TITLE : 南十字星 南十字星 赤川次郎 ------------------------------------------------------------------------------- 角川e文庫 本作品の全部または一部を無断で複製、転載、配信、送信したり、ホームページ上に転載することを禁止します。また、本作品の内容を無断で改変、改ざん等を行うことも禁止します。 本作品購入時にご承諾いただいた規約により、有償・無償にかかわらず本作品を第三者に譲渡することはできません。 目 次 1 走り出す美女 2 奈々子、溺《おぼ》れる 3 奈々子、踊る 4 友人か犯人か 5 どっちもどっち 6 出て来た女 7 尾行と出前 8 とんでもない話 9 悩みは深し 10 標的は誰か 11 出 発 12 話しかけて来た男 13 最初の武勇伝 14 冴《さ》えた奈々子 15 ディスコの男 16 押し倒されて 17 突然のラブシーン 18 金髪の彼氏 19 消えた奈々子 20 とらわれの奈々子 21 広告は呼ぶ 22 情は人の…… 23 謝罪のケーキ 24 ぶら下った男 25 月下のボート 26 朝の光景 27 逃走の森 28 森田の災難 29 犠牲的精神 30 ルミ子の無鉄砲 31 炎が照らす顔 32 闇《やみ》の中に 33 集 合 34 炎 35 南十字星 エピローグ 1 走り出す美女  カチッという音が聞こえた。  万年筆のキャップをはめた音だったらしい。その若い女性は、細身の赤い万年筆を、静かにテーブルに置くところだった。  そして、そっとため息をついたのだ。 「いいなあ……」  と、その女性を眺めていた奈《な》々《な》子《こ》もため息をついた。 「何が?」  カウンターの中でコーヒーカップを洗っていた店のマスターが、奈々子のため息を聞きつけて、訊《き》いた。 「え?——ああ、あの窓際の女性」 「美人だね」  と、マスターは見もせずに言う。 「へえ、ちゃんと分ってんだ」 「もちろん。店に入って来た時から気が付いてるよ」  もう五十がらみで、大分髪の白くなりかけたマスターは、この店を開いて二十年近い。客が入って来たのを気付かないなんてことはないのだろう。 「ああいう美人がため息をつくと、風《ふ》情《ぜい》があっていいわね」 「奈々ちゃんだって、悪くないよ。消化不良みたいで」 「澄まして残酷なこと言うんだから、二十歳のうら若き乙女に」  と、奈々子はマスターをにらんでやった。  まあ、浅田奈々子自身も、自分がため息の似合うような繊細さを感じさせるタイプでないことは承知している。丸顔で、どっちかというと少し下ぶくれのふくよかな顔、そして肩の張った、がっしりした体格。  でも、こうしてジーパンはいて、大きなエプロンをして立ち働くには、誰にも負けないくらい向いているのだ! 「——すみません」  窓際の女性が、囁《ささや》くような声で言った。  こんな小さな喫茶店だから聞こえるけれど、もっと広くて、BGMをガンガン流している店だったら、とてもその声はカウンターまで届かないだろう。 「はい」  奈々子は盆を手に、急いでそのテーブルへと飛んで行った。 「あの——紅茶をもう一杯。それと、糊《のり》はありますか?」 「のり……。あ、くっつける糊ね」  まさか喫茶店で海《の》苔《り》を注文する人もないだろう。 「封筒に封をするだけですから」 「じゃ、何か持って来ます」  奈々子は、空になったティーカップを盆にのせて、さげて戻《もど》った。 「——これ、使ってもらって」  と、マスターがレジの下から、スティック式の糊を出す。 「はい。それと紅茶一つ」 「何か頼まなきゃ悪いと思ってるんだね」  と、マスターは低い声で言った。  そう、奈々子もたぶんそうだろうと察していた。本当は、飲みたいわけじゃないのだろうが。  糊を持って行くと、その女性は、白い封筒に、さっきまで書いていた手紙をたたんで納め、糊づけして、きちんと封をした。 「どうもありがとう」  と、糊を返してくれるのを受け取って、奈々子は、その封筒の差出人が、〈美《み》貴《き》〉となっているのを見た。  美貴か。——こういう女《ひと》にはピッタリね。私、美貴なんて名じゃなくて、良かった。  二十四、五歳だろうか。真直ぐに背筋を伸ばして座っているところが、いかにも、しつけのいいお嬢様って感じだ。でも、左手の薬指にはリングが光っている。  まぶしげに、外を眺める彼女の横顔は、でも、どこか寂しげだった。  窓の下は、渋谷の雑踏。平日の昼間に、どこからこんなに大勢の人が出て来るのかと、毎日ここへ通って来る奈々子だって不思議になるくらいだ。それも、どう見ても高校生とか、せいぜい短大生くらいの若い女の子たち……。  こういう場所には、この〈美貴〉という女性はあまりそぐわない感じだった。 「奈々ちゃん。紅茶」  と、マスターに呼ばれて、奈々子は急いでカウンターへ戻る。  すると——その窓際の女性が、立ち上って、薄いコートとバッグを手に、やって来た。 「すみません。もう時間がないので。その紅茶の分、お払いして行きますわ」  と、バッグを開ける。 「いや、これは結構ですよ」  と、マスターが言った。「こっちで飲んじゃいますから。どうせ息抜きの時間ですし」 「でも、それじゃ申し訳ありませんから」 「いいんです」  と、奈々子が言った。「私、飲んじゃおう」  さっさとカップを取って、一口飲んで、熱いので、目を白黒させた。 「すみません。じゃ、一杯分だけ……」  と、代金を払う。 「——去年の秋ごろ、おいででしたね」  と、マスターがおつりを出しながら言った。 「ええ、ご存知?」 「何となく憶《おぼ》えていて。確かお二人で——」 「夫です」  と、その女性は言った。「でもあの時はまだ婚約中でした」 「そうですか。何だか、式場のパンフレットをご覧になっていたような」 「ええ、そうでした。——あの時は、式の十日前ぐらいだったかしら」  その女性の顔に、ふと微笑が浮んだ。「この前を歩いていて、私、このお店の名前が好きで、入ろうって言ったんです」 「ここの名前が?」 「ええ。——〈南十字星〉って、私、一度オーストラリアかニュージーランドへ行って、南十字星を二人で眺めたかったものですから」 「お二人で? いいなあ」  と、奈々子が口を挟む。「じゃ、ハネムーンに?」 「いえ、新婚旅行はヨーロッパで。夫の仕事の都合もあったんです」  なぜか、その女性はちょっと早口になって、「ごめんなさい、つい余計なおしゃべりで、お仕事のお邪魔をしてしまって」 「いや、とんでもない。またどうぞ」  と、マスターが言った。 「どうもありがとう」  財布をバッグへ納めると、その女性は、店の出口の方へと歩き始めた。——と思うと、ふらっとよろけて、その手からコートとバッグが落ちる。 「危《あぶな》い!」  奈々子が、駆け寄って支えた。 「ごめんなさい……。ちょっと貧血を……。大丈夫です」 「少し休んだ方がいいですよ」 「いいえ、大丈夫。——行かなきゃならないので」 「でも、無理すると……」 「成田に、四時までに行かないと。迎えに行く約束になってるので」  その女性は、少し目をつぶって、深呼吸してから、「——もう何ともありませんから」  と、肯《うなず》いて見せた。  奈々子は、マスターの方を見た。    春の陽射しは暖かかった。  車が成田空港の到着ロビー前に着いた時、奈々子は、車内の暖かさに、ウトウトしかけていて、 「お待ち遠さま」  という運転手の声に、ハッと目が覚めた。 「こんな所までごめんなさい」  と、三《さえ》枝《ぐさ》美貴は言った。 「いいえ。どうせ暇ですもの」  奈々子は、そう言って欠伸《 あ く び》をした。 「駐車場の方でお待ちします」  と、運転手がドアを開けてくれながら、言った。 「——何とか間に合ったわ」  と、三枝美貴は、腕時計を見た。「もう、飛行機が着いているかどうか見て来るから」 「この辺にいますよ」  と、奈々子は肯いた。  また欠伸が出て来る。  あの美貴という女性の顔色がなかなか元に戻《もど》らないので、マスターが奈々子に、ついて行ったら、と言い出したのだ。  奈々子としては別に、そう忙しいわけでなし、構わなかったのだが、正直なところ、客の一人にそこまでしてやるのもどうかと思った。しかし、マスターがいやにすすめるのと、美貴自身も、ついて来てほしそうな様子だったので、こうしてやって来たのである。  エプロンを外して、店を出る時、マスターが、 「あの人の様子に、よく気を付けていた方がいいよ」  と、奈々子に囁《ささや》いた。  どういう意味なのか、奈々子にはよく分らなかった。ハイヤーを使ってここまで来るのなら、何も「付添い」まで必要あるまい、って気もしたのである。  しかしまあ……。どうせなら、来てしまったのだから、少し見物でもして。——でも海外旅行なんてしたこともない奈々子としては、到着口から、両手で持ち切れないくらいの荷物をかかえ、くたびれた顔でゾロゾロと出てくる新婚さんたちを眺めていても、あんまり面白くはない。  結婚シーズンではあるし、当然ハネムーンの客が多いのだろうが、中には早くも険悪なムードのカップルもないことはなく、 「ざま見ろ」  なんて、つい言ってみたくもなる奈々子だった。  でも——あの三枝美貴って女性、一体誰を迎えに来たのだろう? 当然ご主人、かと思って訊くと、 「いいえ、そうじゃないの」  と、首を振るだけ。  何となくよく分らない女性ではある。 「——少し早く着いたんだわ」  と、美貴が戻《もど》って来た。「もう出て来るところですって」 「出口はここだけなんでしょ? じゃ、ここで待ってれば、必ず——」 「ええ。そうなの。でも——」  美貴が震えているのに気付いて、奈々子はびっくりした。気分が悪いというのとは少し違うようだ。極度に緊張しているらしい。  一体誰を迎えに来たんだろう?  出口からは、切れ目なく人が流れ出して来る。同じバッジを胸につけたツアーの団体、先頭の添《てん》乗《じよう》員《いん》は旗を手に、もうくたびれ切った表情で、最後の力をふり絞って、 「みなさん、こちらへ!」  と、叫んでいる。  ああいう商売も楽じゃないわね、と奈々子は思った。タダで旅行ができる、なんて羨《うらやま》しがっていたこともあるが、とんでもない話らしい。 「——来ました?」  と、奈々子が訊《き》くと、美貴は黙って首を振った。  まるで憎い敵が出て来るのを待っているように、固くこわばった表情である。  ツアーのグループにまじって、あまり荷物の多くない、ビジネスマン風の男性が目に入った。スーツにネクタイで飛行機から下りて来る姿が、さまになる、ちょっとインテリタイプの男性である。  その男性が、奈々子に目を止めた。と、思ったのはもちろん奈々子の間違いで、当然、向うは美貴を見ていたのである。 「あの人? 気が付いたみたいですよ」  と、美貴の方を向いて言ったが、美貴は全く聞いていない。  ただひたすらその男の方を見ているだけだった。その男がやっと人の流れから抜け出して、美貴たちの方へと歩いて来る。手にしているのは、小さなハードタイプのボストンバッグ一つ。いかにも旅慣れた印象である。  その男が、足を早めて、美貴たちまで数メートルの所まで来た時だった。  突然、美貴が男に背を向けて、駆け出したのだ。奈々子もびっくりしたが、その男の方も愕《がく》然《ぜん》とした。 「美貴さん!」  奈々子は、自分でもよく分らない内に美貴を追って走り出していた。  ただでさえ混み合ったロビーである。そこを走るというのは、容易なことではない。  奈々子は、何だか知らないが、ともかく美貴の後を追っかけた。  途中、二、三人は突き当ったり引っかけたりしたかもしれないが、ともかくいちいち振り返っている余裕はなかったのだ……。 2 奈々子、溺《おぼ》れる 「——どうですか、美貴さん」  と、奈々子は訊いた。 「うん。眠ってる。大分脈も落ちついたようだ」 「じゃ、良かった」  奈々子は時計を見て、びっくりした。もう七時近くになっている。  ここは成田の空港に近いホテルである。  ベッドでは、鎮静剤を射たれた三枝美貴が服を着たままの格《かつ》好《こう》で眠っていた。 「悪かったねえ、君。何の関係もないのに」  と、その男は、椅《い》子《す》にかけて、「僕は野田というんだ。美貴さんの亭主の古い友だちでね」 「浅田奈々子です」 「いや、助かったよ。君が抱き止めてくれなかったら、今ごろ美貴さんはバスにひかれてただろう」 「いいえ、運が良かっただけです」 「膝《ひざ》、すりむいてたね。大丈夫かい?」 「ええ、こんなもん。私、大体ドジですから、日に二、三度は手を切ったり転んだりしてるんです」 「お礼に——ってわけでもないけど、何か食事でも取ろうか。彼女にもサンドイッチでも取っておくから。何しろ飛行機の中じゃ眠りこけてたもんでね」 「でも、私、もう帰らないと」 「遅くなると、ご両親が心配するかな」 「私、一人住いですから。でも、私がいても何だか……」 「構わないよ。それに帰りも送らせてもらわなきゃ。美貴さんもきっと気にするから」 「そうですか。——それじゃ」  正直なところ、さっきからお腹がグーグー鳴っているのを、野田に気付かれないかとヒヤヒヤしていたのだ。  野田が電話でルームサービスの注文をした。奈々子はカレーライスを頼んで、つい、いつものくせで、 「ライス大盛り」  と、言いそうになったのだった……。 「——きれいな人ですねえ」  と、奈々子は言った。 「美貴さんかい? うん。大学でも、評判だった。家は名門だし、誰が彼女を射止めるかってね。——結局、僕の友人で、三枝という男が、彼女と結婚したんだ」 「でも——どうして空港で、あんなことを……」  野田は、ちょっと眉《まゆ》をくもらせた。奈々子はあわてて、言った。 「いえ、いいんです、別に。ただ——ちょっと気になったんで」 「僕が深刻な顔をしてたせいかな」 「え?」  そりゃまあ、この野田という男、なかなか悪くない顔ではあるが、しかしそれだけのことで……。 「いや、美貴さんにとっては、僕の帰りが、待ち遠しくもあり、怖くもあったんだ」  野田は、ベッドの上の美貴へ目をやった。「自分の夫が生きているのかどうか、分るかもしれなかったんだからね」  奈々子も美貴の方へ目をやった。  ベッドの上に横たわって、眠りに落ちている美貴は、まるで子供のように見える、と奈々子は思った……。 「生きてるかどうか、って……。どういうことなんですか」  と、奈々子は訊いた。 「三枝成《しげ》正《まさ》というのが、彼の名なんだけどね」  と、野田は言った。「ハネムーンでドイツへ行った時、三枝は行方不明になってしまったんだよ」 「行方不明……。事故か何かで?」 「分らない。ただ、突然姿を消してしまったんだ。——もちろん彼女は必死で夫を捜した。しかし、結局は諦《あきら》めて、帰国せざるを得なかったんだ」 「へえ」  同情よりも何よりも、そんなことが本当にあるのか、という驚きの方が先に立ってしまう。 「三枝の実家でも、もちろん大騒ぎで、あらゆる手を打って、現地の警察に捜査も依頼した。しかし、遠い国のことだからね。はかばかしい進展はなかった」 「でも、一体どうしちゃったんでしょう」 「さあ……。で、美貴さんに頼まれて、僕が向うへ出向いて来たわけなんだ」 「何か分ったんですか」 「いや、だめだね」  と、野田は首を振った。「向うの警察も、もちろん気にはしてくれている。だけど、日本からの観光客が一人、どこかへ行ってしまった、というくらいじゃ、大捜査網をしいちゃくれないんだ」  それはそうかもね、と奈々子は肯《うなず》いた。 「でも——可《か》哀《わい》そうですね、美貴さん」 「うん。何かつかむまでは、と思ったんだけどね。いくら頑張っても、見当がつかない。——僕が、いい知らせを持って帰らなかったと分ったんで、そのショックで逃げ出してしまったんだろうな」  奈々子は、やっぱりハネムーンは国内にしよう、などと呑《のん》気《き》に考えていた。  ルームサービスが来て、奈々子は美貴の身の上(?)に大いに同情しつつも、カレーライスをアッという間に平らげたのだった……。   「——ただいま」  奈々子は、アパートのドアを開けて言った。  待てよ、奈々子は一人住いじゃなかったのか、と首をかしげる方もあるだろうが、奈々子の同居人は口をきかない。  実物大のコアラのぬいぐるみである。あの〈南十字星〉のマスターのプレゼントなのだ。  明りを点《つ》けて、アーアと大欠伸。  もう夜も遅くなっていた。  三枝美貴も、眠りから覚めると、すっかり落ちついていて、奈々子や野田と一緒に、サンドイッチを食べ、野田の話に耳を傾けていた。  そして、待たせてあった車で、このアパートまで奈々子を送ってくれたのである。  やれやれ。まあ、あの美貴って人も気の毒だけど、でも、こんな六畳一間のアパート暮しのわびしさは分んないでしょうね。  夫がハネムーンの途中で蒸発なんて、そりゃ悲劇には違いないけど。  着替えるのも面倒で、ぼんやりと畳の上に座っていたら、電話が鳴り出した。  独り暮しだから、電話は必要だが、いたずらに悩まされることにもなる。用心しつつ、受話器を上げると、 「奈々ちゃんかい?」 「マスター。今、帰って来たんです」 「いや、気になったんで、何度か電話していたんだ。そりゃ大変だったね」 「いいえ」  奈々子は、受話器を持ったまま畳の上に引っくり返って、今日の出来事を話して聞かせた。もちろん、何から何までってわけにはいかないが、ともかく珍しい話題には違いない(美貴には申し訳ないが)。 「——ふーん。何かありそうだな、とは思ったけどね」 「ねえ。私、ハネムーンの時は、亭主をロープで縛ってよう」 「まず相手を見付けろよ」  と、マスターは笑って言った。 「それは言えてますね」  と、奈々子も笑った。「でも、マスターはどう思います?」 「その行方不明の旦那かい? ま、さらわれたか、襲われたかだね、一つの可能性としては」 「強盗とかですか」 「うん。でなきゃ、自分で姿をくらましたかだ」 「自分で、って……。どうしてそんなことを——」 「たとえば、向うで方々見て回るだろ? その先々で、当然、他のツアーの観光客とも出会う。その中に誰かたまたま前に知っていた女がいて、二人で逃げる、とか」 「へえ! マスターって想像力豊か!」 「からかうなよ。しかし、そんな可能性だってあるじゃないか」 「そりゃそうですね。あの人に教えてやったらいいわ」 「ま、これは無責任な推理に過ぎないからね」 「でも、あの美貴って人、何となく助けてあげたくなるタイプなんですよね。——ご主人を信じてるから、そんなこと言われても、きっと『まさか』って言うでしょうね」 「ただの事故かもしれないしね。いつかも、中年の婦人が、列車から落ちて、何か月もして見付かったことがある」 「へえ。人間、どこで災難に遭うか分りませんね」 「ともかく、ご苦労さん。明日はいつも通り出られるかい?」 「もちろん出ます」  と、奈々子は言った。「じゃ、おやすみなさい、マスター」 「おやすみ」  マスターと話をしたら、少し目が覚めた。  奈々子は、お風呂に入ることにして、浴《よく》槽《そう》にお湯を入れながら、服を脱いだ。  コアラのぬいぐるみが、奈々子を見ている。 「こら! 失礼だぞ、あっち向け」  と、奈々子は言ってやった。  ——南十字星を二人で見たい。  美貴の言葉を、奈々子は思い出していた。  そうね。私だって……。  奈々子は、コアラの頭をポンと叩《たた》くと、 「君の本物にも会いたいね」  と、言ってやった。  もちろん、二人でもいいが、一人だって構やしない。  オーストラリアだのニュージーランドだの、ハネムーンとなりゃ、結構費用も馬鹿にならないから、まず望み薄だろう。  今のお給料じゃ、そんなに貯金するまで待ってたら、いくつになっちゃうか。  ふと、野田のことを思い浮かべた。  なかなか素敵な人だったなあ。もちろん、恋人がいないわけはないけど。でも、きっとあの人は、美貴さんに惚《ほ》れてるんだ。  もし、三枝という人が結局見付からずに終ったら、美貴さんは野田って人と……。 「私には関係ないか!」  奈々子は、一つ深呼吸をして、「お風呂だ!」  と、裸になって浴室へ駆け込んだ。  小さなお風呂場である。足が滑《すべ》った奈々子は、みごとに頭から浴槽へと突っ込んだのだった……。 3 奈々子、踊る 「ウォー」  ライオンが咆《ほ》えたわけではない。浅田奈々子が欠伸《 あ く び》をしたところだった。 「今日は暇ですね、マスター」  と、奈々子は、カウンターにもたれて、空っぽの店の中を見渡した。 「こんな日もあるさ」  マスターは、のんびりと新聞など広げている。  本当に不思議なもので、特別に休日とかいうわけでもないのに、混雑する日というのがあると思うと、表は結構人が歩いているのに、店はガラガラってこともあるのだ。  ま、これだから面白いので、これが毎日、必ず八割の入り、とかいうのだったら、却《かえ》って妙なものだろう。  そして、暇な日というのは本当に全然客が入らないもので、それはもう何時になっても同じことなのである。 「今日は開店休業日だね」  と、マスターは、新聞をたたむと、「ねえ奈々ちゃん」 「何ですか」 「こんな日は、まず客が来ないよ」 「そうですね」  もう閉めようか、と言うのかと思って、奈々子は「儲《もう》かった」と思った。だが——。 「今、新聞見てたらね、前から行こうと思ってた展覧会が、今日でおしまい、って出てたんだ。行って来たいんだけど、君、留守番しててくれるかい?」 「あ、そう——です、か」  奈々子は、がっかりしたのを声に出さないように努力しつつ、「どうぞ。別に私、予定もないし」 「悪いね。閉店までに戻るから」 「どうぞ。私だって、コーヒーや紅茶ぐらい出せますもん」  それ以外はだめなんである。 「もしお客が来たら、作る人が休んじゃってとか、適当にやっといてよ」 「はあい」  いつも親切にしてくれるマスターのためだ。ま、たまにはいいか。 「じゃ、よろしく」  マスターは、エプロンを外し、ベレー帽などヒョイと頭にのっけて、もう画伯の気分で、ちょっと手を上げて出て行く。 「ありがとうございました!」  奈々子は元気よく呼びかけて、マスターをずっこけさせたのだった……。  ——アーア。  また、欠伸が出る。  何もカウンターの外に立ってる必要ないんだ。私が「マスター代理」なんだから。  カウンターの中に入っても、別に目が覚めるわけじゃない。小さなスツールに腰かけて、またまた眠くなる。  キーン、と飛行機の音が、かすかにガラス越しに聞こえて来た。  飛行機。——外国。 「そうだ」  あの、三枝美貴って人、どうしたんだろう?  美貴を成田まで送って行って、野田という男に会って……。あれから、もう半月ぐらいたつ。 「いい男だったわね、なかなか……」  と、独《ひと》り言《ごと》。  でも、ろくに顔なんか、憶《おぼ》えちゃいないのである。ただ、もやっとした輪《りん》郭《かく》ぐらいのもんだ。  無事に旦那は見付かったんだろうか? それとも、セーヌ河辺《あた》りに死体が浮んだんだろうか。  ドイツ旅行じゃ、セーヌ河は流れてないかしら?  勝手なことを考えていると、電話が鳴り出して、ウトウトしていた奈々子は、 「ワッ!」  と、仰天して、目を覚ました。「何よ、もう!」  電話に文句言っても仕方ない。奈々子は受話器を取った。 「はい、〈南十字星〉です」 「もしもし。あの——そちらで働いている女の方……」 「私ですか?」 「お名前、何とおっしゃいましたっけ」  おっしゃる、ってほどの名じゃないですけどね。 「浅田奈々子ですけど……」 「あ、そうだわ。奈々子さんでしたね」  え? その声は、もしや——。 「三枝美貴さん?」  と、奈々子は訊《き》いた。 「そうです。まあ、憶えてて下さったの」  美貴の声が、嬉《うれ》しそうに弾《はず》んだ。 「もちろんです。——あの、その後は?」 「ええ。主人のことは相変らずです」  見付かってないのか。ま、でも死体も上っちゃいないということだ。 「早く何か分るといいですね」 「あの、奈々子さん」  と、美貴は早口に言った。「厚かましくて、気がひけるんですけど、お願いがあるんですの」 「何でしょう?」  また成田行き? ごめんよ、そんな遠い所まで。 「そちらのお店に、もうすぐ、男の人が行くと思うんです」 「男の人……」 「ええ。週刊誌を丸めて持っているはずですわ」 「目印ですね」 「その人が行ったら、私がそこへ行くまで、引き止めておいてほしいんです」 「え?」 「私も急いでそちらへ行きます。でも三十分はかかりそうなんです」 「はあ」  奈々子は肯《うなず》いて、「じゃ、美貴さんがおいでになるまで、その男の人を引き止めとけばいいんですね?」 「そうです。でも、私のことはその人に言わないで下さい」 「はあ……」 「できるだけ早く行くようにします。——あ、車が来たわ。じゃ、お願いします」 「ええ、あの——」  電話は切れてしまった。「何でしょね」  やっぱり、お金持のお嬢さんだけのことはあるわ、と思った。自分の用だけ言って、パッと切っちゃうあたりが……。  あと三十分ね。——ま、それぐらいなら、たとえ今すぐ来たとしても、こんな店の客は、たいてい二十分や三十分、居座ってるもんだからね。  と、思っていると、店の戸が開いた。 「いらっしゃい——」  ませが抜けてしまって、魚屋さんかお寿司屋さんみたいに威勢よくなってしまった。  背広姿の、四十代の男。週刊誌を丸めて持っている。 「もう来たのか」  と、奈々子は呟《つぶや》いた。  男は、店の中をザッと見渡すと、窓際の席について、 「コーヒー」  と、言った。 「はい、ただいま」  もうちっと、手間のかかるもん頼みゃいいのにね、と奈々子は思った。頼まれても、奈々子には作れないのだが。  水のコップを運んで行くと、もう一度カウンターまで行って、今度はメニューを持って行った。 「コーヒーって頼んだろ」 「ええ。でもお気が変ることもあるかと思って」 「いいよ。コーヒーで」 「そうですか。ケチ」 「ん?」 「いえ、別に」  奈々子はカウンターに戻《もど》った。  コーヒーか。ま、お湯はいつも沸《わ》いてるし、フィルターの用意も粉もあるし……。  二、三分でできるんだけど。それじゃ三十分は、もたないかもしれない。  豆から挽《ひ》いてやろ。——奈々子は、缶《かん》から新しい豆を取り出した……。   「——コーヒー、まだ?」  と、男がうんざりしたような声を出す。 「今、お湯を沸かしてます」  奈々子は平然と言った。「コーヒーは心です。この店は、真心のこもったコーヒーを——」 「分ったから、早くしてくれ」  男が苛《いら》立《だ》つのも無理はない。  もう二十分もたっているのだ。  早く来ないかな、美貴さん。——これ以上は引きのばせない。  コーヒーをドリップで落とすと、男のテーブルに運んで行く。 「お待たせいたしました」 「本当だよ」  男は渋い顔で、「いつもこんなにのんびりしてんのか、この店は?」 「ゆとりを持って、働いてる、と言って下さい。都会の中のオアシス。せかせかした現代人の心のふるさと——」 「分った、分った」  男は、ミルクをドッと入れ、砂糖をドカドカ入れて、飲み始めた。  あと七分だ。——ま、何とかもつだろう。  奈々子が安心してカウンターの奥へ戻《もど》ると、 「お金、ここに置くよ」  と、言って、男が立ち上ったので、奈々子は焦《あせ》った。 「もう? もう飲んじゃったんですか?」 「ああ。まあ、なかなかの味だったよ」  と、男が出口の方へ歩き出そうとする。 「お客さん!」  奈々子は、客の前に立ちはだかった。 「何だい?」 「あの——もう一杯いかがです?」 「いや、もういいよ」 「そんなこと言わないで! ね、もう一杯飲んだら、タダ!」 「タダ! 前のも?」 「そう! 飲まない手はありませんよ」 「へえ。変ったサービスだね」 「ね、いいでしょ?」 「じゃあ……もらうよ」  と、男は席に戻った。  二杯目をいれて運ぶと、三十分が過ぎていた。  しかし——美貴が一向に現れないのである。 「——やあ、旨《うま》かった。本当にタダでいいの?」  今さら、だめとは言えない。  だけど——何て早いの、この人、コーヒー飲むのが! 「じゃ——」  と、男が立ち上ろうとするのを、 「待って!」  と、奈々子は飛んで行った。「お客さん、カラオケ、好き?」 「カラオケ?」 「そう。好きそうな顔してる! マイク握ったら離さないんでしょ」 「まあね」  と、男は笑った。 「上手なんでしょ。いい声してるもん」 「女の子によくそう言われるよ」 「聞いてみたいわ! 何か一曲!」 「いや——だって、こんな昼間に?」 「いいじゃない! 時と場所を選ばないのが、本当の名人!」 「だけど——ここ、カラオケなんて、あるの?」  そうだった。この店にカラオケのあるわけがない。 「あのね——私、私がやります」 「カラオケを!」 「ええ、タータカタッタ、ズンパンパン、とか」 「面白い子だね、君」  と、男は笑い出した。「でも、用事があるんでね、悪いけどこれで……」  まだ美貴は来ない。——奈々子はぐっと凄《すご》んで、 「ちょっと!」  と、男をにらみつけた。 「な、何だよ?」  男が思わずのけぞる。 「コーヒー二杯飲んで、逃げる気?」 「しかし——君がタダだ、と——」 「代りに条件があるのよ。分った? おとなしく座ってないと、一一〇番するからね!」 「わ、分った……」  男は目を白黒させて、椅《い》子《す》へドカッと腰をおろした。 「私の歌を聞いてからでないと、帰さないわよ!」  と、言ってから——だめだ、と思った。  何しろ奈々子、えらい音痴である。歌の方は全然だめなのだ。——どうしよう? 「聞くよ、聞くよ」  男は、情ない顔で、「早く歌ってくれ」 「うるさいわね!」  と、奈々子は怒《ど》鳴《な》りつけた。「今、何を歌うか、考えてんじゃないの! おとなしく待ってなさい!」 「す、すみません……」  男は、椅子に座り直した。  結局——美貴が店へ駆け込んで来たのは、さらに二十分後。  美貴は、たった一人の男の客の前で、盆踊りを踊っている奈々子を見て、唖《あ》然《ぜん》としたのだった……。 4 友人か犯人か 「馬鹿にしてるわ、本当に!」  と、奈々子は憤《ふん》然《ぜん》として言った。 「ごめんなさい。何とお詫《わ》びしたらいいのか……」  美貴は、すっかりしょげている。  奈々子が怒るのも当り前で、結局、あの男は、美貴が「引き止めてくれ」と言ったのとは別人だったのである。  そりゃ、週刊誌を丸めて持ってる男ぐらい、どこにだっているだろう。 「私、コーヒー二杯も飲ませてやって、そのあげくに、あの男の前で、盆踊りまで踊っちゃったんですよ!」 「ええ……。本当にごめんなさいね」  と、美貴は言ってから、おずおずと、「でも——とても上手だったわ、あの踊り」  と、付け加えた。  奈々子は、ふくれっつらで美貴をにらんでいたのだが——その内、自分が踊ってるところを想像して、プッと吹き出してしまった。  そして大声で笑い転げた。——美貴はびっくりして眺めていたが、その内、自分も一緒に笑い出したのだ……。 「奈々子さんていい人ね」  と、美貴は言った。 「おめでたいんですよ」  奈々子は、美貴と二人で、紅茶をいれて、飲んでいた。 「でも、美貴さん。その男の人って、誰だったんですか? 結局来なかったわけですもんね」 「そうね。どうしたのかしら」  と、美貴は眉《まゆ》をくもらせた。「実は、その人、探偵なの」 「探偵?」 「ええ。ある人のことを調べてもらって、今日、その結果をここへ持って来てくれることになっていたのよ」 「へえ。じゃ、この店が分らないのかしらね。でも、探偵が、場所を捜せないようじゃ、困りますね」 「何かあったんじゃないといいけど……。ちょっと電話をお借りしていい?」 「どうぞ」  奈々子も、全く、我ながら人がいい、と思ってしまう。  また、美貴という女性が、年は上でも、つい面倒をみてやりたくなるタイプなのも、確かだった。 「——もしもし。K探偵社? あの——山上さん、お願いします。調査を依頼した者ですけど」  と、美貴は言ってから、「——え?——それじゃ——」  と、青ざめる。  奈々子はびっくりした。何事があったんだろう? 「——分りました。じゃ、明日でも、またご連絡します」  美貴は電話を切った。 「どうかしたんですか?」  と、奈々子が訊く。 「山上っていう人なの。ここへ来ることになってて……。途中で、車にはねられて死んだんですって」 「あら。気の毒に」 「きっと、そうだわ」  と、美貴は椅《い》子《す》に戻って、肯《うなず》きながら、言った。 「何がです?」 「山上って人、きっと、殺されたんだわ」 「こ、殺された?」  奈々子は唖《あ》然《ぜん》とした。 「ええ……。きっとそうよ。そんな時に、たまたま車にはねられるなんて! そんなはずないわ」 「でも——」  と、言いかけた時、店の戸が開いた。  もうマスターの戻る時間だったので、マスターかと思って見た奈々子は、 「あれ?」  と、言った。「確か……」 「やあ、その節は」  と、野田が、入って来て言った。  そして、美貴に気付くと、目を丸くしながら、 「美貴さんじゃないか」 「野田さん……」  美貴は、少しこわばった顔で、それでも何とか笑って見せた。「どうして、ここへ?」 「うん。いや、たまたまこの前をね、通りかかったんだ。そしたら、〈南十字星〉って店の名が目に入って。で、彼女が確か、この店で働いてたんだなあ、と思って、寄ってみたんだよ」 「どうぞ、コーヒーでも」  と、奈々子は、早速サービスすることにした。 「じゃ、一杯もらおうかな。——美貴さん、まだ少し顔色が良くないね」 「そう? もう大丈夫よ」  と、美貴は言った。 「その後、ドイツの方から、連絡は?」 「ないわ」 「そうか。——すまないね。僕の方も、つい忙しくて」 「仕方ないわよ」  と、美貴は言った。「もう、あの人、帰って来ないかもしれないわ」 「そんなことないさ。大丈夫だよ。——や、どうも」  奈々子がコーヒーを出す。  美貴が、バッグを置こうとして、ミルク入れを倒してしまった。 「あ! ごめんなさい」 「いや、大丈夫」  と、野田が立ち上った。 「手が汚れちゃったわね」 「平気だよ。トイレはどこだっけ?」 「この外です。右へ曲ったところ」 「じゃ、ちょっと洗って来よう」  野田が、店を出て行くと、 「奈々子さん!」  美貴が、いきなり奈々子の腕をつかんで、「助けて!」 「え?」 「きっとあの人、私がここにいると知ってたんだわ」 「野田さんですか?」 「ええ。探偵と待ち合せてると知って、やって来たのよ」 「どうしてです?」 「あの人よ、探偵を殺したのは」  奈々子は唖然とした。 「でも——ご主人のお友だちでしょ?」 「ええ」  美貴は、ため息をついて、「でも、表向きだけの友だちなんて、いくらもいるわ」 「そりゃそうですけど……」 「主人のことも、きっとあの人よ」 「ご主人のことって?」 「野田さんが主人を殺したんだわ」  今度は、奈々子、言葉もない。 「——奈々子さん、私をあの人と二人にしないでね」  と、すがりつかれても困るのである。  野田が、手を洗って戻《もど》って来る。美貴は、何くわぬ顔に戻った。 「美貴さん」  と、野田は椅子にかけて、「こうしてせっかく会ったんだ。夕食でも一緒に食べませんか」 「え……でも——」 「そう遅くならない内に送るから」  美貴が、チラッと奈々子を見て、 「今夜、奈々子さんがおいしい所へ案内してくれることになってるの。先の約束だから」  私、何も言わないのに……。奈々子は、ふくれっつらになったが、美貴の方はお構いなしで、 「悪いけど、また今度ね」 「そうか。——じゃ、いっそのこと、三人で一緒にどう?」  と、野田が言った。「ねえ、奈々子君。僕がおごるからさ!」 「そ、そうですね」  どっちかというと、奈々子は野田と二人の方がいいのだが……。ま、そういうわけにもいかない。 「でも、今、マスターが留守で、私、ここから出られないから」  と、奈々子は言った。  もう知らん、という気分である。お二人でうまくやって下さい。  と、そこに——。 「ただいま」  と、マスターが帰って来る。 「あら、もう?」  と、奈々子はつい言ってしまった。 「何だい?」  マスターはキョトンとした顔で、奈々子を見た。  仕方ない。奈々子は、美貴たちをマスターに紹介した。 「お話はうかがいましたよ」  と、マスターが微《ほほ》笑《え》んで、「じゃ、夕食を一緒に? いいじゃないか。奈々ちゃん、行っといでよ」  奈々子ににらまれて、マスターは面食らったのだった……。 5 どっちもどっち 「野田さんは、学生時代から、主人とライバル同士だったの」  と、美貴は言った。 「はあ」  奈々子は、それだけ言った。 「私を奪《うば》い合うと、他のみんなの前で宣言して、二人して花束だのプレゼントだの、競《きそ》っておくりつけて来て……」 「はあ」 「でも、そんなことで私、三枝を選んだわけじゃないのよ。この人となら一生、やって行ける、って感じたから。——分るでしょ?」 「ええ、まあ……」 「もちろん、野田さんも、表面は男らしく、主人と握手して、『僕の負けだ』って笑ってたけど……。