TITLE : かけぬける愛 本作品の全部または一部を無断で複製、転載、配信、送信したり、 ホームページ上に転載することを禁止します。また、本作品の内容 を無断で改変、改ざん等を行うことも禁止します。 本作品購入時にご承諾いただいた規約により、有償・無償にかかわ らず本作品を第三者に譲渡することはできません。  プロローグ  「まだ着かないの?」  じりじりしている声など、一向気にもとめる様子はなく、タクシーの運転手は、のんびりと、  「この時間は仕方ねえんだよ。どこを通ったって似《に》たようなもんさ」  と、少し流れ出した車の動きに合わせながら答えた。  「大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》よ、お母さん」  村《むら》山《やま》朋《とも》子《こ》は、母親をなだめるように言った。「まだ間に合うわ」  「でも、すれすれじゃ困《こま》るんだよ」  母の久《ひさ》代《よ》がのび上《あが》って、前の車の、気が遠くなるような行列を見やった。  そろそろ黄昏《たそがれ》時《どき》で、青《あお》紫《むらさき》の空に、丸の内ビル街《がい》の窓《まど》の明りが浮《う》かび上って見えた。  「ほら、もう駅が見えたわよ」  と朋子は言った。  「降《お》りて歩こうか」  「まだ遠すぎるわ」  と朋《とも》子《こ》が母の手を取る。「大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》。落ち着いて」  「朋子、そんな呑《のん》気《き》なことを……」  「お父さんがそんなことするわけないわ。思い過《す》ごしよ」  「お前には分らないのよ」  久代は、ろくに娘《むすめ》の言葉など耳に入らないようだった。  タクシーは、やっとスムーズに走り始めた。そこはプロの腕《うで》で、かなり混《こ》み合《あ》った道を、一気にスピードを上げて、他の車の間を縫《ぬ》って走って行った。  東京駅の前にタクシーが停《とま》ると、久代は先に降りて、駆《か》け出《だ》して行った。朋子は急いで財《さい》布《ふ》から五千円札《さつ》を出すと、  「おつり、いりませんから」  と手《て》渡《わた》して、母の後を追う。  「——お母さん! 入《にゆう》場《じよう》券《けん》、買わなきゃ入れないのよ!」  改札口の少し手前で、朋子はやっと母に追いついた。「待ってて、すぐ買って来るから」  「早くして。もう列車が出ちゃうから……」  母親が、これほど取《と》り乱《みだ》しているのを見たのは初めてだ。朋子は券《けん》売《ばい》機《き》の方へと走りながら、小《こ》銭《ぜに》入《い》れから硬《こう》貨《か》を出した。——入場券、入場券……。あそこだ。  二枚《まい》買って戻《もど》ると、もう久代は改札口の前で、居《い》ても立ってもいられない、という様子。  「さあ、入って。私《わたし》が出すから」  入場券にパンチを入れてもらっている間に、久代は通路を駆《か》け出《だ》していた。夕方の東京駅である。人ごみの中に、たちまち紛《まぎ》れてしまいそうになる。  朋子は人をかき分けて、やっと母に追いついた。  「まだ十分ぐらいあるわ、大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》よ」  「何番線だね?」  「十番。ずっと先よ」  「まあ、反対側から入ればよかったね」  久代はもう五十を越《こ》しているので、和《わ》服《ふく》姿《すがた》でもあり、急いだところでそう早くは進めない。朋子のように、OLとして毎日ラッシュアワーの電車やホームに慣《な》れている人間とは違《ちが》う。  「お前、先に行っておくれ」  息を切らしながら、久代が言った。「お父さんを見つけたら、放すんじゃないよ」  「じゃ、十番線よ、間違えないでね」  「分ってるよ」  朋子は、人の流れのわずかな隙《すき》を縫《ぬ》って、先を急いだ。国電ホームへの階《かい》段《だん》を過《す》ぎて、列車のホームの下まで来ると、混《こん》雑《ざつ》は大分楽になる。  〈10〉とある階《かい》段《だん》を、朋子は駆《か》け上った。  「まさか……お父さんが、そんなことを……」  息を弾《はず》ませながら、朋子は呟《つぶや》いた。  一七・〇〇発寝《しん》台《だい》特《とつ》急《きゆう》「みずほ」。これに父が乗っている、というのだった……。  発車五分前だった。ホームには、見送りの人と歓《かん》談《だん》する乗客の姿《すがた》が方々に見られた。朋子はともかく、ホームを端《はし》まで歩いてみることにした。  父親の姿なら、遠くから見てもすぐにそれと分るはずだ。ゆっくり見て回っている暇《ひま》はない。朋子は小走りにホームを駆け抜《ぬ》けた。  売店で週《しゆう》刊《かん》誌《し》を買う者、弁《べん》当《とう》を買う者、今になって荷物をかかえて駆《か》け込《こ》んで来る者。——中年の、背《せ》広《びろ》姿《すがた》の男《だん》性《せい》が通ると、朋子の目が一《いつ》瞬《しゆん》引きつけられた。だが、父の姿はなかった。  もう中にいるのだとしたら……朋子は手近な入口から列車の中へ入った。もう発車まであまり間がない。通路は人でふさがって、なかなか進めなかった。  「すみません……失礼します……」  一両、二両、三両——。アナウンスが、発車時間が近いので、見送りの人は列車から降《お》りるようにと促《うなが》していた。  もう二分ほどしかない。通路は却《かえ》って空いてしまったが、とても全車両を見て回ることはできない。  一分前になった。仕方ない。朋子はホームへ出た。母が、十メートルほど先で、オロオロと周囲を見回している。  「お母さん!」  「朋子! お父さんは?」  「見つからないわ。きっと乗ってないのよ」  「そうならいいけど……」  久代の口調は、全くそう信じてはいないことを物語っていた。——夫《ふう》婦《ふ》というものの、一種の勘《かん》なのだろう。夫《おつと》はここに来ている。久代はそう信じているらしかった。  ベルが鳴り出した。  「もう発車よ」  「乗ってるんだよ、きっと。あの女と一《いつ》緒《しよ》に……」  弁《べん》当《とう》を売っている手《て》押《お》し車が、近くで止まった。  「はい、二つで一千二百円。——どうも。三百円のお返しね」  「つりはいい」  と、答える声に、朋子の顔から血の気がひいた。  久代もそれを聞きつけていた。  弁当を二つかかえた父が、列車へ乗《の》り込《こ》もうとしている。  「お父さん!」  朋子の声に、乗車口へ片《かた》足《あし》をかけていた父が振《ふ》り返《かえ》って、愕《がく》然《ぜん》とした表《ひよう》情《じよう》になった。  「あなた!」  久代が駆《か》け寄《よ》ると、夫《おつと》の腕《うで》をつかんだ。  「久代、放せ!」  「誰《だれ》が放すもんですか」  久代が声を震《ふる》わせた。「自分が何をしてるのか、分ってるんですか、あなたは?」  「放っといてくれ!」  久代の手を振《ふ》り払《はら》おうとして、弁《べん》当《とう》がホームに落ちた。  「行かせませんよ! あんな女と——」  「そんな話は沢《たく》山《さん》だ!」  と、村山の方も、頬《ほお》を紅《こう》潮《ちよう》させている。  ベルが鳴り終えた。発車時間なのだ。  「お母さん——」  朋子が足を踏《ふ》み出《だ》した。同時に、父が母を突《つ》き飛《と》ばすのを、朋子は見た。母がよろけてホームに倒《たお》れる。  「お母さん!」  「いいから! お父さんをつかまえるんだよ!」  久代が叫《さけ》ぶように言った。だが、そのとき、ドアが滑《すべ》るように閉《と》じていた。  ゆっくりと列車が動き出す。  「しっかりして……」  抱《だ》き上《あ》げると、久代は、朋子の手を払いのけて、列車について歩き出した。  「危《あぶ》ないわ、お母さん」  列車がスピードを上げる。久代の足では、到《とう》底《てい》追い切れるものではなかった。  「お母さん! やめて!」  追いついた朋子は、母を抱きとめた。「もうむだよ!」  久代は、燃《も》えるような眼《まな》差《ざ》しで、遠ざかって行く列車を見送っていた。  二人はしばらく、そのままホームに立《た》ち尽《つ》くしていた。久代は急に全身の力が抜《ぬ》けたように、よろけて、朋子にもたれかかった。  「しっかりして。——歩ける?」  「ああ……大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》だよ」  母は泣《な》いてはいなかった。  「帰ろう。ね?」  「そうね。ここにいたって仕方ない」  もう、ホームには、ほとんど人の姿《すがた》がなくなっていた。もちろん、それも一時のことで、すぐにまた、次の列車の乗客たち、それを見送る人々でホームは溢《あふ》れるのだろう。  「朋子」  階《かい》段《だん》の方へと歩きながら、久代は言った。  「なあに?」  「お父さんの顔、見たかい」  「ええ……。あんな顔初めてよ」  「列車が動き出した後だよ」  「いいえ、そのときは見てないわ。お母さんが転ぶか、列車にはねられでもしたら、と思って気が気じゃなかったもの」  「お父さん、ずっとこっちを見ていたよ。さっさと席へ行っちゃえばいいのに、こっちを見ていたよ」  「そう」  「いつものお父さんの顔だったよ。済《す》まなそうにしてた」  久代の言葉は、不思議に、ほっとしたような調子になっていた。  「じゃ……きっと帰って来るわよ」  と朋子は言った。  「それはどうかね」  階《かい》段《だん》を、一段一段、踏《ふ》みしめるように降《お》りて行きながら、久代は、そっと息を吐《は》き出《だ》した。  「これっきり、帰って来ないと思うの?」  「帰れないだろ、お父さんのような性《せい》格《かく》の人は」  「女の方で飽《あ》きて別《わか》れるわよ、きっと。今はお父さんもわけが分らなくなっているのよ」  「平気で帰って来れるほど図太い人ならねえ、あの人が。——それが心配だよ」  「お父さんのことばっかり心配してるのね」  朋子は、わざと冗《じよう》談《だん》めかして言った。  「そうね。本当に、そうだねえ。——私《わたし》たちのことを心配しなきゃならないよ」  「お母さんはいいのよ。私がついてる。ね、あまりくよくよしないで。病気にひびくわ」  「もう、どうでもいいよ」  母は、不思議に明るい声で言った。朋子は、却《かえ》って、泣《な》き言《ごと》を言わない母に不安を覚えた。  改《かい》札《さつ》口《ぐち》を出ると、タクシーのりばの方へと歩いて行く。  「ねえ、朋子」  と、途《と》中《ちゆう》で足を止めた久代が言った。  「どうしたの?」  「今、何時なの?」  「五時……十五分くらい」  「そう。——少し早いけど、どこかで夕ご飯を食べて行こうかね」  「いいけど……でも……」  「お腹《なか》を空かしてたって、お父さんは帰っちゃ来ないからね」  久代は、笑《え》顔《がお》でそう言った。朋子は戸《と》惑《まど》ったが、せっかく母が気を取り直しているのだから、と、逆《さか》らわないことにした。  地《ち》下《か》街《がい》へ入って、ごくありきたりのレストランに席を見付けた。  「朋子、あの特《とつ》急《きゆう》は食堂車がついてるの?」  メニューを見ていた久代が訊《き》いた。  「ついてるわよ、もちろん」  「そう。それならいいけど……お弁《べん》当《とう》、落としちまったからね、お父さん」  女と逃《に》げた夫《おつと》の夕食のことまで心配している母の気持が、朋子には理《り》解《かい》できなかった。  夫《ふう》婦《ふ》というのは、こういうものなのだろうか?  「何を食べる、お母さん?」  そう訊《き》いて母の顔を見た朋子は、初めて、涙《なみだ》が母の頬《ほお》を伝っているのに気が付いた。 第一章 1  その朝は、いつもと同じように始まった。  村《むら》山《やま》朋《とも》子《こ》は、七時の目覚しで起こされてから、例によって十五分はベッドの中で体を伸《の》ばしたり、寝《ね》返《がえ》りを打ったりしていた。こうする内にやっと体の方も目が覚めて来る。  多少低《てい》血《けつ》圧《あつ》気味なので、調子が出るのに時間がかかる。加えて、いささかの二日《ふつか》酔《よい》と……。  昨夜は大学時代の友人と会って、久しぶりに飲んだ。元来がそうアルコールに強い方ではないのだが、このところしばらく離《はな》れていたせいもあってか、余《よ》計《けい》に回りが早かった。そうなると、今度は調子に乗って飲《の》み過《す》ぎた——というわけである。  「今日は休もうか……」  起き上ろうとして、激《はげ》しい頭《ず》痛《つう》に顔をしかめながら、朋子は呟《つぶや》いた。そこへベルが鳴って、あわてて目覚し時計へ手をのばしたが、もう止めたはずだ。気が付くと、親子電話が鳴っているのだった。  「朋子、起きないと遅《ち》刻《こく》ですよ」  受話器を上げると、母の声が飛び出して来た。  「はあい……」  母には、何となく二日《ふつか》酔《よい》なので休む、とは言い辛《づら》い。仕方なく、朋子は頭を思い切り振《ふ》って、起きることにした。  村山朋子は二十五歳《さい》である。今でも、少し若《わか》々《わか》しい服《ふく》装《そう》で歩くと女子大生と間《ま》違《ちが》えられるので、当人は若さの証《しよう》明《めい》だと自《じ》認《にん》し、友人たちは幼《おさな》さの故《ゆえ》だとからかう。  年《ねん》齢《れい》の割《わり》に小《こ》柄《がら》で、全体に学生っぽい雰《ふん》囲《い》気《き》があるのは事実だった。化《け》粧《しよう》も至《いた》って控《ひか》え目《め》だし、髪《かみ》も染《そ》めていないし、マニキュアなども、特《とく》別《べつ》の場合以外はしていなかった。  大きな眼《め》の黒い瞳《ひとみ》が、独《どく》特《とく》の濡《ぬ》れた光を映《うつ》していて、美人というよりは可愛《かわい》い顔立ちに、女らしい色《しき》彩《さい》を与《あた》えている。困《こま》ったときに、ちょっと唇《くちびる》を曲げると、左の頬《ほお》にえくぼができる。  その顔が素《す》敵《てき》だ、と惚《ほ》れられた経《けい》験《けん》も二度や三度ではない。しかし、朋子の方では、真《ま》面《じ》目《め》に恋《こい》だの愛だのといったことを考えるには、まだあれこれとしたいことが残っているのだ……。  その顔も、今は寝《ね》ぼけて、いささか恋もさめようかというところである。  二階の洗《せん》面《めん》所《じよ》で顔を洗《あら》って、やっと少しすっきりすると、手早く身《み》仕《じ》度《たく》を済《す》ませる。  七時四十五分には、階下のダイニングルームへ降《お》りて行った。  「おはよう」  とテーブルに着いて、もう食べ終えた皿《さら》があるのに気付いた。「お父さん、もう出かけたの?」  「どこか外へお出かけだって」  母親の久代がベーコンエッグを皿にのせて運んで来た。  「珍《めずら》しいね」  朋子の父、村山靖《やす》夫《お》は銀行の支《し》店《てん》長《ちよう》である。もちろん、のんびりと十時頃《ごろ》に出《しゆつ》勤《きん》するというわけにはいかない。八時半には、いつも銀行に到《とう》着《ちやく》している。  しかし、今の支店は、自《じ》宅《たく》から車で二十分ほどの所であり、都心の方へ、四十分ほどかけて通っている朋子より、出るのは遅《おそ》いのである。  「コーヒー、もう一杯《ぱい》?」  と久代が訊《き》く。  「うん、ありがとう」  久代が、朋子のカップの他に、もう一つのカップにもコーヒーを注《つ》ぐのを見て、  「お母さんはやめといたら、コーヒー?」  と朋子は言った。  「大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》よ、一杯ぐらい」  「じゃ、ミルク入れて、たっぷりね」  「分ってるわよ」  久代は椅《い》子《す》を引いて腰《こし》をかけると、ミルクを入れたアメリカンコーヒーをゆっくりと飲んだ。  年《ねん》齢《れい》相《そう》応《おう》に、老《ふ》けて、髪《かみ》も白くなりかけているが、どことなく育ちの良さ故《ゆえ》の若《わか》さを感じさせる。若さ、というより、あまり苦労を知らない者の無《む》邪《じや》気《き》さ、とでもいった方が近いかもしれない。  しかし、やや顔色が悪くて、きゃしゃな印象なのは、その通り、少し心《しん》臓《ぞう》が弱くて、無理のできない体《たい》質《しつ》だからなのである。  「今日は遅《おそ》くなる?」  と久代が言った。  「そんなことないと思うけど。——どうして?」  朋子が訊《き》き返《かえ》したのは、実は今夜は約《やく》束《そく》があったからなのである。しかし、母が具合が悪いとでもいうのなら、断《ことわ》ってもよかった。先に「約束があるの」とでも言おうものなら、決して母は本当のことを言わないからだ。  「別《べつ》に。夕ご飯の仕《し》度《たく》のことよ」  と久代は言った。  朋子は、何となく母が何かを隠《かく》しているという印象を受けた。しかし、時間に追われる朝に、そんなことをゆっくりと話している暇《ひま》はない。  「——あ、もう行かなきゃ」  朋子はコーヒーの残りを一気に飲《の》み干《ほ》して、席を立った。  「忘《わす》れ物《もの》はない?」  玄《げん》関《かん》まで送りに出て来た久代が言った。  「大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》よ」  朋子は靴《くつ》をはいて、「——本当に、今夜、用事があるんじゃないの?」  「何もないよ。出かけるなら出かけておいで」  朋子はちょっと迷《まよ》ってから、  「杉《すぎ》岡《おか》さんに誘《さそ》われてるの」  と言った。  「いいじゃないの。行っておいで」  「大丈夫? もし気分が良くないのだったら——」  「何ともないのよ。変な子ねえ」  と久代は笑《わら》った。  「ともかく電話するわ、行って来ます」  「気を付けて」  と母の声が、もう背《はい》後《ご》に遠ざかっている。  朋《とも》子《こ》は、格《こう》子《し》戸《ど》を横へ滑《すべ》らせて開け、表に出ると、またその戸を閉《し》めておいた。  真新しい住《じゆう》宅《たく》の目立つこの一角でも、村山家は、敷《しき》地《ち》の広さや、建物の白い、洒《しや》落《れ》た造《つく》りでひときわ目をひいた。  実《じつ》際《さい》はそれほどの大きな家ではないのだが、総《すべ》てにゆったりとした設《せつ》計《けい》で、住み心地は満点だった。ぜいたく、と言えばその通りで、何しろこの家に住んでいるのは親子三人なのだから。掃《そう》除《じ》などは、久代が疲《つか》れやすいので、一日おきに、家《か》政《せい》婦《ふ》が通って来る。  村山は、ずっと住《す》み込《こ》みで来てもらえと言っているのだが、久代が、他人を家の中に住まわせるのをいやがっているのである。  子《こ》供《ども》は娘《むすめ》二人。朋子が長女で、下に大学へ通う二十歳《はたち》の美《み》幸《ゆき》がいる。家が窮《きゆう》屈《くつ》だ、と、そう遠いわけでもないのに、大学の近くに下宿している。  秋の、爽《さわ》やかな朝だった。少し風は冷たいほどで、足取りも自然に早まる。  そう急がなくとも、充《じゆう》分《ぶん》に間に合う時間なのだが、やっとエンジンのかかった若《わか》い体が、自然に弾《はず》み出しているのである。  「いらっしゃいませ」  と、顔を上げた窓《まど》口《ぐち》の銀行員が、朋子の顔を見て、微《ほほ》笑《え》んだ。  「お願いします」  朋子は、通帳にメモを挟《はさ》んで差し出した。銀行員——二十七、八の、紺《こん》のスーツの似《に》合《あ》う青年だった——は、そのメモをチラリと見て、  「これでは引出しはできませんよ」  と、その用紙にボールペンを走らせて、朋子へ返してよこした。  「あら、そうですか。失礼しました」  朋子はメモと通帳を受け取って、カウンターを離《はな》れた。  昼休みの銀行は、近くのオフィスのOLやサラリーマンで混《こ》み合《あ》っている。朋子も、事《じ》務《む》服《ふく》のままで、同じビルの一階に入っているこの銀行へやって来たのである。  椅《い》子《す》は一《いつ》杯《ぱい》だった。朋子は、伝票類の並《なら》んだ台の所へ行ってメモを開いた。  朋子の字で、〈今夜は出られそう?〉とあり、そのそばに、〈七時に、いつもの店で〉という走り書きがあった。  あの窓《まど》口《ぐち》の銀行員が、杉《すぎ》岡《おか》である。杉岡友《とも》也《や》は、朋子の父の口ききでM銀行に入り、今はこの支店へ回って来ていた。  ちょうど、朋子の勤《つと》め先《さき》と同じビル、というのは、二人を一《いつ》緒《しよ》にさせようという父の工作ではなかったか、と朋子は思っているのだが、それはともかく、朋子と杉岡が一《いち》応《おう》将《しよう》来《らい》結《けつ》婚《こん》することになっているのは事実だった。  「銀行員だけはいや」  と言い続けて来た朋子だが、杉岡は幹《かん》部《ぶ》候《こう》補《ほ》生《せい》のエリートでありながら、暖《あたた》かいところのある好《こう》青《せい》年《ねん》で、年《ねん》齢《れい》的《てき》にもちょうどよく、一緒に腕《うで》を組んで歩いていればバランスのとれたハンサムな男《だん》性《せい》でもあるとなれば、拒《こば》み続《つづ》ける根《こん》拠《きよ》もないわけである。  夢《む》中《ちゆう》になる、というほど恋《こい》しているわけでもないが、結婚したいと思うに充《じゆう》分《ぶん》な程度には、朋子としても好意を抱《いだ》いていた。  朋子は銀行を出ると、腕時計を見た。まだ休みは二十分ある。コーヒーでも飲んで行こうか。  地下へ降《お》りて行くと、そば屋や中《ちゆう》華《か》などの食堂、喫《きつ》茶《さ》店《てん》があるのだが、そこへ入ると必ず会社の同《どう》僚《りよう》に会うので気が重い。同僚ならまだしも、上役が隣《となり》の席にでもいたら、少しも休みにはならない。  表に出て、隣のビルの一階のカフェテラスに行こう、と決めた。事《じ》務《む》服《ふく》のポケットの財《さい》布《ふ》を確かめ、ビルを出ようとして、思いがけない顔と出くわした。  「美《み》幸《ゆき》! どうしたの?」  妹の美幸が、セーターにジーパンスタイルで、やって来たのだった。  「どこかへ行くの?」  「お茶飲みによ。来るなら電話ぐらいしなさい。行《い》き違《ちが》いじゃないの、もう一歩で」  「近くまで来たからよ」  と美幸は言った。  体だけは朋子より大きい。発育がいい、というのか、朋子よりずっと女っぽい体つきをしている。そのくせ、甘《あま》えん坊《ぼう》の顔で、高校生ぐらいにいつも見られてはくさっているのだった。  朋子は、美幸が何をしに来たのか、見当がついていた。近くまで来たついで、などと言って、大学も下宿も、およそ見当外れの所にあるのだ。ちゃんと目的があって姉に会いに来たことはすぐに分る。それも、いささか言いにくい目的があって。  「——いくら欲《ほ》しいの」  席に落ち着いてコーヒーを注文すると、朋子は訊《き》いた。  「うーん、分っちゃうのかなあ」  美幸はちょっと照れたようにうつむいて、上目づかいに朋子を見た。  「いつものことだもの。分んなきゃどうかしてるわよ」  朋子は苦《にが》笑《わら》いして言った。「だめよ、むだ使いしちゃ」  「パーティやったもんだから、すっからかんになっちゃったの。ごめん、二枚《まい》貸《か》して」  「貸して、って言ったって、返さないんだから」  小言を言いながら、朋子は財《さい》布《ふ》を出して、一万円札を二枚渡《わた》した。「もう、次の仕送りまで絶《ぜつ》対《たい》にあげないわよ」  「分ってる。感《かん》謝《しや》してます、お姉さま」  おどけた調子で言って、さっさとバッグへ入れると、「杉岡さんはお元気?」  「ごまかさないで」  と、朋子はつい笑《わら》い出してしまった。「——今日は学校行かないの?」  「午後からなの。午前中休《きゆう》講《こう》だったから」  「いいわね学生は」  「あら、試験がないだけいいじゃない、お勤《つと》めの人って」  「あなたも勤めてみれば分るわよ」  「お母さん、どう?」  「そうそう、たまには電話かけてあげなさいよ」  「何やかやと忙《いそが》しいんだもの」  「電話かけるのに三十分もかからないんだから」  「具合、悪いの?」  「そうでもないみたい。でもお母さん、何も言わない人だから……」  「そうね。——じゃ、今夜でもかけるわ」  「たまには家で夕ご飯食べたら? 今夜は私《わたし》遅《おそ》くなるから、行ったら喜ぶわよ」  「今夜かあ……。約《やく》束《そく》しちゃってるんだもの……」  無理を言っても仕方ない、と朋子は思った。若《わか》い人にはそれなりの義《ぎ》理《り》や付き合いがあるのだ。  美幸が、ふと思い出したように、  「お父さん、病気でもしてるの?」  と言った。  「お父さんが? いいえ」  朋子が戸《と》惑《まど》って、「どうしてそんなこと訊《き》くの?」  「お父さんから借金しようかと思ってさ。電話したのよ、十時頃《ごろ》。そしたら、お休みだって——」  「変ね、出て行ったけど。じゃ、きっと外出してるのを、向うが間《ま》違《ちが》えたんじゃない?」  「そうか。お父さん、滅《めつ》多《た》に休まないじゃない。ちょっと心配になったの」  「いやに殊《しゆ》勝《しよう》なこと言うじゃないの」  と、朋子は冷やかすように言った。  美幸は美人という点では姉よりも上である。甘《あま》えん坊《ぼう》くささがぬけ切らないで、何かというと朋子に頼《たよ》って来るが、素《す》直《なお》で、のびのびと育っているところが、憎《にく》めない。誰《だれ》からも好《す》かれる、得《とく》な性《せい》格《かく》だった。  「杉岡さんとはいつ式を挙《あ》げるの?」  と、美幸が言った。  「まだ分らないわ。結《けつ》婚《こん》するって正式に話をしたわけじゃなし……」  「もうしてもいいんじゃないの?」  「早く片《かた》付《づ》けたいの?」  「お姉さんいなくなったら、あの家を乗っ取るんだ」  朋子は笑《わら》って、  「お好《す》きなように。どうせ銀行員は方々、転々とするんだから」  「本当に、当分まだしないつもり?」  「結婚?——そうね、そう差《さ》し迫《せま》ってもいないしね。まあ、子《こ》供《ども》生むのにはここ二、三年の内がいいんだろうけど……」  「高《こう》年《ねん》齢《れい》出《しゆつ》産《さん》は大変だってよ」  「今はそんなこともないでしょう。——あ、そろそろ時間だ。もう少しいる?」  「うん。まだ早《はや》過《す》ぎるから」  「じゃ、お金払《はら》っとくから」  朋子は立ち上って、伝票を取ると、「お母さんに電話してね」  と念を押《お》した。  店を出ると、通りから、ガラス戸越《ご》しに手を振《ふ》る美幸へ肯《うなず》いて見せ、急いで会社のビルへと戻《もど》った。もう一時を二、三分回っている。  ビルの七階が、朋子の職《しよく》場《ば》である。銀行の支店長の娘《むすめ》ということもあってか、経《けい》理《り》事《じ》務《む》を担《たん》当《とう》させられている。  入社当時は、経理の知《ち》識《しき》皆《かい》無《む》で、方々の講《こう》習《しゆう》や教室に通って、やっと一人前になった。  今はもう中《ちゆう》堅《けん》に近い立場である。ちょっと早《はや》過《す》ぎるとも思うが、やはり父のコネで入社したせいか、多少優《ゆう》遇《ぐう》されているというところがあるのは否《ひ》定《てい》できない。  しかし、そのせいで、とやかく言われたことはなかった。  「ああ、朋子さん」  隣《となり》の席の同期生、足《あ》立《だち》広《ひろ》子《こ》が声をかけて来た。「電話があったわよ。つい今しがた」  「誰《だれ》から?」  「お父さん」  「父から?」  「またかけるって」  父から電話。——何事だろう? 美幸の話を耳にした後だったので、ちょっと奇《き》妙《みよう》な気持にさせられた。  「すてきな声してるわね、あなたのお父さんって」  と、足立広子が言い出した。  「まあ、そうかしら? きっと喜ぶわ。TV電話でなくって幸いね」  足立広子は朋子の言葉に、声を立てて笑《わら》った。——同《どう》僚《りよう》としては至《いた》って気楽な、明るい性《せい》格《かく》で、朋子が杉岡と結《けつ》婚《こん》することになっていながら、なかなか踏《ふ》み切《き》れないでいるのとは対照的に、冬にスキー場で知り合った男《だん》性《せい》と、アッという間に一《いつ》緒《しよ》になってしまった。従《したが》って、足立というのは、新しい姓《せい》なのである。  伝票の整理を始めて、十五分ほどして、電話が鳴った。  「朋子か」  父の声だった。  「お父さん、何の用だったの?」  「銀行へかけて来たんじゃないのか、お前の方から」  「私《わたし》? かけないわ。——ああ、きっと美幸よ。さっき会ったとき、そう言ってたもの」  「そうか。娘《むすめ》さんから電話があったと聞いたものだから、てっきりお前かと思った。美幸が何の用だ?」  「どうってことないの。お小《こ》遣《づか》いをせびりたくなったんでしょう」  「そんなことか。で、何か言ってたか」  「私が少しあげたわ。お母さんには内《ない》緒《しよ》にね」  「分ってるさ。それじゃ——」  「ね、待って。お父さん、今日銀行を休んでるの? さっき美幸はそう言われたって……」  「今着いたところさ。ずっと表を回っていたから、休んでいると思われたんだろう」  「そう。——それならいいけど」  「美幸の奴《やつ》に会ったのなら、少しは家へ寄《よ》りつけと——」  「言っておいたわ。効《き》き目《め》があったかどうかはともかく、ね」  朋子は電話を切って、しばらくは仕事に専《せん》念《ねん》していたが、その内に、今の電話のことが気にかかり出して、どうにも落ち着かなくなって来た。  別《べつ》に電話の中味そのものはどうというものではない。しかし、考えてみると、父が電話をかけて来るということ自体、珍《めずら》しいことである。  村山は仕事一《ひと》筋《すじ》にここまでやって来た、と言っていい人間だ。もちろん、世代、ということもあるのだろうが、家族が職《しよく》場《ば》へ電話して来るのを、快《こころよ》くは思っていない。  それを——美幸は特《とく》に急用だなどとは言わないだろうが——いちいち向うからかけ直して来るというのは、どうもおかしい。  念のため、というよりは、電話をかけて来られるのがいやで、自分からかけて来たのではないかという気がした。  そうだ、と朋子は思った。——今の父の電話がどことなくおかしいように思えたのは、ほとんど周囲に音や声が聞こえなかったからだ。銀行はいつも店の中にBGMを流している。何かの用で父から電話があって出たときには、いつもその音楽が聞こえているのだ。だが、今の電話には、音楽だけでなく、店内のざわめきさえ聞こえなかった……。  別に、気にするほどのことではないのだ、と自分に言い聞かせてみるのだが、一向に仕事に身が入らない。  「——ちょっと、電話かけて来るわ」  と、朋子は広子へ言って立ち上った。  「彼《かれ》氏《し》?」  杉岡のことを多少は知っている広子が、冷やかすように言った。朋子は曖《あい》昧《まい》に笑《わら》って見せて、経《けい》理《り》部《ぶ》の部屋を出た。  ポケットの小《こ》銭《ぜに》を確《たし》かめて、エレベーターで一階に降《お》りる。赤電話で、父の支店へかけた。——馬《ば》鹿《か》げているとは思うが、どうにも気になって仕方ないのだ。  「——あ、もしもし。支店長をお願いします。——え?」  「本日は休《きゆう》暇《か》を取っておりますが、どちら様でいらっしゃいますか?」  