TITLE : 冬の旅人 本作品の全部または一部を無断で複製、転載、配信、送信したり、ホームページ上に転載することを禁止します。また、本作品の内容を無断で改変、改ざん等を行うことも禁止します。 本作品購入時にご承諾いただいた規約により、有償・無償にかかわらず本作品を第三者に譲渡することはできません。  目 次 冬の旅人 巨人の家 本末顛《てん》倒《とう》殺人事件 三《み》毛《け》猫《ねこ》ホームズの水泳教室    冬の旅人    1 〈おやすみ〉  国際的なバリトン歌手として知られる、ディートリッヒ・F〓=Dは、目覚めてからしばらく、ここがどの国の何という都市のベッドだろうか、と思い出そうとした。  旅行がちの——とはいえ、五十歳《さい》を目《もく》前《ぜん》にして、ここ数年、一年の半分はミュンヘンの自宅にいるようにしていた——彼としては、毎朝違《ちが》うベッドで目覚めること、それ自体は別に珍《めずら》しいことでも何でもない。だが、そこがどこなのかを思い出せないことは、この〈今世紀を代表する〉バリトン歌手を苛《いら》立《だ》たせた。  光をすっかり遮《さえぎ》った重いカーテンと、ガラス窓を通して、絶え間ない雑《ざつ》踏《とう》のざわめきが聞こえて来る。  ああ、そうか。ここは東京だったのだ。  では、そう早起きをするにも及《およ》ばない。  ディートリッヒ・F〓=Dは、毛布の下で、精《せい》一《いつ》杯《ぱい》、体を伸《の》ばした。  リサイタルの当日に、東京のひどい空気の中を歩くなどという真《ま》似《ね》はできない。それならばどうせ昼過ぎまでは、このホテルに足止めというわけなのだ。もう少し、ゆっくり眠《ねむ》っていてもいい……。  その時、ベッドの傍《そば》で電話が鳴り出した。何とも非音楽的な音だ。  受話器を取り上げると、  「グッド・モーニング」  とえらく愛想のいい女の声である。モーニングコールのテープの声だ。  分ったよ。ディートリッヒ・F〓=Dは受話器を戻《もど》して、大きく一つ深呼吸をすると、ベッドから起き出した。  自分でコールを頼《たの》んでおいて忘れていたのだ。昨日日本へ着いたばかりで、時差の影《えい》響《きよう》が抜《ぬ》け切れていないらしい。  窓辺へ寄ってカーテンを開けると、灰色の町が広がった。ここはホテルの二十階である。街《まち》中《なか》にあるこのホテルからは、オフィスの集中したビルの巨《きよ》大《だい》な塊《かたまり》の行列を見下ろすことができた。  八時半という時間に、もう人々はせかせかとした足取りで、それぞれが自分の属するビルへと吸い込《こ》まれて行く。それが、入って行くのでなく、吸い込まれて行くという印象を与えるのは、あまりに動きがスムーズで、流れるようだからだろう。  ためらいもなく、黙《もく》々《もく》と仕事に赴《おもむ》く人々を見ている内に、ふと羨《うらや》ましいという思いが湧《わ》く。自分は、アンコールの一曲を歌うにも、逃《に》げ出したくなり、ためらいを覚えることが珍しくないのだ。  だが、そんなことを言っていても仕方ない。  彼は大きな欠伸《あくび》をして、バスルームへ向かった。——このロイヤルルームには、特にグランド・ピアノが置かれている。来日したピアニストなども、よくここに泊《とま》るのだ。  シャワーを浴びる前に、彼はピアノの蓋《ふた》を上げ、二、三のキーを軽く叩《たた》いてみた。いい音がする。会場では伴《ばん》奏《そう》はむろんスタンウェイのピアノだが、これはヤマハだ。しかし悪くない。  実際、日本人の技術というのは大変なものだ。シャワーを浴びながら、彼は考えていた。  国によっては、シャワーをひねっても、一向に水が出なかったり、急に熱湯が出て来て、それが当り前という所も珍しくない。しかし日本では、その点の安心感がある。故障というものを恥《はじ》だと思っている。  日本も、もう七回——いや八回目だが、疲《つか》れを覚える度合が少ないのは、そういう安心感のためでもあろう。もっとも、その日本人が、空や水を汚《よご》し放題にして平気なのは、全く不思議な話だが……。  ——シャワーを終えて、ガウンをはおり、バスルームを出ると、電話でルームサービスの朝食を頼む。  下で食べてもいいのだが、よく知人などに出くわすことがあり、それが煩《わずら》わしいのである。受話器を置くと、すぐにまた電話が鳴った。——今夜の伴奏者、小林だった。  「よく眠れましたか?」  と正確な発音のドイツ語で訊《き》いて来る。  「充《じゆう》分《ぶん》にね。どうもありがとう」  「今夜はよろしく」  「こちらこそ」  「Winterreiseですね」  「そうです」  「では向うで」  几《き》帳《ちよう》面《めん》な男である。共演する日は必ずこうして電話して来る。向うにとっても、これが一つの儀《ぎ》式《しき》のようになっているのかもしれない。  今日は〈冬の旅〉を歌うのだった。    ディートリッヒ・F〓=Dは、かなりヴォリュームのある朝食を取って、部屋着に着《き》替《か》えると、〈冬の旅〉の楽《がく》譜《ふ》を手にして、ソファに身を沈《しず》めた。  シューベルトの〈冬の旅〉は、およそ歌曲というものを聞く人ならば、知らぬ者のない歌曲集だ。二十四の曲から成り、その三分の二は短調の曲である。  この第五曲〈菩《ぼ》提《だい》樹《じゆ》〉——最初の長調の曲である——は、シューベルトの名も、〈冬の旅〉の名も知らぬ人でも聞き憶《おぼ》えがあるだろう。しかし、〈菩提樹〉は、この歌曲集の中ではむしろ例外的に暖かい歌で、全体は、狂《きよう》気《き》と絶望に塗《ぬ》り込められた、暗い響《ひび》きを持っているのだ。  この全曲を歌うのは、彼ほどの歌手にとっても、やはり容易なことではない。——技《ぎ》巧《こう》的な難易で言えば、現代歌曲でも楽々とこなす彼には決して難しくはないのだが、総《すべ》ての希望を失って放《ほう》浪《ろう》する若者の思いが、内に籠《こ》もって表現されている所が、何度歌っても、完《かん》璧《ぺき》とは言い切れぬ理由なのだった。  しかし、これは日本では特に人気の高い曲だ。現に、この日の切《きつ》符《ぷ》は、発売して二日で売り切れたということだった。  実際、この曲に対する聴《ちよう》衆《しゆう》の反応は、他のどの国より——ドイツよりも——日本の方が鋭《えい》敏《びん》である。灰色一色に塗りつぶされた世界が、墨《すみ》絵《え》を生んだ日本人の感性に合うのだろうか?  彼は楽譜をめくった。——第一曲〈おやすみ〉は次の一行で始まる。  〈私はよそ者としてこの町に来た……〉  また電話が鳴った。  「やれやれ」  舌打ちして、ソファから立ち上がる。電話はつながないように頼んでおいた方がいいかもしれない。  受話器を取ると、ひどくたどたどしいドイツ語が伝わって来た。  「歌手のF〓=Dさん?」  「私ですが……」  「お願いします」  と、その男の声が言った。「今夜、〈冬の旅〉を歌うのはやめて下さい」  「何ですって?」  「今夜のリサイタルで——」  「ええ、〈冬の旅〉を歌いますが、それが何か?」  「やめて下さい。曲を変えることはできるでしょう」  「分りませんね。なぜ〈冬の旅〉ではまずいのですか?」  「それは……申し上げられないが、ともかく、人の命に関《かか》わることなのです。お願いします。〈冬の旅〉を歌うのはやめて下さい」  「困りますね、そんな無茶をおっしゃられても」  「ご迷《めい》惑《わく》は承知しています。しかし、人の命には——」  「あなたはどういう方です?」  「申し上げられません」  「いいですか」  ディートリッヒ・F〓=Dは、穏《おだ》やかに言った。「今日のリサイタルは満員になるはずです。多勢の人が、私の〈冬の旅〉を聞きたがっているんです。今さら、他の曲に変《へん》更《こう》することはできませんよ」  「そこを敢《あ》えてお願いするのです」  「それなら理由をおっしゃって下さい」  「それは……」  「人の命に関わる、とおっしゃいましたね」  「そうなのです」  「分りませんね。私の歌が、なぜ人の命に関わるんです?」  「あなたが今夜〈冬の旅〉を歌うと、人が死ぬことになるのです」  F〓=Dは、ちょっと間を置いて、  「私を脅《おど》しているんですか?」  と少し強い口調になる。  「とんでもない!」  相手は慌《あわ》てたようだった。  「そんなことは思ってもいません」  「そうですか。あなたが、名乗りもせず、理由も言わないのでは、私としては答えを変えることはできませんね」  しばし、相手は沈《ちん》黙《もく》した。その間が長いので、彼は受話器を置こうかと思った。  「——よく分りました」  ひどく落《らく》胆《たん》した口調だった。「貴重なお時間をどうも……」  電話は切れた。  「妙《みよう》な話だ」  と呟《つぶや》きながら受話器を戻す。——〈冬の旅〉を歌うと人が死ぬ? 一体それはどういう意味なのだろう?  いたずら電話とは思えなかった。あの、切《せつ》羽《ぱ》詰《つ》まった口調は、真《しん》剣《けん》そのものだった。しかし……。  ディートリッヒ・F〓=Dは肩《かた》をすくめた。気にしていても、どうなるものではない。  〈冬の旅〉は、歌わなくてはならないのだ……。    第二十四曲〈辻《つじ》音楽師〉が終ると、凄《すさ》まじい拍《はく》手《しゆ》の嵐《あらし》が、ホールを揺《ゆ》るがすばかりに渦《うず》巻《ま》いた。  ディートリッヒ・F〓=Dは、内心の満足を押《お》し隠《かく》すように、無表情に頭を下げた。ピアノの小林の手を握《にぎ》る。そして舞台の袖《そで》へ入って行った。  「素晴らしい!」  音楽事務所の担当者が拍手で迎《むか》えた。  「ありがとう」  彼はハンカチを出して、額を拭《ぬぐ》った。  「今日は本当に凄《すご》かった」  と小林が言った。「伴奏していて、時々、ぞっとしたくらいですよ」  いつも冷静な小林の顔が紅潮している。してみると、今夜は掛《か》け値なしに巧《うま》く行ったらしい。  「今夜は二曲ぐらいじゃおさまりませんよ」  小林が言った。アンコールのことである。  「本当は〈冬の旅〉のような曲にアンコールは有害だがね」  と彼は微《ほほ》笑《え》んで言った。「しかし、私が聴衆でもアンコールを要求するだろうね。一曲でも多く聞けば、それだけ単価が安くなるからね」  小林は笑って、  「ともかく、舞《ぶ》台《たい》へ出ましょう」  と促《うなが》した。  彼が姿を見せると、  「ブラボー!」  の声が飛んだ。深々と頭を下げながら、彼は、〈冬の旅〉には、拍手も〈ブラボー〉も似合わない、と思った。  本当なら、教会で「レクイエム」(ミサ曲)を演奏する時のように、拍手なしと決めておいてもいいくらいだ。——しかし、聴衆の、決してお世辞でない称《しよう》讃《さん》はありがたい……。  ディートリッヒ・F〓=Dと小林は、もう一度袖へ引っ込んだ。今度出て行く時は、アンコールを歌わなくてはなるまい。  「二曲にしておきますか?」  と小林が訊いた。一応、歌曲集〈白鳥の歌〉から三曲を選んである。  「三曲やろう。久しぶりの日本だ」  と彼は言った。  「分りました」  と、小林が肯《うなず》く。  アンコール、拍手。アンコール、拍手……。同じパターンが三度、くり返されて、やっと聴衆が帰り始めた。  「楽屋へ戻りますか?」  と小林が訊いた。  「楽譜を取って来るだけだ」  「じゃお待ちしてます」  彼は、階段を少し上って、楽屋へ向かった。——終った後の高《こう》揚《よう》感が、足取りまで軽くしている。  楽屋のドアを開けると、すぐに、それは目に入った。  椅《い》子《す》に、一人の男が腰《こし》かけている。いや、坐《すわ》らされていると言う方が正確だろう。男はぐったりと身を沈めて、頭は胸元の方へと垂れていた。  死んでいる。——直感的に悟《さと》ったのは、男の胸元の、赤いしみのせいだった。背広、ネクタイはきちんとして、乱れてはいない。  近寄って、顔を覗《のぞ》き込んでみた。——見知らぬ顔である。  ディートリッヒ・F〓=Dは、あまり驚《おどろ》かなかった。——今《け》朝《さ》の電話のせいだったかもしれない。忘れたつもりだったが、〈何か〉が起きるかもしれないという気持は残っていたとみえる。  これがあの電話の男だろうか?  まだやっと四十前後と見える。電話の声のイメージとはちょっと違うが……。  ともかく放っておくわけにはいかない。事務所の人間に知らせて、警察へ通報させるのだ。厄《やつ》介《かい》なことになるかもしれない。  戻りかけて、彼は、ふと死人の足下に落ちている楽譜に気付いた。  かがみ込んでみると、〈冬の旅〉の楽譜だった。自分のものとは大きさが違う。第一曲〈おやすみ〉のページだけだった。  〈冬の旅〉を歌うと人が死ぬ……。これが、その〈人〉なのだろうか?    「明日のリサイタルに影響が出ては困りますが……」  小林が心配そうに言った。  「しかし、ともかく人が死んだのだ。話をしなくてはね」  楽屋は、警官たちで一杯なので、二人は、ホールのロビーに坐っていた。  「刑《けい》事《じ》が来たら通訳してほしい」  「もちろんです。極力、あなたにご迷惑はかけたくないんですが」  「その刑事がシューベルトのファンだといいが」  「あまり期待できませんよ」  と小林が苦笑した。  ごく平《へい》凡《ぼん》な勤め人という印象の、四十前後の男が、二人の方へやって来た。  「お待たせしました」  「警察の方ですね?」  と小林が訊く。  「井《い》手《で》と申します。——どうも大変なことでしたね」  「手早く済ませていただけませんか。F〓=Dさんは、明日もリサイタルがあるので。歌手はコンディションに大きく左右されます。ですから——」  「承知しております」  と井手刑事は肯くと、F〓=Dの方へ向いて、  「では、事情を伺《うかが》わせていただけますか?」  とドイツ語で言った。  「ドイツ語がおできになるとはありがたいですね」  と彼はややホッとして言った。「美しい発音ですね。ミュンヘンにいらしたことは?」  「大学にしばらく」  「そうですか!——いや、事件のことを話しましょう」  小林は、このパッとしない刑事がドイツ帰りと知って、びっくりしたように眺《なが》めていた。——F〓=Dは、今朝の電話のことから始めて、楽屋で死体を見つけるまでを、整然と淀《よど》みなくしゃべった。  「奇《き》妙《みよう》な話ですね」  と井手が言った。「あの男に見憶えは?」  「全くありません」  「電話の男とあの男が同じ人物だと思われますか?」  「はっきりとは言い切れませんが……」  と彼はゆっくり考えながら、「違うような気がします」  「理由は?」  「声の高さや質は、体つきで決ります。それからいうと、あの死んでいた男は、もう少し低い声ではないかと思うのです。むろん、推測にすぎませんが」  「なるほど。さすがは歌手ですな」  「身《み》許《もと》は分ったのですか?」  「いや、まだです。身許の分るような物を持っていないので。——あの死体の下に落ちていた楽譜にお気付きになりましたか?」  「はい」  「あなたのものですか?」  「違います」  「見憶えは?」  「ありませんね」  と言ってから、「むろん、曲そのものは分りますが」  「〈おやすみ〉でしたな。今夜の〈冬の旅〉の第一曲目だ」  「よくご存知ですね」  「聞く方だけは、多少……」  井手刑事がちょっと照れたように微笑んだ。  「私がお話しできるのは、これだけです」  「分りました。——何か分り次第ご連《れん》絡《らく》します」  井手は立ち上がって、「お会いできて光栄でした」  と言った。  「——なかなかいい感じですね」  小林が、ホッとした様子で言った。「さあ、もうホテルへ戻って下さい」  「そうしよう。あなたも帰って休んでくれ」  表に出ると、車のそばで待っていた事務所の社員が急いでやって来た。  「そうだ」  F〓=Dは、小林を見て、  「夕食がまだだったぞ。一《いつ》緒《しよ》にホテルでどうだい?」  「よければ……」  「もちろん!」  と小林の肩を叩いて、一緒に車へと向かった。  ホテルへ向かう車の中から、彼は、夜の街を眺めた。  今度の旅は奇妙な始まり方をしたものだ。このまま、何事もなければいいのだが。  ディートリッヒ・F〓=Dの胸を、〈冬の旅〉の冒頭の句がよぎった。  〈私はよそ者としてこの町へ来た。今またよそ者として町を離《はな》れる……〉    2 〈あふれる涙《なみだ》〉  ディートリッヒ・F〓=Dの楽屋で、男の死体が発見されたというニュースは、一応新聞にも載《の》ったが、心配していたような公演への影響は全く出なかった。  その翌々日、〈ヴォルフ歌曲の夕べ〉を終えて、ディートリッヒ・F〓=Dは大阪へ飛んだ。その後、倉《くら》敷《しき》と名古屋を回って、一週間後、再び東京へ戻って来た。  最後に、〈リヒャルト・シュトラウス歌曲の夕べ〉を開いて、全スケジュールは終りになる。  あの事件のことは、もう新聞にもさっぱり出ないようだったし——むろん彼には日本語は読めないのだが——警察の、あのドイツ語を話す、井手という刑事からも別に連絡はなかった。  午後一時。昼食をとりに、ホテルの最上階のレストランへ行くと、懐《なつか》しい顔が彼を待っていた。  「吉《よし》田《だ》!——これはこれは」  音楽評論家の吉田英《えい》一《いち》だった。ヨーロッパ生活が長かったせいか、日本人的でない発想をする男で、F〓=Dを人一倍高く評価している。  「懐しいね、ディートリッヒ!」  吉田は、ちょっとベルリン訛《なまり》のあるドイツ語で言って、固く手を握った。  かなりの年《と》齢《し》だが、その割に長身で、髪《かみ》も抜けずに白くなっているのが、よけいにヨーロッパ風だ。  「待っていてくれたとうぬぼれてもいいのかな?」  「正解だね」  吉田は笑って、「電話のベルで君の音感を乱したくなかったのでね」  「じゃご一緒させてもらおう」  「さあ、坐って。——メニューは?」  「うん、見せてもらおう」  「今夜はシュトラウスだね」  「来るかい?」  「もちろん!」  「緊《きん》張《ちよう》するな」  F〓=Dは首を振《ふ》って言った。「さて……シュトラウスがヨハン・シュトラウスなら、ワインで酔《よ》っ払《ぱら》って歌っても構わないんだが」  二人は魚を中心にした、軽いメニューを注文した。  「今度の公演は最初にあんなことがあったのでどうなるかと気が気じゃなかったよ」  とF〓=Dは言った。  「しかし、絶好調だったろう」  「もう年《と》齢《し》だよ。声に艶《つや》がなくなった」  「その分、深味は増している」  「賞《ほ》めようがなくて、そう言ってくれているのかい?」  とF〓=Dは笑顔になって言った。そして、吉田がしきりにレストランの入口の方を気にしているのに気付いて、  「誰《だれ》かを待ってるのか?」  「ああ……いや、実はね」  吉田はちょっとためらってから言った。「君に会ってほしい人がいる。——あ、ちょうど来たようだ」  振り向いて、F〓=Dは驚いた。あの井手という刑事がやって来るところだったのだ。  「やあ、吉田」  と井手が吉田の方へ肯いて見せ、それからF〓=Dへ向いて、「お忘れかと思いますが——」  と言いかけた。  「いや、憶えていますよ。井手さん——でしたね。シューベルトを解する警官はドイツにも少ない」  「恐《おそ》れ入ります」  「井手は僕《ぼく》とは古い知り合いでね」  と吉田が言った。「ちょうど彼があの事件の担当になって幸いだった。井手は君の大変なファンなのだ」  「——実は、事件のことで少々お話があるのです」  と、食事を終え、コーヒーになってから、井手が言い出した。  「殺された男の身許は分りましたか?」  「はい、やっと」  井手が肯いて、上《うわ》衣《ぎ》のポケットから手帳を取り出し、ページをくった。「名前は南《みなみ》田《だ》芳《よし》人《と》」  「どういう男です?」  吉田が井手に代って口を開いた。  「南田芳人はね、以前バリトン歌手だったのさ」  「ほう」  F〓=Dは意外そうな声を上げた。「歌手のような体つきには見えなかったが……」  「歌手だったのは七、八年も前の話でね」  と吉田が言った。「彼は二十代の後半でデビューした。天性の美声でね、一《いち》躍《やく》脚《きやつ》光《こう》を浴び、オペラに、リサイタル、カンタータ……。大活《かつ》躍《やく》だった。それが——」  「どうした?」  「分るだろう。喉《のど》を使いすぎたんだ」  「なるほど」  「ある日突《とつ》然《ぜん》声が出なくなった。そして再起不能。まだ三十二歳の若さだった」  「気の毒に」  「それ以後、南田の消息はさっぱり知れなかったんだ。急に人々の前から姿を消してしまってね」  「見付かった時は死体というわけか」  「そういうことだね」  「しかし、なぜその……南田か。その男があそこで殺されていたんだ?」  「それは全く謎《なぞ》のままです」  と井手が後を受けた。「あそこで発見されるまで、南田が何をしていたのか、今調べさせていますが、まだ何一つ分ってはいないのです」  「それで私にお話とは何ですか?」  井手はちょっと言いにくそうに、  「実は……今回の殺人事件は、全く目《め》処《ど》が立っていない、と言いますか、犯人の見当もつかず、動機もつかめていない。つまり暗中模《も》索《さく》の状態なのです。そこで——お忙《いそが》しいF〓=Dさんには大変申し訳ないことなのですが、何分死体の発見者であり、奇妙な電話も受けておられる……」  「私に、日本に留《とど》まれということでしょうか?」  「事件が解決するまででなくとも結構なのですよ」  と井手は説明した。「事件の輪《りん》郭《かく》がつかめればいいのです。決して長くはかからないと思いますが」  吉田が傍から、とりなすように言った。  「井手も、そんなことは君の迷惑だと反対したのだよ。しかしお偉《えら》方《がた》は……」  「どこも同じさ」  F〓=Dは微笑んで言った。「いいですとも。私もこの旅の後は少し休むことにしている。次のレコーディングまで三週間ある」  「何を入れるんだね?」  「バッハのカンタータ。それにマーラーだ」  「それは楽しみだな」  井手が咳《せき》払《ばら》いして、  「快くご承知いただいて感謝します」  と礼を述べた。「全く、お忙しいところを申し訳ありません」  「井手さんは今夜、おいでになりますか?」  「リヒャルト・シュトラウスですね。拝《はい》聴《ちよう》したいのはやまやまですが、何しろこういう商売は時間がままになりませんので」  「もしお時間があればおいで下さい。席は何とでもなりますよ」  「これはどうも。いや、世界のF〓=Dさんにお招きいただくとは光栄です」  刑事が目に見えて赤くなった。    〈リヒャルト・シュトラウス歌曲の夕べ〉は、熱い拍手で終った。  シューベルトのように一《いつ》般《ぱん》受けのするプログラムではないので、聞きに来ている客は、大部分が相当の歌曲通と言ってもいい。それだけに拍手は、熱《ねつ》狂《きよう》の中にもどこかさめたものがあって、ディートリッヒ・F〓=Dには何となく安心できるのだった。  あまり物《もの》凄《すご》い拍手や喝《かつ》采《さい》を受けると、却《かえ》って不安になってしまう。全く妙なものである。  二曲のアンコールを終えて、舞台の袖へ来ると、吉田が井手と一緒に待っていた。  「すばらしかった!」  吉田が固く手を握る。「井手は後半のギリギリに駆《か》けつけて来たんだ」  「わざわざどうも」  「いや、実は仕事がらみでしてね」  と井手が言った。「いかがでしょう、お差し支《つか》えなければ、夕食でも……」  「吉田、君は?」  「もちろんくっついて行く。警察の払いだからな」  と吉田は笑って言った。  ——その婦人は、もう五十五、六歳という感じだった。  六《ろつ》本《ぽん》木《ぎ》にある、静かな、小さな店である。  奥《おく》のテーブルが予約されていて、そこにその婦人が坐っていた。上品で、一見して海外の暮《くら》しが長かったと分るセンスの服《ふく》装《そう》だった。  「こちらは大《おお》木《き》愛《あい》子《こ》さん」  と吉田が紹《しよう》介《かい》した。「——実はね、ディートリッヒ。大木さんが君を本宅へご招待なさりたいとおっしゃってるんだ」  「招待?」  「そう。君も日本にいる間、ずっとホテル暮しではつまらないだろう。帰国できるようになるまで過すには大木さんの所は絶好だと思うね」  「ご無理を申したくはありません」  大木愛子は静かな口調で言った。「もしお気が向きましたら、でよろしいのですが」  F〓=Dは、この婦人に好感を持った。音楽についても豊かな素養を持った人だと思った。  「僕も一緒に行く」  と吉田が言った。「大木さんは日本の音楽界のために陰《かげ》の力となった方でね、客も他《ほか》に何人か、気のおけない連中が集まるはずだ。どうかね?」  「喜んでご招待をお受けしますよ」  「まあ嬉《うれ》しい。では明日、迎えの車を回しますわ」  顔がほころぶと、大木愛子の表情はひどく若やいだものになった。  「よし、それじゃ今夜は大いに飲もう」  吉田が張り切って手をすり合わせた。  「——井手さん」  フランス料理のコースが終りに近付くと、F〓=Dは言った。「あなたはこの大木さんとお知り合いですか?」  「はあ、多少」  と井手は肯いて、「で、相談を受けたのです」  「相談?」  「ええ。——大木さん、あれを」  「はい」  大木愛子は、ハンドバッグから、一通の封《ふう》筒《とう》を取り出した。定型の大きさだが、大分ふくらんでいる。  「実は三日前、これが送られて来ましたの」  大木愛子はF〓=Dにそれを渡《わた》した。  妙な字だ、とF〓=Dは思った。もちろん日本の文字は分らないが、それにしても……。封筒のあて名の字が、まるで定規で引いたような、こわばった字になっているのだ。  中味を出して、広げてみたF〓=Dは、思わず、  「おや、これは——」  と言いかけた。  それは一枚の楽譜だった。シューベルト、〈冬の旅〉の〈あふれる涙〉という部分である。  「井手さん、この楽譜は……」  「調べてみました」  井手は肯いて、「あの死体の傍に落ちていたのと同じ物です」  「これが大木さんの所へ……。何かお心当りがありますか?」  「全然ございません。それだけに気味が悪くて」  「封筒にはこの他に何か入っていませんでしたか?」  「いえ、他には何も」  「分りませんね……」  とF〓=Dは首をひねった。  「井手さんのお考えは?」  「私もお手上げです。それが危険を予告するものと考えるのは考え過ぎのようにも思いますが、ことは殺人事件に絡《から》んでいます。用心に越《こ》したことはありません」  「同感ですね」  そう言ってから、F〓=Dは、井手の、何か言いたげな視線に気付いた。「私に何をさせようというんですか?」  「いや、さすがに鋭《するど》いですね。——つまりF〓=Dさんに探《たん》偵《てい》の役をやっていただきたいわけなのです」  と井手は言った。    大木邸《てい》は、東京とは言っても、都心からは大分離れた、木立の目に付く郊《こう》外《がい》にあって、今の東京で、こんな広い敷《しき》地《ち》が、とディートリッヒ・F〓=Dが驚いたほどの広い庭に囲まれていた。  「ヨーロッパへ戻ったようだね」  F〓=Dの言葉に吉田は微笑んで、  「それを聞いたら大木さんは喜ぶよ」  と言った。——二人を乗せたベンツは、大きな門構えの中へと滑《すべ》り込んで行く。  赤レンガの建物まで、かなりの距《きよ》離《り》があった。  「あの人は一体何をやっているんだい?」  とF〓=Dは聞いた。「こんな大邸宅を建てるには相当の収入がなくては」  「もともとが金持の家系でね。会社やら何やらを沢《たく》山《さん》持っているんだ。それにあの奥さんは亡くなったご主人以上に商才のある人でね。ずいぶん事業は発展しているようだ」  「あの夫人が?」  「そうさ。その代り、赤字オーケストラのために何億という金をポンと出す。非常にバランスの良くとれた金持とでも言うかな」  「微《び》妙《みよう》な言い回しだな」  ベンツは、邸の玄《げん》関《かん》前に停《とま》った。  二人がベンツを降りて、玄関のドアの方へと足を進めると、ドアが開いて、二十四、五歳の若い女性が出て来た。  「吉田さん。いらっしゃい」  「やあ、博《ひろ》子《こ》さん」  吉田は相好を崩《くず》して、「相変らず十代のようだね」  「まあ、吉田さん、口が悪いのね」  と娘《むすめ》は笑った。それからF〓=Dに気付いて、  「あら!——ディートリッヒ・F〓=Dさんですのね?」  美しいドイツ語だった。「よくいらっしゃいました! どうぞ。母が朝から食事も喉を通らないくらい緊張しておりますのよ」  「それは恐《きよう》縮《しゆく》ですね」  「お入り下さい。本当に光栄ですわ」  ——美しい娘だった。来客があるというので、フォーマルなワンピースを着込んでいるのだろうか、顔立ちや所作に、いかにもいい家の令《れい》嬢《じよう》という雰《ふん》囲《い》気《き》が漂《ただよ》っている。  広々とした居間に、大木愛子が待っていた。  「まあ、本当にようこそ!」  「少々ご厄介になります」  「どうぞ。いつまででも——と申したいところですが、そうも参りませんわね」  「残念ながら」  「どうぞおかけになって。——博子、何かお飲物を」  「今日はずいぶん静かですね」  と吉田が言った。「みんなどこへ行っちゃったんです?」  「銀座の方へね。若い人には、こんな田舎《いなか》は退《たい》屈《くつ》なんでしょ」  「そう若い人ばかりでもないのに」  「気だけは若いわ、みんな。——F〓=Dさん、どうぞゆっくりと寛《くつろ》いで下さい。お飲物を何か……」  一しきりの騒《さわ》ぎがおさまると、F〓=Dは、やっと広間の様子を見る余《よ》裕《ゆう》ができた。  「いいお部屋ですね」  「恐れ入ります」  大木愛子は、ちょっと黙《だま》り込んだ。その唐《とう》突《とつ》な沈黙が、F〓=Dには奇妙なものに感じられた。これから何かを話そうとしている、そんな予感を抱《いだ》かせる沈黙だった。  「実は……」  案の定、愛子は少し声を低くして口を開いた。「昨夜は、私、嘘《うそ》をついておりました」  「とおっしゃると?」  「あの楽譜を送って来た人の心当りがない、と申し上げましたが……」  「ご存知なのですね」  「確信はないのですが、たぶん北《きた》野《の》という男だと思います」  「北野……。その男はあなたとどういう関係があるのですか?」  「恋《こい》人《びと》でした」  と言ってから、愛子は急いで付け加えた。  「ずっと昔《むかし》の話ですわ、むろん。まだ私は二十代の半ばでした」  「するとその北野という男も?」  「はい、同じくらいの年齢でした」  「何があったのです?」  「色々といきさつはありましたが、結局私は彼と別れました。お互《たが》いのために、それがいいと思ったのです」  F〓=Dは微《かす》かに笑みを浮《う》かべた。「お互いのために」というのは、言われる方にとっては、単なる逃《に》げ口上としか思えないものなのだ。  「もともと北野は異常なくらい執《しゆう》 着《ちやく》 心《しん》の強い人で、そこが普《ふ》通《つう》の人とは違っていました。——私も一度は彼のそうした所に魅《ひ》かれたのですが、お付合いしている内に次第にその性格が負担になって来てしまったのです。私も世間知らずで、わがままでしたから……」  「その時は何もなかったのですか?」  「私への愛着が強かっただけに、私をひどく憎《にく》むようになりました。実際に危害を加えられるようなことはありませんでしたが、決して私に幸福な生活を送らせない、とか、いつか目の前にひざまずかせてやる、とか言っていました。でもその内に姿を消し、私も彼のことは忘れていたのですが……」  「なるほど」  とF〓=Dは合点が行ったというように肯いた。「それで〈冬の旅〉ですか」  〈冬の旅〉は恋に破れた青年が絶望と狂気の中をさまようという内容である。  「しかし、あの楽譜だけで、よくその男のしたことだと分りましたね」  「それだけではないのです」  と大木愛子は言った。  「といいますと?」  「北野は、今、この邸《やしき》に客として泊《とま》っているのです」    3〈鬼《おに》火《び》〉  「びっくりなさったでしょう?」  庭を歩きながら、大木博子が言った。  庭といっても、日本庭園ではむろんなく、フランス式の、幾《き》何《か》学《がく》模様——あの味気ない人工美に溢《あふ》れた庭園でもなかった。自然の林がほとんどそのままに残っていて、ただ所々にベンチや、切株を利用した腰《こし》かけが配してあるので、ここが個人の住宅の庭なのだな、と思い出させてくれる。  秋も終りに近く、葉は黄金の衣をまといつつあった。  「お母さんのお話のことですか?」  とディートリッヒ・F〓=Dは訊き返した。  「ええ。母は年を取って、少し疑い深くなり過ぎているんですわ」  「あなたは信じないんですか?」  「母に誰かが〈冬の旅〉の楽譜を送り付けて来たのは事実です。でも、それが本当に北野という男のしたことなのかどうかも分りませんし……それに、私が一番馬《ば》鹿《か》げていると思うのは、その男が、今、この家に客の一人として泊っているということです」  F〓=Dは、手近なベンチへ、  「かけませんか」  と博子を促した。「——いい庭ですね。我が家へ帰ったようだ」  「母はドイツの森に憧《あこが》れているんですわ」  と博子は微笑んだ。「そこから生まれた音楽を理解するには、そういう場所に住まなければならないと思っているんです」  陽《ひ》が暮れかけて、風が少し冷たくなった。  「——なぜ、お母さんの話を信じないんですか?」  とF〓=Dは訊いた。博子は肩をすくめて、  「今、ここに滞在していらっしゃるのは、みんな一流の音楽家の方ばかりです。その一人が気の狂《くる》った殺人者だなんて、到《とう》底《てい》考えられませんわ。——あなたの楽屋で殺されていた人のそばに同じ楽譜が落ちていたとか」  「そうです」  「じゃ、その犯人が母へあの楽譜を送って来たと考えてもいいわけでしょう?」  「さあ、それはどうでしょうね」  とF〓=Dは曖《あい》昧《まい》に言った。「あの楽譜は殺された男のものだったかもしれない。そして殺された男が楽譜の一ページをお母さんへ送ったとも考えられる」  「何のために?」  「警告だったとしたら……。北野があなたのお母さんを殺そうとしているという意味の」  「楽譜一枚でそんなことが分るでしょうか?」  「予《あらかじ》め決めていたのかもしれませんよ」  博子はF〓=Dの顔をじっと見つめて、  「予め?——それじゃ母と、その殺された人……何て言いましたかしら?」  「南田じゃありませんでしたか」  「あ、そうだわ。南田芳人でしたね。母と南田が知り合いだったとおっしゃるんですか?」  「いや、これは全くの想像ですよ」  F〓=Dは微笑みながら言った。「ただ、そうだとすれば、お母さんがすぐに北野に狙《ねら》われていると考えたのも、分るような気がするのです」  「ああ、分りました」  と博子は肯いた。「あなたも母が総てを正直には話していないとお考えなんですね?」  「女性にとって嘘は一つの魅《み》力《りよく》ですよ」  「そうでしょうか」  「例えば、あなたが誰かに恋し、結局思い果せず振られてしまったとする。それを誰かに話す時、自分が振られたのではなく、自分が振ったのだと話しませんか?」  F〓=Dは、かすかにアイロニーを漂わせる口調で言った。  「それは……あるかもしれませんわ」  「それが何十年も前のこととなればなおさらです。誰も知っているものはいないのに、わざわざ自分が振られたなどと言う必要はない。それに自分でもいつの間にか、本当に自分が振ったのだと思い込むこともあるでしょう」  「じゃ……母が北野という男を振ったのでなく、母が振られたんだとおっしゃるんですか?」  「いや、そう言っているのではありません、今のはあくまでも一般論ですよ」  と言ってから、ちょっと間を置いて、F〓=Dは続けた。「ただ、あなたのお母さんが見せて下さった楽譜を入れて来たという封筒ですが、消印の日付が、あの南田という男の殺された日になっていたのです。お母さんはそれを三日前に受け取ったとおっしゃった。ということは、あの郵便がお母さんの手もとに着くのに、四日かかったことになります」  「かかり過ぎですね」  「日本の郵便事情は良く知りませんが、私もそんな気がしました」  「それに……消印からみて、殺される前に南田が投《とう》函《かん》したとも考えられるわけですね」  「その通りです。あなたは頭がいい」  「とんでもありませんわ」  博子は頬《ほお》を赤らめた。  「さて」  とF〓=Dは息をついて言った。「お母さんのお話が事実だとして、今いる客の中で、北野らしい可能性のあるのは、誰と誰ですか?」  「それは——」  と言いかけて、博子はためらった。「でも、客の中に、昔の恋人がいて、それが分らないなんていうことがあるでしょうか?」  「ないとは言えませんよ」  とF〓=Dは言った。「三十年近い年月です。人も変るし、記《き》憶《おく》の中の顔も変っている。見分けられないというのは別に不自然ではありません」  「でも、みんな音楽家として一応名の通った方たちですよ」  F〓=Dは微笑んで、  「音楽家の経歴などというのは至ってあてにならないものですよ。