目次 ある曇った朝突然に…… 新社長第一日 即製キャリア・ウーマン 犯罪の裏には…… 試練のとき 最後の賭《か》け ストライキ突入 因果は巡る エピローグ  解説(神津カンナ) ある曇った朝突然に…… 「おっ!」  湯呑み茶碗を覗《のぞ》き込んだ荒井定市は、目を見張った。荒井家の朝食は純和風と決まっているので、当然日本茶が飲まれるのである。 「どうしたの?」  妻の智子がご飯をよそいながら訊《き》いた。「映ってる自分の顔にでもびっくりしたの?それなら分かるけど」  智子の言葉など一向に気にならない様子で、荒井は嬉しげに茶碗を妻の方へ差し出しながら、 「ほら、見ろよ。茶柱が二本も立ってるぜ。今日は朝からツイてるよ」  智子はまるで取り合わずに、 「早く食べなさいよ。遅刻するわよ」  と冷たく言い放った。 「分かってるよ。しかし、悪くないじゃないか、朝からさ。茶柱が……それも二本だぜ」  と茶をガブリと一口、朝食に取りかかった。純和風の朝食、という意味は、つまり日本旅館のそれに近い、ということであって、従って今朝のメニューは目玉焼き、のり、インスタントみそ汁、ご飯であった。  荒井家の朝食がユニークなのは、メニューに一年中ほとんど変化がない、という点だ。 「あれ?」  目玉焼きにはしをつけようとして、荒井はまたびっくりしたような声を出した。「どうしたんだい、今朝は? 二つも焼いたのか?」 「たまたま双子の卵だったのよ」 「そいつはいいや! やっぱり今日はツイてるぞ!」  荒井は幸せ一杯という様子で食べ始める。智子はそれを眺めて、やれやれというようにため息をついた。 「これで出世するわけはないわよね」  荒井はすでに四十八歳になっていた。三十五歳で係長になってから、十三年の間、同じポストに居座っている。新しく入った社員など、〈係長〉というのが彼の名前なのかと思っている者があるくらいだ。  智子は四十三歳。一人息子もやっと高校へ——金のかからない都立へ——入って、ホッとした所。そろそろ〈女として、私の人生はムナシカッタノデハナイカ〉などということを考えるヒマの出来始める頃である。 「さて、これから少し私も自分の好きなことをやらなきゃ!」  と鏡に向かって言ってみても、それにはやはり多少の元手がかかり、それには亭主の給料は決して充分とは言えなかった。  荒井は元来が、人の善いのが取り柄の男で、およそ出世欲とか金銭欲に乏しい人間なのである。  智子は、頭の禿《は》げ上がった、メガネの奥で小さな目が、えらくひんぱんに瞬《まばた》きをくり返している夫が、新聞片手に目玉焼きを突っついているのを眺めながら、出世が無理なら、休日にアルバイトにでも出てもらおうかしら、などと考えていた。 「——ん?」  荒井は、ふとはしを持つ手を止めた。じっと新聞の一隅に目をこらしている。 「待てよ……こいつは……」 「何をブツブツ言ってんのよ」 「もしかすると……」  荒井は何だかわけの分からない独り言を呟《つぶや》きながら席を立つと、奥の部屋へと新聞を持って入って行った。——何やってんだろ、あの人?  智子がいぶかしげに見ていると—— 「おい! やったぞ!」  荒井が突然大声を上げて飛び出して来た。 「な、何よ、大声出して!」  気でも狂ったのか、と思った。 「見ろ! 当たったんだ! 宝くじが当たった! この間、会社の奴から売りつけられたのが当たったんだ!」  荒井は今にも踊り出さんばかりだ。さすがに智子の顔色が変わった。 「ほ、本当?——い、いくらなの?」  声が思わず震える。 「見ろ! 千円当たったんだ! たった二百円の券で千円も——」  智子の顔色がもう一度変わった。 「純子、起きなさい!」  眠りたいという潜在的欲求は大したもので、母親がめくろうとした毛布へ、純子はまだ半分——いや四分の三は眠り込んだまま、しがみついた。 「お願い! あと十分!」 「だめですよ! もう今だって遅すぎるくらいなのに」  母は無情に毛布を引きはがすと、「さあ、顔を洗って! 一体いくつになったのよ?」  と尖《とが》った声で純子をつついた。 「二十一じゃんかあ」  パジャマ姿でベッドから這《は》い出して来ると、純子はカーペットの上にゴロリと横になって、 「おやすみ……」 「いい加減にしなさい」  母の声がそろそろ険悪になって来たと見ると、純子は仕方なくフラフラと立ち上がる。 「イテテ……。頭痛で休む」 「二日酔いでいちいち会社を休んでたらね、会社は潰《つぶ》れちゃいますよ」 「ああ……。冷たい母親ねえ」 「自分が夜遊びばっかりしてるからいけないのよ」  と母は階段を降りながら、「五分以内に降りてらっしゃい!」  と声をかけて来る。 「熱いコーヒー!」 「はいはい」  純子はブルブルッと頭を振って、 「ゲシュタポ!」  と母のいたあたりへ舌を出してみせ、それから大《おお》欠伸《あくび》。——花のOL一年生も、これでは台無しである。  竹野純子。短大をこの春卒業。即家事見習。即結婚。——といけば楽だったのだが、残念ながら見合いの話もどれもこれも帯に短し……というわけで、やむなく就職。  従って純子にとって会社とは結婚相手を捜すための媒体にすぎないのである。とはいえ、父の知人の口ききで入社したので、どうもロクなのがいませんから、と辞めるわけにもいかず、もう《・・》三カ月も勤めている。  純子にとって同じ事を三カ月続けたというのは、遊びやボーイフレンドも含めて、人生始まって以来の出来事であった。  五分、とはいかなかったが、七分三十秒後には、竹野純子は、スラリとした肢体をシンプルな柄のワンピースに包んで食堂に現れた。——美人である。  若い女性は、その若さだけで、三分の二は美女であるが、純子の場合は本物だ。短大在学中に、モデルにならないかと誘われたのも再三と自称——実は一度だけだが——するのもあながち無理ではない。  クリッとした目のあどけなさ、えくぼの浮かぶ頬の線の色っぽさ、男の目を一瞬引きつける派手やかさが純子には具《そな》わっている。 「真面目にやっとるか?」  父が苦虫をかみ潰したような顔で、コーヒーを飲みながら言った。 「真面目にやるも何も、お茶出しとコピーだけよ、仕事なんて」 「それとおしゃべりだろう」  と父が付け加える。「全く、うちの社でも女の子はしゃべってばかりおる。よくまあ飽きないもんだな」 「仕事を与えないからよ。お茶くみ、コピーだけじゃ、女性の知性を馬鹿にしてるわよ」 「お前なんかに何もできんじゃないか。タイプもソロバンも。ええ?」  父は経済紙を手に取りながら、「全く、お前に給料を払っている会社に同情するよ」  と言った。 「あんな安月給、聞いたことないって、みんな言ってるわ。保険会社に入った並子なんかさ——」  と言いかけるのを、 「他人の芝生は何とか、ってやつさ」  とすかさず遮《さえぎ》って、「楽をして給料をくれる所なんかあるもんか」 「あら、そんなに会社って平等にできてましたっけ?」  父は取り合わず、紙面を目で追いながら、 「おや、あそこが倒産したのか。ふーん」  と首を振った。 「有名な会社ですか?」  と母が訊く。 「いや、大企業ってわけじゃないが、ちょっと知ってる男がいてな。気の毒に」 「大変でしょうねえ、急に収入が途絶えちゃうんだから」 「ね、倒産したら社員はどうするの?」  と純子が訊いた。 「まあ……会社を再建するかどうかによるな。お前みたいな下っぱはまず人員整理でどうせクビだ」 「そう!」  純子が楽しげに言った。「じゃ、もう会社に行かなくていいんだ。——うちも潰れないかなあ」  純子としても、ほんの冗談のつもりであった。 「純子さん! 結婚して下さい!」  鏡に向かってなら、スンナリ言えるんだがなあ……。  山本将之《まさゆき》はネクタイを締めると、ため息をついた。昨夜もついに言い出せずじまいだった。まあ他《ほか》に社の女の子が三人もいたのだから、どのみち無理ではあったのだが。  山本は、純子が四月に入社して来た時から——厳密に言えば事務所の入り口を彼女が一歩入って来たその瞬間から、コロリと参ってしまったのだった。以来三カ月間、山本は純子こそが自分の妻に相応《ふさわ》しい女性であるという信念を固く固く固めて来た。今やそれはダイヤモンド並みの硬度に達しているに違いなかった。  だが、その信念は、自分が純子の夫に相応しいかどうか、という点は全く無視していて——つまり山本の頭にはそこまで考える余地が残されていないほど、〈純子〉がぎっしり詰まっていたわけである。  山本はせっせと髪にクシを入れ、出社の支度を急いでいた。——地方から上京して来て、アパートに一人暮らしのせいで、かなりずぼらな生活が身についてしまっていたのだが、純子を知ってからは一変し、部屋は毎日掃除するし、カーテンを取り替え、ワイシャツは二日に一度替え、下着は毎日替えるようになった。それまでは……言わぬが花であろう。 「さて、行くか」  八時二十分だった。会社からそう遠くないので、こんな時間に出ても結構間に合うのである。  背広を着込み、もう一度鏡の前に立って、ネクタイの歪《ゆが》みを直し、 「ウム、なかなかいい男だぞ」  誰も言ってくれないから自分でそう言って部屋を出る。  客観的に言って、山本をいい男だと見るためには、足を長くのばし、腹の出っ張りを削り、真ん丸な顔を叩いて長目にこね直し、目はほぼ倍ぐらいの大きさにして……要するに遊園地のマジックミラー——あの歪んだ鏡が必要であった。  山本は、今日も純子に会えるという、それだけを楽しみに、会社へ向かうバスに乗り込んだ。押し込んだ、と言った方が正確な、猛烈に混《こ》んだバスである。  山本将之は二十七歳。私立の大学を出て、一年間「浪人」し、親が「面倒みきれん」と仕送りをストップしたので、やむなく今の会社へ入った。  こんな風だから、入社後四年たって、当然平《ひら》社員で、三十年たってもたぶん平社員だろうと自覚するに至っていた。  純子に恋をしてからというもの、多少は仕事にも熱心になったが、それは純子の目の届く範囲に限られており、彼女がコピー室へ入りきりになったりすると、たちまちやる気は羽根が生えてどこかへ飛んで行くのだった。 「——おい、山本君!」  ラッシュにもまれてねじれそうになる体を必死で元へ戻していると、誰かが声をかけて来た。 「やあ、係長じゃありませんか」  上司の荒井係長である。荒井もこのバスの利用者だった。ただし、山本と違って、バスに乗る前に四十五分間、電車に揺られて来ている。 「相変わらず混みますねえ」  山本は額《ひたい》ににじんで来る汗を拭った。太目なので、暑いのに弱い。 「もう六月も末だものな。蒸し暑いよ」  と荒井は割合平然としている。 「そう言えば、昨日はお偉方が集まって、ずいぶん遅くまで何やらやってましたね」 「そうかい?」 「飲んで帰りに社の前を通ったんです。そしたらまだ明かりが点《つ》いてて……」 「ボーナスの相談かな」 「出るんですか? 何だか今年は夏のボーナスなしじゃないか、って噂《うわさ》ですよ」 「出るだろう。時期が遅れるのはいつものことさ」  と荒井は言ってニヤリと笑った。「今日はきっといいことがあるよ」 「へえ、どうしてです?」 「朝からやけにツイててね」 「羨《うらやま》しいなあ。僕はそんなことちっともありませんよ」 「だからきっと今日あたり、ボーナスの支給日が——」 「あ、空きましたよ。座って下さい」  荒井はバスの揺れにふらつきながら座って、 「ほら、いいことがあった」  と肯《うなず》いて見せた。——大したことではないが、実際、満員電車で、たまたま目の前の席が空いた時の喜びは、勤め人にしか分からないものである。  ——バスを降りると、蒸し暑い外が、まるで天国のように感じられる。 「今日はゆっくり間に合うな」  山本が腕時計を見ながら言った。 「道路が割合空《す》いてたからな。バスは時間が不定期で困るよ」 「全くですな。おや?」  と山本が言ったのは、社の入り口のあたりに、同僚が四、五人固まっているのが目に入ったからだった。「何しているんだろう? おい! どうしたんだ?」 「山本か。えらいことになったぜ。——あ、係長、おはようございます」 「おはよう。何だ、一体?」 「いえね……。どうやらうちの会社、倒産したらしいですよ」  竹野純子はいつもの通り、八時五十九分に社へ着いた。  この、始業すれすれにすべり込むという特技は、純子が学生時代に会得したもので、学校で学んだものの内、実社会で役立った唯一の成果である。  軽く息を弾ませながら、タイムレコーダーにカードを差し込む。——今や少々時代遅れとなった感のあるタイムレコーダーだが、ここではまだ頑固オヤジの如く居座っている。  純子は鼻歌など歌いながら、女子の更衣室へ入って行った。同時に九時のチャイムが鳴る。 「あら、伸子さん、おはよう」  純子は、ちょっと意外な顔で、自分より年下の先輩に挨拶した。「どうしたの? 遅いじゃない」  桑田伸子は十九歳だが、高卒でここへ入社しているので、勤続三カ月の純子よりは先輩に当たる。  万事が派手で、楽天的で、都会っ子の純子とは正反対に、伸子は至って地味な、目立たない娘だった。  地方から一人で上京して来ているせいもあるだろうが、どこか所帯やつれしたような、いつも疲れた印象がある。それでいて、大人びているというわけではなく、絶えず気弱に気を使っている所は、頼りなげで、大人になり切れていない感じだった。  美人というわけでもなく、体つきも中肉中背で、総《すべ》てが控え目にできている。 「おはよう、純子さん……」  伸子は、泣き笑いのような、無理に作った笑顔で答えた。「どうしたっていうの? 元気ないじゃないの」  純子は自分のロッカーを開けると、事務所用のスカートにはき替えながら言った。事務用の椅子に座っていると、スカートのお尻のあたりがテカテカになってしまうので、会社では安物のスカートに替えることにしているのだ。 「だって……困っちゃうじゃないの」  と伸子はロッカーにもたれて、顔を伏せながら言った。 「何? 困ったことでもあるの?」  と純子は言った。——いわば「お茶くみ仲間」でもあり、入社した時に、あれこれと教えてくれたのが伸子だったので、純子としては多少の恩も感じている。 「知らないの、純子さん?」  伸子が目を見張った。 「何を?」 「うち、潰れたのよ」  今度は純子が目をパチクリさせる番であった。 「お宅が……潰れたの? 地震か何かで?」  と、まるで分かっていない。 「違うわよ! この会社が潰れちゃったのよ!」  と伸子が言った。純子はポカンと口を開けて、しばしその言葉をかみ砕いていた。 「潰れた、って……倒産ってこと?」 「そうよ。みんなどうしていいか分かんなくって、全然仕事も手に付かない様子よ」 「へえ、まさか本当になるなんてね!」 「何が?」 「ううん、こっちの話」  と純子は慌てて首を振った。「じゃ、どうなっちゃうわけ?」 「分からないわ」  と伸子はため息をつきながら、「荒井さんは、きっと銀行の偉い人が来て、会社を立て直してくれる、って言ってたけど……」 「それはよっぽど大きな企業の場合じゃないの? こんな中小企業なんか、潰れりゃポイよ、きっと」 「あなたはいいわね」  伸子は力なく言った。「ここが潰れたって別に食べて行くに困るわけじゃなし、お家《うち》でのんびりしていられる身分だもの」 「ま、身分ってほどの身分じゃないけどね……」  純子は呟くように言ってから、「あなたは? 郷里《くに》へ帰れないの?」  と訊いた。 「帰るどころか——」  と伸子はため息をついて、「私、少ない給料から毎月仕送りしてるんだから」 「まあ、あの給料から?——ごめんなさい、別に——」 「いいのよ。本当にそうよね」  純子は、短大出というので、後輩とはいえ、高卒の伸子より少し給与は上なのである。 「大変ねえ、それは」  自分の給料を家へ入れるどころか、遊ぶお金に不足して、未《いま》だに小遣いをもらっている純子は心からそう言った。 「この分じゃ、もし会社が消えてなくならないとしても、夏のボーナスなんて出ないでしょうしね」 「そうか、それがあったわねえ」  と純子は肯いた。「——でも、ここでくよくよしてたって始まらないわ。ね、元気出して」 「そうね」  と伸子は力なく微笑《ほほえ》んだ。「——あら、もう九時になっちゃったのね。お茶を淹《い》れなきゃ」 「倒産しても、せめてお茶ぐらいは出しましょうよ」 「じゃ、二人で」 「うん」  やっと伸子の顔に明るさが戻った。  この会社、名を〈おとうさん株式会社〉という。  もちろん、ふざけてそう呼ばれているので、正式には〈尾《お》島《とう》産業株式会社〉というのである。  従って、社長の尾島一郎がどこかへ電話でもかけた場合、向こうの交換の女性は、笑いをこらえながら、 「尾《お》島《とう》さんからお電話です」  とつなぐことになる。——これが〈おとうさん株式会社〉のニックネームの由来である。この運命の朝、尾島一郎は九時を過ぎてから、ようやく起き出して来た。 「あなた、さっき会社の方《かた》から電話がありましたよ」  ダイニングルームへ入ると、妻の久子が言った。 「分かっとるよ」  尾島はのんびりと欠伸をして、パジャマ姿のままドッカと腰をおろした。「ちゃんと言った通りに返事をしたんだろうな?」 「ええ。『主人は昨夜から帰っておりません』って……。でも、いいんですの?」 「いいんだよ。コーヒーをくれ」 「はい。——だけど、あなた、会社が倒産したっていうのに、そんな呑《のん》気《き》なことを言って……」 「心配するな」  と、尾島はニヤつきながら言った。 「心配ですよ」  と久子が眉をひそめる。「私は路頭に迷ったりするのはごめんですからね」 「誰がそんなことをさせるもんか」  尾島はトーストにバターを塗りつけながら、言った。「話はついてるんだ」 「話って?」 「大畑さんだよ。大畑さんが乗り出して来て、会社を再建してくれることになっているんだ」 「大畑さんって……あの、富菱《とみびし》銀行の?」 「そうさ。お前は大畑さんの奥さんを知ってるだろう」 「ええ、以前にお茶の会で……」  と久子は肯いた。「じゃ会社は助かるんですね?」 「そうとも」  尾島は愉快そうに、「別に倒産しなきゃならんほど、経営状態は悪くなかったんだ。しかし、悪化していたのは事実だから、ここで思い切って手を打つ必要があった」 「それで計画的に——」 「大畑さんに相談してみたのさ。——経営の悪化を防ぐには、まず人員の削減、それに経費の節約が急務だ。それには倒産させるのが近道だったのさ」 「じゃ、再建のためといって……」 「不満分子をクビにする、年齢《とし》を取って、働きが悪いくせに給料ばかり上がっている定年間近組にも辞めてもらう。これだけでも、ずいぶん節約になる」 「呆《あき》れた!」 「それにだ、今、倒産させてしまえば、夏のボーナスを支払わなくて済む。会社が潰れるかどうかのせとぎわだ。ボーナスどころじゃないからな」 「悪い人ね、あなたって」  と言う久子の目は笑っていた。 「これも経営術さ」  尾島はゆっくりとコーヒーをすすった。  尾島一郎は五十七歳。いわゆる社長、重役タイプというよりも、抜け目のない商店の親《おや》父《じ》といった風貌《ふうぼう》である。 「まあ、一応表面上は、こっちも謹慎の身ということになる。家の窓のカーテンはできるだけ閉めとけ」 「いやだわ、見っともない」  と久子が顔をしかめる。「近所の人に何と言われるか」 「それもそうだな。じゃいっそ別荘にでも遊びに行くか」  と言って、尾島は笑った。 「社長は昨夜から帰っておられないそうだ」  と専務の北岡が沈痛な面持ちで言った。  会議室は重苦しい沈黙が支配していた。集まっている七人の管理職——二人の部長と五人の課長は、じっと腕組みをしながら、押し黙っている。 「社長は責任感の強い方だ」  と北岡は続けた。「まさか、とは思うが……」 「自殺?」  経理課長の安藤が思わず声を上げた。 「いや、大丈夫。社長は後のことを放《ほう》っておいて、そんなことをなさりはしないよ」  と抑えたのは、総務部長の柳である。 「私もそう信じている」  と北岡が肯いて、「きっと会社を救うために奔走されているのだ」 「そうに違いない」  と柳部長が同意した。「我々にできることは、社長の心痛を思いやって、できる限り、会社再建に協力することだろうな」 「全く同感だね」  と北岡が言った。「——では、ともかく今の所は、じっと待つしかないわけだ。各自、課内の動揺を鎮めるように力を尽くしてくれたまえ。——しかし、現実が極めて厳しい情勢になっていることも、それとなく伝えておいてもらいたい」  五人の課長たちは、言葉もなく、会議室を重苦しい足取りで出て行った。  北岡がフウッと息をついて、 「やれやれ、深刻ぶるのも疲れるよ」  と言って笑った。 「社長は在宅なんでしょう?」  と柳部長が訊《き》いた。 「たぶんね。さもなきゃ女のところかもしれない」 「会社を救うために奔走している、か」  柳は愉快そうに、「女の上で息を切らしてるのかな」 「いつまで続けるんです?」  と言い出したのは、もう一人の部長、三枝《さえぐさ》であった。  専務というより、尾島の飼い犬という印象の北岡が、銀ブチのメガネを直しながら言った。 「何を、だね?」 「この芝居ですよ。——私にはとても堪えられない!」  営業部長の三枝は、営業マンの苦労を経て来た人間だけに、ずる賢く立ち回ることに馴れていなかった。 「そう思いつめるなよ」  柳が気楽にタバコをふかして、「どのみち会社は助かるんだ。ほんの二、三日のことだよ」  柳は、ちょうど尾島をそのまま若返らせたような男である。計算高いことでは、北岡専務はもちろん、尾島以上ですらあった。 「しかし、社員に無用な心配をかけることは——」 「まあ、落ち着けよ、三枝君」  北岡が穏やかに言った。「それはよく説明したはずだ。うちが生き残るためには、こうするしか手がないんだ」 「それは分かっています。しかし……」  と言いかけて、三枝は言葉を切る。 「良心かね?」  柳がせせら笑うように、「君も家を建てる時には良心を黙らせていたはずだな。だったら、今だって黙らせておくことはできるだろう」  三枝の顔が紅潮した。 「よせ」  北岡が渋い顔で、「仲間内の争いは社長の好まないことだ。——ともかく乗りかかったんだからな。今さらやめるわけにはいかん。それは君も分かっているはずだぞ、三枝君」  三枝は黙って目を閉じた。 「そうそう。見ない、聞かない、言わないのが一番さ」  柳が皮肉っぽく笑って言った。「——時に、大畑はいつ頃ここへ乗り込んで来るんでしょう?」  北岡は肩をすくめた。 「知るもんか。詳しいことは社長しか知らないんだ。まあ遅くとも三日の内には……」 「畜生! 大体名前が悪い!」  若い社員が、八つ当たり気味に言った。「〈おとうさん〉だって? 〈お〉を取りゃ、〈倒産《とうさん》株式会社〉になっちまうじゃねえか」  荒井はさっきから同じ書類を見ている自分に苦笑した。 「どうぞ」  声に顔を上げると、桑田伸子がお茶を運んで来ていた。 「やあ、ありがとう」  荒井は湯呑み茶碗を手にして、「おやおや」  と呟いた。今朝と同じで、茶柱が立っている。何かいいことがあるかと思ったのに……。 「とんでもないことになっちまった」  荒井は茶柱ごと、ぐいとお茶を飲み込んで、むせ返った。 〈おとうさん株式会社〉こと〈尾島産業株式会社〉が倒産して、社員の誰もが、仕事も手につかず、ぼんやりしている頃、富菱銀行の最大の実力者といわれる大畑清兵衛は、青山にあるマンション——俗に〈億ション〉と呼ばれる超豪華マンション——で、マラソンに余念がなかった。 「もういい加減にしたら?」  テーブルに生ジュースやゆで卵を並べていた若い女が、うんざりした顔で言った。 「いや、まだ今朝は三キロしか走っとらん!」  大畑はルームランナーの目盛りを見下ろしながら言った。額には玉のような汗が浮かんでいる。  大畑はすでに六十歳を越えている。  若い頃から頑健を誇った大柄な体格は、今もその名残は止《とど》めているが、さすがに寄る年波というやつで、腹はせり出すし、肉はたるんで来るし、膝《ひざ》は痛むし……。  それでも、毎朝四キロの早朝室内マラソンは欠かさなかった。 「そんな元気があるんだったら、私を歓ばせてよ」  若い女が甘えるような声を出し、悩ましく薄いネグリジェだけの肢体をくねらせて見せた。——大畑の〈第何号〉かで、本当の名は知らないが、彼は〈マキ〉と呼んでいる。 「それはそれ、これはこれだ」  大畑は頑固に走り続ける。 「勝手にしなさい。その内、心臓がイカレちゃってアーメン、ってことになるわよ」 「そうならんように走っとるんだ!」  大畑は怒鳴った。「いいか、ゆで卵は半熟より、少し固めだぞ!」 「はいはい」  マキがゆで卵のカラをむき始めると、電話が鳴った。 「電話よ」 「出ろ」  人使いが荒いんだから……。  ブツブツ言いながら受話器を取る。「はい。——ええ、いるわよ。あんた誰? ——ちょっと待って」 「誰からだ?」  大畑は足を休ませずに訊いた。 「おとっつぁんだって」 「俺の親父なんぞ生きとらん!」 「だって〈おとう〉だって言ったよ」 「尾島の奴か。気がきかんな。人がマラソンしてるのが分からんのか」  分かるわけがない。 「どうするの?」 「今、途中だ。お前、ここへ来て受話器を持ってろ」 「どうでしょ、この態度!」  と文句を言いながら、電話を丸ごとかかえて来ると、走っている大畑の耳と口へ、受話器を苦労してあてがった。 「尾島か?」 「大畑さんで? おはようございます」 「何の用だ?」 「前にお願いしてありました件で——」 「何だったかな?」 「我が社の再建の件でございます」 「ああ、そうか。思い出したぞ」  と息を弾ませながら、ようやく走るのをやめる。「どうなっとるんだ? もう潰《つぶ》したのか?」 「はい、潰しました」  ニキビか何かみたいである。 「そうか。じゃ早速乗り込もう。——おい、ちゃんと持ってろ」  と最後の言葉はマキに向かって言ったのだった。しかし、それは無理な注文というもので、マキに受話器を持たせたまま、さっさと歩き出したのだった。マキが慌ててついて歩く。 「大畑さんのご都合のよろしい時で結構でございますが」 「俺はいつも忙しい。暇な時以外はな」  下手な冗談に自分でゲラゲラ笑うと、「おい、シャワーを浴びるからな」 「いい加減にしてよ!」  マキが電話を大畑へ押しつけた。 「やれやれ。女は気難しい。——俺は明日からアメリカだ。二週間戻らん」 「そうですか。すると……」 「今日なら行ってやってもいいぞ」 「分かりました。ぜひお願いいたします」 「よし。クビにする連中のリストはできとるのか?」 「はい」 「それなら簡単だ」 「では何時ごろに……」 「あんまりすぐに行っては妙なもんだ。夕方でよかろう」 「分かりました」 「その前に、俺が行くことを社員に知らせておけ。あれこれ予想して、覚悟ができるだろう」 「かしこまりました」 「それでは四時にそっちの社へ行く」 「ではよろしく。お待ちしております」 「ああ。——それからな、お前、ヒゲは剃《そ》るなよ」 「は?」 「少し憔悴《しょうすい》し切った顔でないといかん」 「なるほど」 「夜はこの前の女を頼むぞ」 「はい。ちゃんと確保してございます」 「よし、じゃ四時に会おう」  大畑は電話を終えると、受話器をマキの方へ放り投げた。 「キャッ!」  マキが悲鳴を上げて受け取る。  大畑は浴室へ入って、シャワーの蛇口をひねった。  人間は誰にも、なぜかよく忘れることというのがある。別に他のことでは、少しも物忘れのひどい人間ではないのに、なぜか必ず傘は忘れるとかいうことがあるものである。  大畑の場合、その弱点がシャワーや上がり湯だった。出してすぐはひどく熱い湯が出ることを、つい二、三日しかたっていないのに、もう忘れて、いきなりシャワーの真下に立って湯を浴びたから—— 「熱いっ!」  と飛び上がって、その拍子に、浴槽のへりへつまずいてズデンと引っくり返ってしまった。洗面台の陶器の端に、頭がもろにぶち当たって、ゴーンと、少しひびの入った除夜の鐘のような音がした。  マキは、ドシン、ゴーン、ガチャン ( これは化粧品のびんの落ちて割れた音である ) という音にびっくりして浴室へ飛び込んだ。  大畑が大の字になってのびている。 「しっかりして!」  マキは大畑を抱き起こそうとした。しかし、何分重たいので、とても無理だ。 「しっかりしてよ! 死んじゃいやよ!」  マキは悲痛な声を上げた。「死ぬなら、この間約束してくれたダイヤのネックレス買ってからにして!」 「総ては社長である私の責任です」  尾島は、沈痛な面持ちで語った。「みなさんに苦労を強いることになって、本当に心苦しい。申し訳ないと思っています」  一番広い会議室に集められた全社員は、声もなかった。 「しかし、安心して下さい!」  と尾島は調子を上げた。「この会社は必ずや再建されます!」  何だか芝居がかっているわね、と竹野純子はちょっとシラケた気分で思った。 「富菱銀行の実力者で、会社再建の神様といわれる大畑清兵衛氏が、この尾島産業のために力を貸して下さることになったのです」  ずいぶんつまんない神様もいるのね。 「大畑氏は我が社を救うことを約束して下さいました。ですから、もう大丈夫! みなさんは安心して日常業務に励んで下さい。もし誰かが、『お宅は潰れたんじゃないのか』と訊いて来たら、とんでもない、と答えて下さい。尾島産業は不滅です!」  何かのやき直しね、と純子は苦笑した。それでも社員の中には感激した者もあるとみえて、自然発生的に拍手が沸き上がった。  女の子たちの中には、感極まって泣いている者さえいる! これには純子もびっくりした。  桑田伸子の方を見ると、さすがに伸子は、そんなきれいごとの演説に騙《だま》されはしない。不安な表情で尾島社長の方を見ている。  拍手が収まると、尾島は、 「さあ、それではみんな席へ戻って。いつもと同じように働いて下さい」  と話を終えた。みんながガタガタと椅子を動かしながら立ち上がる。その時、 「社長さん」  と呼びかけた者がいる。伸子だ。みんながふと足を止めた。 「何かね?」  尾島は愛想良く微笑んで、「訊きたいことでもあるのかな?」 「はい」 「言ってごらん」 「この倒産に関連しての人員整理はあるんでしょうか? それから夏のボーナスは少しでも出るでしょうか?」  尾島が渋い顔で、 「そ、それはね……」 「私、ぎりぎりで生活しているんです。もしボーナスが出ないとなれば予算が変わって来ます。それに、整理となれば私のような高卒の者は危ないと思うんです。それがもし決まっているのなら、早目に教えていただかないと、後の生活がありますから」  純子は内心手を打って喜んだ。伸子さん、やるじゃないの!  みんな、内心では気になっていながら、口に出して訊くことができなかった。それを代表して伸子が言ったのである。 「その件に関しては……」  尾島が答えた。「私の一存ではどうにもならん。私はいわば失格を宣告された社長だから。大畑さんが、その辺はみんなの納得できるような形で処理して下さるから心配はないよ」 「じゃ、人員整理も、夏のボーナスゼロも、あり得るわけなんですね」  伸子がもう一歩踏み込む。尾島もいい加減な答えではごまかせないと分かったらしい。 「それはまあ……絶対にないとは言えない」  伸子は、 「ありがとうございました」  と頭を下げた。みんなが事務所の方へ、戻って行く。一瞬前の元気はどこへやらだな、と純子は思った。 「やったじゃない」  と純子は伸子に声をかけた。 「だって、あんまり分からないんだもの、言ってることが。——生活がかかってるもの、こっちも必死よ」  純子は改めて伸子を見直した。人間、ただおとなしいだけではだめなんだ。ああでなくっちゃ! 「大丈夫?」  マキが心配して顔を覗《のぞ》き込む。 「もう何ともない」  やっとの思いで、大畑はベッドに起き上がった。「今、何時だ?」 「ええと……午後三時頃ね」 「行かなくちゃならん。服を取ってくれ」 「本当に大丈夫なの?」 「ああ、少し頭がズキズキ痛むだけだ」  大畑はきちんと背広を着込むと、 「じゃ出かけて来るぞ」  と〈億ション〉を出た。  部屋を出た所で、ふっと貧血気味のめまいを、大畑は感じた。——しかし、それはほんの一瞬のことで、すぐに大畑は元気良く、エレベーターへ向かって歩き出した。 「私は、この社の再生につき、全権を委《ゆだ》ねられています」  尾島産業の全社員が聞き入る中、大畑の説明は事務的に、どんどん進められて行った。 「重症の患者に手術が必要なように、倒産した会社には思い切った措置が必要です」  大畑は、尾島から渡されていたリストを見ながら、「私は全社員についてのデータを提供してもらい、充分に検討しました。その結果、誠に遺憾ながら、次の人たちには……」  緊張が漲《みなぎ》った。  やはりそうか、という空気が重苦しく流れる。誰もがゴクリと生ツバを飲み込んだ中で、一人平気な顔をしていたのは純子だけであった。  伸子などはもう絶望的な表情。いや、それよりも深刻なのは、定年をもう少し先に控えた社員たちである。  退職金をあてにしていたのに、急に途中で辞めさせられ、しかも倒産した会社から出る退職金などたかが知れている。もう青くなっているのが何人もいた。 「次の人たちには……」  と言いかけて、大畑は、ふっとめまいに襲われた。そばにいた尾島が驚いて、 「大畑さん! 大丈夫ですか?」  と駆け寄る。 「いや、大丈夫……。少しじっとしていれば……」  と目を閉じていたが、やがて息をついて目を見開き、「いや、失礼」  と咳払《せきばら》いした。少しマラソンのやり過ぎかな。それとも女の方か? ちょっと控えんといかんな。——ん? このリストは何だったかな? そうか、この会社の再建の……。まあ、ぶっつぶれちまったって構やしないんだが。  何やら大畑は混乱していた。頭を打ったのがこたえたのかもしれない。  しかし、みんな自分の話を待っているらしい。大畑はもう一度咳払いして続けた。 「方法としては、人事の一新以外にない。当然そうだ。要するに幹部が能なしだから潰れるんだからな」  聞いていた尾島が目を丸くした。大畑は構わず続けた。 「そこで新しい人事を発表する」  大畑はリストを眺めた。先頭に桑田伸子の名がある。元来は入っていなかったのだが、さっきの質問で頭へ来た尾島が書き加えたのだ。大畑は全員を見回して、言った。 「新しい社長に、桑田伸子君を任命する!」  しばらくは、誰一人口をきく者もなかった。——みんな、こう自問していたのである。  桑田伸子が社長? 桑田伸子って誰だっけ?  思い付くのにしばらくかかった。——当然のことながら、伸子自身は、それが自分のことであると分かっていた。会社の中に同姓同名の女性はいないはずだ。しかし、自分が社長だと言われても、ああそうか、と簡単に納得するわけにもいかない。 「わ、私のこと?」  やっとの思いで呟《つぶや》く。同時に全社員が彼女の方を振り向いた。  そうか! 桑田伸子、っていうのは、あのお茶くみの子だった!  伸子は隣に座っている竹野純子の方を見た。 「あなたらしいわよ」  と純子が言った。 「純子さんにもそう聞こえた?」 「ええ」 「何かの間違いね、きっと……」  大畑の言葉に一番呆《あつ》気《け》に取られていたのは、おそらく社長の尾島だったろう。  クビにすべき人間のリストの筆頭に挙げていた桑田伸子を、こともあろうに社長《・・》にしようとしているのだ。——これはきっと何かの冗談だ。いや、つい言い間違えたに違いない……。 「大畑さん!」  尾島は慌てて駆け寄ると、「困りますよ」  と低い声でいった。 「何だ? 何が困る?」 「大畑さん……」  尾島は、しかめっつらのような笑顔を作って、 「そのリストは——」 「分かっとる。新しい人事だ」 「いや、そうじゃなくて……。社長はこの私ですよ。約束をお忘れですか?」 「何だと?」  大畑はグッと尾島をにらみつけて、「お前はこの会社を倒産させたんだぞ! それでまだ社長をやる気か?」 「ですが、それは……」  尾島としても、全社員の前で、大畑と相談してわざと会社を倒産させたことを口にはできない。 「ねえ、大畑さん、ちょっとあちらの部屋でご相談を」  と大畑の腕を取ったが、大畑はますますいきり立って、 「何だ、こいつ! 気安く手をかけるな!」  と怒鳴った。尾島は唖《あ》然《ぜん》として突っ立っている。大畑は一つ咳払いをして、再び社員の方へ向くと、 「倒産した会社を立ち直らせるためには、人心を一新し、団結して危機に立ち向かう他《ほか》はない!」  と拳《こぶし》を振り回しながら言った。 「桑田伸子君! どこにいる?」 「は、はい」  伸子が慌てて立ち上がった。伸子も尾島に劣らず面食らっているのである。それはそうだろう。お茶くみや雑用ばかりやっていたのに、いきなり社長になれと言われても到底信じられっこない。  大畑はやおら伸子の方へと歩み寄って行った。——全社員が大畑を目で追う。  大畑は伸子の前に立つと、じっとその顔に見入った。伸子はからかわれているのかもしれないという気がして、大畑の目を真っ直《すぐ》に見返してやった。 「ウーン」  と大畑が唸《うな》った。  この人、どこか具合でも悪いのかしら? 「桑田君といったね」  と大畑が伸子の肩に手を置いた。 「はい」 「君の目には輝きがある」 「はあ」 「君はきっと立派な社長になれるぞ」  伸子は改めて大畑を見直した。  これ、ちょっとイカレてるんじゃないのかしら? 「はっきり申し上げます」 「うん、何だ?」 「私をからかうおつもりですか?」 「からかう?」  大畑は目をむいた。「何を言うか! 私は本気だぞ!」 「ですが、私はお茶くみ専門の——」 「それは今までの経営者に人を見る目がなかったからだ。しかし私の目は確かだ! 君は社長になるべき器《うつわ》なのだ!」  ここまで来ると、さすがに伸子も、どうやら大畑が本気らしいことが分かって来る。 「でも……私、何も分かりません。社長って何をすればいいのか……」 「誰にでも最初というものはある」  と大畑は悠然と肯《うなず》いて、言った。  伸子は助けを求めるように、純子を見た。純子は処置なし、とでも言うように肩をすくめた。  大畑は元の場所へ戻ると、 「では、新しい人事の発表を続ける……」  とリストを再び取り上げた。 「ただいま」  荒井定市は玄関から声をかけた。 「はーい。どなた?」  と妻の智子の声が返って来る。「ただいま」と言うのが亭主と息子以外にいるとでもいうのだろうか?  荒井は上がり込んで、 「俺だよ」  と、のっそりと茶の間へ入って行った。 「あら、あなた! 早いのね!」  智子が目を見張った。「どうしたの? 具合でも悪くて早退して来たの?」 「いや、今日は特別に早く終わったんだ」 「そう。——じゃ、晩ご飯はまだ少し後でいい?」 「ああ」 「今、いい所なのよ」  智子は婦人雑誌へ目を戻した。  荒井は服を着替えながら、言った。 「今日は大変だったんだ」 「へえ、どうしたの?」 「会社が潰れた」 「あ、そう。大変ね」  雑誌に気を取られて、智子はいい加減に返事をしたが、少しして顔を上げた。「——潰れた、って言ったの?」 「うん」 「どこが?」 「俺の会社だよ」  智子はそろそろと雑誌を閉じながら、 「倒産したの?——尾島産業が?」 「そうなんだ。で、帰りが早くなったんだよ」 「あなた!」  突然、智子の声のボリュームが三倍くらいにはね上がった。 「な、何だよ、びっくりするじゃないか。急に大きな声を出して」 「びっくりしたのはこっちよ! よくもそう平気な顔でいられるわね! 明日からどうやって食べて行く気なのよ?」 「ま、落ち着けって」  荒井は懸命になだめた。「大丈夫なんだ。ちゃんと銀行の人が来て、会社再建の後押しをしてくれることになった。尾島産業は大丈夫だよ」  智子はホッと大げさに安《あん》堵《ど》の息をついて、 「それをどうして早く言わないのよ!」 「言おうと思ったら、お前が馬鹿でかい声を出すからさ」 「ともかく一家心中の危機は逃れたわけね」 「ただ……人心の一新というやつで、人事が大幅に異動になった」 「そう」  智子はちょっと間を置いて、「あなたも?」  と訊いた。 「そうなんだ」 「そうなの」  一度倒産した会社を立て直すのに、夫のような社員はむしろ邪魔になるに違いないと智子は思った。その点、智子は夫に関して幻影は抱いていなかったのである。  まあクビにはならなかったらしい。それだけでも儲《もう》けものだ。平《ひら》に格下げされただけで済んだのだろう。 「じゃ、もう係長じゃないのね」 「うん」  と荒井は肯いて言った。「部長になったんだ」 「何だと?」  と竹野は純子の話に目を丸くした。それから急にゲラゲラ笑い出してしまう。 「何よ、失礼ね!」  純子は父をにらみつけた。 「しかし、お前……。笑いたくもなるじゃないか」  と竹野はまだ笑いを含んだ声で、「お前が社長の秘書だって?」 「いけない?」 「お前は何も《・・》できないんだぞ。秘書ってのは大変な職業なんだ。分かってるのか?」 「社長じきじきのご指名なんだもの」 「そんなことが——」  と言いかけ、竹野は急に言葉を切って真顔になった。「おい、それはどういうことなんだ?」 「どうって?」 「社長がお前を秘書に望んだって?」 「そうなの」  竹野が急にいかめしい顔つきになった。 「純子、会社を辞めなさい」 「ええ?」  今度は純子が驚く番だ。「何よ、出しぬけに」 「すぐに辞めるんだ!」 「何を言い出すの?」 「いいか、電話の応対もろくにできんお前を、秘書にするなどと……。下心があるに決まっとる!」 「ちょっと待ってよ」 「いいや、だめだ。それともお前は社長の愛人にでもなりたいのか?」  純子がプッと吹き出した。 「何がおかしい?」 「だって社長は女の子よ」 「女の子?」 「そう。新人賞なの」 「新人賞?」 「あ、間違えた。新人事《・・・》」 「人事異動か? それにしても社長が女の子とは……。大体今は異動の季節ではないぞ」 「だって会社、潰れちゃったんだもの」  純子の説明も悪い。そもそも、これから話を始めるべきであったのだ。  純子は、新社長《・・・》から、 「心細いからいつもそばにいて」  と頼まれているのだ。 「任しといて」  と純子は胸を叩いた。「大丈夫。社長なんて、誰だってできるわよ」  と無責任に請け合ったものである。  話を聞いて、竹野はすっかり面食らった様子で、 「妙な話もあればあるもんだな」 「そうね。でもいいんじゃない? たまにはこういうのも面白いわ」 「遊びじゃないぞ」  竹野は苦々しい顔で言った。   「畜生! どうなってるんだ!」  尾島は机をドンと叩いた。 「そうカッカなさっても仕方ありませんよ」  と元《・》総務部長の柳が言った。 「するなと言う方が無理だ」  尾島は椅子にふんぞり返った。「あのもうろく爺《じじい》め!」 「しかし、大畑さんが大きな権力を持っているということは事実です。逆らって怒らせたら、それこそ取り返しのつかないことになりますよ」 「じゃ、どうしろってんだ?」 「確かに大畑さんはまとも《・・・》じゃなかった。でもそれを立証するのは困難ですよ。特にアメリカへ行ってしまわれるそうですからね」 「畜生!」  もう何十回目かの「畜生」だった。  北岡元《・》専務が、 「どうせ、あんな小娘がやれっこないんですよ。そう気になさることはない。そのためには、大畑さんが海外へ行っていた方が却《かえ》っていいですよ」 「なるほど……」  少し落ち着いたのか、尾島が普通の口調に戻って言った。 「取りあえずスタートして、大畑さんが帰国なさるまでに、元の通りにしておくんですよ。きっとその頃には大畑さんも正常《・・》に戻ってますから」 「ふむ。——仕方ないか」  尾島は面白くもなさそうに、「あんな小娘が社長とはな!」  と吐き捨てるように言った。 「社長はどうぞ家でお休みになっていて下さい。わざわざ出社して来られるには及ばないでしょう」  そこへ、 「そうは行きますまい」  と声が出た。——元《・》営業部長の三枝だ。 「どういう意味だね?」 「つまり我々も休めば休暇届を出さなくてはなりませんよ」 「まさか社長に——」 「今、社長は桑田伸子です。我々は一人残らず平社員なんですからね。勝手なことはできません」 「三枝君、君は社長に何か仕事をさせようと言うのか」 「いいじゃありませんか」  三枝は他の面々に比べ、むしろ楽しげな顔をしている。 「君はどうする気だ?」 「私は明日からまたセールスに回りますよ」  北岡と柳は顔を見合わせた。  山本将之はガックリ来ていた。  憧《あこが》れの純子は、社長秘書になるというから、事務所ではあまり見かけなくなってしまうだろう。 「畜生!」  とこちらも言っている。一つには純子に会いにくくなること。もう一つは……お茶くみが社長になり、万年係長が部長になって、しかし山本は、平社員のままだったのである。 「社長!」  と呼ぶ声がした。  桑田伸子は、それが聞こえないわけではなかったが、何しろ超一流のホテルの、気の遠くなりそうな広さのロビーという、至って不慣れな環境の中で、気もそぞろだった。  きらびやかなシャンデリア、足首まで潜ってしまいそうな絨毯《じゅうたん》。どこの国の人間かさっぱり分からない外人が目の前を通る度に、伸子は目が合わないように、とあわてて顔を伏せるのだった。  何しろ六畳一間のアパートとはまるで比べものにならない(当たり前だ)広さ、豪華さに、すっかり呑まれてしまっていたのだ。——一体いつまで待っていればいいのかしら?帰っちゃおうか?   本当に腰を浮かしかけた時、 「社長」  とすぐそばで呼ばれて、伸子は初めて振り向いた。総務部長——いや、元総務部長の柳がニッコリと微笑《ほほえ》んでいる。 「あ、部長さん、気が付きませんで——」  と伸子があわてて立ち上がると、 「いやいや、僕はもう部長じゃありませんよ。それにあなたは社長だ。堂々と構えておいでなさい」 「はあ……」  そう言われて、そんなに急に、「さようか」とふんぞり返るわけにも行かない。 「どうです、夕食はまだでしょう?」  と柳が言った。 「ええ」 「じゃ、この上へ行きましょう。フランス料理の旨《うま》い店がありますからね」 「はあ」  本当はチャーハンにギョーザぐらいが良かったのだが、こういう所ではきっと普通の中華ソバ屋はないだろうと伸子にも分かっていたので、仕方なく肯いた。 「社長はこういう所へはよく来られますか?」  と柳がエレベーターのボタンを押して言った。 「そうですか」 「——いや、社長にお訊《き》きしてるんですよ」 「え? あ——私ですか? いいえ、こんな所、とっても——」  社長などと呼ばれても一向にピンと来ないのである。  エレベーターで、二人は最上の三十階へ上った。  柳がテーブルを予約しておいたとみえて、すぐに、窓際の、いい席へと案内される。 「まあ、町の明かりがきれい!」  思わず伸子がため息をついた。超高層ビルの展望台ぐらいには上ったことがあるが、こうしてゆったりと椅子に落ち着いて眺める夜景は一段と華やかだった。 「さあ、何がいいですか?」  馬鹿でかいメニューに目を丸くしながら、伸子は目を走らせたが、何やら聞き慣れない料理が並んでいる。 「あの……お任せしますわ。私、さっぱり……」 「それじゃ僕が適当に選びましょう」  柳が手早くオーダーを済ませる。 「部長さん、私にどういう——」 「部長じゃありませんよ」と柳は微笑んだ。 「柳、と呼んで下さい」 「柳さん……。あの、私にお話って何ですの?」 「いや、大したことじゃありません。話というのは口実みたいなものでね、あなたの社長就任を祝おうと思ったんですよ」 「困りますわ。私なんか——どうしていいのか、分からなくて困ってるのに」 「いや、大畑さんの新人事を聞いた時はね、僕も面食らいましたよ、正直言ってね。しかしよく考えてみると、大畑さんの言うことにも一理ある」 「そうでしょうか?」 「そうですとも。大畑さんはこの道数十年のベテランですよ」  と強く肯いて見せた。 「でも、少しぼけて《・・・》るんじゃありません?」 「いやいやとんでもない。あの人なりの、深い考えがあってやったことですよ」 「とおっしゃると?」 「つまり、会社の経営不振は、経営陣の頭が硬くなっているところから起こるんです。新鮮な発想や思い切った変更ができない。これが会社を行き詰まらせてしまうんですよ」 「はあ」 「ここにあなたのような若々しいフレッシュな頭脳を持って来る。これはすばらしいアイデアですよ!」 「そうでしょうか……」 「そうですとも——あ、ワインが来ましたよ。一つ、乾杯しようじゃありませんか」 「でも——」 「まあ、ワインぐらいなら大丈夫でしょう。さあグラスを持って」  伸子は仕方なくグラスを手にした。 「新しい社長の洋々たる前途に——乾杯!」  グラスがチンと鳴った。「さあ、ぐっと飲んで。乾杯ですからね、あけちゃって下さいよ」  伸子はワインを飲みほして、フウッと息をついた。 「おめでと! さあもう一杯」  伸子が、 「いえ、私は——」  と断ろうとするのを、柳は構わずにグラスを満たした。 「そこで問題があります」 「問題?」 「いや、あなたのことは全く心配していません。しかし、会社は社長一人で動くものではない。幹部と社員との間に充分に意思の疎通がなされていなくてはならないのです」 「ええ、分かります」 「そこで……あなたの場合、社長としては異例の若さです。やはり社員の中には快く思わない者もいます」 「それはそうでしょうね」  自分だって快くは思っていないのだから。 「特に——まあ名をあげては失礼ですが——前社長や、北岡専務、三枝部長などは、あなたに少なからぬ反感を持っていますよ」 「当然だと思いますわ」 「しかし、あなたはまだ何といっても若い。ああいう連中の隠れた悪意に立ち向かうすべをご存知ないでしょう。——あ、料理が来ましたよ。食べながら話しましょう」 「これ、何ですの? 貝ですか?」 「いや、エスカルゴ——かたつむりですよ」  伸子はギョッとして目を見張った。  ——食事も終わり近くになると、柳は話を続けた。 「つまり、あなたには味方が必要です」 「味方?」 「そうです。いつも相談相手になり、時には自分に代わって妨害と戦ってくれるような味方が」 「ああ、それならいますわ」  と伸子は顔を輝かせた。一瞬、柳が青くなった。 「だ、誰です、それは?」 「純子さんです」 「純子?」 「ええ、竹野純子さん」 「竹野……?」 「総務のお茶くみやコピーを一緒にやっている人です」 「ああ、分かりました。竹野君ですね」  柳はホッとしたように笑った。 「ええ、秘書になってもらおうかと思って」 「それはいいですね。——しかし僕の言うのは、経営者としてのあなたに、助言できる人のことです」 「それは……分かりませんわ」  と伸子は当惑して言った。 「どうです? 僕で良ければ、ご相談相手になりますよ」 「部長——いえ、柳さんが、ですか?」 「といって誤解しないで下さい。僕は別にあなたの社長としての采配《さいはい》に口出ししようというんじゃありません。ただ、あなたが、まだ経験が浅いために困るようなことがあれば何でも訊いてほしいということです」 「ありがとうございます。——ご親切に、どうも」 「いやいや、当然のことですよ」  柳はにこやかに言った。——柳は計算高い男である。  大畑が、とんでもない人事を後にさっさと帰ってしまってから、柳は考えた。  どうせ桑田伸子の社長など長くは続かない。あんなお茶くみしか能のない娘に、何ができるものか。遠からず、尾島は社長に返り咲き、以前通りの体制に戻ることは間違いない。  しかし、そうなると、柳が社長の座につくのは、遥《はる》か先のことになるのだ。何しろ尾島は当分引退しそうもないし、専務の北岡は、柳とそう年齢も違わない。そうなると、柳は社長になれたとしても、ほんの数年しか腕を振るえないことになる。  これは柳の、以前からの不満であった。  そこへ、この降ってわいたような騒ぎである。今、尾島産業は一種の空白状態にあるのだ。誰もが呆気に取られて、動こうとしない。  柳は、このチャンスをつかめないだろうかと思った。まず桑田伸子を自分の操り人形にする。その上で愛人にでもしてしまえば、後は、社長の地位を取って替わるのは簡単だ。  それにはまず、早い内に伸子に信用させ、今の新しい体制を、固めてしまうことだ。後で尾島や北岡が何か言い出しても大丈夫なように。いや、連中に気付かれないようにやってしまうのだ。  今夜はその手始めであった……。  伸子は、柳が呼んでおいてくれた、黒塗りのハイヤーでアパートへと帰って来た。ワインの酔いで、少々眠気がさし、しかもハイヤーの座席は抜群のクッションだったので、ともすればウトウトしてしまいそうだった。 「——ご苦労様」  ハイヤーのドアを運転手が開けてくれると、伸子はそう言って車を降りた。  なかなかいい気分だわ、と伸子は思った。ドアなんか開けてくれちゃったりして。  ハイヤーが走り去り、アパートへ入ろうとすると、 「伸子さん」  と声がした。 「あら——林君。どうしたの?」  道の暗がりから、スポーツシャツにジーンズ姿の、二十歳《はたち》ぐらいの若者が出て来た。 「どうしたって、こっちが訊きたいよ」  とふくれっつらで言う。 「ああ! ごめんなさい!」  伸子は思い出して手を打った。「すっかり忘れてた。あなたに夕ご飯をごちそうするって約束してたんだわね」 「どうせ僕のことなんか頭にないんだろ」  すねたような言い方ながら、顔は笑っていた。 「ごめんね! 何も食べてないの?」 「餓死寸前」 「ああ、本当に! ——でもねえ、今日はもうめちゃくちゃなのよ。とんでもないことがあって、混乱しちゃって、私……。どう? 駅前に出て、ラーメンでも食べない?」 「いいよ。君は?」 「私? 食べては来たんだけど……。妙な気分なの。だって、かたつむりでお腹《なか》一杯になる?」 「ええ?」 「いいのよ。じゃ、行きましょ」  と伸子は林の腕を取った。  林昌也は、伸子の幼友達の弟で、東京の大学へ通っている。田舎にいる昌也の姉から、伸子は彼のことをよく監視《・・》してくれと頼まれているのだった。 「——ああ、やっぱりこういう店の方が落ち着くわ」  油と煙の香りの漂うラーメン屋のガタガタする椅子に座って、伸子は言った。 「一体どうしたのさ? あんな立派な車で帰って来たりして」 「話せば長いことなのよ。ともかく食べながらにしましょ」  ——伸子の話を、昌也はまるで本気にしなかったが、伸子が何度も、 「嘘じゃないんだってば」  をくり返すと、やっと信じる気になったらしい。 「へえ! 伸子さんが社長?」  と目を丸くして、「すごいなあ! それじゃ大邸宅に住まなきゃ。運転手つきの外車に、別荘、ヨット」 「よしてよ」  と伸子は笑った。「私だって困っちゃってるんだから」 「いいじゃないの。どうせだめでもともとなんだろ」 「まあね」 「好きなようにやれよ」  ——そう。純子さんもそう言った。けれど、そんな無責任なことでいいのかしら?  いくら何かの間違いでなったにせよ、今、自分は社長で、明日から、社長室の椅子に座って、仕事をしなければならないのだ。  そして……もし本当《・・・》に会社が潰《つぶ》れたら、全社員と、その家族は、どんな惨めなことになるか。  いい加減なことはできない、と伸子は思った。伸子の家は貧しい。貧乏の辛《つら》さを、伸子は物心ついた頃から味わい尽くして来た。尾島産業の社員や家族たちを、そんな目にあわせてはならない。 「ともかく精一杯やるわよ」  と伸子は言った。 「応援するぜ」 「ありがとう」 「でもさ、社長っていくら遅く行っても遅刻にならないんだろ?」 「そうでしょうね」 「いいなあ。俺も社長になりたい」  と昌也がため息をつきながら言った。あまり実感がこもっているので、伸子は思わず笑い出してしまった。 「でもさ、偉くなるとすぐヘイコラして、ご機嫌取ろうとする奴がいるだろ。そういうの、気を付けろよ」 「ええ。そうね」  伸子はハッと胸をつかれたような気がした。柳の、あの親切そうな微笑を思い出したのだ。 新社長第一日 「純子! どうしたの?」  純子がダイニングルームへ入って行くと、母親が目を見張った。無理もない。毎朝、毛布を引きはがしたって起きて来ない純子が、今朝は、まだ起こしもしないのに——それも三十分も早く起きて来たのだから。 「おはよう」  と、すっかり出勤の仕度を終えた純子が、澄まして席に着く。「あら、コーヒーはまだ?」 「できてるはずないでしょ。こんなに早く」  と母がまだ半ば呆《あつ》気《け》に取られながら、「……純子、具合でも悪いの?」  と真剣な表情で訊いた。 「起きて来なくてそう訊かれるのなら分かるけど、早く起きて具合が悪いのか、ってどういうことよ?」  と純子がムッとしたように言った。 「ごめんよ。だって、あんまりびっくりしたから……」 「早くコーヒー淹《い》れてよ」 「はいはい」  と急いで台所へ立って行く。「今朝は何かあるの?」 「新社長の出社第一日でしょ。秘書が社長より遅く行ったんじゃ、ちょっとみっともないもんね」 「ああ、そう言えばそんなこと言ってたわねえ。冗談じゃなかったの?」 「失礼ね。正真正銘の本当よ」 「それじゃまあ頑張りなさいよ」  と母の、あまり気のない激励である。「——大変だろうねえ」 「そりゃそうよ。社長秘書ともなりゃね」 「一体どんな仕事をするの?」  訊かれて、純子、答えに詰まった。 「それは——これから勉強するのよ」  とごまかして、「トースト焼いてよ」 「はいはい。大変だねえ」 「そう。大変なのよ。ともかく」 「いえ、社長さんがさ。お前みたいな秘書じゃ大変だよ、きっと」  純子は、母親がかくも皮肉屋だとは今の今まで知らなかった。 「あなた、仕度はできた?」  と智子が大きな声で台所から言った。 「できてるよ。後はお前が朝飯を作ってくれりゃいいんだ」  荒井はウンザリした顔で言った。 「ちゃんとして行ってよ。何しろ部長さんなんですからね、今日からは」 「そんなに大きな声を出さなくたって、二メートルと離れちゃいないんだぞ」 「あら、本当ね。ホホホ……」  荒井はため息をついた。いつも通り、「ワッハッハ」と笑えばいいのに。  智子がわざと大きな声でしゃべっているのは、要するに亭主が〈部長に〉なったと近所へ知らせたいからなのである。そのために、台所の窓をわざわざ開け放ってある。  昨夜は大変だった。——荒井は思い出しても寒気がした。  何しろ智子が、あらゆる親類という親類に電話をかけまくったのである。北は北海道から、南は沖縄まで、文字通りTV並みの全国ネットワークだった。  いつもなら高校生の息子が電話をしていると、 「市外なら向こうからかけ直してもらいなさい」  などとやかましいことを言っているくせに、昨夜ばかりはお構いなし。  しかし、電話をもらった方も面食らったに違いない。ここ何年も、ろくすっぽ会っていないのに、いきなりたいして急ぎでも重要でもない用で長距離電話がかかり、話の最後に突如として、 「ところでねえ、今度主人が部長になったのよ」  と付け加えたのだ。むろん会社が倒産しかかったということは省略してあった。  電話が終わると、今度は両隣三軒ずつに、町会の用を口実に押しかけて、 「ところで今度主人が——」  とやらかして来た。 「いい加減にしてくれよ、みっともない」  と荒井がたまりかねて頼んでも、馬の耳に念仏で、他《ほか》に親類はなかったかと、ノートをひっくり返す始末。  しかし、考えてみれば、今までそれほど亭主が一向に係長から上へ行かないことで肩身の狭い思いをしていたのかと、荒井も今さらのように思い知らされてしまったのだった。  それを思うと、そうそうとがめ立てもできない。 「お待ち遠さま」  並べられた焼き魚、カマボコ、刺し身を見て、荒井は目を疑った。 「おい、どうしたんだ、今朝は?」 「部長になったら、やっぱりそれなりに相応《ふさわ》しい朝食を取らなきゃ」 「それにしても、朝から刺し身か?」 「あら、嫌いだった?」 「い、いや、そうじゃないけど」  と荒井はあわてて食べ始めた。部長となると、こうも違うものか。  荒井自身は、しかし、至って気が重かった。万年係長が、突然課長を通過して部長になってしまったのだ。一体何をやっていいのやら……。  それに新社長はお茶くみの女の子と来ている。一体、尾島産業はどうなるんだろう?——荒井は、部長としては、何とも頼りないことを考えていた。 「上等なネクタイを買わなきゃいけないわね」  と智子は言った。「ねえ、月給は上がるのかしら?」 「さあ。何しろ倒産しかかってるんだ。無理じゃないかな」 「そうね。——まあ両方を望んだって仕方ないわね。一つずつ実現して行けばいいんだから」 「何の話だ?」 「いいのよ。こっちの独り言」  その時、電話が鳴った。智子が立って行って受話器を上げると、 「はい、荒井部長《・・》の家でございますが」  と言った。  荒井はため息をついて、カマボコを口へ放り込んだ。  竹野純子がどんなに朝早く起きて、頑張って出社したとしても、新社長・桑田伸子より早く社へ着くのは不可能だったろう。  伸子は何しろ社へ七時半に着いていたのである。  昨夜はほとんど一睡もしていなかった。眠って目が覚めたら、総《すべ》ては夢だったということになるような気がして——そうなればいいとも、そうなるのが惜しいとも思った。複雑な心境である。  ビルへやって来ても、まだ誰も来ていない。大体ビルそのものが閉まっている。仕方なく通用口の方から、警備員を叩き起こして中へ入った。  エレベーターも動いていないので、階段を上り、やっと尾島産業のあるフロアへ辿《たど》り着く。 「尾島産業か。桑田産業に直す方がいいかしら」  などと、ちょっと冗談を言ってみる。 〈社長室〉と書かれたドア。——実際のところ、ここへ入るのは初めてじゃないかしら、と伸子は思った。いや、入社した時、人事の担当の人が、会社の中を案内してくれて、その時、 「ここが社長室だよ」  とドアを開けて——ちょうど尾島がいなかったので——中を覗《のぞ》かせてくれたことはある。しかし、それから以降、コピー、お茶くみ係が社長室へ呼ばれるなどということはなかった……。  伸子はドアを開けた。  中は、思っていたより狭かった。広い、という漠然とした記憶だけが残っていたのだろう。  深々とした絨毯《じゅうたん》、応接セット、正面の大きな机、体がすっかり隠れてしまいそうな椅子……。ここが——いつまでのことかは分からないが——自分の部屋なのだ。  伸子は、ゆっくりと机の方へ歩いて行き、肘《ひじ》かけのついた椅子に恐る恐る腰をおろした。フワリと、体が埋もれそうになる。何だか、仕事をするというより、昼寝するのにちょうどいい感じだ。  椅子に座って、部屋の中を見渡すと、入り口の所で、立って見たのと、また違う部屋のような気がする。 「何だか本当に偉くなったみたいだわ」  と呟《つぶや》いて、引き出しなどを開けてみる。びっくりするほどガラガラで、大したものは入っていない。倒産を控えて、整理したのだろうか? いや、そんな風にも見えない。  もともと、こんな風に空っぽだったのだろう。——社長の机の中といえば、どんな重要書類が入っているかという気がするが、中身はこんなものだ。  部屋には充分余裕がある。机を一つ入れて、純子さんに来てもらおう。きっと、何かと話し相手になってくれる。  その時、ドアの外に足音がした。誰だろう?  ドアが開いて、顔を覗かせたのは、元営業部長の三枝だった。 「おや、もうおいででしたか」  と三枝が微笑《ほほえ》んで言った。 「おはようございます」  とあわてて立ち上がる。 「いや、どうぞ、そのまま。そこはあなたの椅子なんですからね」  と三枝は言って、「入ってもよろしいですか?」  と訊いた。伸子はどぎまぎして、 「え、ええ、どうぞ」 「失礼します。——いや、社長室が明るくなりましたな」  三枝は愉快そうに、「尾島社長の時は、ここが秘密の洞窟《どうくつ》みたいに思えたものですがね」 「部長さん」  と言いかけて、「あ、あの——」 「三枝と呼んで下さい。もう部長ではありませんからね」 「三枝さん。ずいぶんお早いんですのね」 「いや、昔、一線でセールスに出ていた頃はこれぐらいに来ていたんですよ。それが部長になると九時半、十時……。久しぶりに早く出て来るのはいい気持ちです」 「はあ」  伸子は複雑な表情で三枝を眺めた。部長から平《ひら》へ格下げになったというのに、この人は何だかえらく楽しそうだ。それとも、これも昨夜の柳と、同じ口だろうか?  しかし、三枝は管理職の中では最も若い社員たちに人気があった。えこひいきをしないし、部下の仕事ぶりをよく見ていて、まめに声をかける。  見かけは冴《さ》えないのだが、割合女子社員などにも好かれているのは、部長だからといって、偉ぶった態度を取らないせいもあるだろう。 「大変ですね、こんなことになって」  と伸子は言った。 「いや、私も少しまたセールスの基本を勉強しなきゃならんと思っていたんですよ。どうしても現場の状況にうとくなりますからね、部長の椅子に座っていると」 「そうですか。でも……」 「大変なのはあなたでしょう」  三枝はそう言って首を振った。「何かと問題が降りかかって来るでしょうからね」 「どうしていいか分かりませんわ」 「いや、大丈夫。仕事というものの基本は同じですよ。社長だって平社員だって」 「そうでしょうか」 「その椅子やこの部屋の雰《ふん》囲気《いき》に呑まれてはいけません。昨日までのあなたの席でやっていたのと同じ気持ちでおやりなさい」  三枝は微笑んで、「さて、では私は今日のセールス先をどこにするか考えます」  と一礼して出て行った。  何となく、みんなバツの悪そうな顔をしていた。  第一回幹部会議である。  伸子は、総務部長の荒井、営業部長の町田——それに課長たちを見回した。定年間近の老人と、右も左も分からないような新人。それに社長はお茶くみ、と来ている。これで会社が潰れなければ奇跡というものだろう。 「おはようございます」  と、純子が司会役よろしく、口を切った。 「第一回の幹部会議を開きたいと思います。まず社長のお話から……」  伸子はちょっと一息ついてから、言った。 「みなさんも、これがまともな状態でないことは、よくご承知だと思います。私はコピーの取り方以外には大して知っていることはないし、みなさんも、会社の経営にタッチされたことのない方ばかりです」  伸子は唇をしめして、「——でも、一つだけ確かなことがあります。私たちが、この会社を建て直さなければ、ここは潰れるということです。そうなれば、みなさんも、ご家族の方も、大変なことになります。——正気の沙汰ではないかもしれませんが、私は、精一杯やってみるつもりです。みなさんの協力をお願いします」  伸子の真剣な口調は、一同の中の、どこか頼りなげな空気を一掃したようだった。 「では、まず——」  と伸子は言った。「社の状態がどの程度危ないのかを正確につかむ必要があります。それから、それぞれの課で、何ができるか、考えてみることも大切だと思います。節約も結構ですが、行きすぎると、社員がやる気をなくしてしまうことになりかねません。節約よりは、むしろ積極的に仕事を取ることを考えて下さい。一番現場の状況を知っているのは、実際に現場にタッチしている人でしょう。各課で話し合って、何でもアイデアを出して来て下さい。従来の慣習や何かには捉《とら》われずに、自由に考えて下さい。