でも、あの人、心の中ではずっと私や主人を憎み続けてたんだと思うわ」 「でも……」 「おかしいと思うでしょうね。ついこの間まで、野田さんを頼りにして、主人のことをドイツまで捜しに行ってもらったりしたのに、どうして急に、って」 「はあ」 「私、ついこの間、知ったの」  何を? 肝心のそこのところを聞く前に、野田が戻《もど》って来た。  ——何といっても、のんびり打明け話を聞いているムードじゃなかったのである。  野田と美貴と奈々子、三人で出かけて来たのは、若い女の子がワイワイやっているフランス料理の店で、そう堅苦しくはない代りに、店の中のやかましいこと!  それでも、野田や美貴は、ここの「顔」らしく——奈々子が「顔」なのは、アパートの近くの「ほか弁」ぐらいだ——奥の方の、比較的静かなテーブルを用意してくれたのだったが。  奈々子はフランス料理といえば、ムニエルとオムレツぐらいしか知らないが、それでも、確かに、お昼に〈南十字星〉の近くで食べる〈Aランチ〉よりおいしいことは、認めざるを得なかった。  これがタダで食べられるのだから、美貴の話を聞いてやるぐらいのこと、我慢しなきゃいけないのだろうが……。  しかし、美貴も、あんなに野田のことを頼りにしていたのに、何でこうコロッと変っちゃったんだろう? 「もう一本、ワイン、どう?」  と、野田が言った。 「私、もう沢山」  と、美貴はあまり強くないらしく、頬《ほお》を赤くしている。「奈々子さん、いかが?」 「いえ——まあ——ありゃいただきますけど……」 「よし。じゃ、今度は赤を一本もらおう!」  奈々子は、特別アルコールに強いわけじゃないが、確かに、ここのワイン、アパートで友だちなんかが遊びに来た時に飲む一本千円とかのワインに比べて、格段においしいことは、よく分った……。 「ちょっと酔っちゃったみたい」  と、美貴は立ち上って、「私、顔を洗って来るわ」  野田と二人になる。  どっちかといえば、美貴と二人でいるよりも、野田と二人でいる方が、奈々子としては楽しいのだが、そこはやはり、美貴の話を聞いてしまった後なので、「まさか」とは思っても、いささか笑顔もぎこちなくなるのは当然であろう。 「——さ、飲もうよ」  と、赤のワインを注がれる。 「あ、どうも。——いえ、そんなにいただけませんから」  とか言いながら、すぐグラスを空にしてしまう。 「——おいしい」 「ね、奈々子君」  と、野田は言った。「美貴さんがいないから言うんだけどね」 「は?」 「君はとてもしっかりしていて、いい人だ」 「どうも」 「本当だよ。君のことは信用していいと思ってるんだ」 「はあ」  何が言いたいんだろ?  愛の告白っていうのとは少し違うみたいだけど……。 「君に頼みがある。美貴さんのことなんだがね。彼女、少しおかしくなってるんだ」 「おかしいって?」 「うん。——どうもね、少しノイローゼの気味がある」 「ノイローゼですか」 「まあ、見た通り、もともと神経の細い女《ひと》だしね。あっちでご主人が消えちまったらきっと、誰だって少しはおかしくなる。そうだろう?」 「そうですね」 「ところがね」  と、野田は少し声をひそめて、身を乗り出した。 「調べてたら、意外な事実が出て来たんだよ」  やかましい所で声をひそめられたんでは、ますます聞こえなくなる。  仕方なく、奈々子も野田の方へ顔を近づけた。全くもう、何でこうみんな、「内緒の話はあのねのね」なんだろ! 「何が出て来たんですか?」 「うん、それがね——」  二人の顔の間隔はほぼ十センチ。——と、出しぬけに、野田がぐっと身をさらに乗り出したと思うと、サッと奈々子にキスしたのだった。  奈々子、唖《あ》然《ぜん》として……。 「あ、いや、ごめん」  と、野田があわてて言った。「つい、その——何だかフーッとひき込まれて……」 「何するんですか、こんな所で!」  奈々子、カッと真赤になって怒ったが、今さら取り消しってわけにもいかず……。それに、「こんな所で」なんて怒ってる、ってことは、「他の所でして下さい」と言ってるのだ、とも取れる。 「いや……本当に悪かった」  野田も咳《せき》払《ばら》いして、「ワインを飲み過ぎたかな」 「それよりお話の続きは?」 「うん……。何だっけ?」 「あのね——」 「あ、そうそう。いや、もちろん、これは確実に証拠があって言うわけじゃないんだけどね。どうも……三枝は向うで美貴さんに殺されたんじゃないかと思うんだ」 「ええ?」  奈々子が仰天するのも無理はない。  美貴は野田が犯人だと言うし、野田は美貴が殺した、と……。どうなってんの、一体?  と、そこへ、 「——見ちゃったわよ」  と、女の声。「隅《すみ》に置けない奴《やつ》!」  見ると、格《かつ》好《こう》は一人前に赤のワンピースなんか着てるけど、顔はあどけなく、どう見ても十六、七という少女。 「ルミ子君!——来てたのか」 「今、この人に何をしたか、ちゃんと見てたからね」  と、その少女、ニヤニヤして、「パパに言っちゃおうっと」 「おいおい」  野田は苦笑して、「僕は独身だからね、言っとくが」 「お姉さんが一人、傷心の日々を送っているのに、冷たいんだ」 「一緒だよ、彼女も」 「へえ! 気が付かなかった」  そこへ、美貴が戻《もど》って来て、少女に気付くと、目を見開いて、 「ルミ子。あなた、どうして——」 「パパと一緒よ。ほら、そこの席」  指さす方へ、奈々子は目をやった。五十歳ぐらいか、がっしりした体格の、忙しいのが大好きという感じのビジネスマンタイプの男性が座っていた。 「あら、いつ来たの?」 「たった今、そしたら、野田さんが——」 「良かったら、一緒にどうだい?」  野田があわてて言った。 「もうそちらは終りでしょ? こっちはメニューもこれからだもん」  と、ルミ子は言った。「でも、お姉さん、パパに声ぐらいかけて来たら」 「そうね」  美貴が、その男性の方へと、ルミ子と一緒に歩いて行く。 「——やあ、何だ、美貴じゃないか!」  と、体にふさわしい大きな声を出して、その男が、美貴の肩をつかんだ。 「——あの人は?」  と、奈々子は野田へ訊いた。 「美貴さんの父親だよ。志村武治といってね。ルミ子は美貴さんの妹だ」 「志村っていうのが、美貴さんの旧姓……」 「そうだよ」  奈々子は、美貴が、その志村という男、それにルミ子という少女と話しているのを眺めていたが、何だか……。 「——首をかしげているね」  と、野田が言った。 「え? あ、いえ——何となく、実の姉妹とか親子っていうより、義理の、って感じがして」 「さすがだ」  と、野田は言った。 「え?」 「美貴さんは父親が違うんだ。小さいころに父親が亡《な》くなって、母親の再婚相手が、あの志村。ルミ子は志村との子だから、美貴さんとは十歳近くも年《と》齢《し》が離れてるんだよ」 「なるほどね」  奈々子も納《なつ》得《とく》した。「で、美貴さんのお母さんは?」 「亡くなって四、五年たつかな。それからあの志村は娘のルミ子と二人で暮してるんだ」 「へえ……」  何だか、割とややこしいんだ、と奈々子は思った。 「まあ、そんなこともあって、美貴さんも、寂しかったんだろうな。本当に心を打ちあけて話をする相手がいなくなって……。ルミ子じゃ年《と》齢《し》が離れ過ぎて、とても話し相手にならないしね」 「ふーん」  と、奈々子は感心したように言って、「でも、どうして美貴さんが、ハネムーンの途中で旦那を殺さなきゃいけないの?」 「しっ! その話はまた」  美貴が戻って来たので、二人の話はそれきりになってしまった。  そして——その後は何となく当りさわりのない話題に終始して、この夜の「夕食会」は終ったのである。レストランを出ると、 「奈々子さんを送ってあげて」  と、美貴は言って、さっさとタクシーを停《と》め、一人で行ってしまった。  どうやら、野田と二人きりになりたくないようだ。 「奈々子君——」 「私、電車で帰ります」  と、奈々子は言った。「その方がよっぽど早いの」 「そうか。——まあ、それじゃ、無理には誘わないよ」 「誘うって、どこへ?」 「どこかで、一杯やろうかと思ったんだけどね」 「もう沢山!」  と、思わず奈々子は言って、「でも、とってもおいしかった。ごちそうさま」 「また、電話していいかい?」 「ご用があったら、お店の方に」 「君のアパートは?」 「だめです」 「分った」  と、野田は笑って、「じゃ、気を付けて帰ってくれ」 「さよなら」  と、奈々子は歩き出して、振り返ると、「野田さん」 「何だい?」 「野田さん、名前の方は何ていうんですか?」 「ああ。言わなかったかな。野田 悟《さとし》。『悟る』一文字だよ」 「ハハ、悟りにはほど遠いや」 「全くだ」  ちょっと手を振って、野田は歩いて行った。それを見送って、奈々子も歩き出してから、 「——あ、そうだ!」  と、呟《つぶや》いた。  あいつ、いきなりキスなんかして! そうだった。怒ってたんだわ、私。  思い出して怒りながら(?)、奈々子は、それでも満腹で少し酔って、機嫌よく、アパートへと戻って行ったのだった。 6 出て来た女 「いらっしゃいませ」  昼下り、多少眠気のさして来ていた奈々子は、客が入って来て、却《かえ》ってホッとした。  用もないのに頑張って起きているのは楽じゃないのである。  入って来たのは、セーラー服の女学生だった。鞄《かばん》をドサッと一方の椅《い》子《す》に置くと、 「コーヒー」  と、注文しながら椅子にかけた。 「はい」  奈々子は、水を持って行ったが、 「灰皿ないの?」  と、訊《き》かれて面食らった。 「あなた高校生でしょ」 「見りゃ分るでしょ」 「タバコなんか喫《す》っちゃだめよ」 「大きなお世話よ」  と、肩をすくめて、「ま、いいか。ここんとこ、本数減らしてるからね」  生意気なガキ! ムカッとして、カウンターの方へ戻《もど》って行くと、何を思ったか、マスターがカウンターの奥から灰皿を持って出て来た。 「マスター——」 「お客さんの注文には応じなきゃ」 「でも……」  マスターは、その少女の前に灰皿を置いて、 「どうぞ」 「ありがと。でも、いいの。ちょうどタバコ切らしちゃったから」 「じゃ、さし上げますよ、一本」  と、わざわざポケットから出して、「どうぞ」  と、言っているので、奈々子は面食らってしまった。 「サンキュー」  と、少女は一本取った。  マスターはライターを出して、カチッと火を点けた。少女は一服喫《す》って、むせ返った。 「——喫ったことないのに、無理しないことだよ」  と、マスターは笑って、少女の手からタバコを取って、灰皿に押し潰《つぶ》した。  少女は水をガブガブ飲んで、息をつくと、 「子供をからかって!」  と、マスターをにらんだが、マスターの方は相手にせずに、笑いながら、カウンターの奥へ戻って行った。  少女の方も、しばらくふくれっつらをしていたが、やがて普通の笑顔になると、 「面白い店ね」  と、言った。 「あれ?」  奈々子は、目をみはった。「あなた——確か、ルミ……ルミ子さんでしょ」 「あ、憶《おぼ》えてたか」  と、少女は楽しげに言った。 「その格《かつ》好《こう》だから、なかなか分んなかったわ」 「あなた野田さんとキスしてるのを見たから、ちょっと興味あってね」  マスターがびっくりしたように奈々子を見た。 「違うんです、マスター! そんな——キスなんてものじゃないの。ただ、こう……口と口が、間違ってぶつかっただけ」  奈々子の言いわけも、我ながらおかしかった。  野田に夕食をおごってもらって、一週間ほどたっていた。  ま、奈々子としても、心の片隅で、野田が店に電話して来ないかな、と期待しているところがあったのだが、一方では、美貴と野田の、「殺しっこ」に巻き込まれるのも迷惑だ、という気持もあった。  しかし、まさか、このルミ子という子がやって来るとは、思ってもいなかったのだ。 「——はい、コーヒー」  と、奈々子はコーヒーと伝票を置くと、「どうしてここが分ったの?」 「もち、野田さんから聞いたのよ」 「野田さんと、親しいの?」 「お姉さん目当てに、ずいぶんうちへ来てたから。一時は私の家庭教師だったこともあるのよ」  と、ルミ子は言った。 「へえ。あの野田さんが、ね」  イメージ、合わない! 「姉さんも、ここに来るんですってね」 「そう何度もみえてないわ。美貴さん、今、あなたたちと一緒に住んでないの?」 「結婚したもの」 「そりゃそうだけど、だって、ご主人は行方不明でしょ」 「一人で、マンションにいるわ。だって、ともかく、父と私から離れたくて、三枝さんと結婚したようなもんですもの。一人になっても、戻《もど》りたくないんでしょ」 「そう……」  何だか、結構複雑なようだ。 「野田さんの方が好きだったな、私。三枝さんは、そりゃ人は良かったわよ。優しくってね。でも、何だか煮え切らないところがあって、好きじゃなかった」  と、言ってから、ルミ子はコーヒーを少し飲んで、「ま、私の結婚相手じゃないからどうでもいいんだけどね」  他に客もなく、マスターも出て来て、 「みんなでコーヒーブレーク、といこうじゃないか」  と、カップを二つ、テーブルに置いて、コーヒーを注いだ。 「——何か話したいことがあって、ここへ来たんじゃないのかい?」  マスターが訊《き》くと、ルミ子は、 「そうなんです」  と、両手をきちんと揃《そろ》えて言った。  こうして見ると、なかなか可《か》愛《わい》い。——どうして、みんな私より可愛いの? 奈々子は少々不満であった。 「野田さんも心配してます。で、こちらの奈々子さんって人に相談したら、って言われたんで」 「何を?」 「三枝さんが行方をくらました事件です」 「でも——私、別に探偵でもないし」  という奈々子の抗議は無視され、 「話してごらん」  と、マスターが促《うなが》した。 「姉さんが、三枝さんと結婚してハネムーンに発《た》った晩でした。うちへ女の人がやって来たんです」 「女の人って、どんな?」 「たぶん……二十七、八かな。かなり思い詰めてる様子で、三枝さんを姉さんが奪《うば》った、と言って、怒っていました」 「じゃ、三枝さんの恋人?」 「それも、妊《にん》娠《しん》してるんだって……。その人が、そう言っただけなのかもしれませんけども」  奈々子は、マスターと思わず顔を見合わせた。 「だけど——どうして、その人、もっと早く言って来なかったのかしら」 「ええ、父がそれを言いました。その女の話では、三枝さん、何か月か海外に行くんで、連絡できない、と言っていた、ってことなんです」 「じゃ、その間に結婚しちゃったわけ」 「確かに、三枝さん、婚約してから、挙式をかなり急いでたんです。私、姉さんがつわりにでもなるとまずいんじゃない、なんて、からかってたんですけど」 「すると、その女の言うことも、かなり説得力があるね」  と、マスターは肯いた。 「式の当日、たまたまその女の人が、三枝さんと姉の式から帰る、大学時代の友だちにばったり会って……。二人で一緒の時に、会ったことがあったらしいんです、その人に。で、初めて結婚したことを知って——」 「そりゃひどいわ」  と、奈々子は思わず言った。 「その女の話だけだからね。総《すべ》て事実かどうか分らないが……」 「父は、ともかくもう娘と三枝は結婚したんだから、って突っぱねたんです。その女は、このままじゃ、絶対に済まさないから、って……。そして——」  ルミ子は、少しためらってから、「ハネムーンの行先を聞いて来たらしくて、ドイツまで追いかけてって、仕返ししてやるから、って、そう言って帰って行ったんです」 「ドイツまで?」  奈々子は唖《あ》然《ぜん》とした。「じゃ、もしかしたら、その女が本当に——」 「父は、いくら何でもそんなことまでしないさ、と言って、ともかく帰国したら、三枝さんとじっくり話して、もしあの女のことが事実なら、きちんとけりをつけさせる、と言ってました」 「それはそうだろうね」  と、マスターは言った。 「美貴さんは、その女のことを、知ってるの?」  と、奈々子は訊《き》いた。 「いいえ。だって——帰った時はもう、三枝さんがいなくなって、悲しみのどん底だし……。とても、そんなこと、言えた雰《ふん》囲《い》気《き》じゃなくて」 「そりゃそうね」 「その女のこと、調べさせるにしても、名前も何も分らなかったんです。父は、その内また何か言って来るかもしれない、って……。三枝さんが姿を消したのと、その女が関係あるって証拠もないわけですから」 「で、その女から、何か言って来たの?」 「いいえ、一向に。そしたら……」  ルミ子は、鞄《かばん》を開けると、中から新聞の切抜きを取り出した。「これ、見て下さい」  大きな記事ではなかった。〈ハンブルクの日本人死体の身《み》許《もと》分る〉とあって、女性の写真が出ている。 「その写真、はっきりしませんけど、でも見た瞬間に、あの女だ、と思ったんです」  と、ルミ子は言った。 「この女性が? だって——この人、死んでるんでしょ?」 「ええ、殺されたらしいんです」  と、ルミ子は言った。  奈々子は、改めて、その記事に見入ったのだった……。 7 尾行と出前  人殺しとか、ギャング同士の撃ち合いとか、そんなもの、奈々子としては——まあ、どっちかといえば嫌いな方じゃない。  しかし、それはあくまで映画とか小説の中での話。やはり現実の中では、殺し屋に脅《おど》されるよりは、恋人に愛の言葉を囁《ささや》かれた方がいい(もっとも、まだそんなことはなかったけど)。  ルミ子の話では、三枝成正の恋人だったという女が、殺されてハンブルクで見付かったということだが、もしその女の話が事実だとすると、わざわざドイツまで出かけて行ったのは、やはり三枝の後を追ってのことだったとしか思えない。  しかしそうなると……。その女を殺したのは、三枝——ということになりそうである。  ところが、当の三枝もまた、姿をくらましているのだ。どうもよく分らない話である。  しかし——何が分らないからって、そんなこと、奈々子とは何の関係もない。  そうよ、と奈々子は少々ふてくされつつ、考えた。私が何でそんな相談に、いちいち付き合わなきゃいけないの?  私は花もはじらう(ちょっと言い回しが古いか)二十歳の乙女なのよ。それがどうして——死体だの殺人だの、殺伐とした話ばっかり聞いてなきゃいけないの?  冗談じゃない! 私だって忙しいんだからね。デートの申し込みは順番なんかくじ引きで、毎日一人ずつ会っても、同じ男と年に二度は会えない……てなことは、もちろんないが、それにしたって——。  マスターも人がいいんだから。それとも、美貴の妹、ルミ子のセーラー服姿に参っちゃったのかもしれない。結構そんな趣味があったりして……。  私も今度セーラー服着て、お店に出てみようかしら。何だか怪しげなムードになっちゃいそうだけど。  ま、色々と考えている内、いつの間にやら、奈々子はウトウトしていて……。  ガクッと頭が垂れて、ハッと目を覚ます。気が付くと、バスはどこか見《み》憶《おぼ》えのある場所に停《とま》っている。  しまった! ここで降りるんだ。 「降ります!」  と、奈々子は大声を上げた。「待って! 降りますから!」  そうそう客が多いわけではなかったので、幸い、人をはねとばすこともなく(?)、奈々子は、バスから降りることができた。 「——ああ、びっくりした」  居眠りして乗り過すなんてこと、めったにない(たまにはある、ということである)。  降りた所で、アーアと大欠伸《 あ く び》をしていると、いきなり、後ろからドンと突き当られて、 「キャアッ!」  と、悲鳴を上げてしまった。  危うく前のめりに倒れてしまうところを、何とかこらえたのは、やはり奈々子の体の頑《がん》丈《じよう》さゆえかもしれない。 「危ないわね!」  と、奈々子は怒《ど》鳴《な》った。  突き当って来たのは、見たとこ二十五、六。「くたびれ度」からいうと三十過ぎという感じの男で、どうやら、奈々子同様、あわててバスから降りたらしい。パッと降りたら、まだ奈々子が目の前に立っていた、というわけである。 「そんな所に突っ立ってるからいけないんだろう」  と、男はふてくされて言った。 「私がどこに立ってようと勝手でしょ」  と、奈々子は言い返した。「自分が先に降りりゃ良かったんだわ」 「そんなこと言ったって、そっちがいきなり降りるから——」 「え?」 「あ、いや、何でもない」  と、男はあわてて言った。 「何よ。——あんた、私が降りたから、ここで降りたわけ?」 「そ、そんなわけないだろう!——じゃ、あばよ」  と、足早に行ってしまう。  奈々子は首をかしげて、 「変な奴《やつ》」  と、呟《つぶや》くと、アパートへと歩き出した。  が、少し行くと……。どうも足音がする。後を尾《つ》けて来ているような。  パッと振り向くと、さっきの男が、十メートルほど離れてついて来ていたが、振り向かれて足を止め、急にそっぽを向いて、あちこち見回したりしている。  尾行してるんだ。——それにしても、一目でそれと分る尾行というのも珍しい。  でも、何で私が尾行されるの?  奈々子は気になることを、いつまでも放っておけないたちである。その男の方へツカツカと歩いて行くと、男は、ギクリとした様子で、逃げ出しそうになった。 「ちょっと!」  奈々子はキッと相手をにらんで、「私の後を、何で尾《つ》けてるのよ!」 「俺《おれ》はただ歩いてるだけだ! 歩いちゃ悪いか!」 「痴《ち》漢《かん》? それとも引ったくり?」 「何だと!」  男はムカッとした様子で、「人のことを——」 「じゃ、何なのよ」 「俺は——」  と、言いかけて、ちょっとためらい、「ま、いいや。ばれちまったら仕方ない」  あれでばれないと思ってるんだろうか?  奈々子は呆《あき》れて、その男の出した身分証明書を見た。 「K探偵社の森田?——K探偵社って、どこかで聞いたことあるわね」 「そりゃ、うちは大手とは言えないが、業界でも一、二を争う歴史の長さを誇り、その良心的、かつていねいな情報収集、調査には定評のあるところで——」 「PRはやめてよ。——あ、そうか。最近、誰だかが死んだでしょ」 「山上さんだよ。僕の良き先輩だった。よく昼にはソバをおごってくれた。もちろん、ザルソバだけだったけど」 「そんなこと、どうでもいいの。その探偵社が、何で私のことをつけ回すの?」 「そりゃ、君の素行調査の依頼があったからさ」 「私の? 誰がそんなこと頼んだの?」 「それは依頼人の秘密だ」 「秘密が聞いて呆れるわね。そんな下手くそな尾行して。——ともかく、その依頼人に言ってちょうだい。用があるなら、自分で会いに来いって」 「そんなことできるか。俺の仕事は君の素行を調査することだからな」 「じゃ、ご勝手に」  と言うなり、奈々子はいきなりワーッと駆け出した。 「待て! おい、待て!」  森田というその男、あわてて奈々子を追って駆け出したが……。奈々子、足の方には自信がある。  アッという間に、森田の姿は遥《はる》か後方に消えてしまった。 「ざまみろ!」  と、奈々子は息を弾《はず》ませて、「でも——誰が私のことなんか……」  と、首をひねるのだった。  別にお見合の話も来てないし……。 「ま、いいや」  奈々子は肩をすくめて、アパートへと帰って行った。    ——その二日ほど後のことだった。  お昼を食べた奈々子が、〈南十字星〉に戻《もど》って来ると、 「奈々ちゃん」  と、マスターが言った。「悪いけど、ちょっと出前に行ってくれるかい」 「はい、どこですか?」  この店は、あまり出前というのはしないのだが、それでも商売だから、手が空いてて、数がいくらかまとまれば、持って行くこともある。もちろんコーヒーは大きな保温のきくポットへ入れて行くが、それでも時間がたてば冷めて来るし、香りも失われてしまうから、ごく近くに限ってのことだ。 「初めての所なんだけどね」 「へえ。迷子になんなきゃいいけど」  と、奈々子は笑って、「いくつですか」 「二十人分」 「結構ありますね。じゃ、ポット二つでないと足らないかな」 「もう用意してあるよ」  と、マスターが、大きなポットを二つ、カウンターにドンと並べる。  これに、カップと皿が二十客。スプーン、シュガー、ミルクとなったら、結構な荷物である。いくら体力に自信のある奈々子でも、手は二本しかない。タコじゃないんだから。 「カップやシュガー、ミルクは向うにあるのを使っていいんだ。コーヒーだけ運んで、向うで指示してくれる」 「それなら楽勝!」  奈々子はホッとした。「じゃ行って来ます!」  と、ポット二つ、両手に下げて、出て行こうとする。  マスターがあわてて、呼び止めた。 「奈々ちゃん! まだどこだか言ってないよ!」    本当に……ここ?  エレベーターに乗って、奈々子は何とも落ちつかない気分だった。  もらって来たメモには、確かにこのビルの名前がある。しかし……。  同じ名前の違うビルかしら、と、本気で心配しているのも、無理はない。  大体が、タクシーで二十分も乗って来たのである。こんな遠くまでの「出前」なんて、聞いたことがない。  それに——凄《すご》いビル! 〈南十字星〉も、一応ビルの中に入っているのだが、同じ「ビル」なんて名で呼んじゃ申し訳ないような、堂々たる構え。  ロビーがもう、三階分ぐらいのスペースで天井が高く、床もツルツル。引っくり返らないようにと、こわごわ歩いて、やっとエレベーターへ辿《たど》りついたのだった。  こんな凄いビルに、喫茶店の一つや二つ、ないわけがない。どうして〈南十字星〉にわざわざコーヒーを注文して来たのだろう?  そりゃ、あそこのコーヒーは味がいいという自信はある。でも……。  エレベーターが停った。一番上の階、と言われて来たのである。  扉が開いて、目の前にまた両開きの重々しいドア。この奥に、きっと会議室か何かあるんだろう。 「よいしょ」  両手にポットを下げているので、ドアの把《とつ》手《て》をつかめない。奈々子は、足を上げて、膝《ひざ》で把手をぐっと押し、ポンとドアをけった。  意外にドアは軽々と開いた。 「あの——」  と、言ったきり、奈々子はポカンとしてしばらく、突っ立っていた。  何しろ——呆《ぼう》然《ぜん》とするほど広い部屋だ。  コの字形に机が並んで、椅《い》子《す》の数は五十を下らない。しかし——座っていたのは、たった一人。  真正面、遥《はる》かかなたの席にいた男が、立ち上って、 「浅田奈々子君だね」  と、言った。 「はあ……」 「遠くまで、ご苦労さん。さあ、こっちへ来てくれ」 「その……コーヒーお持ちしたんですけど」 「二人で飲もうじゃないか」  と、その男は言った。 「二十人分って……」 「それはここまで来てもらった手間賃だよ」  と、その男は言ったが……。 「あ!」  と、奈々子は思い出して、「美貴さんのお父さんでしょ」 「その通り」  と、男は微《ほほ》笑《え》んで、「さあ、かけてくれ」 「はあ……」  コーヒーカップが二つ、用意してある。 「志村武治だ」  と、男は自己紹介した。 「浅田奈々子です……。あの、コーヒー、お注《つ》ぎしましょうか」  と、奈々子は言った。 8 とんでもない話 「どうだろうね」  と、志村武治は言った。 「はあ」  ——どうだろう、と訊《き》かれて、はあ、では返事になっていない。そんなことぐらい、奈々子だって分っているのだが、しかし、突然そんなことを言われたって……。 「君も、野田君から聞いて知っていると思うが、私と美貴は実の親子ではない」  と、志村はゆっくりコーヒーを飲みながら言った。「しかし、それだけに、なおさら私は美貴に幸せになってほしい。分るかね、この気持が」 「はあ」 「死んだ家内のためにも、それが一番大切なことだと思っている。——もちろん、私はルミ子のことだって可愛い。しかし、あれは独立心旺盛で、負けていない子だ」  確かにそうだ、と奈々子も思った。 「ルミ子は勝手に自分のやりたいことを見付けるだろう。しかし美貴は、繊細な子で、誰か支えになってくれる人間がいなくては、危っかしいんだ」 「でも……」 「三枝君のことは、私もどう考えていいものか、迷っている」  と、志村は難しい顔で首を振った。「うちへやって来たあの女の言葉が果して本当なのかどうか、それは何とも言えないが……。ともかく、三枝君の生死がはっきりしないと、美貴も今の不安定な状態から、脱け出せないと思う」 「そうですね」 「当人が、どうしても、もう一度ドイツへ行って、夫の生死を確かめたいと言うのを止めることはできない。しかし、あの子を一人でやるのは、あまりに不安が大きいのだよ」 「そりゃ分りますけど……」 「君にとっては、誠に迷惑な話だと思う」  と、志村は少し身を乗り出して、「そこを何とか、引き受けてもらえないだろうか」 「でも——美貴さんについて行っても、私、大してお役に立てないと思います。言葉だって分らないし、外国なんて行ったことないんですもの」 「美貴は言葉がちゃんとできる。それに君は女だ」  それくらい、言われなくたって、分ってますよ。 「美貴と同じ部屋にいられる。もし私や野田君がついて行けたとしても、同室というわけにはいかないからね。それに私も野田君も仕事を持っていて、そう長く出られない」 「ルミ子さんは?」 「学校がある」 「あ、そうか。でも——私も働いてるんです! あのお店、私がいないと大変なんです」 「店のマスターには、もう話をしてある。快く承知してくれたよ」  奈々子は頭に来た。——人のこと、勝手に貸し出すな、って! レンタル屋じゃあるまいし!  帰ったら、マスターの足を思い切り踏みつけてやろう、などと穏《おだ》やかではないことを考えながら、 「あの——少し考えたいんですけど」  と、言った。 「もちろん、そうしてくれたまえ」  志村はホッとした様子で、「言うまでもないことだが、向うへの旅費や宿泊費の一切、準備のための費用など、全部、こっちで持たせてもらう。他に、お礼も充分に出すつもりだ」  悪い話じゃない、とは思う。人の金でヨーロッパまで行って来れると思えば。  しかし、用事が用事である。あの美貴に付合うのも、なかなか楽じゃないだろうし。  それに——この志村という男、見かけはいかにも、「やり手」のビジネスマンだ。美貴についての気持にも、たぶん嘘《うそ》はないだろうが……。しかし、人間ってのは、分らないものなのだから。  おそらく、志村は知らないだろう。美貴は、野田が三枝を殺したと思っているし、野田の方は美貴が夫を殺したと思っている。  そんな、ややこしい状況での旅ともなれば——下手すりゃ、命がけってことにもなりかねないではないか。  まだ死にたくないんだからね! 奈々子は心の中で言った。 「では、決心がついたら、いつでもここへ電話してくれたまえ」  と、志村が奈々子に名刺を渡す。 「分りました」  奈々子は立ち上って、「それから——」 「何だね?」 「コーヒー代をいただきたいんですけど。領収証は持って来ました」  と、奈々子は言った……。    翌朝、奈々子は、〈南十字星〉へ入って行くと、 「おはよう」  というマスターの声を無視して、カウンターの下から、〈本日は閉店しました〉という札を出して、さっさと店の表にかけてしまった。  マスターが呆れて、 「おい、奈々ちゃん、何やってるんだい?」 「私、面接があるんです」 「面接?」 「ええ。すみませんけど、マスター、ちょっと外していただけません?」 「そりゃまあ……。しかし、まさか、マスターを入れかえようってんじゃないだろうね?」 「まさか。——美貴さんと野田さんが来ることになってるんです」 「なるほど。分ったよ。二人一緒に?」 「別々です。美貴さんは朝早いの、弱そうだから、十一時。野田さんは九時半です」 「じゃ、もうすぐだね。分った。午後はどうするんだい?」 「もちろん開けます。商売ですもん」  マスターは笑ってエプロンを外した。  ——一人になると、奈々子は椅《い》子《す》にかけて、考え込んだ。  ゆうべは八時間しか寝ないで(?)、ドイツ行きのことを考えたのだが、どうにも決心がつかない。  ともかく、美貴と野田の話を聞くのが先決、と思ったのである。  それにしても……。三枝がもし誰かに殺されたのだとしたら、あのハンブルクで見付かった女も含めて、もう二人も死んでいることになる。  奈々子としては、「三番目の死体」になって、フランクフルト辺りで見付かりたくはないのである。  店の電話が鳴った。 「——南十字星です」  向うは何も言わない。「もしもし。——もしもし?」  プツッ、と切れてしまった。 「変なの」  と、奈々子は肩をすくめた。「あ、いけない」  下の郵便受で、郵便を取って来るのを忘れていた。いつも出勤して来た時に出すのだ。  まだ九時半までには、十分ある。  それに、野田が来ても下で出会うことになるし。  奈々子は、店を出て、トコトコと階段を下りて行った。  郵便受を開けて、中からいくつかの封筒を出す。——ダイレクトメール以外は、請求書。「ラブレターは来ないか」  と、奈々子は肩をすくめた。  その時——ズシン、という地響きと共に、ビルが揺れた。 「キャッ!」  奈々子は尻もちをついた。白い煙が、階段に噴《ふ》き出して来る。 「な、何よ、一体!」  あわてて立ち上ると、奈々子は、ビルの外へ飛び出した。 「危いぞ!」 「ガラスが……」  と、叫び声が上る。  奈々子は道へ出て、ビルを見上げ、唖《あ》然《ぜん》とした。 〈南十字星〉が、なくなっていた。  窓は吹っ飛び、ポカンと大きな穴があいたようになって……。白い煙が立ちこめている。 「——奈々ちゃん!」  と、声がした。 「マスター! 何でしょう?」 「分らんが……。爆発だ」 「ガスか何か? でも——全然ガスの匂《にお》いなんて」 「ともかく、無事で良かった!」  そう言われて、初めて奈々子は気付いたのである。ずっと店にいたら、今ごろは……。  ——消防車、パトカーが駆けつけて、しばらくは大騒ぎだった。  何といっても人通りの多い場所である。野次馬も大勢で、またそれを見て、何事かと人が集まって来る……。 「——どうしたんだい?」  と、声がして、奈々子が振り向くと、野田が立っていた。 「あ、野田さん」 「遅くなってすまない。仕事で、どうしても出られなくてね。何かあったの?」 「ええ、まあ……」  マスターが、警察の人と話しているのを、奈々子は眺めていた。 「あれ、店は?」 「ええ。——なくなっちゃったんです」 「何だって?」  野田が目を丸くした。  マスターが戻って来ると、 「いや。けが人が出なくて良かった」  と、息をつく。 「でも、どうしたんでしょう?」 「分らんね。これから調べてもらうことになる」  マスターは、首を振って、「再開までは少しかかりそうだな」  と、言った。 「そうか」  と、奈々子は呟《つぶや》いたのだった。「私、失業しちゃった……」 9 悩みは深し 「そうか」  と、野田は肯《うなず》いて、「じゃ、もう知ってるんだね、君も」  知ってるんだね、と言われたって……。そう一人で合点して肯かれても、困ってしまうのである。 「その女の話は聞きました」  と、奈々子は言った。「ルミ子さんから。でも、それがどうかしたんですか?」  奈々子のいいところは——沢山あるが、その一つは、と言っておこう——何でもはっきり分らないことを、想像で決めちまわないことである。  奈々子は、至って現実的な女の子なのだ。  もちろん、年齢にふさわしく夢を見ることもあるが、現実を夢と混同したりすることはない。はっきり分けて考えられるというのが、まあ性質というものなのだろう。 〈南十字星〉が吹っ飛んでしまって、マスターは、まだ警察であれこれ訊《き》かれている。  奈々子は、十一時には美貴もやって来るはずなので、早いとこ野田との話を済まそうとして、近くの喫茶店に入ったのだった。  しかし、何てコーヒーのまずいこと!  奈々子は改めて、〈南十字星〉のコーヒーがいかにおいしかったかを、思い知らされた。こりゃ何としても店を再開しなきゃ!  もちろん、そんなこと、奈々子が決めるわけじゃないけど。 「あの女のことをね、僕も少し調べてみたんだ」  と、野田は手帳を取り出して、開いた。「名前は若村麻《ま》衣《い》子《こ》。二十八歳。——東京へ出て来て、一人で暮していたらしい。三枝がこの女性と付合っていたことは、確かだ。彼の親しい友人の間では、結構知れ渡っていた」 「へえ。野田さんは親しくなかったわけ?」 「厳しいね」  と、野田は苦笑した。「そりゃ、僕は恋敵だからな。三枝としては隠して当然さ」 「そりゃそうですね。すみません。つい、考える前に言葉が出ちゃうの」  こういうところが可《か》愛《わい》くないのかしら、と奈々子は反省した。 「いや、正直なのが君のいいところさ」  何だか、「馬鹿だ」と柔らかく言われてるような気がする。しかし、ま、深くは考えないことにした。 「その若——」 「若村麻衣子」 「その人の言った通り、三枝さんの子供がお腹にいて、ドイツまで追いかけて行ったとしても、それでどうして美貴さんがご主人を殺したことになるんですか?」 「それは、一つには彼女の性格だ」  と、野田は言った。「美貴さんは、極めて潔癖な人なんだ。たぶん三枝にあんな恋人がいたと知ったら、殺さないまでも、帰国後、即離婚しただろうね」 「じゃ、その女の人を殺したのは?」 「それは分らない。美貴さんか、それとも三枝か。——三枝が、美貴さんに気付かれては大変と思って、彼女を殺したのかもしれない。