[#表紙(表紙.jpg)] 天使と悪魔 赤川次郎 目 次    プロローグ  1 もう一つの浴槽《よくそう》で  2 奇妙な失業者  3 突然の混雑  4 もう一つの顔  5 刑事、逃亡者となる  6 恋人の義務とは  7 病 院  8 証 人  9 恋の誓い  10 偽 証  11 煙の中  12 現われた顔    エピローグ [#改ページ]  プロローグ 「あの人を殺すしかないんだわ」  と、三宅照子《みやけてるこ》は言った。  別に、誰に向けて言ったのでもない。ただ自分がそう結論を出したことを、自分自身に告げてやったのである。  人間は、重大なことを、ほんのちょっとした出来事に托《たく》して決めることがある。もちろん、そこに至るまでに長く長く迷って、結局、九十九パーセント、心を決めた後でのことだ。  最後の一パーセント。踏み出すための、ほんの一押しを、何かに頼ることがあるのだ。それは、最後の決定は、自分でなく、「偶然」が——あるいは「運命」でも「神」でもいいが——下したのだということにしておきたいからかもしれない。  特に、「人殺し」などという恐ろしい行動を決意するには、三宅照子はあまりにおとなしく、乱暴なことの嫌《きら》いな性格だった。  でも、もうこれ以上、放ってはおけない。  ——目の前に、土手があって、金網が張りめぐらされ、その向うを電車が走っていた。もう終電近くで——いや、たぶん、今通ったのが最後の電車だろう。  三宅照子は、二十分ほど前から、土手の下にうずくまって、十一月の夜の寒さに震えながら、電車が通るのを待っていたのである。  通る電車が「上り」なら、夫を殺すのはよそう。「下り」なら殺そう。——そう思って、電車が通るのを、じっと待っていたのだった。  そして、通った電車の行先表示を見て、それが「下り」だと知ったのだ。  予《あらかじ》め、どっちが来るかを心の底では知っていたのではないか、と疑う者もあるかもしれないが、それは事実ではない。何しろ、三宅照子は方向にかけては子供以下で——三十二歳になった今でも、毎日乗る電車の駅のホームへ上る時、必ず表示を見て確かめる。そして、実際に目的の駅に着くまでは、乗り違えているのではないかとびくびくしているのである。  だから、こうしてアパートから十五分も歩いて来て、私鉄の線路に出くわしたからといって、どっちが都心の方向で、どっちが郊外なのか、照子に分るわけもなかった。 「下り」を、「殺す」方に決めたのも、ただ単純に、夫が死んだらきっと「下の方」——地獄に行くだろうと思ったからだ。子供っぽい決め方だが、少しはそんな「遊び」もなくては照子自身、気が狂ってしまったかもしれない。  ともかく、決心したからには、早くアパートへ戻《もど》らなくては。良子《よしこ》と夫を二人にしてあるのだから。  照子は、立ち上った。長くしゃがみ込んでいたので、足が少ししびれていた。寒さのせいもあるだろう。  夜空が、いつになく澄んで、月が冴《さ》え渡っていた。  ともかく——今日で、苦しみも終るのだ。そう思うと、いやに気持も軽くなった。夫を殺すのは、難しくない。何しろ夜ともなれば、酔い潰《つぶ》れ、子供を怒鳴《どな》るか、妻を殴るかして、後は高いびきで翌日の昼まで起き出さないのだ。  何をされたって、声一つたてないに違いない。良子の目を覚まさせることがないように、静かにやっつけるのだ。  夫さえいなければ……。夫が死にさえすれば、私も良子も救われるんだ。  照子は、足のしびれも消えて来たので、アパートの方へ歩き出した。  逃げるような足取りで来た道を、今度は散歩しているように、軽やかに戻って行く。——本当に、一旦《いつたん》決心してみると、どうしてこんなに長い間、思い悩《なや》んだのかと不思議になるくらいだった。  夜道は寂しかった。いつもの照子なら、気が小さいから、子供のように怖《こわ》がって、足取りも早まるところだが、今は平気だ。何が出たってこっちは「人殺し」をしようとしているんだ!  フフ、と照子は小さく声を立てて笑った。人を殺そう、というのに、笑ってるんだから、私ったら!  結構、度胸がいいのかもしれないわ。  夜空が、道の上に深い谷のようにかかっていた。少し視線を上げて、歩いて行く。  いつも疲れ、惨めで、伏目がちに歩いていたのだが、こうして上を見るだけで、何て世の中は違って見えることだろう。  これからはもう、いつも上を向いて歩いて行くんだ! 夫に気がねすることもない。  照子は、大きく息を吸い込んだ。  すると——夜空を星が一つ、落ちて行った。照子は足を止めた。  流れ星? 見る間に、もう一つ、前よりは小さな星が。  二つも……。ずっと低い所を落ちて行ったようだ。途中で消えないで、どこかに落ちたようにも見えた。  もちろん、近くに見えても、実際は、ずっとずっと遠くなのだ。照子など、行ったこともないほど遠い所……。  ふっと、照子は目が覚めたような気がして、周囲を見回した。——少しも変りはないが、でもどこか違っている。  突然、自分自身を遠くから眺めているような気持になったのだ。  どこか遠く……。人を殺したら、刑務所に入る。どこか遠くの。そして、そこにはもう良子はいない……。  照子は、両手を頬《ほお》に当てた。——手の冷たさが、逆に頬の燃えるような熱さを教えてくれる。  殺すなんて! 何てことを考えたのだろう?  殺す必要なんかない。ただ、出て行けばいいのだ。良子と二人で、新しい生活を始めればいい。  三宅は、きっと追いかけて来て、連れ戻《もど》そうとするだろうが、照子の意志さえ固ければ、大丈夫。  裁判に訴えても、離婚してやる!  人を殺して刑務所に入り、良子と引き裂《さ》かれることを考えれば、どんなに楽だろうか。  出て行く。——そんな簡単なことを、どうして考えなかったんだろう?  照子は、一人で夜道に立っていた。  以前なら、一人ぽっちだ、と感じただろう。しかし、今は違った。一人になれた。一人で歩けるようになったのだ。解放されたのだ!  これで良子が一緒なら——怖《こわ》いものなんかあるものか。  照子は、力強い足取りで、再び歩き出した。あの流れ星に感謝しながら。  ——アパートに着いた時、照子は、玄関のドアが開いているのに気付いた。  私ったら、夢中で、ドアを閉めるのも忘れたのかしら? 何てぼんやりなんだろう。  玄関へ入ると、中は真暗だった。  手探りで、明りのスイッチを押す。 「あなた。——あなた」  夫の、いつものいびきが聞こえて来ない。  照子は、まず奥の部屋へ行って、良子が眠っているのを確かめた。布団が半分めくれていたので、直してやる。  夫はどこへ行ったんだろう?  捜し回るほど広いアパートではない。部屋は、奥の座敷と、台所を兼ねた食堂だけ。小さなお風呂《ふろ》がついているのが、唯一《ゆいいつ》の取り柄《え》のようなアパートだった。 「お風呂場かしら」  明りが点《つ》いてもいないようだが……。  照子はトイレを覗《のぞ》いてから、お風呂場のドアを開けた。同時に明りのスイッチを押している。  ——三宅|吉司《よしじ》は、確かにそこにいた。  しかし、眠っているわけでも、酔い潰《つぶ》れているわけでもなかったのだ。  狭い風呂場の中には、至る所、血が飛び散っていた。三宅の体は、空《から》の浴槽《よくそう》の中へ頭を垂れて、まるでプールへ飛び込むように、浴槽へダイビングしようとしているかに見えた。 「あなた……」  目の前の光景が、信じられなかった。夫はパジャマ姿のままだったが、上半身は血に染って、ブルーの地の色は、もうどこにも見えないくらいだった。  いつの間にか、照子は、夫の死体へと近付いていた。浴槽へ垂れた夫の頭を覗き込むように見る。  と、下のタイルに流れていた血で、足が滑った。アッと思った時には、血だまりの中で引っくり返ってしまっていたのだ。  両手といわず、顔といわず、べとつく血を肌《はだ》に感じて、照子は初めて恐怖《きようふ》を覚えた。  どうして——一体誰がこんなことを?  手が何かに触れた。ふと目をやる。  シャベルだ。折りたたみ式の、鉄製のシャベル……。それも今、血に覆《おお》われていた。  これか……。これで誰かが殴ったのだ。  照子は、呆然《ぼうぜん》として、それをつかんで座っていた。 「警察……。一一〇番だわ」  と呟《つぶや》く。  立ち上ろうとした時、 「キャッ!」  と、背後で叫《さけ》び声がして、びっくりして振り向く。  見たことのない女が立っていた。  目を大きく見開いて、三宅の死体と、照子を見ている。 「あなた……どなた?」  と、照子が訊《き》くのも耳に入らない様子だった。  その女は、急に、大声を上げた。 「人殺し!」  そして、玄関から飛び出して行くと、「人殺し! 誰か来て! 人殺しよ!」  と、甲高い声で叫び続けた。  照子は、シャベルを手にしたまま、風呂場《ふろば》を出た。  そんな大声出さなくたって。——良子が起きるじゃないの。  照子は、その見たことのない、勝手に人の部屋へ入りこんで来て、わめき立てている女に、すっかり腹を立てていたのだ。  近所が起き出したらしい。明りが点《つ》いたり、ブツブツ呟《つぶや》く声が、聞こえて来る。 「困ったもんだわ、本当に……」  と、照子は呟いた。  しかし、どれほど本当に[#「本当に」に傍点]自分が困ったことになるか、この時、照子には全く分っていなかったのだ……。 [#改ページ]  1 もう一つの浴槽《よくそう》で  やっとここまで辿《たど》り着いたのだ。  思えば、長い道のりだった、と吉原丈助《よしはらじようすけ》はある感慨《かんがい》を抱いた。丸二年。——あたかも、赤道直下の砂漠《さばく》を、水筒一つで横断しようというのにも似た、辛《つら》い道だった。  しかし、今! やっと、ここまでやって来たのだ!  エベレストの山頂をきわめたアルピニストもかくや、と思えるほどの感動に、吉原の心は打ち震えるのだった。 「これがあなたの『マンション』なの?」  と、彼女[#「彼女」に傍点]が言った。「普通のアパートじゃない」  吉原は、必死で笑顔を作った。 「そ、そうだね。でも一応マンションなんだ。ただ古いから——ということは、歴史があるんだ。由緒《ゆいしよ》正しいマンションなんだ」  俺《おれ》は何を言ってるんだ? 「でも、まあ、チャラチャラしてなくていいわね」 「そ、そうだろう? やっぱり君には、こういう落ちついた雰囲気《ふんいき》が良く似合うよ」 「私、でも可愛《かわい》い部屋の方が好きよ」  と、彼女はマンションのロビーへ入りながら言った。 「そりゃいいね。うん。僕も少し部屋の中を明るくしたいとは思ってたんだ」 「うんと可愛くしちゃうわね。私だったら」  彼女は、いたずらっぽく、「もし[#「もし」に傍点]ここに住むとしたらね」  と、付け加えた。  吉原の心臓は、飛び出さんばかりに高鳴った。 「あ、あの——エレベーターがそこに」 「へえ、一応、生意気《なまいき》にエレベーターなんかあるのね」  と、彼女も多少は[#「多少は」に傍点]感心した様子だった。「あら、中の蛍光灯が——」  古くなった蛍光灯が、チカチカと瞬いている。吉原は、内心舌打ちした。  畜生! あの管理人のじいさんめ、三日も前から、取り替えろ、って言ってるのに。  いつも、 「明日までにやっとくよ」  と言って、放っておくんだ。 「一応管理人はいるんだけどね。なかなかやってくれないんだよ」  と、吉原は、エレベーターの扉が閉まると、〈3〉のボタンを押した。 「管理人なんて、そんなもんよ」  と、彼女が肯《うなず》いて、「私の友だちの所なんて、アパートの廊下、電球が全部切れて、真暗なのよ」  ゴトゴト音をたてながら、エレベーターが上って行く。何しろ旧式だから、のろいのである。 「歩いた方が早いみたい」  と、彼女が言った。 「そうだね。運動にもなるから、僕も普通はたいてい階段を使うんだ」 「でも、管理費は取られるんだから、使わなきゃ損よ」 「そうだとも。だから、僕もいつもエレベーターを使ってるんだ」  何を言っているのか、自分でもよく分っていないのである。  ——もちろん、吉原丈助が、毎日この自分のマンションに帰って来る度に、サハラ砂漠《さばく》を横断して来るわけではない。古いだけあって、交通の便のいい場所に、このマンションは建てられていた。  四階建で、建った時はかなりモダンだったに違いない。今は彼女の言う通り、「普通のアパート」と、大差ない状態になってしまっていた。  吉原が、「やっとここまで辿《たど》り着いた」という感慨《かんがい》に耽《ふけ》っているのは、言うまでもなく、ここ二年来付合って来た(というより、一方的に想《おも》いこがれて来た)彼女[#「彼女」に傍点]、林一恵《はやしかずえ》をやっと自分のマンションに連れて来ることに成功したからだ。  いや、もちろん連れて来たからといって……彼女が彼の部屋に上ったからといって、どうこういうわけじゃないが……。必ずそう[#「そう」に傍点]なるってもんでもないが——しかし——。  吉原に妙な下心があったというわけではないが、まあ、なかったわけでも、ない。  男として——ごく普通に恋する男として、当り前の程度には、吉原も期待していたのだ、とだけ言っておこう。  やれやれ、のんびりしたエレベーターも、やっと三階まで辿り着いた。  幸い、廊下の明りは、どこも切れていなかった。 「静かね」  と、林一恵が言った。 「そうなんだ。みんな物静かな人が多くてね」 「でも、私、どっちかというと、にぎやかな方が好き」 「だから——少しにぎやかな人が入った方がいいな、と前から思ってたんだよ。ハハハ……」  吉原は一人で汗をかいていた。およそ汗をかくような陽気じゃないのだが。 「——ここだ」  吉原は、鍵《かぎ》を開け、ドアを引いて、「さあどうぞ」  と、林一恵を中に入れた。  三階の三〇二号が、吉原の部屋である。もちろん、吉原は一人でここに住んでいた。  2LDKというから、独り住いには充分な広さだ。いつもは、独身男の一人住いにふさわしく、雑然と散らかっているのだが、今夜はさすがに二日がかりで大掃除した成果で、大分部屋の中はすっきりしている。  で近所の人が、 「引越されるそうで、長いことどうも」  と、早とちりで挨拶《あいさつ》に来たものだ。  つまりは、それぐらい普段、ろくに掃除しないというわけである。 「——なかなかいいわね」  林一恵の判決[#「判決」に傍点]に、吉原は胸をなでおろした。 「今、紅茶でもいれるからね」  そそくさと、台所へ行く。「——ちょうどね、いい紅茶をもらったんだ。ロイヤルコペンハーゲンのね。君、紅茶が好きだから……」 「あら、本当? 嬉《うれ》しい」  いいぞ。——順調だ。  吉原が、大枚はたいて買って来た紅茶をいれて運んで行くと、林一恵は、ソファでうとうとしていた。  その寝顔——少し唇が開いて、頬《ほお》がつややかに光ったところの可愛《かわい》いこと!  吉原は、ただうっとりとして眺めていた。  だが、一方では、せっかく作った紅茶がどんどん冷めてしまう。——ためらいつつ、吉原は、一恵の方にそっと顔を寄せて行って、「ねえ……紅茶が……冷めるよ」  と囁《ささや》いた。 「うん……」  聞こえているのかいないのか、生返事をして、一恵が、フーッと息を吐いた。  頭が少し傾いて——ちょうどいい角度になる。つまり……キスするのに、である。  吉原は、自分でも驚くような大胆さで(というほど大したことじゃないのだが)、一恵に素早くキスした。  一恵が目を開いて、 「あら……」  と、吉原を見つめる。「何か[#「何か」に傍点]した?」 「いや……その……別に」 「そう? 何だか、感じたみたいだけど、気のせいかな」 「そ、そうかもしれないよ」 「じゃあ……」  一恵はニッコリ笑って、「ちゃんとキスしてよ」  許可が下りた! 吉原は堂々と改めて一恵にキスしたのだった。 「——大変だったでしょ」 「何が?」 「これだけ片付けて、お掃除するの」 「まあね」  と、吉原は笑って言った。 「私がやってあげるわよ、今度から」  吉原の心臓は、極限状態に近いテンポで、打ち始めた。 「ほ、本当かい?」 「ええ……。私って結構家庭的な女なのよ」 「そうだね。いや、そうだろうね」  一恵は体を起こして、伸びをすると、 「眠くなっちゃった……」  と言った。「ここ、余分なお布団って、あるの?」 「お、お布団?」  吉原はもはや天にも昇る心地。「そりゃ——その、ベッドがあるよ」 「二つ?」 「一つ。でも——僕はここで寝るから、いいんだ」  一恵が微笑《ほほえ》んで、 「悪いわ、そんなの」 「いや、ちっとも構わないよ、そんなこと」 「じゃあ……あなたのベッドで、一緒に寝ればいいわね」  吉原はもう立っていられなくなって、床にヘナヘナと座り込んでしまった。 「——私、お風呂《ふろ》に入りたい」  と、一恵が言うと、吉原は飛び上った。 「す、すぐにお湯を入れるよ!」 「熱めにね。私、あんまりぬるいお風呂だと、入った気がしないの」 「分った」  吉原は浴室へ駆け込んで、ワッとお湯の栓《せん》をひねった。 「やった……。やったぞ! ついにやったんだ!」  と、ブツブツ呟《つぶや》いている。  二十八歳という年齢の割には、何とも純情な男なのである。林一恵は二つ下の二十六だが、吉原よりはよっぽどこういうことに慣れているようだった。  しかし、構やしない! ともかく吉原はこの二年間というもの、ひたすら一恵に惚《ほ》れ続けて来ていたのである。 「早く入らないかな……」  と、浴槽《よくそう》を覗《のぞ》くと——底の栓を、はめていないのだった……。  ま、しかし二十分もすると浴槽はちょうど一杯《いつぱい》になり、一恵のご機嫌《きげん》も良くなる一方だった。 「私、じゃお先に——」 「うん。どうぞどうぞ」  吉原は、ピョンと飛び上るように立つと、「こっちだよ。——このドア」  案内しなきゃ分らないほど広くはないのだが。 「ええと……このタオルとバスタオル、ちょうど新品があったんだ」 「ピンクの?」  もちろん今日のために、あわてて買って来たのだ。ちなみに、吉原が使っているタオルには、〈××銀行〉という文字が入っていた……。 「じゃ、入るから」 「うん」  ——二人は何となく顔を見合わせて立っていた。一恵が、エヘン、と咳払《せきばら》いして、 「あの——服を脱がないと、お風呂《ふろ》に入れないのよ」 「そりゃそうだね」 「あっちに行っててくれる?」 「そ、そうか! いや、ごめん!」  吉原はあわてて言った。別に、一恵が服を脱ぐのを見ていようと思ったわけじゃないのである。ただ単純にボヤッとしていただけなのだ。 「じゃ、居間にいるから……。何か用があったら、呼んでくれ」 「うん」  銭湯じゃあるまいし、用事があるわけもあるまい。  吉原は、ともすればふらつく足を踏みしめながら、居間に戻《もど》って、ソファにドタッと座り込んだ。 「——夢じゃないか!」  ここまで来れば……。彼女の方だって、分ってるはずだ。お風呂に入って、後で吉原と一つのベッドで寝る、というのだから。  でも——もし、拒まれたらどうしよう?  本当にただ[#「ただ」に傍点]「寝る」だけのつもりだった、と言われたら?  まさか! 子供じゃあるまいし。  それに彼女の「家庭的……」という発言は、「プロポーズしてもいいわよ」と言っているように、吉原には聞こえた。——ま、誰にでもそう聞こえるだろうが、それでもいくらかの疑念を捨て切れないところに、吉原の気の弱さ——というか単純さというか——がよく出ている……。  ともかく! これで九十九パーセント、彼女は今夜、俺《おれ》のものになり、そして俺と結婚してくれることになるだろう。  早くも、吉原の思いはベッドの上に飛んでいて、ソファに座って、目は空中をさまよっている。  そして——ふと気が付くと、林一恵が、居間の入口の所に立っているのだった。  いやに早いな、お風呂に入るのが。それともぼんやりしていて、そう感じただけなのかしら?  しかし、どうも妙だった。一恵は、風呂へ入って来たばかりの割には、髪も濡《ぬ》れていないし、湯上りという雰囲気《ふんいき》ではない。しかも、さっきまでとは打って変って、やけにおっかない表情で、吉原をにらんでいたのである。 「あの……どうかした?」  吉原は、精一杯《せいいつぱい》、笑顔を見せながら訊《き》いた。  お湯はちゃんと入れてあったはずだ。水でもないし、熱湯でもない。底の栓《せん》も、ちゃんとはめておいたから、空っぽだったわけもない……。 「どういうつもりなの!」  と、一恵が頭の天辺から声を出した。 「ど、どういうつもり、って……」 「他の女の子を泊めといて、私と三人[#「三人」に傍点]で楽しもうってわけ? 冗談じゃないわよ! 私、そんな趣味ないのよ!」  バスタオルが投げつけられて、吉原の頭をスポッと包んだ。あわててはたき落とすと、「待ってくれ! 何のことだい、他の女の子って?」 「とぼける気? それともあなたの所、お風呂を他の人に貸す商売でもやってるの?」 「銭湯じゃないぜ。——そんな馬鹿な! 何かの間違いだよ」 「どういう間違いか、自分で見て説明してちょうだい!」 「わ、分ったよ」  吉原は、あわてて浴室へ飛んで行った。  他の女の子?——そんな馬鹿なことが!  吉原は浴室のドアをパッと開けた。  そこには——誰もいなかった。 「ほら、誰もいないじゃないか」 「そんなこと——」  と、覗《のぞ》き込んで、一恵は目をパチクリさせている。「確かにいたのよ! 若い女の子がお湯につかってて……」 「そんなことないよ! 君、きっと何かこう——幻覚でも見たんじゃない?」 「でも……」 「だって、確かにいないじゃないか」 「そうね」  と、一恵も首をかしげている。 「湯気《ゆげ》が立ちこめてるから、影か何かが人のように見えたんだよ、きっと」 「そう? でも……」 「僕の恋人は君しかいないんだから。他の女の子なんて、目じゃないよ」 「分ったわ」  と、一恵は肩をすくめた。「じゃ、入ってる間に、バスタオルをここへ置いといてね」 「分ったよ」  吉原は、居間へ戻《もど》ってホッとした。  お風呂の中に女の子? 「まさか!」  と笑って、首を振ると、バスタオルを拾い上げて、四つにたたむ。  耳を傾けていると、水のはねる音が聞こえて来る。——大丈夫、入っている。  吉原は、浴室の前まで行って、バスタオルを、彼女の脱いだ服の上にのせておいた。——彼女の脱いだ服! 彼女は裸で風呂《ふろ》に入ってるんだ!(当り前のことだが……)  そう思っただけで、吉原は、まためまいにも似た感覚に襲《おそ》われて、足下がふらついて来た。  すると——。 「キャーッ!」  一恵の悲鳴が聞こえたと思うと、ドアが開いて、裸の一恵が飛び出して来る。  ちょうど目の前にいた吉原は、一恵に押し倒されるような形で、引っくり返ってしまった。——こういう状態になることは、望まないわけじゃなかったが、しかし、どうも事情は少々違っているようだった……。 「ど、どうしたの?」  と、吉原が目を丸くすると、 「どうした、じゃないわよ!」  金切《かなき》り声を上げて、一恵はバスタオルを引ったくると、裸の体に押し当て、「何がお風呂に入ってたと思う?」 「何が?——お湯じゃなかった?」 「馬鹿! 犬よ! 真黒な犬が、ヌーッと出て来たのよ!」 「犬だって? あの——ワンワン吠《ほ》える犬のこと?」 「あなたの所のお風呂ってどうなってんの、一体!」  一恵は、自分の服を引っかかえ、居間へと駆けて行った。  吉原は、悪い夢を見ているようだった。黒い犬だって? 何でそんなもんがうちの風呂に?  吉原は、恐る恐る、浴室の中を覗《のぞ》いてみた。  ——そこには何もいなかった。  居間の方へ戻《もど》って行くと、一恵が服を着終えたところで、 「帰るわ」 「ねえ、君——」 「今度はね、馬と鹿《しか》でもお風呂に誘ったら?」 「でかすぎて入らないよ」 「ともかく、私は帰るわ!——もうこれでおしまいよ」 「そ、そんなこと……」 「さよなら!」  一恵は、嵐《あらし》の如《ごと》き勢いで、出て行ってしまった……。  吉原は、何がなんだかわけが分らないままに、居間へ戻って、ソファにへたり込んだ。 「こんなことって……ないぜ」  二年間の苦労が水の泡だ。  ぼんやりと虚脱《きよだつ》状態で座っていると、電話が鳴り出した。  彼女だろうか? きっとそうだ! 「ごめんなさいね。私、ついカッとなっちゃって……。でも外へ出て、夜風に当ったら、後悔したの」 「いいんだよ。僕の方も悪かったんだ」  何が?——よく分らない。ともかく、もし彼女だったら、こう話を運ぼうと思いつつ、急いで受話器を取る。 「もしもし?」 「吉原か」  一恵でないことは、誰が聞いても明らかだった。