TITLE : セーラー服と機関銃 本作品の全部または一部を無断で複製、転載、配信、送信したり、 ホームページ上に転載することを禁止します。また、本作品の内容 を無断で改変、改ざん等を行うことも禁止します。 本作品購入時にご承諾いただいた規約により、有償・無償にかかわ らず本作品を第三者に譲渡することはできません。 目次 プロローグ 第一章 乾《かん》杯《ぱい》! 女親分 第二章 女親分、起つ! 第三章 女親分、乗り込む! 第四章 女親分、絶体絶命! エピローグ プロローグ  木立に囲まれ、朝《あさ》靄《もや》の立ちこめる国道を、一台の小型車が疾《しつ》走《そう》していた。ところどころでは濃《こ》い靄《もや》のせいで、ヘッドライトを点《つ》けなければならないほどなのだから、そのスピードは無《む》鉄《てつ》砲《ぽう》とさえ言える。  運転している尾《お》田《だ》医師は元《がん》来《らい》が安全運転の信《しん》奉《ぽう》者《しや》で、友人たちから「あいつの車には座席とブレーキしかない」とからかわれるほどだったから、この朝の運転は、まさに太陽が西から昇《のぼ》っているようなものだったのである。  太陽を西から昇らせているのは、尾田医師の脇《わき》腹《ばら》にピタリと押《お》し当てられた匕《あい》首《くち》だった。  「もっと早く走れねえのか!」  喚《わめ》いているのはむろん匕《あい》首《くち》自身ではなく、その持ち主である。かなりくたびれた服を着た小男だった。  「こ、これだって、めちゃくちゃなスピードなんだ! これ以上無理だよ!」  尾田医師は必死で抗《こう》弁《べん》した。  「まだメーターはずっと先まであるじゃねえか!」  「とんでもない、ギリギリだよ!」  「てめえ! 俺《おれ》をごまかそうたってそうはいかねえぞ! 一六〇まであるのに六〇しか針が行ってないじゃねえか!」  「な、なんだって?——それはラ《ヽ》ジ《ヽ》オ《ヽ》じゃないか! 速度計はこっちだ!」  「こ、この野《や》郎《ろう》! 俺に逆らうのか!」  ——車は奇《き》跡《せき》的に事故も起こさず、やがて、林の間の細いわき道へと入り込んだ。木の根をドシン、ガタンと踏《ふ》み越《こ》えながら、林の奥《おく》へと進んで、やがて、小さな池のほとりへ出た。  「あれだ!」  小男が指さしたのは、とうてい人間が住んでいるとは思えないあばら家で、昔《むかし》は誰《だれ》かの別《べつ》荘《そう》か何かだったのだろうか、今はペンキははげ落ち、窓《まど》枠《わく》はぶら下がり、屋根はところどころはがれて風に吹《ふ》かれている。幽《ゆう》霊《れい》からだって苦情の出そうな建物である。  「早くしろ! 早く!」  車を停《と》めて、小男にせかされながら、尾田医師は診《しん》察《さつ》鞄《かばん》をかかえて、あばら家へ急いだ。二人が辿《たど》り着くより早く、玄《げん》関《かん》のドアが開いて、えらくノッポの五十がらみの男が姿を現わした。  「遅《おそ》かったじゃねえか!」  ノッポの男は小男へ言った。  「仕方ないよ。どこの病院も閉まっちまって誰もいないんだ。やっとこいつを見つけて引っ張って来たんだぜ」  「言《い》い訳《わけ》はいい! 早く中へ!」  一応、外ではない、というだけの室内は、空家同然にがらんどうで、部《へ》屋《や》の奥に、見すぼらしいベッドが一つ。ひからびたミイラのような老人が苦しげに息をついている。ベッドの《か》傍《たわら》には、もう二人の男がいて、一人はずんぐりと太った、丸顔の童《どう》顔《がん》。もう一人は、小《こ》柄《がら》で貧弱な体つきをして、極《きよ》度《くど》の近視らしく、恐《おそ》ろしく度の強いメガネをかけている。誰もが、ひどく落ち着かず、ある者は苛《いら》々《いら》と《く》唇《ちびる》をかみ、他の者は指で柱を叩《たた》き、またメガネをしきりに拭《ぬぐ》っていた。  尾田医師は、ベッドの老人の診察を終えると、ゆっくり体を起こした。  「どうだ?」  四人の内ではリーダー格らしいノッポの男が訊《き》いた。  尾田医師は首を振《ふ》って、  「親《しん》戚《せき》でもあったら呼ぶんだね。もっともここへ呼べればの話だが」  「——だめか?」  「手《て》遅《おく》れだ。肺《はい》炎《えん》の高熱で心臓が弱り切ってる。よくここまでもったもんだ」  「何とか……何とかならねえのか?」  「せいぜい少し楽にしてやる程度だな」  「じゃ、やってくれ」  尾田医師は、あまり気がなさそうに肩《かた》をすくめると、診察鞄から、注射器とアンプルを取り出した。  「えらくでかい注射器だな」  「人間用のは持ってないんだ」  「何だと?」  「私は獣《じゆ》医《うい》だからな」  ノッポの男が、尾田医師を連れて来た小男を凄《すさ》まじい形《ぎよ》相《うそう》でにらみつけた。  「——おい!」  「知らなかったんだよ……。本当だ! てっきり普《ふ》通《つう》の医者だと……」  小男がどぎまぎして、必死に言《い》い訳《わけ》する。  「貴《き》様《さま》……」  「ま、まってくれよ……」  その時、ベッドの老人が、突《とつ》然《ぜん》、呻《うめ》いた。  「おい……」  四人の男たちが一《いつ》斉《せい》にベッドの周囲へ集まる。  「親分!」  「しっかりなすってください!」  老人は手を上げて四人を制すると、喘《あえ》ぐような息づかいの合間に、言葉を絞《しぼ》り出した。  「いいか……俺《おれ》の……跡《あと》目《め》は……甥《おい》の奴《やつ》に……」  「その方はどこに?」  とノッポの男が身を乗り出す。  「上《うわ》衣《ぎ》の……ポケットに……紙が……」  「分かりました!」  「もし……それが駄《だ》目《め》……なら、血《けつ》縁《えん》の者で……」  「はい!」  「いいか……目《め》高《だか》組を……絶やしちゃならねえ……守り抜《ぬ》いて……くれ……」  「親分! 安心なすってください。必ず俺たちの手で!」  「頼《たの》んだ……ぜ。……みんなで……力を合わせて……」  そこまで言って、老人は力尽《つ》きたように、息をつき、目を閉じた。四人は互《たが》いに目と目を見交わした。尾田医師が老人の《か》傍《たわら》へやって来ると、脈をみようと、だらりと下がった手首をとる。  その時、突《とつ》然《ぜん》、老人がガバとベッドに起き上がったので、四人の男はぎょっとして飛び上がった。老人はカッと目を開き、正面を見《み》据《す》えると、  「第三中隊、突《とつ》撃《げき》!」  と叫《さけ》んだ。そしてそのまま、バタッとベッドへ倒《たお》れた。  尾田医師はしばらく聴《ちよ》診《うし》器《んき》を老人の胸に当てていたが、やがて、立ち上がって言った。  「ご臨《りん》終《じゆう》です」  そして、ふと思いついたように、  「——軍隊に行かれたんですか?」  「炊《すい》事《じ》当番兵でね」  とノッポの男が素《そ》っ気《け》なく答えた。  「——どうするんだ?」  とずんぐりした男がノッポへ、  「親分をここへこのまま置いとくわけにはいかないぜ」  「分かってる」  「いい親分だった……」  「さあ、どうする?」  とノッポが他の三人を見回し、  「このままにしておけば、親分の遺体は警察へ引き取られるだろう」  「そんなのは真《ま》っ平《ぴら》だ!」  「そうだ! 親分は俺《おれ》たちの手で安らかに眠《ねむ》らせてあげるんだ!」  「サツの連中なんかにさわらせてたまるか!」  「しかし……」  ノッポは考え込《こ》んで、  「穴を掘《ほ》るには道具がないぞ」  「池じゃどうだい?」  と小男が提案した。  「池か。——悪くない。親分はこの池が好きだったし」  「でも、お棺《かん》に入れなきゃ」  「棺なんてねえぞ」  「何でもいい。箱《はこ》の形をしてれば」  四人の問答を聞いていた尾田医師が、エヘンと咳《せき》払《ばら》いをして、  「あ、悪いが、私はそろそろ失礼させてもらうよ。車でもいい加《か》減《げん》時間がかかるんだ」  と鞄《かばん》を手に、部《へ》屋《や》を出ようとするところへ、  「おい! 待ちな」  とノッポが声をかけた。  「まだ何か用かね?」  「なあ、ものは相談だが……」  ノッポが上《うわ》衣《ぎ》の下から黒光りする拳《けん》銃《じゆう》を取り出すのを見て、尾田医師の顔から血の気がひいた。    「——さようなら親分」  「きっと後は俺たちが……」  「昔《むかし》のように目高組を大きくしてみせます!」  「安らかに……」  池のほとりに立って、四人は涙《なみだ》にむせんでいた。四人の後ろに立っている尾田医師も涙ぐんでいた。——それもそのはず、尾田医師の車が、棺《かん》の代わりに〈親分〉の遺体を乗せて、今、まさに池へ没《ぼつ》しようとするところだったのである。  まだ月《げつ》賦《ぷ》の払《はら》いも残っているのに……。車は、徐《じよ》々《じよ》に水面下へと姿を消し、ついに見えなくなった。水面にいくつもの泡《あわ》が浮《う》かんでは消えた。そしてそれも終わると、もう池はただ以前と変わりなく静まりかえっているばかり……。 第一章 乾《かん》杯《ぱい》! 女親分 1  「ご遺族の方はどうぞあちらでお待ちください」  火《か》葬《そう》場《ば》の係員が、預金する時の銀行の窓口の係のような愛想のいい口《くち》調《よう》で案内する。  小さな黒い集団は、ゾロゾロと、燃え盛《さか》るカマの前から離《はな》れて、待合室へと向かった。中年の婦人が、ふと振《ふ》り向いて、ただ一人、カマの前にたたずんで動かない少女に気づいた。  少女は紺《こん》のセーラー服に身を包み、両手を後ろに組んで、直立した姿勢で、じっとカマに向かって立っていた。腕《うで》に喪《もし》章《よう》を巻いている。  「泉《いずみ》ちゃん」  中年の婦人が戻《もど》って来て、少女の肩に手を置いた。  「——行きましょ。さあ」  少女は逆らわずに、歩き出した。殺《さつ》風《ぷう》景《けい》なコンクリートの通路に靴《くつ》音《おと》が反《はん》響《きよう》する。  「お父さんは本当に災難だったわね。——でも、元気を出すのよ。お父さんだってきっとそう望んでらっしゃるわ」  泉、と呼ばれた少女は、じっと固い表情で正面を見《み》据《す》えたままだった。——そう大《おお》柄《がら》なほうではない。むしろ小《こ》柄《がら》な、けれどもバランスのよい体つきをしている。顔立ちは愛くるしいが、固く一文字に結んだ《く》唇《ちびる》と、大きな目に秘めた強い意志の光が、可《か》愛《わい》いと言われるのを拒《こば》んでいるようだ。  「パパは今焼かれてるんです」  泉は言った。  「きっと私のことなんか考えてる暇《ひま》はないでしょう」  相手の婦人は泉の言葉に面くらった様子で、咳《せき》払《ばら》いをして黙《だま》ってしまった。そして、ふと立ち止まると、  「——あら、みなさんどのお部《へ》屋《や》に行かれたのかしら」  とキョロキョロする。いつの間にか、先のグループの姿が見えなくなってしまったのだ。  「いやねえ……。あっちかしら……」  婦人がウロウロと曲がり角を覗《のぞ》いたりしている間に、泉は廊《ろう》下《か》をずんずん進んで、突《つ》き当たりの扉《とびら》を開け、外へ出た。  小《こ》気《き》味《み》よく晴れ上がった秋の一日で、陽《ひ》射《ざ》しは少し暑いほどだが、空気が乾《かわ》いていて、風が涼《すず》しい。  建物のわきを回ると、なかば放ったらかされた中庭らしいものがあって、建物の壁《かべ》と、高い塀《へい》に囲まれた、人《ひと》気《け》のない場所になっていた。泉は積み上げてある空の段ボールの一つに腰《こし》を降ろすと、空を見上げた。高い煙《えん》突《とつ》の先から、黒い煙《けむり》が風になびいている。  突《とつ》然《ぜん》、泉は両手で顔を覆《おお》った。  「ウ、ウ……ウ……」  固く結んだ唇から声が洩《も》れて、激しく嗚《お》咽《えつ》した。肩が震《ふる》え、とめどなく涙《なみだ》が指の間を伝う。——が、それも、ほんの一、二分の間に過ぎなかった。再び空を見上げた時、涙に濡《ぬ》れた顔は、もう、どこか晴れ晴れとさえしていた。  泉は立ち上がると、中庭を出て、建物の正面へ回った。泉の乗って来た霊《れい》柩《きゆ》車《うしや》の他にも、着いたばかりの車があって、白木の棺《かん》が運び降ろされるところだった。——泉は離れたところに立って、その様子を見ていた。  星《ほし》泉。十七歳。私立N高校二年生。——今、泉は、孤《こ》児《じ》の身の上になったところである。  「泉ちゃん!」  叔《お》母《ば》の酒《さか》井《い》好《よし》子《こ》がやって来るのが見えた。泉は慌《あわ》てて涙を拭《ぬぐ》った。あんな人に涙を見せてたまるもんか!  「こんなところにいたの。みんな心配してるわよ」  「見てたんです」  「何を?」  「他の人たち」  棺が運ばれて行き、黒服の一団がゾロゾロと従って行く。泣いているのはほんの二、三人で、あとはみんな、早く終わってくれないものかと、ウンザリ顔だ。中には笑いながらおしゃべりをしているのもいる。——あんなものなんだわ、と泉は思った。  泉にとって、父、星貴《たか》志《し》はただ一人の家族だった。母を幼い頃《ころ》に亡くし、兄弟もない泉にとって、父は、親友であり、教師であり、恋《こい》人《びと》だった。四十五歳《さい》の働き盛《ざか》り。中規模の貿易会社で、営業部長として活《かつ》躍《やく》していた。その手《しゆ》腕《わん》で、大手の同業者から引き抜《ぬ》きの話が引きもきらなかったが、不自由な大組織を嫌《きら》って、会社を動かなかったのである。  海外へ、国内へ、旅行している時のほうが多くて、泉はそんな時、マンションに一人住まいだったが、父を恨《うら》んだことはなかった。時折、仕事が早く片づくと、深夜の飛行機で帰って来ることもあって、その時の嬉《うれ》しさは格別だった。  父・貴志は日本人にしては大《おお》柄《がら》で、エネルギッシュな印象のビジネスマンだった。単に有能なだけの冷たいエリートと違《ちが》って、どこか人なつっこいあたたかさがあって、ライバル企《きぎ》業《よう》の営業部員などからも、憎《にく》めないライバルと見られていた。中年とはいえ、スポーツで鍛《きた》えた体は若々しく、三十代といっても通りそうだった。  「ねえ、パパ」  と泉はよく言ったものだ。  「私の結《けつ》婚《こん》が遅《おく》れたとしたら、パパの責任よ。パパみたいに素《す》敵《てき》な人なんてめったにいないんですもの」  その父が、今は灰になろうとしている……。  深夜、成《なり》田《た》空港へ降り立った星貴志は、タクシーに乗ろうとして、足を滑《すべ》らしたのか、前のめりに、道路の中央へ飛び出した。そこへ、大型トレーラーが……。呆《あつ》気《け》ない最期だった。  「——さ、もう行きましょ」  叔母の好子が言った。  泉にとって一番近い、東京にいる親《しん》戚《せき》は、この叔母なのだが、泉は大《だい》嫌《きら》いだった。夫の酒井呈《てい》一《いち》は大学の助教授で、父とは正反対、陰《いん》険《けん》で、底意地の悪い性格だ。さしあたり、泉はこの叔母夫婦に後見人になってもらうことになっていて、泉も挨《あい》拶《さつ》に行ったのだが、酒井は迷《めい》惑《わく》がっている様子を隠《かく》そうともしなかった。そして泉が、マンションに一人で住むつもりだと言うと、やっとほっとした表情で、お愛想を言った。  叔母の好子にしても、父の妹なのだが、派手好きの見《み》栄《え》っぱり、亭《てい》主《しゆ》を教授に押《お》し上げようと、その尻《しり》を引っぱたいてばかりいる。泉にこうして優しくするのも、他の親戚の目があるからで、内心、厄《やつ》介《かい》な荷物をしょい込んだわ、と愚《ぐ》痴《ち》っているのが、はっきりと分かるのである。  「兄さんも、知《とも》子《こ》さんの亡くなったあと、再婚しておけばよかったのよね」  仕方なく泉と並んで、よその葬列を眺《なが》めながら、好子が言った。  「そうすれば、あなたも一人ぼっちにならずにすんだのに」  「いいえ、私、一人でいいんです」  泉は言った。  「ちゃんと暮《く》らして行けます」  「ま、そりゃあなたはしっかりしてるから……。でもね、まだ何といっても子供なんだから……」  再婚。父は一度もそれを口にしたことがなかった。泉は、たぶん無理だったろうな、と思う。父と自分との生活の間には、誰《だれ》も割り込む余地がなかった。父もそれを承知していたのだろう。  父に女性がいなかったわけではない。泉だって十七歳である。どこかに親しい女性がいるらしいことは、女の直感で、察していた。しかし父は、はっきりと生活を区別して、その女性のことは一度も口にしなかったし、その女性から手紙一本、電話一つ来たこともない。父も男で、まだ若い。女性が必要だということは泉も理解していたから、別に何も言わなかったのだ。  ふと、泉は思った。——その女《ひと》は、父の死を知っているのだろうか。  目が、火葬場の門のあたりを探した。もしかして、どこかで隠れて火葬を見ているのではないかと思ったのだ。もしそうなら、お骨ぐらい拾わせてあげたい。きっと叔母は大《おお》騒《さわ》ぎするだろうが。  しかし、それらしい姿はどこにもなかった。  「さあ、本当にもう行かないと」  「ええ」  泉は歩き出しかけて、ふと、門の向こう、道路を挟《はさ》んだ反対側に、えらく旧式な乗用車が停まっているのを見た。黒《くろ》塗《ぬ》りの薄《うす》汚《よご》れた車で、中古車屋だって引きとらないのじゃないかと思える代物だ。その車の前に、背の高い、五十歳がらみの男が立っていた。黒服に身を包み、黒いネクタイをしているところからみて、葬《そう》儀《ぎ》の参列者らしいが、それならなぜ中に入らないのだろう?——それに、妙《みよう》なことに、その男はいやに熱心に泉《ヽ》を《ヽ》見つめていた。気のせいではない。たまたま目を止めたという感じではなく、ずっと、歩き出した泉を目で追っているのだ。  見《み》憶《おぼ》えのない顔だ。それに、父の知人だとしても、身なりもパッとしないし、少々ガ《ヽ》ラ《ヽ》も悪そうである。いったい誰なのだろう?  叔母に促《うなが》され、泉は足早に歩き出したが、途《と》中《ちゆう》で振《ふ》り返《かえ》ってみても、黒服の男は、まだ泉をじっと見送っていた。    「——来たぞ!」  ドアに耳を押《お》し当てていた哲《てつ》夫《お》が言った。  「電気消せ!」  テーブルの位置を直していた周《しゆ》平《うへい》が、慌《あわ》てて叫《さけ》ぶ。哲夫が明かりのスイッチを切ると、暗い部《へ》屋《や》をつっ切って、急いでテーブルへ……しかし、何しろ暗い中である。椅《い》子《す》に坐《すわ》りそこねて尻《しり》もちをつく。  「いてえっ!」  「馬《ば》鹿《か》、静かにしろい!」  じっと息を殺していると、コツコツと足音が、ドアの前へとやって来て——通り過ぎて行ってしまった。  「なあんだ!」  哲夫がガッカリした声を出すと、また立って行って明かりをつける。「また違《ちが》う部《へ》屋《や》だ」  「よく聞けよ、馬《ば》鹿《か》!」  と周平が文句を言うと、哲夫もムッとした顔で、  「じゃ、お前、泉ちゃんの足音が分かるってんだな?」  「当り前だ。分からねえで子《ヽ》分《ヽ》といえるかってんだ!」  奥《おく》沢《ざわ》哲夫。渡《わた》辺《なべ》周平。二人とも、泉のクラスメイトである。何をやっても平均の少し下、優等生への憧《あこが》れを捨て切れない劣《れつ》等《とう》生《せい》の哲夫に比べると、周平のほうは勉強はからきしだめ、自分の好きな柔《じゆ》道《うどう》をやりに学校へ行くのだと割り切っていて、それだけに〈突っ張った〉ところのない、単純明快な性格である。さすがに体つきはガッチリしているが、背は低くて、すごいガニ股《また》。クラスの女の子から、  「横向きに歩くの?」とからかわれている。  「じゃ、今度はお前が足音を聞けよ」  と哲夫に言われて、  「よし! 見てろよ」  とドアのほうへ行きかけると、  「やめておいたほうがいいと思うね、僕《ぼく》は」  と皮肉めいた口調で声をかけたのは、もう一人のクラスメイト、竹《たけ》内《うち》智《とも》生《お》である。  「何だ、俺《おれ》じゃだめだってえのか?」 と周平がにらみ返すと、  「君らには無理だよ。泉さんと馬の足音だって聞き分けられまい」  「こんなところに馬がいるかよ、馬鹿!」  「馬も鹿《しか》もいるようだがね」  智生の皮肉も周平にはてんで通じない。  「馬も鹿もだって? お前、少しイカレてるのと違うか?」  智生は、学校でも常にトップを争う秀《しゆ》才《うさい》で、東大受験組の筆頭にいつもあげられている。見かけのほうもそれにふさわしく、およそ陽《ひ》焼《や》けとは縁遠い、色白な顔、きれいに撫《な》でつけられた頭、度の強いメガネ。  「——やれやれ、君と話してると、同じ日本語も、こうも違うかと思うよ」  「何だと?」  「ま、いいさ。僕が泉さんの足音を聞き分けてあげる」  とさっさとドアのところへ行き、  「僕はヴァイオリンをやってたからね、耳には自信があるんだ」  「へん、気取り屋め!」  周平と智生は二人とも学生服姿だったが、周平のほうはむしろ灰色の作業服に近く、智生の服はさすがに洗いたてという感じだった。哲夫一人が、白っぽいカーディガンの軽《けい》装《そう》で、重役の息《むす》子《こ》という、恵まれた経済状態のおかげで、他の二人に対し、オシャレの面だけでは、いささか優《ゆう》越《えつ》感に浸《ひた》ることができた。  「——足音だ!」  と哲夫が緊《きん》張《ちよう》したが、  「あれは違うよ」  と智生が事もなげに言う。実際、足音は素《す》通《どお》りしてしまった。  およそタイプの違う三人だが、星泉にほのかな想《おも》いを寄せている点では共通しており、お互いライバルであることは充《じゆう》分《ぶん》意識しながら、こと泉のためとあらば一《いつ》致《ち》団結して行動するのが常だった。この辺が大人と違うところである。  ここは、泉のマンション。——この三人、いったい何をしているのか。  「ずいぶん遅《おそ》いんだなあ、泉ちゃん」  哲夫が時計を見て、  「もう七時だぜ。俺《おれ》、そろそろ帰らないと」  「何だ、お前、裏切るのか? 可《か》哀《わい》そうな泉ちゃんを見捨てようってんだな?」  と周平がにらむ。  「ち、違うよ! だけど何しろうるさいんだよ、家は。晩ご飯の席に揃《そろ》ってないと、あとで言《い》い訳《わけ》が大変なんだ」  「君の家は名門だからなあ」  「おい、智生、それ皮肉かよ」  「いや、本当のことさ。そうだろ? 大切なお坊《ぼ》っちゃんだ。家で心配するのも当り前だよな」  「この野《や》郎《ろう》! お前こそ、家じゃ下にも置かぬ扱《あつか》いだって聞いたぞ」  「何事も東大に入るまで」  と智生がため息をついて、  「一家の期待をになってるってのは辛《つら》いもんさ」  「なに一人で気取ってやがんだよ。だいたいな、お前は——」  と周平がからみかけるのを制して、  「シッ!」  と智生が耳を澄《す》ます。  「——泉さんだ!」  電気が消え、室内が暗くなり、三人はじっと息を殺した。その足音はドアの前で止まると、しばらくたたずんでいるようだったが、やがてカチャカチャと鍵《かぎ》を開ける音がして、ドアが開いた。  「泉ちゃん、お帰り!」  三人が一《いつ》斉《せい》に言って、室内が明るくなる。  「あ——」  三人はそれぞれ、その場で立ちすくんだ。ドアが開いて立っていたのは、てんで見も知らぬ女だったのだ。周平と哲夫がキッと智生をにらむ。  「耳がいいな、全く!」  智生は平然として一つ咳《せき》払《ばら》い。  入って来た女のほうも、三人に劣《おと》らず面くらっているようだった。  「あのォ……ここは……星……泉さんの部《へ》屋《や》?」  三人は顔を見合わせた。こういう時は何となく哲夫が前へ出ることになっている。  「そうですけど、あんたは?」  「私?——うん、ちょっと、ね。あんたたち、誰《だれ》?」  「泉ちゃんのクラスメイトさ」  「ああ……。泉さん、留守?」  「まだお葬式から戻《もど》らないけど」  「お葬式……。今日だったのね」  ——女は、寂《さび》しい口調でポツリと呟《つぶや》いた。まだ若い。二十二、三というところだろうか。長い髪《かみ》、だぶだぶのスポーツシャツ、ジーパンというスタイルで、すり切れそうなサンダルをはいて、大きな布《ぬの》袋《ぶくろ》を引きずるように下げている。一歩間《ま》違《ちが》えばフーテンという感じ。ちょっと顎《あご》の張った顔立ちは、大きな目、《し》下《たく》唇《ちびる》の厚い大きな口など、可《か》愛《わい》くないこともないのだが、どこかしまらない、というか、ポサッとした感じだ。  「さて——と」  女は気を取り直した様子で、布袋をぐいと持ち上げると、サンダルを脱《ぬ》いで部屋へ上がって来た。そしてキョロキョロと部屋の中を眺《なが》めながら、  「へえ……、いい部屋だねえ……」  とフラフラと奥《おく》の寝《しん》室《しつ》へ入って行く。呆《あつ》気《け》にとられた三人がそのあとを見送っていると、  「君たち、何してるの?」  突《とつ》然《ぜん》、ドアのところで泉の声がした。  「あ、泉ちゃん」  「お帰り!」  「お帰りじゃないわ。どうしたの?」  「い、いや、そのね——つまり——」  と周平がしどろもどろになるのを、智生が引きとって、  「僕《ぼく》ら三人、泉ちゃんを励《はげ》ます会をやろうって決めたんだ」  「まあ」  「で——ほら、あのとおり!」  見れば、テーブルに食事の支度がすんでいる。  「まあ!……一体何なの?」  「何しろ料理って三人とも、ほぼ初体験に近かったものだからね。ちょっとこう、出来映えにはやや問題があって……」  「オムレツ焦《こ》がしたのは哲夫の奴《やつ》だぜ」  「何だよ、周平だって、卵を二つも落っことしたくせに」  「ま、こんな具合でね。もう冷めちまったと思うけど、泉さん、もしよかったら……」  「本当に……何て人たちなの! 君たち……」  泉は溢《あふ》れて来る涙《なみだ》を急いで拭《ぬぐ》った。  「——でも、どうやって入ったの、ここに?」  哲夫が言いにくそうに、  「実はね……この隣《となり》の部《へ》屋《や》にいるのが、父の知り合いでね、入れてもらってベランダから……」  「まあ、落ちたらどうするの! それに、家《か》宅《たく》侵《しん》入《にゆう》罪《ざい》よ!」  そう言って、泉は笑った。  「泉ちゃんは、笑ってるのが一番だよ」  と哲夫が嬉《うれ》しそうに言うと、他の二人も頷《うなず》いた。  「ありがと、みんな! 喜んで食べさせてもらうわよ!」  三人の顔に、幸福一《いつ》杯《ぱい》の笑いが広がって、この時だけは、この三人が似《ヽ》て《ヽ》見えるほどであった。  「あ、そうだ、泉さん、実はね——」  と智生が言いかけた時、  「あら、あなた、泉さんね」  女が寝室からフラリと出て来た。泉は三人の顔を見て、  「あの人、どなた?」  「——知らないんだ」  と哲夫が言った。  「知らないって……一《いつ》緒《しよ》じゃなかったの?」  「違《ちが》うよ。つい今、やって来たんだ」  泉は、ゆっくりと女のほうへ歩み寄って、  「私、星泉です。どなたですか?」  「私ね、マユミっていうの」  「マユミ……さん?」  「うん。カタカナでマユミ。本当の名前じゃあないんだけどさ、みんなにそう呼ばれてたから、今じゃ自分でもマユミのほうがピンと来んのよね」  「はあ……」  泉は、少しこの女、イカレてるんじゃないかしら、と思った。  「で、ご用件は?」  「うん。……今日からこ《ヽ》こ《ヽ》に《ヽ》住《ヽ》む《ヽ》の《ヽ》。よろしく、ね」  泉はしばし言葉を失った。マユミという女は、まるでそんなことにはお構いなく、他の部《へ》屋《や》をせっせと覗《のぞ》き始めた。  「——いったい、どうなっちゃってるの?」  泉は思わず呟《つぶや》いた。 2  今年で、すでに教師生活二十五年を迎《むか》える三《み》浦《うら》久《ひさ》子《こ》女史は、この日、恐《おそ》らく教師になって初めて、廊《ろう》下《か》を走《ヽ》っ《ヽ》て《ヽ》いた。  すれ違《ちが》う生徒は、まるでダンプカーが廊下を通って行ったかのように目を見張り、すぐさまクラスへ駆《か》け戻《もど》って、この大ニュースを広めた。  「三浦女史が走ってったんですって!」  「あれが走るとこ、想像つかないなあ」  「象が逆立ちしたってほうがまだ信じられるよ」  とさまざまな評が飛び出したのも、三浦女史はその体型たるや、完《かん》璧《ぺき》に近い円《ヽ》筒《ヽ》で、哺《ほ》乳《にゆう》類にドラム缶《かん》科というのを一つ新設する必要があるのではないかと言われるほどだったからだ。  が、当の三浦女史にしてみれば、笑い事では済まないのだ。それなりの事情があって走っていたのである。趣《しゆ》味《み》とか美容のためでないのはもちろんだ。女史の目的地は、校長室であった。  保《ほ》科《しな》校長は六十歳を越《こ》えた、人の良い、しかし決断力のやや乏《とぼ》しい性格であった。気が弱いので、ショックにははなはだ怯《おび》えやすい。——そして三浦女史がドタドタと地《じ》響《ひび》きをたてて校長室へ飛び込んで来たのは、まさにショック以外の何物でもなかった。  「こ、校長先生! 大変です!」  勢い余って、ぐっとデスク越しに乗り出して来た三浦女史に、《い》一《つし》瞬《ゆん》食いつかれるのではないかと、保科校長は思わず後ずさった。  「な、な、な、何事ですか?」  「表に……表の校門の前に……前に……」  ぜいぜい喘《あえ》いでいるので、三浦女史の話はなかなか前進しない。  「あの……男……男が……あの……立って……その……」  「三浦先生! ゆっくり——その、落ち着いてしゃべってください」  「落ち着いてなんか……いられ……ませんよ!」  「いったい何事なんです?」  「ですから……校門の……」  「前に男がいるんですね? それがどうかしたんですか?」  「それが、ただの……男じゃないんです。……ヤクザ、なんです! それも何人も!」  「ヤクザ!」  保科校長は椅《い》子《す》から飛び上がった。  「た、確かですか?」  「ええ! 一目で、それと分かる連中で……黒服を着《き》込《こ》み、一列に並んで……」  「どこか他の場所と間《ま》違《ちが》えてるんじゃ——」  「そう訊《き》いてみますか?」  「わ、私はごめんです!」  と保科校長は慌《あわ》てて手を振《ふ》った。  「どうしましょう、校長先生?」  「け、警察を呼びますか?」  「でも……もしそんなことをして……あとでお礼参りでもされたら……」  保科校長の顔が青くなって、  「警察はやめましょう」  「ええ」  「しかし、そうなると、どうすれば……」  「問題は下校時ですわ。生徒たちが、あの男たちの目の前を通るんですから……」  「あと一時間しかありませんな」  「生徒を裏門から下校させますか?」  「しかし……それでは暴力に屈《くつ》したことになる」  「ではそれまでに校長があの連中に会って、立ちのかせていただけますか?」  保科校長は迷わず、  「裏門から帰しましょう」  と言った。こういう場合は決断も速いのである。    泉は、一日、授業が頭に入らなかった。あのマユミという女のせいである。  「いったい、あなたはどういう方なんですか?」  と問いつめる泉に、マユミはただ何となく気弱な微《び》笑《しよう》を浮《う》かべて、  「私ねェ……貴志さんに言われてたの」  「パパに?」  「うん。その……何かあったら、あなたのこと、頼《たの》むって」  「パパが、そんなことを?」  泉は信じられなかった。父がこんな女に私を……。  「あなたはパパとどういうお知り合いなんですか?」  女は口を開きかけて、三人組のほうをチラッと見やった。泉も、ここは二人きりで話したほうがいい、と思った。  「ね、君たち、悪いけど今日はもう帰ってくれる?」  「うん……でも、大《だい》丈《じよ》夫《うぶ》?」  と哲夫が、うさんくさい、といった目で、マユミのほうをにらむ。  「大丈夫よ。みんな本当にありがとう。明日、また学校でね」  「いなくていいの?」  「俺《おれ》たちで叩《たた》き出してやろうか?」  とブツブツ言う三人を送り出し、二人きりになると、泉はマユミと向かい合ってソファへ腰《こし》を降ろした。  「——それで?」  と泉が促《うなが》した。  「私ね、あなたのパパとは……そのォ……何つうのかな……」  「愛人だったんですか? そうでしょ?」  「う、うん。まあ、早く言や、そういうこと」  「で、パパはあなたに何と言ったんですか?」  泉は最初の戸《と》惑《まど》いから立ち直っていた。この女が本当に父の恋人だったとは信じられなかった。こんな少しイカレた女が、まさか!  一度ぐらい遊び半分で相手にしたことはあるのかもしれないが、泉のことを任せるような相手とは思えない。きっと父の死を知って、うまくいけばここへ居座れると思ったのではないか……。そうは問屋がおろさないわよ!  「うん……。そのねェ……」  マユミのほうはいっこうに煮《に》え切らない。あまり良く手入れしてあるとも思えない髪をいじくり回していたが、そのうち、  「あ、そうだ」  と、《か》傍《たわら》の布《ぬの》袋《ぶくろ》に手を突《つ》っ込《こ》んで、引っかき回すことしばし、やがて一通の手紙を取り出し、  「——これ、読んでみてよ」  封《ふう》筒《とう》の字を見て、泉ははっとした。父の字だ。見《み》間《ま》違《ちが》うはずはない。中の手紙には、こうあった。  〈マユミへ。私に万一のことがあった時のためにこれを書いておく。君はよく私の言うことを聞いてくれた。私が突《とつ》然《ぜん》フラリと立ち寄るまでは、電話一本手紙一つ書かず、じっと待っていてくれた。ずいぶん辛《つら》かっただろうが、それだからこそ私たちは今まで続いて来たのだ。  もし私が死ぬようなことがあったら——別に死にそうだというわけじゃないが、旅行することが多いから危険も多いわけだ——君は私のマンションで、娘の泉と一緒に暮《く》らしてほしい。泉はしっかりした、いい娘だが、人生の片側しか知らない。君を知ることで、物事の新しい見方を憶《おぼ》えるだろう。その時にはこの手紙を泉に見せてやってくれれば納得しよう。  君の幸福を祈《いの》る。 貴志〉  ——泉は、終業のベルをうわの空で聞いた。  「泉、帰らないの?」  いつも一《いつ》緒《しよ》に帰る、クラスメイトの和《かず》子《こ》に声をかけられて、はっと我に返る。  「——どう? 大《だい》丈《じよ》夫《うぶ》なの?」  教室を出ながら和子が心配そうに訊《き》いた。  「うん、大丈夫よ。そんないつまでもクヨクヨしてたって始まんないもの」  「そうよ。その調子よ」  とポンと肩《かた》を叩《たた》かれ、  「痛いなあ! 馬《ば》鹿《かぢ》力《から》!」  「何よ、ホネ!」  ホネ、とは〈骨〉で、おっとりと大《おお》柄《がら》な和子が、細身の泉をからかってそう叫《さけ》ぶのである。  「言ったな!」  「やるか!」  と、まあ本気ではむろんないのだが、にらみ合うところへ、昨夜の〈泉ファンクラブ〉の一人、哲夫が駆《か》けつけて来た。  「泉ちゃん! 大変だよ!」  「どうしたのよ!」  「何かね、校門をヤクザの一隊が塞《ふさ》いでるんだって。みんな裏門から帰れってさ」  「本当?」  「うん、先生たち、みんな総出で大《おお》騒《さわ》ぎさ。——どうする?」  「決まってるじゃないの」  と泉は言った。  「見に行こ」  「ね、泉、大《だい》丈《じよ》夫《うぶ》?」  と心配顔の和子へ、哲夫が、  「君は大丈夫さ」  「ちょっと! それどういう意味よ!」  怖《こわ》いもの見たさは現代っ子も同様で、正門を遠く望む窓や出入口には、生徒の頭が鈴《すず》なりになっていた。教師たちは声をからして、  「早く裏門から帰宅しなさい! 裏門へ行って! 早く帰れ!」  と段々声も荒《あら》くなるが、いっこうに効《き》き目《め》なし。泉は哲夫の奮《ふん》闘《とう》のおかげで、見物客の前へ出て、ゆっくり眺《なが》めることができた。  「何だ、四人しかいないじゃないの」  「でも何か迫《はく》力《りよく》あんじゃん」  泉はふと眉《まゆ》を寄せた。あの背の高い男——あれは昨日火《か》葬《そう》場《ば》で見かけた男ではないだろうか。そう言えば、遠くてはっきりとは分からないが、四人の向こうに見える車も、昨日の車と同じように見える。  「いったいあんなとこに突《つ》っ立って、何してるの?」  「さあね。先生たちも怖《こわ》がって近づかないみたいだよ」  「だらしない! それでも教育者かしら」  と和子が憤《ふん》慨《がい》する。  「ね、泉ちゃん、行こうよ」  と哲夫が言った。  「何かあったら危ないよ」  「裏門から? 私、いやよ」  「ええ?」  「遠回りだもの、面《めん》倒《どう》くさいわ」  「じゃ、どうするの?」  「正門から帰るわ」  平然と言って、泉は鞄《かばん》を手に、いつに変わらぬ足取りで正門へ向かって一人、歩き出した。哲夫も和子も、止めるのも忘れて、唖《あ》然《ぜん》と見送るばかり。ザワザワとしていた見物の生徒たちが、一《いつ》瞬《しゆん》の内に静まりかえった。  不気味な静《せい》寂《じやく》の中を、泉は正門へ近づいて行った。近くで見ると、あの長身の男が、昨日の男と同じだとはっきりする。私に用があるんだわ。何かしら?  さすがに、正門が近づくにつれ、泉の心臓は高鳴った。まさか機《き》関《かん》銃《じゆう》の一《いつ》斉《せい》射《しや》撃《げき》を浴びることはないだろうけど……。  「泉ちゃん! 戻《もど》っておいでよ!」  やっと我れに返った哲夫が呼んだ時には、もう泉は正門を出るところだった。  長身の男が、つと進み出て、泉の行く手を遮《さえぎ》った。泉はゴクリと唾《つば》を呑《の》んだ。ここで怯《おび》えてはいけない!——男が言った。  「星泉さんですね?」  いたって丁《てい》寧《ねい》な口調が、かえって薄《うす》気《き》味《み》悪い。  「はい、そうですけど……」  突《とつ》然《ぜん》、長身の男はピンと直立不動の姿勢をとった。残りの三人もはっと身を固くし、それにならう。泉は面くらった。  「お迎《むか》えに参りました!」  と長身の男が言うと、残る三人がさっと左右へ退いて、一人が車のドアを開けた。  「どうぞ、お乗りください!」  「この車に……?」  「はい」  泉は、思いもかけぬ成り行きに戸《と》惑《まど》ったが、この場は言われるようにするしかない、と判断した。いやだと言っても、四人の男相手では力ずくで放り込まれてしまうだろうし、それに今のところはいたって礼《れい》儀《ぎ》正しい。ともかく当って砕《くだ》けろ、だ。  泉は車へ乗り込んだ。  呆《ぼう》然《ぜん》と成り行きを見守っていた哲夫は、泉が車へ乗るのを見て仰《ぎよ》天《うてん》した。  「泉ちゃん」  と叫《さけ》んで駆《か》け出したが、正門の半分までも行かないうちに、車は走り去っていた。  「大変だ……」  と慌《あわ》てて校舎のほうへ駆け戻る。周平と智生の奴《やつ》に知らせるんだ! 他の生徒たちも大《おお》騒《さわ》ぎだった。  「泉が誘《ゆう》拐《かい》されたわ!」  「星さんがさらわれた!」  「ピストル突きつけられて、むりやり車へ……」  「手足もグルグル巻きに縛《しば》られてたわ!」  とだんだん話が大きくなって、教師たちの耳へ入った頃《ころ》には、すっかり泉は半殺しの目にあっていた。    外見も凄《すご》いが、乗ってみると、なおさら凄い車だった。シートは方々穴が開いて、気をつけないと、飛び出したスプリングで足を引っかきそうだ。時折、車のあちこちがミシミシ音をたてるし、時には不気味な振《しん》動《どう》が車体を揺《ゆ》さぶる。泉は、走っている途《と》中《ちゆう》で、車がバラバラになるんじゃないかと、気が気ではなかった。  後ろの席には泉を挟《はさ》んで、あの長身の男と、えらく貧弱な体つきの、度の強いメガネをかけた男。運転しているのは、ずんぐり太った男で、時々、  「畜《ちく》生《しよう》、このブレーキの野郎……」  とゾッとするようなことを呟《つぶや》いている。助手席にいるのは、ちょっと頓《とん》狂《きよう》な顔つきの小男で、しきりとガムをかんでいるのだが、歯にくっつくらしく、絶えず口の中へ指を突《つ》っ込《こ》んで苦戦している。みんな、年《と》齢《し》の頃《ころ》はだいたい四十歳《さい》ぐらい。ただ一人、長身の男だけはもう五十歳を越《こ》えているように見えた。それにしても、この四人、いったい何のために自分を連れて行くのか。どこへ?——泉は見当もつかないだけに、かえって恐《きよ》怖《うふ》感《かん》もなく、どうにでもなれ、と開き直ってペちゃんこのシートへ身を任せた。  車は新《しん》宿《じゆく》の街へ入って来ている。泉は、これならそう心配することもなさそうだわ、と思った。人気のない山の中へでも連れて行かれたら心配だが、新宿なら人目もある。そう妙《みよう》な真《ま》似《ね》をされることもないだろう……。  何やら薄《うす》汚《よご》れた古いビルの立ち並《なら》ぶ、ごみごみとした一角へ車は入って行った。停《と》まったのは、三階建ての貸ビルの前で——ビルというのが恥《は》ずかしいような代物だが——ともかく、泉は車を降りた。  「どうぞ」  長身の男に案内され、ビルの中へ入る。入口にも看板らしき板きれが一枚打ちつけてあるものの、書いてある字はかすれて消えてしまっていた。——ここ、空ビルじゃないのかしら、と泉は思った。一階、二階とも人気がなく、閉め切ったドアには板が打ちつけてあるのだ。おまけに階段は電球一つなく、えらく暗い。  「足下にお気をつけて」  先に立って行く長身の男がいちいち注意してくれる。  「そこは一段抜《ぬ》けてますから……そこは端《はし》が欠けてて……そこはグラグラしてます……そこは……」  そのうち、そこは死体が転がってますとでも言われるかもしれない、と思った。長身の男はともかく、残る三人は完全には憶《おぼ》えていられないらしく、ときどき、  「痛い!」  「おい、気をつけろよ!」  といった声が後ろから聞こえて来る。  ともかく、やっと三階へ辿《たど》り着くと、そこはさすがに《は》裸《だか》電球が灯《とも》っていて、半分ガラス張りになったドアには、〈目《め》高《だか》組・事務所〉と消えかかってはいるが、何とか読めないこともない字で書いてある。  「目高組?」  聞いたことないな、と思っていると、長身の男がドアを開けて、  「どうぞ中へ」  と脇《わき》へ寄った。何やら私がお客様という感じらしいわ、と泉は思った。  部《へ》屋《や》はせいぜい六《ろく》畳《じよ》間《うま》程度の広さのオフィスで、真ん中のテーブルを囲って五つの椅《い》子《す》が置いてある。テーブルにしみだらけの白い布がかかっていて、日本酒の一《いつ》升《しよう》びんが一本、《か》傍《たわら》に大分塗《ぬ》りのはげ落ちた朱《しゆ》塗《ぬ》りの《さ》盃《かずき》が重ねてある。どうやら何かのお祝いらしい。  ふと正面の壁《かべ》を見た泉は、思わず、  「エッ!」  と声を上げた。  壁に貼《は》られた白い紙に黒々と、  〈祝・四代目組長・星《ヽ》泉《ヽ》親《ヽ》分《ヽ》〉  と書かれているのだ。 3  「——ま、そんなわけでして」  長身の男が言った。  「親分は亡くなる際、ご自分の甥《おい》ごさんを跡《あと》継《つ》ぎに、と指名なさったんでございます」  「それがパパだったわけ……」  「はい。お捜《さが》しして、やっと見つけた時は事故で亡くなられたあとで……」  「でも——」  「実は親分は、その方が跡《あと》目《め》を継《つ》げない場合には、その血《ヽ》縁《ヽ》の方を、と言い遺《のこ》されたんで。で、いろいろと調べさせていただきましたんですが、お父様にはご兄弟もなく——」  「叔《お》母《ば》がいます」  「ですが、もう嫁《とつ》がれた方ですので……。そこで、お嬢《じよう》さんに、目高組、四代目組長の座を継いでいただこう、とこういうことになりまして……」  泉は、正面に坐《すわ》って、これが果たして現実なのかしら、と半信半疑だった。そりゃ、確かにパパに一番近い血《けつ》縁《えん》っていえば私だけど、だからって、こんな無茶な!  「ええ、ここに並《なら》んでおります四人が、今の目高組の組員全部でございます」  と変わった顔の小男を指して、  「この男は健《けん》次《じ》。それから、隣《となり》が英《ひで》樹《き》」  と、メガネをかけた貧弱な男を指す。  「その隣の太めのが武《たけし》でございまして、私は副組長を勤めさせていただいております佐《さ》久《く》間《ま》と申します」  「はあ……」  と頷《うなず》く泉に向かって、四人、一《いつ》斉《せい》に、  「親分! よろしくお願い申し上げます!」  と四部合唱と来た。  「さあ、酒を……」  「《さ》盃《かずき》をとれ」  「さ、早く注《つ》いで」  とやり出すのを見て、やっと泉は我に返った。どうやらこの四人、本《ヽ》気《ヽ》らしい。実際、この時まで、泉はこれが本当の話だとは思っていなかったのだ。それはそうだろう。四人しかいない、ショボクレた組とはいえ、ヤクザの組長に、十七歳の女の子が推されるなんて! これは悪い友達のいたずらか、でなければ、よくあるテレビのドッキリカメラに違いないと思っていた。しかし、いくら室内を見回しても、隠《かく》しカメラのある様子もないし、テレビ局の人間が、  「ハイ、ドッキリカメラです!」  とパネルを持って現われて来るでもないのだ。  ——つまり、これは事実ありのままの本当の現実で、今まさに泉は〈かための盃〉というやつをくみ交わそうとしているのである。大変だ! このままじゃ、本当に組長にさせられちゃう! 何か言わなくちゃ。何とかしなくっちゃ……。  泉は席から立ち上がった。  「待ってください! 待って! ちょっと待って!」  四人の男たちが、ピタリと動きを止めて、泉のほうに注目する。  「あ、あの——つまりですね——」  泉は立ち上がったものの、何と言っていいのか見当もつかない。  「ねえ、皆《みな》さん、こんなの無茶ですよ! 私——私は十七歳なんですよ。十七歳の女の子で、まだ高校生なんです。こんな女の子に、組長なんてつとまるわけないじゃありませんか!」  佐久間は平然として、  「年《ねん》齢《れい》、性別の制限はありませんよ」  「いくらそうだからって……。運転免《めん》許《きよ》だって十八歳ですよ。たかが車を運転するだけでも。とても組長になって皆さんを統率するなんてこと、できっこありませんよ!」  「何事も最初があるもんです。経験を積めばいいんですよ」  といっこうにこたえない。  「でも——でも——ああ、困っちゃうなあ!」  泉は手をにぎりこぶしにして頭をガンガン叩《たた》いた。ジリジリしている時の癖《くせ》なのだ。  「ねえ、どうして私でなきゃいけないんですか? あなた方の中の一人がなればいいじゃないですか。あの副組長さん——ええと——」  「佐久間です」  「ああ、佐久間さん、あなたが組長に昇格すればいいじゃありませんか!」  「亡くなった親分は、血縁の方と遺言されました」  「それにしたって、まさか、こんな女の子だとご存じなら、そんなことおっしゃらなかったでしょ」  「ともかくご遺言は絶対です」  「そんな……。できません、私! そんなこと!」  佐久間は、真《しん》剣《けん》な表情で、泉に向かうと、  「お願いします。ぜひ、お引き受けください! でないと、この組は解散しなければなりません。——今でこそ、たった四人に減ってしまいましたが、私が組員になった頃《ころ》は、何百人もの若い者をかかえて、そりゃあ、たいした勢いでございました。それが……亡くなった親分は、ともかく義《ぎき》侠《よう》心《しん》に富んだお方で、いくら損な取引と分かっていても、義理ある方の頼《たの》みはけっしてお断わりにならねえ。他の組が困っている時は真っ先に援《えん》助《じよ》されるって具合で、台所のほうは火の車でした。私なんぞはそんな親分に心底ほれちまったんでございますが、今の若い奴《やつ》らにゃあ、そんな心根なぞどうだっていいようで。