TITLE : やさしい季節(上) 本作品の全部または一部を無断で複製、転載、配信、送信したり、 ホームページ上に転載することを禁止します。また、本作品の内容 を無断で改変、改ざん等を行うことも禁止します。 本作品購入時にご承諾いただいた規約により、有償・無償にかかわ らず本作品を第三者に譲渡することはできません。 やさしい季節 目次 真夜中の呼び出し 穏やかな午後 色あせたポスター 仮払いの恋人 華やかな同伴者 トラブル プレゼント 悩みの季節 過去の傷あと 小さな偶然 浩志、乗り込む 華やかな光 旧 友 カット 横 顔 交換条件 年の終わりに 忠 告 出 発 雪の出来事 暖 炉 対 面 真夜中の呼び出し  夜中の電話には出ない。  これが、石巻克子の主義である。  主義というほど大げさなものではないとしても、明日のために充分な睡眠を取る権利を守る、ということは、立派に一つの「生き方」ではあるだろう。  だから、克子は寝るときに、電話をいつも毛布でくるんで、ごていねいに座布団まで上にかけてやる。夏なら暑くてのびてしまいそう(?)だが、もう今は秋。それも夜には結構冷える。  昼間、勤めに出ている間、充分に日を入れることもできない状態では、夜の布団のひんやりした感触が少々寂しくもある。——もっとも、電話の方は別に寂しくも何ともないだろうが。  それはともかく……。いかに毛布と座布団で遮られているとはいえ、電話が十分近くも鳴り続けたら、いかに眠りの深さでは日本海溝に負けないと自負している克子でも、耳について来る。  うーん……。何よ、もう……。  上下の瞼をむりやり引き離して、枕もとの目覚まし時計を見ると、午前二時過ぎ。 「知るか!」  と、布団を頭からかぶってみたものの、一旦聞こえてしまうと、かすかな音だけに却って耳につき、克子は諦めて渋々布団に起き上がった。  六畳一間のアパートだ。電話まで這って進んでも、足は布団の中に残っていられた。  座布団をどけ、毛布を開いてやると、旧式なダイヤル式の電話が、フーッと息をついた(ように、克子には思えた)。  カチャッと受話器を取って、耳に当てる。——妙ないたずら電話ってこともあるので、こっちからは何も言わない。これは女性の一人暮らしの常識である。 「もし、もし。——克子か?」 「こちら税務署ですよ」  と、克子は言ってやった。 「良かった! いたのか。ずっと鳴らしてたんだぞ。外泊してるのかと思った」 「火事はどちら? はしご車は必要ですか?」 「悪いな、眠ってたんだろ? 急な用事なんだ。今からそっちへ行っていいか」 「葬儀のご用でしたら、お棺のサイズをどうぞ」 「なあ、克子——」 「お兄さん、何時か分かってる?」  と、克子は文句を言った。「こっちだって、来られちゃ困る夜もあるのよ」  少し間があって、兄の石巻浩志が、 「克子、お前……男と一緒なのか」  と、こわごわ訊いて来た。 「今夜は違うわ。——で、何よ?」 「うん……。お前の下着、一揃い、貸してくれ」  克子は、たちまち目が覚めてしまった。 「下着?」  と、克子は訊き返していた。 「うん」 「下着って——下着?」  当たり前だ。しかし、克子としては、いささか気持ちを鎮める時間が必要だったのである。 「何でもいいんだ。ともかく一揃い——何と何がありゃ一揃いなのか、よく分からないんでな」  電話だから、顔は見えないが、克子にも、兄が大真面目に言っているのだということだけは、分かった。 「お兄さん。下着をどうするの?」  と、克子は訊いた。 「そりゃ……着るんだ」 「お兄さんが?」 「まさか。——おい! 俺にそんな趣味があると思ってるのか?」  と、浩志は本気で怒っているようだった。 「何を言ってんのよ。人を夜中に叩き起こしといて」  と、克子はやり返した。「つまり、誰かが下着を必要としてるわけね」 「そういうことだ」 「女の人ね、当然。——ああ、そうか!」  やっと、克子にも合点がいった。「お兄さん、まだ〈便利屋〉をやってるの? 彼女たちの」  浩志は答えなかった。 「今からそっちへ行っていいか?」 「うん……。下着だけ? 上もいるの?」 「そうだな。何か——一応持っていくか。簡単なもんでいい」 「分かった。適当に出しとくわ。車ね?」 「二十分くらいで行く」  と言ってから、「悪いな」  石巻浩志はそう付け加えた。  電話を切って、すっかり目の覚めた克子は欠伸をした。  パジャマ姿で大欠伸、という格好は、あまり色っぽいとは言えないだろうが、克子は二十一歳にしては少女っぽい面立ちの、ふっくらしたタイプ。兄の浩志とはあまり似ていない。  まあ、今のところ浩志は声だけの登場だから、外見の方はいいだろう。 「それにしても……」  と、克子は呟いていた。「いい加減にしときゃいいのに」  言ってもむだだ。克子には分かっていた。  他のことには至って気が弱く、克子に頭の上がらない浩志だが、こと「彼女たち」のこととなると、絶対に言うことを聞かない。 「あれ……。どっちなのかな、今夜は」  と、克子は考え込んだ。「——ま、いいか」  どっちにも合うようなの選んどきゃいいわね、と、明かりを点けると、克子は洋服ダンスの引き出しを開けて中を探り始めた。    二十分、と言ったが、結局三十分かかったのは、石巻浩志がぐずぐずしていたせいではない。  行先を、ドライブマップで確かめておく必要があったのである。そう遠くではないにしても、何しろちょっと郊外に出れば、モテルやホテルはいくらもある。しかも、そんなもの、浩志の持っているドライブマップには出ていない。  浩志は、ともかく妹のいるアパートの手前で車を停めると、急いで歩いて行った。  克子の部屋は、この古アパートの二階である。階段を上りかけると、ドアが開いて、 「静かにね!」  と、克子が低い声で呼びかけて来た。「足音たてないで!」  空中を飛んでいくわけにはいかないので、少しは足下でギイギイ階段が鳴ったが、それは浩志のせいというより、古ぼけた階段のせいだった。 「——悪いな」  と、ドアを後ろ手に閉めて、浩志は言った。 「すぐ行く? 遠いんだったら、コーヒー一杯飲んでけば? 居眠り運転は怖いよ」 「ああ……。でも——」 「お湯は沸かしたの。すぐ落とすから」  パジャマにカーデガンを、袖を通さずにはおった克子は、「上がんなよ」 「うん……」  石巻浩志は、一応ちゃんとブレザーを着て、ひげもそってあった。  ヒョロリと高い背丈、色白のところは妹と共通だが、少々骨ばった顔つきは対照的。  ただ、目はよく似ている、と言われる。  そう聞くと、克子はいつもふくれるのだが。 「——何ごとなの?」  と、コーヒーカップを出して、克子は訊いた。「どこかで下着を落っことした、ってわけ?」 「よく分からないんだ。ともかく電話を取るなり、ワアワア泣いてて」  克子はちょっと眉を上げて、 「じゃ——ゆかりさんの方だ」 「うん。そうなんだ」  と、浩志は肯いた。「どこかのホテルにいて、どうも男とケンカしたらしい」 「それで、どうして下着がないわけ?」 「俺だって、知らないよ。——や、悪いな」  熱いコーヒーを、浩志はせっせと吹いてさましながら飲んだ。 「場所、分かったの?」 「ゆかりの説明はあてにならないからな。地図を見て、そのホテルに電話して聞いた」 「ふーん」  苦情を言う気にもなれない。浩志だって、普通のサラリーマンである。朝は早い。 「じゃ、これね。一揃い、入ってる」  と、克子は紙袋を兄の方へ渡した。 「起こして悪かったな」  と、浩志はコーヒーを飲み干すと、立ち上がった。「じゃ、借りてく」  デパートの紙袋をさげて、浩志は玄関で靴をはいた。 「靴べら、いつも、買おうと思って忘れちゃうの」  と、克子は腕組みして言った。「男っ気のないのが、すぐばれるね」  浩志は、ちょっと笑った。 「ゆかりも極端だけど、お前も極端だな。勤めてて、まだボーイフレンドもできないのか?」 「人のこと言う前に、自分のこと、心配しなよ」  克子は言い返してやった。「じゃあね。——中のもの、返さなくっていいから。ゆかりさんにそう言っといて」 「ああ。じゃ、おやすみ」 「おやすみ……」  ——克子は、鍵をかけ、チェーンをして、布団へ戻った。  すっかり目は覚めてしまったが……。それでも、寝つきのいい克子は、少々寝不足程度で出勤すればすむだろう。  しかし、兄の浩志の方は……。  克子は明かりを消すと、目を閉じた。  仕方ないか。あれが、お兄さんの「生きがい」みたいなものなんだから……。    やっと、目指すホテルを見付けて、車をその駐車場へ入れたのは、もう午前四時に近かった。  郊外へ出ると大分気温が低く、車から出て、浩志はちょっと身震いした。  駐車場には、外車も何台か並んでいる。さすがに週末ではないので一杯ではない様子だが、それでも七割方、埋まっている。  ——部屋はすぐに分かった。  ドアを叩いて、しばらく待ったが返事がない。  まさか、帰っちまったわけじゃないだろうな、と浩志は不安になった。ともかく、もう一回ノックしてみようと、手を上げかけたとき、 「はい」  と、ドア越しに声がした。 「僕だよ」  カチャッと音がして、すぐドアが開く。 「遅いのね! 来てくれないのかと思った」  口を尖らして、会うなり文句だ。——昔とちっとも変わっていない。 「遠いしね。それに僕の所に、着替えはないし」  浩志は紙袋を渡した。 「ありがとう! これで帰れる」  バスローブ姿の、やや童顔の彼女は、少し熱心にTVを見る人間には、すでにかなり広く知られた顔だった。  ——浩志は、何とも派手な、というより、けばけばしい内装の、ホテルの部屋の中で、落ちつかない気分で座っていた。  バスルームのドアが開いていて、その中で、安《あ》土《づち》ゆかりが、浩志の持って来た服を着ている。もちろん、浩志の座っている位置からは、その姿は目に入らないのである。  安土ゆかりの着替えを覗きたいというファンは、たぶんいくらもいるだろう。この一年ほど、ゆかりはずいぶん売れ始めていた。 「——ねえ、これ、克子ちゃんの?」  と、ゆかりが大きな声で訊いた。 「そりゃそうだよ。他にそんなもの借りられる相手なんかいないさ」  と、浩志は座ったまま答えた。 「へえ。可愛いの、はいてんだ」  と、ゆかりは呑気なことを言っている。「今、いくつだっけ、克子ちゃん?」 「君と二つ違いだから、二十一だよ」 「そうか……。二年下だったっけ」  ゆかりは、少し間を置いて、「——ちょっとサイズが大きいのね」 「君がやせてるんだ。もう少し太れよ」 「いやよ。私、お腹が出ちゃうのよ、太ると」  ゆかりは、バスルームから出て来た。「助かった! 克子ちゃんにお礼言っといてね。ちゃんと洗って返すから、って」  ブラシで髪を直している。 「返してくれなくていい、って言ってたよ」 「そんなわけにいかないわよ」  ゆかりは、ちょっと笑って、「〈予備〉に持って歩くかな」 「どうしたんだ、一体? 下着まで盗まれちゃったのか?」  ゆかりは、肩をすくめて、 「男らしくない奴なの」  と、言った。「ここまで来てさ、私は良心的に話したのよ。今日で終わりにしようね、って。——そしたら真っ青になって」 「振ったわけか」 「そういうことになる? でも、振られたからって、私がお風呂に入ってる間に、私の服、全部持って出てっちゃうなんて、ひどいと思わない?」  浩志は、思わず笑い出していた。ゆかりがむくれて、 「何がおかしいのよ! どうしようかと思ったわよ、本当に」 「きっと、ひどいこと言ったんだろ。相手を傷つけるような」 「キズテープだって持ってるわ」  と、ゆかりは澄まして言った。「バッグを持って行かれなかったのが、せめてもね」 「相手は芸能人?」 「まあね」  と、ゆかりは肯いた。「もてる、って自認してる奴だったから、振られて、よほどショックだったのね」  と、ゆかりは、いささか同情さえしている様子。 「週刊誌とかにかぎつけられない内に、引き上げよう」  と、浩志は立ち上がった。「マンションまで送るよ」 「うん」  ゆかりは、コクンと肯いた。——そう申し訳ないとも思っていない様子だ。 「もう朝になるね」  と、駐車場へ出て、ゆかりは言った。「浩志、会社あるんでしょ」 「誰だってあるよ」  浩志はドアを開けた。「——さ、乗って。道が空いてるから、一時間はかからないだろう」  ホテルを出たのは、もう四時半を回っていた。 「——悪いわね」  と、助手席で、ゆかりが言った。「いつも浩志にばっかり迷惑かけてさ」 「珍しいこと言うじゃないか」 「何よ。——どうせ私はだらしがないの。知ってるでしょ」  と、ゆかりはすねて見せる。  何本ものCFで、ファンを捉える「小悪魔的」な目つきである。もし、ここにゆかりのファンがいたら、気絶していたかもしれない。  しかし、浩志にとっては、もう何年も前から——七年、いや八年前から、見なれた表情である。  今の方が、より洗練されてはいるが、もとの部分では少しも変わっていない。十代のころの幼なさが、二十三になった今も、そのまま同居している。そこが、ゆかりの人気の原因でもあった。  もちろん、可愛い。  いつの世でも、「可愛い女の子」は、それだけで男の目をひきつける。 「今日、夕方から香港なの」  と、ゆかりは言った。「スペシャルでね。主役じゃないけど、食ってみせる」 「凄いじゃないか」  空いた高速を、浩志の車は風の音を巻き起こしながら、突っ走っている。 「ディレクターと仲いいんだもん、私」  と、ゆかりは言った。「きれいにとってくれることになってんの。見てね」 「ああ」  ——少し間があった。浩志は、 「邦子と会うことあるかい?」  と、訊いた。  返事がない。チラッと助手席へ目をやると、ゆかりはヘッドレストに頭をもたせかけて、ぐっすりと眠り込んでいた。  浩志は、ふっと微笑んで、そのまま寝かせておいてやった……。 穏やかな午後 「ちょっと。——石巻さん! 石巻さん!」  肘でつつかれて、石巻浩志はハッと目を覚ました。 「や、やあ……。どうも」  と、目をパチクリさせている。 「どうも、じゃないでしょ」  と、隣の席の森山こずえが笑っている。「お客様ですって」 「客?——何の客?」 「いやねえ。大丈夫? 今、会社にいるのよ、分かってる?」 「うん……」  そう言われたってね。何しろ、ゆうべほとんど寝ていないのだ。  浩志は頭を振ってから、机の上のお茶をガブッと飲んで、目を白黒させた。 「——苦い!」 「眠そうだったから、うんと苦くしといたの」  と、森山こずえは愉快そうに言った。「早く受付に行ってらっしゃい」 「ありがとう」  立ち上がると、少しめまいがする。——寝不足で、昼食をとって、午後の仕事。  総務にいて、出張の手配だの、伝票の整理だのをやっている身としては、眠気に負けるのも、無理からぬところである。  安土ゆかりをマンションまで送って、自分のアパートへ戻ったのが六時半。一時間と眠っていない。  たぶん、ゆかりはまだ眠っているのだろう。それとも、そろそろマネージャーに叩き起こされて、ブツブツ言いながら起き出しているか……。  ゆかりは昔から寝起きが悪くて、学校にもよく遅刻した。低血圧の体質のせいもあるらしいが、やはり夜になると元気の出るたちで、ついつい夜ふかししてしまうせいだった。  ——受付に行くと、浩志は、客らしい人間が見えないので、戸惑っていた。 「エレベーターホールで待ってるって」  と、受付の子が、浩志に声をかけた。「可愛い女の子よ」 「女の子?」 「TVで見たことあるみたいな気がするの。石巻さん、あんな人に知り合いいるの?」  答えずにエレベーターホールへ出て行くと、肩から大きなバッグをさげて、色おちしたジーンズ姿の小柄な娘が、少し顔を伏せがちにして立っている。 「どうしたんだ」  と、浩志は歩いて行った。 「仕事中に、ごめんね」  と、原口邦子は言った。「何か、受付の人がジロジロ見るもんだから……」 「そりゃ、君は役者なんだから、仕方ないじゃないか。——お茶でも飲もうよ」  と、浩志は、その娘の肩を軽く叩いた。 「石巻さん」  浩志が、原口邦子とエレベーターの来るのを待っていると、隣の席の森山こずえがやって来た。 「何だい?」 「コピー用紙のことで電話が……。後で電話するって言っとく?」  と、こずえは、原口邦子に目をやりながら言った。 「うん。そう言ってくれ」  と、浩志は言った。「ちょっと、コーヒールームにいる」 「了解」  と、森山こずえは微笑んで、「ああ! 原口邦子さんだ。そうでしょ?」 「ええ……」  邦子は、ちょっと照れたように肯いた。  ちょうど下りのエレベーターが来て、浩志と邦子は素早く中へ入って、〈閉〉のボタンを二人で一緒に押して——笑った。 「——何だか逃げ出したくなるの、こっちのこと知ってる人に声かけられたりすると」  エレベーターは二人だけだった。 「少しは慣れなくちゃ」 「そうね……。でも、誰も気が付いてくれないと、それはそれで寂しいの。勝手よね」  全体に細身で小柄な原口邦子は、二十三歳という年齢より若く見えた。今でも、TVドラマなどで、セーラー服を着せられることが珍しくない。  しかし、普段、こういうラフな格好でいると、およそ化粧っ気もなく、奇抜なアクセサリーもつけない邦子は、確かにさして目立たない、普通の女の子に過ぎない。 「忙しい?」  と、邦子が訊いたのは、挨拶代わりみたいなものだった。  返事の代わりに、浩志は大欠伸をしたのだった……。   「そんなことがあったの?」  と、紅茶を飲みながら、邦子は笑った。「それじゃ、眠いわけだ」 「全くね……。ちっとも変わらないよ、ゆかりは」 「浩志がお人好しだから」  と、邦子は言った。「ゆかりも、危ないことやってるわねえ。アイドルとしては大切な時期なのに」 「意見してやれよ」 「会う時間なんかとれないわよ。私はともかく、向こうがね」 「だけど、男と遊びに行く暇はあるんだからな」 「それとは別よ」  邦子は、チラッと腕時計を見て、「のんびりしてられないんだ。——ね、私今度、三神憲二監督の映画に出るの」  邦子は少し身をのり出して、そう言った。 「三神憲二の? 凄いじゃないか」  浩志は、正直、びっくりした。 「ね。主役ってわけじゃないけど、準主役ぐらい。セリフの数は一番多いのよ」  原口邦子の口調には、ふと自負がにじんだ。 「君ならやりこなせるさ。頑張れよ」 「うん」  と、邦子は肯いて、「オーディション受けてね。目の前で、シナリオ読まされたの。声がよく出てる、珍しい、って誉めてくれたわ」 「良かったね」 「でも、もっとお腹から声を出せって。それで今、ボイストレーニングに通ってるの。そろそろ行かなきゃ。用事ってこともなかったんだけど、浩志に話しておきたくて」  邦子は、いつも控え目にしか気持ちを表さない。しかし、今はさすがに頬が少し紅潮している。 「十二月にクランク・インなの。体、きたえとかないと。水泳に通ってるのよ。お酒もやめたし」  そう言ってから、邦子は、ペロッと舌を出した。 「飲むようになったのかい?」  と、浩志は言った。「いつごろから?」 「いつ、って……。もう二十三ですからね」  と、邦子は笑って言った。「でも、てんで弱いの。すぐ真っ赤になってね。だから、『飲める』ってとこまでもいってないわ」  早口で、まくし立てるようにしゃべる。邦子がこういうしゃべり方をするのは、自分に向かっていいわけするときに限られる。——長い間の付き合いで、浩志にはよく分かっていた。 「邦子……。やけ酒は体をこわすぜ。絶対にやめとけ」  浩志は真剣に言った。邦子も、笑顔を作るのはやめて、 「分かってる。——大丈夫よ」  と、肯いた。「飲んだっていっても……。ほんの何回か。数えるくらいよ」 「で、やめたのなら、それきりやめるんだ。その方がいい。そう思うだろ?」  邦子は、空になったティーカップを、指でクルクルと回しながら、 「思うことと、実行することって違うわ。そうでしょう? これから、酔っ払いの役だってやらなきゃいけないかもしれないし……」  そう言ってから、邦子は急に笑い出して、「ゆかりなら、いつも酔っ払ってるようなもんね」  と、立ち上がると、 「じゃあ……」 「邦子。——他に何か用事があったんじゃなかったのか?」  と、浩志は訊いた。  邦子は、ちょっと目を伏せた。 「な。言いたいことがあったら、言えよ。僕になら、言えるだろ」  浩志の言葉に、邦子は少し迷っている様子だったが、パッと腕時計に目をやると、 「本当に行かなきゃならないの。また——時間があるときにね」  邦子は、財布をとり出した。 「よせよ。ここは僕の領域だ」  と、浩志が邦子の手を押さえる。  触れ合った手は、しばし離れなかった。 「じゃあ……。またね」  邦子は、みごとに「よそ行き」の顔になると、独特の、頭をほとんど上下させない滑らかな歩き方で、コーヒールームから出て行った……。    エレベーターで、会社の入っている五階まで戻ると、浩志は、受付のそばを通り抜けようとして、 「石巻さん」  と、受付の女の子に声をかけられた。「今の子、原口邦子?」 「うん。——そうだよ」  否定するわけにもいかない。 「へえ! この間、見たの、二時間ドラマで。どうして知ってるの?」 「同じ高校だったんだ」  と、浩志は言った。「もちろん、向こうが後輩だけどね」 「へえ!」  話の種ができた、という顔で、受付の子は肯いた。  浩志は席に戻った。  そうだった。コピー用紙のことで、電話するんだったな。  しかし、すぐには電話へ手を伸ばす気になれなかった。——森山こずえは、席を立っている。彼女が戻ってからでいいだろう。  浩志は、机の上のお茶が、いつの間にか新しく入れてあるのに気付いた。  森山こずえだろう。細かいことに気の付く女性なのである。浩志より一つ年下だが、「お姉さん」という感じで付き合っていられる。  熱いお茶を、そっと一口飲んだ。  ——邦子は、半年ほど前、失恋した。  片思いというわけではなかった。ただ、恋した相手が十歳も年上で、妻子があったのである。  珍しい話でもないのかもしれない。しかし、邦子は走り出したら止まらない性格だ。男の方も、誠意がなかったわけではない。ただ、自分の家庭を捨てる気は、はなからなく、それならどうして付き合っていたのか、と浩志が問いつめても、肩をすくめるばかり……。  そうなのだ。邦子に頼まれて、浩志はその男と話しに行ったのである。妹の克子には、余計なことはするな、と散々言われていたのだが。  安土ゆかり。原口邦子。  同じ高校で、同級生だった二人は、そのころからライバルだった。いや、本人同士がそれほどライバル意識を持っていたかどうか。  二人をライバルと見ていたのは、むしろ周囲の方だったかもしれない。——何といっても、田んぼの中に建つ真新しい高等学校へ、たいていの子が自転車で通って来る、典型的な地方の小都市の風景。  そんな学生たちにとっては、一つのクラスに、芸能界を目指す子が二人もいる、ということは、何よりも話の種として一番だったのである。  石巻浩志は、二人より二年先輩で、写真部の部長をしていた。それがどういうきっかけで、ゆかりと邦子、二人の「お守り役」になってしまったのか……。  ——浩志は、隣席の森山こずえが戻って来るのを見て、我に返った。 「飲んだ?」  と、こずえがいたずらっぽく、浩志の湯呑み茶碗を見る。 「目が覚めたよ」  と、浩志が微笑んだ。 「そのお茶がなくても、あんな可愛い子と会ったら、目が覚めるでしょ」  こずえは、少し声を低くして、「原口邦子の彼氏なの?」 「違うよ。古い友だち」 「友だち、ね。——信じときましょ」  森山こずえの言い方は気楽で、好奇心を無理に隠さない代わりに、人から聞いたことの内、何を他の子へしゃべっていいか、いけないか、きちんとわきまえているので、浩志としても安心できるのだった。 「本当だよ。同じ高校の先輩後輩だからな。東京へ出て来て、心細い邦子の話し相手をよくさせられたんだ」 「へえ。石巻さん、何でも話しやすいもんね」 「そうかな」 「あの子、好きよ。とってもうまいじゃない。どのドラマ見ても、たいてい主役より上手よ」 「努力家なんだ。昔からさ」  そう。原口邦子は、目標に向かってコツコツと努力をつみ重ねるタイプ。表面上、たいていは冷静だが、その大人びた「自制」を身につけるためには、奥深く、激しく燃える情熱が存在しているのだということを、浩志は知っている。  じっと抑えつければ、それだけ逆に奥の火は温度を高める。——それが邦子なのだ。  ただ問題は、抑えつけられて、圧力があまりに高まると、それがいつか爆発する。うまく、いいタイミングで爆発すればいいのだが、あの妻子ある男への恋心のような形をとってしまうと、邦子は自分の吐き出した炎で、自ら、やけどを負ってしまうのである……。 「今度、三神憲二の映画に出るっていうんで教えに来たんだよ」  浩志は、自分のことのように、自慢して見せた。 「ああ、週刊誌で読んだかもしれない。凄いわね。あの子、大スターになるかも」  と、森山こずえは、肯いて言った。「いいことよ。ああいう本物の女優がちゃんといい役をもらわなきゃ。CFなんかで、ちょっと人気の出ただけのアイドルタレントをすぐ主役にしたりするからいけないのよ、日本って」  浩志は、黙って苦いお茶を飲んだ。  安土ゆかりは、その「アイドルタレント」の部類に入る。いくら、森山こずえの想像力が豊かでも、浩志が原口邦子だけでなく、ゆかりの「旧友」でもあるとは、考えもしないだろう。  ともかく——浩志は、邦子がまだ失恋の痛手から立ち直っていないとしても、次の映画という目標がある限り、大丈夫だ、と思った。  邦子は厳しいプロ意識の持ち主だし、難しい役をもらえば、没頭してしまう。しかも、日本映画界でも、今、脂ののり切った感のある三神憲二の新作なら、「相手にとって不足はない」というところだろう。  浩志は、邦子のために、大いに喜んでいた。  ただ——断っておくが、浩志が安土ゆかりや原口邦子の「恋人」というわけでは、全然ない。仲のいい友人同士であり、悩みを打ち明けられたり、それこそゆうべのゆかりのように、とんでもない用で呼びつけられたりもするのだが、それでも二人は浩志の「古い友だち」の域から出たことはなかった。  妹の克子などは、それをからかって、 「人畜無害の兄貴」  などと呼んだりする。  そう。——確かに、浩志はその気になりさえすれば、キスの一つや二つ、どっちの「彼女」からも奪うことができるだろう。しかし、そんなことをしたら、この、ちょっと珍しい「三人の関係」は、たちまち崩れてしまう。  浩志にはよく分かっていた。ゆかりと邦子が、何でも悩みを打ち明け、頼れる相手は、自分しかいない。ゆかりはアイドルとして、邦子よりずっとわがままのきく立場にいるだろうが、それでも、本当の気持ちを知っていてくれる人間は、まず周囲には存在しないのである。  浩志は、克子にからかわれる通り、ゆかりと邦子の「便利屋」なのだ。しかも、決して週刊誌や芸能誌へ洩れることのない、「グチの聞き役」なのである。  どうしてこんな風になったのか。——まあその話は後でもいい。  ちょうど、浩志の机の電話が鳴ったところである。 色あせたポスター 「まあ、その点は……。はあ。——いや、決してそんなつもりじゃないので……」  ドアが細く開いているので、社長の西脇の声が少し洩れて来る。  安土ゆかりは、社長室の前で足を止めていた。——もちろん、ゆかりなら、ノックもなしに西脇の部屋へパッと入って行っても、叱られることはない。  何といっても、今一番西脇が可愛がっているのは、ゆかりなのだから。  しかし、今、ゆかりが中へ入ろうとしないで立っていたのは、西脇が電話中なので遠慮したから——ではなかった。逆に、電話を盗み聞きしてやろう、と思っていたのである。 「何とかしろとおっしゃられても……。こちらとしても、できるだけのことは……」  珍しい。——ゆかりは、社長があんな気弱な口をきくのを、初めて聞いた。  一体誰としゃべっているんだろう? 「——分かりました。決めしだいご連絡します。——いや、間違いなく。——はあ、よろしく」  やっと電話がすんだらしい。ゆかりはソーッと顔を覗かせた。ドアがきしんで、社長の西脇がすぐに気付く。 「何だ、ゆかりか。おい、何時だと思ってるんだ?」  と、時計に目をやって、「大急ぎで仕度しろよ」 「はい、社長」  と、ゆかりはおどけて直立不動の姿勢をとった。「ちょっと寝坊しただけ」 「飛行機は待っちゃくれんぞ」 「今、大宮さんが車を呼んでくれてる」  と、ゆかりは言って、西脇の机のところまで歩いて行く。  社長室といったところで、この事務所は、大手とはとても言えない。半分は段ボールが積み上げられて、物置兼用という雰囲気だった。 「ね、今、誰と電話してたの?」  ゆかりに訊かれて、西脇はギクリとした様子だった。  西脇は、芸能プロダクションの社長にしては、ひどく地味な印象の男である。いかつい感じで、派手な金ピカの腕時計や、エナメル靴、サングラスなんて格好が自分に似合わないことを、よく承知していて、安物ではないが、至って地味な服装をしている。 「聞いてたのか?」 「聞こえたの。全然違うでしょ」 「怪しいもんだ」  と、西脇が苦笑する。 「借金でもしてるの?」 「お前がそんな心配をしなくていい。ともかく仕事に遅れるな!」  西脇は大きな手で、ゆかりのお尻をポンと叩いた。  社長室のドアが開いて、ゆかりのマネージャー、大宮が顔を出した。 「車が来ました」 「ほら、早く行け」  と、社長の西脇がゆかりを追い立てる。「いくら機長がお前のファンでも、飛行機の出発を遅らせてはくれんぞ」 「はいはい。ね、大宮さん、席は?」  と、ゆかりは歩き出しながら訊いた。 「エグゼクティブ。今度は間違いなしですよ」 「本当でしょうね。いやよ、乗ってから、あれ、なんて、もう」 「この前だけじゃないですか」  と、大宮が少し大げさに嘆いて見せる。  大宮は太っているので見たところ少し老けているが、実際はゆかりと大して違わない。二十五歳である。  ひどい汗っかきで、今も額を汗で光らせていた。 「じゃ、社長さん、行って来ます!」  ゆかりが振り向いて手を振る。 「早く行け!」  西脇は、もう一度にらんでやった。  ゆかりの後を、大きなバッグをさげて大宮がついて行く。——西脇は、社長室のドアを閉めると、窓へ歩み寄った。  真下に、ビルの正面玄関が見下ろせる。  車がドアを開けて待っていて、やがてゆかりたちがビルから出て来て乗り込むのが見えた。  車が走り出し、見えなくなると、西脇はホッと息をついた。  本当は、ホッとしていられるような状況ではないのである。 「ゆかり……」  と、呟く。  西脇は、これまで、大勢のスターを手がけて来た。いや、正確にいうと、ごく少数のスターと、スターになりそこねた大勢を、である。  その中でも、ゆかりは特別に光るものを持っていた。早い時期に目をつけ、契約しておいた自分の勘には、満足している。  ゆかりがこの先どうなるか、もちろんそれは当人次第というところもあるが、周囲がどんな風に仕立てて行くかでも、大きく変わって来る。  西脇は、少し売れて来たからといって、ゆかりを寝る間もないほど働かせようとは思わなかった。ゆかりはもっともっと「高く売れる」子だ、と信じていた。  しかし……。  西脇の眉の間に、深い溝が刻まれていた。  今、ゆかりが立ち聞きしていた電話。——あれが、西脇を悩ませているのである。  あるパーティーに、この事務所からタレントを一人出してくれ、という依頼だった。珍しいことではない。しかし、問題は、そのパーティーが暴力団絡みのものだ、ということだった。  タレントをかかえ、全国を回って、ツアーを組んだりする以上、「その筋」と全く縁を持たずにやっていくことは難しい。  しかし、ゆかりは今、大切な時期である。  暴力団絡みのパーティーに出て、マスコミに狙いうちされたら、大きなマイナスになりかねない。といって……。  パーティー主催者は、西脇の出すつもりだったタレントに文句をつけて来た。  うちをその程度に見てるのか、というわけである。  ということは……。向こうの要求は、はっきりしている。名前こそ出さないが、ゆかりをよこせ、というわけである。  仕事としては大したものじゃない。パーティーに三十分ばかり顔を出して、主催者の顔が立てば、それでいいわけだ。  ゆかりだって、別に疲れる仕事でもなし、気楽にこなせるだろう。問題はただ一つ。後で何もなければいいが、ということである。  西脇はため息をついた。選択の余地はない。ゆかりを、三十分という約束でパーティーに出そう。  その写真がどこかへ流れないよう、祈る他はない。  西脇は、首を振りながら、電話へ手をのばしたが——。ふと、その手が止まった。 「そうだ」  もしかすると……。うまく行くかもしれない。西脇は、分厚い手帳をとり出して、ページをめくった。  ええと……何といったかな、あの男。 「そう。——これだ」  西脇は、手帳を見ながら、電話のボタンを押した。「——もしもし、石巻さんはいらっしゃいますか」    浩志は、ちょうど仕事の電話を終えたところだった。 「——もしもし」 「ああ、石巻さん? 西脇といいますが」  浩志にはすぐに分かった。ゆかりとゆうべ、あんなことがあったせいかもしれない。 「ああ、ゆかりの……。どうも」  ゆかりを通して、西脇を知っているのだが、もちろん親しいというわけではない。  何の用だろう。ゆうべのことが、どこかへ洩れたのかな。 「実は、ちょっとご相談がありましてね」  と、西脇は言った。「お会いできませんか」 「構いませんが……。急ぐんですか」  と言って、浩志は欠伸をした。「——失礼」  ほとんど眠っていないのがゆかりのせいだとも言えない。 「ゆかりのことでね。ちょっと厄介ごとなんですよ」  と、西脇が言った。  厄介ごとか。  どうやら、ゆうべの件じゃないらしい、と浩志は思った。 「何ごとですか」 「いや、電話では、ちょっと」 「分かりました」  浩志はため息をついた。 「いつごろなら?」  と、西脇は訊いた。  浩志は、隣席の森山こずえが、電話、と指さしているのに気付いて、とりあえず、今日の帰りに会う約束をして、切った。  やれやれ、今度は何だ? 「——もしもし」 「お兄さん?」 「何だ、克子か」  と、浩志はホッとして言った。 「ゆうべ、どうだった?」 「ああ、助かったよ。よろしく、と言ってた」 「そう、お役に立って良かったわ」  と、克子は言った。「お兄さん、少しは寝た?」 「少しな」  と、正直に答える。「何か用事だったのか?」 「別に。——あれからどうしたかと思って」  克子は、何か言いたそうだった。 「さっき、邦子が来たよ」  と、浩志は、原口邦子が三神憲二の映画に出ることを、嬉しそうに話してやった……。    ——本当に。  克子は、兄へかけた電話を切って、首を振った。 「お人好しなんだから」  仕事のおつかいで出たついでに、外の公衆電話で、兄の所へかけたのである。  本当は、他に話したいことがあったのだ。でも、つい——兄の声を聞くと、ゆかりや邦子の話になってしまう。  その方が楽……。そう、お互いに気楽なのだ。  いくら兄妹といっても、大人になり、社会へ出て、別々の生活を始めれば、お互いに踏み込めない領域が出て来るのである。  テレホンカードが戻って来て、克子は、ちょっとためらった。  腕時計を見る。——会社へ戻るのが遅くなると、上司がやかましい。  特に、克子の直接の上司は……。でも、ほんの二、三分ですむだろう。  克子は、ためらっている時間ももったいなくて、もう一度電話を取った。  もう指が憶えている番号。——克子にとっては、特別な意味のある番号なのである。 「もしもし」  克子の声は、少しこわばっていた。「あの……」 「君か」  すぐに彼の声がして、克子はホッとした。  同時に、「あの……」と言っただけで自分の声を分かってくれたことが、嬉しい。 「もう出かけたのかと思った」  と、克子は受話器を持ち直した。  そうすることで、気楽に話ができる、とでもいうように。 「出張? 中止になったんだよ」  と、彼が言った。「どうだい、今夜」 「でも……どうして? ニューヨークだったんでしょ?」  今夜はどうだ、と訊かれたことには、わざと答えずに言った。 「向こうの取引先がインチキくさいんだ。その報告が入ったのが朝の十時。成田へ出かける直前さ。で、急遽取り止め」 「そんなこと、あるんだ」 「金のあるところ、ハッタリあり、さ」  と、彼は笑って言った。「どう、それで? 取りあえず夜がポカッと空いてね」 「ええ」  と、克子は急いで言った。「ええ、構わない」 「良かった。やかましいね。外からかけてるの?」 「会社じゃかけられないもの」 「じゃあ……ちょっと精算に手間どって、八時かな。〈R〉で。いいね?」 「うん」  克子は、肯きながら答えた。 「そうだよ」 「何が?」 「うん、って答えた方が君らしくていい」  克子はちょっと笑った。 「ファックスが入って来た。じゃ切るよ」 「それじゃ八時に——」  克子は言葉を切った。もう電話は切れていた。  頬が燃えるように熱い。——今日から一週間、彼がいないと思っていた。それが……今夜会える。  周囲の喧騒が、やっと戻って来た。しばらくは、何も聞こえていなかったのである。 「——戻らなくちゃ」  小走りに、会社へと急ぐ。帰社予定の時刻を五分でもオーバーすると、理由を訊かれるのだ。  信じられないようだが、そんなことでくどくどと三十分も文句を言って、給料をもらう課長というのがいるのである。  そのくせ、自分は高校野球だの、プロ野球の日本シリーズのときになると、平気で仕事を抜け出して、喫茶店でTVを見ている。  まあいい。そんな人間に本気で腹を立てても仕方のないことだ。  克子は、信号が赤になっていたが、急いで横断歩道を駆け抜けた。    ヒソヒソと囁く声がする。 「やっぱり、そうだよ」 「そうかなあ……」 「ね、トイレ行くふりして、こっそり見といでよ」 「自分で行きなさいよ」  何の用で飛行機に乗っているのか、セーラー服の女学生のグループ。その中の一人が、ゆかりに気付いた。もちろん、アッという間に話が広まる。  ——ゆかりは座席で目を閉じていた。  眠っているわけではない。ゆうべ、浩志の方は寝不足だったろうが、ゆかりはしっかり眠った。  しかし、「スター」はいつも移動の途中では疲れて眠っているものなのである。ゆかりも、今は「演技」していた。  不思議なもので、どんなに低い囁き声でも、自分の名前は耳に入って来る。「安土ゆかり」というのは本名で、何となく垢抜けしない気がして、好きじゃなかったのだが、結局、スターになりさえすれば、どんな名前も輝いて、すてきに響いて来るものだということを、ゆかりは知った。  マネージャーの大宮は、隣の席で大口を開けて眠っている。——見ているとふき出したくなる顔だが、付き合うには気楽で、ゆかりは気に入っていた。  ゆかりはもちろん窓側の席で、小さい卵型の窓から見える雲の塊を、眺めたりしていた。もちろん目を開けているときは、ということである。  ——女学生たちの中で誰か一人が、「代表」になって、やって来る気配がした。ゆかりは迷った。  眠ったふりをしていれば、大宮が目を覚まして、「今、疲れてるから、そっとしておいて」  と、断ってくれる。  しかし——ゆかりは、ファンの相手をするのが、嫌いではなかった。 「あの……。すみません」  と、おずおずと声をかけて来る。  ゆかりは、ゆっくりと顔を向けた。その瞬間には、「アイドルスター」の顔になっていなくてはならない。 「安土……ゆかりさんですか」  ゆかりは微笑んだ。 「ええ」 「あの……申し訳ないんですけど、写真、とらせていただいてもいいですか」 「どうぞ」  と、ゆかりが答えると、相手は飛び上がりそうになった。  大宮が目を覚まして、キョロキョロしている。ゆかりは、女学生の構える小型カメラに向かって、微笑んで見せた。  フラッシュが光る。——それが合図だったかのように、エコノミーの席から女学生たちがワッとやって来た。  ゆかりは、その女学生たちが、新体操のチームで、香港で開かれる競技会に参加するために飛行機に乗っているのだと知った。  入れかわり立ちかわり、ゆかりの隣の席に座って写真をとる。その間、大宮は、ずっと立っていた。 「ありがとうございました!」  と、口々に言って、中には握手して行く子もいる。  やっと落ちつくと、大宮も席に戻った。 「大勢女の子がその席に座ったのよ。いい気分でしょ」  と、ゆかりはからかった。 「断れば良かったですね。すみません」  と、大宮は欠伸しながら言った。 「いいの。感じ良かったわ」  ゆかりも、大物タレントが、サインや写真をねだられて不機嫌に断ったりする気持ちが分からないではない。本当に、クタクタに疲れ切って、誰とも口をききたくない、ということがあるものだ。  しかし、今のゆかりには、疲れること自体が一つの「仕事」であり、人気の現れでもある。——たとえ不愉快なファンであっても、声もかけられなくなったり、誰にも気付かれない恐怖に比べれば、ましだ。  大げさではない。一旦名の出たスターにとって、忘れられることは死ぬことと同じである。  ゆかりも、事務所の壁に、もう今はほとんど週刊誌にも顔の出ないスターのポスターを見かける。何年前のものか、少し色のあせたそのポスターを見る度、ゆかりはゾッとする。  いつか、自分もあんな風に「色あせる」日が来るのだろうか? 「安土ゆかり? そんなのもいたね」  と、言われる日が。  いや——決して、決してそんな風にはならない。私は生き残って見せる。いつも真新しいポスターが貼ってあるように。 