一恵が突然五十男に変身したのなら別だが。 「課長ですか」  と、吉原は肩を落とした。 「何だかがっかりしたようだな」 「いえ別に……」 「非番の日に悪いが、ちょっと事件なんだ。行ってくれんか」 「はあ」  吉原は、ちょっとため息をついた。「構いません。どうせ暇ですから」 「殺しだ」 「殺人ですか」  吉原は、やっと少し刑事としての意識が戻《もど》って、メモ用紙を手もとに持って来て、手早くメモを取った。「——分りました。急行します」 「頼むぞ。犯人は被害者の女房らしい。今、子供と二人、駐在所で保護している。本人は否定しているようだが」 「よく調べてみます。——では」  電話を切ると、吉原は、もう一度深々とため息をついて、「いつまでくよくよしてたって始まらないや」  と、立ち上った。  今日は非番で、一恵とのデートも、いつもの背広にネクタイというスタイルではなかった。  ともかく、まず着替えだ。  吉原は寝室へ入って、明りを点《つ》けた。 「——あ、どうも」  十七、八歳に見える女の子が、吉原のパジャマを着て、ペコンと頭を下げた。「お邪魔してます」  少女の傍《そば》には、真黒な、大きい犬がうずくまっていた。 [#改ページ]  2 奇妙な失業者 「遅いじゃないか」  と、吉原が現場へ着くと、検死官の米沢《よねざわ》が言った。 「もうご焼香は終ったよ」 「すみません」  吉原は息を弾ませた。「ちょっと——出がけに客[#「客」に傍点]があって」 「でも、米沢さん、いやに早いですね」  大体、検死官は警官より後に現場へやって来るものだ。 「答は簡単だ」  と、米沢はニヤリと笑って、「俺《おれ》の家はここから十分だからな」 「そうですか。——現場は」 「風呂場《ふろば》だ。大分|派手《はで》に血が飛んでるぞ」 「風呂ですか」  と吉原は顔をしかめた。 「風呂に何か恨みでもあるのか」 「いえ、別に……」  吉原は鑑識の人間が立ち歩いている間を縫って、浴室へと歩いて行った。  浴室というにはあまりに狭苦しい部屋だったが、そこをさらに狭苦しくしているのは、血まみれの死体と、壁や床一面に飛んだ血だった。 「ずいぶんとまた……」  と、吉原は首を振った。「——死因は?」 「頭を割られている。それに、こいつでメッタ打ちにしたんだな」  部屋の畳の上に、折りたたみ式のシャベルが投げ出されていた。血がべっとりとこびりついている。 「なるほど。——このへりは鋭くなってますからね」 「相当憎らしいと思っている奴《やつ》がやったんだろう。死亡推定時刻は十二時から一時半ぐらいの間ってとこかな」 「じゃ、割とすぐ見付かったんですね」  吉原は、およそ豊かさとは縁のない室内を見回した。  最初に現場へ駆けつけた、この近くの駐在所の巡査に話を聞く。 「すると、この隣の部屋の人が通報を?」 「そうです。一一〇番して、それから私の所へも駆けつけて来ました。このすぐ近くですので」 「なるほど。じゃ、事件を発見したのは?」 「ここを訪ねて来た女性です。今、隣の人の所に、好意で置いていただいてますが」 「そうか」  吉原は、玄関から出た。一階なので、玄関を出れば、すぐに外だ。二階建の、古ぼけたアパートだった。 「——失礼します」  と、吉原は、隣の部屋の、開けたままになっているドアの奥へと、声をかけた。 「——いや、この女の人が大声で『人殺し!』と叫ぶのを聞いてね、びっくりしましたよ」  その部屋の住人は、宮田《みやた》という四十代半ばと見える、やせた男だった。部屋の中だというのに、ベレー帽などをかぶっている。 「そうでしょうね。で、すぐに一一〇番を」 「ええ。それが市民の義務ですからね。違いますか?」 「いや、その通りです」  と、吉原は急いで言った。「ええと……そちらが、発見者の……」 「はい」  若い、その女は、青ざめた顔で、肯《うなず》いた。 「お名前を——」 「あの……。言わなくちゃいけません?」  と、困ったようにもじもじしている。 「ええ。当然、詳しい調書も取らせていただきますし。いや、あなたの名前などを、新聞などに伏せておくことはできますから、その点はご心配なく」 「お願いします。——こんなことに係り合ったと知ったら、父がきっとカンカンになって怒ります」  女は、ちょっと息をついて、「私、小川育江《おがわいくえ》といいます」  見たところ、二十二、三歳か。地味だが、高級そうなスーツを着ている。化粧っ気はあまりないが、なかなか整った顔立ちである。 「被害者の——ええと——」  吉原は手帳を開けて、「三宅吉司さんとお知り合いで?」 「そうです。——でも、そう長いお付合いじゃありません。この三か月ほど」 「今日、ここへ来たのは?」 「電話で呼ばれたんです。十一時ぐらいだったかしら、電話がかかって来て」 「どう言ったんです?」 「急いで来てくれ、って。何だか、ずいぶんあわてているようでした。今考えると、怯《おび》えていたのかもしれません」 「なるほど。このアパートには、前にも来たことがありますか」 「いえ、全然」 「すると——」 「場所を説明してくれたので、自分で車を運転して来たんです」 「なるほど」 「でも、道に迷ってしまって……。やっと着いたら、もう一時を大分過ぎてしまっていました」 「正確な時間は分りませんか?——いや、結構です。それから?」 「ええ」  小川育江は、少し考えてから、続けた。 「車を停《と》めて、どの部屋なのか捜そうと思いました。でも——この隣のドアが開いていて、明りが洩《も》れていたので、もしかしたら、と思って……」 「で、中へ入った?」 「玄関の表札を見て、〈三宅〉とあったので、ここだな、と思って……。中へ入りました。声はかけたんですけど返事がなくて」  小川育江は、少し呼吸を整えて、 「で、上ってみると、浴室のドアが……。中を見たら、あの人が血だらけで——女の人がシャベルを持って、それを見おろしていました」 「それで悲鳴を上げたんですね」 「パッと振り向いたんです。その女が。何だか——見たこともないくらい、怖《こわ》い目つきでした」 「それで、叫びながら表に出た、と」 「そうです。そしたら、こちらの方が飛び出して来て下さったんです」 「それから、どうしました」  と、吉原は、宮田の方へ訊《き》いた。 「人殺しだっていうから、びっくりしましてね。でも、あの奥さんが、シャベルを手にして、自分も血だらけになって、玄関の所へ、フラッと出て来たんです。で、こりゃ本当のことだっていうんで……」 「三宅——照子という人でしたね」 「そうでしたかね。『奥さん』としか呼んだことがないので」 「何か言いましたか、その時に」 「ええ」  と、宮田が肯《うなず》く。「『良子が起きるじゃありませんか。静かにして下さい』って」 「良子というのは?」 「子供です。七つだったかな」 「なるほど。で、あなたは——」 「まだシャベルを持ってますからね。ついでに、ってんでやられたんじゃかなわない。この人をこの部屋へ引張り込んで、鍵《かぎ》をかけ、すぐ一一〇番したんです」  それはごく自然な行動だ。吉原は肯いた。 「それで、パトカーが来るのを待っていたんですが、あの奥さんがドアを叩《たた》きましてね。『私じゃありません!』って叫ぶんですよ。『私が主人を殺したんじゃありません』って」 「それで?」 「そう言われたってね。ああそうでしたか、って出て行けやしません。黙って、様子をうかがってました。そのうち、あの奥さん、自分の部屋へ急いで戻《もど》ったようでしたね」  と、宮田は言った。「少ししてタタタッと駆けてく足音が聞こえたんです。——で、こっちはこわごわ外へ出てみました。隣のドアは開けっ放しで、部屋には誰もいませんでした。どうやら、あの奥さんが娘を連れて逃げたようでした。で、こっちもパトカーがこれ以上遅れたら、見付けられなくなるだろうと思ったんで、駐在所へと駆けて行ったというわけです」 「なるほど」  吉原は、すっかり感心してしまっていた。隣の部屋で殺人が起こるという、あまり日常的と言いかねる事態に出くわして、ここまで落ちついた行動が取れる人間は、そうざらにいない。 「いや、大変に適切な処置でしたね。大《たい》したもんです」  と、吉原は肯《うなず》きながら言った。 「いや、当然のことですよ」  と、宮田は事もなげに、「教師としては、常に冷静であることを要求されますからね」 「先生ですか。学校の」 「いや、塾の教師です」  と、宮田は言った。「小学生たちを東大へ送り込むべく、完璧《かんぺき》なマニュアルに従って教えているのです。その教師があわてふためいていては、お話になりません」  小学生を東大へ……。小学生が直接東大へ入れるのだろうか、と吉原は首をかしげた。  もちろん、吉原に、現代の受験戦争の厳しさなど、分っていないのである。 「——本当に助かりましたわ」  と、小川育江は、宮田の方へ、「この方が出て来て下さらなかったら、今ごろは……」 「いやいや。そうおっしゃられては、こっちが困ります」  宮田も、今やすっかり教師然としている。 「ええと、ところで——」  吉原は小川育江の方を向いて、「小川育江さん、でしたね。三宅吉司さんとは、どういうお知り合いでした?」 「あの——」  と、言いかけて、小川育江はためらった。  すると、宮田が、 「そんなこと、説明する必要があるんですか?」  と、言い出した。 「はあ?」 「いや、口出しするようで失礼だが、あなたのお仕事は、殺人犯を捕えることでしょう」 「ええ、そりゃもちろん」 「でしたら、犯人ははっきりしている。しかも、ちゃんと駐在所で、警官が子供ともども保護して見張っている。それで充分じゃないですか。このお嬢さんのプライベートな部分まで質問する必要はないと思いますがね」  吉原は、至って理屈に弱い男である。大体当人の頭が理論的にできていないせいであろう。宮田に、理路整然と言われると、何とも反論のしようがない。 「まあ……そうは言っても……」  と、ブツブツ言っていると、急に玄関のドアが開いた。  小川育江が、アッと声を上げて、飛び上りそうになる。  玄関の方へ背を向けていた吉原は、振り向いて、ギョッとした。  大柄《おおがら》な、初老の男が、玄関をふさぐように立っていたのである。——大きい男だった。  大きい、というのは、ただ太っているとか背が高いということではない。その貫禄《かんろく》で、周囲を圧倒してしまう迫力を感じさせた。 「失礼だが——」  と、その男が口を開いた。いかにも、外見に似合い過ぎるほどの、よく通る声だ。 「警察の人かね」 「は、はあ……。警視庁捜査一課の吉原と申します」  つい、頭を下げてしまう。 「私は小川|尚哉《なおや》という者だ。総監《そうかん》の児玉《こだま》君とも親しいので、訊《き》いてもらえばすぐ分るだろう」  吉原は、総監なんて、会ったこともない。 「そこにいるのは、うちの娘だ。今夜、突然出かけたので、おかしいと思って、秘書に尾行させた。すると、とんでもないことに巻き込まれたようだったので、私が出向いて来たというわけだ」 「ご苦労様で……」 「この子が、何かやったというのかな?」 「いえ——その——事件の第一発見者でして」 「なるほど。しかし、娘は明日、大切な見合いを控えていてね。あまりここで夜ふかしさせるわけにはいかん。もし、そちらで用があるのなら、後日、出頭させよう。それで構わんね?」  質問ではなかった。吉原が返事もしないうちに、小川尚哉は、娘の方へ、 「行くぞ。帰るんだ」  と、言った。  小川育江は、青ざめていた。——父親に見付かることを恐れていたのだろうか? 吉原にはそう感じられる。  立ち上って、言われるままに玄関へと下りるのも、喜んで、というよりも、父親の、見えない糸に操られているように見えた。 「では、失礼する」  と、娘を先に外へ出すと、小川尚哉は、そう言って出て行こうとした。  そして、ふと思い直したように振り返って、 「君は——吉原君といったかな」 「はい」 「そうか」  と、軽く肯《うなず》き、「憶《おぼ》えておこう」  そう言って、小川尚哉は出て行ってしまった。  吉原は、頭を振った。何だか、催眠術にでもかけられていたような気がする。 「大物ですな、ありゃ」  と、宮田が、感服の態で言った。 「そうらしいですね」 「きっと東大出身だな」  と、いかにも塾の教師らしい意見を述べて腕組みをした。 「あの——まあ、犯人が、三宅吉司の奥さんに違いないとして……」  吉原は、気を取り直して、手帳をめくり直した。「動機に心当りはありますか」 「そりゃ、いつ起こってもおかしくない事件でしたよ」 「というと?」 「ひどい旦那《だんな》でしたからね。いつも奥さんを殴ったり怒鳴《どな》ったり。——よく我慢したもんですよ、これまで」 「なるほど」  吉原は、あんまりあっさりと言われて、少々拍子抜けの感じだった。「いつも暴力を振っていた、と」 「失業中でね。働きにも行かずに、一日中酒をくらって。——良子って子も、今年から小学校ですが、行かせてなかったみたいだな。学校の先生らしいのが訪ねて来てましたよ」 「失業中。——すると、奥さんが働いてたんですか」 「ま、内職みたいなことはしてたようですがね」 「すると、生活費はどこから?」 「さあ」  と、宮田は肩をすくめて、「奥さんにお訊《き》きになりゃいかがです?」 「ああ、そうですね」  吉原は、さっきの小川尚哉の出現で、すっかり調子が狂っているのだった。  宮田に礼を言って、外へ出る。  もう、被害者の死体が運び出されるところだった。 「また連絡するよ」  と、検死官の米沢が、そう声をかけて、帰って行く。 「お疲れさん」  吉原は、現場をもう一度見ておこうと、部屋の中へ入って行った。  ——人のいなくなったその部屋は、いかにも寒々として、およそぜいたくとは縁のない生活に違いないと思わせた。  しかし……。  何となく、吉原には気になった。——何か、しっくり来ないものがある。何か[#「何か」に傍点]と訊《き》かれると答えられないのだが、失業した亭主と、殴られてばかりいる妻という家として、何だか妙に思えるところがあるのだ。  一体何だろう?  吉原は、苛々《いらいら》しながら、考えていた。  苛々しているのはもともとだ。何しろ、今夜は、吉原の生涯《しようがい》、最低の一夜、と名づけてもいいぐらいのひどい夜だったのだから……。 「——失礼します」  と、玄関の方で声がした。  振り向くと、駐在所の巡査である。 「や、どうも」  と、吉原は気を取り直して、「ご苦労さん。後はこっちが引き受けますよ」 「そうですか。良かった!」  と、その巡査は、いやに大仰にホッと息をついた。「いや、どうしちゃったのかと思って、青くなっていたんです。では、何とぞよろしく」 「はあ」  と、吉原は言ったが、「——青くなっていたって、なぜ?」 「いや、あの親子の姿がいつの間にか見えなくなっていたんで、こりゃもしかして逃げられたのかと、びっくりしましてね。でも、そちらで連れて行かれたのなら——」 「ちょっと待ってくれよ」  と、吉原は、遮《さえぎ》って、「じゃ——例のここの女房と子供が——いないって?」 「ええ。そちらで連れて行かれたのでは?」 「とんでもない! これからそっちへ行って、話を聞こうと思っていたんだ」 「こりゃ困ったな!」 「困った、って……」  困ったどころの騒ぎじゃない!  第一の容疑者——しかも、状況から見て、ほとんど犯人に間違いないという女が、姿を消してしまった! 「捜すんだ! 急いで! この辺一帯に、非常線を張れ!」  と、怒鳴《どな》って、吉原は外へ飛び出したのだった。 [#改ページ]  3 突然の混雑 「まあ、可哀《かわい》そう。よっぽど疲れてるんだわ」  と、女の声がした。 「ワン」  と、犬が鳴いた。 「放っとけないわよ。何ていっても、ずんぶん迷惑《めいわく》かけたんだもの。——寝てる間に、何か食べるものでも用意しときましょう」 「ウー」 「あら、私、ちゃんと研究して来たんだからね。あんたとは違うのよ」 「ワン」 「そりゃ、こっちだって落ちこぼれですけどね。天国の落ちこぼれと、地獄の落ちこぼれじゃ大違いなのよ」 「クーン」 「少し静かにしてれば? この人、せっかく眠ってるんだから。——人間って、こんなに馬鹿みたいな顔して眠るもんなのね、ハハハ……」  ——遠い声だった。  何を勝手なことしゃべってやがるんだ!  ここをどこだと思ってる。警視庁捜査一課の吉原丈助刑事の超高級[#「超高級」に傍点]マンションだぞ!  俺《おれ》は一人なんだ。ここで一人暮しだ。  誰の声もするわきゃないんだ。きっとTVでも点《つ》けっ放しになってたんだな。  ——吉原は、眠りの世界と、現実の間をフラフラとさまよっていた。  何しろ、ここへ帰った時は、もう疲労の極致にあったのだ。  三宅吉司を殺したとみられている、その妻、三宅照子が、一人娘の良子を連れて、姿をくらましてしまった。  しかも、一旦《いつたん》、駐在所に保護しながら、では、とんだ大失態である。何とかして発見しようと、夜を徹《てつ》して——いや、翌日の昼過ぎまで、現場となったアパートの付近一帯を、捜し続けた。  その結果、みごと——何も見付からなかったのである。  課長の村田《むらた》には怒鳴《どな》られ、しかも前夜から一睡もしてないし、何も食べていない。  一旦、ここへ戻《もど》るべく、自分の車を運転して来たが、空腹と眠気で、事故を起こしかけること数回。無事に辿《たど》りついたのが、不思議だった。  半ば眠っているような状態で、マンションによろめき入り、そのままソファの上にドッと倒れてしまった。  眠り込んだものの、疲れ過ぎているせいか、却《かえ》って眠りが浅いようで、何となく空耳のような話し声が聞こえたのだった。  そういえば——ゆうべは妙な奴《やつ》がいたな。  あの若い女の子と黒い犬……。あいつらのおかげで、一恵には逃げられ、ひどい目にあったが……。  それとも、あれは全部夢だったんだろうか?——そうかもしれない。  一恵をここへ連れて来るというので、緊張《きんちよう》のあまり、変な夢を見たのかも。  きっとそうだ。——ついでに、殺人事件も、犯人を逃がしたことも、全部夢だといいのにな。  目を覚ますと、テーブルにおいしい朝食が用意されて、一恵がやさしく微笑《ほほえ》む。 「あなた、もう起きないと……。ほら、キスして起こしてあげるわ」  とか言って、そっと頬《ほ》っぺたにキスしてくれる。  フフ……、冷たいよ。そうなめるなよ。 「あなたったら……朝っぱらから、何してるの?——だめよ、お料理がこげちゃうじゃないの。——ねえ」  いいじゃないか、新婚なんだぜ……。 「だって——そんな——」  ほら、じっとして……。 「だって——ワン」  ほら、そんなに吠《ほ》えないで……。  ん? 何で吠えるんだ、一恵が?  目をパチッと開くと、目の前には真黒な顔があった。どう見ても一恵じゃない。そんなに鼻が光っていないはずだ。 「ワァッ!」  吉原は飛び上った。 「キャン!」  黒い犬が、床へ投げ出されて、引っくり返る。 「な、何だ、この犬!」 「あら、目が覚めたの。ちょうど良かったわ」  と、声がした。「食事の用意、できたところよ」  吉原は、ポカンとして、目の前の少女を眺めた。——夢じゃなかった。 「ここで何してる!」  と、吉原は、まず怒鳴《どな》った。 「食事の仕度」  と、少女が答えた。 「いや、そんなことじゃない! ここは——ここは、僕の部屋だぞ!」  吉原は、そう言ってから、周囲を見回した。「うん、確かに僕の部屋だ!」 「そうじゃない、なんて言ってないわ」 「勝手に人の部屋へ入りこんで、何をしてるんだ? 君も、その薄汚《うすぎた》ない犬も」  黒い犬が、頭に来たように、ウーと唸《うな》ったので、吉原は、ソファの上に飛び上った。 「怒らないのよ」  と、少女は犬の首筋をポンと叩《たた》いた。「勝手にお邪魔したことについては、ゆうべ謝ったわ」 「ゆうべ……。ゆうべか!」  吉原は、思い出して改めて頭に来た。「君とその——その犬のおかげで、僕は恋人に逃げられたんだぞ!」 「ごめんなさい」  と、少女は首をすぼめた。「そんなつもり、なかったんだけどね」  吉原は、ぐっと腹に力を入れ、 「出て行け!」  と、怒鳴ろうとした。  とたんに——グーッと、腹が、それだけのエネルギーが不足していることを訴えたのだった……。 「お腹《なか》、空《す》いてるんでしょ。ずいぶん眠ってたもんね」 「そんなに? 今、何時だ?」  時計を見て、吉原は目をパチクリさせた。八時。——八時? 「夜の八時?——大変だ!」 「焦《あせ》ってもしょうがないじゃない。ともかく食べて。——ね?」  吉原は迷った。この得体《えたい》の知れない少女と黒い犬を叩《たた》き出すのが先か、それとも、何か腹へ入れるのが先か。——当の[#「当の」に傍点]腹が、グーッと再び訴えて、結論を出した。 「——いかが?」  と、少女が微笑《ほほえ》みながら、訊《き》いた。 「うむ……」  吉原は、何とも返事のしようがなかった。一つには、口の中が、食べたもので一杯《いつぱい》になっていたせいでもあるが、何とも言いようのないのも事実だった。 「これでもずいぶん研究して来たんだけど……。気に入らない?」  吉原は、お茶をガブ飲みして、やっと息をつくと、 「まあ……客観的に言って、味そのものは、決して悪くない」  吉原は、正直なところ、「こんなまずいものが食えるか!」と、皿を引っくり返して、この少女と黒い犬を叩き出そうかと思っていたのである。  しかし、それにはいささか気がひけた。  なぜなら、用意されていた料理の皿は、全部きれいに空っぽになっていたからである。 「そう! 良かった」  少女はホッとしたように、「食べてくれなかったら、どうしようかと思ったのよ」 「しかし……」  と、吉原は首をかしげた。  食べておいて文句を言うのも変かもしれないが、取り合せが何とも珍妙だったのだ。  焼肉、みそ汁、コーンフレーク、カレーライス。それにギョーザ。  これだけ食べてしまったのも大したものだが、こうも雑多な料理を並べるというのも、まともでない。  いや、まともでない、といえば、大体この少女と犬、そのものが、まともじゃないのだ! 「——やれやれ」  吉原が食事を終って一息ついたのは、もう九時になるころだった。 「これから会社に行くの?」  と、少女が訊《き》いた。 「いや。会社じゃない。僕は刑事だからね。警察へ行くのさ」 「ワン!」  と、犬がびっくりしたように吠《ほ》えたので、吉原の方もびっくりした。 「何だか、この犬、人の話が分るみたいだね」 「気にしないでいいんです、この犬のことなら」  と、少女は言った。「へえ。刑事さんなの? 見たところ、そんな風に見えないけど」 「僕のことより、君たちのことだ」  と、吉原は、咳払《せきばら》いして、「まず、どうして僕の部屋の風呂《ふろ》に裸で飛び込んだのか、聞かせてほしいね」  吉原は、改めて、その少女を見直した。  十七歳か十八歳。やや小柄《こがら》だが、スタイルは悪くない。顔が丸いので、多少太っているような印象を与えた。色白で、肌《はだ》はつややかだった。  きらめく、大きな目、唇には微笑《びしよう》。——林一恵との肝心の一夜を邪魔されなければ、吉原だって、ふと目をひかれそうな、可愛《かわい》い少女である。  そして少なくとも、まともでないという印象を与えるようなところはどこにもない。  だからこそ不思議なのだ。こんな少女が、なぜ突然、吉原の部屋へ忍び込んで、風呂に入っていたのか……。 「それは——」  と、少女が言いかけるのを遮《さえぎ》って、 「いや、ともかくまず、君の名前を聞こう」 「名前……。何でもいいの」 「何でも?」 「ええ。だって、あっち[#「あっち」に傍点]じゃ、そういう普通の名前ってついてないんですもの」 「あっちって?」 「ゆうべ話したわ。それとも——もう忘れちゃったの?」 「いいかね」  と、吉原は、ため息をついて、「確かに、ゆうべ君の説明は聞いた。しかしね、あんな話を信じろっていうのかね?」 「だって本当なんだもん」  と、少女は言った。 「大したもんだ! 凄《すご》いニュースだよ。天使が一人——だか一匹だか、知らないけど、天国から下りて来て、人間の家の風呂へ飛び込んだ、か」 「そう」 「TV局が喜んで飛んで来るだろう。天使なのにどうして翼がないんだ、って訊《き》くだろうね」 「お菓子のマークじゃないんだもの。そう人間の考えた通りの格好できないわよ」 「なるほど」  吉原は、お手上げ、という様子で、「ともかく、君がそんなでたらめを頑固《がんこ》に言い張るのなら、僕としても君のことを、家出人として扱うしかないね」 「そんな。——家出ったって、こっちが出たかったわけじゃないわ」 「ほう?」 