美貴さんがそれを知って、三枝と争いになり……。ということも考えられる」  そりゃ、色々考えられるだろう。  でも、奈々子は少々悲しい気分であった。  なぜって——もちろん野田の話はよく分るし、確かに、理屈としてもあり得ることだと思うのだが……。  でも、三枝成正は、学生時代からの友人で、美貴は結婚しようとまで思った相手ではないか。その二人を、いくら理屈が通るといっても、「殺人犯」扱いして、平気でしゃべってる、ってのが、ちょっとやり切れなかったのである。  もし、自分だったら——と奈々子は考える——友だちか、一度は恋した人が、殺人の容疑をかけられていると知ったら、凄《すご》いショックだろうし、よっぽど動かぬ証拠でも見せられない限り、信じないに違いない。  友だちっていうのは、そういうもんだろう。それとも、私の考えが甘すぎるのかしら……。 「どうかしたかい?」  と、野田が訊《き》いた。 「いえ、別に」  と、奈々子は首を振って、思った。  この人とは、もうキスしないぞ! 「でも、もし美貴さんがご主人を殺したのなら、どうして今さらわざわざドイツへ捜しに行きたいなんて言い出すんですか?」 「そこだよ。それが僕も知りたい。——もちろん彼女が犯人でないと分れば、こんなに嬉《うれ》しいことはないけどね」  と、野田は言ったが……。  果して、どこまで信じていいものやら。  奈々子は、おいしくないコーヒーを、一口飲んで、顔をしかめた。   「——大変ね、奈々子さん」  と、美貴が言った。  同じ喫茶店。少し時間はずれて、美貴と奈々子の二人が向い合っている。  もちろん〈南十字星〉のビルの前で待っていて、やって来た美貴を、ここへ連れて来たのである。 「これからどうするの?」 「そうですねえ……。まだ考えてません」  そりゃそうだ。まさか今日、店が爆発する(!)なんて、誰が思うもんか。 「もし良かったら——」  ほら来た。奈々子は、紅茶を一口飲んで(コーヒーにこりて、今度は紅茶を頼んだのだった)、まずいのでギョッとした。 「私と一緒にドイツへ行ってもらえないかしら? とても無茶で、図々しいお願いだってことは承知してるんだけど」 「本当ですね」  と、奈々子は素直に言った。「大体、野田さんがご主人を殺したんじゃないか、とおっしゃってたでしょ」 「ええ」 「どうしてそう思ったんです? あんなに頼りにしてらしたのに」 「それなのよ」  美貴は、ため息をついた。「——私も、まさかと思ってたわ。でも、ついこの間、夫や野田さんと大学で同じだった方に、町でばったり出会ったの。そして色々話してたら、私と主人がハネムーンに出た次の日に、野田さんもどこか外国へ行った、ってことが分ったのよ」 「野田さんも? どこへ?」 「その人は知らなかったわ。きっと恋に破れてのセンチメンタルジャーニーだろう、って笑ってたけど。でも、私、気になって、調べてみたの」 「どうやって?」 「いつもあの人が航空券や宿泊の手配を頼む旅行社へ行って。私もその係の人を知ってたから。そしたら、野田さん、突然前の日になって——つまり、私たちの式の当日に、ドイツへ発《た》ちたい、何とか席を取ってくれないか、って電話して来たんですって」 「へえ……」 「それも二枚」 「誰かと一緒?」 「そうらしいの。名前は教えてくれなかったけど。でも、おかしいわ。野田さん、そんなこと、一言も言わなかった」 「なるほど……」  そりゃ、確かにおかしい。——しかし、だからって、野田が三枝を殺した、っていうのは考えが飛躍してるんじゃないだろうか。  大体、そんなに突然殺す気になるってのが妙だし、そんな時に、旅行社に頼んだりしないだろう。  殺す気でなく、ドイツへ行って、向うで何かがこじれて、結果として殺しちゃった、というのなら、分らないでもないけど。 「どうかしら、奈々子さん」  と、美貴は、何となく切なげな目で、じっと奈々子を見つめて、「旅としては快適だと思うわ。飛行機もファーストクラスを取るし、ホテルも一流の所。もし、その方がよければ別々に部屋も取るし」 「そんなこと、どうでもいいんですけど……。行って、何を調べるんですか?」 「野田さんが、向うで私たちの後を追っていたのかどうか、知りたいの」 「でも、そんなことできます? 女性二人だけで」 「私、向うに知り合いがいるの。手を貸してくれると思うわ」  美貴の決心は固いようだ。  もっとも、そんなに決心が固いなら、一人で行きゃいいようなもんだが、そこがお嬢様なんだろう。  でも——私には関係ないわ、と奈々子は思った。そうよ。私は別に何も……。 「ね、奈々子さん」  ぐっと身をのり出して、美貴は奈々子の手を握った。  いやだ! 絶対にいやだ!  そんな用事でヨーロッパに行くくらいなら、その辺の温泉でのんびりした方がよっぽどいい!  ともかく——いやだ!   「承知してくれて嬉《うれ》しいよ」  と、志村武治は微《ほほ》笑《え》みながら言った。「お礼は充分にさせてもらうからね」 「はあ」  と、奈々子は言った。  何でこうお人好しなのかしら、私は。——つくづくため息が出る。  もちろん、〈南十字星〉が吹っ飛んでしまって、しばらくは失業することになるから、仕事は捜さなきゃならないとしても……。 「美貴の力になってやってくれ」  と、志村は奈々子の手を握った。  車の中で手を握られるなんてことに、奈々子は慣れていない。  申し遅れたが、奈々子は、志村の車に乗っていたのである。といっても、運転手付きの凄く大きな外車。  志村って人は、大変な金持なんだわ、と奈々子は改めて感心した。  奈々子だって、「お金」は嫌いじゃない。でも「お金持」は——好きとか嫌いというほど、知り合いがいない!  ともかく、志村に手を握られて、奈々子は一瞬ギョッとしたのである。  しかし、志村としても別に深い意味があって手を握ったわけではないらしかった。  その証拠に、すぐ離したからである……。 「でも、私、強そうに見えるかもしれませんけど……。ま、そう弱くはありません。でも、空手も剣道もできないんです」 「分ってるとも」  と、志村は笑って言った。「実はね、美貴には言っていないのだが、君には知っておいてもらいたいんだ」 「何です?」 「ボディガードをつける」 「私たちに?」  それならそうと、もっと早く言えって!  奈々子はホッとした。 「それなら……。安心して旅ができますね」  と、急にうきうきして来るから現金なもんである。 「そう。危険はないから、君は大いに旅を楽しんでくれればいい」  と、志村は肯いた。 「で、誰がついてくれるんです?」 「ええと……」  志村は手帳を出してめくると、「——ああ、これだ。K探偵社の森田という男だ」  あの、世にも下手くそな尾行をして、奈々子を怒らせた男だ。  よりによって!——奈々子はまた、たちまち頭痛がして来そうになったのだった……。 10 標的は誰か  丸と三角と四角がワルツを踊ってる、ってとこかな。  奈々子は、その絵を眺めて、それから絵の下に添えられた表題を見て、目を丸くした。  これが〈雨の日の競馬場〉? 「——だめだ」  奈々子の現実的想像力では、とてもついていけなかった。  しかし——もちろん、奈々子も、美しいものは美しいと感じるだけの感受性を充分に持ち合せている。ただ——絵画の領域では、風景画とか裸婦、音楽なら「白鳥の湖」辺りに止まってはいたのだが。  スタイルもいけない。美術館に来るからって、何もこんな気取った——といったって、当り前のワンピースだが——格《かつ》好《こう》をすることはなかった。周囲を見回しゃ、ジーパンの男の子、女の子がいくらもいる。  芸術家風に髪やひげをのばして、絵の前でウーンと唸《うな》ったりしているのがいると、素直な奈々子など、ひそかに尊敬の念など抱いてしまったりするのだが……。  ところで、今日は日曜日である。  といっても、〈南十字星〉がなくなってから、奈々子にとっては、「毎日が日曜日」てなもんで、のんびり——いや、とんでもない! 一週間後には、ドイツへ発《た》たなきゃいけないというので、大あわての日々だったのである。  しかし、その辺も志村が手配してくれて、パスポートの申請もしたし、必要な物も、この二日間、毎日買物に出て、買い揃《そろ》えた。  三日後に出発。とりあえずは一息ついているのである。 〈南十字星〉の店は、マスターの奔《ほん》走《そう》で、何とか再建の目《め》途《ど》が立ちそうだった。  しかし、元のビルはもう無理というので、どこか別の場所に移ることになるだろう、ということだった。喫茶店は立地条件で八割方商売になるかどうか決ってしまう、というところがある。  マスターも、候補地選びに苦心しているようだった。しかし、奈々子は、 「新しい店でも使ってくれる」  という約束をとりつけているので、ま、後々の仕事は確保したわけである。  さて、日曜日に、奈々子がわざわざこんな美術館までやって来たのは、他でもない……。 「あ、いたいた」  と、声がして、トコトコやって来たのは、志村ルミ子だった。 「あら、ルミ子さん」 「わあ、すてき! 奈々子さんって、そういう格好すると、やっぱり女ね」  何てほめ方だ。しかし、ルミ子のような子に言われると、腹も立たない。  大体、ルミ子の可《か》愛《わい》いスタイルと比べられたら、こっちなんか——「青い山脈」なんて映画にでも出て来そうだ。 「野田さん、表の車で待ってるわ」  と、ルミ子が言った。「ごめんなさい。何だかデートのお邪魔しちゃって」 「そんなことないの。男の人と二人って、疲れてだめだから」  野田に誘われたので、ルミ子と一緒なら、という条件をつけたのである。変わったデートだ。 「野田さんは見ないのかしら?」  と、奈々子は歩きながら言った。 「うん。車、乗ってないと持ってかれちゃうからって。——私、絵って好き」  と、ルミ子は言った。 「全然分んないわ」 「分んないところがいい」  こういうのに、ついて行けないのである。 「——ね、ちょっと座りましょ」  広い美術館の一角に、お茶を飲むスペースがある。二人はその隅《すみ》の方に、腰をおろした。「ドイツ行きの仕《し》度《たく》、すんだんですか?」  と、ルミ子が訊《き》いた。 「何とかね。後は当日、行くのを忘れないようにしないと」 「面白い人、奈々子さんって」  ルミ子は明るく笑った。 「面白くたって、もてないのよね」 「そんなことないわ。野田さんだって——」 「恋人っていうんじゃないわよ」 「そうかなあ。——でも、本当に?」  と、ルミ子が、ちょっと探るように奈々子を見る。 「何が?」 「野田さんのこと。私、好きなんだもん」 「へえ……」 「もちろん、野田さんから見りゃ、子供でしょうけどね。でも、結構、家庭教師してもらってたころから、好きだったの」  あいつ! 真面目そうな顔して。 「でも、野田さんは姉さんに夢中だったし。三枝さんと結婚したんで、私、内心ホッとしたの」 「でも……」 「そう。——また、野田さんとお姉さん、って可能性も出て来ちゃったから、正直なところ面白くないの」  まあ、それはないでしょ、と思ったが、ルミ子にそうは言えない。 「奈々子さん」 「何?」 「お姉さんの気持、確かめてくれません?」 「私が?」 「そう。野田さんのこと、どう思ってるのか……。私だって真剣なんだもん。姉さんが、野田さんのこと、ナンバーツーとしか思ってないのなら、私の方がナンバーワンに考えてるってこと……。野田さんの気持はもちろん大切だけど」  ルミ子の言葉はいかにも少女らしい率直さで、奈々子の胸を打った。  しかし、正直なところ、奈々子としては、野田も完全には信じていないのだから、ルミ子のこの「告白」に、少々複雑な気分ではあった……。 「さ、見て回って、出ましょうか」  ルミ子が、パッと明るく言って立ち上った。いかにも十代の若々しさである。 「野田さんが苛《いら》々《いら》しながら待ってるわね」 「もっとのんびり見て、待たせちゃおうか」  と、言って、ルミ子は笑った。    奈々子がアパートに帰ったのは、夜の十時過ぎだった。  もちろん野田やルミ子と、大いに楽しく食事をして(当然おごらせて)来たのである。  アルコールも少々入って、欠伸《 あ く び》しながら、タクシーを降り、奈々子は、アパートの方へと歩いて行った。  お風呂へ入らないで寝ちゃおかな。でも、入らないと、却《かえ》ってすっきりしないかも……。  全くの——全くの不意打ちだった。  いきなり後ろから手がのびて来て、パッと奈々子の口をふさぐ。  声を上げる前に、両手でその手を外そうとして——目の前にナイフが光った。  後ろから組みついた誰かが、左手で奈々子の口をふさぎ、右手に握ったナイフを奈々子の胸に突き立てようとしたのだ。  ナイフが奈々子の胸をめがけて——あわや、と思った時、カチッ、と金属の当る音がした。  奈々子の手に下げていたハンドバッグが、ちょうど胸のところへ来ていて、ナイフがそのバッグを刺したのだ。  もちろん、革のバッグぐらい、簡単に貫き通してしまうだろうが、中のコンパクト——一応そんな物を持っている——に刃の先が当ったのだった。  舌打ちする音。——一呼吸あった。  奈々子も、立ち直っていた。殺されてたまるか!  肘《ひじ》で、思い切り、後ろをついてやった。これがみごとに決った。  口をふさいだ手が外れる。奈々子は、振り向きざま、バッグを力一杯振り回した。手応えがあった。  相手がよろける。——そして、諦《あきら》めるのも早かった。  相手がドッと駆け出して行った。  奈々子は、追いかけてやろうかとも思ったが……。しかし、やはりそこまでは、できなかった。  何かが足下にパラパラと落ちる。  ハンドバッグの中身だ。よく見ると、ハンドバッグが、スパッと裂けてしまっている。  もしかしたら、バッグでなく、私の胸が切り裂かれていたかもしれない……。そう思うと、急に奈々子はガタガタ震え出してしまった……。  ——やっと部屋へ入ると、鍵《かぎ》をかけ、チェーンもかけ、畳の上に引っくり返る。  心臓が、今になって苦しいほど打っている。 「警察へ知らせなきゃ……」  と、呟《つぶや》いたものの、体の方が言うことをきかないのだ。  電話が鳴って、奈々子は、 「ワァッ!」  と、声を上げてしまった。「——ああ、びっくりした!」  電話が鳴り続けている。——奈々子は這《は》うようにして、やっと電話に辿《たど》りついた。 「——もしもし」 「奈々ちゃんか」 「マスター……。良かった!」 「どうしたんだ?」 「あの……今、外で、誰かに殺されかけたんです」 「何だって?」 「嘘《うそ》じゃないんですよ。本当です。バッグなんか穴があいちゃって、もう——」 「大丈夫なのか? けがは?」 「してない……と思います」 「そうか。警察へは?」 「まだ……」 「よし。僕が連絡するよ。外へ出るんじゃないよ」 「ええ。もう大丈夫」 「いや、心配してたんだ。今日昼間から、何度か電話してたんだがね」 「すみません。出かけてて。何か用だったんですか」 「用心しなさい、と言おうと思ってね」 「え?」 「例の爆発だがね。どうやら、誰かが爆弾のようなものをガスの元栓の辺りに取り付けて、リモコンで爆発させたらしいんだ」 「リモコン?」 「といっても、そう難しいものじゃない。しかし、それよりね、問題は、誰が、なぜそんなことをしたのか、だ」 「ええ、そうですね……」  奈々子は、あの直前に、無言の電話があったことを思い出した。それを話すと、 「やっぱりね」 「というと?」 「その電話は君が店にいるのを、確かめたんだと思うね」 「じゃ、あの爆発は——」 「奈々ちゃんを狙《ねら》ったんだよ」  ——どうして?  どうして私が狙われるの? こんな善人が!  奈々子は、不安と怒りとやり切れなさで……。ともかく何が何だか分らない混乱の中、旅立とうとしていたのである……。 11 出 発  お断りしておくが、奈々子だって、そう毎回毎回、アクション場面を楽しんでいるわけじゃないのである。  作者としても、奈々子のために、美しいドレスと宝石で着飾った大舞踏会とか、夕焼のモンブランを背景にしたラブシーンとかを書いてやりたいと思ってはいるのだが、残念ながら、物語はまだその段階ではない。  従って今回も、やや唐突ながら——。 「何すんのよ!」  奈々子は、すぐ後ろへ寄って来た男を、エイッと突き飛ばしてやった。 「ワッ!」  男がみごとに引っくり返る。  奈々子としても、多少神経過敏になっている気配、なしとしない。  それもまあ無理からぬことで、何しろ、二度も殺されかけたのだから。  一度は爆弾、一度はナイフ。で、「二度あることは三度ある」なんてことわざが、急に実感を持って迫って来る。「三度目の正直」とも言うし。  明日はドイツへ出発、って今になって、やたら周囲に用心していたのである。 「おお、いてえ。何するんだよ」  と、男は、やっとこ起き上って来た。 「あんた……」  例のK探偵社の森田である。  奈々子は、最後の買物(?)に出かけて来たところで、横断歩道で信号が青になるのを待っていたのだ。そこへ、妙な男が寄って来たので……というわけである。 「何してんのよ。こんな所で」  と、奈々子は言った。 「聞いてないのか、志村さんから」 「あんたが、ボディガードになるっていうんでしょ。知ってるわよ」  と、奈々子は言ってやった。「頼りないボディガード」 「お前なんか守ってやる必要もないけどな」 「じゃ、やめれば」 「仕事だ」 「へえ」  やり合っている内に信号が変っていた。奈々子はあわてて横断歩道を渡った。  もちろん、森田もついて来る。 「私なんかより、美貴さんについててあげれば?」 「向うへ行ったら、お前についててくれ、と言われたんだ」 「どうして?」 「向うは今日一歩も外へ出ない、とさ」 「なるほどね」  奈々子は納《なつ》得《とく》した。「じゃ——はい」 「何だ?」 「これ持って」  スーパーの袋を森田に持たせる。 「どうして俺《おれ》が——」 「ボディガードでしょ」  と、奈々子は言ってやった。  しかし——もちろん、奈々子も死ぬのは怖い。  それも、理由も分らなくて死ぬなんて、いやだ! それは、カフカみたいな「不条理の世界」ってものだ。  いや、まあ、もちろん奈々子を襲った誰かは、別にカフカに影響されたわけではないだろうし、ちゃんとした(というのも何か変だが)理由があったのだろう。  しかし、その「理由」というのが何なのか、奈々子には見当もつかない。  大体、奈々子は、たまたま美貴の夫の失《しつ》踪《そう》に係《かかわ》り合っただけだ。それも、特別深く係り合っているわけでもない。  何か、殺されるような秘密を握っているわけでもない。それなのに……。  私が美し過ぎるのがいけなかったのかしら、とも考えてみたが……。やはり、これは違うだろう、と思い直した。  アパートへ帰りつくと、奈々子は、森田を部屋へ上げて、優しくお茶を出してやったりは、しなかった……。  電話が鳴っていた。 「——はい」 「浅田奈々子君かね」 「あ、志村さんですか」 「明日、出発だね」 「ええ、まあ」 「ちょっと会いたいんだが」 「構いませんけど。——どこで?」 「迎えに行くよ、車で」  あの凄《すご》い外車! 「はい! じゃ何時ごろ——」 「五分ぐらいしたら行く」 「五分? どこからお電話を?」 「車の中」  なるほど。 「分りました」  電話を切ると、あわてて着替えをして、外へ出た。  森田が、表でむくれて立っている。 「どこへ行くんだ?」 「あんたはついて来なくていいの。雇い主のご用だから」  と、奈々子は言ってやった。   「色々大変だったようだね」  と、志村は言った。「殺されかけたっていうじゃないか」 「おかげ様で」  と、奈々子は言った。「いつの間にか、VIPになったみたいです」  志村が忙しいというので、車の中で、お茶をもらっている。 「——君をとんでもないことに巻き込んだようで、すまんと思ってるよ」 「いい男でも捜して下さい」  と、奈々子は言ってやった。「でも、妙じゃありませんか」 「うん?」 「そりゃ、美貴さんと、そのご主人、若村麻衣子って女。——三角関係とか、色々あっても、そりゃ分ります」 「うむ」 「でも、それと、私のこと殺そうとするのが——」 「それは確かに分らない」 「いえ、そうじゃないんです」  と、奈々子は言った。「その殺し方です。喫茶店に爆弾しかけたり、私を殺そうとしたのも、たぶん、誰かに頼まれた人間だと思うんです」 「なるほど」 「そんなのって、ただの三角関係のもつれ、なんかとうまく結びつかないと思いませんか?」 「全くだ」  志村は肯《うなず》いて、「君はなかなか頭のいい子だね」 「どういたしまして」  志村は少し考えていたが、 「これは、君に話したものかどうかと迷っていたんだが」 「何でしょう?」 「これは美貴の全く知らないことなんだ。そのつもりで聞いてくれ」 「はあ」 「三枝が向うで姿を消したのについては、もちろん、色々 噂《うわさ》も飛んでいる。例の若村麻衣子の線も、もちろんある」 「じゃ、何か他にも?」 「実はこのところ、妙な噂が耳に届いているのだ。——三枝が、何か密輸に係っていたらしい、というんだよ」 「密輸?」 「まあ、詳しいことは分らないんだが、そんな噂だ。向うで消えたのも、何かそれに関連してのことじゃないか、というんだ」 「密輸……。それなら、何となく分りますね」  と、奈々子は肯いた。 「君の身に起ったことを考えると、その密輸の話も、本当かもしれん、と思えて来たんだよ」  と、志村も肯く。「もちろん美貴は何も知らない。大体、潔癖な子だ。夫がそんなことに係ってると知って、黙ってはいない」 「でも、なぜ私が狙《ねら》われるんですか?」 「さあ、そこまでは分らない」 「それに——もしその話が本当なら、ドイツへ行って色々調べるの、危《あぶな》いんじゃありません?」 「うん」  志村は、アッサリと肯いて、「確かに、危い」 「そんな!——あの頼りないボディガードだけなんですよ、頼りは」 「そこを何とか頑《がん》張《ば》ってくれ!」  いくら頑張れ、って言われてもね……。  奈々子は、自分の方が蒸発したくなって来たのだった……。 「よいしょ、よいしょ」  と、奈々子は、成田空港のロビーで、スーツケースを運んで来て置くと、フウッと息をついた。 「さて、と……」  美貴さんはどこかな? この辺りで待ち合せたんだけど。  ともかく、平日といっても、人の多いこと! これだけの人が、毎日毎日、外国へ行ったり、戻《もど》ったりしているのだ。  電車に乗るのと大して変らない感覚のビジネスマンもいる。  しかし、何といっても、奈々子にとっちゃ大変なことなのである。 「ルフトハンザのカウンター……。ここよね、確か」  と、何度も確かめていると、 「奈々子さん!」  と、呼ぶ声がする。  美貴にしては、元気のいい声だ。  キョロキョロして捜すと、 「おーい!」  手を振りながらやって来るのは、何とルミ子! 「あら……。どうしたの?」  奈々子はルミ子がすっかり旅行者風の軽装なのを見て、びっくりした。「まさか、一緒に行くんじゃないでしょ?」 「その『まさか』」 「だって——学校は?」 「特別に休みを取ったの。父も諦めて出してくれた」 「危いのよ!」 「大丈夫。向うには知り合いがいるから。——美貴さんは?」  奈々子は、しかしまだ面食らっていて、 「それにしても——何を考えてんだ、あの親父」  なんて呟《つぶや》いていた。 「え?」 「何でもないの」  と、奈々子は首を振った。 「あ、来た」  と、ルミ子が言った。  なるほど、美貴がやって来た。しかし——凄《すご》い荷物! 「ちょっと、これ見てて。手伝って来るわ」  と、奈々子は駆け出した。 「奈々子さん! ルミ子も一緒なのね」 「そうらしいです」 「良かったわ。あの子の方が、私より度胸もあるし、助かるわ」 「それにしても、凄い荷物ですね。——私、持ちますよ」  と、奈々子は、美貴の手から、トランクを受け取ったが——。 「ずいぶん古いトランクですね」  はっきり言えば、ボロだった。 「ええ。私のじゃないわ」 「じゃ、誰の?」  美貴は、後ろを指さした。——あの森田が両手に大きなスーツケースを下げて、フウフウ言いながら、やって来る。 「あの人……。あの荷物は?」 「自分のよ。私は、この二つだけ」 「じゃ——一人で三つも?」 「旅に慣れてないと、どうしても多くなるのね」  それにしても!  奈々子は頭に来て、森田の方へ歩いて行った。 「ちょっと! そんなんで、ボディガードになるの?」 「大きなお世話だ」 「何を持って来たのよ」 「色々必要な物だ」 「へえ。——呆《あき》れた。私だってそんなにないわよ」 「ワッ!」  と、森田が声を上げる。  手に下げていたスーツケースも、相当古かったらしい。  とめ金が外れて、パッと開いてしまい、中身がドドッと出て来てしまった。  奈々子は目を丸くした。枕とかけ布《ぶ》団《とん》が飛び出して来たのである。 「俺は枕が変ると眠れないんだ!」  と、真赤になって、森田があわてて枕をスーツケースへ戻《もど》している。  これで無事に行けるのかしら?  行くのはともかく、帰って来るのは、かなり絶望的かもしれない、と奈々子は思わざるを得なかったのである……。 12 話しかけて来た男  陰謀だわ!  奈々子は、苦しさに喘《あえ》ぎながら思った。  私としたことが……。美貴を守るために、わざわざこうしてついて来たというのに、ドイツにも着かない内に、敵の陰謀に引っかかってやられてしまうなんて。  でも——敵も卑《ひ》怯《きよう》だわ。こんなやり方は汚《きた》ない! 「——大丈夫、奈々子さん?」  と、美貴が、心配そうに訊いた。  奈々子は、声も出せずに、それでも肯《うなず》いてかすかに笑って見せた。少なくとも、この努力は評価すべきであったろう。 「胃の薬、服《の》む?」  と、ルミ子も後ろの席から覗《のぞ》き込んでいる。 「大丈夫……。少し楽になったから」  奈々子は必死の努力でそう言った。 「悪かったわ」  と、美貴が心配げに、「機内で食事が出るっていうのを話しておかなかったから」  だって——飛行機は夜の九時半に飛び立ったのだ。夜の九時半なら、みんな夕食を済ましてると考えて当り前じゃないの!  奈々子は出発前に、時間潰《つぶ》しに入ったレストランで、たっぷり夕食をとってしまったのだ。  ところが——飛び立って一時間余り、十一時近くになって、夕食が出た。  海外旅行が初めての奈々子としては、これにはびっくりしたが、「いらない」と断るのは失礼かもしれないと思って(というより、もったいない、と思ったのだ)、出るもの出るもの、ジャンジャン食べてしまったのだった。  ファーストクラスなので、座席は大きいし、間隔もゆったりしているし……。しかし、それとは裏腹に、奈々子のお腹はパンク寸前、おかげで眠るに眠れず、ウンウン呻《うな》っているのだった。 「誰だって知ってると思ってたから」  と、ルミ子が言った。「成田で食事してるの見て、奈々子さん、よっぽどお腹空いてるんだな、と思ったんだけど……」  どうでもいいよ、と奈々子は思った。我ながら、自分のドジに呆《あき》れてしまう。 「——貧乏人は困ったもんだな」  と、いや味を言っているのはボディガードの森田である。 「何よ」  と、奈々子はにらんでやった。 「無理して食うからだ。もったいないとかいって」 「フン、あんただって、ガツガツ食べてたくせに」 「無理してまで食ってないぞ」  と、森田はやり返した。「ちゃんと今日は昼飯から抜いて来たんだ! 参ったか」  どっちもどっちだ。 「アンカレッジまでは大分あるわ」  と、美貴が言った。「ゆっくり休んで下さいな」 「ええ……。生きてドイツへ着けたら、神社へ行っておさい銭を上げなきゃ」 「ドイツに神社があるか」  と、また森田がにくまれ口をきく。 「森田さん」  と、美貴はキッと、この頼りないボディガードをにらんで、「あなたは私だけじゃなくて、奈々子さんを守るのも仕事なんですからね」 「はあ」  森田は座席のリクライニングを一杯に倒して、「しかし、その女は丈夫そのものです。殺したって死にゃしませんよ」  ヤッ、と弾《はず》みをつけて、後ろへ体を倒したが、クッションが良すぎて、はね返り、 「ワッ!」  みごとに座席から上半身がはみ出し、逆さに床へ落っこちてしまった。 「ざま見ろ」  と、奈々子がベエと舌を出す。  スチュワーデスが、笑いをかみ殺して、真赤な顔をしていた。  ルミ子がキャッキャッと声を上げて笑い出す。  ——まことににぎやかな旅の始まりとなったのだった。    ドイツへ果たして無事に辿《たど》り着けるかしら、という奈々子の不安も、何時間かウトウトして、ルフトハンザ機がアンカレッジへ降りたころには、大分薄らいで来ていた。  アンカレッジはもちろんアラスカの都市である。ここでジャンボ機は燃料補給や乗員の交替で、一時間ほど停るのだった。  その前に起こされて朝食が出たが、さすがに奈々子も今度は遠慮することにした。  アンカレッジでは、空港の一画だけを自由に歩ける。  免税品の売店がズラッと並んで、食べ物のカウンターもある。しかし、奈々子はアイスクリーム一つも見たくない気分だった。  それでも、時計だの香水だののケースを眺めていると、大分気分も良くなって来る。  空港を見渡す椅《い》子《す》に腰をおろしていると、 「奈々子さん」  と、ルミ子がやって来た。「どう、ご気分は?」 「最低の状態からは、何とか這《は》い上りつつあるわ」 「良かった。奈々子さんって元気一杯にしてないと、何だか別人みたい」  元気だけが取り柄《え》みたいね、と奈々子は思った。——ま、それも事実ではある。 「私、ちょっと売店を覗《のぞ》いて来るわ」  と、ルミ子は言った。 「どうぞ」 「乗る時間になったら、アナウンスもあるけど、ここへ呼びに来るわね」 「よろしく」  乗り遅れて置いてかれたらことだ。  一人になって、表を見ていると……。 「——失礼」  と、声がした。「お邪魔かな」  隣に座ったのは、髪が半ば白くなった、五十代半ばくらいと見える紳士だった。高そうなジャケットを着て、パイプなど手にしているのが、いかにも似合う。 「いえ別に……」  と、答えてから、思い出した。  同じファーストクラスの客の一人だ。 「あの……同じ飛行機の……」 「そうです。いわばお仲間ですな」  と、その紳士は微《ほほ》笑《え》んだ。  どことなく、志村を思わせるが、こちらの方は、ビジネスマンというよりも、どっちかというと芸術家風。 「お騒がせして、すみません」  と、奈々子は謝《あやま》った。 「いや、旅は楽しい方がいい。にぎやかなのも大いに結構」 「恐れ入ります」 「しかし——何となく面白いグループだな、と思いましてね。四人、ですな」 「ええ」 「男性一人は離れて座っているし、どうも、あまりファーストクラスに慣れていない方のようだ」 「ボディガードです」 「なるほど」  と、その紳士は大げさに肯いて、「ではVIPのご旅行というわけですな」 「いえ、別に……。私も初めてです。ファーストクラスどころか、セカンドもサードも、乗ったことなくて」  野球と間違えられそうである。 「あなたはあの若いお二人の先生といったところですかな」 「先生?」  ちょっとショックである。美貴は二十四か五になっているのだ。私、まだ二十歳よ! 「いえ——ただの知人で」 「そうですか。いや、あの二人が、何だかあなたのことを頼りにしておられるように見えたのでね」 「そ、そうですか。まあ、多少頼られることもありますけど」  そう答えて、はて、この人はどうしてそんなことを訊くんだろう、と思った。  もちろん、単なる好奇心ってこともあるだろうが……。  こりゃ用心した方がいいかもしれない。何といっても、用心棒ではないまでも、奈々子は美貴のことを助けるためにやって来ているのだから。  相手が何か他のことを訊《き》いて来る前に、 「失礼ですけど、何をなさってらっしゃるんですか?」  と、奈々子は訊いてみた。 「私ですか? いやまあ……。何といいますかね。暇を持て余してる人間、とでも申し上げておきましょうか」 「まあ、羨《うらやま》しい。そんな方もいらっしゃるんですね。——やっぱりドイツへ?」 「ええ」 「どちらへ行かれるんですか?」 「まあ……取りあえずはフランクフルトに泊って、それからゆっくり決めたいと思っています」 「もう何度も行かれてるんでしょうね」 「そうですね。もう二、三十回は——」 「二、三十回! 凄《すご》い!」  と、奈々子はオーバーに驚いて見せた。「凄いお金持なんですねえ」 「いやいや……」  何だか相手も、奈々子からこれ以上訊かれても困ると思ったらしい。立ち上って、 「お邪魔しましたな」 「いいえ。とんでもない」 「では、また……」  歩いて行く紳士の後ろ姿を見送っていると、 「おい」  と、いきなり肩を叩《たた》かれ、びっくりした。 「何よ、気楽に触んないで」  と、奈々子は森田をにらんだ。 「心配して、声をかけてやったんだぞ」  と、森田はふくれている。 「あんた用心棒でしょ。少し怪しい客はいないか、とか調べたらどう?」 「何の話だ?」 「今、ここにいた人よ。ファーストクラスの客だけど、何だかいやに私たちのこと、詳しく訊きたがってたわ」 「ふーん。物好きなんだろ、お前に話しかけるぐらいだから」 「もう一回言ってみな」  と、拳《こぶし》を固めて突き出して見せる。 「それでも病人か。——よし、ちょっと後を尾《つ》けてみよう」 「もう遅いわよ」  と、奈々子は言ってやったのだった。  ——飛行機に戻《もど》ると、あの紳士は先に席について、イヤホンで、音楽を聞いて目を閉じていた。 「あの人、見たことあります?」  と、奈々子は美貴に、そっと訊いてみた。 「どの人?——あの方? いいえ、全然知らない」 「やっぱりね……」 「何かあったの?」 「そうじゃありませんけど、要注意ですね」  奈々子はそう言って、いつの間にやら、胸や胃の、気持の悪さがすっかり治ってしまっていることに気付いたのだった……。 13 最初の武勇伝  大きい……。  奈々子としては、成田空港だって、ずいぶん広い、と感じたのだが、ドイツの表玄関と言われる、フランクフルトの空港の広いことと来たら……。 「ここで待ち合せるのは大変なの」  と、ルミ子が言った。「動かずにいるのが一番よ。向うが捜して来てくれるわ」 「そうね」  と、美貴も肯《うなず》く。「奈々子さん、疲れてるんでしょ?」 「え?——いえ、まあ別に」  アンカレッジを出てから、機内で映画が上映され、また食事。それから一眠りしてまた食事……。  奈々子は、半分くらい食べてやめておいたが、一緒に乗っていたドイツ人らしい男性はどれもきれいに平らげていた。 「大丈夫ですよ。ここに立ってりゃいいんでしょ?」 「ハンスが迎えに来てくれると思うのよね」  と、ルミ子が言った。 「ハンスって?」  と、奈々子が訊《き》く。 「人の名だろ」  と、森田が言った。 「分ってるわよ、それくらい! 犬やカモが迎えに来るわけ、ないでしょ」  どうにも相性が悪いというのか、また二人でやり合っていると……。 「あ——」  さっき、声をかけて来た紳士だ。  あの後は別に口もきかなかったが……。  スーツケースを一つ下げ、もう一方の手には、小ぶりのバッグを持っている。  奈々子たちには気付かない様子で、空港のロビーを大《おお》股《また》に歩いて行った。  歩き方が、奈々子には気になった。何だかいやに若々しい。  もしかすると、見かけよりずっと若いのかも……。  何となく目で、その後ろ姿を追っていると——。  一瞬の出来事だった。その紳士とすれ違った男——金髪の、背の高い男だった——が、パッと紳士のバッグを引ったくると、駆け出したのだった。 「——おい! 待て!」  紳士も唖《あ》然《ぜん》としたらしい。声を上げた時には、もう金髪の男の方は、人の間をすり抜けて、出口へ向って駆けていた。  全く、反射的な行動だった。——奈々子は特別に度胸がいいわけでもないし、柔道や空手の心得があるわけでもない。  それなのに、そのかっぱらいが、目の前五、六メートルの所を駆け抜けようとしているのを見ると、思わずパッと飛び出していたのである。 「危《あぶな》いわ!」  と、美貴が叫んだ。「奈々子さん!」  ここは日本じゃないんだ。——奈々子にもそれは分っていた。  しかし、一旦飛び出したのを、今さら、止められやしない。  奈々子は、その金髪の男に、真横から体当りした。  相手も、まさかこんな所で邪魔が入るとは思ってもいなかったのだろう。  もののみごとに引っくり返ってしまった。かっぱらったバッグが手から飛んで、床を滑《すべ》って行く。  奈々子は駆けて行って、そのバッグを拾い上げた。  金髪の男は、立ち上って、奈々子へ向って行きそうにしたが、その時、空港の警備員が走って来るのが見えて、パッと出口の方へ駆け出した。  あの紳士が、やっと追いついて来て、 「やあ、これはどうも!——助かりましたよ」 「いいえ」  奈々子は、バッグをその紳士へ返した。「たまたまぶつかっただけです」 「ありがたい! パスポートも全部入っていたんです。これを盗られたら、困り果てるところでした」 「どういたしまして」  奈々子は、美貴たちの所へ戻った。  