TITLE : 失われた少女 本作品の全部または一部を無断で複製、転載、配信、送信したり、 ホームページ上に転載することを禁止します。また、本作品の内容 を無断で改変、改ざん等を行うことも禁止します。 本作品購入時にご承諾いただいた規約により、有償・無償にかかわ らず本作品を第三者に譲渡することはできません。 目 次 1 赤い車 2 少 女 3 インタビュー 4 血《けつ》 痕《こん》 5 捜《そう》 査《さ》 6 第一夜 7 過《か》 去《こ》 8 男と女 9 消えた娘《むすめ》 10 二人だけの舞《ぶ》踏《とう》会《かい》 11 再《さい》 会《かい》 12 招《しよう》 待《たい》 13 やって来た男 14 二人の女 15 雪に消える 16 破《は》 壊《かい》 17 柴《しば》田《た》の死 18 山《やま》狩《が》り 19 ホテルの中で 20 不運な日 21 好《こう》奇《き》心《しん》 22 別《べつ》荘《そう》へ 23 再《さい》 会《かい》 24 雪の夜 25 雪男の過《か》去《こ》 26 侵《しん》入《にゆう》者《しや》 27 哀《かな》しい人々 28 エピローグ   1 赤い車  「ああ寒い、畜《ちく》生《しよう》め!」  ドアが開くなり、都会が飛びこんで来た。  「いいじゃないの、もう、今日帰るんだから」  と言ったのは、若《わか》い女の子で——たぶん、大学の二年生ぐらいか。  最初にボヤいた男の子ともども、総《そう》勢《ぜい》五人の、にぎやかなグループだった。  「ああ、あったかい!」  女の子二人の内のもう一人が、店に入って来るなり、大げさに息をついて、マフラーを取った。  ——山小屋風の造《つく》りの喫《きつ》茶《さ》店《てん》。  カウンターと、テーブルが三つ。それだけの店だった。  カウンターの内側には一人だけ、意外に若い主人が、大きなエプロンをかけて、コーヒーカップを洗っていた。  「いらっしゃい」  と、あまり商売熱心でもなさそうな声を出す。  五人の若者たちは、カウンターの椅子《いす》にてんでんにかけると、  「俺《おれ》、コーヒー」  「私《わたし》も」  「私はココア。熱いのね」  などと、注文した。  店の主人は、別にあわてるでもなく、カップを三種類出して並《なら》べた。  「雪になるんじゃねえのか」  と、細身で寒がりらしい男の子が、かじかんだ手をこすり合せながら言った。「俺、やっぱ、東京の方がいいよ」  「文明に毒《どく》されてんだよね」  と女の子の一人が言った。「自然の寒さっていいじゃない」  「暖《だん》房《ぼう》の入った部《へ》屋《や》にいりゃね」  と男の子がからかう。  「でも、こんな所に住んでる人って、大変だろうね」  と、女の子が言った。「——あ、コーヒーが来た。お先に」  「すぐココアもできるよ」  と、店の主人が言った。  「急いでね、体の芯《しん》から凍《こご》えそう」  と、大げさに手をこすり合せる。  「——東京から?」  「そうよ。ずっと車でね」  「雪になると厄《やつ》介《かい》だから、今夜中に帰ろうと思って」  主人は黙《だま》って微《ほほ》笑《え》んだ。  「——これからは、この辺も寂《さみ》しいんでしょうね」  と、女の子が言った。  「そうだねえ……。この辺に別《べつ》荘《そう》のある人なんかは、週末ごとに来たりするけど。あとは年末に少し来る人もいるね」  「雪、沢《たく》山《さん》降《ふ》るの?」  「年によるね」  と、主人は首を振《ふ》った。「去《きよ》年《ねん》の冬は雪が少なかった。——降れば降ったで、大変だけど、それでも、また降らないと寂しいもんさ」  「俺、雪は映画かTVで見るだけでいいや」  と、寒がりの男の子が言った。  「車、通れなくなるの?」  と女の子が訊《き》く。  「よほどひどい時だね、それは。でも、この辺の人はちゃんと車もチェーンを巻《ま》いて走るし、慣《な》れてるよ」  「おじさん、ここに住んでんの? それとも閉《し》めちゃうの?」  「ここにいるよ」  主人は熱いココアをカップへ注いだ。「はい、お待ち遠さま」  「わあ、助かった!」  と、両手で、熱いカップを包むように持って飲み始める。  「じゃ、ここが家?」  と、もう一人の女の子が訊《き》く。  「いや、この少し先さ。駅に近い方だよ」  「でも、駅まで大分あるでしょう? 買物なんかどうするの?」  「町まで車で出るのさ。雪のときは、ちょっと難《なん》儀《ぎ》だがね」  「へえ。——よく暮《くら》してられるわね」  主人は笑《わら》って、  「住めば都、ってとこかな」  と言った。「——ああ、先生、どうもありがとうございました」  若《わか》者《もの》たちは、びっくりして振《ふ》り向いた。  他に客がいたことに、全く気付かなかったのである。  革《かわ》のハーフコートをはおったその男は、買物をして来たのか、両手に大きな紙《かみ》袋《ぶくろ》をかかえていた。  「ごちそうさま」  と主人の方へ、ちょっと肯《うなず》いて見せる。  「開《あ》けましょう」  店の主人が、走って行って、ドアを開ける。「お気を付けて」  「ありがとう」  「先生」と呼《よ》ばれた男は、軽く微《ほほ》笑《え》んで見せた。  五十に手の届《とど》こうかとも見える風《ふう》貌《ぼう》だったが、髪《かみ》が白くなりかかっているのを除《のぞ》けば、足下や腰《こし》つきにも、衰《おとろ》えている印象はない。  実《じつ》際《さい》はもっと若《わか》いのかもしれなかった。  ——店の主人がカウンターの中へ戻《もど》ると、女の子の一人が、  「ねえ、今の人、何の『先生』?」  と訊《き》いた。  目が輝《かがや》いている。好《こう》奇《き》心《しん》が旺《おう》盛《せい》なのだ。  「あの人は作家なんだよ」  と、主人は言った。  「作家?——何ていう人?」  「伊《い》波《ば》伸《しん》二《じ》っていう……あんまり若い人には縁《えん》がないかもしれないね」  「知らないわ」  と、ココアを飲んでいた女の子が、つまらなそうに言った。「何を書いた人?」  「俺、知ってる」  と、やたら寒がりの男の子が突《とつ》然《ぜん》言い出したので、他の四人がびっくりした。  「知ってんの?」  「伊波伸二。——『明日の間《かん》隙《げき》』を書いたんだ」  「へえ!」  女の子の方は、目をパチクリさせている。  もちろん、その本のことを感心しているのでなく、その男の子が、そんなことを知っているのに面《めん》食《く》らったのである。  「じゃ、有名な人なんだ」  と、至《いた》って単《たん》純《じゆん》な結《けつ》論《ろん》が出る。  「うん、だけど——」  と、伊波を知っていると言った男の子が何か言いかけて、口をつぐんだ。  「ねえ、おじさん、あの人、この辺に住んでんの?」  と、女の子が訊《き》く。  「この裏《うら》手《て》の林の奥《おく》だよ」  「へえ。じゃ、もっと寂《さみ》しい所?」  「そうだね。もちろん車は入れるが、周囲には別《べつ》荘《そう》の一軒《けん》もない。ポツンと建ってるんだよ」  「家族と一《いつ》緒《しよ》?」  主人はなぜか目をそらして、  「いや、一人らしいよ」  と言うと、カウンターから出て来て、「先生」が飲んで行った、カップを片《かた》付《づ》けた。  「こんな所に、よく一人でいられるわねえ」  と、女の子が感心した様子で言った。  「よくお金があるわね」  ココアの子が、現《げん》実《じつ》的《てき》なことを言い出した。  「そりゃあ、本の印《いん》税《ぜい》とか——」  と、言いかけて、もう一人の女の子は言葉を切った。  低いエンジンの音がして、窓《まど》から、赤い小型車が走り出すのが見えた。  「赤い車なんだ……」  と、伊波を知っている男の子が、呟《つぶや》くように言った。  「赤い車がどうしたの?」  男の子は黙《だま》って首を振《ふ》った。  「でも、いいだろうな。こんな所なら静かだしさ、小説書くには最高じゃないか」  「あ、自分でも小説書くようなこと言ってる!」  と、女の子がからかうように言った。  笑い声が、小さな暖《あたた》かい空間に響《ひび》いた。  ——三十分ほどして五人のグループは店を出た。  「気をつけて」  店の主人が軽く手を上げた……。  「ねえ、何なのよ」  と、窮《きゆう》屈《くつ》な車の中で、女の子の一人が言った。  「え?」  と、振り向いたのは、伊波伸二を知っていた男の子だ。「何の話?」  「さっき、何か言いかけてやめたじゃない。わけありだったわよ」  「別に——」  と、男の子は窓の外へ目をやった。  「それにさ、赤い車がどうしたとか。——何なの? 教えてよ、ケチ」  「ケチはないだろ」  と、男の子が苦《にが》笑《わら》いした。「いいよ、しゃべるよ」  「ほら、早く白《はく》状《じよう》せい!」  車は、ガラガラに空《す》いた国道を走り続けていた。  両側は、いつ果《は》てるとも知れぬ、樹木の行列だった。——灰色の、寒々とした風景である。  「伊波伸二って、俺《おれ》んちの近くに住んでたんだよ」  「なあんだ。それで知ってたのか」  「うん、だけど、ちゃんと本のことだって知ってたんだぜ」  「分ったわよ、そうむきになんないで。それでどうしたの?」  「あの人な、四年前に奥《おく》さんを亡くしてるんだ」  「四年前?」  「それで引《ひ》っ越《こ》して行っちゃったのさ」  「ふーん。それが何か……」  「奥さんは、殺されたんだよ」  一《いつ》瞬《しゆん》、車の中が静まり返った。  「殺された?」  「ああ、旦《だん》那《な》は若《わか》い恋《こい》人《びと》の所に泊《とま》ってた。で、奥さんは一人で家にいたんだ。死体を見付けたの、旦那だったんだよ」  「あの作家先生ね」  「強《ごう》盗《とう》殺《さつ》人《じん》ってことだったけど、その内、あの旦那が外に恋人を作ってて、奥さんと別れる、別れないで争ってたことが分って、警《けい》察《さつ》が、旦那を疑《うたが》い出したんだ」  「それで?」  と、みんなが身を乗り出す。  「それで——おい! 気を付けて運転しろよ!」  「悪い!」  ハンドルを握《にぎ》っていた男の子は、首をすくめた。  「じゃ、話、終るまで、車をわきへ寄《よ》せとこう」  車は、道の端《はし》に、静かに寄って停《とま》った。  「——警察は、あの人を呼《よ》んで、色々調べてたらしいけど、結局証《しよう》拠《こ》が出ない。ところがそこへ目《もく》撃《げき》者《しや》が出たんだ」  「目撃者?」  「面《おも》白《しろ》くなってきたわ」  と女の子は目を輝かす。  「目撃者といっても、子《こ》供《ども》だった。それも、伊波伸二その人を見たわけじゃない。ただ、ちょうど奥さんが殺されたと思われる時間に、赤い車を見たんだ」  「赤い車?」  「うん。——伊波伸二は、赤い車に乗っていたんだよ」  「じゃあ、やっぱり……」  「彼《かれ》には不利だった。アリバイを証《しよう》言《げん》してくれるのは恋《こい》人《びと》一人。そして赤い車。——でも、警察としても、最後の決め手がなかったんだ」  「そうね。赤い車ったって、一台だけってことないし」  「それに子供の証言だからね、どこまで信用できるか分らない、ということもあった。ともかく、車の色が赤だってことしか分らないんだから。——型もナンバーも分らないんじゃ旦《だん》那《な》の車だとは断《だん》定《てい》できないものな」  「そうねえ。じゃ結局——」  「恋人の証言だって、嘘《うそ》と断定はできない。——ずいぶん長いことかかったけど、結局、不《ふ》起《き》訴《そ》になったんだよ」  「不起訴か……。つまり、もしかすると、犯《はん》人《にん》かもしれない、ってことね?」  「うん。隣《となり》近所では、そう噂《うわさ》されてたね」  「それであんな所に……」  「でも一年近くは、その家に一人でいたんだよ」  「その恋人とは?」  「知らないな。——ともかく、奥さんの一《いつ》周《しゆう》忌《き》をやって、間もなく、引《ひ》っ越《こ》して行った。どこへ行ったのか、誰《だれ》も知らなかったけどね……」  ——しばらく、車の中は沈《ちん》黙《もく》していた。  「それでね、さっき、赤い車を見て、あれ、と思ったのさ」  「どうして?」  「だって、普《ふ》通《つう》だったら、そんな殺人の容《よう》疑《ぎ》を受ける原《げん》因《いん》になった車なんか、続けて乗る気しないんじゃないか?」  「そうか。——せめて、色ぐらいは塗《ぬ》り変《か》えるでしょうね」  「だろう? だから、変だなと思ったのさ」  「もし犯《はん》人《にん》だったら……」  と、女の子が言った。「平気で乗ってられるかもね」  ——また、みんな沈《ちん》黙《もく》した。  「おい、雪になりそうだ」  と、運転席の男の子が言った。「出かけようか」  車は、また走り出した。  灰色の空は、どんよりと重く、雪をたっぷりとのせているかのようだった……。 2 少 女  やっと自分の別《べつ》荘《そう》が見えて来て、伊《い》波《ば》伸《しん》二《じ》はホッと息をついた。  もっとも、別荘と呼《よ》ぶのは妙《みよう》なものかもしれない。今は、これが伊波の家——唯《ゆい》一《いつ》の家なのだから。  林の奥《おく》まで、道は、伊波の運転している赤い小型車がやっと通れる程《てい》度《ど》の幅《はば》しかない。  「巧《うま》くなったもんだ」  と、伊波は独《ひと》り言《ごと》を言った。  運転のことを言っているのである。  四十近くになって、やっと免《めん》許《きよ》を取った伊波は、あまり優《ゆう》秀《しゆう》なドライバーとはいえなかった。  この別荘に落ち着いて、車で、町や、その道《みち》筋《すじ》にある喫《きつ》茶《さ》店《てん》へ出かけるようになってから、何度、車体を木の幹《みき》に、こすったり、ぶつけたりしたことだろう。  危《あぶ》なげなく、複《ふく》雑《ざつ》微《び》妙《みよう》なカーブを右へ左へと辿《たど》って、一度もこすらずに通り抜《ぬ》けられるようになったのは、本当にここ三か月ほどのことなのである。  自分の家まで無《ぶ》事《じ》に着けるからといって、自《じ》慢《まん》にはならないな、と伊波は自分で笑《わら》ってしまった。  さあ、車をガレージへ入れておこう……。  ガレージの扉《とびら》を閉《と》じて、別荘の方へ歩き出す。——ガレージと別荘は、二十メートルほど離《はな》れていた。  大雪のときなどは、この二十メートルが、途《と》方《ほう》もなく長いのだ。  買って来た品物を、一《いつ》旦《たん》、玄《げん》関《かん》のわきに置くと、伊波は、鍵《かぎ》を開けた。  別荘の中は、当り前のことだが、静かだった。  伊波はまず台所へと大きな紙《かみ》袋《ぶくろ》を運んで行った。  「さて、冷《れい》蔵《ぞう》庫《こ》へ入れるものは、と——」  卵《たまご》、ハム、ソーセージなどを手早く冷蔵庫へ。大分手《て》慣《な》れて来た。  以前は、よく焦《あせ》って、卵を落っことしたものだ。外から戻《もど》っても、冬はしばらく手がかじかんでいるせいもあろう。  ——一通り片《かた》付《づ》けると、伊波は息をついて、朝淹《い》れたコーヒーをガス台で温めることにした。  飲んで来たばかりだが、自《じ》宅《たく》で飲むのは、また別《べつ》の味がする。  ポットを火にかけておいて、居《い》間《ま》に入って行く。  ——別荘は、そう大きくはないが、二階建《だ》てで、一人で暮《くら》すには、少々広すぎた。  しかし、空間が豊《ほう》富《ふ》にあるということは、気分的に楽である。余《よ》裕《ゆう》、というものができる。  少し古い別荘で、建てて二十年近くたっていると聞いていた。それを一通り修《しゆう》理《り》したのを買ったのである。  木《もく》造《ぞう》というのは、しっかり造《つく》ってあれば、多少古くなった方が、しっくりとなじむものだ。  伊波は、暖《だん》房《ぼう》のスイッチを入れ、ソファに腰《こし》をおろした。ともかく、もう気温は低くなっている。  部屋が暖《あたた》まるのに、しばらくかかるだろう……。  伊波は、さっき、喫《きつ》茶《さ》店《てん》にいた若《わか》者《もの》たちのことを、思い浮《う》かべた。  「先生」  と、店の主人が呼《よ》んでくれたとき、えっ、という顔で振《ふ》り向いていた。  もちろん、伊波伸二の名前を、あの若者たちが知っているとは思えない。——何の先生かな、近くの学校の先生かもしれない、とでも思われるのが、オチだろう。  ——だが、伊波は決して、筆を折《お》ったわけではない。  現《げん》に、月に二、三人は、雑《ざつ》誌《し》や出《しゆつ》版《ぱん》の編《へん》集《しゆう》者《しや》が訪《たず》ねて来るし、伊波も毎日、ほんの一、二時間ではあるが、原《げん》稿《こう》を書き進めている。——せいぜい一日に、原稿用紙十枚《まい》が限《げん》度《ど》だ。  それも毎日書くわけでなく、しばらく書いては、気に入らなくて書き直す、といったことをくり返しているから、今取りかかっている長編が、いつ完成するかは、神のみぞ知る、というところだった。  電話の音に、伊波は、ちょっと飛び上りそうなほど、びっくりした。  もちろん、電話はあるのだが、めったにかかって来ることがないので、つい、あるということまで忘《わす》れてしまいそうになる。  本当に鳴っているのかな、と、伊波は耳を傾《かたむ》けた。——空《そら》耳《みみ》ではない。本当の電話のベルなのだ。  「誰《だれ》だろう?」  と呟《つぶや》きながら、受《じゆ》話《わ》器《き》を取る。  電話というのも、慣《な》れない内は、つい出るのが面《めん》倒《どう》になる。  「はい、伊波です」  と、少し大きめの声で言う。  電話といえば、ほとんどが東京からなので、大きな声で話す癖《くせ》がついているのだ。  「伊波先生ですか」  いやに大きな声だった。ちょっと早口に、まくし立てるような女の声。  たぶん、雑《ざつ》誌《し》の仕事か何かをしている女《じよ》性《せい》だろう、と伊波は思った。  「伊波ですが」  「突《とつ》然《ぜん》申《もう》し訳《わけ》ございません。私《わたし》、女《じよ》性《せい》雑誌の『M』の編《へん》集《しゆう》部《ぶ》にいる者でございますが——」  「何でしょう?」  「実は、先生にぜひともインタビューさせていただきたいのですけれど」  「私にインタビュー?」  伊波は面食らった。  女性雑誌からインタビューに来たことなど一度もない。  「はい、ご多《た》忙《ぼう》とは存《ぞん》じますが——」  「いや、それは……」  時間ならいくらでもある。しかし……。  「一体、何のインタビューなんですか?」  と、伊波は訊《き》いた。  「先生のご近《きん》況《きよう》をぜひ読者の方々に知っていただきたくて——」  読者の方々、か。伊波は苦《く》笑《しよう》した。そう大勢読者がいるとも思えないが。  伊波としては、あまり見知らぬ人間に会って話すのは気が重かった。  「それで、いつ頃《ごろ》そのインタビューを?」  「はい、実は、大変勝手なんですが、今日、これからそちらへお邪《じや》魔《ま》しようかと——」  「今日、ここへ?」  と、伊波は思わず訊き返していた。  「実は駅前まで来ているんです」  伊波は驚《おどろ》いた。——呆《あき》れた、と言った方が近いかもしれない。  この手の押《お》しの強さが伊波は苦《にが》手《て》である。しかし、現《げん》実《じつ》に、相手がすぐ近くまで来ているというのに、断《ことわ》るわけにはいかない。  もちろん、それが向うの手なのだろうが。  ——結局、伊波も、  「じゃ、来て下さい。道は分りますか」  と言わざるを得《え》なかったのである。  それから伊波は、この別《べつ》荘《そう》までの道順を、三回も説明しなくてはならなかった。  「やれやれ」  電話を切って、ため息をつく。  もしこっちが留《る》守《す》だったら、どうするつもりなのだろう?  ああいう手《て》合《あい》は分らん、と思った。  ちゃんと迷《まよ》わずに着くだろうか? すんなり来たとして、二十分くらいだろう。  ——しかし、単調で物静かな伊波の生活にとって、来客があるというのは、一つの事《じ》件《けん》ではあった。  いかに孤《こ》独《どく》を愛する人間でも——いや、それだからこそ、時に人と接《せつ》することは、一つの嬉《うれ》しさになる。  伊波は台所へ行くと、余《よ》分《ぶん》のお湯を沸《わ》かし始めた。  何人来るのか、聞いていなかったな、と思った。分っていれば、紅《こう》茶《ちや》のカップでも洗《あら》っておくのだが。  まあいい。無《む》駄《だ》になるかもしれないが、三組ぐらい出しておこう。  ——伊波は、週に一度、通いでお手伝いの女《じよ》性《せい》を頼《たの》んでいる。  いつも同じ女性ではないが、町の方から、適《てき》当《とう》に手の空いた主《しゆ》婦《ふ》が、小《こ》遣《づか》い稼《かせ》ぎに、方々の別荘へ出向いているのだ。  一人住いの伊波は、洗《せん》濯《たく》物《もの》も、洗い物も、量はたかが知れている。週に一日、来てもらえば、掃《そう》除《じ》も含《ふく》めて、充《じゆう》分《ぶん》に用が足りた。  こんな風に、自分で洗い物をするというのは、だから、珍《めずら》しいことだった。  ティーカップを、乾《かわ》いたふきんで拭《ふ》いていると、玄《げん》関《かん》のチャイムが鳴った。  もう来たのか?——伊波はちょっと戸《と》惑《まど》った。  いくら何でも早《はや》過《す》ぎる。といって、他に来る人も思い当らないが……。  伊波は、玄関の方へと歩いて行った。  「はい、どなた?」  と、声をかける。  別に、危《き》険《けん》があるというわけではないが、一人住いだと、つい用心深くなるのだ。  だが、返事はなかった。  「誰《だれ》ですか?」  と、伊波はもう一度声をかけた。  やはり返事がない。これは少し用心した方が良さそうだ。  伊波はチェーンをかけた。めったに使わないのだ。  それから、ロックを外《はず》し、ドアをそっと開けた。——いや、開けようとした。  が、ドアにはほんの二センチほどの隙《すき》間《ま》しかできなかった。  チェーンの長さの分までも開かないのだ。何かがドアを押《おさ》えているようだった。  「何だ一体……」  そっと、細い隙間から外を覗《のぞ》いてみて、伊波は面食らった。  女の足が見えた。——それも、立っているのでなく、横になっている。  ドアの前で倒《たお》れているのだ。  誰だろう? 見えている足は、細く、スラリとのびて、少女っぽい白い靴《くつ》下《した》と、黒のエナメルの靴《くつ》をはいていた。  伊波は迷《まよ》ったが、このまま放っておくわけにもいかず、仕方なく一《いつ》旦《たん》ドアを閉《し》め、チェーンを外した。  ともかく、もう少しドアが開かないことには、出るに出られない。  体重をかけてドアを押すと、ぐぐっと手《て》応《ごた》えがあって、ドアが少し開いた。横になって表へ出る。  やはり、倒れているのは、黒っぽい灰《はい》色《いろ》のオーバーを着た少女だった。  伊波は、スカートが少しまくれ上って、白い足が露《あら》わになっているのを見てギクリとした。——あまり少女趣《しゆ》味《み》はないのだが、この少女は、もう子《こ》供《ども》ともいえない。  小《こ》柄《がら》に見えたが、たぶん十六、七ではあるだろう。  伊波は、そっと少女の傍《そば》に膝《ひざ》をついて、かがみ込《こ》んで見た。  別に、どこかけがをしているという風でもない。  体を横に向けて倒《たお》れているので、伊波は、仰《あお》向《む》けにさせた。——寒さのせいか、顔色は青白く、唇《くちびる》も色を失っていた。  行き倒れかな? それにしても、今どきこんな少女がどうしてここへ来ているのだろう?  胸《むね》は、ゆっくりと、間を置いてだが、上下している。  気を失っているだけなのだろう。  「参ったな、それにしても……」  と、立ち上って頭をかく。  この子を放っておくわけにはいかない。  確《たし》かに、少女のスタイルは、この寒さには不《ふ》充《じゆう》分《ぶん》だろう。だが、倒れてしまうというほどのこともないような気がする。  「仕方ない!」  ともかく中へ入れることだ。  伊波は、少女の頭の方を持ち上げると、両わきの下へ手を入れ、少し持ち上げるようにして引きずった。  外国映画のように、ヒョイと持ち上げるという具合にはいかない。  まずドアの前からどかして、ドアを足で蹴《け》って開け、少女を中へと運《はこ》び込《こ》んだ。といっても、もちろん、引きずっての話である。  ドアを閉《し》め、ロックをかけると、さて、どうしたものかと考え込んだ。  そうか。——雑《ざつ》誌《し》の編《へん》集《しゆう》者《しや》が来るのだ。  こんな所へ寝《ね》かせておくわけにはいかない。  といって——一階には、そう部屋もないのだ。居《い》間《ま》へ入れば、台所の方も目に入ってしまう……。  仕事部屋には入れられない。そうなると、二階へ運ぶしかなかった。  伊波は、考えただけでうんざりしたが、他に方法もないので、諦《あきら》めて、かがみ込んだ。  ぐったりしている人間がこんなに扱《あつか》いにくいものとは、初めて知った。——散々苦労してやっと少女を背《せ》中《なか》に負うと、伊波はよいしょと立ち上った。  立ってしまえば、後は割《わり》合《あい》と楽で、階《かい》段《だん》を上って二階へ。  寝《しん》室《しつ》以外は、まずめったに使わないので、やむを得《え》ず寝室へと入れる。  ベッドの上におろすと、少女は少し身動きした。  気が付いたのか、と見ていると、またそのままぐったりと息をついている。  額《ひたい》に手を当ててみても、熱はないし、おそらく、寒さのせいで——それと空《くう》腹《ふく》のせいもあるのかもしれない——気を失った、というところだろう。  伊波は、腰《こし》の痛《いた》みに顔をしかめて、ウーンと背《せ》筋《すじ》を伸《の》ばした。  改めて、少女を見下ろしてみる。  白く、凍《こご》え切っていた頬《ほお》には、少し朱《しゆ》がさして来ていた。  なかなか、端《たん》正《せい》な顔立ちの少女である。  どこか外国の血でも入っているのかな、と思わせる、目鼻立ち。——こうして眠《ねむ》り込《こ》んでいると、人《にん》形《ぎよう》のように見える。  伊波は、グレーのオーバーの前のボタンを外《はず》してやった。——下から、目の覚めるような赤のセーターが見えて、一《いつ》瞬《しゆん》、ギョッとする。  ほっそりとして、まだ「女」という印象はない。  しかし、考えてみれば妙《みよう》なものだ。  どうしてこの少女は、こんな所へやって来たのだろう?  大きな国道を通っていれば、ここへ迷《まよ》い込むはずがないのだ。  事《じ》故《こ》にでもあったのか? それにしては、どこにもけががない。洋服も、玄《げん》関《かん》で倒《たお》れていたときに少し汚《よご》れた程《てい》度《ど》である。  この近くの別《べつ》荘《そう》に住んでいるのかもしれない、と伊波は思った。  そう。——きっとそうだ。  伊波も、もうここには三年近いが、それでもこの一帯の別荘の持主をみんな知っているわけではない。  特《とく》に、自分から付き合いたいとも思わないから、なおさらである。  そういう別荘の一軒《けん》の娘《むすめ》なのかもしれない。散歩に出て、道に迷い、ずっと歩き回り、ヘトヘトになって、ここへ辿《たど》り着いた。  気が緩《ゆる》んで、そのまま気《き》絶《ぜつ》してしまった。——こんな所だろう。  家の方では、娘がいなくなって、大《おお》騒《さわ》ぎ、ということも考えられる。捜《そう》索《さく》願《ねがい》が出ているかもしれない。  一《いち》応《おう》警《けい》察《さつ》へ連《れん》絡《らく》しておこう。  伊波は一階へと降《お》りて行った。  居《い》間《ま》の方へ歩きかけると、玄《げん》関《かん》の方で足音が聞こえて、すぐにチャイムが鳴った。  そうか。今度こそ雑《ざつ》誌《し》の人間だな。  警察へ電話するのは、これが終ってからでもいいだろう。  伊波は、玄関へと歩いて行った。 3 インタビュー  「今でも読者の方から、伊波さんの小説をのせて下さい、と投書があるんですよ」  と、三十代も末に近いと思える女《じよ》性《せい》の編《へん》集《しゆう》者《しや》が、目の回りそうな早口でまくし立てる。  着ている物は、派《は》手《で》で可愛《かわい》く、まるで十代の少女である。  ——カメラマンの、顎《あご》ひげを生やしたむさ苦しい男が、伊波の右へ立ったり、左へ動いたりしながら、シャッターを切っている。  久しぶりだな、と伊波は思った。  作家として、一番仕事をしていた時期は、よくインタビューも受け、写真も撮《と》られたものだ。  だが、あの事《じ》件《けん》のときは、まるで事《じ》情《じよう》が違《ちが》っていた。写真は沢《たく》山《さん》撮られたが、伊波は作家としてでなく、妻《つま》を殺した一人の男として、レンズの目にさらされていたのである。  それ以来、カメラを見ただけで、思わず顔をそむけてしまう日々が、どれくらい続いたことだろう。  ——そして今。  再《ふたた》び作家として、伊波はカメラにおさまっている。  それは、伊波自身にとっても、意外なほどの快《かい》感《かん》、高《こう》揚《よう》感《かん》だった。  編《へん》集《しゆう》者《しや》の言葉「読者の手紙——」は、口から出まかせのお世《せ》辞《じ》であろう。  しかし、そう分っていても嬉《うれ》しかった。自《じ》負《ふ》心《しん》をくすぐられる快《こころよ》さ。それは、作家としての伊波が、長く忘《わす》れていたものであった……。  過《か》去《こ》の作品について、今、書いている作品についての話が終ると、編集者は、  「どうもありがとうございました」  と、頭を下げた。  そして、傍《そば》にあった紙の手《て》さげ袋《ぶくろ》から、お菓《か》子《し》の包みを出して、  「六《ろつ》本《ぽん》木《ぎ》の店なんです。お口に合いますかどうか」  と差し出した。  「やあ、これは……」  伊波は思わず言った。  東京にいた頃《ころ》、よく食べた、特《とく》製《せい》のクッキーである。  「先生がお好《す》きと、どこかで見たものですから」  と、編集者はにこやかに笑《え》みを浮《う》かべていた。  「ええ、どこかのPR誌《し》に書いた覚えがあるな」  伊波は、我《が》慢《まん》できずに、包みを破《やぶ》って、中の缶《かん》を開けた。「一《いつ》緒《しよ》につまみませんか。紅《こう》茶《ちや》を淹《い》れ直しましょう」  伊波は、すっかり嬉しくなって、立ち上った。  「先生、アルコールはおやりにならないんですの?」  と編集者が訊《き》いた。  「ここではやめてるんですよ」  と、伊波は台所へと歩いて行きながら、答えた。  紅茶を出して、仕事を終えたカメラマンともども、クッキーをつまむ。  その味に、伊波は、激《はげ》しい郷《きよう》愁《しゆう》を覚えた。  ——東京へ戻《もど》ろうか、と思った。  俺《おれ》はもう、人に後ろ指をさされる人間ではない。立《りつ》派《ぱ》な作家なのだ。  「お一人で寂《さみ》しくありません?」  と、編集者が訊いた。  「慣《な》れましたよ」  と、伊波は微《ほほ》笑《え》んだ。  「家事はどうなさってるんですの?」  「週に一度、町の人が来てくれます。もちろんお金を払《はら》ってですがね」  「東京へお戻りになればよろしいのに」  「まあね」  ——本当にそうだ。そうして何が悪い?  「その内には、と思っていますよ」  「そうですか。——色々とあって、いや気がさされたでしょう。分りますわ」  「そう……。確《たし》かにね」  「あの事《じ》件《けん》は、まだ未《み》解《かい》決《けつ》でしたわね」  伊波は、肩《かた》をすくめて、  「警《けい》察《さつ》が私《わたし》の方ばかり調べて、他の面での捜《そう》査《さ》を怠《なま》けてたんです。本当の犯《はん》人《にん》が早く捕《つか》まっていればあんなこともなかったのに」  と言った。  「そうですねえ。——マスコミは先生のことを犯人扱《あつか》いして」  「あれが仕事なんだろうとは思いますがね、しかし、いやでしたな」  伊波は首を振《ふ》った。  「今でもよく思い出されます?」  「そうですね」  伊波は、ちょっと目を窓《まど》の方へ向けた。  「こちらへ移られるときは、お一人だったんですか?」  「もちろん」  と、伊波は言って、殺《さつ》風《ぷう》景《けい》な居《い》間《ま》の中を見回した。  「こうして、殺《さつ》伐《ばつ》としていますが、一人の方が気が楽です」  「でもまだお若《わか》いのに……」  「そんなことは関係ありませんね」  と、伊波は唇《くちびる》の端《はし》を歪《ゆが》めて笑《わら》った。「もうあんなことは、こりごりですよ」  「女《じよ》性《せい》ファンは大勢いますよ」  「ファンはファンです。ありがたいとは思うが——」  「手を出そうとは思わない、というわけですね」  「もちろん」  「確《たし》か——」  と、編《へん》集《しゆう》者《しや》は目を天《てん》井《じよう》へ向けて、「あの事《じ》件《けん》のとき、先生と一《いつ》緒《しよ》にいらした女の方は、読者の一人でしたでしょう」  「ええ。——そんなこと、もういいじゃありませんか」  伊波は、ちょっと苛《いら》立《だ》って、言った。  やはり女性というのは好《こう》奇《き》心《しん》が強いのだろうか。  ちょうど電話が鳴って、伊波はホッとした。  「失礼」  と立ち上って、受話器を取る。「——はい、伊波です」  「伊波さんですか? こちら東京のS社ですが」  「はあ」  今、インタビューに来ている女《じよ》性《せい》誌《し》を出しているのがS社だった。  「そちらに、『週《しゆう》刊《かん》N』の者が伺《うかが》っていると思いますが、カメラマンと二人で。——おりましたら、ちょっと代わっていただけますか?」  伊波は、戸《と》惑《まど》った。——『週刊N』だって?  同じ出《しゆつ》版《ぱん》社《しや》から出てはいるが、『M』とは違《ちが》って、暴《ばく》露《ろ》的《てき》な記事を中心にした週刊誌である。  「もしもし?——もしもし」  伊波は、表《ひよう》情《じよう》をこわばらせた。  分ったぞ。——そうだったのか。  伊波は受《じゆ》話《わ》器《き》を置いた。  「——この辺は静かですねえ」  と、編《へん》集《しゆう》者《しや》が言った。「ご執《しつ》筆《ぴつ》にはいい所でしょう」  「そこにも『週刊N』の記者は押《お》しかけて来る」  と、伊波は言った。「『M』の編集者などとでたらめを言ってね」  女性編集者が、ギクリとした。  「どういうつもりだ?」  伊波はじっとにらみつけてやった。  「——あの人は今、という企《き》画《かく》です」  と、女性編集者——いや、女《じよ》性《せい》記《き》者《しや》が言った。  「なるほど」  伊波は、怒《ど》鳴《な》りつけたいのを、じっとこらえていた。「あの妻《つま》殺《ごろ》しの作家は、今、どんな暮《くら》しをしているか、ってわけだな」  「みんな知りたがってるんですよ」  と、女性記者は肩《かた》をすくめた。「ちゃんと謝《しや》礼《れい》は払《はら》いますから」  「もういい」  伊波は立ち上った。「帰ってくれ」  「教えて下さいよ。あのときの恋《こい》人《びと》は? 今は付き合っていないんですか?」  「帰れ!」  と、伊波は怒鳴った。  「はいはい」  と、立ち上って、カメラマンの方へ、「怒《いか》り狂《くる》ってるところを一枚《まい》とっといて」  「何だと……」  伊波はカッとなって、クッキーの缶《かん》をはね飛ばした。クッキーが床《ゆか》に飛び散る。  その怒りは、もちろん騙《だま》されたことへの怒りでもあり、同時に、騙された自分への怒りでもあった。  口《くち》車《ぐるま》に乗って、気持良くしゃべっていたこと、プライドをくすぐられて、いい気になっていたこと。——総《すべ》てが腹《はら》立《だ》たしい。  「いいじゃありませんか」  女《じよ》性《せい》記《き》者《しや》は、打って変って、人を小《こ》馬《ば》鹿《か》にしたような態《たい》度《ど》になっていた。「何でだって、有名になれば、本が売れますよ」  「帰れ!」  「こんな所で、生活費はどうしてるんです? 奥《おく》さんの遺《い》産《さん》ですか?」  伊波は一歩踏《ふ》み出して、ハッとした。カメラが、その一《いつ》瞬《しゆん》を待《ま》ち構《かま》えている。  〈忘《わす》れられた作家、記者に乱《らん》暴《ぼう》〉  といったキャプションが写真につくのだろう……。  「帰ってくれ。早く出て行け!」  伊波は固く拳《こぶし》を握《にぎ》りしめていた。  「じゃ、失礼しましょ。——お掃《そう》除《じ》が大変ですね」  と言って、女性記者は笑《わら》った。  そのとき、  「もったいない」  戸口で声がした。  振《ふ》り向いて、伊波は目を疑《うたが》った。  さっきの少女だ。——一体いつの間に目を覚《さ》ましたのか。  そして、勝手に二階の浴室を使ったらしい。  バスタオルを体に巻《ま》きつけただけの格《かつ》好《こう》で、立っていたのだ。  ——我《われ》に返ったときには、カメラのシャッターがたて続けに落ちていた。  少女を撮《と》ったのだ。  伊波は、青ざめた。こんな所へ、裸《はだか》の少女が出てくれば、向うにとっては、正《まさ》に絶《ぜつ》好《こう》のネタである。  「行くのよ!」  女《じよ》性《せい》記《き》者《しや》が、カメラマンの背《せ》中《なか》を叩《たた》いた。二人が玄《げん》関《かん》の方へ駆《か》け出す。  伊波は、ちょっと、追いかけようかと足を出したが、やめておいた。  むだなことだ。——あの二人からカメラをたとえ取り上げたところで見てしまっているのだから、どうにもならない。  玄関から二人が駆け出して、車に乗る音がした。  エンジンの音が、あわただしく遠ざかる。  ガン、ガン、と音がした。  慣《な》れない道だ。きっと、木にぶつけて、車体を傷《きず》だらけにしているのだろう。  それを思うと、伊波は、いくらか溜《りゆう》飲《いん》を下げた。  「おい、君——」  と、振《ふ》り向いて、伊波は目を丸くした。  少女は、床《ゆか》に四《よ》つん這《ば》いになって、散らばったクッキーを必死で拾って食べていた。  しかも——その拍《ひよう》子《し》に外《はず》れてバスタオルが落ちてしまっている。  丸《まる》裸《はだか》で、食べるのに夢《む》中《ちゆう》だ。  「おい、そんなに腹《はら》が空《す》いているのか?——そんなもの、やめろよ。ちゃんと台所で何か食べさせるから!」  と伊波は目をそらしながら、言った。「おい! 早くタオルを拾えよ」  「わあ、ごめん!」  少女は声を上げると、あわてて、バスタオルをつかんで、体に巻きつけた。  「風邪《かぜ》引くぞ」  「風邪より飢《う》え死《じ》にする方が怖《こわ》いわ」  と少女は言い返した。  「分った。何がいい? カレーなら早い。ただし、ご飯も冷《れい》凍《とう》だぞ」  「そのまま出されるんじゃなきゃ、食べるわ!」  「当り前だ」  伊波は苦《く》笑《しよう》した。「ともかく服を着て来いよ」  「うん」  少女は、駆け出して、その拍子に、またタオルが落っこちた。「いや!」  タオルをつかんだまま、少女は全《ぜん》裸《ら》で走って行った。  白く、細身で、しかしもう淡《あわ》い女らしさを匂《にお》わせた裸身に、伊波はショックを受けていた。  あれは幻《まぼろし》か?  いや、そんなことはない。現《げん》実《じつ》だ。紛《まぎ》れもない現実なのだ。  「そうさ。——このクッキーもね」  伊波は、床《ゆか》一面に散らばったクッキーを眺《なが》め、掃《そう》除《じ》するときのことを考えて、ため息をついた。 4 血《けつ》 痕《こん》  「君はどうしてここへ来たんだ?」  「ん……む……」  「名前とか——この近くに住んでるの?」  「ま……む……」  「車で来たのかい? それとも歩いて道に迷《まよ》ったとか——」  「ん……ん……」  伊波は諦《あきら》めた。  食べ終るまではだめだ。——少女は、猛《もう》然《ぜん》とカレーライスを平らげていた。  「もう一杯《ぱい》!」  「いいけど、そんなに急に食べると、今度は腹《はら》が痛《いた》くなるぜ」  「死んだっていいから、もう一杯!」  「分ったよ」  伊波は笑《わら》った。  二杯目は、少し落ち着いて食べていたが、それとて、普《ふ》通《つう》の、「早食い」程《てい》度《ど》のスピードではあった……。  「——少しは落ち着いた?」  皿《さら》が空《から》になるのを待って、伊波は訊《き》いた。  「まあね」  少女はフウッと息をついた。「お水もらえる?」  「水? ああ、いいよ」  伊波は、コップに水を入れて、出してやった。「冷たいぞ」  「いいの。——おいしい! 目が覚《さ》めちゃう」  伊波は、少女を眺《なが》めた。  どこから飛び込んで来たのか。——小鳥が一羽《わ》、窓《まど》から入って来た、という感じである。  十六か七、と思っていたのだが、もっと若《わか》いのかもしれない。  特《とく》に、いくらお腹《なか》が空《す》いているからといって、裸《はだか》でクッキーを拾って食べるというのは、まだ大人《おとな》の女としての羞《しゆう》恥《ち》心《しん》に欠けているからではないのか。  「君、いくつだ?」  と、伊波が訊くと、少女はキョトンとした顔で、  「いくつかなあ」  と言った。「忘《わす》れちゃった」  「名前は?」  「さっきから考えてんの」  と、少女は、ちょっと顔にしわを寄《よ》せて、言った。  「どうしても思い出せなくて」  「どこから来たの?」  「それだけは分ってるんだ」  と少女は得《とく》意《い》げに身を乗り出し、「外から!」  と言った。  「大人をからかっちゃいけないよ」  と、伊波がしかめっつらをして見せた。  「本当だよ。からかってなんかいないもん」  少女は、欠伸《あくび》をした。「ああ、眠《ねむ》くなっちゃった」  「いいかい——」  と、伊波は、テーブルに肘《ひじ》をついて、「君がいなくなって、家族の人たちは心配してるぞ。早くここにいると知らせてあげるんだ!」  「だって、家族なんてどこにいるか、分んないんだもん」  「どうして?」  「自分のことも分んないのに、家族のことが分る?」  少女は、理《り》屈《くつ》っぽく言って、「少し寝《ね》る。ベッド貸《か》してね」  と立ち上った。  呆《あつ》気《け》に取られている伊波を、キッチンに残して、少女は、さっさと二階へ上って行ってしまった。  「雪になるかな、今夜は」  と、酒《さか》井《い》巡《じゆん》査《さ》は言った。  「いやだねえ、雪が積ると、一回りするだけでも大変だよ」  もう一人、一《いつ》緒《しよ》に自転車を走らせている、中村巡査は、至《いた》ってリアリストだった。  「だけど、白い雪に覆《おお》われないと、やっぱり気分が出ないぜ」  酒井の方はロマンチストらしい。若《わか》いせいでもあろう。  中村の方はもう四十近い。寒さから来る足《あし》腰《こし》の痛《いた》みも、応《こた》えるのである。  二人は、林の中の道を、ゆっくりと自転車で進んでいた。  両側には、いくつかの別《べつ》荘《そう》が並《なら》んでいる。  道は砂《じや》利《り》道《みち》で、自転車向きではないが、この二人には、馴《な》れた道なのである。  もう夕方近く。  「今日は一日中、夕方みたいだったな」  と、中村が言った。  「ああ。ちっとも時間が分らなかった。——そろそろ暗くなるだろう」  「日が短いな、一日がアッという間だ」  酒井は、ふと顔を上げ、  「おい、あれ——」  と言った。  キキッとブレーキが鳴る。  「何だよ」  と、中村が言った。  「この別荘だ。空《あき》家《や》だったんじゃないのか、ここは?」  ——古びた木《もく》造《ぞう》の、今にも壊《こわ》れそうな別荘である。  「そうだったかな」  中村は肩《かた》をすくめた。「お前、よく憶《おぼ》えてるなあ」  「ああ、まだボケてないからね」  「この野《や》郎《ろう》!」  中村が笑《わら》って、「しかし空家ならどうしたっていうんだ?」  と訊《き》く。  「入口の戸が開いている」  と、酒井は言った。  「え?」  なるほど。——中村も、それにやっと気付いた。  「調べてみよう」  酒井は自転車を降《お》りた。柵《さく》へ自転車をもたせかけると、腐《くさ》りかけている柵が、大きく傾《かたむ》いてきしんだ。  「おっと!」  あわてて支《ささ》えた。  「しかし、あんな家じゃ、浮《ふ》浪《ろう》者《しや》も凍《こご》え死んじまうぜ」  と、中村が言った。  だから却《かえ》って危《あぶ》ない。中で、火でもたかれたら大火事になることもある。