……。 一日目、夜  夕食の支度ができたのは、六時半ごろだった。もう窓の外は真っ暗で、部屋の明かりに小さな虫がガラスの外に集まって来ていた。  正直なところ、紀子はあまり料理が得意でない。料理の学校へ通う暇《ひま》もなかったし、それほど料理が好きというわけでもないのだ。しかし、結《けつ》婚《こん》前の三か月、彼《かの》女《じよ》としては精いっぱいの努力を傾《かたむ》けて、彼の好きな料理ぐらいは作れるようになった。  今夜の夕食はシチューで、これは彼の話では、正実の好物でもあるはずだった。  「正実君」  紀子はインターホンに呼びかけた。  「ご飯ができたわ。食堂へ来て」  返事はなかった。紀子は、  「正実君」  ともう一度呼んだ。しばらく間を置いて、  「なんなの?」  と相変らず面《めん》倒《どう》くさそうな返事。  「ご飯よ」  「いま、食べたくないんだ」  「だめよ。ちゃんと決まった時間に食べなくちゃ」  「あとで食べるよ」  「さめてしまうわ。——ビーフシチューよ。あなたの好物でしょ」  「違《ちが》うよ」  「あら、だって——」  と紀子はちょっと戸《と》惑《まど》った。  「おとうさんがそういってたわよ。あなたは、ビーフシチューが大好きだってね」  「ぼくが好きなのはママの作ったビーフシチューだよ」  紀子は言葉につまった。なんと物のいい方を心得たこどもなのだろう。相手のいちばん痛いところを突《つ》いて来るのだから。無《む》邪《じや》気《き》にそういったのなら、胸を打たれるのだろうが、正実のいい方には、明らかに効果を楽しんでいるというところがあって、紀子は叱《しか》りつけたいという衝動にかられた。しかし、ここで怒《おこ》っては相手の思う壺《つぼ》である。  「そう……」  とできるだけさりげない調子で応じる。  「あなたのママはきっと料理が、上《じよう》手《ず》だったのね。でもね、私のシチューも結構いけるわよ。試してみない?」  やや間を置いて、正実の返事が返って来た。  「気が向いたらね」  なんという生意気ないい方だろう! 紀子は少し厳しく出ることにした。  「すぐ下りてらっしゃい! いいわね!」  「食べたいときに食べるよ」  正実にはいっこうにこたえないようすだ。  「パパが帰って来たら、あなたがいうことを聞かなかったっていわなきゃならないわよ。いいの?」  これならいうことを聞くだろうと思った。だが正実からの返事はない。  「正実君! 聞こえたの? 返事をなさい!」  相変らず、インターホンは沈《ちん》黙《もく》したままだった。  「もう一回いうわよ! すぐに下りて来なさい!」  返事はなかった。——紀子はもう我《が》慢《まん》ならなかった。泣きわめいたってかまうものか。なんとしてでも、夕食を食べさせてみせる、と決心して、食堂を出た。  廊下を抜けて階段を駆《か》け上がり、正実の部屋のドアを叩《たた》いた。  「正実君! 出ていらっしゃい!」  無理に連れ出すことは最後の最後まで避《さ》けたかった。  「いま出て来れば、このことはパパに黙《だま》っていてあげる、って約束するわ!——正実君、聞こえないの?」  なんの返事もなかった。——仕方ない。  「開けるわよ」  といっておいて、紀子はドアのノブを回した。とたんに手がビリビリとしびれて、  「キャッ!」  と紀子は悲鳴をあげて飛び上がった。ドアはゆっくりと開いた。——部屋の内側に、ノブの金属の部分に結びつけられた電気のコードが見えていた。  紀子は怒《おこ》って青ざめていた。からだがワナワナと震《ふる》えるのをどうしようもない。  「なんという……」  いうべき言葉も見あたらず、ドアへ駆《か》け寄ると、手を突《つ》っ込《こ》んでコードをドアのノブから引きちぎった。  「悪ふざけもいい加減にしなさい!」  と部屋の中へ踏《ふ》み込んだが……正実の姿はなかった。  「どこにいるの! 出ていらっしゃい!」  と叫《さけ》んで部屋を見回した。  シングルのベッド、勉強机、本《ほん》棚《だな》……。格別、どこといって変わったところのない、十一歳《さい》のこどもの部屋である。ただ、ラジオ、カメラ、テープレコーダー、ステレオ、といった機械類の多いことが目をひく。  「正実のやつは機械とか電気とかにくわしいんだ」  と彼が自《じ》慢《まん》げにいっていたのを、紀子は思い出した。  この山《さん》荘《そう》には、そうしばしば来ているわけではない。夏休みの間はともかく、たまの週末、小杉が休めたときに来る程度だが、それでも、これだけの物が置いたままになっているのだ。正実は相当の機械マニアなのだろう。  それを、こんなふうに人をおどかすために使うとは、小杉は夢《ゆめ》にも思っていないだろう。  「どこなの?」  紀子はもう一度呼んだ。——返事がないので、紀子はベッドの下をのぞいたり、洋服ダンスを開けてみたりしたが、正実はいない。  「お風《ふ》呂《ろ》場《ば》かしら……」  この山荘はホテル風に、各部屋に浴室とトイレがついている。もっとも使う部屋は決まっているので、ほかの部屋の浴室は栓《せん》を閉めてしまってあるが。  「中にいるの?」  浴室のドアへ顔を寄せて、紀子はいった。  「はいるわよ。——いいの?」  ドアのノブをつかもうとして、ハッと手を引っこめる。またビリビリッと来たのではかなわない。ハンカチを取り出してノブを包んでから、恐《おそ》る恐る回して開けた。  同じ罠《わな》を二度仕《し》掛《か》けるほど、正実もばかではないらしい。今度は何ごともなかった。しかし、正実もいない。  「いったい、どこに行ったのかしら……」  二階のほかの部屋に隠《かく》れているのだろうか? 二階だけで五つの寝室がある。——紀子はため息をついた。  浴室を出ると、紀子は正実の机の上のインターホンのボタンを押《お》した。  「正実君、どこにいるの? 返事をしなさい。——どこに隠れていたって、見つけるわよ。狭《せま》い家なんですからね。見つけたら覚《かく》悟《ご》なさい、お尻《しり》をいやというほどぶってあげるわ。いま返事をすれば勘《かん》弁《べん》してあげる。——どこにいるの? 返事をしなさい!」  この声は、山荘の中の全部のインターホンから流れている。どこにいようと聞いているはずだ。  紀子は三分間待った。そして正実の部屋を出た。  二階の残りの四つの寝室を、紀子は片っぱしから見て行った。使っていない部屋も、鍵《かぎ》はかからないので、中に隠《かく》れている可能性は大いにある。——ソファーの後ろ、ベッドの下、浴室……。くまなく捜《さが》し回ったが、結局、むだ骨であった。  「こんなことってあるのかしら?」  全部を調べ終わって、紀子は息を弾《はず》ませながら呟《つぶや》いた。二階には正実はいない。そうなると階下にいるというのか? いつの間に下りて行ったのだろう?  そこまで考えて、紀子はハッと気づいた。さっきインターホンで話したとき、正実が自分の部屋で答えているのだとばかり思っていたが、そうとは限らないのだ。二階のほかの部屋でも、いや、一階の居間や客間でも、同じようにインターホンで話ができたはずなのだ。  あのとき、もう正実は一階へ下りて来ていたのにちがいない、と紀子は直感的に思った。  「人をばかにして!」  カッと頭に血が昇《のぼ》った。紀子は階段を大急ぎで駆《か》け下りると、居間へ飛び込んだ。テレビがつけっ放しになっている。自分でつけた覚えはない。正実が見ていたにちがいない。  「どこに隠れてるの! 出てらっしゃい!」  紀子は叫《さけ》んだ。居間から客間へ、玄《げん》関《かん》へ、と必死で捜《さが》し回った。外へ行ったのか、とも思ったが、玄関のドアはチェーンがかかっている。中にいるはずだ。  台所へ行ってみたが、結局、正実の姿はなかった。いったいどこに隠《かく》れているのだろう?  これだけの広さの家である。どこかの戸棚や納《なん》戸《ど》に隠れるのもむずかしくはない。しかし、紀子には、正実が彼女をこわがってどこかへ隠れて震《ふる》えているとは思えなかった。  そんな殊《しゆ》勝《しよう》な少年なら、まだ可《か》愛《わい》げがあるのだが……。  捜し疲《つか》れて、紀子は食堂へもどって来た。二、三歩足を踏《ふ》み入れて、思わず立ち止まり、唖《あ》然《ぜん》として突《つ》っ立っていた。  食《しよく》卓《たく》の、正実の分のシチューが、きれいに平らげられていた。ご飯茶《ぢや》碗《わん》の上に、はしがきちんと並《なら》べられ、お茶も半分ほど飲みかけてある。  彼女が必死で二階の部屋を捜し回っているうちに、正実は悠《ゆう》々《ゆう》とここでご飯を食べていたのだ。  紀子は急に全身の力が抜《ぬ》けて行くような気がして、自分の席にペタンと腰《こし》を落としたまま、ぼんやりと、空になったシチュー皿《ざら》を見つめていた。もう自分の分のシチューはすっかり冷めているようだ……。  ふと、正実のシチュー皿の下の紙片に気づいて、皿を持ち上げ、取り出してみた。そこにはこどもっぽい字で、  『ごちそうさま』  とあった。  紀子は、ほとんど味もわからずに、冷めたシチューを食べ終え、あとかたづけをした。  奇《き》妙《みよう》に空しい感じだった。自分ひとりが喜劇を演じていたのだ。怒《おこ》って右往左往するのを、十一歳《さい》の少年は笑って眺《なが》めていたのだ。……  あんなに腹をたてたのはどうしてだろう、と紀子は思った。——向こうが食べたくないというのなら、好きにさせておけばよかったのだ。ほうっておいても、お腹がすいて来れば、食べに来る。それを、むきになってしまったから、向こうも意地悪く立ち回ったのだろう。  確かに、ドアに電気を流したりしたのは、性《た》質《ち》の悪いいたずらかもしれないが、もしこれが自分に起こったのでなく、他人が同じ目に遭《あ》ったという話を聞いたのなら、きっと同情するより大笑いして、いったにちがいない。  「本気になって怒るほどのことはないじゃないの。たかがこどものいたずらで」  と。——そう、いささか自分も大げさに受け取りすぎたのかもしれない。なんといっても、相手は十一歳なのだから。  正実の身になってみれば、新しく自分の母になった女——それもひどく若い女と、ふたりきりで残されてしまったのだ。間をつなぐ環《わ》、父親もいないのでは、顔を合わせるのも気まずい気分はよくわかる。  紀子のほうでも、正実と何を話せばいいのか、見当もつかないのだ。向こうから打ちとけて来ないといって、十一歳のこどもを責めるのは酷《こく》というものかもしれない。  あのいたずらにしたところで、彼の、茶目っ気の表現なのかもしれない。内気な少年なりの、親しみの現れかも……。内心、そう信じてはいなかったが、紀子はそうであってくれることを願っていた。  ともかく、正実のほうから話しかけて来るまでは、無理をすまい。自然に、なんとなく気心が知れるようになるのを待とう。  食事のかたづけを終えると、紀子はブドウを洗って皿に盛《も》った。そしてインターホンのボタンを押すと、  「正実君、ブドウを食べない?」  と声をかけた。どうせ、いまはいらない、あとで食べるという返事が返って来ると予想して、つけ加えた。  「台所のテーブルに置いておくわ。気が向いたら食べてね。私は、居間でテレビを見てるから。——いいわね?」  「わかったよ」  相変らず、面倒くさそうな声がした。  紀子は自分の分のブドウを皿《さら》に分けて、居間へ行った。いつも見ているテレビの連続ドラマにチャンネルを回す。——しかし、紀子はいっこうにテレビの筋を追って行くことができなかった。正実がブドウを食べに下りて来るかどうか。それが気になって仕方ないのである。  ほうっておくんだと決めたばかりじゃないの!  そう自分にいい聞かせ、テレビに注意を向けようとするのだが、気がつくと台所のほうで物音がしないかと、じっと耳を澄《す》ましているのだった。  三十分ほどして、階段のきしむ音が聞こえたような気がした。空耳だろうか? それとも、ただの風の音か?——いや、気のせいではなかった。台所のドアが開いて、また閉じる音がしたのだ。  紀子は息をついてソファーにもたれかかった。それまで、自分がいかに緊《きん》張《ちよう》して、それを待っていたか、はじめて気づいた。彼女は思わず笑った。  まるで王子様のおいでをお待ちしていたみたいだわ!  確かに正実はこの家の中では王子かもしれない。しかし、王子は孤《こ》独《どく》なものだ……。  紀子はソファーから立ち上がりかけた。いまなら台所へはいって行って、  「どう? おいしい?」  と声をかけることもできる。いまなら。——しかし、居間でテレビを見ている、といってしまった。ここで出て行けば、結局、これも自分をつるエサだったのかと思うだろう。  紀子は、またソファーに身を沈《しず》めた。ほうっておくのだ。一時間や一日や……それくらいをあせってどうなるというのか。正実とは、これから何十年もの付き合いなのだ。  やっと、少しドラマのほうへ気を向けられるようになったとき、電話が鳴った。急いで駆《か》け寄って受話器を取り上げる。  「はい」  「やあ、紀子か」  「あなた! どうなの?」  「うん、ちょっとまだかたづきそうもない。そっちはどうだ?」  紀子はチラリと台所へ目を向けた。  「ええ。うまくやってるわ。大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》」  「よかった。……いや、正実のやつが手こずらせてるんじゃないかと思って気にしていたんだ」  「大丈夫よ。すっかり気が合ってるわ」  紀子はためらわずにいった。  「いま、一《いつ》緒《しよ》にブドウを食べているの。あなたは何をしてるの?」  「いま、会社だ」  「まだ? もう九時すぎよ」  「仕方ないさ。——すまんな。新《しん》婚《こん》早々だというのに」  「仕事と浮《うわ》気《き》してるんだもの安心だわ」  小杉が笑って、  「ともかくこちらが終わり次第帰るから」  「ええ。待ってるわ」  「じゃ、正実のことは頼《たの》むよ」  「わかってるわ。あ、待って」  紀子はインターホンへ走って、  「正実君、おとうさんから電話よ」  と声をかけた。  「わかったよ」  いくらか生気のある声だった。紀子が受話器をもう一度取り上げると、カチンと音がした。正実が、台所の親子電話を上げたのだろう。  「やあ、パパ……」  「どうだ、おとなしくしてるか?」  「まあね」  ——紀子は受話器を置いた。ふたりの話、特に正実がなんというか聞きたかったが、盗《ぬす》み聞きされたと思われるのもいやだ。  テレビのドラマを最後まで見て、紀子は立ち上がった。もう正実は部屋へもどっているだろう。  台所へはいって行くと、案の定、正実の姿はなく、食べ終わった皿《さら》が、ポツンとテーブルにのっていた。  紀子はなんとなくうれしい気分だった。——皿を洗って、再びインターホンへ向かった。  「正実君、そろそろ寝《ね》る時間よ」  といった。どうせ素直に眠《ねむ》るはずもないが、そういっておけば自分の仕事は終わったことになる。  「わかったよ」  意外に素直な返事が返って来た。  「ちゃんとお風《ふ》呂《ろ》にはいってね。自分のお部屋のにはいるんでしょう?」  「あたりまえじゃないか」  正実の声にはおもしろがっているようなひびきがあった。  「一《いつ》緒《しよ》にはいろうっていうのかい?」  「そんなつもりでいったんじゃないわ」  紀子は赤くなっていった。  「パパとは一緒にはいったくせに」  そういって正実は笑った。  「おやすみなさい!」  紀子は投げつけるようにいった。  十一時を過ぎると、疲《ひ》労《ろう》がからだに広がって来るのがわかる。  特別、何をするというのでもない。秘書として働いていたころの、あの毎日に比べたら、ほとんど何もしていないも同然なのに、どうしてこんなに疲《つか》れるのだろう。  戸《と》締《じ》まりを見て、風《ふ》呂《ろ》へはいって、眠《ねむ》る——それだけのことをするのが、ひどくおっくうで、なかなか居間のソファーから立つ気になれなかった。  それでも、いつまでもこうしているわけにはいかない、と自分にいい聞かせて、やっと腰《こし》を上げたのは、もう十二時に近かった。昨夜は、彼《かれ》とふたりだった。——十一時には寝《しん》室《しつ》へ行き、風呂へはいって、それからベッドにはいった。何があろうと、もうこの人から一生離《はな》れまい、と思った。年《ねん》齢《れい》の差も、こどもがいることも、ひとつのベッドの中で身を寄せ合っていると、少しも気にならず、どうしていままで、そんなことを思いわずらっていたのかと自分で不思議になるほどだった。  いま、彼はいない。彼がいない、ということだけで、これほどに夜が長く、むなしいものか……。  戸締まりを見て回り、明かりを消して、階段を上って行った。上った最初のドアが紀子の、いや、夫婦の寝《しん》室《しつ》で、正実の部屋はいちばん奥《おく》になっている。  部屋へはいって、無意識にドアにチェーンをかけようとして手を止めた。——どうすべきだろうか? この家の中には母と息《むす》子《こ》だけしかいないのだ。べつにチェーンなど必要ないではないか。  それでも、紀子は自分でもわからない理由で、ドアにチェーンをかける衝《しよう》動《どう》に抗《こう》しきれなかった。風《ふ》呂《ろ》へはいる間、かけておいて、眠《ねむ》るときになったらはずそう、と決めた。  分厚いカーテンをきっちりと閉めて、紀子はベッドのそばで服を脱《ぬ》ぎ、浴室へ行った。熱い湯を浴《よく》槽《そう》に満たして、からだをひたすと、快いだるさがからだへしみこんで来るようだ。  西洋式の浴槽なので、ほとんど寝《ね》そべるようにしないとからだが湯につからない。それがよけいに、からだのけだるさを誘《さそ》っているような気がした。  昨夜は大変だったわ。  思い出して、紀子はくすくす笑った。何しろこの狭《せま》い湯船にふたりではいろうとしたのだ。湯が溢《あふ》れて、バスマットも何も水びたしになってしまった。ふたりは一《いつ》緒《しよ》になって笑った。  紀子は、そんなふうにはしゃぐ彼《かれ》を、初めて見た。やっと自分が彼の妻になったのだという実感が湧《わ》いて来たのも、そのときだった。  たったひと晩だけで彼がいなくなってしまったのは寂《さび》しいが、三日だけの辛《しん》抱《ぼう》、いやきょう一日はもう終わったのだ。あと二日だけ待てば、彼は帰って来る。  そうしたら、また一緒に風呂へはいって、一緒に大笑いすることもできるのだ。——そう考えて、ふと紀子は気づいた。  正実は、パパとなら一緒に風呂にはいるくせに、といった。しかし、どうしてふたりが一緒にはいったことを知っているのだろう? ただ想像で物をいっているだけなのか。そうでなければ……。 二日目、朝  思いのほかよく眠《ねむ》って、目が覚めたのは、九時だった。  「いけない!」  正実がもう起き出しているかもしれない。慌《あわ》てて服を着て階下へ下りて行く。驚《おどろ》いたことに台所のほうから、コーヒーの匂《にお》いがしている。  「正実君……」  と声をかけながらはいって行ったが、正実の姿はなかった。テーブルの上には、コーヒーポットと、使っていないカップ、フランスパンふたきれ、チーズなどが並べてある。どう見ても、食べたあとというのではない。食べる支度がしてあるという感じである。  「正実君」  と呼んでみたが、返答はない。  「どこにいるの?」  居間をのぞいてみたが、テレビがつけっ放しになったままで、正実の姿はない。紀子はテレビを消して台所へもどった。  「どこに行ったのかしら?」  テーブルにつこうとして、カップの下のメモに気づいた。  『おはよう。勝手に食べたから、外を歩いてくるよ』  紀子はフウッと息をついた。ともかく少しはのんびりできる。——のんびり? いやというほどのんびりしているのに、と紀子は思った。これ以上、どうのんびりすればいいのか。  しかし、正実のことを考えると、落ち着いていられないのは事実だ。何かしなくてはいけないという思いに駆《か》られる。それでいて何をしていいかわからない……。  ともかくゆっくり顔を洗って来よう。——紀子は二階へもどると、顔を洗い、簡単に化《け》粧《しよう》をすませた。  鏡の中の顔はまだ十分に若々しく、なんの化《け》粧《しよう》も必要ないように見える。紀子は、追いまくられるように忙《いそが》しかった日々が、かえって自分の若々しさを保ってくれていたのかもしれないと思った。これからは——これからは、ただ老《ふ》けるだけ。  「何を考えてるの」  と紀子は鏡の中の自分に笑いかけた。  「あなたはまだこんなに若いのに……」  少しさっぱりした気分で下りて行く。その間、ものの十五分とたっていなかったはずなのに、台所へはいって紀子は目を丸くした。テーブルに、まだ熱そうに湯気を上げるスープと、目玉焼きが並《なら》べられているのだ。  またメモがついていた。  『パンとコーヒーだけじゃ寂《さび》しいと思って。両目にしたからね』  なんて子だろう。まるで猫《ねこ》のように、足音もたてずに歩き回っているのだろうか? さっきも、外へなど行ってはいなかったのだ。きっとどこかに隠《かく》れて、彼女のようすを見ていたのにちがいない。  紀子は、ちょっと薄《うす》気《き》味《み》悪い思いで周囲を見回した。どこかで正実が見ているような気がしたのである。いったい、どういうつもりなのだろう? こんな食事の支度までして……。  なかなか器用なこどもだということは認めなければなるまい。目玉焼きなど、形も崩《くず》れず、上《う》手《ま》くできている。コンソメのスープはインスタントだろうが。  「じゃ、ごちそうになりましょうか」  と呟《つぶや》いて、紀子は席についた。  「両目じゃないじゃないの」  と笑う。両目というのは、むろん目玉焼きふたつのことだ。皿《さら》にはひとつしかのっていない。そこが、やっぱりこどもなのね、と微《ほほ》笑《え》む。  スープ皿《ざら》のわきに、ちゃんとスープ用のスプーンも置いてある。冷めないうちに、と紀子はスプーンを取った。  最初は、それが何なのかわからなかった。スープの底から何かが……自分の顔が映《うつ》っているだけなのかと思った。スプーンですくってみると、それはヒョイと持ち上がって来た。  人間の目玉だ。  悲鳴をあげて紀子はスプーンをほうり出した……。  プラスチックの義眼。テーブルに置くと、安定が悪いのか、グラグラと揺《ゆ》れる。  紀子はじっとその目を見つめた。相手もひとつだけの目で彼《かの》女《じよ》を見返している。不《ふ》愉《ゆ》快《かい》になるのでその目の向きを変えようとするのだが、妙《みよう》につぶれた球形をしているせいか、いつもヒョイと向きを変えて彼女のほうをにらみつける。  心臓が止まるかと思うほどのショックから、紀子はやっと自分を取りもどした。  スープはもちろん、目玉焼き、コーヒーも全部捨ててしまった。改めてコーヒーをいれ直す。——腹を立てるまでに時間がかかった。あまりのことに、驚《おどろ》きからさめるだけで容易ではなかったのだ。  いったい、なんという子だろう。この悪ふざけはやめさせなければならない。——彼《かれ》に電話しようか?  「それはだめだわ」  多《た》忙《ぼう》な彼をわずらわせることはできない。これぐらいのことが自分で解決できないのでは、妻の座、母の座はつとまるまい。  それにしても、こういう子には、どう対処すればいいのか。紀子には見当もつかなかった。単なるいたずらではない。極めて計画的に、かつ効果を計算したいたずらである。  メモに『両目にした』などと書いたのを見ても、その辺がちゃんと計算ずくだったのがよくわかる。どうせ家の中のどこかで、彼女が悲鳴をあげて飛び上がるのを見て楽しんでいたのにちがいない。  紀子はインターホンのほうへ歩いて行った。  「正実君。聞いてるの? 返事をして」  答えはなかった。  「いいこと。いたずらが悪いとはいわないわ。でも、けじめというものをはっきりつけて——」  紀子は言葉を切った。玄《げん》関《かん》のほうで、ドアがバタンと鳴るのが聞こえたのだ。  「正実君!」  紀子は駆《か》け出した。  玄関のドアのチェーンがはずれて揺れていた。表へ出て、前庭を見《み》渡《わた》す。正実の姿はどこにもなかった。何しろすぐ林である。そこへはいり込《こ》んでしまえば、捜《さが》しようがない。  紀子は諦《あきら》めて肩《かた》をすくめた。  勝手にすればいいわ。もどろう、と思ったとき、開けたままにしておいたドアが急にバタンと音を立てて閉まった。続いてカチリと鍵《かぎ》のかかる音。  やられた!  外へ出たと見せかけておいて、玄関のどこかに隠《かく》れていたのだ。  「正実君! 開けなさい!」  紀子は、ドアのノブを握《にぎ》ってドアを揺《ゆ》さぶった。しかし、何しろ造りは頑《がん》丈《じよう》である。びくともしない。  「開けなさい! 本当に怒《おこ》るわよ!」  と叫《さけ》んだが、なんの返事もない。——紀子は、むだだとは思ったが、ポーチを回って、台所のドアへ行ってみた。正実は万事抜《ぬ》かりなく、裏のドアも鍵をかけていた。  紀子は各部屋の窓を調べて行った。ひとつぐらい、鍵をかけていない窓があるだろうと思ったのだ。しかし期待は空《から》振《ぶ》りに終わった。  紀子は山《さん》荘《そう》から閉め出されてしまったのだ……。  ポーチに腰《こし》をおろして、紀子は気をしずめようとした。どうにも押《お》さえきれない怒《いか》りでからだが震《ふる》えた。半分は、十一歳《さい》のこどもにいいように振り回されている自分への腹立ちでもあった。  もうとても私の手には負えないわ。  紀子は思った。あとは父親の手を借りるほかない……。  しかしどうやって彼《かれ》に連《れん》絡《らく》を取るのか? 山荘へはいれなければ電話もかけられないのだ。いや……そうだ、車のキーが……。  紀子はスラックスのポケットを探った。  キーがあった!  フォルクスワーゲンには十分ガソリンもはいっているはずだ。車で町まで出れば、店もあるし、電話もある。——紀子はためらわなかった。ポーチでこんなふうにすわっていても仕方がない。  正実にしても、まさか彼《かの》女《じよ》が車で出かけてしまうとは思うまい。少しは相手の意表に出てやらなくては。いつも驚《おどろ》かされるばかりでは、おとなの面《めん》目《ぼく》にかかわる。  紀子はフォルクスワーゲンに乗り込んだ。幸い、すぐにエンジンがかかる。チラリと山荘のほうへ目をやってから、車をスタートさせた。  ドライブは快適だった。  窓を開けておくと、冷たい風が髪《かみ》をはためかせる。いかにもスピード感があって、愉快だった。まだ免《めん》許《きよ》取りたてだから、それほどスピードは出せない。ことにこんな森の中の曲がりくねった道はなおさらである。しかし、それだけハンドルに注意を集中しなければならないので、よけいなことを考えずにすむ。  いまの紀子にはそれがありがたかった。  少し外の空気が必要なんだわ、と思った。  二十分ほど走ると、国道へ出る。その分《ぶん》岐《き》点《てん》に、公衆電話のボックスが、ポツンと立っていた。以前はガソリンスタンドもあったらしいが、いまはなくなっている。  車をわきへ寄せて止めると、紀子はダッシュボードから小銭入れを出した。いつも百円玉や十円玉をここへ入れておく習慣なのだ。何かとドライブ中には便利なのである。  十円玉だけえり分けると十五枚あった。少しは話もできそうだ。足らなくなったら、彼《かれ》のほうからかけ直してもらえばいい。  ボックスへはいり、十円玉をはいるだけ入れて残りを手元へ積み上げ、ダイヤルを回した。彼のデスクに直通の番号である。会社にいるだろうか?  すぐに受話器が上がった。  「小杉です」  彼《かれ》の声が聞こえて来ると、紀子は目を閉じて息をついた。  「もしもし?」  「あなた、私よ。ごめんなさい、お仕事中に——」  「きみか!」  彼がびっくりしたような声を出した。  「きみ、いまどこからかけているんだ?」  「え? あの……国道沿いの電話ボックスだけど……」  「どうしてそんな所にいるんだ?」  彼は問い詰《つ》めるような口調でいった。  「あの——それが——」  「いま、正実から電話がかかって来たんだ」  紀子は愕《がく》然《ぜん》とした。  「きみが黙《だま》って車でどこかに行ってしまったといって、心細くてたまらないと泣き出しそうだったぞ」  「私は——」  「とにかくすぐにもどってやれ。いいか?」  紀子はゴクリと唾《つば》を飲み込《こ》んだ。  「……わかったわ」  小杉のほうも少しきつくいいすぎたと思ったのか、ちょっと間を置いて、  「あすには帰れそうだ。留《る》守《す》を頼《たの》むよ。大変だろうとは思うが」  「ええ……」  「きみは、何か用だったのかい?」  紀子は低い声で、  「いいえ、べつに……」  「何か欲しいものはないかい? 帰るとき買って行くよ」  あなただけよ、欲しいのは。  「べつにないわ……」  「そうか。何か気がついたら——。なんだ?」  最後の言葉は彼女へのものではなかった。電話口から離《はな》れた彼の声が、  「その件については資料ができてるだろう……」  といっているのが聞こえて来る。  紀子は受話器を置いた。  「またやられたわ……」  いつも先手先手を打って来る正実の素早さと頭の回転の速さに、紀子は舌を巻いた。これでは負かされっ放しではないか。  しかし、ここで彼《かの》女《じよ》が山《さん》荘《そう》へもどらなければどうなるか。また父親の所へ電話をして、涙《なみだ》声《ごえ》で訴《うつた》えるだろう。彼女はぼくが気に入らないんだよ、と……。  フォルクスワーゲンに乗り込《こ》んで、しばらく何もせずにすわったまま時間を過ごした。しかしいつまでもそうしているわけにもいかず、エンジンをかけ、ゆっくりと車をUターンさせた。  彼女にとってショックだったのは、単にまた正実にしてやられたということだけではなかった。夫もまた、父親としてはごく平《へい》凡《ぼん》な男にすぎないと思い知らされたこと——そのショックのほうが大きかった。  彼女がなぜ山荘から電話せずに、わざわざ車で二十分もかけて電話ボックスまでやって来たのか。普《ふ》段《だん》の彼《かれ》ならば、そこによほどの事情があるのにちがいない、と気づいてくれるだろう。それを、ただ正実の話をうのみにして……。彼もやはりひとりの父親なのだ。夫である前に父親なのだ。  車を走らせながら、不意に涙がこみ上げて来て目がかすんだ。あわてて目をこすった。カーブが目の前だ。ハンドルを思い切り回す。車はバウンドしながら、なんとか向きを変えた。が、次のカーブがすぐ目の前だった。ハンドルをもどすひまがなかった。立木が視界に飛び込んで来る。紀子は頭をかかえ込むようにして身を縮めた。  車は木に正面からぶつからず、かすめるようにして木の間を抜《ぬ》け、林の中へ突《つ》っ込んだ。そして茂《しげ》みを引きちぎるようにして、細い木へぶつかって止まった。  その瞬《しゆん》間《かん》、紀子のからだははね上がって、フロントガラスへいやというほど頭をぶつけた。しかし、衝《しよう》撃《げき》がそれほど激《はげ》しくなかったので、ガラスは割れずにすんだ。割れていれば重傷を負うところだったろう。  しかし頭のほうが割れたのではないかと思うような痛みが襲《おそ》って来て、紀子は呻《うめ》き声を上げた。  車の中にいては危ない! なんとかドアを開けて、紀子は茂みの中へ転がり出た。そしてそのまま気を失ってしまった。 二日目、午後  紀子が意識を取りもどしたのは、雨の粒《つぶ》が顔を打ったからだった。  茂みの中で、やっとからだを起こす。ガソリンの匂《にお》いがした。すぐそばで、自分のフォルクスワーゲンが立木をへし折りながら止まっているのを見ても、いったい自分がどうしてこんなところにいるのか、なかなか理解できなかった。  起き上がろうとして、めまいに襲《おそ》われ、しゃがみ込《こ》んでしまう。少し吐《は》き気もした。  しばらくうずくまっていると、少し気分がよくなったが、ショックのせいか、膝《ひざ》に力がはいらず、なかなか立ち上がれない。木につかまって、やっとの思いで立ってみる。——なんとか歩けそうだ。  ともかく、車は使えない。車体そのものは大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》そうだし、バンパーやヘッドライトが壊《こわ》れたぐらいらしいが、ガソリンの匂《にお》いがするのは危険だ。まず道へ出よう。  林の中にいるときは、ポツリポツリと当たるくらいだった雨は、実際にはかなりの降りだった。  山《さん》荘《そう》まで、あとどのくらいあるだろう?  どれくらい走って来たところで事故を起こしたのか、見当がつかなかった。  しかし、ともかくここに立っていても、ほかの車が通りかかるという可能性はゼロに近い。国道までもどれば車は通るが、山荘まで寄り道をして送ってくれるような物好きはいないだろう。  仕方ないわ……。  紀子は諦《あきら》めて歩き出した。