あの紳士が、やって来た警備員に、事情を説明している。 「驚いた!」  と、美貴が目を丸くして、「大胆なのね、奈々子さんって」 「本当」  と、ルミ子が肯《うなず》いて、「相手が武器持ってたら、殺されてたかも」  武器か。——そんなこと、考えもしなかったけど。 「私は、考える前に行動しちゃう人だから」  と、肩をすくめて、「それで殺されても自分のせい。文句は言わないわ」  ——森田も、ただ唖《あ》然《ぜん》として、声が出ない様子だ。  すると、 「ルミ子!」  と、声がして——どうやらこれが「ハンス」らしい。 「ハンス!」  ルミ子が駆けて行って、その男にキスした。 「いつの間に、あんなボーイフレンドを作ったのかしら」  と、美貴が言った。 「ハンスよ」  と、ルミ子が引っ張って来たのは、若いが、一応背広を着てネクタイもしめた、ブラウンの髪の若者だった。 「コンニチハ」  と、かたことの日本語で言って、何やらペラペラとドイツ語でしゃべり、奈々子の手を握った。  奈々子は呆《あつ》気《け》に取られて、 「何ですって?」  と、ルミ子に訊《き》く。 「勇気のある人だって、大感激してる」 「あ、そう」 「ヤアヤア」  と言うなり、ハンスは、奈々子にチュッとキスしたのだった。 「気楽にキスしないで」  と、真赤になって、奈々子は言った。 「『あ、そう』っていうのは、ドイツ語でも同じ意味なんですよ」  と、ルミ子が面白そうに言った。「だからハンス、奈々子さんがドイツ語分るのかと思ったみたい」 「冗談じゃない、って、ドイツ語で何て言うの?」  と、奈々子は訊いた……。    ハンスの運転する車で、奈々子たちはホテルへと向った。  途中、ハンスはルミ子と何やら話していた。——美貴が話を聞いていて、 「確かにそうだわ」  と、肯く。 「何が?」 「いえ、あのバッグを盗られた人のことです」 「ああ、あの人が何か?」 「かなり何度もこっちへ来てる人だ、って——」 「当人がそう言ってたわ」 「でも、おかしい、って」 「何が?」 「ハンスも、一部始終を見ていたらしいんですけど……」 「おかしいって」  と、ルミ子が言った。「盗ってくれ、と言わんばかりの持ち方をしてたって」  なるほど。確かに、いやに簡単にかっぱらわれてしまった。 「じゃ、どういうこと?」 「本当にこっちへ何度も来て、慣れてる人なら、あんな持ち方はしないって」 「初めてなのかしら、それじゃ」 「それでなければ」  と、ルミ子が言った。「わざと、盗らせたか、ですって」 「どうして、わざと盗らせたりするの?」 「渡したい物があったのかも」  と、ルミ子は言った。「渡したところを捕まったら、困るかもしれないでしょ。その点、引ったくりに遭って、バッグごとなくなっちゃえば……」 「じゃ、あの二人、仲間だった、っていうの?」  奈々子は唖然とした。 「かもしれませんね」  それを、私はわざわざ邪魔して、バッグを取り戻してしまった……。  奈々子は、また頭をかかえてしまった。  ——その内に車はホテルへ着く。 「フランクフルトでは一番格式の高いホテルです」  と、美貴は言った。「もう入れるかどうか訊いてみますね」  なるほど。時差で、今はまだ朝なのだ。 「——もう入れますって」  と、美貴は言った。 「助かった!」  と、奈々子は声を上げた。「一眠りできるぞ!」 「部屋へ行って少し休みましょう」  と、美貴が言った。  さすがに、奈々子もくたびれていた。  美貴と二人で泊るには、少し広すぎるくらいのツインルーム。 「くたびれた!」  と、奈々子はベッドの上にドタッと倒れてしまった。 「——少し眠るといいですわ」  と、美貴は言った。 「ええ……」 「午後、時間があったら、ゲーテの家でもご覧になったら?」 「うん……」 「ゲーテの家といっても、別にそう珍しいというもんじゃありませんけど。——ゲーテはお好き?」  返事がない。  奈々子は、もうベッドでいびきをかいて眠り込んでいたのである。 14 冴《さ》えた奈々子  あの、いささか謎《なぞ》めいた老紳士——いや実際はもっと若いのかもしれないが——から、「美貴とルミ子の先生」かと訊《き》かれてショックを受けた奈々子だったが、ここ、フランクフルトのホテル、フランクフルターホフでは、若いところを立証して見せた。  朝の内にホテルへ入り、ベッドに引っくり返るなり、グーッと二、三時間ぐっすり眠ってしまった奈々子、目が覚めると、すっかり旅の疲れも取れて、今度はまたグーッと……。  これはお腹の方が空腹を訴えているのだった。 「——お目覚め?」  美貴がもう、着替えをして、ソファに座っている。 「あら……。もう朝かしら?」  なんて、やっぱり多少はボーッとしているらしい。 「お昼ご飯にしましょう、って、今、ルミ子から電話があったところ。——先にロビーへ行ってますわ。シャワーでも浴びて着替えられた方が」 「あ、そうですね。じゃ、そうさせていただこうかしら」  と、奈々子はブルブルッと頭を振った。  犬が雨に濡《ぬ》れて、水を切ってるみたいだ。 「街へ出ようと思ってるから、軽装でいらしてね」  と、美貴は言った。 「ええ。でも水着じゃ困るでしょ?」  奈々子も、冗談を言うだけの元気が出ていたのである。  ——シャワーを浴びて、スッキリすると、 「ヨーロッパだ!」  と、奈々子は声に出して言った。  もちろん、浮かれていちゃいけないのだが、しかし、遠路はるばるやって来たのだという感激は、味わって、悪いこともあるまい。  次の感激は——ホテルを出て、近くの広くてにぎやかなレストランで食べたソーセージのおいしかったことである。  そうか。——ここはフランクフルトだ。  それこそ本場のフランクフルトソーセージ!  結構大きなソーセージ四本をペロリと平らげて、奈々子は満足だった。 「すっかり気分も良くなったみたい」  と、ルミ子が言った。 「ええ」  奈々子は胸を張って、「矢でも鉄砲でも持って来い!」 「かなわねえな」  と、ブツクサ言っているのは、森田である。 「何よ、何か文句あんの?」  と、奈々子は森田をにらんだ。 「いいか。日本とドイツってのは時差があるんだ」 「それぐらい知ってるわよ」  と、奈々子は言った。 「普通の人なら……時差ボケってのにやられるんだ」  と、言いながら、森田は欠伸《 あ く び》している。 「もうトシね」  と、奈々子は言ってやった。 「何だと!」 「ちょっと」  と、ルミ子が顔をしかめて、「あんた、ボディガードでしょ。用のない時は黙ってりゃいいの」  ムッとして、森田はソーセージを食べ続けていた。 「時差ボケでも、食欲は落ちないみたいね」  と、奈々子は言った。  ところで——当然、この席にはハンスという青年も一緒だった。  ルミ子が前にドイツへ遊びに来た時、知り合った、ということだが、体は大きくても年齢は二十歳、という。 「この人、今はヒマなんで、ともかくお手伝いすると言ってるから」  と、ルミ子は言った。  ハンスはニッコリ笑って肯《うなず》く。いかにも人の好さそうな笑顔だった。 「——そうだ」  と、奈々子は、食後のコーヒーを飲みながら、「これから、どういう予定なんですか?」 「ええ」  美貴は、ちょっと息をついて、「ともかく主人のいなくなった所まで、私たちの道すじを辿《たど》ってみようと思うの」 「いなくなったのって、どこなんですか」  と、奈々子は訊《き》いた。 「ミュンヘンの郊外のホテルなの」  そういえば、ミュンヘンなんて町もあったわね、と奈々子は思った。  ともかく出発まで忙しくて、事前に予備知識を仕入れる時間なんて、全然なかったのである。  ま、ダンケぐらい知ってりゃ何とかなるでしょ、と無茶なことを考えて、やって来たのだ。 「このフランクフルトでは、何したの?」  と、ルミ子が訊く。 「ここは大きな都会だけど、そう見て回る所ってないのよね。むしろビジネスの町ですから」  しかし、もし三枝成正が、志村の言っていたように、密輸に係《かかわ》っていたとしたら、こういう大都会の方が、何かありそうな気もする……。  奈々子は、やっと本来の役目に立ち戻って、そう考えたりしていた。 「ゲーテ博物館へ行って、それから三越で買物して……。二日しかいなかったから、そんなものね」 「三越があるんですか」  と、奈々子は言った。 「ええ、このすぐ近く」 「伊勢丹は?」  訊いてから、奈々子は後悔した。  ——食事を終えて、ともかく一同、店を出ると、その三越デパートへ足を向けたのだった……。   「いらっしゃいませ」  日本語で挨《あい》拶《さつ》されるっていうのも、何となく妙な感じではあった。  もちろん、デパートといっても、日本のそれのように大きくはない。しかし、ズラッと売子に日本人の若い女性が揃《そろ》っているのには、奈々子もびっくりしてしまった。 「これはどうも」  と、かなり上の方らしい男性が、美貴のことを思い出したようで、急ぎ足でやって来た。 「三枝様でございますね」 「ええ」  と、美貴は肯いた。 「その節はどうも……。ご主人のこと、気にはなっていたんでございますが」 「ありがとう。——まだ行方が分りませんので」 「さようでございますか。ご心配ですね」  と、男の方も、深刻な顔で肯く。 「こちらへ立ち寄られた日本の方から、何かお聞きじゃありません?」 「残念ながら……。お話をうかがって、気を付けてはいたんでございますが」 「そうですか」  ——奈々子は、その対話に耳を傾けながら、目はついウインドーの方を向いていた。  と、女店員の一人が仕事の手を休めて、美貴の方を見ると、あっという顔になった。  奈々子は、美貴をチョイとつついて、 「あそこの女の人、何か話がありそうですけど」  と、言った。 「え?」  男の方が目をやって、 「何だ。大江君じゃないか。——大江君」 「はい」  その女店員がやって来る。 「何か知ってるのかい?」 「あの——今日、主任さんがお出かけになってる時に」 「どうした?」 「男の方がみえて……。この女の人を見かけないか、って」 「女の人?」 「ええ」  その女店員は、美貴を見て、「この方の写真を見せたんです」 「まあ」  美貴の頬が紅潮した。「それ——どんな男の人でした? 二十六、七の、背の高い——」  夫のことを言っているのだろう。  しかし、女店員は首を振った。 「いいえ、そんな方じゃありません」 「じゃ——」 「もっとお年《と》齢《し》の方です」 「いくつぐらいの?」 「たぶん……五十から六十くらいで。髪が少し白くなっていて……」 「——誰かしら?」  と、ルミ子が言った。「どう見ても三枝さんじゃないね」 「他には何か?」 「いいえ」 「よくみえるお客かい?」  と、主任の男性が言った。 「さあ。たぶん初めてだと思います。入って来られた時の様子が」 「なるほどね」  と、ルミ子は肯いた。「お姉さん、心当りは?」 「ないわ。そんなお知り合い、こっちにはいないし」 「でも、お姉さんの写真を——」 「ちょっと」  と、奈々子は割って入った。「その写真、どんな写真だった?」 「そうだわ!」  と、美貴は目を輝かせて、「奈々子さんって頭がいいのね」 「どういたしまして」 「俺だって、今考えた」  と、森田が呟《つぶや》いた。  その女店員が、少し考えてから、写真の美貴の服装を説明すると、 「それ——今日、こっちへ来る時に着てた服だわ」  と、美貴が面食らって言った。 「前には着なかったんですか?」  と、奈々子が訊《き》くと、 「ええ。今度の旅のために買ったんですもの、それ」 「じゃ、どこでそんな写真を——」  みんなが顔を見合わせる。  待てよ、と奈々子は思った。  五十から六十ぐらいの、髪の白くなった……。どこかで、そんな人を——。 「そうだわ!」  奈々子が大声を上げたので、店の中が、シンと静まり返った。 「——耳が痛かったぞ」  と、森田が言った。 「ね、美貴さん、あの人だわ、それ」 「え?」 「ほら、ファーストクラスに乗ってて、空港で私がバッグを取り返した……」 「まあ! 本当ね。それなら——」 「写真はきっと、飛行機の中か、アンカレッジで、そっと撮ったんだわ」 「そうですね」  と、女店員が言った。「あれ、アンカレッジの空港でした」  美貴は、戸《と》惑《まど》って、 「一体誰なのかしら、その人」  と、首をかしげる。 「その人、何か言ってた?」 「いえ。何とも言わずに帰られましたけど」  ——どうもいやな予感がする。  奈々子は、あの紳士と、またどこかで出くわしそうな気がした。 15 ディスコの男 「あなたは天才だって言ってるわ」  と、ルミ子がハンスの言葉を通訳した。 「いえいえ」  と、奈々子はしきりに照れている。  ——ともかく、せっかくフランクフルトへ来たんだし、というので、呑《のん》気《き》すぎるような気もしたが、「ゲーテの家」というやつへやって来た。  ゲーテったって、奈々子も名前ぐらいは知ってるが、今どき、「ウェルテル」だの「ファウスト」だの読む若者は、少なくなってしまった。  奈々子も、ご多分に洩《も》れず、 「ゲーテってのは偉い文豪だった」というだけの感想を持って、「ゲーテの家」を出たのである。 「これから、ちょっと会いたい人がいるの」  と、美貴は言った。「主人の会社の出張所があるのよ。そこの所長さんに。——奈々子さん、町の見物でもなさるのなら……」 「まさか」 「でも——」 「私、あなたのお父様に頼まれてるんですから。いくら怠け者でも、頼まれたことは、ちゃんとやります」 「ありがとう」  と、美貴は微《ほほ》笑《え》んだ。「じゃ、ホテルへ戻《もど》りましょう。そろそろ所長さんがみえてるはずだわ」  一同は、歩いて五、六分のホテルへ戻った。  ロビーは、もちろん広いことも広いが、落ちついた居間、という雰《ふん》囲《い》気《き》で、日本のホテルのロビーみたいに、待ち合せの人で溢《あふ》れてるなんてことはない。  小柄で、丸々と太った日本人の男性がソファから立ち上った。 「これは三枝君の奥さん」 「どうも、お忙しいのに、すみません」  と、美貴は頭を下げた。  ——しかし、その出張所の所長(といっても部下は現地の女性が一人いるだけらしい)から、新しい情報は入らなかった。 「一応、ここの警察の知り合いを通して、昨日もミュンヘンへ連絡して問合せてもらったのですがね」  と、所長は言った。「目新しい情報はないようです」  ま、着いた初日に、次から次へと何か分れば、こんな楽なことはない。  その点では、あの白髪の男のことが引っかかって来ただけでも、何もないよりはましだろう。  美貴が、話を切り上げようとした時、 「ね、お姉さん」  と、ルミ子が言った。「あのおじいさんのこと、訊《き》いてみれば」 「そうね。所長さん、実は……」  美貴が、例の白髪の男のことを、説明して、「こっちへ何度も来ている、と本人は言っていたようですけど、何か、心当りはありませんか」  と、言った。 「さてね——」  太った所長は、ハンカチで額の汗を拭《ふ》いて、「日本人は多いですからね、この町は」 「そうでしょうね。——無理なことをうかがって、すみません」 「いやいや」  と、所長は立ち上った。  ——奈々子は、あの白髪の初老の男のことを思い出していた。  あの空港での歩き方。いやに若々しかったわ。  アンカレッジでは、あんな風ではなかった。  奈々子も気分が良くなかったから、はっきり憶《おぼ》えているわけではないが、もっと「老人らしい」歩き方だったような気がする。  もしそうなら、あれはわざとそうして歩いていた、ということになる。  つまり、もっと若い男なのかもしれない。  前にもそんな印象を持ったが、奈々子は、はっきり、確信を持ったのだった……。    あれやこれやで、すぐドイツ第一日目は夜になり、奈々子たちは、ホテルのダイニングルームで食事を取った。  量の多いこともあって、何だか一日中食べてばっかりいるようだ、と奈々子は思った。もちろん、それがいやだってわけじゃないのだが。  少々堅苦しいレストランか、と思ったが、そんなこともなく、至って気さくなマネージャーらしい男性がニコニコしながら、 「イラッシャイマセ」  なんてやって、笑わせてくれる。 「——でも何ですね」  と、奈々子は、部屋のキーを取り出して、「こういう由《ゆい》緒《しよ》あるホテルにしちゃ、ちょっとがっかり」 「本当ね。ヨーロッパの古いホテルは、キーも、古い、こったものが多いんだけど。時代ってものね」  キーといっても、鍵《かぎ》じゃない。磁気カードなのだ。これをスリットへ差し込むと、鍵が開く。  何だか味気ないのである。  食事をしながら、ルミ子とハンスが、何やらヒソヒソ話している。 「——お姉さん」  と、ルミ子が言った。 「なあに?」 「夜、ハンスと出かけていい?」 「どこに行くの?」 「ディスコ」 「まあ。——大丈夫?」 「平気よ。安全な所を知ってるから、ハンスなら」 「あんまり遅くならないのよ」 「へへ、やった!」  と、ルミ子、ハンスをつついている。  それからルミ子は、奈々子の方を見て、 「奈々子さん、ご一緒にどう?」 「私? やめとくわ」 「どうして?」 「だって、仕事が——」 「いいじゃない。じゃ、お姉さんも一緒なら?」 「ルミ子ったら」  と、美貴が苦笑する。「奈々子さん、私なら構いませんから、行ってらしたら?」 「いえ、そんなわけにはいきません」  大体、奈々子は、ディスコとかいうものがあまり得意でない。 「それに、まだ体調万全じゃないし」 「そんだけ食って?」  と、森田が言った。 「うるさいわね。あんた、どこへ出かけるの?」 「俺は——ちょっと散歩だ」  と、そっぽを向く。 「怪しげな所へ行くんじゃないの?」 「馬鹿言うな!」  と、むきになったところを見ると、満更、その気もないではないらしい。  ハンスが何か言った。ルミ子が訳して、 「ポルノショップみたいな所へ行くのなら、よほどよく知っている人と一緒でないと危いんですって」 「誰もそんなこと言ってない!」  と、森田が目をむいた。 「よっぽど、そういうとこへ行きそうに見えんのよ」  と、奈々子は面白がって言った。 「まさか——」  と、美貴が、ふと呟《つぶや》くように言った。 「え?」 「いえ……。ここへ着いた次の日の夜、主人が夕食の後、出かけたの」 「どこへ?」 「分らないわ。何も言わなかった。『ちょっと出て来る』、とだけ言って……。まさか、そんな所へ行ったんじゃ……」 「ハネムーンで? まさか」  と、ルミ子が言った。 「そうね。ただ……」 「何なの?」 「戻って来た時、あの人の上衣に、かすかに香水の匂《にお》いがしたの。今、思い出したわ」  奈々子とルミ子は顔を見合せた。  もしかするとそれは、殺された若村麻衣子と会っていたのかも……。  いや、それはおかしい。そんなに早く、若村麻衣子が、二人に追いつけるはずがない。 「お姉さん」  と、ルミ子が言った。「気晴しにディスコでワーッとやろうよ!」 「ワーッ!」  と、ハンスがおどけた。  みんな一斉に大笑いした。  ディスコってのは、どこも同じようなもんね、と奈々子は思った。  騒々しくて、人が多くて、空気が悪くて……。  でも、静かで閑散としたディスコなんて、却《かえ》って気味が悪いかもしれない。  ともかく——奈々子は踊らなかったが、全員揃《そろ》ってディスコへやって来ていたのである。  ハンスが連れて来ただけあって、至って明るく、陽気な店で、日本人の観光客も、結構目につく。  ハンスとルミ子は疲れも知らずに、踊っていた。 「——元気ねえ」  と、テーブルで、アップルジュースを飲みながら、奈々子は感心した。 「奈々子さんだって若いのに」  と、美貴が言った。 「いいえ。——私はご存知の通り、盆踊り専門」  美貴が笑った。  奈々子は、店の中を見回した。  もちろん、ほとんどはドイツ人だろう。体の大きいこと……。奈々子たちなんか、「お子様」に見えるに違いない。  ふと——奈々子は、一人の金髪の男に目を止めた。  まさか……。見間違いかもしれない。  でも、もしかして……。  その、長身の金髪の男は、空港で、あの初老の紳士のバッグを引ったくった男とよく似ていたのだ。 16 押し倒されて  外国で、男性から話しかけられて、言葉も分らないのに、何となくニヤニヤして、 「ヤアヤア」  とか言ったりするのが、日本の女の子の悪いくせ。  などと、ガイドブックとか、女性週刊誌の〈海外旅行で被害にあわないために!〉なんて特集によくのっている。  それは奈々子とて知らないわけではなかった。しかし、頭で分った通りに行動できりゃ、人間誰も苦労しないのである。  ルミ子はハンスと相変らず元気に踊っていて、美貴はちょっとトイレに立っていた。そこへ——。  ペラペラペラ、と何やらドイツ話で話しかけられて、テーブルに残っていた奈々子は焦った。いや、果してそれがドイツ話であったかどうかも、定かではないが、日本語以外なら、何語だって同じことである。  そうそう。テーブルにはもう一人、あの森田という頼りないボディガードが座っていたのだが、時差ボケに、ここでワインなど飲んだせいか、コックリコックリ居眠りをしていたのだ。  従って、奈々子は一人きりでいるのと同じだったわけで、そこへ、 「ペラペラ」  と、話しかけられてしまったのである。  いや、その若い男は、もちろん「ペラペラ」と言ったのではない。何か言ったのだろうが、奈々子にはさっぱり分らない。  ここで、奈々子は、「絶対にやってはいけないこと」をやってしまった。相手がにこやかに微《ほほ》笑《え》んでいるので、やはりこっちも笑わなきゃいけない、と思った。  日独の親善のために——というのはオーバーだが——奈々子は、つい、ニコニコ笑いながら、 「ヤアヤア」  と、言ってしまった。  そしたら、その若い男にいきなりギュッと腕をつかまれて、ぐいと引張られた。 「ワッ! 危《あぶな》いじゃないの! 転んだらどうすんのよ!」  と、奈々子は抗議したが、全然相手には通じない。  何だかわけの分らない内に、フロアの真中へ引張り出されてしまった。  ともかく、一緒に踊ろう、と誘われたらしいのだ。しかし、奈々子としては、こんな所まで来て、恥をさらしたくはなかった。  将来、もしハネムーンにフランクフルトへ来ることがあって、このディスコで、 「ちょっとおかしな日本の女が、ここで珍妙な民族舞踊を披《ひ》露《ろう》した」  なんてのが語りぐさになっていたりしたら、見っともないではないか!  で——奈々子は、フロアの中央に、頑《がん》として突っ立って動かずにいたのだった。  すると——さっき見かけた、あの金髪の男が、不意に目の前に現われた。  さっきは、すぐ人の間に紛《まぎ》れて、見失ってしまったのだが、今度は目の前に立っているのだ。  チャンス、と思った。それに、近くで見ると、確かにあの時の男のように見える。  その男は、誰かを捜している様子だった。  踊っている人の間をかき分けて、右へ左へ、忙しく頭をめぐらせている。  奈々子は、その男の腕をつかんだ。相手がびっくりして、奈々子を見る。 「捕まえた! ちょっと来てよ! あんたに話があるんだから」  もちろん、こっちの言ってることなんて分らないだろうが、構やしない。奈々子は、その男を、自分たちのテーブルへ引張って行こうとした。  すると——。 「何するんだ!」  と、その金髪の男が、日本語で言った。  これには奈々子も仰天した。  何するんだ、というドイツ語があるのかしら? 「あの——あんたドイツ人じゃないの?」  と、奈々子は訊《き》いた。 「ドイツ人だって、日本語をしゃべる人間はいる」  と、その男は、もっともなことを言った……。 「じゃ、ちょうどいいわ。ちょっと来てよ」  と、奈々子が引張ろうとすると、 「僕は忙しいんだ! 火遊びの相手がほしいんなら、他のにしてくれ」  いくらかは外国人ぽいアクセントだが、実にさまになった日本語だった。 「あのね——」  と、奈々子は言った。「…………」  ちゃんと奈々子はしゃべったのである。  しかし、それまでは比較的静かな音楽が流れていたフロアに、いきなり、耳をつんざく大音響が鳴り渡って、何を怒《ど》鳴《な》ろうと、全く聞こえなくなってしまった。  その男も怒鳴り返したが、奈々子には全然聞こえない。それに向って、また奈々子が怒鳴る。  ——二人は実に虚《むな》しいやりとりをくり返していた。  その内、相手の男も、うんざりしたように天井へ目をやると、いきなり奈々子の手を引いて、どんどん歩き始めた。 「ちょっと!——私のテーブルはあっちよ! あっち!」  と、抗議したが、もちろん相手の耳には届かない。  どうも、今夜は強引にどこかへ引張られる夜のようだ。  結局、奈々子は店の外まで連れ出されてしまった。 「——あんた、何よ、かよわい女の子を」  自分で言うセリフにしては、少々妙なものだった。  男は、やっと手を離すと、奈々子と向い合って、 「君の相手をしてるヒマはない! それが分れば、とっとと帰れ!」  ——このころになると、その男が、空港であの老紳士のバッグを奪《うば》った男だという奈々子の確信は、揺ぎ始めていた。  何となく、あっちはもう少し若かったような気がする。  ま、こっちも、もちろん若い。しかし、身なりはもう少しきちんとしていて、ヘアスタイルも、ちょっと違ってるみたいだし……。 「あのね」  と、奈々子は言った。「変な誤解しないでよ」 「誤解?」 「私はね、あんたに、ちょっと確かめたいことがあっただけ」 「何だ、一体?」 「あの——私とぶつからなかった?」 「君と?」 「空港で——その——私と」 「空港? いつの話だ?」 「いえ、別に……。違ってりゃいいの」  奈々子は、どうもここは引っ込んだ方がいい、と判断した。 「待てよ。空港でぶつかった、なんて、まるで僕がスリかかっぱらいみたいじゃないか!」 「当り」 「え?」 「本当にそうなの?」 「冗談じゃない、僕は——」  と、言いかけて、その男は、言葉を切った。 「あのね、やっぱり人違いだったみたい。失礼しました」 「動かないで」 「え?」 「じっとして」 「何よ、忙しいとか言っといて——」  突然、奈々子は、その男に抱きかかえられて、地面に押し倒された。  いきなり、こんな所で!——外国の男って、何てせっかちなんだ! このエッチ!  だが、それは奈々子の誤解だった。  バン、バン、という音が夜の街に響いて、ガラスの砕ける音がした。  続いて、車の音。猛スピードで、車が走り去って行く。 「——やれやれ」  と、男は起き上って、「びっくりしただろう」 「何事?」  と、奈々子はキョトンとしている。 「銃で撃たれるところだったんだ」 「撃たれる?」  奈々子は、立ち上った。——すぐそばに停《とま》っていた車の窓が、粉《こな》々《ごな》に砕けている。 「これが——?」 「誰かが、拳《けん》銃《じゆう》で狙った。君は、何か憶《おぼ》えが?」 「私? まさか! こんな——」 「かよわい女の子を、か」  金髪の男は、愉快そうに笑った。「いや、面白い子だな、君は」 「あんた、どうしてそんなに日本語がうまいの?」 「日本の大学に通ってたからだ。君は東京から?」 「そうよ」  と、奈々子が肯《うなず》く。「だけど——」 「奈々子さん」  と、店から出て来たのは、ルミ子だった。  ハンスも一緒だ。 「良かった! ここだったのね。姿が見えないから、お姉さんが心配して——。この人、どなた?」  と、その金髪の男を眺める。 「知らない」 「じゃ、僕は失礼」  と、日本語で言って、その男がさっさと歩いて行ったので、ルミ子はびっくりした。 「——驚いた! 奈々子さん、それじゃあの人と、どこかへ行くつもりだったの?」 「どこか、って?」 「どこか……。恋を語るとか」 「よしてよ!」  と、奈々子は言った。「ここで押し倒されただけ」  ルミ子が目を丸くする。  と、あの男、少し行ってから、クルッと振り向くと、トコトコ戻《もど》って来た。 「な、何よ。文句あんの?」  と、奈々子は強がって見せた。  何しろこっちは三人である。 「僕はペーター。君は?」 「私?——奈々子」 「そうか」  で——そのまま、また行っちゃったのである。 「あれ、何?」  と、ルミ子がキョトンとして見送っている。 「さあ」  と、奈々子は首をかしげた。  しかし——本当に今の男、ペーターとかいったが、あの空港の、かっぱらいとは別人だろうか?  奈々子には、よく分らなかった。 「——あら、いたのね」  と、美貴が店から出て来た。「良かったわ!」 「ご心配かけて」 「いいえ。何でもなかったのなら、いいんだけど……」 「大したことないんです」  と、奈々子は言った。「何だか、ペーターとかいう男に押し倒されて」 「え?」 「それと、ピストルで撃たれそうになったんです。それだけ」  自分で言ってから、奈々子は、結構大変なことだったのかもしれないわ、と思ったのだった。  ともあれ、フランクフルトの夜は、何とか死人も出ずに終り——ただ、ホテルへ引き上げてから、みんなは気付いたのだった。  あのディスコに忘れものをして来たことに。  ——森田が一人で、店に残っていたのである……。 17 突然のラブシーン 「天高く、馬肥《こ》ゆる秋」  なんて、奈々子は呟《つぶや》いた。  特に理由はない。  本当は、「芸術の都、ミュンヘン」と言おうとしたのである。それが「芸術の秋」になり、「天高く——」「食欲の秋」の方へと行ってしまったのだった。  しかし、ミュンヘンはともかく、美しい街だった。  フランクフルトが、大都会らしく雑然としていたのに比べると、こっちはぐっと静かで、落ちついている。  もちろん、観光客は多い。しかし、石造りの古びた街並の方が、騒がしい観光客に勝っているのだ。  ——さて、奈々子たちは、〈ホテル・フィアーヤーレスツァイテン〉に入って、一息ついていた。  長い名前であるが、日本語なら、結構なじみがある言葉——〈四季〉という意味なのである。 「で、警察の方では何て?」  昼食を、ホテルのレストランで取りながら、奈々子は訊《き》いた。 「それが妙なの」  と、美貴は言った。 「私がハンスに電話してもらったのよ」  と、ルミ子は言った。 「でたらめなんじゃないのか」  と、森田が相変らず憎まれ口をきく。 「どうして私が嘘《うそ》をつくのよ」 「そりゃ知らないけどな。日本語ペラペラのドイツ人に、いきなり押し倒されて、ピストルで狙《ねら》われたなんて、誰も信じるもんか」 「ディスコに置き去りにされて、怒ってんのね」  と、奈々子は言い返した。「心細くて泣いてたんでしょ」 「何だと!」 「二人とも、やめて」  と、美貴が言った。「ルミ子、話をつづけて」 「うん。——ちゃんと警察には届けたし、向うも、その時は、色々調べてくれたのよ。ところが、今朝電話してみたら、『あれはもう処理済だ』って一言でチョン」 「処理済?」 「そう。妙な話よね」  と、ルミ子は首を振った。  ハンスが何か言った。ルミ子は、肯《うなず》きながら、 「ハンスの言うには、観光客相手の強盗か何かだと思って、本気で調べていないんじゃないかって」 「ま、いいですけどね」  と、奈々子は、肩をすくめた。「日本じゃ、爆弾で店ごと吹っ飛ばされそうになるし、刺し殺されそうになるし、ドイツじゃ撃たれそうになるし……。どうせ私は長生きできないんだわ」 「そうだな」  と、森田は言った。「せいぜい生きても九十年だな」  奈々子はつかみかかろうとして、ルミ子に止められたのだった……。    午後から、一行は町へ出た。 「昼間はドイツ博物館を回ったの。で、夕食を取って、夜は二人でオペラを見たのよ」 「オペラ……」  奈々子は一瞬考えた。——美貴と三枝の足跡を辿《たど》る旅をしているわけだが、オペラを見ていて眠らずにすむだろうか? 「——いいお天気」  と、ルミ子は言った。「じゃ、ともかく、ドイツ博物館へ行きましょうよ」 「ドイツって、一つしかないんですか、博物館?」  と、奈々子は訊《き》いた。 「いいえ。どうして?」 「だって、他にもあるなら、ドイツの博物館はみんな〈ドイツ博物館〉じゃないかと思って」  奈々子なりに、筋の通った意見だったのである……。  ホテルを後に歩きかけると、後ろから、呼ぶ声がした。 「——あら、奈々子さん、お電話ですって」  と、美貴が言った。 「私に?」 「浅田さんて言ったもの」 「でも——誰だろ」  奈々子はホテルのロビーへ入って、フロントの電話に出た。 「ええと——ハロー、もしもし。グーテンターク」  向うから笑い声が聞こえて来た。 「いや、元気そうだね」 「志村さんですね」  と、奈々子はホッとした。 「どうかね、そっちは」 「ま、私以外の人は無事です」 「頑《がん》張《ば》ってくれ。——今、美貴はそばに?」 「いいえ。でも近くですよ。呼びましょうか?」 「いや、いいんだ」  と、志村はやや重苦しい声になった。「実は、警察の人間が来てね」 「もう伝わったんですか」 「何が?」 「あ、いえ。——何の用事で?」 「うん。三枝君のことだ。どうも、彼が密輸に係っていたのは事実だったらしい」 「じゃ、そのせいで殺されたと?」 「こっちでも、受け入れ側を捜査しているということでね。何か知らないか、と刑事がやって来たんだ」 「じゃますます絶望的ですね」  と、奈々子は祈るように、「私のお葬式は出して下さいね」 「心配するな。君の家族は?」  真面目に訊《き》かれて、ますます奈々子は、暗い気分になってしまったのだった……。   「——飛行機だ」  と、奈々子は目をパチクリさせた。  ——ドイツ博物館へとやってきた一行は、まず入口の前庭に当る場所にでんと置かれた本物の飛行機に目を丸くしてしまったのだった。  いや、美貴は前に来て知っているわけだが、ルミ子もここは初めてで、 「へえ! どうやってここに降りたんだろう?」  なんて、奈々子の考えてるのと同じことを言い出した。  もちろん、着陸できるわけはない。ここへ運んで来たのだ。  しかし、本物の輸送機が置いてあるというのは凄《すご》い——なんて思っていたら、それどころじゃなかった。  奈々子は、〈ドイツ博物館〉なんていうから、日本でいうと〈郷土館〉みたいなものかと思っていたのだが、とんでもない話で、何しろ中の広いこと……。  飛行機、船、列車、自動車から——およそ産業全般にわたって、「何でも」置いてあるのだ。  しかも、どれも本物。——船や飛行機も、全部、実物が並んでいる。  奈々子は、すっかり圧倒されてしまった。  ルミ子も大喜びで、ハンスと写真をとり合ったりしている。 「——これ全部見て回ったんですか」  と、奈々子は、美貴に訊いた。 「いいえ。ともかくここ、全部見て回ったら一日じゃ終らないくらい。あの人、車が好きだから、自動車の所を、長く見てたわ」  ——奈々子は、船の陳列を見て歩いていた。  第二次大戦の時、ドイツ軍が連合国を震え上らせた潜水艦、「Uボート」も、本物が置いてある。船腹を開いて、中が見えるようになっている。 「狭いんだ」  と、乗組員のベッドとか、部屋を見て、奈々子は首を振った。「こんな所で、良く何か月も暮せたなあ」 「全くだね」  と、声がした。  振り向いた奈々子はびっくりした。——フランクフルトにいた、ペーターという男ではないか!  今日は、背広にネクタイというスタイルである。 「あんた——」 「しっ」  と、ペーターは、奈々子の腕を取って、「他の人たちはあっちにいる。——来てくれ」 「でも……」  奈々子は、細い通路を通って、静かな場所へ出ると、「あなた、何者?」  と、訊いた。 「僕は、日本流に言うと、麻薬捜査官だ」 「麻薬?」  ペーターは肯《うなず》いた。 「君らがミュンヘンに発《た》ったと知ったんで、追いかけて来たんだよ」 「私は悪いことなんかしてないわよ」 「分ってる」  と、ペーターは言った。「君に嘘《うそ》をついて悪かった。君と、フランクフルトの空港でぶつかったのは、確かに僕だ」 「やっぱり!」  と、奈々子はホッとして、「私の記憶力も、捨てたもんじゃないわね」 「全くだ。君らの旅のグループのことも、調べたよ」 「何が分ったの?」 「君がユニークな女性だってことがね」  と、ペーターは微《ほほ》笑《え》んだ。 「そんなことより、あの時、あなたがぶつかった年寄りは誰なの?」 「年寄りなんかじゃない。あの男はせいぜい四十歳ってところだろう」 「やっぱりね。歩き方が若かった」 「あいつは、日本からマークされている人間なんだ。しかし、『やっぱり』というのは?」 「あのね——」  と、言いかけて、「でも、あんたが信用できるって証拠はどこにあるの?」 「疑うのかい?」 「そりゃ、知らない人ですものね」 「うむ。——困ったな」 「味方であることを立証せよ」  と、奈々子は言ってやった。 「よし」  と、肯いた、と思うと……。  ペーターは、奈々子を抱きしめて、熱烈なキスをしたのだった……。 18 金髪の彼氏 「じゃ、ディスコの前で撃たれたのは、私じゃなくて、あんただったのね」  と、奈々子は言った。「良かった! 何で悪いこともしてない私が狙《ねら》われるのか、って悩んでたのよ」 「いや、すまなかった」  と、ペーターが、みごとな日本語で言う。「あの店で、僕は情報屋と会うことになっていたんだ」 「へえ」 「その男はやって来なかった」 「私が邪魔したから?」 