TITLE : こちら、団地探偵局 本作品の全部または一部を無断で複製、転載、配信、送信したり、 ホームページ上に転載することを禁止します。また、本作品の内容 を無断で改変、改ざん等を行うことも禁止します。 本作品購入時にご承諾いただいた規約により、有償・無償にかかわ らず本作品を第三者に譲渡することはできません。 目 次 第一話 見知らぬ主《しゆ》婦《ふ》の事《じ》件《けん》 第二話 救急車愛《あい》好《こう》家《か》の事《じ》件《けん》 第三話 素人《しろうと》天文学者の事《じ》件《けん》 第四話 寂《さび》しいクリスマスの事《じ》件《けん》 第五話 優《やさ》しいセールスマンの事《じ》件《けん》 第六話 身《み》近《ぢか》なスターの事《じ》件《けん》 第一話 見知らぬ主《しゆ》婦《ふ》の事《じ》件《けん》 1  木《き》村《むら》政《まさ》子《こ》は、退《たい》屈《くつ》という名の病気に取りつかれていた。  こんなことを言えば、亭《てい》主《しゆ》族からはたちまち、  「退屈がどうして病気だ」  と抗《こう》議《ぎ》されるかもしれない。  しかし、こうしてゴロゴロと寝《ね》転《ころ》んで、頭が重くて、何をする気にもなれず、TVを見てもさっぱり面《おも》白《しろ》くない、となれば、これは立《りつ》派《ぱ》な病気である。  何かすればいいではないか、と言われるかもしれないが、習い事をやれば金がかかる。では何か内《ない》職《しよく》でも、といえば、政子の夫は、多少年《ねん》齢《れい》が離《はな》れているので、  「世《せ》間《けん》態《てい》が悪いから、何もするな」  と言うのだ。  これではゴロゴロしているしか仕方ないではないか。  木村政子は二十八歳《さい》で、秘《ひ》書《しよ》として勤《つと》めていた、その当の上《じよう》司《し》木村と結ばれて二年になる。子《こ》供《ども》はまだなかった。  木村は仕事の性《せい》質《しつ》上、朝はゆっくり出社で、十時頃《ごろ》家を出て行く。その代り帰りはいつも夜、十二時を回っていた。  当然、夕食も外で済《す》ませて来るので、政子としては、夫を送り出した後、掃《そう》除《じ》、洗《せん》濯《たく》をしてしまうと、大《たい》してやることがないのである。  団《だん》地《ち》の3LDKは、二人《ふたり》暮《ぐら》しには広々している。荷物もそう沢《たく》山《さん》はないので、掃除は却《かえ》って楽である。洗濯も、子供がいなければ、毎日やる必要はない。かくて、毎日が、  「退《たい》屈《くつ》で死んじゃう」  ということになるのである。  趣《しゆ》味《み》にあれこれと教室へ通うのも悪くはないし、木村も、何かやってみれば、と言ってくれているのだが、政子は、割《わり》合《あい》に人見知りの激《はげ》しい性《せい》格《かく》で、学生の頃《ころ》から、ごく少数の友人たちと親しく付き合って来た位《くらい》で、クラブ活動とか、何かのサークル、グループに入るのは苦《にが》手《て》なのである。  子供でも生まれれば、またあれこれと付き合いも出来るのだろうが、政子はもともとがあまり社《しや》交《こう》好《ず》きな方ではなく、結局、  「ああ、退屈だ」  という結《けつ》論《ろん》になるのである。  今日も、夫は十時過《す》ぎに家を出て、掃除をしてしまうと、やっと十一時。  朝が遅《おそ》いから、午後二時頃でないと、お腹《なか》が空《す》いて来ないのだ。  仕方なく、窓《まど》際《ぎわ》に座《すわ》って、ぼんやりと外を眺《なが》めている。政子の住んでいるのは、四階建の棟《むね》の二階で、政子たちは新《しん》築《ちく》のときに入《にゆう》居《きよ》しているから、ずいぶんと真《ま》新《あたら》しかった。  ここは大きな団《だん》地《ち》で——それも郊《こう》外《がい》の山を切り拓《ひら》いた団地だから、緑や起《き》伏《ふく》には富《と》んでいた。  至《いた》る所に公園や遊び場があって、子供たちが遊び回っている。オフィスビルと見《み》間《ま》違《ちが》えそうな都《と》心《しん》の団地とは大《だい》分《ぶ》イメージが違《ちが》って、のんびり、大らかな生活環《かん》境《きよう》だった。  ただ都心に出るのに多少時間がかかるのが唯《ゆい》一《いつ》の難《なん》点《てん》だった。そうでなければ、時々は気晴しに六《ろつ》本《ぽん》木《ぎ》辺《あた》りにでも出かけるのだが……。  「あら」  と、政子は呟《つぶや》くように言った。  丁《ちよう》度《ど》、真向いの棟の三階のベランダが見える。付き合いが広くないので、団地内の情《じよう》報《ほう》にもあまり明るくない政子だが、あの三階の住人である柏《かしわ》田《だ》という男のことは耳にしていた。  一日中、家にいて、ほとんど人付き合いもない。もう年《ねん》齢《れい》は六十近くらしく、一人住いで、ごくたまに中年の家《か》政《せい》婦《ふ》が通って来ているようだった。  ともかく、変人で近所の人と会っても挨《あい》拶《さつ》をしないという評《ひよう》判《ばん》だが、実は大金持なのだと聞かされて、政子はびっくりした。  もともとこの辺に住んでいた地主で、あちこちの土地を売って、莫《ばく》大《だい》な財《ざい》産《さん》を作ったらしい。それでいて、家を建てるというようなことに金を使う気はないらしく、この団《だん》地《ち》に住んで、暮《くら》しぶりも決して派《は》手《で》ではない。  何しろ気《き》難《むずか》しい、変人である、というのが、柏田に関する一《いつ》致《ち》した評《ひよう》価《か》であった。  その柏田の部《へ》屋《や》のベランダを政子は眺《なが》めて、目を見《み》張《は》った。  若《わか》い女が、オレンジ色の、目も鮮《あざ》やかなエプロンをして、洗《せん》濯《たく》物《もの》を干《ほ》しているのだ。——誰《だれ》なんだろう?  どう見ても、政子より若い。二十四、五歳《さい》というところだろう。なかなか美人——というか可愛《かわい》い感じで、何やら、歌を口ずさみながら、楽しげに働いている。  お手伝いさんか何かかしら?  干している洗濯物を見て、政子は目をパチクリさせた。男《おとこ》物《もの》の下着や靴《くつ》下《した》は当り前だが、女物の下着まで並《なら》んでいるのだ。  「——ニュースだわ」  と政子は呟《つぶや》いた。  その日、夕方になって政子はスーパーマーケットへ買物に行った。  ショッピングカーを引いて、ぶらぶらと歩いて行くと、大きなスーパーの紙《かみ》袋《ぶくろ》をかかえて来る若い女性と出会った。——あの、柏田の部屋のベランダにいた女《じよ》性《せい》だ。  何となく視《し》線《せん》が合って、政子はためらいがちに会《え》釈《しやく》した。  「こんにちは」  と、向うはにっこり笑って挨《あい》拶《さつ》する。  「どうも……」  と政子は小さな声で言った。  「お向いの棟《むね》の方ですね」  と、その女は言った。  「え?」  「窓《まど》の所に座《すわ》ってらしたでしょ。見えましたわ」  「そ、そうですか」  「私《わたくし》、柏田の家《か》内《ない》です。まだ参ったばかりで何も分りませんけど、どうぞよろしくお願いします」  「こ、こちらこそ」  政子はあわてて頭を下げた。——相手が行ってしまってから、こっちの名前を言わなかったことに気が付いた。  それから半月が過《す》ぎて、よく晴れた気持のいい午後、政子は、公園のベンチにぼんやりと座っていた。砂《すな》場《ば》では、子《こ》供《ども》たちが砂いじりに夢《む》中《ちゆう》で、親たちはそれを眺《なが》めながらおしゃべりに余《よ》念《ねん》がない。  いかにものんびりして、つい微《ほほ》笑《え》みたくなる光景だったが、政子にはどうにも気になることがあって、笑《わら》いは浮《う》かんで来なかった。  「まさかねえ……」  と呟《つぶや》く。  誰《だれ》かに相談できればいいのだが、政子にはそういう知り合いはいないのだ。下《へ》手《た》に近所の奥《おく》さんにでも洩《も》らせば、たちまち妙《みよう》な噂《うわさ》となって広まるだろう。  政子は立ち上ると、棟《むね》の間の細い道を歩いて行った。両側は植《うえ》込《こ》みがずっと続いている。  ヒョイ、と二つぐらいの男の子が飛び出して来ると、まだ少々危《あぶ》なっかしい足取りで走って来た。目鼻立ちのはっきりした可愛《かわい》い子で、気の重い政子も、さすがに笑いかけないわけにはいかなかった。  「今《こん》日《にち》は。どこに行くの?」  男の子は前の方を指さして、  「あっち」  と言った。  そこへ、  「こら! 竜《りゆう》介《すけ》!」  と、声がして、植込みの間から、母親らしい女《じよ》性《せい》がヒョッコリ顔を出した。「帰ってらっしゃい!」  「あっち、あっち」  子《こ》供《ども》の方は構《かま》わずにさっさと走って行く。  「竜介! もう——」  母親はスカートをひるがえして、子供の後を追いかけた。  わきをかけ抜《ぬ》けて行くその母親を見送って政子はまた歩き出したが……。  「まさか——」  と呟《つぶや》いて、足を止め、振《ふ》り返った。  「じっとしてろと言ったでしょ!」  子供をヨイコラショと抱《だ》き上げた母親が、戻《もど》って来る。「お昼ご飯をやらないわよ!」  「並《なみ》子《こ》じゃない?」と政子は声をかけた。  その若い母親は、政子を見つめていたが、  「まあ!——政子!」  「やっぱり並子か!」  「懐《なつか》しいわね!」  二人は手を取り合って、飛び上った。抱かれている男の子は、振り落とされる危《き》険《けん》を感じたのか、あわてて母親の首にしがみついた。  「政子、この団《だん》地《ち》に?」  「そこの四階建よ」  「なあんだ。私はこの道の向うの高《こう》層《そう》。じゃすぐ近所だったのね」  「いつからここにいるの?」  「これが生まれてすぐよ」  と、男の子を抱き直して、「竜介よ。今、やっと二歳《さい》」  「あなたに似《に》てる。ハンサムね」  「サンキュー。どう、時間あったら、うちへ来ない?」  「時間? 山ほどあるわよ」  と、政子は言った。  並子と政子は、高校、大学と一《いつ》緒《しよ》の親友同士だった。しかし、並子が在学中にドイツへ留《りゆう》学《がく》してしまったり、卒業してすぐ政子が勤《つと》めたのが地方の会社だったりで、しだいに疎《そ》遠《えん》になってしまっていたのである。  「私の結《けつ》婚《こん》通知、届《とど》かなかった?」  と政子は、一緒に歩きながら訊《き》いた。  「実家の方にあるかもね。ここのとこ、ずっと行ってないの。あなた姓《せい》は?」  「木村。ありふれてるけど。あなたは何ていったっけ?」  「西《にし》沢《ざわ》よ。こっちだってそう珍《めずら》しい名じゃないわ」  並子は笑って、「さ、七階なんだ」  とエレベーターのボタンを押《お》した。  3DKの、小ざっぱりした部《へ》屋《や》で、政子と並子は、しばらく会わなかった何年間かの時間を、猛《もう》スピードで回《かい》顧《こ》していた。ちょうど、ビデオの早送りみたいなものだ。  並子は、政子から見て、ちっとも変っていなかった。同じ二十八歳だが、二十三、四で充《じゆう》分《ぶん》通るし、まだ学生っぽい雰《ふん》囲《い》気《き》さえ残っているのは、髪《かみ》もごく自然に流して、化《け》粧《しよう》っ気《け》もなく、肌《はだ》がつややかで若《わか》々《わか》しいせいだろう。  「あらあら、静かになったと思ったら……」  と、並子は立って行って、いつの間にか眠《ねむ》ってしまった竜介にタオルケットをかけてやった。  政子は、並子が母親になっているというのが、何だかまだ信じられない気分だった。  並子は、美《び》貌《ぼう》と才知と、人《ひと》柄《がら》の良さ、三《さん》拍《びよう》子《し》揃《そろ》った、正《まさ》に珍《めずら》しい存《そん》在《ざい》であって、大学時代は却《かえ》って、男子学生たちは恐《おそ》れをなして、誰《だれ》も近《ちか》寄《よ》らなかったものである。  「何か変だ」  と、政子は言った。  「何が?」  「並子が結《けつ》婚《こん》して子供までいるなんて、さ」  「あら、そう?——私は結《けつ》構《こう》楽しんでるわ」  「働いてないの?」  「翻《ほん》訳《やく》とかは少しやってるけど、何しろ子供が小さいうちはね。学問はまたやり直せるわ。十年や二十年休んだって、どうってことない」  さすが言う事が違《ちが》う。  「私はもう退《たい》屈《くつ》で死にそうなの」  と、政子は言った。  「工《く》夫《ふう》しだいよ。たとえ働きに出なくたって、色々、生活を面《おも》白《しろ》くすることはできるわ」  「どうやって? 並子、何かやってるの」  と、政子は身を乗り出した。  「まあね。ちょっとしたこと」  並子はいたずらっぽく笑《わら》った。昔《むかし》のままの笑《え》顔《がお》だ。親しい友人には、並子は決して冷たい秀《しゆう》才《さい》ではなく、結構遊び上《じよう》手《ず》の、面白い素《す》顔《がお》を見せていたのである。  玄《げん》関《かん》のチャイムが鳴って、  「ちょっと失礼」  と、並子は立って行った。  客が来て、玄関で立ち話の様子。洩《も》れて来る言《こと》葉《ば》に耳を傾《かたむ》けていると、  「謝《しや》礼《れい》が遅《おそ》くなって——」  「いいんですよ、いつでも」  「で……これでよろしいのかしら」  「ええ、結《けつ》構《こう》です」  「でも、色々、お世話になって……」  「規《き》定《てい》料金ですから、ご心配なく」  ——何をやってるのかしら、と政子は首をかしげた。  戻《もど》って来た並子へ、  「規定料金って何のこと?」  と訊《き》く。  「ああ、聞こえた? 私ね——」  と、並子は微《ほほ》笑《え》んで言った。「私《し》立《りつ》探《たん》偵《てい》をやってるの」  唖《あ》然《ぜん》としている政子へ、並子は説明した。  「ともかく、家にいるだけじゃ気が狂《くる》いそうでね。あれこれ考えたけど、内《ない》職《しよく》って、ほとんどが手仕事でしょう。頭《ず》脳《のう》労働でないと、頭がさびついちゃうからね。そこで思い付いたの。私立探偵。どう? いいアイデアでしょ」  「何をやるの? 浮《うわ》気《き》の調《ちよう》査《さ》とか?」  「冗《じよう》談《だん》じゃない!」  と、並子は首を振《ふ》った。「そんなこと、できっこないでしょ。このおチビさんを連れて。それにそんな調査じゃ、頭脳労働にならないじゃないの」  「じゃ、何をやるの?」  「何でもいいの。どんなささいな事《じ》件《けん》でも。お人形の首が失《な》くなったとか、いつも自転車が置いた場所から動いてるとか。——これだけの団《だん》地《ち》よ。何万人という人が住んでる。奇《き》妙《みよう》な事件、妙な謎《なぞ》も、あちこちに転《ころが》ってるわ。それを解《かい》決《けつ》するのが私の仕事。実費プラス三千円の低料金でね。別に儲《もう》けなくていいんだから」  「面《おも》白《しろ》そうね。もう大《だい》分《ぶ》前からやってるの?」  「半月とちょっとかな。十件《けん》くらいは扱《あつか》ったわ。結《けつ》構《こう》楽しいものよ」  政子は、ふと考え込《こ》んで、  「——ね、今は何か事件を抱《かか》えてるの?」  と訊《き》いた。  「今は手が空《あ》いてるけど。どうして?」  「私が依《い》頼《らい》したいの」  と、政子は言った。 2  「あの三階の部《へ》屋《や》なの」  と、政子は言った。  「ボール!」  竜介が、持って来たボールを、かけ声と共に放り投げている。  「あの、オレンジのカーテンが引いてある所ね?」  政子の部屋へやって来た並子は、少し大き目のバッグを肩《かた》から下げていた。その中から、小型の双《そう》眼《がん》鏡《きよう》を取り出すと、窓《まど》越《ご》しに、柏《かしわ》田《だ》の部屋のベランダを眺《なが》める。  「中で誰《だれ》か動いてる。——若《わか》い女の人ね。奥《おく》さん?」  「そう。まだ二十四ですって。ご亭《てい》主《しゆ》は六十過《す》ぎなのよ」  「それで、私に何を調べてほしいの?」  双眼鏡をおろして、並子は訊いた。「竜介! 本を出しちゃだめ!」  本《ほん》棚《だな》から、次々に本を引っ張り出して、ぶちまけている。  「いいのよ、後でしまうから」  と政子は言った。「——実はね、あの人、奥《おく》さんが二人いるらしいの」  並子は、さほどびっくりした様子もなく、  「詳《くわ》しく話して」と言った。  三日前のことである。政子は郵《ゆう》便《びん》局へ行った帰り、柏田が歩いて来るのに出会った。気むずかし屋で通っていた柏田だが、このところ、若い奥さんが来たせいか、急に愛《あい》想《そ》が良くなった、ともっぱらの評《ひよう》判《ばん》であった。  政子自身は口をきいたこともないのだが、思いがけず、柏田の方から、声をかけて来た。  「どうも、今《こん》日《にち》は」  「今日は」  政子は頭を下げた。  「いつも家《か》内《ない》の美《み》紀《き》が世話になっております」  「いえ、とんでもない」  政子は戸《と》惑《まど》った。柏田の夫人の名前を、今初めて聞いたのだ。言《こと》葉《ば》を交わしたのは、あのとき一度だけだった。  「たまには、うちにも遊びに来て下さい」  と柏田は言って、「では」  と肯《うなず》いて行った。  あれが有名な変人のじいさんかしら? 政子は呆《あつ》気《け》に取られて見送った。  自分の棟《むね》の方へ歩いて行くと、ちょうど柏田の若い夫人——美紀が、ゴミの袋《ふくろ》を手に、ゴミ容《よう》器《き》の並《なら》んだ場所へと歩いて行くのが見えた。  ゴミは可《か》燃《ねん》物《ぶつ》、不《ふ》燃《ねん》物《ぶつ》で分けるようになっている。青い容器に可燃物、オレンジ色の容器は、不燃物と決っていた。  柏田美紀は、オレンジ色の容器のふたを持ち上げて、中へゴミの袋を押《お》し込《こ》んだが、  「あ!」  と声を上げて、急いで手を押《おさ》えた。  遠くから見ていた政子は、ちょっと迷《まよ》ったが、足を早めて、柏田美紀の方へと駆《か》け寄《よ》って行った。  「どうしました?」  「あ……いえ、大《たい》したことは……」  と、美紀は言ったが、左手でしっかりと右の手をつかんでいて、そこから赤く血が滴《したた》り落ちている。  「まあ、大変!」  「ちょっと手を突《つ》っ込《こ》んだら、ガラスの破《は》片《へん》で切ってしまって……」  「手当しなきゃ。大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》? 帰れますか?」  「ええ、大丈夫です」  だが、かなり痛《いた》そうにしているので政子は、結局、美紀を部《へ》屋《や》まで送って行った。  「——すみません。どうぞ、よろしければ上って下さい」  と、美紀は言った。  「お薬は? どこかしら?」  「その棚《たな》の上に……。どうもすみません」  美紀は、政子に薬箱を洗面所の方へ運ばせると、「後は自分でやりますから。——どうぞ中へお入りになって下さい」  「そう? じゃ……」  政子は、意外に明るく、すっきりと整理された居《い》間《ま》に入り、ソファに腰《こし》をおろした。  あの柏田の部《へ》屋《や》というから、もっと、暗くて雰《ふん》囲《い》気《き》の異《い》様《よう》な所かと思っていたのだが、おそらく、美紀が改《かい》装《そう》したのだろう。  「——どうも、すみません」  しばらくして、手首に包《ほう》帯《たい》をした美紀がやって来た。  「大丈夫?」  「ええ。私って、おっちょこちょいなんですよ」  と、美紀は笑《え》顔《がお》で言った。  紅《こう》茶《ちや》を出されて、しばらく政子は、話し込んだ。やはり、美紀も若《わか》い話し相手が欲《ほ》しいのだろう。いったん口を開くと、別に訊《き》かれもしない内に、あれこれと話をした。  「——そりゃみんな反対でしたわ」  と、美紀は言った。「何しろ、私は二十四、主人はもう六十ですもの」  「でも、今お会いしたけど、お元気そう」  「ええ、とっても。運動でも若い人に負けませんわ、きっと」  「どこでお知り合いに?」  「私、図書館の仕事をしていたんです」  と美紀は紅茶をすすりながら、「あの人から、大《だい》分《ぶ》本があって、置き場所に困《こま》っているので寄《き》付《ふ》したいと申し出があって」  「で、あなたが」  「ええ。男の職《しよく》員《いん》と二人で、ここへ来たんです。そのとき、とても珍《めずら》しい本を見付けて」  「あなたの興《きよう》味《み》のある本だったのね?」  「そうなんです。もちろんその本は寄付してもらえません。で、私、図《ずう》々《ずう》しかったけど、もう一度伺《うかが》わせてもらって、この本を読ませていただけませんか、と頼《たの》んだんです」  「快く承知してくれたわけ?」  「ええ。同じ趣《しゆ》味《み》の人間と知って、とても嬉《うれ》しそうでした。私、次の土曜日に、ここへ来て、ゆっくりと本を見せてもらいました」  「それから近づきになったわけね」  「そうなんです。——二か月ぐらい、ほとんど毎週、土曜、日曜はここで過《すご》しました。そして、ごく自然に、彼《かれ》の方から結《けつ》婚《こん》してくれと言い出したんです」  「すぐに返事をしたの?」  「ええ。だって……とってもいい人だし、今までにも何人も男の人と交《こう》際《さい》はして来ましたけど、彼ほどぴったり来る人はいなかったんです」  「じゃ、結《けつ》構《こう》ね」  「もちろん、年《ねん》齢《れい》の差とか、気にならないことはありませんでしたけど、気の持ちようで、どうにでもなる、と思ったんです」  「幸《しあわ》せそうだわ」  「ええ、後《こう》悔《かい》していませんわ」  美紀はそう言って微《ほほ》笑《え》んだ。  それはいかにも幸せな若《わか》妻《づま》の姿《すがた》で、あれこれと噂《うわさ》になっている、財《ざい》産《さん》目当ての結婚とか、そんな印象を、政子は全く受けなかった。  チュチュッという声がして、小鳥が一羽、飛んで来て、美紀の肩《かた》に止った。  「まあ、なれてるのね」  「十《じゆう》姉《し》妹《まつ》を飼《か》ったんです。鳥が好《す》きなので」  美紀は、その小鳥を指先にのせて、いかにも楽しげであった……。  「——ともかく、そんな具《ぐ》合《あい》で、実にいい雰《ふん》囲《い》気《き》だったのよ」  と、政子は言った。  「それで?」  並子は、竜介におせんべいをやって、何とかおとなしくさせようと奮《ふん》闘《とう》しながら、「大丈夫、聞いてるから、話して」  「一昨日《おととい》——つまり、その翌《よく》日《じつ》ね、私、午後はまた暇《ひま》で、ぼんやりしながら、この窓《まど》から、外を眺《なが》めてたの。ほら、雨だったでしょう。外へ出る気もしなくてね」  「政子、昔《むかし》からそうだものね。雨だからって講《こう》義《ぎ》さぼったりさ」  「本当だ」  政子はクスッと笑った。「——それでね、見てると、美紀さんがベランダへ出て来たの。雨だけど、一《いち》応《おう》洗《せん》濯《たく》物《もの》を出しているのよね」  「ここのベランダ幅《はば》があるものね」  「そう。それはいいんだけど……。美紀さんがね、両手の袖《そで》を、こう、まくり上げてたのよ、つまり、肘《ひじ》まですっかり出てたわけ」  「それがどうしたの?」  「どっちの手にも、包帯も傷《きず》痕《あと》もないのよ」  「何ですって?」  「確《たし》か、けがしたのは右の手首だったわ。でも、全然、きれいなものなの。あれだけ血が出たのよ。次の日に、すっかりきれいになるなんて、考えられる?」  並子はじっと考え込《こ》んでいた。膝《ひざ》に竜介が乗って来るのも気にならない様子で、  「妙《みよう》な話ね」  と肯《うなず》く。「面《おも》白《しろ》いわ。そういう事《じ》件《けん》が、好《す》きなのよ、私」  目が輝《かがや》いている。  「懐《なつか》しい、その顔」  と、政子が言った。  「え?」  「大学時代、講《こう》義《ぎ》中に先生に食いついて行くときの並子、その顔だったわよ」  並子は笑《わら》って、  「それだけ知的刺《し》激《げき》に飢《う》えてるのよ」  「じゃ、引き受けてくれるのね」  「OK。実費プラス三千円よ」  「旧《きゆう》友《ゆう》よ。割《わり》引《び》きして」  「だめ」  「ケチ」  クスクス笑いながら、政子は言った。  チャイムを鳴らすと、ドアが細く開いた。  「今《こん》日《にち》は。いただきもののお菓《か》子《し》が余《あま》ったもんだから、またちょっとおしゃべりしようかと思って」  と政子は言った。  チェーンをかけたまま、中から覗《のぞ》いている顔は、確《たし》かに美紀のものだったが、ニコリともせずに、「今、お客が来てるの」  と言った。  「あ、そう。じゃ、残念だけど、またね」  ドアがピタリと閉《と》じる。政子は、肩《かた》をすくめた。  一階へ降りると、表で並子が竜介を遊ばせていた。  「どうだった?」  「全然だめ。にべもなく追い返されちゃった」  「顔は見た?」  「うん。でも、美紀さんでないとしたら、一《いち》卵《らん》性《せい》双《そう》生《せい》児《じ》かしら。そっくり、うり二つよ」  「そう」  並子は肯《うなず》いた。  「——探《たん》偵《てい》としては、どういう手を打つの?」  並子の棟《むね》の方へと歩きながら、政子は訊《き》いた。  「探偵としては、企《き》業《ぎよう》秘《ひ》密《みつ》よ」  「本《ほん》格《かく》的ね」  「私に任《まか》せて」  と、並子は言った。「ねえ、どう? 今夜はうちで食べない? ご主人、遅《おそ》いんでしょう」  「でも、邪《じや》魔《ま》じゃないの」  「うちも、いつも夜中よ。大学の助《じよ》教《きよう》授《じゆ》なんて、安月給の割《わり》に仕事が多いの」  「じゃ、一《いつ》緒《しよ》に何か作ろうか」  「話は決った!」  二人は手を打って、笑《わら》った。  政子は、少なくとも料理に関してだけは、並子より才《さい》能《のう》があることを発見して、大いに満足であった。  「今夜は良く食べるわね、竜介」  と、並子は口に入れてやりながら、「少しは味が分るのかな」  「並子、料理の勉強したの?」  「全然。でも一《いち》応《おう》主人も死なずに生きてるしね」  並子は平気なものである。「これから毎日作ってくれない?」  「いいけど、高いぞ」  「ひどい友達ねえ!」  並子は笑いながら言った。  「——あら、救急車」  「近いわね」  サイレンの音が、近付いて来た。何しろ団《だん》地《ち》の中は音が反《はん》響《きよう》するので、どこにいるのかよく分らないが、ともかく近いことは確《たし》かであった。  「見てみよう」  並子は、ベランダへ出た。「——政子、あなたの棟《むね》の前よ」  「何かしら?」  「探《たん》偵《てい》としては、行ってみることにするわ」  並子は、食べ足りない様子の竜介を抱《だ》き上げて玄《げん》関《かん》へと急いだ。  行ってみると、救急車は、政子の棟でなく、向いの、柏田のいる棟の前に停《とま》っているのだった。政子は、知った顔の主《しゆ》婦《ふ》に、  「どうしたんですか?」  と声をかけた。  「あの人よ」と、声をひそめた返事。  「え?」  「柏田さん。急に倒《たお》れたんだって」  政子と並子は顔を見合わせた。ちょうど、柏田をのせた担《たん》架《か》が運ばれて来る。  竜介はキーキーと声を上げていた。救急車の赤ランプが気に入ったのである。 3  「どんな具《ぐ》合《あい》だって?」  と、西沢並子が訊《き》いた。「——このイチゴ、おかしくなってるわ。いやねえ」  並子は、木村政子と二人で、団《だん》地《ち》の中のスーパーで買物をしていた。いや正《せい》確《かく》に言うと二人半で、スーパーの店内用のショッピングカーにチョコンと座《すわ》らされて、キャーキャー声を張《は》り上げているのは、もちろん並子の一人息子《むすこ》、竜介である。  「柏《かしわ》田《だ》さんのこと?」  と政子が言った。「何か一《いつ》進《しん》一《いつ》退《たい》ってとこらしいわよ」  「どこに入院してるの?」  「隣《となり》の駅前にあるK大学病院ですって」  「ああ、あそこ。行ったことあるわ」  と、並子が肯《うなず》く。「——ええと、後は牛《ぎゆう》乳《にゆう》だ」  二人は〈乳製品〉のコーナーへと歩いて行った。  「奥《おく》さんの方はどう?」  と並子が訊《き》いた。  「ずっと付きっきりのようよ。もともとあのおじいさん、心《しん》臓《ぞう》は弱かったらしいけどね」  「でも、ちょっと妙《みよう》ね。あの美紀って奥さんが、もしかすると別人とすりかわってるかもしれないと怪《あや》しんだ、その矢《や》先《さき》だものね」  「ねえ、並子。本当にあの奥さん——かどうか分んないけど——あの女が殺そうとしたんだと思う?」  「それはこれから調べるのよ。あ、そこのヨーグルト、取って。——サンキュー」  「調べるって、どうやって?」  「ねえ、どこか悪い所ない?」  と、並子はニッコリ笑《わら》って政子を見た。  「やめてよ!——至《いた》って健康なんだから!」  「一時的にでもさ、頭が痛《いた》くなるとか、手が動かなくなるとか、頭が悪くなるとか——」  「それは一時的じゃないわね」  と、政子は言った。「レジ、あっちが早そうよ」  「——それじゃ、誰《だれ》か知人が入院してるってことにするわ」  「行くの、病院に?」  「そう。ご近所のお見《み》舞《まい》って言えばいいんじゃない?」  「でも面《めん》会《かい》謝《しや》絶《ぜつ》だって……」  「行きゃ何とかなるもんよ。——政子、一《いつ》緒《しよ》に行くでしょ?」  「もちろんよ!」  「じゃ、タクシーで行こう。タクシー代は、必要経《けい》費《ひ》だから、そっち持ちよ」  並子はそう言って、レジの順番が来たので、財《さい》布《ふ》を取り出した。  「病人って多いのねえ、この世の中には」  と、政子が感じ入ったように言った。  総《そう》合《ごう》病院といっても、そう大きくはない。しかし、内科、小《しよう》児《に》科、歯科ぐらいなら団《だん》地《ち》の中で済《す》むのだが、それでだめな病人は、ほとんどがここへやって来る。  混《こん》雑《ざつ》も当然なのである。  「ちょっと待って。——竜介、このおばちゃんといなさいね」  並子は、人をかき分けて姿《すがた》を消した。竜介はいささか緊《きん》張《ちよう》気《ぎ》味《み》で、通りかかる看《かん》護《ご》婦《ふ》や医者を見る度《たび》に、政子の陰《かげ》に急いで隠《かく》れている。  きっと注射をされたりした記《き》憶《おく》があるのだろう。  「——お待たせ」  と、並子が戻《もど》って来る。「病室、分ったわ。三階ですって」  「一人《ひとり》部《べ》屋《や》?」  「そうらしいわ。奥《おく》さんが一人でついてるそうよ。容《よう》態《だい》はよくも悪くもないってところらしいわね」  「誰《だれ》に訊《き》いたの?」  「看護婦さんよ。知り合いなの」  「へえ、便利ね」  「ちょっと前に事《じ》件《けん》を一つ解《かい》決《けつ》してあげたことがあってね。何か頼《たの》むことがあると、やってくれるのよ」  二人プラス竜介の一《いつ》行《こう》は、階《かい》段《だん》を上って行った。  「あの部屋か」  と、少し離《はな》れた所で、並子は立ち止まった。「ねえ、政子」  「なに?」  「下へ行ってね、入口の所の公《こう》衆《しゆう》電話から、電話一本かけて来てくれない?」  「いいけど。どこへかけるの?」  「この病院」  「ここへ?」  「柏田美紀さんを呼《よ》び出してほしいの」  「でも——何を話すの?」  「何だっていいじゃないの。それぐらい考えなさいよ!」  「ウーン……。分った。じゃ何とか……」  政子が渋《しぶ》々《しぶ》階段を降りて行くと、並子は、取っておきのキャンディーを出して、竜介にやった。これがあると当分はおとなしくしているのである。  少しすると、  「柏田美紀さん、一階受付まで——」  と放送があった。  「こっちへおいで」  と、並子は、竜介の手を引《ひ》っ張《ぱ》って、わきへ隠《かく》れた。  病室のドアが開いて柏田美紀が出て来る。一《いつ》旦《たん》エレベーターの方へ歩きかけて、思い返した様子で足《あし》早《ばや》に階段へ向った。  「よし、行くわよ」  並子は竜介の手を引いて、廊《ろう》下《か》を歩いて行った。ドアには、〈面《めん》会《かい》謝《しや》絶《ぜつ》〉の札《ふだ》がかかっている。並子はその札を外すと、ちょっと左右を見回して、足《あし》下《もと》に落とし、中へ入って行った。  「失礼します……」  と小声で言って、中を見回す。  ベッドでは、柏田老人が、目を閉《と》じている。並子はそっと近付いて、柏田の顔を覗《のぞ》き込《こ》んだ。  柏田の睫《まつげ》が小《こ》刻《きざ》みに震《ふる》えて、ゆっくり上った。——しばらくは、並子の顔を、ぼんやり眺《なが》めていた。  「柏田さん……。分りますか?」  と、並子はそっと声をかけてみた。  「……美紀」  と、かすかな呟《つぶや》きが、柏田の唇《くちびる》から洩《も》れる。  「奥《おく》さんは今、ちょっと出ていますわ」  「美紀……」  「すぐ戻《もど》って来られますよ」  「あれは……違《ちが》う」  「え?」  「あれは……違う……」  「何が違うんですか?」  「美紀じゃ……ない」  「美紀さんじゃない?」  並子はハッと体を起こした。あわててベッドから離《はな》れて、竜介を抱《だ》き上げる。  ドアが開いて、美紀が立っていた。  「——どなたですか?」  美紀の表《ひよう》情《じよう》は険《けわ》しかった。  「あ、奥さん、ごめんなさい。私《わたし》、木村さんに頼《たの》まれて——」  「木村さん?」  「ええ、あなたのお向いの棟《むね》にいる木村政子さん。ご存《ぞん》知《じ》でしょ。柏田さんの具《ぐ》合《あい》、どうかしらって気にしてるもんですから。ちょっと、私、今日、用があったので、ついでに聞いて来てあげると言ったんです」  「そうですか」  美紀の口《く》調《ちよう》は穏《おだ》やかになったが、目には警《けい》戒《かい》の色が浮《う》かんでいた。  「いかがですか、具《ぐ》合《あい》の方は?」  「まだどうにも。面《めん》会《かい》謝《しや》絶《ぜつ》なんですよ、一《いち》応《おう》は」  「まあ、それはどうも! すみません。存《ぞん》じませんでしたわ」  美紀はドアを開けると、廊《ろう》下《か》へ出て、  「札《ふだ》が落っこちてたんだわ」  と拾い上げた。  「ごめんなさい。何も知らなくて。——じゃ、失礼しますわ。どうぞお大事に」  と、並子は愛《あい》想《そ》良く会《え》釈《しやく》した。  「わざわざどうも……」  と、美紀の方も頭を下げたが、目は用心深く並子を追っている。  「あの——」  と、歩きかけた並子へ美紀が呼《よ》びかけた。  「はい」  「お名前を伺《うかが》わせていただけます?」  「まあ、すみません、私ったら。西沢と申します。お近くの高《こう》層《そう》にいるんですの。それじゃ、これで——」  並子は病室のドアが閉《と》じると、ホッと息をついた。  「さ、降りて歩きなさい」  と竜介を降ろす。  竜介は、つまらなそうな顔で、並子の手を取った。  受付から外へ出ると、政子がやって来た。  「どうだった?」  「もうちょっと引き止めといてくれなきゃ、何も調べられないじゃないの」  「だってえ……。私は探《たん》偵《てい》じゃないんだもの」  「それにしたって……。何て言ったの、彼女に?」  「うん……。ちょっとアンケートをお願いしますって。冗《じよう》談《だん》じゃないって切られちゃったわ」  「当り前じゃないの!」  並子は笑い出してしまった。「——ね、せっかく出て来たんだから、駅前のデパートに行かない? 早《はや》目《め》に夕ご飯食べて帰ろうよ」  「賛《さん》成《せい》! ご主人遅《おそ》いの?」  「早くたっていいわ、残り物があるから」  「犬か猫《ねこ》と間《ま》違《ちが》えてんじゃない?」  と、政子は言った。  「それじゃ、やっぱりあれは美紀さんじゃないって?」  と政子は言った。  デパートといっても、スーパーを大きくしたような建物で、その五階が食堂街《がい》である。竜介は、お子様ランチを悲《ひ》劇《げき》的な状《じよう》態《たい》に破《は》壊《かい》しながら、母親が口へ押《お》し込《こ》んだご飯を、目を白《しろ》黒《くろ》させながら食べている。  「そう私には聞こえたけど」  と並子は肯《うなず》いて、「——こら、ちゃんと食べなさい!」  「すると、どうなっちゃうのかしら? あの女が美紀さんそっくりの偽《にせ》者《もの》だとすると……柏田さんの命が危《あぶ》ないわ」  「落ち着いて」  と、並子は言った。「いくら何でも、病院の中で妙《みよう》な真《ま》似《ね》をすれば、自分の首を絞《し》めるようなもんだわ」  「だけど——」  「私たちにだって、何も捜《そう》査《さ》の権《けん》限《げん》はないんですもの。勝手に逮《たい》捕《ほ》するわけには行かないし。——こら! こぼしたわよ!」  「じゃ、放っとくの?」  「まあ、考えさせてよ。何か手はないかと思ってるんだ……」  と、並子は考え込《こ》んだ。  「ねえ、並子」  「なあに?」  「ここの支《し》払《はら》いも必要経《けい》費《ひ》に入るの?」  ——二人は団《だん》地《ち》へ戻《もど》った。  「寄《よ》ってく?」  と政子が誘《さそ》ったが、並子は、  「一応帰っとくわ。もしかして亭《てい》主《しゆ》が早く帰って餓《が》死《し》してると困《こま》るからね」  と笑《わら》って、「じゃ、また明日」  と手を振《ふ》った。  並子は高《こう》層《そう》の棟《むね》へ入ると、自分の家の郵《ゆう》便《びん》受《うけ》を見た。——何か封《ふう》筒《とう》が入っている。  「広告かしら」  ヒョイと手に取って、エレベーターで七階へ上る。夫はまだ帰っていなかった。  「ギューギュー」  と、竜介が言った。  別に詰《つ》め込《こ》むわけじゃない。牛《ぎゆう》乳《にゆう》のことなのである。  