まあ、ともかく今はそれを考えないことにして、純《じゆん》粋《すい》に年齢だけで行きましょう」  「そうですね。……母の話からすると、五十五、六というところかしら。だとするとまず、ピアニストの上《うえ》野《の》さん——」    達者なテクニックで、上野がリストの一曲を弾《ひ》き切った。  広間に集まっていた客たちが一《いつ》斉《せい》に拍手すると、上野は立ち上がって、ステージの上と同じように頭を下げた。  五十がらみの男で、白《しら》髪《が》混じりの頭はやや禿《は》げかかっているが、まだまだ肉体の方は四十代の若々しさを保っているようだった。  かなり好色な男らしい、とF〓=Dは、拍手をしながら思った。ギラついた眼《め》に、時々、野性的な光が見える。おそらく、その方でも女性を満足させるだけの体力の持主だろうが、しかし、しょせんはそれだけに終る男のようだ。  ピアノを扱《あつか》うのと同じで、力でねじ伏《ふ》せようとするだけでは、相手は充分に応《こた》えてはくれないのだ。——ピアノのテクニックだけなら、かなりのものを持っているのに、一向にその音楽が心を打たないのは、デリケートな所が欠けているからだろう。  あの男は〈北野〉に似つかわしくない、とF〓=Dは思った。何十年もの間、恨みを内攻させているには、単純過ぎるような気がしたのだ。——もっとも、そう見せかけているだけなら、大した役者だということになるのだが。  上野はつかつかとF〓=Dの方へやって来ると、  「やあ、あんたが聞いていてくれるとは嬉しい!」  と、かなり乱暴なドイツ語で言った。  「おみごとでした」  とF〓=Dも社交辞令を返す。  「どうだね、今度、私に伴奏させてくれないか」  上野が、本気とも冗《じよう》談《だん》ともつかぬ口調で言った。F〓=Dは微笑んで、  「私は大変気難しいもので、古《ふる》女《によう》房《ぼう》でないと付き合い切れないようですよ」  とかわした。このピアニストでは、シューベルトは弾き殺されてしまう!  「今度は本《ほん》条《じよう》さんが——」  と大木愛子が言った。まだ二十代半ばの青年が、ヴァイオリンを手にして、客の前に立った。暖かい拍手が起きる。  なかなかの美青年だが、天才肌《はだ》というよりは努力家のようだ。本条青年は、バッハの無伴奏ソナタを弾いた。  これはなかなかの才能だ、とF〓=Dは思った。線は細いが、リズム感が良い。それに、上野の場合とは反対に、その曲を心から愛しているのが、良く分る。  上野はと見ると、後の方の椅子に坐って、不《ふ》機《き》嫌《げん》そうに腕《うで》組《ぐ》みをしていた。明らかに自分の演奏よりも、この若者の演奏に一同が心を打たれているのを感じて不《ふ》愉《ゆ》快《かい》なのだろう。  一心に——というより、ほとんど無心に弾き続ける本条を見ている内、F〓=Dは、ふと妙な印象を受けた。  誰かに似ている、と思ったのである。誰だろう?——F〓=Dの知っている日本人は限られているが、ごく最近会った誰かに、似ているという印象を強く与えられたのである。  誰だろう?  答を得られないまま、本条の演奏は終っていた。拍手には熱がこもっていた。  隣《となり》の席にいた吉田英一が、  「どうだ? これは悪くないだろう」  と声をかけて来る。  「有望だね」  とF〓=Dが肯く。「誰か、有名な音楽家の息《むす》子《こ》か何かかね?」  「いや、そうじゃない。中学校ぐらいでやっとヴァイオリンを始めたとか聞いたよ。凄い努力家なんだ」  「そうか」  拍手に、嬉しそうに頬を紅潮させながら、本条青年は自分の席へと戻って行った。  F〓=Dは、その次に、前へ出て演奏したピアニストとチェリストには、ほとんど注意を払わなかった。ピアニストは女だった——花《はな》村《むら》兼《かね》子《こ》といった——し、深《ふか》見《み》というチェリストはどう見ても三十五、六で、北野であるには、年齢が違っていたからだ。  それに、本条という青年のことが気になったせいでもあった。  「今度は藤《ふじ》森《もり》さんです」  と言う大木愛子の言葉にふと注意をひき戻される。——博子が挙げた〈候補〉の一人だったからだ。  藤森は確かに年齢からいえば、その条件を最も具《そな》えていた。五十五、六歳で、一見、物静かな紳《しん》士《し》である。中肉中背の、あまり特《とく》徴《ちよう》のない体つき、メガネをかけた、比較的平板な顔立ちは、一、二度見ただけでは忘れてしまいそうだ。  藤森はフルーティストだった。鈍《にぶ》い銀色のフルートを組み立てると、かなり無造作に、ドビュッシーの「シリンクス」を吹《ふ》き出した。このゆっくりとした、それ故に難曲とされる無伴奏曲を、藤森は危げのないテクニックで聞かせた。  音色の変化も多《た》彩《さい》で、充分に楽しめる演奏だった。ところが、曲の最後の音を、藤森が徐《じよ》々《じよ》に弱めて、まだ消えない内に、急に、ピアニストの上野が手を叩いた。  どうせろくに聞いていなかったので、もう終ったかと思ったのだろう。  藤森は上野の拍手を耳にすると、キッと顔を上げ、険しい目で上野をにらんだ。  「おっと、失礼」  上野はニヤリと笑った。「まだ終ってなかったのかい」  藤森はすぐに穏やかな表情に戻って、フルートをおろすと、一礼した。——F〓=Dも、他の客と共に拍手しながら、今、藤森が一《いつ》瞬《しゆん》見せた激《はげ》しい怒《いか》りの表情を思い出していた。  藤森が、外見ほどには穏やかな性格の男ではないこと、しかし、その怒りや憎しみを、巧《たく》みに隠《かく》すことのできる男であることを、今の出来事は暗示していた。  大木愛子が、広間に集まっている二十人ほどの客の前に立った。  「皆さん、今日は良くご存知のように——」  と言いかけて、「もう何も申し上げる必要はございませんわね。ディートリッヒ・F〓=Dさん。何か一曲歌っていただけますでしょうか?」  と期待を込めた目を向けて来る。F〓=Dとて、むろん拒《こば》む気はなかった。  F〓=Dが席を立つと、一斉に拍手が起こった。ピアノの方へと足を運びつつ、しかし問題は伴奏だな、と思っていた。  上野には頼みたくない。何なら、無伴奏でも歌えないことはないが……。  その時、  「私に伴奏させていただけません?」  と立ち上がったのは、博子だった。  「まあ、博子なんか、とても——」  と大木愛子が言いかけるのを、  「いや、それは大変ありがたいですね」  とF〓=Dは遮った。「ぜひお願いします」  「はい」  と博子は出て来て、ピアノの前へ坐った。「弾けるのは限られていますけど」  「何なら大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》ですか?」  とF〓=Dは訊ねた。  「〈冬の旅〉なら」  と博子は言った。  一瞬、ほとんどそれと気付かぬほどのどよめきが、客の間を走り抜《ぬ》けたのを、F〓=Dは敏《びん》感《かん》に感じ取っていた。むろん客たちは、大木愛子へ送られて来た楽譜のことは知るまいが、F〓=Dが、どういう事情で足留めされているかは知っているのだ。  「結構、じゃその中から一曲」  「何にします?」  「そう……。〈鬼火〉にしましょう」  とF〓=Dは言った。  〈深い岩のさけ目に、鬼火が私を誘《さそ》って行く。……〉    「いい伴奏でしたよ」  F〓=Dは、静かにワイングラスを傾《かたむ》けながら言った。  「ご冗談ばっかり」  と博子が笑顔で応じる。  「音楽に関して冗談は言いません」  「それなら素直に喜んでおきますわ」  すでに十一時になって、客間には、二人の他に、誰も残っていなかった。いや、一人、上野が、酔ってそのままソファーで高いびきだった。  博子はチラリと上野の方を見て、  「いかがでした?」  と訊いた。  「どうも、今夜だけではね」  F〓=Dは慎《しん》重《ちよう》に言った。「多少、気付いたことがありますが、考え過ぎかもしれないし……」  「藤森さんが、上野さんの拍手に怒った時。ね、違います?」  「その通りです」  F〓=Dは愉《ゆ》快《かい》そうに、「あなたとは印象が良く一致するようですね」  「でも、藤森さんは、ずいぶん実績のあるフルート奏者ですわ」  「まあ、彼と決ったわけじゃありませんよ。——ところで、お母さんはいつもこうして音楽家を泊めているんですか?」  「母の主義なんです。この邸を、音楽家たちの交流の場にするという」  「なるほど」  「とんでもない交流もありますけど」  と博子がそっと笑った。  「というと?」  「その上野さんと、女流ピアニストの花村さん。夜になると、お互いの部屋同士で〈交流〉してるんですの」  F〓=Dは軽く声をたてて笑った。  「いや、あなたは面白いお嬢《じよう》さんだな」  「からかってらっしゃるの?」  「とんでもない。感心しているんです」  「そうかしら?——でも、いいですわ。同じからかわれるにも、F〓=Dさんにからかわれるのなら、他の人間の何十倍の値打がありますもの」  「あまり買いかぶらないで下さい。私はただの歌手に過ぎませんよ」  F〓=Dは苦笑しながら言った。「ああ、ところで、一つうかがおうと思っていたんですがね」  F〓=Dは、あの若いヴァイオリニスト、本条が誰かに似ていないかと訊いてみた。  博子は小首をかしげて、  「さあ……。気付きませんけど」  と首を振る。  「そうですか。いや、我々の印象も食い違うことがありますね」  とF〓=Dは言った。    ディートリッヒ・F〓=Dが深夜に目を覚ますのは、珍しいことだった。ふと暗がりの中に起き上がり、枕《まくら》もとの時計を見ようと、明りをつけた。二時半だった。——こんな時間に、なぜ目覚めたのだろうか? 不思議だった。  ベッドから起き出すと、F〓=Dは、しばらく耳を澄《す》ました。音楽家の敏感な耳が、何かを聞いたのだろうか?  しかし、沈黙だけが、取りまいている。  「どうしたのかな……」  呟きながら、F〓=Dはガウンをはおって、寝《しん》室《しつ》のドアをそっと開いてみた。  二階の廊《ろう》下《か》は、静まり返って、物音一つ聞こえなかった。F〓=Dはまたそっとドアを閉じた。  何でもないようだが、それでも妙に気にかかる。  「気のせいかな」  F〓=Dは窓辺へ寄って、カーテンを開けた。暗い林が、どこまでも、かすかな月明りの中で、続いている。  別に、外も何事もないようだった。F〓=Dは肩をすくめてカーテンを閉じようとした。——その時、それが目に入った。  黄色い火が、林の中を動いていた。林の木々の間に見え隠れしながら、動き回っている。  それはまるで〈鬼火〉のように見えた。  F〓=Dが、まるで魅せられたように、その火に見入っていると、突然、ドアが激しく叩かれた。  「F〓=Dさん!」  博子の声だった。「大変です! 起きて下さい! 藤森さんが——殺されたんです!」    4 〈春の夢《ゆめ》〉  「死体を発見なさったのはどなたです?」  井手刑事が疲れたような声で訊いた。  実際、誰もが疲れているはずだ。夜中に叩き起こされて、同じ邸の中で殺人事件があったと知らされ、後はもう混乱……。  今は朝の九時過ぎであった。  昨夜、殺された藤森のフルートを聴いた広間が、今はまるで納骨堂のように、冷たく静まりかえっている。  ディートリッヒ・F〓=Dは、しかし少しも疲労を覚えてはいなかった。日本流に言えば「六尺豊かな偉《い》丈《じよう》夫《ふ》」とでも言おうか、がっしりとした体《たい》躯《く》の内に秘めたエネルギーは、やはり日本人とは格段の差があるのだ。  殺人事件に出くわしたのは、むろんF〓=Dにとっても初めての体験だが、彼は恐《きよう》怖《ふ》よりはむしろ知的な好奇心をそそられていた。いささか不《ふ》謹《きん》慎《しん》ではあるが、その感情は否定しようもない。  F〓=Dは広間に集まった人々の表情を、そっとうかがってみた。  肝《かん》心《じん》の、ここの主《あるじ》である大木愛子は寝室に引き取っていた。老《ろう》齢《れい》というほどの年齢でもないが、やはりこの事件は応えたとみえる。  娘の博子は、しかし気丈な女性である。おそらく広間にいる人間の中で、F〓=Dを除けばもっともしっかりしている。きちんと服を着替え、化《け》粧《しよう》こそしていないが——もともとごく薄化粧だ——髪もていねいにクシを入れてあった。  それ以外の連中はほとんどがガウン姿で、不安な表情を隠そうともしていない。  あの少々野《や》卑《ひ》な、ピアニストの上野も、昨夜の威勢の良さはどこへやら、極力目立たないようにと、ソファの隅《すみ》に坐っている。  その傍には、女流ピアニストの花村兼子。少し離れて、若いヴァイオリニスト、本条。チェリストの深見という男……。  井手が一同の顔を見回して、くり返した。  「死体を発見なさったのは、どなたです?」  花村兼子が、おずおずと、  「あの……私です」  と蚊《か》の鳴くような声で言った。  もちろん日本語の分らないF〓=Dには話の内容は理解できない。後で博子にドイツ語で話してもらったのである。  「そのときの事情を伺《うかが》わせて下さい」  と井手に言われて、花村兼子は困ったように上野の方を見た。上野は黙って、仕方ないさとでも言うように肩をすくめた。  「さあ、どうぞ」  と井手が促すと、花村兼子は渋《しぶ》々《しぶ》口を開いた。  「あの……何と言うこともないんですの。ただ……藤森さんの部屋の前を通りかかると……ドアが、開いていたんです。それで、変だなと思って中を覗くと、藤森さんが……」  「殺されているのが見えたんですね?」  「そうです」  「夜中の二時過ぎに、どうして起き出されたんです?」  「それは……手洗いに立ったんですの。ゆうべは冷えましたから」  井手はチラリと手帳を見て、  「それは変ですな」  と言った。  「え?」  「いや、あなたのお部屋は、藤森さんの部屋より二階の手洗いに近い所にある。——手洗いに立ったのなら、藤森さんの部屋の前を通る必要はなかったはずですがね」  「あ、あの、それは……」  花村は助けを求めるように上野を見た。上野が面《めん》倒《どう》くさそうに、  「刑事さん、彼女は私の部屋から戻る途中だったんですよ」  とあっさり言った。  「なるほど」  井手は別に驚いた様子もなく、「それなら分りますね」  と肯いた。それからもう一度、花村兼子を見て、  「あなたが上野さんの部屋へ行かれたのは何時頃《ごろ》でした?」  「さあ……」  としばらく困ったような表情で考えていたが、「たぶん……十二時過ぎだったと思います」  「確かですか?」  「十二時を過ぎたら——行こうと思っている内、ついウトウトしてしまって、目が覚めて……そうですわ。十二時になったばかりでした」  「どの時計で時間を見ましたか?」  「壁《かべ》の、ですわ。ちょうどベッドから見える所にあります」  「なるほど。それで上野さんの部屋へ行かれた、と。——その時、藤森さんの部屋の前を、当然通られたわけですね。ドアはちゃんと閉まっていましたか?」  花村兼子はちょっと面食らった様子だったが、  「ええ、たぶん。……開いていれば気が付いたと思いますわ」  「なるほど。しかしドアは内側へ開くようになっているんでしょう?——いや、そうなんです、ちゃんと確かめました。そうなると、戻って来るあなたの目に、ドアが開いて部屋の中が見えるということは、逆に、行く時には、たとえドアが開いていても、部屋の中は見えなかったということになります。つまり、ドアが開いていても気付かなかったということも考えられる」  「ええ……。それはまあ……」  と花村兼子が曖《あい》昧《まい》に言った。上野が苛《いら》々《いら》した口調で、  「一体、それが何だっていうんです? ドアが開いてようが閉まってようが、そんなこと大したことじゃないじゃありませんか」  とかみついた。  「いや、それがそうでもないのですよ」  井手は至って穏やかに、「被害者の死亡推定時刻が、十二時から一時の間ぐらい、というのです。つまり、花村さんが上野さんの部屋へ行かれる前だったとも考えられる。ですから、その時にドアが開いていたかどうかを伺っているわけなのです」  「そうだわ」  と花村兼子が何か思い付いたように言った。  「何です?」  「いえ、ドアのことです。やはり閉まっていたんだと思いますわ。なぜって、部屋には明りがついてたんです。廊下は暗いですから、開いていて光が洩《も》れていれば気付いたはずですもの」  「なるほど」  と井手は肯いた。  「それだけでは、部屋のドアが閉まっていたとは言えませんね」  とF〓=Dは、後で、井手と吉田英一、それに博子との四人で広間に残った時に言った。  「その通りです」  と井手が肯いた。「部屋の明りは消えていたのかもしれません」  「しかし、どうも妙ですね」  F〓=Dは、考え深げな表情になって、「よほど慌《あわ》てた犯人でもなければ、部屋の明りをつけっ放しにして、ドアを開け放して逃げたりはしないでしょう」  「それは私も考えました」  「すると、どういうことになるんだね?」  と吉田が言った。  「つまりこうさ、吉田。犯人は藤森を殺して、明りを消し、ちゃんとドアも閉めて、逃げたのだ。——その後に来た誰かが、ドアを開けて、明りをつけ、死体を見て仰《ぎよう》天《てん》し、自分の部屋へ逃げ帰ったのだよ。そう考えた方が自然だ」  「おっしゃる通りです」  と井手も同意した。「それが誰かは分りませんが。たぶん、かかわり合うのを恐れて黙っているのでしょう」  「藤森は刺《さ》し殺されていたのですね?」  「そうです。凶《きよう》器《き》はここの家の台所から持って来たと思われる包丁です」  「すると犯人はこの中の人間……」  「そう考えていいと思います」  「待って下さい!」  と博子が口を挟《はさ》んだ。「そんなことだけで決めつけるなんて乱暴ですわ。みなさん、ここのお客様なんです。それが人殺しだなんて……」  「お気持ちは分りますが、他にも理由があるのです。この邸は、内側からは完全に戸《と》締《じま》りがしてありました。家の外も調べさせましたが、どこかから忍《しの》び込んだと思われる痕《こん》跡《せき》は、発見できませんでした」  「それにしても……」  と言いかけて、一《いつ》旦《たん》博子は口をつぐんだが、やがて低い声で、「私は大丈夫ですが、母が……」  と言った。  「お母さんは気丈な方だ。大丈夫だよ」  吉田の慰《なぐさ》めも、あまり効果はなさそうだった。F〓=Dはやや事務的な口調になって、  「現場に何か目に付くようなことはなかったのですか?」  と訊いた。  「特にありません。被害者は眠っている所を心臓の一《ひと》突《つ》きで即《そく》死《し》したものとみられています。たぶん声もたてなかったことでしょう」  「他の客たちはどう言っているのですか?」  「他の客と言いましてもね、さっきここに集まっていた、上野、花村、本条、深見という四人——それに、F〓=Dさんと吉田さんを加えて六人ということになりますが、これ以外の客は五人で、その方たちは、裏手の、別《べつ》棟《むね》に泊っているのです」  「来客用に母が建てたのですわ」  と博子が言った。  「そこもちゃんと戸締りはなされていたし、こちらの棟へ入るにも、特別な連絡通路はないのですから、その別棟の客は、まず問題外とみていいと思われます。そこで、こちらの他の客にしぼってみますと、あとは本条というヴァイオリニストの青年、チェリストの深見の二人ですが、どちらもぐっすりと眠っていて、全く事件には気付かなかったと言っています」  そう言ってから、井手は、「もっとも、さっきの推論のように、死体を見付けて仰天した者があるとすれば、この二人の内のどちらかでしょうがね」  と付け加えた。  F〓=Dはちょっとの間、考えに沈《しず》んでいたが、やがて立ち上がると、  「現場を見せていただいて構いませんか?」  と訊いた。  「ええ、もちろんです。何か我々の気付かなかったことを発見して下さいよ」  F〓=Dは微笑んで、  「シャーロック・ホームズがバリトンだったとは、どこにも書いてありませんでしたよ」  と言った。  F〓=Dの寝ている部屋とほとんど変りのない造りだった。  「もう死体はありませんが、どうぞご覧になって下さい」  と井手は言った。  F〓=Dは部屋の中を見るより、まず窓へ寄って、外を眺めた。自分の部屋の窓と同じ側へ面しているが、当然位置はずれている。  同じ林が見える。昨夜の騒ぎで忘れかけていたが、F〓=Dが鬼火のような火を見た林だ。  F〓=Dは、ナイトテーブルに、手帳がのっているのを見て、手に取ってみた。もちろんめくってみても、記入してある日本語は分らないのだが。  「中は、演奏のスケジュールのようなものばかりですよ」  と井手が言った。  F〓=Dは、昨日の日付の欄に、二文字の漢字が記されているのに目を止めた。どことなく見憶えがある。  「吉田、この欄には〈鬼火〉と書いてあるんじゃないのかね?」  吉田がF〓=Dの手にした手帳を覗き込んで、「そうだよ。いつから日本語が読めるようになったんだい?」  と愉《ゆ》快《かい》そうに顔を見た。  「プログラムで年中お目にかかっているからね」  とF〓=Dが微笑んだ。  「きっと君の〈鬼火〉に感《かん》激《げき》したんで、メモしたんだろう」  「それはどうかな」  とF〓=Dは首を振った。「それなら僕の名を書く方が自然じゃないのか?——おそらく、藤森は鬼火を見たのだと思うよ」  吉田と井手が顔を見合わせた。F〓=Dが、昨夜、死体が見付かって大騒ぎになる直前に、窓から見た火のことを話すと、  「それは面白い」  と井手が目を輝《かがや》かせた。「私は至って散文的な男ですからね。火が見えた、となれば、それを持っていた人間がいたに違いない、と考えるんですよ」  「それは私も同感です」  F〓=Dが肯いて、「そのあたりを調べてみませんか?」  と提案した。むろん反対のあろうはずもない。  四人が廊下へ出ると、メイドの一人が、早足にやって来た。  「失礼します。——警察の方ですね。奥《おく》様《さま》がお目にかかりたいとおっしゃっておりますので……」  「分りました」  と言って、井手がF〓=Dの方へ、「では先にいらしていて下さい」  「僕も夫人に会おう。少し元気付けてあげなくちゃ」  と吉田が申し出て、結局、F〓=Dと博子の二人が、一足先に、林へ行くことになった。  「——この辺りでしたかね」  とF〓=Dはざっと見て回って、「まあ本職に任せましょう。あまり荒《あ》らさない方がいい」  「ええ」  博子はどことなく元気がなく、哀《かな》しげだった。  「どうしました?」  「——悲しいんです」  博子は素直に答えた。  「そうでしょうね。あんな事件があって……」  「いえ、事件そのものより、F〓=Dさんを、せっかく有名なF〓=Dさんをお招きしたのに、こんなことになってしまうなんて。それが悲しいんです」  昼が近くなって、晩秋の光も、暖かさを増しつつあった。——静かで、風もなかった。  二人は何となく林の奥へと歩き出していた。  「どうせなら、殺されるのがあの上野さんならよかったのに」  博子が嫌《けん》悪《お》をむき出しにした口調で語るのは珍しかった。  「ああいう男は嫌《きら》いですか」  「寒気がするわ。——すみません、変なことを言って」  「いいんですよ」  博子は神経が昂《たかぶ》っているようだ、とF〓=Dは思った。この年齢の女性なら当然の反応だろうが。  「藤森さんの演奏には愛があったわ。そう思いません?」  「同感ですね」  「それに比べて上野さんのピアノは……音楽を強《ごう》姦《かん》しているようだったわ。許せないんです! あんな……」  声が高く通った。F〓=Dが博子の肩を抱《だ》いた。博子が目を閉じて、気持ちを鎮《しず》めようとしている様子だったが、やがてF〓=Dの胸に顔を静かに伏せた。  F〓=Dはその厚い胸に、か細い彼女の重みを受け止めていた。博子が顔を上げると、二人の唇《くちびる》が寄って、そして触《ふ》れ合った時、軽く博子が身《み》震《ぶる》いするのが分った。  「——若い女性にはいつもこんなに親切なんですか」  と博子が囁《ささや》くような声で訊いた。  「恋多き男でしてね、僕は」  F〓=Dは微笑んだ。  「存じてます。——でも、あなたの場合は、芸術のためでしょう」  「女性にキスするのは、ただそれが楽しいからです。そんなときに芸術のことなんか考えている者はいませんよ」  「安心したわ、それを伺って」  博子は軽く声をたてて笑った。もうすっかり明るさが戻っている。  「私みたいな者でも楽しいんですの?」  「自分の気持ちは偽《いつわ》らないことにしています」  博子はしばらくF〓=Dの手を握《にぎ》ったまま、じっとその目を見つめていた。口を開きかけた時、咳払いが聞こえて、少し離れた所に、本条が立っているのが目に入った。  「どうも……すみません。お邪《じや》魔《ま》するつもりじゃなかったんです……」  本条がきまり悪そうに頭をかく。いかにも純《じゆん》朴《ぼく》な好青年という感じである。  博子があわてて、  「いいえ、いいんです。——あなたも大変なことに巻き込まれて……」  「いえ、僕はそう演奏会なんかのスケジュールが詰《つ》まっているわけじゃありませんから」  と本条はぶらぶらと近付いて来た。「F〓=Dさんにお目にかかれただけで幸せですよ」  「ドイツ語は話しますか?」  とF〓=Dが訊いた。  「英語だけです」  F〓=Dが英語で昨夜の演奏を賞めると、本条は心から嬉しそうだった。「僕はバッハが好きなんです。でもパガニーニとかサラサーテはどうも……。技《ぎ》巧《こう》をひけらかすような曲はどうも好きになれなくて。そのせいでコンクールでも不利なんですけれど」  「コンクールを過大評価しちゃいけないよ。大切なのは実績を作ることだ。いい演奏は必ず誰かの目に止まる」  「はい」  本条は目を輝かせて肯いた。  ——結局、例の〈鬼火〉の件では、何一つ手《て》掛《がか》りらしいものは見当らなかった。  F〓=Dは昼食前に、一旦部屋へ戻って行った。寝不足のせいか、少し頭がスッキリしない。シャワーでも浴びるか、と思った。  部屋へ入って、ふとテーブルの上に目が向いた。——楽譜が置いてある。  手に取る前から、見当は付いていたが、それは〈冬の旅〉の中の、〈春の夢《ゆめ》〉の楽譜だった。    5 〈道しるべ〉  「何のおまじないですかね」  と井手刑《けい》事《じ》は、ディートリッヒ・F〓=Dの手《て》渡《わた》した〈春の夢〉の楽《がく》譜《ふ》を見ながら首を振《ふ》った。  「部屋のドアは別に鍵《かぎ》などかかっていなかったのですから、誰《だれ》でもこれを置いて行く機会はあったはずです」  とF〓=Dは言った。  「どういうことだろうね、これは?」  と吉田英一がお手上げという様子で、「ミステリーは小説の中だけで沢《たく》山《さん》だ」  と愚《ぐ》痴《ち》った。  「日本の知性を代表する君らしくもない言葉だね」  F〓=Dが冷かすように言った。  「ともかく——」  と井手が息をついて、「これから何かがつかめるとは思えませんが、一応調べてみましょう」  と楽譜をしまい込《こ》もうとした。  「ちょっと待って下さい」  とF〓=Dが止める。「その楽譜ですがね。どうも、あの南田の死体のそばにあったものとは違《ちが》うような気がしませんか」  「え?」  井手はまじまじとその楽譜を見つめた。「——なるほど。そう言われてみると、紙の感じが違いますね」  「私はそういう印象を受けたのです。調べてみて下さい」  「分りました。では早速」  井手はF〓=Dの部屋を出て行った。  残ったF〓=Dと吉田は、しばらく重苦しく黙《だま》り込んでいたが、やがてF〓=Dの方が、ふと思い付いたように、  「大木夫人はどうだね?」  と訊《き》いた。  「ああ、しっかりしている。——表面上は、だがね。かなり参ってはいるはずだ」  「当然だろうね」  「君にすまない、とくり返し言っていたよ」  「僕《ぼく》は図太い人間なんだ。少々のことではびくともしないよ」  F〓=Dは微《ほほ》笑《え》んで言った。  「芸術家は繊《せん》細《さい》だと思われてるからね。大木夫人もそう信じてるのさ」  「演奏家は別だ。発《はつ》狂《きよう》した作曲家はいるが、発狂した演奏家というのは聞いたことがあるまい?」  「それはそうだね」  「元来、演奏家というのは外向的な性格の持主なんだ。感受性の豊かなことと神経質なこととは違う。世界中飛び回ってリサイタルをこなすのは、神経の丈《じよう》夫《ぶ》な人間にしかできないよ」  「そう聞いて安心した」  吉田は軽く笑った。「じゃ下へ行って昼飯にしよう。食欲があればの話だが」  「あるとも。僕は胃の方も図太くできているんだ」  とF〓=Dは言って、吉田を促《うなが》し、部屋を出た。  階下の食堂へ行くと、ヴァイオリニストの本条と博子の二人だけが食《しよく》卓《たく》についていた。  「他の人たちは?」  と吉田が訊くと、博子が肩《かた》をすくめて、  「上野さんと花村さんはお部屋で食べるからと言って……。お二人で話がおありのようですわ」  と皮肉っぽく言った。  「チェリストは? 深見といったっけね」  「食欲がないんだそうです」  と答えたのは本条だった。「お誘《さそ》いしてみたんですが……」  「じゃあ、我々だけでいただこう」  とF〓=Dは席へついた。「ワインをもらおうかな」  「私が——」  博子がグラスへワインを満たした。二人の目が何となく出合って博子が微かに頬《ほお》を染めた。  「そうだ。また楽譜が見付かったって本当ですか?」  と本条が英語で言った。  「誰に聞いたんだね?」  「メイドが噂《うわさ》してましたよ」  「その手の人間には何も隠《かく》しちゃおけないんだね」  とF〓=Dは愉《ゆ》快《かい》そうに言った。「彼女たちは夜はどうしてるのかな?」  「裏手の方に部屋があります」  と博子が答えた。「少し離《はな》れているんですけど、母の部屋とはインタホンでつながっているんです。——今度は何の楽譜だったんですか?」  「〈春の夢〉。私の部屋に置いてあったんですよ」  「まあ」  「心配することはありませんよ。〈春の夢〉は殺人予告とも警告ともとれない」  「そうですね。あれは長調の歌だし……」  「あの歌には確か……」  と本条が言った。「美しい少女にくちづけする、とかいうところがありませんでしたか」  「よく知っているね。〈私は夢みた、ただひたすら愛のことを、美しい少女を、もえる心を、くちづけを、よろこびを、しあわせを〉という詞がある」  本条はふっと子供っぽい笑顔になって 、  「きっとその楽譜を置いて行った奴《やつ》は、さっきのお二人を見てたんですよ」  と言った。博子が赤くなって、  「本条さん!」  とにらんだ。吉田がF〓=Dと博子の顔を交《こう》互《ご》に見ながら、  「おいおい、ディートリッヒ、これはまだ子供なんだ。アメを買ってやるぐらいにしておけよ」  と言った。  「まあ、吉田さん、私はもう大人です」  博子がむきになって、つい日本語で言ってから、F〓=Dの方へ向いた。  「大体今の意味は分りますよ」  とF〓=Dは微笑んだ。  「全く羨《うらや》ましいねえ、芸術家って奴は」  吉田は大げさにため息をつく。「音楽評論家が女の子にもてるって話は聞いたことがないよ」  ——和やかに昼食は終った。席を立ったF〓=Dのところへ、メイドがやって来て、折りたたんだメモらしいものを手渡した。  「何だね?」  と吉田が覗《のぞ》き込む。  「夫人だ。会いたいと言って来ている。——医師の許可を得なくても大丈夫かな?」  「心配ないと思うよ。あの人は、特にどこといって悪い所はないんだ、年相応に弱ってはいるがね」  「それならすぐに伺《うかが》おう」  F〓=Dはメモをポケットへしまい込んで言った。    「どうぞお入り下さい」  ベッドに起き上って、大木愛子が静かな、しかしはっきりした口調で言った。  「失礼します」  F〓=Dはベッドの方へと歩み寄って、「どうぞお休みになったままで……」  「いえ、大丈夫です。こうしている方が楽ですの」  「それならよろしいのですが」  F〓=Dはベッドの傍《そば》の椅《い》子《す》に腰《こし》をおろした。「いや、思いの他《ほか》、顔色もよろしいので安心しました」  「ご心配をおかけしました」  と大木愛子が軽く肯《うなず》く。「それにしても、せっかくおいでいただいて、こんなことになり、本当に申し訳ないと思っておりますのよ」  「どうぞお気《き》遣《づか》いなく。事件は確かに悲しむべきものですが、私は充《じゆう》分《ぶん》にここで寛《くつろ》がせていただいています」  「そうおっしゃっていただくと……」  大木愛子はふと言葉を切って、「けれど、もしあなたがこの件の巻き添《ぞ》えを——」  「ご心配なく。私は自分のことは自分でいつも処理して来ました。こう見えても、私はなかなか俗っぽいのです」  F〓=Dは微笑んで言った。「美しいお嬢《じよう》さんにお相手いただくだけで、充分ここに滞《たい》在《ざい》する意義はあります」  「あの子は勝気で困ります」  と夫人はちょっと笑って、「あなたを困らせていないとよろしいのですけれど」  「その心配はご無用です」  夫人は、ちょっとの間、目を閉じた。  「お疲《つか》れですか?」  F〓=Dは腰を浮《う》かした。「もう失礼しましょう」  「いいえ」  と強い口調で、「ぜひお話ししておきたいことがございます。——どうかお聞きになって下さい」  と引き止める。  「分りました。伺いましょう」  大木夫人は一つ大きく息をついた。  「他でもない、博子のことなのです」  「お嬢さんの?」  「幸い、私は無事でしたが、人が一人殺されました。どういう事情で、藤森さんが殺されたのかは分りませんが、あの送られて来た楽譜と関《かか》わりのないはずはありません」  F〓=Dは何か言いかけたが、思い直して口をつぐんだ。今は夫人に話をさせておいた方がいい。  「北野が殺したのだと、私は思っています」  と夫人は静かに言った。「証《しよう》拠《こ》はと言われれば、何もないと申し上げるしかありませんが、分るのです。——北野が殺したのです」  F〓=Dは、夫人の言い方に、否定してほしいという気持を読み取ったが、敢《あ》えて口をきかなかった。  「この次は、私かもしれません」  と夫人は言った。「むろん警察の方の仕事ぶりを信じないのではありませんが、私のような力のない年寄りを殺すのは簡単です。——私は別に恐《おそ》れてはいません。でも、博子のことを、誰にも言わずに死ぬのは、心残りで……」  「お嬢さんの、何をですか?」  「あれの父親のことです」  「——亡くなられたご主人のことですね」  「いいえ」  と夫人は首を振った。「博子は主人の子ではありません」  「そうでしたか……」  「主人は子供を作る能力がありませんでした。——私は三十歳ごろから、他に何人か恋《こい》人《びと》を持つようになりました。お恥《は》ずかしい話ですけれど」  「いや、それは無理もないことでしょう」  「博子はその恋人の一人との間にできた子です。——でも主人は自分に負い目があったせいか、少しも怒《おこ》りもせず、博子を自分の子供として認め、育て、可《か》愛《わい》がりました。私も、そんな主人を見ている内に、自分を恥じるようになり、やがて、恋人との仲を清算しました。後になって考えると、どうして主人を裏切ることができたのか、不思議です」  F〓=Dはじっと夫人の、どこか遠くを眺《なが》めているような目を見つめていた。  「博子さんの父親というのは、誰なのです?」  とF〓=Dが訊くと、夫人はゆっくりと視線を彼の方へ移した。  「お察しでしょう」  と彼女は言った。「父親は、藤森さんでした」  F〓=Dはしばらく黙っていた。  「——なぜ、私にそれをお話しになるのですか?」  「分りません」  と夫人は首を振った。「不思議ですね。でも、お話しするなら、F〓=Dさんしかいない、とそう思ったのです。吉田さんとも永いお付合いですが、あの方は博子と親し過ぎます。何かの拍《ひよう》子《し》に、博子にそれを洩《も》らしてしまうかもしれないと思ったのです」  「私なら、永く居る客ではないし、というわけですね?」  「そうだと思います。——誰かに話さないではいられなかったのですわ。ご迷《めい》惑《わく》とは存じましたが……」  「いや、どうぞお気になさらず。秘密を一人で抱《いだ》いているのは辛《つら》いものです」  F〓=Dの言葉に、夫人は感《かん》激《げき》するように微笑んで見せた。    F〓=Dは、間もなく夫人の部屋を出て、そっとドアを閉めた。  そのとき——耳に入ったのだ。どこか他のドアがカチリと音を立てたのが。  廊《ろう》下《か》を見回した。しかし、どのドアも、ピタリと閉じたまま、沈《ちん》黙《もく》している。ということは、今の音はドアが閉じた音だったのだ。誰かが、今の話を立ち聞きしていたのだろうか?  誰が? そしてどのドアへ姿を消したのだろう?——知るすべはなかった。F〓=Dはゆっくりと廊下を歩いて行った。  居間には人《ひと》影《かげ》がなかった。メイドが、  「お嬢様が図書室でお待ちでございます」  と英語で声をかけて来る。  「ありがとう」  ——図書室は、細長い部屋で、天《てん》井《じよう》まで届く書《しよ》架《か》に囲まれて、ゆったりとした雰《ふん》囲《い》気《き》を漂《ただよ》わせている。  博子は、大判の写真集を眺めていたが、明らかに興味はなかったようで、F〓=Dが入って行くと、すぐにそれを閉じた。  