山荘へ向かって。——雨が少し強く降り出して、たちまち全身がびしょ濡《ぬ》れになる。額が濡れると、少しヒリヒリと痛んだ。手でさわってみると、少し血がついた。額を少し切ったらしい。  これくらいのけがですんだのが奇《き》跡《せき》といってもいいくらいだ。  全く、なんて週末なのかしら。  紀子は苦笑いした。免《めん》許《きよ》取りたてで、買ったばかりのフォルクスワーゲンを壊《こわ》してしまうんだから。  雨がいっそうひどくなった。からだが冷えて来て、紀子は身《み》震《ぶる》いした。まだ十月とはいえ、この辺は真夏でも夜は毛布をかぶらなければ寒いほどの気候である。雨の日には底冷えのするような寒さなのだ。  早く山《さん》荘《そう》に着かないと……。  風《か》邪《ぜ》をひいてしまう。——いや、もしあのまま気を失って雨に打たれていたら、からだが冷え切って凍《とう》死《し》してしまったかもしねない。  紀子は足を早めた。  しかし車で二十分の道のりである。半分まで来ていたとして、五、六キロはあることになる。歩いて一時間。急がなくちゃ。  雨は、ときおり、やみそうに見えて、また降りつづけた。上空は黒い雲が早く流れて、強い風が吹いているようだった。  豪《ごう》雨《う》といいたいほどの降りになった。雨は音をたてて木々を洗い流し、道に流れて溢《あふ》れた。たまりかねて、紀子は傍《そば》の林へと飛び込んだ。  林の中を歩けば、ずいぶん濡《ぬ》れ方も違っただろうが、背《せ》丈《たけ》ほどもある茂《しげ》みを歩くのは無理だった。——もう少しだわ。もう少しのはずだわ。紀子は自分にそういい聞かせていた。  少し雨が小降りになったところで、思い切って林を出ると、また紀子は歩きはじめた。からだが冷え切っているのがわかる。歯がガチガチと鳴った。靴《くつ》は水がはいって、まるで水たまりの中を裸足《 は だ し》で歩いているようだ。紀子は泣き出したいのを、必死でこらえた。泣いたところでだれも助けには来ない。  これもあのこども——わずか十一歳《さい》のこどものせいだと思うと、急に何もかもがいやになって来た。腹が立つよりも、このままどこかへ行ってしまいたいという衝《しよう》動《どう》が起こった。山《さん》荘《そう》へもどって、またあの正実と一《いつ》緒《しよ》にいなければならないのかと思うと……。  そういえば、きのう、彼を送って車で山荘を出てから、一度も正実の顔を見ていないことに気づいた。偶《ぐう》然《ぜん》ではない。わざと正実は彼女の裏をかいて姿を見せないようにしている。なぜ? いったい何を考えているのだろう?  しかし、ともかくいまはそんなことを考えている余《よ》裕《ゆう》はない。一刻も早く山荘へ帰りつくことだ。このままでは肺《はい》炎《えん》にでもなりかねない。  思いのほか、道は長かった。してみると、事故を起こしたのは、比《ひ》較《かく》的《てき》国道の近くだったのかもしれない。国道へ出ればよかった、と思った。正実が心配するはずもないし、たとえ正実が父親にいいつけても、彼女のほうも、じっくり話せば彼がわかってくれるという確信がある。  しかし、もう遅《おそ》すぎる。いまとなっては、山荘のほうが近いに決まっている。どんなにかかっても、歩きつづけるほかはないのだ。——幸い、雨は小降りになって、上がりかけたようすだった。  学生時代から、彼女が信条としていることがひとつある。それは、もうこれ以上耐《た》えられない、と思ったときが、やっと半分終わったところだ、というのである。マラソンをする。試験勉強をする。炎《えん》天《てん》下《か》にバレーボールコートの草むしりをする。——そんなとき、いつも自分にそういったものだ。  もうだめだ、って? じゃ半分終わったところよ。  そう考えることで、気持ちにひとつの区切りがつき、また一から始まるのだという気がする。それがこの信条の利点であった。  ぬかるんだ道は、まるで沼《ぬま》地《ち》を歩いてでもいるように、足にからみつき、まとわりつき、足の運びを重くする。しだいに足が上がらなくなって来て、何度か転びそうになった。  不意に、紀子はあることを思い出してハッとした。山《さん》荘《そう》を示す『小杉』という立て札《ふだ》がなくなっていたことだ。  「まさか……」  知らぬ間に私道の入口を通りすぎてしまったのではないだろうか?——紀子は立ち止まって、周囲を見回した。そんな目で見ると、まるで見たことのない風景のような気もするが、なにしろただの林の中である。どこで立ち止まろうと周囲にそう変わりのあるはずもない。  紀子は行くもならず返すもならず、といったようすで立ちすくんでしまった。もし通りすぎてしまったのだったら、行けば行くほど山荘から遠ざかることになってしまう。もしまだ山荘への道まで行きついていないのなら、もどるのは、せっかく縮めた距《きよ》離《り》をまた引きのばすことになってしまう。  あの立て札を抜《ぬ》いて捨ててしまったのは、正実にちがいない。——紀子はそう思った。まさかこんな事態を予期していたわけではないにせよ、何かの役に立つと思ったのではないだろうか。  しかしともかくいまは、そんなせんさくは無用だ。問題は進むか、もどるか。ふたつにひとつを選ぶことである。歩いている感覚からいえば、もうとっくに着いていておかしくない。しかし、雨の中、このぬかるみ道である。その感覚はあまりあてにしないほうがいい。  確かなことは、じっとこうして立っていれば、まだ降りつづいている細かい雨にますますからだを冷やされるということだ。  紀子は進むことに決めて歩き出した。あまり先まで行って、それでも着かなかったら、引き返して来る。——そう決めると、心が軽くなった。ふたつにひとつという岐《き》路《ろ》で決断を迫《せま》られたことが、かえって紀子の気持ちを引きしめたようだった。  だが、運のほうでは彼女にいい顔をしてはみせなかった。少し行くと、また雨がひどくなった。顔を伏《ふ》せて歩いていたのでは、私《し》道《どう》の入口を見すごす恐《おそ》れがある。手をひさしのように目の上へかざして、歩きつづけた。  不意に、紀子は私道へ曲がる角に立っていた。それが近づいて来るという意識は全くなく、突《とつ》然《ぜん》、そこで足を止めている自分に気づいたのだった。  幻《まぼろし》か何かではないかと怪《あや》しむように目を閉じては開いて見直した。——まちがいない!  「着いたんだわ!」  急に風が強くなった。雨が横なぐりに叩《たた》きつけて来た。紀子は最後の元気をふりしぼって、私道を山《さん》荘《そう》へ向けて駆《か》け出した。  いままで歩いて来た泥《どろ》の道に比べると、私道は砂利道なので、ずっと楽だった。二百メートルの距《きよ》離《り》を、ほとんど頭を下げ、雨に向かって突っ込んで行くような格好で走った。途中で息が切れ、足を緩《ゆる》めたが、もう山荘が木々の合間に姿を見せていた。  ポーチへ駆《か》け上がると、紀子は大きく肩《かた》で息をついた。喉《のど》がひりひりと焼けつくように痛い。ともかく、雨だけからは逃《のが》れられたのだ。  玄《げん》関《かん》のドアには鍵《かぎ》がかかったままだった。紀子は呼び鈴《りん》を続けざまに何度も押《お》した。  「正実君! 開けて!」  とドアへ口を寄せて叫《さけ》んだ。  「びしょ濡《ぬ》れなのよ! 開けて! 早く!」  呼び鈴《りん》が壊《こわ》れるかと思うばかりに押しつづけたが、中からはなんの答えもなかった。  急に悪《お》寒《かん》が紀子の全身を貫《つらぬ》いて走った。雨は降りかからない代わりに、風だけが濡《ぬ》れたからだに吹きつけて、凍《こお》りつくように寒かった。  このままでは熱を出す。  「開けて! 開けなさい! 早く開けなさい!」  力いっぱい、ドアを叩《たた》いてみたが、中は墓地のように沈《ちん》黙《もく》したままだ。  紀子はポーチをぐるっと回って、わきへ出た。居間のガラス窓がある。雨の中へ駆《か》け出し、大きな石を取って来ると、思い切り窓へ投げつけた。ガラスが粉々に砕《くだ》ける。穴から手を入れて鍵《かぎ》をはずし、窓を開けると、中へはいり込《こ》む。  居間の中へはいって、紀子は大きく息をついた。やっと帰って来たのだ! やっと!  「急がなくちゃ!」  ぐずぐずしてはいられない。正実のことも気にはなるが、いまはからだを暖めることが先決だ。  紀子は廊《ろう》下《か》へ出て階段を駆け上がり、寝《しん》室《しつ》へと飛び込《こ》んだ。  濡れた服を引きはがすように脱《ぬ》ぎ捨てると、浴室へ行き、熱いシャワーを頭から浴びた。冷え切ったからだに、シャワーの矢が痛いほどに感じられたが、しばらくすると、少しずつ感覚がもどって来る。  「生き返ったわ!」  思わず口をついて言葉が出た。  浴《よく》槽《そう》に湯を入れて、すっかり沈《しず》み込む。このときほど風《ふ》呂《ろ》がいいものだと思ったことはなかった……。  たっぷり風呂につかって、寒気や悪寒も引いたようだった。  裸《はだか》のからだにタオル地のバスローブだけまとって、部屋へもどり、タオルで髪《かみ》を拭《ふ》いていると、インターホンから、正実の声がした。  「お帰り」  紀子は怒《いか》りを抑《おさ》えて静かな調子で、  「どうしてさっき玄《げん》関《かん》を開けなかったの?」  ときいた。  「呼び鈴《りん》を鳴らしたの?」  「とぼけないで! あれだけ鳴らして、聞こえないはずないでしょ!」  「トイレにはいっていたんだ」  何食わぬ調子で、正実はいった。  「こっちは危うく凍《とう》死《し》するところだったのよ!」  「車の中で?」  「歩いてもどったのよ」  「どうしたのさ?」  「車が故障でね」  「ワーゲンは故障しない、ってパパがいってたよ。どこかにぶつけたんだ、きっと。そうだろ?」  「……ええ、そうよ。木にぶつけたの」  「けがしなかったの?」  「かすり傷ひとつね。——残念でした」  と紀子はつけ加えた。ちょっと間を置いて、正実がいった。  「本当に残念だね」  紀子は一瞬寒気を覚えた。雨に濡《ぬ》れたせいではなかった。  「正実君。……少しゆっくり話し合ってみるときじゃないかしら、私たち」  「何をさ?」  「私たちのことよ」  「ああ。けさのこと、怒《おこ》ってるんだね」  「スープに目玉を入れたこと?——そうね、それもあるわ」  「いまはいやだな」  「どうして?」  「女ってすぐヒステリーを起こすだろ。そしたら話なんかできないもの」  「いいこと。よく聞くのよ。あなたは私に何度叱《しか》られたって文句がいえないようなことをしたのよ。でも私は叱らない。私はあなたの母親で、この先何十年もずっとそうなんですからね。最初からあなたを叱りたくはないの。だから、きょうはけっしてあなたを叱らないわ。——ただ話し合って、あなたの気持ちを知りたいのよ」  「いまはいやだ」  紀子はため息をついた。  「いつならいいの?」  「いまはラジオでいい番組があるんだ」  「だから、いつならいいの?」  「お昼は自分で食べたよ」  「返事をしなさい!」  ——インターホンは沈《ちん》黙《もく》した。  紀子は目を閉じた。いまはいやだ、か。そういえば、彼女自身、いまは疲《つか》れ切っている。いま、正実と面と向かえば、自分を失ってしまうかもしれなかった。その点は正実のいうとおりだ。  「女はすぐヒステリーを起こす」  か……。紀子は思わず笑ってしまった。いまの十一歳《さい》のこどもというのは、みんなこんなものなのかしら?  時計を見ると、二時半だった。  紀子は急にお腹がすいて来た。  冷《れい》凍《とう》してあったピザをオーブンで焼いて、コーヒーをいれて飲みながら、ゆっくりと食べた。  こうしていると、まるでひとりきりのようだわ、と紀子は思った。静かな林の中の山《さん》荘《そう》。あの騒《さわ》がしい都会に比べると、ここは別天地のようでさえある。  ピザを食べ終え、もう一《いつ》杯《ぱい》のコーヒーを居間へ運んで行くと、紀子はソファーにくつろいだ。——ここで、彼《かれ》とふたりで並《なら》んですわりながらコーヒーを飲む。そんな図を、どんなにか長い間彼女は憧《あこが》れていただろう。  初めて彼と結ばれた翌朝、ホテルの食堂へ下りて行ったふたりは、バイキング形式の朝食でにぎわっている食堂の入口でなんとなく顔を見合わせ、どこか外に出ようと、決めたのだった。  二十四時間営業の喫《きつ》茶《さ》店《てん》は、ホテルの食堂に比べてけっして雰《ふん》囲《い》気《き》がいいわけでもなかったし、コーヒーの味も、飲み放題のホテルのほうがずっとよかった。  それでもふたりは外へ出たかったのである。けさはきのうまでとは違《ちが》うのだということを、実感したかったのかもしれない。  ふたりはずいぶんと黙《だま》りこくっていた。紀子は、こんなとき、男と女はどんな話をするものなんだろう、と考えた。  ともかく自分のほうから話を始めたくなかった。何をいうにしても、彼《かれ》に責任を取ってくれと迫《せま》るように聞こえると困ると思ったからだ。むろん、彼が男やもめであることは百も承知だったから、それだけに、結《けつ》婚《こん》を狙《ねら》っていると思われるのはいやだった。  彼のほうも、何をいっていいのか、戸《と》惑《まど》っているようすだった。——こんなことに慣《な》れた男だったら、あとくされのないようにうまく話をするのだろうが、その不器用さが、彼の誠実さをあらわしているように、紀子には思えたのだった。  彼は困ったような顔であちこちへ目をやり、さんざんコーヒーカップをいじくり回してからいった。  「きょうの説明会は何時からだったかね?」  紀子は大声で笑い出してしまった……。  紀子はソファーにゆったりとからだを沈めて、そっと微《ほほ》笑《え》んだ。もしあのときだけで彼と別れることになったとしても、けっして彼を恨みはしなかったろう。それほどに、彼は誠実な男だった。  しかし、ともかくいまはこうして、彼《かの》女《じよ》は彼と結《けつ》婚《こん》し、彼の留《る》守《す》を守っている。——えらく古いいい回しだが、そういうのがいちばん適当のような気がした。  自分はいま、幸せだ。——そうでないはずがあるだろうか?  ただひとつの影《かげ》があるとすれば、それは正実だ。しかし十一歳《さい》という、いかにもデリケートな年《ねん》齢《れい》を過ぎて、中学、高校と進んで行けば、母親のことなど目もくれなくなるだろう。そうなれば、ふたりの間にまた新しい感情が生まれて来よう。  せっかちに考えてはいけないのだ。長い目で見なくては……。  そのうちに——そう、彼女自身もこどもを産むだろう。育児に追われるようになれば、何もくよくよと考えている余《よ》裕《ゆう》などなくなるにちがいない。  それが生活というものだ。毎日、毎日の積み重ね。一見単調なくり返し。目につかないほどの、わずかな変化が人生を造り上げているのだ……。  紀子はいつの間にか眠《ねむ》気《け》がさして来ているのに気づいた。疲《つか》れているのだ。雨の中を、あれだけ歩いて来たのだから。  大時計が三時半を打った。重く、ズンとお腹にひびく音を出す。——まだ早い。少し眠っても大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》だ。一時間か二時間。ほんの……ほんの少しの間……。 二日目、夜  目が覚めると、大時計が時を打っていた。見ると六時半だ。  「もうこんな時間!」  三時間も眠《ねむ》ってしまった。  「夕ご飯の支度だわ」  だいぶ眠ったせいか、疲れが取れて、からだが急に軽くなったような気がした。  まだ風呂から出たバスローブのままだったので、いったん寝《しん》室《しつ》へ上がって、服を着《き》替《か》えた。できるだけ若々しい、明るい色のシャツを着た。  階下へ下りたとき、電話が鳴った。急いで食堂へはいり、受話器を上げる。  「もしもし」  「きみか!」  「あなた、どうしたの? そんなびっくりしたような声を出して」  「どうしたじゃないよ。大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》なのか?」  「え?」  「車だよ。きみのワーゲンが木にぶつかっていると警察から連《れん》絡《らく》があったんだ」  紀子はハッとした。そうだった。車のことをすっかり忘れていた。  「ごめんなさい、私……」  「大丈夫なのか?」  「ええ。ちょっと額をフロントガラスにぶつけてすりむいただけよ」  「それならいいけど……」  彼がホッと息をついた。  「いったいどうしたんだ?」  「それが……昼、あなたに電話したあと、帰る途中でハンドルを切りそこねて」  「スピードを出しすぎてたんじゃないのかい?」  涙《なみだ》で目がくもって、といいたかったが、やめておいた。  「そんなつもりはなかったけど……」  「まあ、きみが無事ならいい」  「ごめんなさい。そのあと、雨の中を何時間も歩いて帰ったものだから、疲《つか》れて、ついさっきまで眠《ねむ》ってたの。警察へ届けなきゃいけないっていうのを忘れていたわ」  「何しろ車が木にぶつかって、だれも乗っていない。付近にもだれもいないというからびっくりしてね」  「心配かけてごめんなさい」  と紀子はいった。  「それから車のほうは大したことないと思うわ。修理しなきゃならないでしょうけど」  「車のことはいい。いくらでも買い替《か》えがきく。きみはひとりなんだからね」  「そうね。……しばらく車は乗らないわ」  「そうしてくれ。用があるときはタクシーを呼ぶといい」  「そうするわ」  紀子は素直にうなずいた。  「車はどうすればいいの?」  「警察ではすぐに来てほしいといっているんだ」  「あなた無理でしょう?」  「きみ、行けるか?……もし出るのがいやなら……」  「いいえ、大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》よ」  紀子は急いでいった。  「お仕事をちゃんと終えてから来てちょうだい」  「すまない。飛んで帰れるといいんだが……」  「いいのよ」  「正実のやつはおとなしくしてるか?」  「ええ」  まさか、あなたが出かけてから一度も会っていないのよ、ともいえないではないか。  「あすの夕方にはそっちへ帰れると思う」  「そう?」  「信じないのか?」  「あなたの予定はいつも最低三時間はのびるんだもの」  彼《かれ》は笑って、  「それは独身時代のことさ。あすの夕食はそっちで食べると約《やく》束《そく》するよ」  「待ってるわ」  「あてにしないで、かい?」  「そうね」  「じゃ、ともかく地元の警察のほうへはぼくが電話しておく。タクシーを呼んで行って来てくれ。免《めん》許《きよ》証《しよう》も持ってね」  「わかったわ」  「ただ向こうでは書類上の手続きが必要なだけなんだ」  「ええ」  「心配することはないよ」  「大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》よ」  「それじゃ、気をつけて」  「あなたも、無理しないでね」  「わかってる」  「正実君に代わる?」  「いや、いいよ。——それじゃ」  「さよなら」  彼《かれ》の声を聞いて、慰《なぐさ》められてもいいはずだが、なぜか急に寂《さび》しさが身に迫《せま》って来るような気がした。——本当に大切なことは、どうしてもいえない。なぜだろう? 本当になぜだろう? 紀子は気を取り直して、台所へ行くと、手早くローストビーフを温めて、盛《も》りつけた。  「正実君」  とインターホンへ呼びかける。  「壊《こわ》した車のことで警察へ行って来なきゃならないの。夕食の支度はしてあるから、ひとりで食べていてね。そう遅《おそ》くはならないと思うけど……」  返事はなかったが、べつに念は押《お》さなかった。きっと聞こえているのだろう。  自分もローストビーフをひと切れつまんで口へ入れておいて、二階へ上がり、ワンピースに着《き》替《か》えた。ハンドバッグを手に下へ下りて、電話でタクシーを呼ぶ。——『小杉』の立て札《ふだ》がなくなっていたのを思い出し、急いでつけ加えた。  私道を出て待っていればいいわ。——バッグの中に鍵《かぎ》があるのを確かめる。また閉め出されてはかなわない。  玄《げん》関《かん》の所のインターホンへ、  「じゃ、出かけて来るわ。鍵《かぎ》はかけて行くから。——チェーンはしないでね」  と声をかけておいて、玄関のドアを開ける。  すっかり雨は上がって、月明かりが白い光を投げている。表へ出て、ドアを閉めようとしたとき、インターホンから正実の声がした。  「ごゆっくり」  紀子は得体の知れない怖《こわ》さを感じて身《み》震《ぶる》いした。が、すぐに笑って、  「ばからしい!」  と呟《つぶや》くとドアを閉め、鍵をかけた。  外はむろん、街《がい》燈《とう》などない。しかし月明かりで、足元は明るかった。砂利道なので、比《ひ》較《かく》的《てき》水たまりは少なかったが、それでも用心して歩かないと、靴《くつ》の中に水がはいりそうだった。  途《と》中《ちゆう》で、なんとなく山《さん》荘《そう》のほうをふり返ってみると、月明かりに浮かぶ姿は、まるで怪《かい》奇《き》映画に出て来るお化け屋《や》敷《しき》のようだった。  二百メートルの道が、ひどく長く感じられた。私道の入口の所で立っていると、十分ほどして、タクシーの灯が近づいて来るのが見えた。  なんとなくホッとして、紀子は我知らず微《ほほ》笑《え》んでいた。  お役所仕事、とはよくいったものだ。山《さん》荘《そう》の前でタクシーを降りた紀子は、タクシーの赤い尾《び》燈《とう》が遠ざかるのを見送りながら思った。  たった二、三枚の書類を作るのに、二時間半もかけたのだ。途《と》中《ちゆう》で、  「まあ、お茶でもどうです」  「コーヒーでも」  とすぐに休《きゆう》憩《けい》がはいる。彼女に気を遣《つか》っているというより、自分たちが休みたいのだろう、と紀子は思った。  ともかく小杉の秘書時代から、てきぱきと迅《じん》速《そく》な事務処理に慣《な》れている紀子だ。苛《いら》立《だ》ちを抑《おさ》えるのに苦労した。自分が車をぶつけたのが悪いのだと思うから黙《だま》って我《が》慢《まん》していたが、そうでなければ怒《ど》鳴《な》りつけてしまうところだ。  もう十時を過ぎている。正実は寝《ね》ているだろうか? いまのこどもは夜ふかしだそうだから、まだ部屋でラジオでも聞いているかもしれない。  いずれにしても、話し合うにはもう遅《おそ》い。あすにしよう。あすの夕方には彼《かれ》も帰ってくる。父親がもうすぐもどるとなれば、正実も素直に話をするかもしれない。  鍵《かぎ》を出して、開ける。——チェーンは、かかっていなかった。中へはいってドアを閉めると、鍵をかけ、チェーンも忘れずに……。  耳を澄《す》ますと、かすかにクラシック音楽らしい調べが聞こえて来る。まだ起きているんだわ。——まあいい。休みのことだもの。口やかましくいっても仕方あるまい。ほうっておこう。  台所のほうへ廊《ろう》下《か》を歩いて行く。  何の曲だったかしら、これ?  どこかで聞いたことがある。  「私が知ってるくらいだから、よほど有名な曲ね」  と独《ひと》り言《ごと》をいって、微《ほほ》笑《え》んだ。ベートーヴェン。そうだ。ベートーヴェン。『第五』? いえ、あれはジャジャジャジャーンだものね。『第九』は合唱つきだし……。  「エロイカ。そうだわ『英雄』だ」  学校の音楽の時間に聴《き》かされた記《き》憶《おく》があるわ。これは確か第二楽章の……。そう『葬送行進曲』だ。  台所の皿《さら》はきれいに平らげてあった。皿の下に、またメモがあり、  『ごちそうさま』  と記してあった。やれやれ、と紀子は笑った。これじゃまるで昼メロの恋《こい》人《びと》たちね。すれ違《ちが》い、またすれ違いで。  紀子もお腹がすいていた。何しろ警察で、お茶やコーヒーばかりガブ飲みして来たから、変にもたれている感じだ。  冷めたご飯とローストビーフを電子レンジで温めると、紀子はテーブルについて食べはじめた。なんだか、夜食をとっているようで、妙《みよう》に懐《なつ》かしい気がする。  学生時代、試験勉強をするのはもちろん好きではなかったが、ただ、夜食が食べられるというのが楽しみだった。母親が気を遣《つか》って、からだが暖まって、栄養があって、消化がよくて、おいしいもの……といろいろ工《く》夫《ふう》してくれたものだ。  自分も、正実がそんな年《ねん》齢《れい》になったら、同じようにしてやろう。いまのこどもたちは、あまりに構われすぎるか、そうでなければ構われなさすぎるかのどちらかだ。  任せるべきところは任せ、構うべきところは構う。いまの親にはその判断がつかないらしい。——紀子はそう考えて、おかしくなった。まるで一人前の親になったみたいに、わかったようなことをいっている。  お茶をいれて、最後にお茶づけを一《いつ》杯《ぱい》かっこんだ。さっぱりして、おいしい。夜食にお茶づけか。悪くない。  テーブルにコーヒーポットがのっていて、まだ二杯分ほどのコーヒーが残っていた。正実が自分でいれたらしい。これはあまり感心できない。十一歳の少年が、本物のコーヒーを、夜飲むのでは、眠《ねむ》れなくなる。  紀子はコーヒー好きである。高校のころから自分でいれて飲むようになったし、喫《きつ》茶《さ》店《てん》を渡《わた》り歩いて、おいしい店があると聞くと、わざわざ電車に乗ってまで出向いたものだ。  「その熱心さの半分も勉強に熱心なら、すぐ優等生だがね」  母はよくそういって笑ったが、べつに怒《おこ》りはしなかった。母自身が大変なコーヒー党だったからだ。——その母は、紀子が二十歳《さい》のとき、死んだ。コーヒーとは関係ない、心臓の病気だった。  テーブルにはコーヒーポットのほかに、まだ使っていないカップがひとつ伏せてあった。飲めということだろうか? 正実自身も同じカップで飲んでいたらしい。ということは、これは紀子の分なのにちがいない。  どういうことなのだろう?  少しは彼女に悪いことをしたと思っているのか。それとも——いや、いい意味にとるべきだろう。正実からの、ちょっとしたプレゼントなのだ。  わざわざ礼はいわないことにした。口をきけば、また双《そう》方《ほう》意地のはり合いになるのは目に見えている。黙《だま》って飲んでおけばいい。あすになって、自分のいれたコーヒーを彼女が飲んだと知れば、きっといい気分になるだろう。  いま、ふたりの間に必要なのは、抽《ちゆう》象《しよう》的《てき》な話合いよりも、そういった共通の感覚——というと大げさだが、一《いつ》緒《しよ》に何かを経験することなのかもしれない。  紀子はポットをガスの火にかけて温め直してからカップに注いだ。冷蔵庫から牛乳を出して入れる。粉のクリームはきらいだった。いつも牛乳にしている。粉は脂《あぶら》っぽくてくどくなるからだ。  砂糖なしで飲んでみて、ちょっと苦味が強すぎるので顔をしかめた。温め直したせいもあるのかもしれない。砂糖をひとさじ入れると飲みやすくなって、おいしくなった。『ひとさじのお砂糖』か。そんな歌があったなと思った。何かのミュージカル。  そう、『メリー・ポピンズ』だ。いえ、『サウンド・オブ・ミュージック』だったかしら?  ——違《ちが》う、違う。『メリー・ポピンズ』だわ。どっちもジュリー・アンドリュースだったから、ごっちゃになってしまう。  ひとさじのお砂糖で、苦い薬も楽に飲める……。そんな歌だったっけ。自分にとって、ひとさじの砂糖は何なのだろう?——愛? それじゃあんまり月《つき》並《な》みだ! 彼のキス? そうかもしれない。  あの映画には、それから、えらく長い呪《じゆ》文《もん》の歌があった。それを唱《とな》えるとなんでも望みが叶《かな》う。ちゃんと覚えているんだ。何しろあの映画を五回も観《み》たのだから。  スーパーカリフラジリスティックエクスピアリドーシャス。どう? ちゃんと、まだいえるんだから。私にとって、万能の呪文は?——小《こ》杉《すぎ》紳《しん》吾《ご》。ワンパターンね、本当に!  紀子は笑った。なんとなく心が軽くなって、楽しかった。きょう一日の疲《ひ》労《ろう》と緊《きん》張《ちよう》の反動なのかもしれない……。  少し瞼《まぶた》が重くなって来た。疲《つか》れているのかしら?——コーヒーで眠《ねむ》くなるなんて、妙《みよう》ね。もう十一時? もう寝《ね》なくちゃね。風《ふ》呂《ろ》へはいってから……。風呂は一度はいったけど、やっぱりもう一度はいっておこう。あの警察でノミでも拾って来たかもしれない。  そんなに汚《きたな》かったというわけじゃないが、犬をかかえたおばさんが来ていて、犬がひっきりなしにからだをかくので、毛がやたらに飛び散っていたっけ。服につかないようにと、気になって仕方なかった。  でもずいぶん眠い。今夜はこのまま眠ってしまおう……。ともかく上へ行かなくちゃ。その前に洗い物をすませて、戸《と》締《じ》まりを見て。——そうだ。昼間、叩《たた》き割った窓がある。何か板でも打ちつけておかなくちゃ。うっかり忘れていた。  お皿《さら》を洗って……戸締まり……窓……ガラス……板……。  紀子はテーブルに顔を伏せて、そのまま眠りに落ちてしまった。  胸を鉛《なまり》で押《お》しつけられたような胸苦しさに、紀子は目が覚めた。  なんだろう? どうしたんだろう? 息が……息ができない……。  ガスだ! ハッと紀子は顔を上げた。いつの間にか床《ゆか》に伏せて倒《たお》れている。  「ウ……ウ……」  呻《うめ》くような声がかろうじて出た。上体をやっと起こしたものの、四《し》肢《し》は鉄の塊《かたまり》のように重く、思うように動かない。  ここのガスはプロパンだ。空気より重いから、床に淀《よど》む。上へ出れば、顔を上へ出せば……。  紀子は必死の思いでテーブルの足につかまり、椅《い》子《す》の台座につかまって、からだを引っ張り上げた。シューシューと、ガスの放出される音がしている。早く止めなくては。そして窓やドアを全部開けて……。  やっと顔がガスの上に出て、紀子は喘《あえ》ぐように呼吸した。空気が足らなくて水面で口をパクパクする金魚のようだ。ともかく胸の圧《あつ》迫《ぱく》感《かん》が軽くなった。  よろけるような足取りで、ガス台のほうへと歩いて行き、コックを閉じる。それから、よろよろと裏口のドアのほうへ行った。鍵《かぎ》をはずして、ドアを開けると、紀子は転がるように外へ飛び出した。  服が汚《よご》れるのも構わず、庭の土に膝《ひざ》をつき、ハアハアと大きく呼吸をくり返した。頭がしびれるように重く、吐《は》き気《け》がした。  夜の冷たい、新《しん》鮮《せん》な空気をしばらく吸《す》い込《こ》んでいるうちに、少しずつ気分もよくなって来た。——危うくガス中毒だ。  いったいどうしたというのか? 何があったのか?——少し考えてみようと思ったのは、庭へ出て、三十分以上もたってからだった。  ガス台の栓《せん》は三つとも全開になっていた。自分でそんなことをするはずがない。そして床《ゆか》に寝《ね》ていたのはなぜなのか……。  コーヒー。あれを飲んで、眠《ねむ》ってしまった。  紀子は、ただひとつの結論に行きつかざるを得なかった。  正実だ。コーヒーに睡《すい》眠《みん》薬《やく》を入れ、プロパンガスのコックをひねっておいて、彼女を床におろしたのだ。ぐったりとしたおとなのからだを動かすのは、十一歳《さい》の少年には大変だろうが、持ち上げるわけではなく、寝かせればいいのだから、できないことはない。  紀子はじっと、山《さん》荘《そう》を見上げた。——正実が自分を殺そうとした。悪《あく》夢《む》ではない。現実なのだ。殺そうとしたのだ。  紀子は慄《りつ》然《ぜん》とした。 二日目、深夜  台所へはいると、もうあらかたガスは消えているようだったが、まだずいぶん匂《にお》いは強く残っていた。  からだのだるさはほとんど抜《ぬ》けていた。頭痛と吐き気はガスのせいというより、睡眠薬のせいではないかと思った。  それにしても、目覚めるのがもう少し遅《おそ》かったら、からだがいうことをきかず、そのまま死んでいただろう。  薬の量があまり多くなかったか、それとも、紀子が以前睡眠薬を飲んでいた時期があったので、効き目が薄《うす》かったのかもしれない。  むずかしい問題が目の前に横たわっていた。正実は明らかに殺意をもって、彼女を殺そうとしたのだ。どうすればいいだろう? いたずらとはわけが違う。ほうっておくというわけにはいかない。  相手は十一歳だ。しかしそう思ってこども扱《あつか》いしてかかるとひどい目に遭《あ》うにちがいない。法律的に未成年なのだから、親に責任があることになる。自分も正実の親だ。しかし、親を殺そうとした子を、いったいだれが警察へ引き渡すのか?  ともかく、このままにはしておけない。  紀子は決心した。彼に知らせて、即《そつ》刻《こく》帰ってもらおう。もう仕事がどうこういっているときではない。  紀子は電話へ歩み寄り、受話器を取って、ダイヤルを回そうとしたが、そのとき、発信音が聞こえていないのに気づいた。