二人が警《けい》戒《かい》するのも、その点だった。  中村は自転車をそっと地面へ倒《たお》しておいて、酒井について歩き出した。  「——この前はいつ人が来てたんだろう?」  と酒井が言った。  「さあ。——少なくとも十年はたってるぜ、人が住まなくなって」  「十年か……」  酒井は首を振《ふ》った。十年前の自分のことを思い出しているのかもしれない。  ドアは、半分ほど開いていた。  「破《やぶ》ってある」  と、中村が肯《うなず》いた。  打ちつけてあった板がはがしてあるのだ。酒井がかがみ込《こ》んで、その一枚《まい》を拾い上げた。  「板の裂《さ》け目《め》が新しいよ」  「中にいるのかな」  「入ってみないと……」  酒井と中村は、各《おの》々《おの》、懐《かい》中《ちゆう》電《でん》灯《とう》を手にして、点灯すると中へ入った。  埃《ほこり》っぽい、ムッとするような匂《にお》い。かびくさいのだ。  光の輪が二つ、玄《げん》関《かん》から廊《ろう》下《か》へと走る。  「——何だか気味が悪いや」  と、中村は言った。  「ともかく、入ろう」  酒井は、ちょっと声がこわばっていた。  何か——妙《みよう》な雰《ふん》囲《い》気《き》がある。それを、二人は敏《びん》感《かん》に感じ取っていた。  「どっちがどっちだか分らないな」  と、中村がぼやいた。  「向うが広い部屋らしいよ」  酒井が先に立って歩いて行く。  急に、前が開けた。——リビングルームなのだ。  椅子《いす》やテーブルが、そのままである。  懐《かい》中《ちゆう》電《でん》灯《とう》の光が、ゆっくりと、居《い》間《ま》の隅《すみ》々《ずみ》にまで及《およ》ぶ。しかし、人のいる気《け》配《はい》はなかった。  誰《だれ》でも、侵《しん》入《にゆう》者《しや》があれば、まずこういう部屋へ来るものだ。  「——ここには誰もいないよ」  と、酒井は首を振《ふ》った。  「ワッ!」  と、中村が、酒井の後ろで声を上げた。  「どうした?」  振り向いて、懐中電灯の光を中村の顔に向けて、酒井は目を大きく見開いた。  中村の顔に、血の筋《すじ》が、何本も走っていた。  「どうした!」  「いや——俺《おれ》は大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》。落ちて来たんだ」  血を拳《こぶし》でこすって、中村が言った。  「落ちた?」  「うん。上からポトッと——」  懐中電灯の光が、天《てん》井《じよう》を照らし出した。  しみだらけの天井に、丸くてどす黒い大きなしみができて、そこから、血が垂《た》れているのだ。  床《ゆか》へ光を落すと、血だまりが広がっていた。  「——上だ」  と、酒井は青ざめた顔で言った。  「こいつは大《おお》事《ごと》だぞ」  と、中村は言った。「さあ、行こう」  相手が死体だろうが何だろうが、はっきりしさえすれば、中村は元気づく。  逆《ぎやく》に、経《けい》験《けん》の浅い酒井が、今度はこわごわついて行くことになった。  階《かい》段《だん》は、狭《せま》く、しかも、ひどくきしんだ。  「下手《へた》をすると踏《ふ》み抜《ぬ》くぞ。用心しろよ」  中村が、先に一歩一歩、踏みしめるようにして上って行く。  「——どの辺かな」  二階の廊《ろう》下《か》を、照らしてみる。ドアが右側に三つ、並《なら》んでいた。  「真ん中ぐらいじゃないか?」  「そうかな。——全部調べてみよう」  手前のドアを開ける。  中は、空《から》っぽだった。——窓《まど》に少し隙《すき》間《ま》があって、少し外の明るさが洩《も》れ入っていた。  「次だ」  と、中村は言った。  二番目のドアは、開かなかった。  「鍵《かぎ》がかかってる」  と、中村は言った。「先に次のドアを開けてみよう」  「うん」  三つ目のドアは、きしみながら開いた。  中はやはり空だ。——少しばかりの埃《ほこり》だけが、開いたドアの起こした風に舞《ま》い上った。  「よし、二つ目だな」  中村が肯《うなず》く。  「破《やぶ》るか」  「うん。お前に任《まか》せるよ」  「分った」  酒井も、仕事ができてホッとしている様子だった。  「体《たい》当《あた》りか?」  「蹴《け》ってみるよ」  酒井は足を上げ、力《ちから》一《いつ》杯《ぱい》、ドアを蹴った。バン、と爆《ばく》発《はつ》のような音が、辺《あた》りに響《ひび》き渡《わた》った。  しかし、ドアは壊《こわ》れなかった。  「意外に頑《がん》丈《じよう》だな」  と酒井は言った。「——よし、持っててくれ」  自分の懐《かい》中《ちゆう》電《でん》灯《とう》を中村へ渡《わた》すと、二、三歩退《しりぞ》いた。  そして、全身の体重をかけて、ドアに体当りした。  ガクン、と衝《しよう》撃《げき》が来て、ドアがパッと中へ開いた。酒井が転《ころ》がり込《こ》む。  「大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》か?」  と中村が声をかけた。  「うん。これぐらい何ともねえ」  「そうか。中をともかく——」  言いかけて、中村はギョッとした。「見ろよ!」  酒井は立ち上って、懐中電灯の光に浮《う》かび上った、部屋の中の様子に目を見《み》張《は》った。  それは——豪《ごう》華《か》な部屋の一室だった。  大きなベッド、そしてテーブル、応《おう》接《せつ》セット。  総《すべ》てが、どっしりとして、本物らしいつやを見せている。  そして、驚《おどろ》かされたのは、それが、つい最近まで——いや、今なお使われているかのように見えたことだった。  「どうなってるんだ?」  と、酒井は言った。  「分らん。——この部屋はまるでずっと使ってたみたいだ。おい、窓《まど》を開けられないか」  酒井は窓に寄《よ》って、調べてみた。  「だめだ。鉄板を打ちつけて完全に塞《ふさ》いじまってるよ」  「どういうことなんだ、これは」  「知るもんか——」  と言いかけて、酒井は、「おい! そこだ!」  と声を上げた。  床《ゆか》に黒々と血が広がっている。——しかしその血を流したはずの肉体は、どこにも見当らなかった。 5 捜《そう》 査《さ》  村上は大《おお》欠伸《あくび》をした。  パトカーを運転していた巡《じゆん》査《さ》はチラッと村上の方を見て、やれやれ、というような顔をした。  これが県《けん》警《けい》の名物とまで言われる村上警《けい》部《ぶ》なのか?  いくら、人は見かけによらないと言っても……。ちょっと、この「見かけ」は貧《ひん》弱《じやく》すぎる。  巡査は、  「本当に村上警部でしょうね?」  と念を押《お》したい気持を、何とか押《おさ》えていた。  「あとどれぐらいかかる?」  と、村上が訊《き》く。  「三十分くらいだと思いますが」  と、巡査は答えた。  「そうか。三十分でもいい」  「はあ?」  「眠《ねむ》るから起こしてくれ」  「——かしこまりました」  巡《じゆん》査《さ》がそう言い終らない内に、村上はガーッ、ゴーッと、体に似《に》ず、豪《ごう》快《かい》ないびきをかき始めた。  「どうなってんだ?」  と、巡査は首を振《ふ》った。  そこに眠《ねむ》り込《こ》んでいるのは、見たところ四十前後の、パッとしない小男だった。  頭が大《だい》分《ぶ》はげ上って、ネクタイも変にねじれている。背《せ》広《びろ》は、古着屋が買い取ってくれるかどうかも怪《あや》しいしろものだ。  背が低くても、太っていれば、まだ貫《かん》禄《ろく》があるかもしれないが、またこれが、見すぼらしいくらい、やせこけているのである。  頭は切れるのかもしれないが、犯《はん》人《にん》と格《かく》闘《とう》にでもなったら、一発殴《なぐ》られただけで、どこかへ、吹《ふ》っ飛《と》んで行ってしまいそうだ。  本当に、別の「村上」じゃないんだろうな……。  巡査は、また不安になって来た。  無線が呼《よ》んでいた。  「——村上警《けい》部《ぶ》は?」  と、呼びかけて来る。  「今、後《こう》部《ぶ》座《ざ》席《せき》で眠ってるよ」  と、巡《じゆん》査《さ》は答えた。  「じゃ、伝えてくれ」  「了《りよう》解《かい》」  「奥《おく》さんから伝《でん》言《ごん》だ。そっちへ行ったら、名物のそばを買って帰って来い、と」  巡査はポカンとしていたが、  「——分ったか?」  と訊《き》かれ、  「了解!」  と、あわてて言った。  無線を切ってから、巡査は吹《ふ》き出してしまった。  ——もう真っ暗になった林の奥に、赤い灯《ひ》がいくつか見えて来た。あれが現《げん》場《ば》である。  三十分といったが、二十分しかかからなかった。  「——村上警《けい》部《ぶ》、着きましたが」  スピードを落しながら、声をかけたが、  「ウーン」  と唸《うな》るだけで、一《いつ》向《こう》に目を覚まさない。  「警部!——村上警部!」  と呼《よ》んでいる内に、とうとう、問題の別《べつ》荘《そう》の前に着いてしまった。  駆《か》けつけて来たのは酒井巡査だった。  「おい、村上警部だ」  と、窓《まど》から顔を出して言った。  「やあ、待ってたんだ」  酒井は、勢い良く、後部のドアを開けた。ドアにもたれて眠《ねむ》っていた村上が、もののみごとにパトカーから転《ころ》がり落ちた。  「——大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》ですか?」  酒井が、やっと我《われ》に返って抱《だ》き起こす。  「うん。——ああ、大丈夫」  と、村上は頭を振《ふ》って、背《せ》広《びろ》の汚《よご》れを払《はら》った。「君は?」  「酒井といいます」  「そうか」  村上は大《おお》欠伸《あくび》をして、「君と、もう一人いたな」  「中村です」  「二人で血《けつ》痕《こん》を見付けたんだったな」  「この別荘です」  「分った、行こう」  村上は、もう一度頭を振って歩き出した。——が、まるで違《ちが》う方向へと歩き出していた。  「警《けい》部《ぶ》! こちらですよ」  と、酒井があわてて言った。  「ああ、そうか」  村上は肯《うなず》いて、問題の別《べつ》荘《そう》へと歩き出す。  パトカーを運転していた巡《じゆん》査《さ》が、  「警部、無線で、奥《おく》様《さま》から伝言が——」  と言いかけると、  「分っとる」  と、村上は遮《さえぎ》った。「どうせ、名物のそばを買って来い、だろう」  「そうです」  「いつもそうなんだ。全く、あいつときたら……」  村上はブツブツ言いながら、歩き出した。  酒井は、何だか呆《あつ》気《け》に取られながら、ついて行く。  「ここの持主は?」  と村上が訊《き》きながら別荘へ足を踏《ふ》み入れた。  「今は、不動産屋のものです。前の持主はもう大《だい》分《ぶ》前に手放してしまっています。——あ、二階ですから」  「すると、今のところ、持主はいないわけだな」  「そうです」  「どれくらいになるんだ、手放してから?」  「さあ。正《せい》確《かく》なところは……」  「調べておけ。それから、前の持主のことも——」  「分りました」  三つ並《なら》んだ内の真ん中のドアの前に、人が集っている。村上は、問題の部《へ》屋《や》へと入って行った。  「ほう」  中が、きちんと装《そう》飾《しよく》され、明りも点《つ》いているのを見て、村上は目がさめたらしい。  ゆっくりと中を見回した。——床《ゆか》の血《けつ》痕《こん》はチラッと見ただけで、専《もつぱ》ら、部屋の中に興《きよう》味《み》があるらしい。  「他の部屋もこんな風なのかね」  「いえ、ここだけです。他はまだガランとしていて、何もありません」  「ふむ……」  村上は顎《あご》を撫《な》でた。「指《し》紋《もん》は採《と》ったね?」  「はい」  「妙《みよう》なことだな」  と、村上は独《ひと》り言《ごと》のように呟《つぶや》いた。  「誰《だれ》かがいたようですね」  と酒井が言うと、村上はジロリと目を向けた。  酒井はギクリとした。村上の目が、思いもかけないくらい、鋭《するど》かったからだ。  「そう思うかね」  「はあ……」  村上は、部屋の中を調べ回った。  戸《と》棚《だな》、引出し、小物入れから枕《まくら》の下、ベッドの下まで、くまなく見て回る。  あまり足の長くない、その姿《すがた》は、さしずめダックスフントのようだった。  立ち上って手をはたくと、村上は、  「他の部屋を調べて来る」  と言った。「ここにいたまえ」  「はあ——」  酒井は目をパチクリさせていた。他の部屋には何もないというのに、何を調べるというのだろう?  村上は、二階だけでなく、一階にも降《お》りて調べていた。  酒井は、三十分近く、問題の部屋で待たされて、くたびれてしまった。  やっと、村上が入って来る。  「——何かありましたか?」  と酒井が訊《き》いた。  「いや、何もない」  と、村上は首を振《ふ》った。  酒井も、この部屋の戸《と》棚《だな》の中や、タンスの中は覗《のぞ》いていた。女物の下着やセーターなどが入っている。  「どう思う?」  と村上は酒井に言った。「この部屋には誰がいたか」  「よく分りませんが——」  と、酒井は慎《しん》重《ちよう》に言った。「女には違《ちが》いないと思います。——下着やセーターの感じからいって、まだ若《わか》い女じゃないでしょうか」  「確《たし》かに、あれは若い女の着る物だな」  と、村上が肯《うなず》いた。「——妙《みよう》な話だ」  「そうですね。どうしてこんな空《あき》家《や》に住んでいたんでしょう?」  「いや、そうじゃない」  「は?」  「この空家には、若い女など住んでいなかったのが奇《き》妙《みよう》だ、と言ったのさ」  酒井はポカンとしていた。村上は、大して面《おも》白《しろ》くもなさそうに、  「君は独《どく》身《しん》か?」  と訊《き》いた。  「はあ」  「そうだろうな」  村上は肯《うなず》いて、「しかし、どんな美女だって、トイレには行くことぐらい知っとるだろう。ではこの家の中の、どこにトイレがある?——一階のトイレは、物置になって、とても使える状《じよう》態《たい》ではない。ここには人間は住めない」  酒井はすっかり面食らって黙《だま》っていた。そんなことは考えてもみなかった。  「それに、だ——」  と村上は続けた。「普《ふ》通《つう》、若《わか》い女《じよ》性《せい》には生理というものがあるんだ。それぐらい知っとるだろう」  「はあ……」  「生理用品が、この部屋のどこにも見当らない。——若い女が住んでいたのなら、ないはずがないんだ」  「そうですね」  「これは、若い女が住んでいたように見せかけた部屋だ」  と村上は見回して、言った。「何のためにそんなことをしたのかは分らんがね」  村上は、すでに乾《かわ》いた血だまりのそばに膝《ひざ》をついた。  「——君が見付けたときは、まだ血は固まっていなかったんだね?」  「はい」  と酒井は肯《うなず》いた。  酒井が、そのときの状《じよう》況《きよう》を説明すると、村上は眉《まゆ》を寄《よ》せて聞いていた。  「すると、そこから下へ、血が滴《したた》り落ちていたのか」  「そうです」  「まだこの血が流されて間もなかったんだろうな」  「そう思います」  「この近くで誰か見かけなかったかね?」  「特《とく》に——気付きませんでしたが」  「この付近の別《べつ》荘《そう》は、今、どれくらい使われているんだ?」  「今はシーズンではありませんから、ほとんど使われていません」  「いくつかは使われている、ということになるか」  「はあ。ほんの数《すう》軒《けん》だと思います」  「すぐに人をやってくれ。誰か、けがをした人間でも入り込《こ》んでいないか、調べさせろ。空《あき》家《や》へ入っても、この寒さだ。いつまでもいられまい。人の住んでいる所へ忍《しの》び込む可《か》能《のう》性《せい》の方が大きい」  「分りました」  酒井は敬《けい》礼《れい》して、部屋を出ようとした。  「待ちたまえ」  と、村上が呼《よ》び止める。「ほんの数軒だと言ったな」  「はい」  「どことどこか、分るかね」  「分ります」  「よし。私《わたし》も一《いつ》緒《しよ》に行く。一軒ずつ回ってもそう時間はかかるまい」  村上は、酒井を促《うなが》して、階《かい》段《だん》を先に立って降《お》りて行く。——その軽い足取りは、パトカーから転《ころ》げ落ちたときとは別人のようだった……。 6 第一夜  白い原《げん》稿《こう》用《よう》紙《し》のます目が、伊《い》波《ば》を見返していた。  創《そう》作《さく》意《い》欲《よく》の熟《じゆく》しているときは、その白さが、目に快《こころよ》いのだが、何も書くことが浮《う》かばないときには、敵《てき》意《い》を持ってにらみ返して来るような気がする。  今夜の場合は、そのどちらでもなかった。  一《いつ》向《こう》に、原稿の方へ注意を集中できないのである。——気が散っているのだ。  一つには、あの取《しゆ》材《ざい》のせいだった。思い返しても腹《はら》立《だ》たしい。  どんな記事になるか、想《そう》像《ぞう》はついたが、もちろん見る気にもなれない。送って来たとしても、もちろん捨ててしまうだろう。  大体、伊波は、写真を撮《と》られたり、TVに出たりするのを好《この》むタイプではなかった。  面《おも》白《しろ》いもので、割《わり》合《あい》と暗い、深《しん》刻《こく》な作品を書く作家の方が「目立ちたがり」で、マスコミでもてはやされるスター作家には、却《かえ》って派《は》手《で》なことを嫌《きら》うタイプが多い。  伊波などは、その点、作風も地味で、マスコミ嫌いという、珍《めずら》しい例外に属《ぞく》していた。  もちろん、今のマスコミ嫌いには、妻《つま》の死に関する一《いつ》件《けん》が大きく影《えい》響《きよう》している。しかし、もともと伊波は、あまり派手に扱《あつか》われるのを好まなかった。  「やれやれ……」  と、伊波は呟《つぶや》いた。  今夜はどうもだめだ。  立ち上って、伸《の》びをする。——そうだ、知らん顔をしていても、やはり気になっていることは否《ひ》定《てい》できない。  あの少女のことである。  時計は、十二時を少し過《す》ぎていた。  伊波は仕事部屋を出ると、使っていなかった、来客用の寝《しん》室《しつ》のドアに手をかけて、ためらった。  ここに、あの少女を寝《ね》かせているのだ。  別に、入ってはいけないということもあるまい。——ここは自分の家なのだ。  しかし、ためらわれた。何といっても、こっちは男で、向うは女である。  女とはいえ——十五、六の子《こ》供《ども》だが、あのクッキーを拾って食べているときに見た体は、女らしい丸みを見せていた。  当然だろう。昔の十五、六とは違《ちが》う。今は十二歳《さい》ぐらいで、豊かな胸《むね》のふくらみを見せる少女もいる。  そうなると、やはり、入るべきではないかもしれない。  伊波は、ドアのノブから、手をはなした。  「何か用?」  いきなり、後ろで声がして、伊波はびっくりした。少女が、階《かい》段《だん》を上って来たところだった。  「何だ、下にいたのか」  伊波は、息をついて、「いや——ちゃんと眠《ねむ》ってるかな、と思ってね」  と言った。  ちょっと言《い》い訳《わけ》がましかったかな、と思った。  「夕方寝《ね》ちゃったでしょ、目が冴《さ》えちゃって——」  少女はパジャマ姿《すがた》で、立っていた。  伊波のパジャマなので、ダブダブである。何となくユーモラスであった。  「そうか」  伊波は笑《わら》って、「じゃ、下でコーヒーでも付き合わないか?」  と言った。  「うん、いいよ」  少女は、楽しげに言った。「私《わたし》がコーヒー淹《い》れてあげようか」  「じゃあ、頼《たの》もう」  階段を降《お》りながら、伊波は、思った。  自分の名前も、家も、一《いつ》切《さい》憶《おぼ》えていないのに、コーヒーの淹れ方は、憶えているらしい……。  しかし、今、そんなことをつついてみても仕方あるまい。  居《い》間《ま》にいると、やがて、コーヒーの匂《にお》いが漂《ただよ》って来た。  「お待たせ」  と、少女が、両手に、コーヒーカップを持ってやって来る。「ミルクと砂《さ》糖《とう》は?」  「僕《ぼく》はいらない」  「私も。——ますます目が冴えちゃうかしら?」  「いいじゃないか。別に、早起きする必要もないんだろう?」  「うん」  と言って、少し間を置き、「たぶん、ね」  と付け加える。  「——旨《うま》いね」  一口飲んで、伊波は言った。お世《せ》辞《じ》でなく、いい味だった。  「ありがとう」  少女は嬉《うれ》しそうに言った。  「どうだい? 何か思い出した?」  少女は肩《かた》をすくめて、  「何も。——私は女だってことは、はっきり分ったわ」  どこまで真《ま》面《じ》目《め》で、どこまでふざけているのか、分らない。  明日になれば、警《けい》察《さつ》へ連れて行こう、と伊波は思った。どうせ、家《いえ》出《で》娘《むすめ》か何かに違《ちが》いない。  帰りたくないので、自分のことが分らないふりをしているだけだ。  ただ、家出娘にしても、かなりいい家の娘だろう。見た所もそうだし、物《もの》腰《ごし》が、どことなくおっとりしているのも、そんな印象を与《あた》える。  ともかく、警察に行けば、当然、捜《そう》索《さく》願《ねがい》が出ているはずである。  「ねえ、おじさん」  と、少女は言った。  「何だね?」  「おじさん、作家なの?」  伊波は、ちょっと面食らったが、  「ああ、そこの本を見たんだね?」  と笑《わら》った。  彼《かれ》の旧《きゆう》作《さく》で、カヴァーに写真が出ているのである。  「大《だい》分《ぶ》若《わか》い写真だろう」  「そうね。でも、今でもそう老《ふ》けていないよ」  「そいつはどうも」  「いいなあ、作家って。好《す》きなことして暮《くら》せるんでしょ」  「そう単《たん》純《じゆん》じゃないよ」  と、伊波は苦《く》笑《しよう》した。  「どうしてこんな所に住んでいるの?」  「さあ。——何となく、こういう静かな所が好《す》きなんだよ」  「やっぱり、こういう場所の方が、よく書けるの?」  「いや、そんなことはない」  と、伊波は首を振《ふ》った。「場所じゃないよ、問題は」  「それじゃ、なあに?」  「精《せい》神《しん》状《じよう》態《たい》だな。色々あって気持が乱《みだ》れていると、どんなに静かな所でも書けない。逆《ぎやく》に、書きたいことが溢《あふ》れ出て来るときには、やかましい喫《きつ》茶《さ》店《てん》の中だろうが、列車の中だろうが、書けるよ」  「ふーん。そんなもんなの」  と、少女はコックリ肯《うなず》いた。  「君も何か書くの?」  「分んないな。ただ——そういうことが好きだろうとは思うのよね」  「なぜ?」  「なぜだか知らないけど……」  と、少女は言った。  いい加《か》減《げん》に、下手《へた》な芝《しば》居《い》はやめたらどうだ?——伊波は、そう言ってやりたかった。  しかし、今はいいだろう。どうせ、この一《ひと》晩《ばん》のことだ。  「ねえ——」  と少女が言った。「今日来た人たち、何なの?」  「うん? ああ、あれか。別に大したことじゃない」  「でも、凄《すご》く怒《おこ》ってたじゃないの」  「向うがちょっと失《しつ》敬《けい》なことを言ったからだよ」  少女は、少し間を置いて、言った。  「私《わたし》、聞いてたの、上で」  「そうか」  「奥《おく》さん、死んじゃったの?」  「ああ」  「気《き》の毒《どく》ね」  この少女は、どういうつもりなのだ?  本当に、無《む》邪《じや》気《き》なだけなのか。それとも、とんでもない、ワルなのだろうか?  「——もう寝《ね》た方がいいんじゃないかね」  と言ったとき、電話が鳴り出して、伊波は仰《ぎよう》天《てん》した。  こんな時間に、誰《だれ》だろう? 伊波は受《じゆ》話《わ》器《き》を上げた。  「はい、伊波です」  「こんなに遅《おそ》く申《もう》し訳《わけ》ありません」  聞き憶《おぼ》えのない声だ。  「どちら様ですか?」  「警《けい》察《さつ》の者です」  「警察?」  伊波は、その言葉で、少女がちょっと身を固くするのを見ていた。  「実は、近くでちょっとした事件がありまして。——ああ、私、県警の村上と申しますが」  「はあ」  「今、この一帯の、別《べつ》荘《そう》にお住いの方を一軒《けん》ずつお訪《たず》ねしているんです。早い方がいいと思うので、これからそっちへうかがっても構《かま》いませんか?」  「今からですか」  と、伊波は言った。「そんなに急を要することなんですか?」  「そう思うので、お電話したわけです」  村上という男の話し方はていねいだったが、そう簡《かん》単《たん》には後へ退《ひ》かない、という印象を与《あた》えた。  「いいでしょう」  伊波は、少し間を置いてから言った。「どれくらいでおいでになりますか」  「今、何とかいう喫《きつ》茶《さ》店《てん》におります」  ——伊波がいつも寄《よ》る、あの山小屋風の喫茶店だ。  「ああ、それなら、そこの主人が道を良く知っていますから」  「そのようですな。先生のことも、うかがいましたよ」  刑《けい》事《じ》から「先生」などと呼《よ》ばれると、妙《みよう》な気がする。ともかく、あの件《けん》以来、伊波は警《けい》察《さつ》というものをあまり信用していないのである。  「では、たぶん二十分もすれば来られるでしょう」  「これからうかがいますので、よろしく」  と、村上は言って、「そうお手間は取らせませんよ」  と、付け加えた。  そうお手間は取らせません、か。  受《じゆ》話《わ》器《き》を置いて、伊波は、思い出していた。あのときも、そう言われて、出向いて行ったら、三《みつ》日《か》三《み》晩《ばん》、睡《すい》眠《みん》も取らずに訊《じん》問《もん》されたのだった……。  「私、警察って嫌《きら》い」  と、少女が言った。  伊波は、少女の、ややこわばった顔を見ていた。  「どうして嫌いなんだね?」  少女は肩《かた》をすくめた。  「分らないけど、嫌いなの」  何があったのだろう?——その村上という男の言う「事《じ》件《けん》」と、この少女と、何か関係があるのだろうか?  「私のこと、黙《だま》っててね」  と、少女は言った。  「しかし、君だって、ちゃんと自分のことが分って家へ帰れた方がいいんじゃないのか?」  「そんなの、まだ先でいい」  少女は勝手なことを言い出した。「ここ、居《い》心《ごこ》地《ち》いいんだもの」  そして、真《しん》剣《けん》な目で、伊波を見つめる。  「言わないで」  と、くり返した。  伊波は、少女の視《し》線《せん》を受け止めていた。  「——分ったよ」  「ありがとう」  少女の表《ひよう》情《じよう》が、やっと緩《ゆる》んだ。  「しかし、刑《けい》事《じ》は、僕《ぼく》が一人《ひとり》暮《ぐら》しだと聞いて来るはずだ。君はここへ顔を出さない方がいいよ」  「分ってるわ。二階でおとなしくしてる」  少女は立ち上って、ダブダブのパジャマでヒョイと飛びはねて見せると、「じゃ、おやすみなさい!」  と声をかけて、走って行った。  「『明日の間《かん》隙《げき》』は、読ませていただきましたよ」  村上の言葉に、伊波はちょっと苦《く》笑《しよう》した。  「それはどうも」  「今でもよく憶《おぼ》えています」  きっとあの喫《きつ》茶《さ》店《てん》で聞いて来たのだろう。——村上という刑《けい》事《じ》、およそ本を読むという感じではない。  「一つお訊《き》きしたいと思っていました」  と、村上は言い出した。  「何でしょう?」  「あの主人公の津《つ》島《しま》という男ですが、あれは一度短《たん》編《ぺん》に登場したことのあるキャラクターと同じですね」  これには伊波がびっくりした。  確《たし》かに、村上の言う通りである。しかし、そのことを他人に話したこともないし、気付いた評《ひよう》論《ろん》家《か》もいなかったのだ。  どうやら、村上は本当に彼《かれ》の本を読んでいるらしかった。  「よくお分りですね」  「いやあ、やはりそうですか。どうも気になりましてね」  と、村上は嬉《うれ》しそうに言った。  ちょっと一《いつ》風《ぷう》変った刑《けい》事《じ》のようだ。  傍《そば》に控《ひか》えた若《わか》い巡《じゆん》査《さ》は、二人の話を、外国語でも聞くように、ポカンとして書きとめることもできずにいた。  伊波も、その巡査の顔は見たことがあった。名前までは憶《おぼ》えていないが。  「——ところで、あまりご執《しつ》筆《ぴつ》の邪《じや》魔《ま》をしてもいけませんな」  と、村上が言った。  「執筆といっても、別にそう締《しめ》切《きり》に追われているわけでもありませんのでね」  「さっき申し上げたように、空《あき》家《や》になっていた別《べつ》荘《そう》で、血《けつ》痕《こん》が見付かりまして」  「大変ですね」  「ところが、その血を流したはずの人間が見当らない、と来ているのです。もし、何か事《じ》情《じよう》があって、身を隠《かく》しているとしたら、この辺の、別荘の一つへ潜《もぐ》り込《こ》む可《か》能《のう》性《せい》も強い、というわけで」  「なるほど」  と、伊波は肯《うなず》いた。  「今、この一帯で、実《じつ》際《さい》に人が住んでいるのは、そう何《なん》軒《げん》もないのです。そこで、こうして訪《たず》ねて回っているんですよ」  「他に何も手がかりはないんですか?」  「ありません」  と、村上は首を振《ふ》った。「奇《き》妙《みよう》なことですが……」  「何です?」  「血《けつ》痕《こん》は、かなり多い。つまり、小さな傷《きず》とは思われないんです。しかし、この近くの病院に、それらしい人間は来ていません」  「なるほど。すると……」  「どうも、あの血痕というやつも、一《ひと》筋《すじ》縄《なわ》ではいかないようなのです。つまり、何か裏《うら》がある。——こっちの目を、何かからそらす意《い》図《と》で、誰《だれ》かが仕《し》掛《か》けたのではないかという気もするのです」  そばで聞いていた酒井巡《じゆん》査《さ》が、面食らっている。そんな話は初《はつ》耳《みみ》なのである。  「しかし、一《いち》応《おう》は、ごく当り前に、用心していただいた方がいい。パトロールも強化しますが、もし、ちょっとしたことでも、気が付いたら、ご連《れん》絡《らく》下さい」  「分りました」  「——誰か、あまり見かけたことのない人間には気付かれませんでしたか?」  伊波は軽く首を振った。  「いえ、一《いつ》向《こう》に」  「そうですか。——いや、どうもお邪《じや》魔《ま》しました」  「いや、構《かま》いませんよ」  伊波は立ち上った。  「——やはり執《しつ》筆《ぴつ》は夜ですか」  玄《げん》関《かん》の方へ歩きながら、村上が訊《き》く。  「夜の方が何となく筆が進むんです。TVもラジオも、放送が終ってしまうと、仕事しか、することがなくなるせいでしょうね」  「なるほど」  村上はちょっと笑《わら》って、「いや、先生にお目にかかれて、幸いでした」  と頭を下げた。  変った刑《けい》事《じ》だ、と伊波は思っていた。  あの事《じ》件《けん》のとき、会った刑事たちとはまるで違《ちが》う。  ——パトカーが走り去《さ》って行くのを見送りながら、ふと伊波は、妙《みよう》だな、と思った。  村上は、伊波の小説を、あれほど詳《くわ》しく知っているのだ。当然、あの事件も、知らぬはずがない。  それなのに、そのことは全く話に出なかった……。  あえて出さなかったのだ。  それが単に村上の気づかいによるものなのかどうか、伊波には、疑《ぎ》問《もん》に思えた。  ——パトカーの中では、酒井が、  「あまり得《う》るところはありませんでしたね」  と言っていた。  村上は、少し間を空《あ》けて、  「伊《い》波《ば》伸《しん》二《じ》を見《み》張《は》ってくれ」  と言った。  「どうしてです?」  酒井がびっくりして訊《き》き返す。「何か怪《あや》しいことでも?」  「伊波の妻《つま》が殺されたことは知っているかね」  「ええ、聞いたことがあります」  「そのとき、彼《かれ》は犯《はん》人《にん》扱《あつか》いされて、警《けい》察《さつ》でも相当厳《きび》しくやられたはずだ。当然、警察に対して、いい感《かん》情《じよう》は抱《いだ》いていない」  「そうでしたか」  と、酒井は肯《うなず》いて、「でも、そんな風にも見えませんでしたよ」  「そうだ」  と、村上は言った。「至《いた》って愛想が良かった。——何か我《われ》々《われ》に隠《かく》したいことがあったのかもしれない」 7 過《か》 去《こ》  「誰《だれ》が来たって?」  警《けい》視《し》庁《ちよう》捜《そう》査《さ》一課の警部、小池は、面《めん》倒《どう》くさそうに顔を上げた。  「村上という名で——何だか、小《こ》柄《がら》で、チンチクリンな感じの男です」  若《わか》い刑《けい》事《じ》が、至《いた》って正直な印象を述《の》べた。  「村上?」  小池はちょっと考えて、「まさか……」  と呟《つぶや》いた。  「しかし、小柄でチンチクリンか。少し禿《は》げているか?」  「いえ、大分禿げてます」  と、訂《てい》正《せい》して、「忙《いそが》しいから、と断《ことわ》りましょうか?」  「いや、待て。行ってみる。——廊《ろう》下《か》にいるんだな?」  「部屋に通すほどのこともない、と思ったので」  「そうかもしれんな」  小池はニヤリと笑《わら》った。「おい、一時間ほど戻《もど》らんかもしれんぞ」  「はあ?」  キョトンとしている部下を後に、小池は廊下に出て周囲を見回した。  「やあ、小池さん」  ドアのすぐわきに、村上が立っていた。  「やっぱりあんたですか!」  小池は、村上の手を握《にぎ》りしめた。  人一倍大《おお》柄《がら》な小池と、小柄な村上では、まるで大人《おとな》と子《こ》供《ども》のようだった。  「久しぶりですな」  と、小池は、ポンと村上の肩《かた》を叩《たた》いた。  村上が、危《あや》うくよろけそうになる。  「——忙《いそが》しいところを申《もう》し訳《わけ》ない」  「いや、村上さんのためなら、凶《きよう》悪《あく》犯《はん》だって待たせときますよ」  と、小池は豪《ごう》快《かい》に笑《わら》った。「ちょっと、どこか静かな所へ行きましょう」  「いいですな。——実をいうと昼飯を食べ損《そこ》なって」  「何だ、そいつはいかん。近くに旨《うま》いうなぎ屋がある。行きましょう」  村上は、ちょっと考えて、  「ランチはありますか?」  と訊《き》いた。  ——そのうなぎの店で、うな重《じゆう》を一つ平らげると、村上は、やっと、一息ついた。  「電話一本もらえば、迎《むか》えに行ったんですよ」  と、小池はお茶をすすりながら言った。  「いや、それは悪いですからね」  と、村上は言って、「——お茶を下さい」  店の女の子に声をかけた。  「もう五、六年前になりますね」  と、小池は言った。  ある殺人事《じ》件《けん》に関連して、村上の力を借りたことがあったのだ。このパッとしない、小《こ》柄《がら》な体《たい》躯《く》に、恐《おそ》ろしい力が秘《ひ》められていることを、小池はそのとき、学んでいたのである。  「七年前ですよ」  と、村上は言った。  「もう、そんなになるかなあ。——お互《たが》い、年齢《とし》を取るはずだ」  と、小池は笑《わら》った。  「頭が薄《うす》くなって、風邪《かぜ》をひきやすくなりました」  と、村上は真《ま》面《じ》目《め》くさった顔で言った。  「ところで、どうして東京へ?——仕事ですか」  と、小池が訊《き》いた。  「ええ。まあね。ちょっと教えていただきたいことがあって」  「私《わたし》が村上さんに? そいつは光栄だな。何の件《けん》です?」  「実は、四年前のことですが、伊《い》波《ば》伸《しん》二《じ》という作家の妻《つま》が殺されたでしょう」  「あの件ですか」  と、小池は、ちょっと目を見開いた。「よく憶《おぼ》えてますよ。——残念ながら、迷《めい》宮《きゆう》入《い》りになったが」  「その件を、小池さんが担《たん》当《とう》されたとか——」  「ええ、そうでした」  「はっきり言って、伊波がクロという確《かく》率《りつ》はどのくらいありました?」  「そうですねえ」  と、小池は考え込《こ》んだ。「何と言っていいのか……」  「もちろん、これは公式にうかがっているわけじゃありませんよ」  「それは分っています。私が難《むずか》しいと言うのは——当時、伊波が不《ふ》起《き》訴《そ》処《しよ》分《ぶん》になった段《だん》階《かい》では、九十九パーセント、いや百パーセント、伊波が犯《はん》人《にん》に違《ちが》いない、と信じていましたよ」  「それは当然でしょうな」  「しかし、今となっては……」  「今は?」  ——小池は、しばらく黙《だま》っていたが、やがて、腕《うで》時《ど》計《けい》を見ると、  「今夜は私の家へ泊《とま》って下さい」  と言い出した。  「いや、どこか安いホテルを取りますよ」  「ゆっくり話をするには、私の家が一番ですから」  と、小池は言い張《は》って、村上に承《しよう》知《ち》させてしまった。  「——申《もう》し訳《わけ》ありませんね」  「いや、とんでもない。明日は戻《もど》られるんでしょう? 列車の手配は任《まか》せて下さい」  「そんなことは——」  「駅まで送りますよ。——ともかく、大事なお客様だ」  小池はそう言って、ニヤリと笑《わら》った。  「分りました。お言葉に甘《あま》えましょう」  と、村上は肯《うなず》いた。  二人は外へ出た。  「——今日は早く帰れると思います。どこか他へ回られる所があれば」  「ええ。二、三、人に会う用事もありましてね」  と、村上は言った。「警《けい》視《し》庁《ちよう》へまた顔を出しますよ」  「六時ごろに来て下されば、もう手が空いていると思います」  「そうしましょう」  と、村上は肯いた。「ところで、お宅《たく》は——確《たし》か、前にお会いしたとき、奥《おく》様《さま》を亡《な》くされたばかりでしたね」  「ええ」  と、小池は肯いた。「最近、再《さい》婚《こん》しましてね」  「ほう。それはおめでとうございました」  「いやいや」  小池は、柄《がら》にもなく、ちょっと照れている様子だった。  「——では、私はここから地下鉄に乗りますから」  村上はそう言ってから、「女《によう》房《ぼう》に言われて来たんですが、六《ろつ》本《ぽん》木《ぎ》の何とかいうケーキ屋のクッキーを買って来い、と。どの辺ですかね?」  と訊《き》いた。  「——さあ、どうぞお上り下さい」  と言われて、村上はちょっとためらってしまった。  「さあさあ、上って上って」  と、小池にせかされるようにして、上り込《こ》む。  「女房の律《りつ》子《こ》です」  と、小池が紹《しよう》介《かい》したのは、まだ二十代——せいぜい三十になるかならずの、若《わか》々《わか》しい美人だった。  「どうも。村上です」  と、頭を下げる。「律子さん、とおっしゃるんですか?」  「はい」  その若《わか》妻《づま》と小池が、ちょっと目を交わした。  「さすがは村上さんだ」  と小池は言った。「お気付きですな。律子の旧《きゆう》姓《せい》は和田というのです」  「すると——」  「そうですよ」  と小池が肯《うなず》く。「律子は、伊波伸二の、問題の愛人だったのです」  ——村上は、律子の手料理に、舌《した》つづみを打った。  「いや、大したもんだ! 小池さん、いい奥《おく》さんをもらわれましたな」  「そう言って下さると嬉《うれ》しいですな」  「こんなに料理の上手《うま》い女《じよ》性《せい》なら、伊波の愛人でなく、祖《そ》母《ぼ》だって結《けつ》婚《こん》したいくらいですよ!」  村上の言葉に、小池も律子も大《おお》笑《わら》いした。村上は、巧《たく》みに、固くるしくならずに話を始めるきっかけを作ったのだった。  「——じゃ、あの人は、今、そんな所に引っ込んでいるんですの?」  と、律子は話を聞いて目をパチクリさせている。  「意外ですか」  「いえ。——でも、都会の暮《くら》しに慣《な》れた人ですもの。そんな所じゃ、不便でしょうに……」  「すると村上さん」  と、小池が言った。「その謎《なぞ》の血《けつ》痕《こん》の一《いつ》件《けん》が、伊波と関係あり、とみておられるんですね?」  「いや、そうじゃないのです」  村上はあわてて手を振《ふ》った。「おそらく、関係ないでしょう。しかし、調べている内に、妙《みよう》なことが分って来ましてね」  「といいますと?」  「今、お話しした通り、伊波の様子を、監《かん》視《し》させていたんです。といっても、地元の警《けい》察《さつ》では、張《は》り込《こ》みをするような人手はありませんから、どうしてもちょくちょく見回る、というくらいなんですが」  「何かやったんですか」  「女がいるんですよ」  「まあ」  と、律子は言った。「それなら別に不思議でも何でも——」  「それはそうです。しかし、その女が、まるで外へ出て来ない、というのは、妙じゃありませんか」  「顔を出さないんですか」  「全く、です。ためしに、伊波が出かけたときを狙《ねら》って電話してみたのですが、電話にも出ない」  「どんな女ですの?」  と、律子は訊《き》いた。  「分りません。見たことがないのです」  「じゃ、どうして女がいる、とお分りになりましたの?」  「伊波が町へ買物に出たのです」  と、村上は言った。「ちょうど、酒井という若《わか》い巡《じゆん》査《さ》がいまして、非番だったのですが、伊波のことを見《み》張《は》っていたわけです」  「で、尾《び》行《こう》した、と——」  「伊波はいつも一番近い町のスーパーで買物をします。まあ、当然のことでしょうけどね……。あ、奥さん、申《もう》し訳《わけ》ありませんがお茶を——」  「はい。失礼しました」  「いや、お茶までおいしいような気がしますよ」  と、村上はため息をついて、「うちの古《ふる》女《によう》房《ぼう》などは、淹《い》れるお茶まで出がらしで……。いや、失礼」  律子がクスクス笑《わら》っている。  「ところが、その日は、伊波が、わざわざ三十キロもある隣《となり》の町へ出かけて行ったのです」  と、村上は続けた。「そこで、酒井は、伊波が何の買物をするか、見ていたのです」  「何でしたの?」  「何だか、やけに汗《あせ》をかきながら、女の店員にメモを渡《わた》して、これだけの物をくれ、と言ったそうです。——女店員が両手にワンサとかかえて来たのは——女物の衣類だったんです」  「衣類、といいますと……」  「下着からブラウス、それにパジャマまで、全部です。加えて、ローションだのシャンプー、生理用品まで買って行ったのですよ」  「じゃ、本当に女《じよ》性《せい》がいるんですね」  と、律子は肯《うなず》いた。「もうこりたと思ってたのに!」  「しかし、なぜ女が自分でそれを買いに出なかったのかな?」  と、小池は言った。「隣の町なら、別に構《かま》わんと思いますがね」  「そこなんですよ」  と、村上は言った。「伊波としては、恋《こい》人《びと》がいることを隠《かく》しておく必要はないと思うのです。伊波に今、恋人ができても、誰《だれ》も文《もん》句《く》はいいません。それなのに——」  「なぜ女は出て来ないのか」  「その通りです」  小池は、ちょっと顎《あご》を撫《な》でて、  「で、四年前の事《じ》件《けん》と、何か関連があるかもしれん、と思われたんですね?」  「そうなんです」  「分ったわ」  と、律子が言った。「村上さんは、その女が四年前の恋人——つまり、私《わたし》かもしれない、と思われたんですね」  「いや、これは鋭《するど》い!」  村上は、ポンと禿《は》げた頭を叩《たた》いた。  「なるほど。それなら、顔を隠《かく》すのも、分らないでもない……」  「ああまですることはないでしょうがね。——しかし、ともかくそのカンは見事、大《おお》外《はず》れ!——ですな」  と、村上は笑《わら》った。  「でも、妙《みよう》な話ですのね」  律子は、食事の後《あと》片《かた》付《づ》けをしながら言った。  「——もし、あの女が、昔《むかし》の恋人でなかったら、ぜひ、昔の恋人に、会って話して行こうと思っていたんです」  と、村上は言った。  「私に何か?」  「つまり——いや、今、こうやってお会いすると、質《しつ》問《もん》しても仕方ない、と思うんですがね」  「どうぞ、何なりと」  律子は、村上の前に座《すわ》った。  