金にならねえ、出世できねえ、と一人二人と組を抜けて行きました。しまいにゃこの四人だけになっちまったようなわけで……。そりゃ、こんな冴《さ》えねえ組の組長じゃ顔役ぶるわけにもいかねえし、お嬢さんも面白くなかろうとは存じますが、目高組は腐《くさ》っても鯛《たい》、そんじょそこらの、白昼からドンパチやって素《しろ》人《うと》衆《しゆう》に迷《めい》惑《わく》をかけるような連中とは違《ちが》います。どうかその誇《ヽ》り《ヽ》をお認めになって、組長をお引き受けください」  と頭を下げる。  泉は困ってしまった。佐久間というこの男、なかなか立派である。押《お》し出しもいいが、一本芯《しん》が通っていて、言うことも心に残る。しかし、しかしである……。  「ねえ、とてもお話はよく分かります。目高組って、私、聞いたことないけど、大きい小さいはともかく、立派な伝統があるんですね。——でも、やっぱり、だめです。私は学生で、することも、しなきゃならないこともいっぱいあるし、それに何よりも、こういう世界には、とても入れません。好きとか嫌《きら》いとかじゃなくて、まるで違う世界ですもの。——できません」  重苦しい沈《ちん》黙《もく》が、しばし続いた。佐久間がゆっくりと口を開いた。  「どうしても、お引き受けいただけませんか」  泉もきっぱりと答えた。  「できません」  佐久間は目を伏《ふ》せた。  「——分かりました」  他の三人が顔を見合わす。  「兄《あに》貴《き》、そんな——」  と小男の健次が口を出しかけると、  「うるせえ! くどくど言うな!」  と口を封じ、  「親分の選びなすった方が辞退なすったんだ。目高組は今日限り解散する」  泉は、三人の男たちが、まるで生けるしかばねといった様子で、ガックリうつむいてしまうのを見て、何だか胸の痛むのを感じた。そんなことを言ったって……だいたいが無茶なのよ、私のせいじゃないわ。  佐久間はさすがに冷静で、  「お嬢さん、どうもとんだお手間を取らせました。どうかご勘《かん》弁《べん》を」  「いいえ……」  「車でお宅まで送らせますから」  「いえ、一人で帰れます。大丈夫です」  と慌《あわ》てて断わる。  「そうですか……。じゃ下までお送りしましょう。階段が危ないですから」  佐久間は、下りの時も、いちいち泉に細かく注意をしながら、降りて行った。そして、ビルの出口に立って、泉の姿が見えなくなるまで、じっと見送っていた。  さて、泉のほうはどうにも後ろめたい。向こうが勝手なんだと分かってはいるものの、あの四人が悲《ひ》嘆《たん》にくれる様子には心を打たれたのである。  「だからって……私が親分? 冗《じよ》談《うだん》じゃないわよ!」  もう忘れてしまおう、と思った。とんだハプニングの一《ひと》幕《まく》だわ。  「あの人たち、これからどうするんだろう?」  みんなヤクザ稼《かぎ》業《よう》から足を洗って、普通の仕事に就《つ》くだろう。それならかえって人助けをしたのかもしれない。  泉は、ハタと立ち止まった。  「まさか!」  そんなことはないだろうけど……。泉の目に、四人の男が全員、亡き親分のあとを追って自害する姿が映ったのだ。  「でも……そんなの勝手だわ! 私のせいじゃない!」  口に出して言うものだから、通りがかりの人がびっくりして振《ふ》り向いている。  「知ったこっちゃないわ!」  さっさと歩き出し、十歩進んで足が止まった。  それから、泉は踵《きびす》を返して、道を戻《もど》って行った。  ビルへ着くと、階段を上って行く。案内役がないので一歩一歩慎《しん》重《ちよう》に……。それでも二、三度ヒヤリとしたが、何とか三階へ辿《たど》り着いた。佐久間の声が聞こえて来る。  「——いいか、お前たちももう若くはねえ。だがな、今からもう他の仕事へ就けないほどの年《と》齢《し》でもない。堅《かた》気《ぎ》の仕事ってのもな、慣れりゃなかなかいいもんだぞ」  「兄《あに》貴《き》は……」  「俺《おれ》はちゃんと考えてるさ。心配するな」  佐久間は明るい調子で言うと、  「さ、もう行けよ。これで見おさめってわけでもないんだからな」  「へえ……」  「どうもお世話に……」  「そんな挨《あい》拶《さつ》はよせ!」  と佐久間が叱《しか》った。  「また明日にでも連《れん》絡《らく》するからな」  泉は慌《あわ》てて暗がりへ身を隠《かく》した。何しろ《は》裸《だか》電球が一個点《つ》いているだけだから、だいたいが薄暗いのである。ドアがガタピシ音をたてながら開いて、佐久間以外の三人が元気のない足取りで姿を見せた。ヨロヨロと階段を降りて行く足音に混じって、時折ドタドタッと音がして、  「痛え!」  「気をつけろよ!」  といった声が響《ひび》いて来る。  泉は、そろそろとドアへ近づいた。——半分開いたままだ。中を覗《のぞ》いて、ギョッとした。佐久間が、死んだ前親分の写真を前に、じっと身じろぎもせず椅《い》子《す》に坐《すわ》っている。そして、膝《ひざ》に置いた手には、黒く鈍《にぶ》い光を放つ拳《けん》銃《じゆう》が握《にぎ》られているのだ。その重量感、その質感から見て、MG(モデル・ガン)とは思えない。  見ていると、佐久間はやおら拳銃を持ち上げ、こめかみに銃口を……。  「待って!」  泉は叫《さけ》んで部《へ》屋《や》へ飛び込《こ》んだ。  「お嬢《じよう》さん! いつの間に」  「死ぬことはないじゃありませんか! どうして新しい人生を歩もうとしないんですか?」  佐久間は寂《さび》しげに微笑《ほほえ》んだ。  「お嬢さん——お気持ちは本当に嬉《うれ》しいですよ。ですが私は親分のあとを追わせていただきます」  「でも——」  「私は親分のご遺志にそむいて、目高組を解散させました。ですからこうしないと男が立たないんでございます」  「じゃ私のせいで——」  「いや、そんなふうにおとりになっちゃいけません!」  佐久間は強い口調で打ち消して、  「私にだって、お嬢《じよう》さんがお断わりになるのが当り前だということは、よく分かります。私どもの世界は素《しろ》人《うと》衆《しゆう》の世界から見れば、乱暴で非道で汚《きたな》いもんでしょうから。——ですからお嬢さんが責任を感じなさる必要はまったくないんで。さあ、もうお行きなさい。そして何もかも忘れておしまいになることです……」  泉は、佐久間の口調に、どこか死んだ父と似た暖かいものを聞き取ったような気がした。  「いやなに、正直のところ、これで私もホッとしてるんで。——まったく、副組長ってのは雑用係でしてね。いや、ほとほと疲《つか》れ果てましたよ。そろそろ年《と》齢《し》も年齢だし、ここらでゆっくり休みたかったところで……」  泉はこともなげな佐久間の言葉にじっと耳を傾《かたむ》けていたが、やがて真っすぐに佐久間の目を見つめて、  「私が組長にな《ヽ》っ《ヽ》た《ヽ》ら《ヽ》、佐久間さん、あなた副組長を続けてやってくれますか?」  「お嬢さん……無理しちゃいけません。私は好きで死んで行くだけなんです。私を死なせないためにそうおっしゃるんだったら——」  「いいえ」  泉は怒《おこ》ったように言った。  「私、あなたに同情して言っているんじゃありません。組長をお引き受けする、と言ってるんです!」  泉は呆《あつ》気《け》にとられている佐久間を尻《しり》目《め》に、さっさと正面の席に着くと、  「佐久間さん!」  「は、はい」  「今帰って行った三人をすぐ呼び戻《もど》して来てください。——早く!」  「お嬢さん……」  「〈親《ヽ》分《ヽ》〉って呼んでください」  「親分——」  「早く呼んで来て! 命令ですよ!」  「分かりました!」  まるで十代の若者のような勢いで、佐久間は部屋を飛び出して行った。泉は、ホッと息をついた。そして独《ひと》り言《ごと》……。  「まあ、四人しかいない組なんて、どうせたいしてすることもないんだろうし……。これも人《ヽ》助《ヽ》け《ヽ》だわ」    「もし泉ちゃんの身に何かあったら」  と周平が凄《すご》んで、  「貴《き》様《さま》の両手両足、へし折ってやる!」  「そういじめるなよ」  すっかりしょげ返っているのは哲夫だ。  「暴力はいけないよ、周平君」  と智生がたしなめる。  「そんなことをすれば、君は泉さんをかどわかした連中と同類になり下がってしまうんだぞ」  「下がろうが上がろうがかまうもんか! 問題は泉ちゃんだ!」  周平が大声を出すので、喫《きつ》茶《さ》店《てん》の中の他の客がびっくりして静まり返った。  「周平君、大声を出しちゃいけないよ。他の客に迷《めい》惑《わく》じゃないか」  「へん、余計なお世話だ。お前、よくそう落ち着いていられるじゃないか。泉ちゃんのことが心配じゃねえのかよ」  「これは心外だね、僕《ぼく》だって胸をかきむしられる思いだよ。しかし今は冷静になることが必要だ。取り乱したって得るところはないからね」  「みんな僕がいけないんだ……。あの時、止めておけば……」  と哲夫がため息をつく。  「そうだとも! 目の前で泉ちゃんが誘《ゆう》拐《かい》されるのを見て、おめおめとよく戻《もど》って来れたよ」  「ま、ちょっと待ってくれよ」  と智生が手を上げて、  「その〈誘拐された〉って点に関しては、どうも腑《ふ》におちないところがあるんだけど……」  哲夫が智生を見て、  「というと?」  「つまりだね、一つは泉さん自《ヽ》身《ヽ》が、正門から出ると言って歩いて行ったこと。たしかそうだったんだね?」  「うん、そうだよ」  「泉さんは意志は強いが、けっして無《む》鉄《てつ》砲《ぽう》な人じゃない。ただ好奇心から、そんな真《ま》似《ね》をするだろうか?」  哲夫は考え込み、周平は顔をしかめてプイと横を向いた。周平は考えるほうは苦手なのである。目の前に誘拐犯人が現われたら、コテンパンにやっつけるだろうが……。  「ねえ哲夫君、君が見た感じでは、泉さんは無理やり車へ押《お》し込《こ》まれたのか、それとも自分で乗ったのか、どっちだい?」  「うん……そうだなあ……あせったもんだからよく憶《おぼ》えてないけど……たぶん、自分で車に乗ったと思うけどな」  「そうか。——するとこいつが誘拐なのかどうか、ちょっと微《びみ》妙《よう》になってくるな」  周平がけげんな顔で、  「どういうこったよ?」  「みんな泉さんがさらわれた、と大《おお》騒《さわ》ぎしてるがね、僕《ぼく》はまだそう断定はできないような気がするのさ」  「じゃ何か? 泉ちゃんが自分から、あんなヤクザの連中と一《いつ》緒《しよ》に車に乗ってったって言うのか?」  「そういきり立つなよ。君はすぐ興奮するからいけない。——哲夫君、警察のほうはどんな様子だい?」  「先生に聞いたところでは、やっぱり警察でも誘《ゆう》拐《かい》かどうか決めかねてるようだよ。身代金の請《せい》求《きゆう》とか何かがあればともかく……」  「そうだろうな」  智生は腕《うで》組《ぐ》みして考え込んだ。  「何だ何だ! のんびり議論ばっかりしてる場合かよ!」  周平がドンとテーブルを叩《たた》くと、コーヒーカップが受《う》け皿《ざら》から飛び上がった。  「何かするこたあないのか? 泉ちゃんが危ないかもしれねえんだぞ!」  「そんなこと言ったって、周平、僕たちにゃ手《て》掛《がか》り一つないんだぜ」  と哲夫が言うと、智生が静かに続けた。  「いや、一つある」  哲夫と周平が同時に、  「何だ?」  と叫《さけ》んだ。  「いや——手掛りと言えるかどうかは分からない。しかし——」  「早く言えよ! もったいぶるない!」  「泉さんのマンションへやって来た女さ」  哲夫がキョトンとした顔で、  「あの女がどうかしたの?」  「いや、別にそうじゃない。しかし、昨《ヽ》日《ヽ》の《ヽ》今《ヽ》日《ヽ》だぜ。ちょっと妙《みよう》だと思わないか」  「そうか……あの女か」  周平は途《と》端《たん》に目を輝《かがや》かせた。  「よし! 俺《おれ》が痛い目にあわせて——」  「だめだ、だめだ! 君はすぐそう来るんだから」  「じゃ、どうするってんだ?」  「ともかく、僕ら三人で、マンションへ行ってみようじゃないか」    「あら、あなた達、昨日の……」  ドアを開けたマユミが微笑《ほほえ》んだ。  「どうかしたの? あ、ちょうどよかったわ。入って」  智生、哲夫、周平の三人はゾロゾロと泉のマンションへ上がり込んだ。  「もう八時になるのにね、泉さんまだ帰らないのよね」  マユミが心配そうに、  「いつもこんなふうに遅《おそ》くなるのかしら?」  「この野《や》郎《ろう》! とぼけやがって!」  と飛び出しかけた周平を慌《あわ》てて押《おさ》えて、智生が言った。  「いや——いつもはちゃんと早く帰るんだ」  「そうなの。晩ご飯一《いつ》緒《しよ》に、と思って待ってんだけどね……。泉さんて、お魚好きかな」  「たぶん——好きだと思うよ」  「イカとタコはだめなんだ」  と哲夫が泉の好みに詳《くわ》しいところを得意気に披《ひ》露《ろう》する。マユミが笑って、  「じゃあ、私とお《ヽ》ん《ヽ》な《ヽ》じ《ヽ》だ!」  「ねえ——ええと、マユミさんだっけ?」  「うん、そうだよ」  「ちょっと訊《き》きたいことがあるんだけど……」  「私のこと?」  「う、うん。それもある」  「変な奴《やつ》だって思ってんだろうね。——あなた達、泉さんが好きなんだろう」  「ファンクラブさ」  「泉さん、可《か》愛《わい》いもんね。……利口そうだし、美人だし。私は小学校しか出てない。別にこれって取《と》り柄《え》もないよ。それが——よく分かんないけど、泉さんのお父さんに気に入られちゃってね。で、ここに住むように言われたのさ」  「泉さんのお父さんがそう言ったの?」  「うん」  「こいつ! いい加《か》減《げん》なこと言いやがって!」  周平が爆《ばく》発《はつ》した。他の二人を押《お》しのけると、マユミのTシャツの襟《えり》首《くび》をぐいとつかんで、  「貴《き》様《さま》! 泉さんをどこへやった!」  「な、何だよ! 何のことさ?」  「白ばっくれるな! 貴様が泉さんを誘《ゆう》拐《かい》させたんだろう!」  「何て言ったの? 誘拐?」  「そうさ! ヤクザの連中にさらわせたんだろう!」  マユミの顔から血の気が失せた。  「まさか!——おお、どうしよう!」  智生が進み出て、周平の手を離《はな》させると、  「ねえ、あなたは何か知ってるの? 泉さんを誰《だれ》が連れて行ったのか」  しかしマユミの耳には智生の言葉などまるで入らない様子で、  「ああ……どうしよう。……どうしよう」  と頭を抱《かか》えているばかり。  「どうなってんだ?」  と周平が戸《と》惑《まど》って言った。その時、玄《げん》関《かん》のドアがガチャンと音を立てて開いた。振《ふ》り向いた三人組が仰《ぎよ》天《うてん》して、  「泉ちゃん!」  泉がヨロヨロと部《へ》屋《や》へ入って来た。  「まあ、泉さん! 無事だったの!」  マユミが顔を輝《かがや》かせて飛び出した。  「ただ……いま」  何やら、妙《みよう》にもつれた口調で言うと、泉はドタッと玄関の上り口に坐《すわ》り込んだ。  「まあ、どうしたの。みんな心配して——」  「ん? なあに? 何かあったのォ?」  「泉さん!」  マユミが目を丸くして、  「あなた——酔《ヽ》っ《ヽ》ぱ《ヽ》ら《ヽ》っ《ヽ》て《ヽ》る《ヽ》の?」  三人組がびっくりして駆《か》けつけ、泉を抱《だ》き起こすようにして、部屋のソファへ。  「やあ、諸君! ご苦労!」  泉はリンゴみたいな真っ赤な顔に、トロンとした目で、いいご機《き》嫌《げん》である。  「泉ちゃん! どうしたのさ?」  哲夫が言った。  「やつらに酒を飲まされたのかい?」  「え?——お酒? ああ、こいつあね、〈かための《さ》盃《かずき》〉ちゅうやつなのよ」  「何だって?」  「四回も飲んだらもう——すっかりいい気持ち。四回? 五回かな?——いやたしか手《て》下《した》は四人だから五回だわ」  「手下?」  「こらあ!」  突《とつ》然《ぜん》、スックと立ち上がると、泉は大声を上げた。  「親分に対して、その態度は何だ!」  「お、親分?」  「へへ……。いい気分じゃのォ!」  と、またソファへドテッと坐り込んだかと思うと、今度は見る間に高いびきをかき始める。  「——どうなってんの?」  哲夫が頭をかくと、智生が肩《かた》をすくめて、  「ま、少なくとも誘《ゆう》拐《かい》されたわけじゃなさそうだね。今日は引き上げよう。うちの父親の例から推して、こういう状態になったら、ほぼ十二時間は眠《ねむ》り続けるだろうからね」  「先生や警察にはどうする?」  と哲夫が言うと、智生はニヤリとして、  「放っとこうよ。ぬるま湯につかってる教師たちには、たまには眠《ねむ》れぬ夜もあったほうがいいからね」 4  「大《だい》丈《じよ》夫《うぶ》?」  マユミが、泉の前に大きなモーニングカップを置きながら言った。黒々としたコーヒーがなみなみと注《つ》がれている。  「ん……ああ、ごめんなさい……」  泉はやっとの思いでそう言うと、顔をしかめて、  「ああ、頭が砕《くだ》けそうだわ」  「二日《ふつか》酔《よ》いってそんなものよ。さ、グッとコーヒーを飲んで」  「ええ……」  朝の十時だった。ベッドから這《は》い出すように出て来て、学校へ電話をし、  「頭痛がひどいので休みます」  と言うのが精《せい》一《いつ》杯《ぱい》。教師のほうがあれこれ興奮して訊《き》いて来るのを無視して受話器を置いた。相手の声が頭の中を錐《きり》で突《つ》いて回るように響《ひび》くのだ。  「まさか、二日酔いですとも言えないじゃない……」  マユミが何一つわけも訊こうとせず、そっとしておいてくれるのが、ありがたかった。冷たいタオルを額へ当ててくれたり、ジュースを作ってくれたり。——泉にしてみれば、とんだ醜《しゆう》態《たい》だが、どうやらマユミのほうは酔っぱらいなど珍《めずら》しくもないようで、せっせと掃《そう》除《じ》や洗《せん》濯《たく》をしている。  不思議な女《ひと》だわ。頭痛の嵐《あらし》の中で、泉はぼんやりと考えた。パパが私とこの人を一《いつ》緒《しよ》に住むように言ったのは、いったいどういうつもりだったんだろう? 悪い人ではないらしいけれど、およそ教養があるとは見えないし、泉の話相手にもなりそうにない。家事はよくやってくれる。それでも泉のやり方とは、やはりだいぶ違《ちが》うので、見ているとついいらいらして自分でやりたくなってくるが、そこはぐっとこらえている。共同生活のむずかしいところだ。  共同生活? それにしてもこの生活が、いつまでも続くのだろうか。いかに父親の恋《こい》人《びと》だったとはいえ、何年もこのまま続けられる自信は、泉にはなかった。それに、泉とマユミはどういう関係になるのか。友達? 親類でもないし、母《おや》娘《こ》(!)でもない。叔《お》母《ば》さんでも訪ねて来たら、彼《かの》女《じよ》のことを何と言って説明しようか?  電話が鳴った。ベルの音が頭へ突《つ》き刺《さ》さるようだ。  「ああ、やめてよ……。やんなっちゃうなあ……」  泉が食堂の椅《い》子《す》から立ち上がるより早く、マユミが、洗《せん》濯《たく》物《もの》を干していたベランダから飛んで来て、電話に出た。  「はい、星ですけど……。え? いいえ私は違《ちが》うわよ。ちょっと待って」  マユミは泉のほうへ受話器を上げて見せた。泉はソロソロと足を運んで、受話器を受け取ると、どうか相手が大声を出す人でないようにと祈《いの》りながら、恐《おそ》る恐る、  「もしもし……」  と囁《ささや》いた。自分の声までが頭にガンガン響《ひび》くのだ。  「親分、おはようございます」  落ち着いた佐久間の声が聞こえて来た。  「あ、佐久間さん。おはよう」  「さっそくですが、今日は挨《あい》拶《さつ》に回りたいと思いますので」  「え?」  「今から車でお迎《むか》えに参ります」  「わ、わかりました」  「それでは」  ——やれやれ。顔見せ、ってやつかな。それにしても、たまたま学校を休んだからいいようなものの、学校へ行ってたら、どうするつもりだったんだろう? 校門に車を横づけにでもされたら、また大《おお》騒《さわ》ぎだ。  でも挨拶回りというと……他の親分たちのところへ顔を出すのだろうか。泉は思わず身《み》震《ぶる》いした。こっちは仁義の切り方だって知らないのに。でもまさか今時、  「お控《ひか》えなすって」  とはやらないんだろうけど。名《めい》刺《し》の交《こう》換《かん》ぐらいかな。でも名刺だって持っちゃいない。〈目高組組長・星泉〉か。悪くないかもね。  「あ、迎えに来るって言ってたっけ。仕度しなきゃ」  少し緊《きん》張《ちよう》したせいか、頭痛がやや柔《やわ》らいだようだ。寝《しん》室《しつ》へ行き、セーラー服に着《き》替《が》えていると、玄《げん》関《かん》のチャイムが鳴って、マユミが何やら応対に出ているのが聞こえた。こんな時間はたいていセールスマンだ。  「泉さん。お客様よ」  「誰《だれ》かしら?」  「デカさんよ」  「デカ?」  「刑《けい》事《じ》さん」  警察? ヤクザのあとが警察とはね。これで私立探《たん》偵《てい》と大《だい》富《ふ》豪《ごう》がいれば、ハードボイルドが一編できるところだわ。  きっと昨日の騒ぎのことだ。でも何と説明しよう? まさか、  「目高組四代目組長の就任式で……」  とも言えないじゃないの。人《ひと》違《ちが》い。そうだ、人違いだったんで、すぐ帰してくれたって、そう言おう。学校や警察で大騒ぎしているとは全然知らなくって。すみませんでした。そう言えば納得するだろう。  ブラシで急いで髪《かみ》をとかして部《へ》屋《や》へ行くと、ボ《ヽ》ロ《ヽ》き《ヽ》れ《ヽ》とモ《ヽ》ッ《ヽ》プ《ヽ》がソファに坐《すわ》っていた。いや、もちろん文字通りにとってもらっては困るのだが、しわくちゃのレインコートを着たその男は、今ベッドから這《は》い出《だ》したばかり、といった顔つきで、髪はボサボサ、トロンとした目、不精ひげで顔の下半分は薄黒くなっている。四十歳《さい》前後だろうか。刑事というより浮《ふ》浪《ろう》者《しや》に近い感じである。  「あの……」  と泉が声をかけると、ヒョイと立ち上がって、  「あ、失礼しました。泉星さんですね?」  「星泉です」  「あ、そうだ、間《ま》違《ちが》えた。いや、失礼。よく名前を忘れるもんで……。突《とつ》然《ぜん》お邪《じや》魔《ま》して申し訳ないです。学校のほうへ電話したら、お休みってことだったので……」  「ええ、ちょっと頭痛で——」  「そりゃいけない。すぐ失礼しますから」  「あの、昨日の件でしたら、何でもなかったんです。ただの人《ひと》違《ちが》いで。ご迷《めい》惑《わく》をおかけしました」  と早口にまくしたてて、ペコンと頭を下げる。相手は狐《きつね》につままれたような顔をして、  「昨日の件って、何のことです?」  「え?」  今度は泉のほうが面くらう番だった。  「じゃ、その件でいらしたんじゃないんですか?」  「どうもよく分からないですな。——ま、ともかく自分のことを説明しますと、私、S署の部長刑事の黒《くろ》木《き》と申します」  「S署……」  泉は思い当たって、  「父の件ですか? 父が死んだ事故の……」  「そう、そうなんです。お父さんは大変お気の毒でした」  「どうも。——でもいったいあのことで、何のご用でしょう? たしか、全部すんだように伺《うかが》いましたけど。保険や賠《ばい》償《しよう》の件は父の頼《たの》んでいた弁護士さんにお願いしてありますし」  「はあ。それは存じてます。正確に言うと事故そのものじゃなくて、お父さんについて伺いたいんですがね」  「父のこと?——何でしょう、刑事部長さん?」  「部長刑事です。——いやよく一般の方は混同なさるが、刑事部長なんて上も上、警視庁なら警視総《そう》監《かん》の次に偉い警視監というんですよ。部長刑事は、職名でいやあただの巡《じゆ》査《んさ》部長でね。ひっくり返ると月とスッポンの違いなんです」  「はあ……」  一つ勉強にはなったが、それにしても妙《みよう》な刑事である。子供の自分を相手に、まるで大人に対するような丁《てい》寧《ねい》な口をきく。いったい父について、何を訊《き》こうというのだろう。  「こんな薄《うす》汚《ぎたな》い格好で申《もう》し訳《わけ》ないですね。別にコロンボを気取ってるわけじゃないんですが、昨夜、徹《てつ》夜《や》の張《は》り込《こ》みだったもので」  「それはどうも……」  「ええと、実はですね、お父さんのことで二、三……」  「どういうことですか?」  「お父さんは貿易会社の営業部長をしていらしたんですね」  「はい」  「よく外国へも行かれた」  「ええ、年中でした」  「帰国されると、いつも真直ぐここへ帰っていましたか?」  「ええ。——そうだと思います」  「空港へ出迎えたことは?」  「ほとんどありません。だいたい、いつ帰るかも、あらかじめ知らせて来ないことが多くて……」  「突《とつ》然《ぜん》帰っていらしたんですね?」  「そうです」  「すると——もしお父さんが空港へ着いて、どこかへ寄ってから帰宅しても、あなたには分からなかったわけだ」  「そうですね……」  「なるほど、そうか」  と黒木という刑事は一人で頷《うなず》くと、  「お父さんはこう……何か荷物を持って帰って来ませんでしたか? 小さな包みのようなものでも」  「さあ……。よく分かりませんけど、私へはいつもおみやげを買って来てくれました。それ以外はなかったと思います」  「なぜそう思うんです?」  「なぜって……トランクやスーツケースは、いつも私が開けて、中の物を片づけていたんですもの。下着やワイシャツを洗《せん》濯《たく》かごへ入れたり、カミソリを洗面所の棚《たな》へ戻《もど》したり……。服のポケットまでは知りませんけど」  「なるほど、よく分かります。いや、しっかりしたお嬢《じよう》さんだ」  「あの、いったい何を調べていらっしゃるんですか?」  「いや、たいしたことじゃありませんよ」  さりげない口調だったが、泉の質問に答える気のないことははっきりしていた。  「もう一つ伺いたいんですが……」  「何でしょう?」  「いや、これはまあ、あまり真《しん》剣《けん》に受け取ってもらうと困るんですがね」  泉は探るように、捉《とら》えどころのない黒木刑事の顔を見た。そんなふうに言われると、ますます気になる。  「お父さんは事故に遭《あ》われる前に、何かこう——身《ヽ》の《ヽ》危《ヽ》険《ヽ》を感じているようなことをおっしゃったことはありませんか?」  泉はじっと黒木の言葉を頭の中でくり返した。  「——それはどういう意味ですか?」  黒木は両手を広げて、  「ただ、そのとおりの意味ですよ。お父さんが、そういうことを口に——」  「父は、殺《ヽ》さ《ヽ》れ《ヽ》た《ヽ》とおっしゃるんですか?」  「いや、そう早《はや》呑《の》み込《こ》みされちゃ困ります。だから申し上げたでしょう。真《しん》剣《けん》に取られちゃ困る、とね」  「でも——」  「いやいや」  と黒木は泉を制して、  「事故の件はもう片がついています。今さらむし返そうというんじゃありませんよ。それに轢《ひ》いたトレーラーだって分かってるわけだし。そうでしょう?」  「ええ……」  「いや、どうも失礼しました」  と黒木は立ち上がった。  「頭痛のほうは大丈夫ですか?」  「ええ、たいしたことはありません」  「きっと風《か》邪《ぜ》でしょう」  黒木は玄《げん》関《かん》で靴《くつ》をはきながら——泥《どろ》だらけのひどい靴だ——言った。  「今は、照れば暑いし、曇《くも》れば寒い。じゃ、お邪《じや》魔《ま》しました」  と行きかけて、ふと、  「——あの、さっきいらした女の方はどなたですか?」  「え? ああ——あの人は——ちょっと知ってる人なんです。手伝いに来ていただいてて……」  「そうですか」  黒木は呟《つぶや》くような声で、  「たしかどこかで……。いや、失礼しました」  閉じたドアを、泉はじっと見つめていた。いつの間にか二《ふつ》日《か》酔《よ》いが消し飛んでいる。  父の死に何か疑問があったのだろうか? でなければ、なぜ刑事が来るのだろう? 泉は、ふと思った。マユミが持っていた父の手紙……。  (もし私が死ぬようなことがあったら……)  あれは父の〈死の予感〉だったのだろうか? それを持っていたマユミを、あの刑事は知っているらしい。  泉が、玄《げん》関《かん》の上がり口に立ったまま、考え込んでいると、突《とつ》然《ぜん》、目の前でドアが勢いよく開いた。  「親分! お迎《むか》えに参りました!」    「どこへ行くの?」  泉は助手席に坐《すわ》っていた。今日は佐久間がこのオンボロ車を運転している。  「浜《はま》口《ぐち》物産です」  「浜口……。何となく聞いたことがあるわ」  「貿易会社としては大手のうちに入りますよ」  「ああ、パパの電話メモで見たんだわ」  「そうだった。お父さんは貿易会社にお勤めだったんですね」  「ええ。でもその浜口物産へ何の用で?」  「浜口社長に面会するんでさ」  「その社長さんが何か?」  「この辺の縄《なわ》張《ば》り全部を取りしきっていなさるんで」  「貿易会社の社長さんが?」  「今はみんな堅《かた》気《ぎ》の仕事を持っていましてね。表向きはどの組長も〇〇会社社長ですよ」  「へえ」  車は新宿の超《ちよ》高《うこ》層《うそう》ビルの谷間へ入って行った。そして五十階建のその一つの前に停《と》まると、佐久間は先に降りて車の前をぐるっと回り、ドアを開けて泉を降ろした。運転手付きって感じで、なかなかいい気分である。佐久間が車を地下の駐《ちゆう》車《しや》場《じよう》へ入れている間、泉はビル前の広場をぶらぶら歩きながら、五十階の威《い》容《よう》を見上げたり、忙《いそが》しく行き交うビジネスマンや事務服姿の女子社員たちを眺《なが》めていた。  こんなところにいると、何だか自分がずいぶん場《ば》違《ちが》いな存在に思えて来る。それはたしかにそのとおりで、平日の昼間——もう十一時半だ——に、セーラー服の女子高生がそんなところにいるのがおかしいのだ。通りすがりのサラリーマンも、チラッと泉のほうを横目で見て行く。だんだんきまりが悪くなって来て、早く佐久間が来ないかと、ジリジリし始める。  「すみませんでした」  佐久間が急ぎ足でやって来て、  「何しろ立《ヽ》派《ヽ》な《ヽ》車でしょう。処分するかわりに、ここへ置き去りにするんじゃないかって駐車場の係が心配しましてね」  「まあ」  と泉が笑った。  「最近はクラシックカーが流行なんだって言ってやればいいのに」  ツルツルに磨《みが》き上げられた床《ゆか》、優に三階分ぐらいまでぶち抜《ぬ》いた一階のロビーは、まるでスケートリンクみたいだった。二人はずらりと八台のエレベーターの並《なら》んでいるところへやって来た。  「ええと、これが特急、こっちが各駅停車……。電車みたいね」  「特急で停《と》まるはずですよ。二十五階だ」  「定期を見せなくてもいいのかしら」  いたって真《ま》面《じ》目《め》な顔で、泉は言った。  アッという間に二十五階に着いた。エレベーターを降りると、まるで裁判官でも坐《すわ》るのかと思うような広々とした受付のデスクが目の前にあって、マネキン人形みたいな受付嬢が、機械的な笑顔を見せている。およそ崩《くず》れることのない笑顔なので、《し》瞬《ゆん》間《かん》接《せつ》着《ちや》剤《くざい》でも使って固めたのかと思うほどだ。  二人が近づいて行くと、受付嬢の目が素《す》早《ばや》く二人の風体を値《ヽ》踏《ヽ》み《ヽ》した。くたびれた黒の背広の中年男とセーラー服の女学生。どう見てもお得意様には見えなかったに違いない。  「いらっしゃいませ」  という言葉は、かなり冷ややかだった。  「社長さんにお目にかかりたいんですがね」  「どちら様でいらっしゃいますか?」  「目高組の佐久間と申しますが」  「メダカ……?」  「目高組の佐久間がご挨《あい》拶《さつ》に伺《うかが》ったと……」  「お約《やく》束《そく》は?」  「いや、してないんですが」  「お約束がありませんと、ご面会は難しいかと存じますが……。秘書室へ聞いてみますのでお待ちください」  まるで叱《しか》られているようで、泉はムッとしたが、佐久間のほうは慣れっこなのか、平然としている。受付嬢は手元の電話で問い合わせてから、  「時間が空きましたらお呼びしますので、そちらでお待ちください」  と、廊《ろう》下《か》に並《なら》んだソファを手で示した。  「——いつもこうなの?」  「ええ。だいぶ待たされる覚《かく》悟《ご》をしてませんとね。何しろ向こうは大ボスで、こっちはたった組員四人の組なんですから」  泉は肩《かた》をすくめて、ソファへ腰《こし》を降ろした。最初の十五分くらいはどうということもなかった。そのうち、十二時のチャイムが鳴り、昼食へくり出す社員たちでエレベーター前は大混雑。それが終わると、しばしあたりは閑《かん》散《さん》とする。——泉はチラチラと時計を見た。十二時半を回って、食事を終えた社員たちが三人、四人とグループで戻《もど》って来るにつれて、自分もお腹《なか》が空いて来たのだ。そういえば朝は二《ふつ》日《か》酔《よ》いでコーヒー一杯。食事どころではなかったのだから当然だ。  一時になって、始業のチャイムが鳴る頃《ころ》には、お腹《なか》がグルグルいい始めた。佐久間は相変わらずじっと正面を見すえて身動きもしない。名ばかりとはいえ組《ヽ》長《ヽ》だ。ここでへばっては、と泉も平気な顔をしてみたものの、空腹のほうは容《よう》赦《しや》なく進行する。いったいいつまで待たせるんだろう?  一時半になって、さすがに佐久間も席を立ち、受付嬢に訊《き》きに行ったが、あっさり、  「社長はまだ時間が空きませんので、お待ちください」  といわれて戻《もど》って来た。  「どうなっちゃってるの?」  「申《もう》し訳《わけ》ありません」  「あなたのせいじゃないわよ。でも、ずいぶん失敬ね」  何しろ受付の上の大時計と受付嬢の顔をいくらあてつけがましくにらんでも、向こうはてんで眼中にない感じなのである。  「社長室へどうぞ」  と言われたのは一時五十分。泉はお腹が空きすぎて気持ち悪くなるほどだったが、それでも何とか平静を装《よそお》って、社長室への廊《ろう》下《か》を歩いて行った。  大《おお》仰《ぎよう》な両開きの扉《とびら》が廊下の突《つ》き当《あ》たりにデンと構えていて、その前に、制服のガードマンが二人、門柱のように突っ立っている。佐久間が用件を告げると一人のほうが中へ入り、ここでも待つこと五分。ようやく中へ二人は足を踏《ふ》み入れた。——が、そこは社長室ではなかった。社長室へのドアはその部《へ》屋《や》の奥《おく》の、ガラス張りの仕切りの向こうにあるので、部屋には、中年の女性秘書がデスクに根を生やしたように居《い》坐《すわ》っていた。  「目高組の佐久間ですが……」  「あちらで順番をお待ちください」  指さすほうを見ると、長《なが》椅《い》子《す》に五、六人の男が、順番を待っているのだ。泉は一《いつ》瞬《しゆん》めまいがした。  「だ、大《だい》丈《じよ》夫《うぶ》ですか?」  「大丈夫よ」  畜《ちく》生《しよう》、こうなったら、何時間でも待ってやるぞ! 泉はドサッと長椅子に腰《こし》を据《す》えた。 5  三時四十五分になった。——ようやく次は泉たちの番だった。長椅子には泉たちよりあとに来た客が七、八人もひしめいて、最後の客は席がなくて立っているほどである。  何しろ約《やく》束《そく》のある面会を先にして、その間に時間が空けば、ここで待っている客たちに会うというのだから、なかなか番が来ないのも道理だ。泉は無性に腹が立っていた。お腹が空くと、まず気持ち悪くなり、次に意気銷《しよ》沈《うちん》し、最後に怒《おこ》りっぽくなるのが泉の《し》症《よう》状《じよう》なのである。  会談を終えたらしい肥満した男が社長室を出て来た。  「あれも組長の一人ですよ」  「へえ。ずいぶん景気が良さそうね」  その男が、ふと佐久間に気づいて、  「何だ。佐久間じゃねえか」  「どうも」  「相変わらず目高組か?」  「はい」  「いい加減見切りをつけろよ。あのもうろくボスじゃ先は見えてるぜ」  「親分は亡くなりました」  「へえ! そいつは知らなかった。じゃ、跡《あと》目《め》は誰《だれ》が?」  「こちらのお嬢《じよう》さんがお継《つ》ぎになりました」  太った男は呆《あつ》気《け》に取られて泉を眺《なが》めていたが、急にゲラゲラ笑い出すと、  「こいつあ愉《ゆ》快《かい》だ!……ついに目高組も学芸会をやるようになったのかい?」  泉はムッとして、何か言ってやろうかと思ったが、太った男は言いたいことだけ言ってさっさと行ってしまった。  「いけ好かないやつ!」  「あの男、昔はウチの組にいたんですよ」  「まあ! それなのに、前の親分の亡くなったのを知らないの?」  「人情、紙の如《ごと》し、ですな」  と佐久間がため息をつく。  「——お次の方、どうぞ!」  女秘書がキンキン声で呼ぶと、二人は急いで立ち上がった。    〈社長室〉とパネルをはめ込んだドアを開けたのは、がっしりした体つきの男で、秘書というよりは用心棒というほうが当たっていそうだった。佐久間を見知っているのか、なんだ、といった顔をして、  「入《はい》んな」  と顎《あご》をしゃくった。これがまた泉のカンにさわった。少なくともここは「××組」ではなく、「浜口物産株式会社」ではないか。長時間待たせた客に対し、何たる態度!  しかも入って行った部屋は、といえば、これがまただだっ広く、学校の教室二クラス分ほどの広さ、絨《じゆ》毯《うたん》を敷きつめ、応接セットがゆったりと一角を占《し》めている以外には、正面に、豪《ごう》華《か》な浮《うき》彫《ぼ》りを施《ほどこ》した巨大なデスクがあるだけなのだ。  二人は奥《おく》へと歩いて行った。——浜口社長は、電話中だった。  「——ああ、分かってるとも。——うん、そうだろう——」  泉が思っていたよりもずっと若い。死んだ父とそう違わないのではないか。まだ五十歳にはなっていない。いわゆるボ《ヽ》ス《ヽ》タイプを想像していると大違いで、「ゴッドファーザー」のアル・パシーノほどカッコ良くはないけれど、ちょっと苦味走った、鋭《えい》利《り》なビジネスマンタイプである。  やっとデスクへ辿《たど》り着いて——文字どおり、辿り着くって感じなのだ——みたものの、肝《かん》心《じん》の浜口のほうはさっぱり電話が終わらない。  「いいとも、君の好きなようにしなさい。ハハハ……」  どうやら私用電話らしい。それも相手は女だ、と泉は直感した。こっちはもう待ちくたびれているっていうのに! 泉は必死で腹立ちを抑《おさ》えた。  浜口はチラリと横目で佐久間と泉を見たが、いっこうに話をやめる気配もなく、いとものんびりしゃべっている。それも、  「あの店は鴨《かも》がうまいよ」  とか、  「黒い服には真《しん》珠《じゆ》がいいと思うね」  と、くだらない話ばかり。泉の頭にカッカ、カッカと血が昇《のぼ》って来た。何とか鎮《しず》めようとそれでも必死に気を紛《まぎ》らわすべく、室内をキョロキョロ見回したり、デスクに飾《かざ》ってある大輪の花を眺《なが》めたりしたが、たいして効《き》き目《め》もない。——十分近くもいらいらと待ち続け、やっと電話が終わりそうになった。  「ああ、それじゃ明日、必ず行くからね。——うん、分かってる」  そこへドアが開いて、女秘書が、男の用心棒に何やら話しかけた。  「じゃ、明日。——さよなら」  やっと受話器が置かれ、佐久間が一つ咳《せき》払《ばら》いして進み出た時、用心棒、いや、用心棒風秘書がつかつかとやって来て、  「野《の》田《だ》代議士様の車が下でお待ちです」  と口を挟《はさ》んだ。浜口はデスクのディジタル時計を見て、  「ああ、そうか。パーティだったな!」  「すぐにおいでになるとお伝えしておきましょうか」  「頼《たの》むよ。——ええと、君は——」  と佐久間の顔を思い出せない様子。  「目高組副組長の佐久間でございます」  「あ、そうだったな」  「実は本日伺いましたのは——」  だが、浜口は遮《さえぎ》って、  「済まないがね、君、車が待ってて急ぐんだ。明日、また来てくれんかな」  「は……しかし……」  「時間は秘書に聞いて決めてくれたまえ」  ともう席を立って、ドアのほうへ歩き出す。泉は頭に来た。もう我《が》慢《まん》できない!  「ちょっと待ってください!」  と浜口の前へ立ちふさがった。  「——何だ君は?」  浜口が呆《あつ》気《け》に取られている。  「私が誰《だれ》だって、そんなこといいじゃありませんか。私はここへ来た客です。受付からもう四時間も待たされ続けたんですよ! それなのに明日来いですって! よくそんなことが言えますね」  佐久間が色を失って、  「あ、あの——お嬢《じよう》さん——」  と呼びかけるのも、泉の耳には入らない。  「この時間に大切な約《やく》束《そく》があるのなら、なぜ客を待たせておくんですか! 今だって、あっちの部《へ》屋《や》には七、八人の人が、あなたに面会しようと待ってるんですよ。あなたがどんなに忙《いそが》しい人か知りませんけど、あそこで待ってる人たちだって、みんな忙しいんです。あなたの一時間も、他の人の一時間も、同じように貴重なんです! ただあなたが大物だから、頼《たの》まれ、頭を下げられる立場だからって、あの人たちの時間を無《む》駄《だ》にする権利は、あなたにはありません。約束した客にしか会わないのなら、初めからそう言って、約束だけさせて引きとらせればいいでしょう! 待たせておくからには、あなたは会うと言ったのと同じことです。あなたには会う義務があります! 大物といったって、社会人の最低の常識も持ち合わせていないんですか!」  泉はほとんど叫《さけ》ぶように言って言葉を切った。浜口は佐久間のほうを向いて、  「この娘《むすめ》は何だね?」  「は、はい……。このたび、目高組の四代目組長になられた星泉さまで……」  「組《ヽ》長《ヽ》だって?」  「はあ。で、今日、ご挨《あい》拶《さつ》にと思って——」  浜口はしばし唖《あ》然《ぜん》として泉を眺《なが》めていたが、  「よくわめき散らしたもんだ。——たかが四、五人の組の組長が、この私にそんな口をきいていいのかね」  と落ち着き払った威《い》厳《げん》で圧《あつ》倒《とう》しようとする。  「たかが四、五人ですって? よくもそんなことを!」  「目高組も落ちたもんだな。子供を使って同情を引こうというのかね」  と浜口は冷笑した。泉は黙《だま》ってデスクへ歩いて行くと、花びんから花を抜いて放り出し、花びんを手に持つと、いきなり浜口の顔へ水を浴びせた。  ——凍《こお》りつくような一《いつ》瞬《しゆ》。《ん》浜口は頭から胸元までびっしょり濡《ぬ》れて、目をパチクリしている。泉は空になった花びんを手に息を弾《はず》ませていた。ドアの所で唖然としていた用心棒が、やっと我に返った。  「こいつめ! 何てことを——」  と泉へつかみかかろうと進んで来る。その前へ佐久間が立ちはだかる。  「貴《き》様《さま》、邪《じや》魔《ま》するのか!」  「親分に手を出してみろ! ただじゃおかねえ!」  「おい! やめろ!」  と声を上げたのは浜口だった。  「こんな場所で喧《けん》嘩《か》は許さんぞ!」  浜口はしばらく泉をじっと眺《なが》めていたが、やがて急に笑い出した。愉《たの》しげな、子供のような笑い声だった。  「いやまったく——驚《おどろ》いたね」  やっと笑いが鎮《しず》まると、浜口は泉に言った。  「こんな楽しい思いをしたのは久しぶりだよ」  楽しい? 泉は聞き間《ま》違《ちが》いかと、耳を疑ったが、浜口の顔は本《ヽ》気《ヽ》で《ヽ》笑っていた。  「おい、下へ行って、野田代議士に伝えてくれ。私は用で遅《おく》れて行く、とな」  「ですが——」  「いいんだ! すぐ行け!」  「はい!」  用心棒が出て行くと、浜口はずぶ濡《ぬ》れのまま、泉と佐久間に、  「長く待たせてすまなかった。そこのアームチェアへ腰《こし》を降ろしていてくれないか。私はちょっと着替えてくる」  浜口がニヤリとして脇《わき》のドアから出て行くと、泉は全身の力が急に抜けてしまうような気がして、ソファへぐったりと坐《すわ》り込《こ》んだ。  佐久間がハンカチで額を拭《ぬぐ》いながら、  「いや、冷や汗をかきました。一体どうなることかと——」  「ごめんなさいね、佐久間さん」  「なに、いいんですよ。それにしても……」  「何?」  「いい度《どき》胸《よう》ですね。——親《ヽ》分《ヽ》!」    泉は分厚いステーキをペロリと平らげ、ホッと息をついた。  「よほどお腹《なか》が空いていたんだね」  と浜口が微笑《ほほえ》んだ。  「それにしちゃ、あれだけ演説ができるとは立派だ」  「私、お腹が空くと怒《おこ》りっぽくなるんです。それでつい……。失礼しました」  「いや、謝まることはないよ。本当に君の言うとおりなんだからね。さっそく秘書に命じて、面会の方法を変えることにする」  ここは建物の五十階。展望のきくレストランである。  〈下界〉はそろそろ暮《ぼし》色《よく》が近い。  「——そうか。君のお父さんは星貴志君か」  「ご存じですか?」  「うん。直接会ったことはないが、業界の集まりなどではよく名前が出たよ。優秀な貿易マンという評判だった」  「そうですか」  泉は父のことを聞かされて、嬉《うれ》しかった。  「佐久間君、いい親分じゃないか」  「まったくです!」  泉は照れて、穴があったら入りたい気分だった。満腹感と共に羞《しゆ》恥《うち》心《しん》も戻《もど》って来たのだ。  「時に、仕事の話だが……」  「何でしょう?」  「今、目高組は何の仕事をしてるんだ?」  「ええと……そうですね、Cブロックの宝くじ売場の場所代集めです」  「他には?」  「それだけです」  「そ《ヽ》れ《ヽ》だ《ヽ》け《ヽ》? たった?」  「はい」  「それはひどいな」  「新しい親分が生まれたことでもありますし……何かお考えおきいただけるとありがたいんでございますが……」  「うん……。実は宝くじなんてもの、何しろ手間の割に利がわずかなので、もう手を引こうと思っていたところなんだ」  佐久間があせって、  「そ、それじゃ困ります! ウチの仕事がなくなっちまう」  「だからちゃんと考えるさ。心配するな」  「どうも……」  「——どうかな? Cブロックを川で半分にして、その一方を君のところでみてくれないかね」 佐久間は《い》一《つし》瞬《ゆん》呆《あつ》気《け》に取られて、  「み《ヽ》る《ヽ》といいますと……。つまり、その……その区域全体をみるので?」  「そのとおりだ。ただそこを目高組に任せるってことになると、人数が足りまい。こっちから四、五人若いのを行かせるから、何とかやってくれたまえ」  「はい! 必ず首尾よく」  「頼《たの》むよ」  「ありがとうございます」  と泉も頭を下げる。何だかよく分からないけど、ともかく今までよりは、目高組が重みを増したようだ。  「この立派な新親分なら、きっとうまく行くだろう」  浜口はそう言って笑った。    「やったやった!」  「泉親分ばんざい!」  「目高組復活だ!」  あのおんぼろビル三階の事務所へ戻《もど》った佐久間と泉が、あまり帰りが遅《おそ》いので不安顔で待っていた三人の子分たちに事態を説明すると、たちまち歓声が湧《わ》き上がる。  「祝《しゆ》盃《くはい》だ!」  「親分、よろしいですか? みんなで一《いつ》杯《ぱい》……」  「いいわよ。ただし、私にはジュースをちょうだい」  と泉は言った。  「二《ふつ》日《か》酔《よ》いはもうごめんだわ!」  たちまち簡単ながら、祝《しゆ》宴《くえん》が開かれ、泉が音頭を取って、  「目高組の前《ぜん》途《と》を祝して!」  「乾《かん》杯《ぱい》!」  とやれば、今度は佐久間が、  「素《す》晴《ば》らしい新親分に!」  「乾杯!」  と続く。  「まったく、こんなにみんなが活気づいてるのは何年ぶりかですよ」  と佐久間が言った。泉もまんざらではない気分だ。