「出されちゃったの。少し人間のことを勉強して来いって」 「なるほど」 「ほら、人間もよくあるでしょ? 会社で研修旅行とか。それと同じ」 「なるほど。大変によく分った」 「分ってくれた?」  と、少女が嬉《うれ》しそうに言った。 「じゃ、今夜は留置場に泊ってもらうか」 「留置場って……」  少女は眉《まゆ》を寄せて、「どんなホテル? 星の数でいうと? 二つ星? 三つ星? バストイレ付き?」  吉原は頭に来た。ここまで馬鹿にされると、少女の可愛《かわい》らしさも、苛々《いらいら》の種になる。 「どうでもいい! ともかく橋の下でも地下道でも、勝手に好きな所で寝ろ! ともかく僕の部屋から出て行け!」  と、怒鳴《どな》った。  まあ、怒鳴るだけの力が出るのは、少女の作ってくれた料理を食べたおかげではあるのだが。 「——待てよ。おい、その服はどうしたんだ?」  と、少女の着ているデニムのジャンパーとスラックスを眺めた。 「表で買って来たの。あなたのコート、借りて着て行ったけど」 「お金は? 天使ってのは月給制なのか?」 「あの——買物もあったし。食べるものとかの。で、その引出しから……」 「人の金を勝手に使ったのか!」  吉原はカッとなった。  一恵のために大分今月は無理な出費をしているのである。 「ごめんなさい」  と、少女は頭をかいた。「だって、裸でいたら、またあなたが困ることになるかと思って」 「大きなお世話だ!」  吉原は時計を見た。——何時になっても、捜査本部へは出ないとまずい。 「分ったよ」  と、吉原はため息をついて、「君に料理を作ってもらって、僕は食べた。その代金として、その服は君にあげたことにしよう。ともかく、もうここから出て行ってくれ」 「分ったわ」  と、少女は口を尖《とが》らした。「人間って、もの分りの悪い生き物なのね」 「僕はもの分りがいい方だ!」 「そう大声出さないで。子供が起きるわ」 「そうか……」  と、吉原は声を低くして、「じゃ、ともかくこれを片付けて——。今、何て言った?」 「子供が起きちゃうわって」 「子供? 子供なんていないぞ」 「奥の部屋で寝てるの」 「誰が?」 「あら、起きて来ちゃった」  振り向いた吉原は、七、八歳の女の子が、ポカンとした顔で、寝室の入口に立っているのを見て、唖然《あぜん》とした。 「どうしたの? うるさかったでしょう? この人、大声ばっかり出すから」 「ううん」  と、その女の子は首を振って、「お腹《なか》が空《す》いちゃったの」 「あ、そうか。そうね、何も食べてなかったんだものね」  と、少女は立ち上って、「何か残ったもので作るわ」 「おい——おい、ちょっと」  吉原は、あわてて少女を台所まで追いかけて行った。 「ギョーザがいくつか残っているし、お肉もあるし、と……」 「あの子は何だ?」 「あなたが帰って来て、ドタッと倒れちゃってからね、少ししてドアの前に立ってたの」 「ドアの前に?」 「すごくくたびれてたみたいだったから、中へ入れて休ませたのよ。当然でしょ? 放っておけないじゃない」 「しかし……」 「待ってよ。子供がお腹空《なかす》かしてるのに、放っておけって言うの?」 「いや——そうじゃないけど」  吉原は、渋々、居間へ戻《もど》った。「どうなってるんだ、畜生!」 「——すぐできるからね」  と、少女が戻って来ると、「お母さんはどうしたの?」 「寝てる」 「そう。よっぽど疲れたのね」  お母さん?——お母さんだって?  吉原は、立ち上って、寝室を覗《のぞ》いた。  見たこともない女が、吉原のベッドで静かな寝息をたてて、眠り込んでいた……。  電話が鳴って、吉原はあわてて飛びついた。 「はい、吉原です」 「生きとったか」  と、課長の村田の声がした。 「申し訳ありません! 色々その——ごたごたがありまして。すぐに出ますから」 「いや、構わん」  と、村田は珍しくのんびりしている。「例の親子は未《いま》だに行方《ゆくえ》がつかめん。知人や親類などを当らせている」 「どうも、とんだ失態で……」 「いや、それよりお前、もう一度現場をよく調べてくれんか」 「は? 何か見落としが?」 「いや、どうも三宅という男、裏に何かありそうだ。よく洗ってくれ」 「分りました」 「それから、女がいたな。三宅の知り合いとかいう」 「小川育江ですか」 「そうだ。詳しい話を聞きたい。連絡先は?」 「あの——父親が連れて行きました。何でも児玉総監と知り合いの方だと」 「総監だと? うちの総監か?」 「はあ」 「総監は中沢《なかざわ》だ。児玉なんてのは知らんぞ」  吉原は青くなった。——そうだった! あの小川尚哉という男が、まことしやかに言うので、つい……。 「おい、どういうことだ?」 「は、その——実は——」  と、しどろもどろで事情を説明すると、しばらく沈黙した後、 「すると、お前はその小川何とかいう男の言うことをうのみ[#「うのみ」に傍点]にして、その女を一緒に行かせたのか」 「はあ……」 「連絡先も訊《き》かず、身許《みもと》も確かめずに、か!」 「す、すみません」 「俺《おれ》はいい部下を持って幸せだ」 「恐れ入ります」 「いいか!」  村田の声が、受話器を突き破らんばかりに高くなった。吉原はあわてて耳を離した。 「その女を何としても見付けて来い! それから、女を連れて行った男もだ! 分ったか!」 「わ、分りました」  電話が切れても、しばらく耳鳴りがした。それくらい村田の声は強烈だった。 「畜生!」  吉原は、空中で拳《こぶし》を振り回した。  あの男の押し出しの良さだけで、コロッと騙《だま》されるなんて! 何てことだ。 「——どうかしたの?」  と、少女が訊《き》いた。 「君の知ったことじゃない! 大体、何だ、勝手に見も知らん人間を僕の部屋へ入れて寝かせるとは!」  と、吉原は八つ当り気味に怒鳴《どな》った。 「ママが起きるよ」  と、小さな女の子が、ジロッと吉原をにらんで言った。  吉原は、もう絶望的な気分だった。  ここは俺一人の家だったのだ。それなのに——どうしてだ?  見たこともない女がベッドで寝ている。それに天使だと自称している変な少女と、黒い犬。そして子供まで。  いつの間に俺の所は無料宿泊所になったんだ? 「——大分疲れてるみたいね」  と、小さな女の子が言った。「もっと優しくしてあげなきゃ」 「そうね」  と、少女が肯《うなず》く。 「ワン」  と、黒い犬がないた。  吉原は、発狂する前にここを出なくては、と思った。 「出かけて来る」  と、コートをつかみ、「帰って来るまでに、一人残らずここから出て行くんだ! もし一人でも——一匹でも残ってたら……保健所へ連れてくぞ!」  そう怒鳴ると、吉原はマンションを飛び出して行った……。 [#改ページ]  4 もう一つの顔 「やっぱり、無理かしら」 「だから言ったじゃないか」 「だって……」 「人間なんて、そんなもんさ。自分のことしか考えちゃいないんだから」 「そんなことないわ。あの人だって、疲れて苛立《いらだ》ってるだけよ」 「甘い甘い。そんなことで人間の間で暮らして行けると思ってんのかよ」 「あら、それじゃ、あんたは帰れば?」 「帰れば、って……。帰れりゃ苦労しねえや」  と、最後の方は独り言だった。  もし、誰かが聞いていたとしても、分りゃしなかったろう。人の耳には、ただ犬がウーと唸《うな》っているようにしか聞こえないはずだから。 「あんた、大体どうして私と一緒に来たの? 別にいいことなんてないじゃない」 「そりゃあ……。まあ一人[#「一人」に傍点]でいるより、面白いかと思ってさ」 「ふーん。ま、私は構わないけどね。でも、私のそばに犬の格好でいるのなら、それらしくしてくれないとね。変に人間の言うことが分るような顔したら、それこそ、怪しい犬だって、保健所へ連れてかれちゃうよ」 「ごめんだぜ、そんなの。何しろ、悪魔ったって、何も超能力があるわけじゃないんだからな」 「そりゃ私だって同じよ。空でも飛べたり、姿を消して歩いたりできりゃね。面白いんだろうけどなあ」 「——なあ」 「何よ」 「協力しようじゃないか」 「何を?」 「お前も俺《おれ》も、人間界じゃよそ者[#「よそ者」に傍点]だ。お互いに助け合って行こう」 「何か下心があるんじゃないの?」 「何だよ。せっかく人が好意で——。天使が人の話を疑っていいのか?」 「あんた、人じゃないの。犬よ」 「そりゃまあそうだけど……」 「——いいわ。じゃ、まず住む所を確保するのよ」 「あのボンヤリした刑事、扱いやすそうじゃないか」 「純情な人よ。だから、迷惑《めいわく》かけた分、お詫《わ》びしないとね」 「頭に来てるぜ、相当に」 「刑事でしょ。だから、手伝ってあげればいいのよ。犯人を見付けてあげるとかさ。——そうよ!」 「何だよ。馬鹿力で叩くなって」 「失礼ねえ。——あんた犬の格好してんだから、どこでも入って行けるじゃない。いい助手だわ」 「勝手に助手にするない」 「あら、いやなの?」 「いや……じゃないけど」 「じゃ、つべこべ言わないの。——ほら、そろそろ着くみたい」  ——天国から研修に来た天使。そして、地獄から成績不良(?)で叩《たた》き出された悪魔……。  悪魔の方は、しかし胸の内に秘めた目的[#「目的」に傍点]があったのだ。  そうだ。そのためには、あの刑事の手伝いをするってのは、いい考えかもしれないぞ。 「ワッ!」  二人して、車がバウンドしたので、悲鳴を上げてしまった。 「——何だ?」  吉原は、車を停めて、振り返った。  何だか変な声がしたような……。気のせいかな。  もうこの車も寿命なんだよな……。  吉原は、車から出た。——現場になった部屋の前には縄《なわ》が張ってある。  ふと、隣の宮田という、塾の教師のことを思い出して、ドアを叩《たた》いてみたが、返事がない。  留守《るす》かもしれない。取りあえず、現場になった三宅の部屋に入ってみることにした。  ——明りを点《つ》ける。部屋の中は、何の変りもない。  しかし、住む人間がいなくなると、たった一日しかたっていないのに、部屋の中は妙に寒々として見える。  ともかく、まず現場になった浴室を見る。  まだ血が飛び散って、生々しい。見ているだけでも何となく気が滅入《めい》って来るようである。  あのシャベル……。凶器はあれだったわけだが。  ふと、おかしいな、と吉原は思った。  あれは外国製の、モダンなシャベルである。いわゆるサバイバル用として、ちょっとした流行になっている品だ。  そんなものが、なぜこのアパートにあったのか? どうにも似つかわしくない。  三宅が、全く抵抗した様子がなかったことも、少し気になった。泥酔《でいすい》していたとすれば分らないでもないが。  三宅は声を上げなかったのだろうか?  上げたとすれば、隣の宮田に聞こえなかったのか。  畜生、それにしても……。あの小川育江と名乗った女!  でたらめの名前だったかもしれないが、吉原はコロッと騙《だま》されてしまったのだ。自分に腹が立つ。 「——ここが現場なのね」  突然すぐ後ろで声がして、吉原は、 「ウァッ!」  と、飛び上ってしまった。 「あら、びっくりさせた?」 「——おい、何してるんだ、こんな所で!」  吉原は、少女と黒い犬を見て、目を丸くした。 「あら、だって、ずいぶん迷惑《めいわく》かけたし、何かお手伝いできないかしらと思って」 「ワン」 「大きなお世話だ!」  と、かみつくように(犬じゃなかったが)言ってから、「どうやってここに来たんだ?」 「車に乗って」 「僕の?」 「そう。トランクの中に隠れて。これでも気をつかったのよ」 「いいか——」  と、言いかけて、吉原は、電話の鳴る音に気が付いた。「電話だ」 「そこにあるわ」 「分ってる!」  三宅あてにかかって来たのだろうか?  吉原は、電話に出ようとして、ふと思い当った。昨日、ここにいて、何となく奇妙な印象を受けていたのは——少なくとも、その原因の一つは——この電話だった。  いやにモダンで、可愛《かわい》いピンク色のプッシュホンなのである。この部屋には、やはり似つかわしくない。  いや、もちろんたまたまそうなった、ということもあるだろうが。 「——はい」  と、吉原は、低い声で言った。 「どうだ? 準備は終ったのか」  と、いきなり男の声。  誰だろう? 吉原は、何となく聞いたことのある声だ、という印象を持った。 「もしもし。そちらは——」  と言いかけたとたん、電話は切れてしまった。「何だ?」  準備は終ったか?  あれは何の意味だろう?——誰に[#「誰に」に傍点]向って言ったのか。  三宅が殺されたことを知らないで、かけて来たのか。 「——切れちゃったの?」  と、少女が覗《のぞ》き込む。 「仕事中だ! 口を出すな」 「変な人ね」 「変な人だと? 自分はどうだ? 変な天使のくせに」 「私のことじゃないわ」  と、少女はふくれて、「その電話の相手、あなたが名前も言わないのに」 「うん。——確かに妙だ」  と、吉原は受話器を置いた。 「可愛い電話ね」 「勝手にいじるな」 「いいでしょ。——一一〇番する?」 「いたずらで捕まるぞ」  電話の相手は、きっと三宅が殺されたのを知っていたのだ、と吉原は思った。  でなければ、ただの仕事の話ぐらいなら、出ているのが誰かぐらい、確かめるだろう。 「これ、何かしら?」 「おい、勝手にいじると——」 「何か入ってるみたい。私って目がいいのよ」 「人には一つは取り柄《え》があるもんだ」 「私もそう言われたわ」 「誰から?」 「大天使。上の方なの。私は下級の天使」  吉原は、何だか知らないが、腹が立つのを通り越して、笑い出してしまった。 「これ、外れるのね。——こう回して」  送話口をねじって外すと、中から、四角い箱のようなものがポトリと落ちた。 「あ、こわれちゃった。いけない」 「ワン」 「笑うな!」  と、少女が犬をにらんだ。  しかし、吉原は笑わなかった。その箱を拾い上げると、 「これは……。盗聴機《とうちようき》だ」 「何なの?」 「電話を盗み聞きするんだ。驚いたな!」 「へえ。人間って、よっぽどお互いに信じてないのね」 「待てよ、おい。誰かがこれを仕掛けた。——しかし、なぜだ? 三宅はただの失業者の酔っ払いだったのに……」  そんな人間の電話を、盗聴してどうなるというのか。  つまり、この意味は、三宅吉司が、ただの失業者ではなかった[#「なかった」に傍点]ということである。 「こいつは、どうも裏に何かありそうだな」  と、吉原は言った。 「裏に?」 「うん」 「じゃ、調べに行きましょ」 「どこへ?」 「ここの裏を調べるんでしょ?」  どこまで真面目《まじめ》なのかね、この女の子は? 「まあ、いいよ。ともかくこれを見付けてくれただけでも、お手柄《てがら》だ」 「盗聴機があるってことは、誰かが聞いてるってことね」 「そうだろうね」 「それが誰なのか、調べるわけ?」 「分ればね」 「じゃ、電話するのよ」 「どこへ?」 「どこにでもいいわ。向うがそれを聞いて、出て来るようなことを話せばいいんだわ」 「ふむ……」  吉原は、肯《うなず》いて、「そりゃいい手かもしれない。しかし——」 「たとえば、ほら、あなたがどうとか言ってたじゃない。何とかいう女のこと」 「小川育江?」 「その女が何者か、分ったとか。でたらめでもいいわ。そう電話したら? それを聞いて、盗聴《とうちよう》してる人があわてれば、動き出すかもしれないわ」 「なるほど」  少々無茶かな、とは思ったが、確かに、盗聴機を見付けて、まだ向うが見付かったことに気付いていない以上、利用しないという手はない。 「よし、やってみるか」 「そうよ!」  吉原は、盗聴機を元の通りにセットすると、捜査一課へかけた。 「——村田だ」 「課長ですか。吉原です」 「何だ。どこからかけてる?」 「三宅のアパートです。どうも、こいつは大変なことになりそうです」 「どういうことだ?」 「かなり大がかりな組織犯罪が、かかわってるみたいですよ」 「何だと?」  村田が目をむいているようだ。 「三宅ってのは、一筋縄《ひとすじなわ》じゃいかない男です。それに、小川育江のことも、正体がつかめました。勘《かん》ですが、まず間違いないと思います」 「そうか! そりゃ凄《すご》い」  あとで、全部でたらめと知ったら、課長、目を回すかな、と吉原は思った。 「三宅の女房と娘だが——」 「見付かりましたか」 「いや、手がかりなしだ。そっちはどうなんだ?」 「ご心配なく」 「何だ?」 「三宅照子と娘は、僕が発見しました」 「ほ、本当か?」 「僕のマンションに、無事保護してありますから。犯人は別にいるのです」 「そ、そうか。じゃ、詳しい話を——」 「後でそっちへ参りますので、その時にお話しします。では」 「うん。——まあ、頑張《がんば》ってくれ」  村田は、すっかり度肝を抜かれた様子だった……。 「——少しやり過ぎたかな」  と、吉原は、受話器を置いて、言った。 「いいじゃないの。出まかせでも。これで誰かが引っかかって来れば」 「魚つりだな、まるで」  と、吉原は笑った。 「でも、殺されたのはここのご主人なんでしょ?」 「うん。どうやら犯人は女房らしい。——しかし、この盗聴機《とうちようき》のことなんか考えると、ちょっとどんなもんかな、とも思うんだが」 「人間って、先入観に左右されやすいわ。気を付けないと」 「うむ」  いつの間にやら、この自称天使の話を、真面目《まじめ》に聞いている自分に気が付いて、吉原は妙な気分だった。 「その人、子供を連れて逃げてるの?」 「うん。七つ、とかいったな。女の子だそうだ」 「じゃ、あなたのマンションにいた子ぐらいね」 「ああ、そうだな」  と、吉原は肯《うなず》いたが……。「おい、あの子はどうしたんだ?」 「どうしたって? まだ母親が眠ってるから——」 「いや、どこの子だ?」 「知らないわ」 「待てよ……」  この二人——いや一人と一匹は、俺《おれ》の車のトランクに隠れていたんだ。  もしかして、三宅照子と、その娘も、俺の車のトランクに隠れていたのかもしれない……。そうなると——。 「写真だ!」 「え?」 「ここの母親と娘の写真! どこかにないかな?」 「捜してみる?」 「頼む!」 「ほら、あんたも!」  と、頭をポンと叩《たた》かれて、黒い犬も渋々起き上った。  引出しを開けたり、戸棚を引っくり返したり……。 「ワン」  と、犬がないた。 「あった?」 「ワン」 「——これだわ」  引出しの中から、写真が出て来た。三つか四つの女の子と、両親だ。 「大分前だけど……。あの女の子じゃないかしら?」  吉原は、それを見て、目をみはった。 「——そうだ! この女……。さっき、僕のマンションで寝てた女だ!」 「じゃあ……」 「何てことだ! 本当に[#「本当に」に傍点]僕のマンションにいたんだ。車のトランクに隠れて、あそこまで乗って来て……。こりゃ傑作《けつさく》だ!」  吉原は、ニヤリと笑って、「これで、課長にも大きい顔ができる!」 「そうね。でも……」 「ワン」  写真を見付けたのは俺だ、と言いたげに、犬が尻尾《しつぽ》を振るが、全く無視されていた。 「いや、君に礼を言わなきゃな。あんなに必死で捜し回ってたというのに、目の前にいたなんて!」 「でも、ねえ——」  と、少女はポンポンと吉原の肩を叩《たた》いた。 「何だ?」 「もし[#「もし」に傍点]、さっきの電話を、誰かが本当に盗聴してたとしたら?」 「それがどうかしたのか」 「だって、向うは、あなたの言葉を信用して、あなたのマンションへ行くかもしれないわ。あの親子を捜しに。いなけりゃ、構わないけど、本当にいたら……」 「——そうか」  吉原は、青くなった。「まずい!」  吉原はアパートを飛び出した。 「で、どうするのよ!」 「マンションへ戻《もど》るんだ!」  吉原は、自分の車へと駆け戻った。 「待って! 乗っけてよ!」  少女と黒い犬が、あわてて飛び込むと、車は猛《もう》スピードで走り出した。  吉原の車は、残念ながらポルシェでもBMWでもないが、何とか故障も事故も起こさずにマンションへ辿《たど》り着いた。 「——やれやれ」  三階へと階段を上りながら、「考えてみりゃ、こんなに急ぐ必要はなかったのかな」 「どうして?」 「だって、相手が誰にしろ、僕みたいな平の刑事のマンションなんて知りゃしないさ」 「そうかしら……」 「そうさ。——ま、天使か悪魔ならともかくね」  少女はムッとしたように、 「それ、いやみ?」 「いや、別に」  と、吉原は首を振った。「ほら、何でもないよ」 「もしかすると、あの二人も、いなくなってるかもしれないわね」  吉原が玄関のドアを開けて、明りを点《つ》ける。——吉原は、目を丸くして、立ち尽くしてしまった。  部屋の中は、まるでここだけ大型台風に見舞われた、という感じで、めちゃくちゃになっていた。 「——何だ、畜生!」  と、吉原は顔を真赤にして、「せっかく掃除したばっかりなのに」 「そんなことより、あの二人よ」 「そ、そんなこと、分ってる!」  吉原は、寝室を覗《のぞ》いた。「いないぞ」 「じゃ、誰かが連れて行ったのかしら?」 「さあね。——しかし、どうしてここが分ったんだろう?」 「だって、電話帳にも出てるでしょ。あなたの名前」 「そりゃまあ……」 「もっと捜すのよ! もしかしたら、またトランクに——」 「家にトランクはない!」  少女は、ベランダへ出るガラス戸が半分開いたままになっているのを見て、 「そこから逃げられる?」 「隣とはつながっていないんだ。無理だよ」 「そう。——でも……」  少女はベランダへ出てみた。「じゃ、どうして開いてるのかしら?」 「ここだよ……」  声が聞こえた。 「——ねえ! 来て!」  下の方からだ。手すりから覗《のぞ》くと、少女は目を丸くした。  ベランダの下に、あの女の子が、しっかりとくくられて、ぶら下げられているのだ。 「今、引き上げるからね!」  吉原が駆けつけて来る。少女が黒い犬に、 「あんたも口でくわえて引張んなさい!」  と、怒鳴《どな》った。 「ワン」 「天使はね、力仕事に向いてないの」  ——ともかく、何とか無事に引張り上げると、吉原は、女の子を居間へ運び入れた。 「君は、三宅照子の子供だね」 「良子っていうの」 「そうか。君のママは?」 「連れてかれた」 「誰に?」 「知らない」  と、良子が首を振る。「男の人が何人も来たよ」 「そうか……。じゃ、君のママは、君をあそこへ隠して……」 「ドアの外で声がしたから。ママ、急いで、ああやったの。何も言っちゃいけないよ、って言って」 「男たちは何か言ったのかい?」 「分んない。聞こえなかったけど——ママのこと、いじめてたみたい」 「そうか……」  吉原は、胸が痛んだ。 「——可哀《かわい》そうだわ」  と、少女が涙ぐんでいる。  どうやら天使は涙もろくできているらしい。 「しかし——一体誰なんだ?」  吉原は、首を振って、「まだそう時間はたってない。すぐに手配しよう」  良子は、じっと唇をかみしめて、気丈に、泣こうともしない。 「ママがね」 「うん? 何か言ったかい?」 「警察に行っちゃいけないわよ、って」 「何だって?」 「きっと帰って来るから、待ってなさい、って」 「そうかい。しかしね、悪い奴《やつ》を捕まえるには、やっぱり警察の力を借りないとね」  と、吉原は言った。 「あら……」  と、少女が言った。「パトカーじゃないの?」  サイレンが近付いて来た。 「そうだ。しかし……」  パトカーは、近付いて来て、このマンションの下で停《とま》った。 「——どうしてここへ来たんだろう?」  と、吉原は言った。 [#改ページ]  5 刑事、逃亡者となる  吉原が廊下へ出てみると、階段を駆け上って来る足音がして、刑事や警官たちが、急ぎ足で姿を見せた。 「やあ、ご苦労さん」  と、吉原は言った。「ここに用かい?」 「君は?」  と、見たことのない刑事が、証明書を示して、訊《き》いた。 「僕は——僕はこの部屋の——」 「吉原丈助だな?」  呼び捨てにされて、ムッと来た。 「そうだよ。何だ、一体?」 「通報があったんだ。調べさせてもらう」  その刑事が促すと、他の何人かがワッと部屋の中へ入って行く。 「おい、一緒に来い」  と、その刑事が吉原の腕をつかんで、部屋の中へ引張り込んだ。 「おい、離せ!」  吉原が、頭に来て、手を振《ふ》り切ると、「僕は警視庁捜査一課の刑事だぞ!」 「それがどうした?」  吉原は、怒《いか》りの余り、口がきけなくなってしまった。——畜生! 憶《おぼ》えてろ! 貴様のことを、課長へ報告してやる! 「ひどくやり合ったもんだな」  と、その刑事は、荒らされた室内を見て、言った。 「やった奴《やつ》を言えよ」  と、吉原は、腕組みをして、「僕は被害者だぞ! そんな態度ってのがあるか」  すると、刑事は不思議そうに吉原を、頭の天辺からつま先まで眺めて、 「被害者だって?」  