実行できるかどうかは後で考えればいいのですから」  実のところ一番びっくりしているのは当の伸子だった。こんなにスラスラと言葉が出て来るとは、思ってもいなかったのである。 「——社長」  そこへ受付の女の子が顔を出した。ひどく困った様子だ。 「はい?」 「お客様が……凄《すご》い剣幕で、怒鳴り込まれていますが」 「あなた、どうかなさったんですの?」  この章の書き出しも、純子の母親のよく似たセリフだったが、言い回しが多少ていねいになっているのは、この場合、言っているのが、尾島一郎の妻、久子だったからである。 「いや、別にどうもせんよ。どうしてそんなことを訊《き》くんだ?」 「だって……こんなに早く起きたの久しぶりじゃありませんか」 「そりゃ、俺だってたまには早く起きたくなる」 「そうですか……」  久子はけげんな面持ちで言った。  尾島は、平静を装って新聞を開いてはいたものの、記事を読むどころではなかった。  尾島は、久子に事情を話してはいなかったのである。実際、言いようがあるまい。社長から平社員に格下げになったと聞かされて、喜ぶ女房というのはあまりいない。  昨夜、何とか話そうとは思ったのだが、ついに尾島は言い出せなかった。 「会社の方は巧《うま》く行ってるんですの?」 「ああ、もちろんだ」  尾島は即座に答えた。 「そう。じゃ、大畑さんが巧くやってくださったのね?」 「ああ。大畑さんに任せときゃ大丈夫。何しろ大物だからな」  あのくそ爺《じじい》め、と尾島は心の中で毒づいた。 「それならいいんですけど……」  と久子はまだ何となくすっきりしないという顔。 「な、分かるだろう? 何しろ会社再建第一日だ。社長も頑張っとるってところを多少とも見せとかんと、社員たちにしめしがつかないじゃないか。だからこうして早起きして来たのさ」 「それならいいですけど」  久子はコーヒーを注いでやりながら、「でも、何だかこう早いと、昔に戻ったみたい」  尾島はギクリとして、手にしていたトーストを落っことした。 「どうなさったの?」 「い、いや、手がすべって……」 「車もちゃんと早く来るのね」  と久子に訊かれて、尾島は困った。——倒産寸前などと言っておいて、昨日まではハイヤーで出社していたのである。しかし、まさか今日もハイヤーというわけにもいかないだろう……。 「今日はタクシーを拾って行く」 「あら、どうして?」 「時間が変わったんでな、ハイヤーの方の手配がつかなかったんだ」 「まあ、いい加減ねえ!」  久子は腹立たしげに言った。「毎日利用しているんだから、都合をつけるべきよ!」 「そう無理を言っても仕方がないさ」 「でも……タクシーで乗りつけるんじゃ、まるで普通の社長さんみたいじゃありませんか!」  久子は夫は特別な社長——つまり大物であることを期待していた。久子の描くイメージでは、大物は黒塗りのハイヤーで会社の前に乗りつけ、運転手がドアを開けてくれるべきであって、タクシーからあたふたと降りて来るのでは威厳がないと思っていた。  本来ならお抱え運転手にベンツでも運転させたいところ。実際、ベンツを一台注文してはあったが、何しろ手に入るのに、最低一年はかかるということだった。  久子としては、大物であるべき夫が、社長ですらなくなったなどとは、考えも及ばなかった。 「さて、出かけるかな」  と尾島は立ち上がった。これ以上話しているとボロが出そうだ。  その時、電話の鳴るのが聞こえた。 「私が——」  と久子が立って行く。しまった、と尾島は思った。もし会社の奴からの電話で、事実がばれてしまったら……。 「はい尾島でございます。——ああ、北岡さん。あなたもお早いのね」  尾島はホッとした。北岡なら、口をすべらすことはあるまい。 「ええ、主人も今朝はえらく早く起き出して……。もう出かけるって言ってるのよ」  久子が愉快そうに言って、「あなた、北岡さんよ」  と受話器をバトンタッチした。 「俺だ」 「おはようございます、社長」  北岡は気をつかってわざわざ〈社長〉と付け加えていた。 「何か用か?」 「いえ、今朝はどうなさるのかと思って」 「むろん行くとも。社長が陣頭指揮に立たなくては、会社再建ができるはずはなかろう」  尾島は、わざと少し声を大きくした。 「社長。あの……例のことは奥様にはおっしゃってないんですね?」  北岡が少し声をひそめる。 「う、うん。まあ、そういうわけだ」 「私もなんです。専務から平へ格下げなんて言えたものじゃありませんからな」 「まあ、それはそうだな」 「じゃ、一応出社はなさるおつもりで?」 「うん」 「では私も。——後ほど」  電話を切ると、尾島はホッと息をついた。出社するとは言ったものの、行って何をすればいいのか?  まさか社長が伝票を切ったり、コピーを取ったりするわけにもいくまい。  何しろ尾島は、桑田伸子のいた、総務の庶務係に配置転換( ?)になっているのだ。つまりは雑用係である。  馬鹿らしい! とてもやっちゃいられない。だが、一応家を出ないことには……。 「じゃ出かけるぞ」 「行ってらっしゃい。タクシーを電話で呼びましょうか?」 「いや、すぐそこで拾えるさ」  尾島は家を出ると、表通りへ出てタクシーを停めた。 「どちらへ?」 「うん——」  一瞬考えてから、尾島はあるマンションの場所を告げた。  一方、久子の方は、珍しく夫が早く起きたので寝不足気味。TVをつけっ放しにして、ソファでウトウトしていた。  尾島夫婦には子供がなかった。その気軽さもあって、久子は年中、旅行旅行で飛び回っている。  久子としては、夫は稼ぐもの、妻は使うもの、という役割の分担を忠実に守っているつもりであった。  またどこかへ旅行でもしようかしら、と久子は思った。ハワイはもう行ったから、今度はヨーロッパにでも……。  電話の音で目が覚めた。 「あら……。眠っちゃったんだわ」  時計を見ると、もう十時半になっていた。 「はい尾島でございます」  と受話器を取りながら欠伸《あくび》をする。 「ご主人はいらっしゃいますでしょうか?」  と女の声だ。 「会社ですけど。どなた?」 「総務の者です。ご主人は出社されておりませんが」 「何ですって?」 「休暇という連絡がなかったのでお電話をさし上げたんですが」 「あのね、ちょっと」  夫が出社していない、というのも気になったが、それよりも相手の言い方に腹が立った。 「あなた会社の人? 社長の家へ電話をして、〈ご主人〉とは何よ? 〈社長〉と言いなさい。それに、社長が休むのにいちいち総務なんかに断らないわ。北岡さんにでも訊いてごらんなさい。きっとどこか外へ出てるのよ」  新入社員なんだわ、きっと。全く口のきき方も知らないんだから! 「あの——失礼ですけど」 「まだ何か?」 「社長はおいでになっています。桑田社長ですけど」 「桑田社長?」  久子は混乱して来た。「あなた、かけ間違えてるんじゃないの?」 「いいえ」 「ここは尾島一郎の家ですよ。その桑田社長ってのは、どういうことなの?」 「社長が代わったのを、ご存知ないんですか?」  久子は卒倒寸前だった。 「お客様が怒鳴り込んで?」  と伸子が訊いた。 「ええ」  受付の女の子は肯いて、「大変なんです。かみつかれそうで」 「まるでブルドッグね」  と純子が言った。「一体何だっていうの?」 「うちからおさめたスポンジが不良品だと言うんです」 「ちょっと待てよ」  と言ったのは、荒井だった。「もしかすると八田って人じゃないか?」 「そうです」 「荒井さん、ご存知なんですか?」  と伸子が訊く。 「ええ。いやな奴でしてね。——年中苦情を持ち込んで来るんですよ。要するに、値引きさせたいので、そうするんですがね」 「じゃ、今日のもそれかしら?」 「間違いないと思いますね。どこかで、うちの内情を聞いて来たんじゃないかな。それで、今怒鳴り込めば、うちも弱い立場だから、うんと値切れる、と思って……」 「困りましたね」  純子が伸子を見た。「どうします?」 「私が出ますよ」  と荒井が言った。 「でも、向こうは社長を出せ、と」  受付の女の子の言葉を聞くと、伸子は肯いた。 「分かったわ。じゃすぐ行きます」 「伸子さん!——いえ、社長」  と純子が慌てて言い直す。「大丈夫?」 「向こうが社長をと言ってるのなら仕方ないでしょう。今、行きます」  伸子は立ち上がって、「じゃ、すみませんけど、幹部会議の方はみなさんで続けていて下さい」  伸子が出て行くと、残る社員も、誰からともなく立ち上がって、ゾロゾロと会議室を出た。  受付の所に、何とも柄の悪そうな、大男が立っていた。見るからにケチという感じである。  伸子は一つ呼吸をして整えてから、 「お待たせしました」  と言った。「社長の桑田です」  男はさすがにちょっと面食らった様子で、 「ふーん。お前さんか、新しい社長ってのは」 「どういうご用でしょうか」 「女だとは聞いていたが、もっと凄《すげ》えおばさんかと思ってたぜ。こんな娘っ子だとはな」 「何か、私どもの品物のことで——」 「しかし、女だからって容赦はしねえぞ! 仕事は仕事だからな!」  大声をはり上げるので、事務所の中は仕事にならない。全社員が息をつめて見守っている。 「どうぞ応接室へいらして下さい」  と伸子は言った。「お話をうかがいます」 「いいとも。たっぷり聞かせてやる」  伸子は受付の子へ、 「あなた、お茶をお願い」  と声をかけ、先に立って応接室へ向かった。今さら後には引けない。ここで誰かに助けを求めたりしたら、それこそ社長失格である。  応接室へ入り、 「どうぞおかけ下さい」  とソファをすすめ、自分も向かい合って座る。「——何か、不良品があったとか」  八田という男は、ソファに座り込むと、しばらく伸子を眺めて、それからニヤッと笑った。伸子は驚いた。ついさっきまでの、あの険悪な表情が消えて、いかにも人の好さそうな笑顔だったからだ。 「いやあ、これは確かにしっかりした娘さんだ」 「は?」 「前の社長なんぞ、わしのような者には会ってもくれませんでしたからな」 「はあ……」 「どうもびっくりさせてすまんです。わしは八田といいます。おたくの荒井係長——いや、今度は部長か——奴とは古い付き合いでしてな」 「お友達ですって?」 「悪友といいますか。荒井に頼まれたんですよ。それと、おたくの秘書の——何とかいう美人」 「竹野純子さんですか」 「そうそう。旧友と美人に頼まれちゃ、いやとは言えねえ。——で、まあこうして怒鳴り込んで来たってわけで」 「じゃ……これは……」 「よくある、狂言ってやつですな」  八田は言った。「あんたは何しろ若い。社員だって、何となく頼りないと思っとるだろう。そこで、こういうごつい《・・・》のが怒鳴り込んで来たのを、あんたが巧く言いくるめてやったとなれば、みんなあんたを見直しますよ。なかなかやるじゃないか、とね。みんなの見る目が変わって来る。それが狙いでしてね」  伸子は何と言っていいか分からなかった。荒井の——というより、きっと純子のアイデアだろうが、その守り立ててくれる気持ちが、嬉しかった。胸が熱くなって来る。 「本当に……ありがとうございます」  と伸子は頭を下げた。 「いやいや。お安いご用で。——どうです、わしの演技は?」 「お上手でしたわ、本当に」 「これでも昔は劇団にいたことがありましてね。役といえば、木とか岩ばかりだったが」——お茶を持って、恐る恐る入って来た受付の子が、談笑している二人を目をパチクリさせて、眺めていた。  電話が切れても、尾島久子はしばらくポカンとして、受話器を持ったまま突っ立っていた。  夫が社長でない? そんな—— 「馬鹿らしい! きっといたずらだわ!」  そうに決まっている。社長がいきなり総務の平社員に格下げなどということがあるわけはない。 「そうだわ、北岡さんの奥さんに」  一笑に付されるとは思ったが、専務の妻になら、訊いてみてもいいだろう。  あわててダイヤルを回して、かけ間違えること二回。やはり、かなりアガっているようである。 「——あ、北岡さんの奥様? 私、尾島の家内ですけど」 「あ、奥様——」  一呼吸を置いて、 「お訊きしたいことがありまして——」  と、二人が同時に言った。 「それじゃ、北岡さんの所へも?」 「ええ、たった今、電話が。主人がまだ出社していない、というんですの。そして……本当に馬鹿げてるんですけど」 「社長が代わったというんじゃありません?」 「ええ! じゃ、社長さんの奥様へもあの電話が?」 「そうなんですのよ」  と久子は極力せせら笑うような調子で言った。「桑田って社長が就任して、主人は平社員になったって言うんですもの」 「こっちもですわ」  北岡の妻、文恵が言った。「主人は専務から、配送の方へ配転になったって……。いくら何でもねえ、配送ですよ。主人のような知性人が、そんな肉体労働などできっこありませんわ」 「本当にいやないたずらね。嘘と分かっていても腹が立つわ」  嘘と分かっているなら、何も電話などかける必要もないのである。 「やっぱり嘘なんでしょうね」 「決まってるじゃありませんか」 「そうですわね。奥様の声を聞いてホッとしました」 「私もですわ。それじゃ——」  と電話を切ったが……。  考えてみれば、これでは何一つ分かってはいないのである。同じ電話が北岡の所へもかかったというだけだ。  久子は却《かえ》って心配になって来た。——まさかとは思うが、今朝、夫がいやに早く起きたこと、ハイヤーを呼ばなかったことを思い出すと、不安が増して来る。  久子はしばらく迷っていたが、 「念のためだわ」と自分に言いわけしながら、受話器を取った。しかし、どこへかけよう? 社へ電話して、 「すみません、主人はまだ社長でしょうか」  と訊くのも妙な話である。 「——そうだわ」  思いついて、メモ帳を持って来ると、久子は富菱銀行へ電話をした。大畑に事情を訊いてみようと思ったのだ。 「大畑はただ今海外出張いたしておりますが」  と男性の声が答えた。 「さようでございますか。あの、私、尾島一郎の家内でございますが……」 「ああ、尾島産業の」 「はい。この度は色々と主人がお世話になりまして」 「いや、どうも、とんでもないことになりましたねえ」 「はあ?」 「うちの親分——いえ、大畑のことですが、どうも時々変わったことをやるんですよ。しかし今度のは桁外《けたはず》れですね」 「さ、さようですか」 「ご主人はさぞ気落ちしておられるでしょうねえ。社長から一挙に平社員とは」  久子の顔から血の気がひいた。 「——もしもし。どうかなさいましたか?」 「い、いえ……」 「まあ、大畑が戻りましたら、何か手をお打ちになった方がいいですな。何とか課長ぐらいには戻れるかもしれませんよ」 「どうも……」 「ご主人、大丈夫ですか? 自殺なんかなされないでしょうね?」  相手は同情というより、むしろ冷やかしているような調子であった。  注文が来て、事務処理が進む。——新生第一日の尾島産業株式会社も、お昼休みが近付く頃には、何となくガタピシしながらも、順調に作動し始めていた。  色々とトラブルはあった。  昨日まで課長だった浜井が、コピーを取ってくれと言われて、ふてくされたり、老齢の新課長の一人が、過度の緊張から心臓が苦しくなったりした。  しかし、会社というものは一つの生き物である。少々故障はあっても、生きて行くことはできる。  渋っていた浜井元課長も、その内渋々コピー室へ行ったが、コピーの機械の使い方が分からず、女子社員に教えてもらうはめになった。 「暑いな、この部屋は」  とコピーしながら文句を言うと、 「あら、前の課長さん《・・・・・・》が、ケチッて換気装置をつけなかったんですよ」  とやり込められた。 「暑い!——ここはクーラーを入れるべきだ! おい、社長に直訴しよう!」  と、浜井も、十分後には冗談の一つも言うようになった。  昼休みのチャイムが鳴ると、みんな一様にホッとした表情になった。やれやれ、これで半日は無事に過ぎたか、というわけである。  いつも通り純子を誘って近くのソバ屋へと出かけようとした桑田伸子は、 「やあ社長」  と浜井に声をかけられた。 「どうも……」  伸子としてもバツが悪い。何しろ昨日までの直接の上司である。 「いや、今日はコピーを取らされましてね」  と浜井は何やら楽しげに言った。「なかなかあれで大変なもんですな」 「そうですか」 「コピー室で女の子たちがむだ話ばかりしてると怒っていましたが、ああいう所で、社の雰《ふん》囲気《いき》が実によく分かりますねえ」 「はあ」 「いや、実に勉強になります」  どうなってるの? 伸子は首をひねった。  午後の仕事が始まって、十分後に、〈地震〉が襲って来た。——いや、本物の地震ではないが、ともかく地響きでもたてそうな勢いで、尾島久子が乗り込んで来たのである。 「ちょっと! 桑田を呼びなさい!」  と受付で、コロラチュラソプラノに近いキンキン声を張り上げた。 「あの——」  と受付嬢が目を丸くする。「どちらさまで?」 「私は社長夫人よ! 社長の妻の顔も知らないの! よく覚えときなさい!」  とドンとカウンターを握りこぶしで叩く。 「桑田社長はただいま会議中でございますが……」 「何ですって? 桑田ってのが何様だか知らないけどね、呼んどいで! 私がひねり殺してやる!」  久子は正にたけり狂っていた。  久子はてっきり桑田というのが、大畑の回し者で、夫を追い出し、この会社を乗っ取ったと思っていたのだ。 「あの、恐れ入りますが、お静かに」 「へん! 何だっていうのよ! ここは主人の会社よ! 妻の私が何をしようと人にとやかく言われる筋合はないね!」  久子はそう言うなり、カウンターにのっていた花びんをつかんで床へ叩きつけた。当然粉粉になって水が床に広がる。 「あ、何をなさるんです!」  と止めようとして久子の腕をぐいと引っ張った拍子に、久子が水たまりへ足を踏み入れた。リノリウムの床に水がこぼれると、正にスケートリンクの如く、よく滑るのである。  アッという間《ま》もなく、久子は水たまりに尻もちをついてしまった。いや冷たいの何の……。  これで冷えるかと思えばさにあらずで、久子は、ウォーッと猛獣の如き唸《うな》りを上げて、そこいら中の物を放り投げたり、引っくり返したりし始めた。 「キャーッ!」  と女子社員の悲鳴が上がる。男性陣が駆け寄って止めようとしても、足付きの灰皿をバットの如くに振り回して、 「自分の物を壊すのに、何が悪いのさ!」  と喚《わめ》き続けるので、誰も近寄れない。  さすがに、この騒ぎが会議室まで届いた。 「純子さん、ちょっと見て来てくれる?」  と伸子が言った。 「はい」  と立って出て行った純子が、三秒としない内に飛び込んで来て、「伸子さん、逃げて!」  と叫んだ。 「どうしたの? 強盗?」  と伸子が目を丸くした。事情を聞くと、 「私が行くわ」  と立ち上がる。 「だめよ! 叩き殺されるわ。何しろ向こうは正気じゃないんだから」 「でも、分かるわ」  と伸子は言った。「私だって……同じ立場になったら、発狂するかもしれない」  そう静かに言って、受付へ向かった。  久子が、髪振り乱し、ハアハア息を切らしているが、誰も近寄る者とてない。  伸子はツカツカと進み出ると、 「尾島さんの奥様でいらっしゃいますね」  と言った。久子はちょっと面食らって、 「あんた誰よ?」 「今度社長になりました桑田伸子と申します」  久子がアングリと口を開けた。——驚きのあまり声が出ない。いや、怒るのを忘れてしまったのだ。 「どうぞ、応接室の方へ」  と伸子は微笑《ほほえ》んで、「色々お話も伺おうと思っておりましたの。どうぞ」  久子は自分でもわけの分からない内に、 「はあ……」  と肯《うなず》いて、応接室の方へと歩き出した。 「——大した度胸だなあ!」  と男の社員が首を振りながら言った。  応接室の方へ行きかけた伸子が、ふと思い出して、 「純子さん」 「はい」 「悪いけど、さっきの郵便を出して来てくれない? いえ、できれば先方へ届けてほしいわ」 「分かりました。行きます」 「よろしくね」  純子は感心するやら呆《あき》れるやら。——もしかして、伸子はどこかの大社長の隠し子じゃないのかしら、と思った。  その男は、純子が会社を出た時から、後を尾《つ》けて来ていた。  純子もまた、尾けられているのは百も承知であった。一体何者だろう?  ショーウインドウのガラスに映ったのをチラリと眺めると、四十男で、いささか目つきはよろしくない。しかし、純子の経験上からいって、痴漢というタイプにも見えなかった。  探偵か、それとも興信所かな? 今のところ見合いの話もないのだが。 「いっちょう、やっつけるか」  と呟《つぶや》いて、道の角をヒョイと曲がると、猛然とダッシュ。喫茶店の入り口に、ちょっと凹《くぼ》んだ所があって、そこへ素早く身を隠す。  待つほどもなく、例の男が、ハアハアと息せき切って走って来た。キョロキョロとまるでゼンマイ仕掛けみたいに忙しく周囲を見回している。  そのあたふたした様子から、どうもこれは並の用ではないな、と純子は思った。何かいわくありげな……。 「ちょっと」  と純子は男の肩をポンと叩いた。男がギョッとして振り向く。 「何の用で私をつけ回すのよ」  ぐっとにらんでやると、男は頭をかいて、 「すみません。ちょっと用があって——」 「ゆっくり伺いましょう」  と純子は喫茶店の扉を押しながら言った。「ただし、お茶代はそっちで払うのよ」  ——話を聞いた純子は仰天して、 「け、け、け、刑事さん?」  と訊《き》き返した。 「はあ」  と男は頭をかいて、「何しろ、尾行が下手なもので、いつも叱られとるんです」 「失礼ですが——」 「あ、警察手帳はこれです」  本物らしい。純子は、注文したクリームソーダが目の前へ置かれたのにも気付かずに訊いた。 「あの、私、何かやりましたかしら?」 「いや、そうじゃありません」 「それじゃ——」 「実はですね、あなたと、それから——」  と言いかけて、詰まり、「失礼。ちょっと忘れました」  と手帳を取り出す。何とも頼りない刑事である。 「あの……何でしょうか?」 「はあ。——そうだ、あなたと桑田伸子さん。こういう方がいらっしゃいますか?」 「社長ですが」 「そうですか。女社長とは珍しい。いや、なかなかいいものらしいですな女の上司というのも。男だってジメジメして底意地の悪いのはいますからね。何も女の専売特許じゃない。うちの課長にしてからがですね——」 「あの、話の方を」 「あ、すみません」  と刑事は頭をかいた。「すぐ脱線する癖がありましてね。子供の頃も、電車ごっこをやると、たいてい私一人が線路からはみ出して——。いや、失礼」  刑事は咳払《せきばら》いして、言った。 「お二人が命を狙われているという通報があったのです」  午後四時を過ぎると、さすがに伸子も疲れて来た。  何をしたのか、自分でもよく分からない。ともかく、会議、説明、会議、説明……。  何しろ右も左も分からないといってもいいのだから、何から何までが勉強である。  読んだ書類だけで何百ページになるだろう? いくら基本は単純といったって、これでなかなか楽じゃないのだ。  ノックの音がして、三枝が顔を出した。 「失礼していいですか」 「ええ、どうぞ。頭がおかしくなりそうでしたの。何が何だか分からなくって。とっても私には無理ですわ」  三枝は笑って、 「初日から完璧《かんぺき》にやろうといっても無理ですよ。——いや、私は外を回っていたので見られなかったが、大活躍だったそうじゃありませんか」 「そんなこと……」 「いや、みんな感心していましたよ。尾島夫人が来たんですって?」 「ええ。お気の毒でしたわ。散々荒れて、その後は急にしょんぼりなさってしまって……。私が同じ立場だったら、やっぱり殴り込んだかもしれません」 「しかし、尾島さんは来ていないんでしょう? 北岡も来ていない。柳は……表面はにこやかだが、内心は——」  三枝は言葉を切って、「いや、失礼しました。これは告げ口になる」 「今はみんなで力を合わせないと」 「よく分かっています」  伸子は、ちょっと間を置いてから言った。 「三枝さん、どこかお得意先も回ったんですか?」 「ええ、三軒ばかりね。久しぶりで、つい長居してしまいましたよ」 「何か言っていました? その——」 「ここの騒ぎはまだ知りませんでしたよ。まあ倒産したって新聞に載るほどの大企業じゃありませんしね」 「びっくりしてました?」 「そりゃね。でも、女社長ってのも面白いじゃないか、と笑っていましたよ」 「でも……向こうにしてみればやはり不安でしょうね。明日は一日かけてお得意先に挨拶回りをしますわ。三枝さん、案内して下さる?」 「案内しろ、とおっしゃればいいんですよ、社長は」  と三枝は楽しげに言って、「私もそうしてはどうかと申し上げに来たんです」 「よろしくお願いします」  と伸子も微笑んだ。それから、ふっと、 「あら、困ったわ」 「何です?」 「名刺がないわ。そんなことまるで気が付かなかった」 「馴染《なじ》みの印刷屋へ言って今夜中に作らせましょう」 「そんなに早く?」 「任せて下さい」  三枝は肯いて、出て行った。——頼りになる人だ、と伸子は思った。  さて、と明日の予定表を眺めて、ボールペンで〈得意先回り〉と書き込もうとしたが、しばらく使っていなかったとみえて、さっぱりインクが出ない。 「新しいのを持って来よう」  と、そこはまだ人に言いつけるより、つい自分で動いてしまう。  オフィスの一角が、倉庫室になっている。もちろん、商品の倉庫は別にあって、ここには、事務用品、予備の机、古い書類、その他のガラクタが詰まっていた。  整理が悪いというのではないのだが、何しろスペースが狭く、置く物は多いというのでは、いかに巧《うま》く整理しても、床の上、通路も段ボールなどの山という状態になるのは必然だった。  螢光灯《けいこうとう》はついているのだが、棚の上に、更に箱が積み上げられているので、下はやけに薄暗くなってしまっている。 「ええと、確かあの辺にボールペンの箱が……」  荷物の間をすり抜けながら、伸子は奥へと進んで行った。  倉庫室のドアが、静かに開いて、誰かが入って来た。——伸子はせっせと棚の間をかき回していて、全く気付かなかった。 「——あ、これだ、これだ」  とボールペン百本入りのカートンを捜し当てて、蓋を外し、中から二、三本取り出した。  その人物は、棚を挾《はさ》んで、伸子のちょうど真後ろに来ていた。  伸子はカートンを元の場所に戻して、ついでに、乱雑になっていたその辺を少し片付け始めた。 「社長のやることじゃないわね」  と独り言を言って、自分で笑ってしまった。  棚の上に、書類の詰まった段ボールがのっている。それが、ジリッ、ジリッ、と伸子のいる側へと動き始めていた。 「さあ、こんなものかしら」  あまり社長室を空けてもおけない。戻りましょう、と体を起こして、パラパラという音に気付き、振り向いた。  埃《ほこり》が落ちて来ているのだ。伸子が上を見た。重い段ボールがぐっとせり出して、伸子の方へ真っ直《すぐ》に落ちて来た。  我ながら驚くような敏捷《びんしょう》さで、伸子は横へ身を投げ出した。ドシン、と床に震動が伝わるほどの勢いで、段ボールが落ちた。  唖《あ》然《ぜん》として、舞い上がる埃を見ていた伸子の耳に、足音が聞こえて、ドアが素早く開き、閉まった。  伸子は、やっと立ち上がると、埃でちょっとむせた。——誰かが、誰かがこれを落としたのだ!  もし、この段ボールをまともに頭に受けていたらどうなったろう? 死にはしないまでも、少々のけがではすまなかったに違いない。——伸子はゾッとした。  廊下へ出ると、受付の女子社員がやって来た。 「あ、社長、ここだったんですか。お電話が……。あら、その埃、どうしたんです?」 「いえ、何でもないの」  と伸子は埃を払って言った。 「林さんという方からですが」  林昌也らしい。 「社長室へ回して」  と言って、急いで社長室へ戻る。 「——あら、林君?」 「やあ、社長!」  と昌也はもったいぶった口調で、「ご機嫌美《うるわ》しゅう……」 「やめてよ」  と伸子は笑った。 「どうだい、そっちの調子?」 「無我夢中よ。まだクビにはなってないけどね」 「そいつはおめでとう」 「どうも。——何か用だったの?」 「ちょっとね」 「林君の〈ちょっと〉は怪しいのよね。何なの?」 「実はね、ちょっと会ってもらいたい人がいるんだ」 「誰?」 「大学の先輩でね、TV局に勤めてるんだよ」 「その人がどうしたの?」 「お見合いしたいって」 「林君!」 「冗談、冗談」 「もう……。ラーメンおごってあげないわよ!」 「ごめん、ごめん。実はね、伸子さんにインタビューしたいんだってさ」 「インタビュー?」 「うん、今日大学のクラブの集まりがあってね、その先輩と話してて、伸子さんのこと、ちょっとしゃべったんだ。そしたら、えらく面白がってさ」 「人をかつごうたってだめよ」  と伸子は笑った。「こんな小さな会社、TVなんかで取り上げられるわけないじゃないの」 「いくら会社は小さくたって、お茶くみの女性がいきなり社長になるっていうのは、そうざらにないからね」 「そうしょっ中あったら、日本経済の破滅だわ」  と伸子は言った。「本当なの、その話?」 「いやだなあ、信じないの?」 「そうじゃないけど……」 「明日、そっちへ行くっていうんだ。まだ打ち合わせだけどね」 「待ってよ! まだ、いいとも何とも言ってないじゃないの」 「悪いことないだろ。だって、TVに出れば会社のPRにもなるし」 「そりゃそうだけど……。何しろ私がいつまで社長でいるかも分からないのよ」 「だめだなあ、そんな気の弱いことじゃ。定年まで居座る気でなくちゃ」 「だって……」  伸子は言いかけたが、考えてみれば、確かに昌也の言う通り、これは絶好のPRになるかもしれない。何しろTVのCMなんか、とても流せる企業ではないのだ。  向こうがタダでそれをやってくれれば、願ってもないことだ。社員の方も、今の、どうにも重苦しい気分を一掃できるかもしれない。 「——分かったわ」  と伸子は言った。 「じゃOKだね?」 「ええ。でもね、一つ条件があるの」 「何だい? ヌードは撮らないと思うよ」 「馬鹿ね!」  伸子はつい吹き出した。「——つまり、私が一人で画面に出てるんじゃ困るの。少し会社のことを紹介してほしいわ。私が自分を売り込むように見られたら、逆効果になるもの」 「真面目だなあ、伸子さん。でも向こうにしてみれば、十九歳の女社長って所がニュースのポイントだからね」 「それを何とか頼んでみてよ」 「OK。他《ほか》ならぬ伸子社長のためだ。何とか頼み込むよ」 「じゃ、お願いね」  電話を切ろうとして、伸子は今の倉庫室での出来事を話そうかと思ったが、結局やめておいた。  ただの事故かもしれないのだし……。  そこへドアが開いて、 「ただいま帰りました」  と純子が入って来た。 「ご苦労様。疲れたでしょ」 「いいえ」  純子は小さな箱を開いて、「疲れをいやすには甘い物が一番」 「まあ、ケーキね!」 「一つずつ食べましょうよ。今、お茶を淹《い》れるわ」 「でも仕事中よ」  純子はウインクして、 「これが社長の特権よ。義務だけ背負ったら、やり切れないじゃない、ね?」 「そうね。じゃ、いただくわ」  と伸子も微笑んだ。  TVの話に、純子は大乗り気になった。 「いいじゃないの! それであなたのことが話題になれば、そう簡単にあなたを追い出せなくなるわ」 「そうかしら……」  伸子はケーキをパクつきながら言った。「私、思うんだけど……」 「え? 何を?」 「私、今まで、人に大体無視されて来たのよね。それは寂しい半面、気も楽だったわ。人気もない代わりに、そう嫌われることもなかった」  伸子は一つ息をついて、「でもね、今は違うわ。私を恨んでる人が何人もいるわ。私のせいじゃないけど、でもやっぱり、今、ここに私がいるのは事実だもの。やっぱり私を恨むでしょう」 「大丈夫よ、そんなこと」 「いいえ、やっぱり気になるわ。——人に恨まれる。嫌われるって、いやなものね。つくづくそう思うわ」 「気にしちゃだめよ」  伸子はちょっと間を置いて、 「さっきね、妙なことがあったのよ」  と、倉庫室での出来事を話した。 「それは——確かなの? 誰かがそれを落としたって……」 「分からないわ。でもね、足音を忍ばせて、さっと消えて行った時に、あ、これは私を狙ったんだな、って感じたの。理屈じゃない、直感でね」  純子は深刻な表情で考え込んだ。——あの刑事の話を、伸子にしゃべったものかどうか、心を決めかねていたのである。  しかし、現に伸子が社内で襲われかけたとなると……。  話した方がいいだろうか? だが伸子は、今社長業に専念すべく、必死で頑張っているのだ。余計な心配事で、その負担をふやしたくない。 「片付けるわ」  と純子は、ケーキの箱を手に、社長室を出ると、ふと思い付いて……。  純子に思いを寄せている山本将之は、純子に呼ばれて、飛ぶような勢いでやって来た。 「山本さん、ちょっとこっちへ来て」  と純子は山本を階段の方へ引っ張って行った。 「何ですか、純子さん」  山本は、純子と二人きりになれて、もう雲の上の散歩という心持ち。 「あなたにお願いがあるのよ」 「な、何でしょう? 何でも言って下さい!どんなことでもします! 料理、洗濯、掃除に育児——」 「そんなこと頼むわけないでしょ」  と純子は山本をにらんだ。「あなたね、今日限り、会社を辞めてほしいの」  山本の目が例えていえば十六インチから二十七インチブラウン管程度にまで広がった。 「そ、そんな……。それならいっそ、死ねと言って下さい!」 「やめてよ、新派じゃあるまいし」  と純子は苦笑した。「あなたはね、重要な秘密任務についてほしいの。だから表向き、辞めてほしいのよ」 「そうですか」  とホッとして、「007みたいですね」  大分、違う《・・》けどね、当人は。純子も、さすがに口に出してはそう言わなかった。 即製キャリア・ウーマン  伸子は、前日の疲れから、ぐっすり眠って、目覚めは爽やかだった。 「社長第二日だわ」  と鏡を見ながら、自分へ言い聞かせるように口に出した。  そう言えば、今日はTV局の人が来るのだ。あんまり妙な格好もできない。  といって、伸子とて貧乏暮らしである。あまり上等な服を持っていない。しかたなく、一番新しいワンピースを着て、普段より丁寧に髪を整えた。 「どうしたって大した顔じゃないものね」  と呟く。  何しろ服の好みも色合いも総《すべ》てが地味なので、えらく老け込んで見えるのである。 「さて、出かけようかな」  アパートを出て、歩き出してすぐ、伸子は誰かが後をつけて来るのに気付いた。  気のせいかしら?——何しろ出勤時である。誰が一緒の方向へ歩いていたって不思議ではない。  気にしないことにして歩き続けたが……。 「やっぱり尾行されてるんだわ」  伸子が足を早めれば足を早め、ゆるめればそれに合わせる。チラリと見た限りでは、サングラスにマスクをして、ソフト帽を目深にかぶっている。見るからに怪しげなのが、却《かえ》って妙な感じだ。  一体誰だろう?  伸子は首をかしげた。顔もよく分からないのだが、そのくせ、どことなく見覚えのある人間のような気がするのだ。  歩き方、身のこなし。そういったもので、かなり人は判断できるものである。  伸子も、昨日倉庫室で段ボールを落とされているので、あまりいい気持ちはしない。 「よし……」  暗い夜道ならともかく、ゾロゾロとサラリーマンが駅へ向かう時間だ。ここで相手と対決した方が安全である。こう人目があっては、向こうも手が出せまい。  伸子は手近な角をヒョイと曲がった。  足音が近付いて来て、待ち構えていた伸子の前に、男が現れた。 「ちょっと!」  伸子は精一杯の怖い目つきをして見せた。 「どうして私の後を尾《つ》けるんですか?」  相手はギョッとして、立ちすくんだ。伸子は手をのばして、サングラスをむしり取った。 「あ、それは……」 「山本さん!」  山本将之である。「何やってるんですか、一体?」 「——とまあ、こんなわけで」  山本は頭をかきながら言った。「純子さんの頼みとあれば……」 「そうだったんですか」  伸子は肯《うなず》いた。「それで昨日辞表を」 「ええ」 「心配していただいて嬉しいわ、本当に」  と伸子は言った。「でも、私は大丈夫。責任のある立場ですもの。多少の危険は覚悟していますわ」 「偉いですねえ、桑田さん——いえ、社長は」  と山本が感服の様子。「日本の政治家に見習わせたい」 「何を言ってるの」  と伸子は笑って、「ね、私のためを思うんだったら、会社を辞めないで、仕事を頑張ってやって下さいな」 「それはまあ……。でも純子さんに叱られるなあ」 「あら、山本さん、純子さんが好きなのね?」 「え、いや……それはその……」  と少女の如く赤くなって ( 最近は男性の方が赤くなるようだが ) もじもじしている。  伸子はつい吹き出してしまった。 「ごめんなさい。——いいわ、それじゃ、しばらくボディガードをお願いします」 「よかった!」  山本はホッと息をついて、「これで純子さんに面目が立ちます」 「私に捕まったことは内緒、ね?」 「お願いします、社長!」 「やめて下さいよ」  伸子は笑顔で言った。「でも、そのスタイルは、人を尾行するには最悪だと思うけど」 「おはようございます、社長」  エレベーターを降りると、三枝に出くわした。 「おはようございます。三枝さん、今日はお得意回りをよろしくね」 「かしこまりました」  と言ってから、声をひそめて、「尾島さんが出社して来ていますよ」 「まあ。——どうかしら様子は?」 「ともかくご覧になればいいですよ」  と三枝はニヤニヤしながら言った。  事務所へ入って行くと、今日は始業十分前なので、半分くらいの社員が来ている。 「おはようございます」  と方々で声があがる。 「おはよう」  と答えながら見回して——尾島が、一昨日までの自分の席に座っているのを見付けた。  ブスッとして腕組みしたまま座っているのだが、その額やら頬《ほ》っぺたに、白いバンソウコウが痛々しく鮮やかだった。  きっと奥さんに引っかかれたんだわ、と伸子は昨日の尾島夫人の剣幕を思い出して、同情しながらも、ついおかしくなった。  社長室へ入って行くと、純子が机を拭いている。机の上に真新しい花びんが置かれて、花が飾ってあった。 「まあ、すてき! 純子さんが飾って下さったの?」 「いいえ、社長」  と純子は微笑《ほほえ》んで、「社員有志からの贈り物ですわ」  伸子は花を見つめながら、ふと胸が熱くなって来た。  三枝が入って来た。 「お出かけになりますか?」 「あと十分ほど待って下さる? 今、資料をコピーしてもらってるので」 「分かりました。——名刺が出来て来ましたよ」  三枝がプラスチックのケースを置いて出て行った。伸子はふたを取って、中から、まだ印刷インクの匂う、真新しい名刺を一枚手に取ってみた。 〈尾島産業株式会社 社長 桑田伸子〉  気恥ずかしさの内に、何か厳粛なものが湧《わ》き上がって来るのを、伸子は感じた。  ドアがノックされた。 「どうぞ」  ドアが開いて、尾島が入って来た。 「まあ……。おはようございます」  伸子は軽く頭を下げた。尾島はニコリともせずに、手にしていたコピーを伸子の前に置くと、そのまま出て行ってしまう。  入れかわりに純子が入って来て、 「全く愛想がないわね」 「純子さん。尾島さんにコピーさせたの?」 「ええ、だってあそこの仕事ですものね」  と澄ましている。 「でも——気の毒よ。いくら何でも」 「社長も少し冷酷にならなきゃだめですわよ」 「それにしても——」 「いいから任せて。いいですね?」  伸子は仕方なく笑った。 「分かったわ。じゃ、出かけて来ます。TV局の人から電話があったら、午後二時以後に来ていただくように言って下さい」 「はい」  受付の方へ出て行くと、 「社長」  と受付の子が、「これが届きましたけど」  と、チョコレートの詰め合わせを指さした。 「まあ、誰から?」 「N商店様。——お得意の一つですわ」 「ご丁寧ね。みんなで食べてちょうだい」 「いいんですか?」  と言いながら、もう手は包みを開けていた。 「いいわ。太らないようにね」  笑いながら、伸子は三枝を促してエレベーターの方へと歩いて行った。 「まず大口の所から回りましょう」  と三枝が言った。「後の小口は暇をみて……」  突然、受付から、 「キャーッ!」  という悲鳴が耳を打った。 「どうしたの?」  一斉にみんなが駆け寄る。伸子も走り寄って、息を呑んだ。  チョコレートの箱の中は、ネズミの死骸が入っていたのだ。 「全く性質《たち》の悪いいたずらだ!」  と三枝が腹立たしげに言って、紙袋の中へ、ネズミごと箱を放り込んだ。 「みなさん、仕事に戻って下さい」  と伸子は穏やかな口調で言った。——純子は複雑な思いで、その様子を眺めていた。  いたずらか。本当に、ただのいたずらで終わればいいのだが……。あの刑事の言ったように、誰かが伸子の命を狙っているとしたら……。 「山本さん、ちゃんとやってるかしら?」  純子は心もとなげに呟《つぶや》いた。 「BTSテレビの渡部です」  いかにもそういう方面の人間らしい、派手な感じの男だった。 「どうも」  伸子は名刺を渡した。得意先で散々出して来たので大分手つきも慣れた。 「いや、お話を聞きましてね、こいつは面白い、と思ったんですよ」 「あの、林君からお聞きになりまして?」 「そちらのPRも入れてくれということですね。承知しました。何しろうちのワイドショーは視聴率十八パーセントですからね」  と渡部は胸を張った。 「はあ」 「決してそちらの損になるようにはしません。ご心配なく」  と渡部は言ってから、伸子を頭の天辺《てっぺん》から爪先《つまさき》までジロジロと見て、「うーん。ちょっと沈むなあ」  と言った。 「沈む?」 「色がね。TVカメラにとると、そういう地味な色は損ですよ」 「でも、私、あまり服は持っていないんですの」 「もう少しパアッと目立つ色でないと。企業イメージにもひびきますよ」 「そうでしょうか」 「ええ。——じゃ、こうしましょう。ビデオ撮りは明日。いや、これは生中継だな。女社長——十九歳の女社長が今執務中というのがいいですね。だから明日の昼前にうかがって準備します」 「はあ」 「今夜、ちょっと付き合って下さい」 「え?」 「うちでよく使うブティックへ行きましょう。あなたに合う服や靴、バッグなど、一揃《ひとそろ》い、選ばせます。それから美容院へ行ってパーマをかけて——」 「あ、あの……」 「ご心配なく、費用は局持ちです。では五時に車を回しますから」 「そ、そうですか」 「では他にも回る所があるので、これで」  渡部はさっさと帰ってしまった。  伸子はポカンとしていたが、やがて、 「今のはTVの映像だったんじゃないのかしら?」  と呟いた。全くせわしない世界だ。 「社長、印をいただけますか?」  と荒井が入って来た。 「はい。——荒井さん」 「何か?」 「北岡さんはどう?」 「渋々資料の整理なんかやっていますがね。尾島さんほどひどくないけど、時々腰を押えて呻《うめ》いてるところを見ると、たぶん一つ二つはけっとばされたんじゃないですか」 「そう……」  伸子は気が重かった。いくら伸子の意志でないとはいえ、尾島や北岡の家庭まで破壊してしまうのは……。  一人で考え込んでいると、純子が入って来た。 「社長、どうします?」 「え? 何を?」 「さっきのネズミ入りチョコレートのことですよ」 「ああ……。ただのいたずらじゃないの」 「それにしても、何だか気味が悪いでしょ?あれで終わればいいけど、もしかして社長に危害でも——」 「大丈夫よ」  と伸子は笑って、「放《ほ》っといたって、その内お払い箱かもしれないのに、誰もそんなこと——」 「でも用心に越したことはないわ」  と純子は真顔で言った。「警察へ知らせましょうか?」 「それはやめて!」  と伸子は強い口調で言った。 「でも——」 「今、みんなが疑心暗鬼になったら、会社はめちゃめちゃだわ。せっかく、少し落ち着きかけているんですもの」 「分かりました」  純子は肯いて、「段々社長らしくなって来たわね。付き合いにくくなったわ」  と笑ってウインクして見せた。 「からかわないで」  と伸子は少し頬を赤らめた。  電話が鳴った。——昌也だった。 「ああ、どうしたの?」 「TV局の人、行った?」 「ええ、さっきね」 「それでね、今度は雑誌社の人が会いたいって言ってるんだけど」  伸子は目を丸くした。 「ネズミが?」  と刑事が訊《き》き返して来た。 「そうなんです」  純子は、伸子が戻って来てはとドアの方を見ながら、受話器へ低い声で話しかけていた。 「そのネズミと箱はどうしました?」 「捨てましたけど」 「そうですか。いや、箱から指紋が採れるかもしれませんからね」 「はあ。でも、社長は社員の間に動揺を起こしたくないということですの。社員の指紋を採るなんて言ったら大騒ぎになるでしょう」 「なるほど、分かりました」  ——ところで紹介が遅れた。この刑事にもちゃんと名前はあって、谷口といった。 「どうしたらいいでしょう?」 「そうですねえ……」  谷口刑事は自信なげに、「まあ用心するしかないと思いますが……」 「そんな情けないことおっしゃって」  純子はムッとして、「それでも公僕ですか!」  と怒鳴った。とたんにドアが開いて、伸子が戻って来る。純子はあわててニコニコと笑いながら、 「さようでございますか。どうぞこれからもよろしくお願いいたします。ごめん下さいませ」  一方的にしゃべって電話を切った。電話の向こうの谷口の顔が目に浮かんだ。 「何の電話だったの?」  伸子が席につきながら訊いた。 「お客様からです。新社長の手腕に大いに期待してるって」  口から出まかせは純子の特技だ。 「まあ、本当?」 「似たようなこと」  とアッサリ言って、「TV、雑誌、と社長も話題になりますね」 「困っちゃうわ、本当に」 「あら、どうして?」 「だって、あなたのような美人ならいいんだけど、私なんてこの顔でこのスタイルよ。それに安アパートで一人暮らし。さっきの雑誌社の人なんか、アパートの写真を撮りたいなんて言い出すんですもの。あわてて断っちゃった」 「伸子さんだって美人よ。ただ、あんまり構わなすぎるんだわ。——あら、社長、すみません」 「いいのよ。そんな堅苦しいこと言わないで」  と伸子は笑った。 「社費でマンションでも借りたら?」 「とんでもない! この苦しいときに」 「あなたも少し、社長の立場を利用しなくっちゃ」 「社長としてやるべきことをやったら利用させていただくわ。何もしない内に利用だけじゃ失格よ」  純子はため息をついた。——日本中の社長がみんなこうだったら、日本は良くなってるだろうなあ。 「あなた、段々貫禄が付いて来たわよ」  純子の言葉に、伸子はちょっと頬を赤くした。 「太ったって意味じゃないわよね?」  ドアがノックされて、入って来たのは荒井だった。 「ちょっとお目にかけたいものが——」 「はい、何ですか?」 「実はこんなものが……」  ——説明を聞いて、伸子と純子は顔を見合わせた。 「それはつまり……」  と伸子が言いかけると、純子がかわって、 「この会社でマンションを持ってるってことなんですね?」 「さようです。全く初耳ですよ」 「誰が使ってるのかしら?」  と伸子は首をかしげた。「尾島さんの名じゃないわね」 「この名義はあてになりません。架空の名かもしれない。——どうもきな臭いですな」 「見当はつくわ」  と純子が肯く。伸子一人がキョトンとして、 「どういうこと?」 「いやねえ、しっかりして。尾島前社長のな《・》に《・》に決まってるわよ」 「——愛人を、会社のお金で買ったマンションに住まわせてるっていうの?」 「まず間違いありますまい」  と荒井が肯く。 「まさか!——いくら何でもそんなことを……」 「甘いわよ、社長。よくある話じゃないの」 「そうかしら。じゃどうすればいい?」 「おん出して売っ払っちゃいましょうよ」  とつい家での口調が出る。 「待ってよ。本当にそうかどうか、調べてからにしましょう」 「そう……」  社長の言葉とあっては仕方ない。 「尾島さんを呼んで訊いてみましょうか」  と伸子が言うと、 「だめだめ」  と純子が即座に言った。「白ばくれるに決まってるわ。何しろ面《つら》の皮が厚いんだから」 「じゃどうするの?」 「調べるのよ、こっそりと。場所が分かってるんだから」 「それなら、私が行って来ましょう」  と荒井が言った。 「まあ、お願いできる?」 「ええ、ちょうど帰りがけの方角ですしね。途中下車すれば」 「じゃ、お願いするわ」  と言ってから、伸子はちょっと考え込んで、 「この他《ほか》にも何かあるかもしれないわね。荒井さん、調べてみて下さい」 「はい、分かりました」 「でも、あまり他の社員の目につかないようにして下さいね。それからこのマンションのことも黙っていて下さい。みんなを刺激するのは避けたいから」 「かしこまりました」  ——荒井が出て行くと、純子が言った。 「いいことがあるわ」 「何?」 「そのマンションに住んだらいかが、社長?」  五時になって、伸子が机に座って資料を読んでいると、TV局の車が迎えに来ていると純子が知らせて来た。  そういえばブティックを回って何とか言ってたっけ……。  伸子がビルを出ると、昼間来たBTSテレビの渡部が、伸子を、待たせてあった車へ乗せ、走り去った。  純子がそれを見送ってから、さて帰るかと歩きかけると、 「すみません」  と声をかけて来る者があった。「林昌也といいます。社長さんは——」 「ああ、あなた林君? 伸子さんから聞いてます。私、秘書の竹野純子。伸子さん、今TV局の車で行っちゃったところよ」 「じゃ、今の車が? そうですか」  と昌也は肯いて、 「帰りにラーメンでも食べようかと思ったんだけどなあ」  と笑った。 「ラーメン、好きなの?」 「伸子さんだって大好物なんですよ。でも、社長の食べるものじゃないかな」  と昌也は笑った。なかなか真面目そうな、いい若者である。純子は、ふと思い付いて言った。 「ね、私が代わりにラーメン付き合いましょうか?」 「ええ?」  昌也が目を丸くした。  純子が、ラーメンを食べながら、伸子の命を誰かが狙っているかもしれないこと、倉庫室での事件、ネズミ入りのチョコレートの箱のことまで話して聞かせると、昌也はやや顔をこわばらせて、 「僕には何も言わないんだからな、全く!」  と言った。 「あなたも気を付けてあげてね」 「もちろんです! 片時も離れずに——」 「そこまでしなくたっていいけど」  と純子は笑った。まあ、ボディガードは多いほどいい。それに正直、山本はあまり頼りになるとも思えない。 「本当、たまにはラーメンもおいしいわね」  と口をハンカチで拭ってから、「——あなた、いくつ?」  と訊いた。 「十八です」 「十八……」  この子、きっと伸子さんを好きなんだわ、と純子は思った。片や大学生、片や女社長だが、年齢は一つしか違わないのだ。  地味にしてたって、ちゃんといい人には恋人がつく。——私は? 山本君かあ……。  勝手にあれこれ考えてふさいでいると、昌也が心配そうに、 「あの、消化不良ですか?」  と訊いて来た。 「このマンションだな」  荒井はメモを見て呟いた。「大したもんだ」  実際、十二階建て、どっしりとした造りの、かなり高級なマンションである。——経営が苦しいなどと言っておいて、こんな豪勢なマンションを……。  荒井は目指す十階の部屋へと上がって行った。——廊下も深々と絨毯《じゅうたん》が敷きつめてあって、ちょっと一流ホテルのムード。  荒井はともすれば気遅れしがちになるのを、自ら励ましつつ、一〇〇五号室の前に立った。表札は〈三好晃《あき》子《こ》〉となっている。チャイムを鳴らしたが、しばらく返事がなかった。  いないのかな……。半ばがっかりし、半ばホッとしながら帰りかけると、急にドアの内側でガタガタと音がして、 「来てくれたの! 心配してたのよ!」  女の声が先に飛び出して来てから、ドアが開いた。「——あら」  荒井は目を見張った。——想像の通り、若い女だった。小柄で、ちょっと太り気味だが、肉感的な、可愛い顔立ちの女だ。  しかし、予想外だったのは、彼女がたった今まで明らかにシャワーを浴びていて、髪は濡れているし、むきだしのすべすべした肩も、むっちり肉付きのいい足も、まだ湯のほてり《・・・》を止《とど》めていたことだった。肩と足の間の部分については、バスタオルで遮《さえぎ》られていたが、たぶんバスタオルが現在、彼女の唯一の衣服であるのは、疑いようもなかった。  やっと我に帰った荒井は、あわてて目をそらした。 「ごめんなさい、てっきりパパかと思ったの。あなたパパのお使い?」  と女の方は平気なもの。荒井は派手に咳払《せきばら》いをすると、 「部長の荒井という者です。実はあなたにお話があって——」 「部長さん? へえ! そう見えないわね。せいぜい係長ぐらいの感じ」  荒井は、一昨日までの地位を言い当てられて、内心ムッとするやらがっくりするやらだったが、 「ここで待っています。服を着終えたら入れて下さい」 「あら、いいのよ。どうぞ、入って」  と女は促して荒井を中に入れ、ドアを閉めた。「パパ、来られなくて、あなたを代わりによこしたの?」 「そうではありません。私は社長の代理として来たのです」 「だったらパパの代わりじゃない。変なこと言う人ね」  と女は笑いながら言った。「私、三好晃子っていうの。荒井さん? よろしくね。ちょっと服着て来るから待っててちょうだい」  と、晃子は浴室の方へ行った。ドアが閉まる直前、バスタオルがひらりと落ちて、一瞬裸身が覗《のぞ》いた。荒井はギョッと目をつぶった。——見てからつぶったって仕方ないのであるが。ソファに腰かけて、額を拭った。 「全く……何てことだ!」  と呟いたのは、このマンションのことなのか、あの三好晃子のことなのか、それとも胸が鼓動を速めている自分について言ったのか、荒井自身も、よく分からなかった。  マンションの内部も、外観にふさわしく豪華な造りになっていた。内装や家具も、さぞ高かったろうと思わせる物ばかりである。  社長ともなると、こんな所に女を囲っておくこともできるのか、と荒井はため息をついた。俺など、女房子供で手一杯なのに……。まあ、俺も部長にはなったが、せいぜい小鳥の一羽ぐらい飼うのがいいところだろう。 「——お待たせ」  タオル地のガウンをはおって、頭をターバンのようにタオルで巻いている。湯上がりの香《か》がほのかに漂って、何とも魅力的であった。 「お話ってなあに?」  晃子はソファに腰をおろすと、タバコをくわえて、卓上ライターで火をつけた。 「そ、その……実はですね……」  荒井が、何と切り出していいものやら考えて、口ごもっていると、晃子はちょっと眉を寄せて、 「そうか……。パパ、私と手を切りたいのね、そうでしょう?」  と言いだした。 「い、いや——」 「分かるわよ。急にあなたなんか寄こしてさ」  と晃子は言った。「で、ここを出て行けっていうのね?」  その点は確かである。 「それはその通り」 「やっぱりね」  晃子はため息をついた。「昨日の様子がおかしかったから、心配してたんだ。こんなことじゃないかと思ったわ。——で、いくらなの?」  荒井はキョトンとして、 「いくら……というと?」 「手切れ金よ。いくら出すの? それを預かって来たんでしょ?」 「いえ、そういうものは、別に……」 「出さないの? タダでここを出てけって言うの?」  晃子が険悪な表情になって立ち上がった。 「待って下さいよ!」  荒井は、今にもかみついてきそうな晃子の剣幕に驚いて、あわてて言った。 「待てないわよ! 私を散々オモチャにしといて、無一文でここから出てけですって? パパをここへ連れてらっしゃいよ! 引っかき傷で人相を変えてやるから!」  凄《すさ》まじいものは女の怒りである。それも金銭が絡むとただでは済まない。 「今説明します。——つまり、今、尾島さんは社長ではないのです」 「何ですって?」 「平社員に格下げになったのです」  晃子はしばしポカンとしていたが、やがてキッと目を吊《つ》り上げると、 「私を馬鹿だと思ってるの? そんな話で騙《だま》されるほどお人好しじゃないわ!」  と再び詰め寄る。 「ほ、本当です。社長はじめ幹部がごっそりと入れかわったんですよ」  荒井が必死になって、事態をかんで含めるように説明する。下手に引っかき傷でも作られたら、帰って女房に説明するのが大変だ。  荒井が必死の形相で、くり返し説明すると、晃子はやっと信じる気になったらしい。 「ふーん。じゃ、パパは平社員?」 「そうです。従ってこのマンションについては——」 「ちょっと待ってよ」  晃子はソファに腰をおろすと、「私はここに現実に住んでるのよ」 「それは分かってます」 「出て行って、どこで暮らせばいいの?」 「さあ、それは……」 「分からない、じゃ困るわよ。私にだって生きる権利はあるんですからね!」  とても社長の愛人の言葉とは思えない。 「そう言われても、私も社長の代理ですから」  と荒井は逃げた。 「じゃ、いいわ」  と晃子が言った。「〈引き継ぎ事項〉にしてちょうだい」 「——何です?」 「つまり、新しい社長さんが私を引き継いでくれりゃいいのよ。社の財産の一部としてね」 「そ、それは無理です!」 「どうして今度の社長さんは女が嫌いなの?」 「社長が女ですから」  今度は晃子が面食らった。 「へえ! 女社長?——レズじゃない?」 「さあ、そこまでは……」  荒井は、赤くなって口ごもった。こういうことをナマに口にすることに慣れていない世代なのである。 「女社長じゃね……」  と晃子は呟いた。そして荒井をじっと眺めていたが、 「あなたが部長さん?」 「そ、そうです」 「私のことを社長さんに報告するのね?」 「ええ、まあ……」 「いいわ、分かったわ」  と晃子は立ち上がった。 「分かってもらえればありがたい!」  と荒井はホッと息をついて、「まあ会社も苦しいときなので……」 「じゃ、社長さんにはありのまま《・・・・・》を報告してちょうだい」 「そうしましょう」 「それには私の値打ちを良く知らなくちゃね」 「値打ちというと?」 「だってそうでしょ。このマンションの代金も、私の生活費も会社のお金。いわば私も、会社の資産の一部ってことになるでしょ」 「そりゃまあ……」 「だったら、ちゃんと、どの程度の価値の物か知っておかなくちゃ」  そう言うと、晃子はガウンの帯を解き始めた。荒井は目を丸くして、 「な、何をするんです?」 「ありのままの私を知っといてもらわないとね」  ガウンがハラリと床に落ちて、荒井の目の前に若々しい、みごとな裸の肢体が立った。——興奮するよりも何よりも、荒井はただアングリと口を開け、唖《あ》然《ぜん》としているだけだった。 「ねえ……。私の価値は、寝てみないと分からないのよ」  と色っぽく流し目になって、晃子は荒井ににじり寄って来た。——なまじ真面目人間の荒井には、若い女に対する免疫ができていない。妻の智子が遠い昔にそうだったように、晃子の裸身は、光り輝いて見えた。 「ねえ……キスして」  と唇をさし出して来る。——それを見ていると、やっと荒井の中の〈男性〉が目覚めた。  この若い、グラマーな肉体を抱けるのか。そう思うと、少々の良心的抵抗は、北風に舞う枯れ葉の如く吹き飛ばされてしまう。  荒井は晃子を抱き寄せた。唇がねっちりと絡みついて来る。 「ねえ……。ベッドに行きましょうよ」  と晃子が囁《ささや》いた。 「う、うん……」  喉《のど》がこわばって声がかすれている。——俺は部長なんだ。社長の信頼を裏切って……。しかし、部長なら、女の一人ぐらいいてもおかしくないぞ、そうだとも! 「よし、行こう」  荒井は女の腰へ手を回して立ち上がった。  これが、私……?  伸子は、鏡の中の女性に、しばし見とれていた。  ついさっきまでの、灰色のクレヨンで描いたような女はどこかへ消えて、鮮やかな赤のスーツを着こなした、モダンなOLが、そこに立っている。  髪もパーマをかけて、ふっくらとした形に仕上がり、メイクの係が、決して濃くなりすぎないように化粧をしてくれた。 「こいつはいい!」  とTV局の渡部が首を振って、「みごとな変身ですよ、こりゃあ!」  と感嘆の声を上げた。 「何だか自分じゃないみたい」  と伸子は照れくさそうに言った。 「いや、今までのあなたがあなたでなかったんですよ」  とややこしいことを言って、「ともかく、これならTV映りも万全だ。明日が楽しみですな」  と満足げである。 「でも……この服や靴を、本当にもらってよろしいんですの?」 「構いませんとも。必要経費で落としますからね」 「じゃ、遠慮なく——」 「さあ、夕食にでも行きましょう。ディレクターも来るはずです」 「はあ」  何しろTV関係の人間は動きが早い。ここと思えばまたあちらで、その目まぐるしいこと。  何やら夢見心地のまま食事をして、何やら打ち合わせをして、タクシーへ乗せられ、アパートへ帰って来たのは、もう十一時近かった。  アパートへ入ろうとして、ふと人影に気付いた。 「まあ、林君じゃないの」  昌也は目の前の伸子をまじまじと見つめて、 「伸子さん?」  と目を見張った。「驚いたなあ!——まるで別人だよ」 「私、おかしい?」 「いいや。……とってもすてきだ」 「ありがとう。そう言われるとホッとするわ。こんな格好、合わないんじゃないかと思って、気が気じゃなかったのよ」  昌也はしばらくポカンとしていたが、やがて、ちょっと寂しそうに、言った。 「君も段々偉くなっちゃうなあ」 「やめてよ。私は私。ちっとも変わらないわよ」 「自分じゃ分からないんだ。でも、変わって来たよ」  昌也は微笑《ほほえ》んだ。「でも素敵になった」  伸子は昌也の腕を取って、 「ラーメンはどうしたの、今夜は?」  と訊いた。 「君の秘書と食べた」 「純子さんと?——まあ、どうして」 「色々聞いたよ。危ない目にあったそうじゃないか。どうして僕に黙ってるんだ?」 「林君は学生だもの。勉強の邪魔になっちゃ困るわ」 「そんな他人みたいなこと言って!」  と昌也は腹を立てて、言った。「そんなこと言うんだったら、僕は君にピッタリくっついて離れないからね」 「怒ったの? ごめんなさい。——でもね、本当にそんなに心配するほどのことじゃないのよ」 「殺されそうになってもかい?」 「オーバーねえ。何かの間違いかもしれないのよ」  と伸子は笑ってから、「ねえ、林君」 「何だい?」 「一杯やりに行きましょうか」 「一杯?」 「そう。紅茶を一杯」  伸子はそう言って、クスッと笑った。 「ただいま」  荒井は玄関へ入りながら言った。 「あら——」  智子が出て来る。「遅かったのね。どうしたのよ、一体?」 「そりゃあな、部長ともなると色々付き合いってものが……」 「少し飲んでいるわね。全くしょうがないわね」  と言いながら、智子もそう不機嫌なわけではない。  何しろ夫が部長になったので、少々のことでは腹を立てなくなっているのである。 「じゃお食事はいいのね?」 「うん、食べて来た」 「ちょっと電話してくれりゃいいじゃありませんの」 「お前、そんなこと言ったって、部下の目の前でだな、うちへ電話して『今夜は夕食はいらん』などと言ってるのを聞かれたら、ああ部長の所は恐妻家だなと思われるじゃないか」 「それはそうね」  荒井の巧みな言いわけに智子はコロッと騙された。荒井はホッとした。何しろ帰り道、何度も何度もリハーサルを重ねていたのだから。  智子にこんな嘘をつくのは初めてだった。しかし、本当のことを言うよりいいだろう。  むろん、気の弱い荒井にとっては初めての浮気である。多少、気はとがめた。だが、あまり実感がないのは、自分でもまだ半信半疑だからだった。  あの女、確かに凄《すご》かった。——智子と生物学上同一種類に分類されるのが不思議なくらい、違う生物《・・》に思えた。  しかし、荒井とて、そうそうのぼせ上がるほど馬鹿ではない。 「素敵だったわ!」  とウットリしたような声を出し、「パパなんかよりずっと凄い」  なんて言われても、それを真《ま》に受けはしなかった。要するにあの女は、あそこから追い出されたくないのだ。 「やれやれ……」  茶の間に座り込んで、荒井は息をついた。どうなっちまうんだろう? 明日、社長へ何と報告すればいいのか。  女と関係を持ってしまったのは事実である。それを白ばくれていられるほど、荒井は図々しくない。  とんだ弱味ができちまったなあ、と荒井は思った。いかん、とは思っても、またその内あの女の所へ行くかもしれない。いや、きっと行くに違いない……。  考え込んでいて、ついうっかりした。 「ご飯はいいのね?」  と智子が重ねて訊《き》いて来る。 「うん、もう食べた」 「お風呂へ入ったら?」 「いや、もう入った《・・・・・》」  ——気が付くのに、しばらくかかった。  ふと、顔を上げると、智子が、両手を腰に当てて、じっと荒井を見下ろしている。 「今、何て言ったの?」 「ん?——あ、つまり、その——」  とぼけるには、荒井は、あまりに正直であった。顔が青ざめ、あわてて目を伏せたのでは、白状したのと同じことだ。 「何だか石けんの匂いがしたから変だと思ったのよ。飲みに行ってお風呂へ入る人がある? どこで入ったのよ!」 「そ、それがつまり……」 「部長になったからって……。もう浮気して来たのね!」  とキッと目が吊り上がる。 「すまん! 悪かった!」  荒井はブルドーザーでひかれたカエルみたいに這《は》いつくばった。 「すっかり話してごらんなさい」  智子の言葉は穏やかだったが、言外に、嘘をつくとタダじゃおかない、というニュアンスを、たっぷりと漂わせていた。 「わ、分かったよ……」  荒井は、尾島がマンションを会社の金で買って、女を囲っていたのが分かったことから始めて、一部始終を白状した。  智子はじっと夫をにらみつけていたが、 「それだけなの、本当に?」  と訊いた。「何か買ってやったとか、買ってやる約束をしたとか——」 「いや、そんなことはしない! 本当だよ!」 「ふん。まあ信じてあげるわ」 「悪かった。つい……フラフラとなって」 「そんなにいい女だったの?」 「いや、今思えば別に……。お前の方がずっといいよ」 「無理しなくていいわよ」  智子は苦笑いした。 「許してくれるか?」 「まあ。昇進祝いに一度だけね。——今度やったら、腕の一本はへし折られると覚悟しておいてよ。分かった?」  荒井は、ゾッとして、言葉もなく肯《うなず》いた。 「どんなに有能な社長でも、人間一人の力は限られています」  と伸子は言った。「まして私のような、若い女性が社長になるというのは……社員の支えがなくては、とてもやって行けるものではありません」 「なるほど」  ニュースキャスターはマイクを手にカメラの前に立つと、 「——この企業、尾島産業は、危機に直面して、大きな賭《か》けに出ました。その結果はどうか? それはまだ何とも言えません。しかし、この会社の中に、とげとげしい空気や、無気力を見付けることはできません。明るい雰《ふん》囲《い》気《き》は、会社の行く手に全く不安などないかのようです。それは、若い女社長、桑田伸子さんの魅力のなせるところとみてよいでしょう——十九歳の女社長の健闘を祈りたいと思います。ではスタジオへマイクをお返しします」  ディレクターが、 「OK! バッチリだ、ご苦労さん」  と声をかけて来た。  伸子はふうっと息をついた。 「伸子さん! よかったわよ!」  と純子が駆け寄って来た。 「疲れちゃった。社長の方がまだ楽だわ」  伸子は社長室の椅子にぐったりと座り込んだ。TV局の男が、手早くカメラや器材を片付け、帰って行った。