[#表紙(表紙.jpg)] 天使よ盗むなかれ 赤川次郎 目 次  1 はねられた犬  2 妙《みよう》な居候  3 恋《こい》の悩《なや》みに  4 転んだ少女  5 消えたおじさん  6 夜の紳士《しんし》  7 古い敵  8 共犯者  9 天使の悩《なや》み  10 背 信  11 変質者  12 大きなネズミ  13 むき出しの弁明  14 年下の恋人  15 面会の客  16 病《や》んだ紳士  17 侵入者  18 長い関係  19 転 落    エピローグ [#改ページ]  1 はねられた犬  フロントガラスが、ふっと曇《くも》った。 「雨だわ」  と、加津子《かづこ》は呟《つぶや》いた。「あんなに晴れてたのに」  ワイパーを動かす。  雨。——そうね、空が私に同情してくれたのかもしれないわ。  同情? いいえ、笑っているのかもしれない。笑い過ぎて涙《なみだ》が出るってことだって、あるんだから。  誰《だれ》が——誰が同情なんてしてくれるもんですか。あんたの失恋《しつれん》なんかに。 「いい年齢《とし》して、火遊びなんかするからよ」  という、誰とも知れない声が、耳もとで聞こえたような気がした。  もちろん、ここは走っている車の中で、乗っているのは、加津子一人だったから、他人の声など、聞こえるはずがない。それに、気が付くと、今の声は、加津子自身の声に似ているようにも思えた……。  でも——私は恋《こい》をしてはいけないのかしら? もう四十二|歳《さい》だから? それとも、私がお金持だから?  私は独身で、自由なのだ。それなのに、どうして恋をしてはいけないの?  どうして誰も彼《かれ》も、私から逃《に》げて行くのかしら。——あの人[#「あの人」に傍点]のように。  彼もまた「あの人」のように、私から逃げて行ってしまった。私は、何もかも投げ出して、彼について行くつもりだったのに。 「年齢の差なんて、問題じゃないよ」  私を抱《だ》きしめて、彼はそう言ってくれたのだ。あれは嘘《うそ》だったのかしら。  彼もまた、私の「お金」だけが、目当てだったのだろうか?——いいえ! いいえ! それでは、あんまり寂《さび》し過ぎる……。  彼の言葉の中に、ひとかけらも真実がなかったなんて、信じたくもない。たとえ結果は同じでも。  彼だって、少しは[#「少しは」に傍点]私を愛してくれていたのだ。きっと、そうだ。——きっと。  どうしたの? どうしてワイパーが動かないの?  フロントガラスが一向にきれいにならないのを見て、加津子は戸惑《とまど》った。そして、気が付いたのだ。  雨じゃない。雨が降っているのではない。涙《なみだ》なのだ。  涙が、次から次へとあふれ出て、視界を曇《くも》らせているのだと気付かずに、雨だと思っていた……。こんなに泣くなんて。  男が一人、去って行っただけなのに。前から分っていたことなのに。どうしていちいち泣くのよ?  まるで、決った手続きのように。フルコースの料理のデザートのように。でも、こんなしょっぱいデザートなんてあるかしら?  危いわ。——前がよく見えない。  加津子は、ワイパーを止めて、左手の甲《こう》で涙を拭《ぬぐ》った。もちろん、ほんの一、二秒のことだったのだが——。  再びしっかり前方を見据《みす》えた時、何か黒いものが、車の前に飛び出して来た。  加津子は、頭で、 「犬だ」  と、分っていた。「このままじゃ、はねてしまうわ」  あまりに突然だった。——加津子は決して下手《へた》なドライバーではない。しかし今は、最も悪い状態だったのだ。  ブレーキを踏《ふ》む。その直前に、加津子はその黒い犬を追って、もう一つの影が——人間[#「人間」に傍点]が、飛び出して来たことに気付いた。  危い! 初めて、加津子は恐怖《きようふ》を感じた。しかし、その時には、もう加津子の運転する車は、その二つの影を、はねてしまっていたのだ。  車は停《とま》っていた。  ——どうしたの? 何があったの?  加津子は、しばらく呆然《ぼうぜん》として、座っていた。——ここが車の中で、家の居間に座っているわけではないことも、忘れていた。 「誰かいないの?」  と、声に出して、呼んでいた。  いるわけがない。——そう。ここには私一人しかいない。  一人? いいえ。——あと一人。そして一匹の犬。  車が真直ぐに停っていたのは、奇跡《きせき》とでも言うべきものだったかもしれない。いくらアンチロックブレーキでも、こんな急ブレーキをかけたのでは……。  雨もなく、路面が乾《かわ》いていたことも、幸いしていたのだろう。  目を閉じて、加津子は何度も息をついた。人をはねてしまった。  このまま、逃《に》げてしまおうか。  我に返って、初めに頭に浮んだのは、この言葉だった。——逃げろ。誰も見てやしないさ。  確かに、人目はないはずだ。  ここは大分|郊外《こうがい》に出た道である。幹線道路でもないので、車の量も少ない。今、加津子の車の他《ほか》に、全く車は見当らなかった。 「しっかりして!」  と、加津子は言った。「あなたは、細川《ほそかわ》加津子でしょ!」  実業界や、社交界にも名を知られている人間なのだ。もしここで逃げて、それが後で分ったら、どうなるか。  細川産業グループは、根底から引っくり返ることになる。——たとえ何億円払っても、あの、はねた相手が、命を取りとめさえすれば……。  そう。スキャンダルは、あらゆる手を使って、食い止め、もみ消すことができる。刑事《けいじ》事件にさえ、ならなければ。  ともかく、はねた人と犬のことを、見に行かなければ。加津子は車のドアを開けた。  道に黒い犬が倒《たお》れている。そして、少し手前に、女の子が一人、起き上ったところだった。  良かった! 生きてるんだわ!  加津子の、青ざめていた顔に、血の気が射《さ》して来た。駆《か》け出して行きながら、 「大丈夫《だいじようぶ》? ごめんなさい!」  と、加津子は声をかけていた。  車は、二十メートル近くも先まで行ってしまっていた。少女は足音を聞いて、加津子の方を見た。 「どこを打ったの? 足は?」  と、加津子が少女を助け起こす。 「いえ……。私、大丈夫です」  十六、七|歳《さい》という感じの少女だった。小柄《こがら》で、ふっくらとした丸顔。ワンピースは、大分くたびれていたが、腰《こし》の辺《あた》りが裂《さ》けているのは、今、車に触《ふ》れたせいだろう。 「しっかりしてね。——腰を打った?」 「あ、いた!」  と、少女は腰に手を当てて、叫《さけ》んだ。「ちょっと……打ったみたいです」 「病院へ行きましょ。けがは? 血の出てるところは?」  少女は、ぼんやりして頭を振《ふ》っていたが、黒い犬が、ぐったりと倒れているのに目を止めると……。 「ポチ!」  と、叫んで、駆け寄った。「ポチ! しっかりして! 死なないで!」 「ポチっていうの、その犬?——ほら、生きてるわよ」  気休めではなかった。その黒い、大きな犬は、確かに、呼吸をしていた。 「ポチを病院に——私は大丈夫ですから!」  少女は泣き出しそうだった。 「心配しないで、ちゃんと手当てをするわ。ともかく、私の車に」  加津子は走って車へ戻ると、バックさせて、少女が犬を抱《だ》きかかえている所まで来て停めた。 「——さ、乗せましょ。手伝うわ」  後部座席のドアを開けると、加津子は、黒い犬を、少女と二人で運び込《こ》んだ。大きいので、かなりの重さである。 「じゃ、あなたも乗って。この近くの病院に——。どうしたの?」  少女が頭をかかえてふらついたのを見て、加津子はびっくりした。 「何だか——めまいがして」 「乗って……。横になっているといいわ」 「ええ、すみません、私——」  と、言ったきり、少女は、犬の上に覆《おお》いかぶさるように倒《たお》れてしまった。  加津子はドアを閉め、運転席に戻《もど》った。  ——どうしよう?  車を動かす前に、よく考えなくてはならない。病院へ運ぶとしても、どの病院にするか。この近くに、どんな病院があるか、加津子はよく知らないのだ。 「そうだわ」  加津子は、自動車電話を取った。——うまく捕《つか》まるといいが。  幸いすぐに向うが出た。 「市川《いちかわ》君? いたのね、良かった!」 「社長。どこからですか?」  と、市川|和也《かずや》の、いつもながらの明るい声を聞くと、加津子はホッとした。 「車よ」 「何だ。彼氏とベッドの中かと思いましたよ。それとも気分を変えて車の中で?」  市川の言い方はカラッとしていて、腹を立てられない。 「あのね、大変なことになったの」 「何です?」 「人をはねたの」  少し間《ま》があって、 「確かですか?」  さすがに市川の声が変っている。 「ええ。女の子と、犬」 「犬?」 「黒い大きな犬。女の子は、十六ぐらいかしら」 「犬はどうでもいいです。女の子の方は——。ちょっと待って下さい」  少しの間があった。「——すみません。社長室のドアが開いていたので。女の子は、生きてますか?」 「と、思うわ」  チラッと後部席へ目をやって、「息をしてる。でも、意識がないみたいなの」 「今、どこです?」 「家へ帰る途中《とちゆう》。あの間道の半分くらい来た所よ」 「そんな所に、どうして人がいたんでしょうね」  言われて、加津子も初めて気が付いた。そういえば、こんな所で、この少女と犬は、何をしていたんだろう? 「分らないわ」  と、加津子は言った。「でも、ともかくはねたことは確か。どこの病院へ運べばいい?」 「待って下さい」  と、市川は言った。「病院はまずい。警察へ連絡《れんらく》が行きます」 「でも——」 「社長を刑務所《けいむしよ》へ入れるわけにはいきませんよ」 「だって、私がはねたのよ」 「命さえ取り止めれば、後は金で話はつけられます。うちの社の誰かに、私が運転していてはねました、と自首させればいい」 「だって、ここには——」 「いなくたって構やしません。いいですか。僕《ぼく》に任せて下さい。最善の方法を考えます」  正直なところ、加津子は、市川がそう言ってくれるのを待っていたのである。意識していなかったのかもしれないが、市川へ電話をかけた時から、そう言ってくれることを、期待していたのかもしれない。 「——分ったわ」  と、加津子は言った。「どうしたらいいの?」 「ともかく、一旦《いつたん》、お宅へ戻《もど》られて下さい」 「女の子と犬を連れて?」 「犬は放《ほ》っといていいんじゃないですか」 「もう乗せてしまったわ。それに女の子が、犬がいなくなったら、騒《さわ》ぐかもしれない」 「なるほど。それもそうだ。じゃ、ともかくお宅へ。僕もすぐに社を出て、お宅へ向います」 「分ったわ」  と、電話を切ろうとして、「——え? 何?」 「いや、何も言いません」 「そう。ごめんなさい。まだ何だかボーッとしているみたいで」 「しっかりして下さい。社長」  社長、という言葉に、市川は、力をこめて言った。それが加津子を立ち直らせる、と知っているからである。 「ええ、大丈夫《だいじようぶ》よ」  と、加津子は肯《うなず》いた。 「安全運転で。焦《あせ》ったら、また事故を起こしかねません」 「ええ」 「いいですね。社長がはねたわけじゃないんですよ」  ——本当に、頼《たよ》りになる秘書だわ。  加津子は、市川の声で、大分落ちつきを取り戻《もど》した。  後ろの座席を見ると、少女と黒い犬は、まるで眠《ねむ》っているかのように、目を閉じてじっと動かない。  一瞬《いつしゆん》、死んでしまったのかしら、と思ったが、少女の胸がゆっくり上下しているのに気付き、ホッとした。 「——さ、落ちつくのよ」  と、声に出して言ってから、加津子は車をスタートさせた。  細川家の屋敷まで、二十分ほどだ。  加津子のハンドル捌《さば》きには、もう全く何の不安もなかった。  ——もし、加津子が、もう一度後ろの座席を振り返っていたら、今度こそ大事故を起こしていたかもしれない。  意識を失っているはずの、少女と犬が、お互いに[#「お互いに」に傍点]ウィンクし合っているところだったのだから……。 [#改ページ]  2 妙《みよう》な居候 「どうだ。計画通りに行っただろ」 「まあね」 「何だよ。ちっとは俺《おれ》に感謝しろよ」 「だけど——気がとがめるわ。人を騙《だま》すなんて」 「じゃ、二人して飢《う》え死にしてもいいってのかよ」 「そうじゃないけど……。そりゃ、あんたは人を騙すのが商売なんだからいいわ。でも、私は本来、そういうことをしちゃいけない、って——」 「しっ! 戻って来るぜ。いいか、ちゃんとうまくやれよ」 「できるかなあ……」 「うまくやれなきゃ、また空《す》きっ腹かかえて歩かなきゃいけないんだぜ」 「いいわ。やるわよ」  ——車のドアが開いた。 「なるほど。気を失ってますね。犬も生きてるな」 「気安く尻尾《しつぽ》にさわるない」 「おっと唸《うな》ってる!」 「市川君、かみつかれるわよ」 「ともかく、この女の子を中へ運び込みましょう。——重たいな、結構」  マリが、ちょっと顔をしかめ、それを、薄目《うすめ》を開けて見ていたポチが、 「ハハ、言われてら」  と笑った[#「笑った」に傍点]。  ——この少女。名はマリ。  仮の名である。人間の少女の格好をしているが、本職は(?)下級の天使。天国でのんびりし過ぎて、上級天使からにらまれ、 「人間のことを学んで来い」  と、地上研修に出されて来たのである。  犬のポチも、似たようなものだが、立場は大分|違《ちが》う。——こっちは地獄《じごく》から、「成績不良」で叩《たた》き出されたケチな悪魔《あくま》なのである。  黒い犬の格好で、たまたまマリと同じ所へ飛び出して——何となく一緒《いつしよ》に人間界を旅している。  マリとポチ(当人はこの名が大嫌《だいきら》いだったが)、お互《たが》いに話もできるが、ポチの声は人間の耳には、ただ犬が唸っているとしか聞こえない。そうでないと大変なことになる。  さて、マリをかかえて、屋敷《やしき》の中へ運び込んだのは、もちろん、市川和也である。 「——どうかしら?」  と、加津子が訊《き》いた。 「そうですね。見たところ、大したけがはしてないけど。頭を打ったとしたら、怖《こわ》いですね」 「検査しないと分らないでしょ」 「検査なら、うちの社の契約《けいやく》している診療所でやればいい。秘密は守れますよ」 「そうね。——みんなどこへ行ったのかしら?」  と、加津子は不審《ふしん》げに、「帰ってみたら、誰もいないの。和代さんもお手伝いの子も」 「僕《ぼく》が出したんです」 「え?」 「もし、社長が運び込んだ時、この子が死んでいたら、お手伝いの人たちに分ってしまう。そう思ったんで、勝手でしたが、僕が電話して、社長のご用だから、と言って、二人とも使いに出してしまったんですよ」  加津子は唖然《あぜん》として、 「そんなこと……。考えもつかなかったわ」  と、言った。 「それは秘書の考えることです」  と、市川は微笑《ほほえ》んだ。「さて……。この子を裸《はだか》にしてみましょう」  聞いていたマリがギョッとした。 「裸に?」 「ええ。外傷や打ったところを見たいですからね。なに、気を失ってるから、大丈夫《だいじようぶ》ですよ」  冗談《じようだん》じゃないわ! いくら天使だって——裸《はだか》になるのは恥《は》ずかしいんだからね。  二、三度深い息をして、マリは目を開いた。 「——まあ、気が付いたわ」  と、加津子がやって来る。「どう? 気分は?」 「残念」  と、市川が呟《つぶや》いたのも、マリはしっかり耳にしていた。 「あの……ここ、どこですか」  マリは、起き上って、キョトンとした目で、部屋の中を見回す。 「私の家。ここへ運んだのよ。気を失っちゃってたから。あなたのポチも、まだ生きて——」  ウー、という唸《うな》り声がした。  当の[#「当の」に傍点]ポチが、入口の所に立っていたのである。 「あら、来たわ。良かったわね。元気そうよ」  ポチが、マリの方へ、少しよたよたしながら歩いて行って、懐《なつか》しげに鼻を手にこすりつける。 「ポチ……。これ、私の犬?」  と、マリが、戸惑《とまど》ったように言った。 「あなた——そう言ったじゃないの」 「憶《おぼ》えてないんです。どうしてこんな所にいるのかしら?」  市川が、加津子を抑《おさ》えて、 「君、名前、何ていうの?」  と、訊《き》いた。 「マリ。——マリ。私ってマリっていうのかしら?」 「自分で分らないのかい?」 「何だか……。パッと、マリって言っちゃったんです。でも……」 「家はどこ?」  マリは、首をかしげた。 「よく……分りません」  その時、マリのお腹《なか》が、グーッと音をたてた。 「まあ、お腹|空《す》いてるのね」  と、加津子が言った。「待ってて、冷凍《れいとう》食品か、何かあったと思うわ」 「僕《ぼく》がやりましょう」 「手伝って。犬にも何かやりましょう」  加津子は、マリとポチが無事らしいので、すっかり嬉《うれ》しくなった様子だ。 「じゃ、ここで待っててね」  と、加津子が市川を連れて出て行く。  マリは、息をついた。 「——うまく行ったかなあ」 「大丈夫《だいじようぶ》さ」  と、ポチが言った。「あの男の方は、なかなか切れそうだぜ」 「そうね。あの女の人、良さそうな人だわ。何だか気が咎《とが》める」 「何言ってんだ。俺《おれ》は何か早く食いたいよ」  ——ともかく、二人とも、天使と悪魔という立場ではあるが、生身の形である以上、ちゃんとお腹も空く。  ところが、少女のマリと犬のポチでは、金の稼《かせ》ぎようがない。行きずりの家で食べさせてもらったりしていたのだが、ついに二人ともヒッチハイクの元気もなくなってしまった。  その時、ポチが考えついたのが、このアイデアなのである。  金持らしい奴《やつ》の車に、わざとはねられる。その人間に面倒《めんどう》をみさせ、うまくいけば、そこでしばらく住み込《こ》ませてもらう……。  ともかく、どこかに少し落ちつきたい、という一心で、マリも渋々《しぶしぶ》、この計画に賛成したのだった。 「軽く当っただけだが、痛かったぜ」  と、ポチがグチった。 「でも、あんた上手《じようず》だったわよ。取り柄《え》ってあるもんなのね」 「何て言い草だよ」  と、ポチは鼻を鳴らして、「あの二人が何を話してるか、いっちょ立ち聞きして来ら」 「私も行くわ!」  台所といっても、大|邸宅《ていたく》にふさわしく、ポチが目を丸くする広さ。 「——疑うの?」  と、加津子が、電子レンジの様子を見ながら、言った。 「記憶《きおく》を失うなんて、めったにあることじゃないですよ」  と、市川は、粉末のスープをお湯でといている。  その匂《にお》いが漂《ただよ》って来て、マリは思わずツバをのみ込《こ》んだ……。 「じゃ、あの女の子が嘘《うそ》をついてる、ってこと?」 「もしかしたら、ね。——犬を連れて、家出したってとこじゃないですかね。腹が減って、フラフラと車の前へ飛び出したか、それともわざとぶつかったか」 「まさか」 「どっちにしろ、向うが憶《おぼ》えていない以上、事故も、なかった[#「なかった」に傍点]ってことです。ま、少しここへ置いてやって、その内追ん出すんですね。示談にすることを考えりゃ、安いもんだ」 「私は市川君ほど、疑う気になれないわ」  電子レンジを開けて、中の皿《さら》を取り出した加津子は、「ともかく、どこも異常がないと分るまで、あの二人——一人と一匹を、ここへ置くことにしましょう」 「お手伝いが一人ふえた、と思えばいいですか。それに番犬と」 「そうね。この家も、周囲が林で、ちょっと物騒《ぶつそう》だから」  マリは、ポチをつついて促《うなが》した。  ——元の部屋へ戻《もど》って、 「こんなに計算通り行くなんて!」  と、マリはピョンピョン飛びはねた。 「よく飛んだりする元気があるな」  と、ポチが呆《あき》れて、「俺《おれ》は腹ペコで、とてもじゃないけど……」 「あ、そうか。——お腹《なか》空いてたんだ、私」  マリは、そう言うと、床《ゆか》にヘナヘナと座り込《こ》んでしまった。 「お前、それでよく天使をやってられるな」  ポチは、そう言って感心したように首を振《ふ》った……。 「——ごちそうさまでした」  と、マリは加津子に礼を言った。 「いいえ。ずいぶんお腹が空いてたようね」  加津子が半ば呆《あき》れたように言った。  マリの前には、空の皿があった。それに何が入っていたのか、超能力《ちようのうりよく》の持主でも分らなかったかもしれない。  床の隅《すみ》の方で、舌をペロペロやっているポチの方も同様だった。 「お世話になって」  と、マリは言った。「ポチを連れて失礼します」 「でも——あなた、どこへ帰るの?」 「さあ……。その内、何か思い出すかもしれません」 「ねえ、もう少し——何か思い出すまで、ここにいたらどう?」 「でも、ご迷惑《めいわく》じゃありませんか」 「いいのよ。ここは見た通り、結構広いし」  結構[#「結構」に傍点]どころじゃない!  一体いくつぐらい部屋があるのか、マリなど見当もつかない。 「でも——ポチもいますし」  ウー、とポチが唸《うな》った。人間には、ただの「ウー」であるが、マリには、 「邪魔者扱《じやまものあつか》いするない」  と、聞こえているのである。 「ちょうど、うち、番犬がほしかったの」  と、加津子は言った。「あの犬、強そうだし。——どうかしら?」 「ええ……。そうですね。見かけ[#「見かけ」に傍点]は」  と、マリは言ってやった。「じゃ、すみません。私も何かお仕事をさせて下さい」 「そうね。ここは私一人で住むには広すぎるんだけど、時には大勢人を呼んだりするし、どうしても、これぐらいの広さが必要なの。——あなたにその気があるのなら、いくらでも仕事はあるわ」  加津子は微笑《ほほえ》んで、言った。 「ありがとうございます」  と、マリは頭を下げた。 「あなた——いくつ?」 「え?」 「そうか。すっかり忘れてるんですものね。ごめんなさい」 「ええ……」 「十六か十七か、でしょうね」  加津子は何となく、独《ひと》り言のように、呟《つぶや》いた。 「——社長」  と、秘書の市川が顔を出す。「僕《ぼく》は社へ一旦《いつたん》戻ります」 「ご苦労様。——心配かけたわね」 「これが仕事ですから」  と、市川は笑って、マリの方へ、「じゃ、しっかりやれよ」  と、声をかけた。 「ね、明日の会議だけど——」  と、加津子が市川と二人で出て行く。 「——なかなかカッコいいわね」  と、マリは言った。 「あんな男が好みのタイプなのか?」  と、ポチが、トロンとした目で言った。 「私が言ってんのは、あの女の人の方よ。——独り者らしいわね」 「社長か。金持で、大勢人を使って」 「大変でしょうね、そんな仕事」 「なあに、よっぽど悪いことをやってるのさ」 「そんな風には見えないわ」 「見るからに悪党だったら、誰《だれ》も近付かないだろ」 「なるほどね」  と、マリは肯《うなず》いて、「あんたもたまにゃいいこと言うのね」 「悪魔《あくま》はな、天使なんかと違《ちが》って、色々《いろいろ》苦労してるんだ」 「ハハ、自分で言ってりゃ、世話ないや」 「——おい」 「何よ?」 「食いもの、俺の方にもちゃんと回せよ。ドッグフードなんて、まずくて食えたもんじゃないからな」 「ぜいたくなポチね」  と、マリは言ってやった。 [#改ページ]  3 恋《こい》の悩《なや》みに 「今日は」  結城江美《ゆうきえみ》は、そっとドアを開けて、声をかけた。「あら——」  ポータブルの、ずいぶん古いTVが、つけっ放しになっている。元は[#「元は」に傍点]カラーだったのだろうが、今やほとんど色らしいものは見えなくなってしまっている。  そのTVを見ながら眠《ねむ》ってしまったらしい。中年の、髪《かみ》の少し白くなりかけた男が、作業服姿で、長椅子《ながいす》に横になったまま、いびきをかいていた。  江美は、ちょっと微笑《びしよう》して、その様子を眺《なが》めていた。——ここに来ると、ホッとするのだ。本当に。  どうしてなのか、自分でも良く分らなかったのだが。  男が、ふっと目を開いた。 「——何だ、江美ちゃんか」  池上浩三《いけがみこうぞう》は、笑って、「——おやおや、居眠りしちゃった」  と、欠伸《あくび》をした。 「ごめんなさい、お昼寝の邪魔《じやま》して」 「いや、寝てるわけにゃいかないんだ。駐車場《ちゆうしやじよう》の掃除《そうじ》をしなきゃいけないからね。——やれやれ」  起き上って、池上は頭をブルブルッと振《ふ》ると、「江美ちゃん、お昼休みかね」 「ええ」  いささか時代|遅《おく》れと評判の悪い事務服を着た結城江美は、紙包みをテーブルの上に置いて、「これ、ドラ焼き。一緒《いつしよ》に食べようかと思って」 「そりゃありがたい。甘《あま》いものが欲しかったところなんだよ。——座っててくれ。お茶をいれるよ」 「私、やるわよ。おじさん、座ってて」 「そうか。悪いね。じゃ、頼《たの》むよ。江美ちゃんのいれてくれたお茶はおいしい」 「そんなこと言ってくれるの、おじさんだけよ」  と、江美は笑った。 「湯はそのポットに。——少しぬるいかもしれないな」 「沸《わ》かすわ。まだ時間あるから」  江美は、小さな、汚《よご》れたガステーブルに、ヤカンをかけた。  ——ここは、オフィスの雑居するビルの一階。管理人室である。  池上浩三は、ここの管理人。そろそろ五十に手が届《とど》く、という年齢《ねんれい》である。  髪が白くなりかけて、少し老《ふ》けて見えるが、まだまだしっかりした体つきの、優しい目をした男である。  このビルには、十以上の会社が同居しているので、管理人の仕事も、結構|忙《いそが》しい。しかし、その点、池上は実にこまめに動くし、手先も器用で、重宝《ちようほう》されていた。——独《ひと》り者で、気ままな身らしい。  女子社員たちは、特に、「おじさん」と呼んで、池上に優しかった。何となく、気楽に話せる雰囲気《ふんいき》があったのだ。  その点、江美も同様で、今日のように、お昼の時間に受付の当番をやった日は、たいてい池上の所で、おしゃべりして行く。昼休みが一時からになるので、一人でここに来られるからだった。  結城江美は二十二歳。このビルの三階にある貿易会社で、事務をやっている。短大を出ているので、今、OL二年生というところである。 「すぐに沸《わ》くわ」  と、江美は言った。 「——何か話があるんだね」  と、池上が言うと、江美はドキッとした。 「どうして?」 「そう訊《き》き返すのが、当りって証拠《しようこ》さ」  と、池上は言った。「どうしたんだね」 「うん……」  江美はお茶をいれた。「——そういえば、おじさん、風邪《かぜ》、どうしたの?」 「ああ、もう何ともない」  と池上は肯いて、「いつもの江美ちゃんなら、真先にそう訊いてくれるだろうからね。それを、何も言わないから、きっと何か悩《なや》みごとでもあって、相談しに来たのかな、と思ったんだよ」 「まあ」  と、江美は笑顔を作って、「おじさんって、まるでシャーロック・ホームズね」  ごまかしたものの、事実その通りなのだ。——時々、江美は池上の言葉にハッとさせられることがあった。  今は管理人で、のんびりとやっているが、以前は何をやっていた人なんだろう? 江美に限らず、会社の女の子たちは、たいてい一度は不思議に思うのだ。  