と、言った。 「そうだとも」 「足があるようだがね」 「何だって?」  そこへ、他の刑事が戻《もど》って来た。 「どうだ?」 「寝室です」  と、肯《うなず》いて、「ひどいもんだ」 「そうか」 「何がひどいんだ?」  と、吉原は言った。 「検死官を呼べ」 「はい」  警官が廊下へ飛び出して行く。 「おい……。待てよ」  吉原は、まさか、というように、「検死官だって?」 「お前さんも刑事なら、やり方は知ってるだろ?」 「待ってくれ。——寝室で、殺されてるのか?」 「何をとぼけてるんだ? 自分でやっといて!」  では、三宅照子は、やっぱりやられていたのか! 「誤解だよ」  と、吉原は言った。「捜査一課長の村田警視に訊《き》いてくれれば分る」 「いいだろう。後でな」 「——見せてもらうぜ」 「ああ」  吉原は、寝室へと入って行った。あの良子という娘に、どう話してやったものか……。  そういえば、あの変な少女や犬たちはどこに隠れてるんだろう?  そこまで考えて——吉原の思考能力はストップした。  思いもかけない光景だった。——ベッドの上に、大の字になって、血に染って死んでいるのは、三宅照子ではなかったのだ。  それは、三宅照子のアパートで会った女……。小川育江と名乗った女だったのである。  吉原が呆然《ぼうぜん》としていると、 「何も殺すことはないだろ」  さっきの刑事が、いつの間にか、後ろに立っていた。「どんなひどい喧嘩《けんか》をしたか知らないけどよ」 「おい、勘違《かんちが》いするなよ」  と、吉原は言った。「僕は、この女を殺したりしない」 「ほう。そうかい」 「本当だ。この女は事件の参考人なんだ」 「事件の参考人といい仲になったのか。それでも刑事か?」 「ふざけるな!」  カッとなって、我を忘れていた。  吉原は、決して動作の早い方ではないのだが、この時ばかりは、考える前に手が出ていたのだ。  カッ、と鈍い音がして、吉原の拳《こぶし》が、その刑事の顎《あご》にきれいに命中していた。  刑事は、床に大の字になって、のびてしまった。  しまった、と思った。  しかし、もう今さら、拳を引っこめても間に合わない。 「何だってんだ、一体?」  わけが分らない。吉原が頭をかきむしっていると、 「こちらですか」  と、警官が一人、入って来た。  吉原と、そして、床にのびている刑事を見ると、一瞬ポカンとしていたが、 「おい! 手向うのか!」  と、叫んで、拳銃《けんじゆう》を抜こうとした。 「やめろ!」  吉原は怒鳴《どな》った。「そうじゃないんだ! よせ!」  警官も怖《こわ》いのだろう。何しろ吉原を殺人犯と思い込んでいるのだから。  拳銃を抜こうとしているのだが、焦《あせ》って、なかなか抜けないのだ。 「僕は殺人犯じゃない!」  吉原は、その警官をドンと突き飛ばした。 「待て!——逃げるぞ!」  警官が、やっと拳銃を抜いた。「止れ! 撃つぞ!」  バン、と銃声が耳を打つ。蛍光灯のランプが粉々に砕けた。  吉原は、首をすぼめて、玄関へと飛び出した。銃声でびっくりして入ろうとした警官と鉢合せして、二人とも仰向《あおむ》けに引っくり返った。 「気を付けろ! 一人やられた!」  と、叫びながら、追って来る。  吉原は、もう夢中だった。立ち上ると、目の前の警官を殴《なぐ》って、廊下へ出る。  階段の方へ駆け出す。と、そこへ、 「撃つぞ!」  と、鋭い声。  夢中で走っているのだ。突然止れるものではない。  撃つなら撃て! 当るもんか!  バン、と銃声が、廊下に響いた——はずだった。しかし、吉原にはその音を聞いている余裕はなかった。  左の腕に、焼けるような痛みが走って、よろけた。足がもつれ、そのまま、コンクリートの床にぶっ倒れる。  顔をしたたか打ちつけた痛さ、コンクリートの冷たさが、一瞬感じられたが——それきり、吉原は意識を失ってしまったのだ……。 「——生きてる?」 「ワン」 「だめよ、死なせちゃ」 「ウー、ワン」 「たとえ死んだって、あんたには渡さないわよ」 「——死んでないぞ!」  と、吉原は言った。 「あ、目を開けたわ」  ——吉原は、ぼんやりとした視界の中に、何だかフワフワとした、雲みたいなものを見ていた。  俺《おれ》も天国へ来たのかな? いや、死んでもいないのに、何で天国なんだ!  やがてピントが合うと、それは女の子の顔——あの、「自称、天使」の顔になった。 「君か……」 「良かった。このまま、ずっと目を覚まさなかったら、どうしようかと思っていたのよ」 「ちっとも良かない……」  少し動いて、吉原は左腕の痛みに、「ウッ!」  と、声を上げた。 「動かないで! ひどいけがしているのよ」 「ああ……」  思い出した! 俺は撃たれたんだ。  しかも、警官に。——何とも情ない。  吉原は、ゆっくりと、頭だけをめぐらせた。 「ここは……どこだい?」  と、呟《つぶ》くように言う。  大きな声を出すと、傷にひびくのだ。  いやに寒々とした場所だ。 「あなたのマンションよ」  と、少女が言った。 「ここが?」  吉原はびっくりした。いつの間に、俺の部屋はこんなに空っぽになったんだ? 「あ、もちろん、あなたの部屋じゃないわ。地下の倉庫」  吉原はホッとした。——いくら何でも、ここが我が家じゃ、ひどすぎる。 「僕は……どうしてここにいるんだ?」 「運んだのよ。私とこれで[#「これで」に傍点]」  ワン、と黒い犬がないた。 「そうか……。撃たれたんだな」 「びっくりしたわ。私たち、ベランダの隅に小さくなってたんだけど、銃声がしたから、飛び出してみたの」 「警官は?」 「あなたを捜してるわ。この犬が警官の注意をそらしてくれたの。で、私があなたをおぶって——」 「君が?」 「こう見えても、結構力があるのよ」  と、少女はぐいっ、と腕を曲げて、力こぶを作って見せた。「天使って、力仕事なんだから。重いもの運ばされたりして」  吉原は、こんな時なのに——いや、こんな時だから、だろうか——おかしくなって、笑ってしまった。その拍子に傷が痛んで、 「いてて……」  と、顔をしかめる。 「大丈夫?」  吉原は、倉庫の中の、古ぼけたテーブルらしきものに寝かされていた。あまり快適な環境とは言いかねる。  しかし、吉原は、生来、楽天的な性格の人間である。仕事で失敗しても、あまり落ち込むことはない。  何とかなるさ。——これで、いつも立ち直ることができた。  それにこの少女も、頭の方は少々おかしいのかもしれないが、どこか憎めないものを持っている。——天使か? そう言われてみると、そんな風にも思えるよ、と吉原は思ったのだった……。 「どうかしたの?」  と、少女は、吉原が何も言わずに、じっと見つめているので、不安になったようで、「何か言い遺すこと、ある?」 「殺すなよ、人のこと」 「ごめんなさい」 「いや——迷惑《めいわく》をかけたね。世話になった。しかし、もうこれ以上、巻き込まれない方がいい」 「私のことより、自分のことを心配しなくちゃ」 「僕は大丈夫さ。課長は事情を分ってくれるよ。あの女を殺したのが僕でないってことははっきりしてる」 「あの女って?」 「うん……。小川育江と名乗ってた女だ。あの殺人現場にやって来た女だよ」 「その人が、あなたのマンションで?」 「誰がやったのか、ひどいことをする奴《やつ》がいるもんだ」  吉原は、ふと気が付いて、「あの子はどうした? 三宅照子の娘」 「良子ちゃん? しっかりした子ね、本当に。お母さんがさらわれたっていうのに」 「どこへ行ったんだ?」 「ちょっと買物を頼んだの。一人で行けるって言うから……。あ、戻《もど》って来たかな」  小刻みな足音がして、倉庫のドアをトントンと叩《たた》く音。 「私よ」 「はい。待って。——ご苦労さま」  良子が、何やら大きな包みと、新聞をかかえて入って来る。 「新聞……。今、何時なんだい?」 「朝の十時ぐらいかしら。——どう? 近くのお弁当屋さんで買って来てくれたのよ」 「朝の十時!——そんなに長く意識がなかったのか!」 「鈍くて、眠ってただけじゃないの?」  と、良子が言った。 「だめよ、そんなことはっきり言っちゃ」  と、少女がたしなめた(?)。 「新聞を見せてくれ」  と、吉原が頼むと、良子は、 「途中で見て来ちゃった。結構よくとれてる」  と、新聞を差し出す。 「とれてるって、誰が?」 「あなたよ」  と、良子は、ませた口調で、「でも、若いころの写真ね、きっと」  新聞に写真が?——吉原は、急いで新聞をめくろうとしたが、何しろ左手がきかないので、思うようにならない。 「見せてあげるわ」  少女が、社会面をめくって、「——本当だわ。ほら」  と、吉原の目の前にかざして見せた。 〈現職刑事、愛人を殺して逃亡〉  その見出しが、目に飛び込んで来た。そして、間違いなく、自分の写真……。  吉原は、これは夢だ、と思った。 「おい」 「何?」 「僕を殴ってくれ」 「ええ? いやよ。天使は暴力なんてふるわないんだから」 「いいから、やってくれ!」 「私、やったげる」  良子が、いとも楽しげに、拳《こぶし》を固めて、ポカッと吉原の頭を殴った。——七歳の子にしては、よくきいた[#「きいた」に傍点]。 「——夢じゃないんだ」  吉原は記事を読んだ。  小川育江という名前はなかった。女の身許《みもと》は今のところ不明、となっている。  しかし、吉原のマンションの寝室で殺されていたのだから、何も知らない人間が、吉原の恋人と考えても不思議ではない。  捜査一課所属の刑事というので、よけいに扱いは大きかった。村田課長の談話も出ている。 「真面目《まじめ》な性格で、とても信じられない。一日も早く自首してほしい」  ——これしか言うことはないのか!  吉原は愕然《がくぜん》としてしまった。もちろん、これが村田の本心かどうかは分らないとしても……。 「——参った!」  と、吉原は、新聞を投げ出した。 「せっかく買って来たのに」  と、良子が怒って、「TV欄が汚《よご》れちゃうじゃないの」 「畜生! 放っといてくれ!」  吉原は、痛みも忘れて、大声で言った。 「大声出すと、見付かるわ」  と、少女が言った。 「そうよ」  良子が、吉原をにらんで、「いいじゃないの、ママよりも」  吉原は、ハッとした。  そうだった。——三宅照子は、誰かに連れ去られている。小川育江を殺したのも、その連中だろう。  この良子という子は、母親が生きているのかどうかさえ、分らないのだ。それに比べれば、俺《おれ》は……。  けがはしているが、ちゃんとこうして自由の身でいる。  良子が、 「——お腹空《なかす》くと、機嫌《きげん》悪くなるのよね」  と、包みを開けて、「はい、食べやすいように、おにぎりにしたわ」  と、吉原の方へ差《さ》し出す。 「ありがとう……」  少し、照れながら、吉原は、起き上って、おにぎりを食べた。熱いみそ汁もついている。  もちろん、この代金は、吉原の財布《さいふ》から出ているのだろうが。  地下倉庫での、ちょっと変った食事会が終ると、吉原は、息をついて、 「——旨《うま》かった」  と言った。 「おいしいわね、結構」 「天使も、ご飯は食べるのかい」 「人間の格好して来たからにはね。こいつもね」  黒い犬は、少々食べものに不満げだったが、少女は気にとめていないようだった。 「これからどうするの」  と、少女が訊《き》く。「警察へ行って、事情を話す? 送って行くわよ」 「いや」  吉原は首を振った。「まず、この子の母親を助け出さないとね」 「でも——」 「もし僕が出頭して、事実を話しても、そう簡単には信じてもらえないさ。警察は、一旦《いつたん》これが犯人、と見たら、なかなか考えを変えちゃくれないんだよ。僕にはよく分ってる」 「でも……。じゃ、いつまでも殺人犯ってことにされちゃうよ」 「この子の母親を見付ければ、自然に真犯人も分る。ここまで来たら、本当の犯人を見付けて連れて行かない限り、疑いは晴らせないだろう」 「賛成」  と、良子が手を叩《たた》いた。 「でも、その格好じゃ……。上衣もシャツも血がついてるわ」 「うん。——何とかしなきゃな」  吉原は、少し考えてから、「そうだ! 君、電話をかけてくれないか」 「いいわよ。電話のかけ方も、ちゃんと勉強して来たの」 「そうか」  吉原は微笑《ほほえ》んだ。「君、って呼ぶのも何だか変だな。いい名前、ないのかい?」 「名前ねえ……。私も、ほしいの。だって、人間なのに名前がないなんて、不便だものね」 「いいのをつけよう。——何かないかな」 「うーん」  と、良子が考え込んで、「マーガレット」 「少女マンガじゃあるまいし」  と、少女は顔をしかめた。 「じゃ、ポチ」 「この犬ならね」 「ワン」  黒い犬の方も不服そうだ。 「じゃ、これがいい!」  と、良子が声を上げた。 [#改ページ]  6 恋人の義務とは 「誰ですって?」  と、林一恵は訊《き》き返した。 「あの——私は、マリアというんですけど」 「マリア様?」  一恵は、受話器をよっぽど置いてしまおうかと思った。 「ええ。でも、何だか気がひけるんです。少しえらい名前すぎて。だからただマリ[#「マリ」に傍点]にしようかと——」 「あのね」  と、一恵は遮《さえぎ》って、「何か売りつけようっていうの?」 「そ、そうじゃありません。あの、頼まれて電話してるんです。吉原さんに」 「——誰に?」 「吉原さんです。あの——ご存知ありません?」 「吉原って……。知ってるけど、でも——」  一恵は、あわてて周りを見回した。「どうしたの? どこに……」 「けがしてるんです。で、困ってて。服も血がついてるし。——助けていただきたいんですけど」  一恵は、少し黙ってしまった。——あまりに突然の話だ。 「——もしもし?」  と、向うが言った。 「聞いてるわ。あのね——私だって、新聞ぐらい見るのよ」 「ええ。でも、吉原さんがあんなことしないってこと、ご存知でしょ?」  一恵も、そう言われると詰ってしまった。  確かに、あのお風呂《ふろ》の一件では頭に来ていたのだが、吉原とは短い付合いではない。人殺しなどする男でないことは、分っている。 「そりゃね……。でも、私に何ができるの?」 「吉原さん、自分の力で、本当の犯人を捕まえると言ってるんです。手伝ってあげて下さい。恋人でしょ?」 「ええ……。まあ、そんなもんね。でも——」 「私、あなたをびっくりさせた女の子です」  一恵は目を丸くして、 「じゃ、お風呂《ふろ》に入ってた——」 「でも、誓います! 決して、吉原さんと何かあったわけじゃないんです。ただ、たまたま、あそこへ落っこちただけなんです」 「何だかよく分らないけど……」  一恵は、ため息をついて、「ともかくね、私だって困るわ。一緒に捕まっちゃったらどうするの?」 「それが恋人でしょ」  一恵には、その一言が応《こた》えた。——それが恋人。 「信じてないんですか、吉原さんのこと」 「そりゃ信じてるけど……」 「だったら、助けてあげて下さい。愛してるんでしょ?」  普通、人からこうもまともに、訊《き》かれることはないものだ。  一恵は、ためらっていたが、 「——いいわ」  と、肯《うなず》いて、「どうすればいいの?」  と、訊いた。 「良かった! きっと助けてくれると思ってました」  その言い方は、本当に嬉《うれ》しそうだった。一恵は、つい笑顔になっていた……。 「——それじゃ、ともかく何か着る物を用意して行けばいいのね。他には?」 「吉原さん、けがしてるんです」 「あ、そうだったわね」  頼《たよ》りない恋人である。「じゃ、オキシフルでも?」 「あの——割とひどいけがなんです。包帯とか色々、必要だと思いますけど」 「そんなに?」  一恵もさすがに青くなった。まだ未亡人になりたくない!——あ、結婚してなかったんだっけ。 「病院に行かなくても大丈夫なのかしら?」 「本人は平気だと言ってますけど……。でも具合によっては」 「そうね。分ったわ。ともかく、私が行って見てみるから」  一恵だって、人のけがのことなんか、分りゃしないのだが。「で、どこで会いましょうか?」 「それもご相談しようと思ったんです。どこか、身を隠す所、思い当りませんか?」 「そう言われてもねえ……。私も不動産屋じゃないから」 「今は、倉庫にいるんです」 「倉庫? じゃ、寒いでしょう」 「ええ。あんまり居心地は良くありません」 「待って!」  一恵は、少し考えて、「もしかしたら、何とかなるかもしれないわ。だめでもともと、当ってみるわ」 「お願いします! やっぱり恋してると、女の人って強いんですね」  照れるようなことを、よく大真面目《おおまじめ》に言う子だわ、と一恵はおかしくなってしまった。 「吉原さんが、彼女はもとから強いんだ、って言ってましたけど」 「まあ、あの人、そんなことを?」  一恵は笑って、「けがした所を思い切りつねってやろう」 「きっと喜びますよ」 「じゃ、これから出て、必要な物を買うわ。その倉庫って、どこなの?」 「あ、いえ——ここはだめです。警察の人が沢山《たくさん》いるから。ええと……何とか運び出しますから。どこか人目につかない所で待ち合せたいんですけど」 「人目につかない所、ねえ」  簡単に言われても、すぐには——。「そうだわ」 「どこか、ありました?」 「吉原さんに訊《き》いて。あの[#「あの」に傍点]場所で待ってるからって」 「あの場所じゃ分りませんよ」 「分るわよ。あの——初めてキスした所、って言ってくれれば」  言いながら、一恵の方も照れて赤くなった。 「そんな……そんなこと言えないわ! 恥ずかしい」  どうやら、向うはもっと赤くなっているらしい。「何か……他に言い方ってないんですか?」 「そうねえ……。でも、それが一番分りやすいと思うのよ」 「分りました……。ともかく話してみます」  と、情ない声を出す。 「ね、言いにくければ、紙に書いて渡したら?」 「それがいいですね! 一恵さんって頭がいいんですね」 「それほどでもないけど」  と、一恵は咳払《せきばら》いした。「じゃ——そうね、今からだと……二時間もあれば」 「二時間ですね。分りました。何とか吉原さんを連れて行きます」 「ねえ……」 「何ですか? 何か伝えること、あります?」 「いえ、そうじゃなくて。——あなた、どうして、彼のこと、そんなにしてまで助けたいの?」 「それは……。成り行きです」 「でも、もし捕まったら、あなたも罪になるわよ」 「分ってます。でも、人間を幸せにするのが、天使の仕事ですから。じゃ、待ってますね!」  電話は切れた。  一恵は、ちょっとポカンとしていたが、やがて、受話器を戻《もど》して、 「天使の仕事? そう言ったのかしら?」  面白い子だわ。もちろん、彼の部屋のお風呂《ふろ》にどうして入っていたのかは気になるけど……。  まあ、吉原も男ではあるけれど、あんな若い子と二股《ふたまた》かけるなんてことのできるタイプじゃない。大体、そんなにもてないものね。  けがしてる、か。——TVのニュースじゃ、警官に撃たれて、腕をけがしたらしい。  撃たれる、って、痛いんだろうな。  一恵は、電話のある廊下から、居間へと入って行って、 「キャッ!」  と、声を上げた。 「母親を見て、どうして悲鳴を上げてるの?」  一恵の母、林|久江《ひさえ》が、目の前に立っていたのだ。一瞬、一恵は、母が電話を聞いていたのかしら、と思った。 「いいえ……。だって、びっくりしたのよ。いきなり目の前に——」 「いちいち大声出して歩けませんよ」  と、久江は言った。「誰から電話だったの?」 「友だちよ。ほら、春日《かすが》さんって、前、同じ会社にいた人」  結婚して、目下ハネムーン中の同僚の名を出しておいた。 「そう。——一恵、座りなさい」  久江は、それ以上電話のことは言わなかった。どうやら、立ち聞きしていたわけではないようだ。  一恵は、 「何なの? ちょっと出かけるんだけど」  と、言った。 「すぐ終るわ。ともかくかけて」 「はい」  一恵は、肩をすくめて、ソファに座った。 「何かお説教?」 「簡単な用件よ」  と、久江が、取り出したのは、大判の封筒……。  一恵にも見憶《みおぼ》えのあるサイズだった。 「お母さん……。またお見合写真?」 「そうよ。あなた、いくつだと思ってるの? もう二十六よ。私はあなたの年齢《とし》にはもうあなたを生んでいたのよ。それでも遅いくらいだったわ」 「今は、みんな遅くなってるわよ」 「そんなことはありません。——あなた!」  一恵はびっくりした。振り向くと、父親が居間へ入りかけて、ためらっているところだった。 「何してるの?」  と、久江が、まるでいたずらを見付けた小学校の先生のような口調で言った。 「うん……。TVを見ようかと思ったんだが……。何だか大事な話らしいから、後にするよ」  と、行きかける。  そうか、と一恵は初めて、思い当った。今日は日曜日だったんだ。 「あなたも座って」  と、久江が、一恵に言うのと全く同じ調子で言った。 「しかし……」 「娘の話なのよ。父親だって、責任のあることなんですからね」 「うん」  林|邦和《くにかず》は、ソファの端の方に、ちょこんと腰をおろした。  つい、自然と端の方に座ってしまうというのが、林邦和の、この家の中における位置を象徴《しようちよう》していた。  林邦和は養子である。妻の久江の父親が、オーナーだった会社で、邦和は課長のポストにいた。  もう林邦和も五十五歳だから、課長より上にいてもいいのだが、何といっても、林はおとなしい性格で、人と競ったりするタイプではない。  一恵は、どうして母のような気の強い女性が、父を結婚相手に選んだのか、今になってもよく分らない。  高校生のころだったろうか、友だちが家に遊びに来て、父と母を見ると、一目で、 「お父さん、養子でしょ」  と、見抜いて言ったことがある。  その夜、一恵は母の久江に、 「どうしてお父さんと結婚したの?」  と訊《き》いた。  久江は一言、 「誤解よ」  と、だけ答えたのだった。  未《いま》だに、一恵にはあの意味がよく分らずにいる……。 「——一恵の結婚相手のことよ」  と、久江は言った。「いいお話だわ。これで進めようと思うの」 「お母さん! 待ってよ。私のことじゃないの」 「言う通りにすれば、間違いないのよ」  と、久江は写真を見せた。「どう? 見た目も悪くないわ」  一目見て、一恵は嫌悪《けんお》感を覚えた。——どう見ても、どこかの成金のぐうたら息子。  ボサッとした顔には、およそ「鋭さ」のかけらもない。 「あなた、どう思う?」  と、久江が夫の方へほこ先[#「ほこ先」に傍点]を向けた。 「うん……。まず、そりゃ一恵が決めることじゃないのか。一恵が結婚するんだからな」  と、林はメガネを直して、言った。 「そんな甘いことで、どうするの!」  久江の甲高い声は、居間のシャンデリアをブルブル震わせるほどだった。 「し、しかし……」 「本人に任せておいたら、どう? 人殺しの逃亡犯よ。一恵なんかに、男を見る目はないわ」 「お母さん——」 「何? あの男でしょ? 愛人を殺した男。ちゃんと分ってるの。これであなたにもよく分ったはずよ」 「何が?」 「自分で男を選ぶのは無理だってこと」 「ちょっと、そんな——」 「よく考えなさい。もしかしたら、殺されたのは、あなたかもしれなかったのよ」  と、久江はかぶせるように言って、「殺されて、トランクにでも詰められて、それでも幸せだ、って言うつもり?」  いけない、カッとなっちゃ。——一恵は自分に言い聞かせた。  今は、早くこの場を切り上げて、吉原に必要な物を買って来なくてはいけないのだ。——母と言い合っていたら、何時になるか分らない。 「そりゃあ……あの人のことは見る目がなかった、と思ってるわ」  と、一恵はふくれながら、「でも、会いもしないうちに、結婚しろ、って言われるんじゃいやよ」 「誰もそんなこと、言ってやしないでしょ」  と、久江は苦笑した。「来週、一度、この方とお会いしなさい。——父親は会社を四つも持ってる実業家、母親は元華族の家柄《いえがら》よ」  元華族!——何十年前の言葉かしら、と一恵は思った。今でもそんな言葉が通じると思っているんだから、お母さんは! 「分ったわ」  と、一恵は肩をすくめて、「問題は当人だものね。ともかく、会ってみればいいんでしょ」 「そう。じゃ、いいのね? そう先方へご報告しておくから」 「ええ」  一恵は、それほどいやでもないような顔をして、「この手の人って好みなの」  とまで言ってのけた! 「じゃ、来週はあけておいてよ。分ったわね?」  久江は立って、さっさと居間を出て行く。 「——ああ、参った」  と一恵が呟《つぶや》くと、 「母さんは相変らずだな」 「え、ええ。——そうね」  一恵はあわてて言った。つい、父がいるのを忘れてしまうのである。それほど存在感が薄いということでもあろうか。  