「それでしたら結《けつ》構《こう》です」  「何かご伝言がございましたら承《うけたまわ》ります」  「いえ、またかけ直します」  朋子は受話器を置いた。——余分に入れた十円玉が戻《もど》ったのにも気付かなかった。 2  「——何だか考え込《こ》んでるね」  夕食のテーブルで、杉《すぎ》岡《おか》が言った。  「ごめんなさい。ちょっと……」  と朋《とも》子《こ》はワインのグラスをあけた。  「何かあったの、会社で」  朋子はちょっと迷《まよ》ってから言った。  「父のことが気になってるの」  「お父さん? 結《けつ》婚《こん》に反対なのかい?」  「違《ちが》うの。そんなことじゃないのよ」  と朋子は首を振《ふ》った。  「話してみてくれよ」  「うん……。何でもないことだ、と思うんだけど」  朋子は、父が銀行へ行くと言って、実《じつ》際《さい》には休んでいたことを話した。  「——こんなこと初めてだわ。何だか気になって」  杉岡はちょっと複《ふく》雑《ざつ》な表《ひよう》情《じよう》で、  「つまり、お父さんが何かしら……秘《ひ》密《みつ》を持ってるんじゃないか、って気にしてるんだね?」  秘密を持っている、か。いかにも杉岡らしい言い回しだ。  「はっきり言えば——浮《うわ》気《き》とか、ね」  「うーん、難《むずか》しいなあ、そういう問題は」  「父はあの通りの堅《かた》物《ぶつ》でしょう。もし、そんなことになっているとしたら……」  「そういう人は却《かえ》って危《あぶ》ない、と言うね」  「私《わたし》もそう思うの」  杉岡はタバコに火をつけて、ゆっくり煙《けむり》を吐《は》き出した。何か言おうとするときの時《じ》間《かん》稼《かせ》ぎである。  「どうすればいいと思う?」  と朋子は訊《き》いた。  「そうだなあ。ともかく、まず想《そう》像《ぞう》してるだけじゃ仕方ないよ。はっきりした事実をつかまなくちゃ」  「そうね」  「分ってみれば、どうってことはないのかもしれない。笑《わら》い話《ばなし》で済《す》むかもしれないしさ」  そうなってくれれば、 と朋子は思った。 しかし、 一種の予感のようなものが、 朋子にはあった  父がわざわざ朋子の会社へ電話して来たのは、おそらく後ろめたさがあったからではないのか。外から銀行へ電話を入れ、娘《むすめ》から電話がかかったと知って、あわててしまったのだろう。  「もし——本当に浮《うわ》気《き》していることが分ったら——」  「あんまり騒《さわ》がないことだよ」  と杉岡は言った。「男は時々そんな虫が起きることがあるんだ。君のお父さんは責《せき》任《にん》感《かん》の強い方だからね。無《む》茶《ちや》はしないさ」  「そうね」  ちょっと男の方に都合のいい議《ぎ》論《ろん》とも聞こえたが、確《たし》かに無《む》視《し》しておく——あるいは、それとなく、釘《くぎ》を刺《さ》しておくぐらいが、最も利《り》口《こう》な方法かもしれない、と思った。  だが、母にとっては、それでもいいだろうか? 体の弱い母に打《だ》撃《げき》になるのではないか。それが心配だった。  「何なら、僕《ぼく》がお父さんと話してみようか?」  と杉岡が言った。「男同士の方が、ざっくばらんな話ができるかもしれないよ」  「そうね。——そのときはお願いするかも……」  「いつでも言ってくれ」  朋子は、杉岡へ微《ほほ》笑《え》みかけた。いつもは優《やさ》しい代り、ちょっと頼《たよ》りなさを感じさせる杉岡だが、今日はずいぶん頼もしく見えた。  「——今夜はどうする?」  と杉岡が言った。  夕食の後、ちょっとしたスナックへ回るのが、いつものコースだった。そこは銀行員で、おかしいくらい、いつも決まっているのだ。  「今夜は……帰るわ。昨日も友達と飲んじゃって今《け》朝《さ》はちょっと残っちゃったし」  「そうか。じゃ、送ろう」  「早いから大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》よ」  「いや、これは決まりだからね」  朋子はちょっと笑《わら》った。  ——確《たし》かに、そう遅《おそ》い時間でなくとも、住《じゆう》宅《たく》地《ち》は夜が早い。道は割《わり》合《あい》と寂《さび》しいのだった。  「そろそろ僕《ぼく》らのことも決めておこうよ」  と杉岡が歩きながら言った。  「そうね。——妹にも催《さい》促《そく》されちゃった」  「美《み》幸《ゆき》さんに? じゃ、彼女《かのじよ》も誰《だれ》か相手がいるんじゃないのかな」  「まさか。——子《こ》供《ども》だもの、あの子は」  「そう思ってるのは親と姉さんだけかもしれないよ」  「おどかさないで」  と朋子は苦《く》笑《しよう》した。「まあどうせ卒業したって就《しゆう》職《しよく》する気はないと思うけど、あの子は——」  「じゃ、今の内に相手を見付けておくのもいいんじゃないのか」  「そうね」  朋子は何気なく答えた。今のところ、父のことの方が気がかりで、美幸のことにまで頭が回らなかった……。  家の前へ来て、朋子は言った。  「上って行ってほしいけど……」  「いいよ。今日は遠《えん》慮《りよ》しよう」  「そう? ごめんなさい」  「ともかく何か分ったら——」  杉岡がそう言いかけたとき、玄《げん》関《かん》のドアが急に開いた。  「——お父さん」  村山が、頬《ほお》を紅《こう》潮《ちよう》させて出て来た。朋子と杉岡の姿《すがた》を見ると、ピタリと足を止めた。  「どうしたの?」  「母さんに聞け」  父の声は上《うわ》ずっていた。「杉岡君、済《す》まんが失礼する」  「はあ」  「お父さん、どこに行くの」  「今は話している暇《ひま》がない」  村山は朋子と目を合わせないようにしているらしかった。足早に歩いて行く。  「お父さん!」  朋子は、父の後ろ姿へ呼《よ》びかけた。父は逃《に》げるように、足を早めた。  「今はそっとしておいた方がいいよ」  杉岡が朋子を止めた。  「ええ……。母の方が心配だわ」  「一《いつ》緒《しよ》にいようか?」  「——お願い。玄《げん》関《かん》まで来て」  「分った」  朋子は開けっ放しの玄関へ飛《と》び込《こ》んで行った。  「お母さん!」  靴《くつ》を脱《ぬ》ぎ捨《す》てるのももどかしく、居《い》間《ま》へ入って行く。母がソファに身じろぎもせず座《すわ》っていた。  「お母さん、どうしたの? 大丈夫?」  久代は、ゆっくりと朋子の方に顔を向けた。  「お帰り。杉岡さんは一緒じゃないの?」  ごく当り前の口調が、却《かえ》って不安をかき立てた。  「玄《げん》関《かん》に——」  「上っていただきなさい。失礼じゃないの」  と、久代は立ち上った。  少し青ざめてはいるが、平静を保っていた。  「お父さんはどこに行ったの?」  と朋子は訊《き》いた。  台所の方へ歩きかけた久代は足を止め、  「女の所だよ」  と、静かに言った。「前から分ってはいたんだけどね」  朋子は、何とも言う言葉がなかった。久代は玄関の方へ出て行った。  「杉岡さん、どうぞお上りになって——」  と、いつに変らぬ愛想の良い声が聞こえて来る。  朋子は自分でも分らない内に、ソファに座《すわ》り込《こ》んでいた。——父に女がいた。  それももちろんショックだったが、それ以上に、母がそのことを知っていたこと、そして自分がそれに気付かないでいたことの方が、朋子にはショックだった。  「さあさあ、どうぞ入って下さいね」  と、母が杉岡を案内して来る。「今、お茶を淹《い》れます」  「どうぞお構《かま》いなく。すぐに失礼しますから……」  「おかけになって。朋子、そんな所で何してるの」  ちょっと咎《とが》め立《だ》てするように言って、久代は台所の方へ姿《すがた》を消した。  杉岡が朋子の方へ、問いかけるような目を向けた。  「やっぱり心配してた通り」  と、朋子は低い声で言った。  「お母さんが、それに気付かれたんだね?」  「前から知っていたんですって」  「村山さんがねえ。——信じられないよ、全く」  「今はその話、しないでね」  母が戻《もど》って来そうな気配に、朋子はあわてて言った。  「うん、もちろん」  杉岡が肯《うなず》く。すぐに久代が盆《ぼん》を手にやって来た。  「びっくりさせちゃってごめんなさいね」  と、お茶を注ぎながら、久代が言い出す。  「いいえ」  杉岡としても何とも言いようがないのだろう。  「もう三か月以上になるかしらね、主人に女が出来て……」  久代は、まるで他人《ひと》事《ごと》のようにしゃべっている。「大体、隠《かく》したり嘘《うそ》ついたりするのが下手《へた》な人だもの。すぐに分りましたよ」  「私《わたし》、何も気が付かなかった」  と、朋子が言った。  「そりゃ朋子は子《こ》供《ども》だから。私は妻《つま》ですからね。すぐに分るわよ」  杉岡が、ちょっとおずおずとした様子で、  「僕《ぼく》に何かできることがあれば、おっしゃって下さい」  と言った。  「ご親切にどうも。でも、あの人は放っておけば帰って来ると思いますよ」  「責《せき》任《にん》感《かん》の強い方ですからね。きっと……」  「どういう女だか分っているの?」  と朋子は訊《き》いた。  「さあ、知らないわね。いちいち調べて歩くのも、何だか惨《みじ》めでしょう」  「——そっとしておくのが一番いいことかもしれませんね」  と、杉岡は当り障《さわ》りのない口調で言った。「じゃ、僕はこれで失礼します」  「あら、そうですか。——何だかごめんなさいね、妙《みよう》なことになって……」  「いいえ、とんでもありません」  朋子はホッとして、  「そこまで送って来るわ」  と言った。  「そうしておくれ。杉岡さん、またいらして下さいね」  朋子は、やはり杉岡に、あまり家庭内の問題をさらけ出したくはなかった。いくら結《けつ》婚《こん》するつもりの相手とはいえ、今はまだ他人なのだ。  「——もう、ここでいいよ」  杉岡は足を止めて言った。「ここならお宅《たく》の玄《げん》関《かん》が見えてるからね。これ以上行くと、また僕が送って行かなきゃならなくなっちゃう」  「ええ、それじゃ。ここで……」  と、朋子は言った。「——このことは、あなたのお家《うち》の方には黙《だま》っていてね」  「もちろんだよ」  杉岡はちょっと微《ほほ》笑《え》んだ。「そう深《しん》刻《こく》そうな顔をしないで。大したことじゃないだろうから」  「ええ。私《わたし》が心配なのは……母のことだけなの」  「しっかりしていらっしゃるじゃないか」  そう見えるのは、客の前で、気が張《は》っているからなのだ、と朋子には分っていたが、そこまで杉岡に話してみたところでどうにもならない。  「じゃ、おやすみなさい」  と朋子は言った。  「じゃあ……」  杉岡が、素《す》早《ばや》く、朋子の頬《ほお》に唇《くちびる》を触《ふ》れた。  もちろん、朋子は杉岡と深い仲《なか》になっているわけではない。こうしておやすみのキスぐらいするのは、習《しゆう》慣《かん》になっているのだが。  今夜は、もちろん父の事が気になって、朋子は胸《むね》をときめかせる余《よ》裕《ゆう》もなかった。  「また明日、電話するよ」  「ええ」  朋子は肯《うなず》いて、やっと微《ほほ》笑《え》んだ。  家へ戻《もど》って、居《い》間《ま》へ入ってみると、母はソファに身を沈《しず》めて、目を閉《と》じていた。  「お母さん、どうしたの?」  朋子は不安になって声をかけた。  「ああ、戻ったの」  久代は目を開けて微笑んだ。「——悪かったね、杉岡さんには」  「いいのよ、そんなこと。大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》?」  「ちょっと疲《つか》れただけよ」  「——お父さんもひどいわ」  朋子は、やっと今になって、そのショックが肌《はだ》に感じられて来た。  「真《ま》面《じ》目《め》な人だったものね、お父さんは」  と、久代は言った。「三十年この方、真面目に仕事一《ひと》筋《すじ》に打《う》ち込《こ》んで来て……。遊び一つしなかったからねえ。一度ぐらいは仕方ないのかもしれないよ」  「お母さんまでそんなこと言っちゃ仕方ないじゃないの」  朋子は苦《にが》笑《わら》いした。——育ちの良い母には、そんなことで取《と》り乱《みだ》すのはプライドが許《ゆる》さない、というところがあるのだ。  しかし、分らない。父が——あの、優《やさ》しくて穏《おだ》やかな父が、こんなことをして、家を出て行ってしまうとは。  「お父さん、今夜は——」  「今夜は帰らないだろうね、きっと」  と言って、久代は立ち上った。「さあ、お風《ふ》呂《ろ》の火を点《つ》けなきゃ」  居《い》間《ま》を出て行こうとして、久代は振《ふ》り返《かえ》った。  「このこと、美幸には言っちゃいけないよ」  と言って、歩いて行った。  朋子は一人、居間に残って、しばらく動けなかった。  「——心配事?」  同《どう》僚《りよう》の足《あ》立《だち》広《ひろ》子《こ》が、気にして声をかけて来た。朋子は、ちょっとの間、それに気付かなかった。いや、聞こえていたのに、理《り》解《かい》できなかったのである。  「——あ、ごめんなさい。何て言ったの?」  「どうしたのよ。様子がおかしいわ」  「ちょっと、ね……」  朋子は曖《あい》昧《まい》に呟《つぶや》いて、仕事に戻《もど》った。  伝票の計算などは間《ま》違《ちが》いなく済《す》ませている。習《しゆう》慣《かん》で、考えなくても、指の方が正《せい》確《かく》に動いてくれるのだ。  あまり眠《ねむ》っていないというのも事実である。母は、帰って来ないと言ったが、万一——と、物音が聞こえて来る度《たび》に、耳を澄《す》ませていたのだ。  しかし、父は結局、帰って来なかった。  母は早々に床《とこ》に入ってしまったようだったが、やはりあまり眠れなかったらしいのは、朝の、充《じゆう》血《けつ》した眼《め》で分った。  今日、父は銀行へ行っているのだろうか? よほど支店へ電話してみようと思ったのだが、何かが朋子を押《お》し止《とど》めた。——一体どうなってしまうのだろう?  これまで、平和で、揺《ゆ》るぎようのない、確《たし》かなものだった〈家庭〉が、たった一夜で、熱い紅《こう》茶《ちや》に浸《ひた》された角《かく》砂《ざ》糖《とう》のように、崩《くず》れて行く。それを目の前にしながら、朋子にはどうすることもできないのだ。  もちろん、どの家庭も何かしら問題をかかえているものであり、自分の所ばかりが例外であるとは、考えていない。しかし、まさかこうも突《とつ》然《ぜん》に、これほどの事《じ》態《たい》がやって来るとは、想像もつかなかったのだ。  だが、事態は、遥《はる》か先へと進もうとしていた……。  「——電話よ」  と、足立広子が言った。  朋子は、電話が鳴ったのにも気付かなかった。広子と二人で一台の電話を使っていて、朋子の方が動作が素《す》早《ばや》いので、電話が鳴ったときには、朋子が取るのが、いわば慣《かん》例《れい》になっていたのだが。  「ごめんなさい」  「彼《かれ》氏《し》から」  広子の手から受話器を受け取ると、本当に杉岡からだった。というのも、広子は時々朋子をからかって、仕事の電話なのに、  「お友達からよ」  などと澄《す》まして言うことがあるからだ。  「杉岡さん、昨日はどうも——」  と言いかけると、  「お父さん、どうした?」  と訊《き》いてきた。  「分らないわ。帰って来なかったの、ゆうべは」  「そうか……」  杉岡は、ちょっとためらってから、「今、支店へ電話してみたけど、休みだと言われたんだ」  「そう……」  「連《れん》絡《らく》、取れないの?」  「私《わたし》は全然知らないの。母もたぶん……分らないと思うわ」  「それじゃ仕方ないなあ」  と杉岡はため息をついた。  「何かまずいことでも?」  「いや——そういうわけじゃないんだけど——」  杉岡の言葉はやや歯切れが悪かったが、朋子としても、そこまで気にしている余《よ》裕《ゆう》がなかった。  「ともかく、もし連《れん》絡《らく》が取れたら、僕《ぼく》に教えてくれないか」  「ええ、分かったわ」  と朋子は言った。  「お母さんの具合は?」  「何とか大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》。今のところは」  「それならいいけど、また電話するよ」  「ええ」  電話を切ってから、朋子は、なぜ杉岡がわざわざ電話して来たのだろう、と不思議に思った。もちろん、単純に朋子の家のことを心配しただけかもしれないが。  家に電話するのも、何だか不安だった。帰ってみれば、もう父がいて、いつもの通りにTVを見ながら、将《しよう》棋《ぎ》の本をめくっているのではないか、という気がした。今、電話などかければ、その幻《まぼろし》がシャボン玉のようにはじけて消えてしまうのではないか。なぜか分らないが、朋子にはそんな気がしたのである。  杉岡から二度目の電話があったのは、午後四時になろうとするところだった。  「どうも大変なことになりそうだよ」  杉岡の声はいつになく真《しん》剣《けん》で、切《せつ》迫《ぱく》していた。  「どうしたの? 父が何か——」  「お父さんは今夜の寝《しん》台《だい》特《とつ》急《きゆう》の切《きつ》符《ぷ》を予約しているらしい」  「寝台?——でも——」  「二枚《まい》だ。もしかして、その女《じよ》性《せい》と二人で姿《すがた》を消すつもりだったら……」  「まさか! 父はそんなことする人じゃないわ」  思わず大きな声になって、隣《となり》の広子が朋子の方を見た。  「ともかく駅へ行った方がいいんじゃないかな」  「そうするわ、ありがとう」  「一七・〇〇発の〈みずほ〉だ。分るね」  「メモしたわ。すぐに行ってみる」  朋子は、一《いつ》旦《たん》電話を切ると、すぐに母へと電話をかけた。「今から東京駅へ行くから」  「私《わたし》も行くよ」  と久代が言った。  「でも遅《おそ》くなるわ」  「車なら、三十分ぐらいでそっちへ行けるでしょう」  「そうね。——どうせここを通るし。分ったわ。じゃビルの前で待ってるから……」  「今すぐに出るからね」  母の、こんなに張《は》りつめた声を聞くのは初めてだ、と朋子は思った。  朋子は早《そう》退《たい》届《とどけ》を書いた。ボールペンを持つ手が震《ふる》えた。父が女と二人でどこかへ行こうとしている。——そんなことがあるはずはない!  「何があったの?」  と、広子が心配そうに訊《き》いた。  最初は好《こう》奇《き》心《しん》だったものが、今は本当に心配そうな表《ひよう》情《じよう》に変っている。よほどのことが起きたと分っているのだろう。  「家の方でごたごたがあって……。早退するわ」  「大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》よ、後は」  「お願い」  届を出すと、課長はけげんな顔で、  「何か——」  と訊きかけたが、朋子は、  「よろしくお願いします」  と頭を下げて、さっさと戻《もど》って来てしまった。説明する気にはなれない。  仕《し》度《たく》をして、ビルの一階へ出る。  表の通りに、車がつながっていた。——これではだめだ。朋子は急いで自《じ》宅《たく》へ電話したが、もう久代は出た後らしかった。  電車で来いと言うべきだった。ビルの前で、じりじりしながら、朋子は母を待ち続けた……。 3  雨になった。  よく晴れていた前の一週間が、まるでどこか別《べつ》の世界だったかのように、前の日から、雨はいつやむともなく降《ふ》り続けている。  朋《とも》子《こ》は、ヒーターのスイッチを入れた。晴れれば汗《あせ》ばむほどに暖《あたた》かい日もあるのだが、こうして灰《はい》色《いろ》の海に浸《ひた》ったような日には、底冷えのする寒さになる。  晩《ばん》秋《しゆう》だった。  ヒーターが、チリン、チリンと風《ふう》鈴《りん》か何かのような音をたてて、生《なま》温《ぬる》い風が吹《ふ》き出して来た。カーテンを引いたままの居《い》間《ま》は、薄《うす》暗《ぐら》くて、いっそう陰《いん》気《き》だった。  昼間だが、こんな日は構《かま》わないだろう。朋子は明りを点《つ》けた。  明るくなると、陰《いん》気《き》さの代りに、虚《むな》しい寂《さび》しさが居間に満ちる。どちらも寒々とした日には似《に》合《あ》っているかもしれない。  朋子はぼんやりとソファに座《すわ》っていた。以前は、どちらかといえば、てきぱきとよく動いたのだが、このところ、こうして何もせずに時間を過《す》ごすことが多くなった。  父がいなくなって、二週間たった。父の消《しよう》息《そく》は全く知れなかった。杉岡が調べてくれて、父が女と二人で、大《おお》阪《さか》で特《とつ》急《きゆう》を降《お》りたことは分ったのだが、その先は一向に知れない。  大阪の群《ぐん》集《しゆう》に紛《まぎ》れ込《こ》んでしまったのか、それとも、そこからまたどこか地方へと、人目を避《さ》けて入って行ったのか。  父のいない家が、こんなにも暗く見えるものかと、朋子は思った。どこにいても、母と二人でいても、この家が自分の家だという実感が、ないのである。何か、他人の家に上って、早く帰らなければならない、という気にさせられてしまう。  もともとが無《む》口《くち》で、あまり目立たない父であったが、それでいて、こうも重い存《そん》在《ざい》だったのか、と朋子は思った。  玄《げん》関《かん》の方で物音がした。  「お母さん?」  と訊《き》きながら、出て行くと、妹の美《み》幸《ゆき》である。  相変らず、ジーンズにジャンパーというスタイルで、  「お姉さん、どうしたの? 会社でしょ、今日は」  と靴《くつ》を脱ぐ。「ああ、寒い」  「休んだのよ。あなたこそ、学校は?」  「いいの、少しぐらいさぼっても。お母さん、出かけたの?」  「うん。お昼食べた? 何か食べるのなら——」  「今、軽く食べて来たからいい」  美幸は居《い》間《ま》へ入ると、ソファに寝《ね》そべった。  「何よ、怠《たい》惰《だ》な格《かつ》好《こう》ね」  と、朋子はつい笑《わら》った。  「どうしてカーテン閉《し》めとくの? まだ昼なのに」  「この天気じゃ、開けといたって同じよ。じゃ、コーヒーでも淹《い》れようか」  美幸がちょっとためらって、  「普《ふ》通《つう》のお茶でいい」  と言った。  「あら、好《この》みが変ったの?」  「今、ちょっとお腹《なか》の調子が悪くって」  「冷えたんじゃないの? じゃ、お茶淹れて来る」  台所へ行って、やかんをガスにかける。——一番訊《き》きたいことを、美幸は訊かない。朋子の方からも話そうとはしない。  「お茶《ちや》菓《が》子《し》がないけどね……」  お盆《ぼん》に、お茶とあられをのせて戻《もど》ってみると、美幸はTVをじっと見ていた。いわゆるワイドショーという番組だ。  「お茶、飲んだら?」  「うん、冷《さ》めてから」  「そうか。猫《ねこ》舌《じた》だものね」  熱い茶が好《す》きな朋子は、そっとお茶をすすりながら、「学校、どう?」  と言った。  「どう、って……別《べつ》に。何か意味のある質《しつ》問《もん》なの?」  「そうじゃないわ。訊《き》いてみただけ」  美幸が、珍《めずら》しく少し苛《いら》立《だ》っている。朋子は急いで首を振《ふ》った。  それきり、二人はしばらく黙《だま》り込《こ》んだ。  「これに出ようか」  と美幸が、やっとお茶を一口飲んで、言った。  「え?」  「これ、ほら」  と、TVの方を顎《あご》で指して見せ、「蒸《じよう》発《はつ》した妻《つま》に呼《よ》びかける夫《おつと》の姿《すがた》。——哀《あわ》れねえ。見て、泣《な》いてるわよ」  「よしなさいよ、そんな番組」  「いいじゃない。他人も不幸だって分ると慰《なぐさ》められるわ」  「趣《しゆ》味《み》悪いわよ」  美幸は、それでもTVを消そうとはしなかった。そして、TVの、そのコーナーが終ると、  「お母さん、どこに行ったの?」  と訊《き》いた。  「銀行よ。——田《た》沢《ざわ》さんから呼ばれて」  「田沢さん?」  「副《ふく》頭《とう》取《どり》じゃないの。会ったことあるでしょ、あなたも?」  「憶《おぼ》えてないわ。ともかく偉《えら》い人なのね、銀行の?」  「そうよ、もちろん」  「お母さんに何の話?」  「さあ、分らないわ。もう帰って来ると思うんだけど。それがあるんで、今日は家にいてくれ、って言われたのよ」  「それで会社休んだの?——お父さん、連《れん》絡《らく》して来た?」  朋子は黙《だま》って首を振《ふ》った。  「そうね。あれば言うよね、そっちから」  美幸はそう言って、立って行くと、TVを消した。  「美幸、何か用で来たの?」  「え?——ああ、決まってるじゃない。月《ヽ》給《ヽ》日《ヽ》だもの」  「ああ、そうか」  と朋子はちょっと笑《わら》った。  「お父さん、何という女と逃《に》げたの?」  ソファに戻《もど》ると、美幸が言った。「調べたんでしょ?」  「杉岡さんが調べてくれてるわ。でも——分ったところで、お父さんが戻る気がなかったら……」  「一緒に死んだんじゃないだろうね」  美幸の言葉に、朋子は息が止まるほどのショックを受けた。そんなことは考えてもみなかったのだ。父と女が心《しん》中《じゆう》……。  「まさか、そんなこと——」  と言いかけたとき、玄《げん》関《かん》のドアが開く音がした。  「帰って来た」  美幸が先に出て行く。「お帰り」  「あら、美幸、来てたの?」  久《ひさ》代《よ》は傘《かさ》を傘立てに入れて、「よく降《ふ》るし、寒いし……本当にいやね。すっかり冷えちゃったわ」  「居《い》間《ま》が暖《あたた》かいよ。お茶淹《い》れようか」  「ありがとう。——朋子。お前が呼《よ》んだの?」  「違《ちが》うわ。勝手に来たのよ。お小《こ》遣《づか》いの日だからって」  「あ、そうだったね。ちょうど良かった。美幸も呼んでやらなきゃと思ってたんだよ」  「田沢さんのお話、何だって?」  「ちょっと待っておくれ。少し暖まってから……」  ソファに身を沈《しず》めて、久代は目を閉《と》じた。しっかりしてはいるものの、かなりの疲《ひ》労《ろう》が、全身に重くのしかかっているようだった。  美幸が運んで来た熱いお茶を、ゆっくりと飲んで、息を吐《は》き出《だ》した。  「やっと生き返ったよ。——表は寒いものね」  「お母さん」  と、美幸が、ちょっとじりじりしている様子で、「何の話だったの?」  とせかした。  「お前たちにはできるだけ苦労をかけたくはないんだけどね……」  久代は、諦《あきら》めの微《び》笑《しよう》らしきものを浮《う》かべていた。  「何かあったのね」  「お父さんは銀行のお金を使《つか》い込《こ》んでいたらしいんだよ」  朋子と美幸は、つい無《む》意《い》識《しき》の内に、顔を見合わせていた。  「お父さんが!——信じられないわ」  朋子は動《どう》揺《よう》して声が震《ふる》えているのが分った。「いくらぐらい?」  「一億円ぐらいだとさ」  久代は、まるでスーパーでの買物の値《ね》段《だん》でも言うように、あっさりと言った。  一億……。朋子は、驚《おどろ》くこともできないでいた。あの父が、生《き》真《ま》面《じ》目《め》な、至《いた》って気の弱い父が……。  「ともかく、全《ぜん》額《がく》はとても無理だとしても……」  と、久代は続けた。「作れるだけのお金は作って返さなきゃならない。そうすれば、警《けい》察《さつ》沙《ざ》汰《た》にはならないで済《す》むだろうね」  「届《とど》けていないのね?」  銀行は何よりも体面を重んじる。一《いつ》介《かい》の行員ならともかく、支店長が大金を使い込んだことがニュースになれば、銀行全体の信用にかかわる。  「お父さんは、お金を持って逃《に》げてるの?」  と、美幸が訊《き》いた。  「大して持ってないと思うよ」  と、久代は首を振《ふ》って、「今、まだ調べてる最中だそうだけど、かなり長い期間にわたってるらしいから……。残ってるお金はそうないんじゃないのかね」  「長い期間? じゃ、女とのことも、その間ずっと?」  と朋子は言った。  「そうらしいよ。私《わたし》は全然気が付かなかったけどね。だめねえ、こんな女《によう》房《ぼう》じゃ」  「お母さんったら、呑《のん》気《き》なことばっかり言って……」  美幸が久代をにらんで、「私たちはどうなるの?」  と言った。  「それが私も辛《つら》いんだよ」  と、久代がため息をついた。「ともかく行内の預《よ》金《きん》は全部押《おさ》えられる。それにこの家……」  「家まで?」  と、美幸が目を見《み》張《は》った。「そんな……ひどいじゃないの!」  「仕方ないよ」  と久代は静かに言った。「一億円だからね、何しろ。預金とこの家、土地……。でも、ここもまだ完全に自分のものじゃないからね……」  しばらく三人は沈《ちん》黙《もく》した。朋子は、これが悪い夢《ゆめ》であってくれたら、と思った。  家を失う。——それは、まるで一《いつ》瞬《しゆん》の内に世界がひっくり返ってしまうのにも等しかった。  「お母さん」  と朋子は言った。「預金がゼロになるのは仕方ないけど……何とか残りのお金は工《く》面《めん》できないかしら。この家を担《たん》保《ぽ》にして、借りられない?」  「そうよ」  と、美幸が言った。「親《しん》戚《せき》の人から借りようよ。叔父《おじ》さんなんか、お金持ってるじゃないの」  「借りて、どうやって返すの?」  と久代は言った。  朋子と美幸は目を伏《ふ》せた。  「返せるあてもないのに、お金なんか貸《か》してくれる人はいませんよ」  「でも、叔父さんや京都の叔母さんなら、できたときに返すと言って——」  久代は美幸を遮《さえぎ》るように、首を振《ふ》った。  「もう、それは頼《たの》んでみたの」  「じゃ、お母さん……」  「昨日ね、杉岡さんが電話をくれたのよ」  「杉岡さんが?」  「本当なら教えちゃいけないらしいんだけど、田沢さんに会う前に知っていた方がいいだろうから、といってね。一億円近いお金のことも教えてくれたんだよ」  「それで、叔父《おじ》さんにも頼んでみたの?」  「頼んだけど、あちらもそう余《よ》裕《ゆう》はないようでね」  「でも、叔父さんの会社が潰《つぶ》れそうになったとき、お父さんが無《む》理《り》して助けてあげたんじゃないの」  「それはそれよ」  「勝手ね!」  美幸は青ざめていた。ショックと憤《いきどお》りで、声が震《ふる》えている。  「仕方ないわよ、みんな自分の生活があるんだから」  「叔母さんの所も?——だめなのね」  久代は軽く肯《うなず》いて、  「ともかく、心当りはみんな当ってみたの。でもねえ……一人も見《み》込《こ》みのありそうな人はいなかったよ」  「じゃ、どうなるのよ、私《わたし》たち!」  美幸が叫《さけ》ぶように言って、唇《くちびる》をかんだ。涙《なみだ》が溢《あふ》れ出て来る。  「落ち着きなさい。何とかなるわよ」  久代は、美幸の肩《かた》へ手を置いた。  朋子にしても、ショックは同じだ。しかし、ここでただ呆《ぼう》然《ぜん》としていても仕方ない。  ともかく、冷静になるのだ。美幸は学生で——まだ子《こ》供《ども》だ。母にしても、実際の生活力、働いて、食べて行く、ということは全くできない人なのである。  私がしっかりしなければ、みんなだめになる。朋子はそう自分に言い聞かせた。  朋子は立ち上って台所に行くと、湯を沸《わ》かし直して、紅《こう》茶《ちや》を淹《い》れた。滅《めつ》多《た》に使うことのない、ウェッジウッドのティーカップを出して来て、使うことにした。  「——大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》?」  