「母は何と言いまして?」  と博子は訊いた。  「いや、こんな事態になってすまないとおっしゃってましたよ」  「それだけ?」  博子はじっと探るようにF〓=Dを見ている。だが、F〓=Dは、女性に見つめられることには慣れているのだ。  「それだけです」  と肯いて、「あなたがあまり気を病まないようにとも、おっしゃっていました」  「家の中で人殺しがあったのに? 無理ですわ」  と博子は苦笑した。  「あなたも充分気を付けて下さい」  F〓=Dは真顔で言った。  「私を殺そうっていう人なんかありませんわ」  「それはどうでしょうか。あなたが何でもないと思っていることが、犯人にとって大きな危険だということもあるのですからね」  「それは……分ります」  「私も気を付けてはいますが」  「私のことを?」  「もちろんです」  博子はF〓=Dの胸へ頬を寄せた。  F〓=Dは、何となく、くすぐったい気持ちで博子を受け止めていた。  同時に、母親がF〓=Dに何を言ったのか博子がひどく気にしていたことに、F〓=Dは気が付いていた。  あの大木愛子の話が本当ならば、博子は父親を失ったことになるわけである。しかし、博子がそれを知っていた様子はない。——そうなると、博子は一体何を気にしていたのだろうか?  表面に現れたものだけで判断してはならない、と思った。大木愛子にしても、総《すべ》てを語ってはいない。まだ、何かがあるのだ。  「——どうなるんでしょう、一体」  と博子が言った。「みんなが殺人容疑をかけられているわ。私も、たぶん……」  「そんなことはありませんよ」  「いいえ、理論的にはそうなるはずです。私、それがいやなのじゃありません。疑われても構わないけれど、ただ疑いだけで放置されるのがたまらないんです」  「井手という人は優秀なようですよ。心配ないでしょう」  「それにあなたもいらっしゃるし……」  と博子が微笑んだ。  ドアが開いて、吉田が顔を出した。博子があわててF〓=Dから離れる。  「何だ、こんな所で逢《あい》引《び》きか?」  吉田は笑って、「おいディートリッヒ、ドン・ジョヴァンニを気取ってると石像が迎《むか》えに来るぞ」  とからかった。F〓=Dも、  「本当だね。君が迎えに来た」  とやり返す。「僕に用か?」  「うん。国際電話が入っている」  「ありがとう」  F〓=Dは、客間へ行って、電話を取った。ドイツのエージェントからで、こっちの状態を訊いて来たのだった。F〓=Dは、大げさにならないように、簡単に事情を説明し、そう長引きはしないと言って安心させてやった。  正直なところ、その自信はなかったのだが……。  話を終えて、F〓=Dが受話器を置いたときだった。どこかで、激《はげ》しく何かが弾《はじ》けるような音がした。  「銃《じゆう》声《せい》だ!」  とっさに口に出た。しかし、どこだろう?  遠くはない。この屋《や》敷《しき》の中だ。  廊下へ出ると、あわてた声が階段を駆《か》け上って行った。吉田だ。  「吉田! どうした!」  F〓=Dも後を追って階段を駆け上った。  「分らん。二階で音がした。あれは——」  「銃声だよ。間違いない。それも散《さん》弾《だん》銃《じゆう》だろう」  とF〓=Dは言った。「ここに銃があるのか?」  「僕も知らない」  と吉田は首を振った。「しかし、どの部屋だろう?」  階段を続いて上って来たのは、博子と、本条の二人だった。  二階の廊下を歩いて行くと、ドアの一つが開いて、上野が出て来た。  「何だい、今のは?」  「銃声らしいですよ。どの部屋か分りませんか?」  「さっぱりだ」  上野の部屋から、花村兼子がそっと顔を出した。  「——深見さんがいないわ」  と博子が言った。  F〓=Dと吉田が深見の部屋へと走る。  「深見さん! 深見さん!」  ドアは鍵がかかっている。  「任せたまえ」  F〓=Dが体当りすると、ドアの鍵が外れたらしい。ドアが内側へ開いた。  「来るな!」  F〓=Dが、他の者を止めた。  深見は死んでいた。散弾銃の筒《つつ》先《さき》を口にくわえて引金をひいたのに違いない。頭が、ほとんどふっ飛んで、凄《すさ》まじい限りの光景であった。    6 〈霜《しも》おく髪《かみ》〉  「これはひどい……」  吉田が覗き込んで青くなった。  「吉田。君は他の人をここへ入れないように見ていてくれ」  とディートリッヒ・F〓=Dは厳《きび》しい表情で言った。「もちろん井手刑事に連《れん》絡《らく》してもらわなくてはならない」  「分った。ここは君一人で大丈夫か」  「僕なら心配ない。戦争に行って死体は見ている。まあ、こんなのは初めてだがね」  「全く……ひどいもんだな」  吉田も他の言葉を知らないようだった。  深見が、散弾銃の銃口をくわえて、足の指で引金を引いたのは、ほぼ確かなことと思えた。右足が靴《くつ》と靴下を脱《ぬ》ぎ捨て、裸足《はだし》になっている。  「やれやれ……」  およそ人の死とは一番縁のないようなこの屋敷の中で、こうして次々と人が死んで行くとは。——最初は藤森、そして今度は深見だ。  「F〓=Dさん」  と声がして、大木博子が顔を出した。F〓=Dは急いで、  「来てはいけない!」  と叫《さけ》んだが、博子は室内の惨《さん》状《じよう》を見てしまっていた。  「まあ……」  と言ったきり、目を大きく見開いて、よろけた。  「しっかりして!」  F〓=Dが急いで博子をつかまえる。博子は、真っ青になって、  「ひどい……」  と呟《つぶや》くと、ガクッと力が抜《ぬ》けて、気を失ってしまった。  「これは困ったな」  F〓=Dは、博子の体を軽々とかかえ上げると、廊下へ出た。本条青年が不安げな表情で立っていたが、博子を見ると、  「どうしたんです?」  と寄って来た。  「気を失ったのさ。あまり気持ちのいいものじゃないからね」  「入らない方が、と言ったんですけど……」  「女性に見るなと言うのは、そそのかすようなものだよ。君、すまないが、このドアの前に立って、誰も入れないようにしていてくれないか」  「分りました」  「上野、花村の二人は?」  「すぐまた上野さんの部屋へ引込んじゃいましたよ」  「賢《けん》明《めい》だな」  F〓=Dは皮肉っぽく笑った。「じゃ、頼《たの》むよ」  と、本条へあとを任せて、博子を下へと運んで行く。広間のソファへ寝《ね》かせてやると、メイドが一人、びっくりした様子でやって来た。  「英語は分るかね?」  とF〓=Dは訊いた。メイドが肯く。  「お嬢さんは気を失っただけだ。何か気付けに飲ませてあげてくれ」  「分りました」  とメイドが急いで広間を出て行く。入れかわりに吉田が入って来た。  「すぐ井手が来ると——おい、どうしたんだ?」  「部屋を覗いて気を失ったのさ。大丈夫だよ」  「そうか。——いい子だが、少々向う見ずのところがあるのが困る」  「向う見ずでない若さなど意味がないよ」  とF〓=Dは微笑した。  「君は落ち着いてるな。舞台度胸だけじゃないらしいね」  「舞台では常に小心者だよ」  「ともかく……深見は自殺だろうね」  「おそらくね。あんな風に殺されるということは考えられない」  「すると、藤森を殺したのは深見だったのかな? 良心の呵《か》責《しやく》に堪《た》えきれずに死んだ、と……」  「そう考えるのが一番楽ではあるが、正しいとは限らない」  「それはそうだな。しかし他に自殺の理由があるかね」  「僕が不思議なのは……」  と言いかけて、F〓=Dは言葉を切った。博子が低い声を上げて、身動きしたのである。  「気が付いたらしい」  「あ……F〓=Dさん、私……どうしたんでしょう?」  と、博子はゆっくりと起き上がった。F〓=Dに事情を聞かされて、青白い頬に朱《しゆ》がさした。  「すみません。ご迷惑かけて。——ブランデーを少しいただきますわ」  「それがいい。我々も飲もう。吉田、君もあまりまともな顔色じゃないぞ」  F〓=Dは、殊《こと》更《さら》にからかうような口調で言った。  「——君がさっき言いかけたのは何だい?」  ブランデーのグラスを傾《かたむ》けている時、そう言い出したのは吉田だった。「ディートリッヒ、君はさっき何かが不思議だと言い出しただろう」  「ああ、そうなんだ。博子さん、あの散弾銃はこの家のものですか」  「はい、父のものだと思います。ずっと使っていなかったのですけれど……」  「どこに置いてあったのですか? 僕は気が付かなかったが」  「図書室の奥《おく》の戸《と》棚《だな》ですわ」  「そんなところにしまっているのが、どうして深見に分ったのかな?」  と吉田が眉《まゆ》を寄せた。  「何か雑談のときに、狩《かり》の話が出たことがあるような気がします。そのとき母が銃のことを口にしたような……」  「その棚を見たい。案内してくれませんか」  とF〓=Dが立ち上がった。  図書室の、一番奥の書架の裾《すそ》が戸棚になっていて、鍵がかけてあったのだろう、かなり手ひどく壊《こわ》されていた。  「やはりここから持って行ったんですわ」  と博子はそっと扉《とびら》を開けた。銃を包んであったらしい、毛布と油紙が開いたままにしてある。  「これはかなり頑《がん》丈《じよう》な扉だな」  とF〓=Dは、板を拳《こぶし》で叩《たた》いた。「壊すのに相当苦労しただろう」  「そう力持ちにも見えなかったからね」  「——どうも妙《みよう》だな」  「何が?」  「不思議だと思わないか。深見が、例え藤森を殺したにせよそうでないにせよ、自殺を決意したとする。しかし、どうしてわざわざあんな方法を選んだのだろう?」  「それは……」  と言いかけて、吉田も首をかしげた。「なるほど、そう言われてみればそうだ」  「死のうと思えば方法は色々あるはずだ。何も、こんな苦労して戸棚をこじ開ける必要はなかったろう」  「すると、君はあれが自殺でなかったと言いたいのか?」  F〓=Dが何とも答えない内に、博子が言った。  「もしかして、顔が判《はん》別《べつ》できないようにするために——」  「顔のない死体か。しかし、それは無理です。現に深見も顔はほとんど無傷で残っているし、自殺にせよ他殺にせよ、ああいう形で銃を撃《う》てば、頭は吹《ふ》っ飛んでも顔は何ともないだろうという見当はつくでしょう」  「そうですね」  「——さて、そろそろ井手刑事が来る頃《ころ》だ。広間へ戻っていよう」  とF〓=Dは他の二人を促した。    井手はさすがに、凄《せい》惨《さん》そのものの現場を見ても、眉一つ動かさなかった。すぐさま鑑《かん》識《しき》班を指揮して、仕事にかかる。  「——F〓=Dさん、ちょっとすみません」  少しして、井手は深見の部屋から顔を出し、廊下にいたF〓=Dを呼んだ。  「死体はもう片付けさせます」  と井手は布で覆《おお》った死体を顎《あご》でしゃくって、  「F〓=Dさんはどう思われます?」  と訊いて来た。F〓=Dが、さっき博子と吉田に話した疑念をくり返すと、井手はゆっくりと肯いた。  「そうですね。その点は考えなくては。図書室の方へも鑑識をやって、こじ開けたのが深見本人だったかどうか、調べさせましょう」  「他殺の疑いはありそうですか?」  とF〓=Dが訊くと、井手はちょっとためらいを見せた。  「あの姿勢ですから、他殺とはちょっと考えにくいのですが……。ただ、妙なことがありましてね」  「というと?」  「右足が裸足で、左はちゃんと靴をはいていました」  この屋敷は純西洋風に、靴のままで入るようになっているのである。  「ところがですね、その右足の方の、脱いだ靴と靴下が見当らないのですよ」  と井手は言った。  「それはそれは……」  F〓=Dは目を見開いた。  「死体を発見なさったときに、靴と靴下には気付かれませんでしたか?」  と井手は訊いた。  「いや……目に入りませんでしたね。死体の方に気を取られていたということもあるが、たぶん死体の向う側にあって、見えないのだろうと思っていたんです」  「なるほど。そうなるとどうも妙だな」  と井手は考え込んだ。「他の部屋で片方だけ靴を脱いで来るというわけもないし……」  「他殺だとしてもおかしいですね。自殺に見せかけるつもりなら、靴や靴下をどこかへ持って行くはずはない」  「そこですよ。どっちにしろ妙な話だ」  井手はため息をついた。  井手とF〓=Dが広間へ入って行くと、やっと部屋から出て来た上野と花村兼子が、本条や吉田と何やらしゃべり込んでいた。  「どうも度々の事件でお気の毒です」  と井手が切り出すと、上野がウイスキーのグラスを乾《かん》杯《ぱい》でもするように持ち上げて見せながら、  「しかし、これで片が付いたようじゃありませんか」  と上《じよう》機《き》嫌《げん》な口調で言った。少々酔《よ》っているのか、目のあたりが少し赤い。「大体、あの深見ってのは得体の知れん奴だったものな。何だかわけは知らんが、藤森を殺して、自らも命を絶った。かくて全巻の終りってわけだ!」  「まあ、その可能性はありますがね、そうと決ったわけじゃありませんよ」  井手はさり気なく逃《に》げて、「深見さんとは長いお付合いですか?」  「いや、ここで初めて会ったんです。名前はどこかで見たことがあるが」  「それはお仕事の関係で?」  「ええ。どこかのプログラムででも見たんでしょう。大した腕《うで》じゃなかったし……」  「でも合わせやすい人でしたわ」  と花村兼子が言った。「私も、ここで初めてお会いしたんですけど」  「お前は男なら誰とでも〈合わせやすい〉んじゃないか」  上野がいささか好色っぽい笑いを浮かべながら言った。  「やめてよ!」  と花村兼子が肘《ひじ》で上野をつついた。井手は苦笑して、  「本条さんはどうです?」  と訊いた。何やらぼんやりしていた青年ヴァイオリニストは、ハッと我に返った様子で、  「すみません、何でしょうか?」  「深見さんを前からご存知でしたか?」  「いえ——全然知りませんでした。名前も知りませんでした。大体あまり音楽家の方々とお付合いがないもんですから」  「いいことだよ」  と上野が言った。「面白くもないぜ、音楽家って奴は」  「君は知ってるんじゃないか、吉田」  と井手に問われて、吉田は、両手を胸の上に組んだ。何か考え込むときの癖《くせ》である。  「名前はね。まあ、地味な人だったからな。室内楽とか、合わせものには時々出ていたが、個人でリサイタルをやったことはないんじゃないかな」  「大変なんですよ、刑事さん」  と、また上野が口を出す。「リサイタルなんて、絶対に演奏家の持ち出しですからね。あちこちコネで切《きつ》符《ぷ》を売り捌《さば》いて、満員になっても赤字ですよ。クラシックの演奏家ってのは楽じゃないんだ、本当に」  「キャリアはある人なのか?」  井手は上野を無視して吉田に訊いた。  「さあ……。その辺のことになると一向に分らんね。最近、時々名前を見かけるようになった、というだけだな」  「少し過去を調べる必要があるね。藤森、深見……。何かかつて関係があったのかどうか。——ここに招待されている人々の顔ぶれは、夫人が決めているのかな?」  「そうだよ」  と吉田が肯く。「特に規準があるわけではないんだ。その都度、目に止った者をリストアップするというわけでね」  「その中にたまたま殺したいほど憎《にく》んでいる者がいた……。ドラマチックだが、いささか妙だね」  「どうしてだい、刑事さん?」  と上野が言った。  「たとえば思いがけず憎い相手に出会ったとしてもですね、こんな所で殺せば自分に疑いがかかるのは必定です。殺すにしても、ここを出てからにしたでしょう」  「なるほど。しかし待ちきれなかったのかもしれないぜ」  上野は大分酔いが回っている様子だった。  F〓=Dは、日本語でのやりとりに何となく耳を傾けていたが、吉田の方へ低い声で訊いた。  「彼女は?」  「母親の所だと思う。さっきメイドが呼びに来たからね」  「分った」  F〓=Dは広間を出ると、階段を上って行ったが、その途《と》中《ちゆう》で足を止めた。  当の博子が、階段の一番上の段に腰をかけてぼんやりしているのである。——一人にしておいた方がいいかもしれない、とF〓=Dは引き返しかけたが、博子の方が気が付いて、  「F〓=Dさん」  と声をかけて来た。「逃げるんですか」  「いや……。考え込んでいる女性には近付かない主義なのでね」  「あら、どうしてでしょう?」  「女性があんな風にぼんやり考え込むのは、恋人のことか食べ物のことを考えているときです」  「まあ、ひどい」  と博子は笑った。「恋人があなたのことだったら?」  「僕が食べ物の方に分類されていたら怖《こわ》いですからね」  とF〓=Dは真《ま》面《じ》目《め》くさって言った。    客間にあるアンチックなスタイルのピアノを、博子は気ままなテンポで弾《ひ》き出した。  「シューマンは発《はつ》狂《きよう》したわ」  と博子は呟いた。「天才が行き過ぎて発狂するならともかく、凡《ぼん》人《じん》が落ち込んで発狂するのじゃ冴《さ》えませんね」  F〓=Dはピアノにもたれかかるようにして、  「お母さんのお話は何だったんです?」  「別に……。ただ、どうなっているのか、聞きたがっているだけですわ。どう説明していいのか、困ってしまいます」  F〓=Dは少し間を置いて言った。  「気になっていることがあるんです」  「何でしょう?」  「今度の招待客ですが、お母さんはどういう理由でこの人たちを選ばれたんでしょう?」  「さあ……」  博子は当《とう》惑《わく》顔《がお》で、「訊いてもみませんでしたわ」  「客の内、二人までが死んだ。——どうも、偶《ぐう》然《ぜん》集まった顔ぶれとも思えないんですがね」  「母に訊いて来ましょうか」  「それはあの井手という刑事がやるでしょう。しかし、お母さんが本当のことを話されるかどうか……」  博子が突《とつ》然《ぜん》、不協和音をガーンと叩きつけて、手を止めた。  「——いやな予感がするんですの」  「何です?」  「母の先が長くない、という……。別に理由はありませんが、今、母の顔を見ていて、急にふっとそう思ったんです。それで階段に坐《すわ》り込んでしまっていたんですわ」  「お母さんは疲れておられるんです。まだそんなおとしではない。取り越《こ》し苦労ですよ」  とF〓=Dは元気づけた。博子はF〓=Dの方を見上げて微笑んだ。  「あなたにそうおっしゃっていただくと何となくホッとしますわ」  「何か弾いて下さい」  「歌って下さる? 伴《ばん》奏《そう》しますわ」  F〓=Dはちょっと考えて、  「〈プロヴァンスの海と陸〉にしましょう」  と言った。博子はちょっと驚《おどろ》いたように、  「〈椿《つばき》姫《ひめ》〉の? まあ!」  「どうも僕がイタリアオペラのアリアを歌うと、誰も誉《ほ》めてくれないのですよ。F〓=Dはやはりリードとドイツオペラだ、というわけでね。いいでしょう。ここはやはり〈冬の旅〉にしますか」  「どの歌にします?」  「〈霜おく髪〉にしたいですね」  「好きだわ。寂《さび》しい歌だけど。——母も髪が急に白くなったようで……」  博子が弾き始める。F〓=Dが押《おさ》えた声量で、歌い始めた。  〈霜が私の頭におりて、私の髪を真白に見せた。私は自分が老人になったと思って、どんなに喜んだことだろう。……〉  F〓=Dの歌が、不意に途《と》切《ぎ》れた。博子がびっくりして、  「どうかなさったんですの?」  と訊いた。  「そうか……もしかすると……」  F〓=Dは独り言のように呟いていたが、やがて穏《おだ》やかな笑顔に戻《もど》って、「失礼しました。最初から弾いて下さい」  博子は、肯いて、指をもう一度鍵《けん》盤《ばん》へとおろした。    7 〈菩《ぼ》提《だい》樹《じゆ》〉  「問題点を整理してみよう」  とディートリッヒ・F〓=Dは言った。  夕食の後、ごく自然に、F〓=Dと大木博子、それに吉田、井手刑事の四人が、客間に集まっていた。  「おい、君はここで謎《なぞ》解きをしてみせてくれるのかい?」  と吉田が訊く。F〓=Dは苦笑して、  「問題を整理するだけだよ。解くのはまだまだ先のことになるだろう」  「何だ、そうか」  と吉田は、ちょっとがっかりした様子で、「それまでに、ここの客が皆殺しにされなきゃいいがね」  「君らしくないぞ、そんな弱《よわ》音《ね》を吐《は》いて」  とF〓=Dの口調は、殊《こと》更《さら》にからかうようだった。  「事件を初めから振り返ってみる、ということですね」  と博子が言った。  「その通りです。——さて、一つ、ワインでも飲みながら、気楽にやろうじゃありませんか」  「おつぎしますわ」  博子が素早く立って、グラスを出して来た。——四つのグラスにワインが満ちると、F〓=Dは一口それを飲んでから、口を開いた。  「ともかく、事件の発《ほつ》端《たん》は、私のホテルへかかって来た一本の電話だった」  「〈冬の旅〉を歌わないでくれ、という……」  「そう。あの電話は一体誰が、何の目的でかけて来たのか。それがまず第一の点だ」  「殺された南田芳人じゃなかったのか?」  「そうかもしれない。しかし、その証拠は何もないのだよ」  とF〓=Dは吉田へ答えて言った。「それにあの電話での声は、〈人が死ぬ〉と言ったので、〈殺される〉とは言わなかった」  「第二は南田芳人を殺した犯人だな」  「そして理由だ。なぜ、再起不能になった歌手が殺されねばならなかったのか?」  F〓=Dは、少し間を置いて、続けた。「第三は、果して大木夫人の言う通り、本当に北野という男がここにいるのか。あるいはいたのか……。その点については、夫人が嘘《うそ》をついていることもあり得るし、単にその強迫観念に捉《とら》えられていることも考えられる」  博子が、それに続けて、  「北野という人が、実在したのかどうか、も疑ってみるべきですわ」  と言った。吉田が、ちょっとびっくりしたように博子を見たが、何も言わなかった。  「第四は——」  F〓=Dが続ける。「藤森が殺された夜、林の中に動いていた〈鬼火〉の件だ。それが超自然現象ではないと考えれば、その火のあった所には人間がいたはずだ」  「宝探しでもやってたのかもしれんよ」  と吉田が言った。  「そして第五は、もちろん藤森を殺したのは誰か? その動機は何かという点だ」  「藤森の過去については、今調べさせています。何か出て来てくれると思っているんですがね」  と、井手が言った。  F〓=Dは、大木愛子から、藤森が博子の父親だと打ち明けられたことを、後で井手にこっそり伝えようと思った。  「そして第六は——」  F〓=Dが言いかけたとき、  「F〓=Dさん、どうか遠《えん》慮《りよ》なくおっしゃって下さい」  と、博子が言った。  「何のことです?」  「母からお聞きになったでしょう。私の父が藤森だと」  しばらく、重苦しい空気が客間を支配した。  「本当ですか、F〓=Dさん?」  と井手が訊く。  「夫人が私にそう言ったのです。事実かどうか、保証の限りではありません」  F〓=Dは博子へ向って、「なぜそのことを知っているのかな?」  「ちょっとお行儀は悪かったけど、ドアの外で立ち聞きしていました」  「どういうことなんだ?」  吉田が、たまりかねたように言った。「僕はずっとこの家とは付き合って来た。そんな話は聞いたことがないぞ」  「まあ待てよ」  F〓=Dは、大木愛子の話を吉田と井手へくり返して聞かせた。  「信じられん!」  吉田が息をつきながら首を振る。  「その件はともかく、先へ進もう。第六——の点だったな。これは細かいことだが、僕の部屋に、〈春の夢〉の楽譜を置いて行ったのは、誰か。そしてなぜか?」  F〓=Dは言った。「その楽譜は、あの殺された南田の手にあった〈おやすみ〉や、夫人に送られて来たという〈あふれる涙〉の楽譜とは、紙質が違っていた」  「すると他の誰かが……」  「何のために?——それが分れば事件は解決さ」  F〓=Dはそうおどけて言った。「最後は第七の点。深見がなぜ殺されたか。もしくは自殺したのか。自殺なら、どうして右の靴と靴下がなくなったのか……。そして、自殺、他殺いずれにしろ、なぜ散弾銃で頭を射ち抜くといった凄《せい》惨《さん》な方法を選んだのか。そこも謎だ」  「いやだねえ」  と吉田が実感をこめて言った。  「ともかく分らないことだらけですな」  と井手が頭をかく。「警察としては全く……」  「私には一つだけ分っていることがあるような気がするのですがね」  とF〓=Dが言うと、井手が勢い込んで、  「それは何ですか?」  と訊いた。吉田が冷やかすように、  「名探《たん》偵《てい》は総てが分るまでは何もしゃべらないんじゃないのかい?」  と言った。  「私は歌手で探偵じゃないからね、思い付いたことは歌ってしまうよ」  F〓=Dが苦笑しながら言った。「それはね、深見が、なぜ散弾銃で頭をふっ飛ばすという、派手な死に方をしたかということなんだ」  「なぜだね?」  「あのときも言った通り、顔の判別ができないようにするという目的のはずはない。たとえ、顔がやられていたとしても、我々はあの死体を深見以外の人間のものだとは考えなかったろうからね」  「それはそうだな」  「すると問題は——頭にあったのだ」  「頭?——頭に何か目立つ傷跡でもあったというのかい?」  「頭というより、頭髪だな」  「髪の毛?」  「そう。——あの後、私は博子さんのピアノで〈冬の旅〉から〈霜おく髪〉を歌った。そのときに思い付いたのだ。あの歌は、知っての通り、一夜にして自分の髪が白くなったと思って、青年が喜ぶが、それはただ髪に霜がおりただけで、青年はまだ自分に老年が訪れないと知って失望する歌だ」  「すると深見の場合は——」  「黒い髪を白くするのは難しい。やってやれないことはないにしてもね。——だが、深見の髪は、もともと黒々としていた。すると逆に、深見は白い髪を、黒く染めていたのかもしれない、そういうことになる」  「つまり——」  と博子が言った。「本当は、深見さんはもっと年《と》齢《し》をとっていたということですか?」  「その可能性はあります」  F〓=Dは肯いた。「自殺するに際して、彼はそれを知られたくなかった。首を吊《つ》るなり、飛び下りるなり、手段はいくらでもあったのに、あえてあの方法を選んだのは、その点に気付かれたくなかったからではないかと思うのです」  「すぐに、残った頭髪を調べさせましょう」と井手が電話へ走って、手短かに指示をした。  「君が正しいとすると、深見は見かけより、ずっと年齢が上だったということになるな」と吉田が言った。「しかし、なぜそんなことを偽《いつわ》ったんだろう?」  「おそらく、彼が北野だったのではないかな」  「そうか……。しかし、夫人を狙《ねら》わずに、なぜ南田や藤森を殺したんだ?」  「それは分らないよ」  F〓=Dは肩をすくめた。「さっき言った通り、僕に分っているのは、深見の髪が白かったのだろうということだけだ。——それ以外はまだまだ闇《やみ》の中さ」  しばらく沈黙があって、みんな、そっとワイングラスを口へ運ぶ以外は、何となく、息づかいさえ殺していた。重苦しい圧《あつ》迫《ぱく》感が、四人の上にのしかかっている。  やがて電話が鳴って、井手が急いで受話器を取った。  「うん。——そうか。——よし、分った」  井手は受話器を戻すと、「F〓=Dさんのおっしゃった通りです。深見の髪は、ほとんど白髪に近いものだそうですよ」    「では、おやすみ」  廊下で、F〓=Dは博子に言った。  「私、怖《こわ》いわ」  と博子は言ったが、その声からは、神経質な響《ひび》きは消えていた。むしろスリルを楽しんでいるような、甘《あま》えた調子がある。  「大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》。今夜は井手刑事が見張っていてくれるはずだ」  「あなたの部屋にいてはいけないかしら」  「小羊を歓《かん》迎《げい》しない狼《おおかみ》はないと思うが」  F〓=Dは微笑んだ。「今のところ狼は満腹でね。眠《ねむ》りたいだけなんだよ」  「分りましたわ」  博子は笑顔になった。「せめておやすみのキスぐらい構わないでしょう」  F〓=Dも、それぐらいは構わなかった。おやすみのキスというには、少々熱が入っていたのは事実だが……。  寝《しん》室《しつ》へ入って一人になると、F〓=Dは、すぐにベッドへ入る気にもなれず、アームチェアにゆったりと腰をかけた。  どうにも妙な事件に巻き込まれてしまったものだ。エージェントが聞いたら卒《そつ》倒《とう》するかもしれない。  しかし、殺人という凶《きよう》暴《ぼう》な事件の渦《か》中《ちゆう》にありながら、F〓=Dは一向に自分自身の身に危険を感じなかった。自分はあくまでも局外者で、犯人に狙われることはあり得ないという確信が、なぜか根を張っていたのだ。  そういえば、その一連の事件そのものが、紛《まぎ》れもなく、今、現実に起こっているのに、まるで何十年も昔《むかし》に起こった事件のような気がしてならない。  動機が遠く昔へさかのぼるという以外に、殺人の雰囲気自体が、一昔前のものだ。といってF〓=Dも犯罪の専門家ではないのだが……。  靴をはきづめだったせいで、少し足がむくんで来ていた。スリッパにはき替《か》えよう。  「スリッパはどこだったかな……」  と見回して、ベッドの下に、スリッパの先だけが覗いているのを見付けた。  かがみ込んで取り出すと、ベッドに腰をおろして、靴を脱ぐ。——ふと、ある映像が頭に映った。  「そうか」  井手に訊かれたときも思い出さなかったのだが、深見の死体を見付けたとき、あの、右の靴と靴下を、見ていたのだ。  今、はっきり思い出した。靴は、脱いで投げ出されたように、ベッドの下に転がっていた。そして靴下も……無意識の内に、視界の隅《すみ》に止めていたのだろう。  だが、その後、博子が失神したりした騒《さわ》ぎで、忘れてしまっていた。それを、今、ベッドの下のスリッパを見て思い出したのであった。  すると、確かにあのとき、あそこに靴と靴下はあったわけだ。井手が到着したとき、それはなくなっていた……。  その間に、あの部屋はどうなっていたか。——F〓=Dは失神した博子を抱《だ》き上げて、部屋に誰も入らないように見ていてくれと頼んでおいたのだ。  それは——  「F〓=Dさん」  ドアにノックの音がして、英語で呼びかける声がした。押《お》し殺した声だ。  「お話があります。本条ですが」  そう、あのとき、後を頼んだのは、本条青年だった。  「F〓=Dさん、いらっしゃいますか?」  F〓=Dはちょっと迷った。今、ドアをノックしているのは殺人者かもしれないのだ。  しかし、F〓=Dは自分の直感を信じていた。あの青年は人を殺せる男ではない。少なくとも、ただ保身のために、誰かを殺すことはない。もし本条が人を殺すとしたら、それは恋人か、家族かを守るためだろう。  いいさ、ともかくここまで来たのだ。尻《しり》込《ご》みしていても仕方ない。  F〓=Dはドアを開いた。  「やあ」  「お休みでしたか。すみません」  「いや、まだだよ。入りたまえ」  「失礼します」  本条青年はおずおずと部屋へ入って来た。  「坐って。——何か飲むかね」  「いえ。あまり飲めないものですから」  椅子にかけて、本条はどうにも落ち着きのない様子で、F〓=Dの視線を避《さ》けていた。  「話があるのかね」  「はい。実は……」  と、言いかけて、どう切り出したものかと困ったように唇をなめた。  「靴と靴下を隠したのは君だね」  とF〓=Dが言った。本条はF〓=Dの顔を見て、ホッとしたように息をつくと、  「やはりご存知でしたか」  と言った。「きっとあなたは見ておられたに違いないと思いました。ですから、靴と靴下を僕が隠したことは、どうせすぐに分ってしまう。それなら、いっそ僕の方から申し上げようと——」  「それは警察へ言うべきだろうね」  「分っています。でも、ともかく、まずF〓=Dさんにお話ししたかったんです」  「なぜあんなことをしたのかね?」  本条はちょっと考えて、  「つまり……あれで——深見さんの自殺で事件の捜《そう》査《さ》が打ち切られてしまうことが怖かったのです」  と言った。  「ということは、深見が犯人だとは思っていないのだね、君は」  「そうです。少なくとも、南田芳人が殺されたとき、あの人は演奏旅行で九州にいたのですから」  「それをなぜ知っているんだね?」  「調べたんです。音楽会の記録を調べるのは難しくありません」  「なるほど」  F〓=Dは肯いた。「なぜ、そんなことを調べたのかな? 深見と君は何かつながりがあるのかい?」  そう言ってから、F〓=Dは本条の顔をじっと見て、  「そうか。分った。君を最初見たときに、どうも、見たことのある顔だと思ったんだが、ここにいる人々ではないと思って、よく分らなかった」  「お気付きでしたか——僕は南田芳人の甥《おい》に当たるのです」  「そうか……。亡くなっているのを見ただけだから、よく分らなかったんだ。僕は多少絵を描《か》くので、人の顔の特徴は割合よく憶《おぼ》えているのだよ」  「叔《お》父《じ》は僕を音楽の世界へ導いてくれたんです」  と本条は静かに言った。  「叔父さんが好きだったんだね」  「ええ。——でも、喉《のど》をだめにしてからは、叔父は自暴自《じ》棄《き》になりました。楽界の人々も勝手です。叔父が人気のあるバリトンとして活《かつ》躍《やく》し始めると、もうあらゆる場所へ引張り出しました。そしてだめになると、今度は、歌い過ぎは本人の責任だと責めるんですからね」  「それは批評というものの宿命だよ。演奏家はそれを乗り越えていかなくてはならないのさ」  F〓=Dはそういって、一息ついてから、「すると君は今度の事件について、何を知っているんだね?」  と訊いた。  「何も。——本当です。叔父とはほとんど会っていませんでしたし、どこで何をしているのかも、分りませんでした」  本条の言葉を、そのまま信じていいものかどうか、F〓=Dは決めかねた。  しかし、今はともかく深追いしてはなるまい。  「ただし、叔父が死ぬ数日前、叔父から電話があったのです」  「ほう」  「珍《めずら》しく明るい声でした。何だかひどく張り切っていて、『俺《おれ》もやっと機会をつかんだ』と、言っていました」  「機会を?」  「はい。何のことか訊いてみたのですが、詳《くわ》しいことは教えてくれません。ただ——」  「何だね?」  「電話で、〈菩提樹〉を歌ってくれたんです」  「〈菩提樹〉を?」  「そうです。びっくりしました。少し酔っていたのかもしれません」  「で、どうだったね?」  「どう、というと?」  「歌さ。——ちゃんと歌えていたかね?」  「電話ですから……よくは分りませんでしたが、よく声が出ているようでした」  ——F〓=Dは、一旦喉をだめにした歌手がカムバックした例を、ほとんど知らない。  南田の言った〈機会〉とは、何のことだったのだろう?    8 〈辻《つじ》音楽師〉  本条青年が帰って行くと、ディートリッヒ・F〓=Dは、すっかり眠気も覚めて、ベッドに腰をかけたまま、考え込んだ。  新しい曲に挑《いど》むとき、よくそんな気分になる、楽譜が、乱れ絡まる混《こん》沌《とん》にしか見えない状態から、徐《じよ》々《じよ》にその中に隠された秩《ちつ》序《じよ》が見え始めて来る。そして……突然、曲の構造が、ダイナミックが、一音一音の、然《しか》るべき姿が、ピタリと、焦《しよう》点《てん》を結ぶのである。  今、F〓=Dは、その直前の、苛《いら》立《だ》たしさを感じていた。多様にもつれからまる事件にも、第一主題や第二主題があるはずだ。細かな事《こと》柄《がら》は、その変奏にすぎないのだ。しかし、その主題を、F〓=Dはまだつかめずにいる……。  「——寝《ね》るか」  焦《あせ》って考えのまとまるはずがないことを、F〓=Dは経験から、よく知っていた。  大きく伸《の》びをすると、F〓=Dはアームチェアから立ち上がった。ドアが低い音でノックされた。どうも客の多い夜である。  「どなた?」  と、今度はドイツ語で訊く。  「博子です」  ドアを開けると、ネグリジェに着替えた博子が立っていた。F〓=Dは目を見張って、  「せっかく眠ろうと思ったのに、たちまち目が覚めてしまったな」  「ごめんなさい」  と言いながら、博子は中へ入って来て、ドアを閉めた。「——さっき、誰かが来ていたでしょ。誰だったんですか?」  「さすがに音楽家だ。すばらしい耳を持っているね」  「からかわないで下さい」  と博子はF〓=Dをにらんだ。  「分った、分った。本条君だよ」  「本条さんが?」  F〓=Dが本条の話の内容を聞かせてやると、博子はじっと熱心に聞き入っていた。  「本条さんが、南田芳人の甥だったなんて……。じゃ、事件にどう関《かかわ》って来るんでしょう?」  「それは何とも分らないね。まあ明日になれば、井手刑事にこのことを話しておかなくてはなるまいが……」  「本条さんは人殺しをするような人とは思えませんわ」  「見かけで殺人犯が分れば苦労はないがね」  とF〓=Dは微笑んだ。  「それじゃ、F〓=Dさんは真先に逮《たい》捕《ほ》されるわ。現代の〈青ひげ〉ですもの」  博子はそう言って、F〓=Dの唇《くちびる》にキスした。「私も七人の妻の一人に加えて下さい」  囁《ささや》くような声になっていた。  「博子さんが見知らぬ女性なら、ためらわずにそうするのだけれどね」  F〓=Dの指先が、博子の首筋から肩への、なだらかな曲線を辿《たど》った。