「私はね、息の長いスターになりたい。大スターじゃなくていいの。脇で出てても、何となく記憶に残るような、そんなスターにね……」  邦子はそう言ったっけ。——あの高校の校庭で。二人でブランコに乗って、ゆっくりと揺れながら、夕日を眺めて。 「でも——」  と、邦子はゆかりを見て、言ったものだ。「ゆかりはパッと目立つよ。スターになるときは一気。そんな気がするな」 「なれりゃいいけどね」  と、ゆかりは笑った。  邦子……。邦子。もう、ずいぶん会っていない。ゆかりには、あの日々が、何十年も昔のことのように思えた。 「大宮さん。——あの女の子たちのホテル、聞いといて。果物でも送っといてちょうだい」  と、ゆかりは言った。 仮払いの恋人 〈会員制クラブ〉というプレートが、こっちをにらみつけているようで、一瞬、浩志はひるんだ。  しかし、向こうからここを、と指定して来たのだし、何もこっちが来たくて来たわけじゃない。そうだとも……。  気をとり直して、ドアをノックすると、待つほどもなくドアは静かに開いた。 「どちら様で」  と、平坦な声で、出て来た男は言った。 「あの——石巻といいます。西脇さんと約束が」  石巻。西脇。——口に出してみると似てるな。浩志は、そんなことを考えていた。 「どうぞ」  と、ドアは大きく開かれた。  中はいかにも想像通りの、というとおかしいが、TVドラマなんかで、よく出て来るこの手の場所と、そっくりそのままだった。  何人かの客はいたが、浩志には目もくれない。——お互い、ここでは何も見ない約束になっている、とでもいうように。 「やあ、お呼び立てして」  西脇がスッと立ち上がった。愛想のいい男である。  浩志は、いささか落ちつかない気分で、少し堅めのソファに腰をおろした。 「何を飲みます? 何でもありますよ」 「いえ……。僕は——」 「そうだった。あんまり飲まれないんでしたな。じゃ、ジュースでも?」  浩志は、オレンジジュースを頼んだ。 「ゆかりは香港です」  と、西脇は言った。「ドラマの収録で。いい仕事ですよ」  浩志は、もちろんゆかり当人から聞いている。しかし、黙っていた。  西脇は薄い水割りを飲んでいた。 「——実は、ちょっと困ってるんです」  と、浩志の前にジュースのグラスが置かれてから、西脇は口を開いた。 「ゆかりに何か?」 「パーティーに出なきゃいかんのです。来週ですがね。まあ、大した仕事じゃない。しかし——」  西脇は、困っている「理由」を説明した。 「暴力団? そいつは——」 「いやいや、そう派手に表に出ているわけじゃありません。ただ、出席者の中にどうしても何人か、顔役が混じる。当然、ゆかりと話したがるでしょう。一緒に写真もとる。それが、どこかへ流れると怖いのです」 「じゃ、病気だとでもいって断ればいいじゃありませんか」 「次の時に埋め合わせしなきゃいけなくなる。そのときはパーティーに顔を出すだけじゃなく、一人で座敷へ呼ばれることになるかもしれません」  西脇の口調は真剣だった。 「一人で座敷へ……。というのは、どういうことです? まさか——」  と、浩志は言葉を切ってから、「やくざ映画の世界じゃないんですから、ゆかりを無理にどうこうするなんてことは……」 「確かにね」  と、西脇は肯いた。「今は暴力団も合法的に色々稼いだりしています。顔役と呼ばれるくらいになると、一見紳士ですし、まあ普段は至って良識のある行動をとっています。しかし、それは『自分の思い通りになっている間』の話ですよ。周囲が気をつかって、無理も通してくれる。機嫌がいいのは当たり前です。ところが、一つ何か約束と違ったりしたら……。怖いのはそういうときです。いくら外を飾っても、中身はそう変わるものじゃない」  西脇の話し方は淡々として、それだけに説得力のあるものだった。  浩志にも、西脇が本気で心配しているのだということは良く分かった。 「なるほどね」  浩志はジュースをゆっくりと半分ほど飲んでから、言った。「パーティーに出る。それは仕方ない。といって、僕に何ができるというんです?」  西脇は、ちょっと言いにくそうに目をそらした。 「あなたは、ゆかりのことを本当に気にかけておられる。助かってるんですよ。ゆかりにとって、心から頼れる相手がいる、というのは幸せなことです」 「ただの話し相手ですよ」 「それが、あの子には一番必要なんです。恋人はまだいらない。しかし、今、一番難しい時期のあの子には、悩みを安心して打ち明けられる人が大切なんです」 「何をおっしゃりたいんですか」  浩志は少し苛立って、言った。 「手短に申し上げましょう」  と、西脇は言った。「あなたに、ゆかりの『恋人』の役を引き受けていただきたい」  浩志は、じっと西脇を見つめていた。 「たった今、恋人はいらないとおっしゃったじゃありませんか」 「本物の恋人はね。あなたには、『仮の恋人』の役をお願いしたいんです」  呆気にとられている浩志の方へ、西脇は上体をのり出すようにして、「パーティーには当然、マスコミも来る。ゆかりはもちろん、カメラマンの第一の標的です。——出てほしくないニュースを隠すのに、一番いい方法は、他に目を引くニュースを提供することですよ」  浩志にも、西脇の言わんとするところは分かって来た。 「つまり、わざと、ゆかりと僕の写真をとらせて、その筋の出席者から、目をそらそうというわけですね」  と、ゆっくり確かめるように言った。 「あなたにとって、ご迷惑だということは、よく分かってます」  と、西脇は言った。「ゆかりは、売れっ子のタレント。あなたは——こう言っては失礼かもしれませんが、ごく平凡なサラリーマンだ」 「ちっとも失礼なんかじゃありませんよ」  と、浩志は首を振って、「平凡なサラリーマンがいなきゃ、世の中は成り立たないんですから」 「なるほど、そうでした。——いや、失礼。つい、我々は有名か無名かで人間を判断するくせがついていましてね」  西脇の、こういうところが、浩志は気に入っている。ゆかりの身を心配するのも、もちろん商売のためでもあるにせよ、「そんなことで、ゆかりの才能を無にしたくない」という気持ちがあるからだ。  浩志には、それが分かっていた。 「しかし」  と、浩志は座り直して、「そううまく行きますか。僕なんか、有名なタレントでも何でもない」 「だからこそ、注目を集めます。一体ありゃ誰だ、というのでね。——私も、もちろん大宮に、一切ノーコメント、で通させます。その方が意味ありげでしょう」  浩志は、ジュースを飲み干していた。  迷いはあった。何といっても、その写真がスポーツ紙の芸能欄や週刊誌に出てしまったら、会社で何と言われるか。  騒がれるのは無視しておけばいいといっても、もし、会社に取材の人間がやって来たりしたら、上司はいい顔をしないだろう。 「考えておいていただけますか」  と、西脇は言った。「無理に、とは言いません。当然、そちらの事情もおありなんですから」  西脇は、浩志が黙っているのを、どう受け取ったものか分からない様子だったが……。 「——では、今日はこれで。お呼び立てして申し訳ありませんでした」  と、腰を浮かした。 「いくらです?」  と、浩志が言った。 「え?」 「その役を引き受けるとして、ギャラはいくらですか」  浩志は、西脇を見て言った。「迷惑料とでもいいますかね」 「なるほど。いや、もちろんお払いします。もっとも——こういうときの相場というのは、私も知りませんがね」  と、西脇は笑った。 「そちらで決めて下さい。いただくのは当日で結構。それから、着て行く物です。こんなビジネススーツってわけにはいかないでしょう」  浩志は、仕事の打ち合わせでもしているような口調で言った。 「そうですね。タキシードはお持ちですか」  と、西脇は訊いた。 「まさか! そんな物を着る機会があると思いますか?」 「そうですな。では、こっちで用意しましょう。サイズはいくつです?」  西脇が手帳をとり出す。  二人の話は、ハンカチーフの色から、靴まで、細かく詰められて行った。  ——もちろん、浩志は金が欲しくて、西脇にギャラを要求したわけではない。  これはあくまでアルバイトだ。ゆかりとの間では、そうしておいた方がいい、と思ったのである。  不安はあった。ゆかりが、この話をどう受け取るか。そしてもう一人は——。 「では前日に、お宅へ一揃い、届けさせますよ」  西脇は手帳をポケットに入れると、立ち上がった。浩志も一緒に立ち上がると、差し出された手を握った。 「ゆかりを、よろしく」  どっちが言っても、おかしくない言葉だった。    バスルームの受信専用電話が、チン、と短く音をたてた。  石巻克子は、バスタブに身を沈めて、スポンジで首筋の辺りをこすっていたが、その音を聞くと、一瞬手を止めた。しかし、すぐに気を取り直すと派手に水音をたてて、スポンジで膝やお腹の辺りをこすり始めた。  大きな音をたてていた方がいいのだ。彼が安心して電話できるから。  どこへ? もちろん自分の家へ、である。  そうでなかったら、わざわざ克子がバスルームにいるときにかけることもあるまい。  ベッドルームの方で電話を使うと、バスルームの方の電話が小さく音をたてる。彼はそれを知らないのだ。克子も、教えてやる気にはなれなかった。  やきもちをやいているように見られるのはいやだ。——納得した上での付き合いである。彼の家庭を破壊しない、という約束をしてある。  自宅には電話しない。もちろん、訪ねて行くなんて、とんでもないことだ……。  克子は、少しのぼせてしまいそうになって息をつくと、バスタブを出て、バスタオルで体を拭いた。——軽い虚脱感。嬉しさ半分、虚しさ半分、というところか。  終わった後はいつもこうだ。  ただ、今夜は少し特別だった。予定外の一夜だったから。  意外さが、いつもより克子を大胆にしたようだった。でも——終わってしまえば、いつもと何の変わりもない。  克子はバスローブを着て、ドアを開けた。  斉木は、ネクタイを締め直していた。  何ごとも器用な男なのだが、なぜだかネクタイを締めると、なかなか長さがうまい具合に行かないのである。 「やってあげる」  と、笑って克子は斉木の方へ歩いて行った。  一旦ネクタイを外し、ワイシャツのえりを立てて……。簡単なことなのにね。  そう。いつも、妻に締めてもらっているのだろう。だから、こうして克子とホテルへ入り、一旦外してしまうと、元の通りに締められない。 「悪いね」  と、斉木は言った。  斉木は背が高いので、仕上げできちっと長さを見るとき、克子は少し爪先立つ必要があった。 「もう、帰るんでしょ」  と、克子は軽く言った。 「どうするかな。——何か軽く食べるかい」  克子は首を振った。 「お腹、空いてない。それに、少しのぼせちゃった。もう少し休んでくわ。先に帰って」 「そうか。じゃあ……。この次のとき、また話そう」 「うん」  克子は、ちょっと伸び上がって、素早く斉木にキスした。「忘れものしないで」 「子供じゃないぜ」  と、斉木は笑った。「——じゃあ」 「またね」  ベッドに腰をおろして、克子は小さく手を振った。  斉木がスーツを着て、バッグを手に出て行くと、克子は、しばらく閉じたドアを眺めていた。  何も食べたくなかったわけではない。斉木が「軽く」食べるか、と言ったのは、家で夕食の用意がしてある、という意味なのだ。  だから克子は、食べないと言ったのである。  斉木の妻の立場になれば——やはり、一週間、ニューヨークへ行っていると思った夫が帰って来るのだから、今夜は「特別な夜」なのに違いない。克子には、その邪魔をする気はなかった。  それに、少々のぼせて暑かったのは事実だったし。  克子はホテルの部屋のTVを点けた。 「でも——」  と、口に出して呟く。「もう少し、いい趣味のネクタイ、選んでほしいわね。いつもスーツと全然合わないんだもの」  面と向かっては言えないが、斉木の妻のセンスが、克子には気に入らない。決して、こういう間柄だからといって、偏見があるわけではなく、公平に見ても、ピントがずれてると思う。  それが、斉木の妻について克子が知っている、ほとんど唯一のことである。  斉木は、克子の勤め先と取引のある商事会社の社員だ。  営業マンとしては優秀で、よく外国へも出かける。そのせいか、いわゆる「くたびれたサラリーマン」のイメージがなく、垢抜けして見える。  ——実際、いやになるくらい、よくある話だ。克子自身、TVドラマなんかで、こういう取り合わせの「不倫ドラマ」を、いくつ見せられて来ただろう。  まさか——まさか、自分がそんな立場に立つことがあるとは、思ってもみなかった。そして、一旦そうなってしまうと、「自分の恋だけは」よくある不倫とは違う、と思い込もうとする……。  だが克子は、そんな自分を冷静に眺めることができた。たとえ、一時的に目のくらむことはあっても、それが正常な状態でないことは、承知している。  それだからこそ、今のところ、自分に課したいくつかの「条件」にこだわって、斉木と付き合い続けていられるのだ。  ただ——問題は、克子自身、よく分かっていることだったが、自分が遊びで男と関係を持つタイプではないということ。そこを、いつまでごまかしてやっていけるか、という点だった。  まあいいや……。何も、今、その答えを出さなくても。まだ時間はある。そうでしょ?  ぼんやりと眺めていたTVの画面に、急に見慣れた顔が出て来て、ふっと我に返る。 「あら。——邦子さん」  お久しぶり、とでも声をかけたくなる。原口邦子が、ドラマに出ていたのだ。  どうやら、いくつもあって、お互いそっくりで見分けのつかない刑事ドラマの一本らしい。邦子はスーパーマーケットのレジを、可愛い制服姿で打っていた。 「ありがとうございました」  張りのある声。レジを打つ指の動きも、自然だ。——大した役でなくても、きっと猛練習したのだろう。邦子はそういうタイプなのだ。  刑事がやって来て、邦子を店の外へ呼び出す。邦子が同僚にレジを頼んで、カウンターを出ながら、制服のエプロンをパッと外す。その手の慣れた動きは、ハッとするほどみごとだ。  でも——残念なことに、TVドラマで、そんな所を注意して見る人間はいない。ろくにセリフも言えない新人が、可愛い顔でニッコリ笑って見せれば、その方が視聴者は喜ぶのである。  邦子だって、可愛くないわけではない。しかし、どこか、邦子には暗いイメージがつきまとっていた。安土ゆかりのように、そこにいるだけで、周囲をかすませてしまう輝きには欠けているのである。  TVドラマは、主役の刑事——本来は歌手なのに、何を言っているのか、セリフがさっぱり聞き取れない——が、邦子の証言を聞いて駆け出して行く、という、よくある場面でCFになった。  たぶん、もう邦子の出番はないのだろうと思ったが、克子は、そのままTVを消さずにいた。  ——安土ゆかりと原口邦子。  もちろん、克子は昔から二人のことをよく知っている。兄を通してだけではなく、二人は克子が小さいころから、よく家にも遊びに来た。  そう……。あのころ、うちは誰でも気軽にフラッとやって来られる、そんな雰囲気があった。  まるで、遠い昔のようだが、まだほんの七、八年前の話でしかない。何もかもが変わってしまったのは。  克子は、バスローブを脱いで、服を着た。——考えたくないことを考えてしまったときは、場所を移り、気分を変えることだ。  TVの方は、再びドラマが始まっていたが、見ている気にもなれず、リモコンで消してしまった。 「ごめんね、邦子さん」  と、一応謝っておく。  しかし、兄の話では、邦子も三神憲二監督の映画で、大きな役をもらえることになったらしい。それが、邦子の人気を一気に盛り上げてくれたら、と克子は願っていた。  別に、克子としては、邦子の方へ肩入れする気持ちがあるわけではない。しかし、ゆかりの人気はもう、「一人歩き」するところまで来ていた。  でも——ゆうべ兄を引っ張り出したようなことをやっていたら、いつ何どき、足もとをすくわれるかもしれない。  ——克子はホテルを出た。  お腹が空いている。一人で何か食べて帰ろうか……。  フラッと歩き出した克子は、かすかな、カシャッという音で、足を止めた。  何の音だろう?  周囲を見回す。——薄暗いホテル街に人の姿は見えなかった。 「気のせいかな」  と呟くと、克子は肩をすくめてまた歩き出した。  どこで、何を食べて帰ろうか。どうしても、斉木が自分の家で、妻と子供と一緒にテーブルを囲んでいる光景が、目に浮かんで来てしまう。  それを振り払うように、足を早めて克子が立ち去った後、ホテルのかげから、コートをはおった若い男が現れた。そして、ホッと息をつくと、手にした小型カメラを見下ろして、 「頼むぜ。写っててくれよ……」  と、呟いた。 華やかな同伴者  ドアが開いて、浩志が入って来ると、紙コップのジュースを飲みかけていたゆかりが、ふき出した。 「ちょっと! 汚さないで下さいよ!」  と、マネージャーの大宮があわてて、紙コップをゆかりの手から取り上げる。「ドレスの替えはないんですからね!」  ゆかりは、笑い続けていて、大宮の言葉はとても耳に入らなかっただろう。 「いつまで笑ってるんだよ」  と、浩志が呆れて言った。 「だって……。浩志! 結構似合うわよ、ハハハ!」  ゆかりはピョンピョン飛びはねた。 「やめて下さい」  と、大宮が情けない顔になって、「下の事務所から苦情が来ます。何しろボロビルなんですから」  ここは、ゆかりの所属事務所の社長室である。西脇は一足先にパーティー会場へ出向いていた。 「そんなにおかしいか?」  と、浩志は自分の格好を見下ろして——。「まあ、確かにおかしいな」  と、肯いた。  白のタキシード。赤い蝶ネクタイ。紫のカマーバンド。  とても自分とは思えない。 「もうちょっと地味にできなかったのかね」  と、浩志は首を振った。「地味じゃ、お役目がはたせないか」 「ご苦労さまね」  と、ゆかりは言った。  もちろん、ゆかりもパーティー用に、超ミニのドレス。スラリとのびた足は、まぶしい白さだった。 「車が来たか、見て来ます」  と、大宮が言って、社長室を出て行った。 「——もう時間に間に合わないんじゃないのか?」  と、浩志は腕時計を見て、言った。 「あら、腕時計は自分の? 似合わないなあ。宝石入りの派手なのか何かしないと」  と、ゆかりは言って、西脇の椅子に腰かけ、クルッと回した。「——少し遅れて、ちょうどいいのよ。別にこっちはメインゲストじゃない。『花を添える』ってだけだもの」 「そうか」  浩志は首を左右へ回して、「サイボーグにでもされた気分だ」 「浩志……」  と、ゆかりは言った。「ごめんね、面倒かけて」 「いつものことだろ。それに、ちゃんとギャラもいただくことになってるんだ」  と、浩志は言って、てかてかになでつけた髪をそっと手で押さえた。「頭が自分のもんじゃないみたいだ」  ゆかりは、楽しげに浩志を眺めている。 「だけどさ」  と、ゆかりが言った。 「何だ?」 「こうやって見ると、浩志も、割合いい男だね」 「ご挨拶だな」 「でも——厄介ねえ、芸能人ってのも。普通のファンとだけ会ってりゃいいのなら気も楽。中には、私と一緒に死にたい、なんて言って来るのもいるし」 「スタッフが守ってくれるさ」  浩志は、胸に覗くポケットチーフを、少し直した。「お腹が苦しいよ。これじゃうつむけないな」  ——問題のパーティーの日である。浩志は会社を早退して、西脇の指定した理容室でこの頭にした。  大宮が戻って来て、車が待っている、と告げた。 「出かけましょう。ラッシュにぶつかると、遅くなりすぎる心配もあります」 「いざ、出発!」  ゆかりが立ち上がって拳を突き上げた。    パーティー会場までは、割合順調に車が流れた。 「雨になりそう」  と、車の中から、ゆかりが灰色の空を見上げる。 「そりゃそうだ。僕がこの格好してるんだぜ。雪が降ってもおかしくない」  と、ゆかりと並んで座った浩志が言った。 「ねえ。会社にばれると、大変?」 「まず大丈夫だろ。明日、いつもの通りに出て行けば、誰も気が付かないさ。何となく似てるな、とは思ってもね」 「スポーツ紙なんかの写真は、そう鮮明に出ませんから」  と、助手席の大宮が振り返って、言った。「いいですね。質問されても答えないで下さい。僕の方でうまくフォローします」 「でも、私の恋人に見えなきゃ、意味ないんでしょ」  ゆかりが、浩志に腕を絡めて来る。「仲良くしましょうね」 「ずっと腕を組んでたら、何も食べられないな」 「パーティーなんて、そんなものよ。せいぜい三十分もいりゃいいんだから」  車は、Tホテルの前に着いた。  西脇が、ホテルの正面玄関で待っている。 「やあ、ご苦労様」  と、浩志の手を握って、「よくお似合いだ」 「よして下さい。——カメラマンがいませんね」 「宴会場はこの下です。エスカレーターで下りて行くと、ワッと待ち受けてますからね。びっくりしないで下さい」  そう言われると、ますます緊張してしまう。  地震というのは、初め小さな揺れが、予告するようにやって来て、それからドッと大きな揺れが来る。  浩志は、そんなことを連想していた。  パーティー会場へ入りかけるまでは、カメラマンの数も、それほどではなかったのである。——こんなもんか、と、浩志は西脇からおどかされていただけに、少し拍子抜けの感すら抱いた。  しかし、それもほんの一、二分のことだった。パーティー会場に、浩志とゆかりがしっかりと腕を組んで入って行くと、たちまち凄い数のカメラマンが群がってきたのだ。  フラッシュのまぶしさに目がくらんで、浩志はめまいを起こしそうになった。マネージャーの大宮が、早くも汗だくになって、 「通して下さい!——ちょっと、道をあけて下さい!」  と声を嗄らすが、誰もそんなもの、聞いてやしない。  後で浩志が説明されたところでは、初めに待っていたカメラマンは、芸能誌やスポーツ新聞のカメラマンたちで、要するに、ゆかりが来るのをとっておこうというので、待っていたのだ。  ところが、ゆかりは「得体の知れない男」と、いかにも親しげに腕を組んで現れた。アッという間にそのニュースがパーティー会場に伝わって、あちこちの写真週刊誌、パーティー欄のある婦人誌、女性誌のカメラマンたちも、一度に殺到して来た、というわけである。  しかし、そんな理屈はともかく、パーティー会場の入り口で、二人は立ち往生して、前へ進めなくなってしまった。 「もっと笑って!」  と、ゆかりが浩志に囁く。「それじゃ、お通夜に出てるみたいよ」 「そう言われたって……。これでも、精一杯笑ってるんだ」  と、浩志は言い返したが、確かに、「笑っている」というより、単に顔が引きつっているに過ぎないだろうということは、自分でも分かっていた。  カメラのレンズとは別に、メモを取ろうと身構えた記者たち。 「ゆかりさんとのご関係は?」 「お名前と職業!」 「年齢、体重!」  これで血圧、視力まで訊かれたら、健康診断だ、と浩志は思った。 「詳しいことは後ほど!——ゆかりは、後のスケジュールが詰まってるんです!」  大宮の必死の叫びも、何度かくり返されると、やっと聞いてもらえたようで、徐々に洪水の水が引いて行くように、二人の周囲の壁はなくなって行った。 「ああ、やれやれ」  大宮が、ハンカチで汗を拭いた。 「ご苦労さん」  と、西脇がやって来て、浩志の肩を叩く。「もうしばらくの辛抱ですよ。何か食べますか」 「とてもそんな気になれませんね」  と、浩志は言った。  浩志だって背中を汗が伝い落ちている。一刻も早く、「お役ご免」にしてほしかった。 「ともかく、パーティー会場の中を、ゆっくり回って下さい。ゆかりはきっとサインをせがまれたりする。こういう所の客は大切にしませんとね。あなたはその間に、軽く食べたり飲んだりして下さい」 「そんなことはいいですけど……。例の『その筋』の人たちはどこにいるんです?」 「一番奥の方です。ちゃんと私がゆかりを紹介しますから、ご心配なく」 「はあ……」  パーティーは立食形式で、たぶん三百人くらいの規模だろうと思われた。浩志も総務で、こういうパーティーの手配や裏方をやらされることがあるので、見当がつく。  出席者のほとんどは、重役タイプの男性で、専ら飲むばかり。おかげで、せっかく高い金を出して用意された料理は、ほとんど手つかずで余ってしまうのである。  もったいない!——浩志は、自分が金を出すわけではないにしても、つい、そう思わずにはいられなかった。  浩志は、大宮に先導される格好で、ゆかりとしっかり腕を組んで、会場の中を進んで行った。あちこちから、赤い顔のおっさんが、 「ゆかりちゃん! 元気でやってる?」  と、声をかけて来たりするが、ゆかりは、 「おかげさまで」  と、ニッコリ笑って答えておいて、「——誰だっけ?」  と、後で大宮に訊いている。 「や、安土ゆかりさんですね。娘が大ファンで……。一緒に写真をとっていただけますか」  どう見ても「自分が」一緒に写真をとりたいのだろう。初老の、中小企業の社長って感じの男だ。 「ええ、どうぞ」  と、ゆかりも愛想良く肯く。  一旦、浩志はゆかりから離れた。 「——今の内に、何か食べたらどうです?」  と、大宮に言われて、浩志は少し迷ったが、ちょうど料理をのせたテーブルの前に立っている。  一皿何かとるか。  皿を手にして、目につく料理を二つ三つとっていると、 「それ、おいしくないわよ」  と、すぐわきで声がした。 「邦子!」  浩志は、原口邦子がいつの間にか隣に立っているのを見て、目を丸くした。 「事務所の社長さんについて来たの」  と、邦子は皿にとった料理を食べながら、言った。「夕食代も浮くしね」 「そうか……。びっくりしたよ」 「こっちよ、びっくりしたのは」  と、邦子は笑って、「誰だろう、って首ひねっちゃった」 「これには色々わけがあるんだ。アルバイトなんだよ」  と、浩志が急いで言った。 「浩志! 行こう」  と、ゆかりがやって来て、「——邦子!」 「やあ」 「来てたの? 知らなかった!」  ゆかりは、学生時代に戻ったように、ピョンと飛びはねた。「ね、一度ゆっくり会おうよ、三人でさ」 「そうね」  邦子は肩をすくめて、「でも、ゆかりの方が大変でしょ、スケジュール押さえるの」 「そんなこと言わないで」  ゆかりは、突然真顔になった。「会いたいんだ。本当だよ。時々、むしょうに会いたくって……。だって——友だちなんて、いないじゃない。邦子と浩志以外に」  邦子の顔に浮かんでいた、ある「こだわり」が、スッと消えたようだった。  浩志は、このまま、いつまでも二人をそっとしておいてやりたいと思った。しかし、そうはいかないのだ。 「ゆかり、行くぞ」  と、西脇がやって来た。 「ええ。——じゃ、邦子、電話する」 「うん」  邦子は微笑んで、「頑張って。体、こわさないでね」 「バイバイ」  ゆかりは名残惜しそうだったが、西脇に引っ張られて、人ごみの中へ消えた。 「さて、僕も仕事だ」 「何なの、一体?」  と、邦子が訊く。  浩志が手短に説明すると、邦子は、 「とんでもないこと頼まれたのね」  と、呆れている。「よっぽどギャラをふんだくってやんなきゃ」 「そうだな」  浩志は笑って、皿を置いた。「じゃ……。まだいるのかい?」 「もう少ししたら、出るわ。少女雑誌のインタビューがあるの」 「そうか。——じゃ、また」  浩志は、邦子の肩に軽く手をかけて、それから、ゆかりの後を追って行った。  ——立食パーティーでも、壁ぎわに必ず椅子が並べてある。ずっと立っているのはきつい、という客も少なくないからだ。 「問題の客」は、会場の一隅に、腰をおろして、数人の男たちに囲まれていた。  にぎやかなパーティー会場の中で、その一画だけは、周囲から切り離されているように見えた。  もちろん、見るからに「その筋」の人間、という格好をしているわけではないから、一見してそれと分かるわけではない。むしろ、その連中に接する人間たちの態度がガラッと変わるので、それと知れるのである。  浩志がゆかりのそばへ行ったときには、西脇が、椅子に座っている初老の紳士に、挨拶しているところだった。 「——あれか」  と、浩志は呟いた。  見たところ、人のいい重役というタイプ。服のセンスも悪くない。 「ゆかり、ご挨拶しなさい」  と、西脇が呼ぶと、ゆかりは仕事用の笑顔になって、進み出る。「安土ゆかりです。よろしくお願いします」  と、頭を下げると、 「やあ、いつもTVで見てますよ」  と、相手はわざわざ立ち上がり、相好を崩して、ゆかりと握手した。  カメラのフラッシュが光る様子はない。浩志はホッとした。 「国枝です。よろしく」  と、ゆかりに頭まで下げる、その男を見ていて、浩志はふと寒気を覚えた。  確かに礼儀正しいが、それは当たり前の礼儀正しさとはどこか違っていた。六十にはなっているだろう。白髪の穏やかな紳士という印象の、その国枝という男、笑顔はやさしいが、目は笑っていない。 「まあ、かけなさい。忙しいんだろうね」  ゆかりは、国枝の隣に腰をおろすことになった。——西脇としても、そうすぐにゆかりを引き上げさせるわけにはいかないのだろう。 「はい」  ゆかりは緊張の面持ちで、チラッと浩志の方を見た。それに目ざとく気付いて、国枝は、 「あれは誰かね?」  と、ゆかりに訊く。 「あの……友だちなんです。学生のころからの……」 「ああ、なるほど。こっちへ呼びなさい。そんな所へ突っ立ってることはない」  国枝が手招きする。浩志もそれを拒むわけにはいかなかった。 「なかなか二枚目じゃないか」  と、国枝が笑顔で言ったが、浩志の方は顔も体もこわばってしまって何も言えない。 「そうそう。ゆかりさんに会わせたい男がいる。——おい、呼んで来い」  国枝の一言で、立っていた若い男がパッと飛んで行った。 「いや、実はね、息子がゆかりさんの大ファンで、今日会うのを楽しみにしてるんですよ」  と、国枝は言った。  国枝の息子は、全く父親に似ていなかった。浩志が、本当にこの二人、親子だろうかと思ったほどだ。  色白で、ちょっと太り気味のその若者は、表情というもののほとんどない顔つきで、やって来た。 「——息子の貞夫です。おい、本物の安土ゆかりさんだぞ」  と、父親に言われても、ニコリともせず、オレンジジュースのグラスを手にしたまま、ちょっと頭を下げただけだった。  ゆかりはきちんと立ち上がって、 「安土ゆかりです。よろしくお願いします」  と、頭を下げた。  国枝貞夫は、それに応えるように、もう一度頭を下げたが、やはり何も言わない。  ちょっと気味が悪いな、と浩志は思った。 「いや、緊張してるんですよ、こいつ」  と、父親の方が笑って言った。「憧れの人に会えたんだからな。そうだろう?」  貞夫は、しかし、ゆかりを見てはいなかった。隣の浩志の方を、何とも言えず暗い目つきで見つめていたのである。 「——どけよ」  と、貞夫が言った。  浩志は面食らった。突然、見ず知らずの人間に向かって、そんな口をきくなんてことは、普通では考えられない。 「おい、貞夫」  と、父親がたしなめるように言った。「そちらは、ゆかりさんのお友だちだ。失礼なことを言っちゃいけない。俺の隣へ来い」  しかし、父親の声などまるで耳に入っていない様子で、貞夫は、今度ははっきりと浩志の前に立って、 「そこ、どけよ」  と、くり返した。  浩志は、逆らわないことにした。この若い男の目には、どこかまともでないものがある。 「分かりました」  と、浩志は立ち上がった。「どうぞ」  しかし、相手はそれだけですませるつもりではなかったのだ。 「あっちへ行けよ」  と、まるで子供が犬でも追いやるような言い方で言った。  浩志は、ゆかりが困ったように西脇を見るのをチラッと横目で見た。言われた通りにするわけにもいかない。ゆかりだって、こんな男にそばにいられたくないだろう。 「ゆかりとはこの後、予定がありまして」  と、浩志が言うと、貞夫がいきなり——全く唐突に、手にしていたグラスのジュースを、浩志の白いタキシードの胸にぶちまけた。 「着替えた方がいいだろ」  と、貞夫は言った。  浩志は、血の気のひいた顔で立っていた。周囲が静まり返って行く。  人目に付かないように、という西脇の考えは、全く裏目に出てしまった。  パーティー会場の一隅でのこの出来事は、人目をひかずにはいなかった。  浩志は動かずに立っていた。タキシードの胸にかけられたジュースが、下のシャツを通して、肌に冷たい。  もちろん、腹も立った。しかし、どう見てもまともでない、この若い男のそばにゆかりを残しては行けない、と思っていたのである。  国枝貞夫は、じっと浩志を見つめ、浩志も見返していた。怒りは抑えて、ただ相手の目を見ているだけだ。  貞夫は、おそらく、ゆかりの「友だち」というだけで、やきもちをやいたのだろう。しかし、感情らしいものが、その冷たい目の中に全く読みとれないのが、却って気味悪かったのである。  ゆかりは怯えたような目で、浩志と貞夫を見ている。——西脇も、どうしていいか分からない様子で、誰もがストップモーションのかかった画面のように、動かなかった。  すると、周囲に集まって来た客をかき分けて、タッタッと進んで来たのは、邦子だった。 「あらあら」  邦子は、さりげない声で言って、「しみになるわよ、早く拭いとかないと。待ってね」  と、テーブルから水のコップを持って来ると、自分のハンカチを出し、それを水に浸して、浩志のタキシードを拭い始めた。  邦子が、浩志と貞夫の間に入ったことで、辺りを縛っていた緊張がとけた。 「——どうも失礼した」  と、国枝が立ち上がって言った。「こういう席は、年寄りには疲れる」  そして、貞夫へ、 「おい、帰るぞ」  と、言った。「——ゆかりさん、失礼しましたな」 「いいえ……」 「そのタキシードの分は、弁償しましょう。言って来て下さい」  国枝は、若い者たちへ、「行くぞ」  と、声をかけると、ゆっくり歩き出した。  客たちが左右へ割れて、道ができる。  息子の貞夫の方は、じっと浩志を見ていたが、若い者の一人が、 「坊っちゃん——」  と、声をかけると、 「行くよ」  と、ぶっきら棒に言って、グラスをポンと放り投げた。  グラスの砕ける音が、ドキッとするほど大きく響きわたった。そして、貞夫は父親の後を追って歩いて行く。  ゆかりが体中で息を吐き出すと、両手で顔を覆った……。 トラブル 「すみませんでしたね」  と、西脇は恐縮していた。「まさか、あんなことになるとは」 「いや。でも何ごともなくて良かった」  浩志は、しみのついたタキシードの胸の辺りを見下ろして、「これも別に、僕のもんじゃないですしね」  パーティー会場を出て、ゆかりと浩志はロビーで休んでいた。 「私、怖かった」  と、ゆかりはまだ青ざめている。 「気味の悪い男だったな」 「それだけじゃないわ。どうかしてるわよ。まともじゃない!」 「しかし、あの国枝ってのは、相当の顔役でしてね」  と、西脇が言った。「あんな息子がいたなんて、知らなかった。——いや、全くご迷惑かけて」  大宮が、汗をかきかきやって来た。 「車はもう玄関に回してあります」 「何をぐずぐずしてたんだ」 「すみません。玄関の所に、あの連中がいて、なかなか帰らないもんで、待ってたんです」 「そうか。——ゆかり、時間だ。打ち合わせがある」 「私、行きたくない」  と、ゆかりはソファに身を沈めて、「くたびれちゃった」 「そうはいかないよ。向こうが待ってる」  ゆかりも、行かないわけにいかないことは、よく分かっている。しかし、少しでも遅らせたいのだ。 「行くか」  と、諦めたように立ち上がり、「ね、浩志も行こう」 「僕は明日、会社がある」 「へえ。私より会社の方が大事なの」 「おい、ゆかり。石巻さんを困らせるんじゃない」 「いいんです」  と、浩志は笑って、「じゃ、車までだ。それで手を打つ?」 「許してやる」  と言って、ゆかりは笑った。  そして、浩志の腕にしがみついて、ぶら下がるように歩き出す。 「おい、重いよ。——やめろったら!」  と、浩志は悲鳴を上げた。  ——ホテルの玄関で、西脇はゆかりを先に車へ乗せると、 「色々どうも」  と、礼を言った。 「いえ、アルバイトですからね」 「そうだ。明日、バイト代をアパートへお届けしますよ。タキシードはその子に渡して下さい。夜の方が?」 「夜でなきゃ、いませんよ、普通は」  と、浩志は言ってやった。  ゆかりたちの車を見送って、浩志は一旦パーティー会場へと戻った。  まだ邦子がいるかもしれない、と思ったのである。  パーティーもそろそろ帰る客がいる。ちょうど、その中に原口邦子の姿を見付けた。 「邦子。もう行くのか」 「あら。——だって、これでも三十分遅刻なのよ」  と、邦子は言って、そばの女性に、「ついでにあと五分。ね? 社長さんに内緒よ」  邦子のマネージャーであるその女性は、ちょっと笑って、 「五分よ。五十分じゃなくて」  と、言った。「一本タバコすって来る」  邦子は、浩志を少し離れた所へ引っ張って行くと、 「ゆかり、大丈夫だった?」  と、訊いた。 「ああ。ちょっと怯えてたけど」 「当然でしょ。——怖かったわね、あの人」 「君が来てくれて助かったよ。それを言おうと思って」  邦子は、ちょっと肩をすくめて、 「それが役者よ」  と、言った。「もう社長さんがいなかったしね。カメラマンも、あらかた帰ってたみたい。幸運だったわね」  浩志は、邦子の澄んだ目を、じっと見ていた。邦子は少し頬を赤らめて、 「何よ、ジロジロ見て」 「いや、別に……。本当にさ、三人だけでゆっくり会おう。僕の所でまずきゃ、克子の部屋でもいいし」 「そうね」  邦子は愉しげに、「昔みたいに、キャーキャー騒ぐか」 「たまには必要だよ」  邦子は首を振った。 「必要だから会うんじゃ、仕事の打ち合わせと同じじゃない。意味もなく会うの。それがいいのよ」 「ああ、そうだね」 「克子さん……元気?」 「勝手にやってるさ。あいつは大丈夫」 「たまには会ってる?」 「たまに、ね」 「時々、見に行ってあげないと。しっかりしてるけど、寂しいのよ」  浩志は、少し戸惑った。 「克子が何か言ったのかい?」 「そうじゃなくて……。どっちかっていうと、私は克子さんと似たタイプだから、分かるの。あんなことがあって、とても傷ついてるだろうし……」  浩志は、邦子の優しい笑顔を見ながら、 「君は、もう大丈夫なのか」  と、訊いた。 「私? 私は平気」  と、邦子は腰に手を当てて、バレリーナのように、クルッと回って見せた。「私って得なのよね。見たとこ、神経が繊細でしょ。割と同情を買いやすいタイプ。ゆかりなんかは、いつも明るいイメージだからね。可哀そう」  浩志は微笑んだ。 「そうだな。——君は、ちゃんと自分で目標を決めてる」 「そうよ。それが大切なの。いくら仕事が入って、忙しくても、何か一つずつ挑戦して征服していくんでなきゃ、つまらないじゃない! 今の私には、三神憲二っていう『相手』がいるんだもん。何があろうと、平気」  浩志も、言葉通りに受け取っているわけではないが、こうして自分を励ましている邦子を冷やかす気にはなれない。  ゆかりが、生まれついてのスター(そんな人間がいるとすればだが)だとすると、邦子は生まれながらの役者である。——旧友の前でも、邦子は「幸福」を演じている。  それは見ていていじらしいほど、みごとだった。  女性マネージャーが戻って来て、邦子は、ちょっと浩志の手を握ると、 「じゃあね」 「こっちからも連絡するよ」 「うん。楽しみにしてる」  邦子は、マネージャーと一緒に、急ぎ足で歩いて行った。  浩志は、邦子の姿が見えなくなるまで見送っていたが、やがて、少し疲れが出て来たのか、ウーンと伸びをした。 「帰るか……」  と呟いて、「妙な夜だったな」  首を振って、ちょっと肩をすくめる。  そして浩志は、ホテルの正面玄関へ出るべく、エスカレーターの方へと歩いて行った。  パーティーがどこか他の会場でも終わったらしく、タクシー乗り場は、ズラッと行列ができていた。  この白のタキシード、しかもジュースのしみつき、という格好では、電車で帰るのも気が進まない。仕方なく、浩志は列に並んだ。  待つこと三十分。やっとタクシーに乗ったときには、少し腰が痛くなって来ていた。  どうしようか。——少し迷ってから、浩志は克子のアパートへ寄ることにして、運転手に行き先を告げた。  雨が降り出している。  車のライトの中で、雨が細いクモの糸のように光った。  浩志の乗ったタクシーが出ると、すぐ、玄関前の目立たない位置に停めてあった車が動き出し、タクシーの後について走りだした……。    昼休みになると、浩志はたいてい一人で食事をする。  同僚の多くは、たいてい連れ立って、この近くのソバ屋だの、ランチの安いレストランを捜して行くのだが、浩志は、昼には一人になりたい、と思う方である。  だから、あんまり同じ会社の人間が来ない店を選んで行くのだが、それが裏目に出ることも、ないではない。  時には、部長の一人が、どう見てもただの仲ではない女性と昼食をとっていて、必死でそっちを見ないふりをしてみたり、まさか、と思う課長が、サラ金の取り立て屋らしい男に平身低頭しているのを目撃したり……。  まあ、面白いと言えば確かに面白いが、浩志自身は、他の人間が何をしていようが、あまり関心ないという性格。  今日も、ランチの〈Aコース〉を一人でとっていると……。 「石巻さん」  と、森山こずえがやって来た。 「やあ。珍しいね」 「たぶんここだと思ったの。——座ってもいい?」 「もちろん。もう昼は?」 「すませたわ。——コーヒー下さい」  と頼んでおいて、「もしかしたら、安土ゆかりと待ち合わせかな、と思って」  浩志はドキッとした。 「何の話だい?」 「とぼけたって、だめ。これ、石巻さんじゃないの」  と、森山こずえが見せたのは、スポーツ紙の芸能欄。  