しかし、池上は何も話さないし、正面切って訊《き》いたところで、適当にごまかされてしまうのがオチだ。江美も、あえて深く訊いてみたいとは思わなかった。  人間、誰《だれ》しも話したくない過去を持っているものである。 「彼氏《かれし》のことかい?」  と、またしても、池上はズバリと言い当てる。 「ええ、そうなの。でも、喧嘩《けんか》したとか、そんなんじゃないのよ」 「そうか。二人の気持がしっかりしてりゃ、何があったって、やっていけるさ」  池上は、熱いお茶をゆっくりとすすって、 「——旨《うま》い! やっぱり江美ちゃんのいれたお茶は旨いよ」  江美は少々照れくさかったが、それでも嬉《うれ》しかったし、気持が軽くなった。池上の言葉には、うつむいた人の顔を持ち上げる効果があるのだ。 「江美ちゃんの彼氏は、刑事《けいじ》さんだったっけね」 「そうなの。——でもね、全然向いてないの。当人もそう思ってるらしいんだけど」 「じゃ、仕事を変えれば?」 「そうもいかないの。彼のお父さんが、ベテランの刑事さんで、大きな事件をいくつも解決した人なんですって。で、息子《むすこ》も絶対に刑事になる、と小さいころから決めていて、彼も言われた通りに——」 「ほう。今どき珍《めずら》しい若者だね」 「だけど、亡くなったお母さんに似たらしくて、彼はだめなの。人がいいし、いやなことを、はっきりいやと言えない性格なんだから」 「今、いくつなんだい?」 「二十七|歳《さい》」 「二十七か。その年齢《ねんれい》で、まだ、自分に向かない仕事から脱《ぬ》け出せないんじゃ、困ったもんだね」 「一生|懸命《けんめい》、やってはいるのよ。でも——」  と、言いかけて、ため息をつくと、「ともかく、大失敗をやってしまったらしくて、今は謹慎中《きんしんちゆう》。お父さんもカンカンで、とてもじゃないけど、結婚《けつこん》のことなんて、口に出せる雰囲気《ふんいき》じゃないって」 「なるほどね」  と、池上は肯《うなず》いた。「それで、江美ちゃんとしては、やきもきしてるわけか」 「当然でしょ。そりゃ、私は二十二だし、まだ結婚を急ぐ年齢でもないわ。でも、彼は二十七で、もう私たち三年越しの付合いよ。あんまり落ち込《こ》んでばかりいる彼を見てると、こっちも苛々《いらいら》して来ちゃう」  プーッとふくれてから、江美は赤くなって、「ごめんなさい。おじさんにこんなこと話したって仕方ないのに」 「いやいや」  と、池上は真顔で首を振《ふ》った。「江美ちゃんの悩《なや》みは深刻さ。そりゃ、こんな年寄りから見りゃ、可愛《かわい》い悩みだと思えるがね。しかし、その当人にとっちゃ、人生の大問題だよ」  江美は思わず微笑《ほほえ》んで、 「おじさんの話、聞いてるだけで、何だか楽しくなるの」  と、言った。 「それで、俺《おれ》に何かしてくれっていうのかい?」 「うん……。迷惑《めいわく》だとは思ったんだけど」 「言ってごらんよ」 「特別のことじゃないの。ただ、私の彼に会ってほしくて」 「へえ。俺がその彼氏と見合いするのかい?」 「少し元気付けてやってほしいの。何しろ、シュンとなっちゃって、まるで死にそうなんだもの」  池上は笑って、 「江美ちゃんで元気にならないのに、俺が出てってもなあ。——まあいいよ。ともかく会うぐらいは構わないが」 「そう? 嬉《うれ》しい!」  と、江美は飛び上りそうにして、「じゃ、明日の夜でどうかしら?」 「いいとも。どうせ夜はヒマだからね」 「じゃ、何と言っても引張って来るわ」  と、江美はすっかり張り切っている。 「彼氏はどんな人だい?」  と、池上が言った。 「そうね……。目が二つ。鼻が一つで、口も一つ」  当り前だ。——江美は、 「そうだわ」  と、ポケットから定期入れを出して、「ここに写真がある」 「ほう。見せてくれよ」 「私、よくとれてないの」  と、言いながら、池上に写真を取り出して渡した。  どんな写真も、その女性から見れば、「よくとれていない」ものなのである。  池上は、どこか湖のほとりらしい所で、肩《かた》を寄せ合って、フレームにおさまっているカップルを眺《なが》めた。——江美の方は楽しさ一杯《いつぱい》に屈託《くつたく》なく笑っているが、男の方は、何だか照れくさそうにして、笑顔も引きつっている。 「——どう?」  池上が、長いこと黙《だま》っているので、江美はちょっと心配になって、訊《き》いた。 「うん」  池上は、ふと我に返った様子で、「いや——なかなかいい男じゃないか」 「そう? ちょっと頼《たよ》りないけど、そこがいいのよね」  何のことはない。のろけている。 「何というんだね。彼の名は?」  と、池上は訊いた。 「畑《はた》。一文字でね。畑|健吾《けんご》」 「畑か。畑健吾、ね」  池上は肯《うなず》いた。「——立派な名じゃないか」 「そうね。健康[#「健康」に傍点]なのは間違《まちが》いないわ」  と、江美は少し照れたように言って、写真をポケットへ戻《もど》した。  それから、ちょっと息をつくと、立ち止って、 「じゃ、私、行くわ。——明日、お昼休みの時に、時間と場所を」 「分った。楽しみにしてるよ」 「ごめんなさいね。お邪魔《じやま》して」  ——結城江美が出て行って、池上は、しばらくぼんやりと古くなった長椅子《ながいす》に座っていたが、やがて急に立ち上ると、狭《せま》い管理人室の中をやたら早足で歩き回り始めた。不安に駆《か》り立てられてでもいるような、そんな様子だった。  ピタリ、と足を止めると、息を少し弾《はず》ませている。  その目は宙を見据《みす》えて、 「何てことだ」  という言葉が洩《も》れた。「何てことだ……」 「おい!」  玄関《げんかん》に出ようとした畑健吾の背中へ、ハンマーのような言葉が叩《たた》きつけられて来た。 「——お父さん」  と、健吾は振《ふ》り向いた。「もう起きたの?」 「当り前だ」  畑健吾の父、畑|健一郎《けんいちろう》は、たった今、目が覚めたばかりだったが、その目はいつもの鋭い光を放っていた。——五十二|歳《さい》。ベテラン刑事《けいじ》として、上司でも彼の言葉には従わざるを得ないことがある。  その代り、上の方の覚えはめでたくないので、出世とは一切無縁だった。当人も、負け惜《お》しみでなく、現場の緊張感が何より好きな男だったから、それを喜んでいたのである。 「まだスーパーの強盗《ごうとう》殺人犯は逮捕《たいほ》されていないんだ。ゆっくり寝《ね》ていられるか。——お前はどこへ行くんだ?」 「うん……。ちょっと」  父とは対照的に、ヒョロッと長身の健吾は、曖昧《あいまい》に言った。 「また女と会うのか? お前は謹慎中《きんしんちゆう》なんだぞ」  と、父親は言った。 「違《ちが》うよ! 僕は——僕に、重要な情報があるって連絡が入ったんだ。だから、それを聞いてみようと思って……」 「そうか」  父親は半信|半疑《はんぎ》の様子だったが、そこはいくらやかましくても、親である。肯《うなず》いて、 「じゃ、行って来い。——いいか。安く仕入れようと思うなよ。いいネタには金がかかるもんだ。だからこそ、向うも命がけで売ろうとするんだ」 「うん。分ってるよ」 「よし。本当かどうか、確かめもせずに買うなよ。いいか」 「分ってるよ」  と、畑健吾は、ため息をついて、「じゃ、行って来る」  ——表に出ると、健吾は、やれやれと肩《かた》をすくめた。  いつまでもああだ。 「やり切れないよな、全く!」  と、呟《つぶや》いて歩き出す。  しかし、本当に[#「本当に」に傍点]やり切れないのは、父がガミガミ言うのも無理はない、と健吾自身が分っていたせいだったのかもしれない……。 [#改ページ]  4 転んだ少女 「まだかしら」  結城江美は、レストランの入口の方を気にしていた。 「まだ、約束の時間に二、三分あるよ」  と畑健吾は腕時計《うでどけい》を見て、言った。 「そうね。——いつものくせで早く着いちゃったから」  江美はかなりせっかちな性格である。  その点、健吾は完全に江美に引張られる立場と言ってもいい。 「——お父さん、ここへあなたが来たの知ってるの?」  と、江美は言った。 「いや、何も言ってないよ」  と、健吾は首を振《ふ》って、「いちいち親父《おやじ》に断らなきゃ外出できないってことはないさ。もう二十七なんだから、僕《ぼく》は!」  つい、むき[#「むき」に傍点]になるところが、健吾の気の弱さなのである。江美にもそれはよく分っていたが、もちろん、それをあえてつつくほど馬鹿《ばか》でもない。 「私は良かったわ。父親なんてうるさいものがいなくて」  と、江美は冗談《じようだん》めかして言った。  江美の両親は、まだ江美がずいぶん小さいころに亡くなっていた。今は結城家の養女ということになっているが、これも名前ばかりで、実際には、高校生のころから、江美は一人で暮《くら》していたのである。  遠縁《とおえん》に当る結城家には、江美と同じ年齢《ねんれい》の娘がいて、とても一緒《いつしよ》に暮せるような仲《なか》ではなかった。一人で家を出て暮し始めた時には、本当にホッとしたものだ。  江美が年齢の割にしっかりしているのは、そんな生活をして来たせいもあっただろう。 「だけど——」  と、健吾は、少し不安そうに言った。「そのおっさんも、やたら怖《こわ》い人じゃないのかい?」 「心配しないで。本当にいい人なのよ。会ってるだけで心が落ちつくの」 「ふーん」  健吾は肯《うなず》いて、「僕と会っても、落ちつかない?」  江美は吹き出して、 「あなたと会うと、胸がときめくわ」  と、言った。 「僕もだよ」  健吾が、とたんにしまらない顔になる。——これがいけないのよね、と江美はため息をついた。  約束の時間を少し過ぎた。  江美は、時々、レストランの入口の方を見やりながら、こんな店にしたのは間違《まちが》いだったかしら、と思っていた。  もう少し気楽な所にした方が……。何といっても、池上さんはこんな場所、慣《な》れていないだろう。  江美としては、わざわざ出て来てもらうのだから、ごちそうでもしてあげなきゃ、という気持だったのだが。——このレストランも入るのは初めてで、ノーネクタイでは入れないのだと知って、心配だった。  おじさん、ネクタイなんか持ってないんじゃないかしら? ノーネクタイの客には、一応、店の方でネクタイを貸してくれるのだが……。  そんな窮屈《きゆうくつ》な格好は、あのおじさんにはふさわしくない……。 「いらっしゃいませ」  マネージャーの声で、江美はまた入口の方を見た。——違うわ。  渋い三つ揃《ぞろ》いの、いかにも気品のある紳士《しんし》が、入って来て、レストランの中を見回している。マネージャーが、そばへ行くと、何か二言三言、言葉を交わし、マネージャーはすぐにその紳士を案内して行った。いや——こっちへ[#「こっちへ」に傍点]来る。  他のテーブルと間違えているんだわ。よく似た名前の人が予約していて——。 「お待たせしたね」  マネージャーが引いた椅子《いす》に、その紳士[#「その紳士」に傍点]は腰《こし》をおろした。  江美は、しばらく口もきけなかった。  これが、あの管理人の「おじさん」? この紳士が? 「どうしたんだい」  と、その紳士が、「おじさん」の声で言った。 「おじさん……。ごめんなさい、あの——」 「遅《おく》れて悪かったね。ちょっと病院へ寄っていて手間取ったものだから」  と、池上は言った。「これが君のすてきな彼氏《かれし》だね」 「は、初めまして!」  すっかり、池上の貫禄《かんろく》に押されていた健吾は、あわてて背筋《せすじ》を伸《の》ばし、「畑健吾と申します!」 「ね、大きな声出さないで」  と、あわてて江美は言った。  そのおかげで、江美の方は我に返ったといったところ。——ともかく、池上の変身ぶりに、言葉も出ないほど驚《おどろ》いたのである。 「よろしく」  と、池上はおっとりと微笑《ほほえ》んで、「私は池上浩三。君のことは、江美ちゃんから、いつも聞いてるよ」 「は。恐縮《きようしゆく》です」  すっかり固くなっている。 「——お飲物のご注文は」  と、ウェイターがやって来ると、池上は、 「私は水でいい。メニューを」 「かしこまりました」 「——待たせてすまなかったね」  と、池上は江美に言った。 「いいえ……。でも——すごくすてき」  と、江美は言った。 「これはありがたい。馬子《まご》にも衣裳《いしよう》ってやつだね」  と、池上は笑った。  しかし、食事を始めると、池上がこういう店に慣《な》れているに違《ちが》いないということが、江美にもよく分った。ウェイターと交わす言葉や、マナーの一つ一つまで、いかにも自然で、しかもチャーミングと言ってもいいくらいの、洗練が感じられたのである。  江美は、何のためにここへ来たのか、しばし忘れそうになった。  ——メインの食事がすんで、デザートのオーダーを終えると、池上が言った。 「ところで、畑君は父子《おやこ》二代の刑事《けいじ》さんだそうだね」 「ええ。——そうなんです」  と、健吾は言った。  大分、ほぐれて来ているのは、ワインの力も加わってのことらしい。 「お父さんは畑健一郎さんだったかな」 「そうです。ご存知なんですか?」 「いや。しかし、警察関係に知り合いがいてね。その名前を聞いたことがあるよ」  と、池上は言った。「今も元気で?」 「ええ。若い刑事がへばっても平気で頑張《がんば》ってます」 「それは大したもんだ」  と、池上は笑った。「で、君にも当然、自分の後を継《つ》いでもらいたい、と」 「そうなんです。ところが——僕は、何をやってもだめで」  と、健吾がため息をつく。 「とんでもない。君はこんなすてきな娘さんを恋人《こいびと》にしているじゃないか」 「ええ……。そりゃそうですが」 「じゃ、少なくとも恋にかけては、立派な成果を上げたわけだ」 「まあ——そうかもしれません」  健吾は、目をパチクリさせた。 「それで、何か失敗をやらかした、とか聞いたが」 「そうなんです。お話しするのも恥《は》ずかしいんですが」  と、健吾は咳払《せきばら》いして、「僕は、強盗《ごうとう》殺人犯の愛人のアパートを見張っていました。逃走中の犯人が、必ずいつかそこへ現われる、と分ってたんです」 「危い仕事だね」 「でも、張り切ってました。——もちろん、下手《へた》をすれば命にかかわる仕事ですが」 「一人ではなかったんだろう?」 「相棒は、ベテランの先輩《せんぱい》で、二人して三日間、交替《こうたい》で仮眠《かみん》しながら、車の中で頑張《がんば》っていたんです」 「ふむ。それで?」 「三日目の夕方です。——相棒は、食事に行きました。ほんの十分くらいで戻《もど》るんですが、もちろん交替で、アパートからは目を離しません。僕は一人で残って、車から見張っていたんです。すると——」 「すると?」 「女の子が……。七つか八つぐらいの女の子です。補助つきの自転車でコトコトやって来ると、すぐ目の前で、引っくり返ってしまったんです。——もちろん、女の子は泣き出すし……」  健吾は両手を広げて、「膝《ひざ》をすりむいて血が出ています。——困ってしまいました。車から出て、例の愛人の目に止ったら、刑事と知れてしまうでしょう。でも、女の子は泣き続けて、しかも具合の悪いことに、誰《だれ》も通りかからないんです」 「なるほど」  と池上は肯《うなず》いた。 「その時——笑われそうですが——僕は小さいころのことを思い出してたんです」 「どんなことかね?」 「同じように、自転車で転んだ時のことです。僕は不器用で、自転車にもなかなか乗れなくて、よく転びました。そして——父は、僕が転んで、膝《ひざ》から血を出して泣いていても、決して抱《だ》き起こしたりしてくれませんでした。もちろん、それはそれで、父の愛情だったんでしょうが……」  健吾は、ちょっと肩《かた》をすくめて、「しかし、そんなことが理解できるようになるのは、ずっとずっと後のことです。長いこと、僕は、父に嫌《きら》われていると思い込んで、寂《さび》しい思いをしたものでした……」 「分るよ」 「その女の子を見て、ふっと、昔の自分を思い出してたんです。その子も、僕が車の中から自分を見ているのを知っている。でも、車から出て、声もかけてくれない。——大人《おとな》って、何てひどいんだろう、と。きっとその子は、それを長いこと忘れないだろう、と……。そう思うとじっとしていられなくて、僕は車を出て、女の子に駆《か》け寄っていたんです」 「それは間違《まちが》ってないと思うわ」  と、江美が言った。「運が悪かっただけよ」 「しかしね……。ともかく、僕はその子の膝《ひざ》にハンカチを巻いてやり、家はどこなのか訊《き》きました。女の子が『その向う』と、指さして——てっきり、僕はすぐそこだと思ったんです。女の子をおぶって、自転車を片手で引いて……。何と、女の子の家は、そこから十分も歩いた所だったんです」  健吾は首を振《ふ》って、「途中で、どうしようかと青くなりました。でも、まさかそこで女の子を放《ほう》り出してしまうわけにもいきません。もう少し、もう少し、のくり返しで、とうとう十分も歩かされてしまったわけです」 「それで急いで戻《もど》ったんだね」 「相棒が当然、食事から戻ってるはずです。どう言いわけしようかと思いながら、駆けつけると——。車も相棒も見当りません。僕は、てっきり、相棒が、犯人を追跡《ついせき》したんだと思って、あわてて本部へ電話を入れました。すると……」 「すると——?」 「何とも……。相棒が戻った時、もう車はなかったんです。つまり、僕がいなくなって、車だけが置いてあった間に、犯人がそのアパートへやって来て、警察の車を盗《ぬす》んで逃げちまったんです」 「なるほど。戻って来た相棒の方は、てっきり君が——」 「ええ。僕が車で犯人を追跡していると思って……。何とも、言いわけのしようがない話です」  ——コーヒーが来た。  池上は、ゆっくりとブラックでコーヒーを飲んだ。 「確かにね」  と、言った。「君の仲間からみれば、君の失敗は、まあちょっと前例のないものかもしれないね」 「後例[#「後例」に傍点]もないと思いますね」  池上は、ちょっと笑って、 「しかしね、君。刑事《けいじ》というのは、犯人を捕まえることだけが目的じゃないよ。むしろそれは手段[#「手段」に傍点]だ。——分るかい? 警官の仕事は、犯罪から、市民を守ることだ。それが目的[#「目的」に傍点]だ。そこを間違えている警官が多いのは残念だがね」  健吾は、戸惑《とまど》ったように池上を見た。 「君は、ちゃんと分ってるんだ。自分のしたことの意味をね。さっき、自分自身で説明したじゃないか」 「僕が……ですか」 「そう、君はその女の子が、人を信用しなくなるかもしれなかったのを、救ったんだ。その意味では、君は立派に役目を果したんだよ」 「はあ……」  健吾は、分ったような分らないような顔で肯《うなず》いた。 「ね、元気出してよ」  と、江美が、健吾の腕《うで》をつかんで、言った。「お父さんだって、そういつまでも怒《おこ》っちゃいないわ」 「どうかな」  と、健吾は絶望的な表情になり、「親父《おやじ》に僕のことを見直させるのは、容易なことじゃないよ」  と、首を振《ふ》った。 「そう難しくもないと思うがね」  と、池上が言ったので、健吾と江美は面食らった様子。 「——おじさん、何かいい方法がある?」  と、江美は身を乗り出した。 「まあね」  と、池上は肯いた。「名の知れた、有名な泥棒《どろぼう》でも捕《つか》まえてみせれば、君のお父さんも君にかぶと[#「かぶと」に傍点]を脱《ぬ》ぐさ」  健吾と江美は、またまた呆然《ぼうぜん》として、池上を見たのだった。 [#改ページ]  5 消えたおじさん 「江美さん、電話よ」  お使いから戻《もど》った江美が席につくと、すぐに向いの席の同僚《どうりよう》が、受話器を差し出した。 「あ、ごめんなさい」 「男性からよ」 「あら。どの人かしら? 何しろ多すぎてね」  江美はそう言って笑った。「——もしもし、お待たせしました。結城です」 「やあ。江美ちゃんか」 「おじさん!」  江美はふっと息をついて、「——どうしたの? 心配してたのよ」 「そうか、悪かったね」 「当り前でしょ。だって急にいなくなって、連絡もないっていうし……」  あのレストランで、畑健吾も交えて三人で会ってから、一週間たつ。あの翌日、江美は池上が急に管理人を辞めてしまったことを聞いたのである。  もちろん、自分のことと関係があるわけではなかったろうが、しかし、江美には気になっていた。あまりに突然のことだ。 「いや、ごめんごめん」  池上は、いつもののんびりした調子に戻《もど》っていた。「急に用事ができてね。一日や二日じゃ片付きそうもないし、長い休みを取るのは、どっちにしろ難しいと思ったから、すっぱり辞めちまったのさ」 「私——気になってたの」  江美は、向いの席の女の子が、コピー室へと立って行くのを見て、少し声を低くすると、「この間のこと……。あのレストランで、私、びっくりしちゃって、気が付かなかったのよ」 「何のことだね」 「ほら、おじさん、あの時、『病院へ寄って手間取って』って言ったじゃない。どこか悪かったのかな、って思って。——あの時には全然気が付かなかったの。ごめんなさいね」 「何だ、江美ちゃんも気を使いすぎるよ」  と、池上は笑って、「いつも、月に一回、血圧とか色々みてもらいに行くのさ。あの日がちょうどそれでね。いつもより混《こ》んでて手間取ったんだ。それだけだよ」 「そう。それならいいんだけど……」 「心配性だね。あの健吾君のことを心配してやりなさい」 「おじさんたら——」  江美は、少し頬《ほお》を赤らめた。「でも、びっくりした。おじさん、前は何をしていた人なの?」 「俺《おれ》かい? 俺はね——」  と、池上は声をひそめて、「前は有名な大|泥棒《どろぼう》だったのさ」  江美は吹き出してしまった。 「おじさんが言うと、何となく本当みたいに聞こえるわ」 「そうかな」  と、池上は笑って、「ともかく、君の彼氏《かれし》に、元気出せと伝えといてくれ」 「ありがとう。ね、おじさん、今どこから電話してるの?」 「うん、出先からね。——俺も、あの彼氏のために多少は役に立てると思うよ」 「ありがとう。でも、無理しないで」 「いやいや、江美ちゃんのためならね」 「まあ、お上手《じようず》ね」  ——江美は、電話で話しているだけで、心が和むのを感じた。不思議な人だ。本当に……。 「で、健吾君の謹慎《きんしん》はとけたのかい?」 「いいえ」  と、江美は、ちょっとため息をついた。「クビになるかどうか、ってところらしいわ」 「おやおや、そりゃひどいね」 「でも、それでもいいの。却《かえ》って、あの人に合った他の仕事を見付けるかもしれないわ。あの人のためにはプラスになるかも」 「本人がそう思えば、問題ないがね」 「そうなのよ」  と、江美は、またため息。「本人、ひたすら、落ち込《こ》んでるから。——もう、どうにもなんないわ」 「希望は捨てないことさ」  と、池上は言って、「おっと、長話になっちまうね。仕事中に、すまない」 「いいえ。良かったわ、声が聞けて。ねえ、おじさん」 「何だね?」 「もう——この会社へ来ることないの?」 「たぶんね」 「そう……」  お別れするのなら、ちゃんとさよならを言いたかったのに。——江美は、寂《さび》しい気がした。 「しかし、また会うことはあると思うよ」 「そう?」 「意外と近い内にね。じゃ」 「おじさん——」  江美は、電話が切れてしまったことに気付いた。  意外と近い内に? どういうことなのかしら? 江美は戸惑《とまど》っていた。 「ねえ」  と、向いの席に戻って来ていた同僚《どうりよう》の女の子が、「『おじさん』って、どういうおじさんなの? 毎月お手当もらって遊んであげてるとか?」 「ええ。元大|泥棒《どろぼう》の大金持なのよ」  と、江美は言ってやった。 「何てすばらしいのかしら、労働って!」  満員電車に揺《ゆ》られているサラリーマンが聞いたらムッとするようなことを、声高らかに言っているのは、マリである。「働く喜び! この汗《あせ》の快さ!」 「ミュージカルじゃねえんだぞ」  と、ポチがうんざりしたように言った。「歌うな」 「歌ってなんかいないでしょ」 「そうか。お前、天使のくせに音痴《おんち》だからな。歌っててもしゃべってても、あんまり変りがないぜ」 「大きなお世話よ」  マリは細川加津子の屋敷《やしき》の門を開けて、その表の道をはいていた。——ここに住み込《こ》んで、掃除《そうじ》や買物、雑用をするのも大分|慣《な》れて来た。 「天使って、やっぱり人間に奉仕するようにできてんのよね」 「悪魔《あくま》はな、さぼるようにできてるんだ」 「どうせ何もしないんだから、いいでしょ」 「腹は減《へ》るぜ」 「もう、食べることばっかり! 働かざる者、食うべからずよ」  マリは、腕時計《うでどけい》を見て、「十一時半。あと三十分すりゃお昼よ」 「俺《おれ》の腹時計じゃ十二時半だい」  と、ポチが言い返した。 「ほら、どいてどいて。水をまくわよ。濡《ぬ》れたって知らないからね!——よいしょ」  あ、いけない、と思った時は、もう手が止らなかった。——ちょうど通りかかった男のズボンの裾《すそ》を濡《ぬ》らしてしまったのだ。 「あ、ごめんなさい——」  と、顔を上げると……。 「なかなか可愛《かわい》い顔してんじゃねえか」  サングラス、白いスーツ。どう見たってヤクザである。 「あ、あの——すみません。冷たいですか? ドライヤー持って来ましょうか」  と、マリは焦《あせ》って言った。  いかに天使は人間の良心を信じているからといって、その真心が即座《そくざ》に通じるかどうかは別問題である。ヤクザは怖《こわ》い、ということぐらい、マリだって知っていた。 「謝《あやま》りたいのかい?」  と、ヤクザは、ニヤニヤ笑いながら、「それなら、そこに俺の車があるからさ。ちょっとホテルまで付合ってもらえば、それでいいんだよ」 「あ——いえ、あの、私、仕事中ですからして——」 「すると——」  ガラッと口調が変って、「詫《わ》びる気はねえんだな!」 「そ、そうじゃないんですけど」 「だったら、ホテルのベッドでゆっくり詫びてもらおうじゃねえか」 「でも——その——まだ昼間ですし」 「夜まで可愛がってやるぜ」 「その——あの——」  ちょっと! あんた、ワンとか吠《ほ》えるぐらいのことしなさいよ!  と、マリがポチの方を見ると——ポチはいつの間にやら門の中へ入ってしまって、こっそりこっちを覗《のぞ》いている。  全く、頼《たよ》りになんない奴《やつ》! 「おとなしくついて来りゃ、痛い思いをしなくて済むぜ」  ぐっと腕をつかまれて、マリは顔をしかめた。——天使ったって、普通の女の子である。パッと翼《つばさ》が生えて飛んで行くとか、煙《けむり》になって消えちゃうとか、そんな超能力《ちようのうりよく》は持っていない。 「もう痛いです」 「もっと痛くしてほしいか?」 「いえ、別に——」 「じゃ、素直に言うことを聞きな」 「分ったから、放して」 「分ったのか? おとなしくついて来るのか?」 「ええ。でも、このほうき[#「ほうき」に傍点]を片付けないと」  と、マリは文句を言った。「そうしないと、職場放棄[#「放棄」に傍点]になりますから」  こんな時に駄洒落《だじやれ》を言っていられるのも大したものだ。 