TITLE : 僕らの課外授業 僕らの課外授業 赤川次郎 ------------------------------------------------------------------------------- 角川e文庫 本作品の全部または一部を無断で複製、転載、配信、送信したり、ホームページ上に転載することを禁止します。また、本作品の内容を無断で改変、改ざん等を行うことも禁止します。 本作品購入時にご承諾いただいた規約により、有償・無償にかかわらず本作品を第三者に譲渡することはできません。 目 次 僕《ぼく》らの課《か》外《がい》授《じゆ》業《ぎよう》 何《なん》でも屋《や》は大《おお》忙《いそが》し ラブ・バード・ウォッチング 夢《ゆめ》の行列 僕《ぼく》らの課《か》外《がい》授《じゆ》業《ぎよう》 プロローグ  朝の八時四十分頃《ごろ》、東京駅に行ったことがあるかな。  もちろん、祭日や日曜日じゃない、普《ふ》通《つう》の日だ。そう、たぶんないだろうな。中学生や高校生には、およそそんな時間に東京駅へ行く用事なんて、考えられない。  ところが、めったにないこと、必《かなら》ずしも君の身に起こらないとも限《かぎ》らないのだ。ちょうどこの朝、中《なか》込《ごめ》友《とも》也《や》が、その「めったにないこと」にぶつかったように。  ——死ぬよ、もう!  中込友也は、さっきから何《なん》十回も同じことをつぶやいていた。  高《たか》尾《お》発東京行きの中《ちゆう》央《おう》線快《かい》速《そく》電車は、やっと御《お》茶《ちや》ノ水《みず》に着いた。——何《なに》が快速だ、年中停《と》まりやがって!  友也は、四《よつ》谷《や》駅で左にねじれた体を御茶ノ水の駅で、やっと元に戻《もど》した。何しろものすごい混《こん》雑《ざつ》。——いや、いつも空《す》いた電車で学校へ通《かよ》っていた友也は、こんなに押《お》されて、潰《つぶ》れちゃうんじゃないか、潰れなくとも、酸《さん》素《そ》が足りなくなって、窒《ちつ》息《そく》するんじゃないか、と本気で心配したくらいだ。  しかし、一《いつ》緒《しよ》に乗っている大人《おとな》たちの顔を見ると、そう恐《きよう》怖《ふ》にゆがんでもいなくて、もうあきらめきったようす。どうやら、今日が特《とく》別《べつ》な混《こ》み方というわけでもないらしいと分かって、ひとまず安心した。  安心しても、暑さと息苦しさは一向に逃《に》げていかない。  二学期が始まって半月。九月の中《ちゆう》旬《じゆん》といえば、まだ残《ざん》暑《しよ》でうだる日もある。その中でこの混雑である。立っているだけで汗《あせ》が出る。額《ひたい》といわず首《くび》筋《すじ》といわず、背《せ》中《なか》といわず、汗がどんどん流れ落ちていく。それをぬぐおうにも、ハンカチ一枚《まい》、ポケットから出せないのだ。手を動かせないのである。  もう、ただ早く東京駅へ着いてくれないかと、それだけを友也は祈《いの》っていた。  電車はノロノロと進んでは停まり、進んでは停まって、やっと神《かん》田《だ》に着いた。いくらか降《お》りる人もあって、少し人の塊《かたまり》が揺《ゆ》れ動いた。  四谷駅あたりでは大《だい》分《ぶ》殺《さつ》気《き》立っていた車内の空気も、終点が近づくにつれ、大分和《なご》やかになってきて、誰《だれ》もがホッとしているようだ。もちろん友也も例《れい》外《がい》ではない。  中込友也は、杉《すぎ》並《なみ》の区《く》立《りつ》中学三年生である。体が大きいので、たいてい高校生だと思われる。  実《じつ》際《さい》に高校生ならいいのに、と友也は思った。高校生なら、来年の高校受《じゆ》験《けん》はないわけだから。当たり前の話だが。  ところでごく普通の中学生である友也が、なぜこんな通《つう》勤《きん》ラッシュの国電に乗っているのか、というと、家の用事で仕《し》方《かた》なく、東京駅まで荷物を受け取りに行くところなのである。  仕方なく、とはいっても、友也にすれば、親公《こう》認《にん》で授《じゆ》業《ぎよう》をさぼれるのだから、こんなうまい話はない。むしろ喜《よろこ》び勇《いさ》んでこの役を引き受けたのだった。  もっとも、そのときは、こんな殺《さつ》人《じん》的《てき》混雑の電車に乗ることなど計算に入っていなかった。  友也の父親は、転《てん》勤《きん》で名《な》古《ご》屋《や》へ行って、もう一年近くになる。家には高校受験を控《ひか》えた友也と、私立中学を受けようとしている妹がいるので、結《けつ》局《きよく》母親は東京に残って、父一人《ひとり》が名古屋へ行くことにしたのである。  おかげで、普通なら父がやるようなこういう仕事も、ときどき友也のほうへ回ってくる。友也としては、それが楽しみでもあって、大人びた気分を味わっては、妹にいばり散《ち》らして、馬《ば》鹿《か》にされているのだった。  神田駅を出て、もう東京駅のレンガ色の姿《すがた》が見えて来ると、そろそろ乗客たちも、モゾモゾと動き始める。——その拍《ひよう》子《し》に、友也はその女の子に気づいたのだった。  俺《おれ》みたいな奴《やつ》がいる、と友也は思った。もちろん、その女の子が友也に似《に》ていたわけじゃない。  たぶん同じくらいの年《ねん》齢《れい》で、セーラー服でこそないけれど、白のブラウスの胸《むな》元《もと》にはどこかの学校の紋《もん》章《しよう》が縫《ぬ》い取ってある。  丸《まる》っこい顔の、可《か》愛《わい》い女の子で、友也の好《す》きなアイドル歌手と、どことなく似た顔立ちだった。  しかし、この電車で、どこへ行くんだろう? 友也は、女の子が、学校鞄《かばん》をさげているのに気づいた。あんな所に学校があるのかな。もしあるとしても、時間がおかしい。もっと早く始まるはずだ。  何か用事があって、駅に寄《よ》ってから学校へ行くのか。友也は、どうにも、その女の子のことが気になって、目を離《はな》すことができなかった。  やっと、東京駅のホームに電車が滑《すべ》り込んだ。やれやれ、乗っていたのは一時間足らずだが、友也は三時間も乗っていたような気がした。  扉《とびら》が開くと、たちまちホームは人であふれる。そして階《かい》段《だん》へ向けて、滝《たき》がなだれ落ちるように、流れができる。  友也は感心した。あの大混雑から解《かい》放《ほう》されたのだから、思い切り駆《か》け出したくなるだろうと思ったのに、いとも従《じゆう》順《じゆん》に、黙《もく》々《もく》と流れに従《したが》っている。  毎日、訓《くん》練《れん》されているのかもしれないが、それにしても大したものだ、と思った。  もちろん、こういうとき流れに逆《さか》らって動くことはできないので、友也も、おとなしく流れに沿《そ》って小《こ》刻《きざ》みに足を進めて行った。  いつになったら階段につくのかなあ。  あの女の子の姿も、もちろんどこかに見えなくなっている。 「ここから階段です」  という札《ふだ》が下がっている。こういう表《ひよう》示《じ》が必《ひつ》要《よう》だということが、友也にも実感できた。  階段を降り始めて、友也は目の前を、あの女の子が歩いているのに気づいた。いったいどこから出て来たのか、ふと見るとそこにいた、という感じである。  ツイてるなあ、今日は、と友也は思った。こんなことでも、あの満《まん》員《いん》電車の苦《く》労《ろう》を帳《ちよう》消《け》しにするには充《じゆう》分《ぶん》なのである。  いい気分で階段を降りて行くと、前にいたその女の子が、突《とつ》然《ぜん》ふらついた。階段に足をおろすタイミングがずれたらしい。倒《たお》れそうになる。この混雑の中で転んだら、それこそ大《たい》変《へん》である。  友也は、とっさに手をのばして女の子の腕《うで》をつかんだ。女の子は何とか転ばずに済《す》んで立ち直った。  女の子が振《ふ》り向いて友也を見ると、急に頬《ほお》を赤く染《そ》めた。 「——ありがとう!」  と低《ひく》い声で彼女は言った。  だが、ここでのんびり話をしている暇《ひま》は、残《ざん》念《ねん》ながらなかった。そのまま階段を降り続《つづ》けなくてはならないのだ。  通路へ出ると、友也はどっちへ行ったものやら迷《まよ》ったが、いやおうなしに、流れに押されて歩き出していた。あらかじめ、階段を降りるときに、左右どちら側《がわ》かへ寄っておかないといけないらしい。  人の波にのまれて見えなくなっていたあの女の子が、またヒョイと姿を見せた。どうやら、この女の子とよほど縁《えん》があるんだなあ、と友也は思った。 「そうだ」  どうせ今日は学校を休んだのだ。荷物を受け取るだけなら、そう時間はかからないだろう。この女の子がどこへ行くのか、ちょっとついて行ってみるのも面《おも》白《しろ》いかもしれない……。  少し、人の流れも散り始めて、何とか思う方向へと歩けるようになってきた。  女の子は急いでいるらしく、足を早めて改《かい》札《さつ》口《ぐち》へと向かった。東京駅に詳《くわ》しくない友也には、そこが何口なのかも分からなかったが、ともかく出口には違《ちが》いない。  女の子は、後ろを振り向く余《よ》裕《ゆう》などない様子で、ほとんど走るような足取りで駅の広い構《こう》内《ない》を横切って行く。大《おお》柄《がら》で、足にも自信のある友也でさえ、ついて行くのに苦労するほどだった。  いったいどこへ行くんだろう?  友也は、女の子を見《み》失《うしな》うまいとして必《ひつ》死《し》だった。ついて行って、どうするのか、それを考えるだけの余裕もなかった。  女の子は腕《うで》時《ど》計《けい》を見ながら、ますます足を早めた……。  1 幽《ゆう》霊《れい》を尾《び》行《こう》しろ  それは突《とつ》然《ぜん》やって来た。  考えごとをしながらぼんやり立っていた友《とも》也《や》の頭めがけて、バレーボールが唸《うな》りをたてて空《くう》を切った。  グワーン、と耳が鳴って、友也は一《いつ》瞬《しゆん》よろけた。何だ? どうした?  いっせいに笑《わら》い声が起こった。 「おい、何、ぼんやりしてんだよ!」  中《なか》込《ごめ》友也は、やっと、自分がバレーボールをやっていたんだな、と思い出した。 「おい、代わってくれ!」  と声をかけて、友也はバレーコートを出た。  頭にボールをいやというほどぶつけられて、まだ足元がフラつく。友也は、木の下に腰《こし》をおろした。  昼休み。よく晴れて、上天気である。  しかし、空気が乾《かわ》いていて風があるので、涼《すず》しかった。——秋なんだな、と友也はあまり似《に》つかわしくないことを考えた。 「中込君」  声をかけてきたのは、同じクラスの女子、北《きた》川《がわ》容《よう》子《こ》である。 「何《なん》だ?」 「悩《なや》みごと?」 「僕《ぼく》が?」 「だって、むずかしい顔してるわ」 「ボールを頭にくらったんだ」  容子は声をあげて笑った。 「何《なに》がおかしいんだよ!」 「だって……」  友也がにらんでも、容子は笑い続《つづ》けている。そのうち、友也も笑い出してしまった。 「——妙《みよう》なことがあったんだ」  少しして、友也は言った。 「UFO《ユーフオー》でも見たの?」 「違《ちが》うよ」  友也は、ちょっと迷《まよ》った。それから言った。 「幽《ゆう》霊《れい》だよ」  容子は、 「へえ」  とだけ言った。  もちろん、今の中学三年生が、お化けの話ぐらいで怖《こわ》がるはずもないが、それにしても、少々物足りない反《はん》応《のう》である。  もっとも、北川容子は、何とかいう昔《むかし》の殿《との》様《さま》の子《し》孫《そん》だとかで、いたっておっとりしたお嬢《じよう》さんである。そのくせ気が強くて、男の子とも平気でけんかして、 「世が世ならお姫《ひめ》様なんだからね!」  といばるのがくせである。  こういう高《こう》貴《き》な(?)生まれ育ちのせいか、怖い話を聞いても、怖がるまでに一日かかる——というのはオーバーかもしれない。 「どんな顔してた?」  と容子は真《ま》顔《がお》できいた。 「幽霊?——可《か》愛《わい》かったよ」  と友也は言った。 「話してよ」 「うん……」  友也は、国電の中で見かけた女の子のあとをついて行ったことを話した。 「やだ、友也、女の子にくっついて行ったの?」  友也と呼《よ》ぶのは、機《き》嫌《げん》のいいときである。 「別《べつ》に変《へん》な目的じゃないぞ」 「分かってるわよ。それでどうしたの?」 「その女の子、どんどん地下へ降《お》りて行くんだ。こっちはもうついて行くだけで精《せい》一《いつ》杯《ぱい》さ」 「地下? 東京駅のどの辺《へん》?」 「分かんないよ、そんなこと。だって、めったにあんなとこ行かないしさ。見《み》失《うしな》わないようにと思って夢《む》中《ちゆう》だったもん」 「それにしたって——」 「階《かい》段《だん》だった。どんどん下へ下へと降りて行くんだ。何《なん》階《かい》分降りたかなあ。たぶん五、六階は下がってるよ」 「それで?」 「一番下に着いた。何か、人《ひと》気《け》のない通路があったんだ。乗り換《か》え用とか、そんなんじゃない。ともかく、誰《だれ》もいないんだ」 「そんな所、東京駅にある?」 「あったんだよ、本当に。でも変だろ? そんな女の子がさ、駅の、人っ子一人《ひとり》いない通路を歩いて行くなんて」 「その子、友也に気づかなかったの?」 「スポンジ靴《ぐつ》はいてたから、足音しなかったと思うんだ」 「それからどうしたの?」  容子もかなり話に引き込《こ》まれている様子だ。 「真《ま》っ直《す》ぐな通路でさ、向こうが振《ふ》り向いたら終わりだから、少し間あけてついて行ったんだ。そしたら、角を曲がって——」 「角を曲がって?」 「——僕が曲がったときは、もういなかった」 「道が分かれてたの?」 「行き止まりだったんだ」  容子は、キョトンとしていたが、 「それで幽霊か」 「それだけじゃないんだ」  と、友也は言った。「そこは行き止まりで、ドアも何もない。だからあの女の子はどこへ消えちまったのか分からないんだ」 「秘《ひ》密《みつ》の入口でもあるんじゃない?」 「東京駅にかい?」 「そうねえ……」  と容子が考え込《こ》む。  容子は、古《こ》典《てん》的《てき》な美人の顔立ちである。だから少し大人《おとな》びて見える。  あの女の子はどっちかというと丸《まる》っこい顔立ちの、「可愛い」タイプ。友也の好《この》みとしては——どっちでもよかった。 「幻《まぼろし》でも見たんじゃない?」  と、容子が言った。「いつも女の子を追っかけたくて仕《し》方《かた》ないから、それが幻になって見えたのよ」 「よせよ、僕が少しおかしいみたいじゃないか」  と友也は抗《こう》議《ぎ》した。 「だって、その女の子が実《じつ》際《さい》にいたって証《しよう》拠《こ》はないじゃない」 「それが違うんだ」  と、友也は得《とく》意《い》げに、「その、女の子のいなくなった所に、定期入れが落ちてたんだよ」 「見せて!」 「もうない」 「何だ」 「定期券《けん》と身分証《しよう》明《めい》書《しよ》が入ってた。写《しや》真《しん》が張《は》ってあって、名前と住所も分かる」 「それ、どうしたの?」 「届《とど》けたんだ」 「駅に? つまんないじゃないの!」 「違うよ。それがまた不《ふ》思《し》議《ぎ》なんだ」 「まだ続《つづ》きがあるのね?」 「うん。——その定期入れ持って、僕は通路を逆《ぎやく》戻《もど》りした。階段を上って行くと、何か違う場所へ出ちゃってね。あっちこっちウロウロして、やっとこ表に出たんだ」 「友也、方向音《おん》痴《ち》だもんね」 「荷物受け取って、帰ろうと思ったけど、もう一度、あの定期入れを見た。——定期券はあと四、五日で切れるようになってて、東京駅と吉《きち》祥《じよう》寺《じ》の三か月定期だった」 「それで?」 「考えたんだ。どうせ今日は一日時間がある。せっかくあの子をつけてみたんだ。とことんやってやれ、と思ってね」 「分かった! その家へ行ったんでしょ」 「正《せい》解《かい》。ところがね——」  駅前の交番で教えられた道をたどって、十分ほど歩くと、その家へ着いた。  身分証明書の名前は、〈大《おお》和《わ》田《だ》倫《みち》子《こ》〉とある。私立中学の三年生だった。  友也は、その玄《げん》関《かん》のチャイムを鳴らした。  ——ごく普《ふ》通《つう》の住宅で、割《わり》合《あい》に新しい。  少し待って、もう一度鳴らすと、 「はい、どなた?」  と女の声がした。 「すみません、ちょっと落とし物を拾ったので、届けに来たんです」  と友也は言った。  ドアが開いて、四十歳《さい》ぐらいの、少しやせ形で血色の悪い母親らしい女性が出て来た。 「あ——これ、こちらのお嬢さんのですね」  友也はその定期入れを差《さ》し出した。「ちょうどこの近くに用があったんで、届けに来たんです」 「娘《むすめ》の……ですけど……」  と言ったきり、その母親は、じっと定期入れを見つめている。  友也はちょっと面《めん》食《く》らった。その母親の目から、急に涙《なみだ》が流れ落ちたのだ。 「どうも……ありがとう。これはどこで?」  と、その母親は涙をぬぐって言った。 「駅です。あの——吉祥寺の」  と言ってから、「何かあったんですか?」  ときいた。 「いいえ、びっくりさせてごめんなさい」  と、母親はすすりあげて、「どうぞ、入って下さいな」  と促《うなが》した。  本当なら、結《けつ》構《こう》です、と断《ことわ》るところだが、ここは図《ずう》々《ずう》しく上がり込《こ》むことにする。 「ちょっとこちらへ……」  正面の居《い》間《ま》ではなく、母親は友也を奥《おく》のほうの部《へ》屋《や》へ連《つ》れて行った。 「娘の倫子はここですの」  と、母親が言った。  友也は目を疑《うたが》った。四《よ》畳《じよう》半《はん》の和室の奥に仏《ぶつ》壇《だん》があり、そこには黒いリボンをかけた写真があった。  その写真の中で笑っているのは、間《ま》違《ちが》いなくあの女の子だったのだ。 「——それで幽霊か」  と、容子はうなずいた。「でも、そんな馬《ば》鹿《か》なことって——」 「うん、僕《ぼく》もそう思ったよ。でも、それから居間のほうでお茶とお菓《か》子《し》出してくれてさ、いろいろ話してくれたんだ。——倫《みち》子《こ》って女の子は、一か月前に自《じ》殺《さつ》してるんだよ」 「自殺?」 「一人《ひとり》っ子でね、もう両親はガックリきて、父親もまるまる半月、会社に行かなかったんだって」 「一人っ子っていうと、双《ふた》子《ご》の姉《し》妹《まい》もないわけか」 「そうなんだ。僕もそれを考えたんだけどね。——ともかく、あの母親の話、嘘《うそ》とも思えないんだよな」 「でも、そんな定期入れを……」 「だから、向こうは、ずっと前に娘が落としたのが、今、見つかって、それを僕が届けたと思ってるのさ」 「話したの、東京駅のこと?」 「言うもんか」  と友也は首を振《ふ》った。「そんなこと言ったらどう思われるか……」 「少しここがおかしいと思われるか——」  容子は友也の頭を人さし指でチョイとつついて、「でなきゃ、謝《しや》礼《れい》目当てのでたらめかと思うでしょうね」 「そうだろ?——なあ、どうしたらいいと思う?」  いつもなら容子に「どうしよう」なんてきく友也ではないのだが、テスト直前、どうしても分からないところがあると、 「な、容子、ちょっと教えてくれよ」  と頭を下げていくので、本当に困《こま》ったときはつい頼《たよ》ってしまうくせがついていた。 「一番いいのは、そんなことケロッと忘《わす》れて、勉強に精《せい》出《だ》すことよ」 「つまんないじゃないか」 「二番目は——」 「何だよ?」  容子はニッコリ笑った。 「私たち二人《ふたり》で調べること」 「そのほうがいいや!」 「私だってそうよ」  容子はクスッと笑った。 「じゃ、どうする?」 「今度の日曜日にハイキングに行かない?」  と、容子がきいたので、友也が面食らった。 「どこへ?」 「東京駅」 「例《れい》の通路を捜《さが》すんだな? よし、やろう!」  友也が目を輝《かがや》かせた。この場に友也の母親がいたら、これぐらい張《は》り切って勉強してくれたらねえ、と言ったに違いない。 「おい、中込!」  と突《とつ》然《ぜん》呼《よ》ばれて、友也はびっくりした。  見れば担《たん》任《にん》の教《きよう》師《し》野《の》口《ぐち》がやって来る。ちょっと古いタイプの、おっかない顔の教師だが、実《じつ》際《さい》はなかなか面《おも》白《しろ》い男である。 「友也、何《なに》かやったの?」  と、容子が言った。 「よせよ、この真《ま》面《じ》目《め》な人間つかまえて」  友也は立ち上がって、「何ですか?」  ときいた。 「お前に客だ」 「客?」 「応《おう》接《せつ》室《しつ》へ来い。すぐだぞ」 「はあい。——誰《だれ》かな?」  一《いつ》緒《しよ》に歩き出しながら、容子が言った。 「幽《ゆう》霊《れい》じゃない?」  ところが、容子の言葉も、まんざらはずれてはいなかったのである。  応接室へ二人《ふたり》が入って行くと、ソファから、五十歳《さい》ぐらいの、背《せ》広《びろ》姿《すがた》の男が立ち上がった。  二人というのは、もちろん友也と容子で、呼ばれたのは友也だけであるが、容子は「保《ほ》護《ご》者《しや》」を自《じ》称《しよう》してくっついて来たのだ。 「中込君というのは……」  何となく疲《つか》れて、やつれた感じのその男は、友也の顔を見ながら言った。 「僕ですけど」 「ああ。——私は大和田という者で……」  大和田! あの「幽霊」が大和田倫子だった。 「それじゃ、この間の……」 「そう、倫子の定期入れを届けてくれたのは君だね」 「はい、そうです」 「そのことで、ぜひ話がしたくてね。——かまわないかね」 「ええ……」  友也は、そばに立っている容子に背《せ》中《なか》を突《つ》っつかれて、「あ、あの——この子は僕の友だちで——」 「北川容子といいます」  容子は、丁《てい》寧《ねい》に頭を下げた。「中込君と一緒に定期入れを拾ったんです」  よく言うよ、と友也は感心した。大和田のほうは、すっかり真《ま》に受けた様子で、 「ああ、それじゃぜひ一緒に」  とうなずく。「——娘のことは、家《か》内《ない》がお話ししたと思うが、一か月前に、突然自殺してしまってね。私どもにもまったく理《り》由《ゆう》が分からなかったんだよ」 「お気の毒《どく》でしたね」  と、容子が同《どう》情《じよう》するように言った。 「ありがとう。一人っ子でもあったし、家内も私も、本当にがっかりしてしまってね。しかし、私も、いつまでも悲しんでばかりいるわけにもいかない。自分を励《はげ》まして、何とか仕事に打ち込んで悲しみを乗り越《こ》えようと思った。ところが、君が倫子の定期入れを拾ったと、届けて来てくれた」  大和田は少し間を置《お》いて、「家内は、定期券そのものをよく見ていないので、気づかなかったが、私はすぐに変《へん》だ、と思ったんだ」 「というと——」 「倫子の学校は山《やまの》手《て》線《せん》を使うので、東京駅までの定期を買うはずがない。それにあの定期入れだ」 「定期入れがどうかしましたか?」  と、容子がきいた。なぜか話はもっぱら容子が引き受けていたのだ。 「あれには特《とく》徴《ちよう》があってね。あの娘《こ》が自分で、端《はし》のほうにイニシャルのM《エム》・O《オー》を彫《ほ》りつけていたんだ」 「それで?」 「ところが、その定期入れは、倫子の棺《ひつぎ》に蓋《ふた》をするとき、私が棺の中へ入れてやったのだよ」 「記《き》憶《おく》違《ちが》いじゃないんですか?」 「いや、それは絶《ぜつ》対《たい》確《たし》かだ。はっきり覚《おぼ》えている」 「じゃ、それがどうして吉祥寺の駅に落ちていたんでしょう?」 「そこなんだよ」  大和田は身を乗り出して、「ねえ君たち、あれは本当に落ちていたものなのかね?」  と、二人の顔を交《こう》互《ご》に見た。 「おっしゃる意味が分かりませんが」  と容子が言い返す。 「つまり……ちょっとしたいたずらで、君らがもしかして倫子のことを知っていて——」 「とんでもありません!」  いきなり容子が、大声でピシリと言うと、立ち上がった。「中込君、行きましょう」 「え? でも——」 「いいから! 親切に家を捜《さが》して届けてあげて、それで嘘《うそ》つき呼《よ》ばわりされちゃたまらないわ。ああ馬《ば》鹿《か》らしい! さ、行こう」  容子は、友也の手をぐいぐい引っ張《ぱ》って、応接室から出てしまった。 「——おい、容子、待てよ。これじゃ調べようがないじゃないか」  と、友也が言うと、 「馬鹿ねえ」  と、容子は涼《すず》しい顔で、「本当に、あれを吉祥寺で拾ったのなら、これが当たり前の反《はん》応《のう》よ。下《へ》手《た》に話を聞き出そうとすりゃ、かえってあっちが怪《あや》しむわ」  容子に言われると、そんな気もする。 「だけど、せっかく父親が話しに来てるのに——」 「これで終わりゃしないわよ。きっとまた来るから、見ててごらんなさい」 「本当かい?」 「私がそう言うんだから確かよ」  このあふれる自信にはいつも友也は圧《あつ》倒《とう》されてしまうのである。 「そうだ! ねえ——」  教室へ戻《もど》りかけて、容子がふと思いついたように言った。「友也、その大和田倫子って子の身分証《しよう》明《めい》書《しよ》、見たんでしょ?」 「うん。サイズは書いてなかったぜ」 「サイズ?」 「バスト、ウエスト、ヒップのさ」 「馬鹿! 学校の名前、覚えてる?」 「もちろん。僕の従妹《いとこ》がそこに通《かよ》ってるんだ」 「それを早く言いなさいよ!」  と、容子は、友也の背中をポンと叩《たた》いた。 「イテテ……。馬鹿力だなあ」 「大和田倫子って子の友だちに会って話を聞くのよ。親より友だちのほうがずっと話しやすいもんだわ」 「だって女子校だぜ。僕は……」 「行きたくてしょうがないくせに」  容子はフフ、と笑って、「ついてってあげるからさ」  まったく、容子の察《さつ》しの良《よ》すぎるのにも、困《こま》ったもんだ、と友也は思った。  2 バイクに乗った幽《ゆう》霊《れい》 「来ないじゃあない、ちっとも」  容《よう》子《こ》は二杯《はい》目《め》のアンミツを平《たい》らげて、言った。 「うん。変《へん》だなあ、確《たし》かに五時って言ったんだけど。——ここしか甘《あま》いもの屋なんてないしなあ」  友《とも》也《や》は店の中をキョロキョロ見回した。  大《おお》和《わ》田《だ》倫《みち》子《こ》の父親が会いに来た、その日の夜、友也は従妹《いとこ》に電話してみた。 「ああ、あの自《じ》殺《さつ》した子ね? 知らないわ、直《ちよく》接《せつ》には。だってあの子三年で、私、二年だもの」 「仲《なか》の良かった子がいたら、ちょっと話がしたいんだけど」  と友也が言うと、向こうはしばらく考えてから、 「あ、クラブの先《せん》輩《ぱい》が確か仲《なか》間《ま》だったと思うわ。きいてみてあげるわ」  と言った。  その次の日に電話がかかって、 「明《あ》日《す》の五時になら会ってもいいって……」  ということだったので、友也は容子と一《いつ》緒《しよ》にこの店にやって来たのである。  ところが、もう五時半になろうというのに、それらしい女の子はやって来ない。店の中を見回せば、何《なん》人《にん》連《づ》れかの女の子はいるが、別《べつ》に友也たちを待っているという様子でもなかった。 「もう少し待って来なかったら、帰ろうか」  と、友也は言った。 「そうねえ。でも女の子は一時間ぐらい待たせるのは待たせるうちに入らないからね」  と、容子は言った。「もう一杯アンミツ食べるかな……」 「よく入るな、おい!」  そのとき、店の前に、バタバタと凄《すご》い音がしたと思うと、オートバイが止まって、ジーパンにT《テイ》シャツスタイルの女の子が降《お》りて来た。  店に入って来ると、空《あ》いた席《せき》へドカッと座《すわ》って、足をテーブルにのせ、やおらタバコを出して火をつける。  見たところ、せいぜい高校生だが、何しろそういうカッコが決まっているのである。 「ちょっと!」  と大声で、「クリームミツ豆《まめ》!」  どうもイメージが狂《くる》う感じである。