「いや、つまり——あのとき、伊波のアリバイを証《しよう》言《げん》したのは、あなた一人でしたね」  「そうです」  「あれは、総《すべ》て事実だったんですか」  律子は、静かに肯《うなず》いた。  「はい。あの人は奥《おく》さんを裏《うら》切《ぎ》ってはいたかもしれませんが、殺してはいません」  「すると、完全なアリバイがあったわけですね?」  「完《かん》璧《ぺき》です」  「途《と》中《ちゆう》抜《ぬ》け出して、とか——」  「トイレに立った五分間ぐらいですわ。でも、その間に奥さんを殺すには、超《ちよう》音《おん》速《そく》ジェットにでも乗っていかなくては、とても不《ふ》可《か》能《のう》です」  「なるほど」  村上は肯いた。「いや、よく分りました。——してみると、結《けつ》論《ろん》は一つだ」  「といいますと?」  「いや、伊波の所に女がいる、それは確《たし》かです。しかし、伊波には、女を隠《かく》す必要はない……」  「つまり……」  「女の方に隠れる必要がある、ということです」  と、村上は言った。 8 男と女  「少し進んだ?」  ドアが開いて、少女が顔を出す。  「おいおい——」  伊波は苦《く》笑《しよう》した。「十五分前に覗《のぞ》いたばかりじゃないか」  「だって気になるんだもの」  少女は、後ろに手を組んで、入って来ると、伊波の肩《かた》越《ご》しに、原《げん》稿《こう》用《よう》紙《し》を覗き込《こ》んだ。  「あら、たったこれだけ?」  と、がっかりしたような声を出す。  「十五分なら、こんなもんだよ」  「でも、一、二……たった十行よ」  「考えながら書いてるんだぞ」  と、伊波は笑《わら》った。「さあ、子《こ》供《ども》はもう寝《ね》るんだ」  「だって、気になるのよ」  と、少女は、ちょっとすねたように、下を向いた。  「何が?」  「私《わたし》が来て、小説書けなくなった、なんて言われたら、困《こま》るもの」  伊波は、ちょっと意外な気がして、少女を見つめた。  「——気持は嬉《うれ》しいがね」  と、伊波は微《ほほ》笑《え》みながら言った。「君が来たことぐらいで、書けなくなったりはしないよ」  「割《わり》と影《えい》響《きよう》力《りよく》ないのね」  と、少女は笑《わら》った。「——分った、寝《ね》るわ!」  「よし」  「おやすみなさい!」  少女は、ドアの所で、ピッと直立して、敬《けい》礼《れい》した。  どこまで真《ま》面《じ》目《め》なのか。——伊波は、閉《しま》ったドアの方を見て、首を振《ふ》った。  今の若《わか》い世代は、真面目かと思うと冗《じよう》談《だん》で、ふざけているのかと思うと、えらく真面目だったりする。  もう、伊波などの理《り》解《かい》を絶《ぜつ》しているのである。  ペンを置いて、伊波は、立ち上った。  あの少女が来てから、小説を書く方は、むしろはかどっていた。外界の刺《し》激《げき》が、新《しん》鮮《せん》だったのかもしれない。  伊波は仕事部屋を出て、そっと少女の寝ている部屋のドアを開けた。  どうせ起きていて、  「あ、狼《おおかみ》が来た!」  と、クッションを投げつけて来るだろうと思ったが、今夜は、スースーと寝息をたてている。  「珍《めずら》しいな」  と呟《つぶや》いてそっとドアを閉《し》めた。  下へ降《お》りて、台所へ行くと、コーヒーが作ってある。  あの少女の、唯《ゆい》一《いつ》の「仕事」であった。  カップにコーヒーを入れ、居《い》間《ま》で一休みする。  「そうか……」  と、伊波は、カレンダーを見ながら、思った。  あの少女がやって来て、もう一週間たっているのだ。  この二、三日は、何となく、「日《にち》常《じよう》のルール」みたいなものが出来始めて、少女も、のびのびと動くようになっていた。  いつまで、こんなことを続けているんだろう?  伊波は、確《たし》かに、この状《じよう》況《きよう》を楽しんでもいた。  この状況、というのは、つまり、少女は相変らず、名前も知らない、と言い張《は》っているし、といって、行方《ゆくえ》不《ふ》明《めい》の届《とどけ》も出ていない、ということだ。  一体、あの少女がどこから来たのか、まるで謎《なぞ》であった。  なぜ、誰《だれ》も、あの少女を捜《さが》していないのだろうか?  いや、もちろん、あの少女が、はっきり何かの目的を持って、伊波の所にやって来ていることも考えられる。  それなら、当然のこと、捜《そう》索《さく》願《ねがい》など出ていないわけである。  しかし、その目的とは何か?——それを考え始めてしまうと、わけが分らなくなって来る。  伊波は、そんなに金持ではない。  それに、作家の愛人になって楽をしようという女にしては、まるで彼《かれ》に好《す》かれようとはしない。  正直なところ、伊波は、あの少女に指一本触《ふ》れてはいないのである。  「子《こ》供《ども》」と、口では呼《よ》んでいるが、体つきは、普《ふ》通《つう》の男《だん》性《せい》の心をそそる程《てい》度《ど》には、充《じゆう》分《ぶん》に女っぽい。  時々、伊波も、このままあの子をベッドへ押《お》し倒《たお》してやりたい、と思うこともある。男なら当然のことだろう。  しかし、実《じつ》際《さい》にはやっていない。  それは、一つには、この謎《なぞ》めいた緊《きん》張《ちよう》の状《じよう》態《たい》を壊《こわ》すのが、惜《お》しいからでもあった。  謎は謎のまま、手をつけずにおきたい。そんな気もしているのである。  「あなた——」  と、律《りつ》子《こ》はそっと夫《おつと》へ声をかけた。「あなた」  「何だ?」  と小池が呟《つぶや》くように言う。  「起きてたの」  「ああ。——どうした?」  「村上さん、もう眠《ねむ》ったかしら?」  「たぶんな。どうしてだ?」  「別に」  律子は、布《ふ》団《とん》の中で、夫の方へ体を向けた。  「——面《おも》白《しろ》い人ね」  「凄《すご》腕《うで》なんだ」  と小池は言った。「見かけは頼《たよ》りないが、とんでもない」  「前にも話を聞いたことあるわ」  「そうだったかな」  「——今ごろ、あの人のことを聞くとは思わなかった」  「伊波のことか」  「ええ」  「あの事件の後、伊波と会ったことがあるのか?」  「いいえ。あれきり。自《し》然《ぜん》消《しよう》滅《めつ》よ」  「——妙《みよう》な縁《えん》だな」  と、小池は言った。  小池が、律子と再《さい》婚《こん》したのは、一年ほど前である。  きっかけは、その半年ほど前に、町でひょっこり律子と会ったことに始まる。  もちろん、律子にしてみれば、ひどい目にあった恨《うら》みがあるが、二年余《あま》りの年月は、律子を大人《おとな》にしていた。  律子が、買物の袋《ふくろ》を両手一《いつ》杯《ぱい》に下げて苦労しているのを見て、小池が駐《ちゆう》車《しや》場《じよう》まで運んでやった。  そのお礼に、律子は小池を車で、近くの駅へと送って行った。ところが、途《と》中《ちゆう》で車がエンコして、結局、小池が油だらけになって修《しゆう》理《り》するはめになったのである。  ——そんなことから、小池は律子と時々会うようになって、たちまち恋《こい》へと変って行ったのである。  再《さい》婚《こん》ということもあって、式はごく内《うち》輪《わ》のものだったから、同《どう》僚《りよう》でも、律子が、かつての伊波の愛人と知っている者は、ほとんどなかった。  「——その血《けつ》痕《こん》だけが残っていた事《じ》件《けん》と、伊波の恋人と、どういう関係が、あるのかしら?」  「分らんな」  と、小池は首を振《ふ》った。「しかし、村上さんは、あると思っているよ」  「そうらしいわね」  「そして、あの人のカンは、たいてい、当るんだ」  「私《わたし》のことは当らなかった」  「当り前だ。誰《だれ》だって、思ってもみないだろうさ」  と、小池は笑《わら》った。  「でも、伊波も、妙《みよう》な恋人を見つけたものね」  「変ってるんだろ、当人も」  「そうね」  と、律子は肯《うなず》いた。「やっぱり、ちょっと変ってて、そこが魅《み》力《りよく》だったんだけど……」  「おいおい、ドキッとするようなことを言うなよ」  「馬《ば》鹿《か》ね」  と笑って、律子は、夫《おつと》に軽くキスをした……。  伊波は欠伸《あくび》をした。  もうだめだ。——寝《ね》よう。そろそろ午前四時になる。  これ以上、頑《がん》張《ば》っても、はかどらない、と分ったのだ。  別に締《しめ》切《きり》に追われているわけでもないのだ。  たっぷり眠《ねむ》ろう。——売れない作家の特《とつ》権《けん》だ。  伊波は、明りを消してから、ふと、窓《まど》の鍵《かぎ》をかけたかな、と思った。  気にし出すと気になる性《せい》質《しつ》である。  カーテンを開けた。——鍵は、ちゃんとかけてある。  そのとき、伊波は、表にチラっと動く人《ひと》影《かげ》を見た。  上からなので、はっきりはしなかったが、確《たし》かに、動いたのだ。  誰だろう?  伊波は急いで下へ降《お》り、玄《げん》関《かん》の鍵を確かめた。——外へ出て行くような度《ど》胸《きよう》はない。  武器を持っているわけでもないのだから。  あと二時間もすれば明るくなる。——ちょっと迷《まよ》ったが、起きていることにした。  こういう所で一人でいるのは、常《つね》にある程《てい》度《ど》の危《き》険《けん》と向い合っていることである。  しかし、今まで、そんなことはなかった。  念のため、伊波は、台所から、包《ほう》丁《ちよう》を取って来て、居《い》間《ま》のテーブルに置いた。  ——聞こえるのは風の音だけで、別に、怪《あや》しげなこともないままに、時は過《す》ぎて行ったが、その進み方は、いやに遅《おそ》かった。 9 消えた娘《むすめ》  「お手を煩《わずら》わせて、すみませんね」  と、村上が言った。  「いやいや、とんでもない」  車のハンドルを握《にぎ》っているのは、小池である。  「今年の冬は寒いですな」  村上は、助手席で腕《うで》組《ぐ》みをした。「骨《ほね》身《み》に応《こた》えます」  やせている村上がそう言うと、何となく実感があった。  「この先ですよ」  小池が言った。  車は住《じゆう》宅《たく》街《がい》の道を抜《ぬ》けて行く。——都内でも指《ゆび》折《お》りの高級住宅地だった。  「大きな家ばかりだな」  村上がため息をつく。「まるで別世界へ来た感じですな」  「私《わたし》も、いつもそう思いますよ」  小池は肯《うなず》いて、「世の中には、信じられんような金持がいるものなんですね」  「金というやつは不思議なもんです」  村上が考え深げに言った。「ある所には、どんどん集まる。なかなか平《へい》均《きん》して散らばってはくれません」  「だから犯《はん》罪《ざい》なんてものが起きるわけで——おっと、この角を曲るのかな」  車がカーブして、高い塀《へい》に沿《そ》って走る。門の前で車を停《と》めると、  「〈柴《しば》田《た》〉か。——ここですね」  「この塀、全部つながってるのか。いや凄《すご》いもんだ」  村上は感心ばかりしている。  「かなりの名門らしいですよ。入りましょうか。一《いち》応《おう》、電話はしてありますが」  「そうですね。いや、やっぱり小池さんに一《いつ》緒《しよ》に来ていただいて良かった。私一人じゃ、きっとこの門の前で、回れ右をしてしまったでしょう」  小池は、冷やかすように笑《わら》っただけだった。必要とあらば、村上がどんなに粘《ねば》る人間か、よく知っているのだ。  小池は車を降《お》りて、門のわきのインタホンのボタンを押《お》した。少し間があって、  「どなたですか」  と、女の声がした。  「警《けい》視《し》庁《ちよう》の小池と申します。午前中にお電話をさし上げましたが」  「うかがっております」  と、その女《じよ》性《せい》は即《そく》座《ざ》に言って、「車ですね? 門を開《あ》けますので、玄《げん》関《かん》まで車を入れて下さい」  「分りました」  小池は車に戻《もど》った。門《もん》扉《ぴ》が、軽くきしみながら開き始める。  「電動ですか。いや、大したもんだ!」  と村上がまた感心した。  柴田徳子は、いわゆる「大《たい》家《け》のお嬢《じよう》さん」が、そのまま中年になった、というタイプだった。  そろそろ四十五、六にはなろうという婦《ふ》人《じん》にしては、可愛《かわい》らしい白のセーターと、赤いスカート。  それが、あまりおかしく見えないのは、たぶん育ちのせいだろう。  「一体何のご用でしょう? 警《けい》察《さつ》の方にお手数をかけるようなこと、うちの者はしていないと存《ぞん》じますが」  おっとりとした口調で、迷《めい》惑《わく》というより、単《たん》純《じゆん》に面白がっているという様子だった。  「いやいや、決してこちらのお宅《たく》について、というわけじゃないのです」  と、小池は言った。「——ここをご存《ぞん》知《じ》ですか」  小池は、ポケットから、一枚《まい》の写真を出して、テーブルに置いた。  村上は、出された紅《こう》茶《ちや》を、しきりに、  「いや、さすがにおいしい!」  と、感心しながら飲んでいる。  「あら、これは……」  柴田徳子は、その写真を取り上げて、「うちの別《べつ》荘《そう》じゃありませんかしら? もっとも、以前は、ということですが」  「そうです。五、六年前に手放された」  「もう五年も前かしら?——そうですね、そうかもしれません」  と、徳子は肯《うなず》いた。  「手放されたときの事《じ》情《じよう》をうかがわせていただけませんでしょうか」  「それは構《かま》いませんが……」  と、徳子は、ちょっといぶかしげに言った。「ただ、なぜ今ごろそんなことをお調べなのか、聞かせていただけませんかしら?」  「いや、ごもっともです」  と、小池は言った。「実は最近、この別荘で奇《き》妙《みよう》なことがありまして——」  「私《わたし》がお話ししましょう」  と、村上が、空になったティーカップを置いた。  村上は、別荘の二階の一部屋が、明らかに使われていたらしいことを説明し、そこに血《けつ》痕《こん》が発見されたのだと言った。  実際に使われていたはずがない、とは言わなかった。  徳子は、話を聞いて、目を丸くした。  「まあ、妙《みよう》なお話ですこと!」  「それで、あの別荘を所有している不動産屋に当ってみたところ、以前の持主はこちらだとうかがいまして、何か手がかりになるようなことでもご存《ぞん》知《じ》ないか、とやって来た次《し》第《だい》なんです」  「そうですか」  「ともかく、何の手がかりもないものですから、溺《おぼ》れる者は何とかというわけでして……」  「それは大変ですわね」  と、徳子は肯《うなず》いた。「でも、残念ながら、五年前に、不動産屋さんに買い取っていただいてから、うちはあそこには行ったこともありませんのよ。とても、お力になれそうもありませんわ」  「そうですか……」  村上はオーバーにため息をついて見せた。  「もしよろしければ——」  と、小池が言った。「ここを手放した理由をお聞かせ願えませんでしょうか」  「そうですね……。理由と言っても」  と、徳子は肩《かた》をすくめた。「要するに使わなくなった、というだけのことです」  「そうですか」  「以前は十か所ほど別荘を持っていたのですが、家族もみんな忙《いそが》しくなり、めったに利用しなくなりました。中には二、三年、一度も行かない所もあって、これはいくら何でもむだだというので、三つほど残して、処《しよ》分《ぶん》してしまったんです。あれもその一つですわ」  「それでも三つ残っているんですか」  と、村上が、またため息をついた。  「すると、その後に、この別荘を誰《だれ》かに使わせたとか、そんなこともなかったんですね?」  「それ以後のことは、私の方は一《いつ》切《さい》知りません」  徳子は首を振《ふ》った。「その不動産屋さんが、誰かに貸《か》しているかもしれませんが、そこまでは存《ぞん》じません」  「ごもっともです」  小池は、肯いて、「ただ、あそこで何かがあったのは確《たし》かなようなんです。なぜ、あそこが選ばれたのか、そこが一つ、気になりまして。——ただ偶《ぐう》然《ぜん》だったのか、それとも何かあそこを選ぶ理由があったのか。その辺で、何かつかめれば、と思ったものですから」  「お話はよく分りました」  と、徳子は、別に怒《おこ》った様子もなく、「でも、残念ながら、何も思い当ることはありませんわ」  と言った。  「そうですか。——いや、お忙《いそが》しいところ、お手間を取らせました」  と、小池が立ち上る。  「いいえ。お役に立てなくて残念ですわ」  と、徳子は穏《おだや》かに言った。  「広いお家ですねえ」  玄《げん》関《かん》へと歩きながら、村上が言った。「ご家族は大勢いらっしゃるんですか?」  「いえ、主人と私《わたし》だけです」  徳子の言葉に、村上はまた目をむいた。  「ここに、たった二人で?」  「もちろん、他に使用人もおりますけど」  「はあ。——いや、大したものですな」  村上は、他に言葉を知らないかのようだった。  小池と村上が車で、建物の玄関前を出て、門の方へ向うのを、徳子が見送っていた。  「——どう思います?」  と、小池が訊《き》くと、村上は、  「何か隠《かく》していますね、あの夫《ふ》人《じん》は」  と言った。  「ほう」  「女《じよ》性《せい》は、普《ふ》通《つう》、あの手の話題には、大いに興《きよう》味《み》があるものですよ。たとえ、自分が本当に無《む》関《かん》係《けい》でも、もっとあれこれ訊《き》いて来るのが普通です。しかし、あの女性は、ほとんど興味を示さなかった。——あれは妙《みよう》ですな」  「なるほど」  と、小池は言った。  車が門を出る。——そして通りを走り出そうとして、小池は、あわててブレーキを踏《ふ》んだ。  目の前に、男が立っていたのだ。  「危《あぶ》ないな、全く!」  と、小池は腹《はら》立《だ》たしげに呟《つぶや》いた。  刑《けい》事《じ》が人をはねたのでは、たとえ向うが悪くても、大問題になる。  「小池さん」  と、村上が言った。「何か話があるようですよ」  なるほど、その男は、車のわきへ回って来ると、小池の顔を、覗《のぞ》き込《こ》むように見ている。  見たところ五十歳《さい》ぐらい。いや、もう少し年齢《とし》がいっているかもしれない。  なかなか、いい身なりはしているが、ネクタイのしめ方がなっていなかったり、髪《かみ》の毛が、洗いっ放しのようにめちゃくちゃだったり……。  どことなく、おかしいなと思わせる男だった。  小池は窓《まど》を降《おろ》した。  「——何です? 危《あぶ》ないじゃありませんか」  と言ってやると、男は、  「いや、申《もう》し訳《わけ》ない、本当に」  と、早口に言った。「警《けい》察《さつ》の方ですね?」  小池と村上は、ちょっと顔を見合せた。  「そうですよ。あなたは?」  「私は柴《しば》田《た》です」  「柴田さん……。するとこの家の?」  小池がびっくりして訊《き》く。  およそ、こんな大《だい》邸《てい》宅《たく》に住む人間とは見えない。  だが、その男、小池の問いには答えずに、  「娘《むすめ》が見付かったんですか? 教えて下さい!」  と懇《こん》願《がん》するように言った。  「娘? 何のことです?」  小池が訊き返すと、柴田と名乗った男は、急にガックリと肩《かた》を落とし、  「そうですか……。いや、期待していたわけじゃないんですが」  と首を振《ふ》った。  「柴田さん、その娘さんとおっしゃるのは——」  と小池が訊《き》こうとしたとき、  「あなた!」  と鋭《するど》い声が飛んで来た。  振り向くと、柴田徳子が、どうやら走って来た様子で息を弾《はず》ませている。  「徳子……」  「どうして黙《だま》って出てしまったの?」  「すまん」  柴田は、まるで母親に叱《しか》られた子《こ》供《ども》のように、うなだれている。  「早く部屋へ戻《もど》るのよ! さあ!」  徳子の言葉に、柴田は、力ない足取りで歩き出した。  「部屋へ戻って、よく眠《ねむ》るのよ、分った?」  徳子の厳《きび》しい言葉に、柴田は、ただ黙って肯《うなず》くだけだった。  しかし、小池としても、このまま聞かなかったことにして済《す》ますわけにはいかない。  車から出ると、  「今、ご主人のおっしゃっていた、娘《むすめ》さんというのは何のことです?」  と訊いた。  「何でもありませんわ。主人は、少しおかしくなってますの」  「理由は何だったんです? その『娘さん』のこと、何か関係でも?」  「そんなこと——」  と、徳子はムッとした様子で言いかけたが、思い直した様子で、「いいわ、お話ししましょう」  と息をついた。  かくて、小池と村上は、また邸《てい》内《ない》に逆《ぎやく》戻《もど》りすることになったのである……。  「これが侑《ゆう》子《こ》です」  と、徳子がアルバムのページを広げて言った。  小池と、村上は、そのアルバムを覗《のぞ》き込《こ》んだ。——そこには、十二、三歳《さい》の女の子が微《ほほ》笑《え》んでいる。  大方、ピアノの発表会か何かの記念写真だろう。白いロングドレスに、花《はな》束《たば》をかかえている。  可愛《かわい》い少女だった。  「遅《おそ》く生まれた一人っ子で、主人も私《わたし》も、溺《でき》愛《あい》といってもいいほど可愛がっていました」  と、徳子は言った。「ところが、五年前のことです——」  「思い出しました」  と、村上が言った。「行方《ゆくえ》不《ふ》明《めい》になられた——」  「そうです。それも、あの別《べつ》荘《そう》に泊《とま》っているときでした。侑子は、近くで遊ぶと言って、一人で出て行きました。——それきり、帰って来なかったのです」  村上は、じっと考え込《こ》みながら、  「あの事《じ》件《けん》のあったとき、私は他の殺人事件で追われていました。しかし、あの一帯を必死で捜《そう》索《さく》していたことは、よく憶《おぼ》えていますよ」  「あの子は、よく親の言うことを聞いていました」  徳子はため息をついた。「決して、別荘から遠くへ行ったり、知らない人について行ったりはしない子です。それでいて、侑子は行方不明のまま見付からず、死体も発見されませんでした……」  「それで別荘を手放されたんですね。無《む》理《り》もない」  と、村上は肯《うなず》いた。  「私にも、むろん大変なショックでした」  「それはそうでしょう」  「でも主人は——」  と、徳子はちょっと寂《さび》しげに笑《わら》いを浮《う》かべた。「主人には、あの子は正《まさ》に宝《たから》物《もの》だったのです」  「その後、ああいう風に?」  「ええ。もう何年にもなります」  「治《ち》療《りよう》はなさっておいでですか」  「いいえ。——もちろん、そのときには、色々とお医者様に見せていたのですが、結局、時のたつのを待つしかない、ということで……」  「辛《つら》いことですな」  村上が同《どう》情《じよう》するように言った。  「ありがとうございます」  徳子が、軽く頭を下げる。  「ご主人は、お嬢《じよう》さんが生きているとお考えなんですね?」  「そう信じているようです」  「なるほど」  徳子は、ちょっと目を伏《ふ》せて、  「でも——考えてみれば、わけの分らない赤ん坊というのならともかく、十歳《さい》といえば、分《ふん》別《べつ》のある年《ねん》齢《れい》です。どこかに生きていれば、戻《もど》って来ないはずはありません」  村上はゆっくりと肯《うなず》いた……。  村上と小池は、再《ふたた》び柴田家を辞《じ》した。  車が、ごく普《ふ》通《つう》の大通りに出て、信号で停《とま》ると、小池が軽く息をついた。  「何となくホッとしますな」  「同感です」  と、村上が肯く。「あの家は、一《いつ》風《ぷう》変っている」  「どこか分らんが、息苦しいようなところがありますね」  「あの徳子というのは、なかなかの人ですね」  「ええ、活動的な女《じよ》性《せい》なんですよ。そうは見えないでしょう? しかし、実《じつ》際《さい》は、色々な運動に名を連ねているし、それも名《めい》目《もく》だけ、というのではなく、本当に働いているらしいですよ」  「ほう」  「娘《むすめ》を亡《な》くした寂《さみ》しさから逃《のが》れるためなのかもしれませんね」  「娘を亡くした……か」  村上は、信号が青に変るのを見ながら、「普《ふ》通《つう》、世の母親は、目の前で子《こ》供《ども》が死んでも、それをなかなか信じようとはしないものですよ。特《とく》に、行方《ゆくえ》不《ふ》明《めい》で、死体も見付かっていない。——それにしては、あの母親、いやに諦《あきら》めがいいとは思いませんか」  「そうですね、確《たし》かに」  小池はハンドルを握《にぎ》りながら、「何か、あるとお考えですか?」  と訊《き》いた。  「いやいや」  村上は、ちょっと笑《わら》って、「本来の事件とは関係ありますまい。しかし、ちょっとでも腑《ふ》に落ちんことがあると、気になるたちでしてね」  「そこが村上さんらしいところだな」  小池は、車のスピードを少し落しながら、言った。「——どうです? うちへお寄《よ》りになりませんか?」  「それはどうも。でも、先日お邪《じや》魔《ま》したばかりですよ」  「構《かま》やしません。律《りつ》子《こ》も喜ぶでしょうから」  「そうだといいのですが……」  村上は、何だか独《ひと》り言《ごと》のように呟《つぶや》いた。 10 二人だけの舞《ぶ》踏《とう》会《かい》  「お体の具合でも悪かったんですか」  と、コーヒーを出しながら、店の主人が訊《き》いた。  「ん?——何か言ったかね?」  伊波は顔を上げた。  「いや、このところ、あまりおみえにならんもんですから、ちょっと気にしてたんですよ」  ——山小屋風の喫《きつ》茶《さ》店《てん》である。  伊波は、窓《まど》際《ぎわ》の席について、外の雪を眺《なが》めていた。  風がないので、降《ふ》り方は穏《おだ》やかだった。  「ああ、そうか」  伊波はちょっと笑《わら》った。「心配かけて申《もう》し訳《わけ》ない。——いや、別に具合が悪いとか、そんなことじゃないんだ」  「それならいいんですが」  と、店の主人は、カウンターの中へ戻《もど》りながら、  「スーパーのかみさんも言ってたんですよ。先生が、あまりみえないようだけど、って」  なるほど、と伊波は思った。  このところ、あの少女の物を買ったりする必要もあるので、遠くのスーパーへ出ることが多くなっていた。  全く、こういう所では、何も隠《かく》しごとはできない。  「仕事の方が、ちょっと忙《いそが》しくてね。つい出なくなってたんだ」  と、伊波は言った。  仕事が? 馬《ば》鹿《か》らしい! 我《われ》ながら、何と下手《へた》な言《い》い訳《わけ》だろう、と思った。  「じゃ、結《けつ》構《こう》な話ですね」  店の主人は、まともに受け取ったらしい。「でも、ちゃんと食べるものは食べないと、体に悪いですよ」  「食べてるさ、心配するな」  伊波は、ゆっくりとコーヒーをすすった。そういえば、ここでコーヒーを飲む回数も減《へ》った。  どういうわけか、あの、何もできない少女が、コーヒーの淹《い》れ方だけは上手なのである。おかげで、ここへ来る必要がなくなったのだ。  「もし、何かいる物があったら、届《とど》けますよ。電話して下されば」  と、店の主人が言った。  伊波は、ちょっと苛《いら》立《だ》って、放っといてくれ、と言いたくなったが、長い付き合いのこの主人と、気まずい仲《なか》にはなりたくなかったので、  「そのときは頼《たの》むよ。ありがとう」  と、微《ほほ》笑《え》んだ。「——よく降《ふ》るねえ」  話を変えようとして、伊波は窓《まど》の外を眺《なが》めた。  実《じつ》際《さい》のところは、この辺にしては、そう大した雪でもなかったのだが……。  「今日はお買物ですか?」  と、店の主人が、カップを洗いながら言った。  「いや、ちょっと郵《ゆう》便《びん》局《きよく》へ行くんだ。用があってね」  「なるほど、原《げん》稿《こう》を送るんですか」  「いや、それならいいんだがね。大したことじゃない」  伊波はコーヒーを飲み干《ほ》した。  いつもなら、暇《ひま》を潰《つぶ》してくれるので、自分から飛びついて行く、店の主人の雑《ざつ》談《だん》が、今日は煩《わずらわ》しい。早く、出てしまいたかった。  「どうも」  「——ちょっと細かいのを切らしちまった。つりはあるかね?」  「じゃ、この次でいいですよ」  「そうかい? 済《す》まんね。じゃ、そっちで憶《おぼ》えていてくれ」  伊波はマフラーを首に巻《ま》きつけて、言った。  「そうします。利《り》子《し》をつけてね」  二人は笑《わら》った。  伊波は喫《きつ》茶《さ》店《てん》を出て、膝《ひざ》まで潜《もぐ》る、深い雪の中を、郵便局に向って歩き出していた。  車で行ってもいいが、それほどの道のりではない。  しかし、雪の中を歩くのは、思ったよりも苦労だった。  車にすれば良かったかな、と思って顔を上げると、郵便局の前だ。  中へ入ると、暖《だん》房《ぼう》が入って、汗《あせ》ばむくらいだった。  「はい」  と、女子の職《しよく》員《いん》が出て来る。  「これを頼《たの》む。——書《かき》留《とめ》で」  「少し日にちがかかりますよ」  と、伝票を書きながら言った。  「ああ、構《かま》わない。——いくらだね?」  と伊波は訊《き》いて、料金を払《はら》った。  「じゃ、よろしく」  と、出て行こうとすると、  「先生、ちょっと」  と、局員の一人が声をかけた。  「何だね」  先生と呼《よ》ばれるのも、何となく照れくさくなる。  「手紙があるんです。持って行っていただけますか?」  「ああ、いいよ」  「どうも。今、出します」  女子職員から、  「わあ、さぼってる!」  と、冗《じよう》談《だん》に声が上る。  「——お車ですか?」  と、職員が訊《き》いた。  「うん。ちょっと先に停《と》めてあるんだ」  「じゃ、運びますよ。小《こ》包《づつみ》もあるから」  「小包が?」  誰《だれ》だろう? 一《いつ》向《こう》に心当りはなかった。  「じゃ、行きましょう」  と、局員がかかえて来たのは、大きなみかん箱である。  伊波は、あわてて扉《とびら》を開けてやった。  車へ運ぶのは一苦労だったが、それでも、まだ若《わか》い局員なので、平気な顔で、トランクへ入れると、  「じゃ、これが手紙です。——どうも」  と、五、六通の封《ふう》筒《とう》を手《て》渡《わた》して戻《もど》って行く。  珍《めずら》しく郵《ゆう》便《びん》物《ぶつ》の多い日だな、と伊波は思った。  車に乗って、ゆっくりと走り出す。  ワイパーが、フロントガラスについた雪を払《はら》った。  チェーンを巻《ま》いたタイヤが、シュルシュルと音をたて、回り始めた。  ——あの少女が、伊波の所へやって来て、二週間たつ。  いや、半月、といった方が実感があった。  今日出て行くか、明日の朝は——と思っていたのだが、とうとう今日まで、出て行く様子もない。  「どうしたもんかな……」  と、伊波は呟《つぶや》いた。  微《び》妙《みよう》な心理の駆《か》け引《ひ》きだった。  このままずっと居《い》つかれても困《こま》るが、といって、追い出してしまうには、少女は伊波の生活の中へ食い込んで来ている。  他人はどう見るだろう?  中年の独《ひと》り暮《ぐら》しの作家。そして、奇《き》妙《みよう》な少女。  半月も、同じ家の中に寝《ね》起《お》きして、何もなかったといっても、誰《だれ》も信じまい。  伊波自身、もし少女がそんな素《そ》振《ぶ》りでも見せれば、抱《だ》いていたかもしれない。  しかし、彼女はたまに幼《おさな》く見えることがある。まだ十六か十七……。  そうなると、たとえ少女の合意の上でも、抱いたとすれば、伊波は罪《つみ》に問われることになるのではないか。  その方面の知識はあまりなかったが、やはり、危《あぶ》ない、という気はしていた。  その理《り》性《せい》が、伊波にブレーキをかけていたのだ。——ただ、「辛《かろ》うじて」と言った方がいいかもしれない。  これ以上、こんな形の同《どう》居《きよ》生《せい》活《かつ》を続けるのは危《き》険《けん》だった。  しかし、危険があるからこそ、魅《み》力《りよく》的《てき》でもあるのだ。——これはいわばゲームの面《おも》白《しろ》さだった。  あまりに単調だった伊波の暮しの中に、突《とつ》如《じよ》飛び込んで来た少女。  この刺《し》激《げき》が伊波を魅《み》了《りよう》したのも当然だったろう……。  林の中の道は、他の車が通らないので、雪が深い。  伊波は用心して、車を走らせた。——帰りつくのに、余《よ》計《けい》な時間がかかる。  それでも、やっと、別《べつ》荘《そう》の前に辿《たど》りついた。  「——ただいま」  伊波は玄《げん》関《かん》のドアを開けた。  「遅《おそ》かったのね!」  少女が台所から飛んで来た。  ダブダブのセーターと、ジーンズ。  どっちも、伊波が、遠くのスーパーで買って来た物である。  「途《と》中《ちゆう》で遭《そう》難《なん》したかと思ったわ」  「まさか」  と、伊波は笑《わら》った。「ああ、そうだ。小《こ》包《づつみ》が来てた。ちょっとドアを開けといてくれ」  伊波は車のトランクから、みかん箱を出して、運んで来た。そう重たいものではないようだ。  「何なの、それ?」  「分らないな。——ともかく居《い》間《ま》に運んで開けてみるよ」  居間の暖《あたた》かさに、少し体をほぐしてから、伊波は、封《ふう》筒《とう》の方は後回しにして、小包を眺《なが》めた。  差出人の名は、水《すい》溶《よう》性《せい》のペンで書いたらしく、にじんで見えなくなっている。ともかく開けてみよう。  少女が、ハサミを持って来た。  「どう? 気が利《き》くでしょ?」  「ありがたいけど、こういう紐《ひも》は、何かに使うことがある。ちゃんと手でほどいた方がいい」  「へえ。中年的発想ね」  と、少女が口を尖《とが》らせて言った。  「そうかな」  「私《わたし》、無《ぶ》器《き》用《よう》なのね。全部切っちゃうのよ、そういうの」  伊波は、紐を丁《てい》寧《ねい》に解《と》いて、外《はず》した。——ダンボールのみかん箱はガムテープで封《ふう》をしてある。それを裂《さ》いて、開くと、中から、ビニールの大きな包みがいくつか出て来た。  「何だこりゃ」  「洋服じゃないの? 見せて」  袋《ふくろ》の一つを逆《さか》さにすると、ワンピースやスカートがドサッと落ちた。  女物——それも若《わか》い娘《むすめ》の着る物ばかりなのだ。  「他の袋も見てみよう」と、伊波は言った。  一つの袋は、下着類だった。可愛《かわい》い柄《がら》の入った物もある。  そして、少し重い袋の中は、化《け》粧《しよう》品《ひん》だった。——化粧水、香《こう》水《すい》、香水石ケン、リンスまで入っている。  「どうしたの、これ?」  と、少女は呆《あつ》気《け》に取られている。  「僕《ぼく》だって分らないよ」  「でも、私にちょうどいいみたい。——ちょっと着てみる!」  と言うなり、少女はセーターとジーンズを脱《ぬ》いだ。  伊波に、向うを向けと言うでもなく、自分で背《せ》中《なか》を向けるでもない。あっけらかんとしているのである。  「どれにしようかな……。このワンピース、可愛《かわい》いね」  少女は、フリルのついた、何だかバレエの舞《ぶ》台《たい》ででも着るようなワンピースを、頭からスッポリとかぶった。  「わあ、ぴったりよ! 見て、ねえ!」  少女は、裾《すそ》の広がったワンピース——ドレスに近いようなものだった——でクルリと回って見せた。  「きれいだよ」  と、伊波は言った。  「あら、気のない言い方ね。でも、靴《くつ》がないわね。——ねえ! まだ何か入ってるわよ。靴じゃない?」  ——確《たし》かに靴だった!  白い、エナメルの靴。それは、少女の足にぴたりと合った。  こんなことがあるだろうか?  「すてき! こういう格《かつ》好《こう》って、大《だい》好《す》きよ!」  少女は、居《い》間《ま》の中を、まるで白い蝶《ちよう》のように駆《か》け回った。  伊波は、その美しさを目で追いながら、一体誰が、と考えていた。  誰がこれを送って来たのか? そして、誰が少女の靴のサイズまで知っていたのか?  「ねえ、今夜はパーティにしましょうよ。二人きりの」  「パーティ? 何のパーティだい?」  「何でもいいわ! お誕《たん》生《じよう》日《び》は?」  「まだ大分先のことだよ」  「いいじゃない。やりましょうよ。今日やって悪いってことはないわ」  いかにも少女らしい理由に、伊波は苦《く》笑《しよう》した。  ダンス音楽が流れる。  少し明りを落とした、薄《うす》暗《ぐら》い居《い》間《ま》に、二人はいた。  テーブルやソファをわきへ寄《よ》せ、中央を広くしてある。  伊波は、ワインを飲んでいた。——少女がやって来ると、  「踊《おど》りましょうよ。ねえ」  と、伊波の手をつかんだ。  「あまり踊れないんだよ、僕《ぼく》は」  「いいじゃないの。誰《だれ》も見ていないんだから——」  結局、伊波は立ち上って、少女と踊るはめになった。  少女は踊りが上手《うま》かった。少なくとも、ステップを一つ一つ考えながら踊らなくてはならない伊波に比《くら》べれば、ずっとベテランだった。  「うまいね」  「そう?」  少女が低い声で言った。  伊波は、少女の背《せ》に回した手に、その肌《はだ》のぬくもりを感じた。組んだ手に、少女の指のしなやかできゃしゃな感《かん》触《しよく》がある。  頬《ほお》が燃えた。——ワインのせいか?  そうかもしれない。きっとそうだ、と伊波は自分に言い聞かせた。  「どこで覚えた?」  と、伊波は訊《き》いた。  「何を?」  「踊《おど》りさ」  「知らないわ」  と、少女は肩《かた》をすくめた。「体が憶《おぼ》えてるのよ。私《わたし》じゃない」  そうかもしれない。——しかし、今、少女は少女でないようだった。  伊波の腕《うで》の中で「女」の香《かお》りを発散させている。  「君は不思議な子だな」  と伊波は囁《ささや》くように言った。  「そう?」  「どこから来て、何のためにここにいるのか……。君は知らないというが、ともかく、ここにいるということは、君がどこかから来たということだ」  「ややこしいのね」  少女は、ちょっと笑《わら》った。  笑うと、十二、三歳《さい》にも見える無《む》邪《じや》気《き》さ。そして、時には、ハッとするほど大人《おとな》びたなまめかしさを、その挙動に感じさせる。  ——そうだ。  この少女のことを知っている人間が、少なくとも一人はいる。  あの小包を送って来た「誰か」である。  「ねえ、先生」  「よせよ、先生ってのは」  「そう言われると、ますます言いたくなるわ」  と少女は微《ほほ》笑《え》んだ。「——私がいると迷《めい》惑《わく》?」  「さあね」  「はっきりしないのね」  「いい点も悪い点もあるからさ。人間と人間の関係なんて、みんなそうだ。誰かと付き合えば、プラスもマイナスもある。どっちを取るかが問題なんだ」  「先生の哲《てつ》学《がく》ね」  「そんなもんじゃない。——処《しよ》世《せい》術《じゆつ》さ」  「寂《さみ》しそうね、先生は、いつも」  「そうだな。仕方ないよ。自分で、こういう生活を選んだんだから」  「何もかも捨てて?」  「できる限《かぎ》りね」  「でも、何を捨てられた?」  伊波はハッとした。そうかもしれない。俺《おれ》は、何を捨てたのか?  相変らず原《げん》稿《こう》を書き、出《しゆつ》版《ぱん》社《しや》に電話をし、そして「先生」と呼《よ》ばれて、ひそかにいい気持でいるのだ。——俺は何を捨てたのだろう?  結局、何一つ、捨てられはしなかったのかもしれない。  少女がステップの足を止めた。  伊波が気付いたときは、少女の唇《くちびる》が、伊波の唇をふさいでいた。——カッと血が燃え立った。  伊波は少女の体を抱《だ》きしめようとした。少女がスルリと抜《ぬ》け出して、フフ、と笑《わら》った。  「おい——」  「今まで置いてくれたお礼よ」  と、少女は言った。「ああ、お腹《なか》空《す》いたわ!」  伊波は、いいように少女に遊ばれているような気がして、ちょっとムッとした。  「まだ雪、降《ふ》ってるの?」  少女は、窓《まど》の方へ歩いて行くと、カーテンをサッと開けた。  とたんに、  「キャッ!」  と悲《ひ》鳴《めい》を上げる。  「どうした?」  伊波が駆《か》け寄《よ》る。  「誰《だれ》かいたわ! ここを覗《のぞ》いてた!」  少女は、本当に青くなっている。嘘《うそ》ではないようだった。  「落ちつくんだ! 大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》だよ」  伊波は、少女の肩《かた》を抱《だ》いてやった。「——顔を見たか?」  「さあ……。よく分らなかったわ。薄《うす》暗《ぐら》いし。——でも、本当にここにいたのよ!」  「分った。調べてみよう」  「いや! 行かないで!」  少女は、伊波にしがみついた。凄《すご》い力だ。  「どうしてだい?」  「危《あぶ》ないじゃないの。武《ぶ》器《き》も何もないのよ」  それは確《たし》かにそうだ。しかし、放っておいていいだろうか?  「明日の朝になったら、見に行けばいいじゃないの。きっと何か跡《あと》が残ってるわ」  少女の言葉は、あまり腕《わん》力《りよく》に自信のない伊波にも都《つ》合《ごう》が良かった。  「分った。そうしよう」  少女は、ホッとしたように息をついた。  「じゃ、私《わたし》、もうお風《ふ》呂《ろ》に入って寝《ね》ることにする」  「ああ、そうした方がいい。僕《ぼく》は全部戸《と》締《じま》りを確《たし》かめておく」  「うん。——ありがとう」  少女は、伊波の頬《ほお》に軽くキスした。  少女が二階へ上って行ってから、伊波の顔は火のように熱くなった……。 11 再《さい》 会《かい》  「お久しぶり」  あまり思いがけない相手に会うと、人は却《かえ》って、驚《おどろ》かないものである。  伊波も例外ではなかった。——目の前の席に座《すわ》ったのは、律子だったのである。  「君か」  と、伊波は言った。  「変らないわね。——ちょっと、コーヒー下さい」  いつもの喫《きつ》茶《さ》店《てん》。——ここで知った顔に会うとは、伊波は思ってもいなかった。  昨日の雪と違《ちが》って、今日はよく晴れて、外をメガネなしで歩くと、まぶしくてたまらないくらいだった。  伊波は、朝、起き出すと、少女が目を覚《さ》まさない内に、外へ出てみた。  ゆうべ、あの子が悲《ひ》鳴《めい》を上げた窓《まど》の外へ回ってみる。  「なるほど」  ——雪の上に、人のいた跡《あと》が歴《れき》然《ぜん》としている。  少なくとも、幽《ゆう》霊《れい》ではなかったわけだ。  しかし、そこからどこへ消えたかは、雪が降《ふ》りつもって、跡を消してしまったので、分らなかった。  窓の下は、上のひさしがあって、跡が残ったのである。  これは考えなくてはならない。  前にも、この家の周囲に、人の気《け》配《はい》を感じたことがあるが、あれは気のせいではなかったのだ。  こうなると、やはりまず自《じ》衛《えい》のための手《しゆ》段《だん》を考えなくてはならない。——といって、ここは日本だから、拳《けん》銃《じゆう》で、というわけにはいかない。  ともかく、何か捜《さが》して来よう、というので、少女と朝食をとってから、また遠い町のスーパーへと行って来たのである。  それは、別に隠《かく》したいからでなく、そこの方が店が大きくて、刃《は》物《もの》などを扱《あつか》っているからだった。  伊波は、散々捜し歩いて、やっとナイフを一本買い込《こ》んだ。  スコップは家にもある。雪をかくのに必要なのだ。  それを居《い》間《ま》にでも置いておこう、と伊波は思った。たぶん、何かのとき、役に立つだろう。  結局、時間がかかった割《わり》には大した物も買わずに、伊波は戻《もど》って来た。  昨日の、ここの主人の話が気になって、日《にち》常《じよう》の買物は近くの店で済《す》ませることにしたのである。  何だか、逃《とう》亡《ぼう》犯《はん》でも、かくまってるみたいだな、と思って、伊波は、苦《く》笑《しよう》した。  そしてここへ寄《よ》り、店の主人と雑《ざつ》談《だん》をして、コーヒーをすすりながら、外を見ていると、店に入って来る足音があった。  その足音は、なぜか伊波のそばで止った。そして、  「お久しぶりね」  という言葉が彼《かれ》の上に降《ふ》って来たのである。——雪の代りに。  