「そんなもん、放り込《こ》んどけ」 「分りました」  マリは、ヤクザが手を放してくれたので、ほうきとチリ取りを、門の方へ持って行った。そして——エイッ、と振《ふ》り向きざま、ヤクザに向って投げつけた。  ほうきとチリ取りはみごとに——外れて、まるで関係ない方向へ飛んで行った。 「ほう。面白《おもしろ》い片付け方をするんだな」 「そ、そうですね……」  マリは、駆《か》け出そうとした。屋敷《やしき》の玄関《げんかん》まで突っ走って中へ入っちまえばこっちのもんだ!  サンダルばきで走る、というのは、かなり難しいことを、マリは研究していなかった。駆け出したとたんに、ドテッとこけてしまったのである。 「一人で何やってんだ?」  と、ヤクザが笑って、「ほれ。スカートがまくれてるぜ」  と、靴《くつ》の先でマリの太腿《ふともも》をくすぐった。 「何すんのよ!」  マリは喚《わめ》いた。神も仏もないのかしら。  天使にしちゃ、妙な発想だ。  すると——石が一つ、飛んで来て、コツンと、ヤクザの頭の後ろの辺りに当った。いい音がした。きっと中が大分空いているのに違《ちが》いない。 「誰《だれ》だ?」  ヤクザが振り向くと、何となくパッとしない中年の男が、歩いて来る。荷物の配達でもしているようなジャンパー姿。 「や、失礼。ちょっと石をけったら、そっちへ飛んで行ってね」  とその男は言った。 「ふざけやがって——」  ヤクザがその男の胸ぐらをつかむと——何がどうなったのか、マリにはさっぱり分らなかった。  二、三秒ののちには、ヤクザがヘナヘナと地面に座り込んだ。それから大の字になって引っくり返ってしまったのだ。 「——大丈夫《だいじようぶ》かい?」  と、その男がマリの手を取って立たせた。「こんなのは、大した奴《やつ》じゃない。そう怖《こわ》がることもないよ」 「はあ……。どうも、ありがとうございました」  マリは、ポカンとして、「あの——」 「すばらしい屋敷だねえ」  と、男は、門から奥《おく》を見ながら、感心している様子だった。 「私のじゃないんです」  と、マリは、ごく当り前のことを言った。 「中へ入って門を閉めた方がいいよ」  と、男は言った。「このヤクザが息を吹《ふ》き返すとまずいだろ」 「あ、そうですね」  マリは、あわてて、ほうきとチリ取りを取って来た。「あの——お茶でもいかがですか?」 「いいの?」 「ええ。みんな留守で。どうぞ中へ」 「すまないね。ちょうど喉《のど》が渇《かわ》いてたんだよ」  マリは、男を中へ入れて、門を閉めた。  ヤクザが、呻《うめ》きながら、起き上りかけていた。 「——この役たたず」  と、マリは、ポチをにらんで、言ってやった。 「俺《おれ》はボディガードじゃねえぞ」 「番犬でしょ」 「お前があいつに水をひっかけたんじゃないか。この家の番犬としては、そこまで面倒《めんどう》みられねえよ」 「ちゃんと食べるものをやってるじゃないのよ」 「それより、お前、勝手に他人を入れていいのか?」 「恩人《おんじん》よ。それぐらいしなきゃ」 「フン、叱《しか》られたって知らねえぞ」  と、ポチは鼻を鳴らした……。  ところで——ポチも、大分|抜《ぬ》けたところはあるにせよ、一応、悪魔《あくま》の一人(?)である。悪いことには敏感に反応するのだ。  そして、今、マリが案内しているこの男——見たところはごく普通の職人風だが、その身辺には、どこかただならぬ雰囲気《ふんいんき》が漂《ただよ》っているのを、ポチは感じとった。 「——へえ、立派な屋敷だねえ」  と、言いながら、男の目は塀《へい》の上に設置された赤外線の防犯装置とか、窓と、下の庭との位置関係とかを、素早く見ていた。  ——こりゃ面白くなりそうだ。  ポチは、マリとその男の後からついて歩きながら、内心ひそかにほくそ笑んでいたのである……。 [#改ページ]  6 夜の紳士《しんし》  マリは目を覚ました。  天使が夜ふかしかどうかは、色々議論のあるところだろうが、少なくともマリは、人間界へやって来てから、地上の他の女の子たち同様、結構夜ふかしの習慣になってしまっていた。  だから、この細川家のメイドルームでも、床につくのは大体夜中の十二時過ぎ。——今どき十二時なんて、高校生なんか一番の「遊び時」かもしれないが。  もっとも、マリは一応ここで働いているわけで、朝は七時に起きることになっていたから、一時ごろには必ず寝《ね》るようにしていた。  同室に寝泊《ねとま》りしていた、もう一人のメイドは、この三日ほど休みを取っている。——もう一人、ベテランのメイド、大山和代《おおやまかずよ》がいて、もう五十代の半ば。  マリたちは、すべて大山和代の命令で動くのである。——和代は、通いなので、夜八時に帰って行く。  従って今夜は、この広い屋敷《やしき》にマリ一人というわけだった。——主人の細川加津子はアメリカへ行っていて、明日にならないと戻《もど》らない。  そうそう。マリの他にもう一人——いや、一匹、ポチがいた。  庭に、中古の(?)犬小屋をもらって、少々不服そうながらも、そこで眠《ねむ》っている。  しかしマリは、少しも心細いとか思ってはいなかった。何といっても、この屋敷は最新の防犯設備が取り入れてあるのだから。  一度なんか、マリがはたきをかけていて、ついうっかり赤外線の装置に引っかけたことがある。五分としない内にサイレン鳴らしてパトカーが三台|駆《か》けつけて来たし、私服の刑事《けいじ》に消防車まで(どうしてなのか、マリは首をかしげたが)来て、マリは目を丸くしたのだった。  だから……。そう、夜だって、安心して眠っていていいわけなのである。 「どうして目が覚めたんだろ」  と、マリは呟《つぶや》いた。  今日は別に昼寝したわけでもないし、のんびりしていたわけでもない。むしろ、一人休んでいるので、細かい仕事が全部マリへ回って来て、かなり忙《いそが》しかったのだ。  それなのに、こんな風に夜中に目が覚めるなんて……。しかも、寝入って一時間。普通なら、一番眠りの深い時間である。  マリは、ともかくベッドに起き上って、しばらく耳を澄《す》ましていた。——何も聞こえない。  パジャマ姿でベッドから出ると、マリは、スリッパをはいて、メイドルームのドアを開けた。  ヒヤッと空気が冷たい。——マリは思い当った。どことなく、冷たい風が吹いて来たのだ。  それで目が覚めたのである。  晩秋という季節柄、夜風は冷たいものがあった。しかし、風がなぜ、こんな所へ流れ込《こ》んで来るのだろう?  その廊下《ろうか》を突き当りまで行くと、常夜灯《じようやとう》のほの白い光の下に、庭へ出るドアがある。  チェーンも鍵《かぎ》もしっかりかかっている。  少しためらってから、マリはそのドアを開けてみることにした。そのすぐ外に、ポチがいるからである。 「——ちょっと。ポチ」  と、マリは低い声で呼んだ。「——ポチ。起きてよ」  犬小屋の中で、ポチは仰向《あおむ》けになって、人間みたいにガーガーいびきをかいて寝ていた。 「番犬になんないでしょ、それじゃ!」  マリは頭に来て、よほどけっとばしてやろうかと思ったが、まあ、そこは何とか思い止《とど》まった。やはり天使というのは人がいい(?)のである。 「おお寒い」  パジャマ姿で外へ出りゃ、寒いのも当然である。マリは、中へ入って、鍵とチェーンをちゃんとかけた。 「喉渇《のどかわ》いたわ……」  台所へ行って、何か飲もう。——こんな時には、大きい屋敷というのはいい。大体、どんな飲物でも、常時|揃《そろ》っているからだ。  ま、その内の一つや二つ、いただいても、分りゃしない。  マリとしては、やはり天使という立場上あんまりそういうことをしてはいけないのであるが、人間の世界に生きている以上、やはり多少の妥協《だきよう》はしなくては……。  冷蔵庫のジュースを飲むのに、あれこれ理屈《りくつ》をつけるまでのこともないが、マリも多少は気がとがめているのである。 「だけど……。あの人も忙《いそが》しいことね」  と、マリは、冷たいジュースを飲みながら、台所の椅子《いす》に腰《こし》をおろして、呟《つぶや》いた。  しばらくここにいる内に——というより、一緒《いつしよ》のメイドルームで寝るようになったとたんに——もう一人のメイドから聞いたのだが……。細川加津子は四十二|歳《さい》で、独身《どくしん》。何しろ大きな会社の社長で、世界中飛び回るビジネスマンで、ともかくエネルギッシュである。  その類《たぐい》の人間に多いように、細川加津子も「恋《こい》多き女」で、年中若い男と恋をしているとか。今度のアメリカ行きも、もちろんビジネスだが、一人ではない。一緒に行くのは、いつも秘書の市川和也。けれど今回は、もう一人、若い男がついているのだという。  加津子がどこだかのプールで出会った男らしい。タダでアメリカ旅行をさせてもらえて、思い切りぜいたくができて……。  それに加津子は確かに、若いとは言えなくても、充分《じゆうぶん》に女としての魅力《みりよく》を具《そな》えている。 「どうせ長続きはしないんだけどね」  と、仲間のメイドは言って笑った。 「あの市川さんって秘書の人は?」  と、マリは訊《き》いてみた。 「あれはだめ」 「だめ?」 「あの人、男にしか興味ないの」 「へえ」  マリは、面食らったものだ。  加津子自身は、遊ぶという感覚でなく、その都度、結構本気になるらしい。 「失恋《しつれん》して、そこから立ち直るために、夢中《むちゆう》で働くのよ」  と、仲間のメイドは、恋愛心理の説明をしてくれた。「だから私なんか見なさい。失恋なんか絶対しないから、働きもしないでしょ」  このメイド、太《ふと》った、面白い女の子なのだ。  その説明によると、細川加津子が、今なお「恋《こい》の巡礼《じゆんれい》」の旅を続けているのは(この言い方が気に入っているらしい)、若いころ、熱烈《ねつれつ》な恋をして破れたのが、いまだに燃え残った火となってくすぶっているからだ、ということになる。  若いころの恋《こい》のことは、まあ事実だったらしいが、マリなど、そんなに何十年も恋が続くことってあるのかしら、と首をかしげている。  人間を信じないわけじゃないとしても、そういつまでも忘れずにいたら、人間なんて生きていけないんじゃないかしら、と思っているのである。——忘れる、ってことは、ある意味では、大切なことなのだ……。  その音[#「その音」に傍点]に気付いてから、マリが、ハッと息を呑《の》むまで、多少の時間が必要だった。  足音……。頭の上で、はっきり、足音が聞こえたのだ。  ぼんやりとジュースを飲んでいたので、ああ、加津子さんが歩いてるんだな、と思っただけだった。  そんなはずがないこと——今、この屋敷《やしき》には、自分一人しかいないということを、思い出すまでに、少し間があった。  マリは、半ば飲みかけたコップをテーブルに置いた。——空耳かしら?  そうであってほしい、と願ったが、すぐにまた、足音が耳に入って来た。  誰《だれ》だろう?——加津子さんが早く帰って来たのか。それとも、市川さんか……。  市川さんもここの鍵《かぎ》を持っているが、加津子さんについて行っているはずだ。  マリは、台所を出た。  廊下《ろうか》は、いくつか小さな明りが灯《とも》っているので、歩くのには困らない。階段の下まで来て、そっと二階の方を見上げると、どこかの部屋の明りが点《つ》いているのが分った。  誰かいる。——どうしよう?  マリは、一一〇番しようかと思ったが、もし加津子さんが帰っているのだったら、と思うと、ためらってしまうのだった。  ともかく……。当って砕《くだ》けろ!  天使にしては少々|無鉄砲《むてつぽう》なマリは、階段を上って行った。  二階へ上ると、廊下に光が射しているのは、加津子の寝室《しんしつ》の明りだと分る。ドアが開いたままだ。  やはりおかしい。——もし加津子さんが帰られたのなら、あちこち明りが点けてあるはずだわ。  マリは、廊下に置かれた大きな壺《つぼ》に目を止めると、両手でしっかりと持った。  いざとなったら、これでぶん殴《なぐ》ってやろう、というわけである。  もっとも、この壺が壊れたら、その方が、よほど被害としては大きいかもしれない。  寝室の中を、恐る恐る覗《のぞ》き込んで、マリは目をみはった。部屋着やらスーツ、ドレス、毛皮の類《たぐい》まで、床中《ゆかじゆう》に投げ出してある。  これ片付けるの、大仕事だわ、などとつい考えていると——。 「やあ」  と、突然声がして、マリは飛び上った。  いつの間にか、すぐ後ろに男が立っていたのだ。 「動くなよ。——その重そうな壺を、そっと下へ置いて」  拳銃《けんじゆう》を突きつけられて、マリは仕方なく、言われた通りにした。  何となく、怖《こわ》いという実感が湧《わ》かない。映画の一場面みたいである。 「中へ入れ」  マリは、明るい寝室の中へ入った。——びっくりするほど大きなベッドが置いてある。 「あの——お金なんかないわよ」  と、マリは言った。 「そうだろうな」  男が、マリに続いて入って来た。——マリは、冗談《じようだん》かしら、これ、と思った。  男は、たった今、パーティから脱《ぬ》け出して来た、というような、タキシード姿だった。蝶《ちよう》ネクタイ、真白なシャツ。銀色のカフスボタン。 「その節は、お茶をありがとう」  と、男が言った。  マリは、唖然《あぜん》とした。——ヤクザから助けてくれた、あのパッとしない男だ。  まるで見違《みちが》えるように、フォーマルなスタイルがぴったり合っている。ただ——その手に小型の拳銃があるということだけが、「普通でない」ことだった。 「あの……」 「君が色々教えてくれたんでね。入るのも簡単だったよ」 「私が?」 「ああ。いつも君がどこで寝《ね》るとか、出入口はどことどことか、ここの主人がいつからアメリカへ出かけるとか」  そんなこと、しゃべっただろうか?  マリは、全く憶《おぼ》えていなかった。 「あなた——泥棒《どろぼう》だったの?」 「そう。君は知らんだろうが、キャリアは長いんだよ」  男は、いとものんびりした口調で言った。 「まさか……。でも、ここ、防犯装置が——」 「そんなもの、本当のプロには役に立たないよ」  と、男は笑った。 「あの……。乱暴なことしないで。何か持って行くのなら——」 「値打のあるものはないな」  と、男は首を振《ふ》った。「現金は、こんな家にはほとんど置かないし」 「そうよ。こんな家の人は、カードでしか買物しないわ」 「宝石類は?」 「加津子さんが、持って行ってると思うわ。残りは宝石商の所に……」 「なるほど」  男は肯《うなず》いた。 「——あの時、ここへ忍《しの》び込《こ》むつもりで?」 「下見さ。君の協力に、感謝してるよ」 「協力なんてしてないわ」  と、マリはムッとして言った。  相手は一向に気にしない様子で、 「細川加津子か。——財産も相当なもんだろうな」 「知らないわ」 「現金が、月に一度、ここへ入る日があるんだ」 「え?」 「ちゃんと調べはついてるんだよ」  と、男はニヤリと笑った。 「そんなこと知らないわ」 「株の取引きや、表立ってやりにくい商談を、月に一回、この屋敷《やしき》で開く。市川という秘書がお膳立《ぜんだ》てするんだ」 「そう……」 「もうそろそろ——たぶん、この一週間ぐらいの間に、あるはずだ」 「だから?」 「その日になったら、私に知らせてくれないかな」  と、男は言った。 「何ですって?」 「自己|紹介《しようかい》が遅《おく》れたね」  男は、左手でポケットから、白い手袋《てぶくろ》を取り出した。それをベッドの上にポンと投げ出すと、 「私の名は、〈夜の紳士《しんし》〉だ」  と、言った。 [#改ページ]  7 古い敵 「今度はずいぶん短命でしたね」  と、市川が車を運転しながら、言った。 「あんなにだらしのない男だとは思わなかったわ」  加津子は後ろの席でご機嫌《きげん》が悪い。「ニューヨークに着くなり、モデルの子に言い寄ったりして!」 「ま、今の若いのは、あんなもんじゃないですか」  と、市川は肩《かた》をすくめて、「帰りの旅費なんかやることなかったんですよ」 「お金が惜《お》しいわけじゃないのよ」  と、加津子は言った。「ただ、自分に腹が立つの。あんな男のことが見抜《みぬ》けなかったのかと思って」  車は、屋敷の近くまで来ていた。 「ま、もう少し近い年齢《ねんれい》の男を捜《さが》した方が無難かもしれませんね」 「もう年齢《とし》なのね」  と、加津子は、ため息をついて「考えなきゃ。——色々とね」 「もう屋敷です。まだ朝早いから」 「和代《かずよ》さんは来てないでしょ。あの人は八時からだから」 「あのいつかの娘《むすめ》はまだいるんですか」  と、市川が訊《き》いた。 「マリちゃん? いるわよ」 「マリちゃんか。お人形ですね、まるで」 「でも、真面目《まじめ》な子よ。本当によく働くって、和代さんが言ってたくらい」 「あの人がそう言うんですか。そりゃ大したもんだ」 「犬も一緒《いつしよ》」 「——ご用心なさった方がいいですよ」 「何を?」 「あの娘です」 「まだ言ってるの?」  と、加津子は笑った。「ずいぶん疑り深い人ね」 「よく働くっていうからです。残念なことですが、当節、人並《ひとな》み以上によく働く人間には、下心があると思った方がいいんですよ」 「なるほどね」  加津子は、半ば呆《あき》れ、半ば感心して、肯いた。「よく憶《おぼ》えとくわ」 「あの娘、記憶《きおく》の方は?」 「一向に。——こっちも、別に訊《き》いてもみないし」 「そうですか。やっぱり——おや」  と、市川が言った。「門が開いてます」 「こんな時間に?」  加津子もびっくりした。  時間に係《かか》わりなく、門は、開けてもすぐに閉めているはずだ。開け放してあれば、防犯装置が働く。 「おかしいですね。警察を呼びましょう」 「でも——あの娘《こ》が中にいるのよ」 「もし、誰《だれ》かが押し入ったのなら、もう手遅《ておく》れですよ」  車のブレーキを踏《ふ》んで、市川は、自動車電話で警察へ連絡した。 「——五分以内に来るでしょう」  車は門の二、三十メートル手前で、停《とま》っていた。  加津子が、ドアを開けて、外へ出た。 「社長!」 「あの娘《こ》が心配だわ」  加津子は、門へ向って、駆《か》け出して行く。 「待って下さい!」  市川は、あわてて加津子を追って駆けて行った。 「——玄関《げんかん》も開いてるわ。防犯装置が役に立たなかったのね」 「しかし……。何を狙《ねら》ったんですかね」 「分らないわ。——マリちゃん!」  中へ入って、加津子は大声で呼んだ。「マリちゃん!」  返事はなかった。 「取りあえず、寝室《しんしつ》を見てみましょう」  と、加津子は言った。「金目のものといえば、あそこの毛皮ぐらいよ」  二人は階段を上って行った。 「——例の日でなくて幸いでしたね」  と、市川は言った。  加津子は何も言わずに、自分の寝室のドアをサッと開けた。 「社長! 気を付けて——」  加津子は、寝室の中を見渡した。  部屋着やドレスが散乱している。 「毛皮を持って行ったようね」 「大した被害じゃありませんな。まあ良かった」  加津子が、ピタリと足を止めた。 「——社長、どうしました?」 「マリちゃん」  ベッドの向う側に、白い足が覗《のぞ》いている。  加津子は駆け寄った。——市川も覗いて、 「おやおや」  と、首を振《ふ》った。  マリが、気を失って倒《たお》れている。 「死んでるんですか?」 「生きてるわよ! すぐ救急車の手配」 「分りました。しかし——分りませんね、僕《ぼく》にゃ、犯人の気持が」 「早くして!」  市川が、電話へと駆け寄る。 「——可哀《かわい》そうに」  と加津子は呟《つぶや》いた。  マリは、殴られたらしく、左の顎《あご》の辺りがあざになっていた。そして、パジャマが引き裂《さ》かれて、むき出しになった白い腿《もも》には、引っかいたような傷がある。  加津子がマリを抱《だ》き起こすと、マリは目を開けた。 「もう大丈夫《だいじようぶ》よ。心配しないで」  と、加津子は急いで言った。「今、救急車が来るからね」 「私……。泥棒《どろぼう》——泥棒《どろぼう》が!」  と、マリが大声を出す。 「もう逃げたわ。心配ないのよ。ね、落ちついて」  加津子がしっかり抱いてやると、マリは体を震《ふる》わせて、息を吐《は》いた。 「もう警察が来るでしょうから、外へ出ていますよ」  と、市川は言って出て行った。 「——悪かったわね。あなたを一人でここに置いといたのが、間違《まちが》いだったわ」 「いえ……。私こそ、役に立たなくて」  と、マリは、うつむいた。 「泥棒が入ったら、何もできやしないわよ。ともかく無事で良かった」  無事[#「無事」に傍点]ではないかもしれないのだが……。加津子は、あえて「無事」と言ったのである。 「一人でした。泥棒は——」 「そう。後でいいわ。ゆっくり聞くから」 「手袋《てぶくろ》が——」 「手袋?」 「ベッドの上にありませんか」  加津子は、大きなベッドの上へ目をやった。——白い、布の手袋の片方が、置かれている。 「あるわ。私のじゃないわね」 「置いて行ったんです」 「泥棒が?」 「はい……。ちゃんと警察に言えって。——〈夜の紳士《しんし》〉だ、と」 「〈夜の紳士〉? 何です、それ?」  と、畑健吾は電話の相手に訊《き》き返した。「——はあ。そうですか——分りました。じゃ、謹慎《きんしん》はもう——」  向うでガミガミ言っているのが聞こえて来て、健吾は受話器を離した。 「——分りました。急行します」  電話を切って、健吾は、大|欠伸《あくび》をした。  謹慎になってからは、あんまり朝早く起きる必要もないので、つい夜ふかしになっているのである。  何のための謹慎かと、我ながら首をかしげたりしていた。  コーヒーでも飲まなきゃ、目が覚めないよ、全く。  台所へ入って、お湯をわかしていると、 「おい、電話か?」  ヌッと父親が出て来て健吾はびっくりした。 「お父さん! さっき帰って来たばっかりじゃないの?」 「二時間も寝《ね》た。もうすっきりだ」  畑健一郎はそう言って、ブルブルッと頭を振《ふ》った。  かなわねえな、全く、と健吾はため息をついた。 「今のは僕《ぼく》にだよ。強盗《ごうとう》事件」 「そうか、じゃ、謹慎はとけたのか」 「うん。忙《いそが》しくて人手がないからって」 「よし。——今度こそ、犯人を挙《あ》げろよ」  父親にバン、と肩《かた》を叩《たた》かれて、健吾は顔をしかめた。 「——大仕事か」 「狙《ねら》われたのは大きな屋敷《やしき》らしいよ」  と、健吾は言った。「犯人がね、メイドに名乗って出て行ったんだって」 「フン、キザな奴《やつ》だな」 「〈夜の紳士〉だってさ。白い手袋を片方、ベッドに残して、と来るからね。きっと映画の見過ぎ——」 「おい!」  健一郎が、もの凄《すご》い声を出して、健吾は腰《こし》が抜《ぬ》けそうになってしまった。 「お父さん! 気を確かに!」 「誰《だれ》がだ」  と、健一郎は顔をしかめた。「お前の方がよっぽど気を確かに持たんと、犯人は挙げられんぞ」 「お父さん、知ってるの、〈夜の紳士〉って泥棒《どろぼう》を?」 「知ってるどころか……」  畑健一郎は、そう言ってから、ゆっくりと深く呼吸した。「やっぱり生きていたんだな。あいつ……」 「生きていた、って?」 「姿を消したんだ、ある日突然な。それから——もう二十年近くになるだろう」 「へえ」 「おい、湯が沸《わ》いてるぞ。コーヒーを俺《おれ》にもいれてくれ」 「うん……」  健吾と健一郎、二人してコーヒーを飲むというのは、珍《めずら》しいことだった。 「——こんな風に話すのは、久しぶりだな」  と、健一郎は言った。 「そうだね」 「しかし、妙《みよう》な縁《えん》だ。あいつを二十年前に追いかけていた俺の息子が、またあいつを追うことになる」  健一郎の言い方は、懐《なつか》しげですらあった……。 「有名な泥棒だったの?」 「一時は結構|騒《さわ》がれたもんだ。しかし、〈夜の紳士《しんし》〉って名は、いつも名乗っていた。白い手袋《てぶくろ》の片方を置いて行くのも同じだ。あのころは、まだ大|邸宅《ていたく》に現金を置く人間も多かったしな」 「今はほとんどいないよ」 「そうだ。おそらく、奴《やつ》が足を洗ったのも、その辺を見きわめたからだろう、と俺《おれ》は思っていた」 「頭のいい奴だね」 「そうだな」  健一郎はニヤリと笑って、「やり過ぎる、ということがなかった。その点はみごとなもんだ。潮時《しおどき》を心得てたってことではな」 「じゃ、人を殺したりとか——」 「それはない。あいつは殺したり傷つけたりはしない男だ」 「でも、今度は若いメイドを襲《おそ》った、って——」 「何だと?」  健一郎は眉《まゆ》を寄せた。「けがさせたというのか?」 「いや……。若い子らしいよ。十六、七の。でも乱暴されたらしいって……」 「それは妙《みよう》だ」  健一郎は考え込《こ》んだ。 「——二十年もたってるから、人間も変ったんじゃないの?」 「それも考えられるが……」 「それでなきゃ、別の犯人かもね。その格好だけ真似《まね》して」  健一郎は、立ち上った。 「俺《おれ》も行く」 「父さんが? だけど——今、かかってる事件があるんじゃないの?」 「いや、あれはもう目処《めど》がついた。俺がいなくても、どうってことはない。おい、すぐに出るんだろう」 「うん」 「のんびりしてる奴があるか!」 「分った」  健吾は、あわててコーヒーを飲み干そうとして、むせ返った。  ——どうしてこうも違《ちが》うのか?  ネクタイをしめながら、健吾が階段を下りて来ると、もう父親は玄関《げんかん》で待っている。 「お前、モデルでもやってるのか?」  と、いやみを言われる。 「これでも精一杯《せいいつぱい》——」  と、言いかけると、電話が鳴った。「僕が出る」  出てみると、結城江美からだった。 「やあ。実はね、今、事件で出かけるところなんだ」 「あら。それじゃ仕事に戻《もど》ったの?」 「うん、そういうことさ」 「良かったわね」 「これで、また何かへま[#「へま」に傍点]やりゃ、同じことだけどな」 「しっかりしてよ。——ね、いつかのおじさんだけど」 「ああ、池上さん、だっけ?」 「行方《ゆくえ》が分らないの。何だか心配だわ」 「でも、連絡は——」 「ええ、あったわ。だけど……。ともかく、また今度ゆっくりね」 「うん。——それじゃ」  玄関へ戻ると、健一郎が、 「例の娘《むすめ》か」  と、言った。 「うん。あの——」 「まあいい」  健一郎は、ちょっと笑って、「一度|紹介《しようかい》しろ」  と、言った。 「お父さん……。本気?」  健吾がポカンとしていると、 「事件だ、事件! お前がボーッとしていると、俺がその娘をかっさらうぞ」  と、健一郎がドン、と息子の背中を叩《たた》いた。  健吾は、一瞬《いつしゆん》、息が詰《つま》って、目を白黒させたのだった……。 [#改ページ]  8 共犯者 「タキシード、白手袋……」  畑健一郎は、何となく楽しげに肯《うなず》いた。 「なるほど、なるほど」  ——細川|邸《てい》の一室。  簡単な来客と会うための応接室である。  椅子《いす》に、うつむき加減《かげん》で座っているのは、マリ。