「そうじゃない」  と、ペーターは首を振って、「翌朝、死体になって見付かった」 「あら」  ——奈々子は、私も、いつかこんな風に話の種になって終るのかしら、と考えた。 「ありゃ変った女だった。殺しても死にそうもなかったけど、やっぱり死んだところを見ると、人間だったんだな」  とか……。  ところで——前章の終りで、ペーターと熱いキスを交わしていた奈々子だが、今はこんなに冷静に話をしている。  あのキスの結果、どうなったかというと……。まあ、ペーターの頬《ほお》にまだ赤く手のあとが残っていることから、察しがつきそうである。  全く、ドイツ人ってのはむちゃくちゃだ!  いくら味方だって証明する方法がないからって、キスすりゃいいってもんでもあるまいが。 「——まだ痛い」  と、ペーターが頬をさわって息をついた。 「自《じ》業《ごう》自《じ》得《とく》ってもんよ」  と、奈々子は言ってやったが、多少は力を入れすぎたかな、という気もあって、「そんなに痛い?」 「愛情の表現だと思えば、我慢できるよ」  ペーターの言葉に、奈々子は笑い出してしまった。  このカラッとしたところが、奈々子らしさなのである。なかなか、ロマンチックなムードにゃなりそうにない。  まだ二人はドイツ博物館の中にいた。何しろ、中は迷子になりそうなほど広い。 「——凄《すご》い博物館ねえ」  と、奈々子はペーターと一緒に歩きながら言った。 「ドイツ人ってのは、いざ物を揃《そろ》えるとか、集めるってことにかけては、徹底してるんだ。きちんと分類して、整理して、何から何まで集めなきゃ気がすまない」 「らしいわね」  と、奈々子は肯《うなず》いた。「圧倒される」  本物の蒸気機関車を見上げて歩きながら、奈々子は、 「私たちのこと、調べたって——。じゃ、この旅の目的も分ってるの?」 「行方不明になってる、三枝って男を捜しに来たんだろ?」 「そう。あんたも三枝さんに興味あるの」 「うん」  と、ペーターは肯いた。「こっちで消えたのは、やっぱり密輸に係《かかわ》り合ってたからだろう」 「美貴さん、可《か》哀《わい》そうに」  と、奈々子は首を振った。「そういえば、どこにいるのかなあ。私、美貴さんのボディガードなんだから、そばにいなきゃいけないのよ。それをあんたが、キスなんかするから」 「いや、失礼」  と、ペーターは笑った。「僕としては、君のことを守らなきゃいけないと思ってるんだよ」 「私?」 「ディスコの前で、僕と話しているのを見られてるだろ。僕の同類と思われたかもしれない」 「失礼ね。あんた男で、私は女よ。こう見えたってね」 「そう思わなきゃ、キスなんかしない」  それも理屈だ、と奈々子は思った。  ともかく、日本にいたって、爆弾で殺されかけたりしているので、奈々子、少々のことでは怖がったりしないのである。  これを正しくは、「やけ」になっている、と言うのかもしれない。 「——あ、ルミ子さんの声だ」  キャアキャア笑っている、明るい声が響いて来た。 「じゃ、僕はここで」  と、ペーターが言った。 「これからどうするの?」 「また会うことになるだろうね」  そう言ってニヤッと笑うと、ペーターは足早に、姿を消してしまった。 「——フン、きざな奴《やつ》」  と、奈々子は肩をすくめたが、まあそう悪い気もしなかった。  あのキスも、突然のことでもあり、道を歩いていて、ちょっと人とぶつかったようなもんだ(大分違うかな)。少なくとも、胸のときめく暇もなかったけど……。そう悪い奴でもなさそうじゃないの。 「——あ、いたいた」  と、ルミ子が奈々子を見付けて、「捜したのよ!」 「ごめんなさい」  と、奈々子は頭をかいて、「ちょっと船の中で昼寝してたもんだから……」  このジョークが、割合、まともに受け取られるのを見て、奈々子は少し反省した。——私って、そんなに変ったことをやる人間と見られてるんだろうか……。  奈々子たちは、自動車の集めてある一画へやって来た。 「わあ、クラシックカー!」  と、ルミ子が飛び上ってハンスの手を引張ると、 「ねえ! ここで写真とって!」  と、騒いでいる。 「——いいわねえ、若くって」  と、美貴が言った。 「美貴さんだって、若いじゃないですか」 「だけど、十代の子にはかなわないわよ」 「そんなこと言って! 若くない、ってのは、ああいうのを言うんです」  奈々子は、すっかりへばって、ベンチにのびている森田の方を指さした。 「あの人だって、若いでしょ、まだ」 「きっと、ふだんの栄養状態が悪いんでしょう」  と、奈々子は言った。「——三枝さん、ここに長くいたんですね?」 「そう。あの人、車が好きだから。——もう、ポルシェとか、その辺の車、いつまでも飽《あ》きずに見てて。私が呆《あき》れて先に行っちゃっても、三十分も来なかったわ」  と、美貴は微《ほほ》笑《え》んだ。  三十分も。——ということは、ここで、三枝は一人になったわけだ。  大体、ハネムーンに来て、夫と妻が長いこと別々になる、ということは少ないだろう。 「他に、ご主人が一人でいたってこと、ありました? フランクフルトで、夜、ちょっと出かけてらしたんですよね」 「ええ。その時以外は……。そうねえ。あんまりなかったと思うけど」  と、美貴は言った。 「ここで三十分ほど一人でおられた時はどうでした?」 「どうって?」 「誰かとひょっこり会ったとか、そんなことなかったでしょうか」 「さあ……。何も言ってなかったけど」  と、美貴は首をかしげた。  まあ、ハネムーンの最中でなくても、少しボーッとしたところのある美貴のことだ。少しぐらい夫の様子がおかしくても気が付くまい。  ——その後、もう少し博物館の中を見て回り、一行は引き上げることになった。  今度は、忘れずに森田もくっついて来ている。 「絵ハガキ、買って行こう」  外へ出た所で、大きな売店があり、色々売っている。ルミ子がハンスを引張って、中へ入って行った。 「——そうだわ」  と、美貴が言った。「思い出した」 「え?」 「あの時、帰りに絵ハガキを買おうって言ってたの、あの人。でも、出て来ると、さっさと行っちゃうんで、私、訊いたのよ。買わなくていいの、って」 「ご主人は何て?」 「くたびれたから、早く帰ろうって。絵ハガキなんか、どこででも買えるよ、って言って……。何だか、ちょっと苛《いら》々《いら》してるみたいだったわ」  すると——やはり三枝は、博物館の中で誰かに会ったのではないか。それとも、誰かを見かけて、会いたくないので、急いで帰ろうとした……。  フランクフルトの夜の外出、そしてここでの三十分。  その二つには意味がありそうだわ、と奈々子は思った。    拍手の音で、奈々子はハッと目が覚めた。  え? もう終っちゃったのかしら?  パチパチ、と拍手をして……。 「休《きゆう》憩《けい》だわ」  と、ルミ子が席を立つと、「奈々子さん、ロビーに出てみる?」 「ええ、それじゃ……」  やっぱり、眠ってしまった。  夕食でお腹も一杯。心地良く音楽なんか流れていたら、つい眠くなるのも無理はない。  ——ホテルから歩いて数分の、国立オペラ。  ボックス席というやつを一つ、奈々子たちのグループで占めていた。おかげで、奈々子が居眠りしても、あまり周囲に迷惑にはならなかったのである。  まだ拍手は続いていたが、奈々子はロビーへ出て、伸びをした。 「シュトラウスっていうから、ワルツかと思った」  と、奈々子は呟《つぶや》いた。  それは、ヨハン・シュトラウス。このオペラはリヒャルト・シュトラウスで、二人は別に親類でも何でもないということを、奈々子は初めて知ったのだった……。  ロビーが、まるで宮殿のように広くて立派である。——この辺が、日本の劇場とは大分違うのね、と奈々子は思った。  ボックスの番号を間違えないように、とよく確かめてから奈々子は、広い階段を下りて行った。  絵や彫刻の飾られた部屋で、簡単な飲物や軽食を出している。  奈々子は、ワインを一杯もらって、ゆっくりと周囲を見回した。 「——失礼」  ポンと肩を叩《たた》かれて振り向くと、タキシード姿の紳士。 「何だ、あんた、また来てたの」  ペーターである。 「ボックス席にいたね。下から見てたよ」  奈々子は、赤くなって、 「趣味悪いわね、全く!」  と、にらんでやった。 「いやいや」  ペーターは笑って、「リヒャルト・シュトラウスで眠っても、そう恥ずかしくはないさ。みんな一緒?」 「ええ。何人起きてたかは知らないけどね」 「今夜は日本人が少ないね。まあ、ツアーで見に来るようなプログラムじゃないんだろうけど」 「一人なの?」 「君と二人」 「今だけよ」  と、奈々子は言ってやった。 「何か食べる?」  お腹一杯、と言おうとして——おごってくれるのを断るのも、もったいない、と思い直すところが、我ながら情ない。 「じゃ——何があるの?」 「サンドイッチぐらいかな」 「いただくわ」  と、奈々子は言った。 19 消えた奈々子  で、まあ——当然予想されたことではあるのだが、次の幕でも、奈々子は十分としない内にウトウトし始めたのだった。  手にしていたバッグがストンと落ちて、ハッと目を覚ますと——オーケストラがワーッと鳴り出して、奈々子は飛び上るほどびっくりしてしまった。  その後は、眠ることもなく、曲も、じっと耳を傾けていればなかなか楽しいもので、 「オペラって、結構面白いじゃん」  などと考えたりしていた……。  幕が下りて、また拍手、拍手……。 「あと一幕ね」  と、美貴が言った。「奈々子さん、退屈じゃない?」 「いいえ。割といいもんですね」  何というオペラかも知らないで、言うもんである。 「——あいつはグーグー眠って」  森田は、休憩時間になっても、ほとんど起きることもなく、ひたすら眠りこけていた。 「人のことは言えませんけどね」  と、奈々子は笑って言った。 「ロビーへ出るわ。奈々子さんは?」 「私も」  またワインでもおごらせてやれ、と思っていたわけでは——多少、あった。  もちろん、ペーターが、また来ていればの話だが。  さっきのロビーへ来てみると、前より人が多く、中には目をみはるようなイヴニングドレスの女性もいる。 「はあ……」  と、思わず奈々子も見とれてしまった。  あの格《かつ》好《こう》そのものより、それが似合うということが凄《すご》い!  中に一人、真《しん》紅《く》のドレスに、どう見てもイミテーションとは思えない、重そうな(!)ダイヤのネックレスをした美女がいて、周囲の男たちの目をひいていた。  やはり、目立つ人は目立つのである。  すると——その女性にワイングラスを持って来て手渡している男……。  ペーターではないか!  奈々子は頭に来た。一人だとか言っといて!  しかし、本気で怒る気になれないのも、事実である。何といっても——奈々子と、その女性では、比較のしようもない。  奈々子は、ペーターと目が合うときまりが悪いので、そのままボックス席へと引き返すことにした。  ハンスとルミ子が腕を組んで、広い階段を下りて来る。  奈々子は、ボックス席に入って、誰もいないのを見て、肩をすくめた。どうやら、あの森田も、目が覚めて外へ出ているようだ。  美貴の席に、分厚いパンフレットが置いてあった。奈々子は、そのまま美貴の席にちょっと腰をおろすと、パンフレットをめくった。  もちろん、日本語じゃないから、何だか分らないので、パラパラめくって写真だけ見ていると——。  誰かがボックスへ入って来た。  振り向くと、体の大きな、ドイツ人らしいのが二人、奈々子にペラペラと話しかけて来る。 「は? あの——あのね、私、分んないんです、ドイツ語。——ええとね、イッヒ——何だっけ?」  焦《あせ》った奈々子は、立って行って、男たちに身ぶり手ぶりで、説明しようとした。 「ノーノー。ナイン、ナイン」  男の一人が、いつの間にか、奈々子の後ろへ回っていた。  奈々子の顔に、いきなり、ハンカチが押し当てられた。アッと思う間もない。  ツーンと来る匂いが頭の天《てつ》辺《ぺん》まで貫くようで、スーッと気が遠くなる。  抵抗するにも、腕の力が違う。身動きも取れずにいる内に、奈々子は目の前が真暗になり、完全に気を失ってしまっていた。   「——あら、あれ」  と、ルミ子が足を止めた。 「どうしたんだい?」  と、ハンスが訊《き》く。 「今、男の人たちに挟まれて行ったの——奈々子さんみたいだったけど」 「まさか。日本人の男性?」 「ううん。ドイツ人じゃないかな」  ——お断りしておくが、この会話は、本来ドイツ語で交わされているのである。 「——人違いね、きっと」  と、ルミ子は呟《つぶや》くと、肩をすくめた。  ボックス席に戻《もど》ると、美貴と森田は席に戻っていた。 「奈々子さん、見た?」  と、ルミ子は訊いた。 「いいえ。まだ戻っていないわ」 「どうせ、聞いたって分らんのだから」  と、森田が憎まれ口を叩《たた》く。 「そう……」  ルミ子は、肯《うなず》いて席についたが、足の先に何かが触れた。拾い上げて、 「見て。奈々子さんのバッグ」 「あら。バッグを置いて?」 「おかしいわ。今、よく似た人が男二人に挟まれて出口へ行くのを見たの」  美貴が立ち上った。 「行ってみましょ」  ハンスもせっつかれて、みんなで階段を駆け下りて行く。  ルミ子は、下の入口の所に立っている女性に、日本人の女性を見なかったか、と訊《き》いた。  返事を聞いて、美貴もルミ子も、青くなった。ハンスが、急いで外へ駆け出して行った。  一人、わけの分らない森田が、 「どうしたんです? 迷子にでもなったんですか」  と、訊いた。 「日本人の女性が一人、気を失って、男二人に連れられて出て行ったって。——貧血を起こしたんだって言ってたそうよ」 「どういうことだ?」 「鈍いのねえ!」  と、ルミ子が頭に来て、「誘《ゆう》拐《かい》されたのよ! 決ってるじゃないの!」 「どうしたらいいかしら」  と、美貴は呆《ぼう》然《ぜん》としている。 「今、ハンスが、見に行ってるわ」  ハンスが、すぐに駆け戻って来た。 「どうだって?」  と、森田が訊く。 「——どこにも見当らないって。警察へ届ける?」 「そうね」 「ハンスが言うには、奈々子さんのことを、分っていて誘拐したのか、それとも、ただ日本人でボックス席にいるから、お金持だと思って誘拐したのか分らない、って」 「だとすると……。向うから連絡があるわね。きっと」 「お姉さん、森田さんとホテルに戻っていて。何か連絡が入るかもしれないわ。私とハンスは、これが終るまでボックスにいてみる。犯人が、連絡をここへよこすかもしれない」 「分ったわ」  美貴が、ため息をついた。「——大変なことになっちゃったわ……」    ガタン、ガタン。  ずいぶん揺れるわね、この車。  奈々子は、まだ眠りつづけていたが、それでも、いくらか意識が戻《もど》り始めていたのか、車が揺れていることは、分っていた。  ひんやりした空気が、頬《ほお》を撫《な》でる。——外へ出たらしい。  ヒョイとかかえられて、どこへ行くのかしら、などと思っていると……。  ブルル……。エンジンの音。そして大きな揺れ。  船?——モーターボートか何かだろうか?  手足にしびれる感覚がある。——縛《しば》られているのだと分った。  何も見えないのは、目隠しされているからで、口にも何か布を押し込まれている。  頭がはっきりして来ると、やっと奈々子も、自分がどういう状況下にあるのか、分って来た。  誘《ゆう》拐《かい》されたんだ!  車、ボート……。どこへ連れて行かれるんだろう?  ともかく、あのミュンヘンのホテルへ連れて行ってくれるのでないことだけは、確かだった……。  美貴もルミ子も、とても追って来てはくれていないだろう。  あのペーターとかいう奴《やつ》! 肝心の時には役に立たないんだから!  こうなったら、逆らっても仕方ない、と度胸を決めたものの、怖いことには変りがない。  何やらドイツ語でしゃべっているのが、耳に入って来る。  しかし——どうして私なんか誘拐したんだろう?  奈々子としても、自分が大金持の令嬢に見えないだろうということは、分っている。美しさのあまり、どこかの王様が、 「あの娘をさらって来い」  と、言いつけた、とも……考えにくい。  すると、例の密輸に係る連中が、やったのだろうか? でも、何の目的で?  いくら考えても、そこまで分るわけがない。  と——ボートのエンジンの音が、急に静かになった。  ガクン、とボートが何かにぶつかる。着いたらしい。  ヒョイ、と一人が奈々子を軽々とかかえ上げた。  そこから十分ほどだろうか。上りの道らしく、さしもの大きな男が、途中で息を切らしてブツブツ言っている。  失礼ね! そんなに重くないわよ、私は!  ——どこかへ着いたようだ。  ドアの開く音。そして、コーヒーらしい匂《にお》いが漂っていた。  数人の話し声。——そしていきなり奈々子は固い床の上に投げ出されて、したたか頭とお尻《しり》を打った。  目かくしが外される。まぶしさに目がくらんで、しばらく何も見えなかった。  それから、口の中へ押し込んであった布が取れて、やっと大きく息ができた。  まだ、何だか視界がボーッとしている。 「窮屈な思いをさせて悪かったね」  突然、日本語が聞こえた。「しばらくの辛抱だよ。三枝美貴さん」  と、その男は言ったのだった。 20 とらわれの奈々子  三枝美貴さん?  何言ってんだろ、この男は。——奈々子は呆《あき》れて、 「ふざけんじゃないや」  と、言ってやろうとした。  しかし——幸か不幸か、まだ薬の効果が切れていなかったらしく、 「アアアア……」  と、赤ん坊がオモチャでもほしがっているような声しか出なかったのである。 「おいおい」  と、その日本人の男は立って「令夫人にひどい扱いをするなよ。丁《てい》重《ちよう》にもてなさなくちゃ」  奈々子は、男たちにかかえられて、木の椅《い》子《す》に腰かけさせられた。手足の縄はといてくれたが、しびれていて、すぐには全然感覚が戻《もど》らない。  ——やっと、部屋の中の様子が見えて来た。  古びた木造の建物。  暖炉があって、木の机と椅子。——それに腰かけているのは、どれも赤ら顔のドイツ人らしかった。  いや、ドイツ人と思ったのは、みんなドイツ語をしゃべっていたからだ。  ただ一人の日本人は、普通の感覚でいえば太っているが、何しろ他の男たちが大きいので、何だか貧弱に見える。  隅の方に立っている、際立って大きな二人は、奈々子をあのオペラ劇場から、さらって来た連中である。  男たちは、奈々子を指さしながら、ああでもないこうでもない(かどうか知らないが)、とやっている。 「——当然ドイツ語は分るだろうね」  と、男が言った。  奈々子は黙って首を横に振った。 「おやおや。——名門のお嬢さんが、ドイツ語もできないのか」  悪かったわね。 「この連中、みんな君のことを、『東洋の神秘』だと言ってる」  あ、そう。 「日本とドイツでは、美人の基準も大分違うからね」  どういう意味だ? 「ともかく——窮屈だろうが、しばらくここにいてもらうよ」  あのホテルの方がずっといいわ。——奈々子は当り前のことを考えた。こんな所、一ツ星でもないじゃないのよ。 「ま、気の毒だとは思うがね、恨みたければご主人を恨むことだ」  ここまで来て、奈々子はハッとした。  そうか! この人たち、私を美貴さんと間違えて誘《ゆう》拐《かい》して来たんだわ。  もちろん、読者はとっくに分っていただろうが、これは奈々子が馬鹿だったのではなく、薬で頭がボーッとしていたせいなのである。  よりによって!——この私がどうしてあんなお嬢さんと……。  奈々子は、どうしたらいいか、と迷っていた。  人違いだ、と主張するのも一つの方法だが、しかし——そう分ったからって、 「そりゃ失礼!」  と、菓子折でもくれて帰してくれる、とは思えない。  むしろ、アッサリ「消される」心配もありそうだ。  逆に、美貴だと思っている限り、この連中も何かに利用するつもりだろうから、奈々子を殺したりしないだろう。  それに——もちろん、奈々子も怖かったのだが——好奇心もある。  こいつらと、三枝とはどんな関係なのだろう。 「分りました」  奈々子は、できるだけ、美貴の言い方をまねて、おっとりとした口調で言った。 「分りゃ結構、下手に逃げようとすると、あの二人がどうするか分りませんよ」  と、男はニヤリと笑って、「そういう時は殺しさえしなきゃ、何をしてもいい、と言ってありますからね」  フン、この助平!  奈々子は、ちょっと咳《せき》払《ばら》いして、 「恐れ入りますが、お茶を一杯、いただけません?」  うん、これはいい。なかなか、決ってる!  すぐに、コーヒーをくれた。日本茶がいい、と言おうと思ったが、やめておくことにした。 「どうも」  と、一応、礼など言って、「——あなたはどなたですの?」 「おっとこりゃ失礼」  と、男は立ち上って、「私は商人で、神原と申します」  と、格《かつ》好《こう》をつけておじぎをする。 「神原さん」  と、奈々子は会《え》釈《しやく》して、「どうしてこんなことをなさるんですの?」 「それは、ご主人のせいです」 「うちの旦那がどうしたんです?」  言ってから、しまった、と思った。つい、『うちの旦那』なんて言ってしまった!  しかし、神原という男、別に妙とも思わなかったようで、 「取引きですよ、マダム」  マダム、ね。——ドイツ語はマダムじゃないわよ、確か。 「取引きとおっしゃいますと?」 「つまり、あなたのご主人との取引きを、有利に運ぶためのカードですな」 「主人との?」  奈々子は、本当にドキッとした。「じゃ、主人は生きている、と?」 「おやおや」  神原は笑って、「お芝居がお上手だ。——分ってますよ、ちゃんと」 「何のことでしょう?」 「あなたも、この仕事には一枚かんでおられる」 「私が?」  何のことだろう? 「まあとぼけているのもいいでしょう」  と、神原は言った。「あなたを捕えてあると言ってやれば、ご主人も焦《あせ》って姿を現わすでしょうからね」 「何のことか私には……」  と、奈々子は気取って言った。「私は主人を捜しに来ただけですわ」 「なるほど。そういうことにしておきますか」  神原は、二人の大男に肯《うなず》いて見せた。「いいですか。この建物は人里離れた湖《こ》畔《はん》の山の上にある。いくら大声を出しても、むだですよ」 「分りました」 「おとなしくしていれば、そう辛い思いはせずにすみます」  二人の大男に挟まれて、奈々子は立ち上った。 「お部屋はどちら?」 「ここの二階です」 「分りました。じゃ、参りましょ」  奈々子は、ぐっと胸をそらし、平然とした様子で、自分から階段の方へと、歩き出したのだった……。  二階のドアの一つを開いて、大男が促《うなが》すままに、奈々子は中へ入った。  バタン、とドアが閉り、カチャッ、と鍵《かぎ》のかかる音。  ——奈々子は、部屋の中を見回した。  まあ、予想していたほどひどい所でもなかった。  たぶんこの家自体が、古い農家で、ここは主寝室だろう。割合に広くて、古い木のベッドも、日本のダブルベッドぐらいある。  木の表面は、いかにも古びているが、一応清潔な感じではあった。  奈々子は、ベッドに腰かけると、まだ少し頭がクラクラして、ゆっくりと横になった。 「——参ったな」  と、呟《つぶや》いて、天井を見上げる。  いくら美貴を守るためとはいえ、代りにさらわれるとは思わなかった。——特別手当をもらわなきゃ。  あの神原の話では、やはり、三枝は生きている。そして、ペーターの言っていた通り、何かよからぬ密輸に係り合っていたらしい。  ただ、奈々子の気になったのは、美貴も仲間だったかのような、神原の言葉だ。  もちろん、奈々子を美貴と間違えるような男だ。勘違い、ってことも、充分にあり得るが……。  それにしても……。あのドイツ人たちも、密輸に関係しているんだろう。  ヨーロッパのように国と国が地続きの場所では、密輸といっても、そう難しくあるまい。  日本からヨーロッパへ来て、奈々子は奈々子なりに、「外国」というものの考え方が、全然違うんだ、ということに気付いていたのである。  さて——問題は、人違いと分った時である。  殺されるのは嫌いだ。まあ、好きな人間はいないだろうが。 「何か、武器がいるわ」  と、奈々子は呟いた。  あの二人の大男でも、不意を襲えばやっつけられるようなもの。——何かないかしら?  奈々子は、起き上って、部屋の中をあちこち捜し始めた……。   「——どう?」  と、ルミ子は訊《き》いた。  ハンスが首を振る。 「そう……」  ホテルのロビーに戻《もど》った面々、じっと押し黙って、沈んでいる。 「いよいよ決ったわね」  と、美貴が言った。「誘《ゆう》拐《かい》よ」 「そうね」  ルミ子が、肯《うなず》いて、「今になっても、何の連絡も入ってない。犯人の手がかりもないのよ」 「どうしたらいいかしら」 「ああ、あの時、すぐ追いかけてれば!」  と、ルミ子は悔《くや》しそうに言った。 「こうしていても、仕方ないわ」  と、美貴は言った。「警察へ届けましょう」  すると、 「それはやめた方がいい」  と、声があった……。  みんなびっくりして振り向くと、 「あ!」  と、ルミ子が言った。「あのディスコの前で——」 「ペーターといいます」  離れた椅《い》子《す》から、立ってやって来ると、「申し訳ありません。様子がおかしいので、聞いていました」 「あなたは……」 「あの人に一目惚《ぼ》れして、追って来たんです」  ペーターの言葉に、誰もが呆《あつ》気《け》に取られたが、ただ一人、美貴は、 「そうですか。じゃ、何か力を貸して下さいな」  と、身をのり出したのだった。 「物好きな」  と、言ったのは、「役に立たないボディガード」の森田。 「あんたは黙ってろ」  と、ルミ子にやられて、ムッとしたように口をつぐむ。 「僕の聞いたところでは——」  と、ペーターが言った。「彼女はあなたに付添って来た、と」 「ええ、そうです」 「つまり、本来のお金持はあなたですね」 「まあ……そうです」 「では、はっきりしている」 「というと?」 「奈々子さんは、あなたと間違えられたのです」  美貴は唖《あ》然《ぜん》として、 「まあ——どうしましょ」  と、言った。 「しかし、警察へ届けて、人違いと分ったら、彼女は却《かえ》って危険です。役に立たないから、と殺される心配もある」 「それじゃ——」 「こういうことは、裏のルートで探るのが一番です」 「裏のルート?」 「そうです」  ペーターは肯いて、「彼女を何とか、無事に取り戻すこと。それが第一です」  と、力強く言った。 21 広告は呼ぶ 「何だと?」  電話を聞いて、志村は言葉を失った。「さら……」 「さらわれちゃったの」  と、ルミ子が言った。 「さらわれた……。皿が割れたわけじゃないんだな」  奈々子が聞いたら怒っただろう。  ここは志村のオフィス。——国際電話というので急いで取ったら、このニュースだ。 「で……何か手がかりは?」 「犯人が身代金でも要求して来ればともかくね。今のところ何の連絡もないの」  と、ルミ子が言った。 「もし、金を要求して来たら、すぐに言って来い。命にはかえられん。いくらでも出すからな」 「うん。——あ、お姉さんが戻《もど》って来たわ」 「美貴に、元気を出せ、と言っといてくれよ」 「分った。また連絡する」  ルミ子からの電話は切れた。 「——やれやれ」  志村は、ため息をついた。「何てことだ!」  志村としては、自分が説得して、あの奈々子を美貴に同行させたのだから、責任を感じるのも当然である。 「困ったものだ……」  と、呟《つぶや》いて、考え込んでいると、 「——失礼します」  と、秘書が入って来た。 「何だ?」 「お客様です」 「誰だ?」 「野田様という方ですが」 「野田……。そうか。通してくれ」  と、志村は言った。 「——どうも」  と、入って来たのは、野田悟である。「やあ、どうかね」  と、志村は言った。「かけたまえ」 「すぐ失礼します」  と、野田は軽く腰をおろして、「美貴さんが、あっちへ行かれたというのを聞いたので」 「うん、そうなんだ」 「何かつかめたようですか」  野田の質問に、志村はすぐには答えなかった。 「——実はね」  と、志村は言った。「もう一人、行方不明になった」 「え?」 「君も知ってたな。浅田奈々子という娘」 「ええ。喫茶店で働いてた子でしょ」 「美貴についていてもらおうと、同行してもらったら……」 「あの子が消えたんですか」  と、野田は目をパチクリさせている。 「どうやら、誘《ゆう》拐《かい》されたらしい」  と、志村が言うと、野田は言葉もない様子だった。  志村は、少し考え込んでいたが、 「君——忙しいだろうね」 「僕ですか」 「うん。もしできたら、またドイツへ行ってくれないか」 「しかし……」  と言いかけて、野田は、ちょっと肩をすくめると、「分りました」 「行ってくれるかね」 「はい。あの子のことも心配です」 「金ですむことなら、まだいいんだが……」  志村は、そう呟《つぶや》いてから、「じゃ、仕《し》度《たく》ができ次第、出発してくれ」  と、言った。    ところで——誘拐された奈々子の方は、といえば……。 「一、二、一、二……」  ハアハア息を切らしながら、体操しているのは、やはり、いざという時、あの二人をやっつけるため——かといえば、そうでもなくて……。  ドアが開いて、大男の一人が、盆を持って入って来た。 「——もう食事?」  奈々子は、ため息をついた。「お腹、空いてないわよ」  何しろ日本語が通じないので、どうにもならない。  ドカッと盆をテーブルに置いて出て行ってしまう。 「参った!」  と、奈々子は、息を弾《はず》ませている。「ブロイラーにしようってのね!」  ともかく、誘拐された人間が、こんなに沢山食事を与えられたことは珍しいんじゃないか、と思えるくらい。  今も大きな皿に、ローストしたポークが山盛り。  いくら奈々子だって、この三分の一で充分である。  しかも、この量の食事が、三食出て来るのだ。せっせと運動しているのも、お腹を空かすためだったのである。  しかも、食べずに残すと、あの見張りの大男が、えらく怖い顔をして怒る。仕方なく、また食べる、ということをくり返していた。 「これが新《あら》手《て》の拷《ごう》問《もん》かしら……」  などと呟《つぶや》きながら、仕方なく食べ始めると——。  またドアが開いた。  神原だ。——奈々子にニヤッと笑いかけると、 「元気そうで何より」  と、言った。  奈々子は、「美貴らしさ」を装って、 「私にご用ですの?」  と、訊《き》いた。 「喜んでもらいましょうか」 「というと?」 「連絡が取れましたよ、ご主人と」 「まあ」 「生きていたのは、事実だったんですな。もちろんあなたは、ご存知だったはずですが」  知るもんですか、そんなこと。 「で、主人は何と?」 「直接話したわけではありません」  と、神原は言った。「新聞にね、広告を出したんです」 「それで?」 「ご主人から、返事の広告がありました。——これで、あなたも無事に帰れそうだ」 「それは結構ですわね」  奈々子は微《ほほ》笑《え》んで、「一口いかがです?」  と、フォークで、肉を突き刺した。   「——どう思う?」  と、ペーターが言った。  ホテルでの、昼食の時間。  ペーターが新聞をみんなに回していた。 「〈品物を買い戻したい〉か……」  ルミ子は肯いて、「確かに怪しいわね」 「こういう広告は、よく誘拐事件の時、使われるんだ」  と、ペーターは言った。  ——すでに、奈々子が消えて四日。  美貴など、大分食欲もなくなって来てしまっている。 「でも……私と間違えられたとしたら、その広告は?」 「誰か、あなたと係《かかわ》りのある人が出したものでしょう」  と、ペーターは言った。 「お姉さん!」 「主人だわ」  と、美貴は言った。「生きてたんだわ、やっぱり!」  急に目を輝かせて、 「何とかして、その広告主を突き止めるのよ」 「落ちついて下さい」  と、ペーターは言った。「問題はそう簡単じゃない。広告主が分っても、当然、あなたのご主人、本人ではありませんよ」 「だとしても——」 「もちろん手がかりにはなります。しかし——」  ペーターは、ふと言葉を切った。 「どうしたんですの?」 「いかん」  ペーターは、立ち上ると、急いでレストランを飛び出して行った。 「どうしたのかしら?」 「ほら、あんたも行きなさいよ!」  ルミ子に怒《ど》鳴《な》られて、森田も、渋々、ペーターの後を追って出て行った。 22 情は人の……  人間、失敗する可能性が一番高いのは、物事に慣れて来た時である。  奈々子も、〈南十字星〉に勤めて、三か月ぐらいたったころ、やたらオーダーを間違えてマスターに伝え、叱《しか》られたことがある。初めのころの緊張感が薄れて、ろくに考えていなくてもやれる、と思ってしまった時が怖いのである。  まあ、奈々子など、喫茶店で、コーヒーと紅茶を間違えるくらいだからいいが、これが病院か何かに勤めてて、つい、胃の薬と毒薬を間違えて渡しちゃった、なんてことになったら、 「あ、いけね」  と、ペロッと舌を出してすむ、ってものではない。  奈々子が〈南十字星〉に勤めたのは、社会の平和のためにも、良かったのかもしれない……。  まあ、そんなことはともかく——。 「やっぱり三枝って人は、生きてたんだわ」  と、昼食を食べ終って、ベッドに引っくり返っていた奈々子は、呟《つぶや》いた。  あの神原って男の言葉によれば、新聞広告に返事が載ったという。それが決定的な証拠ってわけじゃないだろうが、まあ、少なくとも、「生きてる」ってことは事実らしい。  だが、奈々子にとって、未来は必ずしも明るくないのである。  三枝は、美貴が神原に誘《ゆう》拐《かい》されたと思っているわけだから、いざ取引きの場になって、 「そんな女、俺の女房じゃない」  と、一言、言われてしまったら、おしまいである。  何といったって、三枝は奈々子の顔も知らない。いちいち事前に事情を説明してる余裕もないだろうし……。  その場合、奈々子は、神原からも三枝からも、「邪魔者」扱いされる可能性が大きいわけである。誰も私のことなんて、同情もしてくれないわよね、なんて、奈々子は一人ですねていた。  わざわざ、赤の他人のためにドイツくんだりまでやって来て、こんな所へ閉じこめられ、鍵《かぎ》をかけられて、一歩も外へ出られない、というんだから……。まあ、お人好しも、ここまで来りゃ芸術だ(?)。  鍵……。鍵?  ——奈々子は、ベッドに起き上った。  昼食を食べてる時に、神原が来て、出て行った。それからすぐに、あの赤ら顔で大男のドイツ人が、盆を下げて行ったが……。  鍵のかかる音、したっけ?  記憶がなかった。  何しろ、ここの部屋の鍵は、古くてやたらに大きいので、かけると、凄《すご》い音がする。銀行の大金庫の中にでも閉じこめられちゃったような気がするくらいだ。  その点はホテルなんかでも、古いホテルの鍵など、これで人をぶん殴《なぐ》れるな、と思えるくらい重く、頑《がん》丈《じよう》にできていたりする。  しかし——さっき、あのガチャッ、という音は聞こえなかったような気がする。  もちろん、奈々子がぼんやりしていて、気付かなかった、ということだってあり得るのだけど……。でも、ものはためし、ってこともあるし……。  奈々子は、そっとドアへ近付いて、廊下の様子をうかがった。見張りの男は、いつも下の部屋にいる。  ノブを回して、引いてみると……。  開いた!  頭だけ出して左右を見回す。——誰もいない。こりゃ、やっぱりあの見張りが、鍵をかけるのを忘れたのに違いない。  さっき、神原が顔を出した後、車が走って行く音がしたから、神原はもういないだろう。見張りの男は? 下で、たぶん……。  奈々子は靴を脱いで、手に下げると、そっと階段を下りて行った。  もちろん、人間誰しも奈々子と似ているわけではない。しかし、中には良く似たタイプの人間というものも、性別や国籍を越えて、存在する。  奈々子は、食事時間の少し前になると、ちょくちょく、下から目覚し時計のベルらしき音が聞こえて来るのに気付いていた。  確かに、何もしないで、ただ見張っているというのも、退屈なものである。眠くなって当然、と……。  やっぱりね。  ——見張りの、大男は、ソファでだらしなく眠りこけていた。ハーッ、スーッ、と、盛大な寝息をたてている。  こんなによく眠っているところを、起こしちゃ悪いわ、と奈々子は思った……。  そっと部屋を横切り、外へ出るドアの方へ……。  神原の話じゃ、ここは人里離れた、湖《こ》畔《はん》の山の上ということだったが、まさかエベレストの頂上ってわけじゃあるまい。  ともかく、どこか人家があれば、電話を借りて……。ホテルへかければ、きっと誰か残っててくれるだろう。  まさか、奈々子のことなんか放っといて、見物を続けましょ、とか、そんなわけは……。 「いくら何でもね」  と、奈々子は呟《つぶや》いた。  それほど人に嫌われちゃいないという自信はある。  よし! 奈々子はそっとドアを開けた。  運が悪かった。ちょうど、男の体が傾き過ぎて、ソファから床へ落っこちてしまったのだ。 「ワッ!」  いくら鈍い男でも、目を覚ます。——そして、あわてて靴をはいている奈々子を、ポカンとして、眺めていた。 