存在感と髪の毛が、何か関係があるのかどうか、一恵の知っている限り、父の頭は相当昔から薄かった……。 「しかし、びっくりしたなあ、あの事件には」  と、林が言った。「一度、町でバッタリ出くわしたことがあっただろう」 「え?——ああ、吉原さんのこと? そうだったわね。まだ私が勤めてたころ」  一恵は今は「家事手伝い」の身だが、一応はOL生活を二年ほど経験している。  久江は、就職などさせずに、即結婚へと持って行きたかったらしいが、ちょうどそのころには、 「いい出物がなかった」  ——とは久江自身の説明である。  しかし、OL生活の中で、一恵は吉原と知り合い、恋に落ちた。いや、正確に言うと、吉原に惚《ほ》れられたのである。  一恵は、男性から本気で惚れられるという快さを、初めて味わったのだった……。 「しかし、意外だな」  と、林が言った。 「え?」 「いや、あの男さ。私に会った時はペコペコ頭を下げて、照れまくっていたじゃないか。少し頼りない感じはしたが、人は良さそうに思ったよ」  林の言葉に、一恵は微笑《ほほえ》んだ。ホッとしたのだ。 「あの人じゃないわよ。いえ、きっと違うと思うわ」  と、一恵は言った。 「しかし、新聞じゃ——」 「間違えることだってあるわ。そうじゃない?」 「うん……。そりゃそうだな」 「あの人、人殺しなんかできないわよ」  一恵は立ち上って、「出かけて来るわ」 「遅くなるのか?」 「さあ。——もう私、二十六よ。子供じゃないんだから、心配しないで」 「ああ。——お前を信じとるよ」  林が、優しく微笑んで肯《うなず》いた。  一恵は、居間を出ると二階へ上り、急いで出かける仕度をした。  買物はカードがあるから大丈夫だ。ともかく、急がないと。  一恵は、五分で仕度を終えると、家を飛び出して行った。 [#改ページ]  7 病 院 「——痛む?」  と、少女は——いや、一応マリ[#「マリ」に傍点]という名で呼んでおこう——言った。 「うん……。仕方ないよ。転んですりむいたのとはわけが違う」  吉原は、ちょっと顔をしかめた。「それにしても揺れる、このバスは」  日曜日で、サラリーマンが乗らない、とはいっても、いくら何でもガラ空きすぎるんじゃない、とマリは思った。 「これで会社、潰《つぶ》れないのかしら?」  と、マリが言うと、 「何のことだい?」  と、吉原が訊《き》いた。 「いえ——バスの会社。こんなに空いてても走らせるなんて、偉いわ。運転する人も、きっとつまらないでしょうね」 「そんなの同じさ。ただ仕事としてやってるんだ」 「そうかしら? でも、やっぱりどこか違うと思うわ」  バスの中は、コートをはおって、血で汚《よご》れた上衣《うわぎ》を隠した吉原とマリの二人だけ。  三宅良子は、犬のポチと一緒に、吉原のマンションの地下で待っていることになったのだった。——ポチ、という名には、当の犬は大いに不服そうだったが、良子が勝手にそう決め込んで、 「だめよ、ポチ」  とか、 「ほら、ポチはおとなしくしてなさい」  とかやるものだから、そのうち諦《あきら》めたらしかった。  ——バスに乗って行くしか、一恵の言った場所には行けない、というので、犬を連れて来ると目立つから、こうして二人が来ることになったのである。 「——今日は暖かいな」  と、吉原が、よく陽《ひ》の照った外へ目をやって言った。 「そうね。でも、風は冷たいかもよ。——ガラス越しに見てるだけじゃ、分らないことってあるのね」  マリは、何だか考え込んでいる。 「どういう意味だい?」 「それをよく勉強して来い、って言われて来たの。天国から見てると、人はみんな小さな生きもので、ウロチョロしてるだけ。私、よく友だちと笑って眺めたもんだわ」 「へえ」 「でも、下界へ下りて、同じ高さでものを眺めてみると、世の中が全然違って見えるのね。——ガラスの向うが、どれくらい寒いか、ここにいちゃ分らないのと同じだわ」 「なるほど」 「あの運転手さんだって——」  と、マリは前の方へ目をやって、「そりゃ、こんなに空いてると、走らせるのは楽かもしれないし、喜んでるのかもしれないけど、でも、心のどこかにきっと、寂《さび》しい気持があると思うわ」 「寂しい?」 「ええ。だって、いつもなら大勢の人を、仕事場へと運んでるわけでしょ。少しでも早く着けばホッとする人もいる。一本早い電車に乗って、好きな女の人に出会える人だっているかも……。そんなことのお手伝いをしてるのが、楽しいと思う気持、きっと少しは持っているはずだわ」 「なるほどね」  吉原も、もうこの娘を、「少しイカレてる」と思ってはいなかった。もちろん、まともじゃないのかもしれないが、でもからかったりしようとは思わない。  大体何がまとも[#「まとも」に傍点]なのか、なんてことは、誰にも決められないだろう。  この子が本当に天使じゃないとしても、本人がそうだと信じているのなら、この子は天使なんだ。それでいいじゃないか……。  何の義理もない吉原のことを、こんなにしてまで助けてくれる。——羽はなくても、この子は「天使」だ、と吉原は思った……。 「あ、次の停留所だよ、確か」  と、吉原は言った。「この前来た時は夜だったから、大分様子が違うけど」 「じゃ、停《と》めてもらわなきゃ」  マリは、ボタンを押そうとして、ためらった。 「どうしたんだい?」 「ううん。——待ってて」  席を立つと、マリは運転席の方へと歩いて行った。そして、 「次、降りますから、お願いします」  と、声をかけたのだ。  運転手は、ちょっとびっくりしたように振り返ったが、すぐに肯《うなず》いて、 「分った。少しカーブするよ。座ってた方がいい」  と、言った。  マリは戻《もど》って来て座ると、 「何だか、嬉《うれ》しそうだったと思わない?」  と、吉原に訊《き》いた。 「ああ、思ったよ。いや、本当に嬉しそうだった」  と、吉原は言った……。 「——寒い所ね」  と、マリは顔をしかめた。「こんな所で待ち合せなんて」  無理もない、海岸なのだ。潮風が吹きつけて来て、思わず首をすぼめてしまうほど寒かった。 「大丈夫かい? このコートをはおったら?」 「大丈夫よ。若いんだから」  と言ってから、マリは笑って、「天使としてはまだ若い方なの」 「そうか。人間としても若いよ。それに、可愛《かわい》い」 「——また」  マリは目をそらした。「ここじゃ、まともに風が来るわ。どこか、風をよける所、ないかしら?」 「そうだなあ。——ああ、彼女と入った喫茶店がある」 「大丈夫かしら、入っても?」 「大丈夫だろう。こんな時期なら、客なんかいないと思うよ。店が開いてるかどうかも怪しいほどだ」 「じゃ、行ってみる?」 「うん。店はあそこだ。この場所が見えるからね、中から」  二人は、ゆっくりと冷たい風の中を歩いて行った。  店は開いていた。——暇そうなのは、想像した通りだ。  しかし、暖房が入っていて暖かいだけでも楽だった。  窓際の席にかけて、吉原は店のカウンターに背を向けて座った。 「いらっしゃい」  退屈し切っている感じのウェイトレスが水を持って来る。「今日初めてのお客さんだわ!」 「僕はミルクティー」 「私も」  と、マリは言った。 「ごゆっくり」  と、ウェイトレスはカウンターの方へ戻って行った。  暖かい所から眺めると、あの海岸の寒さが嘘《うそ》のようだ。 「——いつごろだったの?」  と、マリが訊《き》いた。 「何が?」 「彼女と——ここへ来たの」 「ああ。夏さ。ドライブに来てね。ともかくこの道が、車で埋ってた。夕方になって帰ろうにも、全然動かないんだ。諦《あきら》めて二人でレストランに入って、ゆっくり食事をした。それから少し道が空《す》いたんで、走って来て……」  吉原は、ふっと笑った。 「何かおかしいの?」 「ああ、いや……。僕がね、トイレに寄りたいと言い出して、ここで停《とま》ったのさ」 「あんまりロマンチックじゃないわね」  と、マリは言った。 「他に口実を思い付かなかったんだよ」 「じゃ、嘘だったの?」 「うん。ともかく、この店に入りたかった」 「どうして? ここを知ってたの?」 「そうじゃない。週刊誌に書いてあったのさ、この店から見る海の夜景がきれいだってね」  マリは笑って、 「呆《あき》れた」  と言った。「そんなものの通りにやるの?」 「彼女のそばにいられるなら、どんな嫌《きら》いな奴《やつ》のことでも喜んでしゃべっていられるさ。そんなもんだよ」  ふーん、という顔で、マリは肯《うなず》く。 「で、その週刊誌の通りに、店を出てから、『少し海岸を歩かないか』と言ったんだ」 「じゃ、彼女の方もついて行ったのね」 「うん。——そのすぐ前に、海岸へ下りる階段がある。そこから波の音の聞こえる浜辺へね」 「で、目的達成ってわけね」 「いや。すぐにまた上って来た」 「どうして?」 「その週刊誌を読んだ奴が大勢いたらしくてね、海岸中、アベックだらけだったのさ」  マリは吹き出してしまった。 「——いや、あの時は、ばつ[#「ばつ」に傍点]が悪かったよ」  と、吉原も笑って、「今夜はもうだめだな、と思って、車へ戻《もど》った。で、走り始めたら、彼女がすぐに停めてくれ、と言うんだ」 「それが……」 「あの場所さ」  と、吉原は目をやった。 「じゃ……」 「彼女も、その週刊誌を読んでたんだ。——でも僕に恥をかかせたくないから、その時は黙っててくれた。そして——」 「キスしたわけか」  マリは、「今度はあまり照れずに言えた」  と、笑った。 「——どうなんだい、天使にもボーイフレンドがいるの?」 「ううん」  と、マリは首を振った。「恋なんて、もうないのよ、あっちでは。だって、恋をしたら、憎んだりすることもあるでしょ」 「なるほどね」 「でも——嫌《きら》いじゃないわ。上から、恋人たちが肩組んで歩くの見たりするのは」  と、マリは言った。「でも——いい人ね、一恵さんって」 「そりゃ、僕の恋人だからね」  ——呑気《のんき》な話をしてるな、俺《おれ》は。  吉原は、ふと思った。こんなことしてていいのか?  殺人容疑で追われてるっていうのに……。しかし、吉原はいやに平静な気分だった。 「そろそろ、一恵さん、来るかもしれないわ」 「うん、しかし、そうピッタリには来られないさ」  ウェイトレスが、紅茶を運んで来た。 「——お待たせしました」  テーブルのわきに立った。何か、こぼれていたのかもしれない。それとも、磨いて、滑りやすかったのか。 「キャッ!」  と、声を上げると、片足がズルッと滑って、手から盆がテーブルの上に落ちた。 「アッ!」  と、叫んだのは、吉原だった。  熱い紅茶が、もろに左腕にかかった。コートをはおっているとはいえ、はねた紅茶が、布で縛《しば》っただけの傷口に——。  やっとこらえていた痛みが、頭まで突き抜けるようで、思わず呻《うめ》いて、よろけた。  椅子《いす》が倒れ、吉原は床に転がった。 「どうしよう!」  ウェイトレスが、青くなった。「死んじゃった!」 「死にゃしないわよ」  と、マリは急いで言った。「——しっかりして! けがしてるの。傷が……」 「どうしよう? 救急車を呼ぶ?」 「いや……」  吉原は、マリに支えられて起き上ると、「どこかこの辺に、病院は?」  と、訊《き》いた。 「そこの坂、上った所に、外科のお医者さんが……」 「私、連れて行くわ」  マリは、吉原を支えて立たせると、「お願いがあるんだけど」 「何かしら?」 「ここから見える所に、女の人が来ることになってるの。もし人を捜してるみたいだったら、行って話してあげて」 「病院を教えてあげればいいのね? 分ったわ」  と、ウェイトレスは言った。「本当にごめんなさい。——私、一人でなかったら、ついて行くんだけど」 「いいの。それより、女の人のこと、お願いね!」  マリは、吉原の右の方の腕を自分の肩へ回し、店から外へ出た。 「——歩ける?」 「何とか……。畜生、また出血して来たみたいだ」  ズキズキと、頭に響く痛みで、顔をしかめる。 「ツイてないわ! これでも天使かしら。疫病神《やくびようがみ》みたい」 「君のせいじゃないよ」  と、吉原は言った。 「その坂ね。——ちょっと急よ。頑張《がんば》って!」 「ああ……」  ほんの二、三十メートルの坂だが、一歩ずつ、足取りははかどらない。  寒い風に吹きさらされているが、それでも坂の上までやっと上り切った時には、二人とも汗をかいていた。少なくとも体は暖まったわけである。  病院は、昼休みの時間だった。却《かえ》って他に患者がいないので幸いだったのである。  医者はもう六十の半ばは完全に越えているという老人で——いや、七十を過ぎているのかもしれない。  マリが、 「けがをしたので、すぐ診ていただけませんか」  と言うと、すぐに出て来てくれた。 「ひどいね、これは」  と、顔をしかめ、「じゃ、中へ」  と促《うなが》す。  吉原はマリの方へ、 「君はここにいて」  と、言って、肯《うなず》いて見せた。  ドアが閉まる前に、その年取った医者が、 「女の子にでもかみつかれたのかね?」  と訊《き》いているのが、マリの耳に入って来た。  マリは少しホッとした。医者というのも、患者に接する態度がまず第一の薬である。——これは天使として、必ず教えられることだった。  常に希望を持って、のぞむこと! どんな状況にあっても。  しかし——困ったもんだわ、とマリは思った。  吉原の傷が、あまりひどくなるようでは、犯人捜しどころではなくなってしまう。入院が必要、とでもなれば、警察に知れずにはいないだろう。  ジリジリしながら、待合室に座っているとバタン、と入口の扉が開いた。 「あの——」  と、大きな紙袋を下げた女性が飛び込んで来た。 「林一恵さんですね」  と、マリが立ち上る。 「あ! あなたね、お風呂《ふろ》の——」  二人は顔を見合わせて、少し間を置いて、 「その節はどうも」  と、お互い頭を下げた。 「今、吉原さん、中で……」 「どうかしら、けがは?」  一恵は、上って、心配そうに診察室の方へ目をやった。 「結構痛むみたいです。でも、一恵さんがみえたから、もう大丈夫ですよ、きっと」 「まあ。——ありがとう」  一恵は、微笑《ほほえ》んで、「これが服とか包帯とか……。買うのに、ちょっと手間取っちゃって。何しろ男の人の下着なんて、買ったことないから」 「あ、そうか」  一恵は、マリを眺めて、 「あなた……大丈夫なの? こんなことしていても」 「ええ。でもお二人のお邪魔はしませんから——」 「そんなこといいのよ。でも、こんなことに巻き込まれてしまって」 「いいんです。これも研修ですから」 「研修?」  一恵は不思議そうに訊《き》き返した。  すると——ドアが開いて、吉原が顔を出したのである。 「君——来てくれたのか」  一恵はパッと立ち上ったが、すぐには言葉が出ないようで、 「あ、あの——元気?」  などと訊いたりしている。 「少し元気じゃないけどね」  と、吉原は首を振って、「でも、大したことはなかったよ」  左腕に、きっちりと真新しい包帯が巻かれている。医者が顔を出して、 「ま、今夜ぐらいは熱が出るかもしれんな」  と、言った。 「すみません、どうも」  一恵は、吉原の右腕を取って、「じゃ、行きましょうか。タクシーを待たせてあるの、この坂の下に」 「助かった。——じゃ、支払いを」  マリは、何となく気が重かった。  吉原が助かったのは嬉《うれ》しいが、一恵が急いで支払いをしたりするのを見ていると、何となく、もう自分のことが必要なくなったみたいで……。 「私、荷物、持つわ」  と、立ち上る。 「いや。君はもういいよ」  と、吉原は言った。「これ以上君を巻き込むと、とんでもないことになる」 「そんなこと言って——」 「いや、分ってるんだ。ただね、もし君まで捕まるようなことになると——」  病院の入口の扉がパッと開いた。  吉原が、同時にマリを長椅子《ながいす》の方へ押しやった。窓口で支払いをしていた一恵が、振り向いて、短く声を上げた。  警官が二人、扉を開けたまま、左右に立った。そして、入って来たのは——。 「課長」  と、吉原は言った。 「捜したぞ」  と、村田は言った。「けがの方はどうだ?」  吉原は、肩をすくめて、 「まあまあです」  と、言った。 「そうか。パトカーが待っている。行こうか?」 「はあ」  吉原は、息をついた。  村田は、一恵の方を向いて、 「お嬢さん、ご苦労さんでした」  と、言った。  一恵の手から財布《さいふ》が落ちた。硬貨が転がる。 「——この娘は?」  と、村田がマリを見て、訊《き》いた。 「その子は関係ありませんよ」  と、吉原が言った。「ここに来た患者でしょう」 「そうか。じゃ、治療は済んだんだな。よし、行こう」  村田に促《うなが》されて、吉原は病院を出て行く。——しばらくは、一恵もマリも、時間が止ってしまったかのように、動かなかった……。 [#改ページ]  8 証 人 「だから、女なんて信じちゃいけないのさ」  と、ポチが言った。 「でも……」  マリは、考え込んでいる。 「その女が密告したに決っているよ。でなきゃそんなにすぐ来るわけがないじゃないか、警察が」 「うん……。でも、あの女《ひと》の表情、本当にびっくりしていたわ」 「芝居《しばい》さ、芝居」  と、ポチは体を長くのばして、「女は芝居がうまいからね」 「でも、その後で、泣きながら帰って行ったのよ」 「女の涙は、適当に出したり止めたりできるんだぜ」 「水道じゃあるまいし」 「そういうことなら、俺《おれ》の方が詳しい。裏切りは悪魔の専売特許だからな」  マリは、ため息をついた。 「いい人だと思ったのになあ……」  ポチの目が、キラッと輝いた。——何かを期待している、という目である。  しかし、マリは、ウーンと伸びをすると、 「ま、いいや! くよくよしてたって始まらない! これからどうするか、考えましょ」  と、明るい声で言った。  ポチが、がっかりしたように鼻を鳴らした。  ——二人は、いや、三宅良子を加えて三人[#「三人」に傍点]は、また吉原のマンションの地下室に戻《もど》っていた。  もう夕方で、冷えて来るかと思ったのだが、実際には暖房のパイプが天井を這《は》っていて、そこから出る熱で、結構、あったかいのだった。  良子は、段ボールの箱にもたれて、スヤスヤと眠っていた。 「——どうするったって」  と、ポチが欠伸《あくび》をして、「どうにもなんないだろ、もう捕まっちまったんだぜ」 「分ってるわ。でも、何も解決していないのよ、この子の母親のことだって」 「どうしようってんだい? まさかあの刑事を脱獄させるわけにもいかないし」 「暴力はいけないわ。——私たち、頭と心で事件を解決すればいいのよ」 「甘いこと言ってら」  マリはムッとして、 「あんたに手伝ってくれなんて言わないでしょ」  と、言い返した。「大体、何でいつまでも私にくっついてるの? どこかに行けば?」 「俺《おれ》の勝手だろ。ここは天国じゃないんだからな」 「だったら、おとなしく言うことをききなさいよ。この世界じゃ、犬は人間の言うことをきくものなんだからね」  フン、とポチは不服そうに鼻を鳴らした。 「どうしようってんだよ」 「ともかく、事件について、整理してみるのよ」 「勝手にやってくれ。俺は寝てるよ」  と、ポチが目をつぶる。 「ちょっと、あんた」 「何だよ、腹をけとばすなよ」 「殴っただけよ」 「悪魔を虐待《ぎやくたい》したって、訴えてやるぞ」 「あのね、小説読んだって、名探偵にはいつもくっついて話を聞く馬鹿がいるのよ」 「知るか」 「どうせあんたはマンガしか読んでないんでしょ」 「お前だって少女漫画ばっかり立ち読みしてるくせに」  呑気《のんき》にやり合っていると、良子が、 「うるさいなあ」  と、呟《つぶや》いて、寝返りを打った。 「——そうよ。静かにしましょ。あんたの声は犬が吠《ほ》えているとしか聞こえないんだから」 「そっちだろ、うるさいのは」 「何よ!」  と、言いかけて、マリは、エヘンと咳払《せきばら》いした。「低い声で。——私、あの吉原さんから、詳しい話を聞いたのよ。だから、推理の材料はあるわけだわ」 「何も分るもんか」 「あら。自分の部屋から一歩も出ないで、推理だけで事件を解決する人を、『安楽椅子探偵《あんらくいすたんてい》』っていうのよ」 「そんなもん、どこにあるんだよ」 「——そうね」  と、マリも見回して、安楽椅子がここに見当らないことには同意せざるを得なかった。 「じゃ、いいわ。段ボール探偵」 「パッとしねえな」 「いいのよ!」  マリも、文字通り、段ボールの上に寝転がった。「二人の人が殺されたわ。男と女。まず、その二つの事件が、どんな風に係り合っているのか。共通点は?」 「人口が二人減ったよ」 「まぜっ返さないで。——三宅吉司は、奥さんに殺されたと思われてる」 「本当にやったのかもしれないぜ」 「まさか。だったらどうして彼女が何者かにさらわれたりするの?」 「そりゃそうだけどな」  と、ポチは渋々認めた。 「その現場へ吉原さんは出向いた。刑事としてね。三宅のことは全く知らなかったわけだから」 「嘘《うそ》をついてるのかも」 「人を信じないのね。——いいわ、私、信じてる。目がきれいだわ、あの人」 「甘い甘い」 「何とでも言いなさいよ。その現場を最初に見付けたのが、小川育江という女。本当の名前かどうか分らないけど」 「その女が——」 「待って。その女を、得体《えたい》の知れない男が、父親だと言って連れ去った」 「そしてその女の死体が、刑事の部屋で見付かった」 「そう。——でも、なぜ吉原さんの寝室で? 分らないわ」 「要するに分らないんじゃないか」 「だけど、何が分らないかを考えるのが、第一でしょ」  と、マリは強引な言い方で、「それに、おかしな点は他にもあるわ。三宅の部屋の電話に盗聴装置《とうちようそうち》が仕掛けてあったこと。あんな貧しい家に、盗聴装置なんて、どう考えてもおかしいわ」 「三宅ってのが、意外に大物なのかもしれないぜ」 「そうは見えなかったけどね。あの部屋を見る限り」 「見かけだけで判断しちゃいけないよ」  マリは、ふっと笑って、 「あんたもたまにはいいこと言うじゃない」  と、言ってやった。「——待ってよ」 「何だよ」 「隣の[#「隣の」に傍点]部屋よ!」 「隣がどうした?」 「吉原さんが言ってたわ。小川育江って名乗った女は、警官が行くまで、隣の部屋にいたのよ」 「だから?」 「隣の人は、彼女が小川育江と名乗るのを聞いてるはずだわ。つまり、彼女が吉原さんの恋人なんかじゃないことも分るんだわ」 「何だ。それなら早いとこそう言やいいのに」 「吉原さんも、警官を殴ったり、撃たれたりして、そこまで頭が回らなかったのよ」 「人間ってのも、抜けてるもんだ」 「そうよ。抜けてるから人間よ。だから、人間ってのはあったかいんだからね」 「へえ」  ポチは顔を上げた。「お前、あの刑事が好きなのか」 「馬鹿言わないでよ!」  マリは真赤になった。 「天使は嘘《うそ》つくのが下手《へた》だな」  と、ポチは笑った。  犬が笑うというのも、何となく無気味である。 「でも、警察で事情を話せば、必ず思い出すわ! 行って来る」 「警察へ?」 「違うわよ。あのアパート。隣の家に、必ず刑事が話を聞きに来るわ」 「ふーん。この娘《こ》はどうするんだ?」 「あんたが見てれば?」 「いやだよ。そんな退屈な仕事。——俺《おれ》も行くよ」  と、ポチはウーンと伸びをした。  もちろん、前肢《まえあし》を上げて伸びをしたわけではなく、至って、「犬らしい」伸びの仕方だったのである。 「どうして私について歩くの?」 「悪いか?」 「そういうわけじゃないけど……。ま、いいわ。この子もここで寝てれば大丈夫だろうしね」 「よし。じゃ出かけよう」  と、ポチが言った。  ——正直なところ(というのも、悪魔としてはおかしいかもしれないが)、ポチはヒヤリとしたのである。  どうしてついて歩くのか、って? ま、深く考えるなよ、可愛《かわい》い天使さん。  天使ってのは大体がお人好で、すぐ他人を信用する。そうでなきゃ、イメージ上も困るわけだが。  しかしな、人間って奴《やつ》は、そう単純じゃないぜ。尽くしてやっても裏切られる。愛しても苦しめられる。俺にゃ、ちゃんと分ってるんだ。  地獄で、あんまり怠けていたので、こうして追ん出されて来てしまったが、俺が地獄へ戻《もど》るには、天使を一人、地獄へ道連れにして帰らなきゃならないんだ。  ちょうどうまい具合に「地上研修」に来る、この天使と一緒になって、しめた、と思ったのだ。  こいつがもし、人間に失望して、 「人間なんて、信じられない!」  と、叫んだら、それは天使の役目を放棄したことになって、俺はこいつを地獄へ連れて行ける。  そのためにゃ、ピッタリはりついてるしかない。  