何だか先生に叱《しか》られている小学生、という感じ。  いや、今時はそんなしおらしい小学生の方が珍《めずら》しいかもしれない。——畑健吾の方は、父親のわきで、せっせとメモを取っている。  マリのそばには、細川加津子当人が座っていた。 「それで、その男は君に銃《じゆう》をつきつけた、と」 「はい……」 「それから?」 「あの——それから——」  マリは、しばらくためらってから、「よく憶《おぼ》えてません」 「ほう、どうして?」 「あの——殴《なぐ》られたんです。顎《あご》の辺りを」 「ふむ。しかし、気を失うほどひどく殴られたら、もっとあざ[#「あざ」に傍点]が残るものだがね」  と、健一郎は言った。「まあいい。それで君は気を失った、と」 「はい」 「男は君のパジャマを引き裂《さ》いたそうだが、憶えているかね?」 「いいえ」  マリは、顔を赤らめて、首を振《ふ》った。 「その後のことは?」  マリは、チラッと健一郎の方を見て、 「その後、というと……」 「その男は君に乱暴したわけだろ? 憶えてないのかい? 苦しかったとか、気持良かったとか——」 「刑事《けいじ》さん」  と、加津子がきつい口調で言った。「その言い方はどういうことですの?」 「いや、失礼。——しかし、最近の十六|歳《さい》なんてのは、まあかなりその方のことに詳《くわ》しいし、経験も豊富ですからな」 「人によるのではありませんかしら? それに、襲《おそ》われるのと、自分で遊ぶのは、大違《おおちが》いですわ」 「それはおっしゃる通りですな」  と、健一郎は一向に気にする様子もなく、「しかし、妙《みよう》ですよ」 「何がですの?」 「この娘《むすめ》さんは殴られて完全に気を失った。それならどうして、パジャマを引き裂く必要があるのか。気絶しているのなら、ただ脱《ぬ》がすだけでいいはずですが」  加津子は、呆《あき》れたように、 「ずいぶん無神経なものの言い方をなさるのね」  と、言った。 「仕事でしてね」  健一郎は、ひるむでもなく、「男はどんな顔だった?」  と、マリへ訊《き》いた。 「あの……中年の男です」 「中年といっても、色々だね。四十か五十か——」 「たぶん五十くらい……だと……」 「顔は? 丸顔? 長い顔?」 「普通です」 「普通ね」  と、健一郎は、肩《かた》をすくめた。「何か特徴は? 目の形、鼻の形、口は? 髪《かみ》は?」 「あの——もうお話ししました。よく憶《おぼ》えていないんです」  と、マリは訴《うつた》えるように言った。 「そのことは、記録にあるよ」  と、健吾が言うと、ジロッと健一郎ににらまれた。 「人間は、後になって思い出す、ということがある。そうだろう?」  健一郎に見据《みす》えられて、マリは段々縮んでしまいそうだった。 「——この子は怖《こわ》い目に遭《あ》ったんですよ」  と、加津子が言った。「犯人の顔なんかろくに憶えていなくて当然じゃありませんか」 「まあ、これも仕事でしてね」  と、健一郎は言った。「〈夜の紳士《しんし》〉は、二十年も前に、こういう大きな屋敷《やしき》を専門に荒らし回っていたのです。しかし、突然ばったりと犯行がストップした。——それきり、もう忘れられ、犯行も時効です。しかし、なぜ今になって、また姿を現わしたのか」  健一郎は、加津子の方へ、 「ここに、多額の現金はありますか」 「現金はほとんどありません。もちろん、急な出費に備えて、百万や二百万は置いてありますが」 「それでも我々にとっちゃ大金ですな」  と、健一郎は微笑《ほほえ》んだ。「しかし、〈夜の紳士〉は、そんな金を狙《ねら》ってやって来たとは思えない」 「毛皮を持って行きましたけど」 「いや、奴《やつ》の狙いはどこか他にあるはずですよ」  と、健一郎は言って、加津子を見つめた。「——いかがですか? 何か思い当ることはありませんか」 「私に?」 「つまり——奴が狙うような何か[#「何か」に傍点]が、この屋敷にある、としか思えませんからね」 「心当りはありません」 「しかし——」 「自分のことです。あなたより私の方がよく知っています」 「それはそうだ」  健一郎は、ちょっと笑った。「では、今日のところは失礼しましょう。そこの娘さん」  マリは顔を上げた。 「——犯人のことで何か思い出したら、いつでも連絡してくれないか」 「はい」  マリは、細い声で答えた。 「おい、帰るぞ」  と、健一郎は息子を促《うなが》して、応接室を出て行った。 「何て無神経な人かしら」  と、加津子は腹を立てている。「気にしないのよ、マリちゃん」 「はい……」  マリは、しょんぼりしている。「あの——」 「なあに?」 「私……ここを辞《や》めなくてもいいんですか?」 「辞めたいの?」 「いいえ! そうじゃないんです。ただ……私のせいで泥棒《どろぼう》が——」 「あなたが責任感じることなんか、少しもないのよ」  と、加津子は、マリの肩《かた》を軽くつかんで、「少し休みが取りたかったら、和代さんにそう言って」 「いえ……。大丈夫《だいじようぶ》です」  マリは立ち上って、「じゃ——買物に出て来ます」  と、頭を下げた。  応接室を出ると、市川が急いでやって来たのを見て、加津子は、 「分ってるわよ」  と、手を上げた。「すぐ出られるわ」 「三十分しかありません。ヘリコプターで迎えに来ようかと思いましたよ」 「それしても、腹が立つわ」  と、ほとんど駆《か》け出すような足取りで、加津子は玄関《げんかん》へ向う。 「じゃ、クビにしたらどうです?」 「刑事《けいじ》をクビにするの?」 「刑事? あのマリって子のことじゃないんですか」 「とんでもない! あの可哀《かわい》そうな子。刑事が無神経な質問ばっかりして」  ——表で待っていたハイヤーに、加津子と市川は乗り込《こ》んだ。 「しかし、社長」 「なに?」 「刑事は、理由もなく、ぶしつけな質問をしたりしませんよ。——あの娘《むすめ》のことを疑ってるんでしょう」 「まだ言ってるの」 「泥棒に乱暴されたと言いますが、診察《しんさつ》も拒《こば》んだんでしょう」 「当然よ。私だっていやだわ」  加津子は首を振《ふ》って、「もうその話はやめて!」 「はい」  市川はノートを広げた。「ですが、一つだけ……」 「まだ何かあるの?」 「例の会合です。四日しかありませんよ。どうします?」 「手の打ちようがないわ。やるわよ」 「そうですね。四日じゃ、連絡の取れない相手もいる。何とかして連絡をつけても、また集まるのは難しいでしょう」 「用心してやれば大丈夫よ」 「分りました。ともかく、額が大きいですからね」  市川は、ノートを見ながら、「今日の夕食ですが、メニューを見ておいて下さい。必要ならかえさせます」  と、言った。 「——大した女だ」  ハイヤーが猛《もう》スピードで走り去るのを、畑健一郎は見送って言った。 「凄《すご》い車だね」  と、健吾は感心している。  二人も車に乗っているのだが、大分|桁《けた》が違《ちが》うのである……。 「さて、俺《おれ》は本部へ行くぞ」  と、健一郎は言った。「降りろ」 「え?」  健吾はキョトンとしている。 「車から降りるんだ」 「どうして? 押《お》さないと、エンジンかかんないのかい?」 「いいか。——あの娘を見張るんだ。マリとか言ったな」 「あのメイド? どうして?」 「ちっとも分っとらんな」  と、健一郎はため息をついた。「いいか、あの娘の証言を聞いたろう。でたらめだ」 「例のパジャマのこと?」 「それだけじゃない。殴《なぐ》られて気を失ったとか、相手の顔を全く憶《おぼ》えていないとか……。あいつは共犯者だ」  健吾は仰天《ぎようてん》した。 「まさか!」 「確かだよ。俺の勘《かん》は」  と、健一郎は言った。「もとからそうだったのか、それとも、あそこで寝《ね》て、気が合ったのか知らんがな」 「そんな娘《こ》に見えないけど」 「見て分りゃ、こんな楽なことはない」 「まあ……ね」 「〈夜の紳士《しんし》〉の狙《ねら》いは別にある。何か情報をつかんでいるんだ。そうでなきゃ、こんな所まで来て、忍《しの》び込《こ》むはずがない」 「どこかに金ののべ棒でも隠《かく》してあるのかな?」 「ともかく、現金がどこかにあるか、でなきゃ、ここで現金を使うことがあるのに違《ちが》いない。——あまり表沙汰《おもてざた》にできないことでな」 「その金を狙って?」 「あのマリって娘、それを見張るために、ここへ入りこんだのかもしれん。身許《みもと》を洗え」 「分ったよ」 「いや、それは俺が手配しておく。——お前はあの娘が〈夜の紳士〉に連絡するのを、監視《かんし》するんだ」 「しなかったら?」 「必ずする。俺の勘《かん》を信じろ」  健一郎は、息子の肩《かた》を叩《たた》いた。 「で——逮捕《たいほ》するの?」 「当り前だ。〈夜の紳士〉を見付けて、サインでもしてもらうのか?」 「別に——」 「しかし、ただ逮捕するんじゃ、面白くも何ともないな」  と、健一郎は言った。「できることなら……。狙い通り、この屋敷《やしき》へ忍《しの》び込《こ》ませて、そこを逮捕する! それが一番だ。——いいな、あの娘から目をはなすなよ」 「うん……」  車から降りると健吾は、「でも——ずっと僕《ぼく》一人で見張るの?」 「二、三日飯なんか食わなくても、死にやせん」  健一郎がドアを閉め、車は走り去った。  呆然《ぼうぜん》と見送った健吾は、 「——冗談《じようだん》じゃないよ」  と呟《つぶや》いた。  こんな道の真中に放り出されて、どうすりゃいいんだ?  見張るといったって……。  TVや映画の刑事物《けいじもの》だと、ちょうど向い側に空家があったりするものだが、ここは全然そんなものがない。 「参ったな」  と、健吾は頭をかいた。  何か音がした。——細川|邸《てい》の門のわき、小さな通用口が開いて、誰《だれ》か出て来る。  健吾は、あわてて駆《か》け出した。見られちゃまずい!  といっても……。隠《かく》れる所も……。  通用口から出て来たのは、マリと、犬だった。  買物なのか、ショッピングカートを引いて、歩いて行く。黒い犬がトコトコと、その後をついて行った。  マリは何やら考えに沈んでいる。——道端のポリバケツのふたが少し持ち上っているのにも、全く気付かなかった。  マリと黒い犬が通り過ぎると……。健吾はポリバケツから顔を出した。  何か、隠れる所を見付けなきゃ!  ゴミの匂《にお》いにへきえきしながら、バケツから出ようとした健吾は、みごとにバケツごと引っくり返ってしまった。 [#改ページ]  9 天使の悩《なや》み 「どうしたんだよ、おい」  と、ポチが言った。  マリは答えない。ただうつむいて、ショッピングカートを引いて歩いているだけである。 「おい——」 「うるさいわね。放っといてよ」  と、マリが言った。 「フン」  と、ポチが鼻を鳴らした。  また少し行って、ポチが言った。 「なあ——」 「黙《だま》ってて、って言ったでしょ」 「道が違《ちが》うぜ」  マリは顔を上げて、 「いけない! そこの角、曲るんだった」  と、あわてて、戻《もど》って行った。 「だから言ったじゃねえか」 「もっとはっきり言ってよ」 「何を苛々《いらいら》してんだよ」 「あんたの責任もあるんだからね」 「あの泥棒《どろぼう》のことか。——だけど、考えてくれよ。俺は悪魔《あくま》だぜ。人がせっかく悪いことをしようとしているのに、邪魔《じやま》できないじゃないか」 「あんた、あそこでご飯をもらってるのよ。ちっとは恩を感じなさいよ」  ——マリは、もちろん、泥棒に入られてしまったことで、責任を感じていた。  しかし、こんなにも悩《なや》んでいるのは、そのためではないのである。 「何を気にしてんだ?」  と、ポチが言った。「あのことか? お前が気絶している間に——」 「やめて、やめて!」  と、マリは急いで言った。「もう忘れたいの」 「何も憶《おぼ》えてないのに、どうやって忘れるんだよ?」 「うるさいわね」 「気になるのなら、ちゃんと診察《しんさつ》してもらやあ良かったんだ」 「いやよ」  と、マリはふくれた。「私——もう天国へ戻《もど》れないわ、そんなことになってたら」  ポチは、一人で(?)忍《しの》び笑いをしている。  ——全く、何も知らないんだからな。このガキは。  天使とはいっても、今は生身《なまみ》の女の子だ。もちろん、男なんか知ってるわけはないが、もし[#「もし」に傍点]あの泥棒に乱暴されたというのなら、それが自分で分らないわけはない。つまり、そんなことも、マリには分らないのである。  ただ、——ポチとしては、そんなことをマリに言ってやる気はさらさらない。何といっても、ポチにはある目的[#「目的」に傍点]があるのだ。  マリは知らないが、ポチは、「堕《お》ちた天使」を一人、道連れにしないと、ずっと地獄《じこく》へは帰れない。そのためには、このマリにくっついているのが一番。  マリが、「人間なんて信じられない」と言うのを、ポチは待っている。天使がそんなことを言うのは、天使失格だから、ポチはマリを今度は自分の「家来」にして、永遠に地獄でこき使ってやれる、というわけなのである。  それには、マリが、あの泥棒に乱暴されたと思い込《こ》んでいた方がいい。人を恨《うら》めば、信じることもできなくなるだろうし、やけになって、何か罪を犯すかもしれない。  そうなりゃ、大いばりで地獄へ帰って行ける! もう「落ちこぼれ」じゃなくなるんだ。  ま、今の内はおとなしく、言うことを聞いていてやろう。——その内には、きっと……。  見てろよ、今に……。 「——ま、天国だって分ってくれるさ」  と、ポチは気休めを言ってやった。「何も好きで男にものにされたわけじゃないんだしな」 「言うな!」  マリにけとばされそうになって、ポチはあわてて逃《に》げた。 「おいおい。物騒《ぶつそう》だな。八つ当りはやめてくれよ」  と、ポチは文句を言った。 「——それだけじゃないのよ、私の心配は」 「へえ。他にも何かあるのかい?」 「だめ、あんたにゃ言わないわ」 「俺《おれ》に言ったって、別に誰《だれ》にもしゃべれないんだぜ」  そりゃ確かだ。——マリは、ため息をつくと、 「私ね——」  と、言いかけて、「あ、もうスーパーだ、あんたここで待ってて」  チェッ、犬があんな所にも入れないなんて! 人間だって、よほど汚《きた》ねえのがいくらもいるのに……。  ブツブツ言ってから、ポチは、木の陰《かげ》に入って、マリがスーパーへ入って行くのを眺《なが》めていた。  すると——。 「何だ、買物か」  と、呟《つぶや》く声がした。  見上げると、さっき、細川|邸《てい》へ来ていた若い方の刑事《けいじ》である。  ポチのいることには全く気付かない様子で、スーパーの入口の見える辺りに、ちょっと身を隠《かく》している。 「こりゃ面白いや」  と、ポチは呟いた。  あの刑事、どう見ても、マリを尾行《びこう》して来たのだ。天使が刑事に尾行されるってのも、なかなか珍《めずら》しい光景であろう。  すると、警察はマリのことを「怪《あや》しい」と思っている。——なるほど。  ポチには、マリが一人で考えている理由が、少し分って来た……。 「——お豆腐《とうふ》。——バターと牛乳」  メモを見ながら、マリは、店内用のかごを引いて歩いていた。「大体すんだみたいだわね……」  和代さんは、牛乳の日付とかにうるさい。よく見て、一日でも新しいものを、としつこく言われているのだ。  細かいし、口うるさいが、悪い人じゃない。マリは、頼《たよ》りになるので、むしろ好きだったのだ。  でも……。この私が、泥棒の手引きをしたなんて分ったら、今は優しいあの加津子さんも、和代さんも、口もきいてくれなくなるだろう。  もちろんマリは捕《つか》まって刑務所《けいむしよ》……。  年齢《ねんれい》が若いと、鑑別所《かんべつしよ》とかいう所へ入れられるらしい。TVでやってたわ。  でも——本当に、そんなつもりはなかったのに!  マリは、あの〈夜の紳士《しんし》〉に殴《なぐ》られた。  もちろん、それもショックだったが、むしろ気にしていたのは、〈夜の紳士〉の言ったことの方だった。 「——分るかい?」  と、拳銃《けんじゆう》を突きつけながら、あの男は言ったものだ。「もう君は私の共犯者なんだからね」 「そんなのないわ」 「いや、本当さ。もし捕まって、どうやって入ったか、と訊《き》かれたら、君が色々教えてくれた、と話す」 「そんな!」 「嘘《うそ》じゃない。そうだろ? しゃべらなかった、って言うのかい?」  マリも、正直なところ、憶《おぼ》えていなかったのだ。しかし、絶対にしゃべらなかった、とは言えない。  相手の巧《たく》みな話術のせいもあるだろうが、色々とおしゃべりをした。それは憶えている。ただ、その中身となると……。 「君が、いくら否定しても、事実、しゃべっているんだからね。君は共犯ってことになる。なに、うまく行ったら、ちゃんと分け前をあげるよ」 「いらないわ」  と、マリは言い返した。 「例の大金の入る日が分ったら、知らせてくれるね」 「そんなこと——できるわけないわ」 「できるさ、君はもう私の共犯者なんだからね」  と、〈夜の紳士〉は笑った。 「違《ちが》うわ! 違う! 私は共犯者なんかじゃない!」  違うわ、違う! 私は——私は——。  マリは、レジの行列に並《なら》んだ。  この辺、あまり家はないが、それでも、スーパーも少ないのだろう、車で買物に来る客が多くて、結構|混《こ》み合うのである。  ——私が捕《つか》まらないように祈《いの》るんだな。もし捕まったら、君も一緒《いつしよ》だよ。  あの男は、そう言った……。  マリは、もう、刑事《けいじ》に嘘《うそ》をついてしまっている。あの男の顔、当然のことながらよく憶えているのだ。しかし、マリは、「分らない」と答えた……。  あの男の捕まるのが怖《こわ》いのである。  マリのこともしゃべるだろう。それに、マリに乱暴したことも。  それが、世間に知れ渡ってしまう。——そう思うと、マリは言えなかったのである。  レジの列はのろのろと進んで、やっとあと一人で、マリの番になった。大体の値段は分っている。財布《さいふ》を取り出して、マリは中のお金を確かめた。  すると、 「これを一つ追加だ」  ポン、とかごの中へ、缶詰《かんづめ》が一つ入れられた。マリはびっくりして、 「あの、間違えないで下さい」  と振《ふ》り向いた。  スポーツシャツにカーディガンをはおった〈夜の紳士〉が、立っていた。  マリが呆然《ぼうぜん》としている間に、前の客は精算を終えていた。 「ほら、早くしろよ」  と、男は、マリのかごを、レジのカウンターへのせてやった。「向うで待ってるよ」  マリは、集計されている間に、あの男の方を、チラチラと見た。——なんて図々しい男だろう!  支払いをすませる。かごと、大きな紙袋《かみぶくろ》を手に、マリは、空いた台の所へ行った。 「手伝おうか」  と、男がやって来る。 「結構よ」 「周囲の目があるよ」  男は、低い声で言った。「ショッピングカートはどれ?」  マリは、少しためらってから、 「左から三番目の大きいの」  と、言った。  男がそのショッピングカートを引いて来る。 「かばってくれてありがとう」  と、男が言った。 「私が?」 「人相も何もニュースに出ていないからね」 「それは——」  と、言いかけて、マリは詰《つま》った。 「まあ、私の言う通りにしておけば、間違いないよ」 「今日も別の刑事さんが来たわよ」 「知ってる」 「逃《に》げられっこないわ」 「君を殴ったのは悪かった」  と、男が言ったので、マリはドキッとした。 「やめて、人が聞いてるわ」 「いいじゃないか。——あれが、君を疑わせない一番いい方法なのさ」  マリは、男を見つめて、 「あなたは——」  と、言いかけて、やめた。 「まあ、聞き耳を立てといてくれ」  と、男は包みの中の缶詰《かんづめ》を取り出して、「この分は、ちゃんと払うよ」  マリの手に缶詰代を、一円玉までまぜてぴったり置くと、 「例の日が分ったら、知らせてくれるね」  と、言った。 「そんなこと……。私なんかに話してくれないわ」 「分るさ。いつになく、人が集まる。珍《めずら》しい客がね。当然、もてなす用意、それは君の仕事だ」 「だからって、ただのお客かもしれないでしょ」 「それはこっちで判断するよ、知らせてくれれば、それでいい」 「無理よ」  と言ってから、マリは、「あなたにどうやって連絡すればいいの?」  と、訊《き》いた。 「訪ねて来てくれても構わないよ」  男は、ポケットから、カードを取り出した。「このホテルだ」 「ホテル?」 「ビジネスホテル。フロントが無人で、支払いもクレジットカード。全く人に会わずに出入りできる。こういう仕事には便利だよ」 「ここにずっと?」 「この二、三日はここにいる。ちゃんとビジネスマン風の格好でね」 「——分ったわ」  マリは、そのカードを持って、「もらっておいていい?」 「ああ。昼間はたいてい部屋にいるよ」  と、男は言った。「じゃ、待ってるよ」  マリは黙《だま》っていた。  男は行きかけて、 「——別に、その情報がなくても、来て構わないんだよ」  と、言った。「ビジネスホテルでも、ベッドはあるからな」  マリは、真赤になって、男がスーパーを出て行くのを、見送っていた。  ——外へ出ると、ポチが退屈《たいくつ》そうに歩いている。 「帰るわよ」 「遅《おそ》かったな」 「大変なのよ、買物っていうのは。あんたみたいに遊んでいらんないんだからね」 「へへ、ご機嫌斜《きげんなな》めだな」  ポチは、マリについて歩き出した。ふっと振《ふ》り向くと、あの刑事《けいじ》がついて来ている。  ——よしよし。しっかり見張ってろよ、この可愛《かわい》い天使さんを。  ポチは、ちょっと陽気にステップなど踏《ふ》みながら、歩いて行った……。 [#改ページ]  10 背 信 「お疲《つか》れ様でした」  と、市川は、加津子に言った。「車が待っています」 「ありがとう」  付合いは終った。——もう夜中の十二時近い。  女社長とはいえ、時によっては、深夜まで酒に付合うこともある。——もっとも、加津子は、たいていの男よりもアルコールには強いのである。  バーを出て、表に停《とま》っているハイヤーに加津子は乗り込んだ。 「——市川君、どうするの?」 「僕は、ちょっと会社へ寄ります」 「会社へ?」 「仕事を思い出しまして。では、明日」  市川がドアを閉めると、ハイヤーは走り出した。  市川は、車が見えなくなるまで見送っていたが、やがて、フッと肩《かた》を落とした。 「——ねえ」  女の声に振《ふ》り向く。「一杯《いつぱい》おごってよ」 「忙《いそが》しいんだ」  と、市川は女の手を払《はら》いのけて、歩き出した。 「フン、ケチ!」  と、女の声が飛んで来る。  市川は足を止めると、クルッと振《ふ》り向いて、女の方へ足早に歩み寄った。 「な、何よ!」  安物の毛皮をはおった女が、ギクッとしてのけぞる。  市川が、平手で女の顔を打った。女は悲鳴を上げて、よろけた。 「痛いじゃないの……」  女の声は怯《おび》えていた。  市川が札入れを出して一万円札を三枚抜き、投げ出した。 「俺《おれ》に向って、ケチなんて口をきくな!」  市川は、そう叩《たた》きつけるように言って、歩いて行く。——もちろん、女は一万円札が風で飛ばない内に、あわてて拾《ひろ》ったのである。  一発叩かれて三万円なら、まあ悪くもないわね、などと考えていた。——今度会ったら、また「ケチ」と言ってやろう……。  市川は、ビルの通用口の鍵《かぎ》を開け、中に入った。  警備は、外に依頼《いらい》してあるので、決った時間に回って来るだけだ。  市川は、中に誰《だれ》もいないことを確かめて、もう一度、通用口のドアを開けた。  空っぽの駐車場《ちゆうしやじよう》が見える。 「——遅《おそ》いな」  と、呟《つぶや》く。  腕時計《うでどけい》に目をやる。——もう約束の時間は過ぎていた。  すると、いきなり、後ろで、 「誰か捜《さが》してるのか」  と、声がしたので、市川は飛び上った。 「——誰だ!」 「ご挨拶《あいさつ》だな」  と、その男は笑った。「人を呼んどいて、その言い方はないぜ」  市川は、息をついて、 「君が——」 「中村《なかむら》、と呼んでくれ」 「中村? 僕《ぼく》の聞いたのは——」 「この職業じゃ、年中、名前を変えてるよ」  がっしりした体格を、コートの下に隠《かく》している。顔立ちは少しいかついが、笑顔はいかにも穏《おだ》やかだった。 「どうやって入った?」  と、市川は訊《き》いた。 「ここへ入れないようじゃ、話をしても仕方ない」  と、中村[#「中村」に傍点]という男は言った。「話を聞こうか」 「よし。——上に行こう」  市川は、階段を上って行った。  ——社長室へ入ると、窓のブラインドを下ろし、明りを点《つ》けた。 「かけてくれ」 「ああ。——いい趣味《しゆみ》だ」 「社長は女性だからね」 「なるほど、あんたは、その秘書ってわけか」 「その通り。何か飲むかね」 「いや、結構。——話を聞きたい」 「うん……」  市川は、自分の椅子《いす》を、ソファの近くまで引張って来た。「どうも、これに座ってないと、落ちつかなくてね」 「相当重症だな」  と、中村と名乗った男は笑った。 「その外見を保つのに、神経を使うさ」  と、市川は言った。「その分、どこかでバランスを取らないとな」 「なるほど」 「それには、多少、経費がかかる」  市川は、少し間を置いて、「それが少しかかり過ぎてね」 「会社の金に、手をつけた、か」 「まだ分っていない」  と、市川は肯《うなず》いた。「しかし、あと何か月も秘密のままにはしておけない」 「それで?」 「君に仕事を頼《たの》みたい」 「何をする? 帳簿《ちようぼ》でも盗《ぬす》み出すのか?」 「それじゃ、ただ隠すだけ。しかも、どうしてそんなものを盗むのか、却《かえ》って疑われてしまうよ」 「では?」 「穴埋《あなう》めするに充分《じゆうぶん》な金を盗む。当然君への報酬《ほうしゆう》も、そこから出る。そしてまだ[#「まだ」に傍点]残る」 「うまい話だ。しかし、疑われるんじゃないのか?」 「この金は、公然の取引き用じゃない。裏での、つまり人には言えない金だ。大丈夫《だいじようぶ》。まず一一〇番される心配はない」 「ほう」  中村は眉《まゆ》を上げた。「面白そうな話だな」 「だからこそ、狙《ねら》うんだ」 「しかし、そんな金なら、なおのこと、あんたに容疑がかかるんじゃないのか」 「そこだよ」  市川はニヤリと笑った。「もちろん、どんな大金でも、手は出せない。いつもなら[#「いつもなら」に傍点]、だ。ところが、そこへつい先日、泥棒《どろぼう》が入ったのさ」 「待ってくれ」  と、中村は遮《さえぎ》った。「それはあの——〈夜の紳士《しんし》〉のことか?」 「察しがいいな。その通りだ」 「それで?」 「奴《やつ》も、その金のことを知っているかもしれない。狙《ねら》ってもおかしくはない」 「なるほど。すると、こっちで盗《ぬす》んでも、〈夜の紳士〉がやったと判断される、か」 「チャンスだ! 他の時じゃ、だめなんだ。分るだろう?」 「分るよ」 「三日後、あの屋敷《やしき》に、億《おく》単位の現金が集まる。