「凄《すご》い雪ねえ」  と、律子は言って、手をこすり合せた。  「この辺じゃ、大したことはないよ」  と、伊波は言った。  「そう。——東京も今年はよく雪が降るの。往《おう》生《じよう》しちゃった。でも、さすがに、こっちの雪はサラサラしてるわね」  伊波は、やっと我《われ》に返った、という感じだった。  「おい、律子、君……」  「懐《なつか》しいわね。私《わたし》はどう? 変った?」  ——律子は、上等な毛皮のコートを着ていた。  「ちょっと脱《ぬ》ごうかしら。外に出たとき、寒いものね」  コートを脱ぐと、至《いた》って地《じ》味《み》なスーツ。  手《て》袋《ぶくろ》を脱いだ手に、リングが光っていた。  「結《けつ》婚《こん》したの?」  と、伊波は訊《き》いた。  「そうよ」  「そいつは知らなかった」  「そうだった? 私、通知、出さなかったかしら?——でも、あなた、どこにいるか分らなかったものね」  「しかし——よく分ったね、ここが」  と、伊波は言った。  「雑《ざつ》誌《し》社《しや》で聞いたわ」  「そうか。——どうしてわざわざ?」  「あら」  と、律子は、ちょっと目を見開いて、「手紙、読まなかったの?」  「手紙だって?」  「そうよ。出したのよ、会いに行くって」  「——いつのこと?」  「一週間ぐらい前かな」  カウンターの奥《おく》で、店の主人が、  「じゃ、無《む》理《り》ですよ」  と言った。「ここに届《とど》くのには、一週間はかかります。特《とく》に今はね」  「そう! 都会並《な》みに一日でつくかと思ってたわ」  「何か用だったのかい?」  「というわけじゃないの。実は他に用があって、ここに来たのよ。で、ちょうど近くだから、と思って……」  伊波は、律子をまじまじと見た。  やっと、それだけの心の余《よ》裕《ゆう》ができたのである。  変っていない、といえば、そうも言える。しかし、変った、と言われれば、なるほど、と肯《うなず》ける。  若《わか》さは、そのまま保たれているように見えた。  しかし、物《もの》腰《ごし》というか、その動《どう》作《さ》、座《すわ》り方、話し方などが、テンポが落ちて、静かになって来ていた。  結《けつ》婚《こん》したせいかもしれないな、と伊波は思った。  「ご主人と一《いつ》緒《しよ》?」  と、伊波が訊《き》くと、律子は笑《わら》った。  「違《ちが》うわよ。いくら私でも、主人と一緒に、昔の恋《こい》人《びと》の前に現《あら》われたりするわけないじゃない」  伊波は、あわてて咳《せき》払《ばら》いした。店の主人は、わざとらしくそっぽを向いている。  「今は——何という姓《せい》なの?」  「小池。小池律子よ」  「小池か。——よく合った名前じゃないか」  「ありがとう。私もそう思うわ」  「ご主人、何してる人だい?」  「まるで身《み》許《もと》調《ちよう》査《さ》ね」  「いや、そういうわけじゃないけど……」  律子は、ちょっと笑って、  「主人は刑《けい》事《じ》ですの」  と、気取って言った。  「まさか」  と、伊波は言った。  つい、反《はん》射《しや》的《てき》に言っていた。——二人して声を上げて笑《わら》う。  その笑いが静かになると、律子は少し真《ま》顔《がお》になって、言った。  「刑事。——本当なのよ」  「信じられないね」  と、伊波は、少し固い表《ひよう》情《じよう》で言った。  「そう?」  「信じたくないのかもしれない。——刑事には、お互《たが》い、ひどい目にあってるじゃないか」  「色々な人がいるわ、刑事でも」  と、律子は言った。  「そうかもしれん」  と、伊波は目をテーブルに落とした。「しかし、警《けい》官《かん》は警官だよ。やっぱり、僕《ぼく》は今でも忘《わす》れられない」  「分るわ」  「君の証《しよう》言《げん》がなかったら、どうなっていたか……。考えるだけでも、ゾッとするよ」  「私の証言は、あんまり信用されなかったみたいよ」  「しかし、それのおかげで、僕を見た証人も出て来た。——結局認《みと》めてくれなかったけどね」  「本当にひどかったわね、あのときは」  「それを憶《おぼ》えていて君は——」  と言いかけて、伊波は息をついた。「いや、すまん、俺《おれ》がとやかく言うことじゃなかったね」  「いいのよ。気持は分る。——私だって、今でも信じられないみたいよ」  伊波は、少し笑《え》顔《がお》になった。  「君が幸せなら、それでいいよ」  「その点は大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》。いい夫《おつと》なのよ」  「そいつは良かった」  何となく、話が途《と》切《ぎ》れた。  「——どこなの、別《べつ》荘《そう》って」  「ん?——ああ、別荘といっても、今は、そこしかないんだけどね。ここから車で行くんだ」  「一度行ってもいい?」  伊波は、ちょっと迷《まよ》った。  もちろん、律子に来させるわけにはいかない。あの少女といるところを見られたら……。  しかし、あの雑《ざつ》誌《し》のカメラマンが、伊波とあの少女の写真を撮《と》っている。  まだ雑誌が出るには、間《ま》があるだろうが……。  「一度、あなたがどんな暮《くら》しをしてるのか、見てみたいわ」  と、律子は言った。  「それはだめだよ」  と、伊波は言った。「それに、男一人の生活だ。殺《さつ》風《ぷう》景《けい》なものさ」  「どうしていけないの?」  「考えてみろよ。君はもう結《けつ》婚《こん》してるんだ。しかも刑《けい》事《じ》と。——僕が一人でいる所へノコノコやって来たら、ご主人が何と思うか……」  「それはそうね」  と、律子は肯《うなず》いた。「じゃ、遠《えん》慮《りよ》しておくわ」  伊波はホッとした。昔《むかし》の律子なら、もっとゴネていただろう。  やはり、少しは大人になったのかもしれない。  「じゃ、あなたの方から来てくれる?」  と、律子が言い出した。  「僕の方から?」  「そう。私、Mホテルに泊《とま》ってるの。一週間くらいいるわ。いつでも訪《たず》ねて来て」  Mホテルは、この辺でも、一番古い、格《かく》の高いホテルである。  もちろん、料金の方も、当然高くなるのだが。  「なかなか豪《ごう》勢《せい》だね」  「私のお小《こ》遣《づか》いよ。実家でせびって来るの」  「そうか。——ご両親はお元気?」  「ええ、元気なものよ」  「僕を恨《うら》んでるだろうね」  「どうかしら」  と、律子は首をかしげた。「たまに、あなたの話も出るけど、別に悪口は言わないわよ、どっちも」  「そうかい?」  もし自分が父親で、娘《むすめ》が妻《さい》子《し》ある男と恋《こい》に落ちたら、たぶん、その相手を恨《うら》むだろう、と、伊波は思った。  「大人《おとな》同《どう》士《し》の恋だったんだもの。今さら相手を責《せ》めても、と思ってるんでしょ」  律子はカップを空《から》にした。  外は、まぶしい白さだった。  二人の間の沈《ちん》黙《もく》も、重苦しいものではなかった……。  〈こんにちわ。  お久しぶりね。  あなたのことを、偶《ぐう》然《ぜん》ある雑《ざつ》誌《し》の編《へん》集《しゆう》部《ぶ》の方から聞いて、びっくりしました。  ずいぶん山の中に引っ込《こ》んだものね。都会っ子のあなたが!  ところで、私、あのあと、結《けつ》婚《こん》して、今は封《ふう》筒《とう》の差出人の通り、「小池」という名になっています。  あなたは、一人でいるとのこと。  どんな生活をしているのかしら、と考えてしまいます。  そこへ、ちょうどあなたの住んでいる所の近くに、出る用事が出来ました。ぜひ一度会いたいと思っています。  近くに行ったら、電話します。  では、そのときを楽しみに。 律子〉  伊波は、手紙を二度読んだ。  間《ま》違《ちが》いなく、律子の字である。  前に、何度か律子から手紙をもらっていたから、よく分る。  といっても、もちろん、この別《べつ》荘《そう》に、ではない。妻《つま》が殺《ころ》される前のことである。  律子……  妙《みよう》な話だ、と伊波は思った。  こんなに単調だった、伊波の生活の中に、突《とつ》然《ぜん》、見も知らぬ少女が飛び込《こ》んで来た、と思うと、今度は昔《むかし》の愛人がやって来た。  どういうことなんだろう?  どうせなら、続けて起きずに、一つ一つ、間を空《あ》けて起ってほしいものだが、なかなか現《げん》実《じつ》はそう行かないものらしい。  ——それにしても妙だ。  律子は何をしに、ここへ来たのだろう?  こんな冬の季節、雪の季節に、こんな所に何の用事があるというのか。しかも、刑《けい》事《じ》の妻が、だ。  伊波は、ハッとした。——あの小《こ》包《づつみ》!  あれは律子が出したのではないか?  手紙が同時に届《とど》いていることも考えると、その可《か》能《のう》性《せい》は大きい。  伊波は仕事部屋を出ると、少女を捜《さが》した。  「台所よ」  と、返事があった。  「やあ、何だい、この匂《にお》いは?」  「見ないで。ホットケーキなの」  「へえ、そんなものできるのかい?」  「失礼ね!」  と伊波をにらんで、「——ヘヘ、実は初めてだと思うんだ」  「頑《がん》張《ば》ってくれ。おいしいと言って食べるから」  「ありがとう」  エプロンをかけた少女の姿《すがた》は、なかなか魅《み》力《りよく》的《てき》だった。  「そのエプロンはどうしたんだい?」  「昨日の小包の中にあったの。可愛《かわい》いでしょ?」  誰から来たかなど、まるで考えていないらしい。  「その小包だけど、箱はどうしたね?」  「え?——ああ、燃やしちゃったわ」  「燃やした?」  「うん。まずかった!」  「いや……」  言わなかった自分の方が悪いのだ。  伊波は、居《い》間《ま》に行って、あの小包の宛《あて》名《な》の文字を思い出そうとした。  律子の字だったろうか?——そうだとしたら、分っただろうか?  いや、今の手紙は、律子のものと知っていて読んだから、そう分るので、小包の文字までは分るまい。  もとより、あの小包を、律子が送ったという根《こん》拠《きよ》があるわけでもないし、律子が、あの少女のことを知っていたとも思えない。やはり、これは別のことなのか。  伊波には分らなかった。 12 招《しよう》 待《たい》  「——会って来ましたわ」  と、律子は言った。  Mホテルのコーヒーラウンジ。  木の感《かん》触《しよく》が、ちょっと山小屋風で、あの喫《きつ》茶《さ》店《てん》に似《に》ている、と律子は思った。  「そうですか」  村上が言った。「びっくりしていましたか?」  「さあ。——そうでもなかったみたいでしたわ」  「分ってたのかな」  と、小池が言うと、村上は首を振《ふ》った。  「いや、そうではないでしょう」  「というと?」  「来るのを知っていれば、そう言うはずですし、もし、後ろめたいことがあって、会いたくなかったとしたら、会って、びっくりしたふりをするでしょう」  「なるほど。つまり、伊波は、知らなかった、と?」  「それが自然な反《はん》応《のう》ですよ」  村上の観察は鋭《するど》い。  「——で、何と言ってた?」  小池が訊《き》いた。  「何も。ただ、会いに行っていいかと訊いたら、だめだと言ってたけど」  「やはり何か隠《かく》してるな」  「でも、ここへ来たら、と言ったら、その気になったみたい」  「ふむ。——村上さん、どう思います?」  村上は腕《うで》組《ぐ》みをした。  「おそらく、女がいる。しかし、なぜかその女は、出て来ない……」  「どうでしょう、この一帯で、女《じよ》性《せい》の行方《ゆくえ》不《ふ》明《めい》などは出ていないんですか?」  と小池が言った。  「それは真っ先に調べています。——捜《そう》索《さく》願《ねがい》は出ているのに、見付からないのが何《なん》件《けん》かあるんです。しかし、どれも、伊波が買ったような下着などと縁《えん》のない人間ばかりなんですよ」  「なるほど」  「つまり、その女は、自分の意《い》志《し》で来て、自分の都合で隠れているというわけです」  「なぜでしょう? 人でも殺したのかな」  「簡《かん》単《たん》におっしゃいますのね」  と、律子はちょっと夫《おつと》をにらんだ。  「どうでしょうか。ともかく一度、彼《かれ》をここへ招《しよう》待《たい》しては」  と、村上は言った。「小池さんが、異《い》存《ぞん》なければ、ですが」  「構《かま》いませんよ。ただ——」  小池は、ちょっと考えていた。「二日したら東京へ戻《もど》らなくてはなりません」  「じゃ、明日の晩《ばん》にでも。——奥《おく》さん、いかがですか?」  「結《けつ》構《こう》ですわ」  と、律子は肯《うなず》いた。  「しかし、断《ことわ》られたら?」  「大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》。きっと来るわ」  と、律子は夫に向って言った。  「どうして分る?」  「そういう人なの。——必ず来るわよ」  「それならいい。じゃ、電話してみてくれ」  「夜するわ。もしかしたら、その彼女が出るかもしれない」  「それはないと思いますがね」  と、村上は言った。「相手はかなり用心深いですよ」  「その血《けつ》痕《こん》と何か関連が出て来るといいですね」  「全くです」  村上はため息をついた。「これしか頼《たの》みの糸はありませんのでね」  村上は何でも大げさなのである。  「村上さん」  と、小池が言った。「あなたも同席した方がいいでしょう?」  「いや、私《わたし》は遠《えん》慮《りよ》します」  「どうしてです?」  「一つは、すでに私は伊波と会っているからです。私に気付けば、用心するでしょう」  「なるほど。では、マイクでも仕《し》掛《か》けておきますか?」  「後でお二人にうかがえば充《じゆう》分《ぶん》です」  と、村上は言って、「私は別の仕事がありまして」  意味ありげに小池を見る。  「——そうか」  小池は肯《うなず》いた。「分りました。伊波が私たちと食事をしている間に、彼の別《べつ》荘《そう》を調べるんですね?」  「まあ」  と、律子は目を丸くした。「でも——入ってもいいんですの?」  「いけないんですよ、むろん。ですからこれは違《い》法《ほう》には違《ちが》いないんです。それだけの理由はあると思いますがね」  律子は黙《だま》った。  小池と村上の話は、専《せん》門《もん》的《てき》になって、律子にはよく分らなくなった。  「私、失礼して部屋に上るわ」  と、律子は立ち上った。  「ああ、構《かま》わんよ。少し昼《ひる》寝《ね》でもしたらどうだ」  「それは私のセリフよ」  と、律子は夫《おつと》にちょっと笑《え》顔《がお》を見せて、歩いて行った。  「——すっかり奥《おく》さんにまで迷《めい》惑《わく》をかけてしまいましたね」  と村上が言った。  「いや、とんでもない。多少でもお役に立てば嬉《うれ》しいですよ」  村上は、律子の歩いて行った方を振《ふ》り返って、  「いや、全くすばらしい奥様だ」  と呟《つぶや》いた。  律子は部屋に戻《もど》ると、ドアの鍵《かぎ》をかけ、TVを点《つ》けた。  いつも家ではめったにTVを見ることはないのだが、こういうホテルなどでは、つい点けてしまう。  別に何を見るというのでもないのだが……。  少し時間は早かったが、律子はカーテンを引いた。  どうせ、あの二人はまだしばらくしゃべっているのだろう。  律子は、風《ふ》呂《ろ》にはいることにした。  浴《よく》槽《そう》にお湯を入れて、服を脱《ぬ》ぐ。ごく簡《かん》単《たん》にと思うのだが、一《いつ》旦《たん》、浴槽に浸《つか》ると、もう動く気がしなくなる。  ゆっくりと手足を伸《の》ばして、息をつく。  ——あの人は、変っていない。  律子は、かつての伊波を思い出そうとしていた。  しかし、一《いつ》向《こう》に思い出せないのだ。——どんな顔、どんな声だったのか。  今より、もっと若《わか》々《わか》しかったのだ。そのはずだ。  しかし、今の伊波も、充《じゆう》分《ぶん》に若々しかった。——それは、あの「幻《まぼろし》の恋《こい》人《びと》」がいるせいだろうか?  思いもかけないことだが、律子は、伊波に会って、動《どう》揺《よう》していた。  「もう昔《むかし》のことよ。今さら、どうってことないわ」  夫《おつと》に村上の頼《たの》みを聞かされたとき、律子はそう答えた。  しかし、実《じつ》際《さい》はそうはいかなかった。  伊波が律子の心に刻《きざ》んだ印象は、そうたやすくは消えそうになかったのである。  「どんな女の子なのかしら?」  と、律子は呟《つぶや》いた。  可愛《かわい》い子?——たぶん、そうだろう。  以前から、伊波は顔立ちの美しさにひかれるところがあった。  どこの子で、どんな風にして、伊波の所へやって来たのだろう?  もちろん、犯《はん》罪《ざい》を犯《おか》して、という可《か》能《のう》性《せい》もないではない。しかし、その証《しよう》拠《こ》は何もないのだ。  伊波としては、その若い娘《むすめ》の保《ほ》護《ご》者《しや》を自《じ》認《にん》しているのかもしれない。  ひょっとしたら——伊波は、その子に手をつけてはいないかもしれない。  普《ふ》通《つう》なら考えられないが、伊波は、そういう男である。  その伊波を食事に誘《さそ》う。——夫《おつと》と、伊波。  私を、わがものにした二人の男。  伊波は紳《しん》士《し》だからともかく、心配なのは小池の方だった。  むろん、喧《けん》嘩《か》することはないだろうが、内心の不《ふ》機《き》嫌《げん》が顔に出てしまう人なのである。  三人の夕食のときは、できるだけ夫に話しかけるようにしなくては……。  ——あの事《じ》件《けん》が、もしなかったら——というのは不《ふ》可《か》能《のう》だが——今でも伊波と続いていただろうか?  「たぶん……イエスだわ」  伊波は、無《む》理《り》をしない男だった。  当時は、プレイボーイ、などと書かれたものだが、本人は、およそそんなものになりたいと思わなかったろう。  プレイボーイというのは、ソツがなく、そして、女《じよ》性《せい》に気をつかう。女性の前では気取って見せる。  しかし、伊波は違《ちが》う。  くたびれているときは、くたびれた顔でやって来る。楽しいときは、もう遠くから、ニコニコ笑《わら》っている。  素《す》直《なお》なのだ。だから、女性のことに、そう気をつかわない。だから、女性の方も、のんびりと付き合えるのである。  気をつかわれすぎるのも、くたびれるものなのだ。  ——浴室を出て、着《き》替《が》えていると、ドアを叩《たた》く音がした。  「俺《おれ》だ」  と、小池の声。  「待って」  律子は急いで服を着ると、ドアを開けた。  「ごめんなさい、お風《ふ》呂《ろ》に入ってて……。どうしたの?」  「うん」  と、小池はむずかしい顔で、「急に東京へ戻《もど》らなきゃならん」  と言った。  「じゃ、私も?」  刑《けい》事《じ》の妻《つま》なら、そんなことは慣《な》れっこである。  「いや、お前は村上さんの頼《たの》みを、よく聞いてくれ」  「じゃ、私一人で、伊波と?」  「いいだろう?」  「私はいいけど……」  律子は、胸《むね》が鼓《こ》動《どう》を早めるのに気付いた。  ——伊波と二人での食事。  何年ぶりのことかしら?  律子は、そんなことを考えていた。 13 やって来た男  いい加《か》減《げん》にしてくれよ。  そう言ったところで、相手が聞いてくれるはずもなかった。  相手が手の中に握《にぎ》りしめれば消えてしまう、「雪」なのだから、当り前だった。  鉄《てつ》造《ぞう》は、この山道をトラックで往《ゆ》き来《き》して、もう三年になる。  雪の道を走るのにも慣《な》れていたが、それにしても今夜はひどい。視《し》界《かい》が、ろくにきかないのだ。  ほとんど、カンでハンドルを握っていた。  「畜《ちく》生《しよう》め!」  いくら無《む》鉄《てつ》砲《ぽう》な鉄造でも、この雪の中、スピードは落とさざるを得《え》ない。ということは、向うへ着くのが遅《おく》れるということでもある。  雪の山道をトラックで走るのが、どんなに大変なことか、ぬくぬくと社長室でふんぞり返っている身には分らねえんだ。  しかも、遅れたといっちゃ文《もん》句《く》を言いやがる。——面《おも》白《しろ》くもねえ! 早く帰りついて、一《いつ》杯《ぱい》やろう。それだけを、鉄造は考えていた。  もう夜の九時だ。こんな時間には、通る車もない。  思い切ってアクセルを踏《ふ》む。この辺は、大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》だ。  ——それが目に入ったとき、鉄造には、信じられなかった。  雪が目の前を舞《ま》っているので、何かが見えたような気がしたのかもしれない。  いや——あれは人間だ!  ブレーキを軽く踏《ふ》んでいた。スピードが落ちる。  男が一人、雪の中を歩いていたのである。  黒いオーバーを着ていたが、それも、白く雪がはりついて、まだら模《も》様《よう》になってしまっている。  車がエンコしちまったのかな?  それにしては、男が、こっちへ歩いて来るのではなく、トラックと同じ方向へ歩いているのが、おかしい。  途《と》中《ちゆう》、そんな立《た》ち往《おう》生《じよう》した車には、気付かなかったが……。  もし、ずっとこの雪の中を歩いて来たのだったら、よく倒《たお》れなかったものだ。  鉄造も、さすがに、素《す》通《どお》りするのがためらわれた。  車のライトに気付いたのか、その男は振《ふ》り返った。毛糸の帽《ぼう》子《し》をスッポリかぶっている。  トラックは、その男の傍《そば》で停《とま》った。  窓《まど》を開《あ》けると、雪が吹《ふ》き込《こ》んで来る。凍《こお》りつくような風だ。  「どうした?」  と、鉄造は声をかけた。  男はじっと鉄造の方を見上げていたが、何も言わない。  「乗って行くか? このままじゃ、雪の中に埋《う》まっちまうぜ」  と、鉄造は言った。  男がコックリ肯《うなず》いた。  「じゃ、乗れ」  ドアを開けてやって、「早くしろ。雪が入って来る」  男は助手席に乗り込んで来て、ドアを閉《し》めた。——鉄造は、ちょっと面食らった。  大きな男だった。  いや、鉄造だって、普《ふ》通《つう》に見れば大《おお》柄《がら》な方である。力もあったし、それに、昔《むかし》から喧《けん》嘩《か》にも強かった。  「鉄」と、仲《なか》間《ま》から呼《よ》ばれていた。運転手仲間でも、一《いち》目《もく》置かれている存《そん》在《ざい》だ。  その鉄造から見ても、その男は大きかった。上《うわ》背《ぜい》もあり、がっしりして、幅《はば》もある。  鉄造より、全体に、一回りも二回りも大きかった。  「町まで行ったら、降《お》ろしてやるよ」  と鉄造は言って、トラックを走らせ始めた。  男は、何も言わずに、じっと前方を見つめている。  若《わか》いのか、それとも中年といっていい年《ねん》齢《れい》なのか、判《はん》断《だん》のつかない顔だった。さすがに、雪の中を歩いていたせいか、顔は青白いが、別に震《ふる》えているわけでもない。  もともと青白い顔なのかもしれない。無《ぶ》精《しよう》ひげで顎《あご》の辺《あた》りが黒っぽい。  オーバーと、えり巻《ま》きの雪を、払《はら》い落とそうともしない。手《て》袋《ぶくろ》は、毛糸の古ぼけたもので、いくつかの指先は穴《あな》があいて、指が覗《のぞ》いていた。  不思議なのは、荷物を持っていないことだった。鞄《かばん》一つ、包み一つない。  これは、まともな奴《やつ》じゃないかもしれねえぞ、と鉄造は思った。  しかし、別に恐《おそ》れはしない。腕《うで》っ節《ぷし》にも自信があるからだ。いくら大男でも、力が強いとは限《かぎ》らない。  そうとも、俺《おれ》は筋《すじ》金《がね》入《い》りだぞ。  「えらい雪だな」  と、鉄造が言うと、その男は、ちょっと肯《うなず》いた。  口をきかない気か。——まあいいや。好《す》きにしろ。  鉄造自身も、おしゃべりな方ではない。大体、よくしゃべる男に、ろくな奴はいないもんだ。     鉄造は、ラジオをつけた。黙《だま》っているのも、何だか気づまりなものだからだ。  おあつらえ向きに、演《えん》歌《か》が流れて来た。トラックの運転には、こいつが一番だ。  パチンコ屋にマーチが合うようなもんさ。何となく合う、ってことがあるものなんだ。  少し、雪が小《こ》降《ぶ》りになった。トラックは快《かい》調《ちよう》に飛ばしていた。  男の目が、素《す》早《ばや》く動いて、道の傍《そば》の標《ひよう》識《しき》を捉《とら》えた。  「停《と》めてくれ」  と、男は言った。 表《ひよう》情《じよう》のない、太い声だ。  「何だって?」  鉄造は、ラジオの音を小さくした。  「右へ行くんだ。停めてくれ」  「おい——」  鉄造は、ゆっくりとトラックを停めた。「町まで行かないのか?」  「ここから右へ行くんだ」  と、男は言った。  「右って……」  鉄造は、右を向いた。——道があるわけではない。ただの雑《ぞう》木《き》林《ばやし》だ。  そして、そこも今は白い雪に包まれている。  「どこへ行こうってんだい?」  他人のことに、あまり関心は持たない鉄造だが、つい、そう訊《き》いていた。  「気にするなよ」  男は、静かに言った。男の目が、鉄造を見る。——鉄造は、ゾッとした。  こいつ——まともじゃないぞ!  その目は冷ややかで、無《ぶ》気《き》味《み》な表《ひよう》情《じよう》を浮《う》かべていた。  「分ったよ」  鉄造は、極力、平気を装《よそお》っていたが、笑《わら》って見せても、それは引きつったものにしかならなかった。  「——ありがとう」  と、男が言った。  「気を付けて行きな」   ドアを開《あ》け、男が、外へ出る。とたんに、雪と冷気が吹《ふ》き込《こ》んで来た。  ドアがバタン、と音をたてて閉《しま》ると、鉄造はホッとした。俺《おれ》としたことが……。  いささか腹《はら》立《だ》たしかったが、あれは恐《おそ》ろしい男だ。  「忘《わす》れちまうに限《かぎ》るぜ」  と、呟《つぶや》くと、ラジオのボリュームを上げて、トラックをスタートさせようとした。  右側の窓《まど》を、トントン、と叩《たた》く音がして、見ると、あの男が、道から見上げている。  鉄造は、窓をおろした。  「——どうしたんだ?」  と、声をかける。  男は、  「忘れてたことがあるんだ」  と、下から言った。  「忘れてた? 何を?」  男が何か、ボソボソと言った。鉄造は窓から頭を出した。  「何だ?」  男の両手が、鉄造の首を、ガシッと捉《とら》えた。  鉄造が顔を歪《ゆが》めた。口を開いて、声にならない喘《あえ》ぎを洩《も》らす。  両手で、男の指を引き離《はな》そうとしたが、むだだった。  鉄造の顔が紅《こう》潮《ちよう》する。——男は、更《さら》に、指に力をこめた。  鉄造の手が、バタッと窓《まど》枠《わく》に落ちた。  男は、念を押《お》すかのように、もう一度力をこめて、鉄造の首を絞《し》めると、静かに手を離《はな》した。  鉄造の頭が、窓から外へ、ガクッと垂《た》れた。  男は、息一つ乱《みだ》してはいなかった。どうということもない——まるで、びんのふたでも外《はず》したように、ちょっと肩《かた》をすくめただけで、そのまま、トラックを後に、歩き出した。  鉄造に言ったように、右へ林の中へと、足を踏《ふ》み入れる。  雪が、深い所は膝《ひざ》までも来る。それでも、男は、いやな顔もせず、相変らず無《む》表《ひよう》情《じよう》のままに、歩いて行った。  トラックの開いた窓から、演《えん》歌《か》が雪の中へ広がって行った。外へ垂れた鉄造の頭を、白く雪が覆《おお》い始めていた……。  「雪が多いね、今年は」  と、伊波は言った。  「そうなの? 毎年こんな風かと思ってたわ、私《わたし》」  律子は言った。  「いや、もちろん、毎年降《ふ》るけどね、今年は特《とく》に多い」  律子は、ワインのグラスを置いた。  「雪が好き?」  「そうだなあ……」  伊波は、ちょっと微《ほほ》笑《え》んだ。「何もかも隠《かく》してくれるだろう、雪は。あの白さがいいね……」  律子の泊《とま》っているMホテルのレストランである。  古いホテルなので、中の造《つく》りも、どこか昔《むかし》の貴《き》族《ぞく》の屋《や》敷《しき》、という趣《おもむき》がある。  「静かで、いい所だね」  と、伊波は言った。  「時には来てみたら?」  「いや、毎日こんな所で食事してたら、いくら金があっても足らない」  「そうじゃなくて、東京へ出て来たら、ってこと」  「ああ、そうか」  伊波はちょっと笑《わら》った。  「あなた、こんな所に引っ込《こ》んじゃうのは、まだ早いんじゃない?」  と、律子は言った。  コースの食事も終り、二人は、一息ついているところだった。  「カフェテラスへ移りましょう」  律子は、ナプキンを置いて、立ち上った。  「君はいいの?」  「何が?」  「もう九時半だよ。寝《ね》る時間じゃないのか」  律子はからかうように、  「いつから、小学生に戻《もど》ったの?」  と言った。「それとも、早く帰らないとまずい?」  「いや、そんなことはない」  伊波はロビーを歩きながら言った。「女《によう》房《ぼう》がいるわけでもないしね」  カフェテラスは、若《わか》い客たちで、半分近くの席が埋《うま》っていた。  窓《まど》から、雪の降《ふ》りしきる戸外が眺《なが》められるのだ。  「ずいぶん積ったわね」  と、律子は言った。  「車、大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》?」  「ああ。チェーンを巻《ま》いてるし、雪の中を走るのは慣《な》れてるよ」  「じゃあ、ゆっくりしましょう。ここのケーキ、おいしいのよ」  と、律子はメニューを広げた。  「そのせいかな」  「あら、何が?」  「少し太ったようだからさ」  「あら失礼ね」  と、律子は笑《え》顔《がお》でにらんだ。  ——今、この間に、村上が、伊波の家を捜《そう》査《さ》しているはずだ。  律子の中には、どこか、すっきりと割《わ》り切れないものがあった。  村上はいい人間だ。それはよく分っていた。  しかし、もし伊波が、かつて妻《つま》殺《ごろ》しの容《よう》疑《ぎ》者《しや》だったという事実がなかったら、果《は》たして、違《い》法《ほう》な家《か》宅《たく》捜《そう》索《さく》までするだろうか?  伊波が妻を殺さなかったことは、律子が良く知っている。  伊波は、むしろ被《ひ》害《がい》者《しや》である。それなのに、今なお、何かがあれば、疑《うたが》われる。  それが刑《けい》事《じ》というものの体質なのだろうか?  夫《おつと》とは関係ないことだったが、それでも、律子は、伊波に対して、後ろめたい思いを抱《いだ》かずにはいられなかったのである。  「——ここでの生活はどんな風なの?」  と、律子は訊《き》いた。  「どんな風って——平《へい》凡《ぼん》なもんさ」  と、伊波は肩《かた》をすくめた。  「仕事で、不便はないの?」  「ないこともない。しかし、どうせ、大した売れっ子でもないんだし」  ——コーヒーが来た。  伊波は、あの喫《きつ》茶《さ》店《てん》以外のコーヒーを、久しぶりで飲んだ。いや、もちろん、あの少女が淹《い》れてくれるコーヒーを別にして、の話だが。  「掃《そう》除《じ》、洗《せん》濯《たく》——みんな一人で?」  「うん。といっても一人暮《ぐら》しだし、電《でん》気《き》製《せい》品《ひん》は全部揃《そろ》ってるし、別に不便はないよ」  伊波は、あの少女が来てから、通いの家《か》政《せい》婦《ふ》も断《ことわ》っていた。  「気楽かもしれないわね」  と、律子は、表の雪景色へ目をやった。  「君は?」  「——私?」  「君の主婦業ってのが、どうもピンと来ないんだ」  律子はフフ、と笑《わら》って、  「私もよ」  と言った。「そりゃあ——一《いち》応《おう》、お料理も、掃《そう》除《じ》も洗《せん》濯《たく》もするけど……。でも、時々、ふらっと町へ出るの。何だか、息苦しくなるのね、家の中だけにいると」  そう言って、律子は、それが自分の本《ほん》音《ね》だということに気付いた。  小池との生活は、平《へい》凡《ぼん》だが幸福だ。——同時に、幸福だが、平凡だった。  都会の、いつもせき立てられるようなテンポの生活が、時には懐《なつか》しくなる。  「ご主人の仕事が仕事だから、時間も不《ふ》規《き》則《そく》なんだろう」  「そうね。——暇《ひま》なときなんて、めったにないし、捜《そう》査《さ》本《ほん》部《ぶ》ができれば、一週間ぐらいは帰らないわ」  「寂《さみ》しいね」  「年中だもの。もう慣《な》れたわ」  そうかしら? 寂しくはないか? 一人でベッドに入って、眠《ねむ》れずに何時間も天《てん》井《じよう》を見つめ続けることがないだろうか?  「子《こ》供《ども》はつくらないの?」  と、伊波が訊《き》いた。  「そんな——」  律子は、急に頬《ほお》を染《そ》めた。「もう、若《わか》くないわ」  「そんなことを言う年齢《とし》でもないだろう」  「そうね。でも——」  律子は肩《かた》をすくめて、「作る暇《ひま》もないの」  と言って笑《わら》った。  「ご主人は、欲《ほ》しいとか、言わないのかい?」  「さあ……。どうかしら。訊《き》いてみたこともないわ」  いや、きっと欲しがっているのだろう、と律子は思った。ただ、律子にそう言うのを、ためらっているだけだ……。  年齢が違《ちが》うこと、そして、自分との、特《とく》殊《しゆ》な結びつきの事《じ》情《じよう》。いつも夫《おつと》が自分に遠《えん》慮《りよ》しているところを、律子は感じていた。  「しかし、子供はいた方がいいよ」  と、伊波は言った。  「どうして?」  「僕《ぼく》と女《によう》房《ぼう》のようなことにならずに済《す》む」  「そんなこと、分らないじゃない。子供だって、一つの心配の種になるのよ」  「それはそうだな」  と、伊波は笑《わら》った。  「——あなたこそ」  と、律子が言った。  「僕?」  「隠《いん》居《きよ》するには早いわよ。若《わか》い奥《おく》さんでももらって、子供でも育てればいいのに」  「悪くないね」  と、伊波が言うと、律子は、  「本気じゃない!」  と、にらんだ。  「え?」  「あなた、いつも、ごまかすときは、『悪くないね』と言ってたわ」  「そうだったかな」  伊波は立ち上った。「ちょっと手を洗って来るよ」  「足も洗ったら?」  伊波は笑った。  ——昔《むかし》の通りだ、と伊波は歩きながら、思った。  昔、律子と、よくあんな風にしゃべったものだ。  「洗面所は?」  と、ホテルのボーイに訊《き》く。  教えられた方向へ、廊《ろう》下《か》を歩いて行く。角を曲ると、手洗いがあって——ヒョイ、と目の前に、何か光るものが出て来た。  ギョッとするのに、少し時間がかかった。それは、小さな肉切り包《ぼう》丁《ちよう》だった。  律子は、じっと雪を見ていた。  伊波と、まるで以前の恋《こい》人《びと》同《どう》士《し》だったころのように話をし、冗《じよう》談《だん》を言った。  やっと、調子が出て来た、というところか。  古びていたエンジンが、動き出したのだ。  思いもよらないことだった。——いや、それを期待していたのかもしれない。  律子は、自分が怖《こわ》かった。まるで、昔《むかし》へ昔へと、時間を逆《ぎやく》に押《お》し流されているようで……。  赤い光が目に入って、ハッとした。  パトカーだ。——もしかして。  律子は思わず腰《こし》を浮《う》かした。 14 二人の女  「心《しん》臓《ぞう》が止るかと思ったよ」  伊波は胸《むね》を撫《な》でおろした。  「いい気味だわ」  少女が、包《ほう》丁《ちよう》を、コートの下へしまいこむ。  「危《あぶ》ないよ、そんなもの持ってちゃ」  「いいの。どうせ死ぬんだって、私《わたし》だけじゃないから」  少女の言い方は、冗《じよう》談《だん》とも本気ともつかなかった。しかし、わざわざ雪の中をここまでやって来たのだ。冗談ではないのだろう。  雪をかぶったのか、着ているコートは、かなり濡《ぬ》れていた。そういえば顔色も青い。  「大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》か? 寒いだろう」  「一人で残されている方が、ずっと寒い」  と、少女は言った。  「分ったよ」  「分ってないわ」  と、少女は言い返した。  それから、声を低くして、  「分ってない」  と、くり返した。「あの女の人、誰《だれ》なの?」  伊波は、ちょっと間を置いて、言った。  「見たのか」  「もちろんよ」  伊波は、仕事で、人に会うから、とこの少女に言って、出て来たのである。しかし、そうでないことを、この少女はよく分っていたようだ。  「——昔《むかし》の友だちだ」  「恋《こい》人《びと》、でしょ」  「うん。——まあ、そうだ」  少女は、急によろけて、傍《そば》の壁《かべ》によりかかった。伊波はびっくりした。  「おい! どうした? 大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》か?」  「放っといてよ!」  と、少女は身をよじった。「あんたなんか——大《だい》嫌《きら》い!」  「なあ、気分が悪いのなら、どこかで休んで行かないと——」  「平気よ! 歩いて帰るわ」  少女は二、三歩進んで、その場に、崩《くず》れるように倒《たお》れた。  「おい! しっかりしろ」  伊波が駆《か》け寄《よ》って抱《かか》え上げたが、少女は、どうやら意《い》識《しき》を失っている様子だった。  「——参ったな」  伊波は、しばし、どうしていいものやら分らず、ただキョロキョロと左右を見回していた。  誰か来てくれないか、と思いつつ、一方では、誰かに見られたらどうしよう、と、矛《む》盾《じゆん》した思いだった……。  パトカーがホテルの正面について、村上が降《お》りて来るのが見えた。  律子も、じっとしてはいられない。テラスを出て、ロビーを歩いて行った。  村上が、ホテルのフロントで、何やら話をしている。  ホテルの側では、責《せき》任《にん》者《しや》らしい男が出て、やけに固苦しい顔をして、村上の話を聞いていた。  ——何があったのだろう?  伊波が戻《もど》って来るのではないか、と気にしながら、律子は、フロントの手前で立っていた。  「じゃ、よろしく——」  と、村上が言って振《ふ》り向く。「ああ、奥《おく》さん」  「何かありましたの?」  と、律子は訊《き》いた。  「伊波は?」  「今、手洗いに行っています」  「こちらへ」  村上は、律子を促《うなが》して、ロビーの奥へと入って行った。  「何か分ったんですの?」  「いや、全く申《もう》し訳《わけ》ない話です」  と、村上は頭をかいた。  「え?」  「伊波の所へ行く直前、殺《さつ》人《じん》事《じ》件《けん》がありましてね。犯《はん》人《にん》が逃《とう》亡《ぼう》中《ちゆう》なので、緊《きん》急《きゆう》手《て》配《はい》ということになったのです」  「まあ」  律子は目を見《み》張《は》った。  「トラックの運転手が殺されたんです。犯人はこの付近に潜《ひそ》んでいるらしい」  「こんな雪の中で、ですか」  「そこが奇《き》妙《みよう》です。——いや、実を言うと、私も現《げん》場《ば》をまだ見ていません。これから行かなくてはならんのです」  「じゃ、伊波さんの方は——」  「申し訳ないのですが、後回しにせざるを得《え》ません。何しろ、公式の捜《そう》査《さ》ではないので……」  村上は息をついて、「いや、あなたに、すっかりご迷《めい》惑《わく》をかけてしまって」  「いいえ、そんなことはありません」  律子は、むしろホッとしていた。  「では、伊波が戻《もど》って来るといけない。私はこれで——」  村上は歩きかけて振《ふ》り返り、「もう東京へお帰りですね?」  と訊《き》いた。  律子は、一《いつ》瞬《しゆん》ためらった。  「ええ……たぶん」  と、曖《あい》昧《まい》に答える。  「ご主人へ、くれぐれもよろしくお伝え下さい」  村上は、丁《てい》寧《ねい》に言って、ロビーを抜《ぬ》けて出て行った。  ——どうしたのだろう?  突《とつ》発《ぱつ》事《じ》件《けん》で、結局村上の依《い》頼《らい》も、なかったのと同じことになった。  律子は何となく気が楽になっていた。これで、伊波と、後ろめたさを感じないで、話ができる。  パトカーの赤い灯《ひ》が、ホテルから遠ざかって行く。  ——律子は、それを見送って、しばらく立っていたが……。  「あら」  伊波はどうしたのだろう? いやに遅《おそ》いけど。  律子も、手洗いに行こうと、廊《ろう》下《か》を歩いて行った。部屋へ戻《もど》るのも面《めん》倒《どう》だ。  角をヒョイと曲って、誰かにぶつかりそうになり、アッと声を上げた。  「君か!」  伊波だった。  「何してるの? 誰、その女の子?」  伊波は、眠《ねむ》っているのか、ぐったりした一人の少女を、背《せ》負《お》って、立っていたのだ。  「いや——実は、ちょっとね——困《こま》ってるんだ」  伊波が口ごもった。  律子には分った。——この子なのだ。  やはり、本当に「女」はいた。でも、「少女」と呼《よ》んだ方が似《に》合《あ》いそうだった。  「どう言えばいいかな……」  伊波は当《とう》惑《わく》していた。  「それはいいわ。ともかく——具合でも悪いの?」  「うん、雪の中を歩いて来たらしい。体が熱っぽいんだ」  「そう」  一《いつ》瞬《しゆん》の間に、決《けつ》断《だん》していた。「私の部屋へ運びましょう」  「いいのかい?」  「大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》。ツインルームだから、ベッドが余《あま》ってるの。——運んで行ける?」  「ああ、何とかね」  「じゃ、そっちの階《かい》段《だん》から行きましょう。人目につかなくて済《す》むわ」  と、律子は指さした。  「分った。じゃ、案内してくれ」  伊波は言って、少女の体を、かかえ直した。  ——幸い、誰にも見られなかった。  律子が、鍵《かぎ》を開けて、中の明りを点《つ》けると、伊波は、少女をベッドまで運んで、おろした。そして、床《ゆか》に座《すわ》り込《こ》んでしまった。  「ああ、参ったよ!」  ハアハア息を切らしている。  律子は笑《わら》って、  「だめねえ、一人になって、少しはペンより重い物を持ってるかと思ったのに」  とからかった。  「いや——それにしたって、重すぎるよ!」  と、喘《あえ》いでいる。  「ねえ、後は任《まか》せて。その子を寝《ね》かせて、熱でも測《はか》ってみるわ。もし必要なら医者を頼《たの》まないと」  「しかし、君にそんなことまで……」  「いいのよ。あなたの知ってる子なんでしょ?」  「うん、まあ……」  と、伊波は頭をかく。「ちょっと、手短には話せないんだ」  「分ったわ。じゃ、後で、ゆっくり聞くから。——ともかく、服を脱《ぬ》がさないと。濡《ぬ》れてるんじゃ、冷え切ってるわ、きっと」  「じゃ、頼むよ」  と、伊波は部屋を出ようとして、「僕《ぼく》は下にいるから」  と言った。  「待って!」  律子が言った。  「何だい?」  「あなたも泊《とま》ったら?」  「ここへ?」  「そう。——だって、もうずいぶん遅《おそ》いし、この子の様子も、気になるでしょ?」  伊波はちょっと迷《まよ》っていたが、  「それしかないな」  と肯《うなず》いた。「じゃ、フロントで、申《もう》し込《こ》んでくるよ」  「大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》。そう混《こ》んでる時期じゃないわ」  「分った。それじゃ、よろしく頼《たの》む。部屋が決ったら、電話するよ」  伊波が出て行くと、律子は、フッと息をついた。  手早く着《き》替《が》えをして、セーターとスラックスの軽《けい》装《そう》になる。  少女をベッドに真っ直ぐに寝《ね》かせ、額《ひたい》に手を当ててみる。——熱がある。かなり高いようだ。  やっぱり医者を呼《よ》ばないと無《む》理《り》かしら、と律子は思った。  まず、コートから脱《ぬ》がしにかかった。——コトン、と何かが床《ゆか》に落ちる。  律子は目を見《み》張《は》った。小さな包《ほう》丁《ちよう》である。  「こんなもの……」  と呟《つぶや》いて、少女の顔を眺《なが》めた。  