こうして、殺人事件なんてのに出くわしたのはラッキーだった。一番、人間の醜《みにく》い面を覗《のぞ》けるに違いないからだ。  箱入り娘(?)の天使にとっちゃ、ショックだろう。つい、人間が信じられなくなる可能性だって、高いってもんさ。  ——いいとも。名探偵のお供だ。どこまでだって、ついて行ってやる。  その代り……一旦《いつたん》地獄へ落ちたら、永久に、俺《おれ》がお前の主人だぞ。 「何してんの。行くわよ」 「待ってくれ。今、行くよ」  と、ポチはマリの後からついて、トコトコと歩き出した……。 「——失礼」  と、村田が声をかける。「警察の者ですがね。ちょっとお話を」  ドアチェーンをかけたまま、細く開けて覗いていた宮田|昭次《あきつぐ》は、村田の後ろに立っている制服の警官と、吉原の顔を見て、 「ちょっと待って下さい」  と、肯《うなず》いた。  ドアが開くと、村田は、吉原を促して、宮田の部屋へ入った。 「どうも……」  と、吉原は言った。「僕のこと、憶《おぼ》えてますか」 「ええ! もちろん」  と、塾の教師、宮田は即座に答えた。「三宅さんが殺された事件でここへ来た刑事さんでしょ」 「そうです」  吉原はホッとした。「あなたの証言がぜひいただきたくてね」 「知ってることは、あの時、全部、しゃべりましたがね」 「いや——」 「ちょっと待て」  と、村田が吉原を制して、「俺《おれ》が訊《き》く。お前は黙ってろ」 「はあ……」  吉原は、不服そうだったが、おとなしく引っ込んだ。いくら不服でも、手錠こそかけられていないが、警官に両脇《りようわき》をがっちり固められているのだ。  これじゃ、逆らうわけにもいかない。 「三宅さんの奥さんは見付かったんですか?」  と、宮田は訊いた。 「いや。まだです」  と、村田が答える。 「そうですか。しかし、あの奥さんはいい人でしたからね。大した罪にならないといいけどな」 「実は、今夜うかがったのは——」  と、村田が言った。「三宅さんが殺されたのを発見した女性がいましたね」 「ええ。私がここに置いていた人ですね」 「そうです。小川育江と名乗っていたわけですが……。どうもそれは怪しいらしい、ということになったのです」 「怪しい?」 「その女性を、よく憶《おぼ》えていますか?」 「よく、と言われてもねえ」  と、宮田は、眉を寄せた。「そりゃ、写真でも見りゃ思い出せますよ、きっと。しかし、どんな顔か説明してみろ、と言われたら、きっと——」 「いや、そんなことは言いませんよ」  村田は、写真を一枚取り出して、宮田の前に置いた。「これを見て、その女性だと分りますか」  その写真を手に取った宮田は、まじまじと眺めていたが、 「さて……。もう少し若かったんじゃないかな。こんな不細工なおばさんじゃなかったようですがね」 「あ、失礼」  と、村田はその写真を取り戻《もど》して、「これは私の家内の写真でした」  宮田は、さすがに、少し焦《あせ》ったのか、 「いや——しかし、よく見ると、なかなか愛嬌《あいきよう》のある顔ですよ。それに面白くて、見飽きないし」  これじゃ、ますます悪い。 「見ていただきたいのは、こっちの写真でした」  と、村田が差し出した写真を見て、宮田は目を丸くした。 「この女性——死んでるんですか?」 「そうなんです。で、この死体が間違いなくあなたの見た女性だったかどうか、確認していただこうと思いましてね」 「そうですか」  宮田は、まじまじとその写真を見ていた。吉原は、村田の方を、どうです、というように見ていた。——村田はポーカーフェイスのままだ。  宮田は、写真を村田の方へ差し出しながら、 「違いますよ、この女性は」  と、言った。  吉原が、愕然《がくぜん》とした。 「そんな——そんなことはない! よく見て下さいよ」 「確かですか」  と、村田が言った。 「ええ。顔の輪郭《りんかく》、それに眉《まゆ》の形も全然違いますね。そう、髪もこんな風にはしていなかったと思うな。はっきりは憶《おぼ》えていませんが」 「そんな馬鹿な!」 「おい吉原、諦《あきら》めろ。お前の話とは大分違うじゃないか」 「どうかしたんですか?」  と、宮田が不思議そうに言った。 「いや、何でもありません」  と、村田は首を振って、「こちらで、ちょっとした意見の食い違いがあっただけなんです。——失礼しました」 「いやいや」  と、宮田は至って愛想良く、「こんなことぐらい、当然の市民の義務ですからね」 「もう一度、よく考えてみて下さい!」  と、吉原が食い下る。「父親だと名乗った男が迎えに来て、連れて行った、あの女ですよ!」 「ええ、そのことは憶えてますよ。でも、この女《ひと》じゃなかった」  吉原はがっくり来た様子で、ふらっとよろけた。 「おい! しっかりしろ」  と、村田が叱《しか》りつけた。「それでも捜査一課の刑事か」  村田は、もう一度、宮田に、 「どうもお騒がせしましたな」  と言った。 「いや。——しかし、お隣の荷物は、どなたか引き取って行かれたんですか? ずいぶん手早い仕事でしたよ」  宮田の言葉に、村田は眉《まゆ》を寄せて、 「引き取った、ですって?」 「ええ。今日の昼間、ドタバタしてましたからね。男が四、五人来て」  村田は、警官の一人に、 「おい、中を覗《のぞ》いてみろ!」  と、命じた。 「はっ!」  警官は、三宅の部屋へと急いで入って行った。  そして、すぐに出て来ると、 「何もありません」  と、言った。 「何も?」  村田が飛び込んで行く。吉原も、警官に腕を取られながらだが、ついて行った。 「——何だ、こりゃ?」  村田が呆《あき》れたような声を出した。  部屋の中には、何も[#「何も」に傍点]なかった。家具やガスコンロなどはもちろん、押入れも、扉がなくなっている。そして何より——畳がなくなってしまったのだ!  床板がもろにむき出しになってしまっている。 「こりゃ凄《すご》いや」  と、吉原も、一瞬|呆然《ぼうぜん》としていた。 「いくら引越しでも、ここまではやらんぞ。どうなってるんだ?」 「だから言ったじゃないですか」  と、吉原がかみつく。「三宅殺しには裏があるんです。女房のやったことじゃありませんよ」 「それはこっちで調べる」  と、村田は素気なく言った。「お前は、ともかく自分の部屋で死んだ女のことを説明するんだな」 「二つの事件は関係があるんです。分らないんですか」 「俺《おれ》に分ってるのはな、死体が二つあって、犯人を挙げなきゃならんってことだけだ。——行くぞ」 「この部屋は?」 「誰が一切|合財《がつさい》、持って行ったのか、当らせる。ともかくお前には関係ないことだ。パトカーへ戻《もど》るぞ」  吉原は、諦《あきら》めたように肩をすくめた。  警官に腕を取られて、 「痛い! 気を付けろよ。そっちはけがしてる方だ」  と、文句をつける。 「あ、失礼」  と、警官があわてて、吉原の腕を持ちかえる。  その瞬間、吉原はドン、と警官に体当りを食らわした。 「ワッ!」  警官が弾みで引っくり返る。吉原は一気に駆け出した。 「待て!」  と、村田が怒鳴《どな》る。「追いかけろ!」  パトカーのそばに待っていた警官が、吉原の行く手を遮《さえぎ》るように立って、拳銃《けんじゆう》を抜いた。 「止れ!」  その時、黒い塊がパッと宙へ飛んで、警官の頬《ほお》に飛びかかった。 「いてっ!」  警官が泡食って、よろける。同時に銃が火を吹いていた。 「こっちよ!」  マリの声がした。吉原はその暗がりの方へと駆けた。 「これ、乗れる?」  マリが、オートバイを指さした。 「乗れるとも。キーが差してあるな」 「この近くで拝借したの。急いで!」 「後ろに乗れ!」  吉原がまたがってエンジンをかけると、マリはあわてて、後ろに飛び乗った。 「ポチ! 行くわよ!」  タタッと足音がして、黒い犬が、マリの背中に取りつく。 「重いわねえ!」 「我慢《がまん》しろい」  と、ポチは吠《ほ》えた。  オートバイが走り出した。 「待て! 吉原!」  村田の声が、たちまち遠去かる。 「——よし! この分なら大丈夫だ」  吉原は、細い道を選んで、オートバイを走らせた。 「けがの方は?」 「ああ、大丈夫だ」  と、吉原は肯《うなず》いて見せた。 「——どこへ行く?」 「そうだな……。ともかく、人のいない所でないと」  吉原は首を振って、「ぜいたくは言ってられない。——よし、あそこにしよう」 「どこ?」 「高級ホテル、とはいかないがね」  と、吉原は言った。「何だか少し軽くなったみたいだ」 「ええ」  と、マリが言った。「ポチが落っこちたわ」 [#改ページ]  9 恋の誓い 「——一恵」  そっとドアが開いて、父親の声がした。  返事がないので、林は心配そうに、中へ入って来た。  一恵の部屋は、明りを消したままだった。 「——一恵。大丈夫か?」  少し間があってから、 「何の用?」  と、ベッドから声がした。 「起きてたのか」  林は、ホッとした様子で、「またどこかへ行っちまったのかと思ってな」 「行けっこないわ。私は監獄に閉じこめられてるんだもの」 「そんなことはないよ。ただ、母さんだってお前のことを心配して——」 「放っといて! 出てってよ!」  一恵が、ヒステリックな声を上げた。「お父さんもお母さんも、私、顔なんか見たくないわ!」  林は、後ずさりして、 「分ったよ。いや——お前がどうしてるかと思って、心配だったから、見に来ただけなんだ。出て行くよ。——じゃ、おやすみ」  と、ドアに手をかけた。 「待って」  と、一恵が言った。  パチッと音がして、ベッドサイドの明りが点《つ》く。  ほの暗い中に、一恵が、ベッドに起き上っているのが見えた。 「ごめんなさいね」  と、一恵が、穏《おだ》やかな口調で言った。 「いや……」  林は、ベッドの方へ戻《もど》って来ると、「お前の気持はよく分るよ」  と、言った。 「私のこと、心配してくれてるのね、お父さんは」 「母さんだって、そうさ」 「いいえ!」  と、一恵は強く首を振った。「お母さんはただ世間体を気にしてるのよ。それだけだわ」 「しかし、自分の娘の幸せを——」 「私はもう大人よ。自分のすることは分ってるわ」 「うん。それはお父さんもよく分ってる」 「だったら、私に任せてほしいの。その結果がどうなろうと、責任は自分で取るわ」 「うん……。しかしなあ、今度ばかりは、事情が事情だよ」 「あの人じゃないわ」  と、一恵は言った。「あの人が殺したんじゃない。私には分るの」 「一恵——」 「お父さん、私が人殺しすると思う?」 「まさか」 「そうでしょ? 私だって、お父さんが人を殺すなんて、たとえ誰に言われたって、信じない。だって、お父さんのこと、そんな人じゃないって知ってるから。——吉原さんもそうよ。私、あの人が、女の人を殺すような人じゃないってこと、分ってるの」 「そうか」  林は肯《うなず》いた。「そうかもしれないな。しかし、それならそれで、きっと警察が本当の犯人を見付けてくれるさ。そうしたら、お前は、私や母さんに、ほら見ろ、と言えばいい」 「お父さん……」  一恵は、父の手を軽く握った。 「今、もう彼は警察の手の中だ。——お前にはどうすることもできない」 「分ってるわ」  と、一恵は肯いた。「待ってるつもりよ。必ず、疑いが晴れて、自由の身になるわ」 「そうなるといいな」  林は、娘の肩を軽く叩《たた》いて、「寝なさい。——じゃ、行くよ」  と、立ち上った。 「お父さん」 「うん?」 「一一〇番したのは、お母さん?」 「一恵——」 「電話を聞いてたのね。私の後を尾《つ》けさせるなんて」 「一恵。もう済んだことだ」  と、林は、言い聞かせるように、「済んだことだ。そうだろう?」 「ええ」  一恵は、息をついて、「お父さん、どうしてお母さんと結婚したの?」  と、訊《き》いた。 「さあ、どうしてかな」  林は、苦笑した。「出世の見込みに目がくらんだか」 「お父さんが?」 「みんなはそう思っているさ。少なくとも会社では」 「——辛《つら》いね、お父さん」 「その分、給料をもらってる」  と、林は言って、「さあ、もう眠るんだ」 「おやすみなさい」 「おやすみ」  父がドアを閉めた。——一恵は、ベッドに横になって、しかししっかりと目を見開いたまま、暗い天井を見上げていた。  もう涙は出尽くしたのかしら?  一恵は、そう長く泣いたわけじゃなかった。  父や母を恨んで泣いたのではなかったのだから。  それはむしろ、尾行されたことに気付かなかった自分への腹立たしさと、吉原に、裏切ったと思われたことへの悔しさだった。  何とかして、吉原に会いたいと思った。そして、自分が裏切ったんじゃないことを、知ってほしい!  しかし、面会に行ったとしても、果して、会わせてもらえるだろうか? 手紙を出せば届くかもしれない。  でも、だめだ! 手紙じゃ、とてもこの気持は言い表せない。  何とかして、会って直接、言いたい……。  ——コツン、と何か窓の方で音がした。  何かしら?  また、コツン、とはっきりした音だ。  一恵は起き上った。明りを点《つ》けて、窓の方へ歩いて行く。カーテンを細く開けると、一恵は目を疑った。  塀の向う、道に立って、手を振っているのは、あの女の子だった!  一恵は、カーテンを大きく開けると、窓を開けた。 「——しっ!」  と、一恵は、身ぶりで言って、それから、マリが大きく口だけを開けて、声を出さずに言う言葉を、読み取ろうとした。  よしはら……吉原さん?——逃げたんだって?  一恵は、飛び上らんばかりにして、手を振って見せた。  すぐ行くわ!  無言の対話は、すぐに通じたのである。  吉原は、体を縮めるようにして、古ぼけたマットレスの上に、小さくなって座っていた。  やはり、ここじゃ寒すぎるかな。  といって、ホテルに泊るわけにもいかないだろう。大体、金がない。  財布《さいふ》も何も、全部警察である。——全く、皮肉なもんだ。  吉原は、身に覚えのない罪で逮捕されるということの悔しさを、初めて味わった。  現実にも、そんな事件はいくらもあった。もちろん、とんでもないことには違いないが、それは、一種の「必要悪」だ、と思っていた。  そんなことに気をつかって、却《かえ》って本当の犯人を取り逃すことの方が危険だ、ぐらいに考えていたのだ。  しかし、こうして自分が疑いをかけられてみると、息苦しいほどの圧迫感が、周囲から自分を圧し潰《つぶ》すように感じられる。  逃げたから、怪しい。身に覚えがなければ、嘘《うそ》をつくわけがない。やっていなければ自白するはずがない……。  そんな理屈が、今の吉原には、いかにも虚《むな》しいものに思えた……。  警官は、みんな、一度は逮捕されてみるべきかもしれないな、と吉原は思った。  ——ここは、無人のビルである。  取り壊す寸前になって、持主が脱税などの容疑で逮捕され、結局、このビルも宙に浮いてしまっていた。  たまたま、この前を通りかかった時、一緒にいた刑事がその事件の担当で、教えてくれたのである。  ここなら何日かは安全だろう。——ま、凍え死にさえしなければ、であるが。  タッタッタ、と足音が聞こえて来た。  あの子だな。——不思議な女の子だ。  足音が、もう一つ、聞こえる。吉原は立ち上って、非常階段への出口へ、いつでも駆け出せるように身構えた。 「——吉原さん、いる?」  と、マリの声。 「ああ。誰か一緒か?」 「そうよ」  マリが、毛布やら何やらを両手にかかえて現われた。  ビルの中は、もちろん電気も通っていないが、表の通りの街灯や、ネオンの光、それに通る車のライトなどで、この五階にいても、結構明るいのである。 「ほら、これだけあれば、あったかいわ!」  と、マリがドサッと毛布を置く。「それと、食べる物もね。途中のお弁当屋さんで……」  吉原は、おずおずとこっちを覗《のぞ》いている一恵の顔を見て、唖然《あぜん》とした。 「君……」 「吉原さん……。私、あなたのこと、密告したりしないわ。本当よ。信じて!」  と、一恵は駆け寄って、吉原に抱きついた。  落っこちそうになったお弁当の包みを、マリはあわてて受け止めた。 「——分ってるよ。おい、泣くなよ」 「だって……あなたがきっと私のことを恨んでるだろうと思って——」 「僕がそんな男だと思ってるのか?」  と、吉原が笑った。 「大好き!」  一恵が吉原をギュッと抱きしめてキスした。 「痛い!——傷が——」 「ごめんなさい!」 「いや——大丈夫。捕まったおかげで、至ってていねいな治療をしてくれたからね」 「今度は絶対に尾《つ》けられてないわ。大丈夫よ!」 「しかし——大変なことになるよ、見付かったら」 「いいの。そうなったら、私も刑務所へ入ればいいんでしょ?」 「君——」 「夫婦で同居できる刑務所ってないの?」 「ないだろうな」  吉原は笑って、「嬉《うれ》しいよ、君が信じてくれて」 「ごめんなさいね。今まで、ずいぶん、あなたのこと、じらしたり、からかったりしたわね」 「それも楽しいさ」  一恵は、空っぽの部屋を見回して、 「ここ、オフィスだったの?」 「うん。何もないだろ?」 「いいわ、せいせいして」 「少しここに隠れて、犯人を見付けてやろうと思ってるんだ」 「私も手伝う。——帰れなんて、言わないでね」  吉原は、一恵の頬《ほお》に、そっと手を当てた。  エヘン、とマリが咳払《せきばら》いする。 「——あの、私、それじゃ失礼します」 「君、どこに行くんだ?」 「あの地下室。良子ちゃんも残したままだし、あそこの方があったかいんだもの」  マリは、お弁当の包みを二つに分けると、 「じゃ、私たちの分、持って行きます。明日お昼ごろにでも来てみるわ。もちろん、人目に充分気を付けてね」 「そうか。——すまないね」 「いいえ。それじゃ。——あんまり早く来すぎないようにしなきゃ」  マリはそう言って笑うと、「おやすみなさい!」  と、一声、階段をタタタッと駆け下りて行った。  吉原は首を振って、 「不思議な子だ」  と、言った。 「あなたのことが好きなのよ」  と一恵は言った。 「そうかな。しかし——」 「可愛《かわい》い子じゃないの」 「人間とは恋ができないんだよ。あの子は天使だからな、何しろ」  一恵がフフ、と笑って、 「じゃ、私と恋をするしかないわね」 「そうだな。——毛布は何枚?」 「二枚よ。それだけしかなかったの」 「下に一枚敷いて、上に一枚か」 「充分よ」  と、一恵は言った。「きっと、熱いくらいだわ」  地下の倉庫へマリが入って行くと、 「帰ったのか」  と、ポチが頭を上げた。「人のことを放り出しやがって」 「そう怒らないの。——ほら、お弁当」 「ありがたい! 腹ペコだったんだ」  と、起きて来る。  マリは、良子が眠っているのを確かめて、 「この一つは、取っとく分、と」  段ボールの上に置いて、「——けが、しなかった?」 「身は軽いんだぜ」 「そうね」 「あいつは?」 「隠れ場よ。今度は大丈夫だわ。一恵さんもいるし」 「また引張り出したのか」  と、ポチが呆《あき》れたように言って、「——お前どうかしたのか」 「何が?」 「いやに元気ないぞ」 「そんなことないよ」 「そうか……。じゃ、吉原って奴《やつ》、恋人と二人なんだ」 「そうよ。——結構じゃないの」 「無理すんなよ。やきもちやいてんだろ」 「黙って食べなさいよ」  と、マリはにらんだ。「——私はね、天使なの。人間の男に恋するわけないでしょ」 「理屈じゃね。だけど——」 「それ以上しつこく言うと、ぶっ飛ばすわよ」 「天使が暴力振っていいのかよ」  マリは取りあわず、自分の弁当を食べ始めた。 「——ねえ、一つ、手がかりができたわ」 「何だ?」 「あの、宮田って男よ。嘘《うそ》をついたんだわ。殺された女のことで」 「それがどうかしたかい?」 「なぜ嘘をついたのか、理由があるはずだわ。それを調べるの。きっと、何か分って来るわ」 「物好きだな。吉原に任せとけば?」 「ここまで来て? いやよ、私。最後まで見届けないと」  と、マリは言った。 「どうしようっていうんだろ」 「それを考えるんじゃないの。あんたも考えなさいよ」 「人づかいの荒い奴《やつ》だ」  と、ポチはブツブツ言った。 「——どうしたの?」  いつの間にか、良子が起き上っている。 「あら、起きちゃった? ごめんなさいね。この馬鹿な犬がうるさいもんだから。いやねえ」 「ワン」  と、ポチは文句を言った。 「良子も食べようっと。お腹空《なかす》いちゃったもん」 「そう? じゃ、ここにいらっしゃいよ。一緒に食べましょ」 「うん」  良子も加わって、倉庫での夜食会、ということになった。 「——ママ、ちゃんとご飯食べてるかなあ」  と、ふと手を休めて、良子が言った。 「そうね」  マリはちょっと迷ったが、気休めを言っても始まらない。「ねえ、ママがお腹一杯《なかいつぱい》食べてるかどうか分らないけど、ママが良子ちゃんに一杯食べてほしいと思ってることは確かよ」 「うん。——そうだわ。残してもママにあげられるわけじゃないし」  良子は、また食べ始めた。  しかし、不思議だ、とマリは思った。なぜこの子の母親をさらって行ったりしたのだろう?  三宅照子をさらって行って、何の得ることがあるのか。マリには分らなかった。  誘拐《ゆうかい》して金をゆすり取るという、ひどい人間もいることは、マリも承知している。しかし、三宅は失業中で、しかも殺されてしまっているのだ。  三宅照子が、夫を殺したので、自分で逃げているというのなら、まだ分るのだが、他の誰かにさらわれたというのは、よく分らない。  それとも——お金以外に、三宅は何か[#「何か」に傍点]持っていたのだろうか?  そう。電話に盗聴装置《とうちようそうち》が仕掛けられていたことが、それを暗示している。 「——ねえ、良子ちゃん」  と、マリは言った。「あなたのパパ、何のお仕事をしてたの?」 「色々」  と、良子は口をモグモグやりながら、答えた。「——でも、ずっと働いてなかったんだよ」 「そう。でも、それじゃ、お金がなくて困ったでしょ」 「ママはね。いつも泣いてたもん」 「でも、パパの方は?」 「お酒飲んだり、女の人の所へ行ったりして遊んでた」  よく見ているのである。 「じゃ、パパはお金、持ってたんだ」 「うん。持ってたよ」 「どこからお金が入ったのかなあ?」 「知らない」  ま、そこまで七つの子に期待するのは、無理というものだろう。 「でも、いつか、パパが言ってたよ」 「何て?」 「私が寝てると思って、二人でケンカしてたの。ママが、『まじめに働いて下さい』って言ったら、パパがね、『金はちゃんと毎月入って来るんだから、文句ねえだろう』って、怒鳴《どな》ったの」 「毎月入って来る……」  まるで月給取りね。でも——どこから?  マリは首をかしげた。  ふと、ポチが首を上げる。マリはポチを見た。 「なにっ?——あ、そう。ちょっといらっしゃい」 「どうしたの、ポチ?」 「ううん、ちょっとトイレですって」  マリはポチと一緒に倉庫を出た。 「——誰もそんなこと言わねえぞ」  と、ポチが文句を言う。 「何か言いたいこと、あったんでしょ」 「いや、もしかしたら、と思ったのさ」 「何なのよ?」 「毎月、何もしないで金が入って来るってのは、まともじゃないぜ。大体、金ってのは、働かないと入って来ないもんだぜ」 「だから何だっての?」 「うん。そいつはきっと、ゆすりじゃないかな」 「ゆすり?」 「ああ。人の弱味を握って、金を出さないとばらすぞ、って——」 「それぐらい、私だって知ってるわよ」  と、マリは言った。「でも、そんなひどいことする人が、本当にいるのね」 「おめでたい奴《やつ》だな」  と、ポチがため息をついた。 [#改ページ]  10 偽 証 「ゆすりか。うん、それは大いに可能性があるね」  と、吉原は肯《うなず》いた。「さすがは天使だな。刑事の僕が、とっくに気付いてなきゃいけなかったんだ」 「いいえ……」  マリは少々照れくさかった。——まさか、犬のポチの考えで、とも言えないから、黙っていたのだが。 「今日は暖いね。——何かいいことのありそうな日だ」  吉原は、マリの目には別人のように活《い》き活きとして見えた。 「けがの具合、どうですか?」 「うん、ありがとう。大したことないよ。もう痛みもほとんどなくなった」 「良かったですね」 「君のおかげさ」 「そんなこと……。一恵さんの看病が良かったんでしょ」  マリは少し赤くなりながら言った……。  階段の方に、軽快な足音がした。 「一恵さんだわ」  と、マリが振り返ると、一恵が、大きな紙袋を両手に下げて上って来る。 「あら、マリさん。昨夜は本当にありがとう」 「いいえ。——買物ですか」 「ええ。主婦第一日にしちゃ、変な場所だけどね」  と、一恵は笑った。  その笑顔は、昨日までの笑顔とはまるで違うように、マリには見えた。 