それを君がいただいて、罪は〈夜の紳士〉にかぶってもらう」 「面白いな」 「これを使うんだ」  上衣の内ポケットから、市川は、白い手袋《てぶくろ》を取り出した。「盗んだ現場に置いて来る。——どうだ?」  中村は、その手袋を取り上げて、 「同じ物か?」 「同じ物を捜《さが》した」 「なるほど。——あんたは頭のいい男らしいな」  中村は手袋を返した。 「まあ、こんな所だ。——どうだ?」 「やろう。こういう面白い仕事は珍《めずら》しい」  と、中村はニヤリと笑った……。  部屋のドアの前に立って、マリは、ためらっていた。  ここまで来ちゃったんだから、という気持と、まだ間に合う、引き返そう、という気持とが、マリの中で押《お》し合いをくり返していた……。  ドアが開いた。 「来たね」  と、〈夜の紳士〉は言った。「さ、入って」 「どうして分ったの?」  と、部屋の中へ入って、マリは訊《き》いた。 「ドアの下には細い隙間《すきま》があってね」  と〈夜の紳士〉は言った。「人が立つと影《かげ》になる。——ま、狭《せま》いが、座れよ」  本当に狭い部屋だ。——マリは、ちょっとびっくりした。  今、あんな広い邸宅《ていたく》にいるせいで、余計にそう感じるのかもしれない。 「お茶ぐらいしかないよ」 「結構です」  とマリは言った。 「それで、と……。何と言って出て来たんだね?」  と、相手はベッドの上に腰《こし》をおろした。  椅子《いす》は、今マリが座っている一つしかないのだ。 「今日?——ちょっとお友だちと会う、と言って」 「なるほど、嘘《うそ》じゃないね」  と、男は笑って、「で——何か知らせることがあったんだろう」  マリは、ハンカチを手の中で、握《にぎ》りしめていた。——しばらくは黙《だま》り込《こ》んだまま。 「一つ、教えて」  と、マリは言った。 「何を?」 「正直に——本当のことを教えて。絶対に嘘をつかないで」 「何だい、思い詰《つ》めた顔して」 「それに、本当に正直に答えてくれたら、話します」  マリは、じっと男を見つめた。「——いい?」 「ああ」  マリは、大きく息を吸った。 「この間……あなたが私を殴《なぐ》った夜」  と言った。 「うん。ありゃ悪かった。ああしないと、君が疑われる」 「それはいいんです。ただ——あの後のことが——」 「後のこと?」 「私……あなたにその……どうだったんですか。何も憶《おぼ》えていないの。自分でも、何か[#「何か」に傍点]あったのか、なかったのか、分らなくって……」  マリが泣き出したのを見て、男はびっくりした様子だった。 「君——おい、しっかりしろよ」  と、歩み寄って、マリの肩《かた》をつかむ。 「ごめんなさい……。ずっと——ずっと、どうしよう、と思ってて……」  マリはハンカチで涙《なみだ》を拭《ふ》いた。「泣くつもりじゃなかったのに……」 「君は——何者なんだ?」  と、男は、マリを見つめながら、訊《き》いた。 「私——天使[#「天使」に傍点]」 「何だって?」 「天国から、研修に出されたの。人間のことを勉強して来いって。あのお宅に雇《やと》ってもらって……。でも、いつか天国へ帰らなきゃいけないの」 「天使……」 「でも、あんなこと[#「あんなこと」に傍点]が、もし本当にあったら——私、天国へ帰れない」  マリは、涙《なみだ》のしみ込《こ》んだハンカチを握《にぎ》りしめた。「——お願い。本当のことを、教えて」 〈夜の紳士《しんし》〉は、不思議な目で、マリを見ていた。それはマリがハッとするほど、澄《す》んだ、優しい目だった。 「そうか」  と、肯《うなず》く。「君は天使か」 「信じてくれないでしょうけど——」 「いや、信じる」 「本当?」  今度はマリの方がびっくりする番だった。その言い方が、皮肉でも何でもない、本当の気持のようだったからである。 「信じるさ。——君みたいな娘《こ》が、いるなんて思えないからね。君がそんなに胸を痛めてるとは知らなかった。許してくれ」 「そんな——」 「確かに、君が被害者らしく見えるように、殴った後で、君のパジャマを引き裂《さ》いたりした。しかし、それ以上のことは何もしていないよ」  マリが、息を呑《の》んだ。 「本当?」 「ああ。天使に嘘《うそ》はつかないよ」  マリは、体中の緊張が緩《ゆる》む思いで息をついた。そして——〈夜の紳士〉へ駆《か》け寄ると、頬《ほお》にチュッとキスした。 「おやおや。天使のキスとは嬉《うれ》しいね」  と、男は微笑《ほほえ》んだ。 「約束を守るわ。——お金が集まるのは、たぶん明日だと思う」 「明日?」  マリは肯《うなず》いて、 「夜、十時ごろから食事を出すことになってるの。和代さんが、『明日は特別なお客さまだから』って、夜中まで残るのよ」 「なるほど、間違《まちが》いないようだね」 「これしか私は知らないわ」 「いや、ありがとう」  と、〈夜の紳士〉は言った。 「でも、分らない。なぜ、あなたが泥棒《どろぼう》を?」  と、マリは訊《き》いた。「いい人なのに」 「これにはね、まあ、ちょっとしたわけ[#「わけ」に傍点]があるのさ」 「やっぱり。あなたは普通の泥棒じゃないのね」  男は笑って、 「普通の泥棒か。——しかし、二十年前に、〈夜の紳士〉として知られていたことは確かなんだよ」 「有名だったの」 「まあね。しかし——あることがあって足を洗った。そして二十年余り……。また久しぶりで、一仕事ってわけだ」 「私、よく分らないけど……。あなたはお金を盗《ぬす》むために忍《しの》び込《こ》むんじゃないような気がする」  男は、マリの肩《かた》に手をかけて、 「ありがとう。君に会えて良かった」  と、言った。「明日、会えるかどうか分らないがね」 「気を付けてね」  と、マリは言った。「捕《つか》まらないで」 「ああ」  と、〈夜の紳士〉は肯いて、言った。「捕まらないよ、私は」 [#改ページ]  11 変質者  江美は、タクシーを降りて、周囲を見回した。 「ここでいいのかしら?」  自信がない。ともかく、こんな郊外《こうがい》の方まで、出て来たことがない。もちろん旅行でもするのならともかく。  確かに、こんな所によくお客が来るわ、と感心したくなるようなスーパーがあって、でも、一応客も入っているようだ。  駐車場に何台か自家用車が入っている。みんな車でやって来るのだろう。  このスーパーの前。——確かに、健吾はそう言ったのだ。  時計を見ると、十分ほど、約束の時間を過ぎている。何といっても、都心から遠いのである。健吾にも分っているはずだ。  スーパーの前に、小さな公園ができていて、子供たちが三、四人、遊んでいた。  もちろん、砂場とブランコ、シーソーぐらいしかないのだが、親が買物している間、子供を安全に遊ばせておくための公園なら、これで充分《じゆうぶん》だろう。  江美は、その中の小さなベンチに腰《こし》をおろした。——日が当っていると、そう寒いこともないのだが、時折吹きつける風は、襟首《えりくび》をかすめて、思わず首をすぼめさせる。  江美は、手にさげていた袋を膝《ひざ》に置いて、中を覗《のぞ》いた。 「これで全部よね……。お弁当、お茶、ハンカチ、カミソリ……」  合宿でもやってんのかしら、あの人?  江美は、子供たちが遊んでいるのを、ぼんやりと眺《なが》めていた。——風を冷たいと感じるほどの余裕《よゆう》もないだろう。子供は、大人《おとな》よりずっと生きることに忙《いそが》しい……。  江美は、思わず微笑《ほほえ》みながら、子供たちを見ていた。このところ、気が重いことが多いので、こんな風にぼんやりと子供たちを見ているのが、思ってもいなかったくらい、楽しいのである。  ——子供が一人、転んだ。  あ、と思って、江美は立ち上りかけた。  子供が膝をすりむいたらしい。ワーッと泣き出した。他の子たちは、当惑《とうわく》した様子で、それを見ている。  江美は、声をかけたものかどうか、迷った。親はきっとスーパーの中にいるのだろう。  泣いているのを見れば、急いで駆《か》けつけて来るだろうが、気付かないのかもしれない。  江美がためらっていると、 「あらあら」  と、駆けて来た女の子がいた。  ショッピングカートを引いて、エプロンをした、まだずいぶん若い女の子だ。十六、七というところではないだろうか。 「どうしたの? あら、すりむいてる。——痛い?」  その少女は、急いで水のみ場へ駆《か》けて行くと、ハンカチを水で濡《ぬ》らし、泣いている子の方へ駆け寄った。 「はい。——ちゃんと拭《ふ》こうね。大丈夫《だいじようぶ》。もう血も出てないわ。——ねえ、もう大丈夫よね?」  少女がニッコリ笑いかける。  泣きべそをかいていた子——こっちは男の子だった——が、その少女の笑顔を見ている内に、何となく泣きやんだ。 「はい。——涙《なみだ》をふいて。——お鼻かんで」  少女は、子供の頭を撫《な》でてやると、「いい子ね、強いな。じゃ、おとなしく、ママを待ってるのよ」 「ママじゃないや」  と、その子供が言った。「お母さん、だい!」 「そうか。じゃ、お母さんの前で、ちっとも泣いてないってことを見てもらおうね。——バイバイ」 「バイバイ」  子供が素直に手を振《ふ》る。  少女が、ショッピングカートを引いて、歩き出す。 「待たせたわね」  と、少女が声をかけたのは、黒い大きな犬だった。  まるで返事をするように、ウーと唸《うな》っている。 「今夜もお客なんだから、しょうがないじゃないのよ。突然だったんだし」  少女が、犬と[#「犬と」に傍点]話しながら、歩いて行く。 「——面白い子」  見送って、江美は思わず呟《つぶや》いた。  つい、見ていて微笑《ほほえ》んでしまう。赤ん坊のような、自然の可愛《かわい》さがある。  だから、犬と話しているような、その光景が、あまり奇妙《きみよう》なものに見えないのだ。  ——あの男の子は、すりむいたことなどもう忘れてしまったかのように、駆け回っている。  あの少女のように、ごく自然に、泣いている子へ駆け寄って、手当してやるということは、なかなかできない。——親が見たら、何か言われるかもしれないし。  それを、あの少女は、本当に当り前のようにやったのである。  江美は、不思議な少女だわ、あの子、と思っていた。  さて——もう時間も過ぎているが。  健吾はどうしたのか。気になって、ベンチから立ち上り、周囲を見回していると——。  スーパーから大きなエプロンをつけた男が出て来た。当然、スーパーの店員だろう。  そして、なぜか真直ぐに、江美の方へやって来たのである。 「失礼ですが」  と、江美に声をかける。 「は?」 「お名前をうかがわせていただけますか」 「私、ですか」  江美は戸惑《とまど》った。「結城といいます」 「結城さんですか。あの——畑という人をご存知で?」 「ええ」 「畑健吾という人ですか」 「ここで待ち合せてるんです。お店に電話でも?」 「いや、そうじゃないんです。実は——」  と、店員は言いかけて、「畑さんってのは、何をしてる人です?」 「あの——刑事《けいじ》です。警官ですわ。でも、どうして?」 「そうですか……」  と、店員は頭をかいて、「いや——ともかく、どうぞ」 「はあ……」  江美はわけの分らないまま、店員について、スーパーの中へ入って行った。  店内は、外から見ている印象より広い。よく整理されている、と江美は感じた。  店を奥《おく》まで突っ切って、 「どうぞ」  と、店員が、荷物を搬入《はんにゆう》する口の扉《とびら》を開けた。  段ボールの山の間を抜《ぬ》けて、さらに奥のドア。 「——お待たせして」  と、店員がそのドアを開けて言った。  中を覗《のぞ》くと、正面に、畑健吾が、仏頂面《ぶつちようづら》で椅子《いす》に腰《こし》かけている。周囲で、三、四人、戸惑《とまど》ったような顔で立っていたのは、やはりこのスーパーの店員らしかった。 「どうしたの?」  と、江美は訊《き》いた。  健吾は、ジロッと左右の男たちをにらんで、 「あの公園で君を待っていたんだ。そしたら、急にこいつらがやって来て、『ちょっと来て下さい』って……。僕《ぼく》のことを、子供を狙《ねら》ってる変質者か何かだと思ったらしくてね」 「まあ、見せなかったの? あの——」 「警察手帳も、証明書も見せたよ。だけど偽物《にせもの》かもしれない、とかぬかしやがって」 「本当に刑事《けいじ》なんです、この人。張り込みの最中で、こんななりしてますけど」  そう言いながら、江美も、これじゃ疑われても当然ね、と思っていた。  何しろ、無精ひげをのばし、頭もボサボサ。一歩|間違《まちが》えば、浮浪者《ふろうしや》である。 「——どうも誤解だったようで」  と、責任者らしい男が謝った。 「冗談《じようだん》じゃない! おかげで尾行《びこう》してた相手に逃《に》げられたじゃないか!」 「いや、全くもって、どうも——」 「そう怒《おこ》らないで」  と、江美が、健吾に言った。「お店の方も、これだけ防犯に気をつかっているってことなんだから」  そう言われると、健吾も、ムッとしながらも、黙《だま》らざるを得ない。 「——あの、ちょっとお弁当をここで食べていいでしょうか」  と、江美が言うと、 「どうぞどうぞ!——おい、お茶をさし上げて! 何なら、売場の方のおそうざいをどれでもお取り下さい!」  たちまち大サービスで、二人はお茶だけでなく、粉末ながら、ミソ汁も飲めることになった。 「——やれやれ」  健吾は、弁当を食べて、江美の持って来た電気カミソリでひげを剃《そ》ると、やっと落ちついた様子だった。 「お腹《なか》、大丈夫《だいじようぶ》?」 「急に食べたら、痛いよ」  と、健吾は顔をしかめた。「でも、快い痛みってやつだ」 「何だか大仕事なのね」 「うん。有名な泥棒《どろぼう》なんだ。今、僕が見張ってるのは、その共犯者だけどね」  と、健吾が言った。 「——食後のデザートを」  と、店員が、アイスクリームを持って来た。「コーヒーもすぐにおいれします」 「お構いなく」  笑いをこらえながら、江美は言った。 「——連絡がなかなかできなくてね」 「お仕事だもの。仕方ないわ」  と、江美は言って、「共犯者ってどんな——」 「屋敷《やしき》で働いてる女の子さ。泥棒の手引きをしてるんだ。まだ十六ぐらいだけどね。今、親父が身許《みもと》を洗ってる」 「へえ。——十六ぐらいの女の子?」 「黒い大きな犬を、いつも連れて歩いてる」  江美はドキッとした。 「見たわ、その子なら。犬を連れて帰って行った」 「そうか。——ま、逃《に》げやしないと思うけどね」 「でも……。そんな子に見えなかったわ」 「昼間、どこだかへ出かけてたんだ。尾行しそこなったけどきっと、〈夜の紳士《しんし》〉に会いに行ったんだよ」 「〈夜の紳士〉?」 「そう名乗ってる、有名な泥棒なんだ」 「そう」 「もし、僕《ぼく》がそいつを捕まえたら……。きっと課長が目をむいて失神するだろうな」  健吾が、こんなに張り切っているのを、江美は初めて見た。もちろん、それはいいことなのだろうが……。  しかし——江美は、あの膝《ひざ》をすりむいた子供に笑いかけた、あの少女の輝くような無邪気《むじやき》さを、忘れられなかった。 「——どうも先日は」 「畑さんでしたね」  と、加津子は言った。「今日は急の来客がありますので、ここでお話をうかがいますわ。手短にお願いします」 「結構です」  と、畑健一郎は、言った。  玄関《げんかん》ホールに、簡単な応接セットは置いてあるが、二人は立ったままだった。 「実は、あのマリという娘《むすめ》のことですが」 「今、買物に出ていますわ」 「分っています。それでこうしてうかがったんです。——あの娘をどうして雇《やと》われたのか、話していただけませんか」  加津子は、車ではねたとも言えないので、あの娘と犬が道で倒れているのを見つけて、連れて来たのだ、と説明した。 「——奇妙《きみよう》な話ですな」 「記憶《きおく》を失ったというのが本当かどうか、私も分りませんわ。でも、本人がそう言っているのを、嘘《うそ》だと決めつける気にもなれませんし」 「しかし……。当ってみたところ、ああいう娘の行方《ゆくえ》不明の届は出ていません。犬と一緒《いつしよ》、という届もね」 「そうですか。でも、私には何の関係もないことですわ」 「犬の鑑札《かんさつ》を調べれば分るかもしれませんな」 「その必要がありまして?」 「そう思います」  加津子は、真直ぐに畑健一郎を見つめて、 「私が[#「私が」に傍点]そう思わないのですから、問題はないと思いますが」  と、言った。 「しかし、もしあの娘《むすめ》が、わざとこのお宅へ入りこんだとしたら? 身許《みもと》も分らない娘を雇《やと》い入れるのは、こういうお宅では甚《はなは》だ物騒《ぶつそう》ですよ」 「構いません」  健一郎は、ちょっと戸惑《とまど》って、 「おっしゃる意味が——」 「たとえそうでも構わない、と申し上げているんです」  と、加津子は言った。「ここは私の家です。あの娘《こ》は、私が信頼して雇ったのです。ですから、あなたに色々と口出ししていただきたくありません」  健一郎は、肩《かた》をすくめた。 「分りました。——お邪魔《じやま》しました」 「失礼します」  加津子は、さっさと行ってしまう。  健一郎は細川|邸《てい》を出ると、首をかしげた。 「——どうしてあんなにあの娘をかばうのかな」  そして、ちょっと息をつくと、 「健吾の奴《やつ》、うまくやるといいが……」  と、呟《つぶや》いて、車の方へと歩き出した。 [#改ページ]  12 大きなネズミ 「変ねえ」  と、大山和代が首をかしげた。 「何か間違《まちが》えました?」  と、マリは訊《き》いた。 「いいえ、そうじゃないの。デザートが一つ足らないのよ」 「あら……」  マリは、台所の台にのせた皿《さら》を数えて、「おかしいわ。確かに四つあったんですよ」 「ねえ。——さっきのローストビーフも、皿によって一枚足らなかったり……。何だか妙《みよう》だわ」  今夜は、加津子が、知人を三人、招いている。——明日が「大変な夜」ということで、今夜はアルコールは少な目、早々にコースを終らせようということになっていた。 「いいわ。フルーツを切るから」  と、和代が言った。「デザートが一つ不足じゃ、お出しできないもの」 「じゃ、お皿を」 「フルーツ皿。その右の方のを四枚」 「はい!」  マリは急いで皿を出して、並《なら》べた。  和代のこういう時の手ぎわの良さは、正に芸術的である。——マリはつい見とれてしまうのだった。 「さ、運ぶのよ。——あわてて落とさないでね!」 「はい」  マリは何度かやらかしているのだ。  しかし、和代は、マリが懸命《けんめい》にやっている限り、決して怒《おこ》らない。——人間誰だって初めはうまくいかないもの。それが和代の口ぐせなのだった。 「——でも妙ね」  と、マリは、デザートをのせた盆《ぼん》を手に廊下《ろうか》を急ぎながら、呟《つぶや》いた。「つまみ食いする人もいないのに……。まさかネズミなんか出るんじゃないでしょうね」  と、言って——あ、もしかしたら!  マリは、デザートを出して、台所へ戻《もど》る途中《とちゆう》、裏口へと小走りに急いだ。 「——ちょっと」  と、犬小屋の屋根をコンコンと叩《たた》く。 「何だよ、うるさいな」  ポチが、ヌッと頭を出した。「せっかく人がいい気持で寝《ね》てんのによ」 「人じゃなくて犬よ、あんたは」  と、マリは言ってやった。 「フン、何だかいやに元気が良くなったじゃねえか。あんなにしょげ返ってたくせによ」 「大きなお世話よ」 「今泣いた天使がもう笑った、っていうんだぞ、そういうのを」 「変なの。——ね、あんた、台所のローストビーフとか、デザート、食べなかった?」 「ロ、ローストビーフ?」  むっくと起き上り、「どこにあるんだって?」 「あんたじゃないようね」  とマリは思い直した。「おかしいな、誰《だれ》が食べたんだろ」 「もうないのか」 「少し、半端《はんぱ》が出てるわ。それでよきゃ持って来てあげる」 「我慢するよ。デザートは?」 「デザートを要求する犬なんて、聞いたことないわ」  と、マリは苦笑して、「いいわ。じゃ待ってて」  マリが家の中へ入っていくと、ポチは欠伸《あくび》をした。——せっかく、あの可愛《かわい》い天使がふさぎ込《こ》んでいたのに、昼間出かけて帰って来たと思ったら、やたら元気になりやがって。  少々、がっかりである。天使が幸せでは、悪魔《あくま》にとっては、あんまり嬉《うれ》しい状況《じようきよう》ではない。  ま、しかし焦《あせ》ることもないさ。何しろありゃ、世間知らずの新入り天使(?)だからな。これからまだいくらでも機会は——。  メリメリ……。  頭の上で何だか音がして、ポチはギョッとして見上げた。犬小屋のすぐわきには、大きな木があって、枝《えだ》がのびているのだが、そこに誰かがぶら下っている。 「あ……あ……」  メリメリ、と音がして、枝が折れる!  ポチはあわてて飛びのいた。何しろ前に、あのマリが上に落っこって来て、ひどい目にあったことがあるのだ。  今度は早い内に分って、季節外れのサンタクロースだか何だか知らないが、その誰《だれ》やらは、みごとにドシンと地面に尻《しり》をぶつけたのだった。 「いて……いてて……」  と、呻《うめ》いて、なかなか立ち上れないでいるのは——何だ、とポチは呆《あき》れた。  マリのことを尾行《びこう》していた刑事《けいじ》じゃないか! 何やってるんだ?  ウー、ワン、と吠《ほ》えてやると、刑事は、 「ワッ!」  と、飛び上った。  ウー……。ポチが、ぐっと凄味《すごみ》のきいた声を出す。——何しろ真黒だし、体はでかいので、迫力《はくりよく》はなかなかのもの。 「ご、ごめんよ……。別に泥棒《どろぼう》するつもりじゃなくてね……。そ、それじゃ、さよなら……」  刑事は腰《こし》を押《おさ》えて、「いてて……」  と、呻きながら、庭の方へ駆けて行った。 「——変な奴《やつ》だな」  と、ポチは呟《つぶや》いた。 「はい、お待たせ」  と、マリが戻《もど》って来て、「今、何かドシン、って音がした?」 「気が付かなかったぜ、——おっ、うまそうなデザートだな」 「私にもらったのを半分にしたのよ、ありがたくちょうだいしなさい」 「相棒だろ。山分けは当然だ」  と、ポチは言って、まずはローストビーフの余りから食べ始めたのだった……。 「ああ畜生《ちくしよう》……」  刑事ってのは、痛い仕事なんだな、と畑健吾は思った。  おまけに犬には吠えられるし、ろくなことがないよ。——健吾はため息をついた。  江美のお弁当を食べはしたが、何といっても健吾はまだ若い。お腹が空いて、こっそり台所へ忍《しの》び込《こ》んで、つまみ食いをして来た。  要するに、「大きなねずみ」は、健吾だったのである。  まあ、ここの家のいいところは、庭が広くて、いくらでも隠《かく》れてられる、ってところだろう。幸い、この二日ほど、庭もそう冷え込まないので、助かっている。  健吾とて刑事である。多少は(?)父親に言われたことも憶《おぼ》えていて、明日の夜、何か[#「何か」に傍点]がありそうだということは、気が付いていた。  しかし——こうやって頑張《がんば》っていると、何となく、今まで、上から言われるままに駆《か》け回っていたのとは違《ちが》った充実感《じゆうじつかん》といったものもあり、これだけ苦労してるんだから、ということなのだろうか、絶対に〈夜の紳士《しんし》〉を捕《つか》まえてやろう、といった意地みたいなものが出て来るのだった。  健吾が木に上っていたのは、もし明日、例の〈夜の紳士〉がやって来たとして、どこから中へ忍び込むんだろうか、という研究をしていたせいだった。  少なくとも、あの木から枝《えだ》を伝って、では無理だということが分ったわけである。 「——明日か」  と、健吾は呟《つぶや》いた。  昼間の内にその情報をつかんだ健吾は、外へ出て、父親に連絡した。——マリがホテルに〈夜の紳士〉を訪ねていた時である。  健一郎は、息子の知らせに興奮していた。 「警官を出す。しかし、少ない方がいい。大勢だと、却《かえ》って奴《やつ》が逃《に》げやすくなるからな。いいか、お前が[#「お前が」に傍点]、奴を逮捕《たいほ》するんだ。俺《おれ》は、それを助けてやるだけなんだからな」  父親としても、これで息子が、これまでの不名誉《ふめいよ》を挽回《ばんかい》するのを期待しているのだ。その父親の気持が分るだけに、健吾は、ますます緊張《きんちよう》しているのだった……。 「少し寒いな」  健吾は、木立ちの間へ入って毛布にくるまった。——何とも広い庭だ。  健吾が父と住んでいる家にも庭はあるが、こんな広い庭を見てしまうと、あれは、単なる「隙間《すきま》」でしかなくなる……。 「そうだ……。江美さん——」  こんな時は、恋人《こいびと》のことでも考えるのが一番。考えるだけなら、いくら甘美《かんび》なラブシーンがあっても、別に文句は出ないだろう。  江美から、あの行方《ゆくえ》が分らなくなったという、池上のことも調べてくれと頼《たの》まれていたっけ。——しかし、ここにいては、何も調べられやしない。  待ってろよ。これが片付いたら……。  僕《ぼく》は一挙にヒーローになる。有名な泥棒《どろぼう》、〈夜の紳士《しんし》〉を捕《つか》まえたんだから! いや——もちろん、まだ捕まえちゃいないがね。 「すてきよ、健吾さん!」  とか何とか言ってくれて、僕に抱《だ》きつき、チュッとキスしてくれて……。  チュッと——ポタッ。  ん? 冷たいね。唇《くちびる》も冷たい? いや、でも……。ポタッ。ポタッ。  健吾は、そろそろと空を見上げた。 「やめてくれ!」  ——雨が降って来たのである。 「——おやすみなさい」  と、マリが頭を下げる。 「おやすみ。ご苦労様」  と、加津子は、まだ少しワインでほてっている頬《ほお》に手の甲《こう》で触《ふ》れて、言った。「明日も、ちょっと大変だけど、よろしくお願いね」 「はい」  ——本当に気持のいい子だわ。  加津子は、自分でもよく分らなかった。なぜ、マリのことがこんなに気に入っているのか……。  もちろん、今時|珍《めずら》しいくらい、素直で、よく働くし、真面目《まじめ》な子だ。でも、それだけではないような気がする。  加津子は寝室《しんしつ》に入った。  泥棒に入られてから、市川などは、寝室を替《か》えては、と言っていたが、それも面倒《めんどう》だと思っていた。  人間、いつも多少の危険と共に生きているものだ。  来客の相手をするのに着ていたスーツを脱《ぬ》いで、ベッドの上に放り出す。——ホッと息をつく瞬間《しゆんかん》である。  実際、最近は疲《つか》れている。何もかも放り出して、どこかへ行ってしまいたい、と思うこともある。  もちろん——実際には、そんなこと、できっこないのだ。  寝室からドアを開けてバスルームに入る。大理石をはりつめた、豪華《ごうか》なバスルーム。——しかし、「お風呂《ふろ》」は「お風呂」でしかない。  こんなお風呂に一人で入るより、小さなユニットバスに、我が子と入る方が、ずっと幸せかもしれない……。  お湯を出しておいて、加津子は、服を脱いだ。——そうなのだ。  マリを見て、ついかまってやりたくなってしまうのは、マリが、ある「面影《おもかげ》」を持っているから……。