居間へ入って行き、美幸に声をかけると、美幸はやっと涙《なみだ》を押《おさ》えてすすり上げた。  「さあ、紅茶、淹れて来た。ともかく、くよくよしてたって、仕方ないでしょ」  「本当にそうだね」  と久代は微《ほほ》笑《え》んだ。  「お父さんの馬《ば》鹿《か》!」  美幸が吐《は》き捨《す》てるように言って、紅茶のカップを取り上げた。  「——ともかく、ここにはいられないわね」  と朋子は言った。「どこか、アパートでも借りて引《ひつ》越《こ》すしかないんじゃない?」  「惨《みじ》めだなあ」  と美幸が愚《ぐ》痴《ち》った。「大学もやめるの?」  「何とかして行かせてあげる」  と朋子は言った。「その代り、あなたもアルバイトぐらいしてくれなきゃ」  「うん……」  「すまないね、お前たちに……」  「お母さんが悪いんじゃないわ。何も謝《あやま》る必要ないじゃない」  朋子は、正直、母の体が心配だった。このショックに堪《た》え切《き》れるかどうか。今は気が張《は》っているが、その、反動が来たときが怖《こわ》い……。美幸がふと思い付いたように、  「お父さんを捜《さが》してるのかしら、銀行の方で?」  「まさか。警《けい》察《さつ》じゃないのよ。私たちだってそんなことしてられないし……」  「じゃ、お父さんは女と二人で、のんびり暮《くら》してるわけね」  「お父さんだって、きっと気の休まるときはないわよ」  久代は首を振《ふ》りながら言った。「私たち以上に苦しんでるよ」  美幸が、むっとした顔で何か言いかけたが、朋子はそれを目で押《お》し止《とど》めた。  「——でも、諦《あきら》めてしまう前に、何か方法がないか、みんなで考えてみようよ」  と朋子は、できるだけ気楽な口調で言った。  方法があるかないか。——それはもう分り切っていたが、今はともかく、何か話し、考えている方がいいのだ。  雨が強くなったのか、雨音が、居《い》間《ま》にも忍《しの》び込《こ》んで来た。  この家から出て行かなくてはならない。朋子にとって、いやおそらく母にとっても、それはとても実感することのできない事態だった。  ——朋子は、自分が動かなくては、と心に決めた。母にこれ以上、負《ふ》担《たん》をかけてはならない……。  〈田沢〉という表《ひよう》札《さつ》。高い塀《へい》の奥《おく》で、犬の吠《ほ》える声がする。  朋子は、その堂々とした門《もん》構《がま》えの前を、もう五、六回も行きつ戻《もど》りつしていた。  やって来たものの、どう話をしたものか分らない。田沢とは、顔見知りというほどでもなかったし、向うにとっては、あくまでビジネスなのだろう。それを、こんな日曜日に、自《じ》宅《たく》へやって来てしまって、却《かえ》って田沢を不《ふ》愉《ゆ》快《かい》にさせるだけではないのか……。  前もって、電話をして来れば良かったのだが、にべもなく断《ことわ》られてしまったら、という怖《おそ》れでどうしてもかけられなかったのである。  「しっかりしなきゃ!」  自分に言い聞かせるように、口に出してそう言ってから、朋子は足早に門の前へ行き、呼《よび》鈴《りん》のボタンを押《お》した。  静かな住《じゆう》宅《たく》街《がい》だった。よく晴れているが、風が少し冷たい。家の中は静かだった。返事がない。——留《る》守《す》だろうか。  もう一度ボタンを押すと、  「どちら様ですか?」  と、インタホンから、女《じよ》性《せい》の声がした。  「あの……田沢さんにお目にかかりたいのですが。村山と申します」  「旦《だん》那《な》様《さま》はお出かけでございますが」  と、お手伝いさんらしい、その女性の声が答えた。  「そうですか。——いつ頃《ごろ》お戻《もど》りになられますか?」  「お約《やく》束《そく》でも?」  「いえ……そうではないんですが」  「ちょっとお帰りは分らないんですよ」  どうも、それほど大事な客ではないという判《はん》断《だん》を下したらしい。言い方が突《つ》っけんどんになって来た。これではだめだ。やはり銀行の方へ出向くべきだったろうか。  「それではまた出直して参ります」  「はい」  うるさそうな声だった。  朋子は、散々迷《まよ》ったり、気《き》後《おく》れしていた自分が馬《ば》鹿《か》らしくなった。——仕方ない。帰ろう。  門の前から離《はな》れて歩き出すと、向うから、一人の青年が歩いて来た。  銀行員かしら、と直観的に朋子は思った。  ——別《べつ》に背《せ》広《びろ》姿《すがた》ではなく、分《ぶ》厚《あつ》いセーターにスラックス姿だったのだが、どことなく折《おり》目《め》正しい感じがして、髪《かみ》も短くしてあるのが、そんな印象を与《あた》えた。  永年、父や、家に出入りしている若《わか》い銀行員たちを見ていたせいで、何となくそれらしい人は分るようになっている。  顔を半ば伏《ふ》せて行《い》き過《す》ぎようとすると、  「あの——」  と、その青年が声をかけて来た。  「はい」  朋子は振《ふ》り向《む》いた。  「うちにご用ですか?」  「田沢さんの……」  「父に何か?」  これが田沢の息子《むすこ》か。そういえば一人息子が銀行に入っている——それも父のいた支店にいると聞いたことがあった。  「はい。ちょっとお目にかかりたいと思いまして……」  「父は何だか友達の所へ行ってるんです。どうせ将《しよう》棋《ぎ》か何かですよ。もう戻《もど》ると思いますが。——あなたは?」  「あの……」  言いかけて、ためらった。名前を言ったら、この愛想の良さが、ガラッと変るかもしれない、と思うと、怖《こわ》かった。  「ああ!」  と、田沢の息子は肯《うなず》いて、「支店長のお嬢《じよう》さんだ。そうでしょう?」  朋子は戸《と》惑《まど》った。  「はい。村山です」  「以前、パーティでお会いしましたよ。どこかで会った人だな、と思っていたんです。さあ、どうぞ」  と促《うなが》す。  「でも……」  「父は一時間もすれば帰りますよ。ともかくせっかくいらっしゃったんですから、上って下さい」  彼《かれ》の口調は一向に変らなかった。朋子にはそれが不思議でならなかった。  しかし、相手がそう言ってくれるのだから、断《ことわ》ることはあるまい。  「では、お言葉に甘《あま》えさせていただいて——」  「さあ、どうぞ」  と歩きながら、「僕《ぼく》は田《た》沢《ざわ》和《かず》彦《ひこ》といいます。お父さんにはずいぶんお世話になりました」  「そんな……。とんでもないことをしてしまって、本当に申《もう》し訳《わけ》ないと——」  「あなたが謝《あやま》ることはありませんよ」  田沢和彦は、通用口の戸を開いて、「さあ入って下さい」  と促《うなが》した。  ——よく手入れされた庭が、居《い》間《ま》から見《み》渡《わた》せた。さっき、インタホンに出て来た女《じよ》性《せい》が、お茶を運んで来た。  「——大変ですね」  と、田沢和彦が言った。「支店長はよくできた人だと、みんなにも人気があったんです。誰《だれ》もがびっくりしていますよ」  「お父様はお怒《おこ》りでしょうね」  「父には直《ちよく》接《せつ》関係はありませんからね。それにあなたのお父さんとも親しかったし」  朋子は、田沢和彦の屈《くつ》託《たく》のない笑《え》顔《がお》に、ここへ足を踏《ふ》み入《い》れたときの、圧《お》し潰《つぶ》されそうな圧《あつ》迫《ぱく》感《かん》、緊《きん》張《ちよう》感《かん》が少しずつ溶《と》けて行くのを感じた。  「父にどんなご用ですか?」  朋子は、この人になら、話しやすい、と思った。田沢へも、口《くち》添《ぞ》えしてくれるかもしれない。  「実は——」  と口を開きかけたとき、居間のドアが開いて、田沢が入って来た。  銀行での背《せ》広《びろ》姿《すがた》を見たことはあるが、こうして自《じ》宅《たく》に和服でいるのを目にすると、まるで別《べつ》人《じん》のように見える。  「お父さん、早かったね」  「お客か?」  朋子は立ち上った。  「村山さんのお嬢《じよう》さんじゃないか」  と田沢和彦が言った。  「ああ、そうか。いや、前に会ったのは大分前だからな。そうですか。まあ座《すわ》りなさい」  田沢は、それほどいやな顔もせずに言った。  「父がご迷《めい》惑《わく》をおかけして申《もう》し訳《わけ》ありません」  「いや、私も参ってるんですよ」  田沢はソファに身を沈《しず》めた。「あんたのお父さんは、そりゃあ真《ま》面《じ》目《め》人間だったからねえ。何も連《れん》絡《らく》はないのかな」  「はい、今のところは……」  「そうですか。まあ、あんた達も大変だろうね。お母さんは体が弱いとか聞いたが」  「心《しん》臓《ぞう》が少し……」  「それはいかん。そんな奥《おく》さんを残して、女と逃《に》げてしまうとは、村山もどういう気持なのか……。私に何か話でも?」  「はい。実は……その母の健《けん》康《こう》状《じよう》態《たい》などもありまして、お金をお返しするのを、少しお待ちいただけないかと……。預《よ》金《きん》などはよろしいのですが、今、家を移るのが、母には負《ふ》担《たん》が大きいものですから」  「そりゃそうだろうね。もちろん私《わたし》の一《いち》存《ぞん》でどうにかなるものなら、そうしてあげたい。しかし、金額が金額だから、ちょっと目をつぶるというわけにもいかんのでね」  「それはもう、よく承《しよう》知《ち》いたしております。私どもでも、移る先を捜《さが》して、一《いち》応《おう》、これと思うところを見付けたのですが、ちょうど母が寝《ね》込《こ》んでしまいまして」  「それは気《き》の毒《どく》に。——大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》なのかな」  「すぐに危《あぶ》ない、ということはないようなのですが、無《む》理《り》をしてはいけないと止められておりまして」  「もちろん、家は押《おさ》えてはあるが、何もすぐに出て行ってくれというわけじゃない。多少の期間はこちらとしてもみているがね」  そのとき、電話が鳴って、和彦が立って行った。  「——お父さん。永《なが》井《い》さんから」  「ん? 何だ……」  田沢は受話器を取った。「——私だ。——それで?——どうして洩《も》れた?」  田沢の声が高くなった。——朋子はギクリとした。ただごとではないようだ、と分った。  父の件《けん》に関係したことでなければいいのだが。せっかく田沢が、朋子に同《どう》情《じよう》してくれているというのに……。  「——分った。ともかく、取材は一《いつ》切《さい》お断《ことわ》りだ。電話で連《れん》絡《らく》をつけておけ。——支店の人間、全部だ!」  田沢の言葉は厳《きび》しかった。  田沢が受話器を置くと、和彦が、  「何かあったの?」  と訊《き》いた。  田沢は答えずにソファに座《すわ》った。その苦《にが》々《にが》しい表情で、朋子は自分の不安が的中したことを知った。  「父のことで……」  「週《しゆう》刊《かん》誌《し》がかぎつけた」  と田沢は言った。「記事にするのは止められん。いいか、和彦、お前も余《よ》計《けい》なことはしゃべるんじゃないぞ」  「分ってるよ」  和彦はチラリと朋子を見て、「警《けい》察《さつ》も当然出て来るね」  と言った。  「今、被《ひ》害《がい》届《とどけ》を出したところだそうだ」  警察……。父が警察に追われるのだ。朋子は、父のことなど、どうなっても一向に構《かま》わない、と、頭では考えていたが、やはり、胸《むね》に鈍《にぶ》い痛《いた》みが生れるのを感じた。  「今日は帰ってくれ」  と田沢は朋子に向って言った。「あんたがここにいるのを見られるのはまずい」  朋子は、言葉にならない呟《つぶや》きで、はい、と答えた。  「お父さん、そんな風に言っちゃ気《き》の毒《どく》だよ」  と和彦が口を挟《はさ》む。  「お前は黙《だま》っていろ」  と、田沢は言った。「私には副《ふく》頭《とう》取《どり》という立場がある」  「本当に申《もう》し訳《わけ》ありません」  朋子は立ち上った。  「全くだよ。私はあんたの父親と親しかったから、なおさら迷《めい》惑《わく》だ。あんたも週《しゆう》刊《かん》誌《し》や何かに追われるかもしれないが、口をつぐんでいてくれるね」  「はい」  「その代り、警《けい》察《さつ》にはよく協力して、父親から連《れん》絡《らく》があったら隠《かく》さずに話すことだ」  朋子にしても、父をかばう気は全くなかった。  朋子は、田《た》沢《ざわ》邸《てい》を辞《じ》して、表の通りを百メートルほど来たとき、背《はい》後《ご》に走って来る足音を耳にして、足を止めた。  和彦だった。  「——やあ、足が早いね」  と息を弾《はず》ませている。  「あの——何か?」  「いや……」  和彦は、ちょっと考《かんが》え込《こ》んだ様子で、「そうだな、何のために追いかけて来たのか、考えてみるとよく分らないけど……ともかく気になってね」  「どうしてですか?」  「だって……何かと大変だろう。できるだけ力になるからね」  それだけのことを言いに、こんな遠くまで追いかけて来たのかと思うと、朋子はつい笑《わら》い出《だ》しそうになってしまった。すると、和彦の方が笑い出した。  「笑ってる場合じゃないのにね」  と、和彦は言って、「ともかく、困《こま》ったことがあったら、相談においで」  「ありがとうございます。お気持だけで充《じゆう》分《ぶん》ですわ」  「いや、本当に、気持だけじゃないんだよ。何かあればぜひ——」  和彦はしつこく言い立てた。 4  朋《とも》子《こ》が、あんな風に不《ふ》首《しゆ》尾《び》に話が終ってしまったのに、何か明るい気分で帰路につくことが出来たのは、田《た》沢《ざわ》和《かず》彦《ひこ》のせいだった。  いかにも金持の坊《ぼつ》ちゃんらしいおっとりとした風《ふう》貌《ぼう》は、いわゆるエリートとは縁《えん》遠《どお》い、人間的な、暖《あたた》かい印象を与《あた》えた。  元来が、あまり銀行員というタイプではないのかもしれない。時には冷《れい》酷《こく》に割《わ》り切《き》らねばならない職《しよく》業《ぎよう》には、あまり向いていないように見えた。  その点で、田沢和彦が村山のことをできればかばいたいと思っているらしいことは朋子にも理《り》解《かい》できた。村山は和彦と似《に》たタイプの人間だったからだ。  「——何かしら」  足を止めて、朋子は思わず呟《つぶや》いた。  もう家の近くまで来ていた。道の向うに、何か集まっている人々が見える。集まっているといっても、何となく同じ所にいて、勝手にぶらついているという感じだ。  十人近くいるだろうか。——どうも、朋子には、自分の家の前あたりのように思えた。  近付いて行くと、それが記者やカメラマンたちだと分った。父の件《けん》が発覚して、取材に来ているのだ。  朋子は、目を疑《うたが》いたかった。それほどの事件なのだろうか。父はそんなに悪いことをしたのだろうか。  歩いて行くと、記者やカメラマンたちが、チラッと朋子の方を見る。しかし、まさか当の家の娘《むすめ》だとは思わないのだろう、別《べつ》に関心もなさそうに、すぐに目をそらした。  朋子は、このまま通り過《す》ぎてしまおうかと思った。家へ入ろうとすれば、あれこれと訊《き》かれるに違《ちが》いない。  だが、朋子は、記者たちの車に混《ま》じって、パトカーが停《とま》っているのに気付いた。——警《けい》察《さつ》が来ているのだ。母と美《み》幸《ゆき》だけにしてはおけない。  しかし、記者たちに見られずに入る方法はない。朋子は、少し手前で足を止めた。通用口といっても、裏《うら》にあるのではなく、この同じ道に面している。記者の目につくのは同じことだ。  「すみません」  と、声がした。  「え?」  「美幸さんのお姉さんですね」  振《ふ》り向《む》くと、どこに立っていたのか、二十歳《はたち》ぐらいの、ヒョロリとした長身の若《わか》者《もの》が歩いて来た。  「あなたは……」  「僕《ぼく》は久《く》米《め》っていいます」  と、その若者はピョコンと頭を下げた。「美幸さんの——友人なんです」  朋子はちょっと面食らった。美幸にこんなボーイフレンドがいるなどとは、全く知らなかったのである。それに——およそ美幸好《ごの》みとは見えない。髪《かみ》を長くして、口ひげまで生やしている。  「久米さん、ね。——ここで何をしているの?」  「ニュースを聞いて、飛んで来たんです。ずっと彼女《かのじよ》が下宿に戻《もど》ってないから心配してたんだけど……」  「美幸に会って?」  「いえ、さっき来たんですけど、あの通りでしょう。といって、帰るというのもいやだし、ここでぼんやりしてたんです」  「よく私《わたし》のことが分ったわね」  「彼女が、一《いつ》緒《しよ》に写ってる写真を見せてくれたことがあるんです。——中へ入るんでしょ?」  と、朋子の家の方をちょっと見る。  「でも、あの人たちに捕《つか》まらずに入れるかしら」  「任《まか》せて下さい」  と、久米という若《わか》者《もの》は言った。  「どうするの?」  「あなたのこと、まだ誰《だれ》も気が付いていないでしょう。このまま、無《む》関《かん》係《けい》なような顔で歩いて行って下さい。僕《ぼく》が連中の注意をひきつけます。その間に中へ入って下さい」  「そんなことを……」  「構《かま》やしません。じゃ、巧《うま》くやって下さい」  止める間もなく、久米はさっさと通用口の方へ向いて歩き出した。そして、途《と》中《ちゆう》で足を止めると、振《ふ》り向《む》いて、促《うなが》すように朋子へ肯《うなず》いて見せた。  朋子は、仕方なく歩き出した。わざと、道の、門と離《はな》れた側の端《はし》を歩いて、記者たちのわきをすり抜《ぬ》けようとした。そのとき、通用口の方で、  「この野《や》郎《ろう》!」  と大声がした。びっくりして振り向くと、さらに、  「出て来い! ここを開けろ」  と、久米の怒《ど》鳴《な》り声《ごえ》がして、通用口をドンドン叩《たた》いたり蹴《け》ったりし始めた。  記者やカメラマンたちが一《いつ》斉《せい》に通用口の方へと走って行く。朋子は、久米の乱《らん》暴《ぼう》なやり方に、いささか呆《あつ》気《け》に取られながら、あわてて門へと走った。インタホンを鳴らして、  「美幸! 私よ、入れて!」  と呼《よ》びかける。  記者たちはまだ気付いていないようだ。——早く来て。早く。  幸い、すぐに美幸が玄《げん》関《かん》から駆《か》け出《だ》して来るのが見えた。  急いで中へ入ると、門を閉《と》じて、息をついた。  「お母さんは?」  と朋子は訊《き》いた。  「警《けい》察《さつ》の人としゃべってる。あの通用口の方の騒《さわ》ぎ、何?」  「久米君とかいう人よ」  美幸が目を見開いた。  「久米君が来てるの?」  「いい人ね。みんなの注意をそらしてくれたのよ」  「そうなのか」  美幸は、笑《え》顔《がお》になった。「無《む》茶《ちや》な人なのよね」  「ともかく、入りましょう」  と朋子は玄《げん》関《かん》のドアを開けた。  「それはどうもありがとう」  久《ひさ》代《よ》が、居《い》間《ま》のソファに何となく落ち着かない様子で座《すわ》っている久米に頭を下げた。  「いいえ、とんでもないです」  久米の方が恐《きよう》縮《しゆく》の態《てい》だ。  「でも、美幸、どうして私《わたし》に何も言わなかったの?」  と朋子は冷やかすように言った。  「だって、お姉さん、私《わたし》のこといつも子《こ》供《ども》だと思ってるから」  と、美幸が言い返す。  深《しん》刻《こく》になりがちな雰《ふん》囲《い》気《き》に、二人とも殊《こと》更《さら》に反発しているようだった。  「ともかく、ここは引《ひ》き払《はら》わなくてはね」  と、久代が言った。「こうして取材の人が色々やって来たりしたら、やり切れないものね」  それは朋子も認《みと》めざるを得《え》なかった。ここから、手《て》狭《ぜま》なアパートへ移るのは辛《つら》いが、ここに頑《がん》張《ば》っていても、却《かえ》って神《しん》経《けい》をすり減《へ》らすだけだ。  「何かお役に立つのなら……」  と、久米が言った。  「ありがとう。そのときにはお願いするかもしれないわ」  と久代が言った。  美幸が、居《い》間《ま》の中をゆっくりと見回して、  「——ここともお別《わか》れか」と言った。  あまり感《かん》傷《しよう》的《てき》でない、あっさりした口調だったが、それが却《かえ》って朋子の胸《むね》に食《く》い込《こ》んだ。  「まあ、何とか一つ分ってほしいんだよ」  と課長が言った。  朋子は黙《だま》って肯《うなず》いた。——使っていない会議室に、朋子と、課長の二人きりだった。  「君はとても良くやってくれた」  と課長は言った。「お父さんと君とは別《べつ》なんだから、とは思うんだが、会社のお偉《えら》方《がた》はなかなかそう思っちゃくれない」  「分ります。当然だと思います」  課長は困《こま》ったように、  「そう素《す》直《なお》に言われると却って辛《つら》いよ」  と息をついた。「もう一度、何とか課を移るだけで、この会社に残れるように、部長にも話してみるよ」  「ありがとうございます」  朋子は目を伏《ふ》せたまま頭を下げた。  予想はしていた。しかし、こんなにも早いとは思わなかったのだ。父の件《けん》が、新聞紙上をにぎわした翌《よく》日《じつ》である。  朋子が経《けい》理《り》にいたことも、影《えい》響《きよう》しているだろう。親の犯《はん》罪《ざい》に、子《こ》供《ども》が責《せき》任《にん》を取る必要はないが、会社の経《けい》営《えい》者《しや》にしてみれば、そんな建《たて》前《まえ》のために危《き》険《けん》を冒《おか》すことはできないに違《ちが》いない。  「もし……どうしてもだめなときは、僕《ぼく》にも二、三、心当りがあるから……」  と課長は言った。  同《どう》僚《りよう》たちは、そんな朋子に同《どう》情《じよう》を寄《よ》せてくれていた。しかし、朋子としても、それに甘《あま》えているわけにはいかない。  どうせ、ここは辞《や》めなくてはなるまい、と朋子は思った。今、辞めて、次の職《しよく》場《ば》は見付かるだろうか? 課長の言葉も、あてにはできない。  席へ戻《もど》ると、隣《となり》の足《あ》立《だち》広《ひろ》子《こ》が、  「課長、何だって?」  と声をひそめて訊《き》いて来る。  「別《べつ》に……」  朋子は曖《あい》昧《まい》に言った。うまい具合に電話が鳴った。  「村山です」  「僕《ぼく》だよ」  と杉《すぎ》岡《おか》の声がした。  久《ひさ》しぶりだ、という気がした。——ともかくずっと父の行方《ゆくえ》を捜《さが》したりしてくれていたので、ちょくちょく顔を出してはいたのだが、二人きりで話す時間は全く取れない。そのせいで、ずいぶん会わなかったような気がするのである。  「そっちは、どう?」  と朋子は訊いた。  「大変だよ。TV局や何かが押《お》しかけて来てね」  「そうでしょうね」  「ちょっと、会えないかな」  「今?——大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》なの、そっちは」  「うん、構《かま》わない」  「分ったわ。行きます」  朋子は課長の席へ行って、一時間ほど外出したい、と言った。課長は快《こころよ》く認《みと》めてくれた。多少、朋子に後ろめたさを感じているのだろう。  一階へ降《お》りて行くと、エレベーターホールで、杉岡が待っていた。  「やあ」  笑《わら》いかける杉岡の表《ひよう》情《じよう》が、多少わざとらしかった。——朋子は、杉岡の話がもう分ったような気がした。  喫《きつ》茶《さ》店《てん》に入って、しばらく二人の口からは言葉が出なかった。  いつもの杉岡なら、朋子の会社ではどうなのかと訊《き》いてくれるのだろうが、今日は、そこまで頭が回らないのだ。  「色々迷《めい》惑《わく》かけちゃって——」  と朋子が言いかけると、杉岡は、  「いや、そんなこと、君が謝《あやま》る必要はない。君は何も悪いことなんかしちゃいないんだから」  と早口に言って、また口をつぐんだ。  こっちから言い出そう、と朋子は思った。杉岡からは言《い》い辛《づら》いに違《ちが》いない。いい人なのだ。——しかし、〈いい人〉以上であることはない。  「私《わたし》と婚《こん》約《やく》同然だって、みんな知ってるの?」  と朋子は訊いた。  「いや……」  「じゃ、よかったわ。別《わか》れましょうよ、私たち」  朋子は努めて軽く、言った。  「君は……でも……」  「お金を持《も》ち逃《に》げした支店長の娘《むすめ》と一《いつ》緒《しよ》になるなんて、あなたは絶《ぜつ》対《たい》に出世できなくなるわ」  「出世なんかいいんだ。ただ——」  「それに、私は当分結《けつ》婚《こん》のことなんか考えられない。母も妹もいるわ。あなたにずっと待っていてとは言えないもの」  杉岡はテーブルに視《し》線《せん》を落とした。ホッとしたような表《ひよう》情《じよう》が、見えていた。  「私も、この会社、辞《や》めるの」  「辞める?」  「一《いち》応《おう》自主的な退《たい》職《しよく》ね。少しは退職金も入るし、引《ひつ》越《こ》しの分ぐらいは出せるから」  「後はどうするの」  「大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》。心当りがあるから」  「そうか……」  杉岡は低く呟《つぶや》いた。  「あなたもいい人、見付けてね」  朋子は、微《ほほ》笑《え》みながら言った。  「君はいい人だな……。じゃ、もう会わない方がいいのかな」  「そうよ。これっきりで、ね」  杉岡は、暗い表《ひよう》情《じよう》でうつむいた。——分っているのだ。自分の身が大切だというので、朋子に、別《わか》れてくれと言いに来たのに違《ちが》いない。  朋子の方から、そう言われて、杉岡はどうしようもなく、自分を恥《は》じているのだ。  「もう行かなくちゃ」  もっとゆっくり座《すわ》って話していたかった。しかし、杉岡に辛《つら》い思いをさせるだけである。  朋子は立ち上った。そして、店の出口へと歩いて行く。杉岡が呼《よ》び止めるだろうか?  結局、朋子は店を出て、そのまま会社へと戻《もど》った。  これが杉岡のためなのだ。——そう自分へ言い聞かせる。  会社へ戻って、席についてから、やっと、寂《さび》しいという思いを味わった。  午後の仕事の途《と》中《ちゆう》で、母から電話がかかって来た。  「何かお話があった?」  と久代が気にして訊《き》いて来る。  「ええ」  「辞《や》めてくれ、とかい?」  「ええ、まあね」  「お前にまで、苦労をかけるね」  「何を言ってるの。会社の電話よ」  「そうだったね」  久代が、呑《のん》気《き》に軽く声を立てて、笑《わら》った。  「何とかなるわ。大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》よ、心配しなくっても」  「私《わたし》も元気なら働くんだけどねえ……」  「やめてよ、お母さんじゃとても勤《つと》まらないわ」  「ともかく……早く帰っておいで」  「ええ」  朋子は受話器を置いて、しばらくは、そのまま、じっと身動きもせずにいたが、ふと立ち上って、広い窓《まど》の方へ、書類か何かを探《さが》そうとするかのように、歩いて行く。  もう、どこか見知らぬ場所にいるような、そんな気がしていた。  辞める、と決めたその瞬《しゆん》間《かん》から、その職《しよく》場《ば》は、遠い異《い》境《きよう》のように思えて来るのである。  朋子は窓から、遥《はる》か下の街《まち》並《なみ》と、人の流れを見下ろした。  遠くから見ると、人々は、滑《なめ》らかに、淀《よど》みなく動いて行くように思えた。実《じつ》際《さい》は、疲《つか》れ切った人も、駆《か》け出《だ》している人もあるのだろうが。  早く、あの中の一人になって、どこかへ消えてしまいたい、と朋子は急に考えた……。 第二章 1  朋《とも》子《こ》は、タイプのキーを打つ手を休めて、息をついた。ふと時計を見上げる。  「もう三時……」  前の会社なら、みんなで紅《こう》茶《ちや》を淹《い》れて飲んだりしたものだ。——このちっぽけな事《じ》務《む》所《しよ》では、そんな優《ゆう》雅《が》な仕事はしていられない。  ふと、こめかみを刺《さ》すような痛《いた》みが襲《おそ》って、目を閉《と》じる。——疲《つか》れているのだ。  朋子は親指と人さし指で目の間を押《おさ》えた。少し視《し》力《りよく》も落ちたのかもしれない。何しろ、ケチな社長で、スタンド一つ買ってくれないから、天《てん》井《じよう》の蛍《けい》光《こう》灯《とう》の貧《ひん》弱《じやく》な明りで、全部の仕事をしなくてはならない。  さあ、もう一《ひと》頑《がん》張《ば》り……。朋子は自分にそう言い聞かせた。  毎日が、流れ落ちる水のように、早く、そして指の間からすり抜《ぬ》けて逃《に》げて行く。一か月、二か月が、かつての一日か二日のようにさえ思える。  「——村山さん」  背《はい》後《ご》から、安《あん》西《ざい》エリ子の声がかかって、朋子はビクッとした。  「はい」  「ちょっと出て来るから、後を頼《たの》むわね」  「はい」  「ここにある伝票、このままにしておいていいから」  「分りました」  もう五十近いのに、厚《あつ》化《げ》粧《しよう》で、まるで魔《ま》女《じよ》みたいとかげ口を叩《たた》かれている安西エリ子は、くたびれ切った事《じ》務《む》服《ふく》のポケットへ手をつっこんで、パタパタとサンダルの音をたてながら、事務所を出て行った。  「行った、行った!」  と、峰《みね》千《ち》代《よ》子《こ》がのびをした。  事務所中が、急に明るくなったような気がした。——何しろ安西エリ子は社長の公然の愛人で、底意地の悪い性《せい》格《かく》も手伝って、みんなに毛《け》嫌《ぎら》いされているのである。  みんな、といっても、朋子を含《ふく》めて、事務員は女の子が五人しかいない。  朋子は、席を立つと、安西エリ子の机《つくえ》の上の伝票を取って来た。  「放っときなさいよ」  と峰千代子が言った。  「そうもいかないわ。後でブツブツ言われるよりはね……」  朋子は伝票の整理を始めた。  安西エリ子が、「伝票はこのままにしておけ」と言うのは、要するに、「いない間にやっておけ」ということなのである。それを呑《の》み込《こ》むまで、朋子は何度も嫌《いや》味《み》を言われて、悔《くや》し涙《なみだ》をかみしめた。  今はもう、扱《あつか》い方《かた》も分って来た。もちろん自分の仕事は遅《おく》れてしまうが、それは少し頑《がん》張《ば》れば済《す》むことである。  「自分は夕ご飯のおかずか何か買いに行ってさ、人には私用電話一つも叱《しか》りつけるんだから、勝手なもんよね」  峰千代子は大《おお》欠伸《あくび》をした。  朋子は黙《だま》ってちょっと微《ほほ》笑《え》むと、伝票の仕分けを始めた。  この三《み》船《ふね》メールサービスという会社へ入ったのは、新聞の求人広告を見てのことだった。誰《だれ》かの紹《しよう》介《かい》で探《さが》すといっても、時期が悪かった。前の会社を辞《や》めてしばらくは、父の横《おう》領《りよう》と失《しつ》踪《そう》が週《しゆう》刊《かん》誌《し》をにぎわしたし、その取材に来る記者たちに、朋子も美《み》幸《ゆき》も追い回された。  そんな時期に仕事を紹介してくれる物《もの》好《ず》きもいないし、受け入れてくれる会社もなかっただろう。朋子は、自分で、できるだけ小さな、あまり応《おう》募《ぼ》する者のなさそうな、この会社を選んだのだった。  