——何となく台風の後という感じ。 「みんなは?」  と伸子は訊いた。 「会議室のTVを見てたわ」 「笑ってなかった?」 「そんなことないわよ。自信持って。——とても堂々としてたわ」 「そうかしら……」  伸子は自信なげに言って、「社長の特権を使わせていただくわ」 「というと?」 「勤務時間中にお茶を一杯飲んで来るの。純子さんも来て」 「じゃ、社長秘書の特権を利用して、おともしますわ」  そう言って純子は笑った。  伸子と純子が社長室を出て、事務所の方へ姿を見せると、一斉に拍手が起こった。 「どうして……」  伸子は戸惑って立っていた。暖かい笑顔と、湧《わ》き上がるような拍手。  伸子は、やっとぎこちない微笑を浮かべた。不意に目頭が熱くなって、純子を促して、急いでエレベーターへ向かった。  下の喫茶室で、伸子はゆっくりとミルクティーを飲んだ。——やっと、体のかたさがほぐれて来るようだった。 「もう二度とごめんだわ」  と伸子が言った。「このヘアスタイルも服も……。今日、早速以前のものに変えるわ」 「いいじゃないの、もったいない!」  と純子はコーヒーを飲みながら、「とっても素敵よ」 「そう?——でも、私、自分のことはよく知ってるから……」 「あなた、とってもチャーミングよ。ただ自分でそうじゃないと思ってるだけなのよ」 「そうかしら」  と伸子は肩をすくめた。「でも、今はともかく……こんなお洒落《しゃれ》にうつつを抜かしているときじゃないわ」 「でも、会社の経営状態だって、思っていたほど悪くなかったって——」 「そこが心配なのよ」 「というと?」 「あんなTVに出て、尾島産業が危ないってPRしちゃったのよ。契約の取り消しが殺到するかもしれないわ」 「心配性ねえ。大丈夫よ」  そこへ、 「社長」  と声をかけて来たのは荒井である。 「あら、何でしょう?」 「実はちょっとお話が」  と、荒井は言いにくそうに言った。 「ええ、もちろん構いません。どうぞおかけになって。何か注文を——」 「はあ」  荒井はしばらく、言い出し辛《づら》そうに、もじもじしていたが、「実は例のマンションの件ですが……」  と切り出した。 「ああ。忘れていたわ。TVのことで頭が一杯で。どうでした?」 「ええ、確かに女が住んでいました」 「まあ図々しい!」  と純子が目を三角にする。 「三好晃子という女です」 「会ったんですの?」 「はあ、会ったには会ったんですが」 「何か?」 「つまり……その……つい、フラフラと……その、なに《・・》しまして……」  伸子は何が何だか分からず、 「はっきりおっしゃって下さいよ」  と言った。  荒井は額の汗を拭いながら、一部始終を告白した。 「まあ……。そんなことがあったんですか」 「申し訳ありません。私の不徳の致すところで」  と深々と頭を下げる。 「私に謝られても困りますわ。謝るのなら、奥様へどうぞ」 「女房には、ゆうべ、散々謝りました」 「そうですか」  つい伸子は笑い出してしまった。「でも、よく打ち明ける気になりましたね」 「女房に、私が言わなければ自分で社長へ電話すると脅されまして」  伸子と純子は一緒に吹き出してしまった。 「——でも、伸子さん、どうする? その女、図々しく居座る気よ、きっと」  荒井も肯いて、 「ありゃ、ブルドーザーでもなきゃ動かせませんね、きっと」 「でも、その人の身になってみれば、当然でしょう」  と伸子は言った。「お金の入るあてはなくなり、マンションは追い出され、では、困るでしょうからね」 「そんな手ぬるいこと言って!」  と純子が苛《いら》立《だ》たしげに、「そんな暮らしをしてたんですもの。自業自得よ」 「純子さんの言うことはもっともだけど……これは尾島さんとその人との個人的な問題という面もあるから、一概には言えないと思うの」 「ヒューマニストねえ、社長は」 「そうかもしれない。でも、色々と手はあるわ。たとえば、その三好晃子っていう人を、ここに雇うとか」  純子は目を丸くした。 「本気なの?」 「もし本人にその気があればだけど」 「怪しいと思いますな」 「そうね。でも、もう一度話し合ってみてから結論を出しましょうよ」 「わ、私はどうも」  と荒井は逃げ腰になって、「また行ったことがばれたら、今度こそ半殺しの目に遭わされます」 「私が行くわ!」  と純子が宣言した。 「そう? でも——穏やかにね」 「任しといて!」  と純子は胸を叩いて、荒井からマンションの場所を聞いた。  三人が事務所へ戻ると、販売課の若き新人課長が、興奮の面持ちで走って来た。 「社長! 凄い反響ですよ!」 「TVのこと?」 「ええ。新規契約の申し込みがジャンジャン来ています」 「本当?」 「みんな社長に惚《ほ》れ込んでるようですよ。ともかく、こんなこと初めてです。目が回りそうですよ」  伸子はホッと胸を撫《な》で下ろした。——そしてPRの効果って大したものだわ、と感心した。社長室へ戻っても、その日一日は仕事にならない。電話が、五分とおかずにかかって来るのだ。 「社長、雑誌からインタビューの申し込みです」  五分すると、 「社長、うちの嫁にぜひって」  さらに五分すると、 「社長、週刊誌で社長の一代記をのせたい、って……」  いや、大変な騒ぎである。もうTVはこりごりだわ、と伸子は呟《つぶや》いた。 「このマンションね」  純子はマンションを見上げて、「見てらっしゃい、追い出してやるからね」  と威勢よく建物へ入って行った。  十階でエレベーターを降りる。そのとき、階段の方で足音がした。振り向くと、降りて行く男の頭が、一瞬チラリと目に入った。  あれ、今のは……。  純子は、今のが尾島前社長だったような気がした。  えらく急いでいたようだが。  一〇〇五号室のチャイムを鳴らして、純子は返事を待った。——が、五分近く待っても、一向に出て来る気配はない。 「留守かしら?」  試しにドアのノブを回してみると、ドアがすっと内側へ開いた。——無用心な! 「今晩は」  と純子は声をかけた。「いないの?」  いないよ、と返事のあるはずもない。  しかし、部屋の明かりはつけっ放しだし、何やら居間も散らかっている。どこへ行ったのだろう?  そうか。もし、さっきの、チラリと見えたのが尾島だとしたら、彼女の方は寝室で眠り込んでいるのかもしれない。  そんな所を覗《のぞ》くのは趣味ではなかったが……。 「失礼……」  と奥のドアをそっと開けて——純子は仰天した。  女が、ベッドの上で、仰向けに横たわっている。ベッドで横たわるのは、まあ当たり前のことであるが、女は裸だった。そして、それだけならともかく——女は死んでいたのである。 「やあ、どうも」  と顔を見せたのは、谷口刑事であった。 「あ、谷口さん。来て下さってホッとしたわ」 「大変なことになりましたね」  と谷口は、室内を忙しく調べ回る、刑事たちや、科学捜査班の人間たちを見ながら言った。 「どうしたらいいのかしら?」 「まあ、あなたが犯人でなきゃ、そう心配することはありませんよ」  そう言ってから谷口は、「あなたじゃないんでしょ?」  と訊いた。純子はムッとして、 「当たり前でしょう!」  と谷口をにらみつけた。 「失礼。——しかし、どうしてここに居たんです?」  純子はここへ来るまでの事情について、谷口に説明した。 「——なるほど。じゃここはおたくの会社の持ち物なんですね?」 「ええ」 「その、階段から逃げて行った男は、確かにその——尾島という人でしたか?」 「はっきり断言はできません。チラッと見て、もしかしたら、と思った程度ですもの」 「まあ、手掛かりにはなるでしょう」 「あの……尾島産業の名は出るかしら?」 「さあ。そこまでは分かりませんね。何しろ私の担当でもないから」 「こんなことで名が出たら逆効果だわ」 「殺されたのが、おたくの社長さんでなくてよかった」 「本当に。——この事件と、あの社長を狙った犯人と、関係あるのかしら?」 「それは分かりません」 「強盗殺人とは考えられません?」 「分かりませんね」 「何も分からないのね」  純子は苛々として言った。「社長へ電話していい?」 「どうぞ」  と、やっと違う返事が出て来た。 「——まあ、殺された?」  伸子は唖然とした。 「ええ。でも心配しないで。ここは私が引き受けるから」 「でも——」 「いいから。社長は大きく構えていなさいよ」  と純子は冗談めかして言った。 「分かったわ。何かあったら電話して」 「了解。じゃあね」  純子は受話器を置いた。  伸子は社長業に必死なのだ。こういう雑用《・・》は秘書の仕事である。できるだけ伸子には迷惑がかからないようにしよう、と純子は決心した。 「第一発見者ですね?」  と刑事に訊かれて、 「そうです」 「そのときの状況を話して下さい」  純子が、さっき谷口へ話したことをくり返すと、刑事はやはり、階段の男へと目を向けたようだった。 「本当に尾島でしたか?」 「ですから、断言できないと申し上げているでしょ」  純子はふくれっつらで言った。 「そうですか。しかし、任意出頭を求めるぐらいはできますよ」  と刑事は満足の様子。どうもこのマンション、使えそうもないなと純子は思った。 「ああ、もったいない……」 犯罪の裏には……  桑田伸子が尾島産業の社長になって一週間が過ぎた。  伸子の社長ぶりも、板に付いたというところまではいかなかったが、一応、朝出勤して来て、つい元の席へと足が向いてしまうことだけはなくなっていた。  会社の中も、ギクシャクしながら何とか動いていた。——取引先にしてみれば誰がどうなろうと知ったことではない。毎日の仕事は個人の事情などにかかわりなく、どんどん積み上げられていくのだ……。 「尾島さんは今日もお休みですよ、社長」  と純子が言った。  伸子に社長としての意識を植えつけるために、社内では極力〈社長〉と呼ぶことにしていたのである。 「そう。——電話もなしに?」 「ええ、無断欠勤があまり続く場合は死亡したものとみなすと規則に書いてあります」 「まさか!」 「それは冗談ですけど——」  と純子はいたずらっぽく笑って、「でも、一応注意を促した方が」 「気が進まないわ」  と伸子は椅子の背にゆっくりともたれて、言った。「前社長ですもの」 「でも、そこは割り切らなきゃ」 「色々とショックが重なったでしょ。社長から平《ひら》へ格下げになり、今度は愛人が殺されて警察に呼ばれて……」 「参考人っていうだけです」 「でも一般の人にとっては同じことよ。疑いの目で見られるわ。尾島さんも近所から白い目で見られるんじゃないかしら。その内に無理心中とか——」 「尾島さんが死ぬもんですか。図々しいもの」  と純子があっさりと言った。 「殺人事件の方はどうなってるのかしら?」 「一応調べちゃいるみたい」  と純子は気楽に、「今はそう忙しくないから、って」 「暇でないと捜査しないの?」  と伸子が素直にびっくりしている。 「いえ、これは谷口って刑事が言ったの」 「ああ、私の件を調べて下さってる人ね。面白そうね、あの人」 「間が抜けててね」 「ひどいわ」  と伸子は笑った。「よくあなたの所へ電話がかかるみたい」 「ラブ・コールなの」  と純子が声をひそめた。 「まあ、本当?」 「一方通行のね」  と言って、純子はウインクした。「ともかく、三好晃子が殺された事件の捜査は、ほとんど進展していないようですよ」 「あなたが、階段を降りて行く男をチラリと見たっていうけど、確かに尾島さんだったの?」 「そこが何ともね……」  純子は首をひねった。「本当に一瞬見ただけだから、それをどうして尾島だと思ったのかもよく分からないの。でも、きっと知ってる人ではあったと思うわ。何となく見覚えがあって、あのマンションが尾島さんの愛人のだと知っていたから、とっさに尾島さんだと考えたんだと思うわ」 「何だかややこしいわね」  と伸子が苦笑いした。「でも、あの尾島さんが人殺しをするとは思えないわ」 「そんな度胸はないかもね」 「まあいいわ。——ともかく尾島さんのことは、もう少し様子を見ましょうよ」 「はい、社長」  とわざとかしこまって、純子は言った。「心優しいのね、本当に」 「そうじゃないわ。ただ……」  と伸子が言いかけたとき、純子の机の電話が鳴った。 「はい、社長室です。——あら、そう」  純子は伸子を見て、「谷口刑事が、何かお話があるそうよ」 「私に?」 「ええ。さては乗り換えたかな」 「何言ってるの」  と伸子は笑った。「どうぞお通しして」  ——谷口は社長室へ入って来ると、まずニヤニヤしながら純子に会釈した。純子はまるきり知らん顔で、 「お茶を淹《い》れて来ます」  と出て行く。  当たり障りのない挨拶の後、 「で、お話というのは何でしょう?」  と伸子は訊いた。 「はあ、実は……」  と言いかけて谷口はためらった。「これは秘密にしておいていただきたいんですが」 「秘密に?」 「そうです。いや、このこと自体は、間もなく公表されると思いますが、これを私が教えたということを秘密にしておいていただきたいのです」 「はあ」  とは言ったが、何の話やらさっぱり分からない。「一体何のことをおっしゃっておいでですの?」  そこへ、純子がお茶を運んで入って来る。 「本来、警察がこの種の情報を漏らすのは固く禁じられているのです」  と谷口は言った。「分かれば私のクビが飛びます」 「あら、谷口さん、クビになったんですの。お気の毒に」  と純子がお茶を出しながら、「このお茶に青酸カリでも入れましょうか、もし自殺なさりたければ」 「やめて下さいよ」  谷口があわてて身を引いた。 「はっきりおっしゃって下さい。私は秘密ぐらい守れる人間です」  と伸子が言った。純子も加わって、 「早く言わないと、叩き出すわよ!」  と凄《すご》んだ。 「分かりましたよ!……言います」  谷口は一つ息をついて、「実は、尾島一郎に逮捕状が出たんです」 「何ですって!」  伸子と純子が異口同音に叫んだ。 「殺人容疑です。たぶん今日の夕方には逮捕されるでしょう」 「あの三好晃子っていう女の人を殺した容疑ですね?」 「そうです」 「尾島さんが……自白したの?」  と純子が訊いた。 「いや本人は否定していますがね。こちらの純子さん——いや、竹野さん以外にも、尾島らしい男がマンションをこそこそと逃げるように出て行くのを見たという人が出て来ましてね」 「じゃ、やっぱり——」 「証拠は充分とは言えないんですが、ともかく逮捕状が出たわけでして」  伸子は深々と息をついた。 「お気の毒に……。奥さんがショックでしょうね」  純子は、谷口を見て、 「どうしてわざわざそれを教えに来て下さったの?」  と訊いた。 「それは、まあ……純子さんのことを考えて……」 「私のこと?」 「いや、つまりですね、今度の場合、容疑者が会社の金で愛人に買い与えていたマンションが現場になっているわけですからね、どうしたって、この会社の名が出ることは避けられません」 「まあ、そうだわ!」  と純子がハッとした。 「その場合に、当人が既に会社をやめさせられているとなれば、会社としては一切関知しないと言い張れるわけです。これが逮捕されてから、あわててクビにしたのでは、そうはいきません」 「なるほどね、分かったわ」  と純子は肯いた。「——それで、谷口さんわざわざ私たちへこっそり知らせに来てくれたのね?」 「ええ」  谷口は額の汗を拭いながら、「本来はこれは禁じられていることでして……」  とくり返した。 「ありがとう! 感謝するわ」  純子は精一杯、愛想のいい笑顔を作って見せた。「いい人ね、あなたって」  三十代も半ばを越した男が目に見えて赤くなった。  谷口が帰って行くと、純子は、 「じゃ、早速手続きを取りましょう」  と言った。何か考え込んでいる様子だった伸子は、 「え?」  と顔を上げた。「手続き? 何の?」 「決まってますわ、社長。尾島さんを解雇しなきゃ」 「待ってよ。そう簡単じゃないわ。規則を詳しく検討して——」 「そんな呑《のん》気《き》なこと言って!」  と純子はじれったそうに言った。「殺人容疑で逮捕されたんですもの、立派に解雇の理由になるわ。誰も文句なんか言いやしません」  伸子はまた考え込んでしまった。——まあ無理もないかもしれない、と純子は思った。社長になってやっと一週間である。社員を一人、それも前の社長をクビにするというのは、容易なことではないだろう。 「ねえ、社長。じゃ、ともかく幹部会議を招集しましょう。そこでの決定ということなら、気も楽でしょう?」 「それはだめ」  と伸子は首を振った。 「どうして?」 「谷口さんも言ったでしょう。これは絶対に秘密なんだ、って」 「ええ、そりゃまあ……」 「私一人の責任で決めます」  と伸子は立ち上がった。「——ちょっとお茶を飲んで来るわ」 「それはいいけど……。手遅れにならないようにね」 「分かってるわ」  と言って、伸子は社長室を出て行った。ほとんど入れ代わりに、三枝が入って来て、 「社長は用事? 何だかえらく難しい顔で出て行ったけど」 「一大決断を迫られてるんですよ」 「へえ。何事だい?」 「極秘」 「そうか。——しかし、管理職でなくなると、その点は実に気が楽になるよ」  と三枝は言った。「極秘、マル秘、社外秘、社内秘……。えらく沢山の〈秘〉があってね。なあに、中身は大したことないんだが」 「それがないと権威が保てないからじゃありません?」 「全くだ。——ああ、これを社長に。説明はいらないと思う」 「分かりました」  純子は書類を預かった。 「もう一つ社長に話があったんだが……。まあいい。後で来るよ」  三枝が出て行くと、純子の電話が鳴って、谷口の声が聞こえて来た。 「さっきはありがとう」  と純子は礼を言った。 「いえ、どういたしまして。それで、さっき言うのを忘れちゃったんですが、例のマンションはもう自由に処分して差し支えないそうです」 「まあ、それは助かるわ。管理費や何かだけでも毎月五万近く払ってるんですもの。わざわざどうも」  少しは谷口の好意にも報いなくてはいけないかな、と純子は思って、「一度お食事でもいかが?」  と付け加えた。電話口の向こうで谷口が何かをひっくり返したような音がした。 「ど、どうも……喜んで、その……」 「どうしたの?」 「いや、ちょっと受話器を取り落として……」 「大丈夫?」  ——愉快な人。明日の夕食を約束して、純子は受話器を戻した。もちろん本気で惚れたとか惚れないなどと考えられる相手ではないが、気の休まる、面白い人間には違いなかった。  十五分ほどして、伸子が戻って来た。 「三枝さんがこれを」  と純子が書類を渡す。伸子は黙って席につき、それを眺めていたが、やがて、言った。 「純子さん。尾島さんは解雇しないわ」 「伸子さん! いえ、社長、それは——」 「もう決めたの。ごめんなさい」  伸子の口調は穏やかだったが、動かしようのない気持ちが現れていた。純子は肩をすくめて、 「まあ、一日かそこらの違いだけど」  と呟いた。 「逮捕された後でも、解雇しないつもりよ」  伸子の言葉に純子は唖《あ》然《ぜん》とした。 「殺人犯を雇っておくの?」  つい〈社長〉と呼ぶのを忘れている。 「犯人と決まったわけじゃないわ。裁判で有罪と決まるまでは、無罪のはずよ」 「それにしたって……」 「裁判の間は、休職扱いにするつもり」 「じゃ、給料の何割かを払うの?」 「そう。だって……無罪かもしれない人に、会社を辞めろと言うのはおかしいと思うの。世間の人も、容疑者というだけでその人を犯人扱いするわ。たとえ無罪になっても……」 「あなたの気持ちは分かるけど——」 「会社は、社員その人だけじゃなく、その家族に対しても責任があると思うの。だから、裁判の間は、社員として扱いたいの」  純子はため息をついた。この人はキリストの隠し子じゃないのかしら? 「分かりました、社長」 「気を悪くした?」  と伸子が心配そうに訊《き》く。純子は笑って、 「世話の焼ける上役を持つと部下は苦労するってことはよく分かりました」 「実はちょっと困ったことでしてね……」  と三枝が言いにくそうに頭をかいた。 「何でしょう?」  伸子はメモを取ろうとするように、ボールペンを手にして訊いた。 「社長もご存知でしょう、〈KMチェーン〉というのを」 「ええ、スーパーマーケットでしょう? うちのお得意だわ」 「そうです。そこの社長の真《ま》鍋《なべ》っていう人とは、昔のセールス時代からの知り合いでしてね、ずっと世話になって来たんです」 「この間、ご挨拶に行ったときに留守で——」 「そうです。出張中だったんですよ」 「その真鍋さんが何か?」 「今日、午前中に用があってKMの本社へ行ったんですがね——」 「三枝じゃないか、久しぶりだな」  廊下で呼びとめられて三枝は振り向いた。真鍋の、一メートル八〇センチ、百キロ近い巨体が、視界を遮《さえぎ》るように立っていた。 「これはどうも」 「尾島産業はなかなか大変なようじゃないか。ちょっと寄れよ、構わんだろう」  そう言って、返事も聞かずにどんどん歩いて行ってしまう。いつも相手が自分の都合に合わせるのを当然と心得ている男なのだ。  仕方なく、三枝は真鍋の私室へ入った。前にも何度か来たことはあるが、オフィスの中に、自分が泊まるための部屋を持っている社長というのは、そうあるまい。  それも一流ホテル並みの、豪華な部屋で、特大のベッドがデンと居座っているのである。  もちろん真鍋は、超人的なスケジュールで日本中の支店を飛び回っているから、忙しいときに、ここで寝泊まりすることもあった。  しかし、実際には、この部屋が別の目的で使われることが多いのも、三枝は承知している。 「まあ一杯やろう」  真鍋はソファへかけて、三枝にウイスキーを注いだ。断って納得する相手ではない。仕方なく、少しずつ飲んだ。空《から》になればまた注がれる。 「部長から平《ひら》のセールスとは災難だったな」  と真鍋は一気にグラスをあけた。「どんな事情なんだ? 聞かせろよ」  三枝はかいつまんで社長や幹部が一新された経緯を話した。 「——ふむ。すると、あの小娘が好き勝手をやっとるんだな?」 「いや、それは違いますよ」  と三枝はあわてて言った。「社長はよくやっています。二日とせずに泣き出すか、放り出して逃げ出すんじゃないかと思っていたんですが、よく頑張りましたよ」 「ほう」 「今は事務所もいい雰《ふん》囲気《いき》です。確かに一部には、恨みに思っている者もあるでしょうがね、大体、新しい女社長をもり立てようと、よく働いています」 「お前はどうなんだ?」 「私もこうして久しぶりで外を回ってみると、現場が変わっているのがよく分かりましたよ。それに私はもともとこうして外を歩くのが合っているようです。体の調子も部長だった頃よりずっといいですし」 「変わり者だな、お前も」  と真鍋は愉快そうに言った。「部長から平へ落とされて平気なのか?」 「あまり出世には向いていない男なんですよ」  そこへドアにノックの音。——入って来たのは、すらりとした、スタイルのいい女子事務員だった。 「先ほどのコピーです」 「ああ、寄こせ」  真鍋はコピーを受け取ると、戻って行こうとした女の尻をポンと手で叩いて笑った。女が振り向いて、ちょっといたずらっぽく笑って出て行く。 「どうだ、今の女?」  と真鍋は訊いた。 「お好みですね」 「分かるか? そうだな、お前とは長い付き合いだ」  真鍋が女に手の早いというのは、別に長く付き合わなくても分かることだった。この私室とて、仕事や休息よりは、女との情事に使われていることが多いのである。 「お前のとこの女社長は、この前TVで見たぞ」  と真鍋は、グラスのウイスキーを光にかざすように見ながら言った。「あの女、いくつだと言った?」 「十九だと思います」 「十九か。——男はいるのか?」 「さあ……。そういうタイプではありませんが」 「面白そうだ。一度会いたいと言え」 「ご挨拶に伺ったのですが」 「ちょうど留守だったな。そのときのお詫《わ》びもしたい。夕食に招待する。そう伝えてくれ。いいな?」 「はあ」  三枝はちょっとためらった。「何分今は忙しいので……」 「忙しいのは得意先があるからこそだぜ」  真鍋はニヤリと笑った。「他《ほか》のどんな用を放《ほ》ったらかしても、招待に応じていいはずだ。違うか?」  三枝は少し間を置いてから、肯《うなず》いた。 「分かりました。そう伝えます」 「——どうします?」  と三枝は言った。 「どうって……断るわけにいかないでしょう」  と伸子は言った。「最大のお得意ですもの。お招きいただけば伺うわ」 「そこが心配なんです」  三枝は浮かぬ顔だ。 「何か問題でも?」 「真鍋って男は女好きで……。今も申し上げたように、会社の女性にも平気で次々と手を出します。私は長い付き合いなので、分かります。——社長を招待するのは下心あってのことですよ」 「下心?」 「社長はあの人の好みのタイプです」  一瞬ポカンとしていた伸子は笑い出した。 「——まさかそんな!」 「いや、笑いごとじゃありません」  事実、三枝の顔は真剣そのものだった。 「じゃ、私のことを——」 「たぶんどこかのベッドへ連れ込む気です」  伸子は呆《あき》れたように、 「めちゃくちゃね! でも、断れば大変なことになるでしょうし」 「それが向こうのつけめですよ」 「でも、大丈夫よ。私、ちゃんとしてるわ」 「ええ、それはよく分かっているんですが……」  と三枝は、なおも不安げであった。「私もそのときはおともします。ともかく私がそばにくっついているつもりですから」 「お願いします。ところでね、交際費の枠《わく》の件ですけど——」  伸子はもう真鍋の話はしなかった。  外出していた純子が戻って来たのは、もう夕方、四時半に近かった。——その頃には、午後三時に尾島が逮捕されたというニュースはすっかり広まっていた。 「始まったわね」  社長室へ入るなり、純子はそう言った。 「ええ。どう、事務所の方は?」 「今のところヒソヒソ話の段階ね」 「新聞や週刊誌から何本か電話がかかって来たわ。全部断ったけど。——みんなにも、マスコミの取材には応じないようにって伝えてくれる?」 「はい、社長」 「せっかく今のところ巧《うま》く行っているのに、この事件でまたおかしくならなきゃいいけど」 「大丈夫。乗り切れますよ。社長なら」 「おだてないで」  と伸子は笑った。 「そうそう、肝心のことを忘れてた」  純子は、バッグから三本束にして鍵《かぎ》を取り出した。「これ、マンションの鍵です」 「ご苦労様。——あれはどうしたらいいかしら?」 「売る他ないと思います」 「でも、買い手がいる? 人が殺された部屋なんて」 「黙ってりゃ分かりませんよ」 「そうねえ……」 「でも、急ぐと足元を見られて、買い叩かれる心配があるから、少し待った方がいいと思うわ」 「そうね。一月や二月……」  伸子は鍵束を引き出しにしまった。——そして、純子が社長室を出て行くと、引き出しを開いて、一本だけ鍵を抜いて、自分のバッグへ入れた。  純子が、〈マスコミの取材には一切応じないように〉という告示を、黒板に磁石で止めていると、 「竹野君」  と声がかかった。 「あら、三枝さん。何ですか?」 「ちょっと話があるんだけど」 「え?」 「あまり人に聞かれたくないんだ」 「誘惑しようったってだめですよ」  と言って、純子は笑った。「じゃ給湯室で伺いますわ」  三枝は、さっき伸子へ話した真鍋のことを純子へ話して聞かせた。 「——つまり、どう考えても、真鍋は社長を狙ってるとしか思えないんだ」 「そんな!——私が征伐してやるわ」 「おいおい、金太郎じゃないんだよ。私も気を付けるつもりではいるが、何しろ、真鍋ってのは、女に関してはよく頭の回る奴なんだ。もし、社長を巧くどこかへ連れ込んだらもう絶望だよ。何しろ大男だし、社長にしてもあの上得意を失ったらうちが潰《つぶ》れかねないことを知ってるしね」 「でも、そんなことまでして——」 「分かってるよ。だから、そうならない《・・・・》ようにするんだ。君も力を貸してくれないか」 「もちろん!」  純子は力強く言った。「で、どうしましょうか。散弾銃でも借りて来ます?」 「熊を撃ちに行くんじゃないよ」  純子はちょっと考え込んで、 「荒っぽくならないように……。それでいてその男をこらしめることができれば……」  と独り言を言っていたが、やがて、ふと何か思い付いた様子で、「私に任せて下さい!」  と言うなり、給湯室を飛び出して行った。——と思うとすぐにまた戻って来て、 「あの、それはいつですか?」  と訊いた。 「明後日の夜だよ」 「分かりました」  純子はまた飛び出して行った。  伸子は、マンションの建物を見上げた。 「私のボロアパートとはずいぶん違うわね」  と呟《つぶや》いて、ふっと笑う。  建物へ入って、エレベーターで十階へ上がる。——確か一〇〇五号室だった。  エレベーターから降りて、長い廊下を歩いて行く。どこから聞こえるのか、子供の泣き声、TVの歌、ピアノの音……。どの部屋からかは全く分からず、ただ、音たちは、細長い空間の中で、一緒になって踊り回っていた。  こういう響きを聞けるのは、マンションの中だけだろう。小さなアパートでも色んな音は耳に入って来るけれど、どの部屋から何の音が洩れ聞こえているのか、すぐに分かる。この、ポカンと空いた空間で、音だけが飛びはねている様は、何となく不気味でさえあった。  伸子はバッグから一〇〇五号室の鍵を取り出した。  ——部屋へ入って、明かりを点《つ》けた伸子は、しばしそこに立って、目の前の、豪華な部屋を眺め回していた。 「素敵ね!」  ここで人殺しがあったことなど忘れて、踊るような足取りで、リビングへ入って行く。  体が埋まってしまいそうなソファへ、ゆっくりと身を沈めると、大きく息を吐き出した。——疲れが、このクッションの柔らかさの中へと吸い取られて行くような気がした。  こんな部屋に住めたら、と伸子は思った。どんなに疲れて帰って来ても、どんなに不幸になって逃げて来ても、すぐに安らげる。——そう、私は社長なんだもの、と伸子は思った。これぐらいの所に住んだっていいんだわ。  ここに住もうか? どうせ会社の物なのだ。買い手が見つかるまでほんの少しでも? しかし、本当にここへ一旦住んでしまったら、もう二度と出て行けないような気がした。もう少し、もう少し、と引き延ばして……。  出て行くとすれば、それは自分が社長でなくなった日か、それとも三好晃子のように、死んだときだろう。  ——自分で思っているより、ずっと疲れていたに違いない。伸子はソファで、いつしか眠りに落ちていた。  そして……どれくらいたったのか、伸子は目を覚ました。 「ああ……眠っちゃったんだわ」  伸子はそう呟いて、思い切り伸びをした。腕時計を見ると、一時間ぐらい眠っていたことになる。  眠りが中途半端なのか、頭が重い。伸子は立って行って、ベランダへ出るガラス戸を開けた。下の物音が、湧《わ》き上がる雲のように舞い上がって来る。  ベランダへ出て、伸子は大きく深呼吸した。頭の中のもやもやしたものが消えて行く、実感があった。 「さあ、帰ろうかしら……」  とベランダから戻りかけたとき、突然、明かりが消えた。伸子は一瞬ポカンとして立ち尽くした。  ここが三好晃子の殺されたマンションだということを、伸子はやっと思い出した。今の今まで、マンションの豪華さに、自分のボロアパートと引きくらべてため息ばかりついていたので、人殺しのことなど、とんと忘れていたのだ。  だが、こうして突然部屋の明かりが消えた——ということは、誰かが部屋にいるということである。  誰だろう? 伸子は一瞬身震いした。犯人は現場に戻るというけれど……。まさか! 今頃になって。しかし、いずれにしても、まともな目的でここへ入ったのなら、明かりを消すことはないはずだ。  びくびくしていても始まらない。伸子は覚悟を決めて、開けたままのガラス戸の所まで戻った。 「——誰かいるの?」  我ながらびっくりするほどしっかりした声が出た。 「誰なの?」  部屋の中に、人の動く気配がある。ヒタヒタとカーペットを踏む足音。わずかに濃淡の出た暗闇の奥で、すっと何かが動いて——玄関の方が一瞬明るくなった、と思うと、靴音がカタカタと廊下へ駆け出して行った。  逃げて行った。伸子は大きく息をついた。むろん追いかけるほどの気力はない。それは自分の手に余ることだ。  そろそろと手探りで中へ入り、明かりを点けてホッとした。もう誰もいないと思っても、真っ暗なのは、人間を怯《おび》えさせるものである。  今逃げて行った男——女かもしれないが——は、たぶん伸子がついウトウトとソファで眠り込んでいる間に入って来たのだろう。そして、伸子が目を覚ましかけたので、あわててバスルームかどこかへ隠れ、様子を伺っていた。そして伸子がベランダへ出ているのを見て、そっと忍び出て、明かりを消した……。  それにしても、一体誰が、何のためにやって来たのだろう? 警察の捜査も済んだ今になって。——ただの泥棒か? しかし、泥棒が、人のいる所へ入って来るというのも妙なものだ。  あれこれ考えていたが、ともかく、いつまでもここにいるわけにはいかない。さて帰ろうかとソファから立ち上がり、今度は自分で明かりを消して玄関を出ようとドアを開け、 「キャッ!」  と思わず声を上げる。 「し、失礼しました」  相手の方がびっくりしたようだ。「谷口といいます。あの——警察の者です」 「それじゃ、あなたが純子さんに……」 「そうです。あなたが狙われているとお話ししました。正確には純子さんも含めてお二人ですが」  谷口は肯きながら言った。 「純子さん、色々気を遣ってくれています。私に余計な心配をかけないように、と。——でも、教えて下さい。一体どこからそんな情報が?」  二人は、三好晃子が殺されたマンションを出て、近くの喫茶店に入っていた。 「純子さんからは——いや、竹野さんからは何もあなたに言うなと釘《くぎ》をさされてるんですが……」  谷口が言い渋っている。 「純子さんには、あなたから伺ったとは言いませんから、話して下さいな」 「そうですねえ……。しかし、お話しするといっても、要するに匿名の手紙なんですよ」 「匿名の手紙?」 「ええ。ただ、尾島産業株式会社の桑田伸子、竹野純子の二人が命を狙われているという内容の手紙なんですよ。差出人の名はなくて、字は定規を使って書いてありました。筆跡が分からないように、というわけですな」 「私と純子さんが……」 「私はこう見えても、あまり有能な方ではないので、ちょうど担当させられていた事件をおろされまして——」 「まあ」 「で、ちょうどこれくらいがお前にちょうど良かろうと、手紙の内容が事実かどうか探って来いと言われたわけです」  この人、本気なのか、ふざけているのかよく分からないけど、面白い人だわ、と伸子は吹き出したくなるのをこらえて思った。 「純子さんのお話では——いや竹野さんのお話では、会社の中で一度狙われたとか」 「ええ。はっきりそうとは言えないんですけれど……。今度の殺人事件も、それと何か関係があるんでしょうか?」 「さあ、犯人に訊いてみないことには」  と真面目くさった顔で言う。 「尾島さんは、そりゃ色々と悪どいこともしていたと思いますけど、人殺しのできる人ではないと私は思っています」 「あなたはいい方ですねえ」  谷口は感じ入ったように伸子を見つめた。 「純子さんが惚《ほ》れ込むのも分かる」  伸子は微笑《ほほえ》んで、 「〈竹野さん〉って訂正しなくていいんですの?」  と訊いてやった。谷口がどぎまぎして赤くなる。——中年男にしては純情タイプらしい。 「ちょっと伺いたいんですけど」  と伸子は言った。「その匿名の手紙には、私と純子さんの名前《・・》が書いてあったんですか? 尾島産業の社長、とかいう書き方でなくて?」 「名前です。お二人とも。——後で純子さんに伺うと、その手紙が警察の方へ届いたのは、まだあなたが社長に就任される前なんですよ」 「すると……私と純子さんが狙われているのは、今度の新人事の一件とは関係ないということですのね」 「いや、遅ればせながら、実は私もやっとそれに気付きましてね、これはどうも、はな《・・》から考え直す必要がある、と。——あなたと純子さんが、人に恨まれる覚えがおありかどうか、それを伺おうと思ったんです」  伸子は考え込んでしまった。色々といやがらせをされたり、狙われたりしたのも、総《すべ》ては、社長の椅子のせいだと、今の今まで思っていたのである。ところが、それ以外に、何か理由があるらしいという。 「分かりませんわ」  伸子は首を振った。「人に恨まれる——それも命を狙われるなんて、全く覚えがありません」 「よく考えて下さい。こういう、動機の分からない殺意というのは、防ぎようがありませんからね。たとえば、以前、あなたが振った男性はいませんか? あなたはそう重大に考えなくても、向こうにとっては殺してやりたいほどの思いだったかもしれない」  伸子は苦笑して言った。 「私……振られたことは何度もありますけど、振ったことなんて一度も……」  一応、話は純子の方へも訊く必要があるというので、明日、谷口が会社へ訪ねて行くことにして話を切り上げた。  谷口は、伸子をアパートまで送って来て、 「何かあったら純子さんに蹴《け》っ飛ばされますからね」  と、結構楽しそうに言った。「このアパートですか?」 「ええ。どうもありがとうございました」 「いや、これが任務ですから」 「じゃ、明日お待ちしていますわ」  とアパートの方を見上げて、「あら、変だわ」  と言った。 「どうしました?」 「部屋に明かりが……。誰かいるんだわ」 「あの窓ですか? よし、じゃ、私が先に行きます。少し離れてついていらっしゃい」  と、一応は刑事らしく頼もしい。——誰だろう? でも、私を狙う気なら、明かりなんか点けちゃいないだろうけど、と伸子は思った。  ドアの前まで来ると、中からザワザワと人の話し声がする。 「お客の予定でも?」  と谷口が低い声で訊く。伸子は黙って首を振った。谷口がドアのノブをそっと回して、サッと開け放つ。 「よう、帰ったのか?」  聞き憶《おぼ》えのある声。顔を出して伸子は目を見張った。 「まあ、お父さん!——お母さんも!」  伸子は言葉が続かなかった。狭いアパートの部屋に、父、母、弟、妹の家族四人と、叔父夫婦、叔母夫婦、従兄《いとこ》に従妹《いとこ》……。田舎にいる一族が総勢十一人もひしめき合っていたのである。 「おはようございます、社長」  いつもの通り、元気良く言った純子は、返事がないので、おや、と顔を上げた。  伸子が、社長室へ入って来ると、何だか夢遊病者みたいな足取りで、席へと歩いて行く。 「——どうしたの、伸子さん?」  心配になって、純子はそばへ行った。 「え?——ああ、純子さん、おはよう」  伸子がこわばったような笑顔を作る。 「どうしたのよ? 疲れてるのね。ゆうべ眠った?」 「眠るどころじゃなくって……」 「何があったの?」 「いいの。大したことじゃないのよ。今日の予定を教えてちょうだい」 「ええ……」  気にはなったが、ちょうど九時のチャイムが鳴るのが聞こえた。「九時から、再建対策会議です、社長」  と純子は言った。  会議中も、伸子の様子はおかしかった。すぐに何か考え込んでぼんやりしてしまい、せっかくの提案も耳に入らない様子なのだ。  少し落ち着いて、却《かえ》って疲れが出たのかしら、と純子は、心配しながら伸子を見ていたが……。 「竹野さん、お電話です」  とインタホンが呼んだ。私用らしい。お袋だったら、邪魔すんな、と怒鳴ってやろうと会議室を出て、受付で電話を取った。 「純子さんですね、谷口です」 「あら、何か用ですの?」 「社長さん、大丈夫ですか?」 「え?」  谷口は昨夜の話をざっと説明してから、アパートの一件を話した。 「まあ、それじゃ、田舎の人たちがTVを見て——」 「そうなんです。うちの娘が社長になった、ってんで、大挙して押しかけて来たんですよ。てっきり大邸宅に住んでると思ってるようで、そこへ泊めてくれと言われて、社長さん弱ってました。いや、こっちも他人ですからあまり長居せずに帰って来ましたがね」 「それで分かったわ……」 「何しろ親戚《しんせき》までがついて来てましてね、出て来るとき、小耳に挾《はさ》んだんですが、少し金を貸してくれなんて頼んでるんです。ちょっと呆れましたね」  全く人の世は金次第か……。純子は谷口に礼を言って電話を切ると、ため息をついて会議室へ戻ろうとした。  そのとき、 「やあ、ここが伸子の会社か!」  と、でかい声がした。見れば、たった今、谷口から聞いた、伸子の親類に違いない。四、五人でゾロゾロと事務所へ入って来る。  受付の女の子があわてて、 「あの、どちら様で——」 「いいから、いいから、社長はどこだ?」 「は?」 「俺たちゃ社長の親戚の者だ。案内してくれ。それとお茶と菓子を頼むぜ」 「酒がありゃもっといい」  呆《あつ》気《け》に取られている受付嬢を尻目にさっさと中へ入って来る。純子は素早くその前へ飛び出した。 「何だ、おめえは?」 「社長秘書の竹野と申します」 「ああ、そんじゃ話が早《はえ》えや。社長を呼んでくれ」 「ただ今、社長は重要な会議中ですので、ご用件は私が承ります」 「何だ、伸子の奴も礼儀を知らねえな」  とどうやら叔父らしいのがブツブツ言っている。ここではまずい。全社員が、何事かと注目しているのだ。純子は、 「こちらへどうぞ。応接室がございますので」  と案内しておいて、受付へ取って返し、「ね、あの人たちにお茶出してやって。それから、このことは社長へ言っちゃだめよ!」  と言っておいて、応接室へ戻った。 「——きれいなもんじゃねえか」 「このソファも高そうだ」 「だけど、ちょっと古くなってるぜ」  などとガヤガヤやっている。 「お待たせしました」  純子は澄まし顔で言った。「社長のご親戚の方でいらっしゃいますね。どういうご用件でございましょう?」 「うむ。——まあ、秘書ってのは細かい雑用をやるんだろ? じゃ、あんたでもいいや」  雑用係みたいに言われて少々カチンと来たが、そこはじっとこらえる。代表格らしいのが口を開いて、 「ゆんべ、伸子の奴にも言っといたんだが、今度うちの方で色々と物入りがあってな、少々用立ててもらいてえんだ」 「と申しますと?」 「なあに、五百万もありゃいい。それくらいの金、伸子の腹一つでどうにだってなるだろう。何しろ社長さんだ」  純子は苦笑した。 「社長からお聞きになりませんでしたでしょうか。この会社は今倒産寸前の瀬戸際なのです。何とか会社を救おうと、社長以下、全社員が必死になって働いているんです。そういう状態ですので、とても、そんな大金をお貸しするわけには参りません。どうぞ悪しからず」 「何だい、だめだって?」 「残念ですが」 「ふん、やっぱりお前さんじゃだめだ。伸子を呼べ」 「社長は会議中でございます」  と純子は動じない。 「会社ってやつは表と裏があるんだ。隠し金の一千万やそこらないはずがねえ。そいつを少し回してもらやあいいんだ」  伸子さんがあんなに苦労して頑張ってるのに……。純子はカーッと頭へ血が昇って、 「いい加減にしな!」  と怒鳴りつけた。  今まで社長秘書というので、乙に澄ましていた純子がいきなり怒鳴ったから、伸子の親類たちは仰天した。仰天して、何も言えなくなってしまった。  純子は続けた。 「伸子さんが好きで社長なんかやってると思ってんの? 行きがかりで仕方なくやってんじゃないの。いいこと、あの若さで、全社員の生活に対する責任をしょい込まなくちゃいけないのよ。普通なら辛《つら》くて、逃げ出すかノイローゼになるのを、じっとその重みに堪えて頑張ってるんだわ。その伸子さんの苦労が分からないの? いい年齢《とし》をして、わずか十九歳の女の子に吸いついていい思いをしようなんて、ちょっとは恥を知りなさい!——私の目が黒い内は、あんたたちみたいな連中は一人だって社長に会わせないからね。何が何でも会うってんなら、覚悟してもらうわよ。文句ある? 文句があったら前へ出な!」  純子はポキポキと指を鳴らした。——居並ぶ親類たちは、ただ唖《あ》然《ぜん》。純子がぐいと前へ出ると、あわてて身をひいた。 「文句がなきゃ、とっとと家へ帰りな! 今度ここへ来たら、五体満足じゃ帰さないからね!」  純子はジロリと一同を見回して、「帰れ!」  と一喝した。  ワッと、伸子の親類たちは我先に応接室から飛び出して行く。ちょうどお茶を持って来た受付の子が、目を丸くした。 「どうしたのかしら?」 「いいのよ。急に用を思い付いたんですって」  と純子は言って、「あ、お茶一つちょうだい。せっかくだから私がいただくわ」  やれやれ、いい気分だった。ゆっくりとお茶をすすりながら、一人、応接室で寛《くつろ》いでいると、最初の内は満足だったが、その内、ちょっとやりすぎたかな、という気持ちになって来る。  しかし後悔はしていなかった。社長がスムーズに仕事をできるようにするのは、秘書たる者のつとめである。  後悔はしなかったが、しかしこのまま放っておいてはいけないということもよく分かっていた。何といっても伸子の親戚なのだし、両親の立場というものもあるだろうし。——まあいいや。後でゆっくり伸子と話して、少し穏やかに事情を説明しよう。それからどうしたらいいか、相談して……。  お茶を飲み終えて、純子は会議室へと戻って行った。ドアを開けると、何やら楽しげな笑いが起こったところだった。伸子も一緒になって笑っている。これはいいや、と純子は思った。いい雰《ふん》囲気《いき》だ。 「遅くなりまして」  と、入って行ってドアを閉めると一斉に拍手が起こる。——キョトンとしていると、荒井が立って来て、やおら握手をする。 「いや、実によかった!」 「何がですか?」 「君の啖《たん》呵《か》さ。みんなで聞き惚れていたんだよ」  わけが分からずにいると、伸子が微笑みながら言った。 「応接室のインタホンのスイッチがね、入りっ放しになってたのよ。それでこの会議室へ全部筒抜けになったってわけ」  純子は唖然とした。それから真っ赤になって、 「ちょっと——失礼します」  と言うなり会議室を飛び出した。  ああ、これで嫁に行くのが十年遠のいた! 「本当に、気にしなくていいのよ」  と伸子が言ったが、純子の方はそうもいかない。 「でも——伸子さんのご親戚だし……」 「構やしないわ。あなたの威勢のいい啖呵を聞いててね、こんなことでくよくよしてちゃ社長なんて勤まらない、と思ったの。親類のことよりまず社員のことを考えなくちゃ。あなたのおかげで目がさめたような気分よ。ありがとう」 「よしてよ」  純子は複雑な笑顔で、「何だか皮肉を言われてるみたいだわ」  昼休みになっていた。——二人は会社の隣にある喫茶店で、サラダとサンドイッチの昼食を済ませたところである。 「ああ、そうそう」  と伸子が言った。「昨日、谷口さんに会ってね——」 「ええ、さっき電話があったわ。何だか話があるから来るとかって」 「あなたに惚れちゃってるみたいじゃないの」 「やだ、あんなじじむさい《・・・・・》の」  と言ったとたんに、 「やあ、こちらでしたか!」  と当の谷口がやって来た。 「あら、ちょうどお噂《うわさ》をしてたんですよ」  と純子が澄まして言った。「どうぞ、おかけになって」 「失礼します。いや、お仕事中はお邪魔かと思って、休み時間にしたんです。刑事なんて商売は二十四時間営業ですから」 「どこかのスーパーみたいね」  と純子は笑った。「お話って何ですの?」  谷口は昨晩伸子へ話したこと——つまり、伸子と純子が狙われているという匿名の手紙が、尾島産業の社長交替の騒動より前に出されていることを説明した。 「それで、まあ……やむなく社長さんにも、その辺の事情を説明したんですがね」 「まあ、それじゃ、しゃべっちゃったんですね」 「いいじゃないの、純子さん」  伸子が取りなすように言った。「私も逞《たくま》しくなったから大丈夫よ」 「でも、私、人に恨まれる覚えはないけど」  と純子は言った。「伸子さんだって。ねえ?」 「それが不思議なのよ。さっぱり分からないわ」  と伸子が首をひねる。 「純子さんは色々と振った男性も多いんじゃありませんか?」 「何だか引っかかる言い方ね。——でも、そんなに深くお付き合いした人はありません。大体私に振られたからって伸子さんの名前まで出すのはおかしいわ」 「そうですな。——いや、そいつはお手上げだな」  しばらく三人は黙り込んでしまった。 「——あ、社長さん」  と、会社の受付嬢が店へ入って来て声をかけた。「お客様なんですけど」 「お昼休み、終わってからにしてくれればいいのに」  と純子が文句を言うと、伸子がすぐに立ち上がって、 「今行くわ。純子さん、谷口さんとお話ししててちょうだい」 「あら、でも——」 「いいの。管理職には休み時間ってものはないのよ」  伸子が急いで店を出て行くと、純子はふっと笑った。 「段々社長らしくなってきたなあ、伸子さん」 「しかし、ああいう上役は珍しいですよ。普通は逆です。平社員ほどこき使われる。刑事だって平《ひら》の方が歩き回るんです。そのくせ月給は安いし、休みもあってなきが如し。これじゃ嫁に来てくれる女《ひと》はありませんよ」  と愚痴っている。 「そのせいで独身なんですか?」 「は?——いや、まあ——本人のせいもありますが」と言って谷口は赤くなった。  変な刑事。純子はコーヒーを飲みながら、微笑んだ。 「ところで、これからどうしましょう?」 「そうですねえ」  谷口は困った顔で考えていたが、「結局、社長さんを誰かが狙って来たときに、現行犯で捕まえる他《ほか》はないと思いますが」 「頼りないわねえ……」  しかし、谷口でなくとも、それ以外の方法があろうとも思えない。  誰か、純子と伸子に共通の知人でもあればともかく、もともと会社の同僚という以外に、特別の付き合いがあったわけでもないのだ。 「おや、もう一時ですね」  と谷口は腕時計を見て、「じゃ、失礼しなくては。——社へ戻らなくていいんですか?」 「平社員はたっぷり休みを取らなくっちゃ」  純子は平然として言った。  伸子は、混《こ》み合った電車の中でギュウギュウもまれながら、大《おお》欠伸《あくび》をした。  何しろ昨晩はほとんど眠っていない。押しかけて来た親族一同を何とか説得して、近くの安い旅館へ泊まらせたものの、アパートに弟と妹が泊まったから、ろくに眠れなかったのである。  家族に会えるのは嬉しい。しかし、今はそれどころではないのだ。やはり帰ってもらわなくては。一度外で食事でもして……。  また欠伸が出た。——いやねえ、これじゃお嫁にゃ行けないわ。  そうだ。弟と妹に何かケーキでも買って行ってやろう。ちょうど次の駅で降りれば、おいしいケーキ屋がある。  電車がホームへ入って、人の塊が出口の方へと圧力を増し始める。降りる気でなくとも、乗換駅なので降ろされそうだ。降りられるのはいいのだが、問題はちゃんと前向きに降りられるかどうかである。斜めになったり横になったり、背中から降りたり、ひどいときは上下逆さ——にはならないが、ともかく、転んだら大変。  アッという間に折り重なって、圧死してしまいそうだ。電車に乗り降りするのが命がけだといえば、経験のない人には何とオーバーな、と笑われそうだが、全くかけ値なしの事実なのである。  扉が開くと、ダムが決壊して水が溢《あふ》れ出るように、ドドッと人が吐き出される。  伸子も何とか無事に着地《・・》して、今度は階段へ向かう流れに加わる。これはそう危険でもない。乗り換えを急ぐにしても、走るような空間はないから、みんな諦《あきら》めて同じペースで黙々と歩いている。  これが、却って時間が遅くなって、少し階段が空《す》いて来ると危ないのだ。乗り換える電車に間に合うかどうか、ぎりぎりということになると、少々人を突き飛ばしても急ぎたくなるのが人情である。  今は人と人とに四方八方囲まれて、のろのろと階段の下り口へ進みながら、伸子は思った。〈狭い日本、そんなに急いでどこへ行く〉っていう標語があったけれど、狭いからこそ急ぐのだ。広くて、ゆったりとした場所なら、人間、せかせかと走れないものである。  狭い日本で通勤に二時間もかける人がいる。それでも会社が潰《つぶ》れるよりはいいかもしれないけれど……。 〈ここから階段〉という札が頭上に下がっている。こうでもしないと、階段がどこから始まっているか分からないのだ。何とも凄《すさ》まじい話という他はない。  この辺ね。——足下へ目を落として、少し歩幅を小刻みにする。  伸子が階段の第一段を踏み出そうと足を出したとき、誰かが背中をぐいと突いた。  林昌也は、ふうっと息をついて、 「満腹だ! どうもごちそうさまでした」  と礼を言った。 「いいえ。いくら食べたっていいのよ」  と純子は景気のいいことを言ったが、バイキング料理だから、あまり威張れたものではない。 「もう入りませんよ。でも、いいんですか、ごちそうになって」 「いいのよ。どうせ私は家でお小遣いもらってる身分なんだもの」  と純子は気楽に言った。「——それで、さっき話した好色漢のお得意さんの話なんだけどね」 「けしからん奴ですね。伸子さんに指一本でも触れたら、ただじゃおかない!」  例の、KMチェーンの社長、真鍋のことである。 「明日の晩、向こうはよからぬ下心を持って来るらしいのよ。だから、こっちで伸子さんを徹底的にガードしてやろうと……」 「任せて下さい。僕がそばにピタリとくっついて——」 「それじゃだめよ。いくら何でもお得意様なんですもの。そばで変なのがにらんでたんじゃ」 「そうか。じゃ、天井裏か床下に隠れて……」 「忍者じゃあるまいし」  と純子は吹き出しそうになった。「ともかくね、そういう手合いって私、嫌いなの。立場を利用して女を口説くなんて最低だわ」 「同感です」 「だから、伸子さんを守るだけじゃなくて、その男にギュウと言わせてやりたいのよ。力を貸してくれない?」 「喜んで!」 「それじゃ、一つプランを練りましょうよ」 「ええ。——ちょっと待って下さい」 「どうしたの?」 「腹ごしらえをしますから」  と、昌也は、料理の並んだテーブルへと歩いて行った。 「——若いのね」  半ば感心し、半ば呆《あき》れた様子で、純子は呟《つぶや》いた。 「困ったことになったな……」  と言ったのは、元専務の北岡である。 「全く計算違いということですね」  元部長の柳がため息をつく。 「あの小娘がここまでやれるとは思わなかったよ」 「社員も結構協力して、巧《うま》くやってますからね」 「それに三枝の奴! あいつはすっかりあの娘に心服しちまってるんだ。話にならん」  二人はバーで飲んでいた。このところ毎晩である。 「しかし、我々としても、尾島さんがあの状態では、考え直さねばなりますまい」  と柳が言った。 「うん。——逮捕されちまったのは痛かった。我々としては早く尾島さんとは縁を切らなくてはな」 「その場合、社長の座をどうするかが問題ですよ」 「何か考えでもあるのか?」 「ないでもありません」  と柳は意味ありげに言ってグラスを取った。 「いや、大したけがでなくてよかった」  駅の医務室で伸子の手当てをしてくれた医師は、そう言って微笑んだ。 「どうもありがとうございました」  左手と、両膝《りょうひざ》をすりむいた他は何ともない。あのラッシュアワーの人ごみを思うと、奇跡的と言ってもよかった。伸子のすぐ下にいたのが、がっしりした体格の、大柄な男性だったので、伸子の体を支えて、持ちこたえてくれた。おかげで、ずずっとわきへ滑り落ちるだけで助かったのだった。  もし、下の人からその下へと、将棋倒しに人が倒れたら、どんなことになったか、考えてもぞっとする。それに、すぐ近くに、この初老の医師がいて、手当てを買って出てくれたのも幸運だった。 「骨には異常ないと思うが、一応レントゲンを撮った方がいいかもしれないね」  とその医師は付け加えた。「行きつけの病院はあるかね? なければ私の勤めている大学病院へ来れば、いつでも診てあげる」  と名刺を取り出す。 「すみません……」  そこへ、若い駅員がやって来た。 「あ、すみましたか? ちょっと駅長がお話があるそうなんですが」  駅長室へ入ると、半ば髪の白くなりかかった駅長が、丁重に伸子を迎えてくれた。 「どうも災難でしたね。後の処理に、こちらも機敏さを欠いたところがあったようで、申し訳ありませんでした」 「いいえ、そちらの責任ではありませんわ」  勧められるままに、椅子へ腰をおろして、伸子は言った。 「誰かに突き飛ばされたというお話でしたが……」 「はい、急に背中を突かれて」 「全く困ったもんだ」  駅長は困惑した様子で、 「いや、実はね、あのすぐ後に、改札を切符なしで出ようとした女がいまして、捕まえてみると、何だか放心状態というか、さっぱり要領を得ないんですよ。——で、もしかするとその女が、あなたに恨みを持っていて、やったのかもしれん、と思ったわけです。女を見ていただけますか?」 「女……ですか?」  誰だろう? もしかすると、自分と純子の命を狙っているというのが、その女かもしれない。 「いかがです?」 「ええ、もちろん結構ですわ」  と伸子は肯《うなず》いた。 「では、こちらへどうぞ」  と駅長が、隣の小部屋のドアを開けて、伸子を促した。  何やら段ボール置き場のような、狭苦しい部屋で、駅員が腕組みしながら立っている前に女が一人、ポツンと椅子に腰かけている。 「この女ですが、ご存知ですか?」  と駅長が訊《き》いた。 「さあ……」  知らない顔だわ、と思ったが、女の方は顔を伏せ気味にしているので、伸子はもっとよく見ようとかがみ込むようにしてみた。  そして——目を見張った。  尾島夫人ではないか!  尾島久子の顔は、伸子が社長になって最初の日に殴り込み《・・・・》をかけて来たので、そのときに会って知っている。しかし……あのときとは見違えるように変わってしまっている。  あのときも、かなり取り乱して、まともではなかったけれど、それでも社長夫人らしい貫禄はあった。しかし、今は……すっかりやつれた感じで、髪もろくに手入れしていない様子。目は虚《うつ》ろで焦点が定まらず、どこか遠くを見ている。着ている服も、品物はいいのだろうが、しわくちゃで、靴も埃《ほこり》だらけだ。  尾島久子が突きとばしたとすれば、よく分かる。夫が社長の地位を追われたと思ったら、今度は殺人容疑で逮捕されてしまった。総《すべ》てはあの新しい社長のせいだ、と久子が憎しみを燃やしても不思議はない。 「——どうです、ご存知ですか?」  と駅長が、重ねて訊いた。 「いいえ」  と伸子は言った。「知らない人です」  尾島久子が、そろそろと顔を上げて伸子を見た。 「そうですか」  駅長は、むしろホッとした様子だった。「では、この女は適当に説教して帰しましょう」  伸子は駅長室へ戻った。 「——きっと、せっかちな人が、足でも踏み外しそうになって、私をつい突きとばすような格好になったんだと思いますわ」  伸子の言葉に駅長も同意して肯いた。駅長にしてみれば、それが故意の犯行ということになると、警察へ知らせて、あれこれ面倒なことになるので、事故と決まって喜んでいるのだ。 「では、私、これで……」  と伸子は一礼して駅長室を出ようとしたが、ふと足を止めて、「あの——今の女の人、切符を持っていなかったんですか?」 「そうなんですよ。その分の罰金は取り立てます」 「でも何だかよほどのことで気が転倒してるみたい……。今日は大目に見てあげて下さいません?」 「そうですねえ……。まあ、それは私の一存で構いませんが」 「それで、これを——」  と伸子はハンドバッグを開け、財布から三千円を抜いて、 「あの人をタクシーへ乗せてあげて下さい」  と差し出した。 「いや、しかし……」  と駅長はちょっとためらったが、すぐに笑顔になって、 「分かりました。——あなたも親切な方ですな、見ず知らずの人に」 「困っているときはお互い様ですわ」  と金を渡し、「それじゃ、よろしく」  と駅長室を出た。 「あ、お姉ちゃん、お帰り」  アパートの部屋へ入ると、弟と妹が異口同音に声を上げた。 「ただいま。ケーキ買って来たよ」  と伸子は部屋へ上がって、「お父ちゃんとお母ちゃんは?」 「うん、そろそろ来ると思うけど」 「そう」 「お姉ちゃん、膝、どうしたの?」  と十四になる妹の昭代が目ざとく見付けた。 「転んだのよ」 「やだあ。あわてんぼ!」 「本当ね」  と伸子は微笑《ほほえ》んだ。「ね、お腹《なか》空いたろ?一緒にご飯食べに行こうよ」 「どこに?」 「ホテルのレストラン。お姉ちゃんの行きつ《・・・》け《・》の店にしよう」  と伸子は気取って言った。 「わあ、凄《すげ》えや!」  と十六歳の弟、進也が大声を出した。 「何の騒ぎだ?」  と声がして、父親が顔を出した。「おお、帰ってたのか」 「お父ちゃん、外にご飯食べに行こう。私がおごるから。お母ちゃんは?」 「下におるよ。荷物を持って待ってる。おい、進也も昭代も仕度しろ。家へ帰るぞ」 「ええ? もう帰るの?」  と進也が不服そうにふくれっつらをした。 「お父ちゃん……」 「いや、俺たちもどうかしとったよ。つい、TVでお前を見て浮かれちまって。——お前のことを自慢してやりたい一心でな、わっと押しかけたんだ。迷惑だったろう。お前に余計な苦労かけちまって悪かったな」  伸子は胸が詰まって、しばし言葉が出なかった。父親が愉快そうに笑って、 「孝造の奴が、お前の秘書は女ヤクザじゃちゅうて目を丸くしとったぞ。あいつがやり込められるようなら、相当なもんだな」 「お友だちなのよ」 「いい友だちがついとるんだ。頑張れよ」  父親の大きな手が、伸子の肩をぐいとつかんだ。伸子は肯いて、 「ともかく、今日はホテルで食事しよう。帰るのは明日にしてよ」 「俺たちはいいが……。無理するなよ」 「大丈夫。社長の面子《メンツ》ってものがあるからね!」  そう言って伸子は笑った。  一家はタクシーで、いつか伸子が柳からフランス料理をおごってもらったホテルへと向かった。もちろん、もう少し気楽な所へ入るつもりである。 「叔父さんたち、どうしてるの?」  と車の中で伸子が訊いた。 「さあ。どこか近くで飲んでるだろう。明日は帰ると言っとったよ」  伸子の父、桑田耕作の弟——つまり、会社へ行って純子に怒鳴られた叔父の桑田孝造は、泊まっている旅館に近いバーで飲んでいた。 「——全く、恩知らずな娘だ! 子供の頃から、散々面倒をみてやったのに、いざ出世すると、門前払いをくらわしやがって!」 「世の中ってそんなもんなのよねえ」  とそばにくっついたホステスが同情したように肯く。 「なあ、人情紙の如したあよく言ったもんじゃねえか」 「本当ね。ね、もう一杯どう?——水割りね。私にもちょうだい!」  と勝手に注文して、「さあ、ぐっと飲んで、いやなことは忘れちまいなさいよ」 「う、うん……。大分飲んだな。もうこれ以上飲むと帰れなくなる」 「いいじゃないの、ちゃんと介抱してあげるわよ。もう一杯。——そう? じゃ、また来てね」 「ああ、来てやるとも」  孝造は、いささか怪しい足取りで、カウンターの椅子から下りると、「さあ……いくらだ?」  と財布を取り出す。 「四万五千円になります」 「四……万?」  孝造が目を丸くした。一度に酔いもさめてしまう。 「そ、そんなべらぼうな!」 「何よ、ケチつける気?」 「い、いや……しかし……そんなに持ってねえ」 「何だって? おい、ふざけんじゃねえよ」  ホステスが目配せすると、すぐにカウンターの奥からアンチャン風の男が出て来て、ぐいと孝造の胸ぐらをつかんだ。 「てめえ、持ってねえで済むと思ってやがるのか?」 「待ってくれ……親類と一緒に……すぐ近くの旅館なんだ。借りて来るから……」  孝造が真っ青になっていると、……そこへ、 「私が払いましょう」  と声がして、男が一人、店へ入って来た。 「四万五千円だね」 「そうよ。あんた、何なの?」 「この人の知り合いでね。——さあ」  男は一万円札を五枚出して、「つりはいらない。桑田さん、出ましょう」 「あ、ああ……」  何が何だか分からない。見たこともない男だが、この場から逃げ出せるのなら、フランケンシュタインにだってついて行っただろう。  表へ出ると、男が言った。 「ああいう店に入るときは、お気を付けにならなくてはだめですよ」 「ど、どうも……助かりました」  孝造は額の汗を拭った。 「どういたしまして。大分捜しましたよ」 「私をですか?」  孝造は足を止めた。「あなたはどなたなんです?」 「柳と申します。社長の命令で、参りました」 「社長の? すると伸子の……」 「そうです。昼間は秘書が大変失礼なことを申し上げたようで。何分新米でしてね」  と柳は微笑んで、「社長から、あなたへ五百万ほど用立ててさしあげるようにとのご命令で……」 「しかし、それはできない、と——」 「何しろ他の社員が聞いている所で、そんなことは言えませんので、表向きはお断りしたわけです」 「す、すると何かね? 五百万、貸してもらえるのかね?」 「はい。しかし、これは絶対に口外していただいては困るのです。社長の立場というものがありますので。その辺は、世慣れた方でいらっしゃいますから、よくお分かりと思いますが……」 「そ、そりゃもう、絶対にしゃべりゃしませんや!」  孝造は目を輝かせて言った。 「それなら結構です。——社長のご両親は一緒にいらっしゃるんですか?」 「何だか今夜一足先に田舎へ帰るとか言っとったが……」 「そうですか。ともかく、お帰りになってからも、五百万の件は、社長のご両親へも秘密に願います。どこから話が漏れるか分かりませんので、慎重の上にも慎重に、というわけです。その点をお約束下さいますか?」  もちろん、金さえ借りられれば、孝造に文句のあろうはずはない。 「約束しますとも!」 「結構です」  柳は孝造の肩を叩いて、「では、どうです? 飲み直しませんか。今の騒ぎで酔いはさめてしまったでしょう」 「そりゃいいんですがね。何しろあんまり持ち合わせがないもので——」 「ご心配なく、社の交際費で落としますから」 「それなら安心だ」  と孝造は早くも舌なめずり。現金なものである。 「では一つ銀座へでもくり出しますか?」 「銀座のバー!」 「ホステスは美人で、上等揃《ぞろ》いですよ。では二、三軒ご案内しましょう」 「すまんね、どうも」 「どういたしまして」  柳は愛想良く微笑んだ。「社長の叔父様ですからね、これぐらいのおもてなしは当たり前のことですよ」  と言って、通りかかったタクシーを止めた。 試練のとき 「おはようございます、社長」  と言って、純子は、「あら、膝をどうしたの?」  と目を見張った。 「あんまり見ないで。駅の階段で転んじゃったのよ」  と伸子は照れくさそうに笑った。 「いやだ、大丈夫? 気を付けてね。大事な体なんだから」 「おっちょこちょいなもんだから……」  伸子は社長の席に着いた。大分、お尻がムズムズしないで済むようになった。 「ご家族の方、帰ったの?」 「ええ。私が落ち着いたら、ゆっくり呼んであげようってことになって……」 「それがいいわ。もう少しすれば、弟さんや妹さんも学校が夏休みになるでしょ。その頃には、社長業も板に付いてるわよ」 「その頃までに潰れてなきゃいいけどね」  と伸子は笑った。  今朝は、家族を上野駅で見送ってから、出社して来たので、そろそろ十一時になろうとしている。よく晴れた日だったが、大分、むし暑くなり始めていた。 「今日の予定は?」 「今日は大変よ」 「あら、何だったかしら?」 「KMチェーンの真鍋社長と夕食」 「あ、そうだったわね!」  すっかり忘れていた。 「何時のお約束?」 「今朝、あちらの秘書から電話があって、今夜七時に、〈雪路〉って料亭に来てくれって」 「場所は分かる?