もちろん、白のタキシードの浩志が、ゆかりと腕を組んでいる写真が、でかでかとのっている。 「それか。——課長からも言われたよ。似てるな、って。ちゃんと出てるだろ。どこだかの実業家の息子だって」  でたらめな経歴は、大宮がでっち上げたものだ。  名前は単に〈O氏〉となっていた。 「ごまかしてもだめ」  と、こずえが愉しげに言った。「隣の席でいつも仕事してんのよ。分からないと思ってるの?」 「しかし、ちゃんと——」 「それに原口邦子と親しいじゃない。原口邦子は、安土ゆかりと同じ高校の同級生。偶然とは思えないわね」  こずえはぐっと身をのり出して、「どう? 白状したら?」  と、問い詰めて来た。  浩志は、ため息をついた。 「分かったよ……。でも、これは内緒だぜ」 「誓うわ」  と、こずえは胸に手を当てて、大げさに言った。  浩志が、ゆかりの「臨時の恋人」役をやるはめになった事情を説明すると、こずえはコーヒーを飲むのも忘れて、聞き入っていた。 「——大変ね! じゃ石巻さん、本当に、安土ゆかりとも親しいんだ」 「うん……。親しい、ったって、恋人とかってわけじゃない。原口邦子と同じ、話し相手さ」 「でも、面白いじゃない!——その暴力団の顔役って、どんな風だった?」 「いや、それがね……。どうにも——」  浩志がパーティーでの出来事を話すと、森山こずえは真顔になった。 「怖いわね。スターってのも、楽じゃないのね」  と、首を振って、言った。 「僕はどうってことないけど、ゆかりみたいに、いつも人の目にさらされてる人間は可哀そうだよ」  こずえが、ちょっと笑った。 「何かおかしい?」 「だって——石巻さんって、本当にやさしいんだなあ、と思って」 「どうかな……」  浩志は曖昧に言った。「こういう役割が、性に合ってるのさ」 「その内、どっちかの子と恋愛関係にはならないの?」 「無理だろうね。二人とも、昔からよく知りすぎてるからな」  コーヒーを飲み終えて、「行こうか」  と、浩志は立ち上がった。 「コーヒー代、いいの? ごちそうさま」  こずえと二人で、会社のビルへと戻って行く。 「このこと、秘密だぜ」  と、ビルへ入る前に、浩志は念を押した。  しかし、それはむだなことだったのだ……。 「——石巻さん」  と、受付の子が、青い顔でやって来た。 「何だい?」 「お客様なの。あの——」 「何か苦情?」 「そんなんじゃなくて……」  と、受付の子が、指で頬にスッと線を引いた。  ヤクザ? まさか!  しかし、実際、受付に立っている二人の男は、一見してそれと分かる風体だった。 「——何かご用ですか?」  と、浩志は言った。 「国枝さんの坊っちゃんからの伝言でね」  と、一人が言った。 「誰のことです?」 「とぼけてもだめさ」  と、その男は笑った。「ちゃんと、あんたの後をつけたんだ。アパートもつき止めてあるよ」  時間がまずかった。  ちょうど昼休みの終わりの時間、ゾロゾロと同僚や上司がエレベーターを出て来る。一見してヤクザと分かる男たちと浩志が話しているのを、目に止めない人間は、一人もいなかった。 「迷惑ですね」  と、浩志は、できるだけ落ちついた口調で言った。「こっちは普通の勤め人ですよ」 「実業家の坊っちゃんじゃなかったのかい?」  と、ヤクザの一人が笑って言った。「ま、それはそれとして……。ともかく、坊っちゃんはあの娘に惚れていなさるんだ。あんたは一切手を引けってよ」 「無茶な言いがかりだ」 「無茶は承知さ。それを通すのが、俺たちの商売だ」  と、相手はニヤついている。「あの坊っちゃんはな、こうと思い込んだらしつこいんだぜ。ま、悪いことは言わねえよ。あの娘から手を引くこった」  浩志は、男たちが、わざとらしく肩を揺すって帰って行くのを、じっと見送っていた。その仕草は、ふき出したくなるほどこっけいだったが、もちろん笑っていられる場合ではない。 「石巻さん……」  と、そばで見ていた、森山こずえが言った。 「まずいことになった」  と、浩志は首を振った。「ちょっと電話をかけて来る。すぐ戻るよ」 「分かったわ」  浩志は一階へ下りると、公衆電話で西脇へ電話をかけた。  しかし、西脇はどこだかロケの現場へ出向いていて、今日は戻らない、という。  ゆかりの居場所、と思ったが、向こうもすぐにはつかめないらしい。 「じゃ、連絡がついたら、大至急電話をくれと——。マネージャーの方でもいいですから。——そう、石巻あてに」  電話を終えて、エレベーターに乗ると、浩志はフーッと息をついた。  ゆかりもとんでもない奴に惚れられたもんだ。しかも、向こうは浩志のアパートまで、ちゃんと知っている。  浩志は、ゆかりの身が心配だった。ああいう手合いは、どんな乱暴な手段をとるかもしれない。 「——呑気だな」  と、浩志は苦笑した。  それこそ、自分のクビの方を心配しなくちゃならないかもしれない、というのに。  席へ戻ると、こずえが、 「早速部長がお呼び」  と、低い声で言った。「空いてる会議室へ来いって」  浩志は、結局、椅子にかける間もなかった。  部長の風間は、仏頂面で浩志を待ち受けていた。  もともと、いつも胃の具合が悪いと言ってこぼしている男である。 「おい、どういうことなんだ」  と、口を開くなり言った。 「色々複雑でして」  と、浩志は言った。「スポーツ紙の記事をご覧になりましたか」 「ああ。——あれはお前なのか?」  と、風間はメガネを直した。 「実は、頼まれて、あの役を引き受けたんです」  ここは正直に話すしかない。  浩志は、ゆかりと同郷で、昔なじみであることから、あのパーティーでの出来事まで、かいつまんで話した。  風間は呆気にとられている様子で、 「TVドラマみたいな話だな!」 「ドラマなら楽ですが、これは現実のことなんです」  と、浩志は言った。「会社にご迷惑をおかけするようなことはないと思いますが……」 「いや、俺はまた、お前がサラ金で、借金でもこしらえたかと思ったんだ」  と、風間は言った。「大変じゃないか、お前も」 「はあ……。しかし、ゆかりの方が心配です」 「『ゆかり』か。——そんな旧友がいたとはな」 「お騒がせして、申し訳ありません」  浩志は、立ち上がって、「もう戻っていいでしょうか」 「ああ、構わん」  ホッとして、退出しようとする浩志へ、 「おい、石巻」  と、風間が声をかけた。 「は?」 「今度……もし、その——ゆかりさんに会うことがあったらだな、一つ、サインをもらってくれるか」  浩志は、風間が少年のように真っ赤になっているのを見て、おかしくなった。 「頼んどきます」 「ああ。ついででいいからな」  ——席へ戻って、浩志は、仕事にとりかかった。  しかし、どうにも落ちつかない。ゆかりは大丈夫だろうか?  電話が鳴って、急いで出てみると、マネージャーの大宮からだった。 「良かった! ゆかりは、今、一緒ですか?」 「ええ。鎌倉で、グラビアの撮影がありましてね。どうかしましたか」  浩志の話で、きっと大宮は真っ青になっていただろう。すぐ社長へ連絡する、と言った。  浩志はとりあえずホッとしたが、社内に自分とゆかりのことが知れ渡ったことは、間違いなかった。 プレゼント  夜中の電話というやつに、浩志はすっかり慣れてしまっている。  普通、サラリーマンは夜中に電話をもらうことなど、めったにないものだ。しかし、浩志の場合は別である。安土ゆかりのような友人があると、夜も昼もない。 「浩志?」 「ああ。——ゆかりか。どうしたんだ?」  浩志の会社に、国枝の息子、貞夫に言いつかったヤクザたちがやって来てから、三日たつ。今、西脇が父親の国枝定治(という名前なのだそうだ)に会うべく、駆け回っているという話だった。 「ごめんね。もう寝てた?」  夜中の三時だ。浩志は笑って、 「構わないさ。どうだい、そっちは」 「社長さん、まだあの大物に会えずにいるみたい。結構大変なのね、社長って」 「呑気なこと言うなよ。君なんだぞ、向こうの狙いは。何も言って来ない?」 「うん……。でもね……」  と、ゆかりは困っている様子だ。 「どうかしたのか?」 「毎日、凄いお花が届くの。並の大きさじゃないのよ。何万円するのか、見当つかない」 「例の息子からか」 「送り主の名前は全然違うけど、それしか考えられないでしょ。カードも何もついてないのよ」  やることが、どこかまともでない。それは力ずくでおどされるより、却ってゾッとさせるものだった。 「それでね」  と、ゆかりは続けて、「どこにも公表してない、このマンションに送って来てるのよ。どこで調べたのか分かんないけど」 「ああいう手合いは、色々コネを持ってるからな」 「大宮さんが心配して、下のロビーに泊まり込んでる」  マネージャーも楽じゃない。浩志は、あの太った男に同情した。 「でも——ごめんね、浩志。私のせいで」  と、ゆかりは言った。 「何だ、ゆかりらしくないじゃないか」  と、浩志は笑って言った。 「あ、ひどいこと言って! いつも、そんなに偉そうにしてる?」 「してるさ」 「そうか。——ま、そうかな、やっぱり」  と、ゆかりも自分で納得している。「ね、邦子とは、会ってる?」  浩志は、ちょっと戸惑った。 「この間、パーティーのときに会ったきりさ。どうして?」 「忙しい……かな」 「何か用なら、連絡しようか」  ゆかりは、いつになく遠慮がちな様子だった。 「私のね、今度出るスペシャルドラマのことなんだけど」 「この間ロケした?」 「あれじゃないの。あれはもうすんだから」  と、ゆかりは少し言葉に弾みをつけるように言った。「次のドラマ。今度は青春もので、一応主役なんだけど」 「やるじゃないか」 「その中に、ちょっと難しい役があってね。キャスティングでもめてるの。脇で、そう沢山出番があるわけじゃないけど、お芝居、うまい人じゃないと無理なの。もし——邦子がやってくれたら、と思って」  ゆかりは、ちょっとためらいがちに言った。 「私、推薦してみようかと思ってるんだけど、邦子……気悪くするかな」  ゆかりも、気をつかっている。何といっても、自分が主役。脇に親友を使うというのは、気がひけるのだろう。  しかし、浩志は、ゆかりのそんな気のつかい方が嬉しい。昔ながらのゆかりが、ちゃんと残っているからだ。 「主役が君だからって、そんなことは気にしないと思うよ。むしろ、邦子も映画にかかってるからな。スケジュールの方が問題だろう。話してみたら?」 「私から言うと……何かいやなの。だって、邦子の方が全然うまいのにさ。——ね、浩志から訊いてみて。やる気があるか、だけでも。ね?」 「いいよ。じゃ、もっと細かいことを」  浩志は、ゆかりの読み上げるデータをメモした。 「たぶん、邦子はNG少ないから、三日もあればすむと思うんだけど」 「分かった。じゃ、当人がやると言ったら、そっちへ連絡するよ」 「ありがとう! 浩志って大変だね、マネージャーまでやらされて」 「誰のせいだ?」  と、浩志は笑った。「ともかく、気を付けて」 「うん。——ね、浩志」 「何だい?」 「この前のパーティー、あんなことはあったけどさ、楽しかったよ。浩志と腕組んで歩いたのなんて、初めてじゃない」 「そうだな」  少し間があって、ゆかりが訊いて来た。 「浩志……恋人、いるの?」 「え?」 「好きな人。会社の女の人とかで」 「残念ながらデートする間もなくてね。君が色々用を言いつけてくれるもんだから」 「あら、それはごめんなさい」  ゆかりは少しおどけて言ってから、真面目な口調になった。「私……浩志がいなきゃ、とても今までやって来れなかった。ありがたい、と思ってるのよ」  ゆかりが、そんな言い方をするのは、珍しい。  疲れているのかもしれないな、と浩志は思った。いくら若くて元気といっても、睡眠三、四時間で頑張る日が、ずっと続くことも珍しくない。  時には、誰かに甘えてみたい、と思うだろう。 「信じてないの?」  と、ゆかりが言った。 「そんなことないさ」  浩志は受話器を持ち直して、「僕にとっちゃ、ゆかりはいつまでも高校生のままだ」 「じゃあ……今度会うときは、セーラー服、着てってあげようか。浩志、そういう趣味なの?」 「馬鹿言え」  ゆかりが笑った。いつもの明るい笑い声である。 「——ね、浩志。ときどき考えるんだけどさ」 「何だい?」 「もし、私と邦子が、二人ともこんな風に芸能界に入んないでさ、高校出てから、あの町で就職して、働いてたとしたら……。浩志は、どうした?」 「どうした、って?」 「つまり……東京へ出て行かないで、ずっとあそこにいたかな、と思って」 「それはどうかな」  寝たまま、受話器を手にして、浩志は暗い天井を見上げていた。「うちがあんなことにならなきゃ、いたかもしれないけどね」 「もし、いたとして、浩志……私か邦子か、どっちかと結婚してた?」  浩志は、ハッと胸をつかれた。予想もしない質問だったのだ。 「——ゆかり」 「ごめん、変なこと言って」  と、ゆかりが急いで言った。「気にしないで。別に本気で訊いたわけじゃないの」 「現実には、君は大スターだ。邦子だって、一人前の役者だ。そうだろ?」 「うん。ごめんね、こんな電話で起こしたりして」 「いいんだよ」  浩志は、やさしい声で言った。「いつでも何でも聞いてあげる。それが僕の役目だからな」 「ありがとう、浩志」  と、ゆかりは言った。「もう寝るわ。明日、結構早いの」 「そう。体をこわすなよ。それから、何かあったら、遠慮せずに言えよ」 「うん。——おやすみ、浩志」 「おやすみ」  浩志は、向こうが切ったら切ろうと思って、じっと耳を澄ましていた。  ゆかりの方で切るまでに、ずいぶん長く、沈黙の時間があった……。    浩志がゆかりからの電話で起こされていたころ、妹の克子の方も、電話が鳴っているのを、夢うつつで聞いていた。  しかし、例によって、克子の所の電話は毛布と座布団で「厚着」していたので、電話のベルは、ぐっすり眠り込んでいる克子を叩き起こすには至らなかった。  やがて電話の方も諦めたのか、静かになったのだが……。  それから一時間ほどして、克子のアパートの前にタクシーが停まった。——やがて、ガタン、ガタン、と階段が鳴って、靴音が克子の部屋の前までやって来る。  ドンドン。——ドンドン。  玄関のドアを、これほどの勢いで叩かれたら、いくら克子でも目が覚める。 「誰?」  克子は腹立たしげに声を上げて、「そんなに叩かないで」  起き上がって、明かりを点ける。何と、午前四時!  一体誰だ! 酔っ払いが、間違ってドアを叩いたのなら、バケツの水でもぶっかけてやる。  いささか過激なことを考えながら、克子は玄関の方へ出て行った。 「どなたですか?」  一応、ていねいな口をきいたのは、習性みたいなものだ。 「早く開けろ」  不機嫌な男の太い声が、ドア越しに聞こえると、克子の顔から、スッと血のけがひいた。  まさか!  チェーンを外し、鍵をあけて、ドアをそっと細く開く。 「やっと起きたのか」  と、その男はドアをぐいと開き、克子を押しのけるようにして、中へ入って来た。  重そうなコートをはおって、古ぼけたスーツケースをドサッと上がり口に置く。 「散々捜したぞ。タクシー代をべらぼうに取られた」  と、靴を脱いで上がり込む。  唖然としていた克子は、やっと我に返って言った。 「お父さん! どうしたっていうのよ、こんな時間に」 「腹が減ってるんだ。何かないのか」  と、頭の薄くなったその男は、ドカッとあぐらをかいた。 「何か、って……」  克子はドアの鍵をかけると、「いつ、東京に出て来たの?」 「今夜だ。——いや、ゆうべかな。もう朝だから。どこか一晩はホテルにと思ったんだが、どこがいいかも分からんしな。住所をタクシーの運転手に見せて、捜して来た」  克子は、石巻将司——自分の父親の、老け込んだ姿を、幻かと疑いつつ、眺めていた。  克子は独り住まいである。外で食べることが多くなるから、急に何か食べるものがないかと言われても、困ってしまう。  結局、着替えをして、近所の二十四時間営業のコンビニエンスストアへ走ることになった。カツ丼の弁当を、電子レンジであたためてもらい、買って帰ると、父親はアッという間に平らげた。 「呆れた。欠食児童ね、まるで」  克子はお茶をいれてやりながら、「どういうことなのよ」  と、訊いた。  しかし、石巻将司はそれには答えず、 「汗くさくていかん。風呂を入れてくれ」  と言い出した。 「ええ?——午前五時よ。ご近所が迷惑するわ」 「何だ、朝の五時に風呂へ入っちゃいかんという法律でもあるのか」 「そうじゃないけど……」 「じゃ、湯を入れろ。気持ち悪くて、寝られん」  石巻将司は部屋の中を見回して、「酒はないのか」 「飲まないの。だめよ。買って来てあげない」 「分かったよ。ともかく風呂だけは入りたい」  克子は、ため息をついて、 「明日、下と両隣に謝っとかなくちゃ」  と言うと、風呂にお湯を入れに立った。  できるだけ音がしないように、浴槽のビニールのふたを、蛇口の下に斜めに置いて、お湯を少し細めに出した。 「——少し待って」  と、克子は父の前に座ると、「話してよ。何があったの?」 「どうってことはない。家を出たくなっただけだ」  と、石巻将司は言った。 「出たくなった、って……。どうしたの、一体? 法子さん、知ってるの、お父さんがここへ来てること」 「言う必要もない。何も小さなガキじゃないんだ」 「だって、奥さんでしょう。黙って出て来たのね」 「うるさいな」  と、顔をしかめて、「布団を敷いてくれ。もう寝る」 「客用の布団は、冷たいわよ。長いこと、干してないから」 「構わん」 「お風呂へ入るんでしょう? じゃ、その間に敷いとくわ」 「入って来る」  と、父が立ち上がるのを見て、 「まだ入ってないわよ、お湯が」  と、克子は言った。 「入ってる内に、湯もたまるさ」  と言って、石巻将司は、さっさと服を脱ぎ出した。  克子も、諦めて口をつぐんでしまった。  たぶん、今夜は何を訊いても、返事をしてくれないだろう。もともと、父は頑固で、わがままな性格である。  父が風呂へ入り、派手に水音をたて始めると、克子は胸に手を当てた。——本当に、下の部屋の人から何と言われるか!  それにしても、もう朝の五時を回っている。どうせ、自分は眠れない、と諦めた。  しかし、なぜ父が家を出て来てしまったのだろう? 出て来る、といっても、家は父のものなのである。  もし夫婦喧嘩をしたとしても、何も父が家を出て東京までやって来なくても良さそうなものだ。 「——とんでもないことになったわ」  と、克子は呟いた。  風呂場で、手桶を落っことす音がして、克子は寿命が一年は縮まる思いだった……。   「石巻さん」  と、森山こずえが受話器を置いて、「お客様」 「誰だい?」  と、浩志は仕事の手を休めずに言った。 「国枝さん、ですって」  こずえは、色々と浩志から事情も聞いて知っている。  浩志は、チラッとこずえを見て、肯くと、 「これ、悪いけど、精算しといてくれるかな」 「OK。生きて帰って来てね」 「よせやい」  浩志は顔をしかめた。「受付?」 「一階のロビーにいるって」  浩志がいくらゆかりのために力を尽くす気だといっても、やはり殴られりゃ痛いし、刺されりゃもっと痛いだろう。  エレベーターへ向かう足どりは、重かった。  一階に降りて、ロビーへ出てみると、父親の方、国枝定治が、二人の男を従えて立っていた。 「やあ、石巻さんだったね」  と、愛想がいい。 「どうも」  と、浩志は会釈をした。 「息子が、色々迷惑をかけたようで、すまないね。いや、あいつには、つい甘くして来たんだ。まあ、勘弁してやってくれ」 「はあ……」 「しかし、あいつは本気で、例の娘を好いとるんだよ」 「ゆかりのことですか」 「そう。父親として、息子には幸せになってほしいと思うのは当然だ。そうだろう?」  浩志は何とも言わずに立っていた。  国枝のような男は、言い返されたりするのに慣れていない。自分の言うことは絶対だ。  だから、相手が返事をしなくても、一向に構やしないのである。 「貞夫は、小さいころから神経質な子でね、私としても気をつかって育てて来た。あの子は、内気なせいで、なかなか女性と付き合うってことができないんだよ」  と、国枝は言った。  単にわがままで、子供じみてるだけじゃないんですか、と浩志は、もちろん心の中だけで言った。 「まあ、君としては色々複雑な気持ちだろう。しかし、ここは一つ、私を助けると思って、息子のことには目をつぶってくれないかね」  国枝の言い方は、「お願いする」という風に聞こえながら、拒否することを許さない威圧感に溢れていた。 「おっしゃることがよく分からないんですが」  と、浩志は、慎重に言葉を選びながら、「息子さんが、ゆかりと付き合いたいと思われるなら、そう当人に申し込まれたらいかがですか。普通のやり方で」  国枝は、ふっと笑みを浮かべた。それは、まるで毒蛇の笑みだった。 「私はね、何でも望むものは手に入れて来た。——息子にも、ほしいものを手に入れさせてやりたい」 「ゆかりは品物じゃなく、人間です」  浩志の言葉を聞いて、国枝の後ろに立っていた二人の男が、スッと浩志のそばへ寄って来た。——浩志の心臓は、飛び出しそうなほど高鳴った。 「もちろん、私も安土ゆかりさんの気持ちは充分に尊重するつもりだよ」  と、国枝は言った。 「そうしていただけると、嬉しいですね」  こういう連中の言う「尊重」がどんなものか、大方の察しはつく。 「君としては、大切な恋人を失うことになるかもしれん。そこで、先日の失礼をお詫びする意味でね、君にプレゼントを持って来た」 「そんなお気づかいは——」 「いや、ぜひとも受け取ってほしい」  国枝は、「来たまえ」  と、浩志を促した。  仕方なく、ビルの表に出る。  国枝が乗って来たのだろう、目をみはるような大型の外車、そして、真新しいスポーツカーが一台、その後ろに停まっていた。 「あの真っ赤な車は君のものだ」  国枝は、浩志の手をとると、その上に車のキーを置いた。「気持ちよく受け取ってくれて嬉しいよ」  浩志は、国枝を乗せた車が走り去って行くと、汗が一度にふき出して来るのを感じた。 悩みの季節  すぐには席に戻れなかった。  浩志は、喫茶室でコーヒーを一杯飲んで、気持ちを落ちつけなくてはならなかった。  このことを、すぐ西脇へ連絡しておかなくては。ゆかりの身辺を、もっと用心する必要もあるだろう。  それにしても……。浩志は、テーブルに、国枝が無理やり握らせて行った車のキーを置いて、ため息をついた。  たぶん、一千万は下らない外国のスポーツカーである。国枝としては、これを「受け取った」ことで、今後、浩志に、 「一切口を出すな」  と、因果を含めたというわけだ。  もちろん、あんなものを受け取るわけにはいかない。しかしあの場で、 「いらない」  などと言おうものなら、あの二人に何をされたか。  といって、あの車をどうやって返せばいいものやら、見当もつかない。浩志は、コーヒーを飲み干すと、重苦しい気分で、立ち上がった……。  ——席へ戻ると、森山こずえが、 「ね、妹さんから電話よ。急用ですって」  と、ちょうど受話器を差し出した。 「ありがとう……」  フーッとともかく息をついてから、「もしもし。克子か。どうした?——何だって?」  浩志は、会社にいることも忘れて、大声を出してしまった。 「お父さんが来たの」  と、克子はくり返した。「夜中の四時よ。もうクタクタ」 「しかし……どうして?」 「何も言わないの。ともかく、今日帰りに寄ってよ」 「分かった。——向こうに連絡は?」 「必要ないって言うの。ともかくこっちも、大迷惑。夜中にお風呂へ入られて、今朝、下の部屋の人に散々文句言われたわ」 「そうか……。分かった。今、親父は?」 「私のとこよ。たぶん寝てるでしょ」  克子はそう言って、「もう切るね。仕事中に私用電話してるとうるさいの」 「ああ。じゃあ、今夜な」  浩志は、何だか急にぐったり疲れが出て、しばらくは、仕事が手に付かなかった……。    昼休みになって、浩志は、いつものレストランへ行くと、一人でランチを食べて、やっと気をとり直した。  父親の上京。——思ってもみない出来事である。  父親とは、もう何年も会っていない。  思い出すだけで、浩志の胸は小さく痛む。——苦い、あの日々のことで。  いや、思い出したくない。  浩志は首を振った。ちょうど食後のコーヒーを運んで来たウエイトレスが、 「どうかしました?」  と、訊いた。 「あ、いや——何でもないんです」  浩志は、あわてて、目の前に置かれたコーヒーをガブッと飲んで、熱さに目を白黒させた。  ウエイトレスが戻って行って、声を必死に押し殺して笑っているのが聞こえて来る……。  まあいい。俺はいつも「笑われ役」で、それが似合ってるんだ。  それにしても……。一体何があったんだろう?  父が東京へ出て来た。子供たちに会いたくなって、というわけじゃないだろう。そんな殊勝な人間ではない。  財布に、もらいもののテレホンカードが入っている。浩志は、レストランの入り口近くの公衆電話を使うことにした。  かけると、すぐに向こうが出た。 「石巻でございます」  言葉を出すのに、少し努力が必要だった。 「法子さんですね。浩志です」 「あら、どうも。お電話してみようと思ってたんですよ」  いかにも愛想のいいしゃべり方。しかし、その裏には、何とも言えない冷ややかさが、透けて見える。 「父と、何かあったんですか」 「お父様、そっちへ行ったんでしょ?」 「ええ、ゆうべ——というより、今朝早くやって来て。何も言わないんです。一体どうしたんですか」 「お父様から、直接お聞きになったら?」  と、法子は至って冷静である。 「あなたは父の奥さんじゃありませんか。心配してなかったんですか」 「もちろん、してましたわ。でもね、こんな町で、警察に捜索願なんか出したら、アッという間に町中の噂になってしまうでしょ。たぶん、浩志さんか克子さんの所だと思ってましたから。克子さんの所へお電話したんですけど、どなたも出られなくて」 「妹も仕事があるんです」 「それは承知してますわ。じゃ、浩志さんの所にいるんですね、あの人」 「ええ」  浩志は、克子に負担をかけたくなかったのである。仕事で疲れている所へ、父親が転がり込み、その妻とやり合わなくてはならないのでは可哀そうだ。 「父を迎えに来てくれませんか。こっちも一人暮らしで、とても父の面倒はみられません」 「あら。でも、当人はどうしたいって、言ってます?」 「ずっと眠ってて、話してません」  と、浩志は言い返した。「だから、お電話してるんじゃないですか」 「あの人も子供じゃないんですから」  法子の言い方は、突き放すようだった。「本人が帰りたくないと言えば、無理に連れては帰れません」 「しかし、自分の家ですよ」 「ともかく、夜にでも、またご連絡しますわ。それともかけて下さる?」 「かけましょう、こっちから」  と、浩志は冷ややかに言った。 「助かるわ。電話代も馬鹿になりませんからね」  と、法子は言った。「浩志さん」 「何ですか」 「まだ結婚されないの?」  答える気にもなれなかった。 「もう切ります。仕事があるので」  浩志は、向こうの言葉を待たずに、受話器を置いた。  頭に血が上っている。——むしょうに、誰かと話したかった。心を許せる誰かと。  ゆかりは無理だろう。ふと、ゆかりから頼まれていたことを、浩志は思い出した。  邦子の事務所へかけてみる。 「はい、〈××事務所〉です」  出た声に、浩志はびっくりした。 「邦子か?」 「あ、浩志?——わあ、嬉しい」 「何してんだ?」 「ちょうど誰もいなくってね。お留守番してたの。浩志のこと、考えてたんだよ」 「へえ、光栄だな」  浩志は、やっと気持ちが軽くなるのを感じた。「今夜、ちょっと会えないか」 「いいけど……。夜中の生番組があるの。TVの深夜もの。馬鹿話ばっかりしてるのを、そばで黙って聞いてりゃいい、って役」 「そんなに遅くはならないよ」 「あら残念。ホテルにでも誘ってくれるかなと思ったのに」 「ホテルでアイスクリームでもどうだい?」 「甘い話をしようってわけね? OK。どこで?」  時間と場所を決めて、切ろうとすると、 「浩志。私ね、オペラの先生について、声楽始めたの」 「へえ」 「お腹から声が出るようになるし、セリフがよく聞きとれるようになるからって。その内、凄いソプラノの声、聞かしてやるね」 「僕のアパートじゃ、やめてくれよ。近所が仰天して飛び出して来る。悲鳴だと思って」 「失礼ね!」  と、邦子は笑った。「じゃ、後でね」 「うん。留守番、しっかり」  邦子となら、本当に気軽にしゃべれる。打てば響くように、邦子は言葉を返して来るのだ。  その点、ゆかりはそこまで頭の回転が早くない。——それが個性というものだろう。    邦子は、たいてい約束の時間に遅れることなく、やって来る。  もちろん、前に仕事が入っていて長引くと、遅れることもあるが、その点、ゆかりはもっとひどい。二人のスケジュールの詰まり方は、天と地ほどの差がある。  こと、「スター」というものは、売れるか売れないかのどっちかで、「ほどほど」ということはないものなのである。 「やあ」  邦子は、大きなバッグを肩から下げて、元気よくやって来た。 「何か食べるか?」 「そうね。焼き肉でもどう?」 「ちょっとやかましいが、まあいいか」  と、浩志は立ち上がって言った。  ——小柄ながら、邦子はよく食べる。  毎日のレッスンで、体力も使っているのだろう。この日も、邦子は浩志よりはるかによく食べた。 「どうなったの、ゆかりの方?」  と、ビールを飲みながら、邦子は訊いた。 「真っ赤なスポーツカー」 「何、それ?」  ジュージューと肉の焼ける音の中で話すと、何だかいかにも間が抜けて聞こえた。 「——へえ、呆れた。凄いことやるのね。で、その車、どうするの?」 「うん……。困ってる。何かいい手、ないか?」 「そうねえ……」 「ずっと会社の前に置いときゃ、誰かが盗んでくかな」 「だめよ。『俺のやった車を盗まれたのか』って、怒るわよ、きっと」 「そうか」  邦子が、肯いて、 「何かいいアイデア、ひねり出して、連絡してあげる」 「頼むよ」  と、浩志は、息をついて、「腹一杯だ! そうそう。肝心の話を忘れるところだった」 「何?」 「ゆかりから頼まれたんだ。君に訊いてみてくれって」 「ゆかりから?」  浩志は、スペシャルドラマの話を伝えた。ゆかりが、自分の主役のドラマなので、気にしているということも、説明した。 「ゆかりったら」  邦子は、ちょっと笑って、「変に気つかって」 「どうだい? スケジュールもあるだろうけど」  浩志の渡したメモを、邦子は見ていたが、 「うん。やれると思うよ」  と、肯いた。 「そうか。きっとゆかりも喜ぶよ」 「二人のからみ、あるのかなあ」  と、邦子は言った。  そういえば、邦子とゆかりが、一緒に仕事をしたことはないはずだ。  もともと、ゆかりはアイドル路線、邦子は純粋に役者としての道を歩いているから、出会うことも少なかったのである。 「台本もらって、読んでみる」  と、邦子は言った。「どこへ連絡すればいいの?」 「僕がゆかりの方へ伝えて、そっちの事務所へ知らせるよ」 「分かった」  邦子は肯いた。「例の巨匠がね、前の仕事のびてて、こっちのクランク・イン、遅れそうなの」 「三神憲二かい?」 「そう。撮り終えたシーンの色がどうしても気に入らないって、一回ばらしたセットをもう一度組み立ててるみたい。大変よね、スタッフも」 「そこが巨匠らしいところなんだろうな」 「でも——それがあんまり長引くと、こっちの仕事に影響が出ちゃうし。苛々してても仕方ないしなあ、とか思ってたの」  邦子としては、これが一つの転機になると思っているから、万が一、企画が流れたりしたら、と不安なのだろう。 「でも、大丈夫だろ。——もう、食べない?」 「お腹一杯! ごちそうさま。浩志、食べてよ」  焼き肉の、皿に残った二、三きれを、網にのせる。——脂身が炎を上げて燃えた。 「何か仕事が入ってる方が、気が紛れていいや。ゆかりとも会えるかもしれないしね」  と、邦子は少し無理な笑顔を作った。 「二人の出番があったら、見学に行くかな」 「やめてよ。あがっちゃってNG出しちゃう」  と、邦子は笑った。 「君はNGが少ないんだろ」 「そうね……。大した役じゃない、ってこともあるけど、全然セリフの入ってない人とか、いるからね。主役でよ。信じらんない。で、NG出して、キャッキャ喜んでる」  と、邦子は首を振った。  確かに妙な世の中だ、と浩志は思う。TVで「NG特集」なんて番組があるのだから。普通だったら、失敗したところなど、恥ずかしくて人に見せたくないだろうに、却って「NGの方が面白い」なんて言われたりするのだ。 「そりゃ、現場で色々ハプニングはあるけどね。セリフ忘れたり、とちったりするのはそういうんじゃないでしょ。役者の最低限の義務よね。NG出したら、恥ずかしい、と思わなくちゃ」  邦子はゆっくりビールを飲み干して、「でも、こういうこと言ってんのが、古いのかな」  と、息をついた。 「いや、邦子みたいな考え方してる役者が、もっといなきゃいけないんだと思うよ」  と、浩志は言った。 「三神憲二のときは大変らしいの。撮影前に全部セリフが入ってるのは当たり前、って雰囲気だって。でも、やる気出るな、そういうのって」  邦子の目に輝きがある。  ——この邦子の夢を潰したくない、と浩志は心から思った……。    邦子を事務所まで送って、浩志は克子のアパートへと足を向けた。  気は重いが、やむをえない。克子ももう帰っているだろう。早く行ってやらなくては。  ——アパートの部屋は明かりが点いていた。  ドアの前に立つと、すぐドアが開いた。 「ごめんね、無理言って」  克子はジーパン姿で、「入って」  と、促した。 「親父は?」  上がってみて、浩志は言った。 「タバコ買いに行ってる。私が、自分で行けって言ってやったの」 「そうか」  浩志は、畳の上にあぐらをかいた。「何か言ったか?」 「全然。お兄さんが来てから、と思って」 「一応電話してみたんだ、昼間」 「法子さん? 何だって?」 「まるでらちがあかないよ。親父がいなくなったことも、大して気にしてないようだった」 「もともとそういう人じゃない」 「しかしなあ……。親父をずっとこっちへ置いとくわけにはいかないし」 「三、四日ならともかく、ずっとなんて、ごめんよ、私」  と、克子は言った。「それに、ここの契約に違反することになる。私まで追い出されちゃうわよ」 「よく話してみよう。ともかく、自分の家があるんだから——」  ドタドタと階段を上って来る足音がした。克子はため息をついて、 「あれだもんね。注意すりゃ怒るし」 「ちっとも変わってないな」  と、浩志は苦笑した。  ドアが開いて、父親が入って来た。 「浩志か。——遅かったな」  ずいぶん老けた、と浩志は思った。 「仕事があったんだ。どうしたのさ、一体?」  石巻将司は、畳にゴロッと横になると、 「おい、灰皿」  と、言った。 「どこかへしまい込んじゃったわよ。——いいわ、このもらいもんの小皿、使って」  石巻将司は百円ライターでタバコに火をつけると、うまそうに煙を吐き出した。 「説明してよ、父さん」  と、浩志は言った。「何があったんだ」  石巻将司は、しばらく黙ってタバコをふかしていたが、 「法子の奴から聞け」  と、言った。 「電話してみたよ。でも、父さんから聞いてくれってさ」 「そう言ったのか、あいつ」  と、父親はちょっと笑った。 「——夫婦喧嘩?」  と、克子が言った。「それにしちゃ大げさね。家出して来ちゃうなんて」 「あいつとは別れた」  浩志と克子は顔を見合わせた。 「父さん、別れたって……正式に離婚したのか?」 「それはまだだ。手間もかかるしな。ともかく、出て来たんだ」 「別れるにしても、どうしてお父さんが出て来るわけ?」  と、克子が言った。「法子さんが実家へ戻るのが普通でしょ」 「もう俺の家じゃない」  と、石巻将司は言った。 「どういう意味だい?」 「借金の担保になって、とられた」  浩志と克子は、しばし唖然として、言葉もなかった。 「借金って……。何に金をつかったのさ?」 「憶えてるだろう、法子の弟の——株屋をやってた奴」 「ああ。何だか得体の知れない人だった」 「あいつがな、話を持って来たんだ。儲け話がある、と言って。ぜひ投資してくれ、と」 「儲け話?」 「山一つ、いい石が採れるといって、買わないか、というんだ。東京の採石業者が目をつけてる。今なら、安く買える。一年もすりゃ五、六倍で売れる、と……。法子の奴も、ぜひ買いなさいよ、と言ってすすめたんで……」 「馬鹿だな! そんなうまい話、あるわけないじゃないか」 「今思えばな。しかし、あのときは、本当らしかったんだ。町長とも親しいって不動産業者が、間に入ってたし。——ともかく、それで家、土地も担保に入れて金を借りた。山は買ったが、何の値打ちもなかった」 「それで……。何もかも?」 「ああ。——後で分かった。金を貸してくれた金融業者も、その不動産屋も、法子の弟の仲間だったんだ」  克子は、顔から血の気がひいた。 「じゃ……法子さんが仕組んで……」 「あいつ、男ができてたんだ。若い男が。そいつが、法子の弟たちとグルになって……」 「何てことだ!」  浩志は、思わず呟いた。父親は、他人ごとのように話しながら、タバコをすっていた。 過去の傷あと  会社のビルの前には、まだあの赤いスポーツカーが停まっていた。昼ごろ出社して来た石巻浩志は、その車を見て、ちょっと顔をしかめた。車のキーは、ポケットに入っている。  いつまでも、こうしてここに置いておくわけにはいかないだろうが、といって一度でも運転してしまったら、国枝のこの「贈りもの」を受け取ってしまうことになる、という気がして、いやだったのだ。  どうしたものか。困ることがいくつも重なって来る。人生というのは、こんなものかもしれない。  ——オフィスへ入ると、昼休みで、中はガランとしている。浩志は、遅刻届の用紙をとって、席についた。  電話が鳴って出ると、 「お兄さん?」  と、克子の声。 「やあ。今、来たんだ。親父は?」 「出て来るときは寝てた。ゆうべ、外へ出て、自動販売機で——」 「酒か」 「うん。部屋の中が酒くさくって。いやなの。今夜は帰らないかもしれない」 「おい、克子。——大変なのは分かるけどな。俺の所へ来させようか」 「同じことよ。どうだった、話?」  浩志は、今日、午前中に、大学時代の友人が勤める弁護士事務所へ行って来た。父の家と土地の件で、相談してみたのである。  もちろん、浩志の側としては、父の話しか聞いていないわけで、書類もないわけだから、あくまで仮定の話しかできなかったのだが、その友人は、 「よっぽど書類に不備でもない限り、むずかしいな、裁判に持ち込んでも」  と、言った。「それに、向こうは親父さんを追い出したわけじゃない。勝手に出て来ちまったんだろ?」  それは確かにそうだ。  家も土地も失って、父が、妻とその愛人のいる家で、生活できるわけがない。しかし、それはあくまで父のプライドの問題である。 「登記簿とか、調べることはできるよ。しかし、費用はかかる」  それは浩志にも分かっていた。おそらく、法子は抜け目なくやっているだろう。 「——たぶん、むだだろう」  と、浩志は克子に言った。「もちろん、依頼して、調べてもらうことはできる。しかし、金がかかるし——」 「お父さんが馬鹿だったのよ」  克子は腹立たしげに言った。「だから、やめとけ、って言ったのに。あんな女と……」 「今さら言っても始まらないさ。そうだろ? カッカするだけ損だ」  浩志は、なだめるように言った。 「そうね」  克子は気をとり直したように言った。「で、どうしようか?」 「差し当たり、親父をどこに住まわせるか、だ。——色々あったしな。どこか小さなアパートでも見付けて、そこに一人でいさせるか」 「捜してくれる?」 「うん。心当たりを当たってみる」 「でも——一人で、暮らすかしら? そんなこと、したことのない人よ」 「そうなんだ。どんな暮らしぶりになるか、考えただけでも……」 「どこか近くを見付けて」  と、克子はため息と共に言った。「時々、掃除や洗濯には行ってあげる。食事は適当に外でとるでしょ」 「悪いな。忙しいんだろ」 「お兄さんは、ゆかりさんと邦子さんのことで手一杯でしょ」  克子が冷やかすように言った。「じゃ、また電話してね。——あ、私からかける。アパートに戻らないかもしれないから」 「どこに泊まるんだ?」 「そりゃ、男とホテルによ」  克子は、ちょっと笑って、「じゃ、また」  と、電話を切った。  浩志は、大きく息を吐き出した。  父が転がり込んで来た。——思いもかけないことだ。  浩志が高校三年生のとき、母が死んだ。父はもともと昔風のわがままな亭主で、浩志も克子も、母がずいぶん苦労するのを見ながら育って来たのだ。  母も心労が重ならなければ、あんなに早死にしなかっただろうが……。  父への屈折した思いは、母の死後、半年もしない内に、父が再婚すると言い出して、爆発した。  法子というその女は、母が生きている内から、父と親しい仲だったのである。  法子と父との結婚式の日、浩志と克子は家を出て、上京した。そして——もう七年になる。  克子にとって、父と一緒に暮らすことは堪えられないだろう。もちろん浩志だって、そうだ。  ともかく、早くどこかアパートを見付けて、父にはそこで一人暮らしをしてもらう。——そう浩志は決めていた。  父も、今は後悔しているだろうが、自分のしたことの「つけ」は、自分で支払わなければならない。子供ではないのだ。  納得ずくで、家や土地を失ったのなら、それを取り戻すことはできまい。  