髪《かみ》を長く肩《かた》にたらして、なかなかの美人である。  その娘《むすめ》、店の中をグルッと見回して、友也たちに目を止めると、 「ちょっと、あんたたち!」  と言った。  大体、こういうふうに呼《よ》ばれることに慣《な》れていない容子である。ムッとした様子で、 「何《なに》よ?」  とにらみ返す。 「あんたたちじゃないの、倫子のことを聞きたいってのは?」  友也と容子は、まさか、という感じで、その女の子を見つめた……。 「——じゃ、君三年生?」  と、友也がきいた。 「そうよ。留《りゆう》年《ねん》したからね」  その娘はアリス、といった。いや、もちろん本名じゃない。オートバイ仲間の愛《あい》称《しよう》なのだそうである。 「中学生のくせに、タバコなんて体に悪いわ」  と、よせばいいのに、容子が言った。 「うるさいわね、この人。——ね、あんた可《か》愛《わい》いね。私の好《この》みのタイプよ」  と、友也のほうへ微《ほほ》笑《え》みかける。「ねえ、二人《ふたり》きりで話さない?」 「そ、それはちょっと——」 「どうして? この人がうるさいの? 追《お》っ払《ぱら》ってあげようか?」  容子は頭へきた様子で、 「友也、帰ろうよ」  と立ち上がった。 「一人《ひとり》でどうぞ。私、この子としばらく語り合っていくから」  アリスは友也の手をつかんで離《はな》さない。 「ねえ、ちょっと——」  友也は困《こま》って、「そんな、ケンカやめろよ。話、聞きに来たんじゃないか」  と両方をなだめにかかる。  何とか、もう一度、容子を席につかせることに成《せい》功《こう》した。 「倫子のことって、何を聞きたいの?」 と、アリスが新しいタバコに火をつける。 「彼《かの》女《じよ》とは親しかったの?」 と、容子がきいた。 「仲間だったからね」 「仲間って、何の?」  アリスは、表に見えるオートバイを指さして、 「あれの、よ」 「倫子さんはまだ十六になってなかったんでしょう?」 「グループの中にいりゃ、分かりゃしないもの」  しかし、あの倫子という娘が、オートバイを無《む》免《めん》許《きよ》でぶっ飛《と》ばしていたとは、友也には信じがたい気分だった。 「ご両親は知ってたのかしら」  と容子が言った。 「さあね。ともかく、倫子、親とは完《かん》全《ぜん》に断《だん》絶《ぜつ》状《じよう》態《たい》だったわよ」 「断絶?」 「物分かりが悪いっていうのかな」 「——自殺の原《げん》因《いん》に心当たりは?」 「男よ。決まってんじゃない」  とアリスはあっさり言った。 「男……。恋《こい》人《びと》がいたの?」 「危《あぶ》ないのよね、倫子みたいなのは。私のように親なんか無《む》視《し》しちゃえばともかく、わざと逆《さか》らいたいでしょ。それに女の子ばっかの学校でさ、あの子、生《き》真《ま》面《じ》目《め》に、言いつけ守って、男と付《つ》き合ってなかったから、たまに出会った男にコロッといっちゃったのよ」 「だまされたわけね」 「とんでもない不《ふ》良《りよう》でさ、私も知ってたけど、女の子からプレゼントもらうだけが生きがいみたいな奴《やつ》だったよ」 「どうして忠《ちゆう》告《こく》してあげなかったの?」  容子は少し腹《はら》が立ってきた。 「そこまでは口出ししないわよ。それに好《す》きになってるときには、何言われたって、聞くもんじゃないし。逆《ぎやく》効《こう》果《か》よ」  それはそうかもしれない。 「それで、結《けつ》局《きよく》両親がね、金で話をつけたのよ」 「お金で!」 「その男にいくら払《はら》ったのか——たぶん何百万だろうね。どこかへ行ってくれって。男は姿《すがた》を消して、それを知った倫子は、恋人に裏《うら》切《ぎ》られ、親には、それ見たことか、ってわけでしょ。たまんないよね。——その少し前から、うっぷん晴らしか、親に反《はん》抗《こう》してか、私たちと一緒になって、ときには仲間のバイクを借《か》りて乗り回してたんだ」 「自殺って、どうやって死んだの?」 「何だ、それも知らないの?」  と、アリスはタバコを灰《はい》皿《ざら》へ押《お》しつぶした。「バイクよ。酔《よ》っ払《ぱら》ってね」 「お酒を?」 「男が金受け取って消えたと聞いて、カーッとなったんじゃない。バイク飛ばして、反対の車線に飛び込んで、乗用車と正面 衝《しよう》突《とつ》。三人死んだんじゃないかな」  容子も友也も唖《あ》然《ぜん》としていた。  とても、これが自分たちと同じ中学三年生の身に起こった出《で》来《き》事《ごと》とは思えない。もちろん、いろいろと非《ひ》行《こう》に走る中学生は珍《めずら》しくないが、大和田倫子の場合はけたはずれである。 「——でもさあ」  と、そのアリスという女の子は、友也と容子の顔を交《こう》互《ご》に見て、「あんたたち、どうして倫子のことなんて知りたいの?」 「ちょっと、ね」  と友也は言った。「まあ——いろいろあってさ」 「フーン、そうなの」  説《せつ》明《めい》も説明だが、それで納《なつ》得《とく》するほうも変《か》わっている。 「どうもありがとう」  容子は友也を促《うなが》して立ち上がった。 「ちょっと待ちなよ」  と、アリスが言った。 「何か用!」 「話させといて、タダで済《す》ます気?」  容子はちょっと表《ひよう》情《じよう》をこわばらせたが、鞄《かばん》から財《さい》布《ふ》を出して、 「いくらほしいの」  ときいた。 「あんた金ありそうだね。一万円でどう?」 「そんなに持ち合わせないわよ」 「じゃ五千円にまけとく」  容子は五千円札を出して、テーブルに置《お》いた。 「——サンキュー」 「タバコでも買うのね。体悪くして楽しいでしょ」  そう言って容子はさっさと店を出た。 「——何か全《ぜん》然《ぜん》話が違《ちが》うなあ」  と、友也は文句を言った。 「どうして?——どうせあの大和田倫子のことなんて、全然知らなかったくせに」 「そりゃそうだけどさ」  友也は、ちょっとふてくされた顔で言った。  二人は、坂《さか》道《みち》を、ぶらぶらと降《お》りて行く。 「分かってんだ」  と、容子が言った。 「何が?」 「友也、あの子がもっと清《せい》純《じゆん》な乙《おと》女《め》だと思ってたんでしょ? それがグレてたから、がっかりしたんだ。図《ず》星《ぼし》でしょ」  友也は答《こた》える代わりに、頭をポンと叩《たた》いた。照《て》れているのである。 「私は逆ね」  と、容子は言った。 「逆って?」 「つまり、かえって大和田倫子に興《きよう》味《み》が湧《わ》いてきたの。その恋人の男はどこへ行ったのか? 彼女の両親は、なぜ自殺の原《げん》因《いん》が見当もつかないと答《こた》えたのか」 「娘の恥《はじ》だから言いたくなかったんだろ」 「でも、それにしちゃ、あの父親の態《たい》度《ど》、変《へん》だと思わない? 私、何だか予感がするの」 「どんな予感だ?」 「何か、もっと深い事《じ》情《じよう》があったんだと思うわ、彼女の自殺には……」 「事情?」 「そう。彼女の幽《ゆう》霊《れい》が現《あらわ》れたというのも、そこに何かがあるからよ」 「幽霊かな、本当に」 「それとも本人が生きているのか……」 「まさか!」  容子は何か思いついた様子で、 「——一つ仕事ができたわ」  と言った。 「僕がやるんだろ、どうせ」 「当《とう》然《ぜん》。——いい、大和田倫子が死んだ日の新聞を見るのよ。記事で、どんな状態だったのかを見るの」 「なるほどね。図書室のつづりを見りゃいいな。——でも、あれは自殺だったのかな? 事《じ》故《こ》だったのかもしれないぜ」 「そうだわ!」  容子はピタリと足を止めた。「どうして気がつかなかったのかしら!——事故じゃなくて、自殺というからには、何か理由があるはずだわ。遺《い》書《しよ》があるとか……」 「それは調べようがないぜ」 「あきらめちゃだめ。探《たん》偵《てい》はつとまらないわよ、そんなことじゃ」 「僕《ぼく》は探偵じゃないよ」  と、友也は苦《く》笑《しよう》しながら言った。  二人が坂道を下って、もうすぐ駅が見えてくるという所まで来たときだった。  ブーンと、エンジンの音が背《はい》後《ご》に近づいて来た。 「バイクだ。寄《よ》ったほうがいいよ」  と、友也が容子に言いながら、振《ふ》り向いた。白いブラウスにスカートの少女が、バイクを飛ばして来る。そして——あっという間だった。  バイクは、容子とすれすれの所を駆《か》け抜《ぬ》けた。 「ああっ!」  容子は叫《さけ》んだ。  バイクの少女が、片《かた》手《て》をのばして、容子の鞄《かばん》を奪《うば》い取ったのである。 「待て! こらあ!」  容子は数メートル駆け出したが、すぐにあきらめた。何しろ相《あい》手《て》はバイクである。追いつけるはずがない。 「まったくもう!」  容子は、握《にぎ》りこぶしを振り回して悔《くや》しがった。「バイクに乗ってかっぱらいなんて……。ねえ、友也、どうして黙《だま》って見てたのよ!」  なんて無《む》茶《ちや》を承《しよう》知《ち》での八《や》つ当たりである。  だが、友也のほうは、容子の言葉が耳に入らない様子で、ポカンと突《つ》っ立っている。 「ちょっと、友也! どうしたのよ!」  容子が大声を出すと、友也は、やっと我《われ》に返って、 「あ、ああ……。ど、どうかしたの?」 「何を呑《のん》気《き》なこと言ってんの? 鞄をかっぱらわれたのよ」  ところが、友也のほうはまた心ここにあらず、という顔で、 「まさか……。でも、やっぱり……」  などとつぶやいている。 「どうしたの?」 「今のバイクに乗ってた女の子、大和田倫子にそっくりだった」 と、友也は言った。  二人が急いで坂を下って行くと、もちろんどこにもバイクの影《かげ》も形もなかったが、 「鞄、あそこにあるぜ」  と、友也が、駅の改《かい》札《さつ》口《ぐち》の前にある郵《ゆう》便《びん》ポストを指さした。  なるほど、容子の鞄が、ポストの上にちょこんとのっけてある。  容子は、急いで駆け寄《よ》った。 「何か盗《ぬす》まれてるかい?」 「今調べる。——大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》みたい。財《さい》布《ふ》もあるし、お金も入ってる」 「どういうことなんだろう?」 「本当に間違いなかった? 確《たし》かに彼女だったの?」 「ウーン」  友也は頭をかいて、「間違いないと思うけど……。チラッと見ただけだものな」 「それにしても……。どういうつもりだったのかしらね」  と、容子は首をひねった。  3 容《よう》子《こ》が消えた 「ああ、参《まい》った!」  容《よう》子《こ》が珍《めずら》しく音《ね》をあげた。  容子と友《とも》也《や》は、東京駅地下街《がい》の喫《きつ》茶《さ》店《てん》に入ると、座《ざ》席《せき》へドカッと座《すわ》って、しばらくはものも言えなかった。  ウエイトレスが来ても、注文するのにしばらく呼《こ》吸《きゆう》を整《ととの》えて、 「アイス」 「アイス」  と、一言ずつ、やっと発《はつ》したのだった。  二人《ふたり》は三時間余《あま》りにわたって、東京駅の中をグルグルと歩き回ったのである。  足が疲《つか》れるのは予《よ》想《そう》していたので、どっちも軽いジョギング・シューズをはいていたが、今や、それすらも鉛《なまり》の靴《くつ》のように思えた。  アイスコーヒーが来ると、二人はゴクゴクと一気に飲み干《ほ》してしまった。入っている氷が、ほとんど原《げん》型《けい》のまま残《のこ》ったのを見ても、いかにすばやかったかが分かる。 「もう一《いつ》杯《ぱい》、アイス!」  と、友也が叫《さけ》ぶ。 「私も!」  容子は、大きく息を吐《は》き出して、「こんだけ捜《さが》しても見つかんないなんて……。友也、夢《ゆめ》でも見たんじゃないの?」 「そんなことないよ」 「だって、全《ぜん》部《ぶ》の階《かい》段《だん》を調べたのよ。通路も、最《さい》低《てい》三回は同じ所を通ってるわ。これで分からないなんて……」 「だって、ちゃんと定期入れを拾ったんだぜ。階段が一つまるまる消えちゃうなんて考えられないよ」 「そうね……」  容子は大きな欠伸《あくび》をした。「それにしても、ハイキングにしちゃ足が疲れたわ。やっぱり下が固《かた》いからなのね」  容子は靴《くつ》を脱《ぬ》いで、足をのばした。  アイスコーヒーの二杯《はい》目《め》が来た。 「ねえ、ちょっときいていいですか?」  と、容子は、学生アルバイトかと思える、その若《わか》いウエイトレスに言った。 「何《なに》を?」 「普《ふ》通《つう》の人が使わないような階段ってどこかにありますか? この駅の中で」 「階段?」  ウエイトレスはちょっと首をかしげて、「ああ、それじゃきっと作業用の階段じゃない? こう——非《ひ》常《じよう》階段みたいなやつ?」 「いいえ」  と、友也は首を振《ふ》って、「普通の階段です。ちゃんとした……」 「そんなの知らないわねえ」  とウエイトレスは言った。  友也はため息をついた。 「でも、そんなはずはない! 絶《ぜつ》対《たい》にどこかにあるんだ」 「友也の夢でなきゃね」  容子は大《だい》分《ぶ》友也の話に不《ふ》信《しん》の念《ねん》を抱《いだ》き始めているようである。 「ちぇっ!」  友也は面《おも》白《しろ》くなさそうに表を見た。——表といったって、もちろんここは地下街だから、通路を見たのである。 「あれ?」  と友也は言った。「おい、ちょっとここにいろよ」  と、友也は急いで店を飛《と》び出して行った。 「——迫《さこ》田《た》さん!」  えらく早い足取りで歩いていた、涼《すず》しげなジャケットの男性が振《ふ》り向いた。 「やっぱり迫田さんだ」 「やあ、友也君か」 「見《み》違《ちが》えちゃった。全《ぜん》然《ぜん》格《かつ》好《こう》が違《ちが》うんだもの!」 「そりゃもう学生じゃないからな」  迫田は、二年前、友也が中学一年のとき、家へ家庭 教《きよう》師《し》に来ていた大学生である。友也とは妙《みよう》に気が合って、勉強のほうはどっちかというと付《つ》け足しで、二人でナイターを見に行ったり、一《いつ》緒《しよ》にF《エフ》M《エム》ラジオを組み立てたりした。  今は迫田も社会人で、スマートな好《こう》青年である。 「ねえ、迫田さん、新聞記者なんでしょ?」 「駆《か》け出しだけども」 「ちょっと聞いてほしい話があるんだけど、忙《いそが》しい?」 「いや、構《かま》わないよ。どうせ今日は休みだもの」 「休みなの? 何だかえらく急いでるから、仕事かと思った」  迫田は笑って、 「記者はいつも急いでるから、ついくせになっちゃうんだ。——よし、聞いてやるよ」 「お願《ねが》い!」  友也は、迫田を連《つ》れて店に戻《もど》った。 「友だちと一緒なんです。女の子」  と友也が言った。 「へえ。友也君のガールフレンドか。どこまで行ったんだい? AかBかCか——」 「やだなあ」  友也は笑って、「そんなこと彼《かの》女《じよ》に言わないで下さいね。ひっぱたかれちゃう」 「そんなに強いのかい」 「強いの何《なん》のって……ここに——あれ?」  友也はキョトンとして、空《から》っぽのテーブルを見つめた。 「どうしたんだ?」 「いえ——ここにいたんだけどな。いいや。ともかく座ってましょう」 「でも、伝《でん》票《ぴよう》も何もないぜ」  なるほど、テーブルの上は、きれいに片《かた》づけられているのだ。  ともかく、友也と迫田が座ると、ウエイトレスが水を持って来た。 「いらっしゃいませ」  さっきのウエイトレスとは違う。 「あの——ここに座ってた女の子、知りません?」  と、友也はきいた。 「女の子?——いつかしら?」 「つい、今。僕《ぼく》と一緒にこのテーブルにいたんだけど」 「だって、今入って来たんでしょ、あなたたち?」 「僕は少し前にこの席に女の子といたんですよ」  と、友也は説《せつ》明《めい》した。「そしたら、この人が表を通ったんで、呼《よ》びに行ったんだ。——ほんの二、三分だけど」 「そんなことないわ」  と、そのウエイトレスは笑《わら》って、「どこか店を間違えたんじゃないの? 私は昼からずっとここにいるのよ。あんた、今初めてよ、ここへ来たのは」  と言った。  友也は唖《あ》然《ぜん》とした。——違う店? いや、そんなはずはない。  ちゃんと店の名前も、飾《かざ》りつけも覚《おぼ》えているのだ。それなのに……。 「おい、友也君、どうしたんだ?」  迫田はわけが分からない様子。 「いえ……。本当にここにいたんですよ、僕たち。東京駅の中をグルグル歩き回って、疲れちゃって、ここで息《いき》抜《ぬ》きしたんです」 「この駅の中を?」 「ええ。他の店だなんて、そんなこと——」  友也は、急いで店から外へ出てみた。  間違いない、この店だ。よく似《に》た店がすぐそばに並《なら》んででもいるならともかく、見《み》渡《わた》しても、この辺《へん》に喫《きつ》茶《さ》店《てん》はこれ一《いつ》軒《けん》しかないのである。  迫田も心配そうに出て来た。 「どうなってるんだい、友也君」 「こっちこそききたいですよ!」  友也は頭をかかえた。 「今、本当にこの店に君とガールフレンドが二人でいたんだね?」 「絶対です。いくら何だって、そんなこと間違えたりしませんよ」 「ふむ……」  迫田は左右を見回した。「あのウエイトレスは、まあ何か思い違いしてるとして、君の彼女は何も持ってなかったの?」 「いいえ、持ってました。ショルダーのバッグ」 「ふーん。じゃ、どうだい、こういうのは。君が僕を追って飛び出したあと、彼女はトイレに立った。でも、あとに誰《だれ》もいなくなっちゃうから、支《し》払《はら》いは済《す》ませてしまった。ウエイトレスはテーブルを片づけてしまう……」 「でも、僕らを知らないって——」 「たまたまあのウエイトレスはいなかったのかもしれないよ。いつも客のほうばっかり見ているわけでもないしね」  迫田の説《せつ》は、確《たし》かに一《いち》応《おう》妥《だ》当《とう》なところだろう。いや、それぐらいしか、説明のしようがない。 「ともかく、少し待っていようよ」  と迫田は言った。 「すみません」 「いや、構《かま》わないよ」  迫田は気軽にそう言った。  二人は店の表で、待つことにした。足の疲れ、などと言っていられない。 「じゃ、友也君、待ちながら、話を聞こうか」 「ええ……」  友也は、東京行きの電車の中で大《おお》和《わ》田《だ》倫《みち》子《こ》を見かけてあとをついて行ったことから始めて、ここまでの出《で》来《き》事《ごと》を、一通り全《ぜん》部《ぶ》話した。  むろん、三十分近くも時間がかかったが、容子は戻《もど》って来なかった。 「ずいぶん不《ふ》思《し》議《ぎ》な出来事だねえ」  迫田は考え込《こ》んでいる。 「僕の話、でたらめだと思いますか?」  と、友也はきいた。 「いや、そんなことはないよ」  と迫田は即《そく》座《ざ》に言った。「君のことは良《よ》く知ってるからね」 「ともかく——そんなわけで、容子と二人で来たんですけど」  友也は途《と》方《ほう》に暮《く》れて、「容子、どこへ行っちゃったんだろうなあ」  とつぶやいた。  日曜日だから、通勤客の数は少ないはずだが、それでも、地下街《がい》は、ショッピングの客で、かなりにぎわっている。 「ここにいたまえ」  と迫田が言った。「僕が店内放送を頼《たの》んで来る。北《きた》川《がわ》容《よう》子《こ》、だったね」 「そうです」  迫田が小走りに行ってしまうと、友也は、本当に心配になってきた。容子、どこへ行ったんだろう?  それにあのウエイトレスの話。——友也は、絶《ぜつ》対《たい》に自分のほうが正しいという確《かく》信《しん》はあったが、それでも何となく、もしかすると僕がおかしいのかも……という気にさせられるのだ。  少しすると、 「お呼《よ》び出しを申し上げます」  というアナウンスが響《ひび》いた。「北川容子様、北川容子様、いらっしゃいましたら、地《ち》階《かい》中《ちゆう》央《おう》の案《あん》内《ない》所《しよ》までお越《こ》し下さい……」  人の流れは、一向に、そんなアナウンスを気にとめてもいないようだった。 「すみません、こんな時間になっちゃって」  と、友也は言った。 「いや、いいんだよ」  迫田は微《ほほ》笑《え》んでから、「しかし、その彼《かの》女《じよ》が無《ぶ》事《じ》に帰ってるといいね」  と言った。  そろそろ暗くなりかかっている。まだ日は長いから、ずいぶん長い時間、あの地下街《がい》で粘《ねば》っていたわけである。  しかし、ついに容子は戻《もど》って来なかったのだ。容子の家へ電話もしてみたのだが、誰《だれ》も出ない。 「本当に、どこ行っちゃったんだろう」  と、友也はため息をついた。  二人《ふたり》は、家への道を歩いていた。 「じゃ、僕《ぼく》はここで」  と、迫田が手を上げて別《わか》れて行く。  この近くに住んでいるのだ。 「どうも」  と、友也は言った。 「東京駅の階《かい》段《だん》のことだけど」  と、迫田が振《ふ》り返って、「何か分かったら、連《れん》絡《らく》してあげるからね」  と言って歩いて行く。  友也は少し元気づけられた。  家へ帰ると、妹の貴《たか》子《こ》が出て来て、 「お兄さん、容子さんの家から、電話がかかったよ。三回ぐらい」 「三回も?」 「そう。帰ったら、すぐ電話をくれって」  小学校六年生の貴子は、ノッポで、兄の友也とそう変《か》わらないくらい身長がある。  成《せい》績《せき》も大体いつも貴子のほうがいいので、友也としては兄の威《い》厳《げん》を保《たも》つのは楽ではなかった。 「容子からかかったのか?」  と友也がきく。 「ううん、お父さんだったみたい」 「親《おや》父《じ》さん?」 「そう。お兄さん、容子さんに変《へん》なことしたんじゃないの?」 「こいつ!」  友也は拳《こぶし》をふりかざして見せた。貴子は、笑《わら》いながら走って行ってしまった。 「親父さんからか」  と友也はつぶやいた。「やな予感がするなあ……」  友也は恐《おそ》る恐る電話のダイヤルを回した。呼《よ》び出し音が鳴る。——なかなか電話に出ないのだ。  どうしたんだろう?  しばらく鳴らしっ放しにして、友也は受話器を置《お》いた。  どうにも気になった。容子をこの一《いつ》件《けん》に引っ張《ぱ》り込《こ》んだのは自分である。容子の身に万一のことがあったら……。  友也は玄《げん》関《かん》へ走った。 「おい! ちょっと出て来るぞ!」  と貴子へ声をかけておいて、靴《くつ》をはくのももどかしく表へと飛《と》び出す。外はすっかり暗くなっていた。  同じ区立中学とはいえ、容子の家は、大《だい》分《ぶ》離《はな》れている。  自転車がイカレているので、友也は仕《し》方《かた》なく歩いて行くことになった。急いで歩いても、二十分はかかる道のりである。 「今日はよく歩く日だよ、まったく!」  と、息を切らしながら、友也は言った。  やっと容子の家に着いたときには、びっしょりと汗《あせ》をかいていた。 〈北川〉と表《ひよう》札《さつ》のある大《だい》邸《てい》宅《たく》——というほどでもないが、友也の家よりはかなり豪《ごう》華《か》な造《つく》りである。  何《なに》しろ、ちゃんと門というものがある。友也の家のように、いきなり玄関というのとはわけが違《ちが》うのだ。  友也は、門が開いたままになっているので、そのまま中へ入って行った。  玄関のチャイムを鳴らそうとすると、車の音がして、ライトが門の中へと差《さ》し込んでくる。  友也は何となくわきへさがって、車が入って来るのを、植え込みの陰《かげ》に隠《かく》れて見ていた。  車はどっしりとした外国車で、前に容子に乗せてもらったことがある。  玄関が開いて、容子の母親が飛び出して来た。 「あなた、容子は?」  車から出て来た容子の父親が、 「大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》だ。心配するな」  と母親をなだめて、後ろのドアを開けた。  容子が降《お》り立った。——友也はホッとした。ともかく、容子は元気そうに見えたからだ。 「さあ入って——」  母親が容子を抱《だ》きかかえるようにして家の中へ入って行く。 「電話はあったか?」  と、父親がきいた。 「中《なか》込《ごめ》さんからですか? さあ——私も今戻って来たので……」 「まあいい。ともかく電話があっても、絶《ぜつ》対《たい》に容子を出すな」  友也は、話を聞いてしまって、何となく出て行きにくくなった。どうやら父親のほうはおかんむりらしい。  父親が車へ戻って、駐《ちゆう》車《しや》場《じよう》のほうへ動かして行くと、友也は玄関のチャイムを鳴らしてみた。インターホンから、 「どちら様ですか?」  と母親の声がした。 「あの、中込ですけど、容子君に——」  母親はあわてたように、 「あの——ちょっと今はだめなんです。帰って下さい。ね、お願いだから」  と早口に言った。  わけが分からない。しかし、母親の口《く》調《ちよう》はかなり切《せつ》羽《ぱ》詰《つ》まったものがあった。 「昼間来て下さい、主人のいないときに!」  と母親が早口に言う。 「分かりました」  友也は、門へ向かって走った。父親が戻って来るのには幸い出くわさずに済《す》んだ。表の通りを少し行って振《ふ》り向くと、門がガラガラと音を立てて閉《と》じられるのが見えた。 「どうなってんだ?」  友也はつぶやいた。  4 容《よう》子《こ》の脱《だつ》走《そう》  翌《よく》日《じつ》、容《よう》子《こ》は学校を休んだ。  友《とも》也《や》は気になって、担《たん》任《にん》の野《の》口《ぐち》に、 「北《きた》川《がわ》君、病気ですか」  ときいたが、 「知らん。何か父親が校長に会いに来てるとか言っとったぞ」  という返事だ。 「校長に?」  友也はちょっと青くなった。 「何だ、中《なか》込《ごめ》、お前何か身に覚《おぼ》えがあるのか?」 「そ、そんなことないですよ」  と、友也はあわてて逃《に》げ出した。  いったい何《なん》だっていうんだろう? 父親が校長に会いに来るってのは、よほどのことだ。  そうか、すると父親は会社を休んでるんだろう。もっとも、容子の父親はどこかの社長なのだから、別《べつ》に休むのに遠《えん》慮《りよ》はいらないわけだが。  学校の帰り、友也は迷《まよ》ったあげく、やはり気になって、容子の家の前にやって来た。  門は開いていて、友也は恐《おそ》る恐る中へ入って行った。  玄《げん》関《かん》のインターホンで、 「中込友也ですが」  と言うと、すぐにドアが開いて——目の前に容子の父親が立っていた。  北川は大《おお》柄《がら》で、ただでさえ迫《はく》力《りよく》がある。じっと友也を見下ろす感じになって、 「君か! 帰ってくれ!」  と、早口に言った。 「あの、容子君は——」 「容子は今度私立の女子校へ転校することになった」 「私立へ?」 「だから君とももう付《つ》き合ってはいられない。もう家へは顔を出さんでくれ。電話していただいても、容子は出ないからね」 「ちょっと話をさせて下さい。ほんのちょっとだけ——」 「だめだ!」  ドアがピシャリと閉《と》じられた。  ガックリきた友也は、それでもあきらめ切れずに、北川邸《てい》の裏《うら》手《て》へ回ってみた。  塀《へい》は高いし、庭は広いので、建《たて》物《もの》はほんの天《てつ》辺《ぺん》しか見えないのだが、それでも何とかして、容子の部《へ》屋《や》をのぞいて見たかった。  容子の部屋は二階《かい》で、こっちへ面してベランダがついている。 「何か乗っかる物……」  友也はあたりを見回した。——少し狭《せま》い道なので、人通りは少ない。 「あれがいいや」  ゴミ容《よう》器《き》の大きなポリバケツがあって、友也はそれをかかえて来ると、塀に寄《よ》せて置《お》いた。 「倒《たお》れるなよ……」  よいしょ、とバケツの上に乗って、グラつくのを、うまくバランスを取りながら、 「おっとっと……」  塀の天《てつ》辺《ぺん》に手をかける。幸い、泥《どろ》棒《ぼう》よけのトゲなどはないので、けがの心配はなかったが、見つかれば取っ捕《つか》まるという心配は大いにある。  