形だけの親分——とは思ったものの、つい負けず嫌《ぎら》いの性分が頭をもたげ、こんなことになってしまう。まあ、ある程度縄《なわ》張《ば》りを持って、組員の数もふえて来れば、また事情も変わって来るだろう……。  「親分」  と健次が言った。  「明日はさっそく、縄張りの検分を」  「だめよ、学校があるもの」  「学校のほうはご心配なく」  と得意げな健次の口調に、  「え?」  思わず言った。  「今日、私、親分の学校へ行って参りまして——」  「何しに行ったの?」  「退学届を出して来ました」  「何ですって!」  泉は愕《がく》然《ぜん》として、  「まさか……。本当なの?」  「はい。先公のほうは渋《しぶ》い顔してましたが、ちょっと脅《おど》してやるとブルっちまって、素《す》直《なお》に届を受け取りましたよ」  「ちょ、ちょっと待ってよ!」  泉は言ったが、アルコールの入った健次はてんで聞こうともせず、  「親分万《ばん》歳《ざい》!」  とやっている。泉はヘナヘナと坐《すわ》り込《こ》んだ。大変なことになった! 明日行って取り消して来なきゃ!  「みんな驚《おどろ》いてるだろうなあ……」  泉は首を振《ふ》って呟《つぶや》いた。  その時だった。突《とつ》然《ぜん》、窓ガラスが粉々に割れた。次いで上の電球が、破《は》裂《れつ》して部《へ》屋《や》が暗くなる。  「伏《ふ》せろ!」  と怒《ど》鳴《な》る佐久間の声。何? 何なの? ぼんやりしていると、佐久間が泉を抱《だ》きかかえるように床へ倒《たお》れ込む。  「何なの? どうしたの?」  「伏せて! 機《ヽ》関《ヽ》銃《ヽ》です!」  泉は窓の下で鳴る連続した銃《じゆ》声《うせい》を聞いた。窓ガラスが音をたてて暗い室内に散る。  ガラスの破片が飛びちり、天《てん》井《じよう》のしっくいが、ボロボロと欠けて雨のように降って来る。いつまでも終わらないような気がして——そして、ふいに静けさが戻《もど》った。走り去る車の音。  「——大《だい》丈《じよ》夫《うぶ》か、みんな!」  佐久間が声をかけると、大丈夫、という三人の声が返って来た。  「親分! 大丈夫ですか?」  「ええ……。私は平気」  ソロソロと立ち上がる。  「でもいったいどうなってるの?」  「分かりません」  佐久間は首をひねった。  「ここ何年も、こんな事件はなかったのに……」  こんな小さな組が、なぜ機《き》関《かん》銃《じゆう》弾《だん》を打ち込まれなきゃならないの? 泉はまるで自分がギャング映画の撮《さつ》影《えい》にまぎれ込んだような気がして、どうにも現実のようには思えなかった……。 第二章 女親分、起つ! 1  「ですけど、先生、それは——」  泉《いずみ》が抗《こう》弁《べん》しかけると、保《ほ》科《しな》校長はヒステリックな声を上げて遮《さえぎ》った。  「黙《だま》りなさい! だいたい、わが校の生徒がいかなる事情があるにせよ、暴力団と関係を持つなどとは言語道断! それだけで充《じゆう》分《ぶん》退学に価します!」  泉はムッとして、  「生徒に弁《べん》明《めい》の機会を与《あた》えないのは、教育者としてとるべき態度とは思われません」  とやり返した。保科校長は興奮に顔を真っ赤にして、  「君は今教師に反抗しましたね! 生徒としての従順さに欠ける。これも退学処分の一つの理由になります!」  「私はただ——」  「それに、その服《ふく》装《そう》は何です? 君は知らないかもしれんが、わが校には〈制服〉というものがあるのだ!」  確かに、今日の泉は水色のワンピース姿。しかし、どうしようもなかったのだ。セーラー服は二着しかなく——だいたいが何着も持っているようなものではない——その一着をクリーニングへ出したばかり。そこへ昨夜の機《き》銃《じゆう》掃《そう》射《しや》でガラスの細い破片、天井のしっくいが雨のように降って来て、やっと起き上がった時にはセーラー服は真っ白。とても着られたものではなかった。で、自分の服の中では最もおとなしい、水色のワンピースを着て来たのだ。  「ですから、これにはわけが——」  「それに、わが校生徒には、新聞種になるような、不《ふ》謹《きん》慎《しん》な者はおらん!」  昨夜の機《き》銃《じゆう》弾《だん》を浴びた事件はたちまち駆《か》けつけたニュースカメラマンや記者たちによって、〈暴力団の縄《なわ》張《ば》り争いか! 夜を引《ひ》き裂《さ》いた機《き》関《かん》銃《じゆう》の響《ひび》き〉といったタイトルで大々的に取り上げられた。佐《さ》久《く》間《ま》も気をつかって泉をすぐに送り出してはくれたのだが、一番乗りで駆《か》けつけた記者につかまって、写真をとられてしまい、それが今日のある朝刊の紙面を飾《かざ》っているのである。  「これだけ揃《そろ》えば充分です!」  保科校長は断固たる口調で、  「君には今日限り、この学校を辞めてもらう!」  ここまで言われては、泉としても言《い》い訳《わけ》する気は失せて、  「お言葉ですが、昨日付けで私の退学届が出ているはずです! すでに退学した者を退学処分にはできないでしょう!」  と言い捨てて、校長室を出た。  「ああムシャクシャする! こんな学校、誰《だれ》がいてやるもんか!」  とブツクサ言いながら教室へ戻《もど》る途中で、昼休みのベルが鳴った。最近はお弁当を作ってくれるという奇《き》特《とく》な親は少なくなって、生徒はもっぱら学生食堂へ。これがまた何でも揃《そろ》ったデパートの食堂並《な》みなので、食後のデザートにチョコレートパフェ、さらにワッフル、チーズケーキ……という始末で、結局、女生徒たちには「肥満の原因」と不評なのだ。まあ文句言うなら、自分が食べなきゃいいのだが、そこはそれ、食欲旺《おう》盛《せい》な年代でもあり、目の前に並《なら》べられて、食べるな、と言われても無理な話。かくて昼休みともなれば、ほとんどの学生たちがワッと食堂へ大移動を開始する。  泉は奔《ほん》流《りゆう》の如《ごと》き生徒たちの流れに抗《こう》して四苦八苦の末、やっと教室へ辿《たど》り着いた。中には、わずかながら、弁当持参の女生徒数人が隅《すみ》の方でキャッキャッと笑い転げながら昼食の最中。——かの三人組が、泉を待っていたらしく、彼女が教室へ入って行くと、急いで駆《か》け寄《よ》って来た。  「泉ちゃん! どうだった?」  「どうもこうも……問答無用よ」  泉は三人に微笑《ほほえ》んで見せた。  「退学だって。お別れね」  「そんな——」  三人は顔を見合わせた。  「いいのよ。まあ、いろいろとあったしね。きっと叔《お》母《ば》さんが呼ばれて、またキーキーわめくだろうし、そんなの聞いてるの面《めん》倒《どう》だわ」  「横暴だよ!」  と哲《てつ》夫《お》が声を震《ふる》わせる。  「校長の野《や》郎《ろう》、窓から放り出してやる」  と物《ぶつ》騒《そう》なのは、むろん周《しゆ》平《うへい》だ。智《とも》生《お》はさすがに冷静で、  「まだ辞めるのは早いよ。僕《ぼく》らで処分反対の署名運動をやろう。それに先生たちの間だって、泉さんは人気がある。校長なんて吹《ふ》き流《なが》しだからな、風当たりが強くなりゃ、すぐなびくさ」  と辛《しん》辣《らつ》な皮肉も忘れない。  「ありがと、諸君! ともかくしばらくはサヨナラね。私もちょっと忙《いそが》しくって——」  「でもさ、泉ちゃん、あのメダカ組とかいう暴力団の話、どうなってんの?」  泉もまだこの三人に、組長になったことは話していないのだ。  「うーん、つまりね……。ここじゃ何だから、今夜ウチにおいでよ。ゆっくり説明してあげる」  と三人の肩《かた》を一つずつ叩《たた》いて、帰り仕度をして、校庭へ出た。——やれやれ、一体これからどうなっちゃうのかしら?  校門へ向かって歩いていると、  「泉さん!」  と男の声がした。見回すと、三十代半ばぐらいの、小《こ》粋《いき》な三つ揃《ぞろ》いを着た青年が手を振って近づいて来る。誰《だれ》だろう? 見知らぬ顔だった。  「やあ、もうお帰りで?」  声には何となく聞《き》き憶《おぼ》えがあるけど……。  「あの……どなたですか?」  「いやだな、もうお忘れですか。泉《ヽ》星《ヽ》さ《ヽ》ん《ヽ》」  「あ!」  あの薄《うす》汚《よご》れた黒《くろ》木《き》部長刑《けい》事《じ》ではないか!  「ごめんなさい、私——」  「いや、無理もありませんよ。昨日はあんな格好だったんだから。言うなればこれが本来の姿でして。——今昼休みですか?」  「退学になっちゃったんです」  「おやおや。昨日の機《き》関《かん》銃《じゆう》の一件ですね」  「ご存じなんですか?」  「そりゃあ私も刑事ですからね。それじゃ時間はあるわけだ。——昼食はまだでしょう?」    「いったい、何を調べてらっしゃるんですか?」  「それは昨日も言ったとおり——」  「何もおっしゃらなかったわ」  「うん……まあそうかな」  「もし父の死におかしな点があったら、そう言ってください。取り乱したりはしませんから」  黒木はニヤリとして、  「まったく、しっかりしたお嬢《じよう》さんだ」  学校から駅へ行く道の途《と》中《ちゆう》にあるパーラーで、泉はスパゲティを食べていた。よく学校帰りに寄ってアイスクリームを食べながらおしゃべりをする店だ。  「それじゃ、まあはっきり言いますとね」  黒木は一つ息をついて、  「お父さんは、どうやら突《つ》き飛ばされたらしいんです。トレーラーの前にね」  泉はゴクンと口の中のスパゲティを飲み込んだ。  「つまり殺《ヽ》さ《ヽ》れ《ヽ》た《ヽ》ということですね」  「おそらくはね」  「でも——誰《だれ》が?」  「それをこれから調べるんですよ」  泉はしばし手を休めていたが、やがてまたスパゲティを食べ始めた。黒木がコーヒーを飲みながら、  「それほどショックでもないようですね」  「あら、そんなことありません。——でも、ちゃんと食事はしなくちゃ」  泉は穏《おだ》やかに言ったが、内心の激《はげ》しい《い》憤《きどお》りを必死に押《お》し隠《かく》していたのだ。  「そう。それでいいんですよ。協力してくれますね」  「もちろんです。でも分からないわ。どうして——」  「動機もまだはっきりしないんでね」  「いいえ、そうじゃなくて」  と泉は首を振《ふ》って、  「どうして今になって父の死がおかしいということになったんですか?」  「なるほど、その疑問は当然ですね。実は目《もく》撃《げき》者《しや》がありましてね……」  「見ていたんですか?」  「いや、はっきり押《お》すところを見たわけじゃないんですが、急にふっとその男がよろめいてお父さんにぶつかったら《ヽ》し《ヽ》い《ヽ》、という話なんですよ。見たという人も通りすがりで、しかも出発間際の便に乗るので急いでいた。だからそう気をつけて見たわけじゃない」  「で、その人が今になって——」  「ずっとアメリカへ行ってたんですな、出張で。で、多《た》忙《ぼう》に紛《まぎ》れてすっかりそのことは忘れていたんですが、帰りの飛行機で、ふとそれを思い出した。思い出すと、どうにも気になって……というわけです」  「そうですか」  「まあ早く届けてくれればよかったとは思いますが、今からでも遅《おそ》くはない。それに時間がたってからではなかなか言い出しづらいもんでしてね。届け出てくれたのは立派ですよ」  「ええ、分かります」  泉は頷《うなず》いた。その人が黙《だま》っていれば、事件はそのまま忘れられていただろう。  「ところで、お父さんがもし本当に誰《だれ》かに殺されたのだとして、心当たりはありますか?」  「いいえ」  泉は即《そく》座《ざ》に答えた。  「父は誰からも好かれていました。——少なくとも、私の知っている限りは、です」  「なるほど、しかしお父さんは年中海外旅行で家をあけることが多かった。あなたの知らない生活があったのかもしれない」  「ええ……」  「何か思い当たることでも?」  泉はちょっとためらってから、マユミのこと、父の手紙のことを話した。  「——ふむ。どうもお父さんは死を予感していたようですね。そのマユミという女も妙《みよう》だな……。いや、昨日見かけてね、どこかで会った記《き》憶《おく》があるんですよ。どこだったかな。——どうしても思い出せないんだが」  黒木は苛《いら》々《いら》と頭を振《ふ》った。  「まあ、そのうち分かるでしょう。——あ、どうです、何か飲む物は?」  泉はオレンジジュースを頼《たの》んだ。  「ところで、泉さん、昨日の目《め》高《だか》組襲《しゆ》撃《うげき》の件はどうなってるんです?」  泉は順序立てて、目高組の組長にまつり上げられた事情を説明した。黒木は大笑いして、  「……なるほどね。女親分とは存じませんで失礼!」  泉は赤くなって黒木をにらんだ。  「からかわないでください!」  「いや、失礼。しかし愉《ゆ》快《かい》だな、まったく」  「機関銃で狙《ねら》われちゃ愉快とは言えません」  「なに、殺す気なら、下の道から撃《う》ったりしませんよ。窓と天《てん》井《じよう》にしか当たりっこありませんからね。たぶん縄《なわ》張《ば》りを削《けず》られた組の腹いせでしょう」  「どうしたらいいんですか。私?」  「目高組はいたっておとなしい連中ですからね。いや、もうとっくに解散したものと思われてたんですよ。まだ細々とやってたんだなあ。——大《だい》丈《じよ》夫《うぶ》、おりたければそのうち私のほうから話をしてあげましょう」  「すみません。私も困っちゃって……」  泉はパーラーの前で黒木と別れた。あの浮《ふ》浪《ろう》者《しや》じみた中年男が、いとも颯《さつ》爽《そう》と現われたのにはびっくりしたが、何となく信《しん》頼《らい》できそうな人だと思った。黒木は夜、泉のマンションを訪れて、父の遺品を調べることになっていた。  ホッと息をつく。——父が殺《ヽ》さ《ヽ》れ《ヽ》た《ヽ》。いったい誰《だれ》に? なぜ? 怒《いか》りが鎮《しず》まると、今度はさまざまな疑問が渦《うず》を巻き始めた。黒木刑事は、父が何か〈包み〉を持って帰らなかったかと訊《き》いた。包み。外国からの……。密輸品か? それとも麻《ま》薬《やく》か何かだろうか?  「まさか、パパが!」  そんなはずはない! あの父がそんな仕事をしていたなんて! しかし黒木も言っていた。  「あなたの知らない生活が……」  「親分!」  声をかけられてびっくりした。  「ずいぶん捜《さが》しましたぜ」  太めの子分、武《たけし》が例の車の窓から頭を出している。  「さ、事務所のほうへ」    「まあ!」  おんぼろビルの三階へ上がってみて、泉は目を丸くした。作業服姿の男たちが数人忙《いそが》しく立ち働いていて、真新しいドアが取り付けられ、室内にもペンキの匂《にお》いが立ちこめて、天《てん》井《じよう》の補修、窓の入れかえの最中だ。《か》傍《たわら》で見ていた佐久間が、泉を見て相好を崩《くず》し、  「どうです? せ《ヽ》っ《ヽ》か《ヽ》く《ヽ》壊《こわ》してくれたから、ついでに全面修理と行きますよ」  「素《す》敵《てき》ね! でも——そんなお金あったの?」  「浜《はま》口《ぐち》社長からいただきまして」  「浜口さん?」  「昨夜の騒《さわ》ぎは、縄《なわ》張《ば》りに食い込まれた松《まつ》の木《き》組の連中のいやがらせでね。浜口社長が、俺《おれ》の監《かん》督《とく》が行き届かなかったからだ、とおっしゃって……」  へえ。なかなかいいとこあるわね。泉はちょっと浜口を見直した。  「ただ警察のほうがおかんむりでね」  と佐久間は愉《ゆ》快《かい》そうに言った。  「昨日の事件の跡《あと》がなくなっちまうってね。——どうせ組同士のいさかいなんぞ放ったらかしですがね」  「もうあんなことないかしら?」  「浜口社長がきつく言っといたそうですからね。大《だい》丈《じよ》夫《うぶ》でしょう」  泉はそう安心でもなかった。  「さて、親分、出かけましょう」  「どこへ?」  「縄張りの視察でさ」  マンションへ戻《もど》ったのは、もう夜もとっぷりくれてからだった。片手に、クリーニング屋から取って来たセーラー服を下げていた。  「ああ、疲れた」  エレベーターを待ちながら肩で息をつく。縄張りを視《ヽ》察《ヽ》しながら驚《おどろ》いたのは、佐久間がその一帯の商店主や奥さん連と親しいことだった。かつては目高組の縄張りの一部だったそうで、飲食店主の中には、一《いつ》杯《ぱい》おごると言ってきかない者もいた。それは暴力や権勢を恐《おそ》れてご機《き》嫌《げん》をとっているというのではなく、本当に旧友に会った嬉《うれ》しさのようだった。  「よかったよ。またあんたがこの辺をみてくれるとは」  と喜んで佐久間の手を握《にぎ》り、泉にも丁《てい》寧《ねい》に挨《あい》拶《さつ》して、暇《ひま》があればいつでも寄ってくれと言うのだった。  「——結局、商店同士のもめ事を処理したり、他の組員の乱暴を防いだり、といったことが、我々本来の仕事なんです。まあ町会の役員みたいなもんですな。それに用心棒を兼ねるってとこかな。我々は地元の人あっての存在ですからね、こっちが威《い》張《ば》るのは筋《すじ》違《ちが》いってもんです」  「じゃ、バクチとか麻《ま》薬《やく》とか、そんなものには手を出さないのね?」  「当り前ですよ! そんな、素《しろ》人《うと》衆《しゆう》に迷《めい》惑《わく》をかけるのは、ヤクザの邪《ヽ》道《ヽ》でさ」  ヤクザに本道があるのかどうかは知らないが、泉は何となくホッとした。そういう組長ならやってたっていい、と思ったのである。  エレベーターに乗って八階へ。エレベーターを出て、しまったと思った。泉の部《へ》屋《や》の前に、黒木と例の三人組がぼんやり突《つ》っ立《た》っている。  「ごめんなさい!」  と駆《か》け寄る。  「忘れてたわけじゃないんだけど」  「いや、今来たとこでね」  と黒木がニヤリとして、  「そしたら、すぐこの諸君もやって来て」  「ごめんね、みんな」  「いいよ。でも——あの女は?」  と哲夫が言った。  「さあ。いないの?」  「チャイム鳴らしたけど、誰《だれ》も出ないのさ」  「変ね。出かけたのかな?」  泉は自分の鍵《かぎ》を取り出し、ドアを開けた。  「マユミさん——」  と呼びながら、明かりをつけた泉は、ギョッと立ちすくんでしまった。  「これは——」  「わっ、凄《すご》いや!」  「おやおや……」  黒木が他の四人を押し止めて、  「これは私の領分らしい。さ、入らないで」  室内はめちゃくちゃに荒《あ》らされていた。引き出しの中身はぶちまけられ、棚《たな》の物《もの》も全部放り出されている。椅《い》子《す》はクッションの所が切り裂《さ》かれ、中の詰《つ》め物が取り出されて散乱していた。  「また徹《てつ》底《てい》的にやったもんだ」  と黒木が首を振《ふ》った。  「プロの仕業だね。たぶん指《し》紋《もん》も残してはいまい」  「マユミさんは?」  「そうか。捜《さが》してみよう。君たちは入らないで。鑑《かん》識《しき》が来るまではね」  と黒木は足下に注意しながら、一つ一つのドアを開けて覗《のぞ》き込んで行き、奥《おく》の寝《しん》室《しつ》へ入って行った。  「こりゃ片づけるのが大変だなあ」  と周平が呆《あき》れ顔で言った。  「馬《ば》鹿《か》、片づけちゃいけないんだ。警察が調べるまでは」  と哲夫が言った。  「しかし、ただの空《あき》巣《す》じゃない……」  と智生が首をひねって、  「こうも荒らしてるのは、何《ヽ》か《ヽ》を捜す目的があったんだ」  泉にもそのことは分かっていた。——父は何かを持って帰っていたのだろうか? そして誰《だれ》かがそれを狙《ねら》って忍《しの》び込んだのだ。  「僕《ぼく》、警察を呼んで来ようか?」  哲夫が緊《きん》張《ちよう》した面持ちで言った。  「もう来てるじゃないか」  「あ、そうか」  そこへ、寝室から黒木刑事がハンカチで手を拭《ぬぐ》いながら、青ざめた顔で現われた。  「黒木刑事さん」  泉が呼びかけた。  「マユミさんは?」  「寝室にいましたよ」  黒木はそう言って一つ息をつくと、  「殺されている。胸を一《ひと》突《つ》きでね」  そして、床《ゆか》に投げ捨てられたクッションの下から電話を引っ張り出すと、ハンカチで受話器を包むように持ち上げ、ゆっくりダイヤルを回した……。 2  「何が何だかさっぱり分からないわ」  泉は頭を抱《かか》えた。  「つい三日前までは、何もなかったのに。いきなりヤクザの組長にさせられたと思ったら、機《き》関《かん》銃《じゆう》で撃《う》たれ、今度は泥《どろ》棒《ぼう》、人殺し!——そんなことってある?」  「まあ落ち着いて」  と黒木がなだめた。  「これが落ち着いてられますかって!」  「まあ、気持ちは分かりますがね」  「黒木さん!」  泉はじっと黒木を見て、  「教えてください。父は何の包みを持っていたんですの?」  黒木はしばらく黙《だま》ってじっと考えているふうだったが、やがて泉の手を取って、  「泉さん、あなたにはショックなことかもしれないが……」  ショックはむしろ《か》傍《たわら》で、黒木が泉の手を取るのを見ていた三人組のほうだった。三対の目がキッと黒木をにらみつける。  「私、平気です」  「あなたのお父さんはどうやら運《ヽ》び《ヽ》屋《ヽ》だったらしい」  泉もその言葉は知っていた。  「何を運んでたんですか? 麻《ま》薬《やく》?」  「おそらくね」  泉はふとよろけて、床《ゆか》へ坐《すわ》り込《こ》んだ。  「だ、大《だい》丈《じよ》夫《うぶ》?」  と三人組が一《いつ》斉《せい》に駆《か》け寄る。  「大丈夫よ。——平気だわ」  泉はシャンと背筋をのばした。  室内は荒らされたまま。鑑識の作業は終わったものの、どう片づけていいのやら、見当もつかない。所《しよ》轄《かつ》署《しよ》の刑事たちはマユミの死体を運び出してから泉にいくつか質問したが、泉に答えられることはほとんどなかった。マユミの素《すじ》姓《よう》からしてよく知らないのだ。刑事たちは、明日署へ来るように言って帰って行った。  「お父さんが亡くなった時に持っていたトランクは私も見た」  黒木が間を置いて続けた。  「しかし、それらしい物はなかった」  「じゃ、ここを荒らした人は、父が持って帰った麻《ま》薬《やく》を捜《さが》してたんですね」  「でも見つけられなかった……」  と口を挟《はさ》んだのは、智生だった。哲夫がびっくりして、  「どうしてさ?」  「見つけてりゃ、部《へ》屋《や》という部屋の至る所をこんなふうにしやしないよ。見つけたところで捜すのをやめてるはずだ」  黒木が、感心したように智生を眺《なが》めた。  「君は頭がいいね。私もそう思う」  「でも、どうしてマユミさんを殺したのかしら?」  「どこかへ出かけていて、犯人が捜しているところへ帰って来てしまったんだろう。まだ刺《さ》されてそう間がなかった」  「気の毒だわ……。いい人だったのに」  黒木がふと気づいたように、  「そういえば、あの女の持っていたお父さんの手紙というのは?」  「あの引き出し——」  と振《ふ》り向いて、  「ああ、めちゃくちゃにされてるから……」  「なくなってる?」  泉はあたりを捜してみたが、見当たらなかった。  「ないようです」  「そうか。じゃ仕方ない」  「黒木さん、あなたは父が運び屋をやっていたと前から知っていらしたんですか?」  「いや、それはお父さんが亡くなってから初めて耳に入ったのさ」  「どこから……」  「情報という奴《やつ》でね。警察にはいろいろと情《じよ》報《うほ》網《うもう》がある。密告者がいて、警察が報《ほう》酬《しゆう》を払《はら》って情報を買うわけだ。——その中に、お父さんについてのものがあった。お父さんはかなりの量の麻《ま》薬《やく》をどこかに置いて、いくつかの組織へ売り込んでいた。むろんどこだって喉《のど》から手が出るほどほしい。麻薬は運び込むのが一番厄《やつ》介《かい》なんだ。それがもう国内へ入っている品なら安全だからね。——だが結局取引は成立しないまま、お父さんは亡くなったらしい……」  「それで父がどこかに置いて行ったと思ってここへ……」  「そういうことだろうね」  黒木は腰《こし》を上げた。  「さて、君も大変だったね。そろそろ失礼しよう。また明日来る」  「お送りします」  泉は玄《げん》関《かん》を出て、エレベーターの前まで黒木を送って行った。  「——どうも、君には辛《つら》い話だったね」  「いいえ、はっきり言っていただいたほうがいいんです」  黒木はふと気づいて、  「——あ、すっかり親しそうな口をきいてしまったね」  泉も、黒木の言い方が、「あなた」から「君」へ変わったことは意識していた。  「いいんです。それが自然だと思います」  「ありがとう。君は素《す》敵《てき》な女の子だ」  「私、十七です」  「そうか。……もう大人だね」  黒木はエレベーターを呼んだ。  「今夜はどうするの?」  「お友達のところへ泊《と》めてもらいます」  「それがいい。一人で行くのが心配なら、送って行こう」  「いえ、あの三人がいますから」  「ああそうだね。君のファンクラブだと自称してたよ」  「いい連中でしょう」  「本当だ。僕《ぼく》も安心だよ」  エレベーターの扉《とびら》が開いた。  「じゃ気をつけて」  と黒木はエレベーターへ乗り込むと、  「あの三人組に訊《き》いてみてくれないか」  「え?」  「ファンクラブの入会金はいくらかってね」  扉が閉じた。泉は思わず微笑《ほほえ》んだ。妙《みよう》な人。——でもどことなく、心に残る人だ。  部《へ》屋《や》へ戻《もど》ると、三人組が心配そうに待っていた。  「泉ちゃん、大丈夫だった?」  と哲夫が訊《き》く。  「何のこと?」  「あいつ、別れ際にキスしていかなかったかい?」  「ええ?」  泉が目を丸くした。  「黒木さんが? あの人刑事よ」  「でも君のことを食いつくような目つきで見てたぜ」  「考えすぎよ」  「ならいいけど……」  「何となく気に食わない野《や》郎《ろう》だ」  と周平も仏《ぶつ》頂《ちよ》面《うづら》をしている。  「何言ってんの。私、和《かず》子《こ》の家へ電話してみるわ。今夜泊めてくれるかどうか。泊めてくれそうだったら送ってってくれる?」  「もちろんさ!」  和子は快く承知してくれた。まあ、事件のことを詳《くわ》しく話さないうちは眠《ねむ》らせてくれないだろうから、睡《すい》眠《みん》不足になるのは必至だが、それでもこの状態の部屋で寝《ね》る気はしない。  三人の頼《たよ》りがいのある(?)用心棒に守られて無事到着。  「みんなお腹《なか》空いてんだろ? まとめて面《めん》倒《どう》みちゃうから、食べて行きなよ」  とおおらかな和子の誘《さそ》いに、  「でも悪いよ」  「なあ」  「悪いよ——断わっちゃ」  ということになり、結局、和子の部屋へガステーブルを持《も》ち込《こ》んで、新たに肉を補《ほ》充《じゆう》してくれたすき焼き鍋《なべ》を五人で囲むことになる。ワイワイとにぎやかなこと。狭《せま》いところへ押《お》し合《あ》いへし合いするのが、まるでキャンプか合宿みたいな楽しさで、重苦しかった泉の気持ちも何となくほぐれて来るのだった。泉が目高組の組長になったいきさつを話すと一同は目を丸くして、  「親分! お見それしました!」  「やめてよ、からかうのは」  泉は渋《しぶ》い顔で、  「好きでやってんじゃないんだから」  「でもさ、泉はリーダーに向いてんだよね。クラス委員だってしょっちゅうやってるし」  「でもヤクザの親分とはちょっと違うぜ」  と哲夫が言う。  「同じようなもんよ。要は人物の大きさね」  「分かってるようなこと言ってら」  「でもいろいろ問題はあるにしても」  と智生が言った。  「泉さんは非常に珍《めずら》しい体験をしてるわけだから、なったからには、そこから何かを学ぶようにしたほうがいいね」  「そう! 竹《たけ》内《うち》君、いいこと言うよ」  「出入りの時は呼んでくれよな」  周平がドンと胸を叩《たた》く。  「ありがと。でもそんなことはないように願いたいわ」  「だけど本当にいろんなことが重なったわね」  「偶《ぐう》然《ぜん》って恐《おそ》ろしいねえ」  と哲夫が感心する。  「偶然とばかりは言えないよ」  智生が言った。  「偶然は一つだけ、その何とかいう組長が死んだのと同じ頃《ころ》に、泉さんのお父さんが亡くなったことさ。あとはいわば必然的な結果だよ。泉さんが組長を継《つ》いだこと、あのマユミって女がやって来たこと、誰《だれ》かがマンションに忍《しの》び込《こ》んで何《ヽ》か《ヽ》を捜《さが》したこと、マユミって女が殺されたこと……」  言われてみればそのとおりだ。泉はふっと身《み》震《ぶる》いした。すべてがつながり、関わり合っているのなら、まだこの先何《ヽ》か《ヽ》が起こるのではないかと思えたのだ……。    「ほんじゃ、アバヨ!」  と健《けん》次《じ》はもつれる舌《した》で言った。  「大《だい》丈《じよ》夫《うぶ》か、お前?」  英《ひで》樹《き》と武《たけし》の二人が心配そうに、  「送ってってやろうか?」  「何言ってやんでェ! 俺《おれ》はこんなに——シャンとしてんじゃねえか! 見ろ! この確かな足取りを」  「分かったよ。じゃ気をつけて帰れよ」  「あいよ。——じゃあな!」  行きつけの飲み屋でいい加《か》減《げん》酔《よ》ってから、また三《さん》軒《げん》もハシゴして、だいたいがあまりアルコールに強いほうでない健次はダウン寸前だった。  「俺は……酔ってねえぞ……酔ってなんか……いないぞ!」  とブツブツ独り言を言いながら、夜の道を右へ左へとよろけつつ、歩いて行く。  「親分万《ばん》歳《ざい》! 目高組万歳!」  てんでご機《き》嫌《げん》なのである。無理もない。永年、他の組の連中から馬《ば》鹿《か》にされ、《ち》嘲《よう》笑《しよう》されて来たのだ。それが今は、借り物ながら、若い連中を「おい、お前!」と呼びつける身なのである。ご機《き》嫌《げん》にならなきゃ嘘《うそ》ってもんだ。  人通りも絶えた、午前二時だった。健次が、道《みち》端《ばた》に駐《ちゆ》車《うしや》してある車のそばを通りかかった時、いきなり車から二人の男が飛び出して来た。  「何だてめえら……」  言い終わらぬ内に腹に一《いち》撃《げき》を食らって、健次はウッと呻《うめ》いてうずくまる。そこを二人の男は両《りよ》脇《うわき》から支えるようにかつぎ上げ、車の中へと放り込んだ。ほんの数秒の間の出来事であった。  車は素《す》早《ばや》く闇《やみ》の中へ消えた。    泉は、和子の部《へ》屋《や》に敷《し》いてもらった布団の中で、じっと目を開けていた。ベッドの上では和子が、かなりの肺活量を思わせる寝息をたてている。ついさっきまでは、あれこれと話をしていたのだが、呼びかけても返事がなくなったので起き上がってみると、もう和子は眠《ねむ》っていた。  泉は眠くなかった。——殺人などという犯罪に出くわしたら、そう眠れるものでないのは当り前だろう。黒木のおかげで直接死体を見るのは、顔の確認だけですんだのだが、それにしても、その死に顔は泉の網《もう》膜《まく》に焼き付けられたように消えない。  だが、人殺し以上にショックだったのは、言うまでもなく、父の裏《ヽ》の《ヽ》生活を知ったことだった。いったいなぜ、父はあんなことをしていたのだろう? 有能な営業部長で、高給を取り、人気もあった。いったい何が目的だったのか? お金か。——マユミを囲うのに金が必要だったのだろうか。しかし、マユミはおよそ高価な洋服や貴金属には縁《えん》も欲望もない女のようだった。マンションへやって来た時のスタイルだって、ひどいものだ。  ではいったい何が理由だったのだろう。万一ばれればすべてを失ってしまう危険をおかしてまで、麻《ま》薬《やく》を運んでいたのはなぜなのか……。  泉には分からなかった。父はほとんど仕事のことを話さなかったのだ。  それにしても、マンションの部屋をほとんど寸刻みにバラバラにし、マユミを殺してまで犯人が手に入れようとした包みはどこにあるのだろう? 実際、黒木に話したとおり、帰って来た父のトランクの中の物は泉が片づけていたのだし、それらしい包みなど、見たこともない。もしトランクなどに入れていたら税関で見つかるだろうし、頭のいい父がそんなところへしまうはずもない。では、空港からマンションへ帰るまでの間でどこかに置いて来たのだろうか。——それが一番ありそうに思える。帰りの荷物でふえている物といえば、泉へのおみやげの人形ぐらいだ。  泉は布団から起き上がった。——人《ヽ》形《ヽ》。まさかあの中に?  「そんなことないわ」  犯人はちゃんと人形だって壊《こわ》して行ったのだ。ぬいぐるみは切《き》り裂《さ》かれ、陶《とう》器《き》の物は粉々になっていた。無事だったのは、青銅の小さなマリア像だけで、床《ゆか》へ叩《たた》きつけられても壊れずに残っていた。あれはたぶん、父が死ぬ前の、最後のおみやげだった……。  「あのマリア像のことで、パパは何か言ってたな……。何だっけ?」  確かあの時は、夜中過ぎにいきなり帰って来て大《おお》騒《さわ》ぎをしたっけ。——そう。ちょうど試験の最中で、頭の中は、歴史の年代で一《いつ》杯《ぱい》だった。  「何と言ったっけな……。『この像は……』ええと『この像は……』何かになってる……」  泉は必死に思い出そうとした。  「ええと……台が……台……燭《ヽ》台《ヽ》だ!」そうだった! あの青銅の像は外見は一体だが、台が回すと外れて、燭《しよ》台《くだい》になるのだ。  「台が外れるんだ!」  投げ捨てられた像は、台を外してはいなかった。  「もしかして、あの像が……。どうしよう? 本当にそうだったら?」  考えれば考えるほど落ち着かなくなって来る。よし、調べてみよう。——今すぐ!  はなはだ無《む》鉄《てつ》砲《ぽう》とは思ったが、思い立ったら、すぐ実行に移さないと気がすまないのが泉の性分だ。こんな時間に、と思わぬではなかったが、子供ではあるまいし、夜道が怖《こわ》いでもない。よし、と起き出して服を着ると、ぐっすり眠《ねむ》っている和子をゆり起こす。  半分、夢《むゆ》遊《うび》病《よう》状態の和子に裏口を開けてもらい、表へ出たのは、もう午前三時近くだった。——マンションまで歩いて十分足らずの距《きよ》離《り》だ。広い国道に沿って歩くので、夜中とはいえ絶えずトラックや車が通って、そう寂《さび》しくはない。あの三人組でもいてくれたらとも思うが、ただでさえ自分が原因で家庭争議を引き起こしているという噂《うわさ》なのだ。こんな時間に呼び出したら大騒ぎになるだろう。それに、マンションには二十四時間受付にガードマンがいる。何ならついて来てもらえばいい。  いつもどおりに明るく照明の輝《かがや》くマンションのロビーへ入って行くと、やはりホッとした。受付をのぞくと、ガードマンの姿がない。  「どこへ行ったのかな……」  ま、いいや。泉は肩《かた》をすくめてエレベーターで八階へ昇《のぼ》った。人殺しのあった部《へ》屋《や》へこんな時間に入るのは、確かにあまりいい気分のものではなかったが、それよりも、あの青銅の像のことが気になった。今日、泥《どろ》棒《ぼう》、殺人と続いたばかりだ。もう何も起こらないだろう。あまり論理的とはいえない理《り》屈《くつ》をつけて気を鎮《しず》める。  人気のない廊《ろう》下《か》を進み、部屋の鍵《かぎ》を開ける。——暗い室内にそっと耳を澄《す》まし、ゆっくりと中へ入って明かりをつけた。出て行った時のままの混乱状態。  「当り前よ。違《ちが》ってたら大《おお》騒《さわ》ぎだわ」  口に出して言うと、少し気分が落ち着く。  足の踏《ふ》み場もない室内をジグザグに進んで、自分の部屋へ。のぞき込むようにして明かりをつけると、あらためて、カッカして来る。だいたいがきれいに整理されていないと気がすまない性《た》質《ち》なのだ。エルキュール・ポアロほどではないにしても。机の上の定規が曲がって置かれているのも気になるのである。それがこの惨《さん》状《じよう》……。とても一日や二日では片づくまい。  「怒《おこ》ったって仕方ないや」  と諦《あきら》めて、床《ゆか》に落ちた人形のほうへ。——足が止まった。「確かにあそこに……」  青銅のマリア像が消えているのだ。しばし、唖《あ》然《ぜん》として立ちすくんでいた泉は、あたりを見回した。——像は部《へ》屋《や》の隅《すみ》のほうに転がっていた。どうしてあんなところに? 急いで像を拾い上げた泉は、台座を力をこめてねじってみた。二、三回まわすと台が外れる。像の中は空だった。  初めから空だったのか? 像の位置が動いていた事が気になった。記《き》憶《おく》違《ちが》いではない。オランダみやげの木《き》靴《ぐつ》と、切《き》り裂《さ》かれたフランス人形の間に、あの像は落ちていたのだ。それがなぜ部屋の隅《すみ》に? 警察の人が写真を撮《と》ったり、指《し》紋《もん》を採ったりしていて動かしたのだろうか? でも、あれほど慎《しん》重《ちよう》で、明日まで現場に手を付けないように言い残して行ったほどだったのに、そんないい加減なことをするだろうか……。  泉は諦《あきら》めて像を最初落ちていた位置に戻《もど》した。その時突《とつ》然《ぜん》、明かりが消えて、泉は闇《やみ》に包まれた。 3  「もしもおし……」  周平は牛の鳴き声みたいな声を出した。上下の瞼《まぶた》がくっつきそうだ。  「誰《だれ》だよ、こんな時間に……」  「私、和子よ」  電話の向こうから、威《い》勢《せい》のいい声が聞こえて来た。  「何だよいったい……。夜中だぜ。お袋《ふくろ》ににらまれちまったじゃないか」  「泉がマンションへ行ったのよ、一人で」  和子が要点だけを言った。あまり要点だけで、周平はしばし理解できなかった。  「泉ちゃんが……?」  「何だか用があるって、マンションへ一人で行っちまったのよ」  「どのマンション?」  「馬《ば》鹿《か》ね! 自分のに決まってんでしょ。何だか心配になってね。何かあったら、と思って。で、電話したわけ」  泉ちゃん……マンション……一人で……。  「何だって!」  「突《とつ》然《ぜん》でかい声出さないでよ!」  「い、いつ行ったんだ?」  「二十分ぐらい前かな」  「何で早く知らせないんだよ!」  「こっちも寝《ね》ぼけてたのよォ。夢《ゆめ》かと思ってね。布団見たらいないから……」  「他の二人にも知らせてくれ!」  「ああいいよ。大《だい》丈《じよ》夫《うぶ》だとは思うけどさ」  「分かるもんか!」  電話を切ると、周平はコマ落としの映画みたいなスピードで二階へ駆《か》け上がり、アッという間にTシャツとジーパン姿で駆け降りて来た。何やら母親が頭上で喚《わめ》いたが、てんで耳には入らない。玄《げん》関《かん》をぶち破らんばかりの勢いで飛び出すと、自転車に打ちまたがり、グイとひとこぎ、人通りの絶えた街路へ。  そろそろ三時半になるところだった。    泉は床《ゆか》に身を伏《ふ》せていた。——何が何だか分からなかったが、ともかくそのほうが安全に思えたのだ。恐《きよ》怖《うふ》が肌《はだ》を刺《さ》すようだった。  必死で落ち着きを取り戻《もど》そうとした。冷静に! よく考えるのよ!——明かりは一度に全部消えた。今いる自分の部《へ》屋《や》の明かりはドアのわきのスイッチでしか消せないのだが、スイッチを押《お》す音はしなかった。ということは、いったいどこで明かりを消したのだろう?  ——そうか、ブレーカー(安全器)を切ったのだ。全部の明かりを一度に消すには、それしか考えられない。ブレーカーは玄関の上がり口のすぐ上の壁《かべ》についている。ということは、消した人間はあの辺にいるのだ。玄関のドアを開け閉めする音はしなかった。——となれば、その人間はまだ部屋の中にいるのだ。  恐《おそ》らくその男は初めからこの部屋にいたのに違《ちが》いない。泉の足音を聞いて部屋の明かりを消し、洗面所あたりに隠《かく》れていたのだろう。  ——その男がこの部屋を荒《あ》らし、マユミを殺した犯人だということを、泉は直感的に感じていた。だが、な《ヽ》ぜ《ヽ》戻って来たのか? 泉は、青銅のマリア像の位置が変わっていたことを思い出した。犯人は、あの像だけが壊《こわ》れなかったことから、台座が外れるに違《ちが》いないと思いついた。そして危険をおかしてやって来たのだろう。しかし何とよく気の付く男なのか!  それよりも、差し当たっての問題は、この場をどう切り抜《ぬ》けるかである。犯人はどういうつもりなのだろう? このまま黙《だま》って逃《に》げるのか。それとも……。泉はぞっとした。私を殺すつもりだろうか。  長い長い時間のような気がした。居間のほうで、何かがカタッと音を立てた。——玄関ではない。明らかに居間の、それも真ん中あたりだ。犯人はこっちへ近づいて来ている!  何とかしなければ……。泉は汗《あせ》ばんだ手をスカートで拭《ぬぐ》った。そろそろと体を起こす。目算はあった。泉がここで一人暮《ぐ》らしの時間が長いので、父が下のガードマンの部屋へ通じる警報のボタンを取り付けてくれた。この部屋を出た、目の前の壁にあるのだ。あれを押せば、すぐガードマンが駆けつけて来てくれる。  泉はゆっくりと立ち上がり、すり足でじりじりと進んだ。下の受付にガードマンの姿がなかったことは忘れていた。    「もしもし、竹内君? 和子よ」  「やあ、ゆうべはごちそうさま」  律《りち》儀《ぎ》に智生は礼を言った。  「こんな時間にどうしたの?」  和子の説明を聞くと、もう智生の頭からは眠《ねむ》気《け》が消し飛んだ。  「で、周平と哲夫は?」  「二人には今知らせたわ。二人ともすぐ行ってみるそうよ」  「分かった。ありがとう」  緊《きん》急《きゆう》の事態になるとますます冷静になるのが智生の、他の二人と違《ちが》うところである。いったん置いた受話器を取り上げ、泉のマンションの番号を回す。——お話し中になっている。  「受話器が外れてるんだ……」  智生は部《へ》屋《や》へ戻《もど》って服を着た。何かいい手はないか、とその間も頭をめぐらせている。  「——そうだ」  マンションには管理人がいる。確かあそこは夜中でもガードマンがいるのだと聞いた記《き》憶《おく》がある。電話して泉の部屋へ行ってもらえば、こっちが行くよりよほど早い。智生は電話のところへ戻ると、電話帳をくった。  「あったぞ。よし」  ダイヤルを回して、呼出し音に耳を傾《かたむ》ける。三回……四回……。いないのか? 智生は胸《むな》騒《さわ》ぎを感じた。    泉のマンションのガードマン、岩《いわ》田《た》は、その名のとおり頑《がん》丈《じよう》な男である。三《さん》交《こう》替《たい》で、契《けい》約《やく》している警備会社から派《は》遣《けん》されて来るのだ。まだ二十八歳という若さなので、夜勤に回される事が多い。手当がつくし、けっして嫌《いや》がりはしなかった。  この夜は十時から勤務についた。管理人はもう六十を越《こ》えた老夫婦で、いったん眠ってしまえば何があっても起きはしない。今日は大変だったぜ、と交替する同《どう》僚《りよう》が渋《しぶ》い顔で言った。岩田はここへ来て初めて盗《とう》難《なん》と殺人の件を聞いたのだった。出勤して来るまでは眠っていたのだ。着いた時にはもう警察も報《ほう》道《どう》陣《じん》も引き上げたあとだった。——俺《おれ》が妙《みよう》な奴《やつ》に気づかなかったのがおかしいようなことを言いやがるんだ。そんな真《ま》似《ね》する野《や》郎《ろう》が表から入って行くわけがねえじゃねえか。そうだろう?  岩田は同僚の愚《ぐ》痴《ち》に、そりゃそうだと頷《うなず》きながら、内心では、怪《あや》しいもんだと思っていた。その同僚は警官を退職した男で、もう五十七、八になっている。いささかも《ヽ》う《ヽ》ろ《ヽ》く《ヽ》してるんだ。いつもぼんやりしてて、誰が出入りしようと気づくまい。——俺がそいつを見ていたらな、と岩田は受付の椅《い》子《す》に腰《こし》をおろして考えた。絶対に逃がしはしないんだが……。  同僚は警察の伝言を伝えて行った。今夜はここの住人、並びに顔見知りの出前持ちなど以外の客には特に注意するように、ということだった。来客は訪問先の部屋に確認をとってから通すこと。——言われるまでもなく岩田はいつもそうして来た。彼の受け持ち時間に来る客は、いろいろいわくのある客が多い……。  顔なじみの寿《す》司《し》屋《や》一人以外は、客は二人だけで、それもよく来る顔だった。言われたとおりの手続きをとると、ちょっと嫌《いや》な顔をしたが、事件のことを聞かせると目を輝《かがや》かせた。  午前三時までは、何事もなかった。退《たい》屈《くつ》しのぎのTVの深夜映画も終わって、コーヒーを淹《い》れて飲みながら、時のたつのを待った。三時を五分ほど過ぎた時、表で金属の触《ふ》れ合う音がした。岩田には聞き憶《おぼ》えがある。外の非常階段の格《こう》子《しと》扉《びら》だ。間《かん》髪《ぱつ》を入れず飛び出した。  手にした懐《かい》中《ちゆ》電《うで》燈《んとう》であたりを照らしながら、油断なく近づく。——だが、扉は閉まったままで、どこにも人《ひと》影《かげ》はなかった。非常階段も少し登ってみたが、誰《だれ》かが潜《ひそ》んでいる気配はない。  「妙《みよう》だな……」  仕方なく地上へ降りて、少しその辺を歩いてみる。——犬一《いつ》匹《ぴき》、猫《ねこ》一匹、姿が見えない。《あ》諦《きら》めて肩をすくめると、岩田はマンションの受付へ戻《もど》った。ドアを開けて中へ入った時、その男はドアの陰《かげ》にひそんでいた。いきなり後頭部に一《いち》撃《げき》を食らって、岩田は床《ゆか》へドッと倒《たお》れた。  殴《なぐ》った男は、しかし、岩田の頑《がん》健《けん》さを過小評価していた。気を失いはしたが、負傷で動けないほどの傷ではなかったのだ。——が、ともかく岩田はそのまま窓口に近い床に倒れていたので、ちょっと受付を覗《のぞ》いただけの泉からは見えなかった。  三時半。受付の電話が鳴った。鳴り続けた。四回……五回……。岩田の瞼《まぶた》が小刻みに震《ふる》えた。    ジリジリと足を進め、やっと自分の部《へ》屋《や》の出口まで辿《たど》り着くと、泉は額の汗を拭《ぬぐ》った。ドアは開いている。飛び出して、正面の壁《かべ》のボタンを押せば、それでいいのだ。  しかし、あまりの暗さ。ボタンの位置が、だいたいの見当しかつかない。のんびりと手探りする時間があればともかく、とっさにボタンを押さねば殺されるかもしれないとなれば、心臓が破れんばかりに高鳴って、口の中が乾《かわ》いて来る。相《ヽ》手《ヽ》はどこに潜んでいるのだろう? どこまで来ているのか?——考えてみると、居間のほうは、ベランダに面しているので、カーテンを通して、いくらか外の光が入って来る。目が慣れれば、闇《やみ》の中でもいくらか部屋の様子は分かっているはずだ。だが泉の部屋には窓がない。まったくの暗《くら》闇《やみ》なのだ。もう相手がすぐ外の廊《ろう》下《か》に来ていて、泉の出て行くのを待ち構えているかもしれない。そう思うと足がすくんでしまう。  ほんの二メートル足らずの距離。それがまるで何十メートルも遠くに思える。——行かなくちゃ。遅《おそ》くなればなるほど、危険は増すのだ。  神様! 泉は内心で祈った。不信心だから、別にどこの神様だってよかった。仏様でもいいが、何となく仏様はもっぱら葬《そう》式《しき》関係が多いので、ここは神様のほうがいいような気がした。——神様! どうか警報ボタンがすぐに見つかりますように! 泉は息を吸い込み廊下へ飛び出した。  壁に突《つ》き当たる。手をボタンのあたりへ。必死で位置を捜《さが》す。——おかしいな。確かにこの辺なのに。もっと右か? 左? それとも上のほうだったろうか? 手探りの手がやっとボタンを見つけた。やった! 指でグイとボタンを押す——急にガッチリした腕《うで》に背後から捕《とら》えられた。  「あ……」  声を上げる間もなく、首筋に男の指が食い込《こ》んで……。    岩田はそろそろ起き上がった。周囲がぐるぐると回転して、地面が沈《しず》み込んで行くようだ。それでもやっとの思いで立ち上がって壁《かべ》に体をもたせかける。  「——畜《ちく》生《しよう》!」  いったいどこのどいつだ……。