受話器をいったんもどして、もう一度取ってみたが同じだった。フックをガチャガチャと叩《たた》いても、ウンともスンともいわない。  紀子は、諦《あきら》めた。——なんという恐《おそ》るべきこどもだろう。電話線を切ったのにちがいない。ここでかからないのだから、ほかの部屋でもかからないだろう。一応ためしてはみるにしても、望みは薄い。  しかし、正実はいま、どこにいるのか。自分の部屋にいるほどばかではあるまい。そうなると、どこかで彼女を殺すべく、ほかの方法を練っているのかもしれない……。  「よく助かったね」  突然、インターホンから声がして、紀子は飛び上がった。  「正実君……」  「薬が足りなかったんだ。そうなんだよ。少ないと思ったんだけどね。コーヒーに入れたのもまずかったかな。コーヒーは興《こう》奮《ふん》剤《ざい》だしね。でもコーヒーくらい苦くないと薬の味がわかっちゃうだろ」  「正実君、どこにいるの?」  「いわないよ。いえばぼくをつかまえようとするんだろ」  「どうして……どうしてあんなことを?」  「簡単だよ」  正実はいった。  「あんたを殺したかったのさ」  「私がそんなにきらい?」  「あたりまえじゃないか」  「前のママのことが忘れられないのね? でも、ママは死んだのよ!」  「ばかだなあ」  「え?」  「ママのことなんて関係ないよ。ただ、ママを持ち出しゃ、そっちは黙《だま》るだろ。だからいってただけ」  紀子は言葉がなかった。正実は続けた。  「パパのことさ」  「パパが……どうしたの?」  「ぼくとパパはうまくやってたんだ。仲がよかったんだ。本当だよ。ぼくは、どんなに遅《おそ》くなってもパパの帰るまで起きてたし、パパだって、休みが取れたら、必ずどこかへ連れてってくれた。ふたりで本当に楽しかったんだ。それが——」  「私のせいで変わったっていうのね?」  「そうさ! 貴様がのさばり出してから、パパは仕事が終わっても、まっすぐ帰って来なくなったし、休みの日も出かけちまうようになったんだ! 貴様がパパをあんなふうにしたんだ!」  「正実君、それは違うわ。パパだってあなたにいつまでもおかあさんがいなくてはよくないと思って——」  「ふざけるんじゃねえや!」  「正実君——」  「ぼくなんか邪《じや》魔《ま》者《もの》なんじゃねえか。いなけりゃどんなに気が楽かと思ってんだ。そうだろう!」  「正実君、あなたはパパを好きなんでしょう? それだったら、パパの幸せを考えなきゃいけないわ。パパはまだ若いのよ。奥《おく》さんをもらって、ふたり目、三人目のこどもを——」  「やめろ!」  正実が甲《かん》高《だか》い声で叫《さけ》んだ。  「パパはぼくひとりのもんだ!」  「正実君!」  「それで終わったと思うなよ。朝までに殺してやる!」  「いい加減にしてよ!」  紀子は怒《ど》鳴《な》った。  「あんたはこどもなのよ! ばかなまねはよしなさい!」  「いばってりゃいいや。いまのうちだよ」  「捕《つか》まえて警察へ突《つ》き出すわよ!」  「貴様なんかに捕まるもんか!」  いったい正実はどこでしゃべっているのだろう? 廊《ろう》下《か》か? 自分の部屋か? それとも……。  「電話は使えないぜ」  と正美が得意げにいう。  「車もないし、逃《に》げられやしないんだ。諦《あきら》めろよ」  そのとき、インターホンを通して、時を打つ、大時計の音が聞こえて来た。  居間にいるんだ!——紀子は食堂を飛び出した。廊下を駆《か》け抜け、居間のドアを、思い切り開け放つ。  見たところ、居間には人影がない。  「そんなはずはないわ……」  どこかに隠れている。ソファーの後ろか、下か。——逃げる余《よ》裕《ゆう》はなかったはずだ。居間を出れば廊《ろう》下《か》で行き合うはずだし……。  紀子はゆっくりと足を居間の中へ踏《ふ》み入れて、ひとつひとつ、ソファーの後ろや下をのぞいて行ったが、正実の姿はない。  「そんなことが……」  ふと見た大時計にハッとする。時計の針は、一時十五分になっていた。さっきインターホンで音を聞いてから、まだせいぜい五分だ。するとさっきの音は……。  「テープレコーダーだわ!」  テープに大時計の音を入れておき、インターホンのそばで聞かせたのだ。紀子は唇《くちびる》をかんだ。また、やられた!  しかし、なぜ正実はそんなことをしたのか? からかってみせただけか?——いや、いまの正実はもっと真《しん》剣《けん》になっている。  すると、紀子をこの居間へ誘《さそ》い出したのは、台所に用があったからかもしれない。  紀子は居間を出て、台所へと取って返した。台所へ駆《か》け込むと同時に、庭へ出る裏口のドアがバタンと音をたてて閉じた。庭を走る足音。  「待ちなさい!」  飛び出しかけて、紀子は一《いつ》瞬《しゆん》、台所の中を見回した。正実がここへ来たのはなんのためだったのか? 裏庭へ出るだけなら、窓からでも出られる。ここに何か目的が……。  ふと目が包丁掛《か》けに止まって、ギクリとした。一本欠けている。小さくて、先の尖《とが》った肉切り包丁が……。  裏口のドアをそっと開けて、紀子は外をのぞいた。  暗い。いや、月明かりはあるのだが、林の中には光も届かない。小さな庭を横切ると、すぐに林へはいって行くのだ。その先は闇《やみ》夜《よ》より暗い暗がりである。  正実はどこにいるのだろう? あの林の中へはいったのなら、夜の間はまず見つからない。  出て行くのは危険だ。どこに正実が潜《ひそ》んでいるかもしれず、しかもあの包丁は人を刺《さ》すのにも十分な切れ味だから。  紀子は、ドアを閉め、鍵《かぎ》をかけた。今度はこっちが正実をしめ出してやる番だ。追って来ると期待しているのなら、肩《かた》すかしを食らわせてやる。  明るくなれば、なんとでも方法はある。夜明けまで、じっと中で待っていよう。  紀子は台所の引出しからビニールテープを取り出すと、一階のインターホンをひとつずつ回って、ボタンを全部押した状態にして、テープで止めておいた。こうしておけば、どこかの部屋の窓ガラスを割ってはいろうとしても、音でわかる。  紀子は各部屋のドアを全部開け放しておいた。少しでも見通しがいいように、だ。  自分で壊《こわ》した窓の所へは、サイドボードを動かしてふさいだ。これをむりに動かそうとすれば中のグラスが倒れて派手な音をたてるにちがいない。  紀子は台所にもどって、時の過ぎるのを待った。  もう三十分以上、コトリとも音がしなかった。いったいどこにいるのだろう? 何を考えているのだろう?  こどもの集中力には、とてもおとなのかなわないものがある。——何かひとつを思いつめたら、いつもはどうしようもなく飽《あ》きっぽいこどもが、驚《おどろ》くような粘《ねば》りを発揮する。いまの正実もそうなのかもしれない。  それほどに彼女が憎《にく》いのか、殺せばただですまないことぐらい、十一歳《さい》にもなればわかっていそうなものだが。  紀子は、ふと顔を上げた。頭の上で、何か物音がしたような気がしたのだ。——気のせいだろうか? だが、確かに床《ゆか》板《いた》のきしむ音のようだった。  二階へ? あの虚《きよ》弱《じやく》に見える子が二階の窓までよじ登って行くなどということがあるだろうか?  ——紀子はハッと気づいた。庭には道具小屋がある。あそこには折りたたみ式の梯《はし》子《ご》があったはずだ。彼がいっていたことがある。雨どいを直すので梯子にのぼることもあるんだ、と……。  この台所の真上は——紀子たちの寝《しん》室《しつ》である。窓に鍵をかけてあったはずだが。しかし、はいるのはバルコニーから自分の部屋へはいったのかもしれない。  紀子はしばらく迷ってから腰《こし》を上げた。相手は包丁を持っている。——どうすればいいだろう? こっちも何か持って行くか? しかし、万一本当に争いになったとき、正実を刺してしまいかねない。それだけは避《さ》けなければ!  といって、無防備で行くのは危険すぎる。迷ったあげく、結局、何も持たずに行くことにした。大きなこん棒を手にして行くのも、あまりおとなげないではないか。十分に用心していれば大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》だ。  廊《ろう》下《か》をそろそろと歩いて、階段の下から、上のようすをうかがった。——しばらく耳を傾《かたむ》けていたが、何の物音もしない。  思い切って、紀子は階段を上り出した。自分たちの寝《しん》室《しつ》のドアは閉まっている。中にいるのだろうか? はいって来る彼女をひと突《つ》きにしようと、包丁を構えて待っているのだろうか? 紀子はノブを回すと、ドアをパッと開けた。——何も起こらなかった。ドアは壁《かべ》にぶつかって、ゆるくもどって来た。正実は見えなかったが、油断は禁《きん》物《もつ》だ。紀子は慎《しん》重《ちよう》に、ベッドの下や、浴室をのぞいてみた。やはり、さっきの音は気のせいだったのか……。  下へもどろう。——そう思って、部屋を出ようとした紀子は、なにげなくもう一度部屋を見回した。そのとき、それが目についた。  あれはなんだろう? ベッドの頭の板からぶら下がっているものは……。近づいてみて、小さなマイクらしいということがわかった。  「どうしてこんな所に……」  と手に取ってみる。手のひらにはいる超《ちよう》小《こ》型《がた》のマイクで、コードがベッドの下へのびている。——紀子の顔が紅潮した。  正実だ! 正実がこのベッドに隠《かく》しマイクを仕《し》掛《か》けていた。目的は明らかだ。——それでは、ふたりで風《ふ》呂《ろ》へはいったのを知っているのも……。紀子は浴室へはいって行った。浴《よく》槽《そう》の真上の通風口から、同じ超小型のマイクがぶら下がっていた。  紀子は力をこめてマイクを引きちぎった。——これが十一歳《さい》の少年のすることだろうか? もう正実を許せない、と思った。  しかし正実は、やはりここへ来たのだ。そして、マイクをわざと目につくようにしておいたのだ。こんなふうにしてあれば、気づかないはずはないのだから。  正実はどこへ行ったのだろう? 自分の部屋か。それともどこかの空き部屋にひそんでいるのだろうか。  そのとき、突然、音楽が大音《おん》響《きよう》で鳴り出した。正実の部屋だ。急いで廊《ろう》下《か》へ出て、そのほうへと歩きかけて足を止めた。  いけない! これも罠《わな》かもしれない。あまりに大々的すぎる。そっちへ注意をひきつけておいて、何かやるつもりかもしれない。ともかく、いつも裏をかかれつづけているのだ。正実の手にのってはいけない。  二階でこんなに派手に音を鳴らすとは……一階に用があるのかもしれない。音楽ぐらい、テープレコーダーにタイマーをセットすれば、いくらでも好きなときに鳴らせる。  きっとそうだ。正実は階下にいる!  紀子は向きを変えて階段を駆け下りて行った。踊《おど》り場《ば》から下へ踏《ふ》み出したとき、足が何かに引っかかった。  「アッ!」  と短い声を出して、紀子は階段を転がり落ちた。  途《と》中《ちゆう》からだったので、それほどの痛みはなかった。しかし、したたか腰《こし》を打って、しばらく起き上がれなかった。  またやられた!  紀子は歯ぎしりした。正実は彼女の動きを読んでいたのだ。彼の部屋をのぞいて、テープだけが回っているのに気づけば、当然彼の目的は下にあると思って、階段を駆《か》け下りて来ると予想していたのにちがいない。  全く、なんというこどもだろう。  しかし紀子の驚《おどろ》きはそれで終わらなかった。からだを起こしてふと横を見、目を見張った。——あの肉切り包丁が、尖《とが》った切《きつ》先《さき》を上へ向けて立ててあったのだ。厚紙をうまく台に作って、そこへ包丁の柄《え》をさし込《こ》み、刃《は》が上を向くようにしてある。それが階段の下の中央に置いてあった。  もし紀子がこの上へ落ちて来たら、まともにこの刃がからだへ食い込んだろう。——ほんの数センチの差だった。  紀子は顔から血の気の引くのを感じた。  立ち上がると、包丁を手に取った。——これを持っていよう、と思った。こどもを相手に、などといっている場合ではない。  それにしても、正実はまたどこへ姿を消してしまったのだろう?  台所へもどってみて、紀子は、正実が早くも次の準備を進めていることを知った。  包丁掛《か》けから、また一本、包丁が消えていたのだ。  三時になった。あと二時間すれば夜が明けて来る。——家の中は静まりかえって、コトリとも音がしない。それがかえって気味が悪い。  いったい正実は何を考えているのだろう? 持って行ったのは、肉切り包丁よりだいぶ大きな包丁だ。——紀子は手にした肉切り包丁をじっと見つめていた。  これが、もしかすると自分の胸に突き刺《さ》さっていたのかもしれないと思うと、鳥《とり》肌《はだ》が立った。そして十一歳《さい》の少年が、あんなことを考えたのかと思うと、いっそう寒気がする。階段の踊《おど》り場《ば》のところには、たぶんラジオか何かに使うのだろう、細い針金がピンと張ってあった。ごく簡単な仕《し》掛《か》けだ。  次にどんな手を打って来るつもりか。予測もつかない。  居間の大時計が三つ、鳴った。——少し遅《おく》れているわ。台所のデジタル時計を眺《なが》めて、紀子は思った。  不思議なもので、大して時間に神経質でない人が、文字の出るデジタル時計を持つと、とたんに一分の狂《くる》いにもうるさくなる。だからといって、約《やく》束《そく》の時間などにルーズだった人間が時間を守るようになるかというとそうではないのだ。  彼《かれ》は、恐《おそ》ろしく多《た》忙《ぼう》なスケジュールだったから、本当に極《きよく》端《たん》なときは、分刻みの行動だったが、少々の狂いはあっても、従来の、長針と短針の腕《うで》時《ど》計《けい》をしていた。むろんジャガー・ルクルトの、七、八十万円もする高級品ではあったが、それでも正確さはデジタルに及《およ》ばない。しかし彼はデジタルの時計がきらいだった。  「あれには幅《はば》がないよ」  といつもいっていた。針を見て、大体何分くらい、ということがない。十二分なら十二分、十三分なら十三分。前後のしようがない、そこがいやだといった。「大体のところ」——それが人間には必要なのだ。少しぐらいのプラスマイナスは気にしない、という気持ちが。  「まあ数学のテストがこれじゃ困るけどね」  といって笑ったものだ。  あの彼と、いま、自分を殺そうとしている正実と。——なんと似ても似つかぬ親子だろう。もっとも、正実のようなこどもを、多忙な仕事のためにほうっておいたのは、やはり彼の責任にはちがいない。  このまま無事に朝を迎えて、彼がもどって来たら、どうなるのだろう? 何事もなかったような顔はできない。といって、正実を病院や施設に入れるようなことを、彼がするだろうか? もし、そうなったとして、彼と紀子とが、夫婦としてうまくやって行けるのだろうか?  紀子は絶望的な気分になっている自分に気づいた。もし、自分も正実も、どちらも傷つかずにすんだとしても、この問題はいつまでも尾《お》を引くにちがいない。彼《かれ》との間にも影《かげ》を投げるだろう。  いっそ、自分が出て行こうか、と思った。それで彼と正実が、また以前の生活にもどるのならば……。  いや、だめだ、と思い直した。たとえ自分が身をひいても、それが解決にはならない。問題はもはや継《けい》母《ぼ》と息《むす》子《こ》といった次元ではないのだ。正実が、人殺しをしようとしているという点なのだ。  いまはただ、無事に朝になってくれることだけが望みだった。そして早く彼がもどって来てくれることが……。  三時二十分。——正実は何をしているのだろう?  そう自問したときだった。家じゅうの明かりが消えて、山《さん》荘《そう》は完全な闇に包まれた。 三日目  しばし、紀子は動けなかった。不意に目かくしをされたような気分だ。——いったいどうしたのだろう? 考えてから、すぐに、呟《つぶや》いた。  「わかってるじゃないの!」  正実が電気の安全器を切ったのだ。——全くの闇《やみ》だったが、外には月明かりがある。紀子は肉切り包丁を手に、そろそろと立ち上がり、まるで水の中を泳ぐような格好で窓まで行って、カーテンを開けた。  いくらか光がさし込んで、少し目も慣《な》れて来たのだろう。ぼんやりと台所のようすがわかって来た。  正実の意図がわからないだけに、気味が悪かった。ただ紀子をおどかすために暗くしたのだとは思えない。何か考えがあるのだ。  ともかく、こっちからは動かないでいようと思った。  この台所にいる限りは安全だ。すぐに裏口からも飛び出せるし、目も慣れている。  じっと、窓のそばに、包丁を手に立っている自分の姿が、どう見えるだろうかと思って、紀子は苦笑した。安手のスリラーか何かの一場面だわ……。  突《とつ》然《ぜん》、電話の鳴る音に紀子は飛び上がらんばかりに驚《おどろ》いた。  台所ではない。居間で鳴っているらしいのだが、針を落としても聞こえるような静《せい》寂《じやく》の中では爆《ばく》弾《だん》が落ちたようなショックだった。  とっさに、正実の罠《わな》だと思った。彼《かの》女《じよ》をおびき出すつもりだ。大体、電話は通じないはずではないか。きっとあれもテープレコーダーか何かで……。  電話は鳴りつづけた。——あれが録音した音だろうか? 闇へしみわたるように鳴りつづけるあの音が……。  紀子は、居間の電話が親の電話になっていると聞いていたことを思い出した。親の電話だけが通じるようにするのはむずかしいことではあるまい。しかし、正実自身が、「電話は切ってある」といっていた。——それとも、また通じるようにしたのだろうか? そんなことが十一歳のこどもにできるだろうか?  電話は鳴りつづけている。もし、あれが罠でなかったら? もし彼からの電話だったら……。  いけない! だまされてはだめ! 正実はきっと電話のそばで待ち構えている。包丁を握《にぎ》りしめて。  電話は鳴りやんだ。——紀子はホッとした。いっそ鳴ってくれていないほうが、よほど気が楽だ。  だが、少し間を置いて、また電話は鳴り出した。  ほとんど衝《しよう》動《どう》的《てき》に、紀子は動いた。台所を飛び出し、居間へと走った。廊《ろう》下《か》は全くの闇《やみ》だが、部屋のドアを全部開け放してあるので、いくらか光が見える。  居間へ駆《か》け込んで、包丁を構え、中を見回す。月明かりがまともにさして、思いがけないほど明るい。一《いち》瞥《べつ》しただけでは、正実の姿は見えなかった。  電話は本当に鳴っていた。  むろん、正実がどこかに隠《かく》れていないとはいえない。油断なく部屋の中を見回しながら、紀子は電話へ近寄って行った。  受話器を上げる  「はい」  と押し殺した声を出すと、  「ああ、松井さんかい?」  と聞いたこともない男の声が飛び出して来た。——一瞬、紀子は言葉が出なかった。  「おれだよ。もしもし?」  酔《よ》っているらしい。紀子は必死で感情を殺して、いった。  「おかけ違《ちが》いです」  「ええ? 本当かい? 冗《じよう》談《だん》いってんじゃないの? あんた奥《おく》さんだろ?」  「番号違いで——」  「わかったぞ。亭《てい》主《しゆ》とお楽しみのところを邪《じや》魔《ま》されて怒《おこ》ってんだろう」  紀子は叩《たた》きつけるように受話器を置いた。急に涙《なみだ》がこみ上げて、こらえ切れなくなった。傍《そば》のソファーにすわり込《こ》んで、すすり泣いた。  これほど寂《さび》しいと感じたことはなかった。いっそ正実が襲《おそ》いかかって来てくれたら、どんなにか気が楽だろう。こうして、ただじっと待っているよりは……。  ハッとして、紀子は顔を上げた。——いまは電話が通じるのだ! 彼《かれ》にかけるのだ!  急いで受話器を取り上げた。発信音が聞こえる。紀子は東京のマンションの番号を回した。九つの数字が、ひどく長いように感じられる。回し終わって、息を殺して待つうちに、呼出し音がルルル……と耳にはいって来た。  「早く出て!……早く!」  思わず祈るように呟《つぶや》く。時間が時間だ。疲《つか》れて休んでいるのだろうし、すぐに出るはずもないが。——三度、四度、五度。  「出て、お願い!」  呼出し音が途《と》切《ぎ》れた。  「もしもし!——もしもし!」  叫《さけ》ぶような呼びかけに、返事はなかった。  「あなた!——もしもし!」  不意に気づいた。呼出し音が切れたのは、相手が出たからではないのだ。正実が、今度こそ本当に電話線を切ってしまったのだ。  やがて四時になろうとしている。  紀子は居間にすわったまま、じっと身動きひとつしなかった。  いまとなっては、もう逃《に》げる気も、隠《かく》れる気もなかった。襲《おそ》って来るのなら、いつでも来ればいい。こちらにだって包丁はあるのだ。  互いに傷つけば、もう争う気力もなくなるだろう。そこまで紀子は考えを決めていたのだ。  もう少しすれば、外が明るくなって来る。そうなれば、この恐《きよう》怖《ふ》感《かん》も消えるだろう。暗がりでは恐《おそ》ろしいものでも、太陽の光の下ならなんということはないにちがいない。  夜が明ければ、正実のほうも、殺意が失せて包丁を捨てるかもしれない。  ふと、紀子は眉《まゆ》を寄せた。  なんだろう? 何か、匂《にお》いがする。こげくさいような匂いが。——開いたドアの向こうに、何か白いものがモヤモヤと漂《ただよ》って来た。  煙《けむり》だ!——紀子は立ち上がった。火事! 正実が火をつけたのだ!  紀子は我を忘れて居間から飛び出した。廊《ろう》下《か》にも白い煙が充《じゆう》満《まん》していた。台所のほうがいちばんひどいようだ。  「正実君! どこなの!」  と紀子は叫《さけ》んだ。火をつけて外へ逃げたのだろうか? それとも家もろとも、彼女もろとも、一《いつ》緒《しよ》に死ぬ気かもしれない。  紀子は煙のひどいほうへと小走りに進んで行った。煙が目にしみ、咳《せき》込《こ》んだ。台所はもう何も見えなかった。裏口のドアが開いている。あそこから逃げたのにちがいない。  紀子は煙を突《つ》っ切って、裏口から外へ出た。ゴホン、ゴホンと激《はげ》しく咳《せき》をして、目をこすった。周囲を見回したが、正実の姿は見えない。どこに隠《かく》れているのだろう?  刺《さ》し殺そうと思えば、いくらでも機会はあったのに、なぜやらないのだろう? 猫《ねこ》がネズミをいたぶるように、弄《もてあそ》んでいるつもりなのだろうか?  火事のほうをどうしようか。紀子は庭へと流れ出して来る煙《けむり》から逃げて、ジリジリとあとずさりした。  そのとき、  「キャーッ!」  という悲鳴が頭上で起こった。ハッと見上げると、正実の部屋のバルコニーで、何かが燃え上がっている。  紀子は息を呑《の》んだ。——正実だ! 正実が火だるまになって立っている。凍《こお》りついたように立ちすくむ紀子の目の前で、燃え上がる人間がバルコニーの手すりを越《こ》えて地面へ落ちて来た。  「正実君!」  赤々と燃え上がって、あたりを照らし出した。とても近づけない。紀子は台所の煙の中へと取って返すと、窓のカーテンを引きちぎった。それを持って駆《か》けもどると、火の上へ覆《おお》いかぶさるようにして布を叩《たた》きつけた。火が手をこがし、髪《かみ》を焼いたが、構わずに、必死で火を消そうとした。そして——突《とつ》然《ぜん》、気づいた。  燃えているのは、人形だった。  台所の煙《けむり》は、もう薄《うす》らいでいた。ブリキの缶《かん》を置いて中に木片や紙やプラスチックをつめて、燃やしていたのだ。  四時半。——少し空が白みかけて来ていた。  紀子は火傷《 や け ど》でひりひりする手を、水道の水に浸《ひた》して、痛みをこらえて目を閉じた。涙《なみだ》が頬《ほお》を伝った。煙がしみたせいばかりではなかった。  不意に、明かりがついた。もう明るくなって来るころだというのに。  「ご苦労様」  インターホンから正実の声がした。  「やけどしたかい?」  「ええ、少しね」  「きれいな顔は大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》だった?」  紀子は、不思議に怒《いか》りを感じなかった。  「あなたは頭がいいわ」  「ありがとう」  「まだ私を殺さないの?」  「急ぐことないさ」  「そうね……」  紀子は微《ほほ》笑《え》んだ。  「その気になれば、いつだってできる、でしょ?」  「まあね」  「あなたって」  「気《き》違《ちが》いだっていうんだろ」  「それはわからないわ。まあ、あまり普《ふ》通《つう》のこどもじゃないわね」  「そうさ」  いまごろわかったのか、といいたげな口調だった。  「でも、可《か》哀《わい》そうだと思うわ」  「どうして?」  「わからない。でも気の毒だと思うのよ。本当に」  「殺したって牢《ろう》屋《や》へはいるようなドジはしないよ」  「そんな言葉、テレビで覚えたの?」  「まあね」  「そうね。……あなたなら、私を殺して、なんとかうまくいい逃《のが》れもできるかもしれないわ」  「そうだとも」  「でも、やっぱり気の毒だわ」  「どうして?」  「私を殺したって、また別の女の人が現れるわ。あなたのパパはとてもハンサムで、すてきな人だもの。——その人も殺すの? ふたりでも、三人でも?」  「さあね」  「きりがないわよ。そしてそのうちに、パパだって、あなたのしていることに気づくでしょう」  「パパはぼくを信じてるよ」  「そうかしら?」  「決まってるじゃないか!」  と腹立たしげにいった。  「パパはいつもあなたのことを、むずかしい子だっていってるわ。あなたが普《ふ》通《つう》でないのを、少しは気づいているのよ」  「嘘《うそ》だ!」  「嘘じゃないわ。私が刺《さ》し殺されたと知ったら、きっとあなたの話を疑ってかかるでしょうね」  「そんなこと、あるもんか!」  「まあいいわ。そのときになればわかるわよ」  正実は沈《ちん》黙《もく》した。  「——さて、次はどんな手で私をいじめるの?」  「教えちゃつまらないさ」  といって、正実は低い声で笑った。  五時になって、外はすっかり明るくなっていた。  紀子は玄《げん》関《かん》のドアを開けて、ポーチへ出た。少し湿《しめ》った朝の大気が、重かった頭をすっきりさせてくれるようだった。  朝になってしまうと、何もかもが悪《あく》夢《む》だったかのようで、本当に起こったことだとは信じられなかった。しかし、額の傷、手の火傷《 や け ど》、それは消しようもない現実だ。  紀子は、このまま私道を出て、林の中を歩き、国道まで出ることもできた。そこで車を止め、警察まで行ってもらう。それとも、あのボックスから電話をすることもできる。  しかし、なぜか、紀子はここから出て行く気にはなれなかった。——まだ危険は去ったわけではない。正実自身が、そういっているのだから。  それでも、紀子の気持ちは平静であった。  一度は怒《いか》り狂《くる》い、恐《おそ》れおののき、相手を殺しても生きのびようと思ったのに……。いまは、平和だった。なぜだろう。自分でも、その理由はわからないままだ。  しかし、ともかく、こうして平然とポーチに立っていられるのは現実だ。ドアのほうに背を向けて。——いまにも正実が包丁を手に、背後に迫《せま》っているかもしれない。だが、紀子は気にならなかった。  「正実君」  紀子は独《ひと》り言《ごと》をいった。  「私をもうこわがらせることはできないわよ。殺すことはできてもね」  「何をしてるんだ?」  玄《げん》関《かん》の内側のインターホンから正実の声がした。  「朝になったから、空気を吸《す》いに出たのよ」  紀子ははいってドアを閉めた。  「逃げ出そうと思ってたんじゃないのかい?」  「いいえ」  「どうして?」  「こわくないもの」  「フン、どうせぼくをこどもだと思ってるな。朝になりゃ大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》だって」  「そうじゃないわ。本当よ。あなたの気は変わらないんでしょう」  「あたりまえだよ」  「そう。でも、もう怖《こわ》くないわ。死ぬことが怖くなくなったのよ」  「どうして?」  「自分でもわからないの」  「いまに青くなって腰《こし》を抜《ぬ》かすさ」  「どうかしらね。——コーヒーをどう? 私がいれるわ。睡《すい》眠《みん》薬《やく》抜《ぬ》きでね」  「いらないよ」  「そう? よかったらご指定の場所へお運びしますよ」  と紀子はちょっとおどけていった。  「——じゃ、もらうよ」  「そう! うんとおいしくいれるわ」  台所へ行くと、紀子は湯を沸《わ》かし、ブルーマウンテンの豆を挽《ひ》いて、ドリップでコーヒーをいれた。  「どちらへお持ちしますか、お坊っちゃま?」  「階段の下に置いといて」  用心深そうな声が答えた。  「かしこまりました」  盆《ぼん》にカップをのせ、熱いコーヒーを注いだ。ミルクと角砂糖を添《そ》え、階段の下へ運んで行き、そのまま置いて台所へもどった。  自分のコーヒーをゆっくりとすすった。  「我ながらいい味だわ」  と呟《つぶや》いてから、  「いかがですか、お味は?」  とインターホンのほうへ呼びかけた。ややあって、  「なかなかうまいよ」  と返事が返って来た。  「そう? うれしいわ」  「コーヒーは……」  といいかけて、正実はためらったようだった。  「どうしたの?」  「いや……コーヒーのいれ方だけは、ママよりうまいや」  と正実はいった。——紀子はふっと胸が熱くなるのを覚えた。  「正実君」  紀子はいった。  「私たち……やり直してみない?」  インターホンは沈黙していた。  「何もなかったことにして……。できないかしら?——べつに命が惜《お》しくていうんじゃないのよ。あなたまで、一生を台なしにしてしまうのが残念なのよ。そうじゃない? あなたにはまだ、五十年も六十年も人生が残ってるのに、私みたいな女を殺して、それを捨ててしまうつもり?」  沈《ちん》黙《もく》。  「どう? 考えてみない?」  紀子の言葉に、インターホンは、相変らず沈黙したままだった。——無理強いはすまい、と思った。すぐに反発して来ないだけでも、大きな変化だ。  「——飲み終わったら、そのままそこに置いておいてね」  と紀子はいった。  「もうちょっとゆっくり飲ませてね。生《しよう》涯《がい》最後のコーヒーかもしれないんだから……」  紀子はゆっくりとコーヒーを飲みほした。  台所の電話が鳴り出して、紀子はびっくりした。  「電話、直したの?」  「うん」  「器用なのねえ!」  本心からそういって、紀子は受話器を上げた。  「はい」  「やあ、朝っぱらからすまない」  「あなた!——いま、どこ? ずいぶん声が近いけど」  「国道の角の電話ボックスさ」  「本当? いったいどうしたの?」  「うん。仕事は昨晩でかたづいてね。早くそっちへ行きたいと思いはじめるとじっとしていられなくなったんだ」  「そうなの……」  思わず声がつまった。  「どうした? 何かあったのかい?」  「い、いいえ……。そうじゃないの」  「ずいぶん早起きじゃないか」  「そうなの。あなたが電話してくるような予感がしたのよ」  「ハハ……。調子がいいね」  「早くもどって来て」  「うん、そう十五分もすれば着く」  「待って。——お腹すいてる?」  「そうだな。いわれてみればすいてるはずだなあ」  「他《ひ》人《と》事《ごと》みたいなこといって」  「きみの顔を見たらきっとすくよ」  「どういうこと?」  紀子は笑っていった。  「じゃ、何か簡単に用意しておくわ」  「頼《たの》む。それじゃ、あとで」  「ええ」  紀子は受話器を置こうとして、プツンと音がするのを耳にとめた。インターホンのほうへもどって、  「聞いてたの?」  「ああ」  「私、何もいわなかったわよ」  「どうしてさ?」  「いいたくなかったの。それだけよ」  「——手の傷や人形をどうするのさ?」  「なんとでもいえるわよ。料理をしてて火傷《 や け ど》したっていえばいいわ。私、もともとおっちょこちょいだもの」  「人形は?」  「燃えて灰になってるでしょう。あとで踏《ふ》みつけておけばわからないわよ」  正実は黙《だま》ったままだった。  「あと十五分しかないのよ」  「わかってる!」  「私を殺すか、どうするか。——あなたに任せるわ」  「……わかったよ」  「私、おとうさんに食べるものを作るわね」  「うん」  紀子は、ハムエッグを作り、それからコーヒーをいれた。  正実はやって来なかった。——紀子は、爽《さわ》やかな気持ちだった。自分が勝ったのだ。  いや、勝敗の問題ではないが、ともかく、一夜の戦いを生き抜《ぬ》いたのだと思うと、スポーツで全力を尽《つ》くしたあとのような快い疲《つか》れを感じた。  からだはだるかったし、手の火傷《 や け ど》も痛んだが、気分のいいことはこの上もなかった。  「正実君」  ともう一度呼びかける。  