博子が微《かす》かに身《み》震《ぶる》いして、ふっと息を吐いた。  F〓=Dは両腕で博子を軽々とかかえ上げた。  「君の部屋へ運んで行こうか」  「かみつきますよ」  F〓=Dは笑って、自分のベッドへ、博子を横たえた。  「それじゃ私は君の部屋で寝る」  博子は軽く笑ってベッドに起き上がった。  「がっかりさせる人」  「本当のプレイボーイはそういうものでね」  F〓=Dは澄《す》まして言った。  「じゃ、今度は小林さんを誘《ゆう》惑《わく》して、伴奏をわざと歌いにくくさせようかしら」  「あの真面目な小林ではね」  とF〓=Dが言ったとき、またドアがノックされる音がした。F〓=Dが博子を見て一《いつ》瞬《しゆん》ためらっている間に、博子の方は素早くベッドから出て、ドアを開けに行った。  「——これは、これは」  入って来たのは吉田だった。「おい、君はけしからん奴だな」  「野《や》暮《ぼ》な方ね。何のご用ですの?」  「ちょっと思い出したことがあってね、ディートリッヒへ話しておこうと思ったんだ。この年齢だ。明日になったら忘れているかもしれない」  「何だね?」  「南田芳人のことだ。あの頃、僕は音楽雑誌の演奏会評を担当していたので、楽界の色々な噂《うわさ》が耳に入って来たんだよ」  「南田のことでも?」  「そうなんだ。もうまるで忘れてしまっていたのを、今、急に思い出した」  「どんなことだい?」  「南田が突然スターの座から消えてしまったのは、喉を使い過ぎてだめになったからだというのが定説だった。ただ、ちょっと妙だったのは、それらしい徴《ちよう》候《こう》が事前に全くなかったことなんだよ。〈南田の喉は、疲れということを知らないのだろうか〉と書いたことを憶えているよ」  「つまり、喉がだめになったというのは、実際に耳で確かめていないんだな」  「少なくとも、僕の知っている範《はん》囲《い》ではね。それだけじゃない。その少し後になって、妙な噂が流れたんだ。南田が歌えなくなったのは、喉のせいではなく、どこからか圧力がかかったせいだというんだ」  「穏やかでないね。それは」  「まあ、その噂も、すぐに忘れられてしまったがね」  「圧力をかけたのが誰だったかという噂はなかったのか?」  「それは分らない。しかし、当時の声楽界にあれほど期待されていた人材を出られないようにしたというのは、かなりの力のある人間のやったことだろうな」  F〓=Dが考え込んでいると、  「本条さんは知らないのかしら」  と博子が言った。F〓=Dが、南田と本条の関係について説明すると、吉田は肯《うなず》いて、  「そうか。そういえば南田が、いつかパーティーで、ドイツに留学している甥《おい》がいると話していたことがあるよ。それが本条君だったのか」  「ドイツに?」  F〓=Dはちょっと眉を寄せた。「本条君はドイツ語が分らないと言ったよ」  「それはきっと、ドイツにいたのが大分前だから、話せない、ということだろう。聞く分には充分に分るはずだ」  しかし、本条は確かにドイツ語がだめだと言っていた……。  「話はそれだけだ。名探偵に後をお任せするよ。——博子さんはどうするんだね?」  「吉田さんのおかげでムードが壊《こわ》れたわ。部屋へ帰ります」  と博子はため息をつきながら、言った。    朝食の席に、翌朝、F〓=Dは一番早く坐っていた。  吉田が少し遅《おく》れて起きて来ると、F〓=Dを見てびっくりした様子で、  「驚《おどろ》いたな。怠《なま》け者の君がどういうわけで早起きだい?」  とからかった。すぐに、博子もやって来る。朝食を食べ始めたところへ、本条青年が現われた。  「遅《おそ》くなりまして」  と席に着く。F〓=Dが、さりげなく、  「おはよう」  と、ドイツ語で声をかけた。本条が、すぐにドイツ語で、  「おはよう」  と答えた。そしてF〓=Dの方を、ハッとして見る。  「君はドイツ語が分るんだね」  F〓=Dが言った。「なぜドイツ語を使わないんだね?」  「下《へ》手《た》なんですよ、かたことで……」  「私にかけて来た電話のように、かね」  とF〓=Dは言った。「君はドイツ語でしゃべると、私が君の声を聞き分けるのじゃないかと心配だったんだろう?」  本条はしばらくためらっていたが、やがて息を吐き出しながら、肩をすくめた。  「おっしゃる通りです。電話をしたのは、僕ですよ」  「なぜ〈冬の旅〉を歌うなと言ったんだね?」  「叔父に聞かせたくなかったんです」  と本条は言った。「叔父は電話口で〈菩提樹〉を歌いました。でも、到《とう》底《てい》聞くに堪《た》えないものだったんです。もっと辛いのは、叔父自身がそのことにまるで気付いていないことでした。——何年も音楽から離れてしまった叔父には、自分の声を客観的に聞くことができなくなっていたのです」  「声というのはデリケートだからね」  「叔父はF〓=Dさんの〈冬の旅〉を聞くのだと言って、楽しみにしていました。しかし、僕は心配だったんです。F〓=Dさんの〈冬の旅〉を聞けば、それが鏡のように、叔父に自分の姿を見せつけるのではないか、と……。それで無理なお願いをしたわけです。僕は会場へ出かけました。しかし、開演前には叔父を見付けることができず、結局見たのは、アンコールの前に、一人で席を立ったのが目に入ったときです。僕も立って、後を追いました。しかしロビーへ出ても、叔父の姿はない。どこへ行ったのかと、捜《さが》し回って、ふと楽屋の方へ行ったのかもしれないという気がしたのです。——楽屋で、叔父は死んでいました。自ら胸を刺《さ》したのです」  「自殺でしたの?」  博子が意外そうな声を上げた。  「そうです。膝《ひざ》の上には、〈冬の旅〉の楽譜がのっていて、胸にナイフが突き立っていました」  「そのナイフをなぜ抜《ぬ》いたんだね?」  「叔父はF〓=Dさんの〈冬の旅〉を聞いて死にました。自分が歌手としてもう復活できないことを思い知らされたのです。しかし、自殺したとなると、叔父は最後まで敗北者だったことになる。それではあまりに叔父が可《か》哀《わい》そうに思えたんです」  「それでナイフを抜き取って、殺されたように見せかけたんだね?」  「そうです。殺されたとなれば、新聞などの扱い方も違って来るでしょう」  「なるほど」  とF〓=Dは肯いた。「楽譜を置いて来たのはなぜだね?」  「あれは落ちたんです。全部持って来るつもりだったんですが、一枚だけ落としてしまって、気付かずに……」  「残りの楽譜は?」  「それが、ここへ持って来たんですが、どこかへ行ってしまったんです」  と、本条は言った。「失《な》くした、というのか——」  「盗《ぬす》まれた?」  「そうかもしれません」  F〓=Dは考え込んだ。そこへ、上野と花村兼子が起き出して来た。  「やあ、おはよう!」  上野は勢い良く言うと、「何だい、みんな消化不良なのか?」  と、笑いながらドサッと腰をおろした。  「いや、これから食べ始めるところですよ」  F〓=Dはそう言って、パンを取った。    「——ご気分はいかがですか」  F〓=Dはドアを後ろ手に閉めると、言った。  「おかげさまで……。今日は大分いいようです」  と、大木愛子は言った。ベッドに起き上った顔は、前よりも血色が良い。  「それは幸いでした」  F〓=Dは微笑んで、「少々お話したいのですが、よろしいでしょうか?」  「ええ、どうぞ」  F〓=Dはベッドの傍の椅子に腰をおろすと、本条青年の話を大木夫人へ伝えた。  「まあ、それではあの人が南田芳人の……そうでしたか」  F〓=Dはちょっと間を置いて、  「南田の死だけは別物だという気が、ずっとしていたのです。場所も違えば状況も違う。あれとこの屋敷での事件を結んでいるのは〈冬の旅〉の楽譜だけです。——あなたの所へ送られて来たという〈あふれる涙《なみだ》〉の楽譜。あれは、あなたの作り話ですね」  大木夫人は、悪びれた風もなく肯いて、  「はい。本条さんが持って来た楽譜を目にして思い付いたのです。たまたま少し前に、私あてに来たダイレクトメールの封筒の字が、いかにも脅《きよう》迫《はく》状のように見える字でしたので、その中にあの楽譜を入れたのです」  「なぜそんなことをなさったのです?」  夫人はちょっと目を見開いて、  「もちろん、F〓=Dさん。あなたのためですわ。私もそう長いことはありません。いえ、誰も知らないことですが、心臓が弱っていて……。たぶんもう二、三か月の命でしょう。死ぬ前に、あなたを一度お客としてお泊《と》めしたかったのです。そのために、南田芳人の事件を聞いて、脅迫状の件を考え出し、吉田さんを通じて巧《うま》く話をしてもらったわけです」  「なるほど。大成功でしたね、それは」  「あなたの貴重なお時間をむだにさせて申し訳ありませんでした」  「いや、そんなことはいいのです。しかし、問題は殺人事件の方です。——藤森、深見。なぜあの二人が殺されたのか」  「もう、あなたにはお分りではないのでしょうか」  「推測していることはあります。——あなたは後三か月の命だとおっしゃった。そういう人が客を招くとき、いつもと同じように、無作為に人選をするはずはない。藤森さんも深見さんも、あなたに何かの深い関《かかわ》りがあったから呼ばれたのでしょう」  F〓=Dは、一つ息をついて、続けた。「本条青年を招いたのは、南田芳人を楽界からしめ出したのが、あなただったからですね」  大木夫人はしばらくしてから肯いた。  「そうです。南田は私に取り入って、パトロンとして利用しておきながら、有名になると、たちまち若い女たちと浮《うき》名《な》を流し始めました。私もあんな男に熱を上げていたのですから、全くどうかしていたのです。——でも、後になって、やはり後ろめたさを感じました。本条さんが南田の甥だと知ってせめて罪滅ぼしに、後ろ盾《だて》になってあげようと思ったのです」  「あなたが〈北野〉と呼んだ男は、藤森だったのですね」  「はい。情熱的な、魅《み》力《りよく》的な男で、私も一時は魅了されていました。ですが、博子が生まれて、私がそちらの方へと愛情を注ぐようになると、藤森の、異常なほどの独占欲が表面に出て来ました。私を自分一人のものにしておきたいばかりに、博子を殺そうとしたのです。それを止めようとした私さえも、あの男は殺そうとしました。——そのとき、私を救ってくれた人がいたのです」  「深見さんですね」  「そうです。深見さんは、その頃からうちに何人か住みついていた、貧しい音楽学生の一人で、心の優しい、目立たない人でした。でも、その深見さんが、藤森を叩き出してくれたのです。——あの人がいなければ、私も、博子も殺されていたかもしれません」  「深見さんも、あなたのことを想《おも》っていたのでしょう」  「さあ、それはどうですか……」  夫人はちょっと笑った。「——あの二人を呼んだのが間違いでした。藤森も、一見したところ、人《ひと》柄《がら》も変り、穏やかになって、昔のことを、深見さんも混じえて笑いながら話し合えるほどだったのです。ところがF〓=Dさんのいらした夜、あの広間での演奏会を憶《おぼ》えておいでですか?」  「上野さんが、藤森さんの演奏が終わらない内に拍手をしたときですね」  「あのとき、藤森の表情を見て、私は彼が少しも変っていないことを知りました。あの目は、博子や私を殺そうとしたときの目と同じでした……」  「すると藤森さんは、上野さんを殺そうとしていたのですか?」  「それを恐れて、私は深見さんに、藤森に気を付けていてくれと頼んだのです。——案の定、あの夜、藤森は包丁を手に、上野さんを殺す気で部屋を出ようとしました。それを深見さんが押し戻し、争いになりました。——そして——はずみで、深見さんが藤森を刺してしまったのです!」  大木夫人は深くため息をついた。「藤森は狂《くる》っていました。深見さんに責任はない。でも警察がそれを信じてくれるという自信もなかったのです。私もこの身体で取調べを受けるのは辛かったので、深見さんに黙っていてくれるようにと頼みました。——あの人は優しい人です。決して他言しないと約束してくれました……」  「そして自殺した。——そうすれば自分が罪をかぶり、あなたに迷惑がかからずに済む。深見さんは、あなたを想い続けていたのですよ」  「本当にいい人でした」  いい人。女が愛するのは、必ずしもいい人ではないのだ。人生の哀《かな》しさである。  「深見さんは、あなたに会うというので、わざわざ髪を染めて、若返って来ました。そして死ぬときも、そのことを知られまいとして頭を撃《う》ち抜いた。——ロマンチストだったのですね」  「本当に……」  と、大木愛子は微笑んだ。    大木邸の広い庭に、柔《やわ》らかい陽《ひ》射《ざ》しが射している。  「そういうことでしたか」  井手刑事が肯いた。「すると、北野という男がどうこうというのは夫人の創作ですね? 人騒がせだな、全く!」  「私をもてなす趣向の一つ、ぐらいに思っていたのでしょう。まさか本当の殺人が起きるとは考えてもいなかったでしょうしね」  「本来なら夫人から供述を取るところですが、諦《あきら》めましょう。もう先が長くないということだし……」  そう言って、井手はあわてて口をつぐんだ。すぐ後ろに、博子が立っていたのだ。  「構いませんわ。もう知っています」  と博子は言った。——吉田が足早にやって来た。  「ディートリッヒ。車があと十五分ほどで来るそうだよ」  「ありがとう。それまでこの林の中を歩いているよ」  「まあいいだろう。いくら君でも、十五分では彼女を誘惑できまい」  吉田は井手を促して、一《いつ》緒《しよ》に戻って行った。  「——うるさいおじさん」  そう言って、博子は微笑んだ。  「君はしっかりしている」  「でも、気になりますわ。父親があんな……」  「人間は変るものですよ。父と子なら、なおさらのことだ」  「何もかもが片付いて、むしろさっぱりした気分ですわ」  と言ってから、ふと思い付いたように、「——そうだわ。あなたの見た鬼火というのは何かしら?」  「それは私にも確信がないのですがね」  と、F〓=Dは言った。「私の部屋へ〈春の夢〉の楽譜を置いたのと同じ人じゃないかな。つまり本条君……」  「本条さんが?」  「もう同じ楽譜がないので、違う楽譜になったけど、意味は私とあなたとのことを、少々妬《や》いていたのですね」  「本条さんが——私を?」  「あの鬼火というのも、きっと、あなたの窓へ向けて、あなたの注意をひこうとしていたのじゃないかな。若い人同士だ。本条君もいい青年ですよ」  「私をそんなに避けないで」  すねたように博子が言う。  「私は他の旅人の通う道を避けて通る旅人ですからね。——そうだ、最後にもう一曲伴奏して下さい」  「ええ」  二人は急いで客間へ入った。博子はピアノの前に座ると、「何を弾きましょう?」  と訊いた。  「〈辻《つじ》音楽師〉を」  博子が鍵《キー》をそっと叩いた。——F〓=Dの、抑《おさ》えた声が、静かな屋敷の中へと、見えない波を立てて広がって行く。  〈ふしぎな老人よ、私はお前についてゆくことにしようか? 私の歌に、お前のライエルのしらべをあわせてくれるだろうか?〉    「では……」  F〓=Dは手を差し出した。車の傍へ寄って来た博子は、F〓=Dの頬《ほお》にキスして、  「さようなら」  日本語で言った。目が光っていたのは、光の具合だったのか、F〓=Dには分らなかった。  車が走り出すと、吉田が言った。  「もう日本はこりたんじゃないのか?」  「いや、そんなことはない。また〈冬の旅〉を歌いに来るさ」  F〓=Dは座席にもたれた。  〈冬の旅〉の冒頭の句が心をよぎる。  〈私はよそ者としてこの町に来た。今また、よそ者として町を離れる……。〉          *〈冬の旅〉の訳詞は東芝EMI盤(EAC-70129)の西野茂雄氏訳による。     巨人の家        1  「早いもんだな」  太《おお》田《た》博《ひろ》一《かず》は、窓を開けて外の空気を思い切り吸《す》い込《こ》んだ。「今日から四月だよ」  妻の和子が、せっかくのこの爽《そう》快《かい》さをぶち壊《こわ》してくれるようなことを言ってくれなければいいが、と太田は思った。  しかし、その祈《いの》りは空《むな》しかったようだ。  「ええ、本当にね。世間じゃ、入学、就職のシーズンだわ」  和子の言い方には、古傷を抉《えぐ》るような鋭《するど》さがあった。その傷が、まだ新しいだけに、痛みも深刻だったのである。  「そんな言い方をしなくてもいいだろう」  喧《けん》嘩《か》するような言い方をすれば、和子の手に乗せられるだけだと分っていても、つい言わずにいられないのは、やはり太田自身にもそれが負い目となっているせいであっただろう。  「言いたくもなるでしょう。私にいつまで働かせる気なのよ?」  朝食の目玉焼の皿《さら》を、荒《あら》々《あら》しくガチャンとテーブルに置いて、和子が言った。——それに答えられるようなら、太田だって、こうしてはいないのだ。  「だから、今度の原《げん》稿《こう》が載《の》れば……」  「載ったためしがあるの? 書き直し、書き直し。あげくの果てに突《つ》っ返されて。全く、お話にならないわ」  「大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》だよ。向うだって第一作だからね、慎《しん》重《ちよう》なんだ。必ず掲《けい》載《さい》して出版もすると約《やく》束《そく》してくれているし……」  太田とて、自分の言葉に説得力がないのはよく承知していた。  出版社は慈《じ》善《ぜん》事業ではない。売れないと分っている本など出してくれるはずはないのだ。  「ええ、よく分ってるわよ。そのうち大先生になって、車で送り迎《むか》えしてくれるのね。どうでもいいから早く食べてよ」  和子は苛《いら》々《いら》と手を振《ふ》り回した。「洗ってから出勤したいから。大先生と違《ちが》って、私は出勤時間が決まってるのよ」  太田は急いで食べ始めた。  食べている間は、妻の小言から、逃《に》げていられる。  太田も、半年前までは、ごく当り前のサラリーマンだった。もうすぐ係長になるという、三十六歳《さい》で、和子は三十二。子供はないが、まあ、何とか食べて行くにも不自由はなく、平《へい》穏《おん》な夫婦生活を送っていた。  その歯車は、一枚の原稿用紙をかみ込んだことで狂《くる》い始めたのである。  もともと、本の好きな太田は、時々、自分でも文章を書くことがあった。ふとした衝《しよう》動《どう》に駆《か》られて、三十枚ほどの短編小説の募《ぼ》集《しゆう》に応《おう》募《ぼ》する気になったのも、その程度なら、書くのにそう苦労しなくていいと分っていたせいだろう。  まさか、入選するなどとは思いもせずに、太田は、新入社員の頃《ころ》の体験に多少色づけした短編を書き上げて送った。そして、それきり、毎日の仕事に紛《まぎ》れて、すっかり忘れていたのである。  その雑誌から、〈佳作入選〉の通知が来たときは、さすがに嬉《うれ》しかった。妻も一《いつ》緒《しよ》に喜んでくれた。もっとも和子が喜んだのは、もっぱら、賞金の十万円のせいだったが。  しかし、いざ掲載ということになると、太田はためらった。上司を多少悪役めいた役回りにした部分がある。  小説だから、と言えば済むのだが、それでも、係長のポストも目前であり、無用のトラブルは避《さ》けたかった。  それならペンネームを使えばいい、と担当の編集者は言ってくれた。どうしても、ということなら、実名、その他は伏《ふ》せておく。  太田もそれで、安心して活字にしてもらう決心がついた。ところが……。  「もう、出かけるからね」  と、和子が立ち上った。「ここんとこ、忙《いそが》しいのよ」  まだ食べかけの、太田の皿まで片付けてしまうと、手早く出かける仕《し》度《たく》をして来た。  和子はスーパーマーケットのレジ係である。ずっと、結《けつ》婚《こん》以来主婦専業だったのに、太田が勤めを辞めたばかりに、働かなくてはならなくなった。  要するに、編集者がうっかりして、小説は実名のまま載ってしまったのだった。  後は……もう思い出すのもいやだ。  編集者も責任を感じていて、だからこそ、長編小説の執《しつ》筆《ぴつ》を盛《さか》んに勧めてくれているのだが、もともと才能豊かというわけでもなく、太田にとっては荷の重い仕事であった。  それでも、あの上司を見返してやるためにも、この一冊だけは、何とか本にしたい、と、太田は願っていた。  その後でなら、喜んで仕事を捜《さが》そう。しかし、何とか……。  「手紙よ」  玄《げん》関《かん》から出かけたと思った和子が、白い大きな封《ふう》筒《とう》を手に戻《もど》って来た。  「ずいぶん大きな封筒だな」  「そうね。普《ふ》通《つう》の倍はあるわね。宛《あて》名《な》の字だって大きいこと。——私あてよ」  「差出人は?」  「倉《くら》間《ま》……とだけある」  「知ってる人かい?」  「どこかで聞いたような名ね」  和子は封を切った。「いい話だといいけど」  「そんなにうまい話は転がってないよ。DMじゃないのか」  「違うみたい」  取り出した、やはり大きな便《びん》箋《せん》に書かれた手紙を広げて、「——招待状よ」  と言った。  「招待?」  「そう。——待って」  和子は一枚目をめくった。「倉間茂《しげ》夫《お》……。そうか。いつか母から聞いた変人の伯《お》父《じ》さんだわ」  「そんな人のこと、初耳だね」  「私だって会ったことないのよ。何だか得体の知れない人で……。屋《や》敷《しき》へ来てくれ、って。どうする?」  「屋敷? どこかのボロアパートじゃないのか?」  「でも、見てご覧なさいよ。この封筒、便箋……。高級品よ、どう見ても」  太田は手に取ってみると、  「なるほど。——この紋《もん》章《しよう》も金で押《お》してある。よく推理小説に出て来る、金持の伯父さん、って奴《やつ》か?」  「そうだって、別に悪いことはないでしょう?」  「まあね。しかし……」  「巧《うま》く行けば、少しぐらいは借りられるかもしれないわ」  和子の口調はいくらか楽しげになっていた。太田は苦笑した。  「まあ、いいさ。じゃ、行くことにするか。いつだい?」  「今度の土曜日ね」  「勤めはどうする?」  「スーパーはいつでもあるけど、こういうことは滅《めつ》多《た》にないわ」  和子の論理は単純にして、かつ明快であった。        2  「本当にここでいいのかい?」  太田はそう言って、あたりを見回した。  「だって、ここしかないわよ」  和子がボストンバッグを下へ置いて言った。  「バス停の名も合ってるし……」  「どこにお屋敷があるんだ?」  「知ってるわけないでしょ」  と和子は苛々した口調で言った。太田は、口をつぐんだ。触《さわ》らぬ神に——というやつだ。  「ここで待ってりゃいいのよ」  和子の口調にも、多少心もとなげな様子があるようだった。  見《み》渡《わた》す限り、雑木林と野っ原で、人家らしいものは全く見えない。バスが停《とま》るくらいだから、どこかに家はあるのだろうが……。  ぼんやりと突っ立っていると、急に背後から、  「やあ!」  と声をかけられて、仰《ぎよう》天《てん》した。  二十代の、快活そうな若者が立っている。白のスーツ、紺《こん》のシャツ、白の靴《くつ》。いかにも、きざったらしいスタイルである。  しかし、その笑顔は人なつっこく、憎《にく》めない若々しさがあった。  「あなた方も〈倍々屋敷〉行くんですか?」  「バイバイ屋敷?」  と太田は訊《き》き返した。「倉間さんっていう人に招待されてるんですがね」  「ああ、じゃ、あそこは初めてですか?」  「あなたは?」  「僕《ぼく》は土《つち》田《だ》英《えい》治《じ》といいます。じゃ、きっとあなたとは遠《とお》縁《えん》ながら親類ですね」  「いや、家内の伯《お》父《じ》だとか言うんですが」  と太田は言った。「あなたも招待を?」  「そうです。このでっかい招待状でね」  と、土田英治は、太田たちの所へ来たのと同じ、大判の封筒を取り出した。  「ああ、それは同じだ。大きな封筒ですねえ。中の字も大きい」  「そうです。あの伯父は、そういう趣《しゆ》味《み》があるんですよ。いや、まあ見てのお楽しみだな、これは」  「さっき、そこの屋敷を〈バイバイ屋敷〉と呼びましたね」  「ええ、そういうあだ名なんです」  「どうしてそんなあだ名が付いたんです? 人が行方不明にでもなるんですか?」  土田はちょっとポカンとしていたが、やがて、やっと訳が分ったという様子で、笑い出した。  「いや……そうじゃないんです。さよならの〈バイバイ〉とは違うんです。二倍、三倍の〈倍〉なんですよ」  「そりゃ、どういう意味です?」  「行けば分ります」  と土田はくり返した。  「——お金持なんでしょう?」  と、和子が口を挟《はさ》む。  「もちろんですよ。屈《くつ》指《し》の大《だい》富《ふ》豪《ごう》だそうですね。でも、残念ながら女《によう》房《ぼう》運の悪い人でね、三回結婚したけど、三人とも若死していて、子供もない。——まあ、あの人自身が子供みたいなもんですがね」  「変人ですか?」  と太田は訊いた。  「屋敷を見て、変人でないと思う人がいたら、それこそ変人の類《たぐい》だな」  と、土田はどこまで真《ま》面《じ》目《め》なのか分らない口調で答えた。  「危険とかそんなことは……」  「いや、そういう変人じゃありませんから大丈夫。言うなれば人《じん》畜《ちく》無害ってとこですね」  「——あら」  と、和子が言って、「何かしら?」  と道路の先の方を見た。  「ああ、あれが、倉間家の自家用車です」  「ブルドーザーかと思ったわ」  自家用車にしては巨《きよ》大《だい》な車だった。幅《はば》も高さも、並《なみ》の乗用車の倍近くあるだろう。大きなタイヤが、目の前で停った。  「こんな車、見たことない」  と、和子が目を丸くしている。  「特別製ですよ。何しろ金持ですからね」  運転席のドアが開いて、運転手が降りて来た。これがまた二メートル近くあろうかという大男。  しかし、この車を運転するのなら、このくらいの運転手でないと頼《たよ》りない感じだ。  大男が、  「太田様で?」  と訊いた。太田が肯《うなず》くと、後部座席のドアを開けてくれる。床《ゆか》が高いので、踏《ふ》み段がついていた。  和子を先に乗せ、よっこらしょと乗り込む。座席の大きいこと。座るというよりよじ登る感じだ。  後から乗ってきた土田がニヤニヤして、  「どうです、ちょっとしたもんでしょう」  「ちょっとどころか、大したもんだ」  やっと座席に落ち着いて、太田は言った。車が走り出した。  「こんなサイズの車は普通の道じゃ走れませんからね。もっぱらここと屋敷とを往復しているんですよ」  と土田が言った。太田にもだんだん分りかけて来た。  「要するに何でも大きく造るのが好きな人なんですね」  「そういうことです。金持の道楽も、あそこまで行けば芸術って感じだな」  「足が床につかないわ」  と和子が言った。「何だか子供になったみたい」  「そうです。それがあの人の望むところなんですよ」  「倉間茂夫って人のことをよくご存知のようですね」  「まあ、知っている方でしょうね。あまり身近な人間というのはいませんから」  「どういう人なんです? つまり、何か事業をやって、とか……」  「ご説明してる暇《ひま》はなさそうですよ。ほら、屋敷が見えました」  林の中の、簡易舗《ほ》装《そう》した道を走って行く車の前方に、その〈倍々屋敷〉が見えて来た。  「目がおかしくなったのかしら?」  と和子が言った。実際、太田もそう思った。俺《おれ》は酔《よ》っ払《ぱら》ってるのかな?  その家は、車の前方、五十メートルほどの所にあった。しかし、まるで、すぐ目の前にあるように見えるのだ。  立派だが、そう馬《ば》鹿《か》でかい大邸《てい》宅《たく》ではない。——つまり、二階建でもない。平屋造りで、ぐっと古風な洋館のイメージなのだ。ただそれがいやに……。  「こいつは驚《おどろ》いた!」  屋敷がぐんぐんとふくれ上って来た。のしかかって来るように大きくなる。自分が縮んでいるのかもしれない、と太田はふと考えた。  車が玄関前に停った。  大男の運転手がドアを開けてくれる。和子が、よいしょとシートから滑《すべ》り降りて、それから踏み板に足をかけ、こわごわ地面に降り立った。  太田は少々いきがって、車の床から地面へポンと飛び降りた。そして——その場で、しばらく立ち尽《つ》くして、目の前の、異様な建物を眺《なが》めていた。  写真ででも見れば、何の変《へん》哲《てつ》もない洋館に見えるだろう。もっともその前に人間が立っていたら、その人間は小人のように見えるかもしれない。  「どうです?」  土田英治が楽しげに言った。「家全体が、総《すべ》て普通の二倍のサイズで造られているんです。まあ、どうしてもそうできないもの——ピアノとか、台所の設備とかね、そういうものを除けば、可能なものは全部ですよ。玄関のドアにしたって——」  実際、その巨大なドアに、太田は圧《あつ》倒《とう》されてしまった。たかが二倍といっても、縦横がそれぞれ二倍になると、面積は四倍になる。正に圧倒されんばかりの大きさだった。  「行きましょう」  と土田が促《うなが》した。「あ、足下に気を付けて。階段が高くなっていますからね」  二倍の高さの階段というのは何とも厄《やつ》介《かい》だった。ほんの三段とはいえ、上るのが一苦労である。  「玄関はどうやって開けるんです?」  と太田が訊《き》いた。  「ご心配なく、上の方の把《とつ》手《て》とか呼《よび》鈴《りん》は飾《かざ》りですよ。本物はちゃんと手の届く所にあります」  土田が、一見、柱の一部のように見えるボタンを押《お》した。ややあって、ドアが開いた。が、全部ではなく、巨大なドアの下半分——そのまた半分の部分が、切り取られるように開いたのである。なるほど、これなら普通のドアと同じ大きさだ。  「猫《ねこ》の出入口みたいね」  と和子が、笑いながら言った。  「やあ、久しぶりだね」  土田が先に入って、ドアを開けてくれた、初老の男に声をかけた。  「お待ちしておりました」  「こちらはバス停の所で一緒になった、ええと……」  「太田です。妻の和子あてにお手紙を——」  「承知いたしております。よくいらっしゃいました」  よく外国の映画に出て来る執《しつ》事《じ》という感じの男である。これは二倍もなかった。当り前のことだが。  「コートをお預りします」  玄関を入ると、広いホールになっていた。傍《そば》に、洋服かけのお化けが立っている。その執事が、和子のコートを手に、細い踏み段を上って行って、コートをかけると、また降りて来た。  「倍々屋敷か。——分りますね」  と太田が言った。「ガリバーになったようだ」  「こちらへ」  執事の後について行くと、広い廊《ろう》下《か》を通って、また、玄関よりはやや小さいが、やはり二倍のドアがある。  廊下の広さはもちろん、天《てん》井《じよう》も二倍の高さだから、まるでどこかの大ホールでも歩いているようだ。  壁《かべ》に絵が何枚かかかっていたが、どれも、普通の倍の大きさはある。巨大な肖《しよう》像《ぞう》画《が》が高い所からぐっと見下ろしているのは、何となく身のすくむ思いだった。  「こちらへどうぞ」  ドアの一つを、執事が開けた。今度のドアは、特に軽く作られているのか、全体がスッと軽く開いた。飾りの大きなノブは頭の上の方についているのだが、下の方に、ごく普通のノブがある。  「太田様と土田様です」  部屋の入口に立って中を見回した太田は、自分が小人になったような気がした。もちろん、ここも総てが倍の大きさで造られている。ソファ、テーブル、暖《だん》炉《ろ》、置物まで……。  「まあ、呆《あき》れた」  和子がため息をついて言った。  「ここまでやるのは大変だったでしょうね」  と太田が言うと、土田は、  「金ですよ。金さえあれば、ね」  とウインクする。  客間らしい、その部屋には、三人の人間がいた。男二人は、どことなく似通った顔つきで、兄弟らしい。どちらも四十歳前後に見えた。違っているのは一方が高級サラリーマン風なのに、もう一人が、ジャケットにスポーツシャツという自由業風のスタイルだったことだ。  自由業風の男は髪《かみ》を長くして肩《かた》へかかるほどになっていたが、サラリーマン風の三つ揃《ぞろ》いの方は、大分頭が薄《うす》くなっていた。  女が一人、ソファに横座りの格好で、馬鹿でかいワイングラスを持て余し気味にしている。  服《ふく》装《そう》から見て、サラリーマン氏の妻、というところらしいと太田は見当をつけた。  三人とも、この異次元の空間に戸《と》惑《まど》っている様子がよく分り、太田たちと同様、初めて招待された口であるらしかった。  互《たが》いに、ぎこちない自己紹《しよう》介《かい》だった。  自由業風の男は、倉間久《ひさ》也《や》という画家だと名乗った。頭の薄いのが弟で、松《まつ》山《やま》智《とも》也《や》。姓《せい》が違うのは、夫人の方の姓になったからだろう。夫人が、  「私、松山の家内の晶《あき》子《こ》です」  と、ソファから降りて、和子の方へやって来る。「よかったわ。女一人で心細かったの。こんなお化屋敷でね」  「変ったお宅ですわね、本当に」  「変ったも何も。——テーブルが私の胸あたりまであって、使いにくいこと……」  「こいつはしかし、一大傑《けつ》作《さく》ですな」  と倉間久也が愉《ゆ》快《かい》そうに言った。「画家としては、大変インスピレーションを刺《し》激《げき》されます」  そして、テーブルの上のシガレットケースを開けると、  「ご覧なさい。タバコまでこんなに大きい」  と一本、太い超《ちよう》ロングサイズのタバコを取り上げてみせた。  「ソファなんか座りにくくって……」  と、松山晶子がこぼした。  「あそこの本《ほん》棚《だな》に本が並《なら》んでるでしょう」  と、倉間久也が言った。「あれも特大ですよ。中の字もね」  「じゃ、わざわざ印刷させたんでしょうかね?」  土田英治が、  「ファクシミリで拡大したんです。多少不《ふ》鮮《せん》明《めい》にはなりますがね」  と説明した。  「しかし、一体どうしてこんなことをしたんだろう? 趣味にしても、変ってるとしか言えないな」  倉間久也は首を振りながら言った。  あれこれを話すうちに、太田は、倉間久也と松山智也の兄弟が、倉間茂夫の甥《おい》に当ること、この伯父の噂《うわさ》は子供の頃《ころ》から聞いていたが、会うのはこれが初めてだということを知った。  「何の用があるんでしょうかね」  と太田が言うと、  「分りませんな」  倉間久也が肩をすくめて、「莫《ばく》大《だい》な遺産でも残してくれるというのなら大助かりなんですがね」  松山智也が、土田の方へ向いて、  「あんたはここの主人のことに詳《くわ》しいようだ。一体どうして我々をここへ集めたのか、ご存知じゃないのですか?」  土田は肩をすくめて、  「あの人は、自分の考えなど何も言わないんですよ。僕も、この一年ほどはここに来ていないし」  「一人でお住いなんですか?」  「使用人が四人います。いや、僕の知っている限りですがね」  「さっきの運転手さんと、案内して下さった執事さん……」  と和子が数える。  「あの執事は昔《むかし》から伯父に仕えている人でしてね。妙《みよう》な話だが、僕は名前を知らないんです」  「他《ほか》にまだ二人?」  「ええ。女性がね。料理をするのと、掃《そう》除《じ》、その他もろもろですね。その役の女性は年中変っていましたから、たぶんまた違う人になっているでしょう」  「どうやってこの身代を造られたんです?」  と訊いたのは松山智也だった。  「さあ、それは……。ともかく、何でもやったとは聞いています。やり手の実業家で、かなりあくどいこともやったと。これは自分でそう言ってるんだから、確かでしょうね」  「私も実業界にいるが、この人のことは聞いたことがない」  「それは伯父が決して人前へ出ないで、陰《かげ》で活動していたからですよ」  と土田は言った。「実際に動くのは伯父の命令を受けた人間でしてね。伯父は、この屋敷から出たがらなかった。——どうしようもないときを除いてね」  「この屋敷はいつ頃建てられたんですか?」  と太田が訊いた。  「たぶん十年そこそこじゃないかと思いますね。以前は、ごく普通のサイズの屋敷と庭があったんですよ。それを全部潰《つぶ》して、この風変りな屋敷を建てた。建築に、二年以上かかっているはずです」  「費用も相当なもんでしょうね」  「あのドアの板一枚でも大変ですよ。でも、伯父は惜《お》しまずに金を注《つ》ぎ込みました」  「ふむ……」  太田は考え込んだ。  これほどの物を造らせた執《しゆう》念《ねん》は、一体どこから来ているのだろうか?  ドアが開いて、執事が顔を出した。  「ご主人様です」        3  倉間茂夫は、車《くるま》椅《い》子《す》を操って現れた。  「ようこそ、この風変りな屋敷へ」  太い、まるで役者を思わせる、よく通る声が言った。「私が倉間茂夫だ」  誰《だれ》が先に自己紹介をするか、お互い、譲《ゆず》り合うように顔を見合せた。  「やあ伯父さん」  土田英治が進み出る。「僕が皆さんを紹介してあげる」  なかなか、若いにしては如《じよ》才《さい》のない男である。太田は、和子をつついて、  「俺のこともついでに言ってくれ」  と囁《ささや》いた。  先に、倉間久也、松山智也と晶子の夫婦が挨《あい》拶《さつ》をした。