後頭部はうずくように痛んだ。恐《おそ》る恐る手で探ると、指先に少し粘《ねば》っこい血がついて来る。えらくやられたもんだ。  「——電話だ」  気がつくと、もう電話は鳴りやんでいた。電話のベルで気がついたが、そうでなければまだ当分のびたままだったろう。時計を見ると三十分近くたっているのが分かった。三時ちょっとすぎに妙《みよう》な物音を聞いて外へ出たのだった。殴《なぐ》った奴《やつ》はわざと音をたてていったん自分を外へおびき出し、その間にこの部《へ》屋《や》へ忍《しの》び込《こ》んで、戻《もど》って来るのを待ち受けていたのに違《ちが》いない。外で殴っても、物《もの》陰《かげ》まで引きずって行かねばならないし、外のほうが寒いから、早く気がつく。それに夜中とはいえ人通りがまったくないわけでもないから、この部屋でやったほうが安全だと思ったのだろう。  それにしても誰《だれ》が、何のために?——まず警察だ。そしてマンション内に警報を……。  「そうか」  岩田は、昼間の事件を思い出して、はっとした。昼間の犯人が戻って来たのかもしれない。そうだとすると……。まだ部屋にいるだろうか? あの部屋は、ええと……八〇六だ。  「よし」  先に八〇六号室へ行って確かめてみよう。警察はそのあとだ。奴《やつ》がまだ中にいたら、俺《おれ》の手でねじ伏《ふ》せてやる!  その時、警報のブザーがかん高い悲鳴を上げた。ランプが点《てん》滅《めつ》している。八《ヽ》〇《ヽ》六《ヽ》号《ヽ》だ!  岩田はもう頭の痛みなど気にならなかった。受付を猛《もう》然《ぜん》と飛び出し、エレベーターへ。扉《とびら》が開くのももどかしく中へ飛び込んだ。八階までがえらく遠い。どうしてもっと早いエレベーターにしなかったんだ、と苛《いら》々《いら》して床《ゆか》を踏《ふ》み鳴らした。——八階。無人の廊《ろう》下《か》へ岩田が飛び出した時、八〇六号室から一人の男が出て来た。  「いたな! この野《や》郎《ろう》!」  岩田は全身を怒《いか》りに燃え上がらせながら進んで行く。相手の男は落ち着き払《はら》っていた。岩田は男の数メートル手前で足を止め、急に元気を失って立ちすくんだ。——冷たい銃《じゆ》口《うこう》が岩田を、無表情に見つめている。    「泉ちゃん! 泉ちゃん! しっかり!」  体を揺《ゆ》さぶられて、泉は意識を取り戻した。  「——周平君!」  「よかった! 生き返ったね!」  「生き返ったなんて……。死んでもいないのに。あら、哲夫君も」  「うん。今来たところさ。どう、気分は?」  「首のまわりが痛いけど……大丈夫よ。どうなっちゃったの?」  「知らないよ。和子から電話で、泉ちゃんがここへ来てるって聞いたもんだから飛んで来たのさ」  「あ、そうか。——闇《やみ》の中で、誰《だれ》かに首をしめられたところまでは憶《おぼ》えているの」  「危ないなあ! 一人でこんなことして」  「大《だい》丈《じよ》夫《うぶ》だと思ったのよ……」  いささか泉の声も弱々しい。  「ともかく無事でよかった」  と周平が息をつく。  「でも警察へ知らせなきゃ」  「もう知らせたよ」  と入口のほうで声がした。  「なんだ智生か。お前が一番遅《おそ》いぞ」  と周平が、一番乗りを自《じ》慢《まん》するように言った。だが智生の顔は深刻だった。  「下の受付で——ガードマンが死んでる」 4  泉が和子の部《へ》屋《や》で目を覚《さ》ましたのは、もう午後の二時頃《ごろ》だった。何しろ明け方から昼《ひる》頃《ごろ》まで、警察の事情聴取。何度訊《き》かれたって、まるで見ていない犯人のことなどしゃべれないのに、  「でも何かあるでしょう? たとえば足音とか、咳《せき》払《ばら》いとか」  そんな物は何一つ耳にしていない。物を何か引っくり返す音はしたが、それで分かるのは犯人には足があった、ということぐらいだ。  「それじゃ背の高さは? 高いか低いか。大《おお》雑《ざつ》把《ぱ》でいいんです」  後ろから首をしめられて気を失ったのに、そんなこと分かるわけないじゃないの。  「でも、こう、何か匂《にお》いとか……」  匂いって?  「オー・デ・コロンとかそういった……」  まさか、探《たん》偵《てい》小説じゃあるまいし、そう都合よく犯人が珍《めずら》しい香《かお》りをつけているなんてはずがない。こっちだって、シャーロック・ホームズみたいに、「ウム、これはランバンのアルページュだ」なんて鼻の持ち主じゃないのだ。  こういった問答が延々と続けられ、しまいには相手の刑事が犯人の立場になって後ろから泉の首をしめる格好をしてみた。背が高かったか低かったか——いろいろ、のびをしたり、かがんだりしてやってみるが、どうにもたいして違《ちが》いはない。そんなことで分かるものじゃないのである。刑事のほうもそのうち苛《いら》立《だ》って来て、泉は本当にしめ殺されるんじゃないかと恐《おそ》ろしくなって来たくらいだ。  かくてクタクタになって、和子の家へ再びご厄《やつ》介《かい》になり、すっかり眠《ねむ》りこけていたという次第。しかし、そういつまでもここにいるわけにもいかない。  「そうだ。組のほうにも顔出さなきゃ」  大物は辛《つら》いのである。  和子は学校へ行っているので、和子とよく似ていて、気のいい和子の母親に礼を言って外へ出た。——何だか全部が悪い夢《ゆめ》のようで、とても本当のこととは思えない。父が持っていた〈包み〉をめぐって、これで二人の人間が死んでしまったのだ。  「いったいこれからどうなるのかしら!」  格別どこといってあてもなく歩き出すと、タクシーがすっと寄って来て停《と》まる。  「やあ、おはよう」  「黒木さん!」  「遅《おそ》い昼飯、どうだい?」    「あまり気に病んじゃいけないよ」  「でも……ゆうべガードマンの人が殺されたのは本当に私のせいなんです。私があんな夜中にマンションへ行かなければ……」  「ま、少々無茶だったけど、すんだことだよ」  「憂《ゆう》鬱《うつ》だわ」  「憂鬱でも食欲があるから大《だい》丈《じよ》夫《うぶ》」  泉は、空になったピザの皿《さら》を見下ろして、  「意地悪ね!」  と黒木をにらんだ。  「しかし君が生きてるのが不思議だな」  「え?」  「いや、どうして殺されなかったかと思ってね」  「何だか生きてちゃ悪いみたいですね」  と泉はムクれた。  「いや、そうじゃないよ」  「あと、プリン・ア・ラ・モード食べます!」  腹が立つので、うんと食べてやれ、と思った。どうせ公費なんだろう。こっちが払《はら》った税金で——いや、まだ払ってやしないけど。  「犯人は君を殺しかけた。ただ気絶させるつもりなら、みぞおちに一発食らわせばいいんだからね。首をしめて気絶させるってのは難しい。つい力余って、ってことになりかねないだろう」  「じゃどうして殺さなかったんでしょう?」  「さてね……。これはただの推測だが、犯人は、誰《だれ》が部《へ》屋《や》へ入って来たのか、知らなかったんじゃないかな。たぶん洗面所あたりに隠れていたんだろうが、あそこからでは居間のほうは見えないだろう」  「ええ、見えません」  「誰かが入って来た。犯人にはそれしか分からなかった。そして明かりを消してしまったから、犯人には相手が君だということは、首をしめた時まで分からなかったわけだ」  「ええ……」  「首をしめかけて、初めて君だと気がついた。そして手をゆるめた……」  「でも……そうすると、犯人は私を知《ヽ》っ《ヽ》て《ヽ》る《ヽ》んですか?」  「僕《ぼく》の推測だがね」  泉にはショックだった。自分を知っているということは、こっちも相手を知っているかもしれないではないか!  「もう一つ君を驚《おどろ》かすことがあるんだ」  「何ですか? あんまり驚かさないで」  「いや、そう物《ぶつ》騒《そう》な話じゃない。昨日殺されたマユミって女だが……」  「マユミさんが、何か?」  「あれはマユミじゃないよ」  泉はキョトンとして、  「じゃない……って?」  「あの女を知ってる刑事がたまたま署にいてね。あの女は本名を土《つち》田《だ》恒《つね》美《み》といって、売春、窃《せつ》盗《とう》、万引なんかで何度も引っぱられてるのさ」  「まあ!」  「ああいう女はあちこちでいろいろな名を使うからね、こっちもその辺のことはよくあの女を知った刑事仲間に訊《き》いてみた。でも、マユミという名は誰も知らなかったよ」  「でも父の手紙を……」  「考えるに、あの恒美って女はたまたま何かの事情で、あの手紙を手に入れたんじゃないだろうか。そしてうまくこのマユミって女になりすませば、豪《ごう》華《か》なマンションで楽な暮《く》らしができるんじゃないかと思ったんだろう」  「それじゃ本物のマユミさんっていう人はどこか別にいると……」  「まず間《ま》違《ちが》いあるまいね」  「でもいったいどこにいるのかしら?」  「それをこれから捜《さが》そうってのさ」  「どうやって?」  「いろいろ手はある」  泉は複雑な気持ちだった。殺されたマユミは本物のマユミではなかった。でも悪い人ではないように見えたのに……。  「一《いつ》緒《しよ》に捜《さが》しに行くかね?」  「はい」  「まずそのプリン・何とかを食べてからね」  黒木はニヤリと笑った。    「何だお前ら?」  ずんぐりと太った男——武が、目高組事務所のドアを開けて、目の前の三人を眺《なが》め回した。  「親分、いますか?」  哲夫が喉《のど》に引っかかる声で言った。  「何の用だ?」  「泉ちゃんに——いえ、泉親分に会いたいんですが」  「お前らは?」  「僕《ぼく》たちは」  智生が代わって、  「泉さんのクラスメイトなんです」  武はキョトンとして部《へ》屋《や》の奥《おく》のほうへ向いて、  「兄《あに》貴《き》! 何か親分のブラスバンドって連中が来てますぜ」  佐久間が出て来て、  「何だ楽器がないじゃねえか」  「ブラスバンドじゃありません。クラスメイトです」  「じゃ、親分のお友達で?」  「そうです」  「おい!」  と佐久間は武を怒《ど》鳴《な》りつけて、  「失礼なこと言うんじゃねえ! 早く中へご案内しろ! お茶を淹《い》れるんだ!」  「あ、あの……僕らは別に……」  「ま、そう言わねえで。どうぞどうぞ、ったって、こんだけの部屋ですがね」  改《かい》装《そう》なった(!)部屋の中は、ビルの外見からは想像のつかない、ちょっと洒落《しやれ》た応接間になっているのだった。  「——で、あの泉ちゃん——いえ、泉親分は?」  「さて、今日はまだみえてませんが。ゆうべは大変だったようですから、無理もないんじゃないかと」  「でも和子の家はもうとっくに出たって……なあ?」  智生が頷《うなず》いて、  「そうなんです。それでてっきりここだと思って来てみたんですが——」  佐久間の顔がふと曇《くも》った。《か》傍《たわら》にいた武が、  「兄《あに》貴《き》、もしかすると親分も——」  「黙《だま》ってろ!」  「親分も、って——じゃ他に誰《だれ》か行《ゆく》方《え》が分からない人でもいるんですか?」  智生が鋭《するど》い口調で訊《き》いた。佐久間はちょっとためらっていたが、やがて息をついて、  「親分のお友達なら仕方ないでしょう。——実はウチの若い者が一人、ゆうべ飲んで別れたきり、行方が分からねえんで」  「どこかで酔《よ》って寝《ね》てるとか——」  と哲夫が言うと智生が、  「いくら何でも、もう午後の三時半だぜ」  「そうなんで。——今までこんなことはなかったんで、心配してるんですが。一昨日《おととい》の機《き》関《かん》銃《じゆう》の件もありますし……」  部《へ》屋《や》の隅《すみ》の電話が鳴った。  「おい、武、何してるんだ。早く出ねえか」  「あ、いけね。目覚まし時計かと思って……」  「まったくどうも……」  と佐久間は苦笑いして、  「昨日までは電話がなかったもんですから」  情ない話である。  「兄貴……」  「何の電話だ?」  「分かりませんや。男の声で、『ビルの玄《げん》関《かん》を見ろ』っていって切れちまいました」  「何だって?」  「番号違《ちが》いですかね」  佐久間が立ち上がって、急いで部屋を出て行った。  「僕らも行こう!」  と智生が促《うなが》す。三人は足下に気をつけながら一階へと降りて行った。ビルの出入口の手前で思わず足を止め、息を呑《の》んだ。  「ありゃあ……」  「ひどいな」  ——佐久間がじっと床《ゆか》に横たわった男を見下ろしていた。男は小《こ》柄《がら》で、不格好な体つきだった。しかしどんな顔だったのかは、分からなくなっていた。顔面が焼けただれているのだ。智生もさすがに蒼《そう》白《はく》な顔色だったが、二、三歩進み出て、  「いなくなっていた人ですか?」  と訊《き》いた。佐久間は凍《こお》りついたような表情で肯《うなず》くと、  「ひどいことしやがる!」  と吐《は》き出すように言った。  「薬品ですね」  「硫《りゆ》酸《うさん》だ……。畜生! どこのどいつが……」  「警察へ知らせないといけませんよ」  佐久間は頷《うなず》いたが、  「その前に、いったん、組の事務所へ運びたい。おい武! 何をしてる!」  「へ、へい!」  大きな体をブルブル震《ふる》わせながら、武が恐《おそ》る恐る健次の体に手をかけた。  「おい」  佐久間と武が死体をかつぎ上げて行くのを見送りながら、周平が言った。  「泉ちゃんは大《だい》丈《じよ》夫《うぶ》だろうな」  智生はじっと考え込《こ》んでいたが、やがてふと何か思いついた様子で、佐久間たちのあとを追って階段を上がって行った。    「恒《つね》美《み》ならよく見たわね」  開店前のバーで、疲《つか》れ切って栄養失調になったソフィア・ローレンみたいなホステスはタバコをくゆらせながら言った。  「恒美と親しかったマユミって女、知らないか?」  黒木が訊《き》いた。こちらもいささか疲れが出ている。  「さてね……。あの子に仲のいい友達なんていなかったと思うよ。マユミってのも聞いたことないねえ」  「あ、そう」  黒木は肩《かた》で息をついた。  「——やれやれ、無《む》駄《だ》足《あし》だったかな」  「いったい誰《だれ》なんでしょう、マユミって」  黒木と泉は通りかかった公園のベンチで一息つくことにした。  「手紙を手に入れたところから考えて、きっと恒美と親しかったと思ったんだが……」  「そうでもないみたいですね」  「あと、考えられるのは、恒美がそのマユミって女のハンドバッグをかっぱらったってことだな。万引の常習なんだ。大いに考えられる」  「で、たまたまそのバッグの中の手紙を見つけて……」  「それが一番可能性がありそうだね」  「でもそうすると妙《みよう》じゃないかしら」  「何が?」  「あの手紙を読んだだけじゃ、父が死《ヽ》ん《ヽ》だ《ヽ》こ《ヽ》と《ヽ》までは分からないはずですもの」  「うむ……。それはそうだね」  「それに、本物のマユミっていう人は、手紙は盗《と》られたにしても内容は知ってるはずでしょう。なぜマンションを尋《たず》ねて来ないのかしら?」  「そうか……。すると、あの恒美って女はかなり事前に君の家のことを調べてたんじゃないかな。そしてお父さんの死を知った。本物のマユミという女は——」  「どうなったんでしょう?」  泉は首を振《ふ》って、  「私のマンションがあれだけ新聞で騒《さわ》がれれば、名乗り出て来るはずでしょう」  「生《ヽ》き《ヽ》て《ヽ》い《ヽ》れ《ヽ》ば《ヽ》ね《ヽ》」  泉はゆっくりと黒木を見た。  「まさか——殺されてる、と?」  「いや、そう思ってるわけじゃないが……」  黒木は慌《あわ》てて手を振って、  「ただ、あの恒美って女はそう頭の回るほうでもなさそうだし、誰《ヽ》か《ヽ》が後ろで操ってたのかもしれない、って気がしてね。そうだとすると、手紙を手に入れたのも計画の内だったんじゃないか、と……」  「でも、どうしてそんな手の込んだことをするのかしら」  そう言って、泉ははっとした。  「もしかして——父の持っていた〈包み〉に関係があるんじゃ——」  「僕《ぼく》も今、それを考えていた」  黒木は頷《うなず》いた。  「あの恒美って女は、その〈包み〉を捜《さが》すために送り込まれたんじゃないか、ってね」  黒木は立ち上がって、  「さて、今日のところは引き上げるか。僕は恒美の背景をもう少し洗ってみる。ええと……君はどこへ帰る?」  「私、組に顔を出さないと……」  「あ、そうだったね。失礼しました、組長!」  黒木はかしこまって一礼した。    「親分!」  「泉ちゃん!」  「泉さん!」  三つ重ねて印刷するわけにもいかないので便《べん》宜《ぎ》上並べて書いたが、実際は同時に声が発せられたのだった。  事務所のドアを開けた泉は、びっくりして立ちすくんでしまった。  「何なの、いったい?——君たち、何してんのよ?」  「心配したよ、どこにいたのさ?」  と哲夫がいそいそと出《で》迎《むか》えに来る。  「どこって……。刑事さんと一《いつ》緒《しよ》に調べることがあったのよ。何を騒《さわ》いでるの?」  「親分に万一のことがあったら、と……」  佐久間がホッとした表情で言った。  「万一って、私は大《だい》丈《じよ》夫《うぶ》よ」  軽く言って、泉はこの場の何となく重苦しい雰《ふん》囲《い》気《き》に気づいた。  「何かあったの?」  「親分、申し訳ありません。実は……」  と佐久間が《か》傍《たわら》へ退く。奥《おく》に椅《い》子《す》を並べて、その上に、顔を白いハンカチで覆《おお》った健次の死体が横たえられていた。  泉は息を呑《の》んだ。  「あれは——健次さん?」  「はい」  「どう……したの?」  「それが、昨夜、武たちと飲んで別れたきり、今朝姿を見せないので心配していましたら……」  「いったいどうして?」  「殺されたんです」  泉は唖《あ》然《ぜん》とした。  「首をしめられています」  佐久間は続けた。  「ですが、その前に、手ひどくやられたらしくて……。誰《だれ》がやったのかは分かりません。たださっき、このビルの入口へ来てみろと電話して来た奴《やつ》がいて、降りて行ってみると、健次が……」  泉が組長になるのを承知した時、小《こ》踊《おど》りして喜んでいた健次。いささか頭のほうは頼《たよ》りなかったが、憎《にく》めない男だった。泉はしばし立ち尽《つ》くした。——いけない! 今は私が組長なんだ。しっかりしなくちゃ。  「可《か》哀《わい》そうなことをしたわ。……」  泉はゆっくりと健次の遺体へ歩み寄った。  「親分!」  佐久間が前へ入って、  「ご覧にならないほうが……」  「私だって死んだ人ぐらい見たことがあるわ。大丈夫よ」  「いえ。殺される前に——と申し上げたでしょう。硫《りゆ》酸《うさん》で……顔を……」  泉は膝《ひざ》が震《ふる》えて来るのを、必死でこらえた。恐《きよ》怖《うふ》よりも激《はげ》しい怒《いか》りがこみ上げて来る。あの健次が……!  「どいて、佐久間さん」  「ですが——」  「いいから。どいて!」  佐久間が、諦《あきら》めたように息をついて、《か》傍《たわら》へ退いた。  「おい」  哲夫が智生の腕を叩《たた》いて、  「止めたほうがいいんじゃないか」  智生は首を振った。  「いいんだ。泉さんの好きなようにさせてやれば」  「でも……」  泉は健次の遺体の前に立つと、そっと両手を合わせ、それからためらわずに、顔を覆《おお》ったハンカチを取った。はっと喉《のど》をつまらせ、顔をそむける。しかし、それもほんの数秒間だった。泉は《く》唇《ちびる》をかみしめながら、目を健次の死体へ戻《もど》すと、今度は真っ直ぐにその顔を見降ろした。  長い沈《ちん》黙《もく》があって、泉は静かにハンカチを元通りかけると、肩で一つ息をついた。  「——佐久間さん」  「はい」  「警察へは?」  「親分がおいでになってから、と思いまして」  泉は頷《うなず》いた。  「ありがとう。そうしてくれてよかったわ」  「恐《おそ》れ入ります」  「もういいわ。警察へ連絡してください」  「はい。おい武、電話だ」  「へ、へい!」  と部《へ》屋《や》を出て行こうとする。  「何やってる! 電話はそこだ」  「あ、いけね」  泉は空いた椅《い》子《す》に坐《すわ》って、溢《あふ》れかけた涙《なみだ》を拭《ぬぐ》った。  「何とかしなくちゃ」  「はい」  「——この間、機《き》関《かん》銃《じゆう》を撃《う》ち込《こ》んで来たのは……」  「松の木組ですが」  「あそこじゃないの?」  「さあ……。浜口社長によく言い含《ふく》められてるはずですが」  「それにしても、続いて起こったんだから、疑われても仕方ないでしょう」  「それは確かに」  智生がそこへ口を挟《はさ》んだ。  「ねえ、泉さん」  「なあに?」  「ちょっと思ったんだが——いいかい?」  「ええ、もちろん。君たちにも手伝ってもらえれば大助かりよ!」  「やるとも!」  と周平が胸を叩《たた》く。  「俺《おれ》は一の子分——あ」  と佐久間に気づいて、  「二番目でいいや」  泉は微笑《ほほえ》んだ。  「で、竹内君、考えって何?」  「うん。——つまりね、こういう世界のことは僕《ぼく》もよく知らないんだけど、ああして、顔に硫《りゆ》酸《うさん》をかけるなんてのは、ただのいやがらせの殺人じゃないと思うんだけど」  佐久間が頷《うなず》いて、  「よく見ていなさるね。そうです。あんな事をするのは、相手から何かを聞き出そうとする時ですよ」  「拷《ごう》問《もん》?」  「そうです。一《いつ》滴《てき》、また一滴、とやるんで」  「ひどい!」  「そうなると、だね」  智生はあくまで冷静に話を進める。  「拷問されたってことは、それほどまでにして知りたい何かを、その人が知っていたってことになる」  「そいつは怪《あや》しいですな」  佐久間は首を振《ふ》って、  「奴《やつ》は、そんな大そうなこと知っちゃいなかったですよ」  「知っていなくたっていいんだ。向こうは、この人が知《ヽ》っ《ヽ》て《ヽ》る《ヽ》と《ヽ》思《ヽ》い《ヽ》込《ヽ》ん《ヽ》で《ヽ》たんですよ」  泉は眉《まゆ》を寄せて考え込んだ。  「分からないわ。——佐久間さん。この目高組に、そんな大秘密があるの?」  「さあ、少なくとも私の知ってる限りでは、ありませんな」  「こいつはちょっと大《だい》胆《たん》な推測なんだがね」  智生はメガネを直して、  「例の泉さんのお父さんの持っていたという〈包み〉は?」  泉はしばしポカンとしていた。  「——どういう意味?」  「いや、つまりね、もしお父さんの例の〈包み〉というのがどこかにあるんだとして、それを他の組がかぎつけたらどうなるだろう?」  「すると——」  「大変な金になる代物だろう? もしヘロインだとしたら、売る時にはうんと薄《うす》めてのばすから、金の塊《かたま》りみたいなもんだって聞いたよ」  「でもそれが目高組とどういう関係があるのよ?」  「ないさ。実際は何もない。でもね。他の組から見たらどうだい? 君のような若い娘《むすめ》が突然組長の座につき、しかも一躍、縄《なわ》張《ば》りも持たせてくれる。——こりゃおかしい、と思うんじゃないだろうか?」  「だから私がその〈包み〉を持ってて……」  「そのことを浜口って大親分へ知らせた。で、浜口のほうでもその薬の利益を手にするために君に特に縄《なわ》張《ば》りまで与《あた》えた、と……こう考えるんじゃないかね」  佐久間が不服そうに、  「〈包み〉ってのは何の話です?」  「あ、それはね——」  泉がかいつまんで事情を説明すると、佐久間はいきり立って、  「冗《じよ》談《うだん》じゃねえ! ウチはどんなに落ちぶれたって、ヤクなんぞにゃ手を出さねえ!」  「分かってるわよ、佐久間さん」  となだめて、  「でもなぜ〈包み〉のことが知れたのかしら?」  「そういう情報は早いもんだよ」  「そうね」  黒木も父のことを〈情報屋〉から聞いたと言っていた。すると当然、情報は裏の世界へも流れているのに違《ちが》いない。  「じゃ、今度の事件はみんなつながってるわけか!」  哲夫が声を上げる。  「そう偶《ぐう》然《ぜん》なんてあるもんじゃないよ」  「そういえばね、一つ知らせることがあったわ」  「というと?」  「あのマユミさんって、殺された人はね、偽《にせ》者《もの》だったの」  「ええ?」  泉は黒木と調べ歩いた経過を話した。  「あいつと一《いつ》緒《しよ》だったのか」  周平はすっかりムクれている。  「そんなことこの際問題じゃないだろ」  「何だと、哲夫、お前だって昨夜は、あいつが気に食わないって——」  「いや、それは話が違《ちが》う」  「どう違うってんだ!」  「やめてよ、二人とも!」  泉がにらみつけると、周平と哲夫は、シュンとなってしまう。  「そうなると、その女は、やっぱり〈包み〉目当てに?」  「まだ分からないけど。その可能性もあるってことね」  「そうだなあ。そう考えるほうが自然だろうね」  「じゃ、もしかして、健次さんを殺した犯人があの女を操ってたのかも——」  「ありうる話だね」  佐久間は腕《うで》組みをして考え込んだ。  「すると厄《やつ》介《かい》ですな、親分」  「え?」  「ヤクを欲しがってる連中はゴマンといますぜ。何もこの辺のシマの連中とは限りませんや」  「それはそうね」  「しかし、ここに電話して来たということは——」  「え?」  「いや、この電話、今日通じたばかりでしょう。ところが健次を殺した奴《やつ》らは、この電話へかけて来たんでさ」  「すると——」  「知らせてあるのは、本当にごく少数ですからねえ、まだ」  「もちろん電話帳にも載《の》ってないわ」  「そうなると犯人の可能性は絞《しぼ》られて来る!」  智生が目を輝《かがや》かせた。  「知ってるのは誰《だれ》と誰?」  「ウチの連中以外じゃ、浜口社長、所《しよ》轄《かつ》の警察、地元の大手の店。それに——松の木組」  「松の木組!」  「ええ。あんなことはあっても、隣《となり》のシマですからね」  「その松の木組って大きいの?」  「ええ、今のところはかなり羽《は》振《ぶ》りがいいようで」  「麻《ま》薬《やく》なんかに手を出しそう?」  佐久間は笑って、  「当節、のし上がろうと思えば、みんな何でもやりますよ」  「情報だって早く耳に入るに違いない。泉さん、ちょっとキナくさいね」  智生の言葉に佐久間は感心したように、  「いや、あんたは大したもんだ。いい幹《かん》部《ぶ》になりますぜ!」  智生は咳《せき》払《ばら》いをして、  「いや……しかし、ともかく、何の証《しよ》拠《うこ》もないのが問題だね」  「私が行くわ!」  泉が決然と言った。  「え?」  「私が松の木組へ乗り込んで行って、話してくる」  佐久間が目を丸くして、  「親分! 何てことを! 無茶ですよ!」  「だって他に手がある? 警察が調べたってどうせ証拠なんて上がらないわよ。当たって砕《くだ》けろだわ」  「当たるのはいいけど」  智生が言った。  「砕けちゃおしまいだよ」 第三章 女親分、乗り込む! 1  「来たぞ」  哲《てつ》夫《お》が周《しゆ》平《うへい》のほうを振《ふ》り向《む》いて、言った。  「どれだ?」  周平が哲夫の肩《かた》越《ご》しに首をのばして、電話ボックスの陰《かげ》から道路を覗《のぞ》く。  「あの赤いカーディガン着た奴《やつ》さ。間《ま》違《ちが》いないよ」  「あれで男か? 女じゃねえのか?」  「男だよ」  「へっ! 女の出来そこないめ!」  「いいから、文句言ってないで、早く支度しろよ」  「できているよ」  「大《だい》丈《じよ》夫《うぶ》か? どうやるか分かってんだろうな?」  「任しとけって」  周平は胸を一つ叩《たた》いて、  「こう見えたってな、小学校の学芸会でちゃんと舞《ぶ》台《たい》に出たことあんだぜ」  「へえ。何の役で?」  「大きな岩の役で、ずっと坐《すわ》ってたんだ」  ——二人のいるほうへ、ひょろりとノッポの、やせた少年が歩いて来る。周平が女じゃないかと毒づいたのも無理からぬことで、髪《かみ》は優に肩へかかるほど長く、しかもよく手入れされているのだろう、つややかで、しなやか。シャンプーのCMに出たっておかしくない。加えてマシュマロのようなポテッとしたなまっ白い童顔、赤いカーディガン。水色のスラックス。歩き方まで心なしかなよなよとなまめかしい。  関《せき》根《ね》正《まさ》明《あき》、十五歳《さい》。——哲夫と周平は、もう一時間近くもこの少年を待ち構えていたのだ。  「よし、行け!」  哲夫がポンと周平の肩を叩く。周平は新聞紙の包みを抱《だ》きかかえるようにして電話ボックスの陰《かげ》から飛び出した。  「あ!」  「おっと!」  出会い頭、周平は少年にぶつかってよろけた。本当なら少年のほうが転《てん》倒《とう》しているはずだが。そこは周平の熱演である。周平の手から、よろけた拍《ひよ》子《うし》に新聞紙の包みが落ちた。——ガシャン! 派手に瀬《せ》戸《と》物《もの》の砕《くだ》ける音!  「た、大変だ!」  周平はかがみ込んで、慌《あわ》てて包みを開く。バラバラになった陶《とう》器《き》の破片がこぼれ落ちた。  「ああ……どうしよう? 大事な茶《ちや》碗《わん》が——」  と周平は頭をかかえる。いささかオーバーな演技だが、上出来の部類だ、と見ている哲夫は必死で笑いをかみ殺した。  一方、関根正明少年のほうは事の成り行きにただ呆《ぼう》然《ぜん》とたたずむばかり。周平のほうは、すっくと立ち上がり、  「おい、貴様!」  と正明少年をにらみつけて、「どうしてくれるんだ! このざまを見ろ!」  正明少年はおどおどしながら、  「そんなこと言ったって……君のほうが……」  と果《か》敢《かん》な反《はん》撃《げき》を試みたが、次の瞬《しゆ》間《んかん》、周平にぐいと襟《えり》首《くび》をつかまれると、途《と》端《たん》に口をつぐんでしまった。  「やい! いいか、これはな、大変な値打物なんだぞ。これだけで何十万の品なんだ」  本当のところは、デパートの粗《そ》品《しな》の中でデザインの気に入らないのを何枚か泉《いずみ》が持って来たのである。  「べ、弁《べん》償《しよう》するよ」  少年のほうは早くこの場から逃《に》げ出したい一心なのだ。  「パパに言って、あとで必ず——」  「馬《ば》鹿《か》野《や》郎《ろう》! 金さえ出しゃ何でもすむと思ってやがるのか」  「そ、それじゃどうしたら……」  「俺《おれ》と一《いつ》緒《しよ》に来い」  「一緒に?」  「そうさ。茶《ちや》碗《わん》がどういう事情で壊《こわ》れたかを説明してくれよ。さもないと俺の言い逃《のが》れだと思われるからな」  「でも、僕《ぼく》、ちょっと急ぐんだけど——」  「いやだってえのか!」  「わ、分かったよ」  と少年が震《ふる》え上がる。  「よし。なに、すぐ近くだ」  と周平が促《うなが》すと、正明少年が渋《しぶ》々《しぶ》歩き出した。哲夫は電話ボックスの陰《かげ》で、二人をいったんやりすごしてから、少し距《きよ》離《り》をおいてついて行った。気が変わって少年が逃《に》げ出そうとすると困るからだ。  角を曲がったところに例のオンボロ車が停《と》めてあり、周平と正明少年が近づいて行くと、ドアが開いて、佐《さ》久《く》間《ま》が降り立つ。  「関根正明さんで?」  佐久間が訊《き》くと、正明少年は何だかわけが分からぬ顔で肯《うなず》いた。  「じゃ、どうぞ乗ってください」  「え?」  少年は目を丸くして、「でも——」  「とっとと乗れ! この野郎!」  と周平が少年を車へ強引に押《お》し込む。  「き、君たちはいったい——」  「黙《だま》れ! おとなしくしてりゃいいんだ!」  狭《せま》い車内で佐久間と周平に挟《はさ》まれて、正明少年は心細い表情でシートに沈《しず》み込《こ》んだ。  無事車へ乗せたことを確認すると、哲夫は電話ボックスへ戻《もど》り、目《め》高《だか》組の事務所にかけた。  「もしもし」  「やあ、どうだい?」  と電話に出た智《とも》生《お》が訊いた。  「今のところ、予定どおり進んでるよ」  「よし」  智生はこの計画の立案者として、総《そう》監《かん》督《とく》的な立場だった。  「それじゃ泉さんへ連絡するからな」  といったん切ってから智生は、ある喫《きつ》茶《さ》店《てん》へと電話をかけた。  「——もしもし。客の星《ほし》泉さんをお願いします」  ややあって、泉の声が聞こえて来る。  「やあ、どんな具合?」  「予定どおり行ったよ」  「そう! じゃ、ええと、今一時四十五分ね」  「四十六分だ。二時きっかりにかけさせるからね」  「分かったわ」  「泉さん」  「何か?」  「——気をつけてね」  「ありがとう」  電話が切れると、智生は憂《ゆう》鬱《うつ》な表情で、じっと時計を眺《なが》めた。計画は頭の中の、いわば遊びだ。実行してみれば、意外なことが起こって来る。考えてもいなかった結果になり、悔《く》やんでももう遅《おそ》いのだ。——危険すぎたんじゃないだろうか。智生は不安をどうしても拭《ぬぐ》いきれずに、手にしたボールペンで机《つくえ》を叩《たた》き続けた。  泉は喫《きつ》茶《さ》店《てん》を出た。クリーニングを終えたばかりの、セーラー服姿だ。  新興住宅地の一角で、まだ、そこここで、ブルドーザーが土を掘《ほ》り、大型ダンプが砂《すな》煙《けむり》を巻き上げながら走っている。まだ舗《ほ》装《そう》されていない砂利道を辿《たど》って二、三分歩くと、マンションの建築現場へ出た。  「ここだわ……」  だだっ広い敷《しき》地《ち》はまだ整理の最中で、工事は初期の初期という段階だ。敷《しき》地《ち》の奥《おく》に、プレハブの二階建ての建物が見える。あそこに、松《まつ》の木《き》組の組長、関《せき》根《ね》がいるのだ。泉は大きく一つ息をついて、工事現場へと足を踏《ふ》み入れた。  ——セーラー服姿が、男たちの目をひかぬはずはない。口《くち》笛《ぶえ》が鳴り、笑い声が耳に入ったが、泉はいっさい気にせず、目ざす建物へ一直線に進んで行った。建物の入口に、組員らしいヤクザが数人たむろしていて、泉が近づいて行くと、互いに顔を見合わせながら泉の前に立ちはだかった。  「よお、姉ちゃん、何か用かい?」  「関根さんにお会いしたいんです」  「組長に? あんた、組長のイロかい?」  そう言って男が笑った。  「私は目高組組長、星泉です」  男たちの態度がガラリと変わった。  「おめえがそうか……。噂《うわさ》は聞いてるぜ」  「関根さんに取り次いでください」  「——待ってな」  一人が建物の中へ姿を消すと、残りの男たちがゆっくりと泉を取り囲んだ。  「これが組長かよ」  「ガキじゃねえか」  「おい、そんなこと言っちゃ失礼だぜ。仮にも親分だからな」  「そうよ。なかなか可《か》愛《わい》い顔してるぜ」  「俺《おれ》の好みじゃあねえな」  「やせっぽちすぎらあ。胸だってぺちゃんこじゃねえか」  「いや、結構いい体してるかもしれねえぞ。脱《ぬ》がせてみなきゃ分からねえさ」  「とり澄《す》ましたツラしやがってよ。どうせ売春でもやってやがるんだろう」  泉はただの雑音として聞いていた。いちいち腹を立てていたらきりがない。さっき中へ入って行った男が顔を出して、  「入んな」  と顎《あご》でしゃくる。泉は足早に中へ入った。  プレハブの二階に、関根の部《へ》屋《や》がある。泉が入って行くと、関根はじっと物《もの》珍《めずら》しげに眺《なが》めた。  「星泉です」  「そこへ掛《か》けな」  関根は五十歳ぐらいか、労務者風の逞《たくま》しい体、陽《ひ》焼《や》けしてギラギラするような顔だった。作業服を着ているのがよく似合った。  「いい度《どき》胸《よう》だな、ええ?」  「どういう意味でしょうか?」  「ウチの連中が、お前さんのことをどう思ってるか、知らんわけでもあるまい」  「先日、丁《てい》寧《ねい》なご挨《あい》拶《さつ》をいただきましたから」  「無理もないさ。いきなりシマを削《けず》られて、そっちへ持って行かれたんだからな。若い連中は、殴《なぐ》り込《こ》みをかけると言って聞かなかったが、わしが何とか止めたんだ」  「今日伺《うかが》ったのは、その件じゃありません」  「何だ?」  「組員の一人が殺されたのはご存じですね」  「ああ。新聞で読んだ」  泉はじっと関根の目を見《み》据《す》えた。  「そちらの方ではないでしょうね」  関根がジロリと泉をにらみ直す。  「言いがかりをつけに来たのか」  「確かめに来ただけです」  「ウチの若い者にはよく言い含《ふく》めてある!」  「先日の機《き》関《かん》銃《じゆう》の件はどうなんです?」  「おい! 俺を何だと思ってるんだ!」  関根がドンと机を手で叩《たた》いた。それが合図だったかのようにドアが開き、さっき表にいた男たちがゾロゾロと部《へ》屋《や》へ入って来た。  「おい、この生意気な小娘に礼《れい》儀《ぎ》を教えてやれ」  泉は腕時計を見た。二時。早く! 早く電話を! 二人の男に両腕を取られて、泉は否応なしに部屋から引きずり出されそうになった。  電話が鳴った。  泉がほっと息をついた。関根が受話器を上げる。  「はい、関根だが。……やあ、こりゃどうも久しぶり……」  泉の顔色が変わった。    哲夫が受話器を手に、佐久間たちのほうを振《ふ》り向いた。  「お話し中だ」    泉は手足を男たちに取られて、まるでみこしのように、かつぎ上げられた。必死で暴《あば》れてみても、とてもかなわない。  「おい! みんな来い!」  現場の連中も続々と駆《か》けつけて来る。男たちは泉を外へかつぎ出すと、基《き》礎《そ》固め用に掘《ほ》った、五メートル四方、深さ三メートルほどの穴の縁《ふち》へ運んで行った。  「放して! 放してよ!」  泉は必死で手足をバタつかせる。  「放してやるぜ。そら!」  急な斜《しや》面《めん》へ投げ出された泉は、そのまま穴の底へと一気に転がって行った。    「まだか!」  佐久間が苛《いら》々《いら》と叫ぶ。哲夫のダイヤルを回す手が汗《あせ》ばんでいる。  「——まだ、だめだ」    泉は、やっとの思いで立ち上がった。膝《ひざ》や手が土まみれで、ひどくすりむけて血が出ている。穴の周囲に男たちが立って、笑いながら見降ろしている。——どうしようっていうのかしら?  突然背後でドドッと何かが崩《くず》れるような音がした。振《ふ》り返《かえ》って、思わず短い悲鳴を上げる。コンクリートだ! コンクリートミキサー車から、コンクリートが流し込まれているのだ。泉は後ろへ退《さ》がった。  「おい、組長さんよ!」  上の男が叫《さけ》んだ。  「コンクリート漬《づ》けになりたくなかったら服を脱《ぬ》ぎな! 裸《はだか》になったらコンクリートを止めてやるぜ!」  どっと笑いが起こった。    「畜《ちく》生《しよう》! こんな時に……」  お話し中の短い連続音を聞きながら、哲夫は電話ボックスの壁《かべ》を蹴《け》飛《と》ばした。  「痛えっ!」  「もう一度かけ直せ」  と佐《さ》久《く》間《ま》が言った。さすがに緊《きん》張《ちよう》した表情になっている。  「え、ええ……」  いったん受話器を置き、十円玉を返《へん》却《きや》口《くぐち》から取り出してもう一度……。  「しまった!」  ダイヤルを回す指が途《と》中《ちゆう》で外れてしまった。哲夫は手の汗をズボンで拭《ぬぐ》った。    まだ電話はかからないのかしら……。  「おい、何してんだ! 死にたいのかよ!」  「早く脱《ぬ》げ!」  男たちが口々に叫《さけ》ぶ。泉はじわじわと足下へ迫《せま》って来るコンクリートから逃《のが》れて、とうとう角へ追いつめられた。斜面をよじ登れないことはないが、どうせ行きつかない内に、上の男たちに突《つ》き落とされるに決まっている。そんなみっともないざまだけは見せたくない。  本当にこのまま殺すつもりだろうか? まさか、そんなことはあるまい。見ているのは松の木組の組員だけではない。現場の作業員だって混じっている。全員が殺人の共犯になるつもりではあるまい。そう思うと、腹がすわった。もうコソコソ逃《に》げ回ったりしないぞ! そうだわ。諦《あきら》めてしまえば、かえって運が開けるかも……。  「待て!」  怒《ど》鳴《な》り声が聞こえた。男たちが静まり返る。  「止めろ! コンクリートを止めろ!」  関根の声だ! 慌《あわ》てふためいている。やった! 泉は肩で息をついた。  「引っ張り上げろ! 早くしろ!」  「でも親分……」  「ぐずぐずするな!」  関根がどす黒い顔をこわばらせて穴の縁《ふち》から泉を見降ろした。泉がキッと見返す。ロープが投げられ、泉はそれをつかんで、楽々と斜面を上がって来た。  「手を出すな、いいか!」  関根が男たちをにらみ回してから、泉のほうを向いて、  「——電話に出てくれ」  「ええ。いいですよ」    「泉ちゃん! 大丈夫かい? ずっとお話し中で——」  「ええ、大丈夫。何も問題ないわ。このまま受話器は外しておくから、聞いていてね」  関根は苦虫をかみつぶしたような顔で、  「倅《せがれ》をつかまえるとは汚《きた》ねえぞ!」  「若い娘をあんな目にあわせるのはどうなんですか」  関根は黙《だま》ってしまった。  「質問に答えていただけますね」  「何が訊《き》きたいんだ?」  「さっき言ったとおりです。ウチの組員を殺したのは、おたくの人じゃないんですか?」  「違《ちが》う!」  「いいですか、ただの殺され方じゃなかったんですよ。その前に顔に硫《りゆ》酸《うさん》をかけられ、目もつぶされていたんです……。松の木組がそんなひどいことを——」  「ウチの奴《やつ》らじゃないんだ!」  泉は関根の口調に、ふと妙《みよう》な響《ひび》きを聞き取った。  「じゃ、誰《ヽ》が《ヽ》やったのか、ご存じなんですね?」  「知らん! そんなことは——」  「隠《かく》すんですか。それなら息子さんの安全は保障しませんよ!」  怒《おこ》るかと思えば、逆に関根は何やら考え込《こ》んでしまった。何か知っているのだ。  「——分かった。話そう」  関根は諦《あきら》めたようにため息をついて、  「しかし殺した奴《やつ》は知らん。本当なんだ」  「ともかく話を聞きましょう」  「ウチの若いのが二人、あの晩、飲みながら目高組をやっつけてやると気勢を上げていた。そこへ見たことのない男が声をかけて来て、酒をおごったあげく、目高組の一人に恨《うら》みがあるから、痛い目にあわせるのを手伝ってくれないかと言い出したんだ。二人は一も二もなく承知した。そして男に頼《たの》まれたとおり、目高組の一人を待ち伏《ぶ》せして車へ連れ込んだ……」  「それで?」  「ウチの奴らが知ってるのはそれまでさ。その男は二人にタップリ金を握《にぎ》らせて、あとは一人でやるからと、別れたそうだ。ところが翌日新聞で殺されたことを知ったもんで、ウチの二人がブルっちまってな。様子がおかしいってんで問いつめると、それをしゃべったんだ。——困った話だが、サツへ名乗り出りゃ共犯てことになる。知ってのとおり、サツのほうは俺《おれ》たちにゃ冷たいからな。よほど大物になりゃともかく」  「その仕事を頼んだのはどんな男だったんですか?」  「二人ともえらく酔《よ》ってたし、よく憶《おぼ》えちゃいねえらしい。俺も詳《くわ》しくは聞かなかったんだが……」  関根は肩をすくめて、  「知ってるのはこれだけさ。本当だ!」  泉はじっと考え込んだ。どうやら本当らしい、という気はしていた。これからどうするか。受話器を取って佐久間に指示してもらうか? いや、だめだ。私《ヽ》が《ヽ》組長なんだもの、今、せっかくこうして相対している時に、他人の指示を仰《あお》ぐなんて、相手になめられるだけだ。  「——分かりました。信じましょう」  「じゃ、息子を放してくれ!」  「いえ、まだです」  「何だと!」  「その二人を連れて来てください。目高組の事務所まで」  「そいつは……無理だ!」  「何も危害は加えません。私がお約束します」  「しかし……他の組員が動《どう》揺《よう》する。分かってくれ! 俺《おれ》の体面ってものがあるんだ」  それはそうかもしれない。泉は譲《ゆず》った。  「分かりました。じゃ二人とどこか他の場所で会えるように手配してもらいましょう」  「それが……」  「何です?」  「つまり、あの件があったんで、今二人には謹《きん》慎《しん》させてるんだ」  「じゃ二人のいるところを」  関根は諦《あきら》めたように頷《うなず》くと、机からノートを取り出し、メモ用紙に住所と名前を写した。  「——これだ。くれぐれも二人に手を出さないでくれ」  「ええ、約束します」  泉はメモ用紙をしっかりと握ると、机の上の受話器を手にした。  「もしもし、佐久間さん? 聞こえた?」  「よくやりなすった、親分」  佐久間の声が心なしか震《ふる》えている。  「ご立派でした!」  「ありがとう。じゃ事務所で。私が戻《もど》るまで、お客様を大切にね」  泉は電話を切ると、  「事務所へ着いたら、息《むす》子《こ》さんはお帰しします」  「車で送らせよう」  「ありがとう」  泉は立ち上がって、  「あなたもこの二人のことを警察へ知られてはまずいんでしょう。妙《みよう》な仕返しは考えないでください」  「分かってる。これでおあいこだな」  「でも……健次さんは死にました!」  関根は重苦しい顔で頷《うなず》いた。  「誰《だれ》がやったのか……。俺《おれ》はあんなひどい真《ま》似《ね》はさせねえ」  関根と泉は建物を出た。組員たちが戸《と》惑《まど》った顔で遠巻きにしている。関根が若い者に車の用意を言いつけてから、  「——しかし、あんたは無茶な娘《むすめ》さんだ」  「今の私は目高組・組長です」  「年《と》齢《し》は?」  「十七です」  関根の、泉を見る目は、今はすっかり変わっていた。  「大したもんだよ。いい度《どき》胸《よう》と落ち着きと……。ウチの組にほしいくらいだ」  車が来た。関根が自らドアを開けて、泉を乗せた。  「お邪《じや》魔《ま》しました」  泉は軽く会《えし》釈《やく》した。車が走り去るのを、まだ夢でも見ているような目つきで、関根は見送っていた。    「親分!」  「泉ちゃん!」  事務所へ入って行くと、みんながいっせいに立ち上がった。  「——どうしたの? 何かあったの?」  泉は初めて自分の格好に気がついた。セーラー服は泥《どろ》だらけ、手や膝《ひざ》はすりむいてしまったし。——またクリーニングに出さなきゃ。  「何かされたんですか、親分!」  佐久間が殺気立った口調で訊《き》いた。  「いいえ、何でもないの、転んじゃっただけなのよ」  泉はホッと息を吐《は》き出すと、そのまま床《ゆか》へ崩《くず》れるようにして倒《たお》れて、気を失ってしまった。 2  「へえ、訊かれたことは、何でも答えるように親分から言われております」  その二人はいとも神《しん》妙《みよう》にうつむいて坐《すわ》っていた。兄《あに》貴《き》分《ぶん》のほうが元《げん》といって、ややおどおどした気の弱そうな小男。弟分のほうは、これまた剛《つよし》といって、文字どおり柔《じゆ》道《うどう》でもやっていそうな体つきの男だ。まだ二人とも、せいぜい二十二、三といったところだろう。  「何もお前らをどうこうしようっていうんじゃねえ」  佐久間が言った。  「その点は心配するな」  「へえ……」  「だがな、お前らが酔《よ》った勢いで馬《ば》鹿《か》な真《ま》似《ね》をしたばっかりに、俺の弟分は顔に硫《りゆ》酸《うさん》を浴びて死んだんだぞ。そいつをよく憶《おぼ》えとけ!」  「へい!」  佐久間の声はさすが鍛《きた》えられてドスがきいている。やっぱり、ちょっと違《ちが》うわね、と泉は感心した。  場所はにぎやかな繁《はん》華《か》街《がい》の喫《きつ》茶《さ》店《てん》だった。妙《みよう》に人気のない場所を選ぶと、二人が恐《おそ》れをなして出てこないのではないかと思ったのだ。こちらも佐久間と泉の二人。もっとも、表には万一の用心に英《ひで》樹《き》と武《たけし》が見張りに立っている。  「お前らに訊《き》きたいのは、その仕事を頼《たの》んだ奴《やつ》のことだ」  「それが……親分にも申し上げたんですが、俺《おれ》たちもえらく酔《よ》ってたもんで、よく憶えちゃいないんでさ」  と元という兄貴分のほうが頭をかく。  