「あなたも何か食べる?」  少しして、  「そうだね……」  とためらいがちの答え。  「じゃ目玉焼き」  「片目? 両目?」  「両目」  「本当の両目でね」  「ああ」  紀子は卵を出して、フライパンへ落とした。——ちょうどいいくらいに固まったときだった。  「パパの車だよ! 車が見える!」  とインターホンから正実の声がした。紀子はガスの火を消した。——玄《げん》関《かん》のほうに、車の止まる音がして、続いて車のドアが開き、閉まる音。そして玄関のチャイムが鳴った。  「はーい!」  大声で返事をして、紀子は玄関へ向かって走り出した。彼《かれ》が帰って来た! 飛び立つような足取りだった。  「お帰りなさい!」  といいながら玄関のドアを開けて——紀子の笑顔が凍《こお》りついた。  正実が立っていた。足元に、テープレコーダーが回っている。正実の手は大きな包丁をしっかりと握《にぎ》りしめていた。  玄関のわきのインターホンで声をかけておいてから、表へ出て、テープに入れてあった車の音を聞かせ、チャイムを押《お》したのだ。  紀子は息を吐《は》いた。  「あなたの勝ちだわ」  といって、正実を見た。  正実はこどもっぽく見えた。一夜のうちに、正実のことを、もっと恐ろしい形相の殺《さつ》人《じん》鬼《き》だと思い込《こ》むようになっていたのだ。  だが、目の前に立っているのは、十一歳《さい》の少年そのものだった。  「早く刺《さ》したら?——本当にパパが来るわよ」  と紀子はいった。  「どうして逃《に》げないのさ!」  と正実が叫《さけ》ぶようにいった。  「どうして怖《こわ》がらないんだ! どうして包丁を取り上げないんだよ!」  「約《やく》束《そく》したもの。——私を殺すかどうか、あなたに任せる、って」  正実が両手で包丁を握《にぎ》りしめた。——そして、思いがけず、正実は泣き出した。  包丁が手から落ちて、ポーチの床《ゆか》に突き立った。  正実は両手で顔を覆《おお》って泣きつづけた。紀子はそっと少年の肩《かた》に手をのばした。指先が触《ふ》れたとき、正実はビクッとからだを動かしたが、そのまま紀子へ抱《だ》きついて来た。  紀子は力いっぱい、少年を、我が子を、抱きしめた。  そのとき、クラクションの音がして、涙《なみだ》にうるんだ紀子の目に、緑のBMWが私道を走って来るのが映《うつ》った。 少 女 1  「私を買っていただけませんか?」  初め、彼《かれ》は自分が話しかけられたのだとは思わず、そのまま足を進めた。しのつく雨、底冷えのする三月の夕方で、つい足を早めがちになるところだ。  「あの……」  その少女が、追いすがるように一《いつ》緒《しよ》に歩いて来たので、彼は初めて足を止めた。  「何だい? 何か用?」  少女は傘《かさ》を持っていなかった。バーや一《いつ》杯《ぱい》飲み屋の立ち並《なら》ぶこの小路の軒《のき》下《した》で、身をすくめるように雨を逃《のが》れていたのだ。髪《かみ》に雨《う》滴《てき》が光り、セーラー服にはおった灰色のハーフコートは、かなり雨を吸《す》って黒ずんでいる。  「あの……買っていただけたら……と思って……」  おずおずと、囁《ささや》くような声になっている。  「何を買えって?」  と彼はぶっきら棒《ぼう》に訊《き》いた。花《はな》束《たば》か何かを売りつけられるのかと思って、不《ふ》愉《ゆ》快《かい》になったのだ。それにしては何も手にしていないが。  「私を……」  低いが、はっきりした声で少女が言った。彼は急に見知らぬ場所で目をさましたような気分で、改めて少女を見つめた。——十六歳《さい》か、そんなところだろう。体ばかりがいやに成熟した娘《むすめ》たちが多い中で、その少女はいかにも少女っぽい、未成熟な印象を与えた。恐《おそ》る恐る見上げる目も、大人《 お と な》の世界への入口に立って、ためらいがちに中を覗《のぞ》き込んでいるといった趣《おもむき》がある。  彼は一《いつ》瞬《しゆん》の当《とう》惑《わく》からさめると、慌《あわ》てて手にした傘《かさ》を少女の上へさしかけた。  「大分濡《ぬ》れてるね。——寒いだろう」  「いいえ」  「しかし……立ち話もできない。おいで」  彼は手近な喫《きつ》茶《さ》店《てん》へ少女を連れて行った。  「——さて、と」  彼はコーヒーのカップを置いて、ひと息つくと、  「君は、自分のしようとしていることが分ってるんだろうね?」  「ええ」  少女は固い表情で答えた。ココアを一心にすすっていたのは、かなり長い間、軒《のき》下《した》に立っていて、身体が冷え切っていたのだろう。  「よく、こんなことをするの?」  「いいえ。……初めてです」  「一体どうして——」  「お金がいるんです。すぐに!」  せっぱつまった口調でそう言うと、じっと彼《かれ》の目を見つめた。  「——買ってもらえますか?」  彼はしばらくコーヒーカップを弄《もてあそ》びながら考え込《こ》んでいたが、やがて肯《うなず》いた。  「よし。買おう」  彼の名は笠《かさ》原《はら》忠《ただ》男《お》。小さな広告代理店に勤めるコピーライターである。すでに今の職場に十年余り、三十五歳《さい》になっていたが、自分ではもう四十代、いや五十歳にもなったような気分だった。仕事に情熱もなく、ただ単調な毎日を、欠伸《 あ く び》をかみ殺しながら過ごしていた。楽しみといえば、会社の帰りにバーへ立ち寄って、なじみのホステスと冗《じよう》談《だん》を言い合うくらい。  家には、何の楽しみも安らぎもなかった。二十七歳の時結《けつ》婚《こん》したのは、別に相手を愛していたからではない。ほんの遊びのつもりが、妊《にん》娠《しん》させてしまって、どうにも逃《に》げられなくなってしまったのだ。妻の澄《すみ》江《え》は彼より三歳も年上で、底意地の悪い性格だった。子供が無事に生まれていれば、それでも少しは違《ちが》っていたかもしれない、と笠原は時折思うことがある。澄江は流産し、しかも子供のできない体になった。それが彼女のひねくれた性格を一層助長したようだった。  「いくらほしいの?」  笠原は少女に訊《き》いた。少女は少しためらってから、  「二万円あれば……」  と言った。彼は肯《うなず》いて見せると、少女はほっとしたようだった。運がいいぞ、君は。笠原は内心苦笑した。いつもなら、五千円の金もやっとなのに、今日はたまたま同《どう》僚《りよう》に貸してあった三万円が戻《もど》って来てまだ懐《ふところ》にある。  「場所は?」  彼の問いに、少女は戸《と》惑《まど》ったように彼を見上げた。  「場所だよ。どこか友達のアパートか何かを使うの?」  少女は首を振《ふ》った。  「場所は……考えていません」  「そうか。それじゃ、その辺の旅館にしよう。構わないね」  「ええ。……あの、その料金は二万円から引いていただいても……」  「いいさ。どうせ大した金額じゃない」  と笑う。どうやら、本当にこの娘、初めてのようだ。  「さて、じゃ行こうか」  彼は伝票を手に立ち上った。  どこにでもある、古びた木造の二階屋だった。ごく当り前の家に、「旅館——荘《そう》」という、かすれて文字の消えかかった看板が出ている。玄《げん》関《かん》を入ると、笠原は中を見回した。物音もせず、人の住んでいる気配もない。一《いつ》瞬《しゆん》、空屋にでも入って来たのかと思った。  急に廊《ろう》下《か》の角を曲って、老《ろう》婆《ば》が現れた。  「休《きゆう》憩《けい》したいんだがね」  老婆は、彼《かれ》を見ようともしなかった。  「先払いで頼《たの》みますよ」  意外にしっかりした声で言った。  「一人ですか」  「一人だよ」  笠原はそう言って玄関の外に立っていた少女を手招きした。少女は、薄《うす》い氷を踏《ふ》むような足取りで、中へ入って来ると、不安げに周囲を見回す。笠原は、  「一人だよ」  とくり返すと、休憩の料金の倍の金を老婆の骨ばった手に握《にぎ》らせた。老婆は黙《だま》って廊下の奥《おく》のほうへ二人の先に立って歩いて行った。  空気の淀《よど》んだ、じめじめした六畳間だった。老婆が床《とこ》を敷《し》く間、二人は座る所もなく、立って待っていなくてはならなかった。  少女が細かく震《ふる》えているのに気付いて、笠原は肩《かた》に腕《うで》を回してやろうとしたが、思い止まった。却《かえ》って少女を怯《おび》えさせるだろう、と思ったのだ。  「ごゆっくり」  思いがけない愛《あい》想《そ》を言うと、老《ろう》婆《ば》は出て行った。  「座らないか」  「ええ……」  二人はわずかな畳《たたみ》の上に腰《こし》を降した。笠原はタバコに火を点《つ》けると、じっと顔を伏《ふ》せたまま身動きもしない少女を見た。  「どうして金がいるんだい?」  少女は答えなかった。  「その……子供を堕《おろ》そうとか、そういったこと?」  「そんなんじゃありません!」  叩《たた》き返すような激《はげ》しさに、彼は面食らった。  「いや……ごめんよ。つい、その……」  彼は慌《あわ》てて言い訳を捜《さが》した。  「いやだね、中年男ってのは。そんなことばっかりしか考えないんだから……」  と、取ってつけたように笑ったが、少女のほうはまるで聞いていないようだった。笠原は咳《せき》払《ばら》いして、タバコをふかした。  彼は生れつき、争いを嫌《きら》う性格である。人と喧《けん》嘩《か》するよりは、自分が我《が》慢《まん》してしまうほうなのだ。妻との間に、冷え切ったよそよそしさしかなくなっても、離《り》婚《こん》など考えもしなかったのは、やはりその性格によるものだろう。別れられたら、どんなにいいだろうと思いつつ、澄江のほうで全くその気がないのを知っていたので、裁判や、そこに行くまでの数限りない争いを考えると、まだ今の状態を忍《しの》んでいるほうが良かったのだ。  「——ごめんなさい」  少女が囁《ささや》くような声で、  「ついカッとしてしまって」  「いや、いいんだよ」  「私、学校のクラス委員なんです」  少女は少し平静な口調になって、  「今度、担任の先生が結《けつ》婚《こん》することになって、クラスでお祝いを買うお金を集めたら、二万円とちょっとになりました。で、私がクラスの代表で、今日お祝いの品を買って、明日先生に渡《わた》すことになっているんです」  「ところがその金を失くしたんだね」  「いいえ。——盗《と》られたんです」  「誰《だれ》に?」  「上級生の番長グループなんです。とても怖《こわ》くて、みんな手も足も出ませんし、先生たちも見て見ぬふりなんです」  「ひどいね」  「私がクラスのお金を持ってることをちゃんと聞き込《こ》んでたらしいんです。校門を出た所で四、五人に囲まれて、近くのお寺の境《けい》内《だい》へ連れて行かれ……。素直に渡さなかったら何をされるか分らなかったんです」  「それじゃ仕方ないじゃないか。君の責任じゃないよ。警察へ届けるか、先生の所へ——」  「だめです! とんでもない!」  少女は激《はげ》しく首を振《ふ》った。  「それこそ、後で何をされるか分りませんもの。そんなこと、とってもできません」  「ふん……」  笠原は煙《けむり》をはき出しながら、  「じゃご両親に事情を説明して、そのお金を借りたらどう?」  「父も母も、私がお金を脅《おど》し取られたなんて耳にしたら、一も二もなく警察へ訴《うつた》えて出るに決っています」  「それで、どうしようもなくなって……というわけか」  「ええ」  笠原は、また黙《だま》り込《こ》んでしまった少女をしばらく眺《なが》めていた。それから並べて敷《し》かれた二組の布《ふ》団《とん》へちらっと視線を走らせる。  「君は、どれくらいあそこに立ってたの?」  「——さっきの軒《のき》下《した》に、ですか?」  「うん」  「一時間ぐらいだと思います」  「他の男にも声をかけたのかい?」  「いいえ」  「どうして?」  「なかなか……言葉が出て来なくて……」  「なぜ僕《ぼく》を選んだの?」  少女はしばらく答えなかった。  両手が白いハンカチを引き裂《さ》かんばかりに握《にぎ》りしめている。  「たぶん……何となく、安心できそうな人だと感じたからだと思います」  少女は一息ついてから、  「初めてだから、せめて優しそうな人、と思って……」  笠原はため息をついた。そうなのか。初めてなのか。  「なるほどね」  彼は財布から二万円抜《ぬ》いて少女へ渡《わた》した。  「すみません」  少女はちょっと頭を下げて、「終わった後でもらうのかと思ってました」  「帰りなさい」  「え?」  「行っていいよ」  「でも——」  「初めての体験をさせるなんて、僕《ぼく》には荷が重すぎるよ。その金を持って行きなさい」  「でも、お返しできるかどうか分りません」  「貸すんじゃない。あげるんだ」  当《とう》惑《わく》顔《がお》の少女を、笠原は楽しい気持ちで眺《なが》めた。——正直な所、目の前にいる少女に欲望を感じないわけではない。だが、相手がすれっからしの不良ならまだしも、男を知らない処女と知っては、やや気がとがめるのだ。  「そんなわけにはいきません」  少女は真《しん》剣《けん》な表情で言った。  「どうして?」  「だって、あなたは二万円で私を買ったんですもの。私も承知の上でこのお金をいただいたんです。何もしないで……」  「いいじゃないか」  笠原は微《ほほ》笑《え》んで、  「買った物を使うかどうかは買った人間の自由さ」  「——すみません」  少女は目に涙《なみだ》を浮かべていた。  「その代り、どうだい、まだ時間があったら、一つ頼《たの》みがあるんだけどね」  「何でしょう?」  「宣伝文句を考えてくれないか。三日も頭をひねってるんだが、いいのを思いつかないんだ」  「それがお仕事なんですか」  「そう」  「何の宣伝文句を考えるんですか?」  「貸しオムツなんだがね」  一《いつ》瞬《しゆん》、呆《あつ》気《け》に取られてから、少女は吹《ふ》き出した。  雨も上って、夜空には所々星もみえていた。もう九時に近い。笠原はいつになく上《じよう》機《き》嫌《げん》で、家路を辿《たど》る足取りも軽かった。  ほんのひとときであったが、彼《かれ》はあのセーラー服の少女と語り合っている間、青春を取り戻《もど》したのだ。自分の冗《じよう》談《だん》に少女が心から愉《ゆ》快《かい》そうに笑うのを見て、彼は不思議な喜びを感じた。妻の澄江は、彼が何か冗談を言っても、笑ったこともなかったから……。  いいことをしたな、という満足が彼の心を充《み》たしていた。その満足は、あの肉体をわがものにすることでは、決して得られないものであったろう。——二万円の価値は充《じゆう》分《ぶん》にあったと彼は信じていた。いや、金に換《かん》算《さん》できない、何か貴重なものを手に入れたのだ……。  笠原の住いは都営アパートの三階である。いつもなら重い足取りで、いつまでも家に着かなければいいのに、と思いつつ上る階段も、今日は弾《はず》むような勢いで上ってしまった。  澄江の顔を見ればまた気が滅《め》入《い》るのは分っていたが、それもさして苦にならないほど、彼はいい気分であった。  「ただいま」  玄《げん》関《かん》のドアを開ける。返事はなかった。いつものことだ。玄関を上れば、すぐダイニングキッチンである。笠原は、おや、と思った。食事の仕度も、片付けた跡《あと》もない。どうなってるんだ?  「おい、澄江——」  襖《ふすま》をガラリと開けて、六畳間へ入った笠原は、その場に立ちすくんだ。  一組だけ敷いた布《ふ》団《とん》の上で、澄江が死んでいた。全《ぜん》裸《ら》で、上半身は朱《しゆ》にそまっている。たるんだ乳《ち》房《ぶさ》の間に、グロテスクな傷が口を開けていた。  膝《ひざ》が震《ふる》えて、立っていられなかった。その場に座り込んでしまう。そして凄《せい》惨《さん》な光景から思わず目をそらした時、すぐそばに鋭《するど》いナイフが落ちているのに気付いた。見たこともない、細身のナイフだ。刃《は》にも、プラスチックの柄《え》にも血がこびりついている。——突《とつ》然《ぜん》のショックで、頭が働かなかったのだろう、彼は無意識の内に、そのナイフを手に取って眺《なが》めていた。  「ごめん下さい」  玄関から声がして、彼は飛び上らんばかりに驚《おどろ》いた。振《ふ》り向くと、隣《りん》家《か》の主婦が何やら皿《さら》を手に入って来るところだった。  「今晩は。あの——」  主婦の手から皿が落ちると、次いで悲鳴がほとばしる。大きく見開かれた目が恐《きよう》怖《ふ》を湛《たた》えて自分のほうに向けられているのを見た時、初めて笠原は自分の立場を悟《さと》った。  「違《ちが》う……。違うんだ……」  呟《つぶや》くような言葉は、けたたましい悲鳴にかき消された。 2  校門から次々にセーラー服の群が吐《は》き出されて来る。活発な足取りで左右へ別れて行く流れの中に、一つの顔を捜《さが》すのは大変な難事だった。  笠原は、公衆電話のボックスの中で、格好だけ受話器を耳に当てながら、目は忙《いそが》しく一つ一つの顔を追っていた。しばらく見ている内に、目が刺《さ》すように痛んだ。昨夜は一《いつ》睡《すい》もしていない。公園のベンチで夜を明かしたのだが、寒さと、いつ警官が現れるかという恐《きよう》怖《ふ》で、眠《ねむ》るどころではなかった。  逃《に》げたのはまずかっただろうか。確かに、自分から犯行を認めたようなものだ。しかし、あの状《じよう》況《きよう》でおとなしく警官の来るのを待っていたら、どうなっただろう。隣《となり》の主婦は、彼が凶《きよう》器《き》を手にしているのを見たのだ。  「そりゃあ、恐《おそ》ろしい形相でしたわ」  とでも話していることだろう。それに、二人の仲が巧《うま》く行っていなかったのは、あのアパートの住人ならみんな知っている。刑《けい》事《じ》が聞き込《こ》みをするまでもなく、すすんで大喜びでしゃべるに違《ちが》いない。  いずれにしろ彼はまず第一の容疑者というわけだ。第一、というのは他に第二の容疑者がいればの話だが……。  しかし、一体ここで俺《おれ》は何をしているんだろうか? 笠原は自問した。あの少女を見つけてどうしようというのか。  たまたま知人の娘と同じ制服だったので、あの少女がこの高校の生徒と知ったのだが、むろん少女からは学校の名はおろか、彼《かの》女《じよ》の名さえ聞いていない。彼もまた、聞こうとも思わなかった。それなのに、今、こうして彼女の顔を捜《さが》しているのは、なぜなのか。——笠原自身にも、はっきりとは答えられなかった。  いつ果てるとも知れなかった生徒たちの流れが、やがて次第にまばらになって来る。少女はまだ現れない。見落としてしまったのだろうか。それとも今日は休んでいるのか。それとも……。  朗《ほが》らかな笑い声を響《ひび》かせて、四人の女学生が校門を出て来た。その中に、少女がいた。ほっとすると同時に、笠原は戸《と》惑《まど》った。どうすればいいのだろう? まさか近寄って行って声をかけるわけにもいかない。  その時、まるで呼ばれる声でも聞いたかのように、少女が彼《かれ》に気付いた。はっと目を見張ると、素早く学友たちのほうを見る。迷っているのだろう。無視して行ってしまおうか、どうしようか、とためらっているのだ。二、三歩他の女生徒と歩いて、足を止めると、何やら言い訳めいたことを言っているらしく見えたが、やがて手を振《ふ》って、一人くるっと向きを変えて歩き出した。笠原は安《あん》堵《ど》の息をつく。  少女は彼のいる電話ボックスの前を、彼のほうにちらりとも目をやらずに、通り過ぎて行った。受話器をかけると、少し間を置いてボックスを出る。  「——新聞、見ました」  少女は言った。  「そう」  笠原はポツリと言った。  神社の境《けい》内《だい》には、他に人《ひと》影《かげ》もない。  「奥《おく》さん……お気の毒でしたわ」  彼は苦笑して、  「僕たちの間はもう冷え切ってたんだ。新聞にもそう書いてなかったかい?」  「ええ。でも……」  「そりゃね、何年も一《いつ》緒《しよ》に暮らして来たから、一種の感《かん》慨《がい》みたいなものはあるさ。しかし、嘆《なげ》き悲しむってわけにはいかないよ。特に、自分が殺人犯として追われている時にはね」  「犯人とは書いてありませんでしたわ。重要参考人、と……」  「同じことさ」  笠原は肩《かた》をすくめた。  「特に凶《きよう》器《き》のナイフを持っているところを隣《となり》の奥さんに見られてしまって……」  「ショックだったでしょうね」  「まあね。でも、君は——」  「え?」  「君は怖《こわ》くないの? 僕《ぼく》と二人でいて」  「だって、あなたが殺したんじゃないでしょう」  「僕じゃない。君は信じてくれるのかい?」  「だって、新聞だと、殺されたのは七時前後だとありましたもの。ちょうど私と一《いつ》緒《しよ》にいた頃《ころ》でしょう」  「そう書いてあったのかい?」  笠原は思わず問い直した。顔を見られるのが怖《こわ》くて、新聞も買っていないのだ。  「ええ。だから……私が警察で話せば、あなたの疑いは晴れるのでしょう」  「いや、それはいけないよ」  少女は面食らった様子で、  「だって——そのために私を待っていたんじゃないんですか?」  「いや、そうじゃない。ただ——疲《つか》れちまってね。何だか、もう一度君に会いたくなって、つい……」  少女はじっと彼の顔に見入って、  「ゆうべ、眠《ねむ》ってないんでしょう」  「うん」  「ひげも剃《そ》ってないし」  「そうか」  彼は手で、ざらつく顔を撫《な》でた。  「ひどい様《よう》子《す》だろう?」  少女は何か思いついた様子で、きっぱりとした口調になり、  「うちへ来て下さい。少し休まないと」  「君の家へ?」  「父も母も旅行してて、一人なんです。心配ありませんから」  「しかし、君に迷《めい》惑《わく》がかかるよ」  「大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》! さあ、ついて来て」  少女はさっさと歩き出す。笠原は一《いつ》瞬《しゆん》ためらったが、拒《こば》むだけの勇気もなかった。  「死んだようになって眠ってたわ」  彼女が微《ほほ》笑《え》みながら言った。  「今、何時頃《ごろ》だ?」  笠原は目をこすりながら、ベッドに起き上った。  「もうすぐ夜の十時よ。ご飯、今温めるから食べて下さいね」  少女はセーラー服から、TシャツにGパンという服装になって、一層若々しく見えた。  笠原は顔を洗い、カミソリを借りてひげを剃《そ》った。——すっかり気分も軽くなる。  「お料理、下《へ》手《た》なの」  少女が照れくさそうに、  「がまんして下さいね」  「いや、なかなか旨《うま》いよ」  彼《かれ》は言った。  正直なところ、それほどいい味とも言えなかったが、この安らぎが何よりのごちそうであった。  「どうして、私に警察へ行って話せと言わないの?」  と少女が訊《き》いた。  「何と言うんだね? 別に前からの知り合いでもない僕《ぼく》らが、どこで何をしてたのか、訊かれたら、返事のしようがないじゃないか」  少女は黙《だま》って目を伏《ふ》せた。  「僕らが連れ込み宿へ行って、何もしなかったと言ったって誰《だれ》も信じちゃくれないよ。そうなれば、君だって大変だ。学校にもいられなくなるかもしれない」  「だって……殺人の疑いをかけられてるのに! そんなこと言ってられないでしょう?」  「心配ないさ。僕は犯人じゃないんだ。ということは他に犯人がいるってことだからね。きっとすぐつかまるよ」  「呆《あき》れた!」  「何が?」  「呑《のん》気《き》なこと言って! 警察はあなたを捜《さが》してるのに、他の犯人なんか調べるはずがないじゃないの」  「うむ……。そうかなあ」  笠《かさ》原《はら》は熱い茶をすすりながら考え込《こ》んだ。そう言えば、今の今まで考えてもみなかったが、澄《すみ》江《え》を殺したのは一体誰《だれ》なのだろう?  「きっと強《ごう》盗《とう》か何かだと思うがね……」  「でも新聞には、室内が荒された形《けい》跡《せき》はなかったって」  「そうかい?」  「憶《おぼ》えてないの?」  「そう言われてもね……何しろいきなり女《によう》房《ぼう》が裸《はだか》で死んでるのを見たら——」  そうか。強盗殺人なら、裸で殺されていたのもちょっと妙《みよう》だ。手足を縛《しば》られていたというわけでもない。刃《は》物《もの》で脅《おど》されたのだろうか?  「……いや、違《ちが》うな。強盗じゃない」  笠原は首を振《ふ》った。  「どうして?」  「今思い出したよ。脱《ぬ》いだ服が枕《まくら》元《もと》にきちんとたたんで置いてあった。あいつはいつもそうなんだ。いや——」  と慌《あわ》てて、  「風《ふ》呂《ろ》へ入る時なんかのことだよ、洗《せん》濯《たく》カゴへ放り込《こ》むにも、ちゃんとたたんで入れるんだ。しかしいくらそれが癖《くせ》だと言ったって、刃物で脅《おど》されて脱いだのなら、まさかいちいちたたんだりする余《よ》裕《ゆう》はないだろう」  「というと……どうなるのかしら?」  「つまり……」  笠原はそろそろと湯《ゆ》呑《の》み茶《ぢや》碗《わん》を置いた。自分で出した結論に面食らってしまったのだ。  「女房は自分で服を脱いだってことだ。つまり……誰《だれ》か男がいた……」  「奥《おく》さんに恋《こい》人《びと》が?」  「いたのかな?」  笠原のほうが思わず少女へ訊《き》いた。  「私に分るはずがないでしょう」  「そうだ。そりゃそうだ。……しかし、驚《おどろ》いたな。あいつに男がいたのか! まるで気が付かなかった」  しかし、気付かなかったのも不思議ではない。何しろ、毎日、ろくに口をきくこともなかったのだ。たまに出るのは愚《ぐ》痴《ち》と皮肉で、彼のほうはいちいち腹も立てなくなっていた。これでは妻が何人男をつくろうが、分るはずもない。  「そうだったのか……」  笠原はため息をついた。  「その男に殺されたんだな」  「でも、どうして——」  「あいつは執《しゆう》念《ねん》深い女だったからね。男のほうが煩《わずら》わしくなって来たんじゃないかな。しかも女房は冷静に話し合いのできる相手じゃない。別れ話でも持ち出されたら、きっとわめき立てたに違《ちが》いない」  彼《かれ》は表情を曇《くも》らせて、「可《か》哀《わい》そうなことをしたな。僕《ぼく》とうまく行かなかったばっかりに男をつくって、殺されるはめになったとしたら……。僕があいつを殺したようなものかもしれない」  少女はしみじみと彼を見つめた。  「あなたって、本当に人がいいのね。奥《おく》さんはあなたを裏切ってたのよ。腹が立たないの?」  「僕だって裏切ろうとしたよ。昨日ね」  少女は顔を赤らめた。  「——で、これからどうするの?」  「さあ……。ともかく、ここにいては君に迷《めい》惑《わく》がかかるばかりだ。充《じゆう》分《ぶん》食べたし、もう失礼するよ」  「私は構わないのに。明日になると父が戻《もど》るけど……」  「そうだろう? 今夜の内に失礼するよ」  「どこか行くあてはあるの?」  「何とかなるさ」  「だめよ。また公園なんかをフラフラしてたら風《か》邪《ぜ》を引くわ。外は雨よ」  「なに、どこか友達の所へ行くよ」  「お友達?」  「これでも友達ぐらいいるんだからね」  「だって……大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》なの?」  「大丈夫、って、何が?」  「もし、警察に知らせて——」  「おい!」  笠原は珍《めずら》しくいきり立って、  「僕の友人にそんな奴《やつ》はいないぞ!」  「それならいいけど……」  「ちょっと電話を借りるよ」  「ええ」  笠原は手帳を取り出して、ダイヤルを回した。  「もしもし。——ああ、金《かね》子《こ》か? 俺《おれ》だよ。笠原だ。実はな——」  笠原は口を閉じた。切られてしまったのだ。傍《そば》で少女が、そらごらんなさい、といった顔をしている。彼は咳《せき》払《ばら》いして、  「今の奴は奥《おく》さんの両親と同居しててね、やっぱり気兼ねなんだよ」  気を取り直して、別の番号を回す。  「もしもし。——ああ、八《はつ》田《た》か。笠原だよ。——うん、いや、全く困っちまってるんだ。——悪いんだが、今夜一晩泊《と》めてもらえないかな。——え?」  と目を丸くして、  「おい! まさか本当に俺《おれ》がやったと思ってるんじゃないだろうな? 一体何十年の付き合いなんだ。俺にそんなことができると——。よし、分った。もう頼《たの》まん!」  受話器を叩《たた》きつけるように置いて、  「畜《ちく》生《しよう》! もう絶交だ!」  ちらりと少女のほうを向いて、  「こういう時に、本当の友人が分るもんだね」  「ねえ、もうやめておいたら?」  「いや、今度の奴《やつ》は大丈夫。どんな秘密でも打ち明け合う仲でね。それに独身の一人暮《ぐら》しなんだ」  不安げな少女に微《ほほ》笑《え》んで見せると、彼は受話器を取り上げ、ダイヤルを回した。  「もしもし。山《やま》藤《ふじ》か? 俺だよ。——ああ、元気だ。今ちょっと知り合いの所にいる。——え?——そうなんだ。で、よかったら今夜一晩。決して迷《めい》惑《わく》はかけんよ。——そうか。すまんな。——じゃ今から行く。——そうだな、三十分ぐらいかな。——じゃ、その時」  ほっとして受話器を置くと、  「やっと引き取り手があったよ」  「何ですって、その人?」  「どうして俺の所にすぐ来なかったんだ、って怒《おこ》られちまった。いつまででもいればいいと言ってたよ」  「そう、よかったわね」  「君にもすっかり世話になったね」  「何でもないわ。でも……」  「何だい?」  「その人の所へ行くの、明日にしたら? 今からじゃ遅《おそ》いわ」  「大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》。まだ終電には間があるよ」  彼はコートをはおって、表へ出た。細かい霧《きり》雨《さめ》が降っている。  「それじゃ」  「気をつけてね」  「君にまた会えてよかったよ」  少女は黙《だま》っていた。——笠原はコートの襟《えり》を立てて、雨の中へ駆《か》け出した。  地下鉄を降り、友人のアパートへと急ぐ。途《と》中《ちゆう》、ふと思いついて道を折れた。アパートへ裏から入る狭《せま》い階段があったのを思い出したのである。  正面から入って、アパートの他の住人に万一顔を見られたら、友人がまずいことになるかもしれない、と思ったのだ。裏通りを歩いて行くと、アパートの二階の明るい窓が見えて来る。——友達ってのはいいもんだ、思わず笑顔になる。  彼は足を止め、目を見張った。アパートの裏の物《もの》陰《かげ》に、身をひそめるように、一台のパトカーが停《とま》っていた。中に制服の警官の姿が見える。  ぼんやりと突《つ》っ立っていると、突然、腕《うで》をつかまれた。  「何してるの!」  あの少女だった。  「つかまっちゃうじゃないの! まだ見られてないわ。早く!」  笠原は呆《ぼう》然《ぜん》として、半ば引きずられるように、走り出した。 3  「あなたって馬《ば》鹿《か》よ! 馬鹿だわ!」  もう何十回も、少女はくり返していた。  「分ってるよ……」  笠原は力なく肯《うなず》いた。  少女の家へ戻《もど》って来た時は、いい加減服も濡《ぬ》れ、体が冷え切っていた。少女の淹《い》れたコーヒーで、やっと体が暖くなる。  「僕《ぼく》が間違ってた。——友達だからって、こんなことまで頼《たの》んじゃいけないんだ。彼《かれ》らには彼らの生活がある。僕をかくまってたことが分ったら、連中は職を失うかもしれない。そんな危険を犯《おか》してくれと頼むなんて、僕がどうかしてたんだ」  「あなたって……」  少女は首を振《ふ》った。  「腹が立たないの? どうして怒《おこ》らないの? 友人に裏切られたのよ!」  「いや、僕が逆の立場だったら、やはり同じようにしたかもしれない。彼を責めるわけにはいかないよ」  急に少女が両手に顔を埋《う》めて、すすり泣きを始めた。——彼はびっくりして、  「どうしたの? 何を泣いているんだい?」  少女は泣き濡《ぬ》れた顔を上げた。  「あなたがあんまり馬《ば》鹿《か》なんだもの! あんまり馬鹿で、お人好しで……可《か》哀《わい》そうで……」  「おい、もう泣かないでくれ……頼《たの》むよ」  笠原は、すすり泣いている少女の肩《かた》を抱《だ》いて、じっと考え込《こ》んでいたが、やがてゆっくり立ち上った。  「どこに行くの?」  と少女が顔を上げた。  「警察へ行くよ」  「だめよ!」  「なに、別に自首するわけじゃない。出頭ってやつさ。向うで捜《さが》してるらしいから、こっちから行ってやる。——大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》。何もしてやしないんだから、話せば分ってくれるさ」  「行かないで!」  