プライドの高い父が、法子の所へ戻るとは、とても思えなかった。——もともと酒好きな父が、無気力なまま、酒に溺れて行く。その姿が目に見えるようだった。  それは、アッという間かもしれない……。    邦子は、汗が背中を伝い落ちて行くのを感じていた。  体力作りのために始めたジャズダンス。何ごとにも必死になるタイプの邦子は、この教室でも、驚くほどのスピードで上達している。もともと運動は得意な方だし、日ごろから、ジョギングなどで体は作って来た。  快く汗を流すのは、嫌いではなかった。むしろ、何もかも忘れて打ち込めるという点では、こういう時間が必要だったとも言えるだろう。 「はい、一休みしましょう」  と、インストラクターの女性が言った。「邦子ちゃん、とてもいいわ」 「ありがとうございます」  邦子はタオルを手に取った。 「まだ時間は大丈夫なの?」 「ええ。今日は仕事ありませんから」  邦子は、ベンチに腰をおろして息をついた。顎から汗が落ちる。  ゆかりは、たぶん、こんなことをしている時間もないだろう。アイドルも役者も、体力が勝負、というところがある。いつまでも気力だけではもたないだろうが……。  誰かが、邦子の前に立った。  顔を上げると、その男は、 「原口君か」  と、言った。「三神だ」  邦子はパッと立ち上がった。——三神憲二。次の映画の監督である。 「原口邦子です。よろしく」  と、頭を下げる。 「この近くのスタジオで、今とってるんだ」  と、三神は言った。「君がここにいると聞いてね」  五十歳にはなっているはずだが、がっしりした体つき、上背もあって、とてつもないエネルギーを発散している。浅黒い顔にサングラスをかけているのは、いかにも「監督」風だが。 「前の映画が延びてるとか……」  と、邦子は言った。 「うん。しかし、必ずやる。大丈夫だ。君が作品の要になるからね。頑張ってくれ」 「精一杯やります」  と、邦子は言った。 「近々、製作発表があるはずだ」 「私も出るんでしょうか」 「もちろんだ。連絡が行くと思うよ」 「はい」  邦子は胸がときめくのを覚えた。——製作発表の席に座るのは初めてのことだ。  もちろん、いい仕事ができれば、それでいいのだが、やはり注目されるのは嬉しい。 「監督」  と、若い男が呼びに来た。「準備できました」 「今行く」  三神憲二は肯いて、「じゃ、また会おう」  と、邦子の手を驚くほどの力で握った。  三神憲二は、歩き出して、ふと振り向くと、 「この間、スーパーのレジ係をやってたね」  と、邦子に言った。 「はい」  邦子は赤くなった。役名もない、〈店員A〉だったのだ。 「身のこなし、とても良かった。——分かってるね。お腹から声を出すこと」 「はい」  三神憲二はニヤッと笑うと、 「楽しみだね、仕事が」  と、言った。「じゃあ」  邦子は、汗でべとつく肌のことも、すっかり忘れていた。  あんな小さな役を、三神憲二はちゃんと見ていてくれた! それは体の震えるほど、嬉しい出来事だった。  邦子の体の奥底から、熱く燃え上がるものがあった。  三神憲二に満足の行くような演技をするのは、大変だろう。しかし、必ずやりこなして見せる。邦子の小さな体は、エネルギーではちきれんばかりだった。   「ごめんなさい、突然」  と、克子は言った。 「どうしたんだ」  斉木は、少し苛々していた。「行く所があってね。あまりゆっくりはしていられないんだよ」 「うん。分かってる」  克子は、紅茶のカップを受け皿の上でゆっくりと回した。「ただ——会いたかったの」 「何かあったのか」  斉木も、少しやさしい口調になる。克子がこんな風に、「どうしても会って」と呼び出したのは初めてのことだからだ。 「ちょっとね」  克子は、父のことを斉木に話すつもりはなかった。彼には何の関係もないことだ。  ただ、克子は勇気づけてほしかったのである。父の待つアパートへ帰るのが、怖かったからだ。  父が怖いのでなく、父を憎んでしまう自分が怖かったのである。 「あなたとは関係ないこと」  と、克子は付け加えた。 「会社で上司にでもいじめられたか?」  と、斉木は笑顔を見せた。「そんなことで参る君じゃないよな」 「そうね」  克子は、時間を気にして、「行かなくていいの?」 「少しぐらい、大丈夫さ。何かよほどのことだね」  やさしくしないで。やさしくされると、泣いちゃう……。  克子の目に涙が浮かんだ。 「どうしたんだ?」  斉木は、びっくりした様子で、克子が涙を拭うのを見ていた。  克子は気丈な娘である。今まで、斉木の前で涙など見せたことはなかった。 「何でもないの」  克子は、笑顔を作って、「私だって、泣くことぐらいあるのよ」 「そうか。知らなかった」 「ひどい! そういう言い方って、ないでしょ」  克子がにらみ、斉木は笑い出した。これでいつも通りの雰囲気になったのである。  そう。——いつも私は「演技」してる。気楽な恋を楽しむOLの役を、うまくやって来た。邦子さんほどじゃなくても、結構いい役者なんだ、私って。  斉木はたぶん、そんなこと知りもしないだろう。克子がいつも「本音」を見せていると信じている。  だからこそ、こうやって付き合っていられるのだ。 「ちょっと待っててくれ」  と、斉木が腰を浮かした。 「あ、いいのよ。もう行って。忙しいんでしょ」 「うん。ともかく、待っててくれ」  斉木は、喫茶店のレジの傍らの赤電話へとテーブルの間を抜けて行った。  克子は、後悔していた。こんな風に斉木に頼っていてはいけない。自分の気持ちがコントロールできなくなったら……。  それは克子が何より恐れていることだった。自分が、斉木の家庭を壊してしまうようなことになったら……。  それは、かつて克子たちを深く傷つけた、父と法子がやったことと、少しも変わらなくなってしまう。  いや、克子の恋は、もちろん法子のように「金目当て」の計算ずくのものではない。しかし、どんなに克子が純粋な気持ちでいたとしても、斉木の妻や子にとっては、同じことだ。  夫を、父を奪った女、でしかない。——克子は、決してそうはなりたくない、と思っていた。  父の再婚の日、町の人々の、少々戸惑い気味な(それでも、大方の大人は、「タダ酒が飲める」だけで喜んでいたのだ)宴に背を向けて兄と二人で町を出た、あの夕方の寂しさと、やり切れない思い。  あの思いを、自分が誰かに味わわせるようなことがあってはならない。斉木と、こんなことにならなければ良かったのだ。それは分かっているが……。 「お待たせ」  斉木は戻って来て、言った。「用事は明日に延期したよ。これからどこかへ行こう」  克子は、ぼんやりと斉木を見ていた。 「そんなこと……。いけないわ」 「どうして? もう断っちまったんだ。構やしないさ。——君だって、時間はあるんだろ?」  拒むには、克子はあまりに疲れていた。父の待つ、酒くさいアパートの部屋。帰りたくない。——帰りたくない。 「うん」  と、克子は肯いた。「ね、映画、見よう」 「映画?」 「それからご飯食べて。そしたら、お宅へ帰って、接待だった、って言えるでしょ」  斉木は、不思議そうに克子を眺めていたが、 「いいのか、それで?」  克子は、斉木の胸に顔を埋めて、何もかも忘れたかったのだ。しかし、そうすると、もう後戻りできなくなる自分が、怖かったのである。 「うん!」  と、克子は元気良く言った。「今夜はね、そうしたいの」 「OK。それじゃ、出かけよう」  斉木も笑って言った。  克子はことさらに軽い足どりで、町へと飛び出して行った。    途中で食事をすませ、浩志は克子のアパートへと向かった。  克子が「帰りたくない」と言っていた気持ちは、よく分かる。町を出て来たとき、克子はまだ十四歳だった。  大人に対して、最も潔癖さを求める年代である。父の再婚が、克子をどんなに傷つけたか……。  よくここまで克子が頑張って来た、と浩志はいつも感心していた。その克子にしてみれば、父親が自分の勝手な都合で、自分のアパートへ転がり込んで来ることなど、許せなくて当然である。  克子のアパートは明かりが消えていた。  ドアを開けてみる。——鍵はかかっていなかった。  暗い部屋へ足を踏み入れると、酒くさい匂いが鼻をついて、ガーッ、といういびきが、浩志の足をすくませた。突然、自分が子供のころに戻ったような気がした。  気をとり直して、明かりを点ける。  父が、引っくり返って寝ていた。——酔い潰れていた、と言う方が正しいだろう。  克子は、もちろん帰っていない。それにしても、鍵もかけずに……。 「父さん」  と、浩志は大声で呼んだ。「父さん。——起きろよ」 「うん……。お前か」  父は、トロンとした目で、浩志を見上げた。 「克子はどうした」 「だめじゃないか、こんなに飲んで」  と、浩志は、空のカップを手にとって言った。 「酒でも飲まなきゃ、やることがない」  と、父は欠伸をした。「今だって、昔と同じくらいは飲めるんだぞ」 「そんなこと、自慢にならないだろ」  と、浩志は苦笑した。「克子は、たぶん帰って来ないよ」 「どこへ行ったんだ」  と、父が不思議そうに訊く。  この父の鈍感さが、浩志には信じられない。 「父さん……。僕と克子がどうして家を出たか、考えてみろよ。克子はあのとき十四だった。どんな気持ちで家を出たか」  父は、ろくに浩志の話など聞いていない様子で、 「いつもこんなに遅いのか、あいつ」  と、部屋の中を見回している。「男でもいるんじゃないのか」 「いたらどうなんだい? もう克子も子供じゃない。自分で働いて、稼いで暮らしてるんだよ」  父はフン、と唇を歪めて笑った。 「偉くなったもんだ。親に向かって説教する気か」  何を言ってもむだだ。——浩志にも、それは分かっていた。  都合のいいときだけ「父の権威」を振りかざす。それは自分の弱さの裏返しなのだ。 「ともかくね」  と、浩志は言った。「これからどうするか、考えなきゃ」 「どうする、ってのは、どういうことだ」 「父さんを、ここへ置くわけにはいかないんだよ。入居の契約でも、そうなってる。二、三日ならともかく、ずっとここにいるってことはできないんだ」 「自分の親の面倒をみちゃいかんのか。そんな分からず屋の大家なら、ここへ引っ張って来い。俺が意見してやる」 「馬鹿言わないでくれよ」  と、浩志はため息をついた。「父さんは何も分かってない。克子は父さんと一緒に暮らすのがいやなんだ」  父は、少し目が覚めた様子で、浩志を眺めていた。 「お前もか」  浩志は、じっと父の目を見据えて、言った。 「とても無理だね」 「育ててもらったことを忘れたのか。勝手な奴だ!」  父が憤然として横を向く。 「何とでも言うさ。——今日、この近くのアパートを捜して来た。一つ二つ、当たってみるから、決まったらそこへ移ってくれよ。克子が、掃除と洗濯くらいは、時々行って、やってくれる」 「俺に、どうしろって言うんだ」 「酒ばっかり飲んでたって、体をこわすだけだよ。——仕事見付けて、働いたら」  と、浩志は言ってやった。  父の顔色が変わった。  ようやく——七年もたった今になって、我が子が自分にどんな気持ちを持っているか、知ったのである。 「俺に働けって?」 「じゃ、どうするんだ? 僕だって克子だって、給料で何とかやってるんだ。父さんのために毎月、何万も出せやしないよ」  浩志ははっきりと言った。「僕にも、自分の生活がある。父さんには一人で住んでもらうしかない」  父の顔が紅潮した。しかし、何を言っても、浩志の意志は変えようがない、と悟ったらしい。 「もういい」  と、立ち上がって、よろけた。「そんなに邪魔なら、出て行く」 「どこへ行くんだ?」 「行くあてがないと思ってるんだろう。——冗談じゃねえ。ちゃんとこっちにだって知り合いはいるんだ。お前らみたいに薄情な奴に頼らなくてもな」  父は、自分のボストンバッグを引っ張り出して来ると、手近な物を詰め込んで、玄関へ行った。 「克子に言っとけ」  と、ドアを開けながら、「もう親子でも何でもない、ってな」  ——浩志は、父の怒りに任せた足音が遠ざかるのを、じっと聞いていた。  体を縛っていた緊張がとける。  嵐が、一つ去って行ったような、ポカンとした空白。  浩志は、畳の上にゴロリと横になった。  疲れがどっと襲って来て、目を閉じると、いつか浩志は眠っていた……。  子供のころの夢を見た。——酔った父が、母を殴っているところ。母が夜中に一人で声を殺して泣いているところ……。  夢と分かっていても、見るのは辛かった。  ——目を開けると、克子が、じっとこっちを見下ろしている。 「帰ったのか」  浩志は起き上がった。 「今ね。ドアの鍵ぐらい、かけといてよ」 「悪いな。眠るつもりじゃなかったんだ」 「父さんは?」 「出てった」  浩志が簡単に話すと、克子は肯いて、 「いいお友だちがいるのなら、それでいいじゃない」  と、言った。「酒くさい。窓開けるわよ」 「うん」  克子はガラッと窓を開けると、言った。 「〈父帰る〉か……。あんなもの書いた人、よっぽど幸せだったんだろうね」  克子の言葉には、七年間の日々が重く、感じられた……。 小さな偶然 「石巻さん、これ、お願い」  と、森山こずえが伝票をポンと置いて、自分の席につく。 「分かった。——どうだい、外は」 「ちょっとひんやりするけど、気持ちいいわよ。目も覚めるしね」  と、森山こずえは言った。 「それは、僕が眠そうにしてる、って皮肉かい?」  と、浩志は笑って言った。 「やっと秋らしい天気ね。でも、すぐ寒くなっちゃうんだろうな」 「早いよな、一年なんて」  浩志は伝票の処理をしながら、肯いた。  ——何があろうと、日々の仕事は個人の都合と関係なしにやって来る。  父が突然やって来て、そしてまた出て行ってから、一週間が過ぎた。何の連絡もないし、もちろん浩志の方も、どこへ連絡していいのやら、見当もつかない。  克子は、 「放っときゃいいのよ」  と、気にとめる様子もなかった。  多少、気にならないでもないが、今はどうすることもできない。  ゆかりの方も、国枝貞夫からの花束攻勢は相変わらずらしく、閉口していたが、特に今のところ、いやがらせなどはない様子だ。プロダクションの西脇社長が、国枝定治と話をつけたのかどうか、浩志には知るすべもない。  ゆかりが持って来たドラマの話は、順調に行って、今週中に邦子の出番の収録があるということだった。——残念ながら、一緒に出ることはないらしいが、それでも、二人のために、浩志は喜んでいた。  むしろ、一番困っているのは、浩志自身かもしれない。例の、国枝からもらった、赤いスポーツカーのことである。  どうしたらいいのか、さっぱり思い当たらない内に、時間ばかりが過ぎて行く。とりあえず、この近くの駐車場へ入れて、そのままにしてあるが、駐車場の料金も馬鹿にならないし、どうしたものか……。  しかし——ともかく、嵐が吹き荒れたような、あの何日かの後、この一週間は、穏やかであった。 「石巻さん、今夜、何か予定ある?」  と、森山こずえに訊かれて、浩志は、 「さあ……。別にないけどね。何だい?」  と、仕事の手を休めて訊いた。 「デートしよう。ホテルに泊まって、明日の朝はそこから出勤。どう?」  こずえが、いたずらっぽく笑って、「冗談よ!」 「本気にするとこだったぜ」  浩志は大げさに胸に手を当てて見せた。 「あら、私の方は構わないのよ。でも、そっちには、強力なライバルがいるしね」  こずえが、ちょっとウインクして見せる。 「本当は何だい?」  と、浩志は言った。 「ディナー券っての、もらったの」  と、森山こずえが言った。「今週一杯が期限でね。むだにするのも、もったいないでしょ。いい男が現れないかな、と思って、ぎりぎりまで待ってたんだけど、この辺で諦めて石巻さんでも誘うかって」 「ご挨拶だな」  浩志は苦笑した。「つまり、夕食をごちそうしてもらえるってこと?」 「その通り」 「断る理由はないな」  ——気楽に、こうしてポンポン言い合える相手というのは、いいものである。  浩志も、森山こずえがいてくれて、ずいぶん助かっているところがあった。何といっても、一日の内、七、八時間も隣にいるわけだ。  時々、考える。もし、本当に「恋人同士」の付き合いをするとしたら、こずえなんか、楽しいだろうな、と。  しかし、今の浩志には、とてもそんな余裕がなかった。——こうしてオフィスで、楽しくやり合っている方が、気楽だ。 「じゃ、仕事すんだら、下で待ってて」  と、こずえは言った。 「うん。——あ、僕が取る」  電話が鳴っていた。「——はい。——やあ、ゆかり」  森山こずえがチラッと浩志の顔を見る。浩志は気付かなかったが、その視線は、いつものこずえとは、微妙に違っていた。 「——今日、邦子の出番、終わったの」  と、ゆかりは言った。「凄かった。見せてやりたかったわ」 「TVで見るよ」 「私も、今日しか覗けなかったんだけど、完璧ね、邦子。気迫が違う。他の人、かすんでたわ」  ゆかりは素直に感心している。「少しは見習わなくちゃね。——一応報告しとこうと思って」 「そうか。でも、良かった」 「邦子、もう帰ったわ。来週、例の巨匠の、製作発表があるんですって」 「うまく行くといいな」 「大丈夫よ、邦子なら。浩志、元気?」 「うん。どうだい、例の……」 「あの変な息子? ラブレターは来ないけど、諦めたわけでもないみたい。社長さん、あの親分とまだ会えないんだって。でも、何だか、よその組との抗争があって、あっちも今は私のことどころじゃないみたいよ」 「なるほど。でも、用心しろよ」 「大宮さんが、目を光らしてるわ。——ね?」  と、そばにいるらしい大宮の方へ、「居眠りしながら、見張ってるもんね」  と、からかっている。 「居眠りなんか、してないでしょ」  と、電話口のそばで大宮が抗議している。  何となくユーモラスで、それでいて生真面目で、浩志も大宮のことが気に入っていた。 「それじゃ、浩志、またかけるね」  と、ゆかりは言って、「そうそう。どうなった、三人で会おうって話?」 「君の方で時間のとれる日を出してくれ。それから邦子、僕の順で合わせていくさ。何せ、僕の方は暇だ」  ゆかりはちょっと笑って、 「可哀そうな浩志ちゃん。相変わらずもてないわけだ」 「こら、何だよ、その言い方は」 「じゃ、今夜でも電話するね。来週のスケジュール、まだはっきりしてないところがあるんだ」 「分かった。せめて二時ごろまでにかけてくれよ」  と、浩志は言った。「できればね」 「バイバイ」  ゆかりは元気良く言って、電話を切った。   「乾杯」  と、森山こずえが言って、二人のグラスがチンと鳴った。 「君は強いんだろ」  と、浩志は言った。「僕はさっぱりだ。でも飲んでくれよ、僕に構わないで」 「うん」  こずえは、シェリーのグラスを空にした。 「——しかし、何だか悪いね、君にごちそうしてもらって」  ホテルの中のレストランだが、高級フランス料理というわけではなく、やや一般的なアラカルトメニューのある店。もちろん、浩志などには、こういう店の方が気楽でいい。 「別に私の払いじゃないから」  と、こずえは言った。「出て来るものは決まってるみたいよ」 「何でも歓迎だよ」  と、浩志は両手を広げて見せる。 「でも——感心しちゃう。石巻さんって、よっぽど頼りにされてるんだ、あの二人に」  こずえは、オードヴルが出て来ると、言った。 「二人って、安土ゆかりと原口邦子のことかい」  と、浩志もナプキンを膝の上に広げながら、「そうだなあ。何しろ古い付き合いだし」 「どうして、彼女たちに頼られるようになったの?」  浩志は、オードヴルを食べながら、 「何だろうな、これ? よく分かんないけど、おいしいね。——僕は写真部にいたんだ、高校生のとき。で、文化祭の発表をするのに、中学校の運動会を撮りに行ったのさ」  浩志は、思い出しながら言った。  そうだ。——今でも、浩志はよく憶えている。  中学校の運動会で、ファインダーを通して元気のいい少女たちを追っていた浩志の目に、しっかりと肩を組んで立つ、二人の少女が飛び込んで来た。  カメラのレンズは、その二人から、離れることができなくなってしまったのだ。  確かに、二人は大勢の女の子たちの間でも、際立って可愛かった。特にその内の一人は、可愛いというだけでなく、周囲を照らし出すかと思えるほどの華やかさを身につけていた。  そして、もう一人の女の子は、やや大人びて、しっかりと自分の行先を見つめている人間だけが持つ落ちつきを感じさせた。  競技などには関心が向かなくなった浩志は、ひたすらその二人をとり続けた……。  やがて、文化祭に展示した写真の中で、二年生だった浩志の作品は銀賞をもらったのだが、浩志にとって、そんなことは大して嬉しくもなかった。  当の二人が、文化祭へやって来て、自分たちをとったのは誰か、と訊いて来たのである。——当の浩志に向かって、訊いたのだ。 「君らに断らなくて、ごめんね」  と、浩志は謝った。「君たちの名前も分からなかったもんだから」  しかし、二人は少しも怒っていなかった。むしろ、またとってほしい、と言ったのである。  それから、二人は何度も浩志のカメラにおさまり、浩志はそのお礼に、お菓子だのソバだのをおごる、という習慣ができた。  そして、ゆかりも邦子も、新人募集のためのオーディションには、浩志のとったポートレートを使ったのだ……。 「——そんな出会いだったわけね」  と、森山こずえは料理を食べながら、言った。「そのころから、二人のこと、色々やってあげてたの?」 「いや、そうじゃない。何しろ僕は高三のときに、こっちへ出て来ちゃったからね。一時は二人ともほとんど連絡がとれなかったんだ。でも、二人は高校生の内に、オーディションに受かって、卒業と同時に、こっちへ出て来た。——また、それからあれこれ、相談相手になってる、ってわけさ」 「でも——人気って点じゃ、大分差がついちゃったわね」 「仕方ないよ。邦子はもともと、そういう志向があんまりない。もちろん、ある程度人気もなくちゃ、仕事も来ないけど、真面目に努力してれば、必ず誰かが見ていてくれる、って信じてる」 「すてきね」 「うん。僕もそう思う」  浩志は、まるで自分のことを誉められたように、嬉しそうだった。 「でも、この間、安土ゆかりの恋人役をやらされて、その後は取材とかされてないの?」  と、こずえが訊いた。 「うん。大宮さんって、ゆかりのマネージャーだけど、彼が僕のでたらめの身許をでっち上げてくれてるからね。僕までは取材の手がのびて来ないよ。——おっと」  料理のソースが、浩志の上着の袖口に飛んでしまった。 「あら。すぐ水で拭いた方がいいわ」  と、こずえがハンカチを出す。 「いや、ちょっと洗面所で洗って来る。その方が早いよ」  浩志は席を立って、「食べててくれ」  と言うと、レストランを出た。  ロビーの奥にトイレがある。浩志は洗面台で、袖についたソースを紙タオルを使って拭いた。 「やれやれ。ドジなんだからな」  と、呟く。  カメラなんかいじっていた割には、浩志は手先の器用な方ではない。妹の克子は、細かいことが小さいころから得意である。 「——これでいいか」  しみは、ほとんど目立たなくなった。  どうせ、クリーニングに出さなきゃ、完全には落ちないだろう。  浩志は、ついでに髪にクシを入れて、それからロビーへ出た。 「ごめん、待たせて」  と、すぐそばで声がした。  思わず振り向いたのは、その声があまりに克子に似ていたからで——。本当に、そこには克子がいた!  克子は、兄がすぐ後ろに立っていることなど、全く気付いていない。目の前の男に笑いかけると、 「今日はゆっくりできるの?」  と、訊いていた。 「九時ぐらいまでだな」  と、その男が腕時計を見て答える。 「じゃ、行こう」  克子は、その男の腕をとって、足早に歩き出した。  ——浩志は、ぼんやりと妹と恋人らしい男の後ろ姿を見送っていたが……。 「克子……」  恋人がいるかもしれない、とは思っていた。しかし、今の男は……。  浩志は、その男が左手のくすり指にリングをはめているのを、ちゃんと見ていた。年齢からいっても、そして雰囲気を見ても、妻子のある男だろうと見当はつく。  克子が、家庭持ちの男と……。  浩志には、ショックだった。それは、単純なショックではなく、複雑に入り組んだものだった。  レストランに戻る浩志の足どりは、重くなっていた。 「どうかした?」  と、レストランに戻った浩志を見て、森山こずえは訊いた。 「え?」 「何だか、むつかしい顔してる」 「いや、何でもないよ」  浩志は、すぐにいつもの穏やかな笑顔に戻る。——感情を隠してしまうことには、慣れている。  十八歳で上京して七年。色んなことがあったのだ……。  克子が男とどこへ行ったか、様子を見て見当はついた。しかし、克子にそうするなとは言えない。もう子供ではないのだ。  ただ、一度話をする必要はあるだろう。  克子が適当に遊びで男と付き合える性格でないことが、浩志には、よく分かっている。 「——いや、おいしかった」  と、ナプキンで浩志は口を拭いた。「これで二、三日は栄養とらなくても大丈夫」 「オーバーね」  と、こずえは笑った。「デザートも出るはずよ」  デザートとコーヒーを頼んで、二人は息をついた。 「——石巻さん」  と、こずえが言った。 「うん?」 「いつも、電話してるところとか聞いてると、あの二人に、平等に気をつかってるわね」 「そうかい?」 「そうよ。無意識かもしれないけど。——でも、どっちかに恋しちゃうってこと、ないの?」  軽い口調だが、こずえの目は笑っていない。 「僕たちの生活とは、まるで違うよ、あの二人は」  と、浩志は慎重に言った。「いくら話し相手でも、全然違う世界の人間さ」 「そうかしら」  浩志は、こずえの口調に少し非難めいたものを感じて、 「どういう意味だい?」  と、訊いた。 「無理してると思うな、石巻さん」 「僕が?」 「そう。二人といつも等距離にいようとして——。でも、そんなの不可能だし、不自然だわ」  こずえは静かに言った。「どっちか一人は、あなたのことが好きだと思う」  浩志は微笑んで、言った。 「そうだとしても、僕には、それを受け止める余裕がないよ。その内、二人とも忙しくなって、大人になり、他に話をする相手ができる。——心を打ち明ける相手が。そうなれば、僕のことは忘れて行くさ。『昔の友だち』というだけでね」  こずえは、じっと浩志の話を聞いていたが、 「それでいいの?」  と、静かに、念を押すように言った。「それで、後悔しないの?」 「どうかな」  浩志は肩をすくめて、「でも——あの二人には夢と目標がある。恋に熱中するのは、ずっと先の話さ」  デザートが来て、浩志は食べ始めたが、ふと見ると、こずえは手をつけていない。 「食べないのかい」  と、浩志は言った。  こずえは、ゆっくりと首を振ると、 「希望を持たせないで」  と、言った。  浩志は当惑して、こずえを見つめた。 「私だって——女だから、男の人が好きよ。特に、石巻さんみたいな、やさしい人がね。ただやさしいだけじゃなくて、自分を殺してでも、他の人にやさしくする。石巻さん。あなたみたいな人、滅多にいない」 「森山君……」 「でも——分かる? 私がもしあなたを好きになっても、あなたには、あんなすてきな子が二人もいるのよ。私、とてもかなわない」  こずえはそう言って、「——さて、食べるか」  と、デザート用のスプーンを手に取った。  浩志は、こずえの気持ちを初めて知った。今まで、気持ちのいい同僚としか見て来なかったのは、無意識の内に彼女を遠ざけようとする努力だったのかもしれない、と、浩志は思っていた……。    アパートへ帰って、浩志は、ネクタイを外し、上着をハンガーにかけると、畳の上にゴロリと横になった。  ——もう、ゆかりも邦子も、そして克子も、森山こずえも、「子供」の付き合いをしていられる年齢ではない。  ゆかり、邦子、どっちも何度か恋はしている。しかし、それは花火みたいにパッと散っては消える類の恋で、いわゆる「大人の恋」ではなかった。  そろそろ、二人はそういう年代を抜け出ようとしている。  克子もまた……。  電話が鳴り出した。浩志は起き上がって、欠伸しながら、受話器を取った。 「はい、石巻です」 「良かった! 帰ってたんですね!」 「大宮さんか。どうかしましたか」  ゆかりのマネージャーの声は、上ずっていた。 「ゆかりさんが……どこかへ連れてかれてしまったんです!」  浩志の顔からサッと血の気がひいた。 浩志、乗り込む  浩志が、そのTV局の玄関でタクシーを降りたときには、大宮の電話から四十分ほどたっていた。 「——あ、石巻さん」  ロビーへ入ると、大宮がすぐにやって来た。 「何か分かりましたか」  と、浩志は訊いた。 「今、社長があちこち当たってます。——申し訳ありません、僕がついていながら……」  大宮は、いっぺんに何キロもやせてしまったように見えた。 「どういう状況だったんです?」 「いや、ここでの仕事を終わって……。その玄関から出たんです。表にはハイヤーを待たせてありました。そのとき、気が付けば良かったんですけど、運転手が違ってたんです。でも、何時間もたってるので、他の車が来てることもありますし、大して気にしないで——。ゆかりさんを先に乗せて、僕は一旦ロビーへ戻りました。ちょっと、挨拶しなきゃいけない人がいたもんで。それで、もう一回出てみると——もう車はいなかったんです」 「ハイヤー会社へ確かめましたか」 「ええ。そしたら、待ってた車に、予定が変わったから、もう帰っていい、と連絡が入ったとかで……。結局、ゆかりさんを乗せて行ったのは、どこの車か、まるで分かりません」  大宮は、生きた心地もない、という表情である。  しかし、どう見ても、あの国枝貞夫のやったことには間違いないだろう。となると、ゆかりを見付けるのは難しい。  西脇が足早にやって来た。 「あ、石巻さん」  と、浩志に気付くと、「用心してたんですがね……」 「ゆかりの安全が第一です。国枝と連絡は?」 「今、やっととれましたが……」 「父親の方ですね? 何と言ってます?」  西脇は、重苦しい表情で、 「息子がやったことだという証拠があるのか、と逆に凄まれましたよ。言いがかりをつける気なら、考えがある、と言われて……」  と、ため息をついた。 「それで——どうするんですか」 「どうしようも……。連れ戻すにしても、どこにいるかも分かりません。それに国枝を敵に回したら、えらいことになる」  浩志はじっと西脇を見つめて、 「ゆかりのことは、諦めるんですね」  と、言った。 「いや……。しかし、助け出す方法が——」  浩志も、西脇にこんなとき、大した力がないことは、分かっていた。ここへ来るタクシーの中で、必死に考えていたのである。  もちろん、危険な賭けではあるのだが。 「西脇さん」  と、浩志は言った。「あなたは、仕事の上で、色々なしがらみもあるでしょう。でも、僕にとっては、ゆかり個人が大切なんです」 「もちろん、分かっていますよ」 「国枝はどこにいるんです?」 「国枝定治ですか? オフィス——というか、渋谷にビルを持っています。会員制のクラブとかの入ったビルで、その一番上が国枝のオフィスです。もちろん、〈組〉の事務所というわけですが」  と、西脇は言った。 「今、そこにいるんですね」 「ええ。しかし——石巻さん、まさか——」 「僕に考えがあります」  と、浩志は言った。「大宮さん。TVや週刊誌、スポーツ紙、何でもいい、ともかく連絡できる限りの所へ、すぐ電話を入れて下さい」 「どうするんです?」 「ゆかりの『恋人』についての情報はでたらめだった、と言って下さい」  大宮は目をパチクリさせて、浩志を見ていた。    そのビルは、一見いかにもけばけばしく、安っぽく見えた。  外見の派手さで人を圧倒しようとしている。——国枝のような人間にはお似合いだ、と浩志は思った。  ビルの中へ足を踏み入れるのに、少しのためらいもなかったと言えば嘘になる。——無事には出て来られないかもしれない。  いや、腕の一本ぐらいは折られる覚悟が必要だろう。しかし、ためらってはいられないのだ。  こうしている間にも、ゆかりは、あの国枝の息子にどんなことをされているか分からない。  浩志はエレベーターで、最上階へと上って行った。  汗が背中を伝い落ちて行く。ヒーローなんて、柄じゃないのだ。ただ、ゆかりを救いたいという、それだけの思いが、浩志を支えている。  扉がガラガラと開く。  目の前に、厳重な格子の扉があって、男たちが四、五人、椅子にかけていた。その内の一人は、国枝が浩志の所へ車を持って来たときに見た顔である。 「何だ」  と、一人がやって来る。 「国枝さんに会いたいんだ。緊急の用件だ」  と、浩志は言った。 「お前か」  と、浩志を見憶えている男が、呆れたように言った。「あのとき、話はつけたはずだぜ」 「国枝さんに会わせてくれ」  浩志はいつの間にか、背後にも男が二人立っているのに気付いた。 「黙って回れ右して、帰りな」  と、目の前の男が言った。「悪いことは言わねえよ。国枝さんは、しつこい奴が大嫌いなんだ」 「僕だってそうだ」  浩志は、じっと相手の目を見つめていた。「しかし、友だちのためなら、どんなに嫌われても食いついて行く」 「無鉄砲な奴だな」  いつ、後ろから殴られるか、腕をねじ上げられるか。——浩志は、ここまで来たら、どうせ後には引けないのだから、と開き直った気持ちになった。却って、気が楽になる。 「——よし。ここで待ってな。一応、話してみる」  と、相手は言って、奥へ入って行く。  浩志は、じっと立っていた。全身に緊張を漲らせている。周囲の男たちも、何となく気味悪そうに、浩志を見ていた。  時間が、とんでもなく長く感じられた。  あの男が戻って来ると、 「入りな」  と促した。  ——重いドアが開くと、国枝が、大きなソファに身を沈めて、足を組んでいた。このビルによく似た(?)趣味の悪い派手なガウンをはおっている。 「よく来たね」  と、一応は笑顔を見せる。「まあ、かけたまえ」 「ゆかりはどこです」  と、浩志は立ったまま言った。 「私は知らんね。何も、あの娘のお守りをしているわけじゃない」 「それなら、息子さんにうかがいます。会わせて下さい」  国枝は、鋭い目つきになった。 「いいかね。君は、うちのせがれを誘拐犯扱いしているんだ。面白くないね」 「事実その通りなんですから、仕方ないでしょう」 「何だと?」 「申し上げておきますが」  と、浩志は真っ直ぐに国枝をにらみつけて言った。「ゆかりの身に何かあれば、僕はあなたの息子さんを訴えます。たとえゆかりが泣き寝入りするつもりだとしても、僕はそうはしません。——どんなことをしても、あなたの息子さんを刑務所へ入れてみせます」  国枝は面食らった様子で、浩志を見ていた。まさか、浩志がこんなことを言い出すとは、思っていなかったのだろう。 「君は、どうかしちまったんじゃないのか? ここがどこだか分かってるのかね」 「もちろんです」 「君の態度は、ここを生きて出られなくてもいい、と言ってるようなものだよ」  浩志は、肩に男の手がかかるのを感じた。——負けられない。浩志は、じっと国枝から目をそらさなかった。  国枝が、指一本動かせば、浩志は叩きのめされるだろう。  浩志は覚悟した。しかし、暴力ざたになれば、警察がやって来る。それは向こうにとっても、困ることのはずだ。 「社長!」  と、男が一人、飛び込んで来た。 「何だ?」 「ビルの外が——車で一杯です」 「何だと?」  国枝は立ち上がった。奥の部屋へ入って行くと、たぶん窓から下を眺めたのだろう、またすぐに戻って来る。 「おい、これはどういうことだ」 「報道陣の車ですよ」  と、浩志は言った。「僕とゆかりがここにいる、と連絡してあります。僕の本当の身許を公表すると言って、集めたんです」 「何て奴だ」  と、国枝は呆れている。 「社長、TV局の車も来ました」  と、また一人が駆け込んで来た。「野次馬も集まって来てます。どうしますか」  国枝は、当惑した様子で浩志を見ていた。 「——ゆかりと僕が出て行くまで、みんな待っているでしょう。もし、僕が大けがでもして放り出されたら、現行犯ということになりますよ」  国枝は何か言いかけて、また口を閉じた。 「今、ゆかりを返してくれれば、訴えないと約束します」  浩志の言葉を聞いて、 「俺たちをおどす気か?」  と、国枝は言った。 「ゆかりはどこです」  燃えるような、怒りのこもった目で、浩志はじっと国枝を見つめた。——無謀は承知の上だ。  国枝は、ゆっくりと息をついて言った。 「お前みたいな馬鹿は、初めて見た」  そして、「一緒に来い」  と促して、奥へと入って行く。  浩志は、国枝について行って、このビルが裏側で別のビルとつながっていることを知った。  薄暗い通路を抜けて、階段を下りると、国枝は、そこのドアを叩いた。 「——誰だ?」  と、あの息子の声がした。 「開けろ。父さんだ」  ドアが開くと、国枝貞夫が顔を出した。 「何だい? 今——」  浩志に気付くと、貞夫の顔色が変わった。  浩志は、貞夫の胸をドンと突いた。貞夫が尻もちをつく。 「ゆかり!」  と、部屋の中へ入って大声で呼ぶと、奥の部屋から、 「ここよ! 浩志!」  と、ゆかりの声がした。  浩志は、奥の部屋へと駆け込んだ。  大きなベッドがあって、ゆかりが毛布をしっかりと胸元にかかえ込むようにして、起き上がっている。 「ゆかり! 大丈夫か!」  浩志が駆け寄ると、ゆかりは黙って浩志に抱きついて来た。もう、何があっても離さない、というように。 「父さん、こいつ——」  国枝貞夫が、顔を真っ赤にして、浩志を追って入って来ると、「叩きのめしてやってくれよ! ぶち殺してよ!」  と、甲高い声でわめいた。 「よせ」  国枝は、息子の肩をつかんだ。「諦めろ。その女のことは、もう忘れろ」  貞夫は、耳を疑うように、 「何だって? どうしたんだよ」  と、父親を見た。 「腕一本、足一本ぐらいへし折ってやるのは簡単だ。しかし、そいつはそれを覚悟して来てる。痛めつけてもむだだ」  国枝は、息子の肩をポンと叩くと、「お前には、もっといい女を見付けてやる。諦めるんだ」  と、言った。 「いやだ! 僕はこの子が——」  貞夫は、父親の冷ややかな目に出くわして、黙ってしまった。 「俺は諦めろ、と言ったぞ」  たとえ息子でも、国枝は反抗することを許さないのである。貞夫の顔から血の気がひいた。 「分かったのか」  と、国枝は念を押した。 「——分かったよ」  貞夫が、弱々しい声で言った。  国枝は、浩志たちの方へ歩み寄ると、 「早いとこ帰ってくれ。私の気が変わらん内にな」  と言って、部屋を出て行く。  貞夫は、体を震わせながら浩志をにらみつけていたが、 「憶えてろよ!——その内、きっと——」 「来るんだ」  父親の声がして、貞夫は渋々ついて行った……。  浩志は、ゆっくり息を吐き出した。 「さあ、早いとこ出よう。外へ出りゃ安全だ。——ゆかり」 「浩志……」  ゆかりが、やっと浩志から離れた。毛布が落ちて、裸の胸があらわになると、ゆかりは赤くなって、あわてて毛布を引っ張り上げた。 「きっと、浩志が助けに来てくれると思ってた。私——まだ、何もされてなかったの。本当だよ。あんな奴のものになるくらいなら、舌かんで死んでやる」  浩志は、その辺に散らばったゆかりの服を拾い集めると、 「さあ、早く着て。後ろ向いてるから」 「見てもいいよ」  と、ゆかりが言って、やっと笑顔を見せた。 「からかうな」  浩志は、苦笑してゆかりの方へ背中を向けたのだった……。   「石巻さん。あなたには何とお礼を申し上げたらいいか……」  西脇が、助手席で振り向くと言った。 「僕は、友だちを助けただけですよ」  浩志は、後部座席のシートに身を委ねて、もう立てないような気がしていた。  三年も寿命が縮まった気分である。何とも、無茶をやったものだ。考えただけで冷や汗が出る。  ゆかりは……。浩志の方へ体をもたせかけて、眠っていた。  ——国枝の所を出てからが、また大変だった。  待ち構えていた報道陣の前で、浩志は、再びゆかりの「恋人」役を演じなくてはならなかったのだが、それでも、国枝の所で腕でも折られることを考えれば、楽なものだ。できるだけサービスして、カメラに向かって、慣れない笑顔を作って見せたりもした。 「——西脇さん」  と、浩志は言った。「すみませんが、今夜一晩、どこかのホテルを取ってくれませんか」 「いいですよ」 「シャワーを浴びたい。サウナに入るより汗をかいたと思いますよ」  浩志の言葉に、西脇は笑った。 「——しかし、大宮さん」  と、浩志は少ししてから、言った。「あの国枝の息子は、まだ諦めてない。父親の方だって、今夜はともかく、明日はどう言い出すか分かりませんよ」 「用心します。もう二度とこんなことのないようにしますよ」  大宮は、車を運転しながら言った。  ゆかりが、ちょっと身動きして、浩志に体をすり寄せるようにすると、深々と寝息をたてた。 「——石巻さん」  と、西脇が言った。 「何ですか」 「今夜は……ゆかりと泊まったらどうですか」  西脇は、前方へ向いたまま言った。「ゆかりも、そうしたがっていると思いますから」  浩志は、ゆかりの寝顔を見下ろした。  眠っていると、あの高校生のころのゆかりと、少しも変わらないように見える。 「いや、ゆかりはマンションへ帰してやって下さい。僕は一人で泊まります」  と、浩志は言った。    一人、ホテルの部屋へ入って、浩志はゆっくりと風呂に入った。  ゆかりは、大宮がついて、マンションへと帰って行ったのだ。  ——体はクタクタで、浴槽につかったまま眠ってしまいたいと思うほどなのに、頭は冴えていて、たぶん、しばらくは眠れないだろうと思った。  