別に中へ忍《しの》び込《こ》もうというのではない。  塀の上から顔を出して、容子の部屋を眺《なが》められればそれでいいのだ。 「エイッ」  と、弾《はず》みをつけて、塀の上に頭を出すと——目の前にやはりニュッと出て来た顔がある。 「ワッ!」  と友也は仰《ぎよう》天《てん》した。 「友也!」  何と、顔をつき合わせているのは容子である。「何やってんの?」 「い、いや……君が心配でさ」 「ちょうど良《よ》かった! これからそっちへ飛《と》び降《お》りるからね」 「ええ?」 「いいから早くして! 下で受け止めてよ」 「だって——」 「つべこべ言うな! 見つかったら大《たい》変《へん》なんだから!」  友也は下へ飛び降りた。あわてて左右へ目を配る。幸い誰《だれ》もいないが、いつ人が来るか分からないのだ。  見上げると、容子が塀をまたいでこっち側《がわ》へ足をのばしている。スカートなので、下から見ると当《とう》然《ぜん》……。 「上を見ないで!」  と、容子が怒《おこ》った。 「上を見ずに受け止めろったって、無《む》理《り》だよ」  と、友也は文《もん》句《く》を言った。 「いくわよ。——ヤッ!」  もののみごとに、容子は友也の上へ落っこちて、二人《ふたり》は一《いつ》緒《しよ》になってひっくり返った。 「ああいてえ……」 「早く! ここから離《はな》れなきゃ!」  容子は平気なもので、立ち上がると友也の手を引いて駆《か》け出した。 「おい!——待てよ! おい!」  友也はすっ転びそうになりながら、一緒になって走り出す……。 「ここは?」  友也は、古びた日本家屋の前に立って、言った。 「前に住んでた家なの」 「へえ!」  今は鉄《てつ》筋《きん》コンクリートの邸《てい》宅《たく》だが、この家は完《かん》全《ぜん》な木《もく》造《ぞう》で、しかし広さは結《けつ》構《こう》ある。 「ここに四、五歳《さい》までいたのよね」  容子は、鍵《かぎ》を出して、玄《げん》関《かん》の格《こう》子《し》戸《ど》を開けた。「さ、どうぞ」 「——今は誰《だれ》も住んでないの? もったいないな」 「うちの親がトシ取ったら住みたいって言ってるの。だから月に一度はお手《て》伝《つだ》いさんが掃《そう》除《じ》してるわ。結構きれいでしょ」 「うん……」  上がり込《こ》んでキョロキョロと見回す。 「さあ、奥《おく》へ入って。明かりをつけるわけにいかないけど……」  奥まった部屋に入ると、容子はペタンと座《すわ》り込んだ。 「ねえ、容子。どうなってんだい?」 「待ってよ。息が切れて……。それにお腹《なか》空《す》いちゃった」 「こんな所、食べるもんなんて置いてないぜ」 「そうね。あとで何か食べに出よう」  容子は一息つくと、「私がいなくなって、びっくりしたでしょ」 「当たり前さ」 「問題はあの店なのよ」 「店?——あの喫《きつ》茶《さ》店《てん》のこと?」 「そう。あのとき、私、ウエイトレスに階《かい》段《だん》のこときいたでしょ? そのあと、友也が出て行った。そしたらね、ウエイトレスが水を取り換《か》えに来たの。そのときは注意しなかったけど、どうも違《ちが》うウエイトレスだったみたいね」 「きっとあとで君のことを知らないと言った奴《やつ》だな」 「何しろ喉《のど》渇《かわ》いてたし、グイと一口飲んだの。そしたら急にめまいがして——」 「薬が入ってたのか」 「そうらしいわね。それきりダウン。何も分かんなくなっちゃったの」 「——それから?」 「気がついたときは日《ひ》比《び》谷《や》公園のベンチの上よ」 「日比谷公園?」 「もう暗くなってて、お巡《まわ》りさんに起こされたの。薬のせいか、何だかわけの分かんないこと言ってたら、交番へ連《つ》れて行かれて、学生証《しよう》で、家へ電話をかけられたの。——しばらくして、パパが迎《むか》えに来たわ」 「ふーん。妙《みよう》なことばっかりだなあ」 「ところが、パパの様子がおかしいのよ」 「おかしいって?」 「そう。私に急に私立へ転校しろと言い出したの。今までパパは子供は公立へやるって主《しゆ》義《ぎ》だったのにね」 「理《り》由《ゆう》を言わないの?」 「いくらきいても、『お前のためだ』って言うだけ」  容子は肩《かた》をすくめて、「冗《じよう》談《だん》じゃないわってタンカ切ってさ、で、こうやって家出して来たわけ」 「あっさり言うけど、どうすんだ、これから。すぐここにも捜《さが》しに来るかもしれないぞ」 「大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》。ここはかえって身近すぎて思いつかないわよ」 「そうかい?」 「ねえ、ともかくお腹空いちゃった。何か買って来てくれない?」 「何かって……。僕《ぼく》もそんなに金ないぜ」 「いいわよ、ハンバーガーとコーラくらいで。暗くなったら、自分で出て行くから。今は下《へ》手《た》に出ると誰《だれ》かと出くわす心配があるでしょ」 「人使い、荒《あら》いんだから……」  と言いながら、友也はその家を出て、ひとっ走り、立ち食いのハンバーガーショップへ行って、ハンバーガー二個《こ》とコーラを買って戻った。  容子はペロリとハンバーガーを二個とも平《たい》らげて、 「私、しばらくここにいるわ。友也、毎日来てくれる?」 「どうすんのさ?」 「パパが折《お》れるまで頑《がん》張《ば》る!」  何しろ、容子は頑《がん》固《こ》なのである。 「大《おお》和《わ》田《だ》倫《みち》子《こ》のほうはどうするんだ?」 「あ、そうか。忘《わす》れてた」  この辺《へん》の呑《のん》気《き》さが、お姫《ひめ》様らしいところかもしれない。 「薬飲ませて追《お》っ払《ぱら》うぐらいだもの、あの店にはかなりの秘《ひ》密《みつ》があるのね、きっと」 「調べに行くったって、顔知られてるしなあ」 「そこでくじけちゃだめよ!」 「その階段ってのがどこにあるか分かりゃ……」 「どこかにあるのよ」  と、容子は言った。「必《かなら》ずどこかに……」  そしてコーラを一気に飲み干《ほ》した。  友也が家へ帰ると、意外な客が来ていた。 「やあ友也君」  迫《さこ》田《た》記者である。友也の母は、むろん東京駅での出《で》来《き》事《ごと》など知らない。 「先生もすっかり社会人で」  などとお世《せ》辞《じ》を言っている。 「どうだ? 何《なに》か分からないところがあったら、教えてやろうか?」 「お願《ねが》いします」  と、友也は言った。  二階の部屋へ上がると、迫田はドアを閉《し》めて、 「どうした、昨日《きのう》の女の子?」  ときいた。  友也が事《じ》情《じよう》を話すと、迫田は苦《く》笑《しよう》して、 「ずいぶん強い子なんだな。友也君は引きずられてるんだろう」  とからかった。 「迫田さん——」 「分かった分かった。そうにらむなよ。実は、面《おも》白《しろ》い話を聞き込《こ》んだんだ」 「面白い話?」 「うん。どうやら、君の幽《ゆう》霊《れい》騒《さわ》ぎにも関《かん》係《けい》ありそうでね」 「聞かせて下さい」  友也は身を乗り出した。 「今日、社会部の古《ふる》手《て》の記者としゃべってたんだが、そのとき、たまたま東京駅の話になってね——」 「まったくややこしくなったよ、あの駅も」  いつも酔《よ》っ払《ぱら》ったような赤ら顔の記者は、沢《さわ》井《い》といった。もう記者生活二十年のベテランである。  アル中みたいとからかわれるくせに、本人はまるで酒が飲めないのだから、面白い。 「地下ができてからはね」  と、迫田が言うと、 「地下の駅なんて、薄《うす》気《き》味《み》悪いぜ。そう思わないか? 地下鉄なら分かる。しかし、ちゃんと地上を走ってる電車の駅を地下何階も下に造るってのは自《し》然《ぜん》の原理に反してる、まったく!」 「あれだけの駅になると、いろいろなドラマがあるでしょうね」  と迫田が言った。「そんなルポ記事も面白そうだな」 「とっくにやってるさ」  と、沢井は言って、お茶を飲んだ。 「幽霊でも出るって話がありゃ、記事になりますがね」 「幽霊か?」  沢井は、何やら、ちょっと意味ありげに迫田を見ると、「——出るって噂《うわさ》なんだ」  と声を少し低《ひく》くした。 「本当ですか?」  と、迫田のほうも声を低くする。  別《べつ》に声を低くする必《ひつ》要《よう》は全《ぜん》然《ぜん》ないのだ。何しろ、ガランとした社会部の部屋の中でしゃべっているのだから。 「このところ、ときどき聞くよ」  と沢井は続《つづ》けて、「夜中の東京駅に、ちょくちょく幽霊が出るってな」 「浮《ふ》浪《ろう》者《しや》とか、そんなんじゃないんですか?」 「いや、これは俺《おれ》の良《よ》く知ってる、古手の駅員の話なんだ。夜中に地下を歩いてると、どこかから足音がするというんだ」 「自分の足音が反《はん》響《きよう》してるんじゃ?」 「違《ちが》う。止まっても、向こうは止まらないという。何度もその足音を追いかけて捜《さが》したらしいんだが、一度も見つけられないということだった」 「妙《みよう》な話ですねえ」  迫田は、わざとさり気なく、「きっと東京駅の地下に秘密の通路でもあるんじゃないですか?」  と言ってみた。  急に沢井が真《ま》顔《がお》になって、 「おい、どこでそんな話を聞いた?」  と、ほとんど問い詰《つ》めるような口《く》調《ちよう》で言った。 「え? いえ、勝手な想《そう》像《ぞう》ですよ」  と迫田は笑《わら》ってみせて、「それとも本当にあるんですか?」  ときいてみた。 「知るもんか!」  と、沢井は言って席《せき》を立った。  迫田は、沢井の後ろ姿《すがた》を見送って、 「妙だな」  とつぶやいた。  しばらくすると、沢井が戻《もど》って来た。 「おい迫田」 「はあ」 「ちょっと来てくれ。話があるんだ」 「分かりました」  沢井は迫田を近くのホテルへ連《つ》れて行った。ロビーのソファに座ると、 「こういう所は見通しがきいていい」  と沢井は言った。「秘密の話をするには向いてるんだ」 「何です、いったい?」 「うん……」  沢井は迫田を眺《なが》めて、「これは俺《おれ》一人《ひとり》の胸《むね》にしまい込んでおくつもりだった。しかし、このところ俺も疲《つか》れやすくなってな、いつコロッといくかもしれん」 「まさか」  と迫田は笑った。 「いや、本当だ。俺は心《しん》臓《ぞう》が悪いんだよ。——それはともかく、やっぱり、この話は誰《だれ》かに教えておきたい。ずっとそう思ってはいたんだが、何しろ話せるような相《あい》手《て》がいないんでな。ためらっていたんだ」  沢井はじっと、迫田を見つめた。「しかし、お前は記者根《こん》性《じよう》がある。お前なら話しても大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》だと思ったんだ」 「何の話です?」 「幽霊さ」  沢井はそう言って、ニヤリと笑った。「さっき言った、東京駅の幽霊のことだ」 「何かあるんですね?」 「東京駅の地下には、誰も知らない部屋がある」 「そんなことが——」 「いや、事実なんだ。もちろん俺も行ったことはない。しかし、確《たし》かに存《そん》在《ざい》してるんだ」 「——何の部屋なんです?」 「部屋というよりも、大きな隠《かく》れ家《が》とでもいうかな」 「誰が隠れるんです?」 「死人だ」  沢井の言い方はひどくあっさりしていて、かえって迫田はゾッとした。 「死人が隠れるなんて……。墓《ぼ》地《ち》みたいなものなんですか?」 「それは分からん。——想像でしかないが、きっと、世間的には死んだことになっている人間たちが住んでるんじゃないかな」 「どういう意味です?」 「つまり、たとえば君が車にはねられたとする。そして救《きゆう》急《きゆう》車《しや》で運ばれ、一命を取り止めるかどうか、スレスレの段《だん》階《かい》だとしたら……」  沢井はタバコに火をつけた。「その時点で、選《せん》択《たく》がおこなわれる」 「選択?」 「よほど高度の手《しゆ》術《じゆつ》をすれば助かるかもしれない。だが死んでも、不《ふ》思《し》議《ぎ》ではない。——そこで、世間的には、死んだことにして、実《じつ》際《さい》は生かしておくことができるかどうか、だ」 「さっぱり分かりませんが……」 「世間的に死んだことにするには、まず代わりの死体が必《ひつ》要《よう》だ。別《べつ》の死体とすりかえて、見《み》破《やぶ》られる危《き》険《けん》があるか。——特《とく》殊《しゆ》な傷《きず》あと、身体《からだ》の大きな特《とく》徴《ちよう》。そういったものがなくて、たとえば火事での焼《しよう》死《し》体《たい》のように、見ても見分けがつかない死体であっても不思議でないような状《じよう》況《きよう》かどうかも、問題になる。両親、家族、社会的な立場、年《ねん》齢《れい》……。あらゆる点で検《けん》討《とう》されて、O《オー》K《ケイ》となると最《さい》高《こう》レベルの手術で命は助けられる」  沢井の話し方は、とても想像で言っているという感じではなかった。 「そして、どうなるんです?」  と、迫田はきいた。  沢井は、ちょっとしゃべりすぎたとでもいうように、口をつぐんだ。そして、首を振《ふ》ると、 「そこまでは知らんよ」  と言った。「ただ、そんな噂《うわさ》を、チラリと耳にしたことがあるんだ。——死んだはずの人間が、実際は生きている、という話をね」 「何のためにそんなことをやるんでしょうね」 「さあ……」  沢井は肩《かた》をすくめて、「そこまでは知らないほうがいい。ともかく、それを君に伝《つた》えておきたかったんだ」  と言うと、立ち上がって、 「じゃ、俺はここから帰るよ」 「もうお帰りですか?」 「うん、今日はちょっと心臓の具《ぐ》合《あい》があまり良くない」 「大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》ですか? 病院へ行っちゃどうです?」 「なあに。家へ帰って寝《ね》てりゃ治《なお》るさ」  沢井はニヤリと笑ってみせると、ゆっくりした足取りで、ロビーを出て行った。  5 東京行き終電車 「妙《みよう》な話ですね」  と、友《とも》也《や》は言った。 「うん、しかし、死んだはずの人間が生きているという点は、君の見た、その大《おお》和《わ》田《だ》倫《みち》子《こ》って子の件《けん》とピッタリするだろう」 「それにあの子はバイクで車と正面衝《しよう》突《とつ》したんです。たぶん死体は……」 「別《べつ》の人間のものでも分からなかっただろうな」  と迫《さこ》田《た》はうなずいた。 「でも何《なん》のために……」 「分からんが、それだけのことをやるには、相《そう》当《とう》に大きな力が必《ひつ》要《よう》だ。一流の医者、技《ぎ》術《じゆつ》者《しや》、それにスタッフも少なからずいるだろうね」 「何だか、えらいことに首、突《つ》っ込《こ》んじまったみたい」  友也はため息をついた。 「そこなんだ」  迫田は真《ま》顔《がお》で言った。 「え?」 「君や君のガールフレンドがあれこれとかぎ回るには相手が大き過《す》ぎるということだ。現《げん》にあの喫《きつ》茶《さ》店《てん》で、君の彼《かの》女《じよ》はあっさり眠《ねむ》らされて他の場所へ運ばれている」  迫田は、ゆっくりとうなずいて、「おそらく——そう、それは警《けい》告《こく》じゃないのかな。その気になれば、どこへだって連《つ》れて行けただろうが、わざと公園に置《お》いていった。それは、もう二度と近づくなという意味だろう」  友也は考え込んで、 「——どうしたらいいのかなあ」  と首を振《ふ》った。 「僕《ぼく》は新聞記者だからね。この件を追いかけてみたい。裏《うら》に何《なに》かありそうな気がする。しかし君たちは学生だ。まあ、何もかも忘《わす》れるほうが無《ぶ》難《なん》だね」  友也としては、異《い》存《ぞん》なかった。危《あぶ》ない目にあうのはあんまり好《す》きでないのだ。  問題は、危ない真《ま》似《ね》の大《だい》好《す》きな容《よう》子《こ》である。容子が、納《なつ》得《とく》するかどうか……。 「じゃ、またそのうちに」  と、迫田は、いつもの気さくな笑《え》顔《がお》を見せて帰って行った。 「やれやれ……」  友也は欠伸《あくび》をして、ベッドにゴロリと横になった。——東京駅の地下に、秘《ひ》密《みつ》の部《へ》屋《や》か。  本当に何だか冒《ぼう》険《けん》小《しよう》説《せつ》か漫《まん》画《が》の世界だなあ。  しかし、迫田が言うのだから、まんざらでたらめでもないのだろう。世の中には、一《いつ》般《ぱん》の人が誰《だれ》も知らないようなことが、いくらもあるのかもしれない……。 「——友也」  と、母の声がした。 「なんだい?」 「電話よ」  友也が階《し》下《た》へ降《お》りて行くと、母が心配そうに言った。 「お前、容子さんに何かしたんじゃないだろうね」 「どうして?」 「容子さんのお父さんが、えらく怖《こわ》い声を出してたよ」 「やだなあ、変《へん》なこと言わないでよ」  何かするなら容子のほうだよ、と友也は言いたかった。 「はい、中《なか》込《ごめ》です」 「君か。——容子はどこにいる?」 「僕は……知りませんけど、お宅《たく》にいないんですか?」  とぼけ方は堂《どう》に入《い》っている。宿《しゆく》題《だい》を忘れたときなどに、クラス中で、 「そんな宿題ありませんでしたよ」  と全《ぜん》員《いん》がとぼけてみせたりするのだ。 「いなくなったんだ」  北《きた》川《がわ》は怒《いか》りを押《お》し殺《ころ》しているような声だった。「もし君の所へ連《れん》絡《らく》が入ったら……」 「お宅へ帰るように言います」 「帰りたくないのならそれでもいい。ともかく無《ぶ》事《じ》かどうか電話しろと言ってくれ」  何だかずいぶん弱気だ。 「分かりました」  と言って、友也は電話を切った。  何となく妙である。あんなに高《たか》飛《び》車《しや》に、友也を追い返し、容子を転校させるとまで決めたのに、どうして急に弱気になったんだろう?  ともかく、これからどうするのか、だ。  明《あ》日《す》の朝、容子の隠《かく》れ家《が》に寄《よ》って、これまでのことをよく話して、例《れい》の一《いつ》件《けん》は忘れさせなきゃ。——そのほうが秘密の階《かい》段《だん》を見つけるより、よっぽどむずかしいかもな、と友也は思った。  翌《よく》日《じつ》、学校を出ようとすると、 「おい! あんた!」  と、女の声がした。 「——何《なん》だ、あれ?」  と一《いつ》緒《しよ》にいた同級生が目を丸《まる》くした。  バイクが音をたててやって来る。——あの、アリスという女の子だった。 「やあ」  と、友也に声をかけ、「真《ま》っ直《す》ぐ帰んの?」  ときいた。 「ちょっと用があるんだ」 「こっちもよ。ちょっと付《つ》き合って」 「ええ? だけど——」 「例の話よ。倫《みち》子《こ》のことでさ」 そう言われると、やはり関《かん》係《けい》ないとは言ってられない。 「O《オー》K《ケイ》。じゃ、行くよ」 「後ろに乗んなよ」 「ええ? やだよ!」 「じゃ走ってついて来る?」  仕《し》方《かた》ない。友也は肩《かた》をすくめて、バイクの後ろにまたがった。先生に見つかったら大《たい》変《へん》だ! アッという間にバイクは学校から離《はな》れて、ちょっとした公園に乗り入れて停《と》まった。  池の前のベンチに腰《こし》をおろすと、アリスは、楽しそうに笑《わら》った。 「菅《すが》野《の》アリサっていうんだ、私《わたし》の名前」 「アリサか。きれいな名前じゃないか」 「あんたもてるでしょ。優《やさ》しいもんね、女の子に」 「そんなことないよ」  と、友也は咳《せき》払《ばら》いした。「で、何だよ、話って」 「倫子のこと。どうして調べてんの? 気になってね」 「それは——」  と言いかけて、友也はためらった。  いざ話をするとなれば、最《さい》初《しよ》から何もかも話さなきゃいけなくなる。それに、何だか得《え》体《たい》の知れないこんな女の子に話すわけにはいかない。 「ちょっと話せない事《じ》情《じよう》があるんだ」  と友也は言った。 「そう」  とアリス——いや、菅野アリサは言った。 「じゃ、会いたくない?」 「誰に?」 「倫子によ」  友也は、危《あや》うくベンチから落っこちそうになった。 「変《へん》な冗《じよう》談《だん》よせよ」  とアリサをにらむ。 「あら、本気よ」 「だって——死んだんじゃないのか?」 「これ見てよ」  アリサは、ジャンパーのポケットから、何やら、折《お》りたたんだ紙を出した。 「手紙かい?」 「そう。——読《よ》んでみて」  友也が開くと、整《ととの》った、きれいな字で、 〈アリサ。びっくりしないで。会いたいの。明日の夜、東京行きの終電車に乗って。倫子〉 「簡《かん》単《たん》な手紙だね。どこにあったの?」 「バイクよ。ディスコの前に停めといてね、出て来たら、ミラーに挟《はさ》んであったってわけ」 「彼女の字かい?」  アリサは肩をすくめた。 「誰かが真《ま》似《ね》て書いたのかもしれないけど、よく似《に》ちゃいるわね」  友也はもう一度手紙を見直して、 「——行くのかい?」 「どうせヒマだからね」  とアリサは笑った。 「明日の夜ってことは……」 「今夜ってことよ。どうする?」  友也は考え込んだ。首を突《つ》っ込むなと迫《さこ》田《た》に注意されたばかりだ。  しかし、これを黙《だま》ってたら、あとで容子が怒《おこ》るだろうな。いや、怒るぐらいじゃ済《す》まないかもしれない。——どっちにしても、危険には変《か》わりないか。  だが、終電車とくると、家を出るのが大変だ。誰か友だちの家に泊《と》まることにしよう。もちろん話は合わせとかなきゃならないが。 「OK。一《いつ》緒《しよ》に行くよ」 「そう。良《よ》かった。一人《ひとり》じゃ面《おも》白《しろ》くないもんね。二人《ふたり》のほうが楽しいわ」 「三人じゃまずいかな」 「あの子も来るの?」  アリサは、ちょっと冷《ひ》やかすように笑った。 「あの子がついててくれないと心細いの?」 「違《ちが》うよ!」  友也はムッとして言った。「よし、じゃ一人で行く。女の子が一緒じゃ、かえってうるさいものな」 「無《む》理《り》しちゃって」  アリサはタバコを出して、「一本吸《す》う?」  と友也へ差《さ》し出した。 「うん」  ヒョイと一本抜《ぬ》いてくわえると、アリサがライターで火をつける。友也はむせ返って、目を白黒させた。  アリサが吹《ふ》き出した。  吉《きち》祥《じよう》寺《じ》の駅のホームで、友也は、東京行きの最終電車が来るのを待っていた。  倫《みち》子《こ》の家がここだったので、ここから乗ることにしたのである。  アリサは電車に乗って来るはずだった。  逆《ぎやく》の下り電車は、終電近くなると、かえって酔《よ》っ払《ぱら》いなどで割《わり》合《あい》席《せき》が埋《う》まっているが、上り電車は客の数など、数えるほどであった。 「東京行き、上り最終電車が参《まい》ります」  と、アナウンスがあった。  どこかの酔っ払いが、ベンチで寝《ね》転《ころ》がって眠《ねむ》ってしまっている。  友也はホームに立って近づいて来るライトを見ていた。  アリサは乗って来るかな。——見かけはグレているが、気のいい娘《むすめ》らしかった。たぶん、リーダーらしい、頼《たよ》りにされるところがあって、だからこそ倫子も、彼女に会いたいと言っているのではないだろうか。  電車がゆっくりホームへ入って来た。通り過《す》ぎて行く窓《まど》をずっと見ていると、アリサが手を振《ふ》っているのが目に入った。扉《とびら》が開くと、中へ入って、車両を通り抜けて行く。 「やあ」 「来ないかと思ったわ」  と、アリサは相《あい》変《か》わらずのジーパン姿《すがた》で言った。 「何《なに》言ってんだい。——どこにいればいいかな」 「分かんないけど、真《ま》ん中へんにいりゃ、いいんじゃない?」 「そうしようか」  ガラ空《あ》きの車両で、二人はゆったりと腰《こし》をおろした。  車両の中には、ポツン、ポツンと数えるほどの客しかいない。ほとんどが居《い》眠《ねむ》りしていた。 「みんなくたびれてんだな」  と、友也は言った。 「そうね。大人《おとな》って可《か》哀《わい》そうだね。あんなにしてまで働かなきゃなんないなんて」 「俺《おれ》も大人になるのか。——いやだなあ」  と友也は言って、欠伸《あくび》をした。  ほとんど降《お》りる客も乗る客もなく、電車は東京駅へと近づいて行った。 「——乗って来ないね」  と友也は言った。「これで結《けつ》局《きよく》すっぽかされたら、どうするんだい?」 「知らないわよ。ベンチででも寝りゃいいじゃない」  と、アリサは大して気にもしていない様子である。  御《お》茶《ちや》ノ水《みず》、神《かん》田《だ》……。倫子らしい少女の姿は、ホームにも電車の中にも見当たらなかった。 「仕《し》方《かた》ないや。終点で待ってんのかな」  と、友也は立ち上がりながら言った。 「降りてみましょ」  東京駅のホームへ、電車はゆっくりと入って行く。もう、ほとんど人《ひと》影《かげ》はなかった。  友也とアリサは、ホームへ出ると、降りて来る客を一人一人見ていった。眠り込んでいて、起こされる者もある。 「いないわね」  と、アリサは首を振《ふ》った。「しょうがないや。ちょっと待ってみようか」 「うん……」  友也は、空《から》っぽのホームを見《み》渡《わた》した。あんまりいつまでも突《つ》っ立ってると、駅員に何か言われそうだ。 「——ねえ!」  アリサが、急に声をこわばらせて言った。「倫子だわ!」 「え?」  友也が振り向く。  ずっと離《はな》れた階《かい》段《だん》の降り口の所に、白のブラウス、紺《こん》のスカートの彼女が立っていた。間《ま》違《ちが》いない。あのときの少女だ。 「倫子だわ……本当だ」  と、アリサも、さすがに目を見《み》張《は》って唖《あ》然《ぜん》としている。  大《おお》和《わ》田《だ》倫《みち》子《こ》は、じっと二人のほうを、微《ほほ》笑《え》みながら見つめていた。  どれぐらい、二人は倫子を見て立っていたのだろう。——ふっと倫子の姿が消えて、やっと我《われ》に返った。 「階段を降りた!」 「行こうよ」  とアリサが促《うなが》した。  二人が階段を降りかけたとき、倫子は、すでに階段を降り切って通路のほうへ姿を消すところだった。 「早く早く」  と、アリサがせかす。  友也は飛《と》ぶように階段を駆《か》け降りた。 「——あっちだ!」  通路を、倫子の姿が小さくなって行く。  二人は走った。——もう人影の消えた通路に足音が響《ひび》く。  倫子のほうも走っているのか……いや、そうは見えないのだが、一向に倫子との間はせばまってこないのである。  友也は息を弾《はず》ませていた。アリサも話しかける余《よ》裕《ゆう》もないらしい。ただ一心に倫子の姿を見失《うしな》わないように急ぐだけだ。  改《かい》札《さつ》口《ぐち》には、駅員の姿はなかった。倫子がそこを抜けて——。 「あれ?」  と友也は言った。 「倫子は?」 「いないじゃないか。変だな、こっちへ確《たし》かに——」 「しっ!」  と、アリサがさえぎった。「足音が……」  コツコツという足音が、どこからか響《ひび》いてくるのだ。 「どこだろう?」 「あっちじゃない?」  人影のない駅の構《こう》内《ない》というのは、あまり気持ちいいものではない。しかし、今はそんなことを言ってはいられなかった。  二人は、響いてくる足音のほうへと、大体のカンで歩いて行った。 「変だね、音はすれども、だ」  と、友也はキョロキョロと見回す。 「ねえ、ちょっと」  と、アリサが突っつく。 「何《なん》だよ?」 「変だと思わない」 「何が?」 「あの売《ばい》店《てん》よ」  どこの駅にもある、キオスクの売店が、ポツンと壁《かべ》際《ぎわ》にあった。 「どこがおかしいんだ?」 「だって、こんな時間よ。もうとっくにシャッターを閉《し》めてるはずだわ」 「なるほど……」  その売店は、人の姿はなかったが、明かりもついたままだったのだ。 「のぞいてみよう」  近づいてみると、あの足音が、かなりはっきりと聞こえてきた。 「見て!」  