——あ、どうもありがとう」  伸子は、純子からメモを受け取ると、チラッと眺めて、自分の手帳へ挾《はさ》み込んだ。「他《ほか》には?」 「他には、って……。それだけありゃ十分じゃないの。三枝さんから聞いたでしょ?」 「ああ、女性に手が早いそうね」 「ジェット機並みらしいわよ」 「純子さんならともかく、私じゃ食欲が起きないでしょ。心配ないわよ。私も適当に失礼するから」 「甘い、甘い」  と純子は腕組みして、「そういう点はまるでうぶ《・・》なんだから」 「それじゃだめ?」 「帰りたいっていうのを帰さずに、自分のペースに巻き込んじゃって、ものにするのが女たらしってもんなのよ」 「へえ」  伸子は感心の態《てい》で、「純子さん、詳しいの、その手のことは?」 「そうじゃないけど……」  こういう人には何といって説明したらいいのかしら? 「まあ、三枝さんも一緒に行くし、心配ないわよ」  と伸子は呑《のん》気《き》なものである。伸子を、そんな好色漢と会わせるなんて、狼《おおかみ》と羊をお見合いさせるようなものだ、と純子は思った。ともかく、何が何でも伸子を護衛してやらなくっちゃ。  純子の机の電話が鳴った。 「はい、竹野ですけど」 「あ、純子さんですか、谷口ですが」 「あら、どうも。何か事件のことで?」 「いえ……別に事件のことというほどのことでもないことなんですが……」  と、何だかろれつが回らないというか——。 「どうしたんですか?」  と訊きながら、純子の頭でかすかにチーンと鐘が鳴る。谷口刑事。——はて、何か用があったようななかったような……。 「あ、あの——お元気ですか?」  と谷口の方も何やら言い出しにくいという感じ。純子は、 「ええ、しばらくお目にかかりませんわね」  とごまかしながら——昨日会ったばかりである——手帳をめくった。 「しまった!」  と思わず声を上げたのは、昨日の夕食を一緒に、と一昨日、谷口と約束してあったのだ。それも純子の方から誘ったのである。それをまるできれいさっぱり忘れていた! 「ごめんなさい、谷口さん、私、ついうっかりしちゃって……」 「いえ、それならよろしいんです」 「は?」 「いや、何かあったのか——病気にでもなられたのかと思いまして」 「そうじゃないんですの。ちょっと考えごとがあってね、ついうっかり……。本当にごめんなさい。約束の場所でずいぶんお待ちになって?」 「いえ、まあ……それほどは」  あの谷口のことだ、二、三時間はポケッと待っていたに違いない。いかに男性はすべからく女性のために存在しているという信念の持ち主である純子にしても、さすがに少々後ろめたい気分だった。 「埋め合わせはしますから。——ね?」 「いえ、そんな、気になさらずに。どうせ刑事は張り込みなどで待つことはちっとも苦になりませんから」  そうだわ、と純子は思った。今夜の一件に、谷口も参加してもらおう! 「あの、谷口さん、今夜はいかが?」 「でも、そんな……いいんですか?」 「ええ、できれば、一晩ずっとお付き合い願いたいの」 「ずっと、ですか?」  谷口の声が一オクターブずり上がった。 「ついては、その過ごし方について、事前に打ち合わせをしたいの。お昼をご一緒にいかが?」 「は、はい、結構です」 「お忙しいんじゃない?」 「いや、僕は大体役立たずなので暇なんです!」  と変なことを自慢している。純子が電話を切ると、聞いていた伸子が、 「あの刑事さんと、そこまで進んでたの? 知らなかったわ」  と目を丸くしている。 「そう? 徹夜でTVゲームをやろうって前から約束してたのよ」  と純子はとぼけた。  さて、午後五時のチャイムが鳴る。特に忙しくない者は、さっさと机の上を片付けて帰り、忙しい者は残業。それはまあ当然だが……。 「じゃ、私、仕事が忙しいからお先に失礼」  と、純子は五時一分には会社を飛び出して行ってしまった。  三枝が社長室へ顔を出し、 「六時頃には出ようと思いますが」 「はい。場所はご存知?」 「行ったことがあります。あの……社長、アルコールの方はいかがです?」 「私、お酒は嫌いなの」 「そうですか。じゃ、先にどこかで夕食を食べといた方がいいですよ」 「あら、だって、あちらとご一緒するんでしょう?」 「どうせ飲まされますからね。空《す》きっ腹よりも、何か食べておいた方が、酔いにくくなります」 「お酒はお断りするから大丈夫。三枝さん、ずっとついていて下さるんでしょう?」 「ええ、そのつもりです。ただ……」 「ただ?」 「何しろ真鍋って人は、女と仕事を取ったら何も残らないっていうくらいの女好きですからね。用心に越したことはありませんよ」 「まあ、三枝さん」  と伸子は笑って、「お得意様のことをそう悪く言っちゃいけないわ。私だって子供じゃないんですもの。大丈夫よ」 「子供じゃないから心配なんです」  と三枝が呟《つぶや》くように独り言を言った。  さて、所変わって、料亭〈雪路〉。  今しも格子の玄関をガラガラッと開けて、一人の男が入って来る。 「いらっしゃいませ」  と店の男が出て来ると、こいつはどうも客らしくないな、という顔になった。  地味な背広——といえば聞こえがいいが、安物の、かなりくたびれた背広姿の、中身もそれにふさわしくパッとしない男で、 「どちら様でいらっしゃいましょう?」  と訊かれると、 「ご主人はいるかね?」 「は? あ、女将《おかみ》さんですね。はい、おりますが、そちら様は……」  男はチラッと左右へ目を走らせ、上衣の内ポケットから黒い手帳を覗《のぞ》かせた。 「あ、これは警察の——」  と言いかけるのを、 「しっ!」  と抑えて、「今夜、真鍋って客が来ることになってるな?」 「ええ、真鍋様でしたら、ご予約がございますが」 「その隣の部屋を取ってほしい」 「はあ……。ですが、一体何事で——」 「捜査上の秘密はあかせないが、ともかく必要なのだ。都合はつくだろうな」 「ええ、それはまあ……」  と男は頭をかいて、「一応、今予約でふさがってはおりますが、何とかいたしましょう」  そこへ、 「何なの?」  と、和服姿もちょっと色っぽい、四十前後の女が出て来る。 「あ、女将さん、実は、こちら警察の方で——」  と、店の男が小声で話すと、 「まあ、それじゃすぐにも隣のお部屋を。……でも、真鍋さんはうちのお得意様でして、よくおみえになるんですが、何かございましたのでしょうかしら?」 「ちょっとここでは——」  と、その刑事が渋っていると、玄関がガラリと開いて、若い女性が入って来る。 「失礼します」  その声に刑事が振り向いて、 「おや、竹野さんじゃありませんか」  と目を見張った。 「まあ、谷口さん。こんな所でお目にかかるなんて!」 「しかし、どうして、麻薬捜査官のあなたが?」  女将が〈麻薬〉と聞いて目を丸くした。 「あ、あの——私、ここの女将なんでございますが、うちは決してそのような——」 「こちらへ、真鍋という客が来ていますね?」 「真鍋さん! ——七時のご予約です」 「隣の部屋を取っていただきたいんですが」 「おや、竹野さんも真鍋を?」 「え? じゃ谷口さんも?」 「そうなんです。こいつは偶然だな」 「本当ですわね。じゃご一緒に見張りましょうよ」 「そう願いますか。——女将さん、我々のことは決して口外しないように。いいですね」 「は、はい。ど、どうぞこちらへ」  と女将自ら案内に立つ。後からついて来る二人が、低い声で話を交わしている。 「……少女売買……」 「麻薬を打って……」 「売春婦に……」  と、切れ切れの言葉が耳に入るたびに、女将の顔色が青くなって来る……。 「遅くなりまして」  三枝が先に座敷へ入った。  真鍋は正面にデンと座って、もう二、三本、空の徳《とく》利《り》が寝かせてある。傍《かたわ》らに、この間、三枝が見かけた女子事務員が、べったりくっつくように座っている。  三枝は内心、少しホッとした。あちらが女連れなら、伸子へ手は出すまいと思ったのだ。 「やあ、よく来たな。社長さんはどこだ?」 「ええ、ただ今。——社長」 「失礼いたします」  伸子は、部屋へ入って行った。 「これはどうも。真鍋です」 「桑田と申します。どうもご挨拶が遅れまして——」 「いやいや、こっちこそ留守にしていて、失礼しましたな。ま、どうぞ」  真鍋も一応きちんとした態度である。伸子は勧められるままに、席へついた。 「お招きいただいて恐縮です」 「いや、お口に合うかどうか……。ああ、これはうちの社の子で、智《とも》美《み》といいます。私にくっついて離れんのですよ」 「何言ってんのよ」  と、智美という女が、ひじで真鍋を突っついて、「ベッドで離れないのはあなたじゃないの」 「おいおい、こちらの社長さんはお前とは違うんだぞ。見ろ、真っ赤になっとられる。いや、すみませんな」 「いいえ」 「ともかく一杯いきましょう。酒かビールか、ウイスキーか。何にします?」 「あの、私、ジュースか何かを……」 「まあ、最初の内ぐらいはいいじゃないですか。三枝、お前はウイスキーだったな?」 「ええ、それでは……」 「じゃ、社長さんはまず日本酒で。さ、どうぞ」  と、おちょこを押しつけるように持たせて、徳利からなみなみと注ぐ。 「あ、もう本当に……」 「さ、一つぐいとやって下さい。今後ともよろしくお付き合い願わなくてはなりませんからな」  と自分はコップへどんどん注いで、「さ、尾島産業の未来のために、乾杯!」  伸子もぎこちない手つきで、おちょこを持ち上げ、ぐっと一気に飲みほした。 「——始まりましたよ」  薄い壁を隔てて、隣の様子は手に取るように分かる。谷口はそっと息を吐き出した。 「何事もなきゃいいんですがね」 「今のところは無事ね」  と純子は言って、「でも、あの女将さんの顔ったら!」  と愉快そうに微笑《ほほえ》んだ。 「こんなことがばれたら、僕はクビです」 「あら、ごめんなさい」 「いや、あなたのためにクビになるなら、本望です」  と、谷口は真面目くさった顔で言った。  隣の部屋で、真鍋の豪快な笑い声が聞こえた。 「いや、もう本当に失礼しないと……」 「何だ三枝、水くさいぞ」  と、真鍋がその馬鹿力で三枝の肩をぐいと抑えてしまう。 「もう一軒付き合え! 分かったな」  ——もう、ここは料亭ではない。料亭からバーへくり出して、三軒目なのである。  時間は十一時近い。 「私はお付き合いします」  と三枝は言った。「しかし、社長はもう帰りませんと……」 「いいじゃないか。今は若い女が一番よく酒を飲むんだ。心配ない」  真鍋のアルコールの強さには、全く、三枝も呆《あき》れるばかりだった。ぐいぐい飲んでも顔色一つ変わらない。それと同じテンポで飲んでいては身がもたない。三枝は適当にやっていたが、それでもいい加減酔いが回って来る。  ——伸子に万一のことがあっては、と思って緊張しているから、まだシャンとしていられるのである。  真鍋と三枝がカウンターで飲んでいるのを、奥のテーブルで、伸子は眺めていた。こちらは真鍋の彼女、智美が一緒で、 「もっとお飲みなさいよ」  とすすめて来る。 「本当にだめなんです、私。このカクテルだって持て余してるんですもの」  伸子はジンフィーズを少しすすって微笑んだ。 「でも顔は赤くないわよ。まだ、大丈夫よ」  智美の方は水割りでぐいぐいやって平然としている。 「社長さんですって? 大変でしょうね」 「ええ……。何だか妙な事情でこんなことになって」 「私なんて、社長っていやあみんなあの人みたいなのかと思ってたわ」 「私はもともとお茶くみだったんですもの」 「そうらしいわね。いい気分でしょ、社長って」 「どうでしょうか……」  と伸子は首をかしげた。「よくみんな、社長さんが一番偉いんだから、ペコペコ頭を下げなくて済む。それが羨《うらやま》しいって言いますけど、どんな会社にだってお客様っていうものがあって、社長もそのお客様へ頭を下げなきゃいけないわけでしょう。お茶くみなんてしていれば、賞められもしない代わりに叱られもしない。でも、外のお客に頭を下げる人は大変だと思うんです」 「そうかしらねえ」  と智美は半ばポカンとして、半ば感心した様子で聞いている。 「それに、自分の時間っていうものがなくなるんです。以前なら、五時になって、会社を出たら、もう仕事のことなんて考えなかったのに、今は寝ていても何か忘れていたことを思い出すと、あわてて起き出してメモしたりするんです。——二十四時間勤務みたいなものですわ、社長なんて」 「へえ、真面目なのねえ」  智美は呆れたように言った。「真鍋なんて、仕事中だって平気で私のお尻に触ったりするわよ」 「それでストレスを解消してらっしゃるんじゃありません?」 「ストレス?——あの人にストレスなんて縁がないわよ」  相変わらずウイスキーをぐいぐいとやっている真鍋を見ながら、智美は言った。 「一体いつまで引っ張り回す気なのかしら?」  バーの外では、純子と谷口がいい加減くたびれて、大《おお》欠伸《あくび》の最中だった。 「本当に中にいるんでしょうね」  と純子は不安になって来た。 「大丈夫です。あの店には裏口がありません」 「それならいいけど……」  純子はしばらく黙ってバーの方を見ていた。停めてある車にもたれかかって見張っているのだが、どうにも足がだるくなって来る。 「谷口さん、悪いわねえ」  と純子は言った。「あなたにこんなことまでさせて」 「いいえ、どういたしまして」 「何かお礼しなくちゃ」 「一緒に食事していただきましたよ」  何てまあ慎《つつま》しい人かしら。——これでもう十歳若くて、もうちょっとハンサムだといいんだけどねえ。  純子もなかなかシビアなのである。 「時に、あの社長さんの彼氏はどうしました?」  と谷口が訊《き》いた。 「ああ、林君ね。彼にはあの料亭へ残ってもらったのよ。何だか怪しい気がしない? 一旦引き揚げておいて、また戻る気じゃないかと思って」 「なるほど。あそこはかなり、その手のことで真鍋が利用しているようですね」 「そうでしょう? だからね、ちょっとカマをかけたわけ。こっちの人手は少ないけど、今の様子なら……」 「本当にもう……飲めませんよ」  さすがに三枝も少し舌がもつれて来る。 「そうか。じゃそろそろ帰るか」 「そうしていただければ」 「おい、ママ。車、呼んでくれ」  と真鍋は声をかけた。「——智美、帰るぞ。おや、社長さんはどうした」  伸子は酔いが回ったのか、テーブルに伏せて眠っている様子。真鍋は一瞬、ふっとほくそえんだ。 「お休みになっちゃったわよ」 「こりゃいかん」  三枝がカウンターから離れて、「社長……。しっかり……」  と歩き出して、たちまち足がもつれて転びそうになる。どっちが「しっかり」なのか分かったものではない。 「まあ座ってろ。車が来たら自宅まで送らせるから心配するな」 「真鍋……さんの自宅じゃありますまいね」 「心配するな。いくら俺が女好きでも、取引先の社長にまで手は出さん」 「それ……なら結構……ですが」 「信用できなきゃ車に乗ってけ。俺はここでまだしばらく飲んで行く」 「はあ。ではお言葉に甘えて……」  それなら安全、と三枝もホッとした。  ほどなく車が来て、真鍋と智美が伸子を両側からかかえて立たせると、バーから表へ出た。 「——出て来たわ!」  と純子が目を見開いた。「伸子さん、どうしたのかしら? ぐったりして……。タクシーでどこかへ連れていかれるわ! ねえ、谷口さん、あの真鍋って奴を射殺して!」  と穏やかでない。 「そ、そこまではちょっと……」 「あ、待って。——三枝さんが一緒に乗って行くわ。あの女も……。あら、真鍋はバーへ戻って行っちゃったわ」  タクシーは、伸子、三枝、智美の三人を乗せて走り去った。  純子は、ちょっとの間ポカンとして見送っていたが、やがて拍子抜けといった態で、 「何だ。結局どうってことなかったのね」  と息をついた。「——ごめんなさい、谷口さん」 「いいえ……」  谷口は、どうもすっきりしない表情だった。もともとすっきりした顔はしていないが、それを差し引いてもなおそうなのである。 「どうかして?」 「いや、どうもひっかかるんです。——おたくの社長さんと、部下の方は分かるけど、なぜ自分の恋人まで乗せて帰したのかな。これから二人で楽しもうってときじゃないですか」 「そう……。それはそうね。じゃ、これもあの真鍋の手《て》だっていうの?」 「だとしたら、危ないですね」 「ど、どうしたらいいかしら?」 「ともかく真鍋を見張っていましょう」  と谷口は言った。「真鍋を追ってりゃいいんですよ、結局は」 「そうか。じゃまたしばらく頑張る? あなたは大丈夫?」 「ええ、私は一向に」  純子は、初めて、多少《・・》谷口を頼りに思った……。  タクシーに乗って、一分とたたない内に、三枝は眠り込んでしまった。これで安心、と気が緩んだのだろう。 「ちょっと、行き先を変えて」  と智美が運転手に声をかけた。「——この料亭へ行ってちょうだい」  タクシーは〈雪路〉へと向かった。  昌也は、〈雪路〉の玄関が見える所にオートバイを停めて、うつらうつらしていた。見張っているつもりが、つい眠くなって来たのである。  オートバイは友人からの借り物だった。これならたとえ相手が車でも追いかけて行ける。  しかし、こうしてじっと待っているのは、却《かえ》って辛かった。どうせならバイクでもぶっとばしている方が……。 「ん?」  タクシーが料亭の玄関先に停《と》まった。客を乗せて来たのだ。 「変だな」  と昌也は首をひねった。いくら何でも、こんな時間から来る客があろうとは思えない。——じっと目をこらしていると、降り立ったのは、真鍋とかいう男と一緒だった女だ。  はて?——と見ていると、店から男が出て来て、タクシーから誰かをかかえこむようにして降ろしている。 「伸子さんだ!」  気分でも悪くなったのだろうか? 昌也は飛び出して行きたい衝動に駆られたが、勝手に動くのは、よほど緊急の場合に、と純子に言われている。  それに、タクシーは、そのままどこかへ走って行ってしまった。真鍋は乗っていなかったのだ。真鍋がいなければ、伸子が襲われる心配もないわけだ。  もう少し様子を見よう、と昌也は思った。 「出て来たわ」  と純子が声をひそめる。  真鍋がホステスたちに送られて出て来る。 「タクシーが来たわ」  店で呼んだのだろう、真鍋の前へ来て、ピタリと停まる。 「追いかけましょう」  と谷口が純子を促す。谷口がレンタカーを借りて、近くに停めてあるのだ。 「早く早く」  二人は真鍋を乗せたタクシーが走り出すのを見て走り出した。角を曲がってすぐの所に、車が置いてあるのだ。 「——あら!」  と純子が立ち止まった。車がない! 「どうしたのかしら?」 「変だな確かにここへ——」 「あれだわ!」  と純子が指さす先を見れば、二人の乗って来た車がレッカー車で引かれて行く。 「しまった! 駐車違反で持って行かれたんだ!」 「どうしましょう?」 「ここはめったに取り締まりをやらないんですが……」 「そんなことより、真鍋を——」 「タクシーを拾いましょう!」  と言ったって、そう都合よく、お待ち遠さまとタクシーの来るはずもなく、真鍋の乗ったタクシーはとっくに見えなくなってしまっていた。  やっと空車が来て、乗り込んだものの、 「さて、どこへ行きます?」  と顔を見合わせる。 「仕方ないわ。こうなったら勘を頼りにあの料亭へ戻りましょう」  まさか車を持って行かれるとは! 正に計算違いだった。 「完全犯罪っていうのは難しいのね。よく分かったわ」  と純子が言うと、運転手がジロリとバックミラーをにらんだ。  しかし、純子の勘は当たっていた。真鍋の乗ったタクシーは〈雪路〉へ着いたのである。ただし、裏口の方だった。 「おい、開けてくれ」  と真鍋が声をかけると、女将が格子戸をガラガラと開けた。「——来てるか?」 「ええ、いつもの部屋に。でも……」 「何だ?」 「いえ……別に……」  女将の方は、谷口と純子が吹き込んだでたらめを信じているので、真鍋と共犯で捕まるのはいやだし、かと言って、真鍋に殺されでもしたら困るし……と迷っているのである。  真鍋が裏口から入ったのは、別に表で昌也が見張っているのを知っていたからではなく玄関の方はもう戸閉まりをしてしまっていたし、用があるのは、離れの方で、裏口からの方が近いというだけのことだった。 「風呂は入れるか?」 「ええ。でも……今日はやめておいたら?」 「どうしてだ?」 「だって、まだずいぶんお若い人じゃありませんの」 「だからいいんだ。お前みたいな年《とし》増《ま》とは違う」 「まあ」  と女将はむくれた。  離れの襖《ふすま》を開けると、智美が座っていた。 「どうした?」 「奥で眠ってるわ。一緒に居た人は眠っちゃったから、運転手に言って送らせた」 「どこへ?」 「尾島産業のビル」  真鍋は笑いながら、 「そいつは上出来だ。出勤する手間が省けるだろう」  と言いながら、奥の部屋を覗く。——布団の上で、伸子が眠り込んでいる様子。 「この手の女は飼い慣らすと味が出て来るんだ」  真鍋はニヤリとして、「ご苦労だった。もういいぞ」 「お風呂へ入るんでしょ。逃げないように見張ってあげるわ」  と智美が言った。 「気がきくな。じゃ、さっぱりして来る。頼むぞ」  真鍋が出て行くと、智美は立ち上がって、そっと奥の部屋を覗き込んだ。  純子と谷口は、〈雪路〉の前でタクシーを降りた。 「もう閉まっちゃってるわ」 「暗くなってますね」  二人が話していると、 「純子さん」  と、見張っていた昌也がやって来る。 「あ、林君。ご苦労さま。誰かここへ来なかった?」 「伸子さんが」 「ここへ?」 「ええ。あの真鍋って奴にくっついていた女も一緒です」 「真鍋は?」 「来てませんよ」  純子と谷口は顔を見合わせた。 「変ね。なぜ、わざわざ伸子さんをここへ連れて来たのかしら?——林君、もう一人タクシーに乗ってたでしょ」 「いいえ」  と首を振る。「二人だけですよ、降りたのは」  すると三枝はどうなったのか? 「どうも気に入らないわね……」 「そうですね。真鍋に妙な下心がなければ、ここへ運んで来るというのはおかしい」 「でも真鍋はここへ来てないのよ」  三人は考え込んだ。——踏み込んでもいいが、もし店から訴えられでもすれば、弁解のしようがない。 「こっそり忍び込んでみますか」  と昌也が言った。 「それこそ捕まったら住居不法侵入ですよ」 「そうねえ。ただ、伸子さんが気分が悪いので、ここへ寝かせるために降ろしたとも考えられるわけですものね」 「ともかく真鍋が来なければ、社長さんは大丈夫でしょう」 「——もう少し、様子を見ていましょう」  と純子は言った。  真鍋は浴槽に浸《つか》って、鼻歌を歌っていた。アルコールに関しては、正に底抜けに近い真鍋だが、女に関しても、また人並外れた体力を誇っている。  真鍋は一目見て桑田伸子が気に入っていた。もちろん智美のようなグラマーだって嫌いではないが、伸子のように、全く男というものに触れたことのない体を我がものにするというのは、やはり格別だった。  一旦ものにしてしまえば、後は思いのままにつなぎ止めておけるという自信はある。  実のところ、伸子を狙ったのは、ただ、女としてだけではなかった。尾島産業そのものを掌中に収めたかったのである。  もともと尾島産業は、真鍋が目をつけていた会社である。しかし、尾島社長は大物ではないが、なかなかずる賢い男で、ちょっと手を焼きそうだというので敬遠していた。  だが、今度の社長はあの小娘だ。桑田伸子を、思いのままに動かせるようになったら、何も株を買い占めたりしなくとも、尾島産業を自由にできる。  もちろん株主たちに怪しまれては困るが、それぐらいごまかすのはわけのないことだった。  それには、まず今夜だ。たっぷり可愛がってやらなくては……。 「ねえ」  と声がして、風呂場の戸が開く。 「智美か。何だ?」 「もう出るんでしょ?」 「ああ。お前も入るか」 「冗談じゃないわ。こんな夜中まで付き合わされて、くたくたよ。帰るわ」 「よし、分かった。あの娘は?」 「手間を省いてあげたわ」 「手間?」 「服を脱がせといたからね」 「妬《や》いてるな」  と真鍋が笑った。 「あんたにやきもちやいてたら、きりがないわよ」  智美は言い返した。「それじゃ、せいぜい頑張って」  智美が行ってしまって、なおしばらく湯舟につかってから、真鍋は風呂を出た。  今さら服を着ても仕方あるまい。裸体にバスタオルを巻いただけで、離れへ戻って行く。——奥の部屋は明かりが消えていた。智美が脱がせた、伸子の服がその辺に散らばっている。  気がきくというか何というのか。——ともかく眠っている内にものにしてしまうか。  後は目を覚まして、泣こうがわめこうが、もうこっちのものだ。  真鍋は、バスタオルを取って投げ捨てると、布団の方へと歩いて行った。 「タクシーが来た」  と昌也が言った。 「——あれは空車だわ」 「呼ばれて来たのかな」  三人が見ていると、タクシーは、〈雪路〉の前で一旦止まったが、また動き出したと思うと、細いわきの道を入って行った。 「どこへ行くのかしら?」 「これは……もしかすると……」  と谷口が呟《つぶや》くように言った。 「何なの?」 「ここの裏口へつけたのかもしれません」 「裏口……。それじゃ、もしかすると真鍋も裏口から——」 「行ってみましょう!」  三人は一斉に走り出した。  タクシーが入って行った細い道を辿《たど》ると、急に広い道へ出る。タクシーが、〈雪路・通用口〉という木戸の前に止まっていて、店の中から、あの女将《おかみ》が出て来るところだった。 「待った!」  声をかけて谷口が飛び出して行くと、女将が悲鳴を上げそうになる。 「あ、あなたはさっきの——」 「真鍋は? 裏から入ったのか?」 「そ、そうです」 「大変だわ」  純子が青くなる。「今、どこに?」 「離れです。その右手の奥の」 「伸子さんも?」 「あの若い人ですね。ええ……もうたぶん、済んじまったんじゃ……」 「殺してやる!」  昌也が猛然と飛び込んで行った。純子たちもあわてて後に続く。女将が、 「私はおどかされてやったんですよ! 本当ですよ!」  と追いかけるように叫んだ。  三人はドタドタと廊下を走って、渡り廊下でつながった離れへと駆けつけた。 「誰だ!」  暗がりの中から、真鍋の声がする。谷口が明かりをつけた。真鍋が裸の上半身を布団から起こした。 「何だ、一体お前たちは?」 「よくも伸子さんを——」  昌也が血相を変えて飛びかかろうとすると、 「林君! 乱暴はだめよ!」  と伸子の声がした。が——どうも妙な所から聞こえて来たのだ。  ガラリと、押し入れの襖が開いて、中から、伸子が出て来た。 「伸子さん! 大丈夫だったの?」 「ええ。この通り、服はちょっと合わないけどね」  真鍋が唖《あ》然《ぜん》として、 「それじゃ一体——」  とアングリと口を開ける。 「あんたって恋人の体も分からないの?」  布団から顔を出したのは智美だった。 「智美!」 「智美さんが私と入れ代わって下さったのよ」  と伸子は言った。智美が真鍋に向かって、 「あんたにはこんないい人、もったいないわよ、私ぐらいで我慢しときなさい」 「畜生! 貴様……」 「さ、みなさん、引き取ってちょうだい。私たち、今から、ゆっくり話があるの。ねえ、あんた?」  真鍋は、ゆでダコの如く、真っ赤になっていた。谷口が進み出て、警察手帳を見せ、 「真鍋さん。今夜は見逃しますが、これは立派な婦女暴行ですぞ。今後は自重なさることです」  と、静かに言った。なかなかどうして、さすが本職だけあって、決まってるわ《・・・・・・》、と純子は思った。 「ごめんなさい、ご心配かけちゃって」  と表へ出ると、伸子が言った。 「大丈夫? ずいぶん飲まされたんでしょ?」 「そうでもないわ。私、飲んでも酔わないもの」 「でも……アルコールはだめだって……」 「嫌いだけど、飲んでも別に酔わないの。田舎ではよく飲むんですもの」 「なんだ。それじゃ、酔いつぶれたんじゃなかったの?」 「違うわ。眠かっただけよ」  四人は何となく笑い出した。 「智美さんの服、後で返さなきゃ」 「伸子さんの人柄ね。あなたって本当に、社長の器《うつわ》だって気がして来るわ」  と純子が感服したように言った。 「みなさん、いかがです?」  と谷口が言った。「どこか深夜レストランへ行って、一息つきましょう。立ちんぼで疲れたでしょう」 「本当だわ、私にごちそうさせてちょうだい」  と伸子は言った。  三人は通りかかったタクシーに乗り込んで、手近なレストランへ向かった。昌也がオートバイで後に続く。車の中で、伸子がふと思い付いて、 「そうだわ。三枝さん、どうしたのかしら?」  と言った。 「それじゃビルの裏口に放り出されたの?」 「そうなんです」  三枝は頭をかきながら言った。  翌朝、出社して来た伸子は、入り口に座り込んでいる三枝を見て目を丸くした。髪はくしゃくしゃ、不精ひげがのびて、ネクタイはひん曲がって、どうにも見られないスタイル。 「しかし、社長がご無事で何よりでした」 「三枝さんも大変だったわね。ずいぶん飲んだんでしょう」 「はあ、頭の中に東大寺の鐘が鳴り渡ってる感じです」  伸子は微笑《ほほえ》んだ。 「今日は休んでちょうだい。私は大丈夫だから」 「それではお言葉に甘えて……」  三枝は軽く会釈して、「イテテ……」  と頭を抱えた。  始業して間もなく、社長室の電話が鳴った。純子が取って、 「——分かりました。ね、伸子さん」 「どなたから?」 「真鍋からよ。どうする?」 「出るわ、もちろん」  伸子は受話器を上げた。純子がつなぐと、 「やあ、社長さんかね」  と真鍋の声。 「昨晩はどうもごちそうになりました」  純子が、あんな奴に礼を言うことない、と顔をしかめている。 「いや、私の完敗だ。あんたはいい社長になるよ」 「恐れ入ります」 「もう妙な気は起こさん。何か私で役に立つことがあったら言ってくれ。できるだけのことはさせてもらうよ」 「ありがとうございます。それでは……」 「何かあるかね?」 「ご注文をよろしく」  真鍋が大声で笑った。  昼休み。  十二時十五分頃の事務所は、最も静かなひとときを迎えている。  弁当持参の者は黙々と新聞を見ながら食べている。女の子たちは、おしゃべりに余念がないが、やはり外で食べる者の方がずっと多いので、事務所内は閑散としていた。  いくら食べるのが早い者でも、まだ外から戻ってはいない。廊下には人影が絶えていた。  ふと、一つの影が廊下を素早く横切って、倉庫室へと消えた。 「——ああ、おいしかった」  とお弁当組の一人、若原信代が食べ終えて、立ち上がった。 「お弁当箱を洗って来るわ」 「まめねえ」 「だって、すぐ洗わないと、汚れが落ちなくなるでしょう」 「こっちへ来るときに、包丁持って来てくれる? リンゴがあるの」 「分かったわ」  信代は廊下へ出ると、給湯室へ入った。流しで、弁当箱を洗い、ふきんで拭っていると、ふと何かこげている匂いに気付いた。 「変ね……」  どこだろう? 火の気のあるのは、この給湯室だけなのだが……。  いくら見回しても、別に燃えているものなど見当たらない。気のせいにしては、段々匂いが強くなるように思える。  信代は廊下へ出て左右を見回した。そして息を呑んだ。  倉庫室のドアの、上下の隙間から、黒い煙が静かに這《は》い出しつつあった。 「当面、何とか乗り切れそうだわ」  と、喫茶店で、伸子は言った。「問題は夏のボーナスね。どの程度出せるか……」 「余裕、ありそう?」 「難しいわね。でも、あのマンションを売却すれば、現金はできるけど」 「もったいないけどね」 「というか、あせって売ると高く売れないでしょ。それに殺人のあった部屋だしね。少しは安くなって仕方ないと思うの」 「それならいっそ売らずに使うとか」 「でも、管理費や何かを考えるとねえ……」  と伸子は考え込んでいる。 「ともかく、今は昼休みよ。少しのんびりしなさい。神経が参っちゃうわよ」 「そうね」  と伸子は微笑んでコーヒーカップを取り上げた。  そのとき、山本将之が、喫茶店へ飛び込んで来た。 「あ、社長! ここでしたか」 「どうしたの、あわてて?」 「大変です! 倉庫室から火が出たんですよ!」  伸子と純子は立ち上がった。椅子が後ろへ倒れて、ガタンと音を立てた。 「まあ、けが人がなくて幸いだった」  と、駆けつけた消防署の責任者が言った。 「どうもお手数をかけました」  と、伸子は頭を下げた。 「いや、有毒ガスを出す物がなかったのが幸いですよ。一番怖いのは煙だ。しかし、こいつはどうも不審火くさいですな」 「と言いますと……」 「火の気の全くない所でしょう。よく調べてみなくては分からないが、放火という疑いは当然起こります」 「放火!」  伸子は唖然とした。 「それはこちらの仕事ですから、任せればいいですよ。——災難だったが、まあこの程度で済んで良かった」  この程度で……。  猛火を経験している消防士にはそう思えるのだろうが、伸子の目には、水びたしになって、まるで川になったような廊下や、まだ白い煙が漂っている倉庫室のあたりを見ていると、どうにも、良かったという感想が湧《わ》いて来ないのである。  もちろん社員にけが人もなかったのは何よりだが、これから来るもののことを考えると、とても喜んではいられない。  そこへドカドカと係官たちが到着した。——馴れた手順で調査を始めると、伸子はいても邪魔になるだけだと思った。  事務所は、もちろん仕事にならない。それでも純子が率先して、床の水を廊下へ押し出したり、掃除を始めていた。 「——どうだった?」  と純子がやって来る。大掃除みたいに、腕まくりをして、勇ましい。 「放火かもしれないって」 「そう。やっぱりね」  と純子が肯《うなず》く。 「純子さん、分かってたの?」 「だって、考えられないわよ、あんな所から火が出るなんて」  伸子はちょっと他《ほか》の社員の方を気にして、 「社長室へ来て」  と純子を促した。——社長室までは水も来ていない。中へ入ると、伸子はドアを閉めて言った。 「みんな、そう噂《うわさ》してる?」 「放火のこと? 今はまだそこまで頭が回らないんじゃない? でも、ちょっと落ち着けば当然……ね」 「参ったわ」  伸子はぐったりと椅子に腰をおろした。「何もかも台無しね」 「そんな弱気でどうするのよ。しっかりしなくちゃ。焼けたのは、事務用品だけじゃないの!」 「それだけじゃ済まないわよ」  と伸子は考え込んで、「この騒ぎで、ビルの下の階にもずいぶん迷惑をかけてるわ。何しろ廊下は川で階段は滝みたいになってるもの。当然、下の階も水びたし。その損害はこっちが補償しなきゃならないのよ」 「でも、保険に入ってるでしょ。保険金がおりるわよ」 「だめよ。放火となったらそうたやすく払っちゃくれないわ」 「あ、そうか……」 「この大変なときに、夏のボーナスどころじゃなくなるわね」 「やっぱりマンションを処分する手ね」 「それにしたって……。問題はまだあるわ。放火として、誰がやったのか、ってこと。外から来た人間ならいいけど——」 「まさか。誰がこんな所までわざわざ上がって来て火をつける?」 「そう思うでしょう? そうなると犯人は社内にいるってことよ。せっかく、みんなで一つになって頑張って来たのに……」  伸子の言葉は沈み込んで行った。——純子はしばらく考えていたが、やがて伸子のデスクに手をついて、言った。 「ねえ、伸子さん。あなたが社員を信頼しようとしているのは、とても立派だと思うけど、明らかにあなたの命を狙ったり、火をつけたりした人間がいるのよ。その事実は認めなきゃ。そいつを見つけて会社から叩き出すのよ! そうしなくちゃ、他の社員たちがお互いに疑ぐり合ってなきゃならなくなるわよ。そうならないためにも、もう温情なんかかけてちゃだめ。警察に協力して、断固犯人を見付けるって、強い姿勢を見せるのよ。その方が、みんなずっと安心するわ」  伸子は純子の言葉に、しばらく目を伏せて考えていたが、やがて大きく息をついて、 「あなたの言う通りね」  と肯いた。 「まあ乾杯しましょうや」  元総務部長の柳が言った。  相手はもちろん元専務の北岡だ。 「これであの小娘も頭をかかえるだろう」  二人は、火事の後片付けなどまっぴらというので、会社の近くの喫茶店へ入っていた。従って、乾杯といっても、コーヒーで乾杯という、冴《さ》えない話なのだが……。 「しかし、巧《うま》く行ったなあ」  と北岡が言った。「丸焼けになったら困るし、といってほんのボヤでも面白くない。あの程度に焼くのは難しいだろう」 「全くですね。ちょうどいい具合で……。しかし、放火というのは、すぐにばれるんじゃないですか?」 「誰が犯人かなんて、分かりゃせんさ」 「その辺はまあ抜かりないと思いますが……」  と柳がちょっと言い渋る。 「何だ? 心配なのか?」 「ええ。何しろ北岡さんは専務から平《ひら》へ降格されて、あの娘の悪口を言いふらしてたでしょう。きっと会社に恨みを持つ人間、と社員が警察に訊《き》かれたら、真っ先に名が出ますよ」 「だから何だ? 俺はやっちゃいない。やってもいないのに捕まるもんか」 「え?」  と柳は面食らった様子で、「やっちゃいない、って……。いや、北岡さん、私にまで隠さなくたっていいじゃありませんか」  今度は北岡の方がキョトンとして、 「隠す? 何を?」 「誰も聞いちゃいませんよ。——火をつけたのは北岡さんなんでしょう?」 「馬鹿言え! 俺がそんな——」  と大声で言いかけて、あわてて声を低くして、「そんなことをするもんか! お前がやったんじゃないのか?」 「違いますよ。私はあの天ぷら屋で昼飯を食べてたんですから」 「俺だって、向こうのソバ屋で食べていたんだ。一緒だった奴もいる。俺じゃないぞ」 「私はてっきり北岡さんだと……」  柳が言葉を切った。「誰かにやらせたわけでもないんですか?」 「違うと言っとるだろう!」  北岡が苛々《いらいら》した口調で言った。「俺がやらせたのなら、お前に隠したりせんぞ」 「それもそうですねえ」  ——二人はしばし考え込んだ。 「じゃ、やったのは誰なんだ?」  と北岡が言った。柳は、ただ黙って肩をすくめた。  何となく二人とも釈然としない様子でコーヒーをすすっていたが、 「——北岡さん!」  と、柳が、ふと外の通りを見て言った。「ごらんなさい、ほら!」  北岡が外の方を向いて、 「どうかしたのか?」 「あそこを歩いている……。ほら、頭の毛をくしゃくしゃにしてる女ですよ」 「知り合いか?」 「何言ってるんです。尾島さんの奥さんじゃありませんか」  北岡は驚いて目を見張った。なるほど、よく見れば、確かに尾島久子である。 「いや……驚いた! ひどいな」 「見る影もなくやつれてますな」 「亭主が社長から平へ落とされただけでカーッとなってたのに、そこへもって来て殺人容疑で逮捕と来ちゃ、おかしくなるさ。しかし、哀れだな。まるで浮浪者じゃないか」 「どっちへ向かって歩いているか分からんって感じですね」 「何しに来たんだろう?」 「つい足が向くんじゃないですか? 過去の栄光と、恨みとで……」  柳は言葉を切った。——二人が顔を見合わせる。 「そうか……」 「間違いありませんよ! あの人が火をつけたんだ」 「怖いもんだな、女の執念ってのは」  と、二人は、表の通りを、まるで雲の上でも歩いているような足取りで行く尾島久子を眺めていたが、やがて、柳が、何を思い付いたのか、 「ちょっと失礼」  と立ち上がった。そして店を急いで出て行くと、尾島久子を追って行った。  すぐに、尾島久子を連れて店へ戻って来る。 「これは奥さん、お変わりなく。北岡です」  と立ち上がって頭を下げる。 「まあ、北岡さん。——最近はおいでにならないのね」  尾島久子は、どこか虚《うつ》ろな目で、しまりのない笑顔を見せて、言った。「何だか、このところ主人も忙しくて、あんまり家にいないのよ。会社は変わりありません?」  北岡と柳はそっと目を見交わした。かなりおかしくなっているようだ。 「ええ、奥さん。ご主人も頑張っておられますよ」  と柳が言った。「あ、何か注文しましょう。サンドイッチでも召し上がりますか?」 「サンドイッチ? そうね……。あまりお腹《なか》は空《す》いてないけど、少しいただこうかしら。コーヒーとね」  しかし、いざサンドイッチが運ばれて来ると、尾島久子は飛びつくように食べ始め、アッという間に平らげてしまった。おそらく、しばらくは何も食べていなかったのだろう。 「もう一皿いかがです? 何なら、スパゲッティでも?」 「ああ……そうね。でも……」  と尾島久子はちょっと笑って、「あんまり現金を持ち歩かないものだから、私……。ここはカードじゃだめなんでしょう?」 「何をおっしゃるんです。奥さんに払わせたりしませんよ」 「あら、でも悪いわ」 「いつも社長にごちそうになっているんです。これぐらいのお返しはさせて下さい」  と柳は如才ない。 「それじゃ……」  と尾島久子はホッとした表情になった。  スパゲッティを取ると、これも一皿ペロリと平らげ、 「また遊びにいらしてね。きっとよ」  と二人に微笑みかけながら、店を出て、少し元気な足取りで歩いて行った。 「どうしてわざわざ呼び入れたんだ?」  と北岡が言った。「尾島さんとは手を切ろうと話してたじゃないか」 「ちょいと思い付いたことがあるんです」  と柳がニヤリと笑った。 「何だ、一体?」 「あの夫人を利用するんですよ」 「利用? イカレてるんだぞ」 「そこですよ。——今の社長、あの小娘は、TVなんかですっかり人気が出ちまいました。だから、まずそのイメージをダウンさせる必要があります」 「どうやって?」  柳が身を乗り出した。 「あの娘が前社長を追い出し、その夫人は、今や落ちぶれて見る影もない。その話を週刊誌へ売り込むんです。夫人をうんと哀れっぽく描かせて、あの小娘が夫人をここまで追い詰め、しかも窮状を知りながら、援助の手も出さない、と書かせるんです。世間の同情は当然夫人に集まる。新社長は冷酷な人間だと反感を買いますよ」 「なるほど!」  北岡は肯いた。「しかし、そんな記事が巧く載るかな?」 「任せて下さい。その手の知り合いなら何人かいます。こういう話には飛びついて来ますよ」  柳は自信たっぷりに言った。  火事騒ぎから三日たった。  純子は家へ帰り着くと、靴を脱ぎながら、見慣れない靴が二足——それもあまり上等とは言いかねる男物——並んでいるのに気付いた。  父の客にしてはちょっと変だな、と思いながら玄関から上がると、母親が何やらあわてた様子で出て来た。 「純子、警察の方だよ」 「警察?」 「刑事さんがお二人で。お前に何か訊きたいことがあるって」 「へえ」  母の方は気が気でない様子。 「お前、何かやらかしたんじゃないんだろうね?」 「よしてよ。私が信じられないの?」 「お前ならやりかねないから……」  これでも親かね! カチンと来て、純子は仏頂面《ぶっちょうづら》で客間へ入って行った。  玄関の靴とそっくりの、つまりちょっと薄汚れて、くたびれた感じの男が二人、座っていた。 「竹野純子ですが」  と、ニコリともせずに座る。 「N署の者です」  と、年長の方の刑事が、チラッと警察手帳を覗《のぞ》かせる。あれはどうしていつもチラッとしか見せないのかしら、と純子は考えた。  ストリップじゃあるまいし、もっと、ちゃんと見せりゃいいのに。 「先日の火事の件について調べています」 「あら、ちょうど良かったわ」 「といいますと?」 「今日も社長と話していたんですの。放火らしいって話なのに、一向に警察から連絡がないし、一体どうなってるのかしら、って。社長も気分的に落ち着きませんし、何かこう説明でもあればね。明日、私の方から署へ伺って、お話を聞こうと思ったんですよ」 「そりゃどうも」  と刑事が苦笑して、「お待たせして申し訳ありませんでしたね」 「犯人は分かりましたの?」 「それを調べるために今日うかがったんですよ」 「私に何をお訊きになりたいんですか?」 「今、尾島産業は大分苦しいようですな」 「ええ。前の社長が能なしで」  と純子は言ってのけた。 「尾島一郎ですね。今、殺人容疑で逮捕されている」 「ええ。ついでだから放火の方も一緒にまとめていただけません?」 「そんなわけにゃ行きませんが……。新社長の桑田伸子という人は十九歳だとか。大騒ぎだったようですね、社長になったときには」 「そりゃもう。みんなどうなることかと思いましたけど、必死で頑張って、今じゃ、みんな彼女を信頼しています」 「なるほど、あなたも?」 「もちろんです」 「個人的にお親しいんですか?」 「別にそれほどでも。以前は、です。——今は親友同士ですわ」 「ふむ……」  刑事は意味ありげに肯いた。 「伸子さんがどうかしまして?」 「あの火事のあったとき、あなたはどこにいました?」 「私ですか? ええと……喫茶店です。会社のビルの近くの」 「お一人で?」 「いいえ。伸子さんと一緒でした。いつもそうですわ」 「会社を出るのも一緒でしたか?」 「ええと……そうです。一緒でした。私がエレベーターの前で待ってて……」 「待った? すると、桑田伸子さんは遅れて来たんですね?」 「少しね。ハンカチを忘れたと言って、社長室へ取りに戻ったんです」 「何分ぐらいかかりました?」 「よく分かりませんわ。すぐ戻って来ました。どうしてそんなことを訊くんです?」 「よく考えて下さい。桑田伸子さんが、そのとき倉庫室へ行って戻って来たとは考えられませんか?」  純子は、やっと刑事の質問の意味を理解した。 「何てことを……。あなたは、伸子さんが火をつけたと思ってるのね!」  純子がいきり立った。刑事の方は面食らって、 「いや——つまり、保険金目当てという例はよくあるので——」 「よくも伸子さんをそんな……。そんな馬鹿なことを考えてる暇があったら、その辺で交通整理でもやってらっしゃい!」  怒り始めると止まらなくなるのが純子の性格である。「出てけ! 帰れ! これ以上いると警察を呼ぶわよ!」  刑事を脅すにはちょっと妙な文句である。ともかく純子の剣幕に、二人の刑事は仰天して、 「では、また改めて——」  とあわてて客間を飛び出した。 「二度と来るんじゃないよ! 今度来たら、塩かけて溶かしちゃうからね!」  なめくじと間違えている。  ちょうど紅茶を淹《い》れて運んで来た母が、目を丸くして、その様子を見ていたが、 「純子、何事なの?」 「え? ああ、馬鹿を二人追っ払っただけよ。あら、紅茶なんか出さなくて良かったのに」 「もう作っちゃったよ」 「じゃ私とお母さんで飲もうよ、ね」 「そりゃいいけど、お前……」 「何よ?」 「お願いだから、監獄へ入れられるようなことだけはしないでおくれ。結婚だろうが同棲《どうせい》だろうが構わないけど、牢《ろう》屋《や》はどうもねえ……」  母は気が気でない様子だった。  こういう親は物分かりがいいのかしら、悪いのかしら、と純子は首をひねった。 「久しぶりでおいしかった」  と伸子がラーメンのつゆを飲んで、大きく息をついた。 「社長さんになって、ずいぶんおいしいものを食べるようになったんだろ」  と林昌也が言った。 「お付き合いでね。仕方ないのよ、口には合わないんだけど」 「いつまで、こうやって伸子さんとラーメンを食べてられるかなあ」 「何言ってるの。私なんか社長っていったって、名目だけよ」 「でも、大分、様《さま》になって来たよ」 「そう?——いずれにしても、そう長くはないわ。せめて一度は社長の月給を取りたいなあ」  伸子は笑いながら言った。 「火事の後始末は済んだのかい?」 「うん。思ったよりずっと安く上がったわ。下の階も実際の被害はほとんどなかったの。助かったわ」 「誰が火をつけたのかなあ」 「警察が調べてくれてるわ。きっとすぐ見付かるわよ」  まさか自分が疑われているとは、思ってもいないのだ。伸子は、昌也と二人でラーメン屋を出ると、 「アパートに寄って行く? お茶ぐらい出すわよ」  と誘った。 「うん、それじゃ」  二人でぶらぶらと夜道を歩いて行く。——人通りの少ない、静かな道を歩きながら、昌也が言った。 「今度、アパートを移ろうかと思ってるんだ」 「どこに?」 「大学の近くさ」 「そう……」  伸子は曖昧《あいまい》に言って、「今の所は不便なの?」  と訊いた。昌也は肩をすくめて、 「そうじゃないけど……。伸子さんの近くにいて、こうしてあれこれ厄介かけちゃってるのが悪くってね」 「何を言い出すのよ。私、林君と話をしてるときは、心からホッとしてられるの。そばにいてくれるのが嬉しいのよ」  と伸子は昌也の腕を取った。 「でもね、伸子さん、変わったよ。社長になってから、ぐんと成長した。以前なら、僕が伸子さんを守ってやるんだって気になったけど、今は……」 「私が社長になったのが気に入らないのね。でも、好きでやってるんじゃないわ」 「分かってるよ。でも、やっぱりそれなりの心構えができて、しっかりして来る。何だか手の届かない人になっちまったみたいでね。寂しいんだ」  伸子は足を止めて、 「これでも手が届かない?」  と言うと、いきなり昌也に抱きついて、キスした。昌也が唖《あ》然《ぜん》として、 「ど、どうしたの?」 「手が届かない、って言ったから、届くことを証明してあげたの」 「証明の過程が良く分からなかったから、もう一度やってみてくれないかな……」  二人が固く抱き合って、唇が互いを吸い寄せるように出会う。——初めてのキスだった。  翌日、出社した伸子は、自分のデスクに、一通の白封筒が置いてあるのを見た。  〈辞表〉とある。 「誰かしら?」  封を切り、中の書状を見てびっくりした。三枝ではないか!  文面は型通りで、「一身上の都合」としか記していなかったが、それにしても、しばらく伸子は呆然としてしまった。三枝に辞められては大変だ。  そこへ純子が入って来た。まだ怒っていて、 「伸子さん! 聞いてよ。昨日、うちへ刑事が来てね、何て言ったと思う?——伸子さん。どうしたの?」  何だか様子が変だということに気が付いて、純子が訊いた。  伸子は黙って、三枝の辞表を純子へ渡すと、 「三枝さんを呼んでちょうだい」  と言った。 「ええ。それにしても、突然どうしたのかしらね?」 「何とか思い止《とど》まってもらわないと……」 「すぐ呼んで来るわ」  ——だが、三枝は、意志を翻そうとはしなかった。ただ、 「申し訳ございませんが、どうしても事情がありまして」  とくり返すばかり。 「三枝さん、あなたをいつまでも今の地位には置きません。あなたは私に手とり足とりで色色なことを教えて下さったし、これからも教えていただかなくては、私、どうしていいか分かりませんわ」 「いや、社長はもう大丈夫です。立派にお一人でやって行けますよ」  と三枝は微笑《ほほえ》んだ。 「無理に止めることはできません。でも、もう一度考え直していただけないかしら?」 「残念ですが……」  と三枝は言った。  伸子は深く嘆息した。 「——分かりました。来月末日付ですね」 「よろしくお願いします」  三枝が一礼して出て行くと、伸子はしばらく考え込んでいた。 「三枝さんがいなくなると痛いわねえ」  と純子が言った。 「私が気に入らないのかしら? 私のやり方、間違ってる?」 「そんなことないわ、大丈夫よ」  と純子が力づける。「きっと、何かよほどの事情があるのよ」 「それを話してくれればねえ……せめて」  と伸子は寂しげに言って、「じゃ、この辞表、次の幹部会議の議題に入れておいてくれる?」 「はい」 「それから、さっき純子さん、何か言いかけたわね」 「え?——ああ、馬鹿らしい話なのよ」  純子はちょっと今はまずいな、と思った。伸子が自信を失いかけている。こんなときに放火の疑いを持たれてるなんて言ったら……。 「刑事がどうとかって言ったでしょ」 「うん……。後で話すわ」 「今、話して。業務命令よ」 「ずるいんだから、もう!」  純子は渋々、昨日の刑事の言い分を話した。伸子はゆっくり首を振って、 「放火犯にされちゃってるの、私? ひどいなあ……。今日は仏滅?」  と訊いた。  何となく仕事に気の乗らないままに、昼になった。  例によって、伸子と純子は一緒に外へ出て、和風喫茶に入った。おにぎりがなかなか旨《うま》いのである。 「食欲がないわ」  と伸子が言った。 「何言ってんの。ちゃんと食べる物を食べないと、社長業はつとまらないわよ」 「どうせ私は失格なのよ」  と、すっかり落ち込んでいる。  そこへ、中年の婦人が入って来た。そして二人を見ると、おずおずと近付いて来て、 「あの——尾島産業の社長さんでいらっしゃいますか?」  と訊いた。 「はい、私ですが」 「まあ良かった、お会いできて」  とその婦人は伸子と向かい合って座った。 「どちらさまでしょう?」 「私、三枝の家内でございます」 「まあ——」  伸子と純子は顔を見合わせた。 「あの……主人は辞表を出しましたでしょうか?」 「はい。ご存知なかったんですか?」 「やっぱり……」  と、三枝の夫人は肯いて、「主人は理由を申しましたでしょうか?」 「それが、いくら伺っても教えて下さらないのです。奥様はご存知でいらっしゃいますか?」  と伸子は訊いた。  三枝夫人——治《はる》子《こ》という名前だった——は伸子の質問に、 「実はそのことで、社長さんにお話をしようと思って参りましたの」  と言った。 「ぜひ伺わせて下さい。どうして急に三枝さんがお辞めになると言い出したのか」 「はい。あの、これは主人には内緒にしていて下さいませんでしょうか」 「とおっしゃいますと?」 「主人から固く口止めされているのです。特に社長さんのお耳へは入れるな、と」  伸子はちょっと当惑したが、 「分かりました。お約束します」  と肯いた。「あの——よろしかったら、おにぎりでもいかがですか?」  女性同士の話は、食べ物があるとスムーズに運ぶのである。三枝治子も例外ではなく、 「まあどうも。そう言えば今朝から何も食べていなくて……」  と早速シャケのおにぎりを頬ばり始めた。 「——それで、昨夜のことなんですが」  と、指についたご飯粒をなめなめ切り出した。 「夕食の後、電話がありました。私が出ますと、主人に代わってくれと言うのですが、名前を言いません。でも、すぐに柳さんだと分かりました。元部長の柳さんですわ。私、結婚前は電話の交換手をしていましたので、人の声の記憶力には自信があるんです」 「はあ」  色々と特技というのはあるものだ。 「主人が出ると、何だか呼び出されたようで、主人はすぐに出かけて行きました。——帰って来たのは夜中でした。別に飲んで来たわけでもないらしくて、ただえらく難しい顔で帰って来ました。私が何か訊いても、ろくに返事もしません。お風呂に入り、上がって来て落ち着くと、私を前に座らせて、『俺は会社を辞める』と言い出したんです」 「びっくりなさったでしょう」 「はい、それはもう。何しろ今いる家だってローンは払い始めたばかりですし、転職、再就職のあてがあるわけでもないのです。『一体どうしたの』と訊いても、なかなか返事をしてくれません。で、『私と子供を心中させる気?』とかみついてやると、やっと渋々口を開きました」 「柳さんがご主人に何か言ったんですか?」 「ええ。実は——私も初めて知ったのですが——主人は、今の家を買うとき、社員の住宅資金の規定をはるかにオーバーした額を会社から借りているんです」 「それは——」 「尾島社長——前の社長さんですわね、あの方が特例として認めて下さったらしいんです」 「それなら問題ないじゃありませんか」 「いえ、それを名目上、三人の社員の方の名前を使って借りたらしいのです。もちろんそれは規則違反なわけで、他《ほか》の二人の方は何も知らないんですもの」 「そうでしたか。じゃ、その二人の給料から、返済分が引かれてるんですか」 「ええ」 「そりゃ大変だわ」  と純子が思わず言った。「で、その二人っていうのは、誰と誰なんです?」 「それが……社長さんと秘書の竹野さんのお二人だそうで」  伸子と純子は顔を見合わせた。  三枝治子は続けて、 「でも、金額的には、他の名目で足してあるから、ほとんど変わらないはずだと申してましたわ」 「じゃ、やっぱり安月給なんだ」  と純子が改めて納得した様子。 「ともかく、そのお二人なら、ご自分で住宅資金を借りることはまずないだろうというわけです。でも、これは規定に違反していることは間違いありません」 「なるほどね……」  伸子はちょっと考えていたが、「で、そのことを、柳さんが知っていて、それをご主人に——」 「はい。どうも柳さんたちは社長さんに対して何か良からぬことを企んでいるらしいんですの。で、主人にもそれに加われと、不承知なら、住宅資金のことをみんなにばらすと言うわけです」 「何て奴かしら!」  と純子が憤慨して、「ビルの天辺《てっぺん》から蹴落《けお》としてやりたいわ」  と、例によって、表現はかなり過激なのである。 「でも主人は拒否しました。会社を辞め、家もアパートへ引っ越すと言うんです。私も、あの人がどうしてもそうするというなら、ついて行きますが、柳さんたちのために、そんなことになるのも腹の虫がおさまらなくて、こうして社長さんにお会いして事情を説明しようと思いましたの」  伸子はゆっくり肯《うなず》いた。 「よく分かりましたわ」 「主人のやったことが間違っていたのは事実ですが、それは前の社長さんが、そうすればいいとおっしゃったのに従ったわけで、決して主人はそんな悪知恵の働く人じゃありません」 「ええ、それは私にも分かります」 「どうかよろしくご判断いただきたいと思います」  と三枝治子は頭を下げる。 「まあ、やめて下さい」  と伸子があわてて言った。「私の方こそ、三枝さんには手とり足とり教えていただいているんです。今辞められては、本当に困ってしまうんですもの」  純子が口を挾《はさ》んで、 「代わりに柳さんをクビにして一件落着ってわけにいかないかしら?」 「まさか。水戸黄門じゃあるまいし。——ともかく、奥さんは安心なさっていて下さい。必ず何とかいたします」 「それを伺ってホッとしました。おにぎり、もう一ついただいてよろしいかしら?」  三枝治子は、なかなか面白い人間らしかった。伸子はもう一人前、おにぎりとお茶を注文した。 「そうだわ」  と純子がふと気付いた様子で、「さっき、奥さん、お話の中で、『柳さんたち《・・》』とおっしゃいましたね。他にも誰かが?」 「はい。名前は分かりませんが、主人があいつらと言ってましたので……」 「大体見当はつくわね。いつも柳さんとくっついて歩いてるのは北岡元専務よ」  と純子は言って、「何か手を打たなくちゃ、こっちも」 「私たちは何も悪いことなんかしてないわ」  と伸子が微笑みながら言った。 「だめねえ、そんな甘いことばっかり言って!」  それを見ていた三枝治子が、言った。 「主人も言ってましたけど、本当にいいコンビでいらっしゃるんですね、お二人は」 「お呼びですか」  と三枝が入ってきた。 「あ、入って。かけて下さい」  と伸子は言った。  三枝は、ちょっと落ち着かない様子で、椅子に座った。  伸子はしばらく黙って書類をめくっていたが、やがて、顔を上げると、 「三枝さん。実は今、あなたの住宅資金貸付の書類を見ていたんですけど——」  と言いかけると、 「申し訳ありません」  三枝はあっさり頭を下げた。「何も弁解はいたしません」 「私と竹野さんが、三枝さんの家と同じ住所の家を購入したことになってますね」 「はあ。実は黙ってお二人の名前を——」 「三枝さんのお宅は、お庭はあるんですの?」 「は? ——ええ、多少は」 「プレハブの倉庫ぐらい建てられるかしら?」 「倉庫?」 「大きいものじゃなくって。よくあるでしょう、勉強部屋とか物置とか。二畳か三畳ぐらいの広さで組み立て式というのが」 「ええ、まあその程度でしたら……」  三枝は、わけが分からない様子。 「よかったわ。ねえ、純子さん」 「本当。私も洋服の置き場に困ってたの」  と純子が言った。 「どういう意味です?」 「あなたのお宅に、多少私たちも権利があると分かったんで、二人で庭に一つ小部屋を造ってもらおうと決めたんですの。一応ちゃんと、〈桑田・竹野〉って表札をかいて、一軒の家という体裁にしてね。そうすれば、三人で同じ家を買ってもおかしくないでしょう」 「社長……」 「何を言われたって大丈夫。共同住宅なんですから。その替わり、そのプレハブは三枝さんに買って組み立てていただきたいわ。私と純子さんがやったんじゃ、風が吹いたらペシャンとつぶれちゃいそうですものね」  と伸子はそっと言った。「用はそれだけです。どうも忙しいのに、ごめんなさい」  三枝は何とも言えない様子で立ちあがった。 「あ、そうだわ」  と伸子は、「純子さん、三枝さんに返してあげて」  と言った。純子が、書類入れから、封筒を出して来ると、 「はい、辞表をお返しします」  と差し出した。三枝はそれを受け取ると、 「早速破きましょう」  と言うなり、目の前で二つに裂いた。  三枝が出て行くと、純子が言った。 「三枝さんに訊《き》いてみりゃ良かったのに」 「何を?」 「例の『あいつら』のことよ。柳さんと北岡さんは見当つくけど、他にも誰かいるかもしれないわ」 「だめよ。それじゃ告げ口になるわ」 「あら、だって——」 「告げ口は、した方もされた方も傷つけるわ。いいのよ、それはそれで。こちらにやましいことがなければ、心配ないわ」  純子はため息をついた。 「そりゃ、あなたの言うことは分からないでもないけどね。向こうは色々と汚い手を使って来るのよ。こっちだって対抗しなきゃ。——そうだわ!」 「何よ、急に大きな声出して」 「放火よ! あれもきっと柳さんたちのやったことだわ」 「まさか。いくら何でも——」 「分かるもんですか。谷口さんに教えてやろう」  そこへ電話が鳴った。「はい警察です。あ、違った。社長室です。——え? 警察?」  ——社長室へ入って来たのは、昨日、純子の家へやって来た二人の刑事だった。 「あら、昨日はどうも」  純子が澄まして言うと、二人の刑事は、ぎょっとして後ずさりした。 「純子さん、お茶を。——どうぞおかけ下さい」  と伸子は言った。  一通りの話が済むと、刑事が言った。 「いや、昨日はそちらの竹野さんに散々怒られましてね。一応当たってみたところ、お二人のアリバイは完璧《かんぺき》です。どうも、我々はつい過去の例にすぐ当てはめようとするくせがありましてね」 「お仕事ですもの。当然ですわ」 「あなたの評判もすこぶるいいですな。正直なところびっくりしました」 「恐れ入ります」 「放火についてはお心当たりはありませんか」 「はあ……。確かに、幹部クラスの方で、今度急に平《ひら》へ格下げになって私を恨んでいる方はおられると思います。でも火をつけるというのは……」 「どちらかと言うと、女の犯行という気がするのですがね」 「女ですか?」  と伸子が驚いて訊き返した。 「男は生活を支えているという頭がありますから、文句は言っても、渋々新しい秩序に従うものです。しかし女の場合は、カッとなると、先のことなど考えずにやる傾向がありますからね」 「男女差別だわ!」  純子が憤然と言った。 「でも、それは……そんな立場の女性がいるとは思えませんわ」  そう言いながら、伸子は、尾島久子のことを思い出していた。もしかしたら、あの人が……。 「それはそうと、あの殺人事件の方はどうなっているんでしょう?」  と伸子は訊いた。 「さあ、担当が違うので、よく分かりませんが、前の社長さんの尾島さんが逮捕されてるんでしたね」 「ええ」 「まだ自白したという話は聞きませんが」 「そうですか……」  伸子は暗い気持ちで肯いた。尾島久子はどうしているんだろう……。 「物好きねえ、伸子さんも」  純子は重い紙袋をぶら下げて、フウフウ言いながらぐちった。 「お願い。我慢してよ」  と、伸子が言った。  伸子と純子、それに三枝の三人は、尾島の家へと歩いていた。  三人とも両手に紙袋を持っている。伸子が、食料品をドサッと買い込んで来たのだ。 「あの先ですよ」  と三枝が言った。  尾島の家は、暗く、カーテンも閉めたままだった。 「いないみたいね」 「いい家ねえ。ここを叩き売りましょう」  と純子が言った。 「門が開いてますよ」  と三枝が言って、格子の扉を開いた。「入ってみましょう」  三人は、前庭を抜けて、玄関へやって来ると、荷物を下へおろした。  三枝がチャイムを鳴らす。一向に返事はなかった。 「留守ですかねえ。——あれ」  ドアのノブを回すと、スッと開く。「開いてる。不用心だな。——奥さん! 三枝です! 奥さん!」  三枝が呼びかけたが、家の中はシンと静まり返っていた。 「変ねえ」  と純子が言った。 「どこかへ行ってるのかもね」  と伸子は言って、「上がって、待たせてもらいましょうよ」  と靴を脱いだ。  三枝と純子も、続いて上がり込む。 「夜逃げでもしたかな」  と純子が言った。 「そこが客間です。お二人はそこにいらして下さい。私が捜してみましょう」  三枝が言って、廊下を歩いて行った。  純子と伸子は、椅子にかけて、何となく部屋の中を見回していた。 「すっかり埃《ほこり》になってるわね」  と純子が言った。 「本当ね。——お掃除する気にもならないんでしょう、きっと」 「こういう立派な家って、放ってあると、あばら家よりよほど惨めたらしくなるものね」 「そうよ。——社長業も同じね。努力しないと、自分がいやになるわ。お茶くみの頃は楽だった……」  純子は伸子をじっと見て、 「もう、戻りたい?」  伸子は微笑んだ。 「そうね。できるものなら。——でも、今はだめだわ。今、放り出したら無責任ですもの。やれるだけやってだめならともかく……」 「——変ですねえ」  と三枝が入って来る。 「台所は割合片付けてあるんですが」 「じゃ、きっとその辺まで出かけたのよ」  と伸子が言ったとき、純子がふと眉をひそめた。 「——ねえ、この匂い……」 「え?」 「何か、匂わない?」  三枝と伸子が鼻をひくひくさせた。 「私は匂いませんな。だめなんです。鼻が悪いので」 「ガスの匂いじゃない?」  と伸子が言った。 「大変だ! どこだろう?」 「早く、手分けして探すのよ!」  三人は客間を飛び出した。  尾島久子は奥の和室で倒れていた。八畳間で、隅のガスの栓からシューと音を立ててガスが吹き出ている。  見付けたのが三枝だったのは幸いだった。純子や伸子では一緒に倒れていたかもしれない。  三枝はハンカチで口を押えつつ部屋へ飛び込み、ガスの栓を閉めると、周囲の襖《ふすま》や窓を次々と開け放った。 「——まあ、ここだわ」  駆けつけて来た伸子と純子が、激しくむせた。目に刺すような痛みが走って、涙があふれて来る。 「早く! 一一九番を!」  三枝が叫んだ。  純子が転がるように廊下へ出て、電話へ飛びついた。  その間に、三枝は、尾島久子を引きずって、庭へ出ていた。伸子もついて出て来ると、涙を拭いながら、 「大丈夫?」  と訊いた。 「さあ。——ともかく人工呼吸をやってみます」  三枝は上衣を脱ぎ捨て、ネクタイを外すと口移しで人工呼吸を始めた。 「すぐ救急車が来るわ」  と、純子が言いに来た。「私、表に出てる」 「お願い。——助かってくれなきゃ……」  伸子は祈るように胸の前で手を合わせた。 「五分《ごぶ》五分というところでしょうかね」  と医師が言った。 「何とか助けてあげて下さい」  伸子が深々と頭を下げる。 「まあ、できるだけのことはやってみますからね」  医師は気軽に言って、歩いて行ってしまった。 「私が残ります。社長はお帰りになって下さい。大丈夫ですよ」  と三枝が言った。 「いえ、ここにいます」  伸子は首を振った。「あの人を死なせたら、私の責任だわ」 「そんな風に考えちゃいけませんよ」 「そうよ、伸子さんが悪いわけじゃないわ」  と純子も加わる。「帰って休みなさい。明日に差し支えるわ」 「大丈夫よ。