何しろ、とんでもない夜だったのだ。  思い出して、果たしてあれが本当にあったことなのかしら、と思う。自分が、あんなことをやってのけたとは、とても信じられない。  いや、浩志は少しもヒーロー気分にひたっていたわけではなかった。無事だったとはいえ、ゆかりにとって、今夜の恐ろしい記憶は、当分消えることがないだろう。  ゆかりが今の仕事を続けて行く限り、あの国枝という男とも、全く無関係でいることはできないのだ。  ——浩志は、風呂を出て、ホテルの浴衣を着ると、ベッドに仰向けになった。  もちろん、すぐには眠れまい。明日は、ここから出勤ということになるのだから、早く寝ないといけないのだが。  電話が鳴って、浩志はびっくりした。 「——もしもし」 「もう寝てた?」  その声に、浩志は面食らった。 「邦子。よく分かったな、ここが」 「ゆかりから聞いたのよ、もちろん」  と、邦子は言った。「無茶なことして! 命を粗末にするもんじゃないわよ」 「ゆかりが電話したのか」 「うん。——浩志って勇敢だわ、って、感動してたわ」 「冗談じゃない。ガタガタ震えてたんだ」 「それが当たり前よ。でも……やっぱり偉い。普通の人のやれることじゃないわ」 「そうかな」 「私が同じ目にあったら、どうする?」 「邦子——」 「冗談よ。浩志って、本当にお人好し」  と、邦子は笑った。「ともかく、ほめてやろうと思ってさ」 「嬉しいよ」  と、浩志は言った。 「じゃあ、おやすみなさい」 「おやすみ……」  ——邦子の声を聞くと、不思議に気持ちが落ちつく。その点は、ゆかりの場合と違っている。  浩志は、受話器を戻して、じっと天井を見上げていた。  ゆかりを抱いてやるべきだったのだろうか。——いや、僕は僕だ。あの二人との付き合い方は、変えてはいけない。 「長い夜だったな」  と、浩志は呟いたのだった……。 華やかな光  面白くない。全く、面白くなかった。  ベテラン女優は、朝から不機嫌だった。珍しいことではないが、理由もなく不機嫌にはならない。  神崎弥《や》江《え》子《こ》が不機嫌なのは、それなりに理由があってのことだったのである。 「——もう少し待って下さい、ってことです」  と、マネージャーが顔を出しても、返事もしないで、ただ黙って肯いただけだった。  控室には、まだ誰も来ていない。——今日は、新作映画の製作発表の日である。  神崎弥江子は、もう女優生活十五年のベテラン。三十代も半ばにさしかかっていたが、肌のつやもプロポーションも、失われていない。  もちろん、製作発表の席に座ったことも、数え切れないくらいあるから、別に緊張はしない——はずだ。  ところが今日は違う。何といっても、今、海外でも評価の高くなっている三神憲二の作品だ。弥江子も、三神のことは以前から知っているが、実際に出演するのは初めてである。  今日、弥江子がいささか神経質になっていたとしても、やむをえないことだ。それに加えて——。  ドアが開くと、原口邦子が入って来た。もちろんマネージャーも一緒だ。 「おはようございます」  と、邦子はまず弥江子の前に進んで来て、申し分なくていねいに挨拶をした。  どんな時間でも、この世界では「おはようございます」だが、今は昼の十二時少し前。珍しく、普通の感覚でも、「おはよう」が不自然でない時間だ。 「ご苦労様」  と、弥江子は微笑んで見せた。  何しろ女優だ。演技することには慣れている。 「——緊張しちゃって」  原口邦子は少し照れたように笑顔を見せると、言った。 「あなた、初めて、製作発表って?」 「そうなんです。こんな席に出られるほど大きな役って、いただいたことなかったから」  邦子は、端の方の椅子に、遠慮がちに腰をおろした。マネージャーが、会場の様子を見に行く。  弥江子は、見たくないのに、つい目が原口邦子の方へ向いてしまうのを、止められなかった。——そこにいるのは、二十三歳の若い娘、小柄なせいで、やや幼くすら見える娘にすぎない。  しかし、その、格別に美人でも可愛くもない娘が、今は弥江子を圧倒するような輝きを放っていた。  弥江子は、気持ちを落ちつかせようと、お茶を飲んだ。  神崎弥江子は、邦子の方へ、 「この間は大変だったわね」  と、言った。  邦子は、ハッと我に返った様子で、 「あ、いえ——お世話になりました、あのときは」  と、急いで礼を言う。 「いえ。とても良かったわよ、あなた」 「そうですか」  邦子はポッと頬を染めた。  ——安土ゆかりが主演のドラマに、弥江子は〈特別出演〉した。出番は二日間ほどのもので、相手は何といっても新人のアイドルスターだ。  ゆかりと一緒のシーンは、ゆったりと落ちついてやることができた。  弥江子の役は、優秀な精神科医。知的なムードを売りものにしている弥江子には、ぴったりの役どころだった。  ところが、もう一つのシーンで、弥江子はかなり難しい症例の女の子を扱うことになっていた。その患者を演じたのが、原口邦子だったのである。  弥江子は、邦子の名前だけは耳にしていた。 「うまい子だよ」  と、プロデューサーや監督が口にするのを聞いて、少し達者な子役くらいかと思っていた。  ところが——そのシーンの収録で、邦子は完全に周囲をかすませてしまった。  熱演、というタイプとは少し違う。クールに、はたから自分を見つめながら、演技できるという——すでに邦子は立派な「女優」の域に達していた。  しかし、弥江子は面白くない。たった三シーンしか出番がないのに、その一つを、無名の新人にさらわれてしまっては、弥江子のプライドが許さない。  完璧な出来栄え、とは思ったが、あえて自分の出来に不満がある、と言ってやり直した。邦子が、少しは調子を崩すだろうと思ったのだ。  しかし思惑は外れて、しかも邦子はその前とは違うやり方で、さらに強烈な印象を残す芝居をやってのけた。  ——その邦子と、三神憲二の映画で共演する。  弥江子は、苛立っていた。どうしたって、「新しいもの」に目が向くのが、世間というものである。  しかし、製作発表の席では、ベラテンらしく堂々としていなくてはならない。  何といっても今日の主役は、三神である。 「シナリオ、読んだ?」  と、弥江子は言った。 「はい」  邦子は肯いた。 「長いセリフが多いわね。あの監督はいつもそう」  弥江子はスラリと伸びた足を組んだ。 「でも、憶えやすかったです、流れがきちんとあって」  と、邦子が言った。 「そう?」  弥江子は、邦子を見て、「もう憶えたの、あの本?」 「ええ、一応」  邦子がこともなげに言った。「でも、まだこれから変わるかもしれませんね」  弥江子は、驚きが顔に出ないように、苦労した。  長いシナリオなのだ。中でも、邦子の役はセリフが多い。  それを、今の言い方では、すっかり暗記してしまっているらしい。おそらく間違いないだろう。  とんでもない子だわ、と弥江子は思った。  控室のドアが開いて、共演者やスタッフがゾロゾロと入って来た。  弥江子は少しホッとした。みんなもちろん顔見知りだ。原口邦子は、ほとんど知らない人ばかりなので、じっと黙って、弥江子が一人ひとりと言葉を交わすのを見ていた。 「——やあ」  よく通る声がして、三神が入って来た。 「監督、おはようございます」  と、みんなが一斉に声をかける。  三神は、大して楽しくなさそうだった。もともと、こういう「イベント」風のことが大嫌いな性格で、現場で怒鳴っているか、フィルムを編集しているときが一番幸せなのである。 「お久しぶりです」  と、弥江子が挨拶すると、三神は、ただ肯いて見せた。  そして、隅の方に座っていた邦子を見付けると、 「やあ、どうだね、気分は?」  と、急に相好を崩して、歩み寄る。  弥江子は、三神が邦子をよほど気に入っているのだと感じた。もちろん、あっちは「若い」。それだけのことだ。  そう。——それだけだ。  弥江子は、自分へそう言い聞かせた。  ——製作会社のスタッフが、顔を出して、 「もう少しお待ち下さい」  と、言った。「沢田さんが遅れてて。あと五分ほどで着くそうですから」  沢田慎吾は、映画で弥江子と夫婦役になる、三十代の二枚目男優である。人気はあり、芝居もそこそこできるが、少しだらしのないところがあって、スキャンダルがよくTVや週刊誌をにぎわせている。 「仕方ない亭主ね」  と、弥江子が言ったので、控室にいた人間たちが、一斉に笑った。  笑っていないのは、三神だけだったろう。  あと五分のはずが、沢田慎吾が控室へ姿を見せたのは、十五分後であった。  そのころには、三神の苛立ちが誰の目にも明らかで、控室の中は段々重苦しい気分になって来ていた。  パッとドアが開くと、 「遅れて、どうも」  と、沢田の長身が、風を巻き起こすような勢いで入って来た。「いや、車がエンスト起こして、参っちゃった!——やあ、君、原口邦子だね。沢田だ。よろしく」  沢田は、ちゃんと三神が邦子のことを気に入っていると知っていて、わざと邦子へ先に声をかけたのである。 「監督、遅れてすみません」  と、早口でまくし立てるように、「撮影に入ったら、決して遅れませんから!」  三神も苦笑いしている。——沢田には、どこか憎めないところがあるのだ。 「や、僕の奥さん」  と、沢田がやって来ると、弥江子は、 「愛妻への挨拶が最後なの?」  と言ってやった。 「そりゃそうさ。監督には挨拶だけでいいが、奥さんにはそうはいかないからね」  沢田が大げさに弥江子の手にチュッと音をたててキスする。笑い声が上がって、控室の中の重苦しさが、やっと消えた。 「——すぐ始めます」  と、スタッフが顔を出した。「順番はこの紙の通りですから」  弥江子は立ち上がって、邦子の方を見た。見たくないと思っているのに、つい見てしまうのである。  緊張している表情。しかし、目が輝いている。 「若くていいね」  と、沢田が低い声で弥江子に言った。 「若いだけじゃないわよ」  と、弥江子も低い声で答える。「見たことある?」 「新人だろ?」 「並の新人じゃないわよ」 「そうだろうな。巨匠があれほど買ってるところを見ると」  と、沢田が肯く。 「——じゃ、行こうか」  三神の一言で、全員が背筋を伸ばした。    何て大勢の人!  邦子は、椅子に腰をおろして、目の前のかなりの広さの部屋を埋めている人々を見回した。  スタッフ、キャストが一列に並んだテーブルと、それに向かい合う椅子席。その間の空間には、何十人というカメラマンが、床に膝をついたり、腰をおろしたりして、待機している。  新作映画の製作発表記者会見は、定刻から二十分近く遅れて始まった。  しかし——その中身は、いささか邦子を失望させるものだった。  何といっても、取材に来ている記者から、ほとんど質問らしい質問が出ないのだ。およそ映画が好きで、ここへ来ているという人は見当たらないようだった。  要するに、記事になるだけのデータさえあれば、それでいい。——大方の人はそう思っているようだった。  結局、話す方は三神の独演会に近い。三神は、聞き手が分かっているかどうかなどお構いなしに、この新作についての考えをしゃべっていた。  せっせとメモを取る人たち。——カメラマンは、退屈そうに、話がすむのを待っている。  記者やカメラマンにとっては、日常の仕事の一つにすぎないのだ。いくら邦子にとってエキサイティングな出来事でも、彼らには何の関係もない。  しかし——それでも、邦子は、神崎弥江子、沢田慎吾に続いて名前を呼ばれ、立ち上がって頭を下げたとき、体の中に熱く満ちるものを感じた。  それに、記者たちの関心も、三人の中では邦子に一番集まっている様子だった。 「——それではご質問は」  と、司会者が言って、「もう、ありませんか?」  会場を見渡す。——一人の、くたびれた感じの中年男が手を上げた。  ハンドマイクが手渡されると、 「ええと……神崎さん。このところ、ある歌手との交際が噂になってますが、事実ですか?」  と、抑揚のない声で訊いた。  一瞬、会場にしらけた空気が流れる。  司会者が、 「恐れ入りますが、この会見では、作品のことに質問を限っていただけますか」  と、言った。  三神にとって、この手のことが最も不愉快なのである。スタッフはみんなそれを知っているので、ハラハラしている。 「しかしですね、なかなかこういう機会がないので」  と、その男は言ったが、会場の空気に気付いたのか、「いや、それじゃ結構です」  と、肩をすくめた。  三神が不機嫌に腕組みをしている。司会者は、 「では、これで——」  と、打ち切ろうとした。 「あの——一つだけ、原口邦子ちゃんに」  と、女性の記者が手を上げた。  邦子はドキッとした。一体、何を訊くつもりなのだろう。  邦子は、一人ひとりの挨拶のとき、きちんと今度の仕事についての抱負を述べていた。  よくアイドルスターが言う、 「頑張ります」  ではない。  三神も、邦子の言葉を面白そうに聞いていた。  その邦子へ、何の質問だろう? 司会者は、邦子がまだ新人ということもあり、その女性記者へマイクを回した。 「邦子ちゃんは、アイドルの安土ゆかりちゃんと昔からの友だちだそうですね」  と、女性記者は言った。 「そうです」  と、邦子は答えた。 「ゆかりちゃんはもう今、トップスターになってるわけですが、一緒に芸能界入りした友だちとしては、どんな気持ちですか」  邦子は、ちょっと耳を疑った。——その質問は明らかに、二人の間の「人気の差」について、邦子に何か言わせようという意図をこめたものだった。 「君、失礼だろう、そんな言い方は」  と、三神が腹立たしげに言った。「原口君は役者で、アイドルじゃない。人気の上下が問題にはならないよ」  女性記者は、引き下がらなかった。 「私、邦子ちゃんにお訊きしてるんですけど——」  三神が怒鳴りつけそうになった。邦子は、自分の前のマイクへと少し顔を寄せて、 「ご返事します」  と、よく通る声で言った。「俳優は、すべてが演技の勉強です。恋人に振られれば、これで失恋の演技ができる、と思いますし、オーディションに落ちれば、落ちこぼれの心理が学べた、という風に受け取ります。ゆかりとは今でも仲良しですし、お互い、人気のあるなしは関係ありません。でも——少なくとも、私は、なかなか芽の出ない役者の卵の役は、自信を持ってやれるようになりました」  会場がドッと笑った。拍手も起こる。  邦子は、意地悪な質問をうまく捌いて見せたのだ。 「——では、写真撮影に移りたいと思います。監督を囲んで、みなさん、立っていただけますか」  立ち上がった邦子たちへ、一斉にカメラのシャッターが切られ、ストロボが光った……。    石巻浩志は、その記者会見の様子を、会場の一番隅に立って、眺めていた。  仕事で外出したついでに——というより、仕事にかこつけて、この席を覗きに来たのだが——寄ってみた。もちろん、邦子は何も知らない。  しかし、邦子は今、輝いて見えた。  浩志は、邦子にゆかりとのことを訊いた記者の質問にムッとしたが、それに巧みに答えた邦子の機転に感心していた。  監督の三神も喜んでいる様子で、上機嫌でカメラにおさまっている。  ただ——浩志の目にも、神崎弥江子が面白くなさそうにしているのが分かる。  やはり、邦子の方が注目されているのが、気に入らないのだろう。  難しいものだ。神崎弥江子自身も、かつては先輩をかすませる輝きを見せて、登場したのだろうが。——人生は、そんな風にできているのである。  はたで見ていてもまぶしいほどのフラッシュの光に、浩志は少し目を細くし、会場を出た。 「やっぱり来てた」  目の前に森山こずえがいるのに、びっくりして立ち止まる。 「何してるんだ?」 「お使いに来たの」  と、こずえは、いたずらっぽく笑った。「そしたら、たまたまここへ着いちゃったのよ」 「それじゃ、僕と同じだ」 「そうね」  二人は一緒に笑い出した。 「——よし。じゃ、どこかで甘いケーキでも食べて行こうか」  と、浩志は誘った。 「甘い誘惑ね。乗った!」  二人は、記者会見の会場になったホテルのバンケットルームを後に、歩き出した。 「でも、あの子、頭がいいわね」  と、こずえが言った。 「邦子かい? 聞いてた?」 「ええ。なかなか、あんな風には答えられないものよ、とっさに」  浩志は肯いて、 「これで、きっと邦子の才能も評価されるようになる」 「でも——よく気付かれなかったわね」 「僕のことか?」 「そうよ。ゆかりさんの恋人として、身許もばらしちゃったわけだし」  確かに、国枝の所から、ゆかりを助け出すために、浩志は本当の身分を明かさなくてはならなかった。会社の中でも、問題にはなったらしい。  しかし、別に悪いことをしたわけでなし、結局、浩志は同僚から冷やかされるだけですんだのである。  取材の人間に追い回されたことも、何度かある。しかし、西脇がうまくマスコミ各社へ連絡してくれて、それも下火になった。  ゆかりも、もう落ちついて、以前の通りの活動に戻っているが、マネージャーの大宮が、神経を尖らして、更に一人、「用心棒」として柔道何段というがっしりした男が、ゆかりにつくことになった。  浩志は、あの車を国枝の所へ返した。  国枝からは、あれから何も言って来ない。本当にゆかりのことを諦めたのかどうか、浩志はまだ安心しているわけではなかった……。 「きっといい映画になるわね」  と、こずえが言って、浩志はふと我に返った。 「ああ。——きっとね」  と、肯いて、「ところで、何を食べたいんだ?」  と、浩志は訊いた……。    神崎弥江子は、会見がすむと、早々に控室へ戻った。  一人でタバコを喫っては、灰皿へ押し潰す。まるで、押し潰すために喫っているみたいだった。 「——何、むくれてんだ?」  と、沢田慎吾が入って来る。 「何も」 「分かってるよ」  と、沢田は、ソファに身を沈めて、「あの子だろ」  邦子と三神は、なかなか戻って来ない。記者やカメラマンに囲まれているのである。 「主役は私たちよ! それを、監督と来たら……。まるであの子が主役みたいじゃないの!」 「仕方ないさ」 「腹が立たないの?」 「実力と人気の世界さ。君はあの子と共演したのか」 「この間ね」  と、弥江子は渋い顔で、「いやな仕事だった」 「いつ放映?」 「聞いてないわ。もう少し先のはずよ。何しろ、安土ゆかりのスケジュールに合わせてとったんだから」 「まあ、大きく構えてろよ。君は大スターだぜ」 「分かってないのね。スターは大きくなればなるほど、落ちて行くのが怖いもんよ」  表面上は、どんなに落ちついて見えるとしても、スターは見られてこそ「スター」なのである。 「今度の仕事は疲れそうだな」  と、沢田が笑った。  ふと——弥江子が、何か思い付いた様子で、 「ね、あなた、あのドラマのプロデューサーと仲いいんでしょ」  と、言った。 「誰だって?——ああ、奴なら、昔からの悪友さ」 「ねえ」  と、弥江子は身をのり出すようにして、言った。 「お願いがあるの。この前とったドラマのことでね……」 旧 友 「乾杯!」  グラスがガチャガチャと音をたてる。  およそ「優雅さ」とはほど遠い音だったが、今は誰も「優雅」を装う必要などなかった。古い友人たちばかりなのだ。 「ああ、いいなあ、マネージャーなしの外出って!」  ゆかりがビールを一気に半分ほど飲んで、フーッと息をつくと、言った。 「心配してない?」  と、邦子が訊く。「私の同じオフィスのマネージャー、心配性なの。『何かあったら』、『何かあったら』っていつも言ってるから、『たら』さん、ってあだ名なのよ」 「私の方は慣れてんじゃない? 時々行方不明になるからね」  と、ゆかりは澄ましている。 「おいおい」  と、浩志が苦笑して、「もうやめてくれよ、姿を消すのは」  みんなが一斉に笑った。 「お兄さん! このお鍋、運んで」  と、台所で克子が呼ぶ。 「おっ、今行く」 「手伝うわよ、克子ちゃん」  と、邦子が腰を浮かすと、 「いいのいいの。私にも、ちっとは料理ができるってところを見せてやんないとね」  克子が、振り返って言った。「二人とも、のんびり座ってて」  浩志が大きな鍋を、両手で持って来る。 「どいたどいた! 危ないぞ!」 「お兄さん、気を付けてよ。お二人とも、女優さんなんですからね」  ——ここは、克子のアパートである。  もちろんアパートの住人の誰も、この部屋に安土ゆかりと原口邦子が来ているなんて、考えてもいないだろう。  本当に、まれなことだが——二人のオフの日がたまたま重なったので、その前夜、こうしてここへ集まることにしたのだ。いくら遅くまでしゃべっていてもいい。  浩志も、明日は会社を休むことにして、届を出して来ていた。克子はそういうわけにいかないようだが、いくら遅くまでしゃべっていても、ちゃんと起きられる性格だ。 「——ごめんね、克子ちゃん」  と、邦子が言った。「もし、三神監督から突然連絡でも入ったら、って言われて、ここの電話、マネージャーに教えて来ちゃった」 「構やしないわ。私にお声はかかんないだろうしね」  克子は、電気釜を持って来た。「——さて、久しぶりに使ったけど、うまく炊けたかなあ」 「大丈夫さ。——おい、買って来たもの、出さなくていいのか?」 「あ、いけない」  浩志が、また立ち上がって、大きな皿を出して来ると、買って来た焼き鳥を並べる。 「女が三人いて、男は浩志一人なのにね」  と、ゆかりが愉快そうに言った。「一番パッと動くのは浩志だね」 「慣れてるのさ」  と、浩志は言った。 「でもね、克子ちゃん、ここの番号、絶対極秘って言ってあるからね」  と、邦子が念を押す。「その点は大丈夫よ、うちのマネージャー」 「分かってるって。——あ、ほど良く炊けてる!」  と、克子が手を打つ。 「当たり前だ。自動炊飯器だぞ」  浩志が冷やかすと、 「うるさいわね」  と、克子が兄をにらんだ。 「それより——これ、あっためるのか?」 「うん。電子レンジ。分かる?」 「馬鹿にするな。——あれ、どこを押すんだ?」 「やるわよ」  と、克子が立って来る。 「じゃ、ご飯は浩志からよそってあげよう」  ゆかりが、浩志の茶碗(一応ここにも一つ置いてある)を取り上げる。  ふと、浩志は昔の日々を思い出していた。高校生のころの、あの遠い昔……。いつもこんな風にはしゃいでいた。  抑えても、抑えても、「若さ」が溢れて来るとでもいうように。  しかし——もちろん、この四人の誰もが、昔のままではない。  邦子が、マネージャーにここの電話番号を教えなくてはならなかったように、ゆかりもまた、このアパートの外で、「用心棒」が待機していて、帰りは送って行くことになっている。  もちろん、またゆかりに国枝の手が伸びないかと心配してのことである。  しかし、できることなら、この二人のささやかな「友情の宴」を、誰にも邪魔させたくない、と浩志は思った。  克子にしても——そう、克子だって、昔の「克子ちゃん」ではない。  克子の付き合っている男について、浩志は未だに何も訊かずにいる。いい加減な遊びのできるタイプではない妹のことをよく知っているだけに、浩志としては訊くのが辛いのだ。  その点、ちっとも変わってないのは俺だけかな、などと浩志は考えたりしていた。 「——おいしい、これ」  と、鍋をつつきながら、ゆかりが目を白黒させている。「でも、熱い!」 「当たり前だろ。ゆっくり食べろよ」 「でも……急いで食べるくせがついちゃってる」 「そうよね」  と、邦子もゆかりに同調する。「ロケのときのお弁当なんて、ひどいときは毎日同じ。見ただけでいやになっちゃう」  と、邦子は鍋をつつきながら言った。 「ねえ。まさか現実がそんなもんだなんて、見てる人は思ってもいないだろうけど」  ゆかりはそう言って笑った。 「この前、TVの二時間ドラマに二、三日だけ出たのね。そのときのお弁当なんて、犬や猫も食べないような、ひどいのでね。さすがにみんな一口食べたら、やめちゃったの。そしたら、プロデューサーが来て、そのお弁当を見て、『何だこれは!』って怒鳴ったのよ。あ、少しましなものでも出してくれるのかな、と思ったら、そのプロデューサー、『こんな高い弁当、誰が買って来た!』ですって。——みんな、唖然」  浩志は、首を振って、 「表だけ華やかだから、そんなことがあるって聞くと、何だか気が重いね」  と、言った。 「そうねえ、やっぱり人間だと思ってないんじゃないかな、タレントのことを。そういう人って一杯いる」  と、ゆかりが肯く。 「楽じゃないわね」  と、克子が言った。「邦子さん、おかわり?」 「あ、いただくわ」 「うんと食べて。凄く沢山炊いちゃったから」 「——タレントやってて、何か得なことってあるのかなあって思うわ、ときどき」  と、ゆかりは言った。「顔だけは知られてるから、一人で遊びにも行けないし、世間の人は、大儲けしてると思ってるし……。それに、好きなように恋もできないしね」 「あら、結構やってるんでしょ、ゆかり」 「苦労してるわよ。わざわざ車で何時間もかかるホテルへ出かけたり。翌朝仕事入ってたりすると、ゆっくり眠るわけにもいかないしね」 「奥さんのいる人と、食事とかしただけで〈不倫〉って騒がれて。——損よね、本当に」  邦子の言葉を聞いて、克子がちょっと目を伏せる。浩志は、ちゃんとそれに気付いていた。 「それでもやめられない、何かがあるんじゃないのか?」 「うん」  邦子は肯く。「カメラが回ってるときの、ゾクゾクする感じとか、舞台に立って、何百人の目を自分の肌で感じてるときとか……。あの瞬間のためにやってるんだな、って思うわ」 「私は、キャーッて騒がれるのが快感」  と、ゆかりはあっさりしている。「有名になるって、無名でいるよりはましよ。何てったって、きれいになるしね」  確かにそうだ、と浩志は思った。  いつも誰かに見られている。その意識が、驚くほどスターを「スターらしく」させる。  ゆかりも邦子もそうだ。 「でも、二人とも凄いわよ」  と、克子が言った。「夢を持ってて、それをちゃんと現実のものにしたんだもの」 「浩志のおかげ。——本当だよ」  と、ゆかりは言った。 「よせよ。友だちなら当たり前さ。——さあ、もっと食べろよ」 「うん」  四人は、またにぎやかに鍋をつついた。電話が鳴り出して、克子が急いで出た。 「はい。——あ、どうも」  声が低くなり、克子は浩志たちの方へ背を向けた。「——うん。——今、友だちが来ててね。——そうなの。明日、連絡とれる?」  ゆかりたちは、克子の話に注意を向けていないようだったが、浩志はつい、そっちを聞いてしまう。  話し方から言って、あの男からかかって来たのだろう、と見当がつく。もちろん、気付かないふりをしていたのだが。  克子は電話を終えて戻ると、 「さ、もうひと頑張りだ!」  と、はしを取り上げた。 「へえ、そんなことがあったの」  と、ゆかりが言った。  みんな、満腹になって、思い思いに寝そべったり、腹這いになったりしている。  何の話からか、浩志たちの父がやって来たことが話題になったのである。 「今、どこにいるの?」  と、邦子が言った。 「知らないわ。知りたいとも思わない」  克子は肩をすくめた。「コーヒー、いれようか」 「そうだな」  克子が台所へ立って行く。  コーヒーの豆をひいていると、また電話が鳴り出した。 「俺が出る」  浩志が出てみると、邦子のマネージャーからである。 「——ごめん」  と、邦子が替わる。「もしもし。——うん、そろそろね。何かあったの?——え?」  邦子の顔が少し固くなった。 「それって——。うん。——分かったわ。詳しいことはあとで聞く。じゃ、迎えに来てくれる?——待ってる」  ゆかりが、寝そべったまま、 「どうかしたの?」  と、訊いた。 「この間のスペシャルのプロデューサーが、至急会いたいって。何だろう」  と、邦子が首をかしげた。 「あの番組? 私が頼んで出てもらった」  と、ゆかりが訊くと、 「そう。短いけど、やりがいのある役だったわ」  と、邦子は微笑んだ。 「凄かったよ、邦子。どうしてあんなお芝居ができるの?」 「さあね。後になると、ああすりゃ良かった、こうしときゃ良かった、って思うんだけど」 「で、何の用か分かんないの?」 「うん……」  邦子は、少し不安そうだ。 「きっと、びっくりしてんじゃないの、邦子のお芝居に。他の仕事の話かもよ」  と、ゆかりが言うと、邦子は首を振って、 「マネージャーの話だと、あんまりいい話じゃないみたい、って。あの人、そういう点、敏感なの。ともかく会って来なきゃ」 「すぐ帰るかい?」 「迎えに来てくれるから。でも、一時間はかかると思うわ」  と、邦子は言った。「心配しててもしょうがない。コーヒー、ゆっくりいただいてくから」  しかし、邦子の顔からは、すぐに笑みが消えた。——たぶん、今の電話で、何か聞いているのだ。  ただ、この場の雰囲気に水をさすのがいやなので、黙っているだけだろう。邦子はそういう気のつかい方をする子である。 「ゆかり、今は恋人いるの?」  と、邦子が話題を変えた。 「特にこれ、っていうのはね。面倒くさくなっちゃって。それに最近怖いじゃない、エイズとか」 「深刻ね」  と、邦子は膝を立てて、抱え込むようにすると、「私って、忙しくなると、誰かに夢中になるの。たいていそう。——映画が始まったら、何か起こりそうな予感がある」 「邦子はいいね。浩志に迷惑もかけないし」  と、ゆかりは笑った。「克子ちゃんは? 恋人、いないの」 「え?」  克子は、一瞬ドキッとした様子だった。「恋人ねえ……。お兄さんが先に片付いてくれないとね」 「おいおい、何だよ」  と、浩志も笑って、「ごみじゃないぞ、片付けるなよ」 「浩志みたいな、すてきなお兄さんがそばにいると、男を選ぶ目も厳しくなるね」  と、ゆかりは言った。 「別に、そんなことないけど」  克子は澄まして、「お兄さんの方が大変でしょ。何しろ、スター二人と、この美しい妹に囲まれてるんだから」  みんなが大笑いした。和やかそのものの空気だった。 「さ、片付けよう!」  と、邦子が言った。「ゆかり、ちゃんと片付けて帰ろうね」 「あ、いいのよ、私とお兄さんでやるから」  と、克子が止めたが、 「ううん。やりたいの。ね、やらせて。四人でワッとやった方が、終わるのも早いし」 「そうよ。やろう、一緒に」  と、ゆかりも立ち上がる。「浩志は座ってなさい」 「そうそう。いつも世話になってるから、そのお礼」  浩志も、ここは二人の言う通りにすることにした。  克子と三人、狭い台所でぶつかりそうになりながら、お皿や茶碗を洗っているのを見ていると、浩志はつくづく思うのだった。あの二人が、いかに「当たり前の生活」から遠ざかってしまっているか。  ある程度やむを得ないことだとしても、決して二人はそれを望んでいたわけではないということを、浩志は痛いほどに感じたのだった……。  ——邦子のマネージャーが迎えに来て、ゆかりも、 「いつまでも、用心棒さんを表に立たしとくのも、申し訳ないね」  というわけで、帰ることになった。 「じゃあ、また」 「機会をみて、またやろう」  と、浩志は、二人を外まで送って行った。  ——二台の車が走り去って行くと、浩志は、外気の冷たさに初めて気付いて、身震いした。  克子の部屋へ戻ると、 「帰った?」  と、克子が新聞を広げている。 「うん。——お前、大変だったな」 「いいわよ。久しぶりで楽しかった」  と、克子は言った。「まるで昔に戻ったみたいだった。——もちろん、二人とも、格段にきれいになったけど」 「中身は変わらないさ」 「そうよね。いつまでも、あのままでいてほしいなあ……」  克子は、ちょっと遠くを見る目つきになって、「お兄さん、泊まってく?」 「いや、お前、明日は会社だろ? 早く寝た方がいいぞ」  と、浩志は言って、欠伸をした。「楽しい夜だったな」 「うん」  克子が肯く。「——お兄さん」 「何だ?」 「私……恋人、いるの」  浩志は座り直して、 「そうか」  と、言った。 「その内——いつか会ってもらうからね。今は、ちょっとだめだけど」  克子は、目を伏せて、そう言った。 「だめ? どうして今は会わせてくれないんだ?」  と、浩志は訊いた。 「まだ——はっきり、どうなるって決まったわけじゃないの。だから……」  と、克子は曖昧に言った。 「分かった。こっちはいつでも暇さ。お前の恋人なんだから、好きなときに連れて来い」 「ありがとう」  克子は兄を、めったに見ない目つき——少し潤んだ眼差しで、見た。 「珍しいこと言うなよ。雪が降る」  と、浩志は言ってやった……。    自分のアパートへ戻ると、ちょうど電話が鳴っていた。 「——はい」  と、出てみると、 「あら、浩志さん、帰ってらしたの」  父の妻、法子である。 「今、帰ったところです」  と、浩志は言った。「何かご用ですか」 「お父様、そちらじゃないんですか?」 「父はいません。克子の所にも」 「じゃ、どこに?」 「さあ。——何でも、頼れる知り合いがいると言って、出て行ったきりです」 「そう。別に捜してもいらっしゃらないわけね」 「父も子供じゃありませんからね」  と、浩志は言って、「どうしてあなたが気になさるんです、父のことを?」  皮肉のつもりだが、通じたかどうか。 「いえね、弟の所に、電話があったらしいんです。何だか、えらく上機嫌で、好きなことをして暮らしてる、と言ってたとか。で、どうしたんだろうと思って、気になって」 「そうですか……。僕には見当もつきませんがね」 「じゃ、結構です。遅くにごめんなさい」 「いいえ」  浩志は電話を切った。  法子と話した後は、手を洗いたくなる。  それにしても——父はどこにいるんだろう? ああいう性格で、親しい友人など、いたとは思えない。  いや、父があの家や土地を持っていたときには、それなりに付き合う相手もいた。何といっても、あの町では旧家の一つである。  しかし、東京へ出て来てしまったら。しかも、何もかも失って……。  一体誰が父の面倒をみてくれているのだろうか?  まあ、こっちとしては気にすることもない。世話した分の請求書でも回って来ない限りは。  あの法子の口調は、父にそんな「金のある」知り合いがいたのかしら、と気にしていた。  浩志は、一人で笑い出していた。金の匂いには敏感な人間がいるものなのだ。 カット  ゆかりは、オフの日にはいつまでも寝ている。  人間、寝だめはできないということになっているようだが、ゆかりは別である。 「ゆかりさん」  と揺さぶられて、目を開けると、マネージャーの大宮が立っている。 「何よ、レディのベッドのそばに。私を襲う気?」  と、少しろれつの回らない口調で言った。 「もう午後の三時ですよ」  と、大宮は言った。「それに何回電話しても、チャイムを鳴らしても、返事がないんで、入って来たんです」 「本当? おかしいなあ……」  起き上がって、ゆかりは長い欠伸をした。 「起きた方がいいですよ。寝すぎても、却って頭がボーッとしちゃいます」  大宮は、ゆかりがおへそまでまくれ上がったネグリジェ姿でベッドから出て来ると、あわてて目をそらし、 「居間で待っています」  と、出て行ってしまった。  大宮をからかって、少し目の覚めたゆかりは、ゆうべの楽しいひとときを、思い出していた。  邦子、浩志、克子……。私には、かけがえのない友だちが三人もいる! 「さて、シャワーか」  バスルームへ入り、シャワーを浴びると、大分目が覚めて来た。  同時に、お腹の方も目が覚めたとみえて、グーッと空腹を訴え始めたのである。  バスローブ姿で居間へ入って行くと、 「——お腹空いた。ねえ、大宮さん、何か買って来てよ、近くで」 「夕ご飯、ご招待受けてますよ」 「そうだっけ。誰?」 「K物産の尾上社長です。ほら、コンサートのとき、スポンサーになってくれた」 「あのじいさんか」  と、ゆかりはため息をついた。「もうちょっと若くて二枚目のスポンサー、いないの?」 「無茶言わないで。高いもの食べさせてくれますよ」 「あのじいさんとじゃ、栄養になんないわ」  と、ゆかりはソファに腰をおろすと、「ともかく、今何か食べないと、死んじゃう」 「はいはい」  大宮は立ち上がって、「ハンバーガー?」 「チーズバーガーよ。〈M〉の店のね。よそのはだめ」 「分かってますよ」  大宮が急いで出て行く。ゆかりがTVを点けて、ぼんやり見ていると、電話が鳴り出した。 「はい」  ゆかりは、面倒くさそうな声を出した。 「やっと起きたのか」  受話器から聞こえて来たのは、社長の西脇の声だった。 「おはようございます」  と、ゆかりは頭まで下げて言った。 「もうすぐ夕方だぞ」  と、西脇が笑って言った。「大宮は行ったか」 「今、ハンバーガー、買いに行ってる。夜の食事のこと?」 「それもある」  と、西脇は少し含みのある言い方をした。「きちんとした格好で来いよ」 「フランス料理? いやだなあ、固苦しいのは」 「仕事の内だ、それも」 「今日はオフですよ」  と、ゆかりは言ってやったが、もちろん、いざとなればちゃんと自分の「役割」はやってのけるのだ。  西脇も、その辺は分かっている。——スターは多かれ少なかれわがままなものだ。しかし、「仕事」さえきちんとこなしてくれれば、わがままも決してマイナスにはならない。 「夕食には俺も出るからな」  と、西脇が言った。 「良かった! おじさん相手じゃ、何話していいか分かんないもん」 「適当にニコニコしてりゃいいんだ、いいな」 「はあい」 「七時からの約束だが——それまで、何か予定、あるのか」 「昼寝」 「おいおい……。もし、何もないんだったら、この前のドラマが試写をやるそうだ。見るか?」 「この前の……。邦子の出たやつ?」 「ああ、そうだ」  と、西脇は言った。 「うん! 見に行く。どこ?」 「大宮が知ってる。じゃ、局で会おう」 「邦子、来るかなあ」 「——どうかな」  西脇は、何となく素っ気ない調子で言うと、「じゃ、後で」 「はい。バイバイ」  ゆかりは、電話を切ると、口笛など吹きながら、早速寝室へ戻り、服を引っ張り出した。  ——大宮がハンバーガーの包みをかかえて戻って来ると、ゆかりはもう出かける仕度をしている。 「あれ? どうしたんですか」 「局で試写なんでしょ」 「あ、社長から電話があったんですね。これ食べてからでも、充分間に合いますよ」 「もちろん、食べて行くわよ!」  ゆかりは勢いよくチーズバーガーにかみついた。    邦子の姿は、見えなかった。  ゆかりは並べられた椅子に腰をおろして、少しがっかりしていた。——邦子も今日はオフのはずだ。きっと、自分の出た場面を見に来ると思っていたのである。  でも、邦子もくたびれてるんだろうし……。  試写といっても、今のドラマはビデオ収録だから、少し大きめのTVで見るだけ。映画の試写とは大分違う。 「おはようございます」 「どうも」  と、あちこちで声が交わされる。  演出家や、カメラマンや、スタッフが何人か。役者は、ゆかりの他には、わきの二、三人しか来ていない。 「もう少し待って下さい」  と、局の男性が前に出て、言った。「神崎さんがみえるはずですから」  神崎弥江子か。——ゆかりなどから見れば、もちろん大先輩だが、一番活躍していた時期を、ゆかりは知らない。  だから、周囲がピリピリ神経をつかって接しているのを見ても、何となくピンと来ないのである。もちろん、ゆかりとしても、敬意は払っている。でも、あれこれ話をする気にはなれなかった。 「——おはよう」  ドアが開いて、神崎弥江子が入って来る。  私が「主役」よ。いかにも、そう言いたげな風情である。 「——じゃ、早速始めます」  と、声がして、ビデオが回り始める。 「何だか気分出ないわね。暗くもならないし……」  と、神崎弥江子が、ゆかりのすぐ後ろの椅子に腰をおろして言った。  TVの画面に、ゆかりのアップが出る。  自然な笑顔だ。——邦子みたいに、演技で笑って、色んなニュアンスを使い分けるという芸当は、ゆかりにはできない。  しかし、ゆかりのファンにとっては、そんなことは問題じゃないのだ。ゆかりが可愛く見えれば、それでいいのである。 「——ねえ、ちょっと結末がわざとらしくなかった?」  と、神崎弥江子が大きな声で言った。  シナリオライターも同席しているが、そんなこと、お構いなしである。  ゆかりは気にしないで、TVの画面に見入った。タイトルが出て、テーマ音楽が聞こえて来た……。  ——おかしい、とゆかりは思った。  邦子の名が、タイトルに出ない。冒頭には、メインのキャストだけが出るのだが、いくら出番が少ないといっても、邦子は、あれだけの芝居をしているのだ。  それなのに……。  邦子がこれを見たら、どう思うだろう。ゆかりは、気が重くなって来た。  二時間ドラマといっても、正味は百分程度。つまり一時間四十分くらいのものである。  ドラマが終わって、エンドタイトルが出るのを、ゆかりは信じられない思いで見ていた。 「——結構いいじゃない」  と、後ろで神崎弥江子が言った。「ね、後味悪くないし。テンポがいい」 「お疲れさまでした」  局の男性が出て来て、TVのスイッチを切る。  ゆかりは、じっとそれでもTVの画面を見つめていた。  ——邦子の出たシーンが、なくなっていた。一つもない。  ゆかりの顔から血の気がひいている。——ゆうべ、邦子が、このドラマのプロデューサーから呼ばれていたことを、思い出した。あれは、「この話」だったのか。  でも——なぜ? 「じゃあ、また」  神崎弥江子が、大げさに手を振って出て行く。  西脇が、隣の椅子に腰をおろした。 「——どうして?」  と、ゆかりは訊いた。「私が……頼んで出てもらったのに……」 「分かってる」  西脇は肯いた。  ゆかりが振り向くと、ディレクターやシナリオライターは、さっさと出て行ってしまっていた。 「邦子……あんなすばらしい演技をしたのに。どうしてカットしたの?」  