最後に和子が、少し緊《きん》張《ちよう》した様子で、  「太田和子です。——これは夫の太田博一で……今、失業中です」  とやった。足がテーブルの下なら蹴《け》っ飛ばしてやるのに、と太田は思った。  「ちょっと驚かれたことと思うが、なに、すぐに慣れる」  倉間茂夫は言った。「ともかく、夕食まで、各自、部屋でご休《きゆう》憩《けい》願いたい」  車椅子がずいぶん滑《なめ》らかに動くと思ったら、電動モーターがついているのだった。  倉間茂夫を見たとき、太田は、何とも言えない冷ややかなものを感じて、一《いつ》瞬《しゆん》、背筋の凍《こご》えるのを覚えた。——気のせいだったのかどうか。  年《と》齢《し》はもう六十代——それも半ばを過ぎているに違いない。髪は真白で、しかし、ふさふさと豊かなのが、却《かえ》ってドラマの中の人物のような不気味さを与えている。  彫《ほ》りの深い顔、そして目を隠《かく》している黒メガネ。何となく冷《れい》酷《こく》さを感じさせる薄い唇《くちびる》とまゆも、どこか悪役めいた印象を与えた。  車椅子などを使っているが、体つきは、がっしりとしている。肩幅もあり、腕《うで》も太いように見えた。  足も、この年齢にしては、すらりと長い。全体ではかなりの長身になるだろう。といって、もちろんこの二倍の大きさの家具に見合うまではないが。  「——だから、何でも大きく作ってるんじゃない?」  執事に部屋へ案内され、やはり超特大のダブルベッドへ腰をかけると、和子が、そう言った。  「かもしれんな」  「ずいぶん変ってるには違いないけど、大金持は大金持ですものね」  和子は使いにくさはともかく、この洋館の豪《ごう》華《か》さには、すっかり圧倒されているらしかった。  「しかし、問題はだ、何の目的で僕らをここへ呼んだのか……」  「おっしゃってたじゃないの。血《けつ》縁《えん》の人間たちをずっと捜していた、って」  「そりゃそうだが、ただ顔を見たい、ってだけで、こんな手間のかかることをするか?」  「分らないわよ。何しろ金持ですもの」  どうやら和子にとって、〈金持〉とは万国共通パスポートのようなものらしい。  しかし、太田とて、何か考えがあるわけではなかった。  とにかく、差し当りは、成り行きに任せる他はないのだ……。    夕食は至って豪華で、かつにぎやかだった。食堂のテーブルや椅子、ナイフやフォークも倍の大きさかと覚《かく》悟《ご》して行ってみると、どれもまともな大きさなので、安心して食《しよく》卓《たく》についた。  後から現れた倉間茂夫は、愉快そうにみんなの顔を見回して、  「私とて、見境もなく趣味を押し付けているわけではない。食事のテーブルが二倍の大きさでは食べにくいだろう。そういうところは、ちゃんと普通の大きさにしてある」  と言った。  「しかし、食事の量は、我が家で食べる倍はありますね」  と太田が言った。  「やめてよ、あなた」  と和子がつつく。  「太田さん、小説をお書きになりませんでしたか?」  と言い出したのは、土田だった。太田はびっくりして、  「そんなことをよくご存知ですね」  「やっぱり。どこかで見た名だと思っていたんですよ。いや、あれは面白かった」  「へえ、作家とはね。お見それしました。いや、活字とは縁《えん》がないものですから」  と倉間久也が言った。  「やめて下さい、新人賞の佳作入選というだけなんですから」  太田はあわてて言った。「失業中というのが正しいんです。あのおかげでクビになってしまって」  「そうですか、ひどいですねえ」  と土田が同情するように肯く。  「主人の才能をねたんでるんですわ」  と和子が言い出したので、太田は驚いた。家で言うこととはずいぶん違っている。  「しかし、会社としては、社員がそういうアルバイトをするのを黙《もく》認《にん》はできません」  と言い出したのは、松山智也だった。「他の社員へも悪《あく》影《えい》響《きよう》を及ぼす」  「弟の言うことは気にしないで下さい」  と倉間久也が愉快そうに言った。「コチコチのサラリーマンなんです。兄弟でこうも違うかという感じですね」  「あなたはあなたよ」  と松山晶子が夫をなだめるように、「才能のある方は、その道へ行くし、ない人間は、出世するしかないのよ」  「こいつは真理だな」  と倉間久也が笑った。  料理も絶品で、ワインも旨《うま》かった。これで話が弾《はず》まなければどうかしている。  ふと気が付くと、いつの間にか倉間茂夫は姿を消していた。  「やあ、ここのご主人をつい無視してしゃべりすぎたようですね」  と太田が言った。  「あら、いつの間に——」  と和子が言った、「気を悪くなさったかしら?」  「大丈夫ですよ」  土田が安心させるように、「あの人はいつも人の話には加わりません。疲《つか》れれば勝手に寝《ね》る。それでいいんですよ」  と言った。太田は、ちょっと間を置いて、土田の方へ少し身を乗り出した。  「あの方はずっと車椅子の生活なんですか?」  「そうですねえ」  土田は首をかしげていたが、「まあ、僕の知っている限りではそうですね。でも体つきはご覧のとおりがっしりしているし、いつからああしているのかは、僕も知りません」  と答えて、またワイングラスを取り上げた。  食事を終えて、一同は、客間の方へと移った。  執事が、飲物を運んで来る。  「——本当に素晴らしい食事だったわ」  と、松山晶子が言いながら、紅茶をすすった。  ひとわたり飲物が行き渡って、執事が退室して行くと、  「ちょっと聞いてくれ」  と、倉間久也が立ち上って言った。  「あら歌でも歌うの?」  と松山晶子が愉快そうに言った。  「そうじゃない、真面目な話だ」  「兄さんも真面目な話をすることがあるのかい」  「こと、金が絡《から》めばな」  「芸術家の言葉とも思えんね」  「芸術家にはパトロンがつきものだ。パトロンなしじゃ、油絵具だって買えやしない。高いものなんだぜ、知ってるか?」  「そんなものの値段なんか知らないね」  「金があれば——または金持のパトロンがいれば、生活のために、つまらないポスター描《か》きに時間を取られることもないんだ」  「つまり、兄さんは金が欲しい、ってわけだ。そうだろう? 誰だってそうさ」  「俺は今、特にそうなんだ」  と、倉間久也は言った。  「金詰《づま》りなのかい?」  「そりゃいつものことさ。そんなことなら気にもならない」  「じゃ、何だい?」  「大理石さ」  「何だって?」  「彫《ちよう》刻《こく》に使う大理石ですか?」  と、太田が口を挟《はさ》んだ。  「そのとおり! さすが小説家。察しがいいな、ええ?」  太田は黙《だま》って苦笑した。倉間久也は続けて、  「国際コンクールに出品を計画しているんだ。凄《すご》いものができる。頭の中には、その像の、どんな細かい所までも、全部、彫り上っているんだ。それを現実のものにする腕前も自信はある」  「ただ……」  「金がない。その大理石を手に入れるためのな」  倉間久也は土田の方をくるっと向いて、  「どう思う? あの伯父さんは金を貸してくれそうかい?」  突然訊かれて、土田は返事に困った様子だったが、しばらく考えてからヒョイと肩をすくめて、  「何とも言えませんね。僕も伯父の性質をそうよく呑《の》み込んでるわけじゃなし……」  と答えた。倉間久也は面白くもなさそうに、この客間を見回して、  「こんなことにむだな金をかけるくらいだ。甥《おい》の成功のために、ちょいとポケットマネー程度を都合してくれたって、罰《ばち》は当らねえだろう」  倉間久也は多少酔っているようだった。  「しかし、兄さん」  と松山智也が言った。「いくら何でも、初対面だよ」  「それがどうした」  「一晩、ごちそうになって、泊《と》めてもらって、借金の申し込みってのは、ちょっと無茶じゃないか?」  倉間久也はちょっと含《ふく》み笑いをして、  「よく言うよ。お前、そんな道徳家ぶった口がきけるのか?」  「僕は別に——」  「お前が、ちょいと会社の帳《ちよう》簿《ぼ》に穴をあけたことは、承知してるんだぜ」  松山智也の頬《ほお》が紅潮した。太田は、同時に妻の晶子の顔が青ざめるのを目に止めていた。  「誰がそんなことを——」  「お前が言わなきゃ、他に誰がいると思うんだ?」  倉間久也は弟が怒《おこ》るのを眺めて面白がっているようだった。  「晶子……。お前だな」  松山智也は妻の方をゆっくりと振り向いた。晶子は、こわばった顔で押し黙っていたが、やがて倉間久也の方をにらみつけて、  「なんて人なの! こっそり頼《たの》みに行ったのに!」  「おや、そりゃ知らなかったぜ」  倉間久也はおどけた調子で、「また、俺に会いたくて夜中に来たんだとばかり思っていたよ」  「でたらめばっかり言って!」  晶子の平手が飛んだが、見かけほどは酔っていないのか、倉間久也はヒョイと体をかわした。  「晶子! 何のために兄の所へ行ったんだ?」  松山智也が妻の腕をつかんで、問い詰めるように言った。  太田は止めようと思ったが、ふと和子の顔を見ると、興味津《しん》々《しん》、好奇心がギラギラと輝《かがや》くような目で、食い入るように事態を見つめている。  太田は、つくづく女は怖《こわ》い、と思った。  「どうなんだ!」  松山が重ねて問いかけると、晶子は多少ふてくされた顔で、開き直り気味に肩をそびやかして、  「お金を都合してくれないかと思ったのよ」  と言った。  「兄貴にそんな金があるわけがないじゃないか!」  「そんなこと私に分る? 他に頼《たよ》る人もないし、仕方ないじゃないの!——画家なんて暮《くら》しは派手だし、もう少し景気がいいのかと思ったのよ!」  「何も、その理由までしゃべらなくたって……」  「しゃべっちゃったんだから仕方ないでしょう。大体、あなたが会社のお金に手をつけるからいけないのよ」  「何だと! その金を誰が使ったと思ってるんだ? お前のハンドバッグやら首飾りやらの代金に消えてるんだぞ!」  「ともかくね、私たちだって、あの穴を埋《う》めるお金をどこかで都合しないことには、近々路頭に迷うことになるのよ」  「どうしてお父さんに頼んでくれないんだ。自分の娘《むすめ》を助けるためなら、あれぐらいのお金は出してくれるだろう」  「勝手なこと言って! それこそあなたなんか追い出されるわよ。だからこそ黙ってるんじゃないの」  「大体お前の実家は——」  太田はたまりかねて、割って入った。  「およしなさいよ。うちの女房は夫婦喧《げん》嘩《か》を見ると、すぐに真《ま》似《ね》したがるんです。私が被害を受けますから」  「こりゃどうも……」  松山は恐《きよう》縮《しゆく》して咳《せき》払《ばら》いした。「つい、カッとなりましてね」  倉間久也が大声を上げて笑った。  「まあ何にしても、俺たちは同類ってことが分ったわけだ。そうじゃないか?」  晶子がにらんで、  「あなたと同類なんてごめんだわ」  と言った。  「まあ、私も失業中ですからね」  と太田が言った。「困っているのは事実です。しかし——」  と土田の方を見て、  「あなたはどうです?」  「僕ですか?」  「やはり何かお金に困っておいでですか?」  「そりゃ、あって悪くはないし、貧《びん》乏《ぼう》はしていますよ。でも、それは、いつも程度ってことです。今に始まったことじゃありませんからね」  と曖《あい》昧《まい》に笑う。  「すると、みんな金詰りってわけでもなさそうですよ」  「分るもんか」  倉間久也が言った。「これでもし、伯父が殺されでもしたら、俺は真先にあの若いのを疑うね」  「縁起でもないことを言わないで」  と晶子が不《ふ》機《き》嫌《げん》そうに言った。  「どうして? 遺産が俺たちの懐《ふところ》へガッポリ入るんだぜ。相手はこんな屋敷を、べらぼうな金をかけて建てる奴だ。ちょっと、おかしいよ。俺にその金があったら、凄い傑作を続々と生み出してやる」  倉間久也の言葉を聞いていた和子が、そっと太田に言った。  「ああいう人は、お金があったらあったで、女に使っちゃうタイプね」  和子も人を見る目ができて来た、と太田は思った。        4  太田が客間を出て、トイレを捜していると、執事がやって来た。  「あ、トイレはどこ?」  「ご案内いたします」  「——まさか二倍もあるんじゃないでしょうね」  と太田は言った。  「こちらでございます」  「どうもありがとう」  「旦《だん》那《な》様からのご伝言でございます」  「え? 倉間さんから?」  「はい。今夜、一時に、部屋の方へおいでいただきたいとのことでございます」  「部屋というと……」  「この廊下の一番奥《おく》の部屋になります。一つだけドアが違いますので、すぐにお分りいただけると存じます」  「ありがとう」  「それから、このことは他の方に、一切洩《も》らさぬようにと、くれぐれも申し上げるようにとのことでございました」  「分った。どうも……」  太田は、並の大きさのトイレにホッと安心しながら、しかし、あの金持、一体何を考えているのだろう、と考えていた。    部屋へ引きあげたのは、もう十一時半に近かった。  「ああ、面白かった」  と和子は背《せ》伸《の》びしながら、「夫婦喧《けん》嘩《か》って面白いわ。自分のでない限りは」  「悪趣味だよ」  と太田は笑った。「さて、一《ひと》風《ふ》呂《ろ》浴びて寝よう」  「そうだ。浴室は倍あるのかしら?」  客用の寝《しん》室《しつ》には、各部屋ごとにバス、トイレがついていた。ホテル形式である。  何だ、トイレなんか捜《さが》さなくてもよかったんだ、と太田は舌を出した。  「ねえ、見て!」  バスルームへ入って行った和子が呼んだ。  「ね、プールみたい」  なるほど、トイレは普通サイズだが、浴《よく》槽《そう》はまた特大である。プールみたい、と言いたくなる、豪《ごう》快《かい》な大きさなのだ。  「子供なら充《じゆう》分《ぶん》水遊びができるな」  と太田は言った。  「ねえ」  と和子が太田を見て言った。「二人で一緒に入らない?」  太田は、ちょっと迷った。そういうことになると、一時に倉間茂夫の所へ行けるかしら、と心配になったのである。  しかし、和子の方は、そんなことなど知らないのだから、早くも大きな浴槽に湯を入れ始めていた……。    太田は時計を見た。一時にあと十五分というところだ。  眠《ねむ》ってしまうといけない。もう起き出そう、と決めてベッドからそっと降りる。そっとと言っても倍の高さだから、ちょっと調子が狂《くる》う。  そっと和子の方を見ると、深い寝息をたてている。  まだたるみのない肉体は、充分に魅《み》力《りよく》的である。——広大なダブルベッドで、久しぶりに燃え、すっかり快く眠り込んでしまった様子。  太田は欠伸《あくび》をして、頭を振った。どうも眠くて困る。シャワーの音で和子が起きるだろうか? しかし、これだけ眠り込んでいるのだから……。  太田はバスルームへ入ると、ドアを閉め、シャワーを浴びた。熱いシャワーが、汗ばんだ肌《はだ》を流れて行く。  太田はきれい好きで、長風呂である。シャワーも、たっぷり浴びることにしていた。  大分さっぱりしてバスルームを出ると、和子は相変らずぐっすり眠っている様子。太田はシャワーで目が覚めた。服を着込んで、ちょうど一時である。  そっとドアを開けて——このドアは下半分が開くタイプだった——廊《ろう》下《か》へ出る。  広々とした廊下が、真夜中の静《せい》寂《じやく》の中では、一層広く見える。  廊下を、執事に言われた方向へ進んで行くと、それらしいドアに突き当った。  ドアを軽くノックする——返事はなかった。そっと口を押し当てるようにして、  「倉間さん!」  と声をかけたが、やはり聞こえてはいないようだ。  眠ってしまったのだろうか?  どうしたものかと太田は迷ったが、ともかく、ためしにドアを押してみた。  驚いたことに、ドアがそのまま内側へと開いた。  来るのを知っているので、開けておいてくれたのかもしれない。太田は部屋の中へ入った。  「倉間さん。太田ですが」  部屋は薄暗くて、どこに何があるのかよく分らなかった。少し前に進んで、  「倉間さん」  と呼びかけた。  仕方ない。明りをつけよう。ドアのそばの壁をしばらく手探りすると、スイッチが見付かった。  明りが点《つ》いて、しばらくは、太田は唖《あ》然《ぜん》として、その場から動けなかった。  その部屋は、全く他とは逆だったのだ。  何でも大きく造ってある他の部屋に比べ、この部屋のものは小さい。——いや、大きさは同じだが、高さがないのである。椅子も、テーブルも、足を切りつめて床すれすれまで低くなっているし、ベッドにしてもそうだった。  「どういうことなんだ?」  太田は部屋を見回して、「倉間さん」  と呼びかけた。そして、ベッドの向う側に、手が見えるのに気付いた。  太田は、逃《に》げ出したい衝《しよう》動《どう》が起こるのを抑《おさ》えて、そろそろと、ベッドの端《はし》を回った。  ——倉間が倒《たお》れていた。  太田は、しばし呆《ぼう》然《ぜん》として、倉間を見下ろしていた……。    「変った屋敷ですねえ」  と刑《けい》事《じ》は、すっかり度《ど》肝《ぎも》を抜《ぬ》かれた様子だった。「関係者は全員ここにおいでですか?」  と、全員の顔を見渡す。  客間に集っていたのは、もちろん太田と和子、それに倉間久也、松山夫妻と、土田英治だった。  「——さて、と」  刑事は一つ咳《せき》払いをした。「倉間茂夫さんが殺害されました。凶《きよう》器《き》は今のところまだ発見できませんが、おそらく、鋭《するど》い刃《は》物《もの》だと思われます。死亡推定時刻は——」  と手帳を見て、  「前夜十二時から二時の間だと思われます。こちらにおいでの太田博一さんが死体を発見したのが、午前一時すぎですから、まあ十二時から一時までの間と言っていいわけです」  「あんた、なぜそんな夜中に行ったんだね?」  と倉間久也が太田に訊いた。  「呼ばれたのです。午前一時に来てくれということでした。執事の伝言でした」  「何の用で?」  「分りませんね。今となっては、聞くこともできない……」  刑事が一つ息をついてから、  「みなさんは、ここへ招待されたということでしたね」  全員が肯《うなず》く。「ではその手紙とか、何かをお持ちですか?」  その場に持ち合わせていたのは土田だけだった。他の客たちが取りに行っている間に、刑事は土田の出した封筒から、手紙を取り出した。  「大きな紙ですね。字も大きい」  と刑事は言った。「なるほど、何でも大きくする趣味だったんですね」  手紙を広げる。太田も覗《のぞ》き込んでみた。全く同じものらしい。  文章はそう長くないのだが、大きな字のせいで、二枚の便《びん》箋《せん》一《いつ》杯《ぱい》を使ってあった。  〈突然の便りに戸《と》惑《まど》われるものと思う。  貴台は私と血縁関係にあることが、調査の結果分った。私はすでに老人で、隠《いん》退《たい》生活を送っている。  老い先は長くないが、生きているうちに、ぜひ、一度、顔を合せたいと念じている。  私は、左の住所の所に、一人住いである。できれば次の土曜日に、私の屋敷へと招待したい。  心からの歓待を約束する。 倉間茂夫〉  これだけの文で二枚を使ってしまい、住所や道順は二枚目の裏に書いてあった。  「何の変哲もないなあ」  と刑事は言った。  他の三通の手紙も集った。比べてみたが、どれも全く同じものだった。  「みなさんは故人とどういうご関係なのか伺《うかが》いたい」  刑事は一人一人の話を手早くメモして行った。  訊《じん》問《もん》は客間で行われていたが、そこへドアが開いて、  「死体を運び出していいですか?」  「ああ、もういい」  と肯いて、「しかし、不思議ですねえ。あの人がなぜ、こんな奇《き》妙《みよう》な屋敷を造ったのかな。自分でも使いにくくないんでしょうかね」  「大《おお》柄《がら》だったからいいんでしょう」  と松山が言うと、刑事がけげんな目で、  「大《おお》柄《がら》ですって?」  「ええ、車椅子は使っていましたが、体つきは大柄でしたよ」  「待って下さい」  と太田は言った。「お話ししておくことがあります。——倉間さんが、なぜ、こんな大きなものばかり造ったのか……。それはあの人が、小さかったからなのです」  「小さかった?」  「あの人の寝室のものは、全部、普通サイズのものを、さらに足を切って、低くして使っていました。それはあの人が、下半身が未発達で、おそらく、立てば、ほんの一メートル二〇ぐらいしかなかったからでしょう」  「じゃ、あの足は——」  「作りものですよ。死体を発見したときは、びっくりしたのです。眠るときには外していたのですね」  「こいつは驚きだ」  と倉間久也が言った。「しかし、それならどれも小さく作らせればいいじゃないか」  「おそらく——これは私の推察ですが、倉間さんは子供の頃から、あの体つきで、総てを見上げながら生きて来たに違いないと思います。常に、頭を押さえつけられているような、そんな気持を常に抱《いだ》いていたでしょう。この屋敷へ来た人間に、倉間さんは、おそらく、同じ気分を体験させたかったのではないでしょうか」  「なるほど。子供の視点でね」  と倉間久也が肯く。「そのための投資か。凄《すご》いもんだな」  「さて、と……」  刑事は、困ったように、「どなたか、犯人の心当りのある方、昨夜の真夜中に、何か物音を聞いたという方はおりませんか?」  ——答えはない。  すると、土田英治が立ち上った。  「もう話してもいいでしょう。実は、僕は、あなた方と違いまして、倉間さんの血縁ではないのです」  誰もが顔を見合せた。土田が続いて、  「僕は倉間さんの顧《こ》問《もん》弁護士の事務所の人間なのです。こんな仕事はいやなのですが、倉間さんの依《い》頼《らい》とあれば仕方ありません」  「仕事というと?」  と刑事が訊いた。  「自分も血縁の者で、招待されて来たというふりをして、みなさんの言動を倉間さんに報告するというのが仕事でした」  「じゃスパイかい?」  倉間久也がびっくりしている。  「そんなものです」  と土田は苦笑した。  「で、何か分りましたか?」  刑事の方は手を省く気かもしれない。  土田が、昨夜の話をざっとくり返した。倉間や松山夫妻は渋《しぶ》い顔をしている。  「なるほど。あなたはそのことを、倉間さんへ報告したんですね」  「はい。——それで分らないんです」  「とおっしゃると?」  「僕は用心のために、必ず部屋に鍵《かぎ》をかけてくれと言いました。あの人も大変用心深い人で、それを忘れるはずはないんです。それなのに、ドアはこじ開けられてはいなかった……」  「なるほどね」  「実は、倉間さんは、遺産の相続人を決めるために、この方たちを集めたわけです。ところが、この中の一人には、前もって総てを話してあると言っていたんです」  「話してある?」  「ええ、信用できる人間なので、力を借りるのだ、と言いましてね」  「それが誰なのかは——」  「言いませんでした。——僕の考えでは、その〈信用できる人間〉が、あのドアをノックしたのではないかと思うんです。倉間さんも安心して中へ入れた。ところが、そいつは、倉間さんを刺《さ》し殺した!」  「なるほど……」  刑事は考え込んだ。「それが妥《だ》当《とう》な線のようですね。すると、その、倉間さんが、〈信用していた〉のが誰なのか、ということになる……」  しばらく沈《ちん》黙《もく》が続いた。  太田はじっと考え込んでいた。——ある考えが、さっきから、頭の中を駆《か》け回っていた。あまり速すぎて、その形が分らないのだ。  何だろう? 何か気になることがある。  そう……。どうも、あの手紙のことで、何かがひっかかっているのだ。        5  「全く、何てこったい、畜《ちく》生《しよう》!」  太田博一は電話を切ると、吐《は》き捨てるように言った。  「どうしたの?」  と和子が訊く。  「編集者の奴だよ。今度の原稿も悪くないが、せっかく珍《めずら》しい体験をしたんだから、それを小説にしたらどうか、だとさ」  「解決抜き、ってことになるわね、もし書いたとしても」  和子は愉快そうに言った。  あの、〈倍々屋敷〉での殺人から、もう十日以上たっていた。まだ犯人の逮《たい》捕《ほ》はおろか、手《て》掛《がか》りさえ見付かっていない状態である。  もちろん、二人とも、自分の家へ戻って来ている。  容疑者といえば、倉間久也、松山智也、晶子、それに太田たち夫婦に絞《しぼ》られるわけだった。まあ、土田や、使用人の中に犯人がいないとも限らないので、その面々も、一応は調べられていたが、やはり積極的な動機には乏《とぼ》しいと言わざるを得ない。  「一体誰が犯人なのかしら?」  夕食の席で、和子が言った。  「さあね。それは警察へ任せておくさ」  「私はあの芸術家だと思うな」  「倉間久也? どうしてそう思うんだ?」  「印象よ。何となくやりそうだわ」  「それじゃ逮捕できない」  と太田は笑った。  このところ、和子はご機《き》嫌《げん》がいい。現金なもので、遺産の入るあてがあるというだけで、大分幸せな気分らしいのである。  いずれにしても、太田としてはありがたかった。  しかし、犯人が逮捕されなくては、遺産の相続もできないわけで、その内にはまた苛《いら》々《いら》が再開するに違いない。  遺言状の内容も、まだ公開されていなかった。  「早くかたがついて、いくらもらえるのか知りたいわ」  和子は早々と計画を立てている。いくらまでの遺産なら、何と何を買う、という計画を、ちゃんと金額別に作っているのだから呆《あき》れてしまう。  しかし、倉間久也は、きっと大理石を、代金後払いで注文してしまっているに違いない、と太田は思った。    その朝、和子がスーパーへ出勤するのを送り出した太田は、久しぶりに原稿用紙へ向った。——ふと、編集者に言われたとおり、あの事件を逐《ちく》一《いち》書きとめておこうかと思い付いた。  文章にすることで、忘れていた事実を思い出すこともあるかもしれない。特に、あのとき、何か引っかかるものがあるという印象を受けながら、それがついに分らずじまいになってしまった——その心のもやもやが、未《いま》だに晴れていないのである。  太田は、極力細かい事《こと》柄《がら》まで、思い出して書くように努めた。——意外に筆がはかどる。一つ、何かを思い出すと、それにつながって他の記《き》憶《おく》も現われる。  ほんの覚え書程度のつもりだったのに、だんだん枚数は増えて行った。——一心に書き続けて、気が付くともう午後二時だった。  何か昼を食べなきゃ。筆を休めて、台所へ行くと、電話が鳴り出した。  「はい、太田です」  「池《いけ》上《がみ》と申します」  えらく丁《てい》重《ちよう》な言葉づかいだ。誰だろう?  「どなた?」  「倉間茂夫様のお屋敷におりました執事でございます」  「ああ」  なるほど。そう言われてみると……。名前など、まるで知らなかった。  「何かご用ですか?」  と太田は訊いた。  「私、大変に重要な情報を持っております」  と、執事の池上が言った。  「というと?」  「私も、胸におさめておきたいのでございますが、何分ご主人様が亡くなられて、失職の身でございますので、多少、お金を必要としているのです」  「そりゃそうでしょうねえ」  「その点をご配慮いただければ、黙っております」  「——何をです?」  「私の見たことを、でございます」  「見たこと?」  「はい」  「何を見たんです?」  「それはよくお分りのことと存じますが」  「どういう意味です? はっきり言って下さいよ。もしもし——」  太田は、もう電話が切れているのに気付いた。一体何だ、今の電話は?  しばらく考え込んでいた太田は、  「ああ、そうか」  と呟《つぶや》いた。  「ただいま」  和子が帰って来た。朝からの出勤なので終るのは早いのだ。  「お帰り。——あの執事から、電話がかからなかったかい?」  和子が目を丸くして、  「じゃ、ここへもかかったの?」  「やっぱりそうか。古い手だ」  と太田は苦笑した。  「どういうこと?」  「警察が言わせてるのさ。何だか意味ありげに、『何かを見た』と言って、相手の反応を見てるんだ。同じ電話が、倉間久也や、松山夫婦のところへもかかってるはずだ」  「何だ、そうなの——気味が悪かったわ」  「警察としちゃ苦肉の策だろうな。これで誰かが執事に口止め料でも払うと言い出したら、喜んで取っ捕《つか》まえに行くだろうよ」  「そう巧《うま》く行くかしら」  「そうだね。本当の犯人にとっては、たぶん罠《わな》だろうとは思っても、やはり一パーセントぐらいは、本当かもしれないという気持を捨て切れまい。古い手だが、効果はあるかもしれないよ」  「餌《えさ》に食いつくのを待ってるってわけね」  「ところで僕も餌を待ってるんだがね」  と太田は言った。「こっちは釣《つり》針《ばり》なしで頼《たの》むぜ」  ——だが、釣針のついた餌に食いついた魚がいたのである。  それは松山晶子だった。晶子は、執事を呼び出して、口止め料の相談を持ちかけたところを逮捕された。    「あなたの原稿、読んだわ」  と和子が言った。  「どの原稿だい?」  「この事件のよ。ずいぶん記憶力がいいのね、見直したわ」  和子はいい機嫌で、時々鼻歌まで出るほどだった。  二人は再びあの〈倍々屋敷〉へ向っていた。遺言状と遺産の詳細が公表されるのである。  「まだ解決編は書いてないぜ」  と太田は言った。  「どうして書かないの? 犯人も捕まったのに」  「松山晶子は否定してる」  「でも、もうだめよ。きっと白状するわ」  そうかもしれない、と太田は思った。  松山晶子は、あの夜、夫が眠ってから、こっそり倉間久也の寝室へ行ったのだと主張していた。だから、そこを執事に見られたと思い、口止めしようとしたのだ、というのである。  浮《うわ》気《き》はしていたが、人殺しはしていない、と言い張っているのだ。相手の倉間久也も、晶子と寝たことは認めた。しかし、その時間がはっきりしないので、晶子のアリバイにはならない。  ——屋敷へ着くと、あの執事が出て来た。太田は、また名前を忘れてしまった。  「まだ一時間もあるね。誰も来ていないだろう」  と太田は言った。何しろ和子がせき立てるので、仕方なくこんなに早くやって来たのだ。  ところが、  「いえ、もう皆様おいでになっております」  という返事。  「ほら、ご覧なさい」  和子は太田をにらんで、「出《で》遅《おく》れちゃったじゃないの」  「別に競争じゃないんだ。いいじゃないか」  巨大な家具の納まった客間には、倉間久也、松山、それに土田が来ていた。土田も、今日はいかにも弁護士然としている。  女房を逮捕されている松山はさすがに元気がないが、浮気の相手、倉間久也が平然としているのには、太田も少々呆れた。  「さて、じゃ揃《そろ》ったから始めましょうか」  と土田が言った。「ええと……松山晶子さんが出席しておられませんが……」  「殺人犯だ。構やしない」  と倉間久也が言った。  「何だって?」  と松山が、さすがにムッとした様子で、  「よくそんなことが言えるな、兄さんは!」  と食ってかかった。  「事実だから仕方ないさ。お前だって、別にあの女を愛してる、ってわけでもあるまいに」  「僕の妻だぞ! それを兄さんは……」  「勘《かん》違《ちが》いするなよ。彼女の方から、俺の部屋へ来たんだ。いわばお前を裏切ったんだぞ。そんな女のためにどうして怒《おこ》るんだ?」  「勝手なことを——」  松山がいきなり倉間久也に飛びかかった。太田はあわてて止めようとしたが、とても手がつけられない。  組んづほぐれつ、二人は転がって行って、土田にぶつかった。土田もとばっちりで引っくり返り、手にしていた書類がばらばらになって飛んだ。  「ちょっと——やめて下さい!」  太田がやっと二人を引き離《はな》す。  土田が急いで書類を拾い集めた。  「やれやれ、順番が……」  書類の順番をきちんと直して、やっと息をつく。「それでは、亡くなった倉間茂夫さんの遺《ゆい》言《ごん》状《じよう》を……あれ、これじゃないや」  土田がせっせと書類をめくった。  太田の頭の中に、何かが閃《ひらめ》いた。これと同じような場面を——どこかで見たことがある。どこかで……。  「ああ、これだ、これだ」  土田がホッとした様子で言った。誰しもが息を呑んだ。    「——そんな馬鹿な!」  と呟いたのは、倉間久也だった。  「そうよ! こんな話ってないわ!」  かみつきそうな顔で立ち上ったのは和子である。  「まあ落ち着いて下さい」  土田が後ずさりしながら、「私に怒っても仕方ありませんよ」  「そんな……」  和子が、急に全身の力が抜けたように、ペタンと床に座ってしまう。  「そ、そいつは確かなのかい?」  と倉間久也が言った。さっきまでの高《こう》慢《まん》さはすっかり消えて、青くなっている。  松山は何も言わなかったが、それは言うだけの気力も失《う》せていたからだろう。結局、平静に話を受け止めたのは太田一人だったようだ。  みんながショックを受けたのも無理はない。倉間茂夫は、この縁者たちを集める前に、ほとんどの財産を方々の施設へ寄付してしまい遺贈するほどの物は残されていない、というのだった。  「ともかく、生前にご自分のご意志で寄付されたのですから、どうしようもありません」  と土田は言った。近づくと殴《なぐ》られるのではないか、という様子で、少し離れてしゃべっている。しかし、もう誰も殴りかかる元気もないようだった。  倉間久也は、青くなって、視線も定まらずというありさま。  「どうしよう……。大理石が……」  と呟いている。どうやら太田の推察したとおり、金の入るのをあてにして、大理石を注文してしまったらしい。  松山は、妻を逮捕された上にこの始末で、正に泣きっつらに蜂《はち》。今にも泣き出してしまいそうだった。誰もが、巨大な椅子の中で、しょげ切った子供のように見えた……。  「ただ、皆さんには、故人より心ばかりの贈り物として——」  土田が言葉を続けると、誰もが、わずかばかりの希望を燃え立たせて身を乗り出す。  「この部屋の、倍のサイズの椅子を一脚ずつさし上げます」  と土田は言った。  「こんな人を馬鹿にした話があるか!」  と倉間久也がわめいた。  「お怒りもごもっともですが、もともと、あの方は人を引っかけて楽しんでおられたのです」  「それにしても、ひどいじゃないの!」  と和子が叫んだ。土田が苦笑して、  「みなさんのお手もとに招待状が届いたのが何の日だったかご記憶ですか?」  と言った。——みんなが戸惑った。  「そうか」  と太田が言った。「四月一日。エイプリルフールだったな」    「またスーパー勤めか、やんなっちゃうわ」  和子が朝食を取りながらため息をついた。  太田は何やら考え込んでいた。——あの〈倍々屋敷〉から自分たちの家へ戻って来て、ずっと和子はため息をつきっ放し、太田は考え込みっ放しだった。  「あなた、聞いてるの?」  と和子は言った。  「うん。聞いてるよ」  「いつまでスーパー勤めが続くの?」  「刑務所よりいいじゃないか」  と太田は言った。和子が夫の顔を見た。  「どういう意味?」  「あのとき土田が書類をめくってるのを見て、思い出したんだ。——あの、倉間茂夫から来た手紙。二枚続きで〈招待したい〉という文句は最後——つまり二枚目の方に書いてあった。しかし、お前はあのとき手紙を見て、二枚目を見る前に、招待状だ、と言った。つまりお前には手紙の中身が分っていたわけだ」  太田は妻の顔をじっと見つめた。「——お前だったんだな、あの倉間茂夫が〈信用していた人間〉というのは」  和子は無表情に太田を見ていたが、やがて軽く肩をすくめた。  「そうよ。あの人には子供の頃、ずいぶん可《か》愛《わい》がってもらったわ。でも、変人で、偏《へん》屈《くつ》で、どうにもならないひねくれ者だった……」  「だから殺したのか?」  「お金を借りようとしたのよ、今度だって。——あなたは失業してるし、お金の入るあてもないし。でも、あの伯《お》父《じ》さんは、まるで相手にしてくれなかったわ。そして、妙な計画を手伝えと……。手伝ったら、涙《なみだ》金《きん》ほどの礼をすると言うの。カッとなったわ。でも、そのときはおとなしく帰って来たの。親類連中が集まってるときの方が、疑いがあちこちへそれていいと思ったからよ」  和子は平然と、むしろ挑《いど》みかかるような口調で言った。  太田は哀《かな》しい気分で妻を見つめた。  「あの晩、僕がシャワーを浴びている間に、裸《はだか》のまま、こっそり出て行って殺し、戻って来たんだな」  「あなたの長風呂はよく分ってるもの」  「使ったナイフ——か何か知らんが、それはどうしたんだ?」  「トイレへ流しちゃった。あなたが出て行った後でね。各室にトイレがあるって、便利だわ」  太田はため息をついて、  「人殺しまでして、何が手に入ったんだ? 馬鹿なことをしてくれたな……」  「やっちゃったことは仕方ないでしょ」  和子は立ち上った。「さて、出勤時間だわ」  太田は何も言わなかった。  そもそもが、自分の、失業が原因なのだと思うと、何とも言い出せない。それに和子を警察へ突《つ》き出すわけにもいかない。  大体、何の証《しよう》拠《こ》もないのである。  しかし、このまま、和子と暮《くら》して行くことができるだろうか?  あの夜、倉間茂夫が自分を呼んだのは、もしかしたら、和子のことを注意するように言うつもりだったのかもしれない、と太田は思った。