「な、剛、お前のほうがアルコール強いだろ。何か憶えてねえか?」  「アルコールにゃ強いけど、頭のほうはからきしだもんな。俺もよく憶えてねえよ」  「何でもいいんだ! 何かあるだろう?」  「ええと……男でしたがね」  佐久間はため息をついた。  「年《と》齢《し》は?」  と泉が代わる。  「若いか、老人かぐらい分かるでしょ?」  「いや、じいさんじゃなかったな。なあ?」  「ああ、そんなに年《と》齢《し》くっちゃいねえ」  「あなた方と同じくらい? それとも上?」  「上だった——と思うけど」  「ねえ、よく考えてみて。その男は最初に何といって声をかけてきたの?」  「ええと……『やってるね、君たち』かな」  「いや兄《あに》貴《き》、『君たち』じゃねえよ、『兄さんたち』だよ」  「そうだったか?」  「そうだよ。俺、『兄さん』て呼ばれていい気分だったの憶えてんだもの」  「で、服《ふく》装《そう》は?」  「ええと……」  二人はしばし絶句してから肩《かた》をすくめた。万事この調子で、どうでもいいことは思い出すが、肝《かん》心《じん》のことは何一つ憶えていないのである。佐久間もお手上げといった様子で、二人を解放した。  「参りましたね!」  「本当ね。——男で、そう年寄りでもなく、若くもなく……。それしか分からないんじゃね。いくら何でも……」  「捜《さが》しようがありませんな」  二人が首を振りながらコーヒーを飲んでいると、外で見張っていた二人のうち、武のほうが喫《きつ》茶《さ》店《てん》へ駆《か》け込んで来た。  「兄《あに》貴《き》!」  「何だ? 何かあったのか?」  「何か妙《みよう》な野郎があの二人のあとをつけて行きましたぜ」  佐久間と泉は顔を見合わせた。  「もし犯人があの二人に顔を憶《おぼ》えられてると思ってるとしたら……。あの二人を消そうとするかもしれないわ」  「おい、武、そいつは——」  「英樹がそいつのあとをまた追ってまさあ」  「よくやった!」  「行きましょう」  喫茶店を飛び出すと、二人は、武について、あの二人組と怪《あや》しい男の行った道を急いだ。英樹の姿がずっと前の人《ひと》込《ご》みにチラチラ見えている。  「あそこだ!」  三人は通行人の間をかき分けて走った。  「英樹!」  「あ、兄貴、あそこですよ、ほら!」  見れば、さっきの元と剛という二人組が、タバコ屋でタバコを買っている。  「その妙な奴《やつ》ってのは?」  「そいつはほら、あのウインドーの——」  と指さしかけて、  「あれ?」  「どこだ?」  「いや、つい今までいたんですが……」  「馬《ば》鹿《か》野郎! どこに目をつけてんだ!」  「いえ、本当に、今兄貴たちが来て振《ふ》り返るまでは目を離《はな》さなかったんですよ」  「じゃ遠くへ行くはずはねえ」  「私たちに気づいたのかしら?」  「どうでしょうかね。この人《ひと》込《ご》みだけど」  「どんな男だったの?」  「ええと、紺《こん》の背広を着た奴で」  「紺の背広着た奴なんていくらでもいるぞ」  と佐久間がいらいらと言った。  「顔のほうは?」  「それが後ろ姿しか見てなくって……」  「全く、どうしてどいつもこいつもドジなんだ!」  「ちょっと待って!」  泉は考え込みながら、  「その男はあのウインドーの前にいたの?」  「ええ」  「じゃ、あんな短い間にそう動けるわけはないわ。ほら、右も左も出口になるような通路はないんですもの」  「そりゃそうですが……」  「あの店に入ったんだわ、きっと」  「なるほど。——しかし肝《かん》心《じん》の二人を見失いますよ」  「だから、やっぱり私たちに気づいたのよ。あの二人を追うのは諦《あきら》めて、今度は自分が逃《に》げることを考えたんだわ」  「じゃ。さっそくあの店へ——」  「あなた方は入らないほうがいいわ」  「どうしてです?」  泉はクスッと笑って、  「その男もきっと中で困ってるでしょうね。女性の下着の店じゃ、ね」    泉はショーウインドーのわきの自動ドアから店の中へ入った。ガードルやらパンティストッキングをつけたマネキンが出《で》迎《むか》えている。中には二、三人の客がいるだけだった。一目で見渡せる広さだ。——男はいない。ショーケースの奥で中年の逞《たくま》しい女店員が手持ちぶさたにしている。どこにも隠《かく》れられそうなところはない。  「見当違いだったかな……」  あきらめきれずに店の中をブラついてみる。店の奥《おく》へ通じる出入口があって、カーテンが閉まっている。しかし、普通の客——しかも男なんかをあそこへ入れるはずもあるまい。店員に訊《き》いてみるか? でも店員に怪《あや》しまれるのがオチかもしれない。  体裁が悪いので、表へ出ている特価品のスリップを何となく手にしてみる。——突《とつ》然《ぜん》、《り》両《よう》腕《うで》をガッシリつかまれた。  逞しい女店員が怪《かい》力《りき》で泉を押《おさ》えつけてしまった。  「何するのよ! 放して! いったい何の——」  「逃がさないよ! この万引女め!」  「万引?」  「そうとも! もう観念しな。刑《けい》事《じ》さん!」  と店の奥へ呼びかける。  「刑事さん?」  「そうとも、ちゃんと注意してくれたんだ。もうすぐ入ってくる若い娘《むすめ》に気をつけろってね。奥で待ち構えてるのさ! 刑事さん! つかまえたよ!」  「馬《ば》鹿《か》ね! それは偽《にせ》者《もの》よ!」  「何言ってんだい。ごまかそうたってそうはいかないよ!」  えい、面《めん》倒《どう》だ。泉は狙《ねら》い定めて、女店員の足を思い切り踏《ふ》みつけてやった。キャッと叫《さけ》んで手を放した隙《すき》に、突き飛ばしておいて、店の奥へ。——裏へ出るドアが開いている。泉は所狭《せま》しと積み上げられた在庫の箱のすきを縫《ぬ》ってドアから外へ出た。  狭い露《ろ》路《じ》にはもうとっくに男の姿はない。泉は《く》唇《ちびる》をかんだ……。    「何て頭のいい奴《やつ》だろう!」  佐久間が話を聞いてため息をついた。  「あの女店員大《おお》騒《さわ》ぎしてたでしょ」  「ええ。こっちも、どうなっちまったのか心配でね」  「あの女店員に男の人相訊《き》きに行くわけにもいかないしね」  と泉は肩をすくめて、  「お手上げねえ。せっかく命を張って松の木組へ乗り込んだのに」  泉はふと思いついて、「ねえ……。さっきの男、まだあの松の木組の二人を狙うかしら?」  「そうですね。あれだけのやつだ。そう簡単には諦《あきら》めませんよ。きっと」  「じゃあの二人を見張りましょう。居場所は分かってるんだから」  「それがいい! おい、武と英樹は二人で一《いつ》緒《しよ》に見張るんだ。俺《おれ》が交《こう》替《たい》する」  「へい。——いつからですか?」  「今すぐだ!」  武と英樹は住所のメモを手に、すっ飛んで行った。  「でも佐久間さん、一人で大《だい》丈《じよ》夫《うぶ》?」  「平気ですとも。あの二人合わせたよりゃ頼《たよ》りになる」  「それはそうかな」  そう言って、泉はいたずらっぽく笑った。  二人は夕《ゆう》暮《ぐ》れ時の公園に来て、ベンチへ腰《こし》を降ろした。  「お嬢《じよう》さん、おけがのほうは大丈夫ですか?」  「ええ、ちょっと赤チンだらけでみっともないけどね」  と泉は笑顔で言って、  「あら、〈親分〉じゃなくて〈お嬢さん〉なの?」  「おっと! いや、失礼しました」  佐久間は頭をかいた。  「つい、言っちまうんで……」  「でも当り前よね。私、自分だって、まだ夢《ゆめ》じゃないかと思うもの」  「しかし、驚《おどろ》きましたよ」  「何が?」  「いや……最初引き受けていただいた時、こんなに立派におやりになるとは思いませんでしたからねえ……。本当にありがたいと思っております」  「あら、私は名目上いるだけよ。あなたがいなかったら、私なんて何もできない」  「名目なんて、とんでもねえ! 立派な親分ですよ」  「でも、私が組長になったせいで、健次さんが死んだし、他にもあの恒美っていう女の人、ガードマン……。ずいぶんいろいろとあったわ」  「それはお嬢《じよう》さんのせいじゃありません。——おっと、また言っちまった!」  「いいのよ。言いやすいほうで。——そうね、日が暮《く》れたら〈お嬢さん〉にしてもらおうかな」  二人は軽く声をたてて笑った。  「——私、聞いてなかったけど、佐久間さん、奥さんは?」  「やもめですよ」  「じゃ亡くなった……」  「出入りのとばっちりでね」  「まあ」  「——それでもまだ足を抜《ぬ》けないんですからねえ。つくづく馬《ば》鹿《か》だと思いますよ」  泉は、ビルの谷間に見る見るうちに落ちて行く秋の夕《ゆう》陽《ひ》を眺《なが》めながら、こういう世界の人には、こんな時間が一番ふさわしい、と思った。  「しかしお嬢さんはいいお仲間をお持ちですねえ」  話題を変えて、佐久間が言った。  「え? ああ、あの三人のこと?」  「みんなお嬢さんのためなら火の中、水の中ってところじゃないですか」  「みんな若いから……。それに学校は受験、受験でしょう。何かこう救いになるようなものがほしいのね」  「……時々、お嬢さんには驚かされますな」  「どうして?」  「えらく、こう——さめてるというか、溺《おぼ》れない、というか」  「気どってるだけ。女の子には人気ないんですもの、私。同性に人気がない人は本当にいい人じゃないっていうでしょ」  「しかしそれは無理もないですね。美人には嫉《しつ》妬《と》しますからね、女は」  「あら、佐久間さんはそんなお世辞は言わない人かと思ってた、私」  「私は正直な人間ですよ」  「そう言われると困るわね。嘘《うそ》でしょ、とも言えないし」  泉は笑いながら、この陰《かげ》のある中年のヤクザに、深い優しさを見た。優しさ。そして、厳しさ。——この人が、こんな世界でなく、もっとま《ヽ》と《ヽ》も《ヽ》な世界に生きていたら、とふと泉は考える。きっと父のような人になっていたかもしれない……。    マンションに戻《もど》ると、ちょうど電話が鳴っていた。  「はい星です」  「あ、やっといたね」  「黒《くろ》木《き》さん。お電話いただいたんですか?」  「ずっとかけてたんだよ」  「すみません。今日は忙《いそが》しくて……」  「松の木組で大見得を切ってきたそうだね」  「あら! どうしてそんなこと……」  「地《じ》獄《ごく》耳《みみ》でね。組長さんも大変だな。でも気をつけないと、足をコンクリートに固められて沖《おき》へ投げ込《こ》まれるなんてことになるよ」  「もう、なりかけました」  「ええ?」  「いえ、何でもないんです。何か分かりまして?」  「それで連《れん》絡《らく》しようと思ってたんだがね、実はマユミらしい女性が連絡してきたんだ」  「本当ですか!」  「うん。女性のカメラマンでね。今流行のキャットウーマンとかいう奴《やつ》だ」  「キャリアウーマンですか」  「ああそうか。——ともかくここしばらく外国へ行ってたらしいんだよ。で、事件のことも全く知らず、ってわけさ」  「そうだったんですか……」  「で、今から会いに行こうかと思ってるんだが、行くかね?」  「はい、行きます!」  「じゃ車で迎《むか》えに行く。どこかで夕食でもとってから行こうよ」  「ええ」  「じゃあとで」  泉は、黒木の声を聞いて、急に体の疲《つか》れが抜《ぬ》け落ちて行くような気がした……。  マンションの中は、まだかなり乱雑だが、一応何とか住める程度には片づけた。恒美という女が殺された部《へ》屋《や》にはちょっと入る気がしないが、そういつまで気味悪がっていても仕方ない。そういう点はきっぱり割り切れるのが現代っ子というものである。  マンションの管理会社のほうで、鍵《かぎ》を取り換《か》えて二重にしてくれたし、下の受付のガードマンも当分常時二名置くことになった。まあ当面は危ないこともあるまい。泥棒に二回入られ、殺人が二件あったんだもの、もうこれ以上は、当分何も起こらないだろう……。  ちょっと大人びたワンピースに着《き》替《が》えてみて、あ、と気づいた。膝《ひざ》の傷テープの目立つこと。  「やれやれ……」  顔に傷がつかなかったのがせめてもの幸いだわ。泉はパンタロンスーツに着替えると、洗面所へ行き髪《かみ》をとかした。自分の部《へ》屋《や》の鏡《かがみ》は例の泥棒に割られてしまったのだ。  ブラシを、また使うたびに部屋から持って来るのも面《めん》倒《どう》なので、鏡を開いて、中の棚《たな》へ置いた。——父が使っていた化《けし》粧《よう》品《ひん》がまだそのまま残っている。  「あら——」  国産のローションのびんが目にとまった。変ね、急いで支度をしながら、泉は思った。パパはいつもアラミスしか使わなかったのに……。 3  「もう食べないの?」  黒木が不思議そうに泉の顔を見た。  「ええ、もう結構」  「この間はもっと食べたのに……」  と心配そうに、  「具合悪いのかい?」  「ちょっと、ね」  「どこが悪いの?」  「あなたの《ふ》懐《ところ》具合」  黒木はポカンとして、それから声を上げて笑った。  「——悪いやつだなあ、人をからかって」  「ごめんなさい」  「そりゃね、刑事なんて薄《はつ》給《きゆう》だけど、別に普《ふ》通《つう》のレストランで払《はら》う金ぐらいあるんだよ」  「マキシムは無理でしょ?」  「一度そういうところで張り込んでみたいよ。公費で出るからね」  「何かわびしい感じですね」  「刑事なんてわびしいもんさ。本当にもう何も食べないの?」  「ええ、本当言って、あまり食欲ないんです。そのマユミさんって方にお会いすると思うと」  「ああ……分かるよ」  「何時頃《ごろ》行くんですか?」  「九時まで仕事なんだとさ。そのあとにしてくれって。明日の朝は、って訊《き》いたら、起きるのは午後三時頃だそうだ」  「まあひどい」  「いや、ああいう連中の感覚はさっぱり分からんよ」  黒木はタバコをくわえて、  「あ、喫《す》っていい?」  「ええどうぞ」  「それじゃ……。最近はタバコ喫うと嫌《いや》な顔されることが多くてね」とライターを取り出す。  「あら、ダンヒル。パパも同じでした」  「もらい物なんだ。僕《ぼく》の月給じゃ手が出ないよ」  「パパは外国品愛用なの。外国で生まれた物は外国の製品がいいに決まってるって、頑《がん》固《こ》に信じてたんです。いくら日本製のほうがいいってデータがあってもだめなの」  「それも一つの見識だね」  「別に見せびらかそうとか、そんな目的じゃなかったんです。ただ、品質がいいからって使ってただけで」  国産品。——そういえば、どうしてアラミスの中に、一つだけ国産のローションが混じってたんだろう……。  「そうそう、松の木組での武勇伝を聞かせてくれよ」  「いやだわ。——今は十七歳《さい》の高校二年生ですもの。退学処分にはなったけど」  「いいじゃないか。どうしてあんな危ない真《ま》似《ね》までしたのか、聞きたいんだよ」  「——笑わないって約《やく》束《そく》する?」  「笑い事じゃないだろ」  そうなんだ。もうちょっとで命を落としかけたくらいだもの……。でも何となくおかしい。自分でもなぜだかよく分からないけど、何だか笑いたくなることがあるんだ。  泉は、健次が殺されたことから智生が引き出した推理を黒木に説明し、松の木組へ乗り込む決心をしたことを話した。そして松の木組での活《かつ》躍《やく》(?)はごく手短に済ませた。  「——なるほどね」聞き終えると、黒木は頷《うなず》いた。  「そこまでは考えなかった。君のブレーンは素《す》晴《ば》らしいね。刑事になる気があるかどうか訊《き》いてみてくれないかい?」  「竹《たけ》内《うち》君は頭がいいんです。でも、ぴったり二時に、違《ちが》う電話がかかって来るなんて、本当に偶《ぐう》然《ぜん》って分からないもんですね」  「百点満点の計画なんて、ありはしないのさ。最後は幸運をつかむかどうかの問題だよ。それで、松の木組の二人には会ったのかい?」  「え——ええ」  泉はためらった。関根との約《やく》束《そく》がある。警察にはしゃべらないことにしたのだ。  「……これは上司の方に相談なさるんでしょう?」  「どうして?」  「実は——約束したもんで。関根さんと」  「ああ、なるほどね。君も真《ま》面《じ》目《め》だね。あんな連中、自分たちは平気で約束なんか破るんだ。気にすることないよ」  「でも、そうはいきません!」  泉はきっぱり言った。  「目高組組長として、約《やく》束《そく》は守らなくちゃ」  黒木は微笑《ほほえ》んで泉を眺《なが》めた。  「いや、分かったよ。君のその気持ち、尊重しよう。なに、僕《ぼく》は別にその件の担当ってわけじゃない」  「約束してもらえますか?」  「厳しいね。よし、約束する!」  「破ったら?」  「君を一年間マキシムへご招待!」  泉は吹《ふ》き出した。  「——でも、たいしてお話しすることないんです」  二人の話の内容を聞いて黒木は苦笑いした。  「男で、じいさんでも子供でもなくて、か。たいした手《て》掛《が》かりだなあ」  「ただ、そのあとで、妙《みよう》な男が、二人のあとをつけてたんです。で、追ったんですけど……」  巧《うま》く逃《に》げられた顛《てん》末《まつ》を話すと、  「なるほど。頭の回る奴《やつ》だな」  「でしょう? きっとマンションへ忍《しの》び込《こ》んだのと同じ男だと思います。あの捜《さが》し方の徹《てつ》底《てい》ぶり。それと、今度の咄《とつ》嗟《さ》の逃《に》げ方の機転……。どことなく一つに重なる感じがして」  「確かにそうだね。よし、その下着屋の女は僕が当たってみよう。偽《にせ》刑《けい》事《じ》の顔を憶《おぼ》えてるかも……何がおかしいの?」  「だって……下着屋だなんて……。ランジェリー・ショップとか」  「ああ、なるほどね。いや僕は国産品愛用なんだ!」  そろそろ時間だった。二人は黒木の車に乗って、マユミという女のスタジオへと向かった。  「ガードマンを撃《う》った銃《じゆう》のことは、何か分かりました?」  「いや。残念ながら、だめなんだ」  「でも弾《だん》丸《がん》があれば銃の種類は分かるんでしょ?」  「弾丸は貫通して壁《かべ》へめり込んだ。犯人はご丁《てい》寧《ねい》にその弾丸を掘《ほ》り出《だ》して持ち去っているんだ」  「——憎《にく》らしい! 本当に落ち着いてるんですね」  「冷静な奴さ。いや冷《れい》酷《こく》というかな」  泉の脳《のう》裏《り》を、硫《りゆ》酸《うさん》で焼けただれた健次の顔がチラッと走った。——もし、私があんな目にあったら……。考えるだけで気を失いそうだ。泉は頭を振《ふ》って、  「——カメラマンの方、名は何というんですか?」  「岡《おか》崎《ざき》真《ま》由《ゆ》美《み》。女流カメラマンとしちゃ、ちょっと知られてるらしいよ」  「どんな人かしら……」  「もうすぐ分かるさ。すぐ着くよ」  夜の道を、もう十分ほど辿《たど》って、二人は、ごみごみした裏通りの一角で車を降りた。  「あれだ」  〈スタジオ・Q〉と小さな看板があった。    照明器材、小道具、ワイヤーなどで、足の踏《ふ》み場もない、とはこのことだ。  「まるで物置だな」  と黒木がブツブツ言った。  「あ、気をつけて。つまずかないように」  「大《だい》丈《じよ》夫《うぶ》です。——真由美さんはどこなのかしら?」  スタジオといっても、だだっ広い部《へ》屋《や》、というだけで、その方々をいくつかに仕切ってある。夏の浜辺と、冬の雪山が同居している、何とも奇《きみ》妙《よう》な光景だ。まだ同じスタジオの二、三箇《か》所《しよ》で撮《さつ》影《えい》中だった。  「おい、ライト!」  「レフ板持っててくれ!」  「だめだめ! もっとリラックスして!」  いろいろな声が響《ひび》く中に、一つ女性の声があった。  「あれらしいな」  声を頼《たよ》りに近づいて行くと、ライトを操作している長《ちよ》髪《うはつ》の若者がいた。  「ええと、岡崎真由美さんは……」  「今撮影中ですよ」  「待たせてもらっていいかね?」  「ええ、どうぞ。でもそこは邪《じや》魔《ま》だな。あっちへ回ってください」  「分かった」  あっちといわれたほうへ移動して、黒木が急に立ち止まって目を見張った。  「どうしたんですか?」  泉も追いついて、  「——あら」  皮ジャンパーにジーパン姿の女が、三台のカメラを取っかえ引っかえ撮《と》りまくっている。  ——が、黒木が見ているのは被写体のほうで……一糸まとわぬヌードなのだ。  「まあ……。ずいぶん熱心にご見学ですね」  泉が皮肉を言っても、てんで黒木の耳には入る気配もない。  「はい、右足を椅《い》子《す》に乗せて。——もっと軽い感じ。——そう、それから手を腰《こし》に。——うん、笑って!——もっと顎《あご》を引いて! その角度!——いいわよ! 決まってるよ!」  カメラマンはひっきりなしにしゃべっている。そしてしゃべりながら、手は機械のように、休む間もなくシャッターを切っては、フィルムを巻き上げる。  「やれやれ……」  泉は少々ムクれて、少し離《はな》れた椅《い》子《す》に腰《こし》をおろした。黒木のほうはともかく一歩も動かず、食い入るように、モデルを見つめているのだ。男って、まったく!……あんなものが、そんなに面白いのかしら?  泉が見ても、ちっとも面白くないのは当り前である。  撮影は大分遅《おく》れているらしい。  「はい、お疲《つか》れさん」  とヌードモデルを解放した女カメラマンは、すぐにさっきの若者に、背景を変えるように言いつけた。  岡崎真由美は、泉の見たところ、三十歳ぐらいだろうか、少し男っぽい、筋肉質の体で、顔立ちはやや骨ばった感じであった。少し意外な感じだった。泉は父の好みをだいたい承知していたつもりだったが、この女はちょっと変わったタイプだ。  「——仕度できた?」  「OKです」  「じゃ、始めましょうか」  と、驚《おどろ》いたことに泉のほうに向かって言った。泉はキョロキョロと左右を見回したが、自分の他には誰《だれ》もいない。真由美はちょっと驚いた様子で、  「あら、ずいぶん若いのねえ」  「え?」  「ウーン」  真由美は、パンタロンスーツの泉をジロジロと眺《なが》めまわして、  「いいわ……。絵になるわよ、あんた」  「は?」  「ちょっと若すぎるけど。……いい顔してるわねえ」  「あの……」  「あの紹《しよ》介《うか》所《いじよ》にしちゃ、最近のヒットだね」  「紹介所?」  「何かこう、雰《ふん》囲《い》気《き》のある顔だよ。——うん、行ける!」  と真由美は頷《うなず》いて、  「さ、こっちへ来て」  「あの……私は……」  「さ、早く早く。これで今日の仕事、終わりなんだよ」  問答無用。泉は、何やら枯《かれ》野《の》原《はら》のような背景の前に引っ張って行かれた。  「おい、ライト!」  「あの、私、違《ちが》うんです」  「早くして! それでいい、そのまま!」  「あの、ちょっと——」  「ええと……髪はそれでいいね。顔がいいし、若いからね、変な飾《かざ》りはないほうがいいや。眉《まゆ》毛《げ》をちょっと剃《そ》ったほうがいいかな……。でも、自然な感じを大切に行こうね。よし!」  何しろ一人でまくし立てるので、口を挟《はさ》む暇《ひま》もない。泉は黒木のほうへ向いて、手を広げて見せたが、黒木もわけが分からず、呆《あつ》気《け》にとられている様子。  「じゃ、すぐ撮《と》るよ」  「あの……」  「さ、早く脱《ぬ》いで」  泉は目を丸くした。  「早くして。あっちで脱いで来てよ」  「私——違うんです!」  「何よ。ヌードを撮りに来たんでしょ?」  黒木が急に笑い出した。泉は黒木をにらみつけてやった。    「あなたが泉さんなの」  結局、最後のモデルが休みと分かって、カメラをしまいながら、真由美が言った。  「勘《かん》違《ちが》いしてごめんね」  「いいえ」  「何しろ時間に追われる商売でね」  「いい顔だなんて、賞《ほ》められたの初めてです」  「あら、本当よ。カメラマンの目は厳しいんだから。——でも、惜《お》しいなあ」  と少し離れて泉の全身をざっと見《み》渡《わた》し、  「あなた、いいプロポーションしてるよ。分かるんだからね、服を着てても」  「私、やせっぽちです」  「いえ、ちゃんとバランスが整ってるもの。残念ねえ。仕事抜《ぬ》きで、ヌード、撮ってみない?」  「い、いえ、今のところは遠《えん》慮《りよ》します」  「いや、僕《ぼく》も残念だなあ」  と黒木が近づいて来る。  「黒木さんったら!」  泉がにらむと、黒木が思わずニヤリと笑った。  「ああ、あんた刑事さんね」  「そう。君が、この泉さんのお父さん、星さんと知り合いだった真由美さんだね」  「ええ。他にマユミっていう人がいたかどうかは知らないけどね」  「星さんの手紙はいつ失《な》くしたの?」  「ええと……先月、アメリカへ発《た》つ時だわ。空港でコーヒー飲んでて、バッグかっぱらわれてね、参ったよ。まあ大切なもんは入ってなかったけどさ。でもあの手紙がねえ……」  「そんなことじゃないかと思ってたんだ」  「ついこの間、帰って来てね、初めて聞いたのさ。……彼が死んだって」  真由美が泉の肩《かた》を軽く叩《たた》いて、  「あんた、いつもお父さんが自《じ》慢《まん》してたよ」  「そうですか」  「元気出してね!」  「ありがとう」  「ところで——」  黒木が口を挟《はさ》んで、  「どうするのかな、君は? あの手紙にあったように、この娘《こ》のマンションに住むのかね?」  「さあ……。こればっかりは、私一人じゃ決められないものね。泉さん次第」  「私は……父の希望だったし……あなたさえよろしければ」  「そのほうがいいよ」  黒木は頷《うなず》いて、  「あのマンションに一人暮《ぐ》らしってのは、やはり危ないからね」  「じゃあ、近いうちに行くわ」  「ええ、どうぞ。お待ちしてます」  泉は微笑《ほほえ》んで言った。    「さて、もう十時過ぎだ。マンションまで送るよ」  「どっちでも構いません、私」  素《そつ》気《け》ない泉の言い方に、車を出しかけた手を止めて、  「どうかしたの?」  「黒木さん、さっきのモデルさんでも誘《さそ》ってらしたらいかがですか?」  「何だ、そんなことか」  「ずいぶん熱心に見ていらしたようですね」  「おいおい、男なら誰《だれ》だってそうさ」  黒木は車をスタートさせた。  「——あの女カメラマン、なかなか面白そうな女じゃないか」  「ええ。でも——」  「何だい?」  「父の普段の趣《しゆ》味《み》とずいぶん違《ちが》うみたい」  「おや、詳《くわ》しいんだね」  「ええ。父の好みはよく分かるんです。ずっと二人で生活して来たから」  「たまには違うタイプの女性が良くなるってことはあるさ」  「ええ……。きっとそうでしょうね」  その後、二人はあまり口をきかなかった。マンションに着いた時は、十時半を少し回っていた。黒木はマンションの入り口の少し手前に車を停《と》めて、  「さ、着いた。——気をつけてね」  泉はドアを開けて、降りかけたが、  「黒木さん」  「何だい?」  「ああいう……タイプの女の人が好きなんですか?」  「ああいうタイプ?」  泉の声は段々低くなって、  「あのモデルをしてた人みたいな……」  「いやにこだわるね。タイプも何もないよ。ただ裸《はだか》だったから好《こう》奇《き》心《しん》で見ただけ。それがどうかしたの?」  「いいえ、何でもありません。おやすみなさい!」  泉は車を出て小走りにマンションへと駆《か》け込んだ。受付のガードマンに一礼して、エレベーターに乗ると、急に一人になった安心感と寂《さび》しさが押《お》し寄せて来て、涙《なみだ》が溢《あふ》れて来た。  馬《ば》鹿《か》みたい! 疲《つか》れてるんだわ。泉は涙を拭《ぬぐ》って、エレベーターを降りると、〈八〇六号〉のドアを開けた。今度は大《だい》丈《じよ》夫《うぶ》。荒《あら》されてはいなかった。玄《げん》関《かん》を上がりかけて、ふと床《ゆか》に落ちている名《めい》刺《し》に気づいた。拾ってみると、  〈N開発(株)・円《つぶ》谷《らや》重《しげ》治《はる》〉  知らない名だ。裏にボールペンの走り書きで、  「お父さんの事故の件で、一度お目にかかりたいと存じます」  とあった。父の事故の件……。  電話が鳴った。受話器を上げると、受付のガードマンだった。  「さっき申し上げるのを忘れてました。お留守の間に、お客がありまして、泉さんにぜひ一度電話してくれと伝えてほしいとのことでした。円谷という——」  「あ、すみません。名刺が玄関に入ってました。どうも……」  泉は受話器を置いた。それほどまで会いたがっているとは、いったい何の話があるのだろう? 泉はじっくりと名刺を眺《なが》めた。 4  「お早うございます、親分」  佐久間が泉を見て微笑《ほほえ》んだ。  「早いのねえ。いったい何時に出て来るの?」  泉はそう言って、長《なが》椅《い》子《す》の隅《すみ》にたたんである毛布に気づいた。  「佐久間さん。——ここに泊《と》まってたの?」  「ちょっと仕事がありましてね」  「ごめんなさいね。私が何も分からないもんだから、つい何でもあなたにやらせてしまって」  「何を言ってなさるんで。親分が金勘《かん》定《じよう》や帳《ちよ》簿《うぼ》つけをやってたら、貫《かん》禄《ろく》台なしですよ」  「今日、仕事は?」  「特別急ぎのことはありません。ただ一つ、浜《はま》口《ぐち》社長が、今夜、親分を夕食にご招待したいとゆうべ電話がありました」  「まあ、浜口社長が?」  泉は奥《おく》のソファへ腰《こし》を降ろした。  「何のご用かしら? 大親分がこんな小《ヽ》親《ヽ》分《ヽ》に」  「松の木組での一件がお耳に入ったんでしょう」  「お目玉かしら?」  「それなら夕食に招待ってことはないでしょう」  「それもそうね。——ま、お断わりするわけにもいかないでしょうね」  「じゃ、そうご返事しておきます」  「ありがとう。——ね、佐久間さん、私、ちょっと出かけて来るわ」  「はい」  「これなんだけど……」  泉は昨夜マンションの玄関へ入っていた名刺を佐久間に見せた。  「ほう。何の用でしょうね」  「ね。ちょっと実際に行って来ないと分からないでしょ」  「車でお送りしますよ」  「いえ、忙《いそが》しいのに、結構。電車で行くわ。まだ若いんだもの」  「そうですね」  佐久間は笑って、名刺を返しながら、  「N開発ならかなり堅《けん》実《じつ》なところですからね、そう妙《みよう》な暴力団の隠《かく》れみのに使われてもいないでしょう」  「もう危ない目はごめんだわ」  と笑った時、ドアがドンドンと勢いよく叩《たた》かれた。  佐久間が立って行って開ける。泉は思わず、  「あら!」  と声を上げた。そこに立っているのは、叔《お》母《ば》の酒《さか》井《い》好《よし》子《こ》だったのだ。  「叔母さん。よくここが分かりましたね」  「何を呑《のん》気《き》な! 泉ちゃん! さ、すぐに一《いつ》緒《しよ》にいらっしゃい!」  好子はえらい見《けん》幕《まく》で部《へ》屋《や》へツカツカと入って来た。目はつり上がり、口は耳まで裂《さ》け——はオーバーだが、さながら鬼《き》女《じよ》の如《ごと》きご面相。  「いったいどうしたんですか?」  「どうした、ですって! 学校からあなたのことを知らされてどんなにびっくりしたか……。あなたがそんな不良だとは知らなかったわ!」  「新聞も読んだでしょう?」  「もちろんです。あのマンションで人殺しなんて……。ああ、考えただけでゾッとする! 家の親《しん》戚《せき》で、あんな不《ふ》祥《しよ》事《うじ》を起こした人はいませんよ! もう私は恥《は》ずかしくって……」  「叔母さんったら、別に恥ずかしがることないでしょ。私が殺したわけじゃないのに」  「ま、何てことを!」  「叔母さん、悪いけど私、用があって出かけるの。そのうち一度行くから……」  「何ですって? いけません! さ、私と一《いつ》緒《しよ》に学校へ行って、校長先生にお詫《わ》びしましょ」  泉はやれやれと息をついた。ここは一つ、おどかしてやるかな。  「叔母さん、ここがどこか知ってて来たんだろうね」  ガラッと態度を変えて、  「ここは目高組の事務所なんだよ。組長の私が入れとも言わねえ内に入って来たら、殴《なぐ》り込《こ》みと同じことだ。五体満足で帰りたきゃ、さっさと出て行くんだね、ええ?」  「ま……ま、なんて……なんて口のきき方……」  目を飛び出さんばかりに見開いて、もう卒《そつ》倒《とう》寸前というところ。はっと見れば、佐久間がドアをふさぐように立ちはだかり、手をソロソロと《ふ》懐《ところ》へ……。好子はガタガタ震《ふる》え出《だ》して、  「あ、あの……ちょっと……私も用があって……じゃ失礼するわね」  佐久間がサッと《か》傍《たわら》へ身をよけると、好子は慌《あわ》てて部屋を飛び出して行った。泉がこらえ切れなくなって吹《ふ》き出した。  「いや、おみごとでした!」  佐久間も一緒になって笑いながら、  「もう立派な親分ですよ」  そこへ階段から、ドタドタッと音が聞こえた。誰《だれ》かが転げ落ちたようであった。    「星泉さんですね?」  「はい」  「円谷です。どうもお待たせしました」  電話の感じより、大分老けていた。N開発のあるビルの地下の喫《きつ》茶《さ》室《しつ》で、待っているように言った声は若々しく、張りがあったが、こうして目の前に立ったのを見ると、もう四十代も半ばと見える。小《こ》肥《ぶと》りで、えらくひげの濃《こ》い顔。造りは童顔で、スマートや美男とはまるで縁《えん》がないが、実直そうな真《ま》面《じ》目《め》一《いつ》徹《てつ》のサラリーマンと見えた。  「昨日は失礼しました。わざわざおいでいただいて」  「いや、とんでもない、お待ちしていればよかったんですが、ちょっとあとに約《やく》束《そく》がありまして……。あ、僕《ぼく》はコーヒーね」  とウエイトレスへ言って、  「あの、注文されましたか?」  「はい」  「そうですか。ここの紅茶はまずいから——あの、紅茶をお頼《たの》みになった?」  「いえ、オレンジジュースを……」  「そうですか。それならよかった。いや本当に紅茶はまずいんです。もう煮《に》出したようなのが出て来ますからね」  「はあ」  「オレンジジュースはそうまずくありません。ま、格別うまいというわけじゃありませんがね」  いったいこの人、何をしゃべってるのかしら?  「あの——」  と泉が言いかけると、  「ええと、学生さんでしたね。高校生?」  「ええ。……一応は」  「今日は学校をわざわざ休んで」  「いえ、休校なんですの。あの、創立記念日で」  と出まかせを言う。  「そうですか。それはちょうどよかった」  「ええ」  話が途《と》切《ぎ》れた。円谷はしきりに咳《せき》払《ばら》いをしては、泉と目が合わないようにキョロキョロしている。何か言わなくてはならないことがあるのに、気が進まず、極力引きのばしている。——そんなところらしい。  「何か、父のことでお話があるとか」  「あ——ええ、そう、そうなんです」  円谷は額を拭《ぬぐ》った。  「暑いですね」  いくら店の中でも十月だ。もう暑いほどのことはない。  「それで、どういうお話でしょうか?」  「はあ。実は……」  そこへコーヒーとオレンジジュースが来て、またしばし話は中断。泉はあまり無理にせっつくのはやめよう、と思った。こういう相手には気長に待つことだ。時間はあるんだものね。  円谷のほうは一心にコーヒーを飲んでいる。早く飲み終えないとコーヒーが毒に変わるとでも思っているようだった。そして飲み終えると、しばし黙《もく》考《こう》の態だったが、やがていきなり頭を下げると、  「申し訳ありません!」  と吐《は》く息も荒く言った。泉は呆《あつ》気《け》にとられストローから口を離《はな》して、ポカンと円谷を見つめた。  「どうぞ、許してください!」  「何のお話ですの? それが分からないと、許すの何のとおっしゃられても……」  「私なんです!」  「は?」  「あなたのお父さんを突《つ》き飛ばして死なせたのは、この私なんです!」  ——永久に続くかと思う沈《ちん》黙《もく》。周囲の物音も、人間も闇《やみ》の中へ消えて、涯《はて》しない空間の中を、泉と、じっと頭を垂れた円谷だけが漂《ただよ》っているようだ。  この人が、父を殺した……。この、真《ま》面《じ》目《め》そうな、善良そうな人が……。  喫《きつ》茶《さ》室《しつ》のカウンターで電話が鳴った。その音で、泉ははっと現実の世界へ引き戻《もど》された。ゴクンと唾《つば》を飲み込むと、  「どういう事情だったのか、伺《うかが》わせてください」  円谷は一つ息をついて、  「急いでいたんです。その便を逃《のが》すと、もう重要な契約を他社にとられてしまう……。ところが空港へ行く途《と》中《ちゆう》、タクシーがちょっとした事故を起こして引き止められ、着いた時は出発の時刻ぎりぎりでした。焦《あせ》って運転手へ一万円札を渡《わた》し、つりもとらずに飛び降りると、突《つ》っ走りました。もう何とかあの便に駆《か》け込まなくては、と、それしか頭になくて……。ちょうど目の前にいた人に突き当たってしまったんです」  「それが父だったんですね」  「はい。チラリとしか見えませんでしたが、あとの新聞記事や写真で、はっきり思い出しました。お父さんがよろけたところは見た記《き》憶《おく》があるのですが、私は『失礼!』とひと言《こと》言って、そのまま空港の入口から飛び込んでしまったので、あとで何が起こったのか、まるで知らずじまいでした。転んで、怒《おこ》っているだろうぐらいには考えていたのですが、まさかあんなことになっていようとは……」  泉は怒《いか》りも何も感じない自分が不思議だった。ショックで感情が一時的に麻《ま》痺《ひ》しているのかもしれない。  「アメリカへ出張した私は、何も知らずに仕事に専念していました」  円谷が続けた。  「三日で戻る予定が、仕事が終わらず、結局十日間いるはめになって、帰国した時には、私自身、もうその出来事をすっかり忘れてしまっていたのです。ところが何の話をしていた時だったか、家内が、私の出発した日に、成田でトレーラーにひかれて死んだ人がいて、一《いつ》瞬《しゆん》、私ではないかと、ドキッとしたと言い出したのです。その時、私ははっとしました。あの出来事が頭に浮かんだのです。けれど、まさかそんなことが、と自分でその不安を打ち消しました。ところが気になりだすと眠《ねむ》る時も忘れられず、私は夜中、一人でそっと起き出して、新聞の束《たば》を解いてその記事の出ている新聞を捜《さが》しました。さんざん捜してやっと見つけ出し、読んでみて全身から血の気のひく思いでした。場所も、時間も、そして亡くなった人の写真も……。すべてぴったりです。私は目の前が真っ暗になりました。人を殺していたのですから。——ただ不思議な偶《ぐう》然《ぜん》というのか、誰《だれ》一人、私がお父さんに突《つ》き当《あ》たったのを見た人がいなかったのです。みんな自分の用で忙しいからでしょうか……。だから、お父さんの死は事故として処理されてしまいました。本当に……何とお詫《わ》びすればよいのか……」  円谷は言葉を切った。泉は半分飲みかけのジュースのグラスをじっと見ていた。  「なぜ……」  泉は静かに言った。  「今になって……」  「すぐに名乗り出るべきでした。ただ……やりかけの仕事は私一人の肩にかかっていて、社の浮《ふ》沈《ちん》がかかっていました。これを終えるまでは、と……。言《い》い訳《わけ》に過ぎないことはよく承知しておりますが」  「そのお仕事はもう——」  「はい、無事に」  「ご家族の方はご存じなんですか?」  「いえ、まだ話しておりません。しかし罪《つみ》の償《つぐな》いはしなければなりません。お金の面でも、一生かかってでも何とかあなたの将来を……」  泉は立ち上がった。  「私、少し時間がほしいと思います。申《もう》し訳《わけ》ありませんけれど、また改めて会っていただけないでしょうか」  「は、はい! もちろんそれはもう、いつでも」  と円谷も慌《あわ》てて立ち上がる。  「それまでこの話は、どなたにもなさらないでください」  「分かりました」  「私、たとえ遅《おそ》くなっても、あなたが話してくださったことはとても嬉《うれ》しいんです」  「そう言っていただけると……」  「ジュースをごちそうさまでした」  泉は一礼して喫《きつ》茶《さ》室《しつ》を出た。  ぶらぶらと街を歩きながら、泉は全身がけだるかった。張りつめていたものが崩《くず》れ去ったようで、自分の中が空っぽの感じだ。——父は殺されたのではなかった。それが分かって、正直、ほっとした。あの父が他人に殺されたと思うと、くやしく、やり切れなかったのだ。ただの事故で——そう、「た《ヽ》だ《ヽ》の《ヽ》」事故でよかった。泉はとっくに円谷を許していたのだ。    佐久間は、もう一時間以上もパチンコ台の前で粘《ねば》っていた。通りを挟《はさ》んだ向かい側のパチンコ屋に、松の木組の例の二人、元と剛が入っているのだ。謹《きん》慎《しん》の身なのだから、こんな盛り場を歩いていてはいけないのだが、若いやつらだ。じっとしていられないのだろう。  「いつまでやってるつもりだ」  いい加減うんざりしていた。好きでもないパチンコが、こんな時に限ってまたよく入るのだ。  「ん?」  目をこらすと、例の二人が仏《ぶつ》頂《ちよ》面《うづら》で出て来た。どうも戦果はさっぱりだったようだ。  佐久間は隣《となり》の台の男に、  「おい、俺《おれ》の玉全部やるよ」  と声をかけ、ポカンとしている男をあとに急いで店を出た。何しろ肩がぶつかり合うほどの混雑だ。少し離れたら見失いかねない。二人はポケットに両手を突《つ》っ込《こ》み、イキがって歩きながら、時間を潰《つぶ》しているようだった。  再び尾行を始めて、十分とたたない時だった。ちょうど同じぐらいの年《ねん》齢《れい》のチンピラと肩がぶつかったといって喧《けん》嘩《か》が始まったのだ。謹慎処分で気がムシャクシャしているところへ、パチンコはまるで出ない。他の連中が羽《は》振《ぶ》りをきかせているのを見て頭に来たのだろう。  「こいつはまずいな」  佐久間は舌《した》打《う》ちした。本格的な殴《なぐ》り合い、つかみ合いになるのに時間はかからなかった。たちまち周囲を遠巻きに人《ひと》垣《がき》ができる、幸い、どっちも刃《は》物《もの》は持っていないようだ。腕《うで》っ節のほどはどっちもどっち、いい勝負で、鼻血を出し、目のあたりを真っ赤にして、テレビの活劇とはほど遠いカッコ悪さである。  そこへパトロール中だったらしい警官が三人、駆《か》けつけて来た。  「やめろ! おい! よさんか!」  「何だ、この野《や》郎《ろう》!」  馬《ば》鹿《か》な奴《やつ》だ。警官を殴りやがって、ただじゃすまねえぞ。——そこへ応援の警官も二人駆けつけて来て、喧《けん》嘩《か》していた四人はたちまち仲良く鉄の鎖《くさり》で結ばれる縁《えん》となってしまった。  「これで当分尾行は無理だな」  やっとヤジ馬が散り始めて、佐久間は諦《あきら》めて歩き出した。    泉は一人、喫茶店でぼんやりと考え事をしていた。マンションからすぐ近くで、ちょうど自分の部《へ》屋《や》のベランダが席から見える。  あの円谷という男の話は信用していい、と泉は思った。実直な印象に誤りはないだろう。ただ……。  「そうなると、ちょっと妙《みよう》ね」  と口に出して呟《つぶや》いた。ちょうどコーヒーを運んで来たウエイトレスが、  「は? 何か?」  「え?——ああ、何でもないんです。すみません」  ゆっくりと、クリームを入れ、砂糖はほんのスプーン半《はん》杯《ばい》。——太りたくないものね。比《ひ》較《かく》的やせているほうの泉でさえ、そう思うのである。コーヒーもあまりたくさん飲むほうではない。しかし、やはり何か考え事をする時は、アイスクリームよりコーヒーのほうが向いているようだ。  ちょっと妙《みよう》だ、というのは、黒木の話では誰《だれ》かが父を突《つ》き飛《と》ばしたのをその目《もく》撃《げき》者《しや》は見ているのだ。しかし、さっきの円谷の話では、走っていて、父に突き当たったということになる。突き飛ばすのと、走って来てぶつかるのはまったく違《ヽ》う《ヽ》。目撃者は、円谷が走って来るのだって見たはずだ。もしぶつかった瞬《ヽ》間《ヽ》だ《ヽ》け《ヽ》を見たとしても、突き飛ばしたという印象を受けるだろうか?  「分からないなあ……」  その目撃者という人物の証言がどうもおかしいように思えて来るのだ。だがせっかく事故として片づけられ、葬《そう》儀《ぎ》まで終わってしまった父の死を、今さら殺人だと嘘《うそ》をついて何になるだろう? 逆なら分かる。殺人を事故だと偽《ぎし》証《よう》するのなら、よくある話だ。しかし、事《ヽ》故《ヽ》を《ヽ》殺《ヽ》人《ヽ》だと申し立てて、いったいどんな利点があるというのだろうか……。  泉は首を振《ふ》った。さっぱり分からない。そう、竹内君なら何かそこから推理できるかもしれない。学校帰りを待って、どこかで話をしてみよう……。  「あら、泉さん、ここにいたの?」  急に呼びかけられて、びっくりして振《ふ》り向《む》くと、あのカメラマンの岡崎真由美が立っていた。  「あ、真由美さん」  「今マンションへ行ったら留守だっていうからさ、それじゃ一つ時間を潰《つぶ》そうと思って来てみたんだよ」  「ごめんなさい。ずっと出かけてて」  「そんなこと当り前だよね、考えてみりゃ、世間の人は大方、夜寝《ね》て朝起きてんだろ。私なんか、自分がそういう生活したことないから、分からないのよね。みんな自分みたいに、昼過ぎまで寝てるもんだと思っててさ……」  真由美は泉の向かいの席に坐《すわ》った。泉は、《か》傍《たわら》のスーツケースに気づいて、  「あら……」  「越《こ》して来ようと思ってね。——ねえ、ちょっと! 紅茶にウイスキー入れておくれ!」 5  「全くてめえらには世話を焼かされるぜ!」  元と剛の二人はしょんぼりと突《つ》っ立っていた。目のまわりが《む》紫《らさ》色《きいろ》にはれ上がったり、《く》唇《ちびる》の端《はし》が切れて流れた血が乾《かわ》いてこびりついたりしているので、惨《みじ》めさが倍加される感じである。  「謹《きん》慎《しん》ってことの意味が分からねえのか!」  怒《ど》鳴《な》っているのは、組長の関根である。  「いいか、てめえらみたいなチンピラをいちいち受け出してやるほどの余《よ》裕《ゆう》はウチにはねえんだ!」  「へえ……」  「ただ、この前の目高組の組員殺しと結びつけられたら組が迷《めい》惑《わく》するから、特に受け出して来てやったんだぞ! それを忘れるな!」  「へい!……どうもすみません」  「今度こそ謹《きん》慎《しん》してろ! いいか、飯以外には一歩も外へ出るな! どこか通りを歩いてるのを見つけたら、今度はコンクリートに詰《つ》め込《こ》んでやるぞ! 分かったか!」  元と剛の二人、もう生きた心地もないといった顔で、ガタガタ震《ふる》えている。  「分かったら、とっとと行け!」  「へい!」  と元のほうが慌《あわ》てて部《へ》屋《や》を出て行こうとしたが、一方の剛のほうがさっぱり動かない。  「おい、剛、行くんだ。さ、早くしろよ」  と元が腕を引っ張るのだが、いっかな動こうとはしないのだ。  「何してんだよ」  関根がジロリと剛を見上げて、  「何だ! 文句があるのか?」  「いいえ」  「なら、なぜ出て行かねえ?」  「ちょっとお話したいことがあって……」  「お前の話を聞いてられるほど、俺《おれ》は暇じゃねえんだ。早く行け!」  「でも——」  「おい、剛」  と元が哀《あい》願《がん》するように、  「早く行こうよ。な?」  「でも見たんです、俺」  と剛は頑《がん》固《こ》に言った。  「フン、空飛ぶ円《えん》盤《ばん》でも見たのか」  「俺たちに例の件を頼《たの》んだやつです」  関根はしばらくたってから顔を上げた。  「——今、何といった?」  