仕事はDM(ダイレクト・メール)や、定期刊行物の発送代行で、朋子にしろ他の女子社員たちにしろ、仕事の内容は雑《ざつ》多《た》な事《じ》務《む》、時には発送の現《げん》場《ば》で封《ふう》筒《とう》の仕分けなどを手伝わされることもあった。  技《ぎ》術《じゆつ》は必要ない代りに、単調で、張《は》り合《あ》いのない仕事である。  「そろそろ冬《ふゆ》仕《じ》度《たく》しなきゃね」  と、峰千代子が言った。  安西エリ子がいないと、仕事をしようという気になれないのだ。  「そうねえ。もう十月も末ですものね」  と、朋子は言った。  ふと、伝票をめくっていた手が止まる。  立ち上って、薄《うす》暗《ぐら》い廊《ろう》下《か》へ出た。——ここは貸《かし》ビルの三階で、もちろん、フロアの全部を借りているわけではない。ビルの持主も、三船メールサービスの社長、三船と似《に》てケチなのか、節電と称《しよう》して廊下の照明を極《きよく》端《たん》に減《へ》らしているのである。  女子トイレの前を通《とお》り過《す》ぎると、朋子は、階《かい》段《だん》の所へ歩いて行った。——窓《まど》があって、遠くに、新宿のけむったような街《まち》並《なみ》と、超《ちよう》高《こう》層《そう》ビルが望める。  まだ寒いというほどの気候ではなかったが、灰《はい》色《いろ》の壁《かべ》と、灰色の街《まち》と、曇《くも》った灰色の空は、寒々とした侘《わび》しさを感じさせた。  もうすぐ一年にもなるのだ。  小さなアパートへ引《ひつ》越《こ》しての、母との二人暮《ぐら》し。美幸は下宿を続けていたが、アルバイトで生活費は稼《かせ》いでいる。  冬を過《す》ごし、春、夏、秋と迎《むか》え、送って、やがてまた冬が来る。——事件に追われ、雪の中にまで写真のフラッシュが光った何か月か。  落ち着いたのは、三か月近くもたってからのことだった。  警《けい》察《さつ》の調べで、村山は宮《みや》島《じま》裕《ゆう》子《こ》という女《じよ》性《せい》と逃《とう》走《そう》したことが分った。宮島裕子は、村山が社用でたまに顔を出していたクラブの女性だったが、身よりらしい者も一《いつ》切《さい》なく、友人もない、一風変った女だったらしい。  二十六歳《さい》という年《ねん》齢《れい》、そのクラブにいたのも、わずか半年ということで、村山との仲《なか》はかなり急速に進《しん》展《てん》し、村山を好《す》きなように操《あやつ》って、金を使わせたものと思われた。  しかし、そうなると、一億という金を、村山がかなり長期間にわたって使《つか》い込《こ》んでいたという点と矛《む》盾《じゆん》が出て来た。  村山が、宮島裕子と知り合う以前に使い込んだ金は、どう使われたのか。その点は警察の捜《そう》査《さ》もついに明らかにすることはできなかった。  おそらく、他の女に使ったものだろう、という推《すい》測《そく》は、何の裏《うら》付《づ》けも得《え》られなかったのだ。  そして肝《かん》心《じん》の点。——村山と宮島裕子がどこへ行ったのか。どこで暮《くら》しているのか。それは今も皆《かい》目《もく》分らないのである。  警察の捜査も、今はほとんど打ち切られたも同然の状《じよう》態《たい》で、新しい進展は望めなかった。  朋子とて、時々父のことを考えないわけではない。——どこで、どうして暮しているのか。いや……それ以前に、生きているのかどうか。  週《しゆう》刊《かん》誌《し》などに、宮島裕子が暴《ぼう》力《りよく》団《だん》員《いん》とグルで、村山から金を絞《しぼ》り取った挙《あげ》句《く》、殺して死体をどこかへ捨《す》てたのだろうという臆《おく》測《そく》も流れた。しかし、いずれにしても、何一つ、裏付けとなる事実はなかったのである。  そして、もう一つ、捜《そう》索《さく》を困《こん》難《なん》にしていたのは、宮島裕子の、はっきりとした顔写真が一枚《まい》もないという点だった。クラブ勤《づと》めにしては珍《めずら》しく写真をとられることを嫌《きら》って、仕方なく入ることがあっても、極力うつむいたり斜《なな》めを見て、カメラに顔を向けていないのである。  従《したが》って、手配写真は至《いた》って印象の曖《あい》昧《まい》なものにならざるを得《え》なかった。——不思議な女だった。  もうすぐ、一年になる……。父は、何を考えているだろうか、と朋子は思った。  「村山さん」  と、峰千代子が呼《よ》びに来た。「電話よ」  「はい」  「久米さんっていう男の人」  「ああ……」  「恋人?」  「妹のね。大学生なの」  「なんだ、つまらない」  と峰千代子はがっかりしている様子。  久米は、あれからも朋子と久代のアパートに来て、色々手伝ってくれた。一見、何だか怪《あや》しげにすら見えるが、その実、生《き》真《ま》面《じ》目《め》といってもいいくらいの真面目人間で、美幸と話しているのを聞くと、美幸が完全に久米を子分の如《ごと》く従えているのであった。  安西エリ子がいないので、私用電話も気楽であった。  「もしもし、久米君?」  「あ、お姉さんですか」  久米は朋子のことを〈お姉さん〉と呼ぶのである。朋子としては、いささか気《き》恥《は》ずかしい。  「何か用なの?」  「実はちょっとご相談したいことがあって……」  「何かしら?」  「帰りに少しお話できませんか」  「ええ、いいわよ。じゃ、この近くでもいい?」  朋子は、この三船メールサービスに一番近い、四《よつ》谷《や》駅の近くの喫《きつ》茶《さ》店《てん》を教えて、  「——何か美幸のことなの?」  と訊《き》いてみた。  「ええ、まあそうなんですが」  と、久米は、いつになく歯切れの悪い口調で言った。  ちょうどそこへ、トイレに行っていた峰千代子が戻《もど》って来ると、  「安西の魔《ま》女《じよ》が帰って来るわよ」  と、朋子へ言った。  「——じゃ、久米君、後でね」  朋子は急いで受話器を置いた。安西エリ子が、近くのパン屋の紙《かみ》袋《ぶくろ》をかかえて入って来る。朋子は、あわてて、やり残した伝票に取り組んだ。  「美幸が?」  朋子は思わず訊《き》き返《かえ》した。「大学へ行っていないんですって?」  「そうらしいんです」  と久米は、相変らずの、もっさりとした口調で答えた。  「じゃ、一体何をしてるのかしら、あの子」  「よく分らないんです。まあ僕《ぼく》は学部が違《ちが》うので、あまり授《じゆ》業《ぎよう》でも会うことはないんですが、今日、たまたま昼に食堂で会いましてね、話をしてたんです。そしたら、一《いつ》緒《しよ》にいた彼女《かのじよ》の友達の女の子が、どうして最近よく休むの、って訊《き》いたんですよ」  「美幸は何て答えたの?」  「その友達をにらみつけましてね、『そんなに休んでないわよっ!』って……」  朋子は、久米の口調があまり美幸に似《に》ているので、つい笑《わら》い出してしまった。  「ごめんなさい。あなた演《えん》劇《げき》部《ぶ》か何かなの?」  「そういうわけじゃありませんけど、つい何でもオーバーにやる性《せい》質《しつ》で」  と久米は照れくさそうに頭をかいた。  「美幸はそのことを説明した?」  「いいえ。ああ言われちゃうと、ちょっと、訊いてみようという気になれなくって……」  「それはそうね」  朋子は微《ほほ》笑《え》みながら肯《うなず》いた。しかし、内心は不安である。美幸は大学を休んで何をやっているのだろう?  「心配なんですよ、彼女、勝気だから」  と、久米が言った。  「ええ、分ったわ。ともかく一度ゆっくり話してみるから。——ごめんなさいね、あなたにばかり迷《めい》惑《わく》をかけて」  「いいえ、とんでもないです」  久米はあわてて首を振《ふ》って、「お母さんは——いかがですか?」  「ええ、このところ気候が不順でしょう。あまり具合よくないみたい。でも、寝《ね》込《こ》んではいないけど」  「気を付けて下さい。何か買物でもあれば行きますよ」  「ありがとう。親切ね、あなたは」  と朋子は言った。  全く、最近には珍《めずら》しい、よく出来た若《わか》者《もの》である。  「学生なんて、どうせ暇《ひま》ですから」  と久米は笑《わら》った。  「あら——」  朋子はふと、店の奥《おく》の方へ目を向けて、呟《つぶや》いた。  「誰《だれ》か知っている人でも?」  「ええ、ちょっと——会社の人が」  そこには意外な人物が座《すわ》っていた。安西エリ子である。他の人間が仕事をし残して帰るとブツブツ文《もん》句《く》を言うのだが、自分は用があるとなれば五時になると同時に席から消えてなくなる。  今日も素《す》早《ばや》くいなくなったので、朋子はずっと後に出て来たのだが——。  もちろん、ここは駅の近くだし、社員の誰《だれ》かがここへ入っても、おかしなことはない。しかし、安西エリ子が、見たことのない男《だん》性《せい》といとも親しげに話をしているのは、やはり奇《き》妙《みよう》な風景だった。  安西エリ子は三船社長の愛人であり、だからこそ、あの事《じ》務《む》所《しよ》で、女王然として振《ふる》舞《ま》っていられるのだ。しかし、今一緒にいるのは、四十前後の、サラリーマンらしくない、ジャンパー姿《すがた》の男で、話の様子や雰《ふん》囲《い》気《き》は、どう見ても、二人がただの知人以上のものであることを物語っていた。  「出ましょうよ」  と、朋子は久米を促《うなが》した。  安西エリ子に気付かれない内に出て行きたかったのである。別に朋子は悪いことをしているわけではないのだが。  朋子と久米は立って、レジの方へ行った。運悪く、安西エリ子もほとんど同時に席を立っていたのである。  支《し》払《はら》いをしていた朋子は、ふと店の中へ顔を向けて、やって来る安西エリ子と目が合ってしまった。  「あら——」  と安西エリ子が言った。  朋子は黙《だま》って会《え》釈《しやく》すると、早々に店を出た。足早に歩き出す朋子をあわてて追いかけながら、久米が、  「どうしたんですか?」  とびっくりしたように訊《き》いた。  「あんまり会いたくない人だったの」  「すみません、どうも」  「どうして久米さんが謝《あやま》るの?」  「さあ……」  と久米が首をひねる。  朋子は笑《わら》いをかみ殺した。  しかし、今の安西エリ子の顔——一種の、鋭《するど》い敵《てき》意《い》を感じさせる顔が、朋子の目に焼き付くように残っていた。  四谷から新宿へ出て、デパートの地下で夕食のおかずを買《か》い込《こ》む。  料理もしないではないのだが、出来たおかずを買った方が安いし、手間も省《はぶ》ける。母は疲《つか》れやすくなって、寝《ね》ていることが多かった。  一度、精《せい》密《みつ》検《けん》査《さ》を受けさせなくてはならない、と朋子はずっと考えていたのだが、毎日の生活に追われて、たちまち日は過《す》ぎて行くのだった。  この時間、食料品売場は、ひどく混《こん》雑《ざつ》する。共《とも》稼《かせ》ぎの人、一人住いのOLなどが、みんなこの時間に集中するからだ。買物をするのにも、いい加《か》減《げん》疲れる。  やっと買物を終えて、駅へと戻《もど》った。ここからはバスでもいいのだが、せっかく定期があるのだから、電車で帰ることにする。  一つ乗って、大久保駅で降《お》りる。——雑《ざつ》然《ぜん》と、家がひしめき合っている駅の近くを抜《ぬ》けて、約五分。〈清《せい》流《りゆう》荘《そう》〉というのが、朋子と母の住んでいるアパートである。  大分古ぼけてはいるが、造《つく》りは割《わり》合《あい》にしっかりしている。二階建で、上下に各七戸の部屋があり、朋子たちの部屋は一階の奥《おく》、一〇七号室である。  「ただいま」  鍵《かぎ》を開けて中へ入る。ヒヤリとした空気が顔を撫《な》でた。寒い。  「お母さん?」  ストーブをつけていないのだろうか? この部屋は、特《とく》に冬になると陽当りが悪くなって、寒いので、もう一週間ほど前から、石油ストーブを使っていたのだ。  「お母さん、どこ?」  明りは点《つ》いている。玄《げん》関《かん》を上ると、すぐに台所で、そのわきに四畳《じよう》半《はん》、奥に六畳間。他に風《ふ》呂《ろ》とトイレ。それだけの典《てん》型《けい》的《てき》なアパートの造りだ。  六畳の襖《ふすま》を開けてみる。明りは点いていたが、布《ふ》団《とん》に母の姿《すがた》はなかった。たった今、布団から出て行った、というように、かけ布団がめくれている。  「どこへ行ったのかしら?」  と朋子は呟《つぶや》いた。  窓《まど》のカーテンが開けたままで、洗《せん》濯《たく》物《もの》も外に出ている。冷え切ってしまっているだろう。  朋子は、あわてて窓を開け、洗濯物を取《と》り込《こ》んだ。窓を閉《し》め、カーテンを引く。  「根《ね》津《づ》さんの所かしら……」  と、朋子は独《ひと》り言《ごと》を言った。  二階に住んでいる人で、ちょうど久《ひさ》代《よ》と同じくらいの年《ねん》齢《れい》なので時々、行き来しておしゃべりをしている。  母親にも友人が必要だと思っていた朋子はそれを喜んでいた。  ストーブに火を点《つ》ける。くさい油《ゆ》煙《えん》が少し出て、火がゆっくりと回る。  朋子は電話をかけた。  「——根津さんですか?——村山です、どうも。——あの、母はお邪《じや》魔《ま》しておりませんでしょうか。——そうですか。——いえ、別《べつ》にご心配いただくことはないと思います。——はい、どうも」  受話器を戻《もど》す。おかしい。どこへ出かけたのか。  朋子は玄《げん》関《かん》へ戻《もど》ってみた。母のサンダルがそのままある。  ふっと、朋子の顔から血の気が引いた。トイレへ駆《か》け寄《よ》り、ドアを開けた。  母は、うずくまるように、狭《せま》いトイレの床《ゆか》に倒《たお》れていた。 2  「——はい、そうです。母が発作を起こして倒《たお》れましたので。——ええ、少し付《つ》き添《そ》っていませんと——」  朋子は受話器の向うの、安西エリ子の顔を思い浮《う》かべていた。  「急に何日も休まれちゃ困《こま》るじゃないの。仕事はどうするのよ」  「はあ……。どうする、とおっしゃられても……」  「仕方ないわね。ともかくできるだけ早く出て来てよ」  「はい、そうします。よろしく……」  電話に当っても仕方ないと思いつつ、つい受話器を戻す手は荒《あら》っぽくなった。あれでも人間の情《じよう》があるのだろうか!  「村山さん」  看《かん》護《ご》婦《ふ》に呼《よ》ばれて、朋子は駆《か》け出《だ》した。  「村山です」  「あ、どうぞ、その長《なが》椅《い》子《す》で待っててね。今先生がみえるから」  病院の朝。  朋子は入院というものを経《けい》験《けん》したことがない。昨日、救急車で、母に付き添ってこの病院へやって来たときも、何か、ただ薄《うす》暗《ぐら》い、陰《いん》気《き》な所だな、と思っただけだった。  よく、映画やTVでは、救急車で病人が運《はこ》び込《こ》まれると、医《い》師《し》や看護婦があわただしく駆《か》け回って処《しよ》置《ち》をするものだが、実《じつ》際《さい》は至《いた》ってあっさりとしたもので、はた目にはそう急いでいるようにも見えない。朋子は苛《いら》立《だ》って、つい医師をにらみつけたりしたのだが、冷静になって考えてみると、それも当然のことなのだと分って来る。  医師や看護婦にとっては、それが仕事なのだ。他にも患《かん》者《じや》は何百人もいる。一人一人に精《せい》魂《こん》を傾《かたむ》けていたら、自分たちの神《しん》経《けい》がもたないだろう。  久代は、この病院へ、九時頃《ごろ》になって、やっと運び込まれた。救急車は割《わり》合《あい》にすぐ来てくれたのだが、病院をどこにするか、なかなか決まらなかったのである。  そして今、朝の九時十五分。  丸十二時間たったわけだ。——病院も、外来の患者で騒《さわ》がしくなり始めた。  「村山さんですね」  くたびれた白衣を着て、髪《かみ》をぼさぼさにした若《わか》い医《い》師《し》が声をかけて来た。「入って下さい」  まだ患者のいない診《しん》察《さつ》室《しつ》へ入ると、その医師は、眠《ねむ》そうに欠伸《あくび》をして目をこすった。  「まあ座《すわ》って下さい……。患者は、お母さん?」  「そうです」  「前から悪かったんですか、心《しん》臓《ぞう》?」  「はい」  「うーん、正直に言ってねえ……」  医師はカルテを眺《なが》めながら、「大分弱ってますよ」  「危《あぶ》ないんでしょうか?」  「ずっと入院していないとね。今度自《じ》宅《たく》で発作でも起こしたら間に合いませんよ」  朋子は、周囲の空気が、急に冷たくなったような気がした。  「今、母は……」  「今は眠ってます。ちょっと落ち着きましたからね。すぐにどうこうということはないでしょう。しかし、何といっても、こればかりはね」  「分りました。——入院の手続を取っていただけますか」  「窓《まど》口《ぐち》へ行って下さい。それから、どなたか付《つ》き添《そ》っていられる方は?」  「妹が学生ですので」  「お父さんは?」  「あの……別《べつ》居《きよ》中《ちゆう》です」  と、朋子は、ちょっと迷《まよ》ってから言った。  「そうですか」  医師は大して関心のない様子で、「じゃ、まあそんなとこです」  と立ち上った。  素《そ》っ気《け》ない、事《じ》務《む》的《てき》な言い方は、却《かえ》って朋子にはありがたかった。これが深《しん》刻《こく》ぶって言われたらやり切れないだろう。  窓口へ行くと、昼《ひる》過《す》ぎに来てくれと言われて、ともかく入院の仕《し》度《たく》をして来るようにと勧《すす》められた。そうだ。ともかく美幸に連《れん》絡《らく》しなくてはならない。  昨夜も下宿へ電話したのだが、帰っていなかった。  「——村山美幸をお願いします。姉ですが」  下宿といっても、学生アパートに近い造《つく》りで、管理人が置かれているのだ。  「もしもし」  若《わか》い女の声がした。美幸ではない。  「あの——」  「美幸さんのお姉さんですか?」  「そうです」  「美幸さん、ゆうべ帰ってないんです」  「帰っていない?」  「このところ三日に一度ぐらい、こんなことがあって、心配してるんですけど……」  大学へ行かず、下宿にも帰らず、何をしているのだろう?  「分りました。もし戻《もど》りましたらお伝え願いたいんですが……」  朋子は、母が急に倒《たお》れたことと、病院の名と場所を言って、「すぐこっちへ来るように言って下さい」  と頼《たの》んだ。  母のことで、美幸の方の心配事を忘《わす》れていた。——朋子は、急に、昨夜一《いつ》睡《すい》もしなかった疲《つか》れが押《お》し寄《よ》せて来るのを感じた。  しかし、ともかくアパートへ戻《もど》って仕《し》度《たく》をして来なくてはならない。  病院を出て、初めて、まぶしいほどの青空だと知った。  病院の中は、まるでいつも厚《あつ》い雲の下のように暗い。——少しめまいがした。  少し休もう、と思った。  近くの喫《きつ》茶《さ》店《てん》に入って、コーヒーを飲んだ。胃が痛《いた》んだが、目はさめて来た。  母の入院。いつかは、と覚《かく》悟《ご》していないではなかったが、こんなに突《とつ》然《ぜん》やって来るとは思わなかった。  入院費用、そして治《ち》療《りよう》費《ひ》。美幸が付きっきりということになれば、美幸のアルバイトの分もなくなることになるのだ。  朋子の、三船メールサービスの給《きゆう》与《よ》だけでは、不足するのは目に見えていた。  誰《だれ》か、ほんのしばらくでも、お金を都合してくれる人はいないだろうか?  しばらく、朋子は考《かんが》え込《こ》んでいたが、いい考えは浮《う》かばなかった。  「ともかく、入院が先だわ」  と、朋子は自分へ言い聞かせて立ち上った。  アパートの近くまでやって来ると、向うから、大急ぎでやって来る久米と出くわした。  「久米さん! どうしてここに?」  「あ、お姉さん! よかった。——いや、救急車でお母さんが運ばれたと近所の人に聞いて、びっくりして……」  「一《いち》応《おう》、今は持ち直してるけど、入院しなくちゃならないの」  「大変ですね」  「その仕《し》度《たく》で戻《もど》って来たんだけど……あなたは?」  「美幸さんを送って来たんです」  朋子は戸《と》惑《まど》って、  「美幸……あなたと一《いつ》緒《しよ》だったの?」  「それが、大変なんです、酔《よ》っ払《ぱら》って」  「酔っ払って?」  朋子は唖《あ》然《ぜん》とした。  「ともかく来て下さい」  久米は先に立って歩き出した。  アパートの部屋に入って、朋子は目を疑《うたが》った。真っ赤なワンピース——それもけばけばしい色の、だ——に、朋子が見たこともない濃《こ》い化《け》粧《しよう》をした美幸が、酒の匂《にお》いを漂《ただよ》わせて、眠《ねむ》りこけている。  「美幸は——」  「バーで働いてたんです」  久米はため息をついて、「全く、馬《ば》鹿《か》なことをして……。言ってくれりゃ僕《ぼく》がホストクラブにでも勤《つと》めたのに」  久米はいつも、どこまで本気なのか分らない男なのだ。  「酔《よ》い潰《つぶ》れて……どうしたの?」  「いや、僕の学部の先《せん》輩《ぱい》がね、教えてくれたんです。お前の彼女《かのじよ》にそっくりなのがいるぞって。まさか、とは思いましたが、ゆうべ行ってみると、彼女、客から、どっちがアルコールに強いか挑《いど》まれて、飲《の》み比《くら》べをやってたんです」  「馬《ば》鹿《か》!」  「行ったら、もうぶっ倒《たお》れる寸《すん》前《ぜん》で。強引に連れ出して来たんです。参りましたよ、外でも暴《あば》れてね」  「迷《めい》惑《わく》かけてごめんなさい。——悪いけど、迷惑ついでに、もう一つお願いできる?」  「何ですか」  「美幸をお風《ふ》呂《ろ》場《ば》へ運んでほしいの。湯船に一昨日の水が入ってるから、そこへ放り込んでちょうだい」  久米は目をパチクリさせて、  「僕がですか?——殺されちゃいますよ!」  「大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》。私に言われたと言って」  「はあ……」  久米はちょっと頭をかいて、「面白そうですけど……やっぱりためらっちゃうなあ」  と言いながら、美幸をかかえ上げた。  朋子が、タンスを開けて、母の着《き》替《が》えを出していると、風《ふ》呂《ろ》場《ば》から、派《は》手《で》な水音と悲鳴が聞こえて来た。朋子は思わず笑《わら》いをかみ殺した。不思議に涙《なみだ》が瞼《まぶた》を熱くしていた。  その夜、病院からアパートへ戻《もど》った朋子はそのまま畳《たたみ》に横になると、たちまち眠《ねむ》り込《こ》んでしまった。目が覚めたのは十一時頃《ごろ》で、電話がいつからか鳴り続けていた。  母の容《よう》態《だい》でも——。朋子は電話に飛びついた。  「村山さん? 私《わたし》、峰千代子」  「あ……どうも。ごめんなさい、疲《つか》れて眠っていたものだから」  「お母さん、大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》?」  「入院したの。妹がついてるわ」  「そう。大変ねえ」  「会社の方、どう?」  「それが……」  峰千代子は、言い淀《よど》んだ。  「何かあったの?」  「ねえ、ちょっと訊《き》いていい?」  「何を?」  「あなたのお父さんって、銀行のお金を盗《ぬす》んで逃《に》げたの?」  朋子は一《いつ》瞬《しゆん》、返事に詰《つ》まった。  「誰《だれ》がそんなこと……」  「安西さんよ、決まってるじゃないの」  安西エリ子が……。どこで知ったのだろう?  「——ええ、その通りよ。別に隠《かく》していたわけじゃないんだけど」  「苦労したでしょうね」  思いがけない千代子の言葉に、朋子は、ちょっと胸《むね》が熱くなった。  「——別に、私はそんなこと何とも思わないわよ」  と千代子は続けて、「でも、あの女がね、社長へしゃべったみたい」  それはそうだろう。朋子は受話器を握《にぎ》る手に汗《あせ》がにじむのを感じた。  「それで……何か……」  「社長が、あなたには辞《や》めてもらうって……」  朋子は言葉が出なかった。——そんなことが……。  「ひどいわ、そんな……」  「私もそう思うわ。親の罪《つみ》と子《こ》供《ども》は関係ないじゃない? でも、社長やあの女に言わせると、いつ会社の金を持《も》ち逃《に》げされるかもしれないって……。そのことをあなたへ言えって、私に……」  安西エリ子は、以前から、そのことを知っていたのかもしれない。そして昨日、男と会っている所を見られてしまった安西エリ子が、朋子を追い出そうとしたのではないか……。  「それでね、社長の言うには」  千代子は言いにくそうに続けた。「もう出社しなくていいってことなの。退《たい》職《しよく》金《きん》は送るからって。私《し》物《ぶつ》も何かあれば小包で送るって言ってたわ」  朋子はしばらく黙《だま》っていた。——真夜中になって、部屋は冷え切っていた。その冷たさが、肌《はだ》にしみ込んで来る。  「——もしもし、村山さん」  千代子が間を置いて言った。「聞いてる?」  「ええ」  「私のこと、恨《うら》まないでね」  「分ってるわ。でも……はい、そうですかって引《ひ》き退《さ》がれないわ、私だって」  「分るけど——あの女と社長を相手に、どう言うつもり?」  千代子の言葉が、朋子の中に燃《も》え上《あが》った火を、急速に冷やして行った。——そうだ。今は、あんな連中と無《む》用《よう》な言《い》い争《あらそ》いをしているときではない。  話をしたからといって、向うが意を翻《ひるがえ》すとは思えない。こうなれば、逆《ぎやく》に、男と会っていたことを種に、安西エリ子を脅《おど》してやろうかという気にもなりかけたが、そこまで落ちてしまいたくもなかった。  「分ったわ。あなたの言う通りね」  と、朋子はいつもの平静な口調に戻《もど》って行った。  「本当に、力になれるといいんだけど……」  千代子がホッとしたように言った。  「いいの。気持だけで充《じゆう》分《ぶん》だわ。どうもありがとう」  「じゃ、また電話するわね」  早々に、千代子は電話を切ってしまった。可哀《かわい》そうに。よほど安西エリ子に脅かされているらしい。誰《だれ》しも、自分の生活というものがあるのだ。  朋子は、部屋の寒さに気付いて、あわてて石油ストーブの火を点《つ》けた。体が冷え切っている。  他人に同《どう》情《じよう》していられる身分ではない。自分が、ともかく職《しよく》を捜《さが》さねばならないのだ。  入院費用、生活費、美幸の学費……。  朋子は、美幸に大学をやめさせなくてはならないかもしれない、と思った。  せっかくここまで来たのだ。何とか卒業させてやりたいが、当の美幸自身が、姉一人に苦労を負わせて大学へ行くことをいやがっている。——その気持も、よく分るのだ。  三十分近く座《すわ》っていると、やっと体が暖《あたた》まって来た。  「さあ、頑《がん》張《ば》って」  口に出して、そう言ってみた。落《お》ち込《こ》んでいる暇《ひま》はないのだ。母がいる。何とかしなくてはならない。この自分が、何とかする他はないのだ。  風《ふ》呂《ろ》の火を点《つ》けておいて、朋子は新聞の求人広告を広げた。  「——お母さん、どう?」  朋子は果《くだ》物《もの》の袋《ふくろ》を手に、ベッドの方へ歩いて行った。  「もう、大分いいよ」  久代はベッドに少し体を起こして微《ほほ》笑《え》んだ。  「寝《ね》ててよ。——美幸は?」  「お湯を沸《わ》かしに行ってるよ。ねえ、朋子」  と、久代が少し声を低くした。  「何なの?」  朋子は、ちょっとヒヤリとした。会社をクビになった話を、もう母が聞きつけたのかと思ったのだ。昨夜、新聞で目をつけた就《しゆう》職《しよく》先《さき》を二つ回ってから、一《いち》応《おう》そのことを美幸に教えて、母へは黙《だま》っておくように言《い》い含《ふく》めておこうと病院へ回って来たのだ。  「入院のお金のことだけど——」  と久代が言った。  「それなら心配しないで」  と朋子は軽い口調で言った。  「どこで都合して来たの? こんなに早く」  「え?」  朋子はちょっと戸《と》惑《まど》った。「それは——会社でね、借りたのよ。大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》、心配しなくても」  「それならいいけど……。お前の立場があるだろうからと思ってね」  「お母さんは心配しないで休んでてくれりゃいいのよ」  と、朋子はコートを脱《ぬ》いで言った。  「お姉さん」  と、美幸が小走りにやって来た。  「走っちゃだめじゃないの。——もう頭痛《いた》くない?」  「いつまでも酔《よ》っ払《ぱら》ってないわよ。ね、リンゴ、むいて来ようか」  「やってあげる。あんたがむくと皮が一センチぐらいになるんだから」  と、朋子は笑《え》顔《がお》で美幸を促《うなが》した。  「——お母さん、今《け》朝《さ》、ちょっと具合悪かったのよ」  廊《ろう》下《か》へ出ると、美幸が真《ま》顔《がお》になって言った。  「それで?」  「大したことなくて済《す》んだけど……」  「悪いわね、学校あるのに」  「学校じゃお金稼《かせ》げないものね」  「本当だわ」  朋子はつい笑《わら》ってしまった。  給湯室でリンゴをむきながら、  「入院の費用のこと、お母さんに何か言ったの?」  と朋子は訊《き》いた。  「お姉さん、よくお金あったね」  「お金?——私《わたし》、まだ払《はら》い込《こ》んでいないのよ」  「そんな……。だって窓《まど》口《ぐち》で訊いたのよ。全部払ってあるって」  「まさか!——誰《だれ》か、他人と間《ま》違《ちが》えてるんじゃないの?」  朋子は驚《おどろ》いて言った。  「お姉さん、本当にまだ?」  「そうよ。だから今日、あわてて少しお金おろして来たんじゃない」  「変ねえ、だって確《たし》かに入金してあるって……」  「このリンゴ、持って行って。ちょっと確かめて来る」  朋子は、会計の窓口へ行ってみた。——しかし、実《じつ》際《さい》に、久代の入院費用は、充《じゆう》分《ぶん》に先払いされてあったのだ。  これは一体どういうことなのだろう?  また明日来るから、と母へ言って、朋子は美幸と共《とも》に病院の出口まで来た。  「——お姉さん、何考えてるの?」  朋子は美幸の顔を見た。  「たぶん、あなたと同じことよ」  少し間を置いて、美幸が言った。  「お父さんが……」  「まさか!」  朋子は強い口調で遮《さえぎ》った。「どうしてあの人が今《いま》頃《ごろ》?——冗《じよう》談《だん》じゃないわ!」  美幸は、姉が珍《めずら》しく声を震《ふる》わせているのに気付いたのか、  「そんなに興《こう》奮《ふん》しないでよ」  「そうね……」  朋子は深く呼《こ》吸《きゆう》をして、「どうだっていいわね、そんなこと」  外は、もう暗くなりかけていた。今日は他の所へ回ることはできない。  「明日は会社の帰りに来る?」  「あ、そうだわ。会社へは電話しないで」  「どうして?」  「クビになったのよ」  そう言って、朋子はちょっと笑《わら》った。  「お母さん、どう?」  アパートへ入ると、隣《となり》の部屋の奥《おく》さんに出会った。  「どうもお騒《さわ》がせしました。一《いち》応《おう》今のところは」  「大変ね。あ、そうだ。留《る》守《す》のときにね」  「何か?」  「こういう人がみえたわ。お帰りになったら渡《わた》してくれと言って」  その名《めい》刺《し》には、〈伊《い》藤《とう》総《そう》合《ごう》研《けん》究《きゆう》所《じよ》〉とあった。名前は朋子も知っている。世《せ》論《ろん》調《ちよう》査《さ》をはじめ、マーケット・リサーチを請《う》け負《お》っている、かなり有名な会社である。  