可愛《かわい》い少女である。——十七か八。おそらく、そんなところだろう。  恋《こい》人《びと》にしては、ちょっと若《わか》すぎる気もするわね、と思った。  よく、作家の所へ、「恋人志《し》願《がん》」の女の子がやって来ることがある。この少女も、その口かもしれない。  しかし、ちゃんとした大人《おとな》の女《じよ》性《せい》ならともかく、こんな少女を置いておくなんて……。下手《へた》をすれば、犯《はん》罪《ざい》になる。  そういう点、慎《しん》重《ちよう》な伊波としては、奇《き》妙《みよう》なことだ、と思った。  でも、この包《ほう》丁《ちよう》といい、雪の中、こんな所までやって来たことといい、伊波とこの少女は、ただの知り合い、というようなものではないようだ。  ——ともかく、そんなことは後回しだわ。  律子は、少女の服を脱《ぬ》がせて行った。  「うん、一泊《ぱく》でいい。——ああ、どうもありがとう」  と、伊波は、キーを受け取って肯《うなず》いた。  「この近くにお住いですね」  と、フロントの男が言った。  「よく知ってるね」  「時々、あの山小屋風の喫《きつ》茶《さ》店《てん》でお見かけします」  「そうか。——いや、ちょっと知人と夕食をとってね、もう遅《おそ》いから、一晩《ばん》泊《とま》って行こうかと思って」  「今夜はお出にならない方がよろしいと思います」  「そう? まあ、かなり積ってはいるけどね」  「いえ、実は、さっき県《けん》警《けい》の方がみえまして——」  「警察?」  「人殺しがあったそうです。トラックの運ちゃんが殺されて、犯人はこの付近を逃《とう》亡《ぼう》中《ちゆう》ということで」  「人殺し! それは……」  伊波は、思わず表へ目を向けた。  この雪の中で?——誰が一体逃《に》げられるというのか。  ふと、伊波は、あの少女が、包《ほう》丁《ちよう》を持っていたことを思い出した。——まさか!  「強《ごう》盗《とう》か何かなのかね」  と、伊波は言ってみた。  「さあ、分りませんが。——ともかく、怪《あや》しい客が来たら知らせろ、と言われておりましてね」  「僕は怪しくない方に入れてもらえたわけだね」  フロントの男は、伊波の言葉に笑《わら》った。  伊波の方も、微《ほほ》笑《え》んではいたが、内心、とても笑える気分ではなかった……。  「カフェテラスはまだ開いてるのかい?」  「はい。あと三十分ほどでしたらどうぞ」  「ありがとう」  ——またカフェテラスへ戻《もど》った。今度は、ホテルの泊《とま》り客として、である。  コーヒーを頼《たの》んで、まだ雪の降《ふ》りしきる戸外を眺《なが》める。  殺人か——俺《おれ》には何の関係もないことだ。  伊波は、自分にそう言い聞かせた。  そっと天《てん》井《じよう》の方へ目を向ける。——律子は、あの少女を見て、どう思っただろう?  あまり驚《おどろ》いた様子もないのが、ちょっと伊波には意外だったが……。 15 雪に消える  やっとパトカーは、現《げん》場《ば》へ辿《たど》りついた。  村上は、外へ出て、たちまち、ズボッと膝《ひざ》まで雪に埋《うも》れてしまう。  「全く、始末に終えんな」  と呟《つぶや》いて首を振《ふ》った。  ヒョイと顔を上げて、ギョッとした。  トラックの窓《まど》から、運転手の頭が、ガクッと外へ落ちていて、雪が降《ふ》りつもっている。  およそ見て気持のいいものではなかった。  「村上さん」  と、声がした。  「君か」  「ご苦労さまです」  あの、血《けつ》痕《こん》を発見した、酒井巡《じゆん》査《さ》である。  「ひどいな」  「ええ、一目見てゾッとしました」  「見付けたのは?」  「ドライバーです。山《やま》越《ご》えの途《と》中《ちゆう》とかで」  「運が良かったな。普《ふ》通《つう》なら、なかなか、こんなときにここを通るまい」  「死後、まだ数時間だろう、ということですが」と、酒井は言った。「でも、こういう状《じよう》態《たい》ですから、はっきり推《すい》定《てい》するのはむずかしいらしいです」  「そうだろうな」  村上は首を振《ふ》った。「——もう運んでもいいよ」  「はい」  酒井が歩いて行く。  村上は、ゆっくりと周囲を見回した。  雪が、犯人の足《あし》跡《あと》も、消してしまっている。しかし、犯人がここから逃《とう》亡《ぼう》したことは、確《たし》かである。  なぜ、ここから?  それが奇《き》妙《みよう》だ、と村上は思った。——強《ごう》盗《とう》にしろ恨《うら》みにしろ、こんな所で人を殺せば、どこへも逃《に》げられないのが、一目で分りそうなものではないか。  それでいて、ここで、運転手を殺している。——なぜだ?  それに、あの、被《ひ》害《がい》者《しや》の不自然な格《かつ》好《こう》のことがある。  どうしてあんな風に、首を外へ突《つ》き出しているのか。そして——  「そうか。窓《まど》をなぜ開けたんだ?」  と、村上は呟《つぶや》いた。  「——やあ、ひどいね」  と、やって来たのは、検《けん》死《し》官《かん》である。  ひどい、というのが、雪のことか、殺人のことか、村上には判《はん》断《だん》がつきかねた。  「ご苦労さんですな」  「犯《はん》人《にん》も、こんなときにやらんでも良さそうなもんだ」  と、検死官が顔をしかめた。  「死《し》因《いん》は?」  「絞《こう》殺《さつ》さ、むろん。凄《すご》い力だ」  「紐《ひも》か何かで?」  「いや、両手だ。指先が食い込《こ》んでいる」  「ほう。すると……」  「妙《みよう》なのは、頭の位置だ」  「それは私《わたし》も考えましたよ。窓が開いていて、犯人は、そこへ運転手を押《お》しつけて——」  「それは、犯人が中にいると思ってるからだろう」  「違《ちが》うんですか?」  と、村上は目を見《み》張《は》った。  「指の跡《あと》のつき方から見て、犯《はん》人《にん》は外に立っていたらしい」  「外に?」  村上はトラックの窓の下へ歩いて行った。  もう運転手の死体はない。村上は両手をのばしてみた。  「こうやって絞《し》めた、と?」  「そうらしいんだ」  「でも、力が入りませんよ」  「だから、もともと、大変な力持ちの男なんだろう」  「それに大男だな。もっと背《せ》が高かったでしょうからね」  「そういうことになる。——用心してかかった方がいいぞ」  村上は肯《うなず》いた。  そんな怪《かい》力《りき》の持主では、警《けい》官《かん》二人でも押《おさ》えられないかもしれない。三人一組にする必要があるな。  しかし、こんな林の中の道で、トラックを襲《おそ》って何になるのか?  妙《みよう》な事件だ、と村上は思った。  「——村上さん」  酒井がやって来た。「一《いち》応《おう》の手配は終りましたが」  「ご苦労だな。じゃ、全員に伝えてくれ。犯人は大男で、しかも大変な力の持主らしい。三人一組で捜《そう》査《さ》に当れ、と」  「分りました」  「充《じゆう》分《ぶん》に注意しろ、と言ってくれ」  「はい!」  酒井が、雪の中、せっせと歩いて行くのを見ながら、村上は微《ほほ》笑《え》んでいた。  なかなかいい若《わか》者《もの》だ。——素《す》直《なお》だし、よく動く。  骨《ほね》惜《お》しみをしないのが、警官の一番の条《じよう》件《けん》なのである。  さて、と村上は肩《かた》を揺《ゆ》すった。  雪が足下に舞《ま》い落ちて行った。  閉《しま》る時間になって、伊《い》波《ば》はカフェテラスを出た。  律子の部屋へ行こうか? それとも……。  少女の具合が気になった。医者を呼《よ》んだ様子はなかったが。  階《かい》段《だん》を上り、律子の部屋へ行ってみる。ドアのルームナンバーを見て行くと、伊波の部屋は、すぐ斜《なな》め向いだった。  ドアをそっと叩《たた》いてみる。  しばらく間があって、  「どなた?」  と、律子の声がした。  「僕《ぼく》だ」  ドアが静かに開く。セーターにスラックス姿《すがた》の律子が顔を出して、  「しっ!」  と、指を唇《くちびる》に当てた。「眠《ねむ》ってるわ」  「そうか。——具合は?」  「迷《まよ》ったんだけど……、連れて来たときより、熱は下がってるの。服を脱《ぬ》がせて、体を熱いタオルで拭《ふ》いて、私《わたし》の服を着せたわ。よく眠ってて、たぶん、このまま朝まで目を覚《さ》まさない、と思うわ」  「すまないね」  と、伊波は言った。「すっかり君に世話をかけちまって」  「いいのよ」  律子は微《ほほ》笑《え》んだ。「あなた、部屋は?」  「うん、そこだ」  と、ドアを指した。  「すぐ寝《ね》る?」  「いや——どうして?」  「あなたの方に、話があるんじゃなくて?」  律子は、奥《おく》のベッドの方へ、ちょっと目をやった。  そうだ。ここまでやらせておいて、律子に話をしないわけにはいかない。  「分った。説明するよ」  「ここじゃ、彼女《かのじよ》が起きるかも……」  律子は、ベッドの方へ歩いて行くと、少女の上にかがみ込《こ》んでいたが、やがて戻《もど》って来て、  「——あの分なら大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》よ、下へ行く?」  「もう下は閉《しま》ってる」  「あら、そう」  律子は、ちょっと間を置いて、「じゃ、仕方ないわね」  と言った。  伊波は、自分の部屋のドアを開《あ》けた。  「——少し開けておこうか?」  「大丈夫よ。だって、話を聞かれても困《こま》るんじゃないの?」  それはその通りだ。しかし……。  伊波の中に、ためらいがあった。  「私《わたし》だって人《ひと》妻《づま》なんだから」  と、律子は笑《わら》って言った。  そう。——そうだ。何も、心配することなんかない。  伊波は、律子を通して、ドアを閉《し》めた。  「妙《みよう》な話ね」  と、律子は言った。  「うん」  伊波はじっと天《てん》井《じよう》を見上げながら、言った。  部屋の中は、暗かった。  伊波と律子は、ベッドの中で、身を寄《よ》せ合っていた。——こうなることが分っていたように、律子には思えた。  そのために、ここへ来たのではないか、そう——きっとそうだったのだ。  部屋へ入って、二人はほとんど話もしない内にベッドへと倒《たお》れ込《こ》んだのだった。  しかし、あわただしい情《じよう》事《じ》の後、二人は、そのことは、何も口に出さなかった。専《もつぱ》ら、あの少女のことだけを話していたのだ。  「身《み》許《もと》も、名前も、年《ねん》齢《れい》も不明、か……」  律子は、首を振《ふ》った。「家出して来たにしては、妙な所へ来たものね」  「そうなんだ」  伊波は肯《うなず》いた。「どこから来たにしても、あんな山の中の別《べつ》荘《そう》へ、なぜやって来たのか、分らない」  「あなたの所へ、やって来たのか、それともたまたまあなたの所に着いたのか、どっちかしら?」  「分らんね」  と、伊波は言った。「ともかく、あの記《き》憶《おく》喪《そう》失《しつ》は、見せかけだと思うがね」  「でも、それなら、理由があるはずだわ」  「そうなんだ」  「でも、あなたに抱《だ》かれようともしないわけね?」  「そういう趣《しゆ》味《み》はないようだ」  「おかしな子ね」と、律子は言って、少し体を起こした。  「——裸《はだか》にしてみたけれど、見かけよりは年齢《とし》がいってるかもしれないわ。十八ぐらいでもおかしくない」  「そうかい? 十六ぐらいと思ってたけどな」  「あのくらいの一年は大きいわ。私と違《ちが》ってね」  と律子は言って、ちょっと笑った。「こっちも一年毎《ごと》に太くなってるけど」  「丸みができたね、体に」  伊波が、初めて、律子の体のことを口にした。  「しっ、黙《だま》って」  律子は、伊波の口を指で押《おさ》えた。「これはただの挨《あい》拶《さつ》よ」  伊波は肯《うなず》いた。  「分ってる」  「主人はいい人だわ。裏《うら》切《ぎ》りたくないの」  律子は、毛《もう》布《ふ》の下で、膝《ひざ》を立てて、それを両手でかかえ込《こ》んだ。  勝手なことを言ってるわ、と思った。こんなことをしておいて、裏切っていないつもりなんだから……。  でも、一度は——一度くらいは仕方ない。  これが続くことだけは、避《さ》けなくてはならない。  「僕《ぼく》も、ずっと女っ気なしだったからね」  と伊波は言った。  「誰でも良かったんでしょ」  と、律子は笑《わら》いながら、にらんで見せた。  「そうじゃないよ。しかし……」  あの少女だ。——伊波は思った。あの少女に、刺《し》激《げき》され、あの細い体を抱《だ》きしめたいという思いを押えて来た。  それが、律子と二人きりになって、爆《ばく》発《はつ》した……。  そうだ。——これは「挨拶」だ。  少なくとも、よりを戻《もど》した、という気持は、伊波の内には全くなかった。  「これからどうするの?」  と、律子が訊《き》く。  「シャワーを浴びて寝《ね》るさ」  「違《ちが》うわよ」  と律子は笑《わら》った。「あの女の子のこと。ずっと置いてやるつもり?」  「向うが出ていかないんだ。追い出すわけにもいかない」  「こんな季節じゃね」  「そう。——分らないよ、どうなるのか」  「結《けつ》婚《こん》したら?」  伊波は面食らって律子を見た。  二人は一《いつ》緒《しよ》になって笑い出した。——道ならぬ仲《なか》、という暗さは、そこにはなかった。  「さあ、シャワーでも浴びようか」  と、伊波は伸《の》びをした。  「一人ずつ、順番よ」  「そうか。いつも君が先だったな」  「じゃ、お先に——」  律子は、ベッドから脱《ぬ》け出し、バスルームへ入ると、シャワーを浴びた。  熱いお湯の感《かん》触《しよく》が快《こころよ》い。——何もかも、洗い落としてくれるようだ。  伊波との、この一時の情《じよう》事《じ》も。  これが、もし夫《おつと》に知れたら、と、ふと考えてみる。しかし、そんなことは、まず考えられない。  そうだわ。もう、明日には東京へ戻《もど》ってしまうのだから。  ——律子が出て、入れかわりに伊波がバスルームへと消える。  「そうだわ、ねえ」  「何だい?」  伊波の声が返って来る。  「あの子、包《ほう》丁《ちよう》を持ってたわよ」  「——うん。つきつけられて、びっくりしたよ」  「あなたに?」  「あれぐらいの年《ねん》齢《れい》の子は分らないよ」  と、伊波の声がして、シャワーの音がかぶさった。  律子は服を着ると、タバコを出して、火を点《つ》けた。——伊波が、バスタオルを腰《こし》に巻《ま》いて出て来る。  「やれやれ、スッキリしたよ」  「あの子、嫉《しつ》妬《と》してるのよ」  「ん? ああ、そうかもしれん。でも、深《しん》刻《こく》なものじゃあるまい」  「気を付けた方がいいわ。深刻じゃなくても、刺《さ》すことはあるわ」  「おどかすなよ」  伊波は苦《く》笑《しよう》した。  服を着ながら、  「そうだ。この近くで殺人があったらしい」  と言った。  「殺人?」  「うん、ホテルのフロントでね——」  伊波が、聞いたことを話してやると、律子は、眉《まゆ》をひそめた。  「怖《こわ》いわね。あなた、帰らなくて良かった」  「うん、詳《くわ》しいことは分らないけど……。ともかく、明るい内に戻《もど》るようにするよ、明日は」  伊波は、ベッドに座《すわ》った。「君は、いつ……?」  「明日帰るわ」  「明日か」  「ええ」  「じゃ、もう会うこともないだろうな」  「そうね」  そうだろうか? 村上が、小池に頼《たの》んだことは、まだ、済《す》んでいない。  しかし、今度頼まれたら、律子は断《ことわ》ろうと思っていた。  やはり、伊波を裏《うら》切《ぎ》りたくはなかったのだ。——たとえ夫《おつと》に叱《しか》られても、いやだ、と言おう。  「——もう二時だわ」  と、律子は言った。「今日帰る、って訂《てい》正《せい》しなきゃならないわね」  「じゃ、あの子は……」  「朝の様子で決めましょうよ」  「そうだな。電話してくれ」  「起こしてあげるわ。五時? 六時?」  「夕方のね」  と、伊波は笑《わら》って言った。  廊《ろう》下《か》へ出て、律子の部屋まで行く。  足音がした。——振《ふ》り向くと、さっきのフロントの男だ。  律子は、ちょっと早口に、  「じゃ、おやすみなさい」  と、伊波に言った。  「あ、どうも——」  フロントの男が伊波に頭を下げる。「さっきの事《じ》件《けん》ですがね」  律子がドアを開《あ》けようとした手を止めた。  「何か分ったのかい?」  伊波が訊《き》く。  「運転手が首を絞《し》められて殺されたそうです。何でも、凄《すご》い力だそうで」  「ほう」  伊波は、内心ホッとした。  まさか、とは思っていたが、あの少女がやったのではなかったわけだ。まあ、腕《うで》相撲《ずもう》をしたことはないが、あの子がそんな怪《かい》力《りき》の持主とは思えない。  「ともかく、犯《はん》人《にん》は大男で、凄《すご》い力の奴《やつ》ということらしいです。もう一度、鍵《かぎ》を確《たし》かめて歩いてるんですよ」  「ご苦労さん」  「おやすみなさい」  フロントの男が行ってしまうと、伊波と律子は、何となく顔を見合わせた。  「——じゃ、おやすみ」  「ええ」  律子は、ドアを開けた。  部屋の中は静かだった。——少女は、ドアの方に背《せ》を向けて、眠《ねむ》っている。  律子は、そっと近《ちか》寄《よ》って、覗《のぞ》き込《こ》んだ。  静かな寝《ね》顔《がお》だ。——これなら大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》だろう。  律子は、もう一つのベッドの毛《もう》布《ふ》をめくって、腰《こし》をおろした。  どうせ、もう二時を回っている。——このまま寝てしまおうか。  ゴロリ、とベッドに横になる。  ——少女は、律子に背を向けたまま、目を開いた。その目は、つい今まで眠っていたとは見えなかった。  少女の目には、不安があった。  追われる獣《けもの》のような、不安が、暗く光っていた。  伊波は部屋に戻《もど》ると、ベッドに身を投げ出した。スプリングがきしむ。  ——律子とああなったことは、後《こう》悔《かい》していない。  明日には、律子は帰って行く。それでいいのだ。  伊波は起き上って、窓《まど》の方へと歩いて行った。カーテンを開《あ》けると、相変らずの雪である。  雪の中を逃《に》げる、怪《かい》力《りき》の大男か。——まるで怪《かい》奇《き》映《えい》画《が》だな、と思った。  「雪男かもしれないな」  そう呟《つぶや》いて、伊波はふっと笑《わら》った。 16 破《は》 壊《かい》  「すまんね、こんな夜中まで」  と、村上が言った。  「いや、どうせ早く帰ったって、することがないですから」  喫《きつ》茶《さ》店《てん》の主人は、笑《わら》って言った。  喫茶店の中は、捜《そう》査《さ》で凍《こご》え切《き》った警《けい》官《かん》たちで一《いつ》杯《ぱい》だった。  一息つきに、次々に入ってくる警官たちへコーヒーを出している内、二時になってしまったのである。  村上も、ついさっきやって来たところだった。コーヒーの熱いカップを両手で包んで、  「やっと感覚が戻《もど》って来たよ」  と笑った。  「大変ですね」  と主人は、使ったカップを手早く洗いながら言った。  「何しろ凄《すご》い奴《やつ》らしいから、早く見付けたいんだよ」  「大男ですって? 怖《こわ》いですね。強《ごう》盗《とう》ですか?」  「分らん。——どうしてこんな所へ逃《に》げて来たのかな」  村上は首を振《ふ》った。  ドアが開いて、酒井が入って来た。  「やあ、ご苦労だった」  「森の中は、何もありません」  「分った。おい、こっちへ来いよ。顔が真《ま》っ青《さお》だぞ」  「もともと色白でして」  と酒井は言った。  「いいから、座《すわ》れ。——すまんが、コーヒーをやってくれるかね」  「ええ、すぐに」  主人が、ドリップで落したコーヒーをカップに注ぐ。  「やあ、どうも! 生き返ります」  酒井はカップを持ち上げると、ぐいと飲んで、熱さに目を白黒させた。  「——この雪だし、もう二時を回った。捜《そう》査《さ》は一《いつ》旦《たん》打ち切ろう」  と、村上は言った。「おい、誰《だれ》か連《れん》絡《らく》して来てくれ」  「はい」  「明日は朝七時に集合だ」  全員が一《いつ》斉《せい》に息をつく。これで少し休めるという、安《あん》堵《ど》の息か、それとも明日のことを思ってのため息か、どっちともつかなかった。  「いや、悪かったな」  と、村上は店の主人へ言った。「さあ、みんな引き上げよう。いつまでも店が閉《し》められない」  「毎度どうも」  と主人は笑《え》顔《がお》で言った。  「何《なん》杯《ばい》飲んだかね」  「よく数えてなかったんで……」  と、主人が頭をかく。  「適《てき》当《とう》に請《せい》求《きゆう》してくれ」  「多目にいただきますよ」  「時間外料金もね」  と誰かが言ったので、みんなが笑《わら》った。  「さあ、腰《こし》を上げよう」  と、村上が言って、立ち上った。  ゾロゾロと、店から外へ出る。  「寒いなあ!」  と、声が上る。  村上と酒井は、同じパトカーに乗《の》り込《こ》んだ。  酒井がハンドルを握《にぎ》る。  「本部へ戻《もど》られますか?」  「うん。そうしよう」  パトカーが、雪を分けながら、走り出す。——一台、また一台、と、店の前を埋《う》めていた車が消えて行った。  「——よく飲んだもんだ」  店の主人は、カウンターの中で独《ひと》り言《ごと》を言った。  予備のコーヒーカップも総《そう》動《どう》員《いん》したのだが、それでも、最後の何人かの分は、洗って使わなくてはならなかった。  「もう二時過《す》ぎか」  全部今から洗っていたら朝になってしまう。しかし、明日に回すというのも、無理だ。  洗うなら今の方が楽だ。——主人は肩《かた》をすくめた。  「明日は三時ごろからにしよう」  と呟《つぶや》くと、のんびり、カップをお湯につけ始める。  警《けい》察《さつ》の人には愛《あい》想《そ》良《よ》くしておいた方がいい。何かのとき、力になってくれるだろう。  「そうか」  何だか、化《ばけ》物《もの》みたいな男が逃《に》げてるとか言ったな。  鍵《かぎ》をかけておこうか。——主人はエプロンで手を拭《ぬぐ》って、カウンターの外へ出て来た。  そのとき、急にドアが開いた。  その男は、出入口を、すっかり塞《ふさ》いでしまいそうな大きさだった。  いや、もちろん、人間ではあるし、実《じつ》際《さい》のところ、めったに見ないというほどの大男でもない。しかし、黒いオーバーで、無言で立っているその姿《すがた》は、威《い》圧《あつ》感《かん》さえ与《あた》えた。  こいつだな、と思った。  「いいかね」  と、男は言った。  「ええ、どうぞ。——今、閉《し》めようかと思ったところで」  意外にスラスラと言葉が出て来た。  「すぐに出るよ」  男は入って、ドアを閉めた。身体を軽く震《ふる》わせると、雪がバラバラと落ちる。  「何にします?」  「コーヒーだ」  「はい」  止めたばかりのガス栓《せん》をもう一度ひねる。  「——ひどい雪ですね」  「ああ」  男はカウンターに肘《ひじ》をついて、ぼんやりと座《すわ》っていた。  カップを一組、洗って拭《ふ》くと、男の前に置く。——手は震えなかった。  あまり怖《こわ》いと感じないのは、おそらく、実感がまだないからだろう。  男は何も言わずに、じっと空《から》のカップを見ていた。  店の主人は、カップ洗いを続けた。すぐにコーヒーが温まる。  カップへ注ぐと、男は、熱いコーヒーを、ミルクも砂《さ》糖《とう》も入れず、一気に飲みほしてしまった。  「もう一杯《ぱい》くれ」  と、男は言った。  こいつは大変な男だ、と主人は思った。初めて、恐《きよう》怖《ふ》が足下から、這《は》い上ってくるのを覚えた。  「ああ、うっかりしてた」  と、酒井は言った。  「どうした?」  村上は、パトカーの中で、ウトウトしていたが、酒井の声で目を開いた。  「いえ、あの喫《きつ》茶《さ》店《てん》の主人ですよ」  「どうかしたのか?」  「一人だから、帰りも危《あぶ》ないでしょう。一《いつ》緒《しよ》に乗せて来てやれば良かったと思ったんです」  「なるほど。俺《おれ》も気が付かなかったな」  村上は外を見た。「どれくらい走って来た?」  「十五分ぐらいです」  「——戻《もど》るか。もう一人ぐらい乗せて来れる」  「すみません、さっき、出るときに気が付いていれば……」  「いいさ。じゃ、他の車へそう伝えて、Uターンしよう」  ——酒井と村上、それにもう一人、巡《じゆん》査《さ》の乗ったパトカーは、雪道をUターンして、喫《きつ》茶《さ》店《てん》に向って戻った。  そうか。——寒さのせいで、村上も、ついぼんやりしていた。  あの店の明りは、この雪の中を逃《に》げている男にとって、格《かつ》好《こう》の目標になるかもしれない。もちろん、トラックのあった場所から、あそこまで行くのは容《よう》易《い》ではないが……。  しかし、あんな凄《すご》い殺し方をする男なら、それくらいの体力はあるかもしれない。  酒井の運転は、危《あぶ》なげがなかった。  十五分、といったが、十分ほどで、喫茶店の灯《ひ》が見えて来る。  店の前で、パトカーは停《とま》った。  「まだいるようだな」  と、村上は店の方を見て、言った。  「呼《よ》んで来ます」  と酒井がドアを開けて、言った。  「少しぐらい待ってても構《かま》わんぞ」  村上は、吹《ふ》き込《こ》む冷たい風に、身を縮《ちぢ》めて、言った。「早くドアを閉《し》めてくれ」  「はい」  酒井はちょっと笑《わら》って、ドアを閉めた。  雪は、やや小《こ》降《ぶ》りになっている。酒井は、喫茶店のドアへ向って、走った。  軽くドアを叩《たた》いて、  「失礼——」  と、入って行った。  そして、足を止める。——カウンターに、男が座《すわ》っている。  黒いオーバー、毛糸の帽《ぼう》子《し》。大きな男だ。  店の主人が、ギクリとした様子で、酒井を見る。  こいつだ!——酒井は、一《いつ》瞬《しゆん》迷《まよ》った。  どうすべきか。戻《もど》って、後の二人を連れてくればいい。しかし、そうなると店の主人が一人で残ることになる。  「どうかしたんですか?」  と、主人が訊《き》いた。  「いや……ちょっと、コーヒーが欲《ほ》しくて」  大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》。俺《おれ》一人だってやれる。  酒井は、ゆっくりとカウンターに近づいた。男からは、二メートル距《きよ》離《り》を置いている。  「いいですよ」  主人は、洗ったカップを、酒井の前に置いた。男は、チラッと酒井の方を見たきり、関心のない様子だった。  酒井は、さり気なく、手を腰《こし》へやった。拳《けん》銃《じゆう》を、いつでも抜《ぬ》けるように、だ。  心《しん》臓《ぞう》が鼓《こ》動《どう》を早めた。——間《ま》違《ちが》いない。  こんな時間に、こんな所にいる。殺《さつ》人《じん》犯《はん》だ! 目の前に!  「どうぞ」  主人が、酒井のカップにコーヒーを注ぐ。  「ありがとう」  「俺にもくれ」  と男が言った。  「はい、三杯《ばい》目《め》ですね」  主人が、カップへコーヒーを注ぐ。  男は、そのカップを持ち上げると、酒井の方を見た。酒井と目が合う。  「おい、お前——」  酒井の手が拳銃にかかった。  男が、カップのコーヒーを、酒井の顔に浴びせた。  酒井が声を上げて、顔を手で覆《おお》った。  男は、酒井の胸《むな》ぐらをつかむと体を持ち上げた。  「やめろ!」  と、店の主人が叫《さけ》んだ。  男が、酒井の体を、両手で高々と頭の上に持ち上げる。店の主人はカウンターの下へ、身を伏《ふ》せた。  酒井の体は宙《ちゆう》を飛んで、カウンターの奥《おく》の棚《たな》へ叩《たた》きつけられた。  「すみません」  と、もう一人の巡《じゆん》査《さ》が言った。  「何だ?」  村上は顔を上げた。  「ちょっと、あそこのトイレを借りて来ていいですか」  「いいとも。冷えたんだろう」  村上は肯《うなず》いた。  欠伸《あくび》が出る。——もう二時半か。  少し眠《ねむ》って、六時には起きなくてはならない。  せめて、雪がやんでくれたらな……。  巡《じゆん》査《さ》が、店に入って行くのが見えた。——酒井の奴《やつ》、何をしているのかな。  そのとき、何か激《はげ》しく物の壊《こわ》れる音がした。  村上はハッとした。——あれは何だ?  そして、銃《じゆう》声《せい》がした。——銃声だ!  村上はパトカーから飛び出した。  駆《か》けつけるといっても、雪を踏《ふ》んでのことだ。苛《いら》々《いら》するような思いで、やっと店まで辿《たど》りつく。  拳《けん》銃《じゆう》を抜《ぬ》いて、ドアに手をかけたとたん、ドアが開いて、村上は、凄《すご》い力ではね飛ばされていた。  雪の中へ投げ出され、転《ころ》がった。  胸《むね》に、鈍《にぶ》い痛《いた》みがあった。——肋《ろつ》骨《こつ》でも折《お》れたのだろうか?  やっとの思いで頭を上げる。  大きな男が、雪の中へと消えて行くところだった。  手を伸《の》ばし、探《さぐ》ったが、拳銃は見当らない。  追いかけるのは無《む》理《り》だった。立ち上るのもやっとだ。  店の中へ入って行って、村上は愕《がく》然《ぜん》とした。  後から入って行った巡査は、壁《かべ》にもたれて、気を失っているらしかった。  拳銃が落ちている。  酒井と店の主人の姿《すがた》が見えない。  「酒井! どこだ!」  カウンターから、店の主人が顔を出した。  「ここです……」  「大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》か?」  「私《わたし》は——」  と主人は肯《うなず》いた。額《ひたい》から血が出ていたが、大した傷《きず》ではなさそうだ。  「ここにもう一人……」  と、主人は言った。  村上は胸《むね》の痛《いた》みも忘《わす》れて、カウンターの内側へ入って行った。  酒井が倒《たお》れていた。カップの破《は》片《へん》が散《さん》乱《らん》している。  「あの化《ばけ》物《もの》が……この人を投げつけたんです」  主人の声が震《ふる》えていた。  村上は、かがみ込《こ》んで、酒井の手首の脈を取った。  ——まさか!  「どうです?」  と、店の主人が訊《き》く。  村上は、ゆっくりと立ち上った。顔が青白く、唇《くちびる》が細かく震《ふる》えていた。  「死んでいる」  と、村上は言った。「首の骨《ほね》が折《お》れている」  店の主人は息を呑《の》んだ。  「電話を借りるよ」  村上は、静かに言った。受《じゆ》話《わ》器《き》を取って、ダイヤルを回す表《ひよう》情《じよう》は、もう、いつもの村上のものだった。 17 柴《しば》田《た》の死  小池は、布《ふ》団《とん》の中で、モゾモゾと動きながら、手を伸《の》ばして、妻《つま》の律子のいるあたりを探《さぐ》った。  どこだ?——ん?  いない。おかしいな。もう、起き出したのかな。  小池は目を開いた。  一人で寝《ね》ているのだった。——そうか、そうだった。  律子は出かけていたのだ。村上の頼《たの》みで、かつての愛人、伊《い》波《ば》に会っている。  小池の方は急な用で戻《もど》って来てしまったが、村上の方の首《しゆ》尾《び》はどうだったのだろう?  いずれにしろ、律子も今夜には帰って来る。  いつもは、自分の方がいなくて、律子が一人で家にいることが多いのだが、ゆうべは逆《ぎやく》だった。  めったにないことだけに、小池は、思いがけないほど、寂《さみ》しい気分を味わったものだ。  「もう若《わか》くもないのに、何を言ってるんだ」  と、独《ひと》り言《ごと》を言って、笑《わら》った。  起き出して、顔を洗う。——もちろん、律子なしでは、朝食の仕《し》度《たく》も、できているわけではない。  どこか、近くへ食べに出ようか、と思った。その方がよほど手っ取り早いし、出前を取るといっても、一つではいやな顔をされるだろう。  今日は非番で、十二時近くまで眠《ねむ》ってしまった。昼飯時で混《こ》んでいるかもしれないが、一人だけだ、何とかなるだろう。  小池は、財《さい》布《ふ》をつかんで、家を出ようとした。サンダルを引っかけていると、電話の鳴るのが聞こえた。  律子かもしれない。  小池は、急いで、電話へ駆《か》け寄《よ》った。  「小池です」  「村上です」  と、あの真《ま》面《じ》目《め》そうな声が聞こえて来た。  「やあ、どうも。いかがでした、首《しゆ》尾《び》は?」  と、小池は訊《き》いた。  「いや、実は、奥《おく》様《さま》にご協力いただいたのに、突《とつ》発《ぱつ》事《じ》件《けん》がありましてね——」  「ほう」  村上が、謎《なぞ》の大男による、トラック運転手と警《けい》官《かん》の殺害事件を、手短に説明する。  「——それは大変だ!」  小池は座《すわ》り込《こ》んだ。「では、まだ、逮《たい》捕《ほ》されていないんですね?」  「私も出くわしたんですよ。それなのに逃《に》げられてしまって。全く面《めん》目《ぼく》ないことです」  小池には、淡《たん》々《たん》と語る村上の胸《きよう》中《ちゆう》が、察せられた。  部下を殺されたのだ。言葉には出てないが、どんなにか苦しいだろう。  「そんなわけで——」  と、村上が続けた。「奥《おく》さんにはむだをさせてしまったことになります。誠《まこと》に申《もう》し訳《わけ》ない」  「そんなことは構《かま》いませんよ。村上さん、大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》だったんですか?」  「ちょっと肋《ろつ》骨《こつ》にひびが入ったようですが、大したことはありません。いや、馬《ば》鹿《か》力《ぢから》のある奴《やつ》でしてね」  「いけませんね。休まれた方がいいですよ」  「あの大男を逮《たい》捕《ほ》してからですよ」  村上の言葉は、穏《おだ》やかだが、固い決心を感じさせた。止めてもむだだろう。  いや、小池自身、おそらく村上の立場なら、同じことを言うに違《ちが》いない。  「では、くれぐれも気を付けて下さい」  「ありがとう。奥さんは今日、帰られるはずですから」  「私の方は非番ですから、家にいるようにしますよ」  「それは羨《うらやま》しい」  初めて、村上の声に、笑《わら》いが混《まじ》った。「では、またご連《れん》絡《らく》します」  ——律《りち》義《ぎ》なことだ。  小池は電話を切って、首を振《ふ》った。  正《しよう》体《たい》不《ふ》明《めい》の大男か。何だか、映画にでも出て来そうだな。  小池は、家を出て、近くの、ファミリーレストランに出かけた。  よく見かけるチェーン店の一つで、この辺にも、ここ二年ほどの間に、三軒もできた。  どこも似《に》たり寄《よ》ったりの味だが、ともかくひどくまずいこともないし、値《ね》段《だん》も安い。  あまりに可愛《かわい》い店の造《つく》りに、最初は抵《てい》抗《こう》を覚えても、その内、つい足が向くようになる。昼は、サラリーマンや、トラックの運転手で、結《けつ》構《こう》混《こ》んでいるのだ。  入って行くと、テーブルは一《いつ》杯《ぱい》で、子《こ》供《ども》連れの主《しゆ》婦《ふ》たちが二、三人、順番を待っていた。  「お客様、お一人ですか?」  主婦のパートらしいウエイトレスが、声をかけて来た。  「うん」  「カウンターのお席で良ろしければ、どうぞ」  「ああ」  後から来て、先に入ってしまうのも気がひけたが、他の客は、みんな三人、四人のグループらしい。  小池は、ちょっと小さくなって、カウンターについた。  こんなときには、ひどく気が弱くなる。むしろ律子の方が度《ど》胸《きよう》がいいのである。  メニューをもらって、ともかく、一番簡《かん》単《たん》なランチを注文する。先にコーヒーが来た。  この手の店は、たいていコーヒーが飲み放題である。その代り、お湯と大差ないほど薄《うす》いコーヒーではあるが。  TVが点《つ》いていた。ニュースが始まったところである。  「死体——」  という言葉で、ヒョイと画面を見る。  やはり、習《しゆう》慣《かん》というものかもしれない。  誰《だれ》だ? 小池は、ふと眉《まゆ》を寄《よ》せた。どこかで見た顔だった。——誰だろう?  「柴《しば》田《た》さんは——」  というアナウンスの声。  柴田! そうか、あの男だ!  村上の依《い》頼《らい》で同行した、あの大《だい》邸《てい》宅《たく》。血《けつ》痕《こん》の発見された別《べつ》荘《そう》の、かつての持主である。  娘《むすめ》が五年前、行方《ゆくえ》不《ふ》明《めい》になってから、父親は異《い》常《じよう》を来《きた》していた。その当の父親が死んだのである。  「二階から飛び降《お》りて……ノイローゼ気味で……」  ありきたりの説明が続く。  ノイローゼ気味だって? あれは、「気味」どころではない。完全なノイローゼだ。  気《き》の毒《どく》に、と小池は思った。薄《うす》いアメリカンコーヒーをすする。  引っかかったのは、一つの言葉だった。  「別《べつ》荘《そう》」  ——妻《つま》の徳子は、ちょうど別荘へ行っていて、留《る》守《す》だったのだ。  「別荘か……」  と、小池は呟《つぶや》いた。  偶《ぐう》然《ぜん》だろうか? 柴田家のかつての別荘で、血痕が見付かった。そして、村上と共に柴田家を訪《たず》ね、ノイローゼの夫《おつと》に出会った。  その夫は死んだ。そして、妻は別荘に行っていた、という……。  もちろん、これらの事実に、何か脈《みやく》絡《らく》をつけることは、むずかしい。小池には、とても想像できなかった。  むしろ、村上なら、何かユニークな発想をするかもしれない。  それにしても——「別荘」「行方《ゆくえ》不《ふ》明《めい》の娘《むすめ》」そして、突《とつ》然《ぜん》現《あら》われた「大男」。柴田家の主人の死……。  こんなに、色々な出来事が、ただ偶《ぐう》然《ぜん》で重なるものだろうか?  小池は、あとで柴田邸《てい》を訪ねてみよう、と思った。もちろん、本来の職《しよく》務《む》からは離《はな》れてしまうが……。  「お待たせしました」  ランチが、目の前に置かれた。  「ありがとう」  律子はドアを開け、ルームサービスのワゴンを中へ入れた。「サインしましょう」  「お願いします」  若《わか》いボーイが、伝票を取り出す。  律子はボールペンで名前を書いて、ボーイへ返した。  ドアを閉《し》めると、ワゴンを、ベッドの方へ押《お》して行く。  「さあ、スープでも飲んで、元気をつけてちょうだい」  と、律子は少女に言った。  少女は、ベッドに少し起き上った格《かつ》好《こう》で、天《てん》井《じよう》を眺《なが》めていた。  「お腹《なか》、空《す》いてないの?」  と、律子は訊《き》いた。「だめよ、食べなきゃ」  大きなお世話、と言い返して来るかと思ったのだが、少女は意外に穏《おだ》やかな目を、律子の方へ向けた。  「食べる?」  「ウン」  と、少女が肯《うなず》く。  「良かった! じゃ、一《いつ》緒《しよ》に食べましょ。私《わたし》もお昼はまだだから」  律子は、ワゴンを二つのベッドの間に入れた。「サンドイッチとスープ、それに、紅《こう》茶《ちや》。——紅茶は後でいい?」  「うん」  と、少女は言いながら、もうサンドイッチに手を出していた。  律子は内心ホッとした。  もう熱も下がっているし、大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》だろう。——それに包《ほう》丁《ちよう》で刺《さ》される心配もなさそうだ……。  少女は、十一時近くまで、ぐっすり眠《ねむ》っていた。そのために、律子は、チェックアウトを延《えん》期《き》して、夕方まで、借りておくことにしたのである。  少女の食《しよく》欲《よく》は大したものだった。  何しろ、律子がサンドイッチの一皿《さら》を三分の一も空《あ》けない内に、もう一皿が、すっかり空《から》っぽになってしまったのだから。  「おいしい」  少女は、紅茶を一口飲んで、ふうっと息をついた。  「良かったわ、元気になって」  と、律子も、もう一つのカップに紅茶を注《つ》ぎながら言った。  「あの人は?」  律子は、ちょっと目を見開いた。  もちろん、伊波のことを言っているのには違《ちが》いはないのだが、あの人とは、大人《おとな》びた呼《よ》び方である。  「伊波さんのこと? 他に部屋を取って——でも、もう出てるはずね。きっと下のロビーにでもいるんじゃないかしら」  少女は肯《うなず》いて、  「私のこと、聞いたんでしょう?」  と言った。  「そうね。でも——あなたにも自分のことが分らないんだから、聞いたといってもね……」  律子は曖《あい》昧《まい》に言った。「あなた、記《き》憶《おく》は戻《もど》らないの?」  「ええ」  少女は目を伏《ふ》せた。  もちろん、記憶を失ったというのは、でたらめじゃないの、と問《と》い詰《つ》めることもできたが、律子としては、少女の反感を買いたくないという気持があった。  ここは、少女の話を信用しているという態《たい》度《ど》でいた方がいい。  「のんびり構《かま》えた方がいいのよ、そういうときは」  と、律子は言った。  少女は、何か言いかけて、思い直したように口をつぐんだ。それから、少し間を置いて、  「あの人、奥《おく》さんを殺したって疑《うたが》われてたんでしょう?」  と訊《き》いた。  「ええ、そうなの。でも、犯《はん》人《にん》はあの人じゃないわ」  律子の方も「あの人」と呼《よ》んでいた。  「そうですか」  「私が一《いつ》緒《しよ》にいたんだもの、その時間には。絶《ぜつ》対《たい》に確《たし》かよ」  「あの人、人殺しなんて、できませんよね」  少女は、ホッとしたように言った。  「気の優《やさ》しい人だものね。——分るでしょう?」  「ええ」  少女が微《ほほ》笑《え》んだ。——何となく、律子も微笑んでいた。  何だか妙《みよう》だわ、と律子は思った。  いわば、私たち、恋《こい》敵《がたき》なのに。——もっとも、そんなこといったら、伊波は照れるだろうけれど。  「ねえ、あなた——」  と、律子が言いかけたとき、ドアをノックする音がした。  少女が目に見えてビクッとした。律子は、ちょっとびっくりした。  この子は、何かに怯《おび》えている。  「はい」  と律子がドアの方へ歩いて行く。  「僕《ぼく》だよ」  伊波の声だった。  ドアを開けると、伊波が覗《のぞ》き込《こ》んで、  「入っていいかい?」  「どうぞ。食事が終ったところ」  と、律子は言って、伊波を入れた。  「やあ、すっかり元気そうになったな」  伊波は少女に笑《わら》いかけた。  「うん、もう大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》」  少女は、ちょっと幼《おさな》い笑《え》顔《がお》に戻《もど》って言った。  「良かった。どうしようかと思ってたんだ、ゆうべは」  「若《わか》いってのはすばらしいわ」  と、律子が言った。「この回《かい》復《ふく》力《りよく》! 私たちには真《ま》似《ね》できないわよ」  「全くだな」  「もう別《べつ》荘《そう》に戻るの?」  と、少女が訊《き》いた。  「どうしたもんかな」  伊波は、ソファに腰《こし》をおろした。「迷《まよ》ってるんだ」  「私のせいで?」  「いや、それもあるが……。ほら、ゆうべボーイが言ってたろう」  と、律子の方を向いて、「例の殺《さつ》人《じん》事《じ》件《けん》だよ」  「大男とかいう、あれ?」  「そうさ。ゆうべ、僕のよく行く喫《きつ》茶《さ》店《てん》に来たらしい」  「それで?」  「居《い》合《あわ》せた警《けい》官《かん》を殺して逃《に》げた」  「殺して?」  律子が、さすがに目を見《み》張《は》った。  「大変な奴《やつ》だよ。——今、この付近は大《おお》騒《さわ》ぎさ」  「危《き》険《けん》があるのね」  「というより、県《けん》警《けい》の応《おう》援《えん》も来て、大《だい》捜《そう》査《さ》網《もう》を展《てん》開《かい》してる。今、別《べつ》荘《そう》へ戻《もど》ろうとしても、途《と》中《ちゆう》うるさく検《けん》問《もん》されるだろうな」  「それに物《ぶつ》騒《そう》だわ」  と、律子は言った。