「はいはい、ちょっと待って」  コップを出して、牛乳を入れてやる。竜介が両手で持って飲み出した。  「こぼさないでよ……」  電話が鳴った。並子が受話器を取ると、  「政子よ」  「あら、どうしたの?」  「うちの郵便受にね、手紙が入ってたの」  「手紙?」  「脅《きよう》迫《はく》状《じよう》よ」  「脅迫状?」  並子は、今持って来てテーブルへ放り出した封《ふう》筒《とう》を見て、「こっちにも何か来てるわ。見てないけど。——何ですって?」  「〈余《よ》計《けい》なことに首を突《つ》っ込《こ》むと危《き》険《けん》です。忠《ちゆう》告《こく》しておきます〉ですって」  「簡《かん》単《たん》な文面ね。こっちも見てみるわ。ちょっと待って……」  並子は封筒を開けてみた。中は同じ文面の手紙だ。角《かく》張《ば》って、定《じよう》規《ぎ》で書いたような字である。  「同じものね」  「やっぱり!——ねえ、どうしよう?」  「何よ、怖《こわ》いの? だらしないわねえ、探《たん》偵《てい》のくせに」  「私は探偵じゃないわよ」  「あら、助手じゃない」  と勝手に決めつけておいて、「まあ大《たい》して気にする必要ないわよ」  「だって……」  「明日、ゆっくり相談しましょ。——あっ、こら!」  並子は、ふっ飛んで行った。竜介が、牛乳をみごとにこぼしていたのである。 4  「——いいお天気ね」  砂《すな》場《ば》で、大《だい》奮《ふん》闘《とう》している竜介をベンチに座《すわ》って眺《なが》めながら、並子は、やって来る政子に手を上げて言った。  「呑《のん》気《き》ねえ」  政子は並んでベンチに座ると、「私、寝《ね》不《ぶ》足《そく》よ」  と目をショボつかせた。  「あら、じゃゆうべはご主人とお楽しみ?」  「冗《じよう》談《だん》じゃないわ! 脅迫状が来てるのに。あれが気になって……。夜中にガタッと音がすると飛び起きたりして、ほとんど眠《ねむ》れなかったのよ」  「まあ、意外と神《しん》経《けい》質《しつ》なのね」  「『意外と』はないでしょ」  「それより妙《みよう》だと思わない? そりゃ私たちがあの美紀と名乗ってる女《じよ》性《せい》のことを疑《うたが》ってるのは事実よ。でも、それには何の証《しよう》拠《こ》もないわけでしょ。こっちだって、警《けい》察《さつ》に話を持って行っても、とても取り合ってもらえないに決ってる」  「そうね」  「そこへ、あの脅迫状。あれはちゃんとした形のある証拠だもの。警察だって少しは話を聞いてくれるかもしれないわ」  「そう? じゃ早速——」  「あわてないで。でも、これだけじゃ、警察だって手の打ちようがないに決ってるわ」  「でも……」  「問題は、なぜわざわざこんな証拠を犯《はん》人《にん》がくれたのかってことよ」  「——わざとよこしたってこと?」  「そうとしか思えないわね」  と、並子は肯《うなず》いて、「あ、竜介! だめ! ほら、他の子へ砂《すな》かけちゃだめってば!」  探偵は多《た》忙《ぼう》である。  そろそろ竜介が昼《ひる》寝《ね》の時間だというので、政子の部《へ》屋《や》へと一《いつ》旦《たん》引き上げる。  風《ふ》呂《ろ》場《ば》のシャワーで汚《よご》れた足を洗ってやると、竜介はもう目をこすり始め、布《ふ》団《とん》へ横になると、たちまちスヤスヤと寝入ってしまった。  「いいわねえ、子供って」  政子が窓《まど》際《ぎわ》に腰《こし》をおろして言った。  「生まれたら生まれたで大変よ。どっちもどっちだわ」  と、並子は息をついた。  「——あら。見て!」  「どうしたの?」  「柏《かしわ》田《だ》さんよ」  窓《まど》から見下ろすと、タクシーのドアが開いて、柏田美紀が降り立った。そして中から、杖《つえ》をつきながら、柏田が出て来る。  「退《たい》院《いん》したのかしら?」  「電話借りるわね」  並子は、電話でしばらく話してから、戻《もど》って来た。「——どう?」  「中に寝《ね》かせてるみたい」  「病院の方じゃ、責《せき》任《にん》が持てないって言ったらしいけど、当人がどうしてもって希望したんですって」  「じゃ、危《あぶ》ないのかしら?」  「すぐにどうという心配はないだろうってことだったわ」  「でも、どうして、わざわざ退院して来たのかしら?」  「そこが問題ね。——しばらくはよく見《み》張《は》る必要があるわ」  「私がやるの?」  と政子はしかめっつらで、「助手は手当が出ないの?」  と訊《き》いた。  その夜は、政子の所で夕食を取った。しばらくおしゃべりして、  「ああ、もうこんな時間。——じゃまた明日ね」  と、並子は竜介を抱《だ》いて、玄《げん》関《かん》を出た。  「バイバイ」  と竜介も手を振《ふ》る。  並子たちが、政子の棟《むね》を出て、歩きかけたとき、激《はげ》しくガラスの割《わ》れる音がした。  ハッと振り向くと、あの、柏田の部《へ》屋《や》あたりらしい。  「並子!」  と、政子が窓から顔を出して叫《さけ》んだ。「柏田さんが、大変よ!」  「一一〇番へかけて!」  と並子は叫んだ。  ダダッと階《かい》段《だん》を駆《か》け降りて来る音がして、見ると、柏田美紀が飛び出して来た。並子を見るとハッとした様子だったが、すぐに右手の方へと突《つ》っ走って行く。こういうときは子連れ探《たん》偵《てい》の悲しさで、追いかけるわけにいかないのだ。  少しして、政子が足早に降りて来た。  「どうしたの?」  「何だか分らないけど、ガラスの割れる音がして、びっくりして覗《のぞ》いて見たの。そしたら、柏田さんが胸《むね》をかきむしるようにして苦しんでるのが見えて……」  「一一〇番した?」  「もちろん。救急車も頼《たの》んどいたわ」  「上《じよう》出《で》来《き》よ」  並子は肯《うなず》いて、「さ、行ってみましょ」  「ええ? 上るの?」  「美紀さんは今、駆《か》け出して行っちゃったわよ。さあ、早く!」  二人は階《かい》段《だん》を上って行った。  ドアを開けると、並子は声をかけた。  「柏田さん」  「返事ないわね」  「ちょっと、竜介を抱《だ》いてて」  「大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》?」  「平気、平気」  並子は上り込んだ。——政子はいささかおっかなかったけど、やはり、「助手」としては、ついて行くべきだろう、と考えた。  竜介も、政子にはすっかり馴《な》れている。ヨイショとだっこして、上り込んだ。  「——並子」  「こっちよ」  ベランダへ面した日本間の畳《たたみ》の上に、柏田が仰《あお》向《む》けに倒《たお》れていた。  並子がその傍《そば》から立ち上って、言った。  「死んでるわ」  政子は青くなって、  「竜介君……返すわ。失神して、落っことすといけないから」  「情《なさけ》ないわねえ、探偵の助手が」  並子は苦《く》笑《しよう》しながら、竜介を受け取った。「ベランダの方、気をつけて。ガラスが一《いつ》杯《ぱい》飛び散ってるから」  「どうしてガラスが割れたのかしら?」  「植《うえ》木《き》鉢《ばち》を投げたようね」  と並子は言った。「ベランダに転《ころが》ってるわ」  「やっぱり発《ほつ》作《さ》かしら」  「それなら、奥《おく》さんが逃《に》げるかしら?」  「それじゃ……」  「テーブルに湯《ゆ》呑《の》み茶《ぢや》碗《わん》が置いてあるわ。中のお茶を分《ぶん》析《せき》した方がいいかもね」  と並子は言った。  外へ出ると、制《せい》服《ふく》の警《けい》官《かん》がかけつけて来た。見た顔だと思ったら、近くの交番にいる若《わか》い巡《じゆん》査《さ》である。  「やあ、あなたですか」  と、巡査は、並子を見て微《ほほ》笑《え》んだ。「また何か事《じ》件《けん》で?」  「中で人が死んでます」  「そりゃ大変だ」  巡査はあわてて中へ飛び込んで行った。  「並子、知ってるの、あのお巡《まわ》りさん?」  「前にもちょっと事件を解《かい》決《けつ》してあげたことがあるもんだから。——あの人はね、片《かた》平《ひら》さんっていって、気のいい人よ。まだ二十四だもの、若いでしょ」  「結《けつ》構《こう》顔が広いのね」  「まあね」  と並子は肯《うなず》いた。「あ、やっとパトカーと救急車が来た」  サイレンの音が、近づいて来た。  「やっぱり毒が?」  並子は、片平巡《じゆん》査《さ》にお茶を出しながら言った。  「や、どうも恐《おそ》れ入ります。——そうなんです。お茶に入ってたそうです。毒というよりも、心《しん》臓《ぞう》に悪い薬といいますかね。しかし、あの人の心臓には致《ち》命《めい》的だそうです」  「へえ。それで、美紀さんは?」  「捜《そう》索《さく》中ですが、見付かりません」  と、片平巡査は言って、「——これはまだ秘《ひ》密《みつ》なんですが……」  と声を低くした。  ここは並子の部《へ》屋《や》。そしてもちろん、政子も一《いつ》緒《しよ》である。  「調べたところ、やはり美紀には一《いち》卵《らん》性《せい》双《そう》生《せい》児《じ》の姉がいたんです」  「じゃ、やっぱり入れ替《かわ》ってたのね!」  と政子が言った。  「そのようですね」  と片平が肯《うなず》く。「姉の方の名は美《み》鈴《すず》といって、大《だい》分《ぶ》前から行《ゆく》方《え》不《ふ》明《めい》になってるんです。というより、逃《とう》亡《ぼう》したというべきですかね。勤《つと》め先の金を持ち逃《に》げしたらしいですよ。妹の美紀さんや、家族が何とかして返《へん》済《さい》すると頭を下げて、表《おもて》沙《ざ》汰《た》にならなかったらしいんです」  「その姉が、妹の結《けつ》婚《こん》を知った。相手は六十の大金持……」  「そこで、妹になりすまして、老人が死んだら、遺《い》産《さん》を手に入れようとした。老人は発《ほつ》作《さ》を起こした。ところが、一《いち》命《めい》を取り止めて、まだ無《む》理《り》しなければ大丈夫、と言われた」  「それで殺す決心をしたわけね」  と政子は肯《うなず》いた。  「ところが、苦しんだ柏田さんが植《うえ》木《き》鉢《ばち》をガラスへぶつけて割《わ》ってしまったために、こちらの木村さんに見られたと思い、逃げ出してしまったんですね」  「結局、何もかもむだな骨《ほね》折《お》りだったってわけですね」  「柏田さんが亡《な》くなったのは残念でした。もう一つ心配なのは、美紀さんのことです」  「そうか。——ねえ、並子、彼《かの》女《じよ》、殺されてるのかしら?」  並子はあまり口をきかなかった。何やら考え込んでいる様子だ。そして、顔を上げると、  「ちょっとあの家へ行ってみましょうよ」  と言った。「うちのチビが昼《ひる》寝《ね》から、ちょうど起きたようだしね」  ——柏田の部《へ》屋《や》の中は、そのままになっていた。  並子は、柏田が倒《たお》れていた部屋に入ると、割れたガラス窓《まど》を眺《なが》めていた。  「何か気になることでも?」  と、片平巡査が訊《き》いた。  「あの植木鉢ね、外側が土で汚《よご》れてない?」  「そう言えば……」  片平は、ガラスの破《は》片《へん》に気を付けながら、覗《のぞ》き込《こ》んだ、「汚れてますね、大分」  「いつも外に置いてあったんじゃないかしら。それを持って投げれば、当然手が汚れるでしょう。でも、柏田さんの手はきれいだったわ」  「本当ですか? しかし——」  政子が、突《とつ》然《ぜん》、  「まあ!」  と声を上げた。  玄《げん》関《かん》のドアが開いて、美紀が立っていたのだ。——頬《ほお》が落ちて、今にも倒《たお》れそうだった。  「美紀さん!」  「木村さん……」  と言ったきり、本当に美紀はその場に崩《くず》れるように倒れてしまった。  片平があわててダイニングの椅《い》子《す》へ運び、水を飲ませると、美紀は気が付いて、息をついた。  「——ありがとう。——突《とつ》然《ぜん》、姉から電話があって、会いたいと言ったんです。それで出向いて行くと、いきなり殴《なぐ》られて気を失い……。今まで、どこか倉《そう》庫《こ》のような所に閉《と》じ込《こ》められてたんです」  と一気にしゃべる。  「よく逃《に》げて来たわね」  「三日前ぐらいに姉が来て主人が死んだ、と……。でも、しくじったから逃げなきゃならないと言いました、そして私を置き去りにしたんです。やっと今日になって窓《まど》がこじ開けられたので……」  「大変だったわね。——さあ、このビスケットでも食べて」  「ありがとう」  水とビスケットで、少し美紀の気分も落ち着いたようだった。ビスケットの一枚を、竜介にやって微《ほほ》笑《え》んだ。  片平が、姉の美鈴のことをあれこれと訊《き》き始める。美紀はしっかりと返事をしていた。  「——まあ、良かったわね、美紀さんだけでも助かって」  と政子が言うと、  「そうね」  と並子は肯いた。「——なあに?」  竜介が、退《たい》屈《くつ》したのか、並子のスカートを引《ひ》っ張《ぱ》っている。  「もうちょっと待って!——仕《し》方《かた》ないわね、そっちの部《へ》屋《や》で一人で遊んでなさい」  並子が、竜介を、日本間の方へ押《お》しやった。  片平と話をしていた美紀が、  「あ、そっちは危《あぶ》ないわ、ガラスが——」  並子が竜介を抱《かか》え上げて、  「なぜ知ってるの?」  と、美紀を見た。「ガラスが割《わ》れてることをなぜ知ってたの?」  「それは——」  「あなたはその部屋には一度も入ってないわ。それなのに、なぜガラスが割れてるのを知ってたの?」  美紀の顔から、血の気がひいていた。並子は続けた。  「美鈴なんて姉さんは、いなかったのよ。戸《こ》籍《せき》の上ではいるけれど、どこにいるのか。——あなたは、この政子を目《もく》撃《げき》者《しや》に仕立てて、わざとけがをしたふりをして見せたり、髪《かみ》型《がた》などで感じを変えて、別人になったように思い込ませた。——柏田さんが、案に相《そう》違《い》して長生きしそうなので、早く遺《い》産《さん》を手に入れるために、行《ゆく》方《え》不《ふ》明《めい》の姉を殺《さつ》人《じん》犯《はん》にしてやろうと思ったのね」  並子は首を振《ふ》って、「でも、やりすぎだったわよ。本当にすり替《かわ》ったのなら、少しでも本物に似《に》せようとするはずだわ。それを、あなたは疑《ぎ》惑《わく》を持たれるようなことばかりやっていたもの。却《かえ》って変だと思ったのよ」  「でも並子、柏田さんも『美紀じゃない』って……」  「『以前の美紀じゃない』っていう意味なのよ、あれは。私もちょっとあれで迷《まよ》ったけどね」  美紀は、力なくうなだれた。  「一《いつ》件《けん》落《らく》着《ちやく》か」  暖《あたた》かい陽《ひ》射《ざ》しの砂《すな》場《ば》で、竜介は砂の山をせっせとこしらえている。政子は、  「ねえ、警《けい》察《さつ》からは感《かん》謝《しや》状《じよう》、来ないの?」  と訊《き》いた。  「冗《じよう》談《だん》じゃない。私は謎《なぞ》を解《と》くのが楽しみだからやってるだけよ」  と、並子は言って、伸《の》びをした。「ああ、退《たい》屈《くつ》だ。また何かないかしら。——あ、そうだ。はいこれ」  と紙きれを政子へ渡《わた》した。  「何なの?」  「請《せい》求《きゆう》書《しよ》。三千円プラス実費のね——。こら、竜介! わざと砂をはね上げないの!」  「ねえ、ちょっと、並子!」  政子はメモを見て、「このビスケット代って何よ? ほとんど竜介君が食べたんじゃないの!——ちょっと、並子ったら!」  探《たん》偵《てい》は、我《わ》が子を追いかけ回すのに必死の様子だった。 第二話 救急車愛《あい》好《こう》家《か》の事《じ》件《けん》 1  「さあ、お昼、お昼」  西《にし》沢《ざわ》並《なみ》子《こ》は、二歳《さい》になる子《こ》供《ども》の竜《りゆう》介《すけ》を抱《だ》いて上って来ると、「政《まさ》子《こ》! スパゲッティ、ゆで上った?」  と声をかけた。  「もう二、三分よ」  と木《き》村《むら》政子は答えてから、「でも、ミートソースを作らなきゃ」  「缶《かん》詰《づめ》が入ってるわ、その棚《たな》に」  「無《ぶ》精《しよう》ねえ」  「能《のう》率《りつ》的と言ってほしいわ。こら、竜介! 新聞破《やぶ》っちゃだめ!」  ——ここは、郊《こう》外《がい》の大団《だん》地《ち》。  西沢並子と木村政子は、共に二十八歳で、高校、大学時代からの親友同士である。夫を持つ身となって、二人はこの団地のすぐ近くに住んでいて、偶《ぐう》然《ぜん》に再《さい》会《かい》。こうして、互《たが》いに入りびたりの付き合いを続けている。  もっとも、子持ちの並子の方は、副《ふく》業《ぎよう》として私《し》立《りつ》探《たん》偵《てい》を非公式に開業しており、まだ子供のいない政子が、いわばワトスン役を引き受けているのだった。  「ワトスン博士がホームズに昼食を作ってやったとは、どこにも書いてなかったけどね」  と、スパゲッティに、缶《かん》詰《づめ》のミートソースを鍋《なべ》で温めたのをかけながら、政子がグチった。  「その代り、政子には医学の知《ち》識《しき》なんてないじゃないの。だからこれでいいのよ」  厳《げん》密《みつ》なるべき名《めい》探《たん》偵《てい》にしては、いささか非《ひ》論《ろん》理《り》的なセリフを吐《は》いて、並子は、竜介を膝《ひざ》の中へ押《お》し込《こ》むと、スパゲッティをフーフー吹《ふ》いてさましながら食べさせ始めた。  「——あ、そうそう。さっき電話があったわよ」と、政子が言った。  「誰《だれ》から?」  「ええと……守《もり》屋《や》さんって人」  「知らないわ」  「何か相談があるんですって」  「じゃ、依《い》頼《らい》人《にん》?」  と、並子はチラッと政子の方を見て、「だけど、いやよ、いつかみたいに、来るなり泣《な》き出して亭《てい》主《しゆ》のグチを二時間も聞かされるのは」  「あれは……だって、私のせいじゃないわ」  「助手は客の選別ぐらいしなきゃ」  探《たん》偵《てい》はなかなか厳《きび》しいのである。  「手当をいただいてませんからね」  と、政子は言い返してやった。  玄《げん》関《かん》のチャイムが鳴った。  「きっと依《い》頼《らい》人《にん》よ」  と、政子が立って、玄関へ出る。  「あの……西沢探《たん》偵《てい》事《じ》務《む》所《しよ》というのは……」  立っているのは、四十五、六歳《さい》の、パリッとしたビジネスマンだった。かなり高そうな背《せ》広《びろ》、一見して、サン = ローランと分るネクタイ。  見るからに、一流企《き》業《ぎよう》の社員というイメージである。中身の方も、中《ちゆう》肉《にく》中《ちゆう》背《ぜい》、メガネがちょっと年《とし》寄《よ》りくさいが、まあ「並《なみ》」の外見というところだった。  「さあどうぞ。——守屋さんですね?」  「そうです。では、ちょっとお邪《じや》魔《ま》を……」  政子は守屋というその男を居《い》間《ま》へ通して、  「ちょっとお待ち下さい」  と、ダイニングキッチンへ戻《もど》る。  「——今行くわ。ね、竜介をそっちの部《へ》屋《や》へやっといて」  「はいはい」  このワトスンは、子《こ》守《も》りまでしなくてはならないのだ。  「——お待たせしました」  と、並子が入って行くと、守屋という男はちょっと呆《あつ》気《け》に取られていたが、  「お若《わか》いですね!」  と声を上げた。「いや、主《しゆ》婦《ふ》探《たん》偵《てい》というお噂《うわさ》はうかがっていたんですが、もっと中年のおばさんが出て来るのかと思っていましたよ。驚《おどろ》きました」  「どうも」  と、並子は軽く肯《うなず》いて見せ、「では、お話をうかがいます」  とソファに腰《こし》をおろした。  「はあ……。実は、どうにも困《こま》ったいたずらに悩《なや》まされていましてね」  「いたずら?」  「ええ。私はこの少し先の七丁目にいるんです。会社は外《がい》資《し》系《けい》のA社で、まあ給料は悪くない。いや、はっきり言って、同年代の仲《なか》間《ま》たちより、かなり収《しゆう》入《にゆう》は多い方でしょう」  「ご家族は?」  「妻《つま》と娘《むすめ》が一人。今、高校一年生です。ところが、いたずらというのは、一週間前のことですが——」  話は途《と》切《ぎ》れた。竜介が、オモチャの救急車を手にドタバタと駆《か》け込《こ》んで来たのである。  「こら! あっちへ行ってなさい!」  と、並子が叱《しか》る。  当の竜介は、てんで気にしていない感じで、追って来た政子の手を逃《のが》れて、ソファの周囲をぐるりと一回りした後、また居間を飛び出して行った。  「どうもお騒《さわ》がせして」  と、並子は平然と言った。「お話のつづきをどうぞ」  「可愛《かわい》いお子さんですな。男の子で? いや、可愛い」  と、守屋は子供好《ず》きらしく、目を細めている。「——ああ、失礼。いや、実は、今お子さんが持って入って来た、オモチャ。実はあれが頭《ず》痛《つう》のタネなんですよ」  「オモチャがですか?」  「いや、救急車がです」  と、守屋は言った。  「お父さん」  娘の和《かず》美《み》の声で、守屋は目を覚ました。  「何だ、どうした?」  と、まだぼやけた目をこすって起き上る。  「救急車がこの下に停《とま》ったわ」  「この棟《むね》に?」  守屋は、時《と》計《けい》へ目をやった。一時を少し過《す》ぎている。ご多《た》分《ぶん》に洩《も》れず深夜族の和美は、まだ起きていたのだ。  母親の智《とも》子《こ》は、ぐっすり寝《ね》込《こ》むと、まず目が覚めない。今も、平然と寝《ね》息《いき》をたてていた。これが、朝になると、目覚まし時計の鳴らない内にパッと目を覚ますのだから、全く不《ふ》思《し》議《ぎ》という他はない。  「どこかな」  と、守屋は起き上りながら言った。  「さあ、分んないけど。——ほら」  守屋は窓《まど》のカーテンを開けて、下を覗《のぞ》いてみた。なるほど、救急車が、この八階建の棟の前に停っている。赤いランプが周囲に照り映《は》えていた。  担《たん》架《か》を持った救急隊員が二人、中へ駆《か》け込んで来る。  「本当に病人かなあ」  と、和美は何だか、楽しんでいるような口ぶりである。  「おいおい」  と、守屋はたしなめて、「——ともかく、うちじゃないことだけは確《たし》かだよ。さあ、寝《ね》るぞ。和美、お前ももう、寝た方がいいんじゃないのか?」  「結《けつ》果《か》を見《み》届《とど》けなきゃ」  と和美は張《は》り切っている。「だって、親しくしている家だったら、やっぱり放っとけないじゃない?」  それも理《り》屈《くつ》だ。  「和美、お前が見ててくれ。俺《おれ》はもう寝るぞ。明日寝不足じゃ——」  玄《げん》関《かん》のチャイムが、あわただしく鳴った。守屋と和美は顔を見合わせた。チャイムがもう一度鳴る。守屋は玄関へ出て行った。ドアを開けると、白衣の救急隊員が立っていて、  「けが人は?」  と、中へ入って来る。  「あの——何のご用ですか?」  守屋は呆《あつ》気《け》に取られて、言った。  「足を骨《こつ》折《せつ》したのはどなたです?」  「骨折?」  守屋は目を丸《まる》くした。「うちじゃありません! どこか他のお宅《たく》でしょう」  「変だな。ここは守屋さんでしょう?」  「そうですが……」  隊員が表に出て、表《ひよう》札《さつ》を確《たし》かめる。  「ちゃんと合ってるよ。変だなあ」  「あの——どういう通《つう》報《ほう》が?」  「いや、家族が足を骨《こつ》折《せつ》したので、すぐ来てくれと……」  「うちの者は誰《だれ》も骨折なんかしていません」  「そうですか。——この棟《むね》に、他に守屋って家はありますか」  「いいえ、うちだけのはずですが」  「じゃ、やっぱりここですね。変だな。——ま、きっと誰かのいたずらでしょう」  「性質《たち》の悪いいたずらですね」  「全くです。しかし、中には妙《みよう》な人もいますからね。どうも、お騒《さわ》がせしました」  「いや、ご苦《く》労《ろう》様《さま》です」  と、守屋は、救急隊員を送り出して、ドアを閉《し》めた。  「お父さん」  と、和美が顔を覗《のぞ》かせている。  「聞いたか」  「うん。気持悪いね」  「全くだ。——別に人に恨《うら》まれたり、憎《にく》まれたりした覚えはないのにな」  「お父さん、どこかの奥《おく》さんに手出したんじゃないの?」  「馬《ば》鹿《か》!」  守屋がにらみつけると、和美はキャッキャと笑《わら》って逃《に》げて行った。  「あなた、どうしたの?」  妻《つま》の智子が起き出して来た。  守屋が話をすると、智子はちょっと眉《まゆ》をひそめて、  「いやねえ。変な人がいるから、用心しなきゃ……」  と呟《つぶや》いて、寝《しん》室《しつ》の方へ戻《もど》って行った。  守屋は、手洗いへ寄《よ》ってから、寝室へ入って、布《ふ》団《とん》に潜《もぐ》り込《こ》んだが、  「——あなた」  と、眠《ねむ》っていると思っていた智子が、声をかけて来た。  「何だ?」  「昨日《きのう》ね、やっぱり救急車が来たのよ」  「何だって?」  守屋はびっくりして起き上った。  「ただのいたずらだと思って黙《だま》っていたけど。——昨日の昼間」  「うちへ? 何だっていうんだ?」  「通報があったんですって、あなたが発《ほつ》作《さ》を起こして倒《たお》れたって」  「そんな……。そうか、それでお前、昨日会社へ電話して来たんだな? 大《たい》した用でもないのに、妙《みよう》だなと思ったよ」  「ごめんなさい。でも、何だか不安で……」  「そりゃそうだ。しかし、ふざけた奴《やつ》だ、全く!」  「心当りはない?」  「ないよ。別に喧《けん》嘩《か》もしないし……。放っとく他はないだろうな」  「そうね」  と、智子は言った。「もう寝るわ」  「ああ」  少し間を置いて、守屋は、「和美には気をつけるように言っといた方がいいな」  と言った。  「それは確《たし》かに悪《あく》質《しつ》ですね」  と、並子は言った。  「いや、それだけじゃないのです」  「するとまだ続いたんですか?」  「それ以来、毎《まい》晩《ばん》です」  「それはひどいですね」  と、並子は座《すわ》り直した。  「熱《ねつ》湯《とう》をひっくり返してやけどをしたとか、ガラスの破《は》片《へん》で手を切ったとか、色々言っているらしいのです」  「一一九番の方でも——」  「ええ、訊《き》いてみたのですが、女の声で、ひどく取り乱《みだ》した様子でかかって来るらしいのです」  「女の声……」  「通報があれば、一《いち》応《おう》救急車を出さないわけにもいかないらしく、あちらも困っているようです」  「時間的には何時頃《ごろ》ですか」  「大体夜中の一時か二時ですね」  「それは大変ですね」  と、並子は同《どう》情《じよう》するように言った。  ただでさえ、静かな団《だん》地《ち》の庭には、救急車のサイレンは響《ひび》くのだ。同じ棟《むね》に住む人々には、さぞ迷《めい》惑《わく》だろう。  「近所の人にも気がねでしてね」  と、守屋はため息をついた。  「分りますわ。うちの子の夜《よ》泣《な》きでも、ずいぶん気をつかったものです。ましてや、サイレンとなると……」  「うちが、わざと呼《よ》んでるんじゃないかと言う人までいましてね。全く腹《はら》が立ちますよ」  並子は少し考え込んでから、  「女の声とおっしゃいましたね」  「ええ」  「心当りはありませんか。おたくへ、いやがらせをしそうな人……」  「あれば問い詰《つ》めてやるのですがね」  と守屋は言って、「どうも、漠《ばく》然《ぜん》とした話を持ち込んで申し訳《わけ》ありませんね」  「いいえ、そのための探《たん》偵《てい》ですもの。はっきり相手が分れば、警《けい》察《さつ》へ訴《うつた》えることもできますものね」  「しかし、調べようがないでしょう」  並子は、ちょっと天《てん》井《じよう》へ目を向けて、  「ないこともありません」  と言った。  「本当ですか? どうやって?」  と、守屋が身を乗り出す。  「それは残念ですが、お教えできません。企《き》業《ぎよう》上《じよう》の秘《ひ》密《みつ》です」  「ああ、これは失礼。——では、調べていただけるんですね?」  「お引き受けします。すぐに結《けつ》果《か》が出るとは思えませんが」  「いや、時間はかかっても、ぜひ見つけて、とっちめてやりたいんです。ぜひお願いしますよ」  と、守屋は言って、帰って行った。  ——やっと昼《ひる》寝《ね》した竜介が起きないように、並子は低い声で、政子に守屋の話をくり返してやった。  「へえ、それはずいぶんしつこいわね。でも、どうやって調べるの?」  と、政子が訊《き》く。  「調べようがないわよ」  と並子はあっさり言った。  「だって……引き受けたんでしょ?」  「そうよ」  「じゃ、どうするの?」  「情《じよう》報《ほう》収《しゆう》集《しゆう》」  「どこで?」  「守屋さんのことを調べるのよ」  「その当人を疑《うたが》ってるの? 狂《きよう》言《げん》じゃないか、とか?」  「分らないわ。でもね、あの人は、きっと何か他の目的があってここへ来たのよ。そう思うわ」  並子は立ち上って、「政子、得《とく》意《い》のおしゃべりで、守屋さんの評《ひよう》判《ばん》を聞いて来てちょうだい。頼《たの》むわよ」  「OK。任《まか》しといて」  色々と文《もん》句《く》は言いながら、政子も、探《たん》偵《てい》稼《か》業《ぎよう》が好《す》きなのである。早速玄《げん》関《かん》の方へと出て行くと、並子が追いかけて来た。  「ねえ、ちょっと待って」  「なあに?」  「ついでにゴミ捨《す》ててって」  探偵は人づかいが荒いのである。 2  「ともかく、評判はいいわね」  と政子は言った。  「ご主人も奥《おく》さんも?」  並子は、逃《に》げ回る竜介をつかまえては、口にご飯を入れながら言った。  「うん。——奥さんの方は、地《じ》味《み》な人みたいね。あんまり外へ出ないというか。でも、みんなに変人とか言われるほどじゃないらしいわ」  「例の救急車の件《けん》はどう? 知れ渡《わた》ってる?」  「みんな知ってたわよ。でも、それで迷《めい》惑《わく》だとか、そんな文《もん》句《く》言う人はいなかったなあ」  「ありがとう。ご苦労さん」  と並子はニッコリ笑《わら》った。「あなたも大《だい》分《ぶ》社交上《じよう》手《ず》になったわね」  「この商売のおかげよ」  と、政子は笑った。「本当に、毎日が充《じゆう》実《じつ》してるの。うちの亭《てい》主《しゆ》も、私がすごく浮《う》き浮《う》きして来たって言ってたわ」  「それなら当分無《む》給《きゆう》でいいわね」  と、並子は言った。  政《まさ》子《こ》は言《こと》葉《ば》がなかった。それから苦《く》笑《しよう》すると、  「あ、そうだ。一人だけ、ちょっと違《ちが》うこと言った人がいるわ」  「誰《だれ》?」  「名前は……ええと……」  政子はメモを取り出し、「寺《てら》野《の》英《えい》子《こ》、という奥《おく》さん」  「その人はどう言ったの?」  「中《ちゆう》華《か》料理の店でラーメン食べながら、二、三人の奥さんたちの話を聞いてたんだけど、そのときに隣《となり》のテーブルから声をかけて来てね——」  「守屋さんは自《じ》業《ごう》自《じ》得《とく》よ」  と、その主《しゆ》婦《ふ》は急に言った。  話をしていた主婦たちは顔を見合わせた。  「それは——どういう意味ですか?」  と政子は訊《き》いた。  「どうって、その通りの意味よ」  三十代の半《なか》ばか、割《わり》合《あい》に見すぼらしい恰《かつ》好《こう》をした、ちょっと陰《いん》気《き》くさい印象の女《じよ》性《せい》であった。  「じゃ、何か恨《うら》まれるようなことが?」  「あるのよ、きっと。大体、女ぐせの悪いタイプよ、あれは」  「ご存《ぞん》知《じ》なんですか?」  「ちょっとね。——私の親しかった奥さんが守屋さんにつきまとわれて困《こま》ってたことがあるもの。本当よ」  「そうですか。じゃ今度のも?」  「火遊びのつもりが、女の方が夢《む》中《ちゆう》になる。怖《こわ》くなって別れると、女の方は可愛《かわい》さ余《あま》って憎《にく》さ百倍の口よ。決ってるわ」  「その、知り合いの奥さんがもしかして——」  「あの人はとっくに越《こ》しちゃったわよ。今さらそんな真《ま》似《ね》もしないでしょ」  「だけど、毎《まい》晩《ばん》救急車を呼《よ》ぶなんて、怖いですね」  と他の主《しゆ》婦《ふ》の一人が言った。  「そうね、何か異《い》常《じよう》なものを感じるわ」  と他の面々が肯《うなず》く。  「女の恨みって怖いものよ」  隣《となり》のテーブルの主婦は、そう言って、席を立った。——そして店を出て行く。  「あの方は?」  と、政子は言った。  「寺野さんっていうの。すぐそこの棟《むね》に住んでるのよ。ちょっと変ってて、今度の救急車の件でも、年中文《もん》句《く》言ってるわ」  「そうですか」  と、政子は肯《うなず》く。  ——あの女性は調べてみよう、と思った。  「で、調べたのね?」  と探《たん》偵《てい》が訊《き》く。  「うん。名前は寺野英子。家も見付けて来たわ」  「上《じよう》出《で》来《き》」  と、並子は肯《うなず》いて、「他に聞き込みは?」  「寺野英子は子《こ》供《ども》がなくて、旦《だん》那《な》はひどく遅《おそ》いらしいの、帰りが」  「それは有望ね」  と並子は肯く。「ねえ、考えてごらんなさいよ、いつも一時か二時頃《ごろ》、救急車が来るってことは、かけてる人間も、いつも起きてるってことでしょう?」  「そうか」  「一人《ひとり》暮《ぐら》しか、それとも亭《てい》主《しゆ》の帰りが遅いか、どっちかしか考えられないものね」  「じゃ、やっぱり寺野英子が——」  「そう決めつけるのは早いわ」  「どうするの、次の手《しゆ》段《だん》は?」  「強《きよう》制《せい》捜《そう》査《さ》に持ち込む力はないからね、こちらには。ただその女と、あの守屋さんの間に何か関係があったかどうか、探る他はないと思うわ」  「監《かん》視《し》する?」  「誰《だれ》を?——寺野英子を? 夜中まで双《そう》眼《がん》鏡《きよう》で覗《のぞ》く気? こっちが取っ捕《つか》まるわよ。まあ見てなさいよ」  「ただ見てるの?」  政子はつまらなそうに言った。  「主《しゆ》婦《ふ》探《たん》偵《てい》の力には限《げん》界《かい》があるもの。その代り、辛《しん》抱《ぼう》強く待つことはできるわ」  と、並子は、一口食べてはどこかへ行ってしまう竜介を追い回しながら、「——少なくとも母親探偵の方はね」  と言った。  並子が、乳《う》母《ば》車《ぐるま》に竜介を乗せて、買物へ出ると、政子は一人留《る》守《す》番《ばん》。  時間を持て余《あま》している身である。——横になっている間に、ついウトウトとし始めた。  チャイムが鳴って、目を覚ます。  「はい……」  と玄《げん》関《かん》へ出てみると、落ち着いた感じの主婦が立っていた。  「あの……探《たん》偵《てい》さんの事《じ》務《む》所《しよ》というのはこちらでしょうか?」  「はあ。——今、当人出かけてますけど、どうぞ、お上り下さい」  まあ眠《ねむ》気《け》ざましにちょうどいいや、政子は、その主婦を居《い》間《ま》へ上げて、お茶を濃《こ》い目にいれて出した。どっちかというと、自分のためである。  「ええと……私は助手なんですけど」  と、政子は言って、「——無《む》給《きゆう》ですが」  と付け加えた。  「私、守屋と申します」  守屋? どこかで聞いた名ね、と政子は首をひねった。  「あ!」  と声を上げた。「じゃ、毎《まい》晩《ばん》救急車が駆《か》けつけて来るという——」  「どうしてそれをご存《ぞん》知《じ》ですの?」  と、その主婦は面《めん》食《く》らっている。  「智《とも》子《こ》さんですね」  「はい」  「ご主人が相談にみえたんです」  「主人が?——そうでしたか」  と智子は肯《うなず》いて、「こちらのことを話題にしておりましたので」  「そうですか。もう調《ちよう》査《さ》にかかっていますので、ご安心下さい」  と少々大きく出た。ま、PRも大事だからね。  「それで何か分りましたでしょうか?」  政子は、ちょっとためらったが、一《いち》応《おう》探《たん》偵《てい》の助手なんだからと、自分を励《はげ》まして、  「ええと……ご主人に恨《うら》みを抱《いだ》いているような人の心当りは?」  と訊《き》いてみた。  「それが何とも——」  「奥《おく》さんもですか」  「はあ」  「これは——たとえばの話ですが、ご主人が親しくしていた女性などは、いませんか」  智子は別に怒《おこ》った風でもなく、  「あの人、そんなにもてませんわ」  と笑《わら》った。  「ええと……寺野英子という人をご存《ぞん》知《じ》ですか?」  「寺野……。ええ、寺野さんなら。寺野さんがやっているとおっしゃるんですか?」  「いえ、 そうじゃありませんが、 あまりおたくのことを快く思われていないようでしたので」  「あの人が……」  智子は顔をこわばらせ、「それなら——でも、分らないこともないわ」  と、独《ひと》り言《ごと》のように呟《つぶや》く。  「あの、別にこれは具体的な証《しよう》拠《こ》があって言っているのではありませんから」  と、政子は、ちょっとあわてて言った。  「分っております。——あの、これで失礼しますわ」  と、智子は急に席を立った。「じゃ、よろしくお願いします」  あわただしく帰って行ってしまう。  「あの——奥《おく》さん——」  政子は呼《よ》び止めようとしたが、もう守屋智子の姿《すがた》はなかった。「参ったな……」  と、呟いた。せめて、並子が戻《もど》るまでいてくれりゃいいのに……。  三十分ほどして、並子がフウフウ息を切らしながら戻って来たが、政子は、何となく守屋智子のことを言い辛《づら》くなってしまった。  「さあ、夕ご飯の仕《し》度《たく》!」  