ここにいるわ」  伸子もかなり頑固な所があるのだ。純子は諦《あきら》めて、肩をすくめ、 「じゃ、せめてあそこへ座ってくれない?」  と、待合室の方を指さした。 「コーヒーでも買って来ましょう」 「私が行く」  三枝を抑えて、純子は、受付の方へと歩いて行った。あの辺に自動販売機があったはずだ。 「百円? 高いなあ」  ブツブツ言いながら、百円玉を三つ出し、紙コップでコーヒーを三杯。——しかし、三つ持つというのは、極めて微妙な作業である。 「あちち……」  両手で一つずつ持ち、さらにもう一つをその間に挾むようにして、危なっかしく持った。さて、行こうと思ったとき、病院の玄関から、男が二人ドタドタと入って来た。見るからにマスコミの人間という感じで、一人はカメラとバッグを肩から提げている。  何だろう、と純子は立ち止まって見ていた。 「何のご用ですか」  と受付の女性が訊く。 「尾島久子って人が入院してると思うんだけど。〈週刊××〉の者だよ」 「ちょっとお待ちを」  純子は、 「大変だ」  と呟《つぶや》いた。週刊誌の取材? 一体何を書かれるか、分かったものではない。どうしようか? 「今、面会謝絶です」 「誰か付き添いはいるんだろ? 部屋は?」 「この真っ直ぐ奥ですが、でも——」 「ありがとうよ」  と、さっさとカメラマンを従えて歩き出す。純子はとっさの判断で行動するという、いつものパターンを貫いた。  つまり、コーヒーを持ったまま、やおら、カメラマンにぶつかったのである。 「キャッ!」 「あちっ!」  カメラマンが飛び上がった。コーヒーが、もろにカメラへ……。 「おい! これじゃカメラがパーだよ」  とカメラマンが泣きべそをかく。 「何言ってんのよ!」  こういうときは強く出るに限るのである。 「こっちはコーヒーを持って歩いてるんだよ。そんなに急によけられっこないでしょ! コーヒー代三百円、返してよ!」  とかみついた。 「おい、やめとけ」  と記者らしい男が、カメラマンへ、「早く別のカメラを取って来い」 「うん……。このカメラ……」  カメラマンは、未練がましく呟きながら、急いで玄関から出て行った。 「ちゃんと前を見て歩きなさいよ!」  純子はそう言い捨てて、さっさと歩いて行った。——そして、ワッと駆け出す。 「伸子さん! 早く出るのよ」 「どうしたの?」 「週刊誌の記者とカメラマンがこっちへ来るわ。何をしゃべらされるか分からないわよ、さ、早く裏から出ましょう」 「でも——」 「ここは私に任せて下さい」  と三枝が言った。「そういう手合いには相手の仕方があるんです。私がここは引き受けますから。さ、早く」  まだ渋っている伸子を引っ張って、純子は〈非常口〉と書かれたドアから外へ出た。 「——でも、気になるわ」  と、伸子がまだしつこく言っている。 「気にしないのよ。——といったって無理でしょうけどね」 「週刊誌の人って、でもずいぶん早く来たのね」  純子は、それもそうだ、と思った。一体どこで聞いて来たのだろう?  これは何か裏があるのかもしれないわ、と純子は思った……。  週刊誌の記者とカメラマンは、二時間以上も粘っていたが、三枝の営業畑で鍛えた口上手で、のらりくらりとかわされ、一向に取材にならず、一旦諦めて病院を出た。 「——あの二人よ」  と純子は言った。 「OK、任せて下さい」  と、林昌也が肯く。この前、友人から借りたオートバイをまだ返さずにいたのが役に立つ。純子は、バッグから、小型のパックフィルムを使うカメラを取り出すと、 「じゃ、これ。無理はしなくていいけど、できれば、あの連中が会う相手を写してみてね」 「分かりました」  昌也はカメラをジャンパーのポケットへ入れて、オートバイのエンジンをふかした。  記者たちの車が動き出すと、昌也は純子へ一つ肯いて見せて、走り出した。  純子はオートバイが見えなくなるまで見送ってから、また病院へ入って行った。 「おや、まだいたんですか?」  三枝が純子を見てびっくりしたように、「社長も?」 「いいえ、私だけ戻って来てみたの。さっきの二人、何ですって?」 「それがどうも妙なんです。——尾島夫人を、悲劇のヒロインにまつり上げようというつもりらしいですね」 「どういうことかしら」 「考えたんですがね……。どうも社長をその面から叩こうと言うんじゃありませんかね」 「まあ!」 「いや、私が元部長だったと知ると、格下げになって、元お茶くみの女の子に使われてる屈辱感について話してくれとしつこく食い下がって来ましてね」 「なるほどね」 「巧く逃げときましたが、それにしても、何を書くつもりか……」 「三枝さん、どうも裏に誰かいるんじゃないかしら? あなたは、柳さんたちに誘われたんでしょう?」  三枝はちょっと苦笑して、 「やっぱり家内の奴がしゃべったんですね?そんなことじゃないかと思っていたんだ」 「向こうは柳さんと北岡さん?」 「そうです。私が社長の弁護をするので腹を立ててましたよ。こっちにも考えがある、と言ってね」 「考え?」 「その内容は聞きませんでしたが。今思えば、言うことを聞くふりをして、向こうの企みを探っとくんだった」 「まるでスパイ戦ね」  と純子は苦笑いした。 「——ちょっと気になったんですがね」 「何が?」 「いや、向こうは何か〈切り札〉を持っていると言ってたんですよ。尾島夫人のことなんかでは、社長のイメージに傷はつくかもしれないが、決定的な切り札にはならない。何か他にあるはずです」 「何かしら?」  三枝は額にしわを寄せて、 「分かりません。——考えてみているんですがね」  と首を振った。  伸子は、アパートに帰っても、しばらく何をする気にもなれず、ぼんやりと座り込んでいた。  自分のせいで、尾島久子が自殺しようとした。——伸子はそう思い込んでいた。  夫人に万一のことがあったら、自分も社長の座にはいられない、と思った。人を死に追いやってまで、社長でいたくはない……。  一人でいると、つい涙が出て来る。 「いやだ。まだガスがしみてるのかしら」  と指で拭う。  電話が鳴った。 「伸子か?」 「お父ちゃん!」  伸子は思わず声を上げた。急に胸のつかえがおりたようだ。 「どうしてる? 元気?」 「ああ、大丈夫だとも。お前は頑張っとるか?」 「まあ何とかね。何かあったの?」 「いや、ちょっと気になることがあってな」 「何なの?」 「孝造の奴のことだ」 「叔父さんがどうしたの?」 「お前に金を貸せと言っとっただろう?」 「ええ。でも断ったわ」 「それが、何か知らんが、このところ、えらく景気がいいんだ。——訊いても金をどこで工面したか言わない。何か妙な気がしてな」 「そう……。でも、どこかの知り合いとか——」 「いや、あいつのことだ、当たれる所にはとっくに全部当たっているはずだ。それに出所を、わしにも教えんというのが気に入らん。お前こっそり貸したんじゃあるまいな?」 「やめてよ」  と伸子は笑った。「それこそ、私がお父ちゃんに黙ってるわけがないじゃないの」 「それもそうだな」  と父親は笑って、「いや、取り越し苦労ならそれでいいんだが」 「ありがとう、心配してくれて。進也たちは変わりない?」  二、三、話をして、電話を切ると、伸子はすっかり気分が良くなっていた。 「頑張らなくちゃ、ね」  自分へ言い聞かせるように言って、さて、と立ち上がる。  また電話が鳴った。——三枝が、尾島夫人が命を取り止めたと知らせて来たのだった。 「君」  と声をかけられて、〈週刊××〉の記者、有島はヒョイとスポーツ新聞から顔を上げた。 「俺に用かい?」  有島は取材から戻って、会社の近くの喫茶店で一服しているところだった。 「有島君だね」 「そうだけど、あんたは?」  相手はチラと警察手帳を覗《のぞ》かせた。 「座っていいかね」  返事も待たずに、向かい合った席に座る。 「苦情なら編集長へ言っとくれ」 「二、三訊きたいことがあるのさ」 「何だい?」 「尾島久子が入院したときに取材に行ったろう?」 「ああ、それがどうした?」 「ずいぶん素早かったそうじゃないか」  有島はちょっとびっくりしたように刑事の顔を見たが、すぐに平気な顔になって、 「悪いかい? 記者は耳が早くなきゃ商売にならねえよ」 「通報があったんだろう? 誰だ?」 「そいつあ言えないね」 「いいか、これは殺人未遂事件の捜査なんだぞ」 「何だって?」  有島の顔色が変わった。 「冗談じゃない! あれは自殺だろう」 「そいつがどうも怪しいのさ」  と刑事は言った。「詳しく調べた所、尾島夫人の後頭部に、殴られたような傷があった。まあ、目下、夫人はまだ意識不明だが、その内、意識が戻れば、はっきりするだろう。しかし、こっちはそれまで待っちゃいられない」 「しかし……」 「まあ、お前がやったとは言わんよ。だがな、お前に連絡して来た奴。こいつはどうもくさいぜ。そんなに早く、どうしてあの一件を知ることができたのか。——まあ、殺人未遂とはっきりした時点で、もう一度来る。そのときまでに、しゃべるか、事後従犯になるか、決めとくんだな」  と刑事は立ち上がった。 「おい、待ってくれよ! 俺は何も——」 「通報者の名前を教えるか?」 「そ、それは……」  と詰まって、「匿名の電話だったんだ、分からねえよ」  刑事は鼻先で笑った。 「そんなことを信じると思ってるのか?——まあ、頭を冷やして、よく考えとくんだな。じゃ、また会おうぜ」 「おい、ちょっと——」  有島は腰を浮かして呼び止めようとしたが、刑事はさっさと出て行ってしまった。  有島はペタンと席に腰をかけて、しばらく考え込んでいたが、やがて急いで立ち上がると、金を払うのももどかしく、店を飛び出して行ってしまった。 「北岡さん」  と純子は、北岡元専務《・・・》の机の前で足を止めると、声をかけた。 「はあ、何でしょう?」  北岡としては、もちろんこんな小娘にていねいな口などききたくはないのだが、今の自分は平社員である。苦虫をかみ潰《つぶ》したような顔で純子を見上げる。 「この資料、何ですか? サイズがまちまちで、こんなに見づらくっちゃ、お客様に差し上げられません。全部A4でと言ったでしょう」  純子は、資料の束をドサッと机の上に置くと、「全部やり直して下さい。午後三時までに。いいですね」  純子がさっさと社長室へ戻って行くのを、北岡は真っ赤な顔でにらみつけていた。 「畜生め!」  と吐き捨てるように言って、コピーの原紙を手に、コピー室へ行く。それを追いかけるように、柳が立って行った。  この二人、何かというと一緒にいるので、周囲の女の子がクスクスと笑い合っていた。 「またくっついて行ったわよ」 「きっとホモだち《・・・・》なのよ」 「やあねえ!」  キャッキャと声を立てて笑っている。  柳の方もコピー室へ入ると、 「私がやりますよ」 「すまん。全く、あの小娘には頭へ来る!」 「まあ、もう少しの辛抱です。例の記事も今週発行の号に載るし、あの社長が大きな顔をしていられるのも、今の内ですよ。今は、ひたすら我慢のときで……。ほら、このボタンを押すんですよ」 「ああ、そうか。ややこしいもんだな、全く!」  と、八つ当たり気味に言った。 「例の社長のおめでたい叔父の方も、巧《うま》くやりました。これで王手ですよ」 「だったら早いとこ——」 「時機が肝心です。焦ってはだめですよ」  柳がたしなめる。「強引にやっては、社員の反発を食らいます。社員の心が、あの社長から離れて行くのを待たなくては」 「何でもいいから早くしてくれ。いい加減くたびれたよ」 「もう少しの辛抱ですよ」  そこへ、 「失礼します」  と、柳の隣の席の女の子が顔を出す。「お話し中申し訳ありませんけど、柳さん、お電話です」  たっぷり皮肉のこもった口調である。  柳は急いで席へ戻った。 「はい、柳。——やあ、何だね、一体? 会社へ電話されちゃ困ると……。何だって?」 「記事の掲載は取り止めだ」  と、〈週刊××〉の編集長は言った。 「そりゃ困るよ。ちゃんと約束を——」 「しかしね、こっちの手が後ろへ回るようなことになっちゃ、死活問題だからね。訴えられるぐらいは一向に構わないし、むしろ売り上げが伸びるから歓迎したいくらいだが、殺人未遂の事後従犯ってのは行き過ぎだ」 「おい、何の話だ?」 「今日、刑事が来た。例の尾島久子のガス自殺の件、計画的殺人の疑いあり、と言うんだ。おまけにこっちの記者が早く行き過ぎたので、何か知ってるんじゃないかと怪しまれている。——あんたとは古い付き合いだから協力したいがね、やっぱり自分のクビの方が大切だからな。悪く思わんでくれよ」 「おい待ってくれ。ゆっくり話を——」  と柳が言いかけると、ガチャンと音を立てて、電話は切れてしまった。耳がツーンと鳴って、柳は首を振った。 「畜生! 何て奴だ」  今度は柳の方が腹を立てて、吐き捨てるように言った。 「柳さん、彼女に振られたの?」  と近くの席の女の子がからかうと、他《ほか》の一人が引き取って、 「柳さんの場合は彼氏《・・》よ」  と言って、大笑いした。  柳は憤然として席を立った。そこへまた電話が鳴って、柳はさっさと行ってしまうので、隣の席の女の子が出た。 「はい。——柳さん!」 「え?」 「社長室へ来て下さいって」  柳はよっぽど無視してやろうかと思ったが、ここが我慢のしどころと、ぐっと抑えて、社長室へ向かった。 「さあ、どうぞ入って」  と言ったのは純子だった。 「社長は?」 「今、お客が見えてて、応接室。いいの。私がお呼びしたんですから」 「何かご用ですか」  とぶっきら棒に訊く。 「——ねえ、柳さん。あなたもビジネスマンなら、それらしく振る舞って下さいな」 「何のことです?」  純子は、机の引き出しから、一枚の写真を取り出して、ポンと柳の方へ投げ出した。それを取り上げた柳の顔色が変わった。 「あなたと北岡さんが、〈週刊××〉の記者と会っている所よ。そんなものを利用して、伸子さんを引きずり下ろそうなんて、きたないわ」 「いや決してそんな——」 「男なら、仕事で社長の座をつかむのね。人脈やコネの力じゃなくってね」  柳は口をつぐんでしまった。純子の机の電話が鳴った。 「話はそれだけ。早く戻って仕事をして下さいな。その写真は差し上げるわ。北岡さんが欲しいと言ったら、焼き増しは実費でやりますと伝えてちょうだい」  柳は黙って、社長室を出て行った。純子は鳴り続けていた電話にやっと出た。谷口刑事からだった。 「あら、ちょうど良かったわ。今、お電話しようと思ってたの」 「そうですか」  谷口は嬉しそうに、「僕と純子さんの波長が段々合うようになって来ましたね」  と言った。純子は、吹き出しそうになるのをこらえて、 「本当にそうね。——どう、効き目のほどは?」 「大分おどかしときました。あれで多分掲載はやめるでしょう」 「助かったわ! やっぱり刑事さんって頼りになるわ」 「これがばれたら、僕はクビですよ」  と言いながら、結構楽しそうである。 「何かお礼したいわ」 「とんでもない! 純子さんのお役に立てれば、もう満足ですよ」 「そうはいかないわ」  純子はそう言って、送話口へ、チュッ、とやった。 「あ、あの……今のはもしかして——」 「電話越しで失礼ですけど、キスを送ったわ。受け取っていただける?」 「も、もちろんです!——いや、夢みたいですよ。純子さんのキス、なんて!」  かなり感激しやすいタイプなのだろう。「も、もう一度お願いできますか?」 「いいですよ」  純子は、今度ははっきりと、聞き取れるように、チュッと大きな音でくり返した。 「もしもし。いかがでした、今のは?」  電話の向こうで、何かが倒れる音がした。  こいつは手《て》強《ごわ》い。  柳は、途中で写真を破って捨てると、席へ戻って、考え込んでしまった。  桑田伸子にしてもそうだが、竹野純子も、どうして一本筋の通った娘だ。甘く見てかかったのは間違いだったようだ……。  柳は、伸子が社長になった、その晩に、彼女を夕食へ誘ったことがある。あわよくば、伸子を意のままに操って、自分が社長の座へつこうと狙ったのである。  しかし、伸子が意外にしっかり者で、つけ入る隙がなかったと知ると、北岡と共に、伸子を失脚させるべく画策したのだった。  だが、どうもそれも難しい様子になって来た。伸子と純子のコンビは、そう簡単に切り崩せる相手ではない。  ここは一つ、新しい手を考えるときかもしれない。  柳がそう考えたのは、一つには、北岡にいや気がさして来たせいもあった。ブツブツと文句を言うだけで、肝心のことは何でも柳任せ。それでいて、自分が社長になるのだと思い込んでいる。  あいつは社長の器《うつわ》ではない、と柳は思った。社長の器と言えば、全く皮肉なことだが、桑田伸子の方が、遥《はる》かにその器だと、柳も認めないわけにはいかなかった。  これ以上、北岡のために働くのは、自分にとってマイナスに転じた、と柳は断定した。まず自分の身が第一。それがサラリーマン社会で勝ち残る唯一の鉄則である。  さて、それではどうすれば良いか。北岡と表面上は今まで通りやって行く。そして裏で、伸子に近付くのだ。——あの秘密《・・・・》を柳が握っている限り、伸子を左右できる自信はあった。  しかし、もろに出しては脅迫になる。何とか巧《うま》く、伸子が恩義を感じるように仕向けなくてはならない。  さて、どういう段取りで進めて行くか……。柳は、こういうことにかけては、人三倍ぐらい、頭の回転する男であった。 「——そうですか。どうも」  と、純子は電話を切った。「まだ尾《お》島《とう》夫人は意識を取り戻さないそうよ」 「そう」  伸子は肯《うなず》いた。 「そんなに気にする必要ないわよ。もう危険は脱した、っていうし、心配ないんだから、ね?」 「頭では分かってるのよ。でもね、ついつい、考えちゃうの。——今日、帰りに見舞いに寄りましょう」  そう言ってから、「そうだわ」  と、顔を輝かせた。 「いいことがあるわ」 「何なの?」  純子は、恐る恐る訊《き》いた。伸子の「いい考え」というのは、往々にして、秘書を悩ませる類《たぐい》のものだからである。 「谷口さんに連絡してくれない?」 「いいけど——何の用なの?」 「尾島さんのご主人を、見舞いに来させてあげるといいと思って」 「ええ? 本気なの?——いや、訊くだけ馬鹿だった。あなたの言い出しそうなことね。でも、谷口さんって、あんまり、偉くなさそうだから、巧くできるかどうか……」  と純子は受話器を外しながら、勝手なことを言い出した。 「谷口さんを。——竹野と申します」  谷口も、やっとさっきのチュッの一件から立ち直れたようで、元気のいい声を出している。 「いや、なるほど」  純子の話を聞いて、谷口はすっかり感動したようすで、 「さすがに純子さんだ。本当に心の優しい方ですねえ」  こう言われては、自分の考えでないとは言い辛《づら》い。くすぐったい思いで、 「どうも。——そんなこと、可能かしら?」 「大丈夫だと思います。任せて下さい」  谷口は大きく出た。  谷口刑事も多少の影響力はあるとみえて、次の日には、尾島一郎を、入院中の夫人に面会させる許可がおりた。  電話で知らせてきた谷口へ、 「さすがに谷口さんね。きっと巧くやってくれるって、伸子さんにも言ってたのよ」  と純子は上機嫌で言った。 「そうおっしゃっていただくと……。まあ、尾島を取り調べている連中も、夫人に会わせれば、気持ちをほだされて尾島が自白するんじゃないかと期待してるようです」 「なるほどね」 「今日の夕方四時半に病院の方へ行きます」 「谷口さんは行くの?」 「純子さんはどうなさるんです?」 「私は社長のおともでついて行くわ、当然」 「じゃ僕も行きます」  刑事の仕事って、こんなにいい加減なのかしら? 純子は首をひねった。 「純子さんたら、調子いいのね」  伸子が笑いながら言った。「谷口さんはあんまり偉くないから、あてにならない、って言ってたじゃないの」 「嘘も放言《・・》よ」 「——方便、でしょ」 「あ、そうか」  こちらも頼りない秘書である。  病院へ問い合わせてみたが、尾島夫人はまだ意識不明のままという返事だった。 「私たちが行っても邪魔かしら?」  と伸子が言った。 「いいじゃないの。尾島社長がどうしてるかも見たいし。めったに見らんないわよ」  まるで珍獣扱いである。  四時になると、社長と秘書は〈外出〉ということになった。 「果物でも持って行きましょう」  と、ビルを出た所で伸子が言った。 「でも、意識不明じゃ食べられないのよ。包み紙だけ持ってったら」 「まさか」  ともかく果物のバスケットを買って、タクシーで病院へ向かう。  四時二十五分頃には玄関前へ着いたのだが、別に目立った警備もなく、ただ制服の警官が二人、玄関の近くに目立たないように立っているだけだった。 「まだ暑いわね」  伸子が息をつきながら言った。玄関を入ると、谷口が受付の所から手を振りながらやって来た。 「——尾島さんはまだ?」 「ええ。もう来る頃です。さっき、向こうを出ると連絡がありましたから」 「奥さんの方は、どんな具合かしら?」 「医者の話では、そろそろ意識が戻りかけていると言うんですがね。亭主が来るまでに気がついてくれれば、何か分かると思うんですが……」 「——あ、あの車かしら」  と純子が指さした。パトカーが三台、連なってやって来ると、玄関前に止まる。 「純子さん」  伸子は純子の腕をつかんで、「私たちはどこかへ引っ込んでいましょう」 「え? どうして?」 「尾島さんが私たちを見れば面白くないはずよ」 「こっちは面白いわ」 「だめ。必要以上に人を傷つけちゃいけないわよ」 「はいはい。社長のご命令とあらば……」  純子は肩をすくめた。受付のカウンターの向こうへ回って、入って来る尾島たちに見られないように身をかがめる。  玄関から、がやがやと男たちが入って来る。 「病室はあっちです」  と谷口が説明している。 「妻の容態は?」  と、懐かしい——というほどのこともないが——尾島一郎の声がした。 「それは向こうで担当の医者が説明しますよ。さあ、ともかく——」  ゾロゾロと、七、八人の一行が歩き出す。純子と伸子はそっと頭を出して、その様子を見た。  尾島一郎は、そう思ったほどやつれもせず、相変わらず尊大な、ふてくされたような態度で歩いている。手錠をはめられているのと、ネクタイがなくて、えりのところがはだけているのが、容疑者らしいところと言える。 「ずいぶん偉ぶってるじゃない」  と純子はそれを見送って言った。 「思ったより元気そうね。ホッとしたわ」  と伸子が言うと、純子はつまらなそうに、「がっかりしたわ。髪はモジャモジャ、ヒゲはのび放題、ボロボロの服に、足を鎖か何かでつながれて来るかと思ったのに」 「モンテ・クリスト伯じゃないのよ」  伸子が苦笑した。「私たちも後からついて行きましょ」  刑事たちに挾《はさ》まれて歩いていく尾島一郎の後から、少し離れて伸子と純子はついて行った。病室の所へ来ると、谷口がドアをノックする。ドアが開いて、尾島や刑事たちが中へ入って行った。廊下に、刑事が二人残って立っている。 「——見舞いなんですが」  と純子が刑事に声をかけると、 「今はちょっと困ります。後にして下さい」  と、すばやく断られる。  するとドアが少し開いて谷口が顔を出した。 「あ、純子さん。——どうぞ」 「いいのかしら?」 「ええ。隅の方に入っていて下さい」 「分かったわ」  そっと室内へ滑り込むと、伸子と純子は、目立たないように、隅の方の、何に使うのかよくわからない機械の陰に入って顔だけを覗《のぞ》かせた。  尾島一郎が、眠り続ける妻のベッドの前に立って、じっと見下ろしている。 「命に関《かか》わるほどのことではありませんでした」  と医師が説明する。 「ガス自殺しかけた、と……。本当ですか?」  と尾島が訊いた。 「まあ、事故ということもあり得ますが、おそらくは自殺しようとなさったんじゃないでしょうかね」 「その……誰かに殺されかけた、とか……」  尾島の言葉に、伸子と純子は顔を見合わせた。刑事たちも、素早く視線を交わし合う。  なぜ、夫人が殺されかけたと尾島は考えたのか。そんな理由があるのだろうか? 「さて、それは——」  医師にそんなことを訊いても無理というものだ。 「本人が意識を取り戻したら訊いて下さい」 「いつ頃でしょう、それは?」 「分かりませんな。本来ならとっくに目を覚ましていてもいいのだが」 「まさか、このまま……」 「昏睡《こんすい》状態が続く、ということですか? いや、その点は大丈夫。その心配はありません」 「そうですか」  尾島はホッとした様子だった。純子がそっと伸子に言った。 「若い女なんかこしらえといて、一応は奥さんのことも心配なのね」 「そりゃそうよ」  医師が少し間《ま》を置いて言った。 「まあ、発見が早かったので、助かったようなもんですよ」 「誰です。見付けたのは?」  と尾島が訊いた。 「さて……会社の人ですよ。男の人は三枝《さえぐさ》さんといったかな」 「三枝が……」 「それに」  と口を挾んだのは谷口である。「今の社長の桑田伸子さんと秘書の竹野純子さんの三人ですよ。三人は奥さんが不自由してらっしゃるんじゃないかと心配して、食物を持ってお宅へ行ったんです」  尾島の表情は、驚きとも何ともつかない、複雑なものだった。当惑と驚愕《きょうがく》と衝撃と憤りと感激を足して五で割ったような、とでも言う他《ほか》のない複雑さだった。  全員が注視している中、尾島は、眠っている妻の方へとかがみ込んで、じっと顔を覗き込んだ。  そのとき、ドアが開いて、刑事が顔を出した。 「あの、何だか記者が来てるんですが、どうします?」  刑事たちが一斉にドアの方へ向いた。——その瞬間だった。  突然、尾島一郎が身を翻すとドアへ向かって突進した。アッという間もない。ドアの所にいた刑事はふっ飛ばされてしまった。  誰もが、一瞬その場に突っ立ったままだった。  あまりに思いがけない出来事に、棒立ちになってしまったのだ。 「——追いかけろ!」  ワッと刑事たちが病室から駆け出して行く。 「——大変だわ」  伸子が、やっと我に帰った。 「すぐ捕まるわよ。馬鹿ねえ」 「どうしていきなり……」 「急に逃げたくなったんでしょ」  純子の答えは明快だった。  廊下へ出てみると、もう刑事たちは、遥かかなたを走っている。 「とんでもないことになっちゃったわ」  と伸子は情けない顔で言った。「私が提案したのよ、これ」 「大丈夫よ。手錠をかけたままだもの。遠くまで行けやしないわ」 「だといいけど……」  二人が廊下で待っていると、十五分ほどして、谷口が息を切らしつつ戻って来た。 「どうだった?」  と純子が訊く。 「いや、必死になるとああも足が早くなるもんですかね」  谷口は首を振って、「逃げられちまいましたよ」 「どうしましょう!」  伸子は両手で顔を押さえた。「私がこんなことを言い出したばっかりに……」 「いや、あなたの責任じゃありませんよ」  と谷口が言った。 「逃げられるのがたるんでるんです。全く大失態だ」 「それにしても……」 「手錠のままですからね。今、この一帯に非常線を張っています。なあに、すぐ捕まりますよ」  谷口は肯いて見せた。しかし、伸子の表情は一向に晴れない……。 「やれやれ、大騒ぎだわね」  純子が家の近くまで、グチを言いながら歩いて来ると、一台のハイヤーが、近くへ来て止まった。 「竹野さん」  と窓から顔を出したのは——柳元部長である。 「まあ、柳さん。何してらっしゃるの?」 「実は折り入ってお話ししたいことがあるんです。乗っていただけませんか?」 「どこへ行くの?」 「一つお食事でも、と思いましてね。——ワインの旨《うま》い店があるんです」  純子は、柳が一体何を考えているのか、探ってみるのも悪くない、と思った。大したことのできる奴じゃないのだ。心配することはあるまい。 「じゃ、ごちそうになろうかしら」 「どうぞどうぞ」  柳がドアを開いて、席の奥へすわると、純子は乗り込んだ。 「やってくれ」  運転手へ命じると、車が走り出す。 「どこへ?」 「六本木の近くです」  と柳は言った。  小さな店だが、フランス料理の味は抜群だった。どうせ柳の払いだと思うと、純子は大いに飲み、かつ食べた。  伸子なら、柳におごってもらうのをいやがるだろうが、純子は平気である。 「お口に合いましたか?」 「おいしかったわ! ごちそうさま」  純子はフウッと息をついて、「——ところで、お話というのは?」  と訊いた。 「どこから申し上げましょうかね」 「結論からがいいわ。手っ取り早いのが好きなの」  純子はワインをぐいと飲んで、「北岡さんと組むのが、もういやになった。そうじゃないの?」 「いや、参りましたね!」  柳は笑って、「あなたは鋭い」 「女のカンを馬鹿にしちゃいけないわよ」 「全く、女性の力を今度の一件で、つくづく思い知らされましたよ」  柳は肯いて、「たかが女だとたかをくくっていたら、今じゃすっかり女社長は板に付いてしまった」 「努力のたまものよ」 「そうですね。尾島社長も私どもも、既成の権利の上に、あぐらをかいていた。——その報いですな」 「分かりゃいいのよ」  と純子も少々酔って調子に乗っている。 「ところが北岡専務は一向にその辺が分からんのです。尾島さんが釈放されて、大畑さんが帰国すれば、また元の地位へ返り咲けると思っている」 「頭が硬直化してるのね」 「脳軟化症の気《け》があります」  と勝手なことを言っている。 「で、どうしよう、ってわけ?」 「あなた方のお力になりたいのです。いや、決して、元の部長へ戻りたいと言うのじゃありません」 「戻りたくないってわけでもないんでしょ?」 「そりゃまあ……」 「正直でいいわ。それで?」 「桑田社長を引きずりおろす計画があります」 「計画? どんな?」 「北岡さんが考えたことで……。しかし、やるのは私ですからね」 「面白そうね」  と純子は身を乗り出した。そして、ふと、 「そうだ。尾島一郎が逃亡したの、知ってる?」  柳がさっと青ざめた。 「尾島社長が——いや、前《・》社長が逃げた! 本当ですか、それは?」  柳は青くなって訊いた。 「ニュース、聞かなかったの?」 「いや……ちょっと今夜は忙しくて……」  純子が、尾島逃亡のいきさつを、講談顔負けの名調子で語ってやると、柳は、 「よっ! 女虎造《とらぞう》!」  とは言わなかった。  ただ唖《あ》然《ぜん》として聞き入っていた。 「——まあ、こんなわけでね。手錠のままの逃亡ってわけなのよ」 「しかし、全く! 警察は何をしてるんだ!我々の税金で食わせてもらっておきながら……」 「よっぽど沢山払ってるって言い方ね」  と純子は笑って、「ところで、さっきの話だけど——」 「え? 何です?」 「いやねえ、しっかりしてよ。社長さんを引きずりおろす計画があるって言ってたじゃないの」 「——あ、そうでしたね」  となぜか柳は曖昧《あいまい》にヘラヘラと笑って、「そ、それがその……ありそうだという程度の話でして……」  純子は眉を寄せて、 「はっきりおっしゃいよ。北岡さんが考えたことだって、ちゃんとあなた言ったわよ。知らないはずはないでしょ」 「そ、そんなことを言いましたか?」  純子はキッと柳をにらみつけて、 「いい加減なことでごまかそうなんて考えたら……」 「わ、分かりました! 言います! 言いますから——」 「早くおっしゃいよ!」  純子はかみつきそうな顔で言った。 「ちょ、ちょっとお待ちを」 「何なの?」 「あの——トイレへ行って来ます。すぐ戻りますので」  まさかそれまでは止められない。 「逃げたら、ただじゃおかないわよ!」  純子がドスのきいた声を出した。  が、柳は席を立って、純子の目が届かない所へ来たと思うと、たちまち方向転換。  出口へ向かったのはいいが、ちょうどレジの辺りだけは、また純子の視野に入ることになる。 「あなた、何してんです?」  レジの男が目を丸くした。柳が床へ這《は》いつくばって、店の出口へとにじり寄っていたからである。 「シッ!」  と柳が指を唇に押し当てたが——却《かえ》ってそれがいけなかった。  こいつはてっきり無銭飲食、とレジ係が思い込んだから、 「おい! 誰か来い!」  と大声で呼んだ。  純子もハッと立ち上がった。 「こら!」  と柳の方へ駆け出す。  だが柳にとって最大の不運は、まだ訪れていなかったのである。というのは、このとき、ちょうど入り口のドアが開いて、客が入って来たからだ。  それも、細身の柳の二倍はあろうという、巨大なドラム缶——いや婦人であった。  かなり大股《おおまた》に、ノッシ、ノッシという感じで店へ入って来る。柳は純子に見つけられたと知って、あわてて、半ば頭を上げつつ出口の方へぐいと進んだ。  ここで二人が衝突——すれば、まだ良かった。柳が婦人の両足の間へ頭を突っ込んでしまったのである。 「キャーッ!」  婦人が悲鳴を上げる。そして飛びのこうとしたのだが、そのときはすでに柳が肩まで足の間へ入ってしまっていたので——とどのつまり、柳の上へドシンと尻もちをついてしまったのである。  柳が、つぶれたカエルの如く、手足をバタつかせてうめいた。 「逃げようなんて考えるからよ」  純子が、いい気味だという調子で言った。  柳の方は、まだ息も絶え絶え。生きているのが不思議という顔をしている。 「——で、どういうことなの? 今度はちゃんと話をしてね」  と純子は迫った。「また逃げようなんてしたら、今度はあなたの上でタップダンスを踊ってあげるから」 「え、遠慮します!」  柳があわてて身を引いた。 「伸子さんを陥れる計画って何なのよ?」 「はあ……。これを話したら、社長へ取りなしていただけますね?」  何とまあだらしのない奴! 純子はけっとばしたい気分を押さえて、 「いいわよ」  と約束した。 「それでは——」  柳が、伸子の叔父に、五百万の金を貸してやったこと、それを会社の金の流用だとして、社員の、伸子への信頼を失わせようという計画だったことを説明した。 「——その五百万って、どこから出したの?」 「それは……」  と言い渋っている。 「はっきりおっしゃいよ!」 「はい。あのマンションを……」 「マンション? 例の愛人のいた?」 「そうです。あそこを担保にして借りたんです。それぐらいのことは簡単ですから」 「どうでしょうね、もう!」  顔をめちゃくちゃにかきむしってやりたい気分だったが、ここはぐっとこらえる。  それにしても、伸子の叔父も叔父である。姪《めい》の所へ来て金を借りて、平気な顔をしている。  しかし、これを知ったら伸子がどうするか。その点は問題だった。  何しろ、上に馬鹿がつくほど生真面目、一本気な伸子である。多少練れて来たとはいえ、まだまだ、世の中を渡って行くには多少のず《・》るさ《・・》も必要だということが分かっていないのだ。  ここで、伸子へ事情をしゃべってしまったらどうなるか?  たとえ知らなかったとはいえ、会社の持ち物であるマンションを担保に五百万円もの借金をし、それを親類が使っていたとなったら、必ずや責任を取って辞職すると言い出すのは目に見えている。  そして、一旦そんなことを言い出したら、てこでも動かないのが伸子である。  ここは一つ、純子の方で何とか処理をしなきゃならない。 「分かったわ」  と純子は言った。「でもね、柳さん、いいこと、今の話は、絶対に社長の耳に入れちゃだめよ」 「は?」 「なんでもいいから、言う通りにするの、分かった?」  柳は肯いた。逆らう気力も、さっきの一撃——いや、圧力で消え失せているのだ。 「分かったらよろしい」  と純子の方が社長みたい。「じゃ、ここの払いは頼んだよ、君」  と立ちあがって、さっさと店を出て行った。  柳は、店の支払いをすませると、表へ出て、赤電話へ飛びついた。十円玉を入れるのももどかしく、ダイヤルを回す。 「北岡でございます」 「あ、奥様ですか。柳ですが——」 「あら、柳さん。お元気?」 「はあ。あの——ご主人は?」  とたんに、北岡夫人の口調がガラリと変わった。 「専務とおっしゃい!」 「はい? あの——専務はおいででしょうか?」 「ええ、ちょっとお待ち下さい」  と、また急に穏やかになる。柳は息をついた。よく怒鳴られる日である。 「柳か、どうした?」  と北岡が出て来る。 「あ、ニュースをご覧になりましたか?」 「ニュース? 見とらんよ。何しろうちのやつ、俺が専務に戻るまではTVを見せてくれんのだ。自分は一日中見とるのに、だぞ。今だってCMだったから、電話に出たんだ。俺は一家の主《あるじ》だというのに——」 「ちょっと待って下さいよ」  グチを聞いている暇はないのだ。「尾島さんが逃げ出したんです」 「——何だと?」  全然分かっていないという声である。 「尾島さんですよ! 前社長が、脱走したんです!」  しばらく間があって、 「そいつは……おい、柳、何とかしろ」 「そんなこと言われたって、どうにもなりませんよ」  と柳は言った。「ともかく十分に注意なさって下さいね」 「おい! お前は俺の部下だぞ! ここへ来て寝ずの番をしろ!」 「冗談じゃありませんよ。自分の身は自分で守って下さい」 「何を言うか、恩知らずめ!」 「勝手なことを言わんで下さい! いやなことはみんな私に押し付けて! 私はあなたの使用人じゃありません!」 「こいつ! 待て!」  電話だからそんなことを言っても仕方ないのだが。  柳は受話器を置いた。それでもまだ北岡の声が聞こえて来るような気がした。  〈気を付けよう! 甘い言葉と暗い道〉  立て札が立っているだけで、何となく、わびしい感じがする。  柳はバスを降りると、自宅への道を急いでいた。高級住宅地とされている一画で、それだけに、夜の静かなことは、いささか気味が悪いほどだ。 「ちえっ、誰もいないのか」  と呟《つぶや》いたのは、バスから一緒に降りた客が、みんな方々へ散ってしまって、柳の行く方角には誰もいなかったからである。  柳は、自然、足を早めた。  突然、街灯の陰から、誰かが飛び出して来たと思うと、ワッと柳へ飛びかかって来た。 「こいつ!」  尾島だった。手錠をはめた両手で、柳の首をしめようとする。 「待って下さい! 社長! 社長!」  柳が必死になって叫ぶ。  よくよく今日は襲われる日らしい……。 「こいつは大変なことになったなあ」  三枝が、TVを消して、言った。 「本当ね」  妻の治《はる》子《こ》がお茶を淹《い》れながら、「尾島さんだって、逃げてどこへ行くってあてはないでしょうに」 「全く、馬鹿なことをしたもんだ」  三枝は和服姿で寛《くつろ》いでいた。 「ますます罪は重くなるんでしょう?」 「当然そういうことになるな。しかし、どうしてそんなことをしたのか……俺の知ってる尾島さんなら、そうはしないと思うが。何かわけがあるんだ」 「というと?」 「分からんが、何か《・・》あるに違いない」  三枝は考えながら言った。「——今ごろはどこをうろついてるのかな」 「お気の毒ねえ。——まあ、色々と悪いこともやってたけど、そう根っからの悪党でもなかったわ。ご冥福《めいふく》を……」 「おいおい、何だか死んじまったみたいなことを言うなよ」  と三枝が苦笑した。 「でも今度の社長さんはいい方ね」 「全くだ。よくやってるよ。大したもんだ」 「あなたも楽しそうね、このところ」  と治子は微笑《ほほえ》んだ。 「まあね。部長だったころには、気ばかり疲れて、やりがいを感じたことなんかなかった。俺は大体、部長なんて地位には向いてない男らしいよ」  三枝はウーンと伸びをした。  そのとき、玄関をドンドンと叩く音がして、三枝と治子は顔を見合わせた。 「誰かしら?」 「さあ。出てみよう」  玄関へ行って、「どなた?」  と三枝は訊《き》いた。 「開けてくれ!」  と、あわてふためいた声がする。「俺だ!北岡だ!」 「北岡さん! ちょっとお待ちを」  三枝が鍵《かぎ》を開けると、北岡が転がり込むように飛び込んで来た。  ハアハアと息を切らしている。 「どうしたんです、一体?」 「だ、誰かが……」 「え?」 「つけて来るんだ! 俺を殺そうとして……」 「落ち着いて下さいよ」 「早く、鍵をかけろ! 早く!」  と北岡がわめいた。  が、そのとき、玄関の外に足音がして、チャイムが鳴った。 「来た! かくまってくれ! 頼む!」  北岡が玄関から這い上がる。 「まあ、落ち着いて。——どなたですか?」  三枝はドアのチェーンだけをかけると、ドアを細く開いた。  見知らぬ男が立っている。 「三枝さんですね? 北岡さんがこちらへ入られましたな?」 「ええ。どなたです?」 「警察です」  と、男は手帳を見せた。 「そうですか。お待ちを」  チェーンを外して、中へ入れる。北岡が上がり口の所で震えている。 「いや、実は尾島一郎が逃亡中なものですからね」  と刑事は言った。「北岡さんの近くに現れるかもしれんというわけで、尾行していたのですよ」  北岡がやっと安心したのか、ヘナヘナと、その場で寝転がってしまった。 最後の賭《か》け 「まだ見付からないのね」  伸子は、社長室へ入って来るなり言った。 「そのようよ。おはようございます、社長」  と純子がおどけて言った。しかし、伸子の方は浮かぬ顔。 「私のせいだわ……。あんなことを言い出したから——」 「ねえ、伸子さん」  と純子が呆《あき》れ顔で、「あなた、いくら社長だからって、そうそう悪いことは全部自分のせいだなんて考えなくたっていいのよ」 「だって昨日のことは完全に私が悪いのよ。私が余計なことを言い出したせいで……」 「すぐ反省するのが、あなたの悪いクセね。反省しなさい」  と、わけの分からないことを言っている。 「尾島さんの奥さんの様子は?」 「まだ問い合わせてないけど」 「電話して訊いてちょうだい」 「はいはい。心配ばっかりしてると頭がはげるわよ」 「そしたら、かつらをかぶるわ」  と、伸子が真顔で言った。  そこへ、ドアが開いて、 「おはようございます」  と入って来たのは、三枝だった。「大変でしたね、昨日は」 「言わないで」  と純子が言った。「すっかり落ち込んじゃってるんだから」 「それが社長のいい所ですよ」  と三枝は微笑んだ。「ところで、今日、北岡さんはお休みです」 「あら、そう」  さして気がない様子で肯《うなず》いて、伸子は、少し間を置いて、「どうして三枝さんが知ってるの?」  と訊いた。 「うちにいるんです。刑事と一緒に」 「三枝さんの所に?」  昨夜、北岡が飛び込んで来たことを三枝が話すと、純子が、言った。 「呆れた。何のつもりかしらね?」 「えらく怖がってますねえ」  と三枝が言った。 「変ねえ。奥さんを家に置いて、一人で三枝さんの所へ逃げて来るなんて、よっぽど身の危険を感じてるのね」 「どうしてでしょうか? もともと、尾島さんの腹心の部下だったのに」 「きっと何か理由があるのよ」  正に真理である。——こいつは谷口へ知らせておいた方がいいかもしれない。  純子がダイヤルを回しかけたとき、ドアが開いて、入って来たのは柳だった。 「あら、柳さん、カッコいいじゃない?」  と純子が言ったのは、柳が、首にネッカチーフを巻いていたからである。 「とんでもない」  と柳は仏頂面《ぶっちょうづら》のかすれ声で、「昨夜……帰り道で、首をしめられそうになったんです」 「まあ、よほど目の悪い痴漢なのね」  と純子が言うと、柳は引きつったような笑いを浮かべて、 「尾島さんにやられたんです」 「ええ? 本当?」 「本当ですよ」 「警察へ知らせたの?」 「いいえ。やはりそこまでは……。いくら何でも前の社長ですからね」 「でも、それは通報しなきゃ」  純子はあわててダイヤルを回した。 「どうも……」  と谷口が、頭をかきかき喫茶店へ入って来た。 「あら、いかがですか? 尾島さんの手がかりは?」  と伸子が訊く。純子が茶化すように、 「見付かってりゃ、そんな冴《さ》えない顔はしてないわよ、ねえ?」  と微笑みながら言った。 「その通りでして……。いや、さっきお電話いただいたので、急いで柳さんの自宅付近を捜査させましたが——」 「あんなに時間がたってちゃ、ね」 「そうなんです。近所で目撃した人は、と捜してみましたが、結局むだ骨でした」 「まあ、食欲はないでしょうけど、お昼でも」 「はあ、それじゃ……スパゲッティとカレーライスとサンドイッチを」  純子が唖然とした。 「——でも、妙だと思わない?」  と、純子が言った。一通り食事が終わって、コーヒーを飲みながら、である。谷口は、カレーとスパゲッティを食べ終えて、サンドイッチをパクついていた。 「柳さんは、どうして襲われたことを黙ってたのかしら?」 「それは、まだ忠誠心があるのよ」  と伸子が言うと、純子は、 「甘い、甘い」  と顔をしかめた。「あんなのに忠誠心なんてあるもんですか。自分の利益が最優先、て人よ」 「でも、それじゃなぜ警察へ届けなかったの?」 「だから不思議なのよ。それに、かばう気なら、ずっと黙ってりゃいいのにさ。訊いたら、あっさりしゃべっちゃって。一貫しないじゃないの」 「それはそうね」 「つまり、柳さんとしては、尾島に、もう少し逃げててもらいたいのよ。それでも、また襲われたときには、今度は巧《うま》く車が通りかかるとは限らない……」 「つまり、警察が保護してくれるのをあてにしているわけですな」  と、谷口が言った。 「そうとしか思えないじゃないの。いかが?」 「理由は何でしょうね? 柳にしても北岡にしても、尾島の腹心の部下だった。それがどうしてああも尾島を恐れているのか……」 「問題はそこよ」  と、純子が分かったようなことを言い出す。 「何か尾島に恨まれるようなことをやらかしたんだな。——しかし、何だろう?」  三人がしばらく考え込んだ。  そこへ、会社の受付の子が入って来た。 「——あ、社長、ここでしたか」 「どうしたの?」 「お電話なんです」 「電話?」 「お父様からです」 「まあ、父から? 何かしら?」  伸子は立ち上がって、「ちょっと失礼しますわ」  と、急いで店を出た。 「凄《すご》く気に病んでるのよ、ね、彼女」  と純子が言った。 「よく承知してます。必ず早々に逮捕しますから」  谷口が、最後のサンドイッチにガブリとかぶりついた。  一方、伸子は事務所へ上がると、 「デスクへ回して」  と言って、社長室へ入って行った。 「——あ、お父ちゃん?」 「伸子か。済まんな、休み時間に」 「何言ってんの。うちから? じゃ、こっちからかけるわよ。電話代大変だから」 「それどころじゃないんだ」  父の声の暗さに、伸子はハッとした。 「どうしたの?」 「孝造の奴だ……」 「叔父さんが?」 「ゆうべ酒を飲んでいて、口をすべらした。——例の金の出所を、な」 「お金? まさか、ここからじゃ?」 「お前が、柳とかいう男に言って、孝造に五百万持たせてやったというのは本当なのか?」 「柳さんが?」 「知らんのか。——そうだと思ったよ」 「全然……。それじゃその五百万が私から出たって言ってるのね、叔父さんは」 「柳って奴がそう言っていたらしいんだ」 「でも、どこでそんなお金を……」  伸子は呟いた。「——いいわ、後は任せて、こちらで調べてみる」 「すまん。孝造の奴、ほとんど残らず使ってしまったらしいんだ」 「分かったわ。お父ちゃんが心配する必要ないのよ」 「だが——」 「それより、叔父さんには私が貸したと思わせておいて。柳さんに連絡されたら、調べられなくなる恐れがあるから」 「よし、分かった」 「どうもありがとう。——みんな元気?」  と訊く伸子の声にも、多少、疲れの陰がみえた。  電話を切ると、伸子は、三枝が戻ったら、すぐに来るように伝えてくれと、受付へ電話して、自分は一人、椅子に深く腰をかけたまま、考え込んでいた。 「ご用ですか」  三枝が、五分もしない内に入って来る。 「お昼休みにごめんなさい」  と伸子は椅子へかけるように言って、「実は、父から電話があってね——」  と、事情を説明した。 「柳さんが五百万? そりゃまた……」 「それを、私からだと言って貸したらしいのよ」 「どこでこしらえたのかなあ?」  と首をひねる。 「それが不思議でしょ。どう思う?」  三枝はしばらく考えていたが、やがてふと思い付いた様子で、 「あのマンション——」  と言った。 「やはりそう思う? 私も、なのよ」 「調べてみましょう。あれが担保に入っているかどうか。すぐ分かりますよ」 「お願いね。他《ほか》の人には黙ってて」 「分かってます」  三枝が出て行くと、伸子は疲れたように息を吐き出した。 「伸子さん、戻って来ないわね」  と純子が腕時計を見る。「もう行かなくちゃ」 「ここは私が払います」  と谷口が言い出した。 「あら、無理しないで」 「いや、私の分が八割方ですから」 「そうか。——いいわよ、半分ずつにしましょ。刑事さんって月給そんなに良くはないんでしょ?」  谷口が傷ついたような顔で、 「これぐらいは払えます!」  と言った。 「それじゃ、ごちそうになるわ」  プライドを傷つけちゃ悪いものね、と純子は素直にそう言った。  谷口と別れて、純子が事務所へ戻ると、伸子はもう仕事をしている。 「まあ、社長はちゃんと昼休み時間には休んでくれないと。部下が困るわ」 「急に思い出したのよ。——あ、ごめんなさい。お昼代、いくら?」 「いいの。刑事さんが払ったから」 「まあ、悪いわね」 「いいのよ。どうせ私たちの税金なんだから」  と言った。電話が鳴った。 「はい社長室です。——はい」  純子が伸子の方へ、「お電話ですって。何か男の人で名前は分かんないって」 「ありがとう」  伸子が電話を取る。純子は、化粧を直しに出て行った。 「はい、桑田です」  と伸子は言った。「どなた様でしょうか?」  やや間があって、低い声が聞こえた。 「尾島だよ」 「まあ!——尾島さん!」  伸子は唖《あ》然《ぜん》とした。 「はい、分かりました」  刑事は電話を切ると、「北岡さん、出かけましょう」  と言った。  三枝の家に、腰を落ち着けてしまっていた北岡は、 「何だ? どこへ行くんだ?」  と、お茶を飲みながら、「ここでいいよ、俺は」 「上司の命令です。あなたと柳さんを、都内のホテルの一室に保護せよとのことです」 「ホテル? 見張りはつくんだろうな?」 「もちろんです」 「それならいい。ホテル代は? 後で請求書が来るとか……」 「それは警察もちです。尾島が捕まるまでのことですからね」  刑事の言葉に、北岡はやっと安心した様子だった。 「じゃ、行くか。どこのホテルだ? もちろんスイート・ルームだろうな」  と勝手なことを言っている。「あ、世話になったね」  と三枝の妻に手を上げてみせ、さっさと玄関へ出て行く。 「呆れたもんだ」  と、刑事は苦笑して、三枝の妻へ礼を言ってから出て行った。 「——どこのホテルだ? ニューオータニか? オークラ? それともフェアモント?」 「まあ、黙ってどうぞ」  車は、あまりホテルとは縁のなさそうな、郊外の方へ入って行く。 「ん? ——こんな所にホテルがあったかな?」  と北岡が見回して、「ラブ・ホテルで、女などあてがってくれるんじゃあるまいね」 「そこまではどうも……」  と刑事が呆れ顔で言った。 「尾島さん!」  伸子は、しばし口がきけなかった。 「あ、あの……」  何と言えばいいのか、伸子は迷った。「お元気ですか?」というのも、妙なものだし、逃亡犯だからといって、 「まだ捕まらないんですか? よかったですねえ!」  と言うのも、気がひける。 「な、何かご用ですか?」  どうも、これも適切とはいい難かったが、仕方ない。 「会いたいのだ」  と尾島は低い声で言った。 「え?」 「会って話したいことがある。今夜、ぜひ来てほしい」 「はあ……。でも——」 「頼む。何も君に危害は加えん。約束する」  そう言われても、誰だって最初から「危害を加える」と言うはずがない。 「な、何のお話ですか?」  伸子はまだいささか気が転倒していた。 「君にぜひとも話しておきたいことがあるのだ。私を信じて来てくれんか、頼む」  尾島の口調は、真実味を帯びているように、伸子には聞こえた。  まともに考えれば、相手は逃亡中の殺人容疑者である。信用しろという方が無理というものだ。しかし、伸子には、自分が尾島の座を奪った、という気持ちがある。  それに、人間というものを根本的には信頼している所があるのだ。——追い詰められた尾島が嘘をつくはずがない、と直感的に信じてしまった。  人を騙《だま》すより騙されよう、という美徳が、伸子の中には生きているのである。 「分かりました」  と伸子は言った。「どこへ行けばいいんですか?」 「信じてくれるか、ありがとう」  と尾島は安《あん》堵《ど》の息をついて、「しかし、警官と一緒などということのないようにしてくれよ」 「分かってます。お約束しますわ」 「安心したよ。——例の、女が殺されたマンションを知っているね?」 「ええ」 「あそこへ、今夜十二時頃に来てくれないか。私は少し早く行って待っている」 「分かりました。でも、鍵は持っているんですか?」 「そうか! うっかりしていた」 「私が鍵を持って行きます。どこかマンションの入り口の見える辺りに隠れていて下さい」 「分かった。頼むよ」 「はい」  ちょうど三分が過ぎたのか、通話が切れた。——伸子はゆっくりと受話器を戻した。  純子が知ったら、またお説教されそうである。しかし、伸子は話すつもりはなかった。いくら伸子が説得しても、純子が警察を呼ばないはずはない。  相手が誰だろうと、約束は約束である。伸子は十二時にマンションへ、一人で行く決心だった。  伸子にその決心をさせたのは、一つには叔父の孝造が借りた五百万円はおそらくあのマンションを担保にしたのに違いないと分かっていたせいもある。もちろん、柳を通してではあるが、会社の財産を担保に、伸子が親類に金を都合したという結果は変わらない。  その証拠がはっきり出《で》揃《そろ》えば、責任を取るのは当然である。柳がやったこととはいえ、社長としての監督不行き届きという他はない。  きっと純子さん、必死になって止めるだろうな……。  ——トイレに行った純子は、しばしおしゃべりをしてから戻ろうとして、受付の前を通った。 「まさか! そんなはずないじゃない!」  と、受付の子が声を上げる。 「そうかしら」  と首をかしげているのは、電話交換手だ。 「なあに。どうかしたの?」  野次馬根性の旺盛《おうせい》な純子である。すぐ話に首を突っ込んだ。 「いいえ。だって、麻里子さんが変なこと言うから——」 「変じゃないわよ!」 「変なこと、って?」 「さっき社長さんとこへつないだ電話の声、純子さん、聞いた?」 「いいえ、すぐに社長へ渡しちゃったもの。それがどうかしたの?」 「私、聞き憶《おぼ》えがあったの」  と、交換手の麻里子が言った。 「声は変えようとしてたけど、イントネーションなんかは変えようがないものなのよ」 「誰か知ってる人の声だったの?」 「尾島さんの声らしいの」 「尾島……お父さん《・・・・》じゃなくて、前の社長の尾島?」  と純子は目を丸くした。 「ええ、そう思うわ」 「ちょっと——電話つながってる?」  純子はあわてて言った。  麻里子はパネルを見て、 「もう切れてるわ」  と言った。 「そう……」  純子はちょっと考えていたが、急いで社長室へと戻って行った。 「——遅くなりまして」  と、ぐっとかしこまって入って行く。 「あら、いいのよ。ごゆっくり」  伸子はファイルをめくりながら言った。  純子は、自分の席へ座りながら、さりげなく、言った。 「尾島さん、何ですって?」  伸子は顔を上げて、 「あら、父からだって、よく分かったわね」 「う、うん、交換手がそうらしい、って言ってたから……」  純子はごまかした。どうやら、取り越し苦労だったようだ。  伸子も、大分純子のやり方を呑み込んで来ていた。純子が何か企んでいるな、というのは、入って来たときの様子で分かったので、何を言われてもびっくりすまいと決めていたのだった。  どうやらうまくごまかしたらしい……。  ごめんなさい、純子さん、と伸子は心の中で呟《つぶや》いた。 「おい、一体どこへ行くんだ?」  北岡がふてくされ気味に言った。 「もう少しですよ」  刑事がのんびりと答える。 「一時間前からそう言ってるじゃないか!」 「本当にすぐなんですよ」 「こんな所にホテルがあるのか?」  と北岡が文句を言うのも、いくらかは無理からぬ所があった。——車は、ひどい山道を走っていたからである。 「タヌキ用のホテルじゃないのか?」  と北岡は嫌味を言ったが、刑事の方には一向に応えない。 「いや、たぶんイタチ用だと思いました」  などと応じている。  やがて車は、えらく見晴らしのいい高台に出た。 「さあ、ここです!」  と、刑事は車を停めた。北岡は車を降りたが、周囲をキョロキョロ見回して、 「どこにホテルがあるんだ?」 「あれですよ」  指さす方を見ると、崖《がけ》っぷちぎりぎりに、物凄いボロの小屋がある。けっとばしたらペシャッと潰《つぶ》れちまうのじゃないか、という感じだ。 「あれがホテル?」 「住めばホテル、ですよ」 「住めば都《みやこ》、とはいうが——」 「ああ〈都ホテル〉ってのはいい洒落《しゃれ》ですね」  刑事がゲラゲラ笑った。 「ふざけるな!」  北岡が真っ赤になって怒鳴った。「こんな所で一体どうしろっていうんだ?」 「あなたは絶対安全な場所をお望みなんでしょう?」 「そりゃ当たり前だ」 「ここなら安全ですよ。どう間違ったって、尾島はここまで来やしません」 「だからって……こんなひどい所じゃなくてもいいだろう!」 「まあ、ともかくお静かに」  と刑事はなだめながら、「その内、柳さんもここへ来ますよ。お二人でゆっくりご相談なさって下さい。それまで、その辺をハイキングでもしてはどうです?」 「結構だよ!」  北岡は憤然と腕を組んだ。  伸子は、珍しく地下の喫茶室にいた。  来客があって、商談をしていたのだが、その客が帰った後も、一人で、そこに残っていた。 「コーヒー下さい」  もう一杯、コーヒーを飲みながら、ぼんやりと座っている。何だか急に疲れたような気がした。尾島の電話が、何となく、自分の社長の日の終わりを告げているように思えたのである。  尾島夫人の病状も、はかばかしくない。  何もかも、私が社長になったせいなんだわ、と伸子は思った。 「ここでしたか」  と声がした。三枝がやって来たのだ。 「どうしました? 具合でも?」 「いいえ、別に」  伸子は笑顔を作った。 「——で、どうだった?」 「思った通りですよ」 「やっぱり——」 「あのマンションを担保にして借りてたんですね。全くけしからん奴だ!」 「五百万円ね……」  伸子はため息をついた。 「柳さんはどうしますか?」 「どう、って……」 「戒告とか、解雇とか」 「そうね。すぐには結論を出せないわ。——少し間を置きましょう」 「分かりました」  と三枝は肯いて、「竹野さんが聞いたら怒るでしょう」  とニヤリとした。 「だめ。純子さんにも黙っていて」  と伸子は言った。穏やかではあるが、厳しい口調だった。 「竹野さんにもですか?」 「そう。絶対に口外無用よ」 「分かりました」  三枝は不思議そうに言った。 「行って。私は少し後から行くわ」  ——三枝が出て行くと、しばらく伸子はぼんやりしていた。  何だか無性に寂しくなって来る。林昌也に会いたい、と思った。 「あら三枝さん、社長を見なかった?」  エレベーターから出て来た三枝へ、純子は声をかけた。 「下にいらっしゃいます」 「あら。じゃ、まだお客さんが粘ってるのかしら?」 「いえ、お一人ですよ」 「そう。それじゃ、少しさぼることを憶えたのね。いい傾向だわ」  社長秘書にしてはおかしい発言である。 「あの——」  と三枝が言いかけた。 「何か?」 「いや、何でもありません」  思い直して、首を振る。やはり社長命令に従わないわけにはいかない。 「そうだわ。さっき警察が来て、柳さんを保護するって連れて行ったわよ」 「柳さんを?」 「尾島が捕まるまでですって」 「なるほど」 「あんなの保護することないのにね」  と、純子が冷たく言い放った。 「同感です」  借金のことを考えて、三枝も純子に賛成したかった。 「ねえ、三枝さん」 「何です?」 「伸子さん、おかしくなかった?」 「おかしい、といいますと?」 「さっき、ちょっと気になることがあったのよ」  純子が、例の電話の一件を話してやると、三枝は額にしわを寄せて考え込んだ。 「なるほどね、尾島さんが……」 「あり得ると思う?」 「思いますね。社長を狙っているのかもしれない」 「ただね、それにしちゃ、伸子さんの反応が……」 「待って下さい」  と三枝は遮《さえぎ》った。「その電話を、社長は、父親からだと言ったんですね?」 「ええ、そうよ」 「それはおかしい。社長のお父さんからは、その前にかかって来ていますよ」 「本当?」 「確かです」 「あ、そうか!」  純子も思い出した。昼食の席で、伸子は父から電話だと呼び出されたのだ。  その後の、谷口との話に夢中になっていたので、すっかり忘れていた。 「伸子さんったら、とぼけるのが巧くなっちゃって」 「尾島さんはどういうつもりでしょうね?」 「分からないけど、尾島のことだもの、ろくなことは考えてないわよ」  純子はそう言って、「うちの社長は人を信じやすい性格だから」  と心配そうに付け加えた。 「ともかく、目を離さないようにしましょう。何があるか分からない」 「また尾行?」  と、純子がうんざりしたような声を出した。 「ことによると、尾島さんを捕まえられますよ」 「あ、そうか」  純子はパッと顔を明るくした。「そうしたら、TVや新聞にも出るかしら。ねえ?」 「あら、社長、まだ帰らないんですの?」  五時になるが早いか、あたかも秒針と競争でもしているように机を片付けてしまうと、純子は、伸子がまだ文書の添削をやっているのを見て、言った。 「これを終わらせて帰るわ。お先にどうぞ」  と伸子は赤のボールペンを手にして微笑《ほほえ》んだ。 「手伝いましょうか?」 「いいえ、いいの。これは社長の仕事ですもの。それに結構面白いのよ」 「でも疲れてるみたい。本当にいいの? 別に急ぐわけでもないんでしょ、そんなこと」 「やりかけたから、終わらせたいの。どうぞ先に帰って」 「言い出すと頑固ね、伸子さんも。じゃ、お言葉に甘えて」 「お疲れさま」  純子が出て行くと、伸子はふっと肩で息をついた。あまり強く言い張ると純子が妙に思うかもしれない、と、できるだけ柔らかく言ったつもりだが……。怪しまれなかっただろうか?  まあ、純子にしても、まさか尾島一郎と伸子が会おうとしているとは、思ってもみないだろう。 「十二時だったわね……」  時間はたっぷりある。伸子は、文書の添削を続けた。  尾島産業で使っている、手紙や文書の類《たぐい》の書式を見直しているのである。尾島一郎は、ずっと前のものを、全然見もせずに使っていたようで、明らかな字の間違いや、今の若い社員には到底読めまいと思うような字、表現がやたらと出て来る。  持って回った言い回し、「しかるに」だの、「そもそも」なんて、時代劇にでも出て来そうな文句を使った手紙が、そのままである。  全く同じ内容で、時候の挨拶が違うだけの手紙もあるし、いくら比べても、どこが違うか分からない書式が別の分類になっている。整理すれば、半分までは減らせそうだった。  簡潔に要件だけを書けば二、三行で済む手紙が、前後にもったいぶった言葉がくっついて十行にもなる。伸子は、以前、お茶くみ専門だった頃から、手紙を出すのを頼まれたり、清書を言いつかったりする度に、もっと簡単にできないのかしら、と思っていたのだ。  赤のボールペンで、どんどん文章を削って行く。まとめるべき書式を指示し、新しいナンバーをつける。  やりかけたのだから、全部やってしまおうと思っていた。途中まででやめて、もし今夜自分の身に万一のことがあったら、後で困るだろう。  それに、やがてこの「三日天下」に終わりが来て、自分がお茶くみの地位に戻ることがあっても、こうして作った新しい書式は、たぶん残って行くだろう。  こういうものは、誰もなかなか手を付けないものなのだ。  一心にやっている内に、六時になっていた。七時頃には終わるだろう。——伸子は一つ息をついて、また仕事に取りかかった。 「まだ出て来ませんね」  と、谷口刑事が言った。 「上に立つ者があまり仕事熱心だと、部下はやりにくいわ」  と純子がこぼした。  二人は、ビルの出口が見える喫茶店に陣取って、伸子の出て来るのを待っているのである。 「もし見当違いだったらごめんなさいね」  と純子が言った。 「そんな心配はご無用ですよ。大体捜査なんてものは、九十九パーセント見当違いなんですから。それで一パーセントの手掛かりをつかめれば充分なんですよ」 「そう言ってもらえると気が楽ね」 「ただ、僕はなぜか、いつも九十九パーセントの方にいるんです」  純子は笑ってしまった。 「——ごめん。でも、何だか、おかしくって……」 「自分でもおかしいですよ」  と谷口は真面目な顔で言った。 「これで尾島一郎を捕まえられたら、一パーセントになれるわよ」 「あまりあて《・・》にしない方が良さそうですね」  谷口がため息をついた。 「でも、遅いなあ、伸子さん。お腹《なか》空《す》いちゃいそうね。サンドイッチでも食べましょうか。——あ、三枝さん、ここよ」 「やあ、どうも……」  三枝は二人と並んで座ると、「まだ社長は仕事してますよ」  と言った。 「そう。じゃ大分待たされそうね」 「そりゃ、場所にもよりますけど、どこで会うにしたって、あんまり早い時間は選ばないでしょうね」  と谷口が肯《うなず》く。 「じゃ、下手すると夜中ね。大変だ」 「僕に任せてお帰りになった方がいいんじゃありませんか」 「いやよ。この目で決定的瞬間を見なきゃ。見損なったら、くやしくって眠れないわ」 「ビデオテープにでもとっときましょうか」 「野球じゃあるまいし……。大丈夫、たとえ夜明かしになっても粘るわ……」  と純子は宣言した。  三枝へ水を持って来たウエイトレスが、ちょっと心配そうに、 「あの……ここ、十時で閉まるんですけど」  と言った。  伸子が会社を出たのは七時半だった。 「一旦、アパートへ帰って出直せばいいわ」  と独り言。近くで夕食を済ませてしまおう。どの店にしようか、と迷っていると、 「伸子さん」  と、声をかけて来たのは、林昌也だった。 「あら! どうしたの?」 「うん、近くへ来たんでね。もしかしたら、まだ仕事してるかな、と思ってさ」 「よかったわ」 「何が?」 「え?——何かしら?」  そう言って、伸子は笑ってしまった。 「何だい、変だなあ」 「ごめんなさい。ちょうどね、あなたに会いたかったのよ」 「へえ。じゃ、インスピレーション、ってやつだな」 「ともかく、どこかで夕ご飯食べましょ。まだなんでしょ?」 「うん。でも……金、ないよ」 「何言ってるの。さあ、行きましょうよ!」  伸子は昌也の腕へ自分から腕を絡めて身を寄せて行った。こんなことは初めてなので、昌也の方も面食らっている。 「そ、それじゃ……」 「何を食べる? あなたの好きなものでいいわ」 「えらく気前がいいんだなあ」  二人が歩いて行くのを、純子、三枝、谷口の三人は、喫茶店から見送っていたが……。 「どうやら見当違いのようね」  と純子はため息をついた。はた目には、あの二人が待ち合わせていたと見えるのが当然である。 「骨折り損でしたね」  と三枝が笑いながら言った。 「ごめんなさい。私の早トチリで」 「いや、取り越し苦労に終わってよかったですよ」  純子は、谷口の方へ申し訳なさそうな目を向けて、 「やっぱり九十九パーセントだったわね」  と言った。 「いいんです。チャンスはまたあります」 「何なら、これからお食事でもいかが?」 「本当ですか?」  