「心配しなくたっていいよ。君のことは決してしゃべらない。あの時間にはどこかを散歩してたとでも言うさ。誰《だれ》だって嘘《うそ》だとは言えやしないだろう」  笠原はコートを手に取った。  「それじゃ行くよ」  「待って。ちょっと……」  「何だい?」  「私の部屋まで来てちょうだい」  「どうして?」  「いいから。あなたにお守りをあげたいの」  「お守り?」  「そうよ」  少女は彼の手を引いて廊《ろう》下《か》を歩いて行く。  「成《なり》田《た》山《さん》か何かかい?」  「——入って」  部屋へ入ると、少女はつかつかと部屋の中央へ進んで、くるっと振《ふ》り向いた。そしてやおら、Tシャツをまくり上げて脱ぎ捨てた。  「君! 何してるんだ!」  呆《あつ》気《け》に取られている間に、少女は次々に服を脱いで、全《ぜん》裸《ら》で彼《かれ》の前に立った。  「私がお守りになってあげる」  裸の体が彼の腕《うで》の中へ飛び込んで来た。久しく抱いたことのない、若々しいしなやかな肉体が彼のためらいがちな手の中で息づいている。少女の唇《くちびる》を吸いながら、彼はまるで青年時代のように自分が燃え立つのを感じた。ためらいを振り捨てて、彼は少女と共に小さなベッドに倒《たお》れ込《こ》んだ……。  「——もう分ったでしょう?」  「何が?」  「私のこと、そんなに心配しなくたっていいんだってことが」  「どうして?」  少女はベッドに起き上って、  「だって、私が処女じゃなかったのは分ったでしょう?」  「ああ。——一応これでも結《けつ》婚《こん》してたからね」  「私、不良なのよ。何人も男を知ってるわ。だから、あの時だって——あなたをだましたのよ。作り話をして、初めてのふりをして……。何も遠《えん》慮《りよ》することないわ。どうせいつかは退学処分だもの。警察で私のこと言って構わないのよ」  彼は指先でそっと少女の頬《ほお》を撫《な》でた。  「君はいい人だよ。僕《ぼく》をかくまい、優しくしてくれた。——僕は君を裏切ったりしない」  少女はため息をついた。  「本当にあなたって……」  「今度は何て言うんだ?」  「頑《がん》固《こ》ね!」  少女が唇《くちびる》を押《お》し当てて来た。彼は少女を抱きしめながら、不思議な気持ちだった。これほどの充《じゆう》足《そく》感《かん》を味わったことはない。たとえ殺人罪で刑《けい》務《む》所《しよ》へ行っても、この思い出さえあればいい、という気分だ。  少女にそう言おうかと思って、考え直した。また、  「あなたって馬《ば》鹿《か》ね!」  と言われそうな気がしたのだ。  「笠原忠男ですが……」  交番の警官はけげんな顔で、  「どなたです?」  「笠原忠男。——ほら、妻の澄江が殺された件で、警察が捜《さが》しておられるはずなんですが」  「そうですか? じゃちょっと署へ問い合せますから」  「はあ」  「そこへ座って、お待ち下さい」  「どうも」  笠原は何だか肩《かた》すかしを食ったようで、ちょっとがっかりした。もっと大《おお》騒《さわ》ぎされるかと思ったのに。まさか拳《けん》銃《じゆう》を突《つ》きつけられると期待していたわけではないにしても……。  「ええと、お名前は何でしたかね?」  警官がダイアルを回してから訊《き》いた。  「——今、パトカーで迎《むか》えに来るそうです」  受話器を置くと、警官が言った。  「そうですか」  「お茶でも一《いつ》杯《ぱい》どうです?」  「どうも……」  笠原はすっかり面食らってしまった。  「——笠原さんですな?」  「そうです」  「奥《おく》さんのことはお気の毒でした」  「恐《おそ》れ入ります」  デスクの向うの男は、テレビで見る刑《けい》事《じ》とは違《ちが》って、いやに愛《あい》想《そ》がよく、まるで銀行の窓口にでもいるような気がした。ただし引出しでなく、預け入れの時だ。  「ずっとお捜《さが》ししていたんですよ」  「申し訳ありません」  「いや、ショックだったのは分りますがね。実は容疑者を押《おさ》えてあるものですから」  笠原は耳を疑った。  「容疑者ですって?」  「ええ」  「僕《ぼく》の他にですか?」  今度は刑事がびっくりして、  「あなたは容疑者なんかじゃありませんよ」  「しかし、新聞では——」  「ああ、あの時点では、まだ容疑者があがっていませんでね。それで、あなたが怪《あや》しいような記事になってしまったんです。すみませんでしたな」  「いいえ……。でも、僕《ぼく》は凶《きよう》器《き》を持っている所を見られたし、てっきり——」  刑事は笑って、  「私どもはミステリーに出て来る警官ほど間《ま》抜《ぬ》けではありませんよ。あなたが奥《おく》さんを殺してから二時間も凶器を持ってそばに座っているなどとは考えませんよ」  「はあ……」  笠原は夢《ゆめ》を見ているようだった。  「それじゃ、容疑者というのは……」  刑事はちょっとためらってから、  「奥さんに愛人がいたのはご存知ですか?」  「いいえ」  「暴走族の若い男でしてね。アパートの近所の方は何度か見かけてよくご存知でしたよ」  「そうですか」  知らぬは亭《てい》主《しゆ》ばかり、というやつだ。  「ちょうど奥さんが殺された頃《ころ》、そいつらしい男が逃《に》げるように出て行くのをアパートの一階の方が見ているんです。むろん奴《やつ》は否認していますがね。——お会いになりますか」  「はあ」  一体どうなってるんだ? 笠原は何が何だか分らなかった。だが、どうも殺人罪で刑《けい》務《む》所《しよ》入りってことだけはなさそうだ……。  取調室へ入ると、椅《い》子《す》に座っていた皮ジャンパーの若者が彼《かれ》のほうを見た。初めて見る顔だった。少しも悪びれた様《よう》子《す》はない。ふてぶてしい、というのか、自信たっぷりの様子で笠原を見上げる。  「あんた、新しいデカさんかい?」  「いや……。僕は笠原だ」  「へえ! じゃ、あんたがご亭《てい》主《しゆ》か。こいつはどうも」  「澄江とは、いつ頃《ごろ》から……」  「そうさな、一年ぐらいかな」  若者は平然として答えた。  「なかなかいい女だったぜ」  傍《そば》の刑事が、  「それならなぜ殺した!」  「しつこいね、だんなも」  若者は両手を大きく広げて、  「俺《おれ》はやっちゃいねえよ。何度言えば分るんだい」  「お前を見た人間がいるんだぞ」  「人《ひと》違《ちが》いさ。あのアパート、夜は暗いぜ。はっきり見えるはずがねえよ」  「なら、あの時間、どこにいた」  「言ったろう。ガールフレンドと一《いつ》緒《しよ》だったって」  「いい加減なことを言うな!」  「本当だよ。彼《かの》女《じよ》を連れて来てくれりゃ、すぐに分るこった」  そこへドアが開いた。  「主任。例の娘《むすめ》が来ています」  「よし、入れろ」  刑《けい》事《じ》が肯《うなず》くと、少しして、ドアから——あの少女が入って来た。  笠原は呆《ぼう》然《ぜん》として少女を眺《なが》めた。皮ジャンパーの若者のほうは満面に笑みを浮かべて、  「やっと来てくれたな! 待ってたんだぜ!」  少女は、笠原のほうにはチラリとも目を向けず、無表情に突っ立っている。若者は得意げに、  「さあ、この分らず屋のデカさんたちに教えてやってくれよ! 一昨日《  お と と い》の夜、俺《おれ》とお前がずっと一《いつ》緒《しよ》だったってな」  刑事が少女に向かって、  「お嬢《じよう》さん、一昨日《  お と と い》の晩、五時頃《ごろ》から九時頃まで、この男と一緒でしたか?」  少女はちょっと眉《まゆ》を上げた。  「一昨日?」  オウム返しに言って、若者を見る。そして少し考えるように間を置くと、言った。  「いいえ。一昨日は会っていません」  若者がそろそろと少女のほうへ顔を向ける。驚《おどろ》きのあまり、声も出ない様子だ。  「確かですか?」  刑《けい》事《じ》が念を押す。  「ええ。会っていません」  「この野郎!」  飛びかかろうとする若者を、周囲の刑事たちが、がっちりと押《おさ》えつける。  「帰っていいでしょうか?」  少女が訊《き》いた。刑事が肯《うなず》く。少女が出て行くと、刑事はニヤリとして、  「おい、お前のアリバイってのはこれなのか?」  「あの女! 畜《ちく》生《しよう》!」  さっきの元気はみじんもない。真っ青になって、怒《いか》りに身を震《ふる》わせている。やっと我に返った笠原は、急いで取調室を出た。出口近くで、やっと少女に追い付く。  「待ってくれ!——ねえ、君は——」  「もう分ったでしょう?」  少女は立ち止ると、目を伏《ふ》せたまま、言った。  「私、あいつの女だったのよ。あいつはあなたの奥《おく》さんと切れなくて、困ってたの。奥さんに、別れる気なら麻《ヤ》薬《ク》をやってるのを警察へ知らせるって脅《おど》されて、奥さんを殺す決心をしたのよ。そして私に、あなたを誘《さそ》って引き止めておくように言ったの。それからもし万一、つかまった時はアリバイを証言するようにって」  「でも、証言しなかった。——なぜだい?」  少女は肩《かた》をすくめた。  「なぜかしらね……。もう、あいつがいやになったのかしら、きっと」  「君の身が……危くなるんじゃないかい?」  「心配性ねえ、あなたって!」  少女は笑って、  「他人のことばっかり心配してないで、少し自分のことを心配しなさいよ」  「僕《ぼく》でできることがあったら——力になるよ」  少女は懐《なつ》かしげな眼《まな》差《ざ》しで彼《かれ》を見た。  「ありがとう。——その時はお願いするわ」  「いつでもいいからね」  「じゃ、さよなら」  少女は足早に警察署を出て、通りの人混みへと消えて行った。笠原はひどく胸が痛むのを覚えながら、じっと少女のセーラー服が見えなくなったほうを見ていた。——その痛みは彼にずっと昔の少年時代を思い起こさせた。  表は、昨夜と打って変って、すばらしく晴れ上っている。 尾《び》行《こう》ゲーム 1  彼《かの》女《じよ》は不《ふ》釣《つり》合《あい》に大きなショルダーバッグを肩《かた》から下げていた。  それがまず、彼《かれ》の目をひいたのである。  実際、それは彼女の、ちょっとしたデイトといった服《ふく》装《そう》にそぐわない、小旅行にも使えるようなバッグで、スエードのように見えた。中には割合重い物が入っていると見えて、彼女は無意識に、何度も肩にかけ直している。  ——二十二か三、といったところだろう。学生かOLか、それとも「家事見習い」の口だろうか、そのどれでもおかしくない印象であった。  派手な縞《しま》柄《がら》のハーフコート、紺《こん》のスラックスに黒皮のブーツという服装は学生のようだが、こんな時間——朝八時三十分——に通勤電車に乗っているところを見るとOLのようでもある。最近の若い女性は、服装からでは判断がつかないのだ。が……。  「何だ」  彼女が手にした切《きつ》符《ぷ》を眺《なが》めているのを見て、彼は肯《うなず》いた。学生かOLなら定期券があるはずだ。たまたま定期の期限が切れていた、というのなら別だが、その可能性を残した上で、やはり「家事見習い」の「自宅待機組」の一人という可能性が最も強い。しかし、普《ふ》通《つう》その手の女性は余り早起きしないのが通例である。誰《だれ》だって、必要がなければ早起きはしたくないものだ。すると、そういった朝《あさ》寝《ね》の癖《くせ》のついている女性がこうしてわざわざ早起きするからには、よほどの理由がなくてはならない。その理出は、あの重そうなバッグに関係あるのだろうか?  扉《とびら》の傍《そば》に身を縮めて、流れ去る沿線の家々へ漫《まん》然《ぜん》と目を向けている彼《かの》女《じよ》を、彼《かれ》は吊《つ》り皮《かわ》につかまって、少し体を泳がせるようにしながら眺《なが》めていた。そうしないと、他の乗客の陰《かげ》になって、彼女が見えないのだ。美人といっていい顔立ちである。しかし、みごとなポーカーフェイスで、窓の外を見ている。何を考えているのか、それとも何も考えていないのか……。  彼はそっと呟《つぶや》いた。  「よし。……今日の獲物はこの娘《むすめ》だ」  「今日は定例の打ち合わせで外へ出てるからね」  朝食の席で、彼はインスタントのコーンスープをすすりながら言った。  「あら、今月は早いのね」  妻の信《のぶ》子《こ》がゆで卵の殻《から》をむきながら、  「先月は月末近くだったじゃないの」  「そうだったかな。仕方ないよ、お得意先の都合に合わせないとな」  「そうね。帰りは遅《おそ》くなりそう?」  「成り行き次第だな。そう遅くはならんつもりだ」  「夕食はいらないのね? じゃ、私と隆《たかし》だけだったら、簡単に何か取って済ませるわ」  「ああ、それがいい……」  花《はな》村《むら》容《よう》平《へい》はゆで卵を頬《ほお》ばった。——もうこれで十か月になる。月に一度、「定例の会合」と称しているのは、実は真っ赤な嘘《うそ》で、会社へは休《きゆう》暇《か》届《とどけ》が出してあるのだ。社の同《どう》僚《りよう》へは家庭サービスで出かけているから家にはいない、とそれとなく言ってあるし、妻の信子へは、一日外出していて、どこで食事をするかも分からないという事になっているから、どちらもたとえ急用ができても電話して来ることはまずない。  月に一日、自由な、誰《だれ》にも縛《しば》られずに勝手気ままのできる時間がほしいという、素《そ》朴《ぼく》な考えから、花村のアイデアは出発した。会社に対しては、比《ひ》較《かく》的《てき》仕事の手が空いた頃《ころ》を見て有給休暇を使うのだから、どうということもなかったが、妻の信子へ嘘をつくのは、最初気が重かった。しかしそれも十回目となればスラスラと言葉の方で進んで出て来る。時には架《か》空《くう》の会合の様《よう》子《す》をごく自然に話してやったりするほどだ。  「——そろそろ時間よ」  「うん、行ってくる」  花村は冷いミルクを飲みほして立ち上ると、いつも通りネクタイをしめ、上《うわ》衣《ぎ》を着て家を出た。——花村の家は郊《こう》外《がい》の建売住宅で、私鉄の駅まで約十分の道のりだ。今日はわざと歩度をゆるめて、いつもの電車を外《はず》すことにする。同じ電車はいつも同じ顔ぶれだから、もし彼《かれ》が途中の駅ででも降りることがあれば目につくかもしれない。そのためにわざと一台電車を遅《おく》らせるのである。  十一月の朝、ほとんど風もなく、よく晴れ上った空に、郊外らしく小鳥の声が渡《わた》った。暖かい一日だ。  花村容平は三十六歳《さい》である。信子と結婚して九年。息子の隆《たかし》は今年から小学校へ上った。会社は大手デパートの系列子会社で、彼は堅《けん》実《じつ》一点ばりの事務屋として、格別の成績も上げないかわり、クビになる心配もない毎日だった。不《ふ》況《きよう》の影《えい》響《きよう》も花村にまでは遠い汽《き》笛《てき》程度にしか響《ひび》かず、就職以来十三年、何の波乱もなく過ぎて来たのだ。——彼がふと、こんな解放の時間がほしくなったのもその余りに平《へい》穏《おん》無事な日々のゆえかもしれない。  一台遅れの急行に、花村は乗り込《こ》んだ。いつもの電車より心もち混んでいるが、不思議に苦にならない。満員電車も、それ自体が苦痛である以上に、それに乗って、ストレスの吹きだまり——職場——へ行くと思うからこそ、苦痛も倍加するのだ。花村は周囲の乗客を見回して、微《かす》かに優《ゆう》越《えつ》の微《び》笑《しよう》を浮かべた。ご苦労だね、諸君!  最初の時は、もう休《きゆう》暇《か》を楽しむどころではなかった。信子が何かの用で会社へ電話をしていたら、あるいは仕事で急に問題が起こって、社から家へ連《れん》絡《らく》が行っていたら、と思うと、映画を見ていても気が気ではなく、公園や通りを歩くにもせかせかといつもの調子で歩いては、はっと気付いて足をゆるめる、という始末だった。  それに、いきなり自由に一日を過ごそうと思ってみても、思いつくのは映画見物や、古い友人を訪ねるくらいのもので、どこへ行くか、何をするか、ほとんど途《と》方《ほう》にくれる時間の方が長いくらいであった。  彼《かれ》が今のゲームを思いついたのは三度めの秘密休《きゆう》暇《か》——彼はそう呼んでいた——の時である。たまたま朝の新《しん》宿《じゆく》駅で、スーツケースを手にウロウロしている若い娘《むすめ》を見かけて、何をしているのかな、と目を止めたのだった。どうせ暇《ひま》なのだから、と彼女の後をつけてみると、彼《かの》女《じよ》はデパートや盛《さか》り場《ば》を散々歩き回り、あげくは公園で一休み。いい加減馬《ば》鹿《か》らしくなって引き上げようとした時、突《とつ》然《ぜん》周囲を歩いていたアベックたちがワッとその娘へ飛びかかって大混乱になった。何が起こったのか分らずにポカンとして成り行きを見ていると、そのスーツケースを持った娘が手《て》錠《じよう》をかけられて連行されていった。その娘は指名手配されていた凶《きよう》悪《あく》犯《はん》で、アベックたちは刑《けい》事《じ》と婦人警官だったということを、花村は後で知ったのだが、その時に、ふと思いついたのである。これは時間潰《つぶ》しには格好のゲームだ。朝の新宿には何十万の人間が行き来する。その中で、どう見ても出勤途《と》上《じよう》には見えない若い女性を選んで、一日尾《び》行《こう》してみるのだ。彼女がどこへ行き、誰《だれ》と会うか、全く予想がつかない。加えて覚られないように尾行する、探《たん》偵《てい》まがいのスリル。人の私生活を垣《かい》間《ま》見る、ちょっと週刊誌的な興味……。この時以来、花村は毎回このゲームを続けて来た。  もちろん尾行するだけが目的で、その結果、何かその女性の秘密を知ったとしても、一切何の関《かかわ》りも持たない、と決めていた。だからこそゲームであり、遊びなのだ。  とはいえ、毎回面白い相手に巡《めぐ》り会うとも限らない。後をつけた相手が東京駅へ行って、そのまま新幹線へ乗って行ってしまったこともあるし、髪《かみ》振《ふ》り乱して銀行の裏口へ駆《か》け込《こ》むのを追って入ってみると、しばらくしてその女性が窓口に座っていたりする……。  しかし、一度はいい身なりをした上品な人妻が、ほとんど息《むす》子《こ》ぐらいの高校生と薄《うす》汚《よご》れた連れ込み旅館へ入るのを見たし、中学生としか見えない娘《むすめ》が、一日の間に三人の男を相手に売春をして稼《かせ》ぐのも、目の当りにした。  ——未知の本のページをめくる楽しさが、そこにはあったのだ。  この日は捜《さが》すまでもなかった。電車に乗って、すぐにその女性が目に付いたからだ……。  「よし。……今日の獲物はこの娘だ」  大きなショルダーバッグを下げた娘は、結局終点の新宿駅まで乗った。ここから降りて方々へ分かれる流れの混乱の中で、一人の人間を見失わずにいるというのは大変なことである。ただ彼女の場合は、その大きなバッグと派手なコートが暗い背広やコートの群の中では目印になったし、あの年代なら普《ふ》通《つう》の身長なのだろうが、小《こ》柄《がら》な中年のサラリーマンと比べて頭が少し出ているので、ついて行くのも、そう苦労ではなかった。  彼《かの》女《じよ》は改《かい》札《さつ》口《ぐち》を出ると西口地下広場を歩き出した。足取りは確かで、きびきびしていたが、急いでいるわけではないようだ。  そこから彼女は南口へ抜《ぬ》ける地下街に足を向け、一《いつ》軒《けん》の喫《きつ》茶《さ》店《てん》に入った。花村はその真向いの店へ入ることにする。何しろ喫茶店ばかり並んでいて、しかもどこもガラス張りだから、充《じゆう》分《ぶん》に見張っていられる。  ——彼女はモーニング・サービスのコーヒーとトーストを、ゆっくり時間をかけて食べた。時間を潰《つぶ》している、と花村は思った。ほぼ十分おきぐらいに腕《うで》時《ど》計《けい》を見ているのだ。人と待ち合わせているのではない。もし待ち合わせるなら、客が入って来る度に入口の方へ目を向けるはずだが、一向にその気配はないからだ。  約四十分、彼女はその店で、じっと座って時の過ぎるのを待っていた。——不思議な娘《むすめ》だ、と花村は思った。普《ふ》通《つう》なら退《たい》屈《くつ》して、本でも取り出して読むか、店の新聞でも開く所なのに、何も見ようとせず、ただ黙《だま》って空になったコーヒーカップを弄《もてあそ》んでいるだけなのだ。思いつめている、という印象だった。といって絶望的になっているとかいうのではなく、何か重大な事を前にして、ともすれば昂《たか》ぶろうとする気持ちを必死で押《おさ》えているとでもいうか……。  花村は二《に》杯《はい》めのコーヒーをすすって、思わずニヤリとしてしまった。精神分《ぶん》析《せき》をする柄《がら》かな、俺《おれ》が。しかし、それでいいんだ。どうせ当っても外《はず》れても、誰《だれ》が知っているわけでもない。これも遊びの楽しみの一つだ。  彼《かの》女《じよ》がやっと腰《こし》を上げたのは、もう大分行き来するサラリーマンの数も減って来た九時二十分頃《ごろ》だった。  もう混雑のピークを過ぎた、山手線のホームには、あのラッシュ時の殺気立った雰《ふん》囲《い》気《き》とは違《ちが》って、一種独特の、和《なご》んだ感じが漂《ただよ》っている。駅員同士がホッとした表情で笑い合ったり、老人に電車の乗り場を訊《たず》ねられたサラリーマンが丁《てい》寧《ねい》に教えてやっているのも、ラッシュの終わった後ならではのことだ。  彼女はベンチに腰《こし》をかけると、ショルダーバッグの中へ手を突《つ》っ込んで、小型のカセットテープレコーダーを取り出した。なるほど、小型とはいえ、あんな物が入っていては重いはずだ。しかし、こんな所で一体何をするつもりなのだろう?  花村は時刻表を見るふりをして、彼女の座っているベンチの背後へ回ってみた。チラリと手元をのぞき込むと、赤い印のついたボタンを押《お》してある。花村も同じようなポータブルのレコーダーを持っている。花村が持っているというよりは、息《むす》子《こ》の隆のために買ってやったのだ。二十センチ、三十センチぐらいの長方形で、マイク、スピーカーも内蔵された、実用本位の機械である。彼《かれ》の持っている品では、赤い印のボタンは、〈録音〉だ。彼女のものはメーカーも違《ちが》うようだが、ボタンの並んだ順などからみて、どうもやはり録音ボタンではないかと思える。スピーカーから何の音もしていないし、別にイヤホンで聞いているわけでもない。やはり録音しているとしか思えないのだが、一体こんなホームの雑音を録音してどうするつもりなのだろう?——花村は首をひねると同時に、好《こう》奇《き》心《しん》をかき立てられた。  反対側に総《そう》武《ぶ》線《せん》の電車が来て、出て行くと、すぐに山手線の電車もホームへ入って来る。彼女はテープを止めると、ショルダーバッグへレコーダーを元通り収めて、ちょうど開いた目の前のドアから乗り込んだ。花村は扉《とびら》二つ分離《はな》れて乗り込《こ》むことにした。——いくらどこにでもいるような中年サラリーマンといっても、そうそう近くにいては怪《あや》しまれる心配がある。  痴《ち》漢《かん》と間《ま》違《ちが》えられて突き出されでもしたら、それこそことだからな、と花村は思った。  原《はら》宿《じゆく》駅で降りた彼《かの》女《じよ》を、花村は距《きよ》離《り》を取って尾《び》行《こう》して行った。この時間には乗降客が少なく、道を行く人《ひと》影《かげ》も少ない。それに、まずいことには、新宿と違《ちが》って、このあたりでは平《へい》凡《ぼん》なサラリーマン姿の方がむしろ目立つのだ。  高級マンションの建ち並《なら》ぶ一角へと、彼女の足は向いていた。足取りは早くも遅《おそ》くもならず、メトロノームのように正確にリズムを刻んでいる。  花村は足を止めた。——彼女が、小さな公園の前で立ち止まると、一《いつ》瞬《しゆん》背後へ視線を走らせたからだ。気付かれたか、とヒヤリとしたが、どうやら大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》のようだった。彼女は公園の中の小さなトイレへと姿を消した。  ——こんな時の時間潰《つぶ》しは、尾行している時、一番困ることの一つである。道の真中でウロウロしているのは、通行人などに妙《みよう》な目で見られるし、といって手近な喫《きつ》茶《さ》店《てん》に入るほどの時間もない。見回していると、ちょうどいい物が見つかった。電話ボックスだ。  中へ入って、受話器を取り、耳に当てておく。やれやれ、これで落ち着いた。——ボックスからは公園のトイレがよく見えた。絶好の場所である。  「——なかなか出て来ないな」  と呟《つぶや》いた時だった。トイレから一人の女が出て来た。——が、その女は地味な茶のワンピースに薄《うす》手《で》のレインコートを無造作に引っかけていた。別の女だ。  「しかし……」  妙だ、と思った。別の女? いや——あの女性だ!  驚《おどろ》くほど印象は変っていたが、間《ま》違《ちが》いなく彼女だ。あのショルダーバッグを、手に下げている。テープレコーダーと服の替《か》えまで持って歩くのでは、あれぐらいのバッグでないと間に合うまい。それにしても一体これは……。  のんびり驚いている暇《ひま》はなかった。——というのは妙な言い方だが、花村が呆《あつ》気《け》に取られていると、彼女が花村のいる電話ボックスへ向かって、真直ぐに歩いて来たのである。  花村は慌《あわ》てて電話の方へ向き直り、  「あ、もしもし……うん、そうなんだよ」  としゃべり始めた。——ガラスをトントンと叩《たた》く音がする。振り向くと彼女が苛《いら》々《いら》した表情で立っていた。どうやら気付かれてはいないらしい。花村は、  「じゃ、次の人が待ってるから」  と無言の受話器に説明して、「ああ、さよなら」  と通話を終えた。  「失礼」  とボックスを出ると、彼《かの》女《じよ》が入れかわりに中へ入る。急いでいる、何を慌《あわ》てているのだろう? それも、今までのんびりと時間を潰《つぶ》したりしていたのに。  ともかくボックスの前で立っているわけにもいかず、花村は少し歩いて、電話の陰《かげ》に隠《かく》れた。向うは電話で話しているのだ。そう周囲を注意して見ることはあるまい。  「やれやれ、冷《ひや》汗《あせ》だ……」  今までも、尾《び》行《こう》している相手と曲り角で出くわしてギョッとしたことはあるが、今度のようなことは初めてだ。——それにしても、あの女、一体何を考えているのだろう? 女子大生などが、学校へ行くと言って家を出て来て、途《と》中《ちゆう》で派手な服に着《き》替《か》えて遊びに行くという話はよく聞く。しかし彼女の場合は目立つ服を地味な服に替えているのだ。  ボックスの様子を窺《うかが》った花村は、ふと眉《まゆ》を寄せた。——あのカセットテープレコーダーが、電話器のすぐ下の棚《たな》に載《の》せてあるのだ。彼女はダイヤルを回す前に、レコーダーのボタンを二度押した。巻き戻《もど》し、再生というところらしい。それからダイヤルを回し始めた。話しているすぐそばで、あんなテープを回されちゃ話の邪《じや》魔《ま》だろうに……。それも音楽というならともかく、新宿駅の騒《そう》音《おん》では——。  「そうか……」  花村はやっと理解した。——あの時テープに入ったのは、騒音だけではない。駅のアナウンスも録音されている。総武線の電車が先にホームへ入って来た時の声だ。  きっと彼女は電話の相手にこう言っているのだろう。  「今、新宿駅のホームなのよ……」  そしてテープの声がその後ろで、  「新宿——新宿——」  とアナウンスしているのだ。相手は本当にそう信じ込《こ》むに違《ちが》いない。  「アリバイ作りか……」  花村は、これは大変なことになった、と思った。ここには明らかに犯罪の匂《にお》いがする。ただ友人や家族をごまかすためなら、これほど手間をかける必要はあるまい。——花村は迷った。尾《び》行《こう》を続けるか、それともここで打ち切って、女のことは忘れてしまうか。尾行した相手とは一切関《かかわ》りを持たない。これがこのゲームの鉄則である。しかし女がもし犯罪に関係したとなれば、そうも言っていられなくなってしまう。そんなはめに陥《おちい》るのは彼が最も恐《おそ》れるところだった。  ——ここはもう諦《あきら》めよう。今日は後、映画でも見て過ごすことにしよう。そう決心した時、女が電話を終えてボックスから出て来た。まるでさっきまでとは別人のような早い足取りで、広い通りから折れて、狭《せま》い道へ入って行く。  花村はほとんど無意識の内に歩き出していた。彼女の姿が細い道を右へ左へと折れて行くのを、必死で追いかけた。考えている余《よ》裕《ゆう》はなかった。女の方は、人目につかないと思える小路では本当に走っているのだ。見失わないように、と思うだけで精《せい》一《いつ》杯《ぱい》、とてもそれ以上の事は考えられなかった。  あるマンションの裏口へ出ると、彼女は肩《かた》で息をつきながら、地下駐《ちゆう》車《しや》場《じよう》からの車の出口の傍《そば》に身を潜《ひそ》めた。花村は女よりずっと年《と》齢《し》だ。息切れがして、十一月というのに肌《はだ》が汗ばんでいる。——畜《ちく》生《しよう》! 一体何をやってるんだ?  一台の乗用車が地下から走り出して来た。黒のクラウンで、運転しているのは四十歳《さい》前後の女性だった。車が走り去って見えなくなると、女は裏口からマンションへ入って行った。花村はしばし迷ってから、十五分だけ待ってみることにした。それで出て来なければ尾《び》行《こう》は打ち切りだ。  ——数えてみると十一階まである。相当に豪《ごう》華《か》なマンションだ。この辺だと値段も相当なものだろうな、と花村は思った。四千万か五千万か……。まあそれ以上ではあってもそれ以下ではあるまい。とても俺《おれ》たち庶《しよ》民《みん》には手の出ない住家だ。——花村はこの時ばかりは一日探《たん》偵《てい》から、しがないサラリーマンに戻《もど》っていた。  女が足早に出て来た。まだやっと五分しかたっていない。いやに簡単に用が済んでしまったものだ。——女はさっきと同じように早い足取りでわき道を抜《ぬ》けると、広い通りへ飛び出し、ちょうどやって来たタクシーをつかまえた。花村は女を乗せたタクシーが新宿の方へと走って行くのを見送って肩をすくめた。  「これで終わりか……」  すぐに空車の来る気配もない。それにしても、全く妙《みよう》な女だった。——さて、まだやっと十一時だ。  「映画でも見るか……」  と駅の方へ戻りかけた時、足下の白いハンカチに気付いた。——拾い上げてみると、ほとんど土もついていない。あの女がタクシーに乗る時、落としたのだろう。前から落ちていたのなら、もっと汚《よご》れているはずだ。白い、女物のハンカチで、かすかに香水が匂《にお》う。広げてみると、隅《すみ》の方にイニシャルの縫《ぬ》い取りがあった。  「Y・M」と読めた。 2  「早かったのね」  信子が驚《おどろ》いた様子で言った。  「ああ、早く話が片付いてね」  花村は玄《げん》関《かん》を上りながら、  「何か食べる物はあるか?」  「あら、食べて来ると思ったから……」  「うん。何でもいい」  「大した物はないわよ」  「お茶《ちや》漬《づ》けでも食べるよ」  「じゃ仕度しましょ」  花村は着《き》替《か》えて食《しよく》卓《たく》につくと、肩《かた》で息をついた。今日は疲《つか》れたよ、全く。妙《みよう》な女を追っかけてしまったもんだ。散々かけ足はやらされるし、そのあげく尻《しり》切《き》れトンボに終わらされてしまった。  「今回は不作だったな……」  と思わず口に出すと、  「あら、お話が巧《うま》く行かなかったんですか?」  と信子が入って来る。  「い、いや」  と慌《あわ》てて咳《せき》払《ばら》いして、「そうでもないんだが……。まあまあ、ね」  とわけの分らないことを言ってごまかした。  「夕刊はそこよ」  「ああ……」  花村はお茶を一口すすって、新聞を広げた。——その記事を見た時の気持ちは、驚《おどろ》きよりはむしろ迷《めい》惑《わく》だという方が近かった。  〈映画プロデューサー殺さる〉  あのマンションの写真が出ている。予期していたわけでもないのに、なぜ驚かないのだろう? 花村はむしろその方が不思議だった。いや、あの女が電話でアリバイを作っているのを見た時から、我知らず、こんな事件を予想していたのかもしれない。  花村は記事を読み進んだ。被《ひ》害《がい》者《しや》は関《せき》口《ぐち》という映画プロデューサーで、あのマンションに三《さえ》枝《ぐさ》智《とも》子《こ》という女と同《どう》棲《せい》していた。といってもマンションは女の物であり、彼女はかなりの財産家でもあって、要するに殺された男は彼女に養われていたわけだ。事件は十一時前後に起こった。関口はマンションの玄《げん》関《かん》で胸を鋭《するど》いナイフで一《ひと》突《つ》きにされて死んでいた。三枝智子はほんの少し前に、マンションを訪ねて来る事になっていた姪《めい》を迎《むか》えに車で出かけていたのだ。