「五階まで上り下りするのは大変だろ」  と、吉原が立ち上って、「少し下に移ろうか」 「大丈夫よ。あんまり下じゃ、お向いのビルから覗《のぞ》かれる心配があるわ。五階ぐらい、どうってことない。——はい、カミソリとシェービングクリーム。それにネクタイも買って来たわ」 「ありがとう。——ずいぶん派手だね」 「あなた、地味すぎるのよ。マリさん、サンドイッチ、一緒に食べない?」 「でも……いいんですか?」 「ええ、もちろん、どうして?」 「何だか、お邪魔みたいな気がして」 「そんなこと! あなたが私たちのキューピッドですもの」 「ぴったりだ」  と、吉原が言って笑った。  マリは、ちょっぴり複雑な気分だった。  そりゃ天使だからね。人が幸せになるのを見るのは、悪い気分じゃない。でも、ハートを射抜くキューピッドっていうのは、人間の想像の産物で、大体マリは弓の練習なんてしたこともないのだ。  でも、まあ文句を言う筋のことでもないかもしれない。取りあえずはおめでとうございますということで……。  サンドイッチったって、その辺で買ったやつだから、決しておいしくはない。それに飲み物は紙コップに入ったコーヒー。  でも、吉原と一恵を見ていると、二人がまるで真新しいマイホームの、きれいなダイニングキッチンで朝食を取っているかのようだった……。 「——あの宮田って奴《やつ》には、全く頭に来るよ!」  と、吉原が、食事を終ったところで、言った。 「何かわけがあるのね。間違えたってことはないんでしょう?」  と、一恵が言った。 「あり得《え》ないよ。顔がはっきり思い出せなくて分らないというのならともかく、ああもでたらめを……」 「きっと誰かにそう言えと言われたのよ」 「うん。——買収されたか、おどされたのかだな」 「どうするの?」 「簡単さ」  と、吉原は言った。「こっちがおどしてやる」 「逆襲《ぎやくしゆう》ね」  と、マリは言った。「私も手伝うわ」 「しかし——危いよ。もう二人も殺されている。三宅だって、あの女房がやったんじゃないとしたら、恐喝《きようかつ》していた相手がやったということになる」 「その可能性の方が高いんじゃない?」  と、一恵は言った。「後で、部屋の中が空っぽにされたことを考えても」 「うん。きっとその誰か[#「誰か」に傍点]は三宅をおどして、脅迫《きようはく》の種になっているものを出させようとしたんだな。しかし三宅はしゃべらなかった。争ったか、逃げようとしたか……。その犯人は三宅を殺してしまった」 「肝心の品物がどこにあるか、分らなくなっちゃったのね」 「だから部屋の中を空っぽにしたんだ」  と、吉原は肯《うなず》いて、「中で捜し回るわけにいかないから、取りあえず、洗いざらい運び出してしまった。それからゆっくり捜そうってわけだ」 「じゃ、三宅照子さんをさらったのは誰なのかしら?」 「その犯人とも考えられるね。そいつは、三宅の部屋の電話に盗聴機《とうちようき》をセットしていたんだ。僕と課長の会話を聞いて、僕のマンションへ行ったわけだからな」  マリは肯いて、 「そこに、本当に[#「本当に」に傍点]照子さんがいたのね」 「犯人は、きっと彼女が何か知っていると思ったんじゃないかな。つまり、脅迫の種にしていた物がどこに隠してあるかを」 「だから、さらって行った。——それなら筋が通るわね」 「しかし、彼女は知らなかった。——だから連中はあの部屋の荷物を全部運び出すことにしたんだ」  吉原は、顔をこわばらせた。「そうか、すると、もう奴《やつ》らは三宅照子が何も知らないんだと思ってる。ということは、もう彼女は邪魔者なんだ」 「じゃ——殺される?」  と、一恵が目を見開いた。 「良子ちゃんのママよ。何とかして助けてあげないと」  と、マリが思わず吉原の腕を取って、「あ——ごめんなさい」  と、あわてて手を離した。 「あら、構わないのよ」  と、一恵が言った。「きっとこの人も喜ぶわ」 「よせよ」  と、吉原が照れたように言った。「今はそんな呑気《のんき》なことを言ってる時じゃない。——よし、ともかく手の届く所から始めよう」 「というと?」 「あの、隣の部屋の宮田って男さ。あいつが嘘《うそ》をついているのは確かだ。何としても、本当のことを訊《き》き出してやる」 「でも、用心しないと」  と、一恵が不安そうな表情になった。「だって、もし見付かって捕まったら、今度こそ出られないわよ」 「分ってる。何とかして、宮田をおびき出せないかな」  と、吉原は考え込んだ。 「私に任せて」  と、マリが言った。「あの犬と二人[#「二人」に傍点]で、何とかやってみるわ」 「しかし、そいつは危険だ」 「大丈夫、ここまでやって来たんですもの。最後まで力になりたいわ」 「ありがとう」  と、一恵が、マリの手を握った。  マリは、ちょっと頬《ほお》を染めて、 「その代わり、お願いがあるんですけど」 「何かしら?」 「良子ちゃんのこと、面倒をみていてくれます? あの地下倉庫に一人で置いておくのは心配だから」 「分ったわ。じゃ、行ってここへ連れて来ましょう」 「——そうだ」  吉原が肯《うなず》いて、言った。「単純だが、この手で行こう」 「え?」  マリと一恵は顔を見合わせた……。  宮田昭次は、電話が鳴り出すと、ビクッとして、飛び上りそうになった。 「落ちつけ!——電話がかみついて来るわけじゃないんだからな」  受話器を上げて、身構えながら、「もしもし?」 「あら、太郎ちゃん? 私よ、元気?」  宮田は咳払《せきばら》いして、 「あの、おかけ違いですよ」  と、言った。 「あら、太郎ちゃんじゃないの?」  宮田は、憤然《ふんぜん》として、受話器を置いた。 「何が太郎ちゃんだ、ふざけるな!」  玄関のドアをトントンとノックする音がして、 「どうかしましたか、宮田さん」  と、警官の声がした。 「いや、何でもありません」  と、宮田は大声で答えて、畳の上にゴロリと横になった。  畜生! こんな厄介なことになるなんて!  警察って所も、一体何をやってるんだ。  宮田が文句を言っているのも、まあそのこと自体は、無理からぬところがあった。  宮田は、いわば吉原の話をくつがえす証言をしたわけで、その吉原に逃げられてしまったのだから、宮田の身にも、当然危険が及ぶ可能性がある。  そこで、吉原が捕まるまで、警官が宮田の部屋の前で護衛に立つことになったのだ。しかも、差し当りは外出もしないでくれという。  勤め先も休んで、こうして部屋でごろ寝しているわけだった。 「——早く捕まえてくれよ」  と、ブツブツ言いながら、天井を見ていると、また電話が鳴り出した。 「——はい、宮田」  と、受話器を取って言うと、 「やっぱり、太郎ちゃんでしょう!」  と、凄《すご》い笑い声が飛び出して来て、あわてて受話器を耳から離した。「人をからかって! ワッハハハ!」 「間違いだと言ってるだろう!」  宮田は頭に来て、受話器を叩《たた》きつけるように置いた。「今度かけて来たら、ぶっ飛ばしてやる!」  と、また電話が鳴り出した。  この野郎……。宮田の顔が真赤になる。  電話は、宮田の精神状態にはお構いなく、いつもと同じように鳴り続けた。  宮田は、パッと受話器を取ると、 「いい加減にしろ!」  と、怒鳴《どな》った。  と——しばらく向うは沈黙していた。  これは違う電話だ。宮田は直感的にそう思った。 「もしもし? 誰?」 「よくも……」  と、低く押し殺した声がした。「よくもでたらめを言ったな!」  宮田の顔から血の気がひいた。 「な、何だ! 誰なんだ?」 「分ってるくせに! お前の嘘《うそ》のおかげで追われてる刑事だよ」  と、苦しげな声で、「いいか、絶対に、借りは返してやるからな」 「何だよ、おい……。俺《おれ》は——」 「殺してやる!」 「何だって?」  宮田は精一杯《せいいつぱい》強気になって、「いいか、こっちは、ちゃんと警官が守ってくれるんだぞ!」 「フン、それが何だ。俺はな……傷が悪化してるんだ。どうせ長いことはないんだ。一人じゃ死なないぜ。必ずお前を道連れにしてやる」 「おい、よせよ、俺は——」 「死ぬ気なら、お前一人殺すぐらい、何でもないぞ。いいか、首を洗って待ってろよ!——たとえ警官が何人いようと、突っ込んで行って、絞め殺してやるからな! いいか!」 「待ってくれ!——おい!」  宮田はすっかり青ざめていた。「俺は別に——。もしもし?」  電話は切れていた。宮田は、震える手で、やっと受話器を戻《もど》した。  トントンとドアを叩《たた》く音がして、宮田は飛び上った。もう来たのか? 「何かありましたか?」  警官の声だ。宮田は、ホッとしたが、 「いや、何でもありません」  と、返事をした。  宮田は、部屋の中を、二、三分の間、クルクルと歩き回った。そして、ピタリと足を止めると、 「命あってだ! よし!」  と、呟《つぶや》くと、電話の方へ駆け寄った。 「——もしもし、——宮田というんだが。——あんたか。もういやだよ。金をくれ。ここから逃げ出さないと!——吉原って刑事だよ! 逃げてるんだ。俺を殺す、って今、電話をかけて来た。——いや、そうじゃない、話が違うのは、そっちだぜ。あいつは今、いつでもここへ来られるんだ。——警官は一人だけだ! あんなもの頼りにならないよ。——いいか、これで手を切ろう。金を払ってくれ! そうしないと、本当のことをしゃべっちまうぜ。分ったかい?」  向うは、少しの間、黙っていた。——やがて、返事があった。 「——分りゃいいんだよ」  と、宮田は、ホッと息をついて、「じゃ、どこへ行けばいい?——何だって? ちょっと、待ってくれ」  宮田は、急いでメモを取った。 「——何だか妙な所だな。——ああ、そうか。——ああ、憶《おぼ》えてるよ。じゃ、そう言えば分るんだな」  宮田は、念を押すように、「いいか、妙な気を起こさないでくれよ。俺《おれ》だって充分に用心してるからな」  と、言って電話を切った。  宮田はフーッと息をついて、額の汗を拭《ふ》いた。  さて、と……。今度は、あの警官だ。  守ってくれるのはありがたいが、こっそり出かけるには、不便である。 「よし……。そう手間はかからねえだろう」  宮田は、勤めている塾へ電話を入れた。 「——ああ、宮田だけどね。今、田中先生は授業中?——電話してくれと伝えてくれないか。——いや、きりがついた時でいい」  あと三分で、休み時間になる。電話を切って、宮田は急いで出かける仕度をした。  ここへは、何日かは帰れないかもしれない。  必要な物を、小さな鞄《かばん》へ詰め込む。  あの電話の様子じゃ、吉原は大分傷の具合が悪いようだ。そう何日ももつまい。  どこかで死ぬか、それとも捕まるか。それまで、安いビジネスホテルにでも泊ろう。 「面倒なことになった」  と、宮田は首を振った。  その時、電話が鳴り出した。宮田は急いで受話器を取ると、 「やあ、すまん、こっちの勘違《かんちが》いで。——何でもなかったんだよ。じゃ、失礼」  パッと電話を切っておいて、もう一度受話器を持つと、「そうですか! いや、良かった!」  と、大声で言った。 「じゃ、早速伝えます!——どうも、どうも!」  受話器を置いて、玄関へと駆けて行ってドアを開ける。 「どうしました?」  警官が、びっくりしたように立っている。 「えらく大きな声で——」 「いや、今、村田さんから知らせて来たんです。吉原が逮捕されたそうですよ」 「そうですか! そりゃ良かった」 「これで安心して眠れます。いや、ご苦労さんでした」 「いや、とんでもない。では、本官はこれで失礼します!」  と、パッと敬礼する。 「どうも。お世話になりました」  宮田は、警官が立ち去るのを見送って、姿が見えなくなると、急いで鞄《かばん》を手にアパートを出て、用心しながら、反対の方向へと歩き出した。 「——うまく引っかかった」  と、吉原は、電話ボックスのかげから覗《のぞ》いて見ながら、言った。 「どこへ行くのかしら?」  と、マリは言った。 「さあね。——ともかく、後を尾《つ》けてみるんだ。きっと何かつかめる」 「ワクワクするわ」  と、マリが言った。  吉原は苦笑して、 「君は変ってるな。それとも天使ってのは、みんなそうなのかい?」 「私は、小さいころから、おてんばなの。だから、いつも叱《しか》られてたわ」 「分るね。——さ、行こう」  吉原にとって、尾行はお手のものである。何しろプロなのだから。  マリと、そしてポチがその後について行く。——これで何もかもがはっきりすればいいんだけど、とマリは思った。  そう簡単にゃいかないぜ、きっと、とポチは思っていた……。 [#改ページ]  11 煙の中 「妙な所ね。——どこ、ここ?」  と、マリはキョロキョロしながら言った。 「天国にはバーとかスナックはないの?」 「ないわね。でも——いつも上から見てるとキラキラ光っててきれいなのに、こんなに汚《きた》ない所だったの?」 「そりゃ夜になれば、この辺だって派手になるさ。昼間は店も閉ってるしね」 「どこへ行くのかしら?」  二人——いや、ポチも含めて三人[#「三人」に傍点]——は、用心しながら歩いていた。  宮田の方も、目的地を見付けられずにいるらしく、あちこちキョロキョロ見回しているので、見付かりそうだったからだ。 「どうやら、店の名だけ聞いて来たらしいな」  と、吉原は言った。 「——見て、誰かに訊《き》いてる」 「うん……。どこかのバーテンだろう」  蝶《ちよう》ネクタイをしたその男は、宮田に声をかけられると、ちょっと戸惑《とまど》った様子だった。  おや、と吉原は眉《まゆ》を寄せた。——あのバーテン、どこかで見たことがある。  大柄《おおがら》な男で、口ひげを生やし、一見してバーテンと用心棒を兼ねているらしい、と思える。しかし……。  どこで見たんだろう? 吉原は首をかしげた。  もちろん、吉原もバーに行くことはあるが、この辺の店は詳しくない。 「分ったらしいわね」  と、マリが言った。  大柄な男が、指さして説明している。宮田は、肯《うなず》くと、礼を言って歩き出した。 「どこかで……」 「え?」 「あの男だよ。どこかで見たことがあるんだがな」 「宮田に道を教えた人?」 「うん。どうも——」  言いかけて、吉原は息をのんだ。  バーテンの格好をしたその男は、宮田が背を向けて歩き出すと、サッと周囲を見回し、ポケットから何か短い棒のような物を取り出した。そして、いきなり、それを振り上げると、宮田の頭へ振り下ろしたのである。  バシッ、という音がして、宮田はその場に突っ伏して倒れてしまった。  マリも唖然《あぜん》としている。——吉原をつついて、小さな声で、 「殺したの?」 「いや……。気絶させただけだろう」  吉原がじっと見ていると、そのバーテンは、かがみ込んで、宮田の体を軽くかつぎ上げた。  そしてもう一度、周囲を見回すと、片手で口ひげをむしり取ってしまった。  吉原は、思わず声を上げるところだった。 「——知ってるの?」  と、マリが囁《ささや》く。 「うん。あいつだ。小川育江を、父親と名乗って、連れて行った男だよ。——畜生! すっかり押し出しの良さに騙されちまったんだ」 「宮田をどこへ運んで行くのかしら?」 「さあね。——ともかく後を尾《つ》けるのも、気を付けないと」  吉原は、マリの肩に手を置いて、「いいかい、君はここにいるんだ。危険過ぎる」 「でも——」 「僕が三十分たっても戻《もど》らなかったら、一一〇番して、ここのことを教えてやれ」 「でも——あなた、やられちゃうかもしれないわ」 「仕方ないよ。刑事だからね」  吉原は微笑《ほほえ》んで、「大丈夫。せっかく恋人と結婚できるってとこまでこぎつけたんだから。そう簡単に命を落とすようなことはしないよ」 「だけど……」 「いいね。僕の言う通りにして」 「分ったわ」  と、マリは肯《うなず》いた。「じゃ、この犬を連れてって」  ポチがびっくりしたようにマリを見上げた。 「ワン——」  と、抗議しかけるのを、 「あんた、この人について行って、守ってあげるのよ。分った?」  と、遮《さえぎ》って、言いつける。「文句あんの?」 「ワン」  渋々、ポチも承知したようだった。 「分ったよ」  と、吉原は肯いて、「よし、ポチ、行こうか」  ポチは、不服そうにマリを見ながら、トコトコと吉原の後をついて歩いて行った。  マリは、一緒に行きたかったが、却《かえ》って吉原の足手まといになるかもしれない、と思い直したのだ。  狭くて右へ左へと曲っている道を、二人の姿はたちまち見えなくなってしまう。  マリは、 「三十分かあ……」  と、呟《つぶや》いた。  もし吉原が捕まったら……。ポチが何とかするだろう。  大した度胸はないにしても、悪魔には違いないんだから。  すると、ゴーッ、という音が後ろで聞こえた。振り向くと、狭い道を、ゴミ集めのトラックが入って来る。  ちょうど、両側に立ち並ぶスナックやバーの前に出されたゴミを集めているのだ。 「ほら、どいて!」  と、係の人に怒鳴《どな》られる。「邪魔だよ」 「す、すみません」  どいて、と言われても……。  何しろ、道幅《みちはば》が狭くて、トラックとすれ違うのは、えらく大変そうだったのだ。  オロオロしている間に、どんどんトラックはゴミ袋を呑《の》み込みながら近付いて来る。  マリは、仕方なく、目の前の、二軒のバーの隙間《すきま》——本当に、「隙間」としか言いようのない、体を横にして、やっと入れるくらいの隙間に入って、よけることにした。  その隙間の向う側が、明るくなっている。  大きな通りに出るのかしら?  マリは、体を横にしたまま、カニのように横に動いて行った。  ヒョイ、と外へ出ると……。そこは、さっきの通りと似たような、やはりバーなどの並んだ、狭い道だった。 「なんだ」  と、がっかりして振り向いたマリは立ちすくんだ。  何と——目の前に、殴られた宮田をかかえたあの大柄《おおがら》なバーテンが、現われたのだ!  どうやら、道の先をどこかで回って、こっちへやって来たらしい。 「キャッ!」  と、思わず悲鳴を上げていた。 「おい」  と、そのバーテンが言った。「何だ、お前は?」 「あ——いえ、別に」 「どうしてびっくりした?」 「え——いえ、びっくりなんてしてません!」 「そうか?」 「失礼します」  と、反対の方へ歩こうとすると、目の前に、いつの間にか他の男が……。 「何だ、この娘は?」 「様子がおかしい。連れて行こう」  マリは、ぐい、と腕をつかまれた。 「やめて!」 「静かにしな」  目の前にスッとナイフの冷たい刃が差し出されて来た。「——分ったか?」  マリは肯《うなず》いた。 「よし。早く、人に見られないうちに、連れ込むんだ」  と、バーテンが言った。 「邪魔するぜ」  と、バーテンが言った。「おい、こいつを二階へ連れてけ」  マリは、えらく古ぼけた日本風の家に連れて来られた。中は薄暗く、かびくさい。 「ここは?」  と、キイキイきしむ階段を上って行く。 「昔の連れ込み宿ってとこさ」 「連れ込み?」 「知らねえのか? 今の若い奴《やつ》は、ラブホテルだもんな」  ああ、なるほど、とマリは思った。天使だって好奇心は旺盛《おうせい》なのである。 「ラブホテルに客を取られて、廃業したんだよ。目につかねえし、誰も来ない。いい所だぜ」  その小太りの男は、マリの背中にナイフを突きつけて、「さ、その部屋へ入るんだ」  と、言った。 「ここは?」 「布団部屋さ。——おとなしくしてな。もし騒ぐと、裸にして縛《しば》り上げるぜ」  重そうな戸が開くと、マリは中へ突き飛ばされた。 「もうー、乱暴なんだから」  マリは、腹が立って、呟《つぶや》いたが、何といっても天使は空手《からて》や柔道の達人ってわけではない。  窓もない、暗い部屋で、何だかかびくさい布団らしいものが積み上げてある。  マリは、仕方なく、そこに座り込んだ。  吉原さんとポチが、あの男の後を尾《つ》けて来てるはずだわ。もうすぐ助けに来てくれるんだから……。  でも——あの宮田を、一体どうするつもりだろう?  マリが、膝《ひざ》をかかえ込むようにして、座っていると——突然、 「ウーン」  と、呻《うめ》く声がすぐそばで聞こえて、マリは、 「ワッ!」  と、飛び上った。  誰かいるんだ!  マリはキョロキョロ見回して、 「誰?——誰なの?」  と言った。 「誰か……いるの……」  と、とぎれとぎれの声。  女の人の声だ。暗くてよく見えない。 「あの……誰ですか?」  と、マリは呼んでみた。  そして、ハッと思い当る。 「三宅照子さん? そうでしょ?」 「ええ……。あなたは……」  やっと、暗がりの中に、ほの白い人の姿が見えて来た。 「私です。ほら、あなたをマンションへ入れて寝かせてあげた——」 「まあ……」  と、起き上って、「良子は——良子はどうしてます?」 「ええ、大丈夫。良子ちゃんは元気にしています。無事ですから」 「良かった……」  深く息を吐き出して、ぐったりと倒れてしまう。マリはびっくりして、 「しっかりして下さい!」  と、声をかけた。 「良かった……。良子のことだけが心配だったの」 「良子ちゃんは大丈夫です。——きっと、もうすぐここに助けが来ますから」 「ありがとう……。でも、もう……私はだめだわ」 「何を言ってるんですか。しっかりして下さい」  マリは、励ましながら、「あの連中に、何をされたんですか?」 「思い出したくもない……。何とかしゃべらせようとして……」 「何を?」 「あなたは、知らない方がいいわ」  と、三宅照子は言った。「でも、ここに来てしまったんだから、無事では帰れないかも……」 「大丈夫ですよ」 「死んじゃだめよ……。どんなにひどい目に遭《あ》わされても……」  三宅照子を、抱き起こすようにしていて、マリは、その服が、ひどくあちこち引き裂《さ》かれているのを知った。  ひどい!——何てことを! 「ご主人が、何かを隠していたんですね」  と、マリは、必死で自分を取り戻《もど》そうとしながら、言った。「脅迫《きようはく》する種になるものを」 「そこまで知っているの……」  照子は、弱々しく肯《うなず》いた。「そう。——主人は、急に働かなくなって、酒や女に溺《おぼ》れるようになったの……。どうしたのか、私にもよく分らなかった。でも——そのうち、あの人が、酔ってしゃべったの。『ある奴《やつ》の弱味を握ってるんだ』って。——信じられなかったわ。昔はそんな人じゃなかったのに」 「毎月、お金が入ってたんですね」 「そう。何十万円か……。毎月毎月、誰かから絞り取っていたんだわ」 「じゃ、この連中は——」 「きっと……その脅迫された相手の人が、雇ったんでしょう。もうお金を払いきれなくなって……。いっそのこと、と——」 「ご主人を殺したのも?」 「分らないわ。でも、私じゃないの。私がやったんじゃないのよ」 「ええ。ええ、分ってます。——大丈夫、警察の人だって、信じてくれますよ」 「そうね……。でも、ここからは、もう出られないわ」 「そんなことありませんよ。しっかりして! もうすぐ助けが——」  ガタガタと音がして、戸が開いた。 「よし、出て来い」  と、さっきの小太りな男が言った。 「この人、ひどく弱ってるわ。お医者を呼んであげて」  と、マリは言った。 「おい、他人のことを心配してられる身じゃないぜ。——出て来るんだ」  マリは、仕方なく、照子をそっと寝かせると、 「戻《もど》りますからね」  と、言った。 「逆らわないのよ。殺されたら、何にもならないわ」 「ええ……」  マリは、軽く、照子の手を握って、立ち上った。 「こっちだ」  ナイフが光って、マリをせっつく。 「分ってるわよ」  マリは、暗い廊下を歩いて行った。  和室が並んでいる。——その一つの襖《ふすま》が開いていた。 「中へ入れ」  マリが入って行くと、そこは八畳ほどの部屋で、奥にもう一つ、部屋があるようだった。 「来たか」  あのバーテンが、蝶《ちよう》ネクタイを外し、ワイシャツの胸を少しはだけて、立っていた。 「——何ですか」  と、マリは言った。「あの女の人、放っといたら、死んじゃいますよ」 「どうもよく分ってねえらしいぜ」  と、小太りな男が、マリの後ろで、クックッと笑う。襖《ふすま》がパタッと閉じた。 「私のことをどうしようと、勝手だけど」  と、マリは言った。「死んだ後で、後悔することになるわ」 「ほう、こいつは面白い」  と、バーテンがニヤニヤ笑って、「死んだ後で、だって?」 「そう。地獄は辛《つら》いわよ。それに、この世の命と違って、終りがないわ」 「お説教か。——少しイカレてるようだぜ」 「イカレてたって構うもんか」  と、バーテンが、マリの体を眺《なが》めて、「女は女だ。それも、三宅の女房に比べりゃ、ぐっと若い」  マリは、吉原とポチが何をしているのか、気になった。——この男を、見失ってしまったのかしら?  