と、並子が威《い》勢《せい》良く言って、政子も、つい言わずじまいになってしまったのだ。  次の日は上《じよう》天《てん》気《き》で、竜介を砂《すな》場《ば》で遊ばせながら、傍《そば》のベンチで二人が座《すわ》っていると、顔見知りの奥《おく》さんがやって来た。二人とも同《どう》年《ねん》輩《ぱい》の若《わか》い母親である。  「ゆうべ大変だったのよ」  と開口一番、気をそそるようにしゃべり出す。  「何かあったの?」  と、並子が訊《き》いた。  「あのね、ほら救急車騒《さわ》ぎ、知ってる? 毎《まい》晩《ばん》、守屋さんってとこへ救急車が来るの」  「ええ。それが——」  「ゆうべも来たの。そしたらね、守屋さんのご主人が頭へ来たらしくて、寺野さんのところへ怒《ど》鳴《な》り込《こ》んだのよ」  政子は青くなった。自分がしゃべってしまったせいではないか!  「それで?」  と並子が促《うなが》す。  「相手のご主人もちょうど帰って来たところでね、言いがかりはやめろ、って怒《おこ》って……。結局、大《おお》喧《げん》嘩《か》。周囲の人も止めようにも怖《こわ》くて手が出なかったって」  「で、どうなったの?」  「二人とも打ち身、捻《ねん》挫《ざ》なんかで病院行きよ。ちょうど来てた救急車で運んだんですって」  と、その奥さんは笑《わら》い出した。  政子としては、笑い事ではない。  「それだけじゃないの」  「まだあるの?」  「ついさっきね、スーパーの前で、守屋さんと寺野さんの奥《おく》さん同士がバッタリ!」  「まさかまた大《だい》乱《らん》闘《とう》?」  「似《に》たようなもんね。どっちかがどっちかにわざとぶつかったのよ。買物の袋《ふくろ》が落ちて、卵《たまご》が全部割《わ》れる、トマトは踏《ふ》みつける、それがズルッと滑《すべ》って引っくり返る……。もう黒《くろ》山《やま》の人だかり」  政子はため息をついた。——絶《ぜつ》望《ぼう》的な気分である。  「で結着はついたの?」  「何となく、ののしり合いながら別れたようよ。見物人はがっかりしてたけどね」  と、クスクス笑った。「見りゃ良かったのに」  「そうね」  と、並子は肩《かた》をすくめた。「残念だわ」  二人になると、並子は、  「変ね。どうして守屋さんが、寺野英子のことを知ったんだろ?」  と言った。  「あの……」  「やっぱり心当りがあったのよ」  と、並子は肯《うなず》く。「守屋さんに会って、もう一度話を聞く他はないわね」  政子は、知らないよ、と言うように、天を仰《あお》いだ。 3  名《めい》探《たん》偵《てい》も人間である。  ましてや、二歳《さい》の子供までいるとあっては時には不本意ながら探偵活動を中《ちゆう》断《だん》せざるを得《え》なくなることだって起こるのだ。  毎《まい》晩《ばん》、連《れん》絡《らく》もしないのに救急車がやって来るという事《じ》件《けん》も、西沢並子の二歳になる息子《むすこ》、竜介が風《か》邪《ぜ》をひいて熱を出してしまったので、調《ちよう》査《さ》は中断しなければならなくなったのである。  「こんにちは!」  木村政子は並子の家の玄《げん》関《かん》から上りながら、声をかけた。  「オネーチャン!」  と、かん高い声がして、竜介がドタドタと駆《か》け出して来る。  「竜介君! もう良くなったの? よかったねえ」  政子は竜介をヒョイとかかえ上げて、居《い》間《ま》へ入って行った。「——すっかり元気になってよかったじゃない、並子」  と見ると、名探偵はソファにぐったりと横になっていた。  「どうしたの?」  「どうもこうも……。竜介が治ったら、こっちが看《かん》病《びよう》疲《づか》れでダウンよ」  「しっかりしなさいよ、探偵さんが」  と政子が笑《わら》った。  「コーヒー淹《い》れてよ。それから竜介のグラタン、冷《れい》凍《とう》食品でいいから。それから晩《ばん》ご飯の仕《し》度《たく》と、お風《ふ》呂《ろ》の掃《そう》除《じ》と——」  「ちょっとちょっと。私にも一《いち》応《おう》亭《てい》主《しゆ》はいるのよ。忘《わす》れないで」  「いいじゃない。助手でしょ。それぐらいやんなさい」  人づかいの荒い探偵だ。——政子は、グラタンをオーブントースターへ放り込《こ》み、コーヒーメーカーでコーヒーを淹れながら、  「例の守屋さんとこの事《じ》件《けん》だけどさ、やっぱり犯《はん》人《にん》は寺野英子だったようよ」  「救急車の一件? どうして分ったの?」  「この間、守屋さんの奥《おく》さんと寺野英子がスーパーの前で喧《けん》嘩《か》したでしょ。あれから、救急車が来なくなったんですって。二、三日前に守屋さんが私にお礼言ってたわ」  「どうしてあなたに?」  「商店街《がい》の所で会ったのよ。たまたま」  「でも、こっちは何もしてないじゃないの。今回の事件に限《かぎ》っては、まるで役に立たなかったわね」  並子が、マガジンラックから雑《ざつ》誌《し》を引っ張《ぱ》り出している竜介を止めに飛んで行った。  政子の方は、ちょっと咳《せき》払《ばら》い。守屋の妻《つま》、智子に、寺野英子が怪《あや》しいと匂《にお》わせたのは他ならぬ政子である。並子には知られちゃならないんだ、絶《ぜつ》対《たい》に!  コーヒーを飲み終えると、探偵も大《だい》分《ぶ》元気を取り戻《もど》して、久しぶりに買物に行こうかと言い出した。出かける仕《し》度《たく》をしていると、玄《げん》関《かん》のチャイムが鳴った。  セールスマンか何かかもしれない、とインタホンで訊《き》くと、  「寺野と申します。ご相談したいことがありまして——」  と男の声。  政子と並子は顔を見合わせる。  「——あの寺野かしら?」  「さあね。ともかく入っていただきましょ」  と、並子は言った。  「じゃ、いたずら電話は、奥《おく》さんではないとおっしゃるんですね」  と、並子は訊《き》いた。  「絶《ぜつ》対《たい》です。それなのに——噂《うわさ》というやつは一《いつ》旦《たん》広がると止めることができません。おかげで、家《か》内《ない》はノイローゼ気《ぎ》味《み》だし、ご近所から妙《みよう》な目で見られて、その内、この団《だん》地《ち》に住んでいられなくなるかもしれません」  寺野は、エリートビジネスマン風の守屋とは対照的に、少々くたびれた万《まん》年《ねん》平《ひら》社《しや》員《いん》風《ふう》のサラリーマンだった。くたびれているのは、今度の事件のせいでもあるのかもしれない。  「奥さんは守屋さんのお宅《たく》と仲《なか》が悪いんですか?」  「英子は、確《たし》かに少々変り者です。人付き合いが悪いというのか……下《へ》手《た》なんですね。ともかく人と話をしていると笑《わら》われるんじゃないかとか、そんな恐《きよう》怖《ふ》感に捉《とら》われるらしくて、結局人を避《さ》けるようになるんです。でも本当は気の弱い、おとなしい女なんですよ。だから——」  「そんないたずらをするはずはない、と……」  「決して、ひいきして言ってるんじゃありません」  「すると何かはっきりした事実があるんですね?」  「私は仕事で、いつも帰りは遅《おそ》いんですが、その代り、日曜でなく、木曜日が休みなんです。だから、この前、やっぱり救急車騒《さわ》ぎがあった木曜日の晩《ばん》は、ずっと起きていたんです。英子は眠《ねむ》っていて、電話などかけませんでしたよ」  竜介が珍《めずら》しくおとなしく、奥《おく》の部《へ》屋《や》で遊んでいる。——政子は並子の顔を見た。  何といっても、第三者の証《しよう》言《げん》ではない。夫の証言では、あまり信用するわけにはいかないだろう。  「寺野さん」  少し考えてから、並子は言った。「あなたがそうやって、わざわざ起きていたのは、やはり奥さんを疑《うたが》っておいでだったからですね?」  寺野はちょっと詰《つ》まった。  「それは——」  と言ったきり黙《だま》り込《こ》んでしまった。  並子の方も、じっと押《お》し黙っている。両方で、根《こん》競《くら》べをやっているようなものだった。  「——分りました」  寺野はため息をついて、言った。「確《たし》かに私も、もしかしたら英子がやっているのかもしれないと思ったのです」  「理由を聞かせていただけませんか」  「実は……人のことを、あれこれ悪く言うのはいやなのですが、あの守屋さんという人はよく近くの奥さんたちにちょっかいを出すんです。まあ見かけはパリッとしたインテリ風ですし、名の知れた一流企《き》業《ぎよう》に勤《つと》めているし、ちょっと渋《しぶ》い、いい男ですからね。奥さんたちの気をひくんでしょう」  「するとお宅《たく》の奥さんも?」  「いや、親しい奥さんに相談されて、もうつきまとわないでくれと守屋さんへ話しに行ったことがあるのです」  「それで?」  「守屋さんは大《おお》笑《わら》いして、向うがこっちを追い回してるんですよ、と答えたそうなんです。——女《によう》房《ぼう》はカッとして、そうさせるのは、あなたにも責《せき》任《にん》があると言ってやったらしいんですが、そうしたら、守屋さんは、ガラッと人が変ったように怖《こわ》い顔になって、そんな話を他人へしたら、ただじゃおかない、とおどしつけたそうです」  「それで、守屋さんの所とは険《けん》悪《あく》に——」  「というより、まるで付き合わないようにしていましたね」  「しかし、それならむしろいやがらせをするのは守屋さんの方でしょうね。お宅の奥様はそんなことをする理由がありません」  「そうですとも!」  寺野は嬉《うれ》しそうに肯《うなず》いて、「——どうか、ぜひともいたずら電話の真《しん》犯《はん》人《にん》を見付けて下さい! そうでないと、英子は本当にノイローゼになってしまいます」  並子は少し考えていたが、  「分りました」  と肯いた。「やってみましょう」  「ありがたい! 何とかお願いします」  寺野は何度も頭を下げて、帰って行った。  「——どう思う?」  と並子は政子へ言った。  「ご主人としては、自分の妻《つま》がやったことだとは信じたくないでしょうね」  「それはもちろんね。でも……」  「何か考えがあるの?」  「気になってるのは、守屋さんが、なぜいたずら電話の主を、寺野さんの奥さんだと思ったか、なのよ」  政子はあわてて並子から目をそらした。  「そ、それがそんなに重要なことなの?」  「そうよ。そこが分れば、この事件も先が見えて来るんだけど……」  そう言われると、政子は、ますます、それを守屋智子に洩《も》らしたのが自分だとは、言いにくくなってしまった。  「こらっ!」  並子が叫《さけ》んだので、政子はギョッとして飛び上った。——が、並子は奥の部《へ》屋《や》へと飛び込んで行ったのだった。  「おとなしくしてると思ったら、もう……」  竜介が、並子の本に、サインペンで前《ぜん》衛《えい》絵《かい》画《が》を描《か》いているところだったのである。  「あてにならないんだから、もう……」  ブツブツ言いながら、政子は、夜中の二時過《す》ぎに、スーパーの前の郵《ゆう》便《びん》ポストへと急いでいた。  団《だん》地《ち》の中は夜中でも明るいから、そう心配はないのだが、それにしても、もちろん人っ子一人いない。あまり気持のいいものではなかった。  急ぎの手紙を、今朝《けさ》夫に頼《たの》んでおいたのだが、気軽に引き受けてくれた代りに気軽に忘《わす》れられてしまい、ともかく明日《あす》の朝一番の集配に間に合うように、こうして夜中に家を出て来たのである。  ポストへ手紙を放り込み、さて急いで帰ろう、と歩き出して、急に人《ひと》影《かげ》に気付いて、悲鳴を上げそうになった。  が、それは、やはりどこかの主《しゆ》婦《ふ》で、トコトコとサンダルの音をひびかせて、歩いて行く。——こんな時間にどこへ行くのかしら、と政子は思ったが、自分だってこうして出て来ているのだ。ヒョイと肩《かた》をすくめて歩き出し、  「あれは、もしかして……」  と振《ふ》り向く。  もう、その主婦の姿《すがた》は見えなかった。——遠くからだから、はっきりしないが、あれはひょっとして、寺野英子ではなかっただろうか?  気にはなったが、政子の方ももう夜中に散歩するという趣《しゆ》味《み》はない。また家の方へと歩き出した。だが、十歩と行かない内に、後ろから走って来る足音に気付いて、足を止めた。  「おい! 英子! 待てよ!」  あの声は——やっぱりそうだ。  「寺野さん。どうなさったんですか?」  「あ——こりゃ、あの探《たん》偵《てい》さんの所でお会いした方ですね」  寺野は息を切らして、「すみません。後ろ姿《すがた》で、つい女《によう》房《ぼう》と勘《かん》違《ちが》いして」  「奥さんがどうなさったんですか?」  「いや……家をフラッと出て行ったんです。このところまたぼんやりすることが多くて、気になってたんですが。——今、風《ふ》呂《ろ》から上ってみると、どこにも姿が見えないものですから」  「もしかして、ついそこで見かけたのが奥さんかもしれません。あっちへ歩いて行きましたけど」  「そうですか! いや、すみませんでした」  と、寺野は駆《か》け出して行く。  政子はちょっとためらったが、探偵助手という立場、そして、少々寺野への後ろめたい気持も手伝って、急いで寺野を追って走り出した。  「——いませんね」  寺野は、道が分れた所まで来て足を止めた。  「寺野さんはそっちを。私、この道を行ってみます」  「すみません、本当に」  いいえ、と政子は肯《うなず》くより早く、走り出していた。  それにしても……。まだ、そう遠くは行っていないはずである。  これだけ追いかけて姿も見えないなんて……。政子は足を止め、  「そうだ! もしかしたら——」  と呟《つぶや》いた。  その道から、階《かい》段《だん》で下がると、車の通れない遊歩道があり、小さな公園に通じている。あそこかもしれない。  政子は、少し道を戻《もど》って、階段を駆《か》け降りた。いつもなら、暗くなってからは通らない道だが、探偵助手となると度《ど》胸《きよう》も大《だい》分《ぶ》違《ちが》うらしい。  公園の入口まで来て、政子は肩《かた》で息をしながら立ち止った。——公園の中も、もちろん照明はあって、物《ぶつ》騒《そう》な印象はないのだが、人がいないだけに、却《かえ》って明るいと気味が悪いようだ。  「——寺野さん」  と、政子は呼《よ》んでみた。「寺野さんの奥《おく》さん! いませんか!」  公園の中へ入って、ぐるりと見回し、どうやら考え違いだったらしい、と息をついて……。  「キャッ!」  と声を上げた。  公園を囲む木の中の、一番大きな木の枝から、寺野英子がぶら下がって揺《ゆ》れていた。  「寺野さん!」  メリメリッと音がして、枝《えだ》が折れた。寺野英子の体がドサッと音を立てて落ちた。  いつもの砂《すな》場《ば》へ、並子が、竜介と、砂遊び用の道具を入れたバケツを手にやって来た。ベンチに座《すわ》っていた政子は、いつもと違《ちが》ってニコリともしない。  「おはよう」  並子の方はいつもの通り声をかけ、「ゆうべは大《おお》手《て》柄《がら》だったって? 聞いたわよ。寺野さんの奥《おく》さん、大《たい》したことなくて済《す》みそうじゃないの。助手のくせに探《たん》偵《てい》を出しぬくとはけしからんぞ」  と笑《え》顔《がお》で言った。  「うるさいわね!」  政子がヒステリックに怒《ど》鳴《な》ったので、並子は目を丸《まる》くした。  「どうしたのよ、政子?」  政子は深《ふか》々《ぶか》と息をついて、  「ごめん」  と言った。「正《しよう》直《じき》に言うわ」  「何を?」  「私のせいなのよ。私が、寺野さんの奥さんが怪《あや》しい、って守屋さんの奥さんにしゃべっちゃったの」  「——どういうこと?」  政子が、並子の留《る》守《す》中《ちゆう》に守屋智子が訪《たず》ねて来たことから話をすると、  「なるほどね」  と並子は肯《うなず》いた。  「だから、寺野英子さんがあんなことになったのは、私のせいなの」  「そう自分を責《せ》めちゃいけないわ」  と、並子は言った。「まあ、探《たん》偵《てい》助手として、少々軽《けい》率《そつ》ではあったけど、寺野英子をあそこまで追いつめたのは、本当にいたずら電話をかけた人間なのよ。そこを間《ま》違《ちが》えちゃいけないわ」  政子は、ちょっと間を置いて、  「それを聞いて救われたわ」  と微《ほほ》笑《え》んだ。  「でしょ? だから、今夜のおかず、少し回してよ、ね?」  名探偵も主《しゆ》婦《ふ》を兼《か》ねると、少々せこいことを言い出すのはやむを得《え》ないのである。 4  「今日は卵《たまご》が安かったのね」  と、守屋智子はスーパーの中を歩きながら呟《つぶや》いた。  全く正直なもので、その日の安売りの品は、大体午前中になくなってしまう。安いといったって、せいぜいいつもと三十円、四十円くらいしか違《ちが》わないのだが、それでも今夜は卵料理の並《なら》ぶ家が多いことだろう。  それで、ちょっと親しい奥《おく》さんとでも出会うと、コーヒー、一杯《ぱい》三百円也《なり》の出費は平気である。  それが主《しゆ》婦《ふ》の心理というものなのだ。  智子も、まだ卵はあったけれど、やはり買っておこうという誘《ゆう》惑《わく》に逆《さか》らえなかった。  「Mでいいわ」  と手に取る。「——あ、ごめんなさい」  振《ふ》り向こうとして、誰《だれ》かにぶつかりそうになった。  「いや、こっちこそ」  男の声だった。顔を見合わせて、二人は、  「あ——」  と短く声を上げた。  寺野だった。——智子も、もちろん寺野英子のことは知っている。入院していて、夫が会社を長期欠《けつ》勤《きん》して、看《かん》病《びよう》に当っているとも聞いていた。  奥《おく》様《さま》の具《ぐ》合《あい》はいかがですか? 早く良くなられるといいですね。  そう言いたかった。しかし、実《じつ》際《さい》には、何も言わずに、逃《に》げるように歩き出してしまっていた。  スーパーを出て、智子は、ここで寺野英子とやり合ったことを思い出した。  「もう終ったんだわ」  智子は歩き出した。——途《と》中《ちゆう》、小さな広場で、足を止め、ベンチに腰《こし》をおろした。  一《いつ》緒《しよ》に座《すわ》っているのは、ベビーカーに、二つぐらいの男の子を乗せた、若い主《しゆ》婦《ふ》だった。  男の子がぐっすり眠《ねむ》ってしまっているので、一休み、というところらしい。  智子は、その子の寝《ね》顔《がお》を見て微《ほほ》笑《え》んだ。子供は無《む》邪《じや》気《き》でいい。本当に……。  「守屋さんですね」  その若い母親が急に言い出したので、智子はびっくりした。  「はい」  「西沢並子といいます」  「西沢……。ああ、あの探《たん》偵《てい》をやっていらっしゃる——」  「いつかは留《る》守《す》をしていて失礼しました」  「いいえ。もう一人の方には、色々とお世話になって」  「私も一度ぜひお目にかかりたかったんですの」  「まあ、何かご用でしょうか?——あ、そうだわ。伺《うかが》っただけで、お礼もお払《はら》いしておりませんでしたわね。ついうっかりしていて——」  「いいえ、そんなことではありません」  と並子は遮《さえぎ》って、「本当のことを話し合いたかったんです」  「本当のこと?」  「いつも救急車を呼《よ》んでいたのが、奥《おく》さん、あなただった、ということです」  「——何をおっしゃるんです」  しばらくして、やっと智子は言った。  「大体、最初からおかしいと思っていたんです」  並子は、竜介の乗ったベビーカーをゆっくりと前後へ動かしながら言った。「——ご主人は、エリートで、一流企《き》業《ぎよう》に勤《つと》めるビジネスマンです。たとえ何か問題が起こったからといって、そう簡《かん》単《たん》に他人に頼《たよ》るはずがありません。よほど、手に負えなくなれば、警《けい》察《さつ》へでも行かれるかもしれない。でも、間《ま》違《ちが》っても私みたいな素人《しろうと》の主《しゆ》婦《ふ》探《たん》偵《てい》の所へおいでにはなりません。だから、初めから、ご主人が相談にみえたのは、他に何か理由があるのだ、と思っていました」  「他の理由?」  「ご主人が求めておられたのは、誰《だれ》か、その罪《つみ》を着せるのに適《てき》当《とう》な人間を、自分以外の人間の手で見付けさせることだったんです」  「——分りませんわ」  「いいですか。ご主人がもし本気で、いたずら電話の犯《はん》人《にん》を探させる気なら、警察へ行ったでしょう。そうしなかったのは、自分で見付けるつもりだったからか、でなければ、犯人を知っていたからです」  智子は何も言わなかった。並子は続けた。  「ところがご主人は私の所へみえた。つまり自分で見付けるつもりではなかったのです。ということは、すでに犯《はん》人《にん》を知っていたということになります。では、なぜその犯人をすぐにとっちめてやらなかったか? そうしなかったのは、つまりできなかったからです。自分の身《み》近《ぢか》の人間だったからと考えていいと思います」  「ではなぜ——」  「いいですか。ご主人としては、誰かのいたずらで迷《めい》惑《わく》しているということにせざるを得《え》なかった。近所へ迷惑をかけているのが、他《ほか》ならぬ自分の家族ということになれば、ここにいられなくなるかもしれないし、会社にも知れるかもしれない。それはエリートであるご主人としては絶《ぜつ》対《たい》に堪《た》えられないことでしょう」  「でも、だからってなぜあなたの所へ?」  「いいですか。ご主人が犯人を捜《さが》そうともしないのでは、周囲から、疑《ぎ》惑《わく》を招《まね》くばかりです。現に、お宅《たく》がわざと呼んでいるのじゃないかと言っている人もあったそうじゃありませんか。——ご主人としては、急いで〈犯人〉を見付ける必要があったのです」  並子は、竜介の頭を少し動かして直してやった。「——しかし、自分が勝《かつ》手《て》に誰《だれ》かを名指ししても、却《かえ》ってやぶへびになる心配もある。一番いいのは、他の人間に犯人を捜させることです。たとえ間《ま》違《ちが》っていたと分っても、それでご主人が責《せ》められることはない。——そこでご主人は私の所へみえたんです。たまたま私の助手が、寺野英子さんがお宅のことを悪く言っているのを聞いて来て、それをあなたへお話ししました。あなたはご主人に話し、ご主人は、正《まさ》に絶《ぜつ》好《こう》の身代りを見付けたわけです」  「じゃ、あの人は何もしていないとおっしゃるんですか」  「もちろんですよ」  と並子は肯《うなず》いた。「しつこくいやがらせの電話をかけるような人が、近所から白い目で見られるくらいで、自殺しようなどと考えるはずがありません。——そう思いませんか?」  智子は答えなかった。  「寺野さんは気の毒でした」  並子は立ち上った。「あの人の名を出したのは、私の責《せき》任《にん》です。本当なら、このまま総《すべ》て忘《わす》れてしまいたいのですけど、やはり寺野さんの汚《お》名《めい》はそそがなくてはなりません」  「待って下さい——」  「奥さんにはお分りのはずですわ。本当のことを、勇気を持って見つめて下さい」  並子は一礼して、「失礼します」  と、歩き出した。  ベビーカーの上では、竜介がやっと目を覚ましていた。  守屋は、目を開いた。——時《と》計《けい》を見る。そろそろ一時になろうとしていた。  このところ、一時になると目を覚ますくせがついていた。そっと隣《となり》の智子の方をうかがう。  いつもの通り、智子は、深い眠《ねむ》りに入っているようだった。——羨《うらやま》しい、と守屋は思った。  布《ふ》団《とん》から、そっと抜《ぬ》け出すと、廊《ろう》下《か》へ出る襖《ふすま》をごく細く開け、その前に座《すわ》り込んだ。  二時まで何もなければ大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》なのだが……。守屋は欠伸《あくび》をした。段《だん》々《だん》、この張《は》り番も辛《つら》くなって来ていた。しかし、まだ危《あぶ》ない。安心し切ることはできなかった。  早く時間がたたないか、と守屋は時計を何度も見ていた。  ——つい、ウトウトしたらしい。  守屋はハッと目を開いた。ジーッ、ジーッとダイヤルの回る音がする。  「もしもし、急病人なんです。すぐ救急車を——」  守屋は廊下へ飛び出して行くと、電話へ飛びつくようにして切った。  「馬《ば》鹿《か》! 今かけたらどうなるか分らんのか! 寺野の女《によう》房《ぼう》はまだ入院中なんだぞ!」  と、守屋は言った。  それから、娘《むすめ》の和美の手から受話器を取った。  「——もう寝《ね》るんだ」  「お父さん……」  「分らないのか。俺《おれ》の立場がどうなるか。会社だってクビになるかもしれんのだぞ!」  和美は黙《だま》って、自分の部《へ》屋《や》へ戻《もど》って行った。——また、ロックだか何かを、ヘッドホンで聞くのだろう。  「あなた」  と声がした。  智子が、立っていた。  「起きてたのか……」  「和美だったんですね、あの電話は」  守屋は深《ふか》々《ぶか》と息をついて、  「部《へ》屋《や》へ入って話そう」  と言った。  「あの子はなぜ……」  「分らん。——医者にも相談してみたが、たぶん、友達が少なすぎるんじゃないかと言われた。それに、何かコンプレックスがあって、人の注意をひきたい、何かやってみたいと……」  「知っていて、なぜ私に教えてくれなかったの!」  守屋は唇《くちびる》をなめた。  「黙《だま》っているんだ。このまま、あの寺野の女《によう》房《ぼう》がやったことにしておけば——」  「それで問題が解《かい》決《けつ》するんですか!」  智子は、夫を押《お》しのけるようにして、娘の部屋へと歩いて行った。ドアを開けると、机《つくえ》の前に座《すわ》って、両耳をヘッドホンで覆《おお》った娘の後ろ姿《すがた》が見えた。  「和美」  と、智子は呼んだ。「お話があるのよ。——和美」  その声は、まるで娘に届《とど》かないようだった……。  「——守《もり》屋《や》さんの娘さん、神《しん》経《けい》科に通ってるんですってよ」  と、政子が言った。  「そう。それが一番よ。——こら、早く食べろ!」  並《なみ》子《こ》は、逃《に》げ回る竜介に、汗《あせ》だくで昼食の肉まんを食べさせていた。  「入院しなくて済《す》んだんだから、大《たい》したことないんでしょ」  政子は、パクリと肉まんにかみついた。「ムグ……アチチ。——でも、並子、母親の方が犯《はん》人《にん》だと思ってたんでしょ?」  「違《ちが》うわよ。娘だろうって見《けん》当《とう》ついてたわ」  「どうして?」  「守屋さん自身が話してたじゃない。奥《おく》さんは一度寝《ね》ると朝まで起きないって。でも娘の方は夜中まで起きてる。——身《み》近《ぢか》に犯人がいるとなれば、娘の他いないわ」  「じゃ、なぜ母親にそう言わなかったの?」  「言えばどう出て来る? 娘をかばおうとするわ。だから、わざとああ言ったのよ。それであの人には通じるはずだと思ったの」  「なるほどね。——寺野さんの奥《おく》さん、どうなのかしら?」  「昨日《きのう》、ご主人がみえたわ。もうすぐ退《たい》院《いん》できるって」  「良かったわね!」  「お礼を言って帰ってったわ。ほら、そこのクッキーの缶《かん》、そのときの手みやげ」  「あ、これ? 私も助手として半分もらう権《けん》利《り》あるわね」  「今回はしくじったから、だめ」  「ケチ! 三分の一ぐらいいいじゃない。今日、お客が来るのよ」  「安くしとくわよ」  「あ、並子ったら、それでも友達なの? 大体私に給料一銭も払《はら》わないで——」  二人の話は、探偵と助手という立場から、すでに二人の主《しゆ》婦《ふ》へと移《うつ》りつつあった。 第三話 素人《しろうと》天文学者の事《じ》件《けん》 1  「星がきれいね」  と、木《き》村《むら》政《まさ》子《こ》は言った。「秋の夜らしくなって……。空気が澄《す》んでて、こんなに星が良く見えるってのは、こういう郊《こう》外《がい》の団《だん》地《ち》に住むメリットだものね」  「うちの亭《てい》主《しゆ》は、星の顔なんか見たくもないんじゃない? 近い方がいいって言ってるわ、いつも」  政子とは高校、大学時代からの親友同士である西《にし》沢《ざわ》並《なみ》子《こ》はそう言って笑《わら》った。「——あ、こら! 竜《りゆう》介《すけ》! 触《さわ》っちゃだめ!」  政子と同じ二十八歳《さい》の主《しゆ》婦《ふ》とはいえ、並子の方は二歳の竜介がいるので、星を眺《なが》めてロマンチックに感《かん》傷《しよう》に浸《ひた》っているわけにもいかない。  二人とも、その郊外の大団地に住み、近所同士、年中入りびたりで、亭主と一《いつ》緒《しよ》の時間よりもよほど長いという有《あり》様《さま》である。  一つには、並子が私《し》立《りつ》探《たん》偵《てい》事《じ》務《む》所《しよ》を自《じ》宅《たく》で開いていて——もちろん無《む》認《にん》可《か》であるが、あくまで金のためでなく、ともすれば錆《さ》びつきそうな頭に油をさすのが目的なのである——そのワトスン役を政子がつとめているというせいもあった。  「秋になると、事《じ》件《けん》も減《へ》るんじゃない?」と政子が言った。  「どうして?」  「だって、夏は暑さでイライラして、まともな人でもちっとはおかしくなるじゃない? でも、こんなにいい季節になれば、さ——」  並子は頭を振《ふ》って、  「それは違《ちが》うよワトスン君」  と言った。「そりゃ変《へん》質《しつ》者《しや》とか、その手の人間はそうかもしれないけど、私《わたし》の所へやって来るのは、ごく普《ふ》通《つう》の人たちよ。そういう人たちが追いつめられて、ささやかな罪《つみ》を犯《おか》すのは秋なのよ」  「どうして?」  「夏は行《こう》楽《らく》、旅行。子《こ》供《ども》は夏休みで、毎日家にいる。——普《ふ》段《だん》なら、前の日の残りもので昼をすませる母親も、子供が家にいると、ちゃんと作らなきゃならない」  「つまり、お金がかかる」  「その通り。——夏はお金が出て行く一方なのよ」  「そりゃそうね」  「そのツケは秋に回って来るわ。サラリーマンにとって、十二月のボーナスまでの間は、一番苦しい時期なのよ」  「なるほどね」  「それでいて、秋は行事が多いわ。運動会、遠足、ピアノの発表会……」  「それにも金が出ていくってわけね」  「そういう精《せい》神《しん》的なストレスが一番たまるのは秋なのよ」  と、並子は言った。  「服《ふく》装《そう》だって、夏みたいに簡《かん》単《たん》にはいかないものね。それこそピアノの発表会なんかだと、どれを着ていくか。他の奥《おく》さんたちとの衣《い》装《しよう》比《くら》べになっちゃう……」  「だから大変なのよ。——秋は気持いいけど、懐《ふところ》の方は北風が吹《ふ》き抜《ぬ》けるってわけね」  「うちなんか呑《のん》気《き》な方ね。でも、それならそれで、この探《たん》偵《てい》事《じ》務《む》所《しよ》は繁《はん》盛《じよう》するんじゃない?」  「さあね。そればっかりは、千《せん》客《きやく》万《ばん》来《らい》って喜ぶわけにはいかないし……」  と、並子が言ったとき、玄《げん》関《かん》のチャイムが鳴った。「——あら、主人かしら。こんなに早いなんて」  インタホンのボタンを押《お》すと、  「あの——ちょっとご相談が」  と、女《じよ》性《せい》の声がした。  「お客らしいじゃない?」  と、政子は言った。「精神的ストレスの口かしら」  入って来たのは、二十四、五の若い女《じよ》性《せい》だった。おずおずと、小《こ》林《ばやし》真《ま》佐《さ》子《こ》と名乗った。  「——で、ご相談というのは?」  並子が主《しゆ》婦《ふ》から探《たん》偵《てい》に頭を切り換《か》えて、言った。もっとも、母親の方は切り換えるわけにはいかず、時々竜介がドタドタと駆《か》け込《こ》んで来るのである。  「あの——実は主人のことなんです」  と、小林真佐子は言った。  「予《あらかじ》めお断《ことわ》りしておきますけど、浮《うわ》気《き》の調《ちよう》査《さ》とか、そういう仕事はやってませんから——」  「ええ、それは承知しております。そうじゃないんですの。いえ、そうじゃないと思うんですけど」  「どうぞ、はっきりおっしゃってみて下さい。秘《ひ》密《みつ》は守りますから」  「はあ……」  「あなた、まだ寝《ね》ないの?」  小林真佐子は、ベランダに出ている夫へ声をかけた。  「うん。今日《きよう》は空気がきれいなんだ。昨日《きのう》は雨だったからな。もう少し起きてるよ」  「そう。——でも、あんまり遅《おそ》くなると体に毒よ」  「分ってる。先に寝ててくれ」  夫の小林裕《ゆう》一《いち》は、ちょっと苛《いら》々《いら》した口《く》調《ちよう》で言った。  真佐子は、寝《しん》室《しつ》へ入って、ベッドに潜《もぐ》り込《こ》んだ。——もう十二時近くになるが、目が冴《さ》えて眠《ねむ》れなかった。  小林と結《けつ》婚《こん》して一年になる。——年《ねん》齢《れい》が五歳《さい》違《ちが》いで、三十を過《す》ぎた小林は、もう、多少髪《かみ》が薄《うす》くなりかけていた。  仕事はそう忙《いそが》しいわけでもない。毎日、大体七時半頃《ごろ》には帰って来るし、朝も七時半に家を出て、出《しゆつ》張《ちよう》もない。単調な日々ではあったが、それなりに真佐子は満足していた。  子《こ》供《ども》が欲《ほ》しいとも思ったが、まだ一、二年のんびりと二人きりの生活を楽しみたいという気もした。それからでも遅《おそ》くはない。  だから、新《しん》婚《こん》ホヤホヤにしては、夫があまり夜の生活に積極的でないのも、ある意味ではありがたかったのだ。妊《にん》娠《しん》の可《か》能《のう》性《せい》が少なくなるからである。しかし、それも程《てい》度《ど》問題であった。  このところ、二か月近く小林は真佐子の体に手を触《ふ》れない。真佐子は、淡《たん》泊《ぱく》な方だが、それでもちょっと苛《いら》立《だ》って来ている。  もう、あの憎《にく》らしい望遠鏡! ベッドの中で、真佐子は呟《つぶや》いた。  そろそろ四か月になろうか。——小林が、ある晩《ばん》、細長い、大きな箱を抱《かか》えて、フウフウいいながら帰って来た。  「何なの、それ?」  「天体望遠鏡だ」  と小林は言った。「金《かね》は俺《おれ》の口《こう》座《ざ》からおろしたんだ」  「それはいいけど……」  と、真佐子は当《とう》惑《わく》して、「でも、何をするの?」  「星を見るのさ、当り前じゃないか」と、小林は笑《わら》いながら言った。  真佐子は、夫にそんな趣《しゆ》味《み》があったと知ってびっくりした。大体、小林は、趣味というもののない男なのである。  だから、いつも休みの日など、買物について来たりする他は、家でゴロゴロしている。  少し、何か趣味でも持てばいいのに、と真佐子は思っていた。その意味では、夫が天体望遠鏡——安くはない——を買い込んで来たのを、責《せ》める気はなかった。  しかし、本当ならテニスとか、水泳とか、少し体にいい趣味であってほしかったのだ。でも、そこまでは干《かん》渉《しよう》すべきでない、と考え直したのである。  その夜から、小林は、ベランダに望遠鏡を出して、星を眺《なが》めるようになった。——毎晩それを続ける夫に、真佐子はちょっと呆《あき》れたものだ。  まあ珍《めずら》しい間のことだろう、と思っていたのである。  ところが、その熱は一《いつ》向《こう》にさめる気配を見せなかった。雨の日や、曇《くも》っている夜は別にして、星さえ出ていれば、少々風があっても、平気でベランダに何時間も出ている。  そして、先にベッドに入った真佐子が夜中に目を覚ますと、まだ夫がベランダにいて、びっくりしたこともあった。二時、三時という時間なのだ。  「ねえ、寝《ね》不《ぶ》足《そく》で体をこわすわよ」  と、何度も言ったのだが、小林は、笑《わら》って答えなかった。  そして——この二か月は、それがますますひどくなっていた。  真佐子はベッドの中で、眠《ねむ》れぬままに悶《もん》々《もん》としていた。——時《と》計《けい》を見ると、一時を過《す》ぎている。真佐子は起き上った。もういやだ。はっきりしてもらわなくては。  「望遠鏡とでも結《けつ》婚《こん》すりゃいいんだわ」  と呟《つぶや》きながら、真佐子は寝《しん》室《しつ》を出た。  居《い》間《ま》は真っ暗で、ベランダへ出るガラス戸が少し開いているのだろう、風がカーテンをゆっくりと動かしている。  真佐子は居間の明りを点《つ》けようとして、ふと気が変った。——一体どんな顔で夫が望遠鏡を覗《のぞ》いているのか、確《たし》かめてやろう、と思ったのだ。  大体、小林は、望遠鏡を覗《のぞ》いているときに真佐子がベランダへ出て来るのを、ひどくいやがる。真佐子も少しは夫の趣《しゆ》味《み》を理《り》解《かい》して対話できるようにしようと思ったのだが、小林は、彼《かの》女《じよ》が何か話しかけても、うるさそうに気のない返事をするだけで、早く行ってくれと言わんばかりの顔をするのだ。一度、こっそり覗いてやれ……。  真佐子は、カーテンをそっとからげて、ベランダを見た。  「——それで?」  と、並子は促《うなが》した。  小林真佐子の話は、そこで止ってしまったのである。たぶん、一番言いにくい所へ来たのだろう。  「それで……私、覗いてみたんです。そしたら、主人は熱心に望遠鏡を覗いていて……」  「それは予想してた通りなんでしょう?」  「ええ。でも……」  と、小林真佐子は、ためらいながら続けた。「望遠鏡は空を向いていなかったんです」  並子は、ちょっと間を置いて、  「——じゃ、どこを向いていたんですか?」  「分りません、正《せい》確《かく》には。でも、ほぼ水平になっていたんです。——私のいる棟《むね》は、前が広場になっているので、ずいぶん遠くの棟まで良く見えます。だから、どこを見ていたのかは分りません。でも、空でないことだけは確《たし》かなんです」  「ちょうど目を離《はな》すところだったとか?」  「いいえ、そのまま、私、一分くらいはじっと見ていたんですもの」  「その間、ずっとご主人は望遠鏡を?」  