遠い昔に加津子の手から去って行ったものを、思い出させるからなのである。  本当に可愛《かわい》い子だわ。——もし、ずっとあのマリが、ここにいるのだったら……。  もちろん、マリの方が良かったら、の話だが——。あの子を養女にでもできないだろうか?  もちろん、そのためには、マリの身許《みもと》も、しっかりと調べる必要があるかもしれない。しかし、ああして家を出て来ている以上、親とうまく行ってはいないのだろうし、加津子の、この財産を引き継《つ》ぐことを考えたら——。  いや、マリに、こんな「重荷」を背負わせたくはない。気楽に、遊び暮《くら》せるような、そんな女の子ならともかく。  ——熱いお湯に浸《ひた》って、加津子は、目を閉じていた。  いつも、そうして一人だけの時間に戻《もど》ると、よみがえって来る一つの顔がある。  もちろん今はもう、同じように老けているはずだが……。しかし、加津子の思い出の中では、その人はいつまでも若々しい。  今、どうしているのだろう? 生きているのかどうかすら、定かではないが……。  たっぷりと時間をかけて、湯から上ると、加津子は、年齢《ねんれい》の割にはよく引き締《しま》った裸身《らしん》の上に、バスローブをはおって、寝室《しんしつ》へと戻《もど》った。  バタバタ、と窓を打つ音。 「——雨かしら」  と呟《つぶや》いた加津子は、窓へと歩いて行って、カーテンを開いた。  目の前に男の顔[#「男の顔」に傍点]があった。 「キャッ!」  びっくりして後ずさると、バスローブの腰紐《こしひも》がとけて落ち、前がスッと開いてしまった。——その男が、今度はギョッとして目をむいて——何しろ二階である。  足場が悪かったのだろう。男がふっと見えなくなった。——落っこちたらしかった。 [#改ページ]  13 むき出しの弁明  何だか、今日はよく落っこちる日だよ。  畑健吾は、ウトウトしながら考えていた。  ——一度は枝《えだ》が折れて落っこちて、もう一度は……。  あれは夢だったのかなあ、目の前に、女の裸《はだか》が——。あんな夢を見るようじゃ、俺《おれ》も困ったもんだ。  しかし——いやに体中が痛い。  雨が降って来て……。そう、全身、ずぶ濡《ぬ》れになってしまった。  中へ入ろうにも、あの変な犬はいるし、窓も鍵《かぎ》がかかっている。仕方なしに、雨樋《あまどい》を伝って、二階のひさしの下へと這《は》いずり込《こ》んだのだが——。  ともかく、濡れた体でやたらと寒かったのだ。明りの点《つ》いた窓の方へ、狭《せま》い幅《はば》の出張りを伝って、何とか中へ入れないか、と、苦労していると、パッといきなりカーテンが開いて、女が——あれは細川加津子だった。  そして着ていたものの前が開いて、その下は裸で……。あんなに詳《くわ》しい夢なんか見るものだろうか?  そして——そう、俺は落っこちた。  夢? 夢なんかじゃない!  健吾は目を開けた。 「あ、生きてました」  と、女の声がした。 「そう。足の裏をくすぐってみたら?」  やめてくれ!——健吾はブルブルッと頭を振《ふ》った。 「残念。気絶してる間に、少しいたずらしてやれば良かったわ」  と、言って、覗《のぞ》きこんだのは、マリだった……。 「僕《ぼく》は……」 「刑事《けいじ》さん」  と、加津子が健吾の方へやって来て、言った。「女の部屋を覗くのも、お仕事の内なんですの?」 「い、いや、それは誤解です。ここは——」 「二階です」  と、マリが言った。  少しして、加津子が吹《ふ》き出した……。 「——ともかく、マリちゃんと二人で、ここへ運んで来るのは大変だったんですから」  と、加津子は言った。 「いや、何とも申し訳ありません。雨に降られて、隠《かく》れる場所もなくなって」  と、言って……。「あれ?」  やっと気が付いた。——今、自分がいるのは、加津子の寝室《しんしつ》だ。そしてベッドに寝《ね》かされている。 「僕の……服は?」  と、健吾は恐《おそ》る恐る訊《き》いた。 「濡れた挙句《あげく》に泥《どろ》だらけですよ。そんなもの着せたまま、そこへ寝かせるわけにいきませんわ」  と、加津子は言った。 「これは——あなたのベッド?」 「ええ」  毛布を肩《かた》までかけているが……。どうも、それ以外に、身につけているもの[#「もの」に傍点]の感触《かんしよく》がない。 「服を——脱《ぬ》がしてくれたんですか?」 「風邪《かぜ》引いて肺炎《はいえん》で死なれても、後味が悪いですから」  と、マリが言った。 「どうも……。でも……パンツまで?」 「脱がしたのは、加津子さんです」  と、マリが赤くなって言った。「私、そっぽを向いてましたから」 「お気がねなく」  と、加津子は言った。「この年齢になると、男の裸なんて、見慣れてますわ」 「はあ……」  健吾は、何とも情ない顔で、「濡れててもいいですから、僕の服を……」 「今、洗濯《せんたく》してます」  と、マリが言った。「明日の朝までには乾《かわ》かしときます」 「その前に——」  と、加津子が言った。「どうしてあんな所に隠《かく》れていたのか、それを説明して下さい」 「それは——雨が降って——」 「理由じゃなくて、目的[#「目的」に傍点]です。なぜ、見張ってたんです?」 「あの——それは仕事上の秘密で……」 「じゃ、あなたが私の寝室《しんしつ》を覗《のぞ》いた、と届け出ますよ」 「や、やめて下さい!」  健吾は青くなった。 「じゃ、話して下さいな」 「分りました」  健吾は、ため息をついた。  そして、〈夜の紳士《しんし》〉が、明日ここへ忍《しの》び込《こ》むだろうと予想していること、マリが共犯らしいので、ずっと見張っていたことを、しゃべってしまった。 「——この子を共犯だなんて!」  と、加津子は腹を立てて、「雨の中へ放り出しましょうか」 「あ、あの——できることなら、雨の中は遠慮《えんりよ》したいと思います」  と、健吾は言った。 「でもね、疑われたのは、私じゃなくて、この子ですから。——マリちゃん、どうする、この人?」 「さあ……」  と、マリは首をかしげた。「私、人を責めるのって、好きじゃないんです」  天使なのだから、まあ当然のことである。 「聞きました? この子のことを、まだ共犯者だと思いますか」 「いや——その——」  ともかく健吾は、丸裸《まるはだか》なので、何とも言葉が出て来ない。 「人間って、よく嘘《うそ》をつきますからね」  と、マリは言った。「すぐには信じられなくても仕方ないと思います」  健吾は、面食らって、マリのことを見ていた。——加津子は、肩《かた》をすくめて、 「マリちゃんがそう言うのなら……。明日、服が乾《かわ》いたら、ここを出て行って下さい」 「はあ」 「行きましょ」  と、加津子は、マリを促《うなが》した。 「あの——」  と、健吾は焦《あせ》って、「このままここに?」 「風邪《かぜ》引くでしょ、そのままじゃ」  と、マリが言った。「お風呂《ふろ》がそこですから」 「バスルームがついてるから、ここへ運んだんですよ」  と、加津子が言った。「出てますから、ゆっくりあったまって。バスローブを着てらっしゃい。寝《ね》る所は用意します」 「ど、どうも……。すみません」  と、健吾は礼を言った。  廊下《ろうか》へ出て、マリは、 「ご迷惑《めいわく》かけて、すみません」  と、詫《わ》びた。 「いいのよ。退屈《たいくつ》しのぎで、面白いわ」  と、加津子は言った。 「後で、シーツを換《か》えます」 「いいわ。寝る所はいくつもあるから」  加津子の言う通り、来客用の部屋がいくつもあるので、その一つで寝ればすむわけである。 「じゃ……」 「もう寝て。明日、あなたは早いでしょ」 「すみません」  マリは、ピョコンと頭を下げて、「おやすみなさい」  と、歩いて行く。 「——マリちゃん」  と、加津子は、呼んだ。 「はい」 「あなた……お母さんのこと、何か思い出した?」  マリは、ちょっと当惑《とうわく》した様子だったが、 「いいえ、全然」  と、首を振《ふ》った。 「そう。——おやすみなさい」  加津子は、マリの姿が、階段を下りて、見えなくなるまで、見送っていた。  ——長風呂といっても、これは特別だった。  マリを見張りだして、初めての風呂だ。  事情の複雑なことは、健吾もよく分っていたが、しかし、豪華《ごうか》なバスルームで、ゆったりと風呂に入る気持良さは、事情と無関係である。  すっかりのんびりと湯につかって、一時間近くも入って、のぼせてしまった。  大きな鏡の前で、ちゃんとドライヤーも用意してあるので、髪《かみ》を乾《かわ》かし、息をついた。  バスローブ……。これか。  裸《はだか》の上に、ローブを着る。——さっきは、これの紐《ひも》が外れて前がハラリと——。  健吾は頭を振《ふ》った。  しかし、あの女の話を真に受けるわけではないが、マリという娘、確かに変っている。父の勘《かん》を、信じないわけじゃない。だが、泥棒《どろぼう》の手引きをする娘《むすめ》には、とても見えない……。  こんなことを言ったら、また親父《おやじ》に、 「甘《あま》い!」  と、怒鳴《どな》られそうだが。  バスルームを出ると、加津子が、ソファに腰《こし》をかけていた。こちらは、シルクのガウン。  たぶん、僕《ぼく》の背広よりずっと高いだろうな、と健吾は思った。 「ずいぶん長かったのね」 「すみません。久しぶりで」  と、健吾は恐縮《きようしゆく》して、「あの——ちゃんと洗っときました、浴槽《よくそう》」 「ご苦労様」  と、加津子は微笑《ほほえ》んだ。 「それで——その——」 「ともかく、おかけなさい。顔がゆでダコみたい」 「はあ」  確かに、頭がクラクラした、「失礼して……」  健吾は、ベッドの上にドサッと引っくり返った。 「あなた、畑さん、っておっしゃるのね? もう一人の刑事《けいじ》さんの……」 「息子です」 「そう」  加津子は肯《うなず》いた。「そうかな、とも思ったけど、あんまり似てないから」 「父とは似てないんです」  と、健吾は言った。「同じ仕事はしてますが……」 「お父さんは、名刑事?」 「ええ。そりゃもう。——何度も表彰《ひようしよう》されてます」 「あなたは?」 「僕《ぼく》ですか」  健吾は苦笑して、「へまばっかりで、ここへ来る前も、謹慎中《きんしんちゆう》でした」 「まあ」  加津子は笑った。「あなた、そのお仕事には向いていないような気がするわ」 「そう言わないで下さい。やっと少しやる気が出て来たのに」  加津子は、立ち止って、ゆっくりと、ベッドの方へ歩いて来た。 「犯人を見付けて、捕《つか》まえるのが、楽しいの?」 「そりゃまあ……。仕事ですから」 「そうは思えないわね」 「どうしてです?」 「あなた、そういうタイプじゃないみたい。犯人が見付かると、悲しくなるんじゃないの?」  健吾は、ちょっと加津子から目をそらした。 「——私には関係ないことだけど」  と、加津子はベッドに腰をかけた。「刑事になりたかったの?」  健吾は、しばらく天井《てんじよう》を見上げていたが、やがて、軽く首を振《ふ》って、 「いいえ。——でも、父は、ともかく僕を刑事にしたかったんです」 「あなたの気持を無視して?」 「でも、そんなものでしょう、親って」 「そうかしら」  加津子は、少し強い口調になって、「子供が、元気で成長しただけでも、幸せなんじゃないのかしら」  と、言った。  健吾は、ベッドに起き上った。  少し、間があって、健吾は、咳払《せきばら》いすると、 「あの——僕の寝《ね》る部屋……。何なら、ソファでもどこでもいいですけど」  と、言った。 「いいのよ」  加津子は、健吾を見た。「そのまま、ここに寝て」 「でも……。ここはあなたのベッドでしょ。こんな立派なベッドじゃ、眠《ねむ》れませんよ」 「構わないのよ」  加津子は立ち上った。「私も寝るから」  健吾は、加津子がガウンを脱《ぬ》ぐのを、呆気《あつけ》に取られて見ていた。 「あの——」 「恋人《こいびと》は?」 「います……」 「心配しないで」  加津子は、健吾の顔に、ゆっくりと顔を寄せて行った。「一晩だけの秘密。——誰《だれ》にも分らないわ」 「でも——」  健吾の口を、加津子の唇《くちびる》がふさいだ。  それきり、健吾は抵抗《ていこう》(?)しなかったのである……。 [#改ページ]  14 年下の恋人 「ねえ、あんたはどう思う?」  と、マリは言った。 「何が」  ポチは朝食を食べるのに夢中《むちゆう》で、顔も上げずに訊《き》く。 「よく食べるわねえ」  と、マリは呆《あき》れた。 「悪いか。悪魔《あくま》だって腹《はら》は減《へ》るんだぞ」 「誰《だれ》も、悪いなんて言ってないでしょ」 「おい。何だよ、この紅茶《こうちや》」 「紅茶がどうしたの?」 「ティーバッグをケチったろ。出がらしじゃないか」 「文句言わないの。犬が好きですから、って、新しいティーバッグなんか使えっこないでしょ。大体、犬が紅茶欲しがるなんてのが、無茶《むちや》なんだからね」 「分ったよ。これで我慢《がまん》すらあ」  と、ポチは顔をしかめた。「——何を悩《なや》んでんだ?」 「ゆうべは刑事が二階から落っこちて、大騒ぎだったのよ」 「知ってるよ。あの女主人と二人で、えっちらおっちら運んでたじゃないか」 「あんたは見てるだけね。役に立たないんだから」 「悪魔は人の役に立つようにゃできてないんだ」 「それもそうか」 「俺《おれ》がヒョイと立って、手伝ったりしたら、人間が目を回すぜ」 「面白いかもね」  と、マリが笑った。  それから、ヒョイと真顔《まがお》に戻って、 「でも、どうしよう」 「変な奴《やつ》だな、お前」  と、ポチはため息をついたのだった。 「あの刑事、今日、例の〈夜の紳士〉がここへやって来るって気付いてるのよ、ということは、きっと、大勢|警官《けいかん》がやって来て、この家を警戒するんだわ」 「だったら、どうなんだ?——そうか。大勢の警官にお茶出してやるのが面倒なんだろう」 「失礼ね、あんたじゃあるまいし」 「どういう意味だよ」 「私はね、あの〈夜の紳士〉のことが心配なのよ」 「何だい、ずいぶん風向きが変ったな」 「いい人なんだもん、あの人」  と、マリは言った……。  ポチはきれいに朝食を食べ終えると、 「俺は悪魔なんだからな、人が悪いことしようとしてるのを、止めるわけにゃいかないよ」 「でも、あんたここ[#「ここ」に傍点]じゃ、私の相棒《あいぼう》よ」 「相棒か。——分ったよ」 「あの人に知らせてあげるべきかしら? 警官が待ち構えてますよって」 「そうだな……。知らせることないと思うぜ」 「どうして?」 「有名《ゆうめい》な泥棒なんだろ、そいつ? だったら、それぐらい承知《しようち》さ」 「だって、もし捕まったら——」 「警官がいるからって尻《しり》ごみするようじゃ、一流の泥棒とは言えないさ。ま、放っとくのが一番だよ」 「そうかなあ」  と、マリは考え込んだ。  そして——思い出した。あのホテルを訪ねた時、〈夜の紳士〉は言ったのだ。 「私は捕まらないよ」  と……。  あの言葉には、何か不思議《ふしぎ》な確信があった。泥棒としての、自分の腕に対する自信、というのではなく、まるで、もう「決っていること」のような印象を、マリは受けたものである。  だとすれば、「捕まらない」のはなぜなのだろう? 「——マリさん」  と、呼ぶ声がして、マリはハッと我に返った。 「和代《かずよ》さんだ。じゃ、あとで器《うつわ》を片付《かたづ》けるからね」 「よく洗えよ。ゆうべなんか、魚の匂《にお》いが残ってたぞ」 「うるさいんだからね、もう!」  台所へ駆けて行って、 「すみません。ポチとしゃべってたら——あ、いえ、ポチをじゃらしてたら、つい……」  と、あわてて言い訳する。 「寝室へ朝食をね。二人分ですって」  と、大山《おおやま》和代はテーブルに用意がすんで置かれた盆《ぼん》を指した。「珍しく男性が泊り込んだようね」 「ええ、そうなんです。ゆうべ——」  マリが面白がって、ゆうべの出来事を話してやると、大山和代は笑い出した。 「まあ! 見たかったわ。じゃ、恋人ってわけじゃないのね」 「ええ。同じ朝食にすることもなかったんですよ」 「そうね。分ってりゃ——」 「パンの耳だけで良かったのに」  雀《すずめ》のエサじゃあるまいし。ともかく、マリは盆を手に二階へ上って行った。  あの刑事——畑《はた》、とかいったわ。どの部屋で寝たんだろう、結局? ま、加津子《かづこ》さんに伺ってみれば分るわ。  ドアを足で(!)ノックして、 「朝食お持ちしました」  と言って、マリはドアを何とかうまく開けた。「あの——」  マリは危うく盆を落っことすところだった。  男が——あの畑という刑事が、パンツ一つで立っていたのである。 「あ、ごめん——今、やっと服が乾《かわ》いたからって——すぐ着るから」  刑事の方も真赤《まつか》になって、あわてて服を着ている。ズボンを後ろ前にはいて、脱ごうとして転んだりしていた。  マリは、赤くなって、背中を向けていたが、 「もう——大丈夫」  という刑事の声で、 「ここへ一人分、置きますよ」  と、テーブルに盆を置いて、「加津子さんはどこで寝《やす》まれたのかしら?」 「え?——ああ。ここ[#「ここ」に傍点]」  と、刑事が、ベッドを指す。 「え?」  マリは目をパチクリさせて、 「今——シャワーを……」  なるほど、バスルームから、シャワーの音が聞こえている。 「じゃ、あなた……」  マリは信じ難い思いだった。「加津子さんを脅《おど》して、無理に——」 「冗談じゃない!」  刑事はあわてて大声を上げた。「逆だよ! 僕の方が無理矢理《むりやり》に——」 「何ですって?」 「あ——いや、まあ——その、結局、何だかよく分らない内に……」  そう言いながら、刑事は、段々元気がなくなって来て、「えらいことになった……。江美《えみ》……」  と、頭をかかえてベッドにドサッと腰をおろした。  マリは、ゆっくりと歩み寄って、 「江美って……恋人なの?」  と、訊いた。 「うん。でも——こんなことになったら、もう——」  深々とため息をつくと、「江美とは結婚できない!」 「謝《あやま》ったら?」  と、マリは具体的な助言をした。 「いや……。結婚しても、僕はいつまでも十字架《じゆうじか》を背負って生きて行かなくてはいけない」  十字架、ねえ……。マリも相当に浮世《うきよ》離れのした純情人間(いや、天使)だが。この人もかなりのもんだわ、とマリは思った。 「あら、ありがとう」  加津子が、バスローブをはおって、さっぱりした顔でやって来た。「——お腹《なか》が空《す》いた! 運動の後の食事はおいしいのよ」 「おはようございます」  と、マリは言った。「他《ほか》にご用は……」 「今日は忙しいから、よろしくね。それから、この健吾ちゃん[#「健吾ちゃん」に傍点]がね」  と、刑事の肩をポンと叩《たた》く。 「健吾《けんご》ちゃん?」 「そう。健吾ちゃんが、今日は大手柄を立てる日なの。だから、マリさんも協力してあげてね。——ねえ、健吾ちゃん」  チュッと額にキスされて、当の「健吾ちゃん」は、ますます絶望的な気分になった様子だった……。 「殺す?」  と、その男の険しい眉《まゆ》が、ちょっと上った。 「そうだ」  市川和也《いちかわかずや》は、肯《うなず》いた。「〈夜の紳士〉を片付ける。——やってくれるか?」  中村《なかむら》は、ちょっと欠伸《あくび》をして、辛《つら》そうに顔をしかめた。 「朝早いのは苦手だ」 「すまんね」  市川は、車を、公園の傍《そば》に停《と》めていた。ここで話していれば、誰の目も心配することはない。 「今日は忙しいんでね。こんな時間でないと出て来られないんだ」  中村は、ちょっと顎《あご》をさすった。 「盗むだけと、殺しが入るのじゃ、大違いだからな」 「分ってる。謝礼《しやれい》は充分に出す」 「ふむ……」  中村は、なお少し迷っている風だったが、やがてちょっと肩をすくめて、「分った。やろう」 「ありがたい。——もし〈夜の紳士〉が捕まって、金の行方《ゆくえ》が分らないと、容疑がこっちへ向く心配もあるからな。消しておかないと、安心できない」 「それはそうかもしれん」  と、中村は肯《うなず》いた。「しかし、〈夜の紳士〉の死体が残っていたら、妙に思われるんじゃないのか」 「問題はそこだ。奴が殺されてもおかしくないように——。待ってくれ」  と、市川は、車内の電話が鳴りだしたので、話を中断した。「はい、市川です。——社長。おはようございます。——今日の準備《じゆんび》はお任せ下さい」  隣で、中村という男が、声を出さずに笑った。 「はあ。——何ですって?」  市川が、ちょっと面食《めんく》らった様子で、「しかし、それでは——。はあ。なるほど。——いや、それなら結構です。——分りました。先方にはよく説明しておきましょう。では、予定の時間に、そっちへ参ります」  市川は受話器を置いて、ホッと息をついた。 「お宅のボスからか」 「そうだ」  市川は、ニヤリと笑った。「——問題が解決しそうだな」 「ほう?」 「〈夜の紳士〉が今夜やって来るのを、刑事がかぎつけた。警官が張り込むことになった」 「そいつは、まずいんじゃないのか、あんたたちにとっちゃ」 「社長が、交渉したとさ。警察は、〈夜の紳士〉を逮捕することだけが目的なので、例の金については目をつぶる、というんだ」 「なるほど。おたくのボスは、なかなかのもんらしいな」  と、中村は肯いた。 「金をいただくのは、何とでもなる。何しろ金を管理するのは僕だからな」 「しかし、〈夜の紳士〉が、そう簡単に捕まるとも思えないぜ」 「そうさ。当然、逃げるだろう。警官が追う。誰かが撃っても、誰の弾丸《たま》が当ったのか、よく分らないだろうな」 「なるほど。——しかし、そう予定通りにはいかないかもしれないぜ」 「その時は、僕が何とかうまくやる。いいね、君は金を盗んで、奴を消す」 「報酬は倍じゃ合わないね」  と、中村は言って、「しかし、まあこんな面白い仕事は、めったに回って来ないだろうしな。——分った。倍額で引き受けよう」 「そう言ってくれると思った」  市川は、ダッシュボードの時計にチラッと目をやった。「僕はもう行かないとね」 「どう手引きしてくれるんだ?」 「それも考えた。——この車で屋敷へ行く途中、他の車と軽い接触《せつしよく》事故を起こすってのは?」 「悪くない。警官が、事情を訊くために、訪ねて来る」 「そうだ。邸内には、他の警官も大勢いるわけだからな。目立たんだろう」 「よし、分った」  中村は面白そうに、「警官の制服を手に入れておく」 「細かい点は任せるよ」  中村はドアを開けて、車を出た。 「どこか駅にでも送って行こうか」  と、市川が声をかけると、 「いや、歩くよ」  と、中村は言った。「足をきたえないとな。悪い奴は、体が資本だ」 「いいセリフだな」  市川は笑って、「じゃ、屋敷《やしき》へ六時に」 「分った」  中村が、面倒くさそうに手を振って、歩き出す。  市川は車をスタートさせた。 「今日が勝負だ」  と、市川は、自分へ言い聞かせるように、言った。  もし、使い込みがばれたら、細川加津子は容赦《ようしや》しないだろう。会社の名に傷がつくのを恐れて、クビにするだけでもみ消す、といったことはしないはずだ。  しかし、うまく行きそうな予感があった。状況は、市川にプラスに動いている。そうとも。——俺はツイてる男なんだ。  市川は、ぐっとアクセルを踏み込んだ。 [#改ページ]  15 面会の客 「ここだわ」  マリは、メモを見て、それから目の前のビルを見上げた。 「よくこんな殺風景な所で働けるもんだ」  と、マリの足下で言ったのは、ポチである。 「地獄《じごく》はもっと面白い所?」 「当り前さ。一杯、生首《なまくび》が飾ってあるし、うめき声のコーラスがいつも流れてるし、ヌード写真はいくらも貼ってあるし——」 「やめて」  と、マリは手を振った。「さ、入りましょう」  マリとポチ、加津子からハイヤーを使ってもいい、と言われて、一緒にやって来たのである。何しろ加津子も、新しい恋人、「健吾ちゃん」の頼みとなると、何でも聞いてやってしまう。  マリとしては、つい、 「この忙しい時に、もう!」  と、文句も出てしまうのである。  しかも、その用事たるや……。  三階に上ったマリは、ポチをエレベーターの所で待たせて、貿易会社の受付に行って、 「すみません」  と、声をかけた。「結城《ゆうき》江美さん、いらっしゃいますか」 「結城さん? あら、ちょっと待ってね」  と、受付の女性は、奥へ入って行って、すぐ戻って来ると、「今ね、他のお客さんがみえてて、地下の喫茶店に行ってるわ」 「地下ですか」 「そう。行ってみれば? きっとまだいるわよ」 「分りました。どうも」  マリは、エレベーターの所へ戻って、「地下だって。あんた、喫茶店だから、入れないのよ」 「全く、どうして入れないんだ? 人犬[#「人犬」に傍点]問題だ」  と、ポチがブツブツ言っている……。  地下へ下りると、マリは、左右を見回した。 「——あれだわ、きっと」  マリは、足早に歩いて行くと、店の入口から、中を覗《のぞ》いてみた。もちろん、結城江美の顔は分らないが、あの畑健吾によれば、 「一目で分る、可愛《かわい》い娘」  ということだ。  恋人のことだから、大分割引きして聞かなきゃいけないが……。  マリは、店の中へ二、三歩進んで、奥の方へ、目をやった。 「もう会えないかと思ってた」  と、江美は言った。 「すまないね、心配させて」  と、「おじさん」こと、池上浩三《いけがみこうぞう》は微笑《ほほえ》んで、「色々《いろいろ》、ごたごたがあってね。まあ、人間、この年齢《とし》になると、厄介《やつかい》な付合いもふえて来るもんさ」 「でも、急にいなくなって、電話だけで……」  と、江美は言いかけたが、すぐに、気を取り直したように、「だけど、また会えて、良かった」 「そう、江美ちゃんには、笑顔がよく似合うよ」  と、池上は言った。「彼の方はどうだね?」 「何だか、有名な泥棒を捕まえるとか、張り切ってるわ」 「そうか。良かったじゃないか。うまく行くといいな」 「そうね。でも……」  と、江美が目を伏せる。 「どうした? 心配なのかい?」 「いいえ。——もちろん、けがしないか、とか、色々心配もあるわ。だけど、それだけじゃないの」 「というと?」  江美は、ためらいながら、言った。 「こんなこと言っちゃいけないのかもしれないけど……。彼、あの仕事には向いてないと思ってたの」 「うん。前にもそう言ってたね」 「でも、今は何だか張り切ってて……。そりゃあ、彼に失敗してほしいってわけじゃないんだけど……。ただ、このままだと、私の好きだった彼とは違う人になっちゃうような気がする。——変ね。励《はげ》ましておいて、こんなこと言うなんて」 「いや、よく分るよ」  と、池上は肯《うなず》いた。「人は自分を催眠術《さいみんじゆつ》にかけることがあるからね」 「自分を?」 「俺はこれが好きだ、この仕事に向いてるんだ、ってね。——そうやって、自分をかり立てる。そうでもなきゃ、休みもなしに働くなんてこと、できやしないさ」 「そうね」 「彼も、そうなるかもしれない。暗示にかかったら、結構《けつこう》そう信じ込んでしまうからね」 「心配だわ」 「君がいれば大丈夫だと思うよ。