と、アリサが声をあげた。  売店の中、ちょうど売り子が座《すわ》るあたりに、ポッカリと穴《あな》があった。大きな蓋《ふた》を取りはずしたという感じで、真《ま》四《し》角《かく》なその穴は楽に大人《おとな》が出入りできる幅《はば》がある。  足音は、そこから響いてくるのだった。 「——どうする?」  と、友也は言った。 「ここでやめるわけにいかないでしょ!」 「そりゃまあ、ね……」  迫《さこ》田《た》の話を聞いている友也としては、やめたいわけはあったのだが、まさかここでアリサ一人に、 「勝手にやれよ」  と言うわけにもいかない。  仕方なく、友也は穴をのぞき込んだ。 「はしごみたいなのがかかってる。下は明るいぜ」 「じゃ、早く行って! どんどん倫子が遠くへ行っちゃうわよ!」  アリサにせがまれ、友也は、気が進まないままに、仕方なく、そのはしごを降りて行った……。  6 空《あ》き家《や》の死体  あの階《かい》段《だん》だ。  友《とも》也《や》は、降《お》りながら、そう思った。もちろんこの前入ったのは、あんなはしごからではないが、おそらく、途《と》中《ちゆう》からこの階段へとつながる通路があったのだろう。 「こんな所に階段があるなんて——」  アリサは、降りながら、あきれたように言った。  もちろん、友也のほうは知っている。しかし、今、アリサに説《せつ》明《めい》している時間はない。 「足音は?」 「大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》。まだ聞こえてる」  と友也は言った。 「ずいぶん深いわ」  と、アリサは、少し落ち着かない様子である。「どこへ出るのかしら?」 「さあね」  やっと、下へ着いた。この前のとおり、人の姿《すがた》のない通路がのびている。 「足音が消えたわ」 「ともかく行こう。この通路しかないんだから」  二人《ふたり》は通路を進んで行った。  あの、前に倫《みち》子《こ》が姿を消した場所が近づいて来ると、友也は少し足を緩《ゆる》めた。  その角から、ヒョイと倫子が出て来た。 「キャッ!」  アリサが叫《さけ》び声をあげて、足を止める。「……倫子! ああびっくりした」  もう、距《きよ》離《り》は、数メートルしかなかった。 「倫子、生きてたのね!」  倫子は、友也のほうを見た。 「僕《ぼく》を覚《おぼ》えてる?」  と友也は言った。「朝、階段で君が転びそうになったとき、つかまえてあげた……」 「覚えてるわ」  と、倫子は言った。  倫子の声を聞いて、またアリサはギョッとしたようだった。今までは、幻《まぼろし》か何かかもしれないという気持ちも残《のこ》っていたのだろう。 「倫子、ここで何してるの? ここはどこ?」  と、アリサがきく。 「言えないわ、まだ」  と、倫子は首を振《ふ》った。 「どうして? なぜ死んだことにしたの?」 「死んだのよ、私は」  と、倫子が言うと、アリサは、ちょっと青ざめた。幽《ゆう》霊《れい》かと思ったのだろう。 「アリサ、あなたはいい友だちだったから、ここを一度見ておいてほしかったの」 「ここを?」 「そう。——そのうち、きっと役に立つ日がくるから」 「どういう意味よ?」 「いずれあなたにも分かる日がくるわ」  倫子は、ちょっと謎《なぞ》めいた言い方で、ふっと笑った。そしてまたあの角を曲がって姿を消してしまった。 「待って! 倫子!」  アリサが飛《と》び出す。友也もすぐに続《つづ》いた。  ——だが、この前のときと同じだった。もう倫子の姿はどこにもなかったのである。 「——ああ、もう朝だ」  ホームのベンチで、アリサが大アクビをした。 「何《なん》だよ。眠《ねむ》いの? 夜あかしは慣《な》れてんだろ」 「冗《じよう》談《だん》じゃないわ。こちとら、それほどワルくなってないのよ。眠るだけは、ちゃんといつも——アーア」  とまた大アクビ。 「そろそろ始発が出るよ」 「でもさ、どうなってんだろうね。こんな東京駅のど真《ま》ん中に、あんな秘《ひ》密《みつ》の通路みたいなもんがあるなんて……」 「うん……。ねえ、アリサ」 「何《なに》よ。気味悪い声出さないでよ」 「気味悪い声で悪かったな」  と、友也はプーッとむくれた。 「そうすねないの。何なの?」 「君も知ってたほうがいいと思うんだ。ここまできたら」 「話してよ」 「うん」  友也は、この一《いつ》件《けん》との、そもそものかかわり合いから話を始めた。——そして、迫《さこ》田《た》が、沢《さわ》井《い》という先《せん》輩《ぱい》記者から聞いた話も、詳《くわ》しく説《せつ》明《めい》した。 「いやねえ、まるで冒《ぼう》険《けん》小《しよう》説《せつ》じゃないの」  と、アリサはふてくされた顔で、「私たち、ウルトラマンじゃないのよ」 「僕に言っても仕《し》方《かた》ないよ」 「陰《いん》謀《ぼう》か。国家の機《き》密《みつ》とか、そんなものに関《かん》係《けい》してるのかしら?」 「沢井って人の話が本当ならね」  と友也は言った。「——ねえ、聞いたことないかい、国会議《ぎ》事《じ》堂《どう》の地下鉄の駅があんなに深いのは、核《かく》戦《せん》争《そう》のとき、シェルターに使うつもりだからだって」 「ああ、知ってるわ。噂《うわさ》でしょ、でも」  そう言ってから、アリサは友也を見て、「じゃ、ここもそうだっていうの?」 「分からないよ。ただ、ふっとそんな話を連《れん》想《そう》したんだ」 「それと倫子が生き返ったことと、どうつながるの?」  友也は首を振って、何も言わなかった。  ——やがて、始発電車がホームに入って来て、どこかで夜を明かしたらしいサラリーマンの姿も、チラホラと目につくようになった。 「今日《きよう》の学校はきついなあ」  と、友也は目をこすりながら立ち上がった。  正《まさ》に、きついどころではなかった。  学校で、友也はコックリコックリやって、何度も注意された。一日がこんなに長いと思ったことはない。  授《じゆ》業《ぎよう》が終わったときは、体中で息をついた。それでも現《げん》金《きん》なもので、教室を出ると急に目が覚《さ》めて、頭がすっきりしてくる。  そうだ。容《よう》子《こ》が隠れている家へ寄《よ》って行こう。何か差《さ》し入れでも持ってくかな。  友也は商《しよう》店《てん》街《がい》まで出ると、クレープをいくつか買って、容子がいる空《あ》き家《や》へと向かった。 「おーい」  玄《げん》関《かん》の戸をガラリと開けて、「いないのかい?——容子」 「ここだったのか」  突《とつ》然《ぜん》、後ろで声がして、友也は飛《と》び上がった。 「あ、あの——」  立っていたのは北《きた》川《がわ》だった。 「やっぱり嘘《うそ》をついてたんだな」  北川は、友也をぐっとにらんだ。「学校からあとをつけて来たんだ」 「はあ……」  畜《ちく》生《しよう》、やっぱり、ちょっとボケてたのかなあ。——ともかく見つかってしまっては仕《し》方《かた》ない。 「ここにいたとはね。考えつかなかったよ」  北川は苦《にが》々《にが》しく笑って、「こういう点は頭がいい。さあ、上がるぞ」 「はあ」  仕方なく、友也は上がり込《こ》んだ。 「容子はどこだ?」 「たぶん奥《おく》の部《へ》屋《や》に……」  友也は奥のほうへと入って行った。「おーい、容子。出て来いよ」 「私をだまそうったって、そうはいかんぞ」  と北川が言った。 「子《こ》供《ども》を信《しん》用《よう》して下さい」 「信用して逃《に》げられたのだ」  それもそうだ。——友也はフスマをガラリと開けた。 「容子——」  友也はギョッとして足を止めた。  ガランとした部屋の、畳《たたみ》の上に、男が一人《ひとり》、大の字になって倒《たお》れていた。 「何だ、これは?」  北川が唖《あ》然《ぜん》として言った。 「分かりませんよ。——容子!」  返事はない。北川が、倒れている男のほうへかがみ込んだ。 「死んでるぞ」 「ええ? でも……見たことのない人だけど……」  北川は、男のポケットを探《さぐ》った。 「——身分証《しよう》明《めい》書《しよ》だ。——新聞記者だな。沢《さわ》井《い》信《のぶ》男《お》とある」 「沢井……」  迫田が言っていた、あの記者ではないか。なぜここで死んでいるのか? 「あれを見たまえ」  と北川は言った。  紙コップが一つ、転がっていて、中味が畳にこぼれて、すっかりしみ込んでしまっている。そのそばにコーラの空《あ》き缶《かん》。 「あれを飲んで死んだんでしょうか?」 「私に分かるわけがあるまい」  北川は、さすがに年の功《こう》というか、やや青ざめてはいたが、落ち着き払《はら》っている。 「警《けい》察《さつ》へ連《れん》絡《らく》しましょうか」 「うむ……」  北川はちょっと考えてから、「その前に、まず容子を捜《さが》すんだ。この家の中にいるかどうか」 「はい」  二人で、やたらだだっ広い家の中を捜し回ったが、容子の姿《すがた》はなかった。 「よし」  北川は友也を促《うなが》して玄関から外へ出ながら、 「いいかね、私は少し間を置《お》いて、一一〇番する。ここに男の死体があるということだけ告《つ》げて名前は言わない。——ここは私の持ち家だから、あれこれきかれるかもしれんが、私は何も知らないことにするからね」 「はい」 「君はここにいて、もし容子がどこか外から戻《もど》って来るのを見たら、中へ入らないように止めるんだ」 「分かりました」  要《よう》するに北川としては、容子を事《じ》件《けん》に巻《ま》き込《こ》みたくないのだ。父親として当《とう》然《ぜん》の心理かもしれないが。 「警《けい》官《かん》に見とがめられないようにしろよ。それから、もし容子と会ったら——」  と、北川はじっと友也を見つめて、「一《いつ》緒《しよ》に家に来るんだ。いいね?」  と言った。友也としては、コックリとうなずく他《ほか》はなかった。  友也は、北川が行ってしまうと、少し離《はな》れた所から、あの空《あ》き家《や》を眺《なが》めた。——沢井がなぜあそこにいたのだろう? なぜ死んだのか?  殺《ころ》されたのか。それとも、迫田の言っていた心《しん》臓《ぞう》の発《ほつ》作《さ》だろうか?  そうだ。これを迫田へ連絡しなくてはならない。ともかく、警察が来るのを待って……。  十五分ほどたって、パトカーの音が近づいて来た。警官たちが、空き家へ入って行くのを見ていると、肩《かた》にヒョイと手が触《ふ》れて、友也は仰《ぎよう》天《てん》した。  振《ふ》り向くと、紙《かみ》袋《ぶくろ》をかかえた容子が立っている。 「容子!」 「どうしたの? あの警官、何しに来たの?」 「どこへ行ってたんだ?」 「買物よ。いろいろと必《ひつ》要《よう》なものがあるでしょ」 「呑《のん》気《き》だなあ」 「私を逮《たい》捕《ほ》しに来たの?」 「殺《さつ》人《じん》容《よう》疑《ぎ》かもだ。——さ、行こう。今説《せつ》明《めい》するよ」  友也は、容子を促《うなが》して、空き家をあとにした。  やはり迫《さこ》田《た》は社にはいなかった。  新聞記者がそんなに会社でのんびりしているはずもない。それならば、沢《さわ》井《い》の死も、わざわざ友也が連絡しなくても、当《とう》然《ぜん》迫田の耳に入るだろう。  電話を切って席《せき》へ戻ると、容子はのんびりとクリームソーダをなめている。これで太らないのだから、得《とく》な体《たい》質《しつ》だ。 「いったい何があったの!」  と、容子はふくれっつらで、「早く話してよ」 「君の隠《かく》れてた部屋で——」  と言いかけて、友也は、ちょっと喫《きつ》茶《さ》店《てん》の中を見回した。「あの沢井さんが死んでたんだ」 「えっ!」  容子は目を丸くした。友也の説明を聞くと、 「そう、いったいどうしたのかしら」  とため息をつく。 「それからね、実は昨日《きのう》、また大《おお》和《わ》田《だ》倫《みち》子《こ》に会ったんだ」  と、友也は言った。  友也が昨《さく》夜《や》の出《で》来《き》事《ごと》を話してやると、容子は案《あん》の定《じよう》、ますますふくれて、 「私をのけ者にして! じゃ、あのアリサって娘《こ》と、一夜を共《とも》にしたのね!」  と、かみつきそうな声を出した。 「共にしたっていっても、ベンチで始発電車を待ってただけだぜ」 「共にしたには違《ちが》いないじゃないの」 「そりゃまあそうだけど……」 「そのつもりならいいわよ。私にだって考えがあるからね」 「な、何だよ」 「これから考えるわ」  容子は立ち上がると、買物の袋《ふくろ》をかかえて、さっさと店を出て行く。 「おい、容子! 待てよ!」  友也はあわててあとを追おうとしたが、何しろ喫茶店である。伝《でん》票《ぴよう》があり、会計があるので、金を払《はら》わなければならない。  店員がのんびりやって来て、千円札《さつ》を出した友也がジリジリしているのも気にかけず、 「ええと……クリームソーダが三百五十円、と……」  のんびりレジを叩《たた》いて、「あら、間《ま》違《ちが》っちゃった」  なんてやっている。 「おつりはいいよ!」  と、飛《と》び出し——たかったが、何しろ千円札はそうたくさん持ち合わせがない。  イライラしながら、やっとつりをもらって、店を飛び出したときは、もう容子の姿はとっくにどこかへ消えてしまっていた。  7 巨《きよ》大《だい》な計画 「また出まかせではないんだろうね」  北《きた》川《がわ》はジロリと友《とも》也《や》をにらんだ。 「いえ本当です! 今度は本当に知らないんです。彼《かの》女《じよ》、またどこかへ消えちゃったんです」  友也は、「今度こそは本当です!」  と強調した。 「そうか」  北川は肩《かた》をすくめて、「まあ信《しん》じよう。——まったく困《こま》った奴《やつ》だ!」  と言うと、 「かけたまえ」  とソファを指《さ》した。 「はあ……」  友也は、恐《おそ》る恐る、ソファに腰《こし》をおろした。  北川家の居《い》間《ま》は、友也の家などに比《くら》べれば、およそ信じがたいほどの広さがあって、友也など、もうその雰《ふん》囲《い》気《き》だけでのまれてしまう。  北川は自分で豪《ごう》華《か》な洋酒のびんが並《なら》ぶ棚《たな》へ行くと、グラスにウイスキーを注いだ。 「君はまだ飲めないな、残《ざん》念《ねん》ながら」  とグラスを手に言った。 「ええ。ビールなら少し飲んだことがありますけど」 「早く大人《おとな》になりたくて、無《む》理《り》にアルコールをやる。そんな頃《ころ》が一番幸せだよ」  北川は、ちょっとひきつるような笑《わら》いを見せて、「本当に大人になると、アルコールでもなきゃ、やり切れんから飲む。そうなりゃみじめなもんだ」  と、独《ひと》り言《ごと》のように言った。  友也が黙《だま》っていると、北川はグラス半分ほど飲んで、友也と向き合って座《すわ》った。 「いったい何《なに》があったんだね? 容《よう》子《こ》は何に首を突《つ》っ込《こ》んでるんだ?」  と北川はきいた。 「それは……」  北川に話してよいものかどうか、友也は迷《まよ》った。 「何をきいても、容子の奴《やつ》はしゃべろうとせん。一度はね、君が原《げん》因《いん》かと思ったよ」 「僕《ぼく》がですか?」 「そうだ。女の子が突《とつ》然《ぜん》公園でフラフラしているのを補《ほ》導《どう》されてみたまえ。親としては、まずボーイフレンドを疑《うたが》ってかかるのが当然じゃないか」 「つまり……何か悪いことをやってるという……」 「麻《ま》薬《やく》とか覚《かく》醒《せい》剤《ざい》とかね」 「まさか!」 「しかし、一《いち》応《おう》は心配になった。だから転校させようかとも思ったんだ。——だが、そんなことをしていれば、必《かなら》ず、普《ふ》段《だん》の生活態《たい》度《ど》などに現《あらわ》れるだろう。容子の場合は、まったくそんなことがない。塀《へい》を乗《の》り越《こ》えて逃《に》げ出すなどというのも、いかにも容子らしい。だから原因は別《べつ》にある、と私は考えたんだ」  北川の話は友也にもよく理《り》解《かい》できた。 「まあ、私も容子が多少無《む》鉄《てつ》砲《ぽう》ではあるが、けっして悪に走るような子ではないと信じているから、何をやろうと放っておいてもいい。しかし、ああして死体が出るということになると……」  北川は首を振《ふ》った。「容子が死体になるようなことだけは避《さ》けたい。君も容子の友だちなら、そう思うだろう」 「ええ」 「じゃ、話してくれないか。——君と容子がかかわり合っているのは、どんな事《じ》件《けん》なんだね」  北川の言い方は高《こう》圧《あつ》的《てき》でもなく、穏《おだ》やかで、説《せつ》得《とく》力《りよく》があった。——しかし、友也としては考えざるをえない。  迫《さこ》田《た》から、この話は誰《だれ》にもするなと言われていたし、それにアリサに話してしまったことも、今では多少後《こう》悔《かい》していたのである。  どうしたものか、考え込んでから、友也は、もう一度迫田へ電話をしようと思った。  北川の居間の電話を借《か》りてかけると、うまく迫田がつかまった。 「沢《さわ》井《い》さんがね。——うん、知ってる」 「それで実はお話が……」  友也が事《じ》情《じよう》を説《せつ》明《めい》すると、 「分かった。僕がそこへ伺《うかが》おう」  と、迫田はすぐに言った。  三十分ほどたって、迫田がやって来た。  自《じ》己《こ》紹《しよう》介《かい》したあと、迫田は、 「沢井さんの死は自《し》然《ぜん》死《し》だったようです」  と言った。「正《せい》確《かく》なところは検《けん》死《し》解《かい》剖《ぼう》を待たなくては、分かりませんが、今のところ少なくとも他《た》殺《さつ》の証《しよう》拠《こ》は出ていません」 「なるほど。——一つ安心したよ」  と北川は言った。迫田には好《こう》感《かん》を持ったようだ。 「君の口から話を聞かせてもらえないかね」  北川の言葉に、迫田はうなずいた。 「お話しします」 「私を信《しん》用《よう》してくれている、ということかな?」 「そのとおりです。ああ——つまり、ここへ伺う前に、若《じやつ》干《かん》調《ちよう》査《さ》をさせていただきましたので」 「なるほど」  北川はちょっと笑《わら》って、「いや、新聞記者はそうでなくてはいかん。気に入ったよ」  と言った。  迫田は、友也の体《たい》験《けん》を手ぎわよくまとめて聞かせ、それに、沢井がもらした話を詳《くわ》しく付《つ》け加《くわ》えた。  北川はしばらく考え込んでいたが、やがて大きく一つ息をつくと、 「信じられんような話だね」  と、言った。「こういう状《じよう》況《きよう》の下《もと》で聞いたのでなかったら、一《いつ》笑《しよう》に付《ふ》すところだが」 「もちろん、沢井さんの話が、どこから聞き込んできたものなのか、どの程《てい》度《ど》信《しん》頼《らい》できるものなのかは不《ふ》明《めい》です。しかし、この中《なか》込《ごめ》君や、お宅《たく》のお嬢《じよう》さんの体《たい》験《けん》から考えて、あの東京駅の地下で、何かが起こっていることは事実のようです」 「君の想《そう》像《ぞう》では?」 「僕のですか? さあ、とても見当がつきませんが——」 「そういう顔ではないぞ」  迫田は苦《く》笑《しよう》して、 「まるでS《エス》F《エフ》だと笑われるかもしれませんが……」 「構《かま》わん。世の中は信じがたいようなことが起きるものだ」  友也は、ちょっと口を出してみたくなった。何といっても、事の起こりは自分から始まったのだ。 「あの——もしかして核《かく》シェルターか何かじゃないでしょうか」  迫田は目を見開いて、友也を見た。 「いや、驚《おどろ》いたな! 僕もそう言おうと思っていたんだ」  友也は、ちょっと得《とく》意《い》になった。 「それならSFの発《はつ》想《そう》でも何でもない」  と、北川は言った。「いかにもありそうな話だ」 「笑い飛《と》ばされなくてホッとしました」  と迫田は言った。「僕は、その地下の秘《ひ》密《みつ》の場所は、おそらく、中込君の言う核シェルターか、それとも大《だい》地《じ》震《しん》に備《そな》えての避《ひ》難《なん》場所ではないかと思うんです」  大地震か。それもあったな、と友也はうなずいた。 「だが、それと、死んだはずの人間が実は生きているという奇《き》怪《かい》な事実と、どう関《かん》係《けい》するのかね?」  と、北川はきいた。 「そこは僕も考えました。——それでこんな仮《か》説《せつ》を立ててみたんですが」  と迫田は、いつしか前へのり出すようにして話していた。「もし、それが、来《きた》るべき核《かく》戦《せん》争《そう》や大地震という、巨《きよ》大《だい》災《さい》害《がい》に備えて、作られたものだとすると……。これは恐《おそ》ろしい想像ですが、政《せい》府《ふ》——といっても、ごく一部の人々でしょうが、彼《かれ》らには、その日が分かっているのではないか、と思うのです。正確にではなくても、大体、何か月先とか、一年先とか。——もしそうだとすると、いわばその対《たい》策《さく》として、戸《こ》籍《せき》上《じよう》は死んだ人々を、実はひそかにあの場所へ集めているのだと考えられませんか」 「もう少し具《ぐ》体《たい》的《てき》に」 「分かりました。たとえば、何《なん》月《がつ》何《なん》日《にち》に、核兵《へい》器《き》による攻《こう》撃《げき》があると分かっていたとする。しかし、それを国民に公表できるでしょうか?」 「無《む》理《り》だろうな。大パニックになる」 「国民全《ぜん》部《ぶ》を収《しゆう》容《よう》するほどのシェルターを掘《ほ》っている時間はありません。だから、シェルターがあること自体も隠《かく》さなくてはならないでしょう」 「当然、そこへ人々が殺《さつ》到《とう》するからな」 「そうです。すると、いざ、その日になって、そこへ入れるのは、ごく限《かぎ》られた一部の人々です。政府の要《よう》人《じん》、その家族……」  ずるいや、そんなの、と友也は思った。 「しかし、彼らだけが生きのびても、どうにもなりません。地上へ出ても安《あん》全《ぜん》になるまでの長い時間、地下で生活していかなくてはならない。あらゆる職《しよく》業《ぎよう》の人、そして年代の人も必《ひつ》要《よう》です。特《とく》に若《わか》い人々が」 「子《し》孫《そん》を残《のこ》していかねばならんからな」 「そうです。では、そういう人間をどこで選《えら》ぶか。そして、どうやってその場所へ連れて来るか。——まさか、実《じつ》際《さい》に生活しているのを誘《ゆう》拐《かい》してくるわけにはいきません」 「捜《そう》査《さ》の手がのびて、真《しん》相《そう》が明らかになるかもしれん」 「そうなると、一度死んだ人間はどうだろう、ということになります。つまり、瀕《ひん》死《し》の重《じゆう》症《しよう》を負《お》ったり、大病で死にかけているか、そのまま死なせるには惜《お》しい人間」 「彼らを助けておいて、世間的には、死んだと思わせておくんだな」 「そうです。それなら、死んだはずなのですから、誰《だれ》も捜《さが》しにも来ないし、安全です」  迫田は、ちょっと言葉を切ってから、続《つづ》けた。「———毎日毎日、事《じ》故《こ》で何百人もの人間が死んでいます。その中から、何とか助けられそうな者を選び出し、さらに、生かしておく価《か》値《ち》があるかどうかを判《はん》断《だん》しているのではないでしょうか」 「すると、すでに何十人か何百人かの、そういう〈死人〉がいるかもしれん、というのだね?」 「どうもしゃべりながら、自分でも、こんな馬《ば》鹿《か》なことが、と思うんですが、そう考えると、筋《すじ》もとおるような気がして……」 「いや、立派な推《すい》論《ろん》だよ」  と、北川は言った。「もちろん、それが正しいかどうかは別《べつ》だが、充《じゆう》分《ぶん》に一《いつ》考《こう》に値《あたい》する考えだと思う」 「ありがとうございます」  迫田は、ちょっと緊《きん》張《ちよう》がほぐれた様子で、微《ほほ》笑《え》んだ。 「でも、もしそれが本当なら」  と友也が言った。「大《たい》変《へん》ですよ。どうするんですか?」 「僕《ぼく》は新聞記者だからね」 「書くんですか?」 「いや、まだ書くことはできない。何の裏《うら》付《づ》けもない想像に過《す》ぎないからね。しかし、これが事実だと分かれば……」 「書くかね」  と、北川がきいた。 「どうすべきだと思われますか」  と、迫田がきき返す。「——書けば大パニックになるかもしれない。しかし、書くことで、何《なん》らかの別の道が開けるかもしれません」 「それはむずかしいところだな」  と北川はうなずいた。 「ともかく、僕はこの問題の真相を突《つ》き止めるつもりです」 「それは賛《さん》成《せい》だよ」 「その上で……決めます」  と、迫田は言った。  友也は、何だか、こんな大変な話を、こうして居《い》間《ま》で話しているのが、とても現《げん》実《じつ》だとは思えなかった。  こんな話は、ホワイトハウスの会《かい》議《ぎ》室《しつ》とか、首《しゆ》相《しよう》官《かん》邸《てい》の奥《おく》まった一室とかで交《か》わすべきもので、友也のような中学生が居合わせる席《せき》には、どうにも似《に》つかわしくない。 「その沢井という死んだ記者だが」  と、北川は言った。「うちの容子のところへ、なぜ現《あらわ》れたんだろう?」 「分かりません」  と、迫田は首を振《ふ》った。「しかし、ともかく容子さんは、あの秘密に接《せつ》近《きん》しつつあった。そして沢井さんも別のどこかから、その情《じよう》報《ほう》を仕《し》入《い》れていた。きっと、容子さんのことも沢井さんは調べていたんじゃないでしょうか」 「沢井という記者が、どこから情報を聞いていたか、心当たりはないかね」  と、北川がきいた。  迫田は首をひねって、 「記者はニュースソースを明かしませんし、きかないのが礼《れい》儀《ぎ》ですからね」 「それはそうだ」 「ああ、待って下さい」  と、迫田は言った。「そういえば……。いや実は沢井さんがその話をしてくれたとき、手帳を落としていきましてね。記者にとっちゃ手帳は大切ですから、急いで拾って渡《わた》したんですけどね、そのとき、たまたま開いていたページに、神《かみ》山《やま》という名があったんです」 「神山?」 「そうです。首相の秘《ひ》書《しよ》をやっている神山和《かず》男《お》ですよ」 「神山か……。その男なら——」  と北川が言いかけて言葉を切る。 「ご存《ぞん》じですか?」 「ああ。——いや、もちろん名前だけだよ」 「もしかすると、あの辺《へん》から出た話かもしれませんね。どう思われます?」 「考えられるね」 「当たってみようかな。しかし——僕がいきなりそんな話をぶつけても否《ひ》定《てい》されれば終わりですしね」 「そうだ。それに、君がその件を調べていることを知られたら、君が口を封《ふう》じられるかもしれん」  友也がびっくりして、 「迫田さんが殺《ころ》されるかもしれないってことですか?」 「いや、そうとは限《かぎ》らない」  と北川は言った。「記者の口を封じるには、何も殺さなくてもいい。上のほうへ圧力をかけて、配《はい》置《ち》換《が》えで、他の部に回してしまえばいいんだ。それとも支《し》局《きよく》へ転《てん》勤《きん》させることもできる」 「そうなったら終わりですね」  と、迫田はうなずいて、「充《じゆう》分《ぶん》慎《しん》重《ちよう》に行動しますよ」 「それがいい。私もできる限《かぎ》り、力になりたい」 「ありがとうございます」  と、迫田は頭を下げた。 「さて……容子の奴《やつ》、どこへ行ったのか……」  と、北川は、渋《しぶ》い顔でつぶやいた。  友也は家へ帰ると、部《へ》屋《や》へ上がっていった。 「——貴《たか》子《こ》、お母さんは?」  階《かい》段《だん》ですれ違《ちが》った妹へきく。 「お出かけよ」 「ふーん。お前も出かけるのか?」 「ちょっとね」  貴子は、友也のほうへウインクしてみせた。友也は笑《わら》って、 「馬《ば》鹿《か》、何やってんだよ」  とからかうように言った。  貴子の奴も、もう小学校六年だもんな。俺《おれ》が小学校のときよりぐっと大人《おとな》っぽくて、ませてやがる!  