「あなたとこの子二人きりの所へもし、その大男が来たら——」  「僕じゃ、とても太《た》刀《ち》打《う》ちできっこないからね」  と、伊波は肯《うなず》いた。  「じゃ、捕《つか》まるまで、このホテルにいたらどう?」  と、律子は提《てい》案《あん》した。  「うん、それも考えてるが……」  伊波は少女を見た。「君はどうしたいんだ?」  少女は、ちょっと目を伏《ふ》せて考え込《こ》んでいたが、すぐに伊波を見つめて、  「あなたのいる所なら、どこでもいい」  と言った。  「まあ、羨《うらやま》しいこと!」  と、律子がからかった。「こんな若《わか》い子にそんなこと言われるなんて、生《しよう》涯《がい》に何度もないわよ」  「よせよ」  伊波が苦《く》笑《しよう》した。  電話が鳴り出し、律子は受《じゆ》話《わ》器《き》を取った。  「はい。——あら、あなた?——ええ、寝《ね》坊《ぼう》しちゃってね。——え? 何ですって」  律子は思わず訊《き》き返《かえ》していた。「——分ったわ。——ええ、それじゃ——」  律子は、戸《と》惑《まど》った表《ひよう》情《じよう》で、受話器を戻《もど》した。  「どうした? 早く帰って来いって言われたんだろう」  伊波の問いに、律子は、ゆっくり首を振《ふ》った。  「そうじゃないの。——ここにいろ、と言うのよ」  「え?」  「主人の方が、こっちに来るって。何か、用事ができたらしいの」  律子は、空《あ》いたソファに腰《こし》をかけた。  三人が、何となく黙《だま》り込んだ。——何か新しい不安と緊《きん》張《ちよう》が、そこに生れつつあった……。 18 山《やま》狩《が》り  胸《むね》が痛《いた》んだ。  村上は、ちょっと顔をしかめて、息をつめた。——大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》。少しじっとしていればおさまる。  空気は、肌《はだ》を切るように冷たかったが、天気がいいので、救われていた。  「村上さん」  県《けん》警《けい》の刑《けい》事《じ》が、雪を踏《ふ》んで、村上のいる方へやって来た。  「どうだ?」  「足《あし》跡《あと》は消えています。あのあと、大《だい》分《ぶ》降《ふ》りましたからね」  「そうか」  と、村上は肯《うなず》く。「そうなると、後は、人《じん》海《かい》戦《せん》術《じゆつ》で行くしかないな」  「そうですね。すぐ始めますか」  「やってくれ」  と村上は言った。「もう、二人殺している。早く見付けないと危《き》険《けん》だ」  「分りました」  と刑事が肯いて、「村上さん、少し、本部へ戻《もど》って休まれたらどうです?」  「大丈夫だよ、俺《おれ》は。ここに立っているだけなんだから」  「胸《むね》が痛《いた》そうですよ。肋《ろつ》骨《こつ》、ひびでも入っているのかもしれない。レントゲンをとって、ちゃんと——」  「分ってる」  と、村上は遮《さえぎ》った。「これが片《かた》付《づ》いたら、人間ドックでも入るさ。さあ、行ってくれ」  「分りました」  刑事が歩いて行く。  本当だ、と村上は思った。どうして意地を張《は》るのだろう?  ただ指《し》示《じ》するだけなら、ここにいても、本部にいても同じだ。しかし、村上は、ここから動く気になれなかったのである。  ——林一《いつ》杯《ぱい》に散開した警《けい》官《かん》たちが、かけ声と共に、一《いつ》斉《せい》に木々の間を進んで行くのが見えた。  白く、まぶしい雪に、黒い警官たちの姿《すがた》が、何かの小動物のようだ。  「村上さん」  警官が呼《よ》びに来た。「無《む》線《せん》が入っていますが」  「ありがとう」  村上はパトカーの方へと歩いて行った。急ぎたくても、胸が痛むので、それができないのだ。  やっとパトカーへ辿《たど》りつき、マイクを取る。  「村上です」  「村上さん! 小池です」  と、元気のいい声が飛び出して来た。  「ああ、これはどうも。どうしたんですか?」  「これからそちらの方へうかがいますよ」  「何かあったんですか?」  と、村上は訊《き》いた。  「柴田が死にました」  柴田?——村上は、ちょっと考えてしまった。  いつもの村上なら、即《そく》座《ざ》に思い付くのだろうが、やはり疲《つか》れているのだ。  それでも、何とか思い出した。あの別《べつ》荘《そう》のかつての持主だ。  「死んだというと……」  「旦《だん》那《な》の方です。ノイローゼだと言っていたでしょう」  「ああ、憶《おぼ》えていますよ、もちろん」  「二階から飛び降《お》りたんです。しかし、担《たん》当《とう》の者に訊くと、ちょっとスッキリしないんですよ」  「なるほど」  「それで、柴田の奥《おく》さんの方に会おうと思ったんですがね、出かけているというんです」  「夫《おつと》が死んだのに、ですか?」  「そうなんです。妙《みよう》でしょう?」  確《たし》かに、柴田徳子は、夫の葬《そう》儀《ぎ》などは、きちんとやってのけるタイプだ。  「で、なぜこちらへ?」  と、村上は訊いた。  「柴田徳子がね、そっちへ行ったようなんです」  「それは奇《き》妙《みよう》ですね」  村上も、興《きよう》味《み》をかきたてられた。  「どこに向ったのか正《せい》確《かく》には分らないんですが、その辺だということは確《たし》かです。お仕事のお邪《じや》魔《ま》はしませんよ」  「いやいや。もともと、こちらからお願いした一《いつ》件《けん》ですからね。ともかく、今は山《やま》狩《が》りの最中で、出ていますが、署《しよ》へみえたら連《れん》絡《らく》して下さい」  「分りました。まだ家内がホテルにいたので、一《いつ》旦《たん》、例のホテルへ行きます。では、お忙《いそが》しいところを、どうも」  「いや、わざわざ——」  「例の大男というのは、捕《つか》まりそうですか」  「今やっていますが、ともかくこの雪で、痕《こん》跡《せき》がないのでね」  と、村上は言った。「しかし、何としてでも、逮《たい》捕《ほ》してやります」  「頑《がん》張《ば》って下さい!」  ——いたわりの言葉よりも、小池の元気な声の方が、よほど村上にはありがたかった。  いくら同《どう》情《じよう》したり、心配したりしてもらっても、どうにもなるわけではない。代理はきかないのだから、どうせなら、元気付けてくれた方がいい。  しかし——柴田徳子が、何の用でここへやって来るのだろう?  もう手放した別《べつ》荘《そう》のある場所へ来る用事など、めったにあるまい。しかも、夫《おつと》が死んだというのに、だ。  村上は、また雪を踏《ふ》んで、林の方へと入って行った。警《けい》官《かん》たちが、木々の間に見え隠《かく》れしている。  謎《なぞ》の大男。——何だか怪《かい》談《だん》めいたこの奇《き》妙《みよう》な殺《さつ》人《じん》犯《はん》の出《しゆつ》現《げん》と、柴田の死。  何か二つの間に関連があるのだろうか?  いや、おそらくは、単なる偶《ぐう》然《ぜん》だろう。  だが、この平和な小さな町に、謎の血《けつ》痕《こん》と、怪《かい》力《りき》の大男という二つの事件が持ち上った。これは、何かを意味しているのかもしれない。  二つの事件が、どこかでつながるとしたら、それはどこだろう?  ——そのとき、林の中に銃《じゆう》声《せい》が響《ひび》き渡《わた》った。  お手伝いの娘《むすめ》の名はユキ、といった。  「すると、奥《おく》さんは、ゆうべ突《とつ》然《ぜん》、出られたんだね?」  と、小池は言った。  「はい」  と、ユキは肯《うなず》いた。  いかにも健《けん》康《こう》そうな、丸々と太った娘である。柴田家で働くようになって、一年ほど、ということだった。  「そして、夜、ご主人が転落死された。びっくりしただろうね」  「はい」  ユキはコックリと肯いた。「凄《すご》い音がして、飛び起きました」  「二階から飛び降《お》りたんだったね」  「ええ。——私《わたし》、一階の台所のわきの部屋にいるんですけど、ご主人の落ちて来たのが、そのすぐ表なんです」  「なるほど」  と、小池は肯いた。「ちょっと現《げん》場《ば》を見せてくれるかい?」  「はい」  と、ユキは肯いた。  ユキについて、台所から裏《うら》口《ぐち》へ出る。建物のわきを曲って、ユキは足を止めた。  「ここなんです」  ——なるほど、警《けい》察《さつ》があれこれ調べたらしい痕《こん》跡《せき》がある。  白い木のテーブルが、足が折《お》れて、ひっくり返っていた。  「このテーブルは?」  「リビングのテラスに、置いてあったものなんです。ご主人、ちょうどこの上に落ちて来られたようで——」  「なるほど、それで壊《こわ》れたのか」  小池は、テーブルのわきに立って、上を見上げた。——柴田が飛び降《お》りた窓《まど》が、開け放してある。  妙《みよう》だ、と思った。  確《たし》かに、立《りつ》派《ぱ》な屋《や》敷《しき》だから、二階といっても、普《ふ》通《つう》の家よりずっと高いが、それにしても、必ずしも死ぬほどの高さとはいえない。  実際には、柴田は死んだわけだが、首の骨《ほね》を折《お》っていたのだ。つまり、頭から落ちてそうなったのだろう。  もし、窓のへりに両手をかけて、ぶら下ってから落ちたとしたら、足首の骨《こつ》折《せつ》ぐらいで済《す》んだのではないか。  してみると、柴田は死ぬ気でなく、ただ、外へ出ようとしたのだとも思える。  「——ねえ、どうだろう」  と、極力、小池は優《やさ》しく言った。「ご主人は、部屋に閉《と》じこめられていたんじゃないの?」  「いえ、そんな——」  と、ユキは、ちょっとためらった。「鍵《かぎ》はかけておられましたけど……」  「奥《おく》さんが?」  「はい」  「じゃ、やはり、閉じこめていたわけだな」  「でも、夜だけです。それに、ご主人のためだったんです。時々、勝手に外へ出て行ったりするもんですから」  「なるほど。そうだろうね。よく分るよ」  小池は肯《うなず》いて言った。「ご主人は外へ出たがっていたのかね?」  ユキは、肩《かた》をすくめて、  「よく分りません。私、ただの使用人ですから」  と、素《そつ》気《け》なく言った。  「ご主人と奥さんが喧《けん》嘩《か》していたのを、見たことはある?」  ユキは、ちょっと硬《かた》い表《ひよう》情《じよう》になって、  「私、何も申し上げられません」  と、口を尖《とが》らした。  小池はこの娘《むすめ》が気に入った。——最近は「忠《ちゆう》誠《せい》心《しん》」などというものがなくなって、何でもペラペラしゃべりまくる女が多いものだが、この子はなかなか口の固いところがある。  「分った。無《む》理《り》には訊《き》かないよ」  と小池が引き退《さが》ったので、ユキはホッとしたようだった。  話したがらない、というのは、要するに、喧《けん》嘩《か》していたのを認《みと》めたのと同じだ。それさえ分れば、小池の方は構《かま》わないのである。  「このテーブルだけどね」  と、小池は話を変えた。「いつからここに置いてあったんだろう?」  ユキは首をかしげた。  「さあ……。確《たし》か、リビングの表に、出してあったんですけど……」  「どの辺に?」  「こちらです」  と、ユキが先に立って歩いて行く。  広い芝《しば》生《ふ》に面して、リビングルームから、出たところに、テラスが造《つく》られていた。  「ここに置いてあるんです。いつもは」  と、ユキが言った。  「なるほど」  明らかに、あのテーブルと組みになった、椅子《いす》が三つ、残っている。  つまり、机《つくえ》だけが、あそこへ運ばれていたのだ。  その意味は、はっきりしている。柴田は、二階の部屋から抜《ぬ》け出すつもりだった。  ドアは鍵《かぎ》がかかっている。だから、窓《まど》から出ようとした。  しかし、そのまま飛び降《お》りたら、けがをする、という気持があったのだろう。だから、予《あらかじ》め、こっそりとテーブルを窓の真下へ運んでおいた。  それが役に立つとも思えないが、柴田は少なくともそう考えていたのだ。そして窓を出ようとして——バランスを失い、頭から、真《ま》っ逆《さか》様《さま》に落下した……。  なぜ、柴田はそんなにしてまで、外へ出たかったのか? 何か特《とく》別《べつ》の理由があったのだろうか。  小池は、客間に戻《もど》ると、ユキがお茶を淹《い》れに出た間に、村上へと電話を入れた。山《やま》狩《が》りの現《げん》場《ば》にいた村上への無《む》線《せん》がそれである。  小池は、ソファに座《すわ》って、タバコに火を点《つ》けた。  TVがある。二六インチというのか、ともかく馬《ば》鹿《か》でかい。  ためしにスイッチを入れてみた。——何とも、ギョッとするような大きさである。  ニュースだった。アナウンサーがぐっと詰《つ》め寄《よ》って来る感じだった。  「——お茶をどうぞ」  と、ユキが入って来て、小池の家のものとはちょっと桁《けた》の違《ちが》う感じの茶《ちや》碗《わん》を置く。  「ありがとう。もう失礼するからね」  と、小池が言った。「——このお宅《たく》の娘《むすめ》さんの事《じ》件《けん》、知ってるかね?」  「ええ。気《き》の毒《どく》でしたね」  「ご主人は、娘さんが生きてると信じていたようだね」  「ええ。そうらしいです。でも、それぐらい可愛《かわい》がってもらえたら、子《こ》供《ども》も幸せですね」  「そうかもしれないな」  「うちなんか、私が四女で——嫁《よめ》に行くときは、無《む》一《いち》文《もん》だよ、なんて言われて育ったんですもの」  ユキは冗《じよう》談《だん》めかして言った。  小池はTVを見た。——あの「雪男」のニュースだった。  やはり警《けい》官《かん》が殺されたというので、警察の方も、本《ほん》腰《ごし》を入れている。大勢の応《おう》援《えん》が現《げん》地《ち》にくり込《こ》んでいるようだ。  「怖《こわ》いですね」  と、ユキが言った。  「全くだね」  「このニュースを見てたんだわ」  と、ユキが思い出したように言った。  「え?」  「奥《おく》様《さま》です。このニュースを見てらして、急に、別《べつ》荘《そう》へすぐ出かける、とおっしゃって……」  小池は、ユキを見つめた。  「それは確《たし》か?」  「ええ……。でも、ただの偶《ぐう》然《ぜん》かもしれません」  小池はそれ以上、何も言わなかった。  柴田徳子が、あの大男の件と、何か関《かかわ》りを持っていたのだろうか? ちょっと想像もつかないが。  そして、柴田の死。——してみると、徳子は、あの「雪男」に、会いに行ったのかもしれない、と小池は思った。  「色々ありがとう」  と、小池は立ち上って、礼を言った。  一《いつ》刻《こく》も早く、現《げん》地《ち》へ乗り込《こ》むのだ。小池の足取りは、いやが上にも早まっていた……。 19 ホテルの中で  「かしこまりました」  と、フロントの係がメモを取る。  「一《いち》応《おう》、一日だけ延《えん》長《ちよう》ということにしてくれないか。後はまた考えるよ」  と、伊《い》波《ば》は言った。  「お部屋はございますから、どうぞおっしゃって下さい」  「ありがとう」  「あ、ちょっとお待ち下さい」  と、フロントの男が、奥《おく》へ入って行ったと思うと、すぐに、古びた本を手にして、戻《もど》って来た。  「先生のご本なんです。サインして下さいませんか」  伊波はびっくりした。  「よく持ってたね! 懐《なつか》しいな」  伊波は肯《うなず》いて、「いいですよ。サインペンか何かあるかな」  自分の本にサインするというのは、何とも照れくさい気分だった。  「いらっしゃいませ」  と、声がした。  伊波はサインを終えて、何となく振《ふ》り向いた。——四十代の半《なか》ばと見える、いかにも大《たい》家《け》の奥《おく》様《さま》という感じの女《じよ》性《せい》である。  ミンクのコートを着ている。それが一《いつ》向《こう》に高そうに見えない。——本当の金持なら、そういうものである。  本人に「高いもの」という意《い》識《しき》がないから、はた目にも大したものではない、と映るのだ。しかし、よく見れば、いかにも立《りつ》派《ぱ》な毛《け》皮《がわ》だし、靴《くつ》や、さげているバッグも、本物である。  その女性はツカツカとフロントへやって来た。  「柴田ですけどね」  「はい、承《うけたまわ》っております」  とフロントの男が頭を下げる。「スイートルームでございますね」  「そう」  と、そう女性は肯《うなず》いた。「車に荷物があるから、運ばせて」  「かしこまりました。——ご宿《しゆく》泊《はく》は何名様でいらっしゃいましょう?」  「私《わたし》一人です」  と、その女性はあっさり言った。  「さようでございますか。では、このカードにご記入を」  伊波は何となく興《きよう》味《み》をひかれて、その女《じよ》性《せい》が、〈宿泊カード〉に記入するのを見ていた。  柴田徳子か。——一人でスイートルームを使うとは大したもんだな。  大方、どこかの社長の夫《ふ》人《じん》か、そんなところだろう。しかし、大物らしさというか、そういう世界の人間だという雰《ふん》囲《い》気《き》が、身についていて、無《む》理《り》がない。  見ていて顔をしかめたくなるような「成《なり》金《きん》」とは違《ちが》っていた。  ボーイが、車からトランクを運んで来るのを、その柴田徳子という女性は待っていたが……。  「あら」  と、声を上げて、伊波の顔を見た。  「はあ?」  伊波が目をパチクリさせる。  「伊波伸二さんでしょう。小説家の」  「ええ……」  「まあ、少しも変られませんね。私、先生のご本をよく読んでおりましたの」  「そりゃどうも……」  こういうタイプの女性から、「先生」などと呼《よ》ばれるのは、何だか妙《みよう》な気分だな、と伊波は思った。  「こちらにご滞《たい》在《ざい》ですの?」  「いや、この近くに住んでいるんです。たまたま用があって——」  「まあ、そうでしたか」  柴田徳子は肯《うなず》いた。納《なつ》得《とく》した、という表《ひよう》情《じよう》である。  おそらく伊波の妻《つま》が殺された事《じ》件《けん》を思い出したのだろう、と伊波は思った。  ボーイがトランクを両手にさげてロビーへ入って来ると、  「では、失礼します」  と、柴田徳子は軽く会《え》釈《しやく》して、歩いて行った。  「私、もう出て行かないと」  と、少女が言った。  「え?」  律子は、振《ふ》り向《む》いた。  少女はベッドで、週《しゆう》刊《かん》誌《し》をめくっていた。  「どうして?」  と、律子が訊《き》く。  「だって、ご主人が来るんでしょ」  「ああ、そうね」  「呑《のん》気《き》だなあ」  律子は笑《わら》って、  「本当ね。でも——どうせ夜になるわ。急がなくてもいいわよ」  と言った。  「私が伊波さんの部屋に泊《とま》っても、構《かま》わない?」  「もちろんよ。どうして?」  少女は、ちょっと肩《かた》をすくめて、  「やきもちやくかな、と思ったの」  と言った。  「だって、あなた、ずっと二人でいたわけでしょう?」  「そりゃそうね」  少女は週《しゆう》刊《かん》誌《し》を投げ出すように置いて、欠伸《あくび》をした。それから、ふっと真顔になって、  「お礼も言わなかった」  と、言った。  「私に?——そんなこと、いいのよ」  少女は何か言いたげにしていたが、廊《ろう》下《か》に物音がしたので、口をつぐんだ。  律子は、そんな少女の様子には気付かないふりをして、鏡の前に座《すわ》り込《こ》んでいた。  新しい客らしい。  ボーイが、  「こちらの奥《おく》でございます」  と、案内している声が聞こえる。  「非《ひ》常《じよう》口《ぐち》は近いの?」  女の声がした。  「はい、ドアの正面でございます」  「そう。——ともかく、万一のことを、いつも考えておかないとね」  女の声が遠ざかる。  律子は、少女の方を見た。  少女は、不思議な顔をしていた。半《なか》ば、放《ほう》心《しん》状《じよう》態《たい》という感じだ。  「どうしたの?」  律子が声をかけても、少女の耳には入らない様子だった。  しばらくして、ハッとしたように、  「あ——ごめんなさい」  と、急いで言った。「何か言った?」  「ううん、別に」  とは言ったものの、どうしたのかしら、と律子は思っていた。  今の様子はどうも……。  ドアにノックの音がした。少女がギクリとしたようにドアを見る。——やはり、どこか変だ。  「僕だよ」  と、伊波の声がした。  律子がドアを開けると、伊波はキーを振《ふ》って見せて、  「あっちの部屋を延《えん》長《ちよう》して来た。——どうする? 向うに移るかい?」  少女はベッドから出ると、  「うん」  と肯《うなず》いた。「少し眠《ねむ》るわ。眠いの」  「あれだけ寝《ね》て? まだ具合が悪いのかな」  「ううん、そんなことない」  と、少女は首を振った。「寝すぎたせいだわ。却《かえ》って頭がぼんやりしてるの」  「寝だめしとくといいよ」  伊波は微《ほほ》笑《え》んで言った。  伊波が少女を連れて出て行くと、律子は、ベッドの乱《みだ》れを直した。——夫《おつと》が来る前に、ベッドメークを頼《たの》んでおかなくちゃ。  係に連《れん》絡《らく》すると、すぐに伺《うかが》いますとの返事だった。  大ホテルではないので、不便もあるが、こういう点は早い。律子は、カフェテラスに出ていることにした。  廊《ろう》下《か》に出ると、伊波も出て来たところだった。  「眠るからといって、追い出されたよ」  と伊波は笑《わら》った。  二人は一《いつ》緒《しよ》にロビーへ降《お》り、カフェテラスに入って、寛《くつろ》いだ。——中《ちゆう》途《と》半《はん》端《ぱ》な時間なので、客もほとんどいない。  雪は降《ふ》り積っているが、よく晴れていた。窓《まど》際《ぎわ》の席に座《すわ》ると、雪の白さがまぶしいほどである。  「——あの子を、どうするの?」  と、紅《こう》茶《ちや》を飲みながら、律子は言った。  「さあね。いつまでもこのままじゃいけないとは思ってるんだが……」  「もっと大人《おとな》の女《じよ》性《せい》なら、私も心配しないんだけど——」  と言って、律子は、ちょっと笑った。「何だか逆《ぎやく》みたいね。でも、少《しよう》女《じよ》暴《ぼう》行《こう》か何かで捕《つか》まったりしないようにしてね」  「恐《おそ》ろしいことを言うなよ」  と、伊波は目を見開いた。「——あの子に関しては、作家的興《きよう》味《み》しかないんだ。記《き》憶《おく》を失った少女なんて、めったに会えるもんじゃない」  「でも、それが本当かどうか、分らないんでしょう?」  「嘘《うそ》だとしても、何か理由があるはずだからね。面白いよ」  律子が、果《は》たしてその言葉を信じたかどうか、伊波にも分らなかった。  あの少女に対して、男としての関心を持っていないと言えば、それは嘘になる。  ただ、それを理《り》性《せい》で押《おさ》えている内は、どうということもない。それを貫《つらぬ》けるかどうか、伊波にも自信はなかった。  それは——おそらく、律子を久々に抱《だ》いたせいでもある。  忘《わす》れていた女性の肌《はだ》のぬくもりを、伊波は思い出していたのだ。しかし、もう律子と二度とあんなことになってはいけない。  今日、律子の夫《おつと》がやって来るのだ。今夜、たとえ律子が夫に抱かれたとしても、伊波には何の関係もないことでなければならなかった……。  ふと入口の方を見ると、さっきフロントで見かけた、柴田徳子が入って来た。  向うも伊波に気付いて、軽く会《え》釈《しやく》した。  「——どなた?」  と、律子が訊《き》く。  「知らんよ」  伊波は、肩《かた》をすくめて、「さっきフロントで会ったんだ。僕のことを知っている、珍《めずら》しい人だった」  「まあ、そうなの」  律子はちょっと笑《わら》った。「でも、あなた、自分で考えてるほど、世間から忘《わす》れられてるわけじゃないわよ」  「忘れられた方が気が楽さ」  伊波が苦《く》笑《しよう》して、コーヒーカップを取り上げた。  柴田徳子が、席を立って、やって来た。  「先生、先ほどは——」  「ああ、どうも」  「ちょっと、この手帳にサインをいただけますか」  伊波は、ちょっと面食らった。およそ、人のサインをほしがるようなタイプではないのだ。  「いいですとも。——ここでよろしいですか?」  手帳の白ページに、ボールペンでサインをする。  「まあ、ありがとうございます」  と、柴田徳子はにこやかに、「おいでになると分っていれば、ご本を持って来たんですのに」  と言った。  それから、ちょっと外の雪景色へ目をやって、  「何か、怖《こわ》い事《じ》件《けん》があったようですね」  「ええ。この雪の中を、殺《さつ》人《じん》犯《はん》が逃《に》げてるらしいですよ」  「まだ捕《つか》まらないんでしょうか」  「そうらしいです」  「怖いこと。早く捕まってくれないと。とんでもないときに来てしまったようですわ」  柴田徳子は微《ほほ》笑《え》むと、サインの礼を言って、離《はな》れた席の方へ戻《もど》って行った。  律子が、ちょっと声を低くして、  「いかにもいい所の奥様って風ね」  「うん」  伊波は、何だか妙《みよう》な気がした。  あの夫《ふ》人《じん》が、声をかけて来たのは、サインがほしくて、というより、逃げている殺人犯の話がしたかったのではないか、という印象を受けたからだった。  しかし、まさか、あんな「奥様」が、そんな「雪男」と関《かかわ》りのあるはずもないし……。  ——外は一日、晴れる気配だった。 20 不運な日  「一《いつ》旦《たん》、本部に戻《もど》るよ」  と、村上は言った。「本部長がカンカンだからな」  「申し訳《わけ》ありません」  と、巡《じゆん》査《さ》部長が恐《きよう》縮《しゆく》する。  「仕方ないさ。ともかく、連《れん》絡《らく》を密《みつ》接《せつ》に取るようにしてくれ」  「はい」  村上はパトカーに乗り込《こ》んだ。  「本部にやってくれ」  と、巡査に声をかけ、座《ざ》席《せき》で目を閉《と》じる。  胸《むね》の痛《いた》みが、消えない。——やはり、無《む》理《り》がきかない年《ねん》齢《れい》なのだ。  パトカーが雪をかき分けるようにして、走り出す。  交《こう》替《たい》してもらうかな、と村上は思った。しかし、首の骨《ほね》を折《お》って死んでいた酒井のことを思うと、そんなことを言ってはいられないという気になる。  ——まずいことになった。  応《おう》援《えん》に来ていた県《けん》警《けい》の刑《けい》事《じ》を、地元の署《しよ》の巡《じゆん》査《さ》が、誤《あやま》って撃《う》ってしまったのである。  合図、その他で、連《れん》絡《らく》が不《ふ》徹《てつ》底《てい》だったのと、凶《きよう》悪《あく》犯《はん》を追うことに慣《な》れていないので、若《わか》い巡査が怯《おび》えていたせいでもあった。  焦《あせ》りがあると、こんな有《あり》様《さま》だ、と村上は思った。  焦るとろくなことはない。それは良く分っていた。  しかし、のんびり構《かま》えて、犯《はん》人《にん》の次の凶《きよう》行《こう》を許《ゆる》せば、その責《せき》任《にん》は、現《げん》場《ば》のリーダーにかかって来るのだ。  損《そん》な役回りだな、と村上は思った。  幸い、撃たれた刑事の方も、腕《うで》に軽いけがをしただけで済《す》んだが、現場に何となく、ぎくしゃくした気分が残るのが、実は一番怖《こわ》いのである。  村上は、いつしか眠《ねむ》り込《こ》んでいた。  ——揺《ゆ》さぶられて、ハッと目を覚《さ》ましたが、同時に胸《むね》の鋭《するど》い痛《いた》みに、思わず呻《うめ》いた。  「警部! どうしました?」  部下の刑事が、心配そうに覗《のぞ》き込んでいる。  「いや——大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》。神《しん》経《けい》痛《つう》だよ」  村上は首を振《ふ》って、パトカーから降《お》りた。  「小池さんという方から、さっきお電話がありました」  と、刑事が言った。「すぐにあちらを発《た》つということでした。何か、面《おも》白《しろ》い事実をつかんだから、楽しみにしていてくれと——警部!」  村上は、階《かい》段《だん》を上ろうとして、激《げき》痛《つう》に、そのままうずくまってしまった。  立つこともできない。——警部、と呼《よ》ぶ部下の声が、少しずつ遠ざかって行く。  ベルトコンベアに乗せられて、どこかへ運ばれて行くようだった。暗いトンネルの、奥《おく》へ、奥へと……。  ついていないときは、ついていないものだ。  雪に腰《こし》まで埋《うま》りながら、浜《はま》田《だ》巡《じゆん》査《さ》は、息を切らしていた。  今日は非番で、風邪《かぜ》気《ぎ》味《み》だったので、久しぶりに布《ふ》団《とん》に入っていた。——まだ独《どく》身《しん》の二十五歳《さい》としては、恋《こい》人《びと》とのデートが一番の楽しみだが、今日はそれすら気が向かないほど、参っていた。  そこへ、この騒《さわ》ぎである。呼び出されれば、いやとも言えない。仕方なしに出て来たが、まさか山《やま》狩《が》りとは思わなかった。  どこかに出かけていれば良かった、と悔《くや》んだが、今さら遅《おそ》すぎる。  仕方なしに、雪の林の中を歩き出したら、すぐ近くで発《はつ》砲《ぽう》があって仰《ぎよう》天《てん》した。間《ま》違《ちが》いだったわけだが、おかげで浜田たちまで、散々どやしつけられてしまった。  こっちは休みに出て来てるというのに!  浜田はブツブツ言いながら、立ち止って、一息入れていた。  林の中を歩く内、少しずつ人も散って来るし、早い者、遅い者、色々あるので、いつしか、周囲には人の姿《すがた》がなくなってしまった。  首をのばして前方を見ると、ポツン、ポツン、と黒い人《ひと》影《かげ》が動いている。  「まあいいや。こっちはのんびり行くさ」  と呟《つぶや》いて、また歩き出す。  しかし、とんでもない奴《やつ》だなあ、と浜田は思った。  トラックの運転手にしても警《けい》官《かん》にしても、少なくとも普《ふ》通《つう》の会社員などに比《くら》べれば、体も丈《じよう》夫《ぶ》だし、力もあるだろう。それを殺してしまった。——しかも一人は、投げつけられて死んだ。  凄《すご》い力だ。そんな怪《かい》物《ぶつ》に出くわしたら、運が悪かったと思うしかない。  できるだけ後からついて行くというのも、安全のための一つの手である。  そうさ。死んじまったら、人生おしまいだものな。いくら、死んでから昇《しよう》進《しん》させてくれても、ちっともありがたくなんかない。  安全第一だもんな。——浜田とて、もっと体調のいいときなら、もう少し、公《こう》僕《ぼく》らしい発想をしたのだろうが、ともかく、今は早く家へ帰って、布《ふ》団《とん》に潜《もぐ》り込《こ》みたかった。  「ちょっと遅《おく》れすぎたかな」  いささか気がひけて、浜田は足を早めながら、前方へ目をやった。——とたんに、足下の雪がゴッソリ抜《ぬ》け落ちて、二メートル近くも下に落ちてしまった。  「ワッ!」  と思わず声を上げる。  が、ただ、雪の中にドサッと落ちただけで済《す》んだ。  「ああ、びっくりした。畜《ちく》生《しよう》!」  と、胸《むね》を撫《な》でおろす。  なだらかな斜《しや》面《めん》に見えていたのが、実は岩があって、真っ直ぐに落ち込んでいたのだった。  「やれやれ。——出られないじゃないか」  雪の中で、あがいて、やっと起き上がる。腰《こし》の辺《あた》りまで、スッポリ埋《うも》れていた。這《は》い出すしかなさそうだ。  近くに誰《だれ》もいなくて良かった、と浜田は思った。こんなざまを見られたら、笑《わら》いものにされる。  しかし、浜田は間《ま》違《ちが》っていた。そばに誰かがいたということ。そして、その男は、浜田を笑いものなどにはしなかったということでは。  ぐい、と肩《かた》をつかまれて、浜田は振《ふ》り返った。——男の顔があった。  何だ、これは? どうしたんだ?  浜田は戸《と》惑《まど》った。——岩の下が、空《くう》洞《どう》になっていて、そこに誰かがいたのだと分ったときには、浜田の首を、大きな手ががっしりと捉《とら》えていた。  声を上げる間もなかった。——浜田の命は、男の両手で、簡《かん》単《たん》に握《にぎ》り潰《つぶ》されてしまった。  ——確《たし》かに、ついていない日だったのである……。  村上は目を開けた。  白。——ともかく、白ばかりが目に入った。  何だ、これは?  「よく我《が》慢《まん》しましたよ、全く」  という声がした。  「肋《ろつ》骨《こつ》が折《お》れていたんですね?」  どこかで聞いたことのある声。  「相当痛《いた》んだと思うんですがね……」  そうか。——ここは病院だったのだ。  村上は思い出した。苦《く》痛《つう》で、気を失ったのだった。  「やあ、気が付きましたか」  顔を出したのは、小池だった。  「小池さんか」  「びっくりしましたよ。来るなり、村上さんが倒《たお》れたと聞かされて」  「もう年齢《とし》ですな。頑《がん》張《ば》りがきかなくなってしまった」  「何を言ってるんです! これだけ頑張るなんて、他の人にできることじゃありませんよ!」  小池の力強い言い方に、村上の気分も、少し明るくなった。  「まだ見付かりませんか」  と、村上は訊《き》いた。  「残念ながら、まだのようですよ。でも、村上さんはここで寝《ね》て、知らせが来るのを待ってりゃいいんです」  「老兵はただ寝るだけ、ですな」  と、村上は苦《く》笑《しよう》した。  「一つ、おみやげを持って来ましたよ」  小池は、椅子《いす》を引き寄《よ》せて、座《すわ》った。  「ほう?」  「柴田のことです」  「ああ、ご主人の方が死んだとか——」  「それだけじゃないんです」  小池は、柴田徳子が、今度の、「雪男」の騒《さわ》ぎを聞いて、急にこっちへ向う気になったことを説明した。  村上の目が輝《かがや》いた。  「すると、この一《いつ》件《けん》と関《かかわ》りがありそうだというわけですね? それは面白い!」  「でしょう? 夫《おつと》が死んで、まだ葬《そう》儀《ぎ》もしてないのに、こんな所へ来ているのです。よほどのことだと思いますよ」  「おそらく——」  と、村上は言った「行方《ゆくえ》不《ふ》明《めい》になった娘《むすめ》のことともつながるかもしれませんな」  小池は、目を見開いた。  「しかし、あの雪男が、どう関係すると——」  「分りませんな」  と、村上は首を振《ふ》った。「逮《たい》捕《ほ》してから、訊《き》いてみましょう」  あっさり言うところが、村上らしい。  この元気なら大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》だ、と小池は内心ホッとした。  「そうだ。村上さん、奥《おく》さんには? 知らせてあるんですか?」  「いや、とんでもない」  と、村上は顔をしかめた。「こんなことを知らせたら、馬《ば》鹿《か》にされるに決《きま》ってますからね」  小池は思わず笑《わら》い出してしまった。  「——そろそろ夜だ」  と、伊波は言った。  ベッドでは、ウーンと伸《の》びをしながら、少女が起きたところである。  「あの人は?」  と、少女が訊《き》いた。「ご主人はもう着いたの?」  「いや、まだのようだ」  伊波は窓《まど》のカーテンを閉《し》めた。「気分はどう?」  「別になんともないわ」  「夕食はどうする?」  少女は、ちょっと考えて、  「部屋で食べたい。いけない?」  と、伊波の顔を見る。  「そりゃ構《かま》わないよ。出たくないのかい?」  「あなたと二人で食べたいの。いつもの通りに」  いつもの通りに、か。——伊波は微《ほほ》笑《え》んだ。  「よし。じゃ、もう少ししたら、ルームサービスを頼《たの》もう」  少女はTVを点《つ》けた。——子《こ》供《ども》向けのアニメの時間帯だった。  「ねえ、何だか話をしてた、大男って、捕《つか》まったの?」  「まだ捕まらないらしいぜ」  「ふーん。このホテルを壊《こわ》しに来ないかなあ」  「ゴジラじゃないんだぞ」  と、伊波は笑《わら》った。  ちょうどTVでは、何だか奇《き》妙《みよう》な格《かつ》好《こう》の怪《かい》獣《じゆう》が、ミニチュアの町を踏《ふ》み潰《つぶ》していた。  「分んないわよ、あんな風に、やって来るかもしれない……」  少女は、冗《じよう》談《だん》ともつかぬ口調で言った。  そうだな、と伊波は思った。  考えて見れば、この少女自身、伊波の生活へ乱《らん》入《にゆう》して来た「怪獣」みたいなものだ。  まだ伊波の生活を破《は》壊《かい》してはいないが、しかし、そうしかねない、危《き》険《けん》な何かを、この少女は持っていた。  電話が鳴る。伊波は手を伸《の》ばして、受《じゆ》話《わ》器《き》を取り上げた。 21 好《こう》奇《き》心《しん》  電話は、まず交《こう》換《かん》手《しゆ》が出た。  「伊波様ですか」  「そうです」  「東京から、お電話が入っております」  「東京から?」  電話をつなぐ音がした。伊波は、ちょっと少女の方へ目をやった。  少女はベッドの中で、ホテルの案内を見ている。  「もしもし」  と、男の声がした。  知っている声ではないようだ。  「伊波ですが」  「作家の伊波伸二さんですね」  「そうですが……」  「『週《しゆう》刊《かん》A』の者です」  いやな予感がした。早々に切ってしまおう。  「何か……」  「四年前に奥《おく》さんが殺された事《じ》件《けん》がありましたね。実は、その時、先生の愛人だった女《じよ》性《せい》のことなんですが」  律子のことだ。しかし、相手の、何とも無《む》神《しん》経《けい》な言い方は、腹《はら》立《だ》たしかった。  「何ですか、一体。『奥さんが殺された』だの、『愛人』だのと、もう少し言葉を慎《つつし》みたまえ」  「ああ、失礼」  ちっとも失礼には思っていないらしかった。「ところで、その愛人——いや、その女性が今、どうしているか、ご存《ぞん》知《じ》ですか」  「何ですって?」  「何と、当時、捜《そう》査《さ》の先頭に立っていた刑《けい》事《じ》と結《けつ》婚《こん》してるんですよ」  一体、どこでそんなことをかぎつけたのだろう?  伊波は、さり気なく、  「そうですか」  と言った。  「ご存知でしたか?」  「いいや。彼女《かのじよ》がどうしていようと、もう僕《ぼく》には何の関係もないことですからね」  「しかし。何かあるでしょう。何しろ、あのとき、色々、ひどい目に遭《あ》われてるわけですから」  一番ひどい目に遭わせてくれたのは、君らのような、無《む》責《せき》任《にん》なマスコミだ、と伊波は言ってやりたかった。  「ぜひ、ご感想をうかがいたくて、お電話したんですよ」  と、相手は続けた。  知るもんか、と言って、受《じゆ》話《わ》器《き》を叩《たた》きつけてやろうかと思ったが、ふと思い直して、  「一体、そんなことを訊《き》いて、どうするんですか?」  「記事にしようと思いましてね。殺《さつ》人《じん》事《じ》件《けん》の、それも未《み》解《かい》決《けつ》の事件の関係者が、刑《けい》事《じ》と結《けつ》婚《こん》しているというのは、面白い話ですからね」  「しかし——それは彼女《かのじよ》の自由じゃないか。そっとしておいてやりなさい」  「いや、そこが週《しゆう》刊《かん》誌《し》の読者の楽しむところなんですから」  「ともかく、僕は別に——」  「ぜひ、先生の談話をいただきたいんです。そちらの方へうかがいますので、ぜひ——」  「何だって?」  「散々捜《さが》しましてね、やっと捜し当てたんですから」  「待ってくれ。僕は——」  「じゃ、今夜中にはそちらに着くようにします。明日、入《にゆう》稿《こう》しなくちゃならないもので」  「僕は何も言わんぞ!——おい」  伊波が声を荒《あら》らげたときは、もう相手は電話を切っていた。  「何てことだ、畜《ちく》生《しよう》!」  伊波は吐《は》きすてるように言った。  「どうしたの?」  「何でもないよ」  不《ふ》機《き》嫌《げん》にそう言って、伊波は、大きく息をついた。  「——いや、すまん。実は、律子のことなんだ」  「律子さんのこと?」  少女は、伊波の話を聞くと、  「へえ、週《しゆう》刊《かん》誌《し》って物《もの》好《ず》きなのね」  と言った。  「人のプライバシーを金にして暮《くら》してるんだ! 汚《きた》ない連中だ、畜生!」  「怒《おこ》ったって仕方ないわ」  伊波は、少女にそう言われて、ちょっとギクリとした。  「そうだな。怒ってても仕方ない」  「どうするの? 来たら会うの?」  「いや、そのつもりはない」  「でも、ここまで来て、はい、そうですか、って帰る?」  「うむ……。むずかしいな」  「それに、もし、律子さんまでここに来ていると分ったら、大変よ」  伊波は、そこまで考えていなかった。言われてみれば、その通りだ。  向うは、伊波一人がここにいると思って来る。ところが律子も、その夫《おつと》の小池もここにいる、などと分ったら——どうなるだろう?  正《まさ》に格《かつ》好《こう》のネタを提《てい》供《きよう》することになるだけだ。もちろん、向うが律子に気付かないこともあり得《う》るが、もし気付いたら、とても取材から逃《に》げ切れまい。  「律子さんにも知らせた方がいいわ」  「そうだな。出てこないように忠《ちゆう》告《こく》しておこう。それにフロントにも言い含《ふく》めておかないと」  「でも、あなたは?」  「何かいい方法があるかい?」  「うちに帰るのよ」  伊波は面食らった。そんなことは、考えてもみなかったのだ。  「あの別《べつ》荘《そう》へ?」  「そう。それが一番いいわ。あそこなら、捜《さが》しては来ないでしょ」  いや、あの雑《ざつ》誌《し》の連中はやって来た。しかし、今はこの雪だ。  幹《かん》線《せん》道《どう》路《ろ》を来れば、何とかこのホテルまでは来られる。しかし、ここから、あの別荘までは、とても来られないだろう。  たとえ、場所が分ったとしても、この辺の人間でなければ、無《む》理《り》だ。  週《しゆう》刊《かん》誌《し》の人間は忙《いそが》しい。そう何日も粘《ねば》ることはしないだろう。  なるほど。少女の言う通りかもしれない。  「——いい考えだな。そうしようか」  と、肯《うなず》いたが、「でも、例の大男がまだ捕《つか》まってないんだぜ」  「あんな所まで、来ないわよ」  と、少女は笑《わら》った。  それもそうだ。そんなことを気にしていては、何もできない。  「よし。じゃ、彼女に話をして来る」  「うん」  伊波は、廊《ろう》下《か》へ出た。  「あら、伊波先生」  と、声がして、柴《しば》田《た》徳《とく》子《こ》が歩いて来る。  「このお部屋ですの」  「ええ。そろそろ引き上げようかと思ってるんですが」  「まあ、ゆっくりお話がしたかったのに、残念ですわ」  徳子の言い方は、お世《せ》辞《じ》なのか、本気なのか、判《はん》断《だん》しかねた。  伊波は、律子の部屋のドアをノックしながら、あの女、どこか妙《みよう》だな、と思っていた……。  伊波と柴田徳子の話を、少女は、ドアにぴったりと耳を押《お》し当てて、聞いていた。  そして、話が終ると、そのまま、床《ゆか》に座《すわ》り込《こ》んでしまった。  「週《しゆう》刊《かん》誌《し》が?」  律子は思わず目を見《み》張《は》った。「私《わたし》のことを記事に?」  「そのつもりらしい。僕《ぼく》もコメントを求められてるが、もちろん逃《に》げるよ。——君が、もしここにご主人といると分れば、連中は放っておかないだろう」  「何てことなのかしら!」  律子は、部屋の中を歩き回った。固く、手を握《にぎ》り合せている。  「主人のことが心配だわ。——ほとんどの同《どう》僚《りよう》は何も知らないのよ。それが、みんなに知れ渡《わた》ったら……」  伊波は、椅子《いす》に軽く腰《こし》を下ろした。  「警《けい》察《さつ》から、圧《あつ》力《りよく》をかけるわけにいかないのかい?」  「どうかしら。分らないけど……」  律子は首を振《ふ》った。「ともかく、私と主人がここにいるのは、最悪ね」  「どうとでも書ける。ともかく、創《そう》作《さく》は連中の特《とく》技《ぎ》だからな」  伊波は、ペンの持つ暴《ぼう》力《りよく》の恐《きよう》怖《ふ》を、四年前に、いやというほど味わっている。  「何とか——何とかしなきゃ!」  律子はベッドに腰《こし》を落して、叫《さけ》ぶように言った。それから、ちょっと、伊波に笑《わら》いかけて、  「妙《みよう》ね」  と言った。