「——失礼します」  わざわざピョコンと頭を下げて、奈々子は駆け出した。 「ウォーッ!」  やっと事態に気付いた大男の方も、起き上って、駆け出した。  ——外へは出たものの、道は一本道で、眼下の湖の方へ曲りくねって下りて行く。  奈々子は、一瞬考えた。走って下りても、湖まで行ったら追いつめられるし、大体、途中で追いつかれる。  それなら……。  上るしかない!  奈々子は、横手の、草原を駆け上り始めた。山、というほどの急斜面ではないが、かなり長い上りだ。もしかしたら……。  何か怒《ど》鳴《な》る声が聞こえた。あの大男が、赤い顔を更に真赤にして、わめいている。  奈々子は、ベエと舌を出して——こういう余計なことをしている場合じゃないのだが——また駆け出した。  男の方も、奈々子を追って駆け出す。何といっても、体が大きくて、一歩の歩幅が広いから、ぐんぐんと間をつめて行ったが……。  奈々子は、苦しくなって、足を止め、振り返った。  ——やった!  相手は体が重いので、上りはきついのだ。もう息を切らして、走るというより、歩いている感じ。  見ろ!——何といっても、奈々子は身軽である。  タッタッタ、と軽い足取りで、丘の高みへ上って、見下ろすと——。  町だ!  何キロかはあるだろうが、だらだらと草原を下って行けば、町に着く。  やったやった! ざま見ろ!  と、振り向いた奈々子——。  あれ? あの男は?  見張りの大男の姿が見えないのだ。  さてはどこか近道を——と思ったが、そういうわけでもないらしい。  すると……。五、六十メートル後ろの、少し地面がくぼんだ辺りから、あの大男がふらふらと現われるのが見えた。  しかし、相当参っているようで、とてもじゃないが、追って来られまい。  と、見ていると、男が胸を押えて、苦しげに呻《うめ》いた。どうしたんだろう?  男がドサッと倒れる。——そして動かなくなった。 「死んじゃったの?」  と、奈々子は呟《つぶや》いた。  しかし、あんな奴《やつ》のこと、構ってられるか! 自《じ》業《ごう》自《じ》得《とく》ってもんよ!  奈々子は、そのまま駆け出そうとして——後ろへ向って駆け出していた。  全く、手間のかかる奴!  近付いてみると、男は真青になって、びっしょり汗をかいている。ハアハア喘《あえ》いで、とてもじゃないが演技でもなさそう。 「どうしたの?」  奈々子が声をかけると、男は、もつれた口で、何やらポケットを指している。 「ポケット?——中に?」  かがみ込んで、探ってみると、くしゃくしゃの紙袋。 「薬か。これ、服《の》むの?」  男の手では、とても震えていて、中からカプセルを出すなんてことができないのだ。 「心臓ね、きっと。——太り過ぎよ。それに甘いもんの食べ過ぎ。少し摂生しなさいよ。全く」  奈々子も胸焼けするような大きなケーキをペロリと食べてしまうのだ。太らなきゃ不思議である。 「ほら、服んで」  カプセルを取り出して、男の口の中へ入れてやる。「——しばらくじっとしてんのね。じゃ、私はこれで」  と、立ち上ると……。  目の前に、交替で見張りに来る、もう一人の大男が、怖い顔で、立っていた。 「あ——どうも」  と、奈々子はニッコリ笑って、「あのね、この人が具合悪そうだったから——」  次の瞬間、奈々子の体は宙に浮いていた。ヒョイと持ち上げられてしまったのである。「やめて! ちょっと——おろして!」  日本語が分ったわけじゃないだろうが、その男は奈々子をおろしてくれた。ただし、三メートルも先に。  投げつけられて、奈々子は地面に「衝突」。アッという間もなく、気絶してしまったのである……。 23 謝罪のケーキ 「何だか変ってるわよ」  と、ルミ子が言った。「でも、ちょっとすてきだけどね」 「いいの、そんなこと、彼の前で言っても?」  と、美貴が、チラッとハンスの方を見る。 「大丈夫。彼、日本語そんなに分んないんだもん」  ルミ子は平気なものである。  昼食を終って、一行は美貴の部屋に戻《もど》っていた。  奈々子がさらわれたのに、こんなホテルでのんびりして、非人情な、と思われそうだが、正直なところ、美貴やルミ子には、どうすることもできない。警察にも届けられない、ということになると、この部屋で、ひたすら連絡を待つしかないのである。 「でも、私、そんなに悪い人とは思わなかったけど」  と、美貴が言ったのは、もちろん、ペーターという男のこと。 「奈々子さんに一目惚《ぼ》れして追いかけて来たっていうのが本当かどうか、知らないけどね」 「あら。私は本当じゃないかと思うわよ。奈々子さんって、魅力あるじゃない」 「私だって、別に奈々子さんが惚《ほ》れられるわけない、って言ってんじゃないわよ。ただ、あのペーターって人だって、仕事はあるわけでしょ」 「何だか裏の方にお店があるとか……」 「そういう意味の裏じゃないでしょ」  と、ルミ子は呆《あき》れたように言った。「もしかしたら——情報部員かもね」 「情報部員?」 「007みたいなスパイかもしれないわよ」 「まさか」  と、美貴は目を丸くして、「ピストル、持ってた?」 「知らないけど。——ともかく、どこへ行ったのかしら」 「そうねえ……。何だか急にどこかへ行っちゃって——」  と、美貴が言いかけると、電話が鳴り出して、ルミ子がパッと手を伸ばした。 「姉さんは、誘《ゆう》拐《かい》されたことになってんだからね!——ヤア」  話を聞いて、ルミ子は目を輝かせた。 「——ね! ロビーに、疲れ切った日本人が一人倒れてたって! もしかすると奈々子さんかもしれないわ」 「行ってみましょう!」  ハンスも一緒に、三人で部屋を飛び出すと、ホテルのロビーへ。  フロントの男に訊くと、ロビーの奥のソファを指した。  振り返って——三人とも、急いで来たことを後悔したのだった。  ソファにぐったりとのびていたのは、森田だったからである。 「——ちょっと」  と、ルミ子につつかれて、森田が目をパチクリさせる。 「何だ。——こっちは疲れてるんだ!」 「何してたのよ?」 「あのペーターって奴《やつ》だ、犯人は」  と、森田は言った。 「何ですって?」  美貴がびっくりして、「何かつかめたの?」 「あいつは、わざと俺のことをまいたんだ。怪しいに決ってる」 「まいた、って……」  ルミ子は疑わしげに、「あんたが、ただついて行けなかっただけじゃないの?」 「同じことだ」 「全然違うでしょ。大体何でそんなにのびてるの?」 「異国で道も分らないのに、放り出されたんだぞ! このホテルを必死で捜して歩いてたんだ」 「誰かに訊《き》きゃいいのに」 「日本語で、か?——それに、ホテルの名を忘れちまった」 「救い難いわね」 「こんな長い名をつける方が間違ってる!」  八つ当りである。 「——だけど、あのペーターって人、どこへ行ったのかしら?」  と、美貴が言った。  確かに、美貴たちに自分から声をかけて来ながら、また突然姿を消してしまったというのは、妙である。  すると、そこへ——。 「何だ、ここにいたのか」  と、当のペーターがロビーへ入って来た。「どこへ行ったのかと思った」  森田は一人でむくれている。  ルミ子が説明すると、ペーターは苦笑いして、 「確かに急いでいて、彼のことは気にしてなかったね」 「気にしなくていいわ、これからも」  と、ルミ子は言った。「でも、どこへ行ってたの?」 「いや、妙な仲介が入ることがあるからね、こういう場合。その用心さ」 「仲介って?」 「何か、盗まれた物を買い戻したいとか、さらわれた人間を取り戻したい、って話を耳にするとね、マフィアとか、あの手の連中が動くことがあるんだ」 「マフィア?」 「うん。仲介してやる代りに、手数料を取る。べらぼうな額をね。そうなると、ますますややこしくなるから。前もって手を打っておく必要がある」 「へえ……」  ルミ子は、唖《あ》然《ぜん》としている。「何か、映画の中の話みたい」 「現実に、そんなことがあるんだよ」  と、ペーターは言った。 「で、話はついたの?」 「うん。向うも今は他の仕事で忙しいらしい。そんな小さなことまで手が回らない、と言ってたよ」 「あなた——マフィアを知ってるの?」 「知り合いがいる、ってだけだ。何かと便利だからね」  と、ペーターは言った。「さて、あの広告に対して、犯人たちがまたどう応じて来るかだね」  しかし、ルミ子と美貴は、ポカンとして、ペーターを眺めているばかり……。  森田は一人、ふてくされて、そっぽを向いていた。   「おおいたい……」  奈々子は、ベッドに起き上って、顔をしかめた。  ——そろそろ夕食の時間だということは分っていた。しかし、いやに早いような気がする。  放り投げられて、何時間か気を失っていたせいだろう。  それにしても……。あの馬鹿力!  助けてなんか、やるんじゃなかった。——つくづく、奈々子は、己れの人の好さに、いや気がさして来てしまった。  腰だの、膝《ひざ》だの、頭だの……。あちこちぶつけて、すりむいているし……。  シャワーでも浴びようか。こうなったら、お風呂にでも好きなだけ入って、溺《おぼ》れ死んでやる!  理屈の合わない怒り方をしていると、足音がして、ドアの鍵《かぎ》をあける音。 「あ……」  今度は二人で来た!  一人は夕食の盆を持っている。あの、心臓が苦しくてのびてた奴。  もう一人、奈々子を放り投げた奴が、一緒に入って来た。 「何よ……。何すんのよ」  と、奈々子は、二人が近付いて来たので、後ずさった。  そういや、神原ってのが言ってたっけ。  逃げようとしたら、この二人が、奈々子のことを、殺しさえしなきゃ、何してもいい、ってことになってる、って……。 「それ以上、近付いたら……引っかくからね! 私は猫年なんだから! 爪《つめ》は痛いんだぞ!」  日本語でやっても、通じるわけがない。  すると、二人の大男、同時に足を止めると、一斉に、 「ドウモ、スミマセン!」  と、コーラスをやり出したのである。  これには奈々子、引っくり返りそうになってしまった。  一人がポケットから小さな本を出すと、ページをめくって、 「アー……マチガイ……デシタ。ゴメンネ」 「はあ?」 「クスリ……ダンケ」  二人が、とぎれとぎれの日本語を並べて、何とか言おうとすることを、奈々子は必死で想像力をめぐらせ、やっと分った。  つまり、後から駆けつけて来た男は、相棒が倒れているのを、奈々子にやられた、と思い込んで、カッとなり、かつぎ上げて投げつけた、ということだった。  後で、相棒から、事実を聞いて、反省したということで、お詫《わ》びに来た、というわけである。 「何だ、そういうことなのね」  と、奈々子は肯《うなず》いて、「ま、いいや。——別に骨が折れたってわけでもないしね」  ケロッとしてしまうのが、また奈々子らしい。  本当にすまないと思ってるんなら、逃がしてくれりゃいい、とも思うが、そうなると、今度はこの男たちが危いのだろう。 「ヤア、ヤア。オーケー、オーケー」  と、奈々子は笑って肯いて見せた。  人間の気持は、通じるものである。二人の男は嬉《うれ》しそうに、ニコニコして肯き合い、奈々子の前にテーブルを持って来て、夕食の盆を置いた。 「ダンケ。——あの……カフェ?」  コーヒーはカフェ、というのは奈々子も憶《おぼ》えていた。 「ヤア」  男の一人が出て行くと、奈々子は、大してお腹も空いていなかったが、ナイフとフォークを手に、食べ始めた。  すると、男が戻《もど》って来て……。  奈々子は、その盆に、特大の——日本のクリスマスに、四人家族で食べるより倍も大きいケーキがドン、とのっているのを見て、仰天した。  どうやら、お詫びの印《しるし》に、このケーキを持って来たらしい。しかし……。その甘そうな匂《にお》い!  匂いだけで、奈々子は、食欲を失ってしまった……。 「ダンケ……。あの——一緒に食べない? ね?」  と、身ぶり手ぶりでやっていると……。  車の音がした。二人の男は顔を見合わせると、急いで、部屋を出て行った。 「誰かしら……」  神原かしらね。でも、あの二人、いやに怖い顔して出てったけど。  奈々子は、ともかく、巨大な肉の塊に、ナイフを入れた。  すると——階下で、何かが叩《たた》き壊されるような、凄《すご》い音がしたのだった。 24 ぶら下った男  何の音だろう?  奈々子は、食べかけていた手を休めて、階下から聞こえて来る音に耳を傾けた。  どう考えても、それは「友好的な音」とは言い難かった。——ドシン、バタン、バリン、と続いて、やがて静かになる。  見張りの二人が、えらく怖い顔で出て行ったのを、奈々子は見ていたので、どうもただごとじゃない、と気付いていた。  車の音がしたから、誰かがやって来たことは間違いない。——誰が? 何の用事でやって来たのだろう?  ゴトッ、ゴトッ、と足音がして、何人かが階段を上って来る。  美貴やルミ子たちが、ここを捜し当てて、助けに来てくれたというのなら、奈々子も大喜びするところだが、そうは思えない。  奈々子は、立ち上った——。  そして……。ドアが開く。 「ここだな」  と、日本語が聞こえて来た。「どこに行った?」 「あいつらが、どこかへ隠したのかも……」  もう一人も日本人である。 「いや、そんな時間はなかったはずだ。——捜してみろ」  誰だろう?  奈々子は、声だけを聞いていた。ベッドの下へ隠れていたのである。  あんまり気のきいた隠れ場所とは思えないが、何しろ時間がなかったのだから、仕方ない。——向うがうまく引っかかってくれるといいが。  一人の方の声は、何となく聞いたことがあるような気もする。もちろん、断言はできないのだが。  バスルームのドアを開ける音がした。 「——おい、窓が開いてる!」 「何だと?」  二人がバスルームへ入って行く。  その間に、奈々子は、ベッドの下から這《は》い出した。 「こんな狭い所から出られるかな」 「やってできないことはないだろう」  と、二人が話しているのが聞こえて来る。  あの二人だけ、ってことはないだろう、と奈々子は見ていた。たぶん他にも誰か連れて来ている。  奈々子は、部屋を出ようとしたが、階段をまた上って来る足音。——まずい!  どうにもならなくて、奈々子は、内側へと開いたドアの陰、壁との間に、入り込んだ。これじゃ、見付かっても仕方ない。 「——外へ出ても、遠くへは行ってないだろう」  と、一人が言った。  これは、かなり若い男の声だ。もう一人、何となく聞き憶《おぼ》えのある声の方は、もう少し中年に近い印象だった。 「そうだ。そこの戸《と》棚《だな》の中を覗《のぞ》いてみろ」  と、若い方が言った。 「——いないな。ベッドの下は?」 「うん。——いない。そうなると、やはり外へ出たのか」 「どうする?」  二人が、少し考え込んでいる様子。そこへ、新たに上って来た一人が、ドイツ語で話しかけた。  若い方が、ドイツ語で返事をすると、もう一人を、 「行こう。神原の奴が来るとまずい」  と、促した。 「女はどうする?」 「必ずホテルへ連絡するさ。あの連中を見張ってりゃ、居場所はつかめる」 「なるほど」  二人が出て行って、ドアが閉る。  奈々子はホッとした。——こんなにうまく行くなんて!  しかし、今の二人は誰なのだろう? 奈々子たちのことを、ちゃんと知っている様子だったが。  ともかく、今の話を聞いていても、奈々子を助けるつもりでここへ来たのではないらしいことは分る。奈々子の勝手な想像では、神原と同様、何か良からぬことに係《かかわ》り合っている連中で、神原と敵同士、というところであろう。  神原が来るとまずい、とか言ってたけど、引き上げるのだろうか? そしたら、今の内にここから逃げ出して、町まで行けるだろう。  ドアをそっと細く開けて、一階の様子に耳を傾けていると、何やらドイツ語で言う声がして、ドタドタと足音が……。  ドアが閉り、少しして車の音が、遠ざかって行った。——どうやら、引き上げて行ったらしい。  奈々子は、まだ油断できないぞ、と自分に言い聞かせ、ゆっくりと部屋を出て足音を殺しながら、階段を下りて行った。  そっと、一階の様子を覗《のぞ》いてみると——何とも、ひどいこと。  机や椅《い》子《す》は、引っくり返っているだけでなく、二つに割れたり、足が折れたり、めちゃくちゃである。  よくやったわね、こんなに……。  奈々子は、呆《あき》れて首を振った。そして——そう言えば、あの二人の大男。どこへ行ったんだろう?  逃げたのかしら。——まあ、お金のため、とはいえ、命をかけてまで、人質を奪《うば》われないように頑張るほどのこともあるまい。 「それが普通の人間ってもんよね」  と、奈々子は一人で納《なつ》得《とく》している。  さて——これからどうしよう?  外へ出ても、辺《あた》りはもう暗くなっている。一旦外へ出て、朝までどこかに隠れているか……。 「ウーン」  何だ、今の?  奈々子は、キョロキョロ見回した。しかし何も見えない。  空耳かね……。奈々子は外へ出ようとした。 「ウーン……」  こりゃどうも、空耳ではないらしい。  しかも——どうやら頭の上の方から、聞こえて来る。  で、当然のことながら、奈々子は頭上を見上げた。 「キャーッ!」  と、悲鳴を上げたのは、奈々子だった。  あの二人の大男——見張りをしていた男たちが、天井のはりから、ぶら下っていたのである。  奈々子、その場にドスン、と尻《しり》もちをついてしまった。——こんなにびっくりしたのは、あの〈南十字星〉が爆弾で吹っ飛んで以来だ。  心臓が、飛び出しそう!——びっくりさせるな!  だけど……。その二人だって、好きで奈々子をびっくりさせたわけではなかった。  二人とも、縄で縛られ、はりから吊《つ》り下げられている。頭を何かで殴《なぐ》られたのだろう。血が顔を伝って落ちていた。 「ひどいことして……」  と、奈々子は、思わず呟《つぶや》いた。  驚きからさめると、奈々子は、さっき、あの二人が、わざわざ日本語の練習までして、謝りに来たことを思い出し、とてもこのまま放ってはおけない、という気になった。  こんなの、放っといて早く逃げりゃいい、とも思うのだが、そこは持って生れた性格というやつである。  まず、何とかあの二人を下ろさなくてはならない。しかし、はりまでは高くて、とても上れないのである。 「何かないかしら……。何でもいいけど——何でもよくない」  自分でもわけの分らないことを呟きながら、奈々子は、手当り次第、ドアや引出しを開けてみた。  ナイフがあった!——ナイフといっても、鉛筆を削るのにはあまり役に立ちそうもないが、包丁の代りにはなるかもしれない。  それくらい大きくて、重い。 「はしご。はしごか何かない?」  キョロキョロしていると、上から何やら声がふって来た。  一人の男——奈々子を放り投げた方だ——が、気が付いた様子で、何やら喚《わめ》いている。  奈々子は、ドイツ語など分らない。しかし、この場合は、おそらく、 「おろしてくれ!」  と言っているのに違いない。  切羽詰れば、言葉は分らなくても、気持は通じるものだ、と奈々子は思った。これは、あまりに特殊な場合かもしれないけれど……。  奈々子が、 「分ったから! はしごは? はしごはどこ?」  と、怒《ど》鳴《な》って、はしごを上る手つきをすると、幸い通じたらしい。 「バック! バック!」  たぶん、英語の方がまだ分ると思ったのだろう。  バック? 後ろ?——そんなもんないわよ。 「アウト! アウト!」  野球やってんじゃないわよ。——アウト。  外か! この家の外だ。 「オーケー、オーケー」  と、手を上げて見せ、奈々子は、家から外へ出た。  外の、「バック」。——つまり、きっと裏手の方だ。  しかし、あいつも英語力、相当低いわね、と、奈々子は変なところで安心しているのだった……。    電話が鳴った。 「何だか、電話の鳴り方も、ヨーロッパはのんびりしてるわね」  と、ルミ子は言って、受話器を取った。  ここは美貴の部屋。——奈々子が消えてしまったので、ルミ子が、美貴と一緒にいるのである。 「ヤア」  と、ルミ子は言った。「——え? もしもし?」 「何だ、ルミ子か。何してるんだい?」 「——野田さん?」  と、ルミ子は言った。「どこからかけてるの?」 「ホテルのロビー」 「このホテル?」 「そりゃ、東京のホテルからかけても、しょうがないだろ」  と、野田は笑って言った。 「びっくりした! いつ着いたのよ?」 「たった今。部屋を頼んでるところさ」 「待ってね! 今、お姉さん、入浴中なの」 「いいよ。一旦こっちも部屋へ入ってから、出直す。そっちへ行っていいかな」 「待って。——お姉さん、長風呂だからね。じゃ、バーで待ち合せってのは?」 「三十分後?」 「OK。——ね、野田さん、一人?」 「もちろんさ」 「私、一人じゃないのよ、断っとくけど」  と、ルミ子は言った。  電話を切って、少しすると、美貴がお風呂から出て来た。 「——ああ、いいお湯だった」  と、ほてった顔で、ホテルのマークの入ったバスローブを着て、「でも、申し訳ないわ、奈々子さんが私の代りにどんなひどい目に——」 「そればっかり言ってる。こうなっちゃったからには仕方ないわよ。——あのペーターって人もついてるし、野田さんもいるし」 「野田さん? 日本で、何かしてくれるわけ?」 「このホテルに、今、着いたって」  美貴は、唖《あ》然《ぜん》としてルミ子を見ていた。 「——野田さんが?」 「うん。三十分したら、バーで会うことにしてるの」 「そう……」  と、美貴は呟《つぶや》いた。「分ったわ」 「お姉さんは、あんまり出ない方がいいよ、夜は」 「そうね。じゃ、明日の朝食の時にでも会うわ」 「そう言っとく。——パッとシャワーを浴びて来るかな」  ルミ子が、服を脱いでバスルームへ入って行くと、美貴は、しばらく何やら考え込んでいる様子だったが——。  バスルームから、シャワーの音が聞こえて来る。  美貴は、ベッドに腰をおろすと、受話器を取り、フロントへかけて、野田の部屋のルームナンバーを訊《き》いた……。 25 月下のボート 「どう? 痛む?」  と、奈々子は男の額の傷を、水で濡《ぬ》らしたタオルで拭《ふ》いてやりながら訊いた。  男は、返事もしない。 「ね、ワインでも飲む? 少し元気が出るかもよ。——ねえ」  奈々子が話しかけても、一向にだめ。  男は、ぼんやりと、床に座り込んでいるばかりである。  もう一人の男が、床に横たわっていた。  死んでいるのだ。——先に下ろしてやった男と奈々子が二人がかりで、この男を下ろしたのだが……。  もう、すっかり心臓が止ってしまっていたのである。  見たところ、ひどい出血とかはないので、たぶん、殴《なぐ》られたのと、ぶら下げられたショックで例の心臓がやられてしまったのだろう、と奈々子は思った。 「可哀そうにねえ。——ま、色々、乱暴もされたけど、根は悪い奴《やつ》じゃなかったみたいだし」  と、奈々子は言った。「アーメン」  日本語は分らないだろうが、「アーメン」という言葉は分ったと見えて、じっと仲間の死体を見つめていた男は、奈々子の方を向いた。  その目に、涙が一杯に浮んでいる。——まあ、誘《ゆう》拐《かい》されている身としては、そうのんびりしちゃいられないはずだが、奈々子も、つい、もらい泣き、というわけで、目《め》頭《がしら》が熱くなって来た……。 「ダンケ」  と、男が言った。「ダンケシェーン」  男が、その大きくて、ごっつい手で、奈々子の手を取ると、その甲にキスした。 「あんたも、なかなかいい人ね」  と、奈々子は言った。「名前は?——ネーム?」 「リヒャルト」 「ああ、リヒャルトね。分るわ。私は——奈々子」  ま、この男なら、「美貴」だろうと「奈々子」だろうと関係ない、と思った。 「——ともかく、私、行くわ」  と、奈々子は立ち上った。「大分手間取っちゃった。それじゃ、リヒャルト、アウフビーダーゼン」  やっと憶《おぼ》えた「さよなら」を使ってみたのだが、残念ながら、さよならするわけにはいかなかった。  リヒャルトと名乗ったその男が、パッと立ち上った。そして、奈々子を止める。 「どうしたの?」  と、奈々子は訊《き》いたが……。  返事を訊く前に、分っていた。——車の音だ。  車が近付いて来る。  リヒャルトが、奈々子の手をつかんで、部屋の奥のドアへと引張って行った。 「ちょっと! どこへ行くのよ!」  と、奈々子は言ったが、もちろん、通じやしないのである。  引張って行かれたのは、台所。——台所といっても結構広い。しかし、外へ出る窓もないのだ。 「どうすんの、こんな所で?」 「ヤア」  と、リヒャルトが、かがみ込んで、床に敷いてあった布をめくると、床に、四角く、蓋《ふた》が切ってある。 「何かしまっとく所?」  蓋が開くと——中へ下りて行く、急な階段がある。 「ここへ? 下りるの?」  問答無用。押し込まれてしまった。 「——分ったわよ。危いじゃない! 押さないでよ」  階段を下りて、奈々子は、目をみはった。そこから、また道がある。  リヒャルトが、続いて下りながら、蓋を閉めた。真暗になったが、すぐにリヒャルトの手にした懐中電灯の明りが、奈々子の前を照らした。  ——どこへつながっているんだろう?  ともかく、こうなったら、行くしかない。  諦《あきら》めて、奈々子は、この奇妙なトンネルの中を、歩き出した。  道はくねくねと曲り、しかも、下り坂である。——よく、こんなに掘ったもんね、と感心する。  かなり古くからあるトンネルらしい。下りが急なところは、ちゃんと石を敷いて、滑《すべ》らないようにしてある。 「あら」  途中、広い場所へ出た。  荷物置場? こんな所に……。  ちょっとした教会ぐらいの広さがある場所で、そこに、木の箱が、いくつも積んであった。  もちろん、訊《き》かなかったが、これは、たぶん密輸品なのだろう。懐中電灯の光の中に、箱が何十も数えられる。  そのまま促されて、その場所を抜け、さらに細い下りのトンネル。  どうやら、奈々子にも見当がついて来た。  少し歩いて行くと、ひやっとする風が、下から吹いて来る。  パシャ、パシャ、と水の音が聞こえて来た。  ——やっと着いた!  そこは、船着場だった。——といっても、大して大きくはない。洞《どう》窟《くつ》は、たぶん人工の物だろうが、うまく自然にできたもののように作られている。  ボートがつないであり、それが波に揺れていた。  洞窟の出入口は、表からは見えないようになっているらしい。 「——これに乗るの?」  奈々子も、あまりためらわなかった。  ここまで来たら、何をやっても同じ。もう開き直っている。 「——足下、照らしてよ。——ワッ!」  危うく、水へ落っこちるところだったが、何とかボートに乗った。リヒャルトが、ロープを解いて、自分もボートに乗る。  体重の差で、奈々子の座った方はぐいと持ち上ってしまった。  リヒャルトが、オールを操り、ボートをこぎ始めた。  岩が重なり合った間を、くぐり抜けて——ボートは、湖へ出ていた。  一度に目の前が広くなったので、奈々子は思わず息を止めるほどびっくりした。  しかし、湖は静かで、夜の中、ひっそりと波打っているばかり。  ——恋人と二人でボートに乗ってるのなら、ロマンチックなのにね、と奈々子は思った……。 「——すると、美貴さんの代りに、あの子が誘《ゆう》拐《かい》されたのか」  と、野田は肯《うなず》いた。「なるほど、それで分ったよ」 「今のところ、はっきりとした手がかりはつかめてないの」  と、ルミ子は言った。  ホテルのバー。落ちついた造りで、英国風の雰《ふん》囲《い》気《き》のバーである。  ルミ子はハンスを連れて来ていた。 「君にこんなボーイフレンドがいたとはね」  と、野田が苦笑した。 「がっかりした? 悪いわね」  と、ルミ子はからかうように言った。「ね、お父さんには内緒よ」 「分ったよ」  野田は、ウイスキーのグラスを、少し揺らしながら、「その誘拐が、三枝の行方不明と関係あるとしたら……」 「当然、あると思うわよ」  と、ルミ子は言った。 「犯人は、その内、気付くぞ、人違いに」 「そこなのよ。心配なの。——人違いと分って、無事に奈々子さんが戻るかどうか」 「微妙なところだね。こっちの密輸グループなんて、人殺しなんか平気だ」 「奈々子さんにもしものことがあったら、って、お姉さん、心配してるわ」 「うん、分るよ。もちろん、うまく持っていけば、三枝のことも何か……」  と、言いかけて、野田は言葉を切った。 「——美貴さん」  ルミ子は、びっくりして振り向いた。美貴が、バーへ入って来たのだ。 「どうしたの、お姉さん? あんまり出て来ちゃまずいよ」  とルミ子が言うのを無視して、 「野田さん。何しに来たの?」  と、突っかかるような口調で言った。 「僕は、君のお父さんに頼まれて——」 「嘘《うそ》よ!」  と、甲《かん》高《だか》い声を出した。  バーの中の客が、みんな話をやめて、見ている。 「お姉さん、部屋へ——」  と、ルミ子が腕を取ろうとするのを、振り切って、 「あなたが来ると、誰かが姿を消すのよ!」  と、美貴は、野田に食ってかかるように身をのり出した。 「落ちついて。——ね、美貴さん」  と、野田はなだめようとしたが、 「今度は私も消そうっていうのね? そうはいかないわよ!」 「美貴さん——」  美貴が、ルミ子の飲んでいたアップルジュースのグラスをつかむと、パッと野田の顔へひっかけた。 「お姉さん!」 「私に近付かないで! 分ったわね!」  と、叫ぶように言って、美貴はバーを飛び出して行った。  顔をハンカチで拭《ふ》くと、野田は、ゆっくりと首を振った。 「どうやら、かなり頭へ来てるね」 「そうね……」  ルミ子も、ただ唖《あ》然《ぜん》としているばかりだったのである……。 26 朝の光景  どんな所でも、パッと眠れるというのが、奈々子の特技の一つである。  しかし、それはやはりベッドの上とか、布《ふ》団《とん》の中での話で……。  いくら奈々子だって、湖面に揺れるボートの中じゃ、眠れるわけがない。しかも、例の見張りの大男を殺した連中が、あるいは奈々子を誘《ゆう》拐《かい》した神原の一味が、いつ追いかけて来るかもしれないのだ。  岸につながれたボートの中で、毛布にくるまって、奈々子は目を閉じていたが、何しろヨーロッパでは春といっても、ずいぶん寒い。  特に、夜や朝早くなどは、夏だって寒いくらいなのだから、とてもグーグー眠ってなんかいられない……。  グー……。  朝もやが、湖面にヴェールのように漂っていた。鳥の声が、まるで舞台の効果音みたいに鮮《あざ》やかに静寂を破る。  スー……。  どうやら、奈々子の神経というのも、相当丈夫にできているらしい。——完全に眠ってしまっている。  しかし——朝もやの中から男が一人、ボートの方へ、岩を渡って近付いて来る。そしてボートの傍《そば》へ来ると、奈々子がぐっすり寝込んでいるのを見て、上衣を脱いだ……。  奈々子は、上衣をかけてもらって、少し身動きして……。目を開いた。 「あら、何だ」  と、目をパチクリさせて、「リヒャルト。——グーテンモルゲン」  奈々子の日本風のドイツ語(?)が通じたのか、リヒャルトはちょっと笑った。 「あーあ」  奈々子は、ボートの中に起き上った。「グラグラ揺れるし、寒いし、とっても寝られたもんじゃないわね」  よく言うもんである。  雨に降られた犬みたいにブルブルッと頭を振ると、大欠伸《 あ く び》。  もしリヒャルトが奈々子の寝姿に、欲望を刺激されたとしても、この欠伸で一度にその気を失くしただろう。 「ウワーア」  と、長い欠伸の後、グーッとお腹が鳴ったのである。  これだけは、万国共通と見えて、 「カム」  と、リヒャルトが促して奈々子を立たせ、手を取って、ボートから岩の上に上げてやった。 「お腹空いたね。——ハングリー。分る? あんたもでしょ」 「ヤアヤア」  リヒャルトは、ポンと奈々子の肩を叩《たた》いた。  背の高い木立ちの間を抜けて行くと——そこには〈すかいらーく〉があった……なんてわけはないが、ともかくポツンと建っているのは、何だか絵本の中にでも出て来そうな、小さな教会。 「あそこへ行くの?」  と、奈々子は訊いた。「最近は教会も、モーニングサービスがあるの?」  奈々子たちは、教会の前に来て、息をついた。  ——匂《にお》いがする! 何かこう……シチューか何かみたいな。  刺激された奈々子は、とたんにまた、お腹がグーッと鳴って、咳《せき》払《ばら》いをした。  すると、教会の扉が開いて、白髪の神父さんが、ニコニコしながら出て来た。どうやら、リヒャルトが、先に来て、話をしておいてくれたらしい。  すぐに、奈々子たちは中に入れてもらえた。そして——と、もったいぶるほどのこともない。  もったいぶっている間に、もう奈々子はシチューを食べ終えていたのだった。    一方、ルミ子たちも、ホテルで朝食をとっていた。  もちろん、時間的には、奈々子より少し後のことになる。 「——お姉さん、どうしたかな」  と、ルミ子が言った。 「うん……。まあ、そっとしておいた方がいいよ」  と言ったのは、野田である。  当然、ハンスも一緒だったのだが、何しろ美貴は、ゆうべ野田にジュースをぶっかけている。そして、ルミ子が部屋へ戻《もど》ると、もう毛布を頭からかぶって、寝てしまっていたのである。  で、ルミ子も、今朝、無理に起こさなかったのだった。 「でも、野田さん」  と、ルミ子がコーヒーを飲みながら、言った。 「何だい? どうして美貴さんが、あんなことを言ったか、っていうのか?」 「そんなとこ」 「僕にも見当がつかないよ」  と、野田は首を振った。「ともかく、美貴さんは神経が参ってるんだ。そうとしか思えないね」 「だけど……。妙だわ。野田さん、何か姉さんに恨まれるようなこと、したんじゃないの?」 「おいおい」  と、野田は苦笑して、「僕はわざわざ会社を休んで、君らを手伝いに来たんだぜ」 「分ってるわよ。でも、お姉さんの方で、何か思い込んでいるのは確かじゃない?」  と、ルミ子が言うと、ハンスが、 「グーテンモルゲン」  と、挨《あい》拶《さつ》した。  ルミ子は振り向いて、美貴がやって来たのを見た。 「おはよう」  美貴は、意外にさっぱりとした声を出して、 「野田さん」 「どうも」 「ゆうべはごめんなさい。私、苛《いら》々《いら》していたの。勘弁してね」  と、ニッコリ笑う。 「——気にしてないさ」  と、野田は笑って、「どうせかけるのなら、ワインにしてほしかったけどね」  美貴は、ちょっと声を上げて笑った。 「私もコンチネンタルの朝食にするわ」 「うん……」  ルミ子は、ウエイターを呼んで、美貴の分を注文してやった。——それにしても、美人は得だ、とルミ子は改めて感じたのだった……。  美貴は、何だかいやに陽気になっているようで、奈々子のことなんか全然口に出さなかった。 「野田さん、ミュンヘンは来たことあったっけ?」 「通ったことはあるよ。この前の時だって——」 「ああ、そうね。何度もご足労かけちゃって、悪いわね」 「いや、君のためならね。それに友情のためさ」 「でも、ゆっくりミュンヘン見物したことはないんでしょ? じゃ、私が案内してあげるわ」  と、美貴が言い出したので、ルミ子はびっくりした。 「お姉さん、そんなことしてる場合じゃないでしょ」 「どうして?」 「どうして、って……。奈々子さんのことが……」 「ああ、分ってるわよ。忘れてるわけじゃないわ。でも、あなただって、そう心配しても仕方ないって言ったじゃない」 「そりゃ……。そんなようなことも言ったけど」 「じゃ、いいでしょ。ルミ子がいればホテルの方は大丈夫。ね、野田さん。アルテ・ピナコテークに行きましょう」 「新しいディスコかい?」 「まさか」  と、美貴は笑って、「美術館よ。とてもすてきな雰《ふん》囲《い》気《き》の所なの。ね、食事がすんだら、仕度してロビーで待ってて。絵のことなら、私が説明してあげる。ね、いいでしょ?」  その熱心さは、もうほとんど子供のようだった。野田も、 「分った。絵ってのは、ルノアールしか分らないんだけどね。行くよ」  と、肯《うなず》いた。  美貴は、ルミ子も呆《あき》れるくらい、よくしゃべり、笑い、楽しそうにしていた。 「——ごちそうさま」  と、早々に食べ終ると、美貴は席を立った。 「じゃ、野田さん、十五分後に、ロビーでね」 「十五分だね」  美貴は、足早にレストランを出て行く。 「——どうしちゃったんだろ、お姉さんたら?」  ルミ子はポカンとして、それを見送っていた。 「しかし、十五分と言われたら、もう行かないとね。——君はまだいるのかい?」 「ロビーに行ってるわ。もちろん、一緒には行かないけど」  ルミ子はそう言って、野田が行ってしまうと、 「女心は分らない……」  と、女にしては妙なセリフを吐いたのだった……。  ロビーに出て、ルミ子がソファに座っていると、 「ここにいたのか」  と、やって来たのは、ペーターだった。 「あら、おはよう」  と、ルミ子は言った。「何か新しいこと、分った?」 「どうも妙な具合だ」  と、ペーターは心配そうに言った。「あの女性は?」 「美貴姉さん? 今、デートのお仕度中よ」 「何だって?」  ペーターが目を丸くする。——ルミ子が、野田のことを説明すると、 「妙だね」  と、ペーターは考え込んだ。 「ねえ、お姉さんったら、何を考えてるんだろう」 「いや、そうじゃない」  と、ペーターは首を振った。 