「俺たちに、目高組の奴《やつ》をやっつけようって声かけて来たやつです」  「そいつをどうしたって?」  「見たんです」  関根は元のほうを見た。元がさっぱり訳《わけ》が分からないというふうに肩《かた》をすくめる。  「兄《あに》貴《き》はいなかったんです、ちょうど」  「お前、そんなこと、ひと言だって言わなかったじゃないか!」  「忘れてたんでさ」  「肝《かん》心《じん》のことはすぐ忘れる奴《やつ》だな」  関根は信用していいものかどうか決めかねて、長く考え込んでいた。  「——おい、剛」  「へい」  「お前、その男のことをまるで憶《おぼ》えちゃいなかったはずじゃねえのか」  「でも顔見たら思い出したんです」  「本当か? もしいい加《か》減《げん》な話をしてるのなら、今のうちに自分でコンクリートをこねとけよ」  「本当です。確かにあいつでした」  関根も、少しは信用していいかな、という気になっていた。こいつは単純で馬《ば》鹿《か》だが、ご機《き》嫌《げん》取りに嘘《うそ》をつくような奴ではない。  「よし、話してみろ。どこで、いつ、その男を見たのか、な」  剛の話はさっぱり要領を得なかった。だいたい物事を順序立てて話すということのできない男なのだ。だが、関根は怒《ど》鳴《な》りつけたくなるのをじっと抑《おさ》えて、根気よく、剛の話をくり返し聞き、確かめ、念を押《お》した。  「——間《ま》違《ちが》いねえんだな、剛」  「はい」  「よし、分かった。いいか、今の話、誰《だれ》にもしゃべっちゃならねえぞ」  「分かりました」  「二人とも行け」  元と剛が出て行くと、関根は机《つくえ》の上の電話機を取って内線を回した。  「ああ、俺《おれ》だ。今、元と剛の二人がそっちへ降りて行くからな、若い者を四、五人集めておけ。二人をそのまま車で例の隠《かく》れ家《が》へ連れて行って監《かん》禁《きん》するんだ! 見張りを立てて。分かったな。いいか、俺がいいと言うまでは、絶対に出すな! いいな?」  受話器を置いて、関根は考え込んだ。  「——ふむ。こいつはいい。これが本当の話なら、使えそうだぞ……」  関根は上《じよ》機《うき》嫌《げん》で笑った。    「やあ、お待たせ」  えらく地味なセーターを着た智生が、急ぎ足で泉のいる喫茶店の奥《おく》まったテーブルへやって来た。  「ごめんね、竹内君。いつも忙《いそが》しいのに呼び出しちゃって。今、大丈夫なの?」  「平気平気。泉さんのためならね」  智生はちょっと照れくさそうに、  「でも、僕《ぼく》の計画の不備で、泉さんを危ない目にあわせたからなあ。いささか自信喪《そう》失《しつ》してるのさ」  「竹内君のせいじゃないわよ。あれ以上いい計画は立てられないわ。あとは運と不運だけで決まるのよ」  「いや、あの失敗を聞いたとき、失神しそうになったよ。泉さんにもし万一のことがあったら、ってね」  「ありがとう。——でもこのとおり、ちゃんと足もあるし、大《だい》丈《じよ》夫《うぶ》よ」  「でなきゃ困るよ。——ところで、何かあったの?」  「実はね、ちょっと竹内君の頭脳をお借りしたいんだ」  泉は、新しく分かった事実を智生に話して聞かせた。  「もう私、何が何だか分からなくなっちゃったのよ」  「なるほどね」  「何か考えある?」  「考え、といってもねえ……。要するに〈はめ絵〉の部分が揃《そろ》ってないんだよね。だからいろんなふうに組み合わされる。だいたいね、確かな事実って、とても少ないんだ。一つは、君のお父さんを含《ふく》めて、マユミと名乗ってた女、ガードマン、組員の健次の四人の人間が殺されていること」  「でも父は——」  「まあまあ、待ってよ。じゃ、死んでいる、と言いかえてもいい。でもね、これ以外に、何か確実なことが一つでもあるだろうか?」  「というと?」  「たとえば君のマンションが荒《あら》されたのは事《ヽ》実《ヽ》だ。でもその目的が、君のお父さんの持って帰った〈包み〉だというのは、推測に過ぎない。そうだろ?」  「ええ……」  「それに殺されたあのマユミと名乗ってた女。僕《ぼく》らはマンション荒《あ》らしの犯人と、あの女を殺した犯人とは同じ奴《やつ》だと信じてるけど、果たしてそうだろうか?」  「ええ?」  「むしろ僕は違《ヽ》う《ヽ》人間だと思うんだ」  「どうして?」  「僕らが発見した時、あの女はまだ殺されて間もなかった。しかし、あのマンション中を調べるのは、少なく見つもっても、二、三十分はかかる。あの死体は、どうみてもその間放置されていたとは思えない。ということは、荒《ヽ》ら《ヽ》す《ヽ》の《ヽ》を《ヽ》終《ヽ》え《ヽ》て《ヽ》か《ヽ》ら《ヽ》殺したんだ! しかし殺すつもりなら、なぜ初めから殺さないのか。わざわざ縛《しば》り上げたり、猿《さる》ぐつわをかます手間をかける必要はないじゃないか。部《へ》屋《や》を荒らしたやつはあの女を殺すつもりはなかったんだよ。だから、殺したのは別の人間じゃないかと思うんだよ。そいつも〈包み〉を捜《さが》しに来たのかもしれない。そして縛られている女を見た」  「どうして助けてやらないまでも、そのまま放っておかなかったのかしら?」  「女がそいつを知《ヽ》っ《ヽ》て《ヽ》い《ヽ》た《ヽ》からだ。で、犯人は顔を見られたので、女を殺した。たぶん、それに違《ちが》いない」  「なるほどね……」  「で、実はね、気になってることが一つあるんだよ」  「何?」  「お父さんは年中旅行してたね」  「ええ」  「最後の旅行の前に旅行へ出たのは、いつ頃《ごろ》?」  「ええと、あれは……二か月ぐらい前かな。その間、パパにしては珍《めずら》しく、ちょっと間があったのよ」  「なるほどね」  「何なの?」  「その例の〈包み〉って奴《やつ》さ。本当にお父さんが持ってたとして、いつの旅行で持ち帰ったのか」  「ああ、なるほどね。分かるわ」  「あんな品物を、いつまでも手元に置いておくなんて考えられないよ。もし二か月前の旅行で持って帰ったのなら、とっくに処分されているはずだよ。買い手はすぐつくだろうからね」  「そうなると……」  「問題の〈包み〉は、最後の旅行で持ち帰ったんだよ。間《ま》違《ちが》いない」  「でもパパの荷物は私が受け取って、中の物はあらためたわ。そんな〈包み〉なんて入ってなかった」  「そこなんだ、問題は」  智生は腕組みして、  「さて、〈包み〉はどこに消えたのか……」  「私はさっぱり見当もつかないわ」  と泉はため息をついた。  「一つ考えられるのはね、トレーラーにひかれる前に、誰《だれ》かに渡《わた》してしまったということさ。つまり飛行機を降りてから、空港の表まで行く間に、誰かと会って渡した、とか……」  「それはあり得るわね。なら〈包み〉がなかったのも当然よね」  「そう。それが正しいと仮定してだが、その誰《ヽ》か《ヽ》を捜《さが》さないとね」  「誰なのかしら?」  「マユミって女性かもしれないよ」  「真由美さん?——そうね、その可能性もあるわね。今、マンションに来てるの」  「え? 本物がいたの?」  「うん。ごめん、話すの忘れてた」  泉が岡崎真由美のことを話すと、  「へえ。じゃお互い、起きてる時はあまり顔を合わすことはないらしいね」  「そんな塩《あん》梅《ばい》なのよね。どうなることやら、分からないけど」  と泉は肩をすくめた。  「ともかく彼女に確かめてみるわ」  「いや。——ちょっと待ってくれ」  「どうして?」  「僕の考えもまだまとまらないんだ。それを訊《き》くのは、少し待っててくれる?」  「うん、分かったわ」  智生はなぜか浮《う》かぬ顔であった。  「どうかしたの、竹内君?」  「ん?——いやね、どうもクシャミが出そうで出ない。あんな気分なんだよ」  「どういうこと?」  「つまりね、何か一つ、お《ヽ》か《ヽ》し《ヽ》い《ヽ》なと思ったものがある。それが何だったか、どうしても思い出せないんだ」  と、こぶしで頭を叩《たた》く。  「畜《ちく》生《しよう》! 何だったかなあ……」    「松の木組の二人が?」  泉はびっくりして佐久間を見た。  「そうなんです。申《もう》し訳《わけ》ありません。何しろ警官を殴《なぐ》ったんで、当分留置場だと思ってたんです。ところが、わざわざ弁護士をやって保《ほし》釈《やく》させちまったんです」  「で、今どこにいるか分からないの?」  「そうなんで。松の木組の関根組長がどこかへ隠《かく》してるんでしょうがね」  「でもかえって安全なんじゃないの?」  「かもしれませんが、例の紺《こん》の背広も、そう馬《ば》鹿《か》じゃありませんからね」  泉はちょっと高級なワンピースを着て、目高組の事務所にいた。浜口社長の迎《むか》えの車がそろそろ来るはずだ。ドアが開いて、英樹が顔を覗《のぞ》かせた。  「親分、浜口社長のお車が」  「今行くわ」  「お気をつけて」  「何の話をすればいいのかしら?」  「黙《だま》って坐《すわ》っていればいいんですよ」  そう気楽に行けばいいけどね、と泉は思った。  一階へ降りて行くと、もうすっかり暗くなった通りに、黒光りするベンツの車体が横づけになっていた。  「今晩は」  制服の運転手がドアを開ける。泉はちょっとレディ気分。ゆったりとしたソファに身を委《ゆだ》ねる。  「ウチのボロ車とは大分違《ちが》うわね……」  思わず本音が出る。静かに車が夜の街へ滑《すべ》り出した。 6  「本当に素《す》敵《てき》な夕食でした」  泉はやや上気した顔で言った。シャンパンのせいかもしれない。  「喜んでもらえれば嬉《うれ》しいよ」  浜口が微笑《ほほえ》んで、  「どこかへ出て食事をするのは、どうも好きじゃないんだ。気《き》疲《づか》れするし、たいていは社用だからね」  浜口の邸《やしき》は武蔵《むさし》野《の》の面《おも》影《かげ》を残す一角にあった。宏《こう》壮《そう》な、気の遠くなるような大《だい》邸《てい》宅《たく》である。組織からの、いわば悪銭で建てたのだとは思っても、その豪《ごう》華《か》な造りには目を見張った。  シャンデリアのきらめく食堂の大きなテーブルで、名前も聞いたことのないような料理を次々に出されて、泉は満腹、目が回りそうだった。  「少し休《きゆ》憩《うけい》しようか」  「ええ」  二人は、広々とした庭園へむかってフランス窓の開いた居間へ移って、長椅《い》子《す》から外を眺《なが》めた。芝《しば》生《ふ》の緑が、水銀灯の照明で、夜の底に敷《し》きつめた白い絨《じゆ》毯《うたん》のように見える。  「素《す》敵《てき》なお屋《や》敷《しき》ですね」  「なに、見かけは派手だが、たいしたことはない。当節は不景気だからね。税金を払《はら》うにも苦労するよ」  浜口はパイプに火をつけながら言った。  「あの……今日お招きいただいたのは……何かご用がおありだったんでしょうか?」  「いや、別にそういうわけじゃない。新しい組長を歓《かん》迎《げい》しただけだ」  「どうも……」  「それに可《か》愛《わい》い女性と食事をするのは理《り》屈《くつ》抜《ぬ》きに楽しい」  泉は赤くなって、  「私はまだ子供です」  「松の木組では大変な活躍だったそうじゃないか」  「あれは——もうただ無《む》鉄《てつ》砲《ぽう》だっただけです」  「関根がすっかり感服していたよ」  「恐《おそ》れ入ります」  「しかしまあ、あんまりたびたびやらないほうがいいよ。荒《あら》っぽい連中だ。あとのことも考えずに、何をやるか分からない」  「もう二度とやりたくありません」  「それがいい」  と笑顔で頷《うなず》く。  「私も優秀な組長を失いたくないからね」  「私——あまり続ける気はありません」  「ほう。どうして?」  「何といっても十七歳《さい》の娘《むすめ》には重荷ですし、それにこういう世界にはどうしてもなじめません」  「それはそうだろうね」  「適当な時期が来たら、佐久間さんに代わっていただこうと思っています」  「あれはしっかりした男だ」  「ええ。学校にも行かなくてはなりませんし……」  「亡くなったお父さんのためにも、そのほうがいいだろうね」  「その時は認めていただけますか?」  浜口はちょっと笑って、  「組織を抜《ぬ》ける奴《やつ》は殺すなんて、映画の中だけの話さ。足を洗いたい者の邪《じや》魔《ま》はしない」  「そう伺《うかが》ってほっとしましたわ」  そこへドアが開いて、中年の女中が来客を告げた。浜口はどうやら独身らしい。家の中に、家族らしい人間がまるで見えないのだ。  「誰《だれ》だね?」  「関根様でございます」  「ああ、ここへ通してくれ」  泉は慌《あわ》てて立ち上がった。  「あの——私はこれで——」  「いいじゃないか、急いで帰らなくても」  「でも——お邪魔でしょうから」  そうするうちに、関根が入って来て、泉を見ると笑顔になった。  「おや、これは目高組の組長さん」  「どうも、先日は——」  失礼しました、というのも変なものだが、どう言っていいのか分からない。  「いや、あれ以来ウチの組でもあんたのことは大した評判でね」  「もう勘《かん》弁《べん》してください」  と泉は頭をかいた。  「ところで浜口社長、ちょっとお耳に入れたいことが……」  「仕事の話か?」  「そうです」  泉はタイミングよく、  「じゃ私はこれで——」  「そうかい? ではまた遊びに来なさい」  「はい、ぜひ」  「車で送らせよう」  浜口は車を回すように言って、玄《げん》関《かん》まで泉を送りに出た。車寄せで泉はもう一度、  「ごちそうになりまして」  と頭を下げた。  「なに、礼を言われるほどのことじゃない。——今車が来るからね」  「はい」  建物の横手からエンジンの音がして、黄色いライトが近づいて来た。  突《とつ》然《ぜん》、泉は浜口に腕《うで》をつかまれ、抱《だ》き寄せられた。何が起こったのか、分からなかった。気がついた時は《く》唇《ちびる》に浜口の唇が押《お》し当てられていた。はっと身を引くと、浜口は泉を放した。車が滑るように来て停《と》まった。  「——おやすみ」  浜口はひとこと言って建物の中へ消えた。泉は青ざめて立ちすくんでいた。  「どうぞ」  運転手の声で我に返り、車へ乗り込む。  夢《ゆめ》だったのか? 本当にあったことなのか?  泉は、しかし、はっきりと唇の感《かん》触《しよく》を憶《おぼ》えていた。——怒《いか》りとか、恥《は》ずかしさとかは何も感じなかった。呆《ぼう》然《ぜん》としているだけで、どう考えていいものやら分からなかったのだ……。  「キスされたんだわ……」  どうやらそれだけが理解できた。    「お邪《じや》魔《ま》でしたか?」  関根がニヤニヤしながら言った。  「当り前だ」  浜口が関根をジロリとにらみつけた。  「あれで少しアルコールを入れれば眠《ねむ》り込む。あとは思いのままだったのに」  「そいつは申《もう》し訳《わけ》ありませんでした。ですが、あの娘《むすめ》、相当骨っぽいですぜ」  「ああいう子供っぽいのもそれなりにいいものさ。——ところで何の話だ? あの娘と引きかえだ。よほどいい話なんだろうな」  「そのつもりですがね」  浜口はソファにゆったりと身を沈《しず》めて、  「——よし、話してみろ」  「実は……」  関根は目高組の一人を殺した件に、自分の組の若い者が絡《から》んでいたことから話し始めた。  「なぜそれを俺《おれ》に黙《だま》ってた!」  と怒《おこ》る浜口を、  「まあ、待ってください。その償《つぐな》いを今からいたしますから」  となだめて、関根は続けた。  「その二人がつまらねえ喧《けん》嘩《か》で挙《あ》げられたんですが、そのとき……」  話を聞いている浜口の顔から、不《ふ》機《き》嫌《げん》な表情が段々に消えていき、終わりには半ば目を閉じて、じっと聞き入っていた。  「——いかがです?」  関根は得意気に話をしめくくった。  「ふん……。面白い話だな」  「そうでしょう? 先日お耳に入れた噂《うわさ》とあわせて考えると……」  「まんざらでたらめでもないってわけだな」  「そう思いませんか?」  浜口は立ち上がってフランス窓から外を眺《なが》めながら、  「もし本当なら、こいつは見《み》逃《のが》してはおけないぞ」  「莫《ばく》大《だい》な利益ですからね」  「——よし、関根、お前、この線をたぐってみろ」  「よろしいんで?」  「巧《うま》くやったら、ブ《ヽ》ツ《ヽ》はお前に扱《あつか》わせてやる」  「ありがとうございます!」  関根はせっかちに立ち上がった。  「さっそく——」  「待て! さしあたりどうするかだが……」  「例の奴《やつ》を痛めつけますか?」  「そうだな。しかし相手が相手だ。よほど慎《しん》重《ちよう》にかからんとな」  浜口はやや間を置いて言った。  「——その〈包み〉というのは、本当にあの娘《むすめ》が持っているのか?」    泉は車のシートで、うつらうつらしていた。満腹と、少々のアルコールが今《いま》頃《ごろ》になってきいて来たのだった。  「あーあ、眠《ねむ》いなあ」  ブツブツ呟《つぶや》く。——あの浜口って人、いったいどういう気なんだろう? 私みたいな娘にあんな豪《ごう》華《か》な料理を出したり、シャンパンを飲ませたり……。そう、お《ヽ》ま《ヽ》け《ヽ》にキスまでして、どういうんだろう? 何もこんな小娘を相手にしなくたって、女性は大勢いるだろうに……。  泉はギクリとして目を見開いた。  「女——」  料理、シャンパン……。今だってこんなに眠いのだ。あのまま浜口の屋《や》敷《しき》にいたら、もっとカクテルか何か飲まされて、すっかり眠《ねむ》ってしまったのではないかしら? そうなったら……。  泉もお年《とし》頃《ごろ》である。男の家へ女が泊《と》まったらだいたいどういうことになるか、一応は分かっている。息《むす》子《こ》の家にお母さんが泊まるとか、メス猫《ねこ》を置いとくとかというのとは、ちょっと違《ちが》うのだ。一夜明けて目覚めれば見知らぬベッドの中に、裸《はだか》で横たわって、《か》傍《たわら》には男が眠って……ということになるのだ。  泉はゾッとして身《み》震《ぶる》いした。一度に眠気がふっ飛ぶ。もし、関根が尋《たず》ねて来なかったらと思うと、生きた心地もない。——もう二度とあそこには行かないぞ! その時、突《とつ》然《ぜん》車が急ブレーキをかけて、泉は危うく前の座席で頭を打つところだった。目の前に他の車が突《つ》っ込《こ》んで来て行く手を塞《ふさ》いだのだ。運転手が振《ふ》り向いて、  「逃《に》げなさい!」  と叫《さけ》んだ。  はっと振《ふ》り向くと、背後にももう一台の車が飛び出して来た。挟《はさ》まれたのだ。何が何だか分からないうちに、前後の車から数人の男が走り出て来て、泉の乗ったベンツへ駆《か》け寄って来た。  「降りろ!」  と声が窓越《ご》しに聞こえる。運転手は諦《あきら》めたように首を振ってみせた。——相手の手の中には、どう見てもモデルガンには見えない拳《けん》銃《じゆう》が光っているのだ。運転手と泉は表へ出た。木立ちに囲まれて、声を上げても誰《だれ》も助けに来そうもない場所だった。  「星泉だな?」  男の一人が訊《き》いた。泉がコックリ頷《うなず》く。  「よし」  促《うなが》されて、仕方なく男たちの車のほうへ泉が歩き出すと、男の一人が拳銃で運転手の後頭部を殴《なぐ》りつけた。声もなく地面に転がる。  「殺したの!」  「大《だい》丈《じよ》夫《うぶ》、死にゃしねえ。それより自分のことを心配するんだな」  押《お》し込《こ》まれるように車へ乗りながら、泉はやっと実感した。——誘《ゆう》拐《かい》されるんだわ、私。    「あら」  ドアを開けて、岡崎真由美が目の前の三人を見《み》渡《わた》した。  「あんたたちは?」  「泉ちゃんのクラスメイトです」  と哲夫が言った。  「泉ちゃん、いますか?」  「あら、まだ帰ってないのよ」  「中で待っても構いませんか?」  「いいわよ。どうぞ」  「すみません」  三人組は勝手知ったる何とかで、さっさと居間に坐《すわ》り込《こ》んだ。  「そういえば、あんたたちのこと、泉さんから聞いたわよ」  「僕《ぼく》も泉さんから伺《うかが》ってます」  智生が言った。  「岡崎真由美さんですね」  「ええ」  「カメラマンなんですって?」  「そうなの。そろそろ仕事に出かけなきゃなんないのよ。あんたたち、泉さん戻《もど》るまでいてくれる?」  「いいですよ」  「じゃ悪いけど頼《たの》むね!」  と真由美は道具をソファへ乗せ、Tシャツ、ジーパン姿にジャンパーをはおった。  「カメラ、何ですか?」  とカメラ好きの哲夫が訊く。  「ニコンFよ」  「やっぱりか。みんなそうだなあ」  「プロはたいていね。——あんたカメラ好きなの?」  「ええ。でもカメラはまだバカチョンで、大学に合格したら、一眼レフを買ってくれる約《やく》束《そく》なんです」  「そんじゃ頑《がん》張《ば》らなきゃね。でもバカチョンだっていいものは撮《と》れるよ。いつも持って歩いてるといい」  「そうですね」  「ニコンFがほしかったらね、プロが使ったのを安く譲《ゆず》ってもらうといいんだ。プロは故障しない内に買いかえるからね。その時に売ってもらうのさ。よかったら仲間に聞いといてあげるよ」  「本当ですか?」  と哲夫が目を輝《かがや》かす。  「ああ、これはまだ新しいけどね、みんな五年ぐらいで買いかえるから。半値以下で買えるから、一度オーバホールしたってよほど得さ」  「わあ! ニコンFか! 夢《ゆめ》みたいだなあ」  と哲夫はもう手に入れたようなはしゃぎよう。智生がふと思いついたように、  「ああ、それじゃ、泉さんのお父さんの持ってたニコンFは、あなたのだったんですか?」  「え?——ああ、あれ? あれは友だちの。私が紹《しよ》介《うかい》してあげたんだ」  真由美は腕《うで》時《ど》計《けい》を見て、  「もう行かなくちゃ。それじゃ、悪いけど、君たち頼むね」  「ええ、どうぞ」  「行ってらっしゃい!」  真由美が大きなバッグと袋《ふくろ》を下げて出て行くと、哲夫がすっかりご機《き》嫌《げん》で、  「ニコンFだぞ。——半値なんだ」  と一人で悦《えつ》に入っている。  「お前、何しに来たんだよ」  と周平が呆《あき》れ顔で、  「泉ちゃんに会いに来たんだぞ、俺《おれ》たち」  「分かってるよ」  「まだ戻《もど》らないなんて……。心配じゃねえのかよ?」  周平の関心はもっぱら泉一人である。明日の英文法の試験のことは、まるで三人の頭にはないようだ。智生にはいともやさしい試験だし、あとの二人はもはや諦《あきら》めの境地に達しているのだ。  「——妙《みよう》だな」  と智生が言った。  「そうだろ? こんなに遅《おそ》いなんて……」  と心配顔の周平へ、  「いや、それじゃないんだ」  「じゃ何だよ?」  「もちろん、それも気になるけど、今僕《ぼく》が言ったのは、今の女カメラマンのことさ」  「今の女がどうしたって?」  「いや、泉さんのお父さんのニコンって僕が言ったろ」  ニコンと聞いて、哲夫が耳をそば立てる。  「何だって?」  「知ってるだろ、みんなも。泉さんのお父さんは外《ヽ》国《ヽ》製《ヽ》品《ヽ》の愛好家だった。僕、憶《おぼ》えてるんだ。カメラはライカ・フレックスだった」  周平がキョトンとして、  「じゃ、お前がニ《ヽ》ン《ヽ》コ《ヽ》って言ったのは……」  「ニコンだよ!」  と哲夫が訂《てい》正《せい》する。  「あれは嘘《うそ》かい?」  「そう。引っかけてみたのさ」  「それじゃあの女……」  「偽《ヽ》者《ヽ》?」  「たぶん、ね」  哲夫はがっかりした様子で、  「悪い人には見えなかったけど……」  と本心は、束《つか》の間《ま》に消えた〈《ま》幻《ぼろし》の(半値以下の)ニコン〉を諦《あきら》め切れないらしい。  「ウッカリ忘れてたのと違《ちが》うかなあ……」  「自分の商売道具だぜ。気づかないはずはないよ」  「そうかなあ……」  と哲夫は未《み》練《れん》がましい。  「それより泉ちゃんだ!」  周平が苛《いら》々《いら》して叫《さけ》ぶ。  「どうするんだ?」  「組の事務所に電話してみよう」  と智生が電話を捜《さが》して、  「どこだい?」  「あ、あの椅《い》子《す》の上だよ」  「部《へ》屋《や》の中、めちゃくちゃになっちまったからな……」  智生はダイヤルを回そうとして、ふと手を止めた。——電話。何《ヽ》か《ヽ》あったぞ。何かおかしいな、と思ったこと……。電話に関係があったような……。  「おい、何してんだ」  と周平がせっつく。  「今かけるよ」  智生は目高組の事務所の番号を回した。電話番号はだいたい一度見たら忘れないのである。    佐久間は電話が鳴ると、急いで受話器をとった。  「はい、目高組。——やあ、君か。佐久間だよ。——いや、出かけていてまだ帰らない。——そうなんだ。気になってるんだがね。——分かった。今マンションだね? 必ず連《れん》絡《らく》するよ」  電話を切って、佐久間はため息をついた。泉を行かせたのはまずかったかもしれない、と思い始めていた。あの浜口はプレイボーイとして有名なのだ。しかし、まさか泉のような少女には手を出すまいと思っていたのだが……。甘かったかもしれない。  佐久間などから見れば、泉は娘みたいなもので、女性として意識することはないが、もう十七歳《さい》といえば、体つきは立派な女である。浜口が食指を動かしてもおかしくない。  しばらく迷ってから、思い切って受話器をとり、浜口の家の番号を回した。めったなことで電話してはならないと言いつけられているのだが、今はもう待っていられない。だが番号を回し終わらないうちに、ドアがノックされた。佐久間は受話器を置いて、  「どなた?」  と声をかけた。  「使いの者だ」  同じ世界の人間だとすぐに分かる、よく通る無表情な声だった。佐久間は用心に拳《けん》銃《じゆう》を取り出すとベルトにはさんで上着で隠《かく》した。  「待ってくれ」  ドアを開けると、佐久間は相手の顔を見て驚《おどろ》きの声を出した。  「お前か! 萩《はぎ》原《わら》!」  「久しぶりだね、兄《あに》貴《き》」  「懐《なつか》しいな。ま、入れ」  萩原と呼ばれた男は三十二、三歳《さい》の若さ。長身で、ヒョロリとやせた体を、黒のスーツで包んでいる。体に似合った細長い顔をして、目も裂《さ》け目のように細く、顔にはとってつけたような笑みがこびりついている。  「よく潰《つぶ》れずにいるじゃないか」  「何とかな。——お前のいた頃《ころ》に比べても、見る影《かげ》はない。お前が出て行ったのも無理ないよ」  「そう言ってもらえるとありがたいぜ」  「ところで、今、お前『使い』で来たと言ったな」  「そのとおり」  「お前、まだ〈太っちょ〉のところにいるのか?」  「そうさ」  「じゃ〈太っちょ〉の使いか?」  「そのとおり」  「——そいつは驚きだな。あんな大物が、こんな零《れい》細《さい》企業に何の用だ?」  「言われたとおり伝えるぜ」  萩原はひと息ついて、  「俺《おれ》たちは目高組の組長を預かっている。無事に取り戻《もど》したければ、こっちの組織から手に入れたヤ《ヽ》ク《ヽ》一包みを返してもらおう。期限は明日の夜十二時。それまでに連絡して来れば、受け取る場所と時間を指定する」  佐久間はしばらく唖《あ》然《ぜん》としていた。  「——おい、萩原」  「俺は言われたとおりに伝えるだけだ」  「お嬢《じよう》さんをどうした!」  「大《だい》丈《じよ》夫《うぶ》。元気だよ、今はな」  「何てことだ! 〈包み〉だって? そんなもの知りゃしないんだ!」  「兄《あに》貴《き》が知らないことはねえだろう。ここの大黒柱がよ」  「思い違《ちが》いだ! そんなヤクのことなんか、俺もお嬢さんも知らねえんだ!」  「ウチのボスは、知ってると思ってる」  萩原は冷ややかに言った。  「そいつが肝《かん》心《じん》なのさ」  「目高組がヤクに手を出さないのは、お前だって知ってるだろう」  「ウチのボスはそう思ってねえ」  佐久間は椅《い》子《す》に坐《すわ》り込《こ》んで頭を抱《かか》えた。  「——畜《ちく》生《しよう》!」  「じゃ、兄《あに》貴《き》、俺《おれ》は戻《もど》るぜ」  「萩原——」  「何とかして〈包み〉を捜《さが》せよ。あの娘《むすめ》がどんな体で帰って来るか保証しないぜ」  「待ってくれ、俺が——」  「兄貴とはやり合いたくねえな。じゃ、待ってるぜ」  ドアが閉まった。——佐久間は凍《こお》りついたようにその場に立ちすくんでいた。 第四章 女親分、絶体絶命!   1  暗い道を、何時間走っただろうか。ひどい山《やま》奥《おく》だということだけは分かったが、いったいどの辺なのか、泉《いずみ》には見当もつかない。だいたいが方向には至って弱いほうで、今でも学校へ行くのに必ず同じ道しか通らない。違《ちが》う道でも同じところへ出るのだと分かっていても、だめなのである。そっちを通ると、何か悪いことが起きるような気がするのだ。  たぶん、奥《おく》多《た》摩《ま》のほうではないか、と漠《ばく》然《ぜん》と思ってみたが、格別根《こん》拠《きよ》があるわけではない。途《と》中《ちゆう》、高速道路の料金所で停《と》まったけれど、声を上げる気にはなれなかった。脇《わき》腹《ばら》に、痛いくらいに拳《けん》銃《じゆう》の銃口を押《お》し当《あ》てられていたのだ。あんまりグイグイ押すので、  「痛いから、ちょっと離《はな》してください」  と苦情を言った。隣《となり》の男はびっくりして泉の顔を見たが、別に何も言わず、軽く当てる程度にしてくれた。  誘《ゆう》拐《かい》された、と頭で分かっていても、何となく恐《きよ》怖《うふ》が肌《はだ》にしみ込《こ》んで来ないのだ。何しろここ何日か、マンションと松《まつ》の木《き》組で二度も殺されかけたりして恐怖感覚——そんなものあるのかな?——が麻《ま》痺《ひ》しているのかもしれない。それに誘拐といっても、手足を縛《しば》られるでもなく、目かくし、猿《さる》ぐつわをかませるわけでもない。麻《ま》酔《すい》薬《やく》で眠《ねむ》らされる、みぞおちに一《いち》撃《げき》を食う、といったこともない。——何となく実感がないのである。  ま、そんな実感、なくて幸いだけど、ね。泉は窓の外を見た。山道らしく、凸《でこ》凹《ぼこ》の登りが続く。遠くに、人家らしい灯が見え隠《かく》れする他は、道《みち》端《ばた》に一《いつ》軒《けん》の家もない。  ずいぶん寂《さび》しいところだわ。でも、誘拐した人間を閉じ込めておこうと思えば当然寂しいところになるだろうけれど。でも私を誘拐するなんて一《いつ》体《たい》誰《だれ》なんだろう……?  急に車が停《と》まった。男達が降りる。  「降りろ」  と言われて、恐《おそ》る恐る外へ出る。こんな山中でいきなり停めるなんて、ここで殺して死体を林の中へでも埋《う》める気なのかしら?  降りてびっくりした。車はいつの間にか、平屋造りの大きな山《さん》荘《そう》の前に着いていたのだ。ちょっと洒落《しやれ》たドアの玄《げん》関《かん》のあたりがポッと明るく浮《う》かび上がっている。山の上らしく、空気の冷たさに思わず身《み》震《ぶる》いする。  「歩け」  命じられるままに、泉は山荘風の屋《や》敷《しき》の玄関へと歩いて行った。ドアの前に立つと急にドアが開いた。自動ドアかと思っていると、中から看護婦を思わせる、白衣の女性が現われた。  「ボスは?」  泉の腕をとって、男が訊《き》いた。  「ご自分の部《へ》屋《や》でお待ちよ」  女は面《めん》倒《どう》くさそうに言って、さっさと行ってしまった。三十代の半ば、えらく気の強そうな女性だ。  「愛想のねえ女だ」  男もブツブツ文句を言って、  「あっちだ」  と泉の腕をとったまま歩き出す。ひどく足が早いので、泉はたびたび、前へつんのめりそうになった。そんなに急がなくたって!  おかげで、目的の部屋へ入った時には、少々息を切らしているほどだった。  どこかの小ぢんまりしたオフィスのようで、正面に平《へい》凡《ぼん》なデスク、両側に書《しよ》棚《だな》と、スチールキャビネット……。浜《はま》口《ぐち》物産の社長室とは大分スケールが違《ちが》う。  「ボス。連れて来ました」  正面の背の高い椅《い》子《す》に、誰かが腰《こし》かけていたが、入口のほうへ背を向けて、タイプを叩《たた》いているので、姿は見えない。男が声をかけても、その人物はいっこうに振《ふ》り向く気配がなかった。タイプを叩いているのだが、ちっとも巧《うま》くない。あれなら私のほうがよっぽど早いわ。ふん、だ。——変なところで優《ゆう》越《えつ》感に浸《ひた》っている。書棚を見ると、『現代医学体系』何十巻、『外科医《い》療《りよ》』《う》何巻といった背文字が見える。そういえばさっきの看護婦風の女性といい、ここは病院なのだろうか? でも病室の案内らしいものもないし、だいたい、病院独特の匂《にお》いもない。  不意に正面の椅《い》子《す》がクルリと回った。そこに坐《すわ》っているのは、椅子の中に収まっているのが不思議なほど太った男だった。単に腹が出ているとか、二《にじ》重《ゆう》顎《あご》といったものではない。顔も体も大きい。ぶよぶよした肉の《か》塊《たまり》といった感じだった。子供のように生っ白いすべすべした顔は、ほとんどひ《ヽ》げ《ヽ》というものがない。剃《そ》ったあとも見えないのだ。年《ねん》齢《れい》は見当もつかなかった。童顔で、面積の広い顔の真ん中あたりに、不つりあいに小さな目と鼻と口が集まっていた。妙《みよう》に歪《ゆが》んだ口元は微《びし》笑《よう》を浮《う》かべているつもりらしい。何となく、福笑いでできた、歪《ゆが》み、ねじけた顔を想像させる。特別あつらえに違いないと思える白衣を着て、医者然としていた。  体つき、顔つき。——どれもがこっけいとさえ言える異様さだったが、それにもかかわらず、その男が自分を眺《なが》めた時、泉は鋭《するど》い戦《せん》慄《りつ》が体を貫《つらぬ》くのを感じた。その目は小さく、ほとんど表情が窺《うかが》えないほどだったが、その視線はまるで矢のように肌《はだ》に突《つ》き刺《さ》さった。蛇《へび》のようだ、と思った。爬《はち》虫《ゆう》類の目だ……。その目がゆっくりと泉を頭からつま先まで眺《なが》め回した。泉はまるで服を透《す》かして、自分の裸《ら》体《たい》を見られているようなきまり悪さを感じた。  「椅子を」  思いもかけぬ、テノールの声で、男が言った。ドアのところで立っていた部下の男がはじかれたように飛び出して、部《へ》屋《や》の隅《すみ》にあった椅子を泉の《か》傍《たわら》へ運んで来た。——太ったボスが優《ゆう》雅《が》な手つきで泉に坐れと指示する。泉はおとなしく椅子に坐った。  「若いな。実に若い。若い人だとは聞いていたが、これほどとはね……」  かん高いといっていいような声が、重々しい体にはどうにも似つかわしくなかった。とはいえ、テノール歌手なんていうのはみんな太っている。体の構造上、当然なのだが、見た印象というのは妙なもので、テノールはスマートな長身、バスはずんぐりのデブ、という先入観があるので、何だか違《い》和《わ》感を感じてしまう。  「フム……」  ちょっと鼻を鳴らして、  「いくつかね?」  「十七です」  「十七……。青春の盛《さか》りだね……。《う》羨《らやま》しい限りだ。まったく!」  太ったボスはため息をつくと、  「いや、どうも失礼。こんな方法で来ていただくのは本意ではないのだが、何しろ少々急を要する用件なのでね」  「どういうことでしょうか?」  「おっと、その前に——自己紹介を忘れていた。失礼。私は三《さん》大《だい》寺《じは》一《じめ》。——おたくのボス浜口さんとは好敵手の間《あい》柄《だがら》でな。私のことを聞いたことがあるかね?」  「いいえ」  「そうかね。いや結構。私には売名の趣《しゆ》味《み》はないからね。もっとも浜口系の組員の間では、私はもっぱら〈太っちょ〉というあだ名で呼ばれておるようだ。どういうわけかよく分からんが……」  三大寺は真《ま》面《じ》目《め》くさった顔でおどけて見せると、  「あなたにはそう呼んでほしくはないな。〈ドク〉と呼んでもらいたい」  「ドク……」  「ドクターのドク。ご覧のとおり、医師のスタイルをしておるだろう」  「お医者さんなんですか?」  「いやいや、とんでもない」  と頬《ほお》の肉を震《ふる》わせながら笑って、  「これは私の趣《しゆ》味《み》でね。書《しよ》棚《だな》にも医学書が並《なら》んでいるだろう。もちろん中身は本物だ。読んだことはないがね。子供のままごとのようなものと思ってもらえばいい。お医者さんごっこ、というやつだ」  〈ドク〉が立ち上がった。泉はびっくりした。あの巨体が立ち上がることがあるとは思いもしなかったのだ。しかも、驚くほど軽々と立ち上がって、デスクを回って来ると、  「来なさい。見せてあげよう」  と指でついて来るように合図した。泉は視界をふさがれるような巨体のあとについて行った。  廊《ろう》下《か》へ出ると、ドクはすぐ隣《となり》のドアを開けて、泉に中へ入るように促《うなが》した。入ってみて泉は目を見張った。——そこは病院の診《しん》察《さつ》室《しつ》だった。医師の机《つくえ》、患《かん》者《じや》の坐《すわ》る椅《い》子《す》、固いベッド、奥《おく》には医療器具を入れるガラスのケースまである。そしてレントゲンの機械まで……。  「よくできているだろう? 全部本《ヽ》物《ヽ》だよ。ガラスのケースには注射器も、消毒用具も、手術道具も、全部揃《そろ》っている。あのX線の装《そう》置《ち》も本物だ」  「これを……全部……趣味で?」  「そのとおり。マニアというのは大変なものさ。そのうちまだまだ揃えようと思っている」  泉は感心するよりも呆《あき》れてしまった。X線の装置など何百万もする品だろうが、そんな物まで買い込《こ》むなんて!  元の部屋へ戻《もど》ると、ドクは再び正面の椅子に坐った。  「さて、ところで」  ドクは泉を真っ直ぐに見《み》据《す》えながら言った。  「例の〈包み〉はどこにあるのかね?」    「何ですって?」  「誘《ゆう》拐《かい》されたんだ」  佐《さ》久《く》間《ま》は繰《く》り返《かえ》した。  智《とも》生《お》もさすがにしばし呼吸を整えなければならなかったが、再び受話器へ話しかける声は落ち着いていた。  「で、どんな事情なんです?」  「相手は〈太っちょ〉といって、もちろんそれはあだ名だが、浜口社長と勢力を競っている組織のボスなんだ」  「〈太っちょ〉?」  「ああ。そして、連中、明日の夜中の十二時までに例の〈包み〉を返せと言って来た。さもないと組長の命は、というわけさ」  「〈包み〉を返《ヽ》せ《ヽ》、ですって?」  「そうなんだ。どうやら例の〈包み〉というのは、あの組織のものだったらしい」  「で、泉さんが持ってる、と連中は思ってるんですね?」  「そうなんだ。そうじゃないと言って通るような相手じゃないし……」  「どうですか。本当に言葉どおり実行すると思いますか?」  「やる。必《ヽ》ず《ヽ》やる」  佐久間は即《そく》座《ざ》に答えた。  「あの〈太っちょ〉は冷《れい》酷《こく》な男なんだ。人の命など何とも思っていない」  「何とか助け出すことが……」  「時間がない! といって〈包み〉はないし……。何かいい考えはないかね?」  智生は、話の様子に不安げな哲《てつ》夫《お》と周《しゆ》平《うへい》に、かいつまんで話をした。二人とも真っ青になって顔を見合わせる。智生はもう一度受話器へ向かって、  「佐久間さん。まだ時間はあります。何とか泉さんの連れて行かれた場所を捜《さが》してみてください」  「分かった。やってみよう」  「僕《ぼく》はよく考えてみます。何か引っかかることがあるんで」  「よろしく頼《たの》む。随《ずい》時《じ》連絡するよ」  「分かりました」  「——君たちのような人たちを巻き込んでしまって、すまないね」  と佐久間が付け加える。  「僕らはみんな、泉さんのためなら命も惜《お》しくない奴《やつ》ばかりなんです」  「私もだよ」  ——電話を終えると、三人はしばし沈《ちん》黙《もく》した。  「どうする?」  と、哲夫が智生を見た。  「助けなきゃ!」  周平が頭をかきむしらんばかりに、  「ああ畜生! そんな連中、俺《おれ》がただじゃおかないぞ!」  「まあ、そんなに騒《さわ》いだって仕方ないよ。——周平、君にやってほしいことがある」  「何だ?」  「あの岡《おか》崎《ざき》真《ま》由《ゆ》美《み》って女カメラマンだ。どうも怪《あや》しい。ここへあの女が来てすぐ泉さんの誘《ゆう》拐《かい》だ。妙《みよう》だと思わないか?」  「そうだな。じゃあの女、その一味か?」  「分からない。けれども、泉さんのお父さんの恋人だったなんて、嘘《うそ》をついてるくらいだ。何かで、その〈包み〉につながってるのに間《ま》違《ちが》いないだろう。周平、君はあの女を見張ってくれ。今はスタジオで仕事をしてるだろう。出て来るのを待って、尾行するんだ。どこへ行くか、誰《だれ》と会うかを探ってくれ」  「よし!」  「気づかれるなよ」  「任しとけ!」  「僕《ぼく》は何するんだい?」  と哲夫が訊《き》く。  「君は僕と一《いつ》緒《しよ》にやってもらうことがある」  「何だい?」  「〈包み〉を捜《さが》すんだ」  「ええ?」  「いいか。今の様子を見てると、どうも誰もまだその〈包み〉を手に入れていないらしい。ということは、まだど《ヽ》こ《ヽ》か《ヽ》に《ヽ》それは隠《かく》してあるんだ。それを僕らで捜すんだ!」  「でもどこを捜すのさ?」  「この部《へ》屋《や》だ」  哲夫が目を丸くして、  「ここ? だって、あんなにめちゃめちゃに——」  「分かってる。でも何だかここにあるような気がするんだ。それに、ここになければ、もう捜す場所はないんだからな。こ《ヽ》こ《ヽ》に《ヽ》賭《か》けてみる他ないのさ」  智生は他の二人の顔を見て、  「僕ら、家を勘《かん》当《どう》になるかもしれないな。明日も学校サボッて叱《しか》られるだろうし……」  「構うもんか!」  「そうとも!」  「よし!」  智生は二人の肩《かた》を叩《たた》いた。  「じゃ始めよう。——周平はスタジオの電話番号がそこにあるから、場所を訊いて、出かけてくれ」  「分かった!」  「で、僕らは……」  「どうやって調べる?」  「どうもこうもないよ」  智生はゆっくりと部屋の中を見回した。  「——隅《すみ》から隅まで調べるのさ」    「申《もう》し訳《わけ》ありません……」  頭に包帯を巻いた運転手がうなだれた。  「分かった。もういい、もう休め」  浜口が言った。  「それからな、このことは誰《だれ》にも言うな。分かったな?」  「はい」  運転手が行ってしまうと、浜口は電話のダイヤルを回した。長いこと待ってやっと相手が出た。  「誰だ、こんな夜中に?」  「俺《おれ》だ。関《せき》根《ね》、そう怒《おこ》るなよ」  「社長! し、失礼しました!」  「いいさ。実はちょっと事態が変わって来たんだ」  「とおっしゃいますと?」  「〈太っちょ〉があの小《こむ》娘《すめ》を誘《ゆう》拐《かい》した」  「何ですって?」  と関根はしばし黙《だま》り込《こ》み、  「——すると、奴《やつ》らもあの〈包み〉を」  「そうだ。例の男は〈太っちょ〉の手の奴なんだろう。〈包み〉も連中のものに違《ちが》いない」  「で、取り返そうてんですな」  「ああ。こっちとしては、それを手に入れられれば、金になるだけじゃない。〈太っちょ〉の鼻をあかしてやれる」  「まったくですな」  「いいか、俺はその〈包み〉がほしいんだ」  「分かりました。さっそく手を打ちましょう」  「頼《たの》むぞ。だが、まださしあたりは手を出すな」  「は?」  「今《いま》頃《ごろ》はきっと目《め》高《だか》組へ、あの娘と〈包み〉を引《ひ》き換《か》えにすると要求が来ているに違いない。だから目高組を見張れ。もし持っていれば必ず出すだろう」  「で、そこを——」  「お前がいただけばいいんだ」  「分かりました。しかし、そうなると目高組はおとなしく渡《わた》さんでしょう」  「目高組など、なくても構わん」  「で、あの小娘は?」  「味を見ずに死なすのはもったいないが、やむを得んな。ヤクには代えられん」  「承知しました」  ——浜口は電話を切ると、大きなあくびをした。    「例の〈包み〉はどこにあるのかね?」  泉は、やっと自分の立場が分かって来た。しかし、何と答えればいいのだろう?  「あの〈包み〉はな、もともと私のものなのだ」  ドクが続けて、  「それが運び屋のヘマで、そっちの手に渡《わた》ってしまったらしい。だから返してもらわんと困るんだよ」  「それを私が持ってる、と……」  「持っているはずだ」  「私は持っていません」  「もう浜口へ渡してしまったのかね?」  「いいえ、そんな〈包み〉なんて見たこともないんです」  「——あれが失《な》くなった。しかしまだ市場に出回ってはいない。そうなると、どこかに止まっているわけだな」  「でも本当に知らないんです」  「あれは金にして二億円以上の品なんだよ」  ドクは泉の言葉など無視して、  「隠《かく》したいと思うのも無理はない。しかしね、すべては命あってのことだろう」  「隠してなんかいません!」  「今、君の組の人間へ使いをやって、〈包み〉を持って来れば君を帰すと言ってある。君の子分たちならきっと出すだろう」  「持ってもいないのに……」  「だが、もし浜口の手にまで渡っていたら、君も運が悪かったと諦《あきら》めることだね。彼は君など平気で犠《ぎ》牲《せい》にするだろう」  「私、何も知らないんです! 本当なんです!」  「私に話さないかね? そうすればすぐに帰してやる。浜口に渡したというなら、それでもいい。取り返すのは私がやる。どうかね?」  「私、そんな〈包み〉なんて……見たことないんです……」  泉は一方通行の会話に疲《つか》れ切ったように言った。しかし、ドクは黙《だま》っていた。それから立ち上がって、  「では、君にちょっと面白い経験をしてもらうよ」 2  泉は、二人の男に挟《はさ》まれて、地下への階段を降りて行った。目の前で、ドクの大きな背中が揺《ゆ》れている。  たっぷり地下二階分ぐらい降りて、やっと細い通路へ出た。コンクリートむき出しの冷え冷えとした通路だった。奥《おく》のほうから、ガーン、ガーン、と鉄板をハンマーで打つような音が反《はん》響《きよう》して聞こえて来る。通路の突《つ》き当《あ》たりに鉄のドアがあって、音はその中から響《ひび》いて来ているのだった。  ドクが、鉄のドアを叩《たた》くと、中央の小窓から目が覗《のぞ》いて、すぐにドアが開いた。  そこは暗い、細長い部《へ》屋《や》で、ドアを入ったところにすぐ長い台が部屋を横切っていて、奥《おく》の正面の壁《かべ》に、人の形をした白い板が下がって、そこだけへライトが当たっていた。  「ここがどこか分かるかね?」  ドクの声も反響した。  「ええ。射《しや》撃《げき》場《じよう》でしょう」  「そのとおり!」  ドクは銃《じゆう》を撃《う》っていた男を指して、  「あれは私の部下に射撃を教えている男だ。拳《けん》銃《じゆう》、ライフル、機《き》関《かん》銃《じゆう》。何を撃たせても名人だ。今、日本中捜《さが》しても奴《やつ》に太《た》刀《ち》打《う》ちできるのは数人とおるまい」  ドクはいかにも得意げだった。——その男は驚《おどろ》くほど小《こ》柄《がら》で、しかし、がっしりとした肩《かた》幅《はば》の広い、胸板の厚い男だった。頭をスポーツ刈《が》りにしているので、運動選手か、自衛隊員か何かみたいだ。  男は今、銃身の長い拳銃を手にしていた。  「腕《うで》を見せてもらうぞ」  とドクが言った。  「何を使いますか?」  と男が訊《き》く。  「拳銃と……そうだな、トンプソンを使ってもらおうか」  「かしこまりました」  男は拳銃を台に置くと、奥の銃《じゆ》架《うか》へ行って、トンプソン・サブマシンガンを手に戻《もど》って来た。  「見たことがあるだろう」  「ええ。