〈庶《しよ》務《む》課長 大《おお》久《く》保《ぼ》等《ひとし》〉と名前があって、ボールペンで、〈明日十時に来社下さい〉とあった。  「なかなかしゃきっとした紳《しん》士《し》だったわよ」  「そうですか。知らない人ですけど……。ともかくいただいておきます」  朋子は部屋へ戻《もど》った。上りかけると、電話が鳴り出した。——電話の音が、これほど怖《こわ》いものだとは、朋子は思ったこともなかった。母に何か、という思いで、反《はん》射《しや》的《てき》に身がすくむ気がする。  「村山です」  「村山——朋子さんというのは」  「私《わたし》ですが」  よく通る、男の声だった。病院ではないようだ。  「伊藤総合研究所の大久保といいます」  「あ——どうも」  朋子はホッとして座《すわ》り込《こ》んだ。  大久保の話し方は丁《てい》寧《ねい》で、耳に快《こころよ》かった。——話の内《ない》容《よう》は、しかし、朋子をびっくりさせた。  「そちらで働かせていただけるんですか?」  夢《ゆめ》ではないか、と朋子は思った。  「データ分《ぶん》析《せき》のオペレーターに欠員ができましてね、あなたを推《すい》薦《せん》する方があったものですから……」  「それはもう——喜んで」  「それは良かった。では明日十時に社の方へ来て下さい。場所はお分りですか?」  「はい、存《ぞん》じております。あの——」  「何ですか?」  「その、私をご推《すい》薦《せん》下さった方というのは、どなたでしょう?」  「さあ、私もよく知りません。上から聞かされただけでしてね」  「そうですか……」  「ああ、それから——」  と、大久保は付け加えて、「私はあなたのお父さんのこともよく存《ぞん》じています。その辺で、お気《き》遣《づか》いになることはありませんよ。安心していらして下さい」  「ありがとうございます」  電話を切ってからも、しばらく朋子は体の中に熱くほてるものがあって、少しも寒さを感じなかった。  父ではない。——父なら、たとえ入院の費用をこっそり払《はら》いに来ることはあっても、朋子の就《しゆう》職《しよく》の面《めん》倒《どう》までみてはくれない。父が推薦したからといって、受《う》け容《い》れてくれる企《き》業《ぎよう》などあるはずもないだろう。  それでは誰《だれ》なのか?  いくら考えても、思い当らなかった。——入院費用を払って行った人物と、伊藤総《そう》合《ごう》研《けん》究《きゆう》所《じよ》へ、朋子を推薦したのは、おそらく同じ人物だろう。  偶《ぐう》然《ぜん》であるはずがない。——しかし、それは誰なのか?  だが、それが誰であれ、今の朋子には救いの神に等しかった。それを拒《こば》む気は毛《もう》頭《とう》ない。  朋子は、ストーブの火を点《つ》けて、急に体が軽くなったように、飛びはねる足取りで、夕食の仕《し》度《たく》を始めた。 3  「——どうですか、仕事は?」  三時の休《きゆう》憩《けい》に、じっと目を閉《と》じていると、大久保が声をかけて来た。  「ええ、まだなかなか慣《な》れなくて……」  朋《とも》子《こ》は、目の前の、キーの列と、スコープに映《うつ》し出されるディスプレイを見ながら言った。  「当り前ですよ。そう最初から何でも出来はしません。——そんなに根《こん》をつめなくてもいいんですよ」  「ありがとうございます」  大久保は、電話で想《そう》像《ぞう》したよりも、ずっと老《ふ》けていた。髪《かみ》も大分白くなって、人の好《よ》い年《とし》寄《よ》り、という印象を与《あた》えた。  実《じつ》際《さい》、温か味のある人《ひと》柄《がら》のようで、このオペレーター室の女子社員たちも、一人として大久保の悪口を言う者はなかった。  広々とした、近代的な明るいオフィスは、朋子の心を和《なご》ませた。仕事をしていても、精《せい》神《しん》的《てき》な疲《ひ》労《ろう》はずっと小さい。  「朋子さん。コーヒーどう?」  と、席を並《なら》べている谷《たに》崎《ざき》由《ゆ》香《か》利《り》が声をかけて来た。  「あ、すみません、私《わたし》がやります」  「いいの。当《とう》番《ばん》制《せい》で、今週は私。来週はお願いするから」  職《しよく》場《ば》自体が製《せい》造《ぞう》業《ぎよう》や販《はん》売《ばい》業《ぎよう》ではないので、いくらかのんびりした雰《ふん》囲《い》気《き》がある。  オペレーター室は、一《いち》応《おう》庶《しよ》務《む》課《か》の下に入っているが、独《どく》立《りつ》した部屋になっていて、それだけ気も楽だった。  「——今度のボーナス、使《つか》い途《みち》、決めた?」  女《じよ》性《せい》同《どう》士《し》の話は、どこも似《に》たようなものである。  「旅行。ハワイに行くの」  「いいわね。私はローンの払《はら》いでパーだわ」  「あら、がっちり貯《た》めてるくせに」  「あれは銀行がうるさいからよ」  コーヒーを飲んでいた朋子は、ふと、この会社の名前を、どこで聞いたのか、思い出した。  父の話で知っていたのだ。父のいた銀行が、ここの取引銀行だったからである。  では、推《すい》薦《せん》してくれたのは、やはり父の知り合いか誰《だれ》かだろうか?  朋子は、その内に知れるだろう、と思った。無《む》理《り》にせんさくして、せっかくの職場を失いたくはない。  そして、一週間がたちまちの内に過《す》ぎた。その日、五時のチャイムが鳴って、朋子が帰り仕《じ》度《たく》をしていると、  「村山さん」  と、大久保がやって来た。  「はい」  「申《もう》し訳《わけ》ないが、ちょっと付き合ってもらえませんか」  「はい……」  病院へ行くつもりだったが、このところ、小《しよう》康《こう》状《じよう》態《たい》を保っているし、一日ぐらい大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》だろう、と思った。それに八時までは面会できる。  大久保には世話になっているのだ。朋子は、病院の美《み》幸《ゆき》へ電話してから、会社を出た。  大久保は表でタクシーを停《と》めて待っていた。  「すぐそこですがね。——まあ、どうぞ」  と、朋子を先に乗せる。  タクシーは、混《こ》んだ道をしばらくノロノロと進んだ。  「——どこへ行くんですか?」  車の中で、朋子は訊《き》いた。  「銀《ぎん》座《ざ》の日《につ》航《こう》ホテルです。知っているでしょう」  と大久保は言った。  「ええ、何度か行ったことがあります。それで……よろしければ、ご用というのをうかがわせていただけませんか」  まさか大久保に妙《みよう》な下《した》心《ごころ》があるとは、朋子も心配しなかったが、どういう用事かまるで分らないのでは、やはり落ち着かなかった。  「実は、あなたを推《すい》薦《せん》した方が、あなたに会いたがっていましてね。私はそれの案内役というわけです」  大久保は、ちょっと照れたように笑《わら》って、「私はホテルまで行って失礼しますから」  と付け加えた。  朋子は、どうして大久保が、推薦してくれた人の名を秘《ひ》密《みつ》めかしているのか、よく理《り》解《かい》できなかったが、ともかく、その当人に会えるのは嬉《うれ》しかった。  入院費用のことも確《たし》かめられる。それをはっきりさせなくては、朋子としても、気持がすっきりしなかったのだ。  まさか——父ではあるまい。父ならば、そんな目立つ所にやっては来ないだろうし……。  「——ああ、やっと着いた。さ、どうぞ」  大久保は、まるで朋子をお客様扱《あつか》いしている。朋子は何となくおかしくなった。  本当なら絶《ぜつ》望《ぼう》するか、緊《きん》張《ちよう》しなくてはならないときに、何となく楽天的になってしまうのが、朋子の癖《くせ》である。おっとりと育ったせいもあるかもしれない。  中へ入って、喫《きつ》茶《さ》室《しつ》の入口に立つと、大久保が先に入って行った。  朋子は、所《しよ》在《ざい》なく立っていたが……。  「今《こん》晩《ばん》は」  若《わか》々《わか》しい声に顔を上げた朋子は、思いがけない顔に出会って、言葉を失った。  ピアノの生《なま》演《えん》奏《そう》が終って、拍《はく》手《しゆ》が起こった。——後に、低くムード音楽が流れて、ナイフとフォークの音が混《ま》じり合った。  「あまり口をきかないね」  と田《た》沢《ざわ》和《かず》彦《ひこ》が言った。  「別《べつ》にそんなことは……」  と朋子は言《い》い淀《よど》んだ。  「怒《おこ》ってるのかな」  「とんでもありません」  朋子は急いで言った。「何から何まで面《めん》倒《どう》をみていただいて……何とお礼を申し上げていいのか」  「そんな風に言われると困《こま》るな」  と田沢和彦は苦《く》笑《しよう》しながら言った。「僕《ぼく》としては、責《せき》任《にん》を感じてるんだ、あなた方のことに」  「あなたが? 責任があるのは父ですわ。何もあなたには——」  「そりゃそうだ。でも、やっぱりああしないではいられなかった」  食事は、何となく進まなかった。——しばらくして、和彦が訊《き》いた。  「お母さんの具合はどう?」  「おかげさまで今は少しいいようです。でも、やはりしばらく入院していなくてはならないとか——」  「それは大変だね」  「田沢さん、教えて下さい。どうして母の入院のことや、私《わたし》が会社をクビになったことが分ったんですか?」  「ああ、それか。いや……あのアパートへ引《ひつ》越《こ》したことは調べて分ったんだけど、君を訪《たず》ねて行くのはためらわれたし、といって放っておく気にもなれなくてね。結局アパートの人の一人に頼《たの》んで、何かあったら僕へ知らせてくれと言っておいたんだ」  「まあ」  「会社のことは全くの偶《ぐう》然《ぜん》だよ。君の勤《つと》めていた所のことは調べて分っていたが、どう考えても君に相応《ふさわ》しいとは思えなかった。それで前からうちの支店と取引きがあって、父もよく知っている伊《い》藤《とう》総《そう》合《ごう》研《けん》究《きゆう》所《じよ》に、欠員が出来たら、よろしくと頼んでおいたのさ。たまたま同じ時に、欠員が生じた、というわけだ」  「じゃ、大久保課長とは……」  「あの人はもともとうちの銀行の人なんだ。父に可愛《かわい》がってもらったので、僕の頼みも色々と聞いてくれる」  「そうでしたか……」  朋子はしばらく目を上げられなかった。  「ねえ、君がこれを負《ふ》担《たん》に思う必要はないんだよ。——本当なら、僕が名乗り出るなんて卑《ひ》怯《きよう》なやり口かもしれない。恩《おん》を売っておいて、夕食を付き合えなんてね」  和彦はしばらくためらってから、続けた。「——正直言って、僕は君のことが好《す》きなんだ」  朋子は驚《おどろ》いて顔を上げた。いや、最初に和彦の目を見たときから、それは心の底では分っていたのだが、認《みと》めるのは怖《こわ》かったのだ。  「だから君を助けた。——理由は単《たん》純《じゆん》さ」  和彦は手を広げて、「でも、だからといって君が僕を好きになる義《ぎ》務《む》はない。ただ……僕の気持は、知っておいてほしかった。だから今日、こうして呼《よ》んだわけだ」  朋子はしばらく言葉が出なかった。食事は終って、コーヒーが出た。朋子はカップを取り上げた。手が細かく震《ふる》えている。  「お父さんから連《れん》絡《らく》は?」  と和彦が訊《き》いた。  朋子は黙《だま》って首を振《ふ》った。  「そうか。でも、君がそんなに苦労してることを知っていれば、戻《もど》って来るんじゃないかなあ」  「もう父は死んだと思っています」  と朋子はきっぱり言って、「田沢さん。あなたのお気持は本当に嬉《うれ》しいんですけど、もうこれで会わないようにして下さい」  と続けた。  一気に、一口で言った。和彦の顔が少しこわばった。  「君がもし、お父さんのことを気にしているのなら——」  「いいえ。それは関係ありません」  「じゃ、誰《だれ》か好《す》きな人がいるの?」  「はい」  「そうか。——それじゃ仕方ない」  和彦は気を取り直したように微《ほほ》笑《え》んだ。「それじゃ、今日はやけ酒だ」  朋子は、目をそらして、コーヒーをゆっくりと飲んだ……。  食事を終えると、和彦が送って行くからと言うのを、朋子は固く断《ことわ》った。  「じゃ、タクシーで帰ってくれないか。それはいいだろう?」  と和彦は折《お》れた。  「分りました」  朋子も、それまでは拒《こば》めなかった。  ホテルの前でタクシーを拾って、朋子一人を乗せると、和彦は一万円札《さつ》を渡《わた》した。  「車代だ。——それじゃ、お母さんお大事にね」  「はい」  朋子はただそう言って、頭を下げた。  タクシーが走り出すと、朋子は、座《ざ》席《せき》にゆっくりと身をもたせかけて、目を閉《と》じた。  色々な感《かん》情《じよう》が入《い》り乱《みだ》れて、入《い》れ替《かわ》り、立ち替り、朋子を支配して行った。  どうして、田沢和彦の愛を受けなかったのだろう。——プライドか。いや、そんなものではなかった。  何かが、朋子の中に、しこりになって凝《ぎよう》固《こ》したまま、つかえているようだった。  「——お疲《つか》れですか」  タクシーの運転手が声をかけて来た。  「ええ……少し」  「おやすみになってていいですよ。近くに来たら起こしますから」  珍《めずら》しく親切な運転手だった。  「どうもありがとう」  眠《ねむ》いわけではなかったが、朋子は軽く目を閉《と》じた。何だか、運転手に悪いような気がしたのだ。  考えてみれば、ホテルで食事をして、タクシーで帰るなどというぜいたくをするのは、久《ひさ》しぶりだ。以前は、何気なくタクシーを呼《よ》び、ハイヤーを借りて使っていたものだが、今は、とてもそんな余《よ》裕《ゆう》はない。  和彦と付き合っていれば、こんなぜいたくもできるかもしれない、と朋子は思って微《ほほ》笑《え》んだ。  ——馬《ば》鹿《か》げたことだが、そのために和彦と付き合ってもいいような気がした。  しかし、やはりだめだ。和彦は真《しん》剣《けん》だった。それが朋子には怖《こわ》い。  今は、恋《こい》だの愛だのと言っていられる時ではないのだ。母の入院、美《み》幸《ゆき》の大学のこともある。  遊びなら?——ただの遊びとして付き合うのならどうだろう。  それが自分にできるとは、朋子には思えなかった。おそらくは、和彦にも……。  そして——認《みと》めたくはなかったが、やはり父の影《かげ》が、大きく二人の間に横たわっているのだった。おそらく、和彦は父親に何も知らせてはいまい。その点は間《ま》違《ちが》いない、と朋子は思った。  田沢が、息子《むすこ》と、公金を横《おう》領《りよう》して逃《に》げた男——それもかつての部下——の娘《むすめ》との恋《こい》を快《こころよ》く思うはずがなかった。和彦は、早くから幹《かん》部《ぶ》候《こう》補《ほ》生《せい》の一人である。  朋子と付き合うことで、和彦はその未《み》来《らい》を危《き》険《けん》にさらしているのかもしれないのだ。  いけない。やはり、たとえ遊びとしても、和彦と会うことは危険だった。入院費を払《はら》ってもらっただけでも、問題なのに、この上何かあれば、田沢の耳に入らないとも限《かぎ》らないではないか。  もう和彦とは、これっきりでいなくては……。会社まで世話してもらって、その好《こう》意《い》に甘《あま》えながら、虫のいい言い草かもしれないが、和彦のためだ。  いつしか、本当に朋子は浅い眠《ねむ》りに落ちかけていた。  和彦の笑《え》顔《がお》が目の前にチラついた。いわゆる銀行員らしい如《じよ》才《さい》なさはなくて、その代り、持って生れたものとしか言えない穏《おだ》やかさが具《そな》わっている。だから、その笑顔も、愛《あい》想《そ》笑《わら》いでもなく、ごく自然に人の心を和《なご》ませるものだった。  朋子は、自分と和彦との生活の映《えい》像《ぞう》を思い浮《う》かべた。明るい食堂での朝食と、出《しゆつ》勤《きん》風《ふう》景《けい》と……。全く、TVのCMにあるような、気《き》恥《は》ずかしいくらいの、マイホーム像……。  夢《ゆめ》の中では、しかし、それがまるで手を伸《の》ばせば届《とど》きそうな近さに感じられるのだった。  「——お客さん」  運転手の声で、ふっと目が覚める。  「あ……眠《ねむ》っちゃったんだわ。ごめんなさい」  「この辺ですか?」  朋子はタクシーの外を見て、  「ええと……あ、そうだわ。あの信号から左へ入って下さい」と指《し》示《じ》した。  「はい。——ここですね」  「その先を右。——でも、いいわ。歩きます」  「いいですよ、ここなら充《じゆう》分《ぶん》入れる。この奥《おく》ですね」  「ええ。すみませんね」  タクシーは、アパートの前へ抜《ぬ》ける道へ入って行った。  暗い道で、あまり夜《よる》遅《おそ》くなると、ちょっと一人歩きはためらわれる道である。  目が、少しぼんやりしている。目が覚めていないのだろう。  朋子は目をこすった。——目を二、三度しばたたく。  タクシーのライトに、父の姿《すがた》が浮《う》かび上った。  光を浴びて、まぶしげに顔をそむけた。そして、タクシーはあっという間に、その傍《そば》をすり抜《ぬ》けてしまった。  朋子が我《われ》に返ったのは、しばらくしてからだった。  「停《と》めて!」  と叫《さけ》ぶように言った。  「どうしました?」  「ちょっと待っていて! ここで」  朋子はバッグを中に残して、タクシーから出ると、夜道を駆《か》け戻《もど》った。  足音が、あたりに響《ひび》いた。しばらく走って、朋子は足を止めた。もう、道は広い通りに近くなって、何本にも別れていた。  父らしい姿《すがた》は、どこにもなかった。喘《あえ》ぎつつ左右を見回してみたが、むだだった。  あれは幻《まぼろし》だろうか? 一《いつ》瞬《しゆん》の錯《さつ》覚《かく》だったのか?  朋子にも確《かく》信《しん》はなかった。だが、あまりにもはっきりと、父の顔が光に照らされて、その映《えい》像《ぞう》が、朋子の脳《のう》裏《り》に焼きついている。  もし、あれが幻でないとしたら……。父は帰って来たのだろうか?  朋子は、冷たい夜気を激《はげ》しく吸《す》い込《こ》んで、痛《いた》む喉《のど》をさすりながら、タクシーの方へと歩いて行った……。 4  十一月に入って、寒さは一《いち》段《だん》と厳《きび》しくなった。  雪こそなかったが、朝夕の冷《ひ》え込《こ》みは、ここ数年来のものとのことだった。  朝、通《つう》勤《きん》の電車に揺《ゆ》られながら、母を入院させておいて良かった、と朋《とも》子《こ》は思っていた。当然、この寒さは心《しん》臓《ぞう》にはよくない。  その点、病院ならば、まず安心していられる。母の容《よう》態《だい》も、一《いち》応《おう》小《しよう》康《こう》を保って、このところ発作のきざしは見えないようだった。  会社も楽しかったし、仕事も面白い。給料も、三船メールサービスに比《くら》べるとずっと良かった。  美《み》幸《ゆき》は相変らず母に付きっきりで、時々洗《せん》濯《たく》物《もの》を持ってアパートへやって来る。買物や何かには、久《く》米《め》をこき使っているらしかった。  田《た》沢《ざわ》和《かず》彦《ひこ》のことを、美幸にだけは話した。美幸は、  「いいじゃない! あっちはお金持なんだからさ、せいぜい出させてやりゃ」  と例の調子だったが、朋子としては、そうもいかない。  だが、あの後、和彦からは何の連《れん》絡《らく》もなかった。そして父からも……。  父を見かけたことは、誰《だれ》にも話さなかった。錯《さつ》覚《かく》かもしれないことで、母や美幸を混《こん》乱《らん》させたくはない。  しかし、不思議なことに、日がたつにつれて、あれは本当に父だったのに違《ちが》いない、という確《かく》信《しん》が湧《わ》いて来た。そして、本当に父だったとすれば、なおさら、母の耳に入れてはならない、と思った。  「——おはようございます」  会社へ着いて、挨《あい》拶《さつ》を交わしながら席につく。すぐに、電話が鳴った。  「受付にお客様です」  「はい」  誰だろう? 朋子は受付に急いだ。  男が二人、立っていた。  「村山ですが……」  「警《けい》視《し》庁《ちよう》の者です」  男の一人が、低い声で言った。「お仕事中申《もう》し訳《わけ》ありませんが、ちょっとお話が……」  「はい」  三人は廊《ろう》下《か》へ出た。  「父のことでしょうか?」  「そうです。何か連《れん》絡《らく》はありましたか?」  「いいえ」  「そうですか」  刑《けい》事《じ》は、あまり朋子の言葉を信用していないようだった。親をかばうのは当然だと思っているのだろう。  「田沢さんという方から通《つう》報《ほう》がありましてね」  「田沢……。副《ふく》頭《とう》取《どり》の田沢さんですか?」  「そうです。お父さんから電話があったというんです」  「父から……」  と、朋子は呟《つぶや》くように言って、「で、父は何と?」  「あなたやご家族のことをあれこれ訊《き》いたそうです。やはり気にかかるんでしょうね」  「今、父はどこに?」  「東京へ戻《もど》っているようです」  東京に。では、やはり、あれは父だったのか……。  「で、あなたの所へも連絡が行くかもしれないと思ってうかがったのです」  「残念ですけど、今のところは何も」  「そうですか。まあ、あなたも、実の父親ですから、かばってやりたいと思うでしょうが、ともかくもし話すなり、会うなりしたら、ぜひ自首するように勧《すす》めて下さい。それが本人のためなんです」  「分りました」  「もし、何かありましたらここへ」  と、電話番号のメモを渡《わた》し、刑事は引き上げて行った。  席に戻《もど》ってしばらくは、仕事が手につかなかった。父のことなど、どうでもいい。もう忘《わす》れた、と思っても、やはり忘れられるものではないのだろう……。  電話が鳴った。  「はい」  「外線からです」  交《こう》換《かん》手《しゆ》が電話をつなぐ音。  「もしもし、村山です」と朋子は言ったが、向うは一向に出る気《け》配《はい》がなかった。  「もしもし?——どちら様ですか?」  「朋子か」  父の声がした。朋子は受話器を握《にぎ》り直《なお》した。  「え、ええ……そうです」  「私《わたし》の声が分るか?」  「はい」  「よかった。——母さんは入院したそうだな」  「そうなんです」  「具合はどうなんだ?」  「今は持ち直していますけど、いつ発作が起きるか分らないそうです」  朋子は、できるだけ事《じ》務《む》的《てき》な調子でしゃべっていた。  「お前は大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》か?」  「ええ、元気にやっています。美幸は母についています」  「そうか。苦労かけて済《す》まない」  初めて、朋子の言葉が詰《つ》まった。  「——ご用はそれだけですか」  と言った。  「お前に会いたい」  「それは——でも——」  「一度会っておきたいんだ。今夜あたり、どうだろう?」  「今夜はちょっと——約《やく》束《そく》がありますので」  「それじゃ明日ならいいか?」  「明日なら……。分りました」  「それはありがたい。分ってくれるだろうが、あまり目立ちたくない」  「ええ、分ります」  「新宿に個《こ》室《しつ》喫《きつ》茶《さ》の〈J〉という店がある。ちょっと妙《みよう》な場所だが、一番目につきにくいからね」  「場所は……」  朋子はメモを取った。「——明日の六時ですね。分りました」  「きっと、来てくれるね」  朋子は少し間を置いて、言った。  「たぶん、行けると思います」  受話器を戻《もど》す手が、細かく震《ふる》えていた。  「忙《いそが》しいんだろう? 毎日来てくれなくてもいいんだよ」  久《ひさ》代《よ》がベッドの上で、微《ほほ》笑《え》みながら言った。  「何だか邪《じや》魔《ま》みたいね、私《わたし》が来ちゃ」  と、朋子は笑《わら》いながら、椅《い》子《す》を引《ひ》き寄《よ》せて座《すわ》った。  「どう、気分は?」  「のんびり休ませてもらってるよ」  「それが一番なのよ。良くなったら、三人で温《おん》泉《せん》にでも行きましょうか」  「そうねえ。そうできればいいね」  「できるわよ」  朋子は、正直なところ、母がずいぶん弱って来たと思った。言葉にも、力がない。もちろん、相変らず気《き》品《ひん》があって、端《たん》然《ぜん》としているのだが、それはまるで色あせて行く写真のように、明《めい》瞭《りよう》な輪《りん》郭《かく》を失いつつあった。  「美幸は?」  と久代が訊《き》いた。  「今、お湯沸《わ》かしに行ってる」  「そう……」  久代は少し間を置いて、「あの久米さんとかいう人と、一《いつ》緒《しよ》になってくれるといいね」  と言った。  「久米さんが気《き》の毒《どく》みたい。尻《しり》に敷《し》かれるのが目に見えてるもの」  「いい人だね、あの人は」  「本当にね。自分たちでうまくやって行くでしょ、今の若《わか》い子たちは」  「お前一人に何もかもしょわせちまって、すまないね」  「やめてよ」  朋子はふざけ半分に母をにらんだ。「そういうことを言うの、お母さんの悪い癖《くせ》よ」  「そうだね……。こうやってると、ついあれこれ考えちまうんだよ」  久代は、少し疲《つか》れたように目を閉《と》じたが、また思いついたように朋子の顔を見て、「何かあったんだね?」  「何のこと?」  「顔に書いてあるよ。お父さんから連《れん》絡《らく》があったの?」  いきなりそう言われて、朋子は反《はん》応《のう》を隠《かく》すことができなかった。久代が、たたみ込《こ》むように、  「そうなんだね?」  と訊《き》いて来る。  ごまかすことはできなかった。  「ええ、電話が……」  「元気そうだった?」  「分らないわ。ちょっとしゃべっただけだもの」  朋子はじっと母を見つめて、「どうして分ったの?」  「分るわよ。親だからね」  そういうものなのだろうか。病人ゆえに、勘《かん》が鋭《するど》くなっているのかもしれない、と朋子は思った。  「お父さん、何か言ってたかい?」  「お母さんの具合、どうだ、って。それから……私《わたし》に会いたいとも言ってたわ」  「どう返事をしたの?」  「明日会うって言ったわ。でも、迷《まよ》ってるの。放っておこうかとも思うし……」  「会っておいで」  と久代は言った。「元気なら私が行きたいけどね」  「お父さんに会いたいの?」  「そりゃあ、夫《ふう》婦《ふ》だからね。きっと、神《しん》経《けい》の休まる間もないだろうよ、あの人は」  「自分で選んだのよ」  「事《じ》情《じよう》も知らずに人を責《せ》めちゃいけないよ」  「だって——」  と言いかけて、朋子は美幸がやって来るのに気付いて口をつぐんだ。  「病院の食事っていいわね」  美幸はポットから急《きゆう》須《す》へ湯を注ぎながら言った。「お姉さんも食べてみたら? 私、すっかりスマートになっちゃった」  「もう行くわ」  と朋子は立ち上った。  「何だ、もう?——用事なの?」  「スーパーに寄《よ》らないとね」  と、朋子は出まかせを言った。「じゃ、また明日来るわ」  「明日は約《やく》束《そく》があるんだろ」  と久代が言った。  朋子は、母の静かな眼《まな》差《ざ》しを受け止めて、  「そうか……。じゃ、早く済《す》んだら来るからね」  と、言った。  行くべきかどうか。  一《ひと》晩《ばん》、考えて、朋子には決心がつかなかった。母の気持を考えれば、会うべきかもしれない。しかし、父の希望通りにすることで、父のしたことを許《ゆる》すように受け取られたくはなかった。  その日、午後になっても、朋子は決心がついていなかった。ともかく、仕事に神《しん》経《けい》を集中させようと努力していた。  決めるのを、少しでも先へ伸《の》ばしておきたかったのである。  三時を回った頃《ころ》、電話が鳴った。父からだろうか、と、一《いつ》瞬《しゆん》心《しん》臓《ぞう》に痛《いた》みを覚えた。  「村山です」  「田沢和彦です」  「ああ……」  朋子はふっと全身で息をついた。  「突《とつ》然《ぜん》電話して……」  と、和彦は言った。「実は、父の所に、村山さんから——あなたのお父さんから電話があったそうで」  「ええ、うかがいました。あの——刑《けい》事《じ》さんがみえて」  朋子は少し声を低くした。  「申《もう》し訳《わけ》ない。あなたへ真先にお知らせしなくてはならないのに、警《けい》察《さつ》へ通《つう》報《ほう》したりして……」  「いえ、それは当然のことです。どうぞお気になさらないで」  「そんなことはないですよ。父と派《は》手《で》にやり合ってね」  「困《こま》りますわ、私《わたし》が。——どうぞ、お父様には何もおっしゃらないで下さい」  「あなたの方にはお父さんから連《れん》絡《らく》はなかった?」  朋子は、少しためらってから、  「ありません」  と言った。  「そうか」  それきり、しばらく話は途《と》切《ぎ》れた。  「あの……わざわざありがとうございました」  と、朋子は言った。  「いや、とんでもない。あの——仕事の方はどうかな」  「はい、とても楽しくやっています」  「それなら良かった。ともかく、何かあればいつでも電話を——」  「ありがとうございます」  朋子は先に受話器を置いた。知らず知らず緊《きん》張《ちよう》していたようだ。父と今夜会うことになっている、と、つい和彦にしゃべってしまいそうな気がしたのだ。  もちろん、和彦に話したとしても、和彦が警《けい》察《さつ》へ通《つう》報《ほう》するとは思えない。ただ、朋子はできるだけ、和彦を巻《ま》き込《こ》みたくなかったのである。  それでいて、言葉が口をついて出ようとするのを必死で押《おさ》えていなくてはならなかったのは、やはり、心細かったせいかもしれない。単《たん》純《じゆん》に、朋子は父に会うのが怖《こわ》かったのだ。  父が怖いのでなく、自分が父に何を言うかそれが予《よ》測《そく》できないから、怖かったのである……。  だが、逃《に》げるわけにはいかない。やはり父に会わなくてはならない。一日のばし、二日のばしても、問題は解《かい》決《けつ》しないのだから。  黒い板ガラスの重い扉《とびら》を押《お》して中へ入る。——個《こ》室《しつ》喫《きつ》茶《さ》というのが、どういう目的で使われているのか、朋子とて知らぬわけではないが、それにしても、異《い》様《よう》に薄《うす》暗《ぐら》くて、静かだった。  目の前にカウンターがあり、若《わか》い男が退《たい》屈《くつ》そうに座《すわ》っていたが、朋子を見ると、  「いらっしゃいませ」と顔を上げた。  「あの……待ち合わせてるんですが、人と……」  「お名前は、朋子さまですか?」  「そうです」  「廊《ろう》下《か》の奥《おく》を右へ入って、七号室です」  「どうも」  礼を言うと、相手がちょっと面食らったような顔になる。それはそうかもしれない。こんな場所で密《みつ》会《かい》しようというのだから、もっとこそこそしているのが普《ふ》通《つう》なのだろう。  廊下を進んで行って、右へ折《お》れる。〈6〉〈7〉と部屋が並《なら》んでいた。  七号室のドアの前に立って、朋子は、このまま帰ってしまおうかと思った。六号室のドア越《ご》しに、女の喘《あえ》ぐ声が洩《も》れて来るのに気付いて、朋子の頬《ほお》が紅《こう》潮《ちよう》した。  ノックもせずに、ドアを開いた。  「——朋子。よく来たな」  父が立ち上った。「ともかく、入りなさい。ドアを閉《し》めて」  朋子は言われるままに中へ入って、後ろ手にドアを閉めた。暖《だん》房《ぼう》が暑いほどきいている。