ああいう、いつも劣等感に悩《なや》まされつつ生きて来た人間には、不思議と人を見る目が出来ているものだ……。  「じゃ、出かけて来るわ」  と和子が玄関へ出て行く。  「ああ、行っといで」  太田はいつものくせで、そう言った。  とてもだめだ。——このまま和子と暮してはいられない。  ダイニングの椅子に座って、太田はそう思った。そのとき、表で、何かが壊《こわ》れるような大きな音がした。次いで、「キャーッ!」という悲鳴……。太田は表へ飛び出した。  トラックが停っていた。そして、荷台から落ちてひっくり返っているのは、あの〈倍々屋敷〉の客間にあった、巨大な椅子だった。  「早くどかすんだ!」  「力を貸してくれ!」  運送屋の人間らしい二人の男が必死で巨大な椅子を動かそうとしている。和子が下敷になっているのだった。  「おい、あんた! 手伝ってくれよ!」  声をかけられて、太田はやっと我に返った。駆け寄って、三人がかりで、椅子をわきへ転がす。  「畜生! この化物椅子め! おい、一一九番だ!」  一人が公衆電話へ走る。  太田は和子の上へかがみ込んだ。——もう息が絶えている。  「どういうんだ、この椅子は? 全く——」  運送屋は青くなって、必死に椅子のことを言い立てた。自分たちのせいではなく、椅子のせいだと言いたいのだろう。  太田は、ひっくり返っている、巨大な椅子を見て、ゆっくりと肯《うなず》いた。  これでよかったのかもしれない。——主《あるじ》に代って、この椅子が、罪を罰《ばつ》したのだ。  「椅子を起すのを手伝ってくれ」  と太田は言った。  二人で、やっと椅子を起すと、太田は和子を抱《だ》き上げて、その上へと横たえてやった。    本末顛《てん》倒《とう》殺人事件        1  「私もできる限りのことはやってみたんだがね——」  佐《さ》田《だ》課長の言葉は、容疑者に自白を促《うなが》すときと同じ優しさに溢《あふ》れていた。  「はあ」  山《やま》尾《お》慎《しん》造《ぞう》はあまり感情を表に現わさない、いつもの声音で答えた。「よく分っております」  「ただねえ……君のようにこの捜《そう》査《さ》一課に在職二十年になるのに、犯人には逃《に》げられる、証《しよう》拠《こ》は見《み》逃《のが》す——いや、それだけならいいが、あのタバコ屋殺しのときは証拠を捨ててしまうし、張り込《こ》みをやると居《い》眠《ねむ》りはするし……。私も長く刑《けい》事《じ》生活をやったが、君のようなのは初めてだよ」  「どうも……」  山尾としても、賞《ほ》められていないのだということぐらいは分っていた。  「君はこの職業に向いとらんのかもしれないな」  と佐田は言った。  「ですが課長……私ももう四十五歳《さい》です。今さら仕事を変えろとおっしゃられても……」  「君の気持も分るがね、しかし警察は慈《じ》善《ぜん》事業じゃないよ」  佐田の言葉は穏《おだ》やかだったが、ぐいと山尾の胸に出《で》刃《ば》包丁の如《ごと》く突《つ》き刺《さ》さった。佐田は椅《い》子《す》にゆっくりともたれて、  「まあ、ともかくさし当りは君のクビもつながった。だがこれ以上何かあったら——」  と、〈何か〉というところに力を入れた。  「私としても弁護し切れんよ」  山尾は肩《かた》の力を抜《ぬ》いて息をついた。  「ありがとうございます」  「まあ、私も今さら君に大《おお》手《て》柄《がら》を立ててくれとは言わんよ」  「恐《おそ》れ入ります」  「ただ、プラスはなくてもいいから、マイナスもないようにしてくれ。マイナスよりはゼロの方がまだいい」  山尾は言葉に詰《つま》った。佐田は続いて、  「本来ならば、二人一組が行動の単位だが君の場合、組みたいという者がおらんのだ。——そこでしばらくは自宅で研究ということにしてほしい」  「あの——それは、クビだという——」  「いや、別にそうじゃない。ちゃんと給料は支《し》払《はら》われる。何かよほど人手の足りないときは声をかけるから、待機していてくれ、ということだな。——今日はもう帰っていい」  山尾は、さすがに青ざめた顔で、しばらく佐田の机の前から動けなかった。佐田の方はもう別の用で電話を取り上げている。  山尾が席へ戻《もど》ると、後《こう》輩《はい》で、山尾とよく組まされていた林《はやし》がやって来た。  「顔色が悪いですよ、山尾さん」  「そ、そうかい……」  「また課長がひどいこと言ったんでしょう。いやみな奴《やつ》だからな」  林は生《せい》来《らい》気のいい男で、山尾に同情的な、ほとんど唯《ただ》一人の刑事だった。林なら山尾と組んでも文句は言わなかったはずだが、今までにずいぶん迷《めい》惑《わく》をかけたので、山尾の方から組むのをやめていたのだった。  「自宅待機だとさ」  山尾は机を片付けながら言った。  「ひどいなあ、そいつは。——でも、気にしちゃだめですよ」  「辞表を出せってことなんだな」  「平気な顔して休んでりゃいいんですよ。大きな事《や》件《ま》を解決して、休みをもらったんだと思えば」  「ありがとう」  山尾は微《ほほ》笑《え》んだ。「課長にも分ってないことがあるんだよ」  「何です?」  「私は辞表の書き方を知らないんだ」  山尾は引出しを閉めた。    「——そうなの」  山尾治《はる》子《こ》は、夫の話に、ゆっくりと肯《うなず》いた。  「ずいぶん早く帰って来たと思ったわ」  「お前も俺《おれ》が出世できないのは覚《かく》悟《ご》しててくれたと思うが、ここまで来ると、もう辞表を出さないわけにいかないと思うんだ」  山尾は静かな諦《あきら》めの表情で言った。「このままじゃ、それこそ月給泥《どろ》棒《ぼう》だからな」  「分るわ。——でも、やめて後、どうするの?」  「うん……まだ考えていない」  「家のローンも残っているし、由《ゆ》美《み》はまだ小学生だし……」  「何か職を見付けるよ」  「私がホステスか何かやって、あなたが家のことをやってくれる?」  「そんな必要はないよ」  山尾は少し強い口調になって、言った。  「でも——」  「俺に任せておけ」  山尾は肯いた。「ともかく、この一週間は休みだ。身の振《ふ》り方をよく考えてみる」  いくら考えたって、どうにもならないじゃないの、と言いたいのを、治子はぐっと呑《の》み込んだ。  夫を責めても始まらないことだ。——それは治子にもよく分っていた。  山尾は職業の選《せん》択《たく》を誤ったのである。それとても、自分の意志というより父親の意志によるものだった。大体、それを拒《こば》めないような気の弱さでは、警視庁捜査一課の刑事など勤まらないことぐらい分っているべきであった。  しかし、治子としては、時々苛《いら》立《だ》つことはあっても、夫の選択を誤ったとは思っていなかった。  山尾は気の優しい、人《ひと》柄《がら》の暖い男である。治子は夫を愛していた。それだけに、夫が、どうにもならない所まで追い詰められて苦しんでいるのが、たまらなかったのである……。  できることなら、夫に刑事を辞めさせて、もっと適当な職業につかせ、のんびりと働いてもらいたかった。しかし、四十代も半ばという年《と》齢《し》で、一体どんな働き口があるだろう?  それに、警察官という信用で、この家のローンだって借りられたようなものだ。  「ただいま」  玄《げん》関《かん》から娘《むすめ》の由美の声がした。  「お帰りなさい」  小学校五年生で、もう母親の背《せ》丈《たけ》を追い越《こ》しそうな勢いの由美がヒョイと顔を覗《のぞ》かせて、  「パパ、早いね」  「一週間、お休みもらったんですって」  と、治子は言った。  「へえ。何か大手柄でもたてたの?」  「功労賞よ」  と治子は言った。  「殺人犯とでも撃《う》ち合いして捕《つか》まえてよ」  「何を言ってるの。早く鞄《かばん》を置いていらっしゃい!」  「はーい」  と行きかけて、また顔を出し、「エリちゃんとこに行っていい?」  「あんまり遅《おそ》くならないでね」  「うん」  由美の足音がドタドタと階段を駆《か》け上る。  「静かに上りなさい」  と、治子が言ったときは、もう部屋の戸がピシャと閉まった。  「——全く、もう。あれで女の子かしら?」  「元気なのはいいじゃないか」  と山尾は言った。「俺はとってもあんな元気はなかった」  由美は、結《けつ》婚《こん》八年目にやっと生れた一人っ子で、それだけに可《か》愛《わい》がって育てて来たし、また、母親に似て、愛らしい顔立ちであった。  「由美をがっかりさせたくはないがね」  と山尾は言った。  「TVの刑事物の見すぎなのよ。あんなに撃ち合ったり殴《なぐ》り合ったりするもんじゃないってことが、そのうち分るわよ」  「俺だって、一度くらいは殺人犯の手首に手《て》錠《じよう》をガシャリとやりたいんだ。——もっともいざそのときになったら、手が震《ふる》えてできないかもしれないがね」  山尾はそう言って苦笑した。  「そんな無理して殺されたらどうするの」  「お前までそんなことを言うのか」  山尾は愉《ゆ》快《かい》そうに、「刑事の妻はその覚悟をいつもしてるもんだ」  「あなたに死なれるより、クビになってもらった方がいいわ」  と治子は真顔で言った。  また階段をドタドタと駆け降りて来る足音がした。  「由美! 静かに——」  言い終らないうちに、玄関のドアがバタンと音を立てた。  「全くもう、あの子は……」  治子はため息をついた。  「俺はちょっと散歩して来る」  と、山尾は立ち上った。  「それがいいわ。行ってらっしゃい」  治子は、夫を送り出した後、しばらく居間に座り込んでいた。  やらなくてはならないことは色々あるが、今は手につかなかった。いくら今の夫を愛しているとはいえ、治子としても、夫が人並《な》みの能力にも欠けているとみんなに思われるのは面白くなかった。  警察を辞めるなら、それでもいい。しかし、このまま辞めさせられてしまうのは、治子としてもしゃくにさわる。  山尾の言ったように、一度殺人犯の手首へ手錠をかけて、みんなが見直したところで辞める、という具合になればいい。——今の山尾はすっかり自信を失っている。  あのまま他の職業についても、おそらくはうまく行かないのではないかという予感が、治子にはあった。  自分は仕事のできない人間なのだという思いを振り払《はら》わなければ、どこへ行っても、〈だめ人間〉で終るだろう。  といって……こちらの注文通りの筋書きに合わせて事件の起るはずもない。前もって殺人の起るのが分っていれば、そこへ行って待っていればいいのだが、そんなうまい話はあるまい。  あの人だって、いざ本当に殺人犯を追い詰めれば、立派に逮《たい》捕《ほ》してみせるのだ。それなのに、今まで、そういう場に居合せたことがないのである。  本当に、ツイていない人なのだ……。  玄関の開く音がした。治子は、  「あら、あなた、もう戻って来たの?」  と声をかけた。  「パパじゃないわよ」  と入って来たのは、由美だった。  「どうしたの? エリちゃんは、いなかったの?」  「いたんだけど……」  と由美は何やら難しい顔をしている。  「どうしたの? 喧《けん》嘩《か》でもして来たの?」  「そうじゃない」  「じゃ何なの?」  「よく分んないの」  「それじゃさっぱり分んないじゃないの」  「エリちゃんのママが泣いていたの」  「ママが?——どうして」  「知らないよ、そんなこと」  「一人で?」  「エリちゃんのパパもいたよ」  「あら、会社お休みなのかしら」  と治子は言って、「エリちゃんは?」  「知らない。エリちゃんのママがね、また後で来てね、って——」  「それで帰って来たの」  「そう。——お腹《なか》空《す》いた。何かないの?」  プリンを出してやると、由美は凄《すご》い勢いで食べ始めた。  また例によって女のことなんだわ、と、治子は思った。  ちょうど向いの家に住んでいる松《まつ》井《い》という夫婦である。一人っ子でエリという娘がいて、由美と同じ年齢、同じ小学校なので、よく一《いつ》緒《しよ》に遊んでいた。  明朗でおっとり型の由美と対照的に、エリという子は、神経質で、大人の顔色をいつもうかがっているようなところがあり、治子は、初めあまり好きではなかったのだが、由美の友だちを、大人が選ぶのはよくないと思うので黙《だま》っていた。  しかし、おいおい松井家の様子が、方々の井《い》戸《ど》端《ばた》会議を通して入って来るにつれ、治子も、エリという娘を哀《あわ》れだと思うようになった。  松井は大分山尾より若い。三十七、八というところだろう。中年というより、スマートな青年のイメージを保っていた。なかなかの二枚目でもあり、女にもてることを、自らも意識しているのが、はた目にもよく分った。  治子あたりから見ると、あんなきざったらしい男のどこがいいのかと思うのだが、実際にもてるらしく、松井と、妻の邦《くに》子《こ》の間には、女のことで、いざこざが絶えない様子だった。  そんな家庭に育っているのでは、エリがちょっと陰《いん》気《き》な子になってしまうのも、当然のことかもしれない。  今日もきっといつもの伝で、松井の浮《うわ》気《き》をめぐって、彼と邦子が争っていたのだろう。全く、除《の》け者にされる子供こそいい迷惑というものだ。  もし、自分が松井の妻の立場だったら、どうするだろう、と治子はふと考えていた。  しかし、例え仮定のことにせよ、夫が浮気するとは、治子にはとても考えられなかったし、松井のようなタイプの男とは結婚もしなかっただろう……。  そこを無理に想像してみると、たぶん自分なら、さっさと別れて、子供は引き取り、働きに出るだろう。——治子はそういう性格なのだ。  しかし、松井邦子は、あまり外へ出て働くというタイプではない。泣いて喧嘩しても、結局、うやむやに終ってしまって、また同じことをくり返す。  大体、向いの家の争いは、そのくり返しで終っているようだった。  ああいうタイプの奥《おく》さんは気を付けなくてはいけないと治子は思った。  抑《おさ》えに抑え、我《が》慢《まん》の限界まで堪《た》えているだけに、いざそれが限度を越《こ》えたら、爆《ばく》発《はつ》することもあるのだ。  よく、殺人事件の犯人が捕まると、近所の人の談話で、  「物静かな、おとなしい人で、とてもそんな恐ろしいことをする人とは思えませんでしたが……」  といった言葉が出ているが、しかし、それはむしろ当り前の話であって、普《ふ》段《だん》、自分を押《おさ》えて、おとなしくしているからこそ、そうして爆発するのだ。いつも適当に発散している人間は、怒《おこ》っても、そこまで行かないのである。  松井邦子も、そのうち何かやるかもしれない。まさか、亭《てい》主《しゆ》を殺しはしないだろうが。——いや、やるだろうか?  「まさか」  と治子は呟《つぶや》いた。  「ん? なあに?」  と、由美が訊《き》いた。  「別に。——何でもないわよ」  治子はあわてて言った。  ある考えが治子の頭に浮《うか》んだ。それはおよそ現実味のない考えでしかないように治子には思えたが、万が一、と考えるぐらいは構うまい、という気がした。  松井邦子が、もし夫を殺したら……。  あり得ないことかもしれないが、とても考えられないことが起るのが現実というものである。  もしそうなったところで、誰《だれ》も困る者はないように思えた。松井のような男は、おそらく一生ああいう性格で、変ることはあるまい。ということは、邦子が苦労をし続けるということである。  もちろん邦子としては、あんな男にでも愛情は感じているのかもしれないが、そうは言っても、もし夫が死んで、一時の悲しみを過ぎればホッとした気分になるに違《ちが》いない。  娘のエリは、父親を失うわけだが、片親の子が必ずしも不幸というわけでもないし、むしろいてくれない方がいい親というものもある。少なくとも第三者の立場で見る限り、松井が父親としては完全な失格者であるのは明らかだった。  邦子が殺人犯として逮捕される。——これは確かに問題である。しかし、事情が事情であり、近所の人、知人等の証言も、邦子を総《すべ》て弁護するものに違いないのだから、重い罪になるはずはない。世間の同情を集めることはあっても、白い目で見られる心配はまずあるまい。  その程度のことで、あの亭主から解放されるなら、プラス、マイナスをはかりにかけても、結局プラスの方へ針は傾《かたむ》くのではないかという気がした。  そして——そうだ。邦子が松井を殺せば夫の手で逮捕できる。見も知らぬ警官に捕まるより、まだ顔見知りの山尾に逮捕される方がいいのではないか。  もっとも、彼女にあっさり自首でもされたのでは、山尾の出番はない。ここは一応、犯人が不明で、警視庁捜査一課が乗り出すように持って行く必要がある。  それには、邦子が、エリを殺人犯の娘にしたくないと考えてくれればいいわけだ。  それならば、何もかも巧《うま》く行く……。  私は何を考えてるのかしら?  治子は頭を振った。——人を殺させるなんて、とんでもないことだ。  治子は立ち上った。  「ね、由美、ママお買物に行って来るから、留守番しててね」  「ウン、TVみてていい?」  「いいわよ」  「万《ばん》歳《ざい》! 珍《めずら》しいな、ママにしちゃ」  治子は苦笑した。財布と買《かい》物《もの》袋《ぶくろ》を手に、家を出る。  こんな、自分で自分をコントロールできないようなときには、買物とか掃除とか、日常的な仕事に精を出す方がいいのだ。  スーパーマーケットへ行って、治子は、あれこれ買いだめをした。  昨日買物に来たばかりで、差し当って必要というものはなかったのだが、あっても腐《くさ》らない物を、余分に買い込んだのである。これならむだにならずに済む。  牛乳はどれが新しい日付か、紅茶のパックはどのメーカーが一番安いか、あれこれと探し、比べては買っているうちに、やっと気分は平常に戻って来た。  本当に、どうかしていたのだ。——夫の話で、やはりショックを受けていたのだろう。先々への不安も、あったかもしれない。  「しっかりしなくちゃ……」  レジで代金を払いながら、治子はそう自分に言い聞かせた。  表に出ると、少し回り道しながら、駅前の商店街をブラブラと歩くことにした。  パチンコ屋の前を通りかかると、中を覗《のぞ》いてみる。  ——平日の、まだ夕方にならないというのに、ずいぶん客が入っているものだ。時間を持て余しているらしい、主婦の姿も多い。そして、たまの休みにも行く所がなく、ぼんやりと台の前に座って、銀色の丸の踊《おど》りを眺《なが》めている、くたびれた亭主族……。  でも、あの人もたまにはこれぐらいのことをすればいいのだ。——真《ま》面《じ》目《め》一《いつ》徹《てつ》というのか、遊びの類は一切やらず、酒も飲まない。それで仕事に有能というのならいいのだが……。  遊びは下手でも仕事はできるか、仕事ができなくても遊びに長じていれば、それなりに実社会を生きて行くのに困らないでいられるのだが、その両方だめというのでは、全く、どうにもならない。  治子は喫《きつ》茶《さ》店《てん》に入った。——一人で喫茶店に入るなんて、久しぶりだわ、と思った。席について、コーヒーを頼《たの》み、ゆっくりと店の中を見回す。  夫がそこにいた。  治子には全く気付いていなかった。コーヒーカップを置いたまま、新聞を眺めている。声をかけようかと思ったが、何となく、つい言いそびれているうちに、コーヒーが来てしまった。  何をそんなに熱心に読んでいるのかしら、と治子は思った。——しかも、同じページに目を据《す》えて、動かないのだ。  コーヒーを飲んでいた治子の手が止った。夫が、やっと新聞を折りたたんだ。——彼が見ていたのは、求人欄《らん》だったのだ。  夫が店を出て行くのを、治子はじっと見送った。夫の後姿は、急に十歳も老い込んだようにさえ見えた。  しばらくして、治子はやっと我に返った。ゆっくりとコーヒーカップを口もとへ運ぶ。——コーヒーは、もうすっかり冷めてしまっていた。        2  松井の家の玄関から邦子が出て来た。  治子は、TVを見ている夫へ、  「ちょっと買物に行って来るわ」  と声をかけた。  「ああ」  「留守、お願いね」  「ああ」  「何か、欲しいもの、ある?」  「ああ。——ん?」  山尾はやっとブラウン管から目を離《はな》して、治子の方を見た。「買物か?」  「ええ。何か欲しいもの、ある?」  「いや、別にない」  「じゃ、行って来るわ」  治子はサンダルをつっかけて表へ出た。  松井邦子が、五十メートルほど先を歩いて行く。治子は、少し足早に、しかしそう急いでいるとも見えない程度の足取りで歩いて行った。  美しく晴れた午後だった。  邦子の足取りは、どこか疲《つか》れたようで、自分がどこへ向って歩いているのかよく分らないという感じだった。  何しろ相手が、できるだけ向うへ着きたくないという様子で歩いているのだから、追いつくのは楽だった。  「松井さん」  と声をかけると、邦子は怯《おび》えたような目で振り返ったが、治子を見ると、ホッと表情を和ませた。  「山尾さん……」  「お買物?」  「ええ」  「じゃ、一緒に行きましょうよ」  と治子は微笑んだ。「一人で行くより二人の方が楽しいわ」  「ええ。でも——よろしいのかしら?」  「何が?」  「ご一緒しても……」  「私は構わないのよ。あなた、何かご用があるのなら——」  「いいえ、何も」  と、邦子は急いで首を振る。  「じゃ、いいわね」  二人は並んで歩き出した。「——いいお天気ね。今度の日曜あたりは由美をどこかへ連れて行かなくちゃ」  「ご主人、お休みなんですか?」  「え? ああ、さぼっているのよ。——全く、不器用なもんだから、休みがあっても、家でゴロゴロ。もったいないわよね」  「でも……いいですね、ちゃんとお帰りになるし」  「ご主人、いつも遅《おそ》いものね。エリちゃんも可《か》哀《わい》そうね、パパと遊べなくって」  「ええ……」  邦子は曖《あい》昧《まい》に肯いた。  「でも、その代り、お休みのときはよく子供の相手をしてくれるでしょ、そういう人は?」  「いいえ。一人でどこかに出かけてしまいます」  「あら、そう。——そうね、仕事で疲れて帰って来て、休みの日までつぶされちゃね。男の人も考えてみりゃ可哀そうよ」  治子はそう言って、邦子の表情を盗《ぬす》み見た。笑おうとして、顔は軽くひきつっただけでしかない。  「主人も一週間の休みはもらったんだけど」  と治子は言った。「そんなことより、お給料を上げてもらった方がよほど助かるのにね。安月給で大変よ、やりくりするのは」  「そんなこと——」  「いえ本当よ。それに、もう年齢も行ってるせいもあって、主人は家のことは一切やってくれないの」  と、治子は愚《ぐ》痴《ち》った。「釘《くぎ》一本打つにも、ずっと前から頼んであるのに、それっきり。結局自分でやっちゃった方が早いのよね。それに大体不器っちょで、そういうことも下手なのね。棚《たな》一つ作っちゃくれないわ」  治子は色々と並べて夫をこき下ろした。  相手から愚痴を引き出すには、こっちも愚痴を言う方がいいのだ。こっちが夫を賞めれば、向うも体面というものがあり、夫のいい点を話そうとする。  「でも、優しそうでいいご主人じゃありませんか」  と邦子は言った。  「そうね。優しいのは確かだけど、それだけじゃね」  「それが一番ですわ。優しい人が一番……」  邦子はそう言って目を伏《ふ》せた。  これで話を引き出す下地はできた、と治子は思った。  スーパーで買物をした後、  「お茶でも飲みましょうよ」  という治子の提案で、二人はスーパーの裏にある、静かな喫茶店へ入った。  スーパーの中のパーラーなどでは、騒《さわ》がしくて話もできないし、知っている顔に会うこともある。その点、この店なら、まず奥さん連中は来ないだろう。  「ここのコーヒー、おいしいのよ」  と、治子は言った。  邦子は、ちょっとためらってから、言った。  「由美ちゃんに、この間、悪いことしてしまって……」  「え? 何だったかしら?」  「あの……せっかく遊びに来てくれたのに、追い帰したみたいで……」  「ああ、そんなこといいのよ。大人の話があるときは子供は邪《じや》魔《ま》ですものね。それにもう、小学校五年っていえば、色々なことがよく分ってるし」  「由美ちゃん、何か言ってました?」  「さあ……。あ、そういえば、あなたが泣いてたとか。——喧嘩でもしていたの?」  「そうなんです」  「いいじゃないの。うちなんて、喧嘩する気力もなし。喧嘩するなんて、仲のいい証拠じゃない」  「そんな……そんなじゃないんです」  突《とつ》然《ぜん》声が震《ふる》えたと思うと、邦子は急に目から涙《なみだ》を溢《あふ》れさせた。そして、吐《は》き捨てるように、  「あの人を殺してやりたい!」  と言った。  治子はびっくりした。まさかこうもいきなり本音をぶつけて来るとは思ってもいなかったのだ。  店の人に聞かれるのではないかと、あわてて振り向く。店の女性は、電話でおしゃべりの最中だ。治子はホッとした。  「落ち着いて。——ね、気を鎮《しず》めて」  「すみません……」  邦子は、すすり上げて、やっと涙を抑えると、「びっくりなさったでしょう」  「そりゃあ、ね……。そんなに悪くなってるの?」  「ええ。——もう、主人は私や娘のことなんか気にもしていないんです。好き勝手なことをして……」  「それはつまり……女の人っていうこと?」  「ええ。女がいるんです。それも、私の知ってるだけでも四人目です。その度に給料は女へ渡《わた》してしまう、手切れ金と言って、せっかくためた貯金を引き出して、女にくれてやる……。私がいくらやめてくれと言っても、自分の稼《かせ》いだ金をどう使おうと勝手だと言って、耳を貸しません。しまいに私を殴《なぐ》ったり怒《ど》鳴《な》りつけたり……」  「ひどいわねえ、それは」  と治子は言った。「誰か意見してくれる人はいないの?」  「私は両親とも九州で、こっちに知り合いはありませんが、主人の方は、親も兄弟も、みんなで主人の味方をします」  「かなわないわねえ」  「本当にもう……死んでしまいたくなるときもありますわ」  「そんなこと言っちゃだめよ。しっかりしなきゃ。負けちゃしゃくじゃないの」  「そうは思うんですけど……疲れてしまって……」  「別れるわけにはいかないの?」  「何度も考えました。でも、エリを置いて行くのはどうしても……」  「エリちゃんは自分がみる、というようにして——」  「とてもそんなこと……。主人や主人の両親が力ずくで奪《うば》って行くに決っていますわ」  何とも凄《すさま》じい家族である。——しかし、こういう夫婦も、決して少なくないのかもしれない、と治子は思った。  「よく我《が》慢《まん》しているわね」  心から治子は感心して言った。  「エリのためです。——あの子に悲しい思いをさせたくないと、それだけで、じっと堪えているんです」  治子は、何度も肯いた。  全く同情すべき立場と言う外はない。この邦子を利用するというのは多少気が咎《とが》めたが結局は本人のためにいいことなのだ、と自分に言い聞かせた。  しかし、ここまで堪えている邦子を、殺人にまで踏《ふ》み切らせるのは容易ではない。  憎《にく》しみも、あまり長く抑えつけられていると、そのエネルギーを失ってしまって、却《かえ》って、無気力な諦めだけが残るということになりかねないのだ。  もし邦子を殺人に踏み切らせるものがあるとすれば、それは娘のエリだけであろう……。  「——すみません」  邦子は少し落ち着いた様子で、「すっかり、私の愚痴ばかり聞いていただいて……」  「いいえ。話せば少しはすっきりするでしょう?」  「ええ、大分気が楽になりました」  「よかったわ、役に立って」  と、治子は微笑んだ。    「思い切って出て来てよかったでしょう」  と治子は言った。  「ええ、本当に」  邦子の顔には、珍しく明るい笑みが浮んでいた。  日曜日の遊園地である。  治子は邦子を誘《さそ》って、それぞれ由美とエリを連れてやって来た。——どこも大変な混雑だが、子供たちにはそれもまた楽しいようだった。  「ねえ、もう一回、今のに乗りたい!」  とエリと由美が一緒になって、叫《さけ》びながら走って来る。  「いいわよ。はい、これで乗ってらっしゃいね」  治子は由美へ千円札を渡した。「乗り物券を買うのよ」  「はーい」  二人が競って駆け出して行く。  「あの子があんなに楽しそうにしているのは、初めて見ました」  と、邦子は目を細くした。  「いいわね。子供らしさがあるわ。——ああでなくてはね」  と治子は言った。  散《さん》々《ざん》遊んで、昼はハンバーガーをペロリと平らげた。  「さ、少し休みましょう」  と治子は言った。「池の方で休《きゆう》憩《けい》ね。それからまた遊びましょ」  二人がまた手をつないで、池の方へと走って行く。  「気を付けて! 池に落ちるわよ」  と治子は叫んだ。  「あの——すみません。ちょっと主人へ電話して来たいんですけど……」  と邦子が言った。  「ええ、どうぞ。私がみてるから大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》よ」  「お願いします。昼頃《ごろ》までに帰ると言って来てしまったので」  「行って来なさいよ」  「よろしく。すぐ戻りますから……」  と言って、邦子が電話を捜《さが》して歩いて行く。その姿はたちまち人ごみに紛《まぎ》れて見えなくなった。  治子は池の方へゆっくり歩いて行った。木立ちに囲まれた池と、遊歩道。少し低い場所にあって、目につかないせいか、ここばかりは、あまり人の姿がない。  由美とエリは、どこから見付けて来たのか長い枝で池の中を突《つ》っついている。二人が、段々と離れて、互《たが》いに勝手に夢《む》中《ちゆう》になっている。  治子は振り向いた。もちろん邦子が帰って来る様子はない。  治子は木立ちの間を抜《ぬ》けて、足音を殺しながら、進んで行った。  エリが、身を乗り出すようにして、枝で、水をかき回している。由美はずっと遠く、ほとんど池の反対側へ行ってしまっていた。  治子は素早く周囲を見回した。——そして前へ進み出ると同時に、エリの背中を突き飛ばした。    「おい」  と山尾が顔を上げた。「お向いさん、だいぶひどいじゃないか」  「ねえ」  治子が肯《うなず》いた。「よく説明して来たんだけど……」  松井の家から、松井の怒《ど》鳴《な》る声、エリの泣く声が聞えて来るのだ。  「悪いことしちゃったわ。誘って、却《かえ》ってあんなことになるなんてね」  「何をあんなに怒鳴ってるんだ?」  「要するに、そばについていなかったのが悪いということなのよ」  「ふーん。それにしても、あんなに怒らなくても良さそうなもんだ」  「ひどいわね。水に落ちただけで、別にけがしたってわけでもないのに……」  「全くだな」  と、山尾は、顔をしかめた。  山尾はもちろん妻や娘に手を上げたことなど、一度もない。  「あの奥さん、よく我慢してるわ」  「そうだなあ」  「そのうち、何か起きなきゃいいけど……」  と治子が言うと、山尾は、  「何か、って?」  と訊いた。  「ううん、別に……」  治子はあわてて首を振った。    その夜、山尾は珍しく治子を抱《だ》いた。——大体が至って淡白な男で、由美のできたのが不思議なくらいだったのだが、特にこのところは、何か月か妻の体に触《ふ》れたことがなかった。  「——どうかしたの?」  と、治子はまだ少し息を弾《はず》ませながら、訊いた。  「何が?」  「いつもと違うから」  「そ、そうかい?」  山尾は少しびっくりした様子で、「別にいつも通りだぞ」  と言った。  「ごまかさないで」  「ごまかしちゃいない」  「分るわよ——どうしたの?」  山尾は大きく息をついた。  「色々考えたんだが……」  「辞表のこと?」  「ああ」  「出すのね」  「そのつもりだ」  「いつ?」  「一週間の休暇が終ったら、だな」  そう言ってから、山尾は急いで付け加えた。「生活のことは心配するな。ちゃんと考えてる」  「するな、と言ったって無理よ」  と治子は笑った。  「すまんな。——しかし、これしか仕方ないんだ」  「分ってるわ」  治子は身体を起こして、夫の唇《くちびる》へキスした。  「怒ってないのか?」  「どうして怒るの?」  「俺がふがいないばっかりに——」  「そんなことないわ」  と治子は遮《さえぎ》った。「あなたは、ちゃんとやれる人よ。自信さえ持てば」  「自信か」  と、山尾は苦々しく笑った。  「そう、自信よ」  「俺には自信を持つようなことは一つもないよ」  「そんなことないわ。今にきっとみんなを見返せるようになるわよ」  「今さら、そんなことをしたいとも思わないよ」  と山尾は言った。  いいえ、必ずできるわ。——治子は夫の胸に顔を埋《う》めながら、心の中で、そう呟《つぶや》いていた。        3  松井邦子の、夫への殺意を煽《あお》り立てるにも、その時間がなくなって来た。  この一週間の休みが過ぎたら、辞表を出すという夫の決意は固いようだ。——ということは、あと三日しか時間がないということなのだ。何か、よほど思い切った手を打つ必要がある。  治子は、午後に、邦子を訪ねて行こうと思った。——山尾は、決心がついて気が楽になったのか、朝から、映画を見に出かけていた。  この数日間で初めて、治子は夫の屈《くつ》託《たく》ない笑顔を見たような気がした。後のことはともかく、一つの踏ん切りをつけたことに、やはり中《ちゆう》途《と》半《はん》端《ぱ》を脱した快さがあったのだろう。  治子は昼過ぎに、向いの家へ足を運んだ。  「あ、山尾さん」  出て来た邦子は、思いのほか楽しげな表情をしていた。「どうぞお上り下さい」  「ごめんなさいね。——昨夜は大変だったでしょう」  「お騒がせして申し訳ありません」  「そんなこといいけど、大丈夫だったの?」  「ちょっと殴られましたけど、もう慣れているので」  邦子は、どこか超然とした雰《ふん》囲《い》気《き》を漂《ただよ》わせていた。治子は面食らった。  泣きながら苦労を訴えつづけていた邦子とは別人のようだ。  お茶を淹《い》れて来ると、自分もゆっくりとすすって、  「またそのうち、一緒に遊びに行きましょう」  と言い出した。  「でもご主人は——」  「主人はいいんです」  と邦子は言った。  「いい、って……」  「もう主人のことは気にしないことにしたんです」  「そう言ったって……」  「ええ、それは色々と気になりますけれど、私がくよくよとして泣いていては、夫が、いじめがいがあると喜ぶだけですもの。もう気にしないことにしたんです」  治子は、思いがけない成り行きに、呆《あつ》気《け》に取られていた。邦子がこうも悟《さと》り切ってしまうとは、思ってもいなかったのだ。  これでは計画が台無しではないか。  そのとき、電話が鳴った。  「失礼します」  と立って行った邦子は受話器を取った。  「はい、松井でございます。——はい、どうもいつもお世話になりまして。——え?——主人がですか?」  と意外そうな声。治子はふと顔を向けた。  「いえ、そんなことは……。いつも通りの時間に出ましたけれど。——はい。——分りました。どうもご迷《めい》惑《わく》をおかけしまして」  「ご主人がどうしたの?」  と、治子は訊いた。  「出社していないんですって」  と、邦子は言った。  「変ね。お出かけにはなったんでしょ?」  「ええ、そうです。いつも通りに」  「じゃあ……交通事故とか……」  「そんなことはないと思いますけど」  と、邦子はあっさりしたものである。  「でも、万一ということがあるでしょ。一応警察へ問い合せてみたら?」  「大丈夫、きっと女の家にでも行ってるんですわ」  「でも、会社をさぼってまで?」  「あの人なら不思議はありませんもの」  邦子には、警察へ届けるつもりは、さらさらないようだった。  「——昨日は——だいぶひどかったようじゃない?」  治子は探るように訊いてみた。  「ええ、でも、もう大丈夫です」  治子は、邦子の晴れやかな顔をじっと見つめて、  「どういう意味?」  と訊いた。  「あの人、もうそんなに暴力は振るわないと思いますわ」  邦子は自信ありげに言った。  治子は、邦子が松井がどこにいるか知っているのだ、と直感的に思った。いくら、愛していない夫であっても、会社へ出ていないというのは、まともな事態ではない。それを全く気にしないというのは、もともとそれを承知していたのだとしか思えない……。  「それなら、よかったわね」  我ながら妙《みよう》な切り上げ方だとは思ったが、急に落ち着かない気分になって、治子は席を立った。  「あら、お帰りですか?」  「ええ、ちょっと用を思い出したものだから、失礼するわ」  下《へ》手《た》な言い訳に冷《ひや》汗《あせ》をかきながら、治子は家へ戻った。  一体、何があったのだろう?  たった一夜の間に、邦子はどうしてああも変ってしまったのか……。  あれこれと考えているうちに、由美が帰って来た。  「ただいま。エリちゃんとこに行っていいかしら?」  「いいけど——あちらはいいの?」  「うん。いつでも遊びにおいでって」  「いつでも……」  「エリちゃんのママが今、そう言ってたんだよ」  由美が階段を駆け上って行く。——治子は叱《しか》りつけるのすら忘れていた。  「ね、由美——」  降りて来て玄関から飛び出そうとしている由美へ、「エリちゃん、パパのことを何か言ってた?」  「うちのパパ?」  