「はい、それは熱心に覗《のぞ》いていました」  「それで、どうしたんです?」  「その内に——どうしてか分らないんですけど、主人が私に気付いたんです。ハッとするのが分りました。そして振《ふ》り向くと、『何の用だ!』って怒《ど》鳴《な》りました」  「怒《おこ》ったんですか?」  「ええ」  「よくそうやって怒鳴るんですか」  「いいえ。あんな風に怒鳴るのを見たのは初めてです」  と、真佐子は言った。「——いつも、めったに怒らない人です。怒っても、黙《だま》ってふくれてしまうだけで、怒鳴ったりしたことはありません」  「その後はどうなりました?」  「すぐに普《ふ》段《だん》の顔に戻《もど》って、『今、寝《ね》ようと思ってたんだ』と言いました。そして、さっさと望遠鏡を片《かた》付《づ》けて中へ入ってしまいました」  「そのままベッドに?」  「ええ。寝《しん》室《しつ》に入って行くと、 もう眠《ねむ》っているようでしたが、 そのふりをしていただけです」  「どうして分ります?」  「私もずっと起きていたんです。もちろん眠ったふりをしてですけど」  「それで何かあったんですね」  「二時間ぐらいたったかしら。主人がむっくり起き上って、私の方をうかがっています。私、眠り込んだふりをしていました。——そうしたら主人が、そっとベッドから出て行って……」  「どうしたんです?」  「ベランダにある戸を開けて、また望遠鏡を持ち出す音がしました」  小林真佐子の声は、暗く沈《しず》み込《こ》んだ。  「で、奥《おく》さんは?」  「私はもう、起き出して行く元気もなくて、ベッドの中で泣《な》いてしまいました。——もう我《が》慢《まん》できない、何とかしなくちゃ、と思って……。近所の奥さんが、いつかこちらのことを話しておられたのを憶《おぼ》えていたので、こうしてやって来たんです」  「分りました」  と、並子は肯《うなず》いた。「ご主人はそのことについて、後で何かおっしゃいましたか?」  「いいえ。次の日も、何事もなかったように、ただ眠そうにして、出《しゆつ》勤《きん》して行きましたわ」  「それはいつのことです?」  「三日前です」  「その後も、毎《まい》晩《ばん》ベランダに?」  「あの後は天気が悪かったものですから」  「今夜はきれいな星空ですよ」  「ええ。それでこうしてやって来たんです」  「ご主人はもうお帰りですか」  「今夜は珍《めずら》しく、外で食事して来るとか……。でも九時頃《ごろ》には帰ると電話して来ました」  「雨や曇《くも》った日は、ご主人もあなたと同じ時間に寝《ね》るんでしょ?」  「それが……以前はそうだったんですけど」  「今は?」  「最近は、一人で何やら星の本を広げて見たりしているんです。こっちが寝つくのを待っているみたいですわ」  少し沈《ちん》黙《もく》があった。——小林真佐子が、身を乗り出して、言った。  「お願いです。主人が望遠鏡で一体何を見てるのか、調べて下さい」  並子は、しばらく考え込んでいた……。  小林真佐子が帰ってから、政子が言った。  「いいの、引き受けて?——ご主人、きっと他の家を覗《のぞ》いてるのよ」  「それは分ってるわ。たぶんあの奥《おく》さんだってね」  「それじゃ、まるでご亭《てい》主《しゆ》が変《へん》質《しつ》者《しや》だ、って宣《せん》言《げん》してあげるようなもんだわ」  「そうとも限《かぎ》らないわよ」  並子は、竜介が眠《ねむ》そうにしているのを見て、「あ、早くお風《ふ》呂《ろ》に入れちゃおう。政子、手伝って!」  「はいはい」  政子は、ため息をついた。探《たん》偵《てい》の助手は、こんなことまでしなくてはならないのか……。 2  「——ここにいつも望遠鏡を置くんですね」  と並子は訊《き》いた。  「ええ」  と、小林真佐子は肯《うなず》いて、「そこに三《さん》脚《きやく》の跡《あと》がついてますでしょう」  と指さした。  「ああ、これね。——かなり遠くまではっきり見える望遠鏡なんでしょうね」  「ええ。出してお見せできるといいんですけど、主人が触《さわ》られるのをいやがって、戸《と》棚《だな》にしまい込《こ》んで鍵《かぎ》をかけてしまうんです」  「大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》です。大体のところは分りますからね」  並子はベランダの手すりの方へ進んで、ずっと眺《なが》め回した。  もちろん、今は昼間なので、ずっと眺め渡《わた》せる。いい天気で、ちょっと暑いくらいだった。  並子は、手にしていた図面を広げた。  「この団《だん》地《ち》の地図なんですよ。——この棟《むね》はここ。ベランダの位置はこの辺ね」  と、ボールペンで印をつけた。  「何か分りそうですか」と、ちょっと不安げに、小林真佐子が言った。  「少し時間はかかると思いますけどね」  と並子は言った。「主《しゆ》婦《ふ》探《たん》偵《てい》の悲しさで、夜中に冒《ぼう》険《けん》に出るってわけにいかないんですよ。じりじりなさるでしょうけど、我《が》慢《まん》して下さい」  「それはもちろん……」  と、小林真佐子は、目を伏《ふ》せがちにして、「あの——お茶でもいかがですか」  「いえ、結《けつ》構《こう》です。何しろうちのチビを助手に任《まか》せて来ちゃったから、きっと助手がのびてるでしょう。もう失礼します」  と玄《げん》関《かん》の方へ行くと、小林真佐子がついて来て、  「あの……一つ、申し上げておきたいことが……」  と、ためらいがちに切り出した。  「何かしら?」  「主人が……他人《ひと》様の夫《ふう》婦《ふ》生活を覗《のぞ》き見ていると思われるかもしれませんけど……」  「そうは思っていません」  と、並子はきっぱり言った。  「そうですか」  「そりゃね、覗けるもんなら面《おも》白《しろ》いでしょうね。でも、寝《ね》るときにカーテンもしないで、明りも点《つ》けっ放しにする人なんていますか? 夏の暑い熱《ねつ》帯《たい》夜《や》ならともかく、秋の涼《すず》しい夜に、そんなこと考えられませんよ」  「よかったわ」  と、小林真佐子はホッとした様子で、「私、主人が何をしてるのか、見《けん》当《とう》もつきませんけど、でも、あの人がそんな覗きをやるような人じゃないってことは信じてるんです」  「信じてらして大丈夫だと思いますよ」  と、並子は微《ほほ》笑《え》んで見せた。「それじゃ、またご連《れん》絡《らく》します」  ——小林真佐子のいる棟《むね》を後にして、並子は、いつも竜介を遊ばせている公園へと急いだ。  「——ごめん、ごめん、遅《おそ》くなって」  と、並子が声をかけると、ベンチに座《すわ》った政子が、手を上げた。「竜介は?」  「そこの砂《すな》場《ば》。——いつものメンバーで遊んでるわ」  「じゃ、良かった。楽だったでしょ」  「何言ってんの」  と政子は並子をにらんで、「仲《なか》間《ま》が来たのは十分前。それまでは私が相手してたんだからね」  「いいじゃない。予《よ》行《こう》演《えん》習《しゆう》だと思えば」  「勝手言ってる。——で、どうだった?」  「うん。あのベランダから見える範《はん》囲《い》をざっと当るにしても大変ね」  「どこか特《とく》定《てい》の部《へ》屋《や》を覗いてると思うの?」  「でなきゃ、そんなに毎日、熱心にベランダへ出るとは思えないわよ」  「そうね。でも、並子の言うように、変《へん》質《しつ》的興《きよう》味《み》じゃないとしたら、一体何のために望遠鏡なんか——」  「そこよ。考えはあるんだけどね。——ともかく片《かた》平《ひら》さんに会ってみよう」  団《だん》地《ち》内の交番にいる若《わか》い巡《じゆん》査《さ》である。並子とは顔なじみだ。  「ちょうどお昼だし。政子、一《いつ》緒《しよ》にうどん屋さんにでも入って、お昼食べる?」  「おごり?」  「必要経《けい》費《ひ》」  と、並子は言った。  竜介にうどんを食べさせるのに悪《あく》戦《せん》苦《く》闘《とう》して、やっと何とか昼食を済《す》ませると、二人は交番へと歩いて行った。  「何だか忙《いそが》しそうよ」  と政子が言った。  なるほど、交番には、五、六人の主《しゆ》婦《ふ》が入り込《こ》んで何やらワイワイやっている。片平巡査が汗《あせ》をかきながら応《おう》対《たい》している様子が見えて、並子と政子は笑《わら》い出してしまった。  「あの奥《おく》さん連にやられたんじゃ、片平さんもたまんないわね」  と並子は言った。  「じゃ、いいわね! 必ず何とかしてちょうだいよ!」  主婦の代《だい》表《ひよう》格《かく》らしい一人が、ピシリと言って、「さ、みなさん、参りましょ」  と、他の主婦たちを引き連れて、交番を出て行く。  「——ご苦労様」  と、並子が顔を出すと、額《ひたい》の汗《あせ》をハンカチで拭《ぬぐ》っていた片平巡査は、  「やあ、西沢さん」  と、ホッとしたように言った。  「大変ね。何の騒《さわ》ぎ?」  「色々と苦《く》情《じよう》が多くてね」  と、片平は苦《にが》笑《わら》いした。  「あら、そのメモの名前——」  「え?」  並子は、片平が机《つくえ》の上に置いたノートに書かれた名前に目を止めた。——小林裕一、とある。  「片平さん、この人がどうかしたの?」  と、並子は訊《き》いた。  「は?——いや、それはちょっと、教えられません」  「私の依《い》頼《らい》人《にん》のご主人なの。私のこと、信用してよ」  「そうですねえ……。ま、奥《おく》さんならいいや」  と、片平は肯《うなず》いて、「実は、その人がね、毎《まい》晩《ばん》望遠鏡をベランダへ出して、人の家を覗《のぞ》いてるというんですよ」  並子と政子は顔を見合わせた。——竜介が何やら喚《わめ》き始めたので、並子は急いでアメを一つしゃぶらせてやった。  「それで、何とかしろってわけ?」  「ええ、しかし困《こま》りますね。証《しよう》拠《こ》があるわけじゃなし。——そちらはこの人をどうして知ってるんです?」  「だから、依頼人のご主人だって言ったでしょ」  「何の調《ちよう》査《さ》です?」  「依頼人の秘《ひ》密《みつ》」  片平は笑《わら》って、  「参ったなあ、西沢さんには」  「でもね、その人は覗きをやってんじゃないと思うわ。だって、その気なら、人目につかないように、家の中からやるわよ。堂々とベランダに出て、望遠鏡を覗いたりしないわ」  「なるほどね」  と片平は肯いて、「しかし、あの婦人たちにそれを言っても納《なつ》得《とく》しませんよ、きっと」  「でしょうね、あの勢いじゃ」  「ただ星を見てるだけだと言われたら、こっちとしても何とも言えませんものね。しかし、こうなると、話ぐらいしないわけにもいかないし……」  「ねえ、他にもそんな風に訴《うつた》えられた人、いなかった?」  「他にも?」  「そう。同じような苦《く》情《じよう》を持ち込《こ》んで来た人よ」  「さあ、今のところは別に」  「そう」  並子はちょっとがっかりした様子で、「じゃ、もし同じような苦情が舞《ま》い込んで来たら、教えてくれる?」  「それはちょっと——」  「お願い。私がその事《じ》件《けん》、解《かい》決《けつ》してあげるから」  片平巡査が、目を丸《まる》くして、並子を眺《なが》めた。  「——あの、何か?」  ドアを開けた真佐子は、目の前にズラリと見知らぬ主《しゆ》婦《ふ》たちが並《なら》んでいるのを見て、戸《と》惑《まど》った。  「ご主人は?」  と、一番年長らしい、人に意見するのを生きがいとしているような婦人が言った。  「主人は会社ですが……」  「奥《おく》さんね」  「はい」  「私たちは、ご主人のおかげで大いに迷《めい》惑《わく》してるの」  「主人の?」  「お宅《たく》のご主人、毎《まい》晩《ばん》、望遠鏡をベランダに持ち出してるでしょ」  「はあ……。天文学が好《す》きなものですから」  「何が天文学よ!」  と他の主婦が声を上げた。「人の家を覗《のぞ》いてるくせに!」  「あの——そんなことは決して——」  「あなたはご主人が星を眺《なが》めてると信じてるのかもしれないけどね、本当は、方々の家を覗いて楽しんでいるのよ」  「そうよ。変《へん》態《たい》だわ」  「危《あぶ》ないったらありゃしない。この辺に出る痴《ち》漢《かん》って、ご主人じゃないの?」  さすがに真佐子はカッとした。  「そんな言いがかりはやめて下さい!」  と叫《さけ》んだ。  「まあまあ」  と、年長の婦人が抑《おさ》えて、「そう疑《うたが》われたくなかったら、望遠鏡は引っ込めるのね」  と言うと、他の主婦たちを促《うなが》して、引き上げて行く。  近所の主婦たちが、好《こう》奇《き》の目をドアから覗《のぞ》かせていた。真佐子は、急いでドアを閉《し》め、鍵《かぎ》をかけると、目をつぶった。  「——あなた」  と、夕食が終ると、真佐子は言った。「あなた、聞いてるの?」  「——うん? 何だ?」  小林は、夕《ゆう》刊《かん》から顔を上げずに訊《き》き返した。  「望遠鏡を覗《のぞ》くのは、もうやめて」  しばらく小林は何も言わなかった。それから夕刊を下へ置くと、  「何だって?」  と妻の顔を見つめた。  「望遠鏡を——」  「聞いたよ。どうしてだ?」  「今日《きよう》ね、どこかの奥さんたちが五、六人でやって来たの」  真佐子が、説明すると、小林はムッとした様子で、  「無《ぶ》礼《れい》な連中だ! 人を何だと思ってる」  と、テーブルを叩《たた》いた。  「私に怒《ど》鳴《な》っても仕方ないでしょう。ともかく、そんな噂《うわさ》が広まったら大変よ。もうやめてちょうだい」  「冗《じよう》談《だん》じゃない。そんな馬《ば》鹿《か》な連中のためにどうして僕が星を見る楽しみを諦《あきら》めなきゃいけないんだ?」  小林は夕《ゆう》刊《かん》をまた取り上げた。  「あなた……続ける気なの?」  「当り前だ」  真佐子はしばらく言《こと》葉《ば》もなく、夫を見つめていた。  「——どうしたんだ?」  と、小林が妻《つま》を見て、「そんな連中の言うことなんか、誰《だれ》も気にしないよ」  「もし、本気にしたら?——私たち、ここにいられなくなるわ」  「聞き流しとけよ」  「あなたは会社へ行ってるからいいけど、私は家にいるのよ! みんなに変な目で見られながら、買物にだって行けなくなるわ」  「気にしなきゃいいんだ」  「そんな呑《のん》気《き》なことを——」  「何もやましいことはしてない。堂々と胸《むね》を張《は》ってりゃいい」  真佐子は手の震《ふる》えをじっと押《おさ》えつけた。  「ねえ……。しばらくやめるだけでもいいじゃないの。その内、みんなが忘《わす》れた頃《ころ》に、また始めれば」  「そんなにこそこそすると、却《かえ》って怪《あや》しまれるよ」  「お願い、今夜はやめてよ」  「今夜は絶《ぜつ》好《こう》の観《かん》測《そく》日《び》和《より》だぜ」  「せめて今夜だけでも——」  「もうその話はよせ」  と、小林は遮《さえぎ》った。  真佐子は、じっと唇《くちびる》をかんで、うつむいていた。——しばらく、そのまま、静《せい》寂《じやく》が続いた。  「あなた」  と、真佐子が言った。  「何だ?」  「望遠鏡で、何を見てるの?」  小林が、じっと真佐子の、涙《なみだ》をためた目を見返した。そして、席を立つと、奥《おく》へと歩いて行く。  戸《と》棚《だな》を開ける音がした。真佐子は、テーブルに顔を伏《ふ》せて泣《な》き出した。 3  「——ねえ、あの天文学者さんの事《じ》件《けん》、どうなったの?」  スーパーを出て、よく晴れた秋空の下、木村政子と西沢並子は連れ立ってぶらぶらと家の方へ戻《もど》るところだった。  二人の少し前をちょこちょこと覚《おぼ》束《つか》ない足取りながら、元気一《いつ》杯《ぱい》走っているのは、並子の二歳《さい》になる息子《むすこ》、竜介である。  質《しつ》問《もん》したのは政子の方だったが、並子はちょっと呆《あき》れたように政子を見て、  「知らないの?」  「知らない……って、何を?」  「あの奥さんが来て、もう調《ちよう》査《さ》していただくには及《およ》びませんって言ったじゃないの」  「そんな——」  政子の方が今度は唖《あ》然《ぜん》とした。「知らないわよ、私!」  「あなたいなかった、あのとき?」  「いれば憶《おぼ》えてるわ!」  「あ、そうか。あのときは竜介と二人だったんだ」  「私と竜介君をどうして間《ま》違《ちが》えるのよ!」  と政子はむくれた。  「探《たん》偵《てい》の助手が、そんなことで怒《おこ》ってどうするの」  「関係ないでしょ!——だけど、どうしてあの奥《おく》さん気が変ったのかしら?」  「私も気にはなってんだけどね」  と、並子は言って、「竜介! そこ段《だん》になってるのよ、気を付けて!——ほら、転んだ!——こら、泣《な》くな! 自分で立って! ほら、ちゃんと立つのよ!」  竜介がすぐに泣きやんで立ってまた歩き出すと、並子は母から探偵に戻《もど》った。なかなか忙《いそが》しいのだ。  「ご主人が例の望遠鏡いじりをやめたわけじゃないらしいのよ。あの後、片《かた》平《ひら》巡《じゆん》査《さ》に訊《き》いてみたけど、まだ近所から苦《く》情《じよう》が来るって言ってたもの」  「じゃ、どういうことなのかしらね?」  「さあ……。でもこっちとしては、依《い》頼《らい》人《にん》がもう解《かい》決《けつ》したと言ってるんだから、口を出すこともないしね」  「手数料はもらったの?」  と、政子が訊《き》いた。  しかし、並子は全然返事をしない。  「どうしたの? ねえ、並子、聞いてるの? 私《わたし》——」  「政子」  並子は政子の腕《うで》を押《おさ》えて、「あれ見て、ほら……」  「え?」  えらくにぎやかな主《しゆ》婦《ふ》四、五人が、立ち話をしている。その声が湧《わ》いて、話は弾《はず》んでいるようだが、中でも、甲《かん》高《だか》い笑《わら》い声の一人が目についた。  ずいぶん派《は》手《で》な格《かつ》好《こう》の主婦で、化《け》粧《しよう》もちょっとどぎつく、髪《かみ》の毛は赤く染《そ》めてあった。  「にぎやかね。あの髪を真《ま》っ赤《か》にしてる人、酔《よ》ってるんじゃない? 顔が赤いわ」  「そりゃ分ってるわよ」  と、並子は言った。「顔をよく見てご覧《らん》なさい」  言われて、まじまじ見つめていた政子だったが、やがて目を大きく見開いて、  「まさか! あの人——」  「そうよ。小林さんの奥《おく》さんよ」  今、話に出ていた当人ではないか。  「でも、——どうなっちゃったの? 別人みたいじゃないの!」  政子は首を振《ふ》った。  小林真佐子は、大体が地《じ》味《み》な、おとなしいタイプ、と思っていただけに、この変身ぶりには政子も仰《ぎよう》天《てん》したのだ。  「昼間からお酒、あの濃《こ》い化《け》粧《しよう》、……服もひどいじゃないの、けばけばしくて」  と政子は顔をしかめた。「あれじゃ何だか同《どう》情《じよう》したくなくなっちゃうわ」  「竜介! 戻《もど》っといで!」  先へ行きすぎた我《わ》が子を追って、名《めい》探《たん》偵《てい》は走り出していた。  「——何か理由があるのよ」  部《へ》屋《や》で、おやつを食べながら、並子は言った。竜介は、散《さん》々《ざん》ぐずって、やっと昼《ひる》寝《ね》をしているところである。  「理由って?」  「あの奥さんよ。アルコールに溺《おぼ》れて、段《だん》々《だん》派《は》手《で》になって」  「危《き》険《けん》信号ね」  「ご主人が相変らず天体望遠鏡を覗《のぞ》いてるから、当てつけなのかしら。でも、結局傷《きず》つくのは自分だけどね」  「やっぱり男が悪いのよ、総《すべ》て」  と政子は結《けつ》論《ろん》を出した。  玄《げん》関《かん》のチャイムが鳴った。  「誰《だれ》かしら? 政子出て」  「私、お手伝いさんじゃないのよ」  ブツブツ言いながら、つい言われる通りになってしまうのが政子の人の好《よ》さである。  玄関のドアを開けると、三十そこそこの男《だん》性《せい》が立っている。ジーンズにサンダルばきで、セールスマンとは思えなかった。  「あの——ちょっと調べていただきたいことがあって」  と、男はおずおずと言った……。  「——どうぞ、お楽に」  居《い》間《ま》に通して、並子が男と向い合って座《すわ》った。「——ご相談というのは?」  「実は……家《か》内《ない》の様子がこのところおかしいんです」  「どういう風《ふう》にですか?」  「昼間から酒を飲んでるらしいんです。——いや、僕は今日は特《とく》に休《きゆう》暇《か》なんですが、いつもは会社へ行ってますから、現場を見たことはないんです。でも帰ると、ウイスキーの量がずっと減《へ》っていたり、ビールの空びんが出ていたり……」  「それで害があるんですか?」  「いや、そこなんです。いくら訊《き》いても、飲んでないと言い張《は》るんですよ。でも、近所の人に訊いて、家内が小林さんのところへ行って一《いつ》緒《しよ》に飲んでると分ったんです」  「小林さん?」  と、並子は訊き返した。  政子がちょっと目をパチクリさせて、  「小林さんってあの……」  「失礼ですけど、お住いは?」  その男——名は井《い》口《ぐち》といった——は住所を言った。小林真佐子と同じ棟《むね》だ。  「——つまり、奥《おく》さんがお酒を飲んでいるかどうか確《たし》かめたいということですね」  「そうなんです」  と井口という男は、哀《あわ》れっぽい顔で言った。  並子はちょっと考えて、  「私のところでは、素《そ》行《こう》調《ちよう》査《さ》の類の仕事はできないんです。何しろ素人《しろうと》ですし、私は子持ちなので、尾《び》行《こう》や監《かん》視《し》といった仕事は無《む》理《り》でして。——でも、奥さんの件《けん》はたぶん近々解《かい》決《けつ》すると思いますよ」  と言った。  井口はちょっと面《めん》食《く》らった様子だったが、  「じゃ——ただ待っていればいいんですか?」  「奥さんを大事にしてあげるんですね」  と、並子は言った。「いつもお帰りは遅《おそ》いのでしょ?」  「付き合い酒が週に四日は——」  「半分にして、早く帰ってあげることですよ。時にはケーキでも買って帰るとか、外へ食事に出るとか。——後は成り行きに任《まか》せておけば大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》だと思います」  「はあ……」  井口は、ポカンとして聞いていたが、やがて狐《きつね》につままれたような顔で帰って行った。  「——いいの、あんなこと言って?」  と政子が言った。「放っといてひどくなったら、どうするのよ」  「まあ任せなさい」  並子はそう言って、竜介の様子をうかがうと、「まだ当分は大丈夫そうね。ちょっと出て来るから、後、頼《たの》むわ」  「——ちょっと! 並子!——いつも私は置いてきぼりなの!」  しかし、もう並子はエレベーターへと消えてしまっていた。  「ただいま」  小林は玄《げん》関《かん》を上って、言った。「——真佐子。いないのか?」  居《い》間《ま》へ入って、小林は顔をしかめた。アルコールの匂《にお》いがプンと鼻に来た。  「客でも来たのか……」  それにしても、主人の留《る》守《す》中に上り込《こ》んで酒を飲んで行くとは図《ずう》々《ずう》しい奴《やつ》だ、と小林は思った。  「おい、真佐子——」  ダイニングキッチンへ入って、小林は目を見《み》張《は》った。真佐子がテーブルに突《つ》っ伏《ぷ》して、目を閉《と》じている。グラスが転がって、ウイスキーがこぼれてもう乾《かわ》きかけていた。三分の二も空《から》になったボトルが一本、置かれている。  「ウーン」  と呻《うめ》いて、真佐子が目を開いた。  トロンとした目で小林を見て、  「あら……帰ってたの」  と、もつれた舌《した》で言った。  「おい! 酒を飲んでるのか?」  「そうよ……。知らなかったの?」  真佐子はニヤッと笑《わら》って、「すっかり強くなっちゃった。はは……」  小林は、ボトルを取り上げ、  「これ、一人で飲んだのか?」  「違《ちが》うわ。近所の奥さんと……。でも、一人になってからまた少し飲んだの」  小林は、椅《い》子《す》にペタンと腰《こし》をおろした。  「——いつからだ?」  「ええ? 何のこと?」  「酒を飲み出したことさ」  「ああ……。お酒なら十九の頃《ころ》から……」  と、真佐子は言って、「あーあ、グラス、こぼしちゃって……」  と、頭をかいた。  「ねえ、お腹《なか》空《す》いた?——何もしてないんだ。何か出《で》前《まえ》取ってよ。私《わたし》、何でもいいからさあ」  小林は、じっと目を見開いて、妻《つま》を見ていた。  「——何見てんの?」  「知らなかった」  と小林は独《ひと》り言《ごと》のように呟《つぶや》いた。「お前が酒を一人で……」  「いけない?」  真佐子は食ってかかるように、言った。  「いや、悪いとは言わないけど……」  「じゃいいじゃないの。別に人に迷《めい》惑《わく》かけてるわけじゃなし」  と、真佐子は立ち上ってフラついた。  「おい、大丈夫か?」  「平気、平気。——すぐさめるから」  と、真佐子は大《おお》欠伸《あくび》した。  「体を壊《こわ》すぞ」  「へえ、珍《めずら》しい!」  と、真佐子は大声で言った。「私のこと心配してくれるの。びっくりだわ。もうとっくに忘《わす》れられたと思ってた」  「おい、何を言ってるんだ」  「だって、そうでしょ」  と、真佐子はクスクス笑《わら》って、「もう何か月になると思う?」  「何が?」  「この前、私を抱《だ》いてからよ。——いいの。別にもう何とも思っちゃいないわ。あなたの恋《こい》人《びと》に比《くら》べりゃ、私なんて魅《み》力《りよく》ないものね。分ってんの」  「僕の恋人?」  「あなたの命より大事な、『望遠鏡子さん』よ!」  真佐子は声を上げて笑った。「どう? 最近はうまく行ってるの?」  「真佐子……」  「そろそろ子《こ》供《ども》でも生れるんじゃない? 目がレンズでできてて、三《さん》脚《きやく》のついた——」  「酔《よ》ってるんだな」  「そうよ!」  いきなり、真佐子は叫《さけ》んだ。  「大声を出しちゃ、近所に——」  「近所? やめてよ! あなたのおかげで、私がご近所からどんな目で見られてるか、分ってるの?」  真佐子は燃《も》えるような目で夫をじっと見つめた。  「そんなに……?」  「あなたも一度スーパーへ買物に行ってみるのね。でも、あなたは気が付かないかもしれないわ。何しろ周囲のことは気にしない人ですからね」  「気が付くって?」  「みんながどんな目で見てるか。——ヒソヒソ噂《うわさ》し合ってるか。一度、じっくり味わってらっしゃいよ」  小林は妻《つま》の目から目をそらした。  「——知らなかったよ」  「へえ、そうなの? 女《によう》房《ぼう》が酒を飲んだり、髪《かみ》を染《そ》めたり、派《は》手《で》な格《かつ》好《こう》をしてるのも、何も気付かない人だものね」  「それは——」  小林はちょっと詰《つま》った。「お前が好《す》きでやってるんだと思ってた……」  「もちろんよ!」  真佐子は、叫《さけ》ぶように言った。「あなたが好きなことやってるのに、どうして私が好きなことやっちゃいけないの! お酒飲もうが、遊び歩こうが、私の勝手でしょう!」  真佐子はウイスキーのボトルをつかむと、グラスへ一《いつ》杯《ぱい》に注いだ。  「もうやめろよ、おい!」  と小林が止める。  「放っといてよ!」  夫の手を振《ふ》り払《はら》って、真佐子は一気にグラスをあけた。そして、奥《おく》の部《へ》屋《や》へよろけるように入って行くと、畳《たたみ》の上に大の字になって倒《たお》れた。  小林は、椅《い》子《す》にかけたまま、じっと動かなかった。  そのまま、三十分近くたったろうか、小林は立ち上って、  「おい……。真佐子」と声をかけた。  覗《のぞ》いて見ると、真佐子は口を少し開いて、軽くいびきをかいていた。  小林は、押《おし》入《い》れを開けると、毛《もう》布《ふ》を出して、妻《つま》の上にかけてやった。  それから小林は服を着《き》替《か》えて、ガス台《だい》にやかんをのせて火を点《つ》けた。——真佐子の様子をうかがって、眠《ねむ》っているのを確《たし》かめると、小林は戸《と》棚《だな》の所へ行って、鍵《かぎ》をあけ、中から天体望遠鏡を取り出した。  ——真佐子は、ずっと起きていた。眠《ねむ》ったふりをしていただけなのだ。  夫がベランダの戸を開け、いつものように望遠鏡を出す音を耳にしながら、真佐子は声を殺して泣《な》いていた。  そして——十五分もたったろうか。真佐子は、やおら起き上った。台《だい》所《どころ》へ行くと、やかんが沸《わ》きっ放しになっている。  望遠鏡に夢《む》中《ちゆう》で、すっかり忘《わす》れているのだ。  真佐子はガスを止めると、ベランダの方へ、視《し》線《せん》を向けた。  包《ほう》丁《ちよう》差《さ》しから、肉切り用の光った包丁を一本抜《ぬ》いて、固く握《にぎ》りしめる。  真佐子の顔は、もう平《へい》静《せい》に戻《もど》っていた。涙《なみだ》も出なかった。  これでいいんだ。こうなる運命だったんだ……。  真佐子は、包丁をしっかりと構《かま》えながら、ベランダへと歩いて行った。——安《やす》物《もの》の包丁だけど、二人ぐらい刺《さ》せるだろう。  もちろん、夫と自分の二人だ。  真佐子はガラス戸越《ご》しに、望遠鏡を覗《のぞ》いている夫の背《せ》中《なか》を、じっと見つめた。左手を、ガラス戸にかけて、ゆっくりと戸を開けていく……。 4  「——誰《だれ》かしら」  並子は、玄《げん》関《かん》のチャイムの音に、呟《つぶや》きながら布《ふ》団《とん》から這《は》い出した。  時《と》計《けい》を見ると、七時半だ。夫を送り出して、九時頃《ごろ》まではもう一度寝《ね》ることにしているので、この時間には、政子も来ないはずであった。  パジャマ姿《すがた》で、欠伸《あくび》しながら玄関へ。  「どなたですか?」  と声をかける。——返事がない。  並子は、覗《のぞ》き窓《まど》から表を見た。——小林真佐子が放心したように立っているのが見えた。  ドアを開けて、  「奥《おく》さん。どうしたんですか?」  と言って、並子は、真佐子が手に肉切り包《ぼう》丁《ちよう》を握《にぎ》りしめているのを見てギョッとした。  まだ死ねない! せめて竜介が成人するまでは——。  「すみません」  と、真佐子は言った。  起きぬけの、というか、たぶん一《いつ》睡《すい》もしていない顔である。  「どうしたんです?」  「この——包丁、預《あず》かっておいて下さい」  と、真佐子は、肉切り包丁を、差し出した。  並子は恐《おそ》る恐る受け取った。  「それがあると……私……主人を刺《さ》してしまいそうで……」  そこまで言って、真佐子はワッと泣《な》き崩《くず》れた。  「——大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》?」  と、並子は訊《き》いた。  「はい。すみませんでした」  真佐子は、濃《こ》いお茶で、大《だい》分《ぶ》落ち着いたようだった。  「じゃ、ゆうべご主人を刺そうとして……」  「寸《すん》前《ぜん》で、お隣《となり》の人が回《かい》覧《らん》板《ばん》を持ってみえたんです。それで我《われ》に返って、恐《おそ》ろしくなって——」  真佐子は顔を伏《ふ》せた。  「そこまで、ね……」  と並子は肯《うなず》いた。  「ご心配かけてすみません」  「いいえ、そんなこといいんですけど」  「もう大丈夫です」  と真佐子はちょっと微《ほほ》笑《え》んで、「今夜、主人が帰ったら、離《り》婚《こん》の相談をしようと思います。その方があの人のためにもいいと——」  「ちょっと待って」  と、並子は遮《さえぎ》った。「それは早《はや》過《す》ぎると思うけど」  「でも、ここまで来たら……」  「あと一日、まったら?」  「一日、ですか?」  並子はちょっと考えて、  「今夜は旦《だん》那《な》が早いから、子供は頼《たの》めるし……。いいわ、特《とく》に、夜間出《しゆつ》勤《きん》することにしましょ」  と言った。  「でも、どうやって」  「ちょっとした打ち合わせが必要ね」  と、並子は言った。「待って、相《あい》棒《ぼう》を電話で叩《たた》き起こすから」  政子も、いつもなら十時頃《ごろ》まで眠《ねむ》っている。並子はそれを承知で、ダイヤルを回した。  小林は望遠鏡から目を離《はな》した。  玄《げん》関《かん》のチャイムが、せわしく鳴っている。——真佐子はどうしたのかな、と思った。  そうか。そう言えば、さっきどこかへ行くとか言って——。  チャイムは鳴り続け、続いて、ドアをドンドンと叩《たた》く音になった。  何事だ、一体?  小林はベランダから中へ入ると、玄関へ出て行った。ドアを開けると、エプロン姿《すがた》の若い女《じよ》性《せい》が息を切らしながら立っている。  「何ですか?」  「あの——小林さん——ですね」  「ええ」  「奥《おく》さんが——その——車にはねられて——」  と声は途《と》切《ぎ》れ途切れ。  「真佐子が!」  小林は青ざめた。「どこです? けがはどんな——?」  「ともかく、いらして下さい。その——スーパーの角《かど》の所です。行けばすぐに分りますから」  「どうも!」  小林は、サンダルばきで、突《つ》っ走って行ってしまった。  「ああ、やれやれ」  と、政子は息をついた。  「ご苦労さん」  並子が現れる。  「疲《つか》れた。息切らすために走って来たのよ。それに、嘘《うそ》つくのって疲れるのね。やっぱり根が正直にできてるんだわ」  「冗《じよう》談《だん》が上《う》手《ま》くなったわね。——さ、じゃ中へ入ろう」  「家《か》宅《たく》侵《しん》入《にゆう》よ」  「奥《おく》さんに許《きよ》可《か》得《え》てるんだもの、成立しないわよ」  並子は澄《す》まして入って行く。政子もあわてて続いた。  ベランダへ出ると、望遠鏡が、なるほど水平のまま固定してある。  並子は目を当てて、じっと見ていたが、  「なるほどね……」  と肯《うなず》いて、体を起こした。  「見せてよ」  と、政子もいざとなると興《きよう》味《み》津《しん》々《しん》、接《せつ》眼《がん》レンズに目を当てた。  見えるのは、人のいないテラスだった。ただ——テラスには、これと同じような望遠鏡があって、真っ直ぐにこっちを向いている。  「なあに、あれ?——望遠鏡でお見合やってたのかしら?」  「遠《えん》距《きよ》離《り》浮《うわ》気《き》とでも言うのかしらね」  と並子は肯《うなず》いた。「さ、それじゃ行きましょ」  「もう行くの? 見てれば向うも誰《だれ》か出て来るかも——」  「あの部《へ》屋《や》へ行きゃ会えるでしょ」  と、並子が言った。  「——ここよ」  並子は、表《ひよう》札《さつ》を見上げた。女《じよ》性《せい》の名前になっている。〈矢《や》代《しろ》冴《さえ》子《こ》〉とあった。  チャイムのボタンを押《お》したが、中で鳴っている音が普《ふ》通《つう》は聞こえるのに、ここはまるで聞こえなかった。  「鳴ってるのかしら?」  「さあね。でも、きっと出て来るわよ」  ドアが静かに開いて、女性が出て来た。——三十代半ばというところか。  美人でもあるが、それだけではなく、一種ハッとするほど物静かな、落ち着いた魅《み》力《りよく》を湛《たた》えている。  「失礼します」  と、並子はいやにはっきりした口《く》調《ちよう》で言った。「実は、あなたがベランダでお話になっているお友だちのことでうかがいました」  相手の女性は目をちょっと見開いてから、肯《うなず》いて見せた。  政子は中へ上りながら、  「ねえ、並子、もしかして——」と言いかけた。  「そうよ。分った?——さ、座《すわ》って」  居《い》間《ま》は、こざっぱりとして、快《かい》適《てき》だった。  矢代冴子は白いメモ用紙と、鉛《えん》筆《ぴつ》を手に、ソファにかけると、手早くメモを書いた。  〈私はしゃべれません。お話は口の動きで、分ります〉  と、走り書きでも、政子よりよほどきれいな字で書かれていた。  「お一人でお住いですか?」  と、並子は訊《き》いた。  矢代冴子が肯《うなず》く。  「寂《さび》しいでしょう。星を見るのが大《だい》好《す》きなんですね?——そして、ふと、あのベランダを見ると、同じように、こっちを見ている人がいた……」  矢代冴子が肯く。そして鉛筆を走らせた。  〈あの方は、手《しゆ》話《わ》を分って下さるのです。私はそれが分ったとき、嬉《うれ》しくて……。ここでも皆《みな》さん親切ですが、やはり心から語り合うのはとても難《むずか》しいのです〉  「分ります。そして毎《まい》晩《ばん》、あの人と会うのを楽しみにするようになった……」  〈私はあの人の口の動きを望遠鏡で読んで、あの人は私の手話を望遠鏡で見てくれます。あれこれと話すことは尽《つ》きなくて……〉  「相手の人に奥《おく》さんがいるのはご存《ぞん》知《じ》でしたか」  〈はい。つい最近知りました。それ以来、気になっています。奥さんはこのことをご存知なのかと思って〉  「実は——」  並子は、小林夫《ふ》妻《さい》の間が、危《あぶ》なくなっている事《じ》情《じよう》を説明した。  矢代冴子は青ざめ、動《どう》揺《よう》していた。  〈知りませんでした! どうしたらいいのでしょう?〉  「小林さんは、決して悪《わる》気《ぎ》があったわけではないんです」  と並子は言った。「ただ、あなたが毎日毎日の出会いを、あまり楽しみにしておられるので、やめることができなかった。いい人なのです。——ただ、奥さんにも何となく話しにくかったのだと思います。奥さんが、どう考えるか。分ってくれるかどうか、自信がなかったんでしょう」  〈ともかく、奥様にお詫《わ》びしたいと思います。それに、もう二度とベランダには出ないことをお約《やく》束《そく》します〉矢代冴子は顔を伏《ふ》せた。  