——花村はテレビをつけた。ニュースが始まったばかりだった。  「何か?」  と、不思議そうな信子へ、  「いや、企《き》業《ぎよう》合《がつ》併《ぺい》のニュースが気になってね」  と言いわけする。  幸い、事件のニュースはすぐ始まった。見《み》憶《おぼ》えのあるマンションが写し出され「とても手の出ない」部屋の中が写った。——だが彼《かれ》の待っているものはなかなか出て来ない。お茶《ちや》漬《づけ》をかっこみながら目をじっとテレビの画面から離《はな》さずにいると、ニュースの最後、ほんの一秒ぐらいのカットに、期待していた物が写った。捜《そう》査《さ》の様子を、傍《そば》で不安気に眺《なが》めている女。三枝智子であろう。あの時、地下駐車場から出て来た車を運転していた女である。その隣《となり》に、若い娘《むすめ》が立っていた。三枝智子が迎えに行ったという姪《めい》に違《ちが》いない。  ——派手な縞《しま》柄《がら》のコートにはっきりと見《み》憶《おぼ》えがある。  「——顔見知りの計画的な犯行と見て、捜《そう》査《さ》を続けています」  ニュースはそう結ばれていた。  犯行の様子は、花村にもよく分る。あの若い娘は、マンションのすぐ近くから三枝智子に電話をかけ、テープを使って新宿と思わせ、新宿のどこかで待ち合わせたのだろう。そしてマンションへかけつけ、三枝智子が車で行くのを見届けた上で目指す部屋へ行き、出て来た関口という男を一《ひと》突《つ》き、すぐに裏口へ取って返し、表へ出てタクシーで新宿へ直行する。三枝智子も約《やく》束《そく》の場所に姪《めい》がいないので妙《みよう》に思ったかもしれないが、五分ぐらいの遅《おく》れで現れれば——いや、服を元通りに着《き》替《か》えるのに更《さら》に数分を要したとしても、そう疑問を持つことはあるまい。新宿は広く、人も多い。  「あら、私、あっちで待ってたのよ!」  そのひと言で片は付く。  「——困ったな、それにしても」  風《ふ》呂《ろ》につかりながら、花村は呟《つぶや》いた。一体どうすればいいのか。殺人事件の犯人を、彼《かれ》は知っているのだ。本来なら当然警察へ通報すべきところだが、それにはあまりに厄《やつ》介《かい》な点が多すぎる。  当然警察はなぜ花村が彼女を尾《び》行《こう》したのかを訊《き》くだろう。それにどう答えればいいのか。見知らぬ他人を「趣《しゆ》味《み》で」尾行しているなどと答えたら、それこそ警察は彼の証言など信用すまい。むしろ彼自身のことが怪《あや》しまれて、あれこれを調べられるかもしれない。何も法に触《ふ》れるような事はしていないにしても、その事実は少なくとも妻の信子の耳には入るに違《ちが》いない。信子にしても、夫が自分に嘘《うそ》をついていたと知れば、少々のもめ事は覚《かく》悟《ご》しなければなるまい。  それに殺された男は、結局、女のヒモにすぎないではないか。どうせ動機も愛情のもつれか何かなのだろうし、殺されてもともと——といっては何だが、当人の、身から出たサビに違《ちが》いない。  そんな奴《やつ》のために自分の家庭に不和を生じるなど、馬《ば》鹿《か》らしい話だ。それに、彼の秘密のゲームがみんなに知られることにでもなれば、変《へん》態《たい》扱《あつか》いされて十数年勤め続けて来た会社を辞《や》めざるを得なくなるかもしれない。そうなったらもう花村自身の将来が破《は》滅《めつ》だ。  よし、口をつぐんでいよう。——このことは誰《だれ》にもしゃべるまい。忘れるんだ、今日のことは……。  「それに、警察だって馬《ば》鹿《か》じゃないからな」  動機の線からでもたぐって、あの娘を怪《あや》しいと思えば、彼女のアリバイ工作くらいすぐに見破ってしまうだろう。  「そうとも。何も俺《おれ》が口を出すことはない」  少し気が軽くなった。きっと明日の朝刊には「犯人逮《たい》捕《ほ》」の記事が出るだろう。——その時、花村はあの拾ったハンカチのことを思い出した。Y・M。その姪《めい》なる女性の名前が出ていないので、正確には分らないが、まず十中八九、その姪の頭文字もY・Mに違《ちが》いないと、花村は思った。  「そうだ、あれも処分してしまおう」  決心がつくと意外に簡単なものだ。しかしハンカチを家の中で焼くわけにはいかない。明日、出社の途中で、駅のくず入れへ捨ててしまえばいい。  花村はその夜、いつもより早目に床《とこ》に入った。尾行の疲《つか》れか、ぐっすりと眠《ねむ》り込《こ》んだ……。  「おい花村、何考え込んでるんだ?」  同《どう》僚《りよう》の梶《かじ》川《かわ》に声をかけられて花村は我に返った。  「やあ」  昼休み、オフィスのビルの向い側の喫《きつ》茶《さ》店《てん》である。花村は広げていた新聞をたたんだ。  「何読んでた?」と梶川はちょっと花村の手元を覗《のぞ》き込《こ》んで、  「ああ、その殺人事件か」  「う、うん。——ちょっとね」  「その殺された男にな、俺《おれ》会った事があるんだよ」  「本当か?」  花村は驚《おどろ》いて言った。「どうして?」  「いや広告の件でな。——何ともいやな奴《やつ》だったぜ。一度会って名《めい》刺《し》を交《こう》換《かん》しただけだが、もう二度と会いたくないって奴だな」  「そんなにいやな奴なのかい?」  「ああ。どこが、って言われると困るんだがね、こう、何というか……いけ好かない、とでもいうか。ベタベタしてお愛想笑いばかりしてやがる。俺は一《いつ》緒《しよ》に行った八《はつ》田《た》に言ってやったよ。『きっとあいつは女のヒモだぜ』ってな。本当にその通りだったじゃないか」  梶川は愉《ゆ》快《かい》そうに、「俺の勘《かん》も満《まん》更《ざら》じゃないよ」  「そうだな」  花村は曖《あい》昧《まい》に微《ほほ》笑《え》んだ。  「ま、誰《だれ》がやったのか知らんが、あんな奴《やつ》、死んだところでどうって事ないよ。社会から害虫が一《いつ》匹《ぴき》いなくなったようなもんさ」  「うん……」  害虫か。——いや、害虫ならまだしも、殺された関口は、ただ人にたかって生きる寄生虫のような男だったらしい。  花村の心はいつになく道徳的になっていた。誰の命でも、命は命だ。殺人は殺人なのだ……。しかし、だからといって、自分に何ができるだろう?  もう彼は、昨日のようには割り切ることができなくなっていた。ポケットには、捨てるつもりのハンカチが、入ったままだ……。  「もしもし」  「三《さえ》枝《ぐさ》ですが」  女の声が答えた。  「三枝智《とも》子《こ》さんですね?」  「——どなた様でしょう?」  花村は迷った。このまま受話器を置いてしまえ! そして総《すべ》てを忘れてしまうことだ。  「もしもし——何のご用でしょう?」  「関口さんの殺された件でお話があります」  ほっと息をつく。もう始めてしまったのだ。後にはひけない。  「どういうことですか?」  女は戸《と》惑《まど》っている様《よう》子《す》だった。  「その前に一つ伺《うかが》わせて下さい。事件の時、あなたが迎えに行った姪《めい》御《ご》さんは何とおっしゃるんですか?」  「名前ですか?——でもそれが何か——」  「重大なことです。教えて下さい」  「百《もも》瀬《せ》好《よし》子《こ》です」  Y・Mか。——間《ま》違《ちが》いはない。  「新《しん》宿《じゆく》 駅で待ち合わせたとおっしゃいましたね」  「ええ」  「姪御さんは少し遅《おく》れてみえませんでしたか?」  「ええ。十五分ほど……。でも、ちょっと場所を勘《かん》違《ちが》いしていたようですの。——あの、一体何のお話ですか?」  花村はゆっくり肯《うなず》いた。思った通りだ。  「実は折り入ってお話ししたいことがあります。大変に重要なことなので、ぜひ……」  相手はやや間を置いて、  「——分りました。どうすればよろしいんですか?」  「明日——土曜日ですから、午後にでもお会いできないでしょうか」  「構いませんわ」  花村は新宿の喫《きつ》茶《さ》店《てん》を指定した。いわゆる同《どう》伴《はん》喫茶という、あまり柄《がら》の良い場所ではないが、普《ふ》通《つう》の場所で話が他人の耳に入っても困る。  「それでは私が先に行っていますわ」  と彼女は言った。「三枝と呼び出して下さい」  「分りました」  偽《ぎ》名《めい》を使う気の重さから逃《のが》れられて、花村はホッとした。なかなか気の付く女性だ。二時、と約《やく》束《そく》して、電話を切る。  オフィスへ戻《もど》って仕事をしながら、なぜ俺《おれ》は警察へ知らせないんだろう、と思った。警察へ通報すれば、こっちの事もあれこれと探《さぐ》られる。匿《とく》名《めい》の手紙という手もあるが、そんな物をどの程度警察が信用するか、怪《あや》しいものだ。——いや、自分の事ばかりを考えているわけではない。あの若い娘《むすめ》が、なぜ関口という男を殺さねばならなかったのか。そこにどんな事情があったのか、彼には知りようもない。花村は別に警官ではないのだから、時には許されるべき殺人もある、と思っている。その判断も、総《すべ》てを話すことであの三枝智子という女性に託《たく》してしまおう、というつもりであった。——それで良心の問題からも、警察の追《つい》及《きゆう》からも逃れられる。彼はそう思ったのである。  「三枝さんを……」  狭《せま》い階段を降りた受付のカウンターで告げると、愛想のない男が、  「下の三号です」  と返事をする。同伴喫茶といっても、安い方はただカーテンで仕切られているだけ。もう一階下がると、一応本当の個室という形で、値段も高いのである。やや空気の悪い通路を行って、〓"3〓"と番号の付いたドアをノックする。  「どうぞ」  女の声がした。花村はドアを開けて、  「遅《おそ》くなりまして——」  言葉を途中で呑《の》み込んで、花村は立ちすくんでしまった。ソファに腰《こし》を降ろして彼の方を見上げているのは、花村が尾行したあの若い娘《むすめ》ではないか。  「——驚《おどろ》かせたようで、すみません」  と彼《かの》女《じよ》が言った。  「あなたは……」  「百瀬好子です」  「しかし——その声は確か電話の——」  「叔《お》母《ば》が外出していて、私が留《る》守《す》を頼《たの》まれていたんです。そこにあなたのお電話が……」  年《ねん》齢《れい》の割に落ち着いた、低い声だった。この声にすっかりだまされてしまったのだ。花村は電話で、三枝智子さんですね、と訊《き》いた時、相手が「はい」とも「いいえ」とも言わずに、ただ「どなた様でしょう」と訊《き》き返して来たことに、やっと思い当った。確かめるべきだったのだ!  「——お掛《か》けになりません?」  百瀬好子は落ち着き払《はら》っていた。突《つ》っ立っていた所で仕方ない。花村は向い合ったソファへ腰《こし》を降ろした。百瀬好子がテーブルの端《はし》のボタンを押《お》すと、すぐにウエイターがやって来た。花村は上《うわ》の空でコーヒーを頼《たの》むと、  「叔母さんはこのことをご存知なんですか?」  と訊《き》いた。  「いいえ。私に関係のあるお話のようでしたので」  どうしたものか。しかし、困っている暇《ひま》もないのだ。——こうなったからには何もかも話してしまう他はないだろう。まさかこんな所でナイフ一《ひと》刺《さ》し、ということもあるまい……。  「分りました」  花村はため息をついて、「あなたに直接お話しするつもりはなかったんですが……」  「関口さんが殺された件で、何か?」  「殺したのはあなたですね」  彼女は眉《まゆ》一つ動かさなかった。顔色を変えなかった。そう言われるのを予測していた様《よう》子《す》だった。——コーヒーが来た。  「なぜそうお考えになるんですの?」  「考えるのではなくて——知っているんです。あなたがあのマンションへ入り、急いで出て来るのを見ました」  「人《ひと》違《ちが》いです」  「いや、あなたです」  「私は事件のあった時、新宿にいたんですよ」  「十五分ほど遅《おく》れた、とあなたが自分で言いましたよ。叔《お》母《ば》さんもそうおっしゃるでしょう」  「でもそれは——」  「待って下さい。順を追って説明しましょう」  花村は彼女が新宿駅でテープを回していた所から詳《くわ》しく描《びよう》写《しや》して行った。——百瀬好子は口を挟《はさ》むでもなく、じっと花村の話を聞いていたが、やがて彼女がタクシーで新宿へ向って走り去る所で話が終ると、大きく息をついた。  「——面白いお話ですわ」  「そうでしょう」  花村は彼《かの》女《じよ》がどう出て来るか、様子を窺《うかが》った。あのハンカチの事はまだ黙《だま》っていたのだ。  「でも、そんな話を警察が信じるでしょうか? 私が全部否定したら?」  「それは無理でしょう」  「でも、何の証《しよう》拠《こ》もありませんわ。テープは消してしまえばお終《しま》いです。タクシーの運転手だって、私を憶《おぼ》えてはいないでしょう」  「あなたが怪《あや》しいとなれば警察は色々調査するでしょう。あなたは誰《だれ》にも見られていないつもりでも、マンションの住人で見ていた人があるかもしれない。凶《きよう》器《き》のナイフも、あなたが買ったと立証されるでしょう。一つ崩《くず》れだせば、早いものですよ」  「そうかもしれません。——でも一切知らないと言い張ることはできます」  「証《しよう》拠《こ》がありますよ」  百瀬好子は初めてはっとした顔で、  「何ですの?」  「ハンカチです。あなたのイニシャルが縫《ぬ》い込んである」  「それを、あなたが——」  「拾ったんです。あなたは慌《あわ》てていて、タクシーに乗る時にそれを落とした」  「それをお持ちなんですか」  「今ここには持っていません」  それは嘘《うそ》だった。ハンカチは内ポケットに入っている。しかしここは持っていないことにした方がいい、と思ったのだ。  長い沈《ちん》黙《もく》があって、花村はひどくきまりの悪い思いをした。およそ自分には場違いな状《じよう》況《きよう》である。平《へい》凡《ぼん》なサラリーマン、何の変《へん》哲《てつ》もない中年男が、ここで殺人の話をしているのだ。——白《はく》昼《ちゆう》夢《む》のように、非現実的な気がした。  「——分りました」  百瀬好子がやっと口を開いた。「何をお望みなんですか?」  「望み?」  「お金ですか」  「とんでもない!」  花村は慌《あわ》てて言った。「あなたは僕《ぼく》が脅《きよう》迫《はく》するつもりだと——」  「違《ちが》うんですか?」  「そのつもりなら最初からあなたを呼び出しますよ。そうでしょう?」  彼女は肯《うなず》いて、  「そうですね。すみません」  「僕《ぼく》はどんな事情であなたがあの男を殺したのか分らない。だから知っていることを警察へ話すべきかどうか決めかねたんです。——やむにやまれぬ事情のある場合だって、世の中にはあります。あの殺された人はどうもあまり人に愛されてはいなかったようだし……」  「ハゲタカのような男でした」  彼女は吐《は》き捨てるように言った。「叔《お》母《ば》はあの男にだまされていたんです。私が何度意見してもだめでした。そしてあの男と結《けつ》婚《こん》すると言い出したんです。私、何としても食い止めなければと思いました。そのためなら——」  「殺しても、ですか」  「ええ。——あなたの見ていた通りに、私は計画を立てました。叔母は人が好くて、信じやすい性質です。だますのは簡単でしたわ」  彼女は一息ついて、「——どうしますか? 私を警察へ突《つ》き出すか……」  「正直なところ、決めかねているんです。やはりその叔母さんに総《すべ》てを打ち明けて……」  「いいえ、それはだめです!」  と彼女が強い口調で言った。  「どうしてです?」  「叔母は——何も知らないんです。本当にあの卑《ひ》劣《れつ》な男を愛していたんですから。今は大変なショックを受けていて……。もし私がやったことだと知ったら、死んでしまいますわ」  花村はため息をついた。この娘の言う通りかもしれない。しかし、殺人は殺人である。それにあえて目をつぶるだけの決心はまだつかない。  「分りました」  花村は言った。「——ともかく、あなたのお話はよく分りました」  「で、どうなさるんですの?」  「今日ははっきりお答えできません」  花村は答えた。「月曜日の夕方、ここへ来ていただけますか?」  「ええ」  「その時にご返事します。いや——」  花村は付け加えて、「別にあなたをじらせてやろうなどと思っているわけじゃありませんよ」  「ええ、よく分っていますわ」  彼女の口調からは挑《ちよう》戦《せん》的《てき》なところが消えていた。「——あなたはご親切な方です」  「親切?」  「ええ。すぐに警察へ届けずに、こうして話を聞いていただけましたもの」  「親切かどうかは分りませんね」  彼女は苦笑した。「さて、どうぞ、先に出て下さい。私、支《し》払《はら》いを済ませて行きます」  「では……。月曜日に」  百瀬好子は軽く会《え》釈《しやく》して出て行った。——花村は一人になると、そっと額の汗《あせ》を拭《ぬぐ》った。馴《な》れないことは疲《つか》れるものだ……。  何もかも忘れてしまおうか、と花村は思った。しかし人殺しを見《み》逃《のが》すことは、やはり重大なことである。それに、あの娘《むすめ》が言うことが全部事実であるとは、誰《だれ》にも言えない。いや、事実としても、あんな男だから殺されていいとは、決して言えない。  帰りの電車を降りたのは、そろそろ四時半になる頃《ころ》だった。郊外の駅はホームが高いので、電車から出ると冷い風がまともに吹《ふ》きつけて来る。この時間になると、急に気温も下がって来る気配だ。最近はこの駅もめっきり乗降客が多くなった。団地が続々と作られているせいだろう。  「さて、今日は何の用だったことにするかな……」  考え考え、ホームから下り階段へ足を踏《ふ》み出した時、誰《だれ》かの手が彼の背中を押《お》した。 3  「気を付けてちょうだいよ」  信子が夫の額に傷テープを貼《は》り付けながら苦情を言った。「足《あし》下《もと》がもつれるなんて、まだそんな年《ねん》齢《れい》でもないでしょう」  「言いにくいことを言うなよ」  花村は顔をしかめた。「ちょっと足を滑《すべ》らせたのさ」  「下まで落っこちていたら大変だったわよ」  全くだ。もしあの高い階段を一番下まで転げ落ちていたら、と思うと、今さらのようにゾッとする。前にいた他の客が気付いて腕《うで》をつかんでくれたので、ほんの数段落ちただけですんだのだった。  誰《だれ》かに突《つ》き飛ばされた。——畜《ちく》生《しよう》! あの娘《むすめ》に決っている。先に同《どう》伴《はん》喫《きつ》茶《さ》を出て、どこか物《もの》陰《かげ》に隠《かく》れていたのに違《ちが》いない。そして彼の後をつけて来た……。  もう少しで花村は吹き出すところだった。いや、笑いごとではないのは充《じゆう》分《ぶん》承知していたが、妙《みよう》に笑いたくなったのだ。——尾《び》行《こう》は俺《おれ》のゲームだったのに、それが今度は尾行される側《がわ》に回るとは! 全く、お笑い草だ。  「あなた」  信子がちょっと怪しむように、「何をニヤニヤしてるの? 頭打って、どこかおかしくなったんじゃなくて?」  〈三枝智子〉と表札があった。——またあの女がいたらどうしよう?  「ま、その時はその時だ」  花村は肩《かた》をすくめた。「この傷のお返しにお尻《しり》でもひっぱたいてやるさ」  呼び鈴《りん》を押すと、部屋の奥《おく》でチャイムがポロンポロンと鳴るのが聞こえて来た。——待つことしばし。いい加減待って、留守かな、と思った時、チェーンの外《はず》れる音がしてドアが開いた。  「はいどちら様でしょ?」  三枝智子は近くで見ると、思っていたより老《ふ》けて見えた。四十五にはなっているだろう。「恋《こい》人《びと》」を失ってガックリ来ているせいもあるのかもしれない。車の運転席にいる所と、TVのニュースで見ただけだが、こうして見ると、人の好いおばさんというのが、全くピッタリ来る。  「私、花村と申します。——実はちょっとお話ししたいことがありまして」  「記者の方でしたら……」  「いえ、違《ちが》います」  「そうですか。どうぞお入り下さい」  ——「手の出ないマンション」の中へ、花村は足を踏み入れた。さすがに豪《ごう》華《か》で、ゆったりとしている。装《そう》飾《しよく》に金をかけているせいだろう。花村は応接間のソファへ腰《こし》を降ろした。  「どうも失礼なことを申し上げて……」  三枝智子は向い合って腰を降ろすと、「何しろこのところ新聞や週刊誌の記者の方たちが毎日のようにやって来るものですから、ちょっとノイローゼ気味で……」  「お察ししますよ」  「人の死ぬのがそんなに面白いんでしょうかねえ……」  と元気のない声で言った。「あら、ごめんなさい。何のお話だったかしら?」  「はあ、実は——姪《めい》御《ご》さんのことでお話ししたいことがありまして」  「好子さんのこと? まあ、何でしょうか?」  「ええ……」  口を聞きかけた時、チャイムが鳴って、  「ちょっと失礼しますわ」  と三枝智子は席を立った。  「今日は!」  玄《げん》関《かん》から聞こえて来た声に、花村はギクリとした。百瀬好子の声ではないか。  「叔《お》母《ば》さん、お客様?」  「ええ、何だかあなたのことでお話しがあるって、ね」  「私のこと?」  「今おみえになったばかりで、まだお話も伺《うかが》ってないんだよ」  話しながら二人は応接間へ入って来た。百瀬好子はセーターとジーンズの軽《けい》装《そう》だった。花村の顔を見ると唖《あ》然《ぜん》として立ちすくんだ。生きていたので、びっくりしたのかもしれない。  「やあ、この間は——」  と花村が言いかけると、突《とつ》然《ぜん》、百瀬好子が飛びかかって来た。  「おい!」  よける間もあらばこそ、彼女がワッと飛びついて、花村はソファに横《よこ》倒《たお》しになってしまった。どうする気だ? ここで殺そうというのか——そうはいかないぞ!  だが——花村の考えは見当外れだった。気が付いてみると、彼女は花村に覆《おお》いかぶさるようにして、唇《くちびる》を彼の唇へ押し当てている。何だ、これは?——どうなってるんだ?  唇が離《はな》れても、花村は軽いショック状態で呆《ぼう》然《ぜん》としていた。  「会いたかったわ!」  と彼女は喜色満面、「叔《お》母《ば》さんに話しに来てくれるなんて嬉《うれ》しいわ! でも私に相談してくれなくちゃ。そうでしょ」  「一体——」  「ね、叔母さん! この人、私の恋人なの」  「まあ。好子さん……」  三枝智子も、花村に劣《おと》らずびっくりしている。  「叔母さんのこと前から話してたもんだから挨《あい》拶《さつ》に来たのよ。ちょっと待っててね、二人でよく相談してからまた来るから……」  「ええ、そりゃあ……」  「じゃちょっと二人で出て来るわ。さ、早く行きましょ!」  「おい!」  「早く、早く!」  若い女性というのはこんなに力のあるものなのか、と花村は驚《おどろ》いた。グイグイ手を引張られて、アッという間に玄《げん》関《かん》から外へ連れ出されてしまったのだ。  「一体何の真《ま》似《ね》だ?」  花村が訊《き》くと、百瀬好子はキッと彼《かれ》をにらみつけて、  「裏切り者!」  とひと声、強《きよう》烈《れつ》な平手打ちが花村の頬《ほお》に炸《さく》裂《れつ》した。——痛い、というより驚いて目を白黒させた花村が、  「何をするんだ!」  「月曜日に返事をするなんて言っておいて、こっそり叔母へ話しに来るなんて卑《ひ》劣《れつ》よ!」  「君があんな真似をしたからだ!」  花村も頭へ来て怒《ど》鳴《な》った。  「何の話よ?」  「とぼけるな! ホームの階段から突《つ》き落とそうとしたくせに!」  「——何ですって?」  彼女は訳の分らない様子で、「ホームの階段って何のこと?」  「それじゃ……あれは……」  「それで、おでこにそんなテープ貼《は》ってるの?」  彼女は愉《ゆ》快《かい》そうに言った。  「笑いごとじゃない! 一歩間《ま》違《ちが》えば首の骨を折って死ぬところだったんだ」  「お気の毒さま。でも私じゃないわ」  「じゃ誰《だれ》だ?」  「知らないわ。他のあなたのゆすってる人じゃないの」  「僕はゆすりなんかしてない!」  「しっ! 静かにしてよ!」  百瀬好子は慌《あわ》てて廊《ろう》下《か》を見《み》渡《わた》し、「ここの話し声は部屋の中によく聞こえるのよ。——行きましょ」  「どこへ?」  「どこか話のできるところ」  「それはいいけど。階段はごめんだ。エレベーターで行く。また突《つ》き落とされちゃかなわんからね」  「ご自由に」  百瀬好子は肩《かた》をすくめた。花村はそっと頬《ほお》をさすった。  「ああ痛い……」  痛みを感じるだけの余《よ》裕《ゆう》ができた、と言うべきか……。  「私はあなたの後なんかつけません」  百瀬好子は言い張った。「あれから真直ぐ自分のアパートへ帰ったわ」  「じゃ僕《ぼく》を突き落とそうとしたのは……」  「本当に誰《だれ》かが突き飛ばしたの? 足を踏《ふ》み外したんじゃないの?」  「それぐらいのこと、ちゃんと分る!」  花村はムッとして言った。  二人はマンションの一階にある小さなティールームにいた。  「もし誰かが突き飛ばしたんだとしても」  と彼《かの》女《じよ》は言った。「それがあなたを殺そうとしてやったことだとどうして分るの? つい、よろけてぶつかってしまったのかもしれないわ」  「しかし……」  と言いかけて、花村は口をつぐんだ。確かに、彼女の言う通りでないとも言えない。ただの偶《ぐう》然《ぜん》か……。  「——ま、いい。そういうことにしておこう」  ややふてくされた口調でそう言って、彼《かれ》はコーヒーを飲んだ。  「さっきはごめんなさい」  と彼女が言った。「でも、てっきりあなたが約《やく》束《そく》を破ったと思ったもんだから」  「かなりきいたね」  まだひりひり痛む頬《ほお》をさすって、花村は言った。  「——それで、私のことをどうするか、決心ついたの?」  「いや……。昨日のことがあったもんでね、これはもう警察へ届けないといかんと思ったんだが」  「また分らなくなった?」  「うん。君は自首する気はないのか?」  「全然ないわ。これだけははっきり言っておくわね。あんな奴《やつ》のために刑《けい》務《む》所《しよ》暮《ぐら》しはごめんよ」  花村はため息をついた。全く困ってしまった。一体どうすればいいのか。  「あなたは今日はお休みなの?」  「日曜だからね」  「ああ、そうか。——ぶらぶらしてると日曜も月曜も分らないわ」  「羨《うらやま》しい身分だな」  花村は何とも妙《みよう》な気分だった。今、自分は殺人犯としゃべっているのだ。それでいて、少しも恐《きよう》怖《ふ》や憤《いきどお》りを感じないでいる。今日は会社の上役に呼ばれていると言って家を出て来た。今までにない事である。信子もそういう目で見るせいか、ちょっと妙《みよう》な顔で見送っていた。  「え? 今何か言ったか?」  「あなたに見せたい物がある、って言ったのよ」  「何だね?」  「私のアパートまで来てちょうだい」  「しかし——」  「何か予定があるの?」  「いや、別に……」  「じゃいいでしょ」  「どこなんだね?——ああ、同じ沿線のはずだな」  「そう。三十分もすれば行くわ」  店を出る段になって、彼《かの》女《じよ》が自分の分を払《はら》うと言い出してちょっともめたが、花村は一応面《メン》子《ツ》もあって、二人分支払いをした。  「死《し》刑《けい》囚《しゆう》に慈《じ》悲《ひ》を施《ほどこ》してるわけ?」  外へ出ると、彼女は皮肉っぽく言った。  新宿から急行で十五分足らず。いささかたて混んだ住宅街の中を抜《ぬ》けて五分ほど歩くと、どこにでもあるようなモルタル二階建のアパートへ着いた。〈××ハイム〉とマンションみたいな名がついている。  「君は今、何して暮《くら》してるんだ?」  狭《せま》い階段を上りながら、花村が訊《き》いた。  「アルバイトよ。色々とね」  「アルバイト?」  「そう。ウエイトレス、タイピスト、スナック……。月に半分も働けば、結構楽にやっていけるの」  「後の半分は遊んで暮す、か」  「そんなところね。OLになって時間に縛《しば》られるなんてごめんだもの」  「あの叔《お》母《ば》さんは生活費を援《えん》助《じよ》してくれないの?」  「全然よ。でもケチではないの。自分の姪《めい》がお金がなくて、インスタントラーメン一《いつ》杯《ぱい》で一日我《が》慢《まん》することがあるなんて、考えることもできないのよ。それに私も叔母さんの人のいい所につけ込《こ》みたくもないし……。あ、この部屋なの」  百《もも》瀬《せ》好《よし》子《こ》は財布から鍵《かぎ》を出してドアを開けると、「ちょっと、ここで待っていてね」  「ああ……」  一体何を見せるつもりなのだろう。花村は狭《せま》い廊《ろう》下《か》で、ぼんやり待った。人殺し。——しかしあの娘《むすめ》は、まるで悔《かい》悟《ご》とか良心の呵《か》責《しやく》といったものは無《む》縁《えん》らしい。  「本当にあれで人殺しなのかね……」  この目で犯行計画の詳《しよう》細《さい》を見ていなければ、彼《かの》女《じよ》が自分から犯行をしゃべっても、とても信じられまい。——それにしても、告発が一日一日と遅《おく》れる度《たび》に、言い出すのは難しくなる。その間黙《だま》っていたことの説明をしなければならないからだ。あの女もそれを見《み》抜《ぬ》いているのではなかろうか。あれだけ大《だい》胆《たん》というか単純なトリックを使う度胸の持主だ。そこへ頭が回らないはずはない。  「どうぞ、入って」  中から声がして、花村はドアを開け、中へ入った。——暗い。一《いつ》瞬《しゆん》ドキリとした。暗がりの中にナイフが光って……。  「何してるの? 早くドア閉めて、上って来てよ」  狭《せま》い台所の奥《おく》が部屋になっているようで、そっちから声がする。花村は薄《うす》暗《ぐら》い玄《げん》関《かん》を上って、そろそろと台所を抜けて行った。  「どうしてこんなに暗くして——」  カーテンをひいた六畳間に、百瀬好子が立っていた。ほの暗い中に白い全《ぜん》裸《ら》の肌《はだ》が光るようだ。——花村は呆《ぼう》然《ぜん》として立ちすくんでいた。  「何してるの?」  彼女は至って気軽な口調で言った。  「これは——一体、何だ?」  「口止め料」  「何だって?」  「お金がないから……」  「しかし……そんなことは……」  喉《のど》に声がからんだ。「こ、困るよ!」  「どうして? 何も面《めん》倒《どう》なことないわよ」  彼女はカーペットの上に座って、ゆっくりと四《し》肢《し》をのばした。——花村は額の汗《あせ》を拭《ぬぐ》った。だめだ、だめだ! ここで誘《ゆう》惑《わく》に負けてはいけないんだ! たとえ彼女のことを見《み》逃《のが》すとしても、それはあくまで自主的判断によるべきで、こんな代《だい》償《しよう》のためではいけないのだ。結果は同じでも、良心の問題としては全く違《ちが》って来る。それに——そうとも! これはいわゆる浮気ではないか。  「とんでもない! 女《によう》房《ぼう》を裏切るなんて……」  「あら、ずいぶんお固いのね」  「当り前だ!」  花村は浮気という経験が全くない。知っている女は妻一人。それで格別不満に感じたこともない。もちろん年《ねん》齢《れい》と共に妻との交わりも疎《そ》遠《えん》になって来ているし、新《しん》鮮《せん》な感《かん》激《げき》などにはとんと縁《えん》がないこの頃《ごろ》だが、自分ぐらいの年齢にはそれがふさわしいのだ、と思っていた。  「僕《ぼく》は——君のことは黙《だま》っている。警察にも何も言わない。決めたよ! だから、そんなことしなくてもいいんだ! さあ、立ってくれたまえ!」  「あら、ありがとう」  百瀬好子は起き上って、「じゃお礼の意味で、いかが?」  「君は……」  「さっきひっぱたいたお詫《わ》びと——ね」  立ち上った彼女が静かに唇《くちびる》を唇へ押《お》し当てて来ると、花村は全身に血の駆《か》け巡《めぐ》るのを覚えた。若々しく引き締《しま》った体の柔《やわ》らかさ、そのぬくもりが、まさぐる手に伝わって来て、久々にエネルギッシュな興奮が膨《ふく》れ上って来る。  「——やっぱり、やめる?」  彼女が耳元で囁《ささや》くと、花村は彼女をカーペットの上へ押《お》し倒《たお》すようにのしかかって行った。 4  「……原《はら》宿《じゆく》のマンションで映画プロデューサーが殺された事件を調べていた渋《しぶ》谷《や》警察署は、今日、元女優で、以前、被《ひ》害《がい》者《しや》と親しかった向《むこう》田《だ》厚《あつ》子《こ》・二十九歳《さい》を殺人容疑で逮《たい》捕《ほ》しました。向田は犯行を否認していますが……」  「あなた、どうしたの?」  