「違うわよ」  と治子は笑って、「エリちゃんのパパのことよ」  「別に」  と由美は言った。「——あ、今《け》朝《さ》、ずいぶん早く出かけたって言ってたっけ」  「ずいぶん早く?」  「ウン、いつもはエリちゃんより出るのが遅いんだって。でも、今朝は起きたらもういなかったって言ってたわ」  「——そう。分ったわ」  と治子は肯いた。  「じゃ、行って来るね」  由美は飛び出して行く。——治子は、遅くならないで、と言うのも忘れていた。    「向いのご主人が?」  山尾は、読みかけの週刊誌から目を上げて訊いた。  「ええ、家は出たのに出社してないんですって」  「交通事故か何かじゃないのか?」  「そう私も言ったんだけど……」  「どうだって?」  「そんなことない、って笑ってるだけなのよ。あの奥さん、何だか変だわ」  「考えすぎだよ」  と、山尾は笑った。  「そうかしら……。でも、何だか様子がおかしいのよ」  「何があったっていうんだい?」  「ご主人が急にいなくなるなんて。——おかしいと思わない?」  「ああいうご主人だ。そう不思議じゃあるまい」  そうなのだ。一日ぐらい家を空けても、別に珍しいことではないだろう。それは分っているのだが、なぜか治子には気にかかる。  ——由美が、七時近くになっても帰って来ないので、治子は迎《むか》えに行った。  「まあすみません」  と、邦子が出て来て、「由美ちゃん、今一緒にご飯を食べていますの」  「まあ、ご迷惑じゃないの?」  「いいえ、エリも、二人の方が喜ぶし。構いませんでしょう?」  「ええ、それは……。ご主人はお戻りになったの?」  「いいえ」  と邦子は首を振った。「あの人はいつも遅いからいいんです」  「出社なさってないとか言ってたでしょ。連《れん》絡《らく》ついたの?」  「え?」  邦子はちょっと戸《と》惑《まど》った様子で、「ああ、あのことですか、ええ、主人から休むと会社へ電話が行ったそうですわ」  「まあ、それじゃ——」  「やっぱり女の家へでも行ってるんでしょうね。きっと」  「そう。それなら……」  由美が出て来た。  「ママ、ご飯食べて行くよ!」  「お行儀よくいただくのよ」  「はーい」  由美が奥へ戻って行く。  「じゃ、食べ終ったら帰して下さいね」  「はい、確かに」  治子が表へ出ようとしたとき、電話の鳴るのが聞えた。  「じゃ、失礼します」  邦子が奥へ入って行く。  治子は、表へ出ようとして、その場から動けなかった。人の電話を立ち聞きするというのは、何とも趣《しゆ》味《み》の悪いことだが、どうしても、外へ出てドアを閉める気になれなかった……。  「はい、松井でございます」  と、邦子の声が聞えて来る。「——あら、どうも。何かご用?」  邦子の声が急に冷ややかになった。  「——主人が? そんなこと知らないわ。——あなたの方が、よほどよくご存知のはずじゃなくって」  どうやら、松井の愛人からの電話らしい。  「主人がそっちへ行かないからって、私のせいじゃないわ。——あなたに愛想つかしたんじゃなくって? それじゃ」  邦子が電話を切る。  治子は急いで玄関のドアをそっと開けて、外へ出た。  ——由美は、結局八時頃になって戻って来た。  「エリちゃんのパパ、帰って来た?」  と治子は訊いた。  「ううん、まだだったよ」  「そう。——いつも遅いのね」  「帰って来ないんじゃない?」  治子は驚《おどろ》いて、  「どうして?」  と訊いた。  「だって、エリちゃんのママが、早くお風《ふ》呂《ろ》に入って寝《ね》ましょう、って言ってたもの」  由美が二階へ行くと、治子は台所で、ぼんやりと考え込んだ。  あの邦子の変りようは、ただごとではない。——何かあったのだ。  松井がいない。本当に会社へ連絡が入ったのだろうか? 電話は、本人がかけたとは限るまい。  治子は、はっきりと疑惑を見極めることにした。——つまり、邦子はもう夫を殺してしまったのではないか、ということだ。  それ自体は、治子の計画でもあったのだから、別に困ることでもなかったのだが、しかしこうも突然に起るとは予期していなかったのだ。  それに、邦子の反応が、全く予想と違っていたことが、治子を戸惑わせた。もちろん、邦子が本当に夫を殺したと仮定しての話であるが。  治子は、邦子がもっと打ちひしがれ、呆《ぼう》然《ぜん》自失してしまうだろうと思っていた。しかし今の邦子は——開き直りというのか、見違えるように度胸が座って、全く別人のようである。  まさか邦子があんな風に落ち着き払っていようとは、治子は予想もしなかった。  本当に、邦子は夫を殺したのだろうか? それとも、治子の思い過しなのか……。  いずれにしても、邦子にとって、何か重大なことが起こったのは事実だ。あんな風に、一日にして人間は変るものではない。  それは一体何だったのか?  「——おい」  急に声をかけられて、治子はびっくりした。  「あら、あなたなの」  「どうしたんだ」  「いえ、別に。——何なの?」  「電話だって呼んだのに、さっぱり返事をしないから……」  「呼んだの? ごめんなさい」  「PTAのことだってさ」  「はい」  急いで電話へと走る。——一緒に役員をやっている西《にし》田《だ》哲《てつ》子《こ》という主婦である。  「——はい、じゃ十一時ね。分りました」  と、治子はメモを取った。「わざわざどうも」  「ああ、それからねえ——」  と、西田哲子が少し声を低くした。  「何かしら?」  これまでは公の話、ここからは私用、という声音である。  「松井エリちゃんのお宅って、そちらの近くだったかしら」  「向いの家よ。どうして?」  「ご主人、どうかしたの?」  治子はちょっと緊《きん》張《ちよう》した。  「何かあったの?」  「私は、よく分らないんだけど——」  と、西田哲子はためらって、「うちの子がね、何かエリちゃんが、言ってた、っていうもんだから……」  「何か言ってたって?」  「お父さんが出て行っちゃったとか、って……」  「出て行った?」  「そう。まあ子供の言うことだからねえ、よく分らないけど」  「知らなかったわ。全然聞いてないの」  「そう」  西田哲子は残念そうだった。どちらかといえば、この方が電話した理由なのだろう。  「何か分ったら教えるわ」  と治子は言った。  「お願いね。それじゃ——」  治子は電話を切った。  松井が出て行った。そんなことがあるだろうか?  「どうかしたのか?」  居間へ入って行くと、山尾が訊いた。  「いいえ。——ちょっと疲れてるのよ」  と治子は言った。  まだ夫に言うのは早い、いくら何でも、こんなに曖《あい》昧《まい》な話では……。  もう少し、はっきりした返事をつかまえなくては、どうにもなるまい。  「お風呂に入る?」  「ああ、そうしよう」  治子が立ち上ったとき、表で、騒ぎが起った。「何かしら?」  女のかん高い叫び声、ヒステリックに喚《わめ》く声……。  「表だな」  と山尾は立ち上った。「覗《のぞ》いてみよう」  「私も」  山尾と治子が玄関を開いて、外へ出る。  松井の家の前で、女同士が激《はげ》しく言い争っているのだった。  一人は邦子で、もう一人は、見たことのない女だった。邦子より少し若いが、派手な感じの女である。  しかし、もっぱら騒ぎ立てているのは、若い女の方で、邦子は冷静に相対しているようだった。  「あの人に会わせてよ! このままじゃ済まさないからね!」  と女がかみつきそうに言った。  「どうでも、お好きなように」  と邦子は冷ややかだ。「どう言われたって、いない人には会わせられません」  「どこに行ったのよ!」  「私は知りませんわ。黙って出て行ったんです」  「フン、いい加減なこと言ってると後で後《こう》悔《かい》するわよ」  「あんまり下品な口をきかないで下さい」  「何よ、下品だって?」  「上品だと自分でも思わないでしょ」  「言ったわね、この……」  と、女の方は掴《つか》みかからんばかりの勢いだ。治子は、  「ねえ、止めないと」  と夫をつついた。一応、警察官である。  「うん……」  山尾はためらっている。「どうもなあ……。これは捜査一課の仕事じゃないし」  「そんなこと関係ないでしょ」  と治子が言った。「けがでもしたらどうするの」  そのとき、タクシーが一台、走って来て、邦子たちの前で停《とま》った。  「あら、お義《か》母《あ》さま」  と邦子が目を見張った。  タクシーから降り立ったのは、六十歳前後の、やせた、和服姿の婦人だった。  「邦子さん、伝言を聞きましたよ」  どうやら、松井の母親らしい。  「わざわざおいで下さらなくても——」  「そうはいきませんよ」  と、その老婦人は、きつい口調で言った。これが姑《しゆうとめ》では、結婚も考えてしまうというタイプである。  「あの子がどこへ行ったか分らないんですか?」  「お義《か》母《あ》さまの方がご存知かと思いましたけれど」  「それはどういう意味?」  「いいえ、別に。——主人はいつもお義母さまにはよく電話しておりますから」  「当然ですよ。親子ですからね。でも今回は一言の相談もなしよ。おかしいわ。そんなことは考えられません」  そう言ってから、老婦人は、そばで口を尖《とが》らしている若い方の女に気付いた。  「——この人は?」  「主人のお友達です」  「ふん、あの子の好みじゃないわね」  これに、ますます女の方がカッカと来たらしい。  「何言ってんのよ! 私はね、あの人ともう二年の仲なんだよ! この女《によう》房《ぼう》が味も素気もない奴だから、ってんで私の所へ来てたんじゃないか!」  「邦子さん」  と老婦人は言った。「犬は吠《ほ》えさせておいて、中でお話ししましょう」  女が顔を真赤にして、怒りのあまり言葉が出てこないうちに、邦子と義母の二人は、さっさと家の中へ入ってしまった。  「憶《おぼ》えてらっしゃい! この……」  と、女は手を振り回しながら怒鳴った。  治子は道へ出ると、  「あの、ちょっと——」  と声をかけた。  「何よ!」  と、かみつきそうな勢いに、治子は足を止めた。  「向かいの者なんですけど……」  「フン、さぞ楽しんだでしょ。見物料をもらうわよ」  「こちらのご主人、出て行かれたんですの?」  「女房がそう言ってるだけ。嘘《うそ》に決まってるわよ」  「それじゃ、どうしたと——」  「あの女が殺して床《ゆか》下《した》にでも埋《う》めたのよ、きっと」  治子はギョッとした。  「まさか!」  女は少し落ち着いた様子で、  「変なのよ。——だって、そんな様子、まるでなかったのに、そうでしょ? 自分の家よ、養子ってわけでもなし、出て行く理由がないじゃないの」  「そんな話はまるでしていなかったんですね?」  「もちろんよ。今日だって帰りに私の所に寄ると言ってたのに……」  「何かあったんですの?」  「今まで、来られないときは必ず電話して来たのよね。だから待っていたら、全然でしょ。で、こっちからかけてやったのよ」  「奥さんに?」  「いつもかけてんだもの」  この女の方もかなりの神経だ。「そうしたら、あの女房が、えらく生意気な口をきくから、頭に来ちゃったのよ」  女はその辺の小石を思い切りけとばして歩いて行った。  「どうなってるんだ?」  山尾が道へ出て来て首をひねった。  「ともかく……松井さんのご主人が、行方不明っていうわけね」  「心配だな、そいつは」  山尾は大して興味もないようだ。「中へ入ろう」  玄関のドアを閉めながら、治子は言った。  「ねえ、もし本当に松井さんが殺されてたら——」  「おい、妙なこと言い出すなよ」  山尾がびっくりした様子で、「そんなことが噂《うわさ》にでもなってみろ、大変だぞ」  「だって、あり得ないことじゃないでしょう」  と、治子は言った。  「そうそう人殺しなんてあるもんじゃないさ」  と、山尾は笑って言った。  そうかしら。——本当に、松井は殺されたのではないか。治子は、ほとんどそれを確信していた。        4  二日たった。  山尾は、休暇も今日で最後というので、  「職捜しを兼ねて友人の所へ行ってくるよ」  と、朝から出かけて行った。  松井はまだ戻っていないようだ。  近所ではすっかり噂《うわさ》が広まっていたが、それは、松井が蒸発したという内容で、殺されたというのではなかった。  実際、松井という男のことを多少とも知っていなければ、治子も、蒸発と考えたかもしれない。——邦子は相変らずいつもの通り平静で、変りなく振る舞っていた。  治子は、朝のうちに洗《せん》濯《たく》したものを、かかえて二階のベランダへ上った。  今日はいい天気になりそうだった。  洗濯物を並べて干していると、つい、目が向いの松井の家へ向いてしまう。このベランダからは、ちょうど、松井の家の庭が少し見えるのだ。  邦子が、庭へ出ていた。シャベルを手にして、穴を掘《ほ》っているのか埋めているのか……。どうやら土を平らにならしているようだ。  本当に不思議な女である。——それにしても、松井は一体どうしてしまったのか。  掃《そう》除《じ》も終って一段落すると、治子はどうにも落ち着かなくなった。行けば歓《かん》迎《げい》されるという確信はなかったが、それでも、行きたいという気持を押《おさ》えることはできなかった。  「——お邪魔かしら?」  「あら、山尾さん、どうぞ」  「いい? お忙《いそが》しければ」  「いいえ。——三十分ほどしたら出かけますけど、それまでは暇《ひま》ですの」  治子は、居間に落ち着くと、  「ご主人から何か連絡はあって?」  と訊いた。  「いいえ、一向に」  邦子は紅茶を出して、「出て行ったんですもの。連絡して来ないでしょう」  「心配ね」  邦子はちょっと笑って、  「ちっとも。だって、ご存知の通りの夫ですもの。いない方がこっちはずっと楽ですわ」  「そう? でも、ご主人のお母さんなんか、うるさくない?」  「いくら言われたって、知らないものは返事のしようがありませんものね」  邦子は、タバコを取り出すと、火を点《つ》けた。治子は驚いて、  「まあ、タバコを喫《す》うの?」  と言った。  「ええ。少し羽根をのばすことにしたんです。今まで自分を殺しすぎていましたもの」  邦子は煙を気持よげに吹《ふ》き出した。  「ご主人……本当に蒸発したのかしら?」  と治子は言った。  「それじゃ何だと?」  「いえ、つまり、事故とか……」  「どこかで殺されている、とか?」  邦子は微《び》笑《しよう》した。「そう思ってらっしゃるんでしょ?」  「私は別に——」  「隠《かく》さないで、顔に書いてありますよ。私が夫を殺した。そう思ってらっしゃるんでしょう?」  治子は何とも言わなかった。邦子はゆっくりとソファにもたれた。  「本当に私が殺したとしたら?」  治子は笑おうとしたが、顔がひきつったように歪《ゆが》んだだけだった。——邦子が、突然弾《はじ》けるように笑い出した。  「じゃ、私、出かけて来ますわ」  とタバコを押《おし》潰《つぶ》して、「よろしかったら、ここにいらして下さいません? エリが帰るまでに戻れるかどうか分りませんの」  「え、ええ……。それはいいけど……」  「じゃ、よろしく。どうぞご自由になさっていて下さいね」  一《いつ》旦《たん》姿を消すと、邦子は、すぐにびっくりするような派手な服《ふく》装《そう》で現れた。そして、足早に玄関へ出て、一言も言わずに出かけて行ってしまった。  治子は、体中で息をついた。——あれが同じ邦子だろうか?  まるで別人を見るようだった。あれが実像なのだろうか? あの、憐《あわれ》みを誘うような、じっと堪え忍《しの》ぶ女は、演技にすぎなかったのか。  治子は立ち上って、庭を眺めた。——シャベルが、塀《へい》に立てかけてある。庭の一角が、何かを埋めたように、少し盛《も》り上っていた。  あそこに死体が?——まさか!  いくら何でも、そんな大《だい》胆《たん》なことはしないだろう。庭に死体を埋めるなんて、そんなことをすれば、すぐに見付かってしまう。  しかし……果してそうだろうか? 亭《てい》主《しゆ》が蒸発したからといって、その家の庭を掘り返したりするものかどうか。  治子は、玄関の方へ耳を澄《す》ましてから、そっと庭へ出てみた。  しかし、もしあそこに死体が埋っているとしたら、治子を一人で残して出かけたりするだろうか?  おまけに、おあつらえ向きにシャベルまで置いて、まるで掘ってくれと言わんばかりではないか。——いくら邦子が大胆だといっても、そこまでやるだろうか?  自分でもよく分らないうちに、治子はサンダルを引っかけ、庭へ出ていた。シャベルを取り、柔《やわ》らかい土の盛り上りへ突き立てる。思いのほか、深くまで入った。力を込めて土を持ち上げる。もう一掘り、もう一度、もう一度……。治子の額に、汗が浮かんだ。    洗面所で、治子は手を洗った。湯を出して、石ケンでていねいに洗っても、爪《つめ》の間に入った土は落ちない。  「いやだわ、全く」  と呟《つぶや》く。——馬《ば》鹿《か》をみたというのはこのことだ。掘って出て来たのは、ただの生ゴミだった。  どうしてあんな物を埋めたりするんだろう? 人を馬鹿にしてる!  「ただいま」  と玄関に声がした。  「あら、エリちゃん」  「ママは?」  「ちょっとお出かけ。——由美は一緒だった?」  「ウン」  「じゃ、一緒に遊んでてちょうだい。表にいていいから」  「はーい」  エリが出て行こうとする。  「エリちゃん」  と治子は呼び止めた。「パパから、何か言って来た?」  「ううん。何も」  「寂《さび》しくない?」  「別に、パパいなくても平気」  「そう」  治子はつい笑った。「ママのこと、好き?」  「好きだよ」  「よかったわね、ママが楽しそうで」  「うん。遊びに行って来るね」  「はい、行ってらっしゃい」  エリは出て行こうとして振り向くと、  「おじちゃんも好きだよ」  と言った。  おじちゃん?——治子は、エリが行ってしまった後、考えた。「おじちゃん」というのは誰のことだろう?  男か。——つまり、邦子には、もともと男がいたのかもしれない。それも不思議ではない。夫がああして女にうつつを抜かしているのだ。彼女の方も、他の男へ心が移っていたのだろう。  すると、松井を殺したのも——殺されているとしたら——その男なのかもしれない。二人で共《きよう》謀《ぼう》して松井を殺して……。  どうも、邦子が、同情すべき悲劇のヒロインから、徐《じよ》々《じよ》に悪女へと変《へん》貌《ぼう》して行くようだ。しかし、それならそれで、夫に彼女を逮捕させるのに、気が咎《とが》めもせずに済むというものである。  少しぐらい留守にしても構《かま》うまい、と思った。治子は自分の家へと戻った。エリと由美の姿は見えない。どこか公園にでも行って遊んでいるのだろう。  玄関の鍵《かぎ》が開いているのにびっくりした。夫の靴がある。  「あなた」  と呼びながら上ると、寝《しん》室《しつ》の方から、山尾が出て来た。  「どこへ行ってたんだ?」  「お向いよ。あなた、ずいぶん早いじゃないの」  「ちょっと忘れ物さ」  「呆《あき》れた。これからなの?」  「そう、人に会うんだ。じゃ出て来る」  「はい」  「おい、その手は?」  と山尾は治子の手に目を止めた。  「え?」  「爪の間に土が入ってるぞ」  「ああ……。これ、ちょっとあちらのお宅で土をいじってたもんだから」  まさか死体を捜《さが》していたとも言えない。見付けたのが、生ゴミだけでは話にならない。  「ふーん。じゃ、ともかく行って来る」  「ええ。帰りは遅い?」  「分らんな。電話するよ」  山尾が出かけて行くと、治子は、穴掘りの労働で少々疲れたのか、欠伸《あくび》が出た。  もう邦子も帰って来るだろうし……。  治子はソファで少し身を縮めて、横になった。少し目をつぶっていれば、体が楽になる。ほんの少し……。    いつしか眠《ねむ》り込んでいたようだ。治子は玄関のチャイムがせわしげに鳴るのに目を覚まされた。  きっと由美たちだわ。治子は起き上がると、  「はーい」  と間のびした声を出して、出て行った。  「——あら」  玄関を開けると、林刑事の顔があった。  「林さん。どうもお久しぶり——」  言葉が途《と》切《ぎ》れたのは、他《ほか》にも何人かの刑事が並んでいて、どの顔も、ただごとならぬ緊《きん》張《ちよう》にこわばっていたからだった。  「何か?」  「奥さん、誠に恐《おそ》れ入りますが、お宅の中を調べさせて下さい」  「うちの?」  唖《あ》然《ぜん》としているうちに、刑事や警官たちがドカドカ上り込んで行く。  「何事ですか? 一体、どういう——」  「ありました!」  と声がする、寝室の方だ。  治子は急いで入って行った。林が、ハンカチの上にのった物を見せた。  「奥さん、これに見憶えは?」  ナイフだ。刃《は》に黒いものがこびりついているのは、血らしかった。  「知りません! そんな物、見たこともないわ」  「向かいの家へ行きましょう」  林は治子の腕《うで》をつかんだ。  「どういうことなの? 林さん、説明して!」  林が治子の手を見て足を止めた。  「爪の間に土が入っていますよ」  「これは……ちょっと土いじりをして」  「おい、土を出して封《ふう》筒《とう》へ入れておけ」  と、林が若い刑事へ命じた。「済んだら向いの家へ連れて来てくれ」  治子は、これが現実とは信じられなかった。夢《ゆめ》だ。きっと夢なのだ。  若い刑事が、治子の爪の間の土を、針の先で、封筒の中へかき落とした。  それが済むと、治子は、松井の家へと連れて行かれた。  「これはどういうこと?」  やっと腹が立って来て、治子は、林をつかまえて訊いた。「まるで私を犯人扱《あつか》いじゃないの!」  林は答えずに庭の方を見ていた。——治子が目を向けると、警官が、さっき治子の掘ったところを掘り返している。  「何をしてるの?」  と治子は訊いた。  「松井という男をご存知ですね」  「ええ。ここのご主人でしょう」  「殺されているらしいという情報が入りましてね」  「殺されて……」  治子は唖然とした。「それで、私が殺したとでも?」  「奥さんと松井が関係していたという証言があったのです」  「何ですって?」  「その仲がもつれて……」  「馬鹿らしい!」  「それにここを奥さんが掘っているという目撃者もいましてね」  「それは——」  と言いかけて、治子は口をつぐんだ。「掘るといいわ。さぞいいものが出て来るでしょうよ」  男三人がかりなので、たちまち穴が大きくなる。——その手が止った。  「何かあります!」  「よし」  刑事たちが駆け寄る。治子はフンと鼻で笑って、  「生ゴミが重大な手《て》懸《がか》りなのかしら」  と呟いた。  全く、何という馬鹿げた話だろう。一体誰が、そんな情報を売り込んだのか?  しかし、あのナイフは? 血のついていたナイフ。それがなぜ寝室にあったのか。  誰かが罪を着せようとしているのかもしれない。  「奥さん」  と林が呼んだ。「来て下さい」  「はい」  治子はサンダルを引っかけ、歩いて行った。そして見えない壁《かべ》に突《つ》き当ったかのように、足を止めた。  土の中から、男の手が覗いている。  治子はよろけ、倒《たお》れそうになった。  「そんな……そんな馬鹿な! 確かに……確かに何もなかったのよ!」  林の腕が、がっちりと治子の体をつかんでいる。    「治子……」  山尾が言った。「お前、本当に——」  「違うわ。あんな男と私が……」  治子は頭を思い切り振った。  自分の家の居間だったが、まるで、納骨堂さながらの、重苦しい雰《ふん》囲《い》気《き》に、押《お》し潰《つぶ》されそうだった。  「奥さんは——」  と林刑事が辛《つら》そうに言った。「松井を殺した上で、松井の奥さんに罪を着せようとして、留守の間にあそこへ死体を埋めておいたのです。凶器のナイフをどこかへ置いて来るつもりだったのでしょうが、穴掘りに疲れて、休んでいるうちに寝込んでしまった。そこへ我々が踏み込んだわけです」  「違うわ! 私じゃない!」  治子は叫ぶように言った。  「ともかく、ご同行願うことになります」  治子は夫を見た。——何ということか。犯人を夫に逮捕させるつもりでいたのに、自分が逮捕されようとは。  「お前を信じているよ」  山尾は治子の手を握《にぎ》った。「ともかく、一緒に行こう」  「山尾さん、それはちょっと……」  と林が言った。「ちゃんと面会の手続きを取っていただかないと」  治子は、やや自分を取り戻していた。  「私は大丈夫。——あなた、由美のことをお願い」  「しかし……」  「すぐに疑いが晴れるわよ。林さんが手をついて謝ってくれるわ」  「そうだな」  山尾は、弱々しく微笑んだ。  「じゃ、奥さん」  「林さん」  「何です?」  「松井邦子さんは?」  「さっき戻って来ましたよ」  「犯人は彼女だわ」  「そうですか」  「あの人はご主人を憎んでいたのよ」  「それじゃ、なぜ奥さんはあの庭を掘ったんです?」  治子は詰《つ》まった。——罠《わな》だ。最初からそのつもりで、邦子は自分にあれこれと話をしたのかもしれない。  何かあるはずだ。何か助かる道が。  林に腕を取られて、治子は表へ出た。  一《いつ》瞬《しゆん》たじろいだのは、近所の人々が大勢集っていたからだった。  「さあ」  促《うなが》されて、治子はじっと目を正面へ向けたままパトカーの方へ歩いて行く。  松井邦子と目が合った。——邦子の唇に、わずかに笑みが浮かんだが、それもすぐに消えて、夫の死体を見せられた、黒服の未亡人の哀《かな》しげな表情に戻った。  「ママ」  由美が、エリと一緒に走って来た。「どうしたの?」  「ちょっとご用があるの。——いい子にしててね」  と、治子は言った。エリが、ふと玄関に立っていた山尾の方を見た。  「あ、おじちゃんだ」  治子は夫を見た。——夫の顔に当惑の表情が浮かんだ。治子はエリの方へ、  「あの人が、〈おじちゃん〉?」  と訊いた。  「そうだよ。この間、ママと二人でいる所、見ちゃったもん」  山尾があわてた様子で家へ入って行く。  林刑事が、治子に代ってエリへ訊いた。  「今のおじさんが、君のママと仲良しだったの?」  「そうだよ。前にも来てた。こっそり会ってるけど、エリ、知ってるんだ」  林は厳しい表情で松井邦子を見た。  夫が……。そうだったのか。松井邦子と関係して、松井を殺し、罪を治子へ着せようとしたのか……。  「どうやら、奥さんに謝ることになりましたね」  と、林は言った。そして、山尾の後から、玄関を入って行った。  治子は、呆《ぼう》然《ぜん》として突っ立っていた。そして、  「こんなはずじゃなかったのに……」  ポツリと呟《つぶや》いた。    三《み》毛《け》猫《ねこ》ホームズの水泳教室        1  「今夜は遅《おそ》いな……」  腕《うで》時《ど》計《けい》を見て、汐《しお》見《み》は呟《つぶや》いた。いつもなら八時半には姿を見せるのに、今日はもう五分で九時になるところだ。  汐見はトレーナー姿のまま管理室を出ると、ロッカールームを抜《ぬ》けて、裏口から表へ出た。  初夏といっても、やっと六月に入ったばかりで、陽《ひ》が落ちると、まだ時折涼しい風が吹《ふ》く。裏口を出ると、そこは汐見の勤めている〈Nスイミング・クラブ〉専用の駐《ちゆう》車《しや》場《じよう》になっていて、むろん今は汐見自身の小型車が一台、駐車してあるだけだ。  汐見はぶらぶらと駐車場を横切って、金《かな》網《あみ》の囲いの切れた出入口まで来ると、暗い、人通りのすっかり絶えた道を見やった。  彼女はいつもここからやって来る。——汐見はポケットからタバコを取り出して、百円ライターで火を点《つ》けた。  汐見は二十九歳《さい》。大学を出て、中学校の体育の教師をやっていたのだが、大学時代の恩師がこのスイミング・クラブを開設する時に誘《さそ》われて、教職を去ってここの指導員になった。二歳ぐらいのチビから脂《し》肪《ぼう》太りの中年女性までを相手に、一日中、  「はい、顔を水につけて……怖《こわ》くありませんよ」  などとやっているわけである。  仕事は大して面白くもなかったが、給料は教師の頃《ころ》よりも大分よかったので、さして不満もなく、気ままな独身の一人暮《ぐら》しを楽しんでいた。  独身生活、といえば……汐見も、その点については、いささか考える所がある。さっさと結《けつ》婚《こん》して、日曜日にも小さな子供を連れて、ブツブツこぼしながら遊園地や動物園を疲《つか》れた足で歩き回る友人たちを見ては、俺《おれ》はああはならないぞ、と自分に言い聞かせていた汐見であったが、現在は、少々心境に変化を来たしていた。  暗い夜道を近付いて来る足音が聞こえて、汐見は顔を上げた。タバコを投げ捨て、じっと目をこらすと、やがて「心境の変化」の原因が歩いて来るのが見えた。——彼に気付くと、広《ひろ》田《た》紀《き》美《み》子《こ》は足を早めて手を振《ふ》りながら、  「ごめんなさい!」  と声を上げた。  「——やあ、今夜は遅かったね」  と汐見は、ほっとしながら言った。  「クラブの子がお茶飲もうって誘うもんだから。あんまり断っても変に思われるでしょう?で、付き合ったら、ペラペラ一時間もしゃべってるんだもの。もう、イライラしちゃったわ」  「じゃ、すぐに始める?」  「ええ、そうするわ」  紀美子は肯《うなず》いた。二人は駐車場を横切って、裏口から中へ入って行った。  「今夜は三十分ぐらいね」  と紀美子は言った。「そうしないと、時間もなくなるし」  二人は顔を見合わせて微《ほほ》笑《え》んだ。汐見の胸がにわかにときめく……。  二人は、室内体操場を通り抜けて、プールの方へと急いだ。体操場には、マットだの、トランポリン、跳《とび》箱《ばこ》、といった簡単な道具が置いてある。プールへの扉《とびら》はその奥《おく》だった。  「ちょっと待って」  汐見はポケットから鍵《かぎ》束《たば》を出して、扉を開け、中の暗がりへと手をのばして、明りのスイッチを入れた。——一、二秒たって、目の前に広々とした空間が広がった。  ここには十五メートル、二十五メートルのプールが一つと、高飛び込み用のプール、それに子供用の浅いプールの三つがあった。むろん室内である。紀美子は腕時計を見て、  「今九時五分だから……。四十分になったら来て」  「分った。頑《がん》張《ば》れよ」  「ありがとう」  紀美子がニッコリして、それから、プールサイドを急ぎ足で、奥の更衣室へと歩いて行った。汐見はその後姿が更衣室の入口に消えるまで立って見送ってから、扉を閉じた。  広田紀美子は、この近くにあるT大学の二年生である。水泳部の自由型のホープと目されていて、大学選手権を一週間後に控《ひか》えて、毎日猛《もう》訓《くん》練《れん》が続いているわけなのだが、大学のプールが、学校側の都合で八時までしか使えない。そこで、通学路の途中にあるこのスイミング・クラブを訪れて来たのが、半月前の夜である。  後片付けをして、帰る支《し》度《たく》をしていた汐見は、彼女に、ここも七時までで閉めてしまうのだと説明した。  「そうですか……」  ひどく気落ちした様子で帰って行く紀美子の後姿を見て、汐見は自分でもわけの分らない衝《しよう》動《どう》に駆《か》られて、彼女を呼び止めていた。そして、七時過ぎにはどうせ自分一人しかいないのだから、こっそり使わせてあげるよ、と言っていたのである。  「助かります! ありがとう!」  顔を輝《かがや》かせてそう言った、その弾《はず》むような声を聞いた瞬《しゆん》間《かん》に、汐見はコロリと彼女に参ってしまった。そして、毎日、八時過ぎに彼女がやって来ると、十時頃《ごろ》まで一人で泳がせ、そして汐見が車で駅まで送って行くようになっていた。  このクラブと駅との間に、喫《きつ》茶《さ》店《てん》やスナックが挟《はさ》まるまでに三日とはかからなかった……。  汐見は、プールへの扉を閉じると、体操場を通り、管理室へ戻《もど》った。——今まで、恋《こい》をしたことがなかったわけではないが、今度のような気持になったのは初めてだ。  紀美子はまだ二十歳。顔立ちがあどけないので、十代にも見える。しかし体は発育が良く、すらりとして、小麦色に焼けていた。といって、あまり筋肉質な男のような体格ではなく、あくまでほっそりとした、女らしい体つきをしている。  管理室の椅《い》子《す》に座った汐見は、タバコに火を点けたものの、どうにも落ち着かなかった。今、紀美子は水着に着《き》替《が》えている。更衣室の中で裸《はだか》になっている(当り前だ!)。——そう考えただけで、脈《みやく》搏《はく》は一気に加速され、頬《ほお》は燃えて来るのだった。  もうすぐ三十にもなろうっていうのに、だらしない! そうは思ってみても、条件反射に近いこの発作だけは、どうにも抑《おさ》えようがないのである。  「やれやれ……」  汐見は立ち上ると、もう一度裏口から外へ出た。外気に触《ふ》れると、やっと少し落ち着いて来る。  手持ちぶさたなままに、自分の車へ乗るとカーラジオをつけた。軽快な音楽が流れ出して来る……。  広田紀美子は、静かに水へ入ると、ゆっくりと抜き手を切って泳ぎ出した。まるで膜《まく》が張ったように滑《なめ》らかだった水面に、波が広がって行く。誰《だれ》もいないプールで泳ぐというのは、まるで一国の女王にでもなったようで、紀美子にとっては何よりの楽しみだった。  いきなり全力で泳ぐのは、いくら慣れていても筋肉に悪い。紀美子は、無人のプールを、クロールで、平泳ぎで、また時には背泳で、まるで魚のように、自由自在に泳ぎ回った。そして体が水に馴《な》染《じ》んで来ると、初めて正規の練習に入った。  何度か往復して一息つくと、紀美子はプールから上った。——そして、高飛び込み台を見上げた。  紀美子がこのスイミング・クラブで泳ぎたいと思ったのは、一つにはこの高い飛び込み台のせいでもある。十メートルの台があるプールというのはなかなかない。紀美子は、自分では飛び込みをやりたかったのだが、ともかく部員としては部の方針に従わねばならず、こうして自由型の練習をしているのである。けれど自分の楽しみのためだけにでも、高飛び込みをやってみたかった。  汐見が、いつも彼女の気が散らないようにと一人にしておいてくれるので、紀美子は練習の合間に、時々飛び込み台からダイビングしていた。十メートルの高さからの飛び込みの爽《そう》快《かい》さはまた格別なのだ。  今夜はあまり時間がない——そう思うと、ますます飛び込みをやりたくなって来る。ちょっとためらったが、紀美子は急いで飛び込み台へと走って行った。  急いではしごを登って行く。台は五メートルと十メートルの二段になっていて、いつもは下から始めて、最後に上から飛ぶのだが、今日は上から一度飛び込むだけにしておこう、と紀美子は思った。  一気に十メートルを登りつめ、飛び込み台の上に立つ。この建物自体が縮んでしまったように見える。台の突《とつ》端《たん》に進んで、下を覗《のぞ》くと、正方形のプールが、ひどく小さく見えて、ちょっと力を入れて飛んだら、あそこの外に落ちるんじゃないか——と、そんな気持になる。むろん、そんなことがあり得ないのは百も承知だが、頭で分っているのと、感覚とは違《ちが》うのである。  ゾクゾクするような、まるで競泳の決勝を前にしたような緊《きん》張《ちよう》感が紀美子の体を貫いて走った。——十メートルの高さを落ちて行く間の、まるで宙に静止しているような、奇《き》妙《みよう》な感じが、彼女は大好きだった。  「今夜は一度だけだわ」  そう呟くと、紀美子は後向きになった。爪《つま》先《さき》だけで台の先端に立った。ゆっくりと体が後ろへ倒《たお》れて、まっすぐにのばした両足をかかえ込むようにすると、紀美子は十メートル下の水面へと空を切り始めた……。    「もう十時か」  片《かた》山《やま》はネクタイを外して、ため息と共に座り込んだ。「もう少し早く帰れるといいんだけどな……」  「仕方ないでしょ、お仕事なんだから」  と脱《ぬ》ぎ捨てた背広をハンガーへかけながら言ったのは、妹の晴《はる》美《み》である。「——夕ご飯は?」  「一応は食べたけど、またちょっと腹が減ったな。お茶《ちや》漬《づ》けか何かでいいよ」  「あんまり食べると太るわよ」  と言いながら、晴美は兄の茶《ちや》碗《わん》へご飯をよそった。  「なあに、普《ふ》通《つう》のサラリーマンなら太るかもしれないけど、警視庁捜《そう》査《さ》一課の刑《けい》事《じ》は、これぐらいじゃ太らない!」  片山は半ばやけ気味にお茶漬けをかっ込んだ。——片山義《よし》太《た》郎《ろう》、二十九歳。妹晴美、二十二歳。アパートに二人暮《ぐら》しである。いや二人プラス一匹……。  「ホームズは気楽でいいよ」  と片山はぼやいた。「寝《ね》たい時に寝て、起きたい時に起きて、別に誰に使われるわけでもなし、怒《ど》鳴《な》られるわけでもない」  「あら、でも猫《ねこ》には猫の悩《なや》みがあるのよ。ねえ、ホームズ」  ホームズ。三毛猫、メス。ひょんなことから、このアパートに同居することになった、ちょっと風変りな猫である。——晴美の言葉に、座《ざ》布《ぶ》団《とん》で丸くなっていたホームズは目を開いたが、別にただ聞き流しているだけ、といった目つきで、大きな欠伸《あくび》をした。  「ちぇっ、呑《のん》気《き》だなあ」  片山は笑いながら言った。  その時、電話が鳴った。晴美が出て、  「はい片山です。——え?——どなたですか?」  いぶかしげに兄の方を振り向いて、「お兄さん、電話」  「誰だい?」  