谷口は目を輝かせた。「九十九パーセント万歳ですよ! ちょっと待って下さい。何もなかったか、電話をしてみますから」  谷口が赤電話の方へと行ってしまうと、三枝が不思議そうな顔で、 「九十九パーセント、って何の話です?」  と訊《き》いた。 「まあ……大した話じゃないのよ」  純子は曖昧《あいまい》に言って、欠伸《あくび》をかみ殺した。 「三枝さんもごめんなさい。早く帰って、奥さんに怒られない内に」 「じゃ、お先に」  三枝は、ちゃんと自分の分の代金を置いて先に出て行った。純子が、飲み残しのさめたコーヒーを飲んで渋い顔をしていると、谷口が戻って来た。 「申し訳ありませんが、ご一緒できなくなりました」  と真面目な顔で言う。 「あら、お仕事?」 「尾島久子が——」 「奥さんが? 容態でも悪くなったの?」 「いえ、意識を取り戻したらしいんですが……」 「まあ、よかったじゃないの!」 「ところが、病院からいなくなっちまったんです」  と谷口は言った。 「——疲れちゃった、私」  と、伸子は言った。 「何だい、いつになく弱気じゃないか」  と、昌也が微笑む。  二人は、昌也の、安くて量があるという主張の下に、中華料理店へ入っていた。「私なりに精一杯やったつもりなんだけど……」 「そうさ。よくやってるじゃないか」 「でもね、考えてみると、私が社長になって、何かいいことなんてあったかしら? 人殺しはあるし、前社長は捕まるし、その奥さんは自殺しかけるし……。私って疫病神《やくびょうがみ》なんじゃないかと思えて来たわ」 「そんなこと考えるなんて、やっぱり疲れてんだな。少し休みでも取って、旅行して来たら?」 「そうね……」  今夜、尾島一郎に会うことを、昌也へ告げたかった。しかし、約束だ。相手が誰だろうと、約束は約束だ。 「もしかしたら、私——」  つい口に出しかけて、あわてて言葉を切った。今夜、殺されるかもしれないの、などと言ったら、昌也が仰天するだろう。 「どうしたんだい?」 「別に、何でもない」  と、伸子は言った。「——今、何時かしら?」 「ええと、八時半頃だよ。何か用があるのかい?」 「いいえ、そうじゃないの」 「疲れてるんだろ。もう帰って寝たら?」  伸子はしばらくぼんやりとテーブルへ目を遊ばせていたが……ふと目を上げて、 「店を出よう」  と言った。 「おごってもらっちゃって悪いなあ」  外へ出ると、昌也が言った。「いつもそう言ってるけどさ」 「いいのよ。——ねえ、林君」 「何だい?」 「帰りを急ぐ?」 「僕は別にいいんだけど、伸子さんが——」 「歩こう」  伸子は、昌也の腕を取って促した。  もう夜でも空気はなま暖かい。——二人は、ぶらぶらと歩いて、小さな公園へ足を踏み入れかけたが、 「こりゃ凄《すご》いや」  と、昌也が、たじろいだ。——ベンチというベンチに、アベックが溢《あふ》れているのである。みんな、肩を寄せ合い、中にはもっと親密になっているカップルもある。 「外を回ろうよ」  と昌也が言った。  ところがもっと悪かったのである。公園といっても、道路との境は柵《さく》があるわけではなく、木の植えてある草地になっていて、そこでは、もっと熱烈なシーンも展開されているのだった。 「——暑いなあ」  昌也は、額の汗を拭った。つい足も早くなる。——やっと公園から遠ざかって、 「ああ疲れた」  と息をついた。 「林君……」  伸子が自分から昌也の首へ腕をかけて、唇を寄せて行った。——二度目となると、つい抱く昌也の方にも力がこもる。 「どこかに行かない?」  と伸子が言った。 「どこか、って……」  と昌也が戸惑う。 「ホテルかどこか……」 「本気かい?」 「そうよ」  昌也は右足で左足をけっ飛ばした。 「いてっ!——夢じゃないんだ」 「いやなら、無理にとは言わないけど」 「どうしたっていうのさ? そんなこと言い出すなんて……その……」 「疲れたのよ。休みたいの。——眠るだけが休みじゃないわ」 「で、でもさ……君は社長で、僕は学生だぜ」 「今度私のこと社長だなんて言ったら、ひっぱたくわよ」 「でもなあ……そんなこと……考えてもいなかったし……」  そう言いながら、昌也は、伸子に腕を取られて、歩き出していた。もう逆戻りはできない、といった感じの足取りだった……。  十二時。  ぴったりに、伸子は、マンションの前でタクシーを降りた。  周囲を見回す。——尾島は来ているだろうか?  一人きりで、人気のない通りに、立っている。マンションの入り口あたりは、四六時中明るい。  尾島がどこか、この近くにいれば、こっちの姿は見えるはずだ。  腕時計を見た。十二時五分だ。 「ここだ」  低い声がして、伸子は振り向いた。  尾島一郎が、植え込みの陰から、顔をのぞかせていた。 「尾島さん……。一人です。出ていらして」  ガサッと植え込みが揺らいで、手錠をかけたままの、尾島一郎が現れた。  不思議なことに、殺人犯として追われている人間が目の前に、それも手錠をかけたままで現れたというのに、伸子は少しも恐怖を感じなかった。 「本当に一人だろうな?」  と、尾島一郎が周囲を見回す。 「見張ってれば、とっくに出て来てますわ」 「そ、それもそうだ」  尾島は、伸子が落ち着き払っているので、ちょっと面食らった様子だ。 「誰かに見られたら困るでしょう。中へ入りましょう」  と伸子が言った。  急ぎ足でエレベーターへ向かう。上りのボタンを押すと、すぐに降りて来る。——真夜中である。まさか、エレベーターに人が乗っているとは思わなかった。  しかし、世の中には、夜中に仕事へ出て行く人だってないわけではないのである。  扉が開くと、若い女が出て来た。開くなり乗り込もうとした尾島と危うく鉢合わせ。 「あら、ごめんなさい」  と女が言った。尾島の手錠を見られては大変だ。伸子があわてて尾島をわきへ引っ張って、自分がその前に立った。  女がちょっと妙な顔で二人を見て、さっさと歩いて行く。伸子は急いで尾島を奥へ押し込むと、十階のボタンを押した。  扉が閉まると、伸子はホッと息をついた。 「怪しまれなかったかな」  と尾島が言った。 「たぶん、大丈夫だと思いますけど……」  と、伸子は心もとなげに言った。  ——下では、ちょうどマンションから表の通りへ出たさっきの女が、タクシーを停めようとして、ふと眉を寄せ、 「あら……今の人、もしかしたら……」  とマンションの方を振り向いていた。  十階の廊下には、幸い人影はなかった。足早に一〇〇五号室へと急いで、伸子はバッグから鍵《かぎ》を取り出し、ドアを開けた。 「さあ、早く」  と尾島を中へ入れて、ドアを閉める。  明かりが点《つ》くと、尾島はやっと落ち着いたようだった。 「カーテンを閉めましょう」  伸子はカーテンを引くと、「明かりが見えたら、変だと思われるかもしれませんよ」 「そうだな……。よく一人で来たじゃないか」 「お約束ですもの」 「約束か」  尾島はフンと鼻で笑って、「いちいち本気で約束を守ってちゃ、社長業などやっていけんぞ」 「そうでしょうか」 「当たり前だ。商売は食うか食われるかだ」  伸子は微笑んだ。 「でも、今のところ、尾島産業は潰《つぶ》れていませんわ」 「だから何だ!」  尾島がいきり立って、「お前みたいな小娘に、社長がつとまってたまるか!」  と喚《わめ》いた。 「尾島さん……。大きな声を出したら、隣に聞こえますわ」  尾島はいまいましそうに口をつぐむと、伸子をにらみつけた。伸子は言った。 「私が今まで何とかやって来たのは、運が良かったのと、社員みんなの協力があったからです」 「馬鹿言え、俺がちゃんと商売をしていたから、それを引き継いでやってるだけだ。お前なんかに何ができる」 「今の状態が正常だとは、私も思っていません」  と伸子は静かに言った。「間違ってこうなってしまったんです。いずれまた……私も元のお茶くみに戻るかもしれません。でも、みんな一生懸命働きました。それは事実ですわ」 「元に戻って、か。——戻れると思ってるのか?」  と尾島は言った。 「どういう意味ですか?」 「俺がお前を生かして帰すと思ってるのか」  伸子は別に動じる風でもなく、 「私を殺すとおっしゃるんですか?」  と訊いた。 「そうさ」 「ここにいた女の人も、あなたが殺したんですか?」 「違う! 俺は殺しちゃいない!」 「純子さんはあなたを見かけたと言っていますよ」 「ああ。確かにそれは俺だ。しかし、ここへ来たとき、もうあいつは殺されていた。本当だ」 「それなら、今さらどうして本当の殺人犯になろうとするんですか? 無実なら、きっと容疑が晴れます」 「うるさい!」  と尾島は怒鳴った。自分の方がよっぽどうるさい。 「北岡や柳の奴までが——俺を裏切りおって……。皆殺しにしてやる!」 「そんなことをして、奥さんはどうなるんですの?」  尾島が一瞬怯《ひる》んだ。 「あいつは……もう死ぬ」 「助かりますよ。お医者さんだって——」 「嘘だ!」  尾島がまた怒鳴った。警察で怒鳴られてばかりいたので、その反動かもしれない。 「医者の言うことなんか、あてになるか!」 「本当ですよ。ちゃんと助かるって——」 「命乞いしたってむだだぞ。誰も気にするもんか」  尾島が、手錠をはめた両手を、伸子の方へと伸ばして来た……。 「全くもって、お話になりませんな」  と、谷口は、ため息をついた。  尾島夫人の入院していた病院である。  純子もついて来ていた。 「監視の刑事が居眠りしていたとかで」 「お疲れだったのね」  純子にしては珍しく同情的な言葉を吐いた。  二人が病室の前に立っていると、その刑事が戻って来た。 「自宅へは戻っていないようです」 「そうか。どこへ行っちまったんだろうな、全く」 「申し訳ありません。ほんのちょっとウトウトした隙に……」 「ともかく、この近辺を捜すんだ。まだ近くにいるかもしれない」 「はい」  と刑事が走って行く。 「ね、谷口さん」 「何です?」 「尾島さんの奥さん、どんな格好で出て行ったの?」 「それが、ちゃんと、運び込まれたときに着ていた服を着て、出て行ったようなんです」 「そう……」  純子は考え込んだ。「刑事さんが、ちょっと居眠りしている間に、服を着て……。これはどう考えたって、計画的よ。たまたま意識を取り戻したんじゃないわ」 「どうもそのようですね」  と谷口も肯いた。 「ということは——」 「まんまと我々は一杯食わされてたってわけです」  谷口は苦笑した。 「つまり、前から意識は戻ってたってことね」 「医者も首をひねってましたからね。どうしてまだ意識不明なのか分からないと言って」 「でも、奥さん、なぜそんなことをしたのかしら?」 「亭主とどこかで落ち合う気なのかもしれませんね」 「それは無理よ」  と純子は言った。「だって、奥さんが入院したとき、尾島はもう捕まってたわけだし、会ったのは、見舞いに来たときだけでしょう。あれはみんなが見ていたんだもの。そんな打ち合わせをする時間はなかったはずよ」 「それはそうですね。——しかし、それじゃ一体なぜ……」 「それに、自分があんな目にあったのに、犯人の名を言おうともしないなんて。——それとも、それが言いたくなかったから、意識不明のふりをしてたのか……」 「そうかもしれませんね!」  と谷口が目を輝かす。 「でも、それなら、あれは事故でした、って言い張れば済むことでしょ」 「そうか……」  谷口がまた難しい顔になって腕を組む。  そのとき、さっきの刑事が走って来た。 「谷口さん!」 「おい、ここは病院だぞ。静かにしろ。何だ?」 「今、無線で——」  走ってばかりいるせいかハアハア息を切らしている。「尾島らしい男が——あの、殺人のあったマンションに——」 「現れたのか?」 「ええ。何だか——若い女と一緒だったとか——」  純子が思わず、 「伸子さんだわ、きっと」  と声を上げた。 「純子さんのカンが当たってたのかもしれませんね。よし、急行しましょう。——おい、夫人の方は頼むぞ」 「急ぎましょう!」  谷口と純子は廊下を駆けて行った。 「何だ、自分だって走ってるくせに」  と刑事が文句を言った。  尾島の指が、伸子の首にかかった。  伸子は、怯《おび》える様子も見せず、じっと尾島を見つめていた。 「いいか、言い残すことがあったら聞いてやるぞ」  と尾島の方が青ざめて、脂汗をタラタラ流していた。 「今ここで事務引き継ぎはできませんわ」  と伸子が言った。 「何だと?」 「あ、そうだわ。このマンションは、今借金の抵当に入ってるんです」  と伸子が思い出した様子で、 「柳さんが勝手にやったことです。それは申し上げておかないと」 「おい、死ぬのが怖くないのか?」 「尾島さんは人を殺せないと思ってます。根っから悪い人じゃないと思うんです。ただ、世渡りが、ちょっとずるいだけ。——人を殺せるとは思えません」 「畜生! なめてやがるな。見てろ!」  尾島の指に力が入って、伸子の首へ食い込んだ。——しかし、ごくわずかに絞めつけただけで、それ以上、指は動かなかった。  伸子は、じっと尾島を見つめている。  尾島は伸子の首から手を離すと、力が尽きたように、ペタン、と床へ座り込んでしまった。 「——殺してやろうと思ったのに」  と呟《つぶや》く。すると、 「そしたら私があなたを殺してたわよ」  と急に声がした。 「——久子!」  尾島が目を丸くした。 「まあ、奥さん!」  伸子は嬉しそうに、「もう大丈夫なんですの?」  と訊いた。尾島久子は肯いて、 「ええ。もう何ともありません」 「そうか……俺は……てっきり、お前がもう死にかけてると思って……」 「そんなあわて者で、よく社長をやってらしたわね」 「おい、久子——」 「病院にいて、つくづく考えたの。あなたは社長って器《うつわ》じゃないんですよ」 「何を言い出すんだ!」 「こちらのお嬢さんこそ、社長さんにふさわしい方だわ」  尾島もだが、伸子の方もびっくりした。 「何を言い出すんだ、久子!」 「私がこの方を駅の階段で突き飛ばしたとき、この方は私をかばってくれたわ。あなたとは人間のスケールが違うんですよ」  尾島は、夢でも見ているように、ポカンとしていた。 「奥さん」  と伸子が言った。「ご主人を警察へ連れて行ってあげて下さい。ご主人は人殺しのできるような方じゃありませんわ」 「本当にいい方ね、あなたは」  と夫人が言った。 「おい久子、俺を警察へ突き出す気か? この女、俺に殺されそうになったと言うに決まってるぞ」 「あら、本当じゃありませんか」  尾島はぐっと詰まった。 「大丈夫です」  伸子が微笑《ほほえ》んだ。「私、何も言いませんから」  そのとき、玄関のドアの開く音がした。そして振り向く間もなく、明かりが消えて、居間は闇に包まれた。 「もっと飛ばせ!」  谷口が運転している警官へ怒鳴った。 「これ以上は無理ですよ!」  パトカーは夜の道をぶっ飛ばしていた。 「伸子さんの馬鹿!」  純子がジリジリしながら、「底抜けの馬鹿だわ、本当に!」 「無事でしょうかね」 「分かるわけないでしょ」  純子は手を握りしめていた。——どうか、伸子さんがまだ無事でいてくれますように。 「あのマンションですね」 「そうだ。前へつけろ。十階まで上がれないか?」 「無茶言わないで下さい」  警官が呆《あき》れて、言った。  パトカーが停《と》まると、純子と谷口は飛び出した。谷口はマンションを見上げると、 「十階の——あの部屋だが……。明かりは点いてませんよ」 「ともかく急ぎましょう」  二人はエレベーターへ向かって走った。 「ど、どうしたんだ、おい?」  真っ暗になった部屋の中に、尾島の声が響いた。 「明かりが消えただけじゃないの」  尾島久子の声がした。「何をそうビクビクしてるのよ」 「し、しかし……昔から俺は暗い所が苦手だったんだ。知ってるだろう」 「小さい頃、悪さ《・・》をして押し入れへ閉じ込められたんでしょ、きっと」 「冗談言ってる場合か。早く明かりをつけてくれ!」 「私は消さないわよ。大方停電でしょ。待ってれば点くわ」 「そんな……」  尾島の声は震えていた。「おい、何とかしてくれ!」  どうもおかしい、と伸子は感じていた。  前にも、この部屋にいるとき、誰かが明かりを消して逃げて行った。あのときの感じによく似ている。  そう言えば三人で話しているときに、どこかのドアがギーッと鳴るのを聞いたような気がする。こういうマンションでは、音の伝わり方は複雑なので、上下の部屋のドアの音が、まるで我が家のそれのように聞こえる。だから、耳にしてもあまり気にしなかったのだが、では、あれはこの部屋のドアだったのだ。 「尾島さん、黙って」  と伸子は言った。 「何だ、お前が俺に黙れとは、どういうつもりだ?」 「しっ! 誰かが入って来て消したんですわ!」 「何だと? いい加減なことを言って、ごまかそうと——」 「あなた、少し黙りなさい」  と、夫人が言った。  しばらく沈黙があった。——伸子は、じっと耳を澄ました。  誰も動く気配はない。——では、気のせいだったのか?  伸子は、近くにフロア型のスタンドがあったのを思い出して手探りした。——あった。紐《ひも》を引くと、カチリと音はしたが、明かりはつかない。  すると、やはり安全器を切られているらしい。——どうすればいいだろう?  このままじっとしていてどうなるものでもないが……。 「何だ、誰もいないじゃないか」  と尾島が馬鹿にしたように言った。  そのとき、玄関のドアが開いて、 「伸子さん! いるの?」  と純子の声。 「純子さん! 安全器が切れてるの!」  と伸子が声をかける。「気を付けて!」 「尾島はいるんですか?」  と谷口の声がした。 「畜生!」  尾島が吐き捨てるように言った。「やっぱり知らせたんだな!」 「違います、私——」  明かりがついた。谷口が飛び込んで来る。 「無事でしたか!」 「ええ。——でも、どうしてここが?」 「通報があったんです。ここの住人の女性からね」  下ですれ違った人だわ、と伸子は思った。 「伸子さん!」  純子が入って来て、「何てことするのよ!」  とにらんだ。 「ごめんなさい。でも約束だったのよ」  と伸子は言った。 「いくら約束だって……。相手は殺人犯なのよ」 「尾島さんじゃないわ、犯人は」 「ええ?」  純子は目を丸くした。「どうして知ってるの?」 「尾島さんがそう言ったもの」  純子は、救い難い、という顔で、 「ねえ、人を信じる気持ちは尊いと思うけど、それも事によりけりよ」 「でも、私は信じたいわ。尾島さんに人殺しができるなんて思えないの」 「お人好しもいい加減にしてよ」  と純子は渋い顔だ。  尾島の方は逃げるのを諦《あきら》めた様子で、ふてくされている。 「心配しないのよ、あなた」  と夫人が言った。「無実なら、必ず犯人が見付かるわ」 「十年先か? 二十年か?」 「もう一声! 三十年」  と純子が言った。せり市のつもりらしい。 「奥さん」  と谷口が言った。「どうして病院から逃げ出されたんです?」 「病院、大騒ぎですよ」  と純子が言った。 「あら、私は別に逃げ出したりしませんよ」 「しかし——」 「目が覚めたので、服を着て出て来ただけです」 「はあ……」 「廊下に誰か眠ってましたけど、起こすのも気の毒なので、そのまま出て来ました。それだけです」  なるほど。見方によってはそうなるかもしれない。谷口としても、毒気を抜かれた感じだ。 「分かりました。ともかく一度病院へ戻って下さい」 「はいはい」  と、久子が素直に肯《うなず》く。 「純子さん、すみませんが」  と谷口が、警察への連絡を頼むと、純子は了解して、電話の方へと歩いて行った。受話器を上げ、ダイヤルを——。 「ハクション!」  派手なクシャミが聞こえた。  純子、伸子、谷口の三人は顔を見合わせた。 「今の誰?」 「ここにいる連中だけじゃないんだ」  と谷口が言った。「どこかに誰かが隠れてるぞ」  シンと静まり返る。——みんなが、部屋の中を見回した。  そこへ、 「ここです」  と声がして、ソファの裏から、立ち上がった人間がいた。 「まあ!」  伸子が思わず声を上げた。「荒井さんじゃないの!」  部長の荒井定市である。 「そんな所で、何してたんです?」  と谷口が鋭く訊いた。  荒井は疲れたように息をついて、 「私です」  と言った。 「何のこと?」 「あの女——三好晃《あき》子《こ》を殺したのは、私なんです」 「荒井さん!」  伸子が唖《あ》然《ぜん》とした。「——本当なの?」 「はあ」  荒井は申し訳なさそうにうなだれて、「女房にはとっちめられましたが、若いあの女のことが忘れられず、少し早目に外出先から直接帰宅と称して、ここへ来たんです」 「それで?」 「あの女は、他《ほか》の男と寝ていました。私を見ると、ゲラゲラと笑い出して、私を馬鹿にしたんです。私はカーッとなって……」 「彼女と争った……」 「そうです。気が付いてみると、女の首を絞めていました。女はぐったりとして……」 「彼女と寝ていた男の方はどうしました?」  と、谷口が訊《き》いた。 「争ってる内に、いなくなっていました。たぶん厄介事がいやで、逃げ出したんだと思います」 「なるほどね……」 「自首しなくてはと思ってはいたのですが、家族のことなどを考えると、つい……」 「分かりました」  と谷口は言った。 「見ろ!」  と尾島が得意満面で、「俺が正しかったんだぞ!」  とぐっとそり返った。下手をすると、引っくり返りそうだ。 「さあ手錠を外してもらおうか!」 「いいでしょう」  谷口は、不承不承、尾島の手錠を外してやった。 「——信じられない」  伸子は、グッとグラスをあけると、「もう一杯。ストレート!」  と声を上げた。 「ねえ、伸子さん、もうやめたら?」  純子は気が気でない様子。  二人してスナックへやって来たのである。 「あの荒井さんが……」  伸子は呟いた。「信じられないわ」 「気持ちは分かるわ」  純子も、今夜は飲みたかったが、伸子が酔いそうなので、自分はあまり飲むわけにいかない。 「純子さん、あなたはどう?」 「どう、って?」 「荒井さんの話よ。信じる?」 「本人が言うんだから——」 「私、信じない!」  と伸子は断固として宣言する。 「どうして?」 「ともかく信じたくないから信じないのよ」  と伸子は挑むような口調で言った。 「でも本人が——」 「本人なんてあて《・・》になるもんですか」  こうなってはどうしようもない。純子は、伸子に好きなだけしゃべらせようと思った。  明日になれば、気も変わる。  それが希望的観測だった。 「ア……」  伸子も、さすがに二日酔いというやつで……。  翌日、社内は大騒ぎだった。 「あの荒井さんが——」 「嘘みたい」 「本当なのよ。信じられないけど」 「動機は?」 「老いらくの恋というところかしら」 「いい部長さんだったのにね」 「本当、残念だわ」 「尾島さんが戻って来るのよ」 「ヤーアねえ!」 「途中で事故でも起こさない限り、ね」  と大変な騒ぎ。 「——今日は仕事にならないわね」  と純子が社長室へ入って来て、言った。 「そう?」 「みんな荒井さんと尾島の話で持ちきりよ」 「そうだわ。ねえ」 「何?」 「みんなに言っておいて。取材や何かには一切応じないように、って」 「分かったわ」 「今日の予定は……イタタ」  と頭を抱える。 「大丈夫?——飲みすぎよ」 「今さら言っても始まらないわよ」 「コーヒーでも飲んで来たら?」  伸子はちょっと迷っていたが、 「そうね。——そうするか」 「行ってらっしゃい。電話は適当に答えとくから」 「お願い」  伸子は、社長室を出て行った。  純子は、急いで谷口へ電話をかけた。 「今、谷口は外出しています」  とそっけない返事。 「チェッ」  と肩をすくめる。——電話が鳴った。 「はい社長室」 「社長へお電話です」 「つないで」  と純子は言って、社長の椅子へ座った。 「社長室です」 「尾島君はおるかね?」  と男の太い声。 「尾島——でございますか? 今、社長は桑田と申しますが」 「何だと? そこは尾島産業だろう?」 「さようでございます。——どなた様でしょう?」 「富菱《とみびし》銀行の大畑だ。昨日アメリカから戻って来た」  純子はピョンと立ち上がった。  大変だ!——大畑といえば、伸子を社長にした張本人ではないか。 「社長が尾島君でないというのは、どういうことかね?」 「あ、あの——それは——色々と事情がございまして——」 「よく分からんな」  と大畑は言った。「ともかく尾島君に代わってくれ」 「それが——本日は休んでおりまして」 「そうか。では自宅へかけよう」  電話は切れた。 「大変だわ!」  今の話の様子では、大畑は伸子を社長にしたことなど、まるで忘れてしまっているらしい。  純子は事務所を飛び出すと、下の喫茶室へと急いだ。 「——伸子さん!」  と店へ飛び込む。 「どうしたの? そんな大声を出しちゃ、頭痛がちっとも良くならないじゃないの」 「そんなこと言ってる場合じゃないのよ!」 「どうしたの?」  純子が大畑の電話のことを話して、 「尾島のことだから、威張って乗り込んで来るわよ。どうする?」 「どうする、って……」  伸子は、平静な表情を少しも変えずに、「最初から、こうなるのは分かってたんじゃないの。あわてることないわ」 「じゃ、尾島に社長の椅子を返すつもり?」 「仕方ないじゃないの。私が座ったのが、そもそもの間違いよ」  伸子はそう言って、ゆっくりとコーヒーを飲んだ。  純子はどうにも立場がないという感じであった。 「肝心のあなたがそう落ち着き払って、悟り切ってるんじゃ、どうしようもないじゃないの」  と純子は文句を言った。 「だって、今さらじたばたしても始まらないでしょ」  と伸子は穏やかに微笑んでいる。 「大畑が帰って来るのを知ってたの?」 「まさか。——でも、いい時期かもしれないわ」 「どうして?」 「辞める気だったからよ」  純子は、椅子を引いて自分も腰をかけた。 「何かわけがあるの?」 「実はね——」  と伸子は息をついて、「あのマンションを抵当に入れて、五百万円を叔父に都合してあるの」 「何だ、知ってたの?」  伸子は驚いて、 「純子さんも?」 「柳から聞いたわよ。あいつが勝手にやったことじゃないの!」 「でも、そのお金を叔父が使ってるのは事実よ」 「そんな……。知らなかったんだから——」 「知らなかったからって、社長として責任を取らなくていいということにはならないわ。部下の過ちは上司の過ちよ」 「だって、それは大体があなたを陥れようとする——」 「気持ちは嬉しいけど」  と伸子は遮《さえぎ》った。「いずれにしても、あの大畑っていう人が戻ったんですもの。事態は変わって来るわ。それに荒井さんのこともあるし——」  荒井か。荒井があの女を殺したとは、とても信じられない、と純子は思った。  しかし、現に荒井は自白しているのだから、疑いようもないが……。 「何かがね……」  と純子は呟いた。 「え?」 「ううん。——何か引っかかることがあるのよ」 「何の話?」 「荒井さんが犯人だ、ってこと。どこかおかしいような気がしてね」 「でも——」 「うん、自白したんだから、とは思ってるんだけど……。あのマンションで、伸子さんたちを見たでしょう。そして荒井さんが出て来た……。何だか、あのときに、妙だな、って気がしたの」 「どんな風に?」 「どんな、って言われてもねえ」  と、純子は眉を寄せて、むつかしい顔になる。「ただ、そのときに、あれって思ったのよね。どうしてこんな……」  純子は言葉を切って、しばしポカンとしていたが、突然立ち上がると、 「そうだわ!」  と大声を上げた。伸子が仰天する。 「どうしたのよ、純子さん?」 「え?——あ、いえ、別に何でもないの」  言葉とは裏腹に、そのそわそわしている様子は、何でもないどころではない。 「あの、社長」 「何よ、急に態度変えて」 「今日は早退させていただいてよろしいですか?」 「遠慮なさるような純子さんとは思いませんでしたが」  伸子もわざと丁寧口調で言った。 「恐れ入ります。では失礼」  純子はさっさと喫茶室を飛び出して行ってしまった。伸子は肩をすくめて、 「都会の女性はせっかちね」  と呟いた。  いよいよ大畑が帰って来たのか。すると尾島体制にまた戻るわけだ。自分なりに一生懸命やって来ただけに、残念でもあるが、もともと、こんな経験自体が、そうそうめったにあることではないのだ。  これだけ続いたのも奇跡のようなものなのだから、ここいらが潮時でもあろう。  伸子は、尾島産業を辞めるつもりであった。別に、お茶くみの仕事に戻るのがいやなのではないが、会社というものに疲れてしまったのだ。 「——我ながらよくやったぞ」  誰も賞めてくれないから、自分で賞めよう、と思ってそう呟くと、伸子は急に気が軽くなった。  このか細い体の両肩にのしかかっていた、〈社長〉というおもしが、外れたようだ。  社長の職を解かれたら、ここを辞めて田舎へ帰ろうか、と思った。——しょせん、東京の水は自分には合わない。  といって、田舎には田舎の気苦労がある。殊に、叔父と年中顔を突き合わせるかと思うとそれも気が重い。  それよりはいっそ都会の片隅でおとなしく生きている方がいいかもしれない。社長になどならずに、だ。  林君はどう思うだろう?——伸子は、昌也へ進んで身を任せたことを、後悔していなかった。そしてそのことに、自分自身びっくりした……。  初めて、自分が変わったということに、気が付いた。昌也や純子が、よくそう言ったが、それはそんな目で見るからだ、と思い込んでいた。そうではないのだ。  社長になる前の、お茶くみの伸子なら、仮に昌也に求められても、決して応じなかっただろう。自分からホテルに誘うなんて、とんでもないことだ。  ——昌也をホテルへ誘ったとき、伸子は、疲れていた。誰かによりかかりたいという気持ちがあった。しかし、それだけではなかったような気がする。  身を任せることで、自分を失ってしまうことがないという自信が、伸子に踏み切らせたのである。  昌也は、もちろん伸子と結婚するつもりだろうし、伸子とて、昌也が好きなのだから、結婚することに異存はない。  しかし、それはまだまだ先のことだ。昌也が大学を出て、一人前になって、それから考えればいい。気を付けなくてはならないのは、このままズルズルと同棲《どうせい》のような形になってしまうことである。  それだけは避けなくてはならない。結局、昌也の将来を、伸子がぶち壊してしまうことにもなるからだ。  だが、以前の伸子はともかく、今の伸子には、決して引きずられないという自信があった。これも、社長業の経験が、伸子を大人にしたせいかもしれない……。  伸子は、喫茶室を出ると、オフィスへと戻った。  午後三時を少し回ったとき、社長室のドアが開いた。  入って来たのは大畑だった。 「——君か、桑田伸子というのは?」 「そうです」  伸子はゆっくりと席を立った。  大畑は困ったような顔で、しばらく伸子を眺めていた。 「私が君を社長に指名したのか?」  しばらくしてから、大畑はそう言った。 「はい、そうです」 「信じられん!」  大畑はソファへドカッと腰をかけた。「あの朝……私は女のマンションにいた。シャワーを浴びていて、したたか頭を打った」 「じゃ、そのせいで——」 「どうもそうらしい」  と大畑は肯いた。「あの後も、時々、ふっと意識の薄くなるときがあった。まあ、妙なことはしなかったようだが」 「もうよろしいんですか?」 「まあ、空気が変わったせいかな。アメリカにいる間に、いつの間にか治ってしまったのだ」 「私もびっくりしました」 「そうだろうな」  大畑は笑顔になった。「しかし、女房の奴に聞いたが、なかなか評判になったそうじゃないか」 「物珍しさだけですわ」 「ともかく、ここまで無事に来ただけでも大したものだ」 「社員の人たちの力です。私はただ、みんなが働きやすいようにと心がけていただけです」  と伸子は言った。 「君はいくつだ?」 「十九です」 「十九か……。全く驚いたな」  伸子はちょっと社長室の中を見回して、 「尾島さんはすぐおいでになるんでしょうか?」  と訊いた。 「明日からになるだろうな」 「分かりました」 「ずいぶんあっさりしているんだな」 「いつかはこうなると思っていましたから」  大畑は興味深そうに伸子を眺めると、言った。 「君はなかなか有能らしい。私の所へ来ないか」 「お茶くみがいないんですか?」  と伸子が訊くと、大畑は愉快そうに笑った。 「いや、面白い娘だ。君を秘書として雇いたいのだ」 「せっかくですが——」 「だめか?」 「はい」 「何かわけでも?」 「別にありません。ただ——あまり忙しいポストはこりごりです」  大畑は、 「なるほど」  と肯き、「閑《ひま》な仕事ならいいのかね?」  と訊いた。 「楽でヒマで、給料のいい所なら働きますけど……」  伸子が真面目くさって言う。 「そんな所があれば、私も働くね」  大畑はニヤリと笑った。  ——大畑が帰って行くと、伸子は、机の中の整理を始めた。  明日、尾島が出社して来て、どこかが汚れているようでは恥ずかしい。  きちんと整理された状態であけ渡さなくては。  三枝が入って来る。 「社長。——大畑は何の用でしたか?」 「ああ、三枝さん、色々とお世話になりまして……」 「それじゃ、やはり尾島さんが……」 「そうですわ。もともとこうなるのが正常なんですもの」 「しかし……残念ですな」  三枝は自分がクビにでもなったかのようにがっかりしている。「せっかく軌道に乗ったところなのに……」 「もう私なんかいなくても、仕事は順調に行きますわ。三枝さん、部長に戻れますよ」 「そいつはどうでしょうね」  と三枝が言った。「もし戻れと言われても断るつもりです」 「あら、どうして?」 「私は現場にいたいんです。大きな椅子にふんぞり返っているのは性に合わない」 「あら、でも現場の苦労をよく分かった三枝さんが部長にならないと、営業の方がやりにくいんじゃありません?」 「それは——」  と三枝が詰まる。 「若い人たちの声を聞いて、幹部の人たちに伝える人がいないと、会社はだめになりますわ。やっぱり三枝さんが、頑張って下さらないと」  三枝はゆっくり肯いた。 「分かりました。——もし、また指名されるようなら、受けましょう」 「やあ、竹野さん」  出て来た谷口刑事が嬉しそうに、「よく、いらっしゃいましたね。お茶でも——」 「それどころじゃないの」  と、純子は言った。 「何かあったんですか?」  純子が、大畑の戻ったことと、その意味を説明すると、谷口の顔が曇った。 「じゃ、桑田さんは、もう……」 「たぶんそろそろ尾島たちが乗り込んで来るんじゃないかしら」  と言って、「散々人と会社に迷惑かけておいて、図々しいんだから」  とふくれた。 「しかし、そこまで警察も手は出せませんからね」 「あ、そうだわ。肝心のこと言うの、忘れてた!」 「肝心のこと?」 「ちょっと気が付いたことがあってね」 「何です?」 「ねえ、本当に荒井さんがやったのかしら、どう?」 「本人は認めています」 「何かの理由で罪をかぶる気だったとしたら、どうする?」 「どういうことです?」 「あの死体の絞めた跡は? 首に手の跡がつくんでしょう?」 「本当なら指紋も取れるんですがね、犯人は慎重な奴です」 「ねえ、もしあなたが女の人の首をしめても、気の弱い性格で、途中でやめたとするでしょ。その後に、誰かが本当に絞め殺したとも考えられる……」 「何の話です?」  と谷口が目を丸くした。 「一つね、おかしなことに気付いたのよ」  と、純子は言った。 ストライキ突入 「何とかしなきゃ!」 「そうよ」  しばし、沈黙。 「何とかしなくちゃ」 「そうね」  ——これがもう十回近くもくり返されていた。  場所は尾島産業に近い、あるケーキ屋の二階。下は売店、二階がコーヒーショップになっていて、下のケーキをここで食べて帰ることができるのである。  集まっているのは、尾島産業の女子社員たち四人で、帰り際に、早くも広まった、 「伸子さんが社長を辞めさせられて、また尾島社長が戻って来るんですって!」  というニュースに、みんなが、 「そんなひどい話ってないわ!」 「そうよ!」 「対策を練りましょうよ、みんなで」 「賛成!」  というわけで、このケーキ屋へとやって来たのである。  深刻な大問題を論じるにもケーキ屋の二階でなくてはならないというのが、女性の不思議なところであるが、そこは実利的な本能が働くのであった。 「たとえ話し合いは実を結ばなくても、少なくともお腹《なか》にはケーキが入る」  という、転んでもタダでは起きないという精神の現れなのである。  だから、〈沈黙〉の間にも、手と口は忙しく動いていたわけで、決して徒《いたず》らに考え込んでいたわけではないのだ。  それにしても—— 「何とかしなきゃ」  という点で意見の一致は見たものの、それ以上に一歩も進まないというのは、多少、 「このケーキ、小さくなったんじゃないかしら」  とか、 「スポンジケーキの中に入っているナッツの数が、一立方センチ当たり、三個から二個になってるわ」  といった点に気を取られていたせいであったことも否定できない。 「——さて」  と、一人が、ケーキを食べ終えたところで言った。「何か名案はない?」 「ともかく目的をはっきりさせておく必要があると思うのよ」  と、四人の内でも、最も理屈っぽい女の子が言った。 「あら、そんなの、はっきりしてるじゃあないの!」  と、短気な一人が言った。「どうやって尾島が社長に復帰するのを阻止するかよ」 「でも、それにも二通りのやり方があると思うの」  と、〈理屈屋〉嬢が言う。「今の桑田社長を守るのか、それとも尾島復帰を妨害するのか、よ」 「どこが違うのよ」  と〈短気〉嬢が早くも苛々《いらいら》した表情になる。 「まあ確かに、現実的に取る手段は違うわね」  と、何かというと〈現実的〉という言葉を使いたがる一人が言った。「あなたどう思う?」  訊かれた残る一人は、のんびり屋で、まだケーキを食べ終えていなかったせいもあって、 「そうねえ……」  と、考えてはいるのだ、という曖昧《あいまい》なゼスチャーを見せるに止《とど》まった。 「ともかく闘わなきゃ!」  と〈短気〉嬢が主張する。 「でも現実に何か私たちにできて?」  これは当然〈現実〉嬢である。 「女の子だけじゃ力に限りがあるわ」  と〈理屈〉嬢。「いかにしてそれだけの力を結集するかが問題よ」 「そんなこと言ってちゃ、間に合わないわ!明日にも尾島は出て来ちゃうのよ」 「問題はそこね。現実的に言って、もう時間がないわけだから……」 「まだ朝までは十二時間以上あるわ! 全社員が一致団結して尾島邸を襲いましょう!」 「忠臣蔵は夏場じゃないのよ」  と〈理屈〉嬢が言った。「具体的に、可能な方法を列挙して、一つ一つ検討すべきだわ」 「そんな悠長なこと言って、どうするの! 行動するのみ! 即刻、尾島の家へ乗り込んで——」 「ちょっと待ちなさいよ」  と〈現実〉嬢が、「現実的に言って、私たち、尾島さんの家、どこにあるか、知らないんじゃない?」  と言った。 「あ、そうか」  と、〈短気〉嬢が腹立たしげに、「どうして、それを早く言わないのよ!」  と当たりついでに、〈曖昧〉嬢の方へ、 「あんたも何とか言いなさいよ!」 「え?」 「さっきから何も言わないじゃないの。ケーキばっかし食べてないで、何とかおっしゃいよ!」 「あの——つまり——」 〈曖昧〉嬢はおどおどしながら、「私は思ったんだけど——まあ、ちょっとね——その、考えついたっていうだけで——あんまり、まあ——いい考えかどうか——でも——」 「はっきりしなさいよ!」  と〈短気〉嬢がかみつきそうな顔で言った。 「あ、あの……」 〈曖昧〉嬢があわてて首をすぼめながら、「ストライキをやったら?」  と言った。  他《ほか》の三人が顔を見合わせた。 「——それよ!」 「どうして今まで気が付かなかったのかしら?」 「現実的だわ!」 「で、次はいかにしてストライキを——」  四人は早速討議に入ったが、ここで、新たにコーヒーゼリーが追加された。 「組合ってものがないのよ、うちは。ストライキってできるの?」 「構うもんですか。みんなが仕事しなきゃ同じことよ」 「問題はどれくらいの人数がストライキに動員できるかね」 「全員よ! 参加しない者は半殺しの目にあわせる」 「怖いわねえ。ともかく現実的に考えましょうよ。まずやっぱり男の人が必要よ」 「どうしてよ! 女の力を見くびって——」 「そうじゃないわよ。でも、私たちが声をかけたって、男の人たちはなかなか素直に聞いてくれないと思うのよ。それにリーダーはやっぱり男性の方がいいわ」 「でも、誰か捜すったって、時間がないでしょう」 「そうねえ……」  四人はここでしばらく考え込んで、コーヒーゼリーに専念した。すると、 「あれ?」  と、目を上げたのは、〈理屈〉嬢で、「ほら、あそこ……。山本さんじゃない」  他の三人も振り向いて、 「本当だ」  と、笑い出しそうになった。  山本将之《まさゆき》——純子にほのかな恋心を寄せている青年社員だ。その彼が、少し離れたテーブルで、四人には全く気付かない様子で、ケーキを食べている。  それも三つも皿を並べて、あたかもディナーのフルコースの如く、端からせっせと食べて行くのである。 「呆《あき》れた……」 「よく食べられるわねえ、三つも並べて」 「一つ空の皿があるわ。きっと四つよ」 「あれで、太った、って文句言ってんだものね。——当たり前だわ」 「ねえ!」  と、〈短気〉嬢が言った。「山本さんがいいんじゃない?」  他の三人が顔を見合わせて、 「でも……」 「役者不足じゃない?」 「でも手近に他に男性がいないんだもの」 「——現実的に言ってしかたないかもね」  山本はせっせと二つめのケーキを平らげていた。週に一度、こうしてこの店で何種類ものケーキを食べるのが、山本の楽しみの一つだった。  純子も、到底求愛に応じてくれそうもないし、そうなれば、無理にやせたって仕方ない、と山本は達観の境地にあった。 「——山本さん」  声をかけられて、顔を上げた山本はギョッとした。四人もの女子社員が目の前に並んでいる。 「こ、今晩は」  と山本は微笑《ほほえ》んだ。 「おいしそうね」 「え?——ああ、これ。あんまり好きじゃないんだけどね」 「好きでもないのに四つもよく食べられるわね」 「え? うん……その……頼まれちゃってね。そのつまり……叔父さんがケーキ屋を始めるんで、どのケーキがおいしいか、よく食べ比べてくれって」  四人が一斉に吹き出した。山本は惨めな顔で、 「信じないのかい?」  と言ってから、「やっぱりね」  と肯《うなず》いた。 「ねえ、一つ、ものは相談なんだけど」 「何だい?」 「頼みを聞いてくれる?」 「それは——頼みによるじゃないか」 「ウンと言ってよ。でないと、このことを社内中に言いふらすわよ」  山本は目をむいた。 「脅迫するのかい?」 「引き受けてくれりゃ脅迫にはならないでしょ」  とあまり筋の通らない理屈を言って、「どっちにする?」  と迫った。 「——何をするのさ?」  山本はふてくされて言った。  四人の話を聞いて、山本は唖《あ》然《ぜん》とした。 「僕が……ストライキのリーダー?」 「そう。山本さんなら適役よ」 「本当だわ。貫禄もあるし、情熱もある。私たちにとっても身近《・・》な人だしね」  つまり、太っていて、単純で、たまたま近くにいた、ということなのであるが、山本の方は結構乗せられて、 「そうかなあ……」  などとへラヘラしている。 「山本さんだって、伸子さんが社長でいてくれた方がいいでしょう?」 「そりゃまあね」  そうか、純子さんも、この一件で僕のことを見直してくれるかもしれないぞ、と山本は思い付いた。こうなると大張り切りで、 「やる! やるよ!」  と力強く肯いた。 「——それじゃ、もう社長じゃないの?」  と林昌也は言った。 「うん。——嬉しい?」  と、伸子はいたずらっぽく訊《き》いた。  伸子のアパートである。今日は珍しく伸子が手料理を昌也に食べさせたのだった。 「君が嬉しいなら僕も嬉しいし、悲しいなら僕も悲しいよ」 「うまい返事ね」  と伸子は微笑んだ。「——あ、お茶淹《い》れるわ」  伸子が台所へ立った。 「でも、残念だろう? 正直なところは」 「半々ね。ホッとしたような……。でも、大変だったけど、後悔はしてないわ」 「君、立派にやったよ」 「ありがとう」  お茶を淹れて来ると、伸子は自分でも、ゆっくりとそれをすすって、「大邸宅が建てられなかったわ」 「二人で住むなら六畳一間だって充分さ」 「二人?——いつかは三人か四人になるのよ」 「そのときはそのときさ」  と昌也は笑って、「ね、僕、大学やめて働こうかと思うんだ」  伸子の顔がこわばった。 「それはだめ!」 「どうして? 二人で働きゃ何とか——」 「急がないで。まだ若いのよ。大学を出てから、ゆっくり準備すればいいわ」 「だけど——」 「大学をやめないと約束してくれなきゃ、私、田舎へ帰るわ」  昌也は渋々、 「分かったよ」  と承知した。「おっかないんだなあ」 「そうよ。いやなら他の女性を捜しなさい」  昌也はふっと笑って、 「尻に敷かれるのって好きなんだ」  と言った。伸子が吹き出した。  昌也が伸子を抱き寄せると、伸子はぐいと押し戻して、 「キスだけよ」 「おあずけかい?」 「大学出るまでね」 「そりゃないよ。せめて——盆と正月ぐらい」 「お中元やお歳暮じゃないのよ」  伸子は昌也の唇に軽くキスして、素早くスルリと彼の腕から抜け出した。  翌日、伸子はいつもより大分早くアパートを出た。  社長室をもう一度掃除しておこうと思ったのである。それに出社してから辞表も出すつもりであった。  もう、朝の内から大分暑くなって来ていた。OLたちにとっては、難しい季節だ。通勤電車は混《こ》んで暑いが、社内はクーラーが利《き》いて、腰や足が冷える。  仕方なく、毛糸のショールみたいなものを膝《ひざ》へかけたりしている女性もずいぶん多い。考えてみれば妙な光景である。  あそこを辞めて、どこへ行こうか?——ぶらぶらと遊んでいるような余裕はないのだ。うちへも仕送りしなくてはならないし……。 「あら……」  ビルの前で誰やらタスキをかけてハチマキをした人間たちがスクラムを組んでいる。春闘は終わったはずだけど。——〈夏闘〉ってのもあんまり聞かないわね。  伸子は首をかしげた。  尾島一郎は口笛を吹きながら鏡の前でネクタイをしめた。 「あなた」  妻の久子が声をかける。「早くしないと遅刻するわよ」 「何を言ってるんだ。なにも平社員じゃないぞ。九時に行くことはない」 「桑田さんは、毎朝ちゃんと九時には出社してたはずよ」 「あいつの話はよせ!」  尾島は苛立たしげに怒鳴った。 「何よ、あの人がいなかったら、今頃尾島産業はどうなってたか……」 「そんなことはどうだっていい。ともかく、あいつはまたお茶くみだ」  久子は苦々しい表情で夫を見た。 「喉元《のどもと》すぎれば、ってのはこのことね」 「何だと?」 「手錠かけられて逃げ回ってたときには、そんな威勢のいいこと言ってられなかったんじゃない?」 「もういい」  尾島はぶっきら棒に遮《さえぎ》った。「今日は大畑さんを迎えに寄って、それから会社へ行くんだ。ハイヤーはまだか?」 「ハイヤーなんて来ていませんよ」 「呼んどいたんだ。もう時間は過ぎているぞ」 「あら、そうでしたの」  と久子は言った。「さっき来たけど、間違いだったって帰しちゃったわ」 「おい!——」  尾島は顔を真っ赤にして何か言いかけたが、思い直して、「もういい! タクシーを拾う!」  と、憤然として言った。 「柳さんや北岡さんはどうなるの?」  と、久子が訊いた。 「あいつらは俺を裏切った。処置は考えてやる」 「三枝さんは?」 「あいつも気に入らん。あの娘っ子にへイコラしやがって……」 「みんな、あなたの腹心なのに、どうして離れて行ったのかしらね」  と久子は言った。 「何だと?」 「あなたには人望ってものがないのよ。分かる?」 「うるさい!」  尾島は怒鳴って、「もう出かけるぞ」  と上衣を着て、鞄《かばん》を引っつかんだ。——尾島が憤然として出て行くと、久子はため息をついた。  電話が鳴った。 「はい尾島です」 「あ、奥様ですか、柳です」  以前の調子のいい柳に戻っている。 「実は妙なことになりまして——」 「妙なこと?」 「実は今、会社の前にいるんですが……」 「純子、起きないの?」  母親に言われて、純子はウーンと唸《うな》った。ベッドの中でモゾモゾと身動きする。 「純子——」  と母が揺り起こそうとすると、純子がやおら頭を出して、 「ワン!」  と吠えた。 「何よ、びっくりするじゃないの」 「不機嫌なんだからね、かみつくわよ!」 「会社はどうするの? もうすぐ九時よ」 「いいのよ、あんな会社、どうなったって」  とふてくされ顔で、「どうせ辞めちまうんだから」 「あら、辞めるの?」 「伸子さんが社長でなくなったら、意味ないわ」 「でも、お前……」 「他にすることもあるの。殺人事件とかね」 「何のこと?」 「こっちの話。ともかく寝かしといて」  とそっぽを向いてしまう。 「そうなの。辞めるんなら、それで色々と用があるのよ。縁談が十五、六件たまってるの。会ってみる?」  純子がピョンとはね起きた。 「縁談?」 「そう。会社辞めたら、どうせ暇でしょ? 一日に一人会っても、半月は時間潰《つぶ》しができるわよ」 「会社に行くわ」  と、純子はベッドから飛び出した。 「でもお前——」 「最後はキチンとしておかないとね」  純子はドタドタと階段を駆け降りた。  顔を洗っていると、電話の鳴っているのが聞こえた。タオルで顔を拭うと、 「純子、伸子さんからよ」  と母が声をかける。純子は急いで受話器を受け取った。 「ごめんね、寝坊しちゃって。母が起こすのを忘れてね」  と勝手なことを言っている。「——え?——何ですって?」 「困っちゃったのよ!」  と伸子の当惑した声が伝わって来た。「ストライキ、やってるの!」 「スト……」  純子は母の方へ、「お母さん、今日、国電か私鉄のスト、あったっけ?」 「さあ、聞いてないね」 「違うのよ!」  と伸子が大声で言った。「尾島産業がストライキに入ったの!」 「うちの……会社が?」  純子は唖然として、「どうして? 今頃何だって——」 「それがね、尾島さんが社長に戻るのに反対といって……。どうしよう?」  純子の目が輝いた。もちろん本当に輝いたらお化けであるが。その場で飛び上がった。 「やるじゃないの! 首謀者は誰?」 「山本さんらしいの」 「山本君?——あの、ふくれた《・・・・》山本君?」  本人が聞いたらガックリしただろう。「へえ、人は見かけによらないもんね」 「感心してないで。あなたも早く来てよ」 「行く行く!」  これを見逃してなるものか。「一分で行くからね!」  スーパーマンだってそんなに早くは行けないだろう。電話を切ると、純子は、 「お母さん! 行って来るわ」  と声をかけた。母親があわてて、 「純子! パジャマで行く気なの!」  と駆けつけて来た。 「着替えぐらいするわよ、いやねえ」 「ならいいけど……」  母親が胸を撫《な》でおろした。 「ねえ、うちにへルメットない?」 「そんな物ありませんよ」 「金属バットは?」 「お父さんのゴルフクラブならあるけど……」 「じゃ、いいや」  純子は自分の部屋へと駆け上がって行った。母親は呆《あつ》気《け》に取られて、 「殴り込みにでも行くのかしら」  と呟《つぶや》いた。  純子が駆けつけたとき、尾島産業の入ったビルの前は、タスキ、ハチマキの社員たちで一杯だった。  通行人が面白そうに見て行くし、暇な人間も結構多いらしくて、見物人も少なくない。  しかし、何分やりつけないことでもあり、大体組合というものがないので、団結のシュプレヒコールやら、インターナショナルの歌なんてものは誰も知らない。  仕方ないから、みんなで〈幸せなら手をたたこう〉なんかを歌っている。ストというよりハイキングみたいである。  少し手前で足を止めて眺めていると、いきなりぐいと腕をつかまれた。 「あら、社長、何やってるの?」  伸子である。困り切った様子で、 「ねえ、何とかして。中に入れてくれないのよ」 「伸子さんまで締め出されちゃったの?」 「中へ入れたら辞表を出すに違いない、って三枝さんが言ったの。そしたらみんなで私を中へ入れるな、って……」  純子は吹き出した。 「変なストライキ! でも、本当にその気だったんでしょ?」 「そうよ。仕方ないじゃないの」 「でも、止《や》めなさいよ。事態はもうあなたの手を離れちゃったんだから」 「楽しそうな顔して、もう——」  伸子は泣き出したい気分だった。 「私もやって来よ、っと」 「純子さん!」 「短大出とはいえ、学園闘争にも参加したのよ」  純子は、ツカツカと進み出ると、合唱の指揮をしていた山本の肩をポンと叩いた。「山本さん、やるじゃないの!」 「あ、純子さん……」 「でも、文部省唱歌じゃストらしくないわよ」 「そう思ったんですが……」  と頭をかく。  純子はやおら片手を腰に当てると、 「尾島体制、フンサーイ!」  と拳《こぶし》を突き出した。ワーッと拍手が起きる。  伸子は、天を仰いで、 「もうだめだ」  と呟いた。 「新しい人事については多少時間をかけて煮つめるつもりです」  と尾島は言った。  大畑のハイヤーに乗せてもらっているのである。大畑は肯いて、 「しかし、業績を見ると、君のいない間に、約三割も伸びとるな」  と言った。 「そ、それは——」  尾島はぐっと詰まったが、「私の作り上げた機構が、いかに有効なものかを示しているのです。たとえ自分がいなくとも、会社は間違いなく運営されるように、常日頃から考えているのが、経営者の義務です!」  とぶち上げた。 「いい心構えだ」  と、大畑は肯いた。「社長などというのは、いつバタリと行くか分からんのだからな」 「その通りです」  ——しばらく、どちらも口をきかなかった。やがて大畑が言った。 「あの桑田伸子という娘はどうするつもりだね?」 「元のお茶くみへ戻します。いい気になってTVなどへ出おって、けしからん奴です、全く!」 「そうか」  大畑は言った。「私ならそうはしない」 「といいますと?」 「あの娘、見どころがある。——私なら課長ぐらいにして、女の子たちのまとめ役にする。顧客には女性もいるのだ。女性の心理は女性の方がよく分かる。きっと役に立つ」  尾島はちょっと複雑な表情になったが、 「む、むろんです」  と、急いで言った。「実は私もそう考えていたのです」 「それなら結構」  大畑は外を見ながら、「まあ、おそらく、あの娘は自分から辞めて行くだろうがな」  と言った。 「そうでしょうか」 「あの娘、身を退《ひ》くときを心得ている。社長の座にみっともなくしがみついたりはせんよ。引き際のきれいなことも、良い経営者の資質の一つだ」  何となく、尾島は自分のことを言われているような気がして、咳払《せきばら》いした。  車はやがて尾島産業のビルへ近付いていったが……。 「——何だか人だかりがしていますね」  尾島は窓を開けて覗《のぞ》くと、「うちの社員たちだな。私を歓迎しようと待ってくれているようです」  とはいい気なものだ。  車が近付くにつれ、尾島の顔が青ざめた。 「尾島帰れ!」 「社長は一人で沢山だ!」 「能なし尾島体制、フンサイ!」  といったシュプレヒコールが、純子の指導のせいか、なかなか決まっている。  大畑がニヤニヤして、 「大分違うようだね」  と言った。 「桑田伸子の奴です! みんなを煽《あお》り立てたんだ、畜生!」 「どこへ停《と》めます?」  と運転手が訊いた。 「少し手前で停めろ。様子を見る」  と大畑が言った。 「私が行って——」  と尾島が言いかけると、 「いや、私が一人で行ってみる。君はここにいろ」  と、大畑は抑えて、一人で車を降り、歩いて行った。見物人の間に立って、社員たちが、楽しげに、元気一杯にワーッとやっているのを眺めて、大畑は思わず笑みを洩らした。 「大畑さん」  と声をかけられて振り向くと、伸子が立っている。 「やあ君か。——どうしてこんな所に?」 「何とか止めようとしたんです。でも……聞いてくれなくて」 「しかし、みんな君のためにやっとるんじゃないかね」 「ええ。でも——うちは組合もないし、押し切られるのは分かり切っています。そのときに、処分されては気の毒です。責任は私一人が取ります。他の社員の人たちが助かるように、尾島さんへ話していただけませんでしょうか?」  大畑は伸子の顔を眺めていたが、 「君はなかなか見上げたものだな」  と言った。 「辞めるときぐらい、社長らしく辞めたいと思います」  伸子はそう言って微笑んだ。  大畑は肯いて、 「よろしい、話をしてやろう」 「ありがとうございます」  と伸子は頭を下げた。  そのとき、パトカーのサイレンが鳴るのが聞こえて来た。伸子は不安げに顔を曇らせた。  パトカーが二台、けたたましくサイレンを鳴らして走って来ると、尾島産業の前に停まった。  パトカーが停まると、バラバラと機動隊員がストライキ中の社員へ襲いかかった……りはしなかったが、警官が山本や純子の方へとツカツカと歩み寄って、 「責任者は誰だ!」  と怒鳴った。 「何の用?」  純子である。こんなことで負けちゃいない! 「君がリーダーか?」 「だったらどうだってのよ?」 「ここは公道だぞ。道路交通法違反になるんだ」 「ふざけないでよ。ちゃんと人が通るぐらいの隙間はあるわ」 「いいから、直ちに解散したまえ!」  ベエと純子が舌を出す。  警官が顔を真っ赤にして、 「貴様を逮捕する!」  と怒鳴った。 「待って下さい」  と、進み出たのは伸子である。 「何だ、君は?」 「私が責任者です」 「君か? よし、一緒に来てもらうぞ」 「はい」 「ちょっと待ってよ」  純子が伸子を押し戻して、「あなた社長なのよ」 「だから責任者なのよ」 「社長がストライキの首謀者だなんて聞いたことない。リーダーは私よ!」 「社員の身に起こったことは私の責任です!」 「石頭ねえ。非組合員にストライキに加わる権利なんてないの!」 「何言ってんのよ。うちには組合なんてないじゃないの」 「それにしたって、あなたは関係ないの。私たちが勝手に始めたんだから」 「私のためにやってくれるのはありがたいけど——」 「伸子さんのためじゃないわ! 自分たちのためよ!」 「へ理屈《・・・》は言わないで」 「どっちがよ」 「ここは黙って私に——」 「伸子さんは現実に《・・・》リーダーじゃないんだから——」 「でも、社長として——」 「これは社長には関係ないの!」  やりとりを聞いていた警官が、今にも破裂しそうに、顔を真っ赤にして、 「いい加減にしろ!」  と怒鳴った。「二人とも逮捕する! その他《ほか》の者は直ちに解散しろ!」  ——伸子と純子が、 「分からず屋!」 「石頭!」  とやり合いながら、パトカーへ乗せられて行くと、残っていた者たちは、何となく顔を見合わせ、やがて、一人、また一人と会社の中へ入って行った。  大畑はじっと一部始終を眺めていた。 「いやあ、こいつは傑作だ!」  尾島がやって来て、愉しげに笑った。「自分で自分の首を絞めおって。手間が省けましたな」 「社長——」  と声がかかる。 「何だ、柳か」 「いかがでした、私の手並みは」 「うん? すると、警察を呼んだのはお前か?」 「その通りです」  柳が得意げに肯く。 「よくやったぞ!」  尾島は柳の肩を叩いた。 「恐れ入ります」 「また部長に返り咲きだ。しっかりやれよ」 「ありがとうございます!」  柳がニヤリと笑った。 「では大畑さん、お願いします」  と尾島が言った。  大畑は何やらぼんやりしていたが、 「ん?——ああ、そうだな」  と我に返ったように肯いた。 「あの二人がいなくなりゃ、みんなシュンとなりますよ。楽なもんです」 「——では行くか」  と大畑が歩き出す。尾島と柳が、あわてて後に従った。 「救い難い人ね、全く」  と、パトカーの中で、純子が言った。「後がどうなるか、考えもしないで」 「あなたこそ」  二人は顔を見合わせた。そして、同時に吹き出して、二人で大笑いした。  警官は呆気に取られてその様子を眺めていた。 「——ところでね、伸子さん」 「何?」 「例の殺人事件なんだけど」 「殺人?——荒井さんが捕まった?」 「そう。実はね、ちょっとまだキナくさいのよ」 「どういう意味?」 「他に犯人がいるらしいってこと」 「本当に?」 「そうよ。だって荒井さんみたいな気の弱い人が、女の首を絞めて殺すなんて、できると思う?」 「そりゃあね……」  伸子は、尾島が自分の首を絞めようとして、結局、果たせなかったことを思い出した。——そう、人間の命を奪うというのは、容易なことではないのだ。 「じゃ、荒井さんはどうして自供したの?」 「自分じゃ殺したつもりでいるのよ、きっと。本当は、ちょっと絞める真似ごとをしたぐらいなのに」 「彼女の方はショックで気を失った……」 「そう。荒井さんはてっきり彼女が死んだと思って逃げ出す。その後へ真犯人が来て、今度は本当に彼女を絞め殺す。これが真相だと思うの」 「なるほどね。——その話、あの刑事さんにはしたの?」 「うん。もう一度極秘で洗い直そうってことになったの」 「じゃ、荒井さんの罪が晴れるかもしれないのね!」 「いい人だものね。一度の浮気の罰にしちゃ、ちょっとひどすぎるわ」 「純子さん、天才ね!」 「そうでもないけどね」  と満更でもない様子。「今度、捜査一課に顧問として迎えたい、って言われてるの」 「まあ、凄《すご》い」  ——警官は、唖《あ》然《ぜん》として二人の話を聞いていた。純子が大《おお》欠伸《あくび》をして、 「ねえ、お巡りさん」  と言った。 「は、はあ?」 「私、朝食抜きで大声出してたから、お腹《なか》空《す》いちゃった。向こうに着いたら、出前の天丼《てんどん》か何か取ってくれる?」 「私はカツ丼がいいわ」  と伸子が言った。 「お金払うの? 何なら警視庁の捜査一課につけておいてくれない?」  警官は額の汗を拭った。——こいつは大変な相手を捕まえちまったのかもしれないぞ! 「——あら大変!」  と純子が声を上げた。 「どうしたの?」 「すっかり忘れてたわ」  純子は警官の腕をつっついて、「ねえ、ちょっと、おじさん」 「は? 何か——」 「そっちの方の用事、急ぐの?」 「そ、それはまあ……」  逮捕されて急ぐも何もないものである。 「忘れてたのよ。今朝の捜査一課の会議に出てくれって言われてたんだ」 「まあ、そうなの?」 「待ってるかもしれないし、悪いなあ。——ね、おじさん、後でちゃんと出頭するからさ、先に警視庁へ回ってくんない?」 「わ、分かりました」  言葉づかいまで変わっている。「おい! 警視庁へ急行!」  と声をかける。 「サイレンを鳴らしますか?」 「鳴らしてちょうだい!」  と純子が言った。  パトカーがけたたましくサイレンを鳴らしながら、一気にスピードを上げる。目の前の車が、どんどんわきへ寄って、道をあけてくれる。 「いい気分ね」  と純子が満足気に肯《うなず》いた。  伸子は笑い出したいのを、必死でこらえていた。——全く、純子さんったら!  しかし、純子の言った、荒井以外に真犯人がいるという説は、伸子にとっても、心の明るくなる思いだった。  荒井の家族のことを思うと、気が重い毎日ではあったのだ。  もし荒井が犯人でないとすると、他に一体誰が考えられるだろう?  尾島が犯人とは思えない。——もし人殺しをしているのなら、伸子だってためらわずに殺したはずである。  とすると……。  ここは単純に考えてみよう。——男が愛人を作っている。その場合、愛人を恨むのは一体誰か?  男の妻……。まさか! 尾島夫人が?  尾島久子は、何となく気の重い様子で、居間に座り込んでいた。  電話が鳴ると、急いで取り上げる。 「ああ、お前か」 「何だ、あなたなの」  とがっかりした様子を隠しもしない。 「悪かったな」  尾島がムッとしたような声を出す。 「ストライキだったんですって?」 「どうして知ってる?」 「柳さんのご注進でね」 「そうか。あの小生意気な娘っ子は二人とも逮捕されたぞ」 「まあ! 桑田さんと——」 「秘書の竹野って女だ。うるさいのがいなくなってせいせいした」 「そんなことを言うために電話して来たの?」 「いや、今夜は遅くなる。大畑さんを料亭へ案内するからな」 「まあ、私はまたあなたが留置場へ入るのかと思ったわ」 「いやなことを言うな」 「分かりましたよ。——はい」  久子は受話器を置いた。  久子はホッとため息をついて、 「困ったことになったわ」  と呟いた。  また電話が鳴った。あの人ったら、しつこいんだからね、全く! 「はい、今度は何です?」  と受話器を取るなり訊《き》くと、 「もしもし」  と男の声ではあるが、夫よりぐっと若い声である。 「あら失礼。どちら様でしょう?」 「尾島さんの奥さんは——」 「私ですよ」 「そうか。ちょいと話があるんだ」  あまり柄のいい男ではなさそうである。 「どなた?」 「ちょっと面白いネタがあってね」 「ネタ?——花か何かの?」 「種じゃねえや、ネタだよ。金のなる木の種ってとこかな」  と相手は含み笑いをした。 「そういう種があるなら、ぜひいただきたいわね。庭へ植えるわ」 「すっとぼけてんなあ、おばさんよ」 「私に、あなたのような甥《おい》はいませんよ」 「へへ……。まあ、用件だけ言うけどよ」 「そう願いたいわね」 「俺の女が殺された。知ってんだろ? お前さんのご亭主のナニだった女よ」 「あのマンションにいた?」 「そう。俺に小遣いをくれててよ。いい女だったんだぜ」 「要するにあなたは綱だったのね」 「綱?——ヒモだろ」 「どっちだってたいして違わないじゃないの。それがどうしたの?」 「実はよ、あの晩、俺はあのマンションへ行ったのさ」 「で、あの女の人を殺したの?」 「馬鹿言え」  男はムッとしたように、「小遣いをくれるのに殺すもんか」 「そりゃそうね」 「で、見ちまったのさ」 「何を?」 「あんたが、えらくあわてて出て来るところをよ」  久子は少し間を置いて、言った。 「何かの間違いね」 「いや、確かだぜ。ちゃんと顔も覚えてるんだ。もちろんそのときは、あんただとは分からなかったがね」 「それで?」 「こいつをサツへばらすと、ちとまずいことになるんじゃねえのかい?」 「誰も信用するもんですか」 「そうかな?」 「当たり前よ。今まで黙ってたことだっておかしいじゃないの」 「そいつは仕方ねえよ。あんたの写真は、つい最近見たばっかりだからな」  久子はゆっくりとソファにもたれた。 「——で、何だっていうの?」 「金さ。忘れてやる代わりに忘れ賃を出してもらいたい」 「断ったら?」 「サツの旦那には色々とタレ込んでる実績があるんだ」  と変な自慢をして、「俺の言うことなら、耳を貸してくれるぜ」 「どうだか分かるもんですか。私が知らないと言えば、それまでよ」 「そうはいかねえよ」  男の口調が、少し凄《すご》味《み》を帯びて来た。「甘く見るなよ。——こっちにはちゃんと品物があるんだぜ」 「品物?」 「あんた、あそこで落とした物があるだろう」  久子は初めて言葉に詰まった。 「私が何を落としたっていうの?」  と久子は少し間を置いて、訊き返した。 「自分で分からねえはずはあるまい」  と、相手の男は言った。 「あなたが出まかせを言ってないとどうして分かるの」  久子の言葉に男は低く笑って、 「なるほどな。——じゃ、教えてやるよ。メガネのケースさ。どうだ、出まかせでないことが分かったろう」 「そのようね」  と久子は平然と言った。「いくらで買えと言うの?」 「そうだな。——まず三千万、と言いたいところだが、一千万にまけといてやる。