信子の声に、花村ははっと我に返った。  「い、いや、何でもない」  「早く食べないと遅《おく》れるわよ」  「ああ……」  何を食べたのか、どうやって家を出て来たのか。ともかく、いつの間にか彼はいつもの電車に乗っていた。  「弱った……」  思わず呟《つぶや》きが洩《も》れる。——逮捕された女は、最近関口に振《ふ》られて、かなり関口を恨《うら》んでいたらしい。事件当時のアリバイがなく、以前にもナイフで誰《だれ》か男を傷つけた前科があったのが決定的だった。  警察も「重要参考人」と言わず、はっきり「容疑者」としているからには、相当の自信があるのだろう。厳しい尋《じん》問《もん》が続けば、やってもいないことを白状するかもしれない。そうなれば、ろくに物的証《しよう》拠《こ》はなくても、起訴され、有罪になる恐《おそ》れは充《じゆう》分《ぶん》にある。  事件が迷宮入りになるのはともかく、罪のない人間が逮《たい》捕《ほ》されるのを見過ごすことはできない。といって、今さら警察へどう話をしに行けばいいのだ……。  月曜日一日、花村はほとんど仕事が手につかなかった。夕方近く、デスクの電話が鳴った。  「はい、花村です」  「あら、昨日はご苦労さま」  花村は思わず受話器を取り落とすところだった。  「や、やあ——。よく、その——ここの電話が分ったね」  「昨日、あなたがシャワー浴《あ》びてる間に上着を捜《さが》して名《めい》刺《し》見つけたの。ご迷《めい》惑《わく》?」  「いや——それは——」  「ニュース見た?」  「ああ」  「どうするつもり?」  「君はどうなんだ?」  「私はもう決めてあるわ」  「……気は変らないのか」  「変らないわ」  彼女はきっぱりと言った。「あなたは?」  「あの女性を放っておくわけには行かないよ」  「そう言うと思った」  「君には悪いが……」  「でも、それはやめておいた方がいいわ」  「そうは行かない」  「分ってないのね。——あなたとの事が奥《おく》さんに知れてもいいの?」  彼はギクリとした。会社と名前を知れば、住所をたぐり出すのも難しくはない。  「家内は信じないさ」  「奥さん? どうかしらね。——フィルムがあるのよ」  「——何だって?」  訊《き》き返すまでに、やや間があった。  「フィルムよ。あなたに気付かれないように、押《おし》入《い》れの隙《すき》間《ま》から8ミリで撮《と》ってたの。ほんの十分くらいのものだけど、私たちがテニスや卓《たつ》球《きゆう》をやってるわけじゃないってことぐらいは充《じゆう》分《ぶん》に分るわ」  花村は歯ぎしりした。彼女へ、よりは、むしろ自分に腹を立てていた。あんな女の誘《ゆう》惑《わく》に乗ってしまうとは、何と馬《ば》鹿《か》なことをしてしまったんだろう!  「僕が黙《だま》っていればいいのか?」  「ハンカチをまだ返してもらってないわ」  「よし。……それじゃ、交《こう》換《かん》で行こう」  「フィルムとハンカチ?」  「そうだ」  「いいわ。じゃ今夜……」  時間と場所を聞くと、花村は椅《い》子《す》にもたれた。——全く、女とは恐《おそ》ろしいものだ。昨日、彼の腕《うで》の中で喘《あえ》ぎ、のけぞり、悦《よろこ》びの声を上げた女が、今日は平然と彼を脅《おど》しにかかる。身から出たサビとはいえ、全く腹が立つ!  花村は、ますます仕事が手に付かなくなった。  まだ夜八時といえば、盛《さか》り場《ば》はネオンが輝《かがや》き、やっとこれから賑《にぎ》わう時刻だが、そのマンションの工事現場は、もう真夜中のように静まりかえっている。点《てん》滅《めつ》する黄色い灯《ひ》以外は明りらしい明りもない。  花村は足下に転がる鉄材に用心しながら、工事現場の中へ足を踏《ふ》み入れた。もうかなり鉄骨も上の方まで組み上っているように見える。  「寒いな……」  木《こ》枯《がら》しが容《よう》赦《しや》なく吹《ふ》きつけて来て、体の芯《しん》まで凍《こお》りつくような寒さだ。「一体何だってこんな所へ呼んだのかな」  人目につかないのは確かだが。  「——待った?」  暗がりから突《とつ》然《ぜん》声がして、花村は飛び上らんばかりに驚《おどろ》いた。  「——いたのか」  「今来たのよ」  「フィルムは?」  「これよ」  少し明るい所へ出て来ると、百瀬好子は、コートのポケットから四角い、平べったい小さな箱を取り出して見せた。  「君は卑《ひ》劣《れつ》だ!」  「仕方ないじゃないの。身を守る保険みたいなものよ」  と一向に平気な様《よう》子《す》で、「さあ、私のハンカチは?」  花村は内ポケットからハンカチを取り出した。  「洗《せん》濯《たく》はしてないがね」  「じゃ、これで交換条件は揃《そろ》ったわけね」  彼女は近付いて来て、フィルムを差し出した——。フィルムとハンカチがすれ違《ちが》って、互《たが》いの手に渡《わた》る。  「じゃこれで終りだな」  「あ、ひと言断っておきますけれど……」  と彼女が付け加える。「私の手元に、そのフィルムから焼き付けた写真が三枚ばかり残してあるの」  「何だって!」  「待って。——何もそれでどうしようっていうんじゃないわ。ただ、あなたが警察へ行かないように、っていう保証書ね」  「信用できんね」  「あら、それは信じていただく他ないわね。私だって何もあなたに迷《めい》惑《わく》かけて喜んでるわけじゃないのよ」  花村はため息をついた。  「分ったよ。じゃ、これで君とも二度と会うこともあるまい」  「あなたが会いたければ、私の方は構わないのよ」  「ごめんだな」  「残念ね、せっかく仲良くなれたのに」  花村は苦笑した。確かに久しぶりで女の肉体に堪《たん》能《のう》したのは事実だ。しかし——やっぱり、馴《な》れた女房の、いささかぜい肉のついた体の方が俺《おれ》には向いている……。  突《とつ》然《ぜん》、目の前にズン、と鈍《にぶ》い響《ひび》き——そして気が付くと、百瀬好子が倒《たお》れていた。太い鉄骨が一本、彼女の足のそばに転がって、彼女の右足が血だらけになっている。  「大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》か!」  彼女の顔は蒼《そう》白《はく》で、生気を失っていた。瞼《まぶた》が震《ふる》えて、弱々しい視線が花村を捉《とら》えた。  「しっかりしろ! 今、救急車を呼んで来るからな!」  「早く……逃《に》げて……」  「何だって?」  「狙《ねら》われたのは……あなたなのよ……早く……逃げて……」  やっとそれだけ呟《つぶや》いて、彼女は失神したのか、ガックリと頭を垂《た》れた。——花村はゆっくりと立ち上った。鉄骨を組んだ高みから小刻みな足音が降りて来る。  花村は手近な柱の陰《かげ》へと駆《か》け込んだ。誰《だれ》かが鉄骨を上から落としたのだ。小刻みな足音はやがて近付いて来た。  「まあ、好《よし》子《こ》さん!」  口に手を当てて叫《さけ》んだのは、三《さえ》枝《ぐさ》智《とも》子《こ》だった。「私としたことが——どうしましょう? ああ、好子さん! しっかりして!」  三枝智子はオロオロとあたりを見回していたが、やがて駆け出して、闇《やみ》の中へと姿を消してしまった。  花村は公衆電話を捜《さが》して一一九番をかけると、救急車を頼《たの》み、百《もも》瀬《せ》好子の所へ駆け戻《もど》った。彼女は目を開いていた。  「今救急車が来る。少しの辛《しん》抱《ぼう》だ」  「ええ……」  青ざめた顔に汗《あせ》が吹《ふ》き出ている。大変な苦痛に違《ちが》いない。  「あの叔《お》母《ば》さんがどうしてこんなことを?」  「あの関口って男を殺したのは……叔母なの」  「何だって?」  「私が関口を殺そうと思ってあの部屋へ行った時、もう関口は死んでたわ……」  「なぜ叔母さんは——」  「関口が他の女とも関係を続けてると知って……怒《おこ》ったんです。結《けつ》婚《こん》の約《やく》束《そく》は取り消しだと……。関口は叔母を罵《ののし》ったの。金がなきゃ、お前なんかと一日もいられるものか、って……。叔《お》母《ば》はカッとなって、手近のナイフで関口を刺《さ》そうとした。関口は玄《げん》関《かん》まで逃げて追い付かれ、向き直った所を刺されたのね。……叔母はもともと神経の細い人だったから……この時、張りつめていた糸が切れてしまったのね」  「というと——狂った?」  「ええ……。私が電話すると、叔母は関口を刺したばかりなのに、ごく普《ふ》通《つう》に電話へ出て来て、新宿まで私を迎えに来たのよ。関口の死体を玄関に置いたままでね……」  「そして留守の間に君が——」  「ええ。玄関へ入って、いきなり関口の死体と出会って……。ナイフも叔母の、見《み》憶《おぼ》えのある品なので、何があったのか、すぐ分ったわ。でもまさか誰《だれ》も叔母が殺したとは思わないでしょう。で、私はナイフを抜《ぬ》いて持ち去ることにして、急いで新宿に向ったの。叔母のアリバイのためにも必要だったのよ。……叔母は、自分のしたことは何一つ憶《おぼ》えていなくて、近所の人が死体を見つけて大《おお》騒《さわ》ぎしている所へ帰って、本当に卒《そつ》倒《とう》しそうなほど驚《おどろ》いてたの……」  「すると君は叔母さんを逮《たい》捕《ほ》させないために、僕《ぼく》には自分がやったと思わせてたんだね?」  「ええ……。ところが、妙《みよう》な話なんだけど、叔母も私がやったと思ってたの。それで、あなたと同《どう》伴《はん》喫《きつ》茶《さ》で会った時、私の後をつけて来て、隣《となり》の部屋で私たちの話を聞いてしまったのよ。仕切りなんて薄《うす》い壁《かべ》ですものね。で、叔母は断然、私を守ろうと決心したのね。——あなたの後をつけて……」  「ええ? じゃ、階段で、僕を突《つ》き飛ばしたのは——」  「叔《お》母《ば》なのよ。そして今日も、あなたをこの鉄骨で殺そうとして……。手元が狂《くる》ったのね……」  遠くからサイレンの音が近付いて来た。  「救急車だ!」  「あなたは、もう行ってちょうだい」  「え?」  「事件との関わりを訊《き》かれたら、困るでしょ」  「うん……。それは……」  「私は大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》。——さ、早く行って」  「すまないね」  「一つ、お願いがあるんだけど」  「何だね?」  「やはり、無実の人を逮《たい》捕《ほ》させておくわけには行かないわ。……あなた、事件の真相を匿《とく》名《めい》の手紙にして、警察へ出してちょうだい。——叔母も刑事責任を問われることはないと思うし。……でも私、自分では叔母を告発したくない……」  「分った。必ず出すよ」  「お願いね」  「じゃ、行くよ」  「さようなら……」  花村は、暗い通りを救急車の赤ランプが近付いて来るのを見て、静かに闇《やみ》の中へ姿を消した  「今日はいつもの打合せだ」  「こんな暮《く》れに?」  「仕方ないさ。仕事の方は待っちゃくれないからな」  そう言って彼はインスタントの熱いポタージュスープをすすった。  「さて、今日はどうするかな……」  一台遅《おく》れの電車で、ふと呟《つぶや》く。休《きゆう》暇《か》——秘密休暇の一日。今月はどう使うか。十二月は仕事も忙《いそが》しいので、休暇を取るのにちょっと勇気がいったが、思い切って届を出した。妻にもいつもの言い訳をしてきた。  本当に信子は何も知らないのだろうか。時折ふっと疑問に思うことがある。別に当てこすりや皮肉めいたことを言うわけではむろんないのだが、「打合せ」の様子や結果を聞く時の態度に、時折チラリと、子供の話に大げさに聞き入ってやっている時のような、そんな表情が窺《うかが》えることがある……。  まあいい。知っていて好きにさせてくれているのなら、それに甘《あま》えよう。  「今日は映画か、買物か……」  あのゲームはやる気がしなかった。まだ先月の記《き》憶《おく》が生々しい。  事件は、三枝智子が重要参考人として呼ばれ、さらに精神鑑定を受けることになったという報道を最後に、紙面に登場しなくなった。  花村の出した匿《とく》名《めい》の手紙のことは、当然ひと言も触《ふ》れられていない。しかし、事件がそれに沿う形で落着したのは、やはりあの手紙のせいだった、と思ってもよさそうである。  百瀬好子の足の傷は治ったのだろうか? 頭のいい、不思議な娘だった。その肉体もすばらしかった。  しかし、今になって、ふと考えるのである。事件の真相は本当に彼女の言う通りだったのだろうか? あんな状《じよう》況《きよう》でもあり、花村は彼女の言葉をそのまま信じてしまったが、もし彼女が犯人だとしたら……。そしてあの三枝智子は姪《めい》の身を案じていただけだとしたら……。それでも話は通じないわけではない。彼をホームの階段から突き落とそうとしたのも、百瀬好子かもしれない。——だが、叔《お》母《ば》を心配する余り、関口を殺し、今度は叔母を精神病患者にしてしまうというのは理《り》屈《くつ》に合わないような気がする。  財産。三枝智子の財産である。関口を殺したのも、叔母のため、というよりは、二人が結《けつ》婚《こん》して財産を関口に取られたくなかったというのが本音ではないか。それなら、叔母を犯罪者でなく、精神病患者にしてしまったのも分るような気がする。裁判は長く、有罪の判決が確定するのはどうせ大分先のことだ。だが精神鑑《かん》定《てい》はずっと早く結果が出る。そして異常とみなされれば、三枝智子は禁治産者として、財産を管理する資格を失うことになるのだ。おそらく、好子は叔母が少し異常な所があるのを承知で、この計画を立てたのだろう。叔母が鉄骨で彼《かれ》を殺していれば、狂《きよう》気《き》は申し分ないものになったはずだ。  ——まあいい。済んだことは済んだことだ。  何の気なしに車内を見回した花村は、ふと一人の少女に目を止めた。十二、三歳《さい》だろうか、しっかりした、利口そうな少女だ。手に小さなボストンバッグを持っている。そして誰《だれ》に連れられて来たのでもなさそうだ。  一体どこへ行くのだろうか?  「よし」  花村は呟《つぶや》いた。「今日の獲物はあの娘だ」 凶《きよう》悪《あく》犯《はん》 1  K市の警察署長、有《あり》田《た》は、苦虫をかみつぶしたような顔で〈市長室〉と書かれたドアから出て来た。  廊《ろう》下《か》の長《なが》椅《い》子《す》に並んで座っていた三人の男が、まるで鎖《くさり》でつながってでもいるように、一《いつ》斉《せい》に腰《こし》を浮かした。しかし有田の顔つきを一目見ると、三人の顔から希望の光は消え去り、再び力なく長椅子に座り込《こ》んでしまった。  有田が目の前に立つと、三人の中では一番年長の鈴《すず》木《き》が、  「だめだったんですね」  と念を押《お》すように訊《き》く。有田はため息をついて、  「だめだ。……何度も再考してほしいと頼《たの》み込んだのだが、考《こう》慮《りよ》の余地はないといわれたよ」と三人の顔を見《み》渡《わた》し、「私としても誠に残念だ」  と言った。三人は互《たが》いに顔を見合わせた。  「一体どうして分らないんです!」  三人の中では一番若い桜《さくら》井《い》が不満を叩《たた》きつけるように言った。  「我々のような人間が必要な時が必ず来るってことが!……その時になってからじゃ遅《おそ》いんだ!」  「君の気持ちは分るよ」  と有田は穏《おだ》やかに受け止めて、「しかし、市長は、この貧《びん》乏《ぼう》な地方都市に、いつ仕事があるかも分らんような人材を三人も置いておく余《よ》裕《ゆう》はないというんだ」  「それなら、他にもっとむだを平気でやってるじゃないですか」  と桜井がかみつくのを、鈴木は、  「まあ、署長へ食ってかかっても仕方ないよ」  と抑《おさ》えた。「市長だって、赤字財政で苦労してるんだから」  「それはそうなんだ」  有田はホッとしたように肯《うなず》いた。「それにこんな小さな市の警察で、特別狙《そ》撃《げき》班《はん》を置いている例はないしな」  三人は押し黙《だま》ってしまった。——しばらくして、今まで黙っていたもう一人の男、加《か》賀《が》が、ポツリと呟《つぶや》くように言った。  「何か起こってくれたらなあ……」  「おい、よせ!」  有田は慌《あわ》てて周囲を見回し、「ここは市庁舎だぞ。記者にでも聞かれたらどうする!」  「しかし、そうも言いたくなりますよ」  と鈴木が言った。「いざという時にじたばたしたって、もう遅《おそ》いんだ」  「大体、今だって装《そう》備《び》が不《ふ》充《じゆう》分《ぶん》なのに」  桜井は、ことのついで、というように、  「ライフルは古いし、練習する場所がないし、弾《た》丸《ま》代《だい》をもらうのにも、会計じゃいやな顔をされるんですからね」  加賀が有田の顔を見て、  「すると、我々はクビですか?」  と訊《き》いた。有田は渋《しぶ》い顔をますます渋くさせて、  「いや、その点は何とかする。君らを路頭に迷わせるようなことは決してせん。その点は任せておいてくれたまえ!」  有田がそそくさと行ってしまうと、三人は改めて顔を見合わせた。  「どうせゴルフの相談なんだぜ」  と若い桜井が吐《は》き捨てるように言った。  「お前は独身だから、まだいいよ」  と加賀がわびしい口調で、「俺《おれ》の所は来月三人目が生まれるんだ。今失業したらそれこそ目も当てられねえ」  「独身だからってかすみを食べちゃ生きて行けませんよ」  と桜井が口を尖《とが》らす。  「だけど、もし人員縮小ってことになったら、お前が辞《や》めるんだぞ。まだよそへ移っても充《じゆう》分《ぶん》に仕事ができる」  「そんなのありませんよ! 僕《ぼく》だって今年中には結《けつ》婚《こん》しようと思ってるんです。それなのに——」  「よさないか」  と鈴木がうんざりしたように口を挟《はさ》んだ。  「俺《おれ》たちはみんな無用の長物なんだ。クビになるときゃ、みんな一《いつ》緒《しよ》さ」  三人はまた押《お》し黙《だま》ってしまった。——やがて鈴木が立ち上った。  「こんな所に座っててもしょうがない。署へ戻《もど》ろう」  三人は重い足取りで市庁舎を出た。ちょうど正面の階段を、七十近い年寄りがせっせと掃《そう》除《じ》している。桜井がチラリとそれを見て、  「掃除ぐらいならできるかなあ……」  と言った。  「よせよ、クビと決まったわけでもないのに」  と鈴木がたしなめる。加賀がため息と共に言った。  「本当に、何か起こってくれないかな。——凶《きよう》悪《あく》犯《はん》が人質を取って立てこもるとか……」  「銃《じゆう》を持ってないと、我々が射殺できませんよ」  「そうだな。人質はかよわい美人がいい。世間の怒《いか》りを買うようにな」  「そう巧《うま》く行くもんか」  と鈴木が独《ひと》り言《ごと》のように呟《つぶや》いた。  「金をよこせ!」  市内唯《ゆい》一《いつ》の大手スーパー〈S〉のレジ係川《かわ》田《た》浩《ひろ》子《こ》はえらく太って、呑《のん》気《き》な性格であった。レジを打つのもスローモーなら、つり銭もよく間《ま》違《ちが》えるので、慣《な》れた客は彼《かの》女《じよ》のいるカウンターには決して並《なら》ばなかった。他のカウンターのほうが行列が長くても、結果的にはそっちへ並んだほうが早いのである。  その客は、川田浩子のレジに客が一人もいないのを見てやって来たらしかった。——午後一時半。大体が、このスーパーの最も空《す》いている時間なのだった。  「金をよこせ!」  という声は川田浩子にもむろん聞こえていた。しかし、ちょうど爪《つめ》のマニキュアの具合を気にしていたので、内容は理解できなかったのである。  「いらっしゃいませ」  と機械的に言って、右手をレジスターのキーへかけ、左手でかごの中の品物を——と思ったが、そこには何もなかった。  「金を出せ! おとなしくしてろ!」  とくぐもったような低い声がした。顔を上げた川田浩子は、大きなマスクとサングラスをかけた顔に出くわした。  「何ですか?」  川田浩子は、何事なのか、さっぱり理解できなかった。何やってんだろ、このお客は?  「金を出せ、と言ってんだよ! こいつが見えねえのか!」  川田浩子は客の手に黒光りしているものを見下ろした。何だかピストルみたいに見えるけど……。ピストル?……ピストルだ!  川田浩子はやっと事態を理解した。しかし、甚《はなは》だ不幸なことに、彼女は極めて直接的に行動するタイプだった。考える、という段階などすっ飛ばして、反射的に行動する性質なのである。  「キャーッ」  オペラ劇場以外では滅《めつ》多《た》に聞くことのできない凄《せい》絶《ぜつ》な叫《さけ》び声が、川田浩子の豊かな体《たい》躯《く》から脳天を突《つ》き抜《ぬ》けて発せられた。相手が思わず仰《ぎよう》天《てん》して飛び上った。  「強《ごう》盗《とう》! ピストル強盗!」  と川田浩子は喚《わめ》き散らしながら、出口へ向かって突っ走った。それはさながら猛《もう》牛《ぎゆう》の突《とつ》進《しん》にも似て、積み重ねたかごをはねつけてまき散らし、店内用のベビーカーを突き倒《たお》し、店へ入りかけていた客を三人突き飛ばした。  一《いつ》瞬《しゆん》、店内が静まりかえった。そして、  「キャーッ!」  という悲鳴の大合唱と共に、店内にいた客と従業員が一《いつ》斉《せい》に駆《か》け出した。——全員が店内から姿を消すのに、五秒とかからなかった。全員が? いや、一人だけ残っていたのは、ピストルを手に、ポカンと突っ立っている、サングラスとマスクの犯人だけであった。  積み上げてあったミカンの缶《かん》詰《づめ》が、ガラガラと崩《くず》れた。  その日、非番だった若《わか》山《やま》刑《けい》事《じ》は、ちょうどその時スーパーの向い側《がわ》にある本屋にいた。はた目には、およそ刑事とは見えないに違《ちが》いない。——というのは、何しろまだ二十七歳《さい》の若さ、それに色鮮《あざ》やかなオレンジ色のセーターを着ていたからである。  若山は大体が童顔の二枚目で、バーなどでは、決まって、  「まあ、刑事さんなんてやらしとくの惜《お》しいわ。役者にしたいくらいねえ!」  とお世《せ》辞《じ》を言われる。しかし、本人は至って任務に忠実な刑事なのだ。  オレンジ色のセーターを着ているのは、これがペアになっているからで、もう一方は、当然彼の妻、奈《な》美《み》が着ているのである。——二人はまだ結《けつ》婚《こん》して二か月という、湯気の立つようなカップルだった。  「あなた本でも見てたら? 買物して来ちゃうから」  という奈美の言葉に、  「じゃ、そうするか」  と肯《うなず》いて、本屋へ入り、好きな将《しよう》棋《ぎ》の本をあれこれ手に取ってめくっていたのだが、そこへ……、  「ピストル強《ごう》盗《とう》! ピストル強盗!」  と喚《わめ》きながら、スーパーから、店員の制服を着た女が飛び出して来た。  若山は瞬《しゆん》時《じ》に職業意識に目覚めた。本を投げ出すと、本屋から駆《か》け出し、次々にスーパーから転がり出てくる人を、  「早く物《もの》陰《かげ》へ!——そっちはだめだ! 公園のほうへ!」  と押《お》しやった。そして、まだ、  「キャーッ!」  と叫《さけ》び続けている女店員の腕《うで》をつかんで、  「犯人は? まだ中なのか?」  と大声で訊《き》いた。相手はピタリと叫ぶのをやめて、  「ええ! ピストルを持って——。私に突《つ》きつけたんです! 『金を出せ』って、ドスのきいた声で言って」  「一人か? 犯人は一人?」  「ええ……。一人でした」  「確かに、まだ中なんだな?」  女店員はキョロキョロと周囲を眺《なが》め回し、  「出て来てませんよ。きっと中です」  「よし、分った。もう大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》だ。落ち着いて。僕は刑事だ。いいかね、すぐ一一〇番して、事件を知らせてくれ。僕は店を見張っている」  「分りました」  「店の出入口は?」  「裏に一つありますけど……。でもどうせ、わきを回って正面へ出て来るようになってるんです」  「そうか。すると正面を見張ってりゃいいわけだな。よし、じゃ電話を頼《たの》むよ」  「は、はい!」  言われるままに、女店員が電話のあるほうへと走って行くと、若山は急いで正面の本屋へ駆《か》け戻《もど》った。  「みんな、ここから出るんだ! 正面のスーパーにピストルを持った男がいる! 発砲すると危険だ! 早く出て!」  店にいて、何事かと表を覗《のぞ》いていた客たちは一斉に左右へ駆け出した。一人オロオロしている店の主人へ、  「僕は刑事です。ここから店を見張らせて下さい」  「は、はあ……どうぞ」  「あなたは奥《おく》へ入っていらしたほうがいいですよ」  「そ、そうします」  主人は慌《あわ》てて店の奥《おく》へ姿を消した。若山は本屋の表に出してある週刊誌を広げた台の後ろに身を隠《かく》して、スーパーの様《よう》子《す》を窺《うかが》った。——何しろガラス張りなので、外の風景が映《うつ》っていて、中の様子がさっぱり見えない。  ピストル強盗か、全く、こんな小さな町には珍《めずら》しい話だ。若山は身の引き締《し》まるのを感じた。何しろ拳《けん》銃《じゆう》の訓練は受けたが、実際の仕事では手に握《にぎ》ったこともないと来ている。  「畜《ちく》生《しよう》、よりによって非番の時に……」  と舌打ちした。しかし、だからこそ奈美にくっついて来て、この事件に出くわしたのだが。  「奈美……」  やっと思い出した。奈美はどこにいるのだろう? あのスーパーにいたはずだ。あの時、逃《に》げ出して来た客の中には見当らなかったようだが……。  「——まさか!」  若山は真っ青になって、静まりかえったスーパーのほうへと目を向けた。  鈴木たちは署へ戻《もど》ると、何をする気もせずに、自分たちのデスクにぼんやりと座り込んでいた。  「——ねえ鈴木さん」  加賀が言った。「あんた、どうする?」  「何が?」  「普《ふ》通《つう》の警官に戻《もど》れと言われたら、さ」  「そうだなあ……」  鈴木は、壁《かべ》のケースに納められたライフルを見上げた。ついに一発も現場で撃《う》つことのなかったライフル……。  「生活ってものがある。仕方ないだろう」  「僕《ぼく》はいやです」  と桜井は頑固である。  「じゃ、どうするんだ? ライフルを撃《う》つような仕事なんて、ありゃしねえぞ」  「そりゃ分ってますが……」  「どうせ俺《おれ》たちだって宮仕えの身なのさ」  と加賀が投げやりな口調で言った。「交通整理をやれと言われりゃ、やらなきゃならん。そういうもんさ」  「いっそ俺たちでライフル強盗でもやるか」  と鈴木が苦々しく笑って、「そうでもないと、こんな平和な町、この先まず数十年はそんな事件など起こりそうもないからな」  そこへ、若い警官が興《こう》奮《ふん》した面持ちで飛び込《こ》んで来た。  「た、大変です! 直ちに出動して下さい!」  三人は顔を見合わせた。鈴木が、  「おい、俺《おれ》たちをからかってるつもりなら——」  と言いかけると、  「本当ですよ! 今、通報があったんです。ピストルを持った男が、スーパー〈S〉に立てこもってるんですよ! すぐに出動しろと署長の命令です!」  鈴木、加賀、桜井——どの顔も、たちまち紅潮して来た。  「やったぞ!」  桜井が躍《おど》り上った。  「いよいよだ! 俺たちの出番なんだ!」  加賀が大声で言った。今にも踊《おど》り出さんばかりの喜びようだ。さすがに鈴木はやや冷静を保って、  「おい、すぐに仕度しよう」  と声をかけた。そしてケースの鍵《かぎ》を開けると、ライフルの冷たい銃身を握《にぎ》りしめた。 2  鈴木たち三人は、防《ぼう》弾《だん》チョッキをつけた上にジャケットを着て、頭にヘルメットといういでたちでパトカーから降り立った。  「大変な騒《さわ》ぎだな」  鈴木が思わず呟《つぶや》いた。——スーパーの周囲はさながらお祭の広場みたいな様相を呈《てい》していた。警官、野次馬、報道陣、TVの中継車まで来ている!  三人がライフルを手に歩いて行くと、一《いつ》斉《せい》にカメラが集中する。桜井が晴れがましい様子でニヤニヤしていたが、鈴木は苦々しい顔つきだった。有田署長が三人に気付いてやって来る。  「やあ! ご苦労」  「事態は?」  と鈴木は訊《き》いた。  「まだよく分らんのだ。しかし、ともかく君らにもやっと働いてもらえる」  「それは結構ですが……」  鈴木は周囲を見回して、「この騒《さわ》ぎは何とかなりませんか?」  「どうしてだ?」  「厳重なのはいいですが、こう大勢人がいちゃ、下《へ》手《た》に発《はつ》砲《ぽう》もできませんからね」  「まあ、そう言うな。今、ここで君らの活《かつ》躍《やく》ぶりを売り込《こ》めば、市長の態度だって変わるさ」  「そりゃまあ、そうかもしれませんが……」  鈴木は渋《しぶ》々《しぶ》肯《うなず》いた。  「犯人はあのスーパーにいる」  「姿を見せましたか?」  「いや、奥《おく》へ引っ込んどるようだ」  「それじゃ、まず催《さい》涙《るい》弾《だん》を打ち込んで……」  「それがそう簡単にはいかんのだ」  鈴木は有田の顔を見て、  「なぜですか?」  と訊いた。  「人質がいる」  鈴木たちは素早く顔を見合わした。  「そんな話は聞きませんでしたよ」  と加賀が言った。「一体誰《だれ》が?」  「うむ……。君たちも若山君を知っとるだろう」  「ええ。この間結《けつ》婚《こん》した……」  「彼の細君が人質になっているらしい」  鈴木はゴクリと唾《つば》を飲み込《こ》んだ。——冗《じよう》談《だん》が本当になってしまった。  「そいつは……困りましたね」  「若山君は?」  と桜井が訊《き》いた。桜井は個人的にも若山と付き合いがあった。有田署長は顎《あご》でしゃくって、  「あっちだ」  ——若山は頭をかかえて、パトカーの陰《かげ》に座り込んでいた。あちこち捜《さが》してみたが、ついに奈美は見つからなかった。スーパーに、犯人と二人で残っているとしか思えない。  「若山」  「——桜井」  「奥《おく》さんが……」  「そうらしいんだ」  桜井はかがみ込んで若山の肩へ手をかけた。  「俺《おれ》たちが必ず助け出す。心配するなよ」  若山は、桜井の手にしたライフルを見た。  「奴《やつ》を射殺するのか?」  「分らんよ。……進んで出て来てくれれば、それに越《こ》したことはないが」  「頼《たの》む! 気をつけてくれ! 犯人を刺《し》激《げき》して、奈美にもしものことがあったら——」  と若山が桜井の手を握《にぎ》りしめる。  「分ってる。分ってるとも! 心配するな。きっと奥《おく》さんを無事に救い出すから」  「桜井……頼《たの》む……」  若山は頭を下げた。  「ここは我々三人に任せて下さい」  と鈴木は言った。  「それは……ちょっとまずいんじゃないかね」  と有田は渋《しぶ》った。「万一逃《に》げられでもしたら……」  「そんな心配は無用です。警備を解いてくれと言ってるわけじゃありません。遠巻きにするような格好で包囲すればいいでしょう。何しろこう近くに人がいては、こっちも自由に動けません。それに犯人を刺《し》激《げき》しますよ。人質の身も心配です」  「ふむ……」  有田はしばらく考え込んでいたが、やがてゆっくり肯《うなず》いた。  「よかろう。君にこの場は任せるぞ」  「はい」  鈴木はきっぱりと答えた。  「じゃ、全員を百メートルほど遠ざけて配置しよう。君らとは無線で連《れん》絡《らく》を取る」  「そうして下さると助かります」  有田の命令で、包《ほう》囲《い》網《もう》は十分後にはスーパーの近くからずっと後退した。——近くの商店、民家なども、全部避《ひ》難《なん》しているので、まるでゴーストタウンのような静けさになる。  「さて、これで俺《おれ》たちだけになった」  鈴木は言った。  「思う存分やれるな」  と加賀は自分のライフルを撫《な》でた。「いつやるんだ?」  「何を?」  「突《とつ》入《にゆう》するんだろう?」  「慌《あわ》てるな」  鈴木は首を振《ふ》った。「それは最後の手段だ」  「しかし、せっかくのチャンスだぜ」  「落ち着けよ。撃《う》たれるかもしれないんだぞ。それを忘れるな」  「そうか。——それは考えなかった」  と加賀は笑った。  「人質がいますよ」  と桜井がスーパーを見張りながら言った。  「僕《ぼく》も若山の結《けつ》婚《こん》式《しき》には招ばれたんです。——美人だったなあ、あの奥《おく》さん」  「下手に手を出せないなあ」  と不満げな加賀へ、鈴木が言った。  「まあ、そう言うなよ。その逆も言える」  「というと?」  「美しい若妻が中でどんな目にあっているかも分らないと思えば、犯人を射殺しても文句は出ないだろう。これが犯人だけだったら、何も撃《う》つことはなかったと批判が出るに決っている」  「なるほど……」  「分るだろう。——今は、じっくり待つんだ。