部屋へ入ると、机《つくえ》に向かって——勉強するのではむろんなく、まずラジカセのスイッチを入れて、F《エフ》M《エム》を流す。 「しかしなあ……」  とつぶやくように、独《ひと》り言。「もうこの世が滅《ほろ》びちゃうんじゃ、勉強しても仕《し》方《かた》ないや。思い切り遊んでやるかな」 「賛《さん》成《せい》」 「サンキュー」  と言って、「——おい!」  目を丸《まる》くして振《ふ》り返ると、友也のベッドの下から、容子が顔だけ出して笑っている。 「容子!」 「貴子ちゃんが入れてくれたのよ」 「それであいつ、出かけたのか……」  気のきかせすぎだ、まったく! 「おい、出て来いよ」 「うん」  スルスルと這《は》い出して来ると、「ねえ、この世が滅びるって何の話?」 「え?——ああ、それは……」 「うちのお父さんと話して来たの?」 「うん、心配してるぞ」 「そりゃ親だもの」  と、アッサリ言って、「で、何か言ってた?」 「うん……」  友也がためらっていると、 「また私に隠《かく》れてこっそり何かやる気ね!」  と容子が、ぐっと詰《つ》め寄《よ》ってくる。 「分かったよ! しゃべるから……」  と、友也はあわてて言った。 「そう。素《す》直《なお》にそう言えばいいのよ」  まったくもう、威《い》張《ば》ってんだから!  友也が、迫《さこ》田《た》の考えをくり返して話してやると、容子はじっと聞き入っていたが、 「——何だかとてつもない話になってきたわね!」  と言った。 「でも、どうだい? そう考えりゃ、ピッタリくるじゃないか」 「そりゃまあそうだけど……。あんまり希《き》望《ぼう》にあふれた考えともいえないわね」  友也も容子の言葉に同感だった。  8 容《よう》子《こ》、気分が変《か》わる 「君の親《おや》父《じ》さん、あっちこっち顔が広いんだろ? どこかで調べてくれんじゃないかなあ」  と友《とも》也《や》は、容《よう》子《こ》が買ってきたクッキーを頬《ほお》張《ば》りながら言った。 「そうねえ……」  容子は首をかしげた。「ま、うちのお父さんは、もとからそんなこと、よく気にしてたのよね」 「そんなことって?」 「ほら、核《かく》戦《せん》争《そう》のときはどこへ隠《かく》れようとかさ。私《わたし》なんか、死ぬときゃ死ぬのよ、なんて言ってるけど、本気じゃないわけよ。いざとなったら、うろたえてさ、助けて助けて、って叫《さけ》び回るんじゃないかな」 「そりゃ、誰《だれ》だって死ぬの怖《こわ》いよなあ」 「うちのお父さんは、ほら家《いえ》柄《がら》良《よ》くて血《ち》筋《すじ》がいいでしょ。だからかえって死ぬの怖いのね。何かこう——自分のような血《けつ》統《とう》の人間は、生きのびるべきだって信《しん》念《ねん》があるわけ」 「へえ」 「私に言わせりゃ、人《じん》類《るい》滅《めつ》亡《ぼう》のときにうちのお父さん生き残《のこ》っても、あんまり役に立たないと思うんだけどね」 「ひどいなあ」  と友也は思わず笑い出した。 「だって、お父さんは釘《くぎ》一本打てやしないし、カップラーメンだって作れないし、およそロビンソン・クルーソーみたいな生命力なんて縁《えん》がないの」 「育ちがいいとそうなるんだろうな」 「だから、そんなときには、可《か》哀《わい》そうだけど真《ま》っ先に犠《ぎ》牲《せい》になるわ、きっと」  容子は呑《のん》気《き》に言って缶《かん》のジュースをぐいっと飲んだ。 「でも、そういう偉《えら》い人って、結《けつ》構《こう》コネで生きのびんじゃない?」 「そんなに偉くないわよ。それほどならまた別《べつ》だけども。——自分でも、その辺《へん》、承《しよう》知《ち》してるから、この前なんか、ほらドイツ製《せい》の核シェルターが売り出されたでしょ」 「ああ、何千万円かするやつだろ」 「あれを本気で買おうかなんて言い出してね。だけどうちの家族だけ生き残っても、他《ほか》が焼《や》け野原じゃ何《なん》にもならないわ。そう思わない?」 「一緒に死んじゃわなくても、あとで死ぬだろうね」 「お母さんと私がさんざん文句言ったもんだから、お父さん、渋《しぶ》々《しぶ》やめたけどね。——そんな迫《さこ》田《た》さんの話聞いたら、きっとまた気が気でなくなるわ」 「悪かったなあ、そりゃ。でも、本気で情《じよう》報《ほう》を集めてくれるかもしれないぜ」 「今ごろかけ回ってるかもね」  と、容子は笑って、「私のこと忘《わす》れててくれりゃいいけど」  と付《つ》け加えた。 「君、今夜はどうするんだ?」 「どうするって?」 「つまり……もうあの空《あ》き家《や》には戻《もど》れないだろ。家へ帰る?」 「いやよ。核シェルターへ押《お》し込《こ》められちゃかなわない」 「どこか泊《と》まるあてあんのか?」 「ここ」 「え?」 「泊めてよ。ベッドの下でいいからさ」  友也は目を丸《まる》くした。 「おい! 冗《じよう》談《だん》じゃないよ、もしお袋《ふくろ》に見つかったら——」 「結《けつ》婚《こん》しますって言えば?」  友也が何《なに》か言いかけたとき、階《し》下《た》でチャイムの鳴るのが聞こえた。 「あ、誰《だれ》か来た」 「お父さんなら、いないって言ってね」  友也は、急いで階《かい》段《だん》を降《お》りていった。 「はい」  玄《げん》関《かん》のドアを開けると、思いがけない人間が立っていた。  大《おお》和《わ》田《だ》倫《みち》子《こ》の父親である。 「大和田だけど……」 「ど、どうも……」  友也はあわてて頭を下げた。「あの……どうぞ」 「じゃ、ちょっと失《しつ》礼《れい》」  大和田を居《い》間《ま》へ通して、友也は、 「あの、今誰もいないもんで——」 「いや、いいんだ。実は、この間のことを謝《あやま》りたくてね」 「この間のこと?」 「君があの定期入れを、何か下《した》心《ごころ》があって届《とど》けて来たんじゃないか、というようなことを言ったので、あとになって気になってね。家《か》内《ない》にも怒《おこ》られてしまって……」 「いいんです、そんなこと」 「いや、本当にわざわざ親切に届けてくれたのにね」  と大和田は言って、「まあ許《ゆる》してくれたまえ」  と頭を下げる。 「困《こま》りますよ、そんな」  と友也が言っていると、 「どうも先日は」  と、容子が入って来た。お茶をのせた盆《ぼん》を運んで来るのには、友也も唖《あ》然《ぜん》とした。 「やあ、君もいたのか。いやこの間は申しわけなかったね」 「いいんです。——でも、本当のことを教えて下さい」 「本当のこと?」 「倫子さんの……。本当はどんなお子さんだったのか」  と、容子もソファに座《すわ》り込む。 「うん……。倫子はね、いい娘《こ》だったよ。しかしあんなふうに、自《じ》殺《さつ》か事《じ》故《こ》かも分からないような死に方をしたのをみても、察《さつ》しはつくと思うが、あの頃《ころ》は荒《あ》れていてね」 「男の子のことで?」 「うん。——どう見ても、倫子のためには遠ざけたほうがいい男だった。私としては、良《よ》かれと思ってやったことだが……」 「その辺のこと、アリサって人から聞きました」 「ああ、じゃあの子を知ってるんだね? あれはなかなかいい娘だ。女《によう》房《ぼう》などはスタイルを見ただけで目を回しそうだったが、リーダー格《かく》になるだけでも、やはりちょっと違《ちが》う」 「倫子さんに対しても、少しやり方を考えるべきだったんじゃありませんか」  友也はハラハラしていた。容子は、ときどきこうして、「お姫《ひめ》さま気質《かたぎ》」とでもいうのか、年上の人間に対して、教えさとすような言い方をすることがあるのだ。言われたほうはあまり面《おも》白《しろ》くあるまい。 「私もそう思ってるよ」  しかし、大和田はいたって素《す》直《なお》にそう言った。「倫子はしっかり者だった。あの子の性《せい》格《かく》を考えれば、あんなやり方で、男を引き離《はな》すべきではなかったな」 「それで倫子さんはオートバイを飛《と》ばして……」 「そう……。あの子の遺《い》体《たい》は、ほとんど見分けがつかないぐらいだった。女房などは今でも、もしかしたら、あれは別《べつ》人《じん》で——などと考えているようだよ」  大和田は、ちょっと寂《さび》しげに笑《わら》った。 「大和田さんは、そうお考えにはならなかったんですか?」  と、容子が言った。  おいおい、何を言い出すんだよ、と友也は容子を見たが、容子のほうは一向に気にしない様子だ。 「私かね? そりゃ、生きててくれたら、どんなに嬉《うれ》しいかと思うよ。しかし、かかりつけだった歯医者さんが確《かく》認《にん》してくれてね。それでは疑《うたが》いようがない」  大和田は、ふと思い出したように、「そうだ。——あの定期入れの件《けん》なんだがね、あれがどうしても私には分からない。思い違いかとも考えてみたが、はっきり、あれを棺《ひつぎ》の中へ入れた記《き》憶《おく》があって……」 「倫子さんが落としたんだとしたら?」 「そんなことが——」 「お葬式のあとにです」  大和田はポカンとして容子を眺《なが》めていた。 「おい容子——」  と、友也が言いかけるのを、 「いいから!」  と、容子は押さえて、「実は大和田さん、私たち、倫子さんを見たんです。それもつい最《さい》近《きん》」 「何だって?」  大和田は愕《がく》然《ぜん》とした。  知らないぞ。もう! 友也は頭をかかえてため息をついた。 「——ここですか?」  と容子がきいた。 「そう。この歯医者だ」  かなり繁《はん》盛《じよう》している歯医者らしい。建《たて》物《もの》も立《りつ》派《ぱ》だった。 「入ろうか」  大和田が決《けつ》然《ぜん》たる足取りで入って行く。 「おい、容子、こんなことして——」  と、友也が低《ひく》い声で言うと、 「いいのよ! 私に任《まか》せて」  と、容子が退《しりぞ》ける。  友也は肩《かた》をすくめた。どうにでもなれ、だ!  中へ入ると、大和田が大声で、 「先生に話がある! 大和田が来たと伝《つた》えてくれ!」  と怒《ど》鳴《な》っていた。  順《じゆん》番《ばん》を待っている患《かん》者《じや》たちがびっくりしていた。看《かん》護《ご》婦《ふ》が青くなって、 「あの——先生は治《ち》療《りよう》中《ちゆう》で——」 「うるさい!」  大和田はズカズカと奥《おく》へ入って行く。 「な、何です、いったい!」 「娘《むすめ》の死体を確認したとき、なぜ嘘《うそ》をついたんだ!」 「何ですって? そんな——」 「娘は生きていたぞ! この野《や》郎《ろう》、誰に頼《たの》まれた!」  ドタドタッと音がしたと思うと、白《はく》衣《い》姿《すがた》の歯医者が転がり出て来た。大和田が追いかけて来て、胸《むな》ぐらをつかんで引っ張《ぱ》り上げる。 「こいつ! しゃべらないと、その歯を全《ぜん》部《ぶ》、入れ歯にさせてやるぞ!」  ドシン、と壁《かべ》に押しつける。  容子が見とれて、 「迫《はく》力《りよく》!」  とつぶやいた。 「ま、待ってくれ……」  歯医者は目を白黒させて、「しゃべる! しゃべるよ……。金を……もらったんだ……」 「何だと? 金をもらって、全《ぜん》然《ぜん》別《べつ》の死体をうちの娘だと証言したのか!」 「す、すまん……。この家を建《た》てて……借《しやつ》金《きん》がかさんでいて……」 「頼《たの》んだのは誰だ?」 「知らない! 本当だ!——見たことのない男だった。現《げん》金《きん》を見せて、『こっちの注文どおりにしゃべってくれりゃ、これをそっくりやる』と言われた。それだけだよ……」 「それだけだと?」  大和田が歯医者を思い切り奥のほうへと投げ飛《と》ばした。歯医者はみごとにゴロゴロと転がって、やがてドシン、ガチャンという音だけが響《ひび》いてきた。 「保《ほ》険《けん》で治《なお》すんだな」  大和田は言って、「さあ出よう」  と、二人《ふたり》を促《うなが》した。 「——君たちのおかげだよ」  外へ出ると、大和田が言った。「しかし、倫《みち》子《こ》はなぜ帰って来ないんだう?」 「さあ。何かよほどの事《じ》情《じよう》があるんじゃないでしょうか」  と容子が言った。 「君たちが倫子を見たというのは、どの辺《へん》かね?」 「東京駅です」 「東京駅……。そうか、あの定期券も東京駅だったな」 「かなり夜遅《おそ》くでした」  と、容子は言って、「ね、中《なか》込《ごめ》君?」  と友也を見る。 「え?——ああ——うん、まあね」 「夜《よ》中《なか》か。よし、今夜、私は東京駅へ行ってみるぞ」  と大和田は言った。 「そうですか。私たちも心強いわ!」  友也がキョトンとして容子を見る。 「ねえ、そうでしょ、中込君?」  勝手にしろ、と友也はそっぽを向いた。 「君たちも行ってくれるか? そいつはありがたい」  大和田はうなずいて、「しかし女房の奴《やつ》には黙《だま》ってなくてはならんな。取り乱《みだ》すといけない」 「ついでに奥《おく》様《さま》には急な出《しゆつ》張《ちよう》だとでもおっしゃっておいたほうがいいかもしれませんよ」  と容子が言った。  では、今夜十一時に、ということになって、大和田と別《わか》れてから、 「おい、容子、どうするんだ? あんなにベラベラしゃべっちゃって」 「まずかった?」 「迫《さこ》田《た》さんにも断《ことわ》らないでさ……」 「いいじゃないの。私たちは私たちなりに、解《かい》決《けつ》へと迫《せま》れば。——さて、帰るかな」 「どこへ?」 「家へよ」 「家へ? だけど、さっきは帰らないって——」 「さっきはさっき、今は今よ」  友也は、もう何が何だか分からなくなってきた。 「それとも……ねえ、友也」  と容子はニッコリ笑《わら》って、「泊《と》まってほしい?」 「結《けつ》構《こう》だよ」  と、友也は言い返した。「それで——出て来られんのかい、君?」 「今夜? ああ、大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》よ。お父さんとじっくり話し込んで説《せつ》得《とく》するから」  何だかえらく風向きが変《か》わっている。 「それじゃ、バイバイ。あ、どこで待ってる?」 「じゃあ……東京駅のホームへ行くよ」 「O《オー》K《ケイ》。十一時ね」  何だか容子は楽しげにスキップなどしながら、歩いて行った。  見送った友也は、ふと、「女《おんな》心《ごころ》と秋の空」などという古くさい文句を思い出していた……。  9 幽《ゆう》霊《れい》の帰《き》宅《たく》 「なあに、こんな時間に出かけるの?」  母親がジロリと友《とも》也《や》をにらんだ。 「うん……。ちょっと用があるんだ。そんなに遅《おそ》くならないからさ」 「中学生のくせに夜《よ》遊《あそ》びなんて!——誰《だれ》とどこへ行くの?」 「あの——迫《さこ》田《た》さんだよ。記者の取《しゆ》材《ざい》ってのはどうやるのか、とかいろいろ教えてくれることになっててね」 「迫田先生? 本当なの?」  子供が信《しん》用《よう》できないのかなあ、と、でたらめを言っておきながら、友也は勝手なことを考えた。 「——お兄ちゃん、電話」  と貴《たか》子《こ》が顔を出した。「迫田先生よ」  グッドタイミングだ! 友也は電話へ飛《と》びついた。 「あ、迫田さん? 友也です。今家を出ますから」 「え?」  向こうはキョトンとしている。そりゃそうだろう。 「だから十一時には東京駅へ着きます。大丈夫ですから」 「十一時に東京駅?」 「ええ、遅《おく》れません、大丈夫ですよ。学校じゃないから遅《ち》刻《こく》はしません、ハハハ……。じゃ、向こうで」  友也は電話を切ると、「——じゃ、出かけて来るよ」  と母親へ声をかけた。 「迫田先生によろしくね」  母親は安心した様子だった。——迫田は母親には信用があるのだ。  友也は急いで出て行った。  貴子はテレビを見ていた。ニュースをやっている。母親が入って来ると、 「ねえ、この人、ほら迫田先生の知ってた記者の人でしょ」 「ああ、何《なん》だか亡《な》くなったっていう人ね」 「うん。——ほら、心《しん》臓《ぞう》発《ほつ》作《さ》と見られていたけど、解《かい》剖《ぼう》の結《けつ》果《か》、心臓発作を誘《ゆう》発《はつ》する薬を飲まされてたんですって」 「まあ、それじゃ……」 「殺《ころ》されたのよ、この人」  と貴子は言った。  大《おお》和《わ》田《だ》は十時少し過《す》ぎに、もう東京駅に着いていた。  気ばかりせいて、どこかで時間をつぶしている気にもなれなかったのである。  帰《き》宅《たく》してからも、興《こう》奮《ふん》を隠《かく》しきれずに歩き回ったりしていたので、妻《つま》がけげんな顔で見ていた。  そこで早々に急の出張命《めい》令《れい》だと言って、出てきたのである。  それでもこうして一時間近くも前にやって来てしまった。死んだと思った娘《むすめ》が生きているらしいと分かれば、誰だって落ち着かなくなるだろう。  もっとも、過《か》大《だい》な期待を抱《いだ》くのは禁《きん》物《もつ》だ、と大和田は自分へ言い聞かせた。  必《かなら》ずしも今夜、ここへ倫《みち》子《こ》が現《あらわ》れるとは限らないのだ。しかし、たとえ一パーセントの可《か》能《のう》性《せい》でもあれば……。  時間はのろのろと過《す》ぎていった。  ベンチに腰《こし》をおろして、電車が来るたびに、客の中に倫子の姿がないかとキョロキョロ見回した。  十一時が近づくにつれ、落ち着かなくなった大和田は、立ち上がって、ホームをウロウロと歩き出した。  あの少年と少女はまだ来ない。いや、まだ十分あるのだ。来なくて当たり前だ。 「落ち着け、落ち着け……」  と自分へ言い聞かせる。  電車が一本入って来た。あれに乗ってるかな。——大和田はホームの端《はし》のほうへと少し進み出た。  ふと、誰かが後ろに立ったのを感じて、大和田は振《ふ》り向いた。知らない男が立っていた。 「大和田さんですね」 「ええそうですが」  電車がゴーッと低《ひく》い唸《うな》り声を立てて、ホームを滑《すべ》って来る。 「あなたは?」  男が、いきなり大和田を突《つ》き飛《と》ばした。大和田はひとたまりもなくホームから線路へ——電車の直前へ落ちた。  ブレーキが鳴る。男は同時に駆《か》け出していた。 「やれやれ……」  友也は、十一時を十五分も過ぎて、やっと東京駅へやって来た。  本来なら、ちゃんと間に合う時間に、電車に乗ったのである。  ところが途《と》中《ちゆう》で、「人《じん》身《しん》事《じ》故《こ》のため」とかで、電車がストップしてしまったのだ。  あとはノロノロ運転で、やっとこ到《とう》着《ちやく》というわけである。ホームへ出ると、反対側《がわ》のホームに何《なに》やら人だかりがしている。  大和田さんはどこだろう? 友也が見回していると、 「友也!」  と呼《よ》ぶ声がした。  容《よう》子《こ》が走って来る。 「やあ、遅れてごめん。何か事故があったって——」 「大和田さんよ」  と容子は言った。 「本当かい?」  友也は思わずきき返した。「どうしたんだ?」 「誰かが電車の前に突き落としたの。運転手が見ていたわ」 「そんな……」  友也はつぶやくように、「で、どうなの、大和田さんは?」  容子は肩《かた》をすくめて、 「分からないわ。そうしつこくもきけないし」  と言った。 「でも……誰が……」 「ともかく、ここで待つのよ」 「待つって?」 「犯《はん》人《にん》は当《とう》然《ぜん》、私たちが来ることを知ってるはずだわ。だから犯人が出て来るのを待つの」 「来るかな」 「来るわよ。——必ず」  容子はそう言って、厳《きび》しい目で、ホームを見《み》渡《わた》した。 「今は来ないだろう。これだけ人がいちゃ」 「そうね。静《しず》かになったら……」 「なぜ大和田さんが……」 「倫《みち》子《こ》さんに会われちゃまずいからでしょうね」 「でも殺《ころ》さなくたっていいじゃないか!」 「犯人にきいてよ」  と容子は言った。  そろそろ、片《かた》づけ始めているらしい。ホームに集まっていた人々も散《ち》り始めた。  十一時半を回っている。  それにしても——と、友也は考えた。その犯人は、なぜ大和田さんがここへ来ることを知っていたんだろう?  偶《ぐう》然《ぜん》見かけただけとは思えない。 「ねえ容子」 「なに?」 「ここへ十一時に来るってこと、誰かにしゃべった?」 「いいえ。お父さんは出かけてるしね」 「そうか……。でも犯人はどうして——」 「友也は? 言わなかった?」 「言うもんか!」  と、友也は言った。 「ほら、ホームが空《から》になるわよ」  と、容子は声をひそめた。  時間は過ぎていった。そして、終電車が入って来る……。 「あれが最《さい》後《ご》だ」 「倫子さんがこの間出て来たのは、どっちの階《かい》段《だん》?」  と容子がきいた。 「あっちだよ」 「その階段のほうへ行きましょう」  と容子が促《うなが》した。  容子と友也は、その階段を真《ま》上《うえ》から見下ろした。終電車が入って、何人かの客が降《お》りて行く。  それが途《と》切《ぎ》れると、もう人の姿《すがた》はなくなった。——友也と容子は、手すり越《ご》しに、階段を見下ろしていた。 「来ないぞ」 「もう少し待つのよ」  と、容子は言った。  友也は、微《かす》かな足音が背《はい》後《ご》に近づくのを聞き取った。  ハッと振り向く。コートにソフト帽《ぼう》、サングラスとマスクで顔を隠《かく》した男が目の前に立っていた。 「誰《だれ》だ!」  と友也が叫《さけ》ぶ。  男の手がのびて、容子の体を突き飛ばした。 「キャーッ!」  手すり越しに容子の姿が消える。 「容子!」  と友也が青くなった。  容子は手すりにぶら下がっていた。下の階段まで、四、五メートルはある。  男の手が友也の首へのびてきた。友也もすばしっこい点では人に負けない。エイッとばかり男の手にかみついた。 「ウーッ!」  と男が呻《うめ》いて、手を引っ込《こ》めた。  かなりきいたらしい。男はかまれた手を押《お》さえて逃《に》げ出した。 「容子! しっかりしろ」 「もうだめ!」  手すりがコンクリートなので、しっかりつかんでいられないのだ。ズルッと滑《すべ》って、友也が手を伸《の》ばしたときは、容子の体は真《ま》っ直《す》ぐに落下していた。 「キャッ!」  と容子が叫ぶ。  容子の下へ、大和田倫子が駆《か》けて来た。ほんの一《いつ》瞬《しゆん》の出《で》来《き》事《ごと》だった。容子が落ちる——倫子が現《あらわ》れる——倫子が容子を受け止める。二人《ふたり》して階段に転《てん》倒《とう》した。  友也は手すりを回って階段を駆け降りた。 「大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》か!」 「私は何とか……」  と、容子が腰《こし》を押さえながら起き上がる。 「大丈夫です」  倫子も、頭を振《ふ》って起き上がった。 「倫子さん! あなたのお父さんが——」 「え? 父が……」  倫子はハッとした。「父が来たんですか?」 「電車の前に突き落とされたのよ!」  倫子が青ざめた。 「それで——」 「突き落としたのが誰か、あなたには分かってるでしょ? お父さんにあなたと会われちゃまずいと、お父さんを殺そうとしたのよ」 「ああ!——まさか!」  倫子はよろめいて、両手で顔をおおった。 「おい容子……」  と友也は言った。「分かってんのか、犯人が?」 「当たり前よ。今、突き落とされそうになって、まだ分からないの?」 「だって——」  あの体つき、あの呻《うめ》き声……。まさか! 友也は愕《がく》然《ぜん》とした。 「そうだ。あの人には言ったんだ。十一時に東京駅、と……」  倫子が、突《とつ》然《ぜん》走り出した。通路へ降りると、そのまま突っ走って行く。 「追いかけるのよ!」  と、容子が叫んだ。 「おい、待て!」  と、友也は叫んで駆け出した。  友也と容子が改《かい》札《さつ》口《ぐち》を飛び出したとき、倫子は、あのコート姿の男と、もみ合っていた。 「はなせ!」 「この人殺し!」  と倫子がしがみつく。  倫子の手で、男の帽《ぼう》子《し》が。つづいて、マスクとサングラスが落ちた。——現れたのは、迫《さこ》田《た》の顔だった。 「畜《ちく》生《しよう》!」  迫田が倫子を突き飛ばして駆け出す。 「倫子さん、しっかりして!」  と容子が駆け寄《よ》った。 「あの男が——」 「大丈夫。逃げられやしないわ。それにお父さんも危《き》機《き》一《いつ》髪《ぱつ》で無《ぶ》事《じ》だったのよ」 「本当に?」  倫子の顔が輝《かがや》いた。 「倫子!」  と声がした。大和田が、腕《うで》に包《ほう》帯《たい》をして、走って来る。 「お父さん!」  倫子が飛び上がって、父親のほうへと駆け寄った。  一方、友也のほうは、ガランとした、駅の構《こう》内《ない》を、迫田を追っかけて走っていた。しかし、中学生の足ではとても追いつけない。そのとき——。 「何だ?」  と友也は思わず言った。  駅の構内へ、オートバイが五、六台乗り入れて来て、迫田の行く手を塞《ふさ》いだ。 「アリサだ!」  と友也は言った。  オートバイが構内に爆《ばく》音《おん》を響《ひび》かせて、いっせいに迫田へ向かって突っ走った。迫田があわてて向きを変える。  だが、いくら走ってもオートバイにかなうはずもない。たちまち取り囲《かこ》まれて、右《う》往《おう》左《さ》往《おう》しているところへ、どこにいたのか、警官が何人も飛び込《こ》んで来た。  迫田は力尽《つ》きたように、その場に座《すわ》り込んでしまった……。 「幕《まく》切《ぎ》れは派《は》手《で》でいいでしょ」  いつの間にか、容子が友也の横に立っていた。 「君が……」 「そうよ。連《れん》絡《らく》しといたの。アリサにも、一役買ってもらったほうが公平だと思ったしね」  と容子は言った。 「まったく、奇《き》想《そう》天《てん》外《がい》なアイデアを考え出したものね」  と、容子は言った。 「何《なん》だかよく分からないよ」  友也は一人《ひとり》でむくれている。いつも容子のほうが説《せつ》明《めい》する立場なのだ。  ここは大和田の家である。倫《みち》子《こ》が戻《もど》ったので、母親のほうはまだ嬉《うれ》しさで呆《ぼう》然《ぜん》としている。父親がせっせと、お茶の用意をしていた。 「記者という仕事をしていたから、迫田はいろいろと珍《めずら》しい話を聞く機《き》会《かい》があったわけね。それで、あの東京駅に今は全《ぜん》然《ぜん》使われていない階《かい》段《だん》と、地下の通路があることを知った。それと、倫子さんを、たまたま助けたことの二つを、迫田はうまく結《むす》びつけたわけね」 「私《わたし》、オートバイごとぶつかって死ぬつもりだったの」  と倫子は言った。「でも、空中へはね飛《と》ばされて、それこそ嘘《うそ》みたいな話だけど、迫田の車の中へ落っこちたんです。オープンタイプのスポーツカーだったから」 「で、彼《かれ》はあなたを介《かい》抱《ほう》した。あなたも彼に心をひかれてたんでしょう? 優《やさ》しそうな男だものね。そしてたまたま身元の分からない女の死体があなたのものらしい、と言われているのを知って、死んだことにしてしまうことで、両親へ仕返ししてやりたかったんでしょう?」 「ずっとそのままにしておくつもりはなかったんです。命を助けてくれた迫田に頼《たの》まれたし、その計画が終わるまでは、と……。そのあとで、記《き》憶《おく》を失《うしな》っていたとか言って帰るつもりでした。——今思うと、ずいぶんひどいことをしたものだと……」 「でも、迫田も、よくあんな独《どく》創《そう》的《てき》な計画を考えついたものね」 「もともと、首《しゆ》相《しよう》秘《ひ》書《しよ》の神《かみ》山《やま》っていうのと親しくて、二人《ふたり》で何かひともうけしようと思ってたようです」 「じゃ、核《かく》シェルターの話は神山が考え出したのかしら?」 「たぶん、そうだと思います」 「どこかにそういう場所が実《じつ》在《ざい》すると思わせて、核《かく》戦《せん》争《そう》が真《ま》近《ぢか》いと匂《にお》わせる。