細長い小部屋で、中《ちゆう》途《と》半《はん》端《ぱ》な長さのソファと椅《い》子《す》、テーブルがあるだけだった。  「暑いだろう。コートを脱《ぬ》いだら?」  村山はワイシャツにネクタイという姿《すがた》だった。朋子もコートを脱いで、ソファへ投げた。  「——元気か?」  「私《わたし》はね」  父は、予想していたほどは変っていなかった。——少し疲《つか》れたような顔で、多少やつれてはいたが、いわゆる憔《しよう》悴《すい》し切ったという印象はない。  ワイシャツも真新しく、ネクタイも新品で、上衣をちゃんと着こめば、まだ銀行マンとして充《じゆう》分《ぶん》に通用するだろう。  「母さんはどうだ?」  と村山が訊《き》いた。  「気になるの?」  朋子は急に憤《いきどお》りがこみ上げて来るのを、どうしても抑《おさ》えられなかった。「誰《だれ》のせいであんな安アパートで、寒さを我《が》慢《まん》してなきゃならなかったと思うの? お母さんの心《しん》臓《ぞう》を一度に十年分も疲《つか》れさせたのは誰なの?」  声が震《ふる》えて来るのが分って、朋子は言葉を切った。  村山は何も言わなかった。黙《だま》ってタバコに火を点《つ》けた。——家ではもう何年も禁《きん》煙《えん》していたのだが。  「具合は良くないわ」  少し静かな声に戻《もど》って、朋子は言った。立ったままだった。  「そんなにか」  「今度大きな発作が来たら……危《あぶ》ないと言われてるし、お母さんもそれは承《しよう》知《ち》してるみたいだわ」  「今日会うことを知ってるのか?」  「いいえ」  朋子はためらわずに否《ひ》定《てい》した。「お母さんを興《こう》奮《ふん》させるのが一番いけないのよ」  「そうだ。もちろんだな。——母さんには黙っていてくれ」  「ええ」  少し間を置いて、朋子は言った。「宮《みや》島《じま》裕《ゆう》子《こ》っていう人と、今も一《いつ》緒《しよ》なの?」  「ん? ああ……。そう、ずっと一緒にいる。——あれも体があまり丈《じよう》夫《ぶ》じゃない。逃《に》げ回《まわ》るのは大変だよ」  と村山は微《ほほ》笑《え》んだ。  「東京へ、どうして戻《もど》って来たの?」  「用があってな、色々と……。それに、みんなもう私《わたし》のことなど憶《おぼ》えてはいないだろうし」  「警《けい》察《さつ》が昨日会社へ来たのよ」  「警察が?」  「田沢さんへ電話したでしょう」  「うん。お前たちの住いも勤《つと》め先《さき》も分らなかったのでね」  「田沢さんが後で警察に通《つう》報《ほう》したのよ」  「そうか。まあ当然だろう。副《ふく》頭《とう》取《どり》の立場がある」  「警察へ出頭したら?」  村山はゆっくりと頭を振《ふ》った。  「それはできん。私一人なら、それでもいいが、今はできない」  「ずっと逃《に》げて歩くつもり?」  「その気になると、仕事はあるものさ」  と村山は気楽さを装《よそお》って言った。  「じゃ、好《す》きにしなさいよ」  朋子は肩《かた》をすくめた。「私に会って、どうするつもりだったの?」  「どう、って……考えちゃいないさ。ただ会いたくなった。それだけだ。そして謝《あやま》りたかった」  「勝手なことを……」  朋子は再《ふたた》び声が高く迸《ほとばし》って行くのを止められなかった。「どうして私だけに謝るの? 私なんかより、いつ死ぬかもしれないお母さんに謝ったら? 大学へ行かずにバーで働いていた美幸に謝ったらどうなの」  村山は青ざめてうつむくと、両手で顔を覆《おお》った。  「何よ。何してるのよ。そうして苦しんでれば済《す》むと思ってるの? あなたがいくら苦しんだって、お母さんの命が延《の》びるわけじゃないわ! 私のお給料が増えるわけじゃないのよ。——誰《だれ》が——誰があなたに同《どう》情《じよう》したりするもんですか!」  もう言葉が出なかった。目が涙《なみだ》で曇《くも》って、視《し》界《かい》が揺《ゆ》れた。  朋子はソファに力《ちから》尽《つ》きたように、体を落とした。——そして、ふと気が付くと、ドアが開いて、美幸がハーフコート姿《すがた》で立っていた。  「美幸……」  朋子の声で、村山も顔を上げた。  「田沢さんが病院に電話してくれたの」  と美幸が言った。「息子さんの方がね」  「和彦さんが……」  「お姉さんに電話したら、お父さんから連《れん》絡《らく》がなかったってむきになって言ってたから、変だと思ったらしいの。それをお母さんに話したら、お姉さんが、今日会うはずだって……。で、会社の前で待って後つけて来たの」  「じゃ、話を聞いてたの?」  「うん」  美幸は中へ入ると、ドアを閉《し》め、部屋を見回した。「——こういうとこ、初めて。割《わり》と狭《せま》いのね」  「美幸、少しやせたんじゃないのか」  村山が言った。  「スマートになった、と言ってよ」  美幸は照れたように笑《わら》って、「お父さん、変らないね。ちょっと老《ふ》けたかな」  「そうか? 髪《かみ》は黒く染《そ》めたんだ。かなり白くなったがね」  「それで若《わか》く見えるのか」  美幸は壁《かべ》にもたれて、「——今、恋《こい》人《びと》がいるのよ」  「そりゃいいじゃないか。大学生か?」  「うん。久米君っていって——見かけはパッとしないけど、いい人よ」  「結《けつ》婚《こん》するのか?」  「まだ分んないわよ」  「大学は……出るんだろう」  「お姉さん一人に働かせて大学なんか行っちゃったりしたら申《もう》し訳《わけ》ないと思うけど……。でも、続く限《かぎ》りは頑《がん》張《ば》って行くわ」  「そうしてくれ」  村山は静かに言った。  朋子は、じっと顔を伏《ふ》せて、父と美幸のやりとりを聞いていた。——苛《いら》立《だ》ちと腹《はら》立《だ》たしさと、そして奇《き》妙《みよう》な安《あん》堵《ど》感《かん》が、心の中で渦《うず》巻《ま》いている。  「私《わたし》が何としてでも美幸に大学を卒業させてやるわ」  朋子はそう言って、ソファから立ち上った。「美幸、帰ろう」  「いいじゃないの、もう少し話して行けば」  「私はもうごめんだわ」  「お姉さん——」  「もうとっくに死んだものと思うようにして来たのに……。今になって、ただ会いたかったなんて、勝手すぎるわ!」  「怒《おこ》らないで、お姉さん。お母さんだって、お父さんのことを恨《うら》んじゃいないわ。きっとそれなりのわけがあったんだと——」  「若《わか》い女と金を盗《ぬす》んで逃《に》げるのが、『それなりのわけ』なの? 家族を捨《す》てて、放り出して——」  「お姉さん、やめて」  美幸は朋子の腕《うで》をつかんだ。  「じゃ、あなた、ここにいるといいわ」  朋子は父の方へ、燃《も》えるような視《し》線《せん》を投げて、「ゆっくりお話してらっしゃい」  と言うなり、コートをつかんで部屋を飛び出した。  「お姉さん!」  声が追いかけて来たが、足を止めなかった。——店の外へ出ると、冷たい風が吹きつけて来た。急いでコートに腕を通す。  頬《ほお》が冷たかった。涙《なみだ》が流れ落ちて、それを北風が撫《な》でて行くのだ。  何の涙なのか。朋子にも良く分らなかった。ただ、無《む》性《しよう》に悲しかった。  美幸が、ああして父に優《やさ》しくするのが、ショックでもあった。父を忘《わす》れるために、父がいなくても生きていけることを立《りつ》証《しよう》してみせるために、頑《がん》張《ば》って来たのではなかったか。  それが、今になって、ただ顔が見たいからと戻《もど》って来た父に、美幸は恨《うら》み一つ口にしない。——それが悔《くや》しかった。  美幸には、母や朋子ほどの、切実な感覚がないのかもしれない。もともと美幸は父のお気に入りでもあった。どことなく、共通したものがあるのかもしれない。  それにしても……父を許《ゆる》すことはできない! 絶《ぜつ》対《たい》に、一生許しはしない!  誰《だれ》かに突《つ》き当りそうになって、朋子は足を止めた。  「——お父さんに会ったの?」  と、田沢和彦は言った。  朋子は黙《だま》って肯《うなず》いた。  「妹さんは?」  「今、一《いつ》緒《しよ》に……」  と、朋子は、背《はい》後《ご》に遠ざかった店の方を、チラリと見やった。  「そうか。——お父さん、元気そうだった?」  「死んでしまえばいいのに」  と、朋子は呟《つぶや》くように言った。「——どうしてここに?」  「妹さんに電話してから、自分でも確《たし》かめたくなってね。余《よ》計《けい》なお節《せつ》介《かい》かもしれないが」  「じゃ、やっぱり私の後を?」  「うん。妹さんも気が付かなかったようだ」  「ずいぶんぼんやり歩いてたんだわ。いやになっちゃう……本当に……」  と、朋子は笑《わら》った。  「一杯《ぱい》飲むかい?」  朋子は、和彦の、優《やさ》しい眼《まな》差《ざ》しに見入った。そこには、今一番朋子の求めている安らぎがあった。  「ええ、お付き合いします」  朋子は肯《うなず》いた。  「病院に行かなくちゃ」  と、朋子は言って起き上った。  「もう十時過《す》ぎだよ」  和彦がベッドのわきの腕《うで》時《ど》計《けい》を取って見た。「入れるの?」  「裏《うら》口《ぐち》から入れると思うけど……」  朋子の裸《はだか》の肩《かた》に、和彦の腕が回った。朋子はちょっと身《み》震《ぶる》いして、和彦の方へ体をもたせかけた。  「——酔《よ》った勢いでしょ?」  「僕《ぼく》は違《ちが》う。君はそうなの?」  「私《わたし》はずっとジンジャーエールしか飲まなかったわ」  和彦がちょっと笑《わら》って、朋子を抱《だ》きしめた。  朋子は、このまま時が止ってくれたらいいと思った。父のことも、母の病気も、美幸の大学も、明日の仕事、明後日の予定も、総《すべ》て消えてなくなればいい。  「——本当にもう行かなくちゃ」  本心とは裏《うら》腹《はら》の言葉が、勝手に流れ出て来た。  「そうか。じゃ、無《む》理《り》に止めないよ」  「シャワーを浴びるわ。——あるのかしら?」  「あるだろう、こういうホテルだから」  朋子は、ベッドから、そっと抜《ぬ》け出した。  「目をつぶっててね」  急いでバスルームの戸を開けて、中へ入る。熱いシャワーで、汗《あせ》ばんだ体を流した。  部屋へ戻《もど》ると、もう和彦は服を着ていた。  「先に出てようか」  「ええ。お願い」  何となく照れたように笑《わら》って、和彦は部屋を出て行った。  こんな風になろうとは、考えてもいなかったのだが、朋子は充《み》ち足《た》りていた。今、このときを楽しむということが、ずいぶん長い間、なかったような気がする。  これはこれでいい。もう終ったのだ。これから先は、また別の話なのだ。  服を着終えて、出て行くと、和彦は廊《ろう》下《か》で手もちぶさたにしていた。  「こういうの、ラブホテルっていうんでしょ?」  エレベーターの方へ歩きながら朋子は言った。  「らしいね。よく知らないけど」  「あら、ずいぶん慣《な》れてるみたいだったけど」  「とんでもない! こんな所、初めてだよ。本当なんだ」  とむきになる和彦に、朋子はつい笑ってしまった。  「——やっと気分がほぐれたようだね」  タクシーの中で、和彦が言った。  「そんなにピリピリしていたかしら?」  「今にも爆《ばく》発《はつ》しそうだったよ」  「爆《ばく》弾《だん》ね、まるで」  「——この次はいつ会える?」  朋子は和彦の方をじっと見て、  「本当に、そう思ってるの?」  と訊《き》いた。  「当り前だよ。恋《こい》人《びと》がいるなんて、どうせ嘘《うそ》だったんだろう」  「知ってたの?」  「君は嘘が下手《へた》だ」  和彦が朋子の手を握《にぎ》った。  「これは遊び……でしょう」  朋子は低い声で言った。  「違《ちが》う」  「だめよ。本気にならないで」  「なぜ? 父が副《ふく》頭《とう》取《どり》だからか?」  「それもあるわ。ともかく——まともに行かないのは、目に見えてるわ」  「そんなこと関係ない」  「あるわ。人間はそういうものに縛《しば》られて生きてるんだもの。周囲を傷《きず》つけたり、不幸にしてもいいと言うのなら……父と変らなくなるわ」  「お父さんと君は別だ。お父さんのことを君が負《ふ》担《たん》に感じてるのなら——」  「もう、やめて。病院に着くわ」  朋子は身を乗り出して、「その手前で止めて」  と言った。  「——また電話する」  と、和彦が、タクシーを降《お》りる朋子へ声をかけた。  朋子は黙《だま》って手を上げて見せた。  病院は暗く、静かだった。救急車も見えない。急《きゆう》患《かん》用《よう》の入口から入って、人のいない廊《ろう》下《か》を歩いて行く。  何度か来ているのに、よく廊下を間《ま》違《ちが》える。あそこを右……。  一階の、外来の待合室を通《とお》り抜《ぬ》ける。もちろん、今は真っ暗で、静まり返っている。  表《おもて》玄《げん》関《かん》から入って正面。扉《とびら》が開くと、北風がまともに吹きつける、病人にはあまりいい場所とも思えない。  階《かい》段《だん》の方へ向おうとして、朋子は足を止めた。——何か聞こえた。  押《お》し殺《ころ》したような、すすり泣《な》きの声らしかった。振《ふ》り向《む》いて、見回してみる。  暗い、待合室の奥《おく》から、それは聞こえて来た。長《なが》椅《い》子《す》が、無《ぶ》愛《あい》想《そう》に並《なら》んでいるだけの場所である。  行ってしまおうかとも思ったが、何かが朋子の足をひき寄《よ》せた。  その泣き声に、聞《き》き憶《おぼ》えがあった。  「——美幸」  と呼《よ》ぶと、パタと声はやんだ。  「お姉さん?」  「美幸なの?——何してるの、こんな所で?」  椅子がガタガタと動いて、美幸が出て来た。  常《じよう》夜《や》灯《とう》の光が、ぼんやりと、美幸の顔を照らし出した。  「どうしてこんな所にいるの?」  「だって……もう……」  美幸の声が震《ふる》えて消えた。  朋子は、顔から血の気がひいて行くのを感じた。——分った。分ったのだ。  「お母さんが……」  美幸は顔をそむけて言葉を切った。  「——いつ?」  「少し……前。三十分くらい」  「そばにいたの?」  「うん」  「お母さん、何か言った?」  「何も。——発作があって、それっきり……」  「お父さんのことを……」  「話したわ。帰ってから」  「そう」  美幸は、姉の腕《うで》にすがるようにして、  「言わない方が良かったかしら?」  と言った。  「そんなことないわ。お母さん、安心したでしょ、きっと」  「お姉さん……」  美幸が朋子に抱《だ》きついて来た。朋子は、しっかりと妹を抱きしめた。初めて、涙《なみだ》が溢《あふ》れ出た。  「さあ……しっかりして……泣いてちゃ仕方ないじゃないの……」  朋子が、美幸の肩《かた》を揺《ゆ》さぶった。  足音がして、振《ふ》り向《む》くと、久米が立っていた。  「美幸、知らせたの?」  「だって、一人で……心細くって……」  「久米さん、わざわざすみません」  「いいえ」  久米は困《こま》ったようにピョコンと頭を下げた。「本当に、残念でしたね」  「ありがとう。——妹をお願い。私《わたし》は病室へ行って来ます」  「はい」  美幸は久米に肩を抱《だ》かれて、やっと落ち着いたようだった。  ——病室の前に、担《たん》当《とう》の医《い》師《し》がいた。  「あ、お姉さんでしたね」  「どうもお世話になりました」  朋子は、頭を下げた。  「まあ、いずれにしても、後二、三か月とはもたなかったでしょう。瞬《しゆん》間《かん》的《てき》なもので……安らかでしたよ」  「そうですか」  朋子は病室の方を見て、「まだ、母はここに?」  と訊《き》いた。  「ええ」  ——病室の中は、静かだった。同室の患《かん》者《じや》たちが、一人として眠《ねむ》っていないのが、気配で分った。  同じ病室の仲《なか》間《ま》が死ぬ。それは何よりも大きな空白、虚《むな》しさだろう。  朋子は、母の静かな顔に、じっと見入った。——その直前に、母の脳《のう》裏《り》を去《きよ》来《らい》したのは、誰《だれ》の顔だったろう。  朋子か、美幸か。——いや、夫《おつと》の顔だったのかもしれない。朋子には、そう思えてならなかった。 第三章 1  葬《そう》儀《ぎ》の日は、穏《おだ》やかに晴れた。  「——お姉さん」  美《み》幸《ゆき》に呼《よ》ばれて、朋《とも》子《こ》は振《ふ》り向《む》いた。  「何?」  「表に……」  アパートの部屋では狭《せま》過《す》ぎるので、近くの公民館を借りていた。公民館といっても、古い普《ふ》通《つう》の家で、立《たて》札《ふだ》がなければ、誰《だれ》もそれとは気付かないだろう。  驚《おどろ》くほどの焼《しよう》香《こう》客《きやく》が訪《おとず》れて来た。——朋子は、本当に母親と親しかった二、三人にしか、その死を知らせなかったのだが、そこから話は広まったらしく、母の関係だけでなく、父の友人、知人もやって来た。  あの、おっとりとして、世間の垢《あか》というものに染《そ》まることのなかった母が、いかに人から好《す》かれていたか。朋子は改めて目《め》頭《がしら》を熱くした。  「——失礼します」  美幸について表に出る。  少し離《はな》れた所に、男が二人、立っていた。すぐに、会社へやって来た刑《けい》事《じ》だと分った。  「お姉さん、あの人たち——」  と不安げな美幸へ、  「あなたは戻《もど》ってて」  と言って、朋子は歩いて行った。  「どうもこの度は……」  と年長の方の刑事が頭を下げた。  「おそれ入ります。——何か?」  「お父さんにお会いになりましたか?」  「いいえ」  「本当ですか?」  朋子は、刑事がどこまで知っているのだろう、と思った。しかし、母の遺《い》影《えい》の前で、父のことを警《けい》察《さつ》に話す気にはなれない。  「会いたくもありません。向うも合わせる顔がないでしょうし」  「なるほど。——しかし、お母さんが亡《な》くなったことはご存《ぞん》知《じ》でしょうかね」  朋子はちょっと肩《かた》をすくめた。  「分りませんわ。どこかから聞けば……」  「知っていれば、ここへ来るんじゃありませんかね」  と若《わか》い刑事が言った。  年長の刑事は、穏《おだ》やかだったが、若い方の刑事は、頭から朋子を信用していないのを隠《かく》そうともしなかった。  「私《わたし》には何とも申《もう》し上《あ》げられません」  と朋子は言って、「お客様に失礼ですので戻《もど》りたいのですが」  「ああ、どうぞ。すみませんでしたな、おとりこみのところを」  年長の刑事が丁《てい》寧《ねい》に会《え》釈《しやく》した。  「姿《すがた》を見せれば逮《たい》捕《ほ》しますよ」  若《わか》い刑事が歩きかけた朋子に声をかけた。  「母の告《こく》別《べつ》式《しき》です。できるだけ静かにお願いしますわ」  朋子はそう言うと、歩き出した。  父は知っているのだろうか? どこかから聞いたとして、果《はた》してやって来るだろうか?  「——朋子さん」  ハッと足を止める。田《た》沢《ざわ》和《かず》彦《ひこ》だった。  「和彦さん、あなた——」  「父は来られないので、代りに……」  「わざわざすみません」  和彦は黒いスーツに黒いネクタイをしめていた。わざわざ着《き》替《が》えて来たとみえる。  「大勢みえてるね」  「ええ、びっくりするくらい」  「お母さんはいい方だった」  「本当に……」  和彦がうつむき加《か》減《げん》になって、  「——申《もう》し訳《わけ》なかったと思ってね。僕《ぼく》が君を引き止めたせいで、お母さんの亡《な》くなるとき、君はそばにいられなかった」  「そんなこと……。私は何とも思っていないわ」  本当に、初めてそのことに気付いたのだった。「母はもの分りのいい人だもの。きっと笑《わら》って励《はげ》ましてくれるわ」  「そう言ってくれると気が楽になるよ」  と和彦は微《ほほ》笑《え》んだ。「思ったより元気で、よかった」  そして、二人の刑《けい》事《じ》の方をチラリと見て、  「あれは?」  「刑事さん。父が現れるかもしれない、って」  「そうか。——何もこんな所にいなくても」  「仕方ないわ。お仕事だもの、それが」  「お父さん、本当に来ると思う?」  「さあ、知っていれば……。でも、当然考えてるでしょうけど」  和彦は肯《うなず》いて、  「僕も気を付けていよう」  と言った。「お母さんの前で逮《たい》捕《ほ》させたくないだろう」  朋子は何も言わなかった。  出《しゆつ》棺《かん》になった。  何となく立《た》ち去《さ》り難《がた》いのか、大勢の人が表に出て待っていた。  朋子は、少し気が緩《ゆる》んで来るのを感じた。やはり緊《きん》張《ちよう》していたのだろう。それに、寂《さび》しい葬《そう》儀《ぎ》になるのではないかと思っていたので、ホッとしてもいたのである。  火《か》葬《そう》場《ば》までついて行くのは、自分と美幸だけでいいと思っていた。母の兄弟はもう亡《な》くなっていたから、それほど近い親類はいないのである。  棺が出て来るのを待っている間に、方々ですすり泣《な》きが起こった。母の友人たちである。  その方へ目を向けて、朋子は、ふと、道の奥《おく》へと視《し》線《せん》をずらした。タクシーが停《とま》って、ドアが開く。  四、五十メートル離《はな》れているので、車の中はよく見えないのだが、誰《だれ》か人《ひと》影《かげ》が動くのが目に入った。  もしかしたら……。朋子は心《しん》臓《ぞう》が激《はげ》しく打つのを感じた。  タクシーから、誰かが降《お》り立った。  「お姉さん!」  美幸が押《お》し殺《ころ》した声で言った。「あれ——」  「黙《だま》って」  朋子は鋭《するど》く囁《ささや》いた。  父だった。——馬《ば》鹿《か》なことを。捕《つか》まるに決まっているではないか。  「どうする?」  美幸が言った。  どうするといって……。朋子は身動きできなかった。どうせいつかは捕まるのだ。今だって構《かま》いはしない。そうだとも。母を死なせたのだから、当然の報《むく》いだ。  「いやよ。私、お父さんが捕まるのなんて」  美幸が言った。  朋子は振《ふ》り向《む》いた。刑《けい》事《じ》たちの姿《すがた》は見えなかった。もう引き上げたのだろうか?  和彦と目が合った。和彦が問いかけるように朋子を見る。朋子は視《し》線《せん》をゆっくりと動かして、歩いて来る父の方へ向けた。  和彦が人の間を抜《ぬ》けて近づいて来た。  「——刑事は?」  と囁くように訊《き》く。  「分らないわ」  朋子はちょっと首を振《ふ》った。  村山は、道の半ばまで来ると、足を止めた。朋子と目が合っていた。  棺《かん》が出て来る。人々がザワついて道をあけた。棺は、朋子の目の前を通って、父の姿《すがた》を、遮《さえぎ》るような形になった。  通《とお》り過《す》ぎたとき、朋子の目に、父が合《がつ》掌《しよう》している姿《すがた》が映《うつ》った。  朋子の視《し》界《かい》が曇《くも》った。涙《なみだ》が目に灯《とも》ったのだ。そのとき、急に美幸が飛び出した。  朋子は気付かなかったが、あの刑事たちの一人、若《わか》い方の刑事が、塀《へい》ぎわを父の方へと進んで行くのが見えたのだ。  「お父さん! 逃《に》げて!」  美幸の叫《さけ》び声で、村山は顔を上げた。美幸は同時に、刑《けい》事《じ》に向って飛びかかっていた。  「離《はな》せ!」  刑事が美幸を振《ふ》り離そうとした。和彦が走り出す。  必死にしがみつく美幸を、刑事はなかなか振り切ることができなかった。平《ひら》手《て》が美幸の頬《ほお》に鳴って、美幸が倒《たお》れた。  「何をするんだ!」  和彦が刑事へ飛びかかった。  「やめて!」  朋子が叫《さけ》んだ。「和彦さん!」  混《こん》乱《らん》が続いた。朋子は美幸を抱《かか》え上《あ》げた。  「お父さん……」  美幸が頬を押えながら、「お父さんは?」  と言った。  道には、もう誰《だれ》の姿《すがた》もなかった。  「美幸」  と、朋子が言った。  「なあに?」  朋子のアパートである。もう夜中に近かったが、二人とも黒いワンピースのままだった。一体何時間、こうして座《すわ》っているだろう。  「あなた……お父さんと何を話したの?」  「何よ、急に」  「急に、ってことないでしょ。あのときは何も訊《き》く暇《ひま》がなかったからよ。——お父さんと何の話をしたの?」  「別に……。私《わたし》の方がほとんどしゃべってたんだもの」  と美幸は言った。「お姉さんのこと、お母さんのこと……。色々聞きたがってたから……」  「自分のことは話さなかったの?」  「少しは、ね」  「何と言ったの?」  「さあ……」  美幸は首をかしげて、「よく憶《おぼ》えてないけど」  「美幸」  朋子は少し強い口調で言った。  「え?」  「私に何か隠《かく》してるんじゃないの?」  「隠してなんかいないよ。どうしてそんなこと言うの?」  「なぜ、今日、刑《けい》事《じ》に飛びかかって行ったりしたの?」  「目の前でお父さんが捕《つか》まるの、見たくなかったんだもの」  「どうして? 私たちを捨《す》てて行った人なのよ。お母さんだって、お父さんがあんなことしなければ、ずっと長生きしたでしょうに」  「でも、お父さんはお父さんじゃない、やっぱり」  「私は平気だったわ」  「そう? 私、いやだわ」  美幸は首を振《ふ》った。「だってさ、お父さんにはあの女の人がいるじゃない」  「宮《みや》島《じま》裕《ゆう》子《こ》?」  「そう。その人に対してもさ、お父さん責《せき》任《にん》があるわけでしょ。だから逃《に》げてるんだと思うな。でなきゃ、とっくに自首してると思うわ」  「どうだか」  玄《げん》関《かん》でチャイムが鳴った。  「——はい」  警《けい》察《さつ》でなければいいと思いながら、ドアを開けると、和彦が、ちょっと照れたような顔で立っていた。  「和彦さん。——今まで警察に?」  「うん。刑《けい》事《じ》だと思わなかった、って言《い》い張《は》ってね。ただ妹さんを殴《なぐ》るのを見て飛びかかったんだって」  「向うは信じたの?」  「信じちゃいなかったろうさ。でも絶対に嘘《うそ》だとも言い切れないからね。何とかごまかして来たよ」  「ごめんなさい、迷《めい》惑《わく》かけて」  「僕《ぼく》が勝手にやったことだから、気にしないでくれよ」  「そんなわけにはいかないわ」  美幸が立って来ると、  「私、下宿へ戻《もど》るわ」  と靴《くつ》をはいた。  「あら、だって」  「色々な物、全部あっちだし。明日、整理してみないと」  「そう。じゃ、電話して」  「明日は会社?」  「明日までは休むつもり」  「じゃ、おやすみなさい」  美幸が足早に出て行くと、和彦と朋子は、何となく黙《だま》り込《こ》んで玄《げん》関《かん》に立っていた。  「ともかく——上って」  「うん」  「夕食は?」  「そういえばまだだったよ」  「それどころじゃなかったわね」  と、言って、朋子は笑《わら》った。  和彦も一《いつ》緒《しよ》に笑った。  次の瞬《しゆん》間《かん》、朋子は和彦の腕《うで》の中にいた。唇《くちびる》に彼《かれ》の唇を感じると、熱いものが身を満たして来るのが分った。  「待って……待って」  朋子は逃《のが》れようとした。だが、和彦はそのまま朋子から離《はな》れなかった。二人は畳《たたみ》の上に倒《たお》れ込《こ》んだ。  ——明りが。  口の中だけで呟《つぶや》いた。その言葉が声になる間《ま》を、和彦の唇は与《あた》えなかった。  「何か言おうとしたね」  と和彦が言った。  「え?」  「さっき、ここへ横になったとき」  「ああ」  朋子は笑《わら》って、「明りを消して、って言おうとしたのよ」  「何だ、そうか」  「もう手《て》遅《おく》れね。いいわ、今さら」  「寒くない?」  「暑いくらい。あなたは?」  「僕の方が暑い」  二人は裸《はだか》の体を寄《よ》せ合《あ》った。  「でも、服着ないと風邪《かぜ》ひくわ。今はいいけど」  「こうしてりゃ暖《あたた》かいさ」  「いつまでもこうしてられないでしょ」  「僕は構《かま》わない」  「せめて布《ふ》団《とん》ぐらい敷《し》かなきゃ。痛《いた》くて仕方ないわ」  「ごめんごめん」  朋子は起き上ると、裸《はだか》のまま浴室へ入って行った。  「お風《ふ》呂《ろ》へ入るでしょう?」  と中から声をかける。  「うん、そうしよう」  「すぐ沸《わ》くわ」  風呂に火を点《つ》けると、朋子は、上り湯を出して、熱い湯を一杯《ぱい》浴びた。  バスタオルで簡《かん》単《たん》に拭《ぬぐ》っておいて、それを体に巻《ま》きつけたまま、部屋へ戻《もど》る。  「冬は時間がかかって」  と言いかけて、声が途《と》切《ぎ》れる。  和彦がズボンとワイシャツ姿《すがた》で立っていた。玄《げん》関《かん》の方を厳《きび》しい目で見ている。——玄関に田沢が立っていた。  「田沢さん……」  朋子はバスタオル一つのままで立ちすくんだ。全身を冷たいものが貫《つらぬ》いて走った。  「警《けい》察《さつ》へ行くと、もうお前は釈《しやく》放《ほう》されたというから、もしかしたらと思って来てみたのだ」  田沢は、無《む》表《ひよう》情《じよう》な声で言った。  「お父さん、僕《ぼく》は——」  「お前は子《こ》供《ども》ではない。したことに充《じゆう》分《ぶん》責《せき》任《にん》は取れるだろう。しかし、自分の立場も忘《わす》れるな」  田沢は厳《きび》しい口調で言った。和彦は口を閉《と》じた。田沢は朋子の方を見て、  「服を着なさい。話がある」  と言うと、ドアを開けて、「表で待っている」  ドアが閉《し》まった。  「心配しないで」  和彦は朋子の肩《かた》へ手をかけた。「僕が話をして来る」  「いいえ」  朋子は和彦の手に手を重ねた。「私《わたし》にお話があるんですもの。私が行くわ。大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》よ、私は」  「でも——」  「いいの。ここにいて」  朋子は急いで服を着ると、コートをはおって、一人で表に出た。  風が強くなっていた。頬《ほお》がナイフで切られるように痛《いた》い。  アパートの外で、田沢が待っていた。  「ここでは話もできん。どこか店はないかね」  思いがけず、言葉は優《やさ》しかった。  「この先に喫《きつ》茶《さ》店《てん》が」  「アルコール抜《ぬ》きか。まあいいだろう」  田沢が朋子を促《うなが》した。  店は、テーブル三つと、カウンターだけの小さなもので、他に客はなかった。いや、奥《おく》で一人、居《い》眠《ねむ》りしているサラリーマンらしい男がいた。  「終《しゆう》夜《や》営《えい》業《ぎよう》のチェーンなんです。ホテル代りに寝《ね》に来る人も結《けつ》構《こう》いるみたいですわ」  と、朋子は言った。  「あんな真《ま》似《ね》ができるのも若《わか》い内だ」  と田沢は、眠っている男を見ながら言って、「さて……」  と視《し》線《せん》を戻《もど》した。  「和彦さんを責《せ》めないで下さい」  と朋子は言った。「私たちのためにしてくれたことですから」  「刑《けい》事《じ》と殴《なぐ》り合《あ》うとはね。驚《おどろ》いたよ」  田沢は苦《く》笑《しよう》して、「銀行マンとしては、いささか不都合だ。分るだろうね」  「はい」  「君も気《き》の毒《どく》だとは思う。私も息子《むすこ》ぐらいの年《ねん》齢《れい》なら、君に同《どう》情《じよう》していたかもしれんよ」  田沢は〈同情〉という所に、ちょっとニュアンスを置いて言った。つまり、和彦は朋子に同情しているので、愛しているわけではないと言いたいのだろう。  