政子は、玄《げん》関《かん》のドアの方から、何か音がしたような気がした。  「きっと誤《ご》解《かい》が解《と》ければ、またご夫《ふう》婦《ふ》はうまく行くと思いますよ」  と並子は言った。  矢代冴子は微《ほほ》笑《え》んで肯《うなず》いた。  しばらく話をしてから、並子は、これからよければ一《いつ》緒《しよ》に小林に会いに行こう、とすすめた。  相手も異《い》存《ぞん》はないようだった。  「小林さんも、話せば良かったのにね」  と政子は歩きながら言った。  「呑《のん》気《き》な人なのよ。奥さんが、そのことで苦しんでいるとは気が付かなかったのね」  「奥さんがアル中にまでなりかけたのに?」  「あれはお芝《しば》居《い》よ。髪《かみ》を染《そ》めたり、酔《よ》ったふりをして、ご主人の注意をひこうとしたのよ」  「お芝居?」  「あの奥さん、大学のとき演《えん》劇《げき》部にいたんですって」  「へえ! それじゃ、うちに相談に来た井口って人の方も——」  「そう。二人で相談してやってみることにしたんじゃない?」  「ご夫婦ともども、苦しんでたわけね、それぞれに」  「気の毒ね。でも、その立場になってみれば言い出し辛《づら》いでしょうね。分るわ」  と並子が珍《めずら》しくしみじみと呟《つぶや》く。  「並子、浮《うわ》気《き》したことあるの?」  「想《そう》像《ぞう》力の問題よ」  ——政子と並子、それに矢代冴子の三人は、小林家の玄関へやって来て、チャイムを鳴らした。  すぐにドアが開いて、真佐子が顔を出す。  「今《こん》晩《ばん》は」  「どうも……」  と真佐子は微《ほほ》笑《え》んで、「色々ありがとうございました」  「外でお聞きになった?」  「はい。——あの人が一《ひと》言《こと》言ってくれていれば……。ともかくお入り下さい」  真佐子は、出て来ると、廊《ろう》下《か》に立っていた矢代冴子の手を取った。  「初めまして。小林の家《か》内《ない》です。主人がいつも遠くから失礼して——」  と笑《え》顔《がお》で言った。「今度はいつでもお訪《たず》ね下さい。私も手《しゆ》話《わ》を覚えますわ」  矢代冴子の顔に朱《しゆ》がさした。本当に嬉《うれ》しそうだった。  「ご主人はまだ?」  と並子が訊《き》く。  「ええ。きっと迷《まい》子《ご》になってるんだわ。方向音《おん》痴《ち》だから」  そう言って真佐子は笑《わら》った。——何か月ぶりかの、明るい笑いだった。 第四話 寂《さび》しいクリスマスの事《じ》件《けん》 1  「——クリスマスも変ったわね」  冬の夕方、やっと四時半だというのに、ビルの谷間には黄昏《たそがれ》の色が漂《ただよ》い始めている。  「静かなもんね」  と、西《にし》沢《ざわ》並《なみ》子《こ》は肯《うなず》いた。  同じ団《だん》地《ち》に住む親友同士、今日は二人して、たまには家事の手を抜《ぬ》いて——いつも抜いているという声もある——都心へと遊びに出て来た。  「新《しん》宿《じゆく》の町も久《ひさ》しぶりだわ」  と、並子は言った。「竜《りゆう》介《すけ》、連れちゃ歩けないものね」  竜介というのは、並子の二歳《さい》になる長男である。今日は並子の実家の方へ預《あず》けて来ていた。  「そうね。私はたまに亭《てい》主《しゆ》と食事に出て来るけど」  と、まだ子《こ》供《ども》のいない木《き》村《むら》政《まさ》子《こ》が、のんびりと言った。  「今の内に遊んどくのね」  「あ、ジングル・ベル」  どこかの店先から、『ジングル・ベル』の曲が流れて来る。——昔《むかし》はクリスマス近くになると、町中がこの曲で溢《あふ》れ返ったものだが、最近はこのメロディで景気をつける、というのが、はやらないらしく、あまり耳にすることもなくなりつつあった。  「もはや〈なつメロ〉ってとこね。——デパートのオモチャ売場にでもいかないと、クリスマスって雰《ふん》囲《い》気《き》、味わえないものね」  「——並子、もう帰る?」  「どうしようかな。どうせ旦《だん》那《な》の帰りは遅《おそ》いし」  「二人で何か食べてっちゃう?」  「でも竜介がいるからね。——待って。電話してみるから」  二人は、近くのショッピングアーケードへ入ると、赤電話を捜《さが》した。——一角に、黄色い電話がズラリと並《なら》んでいる。  並子が実家へ電話をかけている間、政子は少し離《はな》れた靴《くつ》屋のショーウィンドを覗《のぞ》いていた。  「いいなあ、あれ。——でも、合うドレスがないもんね……。あ、あのおばさん、あんな高い靴はいて——。似《に》合《あ》いっこないわよ。よした方がいいと思うな……」  と、ブツブツ独《ひと》り言《ごと》。  そこへ、  「ひまかい?」  と男の声がした。  政子は、自分が声をかけられたのだとは思わず、高そうなブーツにため息をついていたが、  「あのブーツ、買ってあげようか」  と言われて、びっくりして振《ふ》り向いた。  一《いつ》見《けん》、何の変《へん》哲《てつ》もないサラリーマン。四十そこそこというところか。背《せ》広《びろ》にネクタイ、グレーのコート、というパッとしないいでたちだった。  「何かご用ですか?」  と政子は言った。  「どうだい? 時間を持て余《あま》してるんなら、いいお金になるアルバイトがあるんだけど」  「アルバイト?」  「君は女子大生?」  「まさか」  「いや、ちょっと髪《かみ》型《がた》をいじれば、女子大生で通用するよ。若《わか》々《わか》しいし、肌《はだ》もつやがある」  「どうもありがとう。でも——」  「どうかね、一日に二、三時間、金《かね》払《ばら》いのいいお客とホテルへ行くだけで、最低一万円は保《ほ》証《しよう》するよ」  「あの——」  「できる日、だけでいいんだ。一日に一万、向うが気に入れば、二、三万はチップを弾《はず》んでくれる。月に四、五十万の稼《かせ》ぎにはなるんだ」  どうやら、売《ばい》春《しゆん》——というと言《こと》葉《ば》が古いが、要するに男に抱《だ》かれる女の子を探しているらしい。政子は、怒《おこ》る前に呆《あき》れて、笑《わら》いたくなってしまった。  「あのね、私は結《けつ》婚《こん》してるんですけど」  と、政子が言うと、男はちょっとポカンとして、  「——あ、そう。いや、そりゃ失礼」  と頭をかいた。「しかし若いな。充《じゆう》分《ぶん》に学生で通るし、もしその気があるんだったら……」  「いいえ、遠《えん》慮《りよ》しますわ」  と政子が言っていると、電話を終えた並子が戻《もど》って来た。  「電話して来たわ。——あら、お知り合いの方?」  男の方は、相手が二人になったのを見て、  「どうも失礼しました」  と、あわてて頭を下げて、行ってしまった。  「何なの? セールスマンにも見えないけど……」  「逆よ。私にセールスをやらないかっていうの」  「政子がやったんじゃ、売れる物も売れなくなるわ」  「失礼ね!——ともかくどうするの、夕ご飯?」  「今、竜介、遊び疲《つか》れて眠《ねむ》っちゃったんですって。二時間は起きないわ。どこかで食べて行こうか」  「賛《さん》成《せい》! じゃ、ちょっと豪《ごう》華《か》に行きましょうよ」  「そうね。じゃ、ホテルにでも行く?」  「——結局ホテルか」  並子が不《ふ》思《し》議《ぎ》そうに政子の顔を見た。  二人は近くのホテルへ行って、華《はな》やかなロビーを見《み》渡《わた》せるレストランで食事をした。  「——そういう話か」  政子が、さっきの男のことを説明すると、並子は肯《うなず》いて、「団《だん》地《ち》の中にだって、ホストクラブの広告がばらまかれる時代だものね。でも良かったわね、政子、若《わか》く見られて」  「冗《じよう》談《だん》じゃないわよ」  と、政子は渋《しぶ》い顔をした。「それにしても結《けつ》婚《こん》してるんだって言ってやっても、後に引かないんだもの、たいしたもんね」  「今は主《しゆ》婦《ふ》も平気になって来てるし……。男がソープランドへ行くんだから、女がホストを相手にして何が悪い、ってわけね」  「まあ理《り》屈《くつ》ね」  「それにしたって、結局——」  と言いかけて、並子はふとロビーの方へ目を向けたまま、「ねえ、あの男じゃなかった?」  「え?」  政子は振《ふ》り向いた。——なるほど、さっき政子に声をかけて来た男が、誰《だれ》かと待ち合わせているのか、ロビーのソファに腰《こし》をかけて、しきりに腕《うで》時《ど》計《けい》を見ている。  「あの男だわ。まさか……ここを使うつもりなのかしら?」  「どうせなら、その手のホテルの方がいいでしょうにね」  見ていると、アメリカ人らしい、大《おお》柄《がら》な金《きん》髪《ぱつ》の外人がやって来て、その男はピョンと飛び上るように立ち上って固く握《あく》手《しゆ》した。そして、何やら英語でしゃべりながら、喫《きつ》茶《さ》室の方へ入って行く。  「——どうなってんの?」  と、政子は首をひねった。「外国人に女性を世話してるのかしら?」  「今のはビジネスの話よ。ちょっと聞こえて来た限《かぎ》りではね」  「へえ。じゃ、ビジネスマンなの?」  「分らないけど……。見た感じも、ごく普《ふ》通《つう》の、というより、少しいい身分のサラリーマンじゃない。きっと、その通りの人なのよ」  「それがどうして女の子に声をかけてるわけ?」  並子は肩《かた》をすくめて、  「私に分るわけないでしょ」  「へえ。名《めい》探《たん》偵《てい》にも分らないことがあるの」  政子は皮《ひ》肉《にく》った。——何しろ並子は団《だん》地《ち》で私《し》立《りつ》探《たん》偵《てい》のアルバイトをやっていて、政子を助手としてこき使っているのである。  「勝《かつ》手《て》な推《すい》測《そく》はしないのが名探偵ってものなのよ」  と、並子はやり返した。  二人が食事を終えてホテルを出るまで、あの男は喫茶室から出て来なかった。  その三日後。——土曜日の午後だった。  並子はベビーカーに竜介をのせて、政子と一《いつ》緒《しよ》に団《だん》地《ち》の中のスーパーマーケットへ買物に行った。風のない静かな日で、陽《ひ》ざしも暖《あたた》かかった。久しぶりに、二人はぶらぶらと歩《ほ》道《どう》を歩いて行った。  「——休みの人が多いわね」  と政子は言った。  「週休二日がふえてるからよ」  「我々は例外ってわけか。静かでいいけどもさ」  どちらも夫は出《しゆつ》勤《きん》で、また帰りは遅《おそ》いに決っているのである。  竜介が不《ふ》機《き》嫌《げん》そうに騒《さわ》ぎ始めたので、並子はビスケットをやって黙《だま》らせた。  「虫歯になるぞ」  と、おどしても竜介には通じない。「まあいいや。ゴシゴシ歯をみがいてやるから」  「もう一人、生まないの?」  「それより政子の所の一人目の方が先じゃないの」  「そりゃそうだけど……。ワトスン役がつわりで寝《ね》込《こ》んじゃ話にならないでしょ」  「別に構《かま》わないわよ。代りを見付けるから」  「へえ。——無《む》給《きゆう》、重労働の助手役なんかやる物《もの》好《ず》きがいるもんですか」  「いるんだな、それが」  「誰《だれ》?」  「生《せい》協《きよう》の関係で知ってる人でね、ちょっと年上なんだけど、いい人なのよ」  「年上の助手?」  「ご主人と二人きりなんで、当人も働きに出たいんですって。私の噂《うわさ》聞いて、手伝わせてくれないかって言ってたわ」  「あ、そう」  政子はフン、と鼻を鳴らして、「そりゃ私には色々ご不満もおありでしょうから、どうぞその方をお雇《やと》いになって下さいな」  「馬《ば》鹿《か》ね」  と、並子は笑《わら》って、「政子が妊《にん》娠《しん》しても、代りはいるから大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》、って言っただけじゃないの。あなたをクビにする気なんてないわよ」  「本当?」  と、ニコニコしているのだから、政子も人がいい。  スーパーの近くへ来ると、夫《ふう》婦《ふ》で買物というカップルが目につく。重い物の買いだめは、亭《てい》主《しゆ》のいるとき、というわけだろう、帰って来る夫婦の夫の方はほとんど例外なく、両手一《いつ》杯《ぱい》の荷物をかかえていた。  「——ほら、竜介! じっとしてないと落っこちるわよ」  「あら、西沢さん」  と、並子へ声をかけて来たのは、ふっくらして、いかにも呑《のん》気《き》そうな感じの主《しゆ》婦《ふ》だった。  「まあ、小《お》倉《ぐら》さん。お買物?」  「ええ、珍《めずら》しく主人がうちにいるもんだから、こんなときにでも、使ってやらなきゃ、と思って」  「今、あなたの噂《うわさ》をしてたの。——政子、今話した小《お》倉《ぐら》弥生《やよい》さんよ」  これが私《わたし》の椅《い》子《す》を狙《ねら》ってる女か——とはオーバーだが、政子はややぎこちない笑《え》顔《がお》で名乗った。  「ご主人、一《いつ》緒《しよ》じゃないの?」  と並子が訊《き》くと、  「一緒よ。あら、どこに行ったのかしら?」  と、小倉弥生は振《ふ》り向いた。「ああ、やっと来たわ。——主人に会うの、初めてだったっけ」  なるほど、あれでは遅《おく》れるわけだ。政子は笑《わら》い出しそうになった。  両手にドッカと買物袋《ぶくろ》をかかえて、顔が隠《かく》れてしまっているのだ。前が見えないんじゃ、なかなか進まないのも仕方ない。  「あなた。——あなた、大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》?」  「ん? 何だ?」  「ちょっと荷物をおろしてよ」  「もう着いたのか?」  「まさか。——ほら、落とさないでよ」  「やれやれ……」  ドサッと袋をおろして、ジャンパー姿《すがた》のその亭《てい》主《しゆ》が息をつく。  「あの——こちら西沢さんと……木村さん。うちの主人ですの」  「こりゃどうも」  と、小倉弥生の夫——当然、小倉という名である——は、頭を下げ、政子と並子も、そうしたのだが……。  あれ?——政子は、ちょっと考え込《こ》んだ。  どこかで見たことがある。この人……。  誰《だれ》だったろう?——確《たし》かに見《み》憶《おぼ》えがあるのだが。  後は簡《かん》単《たん》だった。並子が小倉弥生と、ちょっと言《こと》葉《ば》を交わして、そのまま別れる。  スーパーの方へ歩きながら、政子が言った。  「ねえ、今のご主人、どこかで会ったことがあるような気がするんだけど」  「何だ、気が付かなかったの?」  「え?——じゃ、並子、知ってる人?」  「この間の新《しん》宿《じゆく》で……」  「そうだ!」  政子は思わず振《ふ》り向いた。  あの男だ! 政子に、男とホテルへ行って一万円稼《かせ》がないかと持ちかけて来た……。  「呆《あき》れた!——並子、知ってたの?」  「知ってるわけないでしょ。今初めて小倉さんのご主人として会ったんだもの」  「すぐに分った?」  「観察力の差よ」  「びっくりしなかったの?」  「表《ひよう》情《じよう》を殺す訓《くん》練《れん》ぐらいできてなきゃ、探《たん》偵《てい》はつとまらないわ」  「差つけちゃって……。でもびっくりしたわねえ、本当に」  「あそこのご主人は、確《たし》か相当のエリートのはずよ。一流企《き》業《ぎよう》の課長さんで」  「見たとこ、いかにもそんな風だけど……。どうして、あんなことしてるのかしら?」  「さあ……」  「奥《おく》さんは——もちろん何も知らないんでしょうね」  「そりゃそうでしょ。そんなことで悩《なや》んでるって感じじゃないわよ」  「分ったらショックでしょうね」  「私たちは黙《だま》ってるにしても、こんな団《だん》地《ち》だもの、誰《だれ》に出くわすかもしれないわね」  並子はスーパーの前で、竜介をベビーカーからおろした。たちまち、解放された竜介がスーパーの中へ駆《か》けて行った。  「待ちなさい! 竜介!」  並子はあわてて走り出していた。 2  「何を見てるの?」  と、政子は言った。  「ちょっと、ね」  例によって、並子は返事にならない返事をして、窓《まど》辺《べ》から離《はな》れた。  「竜介君は?」  「まだ一時間は寝《ね》てるわよ。——ねえ、向いの棟《むね》の八階を見てごらんなさい」  「八階?」  政子は立って行って、窓《まど》から、外を見た。「——八階か。カーテンの閉《し》まってる部《へ》屋《や》?」  「そう。十分前までは開いてたのよ」  「出かけたんじゃないの」  「逆《ぎやく》よ」  「逆、って?」  「お客が来たの」  「お客なら、別にカーテン閉めなくたって……」  「見られたくないこともあるんでしょ」  「——まさか」  政子は、もう一度その窓を眺《なが》めて、「何か知ってるの?」  と訊《き》いた。  「この間会った、小倉さん、憶《おぼ》えてるでしょ?」  「例のご主人ね」  「そう。あの近所の人に少し当ってみたのよ、私」  「何か分ったの?」  「大《おお》方《かた》は、いい人だって評《ひよう》判《ばん》だったわ。確《たし》かにご主人の方、人当りもいいし、特《とく》に女《じよ》性《せい》には愛《あい》想《そ》がいい感じでしょう」  「それは分るわね」  「ところが、ちょっと耳にしたんだけど、特《とく》定《てい》の奥さんと、小倉さんのご主人が特に親しくしてるって噂《うわさ》があるの」  「へえ。割《わり》とやるじゃない。でも、同じ団地の中で?」  「三人ぐらいはいるらしいのよ」  「お盛《さか》んね」  「その一人が——」  と、並子は言《こと》葉《ば》を切って、窓《まど》を指さした。  「あの部《へ》屋《や》の?——それじゃ、今入って行ったのは、小倉さん?」  「違《ちが》うわ。この辺の人じゃないのよ」  「どういうこと?」  政子が顔をしかめた。そこへ玄《げん》関《かん》のチャイムが鳴って、政子が出て行った。  「——並子」と戻《もど》って来て、「小倉さんの奥《おく》さんが、お話があるって……」  「——ご主人が?」  と、並子は訊《き》き返した。  「ええ、もうびっくりして……」  と、小倉弥生は、半《なか》ば呆《ぼう》然《ぜん》とした様子で言った。  「詳《くわ》しく話してもらえる?」  「ええ」  と、肯《うなず》くと、「主人、このところずいぶん疲《つか》れてるみたいだったの。以前に比《くら》べると、疲れ方もひどいようで、何度か訊《き》いてみたんだけど……」  「ご主人は何と?」  「ただ、忙《いそが》しいんだ、って言うだけ。——こっちも、疲れているところへしつこく訊いても可《か》哀《わい》そうでしょ。だから、黙《だま》っていたの」  「ところが——」  「昨日《きのう》よ。同じ会社で、主人と同期の入社だった人の奥《おく》さんが遊びにみえたの。この近所に、知り合いがいるとかで、そこへ行った帰りだったのよ」  小倉弥生《やよい》は、ちょっと間を置いて続けた。「——少し話をしてから、私がお茶を淹《い》れ直して来ると、彼《かの》女《じよ》が言ったの……」  「ご主人も大変ねえ」  その口《く》調《ちよう》が、何だかいやに同《どう》情《じよう》するような響《ひび》きを帯びているのが、弥生には気になった。  「ええ、まあ……忙しいみたい」  「もうお若《わか》くないものね、大変だと思うわ」  「仕方ないわ。課長なんだもの、多少は忙しいのも」  と、弥生は曖《あい》昧《まい》に笑った。  「あなた……知らないの?」  と相手は、面《めん》食《く》らった様子で言った。  「何を?」  と弥生は訊《き》き返した。  「いえ——別に、何でもないわ」  相手が急に目をそらした。却《かえ》って気になる。  「ねえ、言って。主人のことで、何かあるの?」  「うん……」  と渋《しぶ》々《しぶ》肯《うなず》いて、「あなたのご主人、左《さ》遷《せん》されたのよ」  と言った。  「——左遷?」  「そう。何でも、ちょっとしたミスがあって、それの責《せき》任《にん》を取らされたとかで……。うちの人は怒《おこ》ってたわ。あんなことぐらいで、平《ひら》にするなんてひどい、って……」  弥生は顔から血の気がひくのを感じた。  「——平社員に! 主人が?——何も聞いてないわ、私」  「悪かったわね、こんなこと言って。きっとご主人、言いにくかったのよ」  弥生は、気が遠くなりそうになるのを、必死にこらえていた。——しっかりしなくては!  「それで——主人は今、何の仕事をしているの?」  「営業よ。外を回ってるって聞いたわ。この寒《さむ》空《ぞら》で、慣《な》れない仕事でしょう。辛《つら》いだろうな、と思って」  「営業……」  弥生にも、思い当ることがあった。以前はよく会社へ電話をして、帰りに外で待ち合わせて食事をしたものだ。子供がいないので、その点は比《ひ》較《かく》的自由だった。  しかし、このところ、夫は何度も、  「会社には電話するな」  と念を押《お》していた。  理由を訊《き》くと、  「私《し》用《よう》電話にうるさいんだ。やっぱり課長が率《そつ》先《せん》して実行しないとな」  と言っていた。  弥生も、それで、かけないようにしていたのだが……。しかし、いつまでも隠《かく》しておけるものでもあるまいに。  「ご主人のことだもの、営業でも立《りつ》派《ぱ》な成《せい》績《せき》を上げるわよ。すぐまたうちの主人なんか、追い抜《ぬ》かれちゃうわ」  と相手は慰《なぐさ》めてくれたが、弥生のショックが多少とも柔《やわ》らいだわけではなかった。  「でも……それなら、お給料も下がっているでしょうね」  と、弥生は言った。  「そうねえ。——でも、営業の方は、歩《ぶ》合《あい》とかがあるから、多少はいいんじゃない?」  しかし、弥生にはそうも思えなかった。  確《たし》かに夫は人当りのいい性《せい》格《かく》だが、強《ごう》引《いん》に何かを売り込《こ》むというタイプではないのである。  おそらく、それは最も苦《にが》手《て》とするところだろう。それに、降《こう》格《かく》されての仕事とあっては、張《は》り切ってやるというわけにもいくまい。  それでも、手《て》渡《わた》してくれる給料の額は、一《いつ》向《こう》に変っていなかった。——小倉の会社は、珍《めずら》しく現金で月給を渡しているから、弥生も夫から小《こ》遣《づか》いを差し引いた額を渡してもらって、それでやりくりしていたのだ。  二人きりの生活だから、かなり余《よ》裕《ゆう》はあった。それなりのぜいたくもしている。  夫の収《しゆう》入《にゆう》は、本当にそれほど減《へ》っていないのだろうか?  「——ねえ、こんなことお願いするの、変かもしれないけど」  と弥生は言った。「うちの主人がどの程《てい》度《ど》、仕事しているか、それとなくご主人に訊《き》いてみてくれない?」  「でも……」  と相手は渋《しぶ》っていたが、弥生が重ねて頼《たの》むと、承知してくれた。  そして——。  「さっき、その人から電話があったのよ」  と、小倉弥生は言った。  「何だって言って来たの?」  「その人のご主人の話では、ともかく主人の成《せい》績《せき》はひどいもんだそうよ。——やる気がないんだろうって。無《む》理《り》もない、って同《どう》情《じよう》はしてくれてたけど」  「それじゃ、収入もかなり減《へ》っているっていうわけね」  「そのはずよ。ともかく、会社じゃ、もう主人がいつやめるか、って噂《うわさ》してるそうだから」  「そこまで来てるの」  と、並子は肯《うなず》いた。  「ねえ、こんなこと——お願いしにくいんだけど」  「ご主人がどこから余《よ》分《ぶん》な収《しゆう》入《にゆう》を得《え》ているのかを調べてほしいってわけね?」  「そうなの」  並子が言ってくれてホッとしたという様子で、弥生は肯いた。  「簡《かん》単《たん》には行かないわね」  と、並子は言った。「私はそうそうこの団《だん》地《ち》から出られないし、ご主人が何か本業以外に仕事をしているとすれば、たぶん都心の方でやってるでしょうからね」  「そうね。——無《む》理《り》かしら?」  「大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》」  と、並子は微《ほほ》笑《え》んだ。「そのために助手がいるんだもの!」  政子が目を見開いた。  ——小倉弥生が帰って行ってから、政子は言った。  「本当にいいの? 売春のあっせんやってるなんて分ったら……」  「でも、引き受けないわけに行かないじゃないの」  と、並子は肩《かた》をすくめた。「断《ことわ》れば、彼《かの》女《じよ》が直《ちよく》接《せつ》ご主人を問い詰《つ》めることになるわ」  「そうか……。すると破《は》局《きよく》ってわけね」  「避《さ》けられないかもしれないけど、できるだけはやってみなきゃ。——ともかく、真相を探って、それから、その事実をあの奥さんにどう伝えるかが問題よ」  「私はどうすればいいの?」  「明日からでも早速、小倉さんの後を尾《つ》けてちょうだい」  「やっと探《たん》偵《てい》らしくなったわね!」  と、政子は嬉《うれ》しそうに言った。  「見付からないようにね」  「大丈夫よ。変《へん》装《そう》して行こうかしら。メガネか何かかけてさ」  「髪《かみ》を少しいじれば充《じゆう》分《ぶん》。変に変えれば、却《かえ》って目につくわ。女は髪型でがらっと変るからね」  「ねえ、交通費は?」  「後で払《はら》うから、立てかえといてよ」  「ちゃんとメモしとかなきゃ」  「水《みず》増《ま》ししないでよ」  「あ! ひどい! いつ私が——」  「しっ! ほら、見て」  と、並子は窓《まど》の所に立って言った。  例の、八階の部《へ》屋《や》から、サラリーマン風の男が一人、出て行くところだった。そして、窓《まど》のカーテンが開くと、別にどこといって変りのない、平《へい》凡《ぼん》な主《しゆ》婦《ふ》の顔が覗《のぞ》いた。  「あの男は……」  「どこかで紹《しよう》介《かい》されてやって来たんでしょうね。団《だん》地《ち》の名と、何号棟《とう》、何号室。——それだけを聞いてやって来る……」  「アルバイトもここまで来たのか」  と、政子はため息をついた。「じゃ、小倉さんが、紹介してるのかしら?」  「さあ……。そう思いたくはないけど、団地の中で、そういう副業に興《きよう》味《み》のありそうな奥《おく》さんを捜《さが》して話をつけているのかもしれないわ」  「けしからん奴《やつ》ね」  「何とか奥さんに、左《さ》遷《せん》されたことを隠《かく》そうとしてるんじゃないかな」  「それにしたって……他に何かありそうなもんじゃないの」  「副《ふく》業《ぎよう》なんて、手《て》間《ま》ばかりかかって、さっぱりお金にはならないわ。手っ取り早く、と思えば、ああいう方法に走っちゃうんじゃない?」  「ともかく、後を尾《つ》けてみるわ」  政子は大《おお》張《は》り切りである。  「でも、充《じゆう》分《ぶん》に用心してね」  と並子は言った。「まさか、とは思うけど、万《まん》一《いち》暴《ぼう》力《りよく》団《だん》なんかが絡《から》んでるとしたら大変なことになるから」  政子の表《ひよう》情《じよう》がこわばった。  「——本当に?」  「あり得《う》るわよ。あんまり物《ぶつ》騒《そう》な場所には行かないことね。見失っても仕方ないわ」  政子はしばし考え込《こ》んでいたが、  「——探《たん》偵《てい》って保《ほ》険《けん》ないのかな」  と言った。  「名探偵は孤《こ》独《どく》なもんなのよ」  並子は、もっともらしい顔で言った。 3  ——さて、どうしよう。  政子は、考え込《こ》んだ。  小倉が、売春のあっせんをしているという確《かく》証《しよう》をつかむべく、尾《び》行《こう》を始めて三日になる。少々、飽《あ》きて来たところであった。  政子としては、TVの一時間物ドラマか何かのように、五、六分も後を尾《つ》けると、相手がちゃんと怪《あや》しげな男と秘《ひ》密《みつ》の話をしているところへ出くわすのではないか、と期待していたのである。  ところが、これで三日、小倉は、若い女に声をかけるでもなく、ひっそりと金を受け取るでもなく、至《いた》って真《ま》面《じ》目《め》に、会社へ行き、外回りに出て、何軒《げん》かの家を当り、四時過《す》ぎに会社へ帰るという、まともな生活をくり返しているのだ。  「馬《ば》鹿《か》らしくなっちゃったわ」  と、グチを言うと、  「いい探《たん》偵《てい》の第一条《じよう》件《けん》は忍《にん》耐《たい》力《りよく》なのよ」  と、並子は、たしなめるのだった。「たった二日ぐらいでへばってどうするの?」  そのくせ、自分は二歳《さい》になる息子《むすこ》の竜介に、すぐかんしゃくを起こして、怒《ど》鳴《な》っているのだが。  そして——今日は三日目で、それも会社へ戻《もど》る途《と》中《ちゆう》だった。  小倉は、いつも、会社の近くにある、小さな、ごくありふれた喫《きつ》茶《さ》店《てん》に入って、コーヒーを飲む。ささやかな、解《かい》放《ほう》の時間、というところらしい。  当然、尾《び》行《こう》している立場の政子としては、同じ店に入って、小倉の方を、さり気《げ》なく見《み》張《は》っているのだが、もちろん、毎日、着る物も変え、昨日などは近所の奥《おく》さんからメガネまで借りてかけたりして、気付かれないように注意している。  しかし、こうして、小倉を眺《なが》めていると、とても彼《かの》女《じよ》のことに気付くはずがないように見えた。いや——周囲のことなど、およそ目に入っていないようなのである。  朝出るとき、小倉は、まあ元気そうである。もちろん年《ねん》齢《れい》的にも、そう若《わか》くはないから、ファイト満々というわけにもいかないが、ごく普《ふ》通《つう》の様子で外回りに出る。  しかし、帰りのときの小倉は、十歳もとしを取ったように見えた。——疲《つか》れ切って、ぐったりとしている。  今、喫茶店の奥《おく》まった席に座《すわ》っている小倉の姿《すがた》は、まるで、病人のようにしか見えなかった。  結局、こんな尾行はむだなんじゃないかしら、と政子は思った。  小倉はせっせと働いている。成《せい》績《せき》が悪いというのは、何かの間《ま》違《ちが》いで、頑《がん》張《ば》って、給料を減《へ》らさずに済《す》んでいるのではないだろうか?  政子は、少々後ろめたい思いすら、味わっていた。——これが探《たん》偵《てい》の辛《つら》いところかしら、などと考えながら。  ちょっと妙《みよう》だな、と思ったのは、いつもなら、二十分もすれば、やれやれとため息をついて席を立って会社へ戻《もど》る小倉が、今日は三十分過《す》ぎても一《いつ》向《こう》に動こうとしなかったからである。  それに、十五分を過ぎたころから、ちょくちょく店の入口の方へ目をやるようになっていた。  誰《だれ》かを待っているのだろうか?  政子も出るに出られず、もう一《いつ》杯《ぱい》何か注文しないとまずいかな。でも並子から、必要経《けい》費《ひ》が多すぎると文《もん》句《く》言われないかしら、などと考えていた……。  そのとき、女が一人、店に入って来た。何となくその女《じよ》性《せい》に目をひかれたのは、いやにそわそわして、落ち着かない様子だったからだ。  年《ねん》齢《れい》はまあ——三十七、八というところか。ごくありふれた人《ひと》妻《づま》という感じである。  その女性は店の中を見回した。そして——小倉と目が合うと、キッと唇《くちびる》を結んだ。  一大決心をしたという顔つきで、その女は小倉の方へ歩いて行った。  どうも、知り合いにしてはおかしい、と政子は思った。  知り合いなら、顔を見て、すぐにそれと分るだろう。しかし、彼女は、小倉の顔を、何だか探るように、まじまじと眺《なが》めてから、声をかけたのである。  声は低くて、政子には聞き取れなかった。だが、女の方は、小倉に心を許《ゆる》していないらしい。ピンと背《せ》筋《すじ》をのばしたまま、固い姿《し》勢《せい》を崩《くず》さないのだ。  二、三、言《こと》葉《ば》を交わした後、女の方が、ハンドバッグを開けて、何やら封《ふう》筒《とう》らしきものを取り出して、小倉の前に置いた。小倉はそれをすぐに上《うわ》衣《ぎ》の内ポケットに入れると、自分の方も封筒を出した。  女は、小倉の出した封筒を、引ったくるようにすると、中を覗《のぞ》き込《こ》んでいたが、すぐにハンドバッグへ押《お》し込《こ》んだ。そして、水を運んで行ったウエイトレスにもまるで気付かない様子で、立ち上ると、逃《に》げるように店を出て行ってしまった。  ウエイトレスが仏《ぶつ》頂《ちよう》面《づら》で肩《かた》をすくめる。小倉はゆっくりと水を飲んだ。  政子は、一《いつ》瞬《しゆん》、迷《まよ》った。  「——それ、恐《きよう》喝《かつ》じゃないの」  と、並子が言った。  「並子もそう思う?」  政子は、トンカツにかじりつきながら、言った。  「そのものズバリ、恐喝よ。間《ま》違《ちが》いないわ」  と並子は言って、「——ほら、これ食べなさい!」  と、竜介の口へ、柔《やわ》らかい肉を押《お》し込《こ》んでやる。  並子の家で夕食の最《さい》中《ちゆう》であった。  「そこまで行ってたのか……」  と、並子はため息をついた。  「ねえ。——私もショックだったわよ。とても救い難《がた》いわ。あれはもう私たちの手に負えないわ」  並子は肯《うなず》いた。  「そうねえ……。奥《おく》さんには気の毒だけど……」  電話が鳴った。並子が出て、二、三分話をして切ると、  「噂《うわさ》をすれば。——小《お》倉《ぐら》弥生《やよい》さんからよ」  と戻《もど》って来る。  「何ですって?」  「恐喝の理由が分ったわ」  「というと?」  「今日、ご主人、ボーナスが出たんですって」  「ボーナス?」  「去年の額《がく》より一割《わり》多いっていうの。でも、そんなことありえないじゃない。——恐喝して払《はら》わせたお金を足して、辻《つじ》つまを合わせたのよ」  「そうか……」  政子は肯《うなず》いた。「でも、何をタネにして脅《きよう》迫《はく》したのかしら?」  「そりゃ、主《しゆ》婦《ふ》に売春のあっせんしてるんだもの。機会はあったでしょ」  「でもさ、三日間尾《び》行《こう》したけど、怪《あや》しげなところへは、足を踏《ふ》み入れてないわよ」  「政子も単《たん》純《じゆん》ねえ」  「何がよ!」  と、キッとなって並子をにらむ。  「その三日間、小倉さんは何をしてたわけ?」  「そりゃもちろんセールスよ」  と言って、「——あ、そうか」  と、肯《うなず》いた。  「セールスに寄《よ》った先の家で、これは、と思う主婦に話を持ちかける。——とんだセールスマンだわ」  「どうするの、一体?」  と政子は首を振《ふ》った。  「密《みつ》告《こく》はいやだしね……」  と、並子は考え込んだ。「私だったら、その相手の主《しゆ》婦《ふ》を尾行して、自《じ》宅《たく》をつきとめていたんだけどな。惜《お》しかったわね。そんなチャンス、めったにないだろうし……」  政子は、メモ用紙を取り出して、  「はい、これ」  と、並子へ渡《わた》した。  「なあに? 請《せい》求《きゆう》書《しよ》?」  「失礼ね!——そのゆすられてた女性の家の住所よ」  並子は目をパチクリとさせ、  「政子! 尾行したの? やるじゃない!」  と、声を高くした。  「まあね」  と、政子がいい気持でニヤリとする。  「やっぱり私の教育が良かったんだわ」  と並子は言った。  並子は、玄《げん》関《かん》の前に立って、チャイムを鳴らした。  少しして、インタホンから、  「はい」  と、女性の声がする。  「奥《おく》さんですね? ちょっとお話がありまして」  と並子は言った。  「あの——何でしょう?」  「探《たん》偵《てい》社の者ですけど」  まあ、少々不《ふ》正《せい》確《かく》ではあったが、まるきりの嘘《うそ》でもない。——ドアが開いて、不安そうな顔が覗《のぞ》いた。  「ちょっとお邪《じや》魔《ま》してよろしいですか?」  並子の若《わか》さと、押《お》しつけがましくない言い方のせいか、相手はすんなりと中へ入れてくれた。  「——何のご用でしょう?」  居《い》間《ま》へ通された並子に、その主《しゆ》婦《ふ》は不安げな目を向けた。  「お名前は、工《く》藤《どう》明《あき》子《こ》さんですね」  「はあ……」  「この男の人に、最近、お金を払《はら》いましたね?」  と、団《だん》地《ち》で隠《かく》し撮《ど》りした小倉の写真を見せる。  工藤明子の顔から血の気がひいた。  「何の——お話か分りませんが——」  「心配なさらないで下さい。私は別に、お宅《たく》のご主人に頼《たの》まれて調べているんじゃないんです。ただ、あなたがこの男にいくらお払《はら》いになったのかと——」  「どうして私が、その人にお金を払わなきゃならないんです?」  と、相手は精《せい》一《いつ》杯《ぱい》の抵《てい》抗《こう》を試みた。  「この男が、あなたの浮《うわ》気《き》の証《しよう》拠《こ》を握《にぎ》っているからでしょう」  工藤明子は、弾《はじ》かれたように立ち上った。  「何てことを……。そんな……身に覚えのないことです!」  声は、震《ふる》えて、跡《と》切《ぎ》れがちだった。  「じゃ、どうして喫《きつ》茶《さ》店《てん》〈A〉で、この男とお会いになったんですか?」  工藤明子が目を見《み》張《は》った。  「あのとき、この男の人へ渡《わた》した封《ふう》筒《とう》の中味は、何だったんですか?」  と、並子がたたみかけると、相手は参ってしまった。  ソファに倒《たお》れるように座《すわ》り込《こ》むと、  「お願い、主人に言わないで……」  と、頭をかかえて呟《つぶや》くように言った。「お金なら何とかして……」  「誤《ご》解《かい》しないで下さい」  と、並子は言った。「私は、あのお金を取り戻《もど》してあげたいと思ってるんです」  工藤明子は、そろそろと顔を上げた。  「本当……ですか?」  と、声は弱々しい。  「ええ。信じて下さい。——浮《うわ》気《き》したのは事実なんですね」  工藤明子は、深《ふか》々《ぶか》とため息をつくと、  「はい……」  と肯《うなず》いた。