「——私、主人を裏《うら》切《ぎ》ったのに——」  「それを言っちゃいけない」  と、伊波は言った。「何もなかったんだ。僕らの間には、何もなかったんだ」  「ええ……。分ってるわ」  律子は肯《うなず》いた。「私——主人との生活は守りたいの。主人のために。——いい人なんだもの」  伊波は、ふと胸《むね》が痛《いた》んだ。こんな思いをするのは、初めてだ。  「そうとも。ぜひ守るべきだ」  と、肯いて、言った。  律子は、伊波を見た。  「あなた、どうするの?」  「あの子と、別《べつ》荘《そう》へ戻《もど》る」  「別荘へ? でも——危《き》険《けん》じゃないの?」  「こっちが狙《ねら》われてるわけじゃないからね。まず大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》さ」  律子は、ゆっくりと肯いて、  「そうね」  と言った。  そして、少し考え込《こ》んでいたが……。  「私も連れて行ってくれない?」  と言い出した。  「君を?」  「ここにいなければ、まず分らないはずだわ。それに、いくら部屋に引っ込んでいても、向うが何かの拍《ひよう》子《し》で見付けることだってあり得《う》るでしょう」  「そうだな。しかし——」  「主人には電話するわ。事《じ》情《じよう》を話せば、きっと分ってくれる」  「ご主人も、ここへは来ない方がいいね。まさか週《しゆう》刊《かん》誌《し》の連中も、君のご主人の顔まで知るまいが、名前ぐらいは知ってるだろうから」  「ええ、そうね。——じゃ、連れて行ってくれる?」  伊波は、少し考えてから、  「よし、分った」  と、立ち上った。「両手に花ってのも悪くないさ」  と言った。  「お二人の邪《じや》魔《ま》はしないわ」  「よせよ」  と、伊波は笑《わら》った。  「——では、家内が待っていると思いますので、一《いつ》旦《たん》ホテルへ入ります」  と、小池は言ってドアの方へ歩きかけた。  「わざわざすみませんね」  村上がベッドから言った。  「早く良くなって下さい。それまでに、柴田徳子の方を洗っておきますから」  「私にも少し仕事を残しておいて下さいよ」  と村上が笑《え》顔《がお》で言った。  他の事件の話をしていたので、少し、あの雪男の一《いつ》件《けん》から、気持がそれたのだろう。  もっとも、柴田徳子の一件も、何か関《かかわ》り合《あ》っているのかもしれないのだが、それはまだ推《すい》測《そく》の域《いき》を出ない。  「奥《おく》さんによろしく」  と、村上が言って、小池がドアを開ける。  とたんに、若《わか》い刑《けい》事《じ》が、飛び込んで来た。  「警《けい》部《ぶ》!」  「どうした? 見付かったか?」  村上の顔が、瞬《しゆん》時《じ》にして引き締《しま》った。  「いえ、まだです」  と、刑《けい》事《じ》は息を弾《はず》ませて、「実は——」  「どうした?」  「また一人、やられました」  村上の顔が青ざめた。  「誰《だれ》だ?」  「浜《はま》田《だ》という巡《じゆん》査《さ》です」  「どこでだ?」  刑事が、死体の見付かった状《じよう》況《きよう》を説明した。  「雪の穴《あな》の中でやり過《すご》すなんて、人間とは思えません」  「しかし、人間だ。そして、殺《さつ》人《じん》犯《はん》だ」  「はい」  「三人もやられているんだぞ!」  「すみません」  村上は、必死で息を鎮《しず》めようとした。  「——済《す》んでしまったことは、仕方ない」  「はい」  「その後の足取りは?」  「発見したときは、もう——雪が降《ふ》り出していて……」  「そうか」  村上は、天《てん》井《じよう》を見上げた。「——我《われ》々《われ》をやり過したということは、戻るつもりなのかもしれん。町へ近付くか、それとも、別《べつ》荘《そう》の一つへ身を隠《かく》すか……」  「増《ぞう》援《えん》を依《い》頼《らい》して、パトロールを強化しています」  「用心しろよ。これ以上、犠《ぎ》牲《せい》を出すんじゃない」  「はい」  小池は、ドアのわきに立って、話を聞いていたが、  「村上さん」  と、進み出て、「私もお手伝いしましょうか。こちらの事件にとっても、その雪男は重要ですし」  「いや、警《けい》視《し》庁《ちよう》の方を使うわけにはいきませんよ」  と、村上は首を振《ふ》った。「あなたは、柴田徳子の方を追って下さい」  「分りました」  小池も、無《む》理《り》には言わなかった。  病室で一人になると、村上は、固く、歯を食いしばった。  出来ることなら、起き出して、指《し》揮《き》をしたいくらいだ。しかし、たとえ無理に出て行っても、また倒《たお》れれば、却《かえ》って足を引《ひつ》張《ぱ》ることになる。  今は、じっと辛《しん》抱《ぼう》しているしかないのだ……。 22 別《べつ》荘《そう》へ  「お気を付けて」  と、フロントの男が言った。  「ありがとう。まあ心配ないよ」  と、伊波は支《し》払《はら》いを済《す》ませて、律子の方を見た。  「行こうか」  「ええ」  律子は、フロントへ手紙を預《あず》けた。  電話で夫《おつと》に説明したかったのだが、どうしても、つかまらなかったのだ。  二人は外へ出た。  「また降《ふ》り出したのね」  「うん。——積るだろう」  凍《こお》りつくように冷たい風だった。  もう、夜になっているが、ホテルの明りを、雪が映して、明るい。  「ここにいてくれ」  伊波は、律子をホテルの入口の屋根の下に待たせて、駐《ちゆう》車《しや》場《じよう》へと急いだ。  スイートルームは、建物の端《はし》にあるので、横の窓《まど》からは、建物のわきを見下ろすことができる。  柴田徳子は、窓辺に立って、外を見ていた。特《とく》別《べつ》、理由があってのことではない。  ただ、たまたまそうしていたに過《す》ぎなかった。  「何かしら」  と呟《つぶや》く。  足音らしい。それが下へと降《お》りて行く。  非《ひ》常《じよう》階《かい》段《だん》なのだ。——そういえば、この部屋の近くを通っている。  しかし、どうして、今ごろ、そんな所から?  徳子は、下を見ていた。  誰《だれ》かが、雪の中へ出て来た。——若《わか》い娘《むすめ》だ。  上から見ているので、顔は良く見えないのだが……。  なぜか、建物から、離《はな》れて行く。どこへ行くのかしら、と徳子は眉《まゆ》を寄《よ》せた。  雪明りで、少女の後ろ姿《すがた》がはっきりと見える。  ——ふと、徳子の体が震《ふる》えた。  「まさか!」  激《はげ》しく、打ち消す。そんなはずが——そんなことが——。  少女が足を止め、振《ふ》り返った。顔が、見えた。  徳子は、そのまま、凍《こお》りついたように、動けなかった。  「——侑《ゆう》子《こ》」  という呟《つぶや》きが、その唇《くちびる》から洩《も》れた。  「早く乗って」  ドアを開けながら、律子が言った。  少女が飛び込《こ》んで来る。  「寒い!」  「大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》か?」  と、車を進めながら、伊波が言った。  「うん。ぬくぬくとホテルで休んでたから、余《よ》計《けい》に応《こた》えるのよ」  「一《いつ》緒《しよ》に出ればよかったのよ」  と、律子が言った。  「でも、変だもの、何だか」  少女は、息をついて、「雪男をはねないように気を付けてね」  と言った。  「雪男が相手じゃ、車が壊《こわ》れるかもしれないぞ」  ゆっくりと車を走らせながら、伊波は言った。  「まさか」  律子は、ちょっと笑《わら》って、「でも、どういう男なのかしら?」  と言った。  「分らんね。エサを捜《さが》しに来たのかな」  少女は窓《まど》の外を見ながら、  「凄《すご》い雪」  と、言った。  また、雪が降《ふ》り積っている。  一《いち》応《おう》道路は何とか走れる状《じよう》態《たい》だが、別《べつ》荘《そう》まで入れるだろうか? いや、出て来てしまったのだから、何とか辿《たど》り着かねば。  伊波の経《けい》験《けん》からすると、今なら、何とか大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》と思えた。  これが、一《ひと》晩《ばん》降り続けると、どうだろう。——何とも判《はん》断《だん》できない。  しかし、別荘には、食料などは常《つね》に買い置きしてあり、心配はない。  吹雪《ふぶき》にでもなればともかく、この時期、二、三日降り続けば、天候は回《かい》復《ふく》するのが、普《ふ》通《つう》だった。  降ってはいるが、そう風はないので、視《し》界《かい》が悪いということはなかった。  雪の夜は、ライトを雪が反《はん》射《しや》して、かなり明るい。むしろ霧《きり》の方が、よほど危《き》険《けん》である。  伊波も、春先など、山道で霧に包まれて、立ち往《おう》生《じよう》してしまったことが何度かある。  その点は、雪の方が安全なのだ。  「赤い灯《ひ》が見えるわ」  と、律子が言った。  「パトカーか。——停《と》められそうだな」  「非《ひ》常《じよう》線《せん》? この辺にいるのかしら?」  「分らないね」  警《けい》官《かん》がライトを振《ふ》っている。  伊波は、ゆっくりと車を停《と》めた。  「——どこへ行かれますか」  窓《まど》ガラスを下げると、冷たい風が流れ込んで来る。  「この先の別《べつ》荘《そう》です。住んでいるので」  伊波は免《めん》許《きよ》証《しよう》を見せた。  警官は、ちょっとそれを見て、  「分りました。——この辺を凶《きよう》悪《あく》犯《はん》が逃《とう》亡《ぼう》中《ちゆう》なので」  「聞きました。凄《すご》い力持ちだとか」  「警官がまた一人やられましてね」  と、その警《けい》官《かん》は顔をしかめた。「仲《なか》のいい男だったんです」  「それは……。お気《き》の毒《どく》に」  警官が二人も。——これは大変な男だ。  「じゃ、お気を付けて。この辺にいるというわけじゃないんですが、まるで行方《ゆくえ》がつかめないので、至《いた》る所で検《けん》問《もん》してるんですよ」  「ご苦労様です」  「よく戸《と》締《じま》りを確《たし》かめて下さい」  「分りました」  伊波は、窓を閉《し》めた。大分、車の中の温度が下がっている。  「——大変な騒《さわ》ぎね」  と、律子は、車が走り出すと、言った。  「ともかく、えらい奴《やつ》が出て来たもんだ」  「何が目的なのかしら」  ——何だか、今度は話が重苦しくなってしまった。  警官が二人も死んだということで、恐《きよう》怖《ふ》が急に身近に感じられるようになったのかもしれない。  「——君はどうする?」  と、伊波が言った。  「どうって?」  「ホテルへ戻《もど》るか?」  「いいえ。まさか、そんなのに出くわすこともないでしょ」  「来たら、捕《つか》まえて、TV局に高く売りつけようよ」  少女がのんびりと言った。  しかし、注意深く聞けば、その言葉の底に、不安げな響《ひぴ》きを、聞き取ることができただろう……。  「——わざわざどうも」  小池は、ホテル前でパトカーを降《お》りると、運転してくれた警《けい》官《かん》に礼を言った。「村上さんへ、よろしく伝えて下さい」  「かしこまりました」  警官が敬《けい》礼《れい》する。  ホテルのロビーへ入ると、小池はホッと息をついた。  まるで別《べつ》世《せ》界《かい》だ。——小池はフロントへ行って、名前を言った。  「あ、小池様。奥《おく》様《さま》が先ほどここを出られまして」  「出た?」  小池は、面食らった。「どこへ行ったんだろう」  「お手紙をお預《あず》かりしてあります」  「ありがとう」  小池は、何があったのだろう、といぶかりながら、ロビーのソファに腰《こし》をおろし、律子の手紙を取り出した。  開く前に、一《いつ》瞬《しゆん》、律子が、伊波と暮《くら》すために逃《に》げたのではないか、という思いが、頭をかすめた。——まさか!  なぜか、唐《とう》突《とつ》に、その考えが浮《うか》び上って来たのである。そんなことがあるもんか!  小池は、手紙を開いた。  手紙は、要《よう》領《りよう》よく、事《じ》情《じよう》が述《の》べてあった。例の雪男の事件があって、伊波もこのホテルに泊《とま》ったこと、週《しゆう》刊《かん》誌《し》が、律子のことを記事にするため、このホテルへ、伊波に会いに来ること……。  小池は、読み終えて、ホッとした。  伊波もゆうべここへ泊ったのだという点は気になったが、手紙の後半、週刊誌がここへ取材に来るというくだりで腹《はら》が立って、そんなことは忘《わす》れてしまった。  だが、別の意味で、伊波の別《べつ》荘《そう》に律子が行くことは、不安ではあった。  もちろん、あの「雪男」の一件だ。  律子のことは信じるとしても、凶《きよう》悪《あく》な殺《さつ》人《じん》犯《はん》が、もし伊波の別荘に侵《しん》入《にゆう》したら、どうなるか?  伊波は、作家だから、頭は悪くないのだろうが、残念ながら、暴《ぼう》力《りよく》的《てき》なことは苦《にが》手《て》に違《ちが》いない。  たぶん、二人とも、ひとたまりもなく、やられてしまうだろう。  〈ホテルでゆっくりしていて下さい。明日、電話をします〉  と手紙は結んであり、付け加えて、  〈伊波さんは紳《しん》士《し》ですから、ご心配なく〉  こんなことを書かれちゃ、却《かえ》って心配になるな、と、小池は苦《く》笑《しよう》した。  確《たし》かに、週《しゆう》刊《かん》誌《し》の記者がここへ来ても、伊波がいないとなれば、諦《あきら》めるだろう。  律子の顔を知っている者がいたとしても、小池のことまでは知るまい。  しかし、伊波たちは大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》だろうか?  めったなことはあるまい。しかし、今、人の住んでいる別荘は、そう多くはないはずである。  あの「雪男」が、隠《かく》れる場所を捜《さが》そうとすれば、明りの点《つ》いた所を狙《ねら》うことになる。食べ物もあるし、暖《あたた》かい。  いくら何でも人間なのだから、この雪の中、いつまでもさまよってはいられまい。  そうなると、伊波の別荘が目につくことだって、ないとは言えない……。  どうしたものだろう。——伊波の別荘まで行ってみようか、と小池は思った。  いや、顔を出して、却って、村上の捜《そう》査《さ》の邪《じや》魔《ま》になったのでは困《こま》るが。  小池は、そこに多少の不安——律子と伊波の間に、何かあるのではないかという不安があることを、認《みと》めないわけに、いかなかった……。  何といっても、律子は、かつて伊波の愛人だったのである。それは律子を信じるかどうかというのとは、別の次元の問題であった。  「そうだ」  俺《おれ》には仕事がある。——柴田徳子だ。  それを放り出して、女《によう》房《ぼう》の尻《しり》を追いかけることなど、できない。そうとも、村上の、あの頑《がん》張《ば》りを見ろ。  小池は、フロントへ戻《もど》ると、  「じゃ、家内の部屋はもうあけてあるのかな」  と訊《き》いた。  「いえ、ご主人様にお使いいただくように、承《うけたまわ》っておりますが。——どうなさいますか」  「じゃ、そうするか」  「かしこまりました。では、ルームキーをどうぞ」  「ありがとう」  小池はキーを受け取った。「ちょっと訊《き》きたいんだが——」  小池が、ちょっと警《けい》察《さつ》手《て》帳《ちよう》を覗《のぞ》かせる。  「何か?」  「柴田徳子という客が来てるかい?」  「はい」  「そうか」  小池は肯《うなず》いた。やっぱりか。  「今、お出かけですが」  「出かけた? この雪の中を?」  「はい」  「——どこへ?」  「あの——妙《みよう》にあわてていらして、伊波様の別《べつ》荘《そう》の場所をお訊《き》きになり——」  「誰《だれ》だって?」  「伊波様です。作家の方で、たまたまこちらにご滞《たい》在《ざい》で——。ああ、奥《おく》様《さま》とご一《いつ》緒《しよ》に出て行かれた方です」  「その別荘へ、柴田徳子が?」  「はい。雪の中で、捜《さが》すのは大変だ、とお止めしたのですが、どうしても、とおっしゃって」  「一人で行ったのかい?」  「タクシーがございませんので、ホテルの車で。ご自分が運転して行かれました」  「自分で車を?」  「地図は詳《くわ》しく書いて、さし上げたのですが、ちょっとお分りになるかどうか……」  夜道——それも雪の中だ。  柴田徳子が、伊波の別荘へ出かけて行った。  これは何かある!  小池は、キーをカウンターに戻《もど》した。  「ホテルの車は他にもあるか?」  「はあ、お使いですか?」  「伊波の別《べつ》荘《そう》の地図を、もう一度書いてくれ!」  と、小池は勢《いきお》い込んで、言った。 23 再《さい》 会《かい》  伊波は、別《べつ》荘《そう》の前に車を停《と》めて、息をついた。  「やれやれ。お待ち遠さま」  「降《お》りましょう。荷物はないの?」  と律子が言った。  「うん。別にない。——さあ、早く中へ」  正直なところ、無《ぶ》事《じ》に辿《たど》り着けるかどうか、不安だったのである。  幹《かん》線《せん》道《どう》路《ろ》はともかく、わき道へ入ると、いくらチェーンを巻《ま》いた車でも、走るのが厄《やつ》介《かい》だった。  「——あと一時間遅《おそ》かったら、途《と》中《ちゆう》で立ち往《おう》生《じよう》だな」  やっと暖《あたた》かくなった居《い》間《ま》で、伊波は大きく伸びをした。  「静かでいいわ」  と、律子が言った。  「ねえ」  少女が顔を出す。「お腹《なか》空《す》かない?」  「そうね。材料あるの? 私《わたし》、何か作ってあげる」  「二人で作ろう」  と、少女が楽しげに言った。「私、あんまりうまくないの」  「私だって、自《じ》慢《まん》じゃないけど、料理はだめなのよ」  「じゃ、二人でやれば何とかなるかも」  二人の女は、にぎやかに台所へと入って行く。——伊波は、ちょっと苦《く》笑《しよう》して、ソファに横になった。  緊《きん》張《ちよう》して車を運転していたので、やたら手足が痛《いた》むのである。  あの少女と律子。  二人で料理を作るというのだから、妙《みよう》なものだ。  妙な、といえば——ずっと一《いつ》緒《しよ》にいる、あの少女とは一度も寝《ね》てないのに、何年ぶりかで会った律子とは、また寝てしまった。  それも、妙といえば妙である。  これで、明日になれば、律子は帰って行く。——それで、もう会うこともあるまい。  そして、自分と少女は? どうなるのだろう?  少女の過《か》去《こ》がどうであれ、もう、結着をつけなくてはならない。いつまでも、こんな中《ちゆう》途《と》半《はん》端《ぱ》なことをしてはいられないのだ。  ——どうせ、俺《おれ》はまた一人になる。  それもいい。元の生活に戻《もど》るだけのことなのだから。  電話が鳴った。伊波は立って行って、受《じゆ》話《わ》器《き》を上げた。  「伊波です」  「あ、ホテルのフロントの者です。先ほどは——」  「やあ、世話になって。何か?」  「実は、そちらの別《べつ》荘《そう》へ向われたお客様がおいでなんです」  「ここへ?」  「はい。車で向われたんですが、雪が大分ひどいので。——お着きになっていませんか?」  「いや、誰《だれ》も。一体誰が来るというんだろう?」  「お一人は、柴田様という女の方です」  柴田。——柴田徳子といった、あの女《じよ》性《せい》か! しかし、なぜ?  「今、『お一人は』といったね。他に誰か?」  「はい。小池様という方が。確《たし》か奥《おく》様《さま》がご一《いつ》緒《しよ》に——」  「うん、来ている。じゃ、ここへ来るんだね?」  「さようです。小池様は大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》だと思うのですが、柴田様が……。ホテルの車に、一人で乗って行かれましたので」  「一人で?」  「お止めしたのですが……」  「——どっちが先に出たんだい?」  「柴田様です。実は、小池様も、柴田様のことをお尋《たず》ねになって、そちらへ向われたとお話しすると、自分も行く、と」  小池が? すると、柴田徳子のことを、何か知っているのだろうか?  小池、柴田徳子、律子、そしてあの少女…‥。  「分ったよ」  と、伊波は言った。「その柴田という人がいつまでも着かないようだったら、こっちでも捜《さが》してみる」  「お願いします」  「警《けい》察《さつ》へ電話しておいたら? 非《ひ》常《じよう》線《せん》に引っかかったら、ホテルへ送り返してもらうといい」  「かしこまりました」  「この辺はもう、慣《な》れた人でないと、とても運転できないよ」  「すぐに連《れん》絡《らく》します」  「もし、こっちで見付けたら、電話するからね」  伊波は、電話を切った。  何か起りそうだ。  小池もやって来る。——あの少女のことも、来れば隠《かく》しておくわけにいかない。  いや、そもそも、なぜ小池がここへ来るのだろう? 東京の刑《けい》事《じ》が、何の用事で?  伊波にはわけが分らなかった。  何もかも、関係があるかのようで、しかもはっきりしない。  「——勝手にしてくれ」  伊波は肩《かた》をすくめて呟《つぶや》いた。  台所の方から、律子と少女の、明るい笑《わら》い声が響《ひび》いて来た。  もう、どうにもならない。  柴田徳子は車を停《と》めて、息をついた。  どこかで、道を間《ま》違《ちが》えたのだが、もう戻《もど》りようもない。道は、どんどん狭《せま》くなり、とうとう車一台、通れない幅《はば》になってしまった。  Uターンもできない。雪の中で立ち往《おう》生《じよう》である。  一人で、こんなときに出て来たのが無《む》茶《ちや》だったといえば、その通りだが、しかし、とても、衝《しよう》動《どう》を抑《おさ》えることはできなかったのである。  そうだろう。五年前に行方《ゆくえ》不《ふ》明《めい》になった我《わ》が子を見付けたのである。  たとえ嵐《あらし》の中、吹雪《ふぶき》の中だって、追いかけて行って当り前だ。  「侑《ゆう》子《こ》……」  と、徳子は呟いた。  ——これからどうしよう?  今、自分がどこにいるのかも知らないでは、帰るにも帰れない。  といって、じっとしていては、どんどん雪が降《ふ》り積るばかりである。  タイヤの跡《あと》を辿《たど》って、戻れるだろうか?  今すぐなら?——しかし、途《と》中《ちゆう》で消えてしまったら、それこそ行き倒《だお》れである。  それよりは、この車の中で、朝を待った方がいいかもしれない。  ——ともかく、徳子は一《いつ》旦《たん》、車から出てみることにした。  恐《おそ》ろしく寒い。雪がどんどん顔に当って来て、怖《こわ》いようだ。とても、こんな寒さと雪の中を、歩いては行けない。  車の中にいよう。その内、誰かが捜《さが》しに来てくれるかもしれない。  ドアを開けようとして、ふと、暗《くら》闇《やみ》の奥《おく》に、小さな灯《ひ》を見付けた。  あれは? 人家だろうか?  じっと見つめていたが、灯は動かない。  おそらく、どこかの窓《まど》らしい。——もしかすると伊波の別《べつ》荘《そう》か?  そんなにうまく行くだろうか?  徳子は迷《まよ》った。しかし、あの灯までなら、歩いても大したことはないような気がした。  もしかしたら、あそこに、侑子がいるかもしれない。そう思うと、じっとしていられなかった。  ためらいはあったが、車をロックして、歩き出した。膝《ひざ》まで雪に埋《うま》る。  息を荒《あら》く吐《は》きながら、徳子は、小さな灯へ向って、林の中を、歩いて行った。  「ねえ、知ってんでしょ、教えてくださいよ」  と、ホテルのフロントにからんでいるのは、東京からやって来た週《しゆう》刊《かん》誌《し》の記者だった。  後ろに、カメラバッグを肩《かた》から下げて突《つ》っ立っているのは、カメラマン。——まあ、当然のことだ。  カメラがなければ、どこかのヤクザ、という感じで、ロビーを眺《なが》め回している。  「もうチェックアウトされたんですから」  と、フロントの男はくり返した。  「分ってるよ。だから、家を訊《き》いてんじゃないの」  と、記者が言った。  「お教えしても、この雪では到《とう》底《てい》、捜《さが》しに行けませんよ」  「こっちは商売だよ。雪ぐらいで参りゃしない」  「ともかく、お教えできません」  と、フロントの男は粘《ねば》った。  記者の方も、  「東京から、わざわざやって来たんだぜ」  と、食い下る。  「何とおっしゃられましても」  これはだめだ、と思ったのか、記者はカメラマンと共に、ロビーのソファに座《すわ》り込《こ》んだ。  「どうするんだ?」  とカメラマンが言った。「ここまで来て、会わずに帰るのかい? どやされるぜ」  「何とかするさ」  と、記者はタバコに火を点《つ》けた。「あのフロントの奴《やつ》、きっと伊波に金をつかまされてるんだ。あいつがいないときを狙《ねら》って、もっと下《した》っ端《ぱ》に訊《き》こう」  他人も自分と同《どう》程《てい》度《ど》の水《すい》準《じゆん》だとしか考えないのである。  「——何だかパトカーが多いな」  と、カメラマンが言った。  「そうかい?」  「東京なら珍《めずら》しくないけど、この辺じゃ、こんなに見かけるなんて、めったにないぜ」  「何かあったのかな」  記者は、近くに座《すわ》っていた客を捕《つか》まえて、「ねえ、何か事《じ》件《けん》でもあったんですか」  と訊《き》いた。  「雪男が出るそうですよ」  と、その客が答える。  記者とカメラマンは、顔を見合せた。  「——雪男か」  「そういえば、何だかニュースで言ってたぜ。警《けい》官《かん》を殺したとか……」  「面白そうだな」  と、記者が顎《あご》を撫《な》でた。「そいつに出くわしたら、特《とく》ダネになる」  「命と引きかえじゃごめんだよ」  と、カメラマンが笑《わら》った。  ——記者は、トイレに行くふりをして、ボーイを捜《さが》した。  見かけると、一人一人つかまえて、  「伊《い》波《ば》伸《しん》二《じ》の住んでいる所、知らないか?」  と訊《き》く。  四人目に、知っているというボーイに出会った。  「別《べつ》荘《そう》ですよ。かなり奥《おく》の方の」  「場所、教えてくれよ。礼はするから」  「しかしねえ……」  と、ボーイは首をひねって、「この雪じゃ、まず迷《まよ》っちゃうよ、きっと」  「大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》! 俺《おれ》たちはプロだよ。知らない所を捜《さが》し当てるのは特《とく》技《ぎ》なんだ」  記者が言うのは、都会でのことだ。  「でも——危《あぶ》ないですよ」  「君に迷《めい》惑《わく》はかけないよ。地図さえかいてくれりゃ、後はこっちでやる」  しつこく食い下って、やっと、地図をかかせるのに成功した。  「気を付けて下さいよ。凄《すご》い奴《やつ》が逃《に》げてるらしいから」  「OK。どうも!」  記者は、礼など出しもせず、ロビーへと戻《もど》った。  「どうした?」  「手に入れたぞ、行こう」  「大丈夫かな」  「何が?」  「雪男だよ」  記者は声を上げて笑《わら》った。  そして二人は、凍《こお》りつくような戸外へと出て行った……。  柴田徳子は、息が切れ、木にしがみつくようにして、立っていた。  雪が、容《よう》赦《しや》なく肩《かた》や頭に降《ふ》り積って来る。もう足は感覚がない。  ずいぶん歩いたつもりなのに、あの灯《ひ》は一《いつ》向《こう》に近づいて来ない。  幻《まぼろし》なのだろうか? いや、まさか!  進んでいないのだ。ともかく、雪が深くて、一歩進むのにも、大変なのである。  車にいれば良かった、と悔《くや》んだ。しかし、今から戻《もど》るのも、容《よう》易《い》ではない。  動けないのだ。——ああ、このまま凍《こご》え死んでしまうのだろうか?  「侑子……」  焦《あせ》って出て来たことが悔まれた。  伊波に訊《き》けば、居《い》場《ば》所《しよ》も分ったに違《ちが》いないのだ。それを……。  だが、ともかく——何とかしなくてはならない。  ここで死ぬなんて! とんでもないわ!  何としてでも、侑子に会わなくては……。  徳子は、体を動かそうとした。——しかし、力が抜《ぬ》けたのか、それとも雪が重いのか、一《いつ》向《こう》に動けない。  必死に雪を手でかきのけ、片《かた》足《あし》を引《ひつ》張《ぱ》り出す。しかし、それだけだ。  また一歩行けば、スッポリと埋《うま》ってしまうのである。  何とか——何とかして、歩かなきゃ。  何としてでも、侑子の顔を…‥。  ふと顔を上げた。——誰かが立っている。  見上げるような男。徳子は、目を見開いた。  大男は、じっと、徳子を見つめていた。  徳子は、ゆっくりと息をついた。  「やっぱり——」  と、声が洩《も》れた。「やっぱり、あなただったのね!」  大男は、雪を踏《ふ》んで、近付いて来ると、大きな両手を伸《の》ばして、徳子の体をつかまえた。  体が宙《ちゆう》に持ち上げられ、足が雪から抜《ぬ》けた。  「ありがとう……」  徳子が震《ふる》える声で言った。「車が——あっちに」  大男は、まるで三、四歳《さい》の子《こ》供《ども》でも抱《だ》っこするように、徳子をかかえて、車のある方へと歩き出した。 24 雪の夜  夕食は、いつになくにぎやかだった。  伊波は、少女が、まるで別人のようにはしゃいでいるのを見て、意外な気がした。  いや、もちろん、これまでだって、結《けつ》構《こう》一人で騒《さわ》いでいたのだが、やはり同《どう》性《せい》がいるというのは、ずいぶん違《ちが》うものなのだろう。  にぎやかといっても、しゃべっているのは女同士、伊波は、専《もつぱ》ら、一人で黙《もく》々《もく》と食べていた。  ——そろそろ食事も終るというころ、玄《げん》関《かん》の方で、車の音がした。  「——誰《だれ》かしら?」  と、律子が言った。  「さあね」  伊波は、小池や柴田徳子が、ここへ向っていることを、二人に黙《だま》っていた。  知らせたところで、どこへ行くわけにもいかないのだから。  「雪男は車じゃ来ないだろう」  と伊波は言って、玄関へと歩いて行った。  不安げに、律子と少女もついて来た。  ドアを開けると、小池が顔をしかめながら、立っていた。  「あなた!」  律子が目を見《み》張《は》った。  「入れてもらって構《かま》いませんか」  と、小池が言った。  「どうぞ。よく見付けましたね」  伊波は、小池を入れた。  「小池です。——憶《おぼ》えておられるかどうか」  「どの刑《けい》事《じ》さんも、今は同じように見えますよ。ともかく、暖《あたた》まって下さい」  と、伊波は言った。  小池は、少女に気付いた。——どこか、警《けい》戒《かい》するような目で、小池を見ている。  どこかで、見た顔だ、と小池は思った。どこだったろう?  「親《しん》戚《せき》の子を預《あず》かってましてね」  と、伊波は言った。「熱いスープでもいかがです?」  「やあ、それはありがたい」  居《い》間《ま》のソファに、小池は腰《こし》をおろした。  律子が傍《そば》に座《すわ》る。  「——どうしたの? こんな雪の中を」  「気になることがあったんだ」  と、小池は言った。  「雪男のこと?」  「それもある」  と、小池は肯《うなず》いた。「しかし、他にも——やあ、申《もう》し訳《わけ》ありません」  小池は、かじかんだ手をこすり合せ、伊波が運んで来たスープをアッという間に飲《の》み干《ほ》してしまった。  「あなた、お腹《なか》空《す》いてるの?」  律子が呆《あき》れたように言った。  「まあね。急いで出て来たんだ」  「じゃ、何か食べますか。まだ余《あま》っているし——」  「いや、その前に」  と、小池は言った。「柴田徳子という女《じよ》性《せい》も、こっちへ向ったはずなんですが、着いてませんか」  「いいえ」  「やはり、そうか」  小池は首を振《ふ》った。「走りながら、女性一人では、とても無《む》理《り》だと思いましたよ」  「その人は何なの?」  と、律子が言った。  「分らない」  小池は肩《かた》をすくめた。「ともかく、ここへ向ったのは確《たし》かだ」  「途《と》中《ちゆう》、車は?」  「見ませんでした」  「じゃ、迷《まよ》ったんだな」  伊波は、息をついた。「——この雪では、危《あぶ》ない。下手《へた》に走らせると、ますます分らなくなりますよ」  「電話を借りていいですか。警《けい》察《さつ》へ知らせて、捜《そう》索《さく》してもらわないと」  「どうぞ」  小池は、電話の方へと歩いて行く。  伊波は、少女の姿《すがた》が見えないことに気付いた。二階に行ったのだろうか?  「——おかしいな」  と、小池が言った。「切れてますね」  伊波は、小池の手から受《じゆ》話《わ》器《き》を受け取った。  「ウンともスンとも言わない。——きっと、雪で架《か》線《せん》が切れたんですよ」  「参ったなあ!」  小池は唇《くちびる》をかんだ。「放っとくわけにもいかないし」  「捜《さが》しに行きますか」  「そうですね。しかし、私《わたし》はともかく——あなたは——」  「この辺なら、夜でも分ります。あなただけでは迷ってしまいますよ」  「じゃ、お願いしましょうか」  「仕《し》度《たく》して来ます」  伊波が二階へ上って行く。  「——変らないな」  と、小池は言った。「作家ってのは、いつまでも若《わか》いもんなのかな」  「あなた……」  「どうした?」  「大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》? この雪よ」  「しかし、女一人、放っとくわけにはいかん。俺《おれ》は警《けい》官《かん》だからな」  「——分ったわ。気を付けて」  律子は、夫《おつと》の頬《ほお》にキスをした。  「例の大男がうろついてる。用心しろよ」  「用心しろって、どうやって?」  「すぐ帰るさ。それまでだ」  小池は、ふと思い出して、「あの子は、誰《だれ》なんだ?」  「知らないわ。ただ、ここで会ったのよ」  「そうか」  小池は、ちょっと眉《まゆ》を寄《よ》せた。——どこで見たのだろう?  「どうするんだよ!」  カメラマンが喚《わめ》いた。  「うるせえな!」  記者が怒《ど》鳴《な》り返す。  「だから、やめろ、って言ったじゃねえか!」  「今さら、仕方ねえだろう!」  ——週《しゆう》刊《かん》誌《し》の記者とカメラマンの車だ。  何のことはない、道に迷《まよ》って、立ち往《おう》生《じよう》である。  「戻《もど》れねえのか?」  「無《む》理《り》だ。——この雪だぞ。すっかり埋《うま》っちまった」  「じゃ、どうする?」  「知るか」  と、記者は肩《かた》をすくめた。  「無《む》責《せき》任《にん》な奴《やつ》だな!」  「責任なんてもの、この仕事にゃ縁《えん》がないからな」  と、記者は軽くかわした。  カメラマンの方も、ふてくされた顔で前方を見ていたが……。  「——おい」  と、記者がつついた。  「何だよ?」  「誰か来る」  「馬《ば》鹿《か》言え」  「見ろよ」  車のライトの中を、確《たし》かに、誰かが近付いて来た。  「こんな雪の中で……」  と、記者は目をこすった。「この近くに住んでる奴《やつ》だろう、きっと。助かった! 家に入れてもらおうぜ」  「そうしよう。——命拾いだ」  しかし、カメラマンの見通しは甘《あま》かった、と言うべきだろう。  二人は車から、膝《ひざ》まで埋《うま》る雪の中へ降《お》り立った。  「おい! この辺の人かい!」  と、記者が大声を上げる。「困《こま》ってるんだ!」  「おい、見ろ…‥」  カメラマンが、青ざめた。  ライトに浮《う》かび上ったのは、とんでもない大男だった。  「これが——」  と、記者が呟《つぶや》く。  「うん」  カメラマンも、カメラを構《かま》えるのを忘《わす》れている。  大男は、二人の顔をゆっくりと交《こう》互《ご》に見た。  「車をよこせ」  と、低い声で言う。  「車?」  「車ってこれのことかい?」  カメラマンと記者は顔を見合せた。  「車をもらっていく」  と、大男が進み出て来る。  「なあ、待ってくれよ。車なしじゃ、こっちも——」  と、カメラマンが動いた。  その弾《はず》みで、肩《かた》から下げていたカメラのストロボが発光した。  大男が見る見る顔を紅《こう》潮《ちよう》させると、唸《うな》り声《ごえ》と共に、カメラマンの胸《むな》ぐらをつかんで、抱《だ》き上げた。  「おい——やめてくれ!」  カメラマンが悲鳴を上げた。「助けてくれ!」  大男はカメラマンの体を、頭の上まで持ち上げると、車めがけて投げつけた。  ガツン、と音がして、カメラマンは車の屋根に叩《たた》きつけられ、そのまま、雪の上に、滑《すべ》り落ちた。  記者は必死に逃《に》げ出していた。仲《なか》間《ま》も何もあったものではない。  大男が、大《おお》股《また》にぐんぐんと記者との間をつめて、後ろからその首をつかんだ。  「苦しいよ!——やめてくれ!——やめて——」  大男の両手が、記者の首をぐいーと絞《しぼ》った。そして、雪の上に放り出した。  大男は、車の方へと戻《もど》って行った。  ドアに手をかけたとき、誰かの声が近付いて来た。  「あの車でしょう」  「——他には考えられないですね」  大男は、ためらったが、雪の上に倒《たお》れている二人の男へチラリと目をやると、そのまま林の奥《おく》へと姿《すがた》を消した。  「やれやれ、見付かって良かった」  と、伊波が言った。  「全くですね。そう長くはいられないし……」  小池は、車へ向って近付いて行きながら、「いや——おかしい」  と、声が変った。  「誰か倒れてますよ」  「本当だ!」  二人は、急いで車の近くへとやって来た。  そして——愕《がく》然《ぜん》とした。  血を吐《は》いて死んでいる二人の男。  しばし、どちらも声がなかった。  「——何てことだ」  と、小池は言った。  「どうやら、例の週《しゆう》刊《かん》誌《し》の記者とカメラマンらしい」  伊波は言った。「たぶん、私の所へ来るつもりだったんだ」  小池は、二人の男の方へ、近づいて、一人ずつ、死んでいることを確《たし》かめた。  「こいつは、例の大男だな」  と、小池は言った。「しかも、まだ、ぬくもりがありますよ」  「すると、この近くにいるんですか?」  伊波はあわてて周囲を見回した。  小池は、深《しん》刻《こく》な表《ひよう》情《じよう》で、  「こうなると、柴田徳子の方も心配だな」  と言った。  そして——突《とつ》然《ぜん》、そのとき思い当ったのである。  伊波の所にいる少女。——あれは、柴田徳子の、行方《ゆくえ》不《ふ》明《めい》になった娘《むすめ》だ! 25 雪男の過《か》去《こ》  村上は起き上った。  まだ、少し胸《むね》が痛《いた》むが、大《だい》分《ぶ》楽になっては来ている。  外は雪だ。——凄《すご》い雪だった。  今夜、何か起りそうだ。村上はそう思った。——永《なが》年《ねん》の勘《かん》というやつである。  しかし、その肝《かん》心《じん》なときに、ベッドから出て行けない。全く、俺《おれ》もくたびれて来たもんだ。  あの「雪男」は、どこにいるのだろう? 一体、何者なのか。  あの怪《かい》力《りき》、人《にん》間《げん》離《ばな》れした体力、そして凶《きよう》暴《ぼう》性《せい》……。  どこにいても、あの男なら、人目につくはずである。時間さえかければ、その素《す》姓《じよう》も知れよう。  しかし、今はそんなことを言ってはいられないのだ。この先、何人、人を殺すか分らない。次の犯《はん》行《こう》を未《み》然《ぜん》に防《ふせ》ぐのが、第一の仕事である。  もちろん、村上は、東京から来たカメラマンと記者が殺されたことなど、知るはずもなかった。  ドアがノックされた。  「どうぞ」  村上は横になって、言った。  起き上ったりしていると、看《かん》護《ご》婦《ふ》に怒《おこ》られるかもしれない。いや、全く、看護婦にかかっては、どんな大物だって赤ん坊と同じことなのだから。  「失礼します」  と、若《わか》い刑《けい》事《じ》が入って来た。「起こしてはいかんと言われてたんですが……」  「眠《ねむ》れるもんか、こんなときに」  と、村上は苦《く》笑《しよう》した。「何の用だ?」  「実は、例の大男なんですが——まだ、手がかりはありません。ただ、どうやら身《み》許《もと》らしいものが分りまして」  「そうか」  村上は目を輝《かがや》かせた。「話してみろ」  「はっきりはしないんですが、TVのニュースを見て、あれはきっと、近所の男だ、という情《じよう》報《ほう》が入ったんです」  「どこだ、場所は?」  「奥《おく》多《た》摩《ま》です。工《こう》事《じ》現《げん》場《ば》の近くに、長く住んでいて、いつも工事の仕事をしていたというんですが」  「何という男だ?」  「武《たけ》井《い》、と名乗っていたそうです。本《ほん》名《みよう》かどうかは分らないようですが」  「大男なんだな」  「ええ。凄《すご》い力持ちで、いつも工事現場では、重《ちよう》宝《ほう》されていたようです。ただ、性《せい》格《かく》的《てき》には、おとなしくて、人と争うことはなかったとか」  「争ったら、殺しちまうからだろう。——それで?」  「ええ、ここ何日か姿《すがた》を見せないので、工《こう》事《じ》仲《なか》間《ま》が、住んでいた家へ行ってみると、空《から》っぽだったそうで」  「一人暮《ぐら》しか」  「いえ、それが——どういう仲《なか》かは分らなかったそうですが、女の子と二人で住んでいたそうです」  「女の子だって?」  「ええ。女の子といっても、もう十四、五とか……」  「十四、五歳《さい》。——名前は?」  「分りません。娘《むすめ》だ、と言っていたようですが、何だかちょっと奇《き》妙《みよう》な関係だったということでした」  「その女の子も、いなくなったのか?」  「実は、その女の子が、少し前から、姿を消してしまったんだそうです。それで、武井はひどく苛《いら》々《いら》していたとか」  「そして自分も姿を消した」  「そうです。どこへ行くとも、何とも……。どう思われます?」  村上は、少し考えて、  「その男にまず間《ま》違《ちが》いあるまい。しかし、差し当り、見付ける手がかりにはならないな」  「その通りです。武井という名も怪《あや》しいですし、すぐに素《す》姓《じよう》が知れるとは思えませんからね」  「うん。——ご苦労だった。ともかく、その情《じよう》報《ほう》を、もう少し、詳《くわ》しく探《さぐ》ってみてくれ」  「はい」  刑《けい》事《じ》は病室を出ようとして、「ああ、そうだ。小池という刑事さんが——」  「ああ、Mホテルにいるよ。何だ?」  「東京から連《れん》絡《らく》が入ってるんです」  「何だというんだ?」  「ええと——」  刑事は手帳を開いた。「柴田という死んだ男の体に、かなり新しい刺《さ》し傷《きず》があったそうです。わき腹《ばら》で、かなりのけがだということでした」  「刺された?」  村上は眉《まゆ》を寄《よ》せた。  「それだけです。——Mホテルへ電話を入れましょうか?」  「ああ、そうしてくれ」  村上は肯《うなず》いた。  刑事が出て行くと、村上は、妙《みよう》な苛《いら》立《だ》ちを覚えた。  何かある。——武井という大男。女の子。——十四、五歳《さい》。  「女の子か……」  柴田。刺《さ》し傷。血が出る。——血。  「そうか!」  と、村上は言った。  あの、かつて柴田のものだった別《べつ》荘《そう》での血《けつ》痕《こん》。あれは、柴田自身の血だったのだ。  柴田が、あそこで刺された。誰《だれ》に?  女の子。——伊波が、若《わか》い女と同《どう》居《きよ》している。  もしその女の子が……行方《ゆくえ》不《ふ》明《めい》になっていた、柴田の娘《むすめ》だったら?  十四、五歳の娘。——武井が一《いつ》緒《しよ》にいたという娘も、同じ娘だったかもしれない!  柴田の娘が行方不明になる。そして、武井と二人で、人目を避《さ》けた暮《くら》しに入る。  そして娘が失《しつ》踪《そう》する。いや——柴田が連れ出したのだとしたら?  そうだ。行方不明になって、何年もたっている。娘に昔《むかし》のことを、思い出させるために、あの別荘へ連れて行った……。  だが、娘の方は、父親のことが分らず、怯《おび》えて、刺した。