「あいつが君のことを心配しているのは知っていたが、まさかああいう仲《なか》とは思わなかった。いや——」  と田沢は、口を開きかけた朋子を止めて、「あいつも大人だし、君もそうだ。ああいう関係になったからといって、それを悪いとは言わない。しかし、和彦は副《ふく》頭《とう》取《どり》の息子《むすこ》という立場があるのだ」  「はい」  「副頭取の息子が、その銀行の金を横《おう》領《りよう》して逃《とう》亡《ぼう》中《ちゆう》の男の娘《むすめ》と恋《こい》仲《なか》だと知れたら、世間はどう思うだろう」  朋子は黙《だま》って目を伏《ふ》せた。  「あれとのことは遊びだと思っているのかね」  「いいえ」  と朋子はすぐに言った。「遊びではありません」  「そうか。しかし、私は遊びであってくれた方がありがたい」  田沢はポケットを探《さぐ》って、何か分《ぶ》厚《あつ》いノートのような物を出した。  朋子はそれが小切手帳だと分った。  「小切手を切ろう。いくらにしたらいい?」  朋子は、自分が惨《みじ》めに思えた。田沢が黙って息子と別れてくれと言えば、それに応《おう》じたかもしれない。しかし、田沢は金で解《かい》決《けつ》しようと思っているのだ。  それは朋子をそういう女だと見ているからだろう。  「お金なんか……」  「もらってくれ。三百万か。五百万出そうか?」  田沢は少し間を置いて、「——私を軽《けい》蔑《べつ》しているかね?」  と言った。  「はい」  「そうだろうな。私も君がこれをすんなり受け取ってくれるとは思っていないよ。しかし、君がそういう女《じよ》性《せい》でいる限《かぎ》り、和彦は君を諦《あきら》めないだろう。だが、君が金を受け取って別れると約《やく》束《そく》したと知れば……」  朋子は顔から血の気がひいて行くのが分った。——田沢の方が正しい。その通りだ。  和彦のように一本気で真《ま》面《じ》目《め》な男は、反対されれば却《かえ》って一気に突《つ》っ走《ぱし》ってしまうだろう。  和彦に諦めさせるには、和彦が朋子に失望しなくてはならない……。  今、和彦を失っても大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》だろうか? 自分は生きて行けるのか。いや——そうする他はない。和彦が、今の地位も、未《み》来《らい》も総《すべ》てを捨《す》てて朋子のもとへやって来たら……。それは父のやったことと変りない。  周囲を傷《きず》つけ、自分だけの満足を求めているのでは、父と同じ過《あやま》ちを犯《おか》すことになるのではないか。  和彦にそこまでさせてはならないのだ。  「——分りました」  と朋子は言った。  「受け取ってくれるかね」  「はい」  「その代り——」  「承《しよう》知《ち》しています。もう和彦さんとはお会いしません」  「ありがとう」  田沢は小切手を切ると、「五百万だ。少ないが、妹さんの大学費用ぐらいにはなるだろう」  とテーブルに置いた。  朋子はそれをコートのポケットに無《む》造《ぞう》作《さ》に押《お》し込《こ》んだ。  「私《わたし》はここにいますから、和彦さんを連れて帰って下さい」  「そうしよう。——いや、払《はら》いは私がもつよ」  「すみません、財《さい》布《ふ》を持って出なかったので……」  田沢は立ち上ると、行きかけてふと足を止め、  「お父さんは元気だったのかね?」  「ええ、元気な様子でした」  「そうか」  田沢は肯《うなず》いて、店を出ていった。自《じ》動《どう》扉《とびら》が開いて閉《し》まるまでの間に忍《しの》び込《こ》んだ北風が、朋子の足下に絡《から》みついた。  三十分——四十分たって、朋子はアパートへ戻《もど》った。  もちろん、和彦はいなかった。ドアの鍵《かぎ》は開けたままで、明りも点《つ》いたままになっている。狭《せま》いアパートが、いやに広々と感じられた。  畳《たたみ》に座《すわ》り込《こ》むと、しばらく動かなかった。やっとコートを脱《ぬ》いで、放り出すと、ヒラリと小切手が落ちた。両手で顔を覆《おお》って、息を吐《は》き出《だ》した。  コトン、コトンという音が、風《ふ》呂《ろ》場《ば》から聞こえて来て、朋子は顔を上げた。  「あ——。お風呂が」  立ち上って、急いで浴室へ入る。沸《わ》きすぎて、煮《に》えたぎるような熱さになっていた。危《あぶ》ないところだった。下手《へた》をすればガス中《ちゆう》毒《どく》である。  一《いつ》瞬《しゆん》、ガスで死のうか、という考えが頭をかすめた。母が死に、和彦も去《さ》った。生きていてどうなるだろう。  朋子は風呂場に座《すわ》り込《こ》んだ。笑《わら》っていた。泣《な》きたいのに、こみ上げて来るのは、苦い笑いだった。  死ぬことはできない。——美幸もいる。そして明日の仕事もあるのだ。  それだけのために生きて行くのは、途《と》方《ほう》もなく辛《つら》いことのように思えて、朋子は、その場でじっと座り込んだまま動かなかった……。 2  「今日のお昼はうんと豪《ごう》勢《せい》に食べまくろう!」  「何よ、いつも食べてないみたいに聞えるじゃないの」  「あら、いつも控《ひか》え目《め》よ」  「へえ、あれで?」  「言ったな!」  笑《わら》い声《ごえ》が響《ひび》く。——今日はボーナスの支給日である。  昼休みになると、みんな一《いつ》斉《せい》に姿《すがた》を消してしまった。いつもはお弁《べん》当《とう》持《じ》参《さん》の者も、今日ばかりは懐《ふところ》もあたたかく、外で食事をとろうというわけらしい。  朋子は、まだ二か月にもならないというのに、特別にボーナスをもらった。もちろんわずかな金《きん》額《がく》だが、思いがけない収《しゆう》入《にゆう》だった。  あいにくの曇《くも》り空《ぞら》だったが、外へ出てみようか、と思った。少し気晴らしも必要だ。  コートを事《じ》務《む》服《ふく》の上にはおって、表へ出てみたが、風があまりないので、思っていたほど寒くはなかった。あまり会社の人の来ない店を選んで入った。  カレー専《せん》門《もん》店《てん》で、そう味も悪くない。——食事をしながら、ガラス越《ご》しに、あわただしく行き交う人の流れを眺《なが》めていた。  十二月。——母の死からもう一か月近くが過《す》ぎた。  和彦はあれ以来、一度も連《れん》絡《らく》して来なかった。課長の大久保に和彦がどうしているか訊《き》いてみたいとも思ったが、やめておいた。知って、どうなるものでもない。  美幸は相変らず下宿にいた。アパートへ帰って一《いつ》緒《しよ》に暮《くら》せば、生活費も安く上るのだが、一人でいたいというので放っておいた。  今のところ、貯《ちよ》金《きん》はないわけでもない。田沢にもらった五百万の小切手が貯金してある。しかし、朋子としては、そのお金には、手を付けたくなかった。  いつか、総《すべ》てが終ったとき、田沢へそのまま返してやりたいと思っていた。  食事を終って、移るのも面《めん》倒《どう》でそのままコーヒーを頼《たの》んだ。おいしくはないが、寒い中を他の店まで行く元気もなかった。  ぼんやりと外を眺《なが》めていた朋子は、ふと男が一人、道の向う側に立って、こっちを見ているのに気付いた。——誰《だれ》だろう?  その男に目が行ったのは、おそらく、せかせかと先を急ぐ人々の流れの中で、じっと立ち止まっているせいだろう。  しばらくその男の方を眺めていたが、朋子は、その内に、どこかで見たことがある、という気がして来た。——顔は、遠すぎてよく見えないのだが、全体の印象が、記《き》憶《おく》のどこかに触《ふ》れるのである。それに、なぜあんな所に立っているのか、寒い中で、まるでこっちを見《み》張《は》ってでもいるかのように……。  「そうだ」  と呟《つぶや》いた。  あの刑《けい》事《じ》だ。父を逮《たい》捕《ほ》しようとして和彦と喧《けん》嘩《か》をした若い刑事に違《ちが》いない。しかし、こんな所で何をしているのだろう?  朋子は、何となく落ち着かない気分で店を出て、会社へ戻《もど》った。ビルに入るとき、振《ふ》り向《む》くと、刑事は目に見える距《きよ》離《り》でついて来ていた。  私《わたし》を見《み》張《は》っているんだわ、と朋子は思った。——当然、目的は父の方だろう。しかし、どうして今になって……。  それとも、これまで尾《び》行《こう》されていたのを気付かなかったのだろうか。——そうとも思えない。というのは、今の様子から見て、刑事は隠《かく》れて見張ろうというつもりがないようだったからだ。知られても一向に構《かま》わないという気分でいるらしい。  何を考えているのか、朋子には分らなかった。極力頭から刑《けい》事《じ》のことを追い出そうとして、仕事に専《せん》念《ねん》した。  おかげで時間のたつのが早い。  四時を回って、朋子は大久保に呼《よ》ばれて会議室へ行った。がらんとした会議室に、ポツンと大久保が座《すわ》っている。  「お呼《よ》びですか」  と朋子は言った。  「やあ、どうも。——かけて下さい」  大久保はいつになく、困《こま》ったような表《ひよう》情《じよう》をしていた。どうしたというのだろう。  「何かお話が……」  朋子は、大久保があまり黙《だま》っているので、促《うなが》すように言ってみた。  「実は刑事が来たのですよ」  と大久保は言った。  「刑事……」  「私の所へ来れば良かったんだが、社長に直《ちよく》接《せつ》会いたいと言ったんですな。相手が警《けい》察《さつ》では断《ことわ》るわけにもいかん」  「それで、何の用でしたの?」  「あなたのことをあれこれしゃべったり、訊《き》いたりしていったらしい」  「私のことを?」  「つまり、お父さんのことを承《しよう》知《ち》であなたを雇《やと》ったのかどうか、それから、金の盗《とう》難《なん》はなかったか、とか……」  朋子は頬《ほお》を紅《こう》潮《ちよう》させた。  「私が泥《どろ》棒《ぼう》だと——」  「いやいや、そうは言いません。刑事がそう訊いたんですよ。もちろん、何の関連もない質《しつ》問《もん》だと言《い》い逃《のが》れはできますが、続けて訊けば、誰でも相手は、あなたが来てから、と受け取るでしょう」  朋子は怒《いか》りをじっと抑《おさ》えて、  「他に何か……」  「あなたが、お父さんの逃《とう》走《そう》を助けて、公《こう》務《む》執《しつ》行《こう》妨《ぼう》害《がい》罪《ざい》に問われたとか」  「嘘《うそ》です」  朋子は呆《あき》れて言った。「和彦さん——田沢さんが事《じ》情《じよう》を聞かれましたけど、罪《つみ》には問われていません」  「私《わたし》もその辺は分っていますからね、社長にそう言ったんですが……」  「社長さんは父のことをご存《ぞん》知《じ》なんでしょう?」  「知っています。あなたの仕事ぶりも気に入っている。だから、今日の話を信じているわけじゃないのですが、やはり警《けい》察《さつ》が相手となると、会社としては喧《けん》嘩《か》もできませんからね」  朋子は、あの刑《けい》事《じ》のやり方に腹《はら》が立った。一体何のつもりなのか。  「ともかく、社長としては、警察ともめごとを起こすようなことは、してほしくないというわけなんです。それをあなたへ伝えてくれと言われましてね。気は進まなかったんですが」  「どうもご迷《めい》惑《わく》をおかけして……」  席へ戻《もど》っても、しばらく仕事にならなかった。——刑事は何が目的であんなことをしたのか。朋子には見当もつかなかった。  会社を出ると、もう真っ暗で、あの刑事が尾《び》行《こう》しているのかどうか、確《たし》かめられなかった。  買物をしてアパートへ戻ると、冷え切った部屋が朋子を待っている。ストーブをつけて、その前にじっとうずくまるようにして、暖《あたた》まるのを待っていると、何ともいえない寂《さび》しさがのしかかって来る。  和彦のことが、つい思われた。自分で遠ざけておいて、勝手な、と苦《く》笑《しよう》する。——もう過《す》ぎてしまったことだ。もう少し日がたてば顔も思い出せなくなるだろう。もう少し……。  「今《こん》晩《ばん》は」  表で声がした。  「はい」  「内田ですが」  二階の住人である。ちょっとトゲのある奥《おく》さんで、朋子は苦《にが》手《て》だった。  「はい……」  出てみると、いつもよりずっと不《ふ》機《き》嫌《げん》な顔で、  「やっとお帰りね」  と、つっかかるように言った。やせこけて、メガネをかけ、どことなくやせたニワトリを連想させる。  「何か?」  「何かじゃありませんよ。出てっていただきたいわ」  出しぬけに言われて、朋子は面食らった。  「これを見て下さいよ」  と出したのは、一通の手紙で、かなり乱《らん》暴《ぼう》に封《ふう》を破《やぶ》ってあった。  「それが何か?」  「うちへ来た手紙よ。誰《だれ》が封を切ったと思う?」  「さあ……」  「刑《けい》事《じ》さんよ」  「刑事——」  「あなたあてにあなたのお父さんから連《れん》絡《らく》が来るんじゃないかってね」  「父から? でも——どうしておたくの手紙を?」  「あなたあての手紙は調べられると分ってるだろうからここの住人あてに出して来るかもしれないって言ってね。私だけじゃないわ。他の人も一度や二度はやられてんのよ」  朋子は青ざめた。  「知りませんでしたわ」  「みんなあなたに同《どう》情《じよう》して黙《だま》ってるけど、私はごめんよ。何も警《けい》察《さつ》に探《さぐ》られるような悪いことしちゃいないんだから。郵《ゆう》便《びん》受《うけ》のあたりをいつもウロついてるの、知らなかったの?」  「昼間いませんから……」  「ともかく、あんた一人のおかげで迷《めい》惑《わく》してるんだからね。ちょっと考えてちょうだいよ」  朋子は固い表情で、  「どうもご迷惑をかけました」  と詫《わ》びた。「警察へ行って、よく事情を訊《き》いてみます」  「どうでもいいけど、あんたがいると何かとあるからね」  何があるというのか、と訊き返したいのを、朋子は抑《おさ》えた。  一人になると、憤《いきどお》りがこみ上げて来る。何のつもりでこんな真《ま》似《ね》をするのか。——抗《こう》議《ぎ》するといっても、どこへ行けばいいのだろう?  交番へ行っても始まるまい。といって、警《けい》視《し》庁《ちよう》へ行ったって取り合ってくれないのではないか……。  しばらく、考《かんが》え込《こ》みながら座《すわ》っていると、急にあわただしくドアを叩《たた》く音がした。  「お姉さん!」  美幸だ。朋子は急いでドアを開けた。  「——ああ、こわかった!」  美幸が息を切らして畳《たたみ》の上にドサッと身を投げ出した。  「どうしたの、一体?」  「誰《だれ》かが……ずっと後をついて来るの。もう……気味悪くって……」  と肩《かた》で息をしている。「思いっ切り走って来ちゃった……」  後をつけられた……。偶《ぐう》然《ぜん》ではあるまい、と朋子は思った。  「それ、きっと警《けい》察《さつ》よ」  「え?——何のこと?」  朋子が事《じ》情《じよう》を説明すると、美幸は頬《ほお》を紅《こう》潮《ちよう》させて、  「何だってそんなことをするのよ! 何の権《けん》利《り》で——」  「怒《おこ》ったって仕方ないわ」  朋子はゆっくり首を振《ふ》った。「お父さんと私《わたし》たちが連《れん》絡《らく》を取ると思ってるんだわ。私たちを困《こま》らせて、もしかしたら会社を辞《や》めなくちゃならない、ここも出て行かなきゃならないとしたら……」  「馬《ば》鹿《か》にしてる! お父さんより他にもっと捕《つか》まえる相手がいくらでもいるでしょうに」  「この前のことで、きっと警《けい》察《さつ》も怒ってるのよ」  「だったら、私を逮《たい》捕《ほ》すればいいのよ」  「何を言ってるの」  と朋子はにらんだ。  「だって……」  美幸はふくれっつらになって、「どうするのよ、これから?」  「私たちにはどうにもできないじゃないの」  「どこかへこっそり引《ひつ》越《こ》そうよ」  「警察が相手よ。調べられればすぐ分るわ。——放っておく他ないわよ。その内には向うも諦《あきら》めるわ」  「だって、もし本当にお父さんが——」  「そんなことないでしょ。もし連絡して来るにしても電話か何かよ。いきなり会いに来たりしないでしょ」  朋子は大分落ち着いて来た。カッとなれば負けだ。ここは受け流しておくに限《かぎ》る。  「美幸、何か用だったの?」  と朋子は訊《き》いた。  「ああ、そうか。忘《わす》れるとこだった」  美幸はちょっと笑《わら》って、「——久米君のことで話があるの」  「どうしたの?」  「今、一《いつ》緒《しよ》に住んでるの」  朋子はちょっと目を見開いて、  「そう」  と言った。  怒《おこ》る気もしない。こうもあっさり言われたのでは。  「怒らないの?」  「いいじゃない。お母さんもそう言ってたわ。あなたたちが一緒になればいいって」  「良かった!」  美幸の顔が明るく輝《かがや》くように見えた。  「式は挙《あ》げないの?」  「大学出てからね。自分の力でやるわ」  「好《す》きにしなさい」  朋子は笑《え》顔《がお》になって、言った。「子《こ》供《ども》、できてるんじゃないでしょうね」  「気をつけてるから大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》。できてたら走って来ないわ」  「じゃ、一つお祝《いわ》いに外へ出ようか」  「いいね! 二人なら怖《こわ》くないわ」  「つけられたっていいわよ。却《かえ》って安心じゃない、刑《けい》事《じ》なら」  朋子は軽く言ってコートをはおった。いい事だって少しはなくては。久米と美幸か。——ちょっと久米の方には気《き》の毒《どく》な気もしたが、朋子としては、反対する気は全くなかった……。  一週間が過《す》ぎた。  あれ以来、刑事の姿《すがた》も見えなかったし、アパートの郵《ゆう》便《びん》物《ぶつ》を調べられることもなくなったらしく、苦《く》情《じよう》も来なかった。  もう諦《あきら》めたのだろうか?  朋子の生活も、以前のテンポを取《と》り戻《もど》していた。久米も美幸と一《いつ》緒《しよ》に遊びに来るようになったし——もっともこれは美幸の夕食代節《せつ》約《やく》策《さく》の一つだったが——日々が落ち着いて流れて行くようになった。  だが、世間の方は師走《しわす》というわけで、町も次《し》第《だい》にあわただしさを増して来ていた。  父のことも、時には考える。この年《とし》の瀬《せ》にどこでどう過《す》ごしているのだろうか。——しかし、毎日の仕事や雑《ざつ》事《じ》に追われている内に、いつしか忘《わす》れて行くのだった。  「——村山さん」  大久保課長が呼びに来たのは、昼休みを終えて、さて仕事を始めようかと席についたときだった。  「はい」  と立って行くと、  「ちょっと来て下さい」  と会議室の方へ連れて行かれた。  「あの——何かあったんでしょうか?」  大久保の後について歩きながら、ふっと不安になって朋子は訊《き》いた。  大久保は答えなかった。朋子は一《いつ》層《そう》不安になった。しかし、大久保の顔つきは、この前のときとは、どこか違《ちが》っているような気がする。  一番奥《おく》の会議室まで行くと、大久保は、ドアの札《ふだ》を、〈会議中〉と変えてから、  「ここで待っていて下さい」  と開けて言った。  「はい」  一人で、広い会議室に取り残された朋子は、椅《い》子《す》に座《すわ》っている気にもなれず、広い窓《まど》の方へ寄《よ》って表を眺《なが》めた。  「雪だわ」  呟《つぶや》きが洩《も》れる。間《ま》違《ちが》って飛ばしてしまった紙《し》片《へん》のような雪が、数えられるほどの量だが、舞《ま》い落《お》ちていた。——寒いはずだ。  ドアを開く音に振《ふ》り返《かえ》ると、和彦が立っていた。  「座《すわ》らないか」  言われるままに、朋子は近くの椅子を引いて座った。  「お仕事の途《と》中《ちゆう》?」  「うん」  「いいの、こんな所に」  「あまり時間はないけど……」  和彦は、大分やつれて見えた。  「何かあったの?」  「転《てん》勤《きん》だ」  「そう」  銀行員に転勤はつきものだ。  「どこへ?」  「フランクフルトだよ」  「ドイツ?」  朋子は思わず訊《き》き返《かえ》した。——しかし、考えてみれば不思議なことではない。和彦は父親の期待を担《にな》う幹《かん》部《ぶ》候《こう》補《ほ》のエリートである。むしろ海《かい》外《がい》勤《きん》務《む》は当然とも言える。  「出世ね。おめでとう」  と朋子は言った。  「そう言うと思ったよ」  和彦は微《ほほ》笑《え》んだ。「そんなことじゃないんだ。追《お》い払《はら》われるのさ」  朋子は当《とう》惑《わく》した。  「どうして?」  「あの、僕《ぼく》と殴《なぐ》り合った刑《けい》事《じ》がね、このところ毎日のようにつけ回してるんだ」  朋子は息をつめて手を握《にぎ》りしめた。  「あなたの所にまで——」  「じゃ、君も?——そうか。そんなことだろうと思っていたよ」  「ごめんなさい」  朋子は顔を伏《ふ》せた。  「君が謝《あやま》ることはない。あの事《じ》件《けん》を、親父が駆《か》け回《まわ》ってもみ消したのが腹《はら》に据《す》えかねているんだろう。——銀行にいるときは、ずっと店の中に立って見《み》張《は》ってるし、外を回ればついて来る。僕《ぼく》は無《む》視《し》していたんだが、その内、得《とく》意《い》先《さき》にまで僕のことを訊《き》いて回り出した。そうなると父親も放っておけなくなってね。いっそ海外へやろうということになったのさ」  「そう。——でも、ドイツまでは追いかけて行かないわよ、きっと」  「警《けい》視《し》庁《ちよう》が出《しゆつ》張《ちよう》費《ひ》用《よう》を出さないだろうな」  和彦が微《ほほ》笑《え》みながら言った。  「向うにずっと?」  「行けば二年くらいは帰って来ないだろうな」  「いつ発《た》つの?」  「明後日《あさつて》」  「そんなにすぐ?」  銀行員は辞《じ》令《れい》が出てから、転《てん》勤《きん》までの期間が短い。国内なら一週間、海外でもせいぜい半月しかない。  「特《とつ》急《きゆう》便《びん》だよ。いかに親父があわてているかだ」  「お父様の気持も分るわ」  「そうだね、僕も……」  「向うで頑《がん》張《ば》って仕事をして来てね」  朋子はそう言って、和彦の顔を覗《のぞ》き込《こ》むように見つめた。  「本気なのか」  和彦が、急に恐《おそ》ろしいほど真《しん》剣《けん》な顔になって言った。  「何が?——そんなに怖《こわ》い顔しないで」  朋子は怯《おび》えて身を引いた。和彦の手が、ほとんど乱《らん》暴《ぼう》なほどの勢いで朋子の腕《うで》をつかんだ。  「痛《いた》いわ、やめて」  間近に引《ひ》き寄《よ》せられて、朋子は、自分の心の奥《おく》底《そこ》まで見《み》透《すか》すような和彦の視《し》線《せん》と相対した。目をそらしたかったが、できなかった。  「僕が親父の話を信じたと思ってるのか。君が金を受け取ったのは僕のためだと分らないと思うのか。君があの金に一円たりと手をつけてないことを、僕が知らないと思うのか!」  血を吐《は》くような言葉だった。  「だからどうなの?」  朋子が言い返した。それ以上言えば泣《な》き出《だ》してしまいそうだった。  「君が行くなと言えば、僕は行かない」  「どうするの? 銀行を辞《や》める気?」  「それぐらい平気だ。何をやっても食べて行ける」  「そんなことが言えるのは、あなたが苦労して食べて行くことを知らないからよ。そんなに甘《あま》いもんじゃないわ。分らないの? 私《わたし》はまだまだあなたの銀行に借りを残しているのよ。あなたがそんなことをしたら、あなたのお父さんがどう出て来るか。考えれば分るでしょう!」  和彦の手が緩《ゆる》んだ。急に力を失ったように、ぐったりと椅《い》子《す》に身を沈《しず》める。  「分ってよ。もうこれ以上、苦しめないで」  朋子は言った。おそらく、和彦が自分よりはるかに苦しんでいることを、知りながら、そう言わずにはいられなかった。  「それなら……」  和彦は弱々しくなった声で、言った。「待っていてくれるかい? 二年か——三年たてば、きっと僕《ぼく》は戻《もど》って来る。それまで……」  「長《なが》過《す》ぎるわ。あなたも私も変ってるわ、きっと」  「変っていなかったら?」  朋子は、和彦のひたむきな眼《まな》差《ざ》しが心を揺《ゆ》さぶるのを感じた。彼《かれ》の言う通りにして、どうしていけないのだろう、と思った。  「あなたの気持は嬉《うれ》しいわ。でも……」  後が続かない。このまま彼にこの身を委《ゆだ》ねてしまいたいという思いに、圧《あつ》倒《とう》されそうだった。  和彦の手が、朋子の手を包んだ。そのぬくもりは、直《ちよく》接《せつ》朋子の胸《むね》にまで届《とど》くようだった。  そのとき、不意にピーッという、笛《ふえ》のような音がした。和彦が急いでポケットに手を入れると、  「うるさい奴《やつ》だな、畜《ちく》生《しよう》!」  とポケットベルを止めた。  朋子は、夢《ゆめ》からさめたように、その音で現《げん》実《じつ》に引《ひ》き戻《もど》された。そんなことは不《ふ》可《か》能《のう》だ。夢の、また夢でしかない……。  「もう行かなきゃならないんでしょう」  朋子は立ち上って、窓《まど》辺《べ》へと歩いて行った。  「ねえ、君は——」  「もう行って。やっぱりだめだわ。私にはそんなことを考えてる余《よ》裕《ゆう》はないもの」  またポケットベルが鳴った。和彦はそれを止めると、深く息をついた。  「僕は諦《あきら》めないからね」  朋子は黙《だま》って表へ向いて立っていた。  和彦が、静かに会議室を出て行き、ドアが閉《し》まった。  外は、雪が舞《ま》っていた。いつの間にか、本《ほん》格《かく》的《てき》な雪になって、時に視《し》界《かい》を遮《さえぎ》るほどの、濃《こ》い密《みつ》度《ど》で眼《がん》前《ぜん》を流れ落ちて行く。  急速に気温が下がったのか、窓の下から吹《ふ》き上《あ》げる暖《だん》房《ぼう》の風に、窓ガラスが白く、帯《おび》状《じよう》に曇《くも》っていた。朋子は手で曇りを拭《ぬぐ》った。濡《ぬ》れて歪《ゆが》んだ遥《はる》か下の道を、車が駆《か》け抜《ぬ》けて行く。その中に、和彦の乗った車があるかもしれない、と思った。  拭った跡《あと》から、水《すい》滴《てき》が二つ三つ、涙《なみだ》のように伝い落ちて行った。 3  雪の中を、朋子は、久米と美幸のいるアパートまでやって来た。  目《め》白《じろ》駅から十五分ほど歩く、私《し》立《りつ》学校の裏《うら》手《て》。朋子のいるアパートよりは大分静かで、いい環《かん》境《きよう》である。  しかし、夜、こうして雪の中を来てみると、ずいぶん寂《さび》しい、遠い所のような気がするのだった。アパートそのものの造《つく》りは、ごくありふれていて、朋子のアパートと大差なかった。  久米と美幸がいるのは、二階の一室である。階《かい》段《だん》が外にある造りで、そこにはもう、雪が薄《うす》く積っていた。  二階へ上って行くと、美幸の部屋のドアが開くのが見えた。  「寒いから、気を付けて」  美幸の声。「足もと、危《あぶ》ないからね」  出て来たのは、父だった。  朋子は反射的に、二階通路の反対側の奥《おく》へと進んでいた。上の明りが消えて、薄《うす》暗《くら》がりになっている。  父は、コートのえりを立て、傘《かさ》を手に、階段をゆっくりと降《お》り始めた。下へ着くと、傘を広げて、歩いて行く。  美幸は通路に立って、父に手を振《ふ》った。父も振り向いて手を上げて見せた。美幸は、寒そうに肩《かた》をすぼめながら、父の姿《すがた》が道の角に消えるのを見《み》届《とど》けて、部屋へ戻《もど》ろうとした。  朋子が歩いて行くと、美幸はドアに手をかけたまま、立ちすくんだ。  「お姉さん……」  「どういうことなの、美幸」  朋子には怒《おこ》るだけの余《よ》裕《ゆう》もなかった。ただ、信じ難《がた》い思いで、呆《ぼう》然《ぜん》としているばかりである。  美幸が黙《だま》っていると、中から、  「どうしたんだ?」  と、久米が顔を出した。「お姉さんですか。——ともかく入ってもらえよ、ここじゃ話もできない」  久米は、どんなときでも、あわてることのない性《せい》格《かく》らしかった。  「お父さんがどこに住んでるかは知らないわ。本当よ」  美幸は言った。久米がお茶を淹《い》れて来た。  「うちのお茶は安物で……。寒いでしょう、大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》ですか?」  「ええ、ありがとう」  朋子は、少し間を置いて、言った。「じゃ、お父さん、何度もここに来ているのね」  「あまり彼女《かのじよ》を叱《しか》らないで下さい」  久米が少しも変らない、おっとりした口調で言った。「末っ子は——特《とく》に女の子は父親に愛着がありますからね。それに、お姉さんのように、辛《つら》い目にはあって来ていないわけですから、お父さんを恨《うら》むという気になれないんでしょう」  「それは分るけど、どうして私《わたし》に何も言わなかったの?」  「お姉さん、凄《すご》く怒《おこ》ってたし——お父さんのこと。私だってね、恨まなかったわけじゃないわ。でも、人を好《す》きになるって、本人の意《い》志《し》だけじゃどうしようもないことがあるんじゃない? お父さんだってそう思うの」  「そりゃ、あなたのように若《わか》ければ仕方ないと思うわよ。でも、家族もあり、社会的な立場もある人が——」  「何かわけがあったのよ。お父さんは訊《き》かないでくれと言っていたけど、何となく分るの。何かよほどの事《じ》情《じよう》があるんだわ」  「それだけであなたは納《なつ》得《とく》してるの?」  「そう……。だって、仕方ないじゃない。お父さんだって、お姉さんにも会いたいのよ。でも、済《す》まないと思ってるから、申《もう》し訳《わけ》ないと思ってるから、顔を合わせられないんだわ」  「ここへ何しに来るの?」  「別に。ただ——顔を見に。それにお姉さんの所は警《けい》察《さつ》の人がいるじゃないの。それも知ってるから、行きたくても行けないんだわ」  朋子は深々と息をついた。——美幸には美幸の考え方がある。それをとやかく言うつもりはなかった。  「でも、あなただって警察が目をつけないとは限《かぎ》らないのよ。危《き》険《けん》は同じじゃないの」  と朋子が言った。  美幸は黙《だま》っていた。  「ともかく——」  と久米が口を挟《はさ》んだ。「僕もお父さんはそう簡《かん》単《たん》に家族を放ったらかすような人だとは思えませんね。まあ、何度かお話しただけですが」  「お父さんに連《れん》絡《らく》が取れるの?」  「いいえ。知らない方がいいって。——どうして?」  「会って話してみたいの」  「でも——」  「大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》。充《じゆう》分《ぶん》気を付けるから。別に喧《けん》嘩《か》しようというんじゃないの。ただ話がしたいのよ」  朋子は本当に、父に会ってみたくなったのである。父への怒《いか》りが消えたわけではないが、父の秘《ひ》密《みつ》、父が黙《もく》して語らないそ《ヽ》れ《ヽ》は何なのか、知りたかった。知る権《けん》利《り》がある、と思った。  「でも、本当に分らないんです」  と、久米が言った。「分れば、却《かえ》って僕《ぼく》らに迷《めい》惑《わく》がかかるとおっしゃって、教えてくれません」  「じゃ、会いに来るのは、いつも向うからだけ?」  「明後日《あさつて》、またみえるとおっしゃってましたが」  「明後日?」  