気長に説得するのがまず第一。その上で、人質の命が危いと判断したので突《つ》っ込《こ》む、という形にしなくては」  「どれぐらい待つ?」  「まあ、二十四時間だな、最低」  「そんなに?」  「今まで、ずっとこの日を待ってたんだぞ。二十四時間ぐらい、何だ」  「それもそうだな」  と加賀は肯《うなず》いた。  その時、桜井が緊《きん》迫《ぱく》した声で言った。  「誰《だれ》か、動いた!」  鈴木と加賀も、パトカーの陰《かげ》から顔を覗《のぞ》かせた。桜井は双《そう》眼《がん》鏡《きよう》でじっとスーパーの様子を見ている。  「何か見えるか?」  「いえ……。さっきチラリと見えたんですがね。確かに人《ひと》影《かげ》だったけど」  「外が明る過ぎるんだ。夕方になれば、中がはっきり見えるようになる」  「呼びかけますか?」  鈴木はちょっと迷って、  「そうだなあ。……一応呼びかけてみないことには——」  「でも、それであっさり降《こう》伏《ふく》して来たらどうするんだ?」  と加賀が文句を言った。「俺《おれ》たちのことなんか、また忘れられちまうぞ」  「何だか妙《みよう》な気分ですね」  と桜井が苦笑いしながら言った。その時、突《とつ》然《ぜん》、三人の背後から声がかかった。  「あの、何かあったんですの?」  三人は飛び上らんばかりに驚《おどろ》いて振《ふ》り向いた。——若い女が、キョトンとした顔で立っている。鈴木は急いでその手をつかんで、  「危い! 体を低くして!」  と引っ張った。女は慌《あわ》ててしゃがみ込《こ》んだ。  「一体どこから出て来たんです?」  と鈴木が訊《き》くと、女は戸《と》惑《まど》った様子で、  「あの……公園のトイレです。気分が悪くなったもので……。ずいぶんパトカーのサイレンやら何かが聞こえましたけど、どうしたんです?」  「あのスーパーにピストル強《ごう》盗《とう》が立てこもってるんですよ」  「まあ!」  「人質を取ってね」  と加賀が口を挟《はさ》む。「いつ撃《う》ち合いになるか分りません。あなたも早く避《ひ》難《なん》したほうが——」  突《とつ》然《ぜん》、桜井が、  「奥《おく》さん!」  と大声を上げた。「若山君の奥さんじゃありませんか!」  女は目を丸くして、  「まあ、桜井さん。あなたでしたの! そんな格好なので、分りませんでしたわ」  「いや……しかし……」  桜井は絶句した。他の二人も、やっと事態を理解した。——しばし、誰《だれ》も口をきかなかった。  若山奈美は、何だかわけが分らず三人の顔を眺《なが》めていたが、  「——じゃ、私、お邪《じや》魔《ま》でしょうから、行きますわ」  と腰《こし》を浮かしかけた。  「ま、待ちなさい、奥さん!」  鈴木が慌《あわ》てて奈美を押《おさ》えて、「今出ちゃ危い! 差し当り……そうだ、そこの写真屋の中へ入っていなさい。暗くなってから、ちゃんと送ってあげます。万一のことがあっては大変だ」  「はあ……」  奈美は当《とう》惑《わく》気味に、「でも、主人が心配していると思いますから」  「それは大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》。我々が無電で連《れん》絡《らく》しておきます」  「そうですか。分りましたわ」  「じゃ、頭を低くして行って下さい」  「はい」  と行きかけて、ふと奈美は振《ふ》り返り、「人質になってるのはどんな人なんですの?」  と訊いた。鈴木はしどろもどろになって、  「そ、それは……まだはっきりとは……はあ……」  「お気の毒ですね。早く助けてあげて下さい」  奈美は頭を下げたまま、急いで写真屋の店先へと駆《か》け込《こ》んで行った。  「——参った!」  鈴木が息をついた。加賀が吐《は》き捨てるように、  「何てこったい! 畜《ちく》生《しよう》!」  と毒づいた。  「どうします?」  「人質がないとなりゃ、待ってるこたあない。突《つ》っ込んでやっつけよう!」  と加賀が立ち上る。  「おい、座れ! さっき言ったことを忘れたのか? 人質もないのに射殺すれば、後で叩《たた》かれるだけだぞ」  「じゃ、一体どうするんだ?」  とふてくされた加賀がその場にあぐらをかいた。桜井がため息をついて言った。  「どうも、これじゃ我々の出番はないようですね。催《さい》涙《るい》弾《だん》を撃《う》ち込《こ》んで、出て来た所を捕《つか》まえるだけなら、狙《そ》撃《げき》班《はん》でやることはないでしょう」  「束《つか》の間の夢《ゆめ》か……」  加賀は愛《いと》しげにライフルの銃身を撫《な》でた。鈴木はしばらく何事か考え込んでいたが、やがて二人の顔を眺《なが》めながら言った。  「どうだ、ちょっと思い切ったことをやってみる気はあるか?」  「——何をやるんだ?」  「つまり……」  「誰《だれ》か戻って来ます」  警官の声に、若山は思わず立ち上った。  「狙撃班の一人です」  「桜井!」  若山は駆け出した。  「若山、いたのか! よかった、君に頼《たの》みがあって来たんだ」  「何だ? 家内は? やっぱり中に?」  桜井は重々しく肯《うなず》いた。若山は一《いつ》瞬《しゆん》、目を閉じた。  「そうか……。無事でいるのか?」  「今の所は大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》のようだ」  「で、僕《ぼく》に何をしろ、と?」  「奥《おく》さんに君の声を聞かせたいんだ。勇気づけられるだろうしね。励《はげ》ましてやってほしい」  「それはいいが、できるのか? 電話をかければいいのかい?」  「いや、電話はまずい! 犯人は何を話してるかと勘《かん》ぐるだろう。妙《みよう》に疑念を起こさせないほうがいい」  「そうだな。それじゃそばへ行ってスピーカーで呼びかけるよ」  「いやいや、そいつもうまくないよ。君が近くへ来ていると知ったら、奥さんが危険を忘れて飛び出して来ないとも限らない」  「——それじゃ、どうすりゃいい?」  「カセットテープへ吹《ふ》き込んでくれれば、それを僕が大きな音で再生して聞かせるよ。それが一番安全だ」  「分った。それじゃ……」  「こいつへ吹き込んでくれ」  と桜井はポータブルのカセットレコーダーを渡《わた》した。「近くの電気屋のを拝借して来たんだ」  若山は唇《くちびる》をなめて、  「しかし……何と言えばいいんだ?」  「うん、あまり犯人を刺《し》激《げき》してもまずいからな……。大体、こんな所でどうかな——」  と桜井はポケットからメモを取り出すと、若山へ手《て》渡《わた》した。 3  「私が?」  思わず奈美は訊《き》き返した。「私が犯人を説得するんですって?」  鈴木は肯《うなず》いた。  「大変な仕事だというのは分っています。しかし——」  「大変どころか……無理ですわ、そんな!」  「奥《おく》さんしかいないんですよ。犯人は警察の人間と見れば決して心を許さないでしょう。しかし奥さんなら——」  「そんなことをおっしゃられても……」  奈美は困り果ててしまった。  「あなたも警官の妻なんですから、ここは一つ心を決めてくれませんか」  「いくら刑《けい》事《じ》の妻っていっても、そんなことまでしなきゃならないんですか?」  奈美はふくれっつらになって言った。「ともかく一度主人の所へ戻りますわ。主人がそうしろと言えば……やりますけど」  そこへ桜井が戻って来て、カメラ店の入口に顔を覗《のぞ》かせた。  「鈴木さん。行って来ました」  「ご苦労。——テープは?」  「これです」  「よし、じゃ見張っててくれ」  鈴木は、桜井から受け取ったテープレコーダーを奈美の前に置いた。「——奥さん、これを聞いて下さい」  プレイボタンを押すと、若山の声が聞こえて来た。  「奈美。僕《ぼく》だ」  「まあ、主人だわ!」  「——大丈夫か? 君には桜井たちがついているから、心配することはない。犯人だって人間なのだ。不幸な人間なのかもしれない。恐《おそ》れずに話を聞いてやれ。同じ人間として、理解してやるようにするんだ。そうすればきっと道が開ける……」  鈴木はテープを止めた。  「どうです、奥《おく》さん。ご主人もこう言っているんですよ」  「はあ……」  奈美は情ない顔で、そのテープを眺《なが》めていたが、やがてため息と共に言った。「分りました。やってみますわ」  「そいつはありがたい! 大丈夫、心配はいりませんよ。今の所、相手は落ち着いているようですからね」  「——どうやって入って行けば?」  「正面から、堂々と入るんですよ。こそこそ入っては、却《かえ》って怪《あや》しまれる」  「堂々と……ですか?」  奈美は首を振《ふ》った。「とっても無理ですわ」  「さ、行きましょう」  と鈴木は構わず奈美の腕《うで》を取った。そしてスーパーの入口が見える所へ連れて来ると、  「さあ、ここから一人で行って下さい」  「は、はい……」  奈美は青ざめた顔で肯《うなず》くと、鈴木と別れ、一人でスーパーへと重い足取りで歩き始めた。鈴木はパトカーの陰《かげ》へ戻《もど》った。  「巧く行ったぞ!」  と肯いて見せる。「わりと単《たん》細《さい》胞《ぼう》らしいな、あの女」  「何だか気がひけるなあ……」  と桜井は言った。「親友を騙《だま》すなんて」  「もうやっちまったんだ、くよくよすんなよ」  と加賀が桜井の肩《かた》を叩《たた》く。  「あ——入って行きましたよ」  「そうか……。これでやっと人質ができたわけだ」  鈴《すず》木《き》はほっと息をついた。  「しかし、後になって妙《みよう》なことになるぞ」  「後のことは後のことさ。——今は人質がいることが大切なんだ」  「でも、もし彼《かの》女《じよ》に何かあったら……」  と桜《さくら》井《い》は後ろめたい気持ちを捨てられない様子だ。  「心配するな。大丈夫さ」  と鈴木が気安く請《う》け合った。  「俺《おれ》が心配なのは、むしろ逆だな」  と加《か》賀《が》が言った。「もし犯人が彼女に説得されて出て来たら?」  「まさか! ピストル強《ごう》盗《とう》だぞ。相当の覚《かく》悟《ご》でやってるはずだ。そんなにたやすく諦《あきら》めるか」  「だといいがな……」  三人はパトカーの陰《かげ》から頭を出して、スーパーの様《よう》子《す》をじっとうかがった。  奈《な》美《み》は、来なきゃよかった、と思った。あの人ったらひどいわ! 自分の女《によう》房《ぼう》にこんなことをさせて。後で思い切り引っかいてやるから!  スーパーの入口に立って、恐《おそ》る恐《おそ》る中を見《み》渡《わた》す。並んだ棚《たな》に遮《さえぎ》られているのか、誰《だれ》の姿も見えない。——仕方なく、そろそろと足を進めて行く。  卵の棚《たな》、乳製品の棚、菓子類の棚……。一つ一つ、間を覗《のぞ》いてみるが、誰《だれ》もいない。  「いないのかしら……」  もう警察の目を盗《ぬす》んで逃げてしまったのかもしれない。奈美の胸に少し望みが湧《わ》いて来た。その途《と》端《たん》、  「手をあげろ!」  と後ろから声をかけられ、キャッと叫《さけ》んだ。  「う、撃《う》たないで……」  と両手を上げる。どうやら相手はレジのカウンターの中に潜《ひそ》んでいたらしい。  「よし、こっちを向きな」  奈美はゆっくり振《ふ》り向いた。——目の前に、拳《けん》銃《じゆう》を構えて立っているのは、色白の、まだ子供っぽささえ残る若者だった。  「貴様、婦人警官か?」  「ち、違《ちが》うわ!」  「それなら何しに来た。買物でもあるめえによ。——ただし、今なら何でも無料だぜ」  「あの……私は、あなたを説得しに来たの」  「へえ、お説教か。先公にしちゃ美人じゃねえか」  「私は教師じゃないわ。ただ……」  と言いかけて、後の言葉が出て来ない。一つ咳《せき》払《ばら》いをして、  「人質はどこなの? 無事でいるの?」  と訊《き》いた。  「人質?」  若者はけげんな顔で、「人質なんかいねえぞ。何の話をしてるんだ?」  「いない?」  今度は奈美が面食らって、「——いやだわ、あの人たち、何を勘《かん》違《ちが》いしてるんだろ」  「ま、今は一人いるけどな」  と若者は愉《ゆ》快《かい》そうに言った。「まあ来いよ。パーティに招待するぜ」  「パーティ?」  「そうさ。奥《おく》へ歩け」  言われるままに、フロアの一番奥《おく》まった所へ歩いて行くと、床《ゆか》一《いつ》杯《ぱい》に、コーラの缶《かん》だの、菓子の袋《ふくろ》だのが散らばっていた。  「何でも無料だからな。ただしセルフ・サービスだぜ。好きな物を持って来て食うんだ」  若者は床へペタンと腰《こし》をおろすと、「どうだい何か一つ?」  「え、ええ……そうね」  ここでいらないと言ってはいけないのだ。  「じゃ……そこのチョコレートを」  「勝手に取りな」  奈美は板チョコをかじりながら、  「お菓子が好きなのね」  と言った。  「腹が減ってたのさ」  「でも、お菓子ばっかり食べてるじゃないの」  「すぐ食えるのは菓子ぐらいだ」  「あら、そんなことないわ」  と奈美は店内を見回して、「ほら、あそこに電子レンジがあるじゃないの。あれを使えば、冷《れい》凍《とう》食品が食べられるわ」  若者はつまらなそうに、  「そんなもん、使い方が分らねえよ」  と言って、せんべえをバリッとかんだ。  「私、何か作ってあげましょうか?」  「そうだな……。じゃ、やれよ」  奈美は冷《れい》凍《とう》食品のケースから、シューマイや肉まんなどをいくつかかかえて来ると、試食販《はん》売《ばい》のために置いてあった電子レンジを使って解凍した。  「お前、どうしてここへ来たんだ?」  と若者が不思議そうに訊《き》く。  「さっき言ったでしょ。あなたを説得して、人質を——」  と言いかけ、「人質がいるって聞いてたのよ」  「それにしたって……。どうしてそんな役を引き受けたんだ?」  奈美は肩《かた》をすくめて、  「主人が刑《けい》事《じ》なの」  と言った。若者はちょっと目を見張った。  「へえ! お巡《まわ》りの女《によう》房《ぼう》か! そいつは面白いや」  「何が?」  「昔からお巡りにゃ散々な目にあわされたからなあ。お返しに、裸《はだか》にして可《か》愛《わい》がってやるぜ」  「何ですって!」  奈美は真っ青になって、それでも若者はきっとにらみつけながら、「そ、そんなこと……やれるもんならやってごらんなさいよ! 引っかき傷だらけにしてやるから!」  若者は楽しそうに笑い出した。  「冗《じよう》談《だん》だよ。——よくそんな小説があるじゃねえか」  「そんなの読んでないわ」  「結《けつ》婚《こん》してるのか。ずいぶん若いな」  「あなたのほうがよっぽど若いじゃないの」  「俺《おれ》か?——俺はもう年寄りさ」  若者は自《じ》嘲《ちよう》気味に言った。——電子レンジがチーンと鳴った。  「できたわ。食べる?」  「ああ。支度しろ」  皿《さら》もはしも、何でも揃《そろ》っているから簡単だ。奈美は熱いシューマイを若者の前へ出した。——若者は見る見る内に全部平らげてしまった。奈美は呆《あき》れて、  「そんなにお腹が空いてたの?」  「いや、旨《うま》かった!——ごちそうさん」  「どういたしまして」  何だか妙《みよう》な気分だった。えらくおとなしそうな若者である。まだ少年といってもいいくらいだ。拳《けん》銃《じゆう》を膝《ひざ》へ乗せていなければ、少しも凶《きよう》暴《ぼう》には見えない。  「そのピストルは、どうしたの?」  と奈美は訊《き》いた。  「ええ? ああ、こいつか?」  若者は取り上げて眺《なが》めると、「モデルガンだと思ってんだな? 残念ながら本物だぜ。試してみようか?」  「い、いいわよ。やめて!」  奈美は慌《あわ》てて手を振《ふ》った。若者は拳銃を持った手をのばすと、銃口を棚のてっぺんに積んであった缶《かん》詰《づめ》へ向けて、引金を引いた。  鼓《こ》膜《まく》を打たれるような銃声に、奈美は首をすくめた。シャケの缶詰が一つ、宙に飛んだ。  「銃声だ!」  桜井が叫《さけ》んだ。三人はライフルを構えた。  「——どうしたのかな」  と加賀が武者震《ぶる》いして言った。  「知るもんか」  「奥《おく》さんが撃たれたんじゃ……」  と桜井は顔を曇《くも》らせた。  「いや、ああいう手合は、相手を怯《おび》えさせるために発砲したりするもんだ。——桜井、双《そう》眼《がん》鏡《きよう》でよく見てみろ」  「はい」  桜井はライフルを双眼鏡に持ち換《か》えて、ピントを合わせた。「……何も見えません。……あ、誰《だれ》か動いてる……あれは……奥さんだ! 無事だったんだ、よかった!」  パトカーの無線が鈴木を呼んだ。有田だった。  「どうした? 銃声がしたようだったが」  「単なる威《い》嚇《かく》です。人質は無事です、確認しました」  「それならいいが……。少しそっちの状《じよう》況《きよう》を説明に来てくれんか。記者連中がうるさくてかなわん」  「……分りました」  鈴木はマイクを戻《もど》すと、「おい、俺《おれ》はちょっと署長の所へ行って来る。後を頼《たの》むぞ」  「任せとけ」  と加賀が肯《うなず》いた。鈴木は頭を低くして、走って行ってしまった。  「——そろそろ日が暮《く》れますね」  と桜井が言った。「腹が減ったな……」  「その向うにパン屋があったぞ。何か持って来い」  「いいですかね」  「構やしねえさ。後で払《はら》えばいいんだ」  「そうですね。じゃ、ちょっとお願いします」  「俺《おれ》にはコロッケパンを頼むぜ」  「分りました」  桜井はニヤリとして、走って行った。——その姿が、曲り角から消えると、加賀はそっと頭を出して、スーパーのほうを見やった。段々外が暗くなって、店の中の様子が見えて来る。——人《ひと》影《かげ》は見えない。きっと奥《おく》のほうに隠《かく》れているのだろう。  畜《ちく》生《しよう》! 二十四時間も待つのか。馬《ば》鹿《か》らしい! 一気に突《つ》っこんで勝負をつけちまえばいいのに。飛び込《こ》んで、狙《ねら》いをつけて引金を引く。ほんの数秒で済むことだ。  人質? 大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》。流れ弾《だま》に当るなんてことは滅《めつ》多《た》にない。万一そうなったら……運が悪かったんだ。道を歩いてたって、車にはねられることはある。事故だ。何も俺たちが責められるべきことじゃない。  「そうだとも」  加賀は呟《つぶや》いた。桜井はまだ戻《もど》って来る気配がない。——加賀は、ライフルの安全装置を外《はず》した。  「今の所、人質は無事です」  鈴木はマイクの林へ向かって言った。「しかし夜になり、疲《つか》れて来ると、犯人のほうも次第に苛《いら》立《だ》って来ると考えられます。我々としては極力銃を使わずに犯人を逮《たい》捕《ほ》したいと考えています。——むろん人質の安全が最優先です。説得も続けていますが、今の所、効果はないようです」  「最終的に解決がつかない時は、突《とつ》入《にゆう》するんでしょう?」  とTVのリポーターが質問して来る。  「それはあくまで最後の手段です」  「どの時点でその決定を?」  「人質の命に危険が迫《せま》ったと判断された時です」  「いつ頃《ごろ》になりそうですか?」  「それはまだ何とか……」  「大体の所でいいんですがね」  「まあ……少なくとも二十四時間は……」  と鈴木が言いかけた時、スーパーのほうから銃声が聞こえて来た。「失礼!」  取り囲む報道陣を突き飛ばすようにして、鈴木は駆《か》け出して行った。 4  「ところで奥さんよ」  若者は拳銃を膝《ひざ》へおろすと言った。「外は一体どうなってんだい? えらく騒《さわ》がしいと思ってたら、急に静かになっちまって」  奈美はためらった。まさか狙《そ》撃《げき》班《はん》が待ち構えていると言うわけにもいかない。  「あなたを刺《し》激《げき》しちゃいけないって、ごく少しの人を除いて、ずっと遠く離《はな》れて、遠巻きにしてるのよ」  「刺激しちゃいけねえって?」  若者は声を上げて笑った。「それでいて、こんな美人を人質に送って寄こすたあどういうつもりなんだ?」  「私、別に人質になりに来たわけじゃないわ。——ねえ、悪いことは言わないから、自首なさいよ。どうせ絶対に逃《に》げられないんだから」  「逃げられねえのは承知さ」  若者は缶ジュースをぐいと飲んだ。  「じゃ、自首する?」  「その内、気が向いたらな」  若者はあまり関心のない口調でそう言った。しかしそれでも奈美はいくらかホッとした。少なくとも相手がそれほど捨て鉢《ばち》になっていないことが分ったからだ。この分なら、きっと自首してくれるに違《ちが》いない。——そう思うと、急に気も楽になる。  「でも、どうしてこんなことやったの?」  と奈美は言った。若者はそれが聞こえなかったのか、  「コーヒーが飲みてえな」  と言った。「しかし、いくら何でも湯は沸《わ》かせねえしな」  「あら、大丈夫よ」  奈美は紙パックのコーヒーを取って来ると、売物のコーヒー茶《ぢや》碗《わん》に注ぎ、電子レンジで温めた。  「——はい、コーヒー」  若者は首を振《ふ》って、  「驚《おどろ》いた! 大したもんだな」  「一《いつ》杯《ぱい》二百円です」  と言って、奈美はニッコリと微《ほほ》笑《え》んだ。若者はちょっと笑って、  「あんた、いい人だな……」  と言った。そして熱いコーヒーをそっとすすった。  「……俺《おれ》がどうしてこんなことをやったのか、あんたにゃ分らねえだろうよ」  「言ってみて」  「言ったって分りっこねえよ」  「分らないかどうか、言ってみてよ」  と奈美はくり返した。若者は真《しん》剣《けん》な目で彼《かの》女《じよ》を見た。  「俺はな……腹が減ってたんだよ」  奈美は、彼が冗《じよう》談《だん》を言っているのかと思った。しかし、彼は真《ま》面《じ》目《め》だった。  「たまらなかったんだ。金がなくて、何も買えない。もう二日も、何も食ってなかった。……ここには食い物がうんざりするくらい積んであるのによ、俺は空っぽの腹をかかえて、ガラスの外から眺《なが》めてるだけだったんだ……」  奈美は、確かに、そんな空腹感を、自分は経験したことがないと思った。外出すればお腹が空く、運動をすればお腹が空く。けれど、それはいわば次の食事のための準備のようなものだ。——もういつ食べられるか分らない、そんな絶望的な空腹感を味わったことは、一度もない……。  若者は拳銃を手にすると、  「こいつを手に入れたのは、もう三《み》月《つき》以上も前だ。でも、できることなら使いたくなかった。……今日だって、何だか自分でも分らねえ内にやっちまってたんだ。気が付くと、一人でこの中に突《つ》っ立ってたんだ」  奈美は、若者の言葉に嘘《うそ》はないと信じた。別に凶《きよう》悪《あく》犯《はん》でも何でもないのだ。ただ、ちょっと道を踏《ふ》み誤っただけで……。  「コーヒー、旨《うま》かったな。もう一杯あるかい?」  「ええ、温めてあげる」  二杯目のコーヒーを、本当においしそうに飲んでいる若者を眺《なが》めながら、奈美は、きっとこの若者は、生れた時から、苦労し続けて来たのに違《ちが》いない、という気がした。  ふと顔を上げた奈美は、思わず声を上げるところだった。——万引防止用に、高い所に取り付けられた凸《とつ》面《めん》鏡《きよう》に、ライフルを手にした男の姿が映《うつ》っていたのだ。  狙《そ》撃《げき》班《はん》の一人だ。桜井ではない。——一体どうしようというのだろう? せっかく、犯人は自首するかもしれないというのに。  狙《そ》撃《げき》手《しゆ》は、足音を殺して、若者の背後に回りつつあった。若者のほうは全く気付かずに、旨そうにコーヒーを飲んでいる。  奈美は息を呑《の》んだ。——後ろへ回って、銃を突きつけられたら、若者はおとなしく諦《あきら》めるだろうか? それならばいいのだが。  狙撃手は、棚《たな》の陰《かげ》から姿を見せると、若者の背中へと銃口を向けた。奈美は、今にも、  「手を上げろ!」  という声がするものと思っていた。しかし——奈美は目を疑った——狙撃手は銃《じゆう》床《しよう》を肩《かた》へ当てて、若者に狙《ねら》いを定めたのだ。まさか? まさか、いきなり撃《う》つつもりでは……。  「ああ、旨かった。コーヒーって、こんなに旨いもんだとは知らなかったぜ」  若者がカップを置いた。狙撃手が、じっと銃を肩へ固定して、狙《ねら》った。撃つ気だ、と奈美は悟《さと》った。  「撃《う》たないで! やめて!」  奈美は叫《さけ》んだ。狙撃手がびっくりして顔を上げた。若者が拳《けん》銃《じゆう》を引っつかんで横へ転がる。ライフルが発射されて、コーヒーカップが砕《くだ》け散った。拳銃が鳴った。  「どうした!」  鈴木が駆《か》け戻って来ると、桜井がライフルを手にした所だった。  「加賀さんが勝手に——。僕《ぼく》がここを離れた隙《すき》に」  「馬鹿め!」  鈴木は唇《くちびる》をかんだ。まさかやられることはあるまいが、それにしても、署長の許可も得ずにやれば後で厄《やつ》介《かい》なのは考えれば分りそうなものだ。  「どうします?」  「仕方ない。入口まで進んでみよう」  だが、二人はパトカーの陰《かげ》から出て、その場で足を止めた。入口の所から、加賀が、姿を見せた。  「加賀、どうした? やっつけたか?」  鈴木の問いにも、加賀は答えなかった。そして、そのまま崩《くず》れるように倒《たお》れた。  「加賀さん!」  桜井が急いで駆け寄った。肩《かた》のあたりが、血でぐっしょりと濡《ぬ》れている。  「やられてる!」  鈴木が走って来ると、  「早くパトカーの所へ連れて行け!」  と叫《さけ》んで、ライフルを天井へ向けて二発ぶっ放した。「——畜《ちく》生《しよう》!」  歯ぎしりしながら、身を翻《ひるがえ》してパトカーへと戻《もど》る。無線で救急班を呼ぶと、鈴木と桜井は顔を見合わせた。  「もう引き退《さ》がれないぞ」  「ええ……。やっつけましょう!」  と桜井は肯《うなず》いて言った。「いつやります?」  「待て……。邪《じや》魔《ま》が入らないようにやるんだ、俺《おれ》たちだけで、やろう」  鈴木はそう言って、スーパーのほうへと目を向けた。  若者と、奈美は冷たい床《ゆか》の上に、力なく座り込《こ》んでいた。  こんなことになるとは……。奈美は、悪い夢《ゆめ》であってくれたら、と思った。  若者が顔を上げた。  「あんた……どうして俺《おれ》を助けてくれたんだい?」  「助けやしないわ。ただ……あの人が、いきなり撃《う》とうとしたから……」  「俺なんか殺されたって構わなかったじゃねえか。どうせクズなのによ」  奈美は首を振《ふ》った。  「あなたは悪い人じゃないわ。でもそんな風に、自分のことをクズだクズだって言っていると、本当にそうなっちゃうのよ。——今からだって遅《おそ》くないわ。出て行くのよ。銃《じゆう》を捨てて」  「警官を殺したんだぜ」  「殺しちゃいないわ。肩《かた》のけがですもの。私が、突《とつ》然《ぜん》のことで、あなたにも殺すつもりはなかったんだって証言してあげるわ。それに、実際、あの人も悪いんだわ、警告も何もしないで、後ろから撃とうとしたんだもの。——ね、私が必ず証言してあげるから」  「よせよ!」  若者は苛《いら》立《だ》つように言った。  「どうして?」  「あんたの旦《だん》那《な》、刑《デ》事《カ》なんだろ? あんたがこんな凶《きよう》悪《あく》犯《はん》をかばうような証言をしてみろよ、あんたの旦那は警察にゃいられなくなるぜ」  奈美は、はっと胸をつかれる思いがした。同時に、若者がそこまで考えてくれていることに心を動かされた。  「でも事実は事実よ。人が何と言おうと、そんなこと、構わない。主人だって、きっと私を信じて励《はげ》ましてくれるわ」  若者はしばらく奈美を眺《なが》めていたが、やがて、ふっと笑顔になった。  「何がおかしいの?」  「いや——あんたが、まるで子供みたいだからさ。世の中、そんなきれい事じゃ済まねえんだ。もっともっと、いやになるくらい、自分勝手で、不公平なもんだぜ」  奈美は表情をこわばらせた。  「それじゃ、どうしようっていうの? 私を楯《たて》にして逃《に》げるつもり?」  「いいや」  と若者は首を振った。「出て行くよ。だけど、あんたの証言はいらない」  「でも——」  「あんたはシューマイとコーヒーをごちそうしてくれた。それで充《じゆう》分《ぶん》だよ」  奈美は若者を見つめた。  「あなた……名前は?」  「俺《おれ》かい?——順《じゆん》てんだ。〈順序〉の〈順〉」  「私は奈美よ。〈奈良〉の〈奈〉と、美しい……」  「ぴったりだな、あんたに」  彼は立ち上った。「さて、じゃ行くよ」  「私も一《いつ》緒《しよ》に——」  「少し離《はな》れてたほうがいいよ。もしかして発砲してくると危い」  順と名乗った若者は、軽く奈美を押《お》しやって、出入口のほうへ歩いて行った。  「止まれ!」  鋭い声が飛んだ。順が足を止めると、ライフルを構えた鈴木と桜井が、姿を現した。  「桜井さん、大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》です」  奈美が声をかけた。「自首すると言ってるんです。心配ありません」  「奥さん、退《さ》がって!」  桜井が厳しい声で言った。順は手にした拳《けん》銃《じゆう》を二人のほうへ放り投げた。  「さあ、これでいいだろ」  と息をつく。——鈴木と桜井のライフルが火を吹いた。順の体が弾《はじ》かれたように吹《ふ》っ飛ぶ。リノリウムの床《ゆか》に血が帯を描《えが》いた。苦しげに半身を起こした所へ、更《さら》に弾《だん》丸《がん》が撃《う》ち込《こ》まれた。  奈美は、目の前の光景が信じられなかった。——順は、血に染まって、動かない。  「どうして……どうして撃ったの!」  と奈美は叫《さけ》んだ。  「奥さん、奴《やつ》は凶《きよう》悪《あく》犯《はん》なんですよ」  と桜井が言った。  「いいえ! いいえ、違《ちが》うわ! 銃《じゆう》を捨てたのに……。もう一人の人だって、背中から撃とうとしたわ。どうして! 殺さなくても良かったのに!」  鈴木が、順の捨てた拳銃を拾って言った。  「奥《おく》さん、あなたは興奮して自分の言っていることが分らないんですよ。無理もない。恐ろしい思いをして来たんだから」  「とんでもない! 恐ろしいのは……あなたたちだわ!」  奈美は二人をにらみつけた。「人質なんかいないのを知っていて、私をここへ寄こしたりして!——いいわ。何もかも、ありのままぶちまけてやるから! ここでのことも、全部しゃべってやりますからね」  「誰《だれ》も信じやしませんよ、奥さん」  と鈴木は冷ややかに言った。「それにご主人の立場もまずくなる」  「私、そんな脅《おど》しには乗りません」  奈美はきっぱりと言った。「信じてもらえるかどうか、やってみますわ」  奈美はスーパーを出ようと歩き出した。鈴木が順の拳《けん》銃《じゆう》を握《にぎ》り直すと、奈美の背中へ向けて引金を引いた。  「鈴木さん!」  桜井の叫《さけ》びを銃声が消した。奈美が一《いつ》瞬《しゆん》、棒《ぼう》立《だ》ちになって、それから床《ゆか》に崩《くず》れるように倒《たお》れた。呆《ぼう》然《ぜん》としている桜井へ、鈴木は静かに言った。  「どうせここまでやる気だったんだ。そうだろう?——さあ、これを奴《やつ》の手に握《にぎ》らせて来い」  桜井が半ば自失したままに、言われた通り拳銃を倒れている若者の手へ握らせると、すぐに、警官たちがなだれ込んで来た。  「全く、残念でした。もう一歩というところで間に合わず……」  鈴木は記者の質問にそう言って顔を伏《ふ》せた。  「しかし、この不幸な事件は、貴重な教訓を与えてくれました」  と有田署長が記者たちとカメラの列へ向かって言った。「これから、こうした銃《じゆう》による凶《きよう》悪《あく》な犯罪は決して後を絶つまいと思います。我々は特別狙《そ》撃《げき》班《はん》を今後も強化して、万一の事態においても充《じゆう》分《ぶん》に生かして下さることを願っています」 本書は、昭和五十五年六月十日、廣済堂出版発行の『土曜日は殺意の日』を改題したものです。 孤独な週末  赤《あか》川《がわ》次《じ》郎《ろう》 ------------------------------------------------------------------------------- 平成14年4月12日 発行 発行者  角川歴彦 発行所  株式会社  角川書店 〒102-8177 東京都千代田区富士見2-13-3 shoseki@kadokawa.co.jp (C)Jiro AKAGAWA 2002 本電子書籍は下記にもとづいて制作しました 角川文庫『孤独な週末』昭和56年11月30日初版発行            平成 6年12月20日65版発行