「寂《さび》しかったんです、私……。主人はいつも遅《おそ》くて、少しも構《かま》ってもらえず——」  浮気した女性は、いつもこう言うものなのである。  「浮気の相手はこの男ですか?」  「いいえ!——その人に誘《さそ》われたんです。気晴しに、若《わか》い男とデートしてみませんか、って」  「デートだけ?」  「ええ。でも——私だって、それがどういう意味か、知らなかったとは言えませんわ。ともかく、誘われるままに、見知らぬ若い男性とホテルへ行ったんですから」  なかなか小倉の方も頭がいい、と並子は思った。ただ「デートしてみないか」と言っただけなら、売春をすすめているのではない、とも言い抜《ぬ》けられる。  「で、その時、写真でも撮《と》られたんですね」  「はい。ネガを買い戻《もど》したんです」  「いくら払《はら》いました?」  「——三十万円です」  それほど多《た》額《がく》ではない。平《へい》凡《ぼん》な主《しゆ》婦《ふ》でも、何とか都《つ》合《ごう》のつけられそうな金額である。  小倉も、ボーナスの穴《あな》埋《う》め分だけしかゆすり取る気はなかったのだろう。まだ何とか救う道はあるかもしれない……。  「その男の人をご存《ぞん》知《じ》なんですか?」  と工藤明子が訊《き》く。  「多少は」  「じゃ——本当にお金を——」  「全部は無《む》理《り》かもしれませんけど、何とかしてみましょう」  と、並子は立ち上って言った。  「遅《おそ》いなあ、並子……」  政子は、並子と待ち合わせた喫《きつ》茶《さ》店《てん》で、イライラと呟《つぶや》いていた。  一《いつ》緒《しよ》に行くと言ったのだが、並子は、  「一人の方が、向うもしゃべりやすくなるのよ」  と、主《しゆ》張《ちよう》して、さっさと行ってしまった。  「ずるいんだから、もう!」  と、政子はむくれている。「私があの家を調べてやったのに!」  すると——店の前を、小倉が通って行った。  一《いつ》瞬《しゆん》、目を疑《うたが》ったが、間《ま》違《ちが》いなかった。  そういえば、この前、小倉に声をかけられたのも、この近くだった。小倉が歩いていても不思議はないわけだが、  「よし……」  どうせ並子もこっちを待たせてるんだ。  政子は、店を出ると、小倉が少し先をゆっくりと歩いて行くのを目にとめ、急いで後を追った……。 4  何しろ人出の多い道である。  小倉を見失わないようにと思って、必死に人をかき分けて行く内に、政子は、自分がどの辺を歩いているのか、分らなくなってしまった。  「——どこへ行ったのかしら」  いやにごみごみした角を曲ってみると、小倉の姿《すがた》は消えていた。「変ね、確《たし》かに……」  と、歩いて行く。  古びた旅館が軒《のき》を連ねている、あまり健全とは言いにくい一帯らしい。もっとも昼間だから、まだいいが、これが夜中なら、ちょっと通り抜《ぬ》けるのにためらうだろう。  「このどれかに入ったのかしら?」  しかし、小倉が、自分で女と遊ぶわけではないと思っていたのだが。  ゆっくりと歩いている内に、旅館の一つの前で、足を止めた。——たった今、人が入って行ったとでもいうように、玄《げん》関《かん》の格《こう》子《し》戸《ど》が、半ば開いたままになっていたからであった。  政子は、小倉の声でもしないか、と、近《ちか》寄《よ》って、そっと耳を傾《かたむ》けた……。  突《とつ》然《ぜん》、わきから腕《うで》が出て来て、政子の体をぐいと抱《だ》きしめた。ギョッとして身をよじったが、  「静かにするんだ!」  と、小倉の声が耳元でして、身がすくんだ。  小倉は、政子を引きずるようにして、旅館の中へと連れ込《こ》むと、  「さあ上って」  と言った。  「いやよ! 何のつもりで——」  政子は、小倉を突《つ》き放そうとした。  小倉が平《ひら》手《て》で政子の頬《ほお》を打った。それほどの痛《いた》さではないが、頭が一《いつ》瞬《しゆん》クラッとして、よろける。小倉が政子を押《お》し倒《たお》すようにして、靴《くつ》をぬがせると、上に引っ張《ぱ》り上げ、廊《ろう》下《か》を奥《おく》へと連れて行った。  政子は、畳《たたみ》の上に投げ出された。六畳《じよう》間《ま》で、布《ふ》団《とん》が敷《し》いてある。——政子はゾッとした。  初めて、恐《きよう》怖《ふ》が足下から、這《は》い上って来る……。  「木村さんだったね」  と、小倉が言った。  「私のことを——」  「気が付かないと思ってたのか」  小倉は、フンと笑《わら》った。  「知ってたの?」  「このところ後を尾《つ》けて来てたろう。——あれで気が付かないほど、こっちもボケちゃいないよ」  政子はガックリ来た。  「あんたは友だちと探《たん》偵《てい》の真《ま》似《ね》事《ごと》をしてるそうだね。——馬《ば》鹿《か》なことはやめとくんだ」  「大きなお世話よ」  少し気の強くなった政子は言い返した。  それというのも、小倉の方も、青くなって、表《ひよう》情《じよう》をこわばらせているのに、気付いたからだった。小倉も、怖《こわ》がっているのだ。  「こんなことすれば、犯《はん》罪《ざい》よ!」  「分ってるとも」  小倉は、その場に、座《すわ》って、「さあ、一体どうして俺《おれ》をつけ回すんだ?」  と言った。  「それは——」  と言いかけて、政子は口をつぐんだ。  「どうした?」  「依《い》頼《らい》人《にん》の秘《ひ》密《みつ》は明かせないわ」  小倉は苦《く》笑《しよう》した。  「言うことは一《いち》人《にん》前《まえ》じゃないか」  「悪かったわね」  「何を調べてたんだ?」  「もう分ってるのよ」  「何が?」  「あなたが、売春のあっせんをして、稼《かせ》いでることよ」  小倉の顔が固くなった。  「——そうか」  「恐《きよう》喝《かつ》までやったこともね」  と、つい政子は言ってしまった。  「何だと?」  小倉の目が険《けわ》しくなった。  「——工藤明子って人をゆすったんでしょう!」  小倉は、ちょっと目をそらした。  「そうか……」  と、独《ひと》り言《ごと》のように、呟《つぶや》く。「そこまで……」  「いくら会社で左《さ》遷《せん》されたからって、そんなことまでやるんじゃ、とても同《どう》情《じよう》できないわね」  小倉はジロリと政子を見た。  「——俺《おれ》の気持が分るもんか!——あんたのような、三食昼《ひる》寝《ね》つきの気《き》楽《らく》の身で、何が分るって言うんだ!」  「そんなの、甘《あま》えってもんよ」  「何だと?——あんなに身を粉にして働いて、その挙《あげ》句《く》、社長の息子《むすこ》がやらかした失敗の責《せき》任《にん》をひっかぶって、降《こう》格《かく》だぞ。それでもおとなしくしてろってのか?」  「だからって、人をゆすっていいって言うの?」  「自分だって承知の上での浮《うわ》気《き》なんだ。何もこっちは強《きよう》制《せい》したわけじゃない。——女の方だって、喜んでやってたんだぞ」  「勝手な理《り》屈《くつ》だわ」  「そうか?——じゃ、会社のやったことは勝手じゃないのか?」  「話が違《ちが》うでしょう!」  小倉は、息をついて、  「どうでもいい。——ともかく、あんたを黙《だま》らせてやる」  と、政子をにらんだ。  目が、血走っている。  「何するのよ……」  政子はじりじりと後ずさった。  「騒《さわ》いだってだめだ。——逃《に》がしやしないぞ!」  小倉が近づいて来た。政子は、さらに後ずさる。  「そっちへ行って! 来ないで!」  「力ずくでも、言うことを聞かせてみせるからな」  政子は、さすがに体が震《ふる》えて来るのが分った。  小倉は、ここで政子を犯《おか》して、口をふさぐつもりなのだ。——黙《だま》っていないと、ここでのことを亭《てい》主《しゆ》にばらすぞ、というわけなのだろう。  今さら、そんなことをしてもむだなのに、それが分らないのだ。  「やめて……。訴《うつた》えてやるからね。泣《な》き寝《ね》入《い》りするとでも思ってるの?」  「やってみろ! できやしないさ」  小倉が、飛びかかって来た。政子は危《あや》うく逃《のが》れて、立ち上ると、逃《に》げ出そうとした。  小倉が政子の足をつかんだ。政子が前のめりに倒《たお》れる。  政子の上に小倉が覆《おお》いかぶさって来た。  「おとなしくしろ……」  二人は必死でもみ合った。政子も若《わか》いだけに力がある。  「こいつ!」  「この——獣《けだもの》!」  そのとき、ゴン、という鈍《にぶ》い音がして、小倉が一声呻《うめ》いて、ぐったりとした。  「——並子!」  と政子は叫《さけ》んだ。  「大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》? 良かったわ、間に合って!」  並子は大きな花びんを放り出した。  「ありがとう……。生きた心《ここ》地《ち》もしなかったわ!」  「スリルがあったでしょ」  「本当ね。でも——」  政子は息を弾《はず》ませながら、「もうスリルはいらないわ!」  と言った。  「——弥生《やよい》が。そうですか」  小倉が並子の話に肯《うなず》いた。  「だから、もう、事実を隠《かく》すことはないんですよ」  と並子は言った。  小倉は、殴《なぐ》られたあたりを、そっとなでながら、  「そうでしたか……」  と呟《つぶや》いた。  「工藤明子さんとも話して来ました」  と、並子は続けて、「あちらも、浮《うわ》気《き》に走ったのは、自分の責《せき》任《にん》もあるんだから、ということであなたを訴《うつた》えたりするつもりはないそうです」  「私が訴えたいわ」  と政子が口を挟《はさ》んだ。  「政子は黙《だま》って。——小倉さん。その代り、あのお金は返してあげて下さい。いいですね?」  「分りました。妻《つま》が知っていたんじゃ、何のために、こんなことをしているか分りません」  「だから、奥《おく》さんに、正直にお話しになることですわ」  「しかし、アルバイトのことは、どう言えば——」  「それはいいじゃありませんか、何とでも変えて言えば。奥さんは、きっと信じてくれますわ」  「そうですね……」  「他に、恐《きよう》喝《かつ》した人はいないんですね?」  「いません」  と、小倉は言った。「いやでたまらなかったんです。しかし——弥生に、苦しい思いをさせたくなくて……」  「あなたが捕《つか》まったら、もっと辛《つら》い思いをしますよ」  「そうですね」  小倉は、何度も肯《うなず》いた。それから、政子の方へ頭を下げ、  「申し訳《わけ》ありませんでした」  政子は、渋《しぶ》い顔で、  「どういたしまして」  「どうでしょう、小倉さん」  と並子が言った。「今日は早《そう》退《たい》して、一《いつ》緒《しよ》に奥《おく》さんの所へ行って話しませんか? 一対一じゃ話しにくいこともあるでしょう」  小倉は、照れたように、頭を叩《たた》いた。そして、顔をしかめた。  「ちょっと強く殴《なぐ》りすぎまして?」  と、並子は言った。  団《だん》地《ち》の棟《むね》の間を歩きながら、政子が言った。  「ねえ、並子」  「なあに?」  「さっき助けてくれたのは嬉《うれ》しいけどさ」  「お礼なら、いいわよ」  「そうじゃないわ。——どうしてあそこにいると分ったの?」  「あなたの後を尾《つ》けてたからよ」  「私の?」  「そう。ちょうど政子が喫《きつ》茶《さ》店《てん》から出て来るのが見えたから——」  「ちょっと——ちょっと待ってよ。それじゃ——もっと早く助けに来られたんじゃないの……」  「でも、まあ……色々あってね」  と並子は涼《すず》しい顔で言って、「少しはスリルを味わわせてあげようと、気をつかったのよ」  小倉が、先に立って、階《かい》段《だん》を上って行くと、部《へ》屋《や》のチャイムを鳴らした。  「——いないのかな」  小倉は鍵《かぎ》を開けて、中へ入った。「ちょっとお待ちになって下さい。——弥生《やよい》」  と奥《おく》へ入って行く。  何か、妙《みよう》な声がして、ドタン、という音が聞こえた。  並子と政子は、上り込んで、奥へ入って行った。そして、唖《あ》然《ぜん》として、立ちすくんだ。  弥生が、裸《はだか》の胸《むね》を毛《もう》布《ふ》で隠《かく》して、ベッドに起き上っている。そのわきで、若い男が、あわててズボンをはいていた。  小倉は、よろけてタンスにでもぶつかったのか、また頭をさすりながら、呻《うめ》いていた。いや——笑《わら》っていた。  泣《な》き声かと思うような笑い声が、小倉の喉《のど》から絞《しぼ》り出されて来た……。  スーパーマーケットの中に、『ジングル・ベル』のメロディがにぎやかに流れている。  「やり切れないわね」  と、政子が言った。  「物価のこと? それとも、小倉さんのこと?」  「両方よ」  と、政子は言って、タマネギの袋《ふくろ》をカゴへ入れた。「今夜はカレーだ」  「あんまり辛《から》くしないでね」  「いや。うんと辛くして、泣いてやるわ」  「政子も意外とナイーブなのね」  「意外と、はないでしょ!」  「考えてごらんなさいよ」  「何を?」  「あれで両方に弱《よわ》味《み》ができたわけよ。つまり、お互《たが》い、あんまり引け目を感じないで済《す》むじゃないの」  「まさか——」  政子は並子を見て、「あの奥さん、わざとあれをご主人に見せて——」  「さあね」  と、並子は肩《かた》をすくめた。「いい方に解《かい》釈《しやく》しましょうよ。クリスマスですもの!」  竜介が、「賛《さん》成《せい》!」とでも言うように両手を上げた。——並子と政子は一《いつ》緒《しよ》になって笑《わら》い出した。 第五話 優《やさ》しいセールスマンの事《じ》件《けん》 1  鍵《かぎ》をかけておかなかったのが、間《ま》違《ちが》いだった。  玄《げん》関《かん》に何か物音がして、宮《みや》本《もと》朋《とも》子《こ》が出て行ってみると、見たことのない男が、立っている。  「あの——何かご用でしょうか」  内心、鍵をかけるのを面《めん》倒《どう》がって——すぐ買物に出る予定だったのだ——放っておいたことを後《こう》悔《かい》していた。  「奥《おく》様《さま》でいらっしゃいますね」  二十七、八というところか。背《せ》広《びろ》にネクタイ、アタッシェケースという、典型的セールスマンスタイル。いかにも当りの柔《やわ》らかい、ソフトな顔立ちの男である。  「はあ」  「投《とう》資《し》のご案内に参ったのですが」  「投資……ですか?」  宮本朋子は、ちょっと笑《わら》って、「とても、我《わ》が家にそんな余《よ》裕《ゆう》はありませんわ」  「いえ、そんなに沢《たく》山《さん》の資《し》金《きん》は必要ございません。いちかばちかの勝負は、十中八、九、損《そん》をするようにできておりますから、一《いつ》般《ぱん》の方《かた》へはおすすめしません。少しずつの資金で、確《かく》実《じつ》にふやす、というのが私《わたくし》どもの方《ほう》針《しん》でございまして、奥様のお小《こ》遣《づか》いで充《じゆう》分《ぶん》でございますが」  朋《とも》子《こ》とて、お金の儲《もう》かる話に興《きよう》味《み》がないわけではない。しかし、無《む》謀《ぼう》なことをやるような性《せい》格《かく》ではなかった。  「あの、すみませんけど、ちょっと出かけますので——」  相手が食い下がって来るかと思ったのだが、  「そうですか。では今日《きよう》はこれで——」  と、案外あっさりと諦《あきら》めて、「また明日、この時間にでもお伺《うかが》いしてよろしいでしょうか?」  と訊《き》いた。  朋子は、どう返事したものか迷《まよ》ったが、  「いかがでしょう?」  と重ねて訊かれ、  「ええ……まあ……」  と、ためらいがちに言った。  「ありがとうございます。では明日……」  そのセールスマンが、すんなりと帰って行ったので、朋子はホッとした。実《じつ》際《さい》、普《ふ》通《つう》は何のかのと言って、なかなか帰ろうとしないものだ。  朋子は急いで仕《し》度《たく》をして、玄《げん》関《かん》を出た。  「——あ、いけない」  歩き出して、思い出した。明日は、子《こ》供《ども》の通っている小学校に行かなくてはならないのだ。  あの男が来る頃《ころ》は家にいないだろう。しかし、あんな話はあてにならない。たぶん、もう当分はやって来ないだろう、と朋子は思った。  「さあ、買物、買物」  朋子は、もうあのセールスマンのことなど、すっかり頭から消えて失《な》くなっていた。  その翌《よく》日《じつ》、朋子は小学校へ出かけた。母親たちの会合で、テーマは何やら「教育」のことらしかったが——当り前といえば当り前であるが——話の八割《わり》は雑《ざつ》談《だん》で、終った後も、忘《ぼう》年《ねん》会の二次会、三次会よろしく、気の合った同士が喫《きつ》茶《さ》店《てん》へ流れて話し込《こ》んだので、帰りはもう五時近く。  「晩《ばん》ご飯の仕度する時間なくなっちゃったから、何か出《で》前《まえ》を取って済《す》まそうかしら……」  と呟《つぶや》きながら、階《かい》段《だん》を上った。  朋子の家は、五階建の三階である。階段を上り、財《さい》布《ふ》に入れた鍵《かぎ》を出しかけて、  「あら」  と足を止めた。  「どうも昨日《きのう》は」  その男は頭を下げた。朋子は、今日、同じ時間に来ると言っていたことを思い出し、  「お待たせしたんですね、すみません」  実《じつ》際《さい》、もし昨日の時間に来ていたとすると、もう一時間以上も過《す》ぎているのだ。  「いえ、こちらはそれが仕事でございますから」  と、そのセールスマンは言った。「お話だけでも……」  「はあ」  こうなると断《ことわ》り辛《づら》い。「じゃ、どうぞ」  と、鍵を開け、男を中に入れた。  「——お上りになりません?」  朋子は男が玄関の上り口にアタッシェケースを置いて、そこに座《すわ》り込むのを見て、言った。「お茶ぐらい、さし上げますわ」  「いいえ、ここで結《けつ》構《こう》です」  と、男はにこやかな顔で言った。「奥《おく》様《さま》ご夕食の仕度はよろしいんですか?」  「え——ええ、これからしようと——」  「それじゃ、お手《て》間《ま》を取らせるわけにいきませんね」  男は、アタッシェケースを開けると、「では、パンフレットだけを置いて参りますので、お時間のあるときに、ご覧《らん》になって下さい」  「そうですか……」  「一週間しましたら、またお伺《うかが》いします。——ここに置きます」  男は立ち上ると、出て行きかけたが、ふと振《ふ》り向いて、「あ、それから、こういう件《けん》については、必ずご主人とご相談なさって下さい。こっそりへそくりで、などとおっしゃる方もありますが、後で夫《ふう》婦《ふ》喧《げん》嘩《か》の種になるようでは、心苦しいですから」  「分りました」  「では失礼いたします」  男は丁《てい》寧《ねい》に頭を下げて、出て行った。  ホッとしながらも、朋子は感心していた。あんなに良くできたセールスマンなんて、見たことないわ……。  愛《あい》想《そ》のいいのは当り前だが、しつこくなく、押《お》しつけがましくもない。しかも、すすめても上ろうともしない。——本当に珍《めずら》しいわ。  朋子はパンフレットを取り上げた。  いつもなら、中も見ないで捨《す》ててしまうのだが、今日ばかりは、そんな気にもなれなかった。朋子は居《い》間《ま》へ入ると、ソファに座《すわ》って、パンフレットをめくり始めた……。  ワンパターンね、本当に。  木《き》村《むら》政《まさ》子《こ》は、団《だん》地《ち》の中の公園をぶらぶらと歩いていた。——午前十一時。朝ともいえない時間だが、掃《そう》除《じ》や洗《せん》濯《たく》を片《かた》付《づ》けた主《しゆ》婦《ふ》たちが外へ出て来る時《じ》刻《こく》である。  政子は子供がないので、少し早い。まだ公園の砂《すな》場《ば》にも子供の姿《すがた》はなかった。  木のベンチに、主婦が一人、座《すわ》っている。顔は知っていたが、名前までは思い出せない。  「おはようございます」  と声をかけると、その主婦は、なぜかギクリとした様子で政子を見た。  何だか、ひどく深《しん》刻《こく》そうな顔で、立ち上ると、そのまま行ってしまった。  「——どうしたのかしら」  政子は、腰《こし》をおろしながら、呟《つぶや》いた。  「おはよう!」  と声がして、西《にし》沢《ざわ》並《なみ》子《こ》がやって来る。  学校時代からの親友同士だが、今は、並子が探《たん》偵《てい》、政子が助手、という「差別」がある。もっともこの探偵は二歳《さい》になる竜《りゆう》介《すけ》というハンディを持っていた。  その「ハンディ」が勢いよく砂場へ飛び込《こ》んで行く。  「竜介! 砂をはね飛ばさないで!」  と、並子は怒《ど》鳴《な》ってから、「今の人、知ってる?」  と訊《き》いた。  「え?」  「今、すれ違《ちが》った人よ」  「ああ、あの奥さん? 顔ぐらいはね」  「何だか、ずいぶん思い詰《つ》めたような顔してたわね」  「人には色々悩《なや》みがあるわよ」  と政子は、分ったようなことを言った。  「あ、しまった!」  「どうしたの?」  「写真が出来てるのに、引《ひき》換《かえ》券《けん》を忘《わす》れて来ちゃった。ねえ政子、持って来てくれない」  「私《わたし》が?」  「助手でしょ」  「私《し》用《よう》に使わないでよ。——まあいいわ。竜介君置いてかれても困《こま》っちゃうものね。じゃ鍵《かぎ》、ちょうだい」  「悪いわね」  「高いぞ!」  と笑《わら》いながら、政子は、並子のいる高《こう》層《そう》の棟《むね》の方へと歩き出した。  並子の所は七階である。エレベーターで上り、廊下へ出ると——目を疑《うたが》うような光景が待っていた。  廊《ろう》下《か》の高い手すりに、女が一人、よじ登ろうとしていた。手すりを乗り越《こ》えると、そこは高さ七階の空間で——つまりは、落下するしかないのである。  政子も、探《たん》偵《てい》助手として、多少は緊《きん》急《きゆう》事《じ》態《たい》に対《たい》応《おう》する心《こころ》構《がま》えができていたのだろう。  「待って!」  と叫《さけ》ぶと、その女の足へと飛びかかって、抱《だ》きしめ、そのまま廊下へ倒《たお》れ込《こ》んだ。  「死なせて……死なせて……」  と言いながら、その女は泣《な》き伏《ふ》した。  政子は、それが、さっき公園にいた奥《おく》さんだと気付いたが、同時に、まるで自分が飛び降りようとでもしていたように、目が回って、足がガタガタ震《ふる》え始めていた。  ——その主《しゆ》婦《ふ》は、並子の所の居《い》間《ま》に入って、やっと落ち着いた様子だった。  並子も、政子が戻《もど》って来ないので、どうしたのかと上って来ていた。政子がお茶を出すと、  「どうもすみません」  と、その主婦は顔を伏せた。  「一体何があったんですの? もしよろしければ、ご相談に乗りますよ」  と並子は言った。「私ども、探偵の真《ま》似《ね》事《ごと》のようなことをやっているんです。お手伝いできるかどうか分りませんけど、話してみていただけません?」  「ええ……」  とその主婦は肯《うなず》いて、「お話するといっても……私がいけないんですから、どうにもなりませんけど、でも聞いていただけますか」  「ええ、もちろん」  と、並子は言って、「——竜介! あっちでテレビ見てなさい!」  と怒《ど》鳴《な》った。  「——私、宮本朋《とも》子《こ》といいます。実は——主人に何もかも分ってしまって」  「何もかも? つまり——浮《うわ》気《き》したとか、そういうことですか?」  「それもあります」  「というと、他にも?」  「うちの貯《ちよ》金《きん》を……」  並子は肯いて、  「どれくらい?」  「五百万くらい……。家を買う頭《あたま》金《きん》に、と貯《た》めていたんです」  「何に使ったんですか?」  「——投《とう》資《し》です」  と、宮本朋子は言った。「ところが……。初めから、お話しましょうね」  「お願いします」  きっかり一週間後に、そのセールスマンはやって来た。  今度も、玄《げん》関《かん》で、というのを、朋子は上らせて、紅《こう》茶《ちや》を出した。——正《しよう》直《じき》なところ、少々気がとがめていたのだ。  夫に話をしたのだが、  「金を捨《す》てるようなもんだ」  と一《いつ》蹴《しゆう》されてしまったのである。  何もあんな風に言わなくたって、と腹《はら》が立ったが、朋子としても、投資には危《き》険《けん》がつきものであることは分っていたから、そう強くも言えなかった。ゆとりがあるわけではないのだから。  「——せっかく来ていただいて、すみませんね」  と、朋子は事《じ》情《じよう》を説明してから言った。  「そうですか。いや、仕方ありません。必ず承知して下さるのでしたら、この商売も楽なものですよ」  朋子は名《めい》刺《し》を見た。——〈北《きた》山《やま》達《たつ》郎《ろう》〉とある。  「北山さん、とおっしゃるんですね。この辺をずっと回ってらっしゃるの?」  「ええ、大体は。——しかし、ご用ならどこへでも出かけて行きますよ」  と、北山という男は言った。「さて、あまり長《なが》居《い》をしても……。どうもお邪《じや》魔《ま》しました」  「まあ、もう?」  「これから駅の方へ出ますので。——お買物にでも出られるのでしたら、車ですからお送りしましょうか?」  「でも、そんな——」  実《じつ》際《さい》、今日はこれから駅前まで出るつもりだった。  「構《かま》いませんよ、どうぞ」  「それじゃ……」  朋子は、結局、北山の車で、駅まで送ってもらうことになった。  断《ことわ》られた相手にここまでサービスするという、その気持が、朋子を動かした。車を降りるとき、  「明日、またいらして。主人にもう一度、話してみます」  と、朋子は言ったのだ。  だが、夫の答えは、変らなかった。それどころか、  「そんな風に親切にされて、喜んでるとは何だ。そんな奴《やつ》は、内心じゃ扱《あつか》いやすい女だと舌《した》を出してるんだぞ」  とまで言った。  朋子はムッとした。  次の日、北山が来る前に朋子は銀行へ行き、自分の口《こう》座《ざ》から、五万円おろして来た。  時間通りやって来た北山へ、朋子はその五万円を委《ゆだ》ねた。  「決してご損《そん》のないようにいたします」  ちっとも多い額でもないのに、北山は嬉《うれ》しそうだった。——二人はしばらく話し込《こ》んだ。  朋子は、まるで懐《なつか》しい友人にでも出会ったように、心がなごむのを感じた。  「おや、すっかり時間がたって……。では、またお伺《うかが》いします」  と北山が立ち上る。  その瞬《しゆん》間《かん》、朋子は、胸《むな》苦《ぐる》しいほど、気持が昂《たかぶ》るのを覚えた。玄関へ送りに出る。  「——今度はいつ頃《ごろ》?」  と朋子は、靴《くつ》をはいている北山へ言った。  「そう何度もお時間は取らせません。電話ででも、ご連《れん》絡《らく》を入れます」  「そうですか……」  また来てくれとは、言えなかった。  「では、どうも——」  と北山は出て行った。  朋子は居《い》間《ま》へ戻《もど》って、ぼんやりと立っていた。何だか、急に張《は》りがなくなったようだ。——玄関のチャイムが鳴っているのに気付いて、出て行く。  ドアを開けると、北山が立っていた。  「申し訳《わけ》ありません。つい、うっかりして、一箇《か》所《しよ》、印をいただくのを忘《わす》れてしまいまして……」  朋子は胸《むね》が一《いつ》杯《ぱい》になった。北山が上ると、いきなり朋子は抱《だ》きついた。  「奥《おく》さん……」  「抱いて……」  朋子は、自分が同じ言《こと》葉《ば》を何度もくり返すのを、聞いていた。 2  政子は宮本朋子を送って、その棟《むね》の前まで来た。  「もう大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》です」  と、朋子は棟の入口で言った。「どうもすみませんでした」  「そうですか? 何なら部《へ》屋《や》まで——」  「いいえ。もう死んだりしません。子《こ》供《ども》のことがありますもの」  「そうですよ。元気を出して」  「ええ」  と朋子は微《ほほ》笑《え》んだ。  「何か力になれることがあったら、また来て下さい」  「ありがとうございます」  と、朋子は頭を下げた。  政子が戻《もど》ってみると、並子は昼《ひる》寝《ね》している竜介に毛《もう》布《ふ》をかけているところで、口に指をあてて、シッとやってから、キッチンの方へ行った。  「——もう大丈夫ね、あの奥さん」  と政子が言った。  「そうね……。でも、どことなくスッキリしないわ」  「そりゃ、そのセールスマンを捕《つか》まえてしめ上げてやりたいわよ、私だって。女を騙《だま》して、金を巻《ま》き上げて、ドロンじゃ、悪《あく》質《しつ》じゃないの」  「しかも、その会社に北山という男はいなかった……。つまり、初めから北山は、あの奥さんを騙すつもりだったのね」  「そりゃそうでしょうね」  並子は、何やら考え込《こ》んでいたが、  「どうも、これで済《す》むとは思えないわ」  と言い出した。  「どうして?」  並子は答えず、  「ねえ、あの宮本ってお宅《たく》のこと、あなた少し聞き回ってくれない? ご主人のこと、近所の評《ひよう》判《ばん》、その他、例によって、噂《うわさ》話《ばなし》とか……」  「何かありそうなの?」  「どうもね……。納《なつ》得《とく》できないのよ」  と、名《めい》探《たん》偵《てい》は、例の如《ごと》く、わけの分らないことを言い出すのだった。  「——ねえ、聞いた、ゆうべのあの凄《すご》い喧《けん》嘩《か》」  と、会うなり、話が始まる。  「聞きたくなくても聞こえるわよ。どこのお宅《たく》?」  「宮本さんのところよ。凄《すご》かったじゃない、ご主人が怒《ど》鳴《な》りつけて——」  「一体どうしたっていうの?」  「奥《おく》さんの浮《うわ》気《き》がばれたみたい」  「あの奥さんが? へえ! 人は見かけによらないわねえ」  ——政子は、訊《き》き回るまでもなく、スーパーで耳に飛び込んで来た会話に耳を傾《かたむ》けていた。  「しかも、貯《ちよ》金《きん》を全部、男に注《つ》ぎ込んだらしいのよ」  「それじゃ大変ね。——別れるのかしら」  「ご主人、黙《だま》ってないんじゃない?」  「浮気の相手って誰《だれ》なのかしら」  「何でも、セールスマンとかいう話だったけど」  「セールスマンなんて、またよりによって……」  「ねえ。まるきり婦《ふ》人《じん》雑《ざつ》誌《し》の告白記事じゃない?」  「本当ね」  二人の主《しゆ》婦《ふ》が一《いつ》緒《しよ》に笑《わら》った。——政子は、他人の家の喧《けん》嘩《か》を笑う気には、到《とう》底《てい》なれず、その場を離《はな》れた。  スーパーを出て歩き出すと、  「あの……」  と声をかけられる。  振り向くと、宮本朋子だった。  「まあ、この間は……」  と、言いかけて、政子は言《こと》葉《ば》を切った。  朋子の顔は、左の頬《ほお》がはれ上って、ひどい様子だった。殴《なぐ》られたのだろう。  「大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》ですか?」  「ええ……」  朋子は、人《ひと》目《め》を避《さ》けるように、木の陰《かげ》へと退《しりぞ》くようにして、「すみませんけど……買物をお願いできないでしょうか」  「ええ、いいですよ」  「ここにメモしてあります。申し訳《わけ》ありませんが……」  「それぐらい、お安いご用ですわ」  と政子はメモを受け取った。  「お金を——」  「後でいいですよ。じゃ、ここで待ってて下さいね。——あ、私の買った物、見てていただけます? じゃ、すぐ戻《もど》りますから」  政子が、頼《たの》まれた買物を済《す》ませて戻《もど》って来ると、朋子の姿《すがた》がない。キョロキョロと見回したが、どこにも見えないのだ。  政子の買物袋《ぶくろ》が、木にもたせかけて、置いてあった。  「——何だか心配だわ」  並子の部《へ》屋《や》へ来て、政子は言った。「黙《だま》ってどこかへ行っちゃうなんて」  並子は竜介にうどんを食べさせながら、  「ご主人の気が知れないわね」  「カッとなったんでしょ」  「殴《なぐ》ったことを言ってんじゃないのよ」  「じゃ、何なの?」  「そんな夜中に、大声で怒《ど》鳴《な》り散《ち》らせば、まるで近所にふれ歩くのと変らないじゃないの」  「そうね。でも——」  「考えてごらんなさいよ。奥《おく》さんがセールスマンと浮《うわ》気《き》したなんて、ご主人にとっちゃ、名《めい》誉《よ》なことじゃないわ。まあ、中には同《どう》情《じよう》してくれる人もいるかもしれないけど、大体は馬《ば》鹿《か》にされると思っていいわ」  「そりゃそうね」  「怒《おこ》るにしたって、近所に知れないように怒るんじゃない?」  「だって現《げん》実《じつ》に——」  と政子が言いかけると、  「推《すい》理《り》と現実が食い違《ちが》うときは、現実の方を疑《うたが》ってかかるべきよ」  と、並子が信《しん》条《じよう》を述《の》べた。「そら! ちゃんと食べなさい!」  もちろん、これは竜介に言ったのである。  「この買った物、どうしよう? それにお金ももらってないのよ」  「後で、行ってみましょうよ、あの人の所に」  「そうね、じゃ、竜介君のお昼が終ったら」  「——あの奥さん、警《けい》察《さつ》へは届《とど》けたのかしら?」  「そうか。詐《さ》欺《ぎ》だものね」  「立《りつ》派《ぱ》な詐欺よ。ともかく偽《ぎ》名《めい》を使って、名《めい》刺《し》まで持ってたっていうんだから」  「逮《たい》捕《ほ》できるかしら」  「そんな奴《やつ》はこらしめてやらなきゃね。でも……もう一つ、すっきりしないわねえ」  「何が?」  「うん……」  と、並子ははっきりしない。  玄《げん》関《かん》のチャイムが鳴って、政子が出て行った。  「——あら、奥《おく》さん」  宮本朋子だった。  「すみません、さっきは」  と、朋子は頭を下げた。  何だか、息を弾《はず》ませている。  竜介にやっと食べさせ終って、並子が居《い》間《ま》へ行くと、朋子は、政子が渡《わた》した、冷たい濡《ぬ》れタオルで、はれた頬《ほお》を冷やしていた。  「大変でしたね」  と並子は言った。  「何をされても、私がいけないんですから……」  と言ってから、朋子は、続けて、「実は、さっき、妙《みよう》なものを見たんです」  「妙なもの?」  「ええ。それで、買物をお願いしておいて、勝手に——。すみませんでした」  「それより、妙なものって何ですか」  「実は、木の陰《かげ》で待っていると、車が通って行くのが見えて……。あそこから、広い通りが見下ろせるんです」  「ええ、分ります」  「何だか見たことのある車のようで……。まさか、とは思ったんですけど、あの北山と名乗ってた男の車と、よく似《に》てたんです」  「それで?」  「乗ってる人の顔が見たくなって、急いで階《かい》段《だん》を降りて行きました。ちょうど車は信号で停《とま》ってたんです」  「で、中に乗っていたのは?」  「ちょうど下へ着くと、信号が変って、車が走り出したんですけど、間《ま》違《ちが》いなく北山の顔が見えました」  「車のナンバーは?」  「そこまでは……」  「残念ですねえ。ナンバーがあれば、その男も捕《つか》まえられますよ」  「ええ。でも、それよりびっくりしたのは……」  と言いかけて、朋子はためらった。  「どうしました?」  「もう一人、車の中に人がいたんです」  「もう一人。——それは? 知っている人ですか?」  と並子は訊《き》いた。  「ええ……。ほんのチラッとしか見えなかったので、断《だん》言《げん》はできないんですけど……」  と、朋子は言い淀《よど》む。  「ご主人だったんじゃありません?」  と並子が言うと、朋子は目を丸《まる》くして、  「どうしてそれを——」  「まさか!」  と政子は言った。「じゃ、ご主人は、何も知らずに?」  「それはどうかしら」  と並子は首を振《ふ》って、「最初から、ご主人が承知の上でのことだったとしたら?」  「どういうこと? つまり……わざと奥《おく》さんを……」  「ご主人に女《じよ》性《せい》がいると思われたことはありません?」  と並子が訊《き》くと、朋子は、ちょっと迷《まよ》ってから、  「ええ……。よく女っ気というか、香《こう》水《すい》や、口《くち》紅《べに》なんかがハンカチについてることがあります。でも、お客の接《せつ》待《たい》で、飲み歩くことが多いんです」  「それで、バーなんかに行くわけですね。外《がい》泊《はく》することは?」  「月に二、三回は。残業で、会社に泊《とま》るんだと言っています」  「それが口実だとすると——」  「女がいるんでしょうか?」  「分りません。可《か》能《のう》性《せい》としては考えられますけど」  「調べていただけませんか」  並子は、ちょっと黙《だま》っていた。——この探《たん》偵《てい》社は、浮《うわ》気《き》や、素《そ》行《こう》調《ちよう》査《さ》の類はやらないのが建《たて》前《まえ》である。  が、並子は肯《うなず》いて、  「やりますわ」  と言った。  「並子ったら、人のことを当てにして!」  朋子が帰った後、政子はプーッとふくれてしまった。「こき使われるのは、こっちなんだから」  「何を怒《おこ》ってんのよ?」  「怒りたくもなるわよ。あそこのご主人の素《そ》行《こう》調《ちよう》査《さ》なんて、そう簡《かん》単《たん》にはできないじゃないの!」  「かみつきそうな顔しないでよ」  「生れつきよ」  「落ち着きなさい。誰《だれ》も、ご主人の後をつけ回せなんて言ってないわ」  と並子は涼《すず》しい顔。  「じゃ……どうすればいいの?」  「何もしなくていいのよ」  「どういう意味?」  と政子は訊《き》いた。「だって、今、引き受けたじゃない」  「そうよ。