普《ふ》段《だん》からそういう話に神《しん》経《けい》質《しつ》になっている金持ちに、その話を信《しん》用《よう》させて、そこへ入れるようにしてやるといって、巨《きよ》額《がく》の金を巻《ま》き上げる、という寸《すん》法《ぽう》ね」 「一人、五千万と言ってました」 「じゃ、あの話は、全《ぜん》部《ぶ》でたらめ?」  と友也は目を見《み》張《は》って言った。 「もちろんよ。沢《さわ》井《い》って人から聞いたというのも嘘《うそ》。何もかもでっちあげだったのよ」 「あきれたな!」 「私、どうにもその話が信じられなくってね、特《とく》にお父さんに迫田がけんめいに説明していたとあなたが言ったんで、ピンときたの。うちのお父さんなら、まず簡《かん》単《たん》に引っかかるに決まってるもの」 「じゃ、連《れん》中《ちゆう》の目《もく》標《ひよう》は君のお父さんだったのか!」 「そうよ。だって、首相秘書の神山と父は親しいの。だから神山も、まず手始めに父を狙《ねら》ったんだわ」  と容子は言った。「でも、直《ちよく》接《せつ》そんな話を持ちかけても、まず信用されないに決まっている。そこでまず娘《むすめ》の私が、ごく自《し》然《ぜん》にそれを発見するように導《みちび》いていったのね」 「すると僕《ぼく》が倫子さんを追いかけて、あの通路を見つけるように、筋《すじ》書《がき》ができてたのかい?」 「そうです」  と倫子がうなずく。「迫田が、たまたま容子さんの友だちであるあなたのことをよく知っていたので、利《り》用《よう》できるだろう、と言ったんです。おたくを訪《たず》ねようとして、あなたがお母さんに用を頼《たの》まれるのを耳にしたらしいですね。私に、同じ電車へ乗れと言って……。私を見たら、必《かなら》ずあなたが私について来る、と……」 「参《まい》ったな!」  と友也は言った。まるでぼくが馬《ば》鹿《か》みたいじゃないか! 「以《い》前《ぜん》使っていた定期入れとそっくりの物を落としておいたんです。あなたが私の家へ届《とど》けてくれると分かっていましたから。そしてあなたが、その話を容子さんへ聞かせるに違《ちが》いない、と……」 「で、私もそういう話は大《だい》好《す》きだから、必ずのってくる、ってね」  と容子は笑《わら》って言った。「あの喫《きつ》茶《さ》店《てん》の一《いつ》件《けん》も、わざと表を迫田が通りかかって、友也をおびき出し、その間に私を眠《ねむ》らせる。——いかにも大きな組《そ》織《しき》が重大な秘《ひ》密《みつ》を守っているかのように思わせたのよ」 「でも、ウエイトレスは?」 「神山が、あなたと迫田が話している間に、店のウエイトレスの子にお金をやって、しばらく交代させたんです。確《たし》か神山が親しくしている女だったと思います」 「あれにはびっくりしたものなあ」 「でも予定と違ったのは、容子さんが、なかなかお父さんへ話をしないことだったんです。迫田も、容子さんの性《せい》格《かく》はよく分からなかったんですね。それでアリサにまで誘《さそ》いをかけて、何とか、大《たい》変《へん》な事件に巻き込まれているように見せようとして……」 「私が姿をくらましたりね」 「沢井さんが死んだのは?」  と友也が言った。 「私が沢井さんをあの家に呼《よ》んだの」 「君が?」 「沢井さんの話を直接聞いてみたくてね。ところが私が買物に出ている間に、沢井さんが来たわけ。たぶん迫田は私が沢井さんへ電話して、会いたいと話したとき、沢井さんのそばにいて、相《あい》手《て》が私だと気づいたのね。そこで沢井さんのあとを尾《つ》けて来ていて、私と話されちゃ、自分の嘘《うそ》がばれると思ったのね。何とかして、こっそり飲み物に薬を入れた……」 「気の毒《どく》だったね……」 「それは私のせいだわ」  と、容子はちょっと暗い表《ひよう》情《じよう》になって言った。 「じゃ、君のお父さんは本気で金を払《はら》おうとしたの?」 「迫田が神山の名前を出したから、早《さつ》速《そく》神山のところへ行って話をしてるわよ。神山はきっとしばらくはとぼけてみせて、そのうち、これは極《ごく》秘《ひ》だが、とか何とかもったいぶって、迫田が話したとおりのことを脱明する。——お父さんはきっと『うちの家族だけでも何とか入れるようにしてくれないか』って頼む」 「それなら金を払ってくれ、ってわけか」 「お父さんなら、五千万ぐらい軽く出すでしょ。いったん、うちのお父さんのような、割《わり》と顔の広い人間に信用させてしまえば、あとは簡単よ。実は北《きた》川《がわ》さんがこっそり核シェルターに入る権《けん》利《り》を買ったと耳うちすれば、自分も買うっていうのが、たちまち五、六人は出て来るわ」 「でも、実物がないんじゃ、そのうちばれるだろう」 「そう何《なん》人《にん》もやらなくてもいいのよ。五人から集めりゃ二億《おく》五千万円よ。凄《すご》い金だわ」 「そうか」 「それに、もしばれても、どう? 金を返せば、そんな名のある人だもの、黙《だま》ってるわよ。こっそり生き残《のこ》るために金を出したなんて、人に知られたくないでしょうからね」 「なるほど……。うまく考えたもんだなあ」  と友也はため息をついた。 「私も馬《ば》鹿《か》でした」  と倫子が言った。「いくら助けてもらったとはいえ、あんな男の言いなりになって一度は心をひかれたりして……」 「もういいんだ」  大和田が倫子の肩《かた》を抱《だ》いた。「お前が帰って来てくれただけで満《まん》足《ぞく》だよ」 「ねえ、一つ教えてくれよ」  と、友也は言った。「君、どうやってあの通路から消えたの?」 「壁《かべ》の下のほうにゴミの投入口があるんです。そこへ滑《すべ》り込めば、アッという間《ま》に消えられます」 「捜《さが》したのになあ」 「壁と同じ色に塗《ぬ》って、中から押さえてたから、分からなかったんですよ」 「そうか……。やれやれ、終わってみると、あっけないなあ」 「何《なに》言ってんの。さんざん冒《ぼう》険《けん》したじゃない」 と容子は言った。「さあ、お父さんをどうやってからかってやろうかな」 エピローグ 「そもそも、友《とも》也《や》が可《か》愛《わい》い女の子とみると、すぐあとをつけて行くからいけないのよ」  容《よう》子《こ》はソフトクリームをなめながら言った。 「だけど……」 「まあいいわ。男の子なら当《とう》然《ぜん》よね」  友也はホッとして、自分のソフトクリームをなめた。  歩行者天国の日曜日。——通りは、若《わか》者《もの》たちであふれていた。 「平和ね」  と、容子が言った。 「もし本当に——」 「え?」 「いや、本当にさ、ここへ核《かく》爆《ばく》弾《だん》が落ちて来たら……」 「ソフトクリーム食べ終わらなかったのが残《ざん》念《ねん》だと思うでしょうね、きっと」  二人《ふたり》は顔を見合わせて笑った。——でも、何となく重苦しい笑いだった……。 「さあ、映画でも見に行かない?」  と容子が言った。 「混《こ》んでるぜ、きっと」 「指定席《せき》に座《すわ》る」 「そんな金ないよ、僕《ぼく》」 「私が出すからいいわ」 「へえ! 気前いいんだなあ」 「お父さんから巻《ま》き上げてきたの」 「何て言ったの?」 「『核シェルターより安いでしょ』って」  容子はソフトクリームをなめながら、勢《いきお》いよく歩き出した。友也があわてて追いかける。  どうも友也は、当分女の子のあとを追いかけることになりそうだった。 何《なん》でも屋《や》は大《おお》忙《いそが》し 1 「誰《だれ》だよ、こんな仕事引き受けて来たの」  と、哲《てつ》郎《ろう》が声を上げた。 「哲郎君、悪いくせよ、〈こんな〉とか〈そんな〉しか言わないで。それで分かるわけないじゃないの」  グループきっての「理《り》屈《くつ》屋《や》」で通っている聡《さと》子《こ》が素《す》早《ばや》く言い返した。「どの仕事のこと言ってるの?」 「これだよ。暴《ぼう》走《そう》族《ぞく》のケンカの仲《ちゆう》裁《さい》だって? こんなことオレたちできるわけないだろう!」 「あら、だって、ここは『何《なん》でも屋』よ。何だって引き受けますって建《たて》前《まえ》じゃないの」  と、ミチ子が呑《のん》気《き》にハンバーガーなどかじりつつ言った。 「それにしたって……。じゃ、お前、泥《どろ》棒《ぼう》に入るから手《て》伝《つだ》ってくれって言われたら、引き受けるのか?」 「そりゃ原則的には断《ことわ》る理由、ないんじゃない?」  と、聡子。「合法的《てき》な仕事に限《かぎ》ります、って、ただし書きつけとかないのが悪いのよ」 「聡子なあ、お前理屈ばっかり言って——」 「ちっとも稼《かせ》いで来ないで、でしょ。聞き飽《あ》きたわよ」 「こっちは言い飽きたよ!」 「二人《ふたり》とも、やめなさいよ」  と、ミチ子が、大《おお》欠伸《あくび》をして、「——それに、ケンカに加《か》勢《せい》しろ、っていうのなら、違《い》法《ほう》かもしれないけど、仲裁に入れってんだから合法的よ。世のため、人のためにもなるしさ」 「腕《うで》一本折《お》られても、か」  哲郎は苦《にが》々《にが》しい顔で、「引き受けちまったもん、しょうがねえや。——おい、ミチ子、お前、引き受けたんだから、自分で行けよ」 「やあよ。このか弱き乙《おと》女《め》に万一のことでもあったら、どうすんのよ」 「都《つ》合《ごう》のいいときだけ、か弱き乙女になりやがって……」 「大体、引き受けたの、私《わたし》じゃないもん」 「何だって? じゃ、聡子、お前か?」 「いいえ、残《ざん》念《ねん》でした」 「じゃ……誰だよ」  と哲郎はメモの字をじっと眺《なが》めた。「だけど——この字は見《み》憶《おぼ》えあるぜ」 「どれどれ」  と、聡子、ミチ子も寄《よ》って来て覗《のぞ》き込《こ》んだ。  その間に、この場所と状《じよう》況《きよう》を説《せつ》明《めい》しておこう。  三人の様子からほぼ察《さつ》しがつくように、みんなまだ若《わか》い——四十代には遥《はる》かに遠く、三十代にもまだ遠い、十八歳《さい》、大学一年生である。  この三人、なぜか小学校からずっと一《いつ》緒《しよ》のクサレ縁《えん》で、ついに大学まで同じになってしまった。高校は私《し》立《りつ》で、三人とも、お互《たが》いに、 「これでやっと別《べつ》になれる」 「よかったわ」  と、言い合っていたのに、入ってみると、みんな同じ高校を受《じゆ》験《けん》していたのだった。  そして大学。——今度こそは、と思ったのだが、また一緒になってしまった。ここまで来ると、はや諦《あきら》めの境《きよう》地《ち》である。  どうせここまで来たのなら、アルバイトも一緒にやろうというわけで、ここ、哲郎の家を本《ほん》拠《きよ》に、「何でも屋」を始めたのである。  それには、ちょうど哲郎の父親が、転《てん》勤《きん》で二年間北海道へ行くことになり、母親ともどもいなくなって、家には哲郎一人《ひとり》が残《のこ》るはめになっていたという事《じ》情《じよう》もあった。  哲郎は一人っ子だから、しっかり者であり、その点、両親の信《しん》用《よう》も充《じゆう》分《ぶん》にあったのである。  もちろん、聡子とミチ子の二人は、同居しているわけではない。自《じ》宅《たく》から、いや、大学の帰りに、ここへ来ては仕事をしているのである。 「何でも屋」をやろう、と言い出したのは哲郎で、たまたま、便《べん》利《り》屋《や》という商売が誕《たん》生《じよう》して、結《けつ》構《こう》繁《はん》盛《じよう》しているらしいことを週《しゆう》刊《かん》誌《し》で見て思いついたのである。  しかし、哲郎自身は、どうしようもない不《ぶ》器《き》用《よう》で、釘《くぎ》一本打つのも、垂《すい》直《ちよく》には無《む》理《り》でなぜかいつも四十五度は傾《かたむ》いているという具《ぐ》合《あい》。それだけに、こういう仕事が成《な》り立つのではないかと考えたのである。  だから、この三人は、いわば電話番で、仕事が来ると、三人の知っている学生仲《なか》間《ま》の中から、向きそうなのを選《えら》んで、行かせる。そして手間賃の三割《わり》を、ここへ納《おさ》めてもらう、というシステムなのである。  しかし、どうしても、やる人間が見《み》付《つ》からないことも、たまにはある。そうなると、引き受けた手前この三人の誰かが行かなくてはならない……。 「誰の字、これ?」  とミチ子が首をかしげる。「私、全《ぜん》然《ぜん》見憶えないよ」 「女の字ね、特《とく》徴《ちよう》からみて」  と聡子が、あたかも、レントゲン写《しや》真《しん》を見る医《い》師《し》のごとく言った。 「確《たし》かにお前たちの字じゃないよな。こんなうまい字書けないもんな」 「何《なに》よ! 自分の字、よく見てから、ものを言いなさいよ」  とミチ子が、かみついた。 「——あら、メモ、見てくれた?」  と、突《とつ》然《ぜん》、第三者——いや、第四者の声が割《わ》って入った。 「あんた、だあれ?」  とミチ子が言った。  男みたいな女の子が入って来た。革《かわ》ジャンパーにジーパン、髪《かみ》も、短く切って、ただ顔つきはどう見ても女だったし、声も女のそれである。 「私、ルリ子」  と、その女の子は言った。「さっきここへ来たんだけど、誰もいないから、そこへメモ置《お》いてったのよ」 「あんたここへ黙《だま》って入って来たの? 人の家へ!」 「あら、ここはいわばオフィスでしょ。だったら外の人間が入って来たっていいじゃないのよ」 「あんた生《なま》意《い》気《き》ね、ちょっと——」  とミチ子がムッとした顔になる。 「まあ、待てよ」  と哲郎が間に入る。「ええと……ルリ子だっけ? 君いくつ?」 「十七よ」 「それで——これは本当なのかい? 暴走族のケンカを止めてくれ、ってのは」 「当たり前でしょ。そんなウソつくために、わざわざ来やしないわ」 「だけどさ——こういう仕事は——」 「できないの? だって、ここは『何でも屋』なんでしょ?」  そう問い詰《つ》められると、哲郎も弱い。ミチ子と聡子はヒョイとソッポを向いてしまう。 「なあ、こういうことは警《けい》察《さつ》の仕事だよ。そうさ、警察へ届《とど》ければ、ちゃんとやってくれるよ」 「つかまっちゃ困《こま》るのよ」  と、ルリ子が言った。「一方は私がリーダーなんだから」  ミチ子と聡子は、もはや、完《かん》全《ぜん》に哲郎を見はなしていた……。 「ケンカなんて下らないよ。やめた方がいいぜ。殴《なぐ》られりゃ痛《いた》いぞ。血が出りゃ服が汚《よご》れるし。骨《ほね》が折れたら入院しなきゃならない。心《しん》臓《ぞう》が止まったら死ぬんだぞ。だから考え直せよ」  哲郎は、ため息をついた。「これじゃ、やめないだろうな……」  哲郎は、独《ひと》り言を言っていたのである。  いわば、これからの「仕事」のリハーサルというわけだった。  夜、十一時。——風が強くて、寒かった。  ケンカの場所に指定されているのは、工事現《げん》場《ば》で哲郎の家からは、歩いて十五分ほどの所である。工事といっても、まだ、ほぼ空地のままで、隅《すみ》の方に多少資《し》材《ざい》が積《つ》み上げてあるくらいだ。 「やれやれ……。こっちがけがしたら、誰が治《ち》療《りよう》費《ひ》払《はら》ってくれるのかな」  と、哲郎は呟《つぶや》いた。  あのルリ子という女の子が帰ってから、哲郎は必《ひつ》死《し》で、この仕事をやってくれる奴《やつ》がいないかと捜《さが》したのだが、みんな、まず、一万円という手《て》数《すう》料《りよう》を聞くと、 「何だってやるぜ!」  と元気がいいのに、仕事の中味を聞くと、急に、 「頭《ず》痛《つう》がして来た」  とか、 「今日、お袋《ふくろ》の葬《そう》式《しき》で——」  などとひどいことを言い出す。  結《けつ》局《きよく》、哲郎、自らが出て来るしかなくなってしまったのである。  もちろん、放っといてもいいのだ。一一〇番へ知らせて、後は知らん顔を決め込む。普《ふ》通《つう》の学生ならそうするだろう。  しかし、なぜか、哲郎は、責《せき》任《にん》感《かん》だけは人一《いち》倍《ばい》強い。これは、親の教育というより、持って生まれた性《せい》格《かく》のようだった。  別に勇《ゆう》敢《かん》なわけでもなく、ケンカに強いわけでももちろんない。——ただ、引き受けたからには行かなきゃならない、という義《ぎ》務《む》感《かん》で、今現《げん》場《ば》に向かっているのである。  道は暗く、人通りはなかった。風が吹《ふ》き抜《ぬ》けて、思わず首をすぼめる。  今夜は寒いから、ケンカは延《えん》期《き》———なんてことはないだろうな、と哲郎は、思った。 「ん?」  後ろから、光がチラチラと足下を照《て》らしている。振《ふ》り向くとライトが一つ、自転車である。見ている内にスーッと近《ちか》寄《よ》って来て、ピタリと止まる。 「何だ、ミチ子!」 「あら、偶《ぐう》然《ぜん》ね、こんな所で」  とミチ子は澄《す》まして言った。 「悪いな、手伝いに来てくれたのか」 「哲郎に死なれたら、こっちもあの家、使えなくなるじゃない。だから来たのよ。誤《ご》解《かい》しないでよ。何も哲郎のこと心配して来たんじゃないからね」 「分かったよ、どうでもいいけど、一人じゃ心細かったんだ」  哲郎は、ホッとしながら、歩き出す。ミチ子も自転車から降《お》りて、歩き始めた。 「——ねえ、あのルリ子って女の子、別にうちの大学生じゃないのに、どうして、この仕事のこと、知ってんだろうね?」 「そうだなあ。——誰かに聞いたんだろう」 「あの子の字に見憶えある、って言ったじゃないの」 「そうなんだ。でもなあ……思い出せないよ。——ただ、誰かの字に似《に》てるだけかもしれないけどさ」 「——ね、哲郎、もうそろそろじゃない?」 「ああ。あそこに黄色いランプがついてるだろ。あの向こうだよ」  暗い道を、進んで行くと、かなりの広さ——たぶん、バスケットコートぐらいはある土地が、のっぺりと広がっている。 「ここか。——ケンカにゃ絶《ぜつ》好《こう》ね」 「全《まつた》く、何でケンカしなきゃなんないんだろうな。オートバイ乗るの好《す》きなら、ただ走ってりゃいいじゃないか」 「そう言ってやったら?」  と、突然、暗がりの中から声がして、哲郎とミチ子は飛《と》び上がった。 「——聡子じゃないの!」 「お二人じゃ心細いと思って来たのよ。三人なら、どうなっても一人は逃《に》げて一一〇番できるでしょ」  と聡子は言って、「この先、五十メートルくらいの所に、公《こう》衆《しゆう》電話があるわよ」 「相《あい》変《か》わらず、頭の回ることね」  とミチ子は言った。  哲郎は、何とも複《ふく》雑《ざつ》な気分である。二人が来てくれたことは嬉《うれ》しい。しかし、それは要《よう》するに、いかに自分が頼《たよ》りなく思われているかを証《しよう》明《めい》しているようなものである。 「——ねえ」  と、ミチ子が言った。「誰かいるよ」 「どこに?」 「空地の真《まん》中《なか》に……。ほら、よく見て」  哲郎は目をこらした。——なるほど、暗さに目が慣《な》れて来ると、何やら人間らしいものがうずくまっているのが目に入った。 「もうケンカしてやられたのかしら?」 「まさか! 十二時だぜ、ケンカの時間は。まだ四十分もある」 「四十二分よ」  と、聡子が言った。「でも、あんな所で寝《ね》る物《もの》好《ず》きはいないわ。見に行った方が良《よ》さそうじゃない」 「そうだな……」  聡子が懐《かい》中《ちゆう》電《でん》灯《とう》をつけた。そういえば、哲郎は何も持って来ていない。いかに緊《きん》張《ちよう》していたか、明らかである。  聡子を先頭に、哲郎とミチ子が続《つづ》いた。  ちょうど、空地の真中あたりに、誰かが倒《たお》れている。哲郎は、ゴクリとツバを飲み込んだ。 「誰だろう?」 「うつ伏《ぶ》せね。——顔を見ましょう」  聡子は、落ち着き払《はら》っていて、かがみこむと、その倒れている体を、仰《あお》向《む》けにさせた。 「まあ——」  と、ミチ子が言った。  哲郎は目を見《み》張《は》った。 「これは——あの子じゃないか!」  ルリ子だった。間《ま》違《ちが》いない。しかし、哲郎が驚《おどろ》いたのは、ルリ子が、昼間見たときと打って変《か》わってブルーの、いかにも少女っぽいワンピースを着ていることだった。  だが、そのブルーは、土で汚れ、そして、胸《むね》のあたりは赤く、血で汚れていた……。 2 「あーあ、参《まい》ったねえ」  と、ミチ子が入って来るなり言った。「パパとママから、散《さん》々《ざん》どやさちゃった。そんな変《へん》なアルバイトやってるから、人《ひと》殺《ごろ》しなんかに巻《ま》き込《こ》まれるんだ、って」 「私も同様よ」  と聡子が、言った。 「へえ、聡子も?」 「警《けい》察《さつ》の厄《やつ》介《かい》になるくらいなら、いっそ駆《か》け落ちでもしてくれた方が、ってね」 「別《べつ》にこっちが悪いことしたわけじゃあないのにね。——ところで、ここの住人は?」 「哲郎君? 二階《かい》へ行って、何やらひっくり返してる」 「オセロでもやってんの?」 「違《ちが》うわよ。机《つくえ》をかき回して——あ、戻《もど》って来た」  哲郎は、何だか、いやに深《しん》刻《こく》な顔で、入って来た。 「どうしたの? そっちもママに叱《しか》られたな?」  とミチ子が、からかうように言ったが、哲郎は、妙《みよう》に沈《しず》み込んだ様子で、手に少々古びた封《ふう》筒《とう》を持っている。 「何《なん》なの、それ?」  と聡子が聞く。 「あの子の字さ」 「あの子?——殺《ころ》された子?」 「どこかで見た字だと思ったんだよ」 「見せてくれる?」 「ああ……」  聡子が封筒から手紙を出して開くと、ミチ子が覗《のぞ》き込《こ》む。 「——これ、ラブレターじゃないの!」  とミチ子が声を上げた。「『憧《あこが》れの哲郎さん……』だって!」 「じゃ、あの子は、哲郎君の彼《かの》女《じよ》だったの?」 「違うよ! それはもう五年前に来たんだ。中学生の頃《ころ》さ。あの子は、ともかく目立たない子だった。つきあいも全《ぜん》然《ぜん》ないんだよ」 「この手紙は?」 「ある日、僕の机の中にあったのさ」 「で、どうしたの?」 「どうもしないよ。——こっちに全然その気がないんだもの。下《へ》手《た》にあれこれ言うより、放っておくのが一番だと思ったんだ」 「それは正《せい》解《かい》ね」  と聡子が言った。 「で、あなたはそれを、コロッと忘《わす》れてたわけね」 「うん。だって、あのころは、髪《かみ》を長くしてさ、まるでイメージが違ってたんだもの。分かるわけないよ」 「いつ、気が付《つ》いたの?」 「名前さ、伊《い》波《なみ》ルリ子っていったろ? ちょっと珍《めずら》しい名だから、頭の隅《すみ》に残《のこ》ってたんだな。警察で聞いて、あれ、と思ったんだ。どこかで見た名だな、って」 「それでこの手紙を捜《さが》してたのか」 「まさかあの子が暴《ぼう》走《そう》族《ぞく》とはね……」 「でも、死んでたのはワンピース姿《すがた》だったわよ」 「そうなんだ。あのときに、あれ、どこかでこの顔見たことある、と思ったんだよ」  と哲郎は肯《うなず》いた。  しばらく、三人は黙《だま》っていた。 「——可《か》哀《わい》そうに」  とミチ子が言った。「きっと、哲郎のこと、憶《おぼ》えてて、ここへ来たのよ。それなのに、哲郎はてんで気が付《つ》かなくて——」 「おい、よせよ。何だか僕《ぼく》が悪いことしてるみたいじゃないか。——でも、僕は、ちゃんとその償《つぐな》いはする気だぜ」 「どうやって?」 「犯《はん》人《にん》を見付けるのよ」  と、聡子が言った。「ねえ、そうでしょ、哲郎?」 「あれは自業自《じ》得《とく》というものだ」  父親の伊波の言葉に、哲郎は、思わず、 「え?」と訊《き》き返していた。 「つまり、暴走族に入って、リーダーかなんかやっていれば、いつか当《とう》然《ぜん》ああいうことになるに決まっとる、ということさ」  伊波は、そう言って、タバコに火をつけた。——哲郎は、ちょっと言葉が出て来なかった。 「でも——ルリ子さんが殺されて、犯人が憎《にく》いでしょう」 「まあね」  と、伊波は言った。「そりゃ、早く捕《つか》まるに越《こ》したことはないが、一方的《てき》にそっちが悪いというわけではあるまい。娘《むすめ》の方も悪かったんだよ」  哲郎は頭へ来ていた。  娘が殺されたというのに、こうしていつも通り、自分が経《けい》営《えい》している会社に出て来ているというので、悲しみを紛《まぎ》らわすためかと思ったのだが、この父親は、さっぱり悲しんでもいない様子である。 「あの——ルリ子さんを殺した人間の心当たりは——」 「別にないね。それは警察が調べてくれるだろう」  伊波は立ち上がって、「では、私は忙《いそが》しいんでね。失《しつ》礼《れい》するよ」  と言った。 「こっちも失礼します!」  これ以《い》上《じよう》いると、ぶん殴《なぐ》りかねない、と思って、哲郎は、社長室を出た。 「——やあ、どうだった」  会社を出ると、聡《さと》子《こ》が待っている。 「ひどいもんだ。あれでも、父親か、全《まつた》く!」  哲郎の話を聞くと、聡子は肯いて、 「それは、あのルリ子が、伊波の本当の子じゃないからよ」  と言った。 「どうして知ってるんだい?」 「あなたのこと、待ってる間に、出入りしてるO《オー》L《エル》の人たちに話しかけたの。向こうも、おしゃべり大《だい》好《す》きでしょ。だから、しゃべってくれたわ」 「へえ……」 「あのルリ子って子、伊波の先妻の連《つ》れ子なのよね。つまり、今の両親は、本当の親じゃないのよ」 「なるほど」  もちろん、どんな環《かん》境《きよう》だって、ちゃんと育つ子もいるが、親があれでは、家にいたくなくなるのも当然だろう。 「じゃ、今度は母親の方へ会いに行く?」 「うん。ちょっと気が重いけどね……」  と哲郎は言った。  やめるわけにはいかない。——あの冷《れい》淡《たん》な父親に会って、ますます哲郎は、犯人を見付けてやろうという決心を強めていた。  哲郎がこれほどの決心をするのは、遊び以《い》外《がい》には珍しいことであった。  ——伊波の家は、ちょっと入るのにためらうほどの大《だい》邸《てい》宅《たく》で、門から入って、玄《げん》関《かん》まで、疲《つか》れるほど歩く——というのはオーバーだが、呆《あき》れるような広さだった。  出て来たのは、十八、九の娘《むすめ》で、 「奥《おく》様《さま》は、今、お出かけです」  と言った。「お花の集まりがありましてね……」  娘が死んで、集まりに出て行く母親というのも珍しい。——しかし、そのお手《て》伝《つだ》いさんらしい娘は、目を赤くしていた。 「実は、ルリ子さんのこと、聞きたくって……」  と哲郎が言うと、 「どうぞ中へ」  と案《あん》内《ない》してくれた。  迷《まよい》子《ご》にでもなりそうな廊《ろう》下《か》を辿《たど》って行くと、奥の方の部《へ》屋《や》のドアを開け、 「ここが、ルリ子さんの部屋でした」  と言った。  中は、暴走族のリーダーだったと思わせるものなど、一つも見えず、きちんと片《かた》づけていた。 「ここは、あなたが掃《そう》除《じ》を?」  と、聡子が訊く。 「いいえ。私《わたし》はやりません」 「じゃ、ルリ子さん、自分で?」 「はい。とても、まめで、きれい好きな方でした。本当にやさしくて……」  と、涙《なみだ》をグスン、とすすり上げる。 「——誰《だれ》か、彼女を殺した人の心当たりは?」  と、哲郎が訊く。 「あの……ちょっとドアを閉《し》めて下さい」 「え?——あぁ、いいよ」 「ルリ子さんは、遺《い》産《さん》の相《そう》続《ぞく》人《にん》だったんです」 「遺産?」 「亡《な》くなったお母様のです。前の奥様ですね。——だから、ルリ子さんは、二十歳《さい》になるか、結《けつ》婚《こん》なさると、遺産を継《つ》いで、大金持ちになるはずでしたわ」  哲郎と聡子は素《す》早《ばや》く目を見《み》交《かわ》わした。 「すると、ルリ子さんが死んで得《とく》をするのは——」 「旦《だん》那《な》様と奥様ですよ」  と、その娘は言った。  廊《ろう》下《か》に足音がして、ドアが開いた。 「あ、水《みな》上《かみ》さん、お帰りなさい」 「奥様が捜《さが》してるよ」  と、言ったのは、運転手らしい。若い男である。 「——お客さん?」 