本当の自分を見つめるようになる。——彼の父親は、きっと、本当に刑事って仕事が好きなんだろうね」 「父は父、子は子よね」 「そう……。父は父だ」  池上は、何となく、独り言のように、言った。「——じゃあ、これで」  と、立ち上る。 「もう行くの?」 「すまないけど、ちょっと行く所があってね」  池上は、なぜか少し落ちつかない様子だった。 「でも——また、会える?」 「どうかな」 「そんなこと言わないで」  と、江美は情ない顔で言った。 「ともかく、江美ちゃんは、こんな年寄《としよ》りに親切にしてくれたからね、忘れないよ」  池上は、江美の肩に手を置くと、軽くつかんで、「——じゃ」 「また電話してね。いつでも——」  江美は、言葉を切った。もう、池上は、足早に店を出て行く。  江美は、ぼんやりと席に座っていた。何だか、胸にポカッと穴が空いたような気がする……。  テーブルの上の伝票に目が行った。  おじさん……。払って行かなかったんだわ。いつものおじさんなら、必ず払って行くだろう。  何か[#「何か」に傍点]あったのだ。——でも、何が?  ふと、気が付くと、女の子が、目の前に立っていた。 「——何かしら?」 「結城江美さんですね」 「ええ……」  どこかで見た子だわ。そう、もしかしたら——。 「あなた、いつも黒い犬を連れてる、っていう……」 「そうです。マリっていいます」 「マリさんね。どうしてここに?」  マリは、池上のいた席に腰をおろした。 「頼まれて来ました。畑さんって、刑事さんに」 「まあ」  江美は、目を丸くした。「でも、あの人——」  健吾はこの娘が、何とかいう泥棒の仲間だとか言っていた。それなのに、なぜ頼みごとをするんだろう? 「犬はいないの?」  と、江美は訊いていた。 「外にいます。ブーブー言いながら」  豚《ぶた》じゃねえぞ、とポチが文句を言ったかもしれない。 「私に何か——」  と、江美が言いかけると、 「すみません」  と、マリが遮った。「今、話してた相手の人、誰ですか?」 「え?——ああ。前、ここのビルの管理人《かんりにん》をやってくれてたおじさんよ。どうして?」 「何て名前ですか」 「池上さん。——知ってる人?」  マリは、店の表の方へ目をやった。  ——ポチの奴、ちゃんと言われた通りに、後を尾《つ》けてるかしら?  もちろん、マリは腰《こし》を抜かさんばかりにびっくりしたのだ。  江美と話している相手が、何とあの〈夜の紳士〉その人だったのだから! 「——で、私に何のご用?」  と、江美は不思議そうな顔で訊いた。 「え? 何かご用ですか」 「いえ——だって、あなたの方が、何か用だったんじゃないの、私に?」  マリは、すっかり、あの〈夜の紳士〉のことに気を取られていて、ここへ来た用件を、ケロリと忘れていたのである。 「あ、そうでした! すみません」  と、マリは舌《した》を出した。「いけない。いつも天国《てんごく》で怒られてたんだ! 舌を出すのを、やめなさいって」 「天国?」 「あ、いえ、何でもないんです! ええ、本当に何でもないんです。本人がそう言うんだから、間違いありません」  池上が行ってしまって、がっくり来ていた江美だったが、マリのあわてぶりを見ている内に、つい笑い出してしまっていた。 「あなたって、面白い子ね」 「ええ、まあ。ポチもよくそう言ってます」 「あの黒い犬のこと? そうね、あなた、何だかあの犬と話をしてるみたいですものね」 「え?——どうしてそんなこと」  と、マリは仰天《ぎようてん》してしまった。  この人も天使なのかしら? いや、あの刑事は確かに、「天使のような女性」と思っているだろうけど。 「昨日、見かけたのよ、あなたのこと。スーパーの前で、転んで膝《ひざ》をすりむいた子供を助けてたでしょ」 「ええ? あれを見てたんですか」  マリは少し赤くなった。「本当は、人目につかない善行《ぜんこう》でないと、評価されないんですよね」 「評価って?」 「別に、何でもないです。あの——この手紙を、健吾ちゃんから」 「健吾ちゃん?」 「あ、すみません。畑っていう刑事さんから預かって来たんです。渡してくれって」  と、マリは、封筒を取り出して、江美に渡した。 「まあ、ご苦労様。あの人、あなたの働いてるお家を見張ってるんでしょ?」 「今は中で[#「中で」に傍点]見張ってます」  と、マリは言った。 「そう。——あ、何か食べたら?」 「いえ、すぐ帰らないと、今日は忙《いそが》しくて……。じゃ、アイスクリーム」  割合にすぐ、気が変ったのだった。  その間に、江美は、封を切って、中の手紙を取り出していた。 「手紙なんて……。珍しい。ラブレターもくれたことない人なのに。電話して来りゃいいのにね」  と、言いながら手紙を開く。  アイスクリームが来て、マリがせっせと食べている間に、江美はその手紙をまじまじと眺めていたが——。 「よく分らないわ」  と、首をかしげた。 「そうですか?」 「あなた、この手紙の意味、わかる?」  と、手渡されて、マリは手紙を見た。 〈僕の気持を察してくれ。 [#地付き]健吾〉  と、一行だけ。 「——変ですね」  と、マリは首をかしげた。「でも、これを渡してくれ、って——」 「電話してみたいんだけど。番号を教えてくれる?」 「ええ」  マリが番号を教えると、江美は、喫茶店のカウンターの電話で、かけてみた。 「——はい、細川です」 「あの、結城と申します。畑刑事さん、そちらに——」 「畑刑事? ああ、健吾ちゃんのこと?」 「は?」  江美は面食らった。「あなたは、失礼ですけど——」 「私、この家の主人です。あなた、健吾ちゃんの恋人だった娘《こ》ね?」 「恋人だった[#「だった」に傍点]んじゃありません。恋人です!」  と、江美はムッとして言った。 「あら、マリさんが手紙を届けたでしょ」 「今、もらいました。でも——」 「それではっきり分るでしょ。健吾ちゃんは私の恋人になったの。黙っているのは、あなたを傷つけることになるっていうから、じゃ、はっきり言ってあげなさい、って、手紙を書かせたの。悪いけど、諦《あきら》めてね。健吾ちゃんは、今、今夜の警備《けいび》のことで忙しいのよ。それじゃ、あなたも、いい人を見付けてね。さよなら。お幸せに」  早口《はやくち》にまくし立てられて、ポカンとしている内に、電話は切られてしまった。  江美は、悪い夢でも見ているような気持で席へ戻った。  マリが手紙を江美に返して、 「これ、きっと一枚目が抜けてるんだわ。ねえ、そう思いません? あの人、うっかりして、二枚目だけ封筒へ入れて……。どうかしました?」  江美は、我に返って、 「え?——ああ、別に。何でもないの。ありがとう。良く分ったわ」 「そうですか。良かった! じゃ、私、これで」 「ご苦労様。いいのよ、アイスクリーム代は」 「ごちそうさま」  マリはペコンと頭を下げて、出て行く。  江美は、もう一度、手紙を見直した。 「健吾ちゃん?——冗談じゃないわよ!」  やっと腹が立って来て、江美は顔を真赤にして、思わず口に出して言った。「このままにしとくもんですか!」 [#改ページ]  16 病《や》んだ紳士 「畑さん、電話です」  と、若い刑事が声をかけたが、畑|健一郎《けんいちろう》は返事をしなかった。  眠っていたわけではない。息子の健吾の方とは違って、健一郎は、仕事中に居眠りしたりしない人間である。ただ、今日は特別だった。  迷っていたのである。——もう一時間以上も、机に向って、何もしていない。 「畑さん」  くり返し、呼ばれて、やっと、 「ん?——おい、呼んだか」 「お電話ですよ」 「そうか、誰から?」 「さあ。古いお友だち、とか」 「分った」 「3番です」  健一郎は、目の前の電話を取って、〈3〉を押した。「——もしもし」 「畑健一郎さん?」  よく通る、男の声だ。 「そうですが。どなた?」  聞き憶《おぼ》えのない声だな、と健一郎は思っていた。 「昔なじみだよ」 「昔なじみ?——こっちはね、忙しいんだ。のんびりゲームをやってる暇《ひま》はない。誰なんだ?」 「こっちだって、忙しいのは同じさ」  と、相手は笑って、「今夜の仕事の準備でね」 「今夜の?」 「手袋は用意してあるんだがね」  健一郎は、座り直した。 「お前か。——そうか、本物なのか?」 「本物だよ、正真正銘《しようしんしようめい》の〈夜の紳士〉さ」  と、その声は言った。 「どこからかけてるんだ——まあ、言うわけもないか」 「逆探知《ぎやくたんち》してもいいが、お宅の息子の手柄《てがら》が台なしになるんじゃないのか?」  健一郎が目をみはって、 「どうしてそんなことを——」 「事情《じじよう》通だからね、こっちは」 「妙な小細工《こざいく》はせん。健吾の奴が、きっとお前を逮捕する」 「まあ、結果を見ようじゃないか。俺の方は、金さえ手に入ればいい」  と、〈夜の紳士〉は、のんびりした口調で言った。「しかし、お互い、年齢《とし》を取ったもんだな。あんたの息子が、もう一人前の刑事か」 「全くだ」  と、健一郎は言った。「しかし——二十年もたって、何でまたやる気になったんだ?」 「そのうち分るさ、あんたにも」  と、〈夜の紳士〉は言った。「なあ、畑さん。あんたの息子を見かけたよ。いい若者じゃないか」 「そう思ったら、大人《おとな》しく捕まるか?」 「そうはいかんさ。仕事は仕事。プロだからね、こっちも」  と、〈夜の紳士〉は笑って、「あんたも、細川家へやって来るんだろう?」  健一郎は、少し間《ま》を置いて、 「もちろんだ。行くとも」  と言った。  実は、そのことで、迷っていたのである。自分は行かず、健吾に任せるべきかどうか。しかし一方で、二十年前、〈夜の紳士〉を必死で追いかけた思い出が生々《なまなま》しい。  今の〈夜の紳士〉の言葉で、決心した。 「そいつはありがたい」  と、〈夜の紳士〉は言った。「細川邸で、会えそうだな。もっとも、そっちは会っていても、俺のことが分らないだろうが」 「馬鹿《ばか》言え。手錠《てじよう》をかけて、じっくり顔を眺めてやるからな」 「楽しみにしてるよ。——そうそう、肝心《かんじん》の話をするのを、忘れてた」 「何だ?」 「これは別に、下心があって教えるわけじゃない。面白い話を聞かせよう」 「何のことだ?」 「まあ聞けよ」  と、〈夜の紳士〉は言った……。 「本当にここ?」  と、マリは言った。 「疑《うたが》うのか?」  と、ポチは不服《ふふく》そうに、「せっかく、俺《おれ》がわざわざ後を尾《つ》けてやったのに」 「それぐらいのことで、威張んないでよ」  と、マリは言い返した。「出て来るかなあ、すぐに」 「噂《うわさ》をすれば、だ」  クリニックの白い建物から、あの〈夜の紳士〉こと、池上が姿を見せた。——マリは、その行手に進み出た。  池上は、薬の袋を、上衣《うわぎ》のポケットへしまい込んで、それから、目の前に立っているマリに気付いた。 「君——」  と、目をみはる。「どうしてこんな所にいるんだ?」 「結城江美さんに会いに行って、見かけたんで、尾行して来たんです」 「何だって?」  池上は、ショックを受けた様子で、「本当に尾行して来たのかね?」 「この犬が」  と、マリがポチを指す。  池上は、呆気《あつけ》に取られた様子だったが、やがて、笑い出した。 「いや、ホッとしたよ。君のような素人《しろうと》に尾行されて気付かないんじゃ、恥だからね」 「ここ、病院でしょ? どこか、悪いの?」  と、マリが訊くと、 「まあ、この年齢《とし》だ。少しは故障もするさ」  と、池上は言ったが……。「じゃ、あの娘《こ》に会ったんだね」 「ええ。いい人ですね。でも、あの人の恋人でしょ、畑健吾って刑事」 「そうだ。——まあ、妙な因縁《いんねん》だよ」 「因縁って?」  池上は、少し間を置いてから、マリの肩を軽く抱いた。 「君は天使だったね」 「ええ」 「秘密は守れるかい」 「もちろんです」 「神様に訊かれても?」 「とぼけます」  池上は笑って、 「いや、天国ってのも、なかなか楽しそうな所だね」  と、言った。「死んでも、行けそうにない。残念だな」 「分りませんよ、そんなこと。天国の法は、下界の法と、考え方が違うんですもの。だけど、あなたはまだ——」 「いや」  池上は、歩きながら、首を振った。「もう長くないのさ」 「長くない、って……。どこか悪いの?」 「この薬で抑えているだけだよ」  と、池上は、上衣のポケットを、上から触った。「あと二、三か月の命ってことだ」 「二、三か月……」  マリは唖然《あぜん》とした。 「あの、江美って子は、とてもいい娘でね。あのビルの管理人をやっている私に、ずいぶん親切にしてくれた」  と、池上は言った。「ところが、恋人の刑事が、一向に成績も上げられず、パッとしない。それで、いつまでも結婚できそうもない、と悩んでたんだ。それでね、どうせ死ぬのなら、あの娘のために何かしてやりたい、と思い付いてね。君の住み込んだお屋敷に忍び込んで、あの娘の恋人に捕まってやろう、と思い付いたのさ」 「そんな……」  マリにとっても、すぐには信じられない話だった。——それに、「捕まらない」と言っていたのに……。なぜ急に? 「私、迷ってたんです」  と、マリは言った。「加津子さんが、あの刑事さんに惚《ほ》れちゃって、手柄を立てさせてやるんだって張り切ってるんですもの」 「何だって?」  池上が、唖然とした。「刑事に惚れた?」 「ええ」 「親父の方じゃなくて——あの若い方の刑事に?」 「ええ。刑事さんも困っちゃってるみたい。だから手紙を江美さんに、って、私が届けたんですけど——」 「とんでもない話だ!」  と、突然《とつぜん》池上が怒り出した。「そんな若い男と……。自分の息子みたいな——とまでは言わんが……。あの江美ちゃんの恋人に惚れるなんて、とんでもない! 君も意見してやれば良かったんだ!」 「すみません」  と、マリはあわてて謝った。 「いや……すまん」  と、池上は息をついて、「君はただの雇《やと》い人だからな。意見などできるわけもない」 「はあ……」  どうして急に怒り出したんだろ、この人、とマリは首をかしげた。およそ、クールな大泥棒には似つかわしくない反応である。 「ともかく——」  と、マリが言った。「今夜、お金が届くのは確かです。加津子さんが、あの刑事さんにそう言ってたんですから。でも、警官隊が、あなたを捕まえようとして、待ち構えてるんですよ」 「そうか」  すっかり落ちついた様子の池上は、マリの肩を軽く叩いて、「ありがとう、知らせてくれて。しかし、私のことなら心配いらないよ」 「でも——」 「それより、もし、私のことを知っているのが分ったら、君も共犯ってことになって捕まってしまう。いいかい、これきりで、もう君は私を忘れるんだ」 「そんなこと——」 「君は私に殴られたんだよ。私のことを怒って、恨んでいる。いいね?」 「天使は嘘《うそ》がつけません」  それを聞いて、ポチが、 「嘘つけ」 「社長」  と、市川が声をかけると、居間のソファでウトウトしていた加津子は、目を開けた。 「あら。——市川君。今、来たの?」  と、時計に目をやって、「遅いじゃないの。珍しいわね」 「申し訳ありません」  市川は、額《ひたい》を軽くハンカチで押えて、「ちょっと車をこすってしまいまして」 「車を?」 「下手《へた》なドライバーの車が、急に当って来ましてね。こっちに傷をつけられてしまったんです。警官が来て、なかなからち[#「らち」に傍点]があかなくて。——申し訳ありませんでした」 「それは構わないけど……。もう片付いたの?」 「いえ、色々《いろいろ》うるさいことを言うもんですから。——大事な仕事がある、と振り切って来てしまいました」 「まあ」  と、加津子は笑った。「市川君らしいわ。後で厄介《やつかい》なことにならない?」 「大丈夫です。ご迷惑はかけません」 「自首したいなら、今日はいくらでも警察の人がいるわよ」  と、加津子は言ってやった。 「今度はまた、変った男に興味を抱かれたものですね」  と、市川は、居間のカーテンを閉めながら言った。  もう、外は暗くなっている。 「とっても気が合うの。年齢《とし》の違いも、大して気にならないわ」  と、加津子は上機嫌。「本当に恋してるって気分よ」 「社長がお元気なのは結構です」  と、市川は笑って、「しかし、そろそろお客がみえるころですよ」 「そうね。もう準備は整ってるのよ」  加津子は立ち上って、伸びをした。「お金は?」 「もう着くころです。用心しませんとね」 「例の、〈夜の紳士〉? でも、本当に来るかしら。来てくれないと、健吾ちゃんが逮捕できなくて困るんだけど」 「いや、きっと来ますよ。そういう手合は、プライドが高いですからね。警戒厳重となれば、ますます闘志を燃やして……」 「そう願ってるわ。——マリさんは戻ったのかしら」 「今、台所の方で駆け回ってましたよ」 「そうね。今日はお客が多いから、大変だわ」 「しかし、あの子は〈夜の紳士〉と通じてるかもしれないんですよ」 「まだ言ってるの」  と、加津子は顔をしかめた。「もしそうなら、今夜分るでしょ。——さ、着替えをして来るわ」 「お待ちしております」  と、市川が頭を下げる。  加津子がドアを開けると、大山和代がやって来た。 「今、警察の方が——」 「誰? 健吾ちゃん?」 「いいえ」  と、和代は真面目《まじめ》くさった顔で、「そういう可愛い方ではありません。市川様にご用とか」 「ああ、分ったわ。市川君。あなたを逮捕しに来たようよ」  市川は苦笑して、 「人聞《ひとぎ》きが悪いですよ、社長」  と、言った。  その顔が、かすかに緊張してこわばったことを、もちろん誰も気付かなかった……。 [#改ページ]  17 侵入者  やっと終った!  マリは、ホッと息をついたが、背中は汗でびっしょりだった。  といって、別にこんな夜にマラソンをしていたというわけではない。やっと、夕食がすんで、デザートの器《うつわ》を下げて来たところである。 「お疲れさん」  と、大山和代《おおやまかずよ》が言って、微笑《ほほえ》んだ。「よくやったわね。あんまり私は手を出さなかったけど、どう? 大変でしょ」 「そうですね」  と、マリは正直に言った。「でも——いい気持です!」 「その意気《いき》よ」  と、和代はマリの肩を、軽く叩いた。「一度、頑張《がんば》ってやりとげれば、やればできるんだってことが分るでしょ。——さ、休んでいてね」 「でも、まだコーヒーが……」 「それは私がやるわ」  と、和代は言った。「お客さんたち、もう居間の方へ?」 「今、移られてるところです」 「じゃ、私が運ぶから。あなたは、のんびりしててちょうだい。何なら、すてきなお巡りさんでもいたら、ちょっと空いた部屋に引張り込んだら?」 「まさか」  と、マリは笑った。「じゃ、ここでのんびりしてます」  今日の夕食、和代は実際、台所で指示をするだけで、料理を運ぶのは、ほとんどマリ一人でやったのである。もう一人のメイドの子は、泥棒が入ったと知って、やめてしまっていた。  いつもは料理を作るのも和代だが、今日は特別とかで、外からレストランの料理人を三人も呼んで作らせていた。  料理を運ぶのは、もちろんワゴンにのせてだが、それでも、実際、財界《ざいかい》やら政界《せいかい》やら(とは、和代の言葉で、マリは知らない人ばっかりであるが)、偉い人がズラッと並んだ食卓へ、皿を出すのも容易なことではなかった。皿だって高価なのが一目で分るようなものばかり。  重さもあるが、緊張で、すっかりマリの腕はしびれてしまった。  もう料理人は引き上げて、台所も、和代がコーヒー、紅茶を運んで行くと、マリ一人。  一人になると、急にお腹も空いて、今日の料理の一部がちゃんと残してあるのを、アッという間に食べてしまった。 「——おいしい!」  と、息をつく。  天使だって、おいしいものは好きなのである。——何か忘れているような気がした。何かしら?  それにしても、今日は、客が大勢来て、それに警官、刑事が十人近くも来て……。何だか家の中の温度が少し上ったんじゃないか、という気がする。  問題の「お金」も、一時間くらい前に、届いたようだ。マリは料理を運ぶ時にチラッと見ただけだが、ガードマンが何人もついて、ものものしい警戒。  黒い鉄《てつ》の箱——だか何だか、ともかく頑丈《がんじよう》そうな箱が、一階の、奥の小部屋へと運び込まれて行った。  あんなもの、どうやって盗むんだろう?  マリには、とてもじゃないけど、あの〈夜の紳士〉が、うまく忍び込んで、あれを盗み出すとは思えなかった。きっと諦めるだろう。  きっと……。でも、あの人は、わざと捕まりに来るんだから……。  事情は分っていたが、それでもマリは、〈夜の紳士〉が捕まるところを見たくない、と思った。  特に——あの「健吾ちゃん」だけでなく、いやな父親の方も来ている。あんなのが、得意《とくい》げに〈夜の紳士〉に手錠《てじよう》をかけるのかと思うと、腹が立ってしまうのだ。  まあ、天使があんまり人のことを怒っちゃいけないのだが。ポチとは違うんだからね。 「そうだ! ポチのこと、忘れてた!」  マリは、あわてて、お鍋《なべ》に残った料理を、皿の上に取って、それを手に裏口へとかけて行った。 「——ごめんね! 遅くなって!」  と、犬小屋の中を覗《のぞ》き込むと……、 「何だ?」  ヌッと人の顔が出て来た。 「キャアッ!」  と、マリが叫び声を上げる。 「しっ! 俺は警官だよ。ここに隠れてろ、って言われてるんだ」  と、その男は、ため息をついて、「狭《せま》いんだよな、畜生《ちくしよう》」  そりゃ当然だろう。しかし、ポチは?  キョロキョロしていると、 「こっちだよ」  と、ポチの声。 「何だ、そこにいたのか。——びっくりした」 「こっちこそ、いい迷惑だい」  と、ポチは、木立ちの間に、毛布を敷いてもらって、ふてくされて寝ていた。 「でも、あんたの小屋へ入る人間よりゃ楽でしょ」 「冗談じゃねえや。おまけに、いつまでたっても、夕飯《ゆうめし》は出て来ないし」 「仕方がないでしょ。忙しかったのよ。——はい、今日は特別料理」 「少しこげてるぜ」 「ぜいたく言わないのよ」  それ以上は、ポチもぜいたくを言わなかった。言う間もあらばこそ、きれいに皿を空にしてしまったのだ。 「——凄《すご》いスピード」  と、マリが目を丸くする。 「デザートは?」 「後で。夜遅くなるまで、我慢《がまん》しなさい」 「眠っちまうよ」 「悪魔は夜ふかしなんでしょ」 「地獄じゃ、TVの深夜放送がないんだ」  と、ポチは言った。「例の泥棒はまだかい?」 「時間が早過ぎるんじゃない? でも、お客さんたちも、十二時ごろには帰るっていうから……。お金もその時にはもう分けられちゃってるんでしょうしね」 「すると、これから一、二時間が勝負だな」 「心配だわ」 「なに、俺たちはただの研修生《けんしゆうせい》だぜ。この世の出来事を、ただ面白がってりゃいいのさ」 「あんたみたいに冷たくないの、私」  と、マリは言ってやった。 「——おい」 「何よ? コーヒーも後よ」 「そうじゃない。誰かいるぞ」 「また警官でしょ。かみついてやる?」 「物騒な天使だな」  だが——確かに、マリの背後で、ガサゴソと音がする。マリは振り向いて、 「誰?」  と、声をかけた。「犬をけしかけるわよ」 「待って!——待って、私よ」  女の声。——そして、出て来たのは……、 「江美さん!」  と、マリが目を丸くした。 「びっくりさせるつもりはなかったんだけど、ごめんなさい」  江美は、息を切らしていた。大分イメージの違う、ジーパンスタイル。 「あの……」 「どうしても、彼に会うの。できたら、新しい恋人にも」 「加津子さんのこと?」 「そう。冗談じゃないわ! そんなお金持の気紛《きまぐ》れで、私の大事な恋人をオモチャにされてたまるもんですか」  こりゃ、相当に怒ってるわ、とマリは思った。昼間会ったOLとは別人みたいだ。 「でも、よく入れましたね」  と、マリは言った。 「私、高校のころ、登山やってたの。高い所によじ上るの、得意なのよ」 「じゃ——塀《へい》を越えて?」 「ええ」 「驚いた! だけど、あれは、赤外線《せきがいせん》が通ってるんですよ」 「猫《ねこ》を一匹連れてきたの」 「猫?」 「それに塀の上を歩かせて。警報が鳴るでしよ。みんな駆けつけて来る。その間に、別の所から塀を上って、忍び込むの。みんな、鳴ったのは猫のせいだと思うわ」 「へえ……」 「だけど、切れてるんじゃない? 鳴らなかったわよ」 「あ、そうか。——〈夜の紳士〉が入って来れるように、わざと切ってあるんだわ」 「何だ、せっかく猫一匹|捜《さが》して来たのに。むだだったわ」 「江美さんの方が大泥棒みたい」  と、マリは笑ってしまった。 「——ねえ、彼、どこにいる?」 「あの健吾ちゃん——いえ、畑健吾さんですか? たぶん、中を見て回ってると思いますけど」  と、マリは言った。「でも、お父さんの刑事もいますよ」 「二人で会いたいの。——ね、呼んで来てくれない?」 「でも……」  マリは、少し迷って、「庭にも警官がいるし……。じゃ、中へ入って下さい。中なら、却《かえ》って部屋もあるし」 「いいの?」 「構いません。——どうぞ」  勝手な判断ではあったが、マリは、江美を連れて裏口へと戻って行った。  犬小屋で、くたびれた顔を出していた警官が、 「誰だい?」  と、江美を見て言った。 「知らないんですか? この人、有名な女刑事ですよ」 「へえ……」  マリは、さっさと江美を屋敷の中へ入れてしまった。 「あ、ちょっと隠れて!」  マリは、江美を、廊下《ろうか》の隅の暗がりへと押しやった。和代がやって来るのが見えたからだ。 「あら、マリさん?」 「はい」 「どこへ行ってたのかと思ったわ」 「すみません。ポチにエサを」 「あ、そうだったわね。お腹空かしてたでしょ。——今ね、クッキーを焼いたの。ちゃんとできるかどうか見ててちょうだい」 「あ——はい」  仕方ない。マリは、一旦、台所へと急いだ。  江美はきっとじっと待っているだろう。  でも、恋人のためと思うと、人間って、ずいぶん大胆なことをするもんなのね。  ——さて、残された江美は、残念ながら、おとなしく待ってはいなかった。ともかく、カッカ来ていて、早く健吾に会って、胸ぐらをつかんでぶん殴って——いや、優しくキスしてやりたかったのである(?)。  そろそろと廊下を進んで行く。ともかく広い屋敷だ! 「迷子《まいご》になりそう」  と、江美は呟《つぶや》いた。  誰か来る!——江美は、壺《つぼ》を飾った棚《たな》の陰へと身を隠した。  男が二人。——一人は警官の制服だ。 「いいな」  と、背広姿の男の方が言った。「あと一時間ある。その間だ」 「分ってる」  と、答えた警官は、帽子を目深《まぶか》にかぶって、顔はよく見えない。 「うまくやってくれ」  と、背広の男が、ポンと警官の肩を叩いて、戻って行く。  警官は、途中から角を曲って姿が見えなくなった。  何だろう、今のは? ひどく秘密めかした言い方が、江美には気になった。  でも、そんなこと、私には関係ないんだわ。今はともかく、健吾さんを捜すのが先決《せんけつ》!  歩き出そうとすると、大きなドアが開いて、女が出て来た。 「じゃ、皆さんに、お飲物《のみもの》をね」  と、さっきマリに用を言いつけていた女へ、言葉をかける。 