テレビや何かで……」  「アンタッチャブル華《はな》やかなりし頃《ごろ》の傑《けつ》作《さく》で、あの頃のギャング映画にはつきものだ」  男が、細長い弾《だん》倉《そう》をはめ込《こ》む。ドクが泉に訊《たず》ねた。  「〈包み〉はどこにある?」  泉はやや間を置いて、  「知りません」  と答えた。ドクが二人の部下へ頷《うなず》くと、泉はその二人に両腕をとられ、部屋の奥へと連れて行かれた。人が手足をやや開いた格好の白い板が近づいて来る。ちょうど心臓のあたりに弾《だん》痕《こん》は集中している。  「さ、来い」  逆らっても相手の力には敵《かな》わない。諦《あきら》めて泉は、標的の前へ引き出された。  「何するのよ!」  声を上げた時には、もう人の形の板を背に、手足を皮のベルトで止められていた。正面、二十メートルもあろうか、ドクの巨体と射《しや》撃《げき》の名手の姿が見える。  私が標《ヽ》的《ヽ》なんだ……。顔から血の気がひいた。  「いいか、動くなよ」  ドクの声が反響しながら聞こえて来る。  「動くと死ぬぞ。じっとしているんだ」  悪《あく》夢《む》だわ……これは……まさか現実じゃない……。泉の目に、正面の男が拳《けん》銃《じゆう》を自分のほうへ向けて持ち上げるのが映った。  赤い火が走って、銃《じゆ》声《うせい》がコンクリートの壁の中ではね回る。ガン、と軽い衝《しよ》撃《うげき》を感じ、きな臭《くさ》い匂《にお》いがした。横を向くと、わずか十センチほどのところに、新しい弾《だん》痕《こん》ができていた。続いてもう一発、今度は反対側だった。十センチもない。本当に五センチ足らずしか離《はな》れていないのだ。飛び散る木の粉が頬《ほお》に当るのを感じたほどだった。  続いて、男は四発、たて続けに撃《う》った。音の凄《すさ》まじさから、泉は思わず目を閉じて顔をそむけた。最後の一発が右頬すれすれに走って、あっと泉は声を上げる。焼けるような痛みが頬に残った。  「動くな、と言ったろう」  ドクののんびりした声が聞こえる。  「今度動いたら、頭を吹《ふ》っ飛ばされるぞ」  男が機《き》関《かん》銃《じゆう》を構えた。泉の額に汗《あせ》が浮《う》いて来る。機関銃で、そんなに正確に撃《う》てるものかしら? マシンガン・ケリーとかいう有名なギャングは、機関銃で三十メートル先の牛乳びんを撃ち落としたとどこかで読んだけれど……。泉は目をつぶった。  凄まじい轟《ごう》音《おん》が泉を包んだ。標的の板に弾《た》丸《ま》が次々と食い込む。木の破片が飛び、粉が舞《ま》う。自分の体を撃ち抜《ぬ》かれているんだと錯《さつ》覚《かく》するほどの衝《しよ》撃《うげき》だ。  「やめて! やめて!」  思わず叫《さけ》んでいたが、銃《じゆ》声《うせい》にかき消されてしまう。——不意に銃声がやんだ。  三十発を撃ち尽《つ》くすのには、わずか五、六秒しかかかっていないはずだが、泉にとっては何分間にも思えた。ドクの二人の部下が近づいて来て、手足のベルトが外されると、よろけて倒《たお》れかけた。必死で立ち直り、膝《ひざ》の震《ふる》えをこらえて、歩き出した。振《ふ》り向《む》くと、標的はもうボロボロになっている。両足の間に弾痕があるのに気づいて、泉は慌《あわ》ててスカートを見下ろした。布がずたずたに裂《さ》けて、焼けこげたようになっている。  泉は《く》唇《ちびる》をかんだ。——負けるもんか! これぐらいのことで!  「どうかね気分は?」  ドクが変わらぬ丁重な口調で言った。  「こういう経験はめったにできんよ」  「ええ。確かにそうですね」  泉は言ってやった。  「休《ヽ》憩《ヽ》時《ヽ》間《ヽ》だ。この二人が君の部《へ》屋《や》へ案内する」  ドクと別れて、泉は二人の男に腕をとられ、上へ連れて行かれた。入れられた部屋はホテルのシングルルームのような造りで柔《やわ》らかいベッド、バスとトイレがついている。窓はないし、余計な物は何一つない。ドアの外には見張り。これがホテルとの違《ちが》いだった。宿《しゆ》泊《くは》費《くひ》は別にして。  一人になって、泉は何となく希望が持てそうな気がした。いったいこの先どうなるのか、見当もつかなかったが、ともかく今は休める! 冷や汗で、背中がじっとりと濡《ぬ》れているのが気持ち悪かった。浴室へ行き、シャワーをひねると、お湯が出た。ちょっとためらったが、思い切ってベッドの《か》傍《たわら》で服を脱《ぬ》ぎ、浴室で熱いシャワーを浴びた。生き返る思いだった。  生来の負けん気が頭をもたげてくるようだ。けっして死ぬもんか。必ず切《き》り抜《ぬ》けて見せる!    スタジオの中は右も左も同じようで、さっぱり分からない。周平はウロウロしてコードに足を引っかけて転んだり、頭をライトにぶつけたり、ろくなことはなかった。  「畜《ちく》生《しよう》!」  と手近なセットに八つ当りして蹴《け》飛《と》ばすと、ヤシの木が折れてしまった。慌《あわ》ててキョロキョロとあたりを見回し、誰《だれ》も気がついていないらしいと見てとって慌ててその場を逃《に》げ出《だ》す。しかし、何が幸いするか分からないもので、逃げて近づいたセットで、  「はい、笑って! 耳のところへ手をやって!」  とやっているあ《ヽ》の《ヽ》女《ヽ》の声を聞いたのだ。  「よし、つかまえた! もう逃がさないぞ。どこまででも食いついてやる」  と張り切ったが、まさか本当に食いつくわけにはいかない。そのセットが見える程度に離《はな》れ、結局隅《すみ》のコーラやタバコの販《はん》売《ばい》機《き》、赤電話などの並《なら》んだあたりで、さり気なくブラブラすることにした。  「——はい、ご苦労さん」  と真由美の声がした。終わりかな? と様子を見ていると、真由美がセットからこっちへ歩いて来るのが見えた。周平は慌てて、コーラの販売機の陰《かげ》に身を隠《かく》した。普《ふ》通《つう》なら、完全に見られているタイミングだが、幸い真由美は明るい照明の下から出て来たので、隅《すみ》の暗がりにいた周平にはまるで気づかなかった。  周平がそっと覗《のぞ》くと、真由美は赤電話のダイヤルを回していた。何しろ二メートルと離れていない。  「もしもし。私、真由美よ」  声はよく聞こえる。周平はじっと耳を澄《す》ました。  「——そう。今は変な三人組がいるわ」  変な三人組? 周平は憤《ふん》然《ぜん》とした。  「え? 何ですって?」  真由美が大きな声を上げ、それから慌《あわ》てて声を低めた。  「誘《ゆう》拐《かい》? あの子を? いったい——何ですって?」  真由美はすっかり慌てている様子だった。  「——ええ、分かったわ。すぐ行くわよ。——ええ、それじゃ」  真由美がセットへ戻《もど》って、何やら助手らしい男へ言いつけている。よし、ちょうどいいぞ。周平はニヤリとした。仲間に会いに行くらしい。こんなにすぐ目的が達せられるとは、幸運だ。  「泉ちゃん! すぐに助けに行くからね」  と呟《つぶや》く。真由美が出口へ急いで行くのが見えて、あとを追う。  スタジオを出た真由美は急ぎ足で表通りへ出ると立ち止まって、右へ行くか左へ行くか、迷っている様子だった。右が国電、左が地下鉄の駅だ。周平はどっちへ行ってもすぐキップが買えるように、小銭を手の中に握《にぎ》っている。  「早く決めろよ……」  いっこうに動く気配のない真由美の後ろ姿へ、苛《いら》々《いら》と文句を言うと、真由美が手を上げて、タクシーを止めた。  「しまった!」  左右を見ていたのは、空車を待っていたのだ。周平は走り去る車の後ろ姿を見送って、よし自分も、と思ったが、いっこうに空車は来ない。たちまちのうちに、真由美の乗った車は見えなくなってしまった。    「徹《てつ》底《てい》的って、疲《つか》れるなあ……」  哲夫が額の汗を拭《ぬぐ》った。  「頑《がん》張《ば》れよ!」  と智生が声をかける。  「泉さんの命がかかってるんだぞ!」  「うん、分かってるよ……」  ともかく隅から隅まで、というわけで、下《げ》駄《た》箱《ばこ》を引っくり返し、引出しは全部抜《ぬ》いて、奥《おく》の奥まで覗《のぞ》き込《こ》む。ラジオ、TVの類も、裏《うら》蓋《ぶた》を外して調べる、といった具合。それだけで、いい加減エネルギーを消《しよ》耗《うもう》してしまう。  「もっと狭《せま》いマンションにしときゃよかったのに」  などと変な愚《ぐ》痴《ち》をこぼしつつ、作業を続けていると、電話の鳴る音。  「おい、電話だよ」  と哲夫。  「出てくれよ」  「どこで鳴ってるんだ?」  と智生が居間の中を見回す。何やら風《か》邪《ぜ》をひいたような音を出している。  「その倒《たお》れてる長《なが》椅《い》子《す》の向こうだよ。クッションの下さ」  「ああ、分かった」  智生はクッションをのけて受話器を上げた。  「はい。——ああ、周平か。——え? 見失って?——やれやれ。仕方ないなあ。——じゃ戻《もど》って来いよ。——うん、分かった」  と受話器を置く。  「逃《に》げられたのか」  「そうらしい。まあ尾《び》行《こう》なんて考えるほど簡単じゃないがね」  「家《や》捜《さが》しだって簡単じゃないよ」  「まったくだ。一休みしようか」  と智生はクッションを床《ゆか》に置いて坐《すわ》り込んだ。  「やれやれ、どこにあるのかな」  「本当にここにあると思うかい?」  「分からない。——でもここを捜す他ないんだ。そうだろう?」  「うん……」  「それに、僕《ぼく》はここにあると思ってる。なぜと言われると困るんだけど……」  智生は立ち上がって、居間を見回した。  「あれだけ捜して、まだ見つからないんだ。きっとどこか意外なところにあるんだ。——そうだ。こうやって隅《すみ》ばかりほじくってるけど、意外にそれは目につくところにあるはずだ」  「『盗《ぬす》まれた手紙』かい? でも、目につくところもちゃんと調べてるぜ」  「そのつもりで、調べてないところがあるんだ、きっと」  「どこ?」  「どこかな……」  智生は大きくのびをして、  「ちょっと顔を洗って来るよ」  洗面所へ行って、思い切り水で顔を洗った。——ローション、ないかな。家ではよく眠《ねむ》気《け》ざましにローションをつけるのだ。鏡《かがみ》を開くと、アラミスの化《けし》粧《よう》品《ひん》が並んでいる。  「外国趣《しゆ》味《み》だなあ」  とローションのびんに手をのばしかけて、ふとその手が止まった。国産のローションが一つだけ混じっている。  「変だぞ……」  〈包み〉がヘロインか何かだとして、〈包み〉のまま隠《かく》してあるとは限らない。たとえば、溶《ヽ》液《ヽ》に《ヽ》し《ヽ》て《ヽ》し《ヽ》ま《ヽ》う《ヽ》という方法もあるんじゃないか……。  智生は国産のローションのびんをとって、蓋《ふた》を開けると、手に受けてみた。    周平は今さらマンションに戻る気にもなれず、未練がましくスタジオへ戻ってみた。真夜中すぎだというのに、まだ仕事が続いている。  「俺《おれ》たちとは世界が違《ちが》うんだなあ……」  さっき真由美が撮《さつ》影《えい》していたセットに行ってみると、まだ照明がついていて、助手らしい若者がタバコを喫《す》っている。戻《もど》って来るんだろうか?  「——何か用?」  と助手が周平に気づいて声をかけて来た。  「え?——あ、あの、岡崎真由美さんは……」  「今出かけちゃってるよ」  「戻って来ますか?」  「でなきゃ困るね。まだ仕事終わってないんだもの」  「そうですか」  周平はホッとした。まだ見込みはあるぞ!  「君、ウチの先生に用なの?」  「え?——あの、先生の写真が好きなもんですから」  と出まかせを言う。  「そう。ウチの先生も、いろいろ妙《みよう》なファン持ってんだな」  「そうですか」  「そう。女のくせして、女のファンが多いんだよね。ヌード撮《と》るじゃない。男が撮ったヌードと何となく違《ちが》うんだよね。だから女性が見てシビレルらしいんだな。レズの気があるのかな」  「はあ……」  周平はドギマギして赤くなった。こういう話は弱いのである。  「でも先生男っぽくてさ。ちょっと女とは思えないけどな。ボーイフレンドだって、変わってんだよ。トラックの運ちゃんとか、日《ひ》雇《やと》いのオッサンとかね。最近じゃデカさんだろ」  「デカ?」  「刑《けい》事《じ》よ。おまわりさん」  「刑事……。何ていう人か知ってますか?」  「うん。黒《くろ》木《き》ってったな」  「黒《ヽ》木《ヽ》!」  あの泉ちゃんにつきまとってる刑事じゃないか! あいつが真由美を連れて来たんだ。そしてその真由美は偽《にせ》者《もの》だった……。  「失礼します!」  周平はスタジオを飛び出した。 3  いつの間にか、ベッドでうとうとしていたらしい。泉は、誰《だれ》かに揺《ゆ》り起こされて、目を開いた。  「やあ」  白衣に包まれた巨体の上から、薄《うす》気《き》味《み》の悪い笑顔が見下ろしている。  「よく眠《ねむ》っていたね」  泉はベッドに起き上がって、  「私、どれぐらい……」  「ちょうど一時間。決められた《き》休《ゆう》憩《けい》時間なのでね」  「休憩?」  「それも終わった。もう一度訊《き》くよ。〈包み〉はどこにある?」  泉はため息をついた。  「そんなもの知りませんと何度も言ったでしょう!」  ドクは頭を振《ふ》った。  「残念だ。——君のためにね」  「どうして私が知ってると思ってるんですか?」  「私は君がそうして『知らない』と言い張ってくれているほうが嬉《うれ》しいのだよ」  「説明してください! その〈包み〉というのがどうして私のところになきゃならないんですか!」  ドクは巨体をゆっくりと回転させると、部《へ》屋《や》を出て行った。その広大な背中へ、  「分らず屋!」  と怒《ど》鳴《な》った。  「補聴器つけなさいよ!」  開いたドアから、さっきの二人の部下が入って来た。今度は手に皮の紐《ひも》を持っている。  「何するの……?」  とジリジリ後ずさる。——二人とも、ちょうど精神病院の看護人のような、短い白衣を着た、逞《たくま》しい男である。といって泉が精神病院に入ったことがあるわけではない。TVで見たことがあるのだ。念のため。  「やめてよ!」  エイッと殴《なぐ》りかかって——アッという間に有無を言わさぬ力で押《お》さえつけられてしまう。とても敵ではない。両手を前で合わせて、手首のところをきつく皮紐で縛《しば》り上げられる。  「痛いじゃないの!」  と強がってみるものの、いったいどうしようというのか、半ば生きた心地もない。引きずられるようにバスルームへ連れて行かれると空の浴《よく》槽《そう》の中に立たされた。  「お風《ふ》呂《ろ》はさっき入ったわよ」  泉の言葉には耳も貸さず、男の一人が泉の縛った手首を持ち上げて、シャワーのノズルの根元につないでしまう。  水責めか。——潜《せん》水《すい》だって三十秒は平気なんだぞ。参るもんか。  大きく息を吸い込む。とたんに頭から水が降って来た。全身、たちまちずぶ濡《ぬ》れになる。せっかく風《ふ》呂《ろ》で暖まったのに、これじゃ風《か》邪《ぜ》引いちゃう。水を吸い込まないようにしないと。じっと我《が》慢《まん》できるだけ我慢して、息をする時は何とか滝《たき》の外へ顔を出すんだ。——水が止まった。  「ん?」  もう終わり?——別にがっかりしたわけではないが、ちょっと肩《かた》すかしの感じだ。  「来るんだ」  シャワーのノズルから手首を放して、男が促《うなが》した。  「絨《じゆ》毯《うたん》が濡れるわよ」  泉の言葉には耳も貸さず、男たちは、濡れねずみの泉を部《へ》屋《や》から連れ出すと、隣《となり》の部屋へ連れて行った。  何もない——本当に何もない、空っぽの寒々とした部屋で、その真ん中に白衣の巨体が銅像みたいに突《つ》っ立っていた。  「やあ」  ドクは泉を見てニヤリと笑った。  「洗礼はすんだようだね」  「あなたが名付け親なんてごめんだわ」  「いや、しかし濡れて服が肌《はだ》にはりついているのは、何とも色気がある。いい眺《なが》めだ」  「そんなために水浴びさせたの」  「いやそうではない。〈包み〉はどこにあるか、言う気はないかね」  泉は相手のやり方で、  「この服はもう洗《せん》濯《たく》しなきゃならなかったの。ちょうどよかったわ」  と言ってやった。ドクは楽しそうに笑って、  「君こそ私の求めていた女性だよ! さ、楽しみはこれからだ」  と空っぽの部屋を見回して、  「まあ何もないところだが、ゆっくりしてくれたまえ」  ドクの巨体と、二人の部下が出て行ってドアが閉まった。泉は一人、何もない灰色の部屋に取り残された。いったい何をする気なんだろう? 手首がきつく締《し》め付けられて、手がしびれる。動かしてみても、いっこうにゆるむ気配がない。  「やれやれ……」  頭上で、ゴーッという音が聞こえた。  「何かしら?」  天《てん》井《じよう》に、通《つう》風《ふう》孔《こう》のようなものがあって、そこから聞こえて来るのだ。空調の音なのかな……。真下に立って見上げていると、突《とつ》然《ぜん》冷気がドッと吹《ふ》き降《お》ろして来て、慌《あわ》てて泉は飛びのいた。冷《れい》房《ぼう》の風だ。この涼《すず》しいのに……。  「そうか」  びっしょり濡れた体にして、猛《もう》烈《れつ》な冷房をきかせるつもりなんだ!——凍《とう》死《し》するかもしれない。泉は部《へ》屋《や》の隅《すみ》へと退《さ》がった。もう足下に冷気が忍《しの》び寄って来ている。    「やあ、君たち来てたのか」  黒木が智生と哲夫を見て微笑《ほほえ》んだ。  「もう一人の仲間は?」  「今出ています」  「ええと……泉さんはいるかね?」  智生がちょっとためらったが、  「誘《ゆう》拐《かい》されたんです」  「何だって!」  「〈太っちょ〉とかいう奴《やつ》に……。ご存じですか?」  「——知ってるとも。いつのことだ?」  智生は簡単に事情を説明した。  「大変なことになったな……」  「黒木さん、今は警察に知らせてる暇《ひま》はないんです。僕《ぼく》らに任せてください」  「しかし——」  「奴らがほしがっているのは例の〈包み〉ってやつでしょう。これさえあれば……」  「しかし、どこにあるというんだね? ここへ忍《しの》び込《こ》んだ奴があれだけ徹《てつ》底《てい》的に捜《さが》したのに——」  「僕、見つけたような気がするんです」  黒木が唖《あ》然《ぜん》として智生を見つめた。  「ほ、本当かい?」  「来てください」  智生は黒木を洗面所へ連れて行った。  「ほら、おかしいと思いませんか? 泉さんのお父さんは外国趣味だったのに、ここには国産のローションが一つだけ混じっています。——〈包み〉っていうのは、たぶんヘロインか何かなんでしょう」  「たぶんね」  「包《ヽ》み《ヽ》の《ヽ》形《ヽ》の《ヽ》ま《ヽ》ま《ヽ》のものばかり捜していたから分からないんです。もし、中身を溶《ヽ》液《ヽ》に《ヽ》し《ヽ》て《ヽ》隠《かく》してあるとしたら、どうでしょう?」  「液体にして……。そしてあのローションのびんに……」  「僕もそう思って——」  と智生が言いかけた時だった。  「おい、待て!」  と飛び込んで来たのは、周平だった。  「周平! どうしたんだよ?」  哲夫がびっくりして、  「そんな凄《すご》い勢いで——」  「おい、智生! その野《や》郎《ろう》はあの女カメラマンとグ《ヽ》ル《ヽ》だぞ!」  黒木が素《す》早《ばや》く身を引いて、拳《けん》銃《じゆう》を抜《ぬ》いた。  「じっとしてろ! 本当に撃《う》つぞ!」  「こいつ……」  と銃《じゆ》口《うこう》など目に入らない周平を、智生が押《お》し止めた。  「おい、やめろ、本当に撃つ気だぞ!」  「そうとも。さあ、どいてるんだ!」  黒木は拳銃を構えながら、手をのばして国産のローションのびんを取った。  「畜《ちく》生《しよう》! 散々手間を取らせやがって! おい、死にたくなけりゃそこをどくんだ」  「この野郎……」  周平はゆでだこみたいに真っ赤になっている。両《りよ》腕《ううで》を智生と哲夫が必死でつかんでいなければ黒木に飛びかかっていただろう。  「諸君、ご苦労さまだったね」  黒木は皮肉な微《びし》笑《よう》を浮《う》かべて、  「これで俺《おれ》も助かったよ」  「あんたがその包みを捜《さが》してたんだね」  智生が言った。  「なぜ泉さんのお父さんの手にそれが渡《わた》ったんだ?」  「あの時、空港で俺は〈包み〉を受け取ったんだ。ところが、麻《ま》薬《やく》捜《そう》査《さ》官《かん》がはり込んでいてヤバくなった。それで通りかかった奴《やつ》のバッグの中へそっと〈包み〉を放り込んだ。そいつが星って奴だったわけさ」  「じゃ泉さんのお父さんは運び屋なんかじゃなかったんだな!」  「そうとも。そのあとで、俺は麻薬捜査官に呼び止められた。むろんすぐ放免されたが、肝《かん》心《じん》の〈包み〉を持った男を見失っちまった。必死になって捜し回ってると、空港の表で事故があったと騒《さわ》いでる。で、行ってみると、そいつがトレーラーにひかれて死んでいた。しかしもう現場には近づけない。あとで署へ行って遺品の荷物を調べてみたんだが、〈包み〉は消えていたんだ」  「それで、ここにあると思ったのか」  「俺が奴のバッグへ包みを放り込んでから、トレーラーにひかれるまでの間に、奴が誰《だれ》かに渡したのに違《ちが》いねえ。それはここの娘《むすめ》か、それともマユミって恋《こい》人《びと》しかいない。そこでここへやって来たのさ」  黒木は手にしたローションのびんを握《にぎ》り直して、  「こいつがないと、俺は〈太っちょ〉の奴に消されるとこだったのさ。これで命拾いしたよ。お前らには感謝するよ」  「刑事のくせに! 汚《きたな》い野《や》郎《ろう》だ!」  「刑事なんて安月給で、何一ついいことなんぞありゃしないのさ。さあ、じっとしてろよ。動くと命がないぜ」  「泉さんは無事に帰してくれるんだろうな」  「さて、それは〈太っちょ〉次第だな。では失礼!」  黒木が素《す》早《ばや》く部《へ》屋《や》を出た。  「おい、早く追いかけて——」  と周平がいきり立つのを、  「無理だよ! 向こうは拳《けん》銃《じゆう》があるんだ」  「じゃどうするんだよ!」  「佐久間さんに連《れん》絡《らく》をつけるんだ」  「だってあいつが逃《に》げちまうよ!」  「あの女カメラマン、どうした?」  「まだスタジオにいるよ」  「それなら、あの女をしめ上げればいいのさ」  周平の顔がパッと明るくなった。  「そうか! それなら拳銃もないわけだ」  「哲夫、佐久間さんへ電話だ!」  「よし!」  哲夫が電話をかけている間に、周平が舌《した》打《う》ちした。  「しかししゃくだなあ……。あんな奴《やつ》に肝《かん》心《じん》のものを持ってかれちまって」  急に智生がクスクス笑い出した。  「おい、何笑ってんだよ?」  「え?——いや、あの黒木って奴、とんだ早とちりさ」  「何だって?」  「最後まで話を聞かない内に、君が飛び込んで来たもんだから……」  「ええ? それじゃ——」  「あれを持って、その〈太っちょ〉とかいう奴のところへ行ったら大目玉だぜ。あれの中身は本物のローションだからな!」    黒木はマンションを飛び出した。  「やれやれ、これで助かったぜ」  と手にしたローションのびんを眺《なが》めた。  「よし!」  車に乗ろうとドアへ手をかけた時だった。  「おい、刑《デ》事《カ》さん」  背後の声にギクリと振《ふ》り向いたとたん、数人の男が襲《おそ》いかかって来た。  「何だ——おい——」  拳《けん》銃《じゆう》へ手をかける間もなかった。一《いつ》瞬《しゆん》の内に黒木は叩《たた》きのめされて路上へ沈《しず》んだ。    部《へ》屋《や》の温度は少しずつ、しかし確実に下がって来ている。泉はもう何百回も部屋の壁《かべ》に沿ってぐるぐると走っていた。  「——これで何キロ走ったのかしら」  ハアハアと喘《あえ》ぎ喘ぎ、呟《つぶや》く。動いているのに、体は冷え切っていた。息をするたびに鼻と喉《のど》がヒリヒリと痛い。  「頑《がん》張《ば》って。じっとしてたら死んじゃうわよ」  自分に言いきかせながら、もう機械的に手足を動かしているだけだ。じっとしていたらとっくに眠《ねむ》り込《こ》んで死んでいただろう。  「こんなことで死んでたまるもんか!」  心臓が飛び出しそうだ。いっそ眠るように死んだほうが楽かな……。  「馬《ば》鹿《か》!」  と叱《しか》りつけて、頭を振《ふ》る。  「まだ十七なのよ! 恋《れん》愛《あい》だって結婚だって、これからなのに……死んじゃもったいないでしょ!」  まるでゴール寸前のマラソン走者みたいなよろけるような走り方で、泉は走り続けた。  「——アッ!」  声を上げて床《ゆか》に転《てん》倒《とう》した。足がつったのだ。キュッと右足のふくらはぎが固く引きつっている。  「だめ……早く……立たないと……」  つった筋肉にさわってみると、まるで死体のように冷たい。いや、死体にさわったことがあるわけではないが、ともかく冷え切ってしまっている。  「畜生! えい!」  縛《しば》られた両手で懸《けん》命《めい》にもんでみたり、痛みをこらえて足首をのばしてみたりするものの、いっこうに元通りにはならない。  「だめか……」  泉は床《ゆか》に坐《すわ》り込んで、壁にもたれたまま、肩《かた》で息をしていた。——ああ、休んでるって何て楽なんだろう! 低いところにいるせいか、冷たさが肌《はだ》へじわじわと浸《し》み込《こ》んで来る感じだ。もう少しすると、体がだるくなって、動けなくなる。その内、寒さも感じなくなって、眠くなって……。  よくやったわよ、泉。できるだけ頑《がん》張《ば》ったんだもの。もういいよ。さあ、ゆっくり休むのよ。  凍《とう》死《し》か。——いちばん楽な死に方の一つだって聞いたけど、本当だろうか? でも何かの本で読んだことがある。凍死した人間っていうのは、自分で服を脱《ぬ》ぎ捨《す》てている場合が多いんだって。寒いのにどうして、と思えるけど、寒さも熱さもひどくなると同じようなもので、たとえばドライアイスでやけどするようなもの。感覚的にも混乱して来るんだって。あんまりみっともいいものじゃない。  でも、今度はこうして手が縛《しば》ってあるから脱《ぬ》ぎたくても脱げないだろう。——ご親切にどうも。礼を言わなきゃね。  「ああ……暖かくなって来たな」  冷房、止まったのかな? 音はしてるけど。可《か》哀《わい》そうだってんで、少し暖房を入れてくれたのかしら……。  泉ははっとした。眠《ねむ》りかけたんだ。  「だめ! 起きて! さあ、立ち上がって!」  夢《む》中《ちゆう》で頭を振《ふ》ると、部《へ》屋《や》がはっきり見えて来る。目がいつの間にかかすんでいたのだ。  「死んじゃだめよ! 頑《がん》張《ば》って!」  手を縛られ、右足がつったままで、壁《かべ》に体をもたせかけて、立ち上がろうとしたが、バランスを失って部屋の真中まで転がってしまう。冷気が直接上から吹《ふ》きつけて来て、身《み》震《ぶる》いした。かえって一時的に目が覚める。泉は這《は》いずりながら、部屋の角まで行って、角に背中を押《お》しつけるようにして、かろうじて立ち上がった。  「さあ、もう倒《たお》れちゃだめよ!」  泉はゆっくり部屋を回り出した。いや、本人としては走っているつもりなのだが、何しろ右足を引きずるようにしているから、普《ふ》通《つう》に歩くほうがよほど速いくらいだ。それでも徐《じよ》々《じよ》に体のこわばりかけていた節々がほぐれて来た。——まだまだもつわ。大《だい》丈《じよ》夫《うぶ》!  不意に冷房の音が止まった。立ち止まって見上げていると、ドアが開いた。  「いや、まったく呆《あき》れたよ」  ドクが苦笑した。  「頑《がん》張《ば》り屋《や》さんだな」  「もう休憩時間なの?」  「一時間ね。それから改めて伺《うかが》うよ」  と二人の部下へ、  「おい、隣《となり》の部屋へ戻《もど》してやれ」  二人の男が両腕をかかえようとするのを振《ふ》り払《はら》って、  「一人で行くわよ! この手の皮《かわ》紐《ひも》を切ってちょうだい!」  ドクがその巨体を揺《ゆ》すりながら笑った。  「いやまったくたいした娘《むすめ》だ!」  泉は右足を引きずりながら隣の部屋へ戻った。一人になると、バスルームに入って、浴《よく》槽《そう》に湯を入れた。手を熱い湯に入れると、しびれていた手に、徐々に感覚が戻って来る。  「ああ、生きてるんだわ!」  と思わず叫《さけ》んだ。  ドアの鍵《かぎ》を開ける音。  「何よ、まだ一時間たってないじゃないの!」  文句を言いながらバスルームを出ると、この屋《や》敷《しき》の玄《げん》関《かん》で見た看護婦姿の女がやたら大きな盆《ぼん》を持って入って来る。  「食事よ」  女は部《へ》屋《や》のベッドの上に盆を置いて、  「三十分ぐらいしたら取りに来るわ」  と言って出て行った。  「毒でも入ってるのかな……」  かけてあった布をとって、ゴクリと唾《つば》を飲んだ。オレンジジュース、熱いコーンスープに始まって、焼き上がったばかりのヒレ肉のステーキ、サラダ。シャーベット、コーヒーまでごていねいについているのだ。  「毒だっていいや!」  泉は熱いスープを貪《むさぼ》るように飲んだ。体の中に熱い火が燃え上がって来るようだ。ステーキもあっという間に片づけた。いかに早かったかは、シャーベットに手をつけた時、まだほとんど溶けていなかったし、コーヒーもまだ充《じゆう》分《ぶん》熱かったことでもよく分かる。  ちょうどお湯が一《いつ》杯《ぱい》になっていた。泉は、すっかりしわくちゃになった服を脱《ぬ》ぎ、全《ぜん》裸《ら》になって、お湯へ飛《と》び込《こ》んだ。  「アチッ!」  じーっと我《が》慢《まん》していると、冷えていた体がゆっくりと暖かくなって来て……。こんなに風《ふ》呂《ろ》がいいものだとは、泉は思ったこともなかった。いつの間にか、つった右足も元通りになっている。  「——でも、そういつまでもいい気分になっちゃいられないんだわ」  一時間の休《きゆ》憩《うけい》が終わったら、また何をやられるか、分かったもんじゃない。  でも、あのドクと自称している男は、いったいどういう男なんだろう? サディストなのだろうが、それにしては、わざわざ犠《ぎ》牲《せい》者《しや》を休ませたりするのが変わってる。——できるだけ長く、相手を《も》弄《てあそ》んでやろうという腹なのか。しかし結局は殺されるのじゃないかしら。あの豪《ごう》華《か》な食事も、死《し》刑《けい》囚《しゆう》最後の食事っていうところなんだろう。  何とかしなくちゃ。体が温まって来ると、いつもの元気を取り戻す。たとえ、あのドクという男に〈包み〉の場所を教えたとしても——むろん知っている場合の話だが——きっと帰してはくれないだろう。猫《ねこ》がネズミを弄ぶように、わたしを弄んで断《だん》末《まつ》魔《ま》を見届けるつもりに違《ちが》いない。  それに次の試《し》練《れん》を巧《うま》く切《き》り抜《ぬ》けられるとも限らないのだ。今度こそ、死ぬかもしれない……。  「——そうだ」  月《つき》並《な》みではあるが、一つのアイディアが閃《ひらめ》いた。巧くいくかどうか。一か八かやってみよう。どうせ死ぬなら、できるだけの抵《てい》抗《こう》はしてみるんだ! 4  ドアが開いて、岡崎真由美が入って来た。  「あら、まだいたの、三人とも」  「ええ」  「もう遅《おそ》いじゃないの。帰らないとお家で心配してるわよ」  真由美が肩から下げていたバッグを降ろして、  「あーあ、疲《つか》れた」  「腰《こし》が痛みますか?」  と智生が言った。  「うん。どうしてもね。ほら、何たって体を動かす商売だし、撮《と》る姿勢が腰かがめたりしてることが多いでしょ」  「この周平が、マッサージ巧いんですよ。なあ?」  「ええ、いつも親《おや》父《じ》やおふくろにやってやってんです」  と両手の指をポキポキいわせて、  「いかがですか?」  真由美は笑って、  「ありがと。でも遠《えん》慮《りよ》しとくわ」  と言った。  「——お風《ふ》呂《ろ》に入りゃ、翌日には楽になるのよ」  「まあ、そう言わないで……」  周平がツカツカと真由美に歩み寄って、  「簡単ですよ」  と真由美の手をとった。——と、クルリと身を回して、エイッと気合をかけると、真由美の体が大きく円を描いて、床へドシンと叩《たた》きつけられた。  「あっ! 痛い!」  「どうだ。効いただろう!」  「な、何をするのよ……」  と起き上がるところをもう一度、一本背負い!  「キャーッ!」  悲鳴と共に真由美の体は再び一転して、ソファの向こうへ転落。  「やめて! やめてよ! どうしてこんな——」  「うるせえ!」  周平はここぞ俺《おれ》の出番とばかり、物《もの》凄《すご》い気《き》迫《はく》でソファを乗《の》り越《こ》えると、半分起き上がりかけた真由美を引きずるように立たせて、腰をひねる。  「やめて! いやよ!」  叫《さけ》びも空《むな》しく真由美の体は宙へ舞《ま》って、カーペットのない床へと、もろに落下した。  ウーン、と唸《うな》って、気絶してしまう。  「何だ、口ほどでもねえ」  と周平は少し息を弾《はず》ませている。  「気絶か。——智生、どうする?」  「緊《きん》急《きゆう》の事態だからな。哲夫、風《ふ》呂《ろ》場《ば》へ行ってバケツに水くんで来い」  「よし!」  哲夫も張り切って浴室へ姿を消す。ちょうどドアが開いて、佐久間が姿を見せた。  「どうした?」  「あ、佐久間さん。ここでのびてます」  「よし。俺《おれ》が聞き出す」  「待ってください!」  周平が口を出して、  「これは俺がやります! 任してください」  哲夫がバケツを下げてやって来ると、気を失っている真由美の顔めがけて水をぶちまけた。  「キャッ!」  とはね起きた真由美は自分を取り囲んでいる四人をキョロキョロと見回した。  「いったい、あんたたち……何のつもりで……」  「おい、いいか」  佐久間が言うとさすが迫《はく》力《りよく》がある。  「時間がない。手短に訊《き》くぞ。泉さんはどこだ?」  「知らない……知らないわよ!」  とたんに周平がグイと真由美を引っ張り上げたと思うと、アッという間に真由美の体はゆるやかに弧《こ》を描いて、数メートル先へと着陸した。着陸の衝《しよ》撃《うげき》は、逆《ぎや》噴《くふ》射《んしや》ロケットなどないので相当なものだった。  「フーン。見事なもんだ」  と佐久間が感心する。  「さあ、しゃべれよ。泉さんはどこだ?」  やっとの思いで体を起こした真由美、  「だって……知らないものは……」  周平が真由美のえり首へ手をかけると、  「キャッ!」  と悲鳴を上げて、  「やめて! もうやめてよ!」  「しゃべるか?」  「あ……あの……〈太っちょ〉のところだよ」  「場所は?」  「確か……奥《おく》多《た》摩《ま》のほうだ。……山ん中だよ」  「案内してもらおう」  「ええ? だって、分かんないよ。二、三度行ったきりだもん」  「また放り投げられたいのか?」  「い、いやだよ!」  「じゃさっさと立て! 下の車へ行くんだ! 早くしろ!」  「でも、前に行った時は昼間だったし、この暗さじゃ……」  「途《と》中《ちゆう》で道に迷ったらな——」  佐久間が真由美の腕《うで》をギュッとつかんで、  「山の上から周平君に放り投げてもらうぞ!」  「よし、行こう!」  三人組も一《いつ》斉《せい》に言った。  「いや、君らは危ない。来ないほうがいい」  佐久間の言葉に智生が首を振《ふ》って、  「前にも言いましたけど、僕《ぼく》らは泉さんのためなら命なんか惜《お》しくないんです。行かせてください。それに途《と》中《ちゆう》でこの事件の真相をお聞かせしますよ」  佐久間はやや考えこんでいたが、  「分かった。君らは立派だよ。じゃ一《いつ》緒《しよ》に行こう」  「他に組の人は?」  「武《たけし》が運転する。英《ひで》樹《き》は事務所に残しておかないと、いつ連《れん》絡《らく》が入るか分からん」  「じゃ、英樹さんに、ちょっとこっちへ取りに来てくれって電話してください」  「何をだね?」  「ヘ《ヽ》ロ《ヽ》イ《ヽ》ン《ヽ》ですよ」  と智生は澄《す》まし顔で言った。    「盆《ぼん》を下げるわよ」  と女は部《へ》屋《や》へ入りながら言った。バスルームで水の流れる音がする。  空になった盆を手に戻《もど》りかけて、女は、足を止めた。バスルームのドアの下から、水が流れ出しているのだ。  「何してるの? 大《だい》丈《じよ》夫《うぶ》?——ねえ!」  返事はない。女は盆を置いてバスルームのドアを開けた。とたんに、陰《かげ》に隠《かく》れていた泉が、思い切り女の腹を殴《なぐ》りつけた。  「ウッ!」  と呻《うめ》いて体を二つに折ったところを力一《いつ》杯《ぱい》蹴《け》っ飛《と》ばすと、女はそのまま後ろへ飛んで、のびてしまった。  「何だ。案外呆《あつ》気《け》ないものね」  人を殴《なぐ》るなんて初めての経験だ。棒一つないので、仕方なく素《す》手《で》でやったのだが、結構効いたようだ。  「さ、時間がない!」  泉は女の看護婦の服を脱《ぬ》がせると、自分のボロボロになったワンピースの上に着《き》込《こ》んだ。  さて、これで何とか外へ出られれば、この闇《やみ》だ。逃《に》げ切《き》れる希望もある。女の手足を、シーツを裂《さ》いた布で縛《しば》り上げると、泉は盆を手に、そっとドアを開けた。  廊《ろう》下《か》には人《ひと》影《かげ》がない。泉に逃げ出す元気など残っているはずがないと思ったのだろう。見張りもいない。ドアを閉めて鍵《かぎ》をかけ、さて、右へ行くのか左へ行くのか……。  記《き》憶《おく》を頼《たよ》りに左へ行くことにする。  「裏口があれば……」  足早に廊下を辿《たど》って行くと、曲がり角の向こうに、人の声が聞こえて来て、はっと立ち止まる。——あのドクの笑い声が近づいて来る。慌《あわ》てて左右を見回したが、手近なところには一つしかドアがない。  鍵が開いてますように! 中に誰《だれ》もいませんように! 間に合いますように!  いささかぜいたくな祈《いの》りと共にドアへ走って行って、ノブを回す。開いた! 素《す》早《ばや》く中へ入って、ドアを閉じる。——部《へ》屋《や》の中は真っ暗で、ひっそりとしていた。どうやら祈《いの》りは三つとも叶《かな》えられたようで、すぐに足音がドアの前を通って行った。泉は息をついた。  しかし、今のはドクと例の二人の部下に違《ちが》いない。たぶん休憩の一時間が過ぎたのだろう。ということは、自分が逃げたことがすぐに発見されてしまう。そうなると出口も裏口も、出るのは難しくなる。  耳を澄《す》ましていると、ちょうど泉のいた部屋あたりで、何やら大声で騒《さわ》いでいるのが聞こえたと思うと、駆《か》け足の足音が部屋の前を通って行った。——あの女が見つかったんだ。  泉はしばし思案した。どうすれば逃げられるだろう? 向こうはまず、泉がまだ建物から出ていないかどうかを確かめるだろう。そして出ていないとなれば、この建物中の部屋を一つ一つ、しらみ潰《つぶ》しに調べて回るに違いない。  「この部屋は何かしら……」  危険はあったが、ともかく一度明かりをつけてみよう。ドアの《か》傍《たわら》を探ると、スイッチが見つかった。  手術室……。そこは手術室そのものだった。頭上の大きな照明、手術台、手術道具を満《まん》載《さい》したワゴンのようなもの……。  泉は恐《おそ》る恐る、部屋の中へ足を踏《ふ》み出した。滑《なめ》らかなリノリウムの床《ゆか》、清潔に明るいグリーンに塗《ぬ》られた壁《かべ》。もっとも泉自身は手術を受けた経験がない。扁《へん》桃《とう》腺《せん》も盲《もう》腸《ちよう》もまだちゃんと——というのは変だが——残っている。ただ中学一年の時、自転車で走っていて、交《こう》叉《さ》点《てん》で信号を無視して走って来たライトバンにはね飛ばされ、足を切ったことがある。近くの病院へ救急車で運ばれ、何針か縫《ぬ》ったのだが、その時に治《ちり》療《よう》を受けた手術室の印象はこことそっくりだった。  あの時はパパのほうが私より真っ青な顔してたっけ……。  それにしてもあの〈太っちょ〉は、ドクと自称しているものの、医師ではないというのに、この設備と来たら……。ままごと遊びにしては恐《おそ》ろしく高価なオモチャだ。  手術道具を載《の》せた台を覗《のぞ》くと、メス、ハサミ、ノコギリ、ドリルなどが磨《みが》き上げられた光を放っている。その冷たい輝《かがや》きに何となく背筋に戦《せん》慄《りつ》が走った。  奥《おく》に別のドアがあった。そっと開けて明かりをつけてみる。準備の小《こ》部《べ》屋《や》とでもいうのか、正面に手を洗う台があり、右手にはガラスのケースに何やらびんが並んでいる。左手の壁にホワイトボードが掛《か》けてあって、〈手術予定〉とある。念の入った話だ。  さり気なく眺《なが》めてみて、思わず声を上げるところであった。〈手術予定〉として、〈患《かん》者《じや》・星泉〉とあったからだ。〈病名〉は〈不明〉——当り前だわ! その後ろを見て、一《いつ》瞬《しゆん》、肌《はだ》の粟《あわ》立《だ》つ恐《きよ》怖《うふ》に立ちすくんだ。〈摘《てき》要《よう》・生《ヽ》体《ヽ》解《ヽ》剖《ヽ》〉とあるのだ。  「——気《き》狂《ちが》い!」  思わず出た声が震《ふる》えていた。ではあの男は、自分を生きながら解《かい》剖《ぼう》してしまうつもりなのだ。  「早く逃《に》げるんだ……。ここから逃げなくちゃ」  振《ふ》り向いて、背後のガラスケースに向き合った泉は、  「キャッ!」  と短い悲鳴を上げて、目を飛び出さんばかりに見開いたまま、凍《こお》りついたように立ちすくんだ。  目の前の棚《たな》の、大きなガラスの器に、ホルマリンに漬《つ》けられた男の首がじっと泉を見つめていた。    「すると、黒木はあのマンションを調べるために、お嬢《じよう》さんに接近したのか」  夜道を飛ばす車の中で、佐久間が智生に訊《き》いた。  「それと、泉さんが果たして〈包み〉のことを知ってるかどうか、確かめようとしたんですね」  智生が説明する。  「そのために、本当に事故に過ぎなかったお父さんの死を、殺人だったらしいと吹《ふ》き込《こ》み、お父さんが〈運び屋〉だったことを泉さんが本気で信じるように仕向けたんです」  「何て奴《やつ》だ! 素《しろ》人《うと》衆《しゆう》に迷《めい》惑《わく》をかけ、しかも悪い仲間だったように見せかけるとは、組織の人間としても最低だ!」  「そういうモラルのない奴なんですよ。さて、黒木は泉さんがどうやら〈包み〉のことは知らないらしいと見当をつけました。となると、あとはマユミという女性が怪《あや》しい。空港へ迎《むか》えに出ていて、泉さんのお父さんから、〈包み〉を預かったんじゃないか、というわけです。それは事実、そのとおりだったんでしょう。——お父さんはマユミさんにみやげを渡《わた》そうとして例の〈包み〉を見つける。そこでマユミさんに、誰《だれ》か他の客の物らしいから、税関の役人へ渡して来てくれと頼《たの》んだのでしょう。ですが、マユミさんと別れてすぐ、お父さんはトレーラーにひかれて、大《おお》騒《さわ》ぎになったので、マユミさんもそのほうに駆《か》けつけて、〈包み〉を結局ずっと持ったままだったわけです。そしてあのお父さんの手紙の指示どおり、泉さんのマンションにやって来たのです」  「すると……」  佐久間は驚《おどろ》いた様子で、  「あの殺された女が、本《ヽ》当《ヽ》に《ヽ》マユミだったのか!」  「もちろんですよ。あの人が偽《にせ》者《もの》だなんて言ったのは誰《だれ》です? 黒《ヽ》木《ヽ》ですよ」  「そりゃそうだ」  「あのマユミっていう人は、本当に気の毒だった」  智生は頭を振《ふ》った。  「インテリでも、美人でもなかったけど、とてもいい人だったらしいですよ。泉さんが二《ふつ》日《か》酔《よ》いで苦しんだ時も、とても熱心に看護してくれたんだそうです」  「彼女は〈包み〉を持ったままあのマンションへ来たのかな?」  「もちろんです。マユミさんにしてみれば、泉さんのお父さんに預かった大切なものだったわけですからね。——ところが一応中身を調べてみたマユミさんはそれがヘロインだと知ってびっくりしたんでしょう」  「ヘロインだとすぐ分かったのかな?」  「たぶん、あの人は以前に射《う》ったことがあるんじゃないかと思います。そんな生活をしていた人のような雰《ふん》囲《い》気《き》がありましたよ」  「君は大人のようなことを言うね」  「からかわないでください」  「いや失礼。続けてくれたまえ」  「マユミさんはヘロインをどうするか、迷ったと思います。今さら届け出たら警察でうるさく訊《き》かれるに違《ちが》いない。捨ててしまうにしても、大変な量です。金額にすれば莫《ばく》大《だい》なものだということは、マユミさんにも分かる。ということは、それを失くした連中は死に物《もの》狂《ぐる》いで捜《さが》しているに違いない。——そこでマユミさんは、一時、ヘロインを隠《かく》すことにしました。しかし包みの形のままでは、そのうち、泉さんが見つけないとも限らない。そこで、ヘロインの濃《こ》い溶液を作って、化《けし》粧《よう》品《ひん》のびんの中身を捨て、代わりにそれを入れておいたのです」  「しかし、なぜ国産のローションのびんを……」  「そこです。マユミさんという人は、素《す》晴《ば》らしく頭のいい人だったと思うんですよ。泉さんのお父さんの恋《こい》人《びと》だっただけのことはある、と感心したんですがね。——マユミさんは棚《たな》にあった、アラミスのびん全《ヽ》部《ヽ》を溶液と入れかえました。そしてまったく関係のない国産のローションのびんを一つ並《なら》べておいたんです」  「いったいどうして?」  「マユミさんは誰《だれ》かがヘロインを捜しに来るかもしれないと予想していました。捜している人間があの棚を眺《なが》めた時、一つだけメーカーの違うびんがあれば、当然そのびんが怪《あや》しいと目をつけます。ところが蓋《ふた》を取ってみれば中身は本物のローション。それで捜《さが》している人間はがっかりしてしまいます。まさかそ《ヽ》れ《ヽ》以《ヽ》外《ヽ》の《ヽ》び《ヽ》ん《ヽ》全《ヽ》部《ヽ》を調べてみようという気なんか起こさなくなるんです。——マユミさんはその辺を実によく見《み》抜《ぬ》いていました」  「すると黒木の奴、今《いま》頃《ごろ》は中身がローションと知って頭へ来てるだろうな」  佐久間が愉《ゆ》快《かい》そうに笑った。  車はすでに寂《さび》しい郊《こう》外《がい》の道を走っている。    「そんな馬《ば》鹿《か》な!」  黒木が叫《さけ》んだ。  「じゃ自分の目でよく見てみな」  関根がローションのびんを放った。黒木は受け取って蓋《ふた》を開けると、手へ液を受けてみた。  「——どうだ?」  関根がいまいましげに、  「それがヘロインだというのかね?」  「畜《ちく》生《しよう》!」  黒木はローションのびんを床《ゆか》に叩《たた》きつけた。  「さて、と……。あんたをどうするかな」  「お、俺《おれ》は刑《けい》事《じ》だぞ! 下《へ》手《た》なことをすれば、警察が黙《だま》っちゃいない!」  関根は冷ややかに笑って、  「その惨《みじ》めったらしい格好で何を言ってるのかね」  黒木は関根の手下に叩《たた》きのめされて、ここへ連れて来られたのだった。服は破れ、顔ははれ上がり、刑事の威《い》厳《げん》のかけらも残っていない。  「だいたいね、あんたは、ウチの若いのを使って、目高組の若いのを誘《ゆう》拐《かい》させた。こっちはおかげで大《おお》迷《めい》惑《わく》だよ」  「そんな——そんなこと、俺は知らんぞ!」  「だめだよ、ごまかしたって。当の二人が、この間サツへ引っ張られて行った時、ちゃんとあんたの姿を見て、断言してるからね。サツのほうだって、あんたのことをちっとは疑ってんじゃないのかね?」  「そんなことあるもんか!」  「本当かな?——この辺であんたが消えてくれれば、サツのほうでも喜ぶんじゃないかね。〈太っちょ〉とつながってる刑事なんて、暴かれてマスコミで叩かれるよりはいいってね……」  「おい、いいか、ボスは黙《だま》っちゃいねえぞ! 俺がやられたと分かれば、大変な出入りになる。