大サービスだぜ」 「馬鹿らしい」  久子は即座に言った。 「そんなお金がどこにあるって言うの」 「お宅の亭主は社長さんだろ」  と男は、少し冷ややかな声になった。 「社長ってのは、サラリーマンなのよ。そんな大金が入るわけはないじゃないの」 「そいつは妙じゃねえか」  と男は苛々《いらいら》した口調で、「じゃ、あのマンションの金はどこから出てたんだ? 晃子の奴だって、結構な小遣いをもらってたんだぜ」  と言った。久子は、ちょっと間を置いて、 「ともかく、一千万なんてお金、私の自由にはならないわ」  と言った。 「ふん。じゃ、いいんだな、俺がサツへ届けても」 「どうぞ」  久子は落ち着き払っていた。「それであなたにいくら入るの? 涙金でしょ。そんなことするより値下げした方が得じゃあなくって?」  男が舌打ちした。 「——参ったよ、あんたには」 「そう言えばいいのよ」 「いくらなら出せる」  と男は諦《あきら》めた口調で、「あんまり買い叩くなよ」  と気弱なことを言い出す。 「百万ね」 「そいつはないぜ! 十分の一だ」 「いやならやめておいてよ。こっちもそれ以上に出すよりは、警察相手にやり合った方がましですからね」  完全に立場は逆転し、久子の方が主導権を握っていた。 「OK。百万だな」  男は渋々承知した。「いざとなったら、もっと安くなんて言わねえでくれよな」 「大丈夫よ」 「いつ用意できる?」 「それぐらいなら……」  と久子は時計を見た。「今日中に持って行けるわ」 「よし。じゃ今夜十二時に——」 「冗談じゃないわよ」  と久子が遮《さえぎ》る。「こっちは年寄りなのよ。そんな夜中に出て行けますか」 「じゃ、いつならいいんだ?」 「まあ六時がいいとこね。六時に家《うち》へ来てちょうだい」 「そっちへ? だけど——」 「主人は遅いから大丈夫。玄関で帰ってもらうからね」 「押し売り扱いだな」 「押し売りじゃないの」  と、久子は言い返した。 「そりゃ大変でしたね」  純子に話を聞いて、谷口は大笑いしながら言った。 「谷口さんがいてくれて助かったわ。あなたって頼りになるのね」  と、純子が持ち上げる。谷口は照れくさそうに頭をかいた。中年、という感じの男としては、あまり絵にならないが、それでもどことなく純情そうなところで救われている。 「——何とか口をきいてね」  と純子が、可愛い眼《まな》差《ざ》しで、上目づかいに谷口を見ると、 「ええ、大丈夫。任せて下さい」  と、谷口もすっかりいい気分になっている。 「会社が心配だわ」  と伸子が言った。「私、社へ行ってみるから——」 「でも、今行くと尾島たちが……」 「それは覚悟の上よ。どうせ辞表出す気だったんだもの」 「もう少し待ってた方がいいわよ」  と、純子は言った。「事件の方もどうなるか分からないんだし……」  純子と伸子を逮捕しようとした警官は、二人が本当に《・・・》捜査一課の刑事と顔《かお》馴染《なじ》みと分かると、早々に引きあげてしまっていた。  谷口が珍しく二人に何かおごる、と言い出して、三人は手近なスパゲッティの店に入っていたのである。 「しかし、事件の方はますます分からなくなって来ましたよ」  と谷口がため息をついた。 「やっぱり何か問題が?」  と純子が勢い込んで訊く。 「あの荒井って人ですが、自供こそしてるけど、果たして本当にやったのかどうか……」 「何か矛盾でも?」 「ええ。手で首を絞めたと言ってるんですがね——」  と谷口は首を振って、「普通手で絞めれば指の跡がはっきり残るものなんです。指紋だって採れるぐらいにね」 「それがなかったの?」 「そうなんです。幅の広い布のような物で絞めている。たぶんネクタイか何かじゃないかと鑑識では言ってるんですがね」 「ネクタイ……」 「本人が気が転倒して忘れているのか、それとも、首は絞めたが、気を失ったくらいで、殺したと思い込んだか」 「で、その後に真犯人が——」 「その可能性もあるわけです」  谷口は疲れたように、「また振り出しへ逆戻りですよ」  と言った。  そこへ、誰かがドタドタと店へ入って来た。 「谷口さん!」 「やあ、どうした?」  前に、純子も病院で見たことがある、若い刑事だ。 「一人、浮かんで来ましたよ」と勢い込んで言った。 「そうか」  谷口は純子の方へ、「いや、殺された三好晃子に、他に男がいたんじゃないかという線を当たっていたんです。——誰だ?」 「通称、三郎という男です。今、身元を洗い出しています」 「あの女のヒモだったのか?」 「そのようです。あのマンションにもよく出入りしていたようですし、年中小遣いをもらっていたって話です」 「よし。怪しまれないように身辺を見張っていろ」 「分かりました」 「俺もすぐ戻る」  若い刑事が行ってしまうと、伸子が、 「お邪魔しちゃいけないわ。純子さん、行きましょうよ」  と促した。 「ちょっと待ってよ。ねえ、谷口さん、そのヒモが殺人犯だと思う?」 「分かりませんがね。——まあ、普通に考えれば、ヒモが金づるを殺すとは考えられないわけです」 「ああ、そうね」 「しかし、必ずしも金のつながりだけとは言えません。本気で惚《ほ》れていれば、いろいろと感情のもつれもあるでしょうからね」 「それが犯人だといいわね」  谷口は浮かぬ顔で、 「ただねえ、二人の人間が首を絞めていたとすると、どっちが殺したのかというのは微妙な問題になりますからね」  と、言った。 「それはそうね、はっきり証明できないのかしら?」 「難しいでしょうね。となると、どっちも殺人罪で起訴できなくなるかもしれない……」 「難しいもんなのね」  と純子は言った。  伸子と純子が会社へ戻ったのは、もう四時近かった。エレベーターを降りて、純子は、 「どうしたのかしら?」  と伸子の顔を見た。  事務所の中からは、物音や話し声一つ聞こえて来ない。 「みんな、どこにいるのかしら?」  二人は受付から入って行った。  会社の中は空っぽである。仕事をしていたのかどうか、机の上もきれいなものだ。  電話が鳴り出した。純子がそれを取って、 「はい、尾島産業でございます」 「おたく、どうなってんだい?」  と不機嫌な声が飛び出して来る。 「は?」 「昼間から何度もかけてんのに、誰も出ないじゃないか!」 「どうも失礼いたしました。はい」  純子が注文をメモして、「どうも申し訳ございません、どうも——」  とひたすら謝って、電話を切る。  会議室の方を見に行って来た伸子が、戻って来る。 「どこにもいないみたいよ」 「変ねえ」  純子が今の電話のことを説明して、「——だから、ずっといなかったのね、きっと」  と腕組みをして、事務所を見回す。 「入り口は開けっ放しで、どうしちゃったのかしら本当に?」  と伸子は不安げに、「まさか神隠しってわけじゃあるまいし……」 「古いわねえ。今じゃ、UFOにさらわれたって言うのよ」 「まさか!」  と伸子は笑った。 「——社長!」  と、入り口の方で声がした。 「三枝さん!」 「いや——お戻りでしたか」  三枝が、いささかろれつ《・・・》の回らない赤ら顔で、「てっきり、留置場かと——ヒック、——思って、ヒック」  と、しゃっくりをしている。 「酔っ払ってるの?」 「ええ、まあ、やけ酒てなもんで」 「みんなは?」 「全員隣のビルの屋上です」 「屋上?」 「ビヤガーデンです」 「仕事中でしょう?」 「みんないやだと言い出したんです。尾島さんが、あんまりあなたのことを悪く言うので、みんなカンカンになって——」 「でも——尾島さんたちは?」 「取りまきと大畑を連れて、料亭です。それで、こっちも一つ、やけ飲み大会をやろうと、誰からともなく言い出しまして」 「サボタージュ、ってわけね」  と純子が愉快そうに、「私も行こう、っと!」 「ええ、どうぞどうぞ。一つパーッと騒いで——」 「三枝さん!」  伸子がもの凄い剣幕で怒鳴った。 「は、はい」  三枝が目を丸くして、伸子を見た。 「すぐにみんなを呼んでらっしゃい!」 「は? しかし——」 「どんな理由があろうと、会社を開け放して空っぽにしていいはずはないでしょう! お客様にどう言い訳するの!」  伸子が、こんなに怒ったのは初めてである。三枝も純子も呆《あつ》気《け》に取られていた。 「いやなことがあろうと、仕事はキチンとやってこそプロじゃありませんか!」 「伸子さん——」  純子が面食らって、「ね、落ち着いて!」  となだめる。  伸子は、肩で息をしながら、ふっと我に返ったようで、 「ごめんなさい……」  と、手近な椅子に座った。「もう社長でもないくせに。——偉そうなこと言っちゃったわ」 「いえ、社長……」 「〈社長〉はやめて。もう、辞表を出せば終わりなんだから」  伸子は一つ深々と息をつくと、立ち上がって、バッグから辞表を出した。そして社長室へと歩いて行く。  それを見送って、 「やっぱり寂しいのよ、伸子さん」  と純子が言った。 「張りつめてやっておられましたからねえ……」  と三枝が、すっかり酔いもさめた様子で、言った。  電話が鳴った。三枝が素早く取って、 「はい、尾島産業でございます。——いつもお世話になっております……」  六時になった。  尾島久子は時計を見て、 「時間ね」  と呟《つぶや》いた。——目の前に封筒がある。中から、束ねた一万円札が出て来る。  久子は、軽く息をついて、もう一度時計を見る。 「遅刻したら割引するからね」  玄関の方で、何かガタッと物音がした。 「来たのかしら……」  久子は立ち上がって、玄関へ出た。 「——どなた?」  と声をかける。  返事はない。久子はサンダルを引っかけると、 「誰かいるの?」  ともう一度言った。  ドアの外で、低い、呻《うめ》き声らしいものが聞こえた。覗《のぞ》き穴から外を見たが、人の姿はない。久子は、首をかしげて、ドアを開けた。 「——まあ」  玄関に若い男が倒れていた。背中をべっとりと染めているのは、血のようだった。 「えらいことになりました」  と、電話口の谷口の声は、あわてふためいているという感じだった。 「どうしたんですか?」  家へ帰って来たばかりだった純子は、まだ服も着替えていない。 「ヒモのお話をしたでしょう」 「ヒモ?——ああ、殺された女の——」 「三郎というチンピラです。そいつが殺されたんですよ」 「まあ」 「それも、尾島の家の玄関で、です」  と谷口は言った。「どうします?」 「どうしますって?」 「一緒に行ってみますか?」 「行かないでどうするの!」  純子は大声で言った。  電話を切ると、母親が心配そうに、 「純子、お前、あんまり変なことに関《かか》わり合ったりしない方がいいよ」  と言った。 「殺人事件の犯人を見つけるのよ。別に変なことじゃないわ。それじゃ出かけて来るからね!」  と飛び出して行く。 「変なことじゃないのかねえ、人殺しだのヒモだのって……」  母親は諦めたようにため息をついて、「見解の相違ってやつなのね、きっと」  と呟いた。  尾島の邸の前には、パトカーが何台も停《と》まって、人だかりがしていた。 「入らないで!」  と、警官に止められると、純子は、 「ご苦労さん」  と声をかけ、「谷口さんを呼んでちょうだい」  と言った。 「谷口——」  純子が気やすく呼ぶので、警官も面食らったらしい。「あの——あなたは?」 「私? ちょっと身分は明かせないわ」  と、もったいぶっている。そこへ、 「ああ純子さん」  と、玄関の方から谷口が歩いて来た。「君、いいんだその人は」 「はあ……」  警官が呆気に取られているのを尻目に、さっさと純子は歩いて行った。 「また新展開ね」  と純子が楽しそうに言うと、谷口は渋い顔で、 「ますますややこしくなりました」  と首を振った。 「で、現場は?」  と探偵気取り。 「ここです」 「ここ?」 「そこに死体があるでしょ」  ちょっと薄暗いのと、ビニールをかけてあるので気付かなかったのだ。 「キャッ!」  と、純子は飛び上がった。頼りない名探偵である。 「背中を一突きです。ここへ来て刺されたんですね」 「でも何の用でここへ……」 「それはこれから尾島夫人へ訊くところなんです」 「家には奥さんだけ?」 「ええ。一人でいたようです」 「そうか。尾島は料亭なんだわ」 「ほう?」  純子は、谷口へ、会社へ戻ってからのことを話して聞かせた。 「なるほど、どこの料亭か分かりますかね」 「私は知らないけど……。あ、きっと三枝さんなら知ってるわ」  と純子が言うと、谷口はメモを取って、 「連絡してみましょう。——さて、じゃ夫人から話を聞きますか」  と促した。  尾島久子は至ってのんびりしたものだった。 「——そりゃあ、びっくりしましたわ。でも、この年齢《とし》になりますとね、あんまり怖いことってなくなるものなんですよ」  居間のソファにチョコンと腰をかけて、平然としている。 「あの男がどうしてお宅へやって来たのか、ご存知ですか?」  と谷口が訊いた。 「いいえ。うちへは助けを求めに来ただけでしょう。きっと道で喧《けん》嘩《か》でもして刺されたんですわ」  スラスラと久子は言ってのけた。 「それは違いますね」 「あら、そう?」 「背中を刺されていますし、かなりひどく出血しているんです。しかし、道にも玄関との間にも血の跡はない。つまり——玄関の所まで来て刺されたということです」 「ああ——分かりました」  と久子は肯いて、「逃げて来たんですわ、きっと。そしてたまたまうちの玄関まで走って来た。そこを追いつかれて刺されたんですよ」  と、得意げに肯く。  大した演技力だわ、と純子は感心した。度胸のいいことでは、純子も人にひけは取らないが、こういう居直り的な図々しさは、年齢のなせるところが大きいのである。 「奥さん」  と谷口は言った。「どうか正直に話して下さい」 「あら、どういうことですの?」 「殺された男は三郎という通称のチンピラでしてね——」  谷口が、三郎は殺された女のヒモだったことを説明して、 「その三郎が、偶然、お宅の玄関で殺されるわけはありませんよ。そうでしょう?」  と言った。 「珍しい偶然ですね、確かに」  と久子はいささかも動ぜず、「でも、長い人生の中には、そういうこともありえないではありません」 「まあ……そりゃそうでしょうが……」  谷口が疲れたように息をついた。 「分かりましたよ」  と、久子は肩をすくめて、「隠してもむだでしょうね」 「話していただけますか?」 「ええ。——あの男は私に売りたいものがある、と言ったのです」 「何です、それは?」 「メガネのケースです」 「奥さんの?」 「ええ」 「それをどうして……」 「私が落として来たのですわ。あの殺人のあったマンションの外で」  谷口が急いで手帳を開いてメモを取った。 「い、いつのことです?」 「殺人のあった晩です」  久子は平然と言った。 「すると——」 「勘違いなさらないでね」  と久子は遮った。「私があの女を殺したわけじゃありませんのよ」 「しかし、マンションの部屋へは行ったのですか?」 「ええ」 「そのとき、女は——」 「もう殺されていました」  谷口は、じっと久子の顔を見つめたが、久子の表情は穏やかで、捉《とら》えどころがなかった。 「なぜ、あのマンションへ行ったのです?」 「女から呼び出されたんです」 「向こうから?」 「ええ。主人に女がいることぐらい、とっくに知っていましたが、別に今さら騒ぎ立てようというほど若くもありません」  と久子は平然としゃべり出した。「放《ほう》っておいたんです。そこへあの女から電話があって——」 「何と言ったんです?」 「主人と手を切るから金をよこせと言うんですの」 「で、どう答えました?」 「何も。会って話そうということになりました」 「なぜはねつけなかったんです?」 「マンションを見ておきたかったんです。あそこを会社のお金で買ったことは知りませんでしたからね。てっきり主人の小遣いだ、と……」  久子はクスッと笑って、「考えてみれば、主人にそんなお金があるわけはないんですけどね」  谷口は苦笑して、 「それで出かけたんですね。行ってみると女は死んでいた、と」 「その通りです」 「玄関のドアは?」 「開いていましたわ」 「女は死んでいたと言いましたね」 「ええ」 「それは——死んでいるように見えた、ということですか?」 「いいえ」  久子は首を振った。「ちゃんと手首の脈をみました。死んでいましたわ」 「怖くありませんでしたか?」  久子はちょっと微笑《ほほえ》んで、 「私は昔、看護婦でしたのよ」  と言った。「死人には慣れています」 「なるほど……」  谷口はしばらく考えていたが、「——なぜすぐに一一○番しなかったんです?」  と訊《き》いた。 「具合が悪いじゃありません? 何しろ私は主人の愛人の所にいたのですから。新聞などにも書き立てられるかもしれないし、ひょっとして私が殺したと思われるかもしれません」 「それで黙って出て来たのですね」 「ええ。でも、表へ出て、メガネを急いでバッグから出したとき、ケースを落としたのです。そのときは気付かなくて、後になって、失くしたことが分かりました。でも、どこで落としたのか分からず……」 「で、あの三郎っていう男が、電話して来たと——」 「そういうわけです」  久子は肯《うなず》いて、「ケースは持っていまして?」  と訊いた。谷口が他《ほか》の刑事の方を向く。刑事は首を振って、 「持っていませんでしたよ、奴は」  と言った。純子が口を出して、 「警察が来るまでに、奥さんが取ったんじゃないんですか?」 「探してみましたけどね、なかったわ」  と久子が平然と言った。 「やれやれ……」  谷口は頭をかきながら、「どうもなかなか皆さん正直に話してくれないので困ってしまいますよ。——つまり、あの日、マンションへ行ったのは、警察に通報した竹野さんを含めると、尾島さん、奥さん、荒井の四人になるわけだ」 「麻雀《マージャン》でもやってたんじゃない?」  ついこんなときでも冗談が出てしまうのが純子の世代なのである。 「私は麻雀はできませんよ」  と、尾島久子が生真面目に答えたので、少々純子はシラケてしまった。 「ところで——」  と久子は言った。「あのネクタイは誰の物だったか分かりまして?」  谷口はちょっとポカンとして、 「ネクタイ?——どのネクタイのことです?」 「あの殺された女の人の首に巻きついていたネクタイですよ」  久子は、当たり前じゃないか、という顔で言った。 「女の首にネクタイが?」  谷口は勢い込んで、「それは確かですか?」  と訊いた。 「ええ。もちろん」 「それは……いや、発見されたとき、ネクタイはなかったんです」 「まあ、じゃ誰かが持って行ったのかしらね?」  久子は首をかしげて、「そう趣味のいいネクタイとも思えなかったけどねえ……」 「どんなネクタイだったか憶《おぼ》えていませんか?」 「普通のストライプね。色は——えんじと青と……。あんまりいいものじゃないな、と思ったわ」 「もう一度見れば分かりますか?」 「たぶん、ね」  と久子は肯いた。 「ご主人のネクタイじゃありませんでしたか?」  と純子が厚かましく訊いた。久子は気を悪くした風でもなく、 「いいえ、うちの人も趣味は悪いけど、高い物をしていますからね」  と答えた。「あれはどう見ても一本千円ぐらいの安物ね」  と言って、谷口のネクタイを見ると、 「ああ、そうね、こんな程度の品だったわ」  谷口があわてて赤くなりながらネクタイをしめ直した。  純子は笑いたくなるのを必死で抑えた。 「段々と、ややこしくなるばかりだ」  と谷口は言った。「ネクタイか……。痕跡《こんせき》から見るとピッタリですがね」 「でも誰が持って行ったのかしら?」 「夫人の話を信じれば、女を殺して、犯人はネクタイをそのままに逃げ出した」 「中に隠れていたのかもしれないわ」 「それはそうですね」 「尾島はどう言ってるのかしら、ネクタイのことは?」 「いや、何も言っていません。しかし、女はもう死んでいたようですね。——すると、尾島の前に夫人が来たことになる」 「難しいわね。三人の人間があのマンションへ行った。どの時点で女は殺されたのか……」 「まだ出て来るかもしれませんねえ」  と谷口は半ばやけっぱち気味に言った。 「いいじゃないの」  純子は呑《のん》気《き》に言った。「選択の幅は広い方がいいわ、何事も!」  目がさめて、時計を見た伸子は、びっくりした。 「もう八時半! 大変! 遅刻だわ!」  と布団から飛び出す。目覚ましをかけておくのを忘れたんだわ、きっと。  そうでなきゃ起きないはずが……。  パジャマを脱ぎかけて、ふと思い出した。 「そうか。——もう会社、辞めたんだっけ」  ペタン、と布団の上に座り込む。カーテンの隙間から、朝の光が割り込んで来て、今日も蒸し暑い一日になりそうだった。  しばらく、伸子は、そのまま座って、動かなかった。何だか体中の力が抜けてしまったみたいだ。  自分では別に仕事人間のつもりはなかったのだが、いざこうして失業《・・》の身になってみると、行くべき所もない、ということが、どんなに空《むな》しいことか、よく分かる。  何時に起きてもいい、いや、起きなくてもいい、ということは、起きたところで、何の意味もない、ということである。そうなると、起きることが辛《つら》くなる。いっそ、一日中眠りこけていようかという気になるのだ。 「だめだわ、しっかりしなきゃ」  伸子は気を取り直して、自分を励ますために声を出してそう言った。  そうだ。こうしてのんびりとしている暇などはないのだ。  尾島産業にしてもクビになったわけではない。自ら辞表を出して来たのだから、退職金は多少出るだろう。しかし、あくまでも、多少だ。  期待し過ぎてはいけない。尾島にしてみれば、解雇したつもりでいるのかもしれない。それに——そうだ、あのマンションを抵当に入れて、叔父が五百万という金を借りているのだ。  それを逆に請求されないとも限らない。 「のんびりしちゃ、いられないわ」  逆境に立つと強くなるのが伸子である。五百万円のことを思い出して、却《かえ》って元気が出て来た。  起き出して顔を洗い、身仕度を整えると、すっかりいつもの気分に戻っている。  ともかく、まず勤め先を探さなくてはならない。——朝食を取りながら、伸子は新聞の求人広告を捜した。  いくつか、見込みのありそうな所を、赤のボールペンで四角く囲んで、更に検討する。そういくつも行くわけにはいかない。  一時間ほどかけて二つに絞ると、伸子は外出の仕度をした。出かけようと玄関で靴をはきかけると、電話が鳴った。 「はい桑田です」  と受話器を取ると、 「やあ、元気かね。真鍋だよ」  KMチェーンの社長で、好色漢の真鍋である。 「真鍋さん。どうも——」 「尾島産業を辞めたんだって?」 「はい。在職中は色々とお世話になりまして……」 「いやいや、君はよくやっていたよ。尾島も馬鹿な奴だ。君をお払い箱にしてうさ晴らしをしたんだろうが、君ほどの人材、私なら絶対に離さんよ」 「買いかぶっておられるんですわ」  と、伸子は笑った。「それに、私、別にクビになったわけではありません。自分から辞表を出したんです。色々と事情もありまして……」 「立派だよ、その態度は」  と、真鍋は言って、「ところで、今日はどうする予定なのかね?」  と訊いた。 「職探しに出かけるところでした」  真鍋は笑って、 「君らしいな、全く」  と言ってから、「どうかね、ちょっと私のオフィスへ遊びに来ないか」 「KM本社へですか?」 「一日ぐらい構わんだろう。昼でも一緒に食べようじゃないか。大丈夫、智《とも》美《み》も一緒だし、もう君に妙な下心は持たんことにしたよ」 「別にそんなこと……。分かりました。じゃ、お言葉に甘えさせていただきます」 「よし、決まった。十二時にオフィスに来たまえ、いいね?」  危機一髪、犯されるところだったとはいえ、一旦負けを認めると、とても気持ちよく付き合える男性である。  お昼ぐらいごちそうになってもいいだろう、と、伸子は思った。  それじゃ、少しデパートでも歩いて時間を潰《つぶ》そうか。  玄関の方へ行きかけると、また電話が鳴る。 「やあ、君か」  と、どこかで聞いた声。「富菱銀行の大畑だよ」 「あ、どうも。あの——尾島産業の方はどうでしょうか?」 「もういいじゃないか。辞めたんだろう」 「ええ。でも——やはり社員の人たちが気になります」 「そうかね。いや、経営者というのは、みんなそうでなくちゃならん」 「どうも……。あの——」 「尾島産業の方は心配しなくていい。私が決して無茶はさせない」 「お願いします」  伸子はわざわざ頭を下げた。「これでホッとしました」 「そうか」  少し間を置いて、大畑は言った。「どうかね。一度君とゆっくり話したいんだが」 「私とですか?」 「そう。——今夜は君、予定があるかな?」 「今夜……。いえ何も」 「そうか。それじゃ夕食でも一緒にしよう。ホテルOは分かるね」 「はい」 「ロビーに七時に来てくれ。待っとるよ」 「あの……」 「帰りはちゃんと車で送らせる。心配することはないからね」 「はあ」  ——電話を切って、伸子はキョトンとしていた。一体何だろう? 昼は真鍋、夜は大畑……。 「まあいいや」  ともかく昼と夜の食事代は助かったわけである。  伸子は、アパートを出ると、もう強くなった日差しにまぶしげに目を細くしながら、歩き出した。  一方、こちらは辞表など出していないが、のんびり寝過ごしていた純子である。 「お前会社はいいの?」  と母に言われても、 「いいのよ。まだ始まんないわ」  とまた眠ってしまう。 「もう九時半だよ。いつからそんなに始業が遅くなったの?」 「明日の九時には早過ぎるわよ」  と純子は言って、またグウグウ。  やっとこ起き出して来たのは、昼の十二時を少し過ぎた頃であった。 「大学時代に逆戻りしたみたいだね」  と、母が言った。 「いやねえ、大学をさぼってばかりいたみたいじゃないの」 「あら、大学ってのは午後しかないのかと思ってたよ」  お母さんは真面目なのか、皮肉を言ってるのか、さっぱり分からないわ、と純子は思った。  どうせ会社へ行ったって、伸子は来ていないのだ。それなら、殺人事件をほじくり返している方が面白い。  谷口さん、お昼頃までに連絡してくれると言ってたのにな。  グワーッとライオン顔負けの大《おお》欠伸《あくび》をして、コーヒーを飲んでいると、玄関へ誰かがやって来た。母が出て行く。すぐに、 「純子」  と戻って来て、「お客様だよ」 「あら、誰かしら」 「刑事さんだよ、谷口さんっておっしゃる」 「ええ? どうして早く言わないのよ!」  と、急いで立ち上がる。 「だって、早く言えったって——」  と母が言いかけたときには、もう純子は二階へ駆け上がっていた。  十分後には、純子は谷口と一緒にタクシーに乗っていた。 「どこへ行くんですの?」  と純子は訊いた。 「殺された三好晃子のことで、ちょっと情報が入りましてね」 「情報?」 「ええ。探偵社からなんですよ」 「探偵社っていうと……」 「ハードボイルドに出て来るような探偵じゃありませんよ。浮気の調査とか、素行の調査が仕事です」 「そこへどうして?」 「どうやら、尾島社長、三好晃子に恋人がいるんじゃないかと疑っていたようでしてね」 「じゃ、尾島が依頼したの?」 「そうなんです」 「たかが愛人、という顔してるわりには、本気で嫉《や》いてたのね」 「そこが面白いですな」  探偵社は、何ともさびれた感じで、 「外見はパッとしません」  と、社長に当たる男は認めた。「しかし、事務所の広さ、人数の多さ、そんなものは、真実を探り当てる上で、何の意味もありません!」  と強調する。  しかし、常識的に考えれば、優秀な社員をかかえて、いい成績を上げていれば、当然、仕事も増え、儲《もう》けも増え、人手も増え、事務所も立派になるのではないか、と純子は思った。  ともかく、社長の他は、お茶をいれてくれる女の子ぐらいしか目に付かない。 「社員の方は出払ってるんですか?」  と純子が訊くと、社長は、 「ここでは社長が直接捜査に携わるのを、モットーにしているのです」 「はあ……」  つまり、社員というのは、お茶くみの子一人らしいのである。社長一人、社員一人というわけだ。 「それで情報というのは?」  と谷口が訊く。 「尾島さんに依頼されましてね。三好晃子の男関係を洗ってみたんです」 「そりゃ分かってるよ」  と谷口は肯いた。「それで?」 「へへ……」  と社長は、守銭奴風の笑い声を立てて、「いくらで買っていただけますか?」  と訊いた。 「竹野さん、帰りましょう」  と谷口が立ち上がる。 「ちょっと——待って下さいよ!」  と、相手があわてて引き止める。 「しゃべるのか、しゃべらないのか、どうなんだ、ええ?」  谷口が、ぐっと問い詰めると、相手は肩をすくめて、 「分かりましたよ。じゃ、免許の件だけはよろしく」 「分かってるよ。さて、聞かせてもらおうか」 「はい。——三好晃子ってのもかなりの女でしたね」 「尾島、それからヒモだった三郎。他にもいたのか?」 「深いのは一人だけですが、他にも、行きずり同然の男をくわえ込むぐらいは日常茶飯的だったようですな」  そういえば荒井だって同じようなものである。 「深い一人というのは?」  と、谷口が訊いた。 「はい。——同じ会社の、柳という部長さんです」 「柳が?」  谷口が目を丸くした。  純子はその程度のことなら充分に考えられるという気がした。  柳というのは計算高い男である。会社の金と尾島のポケットマネーで囲ってある女に手をつけても不思議はない。 「いかがです。お役に立ちましたか?」 「ああ、一応はね」  と、谷口は肯く。「しかし、それだけじゃ高すぎるな。他にないのか?」 「そうぜいたくをおっしゃられてもね……」 「三好晃子が偶然連れ込んだ男ってのも、名前の分かる者は教えろ」 「はあ、しかし、一度だけではなかなか突きとめられないんですよね」 「そこを調べるのが商売だろ」 「まあ……それじゃ、分かった分だけ」  と、メモ用紙を、谷口に手渡した。 「何ですって?」  伸子は思わず訊き返した。  食事の味など、まるで分からなくなってしまった。 「そうびっくりすることはあるまい」  と真鍋は平気な顔で、「君なら、絶対にできるよ!」  と言い切った。  智美を混じえて三人で昼食をとっているところである。デザートになったところで、真鍋が急に、 「どうだろう、うちの本社へ来ないか」  と言い出したのである。 「何か、私にできる仕事があるんでしょうか?」  と、伸子は訊いた。 「あるとも」  真鍋は席から少し身を乗り出して、「うちの幹部は、真面目にやってはいるんだが、至って常識的な連中だ」 「で、私にどうしろと……」 「つまり君に、うちの営業推進課長になってもらいたかったんだ」 「私がですか?」  伸子は仰天した。  一体どうなってるんだろう? 仕事の世話もいいけど、まさか最初から管理職になれとは……。 因果は巡る 「おや誰かと思えば、竹野君か」  柳は気取った口調で、「無断欠勤は困るじゃないかね、君」  と言った。 「そんな用じゃありません」  純子はかみつきたいのをこらえて、「お話があるのは谷口刑事さんです」  と言った。 「刑事さん?」  受付へ、純子に呼ばれて出て来た柳は、谷口に気付いた。 「やあ、これはどうも。何かご用とか?」 「二、三お伺いしたいことがありましてね」  と、谷口は言った。 「何でしょうか?」 「ここではどうも……」 「では応接室へどうぞ」  柳は受付の子へ、「君、お茶を出して」  と言って歩いて行く。 「——態度でかいのよね」  と受付の子が、純子へ言った。「専務になったもんだから」 「ええ? じゃ、北岡は?」 「隠退らしいわよ。何だか、尾島さんのご機嫌をそこねたらしくて」 「へえ。それであんなに気取ってるのか」  柳は、応接室へ入ると、 「何のお話ですかな、刑事さん」  と、ソファに足を組んで座った。 「いいネクタイですな」  と谷口は言った。 「そうですか? いやお目が高い。サン・ローランでしてね。直輸入です。大体サン・ローランといっても品は日本製のものが多いんですよ」 「そうですか。——あなたは、えんじと青のストライプのネクタイを、最近失くされませんでしたか?」 「さて……、ストライプのネクタイなど、沢山ありますからねえ。いちいち憶えちゃいられませんよ」 「どれも高級品ばかりでしょうな」 「もちろんです」  柳はそっくり返って、「エリートは、それにふさわしい物を持たねばなりません」  と言ってのけた。 「愛人もその一つですか」 「何です?」  柳が訊き返した。 「殺された三好晃子は、尾島社長の愛人だった」 「ええ、そうですよ」 「それをあなたも、ちょいとつまんだ」 「な、何ですって?」 「エリートにしては、いささかケチくさくありませんか」 「とんだ言いがかりだ!」  と柳はムッとした様子で、「そんな覚えはありませんぞ!」 「ちゃんと調べはついてるんですよ」  と、谷口は言った。「これを尾島社長へお話ししようかと思って来たんですがね」  柳がぐっと詰まった。谷口は、ゆっくり腰を上げて、 「社長さんはおいでですか?」  と訊いた。 「待ってくれ!」  柳は渋い顔で、「分かったよ……」  と肩をすくめると、 「確かにあの女には手を出しましたよ」 「どの程度の仲でした?」 「二、三度寝ただけだ。本当ですよ」 「ふむ」 「それに女の方から、尾島社長のつかいで行った私を誘惑したんだ。間違えないで下さいよ」 「その辺は関心ありません。要するに三好晃子と関係があったことを確かめたかっただけですよ」 「だからどうだっていうんです?」  柳はふてくされ気味で、「大体あのマンションは会社の金で買ったんですからね。社員が〈利用〉したっていいじゃありませんか?」  妙な理屈である。 「ところでさっきのネクタイがどうこうというのは、何のことです?」  と柳が訊いた。 「三好晃子はえんじと青の入ったストライプのネクタイでしめ殺されたらしいので……」  柳が目を見張った。 「まさか私が殺したと——?」 「ああ、それを訊くのを忘れてた。どうです?」 「冗談じゃない! 犯人は荒井と決まったんじゃありませんか!」 「色々と新事実が出ましてね」  この新事実という言葉は、実に効果があるのである。何となく本当らしく、かつ重要であるかの如く、聞こえるのだ。 「というと……」 「あの夜、マンションへ行ったのは、荒井と尾島さんだけではないのです」 「他に誰が?」 「それはまだ申し上げられません。——いやどうもお邪魔しました」  と谷口は立ち上がった。 「これで柳の動きを見張っていれば、何か出て来るかもしれませんよ」  と谷口が言った。  純子も一緒にビルを出て来た。仕事する気などさらさらない。 「北岡さんが除《の》け者にされてるみたいよ」  と純子は言った。「こういうとき慰めに行ってあげると喜ぶかもよ」  谷口はゆっくり肯き、 「なるほど。純子さんは慈善家ですね」 「それ皮肉?」  と純子が笑った。「——あら」 「何だ、純子さん」  伸子が、向こうから歩いて来たのだった。 「どこへ行くの?」 「別に。——つい足がこっちへ向いちゃうのよ。お揃《そろ》いでどちらへ?」 「ちょっと殺人の捜査をね」  と純子は気取った。 「でも、純子さん、仕事は?」 「公用《・・》だもの、仕方ないわ」  と、真面目くさった顔で言った。 「——そうだったの」  手近な喫茶店で、谷口から話を聞いた伸子は、「荒井さんの疑いが晴れれば、こんないいことはないですわ」  と言った。 「伸子さん、今日はどうして出て来たの?」 「実はねえ——」  と伸子は、真鍋の話を打ち明けた。 「凄《すご》いじゃないの! 課長さんよ!」  と純子が大喜びで、「私もパックでどうかしら?」 「大安売りじゃあるまいし」  と伸子は苦笑した。 「で、返事したの?」 「二、三日考えさせてくれ、って言ったわ」 「そうね。すぐ食いついちゃ値が下がるわ。少し高くふっかけるのよ」 「ふっかける?」 「給料よ」 「待ってよ! そんなことどうでもいいの。私、もう人を使うのに疲れちゃったのよ」  と伸子はため息をついて、「みんな私を買いかぶってるんだわ」 「そんなことないって!」  純子も人のことだから気楽である。「安売りしないことよ!」  伸子は、純子たちと別れて、時間を潰そうとぶらぶら歩き出した。  夜には大畑に会わねばならない。気が重かった。  今度は何と言われるだろう。 「まさか頭取になれとは言わないでしょ」  と、やけ気味に伸子は独り言を言った……。 「主人ですか?」  北岡の妻、文恵が玄関へ出て来ると、意外そうに、「もちろん会社の方へ……」  と言った。  純子と谷口は顔を見合わせた。 「でも、社の方へはおいでになっていませんよ」  と純子は言った。 「そうですか。じゃ、所用で出かけているんでしょう」 「いえ、あの……」  純子はちょっとためらってから、「ご主人はもう専務でなくなったんですよ。ご存知ですか?」 「あら」  と、文恵は、顔を輝かせて、「じゃ、主人が社長に?」  かなりおめでたい。 「クビのようです」 「クビ……」 「柳さんが専務になりました」  文恵が唖《あ》然《ぜん》として、 「まあ……。じゃ、主人はどうなるんでしょう?」  と、へナヘナと座り込んだ。 「どちらへ行かれたか分かりませんか?」 「さあ。会社へ行ったとばかり思っておりましたので」 「心当たりは?」 「さあ」  と首をひねるばかり。 「困りましたね。お友達の所へでも電話してみて下さい」 「はい!」  文恵があわてて立って行く。 「どう思います?」  と、谷口が言った。 「あの北岡さんに自殺する度胸はないわ。大丈夫よ」  純子が自信ありげに肯いた。 「あの——」  と文恵が出て来た。「これが主人の机の上に」  置き手紙らしい。  谷口が急いで封を切って中を見る。 「〈尾島社長は私の永年の働きを一切無視して、私をクビにした。この上、恥をさらして生きることはできない〉」 「まあ大変! 主人が——」 「先があります」  と、谷口が抑える。「〈私は尾島社長に思い知らせるため、行方不明となる決心をした。ただ、金がなくなると困るので、十万ばかり左の住所へ送ってくれ〉……。何だ、住所がちゃんと入ってる」 「変な行方不明ねえ」  と、純子が笑い出したいのをこらえて言った。 「主人ったら、何てことを!」  手紙を手にして、文恵は腹立たしげに言った。 「この住所に心当たりが?」 「主人の実家です!」  と、文恵は言った。「金を送れだなんて、図々しい!」 「ここね」  北岡の実家は、なかなか堂々とした構えの家である。  玄関を入って、出て来たお手伝いの女性に訊《き》くと、 「ええ、いらっしゃいます」  と答えて、「でも、誰にも会いたくないと言えと——」 「本人が?」 「ええ、でも本当は会いたいんですわ」  と愉快そうに言った。「朝から何度も、『誰も会いに来ないか』って訊くんですもの……」  応接間へ通され、待っていると、しばらくして北岡が入って来た。 「何だ君か」  と純子を見て、「誰にも会わんと言っておいたのに」  と、しかめっつらをして座る。 「二、三伺いたいことがありましてね」  谷口は決まり文句から始めた。 「いや、私には言うことはない」  と北岡が言った。 「というと?」 「老兵は死なず、だ。私には、言うべきことはない」 「はあ……」  どうも何か誤解しているようである。 「沈黙は金、とも言う」 「ええ」 「敗残の兵、将を語らずだ」  ちょっと違うんじゃないか、と純子は思った。 「ともかく、私としては、柳や尾島社長の仕打ちに対して、何一つ話すつもりはない」 「なるほど」 「ただ、長年の功績を忘れて、一時の過ちを取り上げて、処分するのは行きすぎではないか」 「そうですね」 「しかも、柳の奴は私の恩を忘れおって! 恩知らずの奴め!」  と拳《こぶし》を振り回したが、ハッとしてやめ、「しかし、私は何も言わない」  言わないわりには、訊かれもしない内からペラペラとしゃべる。 「実は、お伺いしたかったのはですね——」  と谷口が言った。「社有のマンションで殺された三好晃子が、柳部長——いや、専務ですか——の愛人でもあったことをご存知だったかと思いまして」 「柳の……?」  北岡はポカンとして訊き返した。 「ええ。本人も認めました。北岡さんはご存知でしたか?」  だが、北岡は聞いていなかった。  顔を真っ赤にして、 「あいつ!……何て奴だ!」 「まあ落ち着いて——」 「許さんぞ! 愛しているのは俺一人だ、などとぬかして……」  純子と谷口は顔を見合わせた。  北岡と柳が「愛し合って」いたのかと思って寒気がしたが、すぐに、そうではなくて、北岡の言う「あいつ」が、三好晃子のことだと思い当たった。 「じゃ、北岡さん、あなたも、あの女と関係が?」  と谷口が訊いた。  やおら、北岡は顔を伏せると、泣き出してしまった。 「驚いたなあ」  と北岡の実家を出て、谷口が首を振りながら言った。「殺された三好晃子ってのは、相当な女だったんですね」 「そうね、尾島に柳、北岡、あのヒモの三郎って男……」 「荒井もですよ」 「色情狂なのよ、きっと」  純子の言葉に谷口はギョッとして、 「そ、そんな言葉を……」  と口ごもった。 「あら、ごめんなさい。清純なイメージに傷がついた?」 「い、いえ……まあ……」  谷口はあわてて咳払《せきばら》いすると、「もっと出て来ないとも限りませんね。もっとよく調べさせましょう」 「あの日のアリバイがない人もね」 「もちろんです」  と谷口はやっと自分のペースに戻った様子で、「もう一つの問題は、三郎を刺し殺したのは誰か。それはなぜかという点ですね」  と言った。 「そうね、尾島夫人が、メガネケースを取り戻すために殺したか……。でも、それは変だわね」  と、純子は思い直した様子で、「いくら不精者でも、人を殺すのに自分の家の玄関で殺すなんてね」 「それもそうだ。すると尾島夫人以外の誰か……」 「ねえ、どうかしら、三郎って男が、あの晩見かけたのは、尾島夫人だけじゃなかったかもしれないわ」 「というと——」 「柳、北岡、そのどっちかかもしれないじゃない?」 「その可能性はありますね」 「待って。三郎っていう男が殺されたとき、尾島は料亭にいたんだわ」 「その席に、北岡や柳もいたのかな?」 「柳はいたんじゃないかしら。でも北岡は、無視されてたわけでしょう。ということは——」 「早速調べてみましょう!」  谷口は手近な電話ボックスへ飛び込んで行った。 「——やあ、どうしたんだい」  林昌也は、交差点に立って、待っていたが、タクシーが停《と》まって伸子が降りて来ると手を振りながら言った。 「ねえ、これに乗って」  伸子がタクシーのドアを押さえたまま、言った。 「どこかへ行くの?」  と、昌也が不思議そうに訊いた。 「ええ。ともかく乗ってよ」  と伸子が急《せ》かせる。 「分かったよ」  と昌也はタクシーへ乗り込んだ。 「運転手さん、やってちょうだい」  後から乗った伸子はそう言って、シートに、疲れたように身を沈めた。 「珍しいなあ、君がタクシー使うなんて」  と、昌也が言った。  もう九時を回っている。伸子からの突然の電話で、出て来たのだが—— 「何か用なのかい?」 「後で説明するわ」  伸子はそう言って目を閉じた。——大分疲れている様子に、昌也はそれ以上声をかけなかった。  伸子はそのまま眠ってしまったようだったが、タクシーの方は、ちゃんと行き先を承知しているようで、夜の町を駆け抜けて行く。  三十分も走っただろうか。——昌也の方も、何となく眠気がさして来て、ついうつらうつ らとしていた。急に車がガクンと停まってハッと目を開く。 「着きましたよ」 「あ、どうも」  やはり今のガクン、で目をさましたらしい伸子が、料金を払う。 「どうも」  と運転手が礼を言って、「——頑張りなさいよ」  と、後から降りる昌也へ声をかけた。 「ありがとう」  何だか訳が分からないままにそう言って外へ出て仰天した。「ねえ! ここは……」  そこは、伸子と初めて結ばれたホテルの前だった。 「入りましょうよ」  伸子が昌也の腕を取る。 「で、でも——」 「嫌なの?」 「そうじゃないよ!」  と昌也はあわてて言った。「でも、君、大学出るまでおあずけだって……」  あまりくどくどいうと、せっかく伸子の方がその気になっているのに、ぶちこわしかねない、と思い直して、 「ま、いいや。じゃ入ろう」  と、今度は自分からホテルに入って行った。  天井の鏡に、超特大のベッドで並んで寝ている二人が映っている。 「——変な感じだなあ」  と、昌也が言った。「全然赤の他人みたいだよ、あの二人」 「そうね」  伸子は、毛布を胸の上に引っ張り上げて、笑った。「変な感じ」 「でも、似合いのカップルだよな」 「そう?」 「そうさ。向こうにも訊いてみようか。僕らがどう見えるか」  伸子はクスクス笑って、 「面白いわね、林君は」 「その『林君』っていうの、他人行儀だなあ、何だか」 「だって他《ほか》に何て言うの? 『旦那様』とか『あなた』とか?」 「ウーン……。やっぱ『林君』か」 「そうよ。『林ちゃん』でないだけ、いいでしょ」  二人は一緒に笑った。——少し間を置いて、昌也が言った。 「ね、どうしたのさ?」 「え?」 「何があったんだい?」  伸子はしばらくじっと天井の鏡を見つめていた。 「今夜ね、大畑さんと食事したの」 「大畑?」 「富菱銀行の人。尾島産業再建のテコ入れに来た人よ」 「ああ、前にそんなこと言ってたね。それで?」 「食事の後でね……」 「次の就職先は決まったかね」  大畑が、コーヒーカップを置いて、言った。 「いいえ、まだです」 「どこか、あて《・・》はあるのか?」 「KMチェーンの真鍋さんが来ないかと誘って下さっていますけども……」 「KMチェーンか。まさかスーパーのレジをやれちゅうんじゃあるまいね」  伸子はちょっと苦笑して、 「それなら気が楽なんですけど」  と言った。「いきなり課長になれと言われて……」 「なかなかやるな、真鍋という奴も」  大畑は愉快そうに、「で、承諾したのかね?」  と訊いた。 「いいえ。少し考えさせてほしいと返事しました。お断りするつもりですわ。私にはとても荷が重すぎます」  大畑は肯《うなず》いた。 「なるほど。それなら私の方にとっても好都合だ」 「何がですか?」 「私も君に仕事を世話したいと思っておるんだよ」  と言って、ウエイターを呼んだ。「おい、コーヒーをもう一杯」  ウエイターがポットを手にやって来ると、カップへコーヒーを注ぐ。大畑はウエイターが行ってしまうと、 「コーヒーは大して好きじゃないのだが」 「じゃ、なぜもう一杯……」 「二杯目からは何杯飲もうが、こういう所は只だ。それなら飲まにゃ損というものさ」 「はあ……」  伸子は感心した。こうでなくては、ここまでにはなれないのかもしれない。 「尾島産業のことが気にかかっとるんだよ」  と大畑が言い出した。 「というと……危ないんでしょうか?」  思わず伸子が身を乗り出す。 「気になるかね?」 「あ……いえ、別に」  と言ってから、「ただ……私のせいで潰《つぶ》れるようなことがあったら申し訳がないと思って……」 「いやいや」  と大畑は手を振って、「誰かのせいだというなら、まず私のせいだ。私がおかしくなって、あんなことをやらかしたからだ。しかし、結果は良かった。——問題は尾島だ」 「尾島さんが何か……」 「社員の方がさっぱりついて行かん。しかも尾島の奴は全くそれを分かっていないのだ」 「まあ」 「あいつはどうも自意識過剰の所があっていかん」  と、大畑は渋い顔で言った。「あの柳という新しい専務とか、何人かの、いいことしか言わん連中に囲まれているから、だめなんじゃ!」 「でも、そういうことを指導なさるのが、大畑さんのお仕事ではないんですか?」  と伸子は訊いた。 「それはそうだ。しかしな、これが何千人の従業員を抱える大企業ならともかく、尾島産業程度の会社では、そう付きっきりであれこれ指示するわけにはいかん」 「そうでしょうね」 「私も忙しい身だしな。そこで……」  と、一息ついて、「代理人を一人、置くことにした」 「代理人?」 「私の代わりさ。尾島のお目付け役とでもいうかな」 「大畑さんの部下の方か誰かですか?」 「君に頼もうかと思っとるんだ」  伸子は唖然とした。 「私……」 「どうかね、やってくれんか」  伸子は冷たい水をガブリと飲んだ。 「——とんでもない、私、そんなこと、お引き受けできません」 「だめか?」 「どうして私が?——もういやです! 私——私——疲れてしまってるんです。やりたくもない社長をやらされて、恨まれなくてもいい人から恨まれて。本当に馬鹿みたいだわ!」  伸子は興奮して声が高くなっていた。「あげくの果てが失業と来るんですもの。こんな馬鹿はいませんわ」 「だが君は良くやった」 「自分の生活がかかってるんですもの。だから一生懸命やっただけです。もう、私のことなんか忘れて、放《ほ》っといて下さい!」  伸子はドンとテーブルを叩いた。その音で自分もハッと我に返り、 「すみません、つい——」  と声を低くする。 「いや、いいんだよ。当然のことだ」  と大畑は言った。 「啖《たん》呵《か》を切ったわけだね」  と、話を聞いていた昌也が言った。 「そんな所ね。もうやり切れなくなっちゃったのよ」  と伸子は言って、毛布の下で思い切り体を伸ばした。 「でも、きっぱり断って良かったじゃないか」  と昌也は伸子を抱き寄せようとした。 「そうじゃないの」  と伸子が押し戻す。 「だって、今——」 「続きがあるのよ」 「分かった。無理にとは言わんよ」  と、大畑は言った。「ただね、これを見てほしいんだ」  と、内ポケットから、一通の手紙を取り出す。 「何ですか?」 「まあ、見てみたまえ」  伸子は中から手紙を出して広げた。 〈大畑様。桑田伸子前社長にぜひいい職場なり、男性なりをご紹介下さいますようお願い申し上げます。尾島産業有志〉  伸子は目を丸くした。——〈有志〉とある後に、三枝を筆頭に、社員のサインがズラリと並んでいたのである。  伸子と昌也が、伸子のアパートの前でタクシーを降りたのは、もう午前二時近かった。  ホテルへ泊まって来てもよかったのだが、伸子が、 「どんなに遅くなっても、林君は学生なんだから、帰らなきゃだめよ」  と言い張ったのである。 「林君は、このまま乗って行って」  と、タクシーを待たせておいて、伸子は言った。 「上がってっちゃいけない?」 「またズルズルと泊まっちゃうから、だめよ」  と、伸子は首を振った。 「何もしないよ、約束する」 「だけど——」  と伸子がためらっていると、 「伸子さん! 帰って来たの」  と声がして、純子が道を小走りにやって来た。 「まあ。どうしたの? また何か事件?」 「大事件よ」  と、純子は真顔で、「桑田伸子行方不明事件っていうの」 「いやだわ。おどかさないで!」  と伸子は笑って、「ともかく部屋へ上がってよ。——じゃ、林君も来ていいわ」 「おーい」  とタクシーの運転手が声をかける。「乗るのか乗らないのか、はっきりしてくれ!」 「あ、ごめんなさい」  伸子がタクシー代を払って、三人はゾロゾロと階段を上がって行った。 「どこへ行ってたの、今頃まで」  と純子が訊く。 「ちょっとホテルに——」  と、昌也が口を滑らせて、伸子に蹴《け》っ飛ばされた。「イテテ……」 「——まあ、そうだったの?」  純子は目を丸くして、昌也と伸子を見つめた。 「大分悪くなっちゃったの」  と、伸子は照れくさそうに言って、部屋の鍵《かぎ》を開けた。 「いいじゃないの! 素敵だわ。でも、気を付けて」  純子は部屋へ入ると、「すぐに結婚するつもり?」  と言いながら、座り込んだ。 「僕はそうしたいけど、彼女の方が、僕が大学を出るまでだめだって」 「当たり前でしょ」  伸子は冷たい麦茶をグラスへ注ぎながら言った。「私はあなたのお姉さんから、弟のことを頼むって言われてるのよ。こんなことが分かったら大変だわ」 「まあ、お幸せに」  と、純子が多少ふてくされ気味に言った。 「私、伸子さんに追い越されようとは思わなかったわ」 「もう、その話はよしましょうよ」  伸子がグラスに氷を入れて、「——でも、純子さん、どうしてここへ?」 「あ、そうそう。色々と分かったことがあってね」  純子が、殺された三好晃子が、北岡とまで関係を持っていたことを説明すると、 「それじゃ、荒井さん以外に犯人がいそうじゃないの」  と、伸子は嬉しそうに言った。 「そうは言っても、今のところ、荒井さんでないという証明にはならないのよ」 「でも、希望はあるんでしょ?」 「ええ。一応谷口さんが調べてくれているから」 「じゃ、きっと大丈夫ね」  伸子は肩の荷が半分ぐらい下りたという気分らしく、息をついた。 「しかし、殺された女、何だか哀れだねえ」  と、昌也が言い出した。 「本当ね」  伸子が肯いて、「そんなに大勢の男と……。よほど事情があったんだわ、きっと」 「それはどうかしら」  純子は首を振って、「今は、親の薬代のために身を売るって時代じゃないものね」 「たとえ自分のためでもさ」  昌也は言った。「そんなに色々な男を手玉に取って、でも殺されちまっちゃ何にもならない……」 「そうね。それも哀《かな》しいわね」  と伸子は呟《つぶや》くように言った。  何となく三人は黙り込んだ。  今までは、ただの死体としてしか、思い出しもしなかった、三好晃子という女の像が、三人のそれぞれの脳裏に、影を広げつつあるようだった……。 「あ、そうそう」  と、我に返って、伸子が言った。「私の方も話があるの」  大畑から、尾島産業の監査役として、大畑の代理として行かないかと言われたことを話すと、当然純子は大喜びで、 「凄《すご》いじゃない! 尾島たちをギュウギュウしめ上げてやればいいわ!」 「冗談じゃないわよ。人のことだと思って」  と、伸子は言った。 「でも、断ったんじゃないんでしょ?」 「返事は保留中」 「絶対引き受けるべきよ!」 「そう言うと思ったわ」 「私、あなたの監査役でついて行くわ」 「見張りに見張りがつくの?」 「この見張り、温情主義の塊みたいな人だものね」  伸子とて、三枝以下社員有志の、大畑あての手紙には心を動かされなかったわけではない。しかし、だからといって、簡単に引き受けられる仕事でないのも事実である。  当然、尾島は怒り狂うに違いないし、そうなれば無用の摩擦を引き起こすだけではないか。——二、三日の内に返事をすると言っては来たが、伸子は気が重かった。 「夜遊びはいけませんよ」  と、谷口が言った。 「何もしてないわよう」  と言いながら、また純子は欠伸《あくび》をした。 「ほらまた。昨夜は一体何時に寝たんですか?」 「午前四時」 「呆《あき》れたなあ。どこにいたんです?」 「伸子さんのアパートよ。——それより今日はどこへ行くの?」 「ある女の所です」 「へえ」 「ここ数年来、私が囲っているんです」  谷口の言葉に、純子がアングリと口を開ける。谷口はニヤリとして、 「たまには冗談の一つぐらい言いますよ」 「ああ、びっくりした」 「目が覚めたでしょ」 「本当に」  と純子は笑って、「で、どこへ行くの?」 「女の所には違いありません。ホステスでしてね、例のヒモ、三郎のもう一人の女なんです」 「他にもいたの? 呆れた! 図々しい男ねえ」 「その女から、ちょっと知らせたいことがあると言われましてね」  と谷口は言った。 「ねえ」 「何です」 「いつも私を引っ張り歩いて、上司の人に叱られないの?」 「いや、大丈夫ですよ。私はこう見えても、結構上司の方なんですから」 「へえ、そうなの」  純子の口調は半信半疑どころか、一信九疑(?)ぐらいの比率になっていた。  女は、ともかくマンションの一室に住んでいた。尾島が持っていたマンションに比べると、ちょっと洒落《しゃれ》たアパートの域を出なかったが、それでも独り暮らしには十分だった。 「岡みどりっていうの」  女は、寝ぼけ顔で、純子といい勝負だったが、だらしなく髪はボサボサ、ガウンをくたびれた感じにはおっているので、大分ふけてみえた。 「まあ、かけてよ」  とソファをすすめて、「一杯飲む?」 「勤務中ですから」  と谷口が言うと、岡みどりは笑って、 「アイスミルクもだめ?」 「アイスミルク?」 「家でまでアルコール飲んでたら身が持たないわよ」  大きなグラスにたっぷりと紙パックの牛乳を注ぐと、一気に飲みほして、大きく息を吐き出した。「——これでやっと目が覚めた、と」 「なかなか大変ですね」 「本当よ。世間の人はホステスなんて、楽して稼いでると思ってるけど、とんでもない話だわ」  岡みどりは自分もドテッとソファへ体を落とすと、「さて、何のご用?」  と訊いた。 「え?」  谷口が当惑顔で、「あなたの方からお話があるということでしたが……」 「ああ、そうだったっけ」  岡みどりは苦笑いして、「いやねえ、この時間は少々ボケてんのよね」 「三郎って男のことで——」 「ああ、そうだったわ。あれ、ヒモだったのよね」 「三好晃子という女もどうやら——」 「そうらしいわね。まあ大体あの手の男はそんなものよ。どこといって取り柄のない奴だったけど、甘えん坊でね、ちょいとこう、母性本能をくすぐる所があったのよ」 「なるほど」 「それに、見かけによらずタフなのよ。ベッドの中でも上手でさ」  谷口は咳払いをして、 「あの、お話というのは——」 「あ、そうそう。三郎がね、何とかいう人の家の前で殺されたでしょ」 「尾島です」 「そうそう。『お砂糖』か何か、変な名だったわ」 「そのことで何か?」 「あの家の奥さんをゆする電話、ここからかけてたのよね」 「ほう。——どうしてご存知です?」 「聞いてたもの」 「なるほど」 「三郎はね、私が眠ってると思ってたのよ。その前に一戦交えて、実際、うつらうつらしてたの。そしたら、何かダイヤル回す音がしてね、目を開けたら、三郎が電話してたのよ」 「何も言わなかったんですか、あなたは?」 「関係ないもの」 「はあ……」 「ただ、早く切ってくれないと電話賃がかさむな、と思って苛々《いらいら》してたわ」 「そのとき耳にした話の内容を教えて下さい」  岡みどりの話は、尾島夫人の供述とほぼ一致していた。 「なるほど」  谷口はメモを取り終えると、言った。「しかし、それを聞いて、あなたがもし三郎にやめろと言い聞かせていたら、三郎は殺されずにすんだかもしれませんよ」 「そりゃそうね」  岡みどりは一向に気にもしていない様子で、 「でも、あんなことしてりゃ、どうせその内、ああいう目にあったわ。同じことよ」 「そうですか……」  と谷口はいささかシラケた感じで、「で、他に何か?」 「まあ、大したことじゃないけど、もう一件の電話のことぐらいね」  谷口と純子は顔を見合わせた。 「——もう一件?」 「そう。あの子ね、もう一つ電話したのよ」 「相手は?」 「そう。たぶん——」  と言いかけたとき、電話が鳴った。「あ、失礼」  と立って行く。  谷口は純子の方へ、 「やはり、三郎って男、他の誰かをゆすっていたんですね」  と言った。 「そうらしいわね。それが誰か分かれば……」 「犯人かもしれません」  谷口の顔も、珍しく緊張している。——少しして、岡みどりが戻って来た。 「じゃ、聞かせて下さい」  と谷口が言うと、岡みどりは、 「何を?」  と訊き返して来た。谷口が面食らって、 「何って……三郎のもう一本の電話のことですよ」 「そんなこと知らないわ」  谷口は、唖《あ》然《ぜん》として、 「しかし今、あなたは——」 「帰ってよ! もう話すことなんかないのよ!」 「待って下さいよ! たしかにあなたはさっき——」 「寝ぼけてたのよ。さあさ、早く帰って!」  と二人を追い立てる。 「今の電話ね!」  と純子が叫んだ。「誰からだったの?」  岡みどりはカッとした様子で、 「誰だっていいでしょ! 大きなお世話よ!」  と凄い剣幕で、谷口と純子を部屋から追い出して、ドアをピシャリと閉めてしまった。 「——やれやれ」  谷口は舌打ちして、「もうちょっとだったのに!」 「今の電話よ。脅されるか、口止めされたのに違いないわ」 「そうらしいですね」  と谷口は肯いた。 「もう一度説得してみたら?」  谷口は首を振って、 「ああいう手合いは、一度こうと決めたら、てこ《・・》でも気を変えませんよ」 「じゃ、どうするの?」 「どうやら、この女を張るのが一番いいようですね」 「というと?」 「脅迫されたにせよ、口止めされたにせよ、犯人は岡みどりへ近づくに違いありません。金をやろうとするか、殺そうとするか……。ともかく、そのときがチャンスです!」  純子の胸はときめいた。  かくて、谷口刑事と純子は、また張り込みということになった。 「しかし、そうすぐに動くとも思えませんがね」  と谷口は言った。 「でも、何かあるんじゃない? 口をつぐむ代わりに、きっと何かを手に入れるはずだもの」 「そうですねえ、あの女を黙らせるのは、金ぐらいのものだろうからな」 「でも……ちょっと妙な気がしない?」 「何がです?」 「私たちが訪ねて行って、その話をしている、正にそのとき、電話がかかって来たのよ」 「そうですね。しかし偶然じゃなかったのかな」 「もし、そうでないとしたら……」  純子は考え込んだ。  岡みどりのマンションを出て、二時間ほどたっている。二人は、ちょうどマンションのべランダ側を見上げる場所にあった喫茶店を見つけて、そこから見張っていた。  マンションの出入り口も同じ側にあるので、まず見落とす心配はない。 「——ねえ、谷口さん、犯人は——その電話した人間が犯人としてだけど——どこかで私たちのことを見ていたのかもしれないわ。そう思わない?」 「なるほど。このマンションを見張っていて我々が入って行くのを見た……」 「それとも、犯人も彼女の所へ行こうとして、私たちの姿を見たか……」 「そして電話をかけた。——待てよ。その場合、どこから電話をかけるかな?」  純子は喫茶店のガラス越しに道路を眺め回した。 「この辺にボックスはないわよ。そうすると——」  二人は顔を見合わせた。 「ここ《・・》だ!」  と谷口が言った。「おい、君!」  ウエイトレスを呼ぶ。 「追加ですか?」  つまらなそうな顔をしたウエイトレスがやっと来た。 「僕は警察の者だけどね」  と手帳を見せる。「二時間くらい前に、ここから電話をかけた客はいなかったかい?」 「何か事件ですか?」  と、急に目を輝かせる。 「重要な手がかりになるかもしれないんだ。思い出してくれよ」 「面白そうね」  とニコニコしていたが、「——でも、だめだわ」  と、がっかりしたような顔になる。 「どうして?」 「私、一時間前に交替したばっかりだもん」 「あ、そうだわ」  と純子が言った。「入ったときにいた人と違うわ」 「真由美と交替したのよね」 「畜生! もっと早く気が付いてりゃな」  谷口は舌打ちした。 「その真由美っていう人は?」 「帰ったわよ」 「帰ったのは分かってるの。家を知ってる?」 「知らないわ。マスターなら知ってっかもね。でも、どうせ家にゃいないわよ」 「どうして?」 「美術学校へ通ってんの」 「まあ。じゃ画家の卵ね」 「卵以前の卵子だ、って自分じゃ言ってるけど」  ウエイトレスはクスクス笑って、「精子がなきゃ生まれないわね」  谷口は咳払《せきばら》いをした。 「その美術学校というのはどこにあるんだね?」 「この近くよ。前の通りを右へずーっと歩いて行くの。十五分ぐらいかな。〈S美術スクール〉ってビルがあるわ」  純子が立ち上がって、 「私、行って来てみるわ」 「いや、竹野さんがそんな——」 「大丈夫よ。それに二人ともここを出てしまうわけにも行かないでしょ?」 「そりゃそうですね。じゃ……話を聞いたら、すぐ戻って来て下さいね」 「ええ、もちろん」  純子はウエイトレスへ、「その真由美さんっていう子、苗字《みょうじ》は?」 「ええと……武上よ。〈武士〉の〈武〉と〈上〉ね」 「武上真由美さんね。——ありがとう」  純子は喫茶店を出ると、ウエイトレスの行った通りに歩き出した。  十五分とは言ったが、実際は十分ほどで〈S美術スクール〉に着いた。  学校とはいっても、キャンパスのあるような広いものではもちろんなくて、貸しビルの上三階分を借りて使っているのだった。  どこへ行けば分かるのかな。——ともかく、受付へ行って、訊《き》いてみよう。  エレベーターを五階で降りると、目の前が受付である。 「すみません」  と声をかけると、 「はーい」  と、およそ美術的とは言いかねる女の子が出て来た。もっとも、ピカソあたりの描く女性とは似ていなくもなかった。 「武上真由美さんという人に会いたいんですけど」 「今、授業中ですよ」 「急用なんです」 「休み時間まで三十分待って下さい」  純子はふと思い付いて、ハンドバッグを開けると、 「警察の者ですが」  と、自分の手帳をチラリと出して見せた。相手はみごとに引っかかった。 「失礼しました」  と急に目がさめたように、「あの、何か問題でも——」 「いいえ、ちょっとお話を伺いたいだけです」  純子は澄まして言った。 「ちょっとお待ち下さい」  女事務員は、カードボックスを引き出して、めくっていたが、「——変ですね、武上真由美さんですか?」 「そうです」 「そういう生徒さんはいませんけど」 「でも、確かにここだと——」 「待って下さい。どこかで聞いた名前だわ」  と、考え込んでいたが、「——あ、分かった。あの、その突き当たりに〈デッサン室〉があります。そこにいるはずですわ」 「どうもありがとう」  言われるままに進んで行くと、デッサン室のドアがある。 「失礼……」  と呟きながらドアを開ける。——ギョッとした。  中央の台に椅子が置かれて、完全ヌードのモデルが座っている。その周囲で、学生たちがせっせと木炭を走らせていた。  男じゃないから、別に舌なめずりはしなかったが、やはり照れくさいもので、目をそらしながら、チラチラと眺める。  バストは私より大きいけど、ちょっと垂れてるわ、などと考えていると、 「何かご用ですか?」  と、教師らしい中年の女性がやって来た。 「あの……武上真由美という人にお話があって来たんです。警察の用なんですが」 「あら、そうですか。今、ちょっと手が離せないんですけどね」 「すぐ終わりますので、呼んでいただけませんか」 「分かりました」  と女教師は肩をすくめて、「武上さん、ちょっとお客よ」  と声をかけた。 「はい」  と返事をしたのは——ヌードモデルだった! 「——あら、じゃ、あの店で聞いて来たの?」  大きめのタオルを巻きつけただけのスタイルで、真由美は純子の話を聞いていたが、困ったような顔になった。 「学生さんかと思ってたわ」 「そういうことにしてあるのよ。ね、黙ってて、私がモデルだってこと」 「分かったわ」  と純子は肯《うなず》いた。近くで見ると、胸の豊かさが圧倒的である。 「で、訊きたいことって?」 「え?——あ、そうそう」  純子は頭を振って、「さっき、あなたが働いてるときにね——」  と、話をすると、 「電話ねえ……」  と考えていたが、「あ、そうだ。一人いたわね。うん、一人だけよ」 「よく憶《おぼ》えてる?」 「百円玉をくずしてくれと言って来たからね」 「どこかおかしな様子はなかった?」 「そうねえ……。急いでたわね。何か電話帳ひっくり返してさ。番号を捜してたんじゃない?」 「そして電話してたのね。話は聞こえなかった?」 「全然。ちょうど他《ほか》のお客が来てオーダー取ってたからね」 「そう。——そのお客、どんな人だったか教えてくれる?」 「若い男よ。——なかなかハンサムだったなあ」 「何か特徴は?」 「そんなのないわよ。何となくしか憶えてないもの。