冗談《じようだん》じゃないわよ! 「男二人と寝たことあるのか?」  と、小太りな男が、後ろから手をのばして、マリの頬《ほお》を撫《な》でた。「いいもんだぜ、なかなか」 「そう?」  マリは、そう言うと、思い切り、その男の手にかみついた。 「いてえっ!」  と、悲鳴を上げる。  目の前のバーテンの腕の下をくぐって、マリは正面の襖《ふすま》へとぶつかって行った。バタッと襖が倒れ、そこには布団が敷かれていた。そして——。  かもい[#「かもい」に傍点]から、あの宮田の体が、ぶら下って揺れていた。マリは、ギョッとして、立ちすくんだ。 「首を吊《つ》ったのさ」  と、バーテンが言った。「お前もだ。二人で無理|心中《しんじゆう》ってことになる」 「殺したのね! ひどいことを——」 「俺《おれ》たちは頼まれただけだ。頼んだ奴《やつ》に文句を言えよ」 「後悔するわよ! 自分が死ぬ時になって救ってくれと頼んでも、誰も救ってくれないわよ」 「くどくど言うな。ちょうど布団の上だ。おい、やろうぜ」  マリがいくらすばしこくても、大の男が二人では、とても勝負にならない。アッという間に布団の上に押えつけられてしまった。 「さて、ゆっくり可愛《かわい》がってやるか」  と、バーテンが、笑った。  あのポチの奴《やつ》! 何してんのかしら!  マリは、ふと、妙な匂《にお》いに気付いた。 「——待って! 待ってよ!」 「いやがると、ますます可愛いぜ」  と、上にのしかかって来る。 「そうじゃないのよ! こげくさいわ!」 「何だと?」 「煙が……。ほら!」 「そんなことを言って——」 「おい、本当だぞ!」  と、小太りな男が目をみはった。「見ろよ!」  煙が、うっすらと、廊下に面した襖《ふすま》の方から忍び込んで来た。 「何だ、一体?」 「知らねえけど——煙いよ」  と、咳込《せきこ》む。  マリは、男たちが廊下の方へ駆け出して行ったので、飛び起きると、ぶら下っている宮田の方へ目をやった。もう死んでいる。 「畜生! 火が回ってる!」  と、怒鳴《どな》る声がした。  マリは急いで廊下へ出た。廊下はもう、白い煙が立ちこめている。 「だめだ!」  階段を下りかけた小太りな男が、這《は》うようにして上って来た。「下はもう火の海だ!」 「何てこった! おい、窓から出るんだ!」 「あ、ああ……」 「ちょっと!」  と、マリが怒鳴ると、二人の男がギョッとして振り向く。 「三宅照子さんを放って行くの?」 「知るか! 人のことなんか構ってられるかよ!」  マリは、仕方なく、急いで布団部屋へと戻《もど》った。 「——しっかりして! 火事なんです」  と、照子をかかえ起こすと、「立って! 何とかして逃げないと」 「いえ……。もう私は、とても——」 「そんなこと言って! 良子ちゃんに会いたくないんですか? ママのことを待ってるのに」  良子の名前が、効いたらしい。照子は目を見開いて、 「——分ったわ。何とか、大丈夫です。歩けます」 「肩につかまって!——ともかく出ないと」  廊下は、しかし、もう真白で、何も見えなかった。 「頭を下げて。——どこか出られる所はないのかしら」  階段から、炎が這《は》い上って来た。 「そっちに……お手洗いが」  と、照子が言った。「窓があります」 「こっちですね」  煙の中を、咳込《せきこ》みながら、二人はよろよろ進んで行った。  ダダッ、と足音がして、二人の前に立ちはだかったのは、あの小太りな男だった。 「邪魔しないで!」 「邪魔してんじゃねえよ」  と、男は言った。「もうだめだ」 「もう一人は?」 「窓から出ようとしたんだ。とたんに下から火が吹き上げて来て、火だるまになって、落っこっちまった……。もう逃げ道はないぜ」 「トイレの窓よ! 早く、この人を——」 「わ、分ったよ」  男は、照子をかかえ上げるようにして、進んで行った。  正面に木の扉があった。それを開けると、正面に小さな窓がある。 「こんな所から?」 「やってみるしかないわ」 「ああ……」  男が、窓のガラス戸を外した。木の格子がはまっていたが、木も腐っていたのか、すぐに外れる。 「こんな所、俺《おれ》はとても通れねえ」 「待って! 誰か下に——」  マリは、窓から顔を出した。 「——あそこだ!」  と、叫ぶ声。  吉原が駆けて来た。ポチも一緒だ。  全く! 何やってたのよ!  マリは大声で、 「照子さんがいるわ!」  と、叫んだ。「火が回ってるの!」 「分ってる! そこから出るしかない!」 「やってみるわ!」  と、マリは叫んだ。「受け止めて!」  二階からだ。何とかなるだろう。 「手を貸して」  と、マリは男に言った。「この人を押し出すのよ」 「ああ……」  煙でぐったりしている照子を、二人でかかえ上げると、窓へ頭から入れて行く。 「肩が引っかかってる!——何とか通るわ! その調子!」  マリは、大声で、「吉原さん! 受け止めて!」  と、怒鳴《どな》った。 「任せろ!」  と吉原の声がした。 「押し出して!」  と、マリは言った。  腰の辺りで少し引っかかったが、スルッとうまく抜けて、照子の体は、窓の向うへ消えた。 「——やったぞ!」  と、吉原の声がする。「君も早く!」  マリは、男の方を向いて、 「あなた、先に行って」  と言った。 「俺《おれ》が?」 「私は一人でも通り抜けられるわ。でも、あなたは押し出さなきゃ無理よ」  男は、ポカンとした顔でマリを見ていたが、やがて、首を振った。 「いいんだ。俺はとても無理だよ。自分の胴回りは分ってる」 「やってみなきゃ!」 「火がどんどん迫《せま》ってる。早く出な。俺が踏み台になってやる」  男は窓の下で四つん這《ば》いになった。「さあ、背中に乗って、早く出るんだ」  マリは、ためらった。 「私はいいのよ! 天使なんだから! あなたは人間よ」 「天使か」  男は、ニヤリと笑った。「じゃ、俺が死んだら、神様に報告してくれよ。一つはいいこともした、ってな。ちっとは罪が軽くなるかもしれないからな」 「ねえ……」 「早くしろよ。二人とも焼け死ぬぞ」 「分ったわ……」  マリは、かがみ込むと、男の頬《ほお》に素早くキスした。 「ダイエットしとくんだったな」  と、男は言った。  マリは、男の背中に乗って、窓から身を乗り出した。 「来るんだ!」  吉原が、下で叫んだ。マリは、ぐっと両手で、窓枠を押した。頭から落ちる瞬間、目をつぶっていた。 「——キューン」  変な声がした……。  何だかフワフワの物の上に落ちたらしい。  目を開けると、ポチが、目を回して仰向けに引っくり返っている。 「ちょっと、ずれたんだ……」  と、吉原が言った。  振り返ると、もう二階まで、その建物は火に包まれていた……。 [#改ページ]  12 現われた顔 「わざとじゃないってば!」 「俺《おれ》を狙《ねら》って落ちたんだろう」 「そんなこと、できると思う? あんな時に!」 「分るもんか、天使なんて、悪魔のことを人と思ってないんだから」 「変なの」 「ともかく、俺は重傷だぞ」 「どこもけがしてないわ。ただの打ち身よ」 「全く、ひどい目に遭《あ》った……」  ——マリとポチがやり合っていると、病院の前にタクシーが停って、林一恵と、良子が下りて来た。 「良子ちゃん!」  と、マリは駆けて行った。「ママは無事よ!」 「どこにいるの?」 「少し具合が悪いから、お医者さんが診てるわ。でも、大丈夫。すぐ元気になるわよ」 「良かったわ」  と、一恵が言った。「あの人は?」 「病室です。きっと何もかも分りますよ」  マリは、良子の手を取って、病院へ入って行った。ポチも入ろうとしたが、 「犬はだめですよ」  と、受付の人に言われて、渋々、 「差別だ……」  と、文句を言いながら、入口の階段に、ふてくされて座り込んだ。  ——病室へ入って行くと、吉原、そして村田警視が立っている。ベッドの照子は、良子を見て、 「良子!」  と、両手を差し出した。  良子はトットッと歩いて行くと、 「お帰り、ママ」  と、言って、照子の頬《ほお》にチュッとキスした。 「——奥さん」  と、村田が、口を開いた。「ご主人のことですが……。ご主人は誰かを脅迫《きようはく》していたんですな」 「そうです」  照子は良子を抱き寄せながら、肯《うなず》いて、「殺されたのも、自分のせいですわ。あんなもののために、長く苦しんだ人も、気の毒です」 「それは何だったんです?」 「写真です。ホテルでの盗み撮りの。中年の男と、若い女の人……。女の人の方は、主人が殺された時、アパートへやって来たんです」 「知っていたんですか、その女を?」 「いいえ」  と、照子は首を振った。「写真を見たことがありましたから。——それに主人は、男の人からは毎月お金を送らせ、女の人には、自分も手を出していたんです」 「なるほど。それで、あのアパートへやって来たわけか。女の身許《みもと》を、やっとつかめました。小川育江というのは本当の名だった。ただ、独り暮しで、身よりも東京にはいないので、なかなか分らなかった。それに身許の分る物は持っていなかったし」 「主人は、電話が盗聴《とうちよう》されているのに気付いて、ひどく怒《おこ》ったんです。当然、そんなことをしたのは、相手の男しかいませんから」 「何かの拍子に、その写真のある場所をしゃべるかもしれない、と思ったんでしょうな。しかし、見付かってしまって、その男も追い詰められた」 「主人は、危険を感じたんでしょう。あの女を呼び寄せて、三人で話をつけようとしたんだと思います」 「しかし、小川育江が着くのが遅れ、男の方が先に来てしまった……」  村田は、首を振って、「その男は何者です?」 「分りません。顔は写真で見ましたけれども……」 「あなたをさらった二人の男は、そいつに雇われていたんですね」 「そうだと思います。何とかして、フィルムを見付けたかったんでしょう」 「小川育江が、刑事に訊問《じんもん》されているのを、犯人はどこかで見ていたんだな。そこで、あのうちの一人を、父親と称して、強引に連れて行かせた」 「彼女も、助かったと思ったんでしょう」  と、吉原は言った。「何といっても、刑事の前から逃げ出したかったでしょうからね」 「だから、話を合わせてついて行った。——しかし、なぜ、お前のマンションへ行ったんだ?」 「それは、僕と課長の話を聞いて、あそこにこの母子がいると思ったからですよ。もっとも、本当にいるなんて、僕は思わなかったんだけど」 「あんたが例の二人に連れ去られた時、小川育江はもう殺されていたのかね」  と、村田が訊《き》いた。 「いいえ。あの時、あの女の人は見かけませんでした」  と、照子は答えた。 「それが妙だな」  と、吉原は首をかしげた。「じゃ、なぜ小川育江は僕のマンションに?」 「お前の愛人だったからじゃないのか?」 「課長——」 「冗談《じようだん》だ。お前がやったとは、初めから、思っとらん」 「どうですかね」  と、吉原は言い返した。「ともかく、その相手の男が分ればいいんだ。問題のフィルムはどこにあるんだろう?」  照子は、少し間を置いて、言った。 「私が持っています」  誰もが顔を見合わせた。 「いえ、今は持っていません。でも、あそこを出た時、持っていたんです」 「しかし——どうして隠し場所を?」 「女は家の中を一番良く知ってますわ。主人は用心していたつもりでしょうけど、少し前から、私には分っていました。主人はお茶の缶の中へ入れたり、トイレの水槽《すいそう》の中へビニールにくるんで隠したりしてました」 「なるほど」  と、村田は肯《うなず》いた。「では、それをどこへやったんです?」 「持ち出したのは、それがあれば、主人を殺したのが私でない、と信じてもらえると思ったからですわ。でも、疲れ切って、あのマンションで眠っている所へ、あの連中がやって来て……。私、この子をベランダの外へ出して、ぶら下げてやりました。その時、フィルムも」 「ベランダに?」 「ベランダの下です。裏側に、ガムテープで貼《は》りつけてあります」  吉原は、ホッと息をついた。 「これで犯人が分るわね」  と、一恵が言って、吉原の腕を取った。 「すぐ行ってみましょう」  と、マリが言った。「良子ちゃんは、ママのこと、看病してあげてね」  良子が、ポン、と胸を叩《たた》いて、 「任しといて!」  と、言った。  みんなが一斉《いつせい》に笑った。 「何だか——」  と、マリが言った。 「何だよ?」  ポチが頭を上げる。  二人はパトカーの座席に座っていた。吉原たちはもう一台のパトカーに乗っている。  二台のパトカーは、吉原のマンションに向っていた。 「いやな気分」  と、マリは首を振って、「どうしてだろう?」 「事件が解決すりゃ、あの刑事とあの女が、めでたしめでたし、だからだろ」 「よして。そんなんじゃないわよ」  と、マリはポチをにらんだ。 「しかし、大した奴《やつ》だな」  と、ポチが言った。「三宅って奴を殺してそれから女も殺した。ついでに、家捜しさせるために雇った男たちも、あの宮田ってのと一緒に片付けた」 「火を点《つ》けたのね、あの家に。——ひどいことするわ。私と、照子さんも、死ぬところだったのよ」 「俺《おれ》だって、死ぬところだったぜ」 「まだ言ってるの」 「ま、ともかく、こいつは地獄へ落ちるのに資格充分だよ」 「変なこと請け合わないで。——何だか、いやな予感がするの」 「どうして?」 「だって……。なぜ、小川育江は吉原さんのマンションで殺されてたの?」 「そりゃあ、あそこが……」 「吉原さんに罪を着せるため? でも、見も知らない人間に、罪を着せようなんて、誰が考えるかしら?」 「ふーん」  ポチは、鼻を鳴らして、「じゃ、犯人は吉原の知ってる奴だってことかい?」 「そうとしか思えないじゃない。でも——あの人を誰が恨んでるかしら?」 「分った」 「本当?」 「振られた天使だ」 「けとばすわよ」  と、マリは言った——。  パトカーがマンションに着いた。  村田、吉原、そして、一恵と、マリ、ポチの五人[#「五人」に傍点]は、エレベーターで三階へ上った。 「運動にならないわね」  と、一恵は言った。 「ま、いいさ。事件が解決する時っていうのは、早く知りたいし、また先にのびてもほしいもんだ」  と、吉原は言った。「課長」 「何だ?」 「僕と彼女の仲人《なこうど》をやって下さいよ」 「おい……」  村田は渋い顔で、「俺《おれ》はそういうことは苦手なんだ」 「だめです。僕を犯人扱いしたんですから。償っていただかないとね」  村田は、顔をしかめて、 「上司を脅迫《きようはく》するのか」  と、言った。  ——部屋へ入ると、吉原は明りを点《つ》けた。 「じゃあ、早速ベランダを見てみましょう」 「ああ。やってみろ。俺は高所|恐怖症《きようふしよう》なんだ!」  と、村田はずっと手前に立っていた。  吉原がベランダに腹這《はらば》いになって、手を外へ出す。 「——どう?」  と、一恵が訊《き》いた。 「待てよ……。何かある! これだ」  頑丈《がんじよう》に貼《は》りつけたテープをはがすのに、苦労はしたが、ネガフィルムを手に握って、吉原は、顔を真赤にして起き上った。 「やった!」  と、居間へ入って来ると、「これで、犯人が分る」 「早く焼付けてみたいわね」  と、一恵は言って——。「お父さん!」  驚いて、目を見開いた。  林が、コートに手を突っ込んで、居間の入口の所に立っていたのだ。 「お前がここにいるんじゃないかと思ってた……」  と、林は言った。「捜しに来たんだ」 「お父さん……。心配かけてごめんなさい。でも、私、もう吉原さんと一緒になるって決めたのよ」  一恵は、しっかりと吉原の腕をつかんだ。けがをした左腕だったので、吉原が目をむいた。 「そうか……」 「私の気持、変らないわ。もう家には帰りません。お母さんにも、そう言って」  林は、しばらく、不思議な表情で一恵を見ていたが、やがて口を開いた。 「——私からは言えない。お前が、自分で言ってくれ」 「ええ。それなら自分で言います」  と、一恵は肯《うなず》いた。 「さて、それじゃ、フィルムは俺《おれ》が預かって帰ろう」  と、村田が言った。「吉原、どうせ何日か休暇を取るんだろう?」 「それは、こいつを焼付けてからですよ」  と、吉原は、フィルムを見て、言った。 「その必要はないよ」  と、林が[#「林が」に傍点]言った。「そこに写っているのは、私と、小川育江だ」  ——しばらく、誰も動かなかった。  マリは、自分が恐れていたものを、はっきり見たような気がしていた……。 「——お父さん」  一恵が、一歩前へ出る。「今、何て言ったの?」 「小川育江の愛人は、この私だ」  林は、いつもと同じように、穏《おだ》やかな口調で言った。「あの三宅という男に、その写真を撮られて以来、どれだけ苦しんだか……。毎月毎月、妻の目をかすめて何十万かのお金を工面しなくてはならなかった……。どんなに辛《つら》かったか、誰にも分るまい」 「では……三宅を殺したんですか」  と、吉原が言った。 「うん」  と、林が肯《うなず》く。「育江もだ」  一恵が、よろけて、ソファにもたれかかった。 「三宅と育江は、もう何度も寝ていた。——初めのうちは、きっと育江も三宅におどされていやいや相手になったんだろう。しかし、そのうち、三宅との仲を楽しみ始める。私から絞り取った金で、二人して遊んでいたんだ」  林は、首を振った。「あの時、育江は三宅の身を心配して、アパートへ駆けつけて来たんだ。私はそれを外で見ていた。そして、彼女を憎いと思ったんだ」 「でも、なぜここで——」 「それはね、君があの現場へやって来るのを見て、初めて思い付いたんだ。どこかで見たことがある、と思って、考えた。そして——思い出した。一恵の恋人だった刑事だ! しかしね、やはり、このまま発覚しないとしても、義理の息子が刑事というのは、どうも……。それに、私にとって一恵は何より大切だった。私に同情してくれるのは、一恵だけだ。一恵を失いたくなかった……」 「お父さん」  一恵が、力なく床に座り込んでしまった。「何と、三宅の女房も、この君のマンションに隠れているという。好都合だと思ったよ。そこで育江が殺されれば、当然、君は三宅殺しにも関り合いがあると思われるだろう」 「それで小川育江をここへ——」 「あの二人が、ここへ連れて来たんだ。私は後から来た。育江は、薬で眠らされて、寝室にいた。——私は、ためらわなかった」  村田が、ため息をついた。 「その殺しが、結局、隣の宮田や、例の男たちの殺しにつながったんですな」 「宮田はね、私の顔を見ていたんです」  と、林は言った。「口止め料を払えと言った。やっと三宅を殺したのにね。とんでもないことだ! 殺そうとすぐ決心しました。ただ、吉原君に疑いをかけるために、でたらめの証言をさせた。それが済めば、もうあいつの仕事は終っていたんですよ」 「あの二人も?」 「ああいう連中だ。当然、払った金だけでは満足しないだろう。——覚悟はしていました。何もかもうまく行くと思ったのに……。そんな所にフィルムがあったとはね」  林は、微笑《ほほえ》んだ。「私はやっぱり負け犬だな」 「——行きましょうか」  村田が促す。「表にパトカーもいる」 「待って下さい。娘に……」  林は、一恵の方へと歩み寄ると、「一恵、母さんを頼む」  と、言った。  林の体が、風のように、居間を駆け抜けたと思うと、扉が開いたままのベランダへと出て、そしてそのまま、宙へと飛び出した。  一恵が息をのんだ。 「——お父さん!」  マリは、目をつぶった。——いやな予感が、こんなにも当ってしまうなんて!  下で騒ぎが起きても、部屋の中の誰もが、動こうとはしなかった……。 [#改ページ]  エピローグ 「人間ってのは、妙なことをやるんだな」  と、ポチが言った。 「しっ。お葬式の時はね、静かにしてるもんなのよ」  と、マリがたしなめる。 「だけど、人間なんて冷たいもんじゃないか」  と、ポチが言った。「みんな、一人として残らないで、そそくさと帰っちまうぜ」  確かにそうだった。  告別式とはいっても、寂《さび》しいものだった。焼香の客は少なくなかったが、もちろんみんな事件のことは知っている。誰もが、焼香を終えると、さっさと帰ってしまう。  外へ出ると、 「本当にひどいことをして……」 「あの奥さん、いつもお高く止ってたから、さぞ応《こた》えたでしょうね」  などと話しながら、帰って行く。  玄関の外で立っていたマリは、少々頭に来ていた。  一恵は、青ざめていたが、もう泣いてはいない。入院した母に代って、弔問客に、しっかりと頭を下げていた。 「親戚《しんせき》もろくに来てないみたいだな」  と、ポチが言った。 「そうね。でも、しょうがないでしょ。引張って来るわけにもいかないんだから」  マリは黒いスーツなど、当然持っていないので、早々と焼香をして、外に立っているのである。  風は少し冷たかったが、寒いというほどではない。 「おい」 「何よ、うるさいわね」 「あの刑事だ」 「え?」  見れば、吉原と村田が、黒の背広に黒のネクタイ姿でやって来た。マリを見て、ちょっと肯《うなず》いて見せる。  マリは、吉原が焼香しているのを、一恵がじっと見つめていることに気付いていた。  吉原は、焼香を終えると、村田が外に出るのを待って、一恵の前に座った。 「——色々ありがとう」  と、一恵が言った。「お元気で」  吉原は、ちょっと目を伏せ、黙って一礼すると、立って、外へ出て来た。 「ちょっと待って」  と、マリが歩いて行く。 「やあ。君にはすっかり世話になったね」 「そんなこといいの。一恵さんのこと、どうするの?」 「うん……」 「今、一番あなたのことが必要なのに」  吉原は、ちょっと首を振って、 「その前に、僕にはやらなきゃいけないことがあるんだ」  と言うと、村田の後を追って行った。 「——あんなもんさ」  と、ポチが言った。「分ったかい?」 「見損なったわ」  と、マリは憤然《ふんぜん》として、「冷たい人なんだから」 「そうとも。人間なんて、利己的なんだよ」 「本当ね。人間なんて[#「人間なんて」に傍点]——」  おっ、とポチの目が輝いた。そうだ! 言ってみろよ、人間なんて——。 「戻《もど》って来たわ」  と、マリが言った。  吉原は、村田と何か話をすると、またスタスタと戻って来た。  そしてマリに向って、ちょっとウィンクして見せると、また上り込んで、びっくりしている一恵の隣に並んで座った。 「吉原さん……」 「君のお父さんなら、僕にもお父さんだよ」 「そんなこと……」 「今、課長に辞表を出して来た」  一恵が目をみはった。——吉原が、そっと一恵の手に、自分の手を重ねた。 「仕事は他にもあるが、僕の女房は君しかいない」  吉原はそう言って、「ほら、お客だよ。泣かないで、しゃんとしていないと」 「だって……」  一恵が涙を頬《ほお》に伝わせて、「こんな所で……そんなこと言うなんて……」 「悪かった?」  一恵は、答える代りに、吉原の手を、しっかりと握り返した……。 「——そうだ、あの子たちにも礼を言わなきゃな」  と、吉原は表に目をやった。  もう、マリと黒い犬の姿は、どこにも見えない。 「——どこへ行くんだ?」  と、ポチが道を歩きながら、言った。  畜生! もう少しだったのに! 「さあね」  と、マリは、上機嫌《じようきげん》らしく、口笛など吹いている。 「そういう下品なことすると、天国じゃ怒られるんじゃないのか?」 「ここは下界よ」  と、マリは言い返した。「また、どこかの人間の家にでも転がり込むしかないんじゃない?」 「今度はもう少し安全な家がいいな」 「あら、あんた、まだついて来るつもり?」 「悪いかよ」 「ま、いいけど」  と、マリは首を振って、「その代り、私の行く所に、文句を言わずについて来ること! 分った?」  マリは、そのまま、飛びはねるような足取りで歩いて行く。 「ちぇっ」  と、ポチはため息をついて、「天使に付合うのも楽じゃないぜ」  ポチが歩いて行くのを、すれ違った初老の夫婦者の亭主の方が見送っていた。 「——あなた。何してるの?」  と、女房の方が振り返る。 「いや……あの犬な」 「あの黒い犬? あれがどうかしたの?」 「いや……何だか、あの犬、今、肩をヒョイとすくめたんだ」 「何ですって?」 「肩をな、こうやって、ヒョイ、と——」 「馬鹿らしい!」  と、女房が顔をしかめた。「もうぼけて来たの? 困るわよ、まだ。ほら、急ぎましょ」  と、亭主の腕をつかんで引張る。 「ああ……。しかし、確かに……」  首をかしげながら、亭主はあわてて女房について歩き出した。 本書は、カドカワノベルズより昭和六十三年四月刊行された作品を文庫化したものです。 [#地付き](編集部) 角川文庫『悪魔と天使』平成2年8月25日初版発行            平成12年6月25日24版発行