「加津子様は——」 「私はね、ちょっと息抜き」 「かしこまりました」 「一時間したら、呼んでちょうだい」 「その間、お客様は——」 「TVでも見せとけば?」  子供扱いしている。「それからね」 「はあ」 「健吾ちゃんを捜して、寝室へ来てくれ、と伝えてちょうだい」  江美はドキッとした。——この女なんだわ、あの人を誘惑したのは。  でも——やっぱりすてきだわ、この女《ひと》。  もちろん、年齢《とし》は行っていても、発散《はつさん》している雰囲気《ふんいき》は「女」そのものだ。しかも、生ぐさくない、というか、洗練《せんれん》されたものを持っている。  江美としても、健吾がこの女にフラフラッとしたのは仕方ない、という気がする。しかし——ずっと[#「ずっと」に傍点]はだめ! 「よろしいんですか。今はお仕事中では」 「健吾ちゃんが? いいのよ。この家の主人と、警備について綿密《めんみつ》な打合せをすることも必要だわ。ね、ちゃんとすぐに捜して伝えてよ」 「かしこまりました」  二人の女が、別々の方へと歩いて行く。  江美は、あの女——細川加津子だったわね、確か——を尾けてやろう、と決めた。  二階へ上って行く。その足取りの軽いこと。歌など口ずさんで……。  いい気なもんだわ、全く。  江美は、階段を上って、加津子が入って行く部屋のドアを確かめた。  警官が何人もいるっていうけど……。どこにいるんだろう?  それがちょっと不思議だった。  廊下を歩いて行き、加津子の入ったドアの前で足を止める。ちょっと左右を見回してから、ドアの中の様子をうかがうと——。  しばらく何の音もしなかったが、やがて水の流れるような音……。  シャワーだわ。  江美は、ちょっとためらってから、 「構やしないわ」  と、呟いて、ドアをそっと開けた。  広い寝室。——江美など目をみはるような大きなベッド。  奥のドアが半開きで、その向うがバスルームらしい。シャワーの音と、相変らず楽しげな歌が聞こえて来る。  江美は、後ろ手にドアを閉めた。——今に、健吾がやって来るだろう。  二人が優しく抱き合って。冗談じゃないわ!  飛び出してって、思い切りひっかいてやるから! 「猫を連れて来りゃ良かった」  と、江美は呟いた。  ともかく——その時まで、どこかに隠れていよう。  戸棚がズラッと壁を埋めていて、その一つを開けてみると、パーティなどで着るようなドレス。  シャワーを浴びて、すぐにこんな物を着ることもあるまい。江美は、その戸棚へ入って、そっと扉を閉めた。  スリットが入っているので、少し明りが入って来るし、目を当てると、部屋の中の様子も分る。  さて……。江美は、じっと床に座り込んだまま、健吾が入って来るのを待っていた。  カチャリ、とドアのノブの回る音。——江美が目をこらすと、ドアが開いて……。  健吾ではない。警官だ。制服姿で……。誰だろう?  その時、シャワーの音が止った。  警官は帽子を取ったが、戸棚《とだな》の方に背中を向けているので、顔は見えなかった。 「——ああ、気持いい!」  加津子が、バスローブ姿で入って来ると、 「——誰なの?」  と、足を止めた。 「いつまでも若いな」  と、その警官が言った。  その声……。江美には聞き憶えがあった。どこで聞いた声だろう? 「何ですって?」  と、加津子が呟くように言って、「——あなた」  よろけて、加津子がベッドにドサッと腰をおろしてしまった。目を大きく見開いて、まるで幽霊《ゆうれい》にでも会ったようだ。 「あなたなのね!」 「久しぶりだな」  と、その男が、ゆっくりと加津子の方へ歩み寄って、顔が江美にも見えた。  江美も、思わず声を上げそうになった。  ——おじさん!  池上浩三なのだ。——江美は、唖然《あぜん》として、息をするのも忘れそうだった……。 [#改ページ]  18 長い関係 「あなた……」  加津子《かづこ》は、ただ呆然《ぼうぜん》としているばかり。 「そうジロジロ見るなよ」  と、池上《いけがみ》は照《て》れたように言った。「そんなに老《ふ》けたか」  加津子は、深々《ふかぶか》と息をついて、 「心臓に悪いわ」  と、言った。「——どういうことなの? いつからお巡りさんになったのよ」 「これか。これは拝借《はいしやく》しただけだ」 「え?」 「これが私の仕事さ」  池上が、ポケットから、取り出してベッドの上に投げたのは——白い手袋《てぶくろ》の片方だった。 「あなたが……〈夜の紳士〉?」 「ああ」  少し間があって、加津子は大笑いした。 「——どういう因縁《いんねん》なの? 私のことを知ってて、もちろんここへ忍び込んだのね」 「もちろんだ。君のことも知ってる。君の可愛い『健吾ちゃん』のことも」 「大きなお世話でしょ、私がたとえ十七の男の子を恋人にしようと。あなたは私を捨てて消えちゃった人なんだから!」  と、加津子は食ってかかった。「罪滅《つみほろ》ぼしに、健吾ちゃんに捕まったら?」 「そのつもりだよ」 「——何ですって?」  と、加津子が訊《き》き返す。 「そのために来たんだ。しかし、君が、あの若者を恋人にしてるってのはいかん」 「どうしてよ」 「それは——」  と、池上は言いかけて、「あの男には、とても可愛い恋人があるからさ」 「知ってるわよ」 「だったら、諦《あきら》めろ。君とあの刑事じゃ、つり合わん」 「人のことなんか知らないわ。女として、幸福になっちゃいけないの?」 「君を捨てたことは、何とも言いわけができない。しかし——あのころ、私はもう〈夜の紳士〉と名乗って、泥棒稼業《どろぼうかぎよう》だったんだ。君を巻《ま》き添《ぞ》えにしたくなかった」 「デザイナーだとか言って。嘘ついてたのね!」 「泥棒だ、とも言えんだろう」 「あなたがいなくなって……。私、家出したこの細川の家へ戻ったわ。そして——」 「知ってる」 「知ってる?」 「うん。——女の子が産れたそうだな」  少し間があった。 「両親が、赤ん坊を里子《さとご》に出してしまったわ。そして、その間、世間には、私は留学《りゆうがく》してたことになっていたのよ」 「それで、ずっと独身《どくしん》だったのか」 「男なんてね、信用《しんよう》できないと思ったの」 「無理もないな」  と、池上は肯いた。  また少し間があった。——加津子は、 「ここにいるの? すぐに彼が来ることになっているわよ。捕まるわよ」 「いいさ。そのために来たんだ。ただ、その前に君と話したかったんでね」 「覚悟して来たのね」 「もちろんだ。——なあ、加津子」 「なによ」 「女の子が産れたと聞いたのは、何年かたってからのことだった。その時、よっぽど、謝《あやま》りたいと思った」 「手遅れよ。——あの子がどこでどうしているのか、両親も亡くなって、さっぱり分らないのよ」 「私は調べた」  加津子が、池上を見つめた。 「何ですって? じゃ——分ったの、娘のことが」 「うん」 「じゃ、あの子は——」  と、加津子が言いかけた時だった。  ドアを叩く音がしたのだ。加津子はハッとした。 「彼だわ。——あなた、その戸棚へ隠れて!」 「しかし……」 「後で捕まえてあげるから! 早く隠れてよ!」  妙な話だ。加津子は戸棚の一つに、池上を押し込んで、急いで扉《とびら》を閉めると、 「待って! 今、開けるわ」  と、ドアへ急いだ。「ごめんなさい! 今シャワーを……」  立っていたのは、マリだったのだ。 「すみません。お邪魔して」  と、マリは頭を下げて、「あの——刑事さんはまだ?」 「まだよ。どうして?」 「そうですか。あの——実は、彼女がここへ来てるんです」 「彼女?」  加津子はマリを入れてドアを閉めると、「誰のこと?」 「あの刑事さんの恋人です。結城江美《ゆうきえみ》さんって人」 「その人がここへ?」 「ええ、恋人を引っかいてやるって。私、一緒だったんですけど、彼女、どこかへ行っちゃって。きっと、健吾ちゃんを捜してるんですわ。見付《みつ》けたら、血の雨が……」 「あのね、あなたは『健吾ちゃん』って呼ばないで」 「すみません」 「でも、ここには来てないのよ。和代さんに伝言《でんごん》してって頼んだんだけど……」 「そうですか」  と、マリは肯《うなず》いた。 「いいわ。あなたも、捜して。彼女でも彼でも、見かけたら、ここへ連れて来てちょうだい。今夜は、あの人が有名な泥棒を逮捕《たいほ》する……」  加津子は、言葉を切って、「逮捕……させていいのかしら」  と、呟くように言った。 「そのことでお話が」  と、マリが思い切ったように言った。 「え?」 「〈夜の紳士〉って、池上さんって人なんです」 「あなた、そんなことを——」 「会ったんです。あの人、いい人です。私のことも、襲《おそ》ったように見せかけただけで、何もしてません」 「そう……」 「あの人——わざと捕《つか》まりに来るんです。あの結城江美さんのことを、とてもいい娘《こ》だと言って……。その恋人に、何とか業績を上げさせたいから、って。でも、そんなの間違ってると思います」  マリは熱心にしゃべり続けた。「それに、あの人は——病気なんです」 「病気?」 「もう二、三か月の命しかないって」 「何ですって?」 「だから、どうせなら、江美さんの役に立ってあげようって……。でも、残りの少ない命だったら、大事にするべきです。そんな——留置場《りゆうちじよう》や刑務所《けいむしよ》でなくて、自由に思い切り好きなように——」  マリは、加津子の顔が、真青なのを見て、びっくりした。「あの——大丈夫ですか?」 「何てこと……。あの人は、江美って子のために、そんなことまで……」  加津子は、マリの肩をつかんで、「江美って、いくつぐらいの人?」 「ええと……確か、二十二じゃないでしょうか。あの刑事さんが、そんな風に——」 「二十二!——二十二歳ね」  加津子は、よろけるように歩いて、ソファに身を沈めると、「マリさん……」  と、言った。 「はい」 「その江美って子……。どんな顔?」 「顔、ですか?——可愛いです。そうですね。ちょうど——」 「私を若くしたみたい?」  マリは、まじまじと加津子を見つめた。 「——ええ、似てますね。本当に眉《まゆ》の形とか、そっくり……」 「何てことかしら……」  加津子は、呟《つぶや》くように言った。「私は自分の娘の恋人を……」 「あの——何ておっしゃったんですか?」  マリの問いには答えず、加津子はパッと戸棚へ駆け寄ると、扉を開いた。 「キャッ!」  と、マリがびっくりして飛び上った。 「あなた! そうなのね!」  池上が、ゆっくりと出て来た。——マリを見て、ちょっと笑うと、 「内緒《ないしよ》だと言ったよ」 「すみません」  と、マリはうなだれた。  池上は、加津子の方を向くと、 「その通り。——結城江美が、私と君の娘だよ」  と言った。「ずいぶん時間がかかったが、何とか捜し当てた。江美の勤めている会社のビルの管理人になって働いていたんだ」 「そうだったの」 「里子に出された家で、また両親を亡くしてね、その遠縁《とおえん》の家で育てられていた。しかし、あまり楽しい暮しではなかっただろう」 「江美……。江美、というのね」 「そうだ」 「あなたにも似てる?」 「いや、幸い、君とそっくりだ」  と、池上は笑顔で言った。「しかし——あの子の恋人が、二十年前に私を追い回していた刑事の息子と知った時にはね、びっくりしたよ。これも、君とあの子を捨てた罰《ばつ》かもしれない、とね」 「病気のことは本当なの?」 「ああ。——話す気はなかったんだが」 「水くさい人!」  と、加津子は口を尖《とが》らした。 「そういう顔をすると、昔の君そのままじゃないか」  と、池上は笑った。 「驚《おどろ》いた……」  と、やっと声が出たのは、マリである。「そんな関係だったんですか」 「これも[#「これも」に傍点]内緒だよ」  と、池上が言った。「ところで、君の彼氏は遅いな」 「やめてよ」  と、加津子が頬《ほお》を赤らめた。「いくら私でも、娘と恋人をとり合いしたくないわ」 「まあ、同じような年齢《とし》の男を捜すんだね」 「そうするわ」  と、加津子が肯く。  そこへ——ドアが開いて、 「すみません、遅くなって!」  と、畑健吾が入って来たが……。「あれ? ここじゃなかったっけ」  こんなに人間がいるとは思わなかったのだろう。 「——やあ、健吾君」  と、池上が言った。 「は?」  ポカンとして、池上を見ていた健吾が、アッと目を見開いて「あなたは——」 「池上浩三だよ。二十年前には〈夜の紳士〉という名だった」 「何ですって?」 「あの白い手袋を見たまえ」  ベッドの上の白い手袋に、健吾は目をパチクリさせた。 「あなたが?——あなたが大泥棒?」 「そう。ここで自首するよ。さあ、逮捕してくれ」 「はあ……」  健吾も、ただ面食らっているばかり。そりゃそうだろう。 「ええと……。一旦《いつたん》戻って、上司《じようし》と相談して来ます」  と言い出した。 「その間に私が逃げたらどうする?」 「それもそうですね」 「こんな風にして、さ」  いきなり、池上の拳《こぶし》が、健吾の顎《あご》に当った。 「ワッ!」  不意《ふい》をつかれて、健吾が引っくり返る。  そこへ、 「おい! 大変だ!」  ドタドタと足音がして、飛び込んで来たのは、畑健一郎だった。「金がやられたぞ! おい——」  健一郎と池上は、ちょっと目を見交《みか》わした。 「やあ。二十年前には会えなかったな」  と、池上が微笑《ほほえ》む。 「貴様か——」  池上がパッと廊下に飛び出す。 「待て!」  健一郎が、尻もちをついている息子を引張って、「おい、立て! 追いかけるんだ!」 「は、はい……」  二人がドタドタと〈夜の紳士〉を追って行く。 「おい! 犯人が逃げるぞ!」  と、健一郎が怒鳴っているのが聞こえて来た。  マリと加津子は、呆然《ぼうぜん》としていたが、 「そうだわ、きっと——」  と呟くと、マリも駆け出して行った。  一人残った加津子は、あまりに色々《いろいろ》な驚きが一度に押し寄せて来たせいで、半《なか》ば夢でも見ているかのような気分だった。  そして、ソファに腰をおろして、ぼんやりしていたが……。  カタッ、と音がして、他の戸棚から、結城江美が出て来た時も、加津子は、大してびっくりしなかった……。 「——江美ね」  と、加津子は言った。 「ええ」  江美は、肯いた。「お母さん……ですね」  加津子は、ホッと息をつくと、 「こんなに大きくなって……」  と、立ち上る。「私より背が高いじゃないの」 「ごめんなさい」 「何を謝ってるのよ」  と、加津子は笑って、「子供が親を追い越すのは当り前よ。親にとってはとても嬉《うれ》しいことなんだから」 「ええ。でも——」  加津子が、江美を抱きしめた。江美もまた、力をこめて、母を抱いた。 「——湿《しめ》っぽくなってきたわね」  と、加津子は涙を拭《ふ》くと、「会って嬉しいのに……。ごめんなさいね、あなたの彼氏《かれし》を」 「そんなこと——」 「でも、あの人に会えたから、もういいの。私はずっと、もう一人のあの人を捜して来たのよ。それが本物に会えたんですもの。もう満足だわ」  と、加津子は言った。「あの若い人は、あなたに返すわ」 「池上さんを——お父さんを、ずっと愛してたんですね」  と、江美は言った。 「そう。私が愛したのは、あの人一人よ」 「分ります。あんなすてきな人」 「そうでしょ? やっぱり私の娘だわ」  加津子は、江美の髪をそっとなでた。「髪の感じは、お父さんとそっくりね」 「でも——どうして逃げたのかしら、お父さん」  加津子が、ハッとした。 「そうだわ! あの人——」 「え?」 「死ぬ気なんだわ」  と、加津子は言った。 [#改ページ]  19 転 落 「どこだ!」 「こっちだ!」 「庭へ出たぞ!」  屋敷《やしき》のあちこちから声が飛《と》び交《か》って、却《かえ》って大混乱になってしまった。 「——変だわ」  と、マリは言った。「あの人、本当にお金をとる気なんてなかったのよ」 「じゃ、誰がやったんだ?」  と、ポチが言った。 「分らないけど——見張ってたガードマンが全員、薬で眠らされてたって」 「フーン。何億円ったって、その気になりゃ、結構《けつこう》簡単なもんだな、盗むのは」  と、ポチは、感心している。「おい」 「何よ」 「今度、二人でやろう、強盗《ごうとう》」 「勝手にやんなさい」  マリたちが、庭へ出て行くと、ライトを手に、警官たちが右往左往している。 「犯人は警官の制服姿だぞ!」  と、畑健一郎が叫んでいる。「気を付けろ!」 「捜してるのも警官なのに、あれじゃ分んないよね」  と、マリは言った。 「なかなか頭のいい奴だな。地獄で、歓迎してくれるぜ」 「地獄なんか行かないわよ、あの人は。我が子の幸せのためにやったんだからね」 「へっ、甘い奴だな」 「何よ」  と、やり合っていると、 「おい、そこの犬! 犯人でも追っかけたらどうだ!」  と、警官がポチに向って怒鳴った。 「ふざけんじゃねえや。飯の一回だって、食わしてもらったこともないのに」  ポチはそっぽを向いてしまった。  その時、 「いたぞ!」  と、声が上った。 「おい!」 「上だ! 屋根の上!」 「光を当てろ!」  ライトが、高い屋根へと向く。——かなり傾斜《けいしや》の急な、屋根の上に、明りに照らされて、浮かび上ったのは……。 「まあ」  と、マリは言った。「着替えたんだわ」  タキシード姿の、〈夜の紳士〉が立っていたのである。 「やあ、ご苦労さん」  と、池上は、地上の警官たちに向って、手を振った。「なかなかいい眺めだよ」 「おい! 囲まれてるぞ! 諦めて下りて来い!」  と、怒鳴っているのは、畑健一郎である。 「そっちから来いよ」  と、池上が愉快そうに、「高所恐怖症《こうしよきようふしよう》で、上れないんだろ?」 「ど、どうして知ってる!」  と、健一郎が顔を真赤にした。 「囲まれてる、か。——なに、そっちの電柱《でんちゆう》へ飛び移るのは簡単さ。ではまた会おう」  と、池上は、器用にバランスを取りながら、屋根の天辺《てつぺん》を歩き出した。 「待て! 撃《う》つぞ! 止《とま》れ!」  健一郎が拳銃《けんじゆう》を抜いて、空に向って一発撃った。  しかし、もちろん池上はまるで気にもしない様子。 「——無理だぜ」  と、ポチが言った。 「え?」 「電柱に飛び移るなんて、鳥でもなきゃな」  マリは、息を呑《の》んで、見守っていた。池上は死ぬつもりなのだ。 「止れ!」  健一郎が、もう一度怒鳴った。「撃つぞ!」  健吾が、 「僕が屋根に上る!」  と、言うなり、雨樋《あまどい》に向って、駆けて行った。 「馬鹿、やめろ!」  メリメリ……。雨樋がこわれて、健吾が引っくり返る。 「撃て!」  と、健一郎が叫んだ。「おい、健吾! 撃て!」 「僕が?」 「そうだ! 早く撃て!」  健吾が拳銃を抜く。銃口がゆっくりと重たげに屋根の上に向いたが……。 「何をしてる! 撃つんだ! 逃げちまうぞ!」  健一郎の声に、健吾が、ギュッと拳銃を握り直した。その時、 「やめて!」  と、叫んで、江美が飛び出して来た。「撃たないで!」  その声にギョッとした弾《はず》みだったが、拳銃が火を吹いた。  アッ、と声にならない声が、庭に満ちた。  屋根の上で、池上の体がグラッとよろけたのだ。  マリも息をのんだ。——池上が、屋根を転がり落ちて来た。  ドサッと、音をたてて、池上が庭へ落ちる。  マリは、急いで駆けて行った。 「——金は見付かりません」  と、畑健一郎は首を振って、言った。「既《すで》に邸外《ていがい》へ持ち去ったものと考えていいかもしれませんな」 「そうですか」  加津子は、地味《じみ》なスーツを着て、居間のソファに、身じろぎもせずに座っていた。「ご苦労様でした」 「いや、どうも……。できることなら、生かして捕えたかったんです」 「そうですね」  と、加津子は言った。「お引き取り下さいな」 「分りました」  健一郎は、居間を出ようとして、「——おい、行くぞ」  と、健吾へ声をかけた。 「うん……」  健吾は、眉を寄せて、考え込んでいる。 「あの場合、仕方なかった。まあ、気にするな」  と、息子の肩を叩く。  二人が廊下へ出ると、江美がやって来た。 「江美さん」  と、健吾は言いかけた。 「何も言わないで」  と、江美は言った。 「知らなかったんだ。あの人が君の——」 「もうすんだことだわ」  江美の表情は固《かた》かった。「あなたは間違ってなかったでしょうけど。でも、やっぱり私、気持の上で、忘れることはできないと思うの。——ごめんなさい」 「じゃ……。もう、これで?」 「ええ。さよなら。——いい刑事さんになってね」  江美が居間へ入って行く。  健吾は、重い足取りで、父の後をついて行った。 「やれやれ……」  市川《いちかわ》は、汗を拭《ぬぐ》った。「全く、危いところだった」  中村《なかむら》の奴、どこへ行っちまったんだ! 肝心の時に!  やっと警官も引き上げて、邸内は静かになっていた。  市川は、金を置いていた小部屋へ入ると、壁の絵を少しずらして、その下の壁をいじった。——カタッ、と音がして、床の一部が、凹《くぼ》んだ。 「——これで、俺《おれ》も助かった、というわけだ」  この隠し場所は、市川が、加津子の旅行中に、こっそり作らせたものだ。  まさか盗まれた部屋に隠してあるとは思わないだろう……。  市川は蓋《ふた》を持ち上げた。——鉄のケースがスッポリと納まっている。 「さて、どうやって運び出すか」  と、呟《つぶや》くと、 「手伝いましょうか」  と、声がした。  市川が飛び上った。——マリが、ポチと並んで、ドアの所に立っている。 「見たな!」 「そりゃ、目があるからね」  市川が、上着の下から拳銃を出した。 「ほら、何とかしなよ」  と、マリがポチをつついた。 「やだよ。俺は悪魔なんだぞ。正義《せいぎ》の味方じゃねえや」  と、ポチが文句を言う。 「ステーキ、おごるからさ」 「ステーキ? 本当か?」 「もちろんよ」 「デザートは、上等のサバランだぞ」 「分ったわよ。本当に食い意地がはってんだから」  と、マリがため息をつく。 「何をグチャグチャ言ってるんだ」  と、市川が言った。「命が惜《お》しかったら——」  ポチが、ワッと飛びかかった。——バアン。  引金《ひきがね》を引くのが、少し遅かった。  市川は、ポチに飛びかかられて、引っくり返りざま、頭を机の角にしたたか打ちつけて、気絶してしまったのである。 「何だ、弱いの」  と、ポチが鼻を鳴らした。  そこへ、畑親子が駆けつけて来た。 「ここにいたのか!」  と、健一郎が息をつく。「金もここか」 「この人が、池上さんを撃ったんですよ」  と、マリは言った。「ほら、二発撃ってるでしょ」  健吾は、その拳銃を受け取って、 「じゃ……僕の弾丸は当らなかったのか!」 「あれで当ったら、奇跡《きせき》ね」  と、マリは言ってやった。 「——何事?」  加津子と江美もやって来た。 「江美さん! 見てくれ!」  と、健吾が飛び上りそうになる。  事情を聞いて、加津子は唖然《あぜん》とした。 「市川さんが、横領《おうりよう》?」 「そうです」  と、健一郎は肯いた。「その穴埋《あなう》めに、この金を、狙《ねら》ったんですな。うまく〈夜の紳士〉に罪をかぶせて、金だけは自分のものにしよう、と」 「何てこと……」  と、加津子は呟いた。「人を見る目がないんだわ、私って」 「でも、刑事さん、どうしてそれを知ってたんですか?」  と、マリが訊いた。 「奴が教えてくれたのさ」 「奴って?」 「〈夜の紳士〉当人[#「当人」に傍点]さ。——市川は〈夜の紳士〉を殺すのと、金を隠しておいて運び出すのに、中村って男を雇った。ところが、その中村ってのは、実は〈夜の紳士〉当人だったのさ。それで前もって、電話でこっちに市川のことを知らせて来たってわけだ」 「呆れた。じゃ、一人で困ったでしょうね」  と、マリは市川を見下ろして言った。 「相棒がいれば、きっと金も運び出していたんだろうな」  健一郎は、江美の手をじっと握りしめている健吾へ、「おい、人を呼んで来い! 金を調べろ」 「うん。——それからお父さん」 「何だ?」 「僕、刑事を辞めるよ。やっぱりこの仕事にゃ向いてない」  健一郎は、ちょっと笑って、 「そうか。じゃ、せめて辞表《じひよう》ぐらいは自分で書けよ」  と、言った……。  何人か警官が来て、金のケースを、穴から出した。 「一応開けてみましょう」 「ええ。じゃ、鍵《かぎ》が……」  加津子が、鍵をあける。——そして、誰もが呆気に取られることになってしまった。  ケースの中は、空だった[#「空だった」に傍点]! 「どうなってるんだ!」  と、健一郎が目をむく。 「何か入ってます」  と、マリがケースの底から、一枚の紙を取り出した。「ええと……。〈長い間、お世話になりました。退職金のつもりでいただきます。大山和代[#「大山和代」に傍点]と名乗っていた女〉……」  誰もが、しばらくは声も出なかった。  そして——加津子が、楽しげに笑い出したのである。  マリも笑った。ポチも……笑ったのだが、誰もそうは思わなかっただろう……。 [#改ページ]  エピローグ 「じゃ、出かけるわ」  と、加津子が、朝食の席から立ち上った。 「はい」  マリは、急いでドアを開けた。「——お出かけですよ!」  と、呼ぶとドタドタと足音がして、二階から、畑健吾が駆け下りて来る。 「ほら、早くして! 秘書の方が遅いんじゃ仕方ないでしょ」 「う、うん……」  健吾は必死でネクタイをしめながら、「いけね! 鞄《かばん》、忘れた」 「全く、もう!」 「あなた」  と、江美が、階段を下りて来る。「はい、鞄」 「や、ごめん」 「いい奥さんで幸せですね」  と、マリは言ってやった。 「私も出かけるわ」  と、江美が言った。 「江美、少し早いんじゃないの?」  と、加津子が言った。 「でも、どうせあと少しの勤めだから、遅刻《ちこく》したくないし」 「そうね。じゃ、駅まで車で」 「うん」  健吾が車を玄関へ回す。 「——行ってらっしゃい」  細川加津子と、畑健吾、その妻、江美を乗せた車が、門を出て行った。  来年には、江美も母親になるようだ。 「さて、と……」  マリは、裏口から出て、「ね、あんた、行くわよ」  と、ポチへ声をかけた。 「どうしても?」  と、ポチが情ない声を出す。「こんなに食いものも良くて、居心地《いごこち》のいい所なんて、ざらにないぜ」 「だから、だめなのよ」  と、マリは言った。「いつまでもここに落ちついちゃったら、研修にならないじゃないの」 「分ったよ……」  ポチは欠伸《あくび》をした。 「でも——いい人たちだったわね」  と、マリは言った。「人間って、本当に可愛いわ」 「チェッ」 「何よ」 「別に……」  この次は、もっといやな奴のいる家に行ってほしいね。  ともかく、天使が人間を信じられないようになってくれないと……。 「私は人間が大好き! 人間|万歳《ばんざい》!」  門を出て歩きながら、マリが空へ向って、叫んでいる。  それを見て、ポチは、ちょっと首をかしげると、 「ついて歩く天使を間違ったかな」  と、呟いたのだった……。 この作品は、'89年4月刊行されたカドカワノベルズ版を文庫化したものです。 角川文庫『天使よ盗むなかれ』平成3年7月10日初版発行               平成12年4月10日21版発行