西脇は、ちょっとため息をつくと、 「すばらし過ぎたのさ」  と、言った。「大女優のカンに触った、ってわけだ」  ゆかりにも、やっと分かった。 「神崎さんが——?」 「ああ。もちろん、本人が直接動いたわけじゃないが、みんな分かってる。自分の影が薄くなるのをいやがったんだ」 「だけど——」 「お前の気持ちは分かるけどな。何といっても、神崎弥江子は大女優だ」 「だったら、何をしてもいいの?」  ゆかりは声を震わせた。「汚いわ! 卑怯じゃないの!」 「おい、ゆかり——」 「邦子の出番を戻して! 私のシーンなんか、いくらカットされたっていい! 絶対に、邦子の出たシーンを、元の通りに戻して!」  ゆかりは立ち上がった。怒りで体が震えている。 「ちゃんと邦子を出してくれないんだったら、私、やめてやる!」 「ゆかり、落ちつけ」  と、西脇がなだめても、ゆかりの怒りは到底、おさまらない。 「私、本気よ! 友だちを裏切るくらいだったら、やめた方がまし!」 「こういうことは、珍しくないんだ。神崎弥江子だって、その内人気が落ちて来る。そうなりゃ——」 「そんなこと言ってるんじゃない!」  甲高く、叫ぶようにゆかりは言った。「私が頼んだのよ。わざわざ邦子に出てくれって。それをカットされて……。邦子がどんな気持ちでいるか……」  ゆかりの目から大粒の涙がはらはらと落ちた。拭いもせずに、 「できるはずだわ。邦子の出たシーン、戻して!」 「ゆかり——」 「でなきゃ、私、この局の仕事、一切引き受けない。本気よ」  涙で真っ赤にした目で、ゆかりは西脇を真っ直ぐに見据えた。 「そんなことをしたら——」 「干される? 構わない。田舎に戻って、OLでもやるわ。友だちを裏切って平気でいられるような、そんな女になるのなんて、いや!」  西脇も、ゆかりの怒りの凄まじさに、圧倒されているようだった。  そばで聞いていた大宮が、 「社長」  とやって来た。「プロデューサーに、頼んでみますか」 「今さら無理だ」  と、西脇は首を振った。「そんなことをして、神崎弥江子がどう出て来るか……」 「私、怖くなんかない」  ゆかりは、固く握りしめた拳を震わせた。  西脇は、椅子に腰をおろすと、困り果てた様子で、 「お前が怒るのは当然だ。そんなお前のことが、俺は好きだ。しかしな、こんなことでお前のこれからを——」  部屋の中が静かになった。  誰かが、入り口の所に立っていた。 「監督……」  三神憲二が、腕組みをして、入り口のわきにもたれて立っていたのである。 「今日、試写があると聞いてね」  と、三神は言った。「局の人間に言っといたんだ、知らせてくれと」 「ゆかり——ご挨拶しなさい」  と、西脇はあわてて言った。  ゆかりが急いで涙を拭う。三神憲二は、部屋へ入って来ると、 「いや、君の挨拶は、今、ここで聞いていたよ」  と、言った。「すてきな挨拶だった」  ゆかりは、三神憲二が何を言い出すのか、緊張して立っていた。 「今のビデオは、あっちの操作室の方で見ていたよ」  と、三神が言った。「いや、どうして原口邦子が出て来ないのかな、と思って首をかしげていたんだ。——今の君の話で、よく分かった」 「取り乱して……すみません」 「いや、この世界で、めったに見られないものを、見せてもらったよ」  三神は、ゆかりの肩に手を置いた。力強い大きな手だった。 「正直に言わせてもらえば、ドラマの中の君より、今の君の方が、ずっと美しかった」  ゆかりは少し照れた。 「この一件に関しては、僕に任せてくれ」  と、三神が言った。「原口邦子の出番を戻したとしても、当然、神崎弥江子は邦子を恨むだろう。今度の映画は、邦子の大切なステップだ。邦子に、余計な精神的負担をかけることは避けたい」 「はい……」 「心配するな。映画では、邦子は神崎弥江子を圧倒するよ。約束してもいい」  と、三神は微笑んで、ゆかりの肩を軽く叩くと、 「僕の映画は、決して誰にも切らせない」  と、言った。 「それでいいね?」  ゆかりは肯いて、 「はい」  と頭を下げ、「すみませんでした」 「ただ、このプロデューサーは、僕もよく知ってる。一言、おどかしといてやるさ」 「お願いします!」  と、ゆかりが力強く言ったので、三神は愉快そうに笑った。 「監督、どうもわざわざ……」  と、西脇が汗を拭いている。 「いい子を持ってるね。大切にしなさい」  と、三神は言って、「一度、僕の映画に出るか」 「はい」 「おい、気楽に返事するなよ」  と、西脇は苦笑して、「三神監督の映画に出していただくのは、大変だぞ」 「〈通行人 A〉でもいいです」  ゆかりの言葉に、三神はもう一度笑うと、 「じゃあ……。いずれにしても、原口邦子の出たシーンは、ビデオが残っているだろう。見せてもらうよ」  と言って、フラッと部屋を出て行った……。  ゆかりは、ぼんやりと見送っていたが、 「おい、満足か?」  と、西脇に言われて、 「うん」  と、明るく肯いたのだった。 横 顔  ところで、浩志の方は、この日休暇をとっていたので、昼すぎまでのんびりと寝ていた。  前の晩の、ゆかり、邦子との楽しい「同窓会」(でもないが、似たようなものだ)のことを思い出しながら、布団の中で寝ているような起きているような、をくり返している内、気が付いたら午後の三時になっていた!  さすがにびっくりして起き出す。  顔を洗ったりしている内に、お腹の方もグーグーと空腹を訴え始めた。  その辺に何か食べに出ようか。せっかくの休暇だが、こうしてぼんやりと過ごすのも、悪い気分じゃない。  ひげを剃り、アパートを出ようと玄関のドアを開けると、邦子が立っていて、びっくりした。 「——何だ。どうした?」  と、面食らって、「忘れものでもしたのかい、克子の所に?」 「そうじゃないの」  邦子は、何となく沈んだ表情だった。「急に仕事が入って……。その途中に寄ったの。——十五分だけ、上がってもいい?」 「ああ、もちろん」  浩志は、部屋へ邦子を上げると、「今まで寝てたんだ。——何か飲む?」 「いいの」  邦子は、何となく様子がおかしかった。 「どうかしたのか」 「ゆかりから、電話か何かあった?」 「いや、別に。——どうして?」  邦子は、ちょっと目を伏せて、 「ゆうべ、プロデューサーに呼ばれたでしょう」 「ああ。何の用事だったんだ?」  浩志は、邦子の口から、ドラマの出番をカットされたことを聞いて、空腹も忘れて唖然とした。 「しかし、ひどい話じゃないか、そんなこと!」 「ねえ。——プロデューサーの話だと、ゆかりの事務所から、出番が少ないって苦情が来たとか。それで、本筋に関係のない、私の出るエピソードを切ったっていうの」 「まさか!」 「ギャラは払ってくれるんだけど……。でも、あのときは必死で……」  邦子の目からポロッと大粒の涙が落ちた。  ほとんど表情を変えずに、涙だけが落ちるのを見て、浩志はいっそう胸が痛かった。何といっても、邦子は演技に命をかけているようなところがあるのだ。  それを簡単にカットされて、邦子の気持ちは察するに余りあるものがあった……。 「しかし——西脇さんがそんなこと言うかなあ。僕から訊いてみよう」 「いいえ、やめて」  邦子は急いで首を振って、涙を拭った。 「しかし、事情をはっきり聞いた方がいい。ゆかりだって、気にするよ」  と、浩志は言った。 「ゆかりは何も知らないと思うわ。知ってて、ゆうべあんなに楽しくやってられない。ゆかり、それほど名優じゃないもの」  と、邦子は言って笑った。 「しかし……もうどうにもならないのか」 「一方的に通告されただけだもん。こっちの意向なんて、関係なしよ」 「ひどいな、そいつは」 「人気がすべて、の世界ですものね、特にTVは」  邦子は、ちょっと目を伏せて、そう言うと、 「ごめんね。——浩志にどうしても話しておきたくて」 「しかし、ゆかりが気にするよ」 「でしょうね。でも、どうしようもないわ」  邦子は、軽く息をつくと、「邪魔してごめんなさい。もう行かなくちゃ」  邦子は立ち上がって、 「ゆかりに何も言わないでね。お願い」  浩志は、すっきりしなかった。どうもおかしい。 「邦子。このことは、僕の好きなようにさせてくれ。——いいね」 「浩志——」 「君とゆかりのことを、一番良く知ってるのは誰だ?」  邦子は、じっと浩志を見つめて、 「浩志よ」  と、答えた。 「そうだ。だから、ゆかりに話すのも話さないのも、僕に任せてくれ。いいだろ?」  邦子は、浩志のやさしい眼差しに救われたようだった。 「分かったわ」  と、肯いて、「浩志に任せる」 「よし。それじゃ、もうこのことは忘れて、次の仕事のことを考えるんだ」 「うん」  邦子は、やっと明るく肯いた。  とたんに、浩志のお腹がグーッと鳴る。そのタイミングがあまりに良くて、邦子はふき出してしまった。 「浩志は、ともかくまず、何か食べること!」 「分かったよ。ちょうど食べに出るところだったんだ」 「じゃ、マネージャーの車で、送ってってあげる」 「いいよ。どうせすぐそこだ」 「ううん。一緒に食べよ。ね?」 「だって君は——」 「何とかなるわ、三十分くらいなら。交通渋滞ってのは、こういうときのためにあるのよ」  邦子の言い方に、浩志も笑ってしまった。  結局、浩志は、邦子の車に同乗して、近くの駅前の中華料理店に入り、三十分で定食を食べることになったのである。  邦子の車が走り去るのを見送って、浩志は、さて、と息をついた。  少し食べ過ぎて、お腹が苦しい。アパートまではちょっと遠いが、歩いた方がお腹もこなれるだろう。  いい天気なので、歩くのも苦にはならない。駅前まで出たついでに、スーパーへ寄って、普段、買いそびれている物を買い込む。  電球の換えとか、ゴミを入れるビニール袋とか、なかなか買う機会がないものなのである。  スーパーの雑貨の所を歩いていると、あれもなかったんだ、これも忘れてた、と思い付いて、結構な荷物になってしまった。  大きな紙袋は、大して重くはないものの、かさばって持ちにくい。  少し迷ったが、結局、これをかかえてアパートまで歩くのはかなり面倒だということになり、やはりバスに乗ることにした。  乗り場のベンチに腰をおろして、バスが来るのを待っていると、 「すみません……」  と、声がした。  自分が呼びかけられたとは思わずに、ぼんやりと目の前を通って行く車を眺めていたが……。考えてみると、ベンチに腰かけているのは、自分一人だ。  顔を向けると、高校生らしい、ブレザー姿の女の子が、遠慮がちに、 「すみません」  と、くり返した。 「何か?」 「あの……さっき、あの中華のお店で、おそば食べてたんですけど……。原口邦子さんと一緒でしたよね」 「うん。——まあね」 「お知り合いなんですか」 「昔なじみっていうか……。ちょうど、あの子が君ぐらいのころから、友だちでね」 「すてき」  と、その少女は目を輝かせた。「私、演劇やってるんですけど、原口邦子さんって、憧れなんです。凄くうまいし、セリフ、とってもきれいだし。いつも、指導してくれる先生が、あの人のこと、とってもほめてるんです」 「そう。きっと喜ぶよ、そう聞いたら」  浩志は、嬉しかった。邦子のように、まだ脇で地味にやっていても、見ている人間は少なくないのだ。 「頑張って下さいって、伝えて下さい。応援してます!」  と、少女は、笑顔で言った。 「ありがとう」  浩志は、心から礼を言った。邦子の代わりに、ではない。自分自身のために、礼を言ったのである。 「必ず、伝えるよ」 「お願いします。ごめんなさい、突然」  と、その少女はピョコンと頭を下げて、足早に立ち去った。  邦子の話で、やや気の重くなっていた浩志だったが、一人の女学生が、すっかり気分を明るくしてくれた。  邦子が真面目に努力して、役者の道を進む限り、必ずああいうファンが、ついて来てくれるだろう。  ただ——浩志が気になっているのは、今度のカットの一件が、邦子とゆかりの間に、影を落としはしないか、ということだ。  ゆかりが、分かっていてそんなことをする子ではないと知っているから、浩志は実際のところはどうだったのか、はっきりさせた方がいい、と思っていた。あれこれ想像だけで、ものを言っていると、その内、噂が一人歩きしてしまう。  それは恐ろしいものである。  バスが来て、浩志は、荷物をかかえて立ち上がった……。    やはり、バスに乗って良かった、と座席で揺られながら、浩志は思っていた。  これだけの道を、この大きな袋をかかえて歩くのは、楽じゃなかっただろう。  次のバス停だな——浩志はボタンを押した。  バスは、少し手前の赤信号で停まった。浩志は何気なく道路へ目をやったが……。  信号のちょうど反対側、バスとすれ違う向きに、白い外車が停まっていた。——一見したところ、ちょっと普通でない、ヤクザ辺りの乗りそうな雰囲気の車である。  運転席にいる男は、白のスーツに、サングラスをかけていた。やはり「その筋」の人間の車らしい。  信号が青になり、バスがゆっくりと動き出した。その白い外車が、滑るような動きで、すれ違って行く。  浩志の目は、何となくその外車の中へ向けられていた。  そして——一瞬のことだったが、後ろの座席に座っている男の横顔に、ハッと目をひきつけられた。  あれは——。しかし、まさか……。  バスが停まって、扉がシューッと音をたてて開くのにも、浩志は気付かなかった。 「——降りないんですか?」  運転手の声でハッと我に返ると、 「すみません! 降ります!」  と、あわててバスから降りる。  バスが走り去ると、浩志の目は、もう遠ざかってしまった、あの白い外車へと向いた。  他人の空似ということもある。——もちろんだ。  あんな車に、父が乗っているわけがない。  しかし、チラッと見えただけの横顔は、父にそっくりだった。もちろん、よく似た他人だろう。そうに決まっている。  アパートへと歩きながら、浩志の目は、それでもつい、とっくに見えなくなってはいたが、あの外車が走り去った方へ向くのだった。  浩志がアパートまで戻って来ると、他の部屋の人たち——ほとんど奥さんたちだが——が、五、六人表で固まって、何やら話し込んでいた。 「今日は」  と、声をかけると、ピタリと話が止んだ。  妙な雰囲気で、みんなが一斉に浩志の方を見ている。非難している、という視線ではないが、といって愛想がいいとも言いかねる感じである。 「あの……何かありましたか」  と、浩志は訊いた。  浩志は、ゴミ捨てでも廊下の掃除でも、男一人の暮らしにしてはまめにやっている。だから、同じアパートの、特に奥さんたちにも決して受けは悪くないのである。  まあ、それには浩志が「安土ゆかりの恋人」と報道されたりしたことから来る好奇心も、多分に含まれていたのだろうが。 「石巻さん」  と、奥さんたちの一人が言った。「今日は会社、お休みなの?」 「休みを取ったんです。久しぶりにのんびりしようと思って」 「そう……。あのね、今しがたお客があったのよ」 「客? 僕にですか。誰だろう」 「それがね——やたら大きな車が停まったと思ったら……。どう見たってヤクザって感じの男が二人降りて来て。私、ちょうど買い物に出るところで、訊かれたの。『石巻って人の部屋は?』って」  ヤクザが? では、やっぱりさっきの外車が……。 「留守だと分かったら、『戻ったら、ここへ連絡をくれ』って言って、帰ってったわ」  と、その奥さんが名刺を出す。 「はあ。そりゃすみません、ご迷惑かけて」  と、浩志は名刺を受け取って言った。 「そんなこと構わないんだけど、何かあったの?」 「いや、見当もつきませんね。——すみませんでした。ここへ連絡してみりゃ、何か分かるでしょうから」 「そうね。でも、気を付けてね。見るからに、おっかない感じだったわ」 「注意します。どうも」  浩志は足早に階段を上って、自分の部屋へ入ると、息をついた。  やれやれ……。しかし、一体何だろう? すぐに連想するのは、例の国枝のことだ。  あの息子が、また何かやり出したのだろうか?  あの外車に乗っていたのが、本当に父だったのかどうか。——浩志は狐につままれたような気分だった。  ともかく、買って来た物を戸棚へしまったりして、整理する。こういうことをしていると、気持ちが落ちついて来るのである。  浩志は、買って来た物を一通り片付けてしまうと、あの名刺を手に取った。  ヤクザといっても、肩書はどこかの社長だったり、重役だったりする。その名刺の名前にも、全く憶えがない。聞いたことのない会社の「専務」ということになっている。 「大場、か。——誰だろう?」  ともかく、電話ぐらいしてみないわけにもいくまい。ただ、名刺を置いて行ったのが、この当人だとすると、まだあの外車の中だろう。  後でかけるか。——今は、西脇と連絡がとりたい。  浩志は、電話のそばへその名刺を置こうとして、何気なく裏返してみた。目を見開く。 〈ここに世話になってる。会いに来い。将司〉  走り書きは、父の字に違いない。  やはり、あの外車に乗っていたのは、父だったのだ!  父が、なぜヤクザの所に?——浩志には見当もつかなかった。  ともかく、しばらく待つことにして、浩志は部屋の掃除をした。  終わると、もう夜である。電話が鳴り出して、ドキッとした。父からだろうか? 「もしもし」 「浩志?」 「ゆかりか」  ホッと息をつく。 「どうかした?」  と、ゆかりが不思議そうに訊いた。 「いや、何でもない。僕も、そっちへ連絡しようと思ってたんだ」  と、浩志が言うと、ゆかりは少し黙っていたが、 「——邦子から聞いた?」 「カットされたことか? うん。さっき、聞いた」 「怒ってたでしょ。私のこと……何か言ってた?」  浩志は微笑んで、 「代わりに僕を殴って、スッキリしたってさ」 「浩志——」 「冗談だよ。君がやらせたわけじゃないことぐらい、邦子も分かってる」 「当たり前よ! 私、頭に来て、殴り込んでやろうと思った」  ゆかりの話を聞いて、浩志はやっと納得がいった。 「邦子の方には、君の事務所からの要求だ、と言って来たらしいよ」  浩志の言葉に、ゆかりはますますカッカ来て、 「何て奴だろ! 今度会ったら、足引っかけて、すっ転ばしてやる」 「落ちつけ。——分かって良かった」 「浩志、まさか、私がそんなことさせたなんて……」 「思うわけないだろ」  と、浩志は言った。  確かに、難しいところだった。  事実を知らせて、邦子の映画の仕事に支障が出ることは避けたい。しかし浩志としては、これが、ゆかりと邦子の間に、しこりとなって残ることが心配だった。 「——分かった」  と、浩志は少し考えてから、言った。「僕から邦子へ話をしとくよ」 「そう? 本当に、私がやらせたんじゃないって言ってね」 「分かってるよ。心配するな」  と、浩志はやさしく言った。  邦子も、事実を知ったら、確かに神崎弥江子に対して腹を立てるだろう。しかし、邦子はその怒りを、もろに見せるほど、子供ではない。  むしろ、その憤りをバネにして、演技へ熱中できる子である。  浩志は、だから邦子へ話しても大丈夫と思ったのだった。 「——じゃ、浩志、よろしくね。もう行かなくちゃ、私」  と、ゆかりは言った。 「ああ。もう、このことは忘れるんだ」 「忘れられやしないわ。あの大女優さん、いつかひどい目にあうわよ、きっと」  ゆかりの方が、すぐに怒りを顔に出してしまうタイプだ。しかし、ゆかりと神崎弥江子とでは、そう会う機会もあるまい。  ——浩志は、ゆかりからの電話を切ると、あの名刺を再び手に取って、迷った。  父のことなど関係ない、と言ってしまえばそれまでだが……。  少し迷ってから、浩志は受話器を取り、妹の克子の会社へかけてみた。 「——お兄さん、どうしたの?」 「残業か。ゆうべ遅かったのに」 「残業してるときの方が、仕事、はかどるの。うるさい上役がいないからね」  と、克子は言った。「何か用?」 「うん。ちょっと、親父のことで、妙なことがあったんだ」 「お父さんのこと?」  浩志の簡単な説明でも、克子を驚かせるには充分である。 「どういうことなの、それ」 「さっぱり分からない。いや、心配させたくなかったんだが、もし、お前の所へも行くと、びっくりするだろうと思ってさ」 「そうね。——でも、お父さん、そんな方面に知り合いがいたの?」 「分からない。ともかく、こっちで連絡して、どういうことなのか、確かめてみる」 「お願い。でも——何にしてもお父さんが勝手にやったことよ。お兄さん、変に係わり合わない方がいい」 「分かってる」  浩志は、そう言ってから付け加えた。「じゃ、彼氏によろしくな」 交換条件  彼氏によろしく、か。  兄にそう言われて、克子はドキッとしたのだった。ちょうど今しがた、斉木と電話で話したばかりだったからだ。  斉木が八時過ぎには自由になるというので、克子も残業を八時まで、ということにした。もちろん、それだけが理由ではない。  大して仕事もないのに残業しているのは、むしろ男の社員の方に多い。少しでも残業手当をふやそうというのなら、何だか侘しい話である。  克子は、残業でも勤務時間中と同様、きっちり仕事をしている。性格というものだろう。  それにしても……。兄の話も、少しは気になった。  父がヤクザの所に世話になっている? ちょっと信じられないような話である。  別に父のことを心配しているのではなかった。兄や自分に、厄介ごとが降りかかって来るのではないかと思ったのだ。 「本当に……。放っといてほしいもんね」  と、思わず克子は呟いた。 「石巻君、電話」  と、残業している男性が声をかけた。「3番で取ってくれるか」 「はい! すみません」  パッと電話を取って、「——はい、石巻でございます」  向こうは沈黙していた。 「もしもし。——どちら様ですか?」  電話は切れた。克子は首をひねった。 「何だ、出なかった?」 「ええ。誰からでした?」 「名前、言わなかったね。女性だったよ」 「そうですか。——すみません」  誰だろう? 見当もつかない。  克子は、肩をすくめて仕事に戻った。  八時まで、たっぷりと仕事をする。——斉木と会う前は、気分が高揚しているせいもあるのか、いやに張り切って仕事をしてしまうのである。  八時になると、息をついて、机の上を手早く片付ける。 「お先に失礼します」  と、まだ残っている何人かに声をかけて、ロッカーへ。  ——今夜は、斉木の後輩が転勤して行くので、その送別会。斉木は二次会へ行く代わりに、克子と待ち合わせているのである。  普通なら、三次会ぐらいまで付き合って、帰りが夜中過ぎるのが当たり前。その分、克子ともゆっくり過ごせるわけだ。  仕度をして、ビルを出ると、克子は足早に地下鉄の駅へと歩き出した。  足どりは弾むように軽く、つい笑みが浮かぶ。  本当は、心の底では重苦しいものを抱えているのだが、それだけに、ひとときの安らぎの間は、何もかも忘れていたかったのである。  地下鉄の駅へ下りる階段をタタッと下って行くと、バッグから定期入れを取り出す。 「あの……」  と、呼びかけられても、自分のことだとは思わなかった。 「石巻さんですね」  と言われて、 「え?」  足を止める。振り返ると、色白の上品な感じの女性が立っていた。落ちついたスーツ姿なので、少し老けて見えるが、三十代の半ばくらいだろう。整った容貌で、美人と言っていい。 「あの——」 「石巻克子さんでしょう?」  と、その女性は言った。 「ええ。そうですけど」 「斉木の家内です」  あまりに思いがけないことだった。——本当なら、すぐにピンと来なければいけなかった。  それなのに、どうして分からなかったのだろう。 「ちょっとお話があるんです」  と、斉木の妻は言った。「お時間はとらせません」  拒めるわけがない。克子は、その女性について、歩いて行った。  地下鉄の駅を出て、近くのオフィスビルへ入る。——最上階に、レストランとバーが入っているのだった。  そのバーへ入って、二人は、ほの暗い照明の下、ゆったりとしたソファに腰をおろした。 「私、ジンフィズを」  と、斉木の妻は注文して、「何になさる?」 「あの——何かジュースを」  と、克子は言った。 「オレンジかグレープフルーツになります」  と、ウエイターが言った。 「グレープフルーツを」  と、克子は言った。  あまり間を置かず、斉木の妻は口を開いた。 「斉木南《みな》子《こ》です。名前は知ってらした?」 「いえ」  知っていたのは、いつも斉木のネクタイがスーツに合わないことだけだ。 「東西南北の『南』と書くんです」  と、斉木の妻は言った。「斉木南子。——上下のバランスが、あんまり良くないんですけどね」  そう言って、斉木南子は笑った。  克子は、見えない手で喉をしめつけられているようで、息苦しい気がした。 「あなた、二十一歳ですよね」  と、斉木南子は言った。「調べさせていただいたわ。当然でしょう」  何と言うべきだろうか。手をついて謝るのか。——克子は、固く両手を握り合わせた。 「心配しないで下さいな」  と、斉木南子は淡々とした口調で言った。「主人と待ち合わせているんでしょ? 大丈夫。そんなに時間はかかりません」  飲み物が来ると、南子は、一口飲んでから続けた。 「あなたのことは、興信所で調べてもらいました」  バッグから写真をとり出す。「——あなたと主人の写真。あなたといると、ずいぶん若く見えるわ、あの人」  克子は、自分の前に置かれたジュースに、そっと手をのばした。 「初めのころから、気付いてました」  と、南子は言った。「男の人って、本気で信じてるのかしら。妻に分からないだろうって。——すぐに分かりましたわ。あなたと会って帰る日は、顔つきも違います」 「奥さん……私……」 「手短に言いましょうね」  と、南子は言った。「斉木とは、もうここ何年か、うまく行っていませんでした。娘がいますけど、今十歳。まだ、両親の不仲の分かる年齢じゃありません」  そうだろうか。——しかし、意外だった。斉木は、家庭が充分にうまく行っている、と話していたのだ。 「斉木に女性がいると知って、ホッとしたんですよ。本当に。——私にも恋人がいるんです」  克子は、愕然として、南子を見つめた。 「もちろん、娘がいますから、そう年中は会えませんけど、ときどき、実家の母にみてもらって、こっちは父母会の集まりとか、お華のお友だちと食事するとか言って、出かけるんです。主人は疑ったこともないでしょう」  南子は、平然としゃべっている。「ともかく——主人にはあなたがいるわけですから、私も安心して、その男性と会えるんです」 「そんなことが……」 「あなたにお願いがあって」  と、南子は言った。「私、主人とは別れるつもりです。あなたのことがなければ、そこまでは踏み切れなかったでしょう。主人に未練があるからじゃなくて、離婚となると、子供をどっちが引き取るか、問題になりますものね。娘は手放したくありません。絶対に!」  突然、南子の目が鋭くなる。 「石巻さん。——主人とあなたがどうするつもりか、私には分かりません。でも、少なくとも、私と主人が別れても、主人の所に娘がいたら、あなたは主人と結婚するのに大変な苦労をしょい込むことになります。でも、娘が私の手もとに来れば、あなたは主人と二人きりで、どうでも好きなようにできるわけです」  克子は、南子の発言に混乱していた。  てっきり、斉木の妻から責め立てられ、夫と別れろ、と迫られるのだと思っていたのに——。  斉木南子の話は、あまりに思いがけないものだった。 「奥さん、おっしゃることがよく分かりません」  と、克子は言った。「私は……ご主人とのことで、そちらの家庭を壊したりすることだけは避けるつもりでした。万一、奥さんに知られたら、すぐに身をひこうと——」  南子がフフ、と笑った。克子は当惑して、言葉を切った。 「相手の家庭を壊す気はない。——不倫をするOLはたいていそう言うんですって」  と、南子は言った。「そんなことがあり得ると信じてらっしゃるの?」  克子は、何とも言えなかった。 「夫と初めて寝たとき、もうあなたは私と夫の間に立ちはだかったんです。夫にとって、あなたは初めての浮気相手ではありません。もし初めてだとしても、いつも私を抱く度に、あなたと私を、頭の中で比較しているんですよ。——妻にとって、どんな屈辱か、お分かりになる?」  南子の口調は淡々としていたが、克子に反論を許さないものがあった。 「でも、そんなことは、どうでもいいの」  と、南子は肩をすくめた。「今はもう……。私も、夫よりすばらしい人を見付けましたから。その人は、私が娘と一緒でも構わないと言っています」  克子は、ゆっくりと息をついて、 「つまり……私とのことが原因で、離婚されるわけですね」 「そう。悪いのは夫の側。娘は私が引き取る。お分かり? あなたにとって、損はないはずよ」 「私にどうしろと——」 「身をひかないでいただきたいの」  と、南子は言った。「夫は、遊びのつもりでしょう。私が別れると言い出したら、焦って、あなたとの仲を清算にかかる。——きっと、そうしますよ。そういう人だから」  克子にも、それは分かっていた。斉木には、家族を捨てて、克子の所へ走る気はない。 「そのとき、あなたにあっさり身をひかれちゃ困るの。あなたは、あくまで夫と離れないと頑張って下さい。夫の決心がぐらつくくらいに」 「そんなことは——」 「できますとも」  と、南子は言った。「あなたは若いわ。その若さがあれば、夫を迷わせるのは、難しくない。男は、うぬぼれの強い動物ですからね。若い子に恋されている、と知って悪い気がするはずはありませんよ」  克子は、南子の、他人事のような話し方に、まるで夢でも見ているような気がしていた。 「あんまり遅くなってもいけないわね」  と、斉木南子は、腕時計を見た。「——もう行って下さい。夫と待ち合わせでしょ」  そう言われても、克子は、立つに立てなかった。 「分かってますね」  と、南子は言った。「もちろん、私と会ったことは内緒。いつも通り——いいえ、いつも以上に、楽しんでらして」  克子は頬を染めて、目を伏せた。 「もし、あなたが私との話の内容を、夫にしゃべったりしたら」  南子の口調が、少し変わった。「あなたが今の職場にいられないようにします。簡単ですよ。私の父は、あなたのいる会社の大きな取引先の社長ですからね」  克子は唖然とした。——自分を見つめる南子の視線の冷ややかさに、その言葉が嘘でないと知った。 「話はそれだけです」  と、南子は言った。「お引き止めして、どうも」  克子は、自分でもよく分からない内にバーを出て、再び地下鉄の駅に向かって、歩き出していた……。   「どうかしたのか?」  と、斉木が言った。 「え?」  薄暗がりの中、暖かいベッドの中で身を寄せ合っていた克子は、少し頭を上げた。 「いや……何だか今日は無口だと思ってさ」  と、斉木が言うと、 「いつも、私そんなにおしゃべり?」  克子は、ちょっとむくれてごまかした。 「そうじゃないけど……。具合でも悪いのかと思ってね」 「そんなことない」  克子は、斉木の方へ身をすり寄せた。「ねえ……」 「何だ?」 「奥さんって、どんな人?」  斉木は、やや戸惑っている様子だった。克子は急いで言った。 「特別な意味はないの。ただ、ちょっとした好奇心」 「そうだな……。まあ、美人だ」 「でしょうね」  斉木はちょっと笑って、 「君ほどじゃない」 「無理しちゃって」 「社長の娘だからな。世間知らずというか、おっとりしてるというか……。子供っぽいところが残ってるよ」  斉木は、ゆっくり考えながら言った。 「子供っぽい?」 「騒がしい、という意味じゃなくてね。大人になり切れてない、とでも言うかな」  暗い天井を見上げながら、斉木は、話を続けていた。 「でも……愛してるんでしょ」  と、克子は言った。 「まあ、女房だからね」  斉木は、答えになっているような、なっていないような言い方をした。「もうよそう、女房の話は」 「もし……」 「何だい?」 「もし、奥さんに私とのことが知れたら……。気が付いてない、まだ?」 「ああ。大丈夫、用心してるさ」  と、斉木は言った。 「もし、奥さんに分かったら? 私と別れるんでしょ」  斉木は、克子の裸の肩をそっとなでながら、言った。 「そういうことになるだろうな。——子供もいる。今の家庭を捨てることはできないよ、僕には」  と、克子の方へ顔を向けて、「君には悪いけどね」 「そんなことない。そのつもりだったんだし、私も」  と、克子は軽い口調で言って、「でも、今からそんなときのこと心配しててもしょうがないわね」  と、ベッドの上で体を弾ませるようにして、斉木の胸に頭をのせた。 「そうさ。心配性なんだな、君も結構」  斉木の心臓の鼓動が聞こえる。さっきはずいぶん早く打っていたが、今は落ちついて来ていた。 「心配性なのは兄の方。私はね、明日のことは明日考える、って主義なの」 「そうさ。若いんだからな、君は。若いってことは何があっても、すぐ立ち直れるってことだよ」  ——そうだろうか?  父があの女と再婚したとき、私はすぐ忘れて立ち直っただろうか?  いつまでも、いつまでも、あの傷を抱いて生きて来たのではなかったか。むしろ兄よりも自分の方が、過去にこだわってはいないか……。  でも、今、そんなことはどうでもいい。  斉木は、克子を腕の中に抱いた。  可哀そうに、と克子は呟いた。心の中で、呟いたのである。  誰が可哀そうなのか? 私? それとも、斉木の妻か。いや、この斉木自身にしても、同じだ。  妻が「世間知らず」の「大人になり切れていない」女だと信じ込んでいる。その妻に恋人がいるとも知らずに。——妻のことなら何でも分かっている、という自信が、哀れだ。  しかし——克子が一番可哀そうだと思っているのは、まだ見たこともない人、十歳になるという、斉木の娘だった……。 年の終わりに  どんなに忙しくて、目が回りそうで、こんなに沢山の仕事、終わるわけがない、と思っていても、一年の終わりは、ちゃんとやって来る。  真夏の暑さに参っているころは、 「寒さなんて、永久に来ないんじゃないか」  とさえ思うが、それでもちゃんと木枯らしは吹くし、雪も降る。  一年って、早いよね……。  町を行く人の誰もが、そう言いたげな顔をしている、十二月。  もう、一年の終わりは、足音が聞こえるところまで来ていた。 「——石巻さん」  と、声をかけられて、浩志が顔を上げると、森山こずえが立っている。 「やあ。もう昼は食べたのか」  と、浩志は言った。 「うん。——座っていい?」  昼食の後、この喫茶店に入る者も、いつもより少ない。何といっても北風が強くて、寒いので、早々にオフィスへ戻ってしまうのである。 「寒くなったわね。——私、ホットココア」 「はい」  ウエイトレスが笑顔で、「今日は凄く多いんですよ、ココア頼む人が」  と、言った。 「じゃ、アイスコーヒーでも頼んだ方が目立つかしら」  と、こずえは笑って手をこすり合わせた。 「ずいぶん雪の積もってる所もあるらしいじゃないか」  と、浩志は眺めていた新聞をたたみながら、言った。 「もうじきクリスマスよ」 「クリスマスか。——あんまりピンと来ないね」  と、浩志は苦笑した。「仕事が忙しいからなあ」 「どこかへ行かないの? ゆかりさんとでも」 「ゆかりはクリスマスなんてないさ。寝る時間もないくらい忙しいらしい」 「そう。大変ね」 「その代わり、正月はハワイだってさ」  こずえが笑って、 「あっちに芸能人村ができそうね」 「向こうへ行っても、取材は来てるしね。アイドルの宿命だろうな」  と浩志はコーヒーを飲んだ。  コーヒーが冷めるのも、ずいぶん早い。 「もう一人の『彼女』は?」  と、こずえが訊く。 「原口邦子? うん、先週、やっと例の巨匠の映画がクランク・インしたって、電話して来たよ。今ごろは、頭の中に、年末もクリスマスもないだろう」  浩志は、邦子の活力に溢れた声で、耳が痛くなったくらいだ。  ゆかり、邦子、それぞれに年末年始を忙しく迎える。  結局、一番暇なのは俺だろうな、と浩志は思った。 「正月休みはどうするの?」  と、こずえが言った。 「どうするかな……。寝て過ごすってのが、いつものパターン」 「非生産的ね」  と、こずえは笑った。 「克子は、会社の子とスキーに行くとか言ってた。まあ、北海道とか、そんな遠くへ行く金はないだろうけどね」 「石巻さんも、少しそういうことやればいいのに」  と、こずえは言った。 「今はねえ……。何しろ貯金もないし」  と、浩志は至って現実的である。 「じゃ、温泉とか、どう?」 「温泉か。——いいね」  と、浩志は肯いた。「どう、って……」 「二人で行かない? 山の奥の露天風呂に仲良くつかってさ」  こずえの顔を、浩志はポカンと眺めていたが——。やがて、こずえがふき出した。 「石巻さんったら! そんな鳩が豆鉄砲くらったような顔して」 「君がびっくりさせるからだよ」 「これなの」  こずえが、事務服のポケットからメモを出して、テーブルに広げる。——女子社員の名前が四つ、男の社員二人。 「何だい?」 「このメンバーで、温泉に行くの。一緒にどうかな、と思って」 「僕が?」 「正直に言うとね」  と、こずえは少し身をのり出して、「車があと一台ほしいの。二台で六人じゃ、ちょっときついの。何しろ荷物が多いし、女性は」 「僕の車で? オンボロだぜ」 「いいのよ。そんなに山奥へ行くわけじゃない。これ、予定」  と、もう一枚の紙をとり出す。 「十二月の二十九日から……。一日の夜に戻りか」 「三泊。一応のんびりはできるわ」 「ここなら、確か前に行ったことあるな」 「だったら、ぜひ! 女は女、男は男で泊まるから。——ね?」  浩志はためらった。  一緒に行くメンバーが、気の重くなるような連中なら考えてしまうが、割合に気をつかわなくてすむ連中である。 「どう?」  と、こずえは言った。「その代わり、宿泊費はこっちで持つから」 「そんなわけにはいかないよ」  と、浩志は苦笑した。  どうやら、森山こずえは、浩志が一人で正月を過ごさなくてすむように気をつかって、温泉に誘ってくれている気配、なきにしもあらずだ。  しかし浩志としては、宿泊費までこずえにおんぶするわけにはいかない。 「ちゃんと自分の分は払う。別に金がなくてどこも行かないってわけじゃないんだ。ただ、面倒なんだよ。旅館の手配とかさ」 「そんなこと——石巻さんが困ってるなんて思ってるわけじゃないのよ」  と、こずえは急いで言って、「傷ついた?」  浩志は笑って、 「僕はそれぐらいのことじゃ、傷つかないようにできてるんだ」  と、言った。  こずえはホッとしたように、 「じゃ、OKね? 良かった!」  と、メモをたたんで、「もっと詳しく書いたの、コピーして後で渡すから」 「分かった。温泉で年越しか。何年ぶりかな、そんなの」 「たまにはいいでしょ」 「うん。——ありがとう、誘ってくれて」 「変よ、他人行儀に」  と、こずえは少し照れている。  ——浩志は、ガラス越しに、北風の吹きつける道を眺めた。  次の一年。どうなることか。——ゆかりと邦子にとって。そして自分や克子にとっても。  父が、ヤクザらしい男の所に世話になっているという話は、一応父の妻の法子へ伝えた。 「連絡とりたければ、ご自分で電話して下さい」  と、浩志は言ってやった。  暴力団、ヤクザ、といった言葉には、向こうも神経質なようで、一旦電話を切ってから、じきにまた法子がかけて来て、 「浩志さん、会ってみて下さらない?」  と、言って来た。 「忙しくて、とても無理です」  と、突っぱねてやると、法子はムッとしたようだったが、 「分かりました。こっちで当たってみますわ」  と言って、切った。  これで、父の件は一件落着——ということになるかどうか知らないが、ともかく浩志としては、また暴力団の所へ行って、けがでもさせられたらかなわない。もう放っておこうと思った。  父の古い知り合いか何かなのかもしれないし。——克子は、全く父のことなど話にも出さない。  克子の恋人——妻子ある男性らしいが——のことも気にはなったが、今の浩志にはどうしてやることもできない。  たぶん、克子も今ごろ、クリスマスを彼と過ごせないことで、もの寂しい気分に浸っているのだろう……。 「何、考えてるの?」  こずえに訊かれて、浩志は我に返った。 「いや——妹のことをね、ちょっと」  もう一杯、コーヒーを頼む。  こずえの前にココアが置かれ、両手で挟むようにして持つと、 「あったかい!」  と、声を上げる。 「冬だね、そういうのを見てると」 「妹さん……いくつだっけ」 「二十一だよ」 「若いわね」 「若いけど、結構苦労して来てるんだ」  と、浩志は言った。「いい相手を見付けてほしいね」 「父親の心境?」 「そう。——いくらかね」  俺は父親で、兄なんだ。少なくとも気持ちの上ではそうだ。克子は、「父親なんかいらないよ」と言うだろうが。 「何か心配ごと?」  こずえに訊かれて、浩志はドキッとした。 「何でもない」  と、首を振って、「それより温泉へ行くとき、他にどこか回るのかい?」  と、浩志は話を変えた。    アーア……。  ゆかりは大欠伸した。  パジャマ姿ならともかく、正月の晴れ着を着ている。マネージャーの大宮が、 「そう大きな口あけて欠伸しないで下さいよ」  と、あわてて言った。 「どのカメラも向いてないわよ、大丈夫」  と、ゆかりはスタジオの中を見回した。「まだ仕事いくつ残ってる?」 「今夜は録画どりが三つです」 「TV局を二つ三つ、爆破して来てくれない?」  と、ゆかりは真面目な顔で言った。 「頑張って下さい。ハワイじゃ、思いきり寝られますよ」 「そうね。部屋から出るの、やめよう。誰に会うか分からないものね」  何しろ正月前後のハワイは、日本の芸能界がそっくり引っ越したような騒ぎになる。