でも、何もしなくていいの」  と並子は言った。  「また、わけの分んないこと言って……」  とにらむ。  「調べてることにするのよ、あの奥さんにはね。そして……」  並子は一つ息をついて言った。「大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》。ちゃんと事《じ》件《けん》は解《かい》決《けつ》してみせるから」 3  「ねえ、いいの?」  と、政子は言った。  「何が?」  並子は、テレビを見ながら、ミカンを食べ、かつ新聞をめくりつつ、訊《き》き返した。  「宮本さんのことよ。放っといていいの? もう一週間以上たつわ」  「ああ、あの奥《おく》さんとセールスマンの事《じ》件《けん》のこと?」  「のんびりテレビなんか見ちゃって」  と、政子はため息をついた。  「あなたも一《いつ》緒《しよ》になって見てるじゃないの」  「私は探《たん》偵《てい》助手ですからね」  と、政子は言った。「名探偵も、最近は昼メロに夢《む》中《ちゆう》で、少々低《てい》俗《ぞく》化《か》して来たんじゃないの?」  「皮《ひ》肉《にく》のつもり?」  「つもり、じゃなくて、皮肉よ」  「こういうドラマを見るのも、探偵の仕事の内なのよ」  「どうして?」  「最大公《こう》約《やく》数《すう》ともいうべき、考え方がここに典型的に示《しめ》されてるからよ。つまり、妻《つま》が浮《うわ》気《き》したとき、夫はどういう態《たい》度《ど》に出るかとかね。実《じつ》際《さい》は、まるで違《ちが》うに決ってるのに」  「何だか、分ったような分んないような話ねえ」  と、政子は笑《わら》って、「竜介君は、まだ大丈夫?」  「寝《ね》て三十分しかたってないもの。二時間ぐらいは平気よ。——そんなこと、おっしゃるもんじゃありませんわ」  「え?」  政子は耳を疑《うたが》った。  「テレビよ」  「ああ……」  政子は肯《うなず》いた。TVでは、正《まさ》に、登場人物の一人が、「そんなこと、おっしゃるもんじゃありませんわ」と言っていた。  「並子、どうして分るの、先のセリフが?」  「パターンよ。いつも決ったセリフしか出て来ないから、大体見《けん》当《とう》がつくわ」  「へえ、そんなもんなの?」  「名探偵の頭は、ちょっと違《ちが》うの」  あんまり関係ないんじゃないかな、と思ったのだが、政子は黙《だま》っていた。  「——でも、宮本さんのところ、あれからは平《へい》穏《おん》無《ぶ》事《じ》らしいじゃない」  少し間を置いて、政子は言った。「どうするの? このまま何もなきゃ、放っとくの?」  「これだけは、断《だん》言《げん》してもいいわ」  と並子は言った。「必ず、あちらからやって来るわよ」  玄《げん》関《かん》のチャイムが鳴った。  政子が立って行く。並子の家なのに、なぜか、政子が助手として、こういう場合も動くようになっているのである。政子が戻《もど》って来て、言った。  「宮本さんの奥さんよ」  並子が、ほらね、というように、ウインクして見せた。  宮本朋子が、頭を下げた。  「——もう、すっかり元通りになったようですね」  と並子が言った。  「え?」  「お顔の傷《きず》ですよ、ご主人に殴《なぐ》られたときの」  「ああ。——ええ、おかげさまで。その後は殴られていませんから」  「ご主人はどうです?」  「相変らず、時々帰りが遅《おそ》くなりますけど、それは以前もそうでしたから……」  宮本朋子は、少しためらってから、「あの——どうでしたかしら?」  「ご主人に、女がいるかどうか、っていうことですね」  「はい」  政子は、傍《そば》に立っていて、少々気まりの悪い思いをしていた。宮本朋子に、夫のことを調べると言っておいて、実《じつ》際《さい》は何もやっていないのだから。  並子は、  「今週、ご主人が遅かったのは?」  と訊《き》いた。  「ええ、一番遅かったのは、一昨日《おととい》でした」  「やっぱりね」  と肯《うなず》く。  「というと……」  「ご主人は女の所へ行ったんですよ」  これには政子の方が仰《ぎよう》天《てん》した。  「そうですか……」  朋子は、顔を伏《ふ》せた。  「つまり、こうだったと思うんです」  と、並子は平然と続けた。「ご主人は、その女と結《けつ》婚《こん》しようと思っているんです」  「そのためには私と離《り》婚《こん》しなくちゃならないわけですね」  「そこで、あの北山という男——本当の名前は分りませんけどね——を雇《やと》って、あなたに近づかせたんです。たぶん、女にかけては、プロなんでしょうね」  「私にわざと浮《うわ》気《き》をさせて、離婚しようというんですね」  「だから、あんなに華《はな》々《ばな》しく怒《ど》鳴《な》ったりしたんですよ。近所の人たちに、あなたの浮気を知らせておくつもりだったんです」  「ひどいわ」  と、朋子は呟《つぶや》くように言った。「——どうすればいいでしょう?」  「そうですねえ。私たちも、本《ほん》職《しよく》の探《たん》偵《てい》じゃありませんから、ご主人の浮気現場を写真におさめるというわけにはいきません。ですから、もしご主人と別れるおつもりなら、本職の探偵社とかに、素《そ》行《こう》調《ちよう》査《さ》を依《い》頼《らい》なさったらいかがですか。それとも、誰《だれ》か、信用できる方を立てて、同席してもらい、ご主人に、総《すべ》てを知っているとぶつけるんです」  「でも——」  「大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》。ご主人だって、役者じゃないし、北山とのことを、あなたが知っているとは思ってもいないでしょう。いきなり問い詰《つ》めれば、しどろもどろになりますよ。それを第三者の人に見てもらっておけば……」  朋子は、ゆっくりと肯《うなず》いた。  「分りました。よく考えてみますわ」  「そうして下さい。もし、誰《だれ》かに同席してもらうときは、あなたの身内とかでなくて、公平な立場の方がいいと思いますわ」  「どうもありがとうございました」  宮本朋子は、丁《てい》寧《ねい》に礼を言って、「あの……調査費用はいかほどになりましょうか?」  と訊《き》いた。  「一件《けん》について三千円と、調査のための交通費などで——そうですね、五千円もいただいておけばいいと思いますわ」  「そんなもので——」  「結《けつ》構《こう》ですわ、別に、それで生活しているわけではないんですから」  「じゃ……。また、ご連《れん》絡《らく》します」  と、宮本朋子が帰って行く。  「——ねえ並子」  政子が呆《あき》れ顔で、「何もやらないでお金取るなんて、詐《さ》欺《ぎ》じゃないの」  「全然取らなきゃ、おかしなもんでしょ。却《かえ》って変だと思われるわ」  「そんなこと——」  「いいのよ。私を信用してなさい」  並子は、宮本朋子から受け取った五千円を、封《ふう》筒《とう》に入れ、引出しにしまい込《こ》んだ。  「どうしたの?」  「このお金は、使わずに置いとくのよ」  と、並子は言った。  「気がとがめるの?」  「違《ちが》うわよ。近《ちか》々《ぢか》返すことになると思ってるからよ」  「だったら、受け取らなきゃいいじゃないの!」  「それじゃ、まずいの」  もはや、政子にはついて行けない。——竜介が早《はや》目《め》に目を覚まして、二人の会話は中《ちゆう》断《だん》されてしまった。  その二日後、政子はスーパーへ買物に来ていた。  今日は並子が竜介を連れて、保健所へ行っているので、昼は一人で食べなくてはならない。いつもは昼食を作らされて文《もん》句《く》ばかり言っているのだが、いざ一人になるとつまらなくて、結局、スーパーの近くにある喫《きつ》茶《さ》店《てん》に入って、軽く食べることにした。  少し昼を過《す》ぎているので、店も暇《ひま》そうだった。——政子は、サンドイッチをつまみながら、店の女《じよ》性《せい》週《しゆう》刊《かん》誌《し》をパラパラとめくっていた。  「——失礼します」  と、男の声がして、顔を上げる。  二十七、八というところか。きっちりと背《せ》広《びろ》にネクタイ姿《すがた》の、なかなかの好《こう》男《だん》子《し》である。  「何でしょうか?」  と、政子は訊《き》いた。  「もしよろしかったら、ちょっとお時間をいただけませんか。投《とう》資《し》のご相談をさせていただきたいのですが」  何だか宮本朋子の話に出て来た男みたいだ、と政子は思った。  「——かけてよろしいですか?」  男は、あまり抵《てい》抗《こう》を感じさせない、ソフトな物《もの》腰《ごし》で、政子の向いの席に座《すわ》った。「私、こういう者でございます」  男の出した名《めい》刺《し》を一目見て、政子は、ギョッとした。おかげで、パンが喉《のど》につかえて、目を白《しろ》黒《くろ》させた。名刺には〈北山達郎〉とあったのである……。  「大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》ですか?」  と北山は訊《き》いた。「水をぐいと飲まれるとよろしいですよ」  「だ、大丈夫です」  政子は、やっとの思いで言った。  それにしても、この男、どういうつもりなんだろう?——ともかく、探《たん》偵《てい》助手に声をかけて来たのが運の尽《つ》きだ。  逃《に》がしてなるものか! 政子は、その男の淀《よど》みない説明など、完全に聞き流しながら、必死で考えていた。  「——え? 何ですって?」  「いえ、もしよろしければ、お宅《たく》へご一《いつ》緒《しよ》してお話をしようかと思ったのですが。——お忙《いそが》しいようでしたら、結《けつ》構《こう》です」  「ああ。そうですね。ええ、別に構《かま》いませんよ」  「じゃ、参りましょうか。——ここは、払《はら》わせていただきます」  「あら、でも悪いわ」  「この程《てい》度《ど》のこと、当り前ですよ。お気になさらずに」  なるほど、なかなかソツがない。  しかし、家に連れていくといっても……。そうか。並子の所へ連れて行けばいいんだわ。あれこれしゃべっている間に、並子も帰って来るだろうし。  政子は、北山と名乗る男を連れて、並子の部《へ》屋《や》へ行った。もちろん、鍵《かぎ》は政子も持っているのである。  政子は時間稼《かせ》ぎに、北山へ、お茶だのお菓《か》子《し》だのを出して、世《せ》間《けん》話《ばなし》をしていた。お菓子だって、並子のものなのだから、別に遠《えん》慮《りよ》もしない。北山は、しきりに恐《きよう》縮《しゆく》していたが、そのうち仕事の話を始め、十五分ほどで話を終えると帰りかけた。  「あの——もうちょっと、いいじゃありませんか」  並子ったら、早く帰って来ないかしら。  「いえ、あまりお邪《じや》魔《ま》しては——」  「だって、何も返事してないのに、私」  「すぐというわけにも参りませんでしょうから」  「もう少し待っていれば、夫も帰るわ。そうなれば返事もできるし——」  「でも、よそも回らなくてはなりませんので」  北山も、政子が少々しつこいので閉《へい》口《こう》したのか玄関へ出て、あわてて靴《くつ》をはいた。  ここで、北山を逃《に》がすのは、何ともくやしい。——どうしたら引き止められるかしら。一発、ぶん殴《なぐ》ってのしちまおうか、などと考えていると、ドアの所に足音がして、チャイムが鳴る。——はて?  「では」  と、北山は、ホッとした様子で、「お客様のようですので、失礼します」  ドアをヒョイと開ける。——宮本朋《とも》子《こ》が立っていたのだ。  「あ——」  と北山は、言《こと》葉《ば》もない。  「——まあ! あなたは——」  朋子は北山につかみかかった。  「待って! 待って下さい!——これにはわけが——」  「この女たらし! 詐《さ》欺《ぎ》師《し》! もう逃がさないわよ!」  朋子の剣《けん》幕《まく》は凄《すご》かった。北山は圧《あつ》倒《とう》されて玄関の上り口にペタンと座《すわ》り込《こ》んでしまう。  「あの五百万円はどうしたの! あんたは夫とグルなのね! 白《はく》状《じよう》しなさい!」  朋子は、大迫《はく》力《りよく》で問い詰《つ》める。北山がしどろもどろになっていると、ドアが開いた。  「——あら、政子、来てたの?——何の騒《さわ》ぎ?」  並子が不思議そうに訊《き》く。  竜介がスタスタ入って来ると、北山の靴《くつ》の上にペタンと座り込んだ。 4  「じゃ、やっぱり、主人に頼《たの》まれてやったのね?」  と、朋子が、居《い》間《ま》で、北山にかみつかんばかりの形《ぎよう》相《そう》。  「ええ、まあ……」  「じゃ、あの五百万円は?」  「ええ、ご主人が自分の口《こう》座《ざ》に。——私も五十万円もらいましたが……」  「図《ずう》々《ずう》しい!」  「すみません」  北山は、ついさっきまでの元気もどこへ行ったのか、シュンとしている。  「あなた本《ほん》名《みよう》は?」  と並子が訊《き》く。  「え?——ああ、私ですか。北山は本名です」  「でも……」  と、政子が言った。「どうして、ノコノコまたやって来たの?」  「いや、一度やると、つい病《や》みつきになって。——何しろああも簡《かん》単《たん》にいくもんかとびっくりしたんですよ」  「何が簡単よ!」  と、朋子がつかみかかる。「私は死のうとまで思いつめたっていうのに!」  「お、落ちついて下さい!」  「殺してやるから!」  並子と政子で、やっとこ朋子を北山から引きはなした。北山は目を白《しろ》黒《くろ》させながら、ネクタイを直して、  「ああ苦しかった……。あの……やはり警《けい》察《さつ》へ?」  「当然よ」  と朋子が言った。  「それはちょっと考えた方がいいわ」  と、並子が言った。  「え?」  「ともかく、もともとはご主人の考えた計画なんですよ。だから、詐《さ》欺《ぎ》といっても、微《び》妙《みよう》なことになるわ。それより、もしご主人と別れるつもりなら——」  「決心がつきました」  と、朋《とも》子《こ》はきっぱりと言った。「そんな主人と一《いつ》緒《しよ》にはいられません」  「じゃ、ここは北山を告発するのはやめて、離《り》婚《こん》の裁《さい》判《ばん》のときに、この人を証《しよう》人《にん》に呼《よ》んだ方がずっといいんじゃありません?」  朋子は、しばらく考えていたが、やがて息をつくと、  「——そうですね。そう言われてみると、その方がいいかもしれません」  「ねえ、済《す》んだことを今さら暴《あば》いてみても仕方ありませんよ」  「そうです、その通り」  と北山が言って、  「あんたは黙《だま》っていなさい!」  と並子にやっつけられた。  「すみません」  「今日、ご主人は?」  「帰り、遅《おそ》いはずですけど——」  「じゃ、戻《もど》らない内に、実家にでもお帰りになっていれば? この北山って人は、もう逃《に》げやしませんよ」  「お約《やく》束《そく》します」  と北山は平《へい》身《しん》低《てい》頭《とう》。  「分りました」  と朋子も肯《うなず》いて、北山の住所を聞いて、帰してやった。  「気の小さい男だもの、大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》ですよ」  と、並子は言った。「何かお手伝いできることがあります?」  「そうですね……。何かのときはぜひ、よろしくお願いします」  朋子が帰って行く。——政子は、何だかスッキリしない顔で、  「いいの? 北山の住所なんて、でたらめかもしれないわよ」  「大丈夫よ」  「自信あるのね」  「名《めい》探《たん》偵《てい》は、常に自信にあふれてるものよ」  台《だい》所《どころ》の方でドシン、ガチャン、と派《は》手《で》な音がした。「——こら! 竜介!」  と、並子が飛んで行く。  どうも子育てに関しては、名探偵も自信満々とはいかないようである。  「——後《あと》片《かた》付《づ》けしようか」  いつもの如《ごと》く、帰りの遅《おそ》い夫は抜《ぬ》きで、並子、竜介と三人で食事を済《す》ませ、政子は立ち上った。  「その前に、出かけましょ」  と、並子が言った。  「どこへ?」  「宮本さんの所よ」  「ええ? だって、奥《おく》さん、もう出て行ったんじゃないの?」  「だからこそ、行くんじゃないの」  政子は、並子をにらんだ。  「またわけの分らないこと言って!」  「さ、仕《し》度《たく》して。竜介を抱《だ》っこしてってくれる?」  「やだよ!」  べえ、と政子が舌《した》を出すと、竜介がキャッキャと喜んで手を叩《たた》いた。  結局、竜介は政子に抱かれてご機《き》嫌《げん》。三人は、宮本朋子のいる棟《むね》へやって来た。  「おかしいわね」  と、ドアの前で、並子は言った。  「何が?」  「窓《まど》が暗いわ」  「きっと帰ってないのよ」  「帰ってるはずよ。約《やく》束《そく》してあったんだから……」  「また、もう! たまには助手にも、やってることを知らせてよ」  「文《もん》句《く》言ってないで。——出ないわね」  玄《げん》関《かん》のチャイムを押《お》すのだが、一《いつ》向《こう》に誰《だれ》も出て来ない。  「どうしてご主人と会うの?」  「用があるからよ」  と、並子は当り前の返事をした。  「だけど……」  「気になる」  と言ったきり、並子は、ちょっと考え込《こ》んでいたが、「——ここにいて!」  と言うなり、隣《となり》の部《へ》屋《や》のドアを叩《たた》いていた。  政子が呆《あつ》気《け》に取られている内に、並子は、出て来た隣《りん》家《か》の人に早口にまくし立て、中へ入って行った。  「何やってんのかしら?」  と、政子は首をかしげた。「——ねえ、竜介君、あんたのママは変ってるわね」  二、三分も待ったろうか。宮本の部屋のドアが中から開いた。  「並子!——あなた——」  「ベランダから入ったのよ。中へ入って」  「危《あぶ》ないわねえ!」  「人の命がかかわってるときは、身の危《き》険《けん》を省《かえり》みずに行動するのが探《たん》偵《てい》ってものよ」  「お説教はいいけどさ。どうしたの?」  「今、救急車が来るわ」  「どこが悪いの?」  「私じゃないのよ」  部屋へ上ると、政子はびっくりした。ソファに、男が一人、横たわっている。  「ご主人よ」と、並子が言った。  「ガスくさいわね」  「ガス自殺を図《はか》ったの」  「危ないじゃないの!」  と、政子は飛び上りそうになった。  「大丈夫よ。ガスが出てたのは台《だい》所《どころ》だけだったから」  「だけど——」  「ガス管を口にくわえてたの。——でも、今のガスは、吸《す》っても死なないのよね。ガス中毒で死ぬのは、不完全燃《ねん》焼《しよう》のときとか、酸《さん》欠《けつ》になったときでね。ガスそのものは毒性ないんだから」  「そうなの? じゃ、死にそこなったってわけか」  「そういうこと……」  並子は、ちょっと曖《あい》昧《まい》に言った。  「奥さんに総《すべ》てがばれたと分って、ガックリ来たのかしら?」  「それはどうかな。——ま、ともかく意《い》識《しき》を取り戻《もど》せば、はっきりするんじゃない?」  並子は割《わり》合《あい》に呑《のん》気《き》である。  救急車のサイレンが近づいて来た。  「——やあ、どうも」  病院のベッドで、宮本は、並子に頭を下げた。「おかげさまで助かりました」  「いいえ。でも良かったですわ、大《たい》したことなくて」  政子は、竜介を抱《だ》いて、病室の入口あたりに立っていた。来る途《と》中《ちゆう》で、竜介が寝《ね》込《こ》んでしまったのである。  「一体何があったのか、話していただけませんか」  と並子が言うと、宮本は、少し丸《まる》顔《がお》の頬《ほお》をポンポンと軽く叩《たた》いて、  「こっちもよく分らんのです。ともかく帰って来てみると、部《へ》屋《や》は真っ暗で、家《か》内《ない》が出かけたのかな、と思って中へ入りました。すると後頭部をゴツン、とやられて……」  「殴《なぐ》られたんですね?」  「そのようです。気がつくと、このベッドで……。その間のことは、てんで憶《おぼ》えていないんですよ」  「そうですか。——奥《おく》さんに男がいる、とご存《ぞん》知《じ》でしたか」  宮本は、ちょっとためらって、  「ええ、気づいていました。しかし、どうしようもありません。言えば却《かえ》って意《い》地《じ》になるんじゃないかと思って」  「放っておいたんですか。前にもそんなことが?」  「二度、ありました。その度《たび》に、もう決してしない、と泣《な》いて詫《わ》びたもんです。——私も忙《いそが》しくて、あまり構《かま》ってやれないから、責《せ》める気になれんのです」  「でも、殺されかかったんですよ」  と並子は言った。  政子は唖《あ》然《ぜん》として、話を聞いていた。  「ええ……。どうやら、朋《とも》子《こ》も今度は本気のようだ。男が、よほど悪い奴《やつ》だったんでしょう」  「どこへ行ったか、心当りはありますか」  「さっぱりです」  と、首を振《ふ》る。  「でも——」  と、政子は、たまりかねて口を出した。「あの夫《ふう》婦《ふ》喧《げん》嘩《か》は?」  「喧嘩ですって?」  と宮本がいぶかしげに言った。  「ええ、あなたが奥さんを怒《ど》鳴《な》って、殴《なぐ》って——奥さん、ひどいあざを作ってましたけど」  「私は女《によう》房《ぼう》を殴ったりしたことはありませんよ」  「でも……」  「いつのことです? 大体、このところ出《しゆつ》張《ちよう》で、あまり家にいなかったんですが」  「団《だん》地《ち》の中じゃ、声は響《ひび》いて、誰《だれ》の声か分らなくなるものだわ」  と、並子が言った。「あれは、北山と、朋子さんのお芝《しば》居《い》なのよ」  「芝居?」  「殴られたようにあざを作るのは、少し演《えん》劇《げき》の経《けい》験《けん》のある人には、むずかしくないわ」  「朋子は、学生時代には演劇部にいたんですよ」  「それじゃ一体……」  と政子は、混《こん》乱《らん》して来て、わけが分らないという様子。  「朋子さんが北山と関係が出来たところまでは、朋子さんの話通りだと思うの。でもその先は、朋子さんと北山の共《きよう》謀《ぼう》。私たちを証《しよう》人《にん》に仕立てて、全体がご主人の計画だと見せかけようとしたのよ」  「何ですって? じゃあ……」  「考えてごらんなさい。喧《けん》嘩《か》のことだって、そのあと車に北山とご主人が乗っていたことだって、それが本当のことだったという証《しよう》拠《こ》はないのよ。朋子さんの言《こと》葉《ば》だけだわ」  「それじゃ、ご主人の調《ちよう》査《さ》を頼《たの》んで来たのは……」  「もちろん、それらしい事実を私たちの目につく所へ出して見せたんでしょうね。——そんなこと分り切ってるから、私は何も調べなくていい、と言ったのよ」  「それで、北山は——」  「もちろん、あなたに近づいたのも、わざとよ。ああして、朋子さんが訪《たず》ねて来るのも筋《すじ》書《がき》通り。そして北山は私たちの前で、ご主人の陰《いん》謀《ぼう》を告白するわけ」  「そして、何もかも、ご主人のせいにしちゃったのね!」  「でも、私もまさか、ご主人を殺そうとするとは思わなかったのよ、あの二人が。——きっとあの北山が、ひどい男なのね。見かけは優《やさ》しいけれど」  「自殺に見せかけておいて……」  「奥さんは、他の地へ移って、北山と一《いつ》緒《しよ》になるって寸法でしょうね」  宮本は二人の話を聞いていたが、やがてため息をついた。  「どうやら、知らない内にとんでもないことになっていたようですな」  「ええ、そうなんですよ」  並子が同《どう》情《じよう》するように、「——でも、奥さんも、あんな男について行って、ろくなことにはなりませんよ」  と言った。  「——寒いわねえ!」  と、政子は、並子の部《へ》屋《や》へ上り込《こ》んで、身《み》震《ぶる》いした。「雪よ、雪!」  「静かにしてよ。竜介、寝《ね》てるんだから」  と、こたつで、並子が言った。  「ごめん。——入らせて。ああ、暖《あたた》かい!」  「——宮本さん、引っ越《こ》すのやめたんですって。聞いた?」  「へえ! それ初《はつ》耳《みみ》。じゃ、一人で暮《くら》すの?」  「そういうことになるわね」  と並子は肯《うなず》いて、「奥さんが、北山に捨《す》てられたとき、帰って来る所がなくちゃ可《か》哀《わい》そうだ、って」  「へえ。——いい人なのね」  「馬《ば》鹿《か》なことをしたわね、あの奥さんも。たしかに、『いい人』って、あんまりパッとした魅《み》力《りよく》はないけど、でも結局一番幸《しあわ》せなのにねえ」  「でも。見付かれば奥さんも逮《たい》捕《ほ》されるでしょ?」  「あのご主人なら、奥さんを待つんじゃない?」  「感動的ね!」  「どうかしら」  並子は言った。「奥さんにとっちゃ、どっちがいいのかしら」  「ところで、あの五千円、どうしたの?」  「え? ああ、ご主人が、そのままどうぞって言ってね。——どう、雪の中だけど、近くのレストランにでも出かけるか」  「賛《さん》成《せい》!」  珍《めずら》しく、探《たん》偵《てい》と助手は意見の一《いつ》致《ち》をみたのである。 第六話 身《み》近《ぢか》なスターの事《じ》件《けん》 1  「あ、今日《きよう》はいいわ、私《わたし》、払《はら》うから」  団《だん》地《ち》の中の喫《きつ》茶《さ》店《てん》で、少々ゆで過《す》ぎのスパゲティの昼食を取った後、さて、いつもの通り割《わ》り勘《かん》で、財《さい》布《ふ》を取り出した西《にし》沢《ざわ》並《なみ》子《こ》へ、木《き》村《むら》政《まさ》子《こ》が言った。  並子の方はちょっと目をパチクリさせながら、  「どうしたの、一体」  と訊《き》いた。  「ちょっとね、臨《りん》時《じ》収《しゆう》入《にゆう》があったの」  政子がニヤリとして、「たまには、おごってあげるわよ」  「そりゃいいけど——」  と、並子が心配そうに、「別にアルバイト始めた気《け》配《はい》もないのに、おかしいわね。一体何の収入?」  「それを当てるのが名《めい》探《たん》偵《てい》でしょ」  と政子が気持良さそうに言った。  西沢並子は、二歳《さい》になる一人《ひとり》息子《むすこ》の竜《りゆう》介《すけ》をかかえて、この団地で、モグリの(?)私《し》立《りつ》探偵を開業している。ただし、別に未《み》亡《ぼう》人《じん》というわけではなく、れっきとした亭《てい》主《しゆ》がある。  政子の方は学校時代から並子とは親友同士。この団地で偶《ぐう》然《ぜん》近所同士となって、並子探偵の助手をつとめているのだ。こちらは夫はあるが、子《こ》供《ども》はまだない。  「ねえ」  と、並子が少し声をひそめて、言った。「何か告白することがあるんだったら、聞いてあげるわよ。自首するならついて行くし」  「冗《じよう》談《だん》じゃないわよ!」  政子は憤《ふん》然《ぜん》として、「これはまともなお金ですよ。ねえ、竜介君、おばちゃんと二人でケーキ食べようね、ママはのけといて」  竜介は手を叩《たた》き、椅《い》子《す》から、飛び上って、  「ケーキ、ケーキ!」  と大《おお》騒《さわ》ぎである。  「——もったいぶってないで白《はく》状《じよう》しなさいよ」  と、並子が苦《にが》笑《わら》いしながら言った。  「実はね、昨日《きのう》——あ、ちょっと! ショートケーキ三つね!」  と、オーダーしておいて、「昨日、うちで撮《さつ》影《えい》があったのよ」  「撮影?」  「そう。テレビ映《えい》画《が》のね」  「どうして政子の家で?」  「子供のいる家だと、やっぱりちらかってるし、撮影にも不自由でしょ。だから、うちが選ばれたらしいの」  「何のテレビ番組?」  「最近よくやってる、『長時間ドラマ』ってやつよ。団地の人《ひと》妻《づま》が、過《か》去《こ》の恋《こい》人《びと》と再《さい》会《かい》して、そこで殺人が起こって——」  「また、えらく陳《ちん》腐《ぷ》な話ね」  「仕方ないでしょ。毎週『芸《げい》術《じゆつ》祭《さい》参加』ドラマを作るわけにもいかないんだから」  「そりゃそうね。で、政子の所がその人妻の家ってことなの?」  「残念ながら、そうじゃないの。主役の家はね——ほら、主役は長《なが》内《うち》ヤス子なのよ」  「ああ、あの人」  と、並子が肯《うなず》く。「最近はあんまりお目にかからないわね」  「そうね。大体が映《えい》画《が》のスターだしね。でも近くで見たの。きれいだったわ。こう——何ていうか華《はな》やかな雰《ふん》囲《い》気《き》があって」  「政子の家に来たの?」  「そう。ワンシーンだけでね。その人妻の親しい奥《おく》さんの家って設《せつ》定《てい》なの。だから、ほんの短い場面。——でも、結《けつ》構《こう》大がかりなのね、撮影って」  「それで、謝《しや》礼《れい》が少々出たわけか」  「そういうこと」  と、政子はニッコリして、「純《じゆん》然《ぜん》たる臨《りん》時《じ》収《しゆう》入《にゆう》よ。主人にも言わずに使っちゃおう」  「楽しいわね。——そのテレビ、いつ放《ほう》映《えい》なの?」  「まだ分んないみたい。決ったら連《れん》絡《らく》してくれるそうよ」  「政子も出りゃ良かったのに、エキストラで」  「主役が目立たなくなると困《こま》るんでしょ」  政子は澄《す》まして言った。  そのとき、喫《きつ》茶《さ》店《てん》へ入って来たのが、政子と同じ棟《むね》の住人で、四十前後の、極めておしゃべり好《ず》きな主《しゆ》婦《ふ》だった。おしゃべりの嫌《きら》いな主婦というのはあまりいないが、中でも、この林《はやし》絹《きぬ》江《え》は抜《ぬ》きんでておしゃべりであった。  何しろ、いつか並子たちが買物に出ようとバス停《てい》に歩いて行く途《と》中《ちゆう》、誰《だれ》やらと立ち話している林絹江を見かけたのだが、二時間して帰って来ると、林絹江は、まだ違《ちが》う相手と、同じ場所で話をしていたことがある。  「あら、木村さん!」  と、林絹江が嬉《うれ》しそうに寄《よ》って来たときには、並子も政子も、一《いつ》瞬《しゆん》、急用がなかったかと考えたのだった。  「昨日《きのう》、お宅《たく》で撮《さつ》影《えい》があったんですって?」  「ええ、そうなんです。ほんのちょっとでしたけど」  くどくどと説明させられちゃかなわない、と政子は思ったが、それは杞《き》憂《ゆう》に終った。  「今日からね、私のところなの!」  と、林絹江が誇《ほこ》らしげに言った。  「え?」  と政子は戸《と》惑《まど》って、「林さんのところで……?」  「撮影よ! 三日間も続くんですって!」  「まあ、それじゃ——」  「私のうちが主役の長内ヤス子の家って設定になったのよ」  「凄《すご》いですね」  「でも、困《こま》っちゃうわ、三日間も人が出たり入ったりするのよ。今もね、本番前で、何だかピリピリしてるから、出て来ちゃった。早く終ってほしいわ」  林絹江の顔は、終ってほしくないわ、と言っていた。「——さあ、コーヒーでものんびり飲んでようかな。それじゃ、ね」  林絹江が離《はな》れた席へ行って座《すわ》ったので、政子も並子もホッとした。  そこへショートケーキが来て、しばらくはケーキを早く食べようとする竜介と、それを落ち着かせようとする並子の凄《せい》絶《ぜつ》な戦いが続いた。  やっと一《いち》段《だん》落《らく》すると、並子が言った。  「その主人公の人《ひと》妻《づま》って、よっぽどだらしのない役なのね」  政子が吹《ふ》き出しそうになる。実《じつ》際《さい》、林絹江の家は、かなり乱《らん》雑《ざつ》になっているのが常であった。  「でも、これで当分はあの人も話題に困《こま》らないわね」  と政子が言った。「もっとも、困ってるとこなんて、見たことないけどさ」  「同感」  と、並子が肯《うなず》く。  「ドカン」  と、竜介が真《ま》似《ね》をした。  TV映《えい》画《が》のロケの話題は、その三日間、団《だん》地《ち》を独《どく》占《せん》した観があった。  もちろん、これまでにもこの団地で、ロケなどがなかったわけではない。毎月のように、と言うのは少々オーバーとしても、三か月に一度くらいは、カメラを持ち込《こ》んで、公園や団地の風景をおさめて行く姿《すがた》が目についたものである。  しかし、今度のように、本《ほん》格《かく》的な撮影は初めてだった。団地がドラマの主な舞《ぶ》台《たい》になるというので、公園だの、集会所だの、スーパーマーケットでも、撮影が行なわれた。  その度《たび》に、主《しゆ》婦《ふ》たちがぐるりと周囲で見物するというわけで、撮影スタッフの方も大変だった。  並子や政子は、三日間の撮影が終った翌《よく》日《じつ》、スーパーへと出かけて行った。  もちろん、今日は行事もなく、いつもの通りの賑《にぎ》わいである。  「ねえ、並子、ほら」と、売場の棚《たな》の間を歩いていた政子がつついて、「あのレジの上の写真、見てごらんなさいよ」  「待ってよ。牛《ぎゆう》乳《にゆう》の日付見てんだから。——これが一番新しいのかな。——あ、もっと新しいのがあった! 何て言ったの?」  「あの写真よ。ほら、レジの上」  見れば、レジの上に、天《てん》井《じよう》から大きなパネルが下がっている。ここの店長が、長《なが》内《うち》ヤス子と並《なら》んで、写真におさまっているのである。  「——呆《あき》れた。見てよ、あのこわばった顔」  と、政子が笑《わら》いながら言った。「あがってるのね。きっとファンだったのよ」  長内ヤス子の方は、いかにも営業用の微《び》笑《しよう》を浮かべて立っている。並子は、それを眺《なが》めて、  「やっぱりトシ取ったわねえ、あの女《じよ》優《ゆう》も」  「人間、トシにゃ勝てないのね。いかな美女といえども」  政子は歩き出そうとして、「あら、店長さんよ」  なるほど、あの写真に映《うつ》っている店長が、せかせかと店の中を歩き回って、店の奥《おく》へと、カーテンをからげて入って行く。いつも忙《いそが》しそうにしている男である。  「さ、これでいいわ」  と、並子は肯《うなず》いて、「レジ、何番が空いてる?」  「どこも同じね。——あ、三番が一人になったわ。早く並《なら》ぼう。——並子、どうしたのよ?」  「ううん、別に……」  振《ふ》り向いていた並子は、ちょっとためらってから、「どこかの奥さんらしい人が、店の奥へ入ってったから」  「トイレにでも行ったんじゃない?」  そう言いながら、政子はトイレがまるで別の方向にあることを思い出していた。  「いいわ。さ、並ぼう」  と、並子が、竜介をのせたショッピングカーを押《お》しながら言った。  が、一《いつ》瞬《しゆん》の差で二人(二・五人?)の前に三人も並んでしまい、結局、大《だい》分《ぶ》待たされることとなってしまった。  スーパーを出ると、並子たちは、ぶらぶらと遊歩道を歩いて行った。途《と》中《ちゆう》、ちょっとしたベンチがある。竜介がそこの近くで遊び始めたので、並子と政子はベンチに腰《こし》をおろした。  穏《おだ》やかな春の日である。つい眠《ねむ》気《け》を誘《さそ》われる。  「政子!」  並子につつかれて、政子はハッと目を覚ました。  「あ……いけない。ついウトウトしちゃって……。だってポカポカしてて——」  「何かあったのよ」と並子が真《ま》顔《がお》で言った。  スーパーから、女店員の一人が飛び出して来た。大変なあわてようだ。口を開けっ放しにして、駆《か》け抜《ぬ》けて行く。  「交番へ行くんだわ」  と、並子は立ち上った。「政子、竜介をお願いね」  全くもう! 助手が子《こ》守《も》りまでしなくちゃならないんだから!  政子は、頭へ来て、スーパーへと駆けて行く並子の後ろ姿《すがた》をにらんだ。  竜介が、政子のスカートを引っ張《ぱ》った。  「なあに?」  「オシッコ」  政子は、ため息をついた。  先に並子の部《へ》屋《や》へ戻《もど》り、待っている間に竜介は眠《ねむ》ってしまい、政子もまたウトウトし始めた。  ——ドアの開く音で目を開く。  「あら、戻《もど》ったの」  「竜介は?」  と、並子は訊《き》いた。  「寝《ね》ちゃったわよ」  「そう」  並子は何だか難《むずか》しい顔をしている。  「何があったの?」  「私の守《しゆ》備《び》範《はん》囲《い》を少々越《こ》えてる事《じ》件《けん》」  並子は、竜介の傍《そば》に、ゴロリと横になって言った。  「というと?」  「殺人事件」  「まさか」  反射的に、政子はそう言っていた。「ずいぶんパトカーが来るな、とは思ってたけど……。誰《だれ》が殺されたの? 知ってる人?」  「そう。——あのスーパーの店長さんよ」  「店長が?」  政子は仰《ぎよう》天《てん》して、目も覚めてしまった。「ど、どうして一体——」  「分んないのよ。犯《はん》人《にん》も不明。あの店の奥《おく》で刺《さ》されてるのが発見されたの」  「さっき見たばかりじゃない!」  「そこよ。あのとき、あの店長、いやに急いで奥へ入って行ったわ。後から続いて入って行った女《じよ》性《せい》がいた……」  「並子、言ってたわね。じゃ、その女が犯人?」  「分らないけど、可《か》能《のう》性《せい》はあるわね」  と、並子は言った。「あの後、あの女、出て来なかったもの」  「というと?」  「私、何となく気になって、あの後、ベンチから、スーパーを出て来る人を見てたの。でも、あの女はいなかったわ」  「顔、見たの?」  「いいえ」  「それじゃ分んないでしょ」  「服《ふく》装《そう》よ。茶のカーディガンをよく憶《おぼ》えてるわ」  「で、その女はどこかへ消えちゃったってわけ?」  「裏《うら》から出たか、それとも、カーディガンを脱《ぬ》いで出て来たか、ね。どっちにしても、まともとは言えないわ」  「警《けい》察《さつ》に話した?」  「もちろんよ。でも、あちらは、動機の面から調べりゃ簡《かん》単《たん》に分ると思ってるらしいわ」  「ふーん。でも、こんな身《み》近《ぢか》に、殺人事件なんて……」  「いやね、何だか……」  「すぐ捕《つか》まるでしょ」  「そうだといいんだけど……」  と、並子は言った。