「そうじゃない、って……?」 「野田って男のことだ。昨日ここへ着いたって?」 「そうよ」 「実は、例の僕の知ってるマフィアの幹部が妙なことを教えてくれたんだ」 「奈々子さんのことで?」 「そう。どうやら、取引きは、流れてしまったらしい」 「じゃ——どうなるの、奈々子さん」 「もし、正体が分ってしまったのだとしたら、流れてもおかしくない」  ルミ子は青くなった。 「ばれちゃったのかしら?」 「そうでないことを祈るがね」  そこへ、美貴が現われた。そして、野田もほとんど同時に姿を見せる。 「お姉さん、大変よ」  ルミ子が、今のペーターの話を伝えると、 「そう」  と、美貴は肯《うなず》いた。 「ね、デートはやめて、ホテルに待機していようよ」 「私がホテルにじっとしていると、奈々子さんが助かるの?」 「そうじゃないけど……」 「じゃ、出かけて来るわ。野田さん、行きましょ」  と、さっさと歩き出す。 「お姉さん——」  野田が、あわてて、美貴の後を追いながら、 「途中から電話するよ!」  と、ルミ子に言った。 「——あれが野田?」  と、ペーターが言った。 「そうよ。お姉さん、何考えてるんだろ、全く!」  ルミ子はさじを投げた格《かつ》好《こう》。しかし、ペーターは、 「何かわけがあるのかもしれないね」  と、言った。「あの二人の後を尾《つ》けた方がいいかもしれない。しかし、僕は行く所があるんだ」 「私、尾行する?」 「いや、君は部屋にいた方がいい」 「じゃ、どうするの?」  と、ルミ子が言うと、 「——何だ、もう朝飯はすんだのか?」  欠伸《 あ く び》しながら、やって来たのは、森田だった。ルミ子とペーターは顔を見合わせて、 「仕方ないだろうね」 「仕方ないわね」  と、意見は一致した。「——ちょっと!」 「何だ?」 「仕事よ。今出てった姉さんたちの後を尾けて! 早くしないと、また見失うわよ」 「おい。俺はまだ朝飯を……」  文句を言う森田を、ルミ子はほとんど突き飛ばすようにして、ホテルから「出発」させたのだった……。 27 逃走の森 「——なるほど」  ペーターは、野田について、詳しい話をルミ子から聞くと、「じゃ、お姉さんが、ゆうべ、そんな騒ぎを起こしたのは……」 「分らないけど、お姉さん、三枝さんが消えたのも、野田さんのせい、みたいなこと、言ってたわ」  二人はラウンジに座っていた。ペーターはコーヒーを一杯飲むため、ルミ子は、森田がもし、迷子になって戻って来たら、叩《たた》き出す(!)ためだった……。 「その野田って男が怪しい、って理由はあるのかな?」 「そんなことないわ! 確かに、三枝さんと二人で、お姉さんをめぐって争ってたけれど……」 「なるほど。——しかし、そんなことをする男じゃない、と」 「もちろんよ」 「君は野田のことが好きなようだね」  ルミ子は、不意をつかれて、赤くなってしまった。 「別に……好きったって……」 「僕らヨーロッパ人は恋のベテランさ」  と、ペーターは微《ほほ》笑《え》んだ。「分るんだよ。恋してる人間を見るとね」 「でも……そんな本気じゃないのよ。——本当よ」 「君はいい子だ」  と、ペーターは肯《うなず》いた。「奈々子さんもすてきだがね」 「そんなことより——」 「なぜ取引きが流れたか、今、当ってる。もちろん、奈々子さんが、別人だったとばれてしまった、という可能性が一番高いがね」 「どうなるかしら、奈々子さん?」 「そうだね。当然誘《ゆう》拐《かい》した人間の顔も見ているだろうし……。危いかもしれない。極めて危いだろうね。ただ——」 「何か?」 「いや——あの女《ひと》は、妙に運の強い人だ。しかも、当人は運が悪いと思ってる。こういう人は、結構大丈夫なものでね」  ペーターの言葉に、何となくルミ子は、納《なつ》得《とく》して肯いたのだった。 「ハクション!」  と、奈々子はクシャミをした。「——ハクション!」  あのリヒャルトという男が、奈々子の顔を覗《のぞ》き込むようにして、何か言った。  たぶん、「大丈夫か?」と言ったのだろう。奈々子は、 「オーケー、オーケー」  と、手を振って見せた。「誰かが噂《うわさ》してんのよ、きっと」 「ウワサ……?」 「いいの。——気にしないで」  奈々子も、大分元気になっている。何といっても、お腹が一杯!  神父さんは、ニコニコして、あったかいシチューの後に、ワインもごちそうしてくれたのである。 「さて、と……。これからどうするか」  残念ながらここには電話はなかった。  リヒャルトが、奈々子を指して、 「ホテル。ホテル」  と、くり返した。 「ホテルへ送ってくれるの?」  まさか、ホテルへ二人で入ろう、と誘ってるわけじゃあるまい。しかし——奈々子は、あのもう一人の死んだ男のことが気になった。  この男が、また殺されちまったら、やっぱり、後味が悪い。 「テレフォン。——分る? テレフォン。——ね? ホテルへ電話したら、誰かが迎えに来てくれるわ」 「テレフォン、ヤア!」  リヒャルトは何度も肯《うなず》いた。  何となく、こうして心が通じるってのは、いいもんだ、と奈々子は、こんな時に、呑《のん》気《き》なことを考えていた。 「——ごちそうさま」  と、奈々子は、人の良さそうな神父に、お礼を言って、リヒャルトと二人で外へ出た。  陽も大分高くなって、暖かい。 「ハイキングでもしたい気分ね」  と、奈々子は言った。  少し遠くに、小さな町が見えた。——あそこへ行けば、電話がかけられる。  リヒャルトと奈々子は、足を早めた。  ブルル……。エンジンの音が聞こえた。  振り向いた奈々子は、車が一台、走って来るのを見た。リヒャルトが、サッと青ざめる。 「何かしら?——キャッ!」  奈々子が悲鳴を上げたのは、リヒャルトがヒョイと奈々子をかついで、駆け出したからである。 「ちょっと!——危いわよ!」  と、抗議しても、とても聞こえやしなかったろう。  車が、ぐんぐんと迫って来る。リヒャルトは、向きを変えて、斜面を下り始めた。  町の方とは逆になるが、確かに、今は仕方ない。車が停《とま》り、男たちが、バラバラと降りて来た。  バン、バンと弾《はじ》けるような音。——銃声だ! 「危いわ! 伏せて!」  と、叫んだが、もちろん、聞こえやしなかった。  斜面を下って行くと、黒々とした森が広がっている。リヒャルトは、何とかその中へ逃げ込みたいらしい。 「下ろして! 私も走るわよ!」  と、奈々子は主張したが、聞いてもらえなかった。  追いかけて来る男たちの怒《ど》鳴《な》る声。そしてまた銃声が何度か響いた。  しかし——何とかリヒャルトは、森の中へ駆け込んだ。  何しろ深いというか、太い木が、昼間も暗いほどの間隔で立っているのだ。この中なら、少なくとも撃たれる心配はない。  リヒャルトは、森の中を右へ左へ、駆け抜けた。  ゴツン、と、奈々子の頭が幹にぶつかり、 「いてっ!」  と、悲鳴を上げる。  これで、やっとリヒャルトも、奈々子を下ろしてくれた。  リヒャルトに手を引かれ、 「おお、いてえ……」  と、頭をさすりつつ、奈々子は森の中を、小走りに進んで行った。  もちろん、追いかけて来てはいるのだろうが、この中で見付けるのは、楽じゃあるまい。  リヒャルトが、足を止めた。  奈々子も、足を止め、息を弾《はず》ませつつ、耳を澄ますと……。  男たちの声が、段々、遠ざかって行く。 「うまく、まいたみたいね」  と、奈々子は言った。「でも、あんた、大丈夫なの? こんなことして、ボスににらまれて——」  急にリヒャルトが、呻《うめ》いて、膝《ひざ》をついた。 「どうしたの!」  奈々子がびっくりして覗《のぞ》き込むと……。  血が——リヒャルトの脇《わき》腹《ばら》から出ている。 「撃たれたの? どうして黙って……」  リヒャルトは、ドサッと地面に腰をおろすと、奈々子を見て、 「テレフォン……」  と、言った。 「分った。でもね、あんたのけがの手当てをしなきゃ……」  でも、どうしたらいいだろう?  ドイツの深い森の中で、奈々子は、途方にくれてしまっていた……。 28 森田の災難 「畜生!」  と、言ったのは、森田だった。「何で、こんなに沢山、絵ばっかりあるんだ!」  そりゃ当然のことだ。何しろ、森田は美術館の中を歩いていたのだから。  ヨーロッパの美術館のスケールというのは、日本のデパートで「ルノアール展」なんてのを見て、 「これが美術展ってもんか」  などと思っている人間には、とても想像がつかないほど巨大なものである。  このミュンヘンのアルテ・ピナコテークも、ドイツ有数の美術館というだけあって、その規模たるや、目をみはるほどのものである。  また、美術館というのは不思議なところであって、絵の好きな人は、いくら歩いても(といっても限度はあるが)そう疲れないが、絵に関しては、 「いくらするのか」  という関心しか持てない手合にとっては、無限の砂漠を歩いているように、疲れる場所なのである。  森田の場合、どっちかというと——いや、はっきり、後者で、しかも朝食抜きで、ルミ子に叩《たた》き出されるようにしてホテルを出て来たのだから、グロッキーになるのも、当然であった。  今のところ、野田と美貴の二人を尾行していられるのが、奇跡と言っても良かったのである。  だが——森田の忍耐力も、ほぼ限界に達しつつあった。  野田と美貴は、一つの部屋へ入ると、そこに置かれたソファに腰をおろし、低い声で何やら話し始めたのである。  森田はよろけた。——あいつらは、朝飯もたっぷり食って、しかもソファに座ってる! ところが俺《おれ》は、飲まず食わずで、座る所もないと来てる! こんな不平等があっていいのか?  神の前に人間は平等だ!  突如として、真理にめざめた森田は意を決すると、一階まで駆け下りることにした。入口のわきにカフェがあって、コーヒーの匂《にお》いが漂っていたのを、ちゃんと鼻が憶《おぼ》えていたのである。  他の客が顔をしかめて見るのも構わず、森田は、ドタドタと足音をたてながら一階へ下りた。  カフェ!——ここだ!  中へ入った森田は、ドイツ語が分らないことなど、まるで気にならなかった。 「コーヒーとサンドイッチ!」  と、堂々と(?)日本語で注文したのである。  日本人観光客も多いので、店の女性の方も慣れているのか、 「ヤア」  と、コーヒーとサンドイッチをよこした。 「やった!」  と、森田は感動に身を震わせた。「人間の真心は、通じるもんだ!」  すると、その女性が言った。 「あんた、ちゃんとお金払ってよ」  森田は、危うく引っくり返るところであった……。  ——何とか支払いも無事にすまし、森田は空いた椅《い》子《す》に座って、食べ始めた。 「ちょっと」  と、日本語をしゃべる女性が、言った。「ミルクとお砂糖は——」  その先は、言う必要もなかった。その時には、森田の目の前から、サンドイッチとコーヒーは消え去って、既にお腹の中へ移動していたのである……。 「ダンケ」  と、森田は、大分ご機嫌も良くなり、唯《ゆい》一《いつ》の知っているドイツ語を使ったりした。「日本語、うまいな」 「亭主が日本人だったのよ」  と、その女性が言った。「あんた、三日前から食べてなかったの?」 「いや、昨日からだ」  と、馬鹿正直に言った。「コーヒー、もう一杯くれ」 「タダよ。サービスしてあげる」 「悪いな」 「あんた、どことなく、死んだ亭主と似てるからね」  と、その女性は、ニヤッと笑って、「今夜、暇なの?」  森田は肩をすくめて、二杯目のコーヒーをガブ飲みすると、 「仕事があるんだ。——じゃあな」 「頑《がん》張《ば》って」  森田は、あわててカフェから飛び出した。——何しろ、その女性、どう見ても百キロ以上の体重があったからである。 「やれやれ……」  さっきは、腹が空いて、めまいがした階段を、トコトコ上って、森田は、もとの場所までやって来た。 「——いかん」  美貴と、野田の二人は、もう姿が見えなくなっていたのだ。  なに、この中をずっと矢印通りに歩きゃ、必ず追いつく。——そうだとも。  森田は、傑作の数々には目もくれず、次の部屋、またその次、と通り抜けて行った。  しかし、どこにも野田たちの姿は……。  すると、何だか聞いたことのある女の笑い声が、階段の方から聞こえて来た。  美貴だ! 下の方から聞こえて来る。  してみると、もう二人はここを出るつもりで階段を下りて行ったらしい。  森田は、あわてて階段の方へと戻《もど》って、また、すれ違う人の眉《まゆ》をひそめさせながら、階段を駆け下りて行った……。    ペーターは、電話が鳴ると、すぐに立って駆け寄った。  ルミ子は、気が気じゃなかった。  姉さんたら、一体何を考えてるのかしら?  あの野田さんのこと、どうしようっていうんだろう。あの人を疑うなんて、どうかしてるわ!  ペーターは、誰かドイツ人と話している様子だ。  もちろん、ルミ子は、奈々子のことも心配していた。もし、奈々子の身に万一のことでもあったら……。  死んでお詫《わ》びをする、ってわけにはいかないけど、でも——やっぱり諦《あきら》めるしかないか……。アーメン。  ルミ子が、結構いい加減な心配の仕方をしていると、ペーターは電話を切って、 「いやはや……」  と、首を振った。 「どうしたの?」  と、ルミ子は訊いた。「奈々子さんのことで、何か?」 「うん。あの人も、凄《すご》いことをやる人だな」 「というと?」 「今、入った情報だと、肝心の人質が逃げ出したらしい、ってことだ」 「じゃ——奈々子さんが?」  ルミ子は飛び上って、「やった!」 「喜んじゃいけない」 「どうして?」 「逃げおおせて、ちゃんとどこか安全な所へ辿《たど》りつけば、まずここへ電話して来ると思わないか?」 「あ、そうか」 「逃げたはいいが、撃たれたとか、崖《がけ》から落ちたとか——」 「そんなこと!」 「最悪の場合は、だよ。まあ何とか無事に逃げのびてくれるといいんだけど……」  と、ペーターはため息をついた。  二人は、美貴の部屋にいた。おそらく、連絡が入るとすればここのはずだからだ。 「——お姉さんたち、どうしたのかしら」  と、ルミ子は言った。「あの探偵、頼りないものね」 「そうだね。しかし——」  と、ペーターが言いかけると、ドアをノックする音。  ルミ子が立って行って、 「どなた?」  と、ドイツ語で訊《き》いた。 「フロントでございます」  ペーターが代って、ドアを開ける。 「——何か用かね?」 「こちらの連れの方でしょうか」  と、フロントの男が出したのは、パスポートだった。 「これ……。見せて」  ルミ子が開くと、「あの森田のだわ」 「これはどこで?」  と、ペーターが訊くと、 「実は——」  と、フロントの男は、ルミ子の方を見て、ためらった。 「何を聞いても、びっくりしないわよ、大丈夫!」  と、ルミ子は言った。「どうせ、また何かやらかしたんでしょ」 「この持主の方は亡くなりました」  と、フロントの男は言った。  ルミ子はポカンとしていたが……。 「今、何て言ったの?」 「亡くなった、って——どういうことなんだ?」  と、ペーターも目を丸くしている。 「アルテ・ピナコテークを出たところで、誰かに殴《なぐ》られ……。ナイフで刺されて、財布などを盗まれたようです」 「まあ」  ルミ子は呆《ぼう》然《ぜん》として、「じゃ——死んじゃったの?」 「何てことだ……。分った。確かに、ここの連れだ」  と、ペーターは言った。 「お気の毒でございます」  と、フロントの男は、ていねいに頭を下げて、「警察の方が、後ほど伺いたい、と——」 「当然だろうね。分った」 「では、ご連絡いたしますので」  と、また一礼して、フロントの男は戻《もど》って行った。 「——信じられない!」  ルミ子は、椅《い》子《す》にドサッと座り込んだ。 「しかし、どうやら間違いないらしいね」  と、ペーターは、パスポートを見直して、「この写真はずいぶん若くとれてるが」 「でも、誰がそんなことを?」 「単なる物《もの》盗《と》りかもしれない。財布を抜いて行っているからね」 「でも——昼間から?」 「そこは妙だね。だが、あの男を殺して何か得をする人間がいるかな」  そう言われると、ルミ子としても、森田が狙《ねら》われるほどの「大物」だったかどうか、首をかしげてしまう。 「——お姉さんたち、まだ戻らないのかしら?」  と、ルミ子は不安になって、立ち上ると、 「私、ロビーへ行って来る」  ドアを勢い良く開けると——。 「あら、出かけるの」  目の前に、美貴が立っていたのだ。 「——お姉さん!」 「楽しかったわよ、美術館も。あなたも、少しああいうものを見なくちゃ。ね、野田さん」  野田も入って来て、 「僕も、面白かったけどね」  と、息をついて、「——くたびれた!」  ソファに身を投げ出すように引っくり返る。 「オーバーね」  と、美貴は笑った。「あら……。どうしたの?」  ペーターとルミ子が、何とも妙な表情をしているのを見て、美貴は、 「何かあったの?」  と、不安そうに言った。「あなたたち——まさか、あやまちを……」  ルミ子とペーターが、引っくり返りそうになったのも、無理のないことではあった……。 29 犠牲的精神  奈々子は医者ではない。  もちろん、医学の心得もない。まあ、鼻血が出たらどうするか、とか、すりむいたら、オキシフルで消毒して、キズテープを貼《は》りゃいい、ぐらいのことは分っているが、それを「医学的知識」とは呼べない。  しかし、その奈々子でも、人間、血が出て、いつまでも止らないと、たいてい死ぬもんだということぐらいは分っている。  リヒャルトの脇《わき》腹《ばら》の傷は思いの他深いようで、出血は一向に止らなかった。 「困ったわね……」  奈々子は迷った。  リヒャルトの方は、早く逃げろ、と手ぶりで言っていたのだが、その内、それだけの元気もなくなったらしい。  体が大きいだけに、ぐったりと弱っているのが、哀れである。  私を助けようとして……。本当に、却《かえ》って余計なことをしてくれるじゃないのよ!  奈々子は、仕方なく、立ち上ると、 「待ってて。誰か連れて来るからね」  と、リヒャルトに向って言った。  たぶん聞こえなかっただろうし、聞こえたって、分りゃしないだろう。日本語じゃ。  奈々子は、森の中を見当をつけて、歩いて行った。——まだ、追いかけて来た男たちはどこかその辺にいるはずだ。 「ちょっと!」  と、奈々子は大声で言った。「どこ捜してんのよ! このボンクラ! 方向音《おん》痴《ち》!」  バタバタと足音がした。  二、三人が、奈々子を見付けて、大声で怒《ど》鳴《な》った。 「——早くしなよ、全く」  と、奈々子はブツブツ言っている。 「やあ、そこにいましたな」  と、顔を出したのは、神原という男だった。 「どこに行ってたんです? 捜しましたよ」  と、奈々子は言ってやった。「リヒャルトって人が、あそこで血を流しています。助けてあげて」 「あんな奴は放っときゃいい」  と、神原はムッとした様子で、「あんたを逃がそうとした」 「でも、仲間でしょ」 「ただの金目当ての臨時雇でね。——さ、行きましょう」  神原が出した手を、奈々子は振り払って、 「あの人を助けて。そうでないと、私は戻りません」  と、言い放った。  神原は苦笑して、 「いいですか。あんたをひっかついで行くのは簡単ですよ」  と、低い声で言った。「ここにいる連中は気が短いですからね」 「でも、私をあんまりひどい目にあわせると困るんじゃありません?」  と、奈々子は言った。「主人との取引きの時に、血で血を洗うことになりかねませんよ」  これには神原も少し詰った。 「しかしね、あんなチンピラを……」 「いいわ」  と、奈々子は肯《うなず》いた。「私と取引きしません?」 「奥さんと?」 「ええ。あのリヒャルトという人を、すぐ医者へ運んで手当して下さい」 「で、その通りにしたら?」 「私をあなたの好きなようにして下さい」  神原が目を見開いて、 「な、何です?」 「あなたに抱かれます。おとなしく。逆らったりしませんわ」 「し、しかし……」  神原は、真赤になっている。「あとで、それをご主人に——」 「あざ一つなしで、そんな話をしても、好きで寝たと思われるだけです。私も馬鹿じゃありませんから」  奈々子は、我ながら、よくこんなセリフがスラスラ出て来る、と感心した。  考えてみりゃ、大変な「約束」をしているのだが。 「——本当ですか」  と、神原は、ギラつく目で、奈々子を見ている。 「ええ。信じて下さい。私も、三枝成正の妻ですわ」  まるでヤクザ映画のセリフ。少々気恥ずかしかったが、それでも、堂々と言うと、それなりに、真実味があるらしい。  大体、私のこと、こんな目で見る男もいるんだわ、と奈々子は、変なことに感心していた。 「——いいでしょう」  神原は肯《うなず》いて、「おい!」  ドイツ語で何か怒《ど》鳴《な》った。  奈々子は、リヒャルトが三人がかりで運ばれるのを見てから、 「じゃ、参りましょう」  と、先に立って歩き出した。  ——どうにかなるさ。そう、自分へ言い聞かせながら……。   「気の毒にね」  と、美貴は言った。 「あんまり役に立たない人だったけど……」  と、ルミ子が言った。 「確かにそうだが、命は大切だ」  と、ペーターが肯く。 「身よりはあったのかしら」 「一応人間だったんだし、あるんじゃないの?」  ルミ子は、あまり同情的とは言えない調子で言った。  前のメンバーにハンスも加わって、美貴の部屋で、〈森田氏追《つい》悼《とう》会《かい》〉をやっているところだった。  もっとも、目の前にあるのは、森田のパスポートだけ。 「このパスポートの写真。お葬式にいいわね」  と、美貴が言った。「よくとれてるじゃない」 「よすぎない? 別人のかと思って、お焼香に来た人が帰っちゃうわ」  と、ルミ子が言うと、 「ハクション!」  誰かがクシャミをした。 「——誰、今の?」  と、ルミ子が言った。 「ハクション!」 「——廊下だ」  と、ハンスが言った。「誰かいる」 「僕が開ける」  と、ペーターが、立って行き、パッとドアを開けた。 「ハクション!」  と、もう一度クシャミをしたのは——森田当人だった。 「まあ」  と、美貴が言った。「ちょうど、噂《うわさ》してたのよ!」 「お化け!」  と、ルミ子が飛び上った。 「——生きてるぞ!」  と、森田がよろよろと中へ入って来た。  上衣はなくなり、ワイシャツは裂《さ》けている、ズボンも……、一応はいてるが、ともかく、全身ずぶ濡《ぬ》れ。 「カーペットに水が落ちてるよ」  と、ハンスが言った。 「バスルームヘ!」  みんなで森田をバスルームへ押しこめて、ドアを閉めてしまった。 「ああ、びっくりした!」  と、ルミ子が息をつく。 「しかし、運の強い男だ」  と、ペーターが笑う。  たぶん、当人は、笑うどころじゃなかったろう。バスルームの中でも、 「ハクション!」  と、クシャミをしていたからだ。  ——十五分ほどして、やっと森田は現われた。  ホテルのバスローブを着て、生き返ったようで、 「何か食わしてくれ!」  と、訴えた。  さすがに、多少同情したルミ子は、ルームサービスを頼んでやった。 「——美術館を出たとたん、物かげに引きずり込まれたんだ」  と、森田は言った。「ポカポカ殴《なぐ》られて……。気が付いたらあの格《かつ》好《こう》で、池の中へ放り込まれたんだ」 「待って」  と、ルミ子が言った。「でも、あなたは殺されたって……」 「たぶん」  と、ペーターが言った。「君を襲った犯人が、東洋系の人間だったんだ。そして君の財布やパスポートを持って、他の誰かに殺された」 「何ですって?」 「だから、却《かえ》って君は命拾いをしたのかもしれないよ」  ペーターに言われて、森田は、ちょっと顔をしかめると、 「こんな目にあって、誰が喜べるか」  と、言った。  珍しく、森田の言葉に、誰もが納《なつ》得《とく》して肯いた。  ルームサービスの食事が来ると、森田は、猛然と食べ始めたのである。 30 ルミ子の無鉄砲  奈々子も子供ではない。 「自分の言ったことには、責任を持たなくてはいけない」  と、説教するほどでもないが(したくても相手がいない)、一応、自分ではそう思っている。  しかし、まあ……。 「私も物好きねえ」  と、奈々子は呟《つぶや》いた。  自分で言ってりゃ世話ないや。——本当に我ながら、いやになってしまう。  あんな奴、放っときゃ良かったんだ。  確かに、リヒャルトは奈々子を逃がしてくれようとした。しかし、もとはと言えば、奈々子を捕えて監禁したのも、リヒャルトなのである。  何も私があんなのに恩を感じる必要なんてないんだわ。——そうよ。  しかし、すでに手遅れだった。  誰かが助けに来るという希望も、なかったのだ。何しろ、今、奈々子は前と違う山荘に連れて来られていたからである。  二階の一部屋に入れられて、ベッドで引っくり返っている、という図は、ちっとも変らない。  何だかんだと大騒ぎして、結局少しも進歩がなかったということになる。  もう夕方……。  夜になれば、あの神原ってのが、よだれをたらしながらやって来る。そして、哀れ、奈々子はその欲望のえじきになるのだ。 「可《か》哀《わい》そうに」  なんて、まるで他《ひ》人《と》事《ごと》のようなことを言っている。  と——足音がして、鍵《かぎ》がカチャリと回る。  起き上ると、当の神原が立っていた。  ちょっと!——待ってよ! まだ早いじゃないの。  奈々子はいささか焦《あせ》った。 「夕食を持って来ましたよ」  と、神原が言ったので、奈々子はホッとした。  取りあえず、今はまだ無《ぶ》事《じ》らしい。 「どうも。——そこへ置いといて下さい」  と、奈々子は言った。  神原は、盆をテーブルにのせると、エヘンと咳《せき》払《ばら》いした。 「風邪ですか?」  と、奈々子は訊いた。「無理しない方がいいですよ」 「至って健康です」 「そうですか」 「——この食事をすませるのに、一時間。その後、お風呂に入られるのに一時間として、二時間後には、私もここへ参ります」 「二時間後……。でも、少し早くありません? まだ外は明るいし……」 「遅くなると、用事がありましてね。——いや、とはおっしゃらないでしょうね」 「ええ。自分で言ったことですから」 「結構。大いに楽しみにしておりますよ」  ヒヒヒ、と下品な笑い方をして、神原は部屋を出ようとする。 「あの——」 「何か?」 「リヒャルトはどうです?」 「何とか命は助かるそうです。ま、丈夫だけが取り柄《え》のような奴ですから」 「取り柄があるだけ、あんたよりまし」 「何です?」 「いえ、こっちの話です」 「では、二時間後に」  と、神原はニヤリと笑い、出て行った。  やれやれ……。二時間後か。  リヒャルトが命を取り止めたのは、嬉しかった。——本当かしら?  でも、一応はあの男の言葉を信用するしかない。 「困ったなあ」  と、呟きつつ、奈々子は、食事の盆の前に座っていた。  二時間後には、どんな運命が自分を待っているのか、知らぬわけではなかったが、それでもちゃんと食事をしようというのが、奈々子の奈々子らしいところである。  かけてあったナプキンを取ると、結構おいしそうなシチュー。 「いい匂《にお》いだ」  こうなったら、せいぜい食べて、体力をつけとこう、と思った。何があっても、まず体力だ。  ——正直なところ、奈々子も後悔しているわけではない。自分の性格というものはよく分っているのだし、それは変えようもないことだ。  はた目には、馬鹿げたことかもしれないが、別に他人に迷惑かけるわけじゃないしね……。私が犠牲になりゃすむことなんだわ。  もちろん、神原に何をされるか、奈々子だって子供じゃないから分っている。腕ずもうとか、五目並べとかをやって終る、ってことはないだろう。  神原の手で体中をなで回され(考えただけでも気持悪い!)、そして……。 「——そうだ!」  と、奈々子は、思わず声を上げた。  どうしてこんなことに気が付かなかったんだろう?——困った!  奈々子は、困りながらも、ちゃんとシチューを食べていた。困った、というのは……。  今年二十歳の奈々子であるが、今のところまるで未経験。——しかし、三枝美貴は、れっきとした(?)人妻である。  つまり——神原に抱かれたとして、奈々子が未経験だったと分っちゃったら、奈々子が美貴でないことが知れてしまうのだ。  そんなことまで、考えてもいなかったのである。 「どうしよう?」  奈々子は悩みつつも、パンをちぎって、食べ始めていた。    ルミ子は、ホテルのロビーに下りて来た。  美貴と一緒にずっと部屋にいても、仕方がないと思ったのである。  もうすぐ夜になる。——ルミ子は、気が重かった。  奈々子はどうなったのか? そして姉の美貴は何を考えているのか?  ハンスが、急用で出かけてしまっていることもあって、ルミ子は話相手もなく、一人で悩んでいたのである。  ロビーで、ルミ子は新聞を眺めていた。英語の新聞である。  子供のころから、かなり「国際人教育」を受けて育ったルミ子は、外国の子供たちと、よく遊んだりして、ごく自然に英語、フランス語、ドイツ語になじんで来たのである。  もちろん、ペラペラってわけにはいかないが、むしろ文字で勉強して来た友だちに比べると、テストの点は悪くとも、実用になるのだった。 「三枝……」  ふと、耳にその名前が飛び込んで来て、ルミ子は顔を上げた。  三枝? 三枝って言ったのかしら?  それとも、全然別の言葉が、そう聞こえただけなのか。  ロビーを見回すと……。誰か、ロビーの隅《すみ》の電話で話している人間がいる。 「……ヤア……。サエグサ……」  やっぱり、どう聞いても、「三枝」だ。  ドイツ人らしいが、ドイツ語で、「三枝」と聞き間違えるような言葉を、少なくともルミ子は知らない。  誰だろう?——気付かれないように、ルミ子は、そっとソファを立って、太い柱の陰に身を隠した。  太った金髪の男で、サングラスをかけている。——身なりはそう悪くないし、こんな一流ホテルにも、場違いとは見えない。  電話を切ると、その男は、ホテルの正面玄関の方へと歩き出した。  ルミ子は、一瞬迷った。  何かの手がかりになるかどうか。——しかし、一人であの男を追って行くなんて、とてもじゃないけど……。  でも——。  男は大《おお》股《また》に歩いて行ってしまう。誰かをここへ呼んで来る余裕はなかった。  ルミ子は、思い切って、男の後をついて歩き出した。このホテルの近くだけなら、尾《つ》けて行っても大丈夫だろう。少し外には明るさも残っているし。  ホテルを出ると、男はオペラ座の方へと歩いて行く。何しろ体が大きいから、一歩の歩幅も広い。ルミ子は、ほとんど小走りに、追って行かなくてはならなかった。  男が、足を止める。誰かを待っているかのようだ。  歩道のふちに立って、左右を眺めている。ルミ子は、少し離れた所で足を止め、ちょうどオペラ座のポスターがあったので、それを眺めているふりをした。  何をしてるんだろう?  男は少し苛《いら》々《いら》している様子だった。腕時計を見ては、首を振ったりしている。  すると——車のライトが近付いて来た。  トラックだ。そう大きくもないが、かなり使い古した感じのトラック。  それが男の方へと寄って停《とま》った。  男がドアを開けて乗り込む。すぐにはトラックは出なかった。  中で、何やら大声で言い合っているらしいのが、ルミ子の耳にも聞こえて来る。たぶん、あの男が、遅かった、と文句を言っているのだろう。  ルミ子は、トラックの運転席に誰がいるのか、見えないかと思って、ゆっくりと歩き出した。  トラックのわきを通りながら、さりげなく見る。——日本人らしい顔が、チラッと見えた。  しかし、向うは、例のサングラスの男と言い合っているので、ルミ子に気付いた様子はない。  トラックの後尾まで来て、ルミ子は足を止めた。荷台は空っぽで、幌《ほろ》はついているが、乗ろうと思えば簡単だ。  乗ろうと思えば?  何言ってんのよ! そんな危いこと!  一人でそんなことして、もしものことがあったら……。  ブルル、とエンジンが音をたて、トラックが走り出す。  とっさに、ルミ子はトラックの荷台へと、駆け寄って、ポンと飛びついた。頭から転り込む。びっくりするくらい、うまく行った。  ガタガタと揺れる荷台に起き上った時、ダダッと足音がして、誰かが、またトラックの荷台へ飛び込んで来たのである。 「キャッ!」  と、ルミ子が思わず声を上げる。 「しっ!」  と、起き上ったのは、ペーターだった。 「あ、なあんだ」 「何だ、じゃない」  と、ペーターはルミ子をにらんで、「こんな物騒なことをして!」  もちろん押し殺した声だ。でも、ルミ子はホッとしていた。何といっても、ペーターが一緒なら、安心だ。 「だって、つい、足が動いちゃったんだもん」  と、ルミ子が言うと、ペーターは首を振って、 「全く、君の一行は、まともでない人間ばっかりだ」  と、呟《つぶや》いたのだった……。 31 炎が照らす顔  二時間は、アッという間に過ぎてしまっていた。  ——奈々子は、ベッドに腰をかけて、迷っていた。  約束は約束。たとえ、あんな男との約束でも、守らなきゃいけない、という気持がある。  一方で、自分の身を守る権利ってものがあるのも確かである。しかし——どうやって?  そろそろ時間だ。  正直に、言われた通り、食事をして、お風呂にも入っているのが、奈々子らしいところだ。  足音がした。——来た!  ガチャリと鍵《かぎ》が回り、ドアが開く。  すると、そこに立っていたのは、奈々子を助けに来たペーターだった!  てなことはないか……。やっぱり、そこには神原が立っていたのである。 「ほう」  神原は、早くも目をギラつかせて、息づかいも荒くなっていた。「——仕《し》度《たく》を終えて、待っておられたようですな」 「別に、待っちゃいませんけど」  と、奈々子は呟《つぶや》いた。 「では、早速」  と、神原は上衣を脱いだ。「——奥さん」 「は?」 「私はね、正直なところ、もっとお上品ぶった、面白味のない女を想像していたんですよ」 「そうですか」 「しかし、あなたは、ユニークな人だ」  悪かったわね、と奈々子は心の中で言ってやった。 「私はね、あなたのような女が好みなんですよ」  と、神原はネクタイを外した。  あんたなんか好みじゃないよ、と言ってやりたかった。 「実に楽しみだ! どんな味がするか……。さ、力を抜いて、私に任《まか》せて下さい」  と、神原は近寄って来た。  さすがに、奈々子も体をつい固くして、よけてしまう。 「怖がることはありません」  本当に怖がらなきゃいけないのは、むしろ神原の方なのだが。「——私にすべて、任せておけば、天国へ行く気分ですよ」 「あなたは地獄ね」 「面白い方だ」  と、神原は言った。「約束を忘れないで下さいね」 「分ってます」 「決して逆らわない、というお約束ですからね……」  神原が奈々子の肩を抱く。  まだ奈々子は迷っていた。——約束か。  どうしたらいいんだろう? 十円玉を投げて決めようか?  でも、その時間もなかった。神原は、いきなり奈々子を抱いてキスしようとしたのだ。「あ、あの——もう少しゆっくり——」 「男は力強さ、強《ごう》引《いん》さです!」 「それは——誤解ですよ。女は乱暴にされるのが嫌いなんです!」  神原が奈々子をベッドへ押し倒す。身もだえしたが、神原の方はもう夢中で——。  ズシン、という音と共に、家が揺れた。 「何だ?」  と、神原が顔を上げる。「地震かな」 「NHKの地震速報、見たら?」  と、奈々子は言った。  すると、また家がぐらぐらと揺れた。 「ワッ!」  飛び上ったのは神原である。「地震だ! 助けて!」  奈々子のことなど忘れてしまったように、床にしゃがみ込むと、頭をかかえて震えている。  奈々子は呆《あき》れて、 「地震、弱いの?」  と、訊《き》いた。 「当り前だ! 地面が割れて、のみ込まれてしまうんだ! 神様!」  と、神原は金切り声を上げている。 「そんな大地震じゃないわよ」 「だめなんだ……。昔、子供のころ、『十戒』って映画で、悪い奴が地割れに落ちるのを見てから……」 「ああ、あれ。私、リバイバルで見た」  と、呑《のん》気《き》なことを言っていると、ドアが凄《すご》い勢いで開いた。 「——リヒャルト!」  奈々子は仰天した。  包帯をグルグルお腹に巻いた上にシャツを引っかけている。そして手には機関銃。 「大丈夫なの? 動いたら、出血するんじゃない?」  と、奈々子が心配する。  リヒャルトは、神原がポカンとしているのを見て、銃口を向けた。 「よせ!」  と、神原が飛び上る。「助けてくれ!」 「ドイツ語で言えば?」  と、奈々子はアドバイスしてやった。  機関銃がバリバリ音をたてて火を吹いた。  床の板が砕けて木片が飛び散る。神原は、 「キャッ!」  と、飛びはねて、そのまま後ろへ引っくり返り、のびてしまった。  弾丸が当ったわけじゃない。気絶してしまったのである。 「リヒャルト——」  駆け寄って来たリヒャルトが、奈々子の手を取ると、その甲にキスした。 「——そうか。誰かから聞いたのね、私と神原のこと」  奈々子も嬉《うれ》しかった。「でも、あんたが助かって良かったわ」  奈々子は、リヒャルトの額にチュッとキスしてやった。  