「ルリ子さんの友人です」  と哲郎が言うと、 「ああ、そう」  と、水上という男は、肯いて、「気の毒《どく》だねえ、お嬢さんは。——あの若さで」  と首を振った。 「じゃ、ちょっと失礼して」  と、娘が出て行く。 「お嬢さんが亡《な》くなって、悲しんでるのは、僕《ぼく》と、あの、みどりさんぐらいだろうな」  と、水上は言った。 「ルリ子さんを恨《うら》んでいたような人はいますか?」  と、聡子が訊いた。 「そうだねえ。——いい人だったけど、やっぱり多少ひねくれたようなところは、あったよ」 「つまり敵《てき》もいた?」 「いや、逆《ぎやく》に、心を許《ゆる》せる友人がいなかった、ってところかな……」  水上の言い方は、やさしかった。——哲郎は、胸《むね》が痛《いた》んだ。  玄関の方へ歩いて行くと、ルリ子の母親らしい女と出くわした。  ひどく若い。やっと三十になるかならずというところだろう。 「あら、ルリ子のお友だち?」 「はい」 「そう。わざわざ来ていただいたんだから、お相《あい》手《て》したいんだけど、何《なに》かと忙《いそが》しくって……」 「いえ、もう失礼しますので」  と聡子が言った。 「そう? じゃ、また遊びに来てちょうだいね」  と、さっさと行ってしまった。 「全くもう……」  と、哲郎は呟《つぶや》いた。  玄関まで出て来てくれたのは、みどりというお手伝いの娘で、 「お嬢様のお葬《そう》式《しき》には、出席なさって下さいね」  と、言って、二人《ふたり》を送って来てくれた。 「——やあ、ごめん!」  と、ミチ子が、店に入ってくる。  哲郎と聡子が遅《おそ》い昼食を取っている喫《きつ》茶《さ》店《てん》である。 「どうだった?」  と、哲郎が聞く。 「ちょっと待ってよ! こっちはお腹《なか》すいて死にそうなんだから!」  と、ミチ子は、カレーライスを頼《たの》んだ。 「——グループは騒《さわ》いでる?」  と、聡子が訊く。  ミチ子は、ルリ子がリーダーをしていた、暴走族に話を聞きに行っていたのである。 「それが変《へん》なのよ」  とミチ子は言った。 「何が?」 「あのね、あの夜、ケンカなんてすることになってなかったっていうの」 「何《なん》だって?」 「そうなのよ。——全《ぜん》然《ぜん》分かんないわ」 「つまり、あの夜のケンカは、彼女の作り話だったのか」 「それにね、彼女、あの前の日に、リーダーを他《ほか》の子にゆずってるのよ」 「じゃ、もうリーダーじゃなかったのね?」  と聡子が訊く。 「そう。おかしいわよね。まるで——」 「殺されるのが分かってたみたい」  と聡子が引き取って言った。 「——どうやら、暴走族の方は、関《かん》係《けい》ないようだな」  と、哲郎は言った。 「決《けつ》闘《とう》しなきゃいけないような、仲《なか》の悪いグループはなかったって言ってたわよ。——どうも」  最《さい》後《ご》の「どうも」は、カレーが来たところである。ここで、しばし、ミチ子は食べる方に専《せん》念《ねん》し、話は、もっぱら、哲郎と聡子で続《つづ》いた。 「あのみどりさんの話は、確《たし》かめてみる価《か》値《ち》ありね」 「遺産のことかい? うん、同感だな」 「あの両親が、当《とう》然《ぜん》今まで、彼女が継ぐ遺産を管《かん》理《り》してたわけでしょう」 「それを、使い込んでしまっていた、としたら?」 「動《どう》機《き》としちゃ弱いわね」 「そうかい?」 「そうよ。人を殺すというのは、大《たい》変《へん》なことだもの。——よほどのことがなきゃ……」 「殺したことあるみたいね」  とミチ子がからかった。 「あったらどうする?」 と、聡子は訊き返した。 「待てよ。——これからどうするか、考えなきゃ」 「警《けい》察《さつ》に任《まか》せたら?」  と、ミチ子が言った。 「私も同感ね」  と聡子が言った。「でも、そうしないでしょ」 「しないさ、当たり前じゃないか……」  と、哲郎が言い切る。 「よかった」  と聡子が微《ほほ》笑《え》む。 「どうして?」 「途《と》中《ちゆう》でやめるような人なら、絶《ぜつ》交《こう》してやろうと思ってたの」  自分で、警察に任せろと言っといて、勝手なもんだ、と哲郎は思った。 「一つ分からないのはね」  と聡子が言い出した。「服なのよ」 「服?」 「そう。あのとき、なぜ、ルリ子さんはワンピース姿《すがた》だったのか」 「デートにでも行ったんじゃない?」 「でも、あの格《かつ》好《こう》で、空地の真《まん》中《なか》に立ってるってのは……。変だと思わない?」 「うん、そうだな」  と、哲郎は肯く。「わざわざ汚れるようなもんだ」 「そうでしょ? 下だって、土のままだし……」 「大体、ケンカがあるなんて言ったのが、そもそも妙よ」  とミチ子が言った。  カレーライスは早くも半分位《くらい》に減《へ》っている。 「そうなんだ……」  哲郎は考え込んだ。「どうして、彼女が、そんなでたらめを言ったのか、それが問題だな」 3  三日が過《す》ぎて、哲郎の所へ電話がかかって来た。  みどりからである。あの、お手《て》伝《つだ》いの娘《むすめ》だ。 「——今日、告《こく》別《べつ》式《しき》がありますので」 「どうもありがとう。必《かなら》ず伺《うかが》います」  と、哲郎は言った。  黒い背《せ》広《びろ》というのはないので、紺《こん》のブレザーにして、ネクタイも、黒に近いものを選《えら》んだ。  哲郎にしても、気が重い。  あのルリ子が、どんな寂《さび》しい思いの中で、哲郎へ手紙を書いたのか、何一つ分かっていなかった自分が、何《なん》だか、ひどいことをしてしまったような気がする。  もちろん、悪気があったのではないし、それは仕《し》方《かた》のないすれ違《ちが》いであるが、やはり胸《むね》は痛《いた》むのである。  まだ聡《さと》子《こ》もミチ子も来ていないので、メモでも置《お》いて行こうと思っていると、聡子がやって来た。 「やあ、ちょうど良《よ》かった」 「あら」  聡子は、哲郎の服《ふく》装《そう》を見て、「ルリ子さんのお葬《そう》式《しき》だったの?」  と訊《き》いた。 「いや、これからだよ」 「あ、そう。もう戻《もど》って来たのかと思ったわ」  と聡子はソファにすわったが……。「——ねえ」  と、出かけようとした哲郎へ、声をかけた。 「何だい?」 「ルリ子さんも、あれから出かけるつもりだったんじゃない?」 「あれから?」 「そう。デートへ行った後じゃなくて、前だったとしたら?」 「前?」 「つまり、彼女はあなたと、デートしたかったのよ」 「そうか。——つまり、あのでたらめのケンカの話も——」 「あんな話を持ち込めば、まず他《ほか》の人が来るわけがない、と分かってたのよ」  と聡子は言った。 「僕を待ってたのか、あの空地で」 「でも、来たのは——」  二人《ふたり》は顔を見合わせた。 「誰《だれ》だったんだろう?」  と、哲郎は言った。  盛《せい》大《だい》というか、何というか……。  まるで、ふくらし粉《こ》で、精《せい》一《いつ》杯《ぱい》にふくらませたような葬《そう》儀《ぎ》だった。  やたらに大《おお》勢《ぜい》の人が来ていて、大げさで、たっぷり金もかかっている。しかし、来ている人たちは、黒い服ではいるものの、みんな笑《わら》いながら、世間話をしている。  目をつぶっていたら、とても葬式とは思えないにぎやかさであった。  哲郎は、焼《しよう》香《こう》をして、帰ろうとした。とても、長くいる気にはなれない。  外へ出て歩きかける。——何となく、すぐ帰ってしまうのも、ためらわれた。  哲郎は、広い邸《てい》内《ない》の庭を、少し歩こうと思った。——裏《うら》手《て》の方へ回って来ると、人の姿もない。静《しず》かなものである。 「水《みな》上《かみ》さん——」  と声がした。  哲郎は、ちょっとためらった。見つかると、何をしているのか、と思われそうだ。  幸い庭は広くて、木が沢《たく》山《さん》ある。その一本に身を寄《よ》せて、隠《かく》れた。 「水上さん。——ここじゃないの?」  やって来たのは、みどりだった。  すぐ近くへ来てキョロキョロ、見回している。哲郎は、気が気ではなかった。 「ここだよ」  水上の声がした。 「あら、ここにいたなら見えたのに——」 「今来たんだ。——何の用だい?」  と水上は言った。 「ええ……」  と、みどりはためらっている。 「早くしてくれ。奥《おく》様《さま》がうるさいんだ、用のあるときに、こっちがいなくなってると」 「ねえ水上さん」 「何だい?」 「あなたは、お嬢《じよう》様《さま》が好《す》きだったんでしょう?」 「そりゃそうさ」  と答《こた》えてから、水上は、「——おい、待てよ」  と言った。 「そりゃ、どういう意味だい?」 「お嬢様もあなたのことが好きだったんだわ」 「好きったって——」  水上は苦《く》笑《しよう》し「何かい? 男と女としてってことかい?」 「もちろんよ」 「それならノーだ」  と、水上は言った。「何しろ、お嬢様はあの若《わか》さだ。こっちもあっちも、お互《たが》い、男でも女でもないよ」 「そんなこと——」 「本当さ。それがどうしたんだ?」 「いいわ、それなら、それで。でも——あなたは、私のこと、どう思ってる?」  水上は、しばし返事に困《こま》っていた。女性から、正面切って、 「私をどう思うか」  と迫《せま》られると、困《こま》るだろう、と哲郎も思った。 「いいわ、もう!」  突《とつ》然《ぜん》、叫《さけ》ぶように言って、みどりは、かけ出して行ってしまった。 「おい!——待てよ!」  水上が呼《よ》んだが、みどりは、戻ろうとも、足を止めようともしなかった……。  夜、十時。  水上は、小さな公園に足を踏《ふ》み入れた。——何だか落ち着かない様子である。  公園の中は、人の姿《すがた》などない。水上は、ベンチの一つに腰《こし》をおろすと、タバコを取り出して火をつけた。 「——お待たせ」  と、声がして、顔を上げた水上は目をパチリとさせた。 「やあ、あんたは——」 「大《だい》分《ぶ》待った?」  と聡子は言った。 「じゃ、電話をくれたのは、あんたなのかい?」 「しっ!」  と、聡子は、声をひそめた。「今に分かります」 「そりゃいいけどさ……」 「親しげにして下さい。腕《うで》を組んで」 「う、うん……」 「ごめんなさい、無《む》理《り》言って」 「いや、僕《ぼく》は構《かま》わないけど、一体どうして——」 「もう少し待って下さい」  二人《ふたり》の会話は声が低《ひく》いので、遠くには聞こえない。はた目には、低《ひく》く、愛の言葉でも囁《ささや》いて見えただろう。 「ねえ、説《せつ》明《めい》してくれよ」  と、しばらくして、水上が言った。 「ちょっと、耳を貸《か》して」 「ああ——」  二人の顔が近《ちか》寄《よ》る。聡子は、いきなり、水上の頬《ほお》に唇《くちびる》をつけた。水上の方がびっくりして、 「何《なに》を——」  と言いかける。  そのとき、突然、 「やめて!」  と叫び声がして、誰《だれ》かが、公園の茂《しげ》みの陰《かげ》から飛《と》び出して来た。 「おい、みどり!」  と水上があわてて立ち上がる。  みどりがナイフをつかんで、真《ま》っすぐに、水上の方へ進んで来る。  そのままいくと、確《かく》実《じつ》に、水上は刺《さ》されていた。  しかし、途《と》中《ちゆう》で、みどりは前のめりに転《てん》倒《とう》した。  哲郎が、細い棒《ぼう》を投げ、それが、みどりの足に絡《から》まったのだ。  哲郎、ミチ子が駆《か》け寄《よ》って、起き上がろうとするみどりから、ナイフを取り上げた。 「——それじゃ」  と、水上は目を丸《まる》くして、「みどりが、お嬢さんを殺《ころ》したのかい?」 「そうですよ」  と、聡子が言った。「みどりさんはあなたのことが好きで、ルリ子さんをライバルだと思っていたんですね」 「まさかそんな……」 「本当ですよ」  と、聡子は言った。「あのね、ルリ子さんは、いつもの革《かわ》ジャンパーでなく、ワンピースを着て出かけました。それを当《とう》然《ぜん》、みどりさんも見ている。そしてあなたに会うのだと思っていました」 「あの日は、僕も出かけていて、家にいなかった」 「だから、みどりさんは、ルリ子さんの後をつけて行き、恋《こい》敵《がたき》と思って、刺したんです」 「そんなことが……」  水上はため息をついた。  みどりは、地面に伏《ふ》せて泣《な》いていた。水上はみどりを抱《だ》きかかえるようにして立たせると、 「みどりは、僕が警《けい》察《さつ》へ連《つ》れて行くよ」  と言った。「色々と悪かったね」 「いいえ」  水上とみどりが歩いて行くのを、三人は見送っていた。 「——やれやれ、だ」  と、哲郎は言った。「あの父親あたりが犯《はん》人《にん》だと良《よ》かったのに」 「現《げん》実《じつ》は、そううまくいかないわ」  と聡子が言った。 「そうだな。——帰ろうか」  と哲郎は言った。 「でも、一《いち》応《おう》、ちゃんと犯人は補《つか》まえたわ」  とミチ子が言った。「探《たん》偵《てい》業《ぎよう》も、『何でも屋』の中に入れて良さそうね」 「やめてくれよ」  歩きながら、哲郎は渋《しぶ》い顔で言った。 「あらどうして?」 「だって——」  と聡子が代わりに答《こた》えた。「一円にもならない仕事じゃ、仕事とはいえないものね」 ラブ・バード・ウォッチング 1  幸《さち》子《こ》がバード・ウォッチングをやると言い出したとき、家族の誰《だれ》もが不《ふ》思《し》議《ぎ》とは思わなかった。  なぜなら幸子はいかにもそんなことの好《す》きそうな性《せい》格《かく》の娘《むすめ》であり、またあまりにも内気で、趣《しゆ》味《み》というほどのものが何もなかったので、少しは何《なに》かやったらいいと、いつも言われていたからだ。  そこで、当《とう》然《ぜん》、双《そう》眼《がん》鏡《きよう》の代金も、母親が出してくれることになった。  木《こ》暮《ぐれ》幸子は、十八歳《さい》の高校三年生である。私《し》立《りつ》のN女子学園に通《かよ》っていた。それも小学校からずっとここだ。  つまり、もう都《つ》合《ごう》十二年も同じ学校へ通っている勘《かん》定《じよう》になり、弟の和《かず》夫《お》から、 「よく飽《あ》きないなあ」  とからかわれる。  幸子にしてみれば、N学園に大学のないのが残《ざん》念《ねん》なくらいで、あれば必《かなら》ずそこへ入ったはずなのだ。——ともかく、新しい環《かん》境《きよう》に慣《な》れるよりは、今までの所にずっといたいと思っている。  それくらい、引っ込み思《じ》案《あん》な性格なのだ。「いるかいないか分からない」というのを通り越《こ》して、「いるとは思えない」という方である。  そんな幸子だが、さて……。  夏休みの一日、幸子はT《テイ》シャツにジーンズのスタイルで、双眼鏡を手に、 「ちゃんと朝ごはんぐらい食べたら?」  という母の言葉を無《む》視《し》して、家を飛《と》び出して行った。  行《ゆき》先《さき》はいつものお寺の裏《うら》。  だいたいバード・ウォッチングなるもの、郊《こう》外《がい》や山でやるものだろうが、幸子の住んでいるあたりは、新しく開発された住《じゆう》宅《たく》地《ち》で、まだ林やちょっとした山が残《のこ》っている。  少し高台になったお寺の裏手へ出ると、思いがけないほどの眺《ちよう》望《ぼう》が開けるのだった。  いつもの場所へ来ると、幸子はハンカチを広げて腰《こし》をおろした。この場所も、一度捜《さが》し当てて、ここと決めてから、ずっと変《か》わらない。  幸子らしいところである。  幸子は双眼鏡を手にした。——視《し》界《かい》が、一気に接《せつ》近《きん》する。家《や》並《なみ》が見える。  幸子はそっと腹《はら》ばいになると、双眼鏡を下の方へと向けた。  青い屋根が、目に入った。開け放した窓《まど》。部《へ》屋《や》の中の、机《つくえ》やギター、放り出したままのノートや本まで、手に取るように見えた。 「いけないんだわ、人の部屋を覗《のぞ》いたりして……」  幸子は呟《つぶや》く。分かっている。それぐらいのこと、分かっちゃいるのだ。  それでも、目をつぶることができない。双眼鏡を動かすことができない。  窓《まど》辺《べ》に、男の子が見えた。もちろん、男の子といったって、幸子と同じくらいの年《ねん》齢《れい》で、学生であることも間《ま》違《ちが》いない。  暑くなってから起きて来たせいか、上半身裸《はだか》のままで、大あくびをしている。  幸子の頬《ほお》が赤らんだのは、上《じよう》昇《しよう》し始めた気温のせいばかりではない。——胸《むね》がときめいているからなのだ。  幸子は、何しろ「内気」を絵で描《か》いたような性格である。これまでにも、一人《ひとり》のボーイフレンドもいない。  もちろん、女子校だからといって、みんながこうなのではなく、めいめいが程《てい》度《ど》の差《さ》こそあれ、ある程度の付《つ》き合いをしている中で、幸子のごとく、男の子とほとんど口もきいたことがないというのは、やはり例《れい》外《がい》中の例外だった。  その幸子の初《はつ》恋《こい》の相《あい》手《て》。それが、今、双眼鏡のレンズの中にいる男の子なのである。  幸子は彼《かれ》の名を知らない。何しろこうして双眼鏡で見る以外、会ったことも、話したこともないのだから。  しかし、幸子は満《まん》足《ぞく》だった。こうして遠くから眺《なが》めていられるだけで、充《じゆう》分《ぶん》だった……。  ——この日は、ちょっといつもと違《ちが》っていた。  どうやら、家族で、どこか海へでも出かけるらしい。父親らしい人が車を洗《あら》ったり、ビーチマットを積《つ》み込《こ》んだりしている。幸子はちょっとがっかりだった。  こんな時間から出かけるというのは、当然泊《と》まりがけになる。一泊《ぱく》とは限《かぎ》らないから、何日間か、彼の姿《すがた》を見られなくなるかもしれないのだ。  一時間ほどして、家族が家から出て来た。ところが——彼一人は、玄《げん》関《かん》から、また中へ入ってしまった。  一人だけ留《る》守《す》番《ばん》かしら? 幸子は、車が出て行くと、また二階《かい》の彼の部屋へと双眼鏡を向けた。  彼が、入って来て、窓の所へ来ると、どうやら車を見送っているらしい。その後、ゴロリとベッドへ横になって、眠《ねむ》ってしまったようだった。  幸子は、昼食を食べに家へ帰った。 「熱《ねつ》心《しん》なのはいいけど、暑くないの?」  と母が心配そうに言った。 「私は大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》。お母さんみたいに、暑さに弱いタイプじゃないもの」  母は、かなり太っているが、幸子はやせ型《がた》だ。 「ちゃんと帽《ぼう》子《し》はかぶって行くのよ」 「はい」  昼食を済《す》ませると、また幸子は、あのお寺の裏へと急いだ。  さすがに日中は暑い。定《てい》位《い》置《ち》についても、しばらくは、汗《あせ》を拭《ぬぐ》うのに手間取っている。  幸子は、やっと双眼鏡を目に当てた。  ショッキングな場面が、幸子を待っていた。彼の部屋の中で、彼が、女の子と抱《だ》き合っていたのだ。 2 「今日は行かないの?」  朝ごはんの後、居《い》間《ま》で本を読《よ》んでいる幸子を見て、母がきいた。 「ウン」  幸子は顔も上げずに言った。 「今日はちょっと涼《すず》しそうよ。行くんなら今の内に——」 「今日はうちですることがあるの」  と言って、幸子は、二階の部屋へ上がった。——でも、何もする気がしない。  幸子は幻《げん》滅《めつ》の苦《にが》みを味わっていた。知りもしない相手に幻滅するというのも妙《みよう》だが、それが実感だったのだから仕《し》方《かた》ない。  家族が留守の間に女の子を連《つ》れて来て……  あれはいささかずるいじゃないの、と幸子は文句を言った。——あの女の子、双《そう》眼《がん》鏡《きよう》のレンズを通して見る限《かぎ》りでは、確《たし》かになかなか美人である。そういう公平さを失《うしな》わないのが、幸子らしいところだ。  ゆうべは、彼の部屋へ泊まって行ったのかしら?——いや、そんな子に見えなかったけれど。  もし泊まって行ったとしたら、もう起きてる頃《ころ》かしら?  幸子は少し考えて、それから双眼鏡へと手を伸《の》ばした。 「——やっぱり行って来るわ」  幸子は、あきれ顔の母へそう言って、玄関から飛《と》び出した。  定位置へたどりつくと、汗を拭いながら、双眼鏡を構《かま》える。  彼が、窓の所へ出て来て、手を振《ふ》っている。もちろん幸子へではない。  窓の下の方を見ると、あの女の子が、道から手を振っていた。  やはり、泊まって行ったらしい。——幸子はちょっと胸《むね》が痛《いた》んだ。別《べつ》に自分とは関《かん》係《けい》ないことだと思っても、そうは割《わ》り切れないのが乙《おと》女《め》心《ごころ》というものである。  何となく、女の子の姿を追ってみる。道を少し行って、彼女は電話ボックスへ入った。家にでもかけるのかしら? 何と言い訳《わけ》しようというのかな、と幸子は思った。  ——幸子は戸《と》惑《まど》った。  電話をかけている彼《かの》女《じよ》が、さっき、笑《え》顔《がお》で手を振っていたのとは、まるで別《べつ》人《じん》のように見えたのだ。何だか急に——何というか——だらけて来て、ずっと年《と》齢《し》もいっているように見える。  これはどういうことなのだろう?——幸子は首をひねった。  笑っているところなんか、本当にだらしのない、ぐれた感じがする。  幸子だって、女の子が恋人の前ではおしとやかにしようとする。その心理、分からないではないけれど、あれは少々変《か》わりすぎじゃないかしら?  しばらく話してから、彼女はボックスから出て来た。そして、また少し行くと、タバコの自動販《はん》売《ばい》機《き》の前で足を止め、硬《こう》貨《か》を出してタバコを買った。封《ふう》を切るのももどかしい感じで、一本くわえると、ハンドバッグからマッチを出して火をつける。  さもうまそうに煙《けむり》を吹《ふ》き出すと、彼女はのんびり歩き出した。  あれはどう見ても、すいたくてたまらなかったのを、じっと我《が》慢《まん》していたという感じである。幸子も父がタバコを喫《す》うので、よく知っているのだ。  つまり、彼の前では、タバコなんてとんでもないって感じだったのだろう。 「ずるいじゃないの!」  と、幸子は呟《つぶや》いた。——別に文句を言う筋《すじ》合《あい》ではないかもしれないが、それにしても、同性として、あんな風に恋人を騙《だま》すのは許《ゆる》せない、と思った。  でも、許せないと怒《おこ》ってみたところで、何かできるわけでもあるまい。いきなりあの家へ訪《たず》ねて行って、 「あなたの彼女は猫《ねこ》っかぶりです」  と言ったら、叩《たた》き出されるだろう。  それに、どうして分かったときかれて、何と答《こた》える? 「ちょっとおたくを覗《のぞ》いていたんです」  ——まさか、ね!  仕方ない。これはもう放っておく他《ほか》はないのだ。そもそもが、映《えい》画《が》かTV《テレビ》を見ているのと同じで、こっちが手の触《ふ》れられる世界ではないと承《しよう》知《ち》の上でのことなのだから……。  幸子は双眼鏡を、また彼の家の方へと戻した。——部《へ》屋《や》の中を覗いて、思わずギクッとする。  ベッドの上に、スーツケースが開いてある。そして、彼が、服を詰《つ》め込《こ》んでいるのだ。 「いけない……」  と、幸子は、まるで彼に聞こえるとでもいうように、呟いた。「そんなこと、いけないわ!」  彼女とちょっと旅行へ出る、というのではないのだ。  スーツケースは大《おお》型《がた》で、詰めている服は、どう見たって夏物だけじゃない。冬物のセーターや、ジャンパーなんかまで、ぐいぐい押《お》し込んでいる。  あれはどう見たって——駆《か》け落ちじゃないの!  双眼鏡を持った手が震《ふる》えた。 3 「何《なん》だかえらく黙《だま》りこくって、どうしたの、幸子?」  と母がきく。 「別に……」 「だって夕ごはんもろくに食べなかったじゃないの」 「食《しよく》欲《よく》ないの」 「夏バテ? ちょっと早いんじゃない?」 「何でもないのよ」  と幸子はイライラとして、ついきつい口《く》調《ちよう》になった。弟の和夫が、 「分かった」  と言い出した。「恋《れん》愛《あい》中なんだ、お姉《ねえ》ちゃん!」 「馬《ば》鹿《か》言わないでよ!」  幸子はプイと立って、自分の部屋へと上がった。——ホッと息をつく。  恋愛中か。確《たし》かに、そう言えないこともない。しかし、単《たん》純《じゆん》な恋愛ではないところが、難《むずか》しいのだ。  母に何《なに》かきかれはしないかと、ヒヤヒヤした。説《せつ》明《めい》のしようがないし、しなければ、ますます母は不安がるに違《ちが》いない。  だが、幸い、母はやって来なかった。父がちょうど酔《よ》って帰って来たので、その世話の方が忙《いそが》しかったようだ。  幸子は、なかなか寝《ね》つかれなかった。——もう、彼は家を出てしまっただろうか?  でも、不《ふ》思《し》議《ぎ》なことが一つある。  あの女性——女の子のふりはしているが、もっと年齢は上に違いない——が、本当にちっとも純《じゆん》情《じよう》可《か》憐《れん》でも何でもないのなら、どうして駆け落ちなんかする気になったのだろう?  少なくとも、駆け落ちは、両方がその気にならなくては、成《せい》立《りつ》しないものだろう。あの女性が、苦しいに決まっている駆け落ち生活を堪《た》えようなんていう、殊《しゆ》勝《しよう》なことを考えるだろうか?  何か……おかしい。  幸子は、ずっと目を覚《さ》ましていた。夜、十二時を回った頃《ころ》、幸子はベッドからスルリと抜《ぬ》け出した。  家を脱《ぬ》け出すのは難しくなかった。  みんな眠《ねむ》りは深いたちなのだ。——幸子は懐《かい》中《ちゆう》電《でん》灯《とう》の光を頼《たよ》りに、寺への道を急いだ。  普《ふ》段《だん》なら怖《こわ》くてたまらないところだろうが今は平気だ。  定《てい》位《い》置《ち》へやって来ると、幸子は双《そう》眼《がん》鏡《きよう》を目に当てた。——まだいる!  窓《まど》は明るかった。中の様子が、はっきりと見てとれる。  彼は、机《つくえ》に向かって、何かを書いていた。 「書き置き……」  と幸子は呟《つぶや》いた  ちょうど、書き終えたところらしかった。読《よ》み直し、折《お》りたたんで、封《ふう》筒《とう》へ入れ、きれいに片《かた》付《つ》けられた机の上にピタリと置いた。  立ち上がると、部屋の中を見回し、カーテンを閉《し》める。彼の姿は見えなくなった。そして明りが消えた。  少しして、玄《げん》関《かん》から、彼が出て来た。あのスーツケースをさげている。  ちゃんと玄関に鍵《かぎ》をかけて、もう未《み》練《れん》もない様子で、彼は足早に歩いて行った。もう止めるわけにもいかない。  幸子は、彼の姿が、視《し》界《かい》から消えるまで見送った。——しばらくは、そこから動く気もしなかった。  彼は彼だ。私なんて何の関《かん》係《けい》もないのだ。幸子はそう自分へ言い聞かせた。 「帰るか」  と呟《つぶや》いて、何気なく、彼の家へもう一度双眼鏡を向けた。  息を呑《の》んだ。——男が三人、彼の家の玄関の所に立っている。一人が鍵を開けた。三人が素《す》早《ばや》く中へ消えた。  どう見てもまともな連《れん》中《ちゆう》ではない。  その瞬《しゆん》間《かん》、すべてが分かった。  健《けん》二《じ》は、力ない足取りで戻《もど》って来た。  ——彼女は結《けつ》局《きよく》、来なかった。  二時間も待ったのに、来なかったのだ。  結局、彼女の方は本気ではなかったのかもしれない。健二は、よほどこのまま、どこかへ行ってしまおうかと思った。  足を止めて、目を見《み》張《は》った。家の前に、パトカーが停《と》まっている。二台、いや三台も!  健二は駆《か》け出した。 「——キミの留《る》守《す》を狙《ねら》ったんだね」  と警《けい》官《かん》が言った。「どうやったのか知らんが合《あい》鍵《かぎ》も持っていたんだ。