憶《おぼ》えとけよ!」  「馬鹿も休み休み言うんだな。大量のヘロインを失くすような奴《やつ》を、どうしてそんなに大切にするもんか。どうせ、このままだって、あんたは〈太っちょ〉に消されるんだ。諦《あきら》めるんだね」  黒木がガックリと肩《かた》を落とした。——そしてすすり泣きを始めた。  「……頼《たの》む。……助けてくれ……殺さないでくれ……」  「泣きごとを言うな!」  関根が苛《いら》々《いら》と怒《ど》鳴《な》った。  「俺《おれ》はそういう奴《やつ》が一番気に食わねえんだ!」  「頼む……見《み》逃《のが》してくれ……」  関根が子分に合図すると、二人の男が黒木をがっしりと押《おさ》え込《こ》んで、引きずるように部《へ》屋《や》から連れ出して行った。  「頼む……やめてくれ……」  黒木の声が聞こえなくなると、関根は渋《しぶ》い顔で考え込んだ。  「畜生め! せっかく手に入れたと思ったのに……。これじゃボスに顔向けができねえ!」  関根はふと眉《まゆ》を寄せて、  「おい、まだマンションは見張らせてあるか?」  「いいえ」  「馬《ば》鹿《か》め! 誰《だれ》かやるんだ! 早くしろ!」  「へい!」  慌《あわ》てて子分の一人が部屋を飛び出して行く。  「——何としても手に入れるぞ。何億円のヘロインだ!」  と関根は呟《つぶや》いた。 5  それは悪《あく》夢《む》のような光景だった。ガラスケースの中の棚《たな》には、大小の容器にホルマリンで漬《つ》けられた体の一部分が並《なら》んでいるのだ。  首、手、足、心臓、胃、……どれもが生々しく、不気味だった。白い、ロウ細工のような首は、まるで今にも何かをしゃべり出しそうに見える。  必死の思いでやっと体の震《ふる》えを抑《おさ》えて、泉はその小部屋を出た。——自分もああして、棚に並べられるのだろうか、と思うと、改めて身震いが出る。  「気狂い医者の実験台なんて、ごめんだわ!」  手術室へ戻《もど》って、さてこれからどうしようか、と考えていると、突《とつ》然《ぜん》ドアが開いた。ギクリとして振《ふ》り向《む》くと、さっき泉が叩《たた》きのめした女が立っている。  「こんなところで何してるの?」  女は一《いつ》瞬《しゆん》、泉のことが分からなかったらしい。看護婦の服を着ていたからだろう。泉は素《す》早《ばや》く、手術道具の置いてある台へ駆《か》け寄《よ》った。  「あんたは……」  女が泉に気づいて、凄《すさ》まじい形相で襲《おそ》いかかって来る。泉はメスをつかんで女に相対した。——刺《さ》す気はなかった。ただ素《す》手《で》では敵《かな》わないと思ったのだ。  女は一気に飛びかかって来た。そしてリノリウムの床《ゆか》に足を滑《すべ》らせたのか、《い》一《つし》瞬《ゆん》体のバランスを崩《くず》して、泳ぐような姿勢で泉に抱《だ》きついて来た。  「アッ!」  と女が短く呻《うめ》いた。——泉は何が起こったのか分からなかった。女が身体《からだ》を起こすと、ヨロヨロと後ろへ退《さ》がる。左手で押《おさ》えたお腹《なか》のあたりに、赤いしみが広がって行く。呆《ぼう》然《ぜん》として、泉は手にしたメスの先にこびりついた血を見つめた。  「刺《さ》したんだわ……」  何の手《て》応《ごた》えもなかった。それなのに……。女はさらに二、三歩後ずさりして、床へ倒《たお》れた。傷が思いの他深いのかもしれない。  「私が……殺した……」  手からメスが落ちた。泉は廊《ろう》下《か》へ飛び出して、夢《む》中《ちゆう》で走った。もう何も分からなかった。めちゃくちゃに走ったのだ。  「あそこだ!」  「いたぞ!」  声が遠くで聞こえ、足音が背後に響《ひび》いた。もうこうなったら、ただ走るだけしかない。どっちが玄《げん》関《かん》か、どっちが裏口かなどと考えている暇《ひま》はないのだ。  「逃《に》がすな!」  声が迫《せま》って来る。——突《とつ》然《ぜん》目の前に、玄《げん》関《かん》が見えた。信じられない思いだった。夢中で走っているうちに、自然に出て来てしまったのだ。天の助けだわ! 泉は一気に玄関から飛び出した。その時、誰《だれ》かが泉の前へ現われ出て行く手を遮《さえぎ》った。かわす暇もなく、足を引っかけられて、泉は転《てん》倒《とう》した。起き上がった時は、もう追って来た男たちが泉を取り囲んでいた。    「すると、あのマンションの部《へ》屋《や》を荒《あ》らしたのは……」  佐久間が言った。  「やはり黒木か?」  「もちろんです。彼は〈包み〉があそこにあると見て、捜《さが》しに来たわけですね」  「マユミを殺したのは?」  「やはり黒木です」  と智生は言った。  「実は僕《ぼく》は、部屋を荒《あ》らした人間とマユミさんを殺した犯人は別じゃないかと思ったんです。マユミさんは発見された時、まだ殺されたばかりだった。ということは犯人が、まずマユミさんを縛《しば》り上げ、部屋中を捜し回って、そのあとで殺したということになります。殺すなら最初に殺しておくはずで、何もそんな面《めん》倒《どう》なことをしなくてもいいでしょう」  「それはそうだ」  「実は黒木もマユミさんを最初は殺す気じゃなかったんです。だから縛《しば》り上げ、室内を捜《さが》し回りました。ところが——」  「何だね?」  「目当ての物は見つからず、諦《あきら》めて部《へ》屋《や》を出た時、まずい事が起こりました」  「というと?」  「僕《ヽ》ら《ヽ》三《ヽ》人《ヽ》が《ヽ》やって来たんです」  「え?」  「つまり、僕《ぼく》らは黒木がドアの前にいるのを見たんですが、それはちょうど黒木が出て来たところだったんです。しかし、黒木としては少し前に来て、泉さんの帰りを待っているというふりをするほかはなかったんです」  「ちょっと待ってくれ」  と佐久間はわけが分からない、といった顔で、  「するとその時、まだマユミって女は殺《ヽ》さ《ヽ》れ《ヽ》て《ヽ》い《ヽ》な《ヽ》か《ヽ》っ《ヽ》た《ヽ》ってことになる」  「そのとおりです」  「じゃ、いったいいつ殺されたんだ?」  「その後、泉さんが帰って来て、部屋へ入った時です」  「何だって?」  「黒木は、証《しよ》拠《うこ》や手《て》掛《が》かりを踏《ふ》み荒《あ》らしてはいけないといって、奥《おく》へ入って行きました。そしてその時、持っていたナイフでマユミさんを刺《さ》し殺し、何食わぬ顔で出て来て、死体を見つけたと言ったのです」  「じゃ君らの目の前で……」  「そうです。僕もまったく気づきませんでした。——殺されて間もなかったのは当然ですよ」  「しかし、いったいなぜ、黒木はそんな危険を犯してまでマユミを殺さなきゃならなかったんだ?」  「それは見《ヽ》ら《ヽ》れ《ヽ》て《ヽ》い《ヽ》る《ヽ》からですよ。顔は何かで隠《かく》していたにしても、全体の体つき、印象、動作、服《ふく》装《そう》といったものはマユミさんに憶《おぼ》えられています。それが事件後日数がたってからでは、印象も曖《あい》昧《まい》になって、会っても分からないでしょうが、何しろほ《ヽ》ん《ヽ》の《ヽ》十《ヽ》分《ヽ》前《ヽ》の《ヽ》こ《ヽ》と《ヽ》です。しかも同《ヽ》じ《ヽ》服《ヽ》ですからね、こいつは気づかれると思った」  「で、殺したのか」  「ですから、もしあの時、僕らがあそこへ行き合わさなければ、マユミさんは殺されずにすんだんです」  「運が悪かったんだな……」  「まったくです。——そして平然として警察へ連絡した。こ《ヽ》れ《ヽ》なんですよ」  「何のことだね?」  「何かおかしいとずっと気になってたんです。——もっと早く思い出していれば、黒木が犯人だと分かってたはずなんです」  「どういう意味だい?」  「黒木はマユミさんが殺されていると言って警察へ電話をかけました。室内はめちゃくちゃにされていて、電話は落ちたクッションか何かの下になっていたんですが、黒木は迷《ヽ》い《ヽ》も《ヽ》せ《ヽ》ず《ヽ》に《ヽ》、そこから電話を引っ張り出したんです。つまり彼は電話のある場所を最初から知っていた。それは部《へ》屋《や》を荒《あ》らしたのが黒木自身だったからです」  「なるほど……」  「何となく心に引っかかっていたんですが、どうしてもはっきりと分からなくて……。もっと早く分かっていればこんなことにならずにすんだのに」  「それは仕方ないさ」  佐久間はチラリと外を見てから、助手席の真由美へ、  「おい! まだか?」  「この先、道が登りになるから、それをずっと山の上まで行けば着くわよ」  と真由美がふてくされた顔で答える。  「よし。武、急げ!」  車がスピードを上げた。——目高組のボロ車ではない。真由美の車なのである。    穴の中へ、コンクリートが流し込《こ》まれている。——泉が落とされたのよりさらに深い穴である。  「よし、もういいだろう」  関根の子分の一人が、ミキサー車のほうへ手を振《ふ》った。  「たっぷり二メートル半はあるぜ」  「やめてくれ……」  黒木が哀《あい》願《がん》した。  「なあ、頼《たの》む! 助けてくれ!」  「——おい」  と頷《うなず》くと、黒木の両《りよ》腕《ううで》をとっていた男たちが力一《いつ》杯《ぱい》黒木を前へ押《お》し出《だ》した。  「ワッ!」  と短い声を上げて、黒木の体が宙へ投げ出され、コンクリートの沼《ぬま》へと落ちて行った。水音よりもちょっと鈍《にぶ》い音をたてて、白い沼が黒木の体を呑《の》み込《こ》む。——手が突《つ》き出《で》て来て、空をつかんだ。それもほんのしばらくの間で、やがてそれも没《ぼつ》して、沼は静かに淀《よど》んで、少しずつ、着実に凝《ぎよ》固《うこ》し始めていた……。  「——すんだか」  関根は入って来た子分へ訊《き》いた。  「片づきました」  「よし。今、マンションを見に行った奴《やつ》から連絡があった。目高組の奴がマンションから何やら荷物を持って事務所へ戻《もど》ったそうだ」  「例の物で?」  「おそらくな。行って持って来るんだ」  「はい。——ですが、構わないんで?」  「ああ、構わん。つべこべ言ったら、片づけて来い。目高組一つぐらいなくなっても、別にボスは気になさらねえ」  「分かりました!」  子分が出て行くと、関根はゆっくりとタバコをふかした。——あの娘《むすめ》は気の毒だが、仕方ない。これもヤクザの世界の厳しさだ。  五分後には、車二台に分乗した男たちが、目高組の事務所へと向かった。    「いや、まったく——」  ドクが椅《い》子《す》に掛けたまま、泉を見て、言った。  「君の勇気には敬意を表する。大したものだ。知恵、忍《にん》耐《たい》力《りよく》、行動力。どれをとっても、並《な》みの男の比ではない」  泉は黙《だま》って立っていた。もう逃《に》げるわけにはいかない。両手は後ろで固く縛《しば》られている。  「——君のような女性こそ、私が望んでいた女だ!」  こんな化物に望まれちゃ迷《めい》惑《わく》だわ、と内心舌《した》を出してやった。  「君の意志の強さはよく分かった。——あの人間標的や、寒さに耐《た》えた君だ。今さら私が〈包み〉はどこにあるのかと訊《き》いても、答えてはくれないだろうね」  「知らないものは答えられないわ。あなた、日本語が分からないの?」  ドクは笑って、  「いや、威《い》勢《せい》がいい! 実に結構」  何が結構なもんか。  「——実は私はいろいろと人を拷《ごう》問《もん》する手を考えるのが好きでね」  ドクが続けて、  「君にも二つ紹介したが、あの他にもいろいろな段階がある。それもいわゆる、肌《はだ》を傷つけたり、火傷《やけど》させるのではなく、もう少しスマートな拷問だ。たとえば、むりやり両目を開けさせておいて、強い光を正面から何時間も当てる。——その内には失明するよ。それから耳ざわりな音を合成して、大ボリュームで聞かせる。発狂することもある。まあいろいろだ。中世ヨーロッパの人間も、拷問にかけては大変独創的だったが、やはりあれは身体を痛めつけることで白状させるわけでね、原理的にはあまり高級とは言いかねる」  「高級な拷問なんて、ありっこないわ」  「そうかな? いや、ナチス・ドイツの考え出した拷問などは心理学を応用した、大変高《こう》尚《しよう》なものだよ。といって、私は別にナチスに傾《けい》倒《とう》しているわけではない。ただ、拷問の美学といったものに酔《よ》っているのだ」  ドクは葉巻に火を点《つ》け、煙《けむり》を吐《は》き出した。  「これも拷《ごう》問《もん》?」  泉は顔をしかめて、「葉巻の匂《にお》いは嫌《きら》いなの!」  「おや、失礼」  ドクはおとなしく葉巻をもみ消した。  「いや、そういう遠《えん》慮《りよ》のないところがいいな」  さて、と一息ついて、  「私は麻《ま》薬《やく》を扱《あつか》っている。むろん他の物もあるが、主にヘロインだ。——金になるのも事実だ。しかしね、私には他の意味もあるのさ。分かるかね?」  泉は黙《だま》って肩《かた》をすくめた。  麻薬は一種の拷問なのだよ。薬が切れた時の中毒患者の苦しみようは凄《すさ》まじい。私は自分が供給した麻薬で、今それだけ多くの人間が禁断症状に苦しんでいると思うと、まるでこの手で拷問を加えているような快感を味わうのさ。——まったく、恍《こう》惚《こつ》とさえして来るほどだ」  「あなたは変態よ」  ドクは泉をじっと見た。泉も燃えるような目で真っ直ぐに見返す。  「そのとおり」  ドクが口を開いた。「私は変態だ。しかし権力のある変態でね。それがちょっと違《ちが》うところだ」  ゆっくりと巨体が立ち上がった。  「今から君を私《ヽ》の《ヽ》も《ヽ》の《ヽ》にする」  泉が身を固くするのを見て、  「あ、そういう意味ではない」  と手を振《ふ》る。  「私はセックスには興味がない。何せこの体ではね……。面《めん》倒《どう》でかなわん。その心配は無用だ」  ドクが部《へ》屋《や》を出る。泉も部下の男に促《うなが》されてついて行った。  「あの女の人は?」  廊《ろう》下《か》を歩きながら、泉が訊《き》いた。  「死んだの?」  「ああ、いや、重傷だが死んではいない。病院へ連れて行ったがね、大《だい》丈《じよ》夫《うぶ》。助かる」  「——よかった」  泉は本心、ほっとしたのである。  「まったく変わってるな、君は」  ドクが愉《ゆ》快《かい》そうに言った。  「あなたが手当てすればよかったのに」  泉は精《せい》一《いつ》杯《ぱい》の皮肉を言ってやった。  着いたのは、あの手術室だった。——覚《かく》悟《ご》はしていたものの、中へ入ると、全身がすくむ思いだ。さっきの女が倒《たお》れたあたりにも血《けつ》痕《こん》はなかった。きれいに拭《ぬぐ》ってある。  空の手術台に頭上のライトがまぶしいほどの光を投げている。あそこに私が……。  何とか助かる手はないだろうか? 誰《だれ》かが来てくれる可能性はほとんどない。しかし、何を言っても、もうこの異常者の気持ちは変わるまい、と思った。〈包み〉の場所を知っている、とでたらめを言ってもいいが、それでも彼女を生かしておくまい、純《じゆ》然《んぜん》たる楽《ヽ》し《ヽ》み《ヽ》で《ヽ》、人を殺すのだ。損得ではない。  「君は隣《となり》の小《こ》部《べ》屋《や》を見たかね?」  「ええ」  「あの首は、かつて私の部下だった男でね。他の組との出入りで死んでしまった。で、家族も引き取り手もなかったものだからね、ああして使わしてもらった。しかし、死体は解《かい》剖《ぼう》してもいっこうにつまらん。コチコチになっとるので、えらく骨が折れるばかりでな」  と首を振《ふ》る。  「——ナチスは収容所のユダヤ人を生体解剖した。聞いたことがあるかね?」  「ええ。私もやろうっていうのね?」  「——私は永年、それにふさわしい女性を捜《さが》して来た。誰《だれ》でもいいというわけには行かない。すぐに失神してしまうようでは困るしね。そして今やっと見付けたんだ。私はこの手術台の上で、君を自分のものにする……」  「だったら、早いとこ殺して!」  「殺しては生体にならない」  とドクが笑った。  「本気なの?」  「ただ切るだけだ。それなら私にでもできる。道具も揃《そろ》っている。メス、電気ノコギリ……」  「いやよ! 生きたまま……そんな……」  「生きたまま……麻《ま》酔《すい》もなしでやる」  泉は一《いつ》瞬《しゆん》よろけて、倒《たお》れかかった。  「悪《あく》魔《ま》!」  ドクは微笑《ほほえ》んだ。  「そう呼ばれるのが私の夢《ゆめ》だった。——光栄だよ」  夢《む》中《ちゆう》で泉は手術室を飛び出そうとしたが二人の部下ががっしりとそれを押《お》さえると、暴れる泉を逆に手術台へと引きずって行った。  「手術の支度を」  とドクが言った。    英樹は一人、事務所でウトウトしていた。時折ふっと目を覚ますと、足下の鞄《かばん》を見て、ほっとするのだ。  「これで何億円かあ……」  ため息が出る。自分には縁《えん》のない金額だ。それに、ヤクに手を出さないのは、目高組の伝統なのだ。  それにしても、電話番とはいいながら、一本の電話もない。一体どうなったんだろう?  佐久間の兄貴は、いつも危《あぶ》ない仕事の時、俺《おれ》を外してくれるんだ。  「お前はこの稼《かぎ》業《よう》にゃ向いてねえ」  といつも兄貴は言ってる。そうかもしれない。——俺《おれ》は臆《おく》病《びよう》で、車の運転もできねえし、何一つ役に立たないんだ。英樹は、もうこの稼業から足を洗おうか、と考えていた。急にドアが乱暴に開いて、数人の男たちが飛び込んで来た。手に手に、散《さん》弾《だん》銃《じゆう》や拳《けん》銃《じゆう》を構えている。英樹は棒立ちになって、  「だ、誰《だれ》だ!」  「お前一人か?」  「そうだ……」  「松の木組だ」  英樹はびっくりして、  「松の木組がどうして」  「おい! その鞄《かばん》だぞ!」  「こ、これは——」  英樹が口ごもっている間に、鞄は松の木組の手に渡《わた》ってしまった。  「よし、これだ」  中身をあらためて頷《うなず》くと、  「邪《じや》魔《ま》したな」  「おい——困るよ! それは——」  英樹が言いかけた時、散《さん》弾《だん》銃《じゆう》が火を吹《ふ》いて、英樹の体は二、三メートルも後ろへふっ飛んだ。 6  「まだか!」  佐久間がじりじりとして叫《さけ》んだ。  「もう少しよ」  「——やれやれ。それで、ガードマンを殺したのも黒木なんだな?」  「ええ、そうです。泉さんが言っていたとおり、人形の台座が外れるんじゃないかと後で思いついて、誰もいないはずのマンションへ調べに来たんですが、結局無《む》駄《だ》足《あし》。そこへ泉さんがやって来てしまったわけです。黒木には最初それが誰か分からなかった。それで暗がりで首をしめようとしたんですが、その時、初めて泉さんと気づき、さすがに殺せずに手を離《はな》したんです。まあ、殺せば、もう〈包み〉を捜《さが》す手掛かりもなくなると思ったのかもしれません」  「すると、健次をあんな目にあわせたのも……」  「たぶんそうだと思います。黒木にしても、そんな大量のヘロインを失くしたらただじゃすまないでしょうからね。必死だったんでしょう」  佐久間が真由美へ、  「おい、お前はどういう絡《から》みなんだ?」  「私は、黒木さんに頼《たの》まれたのよ。同じマユミって名だし、あそこへ住んで〈包み〉を捜《さが》してくれって。それだけなのよ……」  「いい加減なことを言うなよ。〈太っちょ〉の屋《や》敷《しき》を知ってるんだ。ただ黒木のガールフレンドってことはあるまい」  「ええ……。ちょっと組織の仕事をやったこともあるわ。でも、私はただの女カメラマンなのよ! 本当よ!」  「分かった、分かった」  佐久間が言った。  「まだか?」  「もうすぐだと思うけど……」    もう絶望だわ。——このまま死ぬんだと、泉は思った。いや、いっそ死ねればいいが、この狂《きよ》人《うじん》は、なかなか死なせてもくれまい。こんなことになるなんて!  恐《きよ》怖《うふ》が、今になってもあまり現実感を伴って迫《せま》って来ないのだ。あまりに信じ難い悪《あく》夢《む》のようだからだろうか。  「後は私一人でやる」  すっぽりと手術着を着込み、ゴムの手袋をはめたドクが言った。  「はい」  二人の部下は手術室から出ていった。  泉は全《ぜん》裸《ら》で、手足はしっかりと皮のベルトで手術台に固定されていた。口に猿《さる》ぐつわをかまされている。  「ふむ……」  ドクはじっと泉の体を見下ろした。  「素《す》晴《ば》らしい! これこそ、私の望んでいた肉体だ。まったく完《かん》璧《ぺき》だ!」  ドクは微《びし》笑《よう》を浮《う》かべた。  「猿ぐつわは窮《きゆ》屈《うくつ》だろうが、舌をかんで死なれては困るのでね。我《が》慢《まん》してくれたまえ」  そして、《か》傍《たわら》の台からメスを取りあげた。  「手術を始めるぞ。まず、どこにするか……」  泉は目を閉じた。——もう何秒かあとには、この体にメスが切り込まれるんだ。痛いだろうな。せめて足の太いところを細くするぐらいにしてくれたら……。  「滑《なめ》らかな肌《はだ》だ……。全く美しい。無地のカンバスのようだ。私のような芸術家にふさわしい」  ふと泉は目を開いた。遠くで騒《さわ》がしい音がする。  「何だ?」  ドクが不《ふ》機《き》嫌《げん》そうに呟《つぶや》く。  何だっていい! 少しでもこれを先へ引《ひ》き延《の》ばせるのなら、大《だい》地《じ》震《しん》でも起こればいいのに! 急に廊《ろう》下《か》で激《はげ》しく入り乱れる足音がした、と思うと、ドアが開いて、さっき出て行った部下の一人が転がり込んで来た。そしてその後ろに、拳《けん》銃《じゆう》を構えた佐久間が立っていた。  涙《なみだ》がこみ上げて来る。地《じ》獄《ごく》で仏とはこのことだ。佐久間が泉を見て《い》一《つし》瞬《ゆん》愕《がく》然《ぜん》とした表情になる。そして、メスを手に立っている巨体へ、怒《いか》りのこもった視線を向けた。拳銃が轟《ごう》音《おん》とともに発射された。泉が振《ふ》り向《む》くと、巨体の手術着の心臓のあたりに、小さく、赤い点が見えた。——ドクの顔に、苦痛の表情は浮《う》かばなかった。むしろ陶《とう》然《ぜん》とした、恍《こう》惚《こつ》の表情に近いものだった。巨体が、ゆっくりと仰《あお》向《む》けに地《じ》響《ひび》きをたてて倒《たお》れた。  右手に拳銃を構えたまま、佐久間が左手にナイフで泉の手足のベルトを切ってくれる。  「服は?」  「——ええ、そこに」  やっと猿《さる》ぐつわを外して、泉が言った。  「早く着るんです!」  泉は手早く服を着て、佐久間と共に手術室を出た。  「佐久間さん、一人?」  「武が一《いつ》緒《しよ》です。それにあの三人組も」  「まあ!」  「話はあとです。急いで」  二人は廊下を走った。  「そうだわ! 射《しや》撃《げき》の名手がいるのよ、気をつけないと!」  「知っています」  佐久間が言った。  「武がやられました」  ——二人が玄《げん》関《かん》へ出て来ると、一人の男が立ちはだかっていた、手にトンプソン・サブマシンガンを構えている。佐久間はピタリと足を止めた。  「萩《はぎ》原《わら》!」  「——やあ兄《あに》貴《き》」  「そこをどいてくれ」  「ウチのボスは?」  「死んだ」  「——そうか」  萩原は銃《じゆ》口《うこう》を下げた。  「じゃあ、また乗り換《か》えだな。行けよ。兄《あに》貴《き》とやっても一文にもならねえ」  「すまん!」  《か》傍《たわら》を通り抜《ぬ》ける時、萩原は、  「持っていけよ。用心だ」  と機《き》関《かん》銃《じゆう》を佐久間へ手《て》渡《わた》し、建物の中へ消えた。泉たちは、待ち受ける車へと走った。泉は、あの射《しや》撃《げき》の名人といっていた男が、玄《げん》関《かん》前に倒《たお》れているのに気づいた。  「武さんは?」  「けがしてますが、大《だい》丈《じよ》夫《うぶ》」  「よかった!」  車まで走って行くと、  「泉ちゃん!」  「泉さん!」  と三人組が手を振っている。——ああ、助《ヽ》か《ヽ》っ《ヽ》た《ヽ》ん《ヽ》だ《ヽ》! 生きてる! そう思うと、涙が溢《あふ》れ出て頬《ほお》を伝った。  佐久間が助手席のドアを開け、真由美へ、  「おい、お前は降りろ!」  「ええ? これ、私の車だよ!」  「うるさい!」  佐久間の手にした機関銃を見て、真由美が慌《あわ》てて車を降りる。  「大丈夫かい?」  哲夫が訊《き》いた。  「うん、何ともないわ!」  何ともない?——それどころじゃないけど、でも話したところで信じてくれるかしら? 車が山を下り始めた。佐久間が運転し、武は助手席で唸《うな》っている。  「ともかく武さんを病院へ!」  「分かってます」  やがて夜の明けて来ようとする頃《ころ》で、遠い山々の姿が、ほの白い空にシルエットを描いている。  「よく来てくれたわね! 本当に嬉《うれ》しい!」  泉はぐったりとシートにもたれた。  「泉ちゃん、ずいぶんひどいな《ヽ》り《ヽ》してるね。何があったの?」  「そのうちゆっくり話してあげる」  「こっちも話すことが山ほどあってね」  「じゃ聞かせてよ」  「うん。おい智生、お前の出番だぞ」  「僕《ぼく》は一度しゃべったから代わってくれよ」  「いいじゃないか、お前でなきゃ無理さ」  「分かったよ。じゃ、最初から話すとね——」  智生は言葉を切って、泉の顔を覗《のぞ》き込んだ。泉はぐっすりと眠《ねむ》っていた……。    「事務所までもう少しだ」  と佐久間が言った。  「よかったわ、武さんのけが、大したことなくて」  「本当だ」  「あの医者、妙《みよう》な顔していやがったな」  「でも大《だい》丈《じよ》夫《うぶ》だよ。関わり合いになりたくないだろうからね」  泉は大きく深呼吸した。——智生の話が、泉の心の重荷を取り除いてくれたのだ。父が〈運び屋〉だというのはまったくの嘘《うそ》だったし、殺されたのでもなかった。泉は本当に救われた思いだったのである。  黒木が犯人だったというのは、ちょっとショックだったが、そんな嘘をついていたのかと思えば、そう悲しくもない。むしろそんな男に魅《ひ》かれていた自分に腹が立つ程度である。逆に、マユミが本物だったことを知って、嬉《うれ》しかった。きっと父が愛するなら、ああいう人だろう、と泉は思うようになっていたのだ。生きていてくれたら、きっと二人で楽しくやれただろうに……。  「すべてはたった何キロかのヘロインのせいなのね」  「そう。そして結局は金さ」  「——馬《ば》鹿《か》なんだわ、みんな」  「あのヘロイン、どうする?」  「私が警察へ持って行くわ。それが一番いいでしょ。今まで気がつかなかったことにすればいいんですもの」  車が事務所の前に着いた。  「英樹の奴《やつ》はきっと居《い》眠《ねむ》りだろう」  と佐久間が言って、足早に階段を上って行く。  「腹減ったなあ」  車を降りて周平がぼやいた。  「そうだわ。みんな——」  「飯にするのかい?」  「違《ちが》うわよ。みんなお宅へ電話しなきゃ。お家の人が心配してるわ」  「チェッ! 何だ、そのお話か」  結局、三人とも、いったん家へ帰ることになった。泉は手を振《ふ》って見送ると、階段を上って行った。事務所の入口で、泉はギョッとして立ち止まった。  「——どうしたの!」  部《へ》屋《や》の中はめちゃめちゃだった。椅《い》子《す》も机《つくえ》も木片になるまで破《は》壊《かい》されていた。壁《かべ》には無数の穴があき、今にも崩《くず》れ落ちそうだ。  「佐久間さん!」  佐久間が部屋の奥《おく》で立ち上がった。  「英樹さんは?」  佐久間は黙《だま》って首を振《ふ》った。泉は椅《い》子《す》の残《ざん》骸《がい》を乗り越《こ》えて、奥へ入って行った。  英樹は腹を血で染《そ》めて死んでいた。  「散《さん》弾《だん》銃《じゆう》ですよ。部屋中に相当撃《う》ち込《こ》んでますね」  「でも……どうして……」  「例のヘロインを入れた鞄《かばん》がなくなっています」  「じゃ誰《だれ》かがそれを知って——」  「松の木組ですよ」  「え?」  「英樹の奴《やつ》、しばらくは息があったらしい……」  手近の壁に、血で書いた「マツノキ」の四文字が読めた。  「あの関根さんが……」  泉は信じられない思いだった。  「たぶん浜口社長のさし金でしょう」  「え?」  「これだけやるには、浜口社長の許可が必要ですよ。きっと社長もヘロインのことを耳にして、手に入れたかったんですよ」  泉の頬《ほお》がカッと紅《こう》潮《ちよう》した。  「そんなひどい話……それじゃ、私たちもここにいたら、やられてる?」  「そうでしょう。ここを潰《ヽ》せ《ヽ》という命令だったんでしょう」  「潰《ヽ》せ《ヽ》ですって!」  「ええ。ヘロインを取り上げておいて、口を封《ふう》じようというわけですね」  泉は怒《おこ》った。本気で怒った。金がほしいのは勝手だ。それでなぜ関係のない人間を殺すのか。——許せない!  泉は怒《いか》りに震《ふる》える声でいった。  「佐久間さん」  「はい」  「さっき持って来た機《き》関《かん》銃《じゆう》、まだ弾《た》丸《ま》は残ってる?」  「ええ」  「じゃ、行きましょう」  「どちらへですか?」  「浜口社長の会社へ乗り込むのよ!」 7  超《ちよ》高《うこ》層《うそう》ビルの二十五階でエレベーターを降りると、佐久間がツカツカと受付へ歩いて行った。  「社長に取り次いでくれ」  「どなたさまでしょう?」  と相も変わらぬ大量生産型の微《びし》笑《よう》が応《こた》える。  「目高組の星と佐久間だ」  「お約《やく》束《そく》は——」  「すぐに取り次いでくれ」  「申《もう》し訳《わけ》ございませんが、お約束のない方のご面会は——」  佐久間がぐっと身を乗り出すと、両手で受《うけ》付《つけ》嬢《じよう》のカルダン風制服の襟《えり》首《くび》をつかんで、物《もの》凄《すご》い力で引きずり上げた。  「あ、あの——何をするんです!」  「とっとと社長へ電話しろ! 分かったか!」  佐久間の一《いつ》喝《かつ》で、受付嬢の目が倍も広がって、コックリと頷《うなず》いた。  「よし!」  佐久間が手を放すと、受付嬢が椅《い》子《す》へドシンと落下した。はからずも見かけほどには体重が軽くないことが明らかになったようだ。震《ふる》える手で内線のボタンを押《お》し、  「——あ、あの——社長にご面会です。——ええ、メ《ヽ》ダ《ヽ》カ《ヽ》の《ヽ》学《ヽ》校《ヽ》の方です」  いかに慌《あわ》てているか分かるというものだ。  「——は?——はい、分かりました」  受話器を置くと、  「ど、どうぞ。——あの社長がお待ちだそうです」  「ご苦労さん」  佐久間と泉は廊《ろう》下《か》を進んで行った。泉はセーラー服姿、佐久間は上等のダークスーツを着ている。佐久間はこわきに細長い包みをかかえていた。  廊下の突《つ》き当《あ》たり、社長室のドアの前で、二人のガードマンが、二人を呼び止めた。  「ご用件は?」  「社長に会いに」  「受付にお話しになりましたか」  「社長が待ってるって言ってるんだ! そこをどけよ!」  「そうですか。では一応、その荷物の中身を——」  「機《き》関《かん》銃《じゆう》だよ」  「は?」  佐久間と泉はガードマンを押《お》しのけて、中へ入った。例によって待合席は人が鈴《すず》なりで、女の秘書がジロリと二人を見上げる。  「ご用件は?」  佐久間が答える前に、奥《おく》から用心棒の男が顔を出し、  「おい、入ってくれ」  と声をかけて来た。  入ってみて、泉は息を呑《の》んだ。社長のデスクの《か》傍《たわら》に立っているのは関根ではないか!  「やあ、よく来てくれた。いや、こっちから呼ぼうと思っていたところなんだよ」  やけに愛想よく浜口社長が席を立った。テーブルの上にあるのはアラミスのびんだ。一列に並《なら》んでいる。泉と佐久間がじっとそれを見つめていると、関根が目をそらした。  「まあ、かけたまえ」  「いえ、結構です」  「そう言わずに。——いや、さっきニュースを聞いてね、驚《おどろ》いたんだ」  「何のことですか?」  「〈太っちょ〉のことさ。殺《や》ったのは君なんだろう? いや隠《かく》したって分かってるんだよ」  「でしたらお訊《たず》ねになることもないでしょう」  「ま、それはそうかもしれん」  と浜口は笑って、  「いや、君には、奴《やつ》がどれだけ我々の仕事の邪《じや》魔《ま》をして来たか分かるまい。奴さえいなくなれば、我々の仕事には大変なプラスになる。まったくよくやってくれた!」  「そのお礼が昨夜の襲《しゆ》撃《うげき》ですか」  浜口と関根がチラッと目を交わした。関根は一つ咳《せき》払《ばら》いをする、  「ええ……その、星組長、実はあなたにお詫《わ》びしなければならんのだが……」  「何でしょう?」  「つまりだね……昨夜の事件は、実はウチの若い者が起こしたことで……いやまったく、私の監《かん》督《とく》が行き届かなかった点は深くお詫びしたい」  「行き届いたから、起こったんじゃないんですか?」  「——どういう意味かね」  「それはあなたご自身がご存じのはずです」  沈《ちん》黙《もく》があった。——浜口が口を開いた。  「ねえ、君。あまり我を張ってはいけないよ。関根君もああして、心から詫びているんだ。素《す》直《なお》に受けるべきじゃないかね」  「人一人、死んだのに、ですか?」  「たいして役にも立たん奴《やつ》だろう。運が悪かったのさ。それに、だ。君のほうにも、これだけの膨《ぼう》大《だい》な量のヤクを隠《かく》していたという弱みがある。当然これは私へ報告すべきものだ。それとこれとで差し引きにしようじゃないか」  浜口はさらに付け加えて、  「それから、〈太っちょ〉を始末してくれたことへの報《ほう》償《しよう》として、従来のシマに加え、新たにウチのシマとなる分の一部を目高組に任せる。それでどうかね?」  これで満足だろうと言わんばかりの口ぶり。何でも金と権力に換《かん》算《さん》してしか、物事を見られない男なのだ……。  「縄《なわ》張《ば》りはいりません」  と泉は言った。  「何だって?」  耳を疑うような表情で浜口が訊《き》き返《かえ》した。  「縄張りなんかいりません」  と泉はくり返した。  「それに、詫《わ》びてほしくもありません。本心からの詫びならともかく、形さえ詫びればそれですむと思っているのが、私にはたまらないんです。私がほしいものはほかにあります」  「何だね?」  「そのヘロイン全部です」  浜口がチラリとドアの用心棒を見た。用心棒の手が上着の内側へ入る。が、《い》一《つし》瞬《ゆん》早く、佐久間の手に拳《けん》銃《じゆう》が握《にぎ》られて、銃口がピタリと浜口の胸を狙《ねら》っていた。  「それ以上抜《ぬ》いてみろ、ボスの命がないぜ」  用心棒が渋《しぶ》々《しぶ》銃を持たずに手を出した。  「こっちへ来い」  用心棒がゆっくり近づくと、佐久間が素《す》早《ばや》くその背後へ回り、アッという間もなく、用心棒の後頭部を銃《じゆ》把《うは》で一《いち》撃《げき》。用心棒はアッサリと床《ゆか》にのびてしまった。  「どういうつもりだ!」  浜口が怒《いか》りに青ざめた顔で言った。  「こんな大量のものをどうやってさばくんだ? それにこんなことをして、あとでどうなると思うんだ?」  佐久間は答えずに、左手にかかえた包みを開くと中から機関銃を取り出した。浜口と関根の顔色が変わった。佐久間は作動レバーを引いて、引金を引くばかりにすると、泉へ機関銃を渡《わた》した。  「おい……何をする気だ……」  浜口がジリジリと椅《い》子《す》から立ち上がる。  「待ってくれ!……俺《おれ》は社長の命令でやっただけだ!」  と関根が拝《おが》み倒《たお》すように手を合わせて、  「落ち着いてくれ! 話し合えばいいだろう!」  泉は左手でグリップを握《にぎ》り、銃《じゆ》把《うは》の台《だい》尻《じり》を右の腕《うで》でしっかりと押《おさ》え込むようにして抱《だ》き込《こ》んだ。  引金を引くと、凄《すさ》まじい衝《しよ》撃《うげき》と反動が銃身を震《ふる》わせた。浜口と関根が床へ伏《ふ》せて頭を抱《かか》え込《こ》む。銃《じゆ》弾《うだん》は浜口のデスクに並《なら》んだヘロインの入った化粧品のびんを次々に粉々にして行った。蓋《ふた》が飛び、ガラスのかけらが散る。泉も必死だ。暴れ回る馬のような銃《じゆ》身《うしん》を懸《けん》命《めい》にデスクのほうへ向ける。電話機が、インターホンが、メモ台が、卓《たく》上《じよう》ライターが、砕《くだ》け、宙に舞《ま》った。——弾《た》丸《ま》が尽《つ》きて、静《せい》寂《じやく》が戻《もど》った時、デスクの上には、一つのヘロインのびんも残っていなかった。ガラスの破片が、流れ出たヘロイン溶液の海の中に突《つ》き出《だ》している。デスクの端《はし》から、ヘロインが、数億円が、滝《たき》となって流れ落ちていた。  泉は肩《かた》で息をついた。そして佐久間と顔を見合わせると、ごく自然に、ホッと安心したような笑顔になった。  泉は弾丸の切れた機《き》関《かん》銃《じゆう》をデスクの上へ放り投げると、社長室を出て行った。拳《けん》銃《じゆう》をしまって、佐久間がそれに続く。    「警察来るかしら?」  「来やしませんよ。呼んだら大変です。あのヘロインの説明をしなきゃならない」  「それもそうね」  泉は笑った。——二人は浜口物産のあるビルを真向かいに見る、高層ビルの喫《きつ》茶《さ》店《てん》に坐《すわ》っていた。つい何分か前にあそこであったことが、まるで夢《ゆめ》のように思える。  「佐久間さん」  「はい?」  「あなた、これからどうするの?」  「そうですね、しばらく東京を離《はな》れてみるつもりです」  「そうね。それがいいでしょうね。どこか行くところ、決まってるの?」  「いえ、行き当たりばったりで、住みいいところがあったら腰《こし》を落ち着けますよ」  佐久間はコーヒーをすすって、  「親分は……」  「もうやめてよ、その呼び方は」  泉は苦笑いして、  「目高組もこれで終わりになっちゃったし」  泉はちょっと間を置いてから、  「ごめんなさいね」  「え?」  「私が組長になったばっかりに、結局組を潰《つぶ》すことになっちゃって……」  「とんでもない!」  佐久間はきっぱりと首を振《ふ》って、  「お嬢《じよう》さんのおかげで、最後に一花咲《さ》かせて終えることができましたよ。きっと先代の親分も喜んでなさるでしょう」  「そう言ってもらえば嬉《うれ》しいけど」  「しかし、大変でしたね」  「ほんと! 大変だった!」  ため息まじりの言葉に、思わず二人で声を上げて笑ってしまった。  「これから先、もう一生、何も起こらなくたって不思議はないわね。こんなわずかの間に、あれだけいろんなことがあったんですもの」  「まったくですね。しかしお嬢《じよう》さんは、これからもいろいろなことに出会って行かれるような気がしますよ」  「いやだ、おどかさないで」  「いや、本当です。でもヤクザの世界なんかには、これにこりて、二度と足を踏《ふ》み入れないことですね」  「命がいくつあっても足りないわね」  「いや、人間はいつだって死ぬ時は死にますよ。しかし、ヤクザの世界は後ろを向いているんです。義理とか仁《じん》義《ぎ》とかいいますが、何のことはない。本音は先へ進むのが怖《こわ》いだけなんですよ。だから前をけっして見ないんです。——みんな、臆《おく》病《びよう》なんですよ」  泉はじっと佐久間を見つめながら、  「あなたは、この世界と縁《えん》を切るべきだわ」  「ええ。それは分かってるんです。でもね……」  「目高組はなくなったし、いい機会じゃないの! 思い切って、どこか別の土地でやり直すのよ!」  泉はちょっと照れくさそうに、  「たまには子供の意見も聞くものよ」  そう言ってから佐久間は楽しそうに笑って、  「いや、本当にあなたは素《す》晴《ば》らしいお嬢さんですよ」  エレベーターで下へ向かいながら、泉は言った。  「もし、あなたがどこかで新しい仕事に就《つ》いて成功したら、東京に来た時には必ずあのマンションに寄ってね」  「ありがとうございます。お嬢さんも、ぜひちゃんと学校を出てくださいよ」  「学校か……。何だかいやに平《へい》凡《ぼん》でつまらないところに見えるわ」  「本当に確かなものは、一見平凡でつまらないものですよ」  「佐久間さんの向いてる職業、分かった!」  「何です?」  「道徳の教師!」 エピローグ  「おはよう!」  「何がおはようなの。遅《ち》刻《こく》するわよ」  「だってゆうべは寝《ね》たの二時だったのよ」  と泉はテーブルについて、  「コーヒーだけでいいや」  「何よ。食べなきゃだめ、少しは」  「うるさいなあ、この小《こじ》姑《ゆうと》は!」  ——泉のマンションである。同居しているのは、クラスメイトの和子で、和子の両親もこの同居を大いにすすめてくれたのだった。  毎朝こんな調子でやり合いながら、結構楽しく、同居生活が続いていた。もちろん泉は、あの事件のあとすぐ復学し、もう以前と同じように勉強と遊び、七対三(むろん遊びが七)ぐらいで毎日を忙《いそが》しく過ごしている。  もう事件から四か月が過ぎようとしている。もちろん、記《き》憶《おく》は今も鮮《せん》明《めい》だが、それでいて不思議に遠い過去のもののように思えた。たぶん、あまりに現実離れしていて、自分自身、今では時たま、あれは全部夢《ゆめ》の中の出来事だったんじゃないだろうかと思うことさえあるのだ。  でも父は間《ま》違《ちが》いなく死んだし、この部《へ》屋《や》でマユミという女が殺されたのも事実である。それでいて、和子は毎晩その部屋で平気で眠《ねむ》っている。  みんなそんなものだ、と泉は思う。日常の感覚というのは、たぶん、どんなショックよりも強いものではないかしら、と……。    「泉ちゃん」  「やあ、哲夫君!」  校舎を出ようとして、泉は久しぶりに、哲夫と顔を合わせた。授業が受験態勢に入っていて、優秀な智生はもっと遅《おそ》くまで補習があり、いっこうにやる気のない周平はもっと早く帰ってしまう。そう優秀でもないが、渋《しぶ》々《しぶ》やらなきゃいけないと思っている泉と哲夫は、こうしてたまに顔を見るのだった。  「どう、みんな元気?」  「うん! 相変わらずさ。泉ちゃん、どう?」  「ご覧のとおり。今にも死にそうには見えないでしょ」  「ほんとだ」  二人は一《いつ》緒《しよ》に笑った。久しぶりだ、と泉は思った。  「本当に、みんなに迷《めい》惑《わく》かけちゃって……。ちゃんとお礼に行かなくちゃと思ってるんだけどね……」  「何言ってんのさ。僕《ぼく》らは泉ちゃんのファンクラブなんだからね。そんな気、遣《つか》わなくたっていいんだよ」  二人は校門を出た。——コートを着た男が二人、泉の前へ立った。  「星泉さんですね?」  「はい」  「警察の者ですが……」  と手帳を示して、  「ご面《めん》倒《どう》でも、ご一《いつ》緒《しよ》に……」  「分かりました」  少し歩いたところに、パトカーが停《と》まっていた。刑事は何の用とも言わなかった。——またヤクザの親分にさせられることはなさそうだけど、今度は刑務所行きかしら、泉はパトカーの中で思った。厳密に言えば、大分法律を破っているはずだ……。  「星……泉」  と刑《けい》事《じ》が言った。  「は?」  「いや、きれいな名前ですねえ。今度子供が生まれるんでね、女の子だったら何とつけるか考えてたんです。泉か。——これにするかなあ」  「はあ……」  「実はですね」  と突《とつ》然《ぜん》仕事の話に変わって、  「今から死体を一つ見ていただきたいんです」  「死体?」  「ええ。あんまり気持ちのいいもんじゃなくて、申し訳ないんですがねえ。仕方ないんですよ。——あの、ほんのチラッとでいいんです。知っている人かどうか。まあ死体になると感じも変わりますから、よく分からなきゃ、そう言っていただけば」  「はい、分かりました」  「あの、貧血を起こしやすい性《た》質《ち》ですか? それなら医者に頼《たの》んで——」  「いえ、大《だい》丈《じよ》夫《うぶ》です」  この人に、私はもう少しで生体解《かい》剖《ぼう》されるところだったんですって言ったらどうだろう、と思って、泉は内心微笑《ほほえ》んだ。  「どんな人ですか?」  「ええ、まあ何というか……。あ、着きましたから、ここです」  ——死体置場の冷え冷えとした空気の中で、泉は一つの死体を見下ろしていた。  「昨日、新宿でヤクザ同士の喧《けん》嘩《か》がありましてね」  刑事が手帳を見ながら、  「この人が間に割って入ったらしいんです。止めようとしたんですな。ところが運悪く、一方のヤクザが突《つ》き出した短刀で胸を一突き……。ほとんど即《そく》死《し》でしてね。当の喧《けん》嘩《か》してた連中はさっさと逃《に》げちまったんです。ところが、この人がまた身元がさっぱり分からない。そういう書類をまるで持っていないんですよ。で、実は、ポケットの中に、あなたの名前と住所を書いたメモがありましてね、手《て》掛《が》かりになりそうなのはそれだけだったものですから……。いかがです?」  泉はしばらくしてから、  「知りません」  と言った。  「全然見《み》憶《おぼ》えありませんか?」  「ええ。——会ったことないようです。申し訳ありません」  「そうですか」  刑事は頭をかいて、  「参ったな……。いや、あなたのせいじゃありません。こういう身元不明の人ってのは結構多くてね。厄《やつ》介《かい》なんですよ。……ま、どうもお手間をとらせました」  「いいえ」  「もし、何かあとで思い当たることがありましたら、ここへ」  と名《めい》刺《し》を出す。  「分かりました」  「駅まで送りましょう」  「いいえ、分かりますから」  「そうですか。じゃ、どうも」  ——泉は足早に道を歩いた。どこへ行く道か知らなかったが、ただ一心に歩いた。  東京を離れると言ったのに! どこかで新しい仕事を始めると言ったのに! 馬《ば》鹿《か》! 視界が涙《なみだ》でにじんだ。    「泉、大丈夫だったの?」  部《へ》屋《や》へ戻《もど》ると、和子が飛び出して来た。  「何が?」  「だって奥沢君から電話で、泉がまた車でどこかへ連れていかれたっていうから……」  「何言ってるの。今度はパトカーよ」  「まあ。万引でもしたの?」  「いやね! 何でもなかったのよ」  「ならいいけど……」  自分の部屋へ行く泉へ追いかけて、  「ねえ、机の上に名《めい》刺《し》置いといたわよ!」  「名刺?」  「昨日から郵便受の底に入ってたみたい」  部屋へ入り、明かりをつけると、机の上に、真新しい名《めい》刺《し》が白く光っていた。  〈M建設工業(株) 営業一課 佐久間 真〉  「あら!」  裏に走り書きがあった。  〈新入社員のご挨《あい》拶《さつ》です。出張で東京へ来ましたが、お目にかかる時間もなく、これで失礼します。いずれまたお目にかかる日を〉  出張で……。ホテルか旅館に泊《と》まっていて、書類や荷物はそこへ置いたままだったのだろう。  泉は急いで、さっきの刑事の名刺を捜《さが》して、居間へ行った。  「——警察って何時まで開いてるのかしら?」  「知らないわね。何よ、ま《ヽ》た《ヽ》何かあったの?」  和子がうんざりした声で言うのを無視して、泉はダイヤルを回した。  「もしもし。——あ、私、さっきお目にかかった星泉です。——ええ、ちょっと思い出したことがあったものですから。——はい、確かに知っている人です。とてもよく知っています……」 セーラー服《ふく》と機《き》関《かん》銃《じゆう》  赤《あか》川《がわ》次《じ》郎《ろう》 ------------------------------------------------------------------------------- 平成12年9月1日 発行 発行者  角川歴彦 発行所  株式会社 角川書店 〒102-8177 東京都千代田区富士見2-13-3 shoseki@kadokawa.co.jp 本電子書籍は下記にもとづいて制作しました 角川文庫『セーラー服と機関銃』昭和56年10月1日初版刊行