リヒャルトが奈々子の手を引いて、急いで部屋を出る。  一階では、神原の手下が二人、完全にのびていた。  外へ出て、奈々子は、 「これが地震だったのね」  と目を丸くした。  大きなトラクターが、山荘の外壁に鼻先を突っ込んでいた。柱が折れて、このまま突き進んだら、山荘が潰《つぶ》れてしまいそうだ。  リヒャルトに促《うなが》されて、奈々子はトラクターに乗った。  そして、リヒャルトも乗ろうとしたが……。  リヒャルトが振り向いた。 「車の音だわ」  ずっと遠くだが、車の灯が、いくつか並んでやって来る。  リヒャルトが、奈々子の手を取って、トラクターからおろした。この車じゃ、とても逃げられまい。 「隠れましょ」  幸い、山荘の裏手は林である。二人して、その中へと入って行き、身をひそめた。  やがて車がやって来る。——四台も。  山荘の前に停ると、男たちが出て来た。手に手に、銃を持っている。  誰かしら?——みんなドイツ人らしい。  二番目の車に、誰かが乗っているらしく、声がした。——日本人かしら、と奈々子は思った。  ドイツ語ではあるが、発音や、声の感じが日本人のようだ。  男たちが、山荘の中へと入って行った。  ドタドタと中を歩き回る足音が聞こえて来る。——しばらくして、一人が戻《もど》って来ると、二番目の車の男に、話しかけた。  短い返事。二言三言、会話があって、男はまた山荘の中へ戻って行った。  どうなってるんだろう?  奈々子は、息を殺して、その光景を見つめていた。二番目の車には、誰が乗っているのか?  突然、山荘の中から銃声が聞こえた。五回六回。——そして銃声が止んだ。  奈々子の顔から、血の気が引いた。  神原と、下の二人の男……。きっと殺されたのだ!  男たちが出て来る。そして——少し間があって、奈々子は山荘の窓から、煙がゆっくりと立ち上るのに気付いた。  火が山荘の窓から吹き出す。  車が少し後退して、山荘が燃え上るのを見物しているようだ。  ——奈々子の体が震えた。  何てひどいことを……。  木造の山荘は、たちまち炎に包まれて、火はあのトラクターにも燃え移った。  山荘が炎の中に崩れ落ちる。辺りは、真昼のように明るくなった。  そして、二番目の車のドアが開くと、一人の男が、降り立った。  白っぽいスーツの男。日本人だ。  葉巻をくわえて、楽しげに、燃え落ちる山荘を眺めているのだ。  その顔が、炎に照らされて、はっきりと見えた。  奈々子は息が止るかと思った。  それは、美貴が見せてくれた写真で知っている顔——三枝成正に違いなかったのだ。 32 闇《やみ》の中に 「どこまで行くのかしら?」  と、ルミ子は言った。 「さあね」  と、ペーターは肩をすくめて、「僕が運転してるわけじゃないんだから、分らないよ」  そりゃ分ってるけど……。ルミ子は少々むくれて、 「何もそんなに冷たい言い方しなくたって、いいじゃない」  と、呟《つぶや》いた。  ——まあ、ルミ子としても多少は後悔していたのである。  怪しげなトラックに、ろくに考えもせずに飛び込んでしまって……。一体何を考えてたんだろう、と我ながら不思議だった。  ペーターがついて来てくれたから、まあ安心していられるが、そうでなきゃ、心細くなって途中で飛び下りて、足でもくじいているところだ。  もうすっかり周囲は暗くなっている。  いくらミュンヘンが大都会といっても、東京みたいに、どこまで行っても家が並んでいるというわけではない。  大分前から、トラックは深い森の中へと入って、一体どれくらい走って来たものやら、ルミ子には見当もつかない。  道も、あまりいいとは言えず、ガタン、ドタン、と飛びはねたりして、その度にルミ子はお尻《しり》を痛くして、顔をしかめるのだった……。 「乗り心地が悪い」 「そりゃそうさ」  と、ペーターは笑って、「メルセデスやロールスロイスってわけにゃいかない」 「どれくらい遠くまで来た?」 「さて……。この辺のことは、僕もよく知らないんだ」  と、ペーターは言った。「もし、町を通ったら、そこで降りようかと思ってるんだけどね、一向に通らないし」 「そうね……。でも、この男たちが、三枝さんのことと、何か係《かかわ》りがあるのは、確かだと思わない?」 「うん……。まあ、それは言えるだろうけど」  と、ペーターは渋々 肯《うなず》いて、「しかし、君が首を突っ込むのは、うまくない」 「手遅れ」 「そうだな」  と、ペーターは肯いた。 「あ、カーブした。——何か凄《すご》い道ね」  トラックは、ほとんどスキップでもしているかのように、飛びはねた。 「林の中へ入って行ってるな。木の根っこを乗り越えてるんだよ」  と、ペーターは言った。  ルミ子は、黙って肯いた。口をきくと、舌をかんでしまいそうだったからだ。  さらに十分ほど進んで——突然、トラックは平らな場所へ出た。 「どこかしら?」 「さあ……。停《とま》りそうだな」  エンジンの音が変った。  トラックはグルッと輪をかくように回って、停った。 「どうする?」 「降りるさ、もちろん!」  ペーターは、「おいで」  と、ルミ子の手を取った。  外を覗《のぞ》いて、ペーターがヒラリと飛び下りる。ルミ子は、ペーターにつかまえてもらって、降りた。 「こっちだ」  大きな箱が積んである方へと、ペーターとルミ子は駆けて行き、そのかげに身を隠した。  運転席にいた二人の男は、トラックを出て、何か大きな建物の方へと歩いて行った。  暗くてよく分らないが、倉庫みたいな、丈《たけ》の高い建物だ。 「——あれ、何?」  と、ルミ子は覗いて見て、言った。 「格納庫だ」  と、ペーターは言った。 「格納庫?——飛行機の?」 「そう。どうやら、ここは飛行場らしいね」  言われて見回すと……。なるほど、夜ではあるが、何となく、だだっ広い場所だということは、よく分る。 「森の奥に、こんな場所が……」  と、ルミ子が呆《あつ》気《け》に取られていると、 「珍しくないさ」  と、ペーターが言った。「何しろ、滑走路ったって、ただ真直ぐな、舗装した道路がありゃいいんだ。何もジャンボが着陸するわけじゃないんだからね」 「そりゃそうね」  ルミ子は、スイスを旅した時、自動車道路がいやに長く、真直ぐになった場所があったので、不思議に思ったことがある。後で訊いたら、非常時には、その道路が滑走路の役目を果すのだということだった。 「じゃ、秘密の飛行場?」 「そうらしい。——たぶん、密輸の小型機が使うんじゃないかな」 「へえ! 凄い発見!」  と、ルミ子は興奮している。 「呑《のん》気《き》だなあ」  と、ペーターは苦笑して、「見付かったら生きちゃ帰れないよ」 「でも、森の中へ逃げ込めば」 「そううまく行くといいけどね……。出て来るようだ」  格納庫の扉が、ガラガラと音をたてて、左右に開いた。中は明るいので、双発の小型ジェットの姿が、よく見える。 「ジェット機!——自家用機かしら?」 「だろうね。ヨーロッパじゃ、珍しくない」  と、ペーターが肯く。  すると——キーンという、耳を剌す金属的な音と共に、その小型ジェット機が、ゆっくりと外へ出て来た。 「飛んでっちゃう!」 「いや……。誰かを待ってるんだろう」  と、ペーターは言った。「こりゃ、意外に大物が見られるかもしれないよ」  ルミ子はドキドキした。——もちろん、怖さもあるが、好奇心の方が強烈である。  美貴たちに知らせる方法があれば……。  しかし、ともかくこの場所を見付けただけでも大したもんだ。——自分で言ってりゃ、世話はないが。 「車の音だ」  と、ペーターが言った。「頭を低くして!」  二人は、地面にほとんど這《は》いつくばるようにして、息を殺した。  黒い森の木立ちの間に、車のヘッドライトがチラチラと見えて来る。一台じゃない。  やがて、車が飛行場へと入って来た。  一台、二台……。四台いる。  車は、ジェット機の傍《そば》へと寄せて停った。 「——誰だろう?」  と、ルミ子が低い声で言うと、 「見えないな」  と、ペーターは舌打ちした。「——みんな一旦、格納庫の方へ入るらしい。よし、もっと近付いてみる」 「ええ? 危くない?」 「君にそんなことを言う資格はあるか?」  そう言われると、ルミ子も反論できない。  ペーターは、ちょっと笑って、 「ここでおとなしくしてろよ」  と言うと、 「気を付けて!」  というルミ子の声が耳に入ったかどうか……。  タタタッと足音が遠ざかって行く。——ルミ子も少々心細くなって来た。 「私のこと放っといて、何も一人で行かなくたって……。全く、無責任なんだから!」  と、ブツブツ文句を言っている。  しかし——もし、ペーターが戻《もど》って来なかったら?  あの連中に捕まっちゃったら、どうしよう? いくら何でも、一人じゃ助けに行くわけにもいかないし。  森の中にでも隠れて、夜が明けるのを待ち、家のある所まで歩くしかないだろう。どれくらいあるか知らないけれども。  ——ま、ともかく、今はペーターの戻るのを、待つしかない。  ルミ子は、箱にもたれて腰をおろすと、息をついた。——夜になると寒くなる。  一人で、やっぱり少々後悔していた。勝手にこんなことして、美貴姉さんたち、心配してるだろうな。  奈々子さんだけでなく、ルミ子まで行方不明ってことになると……。  あの探偵の森田は、てんで頼りにならないし。ハンスも、こんな所へ助けに来ちゃくれないし。  早く戻って来ないかな、ペーター……。  キスの一つぐらいしてやるのにね。向うは別にしてほしくないかもしれないけど。  ——どれくらいたったろう?  長く感じたが、十分ぐらいのものだろう。  足音が聞こえた。タッタッタッ、と。  良かった! 戻って来た! 「ペーター、どうだった?」  と、顔を出すと……。  目の前にぐいと突きつけられたのは、黒い銃口だった。  目をパチクリさせて、視線を上げて行くと、大きなドイツ人らしい男がニヤリと笑った。 「あ——どうも。グーテン、アーベント」 「来い」  と、男は、日本語で言った。 「あ、そう……」  ルミ子は、ここでは選択の余地はない、と悟った。逃げようにも、相手がこの男じゃ、アッという間に首をつかんでつまみ上げられてしまうだろう……。 「分ったわよ。行くわよ」  と、ルミ子は精一杯、強がって見せ、促《うなが》されるままに、格納庫の方へと歩き出した。  すると——その格納庫の方から、誰かが歩いて来る。  え? あれは?  ルミ子は、目を疑ってしまった。——てっきり、見付かって、取っ捕まったと思った、ペーターその人……。 「ペーター!」  と、ルミ子が呼びかけると、ペーターは答えずに、男の方へ、 「その娘は飛行機へ乗せろ」  と、ドイツ語で言ったのである。 「ヤア」  と、男が言って、ルミ子の腕をつかむ。 「ペーター、あなた……」 「悪いね。君自身のせいだよ」  と、ペーターは首を振って言った。  じゃあ……。ペーターは、この連中の仲間?  ルミ子は唖《あ》然《ぜん》としている内に、ジェット機の方へ引っ張って行かれ、中へ押し込まれた。 「ペーター! この——人でなし!」  と、ルミ子は思い切り叫んだが、聞こえるわけもない。「ちょっと——やめてよ! 触るな。エッチ!」  と、大男の手を振り払おうとしたが、とてもじゃないが——。  アッという間に、ロープで手足を縛り上げられ、猿ぐつわをかまされて、ルミ子は荷物室の中へと放り込まれた。  扉が閉り、真暗になる。——二度と、日の目を見ることはないのかしら?  ルミ子は、初めて芯《しん》から恐怖に震えたのだった。  少々手遅れではあったけど……。 33 集 合 「どうなってるの?」  と、美貴は言った。 「知りませんよ」  と、森田もふくれっつらである。 「あなた、ボディガードとして、ついて来たのよ」 「分ってます」 「それなのに……。奈々子さんだけでなく、ルミ子まで、どこへ行ったか分らないなんて!」  美貴にしては珍しく怒っている。いや、野田が来た時も怒ったが、今の怒りは、正当なものだった。 「しかも、ペーターもいなくなって」 「いや、あの男については、私の仕事の範囲外です」  と、森田は主張して、美貴からジロッとにらまれてしまった。  森田の言い分にも一理あるのだが、今はともかく分が悪い。 「——やあ」  と、野田が部屋へ入って来た。「ルミ子君から連絡は?」 「ないわ」  と、美貴は首を振った。「本当にもう——どうしていいか分らない!」 「私としても、精一杯……」  と、森田は言いかけたが、全く無視されてしまった。 「困ったな」  と、野田はため息をついて、「あの奈々子君はともかく、ルミ子君は——」 「ちょっと。奈々子さんはともかく、って、どういうこと?」 「いや、どうでもいいってことじゃないよ。しかし、志村さんとしては——。まあ、とてもじゃないけど、知らせられないね」 「その点は同感よ」  と、美貴も肯《うなず》く。「主人を見付けるどころか、次々に行方不明がふえるばかりじゃないの」  すると、電話が鳴った。美貴は飛び上って、 「ルミ子だわ、きっと! どこかのディスコにでもいる、なんて言ったら、許さないから!」  と、受話器を取る。「——はい。——え?」  美貴が目を丸くして、向うの話に聞き入っている。 「——はい」  美貴は、電話を切った。 「どうしたんだ?」 「日本人よ。知らない声だわ」 「で、何だって?」  美貴はソファにドサッと身を沈めて、 「ルミ子を預かった、って」 「ルミ子君を?」 「夜中の十二時に、ここへ迎えに来るから、私一人で来い、って」 「じゃあ……」 「ルミ子まで捕まっちゃったんだわ!」  美貴は、改めて、森田をにらむと、「あんたはクビよ!」  と、宣言した。 「そんなこと言っても……。ずっとくっついてるわけにゃいかないんですから」  と、森田はブツブツ言ったが、「責任は取ります」 「どうやって?」 「腹を切ります」 「馬鹿らしい。やるなら、見えない所でね」  止める気はないらしい。 「——じゃ、こうします」  と、少し考えて、森田は言った。 「何を?」 「あなたのことです。せめて、あなたぐらいは守ってあげないと」 「どうやるの?」 「女装して、身替りになります」  美貴は、絶望的なため息をついて、顔を手で覆ったのだった……。    ルミ子は、真暗な中で、何とか手足のロープをゆるめようとしたが、こすれて痛いだけなので、諦《あきら》めてしまった。  ——もう、ここへ放り込まれて、どれくらいたつだろう?  三日、四日?——まさか!  せいぜい一時間かそこいらだろう。  しかし、途方もなく長く感じたことは事実である。  その間、ルミ子の感情は、ペーターへの怒り、我が身を待つ運命への恐怖、とんでもないことになった、という後悔、の三つの間を、揺れ動いていた。  ペーターが麻薬捜査官というのは、でたらめだったのだろうか。  いや、もし本当だとしても、悪い奴らの仲間になって、おかしくはない。金で買収されたのかもしれない。  ともかく、ルミ子がここにいることは、他の誰も知らないのだから、助けが来ることは期待できないのである。  どこへ連れて行かれるんだろう? どこかのハレムにでも入れられるのかしら、可《か》愛《わい》いから……。  自分のことを可愛いと思っていられる内は大丈夫かもしれない。  ——足音?  空耳かしら? いえ……。確かに、誰かが入って来ている。  誰だろう?  足音は、荷物室の扉の前で止った。扉が開くと、やはり大柄なドイツ人らしい男。さっきとは別の男だ。  ルミ子は、目が光になれないので、まぶしくて目を細くした。  すると、その男は中へ入って来て、ルミ子をヒョイとかかえ上げた。  何するんだろ? 入れたり出したり。——手荷物じゃないんだからね!  男は、何だかけがをしているようで、お腹に包帯を巻いている。  そして、ルミ子を抱いてジェット機を出ると、真直ぐに、森の方へと駆け出したのである。  ルミ子は面食らった。——何してんの、この人?  ともかく、ルミ子は、森の中へとかつぎ込まれ、地面へおろされた。ナイフを出すと男は、ルミ子の手足のロープを切ってくれたのだ。  ——助けてくれた?  ルミ子は、しびれた手を振って、猿ぐつわを取って、息をついた。 「ルミ子さん」  突然、呼ばれて、ルミ子は、 「キャッ!」  と、飛び上った。 「しっ!」  と、身を寄せて来たのは。「大丈夫。——私よ」 「奈々子さん!」  ルミ子は、夢でも見てるんじゃないか、と頬《ほ》っぺたをつねった。痛かった! 「——良かった! 無事だったのね!」 「何とかね」  と、奈々子は言った。「この人、リヒャルト。私のこと、助けてくれたの。けがしてるけどね」 「ありがとう……。もうだめかと思った!」 「遠くで見ててね。何だかルミ子さんみたいだと……。一体どうしたの?」  どっちも、話すことは山ほどある。しかし、今は、思い出話(?)にふけっている時じゃなかった。 「ペーターの奴《やつ》よ! あのインチキ野郎!」 「え? ペーター?」  奈々子は、ルミ子の話を聞いて、唖《あ》然《ぜん》とした。  ペーターが敵の一味?——何てことだろ!  私にキスまでしておいて! 図々しい!  少々見当違いの怒りに、顔を真赤にしていたが……。 「私の方もびっくりよ」  と、奈々子は言った。「あの車のトランクに忍び込んで来たの」 「誰の車?」 「それがね……」  と、奈々子は言いかけて、「しっ! 車が出る」  男が二人、車に乗り込むと、走り出し、森の中の道を抜けて行く。 「——どこへ行くのかしら?」  と、ルミ子が言った。 「見当つくわ」 「え?」 「きっと、美貴さんを迎えに行くのよ」  と、奈々子は言った。 「じゃあ……。私が人質になったから?」 「たぶん。——でも、真相はどうなのか、見当もつかないわ。リヒャルト」 「ヤア」 「あんたが頼り」  と、奈々子は言って、リヒャルトの頬にキスした。「ともかく、様子を見ましょう」 「姉さんが連れて来られたら……」 「たぶん、何もかも分るわ。——三枝さんのことを、美貴さんは知っていたのか、どうか」 「三枝さんのこと……?」 「あの車に乗っていたのは、三枝さんだったのよ」  ルミ子は唖然とした。 「じゃ……生きてたの?」 「生きてたどころか。——あの連中のボスって感じね」 「ひどい!」 「平気で人も殺す奴よ。私たちは運が良かったけど」  と、奈々子は言った。「——三枝さん、ペーター、みんな敵か。こっちはけがしたリヒャルトと、機関銃が一つ。いい? ルミ子さんは逃げるのよ、何があっても」 「奈々子さんは?」 「私はね、まあ——死んでも、別に困る人はいないし……」 「そんなのだめよ!」 「放っておけない! あんなに冷《れい》酷《こく》に人を殺すなんて!」  奈々子は怒っていた。本気で怒っていた。  夜の寒さも、気にならないくらい、体の内に怒りが燃えていたのである。 34 炎 「もう十二時すぎだわ」  と、奈々子は言った。 「何も起らないわね」  木立ちの間から、奈々子とルミ子は、この「秘密の滑走路」の様子を、ずっとうかがっていた。  自家用のジェット機は、ずっと滑走路の端に停《とま》ったままだし、格納庫からも誰も出て来なかった。 「どうやら、ルミ子さんが逃げたことも、まだ分ってないようね」  と、奈々子は言った。 「あのペーターの奴! 何とか仕返ししてやりたいわ」  と、ルミ子はまだ怒っている。 「気持は分るけど、今は命を大切にしなきゃ。あなたはちゃんと逃げるのよ、何があっても」  あまり他人に意見できる立場じゃないとは承知の上で、奈々子はそう言った……。 「でも、美貴姉さんがここへやって来たら、どうなるのかしら?」 「さあ……。見たいような、見たくないような、ね」  と、奈々子は正直に言う。「——冷えるわね、夜中は」 「ね、車の音——」  と、ルミ子が言った。 「本当だ」  木立ちの間を、ヘッドライトが動いて来る。こっちへ近付いて来るのだ。車は一台だった。 「もしかしたら、あれが……」 「そうかもしれない。——リヒャルト、用意はいい?」  と、奈々子はすぐ後ろにいるリヒャルトへ声をかけたが……。「——リヒャルト?」  返事がないので、振り向くと、リヒャルトは木の幹にもたれて、じっと目を閉じている。 「眠っちゃだめじゃない! 肝心の時に。リヒャルト!」  奈々子は、リヒャルトの肩を揺さぶった。すると——リヒャルトの大きな体は、ゆっくりと地面に倒れ、動かなくなったのである。 「リヒャルト……。まさか——」  奈々子は、あわてて、リヒャルトの胸に耳を押し当てた。ルミ子も目をみはって、 「どうしたの?」 「——もう心臓が——停《とま》ってる」  何てことだろう! そんなにひどい出血だったのか。  それなのに、私を助けるために、こんな無茶をして……。奈々子は、こみ上げて来る涙を、ギュッと歯をかみしめてこらえた。 「死んじゃったの?」  と、ルミ子が訊《き》く。 「そう。……可《か》哀《わい》そうに!」  奈々子は、リヒャルトの額に、そっとキスしてやった。「あんたのこと、忘れないわよ」  奈々子は、リヒャルトがしっかりと抱いていた機関銃を、もぎ取るようにして、手にすると、立ち上った。  その間に、車は滑走路の近くへと走って行って、停った。格納庫の中から、男たちが出て来る。 「奈々子さん——」 「ルミ子さん。あなたはともかくここを離れて。朝になれば、きっと森からも出られるわ」 「どうするの、奈々子さん?」 「殴《なぐ》り込んでやる!」 「だめよ! 殺されちゃう!」  と、ルミ子は仰天した。 「いいの。ともかく、真実を知らなきゃ、死んでも死に切れない」 「奈々子さん——」 「大丈夫。好きで死にゃしないわよ」  奈々子は、ルミ子の肩を軽く叩《たた》いて、「じゃ、生きてたら、またあのホテルで会いましょうね」  と言うと、頭を低くし、機関銃をかかえて、闇《やみ》の中へと駆け出して行った。    奈々子は、ルミ子たちが隠れたのと同じ、積み上げた箱の陰に駆け込むようにして、身を隠した。——プロの戦士ってわけでもないのに、見付からずにここまで来たのは、幸運と言うべきだったろう。  一つには、男たちが、やって来た車の方に気を取られていたせいでもある。  格納庫から出て来た男たちの先頭に立ってやって来るのは、やはり見間違いではない、三枝成正だった。その少し後ろに、どこかで見たことのある日本人がいる。  車のライトに照らされた、その顔を見ていて、奈々子は、誰だったろう、と首をかしげた。  そしてその次に歩いて来るのは——ペーターだった!  ルミ子の話で、充分にショックを受けていたものの、やはり、奈々子は改めてショックを受けた。ペーターが……。  もちろん、どこの馬の骨かも分らない男だったが、奈々子は直感的にペーターを信じていたのだ。それなのに……。男なんて、信じられない!  つくづく、奈々子は世の無常を思った(?)のだった……。  車のドアが開いた。  降り立ったのは、美貴である。奈々子の目にも、美貴の横顔はやや青ざめて、ゾッとするほど美しく見えた。  三枝が、五、六メートルの所まで来て、足を止めると、ニヤリと笑って、 「やあ、来たね」  と、言った。 「あなた——」  美貴が言った。「生きてたのね」  だが、その言い方には、少しも嬉《うれ》しそうな響きはなかった。むしろ、哀《かな》しげですらあったのだ。  奈々子は、これをどう考えていいのか、分らなかった。 「どうした? 駆け寄って抱きついて来てくれないのかい?」  と、三枝が言って、両手を広げて見せた。 「そうしたいわ」  と、美貴が、ゆっくりと首を振って、「どんなに、そうしたいか、あなたには分らないでしょう」 「なぜ、そうしない?」  美貴は、黙っていた。——三枝が、ちょっと笑って、 「君も知ってたはずじゃないか。僕の本業を」 「ええ。だけど、あなたはあの女の人を殺したじゃないの!」 「若村麻衣子のことか? どうってことじゃないさ、あんな女の一人」 「あなたにとってはね」  と、美貴は肯《うなず》いて、「あなたが、密輸業者同士の争いで、いくら人を殺そうと、私は目をつぶっていられるかもしれない。でも、あの人は、あなたの子供を宿してたのよ」 「野田の奴《やつ》が、あいつを連れて追いかけて来るなんて、余計なことをしなけりゃ、殺さずにすんだんだ」 「言いわけにならない。——あなたが姿を消して、私は、本当に心配だった。でも、若村麻衣子の死体が上った時、私はもっともっと——悲しかったわ。いっそ、河に上ったのが、あなたの死体だったら良かった、と……」 「とんだ女房だな」  と、三枝は苦笑して、「何もかも、すんだことじゃないか。さあ、この飛行機で、地中海の隠れ家へ飛ぼう。二人のハネムーンのやり直しといこうじゃないか」  三枝が、美貴の方へ歩み寄る。すると、突然、美貴がバッグへ手を入れ、小さな拳《けん》銃《じゆう》を取り出したのだ。  バアン、と銃声がして、三枝は、左腕を押えて、よろけた。 「美貴……」 「死んで。本当に死んで。私も死ぬから!」  美貴の叫び声は悲痛だった。  奈々子は、美貴の背後に、銃を持った男が迫るのを見た。——放っちゃおけない! 「ワーッ!」  と大声を出して、奈々子は飛び出すと、機関銃の引金を引いた。  ダダダ、と凄《すご》い勢いで銃声が飛びはねて、男たちがワーッと散って、伏せた。 「美貴さん! 早く逃げるのよ!」  と、奈々子は叫んだ。 「奈々子さん!」 「早く車に乗って! 逃げなきゃ——」  その時、銃声がして、奈々子は左腕に焼けつくような痛みを感じた。思わず、膝《ひざ》をつく。美貴が駆け寄って来た。 「早く逃げて! 私のことはいいから!」  と、奈々子は言ったが……。  やはり、無茶だったようだ。二人は、すっかり取り囲まれていたのである。 「全く、呆《あき》れた奴だな」  と、奈々子の方へやって来たのは、三枝のすぐ後ろにいた日本人。  奈々子の腕を撃ったのは、この男である。——奈々子は、ハッとした。 「あんた……アンカレッジで話しかけて来た人ね!」 「おや、よく憶《おぼ》えててくれたね」  あの時は、老《ふ》けた変装をしていたが、今見ると、せいぜい四十前後。しかし、声を聞いて、奈々子もピンと来たのである。 「あんたが、日本で……」 「そう。君のお店を爆破したり、ナイフでちょっとおどかしたりした。てっきり君が、そちらの奥さんにあれこれ入れ知恵してるのかと思っていたんでね」 「見当違いよ」 「しかし、結局は君を消すことになったね」  と、男は笑った。「君の強運も、ここでおしまいだ」  奈々子も、覚悟を決めた。これじゃ、とても助からない。 「あなた!」  と、美貴が叫んだ。「この人を助けてあげて!」 「いいんです」  と、奈々子は美貴に言った。「こんな連中に命請いするぐらいなら、死んだ方がまし」 「奈々子さん……。ごめんなさい」  と、美貴はうなだれた。  奈々子は、腕の傷も、それほど痛みを感じなかった。立ち上ると、三枝の方へ、 「殺すならどうぞ」  と、言った。「その代り、一つお願いがあるの」 「何だ?」 「そこの、ペーターに撃たせて」 「なるほど。——おい。望みを聞いてやれ」  三枝が促すと、ペーターは、 「いいでしょう」  と、拳《けん》銃《じゆう》を取り出した。「一発で仕止めてあげる」 「よろしく」  奈々子は、のんびりと言った。  ペーターが、銃口を奈々子の胸に向けて——引金を引く。  銃声と共に倒れたのは、奈々子ではなかった。あの、奈々子を撃った男だったのだ。 「貴様!」  と、三枝が怒《ど》鳴《な》った。 「三枝さん。もう諦《あきら》めることだ。警察が駆けつけて来ますよ」  ペーターは、素早く、奈々子たちの方へやって来ると、「さあ、車に乗れ」 「ペーター!」 「僕は買収されたふりをして、探っていたんだ。さあ、早く車へ——」  と、ペーターが言いかけた時、いくつも銃声が起った。  振り向くと、あの森から、警官たちが飛び出して来る。——助かった!  奈々子は飛び上って喜んだ。 「逃げろ!」  三枝が叫んだ。そして三枝は、ジェット機の中へと駆け込んで行った。 「ルミ子君は——」 「私が助けたわ。森の中にいる」 「良かった! ああしないと、すぐ殺されてしまうところだったからね」  撃ち合いが続いて、奈々子たちはペーターと一緒に、車のかげに隠れていた。 「ジェット機が——」  と、美貴が言った。  ジェット機が、エンジンの音を鋭く響かせて、滑走路を走り始めていた。 「逃げられやしないよ」  と、ペーターが言った。  すると——突然、美貴が車の中へ飛び込んで、ドアを閉め、エンジンをかけたのである。 「おい、何をする!」  と、ペーターが怒鳴る。 「美貴さん!」  車は、猛然と走り出した。——何をするんだろう?  奈々子は、美貴の運転する車が、滑走路の端まで行って、クルッとUターンするのを見た。そして車は、滑走して来るジェット機に、真正面から向って行ったのである。 「危《あぶな》い!」  と、奈々子は叫んだ。「美貴さん!」  もちろん、聞こえるわけはない。  ジェット機の飛び発《た》つ余裕はなかった。  息をのんで見つめる前で、ジェット機と、美貴の運転する車が正面からぶつかった。  爆発音。——機首がはね上り、次の瞬間、黄色い炎が渦を巻いてふき上げた。 「美貴さん……」  と、奈々子は呟《つぶや》くように言った。  車とジェット機は、見分けがたいほど一体になって、燃えつづけていた。——三枝と美貴の、最後の抱《ほう》擁《よう》であるかのように。 35 南十字星 「傷の具合は?」  と、ルミ子が訊《き》く。 「大したことないわ」  奈々子は、ちょっと肩をすくめて見せた。  ——ミュンヘンのホテルのロビー。  チェックアウトをすませて、奈々子とルミ子は、空港への車の迎えが来るのを、待っていた。 「森田さん、荷物を運んでよ」  と、ルミ子が言うと、 「分ってる」  と、森田は、二人の荷物をせっせと運び始めた。 「あの人も気の毒ね」  と、奈々子は言った。「クビになんなきゃいいけど」 「でも……奈々子さん、ごめんなさいね」 「どうしてルミ子さんが謝るの?」 「だって——父の頼んだことで、あんなひどい目にあって」 「私は、ちゃんと承知の上で引き受けたんだから。——でも、結局、何の役にも立たなかったわ」  と、奈々子は、首を振った。 「お姉さん……三枝さんの正体を、分ってたのね」 「たぶん、好きになってから、知ったんでしょうね。だから、今さら、諦《あきら》められなかったのよ」 「それを、また野田さんがあの若村麻衣子って人を連れて、追いかけて行って……」 「野田さんは、別の恋人を見せれば、美貴さんの気が変ると思ったのね。まさか、三枝さんが平気でその女の人を殺してしまうなんて思わなかった」 「でも、どうして三枝さんは姿を消したのかしら?」 「本当のところは、真相を知った美貴さんがショックで、一人で帰国したんじゃないかしら。でも、まさか夫が女を殺したとも言えなくて、いなくなった、と説明して……」 「——そうだろうね」  と、声がした。 「ペーター。あなた……」 「さっき、君のお父さんと会ったよ」  と、ペーターはルミ子に言った。「あんなことになって、残念だ」 「ええ」  ルミ子は、ちょっと目を伏せた。「野田さんは?」 「あと何日か、ここに残ることになるだろう。——君らにはひどい思いをさせてしまったね」 「あなたのせいじゃないわ」  と、奈々子は言った。「三枝さんは、こっちで何をしていたの?」 「知っている通りさ。密輸業のボスの一人だった。冷《れい》酷《こく》で、僕の仲間も、何人か消された」 「どうして、ずっとこっちに?」 「それは、君の言った通り、若村麻衣子という女を殺してしまい、新妻が帰国してしまって、帰るのが怖かったんだ、と思うね。帰国したとたん、逮捕されるかもしれないし」 「でも、美貴さんは黙ってたわ」 「三枝を愛していたんだろうな」 「そうね……」  と、奈々子は言った。  フランクフルトとミュンヘンのドイツ博物館の二か所で、三枝は美貴と離れている。フランクフルトで、野田と会い、若村麻衣子が来ていることを聞いた。そしてミュンヘンのドイツ博物館で、三枝は若村麻衣子を、自分の部下に連れ去らせたのだ。  たぶん、美貴は夫が若村麻衣子と会っているところを見た。そして彼女が姿を消したのを知って、夫が殺したのだと察した。——美貴は一人で帰国し、怖くなった野田も、追いかけるように帰って来て、口をつぐんでいたのだ。  三枝が女を殺すなどと、野田は考えてもいなかったのだから。  ——野田は、美貴にあの美術館へ引張っていかれて、そこでハネムーンの時、若村麻衣子を連れて行ったのが自分だった、と告白させられたのだった。 「しかし——あんな終り方になるとはね」  と、ペーターが首を振った。 「車、来たみたい」  と、ルミ子が立ち上って、「先に行ってるわ。奈々子さん、お二人で話があるんでしょ?」  と、行ってしまう。  奈々子は、何となく照れて、 「話……ある?」  と、訊《き》いた。 「君は?」 「私は——あなたを信じてたわ」 「あの時も?」 「ええ」  ペーターは、奈々子の方へ身を寄せてキスした。——今度は、少しキスらしいキスだった。 「あなたはただ——仕事で、付合ってたんでしょ、私と」 「仕事もある。でも、君にひかれていたのは確かだ」  と、ペーターは言った。「しかし……僕の仕事は、これからだ。危険も多い」 「そうね……」 「いつか——君を迎えに、日本へ行きたい」  と、ペーターは言って、奈々子の髪を、なでた。 「〈南十字星〉にいるわ」 「南十字星?」 「喫茶店よ。今はつぶれちゃってるけど」 「そうか」 「いつか——本物の南十字星を見たいわ」 「見せてあげられるといいがね」 「いいのよ。無理しないで」  と言って、奈々子は立ち上った。「もう行かなきゃ」 「空港まで送れなくて、すまないね」  ペーターは表の車まで、送って来てくれた。 「じゃ、さよなら」 「また会えるよ」  と、ペーターは言って、もう一度、奈々子にキスした……。  車が走り出すと、 「奈々子さん、あの人のこと、好きなんでしょ」  と、ルミ子が言った。 「今は、そんな気分じゃないの」  そうだ。——美貴は死んでしまった。  志村に頼まれたことを、結局、奈々子は果せなかったのである。  自分が、たとえペーターを愛していたとしても、今は、そんなことを考えている時じゃないのだ……。 「やっと帰れるな」  と、車の助手席で、森田が言った。  言い方が、あまりに切実で、奈々子とルミ子は思わず笑ってしまったのだった……。 エピローグ 「マスター、コーヒー三つ」  と、奈々子は言った。 「あいよ」  マスターは、相変らずの、淡々とした調子である。  大分、新しい店にも慣れた。  建て直したのではなく、うまい具合に売りに出た店を買い取って、改装したのである。  もちろん、店名は〈南十字星〉。  広さも、前の店とあまり変らない。  もう開業して二か月。——あの波乱万丈の旅から、半年近くたつ。  ルミ子も時々、この店にやって来て、おしゃべりして行くのだ。野田への想いもすっかりふっ切れているらしい。  ——あの出来事をきっかけに、ヨーロッパでも、大きな密輸組織が摘発されつつあるらしい。  きっとペーターも頑《がん》張《ば》っているんだろう。もちろん、日本から来た、少しおめでたい女のことなんか、もう忘れてしまったに違いない。  そう思うと、少し胸も痛むが……。でも、忘れられる日も来る。 「奈々ちゃん、大人っぽくなったね」  なんてマスターに言われて、奈々子、喜んだりしているのである。 「——新しい粉を出して」 「はい」  と、動きかけて、店の戸が開いた。「いらっしゃい——」  入って来たのは、ペーターだった。 「——やあ」 「どうも……」  奈々子は、ポカンとして、立っていた。 「コーヒーを」  と、ペーターは言った。「それと、君をもらいたくて来た」 「私?」 「危い仕事をやってるから、いつ殺されるかもしれない。それでもいいかい?」  奈々子は肯《うなず》いて、 「一つ、条件があるの」 「何だい?」 「ハネムーンで、南十字星を見たい」 「お安いご用だ。本物のね」 「本物の……」  ——奈々子は、頬《ほお》を染めた。胸が一杯だ。  ペーターは、席について、 「じゃ、取りあえず、コーヒーを先にもらおうかな」  と言うと、微《ほほ》笑《え》んで、ゆったりと寛《くつろ》いだ。  奈々子は、マスターに、 「コーヒー一つ」  と、言って、「それから、私、ここを辞めます」 「おめでとう」  マスターは、ちょっとウインクした。  ——奈々子は、ペーターとのハネムーンで、無事に南十字星と対面できたか?  それはまた、別のお話になりそうである。本書は、`90年2月刊行されたカドカワノベルズを文庫化したものです。 南《みなみ》十《じゆう》字《じ》星《せい》  赤《あか》川《がわ》次《じ》郎《ろう》 ------------------------------------------------------------------------------- 平成14年10月11日 発行 発行者  福田峰夫 発行所  株式会社  角川書店 〒102-8177 東京都千代田区富士見2-13-3 shoseki@kadokawa.co.jp (C) Jiro AKAGAWA 2002 本電子書籍は下記にもとづいて制作しました 角川文庫『南十字星』平成 4 年 1 月10日初版発行           平成11年 2 月20日16版発行