そして逃《に》げた。  伊波の所へ。そして、住みつく。  武井は、かつてその娘をさらったこの地へと、娘を捜《さが》しにやって来た……。  これで話は合うぞ。  柴田徳子がやって来たのは、それをかぎつけたからだ。いや、おそらく雪男のニュースを見て、びっくりして家を出たということは、武井のことに思い当ったからだ!  徳子は武井を知っている。もし、武井が、娘、侑《ゆう》子《こ》をさらったことも知っていたとすれば?  だが、なぜか、それを徳子は警《けい》察《さつ》に言わなかった。おそらく、裏《うら》には複《ふく》雑《ざつ》な事《じ》情《じよう》があるのだろう。  「よし」  村上は、ゆっくりとベッドから出た。  ——廊《ろう》下《か》へ出て、看《かん》護《ご》婦《ふ》の詰《つめ》所《しよ》へ行くと、夜《や》勤《きん》の看護婦が、何人かでおしゃべりをしていた。  「あら!」  と、一人が村上に気付いて、「だめですよ、寝《ね》てなくちゃ」  と、立ち上ってやって来た。  「ちょっと電話をかけるだけだ。見《み》逃《のが》してくれよ」  と、村上はおどけて言った。  「じゃ、どうぞ」  Mホテルへかける。フロントの男が、  「小池様は、伊波様の別《べつ》荘《そう》へ行くといって、出られましたよ」  と言うと、村上の表《ひよう》情《じよう》が、少し固くなった。  「そうか。柴田徳子という女《じよ》性《せい》が泊《とま》ってるだろう」  「その方もです」  「その方も? どういうことだ?」  「伊波様の別荘へ。小池様より前のことでした」  「そうか。——分った。じゃ、そっちへ電話してみる」  「それが、今、雪のせいで架《か》線《せん》が切れたようなんです。あちら一帯、不通になっています」  「不通だって?」  いやな気分だった。——何かある。  伊波の所へ、小池も、柴田徳子も向った。  そしてもし、柴田侑子がそこにいるとしたら……。  一《いつ》旦《たん》電話を切ってから、村上は急いで捜《そう》査《さ》本《ほん》部《ぶ》へかけた。  「村上だ。捜査員を急いで伊波の別荘へ向かわせろ! 伊波伸二だ。——そうだ。あの雪男、そこへ現《あら》われるかもしれん。近い者から急行させろ! 至《し》急《きゆう》だ。俺《おれ》もすぐ行く!」  「あの——」  目を丸くする看《かん》護《ご》婦《ふ》を尻《しり》目《め》に、村上は、病室へと駆《か》け戻《もど》って行った。  寒い。  律子は、ふと顔を上げた。——居《い》間《ま》にいて、冷たい風を感じるというのは、どうしてだろう?  立ち上って、ドアの方へ行くと、はっきり、冷たい風が流れているのを感じる。  「どこか開いているんだわ」  玄《げん》関《かん》のドアではない。といって……そうか、二階だ。階《かい》段《だん》の下に来ると、冷たい空気が吹《ふ》き下ろして来る。  少女は、さっきから姿《すがた》が見えない。きっと、二階で何かしているんだろうと思ったのだが。  律子は階段を上って行った。廊《ろう》下《か》は、もうかなり寒くなっている。  ドアが一つ、開いていた。律子は中を覗《のぞ》いた。  「いるの?」  声をかける。中は暗い。ギョッとするほどの冷たい風が吹きつけて来る。  手《て》探《さぐ》りでスイッチを押《お》すと、開け放した窓《まど》と、寒風になびくカーテンが目に入った。  律子は窓辺に駆《か》け寄《よ》った。——そう大した高さではないから、飛び降《お》りようと思えば、難《むずか》しくはあるまい。  でも——この雪の中を出て行ったのか?  なぜ?  こんな雪の中では、凍《とう》死《し》してしまうかもしれない。  「困《こま》ったわ……」  律子は、ともかく窓《まど》を閉《し》めた。——部屋の中は、まるで冷《れい》蔵《ぞう》庫《こ》のようだ。  下へ降《お》りて、律子は居《い》間《ま》の中を歩き回った。夫《おつと》や伊波が早く戻《もど》って来てくれればいいが……。  遠くへは捜《さが》しに行けない。自分も迷《まよ》ってしまいそうだから。しかし、この周囲ぐらいなら。  律子はちょっとためらってから、コートをはおり、手《て》袋《ぶくろ》をはめた。  玄《げん》関《かん》の鍵《かぎ》は?——大体、かけようにも、持っていないのだ。  入れ違《ちが》いで、あの少女や伊波たちが戻って来ることもあるかもしれない。そのためにも、開けておいた方がいい。  寒さは猛《もう》烈《れつ》だった。雪が、見る見る降《ふ》り積っている感じだ。  ともかく、周囲を一回りしてみよう。  律子は都会人で、こういう寒さには至《いた》って弱い。しかし、いくらかは、伊波のために、そしていくらかは、刑《けい》事《じ》の妻《つま》としての義《ぎ》務《む》感《かん》もあって、雪の中へ足を踏《ふ》み出した。  ズボッと、膝《ひざ》近くまで埋《うも》れて、びっくりした。一歩進むのが大変だ。  「よいしょ——よいしょ」  かけ声つきで、何とかよたよたと歩いて行く。  こんな雪の中で、一時間もいたら死んじゃうわ!  あの子、よく出て行ったものだ。でも、どこへ行ったのだろう? そして、なぜ逃《に》げるように出て行ったのか。  「ねえ!——いたら返事して!」  名前が分らないのだから、呼《よ》ぶのにも不便である。  「どこなの!——出て来てちょうだい!」  やっとの思いで、家の裏《うら》手《て》に来た。  出て来るんじゃなかった、と後《こう》悔《かい》していた。あの少女のことも気にはなるが、自分が死んじまっちゃ仕方ない。  でも、今さら戻《もど》っても——ちょうど真裏の辺《あた》りだ。一回りした方が早いかもしれない。  息を弾《はず》ませながら、顔にかかる雪を払《はら》って、また歩き出す。そのとき、林の中で、何か黒いものが動くのが目に止った。  「——ねえ! そこにいるの?」  と、大声で呼んだ。「見えたわよ!——出てらっしゃい!」  確《たし》かにいる。木立ちの陰《かげ》から、少し、肩《かた》らしいものがはみ出していた。  「全くもう! 世話が焼けるんだから!」  律子は、林の中へと、入って行った。木につかまりながらである。  いっそう雪も深く、しかも根につまずいたりして、転《ころ》びそうになるので、たった十メートルほどの距《きよ》離《り》が、いやに遠い。  「もう、いい加《か》減《げん》にして、出て来てよ!」  うんざりして、律子は怒《ど》鳴《な》った。「お尻《しり》を叩《たた》いてあげるからね!」  すると、その人《ひと》影《かげ》が、ゆっくりと木の陰《かげ》から現《あら》われた。——見上げるような大男だ。  「あ——あの——」  律子は我《われ》知《し》らず口走っていた。「人《ひと》違《ちが》いで——失礼しました!」  そして、あわてて逃《に》げ出そうと後ろを向いた。しかし、気ばかり焦《あせ》って、足がついて来ない。  当然の結《けつ》果《か》として、律子は雪の中に突《つ》っ伏《ぷ》すようにして転《ころ》んだ。  大きな手が、律子の肩《かた》をぐいとつかんだ……。 26 侵《しん》入《にゆう》者《しや》  伊波と小池は、喘《あえ》ぎ喘ぎ、別《べつ》荘《そう》へ辿《たど》りついた。  「いや、雪の中を歩くのは大変だな!」  小池が、玄《げん》関《かん》のドアを開けながら言った。  「開けっ放しか。物《ぶつ》騒《そう》だな。——律子。どこだ?」  伊波は続いて入って来ると、  「変ですね」  と眉《まゆ》を寄《よ》せた。「——おい! どこにいるんだ?」  返事はなかった。小池と伊波は顔を見合せた。  「どうもおかしい。捜《さが》してみましょう」  と、小池は言った。  二人は左右へ別れて、手早く部屋を覗《のぞ》いて回った。続いて二階へ。  「——何だか冷たいな空気が」  と、伊波が言った。「窓《まど》でも開いているようだ」  だが、どの部屋にも、二人の姿《すがた》はない。  「——こんな雪の中へ出て行くなんて、考えられない!」  小池は息を弾《はず》ませて言った。  伊波は、少女の寝《ね》ていた部屋へ入って、中を見回した。  どこへ行ったんだろう? 出て行くはずがないが……。  ふと、目が窓《まど》の下へ行った。歩み寄《よ》って、かがみ込《こ》む。  「どうかしましたか」  と、小池がやって来た。  「湿《しめ》ってるんです、カーペットが」  「ほう」  「雪が降《ふ》り込《こ》んでいたんじゃないかな。きっとここが開いていたんだ」  「どうして?」  「分りません」  伊波は首を振《ふ》った。「——困《こま》りましたね。どうしますか?」  「こうなったら、律子を——律子と、あの女の子を捜《さが》すのが先決です。例の雪男は後回しだ」  そう言って、小池はハッとした。「まさか、あの男がここに……」  「そんな——」  伊波は目を見《み》張《は》った。「しかし、もしそうだとして、その雪男の目的は何です?」  小池は、黙《だま》って首を振《ふ》った。  あの少女が、柴田徳子の娘——確《たし》か侑《ゆう》子《こ》といった——であることは間《ま》違《ちが》いない、と思っていた。  小池には、伊波がそれを知っていて黙《だま》っているのか、それとも知らずにいるのか、判《はん》断《だん》できなかった。  「電話は通じないかな」  小池は呟《つぶや》いて、少女の部屋を出た。  二人が居《い》間《ま》へ降《お》りて行く。——電話は不通のままだった。  「参ったな!」  小池は呟《つぶや》いた。  表面は、いかにも職《しよく》業《ぎよう》的《てき》な冷静さを装《よそお》っているが、内心、かなり焦《あせ》っていた。  律子が、大男の手で絞《し》め殺《ころ》されて、雪の中に横たわっている光景が目に浮《う》かんだ。  「捜《さが》しに出ますか」  と、伊波は言った。  「いや。——無理でしょう、この雪では」  小池は、少し考えて、「私《わたし》がこの近くを調べて来ます。あなたはここにいて下さい」  と言った。  「一人じゃ危《あぶ》ないですよ」  「私は刑《けい》事《じ》ですからね」  小池はこわばった微《び》笑《しよう》を浮かべた。  「しかし、私の方がこの近くは慣《な》れていますよ」  「大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》。この建物が見える範《はん》囲《い》から出ないようにします。もし、誰《だれ》かに連《つ》れ去《さ》られたりしたのなら、何か痕《こん》跡《せき》があるでしょう」  「しかし……」  「戻《もど》って来たとき、またここに誰もいなかったら、心配しますよ。すぐ戻りますから」  「分りました」  と、伊波はため息をついた。「では、ともかく、あまり長く外にいない方がいい。体力も消《しよう》耗《もう》しますからね」  「分りました」  小池が出て行くと、一《いつ》瞬《しゆん》、冷気が居《い》間《ま》の方にまで、吹《ふ》きつけて来た。  伊波は、ソファに腰《こし》をおろした。  あの子と律子。——二人して、ここを出て行く理由があるだろうか?  といって、もし例の雪男がやって来たのなら、もう少し、荒《あ》らされているとか、何かしているはずではないか。  分らない。——柴田徳子という女も、なぜここへ向ったのか?  この雪の中だ。よほどのことがなければ、出るはずがない。伊波もあの女を、Mホテルで見るまでは知らなかった。  ただの愛読者などではないはずだ。何かあるのだ。  「分らん……」  と、伊波は呟《つぶや》いた。  律子のことも、あの少女のことも、気になる。  そうか。もしかしたら、柴田徳子がやって来たというのは——。  「あの子はどこです?」  突《とつ》然《ぜん》、声がして、伊波は仰《ぎよう》天《てん》した。  居《い》間《ま》の入口に、柴田徳子が立っていた。  「——どこから入ったんです?」  と、伊波は訊《き》いていた。  どうでもいいようなことが、つい口から出て来る。  「あの子はどこです!」  徳子が進み出て来る。「あなたと一《いつ》緒《しよ》に車で出るのを見たんですよ!」  「あの子……。あの女の子のことですか」  「どこにいます?」  そうか。この女の娘《むすめ》なのか。  「僕《ぼく》も知りませんよ。心配しているんです」  と、伊波は言った。「あなたの娘《むすめ》さんなんですか?」  徳子は、ちょっと息をついて、自分を落ちつかせているようだった。  「——私の娘です。侑《ゆう》子《こ》といいます」  「ゆう子、ですか」  と、伊波はくり返した。  あの少女に名前がつくと、それはそれで妙《みよう》な感じだった。  「行方《ゆくえ》不《ふ》明《めい》になっていたんです、もう五年になります」  徳子は、じっと伊波を見つめた。「あの子がなぜ、あなたの所に?」  「僕にも分りません。ただ、ある日突《とつ》然《ぜん》やって来たんです。そして居《い》ついてしまって……。名前を訊《き》いても、忘《わす》れた、と言って——」  「それを信じたんですか?」  「追い出すわけにも行かなくてね」  と、伊波は肩《かた》をすくめた。「ああ、誓《ちか》って言いますが、あの子には指一本触《ふ》れていません。本当ですよ」  「それはともかく——私は娘が戻《もど》れば、それでいいんです」  「何か事《じ》情《じよう》がおありのようですね」  徳子は、ちょっとキッとなって、  「先生には関係のないことでしょう」  と言った。  「確《たし》かに。しかし、差し当りは、発見しなくてはなりません。小池という刑《けい》事《じ》の奥《おく》さんも姿《すがた》が見えないんです。今、ご主人が捜《さが》しに出ていますが——」  伊波はふと眉《まゆ》を寄《よ》せて、「奥さん、どうやってここへおいでになったんです?」  と訊《き》いた。  徳子は、ちょっとためらった。  「車です。ホテルで借りて」  「嘘《うそ》はいけませんよ」  と、首を振《ふ》る。「私と小池さんで、この付近を散々捜したんです。それに、この雪では、もう車でも来られない。それなのに、少しも雪で濡《ぬ》れていませんね」  徳子は、じっと伊波を見《み》据《す》えていた。  それから、徳子はフッと笑《え》顔《がお》になった。伊波はギクリとした。徳子が、まるで別人になったかのような気がしたのである。  「さすがに作家の方はよく分ってらっしゃいますね」  と、徳子は言った。  「どうやってここへ来たんですか?」  もう一度、伊波は訊いた。  「この人に連れて来てもらったんです」  徳子は、居《い》間《ま》から顔を出して、肯《うなず》いて見せた。  伊波は顔から血の引くのを感じた。  まるで居間の出入口をふさぐように、その男が現《あら》われた。腕《うで》にかかえられているのは、律子だ。  「彼女《かのじよ》をどうした!」  と、伊波は恐《きよう》怖《ふ》も忘《わす》れて叫《さけ》んだ。  「誤《ご》解《かい》しないで下さい」  と、徳子は言った。「この女の人は、勝手に雪の中を歩いて来て、この人にぶつかったんです。気を失っているだけですわ」  「ソファに寝《ね》かせてやって下さい」  と、伊波は言った。  徳子が、大男の方へ肯いて見せる。大男は、のっそり入って来た。  何だか居間が狭《せま》くなったような気がした。  ソファに横たえられた律子の方へ、伊波はかがみ込《こ》んだ。青白い顔をしているが、脈《みやく》拍《はく》はきちんと打っている。  寒い所にいて、指先がかじかんでいる。  「この人は、武井といいますの」  と、徳子が言った。「ずっと以前、うちで働いていてくれたのです」  「あなたの所で?」  「そうです。私には忠《ちゆう》実《じつ》な召《めし》使《つかい》でした」  と、徳子は言った。「——さあ、後は、何とかして、侑子を見付けなくては」  大男が、じっと伊波を見つめた。  「——おい、やめてくれ!」  伊波はあわてて言った。「僕は本当に何も知らないんだ!」  「訊《き》いてみてごらん」  と、徳子が言った。  逃《に》げる間もない。大きな手が、まるで鋼《こう》鉄《てつ》のような強さで伊波の肩《かた》をぐっとつかんだと思うと、伊波は五十センチも持ち上げられていた。  「やめてくれ! 離《はな》せ! おい!」  伊波が手足をばたつかせても、まるで効《こう》果《か》はない。  大男が、ヒョイと伊波を放り出した。——したたかに床《ゆか》に打ちつけられて、伊波は呻《うめ》いた。  こいつは化《ばけ》物《もの》だ!  「侑子はどこです?」  と、徳子が訊く。  「知りませんよ!——本当だ!」  「信じられませんね。あの子がどこへ行くというんです?」  「僕が知るもんか!」  伊波は起き上った。  「この人に殺させるのは簡《かん》単《たん》ですよ」  と、徳子は言った。「私にはあの子が必要なんです!」  そのとき、居《い》間《ま》の入口で声がした。  「分ってるわ」  ——誰もが、振《ふ》り向《む》いて、凍《こお》りついたように動かなかった。  少女が——侑子が、立っていたのだ。  もうだめだ。  小池は、激《はげ》しく喘《あえ》いだ。——諦《あきら》めよう。  何か、予期しなかった出来事で、律子がホテルへでも戻《もど》ったのか。そうならいいのだが。  大分、別《べつ》荘《そう》から遠くへ来てしまった。  辛《かろ》うじて、木々の間に灯《ひ》が見える。これ以上遠くへ行くと、戻れなくなりそうだ。  仕方ない、戻るか。  小池は、歩いて来た足《あし》跡《あと》を辿《たど》って、戻って行った。少しは楽なのである。  体が凍《こお》り始めたんじゃないかと思うほど、寒い。——雪は、小《こ》降《ぶ》りになっていた。  正直な話、律子がいなくなって、こんなに我《われ》を忘《わす》れるとは、思ってもいなかった。俺《おれ》にとって、あいつはかけがえのない女なんだ、と思った。  最悪の事《じ》態《たい》のことは考えまい、とした。あいつが死ぬわけはない!  そうだとも。——子《こ》供《ども》を作って、育てて、総《すべ》てはこれからだ。こんなときに、死なれてたまるか!  やっと別荘の前まで来て、小池はハッとした。——足跡。  もちろん、伊波や、小池自身のものはある。しかし——この大きなのは?  とてつもない、大きな足だ。  小池は、手を激《はげ》しくこすり合せ、拳《けん》銃《じゆう》を抜《ぬ》いた。かじかんで、力が入らない。  小池は、別荘のわきに回った。  居《い》間《ま》の窓《まど》が明るい。カーテンは引いてあるが、端《はし》から、少しは中の様子が分るはずである。  そっと窓に顔を近付けた。  いきなり——そいつが目に入った。  間《ま》違《ちが》いない! あの「雪男」だ。  なぜここにいるのか、それは分らないが、ともかく、問題は今、どうするか、ということだった。  向うは、もう何人も殺している。  しかし、スーパーマンじゃないのだ。油《ゆ》断《だん》しなければ大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》だ。  小池は、玄《げん》関《かん》の方へと戻《もど》った。——一気に中へ入るしかない。  そっと入ろうとしても、音と、冷たい風とで気付かれるに違いないからだ。  ゆっくりと、右手の指を曲げては伸《の》ばした。少し、感覚が戻って来る。  よし、行くぞ。  小池は、拳《けん》銃《じゆう》をしっかりと握《にぎ》りしめ、玄《げん》関《かん》のドアを開けた。  一気に居《い》間《ま》へ飛び込《こ》んで、両手で握った拳銃を、大男へ向ける。  「動くな! 撃《う》つぞ!」  伊波が息を呑《の》んだ。  大男は、低く唸《うな》った。——小池の目が、ソファに横たえられた律子へと吸《す》い寄《よ》せられる。  大男の手が、椅子《いす》をつかんでいた。小池に向って、真っ直ぐに椅子が飛ぶ。同時に拳銃が発《はつ》射《しや》されていた。 27 哀《かな》しい人々  「これ以上、進めません!」  ハンドルを握《にぎ》っていた警《けい》官《かん》が、大きく息をついて、言った。  「だめか」  村上は、舌《した》打《う》ちした。  しかし、実《じつ》際《さい》のところ、ここまでパトカーで来られただけでも上《じよう》出《で》来《き》で、この先、まだ車で行こうと思えば、雪上車でも持って来るしかない。  それは村上にもよく分っていた。  「よし、歩こう」  と、村上は言った。  「警部、大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》ですか?」  と、若い刑《けい》事《じ》が心配して言った。「何ならここに残られては——」  「馬《ば》鹿《か》いえ」  村上はあっさりと言った。  「この雪じゃ、他の連中も、きっと立ち往《おう》生《じよう》ですよ」  「歩いて一番近い連中で、どのくらいかかるかな」  村上は、分《ぶ》厚《あつ》いジャンパーのえりをきっちりとしめた。  「さあ。みんな、どっこいどっこいじゃないですか」  「じゃ、急ごう。——まだ電話は不通か?」  「問い合せてみます」  「いや、いい。早く向うへ着くのが先決だ」  パトカーから出て、村上は顔をしかめた。  ——伊波の別《べつ》荘《そう》まで、まだ大《だい》分《ぶ》かかりそうだ。  「さあ、行くぞ!」  村上は珍《めずら》しく大声を出した。半《なか》ば、自分への叱《しつ》声《せい》でもあった。  暖《あたた》かい所にいて、大分楽だった胸《むね》の痛《いた》みが、また少しぶりかえしていた。しかし、もう後《あと》戻《もど》りはできない。  村上と同行しているのは、二人の警《けい》官《かん》だけだ。いささか頼《たよ》りないが、この二人しかいなかったのである。  仕方ない。ともかく、いざとなったら、この三人で何とかしなくては……。  「道を間《ま》違《ちが》えないようにしろよ」  と、村上は言った。  「大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》です。いつもパトロールしている辺《あた》りですから」  「そうか」  十分ほど歩き続けた。三人とも、早くも荒《あら》い息をついている。  「警部! 灯《ひ》が見えます」  と、一人が言った。  なるほど、前方に黄色い灯が動いている。  「うちの連中だろう。——おーい!」  と、一人が大声で呼《よ》ぶ。  「ここだ!」  と返事が返って来た。  村上たちが辿《たど》りついたのは、放置された車だった。——傍《そば》に二人の男の死体。  週《しゆう》刊《かん》誌《し》の記者とカメラマンである。  「こいつは例の雪男ですよ、きっと」  先に来ていたのは、三人の警《けい》官《かん》たちで、これで人数は倍になっていた。  「——よし、急ごう」  と、村上は言った。「雪男は伊波の別《べつ》荘《そう》を目指していると思う。ともかく、早く行ってみたい」  六人は、雪を踏《ふ》みながら進み続けた。  幸い、雪は止みかけていた。風がないので大《だい》分《ぶ》楽になり、視《し》界《かい》もきく。  他のグループが先に着いていればいいが、と、村上は思った。  小池は、頭を振《ふ》った。  「——大丈夫?」  覗《のぞ》き込《こ》んでいるのは律子だった。  「ああ……。君は?」  「私は大丈夫。ちょっと寒いだけよ」  小池は床《ゆか》に起き上った。  頭が、割《わ》れるように痛《いた》い。あの大男の投げた椅子《いす》が、ぶつかったのだ。  目がはっきりして来ると、拳《けん》銃《じゆう》が目に入った。——手にしているのは、柴田徳子だった。  「何をしてるんだ!」  と、小池は怒《ど》鳴《な》った。  「動かないで。撃《う》ちますよ」  「あの人、本気よ」  と、律子は言った。  居《い》間《ま》には、徳子と小池、そして律子の三人だけがいた。  「伊波たちは?」  「車を見に行ってますよ」  と、徳子が言った。「逃《に》げるにも車がないと不便ですものね」  「この雪じゃ無理だ」  「やってみなくちゃ、分りませんよ」  ——冷たい空気が流れ込んで来た。  伊波が入って来る。続いて、あの少女侑子と、大男。  「ご苦労さま。どう?」  と、徳子が言った。  「——何とか動きそうだ」  と、伊波が言った。  「そう。良かったわ」  「逃《に》げてもむだだ」  と、小池が言った。「なぜ、その男をかばうんだ?」  「武井は、侑子の父親なんですよ」  と、徳子が言った。  伊波と小池は顔を見合せた。  「つまり——あんたと——」  「うちで働いていた武井との間にできた子です。——夫《おつと》は、子供のつくれない体でしたからね」  「そうか……」  と、小池は肯《うなず》いた。「それで、娘《むすめ》が行方《ゆくえ》不《ふ》明《めい》になったとき、あまり深く捜《さが》そうとしなかったんだな」  「ええ。武井が連れて行ったんだろうと分っていましたからね」  「その子が武井の子だという事実を、知られたくなかったんだな」  「もちろんよね」  と、侑子が、小《こ》馬《ば》鹿《か》にしたような口調で言った。  「でも、お父さんは、何もかも知っていて、それでも私《わたし》を可愛《かわい》がってくれたわ」  「あの人はお人《ひと》好《よ》しだったわ」  と、徳子は言った。  「財《ざい》産《さん》を、ほとんど私のものになるように、してくれたの」  と、侑子が言った。「そうでしょう? だから何としてでも、私を見付けたいと思った」  「それだけじゃないわ。たとえ誰の子でも、私の子には違《ちが》いないのよ」  「でも、お父さんの方が、先に私を見付けてしまったの。この人と、奥《おく》多《た》摩《ま》の工事現場にいる所へ、やって来たわ」  伊波は、侑子の方へ、  「君は、この武井との生活を、どう思っていたんだ?」  と訊《き》いた。  侑子は、無《む》表《ひよう》情《じよう》な大男をじっと見上げた。  「私には優《やさ》しかったわ。でも、怖《こわ》かったし、あんな山《やま》奥《おく》での生活なんて、面白くも何ともなかった。逃《に》げ出したかったわ」  伊波は、武井の顔に、チラリと苦《く》渋《じゆう》の影《かげ》を見たような気がした。  おそらく、この男は、この男なりに、侑子を愛していたのだ。だから、さらってまで、手もとに置きたがった。  しかし、少女にとって、いくら愛されていても、そんな人目を避《さ》けた生活は、堪《た》えきれなかったろう。  「それで柴田と一《いつ》緒《しよ》に逃げた。——そうか、彼は君をあそこへ連れて来たんだな、君が姿《すがた》を消した別《べつ》荘《そう》へ」  「ええ。でも、私は怯《おび》えてたの。武井が追いかけて来るに違《ちが》いないって分ってたから」  と、侑子は言った。「でも、お父さんはそれを誤《ご》解《かい》して、あの古い別荘に連れて行ったのよ。私が記《き》憶《おく》を失っている場合も考えて、昔《むかし》のようにきれいにした部屋へ連れて行ったの。——私、恐《おそ》ろしくなったわ。父の顔を、はっきり思い出せなかったし、それにお父さん、おかしくなっていたの」  そうか、年《ねん》齢《れい》からいっても、無《む》理《り》もない。何年も離《はな》れていたのだ。  「お父さんが、私に迫《せま》ってきたの。——私と一緒に死ぬつもりだったのかもしれないわ。私、あそこへ着く前に、寄《よ》ったレストランでナイフを隠《かく》して持ってたの。夢《む》中《ちゆう》で——お父さんを刺《さ》したわ」  「あの血《けつ》痕《こん》が、それだったのか」  と、小池が肯《うなず》いた。「しかし、お父さんは傷《きず》に堪《た》えて、家へ戻《もど》った……」  「私にも隠し通してね」  と、徳子が言った。「怪《あや》しいと思ったのは、ユキに言って、荷物をどこかへ送らせたのを知ったときだったわ」  そうか。ここに逃《に》げ込《こ》んだのを、柴田はおそらく誰《だれ》かに調べさせて、知っていたのだ。そして、侑子に合うものを送って寄《よ》こした……。  「そこへ、武井が捜《さが》しにやって来た、というわけだな」  小池は頭を振《ふ》った。——大《だい》分《ぶ》、楽になっている。  「しかし、彼女《かのじよ》を無《む》理《り》に連れ帰っても仕方ないでしょう」  と伊波は言った。  「そんなことはないわ」  侑子が言った。「お父さんから、財《ざい》産《さん》をもぎ取れるものね。私と引《ひ》き換《か》えに」  「そうか、君は知らないんだ」  小池が言った。「君のお父さんは死んだ」  侑子が目を見《み》開《ひら》いた。  「嘘《うそ》だわ」  「本当よ」  と、徳子が言った。  侑子が、燃え立つような目で、母親をにらんだ。  「殺したのね!」  「違《ちが》うわ。あの人は、二階から飛び降《お》りようとして、誤《あやま》って落ちたのよ」  「嘘よ! お母さんが殺したんだわ!」  「それはどうでもいいことよ」  徳子が静かに言った。  「どうでもいい?」  「そうよ。——ともかく、死んでしまった人のことは、忘《わす》れて行くわ」  「しかし、殺人は忘れられませんよ」  と、小池が言った。「どうするつもりです? その武井って男は、もう何人も殺してるんだ」  「ええ、よく分ってます」  徳子が肯《うなず》いた。「でもね、ここにこの人がいたことは、証《しよう》明《めい》できないでしょう。——あなた方がしゃべらなければ」  「刑《けい》事《じ》に向って話すときは、もっとよく考えて下さい」  小池が苦《く》笑《しよう》した。  「そうですね。でも——説明するのは辛《つら》いですから」  徳子が武井の方へ肯いて見せる。  武井が居《い》間《ま》から、ゆっくりと出て行く。侑子の腕《うで》を取っている。  徳子は、銃《じゆう》口《こう》を小池たちの方へ向けながら、  「では、失礼しますわ」  と言って、出ながら、ドアを閉《し》めた。  「畜《ちく》生《しよう》!」  小池が立ち上ってよろける。  「大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》、あなた?」  「どうせ、遠くまで行けませんよ」  と、伊波は言った。「ともかく、連中が行くまで、待ちましょう」  何か、ガタガタという物を動かしているような音が、ドアの外でした。  小池が歩み寄《よ》ってドアを動かそうとしたが、びくともしない。  「何かドアの前に置いたんだ!」  「いざとなれば、窓《まど》から出られますよ」  と伊波が言ったとき、窓が激《はげ》しい音を立てて割《わ》れた。  「キャッ!」  と、律子が悲鳴を上げる。  窓の前に、炎《ほのお》が広がった。——見る見る内に、火はカーテンから、天《てん》井《じよう》へと広がって行く。  「焼き殺す気だ!」  小池が叫《さけ》んだ「早くドアを!」  伊波と小池は、二人で必死にドアを開けようとしたが、ほとんど動かない。  木《もく》造《ぞう》の別《べつ》荘《そう》は、たちまち火に包まれるだろう。  「どうするの?」  煙《けむり》で咳《せき》込《こ》みながら、律子が言った。  「何とかこのドアを——」  小池が言いかけたとき、外で銃《じゆう》声《せい》がした。  「何だろう?」  「さあ……」  車の音がする。——雪の中へ、走り出したのだろう。  「ともかく、何とかドアを破《やぶ》るんだ」  炎《ほのお》は、どんどん床《ゆか》をなめて這《は》い寄《よ》って来る。凄《すご》い熱さだった。  「だめだわ、もう!」  律子が叫《さけ》ぶように言って、夫《おつと》にすがりついた。——伊波は、その光景に、ハッと息を呑《の》んだ。  「諦《あきら》めるな! 何としても——」  小池が怒《ど》鳴《な》るように言った。  「小池さん、奥《おく》さんだけは助けましょう、何としてでも」  と、伊波は言った。  小池と伊波の目が、一《いつ》瞬《しゆん》合った。  「——見て、ドアが!」  と、律子が言った。  ドアがガタガタと動いていた。  そして、突《とつ》然《ぜん》、ドアが倒《たお》れて来た。  三人は息をつめて、立ちすくんだ。  目の前に立っているのは、大男——武井だった。ドアを押《お》し倒してくれたのだ。  「どうして——」  と言いかけ、小池は、武井の胸《むね》に、血が広がっているのを見付けた。  撃《う》ったのだ! 徳子が、武井まで葬《ほうむ》り去《さ》るつもりで撃ったのに違《ちが》いない。  武井と、伊波たち三人の焼死体が見付かれば、互《たが》いに殺し合って、そして火事になったと思われよう。  武井は、ちょっと苦しげに肩《かた》で息をつくと、クルリと背《せ》を向けて、玄《げん》関《かん》の方へ歩いて行った。  「ともかく外へ出よう。逃《に》げ遅《おく》れる」  伊波が促《うなが》した。  三人が表に飛び出したとき、居《い》間《ま》の中はもう完全に炎《ほのお》に包まれていた。  「——どうにもならんな」  と小池が言って、首を振《ふ》った。  「命があるわ」  律子の言葉に、伊波も小池も、黙《だま》って肯《うなず》いた。  窓《まど》から火が吹《ふ》き出した。  「どこへ行ったんだ、あの男は?」  小池は、周囲を見回して、大きな足《あし》跡《あと》が、車のタイヤの跡に沿《そ》って、続いているのを見付けた。その間に、血《けつ》痕《こん》らしいものが点々と続いている。  「車の後を追って行ったんだ」  と、伊波が言った。  「凄《すご》い奴《やつ》だ、撃《う》たれてまで……」  「——ねえ、見て!」  と、律子が叫《さけ》んだ。  木々の間から、いくつもの灯《ひ》が近づいて来る。  「きっと、警《けい》察《さつ》だ! おーい!」  「小池さん! 大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》ですか!」  村上の声だ。小池はびっくりした。  伊波が小池の肩《かた》を叫《たた》いた。  「離《はな》れないと危《あぶ》ないですよ」  炎《ほのお》が信じられないほどの早さで別《べつ》荘《そう》全体を包んでいた。  崩《くず》れ落ちて来るのも、時間の問題だ。  「あの人——」  と、律子が言った。「私たちを助けてくれたのね」  村上たちが激《はげ》しく息をしながら、駆《か》けつけて来た。  「もう、このボロ車!」  徳子は、ハンドルを叩《たた》いた。  「無《む》理《り》だって言われたじゃないの」  侑子が冷ややかに言った。「どうするの、こんな雪の中で?」  「焦《あせ》ることはないわ。どうせ、みんな死んじまって、私たちには関係なくなるんだから」  「私が何もかも知っているわ」  と、侑子は言った。「私も殺すつもりなの?」  「馬《ば》鹿《か》言わないで」  「私、帰らないわよ」  「どうするの?」  「さあ。——一人で暮《くら》すわ。人殺しの親と一《いつ》緒《しよ》に住める?」  「あなたのためよ」  「こじつけだわ」  侑子は、激《はげ》しく言い返した。  「あなたは好《す》き勝手な暮しができるのよ。分らないの?」  「そんなものが何なの?——私はいやよ」  「一《いつ》旦《たん》、そんな生活をすれば——」  「もう、私はお母さんの娘《むすめ》じゃない! 誰の娘でもないわ」  侑子の言葉は震《ふる》えた。  「よく聞きなさい——」  と、言いかけて、言葉が切れた。  バックミラーに、信じられないものが映っていた。  武井が、やって来る。雪を踏《ふ》んで、近づいて来るのだ。  徳子は青ざめた。——拳《けん》銃《じゆう》は、あの別《べつ》荘《そう》へ捨てて来ていた。そうでないと、あの男たちで互《たが》いに殺し合ったように見えないからだ。  「どうするの?」  と、侑子が言った。  「中にいるのよ! 大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》。いくら武井でも、車を壊《こわ》せやしないわ。それに、撃《う》たれてるんだし——」  武井が、車の所まで来て、足を止めた。  「じっとしているのよ! 大丈夫だから!」  徳子の顔は青白かった。  武井はゆっくりと、車のわきへと回って来た。中を覗《のぞ》き込《こ》む。  徳子は目をそらして震《ふる》えていた。  武井が、肘《ひじ》で、窓《まど》ガラスを突《つ》いた。ガラスが粉々に砕《くだ》ける。  徳子が悲鳴を上げた。  太い二本の腕《うで》が伸《の》びて来ると、徳子をつかんで、窓から引きずり出した。  「やめて!——許《ゆる》して!——助けて!」  徳子の体が、窓から吸《す》い出されるように消えた。  一《いつ》瞬《しゆん》の間を置いて、車の屋根に、ガン、と激《はげ》しい衝《しよう》撃《げき》が来た。そして、フロントガラスに、徳子の顔が、逆《さか》さに垂《た》れて来た。  侑子は叫《さけ》び声を上げて、気を失った。  ——武井は、肩《かた》で息をしながら、ドアを開け、侑子の体を、そっと抱《かか》え出した。  「村上さん、大丈夫なんですか?」  と、雪の中を進みながら、小池が言った。  「あの男は、私がこの手で逮《たい》捕《ほ》します」  村上の言葉は、思い詰《つ》めたものを感じさせた。  「分りました」  ——警《けい》官《かん》は、三十人近くにふくれ上っている。伊波も加わっていた。  「あそこに車がありますよ」  と、伊波が言った。「やはり、動けなくなったんだ」  「すると——奴《やつ》は追いついたんだ! 急ぎましょう」  車に辿《たど》りついて、屋根に、突《つ》っ伏《ぷ》すようにして死んでいる徳子を見付けて、伊波は何とも言いようのない物《もの》哀《がな》しさを覚えた。  「——警《けい》部《ぶ》!」  と、警官の一人が叫《さけ》んだ。「あそこにいます!」  広い雪原の中を、大きな足《あし》跡《あと》が続いていた。  その先に、黒い、少し前かがみの背《せ》中《なか》が見える。  「女の子が一《いつ》緒《しよ》だ。撃《う》つなよ!」  と、村上が命令した。  ——武井は、どこへ行くつもりなのだろう?  警官たちの後から歩きながら、伊波は考えていた。  武井は、なぜ、あんなに暴《あば》れたのか?  殺す必要もない人間を、なぜ殺したのか……。  ——武井はおそらく、侑子と共に死ぬつもりなのだ。  武井なりに、愛を注いで来た侑子が、逃《に》げたとき、武井はそう決心した。そして、死ぬ気で追って来たのだ。  撃《う》たれて、大《だい》分《ぶ》、弱っているのか、伊波たちは、少しずつ武井に追いついて行った。  「——あっちは崖《がけ》だ!」  と、誰かが言った。  村上は拳《けん》銃《じゆう》を空へ向けて発《はつ》射《しや》した。  「止れ! 撃つぞ!」  むだだ、と伊波は思った。どうせあの男は死ぬ気なのだから。  「急げ!」  警官たちが足を早めた。  あと十メートルほどに迫ったとき、武井は急に振《ふ》り向いた。  誰もがハッとして足を止める。  侑子の体を抱《だ》いた武井は、しばらく警官たちをじっと見つめていた。  伊波は、その姿《すがた》に、恐《きよう》怖《ふ》を感じなかった。——哀《あわ》れな男の姿を見ただけだった。  突《とつ》然《ぜん》、武井は向き直ると、一気に駆《か》け出して行った。  「崖だ! 飛び降《お》りるつもりだぞ!」  「止めろ! 急げ!」  むだなことだ、と伊波は思った。その場から動かなかった。  二、三発の銃《じゆう》声《せい》が、雪原に広がる。  ——いつの間にか、雪は上っていた。 28 エピローグ  「——よく晴れたな」  と、伊波は言った。  「そうね」  律子が肯《うなず》く。「もう列車が来るわね。あの人、何してるのかしら?」  「大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》だよ」  雪がまぶしい。——駅のホームにも、白く、分《ぶ》厚《あつ》い雪がつもっている。  他にはほとんど客もなかった。  「——色々お世話になって」  と律子が言った。  「よせよ、変だぞ」  と、伊波は笑《わら》った。  「そうね」  律子は微《ほほ》笑《え》んだ。「どうするの? 東京に出て来る?」  「さあ。——差し当り、金がなくなるまで、Mホテルでのんびりするよ」  「またいつか会える?」  「そうだな。そいつは偶《ぐう》然《ぜん》に任《まか》せようじゃないか」  「洒落《しやれ》てていいわ」  律子は、ちょっと顔を赤らめた。「しばらくは忙《いそが》しいと思うの。主人と話し合って——子《こ》供《ども》を作ろう、ってことになったから」  「そいつはいい。おめでとう」  「気が早いのね。まだできたわけじゃないのよ」  二人は一《いつ》緒《しよ》に笑《わら》った。  「——やあ、遅《おそ》くなった!」  小池がみやげ物の袋《ふくろ》を下げてやって来る。  「何を買ったの?」  「課の連中へ、さ。これも付き合いだ」  「ああ、列車が来ましたよ」  と、伊波は言った。「じゃ、これで——」  「色々どうも」  当りさわりのない言葉を交わして、伊波はホームから出た。  「——送りましょうか」  駅の前に、村上が立っていた。  「もういいんですか、体の方は?」  「無《む》理《り》さえしなけりゃ大丈夫、ってことです。しかし、どこまでが無理なのか、教えてくれませんのでね」  と村上は笑《わら》った。  村上の車に乗って、Mホテルへと向う。  「——あなたのことを疑《うたが》っていて、すみませんでした」  と村上が言った。  「何のことです?」  「あの血《けつ》痕《こん》ですよ。てっきりあなたの所にいる謎《なぞ》の女と、あなたの共《きよう》謀《ぼう》だと思ったんですがね」  「一度疑われると、いつまでも忘れてくれませんね」  「以後は気を付けましょう」  ——俺《おれ》の気持は分るまい、と伊波は思った。やってもいない殺人で、みんなに疑いの目を向けられ、「社会的有《ゆう》罪《ざい》判《はん》決《けつ》」を受けたことが、どんなに人を傷《きず》つけるものなのか。——警《けい》察《さつ》の人間に、それが分るだろうか? あの、武井の胸《むね》の痛《いた》みが、到《とう》底《てい》理《り》解《かい》できないように、おそらく、法の守り手には、分らないだろう。  「——すみませんが、例の喫《きつ》茶《さ》店《てん》で降《お》ろして下さい」  と伊波は言った。  「いいですよ。当分はホテル住いですか」  「そうなるでしょう」  「また本が出たら読ませていただきますよ」  そうだ。これも読者の一人なんだ。  「よろしく」  と、伊波は言った。  ——カウンターの奥《おく》では、相変らず、エプロンをかけた主人が、カップを洗っている。  「やあ先生」  「やあ」  いつものテーブルにつく。  また、元の通りだ。  「大変でしたね、色々」  と、主人がカップに、コーヒーを注ぎながら言った。  「ありがとう。——しかし、すっかり片《かた》付《づ》いたよ」  「肝《きも》を冷やしましたね、お互《たが》い」  「全くだ」  と、伊波は肯《うなず》いた。  誰かが店に入って来た。——伊波の前の席に座《すわ》る。  「東京へ行ったんじゃなかったのか」  と、伊波は言った。  「戻《もど》ってきたの」  と、侑子は言った。「ここにいていい?」  「ああ、もちろん。——何か飲むかい?」  「良かった!」  侑子は息をついた。「あ、コーヒー下さい。——もう東京にいても仕方ないし、ここに来るしかなかったんだもの。あなたに帰れ、って言われたら、どうしようかと思ってたの」  「おい、待てよ」  と、伊波はあわてて言った。「君が今、『ここ』って言ったのは——」  「この町に、ってことよ」  「僕は、その席のことかと思った……」  「もう遅《おそ》いわ! OKって言ったんですからね。——ねえ、聞いたでしょう?」  店の主人は、ただニヤニヤ笑《わら》っている。  武井は、侑子を雪の上に残して、崖《がけ》から落ちて行った。侑子は、一人ぼっちになってしまったのだ。  「しかし、もう住む所がないんだよ」  と、伊波は言った。「二人でホテル暮《ぐら》しじゃ、いくら金があっても足りない」  「本を書けば?」  「気安く言うね」  「若《わか》い奥《おく》さんのためには、多少、張《は》り切《き》ってくれなきゃ」  伊波は呆《あつ》気《け》に取られて、侑子を眺《なが》めていた。  「——私、ずいぶん財《ざい》産《さん》を相続したのよ。いくらでも若い人を見付けられるわ。それでも、あなたの所に来たのよ」  「押《お》し付けがましいね」  「そうよ。好きなんだもの。——愛は押し付けがましいものなのよ」  およそロマンチックなセリフじゃない、と伊波は思った。  窓《まど》から入る、雪の照り返しが、侑子——一人の少女の若々しい頬《ほお》を光らせている。 失《うしな》われた少《しよう》女《じよ》  赤《あか》川《がわ》次《じ》郎《ろう》 ------------------------------------------------------------------------------- 平成13年1月12日 発行 発行者  角川歴彦 発行所  株式会社 角川書店 〒102-8177 東京都千代田区富士見2-13-3 shoseki@kadokawa.co.jp Jiro AKAGAWA 2000 本電子書籍は下記にもとづいて制作しました 角川文庫『失われた少女』平成9年8月10日初版刊行 平成12年7月10日改版7版