「汐見さんっていう人」  「汐見? ああ、大学の時の——」  「何だか様子が変よ」  「変、って?」  「ずいぶん慌《あわ》ててるみたい」  「どうして?」  「『片山警部はいらっしゃいますか』って言ったわ」  片山は受話器を受け取った。  「はい、片山。——やあ、久しぶりだな。何だい、今頃。——え? 何だって?——しかしそれはすぐに——。そうか、分ったよ。——よし、すぐにそっちへ行く」  片山は受話器を置いた。「出かけて来る」  「あら、どこへ?」  「スイミング・クラブだ」  「ああ、それで慌ててたのね」  と晴美が肯く。片山は不思議そうに、  「何を言ってるんだ?」  「溺《おぼ》れかかってるから助けてくれ、って電話だったんでしょ?」  と、晴美は澄《す》まして言った。  片山はネクタイをしめ、また背広を着込んだ。  「女の死体があるんだとさ。——それ以上は会って話すっていうんだ。仕方ない。行ってくるよ」  すると、今まで眠《ねむ》そうにウツラウツラしていたホームズがふっと目を開いて立ち上り、前《まえ》肢《あし》を思い切りのばして、伸びをした。  「何だ、ホームズ、お前も来るのか?」  返事もせずに、ホームズはさっさと玄《げん》関《かん》へ行って、片山の来るのを待ち受けている。  「ホームズがついていれば安心だわ、私も」  と晴美が言った。  「何だか俺がよほど頼《たよ》りないみたいじゃないか」  と片山が不平を言うと、ホームズが、  「ぐずぐずするな!」  とでも言うように、「ニャーオ!」と、かん高く鳴いた。        2  「やあ、すまんな、こんな時間に」  〈Nスイミング・クラブ〉と看板のある建物の前で、汐見は待っていた。  「遅くなってすまん。タクシーの奴《やつ》が迷っちまって。——ところで、どうなってるんだい?」  片山は半信半疑の思いでここまでやって来たのだが、汐見の、青ざめた緊張にこわばった顔つきを見ると、冗《じよう》談《だん》でも何でもないのだと知った。  「それが……とんでもないことになっちまったんだ」  「女が死んでるって?」  「ああ、ともかく中へ入ってくれ」  と歩きかけて片山の足下のホームズに気付いた。「その猫は?」  「ホームズというんだ。僕の相棒でね。まあ、気にしないでくれ。それじゃ中へ……」  「うん。裏から入ろう」  二人と一匹は建物のわきの狭い道をぐるりと回って、裏手の駐車場へ出ると、裏口から中へ入った。  管理室、体操場を抜け、汐見がプールへの扉を開けた。  「ここなんだ」  片山は中へ入って、広々としたプールを見《み》渡《わた》した。  「立派なもんだな! いくつあるんだ?」  「二十五と十五のプール一つと、高飛び込み用、それに子供用。全部で三つある」  「立派じゃないか。——それで、問題の死体っていうのは?」  「来てくれ」  汐見がこわばった声で言うと、先に立って、競泳用プールの傍《そば》を歩いて行った。後について歩きながら、片山はいささか穏《おだ》やかでない気分だった。何しろ血まみれ死体とか、首を絞《し》められて紫《むらさき》色《いろ》になった顔とかいうのに至って弱い体質と来ている。職業柄《がら》、見慣れているのだが、それでも、あたかも条件反射の如《ごと》く、目まい、貧血を起こす。誠に頼りない刑事である。だから、汐見のいう女の死体というのが、その手の仏様でありませんようにと、内心祈るような思いであった。  「あれだ」  汐見が足を止めて、喉《のど》に引っかかるような声で言った。片山は前に出た。  高飛び込み用の、正方形のプールに、女は浮かんでいた。ぴったりとした水着を身につけ、仰《あお》向《む》けになって、まるで波に乗って休んでいるようにも見えたが、白目をむいた、その土気色の顔が、すでにこと切れていることを示している。  片山はプールが血の海といった惨《さん》状《じよう》ではなかったので、ほっと胸を撫《な》でおろすと、プールのふちに座り込んで、訊《き》いた。  「いつ見つけたんだ?」  「さっき電話する五分前——いや、十分前ぐらいかな。しばらくぼんやりしてたもんだから……」  「知ってる女か?」  汐見がなかなか答えないので、片山は彼の顔を見た。汐見は目を閉じて、肯《つぶや》いた。  「……恋人、だったのかい?」  「そんなところだ」  「そいつは気の毒したな」  と片山は言った。「しかし——どうしてこんなことに?」  「いや……僕《ぼく》も見ていたわけじゃないんだ」  「ここは何時まで開けているんだ?」  「七時だ」  けげんそうな顔の片山へ、汐見は、広田紀美子に頼《たの》まれて、毎晩ここで練習をさせていた事情を説明した。  「なるほど」  と片山が肯く。  「彼女の気が散らないように、いつも僕は外へ出ていたんだ。それが却《かえ》って、こんなことに……」  と汐見は首を振りながら言った。  「どういうことだ?」  「この高飛び込みの台は高い方が十メートルあるんだ。——これを使っちゃいけないといつも言っといたんだがね」  「すると……彼女は上から飛び込んで……」  「僕も気付かなかったんだ。水が減ってる。——最深部は五メートルあるんだが」  なるほど、そう言われて片山は気が付いた。水面がへりから二メートル近くも下がっている。  「じゃ、彼女は水が減っているのに気付かずに飛び込んで——」  「底に頭を打ちつけたんだと思う。——たぶん首の骨が折れたんだろう。全く……」  片山は立ち上がった。  「ともかく一応変死事件だからな。警察へ届けなくちゃ。どうして僕を呼んだんだ?」  「動転してしまってね。どうしていいか分らなくなっちまったんだ。僕にも、こっそりここを使わせていた弱味があるし……。考えあぐねてる内に、ふっと君が刑事だったと思い出してね」  「分るよ。死体に出くわすなんて、そうそうあることじゃないからな」  片山は慰《なぐさ》めるように汐見の肩《かた》を叩《たた》いた。「僕が警察へ電話してやろう。——電話はどこだい?」  「そうしてくれるとありがたいよ」  汐見はホッとした様子で言った。「電話は管理室にある」  「そうか。じゃ、行こう。おい、ホームズ、行くぞ」  と声をかけて振り向くと、ホームズは、プールのへりに沿った排水用の溝《みぞ》を辿《たど》って、ゆっくりと何かを探すように歩いている。汐見が不思議そうに、  「何してるんだ?」  「調べてるのさ。おい、ホームズ、これはただの事故だよ。お前の出番じゃない」  ホームズが不意にピンと耳を立て、プールへ入って来る扉の方を見た。そして短く鳴き声を立てる。片山もつられて扉の方へ目を向けて——。  「誰か来る!」  と言った。  「まさか、こんな時間に」  片山は汐見の腕《うで》を取って、  「隠《かく》れよう!」  と低い声で言った。  「じゃ、更衣室の方へ」  二人は足音を殺して素早く更衣室のドアから中へ滑《すべ》り込んだ。ホームズも——足音は大体しないのだから——二人の後からやって来た。ドアを細く開けて覗いていると、扉がゆっくりと開いて、若い娘《むすめ》が入って来た。——二十歳前後という所か、やや小《こ》柄《がら》で、長い髪《かみ》を肩へ垂らし、ジーンズ姿で、肩から大きなショルダーバッグをさげている。入って来て、物《もの》珍《めずら》しげに中を見回すと、ゆっくりプールのふちを歩き出した。  片山は声をひそめて訊いた。  「知ってるか?」  「いや、見たことがないな」  と汐見は首を振る。「一体何の用だろう?」  見ていると、その娘は、ぶらぶらと散歩でもするような足取りで歩いて来た。そして例の死体の浮《う》いたプールの所へ……。娘はピタリと足を止めた。そして「キャーッ!」と悲鳴を上げる——だろう、という片山の予想に反して、娘は至って平然とプールのふちにかがみ込んで、死体へ触《ふ》れようとするかのように身を乗り出し、手をのばした。  「妙だな……」  片山は呟いた。「あの女、怪《あや》しいぞ」  「どうしてだい?」  「普通なら、死体を見たら驚《おどろ》いて悲鳴ぐらい上げるか、卒《そつ》倒《とう》しないまでも、青くなるはずだよ。それなのに、いとも平気な顔をしてる。ということは、ここに死体があることを知っていたに違いない」  「なるほどね」  と汐見が肯いた。「じゃ——どうするんだ?」  「とっ捕《つか》まえてやる」  と片山は言った。友人の手前、ということもあって、いつになく張り切っていた。もっとも、相手が若い娘、ということもあった。これが見るからに凶《きよう》悪《あく》なつら構えの大男だったら、大分態度も変っていたに違いない。  片山はさっとドアを開けて、大声で言った。  「そこで何をしてる!」  娘がはっと立ち上ると、出口の方へ走り出した。  「待て! 止まれ!」  片山も負けじと追いかける。相手が、かかとの高い靴《くつ》をはいていたこともあって、あまり足に自信のない片山にしては一気に娘に追い付き、後ろから抱《だ》くようにして、  「大人《おとな》しくしろ!」  ——と、ここまでは計算通りだったのだが、考えに入れていなかったことが二つあった。一つは娘が予想外に暴れて抵《てい》抗《こう》したこと。もう一つは、二人が競泳用のプールのへりにいたことである。  アッという間もなく、バランスを失って、片山はその娘もろとも、プールの中へと突《つ》っ込んでしまった。    「すると君は……」  片山が言いかけて、絶句した。  「そうよ、当り前でしょ。死体があって、いきなり変な男が飛び出してくりゃ、逃《に》げ出さないでいられる?」  娘は大むくれである。「『警察の者だ』って名乗りもしなかったじゃないの!」  そう言われてみればその通りだ。片山は、濡《ぬ》れて、水のしたたる髪を手でかき上げた。ずぶ濡れになった二人は、管理室で汐見に借りたバスタオルにくるまっていたが、着替えなどあるはずもないので、服は濡れたまま。何とも冴《さ》えない格好である。  「しかし……」  片山はタオルで耳の穴をほじくりながら言った。「君は何しにここへ来たんだ? それにプールの死体を見ても、少しも驚かなかったじゃないか。死体があるのを知ってたのか?」  「一度に色々と訊かないでよ。ここへ来たのは取材のため」  「取材? 何の?」  「T大学の新聞部の記者なのよ。我が大学の水泳部のホープ、広田紀美子がここで深夜の練習をしてるって噂《うわさ》を聞いてね。その様子を見ようと思って来たのよ」  「どこから入った?」  「裏口。開いてたもの」  と澄ましたものである。  「それじゃ、死体を見てびっくりしなかったのは?」  「女なら死体を見て失神しなきゃいけないの?」  「いや、しかし普通は——」  「私は普通じゃないの。これが答えよ」  「じゃ——本当は男なのかい?」  ついそう訊いて、相手がかみつきそうな顔になったので、片山は慌《あわ》てて、  「き、君、名前は?」  と訊いた。娘はしばらく片山をどうしてやろうかという目つきで眺《なが》めていたが、やがて思い直したように肩をすくめて言った。  「T大学文学部二年。永《なが》井《い》夕《ゆう》子《こ》」  「学生証は?」  「バッグの中。——びしょ濡れのね」  片山は咳《せき》払《ばら》いをして、  「いや……どうも僕の方が、早とちりだったようだね」  と言った。「しかし、死体を見ても平気っていうのは?」  「私、犯罪捜査に興味があるの」  と永井夕子という娘は楽しげに言った。「殺人事件に出くわすなんて、ワクワクするわ!」  こりゃやっぱり少しイカレてるな、と片山は思った。そこへ汐見が、自動販売器のホットコーヒーの紙コップを二つ持ってやって来た。  「さあこれでも飲んで」  と二人へ渡す。「——おい、片山、電話しなくていいのか?」  「うん、今かけようと思ってた所だ」  とコーヒーを一口すすって、電話の方へ行きかけると、  「あら、もう少し待ったら?」  と永井夕子が声をかけた。  「どうして?」  と片山が不思議そうな顔で訊いた。  「このなりをどう説明するの? 二人で仲良く濡れてました、なんて、ちょっとスキャンダルになるわよ」  「おい、冗談じゃないよ! ただ死体を引き取ってもらうだけだ。そんな心配は無用だよ」  「捜査しないの?」  「捜査?」  「殺人事件なのに」  永井夕子の言葉に、片山と汐見は顔を見合わせた。  「君はあれが殺人だって言うのか?」  「ええ」  といともあっさり肯く。汐見が首を振って、  「まさか! 紀美子は人に恨《うら》まれるような娘じゃなかったよ」  と言った。永井夕子はちょっと目を見開いて、  「あら、何か誤解してるんじゃないかしら」  と汐見を見た。「あの死体は広田紀美子さんじゃないわよ」  片山は面食らって、  「そんなことはないよ。だって彼女はこの汐見の恋人だったんだからね」  「あら、それじゃ言わせていただきますけどね、私は彼女と同じ学部で、年中顔を合わせてるのよ」  汐見が前へ進み出た。  「君は本気で言ってるのか? あの死体が広田紀美子でない、と……」  「その通り」  永井夕子の自信たっぷりの様子に、汐見もやや動《どう》揺《よう》した様子だった。  「それじゃ……彼女は嘘《うそ》をついてたのか!」  「あなたの恋人には違いないのね?」  「もちろん! 毎晩ここへ来ていたんだ。それなのに……。確かに彼女の学生証なんか見たこともないが……」  片山は頭がこんがらがって来た。  「それじゃ何か? あれは広田紀美子と名乗ってた別の女の死体だ、と?」  「これは少し調査の必要がありそうね」  永井夕子はそう言うと、タオルを放り出して、さっさと管理室から出て、プールの方へと歩いて行った。片山と汐見は、慌ててその後を追った。        3  「あら、あの猫は?」  永井夕子は、死体の浮いたプールのそばにちょこんと座っているホームズを見て言った。  「あれは僕の相棒でね。ホームズっていうんだ」  「へえ。頭の良さそうな猫ね。飼《かい》主《ぬし》に似ず」  「そりゃまあ——」  と言いかけて、「おい!」  とにらんだが、もう相手はホームズのそばにかがみ込んで、  「可《か》愛《わい》いわねえ。……ゴロゴロ言ってる」  などとやりながら、ホームズの顎《あご》を指で撫でている。片山は甚《はなは》だ面白くない。  「君はどうしてこれが殺人だというんだ?」  とぶっきら棒な口調で訊く。  「ご覧なさいよ、今は水がこんなに減っているけど、プールの壁《かべ》はずっと上まで濡れているわ。少し前まで、プールには水が一《いつ》杯《ぱい》入っていたのよ」  片山はしゃがみ込んで壁に触れてみた。確かに永井夕子の言う通りだ。  「おい、汐見。この水がいつ減らされていたのか、憶《おぼ》えてないか?」  「さあ……。ここは滅《めつ》多《た》に使わないんでね」  「どこで水を捨てるんだ?」  「その扉の奥にバルブがあるんだ」  「誰にでも扱《あつか》えるのか?」  「そりゃそうだよ。何も鍵をかける必要なんかないからね」  片山は考え込んだ。するとどういうことになるのか……。  「可能性としては二通り考えられるわね」  と永井夕子が言い出した。「一つはこの女性を殺す目的で誰かが水を抜いて、水位を低くしておいた。もう一つは彼女を殺しておいて、ここへ放り込み、事故と見せかけるために、水を抜いておいた……」  「本当の事故という可能性もないわけじゃないよ。誰かが間違えてこのプールの水を少し抜いてしまって……」  と言いかけて、片山は言葉を切った。このちょっとおかしい大学生の娘を相手に、まともに事件のことを考えている自分に気付いたのだ。何とも風変りな娘である。しかし、可愛い顔立ちだ。片山は初めてそれに気付いた。  「そうねえ……。でも高飛び込みをやろうっていう人が、水が減っているのに気付かないなんて事があるかしら」  と永井夕子の方はすっかり名探《たん》偵《てい》よろしく考え込んでいる。  ホームズがヒョイと立ち上ると、夕子の方へ、ついて来いとでもいうような目を向けて、トットッと歩き出した。  「ん?……何なのかしら?」  夕子は呟いて、ホームズの後から歩いて行く。ホームズはプールのふちをグルリと回って、飛び込み台の根元近くへ来ると、プールのへりの排《はい》水《すい》溝《こう》へ、前《まえ》肢《あし》を入れて探るような仕草をした。  「何なの? そこを調べろって?」  夕子は不思議そうな顔でかがみ込んだ。片山もやって来て覗き込む。ホームズの奴、何か見付けたな。どうして俺に教えないんだ、畜《ちく》生《しよう》!  夕子が、一本の髪の毛をつまみ上げた。  「ご覧なさいよ、ほら!」  「髪の毛だね」  「調べればきっと分るわ」  「何が?」  「あそこに浮いてる女の髪だってことが、よ」  片山は、まだ浮いたままの死体へ目を向けた。  「それがどうかしたのかい?」  「いやねえ」  と夕子は顔をしかめた。「この排水溝にあの女性の髪の毛があるってことは、あの女性がプールに入った時には、水がプール一杯に入ってたってことじゃないの。そうでなきゃ、こんな所へ髪の毛が入り込まないわよ」  「それは……まあ……そうとも考えられるね」  片山は曖《あい》昧《まい》に言った。夕子はホームズを眺めて微笑んだ。  「この猫、ちょっと普通の猫と違うようね」  「君と同じだ」  片山は低い声で呟いた。    「——十五分もすりゃ、色々押《お》しかけて来るだろう」  片山は受話器を置いて言った。  「迷《めい》惑《わく》かけたなあ」  と汐見が言った。  「いや、そんなことはいいんだ。しかし、君もショックだろう」  「全くだよ。一体どうして彼女は嘘をついてたのか……」  「心当りはないのか?」  「分らない。まあ——水泳の選手だということにすれば、ここへ来られると思ったのかなあ。しかし、僕にそんなに惚《ほ》れる女がいるとも思えんしね」  片山は汐見をじっと見ながら、言った。  「あの永井夕子って娘の言うことが、もし事実だとすると、あの女性は殺されたことになる。そうなると犯人がいるわけだ」  「僕が疑われるってわけだな?」  「いや、そうは言わないよ。しかし、担当の刑事に色々と訊かれるのは事実だろうな」  「覚《かく》悟《ご》してるよ」  と汐見はため息をついた。  「あの女性が泳いでいる間、君はどうしていたんだ?」  「僕か?……そうだな、外にいた」  「外?」  「うん。そこの裏口から出た駐車場のあたりをぶらぶらしてたんだ。練習の邪《じや》魔《ま》をしちゃいけないと思って……」  「それじゃ、誰かがその間にここに入ることもできたんだな?」  汐見はしばらく考え込んでから、ゆっくりと肯いた。  「そうだな。できたと思うよ。駐車場の出入口の所でしばらくタバコを喫《す》ったりしてたからな。表からこの建物のわきを回って来れば……。僕の目を盗《ぬす》んで裏口から入り込めたろう」  「それなら安心だ」  「どうして? 君も僕が殺したと——」  「いや、そうじゃない。しかし、実際に捜査に当る刑事がどう思うかは別だからな」  「それもそうだな」  汐見は憂《ゆう》鬱《うつ》そうに肯いた。「しかし、彼女、一体何者なんだろう?」  二人はしばし黙《だま》り込んだ。——片山がふっと顔を上げて、  「そうか! おい、彼女の服やバッグがあるだろう!」  「そうだ、更衣室にある」  「どうして気が付かなかったんだろう! よし、行ってみよう」  二人は急いで管理室を出たが、体操場へ入って、目を丸くした。永井夕子がトランポリンの上でピョンピョン飛びはねているのだ。  「おい、何やってるんだ?」  と片山は訊いた。いよいよ気が狂《くる》ったのか。  「あら、だって服が濡《ぬ》れてて寒いから、暖まってるんじゃないの」  と言うなり、高々と飛び上って、床のマットへストンと降りて来た。  「なかなかいいバランスだ」  と汐見が賞《ほ》めると、夕子はニッコリして、  「ありがとう。——刑事さんもやったら? 暖くなるわよ」  「僕は結構。ホームズを見なかったかい?」  「私に付き合ってやってたのよ、トランポリンを」  「ホームズが?」  「あっちの小さい方でね」  見れば子供用なのか、一メートルと二メートルぐらいの寸法の小型のトランポリンが置いてあり、その真中にホームズが丸くなっていた。  「呆《あき》れたな!」  片山は思わず笑い出してしまった。  「あの女性、M大学の学生だったのね」  と夕子が言った。片山が驚いて、  「どうして分った?」  と訊くと、夕子は、  「更衣室の持物を調べたのよ」  と当然という口ぶり。  「おい、そんな勝手なことを——」  「いいじゃないの。別に何も盗んじゃいないわよ」  「当り前だ!」  何て図《ずう》々《ずう》しいんだ。片山は言葉もなく、急いで更衣室へ向った。  「——小《お》原《はら》靖《やす》子《こ》。M大学一年、か」  片山は学生証の写真を見て言った。「確かにあの女性だな」  「M大もこの近くだから、ここへ来てもおかしくはないがね。しかし、どうして広田紀美子と名乗ったりしたのかなあ……」  と汐見は首をひねった。  「汐見、悪いが外へ出て、パトカーが来るのを待っててくれないか。そろそろ来る頃だ」  「分った」  汐見が行ってしまうと、片山は学生証などを元通りにしまい込んだ。プールのわきを抜けて戻りかけると、急に頭の上から、  「刑事さん」  と呼びかけられた。びっくりして上を向くと、永井夕子が、あの高飛び込み用の十メートルの台の上から手を振っている。  「おい! 危いじゃないか!」  片山は青くなって、「降りて来い、落ちたらどうするんだ!」  と怒鳴った。  「大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》よ。上っていらっしゃいよ」  と夕子は至って呑《のん》気《き》に、台の突《とつ》端《たん》に腰《こし》をかけて足をぶらぶらさせている。片山は胃をギュッとしめつけられるような気がした。極度の高所恐《きよう》怖《ふ》症《しよう》なのである。  「ねえ、どうしたの?——分った。怖いんでしょ」  そう言われると、片山の方も「実はそうなんだ」とも言えない。  「怖くなんかないぞ。よし、今、上って行く!」  と平気な風を装《よそお》って、台のはしごを上り始めた。——何だ割に大したことないじゃないか。  「上って来たぞ」  と台の上に立って下を見渡し——とたんにヘナヘナと座り込んでしまった。  「だらしのない刑事ねえ」  と夕子は笑いながら言った。片山は、  「いや……今日はちょっとコンディションが悪い」  と言い訳した。登山じゃあるまいし。  「片山さん、だっけ?」  「あ、ああ……」  「おいくつ?」  「二十……九」  「奥さんいるの?」  「いや。妹と二人——いやホームズを含《ふく》めて三人暮しだ。どうしてそんなこと訊くんだ?」  「ちょっと興味があっただけ」  夕子は台の端《はし》に立って下を覗き込んだ。片山は心臓が苦しくなるほど緊《きん》張《ちよう》して、  「おい! 危い! さがれよ!」  と、まるで自分が落ちそうだとでもいう様子。青くなって額に冷《ひや》汗《あせ》が浮かんでいる。  「大丈夫よ」  夕子は事もなげに言った。「ここからなら……」  「何がだい?」  「下に水がなかったら、どうなるかしら?」  「そりゃ……死ぬさ」  「でも、きっと頭が割れるかどうかするでしょうね」  「そうだな、十メートル——いや、底までなら十五メートルあるわけだから」  「すると……やっぱり違うのか」  夕子は一人言のように呟いて、座り込んだ。  「何を考えてるんだ?」  「あの小原靖子って娘《こ》、もし頭を打って死んだとしたら、どこで打ったのかしら? プールに水が一杯入ってたとすれば底で打つはずはない。すると……」  「殺されたのなら、どこか他《ほか》で殺して運んで来たのかもしれない」  「それはそうなんだけど……。水着はどうしたのかしら?」  「犯人が殺してから着せたのかもしれないよ」  「そうは思えないわ」  「どうして?」  「死体を運んで来たり、プールへ投げ込むのは、女性の力じゃ大仕事だわ」  「ふむ。それで?」  「でも、あの更衣室に脱いであった服や下着のたたみ方、置き方を見ると、ちょっと男性じゃああはいかないと思うのよ。あれは女性がたたんでおいたのよ」  「すると自分で脱いだ、というわけか?」  「その可能性が強いって程度だけどね」  「もしそうなら、やはりこのプールで殺されたことになる」  「そうね。でもどうやって?」  夕子は眉《まゆ》を寄せて考え込んだ。「ここから飛び込んで、プールの外に落ちるってことあるのかしら?」  「まさか! それじゃ飛び込みの選手はいくつ命があっても足らないよ」  「それはそうね」  と夕子は肯いた。「——さて、それじゃ私、失礼するわね」  「おい、一応君も警察に——ちょっと待てよ!」  止める間もなく、夕子はさっさとはしごを降りて行ってしまう。片山も慌てて降り始めたが、何しろ足が震《ふる》えて、なかなか進まない。  やっと下へ着いた時には、もう永井夕子の姿はなかった。急いで管理室へ行ってみたが、夕子の姿も、ショルダーバッグもなく、ただホームズがいつの間にか椅子にうずくまっている。  「おい、ホームズ。今の娘、どう思う?」  片山はもう一つの椅子に腰かけて言った。  「どうも、あんまりまともじゃないけど……。でも、ちょっと可愛かったじゃないか。そうは思わないか?」  ホームズは、そんなこと知るか、と言いたげに目をつぶってしまった。        4  「お兄さん、電話よ」  と晴美が言った。片山はお茶をガブリと飲んで、  「誰だい?」  「永井さんって女の人」  「永井?」  ちょっと考えながら受話器を受け取り、「はい、片山ですが」  と言うと、明るい声が飛び出して来た。  「刑事さん? 永井夕子よ」  「ああ、君か!」  「何だか迷惑そうな声ね」  「い、いや、そんなことはないけど……」  と慌てて言って、「で、何か用かい?」  「あの事件、その後どうなって?」  「ああ、例のプールの……。いや、よく知らないんだ」  「頼りないのねえ」  「そう言われても……。何しろ、僕の担当じゃないし、こっちも忙《いそが》しくてね」  「調べてみてよ」  「それはいいけど、どうするんだい?」  「気になるのよ、やっぱり。じゃ、明日、夕方会いましょう。渋谷の〈R〉って店、知ってる?」  「ああ、分るよ。でも——」  「じゃ五時に。待ってるわね」  片山はぼんやりと、切れた受話器を持って突っ立っていた。——一体どういうつもりだ、あの娘?  「どうしたの? 誰なの、今の人?」  晴美が、食《しよく》卓《たく》へ戻った片山に訊いた。  「いや、何でもないんだ」  「あら、お兄さんの彼女かと思ったのに」  「彼女? とんでもない!」  片山は首を振った。あれが「彼女」じゃ、とっても付き合いきれないよ!    永井夕子はもう先に来て待っていた。  「もう洋服も乾《かわ》いたようね」  と笑いながら言う。  「当り前だよ」  「あら、ホームズ、お元気?」  夕子が片山の足下のホームズの鼻先を撫でてやった。「で、事件の方は?」  「うん。色々調べてはみたらしいんだが、結局、殺人だというはっきりした根《こん》拠《きよ》も見付からず、事故ということで片付きそうだよ」  「そんなこと……」  と不満顔の夕子へ、片山は肩をすくめて見せた。「仕方ないよ。僕の力じゃどうにもならない」  「小原靖子って娘《こ》がどうして広田紀美子を名乗ってたのか、分ったの?」  「いや、分らなかったらしい」  「そう……」  「きっと何かわけがあったんだろ」  と片山は至極もっともなことを言った。「ともかく、もうすぐ一件落着ってことになりそうだよ」  「落着してるのは分ってるわ」  「ええ? だって君は——」  「殺人だってことははっきりしてるし、犯人も分ってる。ただ、どうすればそれを警察に納得してもらえるかが問題なのよ」  片山は、やっぱりこれはまともじゃない、と思った。夕子はホームズを見下ろして、  「ねえ、名探偵さん、いい手はないかしら? あなただって犯人は分ってるんでしょう?」  ホームズは短く「ニャン」と鳴いた。  「そうでしょう? 問題は犯人をどうやって——」  急にホームズがテーブルの上へヒラリと飛び上ると、夕子の膝《ひざ》へ飛び下り、そこから弾《はず》みをつけて床《ゆか》へ下りた。そして夕子の顔を見上げた。——夕子は目を輝かせて、  「そうか……。その手があるわね!」  と呟いた。片山はただ呆《あつ》気《け》に取られて二人の名探偵を眺めていた……。    汐見は腕時計を見た。八時になろうとしている。  「さて、帰るか……」  ポツリと呟く。——高飛び込みのプールの前で、立ち止まると、飛び込み台を見上げた。あの事件以来、このプールは水を抜いて空になっていた。全く、クビにならなかったのが幸いというべきだろう。汐見としては、勝手に閉館後のプール使用を許していたので、どういう処分をされても文句の言えない立場だったのだが、軽く注意されただけで済んだ。俺は運が良かったんだ。——汐見は思った。  扉が開いた。振り向いて、汐見は目を見張った。  「君——どうしたんだ?」  「どう、って……あなた、用があるんでしょう?」  広田紀美子はいぶかしげに言った。「八時に来てくれって伝言を——」  「僕はしないよ」  そう言って、汐見ははっとした。「しまった! するとこれは——」  「じゃ、誰かが罠《わな》を?」  「違いない。すぐに帰るんだ、見られない内に!」  と汐見は紀美子の腕を取った。  「悪いな、汐見」  すまなそうな顔で、片山が扉の所に立っていた。「こんな古い手で引っかけたりして、すまん」  「片山……。分ってたのか?」  「あの小原靖子は、君の前の恋人だったんだな? そしてそこにいる広田紀美子さんが毎晩来ていたことを知って、紀美子さんを殺せば、君を取り戻せると思った」  汐見は目を伏《ふ》せて、しばらく黙っていたが、やがて首を振って、  「まさか……靖子がああまで思いつめるとは思わなかったんだ」  と苦しげに言った。  「待って下さい!」  と広田紀美子が進み出た。「汐見さんは私をかばってくれただけです。あの人を殺したのは、私です」  「紀美子——」  「いいのよ、やっぱり、自分のしたことの責任は取らなくちゃ」  と紀美子は汐見の手を握《にぎ》った。そして片山の方へ向き直ると、  「あの人は私を殺そうとして待ち受けていたんです」  としっかりした声で言った。片山は肯いて、  「たぶん、前にも何度かここへ忍《しの》び込んで、君が泳ぐのを見ていたことがあるんだろう。それで、よく高飛び込みをやるのを知ってたんだろう」  紀美子は不思議そうに片山を見た。  「分ってるんですか? あの人がどうして私を——」  「そのつもりだよ」  片山は飛び込み台の方を見上げた。「君はいつも一気に上の台まで上って飛び込む。プールの水が減っていたら、君が気付かないはずはない。だから、君がプールの外へ落ちるように工夫しようとした、そうだろう?」  紀美子は答えなかった。片山は続けて、  「彼女は、汐見が外で君を待っている間にここへ入り込み、君が来るのを待った。そして君が更衣室へ入っている間に、体操室から小型のトランポリンを運び出して来た。飛び込み台には踏み切り板がある。トランポリンをその先にゆわえつけて、五メートルの台から突き出してやる。君が十メートルの台から飛び込んで来ると、途《と》中《ちゆう》でトランポリンにぶつかる。君ははねとばされて、プールの外へ叩きつけられる……」  紀美子はゆっくりと肯いてから、  「でも、私は少し遠くへ飛んだものですから、それにぶつからずにすんだんです。私が急いで水から上ると、彼女は慌てて逃げようとしましたが、下から私が上がって行くので、上の台へと登って行きました。十メートルの台の上で争いになり……彼女がバランスを失って落ちたんです。そして、自分で仕掛けたトランポリンにぶつかってプールのへりへ頭をぶつけ……」  「死んでしまったわけだね」  「私、どうしていいか分らなくなって……。そして彼が入って来たんです」  汐見が紀美子の肩を抱いて、言った。  「僕は言ったんだ。いくら事故だと言っても、警察の調べや何かがあるに違いない。大事な選手権を前にして、そんなことで体調を崩《くず》すのは惜《お》しい、とね。それで、何とか事故に見えるように偽《ぎ》装《そう》して、ごまかそうとした。——君にはすまなかったと思ってるよ。君は人が好《い》い。きっと信じてくれると思ったんだ。そうすれば、いきなり警察へ知らせるよりも、疑われずにすむと思った」  「なぜあの娘が広田紀美子だってことにしたんだ?」  「いや、そうするつもりじゃなかったんだ。ただ、あの永井夕子っていう娘が急に現れたんで、そうする他なくなっちまったのさ」  「そうか、それで分ったよ」  片山は肯いた。  「——で、僕らは逮《たい》捕《ほ》されるのか?」  「僕はこの件の担当じゃないんでね」  片山は二人の顔を交《こう》互《ご》に見て、「君らが進んで警察へ行ってくれるなら、何も言わないよ。大分心証は良くなるはずだ」  「ありがとう」  と汐見が言って、紀美子の腕を取った。  「私も申し出るつもりだったんです」  紀美子が微笑みながら言った。「選手権では一位になれたし」  「おめでとう」  と片山は言った。    二人が汐見の車で走り去って行くのを、片山が見送っていると、  「どうだった?」  と夕子が暗がりからホームズを連れて現われた。片山は二人の話をくり返した。  「それなら結構ね」  「まあ、これで良かったのかな」  二人と一匹は、ぶらぶらと夜の道を歩き出した。  「しかし……」  片山が言いかけた。  「え?」  「いや……あんなこと、可能なのかな。トランポリンを——」  「不可能に決ってるじゃないの」  夕子は事もなげに言った。片山は呆《あつ》気《け》に取られて夕子を見た。  「それじゃ一体……」  「要はね、あれが事故でないことを警察へ知らせたかったのよ。そのためには何も証《しよう》拠《こ》がないんだから、あの二人に自首してもらうしかなかったわけ」  「しかし、あのトリックの話は——」  「二人ともあなたの話を聞いて、それに飛びついただけなのよ。二人でいるのを見られて焦《あせ》っていたでしょうからね。あなたの話に合わせて、咄《とつ》嗟《さ》に話をでっち上げたんでしょう。あなたの話の通りなら、正当防衛ってことになるんだから。二人にとっちゃ好都合だったわけよ」  「君はそれを承知で、僕にあんなことを言わせたのか?」  片山は頭に来た。「あの二人、今ごろ僕のことを笑ってるぞ、畜生!」  「そう怒《おこ》らないで」  と夕子はクスクス笑いながら言った。「あの二人が警察へ行ってあんなトリックの話をしたって、信じてくれっこないわよ。色々訊問されれば、二人もその内にはぼろを出すに決ってるわ」  「それが君の狙《ねら》いだったのか?」  「ええ」  「参ったよ、君には!」  片山は首を振った。「じゃ、あの小原靖子が殺されたのは一体なぜなんだ?」  「この間の選手権で、広田紀美子とトップを争うだろうって予想されたのが小原靖子だったのよ」  「何だって? すると——」  「広田さん、勝つためなら何でもやるっていうタイプの人だったから。選手権の前に、二人だけで泳ごうって誘《さそ》いをかけて小原靖子を呼び出し、その後で、飛び込みをやってみようと言ってあの台の上へ……。そして突き落とす。プールの外へ、ね」  「それじゃ、汐見も手伝って……」  「警察で調べられれば分かるわよ」  と夕子は言って、足下のホームズへ、「ねえ、ホームズ?」  と声をかけた。    翌朝、片山は新聞を広げて、社会面を眺めた。  「お兄さん、食べながら新聞を読まないでよ」  と晴美が文句を言った。「——お兄さんったら。どうしたの?」  「いや……ちょっとね……」  片山は新聞を閉じた。——交通事故。小型乗用車、ダンプと正面衝《しよう》突《とつ》。乗っていた男女は即《そく》死《し》。  汐見と広田紀美子が死んだのだった。片山は起き出して来たホームズへ、記事を見せてやった。  「なあ、どう思う? ダンプの運転手は、まるで乗用車がわざとぶつかって来たようだったと言ってるんだぜ。——あの二人、後になって気がついたのかもしれないな。警察へ行けばおしまいだってことに。といって、行かなければ俺が話す。結局逃《のが》れられないと思って、わざと車をぶつけたんじゃないかな……」  せめて、そう思いたい気持だった。ホームズは大きくのびをして、顔を洗い始めた。  「それにしても妙な娘だったな」  と片山は言った。  「何をブツブツ言ってるの、遅《おく》れるわよ、お兄さん」  と出勤の仕度を済ました晴美が言った。  「分ったよ」  片山は慌ててネクタイをしめ、背広を着た。  「あの娘、ちょっと晴美に似た所があったな。——ホームズ、 お前、 そう思わなかったか?」  ホームズは片山の問いが聞こえたのか、顔を上げると——ちょっとヒゲを動かした。片山の目には、ホームズがニヤリと笑ったように見えた。 本書は一九八一年九月二十五日大和書房より単行本で出版されました。 冬《ふゆ》の旅《たび》人《びと》  赤《あか》川《がわ》次《じ》郎《ろう》 ------------------------------------------------------------------------------- 平成13年9月14日 発行 発行者  角川歴彦 発行所  株式会社  角川書店 〒102-8177 東京都千代田区富士見2-13-3 shoseki@kadokawa.co.jp Jiro AKAGAWA 2001 本電子書籍は下記にもとづいて制作しました 角川文庫『冬の旅人』昭和61年3月25日初版発行           平成 5年4月20日31版発行