「凶《きよう》器《き》が残ってたの。肉切り包《ぼう》丁《ちよう》でね。あまり高級品ではなかったようだけど。そこからきっと何かが分るわ」  並子の言い方は、いつになく重《おも》々《おも》しかった。政子は何となく戸《と》惑《まど》いながら、並子を眺《なが》めていた。 2  事《じ》件《けん》から、一週間が過《す》ぎたが、団《だん》地《ち》内の興《こう》奮《ふん》は、未《いま》ださめやらぬ、というところであった。  もちろん、殺人現《げん》場《ば》が団地のスーパー内という点もあったが、もう一つ、被《ひ》害《がい》者《しや》自身がこの団地の住人だったという理由もあったのである。  一週間たっても、一《いつ》向《こう》に犯《はん》人《にん》らしい人物は浮《う》かんで来ない様子だった。それとも、警《けい》察《さつ》側《がわ》はすでに目《め》星《ぼし》をつけているのか。——誰《だれ》も知らなかった。  ——その日は雨で、朝から、出る気もしない日和《ひより》であった。  当然、この場合は、子《こ》供《ども》のいない政子の方が並子の所へやって来ることになる。  竜介も退《たい》屈《くつ》そうで、ブロックを放りなげたり、積んでは崩《くず》したりしながら、欲《よつ》求《きゆう》不《ふ》満《まん》を解《かい》消《しよう》している様子だった。  「あら、お客よ」  玄《げん》関《かん》のチャイムを聞いて、並子と政子は顔を見合わせた。午前中のこんな時間にやって来るのは、たいていがセールスマンと決っているのである。  「はい、助手が出て」  と、並子は言った。  「何でこんなときまで、出なきゃいけないの?」  ブツクサ言いながらも、政子が出て行く。だが、やって来たのは、セールスマンではない。——およそ政子が予想もしていなかった人、林絹江であった……。  「——この間の人殺しのことなんですけどね」  絹江は、散《さん》々《ざん》渋《しぶ》ってから、言った。「何か手がかりはありそうかしら」  「さあ、私じゃ、そんなこと分りませんわ」  と並子が言った。  「だって、探《たん》偵《てい》をやってるんでしょ? それに、警《けい》察《さつ》の人とも親しいって——」  「いくら何でも主《しゆ》婦《ふ》の副《ふく》業《ぎよう》ですもの」  と、並子は首を振《ふ》って、「大《たい》したことは分りませんわ。特《とく》に今度の事《じ》件《けん》は、この団地で起きてますからね。かなり警察も気をつかってるみたいですよ」  「そう……」  絹江はちょっとがっかりした様子で、「ここへ来れば何か分るかと思って」  「残念ですけど」  と言って、並子は、「でも、何かお困《こま》りのことがあったら、ご相談に乗りますよ」  と続けた。  絹江は、いえ、別に、とかモゴモゴと言って、早々に帰ってしまった。  「——何だか変ね」  と、政子が言った。「あんなに落ち着かないなんて……」  「怯《おび》えてたのよ」  「怯えて? なぜ?」  「分らないけど、確《たし》かよ。あの人は怯えてたわ」  その言《こと》葉《ば》が終らない内に、またチャイムが鳴って、林絹江が、おずおずと入って来た。  「ちょっと……ご相談したいことがあって……」  「どうぞ上って下さい」  並子は、穏《おだ》やかな笑《え》顔《がお》を見せながら、言った……。  しかし、絹江の話には、さすがに並子もびっくりしたようだった。  「——じゃ、凶《きよう》器《き》の包《ほう》丁《ちよう》が、お宅《たく》のものらしいっておっしゃるんですね」  「ええ。まず間《ま》違《ちが》いないと思いますわ」  と、絹江は肯《うなず》いた。「あの写真が出てたでしょう」  凶器となった包《ほう》丁《ちよう》の写真が、印《いん》刷《さつ》されて、団地のあちこちの掲《けい》示《じ》板《ばん》に貼《は》り出されていたのである。  「あれ、私の田舎《いなか》で、小さなメーカーが作ってるやつなんです。だから、この団《だん》地《ち》でも、あまり持ってる人はいないでしょう」  「じゃ、写真を見て、それと分ったんですね?」  「ええ」  「その包丁は、お宅《たく》にいつまであったんですか?」  「それが——よく分らないんですよ」  と、絹江は当《とう》惑《わく》した様子だった。「だってほら、例のロケ騒《さわ》ぎがあったでしょう。だからあの前後は、家で食事の仕《し》度《たく》なんかしてなかったんです。ずっと外食ばかりで」  「それはそうでしょうね」  「失《な》くなってるのに気付いたのは、あの殺人のあった次の日です。久しぶりで、焼肉をしようと思って、買って来た肉を切ろうと思ったら、包丁がなくて……」  「捜《さが》されたでしょうね」  「もちろんです!」  と、絹江は心《しん》外《がい》、といいたげであった。  「いつ失《な》くなったか心当りは?」  「それが一《いつ》向《こう》に……。だって、一週間前に何を食べたか、なんて、憶《おぼ》えてないでしょう?」  それはその通りだろう。  「すると——誰《だれ》かに貸《か》したということもないんですね」  「私、ああいう物を人に貸したりはしませんよ」  「じゃ、盗《ぬす》まれたということですね」  「そう思うんですけどね、ただ……別に鍵《かぎ》をこじ開けられたこともないし、いつそんなことになったのか……」  絹江は、不安そうに口をつぐんだ。——並子は肯《うなず》いて、  「分りました。でも、その件《けん》は、やはり警《けい》察《さつ》へ届《とど》けた方がいいと思います。同じメーカーの包丁だって、世界に一つということもないんですもの。ここに一つや二つ、あってもおかしくはありませんわ」  「そうね。そうですね」  絹江は、並子の言《こと》葉《ば》にホッとした様子で、「じゃ、交番へ行って話をしてみましょう」  「その前に、もう一度家の中や台《だい》所《どころ》をお捜《さが》しになった方がいいかもしれませんよ。ヒョッコリ出て来ることもありますわ。私、交番のお巡《まわ》りさんに今日《きよう》中《じゆう》に話をしておきますから」  「まあ、助かるわ! よろしくお願いします」  林絹江は、大《だい》分《ぶ》気が楽になった様子で帰って行った。  「——本当にあの人の所の包丁なのかしら?」  と、政子が言った。  「そうでないという証《しよう》拠《こ》はないものね」  「あの奥《おく》さんが犯《はん》人《にん》ってこともないでしょうしね」  「そうね。あの店長と三角関係のもつれで、って感じじゃないわよ、あの奥さん」  「本当だ」  政子はヒョイと肩《かた》をすくめて言った。  ——また玄関のチャイムが鳴ったのは、それから一時間くらいしてからだった。  「誰《だれ》かしら?——はい、どなた?」  「ちょっとご相談したいことがあって」  と、女《じよ》性《せい》の声がした。  政子は、首をひねった。どこかで聞いたことのある声だ。——誰だろう?  ともかくドアを開けてみた。  「失礼。こちらは探《たん》偵《てい》さんなんですって?」  「はい」  どこかで見たような、と、政子は、いかにも高級なスーツ姿《すがた》の女性を見ていたが思わず、「アッ!」  と声を上げた。  「長《なが》内《うち》ヤス子さん……ですね」  「はい、そうです」  スターはニッコリと笑《わら》った。  「テレビのニュースで、あの事《じ》件《けん》を知って、びっくりしましてね」  長内ヤス子は、政子があわてて淹《い》れたコーヒーをゆっくりとすすりながら言った。  「包《ほう》丁《ちよう》のことで何かお心当りが?」  と並子の方は平然としている。  「ええ、私、大《たい》して料理しないんですけど、道具の方は割《わり》と詳《くわ》しいんですの。ですから、あのお宅《たく》での撮《さつ》影《えい》のとき、小道具の包丁が気に入らなくて、あそこのを勝手にお借りしてしまったんです」  「それで、撮影の後は?」  「それなんです」  と、長内ヤス子は、少し芝《しば》居《い》がかった身ぶりで言った。「私、あの包丁を流しへ落としてしまいましたの。刃《は》をよく見ると、少し欠けているようでしたので、演《えん》出《しゆつ》助手の一人に、それを研《と》いで返してくれと渡《わた》しておいたんです」  「その助手というのは、何という方なんですか?」  「さあ、名前は私……」  と、長内ヤス子は首をひねった。  そんな仕《し》草《ぐさ》も、どことなく無《む》意《い》識《しき》の計算が働いているのか、至《いた》って色っぽいのである。  「じゃ、その後、包丁がどこへ行ったのか、ということになりますね」  と、並子はさすがに事件のことだけに気を取られている様子。  「私、あの店長さんが殺されたと聞いて、本当にびっくりしてしまって……。とても親切な方でしたのにね」  「でも、どうしてここへおいでになったんですの?」  と、並子が訊《き》く。  「あの部《へ》屋《や》の方——林さんとおっしゃったかしら? あの方が、とてもお話し好《ず》きな方でしてね」  話し好き、とは、またずいぶん控《ひか》え目な言い方だ、と政子は思った。  「こちらが探《たん》偵《てい》さんでいらっしゃるって伺《うかが》ったんですよ」  「ただのアドバイザーみたいなものです」  珍《めずら》しく、名探偵が謙《けん》遜《そん》した。  「さあ、そろそろスタジオへ戻《もど》りませんと。休《きゆう》憩《けい》時間を抜《ぬ》け出して来てしまいましたの」  と、長内ヤス子が立ち上る。  「じゃ、今のお話は、私から交番へ伝えておきますわ」  「よろしく。——あ、そうそう。スーパーは今日も開いています?」  玄関へ来て、長内ヤス子が言い出した。  「ええ、もちろん。どうしてですか?」  「じゃ、ちょっと買物をして帰ろうかしら。案内して下さいません?」  「いいですわ、もちろん。何か必要な物でも?」  「いえ、何でもいいんですの」  「といいますと?」  「いえね、私ってスーパーで買物なんてしたことないんですの。だから、この間の撮《さつ》影《えい》で初めてやってみて、面《おも》白《しろ》いなあ、って……。カゴを手にさげて、ポンポン放り込《こ》んで行くでしょう。何だかいい気分でね。ぜひもう一度やってみたくなったんです」  そんなものか、と、政子は感心した。  結局、並子と政子に竜介付きで、大《だい》女《じよ》優《ゆう》のおともをするということになったのだが、ごく当り前の買物をするわけには、まるで行かなかった。  何しろ、歩いていると、ふっと目を引くだけの雰《ふん》囲《い》気《き》を身につけている。スーパーまで行きつかない内に、サインしてもらおうという主《しゆ》婦《ふ》たちが、長内ヤス子を取り囲んでしまった。  並子たちは少し離《はな》れて、その様子を眺《なが》めていた。  「これじゃスーパーは無《む》理《り》ね」  と政子は言った。  「そうね」  「でも、さすがじゃない? 大スターのムード、あるわ」  「そうね」  並子は、竜介を抱《だ》っこしながら、何やら考え込んでいる。  「どうしたの?」  「ううん、ちょっとね……」  並子は、また例によって、わけの分らない独《どく》白《はく》を呟《つぶや》くのだった。  「——助手が重要参考人として調べられてるんですって」  新聞を見ながら、政子が言った。「やっぱり、これが犯《はん》人《にん》なのかしら?」  「どうかしら」  竜介に添《そ》い寝《ね》しながら、並子が言った。「動機は?」  「そこね、分んないのは」  「まだ何一つ解《かい》決《けつ》しちゃいないわ」  並子は、大《たい》して関心のなさそうな調子で言った。  「今度はあんまり出る幕《まく》がなさそうね」  「だといいけど……」  「あら、珍《めずら》しい。いつも出たがるくせに」  「何よ、その言い方」  と、並子は苦《く》笑《しよう》した。「私だって、やりたくない事《じ》件《けん》もあるわ」  「へえ。ということは、この事件も、どんな事件か分ってるってこと?」  「その通り」  「それじゃ——」  と政子が言いかけたとき、玄関のチャイムが、あわただしく鳴らされた。 3  「じゃ、また撮《さつ》影《えい》を?」  と、並子が訊《き》き返した。  林絹江は、絶《ぜつ》望《ぼう》的な表《ひよう》情《じよう》で肯《うなず》いた。  「いやだって断《ことわ》ったんですけどね……」  「他の部《へ》屋《や》を使えばいいのにね」  と政子が言うと、絹江は、  「そうなんですよ! 私もそう言ったのに……」  「プロデューサーは何と言いました?」  「前の話の続《ぞく》編《へん》になるから。どうしても同じ部《へ》屋《や》でないと、って……。長内ヤス子も、そう希望してるんですって、謝《しや》礼《れい》をこの前の倍出すと言われて、主人がコロッと参っちゃって」  林絹江は渋《しぶ》い顔で、「全く、私の気持も知らないで!」  とグチった。  前はあんなに喜んでいたのに、と政子は内心おかしくてたまらなかった。  「それにしても、事件が解決してからにすればいいのに」  並子の言《こと》葉《ば》に、絹江は肯《うなず》いて、  「そうなんですよ! 私もね——迷《めい》信《しん》かもしれないけど、何だかまた何か起こりそうな気がして……。いやじゃありません? いくらこっちのせいじゃないと言っても、後《あと》味《あじ》は良くありませんものね」  「それで、私にどうしてほしいとおっしゃるんですの?」  「ええ……。あなたはお巡《まわ》りさんをご存《ぞん》知《じ》なんでしょう? 頼《たの》んでいただけないかしら? 撮影を中止するようにとか、せめて延《えん》期《き》してほしいって……」  「それは難《むずか》しいと思いますが。警《けい》察《さつ》だって、よほどの理由がないと、そこまで指《し》示《じ》できないでしょう」  「そうでしょうね」  と林絹江は、がっかりした様子で言った。  並子は少し考えてから、  「——向うは、いつから撮影に入ると言ってるんですか?」  「来週早々にも、って……」  「ずいぶん早いんですね」  政子がびっくりして言った。「だって、脚《きやく》本《ほん》を書くとか、色々準《じゆん》備《び》がいるんでしょう?」  「何だか、アッという間にやっちゃったらしいですよ。それに、台《だい》本《ほん》は撮《さつ》影《えい》を進めながらでも書ける、とか言って」  「ずいぶんめちゃくちゃな話ですね」  「——分りました」  並子が肯《うなず》いて、「一《いち》応《おう》、話をしてみましょう。どうなるか、お約《やく》束《そく》はできませんけれども」  「まあ、ありがたいわ!」  と、いささかオーバーに絹江が息をついた。  「——何だかおかしいわ」  林絹江が帰った後、並子が言った。  「何が?」  「林さんよ。ずいぶん気にしてるじゃないの、あの奥《おく》さんにしては」  「包《ほう》丁《ちよう》のことがあるから、気が気じゃないんでしょ」  「それにしても、警《けい》察《さつ》に話してまで、撮影をやめさせてくれというのは、少し大げさじゃない? 普《ふ》通《つう》は、警察に関《かかわ》り合うのを避《さ》けたがるものよ」  「そう言われてみれば、そうね」  と政子は肯いた。「じゃ、どうだっていうの?」  「あの人、何か知ってるのよ」  「何を?」  「たとえば、犯《はん》人《にん》を、とかさ」  並子は、あっさりと言った。「ちょっと出かけて来るわ。竜介を頼《たの》むわね」  「どこに行くの?」  「交番よ。片《かた》平《ひら》さんと話して来るわ」  「待ってよ、私も——」  「じゃ、政子、竜介を一人で置いて行けっていうの?」  「母親はどっちなのよ?」  と政子がむくれた。  「助手でしょ、我《が》慢《まん》、我慢」  と、並子が玄関の方へ行きかけると、  「ママ……」  と、竜介が欠伸《あくび》しながら、ヨタヨタと出て来た。  政子がニヤリと笑《わら》って、  「さ、竜介君、ママはお散歩だって。一《いつ》緒《しよ》に行こうね」  と抱《かか》え上げた。  「いや、あの助手はまだ吐《は》かないようですよ」  と片平巡《じゆん》査《さ》が言った。  いくつかの事《じ》件《けん》で、並子が手を貸《か》しているので、片平はすっかり並子のファンになっているのだ。  「確《たし》かに、あの女《じよ》優《ゆう》——何といいましたっけ?」  「長《なが》内《うち》ヤス子」  「そうそう、長内ヤス子から、包《ほう》丁《ちよう》を研《と》いでおいてくれと言われたのは認《みと》めてるんですが、それがいつの間にか、どこかへ消えちゃったと言ってるんですよ」  「消えた?——それは、どこで消えたの? 撮《さつ》影《えい》所で、とかスタジオとか——」  「いや、それがはっきりしないんです。撮影を終って、引き上げるとき、色々な物をワッと片《かた》付《づ》けたんですね。果《はた》してその中にあったかどうか、分らないというわけです。まあ、助手ってのは、ともかく忙《いそが》しいらしくって、そんなことすっかり忘《わす》れてしまったんですね。後になって、思い出し、捜《さが》してみたけど、どこにも見当らなかったらしいんですよ」  「で、それっきり——」  「ええ、次の仕事の準《じゆん》備《び》に追われていて、事件のことも知らなかった、と言っているようです」  「見通しはどうなんですか?」  「さて、どうかなあ」  と、片平は首をかしげた。「色々当っているようですが、その助手に、あのスーパーの店長を殺す動機があったかどうか、怪《あや》しいもんですよ」  「同感ね」  と、並子は肯《うなず》いた。「犯《はん》人《にん》は別にいるわ」  「というと——見《けん》当《とう》がついてるんですか?」  と片平が目を輝《かがや》かせる。「だったら、ぜひ教えて下さい」  「見当がついてるってわけじゃないのよ」  と、並子は微《ほほ》笑《え》んで首を振《ふ》った。  それから並子は、林絹江の話を片平へ伝えて、一《いち》応《おう》報告しておくという約《やく》束《そく》を取り付けると、やっと目が覚めて、駆《か》け回りたくてうずうずしている竜介の手を引いて歩き出した。  途《と》中《ちゆう》、滑《すべ》り台《だい》やブランコのある公園で竜介を遊ばせることにする。  「——並子、さっきは事件のこと分ってるって言ったじゃないの」  「うん」  「でも、片平さんには、見当がつかない、って——」  「見当が付いてるわけじゃないの。分ってるのよ」  と、並子は言った。  政子は絶《ぜつ》望《ぼう》的な気分で、空を仰《あお》いだ。名《めい》探《たん》偵《てい》というのは、どうしてこうも格《かつ》好《こう》をつけたがるのだろう?  「——あら、竜介君」  と声がして、やって来たのは、やはり近所で顔なじみの主《しゆ》婦《ふ》、川《かわ》名《な》令《れい》子《こ》だった。  竜介と同じくらいの女の子がいて、時々互《たが》いに行き来することもある。母親は太っていて、おっとりと呑《のん》気《き》だった。  「川名さん、今日はお休み?」  と並子が訊《き》く。  川名令子は、あのスーパーにパートで働いている。  「ええ、今日は主人が休みだから」  「あ、そうか。ご主人、サービス業だっておっしゃってたものね」  「そう。こんな日ぐらい、子供の相手をしてくれなきゃ」  川名令子は、竜介が遊んでいるのを、しばらく眺《なが》めていた。——並子が、ふと思い付いたように、  「そういえば、あの事件のあったとき、奥さんはあのお店にいたの?」  と訊《き》いた。  「え? ああ、あの日? いなかったわ。休みだったもの」  「そう」  「でも、ちょうどあのとき、店の中にいたのよ」  「あら、本当に?」  「ええ。——おかしいのよね、ああいうときって」  と、令子はクスッと笑《わら》った。「いえ、事件のときのことじゃなくて、普《ふ》段《だん》でも、たまにあそこで買物するでしょ、普《ふ》通《つう》の服で」  「ええ」  「そうすると、何となくこっちの顔を見る人が沢《たく》山《さん》いるの。——あれ、誰《だれ》だったかな、という顔してね、どこかで見た人だけど、って考え込《こ》んじゃう人もいるわ」  「いつも制《せい》服《ふく》だから分らないのよ」  「そうなのね。でも、何となく見《み》憶《おぼ》えがある……。ああいうときって、気になっていやなもんね。こっちも、わざと会《え》釈《しやく》して見せたりするの、向うはあわてちゃって、急いで頭をさげてから、必死で考えるわよ」  「買物を忘《わす》れちゃったりしてね」  「そうなりかねないんじゃない?」  と令子は笑《わら》った。  「——もう、新しい店長さんはみえてるの?」  「来たわよ。しばらくは代理だったから、何となくたるんでたけど、三日前かな、バリバリやろうって感じの人が来て、ハッパかけてたわ」  「またロケに使うのかしら?」  と政子が言うと、令子はキョトンとして、  「ロケって?」  と訊《き》く。  政子が、林絹江の話をしてやると、令子は顔をしかめた。  「いやね、縁《えん》起《ぎ》でもない!」  「ねえ、川名さん」  と、並子が言った。「ちょっとお願いがあるんだけど」  「なあに? 探《たん》偵《てい》さんに依《い》頼《らい》されるなんて、光栄だわ」  並子が探偵業に手を染《そ》めていることは、もちろん令子も知っているのである。  「からかわないでよ」  と並子は苦《く》笑《しよう》した。「あのね、もしあのスーパーでまたロケをすることになったら、そのときだけ、店員にしてほしいの」  「店員に?」  「そう。レジはちょっと無《む》理《り》だろうけど、ともかく制《せい》服《ふく》さえ着させてくれたら、適《てき》当《とう》にうろうろしてるから」  「それはいいけど……給料はどうするの?」  「無《む》給《きゆう》で結《けつ》構《こう》よ」  「それなら、私がこっそり制《せい》服《ふく》の余《あま》ってるのを貸《か》してあげるわよ」  「助かるわ。よろしく」  「もう一つ問題があるわよ」  と政子が口を挟《はさ》んだ。「竜介君はどうするの?」  回答は、政子にもよく分っていた。要するに、言ってみただけのことなのである。  林絹江の部《へ》屋《や》のドアは、開けっ放しになっていて、色々と人が出入りしていた。  「おーい、まだか?」  と、中から、苛《いら》立《だ》った声が飛び出して来る。  「すぐやります! すみません!」  と忙《いそが》しく駆《か》け回っているのは、助手だか助《じよ》監《かん》督《とく》だかであろう。  廊《ろう》下《か》に出て、タバコを喫《す》っているのは、ごくありふれた主《しゆ》婦《ふ》の格《かつ》好《こう》だが、間《ま》違《ちが》いなく、長《なが》内《うち》ヤス子である。  「——大変なのね、撮《さつ》影《えい》って」  少し離《はな》れた所で、その様子を、十人ほどの主婦が眺《なが》めている。その中に、並子も混《まざ》っていた。政子は下の砂《すな》場《ば》で竜介の相手をしている。  「あら、西沢さん」  という声に振《ふ》り向くと、林絹江である。  「まあ、追い出されてるんですか?」  「こっちから出て来たのよ。あんなもの、二度目にゃうんざりして来ちゃうわね」  絹江は本当にいや気がさしている様子だった。  「ずっと使うんですか」  「それが、ありがたいことに、長内ヤス子のスケジュールが詰《つま》っていて、今日一日しか撮《と》れないんですって。亭《てい》主《しゆ》はがっかりしてたけど、こっちは大助かりですよ」  「それであんなに忙しそうなんですね」  「早く終ってほしいわ、どうでもいいから」  と、絹江はため息をついて腕《うで》組《ぐ》みをした。  「じゃ、スーパーのロケはないのかしら、今回は」  「それが、やっぱりあるんですよ」  「まあ」  「さすがに、テレビ局の人なんかは、あのスーパーを使うのはやめようと思ってたらしいけど、長内ヤス子が、同じスーパーでないとおかしい、と言い張《は》ったんですって」  「どうしてでしょう」  「リアリズムとかいうやつらしいですよ、それが。——どんなスーパーだったか、なんて、誰《だれ》も憶《おぼ》えちゃいないでしょうにね」  「そうですね……」  並子は考え込みながら、「で、いつスーパーでロケをやるんですか?」  と訊《き》いた。  「明日、とか言ってたわね」  「ほら竜介! 口開けて!——ちゃんと食べてよ、もう!」  名《めい》探《たん》偵《てい》でも、思い通りにならない相手というのはいるものなのである。並子は、冷《さ》ましたうどんを息子の口へ何とか押《お》し込《こ》むと、フウッと息を吐《は》いた。  「——じゃ、明日はスーパーの臨《りん》時《じ》雇《やとい》になるわけ?」  と、政子が訊《き》いた。  例によって二人の夫たちは帰りが遅《おそ》いので、並子の所で夕食を共にしているのである。  「そういうことになるわね」  「手っ取り早く済《す》ませてよ」  「やってみなきゃ、分んないわよ」  並子は言い返した。  「だけど、あの店長さん、殺されるような人じゃなかったらしいじゃないの。動機の面からは、まるで手がかりなしの状《じよう》態《たい》らしい、って聞いたわ」  「そうでしょうね。三角関係だの、借金のもつれだの、って動機だけじゃないのよ。世の中には、他の人から見て、とても人を殺すほどのことじゃないと思えるような、ささいな理由で、やってしまう人だっているんだわ」  「まあ、十《じゆう》人《にん》十《と》色《いろ》ですものね」  「でも、いわゆる一《いつ》般《ぱん》的に理《り》解《かい》できる理由ってのがあるわけよ。そこから外れた動機は、ちょっと誰《だれ》も思い付かないような……」  「いつもそんなことばっかし言ってる! はっきり言いなさいよ、犯《はん》人《にん》知ってるんなら」  と政子は、熱いうどんをすすって、目を白《しろ》黒《くろ》させた。  「証《しよう》拠《こ》がなくちゃね。何の証拠もなしに人を殺人犯にできる?」  並子は時《と》計《けい》を見た。「——早く食べちゃおう」  「どうして? 誰《だれ》か来るの?」  と政子が訊《き》くと、タイミング良く、チャイムが鳴った。  並子が珍《めずら》しく立って行くと、川名令子を案内して来た。娘《むすめ》も一《いつ》緒《しよ》である。  仲《なか》間《ま》ができたので、たちまち竜介は遊びに熱中し始めた。 4  「ええ、万《まん》引《びき》はよくあるわよ」  と、令子は、うどんをすすりながら肯《うなず》いた。  「どんな人がやるの?」  と並子が訊《き》く。  「そうねえ。——子《こ》供《ども》が多いんじゃないかな、最近は」  「子供が?」  「小学生がお菓《か》子《し》をチョイとくすねたりね。——あんまり、悪いことしてる、って意《い》識《しき》がないから、却《かえ》って始《し》末《まつ》が悪いの」  「大人《おとな》はどう?」  「めったにないわ。だって、こういう団《だん》地《ち》のスーパーって、いつも同じ顔ぶれでしょ。そんなことして捕《つか》まったら、もう来られなくなるものね」  「たまにはあるわけ?」  「そりゃね——たいていは生理のときで少しおかしかったとか、そんなことだけど」  「最近、あった?」  「このところ、ないんじゃない?」  と令子は答えた。「——このおつゆ、どうやって作るの? おいしいわね」  「ね、よく考えて」  「え?——おつゆのこと?」  「違《ちが》うわよ。万《まん》引《びき》のこと」  「あ、そうか、そうね、そう言えば……少し前よ」  「いつ頃《ごろ》?」  「ええと……」  令子は、視《し》線《せん》を宙《ちゆう》に浮《う》かして、考えていた。「あ、例の殺人事件の少し前じゃなかったかな」  「やったのは、誰《だれ》?」  「私の知らない人よ。——そうね、あんまり見かけない顔だったわ」  「どんな人だった?」  「どんな、って言われても、ねえ……」  令子は困《こま》った顔で言った。「もう忘《わす》れちゃったわ。それに、そんなによく見たわけじゃないのよ。ただチラッと——」  「初めての客だったの?」  「そうじゃない……と思うわ」  と、令子は考え考え、言った。「見たことのある顔だな、って思ったのは、憶《おぼ》えてるの。でも、そうしばしば来る人じゃないっていうのは確《たし》かね。何度か見てれば、顔、憶えてるもの」  「万引を見付けたのは?」  「店長さんよ。——ああいうときは、他のお客の注意をひかないように、さり気《げ》なく、店の奥《おく》に連れて行くの。だから、店員以外の人は、ほとんど気が付かないんじゃない?」  「じゃ。そのときも店長さんがさり気なく——」  「ええ。だから、いつ出て行ったのか、私は気が付かなかったわ」  「その人のことで、他に何か聞かなかった?」  「そうね……。店長が何とか言ってたわ、そう言えば」  「何て言ってた? 思い出せない?」  並子は身を乗り出すようにして言った。  「ずいぶん熱心ね」  と、令子が呆《あき》れるように言った。「確《たし》か、妙《みよう》な物ばっかり買物袋《ぶくろ》へ放り込《こ》んでたって言ってたわ」  「妙な物?」  「つまり、普《ふ》通《つう》なら、一番万《まん》引《びき》しない物ね。安い割《わり》にかさばる、ティシュペーパーとか、紙コップ一個とか……。それに、冷《れい》凍《とう》食品もビニール袋に入れないで、そのまま放り込んであったとか。——そんな話だったわよ」  「やっぱりノイローゼくさいわね」  と、政子が言った。「妊《にん》娠《しん》中とか、気分の不安定な時期に良くあるって聞いたことあるわ」  「そんなわけでもなかったみたい。だから、変ってる、 って言ったんだと思うわ、 あの店長」  「その客をどこかで見たら、思い出せる?」  と、並子が訊《き》いた。  「うーん、ちょっと無《む》理《り》ね。『この人よ』って会わされれば、多少思い出すかもしれないけど、どこかでその人に会っても、それこそ、見たことのある人だな、と思って一日思い悩《なや》むんじゃないかしら」  「その程《てい》度《ど》ってわけね」  「どうして、そんなに万引に関心があるの?」  と、令子が不思議そうに訊《き》いた。  「やめといた方がいいわよ」  と政子が横から口を出す。「訊いたって、気が向かないと返事してくれないんだから、この方は」  「明日になれば分るわよ」  と、並子が言った。  しかし、いつもの名探偵とは違《ちが》って、ちょっと得《とく》意《い》げな、いたずらっぽい目の輝《かがや》きは、見えなかった……。  「もう少し待《たい》機《き》してて下さい」  と、スーパーに近い喫《きつ》茶《さ》店《てん》に、助手の一人が駆《か》け込んで来た。  「早くしろよ、時間がないんだぜ」  と監《かん》督《とく》がブツブツと文《もん》句《く》を言う。  「いいじゃないの、ロケのときは仕方ないわよ」  と長《なが》内《うち》ヤス子がのんびりと言った。  ここでコーヒーを飲みながら、準《じゆん》備《び》の整うのを待っているのである。長内ヤス子は、化《け》粧《しよう》っ気《け》もなく、一《いつ》見《けん》、平《へい》凡《ぼん》な主《しゆ》婦《ふ》というスタイルだった。  「悪いね、手ぎわが悪くて」  と、監督の方が気をつかっている。  「構《かま》わないわ。このロケは私が言い出したんだし」  長内ヤス子はそう言って、「ちょっと買物して来るわ」  と立ち上った。  「買物なら行かせるよ」  「いいの。自分で買って来たいのよ」  長内ヤス子は、買物カゴを手に、店から出て行った。  ——スーパーは、何となくざわついていた。いや、いつもざわついてはいるのだが、今日のざわつき方は、ちょっと違《ちが》っていた。  カメラが置いてあったり、ライトがセットされていたり、何となくスタジオの中、というムードなのである。買物客も、物《もの》珍《めずら》しそうに、機材を眺《なが》めている内、買物の方を忘《わす》れてしまいそうになったりしていた。  ——長内ヤス子は、店内用の黄色いカゴを手にさげて、ブラブラと棚《たな》の間を歩いていた。  誰《だれ》も気付かない。みんな、品物と値《ね》段《だん》の方に気を取られているので、すれ違《ちが》う平凡な主婦になど目を向けないのだ。  長内ヤス子は、目についたお菓《か》子《し》や、缶《かん》ジュースなどを、いくつか店内用のカゴの中へ入れた。別にほしいわけではないが、何も買わないというのもおかしなものだろう。  自分で買物することがないので、物の値段というのが、見当もつかない、見ても、安いのか高いのか分らない。  それだけに、ただぶらついていても、飽《あ》きるということがなかった。  「——お客様」  と声がした。「お客様」  長内ヤス子は振《ふ》り向いた。制《せい》服《ふく》を着た、若い店員が立っている。  「私を呼《よ》んだの?」  「そうです」  「何か用?」  「失礼ですけど、買物カゴの中を改めさせていただきます」  「どういうこと?」  「さっき、調味料のびんを、そちらの買物カゴに入れましたね」  長内ヤス子の顔がこわばった。  「何ですって? そんなことしませんよ!」  「見ていましたよ。ともかく、中を見せて下さい」  「失礼ね! 私が盗《ぬす》んだとでも言うの?」  「中を見せて下さい」  「さあ、好《す》きなだけ捜《さが》して」  長内ヤス子は買物カゴをその女店員に押《お》しつけた。店員はそのカゴの中を探って、小さなびんを取り出した。  「隣《となり》の棚《たな》の品ですね」  長内ヤス子は頬《ほお》を紅《こう》潮《ちよう》させた。  「知らないわ! そんなものとったりするもんですか!」  「でも実《じつ》際《さい》に——」  「入っていたらどうなのよ! きっと知らない内に転《ころが》り込《こ》んだんだわ」  「ともかく店長の所へおいで下さい」  と、店員が腕《うで》をつかもうとすると、長内ヤス子はそれを激《はげ》しく振《ふ》り払《はら》った。  「触《さわ》らないで!」  と大声を出す。  「お客様、声が——」  「私は知らないわよ!」  あまりの大声に、他の客たちが何となく集まって来た。長内ヤス子は、怒《いか》りに身を震《ふる》わせていた。  「ともかく、奥へいらして下さい」  と、店員は断《だん》固《こ》として言い張《は》る。  「私を誰《だれ》だと思ってるの! 長内ヤス子よ! 分った?」  一《いつ》瞬《しゆん》、周囲にどよめきが走った。しかし、店員の方は表《ひよう》情《じよう》一つ変えない。  「どなたでも同じです。万《まん》引《びき》していいってことはありませんわ」  と、長内ヤス子の腕《うで》をつかんで、奥へ連れて行こうとする。  「何するのよ! 放しなさい!」  と長内ヤス子は激《はげ》しく叫《さけ》んだ。「私に——この私にそんな真《ま》似《ね》して——ただじゃおかないわよ!」  「静かにして下さい!」  店員が、平《ひら》手《て》で長内ヤス子の頬《ほお》を打った。長内ヤス子の顔が、さっと青ざめたと思うと、  「やったわね!——殺してやる!」  と叫ぶなり店員に飛びかかった。不意を食らって、仰《あお》向《む》けに倒《たお》れた店員の上にかぶさるようにして、両手を首にかける。  「殺してやるから! あいつみたいに、殺してやる! あいつみたいに……」  ——誰《だれ》もが唖《あ》然《ぜん》として、その光景を眺《なが》めていた。TVのロケの一場面か何かだとでも思っていたのかもしれない。  長内ヤス子は、店員の首を絞《し》めつけた。店員は必死でもがいていたが、どうにもならない様子だった。  凄《すご》い勢いで飛び込んで来たのは、政子だった。全力で長内ヤス子へ体当りを食らわすと長内ヤス子は床《ゆか》へ転《ころが》って、棚《たな》にぶつかった。積み上げてあった缶《かん》詰《づめ》の山がドッと崩《くず》れて、長内ヤス子の上に落ちた。  「並子!——しっかりして!」  政子に抱《だ》きかかえられるようにして起き上ると、並子は苦しげに喉《のど》をさすった。  「ああ……サンキュー。助かったわ」  「良かった! 心配で来てみたのよ」  「——竜介は?」  「川名さんに抱《だ》っこしてもらっているから大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》」  「そう……」  並子は、よろけながら立ち上ると、床に座《すわ》り込《こ》んでいる長内ヤス子の方を見た。——虚《うつ》ろな目で、周囲の野《や》次《じ》馬《うま》を眺《なが》め回している。  「——彼《かの》女《じよ》が店長を殺したの?」  政子が、信じられない、という顔で訊《き》く。  「そう。——今よりも、ずっと厳《きび》しく調べられたんでしょうね。彼女にとっては、堪《た》え難《がた》い屈《くつ》辱《じよく》だったのよ」  ——長内ヤス子が微《ほほ》笑《え》んだ。それはスクリーンやブラウン管で、多くのファンを魅《み》了《りよう》した、あの笑《え》顔《がお》だった。  「へえ、林さんが手数料を一万円も払《はら》ってくれたの?」  と、政子が訊《き》いた。  「そうよ、私も今度は殺されかけたくらいだから、少し余《よ》分《ぶん》にいただいてもいいだろうと思ってね」  竜介を連れて、三人での買物帰りだった。  「長内ヤス子は予《あらかじ》め、リハーサルのつもりであのスーパーへ行ったわけね」  「そうよ、でも、初めてで買い方が分らないから、品物を自分の買物袋《ぶくろ》へ放り込んでた。それを見とがめられたわけね」  「気の毒ね、考えてみると」  「スターっていうのも大変だと思うわ。いつも人の目にさらされている。でも、人が見てくれなくなったら、それこそおしまいだしね」  「スターでなくて良かった」  と政子がしみじみと言った。  二人は少しして、何となく笑《わら》い出してしまった。  「でも本当よ」  と、並子が竜介の手を引きながら言った。「スターなんかより、探《たん》偵《てい》稼《か》業《ぎよう》の方が、どんなにいいか、分りゃしないわよ!」 こちら、団《だん》地《ち》探《たん》偵《てい》局《きよく》   赤《あか》川《がわ》次《じ》郎《ろう》 ------------------------------------------------------------------------------- 平成12年12月8日 発行 発行者  角川歴彦 発行所  株式会社 角川書店 〒102-8177 東京都千代田区富士見2-13-3 shoseki@kadokawa.co.jp Jiro AKAGAWA 2000 本電子書籍は下記にもとづいて制作しました 角川文庫『こちら、団地探偵局』昭和61年10月25日初版刊行 平成10年3月10日43版刊行