当然、ゆかりの知っている顔とも、年中出くわすわけで、新人のゆかりの方が、何となく気をつかうことになるのである。 「いい男、いないかな」  と、ゆかりは、スタジオの壁によりかかった。 「ちょっと! 帯がだめになっちゃいますよ。形が……。大丈夫か」  大宮は汗を拭いて、「目下、恋人は石巻さんってことになってるんですからね」  と、言った。 「分かってるわよ」  と、ゆかりは口を尖らして、「少なくとも、恋人があなたじゃないってことぐらいはね」  大宮は苦笑いしている。  ゆかりは、このマネージャーが気に入っている。もちろん、大宮の方だって、たまには手を焼くことはあるとしても、ゆかりの担当になって喜んでいるはずだ。 「ハワイかあ……。もうちょっとましな所ないの? ハワイじゃ、日本にいるのと大して変わんないじゃない」 「往復の時間とか、色々考えると、一番楽なんです。それに取材のことも考えに入れなくちゃいけませんからね」  と、大宮は言った。「あ、もう仕度できたのかな?」  大宮が、 「ちょっと見て来ます」  と、TV局のスタジオの中を駆け出して行く。  お正月用の番組の収録。——もう、ゆかりは何度、 「あけまして、おめでとうございます」  と、やったことだろう? 「今年の抱負は?」  と、司会者に訊かれたりして……。  まだ十二月の上旬なのに。何だか、もう年が変わってしまったような錯覚を起こすほどだった。 「あと、十分くらい待ってくれって」  と、大宮が戻って来る。  別に走らなくてもいいようなものだが、急がないときでも走るのがくせになっているらしい。 「少し座ってますか。椅子、持って来ますか?——どうかしました?」  大宮は、ゆかりが全然自分の言葉を聞いていないのに気付いて、心配そうに顔を覗き込んだ。 「大宮さん!」  ゆかりが突然大声を出すので、大宮は仰天して飛び上がりそうになった。 「な、何ですか、びっくりするなあ、もう!」 「ハワイよ、ハワイ!」 「ハワイはハワイですよ」 「馬鹿ね。浩志のことを言ってるの」 「馬鹿ですみませんね」  と、大宮がふくれると——もともとふくれているので、あんまり変わらない。 「ね! 私と浩志は恋人同士ってことになってるのよ」 「一応は、ですね」 「だから、却って不自然じゃないの、私が一人でハワイに行ったりしたら」  大宮は目をパチクリさせていたが、 「つまり——石巻さんも、ハワイへ連れて行ったら、ってことですか?」 「そう!」  ゆかりが力強く肯いた。  大宮は、すぐには返事ができなかった。  いや、もちろん、最終的な返事は社長の西脇が出すのだ。何しろ「費用」の問題が係わって来る。 「だけど——石巻さんはサラリーマンですよ」 「お言葉ですけどね」  と、ゆかりは言い返した。「私の休みの方が、サラリーマンより、ずっと少ないの」 「まあ……。そりゃ分かってますが」  大宮は頭をかいて、「しかし、石巻さんの方だって予定があるでしょうし」 「変えりゃいいの」  ゆかりは、あっさりと言った。「ね、あなたは社長さんの許可を取って! 大至急! 社長さんがOKしてくれたら、私、絶対に浩志を説得してみせる」  ゆかりは本気だ。大宮にも、それはよく分かったらしい。 「分かりました。じゃ、今日、戻ったら社長に訊いてみますよ」 「そんな呑気なこと言って! 今すぐ! でなきゃ、私、この振り袖、めちゃくちゃにしちゃうからね。大宮さん、ちゃんと着せてよ!」  と、帯を解くふりをする。 「やめて下さい! 分かりましたよ。全く無茶なんだから」 「生まれつきなの」 「何が生まれつきだ?」  と、声がして……。  ゆかりは唖然とした。当の西脇がフラッとやって来たのだ。 「何だ、でかい声を出して。スタジオ中に響き渡ってるぞ」 「社長……。どうしてここへ?」 「用事で寄った。ついでに覗いてみる気になったんだ」  と、西脇は言った。「今、俺に何か訊くとか言ってたな」 「ねえ!」  ゆかりが西脇の腕にしがみついた。「お願い! お正月休みのハワイ、浩志も連れてっていいでしょ?」  西脇はポカンとしていたが、 「ああ、石巻さんか。そうだな……。まあ、恋人だって公表してあるわけだし」 「そうよ! 一緒に行かなきゃ、却って不自然!」 「うむ……。ま、あの人にはずいぶん世話になったからな」  西脇は腕組みをして、「おい、大宮。今からファーストクラスの席、取れるかどうか、やってみろ」 「やった!」  と、ゆかりは飛び上がった。「社長さん、大好きよ!」 「飛びはねないで下さい。床が振動します」  と、大宮が、あわてて言った。 「失礼ね。私は大宮さんじゃないわよ」  ゆかりは、ペロッと舌を出してやった。   「可愛い彼女からお電話よ」  と、森山こずえが、浩志へ受話器を渡す。 「ありがとう。——もしもし」  と、言ったとたん、ゆかりの声が飛び出して来て、午後、少々眠気のさしていた浩志は、いっぺんで目が覚めた。 「浩志! ハワイに行こう!」  キーンとしばし耳が鳴って、浩志は目をパチクリさせていたが、 「今……何て言ったんだ?」 「いやねえ。耳、遠くなったの?」 「君の声がでかすぎるんだ。何の話だい?」 「お正月さ、予定あるの?」 「正月?」 「私、ハワイに行くの」 「ああ、知ってるよ」 「でね、社長さんと相談したの。恋人同士と公表した以上、ハワイに同行しないのはおかしいって」  浩志は、少し間を置いて、 「君の言うのは、つまり……」 「一緒にハワイへ行こ、ってこと」  ゆかりは、すぐに付け加えた。「大丈夫よ。取って食わないから。コネクティングルーム、っていうのを予約したの。別室になってて、鍵もかかるわ」 「待ってくれよ。そんなこと突然言われても——」 「あら、年末年始はお休みでしょ」 「そりゃそうだけど……。大体パスポートだって持ってない」 「特急で取れるのよ、あんなもの。全部こっちでやるから心配しないで」 「そう言われても……」 「費用は事務所持ち。ね、行こうよ」  浩志はこずえの方を見た。  こずえも、浩志の言葉で、察しはついたらしい。微笑むと、浩志の方へメモを差し出した。 〈温泉行きのメンバー全員に、ちゃんとおみやげを買って来ること!〉  浩志は、目でありがとう、と言った。 「——浩志?」 「うん。分かった」  と、浩志は言った。 「分かった、って……。じゃ行くのね」 「そうしなきゃいけないんだろ?」 「いけない!」  と、ゆかりは言って、嬉しそうに笑った。「じゃ、大宮さんから連絡させるね、今夜。——パスポートに必要なものとか、スケジュールとか」 「ああ、待ってるよ」 「きっと素敵だよ!」  ゆかりの声が飛びはねるようだ。  電話を切ると、浩志は、 「悪いね」  と、こずえに言った。 忠 告 「呆れた」  と、克子は言った。 「そう言うなよ」  と、浩志は、ちょっと情けない顔で妹を見た。 「な、お前、大きなスーツケース、持ってるんだろ? 貸してくれ」 「だめよ」  と、克子はにべもなく断った。「私だってスキーに行くんですからね」 「あ、そうか」  浩志は、ため息をついて、「やっぱり買わなきゃいけないか」  ——浩志と克子、二人で久しぶりに夕食を外で取っている。  サラリーマンにとっての一大イベント(と言うほどのもんじゃないが)、ボーナスが出たので、克子が兄におごっているのである。  ただし、浩志の名誉のために付け加えておくと、いつも妹にたかっているわけではない。たまたま、克子の会社の方が、ボーナスが早く出た、という、それだけのことだ。  もちろん、何万円もとられるフランス料理なんかではなく、オムライスとか、メンチカツとかのメニューのある、〈洋食屋〉さんに入っているのである。  克子のボーナスはそう多額ではない。「ないよりゃ、まし」という程度だ。その点では、浩志だっていばれたものじゃないが。 「お兄さん、メンチカツ半分食べて」  と、克子がナイフで半分切り分けると、兄の皿に移した。 「お前、食べろよ。若いんだから」 「ブタになりたくないもんね」  と、克子は笑って言った。 「お前はもう少し肉がついた方がいいぞ」 「大きなお世話。お兄さんはお腹の脂肪にご用心」  やり合っている二人は、いかにも楽しげである。  レストランは、混み合っていた。克子は、何でも予定を立てて動くのが好きなタイプだから、ちゃんと予約を入れておいた。  そうでなかったら、二十分は入り口で待たされただろう。今も、店の入り口には、空き待ちの列が出来ている。 「——はやってるなあ」  と、浩志は言った。「みんなボーナスが出たのかな」 「そんな人ばっかりでもないでしょ」  克子は、サラダを食べながら、「量が減った、この前より」 「——どんなのを買ったらいいかな」  と、浩志が言う。 「スーツケースの話? いいわよ、私が選んであげる」 「そうか、じゃ頼む」  浩志はホッとして言った。  買い物のセンスに関しては、克子の方がずっと兄を上回っているのだ。 「パスポートは大丈夫なの?」  と、克子が訊いた。 「うん。——あのマネージャーの大宮さんが、手配してくれてる。もちろん、申請と受け取りは自分で行かなきゃならないけどな」  浩志は、克子の分けてくれたメンチカツも、きれいに平らげた。 「ハワイねえ、お兄さんが……」 「何だよ」 「似合わない!」 「そうか?」 「水着とか、持ってくの?」 「どうするかな。そんな時間があるかどうか」 「でも——まさか、ゆかりさんとずっと一緒ってわけじゃないんでしょ?」 「うん。ゆかりも気をつかってくれてるよ。まあ、写真の二、三枚はとられると思った方がいいだろうけど」  克子は、ウエイターを呼んで、デザートとコーヒーを注文した。浩志はコーヒーだけ。 「でも、お兄さん、分かってる?」  と、克子は真顔で言った。「いくら中で別の部屋になってると言っても、ゆかりさんと同じ部屋に二人で泊まるのよ」 「うん」 「世間の目にはどう見えるか」 「分かってる」  と、浩志は肯いた。「仕方ないさ。国枝の所から助け出したときから、世間にはそう思われてる」 「邦子さんには?」 「電話くれるように、マネージャーにことづけてる。二、三日したら撮休だそうだから、かけて来るだろ」 「サツキュウ?」 「撮影の休みの日、ってことさ」 「あ、そうか」  克子は笑って、「段々芸能用語に強くなるわね」 「その内、夜会っても、『おはようございます』だったりしてな」  浩志もそう言って笑う。 「あ、デザート。これ、好きなの、私」  フルーツとアイスクリームをきれいに配置して、赤いフルーツのソースがかかっている。 「可愛いな」 「私のこと? 分かってるわよ」 「そのデザートのことだ」 「失礼ね」  と、克子は笑って……。  そう。——お兄さんは分かっていない。  もちろん、ゆかりも邦子も、浩志と長い付き合いで、彼が二人と等距離を置いているのは承知している。  また、浩志がそういうことにこだわる人間であることも、よく分かっている。でも、その上で——ゆかりは、浩志のことが好きなのだ。  ゆかりが、浩志をハワイ行きに誘ったのは、もちろん、「その方が楽しい」からだろう。  浩志にずいぶん迷惑をかけた、という気持ちがあるからかもしれない。  しかし——心の底では、ゆかりは期待しているはずだ。浩志が自分の部屋のドアを叩いてくれることを。  そうなれば、邦子との友情はどうなるか。浩志、ゆかり、邦子の三人で作られている微妙な関係が、それで崩れてしまうかもしれないということも、ゆかりには分かっている。  しかし、恋というものは理屈ではない。克子には、それがよく分かる。  ゆかりは、あちこちで遊んでいる。男とホテルにも行っている。しかし、本当は、浩志のことが好きなのだ。男と女として、愛しているのだ。  克子には分かる。——兄はそれに気付いていない。いや、気付いていないふりをしているだけなのだろうか。 「——旨いコーヒーだ」  と、浩志が一口飲んで肯いた。「うちで飲むインスタントと、大分違うな」 「お兄さん」 「うん?——何だ」  克子は言ってやろうと思った。——抱いてあげなさいよ、ゆかりさんを。 「お父さんのこと、何か分かった?」  克子は全く違うことを訊いていた。 「さあね。あちらが気にしてたからな。調べてるんじゃないのか」  と、浩志は肩をすくめた。「——お前、スキーはいいけど、足折るなよ」 「お兄さんじゃあるまいし」 「俺がいつ足を折った?」 「おっちょこちょい、ってことよ」 「生まれつきだ」  浩志はそう言って、コーヒーを飲み干したのだった。   「——カット!」  三神憲二の鋭い声が、セットの中に響きわたった。  録音係がヘッドホンを外して、監督の方へ肯いて見せる。 「OK」  三神の一言で、セット内に、期せずしてため息が洩れる。 「お疲れさま」 「お先に」  と、あちこちで声が飛び交う。  三神は、セットを下りて、マネージャーにカーディガンをかけてもらう邦子を眺めていた。 「監督」  と、やって来たのは、沢田慎吾だ。 「何だ?」 「ちょっとご相談が」  二枚目男優は、少し声を低くして、言った。 「話してみろ」  と、三神はディレクターチェアに座ったままで言った。  沢田慎吾は、ちょっと周囲へ目をやった。色々な道具や資材を片付けているスタッフたち。 「あの……できれば、人目のない所で」  と、沢田が言うと、大監督は欠伸をして、 「愛の告白でもしない限り、ここで充分だ。僕は忙しい。君ら役者はな、OKが出たら帰れるが、こっちはそうはいかないんだよ」 「はあ」  沢田は不満げだったが、三神に何と言ってもむだなことは、よく分かっている。 「話さないのか? それなら引き上げるぞ。明日の打ち合わせがある」  と、三神は立ち上がりかけた。  邦子が三神の前で足を止め、 「お先に失礼します」  と、頭を下げる。 「ご苦労さん」  三神が肯く。「良かったぞ、今のシーン」 「はい」  邦子が嬉しそうに頬を染めて、もう一度頭を下げると、マネージャーと二人でセットを出て行った。 「——お気に入りのようですね」  と、沢田が邦子の後ろ姿を見ながら、言った。 「うまいからな。努力家だし、勘もいい。気に入らなきゃおかしい」  と、三神はあっさりと言った。「君は気に入らんのか?」 「とんでもない」  と、沢田は首を振った。「ただ……今のカットなんか、ほとんどカメラはあの子の方を向きっ放しでしたね」 「それがどうかしたか」 「いや……。彼女は何も言いません。でも、分かるんです。長い付き合いですから。彼女は悩んでます。監督に気に入られてないんじゃないかと」 「彼女ってのは、つまり神崎君のことか」 「そうです」  神崎弥江子は、早々にセットを出てしまっていた。 「この映画の客の大半は——もちろん、監督のファンが大勢いるのはよく分かってますが、まあ半分は神崎弥江子を見に来るんです。もう少し、その……彼女に目立つところを作ってやってもいいんじゃありませんか」  沢田は、監督の神経に触らないように、猫なで声で言った。 「なるほど。君の話は分かる」  と、三神は言った。「主役は君と神崎君だからな」 「僕のことはどうでもいいんです」  と、沢田は言った。 「ほう」  三神は、沢田の顔を見上げた。「『僕のことはどうでもいい』か。立派な心がけだ」 「いや、あの——」  沢田は詰まった。三神の言葉に、皮肉な響きを聞きとったからである。 「ともかく……神崎さんは、キャリアのある女優です。監督があの新人を気に入っておられることはよく分かってますが」  急に三神が立ち上がった。その勢いに、沢田は口をつぐんでしまった。 「よく聞いとけ」  三神は静かだが、圧倒するような力をこめた言い方で、言った。「僕は原口邦子を気に入っている。しかし、一番大切なのは作品だ。分かるか? 女優のプライドでも、個人の感情でもない。どんなスターも、いい作品に出ることだけが、人気を生むんだ」 「それはもう——」 「分かっているなら、余計なことは言うな」  と、三神は言って、「他に何か言うことは?」  沢田は何か言いかけたが、 「——別にありません」  と、目をそらした。 「結構。明日は君に長いセリフがある。この間みたいにとちるなよ」  三神はそう言うと、真っ赤になっている沢田を後に、さっさと出て行ってしまった。  沢田は、じっと拳を握りしめて立っていたが、やがて腹立ち紛れに、ディレクターチェアをけとばして、歩いて行く。 「荒れてますね」  と、助監督の一人が声をかけると、残っていた連中がドッと笑った。 「うるさい」  沢田は、ジロッと周囲を見回して、セットを出て行った。   「——どうしたの?」  沢田の車の中で待っていたのは、当の神崎弥江子である。 「何でもない」  と、沢田は運転席に腰をおろした。「あの古ダヌキめ!」 「古いセリフね」  と、弥江子は笑った。「三神監督のこと? いいじゃない。私は嫌いじゃないわ」  沢田はチラッと弥江子の方を見て、 「腹が立たないのか? あんな小娘をちやほやして」  と、顔をしかめた。 「気を付けて。二枚目が台なしよ」  と、弥江子は助手席のシートベルトをして、 「どこかへ行きましょ。——カッカして飛ばさないでよ」 「ああ」  ほとんどやけ気味に言って、沢田はアクセルを踏み込んだ。  沢田の車は、暗い道を、制限速度の倍近いスピードで駆け抜けていた。 「ちょっと! 死ぬのはいやよ、私」  と、弥江子が文句を言うと、沢田はややスピードを落とした。 「——仕方ないわよ。あの子、本当にうまいんだもの」  と、弥江子は言った。「でもね、私の方がスクリーンの上に長く住みついて来たのよ。心配しないで。負けやしないわ」 「まあ、君はね……。しかし——」  と、語尾をにごす。 「ああ、なるほどね」  と、弥江子は笑った。「そういうことか」 「何だよ?」  と、沢田はハンドルの操作に、何とか気持ちを集中させようとしながら言った。 「自分のことが心配なのね? この前みたいに、またあの子の前で怒鳴りつけられるのが、堪えられないんでしょ」  ——弥江子は、スターではあっても、人気だけでもっているわけではない。多少は演技にも自信があるし、三神に注意されれば、何がどう悪いか、察することもできた。  しかし、沢田はその点、いわゆる「スター」と「タレント」の中間の存在で、きちんと演技の勉強をして来たわけでもない。  数日前の撮影で、その前の晩にTV番組の取材が入って飲みに行った沢田は、二日酔いの頭でカメラの前に立たなければならなかった。  そして、やたらとセリフを忘れたり間違えたりして、三神を怒らせてしまったのである。  特に、邦子と二人のシーン。セリフの量は邦子の方が倍も多いのに、きちんと流れをつかみ、間違えない。その邦子の前で、三神に怒鳴られて、沢田は青ざめたものだ。 「あんなこと、今度あったら、降りてやる」  と、沢田は言った。 「馬鹿ね。その前に降ろされるわよ」  と、弥江子は笑った。 「笑うな!」  沢田はプライドの高い男なのである。 「落ちついて。そんなことして何になるの? じっと我慢するのよ、今はね」 「大体、出たくて出てるわけじゃない。うちの社長が勝手に決めた仕事なんだ」  そんなことが理屈にならないのは承知で、ともかく言うだけ言いたいのだ。弥江子は放っておくことにした。  車は、相変わらず夜道を突っ走っている。——静かな住宅地で、もう大分遅い時間なので、人影はなかった。 「君は平気なのか? 大体——」  と、沢田がチラッと弥江子の方へ目をやる。 「危ない!」  車のライトに、突然自転車に乗った女の子の姿が浮かび上がった。  もちろん、沢田は急ブレーキを踏んだ。  タイヤがきしみ、神崎弥江子は目をつぶった。  しかし、スピードが出すぎていた。自転車は沢田の車にまともにぶつかって、一瞬、大きく宙へはね上げられる。乗っていた女の子の体が車のライトの中を飛んで行った。  車が停まるまで、何秒間あったか。——まるで永遠のように長い何秒間かだった。  静けさが戻って来た。  物音一つしない。車は沈黙し、そして沢田と弥江子も沈黙している。  ただ、聞こえているのは押し殺した息づかいばかり。  やっと口を開いたのは、弥江子の方だった。 「見て来て」  沢田は真っ青になっていた。 「仕方なかった……。そうだろう? 突然だったんだ。とてもよけられやしないさ……。そうだろ?」  かすれた声で、沢田がひとり言のように呟く。 「早く見て来て」  と、弥江子がくり返した。「あの女の子が——」 「どうしようもなかった。君もそう思うだろ?」 「しっかりして!」  弥江子が叫ぶように言った。「早く見て来るのよ!」 「ああ……。分かってる。でもね……待ってくれよ。少し……落ちついてから……」 「何言ってるの! 人をはねたのよ。分かってるの?」 「うん。——分かってる。見て来るよ」  やっと、沢田はシートベルトを外し、ドアを開けようとした。「——開かない。変だな」 「ロックしたままよ」  と、弥江子は言った。 「ああ、そうか……」  沢田が出て行くと、弥江子は目をつぶって、深呼吸をくり返した。  何てことだろう!——しかし、弥江子は考えていた。いざとなれば、運転していたのは私じゃないんだから。私の責任じゃないんだわ、と。  沢田が戻って来た。  運転席に黙って座る。 「どうしたの? あの女の子は?」  と、弥江子は訊いた。 「うん。見て来た」 「——それで?」 「呼んだり、揺すったりしてみたけどね。全然起きない。でも、たぶん……しばらくすれば……」  死んだのだ! 弥江子はゾッとした。  人をはねて死なせてしまった! 「どうしようか?」  沢田は、半ば放心状態である。  弥江子は必死で冷静に事態を考えようとした。 「分かってる? 女の子は死んだのよ」 「ああ。たぶんね」  と、沢田は肯いた。 「あなたはスピードを出してた。言い逃れできないわ」 「しかし——」 「聞いて。問題は、今、どうするかよ」 「警察へ——」 「知らせる? 当然そうすべきよね。でも、あなたは刑務所。私だって一緒に乗ってたのよ。スキャンダルになるわ。女優として、もうやっていけないかもしれない」  沢田の顔に、やっと表情が戻って来た。 「逃げよう」  と、沢田は言った。「誰も見てない。車も一台も通ってない。今逃げたら、誰にも分からないよ」  弥江子は、じっと沢田を見つめた。 「もし、逃げて捕まったら、最悪よ。分かってる?」 「しかし、逃げ切れるかもしれない。そうだろ?」  弥江子は、大きく息をついて、前方の闇をじっと見つめていた。 「賭けね。——やってみる?」 「ごめんだ。刑務所なんて」  沢田は首を振った。 「じゃあ、行きましょう」  と、弥江子は言った。「腹を決めるのよ。何もなかった、と自分に言い聞かせて、そう信じるの。分かった?」 「うん」 「じゃ、今度は安全運転で行くのよ」  沢田がエンジンを始動させる。車体が細かく震えた。  車がゆっくりと走り出す。沢田は、じっと唇をかみしめて、ハンドルを握っている。 「——この辺を走ってたことにしない方がいいわ。どこかよそへ行きましょう」 「どこへ?」 「どこか——全然別の方向へ。車に傷がついてるでしょう。このまま人目のある所へは停められないわ」 「じゃ……一旦、マンションへ戻ろうか」 「それがいいわね」  弥江子は肯いた。「カバーをかけて、見られないようにするのよ」 「どの程度の傷か、よく見ないと」 「そう……。誰にも気付かれないように。いつもの通りにしてるのよ。いつも通りにね」  車は、夜の道を走り続けていた。  弥江子は、死んだ少女のことはもう忘れていた。問題は自分の未来、それだけだった……。 出 発  電話と目覚まし時計が、ほとんど同時に鳴り出した。  浩志は少し前から目が覚めていたのだが、ウトウトしながら、目覚まし時計の鳴るのを待っていたのである。  あわてて時計のベルを止めようとして、手を伸ばし、時計を引っくり返す。——焦ると、こんなものである。  やっと電話に出る。 「もしもし、石巻です」  大方、ゆかりか、マネージャーの大宮からだろう、と思った。 「浩志? おはよう」  意外な声に、浩志は座り直した。 「邦子。——久しぶりだな」 「本当ね。もう会社、お休みに入ったんでしょ?」 「うん。ぎりぎりまで忙しかったけどな」  と、浩志は言った。「撮影は、どうしたんだ?」 「一応、お正月挟んで、四、五日お休みなの。『巨匠』は休みたくないらしいけど、他の人が働かなくちゃ、仕方ないでしょ」 「そりゃそうだな。——うまく行ってるのか?」 「うん。順調よ」  邦子の声は明るかった。「初めの内はね、何かと突っかかって。あの女優さんと、二枚目さんが」 「何かされたのかい?」 「別に。三神監督が目を光らせててくれてるし。それに……」  と、邦子はちょっと間を置いて、「何だか変なの」 「変って?」 「このところ、急にあの二人がおとなしくなっちゃってさ。——監督も首かしげてた」 「ふーん。何かあったのかな」 「よく分かんない。でも、私にもいやに親切にしてくれたりして、却って、気味悪い」  と、言って邦子は笑った。 「しかし、順調に進んでるのなら良かった」 「ね、浩志も暇でしょ? どこかに行かない?」  そう言われて、浩志は詰まった。ゆかりとハワイへ行くと言ったら、どう思うだろうか。 「いや……あのね……」  ここで黙っていても、TVや週刊誌に出てしまうだろう。 「どうしたの? まさか、ゆかりとハワイに行く、なんて言い出すんじゃないでしょうね」  邦子の言葉に、浩志が、 「えっ?」  と、目を丸くしていると、邦子がふき出した。 「馬鹿。ちゃんと知ってんのよ」 「なんだ」  浩志は、フーッと息をついた。「びっくりさせるなよ」 「今日、発《た》つんでしょ?」  と、邦子は言った。 「そこまで知ってるのか」  浩志は、頭をかいて、「悪いな。ゆかりがどうしても、って言うから。しかし、部屋はちゃんと別にしてある。ゆかりとしては、お礼のつもりなんだよ」 「分かってる」  と、邦子は言った。「マネージャーが聞いて来たの。仕度はできてるの?」 「これからさ。充分間に合うよ」 「だめよ。国際線は結構時間かかるのよ。ちゃんと仕度して。パスポート、忘れないでね」 「うん。——邦子はどうするんだ?」 「お休み? 寝てる。明けたら、ハードな撮影が待ってるからね」 「そうか。頑張れよ」 「うん。——ね、ハワイから電話して」 「うん、かけるよ」 「じゃあ……。ゆかりによろしく」 「言っとく。これから顔を洗うよ」 「パリッとしてね。天下の安土ゆかりの恋人よ」  そう言って、邦子はフフ、と笑うと、「じゃ、行ってらっしゃい」  と、電話を切った。  ——浩志は、少し受話器を持ったままだったが、やがて欠伸をして、受話器を戻した。  邦子は、感情を殺すことに慣れた子である。ああして、何も気にしないように話しているが、内心どうなのか。  そこまでは、浩志にも分からない。  しかし、声に張りがあり、元気そうなことは分かる。何といっても「女優」なのである。  仕事が充実しているとき、邦子は誰よりも元気なのだ。  浩志はウーンと伸びをして、目を覚ますと、顔を洗おうと立ち上がった。  玄関のドアを派手に叩く音がして、 「石巻さん! おはようございます! 大宮です!」  と、威勢のいい声が聞こえて来た。    邦子は電話を切って、しばらくその前に座っていた。  もしかすると、浩志がかけて来るかもしれない、と思ったのである。  ——やっぱり、ゆかりと行くのはやめたよ。二人でどこかに行かないか。  邦子はちょっと笑った。  そんなことがあるわけはないのだ。分かっている。分かっているのに……。  つい、悲劇のヒロインをやってしまうのだ。  いけない、いけない。  これはドラマの中じゃないんだ。現実の世界なんだから。そう自分へ言い聞かせて……。  邦子の頬を、ポロッと涙が落ちた。  お馬鹿さんね。  邦子は、あわてて涙を拭って、息をついた。  何も悲しいことなんかない。そうだわ。  浩志とゆかりが二人でハワイに行ったところで、それが何だろう?  浩志が言った通り、ちゃんと部屋も別にとって、二人の間には「何もなく」帰って来るだろう。浩志はそういう人だ。  でも——邦子の胸中は、複雑だった。  浩志を誘ったゆかりの気持ち。それを知っていても、邦子のことを思って、ゆかりを抱こうとしないに違いない、浩志の気持ち。  どっちも、邦子には痛いほど、よく分かるのである。  そして、邦子には分かっている。  浩志がどうしてもゆかりを抱こうとしない限り、邦子のことも抱こうとしないに違いない、ということが……。 「しっかりして」  と、邦子は言った。「あんたは役者でしょ。——いい仕事をしてるのよ」  そう。この日々の充実!  三神との仕事は、これまでにやったどの仕事とも違っていた。いや、比較のしようのないほど、次元が違っていた、と言うべきだろうか。  ライトの角度一つ、小道具のボールペン一本、三神の気に入らない限り、カメラは回らない。スタッフも凄いプロばかりである。  メイクしている間に、もう邦子は緊張し、興奮して来る。一週間でとり上げるTVドラマの粗っぽさとは、何という違いだろう。  それに、理由は分からないが、神崎弥江子と沢田が、このところいやに神妙にしているので、邦子は、余計なことに気をつかわず、演技に専念できる。  それにしても、三神が——あの中年男が、若い娘の心を、何と的確に読んでいることだろう。  邦子はしばしばドキッとさせられる。  マネージャーに言われていた。 「監督から、『個人的に読み合わせをやろうか』って言われても、行っちゃだめよ」  と……。  三神が、撮影中に、気に入った女優と「特別な仲」になることが多いのは、この世界でも有名だった。  ただ、そうなっても相手の女優が三神に心酔し、しかもいい作品の中で、自分を光らせてくれるので、誰も三神を恨んだりしないのである。——その女優たちの気持ちも、邦子にはよく分かった。  優れた才能は、より優れた才能にだけ、圧倒されるのだ。そして三神は確かに、仕事場では邦子を圧倒していた。  邦子は、伸びをした。——オフの何日かの間、何をしていようか。  ともかく、どこかへ出かけよう。  邦子は、仕度をした。——映画を見るか、本を捜すか。  何かクラシックのCDでも買って来て、引っくり返って聞いているか……。  外は寒いだろうが、それでも出かけたかった。  もちろん、今日はマネージャーからも解放されている。一人でぶらぶらと出歩くことは、めったにない。  バッグを肩にかけ、邦子はマンションの部屋を出た。エレベーターで一階へ下りて行くと、郵便受けを覗く。  新聞と、ダイレクトメール。  そのまま、また放り込んでおいて、マンションを出ると、少し風があって、冷たい。  それでも、却って快い厳しさが、邦子を誘ってくれる。冬は寒いのが自然なのだ。  邦子が歩き出そうとすると、車のクラクションの鳴るのが聞こえた。  振り向いて、邦子は目を疑った。——三神が、車の窓から顔を出している。 「監督! 何してるんですか?」  と、邦子が寄って行くと、三神は窓を一杯に下ろして、 「君がどうしてるかと思ってね」  と言った。「今、来たら、ちょうど君が出て来るのが見えた」 「何かご用だったんですか」  まさか。——まさか、ね。 「いや、正月休みで、これだけ中断されると、明けてから始めるのが大変なんだ」  と、三神は顔をしかめた。  邦子はちょっと笑った。 「何かおかしいか?」 「いえ。——本当は年内でクランク・アップだったんでしょ」 「遅れたのは、僕のせいじゃない」 「じゃ、下手な新人のせいですね」 「そうだな」  と、三神は真面目な顔で、「つい欲が出るんだ。この子なら、もっとやれる、とね。沢田なら、いい加減なところで諦めるんだが」 「まあ」 「どうだ」  と、三神は言った。「休み中、ボーッとしてても仕方ないだろう」 「休みはボーッとするためにあるんじゃないですか?」  と、邦子は言った。 「まあ、君の言うのももっともだ」  と、三神は肯いて、「ただ——君さえよければ、もしその気があったら、個人的に明けのシーンの読み合わせをやろうかと思ってね」  邦子は、少しの間、無言で三神を見つめていた。——「個人的な読み合わせ」ね。  マネージャーの言葉を、邦子は思い出していた。 「どうだい?」  三神の誘い方は、いかにも自然で屈託がなかった。  個人的な読み合わせ。——邦子はおかしかった。笑いたくなった。  この巨匠が、女性を誘うときは、いつも同じセリフなのだ。少しは変えりゃいいのに。  何か独創的なセリフが、出て来ないのだろうか?  いや、これでいいのかもしれない。——お互い、意味するところを知っている。そして、どっちも、 「そんなつもりじゃなかった」  と言うことができる。 「何か予定があるなら、無理に、とは言わないよ」  と、三神が言った。 「いいえ」  邦子は首を振った。「私、構いません」 「そうか。じゃ、乗って。僕の事務所へ行こう」 「はい」  邦子は、車の前を回って、助手席に乗り込んだ。  車は、暮れの押し詰まった町へと走り出して行った。   「オールスター映画だな」  と、西脇が笑って言った。  成田空港のロビーは、ごった返していた。  もちろん、一般の客も多いわけだが、芸能人が一機に何人も同乗しているというのは、年末ならではの光景だろう。  あちこちで、挨拶が交わされ、フラッシュが光る。カメラマンが忙しく飛び回っていた。 「——浩志、遅いなあ」  ゆかりは苛々していた。 「そんな顔するな。どこで誰が見てるか分からないんだぞ」  と、西脇が言った。「大宮がちゃんと連れて来るさ」 「羽田に行っちゃったんじゃないわよね」  と、ゆかりが言ったとたん、人の間をかき分けるようにして、大宮がスーツケースをさげて来るのが見えた。 「あ、来た! こっちよ!」  ゆかりがピョンと飛びはねて、手を振る。  浩志が手を上げて見せた。  すぐに何人かカメラマンが駆けつけて来て、浩志とゆかりの写真をとろうと待ち構えている。 「——すみません、遅くなって!」  と、大宮は汗を拭いて、「車が混んでて……。でも、充分間に合いますよ……」  ゆかりは聞いていなかった。  浩志の前に立つと、 「——来たね」 「来たよ」  と、浩志は言った。  搭乗手続きをすませると、浩志とゆかりたちは、出発までロビーにいて、わざわざ人目につく気にもなれず、ラウンジへ入って待つことにした。  ファーストクラスとエグゼクティブ用のラウンジへ、西脇、大宮と四人で入って行くと、 「いらっしゃいませ」  と、カウンターの女性がにこやかに迎えてくれる。「セルフサービスになっております。ご自由にどうぞ」 「あそこ、空いてる!」  ゆかりが、さっさと奥の一画へ行って、腰をおろす。「浩志! ここへ来て」 「何か飲むかい?」 「いいわよ、大宮さんがやってくれる」 「いや、自分でやるよ。僕はスターじゃないからな」 「じゃ、私のも持って来て。ミルクティー」 「分かった」  と、浩志が肯く。 「石巻さん、やりますよ」  と、大宮が言った。 「いや、荷物をお願いします。飲み物は自分で」 「分かりました」  ラウンジも、ほぼ一杯だった。ファーストクラスもエグゼクティブも満席ということだ。浩志の分をとるのにも、相当に苦労したはずである。  飲み物を運んで、浩志もソファで寛いだ。 「——ありがとう。浩志、邦子と話した?」 「え?」 「邦子……知ってるのかな」 「ああ。今朝、電話して来た。ちゃんと知ってたよ。よろしく言ってくれって」  ゆかりは、ミルクティーをゆっくりとかき回した。 「そう。——撮影、順調だって?」 「うん。楽しいと言ってたよ」 「良かった」  ゆかりは、微笑んだ。「その内……きっと邦子の方が有名になるね。私は十年もたったら、『あの人は今……』って記事に、書かれるの。そういえば、こんな子もいたっけ、って」 「何だ、弱気だな」  ゆかりはちょっと笑って、 「浩志を見てるとね、つい自信なくすのよ」 「どうして?」 「いえ——自信じゃなくて、野心っていうのかな。浩志、そんなものと関係なく生きてるじゃない」 「そんなことないさ。人間は誰でも、少しはうぬぼれてる」 「浩志も?」 「ああ」  と、浩志は肯いた。 「どんな風にうぬぼれてるの?」  と、ゆかりは面白そうに、浩志の顔を覗き込んだ。 「大スターのゆかりのマネージャーになって、食わせてもらう、とかさ」 「本気で言ってない」 「当たり前だ」  二人は一緒に笑った。  そして——二人は何となくラウンジの中が静かになったのに気付いた。 「石巻さん」  大宮が、急いでやって来る。「あの連中——」  言われる前に、気付いていた。  入って来た五、六人の男たち。その一番前にいるのは、あの国枝定治だった。 「いやだ……」  と、ゆかりが呟く。「あの息子は?」 「しっ。——いないようです」  と、大宮が言った。  西脇が、国枝に挨拶している。——偶然だろうか?  もちろん、同じ所へ行くとは限らないわけだが。  国枝が、ゆっくりとゆかりたちの方へやって来る。ゆかりが浩志の腕をギュッとつかんだ。 「——これはどうも」  と、国枝は、相変わらずの愛想の良さで、「お幸せそうだな、二人とも」 「どうも、その節は」  と、浩志は言った。 「ハワイへ? こりゃ偶然だ」  と、国枝は言った。「我々もね、ちょっと仕事の用事があって、ハワイへ行くんだよ。——そうそう。息子も先に行って、遊んでいる。向こうでお目にかかれるかもしれないね」  それだけ言って、国枝は軽く会釈すると、ついて来た男たちが待っているソファの方へと歩いて行った。  ビジネスマンが何人か座っていたのだが、男たちに言われて、他へ移ったのである。 「——やれやれ」  西脇がやって来た。「同じ便にはなっていない」 「良かった!」  と、ゆかりが胸に手を当てる。 「偶然ですね」 「たぶんね」  と、西脇は肯いた。「しかし、例の息子があっちにいるとなると——」 「用心しましょう。何があるか分からない」 「却ってマスコミの目がどこにでもありますから、大丈夫でしょうが……。用心に越したことはない」 「浩志」  ゆかりが浩志の腕を痛いほどつかんで、「離れないでね」  と、言った。    TVの画面には、成田からの生中継の映像が出ていた。  ゆかりが、浩志と腕を組んで、カメラの方へ手を振りながら、歩いて行く。  邦子は、その画面をじっと眺めていた。 「——君の親友じゃないか」  と、三神が言った。 「ええ……。二人とも。昔からの友だちです」  三神は、ベッドに腰をおろした。ガウンをはおって、いつもの通りメガネをかけている。 「何となくおかしい」  ベッドの中で、邦子は体の向きを変えた。 「何が?」 「だって——あのときはメガネ外してるでしょ。別人みたいに見えるんですもの」  三神の大きな手が、邦子の腕をゆっくりとなでた。 「卑怯だと思うかね」  と、三神は言った。 「いいえ」  邦子は、枕に頭を落として、「大人ですもの。拒むことだってできる。——そうでしょう」 「そうだな」 「分かってました。こうなるだろうってこと」 「そうか?」 「ええ。最初にお会いしたときから」 「じゃあ、後悔しないか」 「しません」  と、邦子は言った。  TVには次々に搭乗口を入って行く芸能人の姿が映し出されている。 「これが人気の象徴だ」  と、三神はTVを見ながら、言った。 「プライバシーも、人気の内なんですね」 「そう。しかし、本物の女優には、そんなことは必要ない」 「ええ。でも——少しは、あんなことがあってもいいと思うけど」  そう言って、邦子は笑った。 「そうなるとも。君は、立派に中身の伴ったスターになる」 「そう思いますか」 「思うんじゃない。僕には分かってるんだ」  三神がメガネを外すと、ベッドへ入って来る。  邦子はその力強い腕に再び抱かれながら、目はいつしかTVの画面に向いていた。 「TVを消して」 「うん?」 「TVを消して下さい」 「ああ」  三神は、リモコンを取ると、TVを消した。  ——行ってらっしゃい、浩志。  邦子は、三神の胸に顔を埋めながら、そう呟いたのだった。 雪の出来事 「キャーッ!」  悲鳴だけ聞くと、殺人鬼にでも襲われたかと思うほどの凄まじさだった。  しかし、その手の叫び声が、ここでは一向に珍しいものではなくなっている。  何しろ、スキー場では、年中叫んでいる女の子がいくらでもいるのである。 「大丈夫?」  と、石巻克子は、一緒に滑っていた子が派手に引っくり返ったので、スキーをハの字にして止まると、声をかけた。 「もうだめ!」  と、雪まみれの顔が見えると、克子は笑い出してしまった。 「笑うな! 人のことだと思って」  と、むくれている。 「だって——あんただって、反対の立場なら、笑うわよ」  と、克子は言ってやった。「ストックは?」 「どっか行っちゃった。——スキーの片っ方も」 「ほら、スキーはそこ。半分埋まってるじゃないの」 「あ、あった!——ストック、どこかなあ」 「近くには見当たらないみたいね」  と、克子は言った。「——ね、あれ、違う?」  木立の向こう、十メートル以上も離れた所に、ピョンとストックのお尻が突き出している。 「あんな所まで行っちゃったんだ。もう!」 「だから、休もうって言ったじゃないの」  と、克子は笑って、「疲れてるのに、頑張って滑るから」 「だって、もったいないでしょ。そう何日もあるわけじゃないんだし」  それは事実である。  大してお金があるわけでもないOLのグループとしては、目一杯滑ろうとしてしまうのも無理はない。  しかし、克子は自分の力をよく知っているのだ。スキーをそう何度もやったことがあるわけではない。  もちろん学生時代は、とてもそんな余裕がなかったし、初めてスキーをはいたのは、OLになってから。  生来、運動神経がいいのか、初めから何とか滑ることはできたが、正式に習ったわけでもなく、見よう見まね。  誘われればこうしてやって来るが、自分からすすんでやりたいとは思わない。 