危《あぶな》いところだったな」 「ありがとうございました」  健二にも、今は何もかも分かっていた。彼女だ。今夜、健二に家を空《あ》けさせるのが目《もく》的《てき》だった。彼に近《ちか》付《づ》いて合鍵を作っておいて……。  僕《ぼく》は馬《ば》鹿《か》だ! 「まあ、礼はあの子に言ってくれ」  と警官が言った。「押《お》し入るのを見て通報してくれたんだよ」  健二は、恥《は》ずかしそうに、顔を伏《ふ》せて立っている女の子の方を見た。  歩み寄《よ》って、 「どうもありがとう」  と声をかけた。 「いいえ」  その女の子が顔を上げた。——優《やさ》しくはにかんだ微《び》笑《しよう》が、健二の心にしみ込んで行った。 「よく——見《み》付《つ》けてくれたね」  と健二も、照《て》れながら言った。 「鳥を見ていたんです」 「え?」 「鳥を——」  と、その女の子は言った。 夢《ゆめ》の行列 1 深夜の行列 「この寒いのに、出かけるの?」  と、お母さんが玄《げん》関《かん》へ出て来て、あきれ顔で言った。  正直なところ、私《わたし》もそう思わないわけじゃなかった。だって、二月の、寒さのいちばん厳《きび》しい時には、毛《もう》布《ふ》にくるまって外で夜明かしするより、家のベッドであったかくして眠《ねむ》ってるほうがいいに決まっている。  でも、そこが意地ってもので、 「しかたないのよ、友だちのためなんだもの」  と、ブーツをはきながら、私は答《こた》えたのだった。 「そんなもんかね」  と、お母さんはあきらめ顔。 「もう一枚《まい》毛布持ってったら?——手《て》袋《ぶくろ》は?——えり巻《ま》きは?」 「大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》。これ以上あれこれ巻きつけたら、息がつまって死んじゃうわ」  これ以上、いろいろ言われると、ほんとうにやめようかな、って気になってしまうので、私は、 「じゃ、行って来るね」  と早々に玄関を出た。——とたんに後《こう》悔《かい》した。  ただ寒いだけなら、十三歳《さい》という若さと、クラス随《ずい》一《いち》の美《び》貌《ぼう》(あんまり関《かん》係《けい》ないかな)でしのげるけど、空気が凍《こお》ってはりついてくるような風にはお手上げだ。  しかし、今さらクルリと回れ右して、 「ただいま」  と入っていけるだろうか?  さんざん迷《まよ》ったものの、結《けつ》局《きよく》は寒風が我《わ》がもの顔で踊《おど》り回る夜の道を、肩《かた》をすぼめて歩きだしたのだった。  若い日の友《ゆう》情《じよう》なんて、ほんとうにばからしいものだ。  いや、友情そのものはすばらしいものだと思うけれど、「友情のために」と称《しよう》してやることの、何というばかばかしさ!  さぼった友だちの「代《だい》返《へん》」だの、授《じゆ》業《ぎよう》中にお弁《べん》当《とう》を食べている友だちのための見《み》張《は》りだの、職《しよく》員《いん》室《しつ》で先生に叱《しか》られるのまで付《つ》き合いでいっしょに叱られたり……。大人《おとな》から見りゃ、ほんとうに理《り》解《かい》しがたいアホらしさかもしれない。  でも、そんなことに名《めい》誉《よ》と誇《ほこ》りを賭《か》けられるのが「若さ」ってもので——なんて教《きよう》訓《くん》めいた言い方はやめよう。  あと十年もたったら言ってみてもいいかな……。  ともかく、いくらお母さんがあきれ顔をしようが、親友のかわりに、ある人気タレントのワンマンショーの切《きつ》符《ぷ》売り場に前の晩《ばん》から並《なら》ぶことは、私にとってはまさに「友情のあかし」以《い》外《がい》の何《なに》物《もの》でもなかったのだ。  しかし、いくら友情でも、カイロじゃないから、ふところへ入れておけば暖《あたた》かいってもんじゃない。この寒さを防《ふせ》ぐには、何の役にも立たないのだ。 「寒いなあ……」  と、ついつい口に出しながら、私は終電間近な駅のホームで、震《ふる》えていた。  ええと、私の名は貫《ぬく》居《い》厚《あつ》子《こ》。「ぬくい」「あつい」とくれば寒さには強そうだけど、その実、細めなので、至《いた》って弱い。もっとも他《た》人《にん》の目には、「やや太め」とも見えるらしい。  目のおかしい人が増《ふ》えているようだ。  そんなことはともかく——次の電車まで二十分も待たなきゃならないとあって、私は飛《と》んだりはねたりして体を少しでも暖めようと、涙《なみだ》ぐましい努《ど》力《りよく》をしていた。  「二番線に新《しん》宿《じゆく》行《ゆ》きが参《まい》ります」  と、アナウンスがあって、あれ?——と思った。  おかしいな。新宿行きはまだ十七、八分しないと来ないはずなのに。——しかし、電車の時間は狂《くる》うこともある。  こういう狂い方なら大《だい》歓《かん》迎《げい》だ。実《じつ》際《さい》、待つほどもなく、電車がホームへ入って来た。  時間が遅《おそ》いので急行はない。各《かく》駅《えき》停《てい》車《しや》でのんびりと行くわけである。  もちろん車内はガラガラで、他《ほか》に二、三人の客しかいない。私は、隅《すみ》っこの席《せき》へ行って、腰《こし》をかけた。ヒーターが入って、お尻《しり》がポカポカと暖かい。  ホームにベルが鳴って、ピーッと笛《ふえ》の音、ドアが今まさに閉《し》まろうとしたとき、 「待て! ちょっと待て!」  と声がしたと思うと、私と同じくらいの年《と》齢《し》の男の子が飛び込《こ》んで来た。  危《き》機《き》一《いつ》髪《ぱつ》、一秒《びよう》と間を置《お》かず、扉《とびら》がピシャリと閉《と》じて、電車が動きだす。ガタン、と一《ひと》揺《ゆ》れが来て、乗ったばかりの男の子はバランスをとりそこなってよろけた。  あ、あ……と思う間もなく、私のほうへとよろめいて来た男の子、ドッともろに私の上に倒《たお》れ込んだ。 「痛《いた》い!」  私がオーバーに声を上げたので、びっくりしたその男の子は、 「ご、ごめん」  と、あわてて起き上がった。  よく見ると、なかなかかわいい顔の男の子である。これだけで、まず半分はきげんもなおった。そして、その男の子は、私が手にしていた宣《せん》伝《でん》のチラシを見ると、 「あれ、君もその前売りに並びに行くの?」  と言った。 「じゃ、あなたも?」 「そう。女の子に頼《たの》まれちゃってね」  と、その子は渋《しぶ》い顔をした。  私はつい笑《わら》いだしていた。 「ちょうどいいわ。いっしょに行きましょ。私も友だちの代理なの」  もう私のきげんは完《かん》全《ぜん》に元通りに回《かい》復《ふく》し、それどころか、かなりましなほうへと針《はり》は動いていた。  その男の子——名前は竹《たけ》越《こし》雄《ゆう》一《いち》郎《ろう》といって、三つ上の十六歳だった。なかなかの秀《しゆう》才《さい》らしくて、一種《しゆ》知的《てき》なムードなんてものを漂《ただよ》わせている。 「——添《そえ》山《やま》アキラなんて、どこがいいんだい?」  新宿で降《お》り、劇《げき》場《じよう》への道を歩きながら、彼《かれ》——竹越君が言った。「彼《かの》女《じよ》、いい子なんだけど、こういう好《この》みだけは全《ぜん》然《ぜん》分かんないんだよな」 「私も同じ。でもしかたないわ、友だちのためだもん」 「友情とは寒いもんだね」  と彼は言って、ハーフコートのえりを立てた。これにも私は全《まつた》く同感だった。 「こんなとこに、前の晩から並ぶもの好《ず》き、いるのかなあ。明《あ》日《す》の朝早くで十分だと思うけど」 「そうね。もし誰《だれ》もいなかったら、どっか二十四時間営《えい》業《ぎよう》の喫《きつ》茶《さ》店《てん》にでも入って、朝になるまで、待ってない?」 「いいな、そのアイディア」  と、竹越君は楽しげに言った。  でも、その考えは「甘《あま》かった」のだ。劇場の前へ来て、私も竹越君も唖《あ》然《ぜん》とした。  前売り券《けん》売り場の前には、毛布を敷《し》いたり、毛布にくるまったりした女の子たちが、もう二十人近く、列を作っていたのである。 「すごいのねえ!」 「君、どこか店に入ってろよ」  と、竹越君が言った。「ふたりで並ぶことないさ。僕が君の分までいっしょに買ってあげるから」 「そういうわけにはいかないわ。こっちだって友だちの手前ってものがあるもの」 「いいじゃないか、ちゃんと並んだって言えば」 「うそつくのきらいなんだもん」 「意外と頑《がん》固《こ》なんだね」 「そうよ。——さ、座《すわ》りましょ」  結局、話し合いの結《けつ》果《か》、ときどき交《こう》替《たい》で近くの喫茶店へ暖まりに行こうということになり、まずは、ふたりで座り込んだ。私たちのあとにも、同じ電車に乗って来たらしい、女の子が四、五人、すぐに列を作った。  添山アキラっていうのは、十九歳というふれ込みの、新人にしてはトシ食った歌手である。私の見たところでは、二十三歳——下《へ》手《た》すりゃ二十五くらいになってるんじゃないかと思うけど、ともかくちょっと甘ったるい顔と声で、アッという間に人気スターになってしまった。  こうして並んでいる女の子たちを見ていると、大体が私と同じ中学生か、せいぜい高校の一、二年くらい。それにしても大したファイトだ。  夜は長かった。——これで竹越君がいなかったら、ほんとうに、友情も犠《ぎ》牲《せい》にして帰っちまってたかもしれない。  当の友人は、風《か》邪《ぜ》ひいて寝《ね》込《こ》んでるのだ。この分じゃ、こっちも枕《まくら》を並べて討《う》ち死にかもしれない、と思った。 「少し休んでこいよ」  と、竹越君が言った。 「そう? じゃ、ちょっと——」 「ゆっくりしてきていいよ」  と、優《やさ》しい言葉をかけてくれる。  私は立ち上がって歩きだした。手足の先が冷たくって感《かん》覚《かく》を失《うしな》いそうだ。歩きながら、先頭に並んでるのはどんな子なのかな、とちょっと横目で見た。  これがすごい。毛布にグルグルとくるまって、頭にスッポリ、フードかぶって、白いマフラーが鼻まで上がっていて、出てるところがないぐらい。——上には上があるってのはこのことか!  前売りの窓口のわきの壁《かべ》にもたれて、眠《ねむ》ってるのか、身動き一つしない。私は、足を速《はや》めて、終夜営業の喫茶店へ向かった。 2 父と娘《むすめ》  ホットココアとケーキで、やっと体にぬくもりがもどってくるのに、十五分はかかった。  店の中は、ほぼ三分の二の入り。こんな所で何してんのかしら、と思うような年《とし》寄《よ》りから、お酒飲んでて帰りそこなって、居《い》眠《ねむ》りしてるサラリーマンまで、いろいろと集まって来ている。  高いタクシー代払《はら》うよりは、ここで一杯《ぱい》五百円のコーヒー飲んで眠ってったほうが安上がりには違《ちが》いないけど、何となくわびしくなる光《こう》景《けい》ではある。  私《わたし》が結《けつ》婚《こん》したら、やっぱり、いくらお金はかかっても、帰って来てほしいと思う。でも、生活が苦しいと、そうも言ってられないのかな。  私と同様、交替であの列から抜けて来たらしい女の子がふたり、震《ふる》えながら入って来て、すぐ後ろの席に座った。 「寒いよお」 「死にそう! ね、何食べる? ラーメンないかな」 「あるわけないでしょ、そんなもの! 喫茶店よ」 「じゃ、ともかく熱《あつ》いもので、すぐできるものなら、何《なん》でもいい!」  その気持ち、よく分かる。——五分ほどして、ふたりはスパゲッティに取り組み始めたが、 「——ねえ、あの男の人、見て」  と、ひとりが言った。 「えっ? どの人?」 「ほら、あっちの隅《すみ》。ソフトかぶってる人、いるじゃない」  私も何となくそのほうへ目を向けた。  ソフトといっても、ソフトクリームじゃない。ソフト帽《ぼう》というやつをかぶった、五十歳《さい》くらいの、何だかいやに疲《つか》れた感じのする男である。 「あの人、知ってるの?」 「うーん、どこかで見たことがあるような気がするんだ」 「どこで?」 「分かんないのよ。——もう少し食べたら思い出すかもしれない」  と、いささか理論的でないことを言って、二口、三口スパゲッティを口へ入れると、 「あ、そうだ!——ほら、あれ、アキラのマネージャーか何《なに》かよ! 前にも見たわ。いつもついて歩いてるんじゃない?」 「添山アキラの? そう? 私は初めて見たけどな」 「きっとそうよ! この前のリサイタルのときも見かけたんだもの」  と、その子は自信ありげである。  さて、私のほうはだいぶおなかが満《まん》足《ぞく》してきたので、そろそろ竹越君と交替するかな、と腕《うで》時《ど》計《けい》を見た。三十分ほどたっている。  あと十分くらいしたら、列のところへもどろう、と思った。——あの寒い中へもどるというのも、気は進まないけど、まさか、竹越君をひとりで放っとくわけにもいかない。  とはいえ、やっぱり、暖かいってことはいいわね……と、目を閉《と》じて……。  いつの間にやら、眠り込《こ》んでしまった。ハッと目を覚《さ》まし、いけない、と腕時計を見ると、一時間も眠ってしまっていた。  あわてて立ち上がろうとした私は、誰《だれ》かにぶつかりそうになった。 「あ——」 「おっと——失《しつ》礼《れい》」  ソフト帽が床《ゆか》に落ちた。あの、添山アキラのマネージャーらしい(かどうか私は知らないけど)男だ。  その男は、帽子を拾うと、 「ええと……君は……」 「え?」 「添山アキラのリサイタルに並《なら》んでるのかね?」 「ええ、そうですけど……」  男は、おずおずとした調子で、 「実は、ちょっと頼《たの》みがあるんだけどね」  と言った。 「——じゃ、娘《むすめ》さんがあの列に?」 「いてくれれば安心なんだがね」  と、その男はうなずいた。「見に行ったりすれば怒《おこ》るだろうし、といって心配で……」 「大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》ですよ、大《おお》勢《ぜい》いるんですから。別《べつ》にひとりでポツンと立ってるわけじゃなくて、けっこうワイワイ騒《さわ》いでますよ」  と私は言った。 「いや、そんなことじゃないんだよ。私が心配なのは」 「というと?」 「つまりね、育《いく》栄《え》は——娘の名だがあの添山アキラという男の恋《こい》人《びと》だと言ってるんだ」 「自分で、ですか?」 「そうなんだ。ただのファンとは違《ちが》う。だから、あんなふうに並んだりすることはない、と言うんだよ」 「そんなこと、ファンになるとよく言うもんですよ」 「私もそう思う。実《じつ》際《さい》、その添山というタレントから電話一本、手紙一通来ていないんだからね」 「心配しなくたって大丈夫ですよ。一《いつ》種《しゆ》のゲームぐらいに思ってるんですから」 「うん……。しかしね……」  と、その父親は、まるでこの世の終わりがやって来るとでもいうような深いため息をついた。 「何を心配してるんですか?」  と私はきいた。 「いや——こんなことを言うと、笑《わら》われるかもしれないがね」 「言ってみてください」 「どうも、あの子がうそをついてるとは思えないんだよ」  と、その父親は言った。 「じゃ、ほんとうに、娘さんが添山アキラの恋人だとおっしゃるんですか?」 「ばかげて聞こえるだろうね」  と、苦笑して、「しかし——うちは母親を十年近く前になくしてね、父ひとり娘《こ》ひとりで、私が自由業のせいもあって、ずっと暮《く》らしてきた。だから、娘のことは、普《ふ》通《つう》の父親よりも、ずっと詳《くわ》しく分かっているつもりだ」 「そうでしょうね」 「娘がうそをついているときは、すぐに分かる。まあ、場合によっては、分からないふりをして、だまされてやることもあるよ。——しかし、添山アキラの話になると……だめなんだ。分からない。——いや、どう見ても、私にはほんとうのことを話しているとしか思えないんだよ」 「あの、失礼ですけど……」  と私は口をはさんだ。「その『恋人』っていう意味は……その……」 「うん。ホテルへいっしょに行ったとかいうわけなんだ」  父親の顔が歪《ゆが》んだ。ひとりで苦《く》労《ろう》して大きくした娘が、どこの誰かもろくに分からない男とホテルへ行ったなんて、そりゃ腹《はら》も立つだろう。 「いろいろと問い詰《つ》めてみるが、ともかくほんとうにあの添山と、結《けつ》婚《こん》の約《やく》束《そく》をした、と言う。結婚といっても十六だよ、娘は!」 「でも、添山アキラのほうは、全《ぜん》然《ぜん》会いにも来ないんでしょ?」 「娘に言わせると、彼は今、人気の出かかった大事なときなので、表立って動けないんだということでね」 「それが娘さんの作り話とは思えない、ということなんですね?」 「うん。しかし、実際にそんなことがあるんだろうか?」 「私にはよく分かりませんけど……。でも、娘さんが自分で、それをほんとうだと信《しん》じ込んじゃってるんじゃないですか?」 「そうかもしれないね」  とうなずいたが、父親の不安そうな表情はいっこうに変《か》わらなかった。 「——で、私に、娘さんが列にいるかどうか見てほしい、っていうわけですね?」 「そうなんだ。いや、列の中にいれば、こっちも安心だ。娘はただの一ファンというわけだからね。しかし、いないとなると……」 「どんなスタイルで出かけたんですか? 毛《もう》布《ふ》とか何かを、ごっそり持って?」 「いや、どこかで彼と待ち合わせて、彼のマンションに行くとかで、コートを着ていただけだ。——どこかに毛布や何かを隠《かく》しているのかもしれないが」 「それはそうですね」 「これが娘の写《しや》真《しん》なんだ」  と、手渡されたのは、よく撮《と》れたスナップで、なかなかの美人だ。私ほどじゃないけども……。 「——今夜は彼とふたりで過《す》ごすんだと言って、化《け》粧《しよう》をして、口《くち》紅《べに》までつけてね。止めたかったが、かえって意地になるばかりだと分かっていたからね」 「じゃ、見てみますね。でも、みんな毛布にくるまって寝てるから、顔が分かるかどうか……」 「むちゃを言ってすまないね。できるだけ、でいいんだ」  その父親の、物《もの》静《しず》かな様子に好《こう》感《かん》を持ったので、私は写真を手に、さっそく劇《げき》場《じよう》の前へともどった。幸い、風がやんで、多少は楽になっている。 「——ごめんね」  と竹越君に声をかける。 「いいんだよ。——じゃ交《こう》替《たい》するか」 「その前にちょっとお願《ねが》いがあるの」 「何だい?」  私が写真を見せて、事《じ》情《じよう》を説《せつ》明《めい》すると、竹越君もいっしょに捜《さが》してくれることになった。  しかし、これが容《よう》易《い》じゃなかった。ともかく、行列は、私が休《きゆう》憩《けい》している間に、たっぷり百《ひやく》メートル近くまでも伸《の》びていたのだ!  それでも、一《いち》応《おう》は約束だ。私と竹越君は、ずっと列をたどって、女の子たちの顔を、ひとりひとり、眺《なが》めて行った。  中には、完《かん》全《ぜん》に毛布などにくるまっている子もいて、全《ぜん》部《ぶ》の顔は見られなかったけれど、まあ九《きゆう》割《わり》方の顔は確《たし》かめた。その中に例《れい》の娘はいなかった。  あの喫茶店へもどって父親にそのことを話すと、何度も礼を言われ、五千円札《さつ》まで手に押《お》しつけられてしまった。 「こんなつもりじゃ——そうですか——じゃ、いただきます」  割《わり》とアッサリもらって、ポケットへ入れる。 「もう帰るんですか?」 「いや、一《いち》応《おう》、朝まで待ってみるよ。明るくなれば、遠くからでも娘の顔が見分けられるからね」  列のほうへともどりながら、親っていうのも、けっこう大《たい》変《へん》なんだな、と私は考えていた……。 3 白いマフラー  朝が来た。  結《けつ》局《きよく》、竹越君と話をしていて、一《いつ》睡《すい》もしなかったが、あまり疲《つか》れは感じなかった。  あちこちで、毛布にくるまって眠っていた子たちが起きだすのが見えた。 「あの育《いく》栄《え》って子、いるかしら?」 「どうかな。——もう一度捜してみるかい?」 「父親が見に来るって言ってたわ」  劇《げき》場《じよう》の戸が開いて、作業服を着た、はげ頭のおじさんが寒そうに出て来る。 「こりゃ、大したもんだ」  と、目を丸《まる》くして行列を眺《なが》める。 「この寒いのになあ!」 「おじさん、トイレ貸《か》して」  と女の子のひとりが言うと、 「ああ、中のを使っていいよ」  たちまち十人くらいの女の子が、劇場の中へ駆《か》け込んで行った。 「これじゃ掃《そう》除《じ》もできんな」  そのおじさんは、はげ頭をなでながら言って、 「一番の子はまだ寝《ね》てるのか」  とかがみ込《こ》んだ。 「おい。もう起きな。——朝だよ」  と、あの毛布にくるまった子を揺《ゆ》さぶる。 「おい。——どうした?——おい、大丈夫か?」  声が緊《きん》張《ちよう》している。私と竹越君は顔を見合わせた。 「——大変だ」  はげ頭のおじさんは青くなっていた。「冷たくなってるぞ!」  そして、急いで毛布ごとかかえ上げると、劇場の中へと運び込んで行く。 「まさか……凍《とう》死《し》?」  と私は言った。 「そんなことないと思うけど……」  竹越君も、不安げだ。  私たちは、劇場の中へと入ってみた。中はもちろんまだ暗くて、どこが何やらよく分からない。トイレからもどって来た女の子にきくと、 「あのはげた人? そっちへ行ったわよ」  と奥《おく》のほうを指さす。  薄《うす》暗《ぐら》い通路を歩いて行くと、ドアの一つが開いていて、明かりがもれている。 「——そうなんです」  と、あのおじさんの声がした。「すぐに救《きゆう》 急《きゆう》 車《しや》を!」  私たちが顔を出すと、おじさんは、ギョッとしたように見て、 「何だね?」 「あの……どうかしたんですか?」 「まったく困《こま》ったもんだ!」  と首を振《ふ》る。  ソファに、十五、六の女の子が横たわっていた。  青ざめて、血の気がない。 「凍死したらしいよ。今、救急車を呼《よ》んだんだが、むだだろう」  私はゴクリと唾《つば》を飲み込んだ。 「おい、あの子じゃないか!」  と、竹越君が言った。 「え?」 「捜してた子だよ!」  私は近《ちか》寄《よ》って、その女の子の顔をのぞき込んだ。——そうだった。  化《け》粧《しよう》をして、口《くち》紅《べに》をつけているし、今は生気を失《うしな》ってしまったので、すぐには分からなかったのだが、間《ま》違《ちが》いなく、あの父親が捜している娘だった! 「知ってるのかね?」  と、おじさんがきく。 「ちょっと……」 「——僕《ぼく》がお父さんを呼《よ》んで来よう」  と、竹越君が言った。 「あなた、顔が分からないでしょ。私、行く」  私は部《へ》屋《や》を飛《と》び出した。  表に出ると、すぐにあの父親が歩いて来るのが目に入った。とたんに私は、後《こう》悔《かい》した。  竹越君に任《まか》せるべきだったのだ。——いったい、父親に何《なん》と言えばいいのだろう? 「やあ、さっきはすまなかったね」  と、向こうから声をかけてきた。 「あの……実は……」  添山アキラが入って来た。  TV《テレビ》で見るより、だいぶ小《こ》柄《がら》で、近くで見ると、特《とく》にどこといって見映えのしない男に見えた。  劇場の中の一室。ソファに、あの女の子の死体が横たえられている。父親はそのそばで、なかば放心 状《じよう》態《たい》だった。 「添山さんですね」  と言ったのは、警《けい》官《かん》だった。 「そうです」 「実は、この劇場の前でゆうべから、列を作っていた女の子のひとりが、凍死してしまったんです」 「それはまた……」 「そのお父さんのお話では、娘さんはあなたと直《ちよく》接《せつ》知り合いだと言っていたらしいんです。ちょっと顔を見ていただけますか」 「はあ……」  いたって神《しん》妙《みよう》な様子で、添山アキラはソファのほうへ近づいた。そして、その娘の顔をじっと見ていたが、 「——心当たりがありませんね」  と首を振《ふ》った。 「そうですか」 「ファンレターの返事ぐらいは出したかもしれませんが……」  添山は父親のほうへと向いて、 「——お父さんですか、この方の?」  と声をかけた。 「はあ……」  父親が力なくうなずく。 「こんなことになって申しわけありません」  と、添山は頭を下げた。「僕のほうで、あらかじめこういうことのないように手を打つべきでした」 「いや……。あんたの責《せき》任《にん》じゃありませんからね」 「それにしても……僕がいなければ、お嬢さんはこんなことにならずにすんだのですから……」  添山は深《ふか》々《ぶか》と頭を下げた。「ほんとうに申しわけありませんでした」  私はなんだかやけにイライラしていた。——添山アキラの態《たい》度《ど》は、なかなか立《りつ》派《ぱ》だった。立派すぎた。  それが何だかわざとらしく、計算されているようで、いやだったのだ。  私はテーブルの上に積《つ》み上げられた毛《もう》布《ふ》やマフラーのほうに歩いて行って、手に取ってみた。  これだけのことをして、凍死するなんて……。しかし、ほんとうに死んでいるのだから、しかたない。  マフラーを広げてみる。真《ま》っ白で、しみ一つない。 「——おかしいわ」  と私は言った。 「何が?」  と、竹越君がきく。 「このマフラー。汚《よご》れ一つないわ。これを鼻までいっぱいに上げて、巻《ま》いてたのよ」 「それがどうして——」 「分からない? 育栄さんは口紅をつけてたのよ。それなのにマフラーにその跡《あと》が全然ないのはどうして?」  部屋の中が静《しず》まり返った。——添山が咳《せき》払《ばら》いして、 「じゃ、僕は仕事があるので」  と、歩きだそうとした。 「待って!」  私の頭に、何かがひらめいた。私は直接行動に出た。添山アキラのほうへ駆《か》け寄《よ》ると、彼の髪《かみ》の毛をつかんで引っ張《ぱ》ったのだ。——バリッと音がして、下から、みごとにはげた頭が現《あらわ》れた。その顔は、あの、作業服のおじさんだった! 「あの毛布にくるまってたのはほかの女だったんだわ」  と私は言った。「育栄さんはほかの所で凍死させられ、ここへ運び込まれてたのよ。そして、毛布にくるまっていた女は、トイレを借《か》りに入った女の子たちにまぎれて外へ出たんだわ」  添山アキラがふっと肩《かた》を落とした。 「——僕は——もう三十七なんだ。——うそをつくのに疲れた。この子は、僕にとってはいい遊び相《あい》手《て》だったんだ。——でも、彼女のほうが本気になった。僕のほんとうの年《と》齢《し》も知っていた。冷たくすれば、しゃべってしまうかもしれない……」 「だから娘を殺したのか!」  怒《いか》りに震《ふる》えて、父親が添山へ飛びかかった。 「——哀《かな》しいわ」  と私は言った。  竹越君とふたり、すっかり陽《ひ》の高くなった新《しん》宿《じゆく》の街《まち》を歩いている。 「どっちもね。あの女の子も、添山アキラも」 「そう。……辛《つら》いもんね、スターも」 「でも、君、すごいじゃないか、真《しん》相《そう》を見《み》破《やぶ》ったなんて」 「うん、だって、悪いじゃない、五千円ももらって。それ相《そう》応《おう》のことしなきゃね」 「なるほどね」  私は、竹越君の腕《うで》を取った。 「——これから、この五千円をどう使うか、ふたりで検《けん》討《とう》しない?」  ゆうべの寒さがうそのような、暖かい午後だった。 僕《ぼく》らの課《か》外《がい》授《じゆ》業《ぎよう》  赤《あか》川《がわ》次《じ》郎《ろう》 ------------------------------------------------------------------------------- 平成14年7月12日 発行 発行者  角川歴彦 発行所  株式会社  角川書店 〒102-8177 東京都千代田区富士見2-13-3 shoseki@kadokawa.co.jp (C) Jiro AKAGAWA 2002 本電子書籍は下記にもとづいて制作しました 角川文庫『僕らの課外授業』昭和59年 2月25日初版発行              平成 9 年 6月20日66版発行