ただ、いい男だな、と思ったことを憶えてるだけ」 「そう……」  まあ、あまり細かいことを憶えていてくれと言う方が無理だろう。 「じゃ、私、行かなきゃ」  と、真由美はタオルを取った。ぐっとボリュームのある肢体が目に飛び込んで来る。 「いいバイトになんのよ。じゃあね」  と台の上へ戻って行く。  純子は、表へ出ながら、谷口が来なくてよかった、と思った。  喫茶店へ入ると、谷口の姿はなかった。 「あの刑事さんは?」  とウエイトレスへ訊くと、 「ああ、これ渡してくれって」  とメモを差し出す。開いてみると、 〈岡みどりが出て来たので尾行します。帰宅なさっていて下さい。電話します。谷口〉  とあった。 「どれくらい前?」 「十分かな」 「そう。ありがとう」  取り残されちゃつまらないが、今からでは追いかけて行きようもない。 「お腹《なか》空《す》いちゃった。何か食べるもの、出来る?」 「スパゲッティでいい?」 「お願い。コーヒーとね」  純子は席に座った。  さて、捜査が進むにつれて、意味ありげな事実は色々と出て来たが、どれ一つとして、決定的なものはない。  しかし、総合してみれば、真相は決して単純なものでないということは分かる。荒井は犯人ではない。——きっと他にいるのだ。  誰か、真犯人が……。  スパゲッティを食べていると、店の電話が鳴って、ウエイトレスの女の子が出た。 「——え?——今、いるわよ。——うん、じゃ待って」  ウエイトレスは、純子を手招きした。「ねえ、真由美から電話だわ」 「え?——本当?」  純子は急いで電話に出た。 「ああ、女刑事さん? あのさ、さっき言ってた若い男の似顔絵、買ってくれない?」  と真由美が言った。 「似顔絵?」 「ここの学校の子に描いてもらったの。びっくりするくらい似てんのよ。どうかしら?」 「買うわ」  と純子は即座に言った。「いくら?」 「いくらでもいいわよ」 「じゃ、すぐに行くから待っててね」  純子は喫茶店を飛び出した。出がけに、振り向いて、 「戻って来るから待っててね」  と声をかけた。 「——あら、さっきはどうも」  服を着た真由美が、美術スクールのあるビルの下で待っていた。 「ありがとう、助かるわ」  と純子は言った。「それで絵は?」 「これよ」  と、丸めた絵を差し出す。 「いくら払えばいい? 描いた人と半分ずつにして五千円でどう?」 「御《おん》の字だわ。二、三日食べられるもん」  純子は、五千円札を渡して、真由美と別れた。——胸が高鳴っている。  谷口へこれを見せてやるんだ!  早く見たい気持ちをわざと押し殺して、喫茶店へと戻る。  食べかけのスパゲッティを食べながら、丸めてあった絵を開いて、隣の座席に押し広げた。  フォークがテーブルの上に、コトン、と音をたてて落ちた。  目を見開いて、唖然として、その顔《・・・》に見入る。 「まさか!」  驚きの呟きが洩れた。「そんな馬鹿なことが……」  その似顔絵の顔は、林昌也だったのだ。 「林君が?——そんなことあるはずないわ!」  ウエイトレスが心配そうな顔で近寄って来ると、 「大丈夫? 何か悪い物でも食べたかしら?」  と訊いた。「ちょっとスパゲッティが古かったけど……」  まさか——林君が。  純子は、珍しくスパゲッティを食べ残したまま、その喫茶店を後にした。  真由美というウエイトレスが、美術スクールの生徒に描かせた似顔絵は、丸めたまましっかりと手に持っていた。  これは一体どういうことなのだろう? 林昌也が、あの喫茶店から電話をした。時間、場所から考えて、岡みどりのマンションへかけたことは間違いない。  単に偶然で、昌也がここへ来ていたとは考えられない。 「でも……どうなっちゃってるの?」  純子は頭が混乱して来た。  もちろん純子は昌也を直接よく知っているというわけではない。あくまで伸子を通じて知っているにすぎないのだ。  だが、伸子の方は——もう昌也と、かなり〈翔《と》んでる〉関係にまでなっているということである。その昌也が、殺人事件に関係があるなんてことが、あるだろうか?  岡みどりが電話一本で口をつぐんでしまった、ということは、あの電話が、犯人からのものだったとでも考える他はない。  まさか間違い電話で岡みどりが急に気を変えることはないだろうから。  可能性としては——昌也があそこから電話したのは、たまたま偶然で、岡みどりの所へかかった電話とは別だったということ。  しかし、これは極めて可能性が低い。昌也が岡みどりのマンションに近い喫茶店にたまたまいたなんて、ちょっと考えにくいからだ。  もう一つは、他人の空似で、この似顔絵が昌也のものでない、ということ。  でも、そんなことは考えられない。可能性がゼロとは言わないが、まず一パーセント以下とみてもよかろう。  やはりあそこから岡みどりのマンションへ昌也が電話をかけたとみるのが妥当なところであろう。  そうなると——昌也が犯人ということになるのだろうか? まさか! どうして昌也が人殺しをしなくちゃならないのか。  これはやはり昌也を問い詰めてみる他はない、と純子は思った。  伸子の耳には入れたくなかった。万が一、昌也が犯人などということになれば、伸子には大ショックに違いない。これは一つ確かめてからにしなくては。  もし、昌也が殺人犯だったら?——純子は自分が危険な立場になることを、コロリと忘れていた。 「——もしもし、林昌也さんをお願いしたいんですが」  途中、見付けた電話ボックスへ入って、昌也のいる下宿へ電話をかけた。 「どなたです?」  不機嫌そうな女の声がした。 「あの——友達ですが」 「ふん、友達ね」  と女は、不信の色をあらわにして、「うちじゃね、電話の取り次ぎはやってないんです。分かりましたか?」 「はい、でも急用で——」  問答無用。電話は切られてしまった。 「感じ悪い!」  純子は頭へ来て受話器をフックへ叩きつけた。電電公社の人が見たら顔をしかめたに違いない。——〈電話へ八つ当たりするのはやめましょう〉とでも書いておいた方がいいかもしれない。  昌也の下宿の電話は、前に聞いていたのだが、実際にかけたことはなかった。  そういえば、 「うちの下宿はうるさくって」  とか言っていた。  それにしても感じの悪いおばさんである。いいわ、と純子はボックスを出ると、決心した。下宿へ行ってみよう。  昌也がいるかどうか分からないが、ともかく行ってみないことには話にならない。——純子は、タクシーを止めて、乗り込んだ。  捜し捜して、ようやく昌也の下宿を見付けた。——いささか古ぼけた日本家屋で、下は家主、上が小さな部屋が並んだ下宿というところらしい。  外をグルリと回ってみたが、窓が開いていても、カーテンが閉まっていたり、中の様子は分からない。しばらく眺めていたが、人のいる気配はなかった。  みんな出かけているのだろう。学生が多いのだろうから、窓なんか平気で開けて行くのだ。 「さて、どうしよう……」  せっかくここまで来たのだ。何とかして昌也の部屋へ入れれば、何か手がかりでも見付かるかもしれない。  家宅侵入だが、殺人事件なのだ、それぐらい構やしない。——素人なので無茶苦茶なことを考えて、玄関へ回ってみた。  玄関は同じで、ガラガラと横へ引く、派手に音のする戸である。これじゃ、そっと忍び込むというわけにはいかない。  さっき電話へ出たおばさんに見付かれば、大騒ぎになるだろう。 「何かいい手はないかなあ……」  しばらく考え込んでから、純子はふと、何か思いついた様子で、急いで道を歩いて行った。  少し行くと、おあつらえ向きに赤電話がある。純子は十円玉を三枚入れて、またあの下宿の番号をダイヤルした。 「はい」 「塚井様でいらっしゃいますね」  ちゃんと表札は見て来たのである。 「そうですよ」 「こちら税務署ですが」  とできるだけ取り澄ました声で、「実は、そちら様から、少し余分に税金を納めていただいていたことが分かりまして、お返ししたいのですが」 「取り過ぎ? そうだろうと思ったわよ。うちはそんなに取られるわけないのよ」 「三万円ほどですが、印鑑を持って、こちらへおいで願いたいんです」 「そっちで間違えたのに、私が取りに行くの?」  と不平を言って、「まあいいわ、すぐに行くわよ」 「ではよろしく」  電話を切って、純子はペロリと舌を出した。あの手の女をつるのは、お金に限るのである。——きっと、すぐに飛び出して来るに違いない。  純子がわき道へ入って見ていると、ものの三分としない内に、電話の声とイメージぴったりの、ドラム缶的体型の女性が、せかせかと歩いて来た。  楽しげに鼻歌など唸《うな》っているのは、お金が戻って来ると思っているからだろうし、それが突然、キッと真顔になるのは、もともと払わなくて良かった金なのだ、喜ぶことはないのだ、と思い直しているからだ。しかし、またすぐに顔が歪《ゆが》んで(笑っているつもりなのだろう)しまうのである。  その女が行ってしまうと、純子は、急いで下宿へと向かった。 「——失礼します」  と呟《つぶや》くように言って、玄関を入る。  すぐわきに階段があって、紙が貼《は》ってあり、部屋の図面と住人の名が書いてある。 「林昌也か……。二番目の部屋ね」  純子は上がり込むと、念のため、靴を持って階段を上がって行った。  かなり古い家で、階段もギシギシと音を立てる。あのおばさんがあまり上り下りしたら、もう何年ももたないのじゃないかしら……。  純子は、二階へ上がると、じっと耳を澄ました。  今どきの若者の部屋なら、たいてい何か音楽でも聞こえているものだが、今は物音一つしない。  たぶん、どの部屋も留守なのだろう。純子はそれでもそっと足を進めて、二番目の部屋の前へ来た。襖《ふすま》一枚の戸で、別に鍵《かぎ》もないようだ。  無用心ね、全く。——指をかけて、引いてみると、滑りが悪いのか、ガタガタッと音をたてて動いた。  ギョッとして周囲を見回す。が、別に、誰も出て来ないので、ホッと胸を撫《な》でおろした。  もう少し開いて、中を覗《のぞ》き込む。——六畳ぐらいの部屋に、布団が敷きっ放しになっている。  中へ入って、戸を閉める。——机、本棚、FMラジオ……。  まずは典型的な若者の部屋だ。さて、どうしようか。  ともかく、昌也が何かを隠しているとしたら、果たしてどこへ隠すかである。それが何なのかも分からないのだから困ってしまうが、ともかくせっかく苦労して忍び込んだのだから、捜すだけ捜してみよう。  机の引き出し、本棚の裏、と調べていると、ギシッ、ギシッ、と階段を上がって来る足音が聞こえて来た。  昌也だろうか? 純子はあわてて、どこか隠れる所、と見回した。——しかし、何しろ狭い部屋である。  押し入れしかない! 布団が出ているので、一人入れるくらいの隙間はあった。そこへ入り込んで戸を閉めると、すぐに、入り口の襖がガタゴトと開いた。  昌也だろうか?——純子はじっと息を殺していた。  部屋の中へ入って来た、その誰か《・・》は、机の引き出しをガタガタ言わせていたが、ほんの二、三分で、また出て行ってしまった。  階段の鳴る音は、押し入れの中では聞こえなかったが、純子はじっと耳を澄ましていた。——五分近く、我慢した。  ひどい暑さで、汗がふき出して来るようだ。もういいだろう。純子は、押し入れの戸を開けて這《は》い出した。  とたんに毛布らしいものがスポッと頭を包んだ。 「あ……」  もがく間もない。下腹をいやというほど殴られて、純子は気を失ってしまった。 「——竹野さん!」  揺さぶられて、純子は目を開いた。谷口刑事の顔が見える。 「谷口さん……。私、一体どうしたのかしら?」 「分かりませんよ。ここは林君の下宿らしいですね」 「あ、そうか!」  見回すと、確かに昌也の部屋である。「私……殴られたんだわ」 「大丈夫ですか?」 「ええ。——何とかね」  純子は、よろけながら立ち上がった。「でも、谷口さん、どうしてここへ?」 「いや、岡みどりを尾行して行ったんですが、見失っちまったんですよ。で、あの喫茶店の方へ戻って行くと、ちょうど竹野さんがタクシーへ乗るところで、急いでこっちも追って来たんです」 「そうだったの……」 「声をかけようと思ったんだけど、何だか様子がただごとじゃないから、悪いとは思いましたが、隠れて様子を見てたんです」 「何だ、そうなの。——殴った奴は見た?」 「さあ、それが……。裏へ回って、窓を見上げてたもんですから。——なかなか出て来ないので心配になって来てみたんですよ」 「ひどい目にあったわ」 「どうしてこんな所へ?」 「実はね——」  と説明してから、「あ! 似顔絵!」  と気付いて捜したが、絵はどこかに消えていた。 「じゃ、林君が? まさか、そんな!」  と谷口が目を丸くする。 「私も、そうは思ったんだけど……」  と純子はまだ痛むお腹をさすった。 「大丈夫ですか?」 「まあね。でも、一応ここを出ないことには——」  と言ったとたん、ガラリと襖が開いて、あのおばさんが突っ立っていた。 「あんたたち、何やってんの!」  かみつきそうな顔で純子と谷口をにらみつける。 「やれやれ、大変だ」  谷口は、下宿を出ると、ホッと息をついた。 「ごめんなさいね、私のせいで」  と純子は珍しく素直に謝った。 「しかし、警察と分かると、急に態度が変わりましたねえ」  と谷口は首を振って、「ああいうことではいかんなあ」 「呑《のん》気《き》ねえ。そんなことより殺人事件よ」 「あ、そうだ」 「岡みどりはバーへ出るのかしら?」 「そろそろ時間ですね。行ってみましょう」 「場所は分かるの?」 「行けば分かりますよ」  と谷口は自信ありげに肯いて、「交番で訊けばいい」  とは頼りない。  二人は広い通りへと出るべく、細い露地を抜けて行った。途中でハタと足を止める。 「——まあ、林君!」  露地の向こうから、林昌也がやって来たのだ。昌也の方も二人に気付くと、ハッとして、とたんにクルリと背を向け、走り出した。 「待って! 林君!」 「おい! 待て!」  純子と谷口が同時に駆け出そうとした。狭い露地である。二人が並んで走るのは無理だった。  足がもつれて、みごとに二人ともすっ転んでしまった。 「ああ痛い……」  すりむいた額をさすりながら、純子は起き上がった。「今日はけがをする日なのかしら?」 「すみません」  谷口も立ち上がって、土をはたき落とす。 「逃げられちゃったわね」 「そうですね」 「でも……逃げたということは……」  と言いかけて純子はためらった。 「何かあるんですよ、やはり」  純子は肯いた。 「伸子さんにも話さなくっちゃ。——彼女、ショックだろうなあ」  純子は、ハンカチで手を拭いながら、呟いた。 「あら、どうしたの、おでこ?」  喫茶店へ入って来た伸子は、純子の顔を見るなり、吹き出した。 「いやあね、笑わないでよ」  純子は、すりむいた額をこすって、「転んだのよ」 「ごめんなさい。つい……。ところで、何なの、重大な用って?」  純子は気が重かったが、林昌也のことを、しかし、黙っているわけにはいかない。 「ね、伸子さん、落ち着いて」 「え?」 「冷静になってね、気を鎮めて」  純子の方がよほど興奮している。 「何よ、一体?」  伸子は笑顔になって、 「変ねえ、純子さんったら」 「変にもなるわよ。あのね——」  そこへ、ウエイトレスが、水を持って来て伸子の前へ置いた。 「ご注文は?」  出はなをくじかれて純子は口をつぐんだ。 「紅茶」  と伸子は注文して、「で、何事なの?」  と訊《き》く。 「実はこうなの、谷口さんと二人で——」 「すみません」  とウエイトレスが戻って来て、「ミルクティー? レモンティー?」 「あ、ミルクにして」 「はい」  純子は咳払《せきばら》いをして、 「谷口さんと二人でね、岡みどりっていうホステスの所へ行ったのよ」  やっと話がスタートした。  電話がかかって急に岡みどりが気を変えたこと、近くの喫茶店から、その電話がかけられたらしいこと……と話は進んだ。 「——じゃ、犯人の似顔絵が手に入ったのね?」  と伸子も身を乗り出す。 「そ、そうなのよ。犯人——と決まったわけじゃないんだけどね、彼が」 「彼?」  伸子は訊き返した。「じゃ、私たちの知ってる人なのね?」 「まあ……ね」 「誰なの?」 「うん、つまりその……」  いざとなると言いにくい。そこへ紅茶が来た。 「ね、紅茶飲んだら? それから言うわ」 「何よ、純子さんらしくもない。一言《ひとこと》、名前を言うだけじゃないの」 「気安くおっしゃいますけどね」  純子は渋い顔で、「じゃ言うわ。——林君だったのよ」 「林……。林って誰?」  伸子はポカンとして訊いた。 「林君よ。林昌也君」  伸子は目を見開いて、純子を眺めていたが、やがて、キャッキャと声を上げて笑い出した。 「いやあね……何言い出すかと思ったら! 人をからかうのもいい加減にしてよ!」  と、笑いすぎて涙が出るのを拭っている。  純子としては、やり切れない気分であった。 「嘘じゃないのよ。冗談でも、からかってるのでもないの。その絵は林君だったのよ」  パタ、と笑いが止《や》んで、伸子は厳しい顔になった。 「何を言ってるのよ、林君が、どうしてあんな女を知ってるの? 林君は殺人事件には全くの局外者じゃないの。それがどうして、人殺しだなんて。——いくら純子さんでも、ひどいじゃないの!」  段々語気が荒くなって、おしまいの方は叫ぶような声になっていた。店の客が、びっくりして振り向いている。 「だから……何も犯人とは限らない、って……」  純子はあわててなだめるように言った。  伸子は、ちょっと肩で息をついていたが、少し間を置いて、静かに言った。 「ごめんなさい。あんまりびっくりしたもんだから……」 「当たり前よね。ひっぱたかれるぐらいは覚悟してたのよ」 「そんなことしないわ。——でも、変だわ、林君が、そんなことに関《かか》わってるなんて、考えられない」 「何か事情があるのよ、きっと」  純子は、恐る恐る、昌也の下宿へ行って誰かに殴られたこと、帰るとき、昌也に出くわし、昌也が逃げ出したことを話した。 「逃げたの? 林君が?」 「そうなの。あれがちょっとショックで」  伸子は、紅茶へミルクを入れて、ゆっくりかき混ぜながら、考え込んでいた。 「林君が……あの殺された女——三好晃子を知ってた、っていうことがあり得るかしら?」  と伸子は呟いた。 「分からないわ。私は全然林君のことを前には知らないんだもの」 「そうね。——私だって、ずっと一緒にいたわけじゃなし、林君が——というより、あの三好晃子が林君を何かで知って、遊び相手にしていたとすれば……」 「偶然にしては出来すぎと思わない?」 「そうね。その三好晃子が、たまたま、尾島社長の囲っている女だったなんてね。でも、逆に、それだから、林君が三好晃子へ近付こうとした、かもしれないわ」 「——本気でそう思うの?」 「分からないわよ」  と伸子は肩をすくめた。 「今、谷口さんが、岡みどりの勤めてるバーへ行ってるの。もし来ていれば、何としてでも真相を訊き出すって張り切ってたわ」 「ああ、ひどいわ!」  伸子は頬杖《ほおづえ》をついて、ため息をついた。「どうか最悪の結果になりませんように!」 「本当ねえ」  しばらく二人は黙り込んでいた。——純子が言った。 「もし……そんなことになったら、どうする?」 「林君が犯人だ、っていうことになったら?そうね。——林君と手に手を取って逃げるかな」  伸子は割と軽い口調で、「そのときは、純子さんの口をふさがなきゃね」  と言った。純子は、ちょっとぞっとして、引きつったような笑顔を作った。  夜になって、盛り場に灯が入った。  夜、九時、十時、と、小さなバーが軒を接したこの一画は、にぎやかさを増して行く。 「ありがとうございました!」  ホステスたちの、客を送り出す声が、そろそろ、あちこちで響き始める。 「ねえ、みどりまだ来ないの?」  と、ホステスの一人が苛々《いらいら》した声を出す。「忙しいのに、いやねえ!」 「お帰りよ!」 「ありがとうございました!」  と、そのホステスが表へ出る。客の肩をポンと叩いて、 「また来てよね!」  と送り出すと、店へ戻ろうとして、 「すみません」  若い男の声がした。 「あら、なあに? お兄ちゃん、未成年? 大丈夫よ、一杯飲んで行ったら?」 「いや、そうじゃないんです」  と、若者は照れくさそうに頭をかいた。「岡みどりさんって、この店にいますか?」 「あら、みどりに用? 今日はねえ、九時すぎには来ると言ってたんだけど……。まだ見えないのよ」 「そうですか」  若者はちょっと不安げに表情を曇らせた。 「何か言づけでもあったら、聞いとくけど」 「いえ、結構です。ありがとう」  若者は急ぎ足で歩いて行った。ホステスはそれを見送って、 「ちょっといい男ね」  と、微笑《ほほえ》んだ。「さて、商売、商売。——ありがとうございました」  岡みどりは、ゆっくりとあたりを見回した。——線路が、頭の上を走っている。  暗いガード下で、ほとんど人通りはなかった。蒸し暑い夜だった。 「いやねえ、こんな所……」  と、岡みどりは呟いた。  腕時計を見ようとしたが、暗くて数字が読めないので、肩をすくめて、舌打ちした。 「遅いねえ、本当に!」  苛々と呟くと、道の左右へと目をやった。人がやって来る気配もない。 「来るんじゃなかったな」  と大《おお》欠伸《あくび》をして——足に何かが触れて、「キャッ!」  と、飛び上がりそうになる。  ギャーッ、と野良猫が鳴いて、走って行った。岡みどりはふうっと息をついた。 「ああびっくりした」  振り向いたとたんに、目の前の人影に、また仰天した。 「あ……何だ、そこにいたの。いつ来たのよ?」  手探りで、タバコをバッグから出すと、口にくわえて、 「あんたが遅いから……帰っちまおうかと思ってたんだよ」  バッグをかき回しながら、 「ライター、ライター……と」  目の前の人物が、手を差し出して、カチッと音がすると、その手の中のライターが炎を上げた。 「どうも」  岡みどりはタバコに火を点《つ》けると、ゆっくりと煙を吹き出して、「——ところで、話は早くしようよ。お金は持って来たんだろうね?」  相手が黙って一歩前へ出る。岡みどりは素早く後へ退《さ》がって、 「ちょっと待って。妙な考え起こしたってだめよ」  と言った。「私まで殺そうと思ってんじゃないの? フフ……。それぐらい用心しない私だと思ってんの?」  と、ニヤリと笑った。 「ちゃんとね、私の知ってることを、書いて隠してあるんだ。私に何かありゃ、あんただっておしまいなのよ。——分かった?」  しばらく相手は沈黙していた。そして、ヒョイと肩をすくめると、ポケットから、封筒を取り出して、差し出した。 「そう来なくっちゃね」  岡みどりは、引ったくるようにそれを取ると、中を覗こうとした。 「——暗くて、見えないや。ね、ちょっとライターをつけといてよ」  ライターが、カチリと音をたて、その火が、岡みどりの顔を暗がりの中へ浮かび上がらせた……。 「ありがとう」  岡みどりは、封筒から、札を半ば抜き出すと、数え始めた。「五……十……十五……二十……三十、と。オーケー、三十万、あるわね」  ライターの火が消えて、再び闇が包んだ。岡みどりは、封筒を手探りでバッグへとしまいながら、 「今回は三十万。この次は二十万。——五十万以上は、取らないからね」  と言った。「私は欲がないの。無理は言わないのさ」  と、言って息をつくと、 「お店へ行かないと。——じゃ、また会いましょ」  と、クルリと振り向いて歩き出した。  追って来る気配に、岡みどりは振り向きざま、バッグで相手の顔のあたりを思い切り打った。 「ウッ!」  と相手が呻《うめ》く、命中したらしい。 「ふざけんじゃないよ!」  言い捨てて走り出す。——強がって見せたものの、やはり怖いのである。  しばらく走って、少し人通りのある道へ出る。ホッと息をついて、足を緩めると、振り向いてみた。  誰も、ついて来る気配はない。 「ざまあみやがれ!」  と、岡みどりは言った。  走ったので、汗が吹き出して来る。店へ向かって、足を早めた。 「——みどり、遅いじゃないの!」  店へ入って行くと、仲間のホステスが、言った。 「ごめん! 意外と手間取ってさ。あら、いらっしゃい! 珍しいじゃないの。いつもどこで浮気してんのよ」  もう店の顔に戻っていた。 「——あ、そうだ、さっきねえ、みどりに会いに若い男の人が来てたわよ」 「へえ」 「まだ未成年かな、ってとこ。可愛い顔しててさ。あんた、オモチャにしてんじゃないの?」 「冗談じゃないわ」  と、笑って、「そんな余裕ないわよ。——さ、仕度して来るから」  岡みどりはカウンターをくぐって、奥へ入って行った。 「ああ暑い……」  走ったせいで、髪も乱れているし、汗で少し化粧も崩れた。  鏡の前に座って、化粧を直す。——鏡に、誰かが後ろに立ったのが映った。 「誰?——何か用?」  振り向く前に、岡みどりの首を、左右の手が、しっかりとつかんでいた。 「——ねえ、みどり、何してんの?」  と、仲間のホステスが声をかける。「お待ちかねよ、みどりのいい人が」  返事はなかった。 「いやね、居眠りでもしてんのかしら?」  と、カウンターをくぐって、カーテンをからげて中へ入る。  岡みどりは、鏡の前に座って、首を垂れていた。 「いやだ、ほんとに寝てるよ」  と近付いて、「ねえ、みどり——」  肩を揺さぶると、岡みどりの体は、そのまま横へ倒れた。  白眼をむいて、口を開き、苦《く》悶《もん》の形相が、じっと見上げている。  ホステスが店の中へと転がり込んだ。 「おい、何だその格好は」  客が大笑いする。——ホステスが、悲鳴を上げ始めた。  伸子は目を開いた。  カーテンの隙間から、かなり強い陽差しが、もうかなり高い位置から射し込んでいる。 「あら、いやだ……」  時計を見ると十時半だった。「こんなに寝てたのか」  会社を辞めてからも、ほとんど以前と同じ時間に起きていたのだが、今朝はこの時間だ。——少したるんじゃったかな、と伸子は欠伸をした。  しかし、今朝、起きるのが遅かったのは、ゆうべなかなか寝つけなかったせいで、その理由は、もちろん林昌也のことが気になったからだった。  純子の話は疑いようもない。純子があんな嘘をつくはずもないからだ。  しかし、昌也が三好晃子を殺したなどとは、もっと信じられない。——きっと、何か事情があったのだ。  事情があった……。もし、本当に、昌也が——。 「そんな馬鹿なことってないわ!」  伸子は頭を振った。  急いで顔を洗って、頭をすっきりさせる。——そうだとも。林君がそんなことをするなんてはずがない。  私の未来の旦那様なんだからね、何しろ。 「さて、今日は、と……」  別に予定はない。いや、これじゃ困るんだ。退職金でのんびり暮らしていられる身分じゃないのだから。早く仕事を見付けなくては。 「職探しに行くか」  家へも送金しなくてはならないし、早く就職する必要があった。  KMチェーンの真鍋、それに大畑からも誘いがあったことは、むろん忘れていない。  しかし、伸子としては、もう〈偉い人〉になるのはごめんだった。もっとも、給料という点から考えれば、真鍋や大畑の申し出を受けた方がいいのは当然だ。  家への送金もふやせる。——それで、伸子は、決心をつけかねているのである。  大畑には、ともかく早急に返事をしなくてはならない。どう答えたものか……。  布団を上げ、出かける仕度をして、朝食はどこか表で食べようと思ったが、 「もう社長じゃないのよ」  と思い直し、カップラーメンで済ませることにした。  窓を開けて、風を入れながらラーメンをすすっていると、玄関で、 「社長、いらっしゃいますか」  と声がした。 「三枝さん! ちょっと待ってね」  急いで玄関へ降りる。「——まあ、懐かしい!」  とは大げさだが、実際、会社というものは、辞めてしまうと、たった一週間でも、ずっと昔に通った所のように思えるものである。 「どうもその節は——」  などと三枝も他人行儀に挨拶をしている。 「上がって下さい。こんな所だけど」 「それでは……」  と上がって来て、「あ、お食事中でしたか」 「あら、いやだわ」  伸子は真っ赤になって、あわててラーメンを台所へ持って行く。「今起きたばっかりなの。怠け者になって」 「どうです、表でお昼をご一緒に。もう十一時二十分ですよ」 「あ、そうね、じゃ、どうせ出かけるから」  三枝が、前社長の、侘《わび》しくカップラーメンをすすっている姿を見て同情心に駆られたのかもしれないと思うと、伸子はおかしくなった。  どうやら伸子の想像した通りのようで、三枝はわざわざ高いレストランへ入って、 「どうぞ何でも食べて下さい、社長」  とすすめる。 「ありがとう。でも〈社長〉は、もうやめましょうよ」  メニューを見ながら、伸子は言った。「私は失業者よ」 「今日はどちらへ——」 「職探し。大分遊んじゃったものね」 「大畑さんから伺いました。どうして監査役をお引き受けにならないんです?」 「私がまた嵐を引き起こしたら、今度こそ尾島産業は潰《つぶ》れるわ」 「それは逆です」  と三枝は言った。「今のままでは、尾島産業は潰れます」 「そんなに悪いの?」 「今のところは何とか持ちこたえています。お客もそうすぐにはコロリと変わりませんからね。しかし——」  と首を振って、「営業の連中だけ見ていても、全くやる気をなくしています」 「それを指導しなきゃ」 「やってはみますが、だめなんです」 「どうして?」 「ともかく、また尾島さんが取り巻きで上を固めちゃったでしょう。そうなると、尾島さんの息のかかった者でないと、出世もできない。ボーナスだって、以前から、尾島社長の人脈次第で倍も違ってたんですからね」 「そうだったわね」 「ですから若い連中が、やる気を失うのも無理ないんです」 「じゃ、見通しは……」 「暗いですね。これは私が社長の味方だから言うんじゃありませんよ」 「分かるけど……」  伸子はためらいながら、「それはやっぱり大畑さんへ言うべきよ」  と言った。 「社長のお気持ちもよく分かります」  と三枝は肯いて、「むしろ、私個人としては、社長をこのまま、そっとしておいてあげたい気持ちなんです。しかし、やはり私も会社倒産で路頭に迷うというのは、どうも似合わないと思いますし……」 「そんなのが似合ったら大変」  と、伸子は笑って、「でも、今の私はそれに近いわ」 「——あ、食事にしましょう。ゆっくり食べて、それでまた話を聞いて下さい」 「ええ」  伸子は、運ばれて来たランチヘナイフを入れた。「——今日は三枝さん、休暇?」 「いいえ、勤務中ですよ」 「まあ、そうなの?」 「外回りですからね」 「さぼってちゃだめじゃないの」  と微笑みながら言うと。 「仕事? してるんですよ」  と三枝は反論した。「社長をスカウトするという仕事です」  食べ始めると、ちょうどTVで十二時のニュースが始まった。黙って食べていた伸子は、ふとTVの画面を見た。 「殺された岡みどりさんは、バーのホステスで——」  岡みどり? 確か純子さんが言っていたホステスの名が、そんな……。  バーの表が映っていた。——刑事たちが歩き回っている。その中に谷口の姿があった。 「やっぱり……」  岡みどりが殺された!——何か、これまでの事件と関係あるのだろうか?  ないはずはあるまい。こんなときに、偶然殺されるなんて考えられない……。 「——なお、警察では、当夜九時半頃、店へみどりさんを訪ねて来た男を、事件に関係があるのではないかと見て、探しています。男は二十歳ぐらい。やせ形で色白——」  伸子は、アナウンサーの言葉にじっと耳を傾けていた。  林君!——あれは林君だわ!  三枝が、伸子の様子に気付いて、 「社長、どうかしましたか?」  と訊いた。 「いえ……別に……」  ほとんど無意識に食事を続けた。林君が、岡みどりを訪ねて行った。そして——岡みどりは殺された。  ああ、一体どうなるのかしら?——伸子は、もう食べている物の味など分からなかった。  純子も、昼のニュースで、初めて事件を知って、あわてて新聞を広げた。  純子はまだ尾島産業の社員のはずだが、このところ、自主的に(?)特別休暇を取っているのである。  母などはとっくに純子が会社を辞めたものだと思って、 「退職金はいくらか出たの?」  などと訊く始末であった。  新聞の記事には、詳しいことが出ていない。しかし、今のニュースの〈若い男〉は、明らかに林昌也のことだ。してみると、谷口は伸子のために、林昌也のことは黙っているとみえる。  そうでなければ、今頃は指名手配になっているだろう。  そこへ谷口から電話がかかって来た。 「よかった! 今、ニュースで見たのよ」 「いや、こっちも苦しい立場なんです」 「よく分かるわ」 「ともかく、見付けなくては。自首してくれれば一番なんですが、説得するにも、どこにいるか分からなくては……」 「じゃ、やっぱり、林君が犯人?」 「残念ですが、どうも疑う余地はないようです」 「どうする、これから?」 「気は進まないんですが……」  と谷口は渋々、という口調で、「桑田さんを見張ろうと思っています」 「伸子さんを……」  確かに、それが一番だろう。昌也とはともかく恋人同士なのだ。  当然、昌也も自分のことが警察に知れていると思っているだろうから、まず信頼できる人間に、連絡を取るに違いない。そしてそれは、まず間違いなく伸子だ。 「桑田さんの部屋へ電話したのですが、出ないんです。どこへ出かけたか、心当たりはありませんか」 「さあ……」  純子はちょっと考えたが、「伸子さんも、もし今のニュースを見ていれば、当然びっくりしてアパートへ戻ると思うわ」 「なるほど、そうですね」 「今どこから?」 「まだ現場の近くです」 「じゃ、私も伸子さんのアパートへ行くわ。あなたも……」 「分かりました。私は近くで様子をうかがっていますから。桑田さんには、この話をしないで下さいね」 「もちろんよ」  純子は急いで出かける仕度をした。 「あら、会社?」  と母が見て、「重役出勤ね」  全く、皮肉屋なんだからね、と、純子は母をにらみつけた。  伸子のアパートへ着いて、ドアの前で純子が迷っていると、 「あら、純子さん!」  と伸子がやって来た。 「出かけてたの?」 「職探しと思ってね。でもTVニュース見て、びっくりして飛んで帰って来たのよ」 「林君から連絡は?」 「今のところは」  と、伸子は鍵《かぎ》を開けた。「中へ入って」 「——あの若い男って、林君そっくりじゃない?」 「きっと林君よ」  伸子は、かなり重苦しい表情だった。「もう誰も信じられない世の中ね」 「そうやけにならないで。別にあのホステスに会いに行ったからって犯人とは限らないんだし」 「分かってるけど……」  二人はしばらく部屋の中で、黙り込んでいた。  電話が鳴って、伸子は飛びついた。 「はい。——あ、大畑さんですか」  声の緊張が緩む。「——ええ、よく考えているんですけど——え?——そうですか。——はい、じゃ明日にでも……」 「どうしたの?」  電話を切った伸子は、言った。 「尾島産業のピンチよ」 「何かあったの?」 「銀行の方でね、あれだけ色々と騒ぎを起こしたのだから、尾島社長をクビにしろという意見が強いんですって」 「結構じゃないの」 「ところが、それが、結構じゃないの。尾島産業から完全に手を引こうと言い出してるんですって」 「手を引く?」 「つまり、つっかい棒を外すようなもんだわ。たちまち倒産よ」  伸子はため息をついた。「よりによって、こんなときに……」 「大畑さんの力でもだめなの?」 「限度があるのよ。といって……事件に関係のあった人を除いたら、社長のなり手がなくなるわ」 「あなた、またなれば?」 「気安く言わないで」  また電話が鳴った。「——はい。——林君! どこにいるの?」  伸子は受話器を握りしめた。  純子はじっとその様子を見ていた。 「分かったわ。——うん、必ず一人で行く」  伸子は受話器を置くと、純子を見た。 「分かってるわよ。私は帰るわ」 「ごめんなさい」 「そんなこといいの。でも、どうする気?」 「ともかく会って話を聞くわ。それから決める」 「分かったわ。じゃ、これで」  純子は伸子のアパートを出て歩き出した。 「竹野さん!」  押し殺した声がして、振り向くと、谷口が細い露地の陰から手招きしている。純子がそこへ入ると、 「どうでした?」 「今、電話があって、出て来るわ」  いくらか気は咎《とが》めたが、これが二人のためなのだ、と自分に言い聞かせる。 「尾行して、できるだけ穏やかに話をつけたいですね」  と言った。 「あら、どうしたの?」  純子が笑い出しそうになりながら、言った。 「女の子にでも引っかかれたの?——その顔のバンソウコウよ」  谷口はちょっとあわてた様子で、頬の傷に触れながら、 「これですか? これはその——猫——猫なんですよ」 「あら、猫を飼ってるの?」 「野良猫です」 「エサを横《よこ》盗《ど》りしようとしたんじゃない?」 「ひどいなあ……」  谷口が渋い顔になった……。 「しっ! 出て来たわ」  伸子がアパートから出て来る。手に小さなボストンバッグをさげていた。 「どうするのかしら?」 「一緒に逃げる気かもしれません」 「まさか……」  とは言ったものの、何しろ伸子は昌也とすでに——週刊誌的に表現すれば——〈愛人関係〉にあるのだから、一緒に逃げる気になっても不思議はない。 「ともかく後を尾《つ》けましょう」  と、谷口は言った。  純子としてははなはだ気の咎めることである。親友を裏切っているのだ。卑劣な密告者だ、という声が聞こえて来るような気がする。  しかし、もうやめるわけにはいかない。谷口だって、昌也を逮捕しようというのではなく、自首をすすめるために見付けたいのだ。  そう、それが結局一番いいことなのだ。——純子の脳裏に、手を取り合って、警官隊の一斉射撃にあって死んでいく昌也と伸子の姿が浮かんだ。何かの映画の一場面である。  そうならないためにも、一緒に昌也たちを説得しなくては……。  純子は谷口の後について、伸子を尾行し始めた。  伸子は、まさか純子たちが後を尾けて来ているなどとは思いもしなかった。  ボストンバッグには、持ち金のありったけと、着替えが詰まっている。——純子へは、どうするか、まだ分からないと言ったが、心は決まっていた。  昌也が逃げるというなら逃げるつもりである。それが恋人というものだ。  さし当たって必要なものがある。伸子はまず銀行へと足を向けた。手配されてからでは、もうお金をおろすことはできない。  通帳と印鑑を出して、預金を全部引き出してしまうことにする。銀行は混《こ》んでいて、大分待たされた。その間にも、何だか刑事が来て、逮捕されるような気がして、ついキョロキョロと周囲を見回してしまう。  考えてみれば、まだそんなことはないはずだが、やはり逃亡者の生活というのは不安なものなのだろう。 「まだかしら……」  苛々《いらいら》と呟《つぶや》く。大した金額じゃないのに、全く!  ——純子と谷口は、銀行の表から、そっと中を覗き込んでいた。 「お金をおろす気ね」 「やはり一緒に逃げるつもりですね」  谷口はため息をついた。「逃げられっこないのに」 「何とか説得しましょうね」 「ええ。しかし、それにはまず二人が落ち合うのを押さえることですよ」  純子は肯《うなず》いた。——仕方ない。ごめんね、伸子さん。 「桑田伸子様」  やっと呼ばれて、伸子は急いでカウンターへ走った。 「お引き出しですね」 「はい」 「何かにお使いですか?」 「使うから出すんです」  苛々して、伸子は引ったくるように現金をつかむと、カウンターを離れた。何に使おうと個人の自由でしょ!  急いで銀行を出ると、伸子はスーパーへと走った。  昌也の着替えを一式、それにカミソリ、ついでにサングラスも買い込んだ。大分本格的な逃亡らしくなって来た。  さて、これでいい。昌也の言っていた場所へと急がなくては。  伸子はタクシーを停めて、乗り込んだ。 「これは大畑さん!」  社長の椅子にふんぞり返っていた柳は、ドアが開いて、大畑が入って来るのを見て、あわてて飛び上がった。 「ここは社長室だろう」  と大畑は言った。 「はあ、さようで」 「君は専務じゃなかったかな?」 「柳でございます。あの——尾島社長はただ今来客中で……」 「待たせてもらうよ」  大畑はソファに座り込んだ。 「今すぐに社長を呼んで参りますので」  と柳が飛び出して行こうとするのを、 「いや、構わん」  と大畑は止めた。「来客中だろう。その後でいい」 「いえ、大した客ではないので——」 「会社にとって大切でない客などない」  と、大畑はピシリと言った。「待っておるから構わん」 「は、はい……」  柳は社長室を出て、急いで女の子へお茶を出せと言いつけてから、応接室へ行った。 「あの——社長」  ドアをノックすると、中でガサゴソと音がした。ゴキブリみたいである。 「何だ?」  と尾島の声。 「大畑さんがおみえですが」  ドア越しに柳は声をかけた。 「大畑さんが? 分かった!」  すぐにドアが開いた。中では、バーのホステスらしい女が、スカートを直している。 「何の用だ?」 「分かりません。社長室でお待ちです」 「よし、すぐ行く」  後から、女が、 「ねえ、私はどうなるのよ?」  と甘ったれた声を出す。 「大事な客だ。後にしろ」 「何だ、つまんない」  尾島が行ってしまうと、柳はニヤリと女に笑いかけて、 「どうだい、続きは俺じゃ?」 「あら、そう? いいわよ」  女がウインクする。柳は応接室へ入ってドアを閉めた。  尾島は急いで社長室へ入って行った。 「これはどうも……。お呼びいただけば出向きましたのに」 「客はいいのか?」 「は?」 「来客中だったんだろう」 「いえ——その——もう用は終わりましたので」 「そうか」 「今日はどんなご用で……」  ドアにノックの音がして、受付の子がお茶を運んで来る。 「おい、お茶でなく、下から紅茶でも取れば——」 「いやいや。お茶で充分。話はすぐ終わる」  大畑はそっとお茶をすすった。  尾島はしばらく黙っていたが、大畑が一向に口を開かないので、 「あの、ご用は……」  と訊《き》いた。 「うむ」  大畑は空になった茶碗を置くと、「もう終わりだ」  と言った。 「は?」 「富菱銀行は尾島産業から手を引く」  尾島の顔が見る見る青ざめた。 「大畑さん!——そんな——そんな無茶な!」 「仕方ない。私にももうどうにもならん」  と大畑は淡々と言った。 「それじゃ——ここは潰れてしまいます」 「そういうことになるかな」  尾島は塩をかけられたナメクジみたいにへナヘナと縮んでしまった。いや、本当に縮んだわけではないが、そう見えたのである。 「一つだけ助かる道はある」  と大畑が言った。 「そ、それは……」  と尾島が前へ乗り出す。 「君が辞職することだ」 「私が……」 「社長の座を退く。そうすれば退職金も支払われる。会社が潰れるよりいいと思うがね」 「この会社は私が創ったのですよ! この会社は私のもの《・・・・》だ!」  と尾島は声を張り上げた。 「君の気持ちは分かる」  と大畑は静かに言った。「しかし、会社を始めた、ということと、会社が自分のものだということは別だ。会社は個人の持ち物ではない。子供が成人したら親の手から離れるように、会社も一人歩きを始めるのだ」  大畑は立ち上がった。 「明日までに決めたまえ。明日の昼十二時。それまでに返事がなければ、ここは終わりだ」  大畑がドアを開けて出て行くと、尾島は放心状態で座り込んでいた。  ドアが開いて柳が入って来る。ニヤニヤしながら、 「なかなかいい女ですな。社長もすみに置けませんね」  と入って来て、「大畑さんは何の用です?」 「うるさい!」  尾島が怒鳴った。「貴様もグルだな?」 「グル?」 「貴様は俺を陥れようとしたんだ! 女房を見殺しにしようとした——」 「社長、しっかりして下さい!」 「こいつめ!」  尾島が柳に飛びかかった。 「——林君?」  声をかけて、伸子は、「あ、失礼しました!」  とあわてて目をそらした。柱の陰で、熱烈にアベックが愛し合っている最中だったのである。 「どこにいるのかしら……」  伸子は途方にくれて見回した。  国立競技場の外である。——今日は何も使っていないので、ほとんど人の姿もなく、閑散としている。  雲が出て来て、ひと雨来そうな空模様だった。——ここで、四時に、と昌也は言ったのだが、もう五時近くになるというのに、さっぱり姿を見せないのである。 「場所を間違えたのかな……」  少し歩いてみよう。——競技場の、スタンドのちょうど下に当たる、広々とした通路を、伸子はゆっくりと歩き出した。  純子と谷口は、競技場の周囲の植え込みの中に隠れて様子を窺《うかが》っていた。 「——歩き出したわ」 「捜してるんですね」 「こう広くっちゃね」 「しかし、向こうも用心してるんでしょう」 「でも林君はまだ指名手配にも何にもなっちゃいないんでしょう? そんなに隠れる必要もないと思うけど」 「逃げてる者にとっては、そうも言ってられませんよ。まずいな、彼女の姿が見えなくなる」 「ついて行く?」 「しかし、こう閑散としてちゃ、すぐに見付かっちまいますよ。——じゃ、あなたはここにいて下さい。もちろん、彼が来ても見てるだけにして下さいよ」 「ええ、わかったわ」 「僕は彼女の方を尾けてみます」  谷口は、植え込みからそっと滑り出て、足早に、競技場の方へと近付いて行った。  ああ、どうなっちゃうんだろ……。  純子は気が気ではなかった。  伸子は、ふと足を止めた。——誰かが呼んだような気がしたのだ。じっと耳を澄ます。 「気のせいかしら……」  と歩き出す。 「伸子さん!」  今度ははっきりと聞こえた。 「どこ? 林君?」 「こっち、こっち!」  キョロキョロ見回して、伸子は、競技場のスタンドへ入る通路の奥に、昌也の姿を見付けた。 「まあ、そんな所に!」  伸子は急いで走って行った。昌也が手を広げて待っている。その中へと伸子は飛び込んで行った。  熱い抱擁——キス。伸子は、たとえ昌也が人殺しだろうと、どこまでもついて行こうと思った。 「尾行されなかった?」 「大丈夫よ」 「こっちへ——」  と昌也が促す。二人は階段を上がった。  競技場の、空っぽの観客席へ出た。急に視界が広がって、一瞬戸惑うように、伸子は広々としたグラウンドを見回した。 「座ろう」  昌也はそばのベンチへ、腰をおろした。 「一体どうなってるの?」 「危ないんだ」 「え?」 「狙われている」 「あなたが? 誰に?」 「殺人犯さ。——三好晃子を殺した」  伸子はポカンとしていたが、 「——じゃ、あなたが殺したんじゃないのね? よかった!」  と息をついた。 「僕が? 冗談じゃないよ!」  昌也は目を丸くした。「岡みどりってホステスにも電話で警告した。それなのに、あの女——欲を出して犯人をゆすろうとしたのに違いない。馬鹿だよ、全く!」 「あのバーへ行ったのは、あなた?」 「そうさ。話をするつもりだった。でも、結局、間に合わなかった」 「誰なの、犯人は?」  と伸子が訊いた。そのとき、二人の頭上で足音がした。ハッと振り向くと、谷口が立っている。伸子はホッとして、 「谷口さん!——この人は犯人じゃないんです。今、話を……」  昌也が伸子の腕をつかんだ。 「逃げろ! あいつが犯人なんだ!」  谷口が拳銃を抜いた。  尾島は咳払《せきばら》いして、全社員の顔を見回した。 「ええ……みなさんに今日お集まりいただいたのは……その……ちっとばかり話があるからで……」 「酔っ払ってるじゃないの」  という囁《ささや》きがそこここで交わされた。 「つまりですな……その……お別れを言うためなのです。つまり私は社長の職を退く。……好きで辞めるんじゃねえぞ、畜生!」 「尾島君」  傍《かたわ》らの大畑がピシリと言った。要点を述べたまえ」 「はあ……。つまりその……私と柳と北岡は尾島産業倒産の責任を取って辞職、と。へっ、ざまあみろ。俺一人で辞めてたまるか」 「社長!」  と柳が青い顔で言った。 「何だ? 文句でもあるのか? フン、頼りにならん奴だ。——桑田伸子など一週間で追い出してやるとか言いおって! 何一つできなかったくせに!」 「社長、やめて下さい!」 「ちょっとおどかしてやりゃ尻尾《しっぽ》を巻いて逃げ出すだと? あれこれやってはくれたが、一向に逃げなかったじゃないか!」  大畑が聞きとがめて、 「あれこれ、とは何だね?」  と訊いた。 「あの小娘の上に荷物を落っことしたり、ネズ公入りのチョコレートをプレゼントしたり……。みんなこの柳のやったことだ」 「呆《あき》れたものだな」  大畑が柳をにらみつけた。「退職金を払う必要はなかったかもしれんな」  柳があわてて、 「待って下さい! 社長の——この尾島さんの命令でやっただけですよ! それに放火は私のしたことじゃない!」 「放火?」  大畑は初耳だったらしい。「誰なんだ、そんなことをしたのは?」  みんなの視線が今度は北岡へ集まった。 「何だ?——俺がやったとでもいうのか!」 「でなきゃ柳だ」  と尾島がかみつきそうに、「貴様らは、俺の女房をダシに使って世間の同情を引くんだとか言いおって! 女房は本当に死ぬところだったんだぞ! 最初から見殺しにするつもりだったんだろう!」 「あんただって、前から女房の奴が死んでくれりゃと言ってたじゃないか!」  と北岡が言い返す。 「何だと、貴様それでも俺の部下か!」 「もうクビになったんだから、部下じゃねえや!」  もう、とても退任の辞どころではない。ののしり合いは今にもつかみ合いに発展しそうな様子だった。 「あの——」  と、そのとき、社員たちの一番後ろの方から声がかかった。 「やあ、君も来ていたのか」  大畑が嬉しそうに言った。——伸子だった。 「すみません、もう社員でもないのに、しゃしゃり出まして」  と頭を下げる。 「いやいや。何か言いたいことがあれば聞かせてもらうよ」 「はい」  伸子はその場で立ったまま口を開いた。「私は——そんなに永い間ではありませんでしたが、この尾島産業でお世話になりました。ですから、ここが潰れるようなことだけは何とか避けられれば、と心から願っています」  伸子は尾島たちの方へ目を向けて、 「今、尾島さんたちの言われた色々な事件については……」  と、ちょっと間を置いて、「誰がやったことなのかを、今さらせんさくするのは無意味だと思います。あれは私が社長でいる間に起こった事件ですから、最終的な責任はこの私にあります。——こんな若い私が社長になったことで、面白くなかった方も当然いらっしゃったと思います。その中の誰かが、あれをやったのかもしれません。——でも、それはもう済んだことです。今は尾島産業を立て直すことが先決だと思います」  そのとき、会議室のドアが威勢よく開いた。 「何だ、まだやっとるんですか」  入って来たのはKMチェーンの真鍋だった。 「やあ、ちょっと手間取ってね」  と大畑が言った。「このままでは話が進みそうにない。私から言おう」  伸子は椅子に座った。大畑が伸子の方へ軽くウインクして見せると、 「——さて、みなさん」  と全社員の前に立って、「この尾島産業は極めて危ない状態にあります。これを救うには、ここがどこかの系列下に入って、バックアップしてもらう他《ほか》はない」  大畑は真鍋の方を見て、 「尾島産業は、KMチェーンの系列下に入ることになります」  と言った。  ホッと息が洩れる。潰れないことは分かった。しかし……という不安と安心の入り混じったため息である。  真鍋が代わって立つと、 「私はもともとこの尾島産業を手中にしたいと思っていた」  とズバリ切り出した。「社長は馬鹿だし、専務も能なしだから、簡単に乗っ取れる、と思っていた」  尾島と北岡が真っ赤になる。真鍋は構わず、 「しかし、桑田社長になって、私の考えは変わった。どうにも救い難い会社に見えたことが、見違えるように張り切り始めた。これは、潰してはもったいない、と思ったのだ。従って、今回、この尾島産業はKMチェーン下に入るが、社の名称も変更せず、組織上も大きな変更はしない。社長には三枝君を指名する」  三枝が仰天してアングリと口を開けた。少しして社員の間から拍手が起こった。そして全員の——もちろん尾島らを除いて——拍手へと盛り上がった。 「なお、前社長、桑田伸子君は、当社所有のマンションを担保に五百万の借金があるということで、これは当人には何の責任もないのだが、働いて返済したいと申し出てくれた。そこで三枝新社長のもとで顧問として働いてもらう。その他の人事等については、追って発表する」  伸子が不服そうに呟《つぶや》いた。 「お茶くみにしてくれ、って頼んだのに……」 「谷口は生真面目な男でした」  と刑事はため息をついて言った。「それだけに三好晃子という女の手《て》練《れん》にコロリと行ってしまったんですな」  話を聞いているのは、純子と伸子、それに林昌也の三人である。警視庁の一室。何だか重苦しい雰《ふん》囲気《いき》なのは、話の内容のせいか、それとも部屋のせいか……。 「じゃ、谷口さんは前からあの女と——」 「そうです。すっかり夢中になっていた。三好晃子の方は尾島産業の社長を初め、専務、部長、とくわえ込んで、あの会社の金をずいぶん貢がせていたんです」 「でもどうしてあんなお金持ちでもない刑事さんを誘ったりしたんですか?」  と林昌也が訊いた。 「一種の安全保障ですな。尾島たちが会社の金を横領していたことがばれても、自分は警察官を知っているということで、逃げ道が出来るという計算だったのでしょう」 「谷口さんはそれと知らずに——」 「そう、彼女に夢中だったのです。しかし、その内にいやでも他の男の存在に気付く。そして調べてみると、みんな尾島産業の人間だった。そこであなた方へ近づいたというわけです」 「今思えば変だったわ」  と純子が言った。「私たちが狙われているとか言って。つまりあれは口実だったんですね」 「そうです。ちょうど尾島産業はゴタゴタがあって、桑田さんが社長、竹野さんが秘書、ということになっていた。内情を知るにはお二人に近付くのが一番、と思ったのでしょうな」 「それで三好晃子に、その事実をつきつけて問い詰めた……」 「争いになって、一旦はカッとしてマンションを飛び出してしまったわけです。  その間に三好晃子はうっぷんばらしに、他の男を連れ込んで寝ていた。そこへ荒井さんがやって来たんです。——男は逃げ出し、荒井さんは三好晃子の首を絞める。気を失ったのを、殺したと思い込んで、荒井さんは逃げ出しました。その後、谷口が戻って来てみると、三好晃子は気を失っている。——谷口は彼女が裸なのを見て、他の男と寝ていたのだと知ってカッとなった。ネクタイで彼女を絞め殺したのです。ところがその後、怖くなって逃げ出した」 「ネクタイは忘れて行ったんですね」 「かなりあわてていたんですな。しばらく逃げてから思い出して取りに戻った」 「その間に尾島さんの奥さんがマンションへ来てネクタイを見たというわけですね」  純子は、尾島夫人が谷口のネクタイを見て、そういう安物のネクタイだと言ったときの、谷口のあわてた様子を思い出した。  好みというものがある。きっと似た感じのネクタイだったのだろう。 「ともかく、たまたまあのときは色々な人間があそこへ行ったわけで、こんがらがってしまったんですな」 「あの三郎がもう一人、ゆすろうとしていたのも谷口さんだったんですね」 「そうです。三郎は谷口の姿も見ていた。きっと三好晃子から谷口のことを聞いていたんじゃないでしょうか。それで夫人と一緒に谷口の方もゆすろうとした。——金よりは、いわば弱味をつかんでおきたかったんですね。谷口は真面目なだけに、追い詰められると却《かえ》って危険になった」 「そして三郎を殺した……」 「そうです」 「岡みどりは……」 「谷口のことは知らなかったでしょう。しかし、三郎が谷口の所へ恐喝の電話をかけるのは聞いていたのです」  純子は昌也の方へ、 「どうしてあそこへ電話したの?」  と訊いた。 「伸子さんから話を聞いてたでしょう。実際に僕はそう谷口と会ってるわけじゃなかったから、最初、谷口が伸子さんたちへ近付いて来た口実が変だと気が付いてね。でも何しろ刑事だしさ、少し慎重に調べてから、と思ってたんだ」 「私たちも実は谷口のことを調べていたのです」  と刑事が言った。「ともかくどうもこのところ様子がおかしいということと、殺人現場へもいやに早く現れる。女ができたらしいという噂《うわさ》もありましたのでね。そしてこの林君という人と実は連絡を取り合っていたのです」 「まあ、そう言ってくれればいいのに!」  と、純子がにらんだ。 「いや、私の方から口止めしていたのですよ」  と刑事が言った。「そしてどうも怪しい、と……」 「僕が後を尾けていると、谷口と純子さんが岡みどりの所へ入って行ったでしょ。こりゃ、何かまずいことをしゃべると、岡みどりも命が危ないと思ったから、急いで電話して、そこにいるのが、三郎の脅迫してた相手だと警告してやったんだ。却って裏目にでちゃったけど」 「あの女も悪い。欲を出しすぎたんだな」 「ともかく……谷口さんは……」  と伸子が言いかけて言葉を切る。 「警官に囲まれていると知って胸を撃ち抜いたわけです。——自白を済ませて、すぐに意識不明になりました。たぶん、あと一日はもたんでしょう」  しばらく沈黙があった。——伸子がポツリと言った。 「あのとき、谷口さん、私たちのことを撃とうと思えば撃てたのに……」 「根は気の小さな、優しい男だったんですよ」  と刑事は言った。 エピローグ 「おはよう」  と、荒井は山本へ声をかけた。 「あ、おはようございます!——よかったですねえ」  釈放されて、荒井の初出社である。 「満員のバスがこんなにいいもんだとは思わなかったよ」  と言って、荒井は笑った。 「そうですか。僕はどうも好きになれませんが」 「てっきりクビになると思っていた。社長にはいくら感謝しても足りないよ」 「どっちの社長です?」 「え?」  と荒井が目をパチクリさせた。  ——伸子は社長室へ入ると、 「おはようございます、社長」  と挨拶した。  三枝が席から立ち上がって、 「社長、おはようございます」  と頭を下げる。  秘書席に座った純子が腕組みして、 「二人ともいい加減にしてよ!」  と文句を言った。 「三枝さん、もう諦《あきら》めてくれません?」  と伸子はため息をついた。 「だめです」  と三枝は頑として首を振る。「社長はあなたです」 「でも真鍋さんは——」 「これは社長命令です」 「変なの」  純子が吹き出してしまった。 「さあ、仕事仕事」  と伸子が席につく。 「はい社長」  三枝が涼しい顔で言った。  純子の机で電話が鳴った。 「——ちょっとお待ちを」  と、二人の顔を交互に見て、「二人でジャンケンしてくれる? 社長へお電話なんですけど」 “女社長に乾杯!”に寄せて 神津カンナ   赤川次郎さんという方は、実に奇妙な魅力を持った方である。  青年っぽさを残した端麗なマスクに、さり気なく七・三に分けた髪。小柄な体《たい》躯《く》にビジネスマンの休日的な装い。小学校の先生が黒板に書く時の字のような、きっちりとしたサイン。クラシック音楽に造詣《ぞうけい》が深く、もの静か。お嬢さんのお稽古ごとを車で送り迎えするよき父親。……実物の赤川次郎さんと接していると、あの軽妙でユーモアに溢《あふ》れた文章を作り出す人とは、とても同一人物に思えない。どこかの大学の研究室か、百科辞典か何かを編集するセクションにいるような、そんな人に見えるのである。  このアンバランスさが、私にとっての赤川次郎さんの大きな魅力である。  私が赤川さんの本と初めて出会ったのは、アメリカ留学から帰国して間もなくの頃だった。時差ぼけと生活環境の急激な変化の中でぼんやりしていた私は、何気なく赤川さんの本を手にして「あぁ日本にもこんな作家がいるのか……」と心がはずむような気持ちになった。長いこと探していた何か《・・》にぶつかったような想いを抱いたのである。  私は幼児期から学童期にかけて、童話とともにいたと言っても過言ではないほど、たくさんの童話を聞かされ、また読んで育った。グリム、イソップ、アンデルセン。そして日本の昔話やひろすけ童話、赤い鳥。どれだけたくさん読んだかしれない。  そしてその数々の童話の中で、私は数えきれないほどのものを学んだ。一見、深い意味もないような物語の中に、実は昔の人々の生活状態や思想・感情が如実に描かれていたり、現代にも通じる戒めや警句がちりばめられていたり……。深く読めば読むほど、童話の中に、さまざまなものを発見することができる。  たとえば“鶴の恩返し”。この物語の中には、決してのぞいてはいけない……と言われていたのに、どうしても自制することができずに女房がはたを織る部屋を覗《のぞ》いてしまう男が出てくる。何気ないくだりだが、そこには人間のいやしい業《ごう》や本能が理性を打ち負かしてしまう哀れさが滲《にじ》み出ている。猿蟹《さるかに》合戦でも花咲か爺《じじい》でも、よく読んでみると、単なる勧善懲悪だけでなく、実にさまざまな人間の心理が描かれていることに気づく。  私は幼な心ながら、漠然と、そんな人間の不変の本能や想いを感じ、昔の人々の生活や思想を学んだように思う。  大人になってからも、私は童話を求めた。もちろん純文学の作品や歴史小説も読んだが、心の底ではいつも童話を探していたように思う。がんじがらめの現実の生活にいや気がさす時、私はいつも、O・ヘンリーやサキの短編集を読んだ。モーパッサンの短編も私は大好きだった。  モーパッサンのものも、O・ヘンリーのものもサキのものも、もちろん童話《・・》ではない。れっきとした大人のための文芸作品である。  しかしその中には、童話のもつ不変性と風刺がふんだんに存在している。私はその童話的魅力にひかれてモーパッサンを愛し、O・ヘンリーを楽しみ、サキを満喫したのである。  童話は大人にも必要なものなのである。  童話には心を勝手に空想の世界へつれ出す魔力があり、また現実逃避を可能にする力をもっている。人は童話の中で自由に心をくつろがせ、しばし現実を忘れることができるのである。  現代社会に生きる大人や子供は、みんな童話を知らないのではないかと私は思う。  性風俗の実態や犯罪を見ていてもつくづくそれを感じるのである。現実の厳しさは今も昔も変わらない。しかし昔は、人は童話の世界で自己をとき離し、空想の世界で現実逃避をやってのけたのである。今の人はみんな、現実の中で現実逃避をやっているとしか思えない。現実の中で現実逃避をやるとなれば、多分に過激で現実離れした行為をしなければどうにもならない。それを実行しようというのだから性風俗がエスカレートするのも覚醒《かくせい》剤《ざい》事件や凶悪事件が激増するのも、あたりまえと言えるかもしれない。自分の中で心をとき放ち、遊ばせることを知らない大人の、哀れな姿である。  同じ現象は子供の中にも起こっている。非行も暴力事件も、あるいはシンデレラコンプレックスであるとか、ピーターパン症候群と呼ばれるような若者の出現も、これまたまぎれもなく現実の中で現実逃避を試みている姿である。  なぜ大人も子供も、このように現実の中で現実逃避をするようになったのだろう。もちろんそれは一言で片づけられるような問題ではないし、さまざまな原因からなる複合現象なのだろうと思う。けれども、その原因の一つには、童話の不在と遊びの変化があるのではないかと私は思う。  童話の中で心を遊ばせることを知らず、マイコンやパソコンを相手に一人で遊ぶことしかしない子供。子供社会の中で喧《けん》嘩《か》をしたり、ガキ大将にこき使われたりして世の中のしくみを体得していった昔の子供に較べると、知能はともかくも、処世術において、現代の子供は昔の子供にうんと遅れをとっているように思う。……とにかく子供の世界にも、そして大人の世界にも、今は童話が必要なのである。  欧米では、幼児期の子供に与える絵本や読みものに対する心配りは大変なものである。専門家が研究し、吟味し、うんと手間をかけて一冊を作り上げる。伝統的な物語や歴史的な逸話も決してもらすことなく取りあげ、伝承を心がけている。  同じように大人の童話も、きちんと存在している。アメリカ人の家庭に泊まると、ゲストルームの枕許《まくらもと》には、必ず、そういった類《たぐい》の洒落《しゃれ》た読みものが置かれている。一日の疲れを眠りに落ちる直前でいやしてくれるわけである。  アメリカにいる時にこうした本にたくさんめぐり会った私は「どうして日本にはそういう本がないんだろう」といつも不思議に思っていた。洒落た短編で、わっと心を遊ばせてくれるような物語。あるいは長編でも、心の疲れをいやしてくれるような物語。日本に戻り、本屋に行く度に、私はそんな大人のための本当の、質の良い童話をいつも探していた。  そしてとうとうある日、赤川次郎さんという人の作品にぶちあたったのである。  これだな、と思った。現代日本にもやっぱり、ちゃんと質の高い大人のための物語を書いてくれる人がいたんだ……と、胸が高なるような想いだった。赤川さんの作品には、ところどころに風刺や戒めが隠されており、人をひきつけるサスペンス的な要素もミステリー的要素もある。そして全体は軽快でユーモアとウィットにとんでいて、まさに大人のための童話なのである。  日本では文学でも演劇でも喜劇は軽んじられる傾向がある。これには日本人の気質や長年培われてきた精神教育が大きく影響していると思うが淋しいことである。  私事で申しわけないが、私の祖父・中村正常は戦前、ナンセンス文学と呼ばれた新興文学の担い手であった。彼は喜劇を追求し続けたが戦争の始まりと共に政府からの弾圧を受け、志半ばで筆を折った人である。その遺志を受け継いだ私の母・中村メイコは、これまた演劇という世界で今もなお喜劇を追いかけている人である。祖父や母を見ていてつくづく思うことは、喜劇というのはなかなか認められず、理解されにくい……ということである。質の高い喜劇は芝居でも小説でも、一級品としての価値があると私は思うが、どうも日本の土壌はそれを受け入れにくいようである。  大人の童話の作り手として貴重な存在である赤川次郎さんは、また、質の高い喜劇の作り手としても貴重な存在である。難しい日本の土壌の中であっても、若者の圧倒的な支持を得ている赤川さんなら、いつかきっちりと喜劇のポジションを確立してくれるものと私は信じている。  赤川さんの作品について、つまらぬ解説は、不必要と私は思うのだが、最後にほんの少し、この「女社長に乾杯!」について私見をつけ加えておこうと思う。  この物語は尾島産業という中堅企業の会社が舞台になっている。ある日、ちょっとした間違いで、お茶くみ同然だった桑田伸子という十九歳の女の子が社長に任命される。元部長や元専務は皆んな平《ひら》に格下げになり、会社はてんやわんやの大騒ぎになってしまう。さまざまな問題が次々と飛び出し、犯罪も起こって、まさに尾島産業は大混乱。一体、その結末はどうなるやら……というわけである。  お茶くみの女の子が社長になるという、現実にあり得ないような設定が基盤になって始まるこの物語には、社会風刺もちょこちょこ飛び出すし、会社の問題点や経営者のあり方を鋭くつく部分もある。まさに大人の童話であり、サスペンスであり、そして一級品の喜劇であると私は思う。  こんなに理屈っぽく若輩者が赤川さんの作品を分析したら、ご本人からお叱りを受けてしまうかもしれないが、赤川次郎ファンの中には、こんな見方をしている人もいるのだということを少し言いたかったのである。  大人の心をなごませる良質の童話を、そして一級品の喜劇を、どうかいつまでも私たちに与え続けていただきたいと、ファンの一人として心からお願いする次第である。 (昭和五十九年九月、著述業)