「ね、克子、ストック取って来て」 「仕方ないわね」  と苦笑いして、克子はストックの先でスキーを外した。  とても、あんな斜面、滑っては行けない。  スキーを外して、克子は雪の斜面を下りて行った。  ストックは、かなりの急斜面の途中まで飛んで行ってしまっている。 「——世話のやけること」  と呟いて、それでも何とかストックの所へ辿りつく。  ずいぶん深く埋まってしまっている。力一杯引っ張ると、スポッと抜けて、その拍子に克子は尻もちをついてしまった。もちろん雪にズボッと埋まってしまったのである。 「ハハ、やったやった!」  と、ストックを飛ばした当人は手を叩いて喜んでいる。 「何よ! 人にやらせといて」  と、克子は言い返して、何とか立ち上がろうとしたが——。 「危ない! 克子——」  その叫び声に、ハッと斜面を見上げると、凄いスピードで滑り下りて来る黒いスキーウェア。  真っ直ぐ、克子に向かって滑って来る。  ちょっと。——困るわよ。危ないじゃないの!  よけるにも、アッという間だった。目の前に迫ったスキーヤーが、シュッと雪煙を立てて——。 「キャッ!」  克子は仰向けに倒れた。そのわき、顔のすれすれの所をスキーがかすめて、雪が克子の顔に叩きつけられた。  ——克子は、しばらく動けなかった。  こんな怖い思いをしたのは初めてだ。後になって、胸がドキドキして、息が苦しいほど。 「——大丈夫ですか!」  と、駆けて来たのは、ぶつかりかけた、黒いウェアのスキーヤーで……。  スキーを外して、斜面を上って来る。 「けがはありませんか!」  若い男らしい。大方、大学生だろう。 「心臓が止まっただけよ!」  と、克子は起き上がって、言ってやった。「危ないでしょ! 人がいるのに!」 「すみません!」  と、その男は克子の手をとって立たせながら、 「目に入らなかったんです。ゴーグルに雪がついて」 「本当にもう……。死ぬかと思った」 「けが、しませんでしたか?」 「何とかね……」  克子は頭を振った。「顔がひりひりするわ」 「本当にすみません。タイムを測ってたもんで、つい……」  克子はゴーグルを外し、顔の雪を払い落とした。 「あの——あなたのスキーは?」  と、その男は訊いた。  克子は、その黒いスキーウェアの男がゴーグルを外すのを見て、ちょっとびっくりした。  いや、若い男だろうとは思っていたが、それにしても童顔である。 「私のスキーはあっち。初心者コース。友だちがこのストックを飛ばしたの」  と克子は説明した。 「ああ、なるほど。じゃ、僕が持って行きますよ」 「ありがとう。じゃ、お願い」  克子は、あれだけ怖い思いをしたんだから、これぐらいのこと頼んでもいいだろう、と思った。 「——克子! 大丈夫?」  と呼びかける友人へ手を振って、克子は斜面を斜めに上り始めた。  ストックを手に、その男の子がついて来る。 「あなた、高校生?」  と、克子が訊くと、相手は何だかムッとした様子で、 「こう見えても、大学三年です!」  と、言った。 「あら、失礼」  こう見えても、というのがおかしくて、克子は笑ってしまった。 「——いつも一年生ぐらいには見られますけどね」  と、不満げに、「高校生って言われたのは初めてですよ」 「ごめんなさい」  と、克子はまだ笑いながら、「じゃ、二十一? へえ」 「どうしてです?」 「私と同じか。——私も高校生に見える?」 「OLでしょ」  言い当てられたのは、ちょっとショックだった。 「分かる?」 「あっちの人はどう見たってOLです」  ストックを待っている友だちの方を見て、克子は肯いた。——彼女は二十四、五である。 「ありがとう、ここでいいわ」  立木の所まで来て、克子はストックを受け取った。 「じゃあ、これで」  と、その大学三年生は、会釈して行きかけたが、ふと振り向くと、 「ホテルは、〈N〉ですか?」  と訊いた。 「とんでもない。そんな高い所、泊まれないわよ」  と、克子は答えた。「それじゃ、どうも」 「気を付けて」  ——克子はその童顔の大学生が、斜面をタッタッと下りて行くのを見送っていた。  うまいものだ。ずっと、小さいころから滑っていて、慣れているのだろう。  アクシデントの後は慎重に滑って、克子たちは下のロッジへ入った。 「——凄い人ね」  と、満員のロッジの中を見回す。  三人でこのスキー場へやって来たのだが、一人は温泉に入っている方がいい、と言って旅館にいる。  克子と一緒に滑っていたのは、武井恵子といって、年齢は上だが、克子より後から入社して来た子である。 「どうする?」  と、克子は言った。 「お腹空いたね」 「あれだけ叫べばね」  と、克子は笑って、「でも、相当待たないと、座れそうもないわね」 「そうね」  と、武井恵子はため息をついた。 「——お客様」  と、ウエイトレスがやって来た。 「はい?」 「どうぞ、あちらへ。お連れ様がお待ちです」  お連れ様?——克子は恵子と顔を見合わせた。  スキー靴でゴトゴト音をたてながら、ウエイトレスについて行くと、奥のテーブルに男の子が三人、座っている。 「あ、さっきの——」  と、克子は目をみはった。 「さっきは失礼しました」  黒いウェアの「三年生」が克子に頭を下げた。「席を捜しているようだったんで」 「ありがとう。でも——いいの?」 「ええ。椅子、一つそこから持って来れば」  男の子の一人が、空いた椅子を持って来てくれる。  克子も朝からしっかり食べていないので、お腹が空いていた。ありがたく席に落ちつくことにする。 「——僕らは、K大のスキー同好会です」  と、さっきの男の子が言った。「僕は黒木です」 「それで黒いウェアなの?」  と、克子はつい訊いていた……。    黒木か。  克子は、大学生たちと話すのなんて、久しぶりだ、と思った。  高校生のころ、いくらかそういう機会もあったが、OLになってからは、全くない。  屈託がなくて、楽しそうではあるが、やはり話題が少しずれている感じである。  むしろ恵子の方が平気でペラペラしゃべって、打ちとけていた。  食事をしている間は、却って気が楽だった。  男の子たちもよく食べた。——同じ年齢なのに、克子はひどく「年齢の差」を感じてしまうのだった……。 「あなた方、ホテルNに泊まってるの?」  と、コーヒーを飲みながら、克子は言った。 「そうです。だって——」  と、一人が言いかけると、黒木が遮って、 「一番便利でしょ。だから」 「まあ、そうね」  と、恵子が肯いて、「でも、お値段がね」  K大といえば、私立の中でも名門の一つである。そのスキー同好会。  きっと、みんないい家の坊っちゃんなのだろう、と克子は思った。 「まだしばらくいるんですか」  と、黒木が言った。 「どうして? スキー、教えてくれる?」  と、克子は笑って、「OLはね、そんなに長く休めないの」 「石巻さん——でしたっけ」  と、黒木は言った。「今夜、ホテルNで、パーティーがあるんです。来ませんか」 「パーティー?」 「ええ。気楽に踊ったり飲んだりするだけです。よろしかったら、皆さんで」 「すてきじゃない」  と、恵子がすっかり乗り気になっている。 「でも、私たち、泊まり客じゃないのよ」  と、克子は言った。 「構やしません。ご招待しますよ」  黒木はどうやら本気で招《よ》んでくれるつもりらしい。 「ありがとう。じゃ、帰って、もう一人と相談してみるわ」  と、克子は言った。「——さ、恵子。もう旅館に戻ろう」 「うん。もう膝がガクガクね」 「楽しかったわ」  と、克子は言った。「私たちの分、いくらかしら?」 「いいです」  と、黒木が言った。「さっきのお詫びですから。持たせて下さい」 「そんなわけにいかないわ」 「いえ。もし、あなたにけがでもさせてたら、大変だったんですから。——本当に、払わせて下さい」  黒木の目は、何だか顔つき以上に子供のようだ、と克子は思った。 「じゃ、ごちそうになるわ。ありがとう」  あえて争わないことにして、克子たちは席を立った。 「——儲かったね」  と、外へ出て、恵子が言った。 「そうね」 「パーティー、行く?」 「まさか!」  と、克子は首を振って、「向こうは大学生でも、お金持ちよ。しがないOLとは別世界」 「それもそうか」 「さ、戻りましょ」  克子たちは、レンタルのスキーを返しに、雪の中を歩き出した。  借りたスキーを返すのにも、いい加減行列して、寒い中で待っていなくてはならない。 「——あの男の子たち、自分のスキー、持って来てるんだろうね」  と、恵子が手をこすり合わせながら言った。 「当たり前よ。きっと外国製の、超高級品でしょ」  克子は、白い息を吐いて、「それをポルシェとかジャガーとかの屋根にのせて」 「カッコいいなあ」  と、恵子はため息をついて、それが白く風に流されて行くところが何となく哀れだった……。   「——ああ、寒かった。ねえ、凄い勢いで転んじゃったの」  と、旅館へ戻って部屋へ入るなり、恵子は言った。 「そう」  一人、残っていた長谷川伸子は、TVを見ている。「温泉、入って来たら? あったまるわよ」  長谷川伸子は二十三歳で、克子の少し先輩だが、呑気で、気疲れしない相手だった。 「じゃ、入って来ようか」  と、克子は、こごえた両手をこすり合わせて、息を吐きかけた。「でも、もう少し体があったまってからでないと、このまま、お湯に入ったら、熱くて飛び上がっちゃうわ、きっと」 「ね、面白い人たちに会ったのよ」  と、恵子が早速、長谷川伸子に「報告」しようとしていると、 「ごめん下さい」  と、声がして、 「はあい」  克子が襖を開けると、旅館の人が、 「これ、今、下に届きましたもんで」  と、白い封筒を手渡す。 「そうですか。——どうも」  受け取って、戸惑う。宛名も差出人の名もない。 「何?」 「こんな所にダイレクトメールでもないでしょうしね」  と、克子は封を切った。  中の二つ折りにした厚手の紙を開くと——。 「驚いた! ね、恵子、これ……」 「見せて!」  恵子がパッと取って、「招待状?」 「あの大学生よ。黒木っていう。——どうしてこの旅館が分かったんだろ? 恵子、言った?」  恵子は克子の言うことなど聞いていない。覗き込んでキョトンとしている伸子へ、三人の大学生との出会いを話して聞かせて、 「ね、行こうよ、克子! せっかくじゃない」  と、克子の方へ言った。  克子は、どうしたものか、迷った。  もちろん、そんなに深く考えるほどのこともない。行って、つまらなかったら帰ってくればいいのだ。そうは思うのだが……。 「行かない手はないわよ」  と、長谷川伸子も珍しげに招待状を眺めて、 「どんな格好してきゃいいの?」 「凄いドレスでも着てくか」 「それとも水着?」  恵子と伸子がキャッキャ笑っている。  克子は苦笑して、 「じゃ、せっかくのご招待だから、断っても悪いし、行きましょう」  と、言った。「でもね、タダだからって、食べ過ぎたり飲み過ぎたりして倒れたら、置いてくわよ」 「いいじゃない。ホテルNで泊めてくれるかも」  と、恵子は面白がっている。「ね、克子」 「うん?」 「あの黒木って子、いたじゃない」 「それがどうしたの?」 「克子に惚れたんじゃない?」 「ええ?」  克子は呆れて、「向こうは子供よ」 「同じ年齢じゃない」 「学生よ。冗談じゃないわ」  克子は畳の上にドサッと座った。 「でもさ、こうもしつこく誘って来るっていうのは、普通じゃないよ」 「ヒマなんでしょ」 「パーティーで酔って、介抱されて、とかさ。よくTVドラマにあるじゃない」  恵子は勝手に想像力をめぐらせているらしい。  介抱されて……か。馬鹿みたい。  そんな、TVドラマみたいなことが……。  克子は、ふと斉木と、その妻のことを思い出していた。正月、斉木たちもどこかへスキーに行っているはずだ。  あの斉木南子も、何食わぬ顔で、斉木と楽しく滑っているのだろうか。互いに、他に恋人がありながら、はた目には、申し分なく幸せな夫婦を演じて……。  そして夜は——同じベッドに寝て、たぶん二人は……。  やめて、やめて! 目を閉じ、克子は頭を振った。  考えたくない。考えてはいけない。  克子は、こうして距離的に離れてみると、自分と斉木との関係を、まるで他人のもののように見つめていることができた。  いつまで、こんな風に続けて行けるものか。斉木の妻が、別れると言い出したら、それが斉木と克子の関係の終わりである。  それはいつ来るのだろう? 「克子、何着てく?」  恵子に肩を叩かれて、克子は、ふっと我に返った。 暖 炉 「すみません」  と、黒木は言った。  克子は、少しぼんやりしていて、黒木の言葉がすぐには分からなかった。 「え?」  と、顔を上げ、訊き返してから、「すみません、って言ったの?」 「そうです」  と、黒木が肯く。 「どうして? あなたがパーティーに招《よ》んでくれたんじゃないの」 「何だか無理に来てもらったみたいで……」 「そんなことないわよ」  と、克子は言った。「ホテルNに入れたし、それだけでも儲けもの」  ——ホテルNの、ラウンジ。  ロビーから仕切られたその一画は、本物の大きな暖炉があって、見たこともないような太いまきが燃えている。本当の炎だ。 「今どき珍しいわね、火をたいてるなんて」  と、克子は言った。「あなた、よほどここのお得意さんなの?」 「え? どうしてですか」 「こんな、暖炉のすぐそばの席……。ちゃんととっといてくれたじゃないの」 「僕じゃなくて、親父が、です」  黒木は少し照れたように言った。  パーティーは、にぎやかなものだった。ちゃんと本格的なディスコがあって、音楽とレーザー光線がめまいを起こしそうな勢いで飛び交っている。  恵子や伸子は、大喜びで、ホテルの泊まり客に混じって踊っていたが、克子はもともと、大騒ぎするのが得意でない。しばらく中にいたものの、頭痛がして来て、出てしまったのである。 「好きじゃないんですね、ああいうパーティーが」  と、黒木がコーヒーを飲みながら、言った。 「そうね。どっちかっていうと、一人で部屋にいるのが好き。偏屈なの。見ても分かるでしょ」 「分かります」 「言ったわね」  と、黒木をにらんで、ふき出す。  面白い子だわ、と思った。いや、同じ年齢なのだから、「子」なんて呼ぶのは失礼なのかもしれないが、ともかくその童顔と、はにかみ屋らしい様子は、どう見ても「少年」のイメージなのである。 「お勤め、長いんですか」  と、黒木が訊く。 「そうね。今の所は高校出てから。その前にも、あちこちで働いてたの」 「へえ。じゃ、高校へ通いながら?」 「兄と二人暮らしだったから。勤労学生ってやつね」 「偉いんですね」  黒木の言い方は、至って素直だった。 「うーん、別に『偉い』とは思わないけどね」  と、克子は少し首をかしげて、「食べてかなきゃいけないでしょ。だから、働いてた。それだけよ」 「可愛い」 「え?」  克子は面食らった。 「そうやって首かしげると、克子さん、凄く可愛いですよ」 「——ありがとう」  と、克子は笑って言った。「じゃ、ずっと首かしげて歩くかな」  危ないな、と思った。  恵子が言ったのは、満更外れてもいなかったのかもしれない。黒木は、克子に「一目惚れ」してしまったようだ。  克子は決してうぬぼれているわけじゃないが、今、黒木が暖炉に燃える炎に照らされた克子の顔をじっと見ているその目には、確かに「憧れ」の色が見てとれた。 「どうもありがとう、招待いただいて」  と、克子は、自分のコーヒーを飲み干すと、「さ、そろそろ帰らないと」 「もう? まだ早いですよ」 「でも、いつまでもいるわけにもね。——あの二人、どうしたかしら」  と、克子がロビーの方へ目をやると、ちょうど恵子がラウンジを覗いて、 「あ、いたいた。ね、克子。ナイターやって来る」 「え? スキーやるの、これから?」 「そう。ちゃんとコーチがついてるから、大丈夫」  黒木の友だちが、一緒に立っている。 「一緒にどう?」 「遠慮しとくわ」  と、克子は言った。「でも——恵子、ウェアとか、どうするのよ」 「貸してくれるんですって、ホテルで。やっぱり違うわねえ、一流ホテルは。じゃ、行ってくる!」  少々酔ってもいるらしい。恵子は手を振って、行ってしまいそうになる。 「ちょっと、恵子! 長谷川さんは?」 「スナックで飲んでる。眠っちゃいそうよ、あの人」 「そんな……。もう!」  と、克子はため息をついた。「本当に図々しいんだから」  黒木が笑って、 「じゃ、仕方ないですね。克子さんも残らないと」 「そのようね」  と、克子は苦笑した。 「踊りませんか、スキーがだめなら」 「私、ああいうにぎやかなのには弱いの」 「もっと静かな場所もありますよ」  黒木が立ち上がって、「さ、行きましょう」  克子は仕方なく席を立った。  黒木が克子を連れて行ったのは、地下にある静かなサロンだった。 「こんな場所もあるの」  と、克子は、低い声で言った。  広いスペースで、ソファがゆったりと置かれ、重役風の男性が何人か、グラスを手に寛いでいる。 「若いのはディスコ、大人はこっち、ってわけです」 「あなた、『若いの』の方じゃないの?」 「こういうときは大人になります」 「調子いいのね」  克子は、ともかく、自分の住む世界とまるで別世界のようなこの場所を、しばらく体験してみようと思った。  黒木が何のつもりで自分をこんな所へ連れて来たのか、よく分からなかったが、未知のものへの好奇心は、強烈に克子を捉えた。 「踊ってる人なんて、いないじゃないの」 「構わないんですよ」  黒木が、バーのカウンターへ行って、何やら話して来ると、すぐに静かなダンスナンバーがサロンの中に流れ始めた。  居合わせた客も、チラッと目を上げただけで、気にもしていないらしい。 「さあ、この辺で」 「私……よく知らないの」  と、克子は正直に言った。 「僕も」  と、黒木が言った。「でも、適当に動いてれば……。足を踏まないようにしますから」 「でも……」  照れくさかったが、ともかく、黒木と身を寄せ合うようにして、踊った。——克子は、斉木に少し教えてもらったことがある。黒木の方も、克子と同じくらいの知識らしかった。 「黒木……何ていうの?」  と、克子が囁くように訊いた。 「黒木翔です」 「しょう?」 「とぶっていう字。飛翔の『翔』一文字です」 「ああ。——すてきな名ね。翔君、か」  少し照明が落ちたのは、サロンの係が気をきかせたのか。  不思議な気分だった。同じ年齢で、大学生とはいえ、男とこうして抱き合うようにして踊っているのだ。それでも、一向に克子は緊張したり、身構えたりしなかった。  いつも克子は、男に対して身構えて来た。壁をめぐらし、その外へ踏み出すまいとしていた。  斉木だけがその壁の中へ入って来たが、それが克子の、男への距離を少しでも縮めたわけではなかったのだ。  しかし、黒木とは——黒木翔とは、まるで何の緊張も感じないで、こうして一緒にいることができた。  それは、克子にとって、初めての経験であった……。 「——照れくさいわ」  と、克子は踊りの足を止めて、改めてサロンの中を見回した。「誰も踊ってないのに、私たちだけで……」 「じゃ、かけませんか」  二人はサロンの奥まった席についた。 「ねえ」  と、克子は言った。  はっきりさせておかなくてはならない。克子としては、この黒木翔という若者が気に入っている。しかし、「本気」になられるのは迷惑なのだ。 「どうして、こんなに親切にしてくれるの?」  と、克子が訊くと、黒木はあっさりと、 「克子さんが好きだからです」  と、答えた。 「好きって……。今日会ったばかりよ。それにもう、私は社会へ出てる人間。あなた大学生じゃないの。いくらでも可愛い子がいるでしょ」  黒木は、なぜか愉快そうに、 「克子さんって面白い人ですね」 「面白い? どこが?」 「同じ年齢ですよ、僕と。まるで僕が母親ぐらいの女《ひと》に恋したようなこと、言ってる」  克子はぐっと詰まった。——確かに、黒木のことを、必要以上に子供扱いしているかもしれない。 「だからって、私は女子大生になれないわ」  と、克子は何とか言い返した。「あさってには東京へ帰って、正月明けたら、満員電車での出勤が待ってるのよ」  黒木が何も言わない内に、ウエイターがオーダーをとりに来た。 「じゃ……ジンジャーエール」  と、克子は言った。 「かしこまりました。坊っちゃんは」  と、ウエイターが黒木を見た。 「僕も同じでいいよ」 「はい」  ウエイターが戻って行くのを見送って、 「あなた、どこの『坊っちゃん』なの?」  と、克子が訊くと、黒木は少し困ったように目をそらしたが、 「どうせ分かると思うから……。僕の父は、このホテルのオーナーです」  と、言った。   「知ってた?」  ホテルNを出て、旅館へ戻るマイクロバスの中で、恵子がこらえ切れなくなったように言った。 「何よ」 「あの黒木って子。黒木竜弘の息子ですってね! びっくりしちゃった!」 「聞いたわ、当人から」  と、克子は車の外へ目をやる。  このマイクロバスも、黒木がホテルの人間に言って、出してくれたものだ。確かに、歩いて帰ったら、寒いに違いない。  黒木竜弘か。  もちろん、克子だって名前ぐらいは知っている。新聞の経済欄に目を通さないようなOLでも、週刊誌をしばしばにぎわしている名前には見覚えがある。  私鉄をベースに、ホテル、デパート、リゾート、と開発を進めて、日本でも有数の実業家の一人だろう。  その息子。——のんびりしているところは、父親に似なかったのかもしれない。 「——どうもありがとうございました」  マイクロバスを降りて、克子は、送ってくれたホテルのベルボーイに礼を言った。 「あの子に頼めば、ホテルNに泊めてくれたかもね」  と、恵子が冗談めかして言ったが、半ば本気で言っていることは、克子にも分かった。  長谷川伸子は、アーアと大欠伸。酔うと眠ってしまうたちで、この時間までバーで眠っていたのである。だから、黒木のことも、ろくに頭に入っていなくて、 「もう寝よう……」  と言うばかり。 「仏の顔も三度。しがないOLがお近付きになれる相手じゃないわよ」  と、克子は、よろけそうな伸子をあわてて支えて、「しっかり歩いて!——恵子、そっちからも支えてよ」 「うん」  恵子は、ナイターで滑って、すっかり目が覚めた様子。  ともかく、部屋へ戻って伸子を布団に横にすると、布団もかけない内にグーグー眠ってしまう。 「呆れた。——恵子、どうする? 私、もう一回温泉に入ってから寝る」 「私、明日の朝にする。ナイターやると、やっぱり疲れる」 「当たり前よ」  と、克子は苦笑した。「朝、ちゃんと起きられるの?」 「布団に訊いて」  と、恵子は言うと、大げさに布団の上にドサッと倒れて見せた……。  ——克子は、もう真夜中近くになっていたが、一人で温泉に入りに行った。  午前一時までは入れるようになっている。しかし、入ってみると、他には誰もいなかった。  広々とした大浴場に、湯気だけが立ちこめて、何だか一人占めにして申しわけないような気分。  湯に浸かって、ゆったりと手足を伸ばすと、克子は、目をつぶった。 「——ぜいたくな気分」  と、呟いて、フッと笑う。  ささやかなもんだわ。温泉に一人で入ってるのが「ぜいたく」。あのホテルNのディスコで遊ぶより、こっちの方が、ずっとぜいたく。  それにしても——と、湯に浸かりながら、克子は思った。  あの黒木翔という子、本当に克子に恋してしまったのだろうか。  確かに、世間知らずの坊っちゃんらしく、女を騙したり、ひっかけて遊んだりというタイプではないだろう。その点、黒木が真剣なことは、疑っていない。  でも、もちろん、ほんの一時の気の迷いとでも言うもので、大学が始まって、華やかな女子学生たちに囲まれていれば、克子などたちまち光を失ってしまうだろう。  いや、むしろ黒木にとっては、同じ年齢でも、ずっと落ちついた克子が新鮮に見えたのに違いない。 「珍しいもの好きってことね」  と、克子はタオルでゆっくりと肌をさすりながら呟いた。  これでもし、黒木が本気で克子に夢中になり、プロポーズでもして来たら?  克子はしがないOLから、一挙に「大企業のあととり息子の妻」というわけだ。  克子は、ちょっと笑った。——自分が毛皮のコートか何かはおって、ベンツから降り立つ姿なんか想像して、おかしくなったのである。 「似合わないわね、あんたには」  濡れた鏡の中の自分に向かって、克子は言った。——鏡の中で、克子の顔は嘲笑っているように見えた。  部屋へ戻ると、もう他の二人はぐっすりと眠っている。  起こさないように、静かに肌の手入れをして、布団へ滑り込んだが、たとえ大声で歌っていたって、二人は目など覚まさなかったろう。    翌日は、克子もぐっすりと眠った。 「——おはようございます」  と、旅館の人が顔を覗かせて、克子は初めて飛び起きた。 「あ、すみません。——ゆうべちょっと遅かったもんですから。今、起こします」  恵子も伸子も、まだグーグー眠っているのである。 「あ、お急ぎにならなくても」  と、旅館の人が笑って、「それと——石巻さんは」 「私です」  克子は、浴衣の乱れをせっせと直しながら、少々顔を赤らめて言った。 「お花が届いておりますけど」 「お花?」  呆れるような大きな花束が、部屋の中へ運び込まれた。花の匂いが部屋に満ちる。  カードが添えてあったので手に取ると、思った通り、黒木から。 〈今日、ホテルNへ、ランチにいらして下さい〉  とあった。 対 面 「どうぞ。お待ちしておりました」  そう言われても……。  克子は、ホテルNのメインレストランの入り口で、ためらった。とても、ジーパンにセーターという姿で入れる雰囲気ではなかったのである。  しかし、この旅行に、いちいちワンピースなど持って来ていない。スキーをやって、温泉に入るだけのつもりだったのだ。 「さ、どうぞ」  マネージャーらしい、タキシード姿の男性に再度促され、克子は思い切ってレストランの中へ足を踏み入れた。  深々としたカーペットは、ズック靴で踏みつけるのが申しわけないよう。  レストランは、明るかった。白い雪の照り返しがまぶしいほどで、それを少し色のついた、全面のガラスが和らげている。  何組かの客が昼食をとっていたが、みんなきちんとスーツやワンピースを着ている。  克子は、少しうつむき加減に歩いて行った。——何も、来たくて来たわけではない。恵子たち二人が面白がって、半ば強引に克子を押し出したのである。 「こちらでございます」  奥の個室。ドアを軽くノックして、 「おみえでございます」  と開けると、克子を通す。 「遅くなって——」  と言いかけて、克子は言葉をのみ込んでしまった。 「来てくれましたね」  と黒木翔が立ち上がって、「さあ、そこへ」 「ええ……」  克子は椅子を引いてもらったが、腰をおろす気になれなかった。 「ああ、こちら、石巻克子さん」  と、翔が言った。「僕の父です」  週刊誌のグラビアページをしばしば飾る顔が、そこにあった。  黒木竜弘は、意外に小柄で、克子をびっくりさせた。 「どうも。——さ、かけて下さい」  と、克子にもていねいな口をきく。 「どうも……。あの——初めまして。石巻克子です」  つい、深々と頭を下げてしまう。 「まあ、固苦しいことは抜き。ここはスキー場ですよ。何かアルコールは?——だめですか。じゃ、もう始めてくれ」  と、黒木竜弘はマネージャーに言った。 「かしこまりました」  魔法のように、白い服のウエイターが現れ、たちまちナイフ、フォーク、スプーンが整然とセットされる。 「ここのランチは、結構いけるんです」  と、翔が言うと、父親の方は笑って、 「父親の舌は一切信用せんのでね」  とナプキンを取って膝に広げた。  初めのショックからやっと立ち直ると、克子は、黒木竜弘も息子の翔も、セーターとラフなパンツ姿なのに気付いた。  おそらく、克子がこういう服装だと察して、翔の方で気をつかって合わせてくれたのだろう。——偶然ではない。克子には、よく分かった。 「息子が、色々お世話になって」  と、黒木竜弘は言った。 「いえ、とんでもない」  と、克子は何とか当たり前の声を出した。「こちらこそ……。こんな席にまで」 「お顔が拝見したくてね」  と、黒木竜弘がいたずらっぽく笑った。「翔の奴が惚れた女性ってのは、どんな感じかと」 「父さん」  と、翔がにらむ。「克子さんが食べられないよ、そうジロジロ見ちゃ」 「しっかりした、輝きのある目だ」  と、黒木竜弘は言った。「労働の厳しさを知っている。——翔、お前じゃ、この人について行けまい」 「干渉しない約束だぜ」  と、翔が少しむきになる。 「あの——私は、ただの平凡なOLです」  と、克子は言った。「仕事のプロとはとても言えません」  オードヴルが来ると、黒木竜弘は食べ始めながら、言った。 「いいですか。仕事だけできても、顔には疲れしか現れない。あんたは若いが、ずいぶん苦労しているようだ。それが顔を引きしめているんですよ」  克子は面食らった。初対面の人に、こんなことを言われたのは初めてだ。 「私のことは、あれこれ週刊誌とかで見ているでしょうな。あれが全部嘘とは言わないが、全部本当とも思わんで下さい。——ああ、そのソースはうまいですぞ。パンにつけて食べると」 「好きに食べさせてあげなよ」  翔は、克子が窮屈な思いをしているだろうと、気をつかってくれている。 「——お忙しいのでしょう」  と、克子は、父親の方へ訊いた。 「昨日はニューヨークにいました。その三日前にはパリに。スキー場の買収問題でね、現地と話しに行ったんです」 「はあ……」 「それより、あなたのことを知りたい。お勤めはどこです」  始まった、と克子は思った。  家族は? 父親は何をしてる? 兄弟は?  今住んでいる所は? 月収は?  要するに私を値ぶみするために呼んだのだ。克子は、答えたくないと思った。翔には申しわけないが、少なくとも克子は、この財界の大物に何の借りもないのだから。  克子は、それでも、自分のために気をつかってくれている翔の気持ちを考えて、答えられるだけのことは答えようと思った。  勤め先と仕事の内容(といっても、大した仕事をしているわけではないが)を説明すると、黒木竜弘は肯いて、 「いや、妙なことを訊いて申しわけない。——さ、スープをどうぞ。私など、人に会うと、つい仕事のことばかり話したがる。困ったもんです」  と、笑った。 「高卒ですから。今の仕事では、もうベテランです」  と、克子は言った。 「そう。今、息子と同じお年だそうですね。とてもそうは見えない」 「父さん」  と、翔の方は気が気でない様子。 「お一人で住んでおられるのかな?」 「はい。兄も東京におりますけど、一応別々に暮らしています」  おいしいスープだった。こんな固苦しい気分でなければ、もっとじっくり味わいたいと思った。 「ご両親はご健在ですか」  と、黒木竜弘が訊く。 「申しわけありませんが、家族のことはあまり答えたくありません」  と、克子は言った。  黒木竜弘は、別に気を悪くした様子もなく、 「分かりました。いや、あなたの身許調べをしているわけじゃないのです。息子は息子。そういう主義ですから」 「正直に申し上げて、少し当惑しています。迷惑——というと申しわけないんですけど、息子さんに親切にしていただいて、感謝していますが、まだお会いしたばかりです。こんな風にお父様にまで——」 「いやいや」  黒木竜弘は首を振って、「何も特別な意味はないんです。もともと、私はゆうべここへ来ることにしてあったので、息子から話を聞いて、ぜひお会いしてみようと思っただけでね」 「はあ……」  克子は翔を見た。翔の目は、ただひたすらに克子を見つめている。 「翔は、どうやらあなたに一目惚れしたらしい」  と、黒木竜弘は愉快そうに言った。「あなたは翔のことをどう思います?」 「どう、とおっしゃられても……」 「突然そう訊かれても困るでしょうな。さ、ともかく食事を楽しみませんか」  人をそらさない、軽妙な語り口だ。  克子にとっては意外だった。こういう「財界の大物」は、きっと大勢の部下を従えて、ふんぞり返っているのだろう、と思い込んでいたからだ。  食事の間、会話は専ら黒木竜弘がリードしていた。  珍しい海外での事業の話など、克子にも面白い話題であった。  克子を面食らわせたのは、この「大物」が、意外に無邪気な一面を持っていることで、もちろん表では色々ややこしいこともあるだろうが、どうやら新しい事業を手がけることは、彼にとって、まるで子供が新しいオモチャを手に入れるようなものらしいのである。 「——おいしかった」  と、メインの料理を食べ終えると、克子は正直に言った。 「良かった」  と、翔がホッとした様子で言った。 「デザートにしよう」  と、黒木竜弘が言うと、まるでその声が聞こえでもしたかのように、ドアが開いてマネージャーが現れた。  皿が下げられ、ワゴンにのせた、ケーキやフルーツなどが現れて、克子の目を丸くさせた……。 「——克子さん、といいましたな」  と、黒木竜弘はシャーベットを食べながら、 「翔の奴は、何しろ気が弱くて、さっぱり女の子にもてんのです」 「父さん!」 「事実だろう。——もし、よろしければ、翔の奴と付き合ってやってくれませんか。もちろん、無理にお願いすることじゃないし、息子が直接申し込めばいいことですが」  克子は、唖然としていた。 「でも、私のことを何もご存知ありません」 「人を見る目はあるつもりですよ」  と、黒木竜弘は言った。「あなたは翔が私の息子だということなど、何とも思っていない。——そういう女性は多くないと思います。私はあなたが気に入った」  克子は、何と答えていいのか、分からなかった。 「後は、翔とあなたの間のことです。父親は口を出しません」  黒木竜弘は、シャーベットの最後の一口をスプーンですくおうとして、膝の上に落っことした。 「ワッ!——何てとりにくいんだ! スプーンを工夫すべきだな」  と、文句を言っている。  克子は、つい笑ってしまった。 「何かおかしいですか?」 「いえ、でも——このレストランも、あなたのものなんでしょう」  克子の言葉に、 「なるほど。——いや、つい忘れちまうんですよ、ここが自分のものだってことを」  と言って、黒木竜弘は笑った。  克子は、食事の終わりになって、やっと気楽に笑うことができた。  マネージャーがやって来ると、黒木竜弘は、早速スプーンを工夫しろ、と命じたのだった。  昼食が終わると、黒木竜弘は、 「人と会う約束があるので、失礼」  と、克子に会釈して立ち上がった。 「ごちそうになって……」 「いや、楽しい食事でした」  と、黒木竜弘は克子の手を軽く握った。  大きな、柔らかい手だった。  ——個室に、翔と二人で残ると、克子はフーッと息を吐き出した。 「疲れましたか」  と、翔が言った。 「ずっと息を止めてたみたいな気がする」  と、克子は言った。「びっくりしたわ」 「すみません。父はいつも思い付くとパッとやっちゃう人で」  克子は、コーヒーをゆっくりと飲みながら、 「——翔君。そう呼んでいい?」  と、言った。 「ええ」 「私に一目惚れした人なんて、初めてよ。こんなパッとしない女のどこが気に入った?」 「すてきですよ」 「ありがとう。でも……」  克子は、少し考えてから言った。「私、別に自分が安月給のOLだから、あなたとつり合わないとか、そんなこと考えてるわけじゃないのよ。でも、あなたは大学生だし、勉強しなきゃならないでしょ。私とデートしてる暇なんかないはずよ」 「はっきり言って下さい」  と、翔は身をのり出した。「僕と付い合いたくないかどうか」 「そうは言わないけど……」 「誰か他に好きな男性が?」  ——克子は呆れた。  TVドラマの主人公だって、もう少し言葉に工夫するだろうに。このストレートな訊き方! 「付き合ってる人はいるわ」  と、克子は言った。「ね、少し時間を置きましょう。あなたも、日がたてば私のことを冷静に見てくれるでしょ」 「でも、断るわけじゃないんですね?」 「まあ……。そうね」  と、ためらいながら肯く。 「良かった!」  翔は、子供のように明るい笑顔になった。  不思議な気持ちがした。克子にとって、この翔のような若者は、初めて見る「人種」である。  確かに、貧乏OLとは別世界に生きている人間で、たとえ付き合ってみたところで、どうなるものでもないだろうが、その一直線なものの言い方は、爽やかだった。  たぶん、翔から見ても、克子のようなタイプが珍しいのだろうが、それは克子にとっても同じだ。  どう考えても、自分がこの若者に恋するようになるとは思えなかったが、未知の世界を覗く楽しさが、そこにはあったのである。 「ともかく、ごちそうになったお礼を言わなきゃね」  と、克子はホテルのロビーに出ると、言った。 「無理言って、すみません」  と、黒木翔が楽しそうに言う。  その屈託のない笑顔。——克子は、自分があんな風に笑ったのは、いつのことだったろうか、と考えていた。 「これ、うちの電話です」  と、翔がメモを克子に渡す。「もし——会ってもいいって気になったら、かけて下さい」 「私の電話番号は訊かなくていいの?」 「我慢します。とか言って」  と、いたずらっぽく肩をすくめると、「ちゃんと勤め先を聞きましたから、その気になれば、いつでも調べられます」 「そうか。ずるいぞ」  と、克子は笑いながら言った。「じゃあ、調べる手間を省いてあげる」  ホテルのフロントに寄って、メモ用紙に電話番号を書くと、 「はい、これ」  と、翔へ渡した。 「ありがとう。——誘ってもいいですか、食事くらいだったら」 「その内ね。すぐにはだめよ。正月明けは忙しいし」  克子は、何となく翔の気持ちについ添ってしまう自分が不思議だった。  もちろん、この若者と恋を語る気には(少なくとも今のところは)全くなれない。それでいて、電話番号を教え、翔の気持ちを煽るようなことをしている。  とんでもないことだ。特に、克子には斉木という恋人もいる。もし、翔が、克子と斉木のことを知ったら……。  でも、きっと翔の方だって、すぐに飽きてしまうだろう。そう。きっと、そうだ。  ——克子は、自分の中の「二十一歳」が、この若者との対話を楽しんでいるのだ、と感じていた。  いや、もっと正確に言えば、克子は翔に会って、自分がまだ二十一歳だということを、思い出したのである。 「じゃあ、もう帰るわ、旅館に」  と、克子は言った。 「残念だな。もう少しいてくれれば……」 「もうちょっと、ってとこで切り上げるのが利口なのよ」  と、克子は言った。 「じゃ、ホテルの車で送らせます」  克子も、その親切には甘えることにした。どうせゆうべも乗っているのだ。 「——じゃ、お父様によろしく」  外へ出て、白い息を吐きながら、克子は翔にそう言った。 「親父があんな風に言うのって、珍しいんですよ」  と、翔が言った。 「あんな風に、って?」  と、克子は訊いた。 「会ったばっかりの人に、『気に入った』なんて。本当です。僕、初めてですよ、あんなこと言うのを聞いたの」 「でも、何もご存知ないからよ、私のこと」  と、克子は言って、「じゃ。色々ありがとう」  と、ホテルのマイクロバスに乗り込んだ。  マイクロバスに乗客一人。——何だか落ちつかない。  バスが走り出し、手を振る翔の姿がたちまち見えなくなる。克子も、もちろん手を振った。  やれやれ、だわ……。  座席に座り直すと、克子はため息をついた。  旅館に戻ったら、他の二人が、質問責めにするだろう。翔の父親に会ったことは、黙っていようと思った。  下手に黒木竜弘の名前なんか出したら、会社でどんな話になるか分からない。  それにしても……妙な正月休みになったもんだわ、と克子は思った。  兄が聞いたら、どう思うだろう?  晴れた日で、日射しが雪に反射してまぶしい。克子は目を細くして、そのまぶしさを避けた。  兄さんたちも、今ごろハワイで……。  そう。向こうは白い砂浜がまぶしいかもしれない。  ゆかりと兄と。——どうなっているだろう? たぶん、いや、十中八九、兄はゆかりの部屋のドアを叩いてはいまい。  克子は、ちょっと笑った。  お兄さんといい、私といい、まだずいぶん若いのに、何てややこしい「恋」をしているんだろう。  お兄さんは二人の、時代を代表するようなスターに愛されながら、どっちとも「友だち」でいようとする。私は、妻子のある男に恋をして、しかもその妻は夫を見限っている。その私に、大金持ちの坊っちゃんが一目惚れする。  もし——もし、私が斉木を諦めて、翔と結婚したら?  考えられない。想像もつかなかった。  やはり翔は克子から見れば子供でしかなかったのである。——傷つけてはいけない。  気を付けて。充分に用心して。私の方が、「人生の先輩」なのだから。  旅館の前でマイクロバスを降りると、窓から見ていたのだろう。武井恵子と長谷川伸子が、玄関へ出て来た。 「ねえねえ、どうだった?」  と、恵子が勢い込んで訊く。 「別に。お昼を一緒に食べただけ」  克子は軽くかわして、「帰りの仕度、そろそろしときましょうよ」  と、言ったのだった……。 やさしい季《き》節《せつ》(上)  赤《あか》川《がわ》次《じ》郎《ろう》 ------------------------------------------------------------------------------- 平成13年2月9日 発行 発行者  角川歴彦 発行所  株式会社 角川書店 〒102-8177 東京都千代田区富士見2-13-3 shoseki@kadokawa.co.jp Jiro AKAGAWA 2001 本電子書籍は下記にもとづいて制作しました 角川文庫『やさしい季節(上)』平成9年9月25日初版刊行