「お姉さん来てれば? いつも大体七時頃《ごろ》よ」  「そうね。——そうするわ」  と朋子は肯《うなず》いた。  何となく、ホッとした雰《ふん》囲《い》気《き》になって、誰《だれ》もが一息ついた。  「お姉さん、夕ご飯まだ? じゃ、一《いつ》緒《しよ》に何か取って食べよう」  美幸がいつもの調子に戻《もど》って、「寒いからうどんか何かがいいわ」  「おい、今夜は何か作るんじゃなかったのかい?」  「いいじゃない、お姉さん来たんだから」  「払《はら》わせれば、でしょ」  朋子はそう言って笑《わら》った。  アパートから帰ったのは、もう夜中だった。早目に美幸たちのアパートを出たのだが、雪が降《ふ》りやまず、駅までの道が三倍も時間を食って、しかも、電車のダイヤが大《おお》幅《はば》に狂《くる》っていたのである。  東北あたりなら雪とも呼ばないほどの積雪で、たちまち混《こん》乱《らん》する大都会。——それはどことなく、平《へい》穏《おん》に見えて脆《もろ》い家族を想わせた……。  電車の数が極《きよく》端《たん》に減《へ》ったのと、そろそろ忘《ぼう》年《ねん》会《かい》などのシーズンで、帰りの遅《おそ》いサラリーマン、OLが増えているせいもあるのだろう。ホームは人で溢《あふ》れて、来た電車にも乗り切れないほどだった。  朋子は美幸のアパートへ戻《もど》ろうかとも思ったが、あの雪の道を歩くことを考えると、それもうんざりだった。それに、もうホームから改《かい》札《さつ》口《ぐち》へ戻るのも、容《よう》易《い》ではないほど人がびっしりと詰《つ》まっていたのだ。やっと電車が来ても、どの駅も同じような状《じよう》態《たい》らしく、乗れるのはほんの何人かで、ほとんどが取り残されてしまう。  朋子は疲《つか》れ切《き》って、もうこのまま倒《たお》れてしまいたい、とさえ思った。和彦との話、父の姿《すがた》を見たこと、美幸の話……。あれこれ考えるのに、もう疲れてしまった。  どうして自分だけがこんな思いをしなくてはいけないのだろう、と思った。もちろん、このホームにいる一人一人、誰《だれ》もが苛《いら》立《だ》ち、疲れて、同じことを考えているのかもしれなかったが、頭でそう分っても、それを体が納《なつ》得《とく》していなかった。  また電車が来て、扉《とびら》が開いた。朝の混《こん》雑《ざつ》もこれほどではない。とても乗れそうもない、と朋子は思った。どうせなら一《ひと》晩《ばん》中《じゆう》電車が空くまで待っていてやろうか、と自《じ》虐《ぎやく》的《てき》に苦《にが》笑《わら》いしていると、いきなり、後ろから物《もの》凄《すご》い力で押《お》された。足がもつれそうになって、辛《かろ》うじて電車へ片《かた》足《あし》をかける。  列の後ろにいた三、四人の男《だん》性《せい》が、何が何でもこれに乗ろうとしたのだ。——声も上げられないほどの力で、電車の中へ押《お》し込《こ》まれた。息が詰《つ》まる。一《いつ》瞬《しゆん》、恐《きよう》怖《ふ》すら感じた。  ドアが、引っかかりながら、何とか閉《と》じると、少し、圧《あつ》迫《ぱく》感《かん》は軽くなった。冷《ひや》汗《あせ》が額《ひたい》からこめかみを伝って行った。あのとき転んでいたらどうなったか、考えても恐《おそ》ろしい。——体が、ねじれたままだったが、向き直ることもできない。  新宿駅に着くまでは、死ぬ思いだった。  ——その先も、順調には行かなかったが、ともかくそれほど混《こん》雑《ざつ》していないのが救いだった。  タクシーとも考えたが、どうせいつ乗れるとも知れない行列だろう。  やっと電車が来たのは、三十分も待ってからだった。しかし、いつもの山手《やまのて》線《せん》の混雑が嘘《うそ》のように思えるほど、こっちは空いていた。一駅だけだが、ともかく空席に腰《こし》をおろして、全身で息をついた。このまま終点まで乗っていたいと本気で考えた。  しかし、大久保駅へ着くと、さすがに体の方がごく自然に動く。いつしか、雪が溶《と》けて水びたしのホームへ降《お》り立っていた。  他に一《いつ》緒《しよ》に降りた二、三人の客も、駅前から別の方へと去《さ》って、朋子はアパートへの道を、雪に足を取られそうになりながら、歩いて、行った。  頬《ほお》と、爪《つま》先《さき》が感覚を失うほど冷たい。コートなど何の役にも立っていないと思えるほど、体の芯《しん》まで冷え切っていた。  足を動かしているのは、わずかに、アパートまでもう少しだという気持だけだ。——やっとの思いでアパートの中へ入ったとき、どっと疲《つか》れが押《お》し寄《よ》せて来た。  部屋へ入って、コートを脱《ぬ》ぎ、ストーブにかじかんだ手で火を点《つ》けると、じっとうずくまるようにして、暖《あたた》まるのを待った。やがて、少しずつ、手足に感覚がチクチクと刺《さ》すようによみがえってきて、やっと大きく息をつく。まだ吐《は》く息が白かった。  眠《ねむ》気《け》がさして来て、朋子は横になった。——このまま眠っちゃいけない。ちょっと休むだけ……。そして、一分としない内に眠《ねむ》り込《こ》んでいた。  目を覚ましたのは、電話の音だった。  「あ——いけない」  起き上って、思わず呟《つぶや》く。電話が鳴っている。頭を振《ふ》って、はっきりさせてから受話器を上げた。  「村山です」  「いたのか」  男の声だ。「息子《むすこ》がいるだろう」  詰《きつ》問《もん》するような口調だった。田沢の声だ。  「あの——和彦さんが何か?」  「そこへ行っていないか」  「いいえ。どうなさったんですか?」  「——今日息子に会ったのか?」  少し抑《おさ》えた声で訊《き》いて来る。  「あの……私《わたし》の会社へおみえになりましたので」  「何を話した?」  「何、と言って……。ドイツへ転《てん》勤《きん》になるとうかがいました」  「他に何か言っていなかったか」  朋子は少しためらって、  「ドイツから戻《もど》るまで待っていてほしいとおっしゃいました。私はそれはできないとお答えしましたけれど……」  「いい加《か》減《げん》なことを言うな!」  田沢は激《げつ》昂《こう》している様子だった。  「どういう意味ですか?」  「二人で逃《に》げる相談をしたのだろう」  「逃げる? 和彦さんがいらっしゃらないんですか?」  「知らんというのか」  「知りません」  「ふん、ともかく、そんな真《ま》似《ね》はさせない。もしそこへ行ったら、よく言ってやれ」  「ここにはおいでにならないでしょう」  「分るものか。いや——そこへ行かないはずがない」  「いつ、いなくなったんですか?」  「さっきまで分らなかった。雪だから心配して家《か》内《ない》が銀行へ電話して——」  そこで田沢は言葉を切った。「ともかく今からそっちへ出向く」  「田沢さんがですか?」  「あいつは必ずそこへ行く。いいか、息子《むすこ》と一《いつ》緒《しよ》に行方《ゆくえ》をくらまそうなどとしたら……」  田沢は脅《きよう》迫《はく》まがいの言い方をして、「分ったな! そこから動くなと言え!」  と、叩《たた》きつけるように電話を切った。  朋子は、しばらく受話器を握《にぎ》ったまま呆《ぼう》然《ぜん》としていたが、やがて、何か冷たい風が流れて来るのに気付いて、振《ふ》り向《む》いた。玄《げん》関《かん》のドアが開いて、和彦が立っていた。  「どうしたの?——そんなにびしょ濡《ぬ》れで——早く上って!」  「親父から?」  「ええ、今からこっちへみえるって。でも、この雪ですもの、時間がかかるわ。さあ、早く脱《ぬ》いで。——風邪《かぜ》引くじゃないの」  和彦は背《せ》広《びろ》姿《すがた》で、鞄《かばん》をそこへ放り出して座《すわ》り込《こ》んだ。  「——銀行の通用口から出て来てしまったんで、傘《かさ》もコートもなかったんだ」  「まあ、無《む》茶《ちや》をして……。真っ青じゃないの。こんなに震《ふる》えて」  朋子はバスタオルを持って来た。「今、お風《ふ》呂《ろ》を点《つ》けたわ。沸《わ》くまでこのストーブの前で暖《あたた》まっていて」  和彦は上衣とワイシャツを脱《ぬ》ぎ捨《す》てた。しかしシャツまで水が浸《し》み通《とお》っている。  「困《こま》ったわ。男物の替《か》えはないし……。ともかく脱いで。ストーブの前で広げて乾《かわ》かすから……」  シャツを脱ぐと、和彦の、滑《なめ》らかな上半身が現《あらわ》れた。朋子はふっと目をそらして、シャツを受け取ると、ストーブの前に広げて置いた。  「ともかくこうしておけば——」  朋子を、和彦の腕《うで》が後ろから抱《だ》き締《し》めた。  「和彦さん……」  急に全身の力が脱け落ちて行くようだった。振り向いた朋子は和彦の腕の中に身を委《ゆだ》ねた。  明りが消えて、ストーブの赤い火が、二人の肌《はだ》を照らし出した。  「——どれくらいたった?」  朋子は訊《き》いた。  「三十分ぐらい」  和彦は腕《うで》時《ど》計《けい》を見て言った。  「腕時計したままだったの? どうりで痛《いた》かったわ」  と朋子は笑《わら》った。  「外すのが面《めん》倒《どう》だったんだ」  「まだ来ないわね。お父さん」  「この雪だ。一時間じゃ着かないよ」  和彦は裸《はだか》の朋子を抱《だ》きしめた。「——もう逆《ぎやく》戻《もど》りはできない。君も分ってくれるだろう?」  「あなた、どうかしてるわ」  「どうもしてない人間なんていやしないさ」  「家族も、仕事も、全部捨《す》てるつもり?」  「そんなものが何だい? 予《あらかじ》め約《やく》束《そく》されて、決められたコースを突《つ》っ走《ぱし》って、何になる? 僕《ぼく》はごめんだ。人間らしく生きたい」  「どうするの?」  「二人でどこかへ行こう。何をしたって暮《くら》して行くぐらいのことはできるさ」  「でも……」  「大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》。任《まか》せておけよ」  和彦は立ち上って明りをつけた。  「やめてよ!」  朋子があわててバスタオルを体に巻《ま》いた。「もうお風《ふ》呂《ろ》が沸《わ》いてるわ。入って来たら?」  「うん。さっと浴びるだけだ。親父が思ったより早く着くといけないからな」  「そうね。私もそうするわ」  「一《いつ》緒《しよ》に入ろう」  「そんな狭《せま》い所、二人で入ったらお湯が溢《あふ》れちゃって大変よ」  と朋子は笑《わら》った。  和彦が浴室に姿《すがた》を消すと、朋子はその場に座《すわ》り込《こ》んだ。——ふと顔を一面鏡の方へ向ける。バスタオル一つで座っている自分が、何となくこっけいに思えて、朋子は笑ってしまった。  「もう疲《つか》れた……」  と、呟《つぶや》いた。  ここまで一人で頑《がん》張《ば》って来たのだ。和彦が自分でああ決めたのなら、それについて行ってもいい、と思った。  身も心も疲れ切った中で、和彦に抱《だ》かれて、朋子は、初めて彼《かれ》とどんなに離《はな》れ難《がた》くなっているかに気付いた。何もかも忘《わす》れて、一《いつ》切《さい》と縁《えん》を切って、二人きりで暮《くら》して何が悪いことがあるだろう。  ——ふと、朋子は、父もこんな気持だったのかしら、と思った。何十年間、家族のために働き続けた父が、ある日、総《すべ》てを捨《す》てて駆《か》け出《だ》したくなったのかもしれない。  それならば、父の気持は分らないでもなかった。それが許《ゆる》されることなのかどうかは別《べつ》として、道徳や理《り》性《せい》とかけ離れた所で、突《とつ》然《ぜん》人生を駆《か》け抜《ぬ》けて行きたくなる——そんなことが、人間にはあるのではないだろうか……。  風《ふ》呂《ろ》から水のはねる音が聞こえた。  朋子はふと、和彦のほうり出した鞄《かばん》に目を止めた——。銀行員だわ、本当に。あんな鞄を持って来て。何を入れて来たのかしら、と朋子はちょっと好《こう》奇《き》心《しん》に駆られて、立って行った。  中を開けて、探《さぐ》ってみる。書類のようなものだが。——取り出してみて、朋子は冷水を浴びせられたような気がした。  それは一万円札《さつ》の束《たば》だった。  「——さっぱりしたよ」  和彦が風《ふ》呂《ろ》から上《じよう》気《き》した顔で出て来た。  「寒いわよ。何とか下着も乾《かわ》いたみたいだから早く着て」  「ああ。君も入って来いよ」  「ええ」  朋子はバスタオルを和彦へ渡《わた》して、自分は浴室へ入って行った。湯船に身を沈《しず》めて、熱い湯がしみ込《こ》んで来るのに身を任《まか》せながら、  「——和彦さん」  と呼《よ》んだ。  「何だい?」  ワイシャツのボタンをとめながら、和彦が顔を出す。  「ねえ、ちょっと考えたんだけど、このまま行っちゃうわけにはいかないわ、私《わたし》」  「どうして?」  「お金もないし、それに妹のことがあるでしょう」  「お金なら——」  と言いかけて、和彦がためらった。  「あなたの持ち合せだって、たかが知れてるでしょ。私も、少しは貯《ちよ》金《きん》があるから、明日おろして来ようと思うの」  「大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》かい? 親父が——」  「あなたがここへ来なかったと言《い》い張《は》れば、お父様だって嘘《うそ》だとは言えないはずよ」  「そりゃそうだけど。僕《ぼく》はどうすればいいんだい?」  「悪いけど、どこかに泊《とま》って。今日は雪だもの、サラリーマンの人が一人で旅館に行っても、雪で帰れなかったんだな、と思われるわよ」  「どこに泊るんだい?」  「この駅の近くは旅館が沢《たく》山《さん》あるのよ」  「そうか。——じゃ、君も一《いつ》緒《しよ》に来ればいいじゃないか」  「馬《ば》鹿《か》ねえ。お父様がみえたとき、私がここにいなかったら、一緒に逃《に》げたと疑《うたが》われるに決まってるじゃないの」  「そりゃまあそうだね……」  「明日一日待って。お金をおろして、色々と雑《ざつ》用《よう》を片《かた》付《づ》けてしまうから」  「君一人で大丈夫?」  「お父様にまた言いくるめられるんじゃないかと心配なの?」  「そうじゃないけど……」  「どうせ明後日《あさつて》が出発日でしょ? だったら私もそうする。ただ、フランクフルトの代りに、どこか名もない所へと出発すればいいわ」  和彦はちょっと不安そうだったが、  「分ったよ。明後日はどこにいればいい?」  「そうね。どこへ行くかにもよるでしょ?」  「それもそうだ。そいつを決めなきゃ」  と和彦は笑《わら》った。  「じゃ、この前、私と父が会った所——憶《おぼ》えてる?」  「個《こ》室《しつ》喫《きつ》茶《さ》?」  「そう。ああいう所が一番目に付かないんじゃない?」  「よし。それじゃ、明後日の——」  「夕方にしましょう。目立たないように。五時ならもう暗いわ」  「分った。じゃ、親父が来るといけないな」  「そう。もう行って。私もすぐ上るから。——あ、寒いから、私のコート、着て行ったら?」  「いらないよ」  和彦は弾《はず》んだ声で言った。「体中が燃《も》えるぐらい熱いよ」  「じゃ、せめて傘《かさ》を持って行って。またびしょ濡《ぬ》れじゃ二枚目台《だい》無《な》しよ」  「分ったよ」  和彦は玄《げん》関《かん》へ行って、「どこにあるんだい?」  と声をかけた。  「左に棚《たな》があるでしょ。その二段目に折《お》りたたみの傘が。——女物だけど茶色だから」  風《ふ》呂《ろ》の中から、朋子は答えた。  「あ、これか。じゃ、借りて行くよ」  「気を付けてね」  「明後日《あさつて》だね」  「五時にね」  「必ず来るんだよ」  「分ってるわ」  ドアを開く音がした。そして閉《と》じる音。足音が、微《かす》かに聞えていたが、やがて、それも消えた。  朋子は、ゆっくり風呂から上った。部屋へ戻《もど》ると、和彦の使ったバスタオルが、そのまま畳《たたみ》の上に落ちている。それを拾い上げて、朋子はゆっくりと体を拭《ぬぐ》った。  体が乾《かわ》くと、スカートと分《ぶ》厚《あつ》いセーターを着《き》込《こ》んで、畳に座《すわ》り込《こ》んだ。  目は前方を向けて、しかし、ずっとずっと遠いどこかを見つめていた。  時計の、秒を刻《きざ》む音だけが、耳に届《とど》いた。もうすぐ二時になる。  遅《おそ》い。——一体いつになったら、やって来るのだろう?  その心の中の呟《つぶや》きが終らない内に、ドアにノックの音がした。  「どうぞ」  と朋子は言って、背《せ》筋《すじ》を伸ばして座り直した。  ドアが開いて、父が立っていた。 4  「帰ってから、思い出したことがあってな、美幸の奴《やつ》に電話したんだ」  コートのまま座り込んだ村山は言った。「そうしたら、お前が会いたがっていたと言うんでな……」  朋子は、雪の中をやって来た父をじっと見つめて、口を開かなかった。  村山は頭を下げた。  「お前にとんでもない苦労をかけて、すまないと思ってる」  「もういいの。済《す》んだことだわ」  村山はびっくりしたように顔を上げた。  「私《わたし》を恨《うら》んでいないのか」  「お母さんは、お父さんを一度も恨んだりしなかったわ」  朋子は、微《ほほ》笑《え》んだ。「それなのに私がお父さんを恨むなんておかしいわよね」  「お母さんは立《りつ》派《ぱ》な人だった」  村山は、大きく息を吐《は》き出《だ》した。「私が生きていて、お母さんが死んでしまう。——世の中は不公平にできてるんだ」  「ねえ、お父さん」  朋子は言った。「教えて。宮《みや》島《じま》裕《ゆう》子《こ》さんっていうのは、どういう人なの? お父さんが何年も前から銀行のお金を使っていたのはなぜ? 彼女《かのじよ》と知り合ったのは、ほんの一年くらい前でしょう」  村山はためらいがちに目を伏《ふ》せた。朋子は続けて言った。  「さっき言った通り、お母さんも、お父さんのことを恨んではいなかったし、私も、今さらあれこれ責《せ》めようとは思わない。でも、自分が何のために辛《つら》い思いをして来たのか。——それが知りたいの。別に立《りつ》派《ぱ》な理由でなくたっていいのよ。その女の人が、凄《すご》く魅《み》力《りよく》的《てき》で、お父さんが、地位も家庭も総《すべ》て投げ打ってしまっても構《かま》わないと思ったのなら、それでいいの。ともかく、本当のことが知りたいの」  村山は、なおしばらく黙《だま》り続けていたが、やがて娘《むすめ》の眼《め》を真直ぐに見つめて、  「美幸には、まだ黙っていてくれ」  と言った。  「約《やく》束《そく》するわ」  朋子は肯《うなず》いた。  「宮島裕子は私の娘だ」  朋子は目を見《み》張《は》った。  「——私には、お母さんと一《いつ》緒《しよ》になる前、愛していた女がいた。彼女は私が勤《つと》めていた銀行の支店に、いつも父親の店の売上げを預《あず》けに来ていた。ちょっとしたことで言葉をかけ合い、やがて愛し合うようになった。しかし……当然のことながら、家では、他の話を進めていて、それがお母さんだったのだ」  「お父さんは、その女《ひと》を捨《す》てたの」  「いや、私は、銀行のエリートになるよりも、彼女と暮《くら》すことの方を選んでも良かった。ところが、ちょうど、その娘の親の店が破《は》産《さん》してしまったのだ。うちの支店からの貸《かし》付《つけ》金《きん》はそのまま欠《けつ》損《そん》になってしまった。その父親は自殺、娘は自分から姿《すがた》を消して、行方《ゆくえ》が分らなくなったのだ」  「それでお母さんと——」  「そう。もちろん、お母さんはあの通り、立《りつ》派《ぱ》な人だ。世間の垢《あか》にまみれない、気高いものを持っていた。やがてお前も生れ、私はもうあの娘《むすめ》のことは忘《わす》れかけていた」  「その彼女が戻《もど》って来たのね」  「偶《ぐう》然《ぜん》のことで出会ったのだ。私は、一時、金《かな》沢《ざわ》の支店へ行った。お前が小学校へ入る直前で、転《てん》居《きよ》も可哀《かわい》そうだと、単身でそこへ行った。金沢の小さな料理屋で、その女に会ったのだ」  「じゃ、お父さんの娘というのは……」  「彼女が私の前から姿を消す前の夜、彼女は進んで私に抱《だ》かれた。初めてのことだったが、そのとき、彼女は私の子をみごもった」  「じゃ、一人で生んで……?」  「母親はもうずっと前に死んでいたから、一人で生み、育てていたわけだ。それだけに、もともとあまり丈《じよう》夫《ぶ》でない体を、大分いためてしまっていた。——私は、単身でいた寂《さび》しさもあったのかもしれないが、しばしば彼女の所へ行くようになった。経《けい》済《ざい》的《てき》にも、あれこれとやりくりして、助けてやった。私が東京へ戻って来たとき、彼女も娘を連れて、一《いつ》緒《しよ》に上京して来た」  「それ以来ずっと——」  「東京へ戻《もど》ってからは、専《もつぱ》ら経済的な援《えん》助《じよ》だけをした。お母さんを裏《うら》切《ぎ》ることはできなくてね」  「それで銀行のお金を?」  「いや、とんでもない。あくまで私《わたし》のポケットマネーだけだ。まだ彼女も楽な仕事ならできたし、子《こ》供《ども》一人、成長しても、そうかかるものじゃない」  「それがなぜ?」  「彼女が倒《たお》れたのだ」  村山は暗い表《ひよう》情《じよう》になった。「白《はつ》血《けつ》病《びよう》、ということだった。大がかりな治《ち》療《りよう》が必要で、それでなければ、一、二年の命と言われた」  村山はふっと息をついた。  「私のせいだった。私との間にできた子供を育てるために、無《む》理《り》に無理を重ねたのだ。何としても助けてやりたいと思った。——有名病院で最高の治療を受けさせれば、月に何十万、時には百万円近い金がかかる。それを私のポケットマネーでまかなうことは不《ふ》可《か》能《のう》だ」  「お母さんに話せば良かったのに」  「そう。——普《ふ》通《つう》のときなら、そうしただろう。お母さんも、許《ゆる》してくれたかもしれないな。しかし、そのときは——お前たちにも言わなかったが——お母さんの心《しん》臓《ぞう》はひどく悪かったのだ。とてもそんな話を切り出すことはできない。私は困《こま》り果《は》てた。そして……ついに銀行の金を、ほんのしばらくの間、というつもりで使ってしまった。一度が二度になり、三度になる。お母さんの心臓も、回《かい》復《ふく》しかけては悪くなる、くり返しで、話すきっかけも失われて行った……」  父のような、優《やさ》しい人間は、またどうしても誰《だれ》にでも気を遣《つか》うために、優《ゆう》柔《じゆう》不《ふ》断《だん》な性《せい》格《かく》でもある。父のその気持は、朋子にも良く分った。  「それで、その女《じよ》性《せい》は?」  「結局、治療で何年か生きのびたが、死んでしまった。三年前のことだ」  「娘《むすめ》さん——宮島裕子という人は?」  「裕子は、もともとは私を嫌《きら》っていた。お前にも想《そう》像《ぞう》はつくだろう。母親を囲っている男が娘からどう見えるか」  「ええ、分るわ。反発して当然ね」  「母親が死んだ後、裕子はどこかへ行ってしまった。私は必死に捜《さが》した。そして捜し当てたのは、何とうちの銀行が時々接《せつ》待《たい》に使うクラブだった……」  村山は首を振《ふ》って、「因《いん》縁《ねん》とでもいうのかな。——裕子の方も、私を見て驚《おどろ》いたが、それまでにずいぶん苦労したらしい。もう私を憎《にく》んではいなかった。私はたまに裕子のいるアパートへ顔を出したりしていたのだ。ところが……裕子は客の一人と関係を持って妊《にん》娠《しん》していた。裕子は真《しん》剣《けん》だったのだが、相手は遊びのつもりでいたのだ。裕子は男を刺《さ》してけがをさせ、私の所へ電話して来た」  「銀行へ?」  「そうだ。男を殺した、と言った。——実《じつ》際《さい》はけがをさせただけで、男の方も体面があるので、警《けい》察《さつ》へも届《とど》けなかったのだが、私は裕子の言葉を信じた。もとはといえば、私の過《あやま》ちから生れた娘《むすめ》だ。そうなったのも、責《せき》任《にん》の一半は私にある。もう子《こ》供《ども》も堕《おろ》せない時期になっていた。私は、裕子を逮《たい》捕《ほ》させたり、裁《さい》判《ばん》にかけ、監《かん》獄《ごく》にやることはとてもできなかった。この手で守ってやらなくてはならない、と思った……」  おそらく、裕子という娘の立場が、かつての母親のそれと似《に》ていることが、一《いつ》層《そう》、父に罪《つみ》の意《い》識《しき》を負わせたのだろう、と朋子は思った。  「分ったわ。それで、銀行からいくらかのお金を持ち出して、逃《に》げたのね。——後で、裕子さんの方は何でもないことが分ったけれど、今度はお父さんが戻《もど》るに戻れないようになってしまった……」  「それに裕子には頼《たよ》って行く親類も何もないのだ。子供が生れるまでは、ともかく、捕《つか》まるわけにはいかなかった」  「それで、もう生れたんでしょう?」  「ああ。元気に育っているよ」  父の顔に、やっと微《び》笑《しよう》が浮《う》かんだ。「生れてみると、今度はその子のために、もう少し逃《に》げていなくてはならない、と思った。いつまでもは続くまい。しかし、裕子が、一人で子供を育てられるようになる日までは……」  「逃げればいいわ」  朋子は言った。「逃げて逃げて——警《けい》察《さつ》が諦《あきら》めるまで逃げていればいいじゃないの」  「本気で言ってるのか?」  「もちろんよ」  二人は顔を見合わせて、笑《わら》った。  「——聞いてよかったわ」  と朋子は言った。  「分っても、お前や美幸にかけた苦労が軽くなるわけじゃない。本当に済《す》まん」  「いいのよ」  朋子は、明るい口調で言った。「お父さんはお父さんなりに誠《せい》実《じつ》な生き方をしてるんだもの。お母さんも、それは信じていたのよ、きっと」  「そうかもしれないな」  父がゆっくり肯《うなず》く。朋子は、瞼《まぶた》に熱いものが浮《う》かぶのを感じて、あわてて、  「お茶を淹《い》れ直すわね」  と立ち上った。  「もういいよ。もう帰らなくちゃ。裕子が心配する」  「そう? じゃ、気を付けて。おじいちゃんだものね」  「人をからかうな」  父と冗《じよう》談《だん》を言い合って、朋子は胸《むな》苦《ぐる》しいほどの懐《なつ》かしさを感じた。  「長《なが》靴《ぐつ》なのね。用心深く」  「ああ。この背《せ》広《びろ》が一つきりだからな。汚《よご》しちゃ大変だ」  「住いや電話は訊《き》かないわ。でも用があったら、いつでも呼《よ》んで」  「ありがとう」  村山はドアを開けた。  田沢が立っていた。  「田沢さん——」  父が言いかけるのを遮《さえぎ》って、朋子は前へ出ると、  「私《わたし》が話すわ。お父さん、中へ入って」  と言った。  「しかし、朋子、これは——」  「いいの。私と田沢さんの話なんだから。お願い。ここは任《まか》せて」  村山は、ためらいながら、肯《うなず》いて部屋の中へと戻《もど》った。朋子はドアを閉《し》めると、  「——和彦さんはいません」  と言った。  「そうらしいな。しかし、君のお父さんの声は外で聞いたぞ」  朋子は、ハッとして、アパートの入口の方へ目を向けた。雪の白さに、赤い灯《ひ》の点《てん》滅《めつ》が映《は》えていた。  「ちょうどやって来たらしい」  田沢は言った。「さっき、ここで話し声を聞いて、すぐ電話したのだ。悪く思わんでほしいね」  朋子の顔から血の気がひいた。  「田沢さん、警《けい》察《さつ》の人に間《ま》違《ちが》いだったと言って下さい」  「そんなことができると思うかね?」  「代りに和彦さんを取《と》り戻《もど》せるのならどうですか」  「ここへ来たのか」  「明後日、会って遠くへ行く約《やく》束《そく》です」  「そんなことはさせん! どこにいるんだ!」  田沢が詰《つ》め寄《よ》って来る。アパートの入口に、男の姿《すがた》が現《あらわ》れた。  「警察の人に言って下さい。人違いだった、と」  「馬《ば》鹿《か》を言うな!」  「和彦さんが銀行の大金を盗《ぬす》んだことも、馬鹿げたことで済《す》みますか」  田沢の顔がこわばった。二人の視《し》線《せん》がぶつかり合った。  息を殺して、朋子は、じっとそれに堪《た》えていた。  「田沢さんですね」  声をかけて来たのは、あの若《わか》い刑《けい》事《じ》だった。  田沢は振《ふ》り向《む》いた。  朋子は腕《うで》時《ど》計《けい》を見た。四時半だった。  もう暗くなりかけた空は、紫《むらさき》色《いろ》に変っていた。雪が、そこここに残って、凍《こお》りついている。あわて者が時々滑《すべ》って尻《しり》もちをついては、照れくさそうに立ち上って、足早に去《さ》って行く。  風が強かった。——冷たい、しびれるような風だった。  朋子はコートのポケットへ手を突《つ》っ込《こ》んで、あの個《こ》室《しつ》喫《きつ》茶《さ》のドアを押《お》した。  「いらっしゃいませ」  週《しゆう》刊《かん》誌《し》を読んでいた男が立ち上った。  「こちらへどうぞ」  空いた部屋の一つへ案内されると、朋子は、五千円札《さつ》を男に握《にぎ》らせた。  「後で、連れが来るの。私は朋子。来ているかって訊《き》かれたら、まだ来ていないと言って、この隣《となり》の部屋へ案内して」  「はあ……」  と不思議そうに言ったが、別《べつ》に難《むずか》しい注文でもない。「分りました」  と会《え》釈《しやく》して戻《もど》って行く。  朋子は、コートを脱《ぬ》いで、ソファに置いた。雑《ざつ》誌《し》も何もない。——それはそうかもしれない。そんなことのためにここへ来る客はいないだろうから。  ソファに座《すわ》って、朋子はぼんやりと、薄《うす》汚《よご》れた天《てん》井《じよう》を見上げた。  照明も薄暗く、暖《だん》房《ぼう》は暑いくらいきいている。——よくこんな所で、恋《こい》人《びと》同《どう》士《し》とはいえ時を過《す》ごす気になるものだ。  二十分が過ぎた。  「こちらへどうぞ」  さっきの男の声がして、隣のドアが開いた。  「朋子というんだ。ここへ頼《たの》むよ」  「かしこまりました」  ドアが閉《し》まった。和彦の声だ。  朋子は、仕切りの壁《かべ》に、じっと頭をもたせかけた。この向うに、彼《かれ》がいる。手に手を取って、遠い町へ逃《に》げようと、彼女を待っているのだ。  ドアを開け、廊《ろう》下《か》へ出て、隣《となり》のドアを叩《たた》く。それだけのことだ。それで、新しい人生が始まる。  朋子は目を閉《と》じた。隣のソファで、落ち着かない様子でタバコをふかしている和彦の姿《すがた》が、まるで目の前にいるように、はっきりと浮《う》かんで来る。  朋子は腕《うで》時《ど》計《けい》を見た。五時五分。  店の入口の扉《とびら》が押《お》されているはずだ。  「いらっしゃいませ」  男の声が、微《かす》かに聞こえる。  朋子は立って行って、ドアを開けた。田沢が入って来たところだった。  朋子の姿《すがた》を見ると、田沢は、  「いいんだ、分っている」  と男へ千円札《さつ》を何枚《まい》か渡《わた》して、肯《うなず》いた。  やって来た田沢へ、朋子は軽く頭を下げた。そして、和彦の入っている部屋のドアを見た。  田沢は無言で肯《うなず》いた。朋子は、自分の部屋の中へ戻《もど》った。  隣のドアを叩く音がした。  朋子はソファの上に上ると、仕切りの壁《かべ》に耳を押し当てた。  「やあ——」  和彦の声が、ドアの開く音と共に途《と》切《ぎ》れた。「お父さん……」  「座《すわ》れ」  田沢の声は、穏《おだ》やかだった。  「彼女は? 彼女はどうしたんだ?」  和彦は昂《たか》ぶった声で言った。  「落ち着け。まあ座れよ」  「彼女は?」  少し間があった。二人がソファに座ったようだ。  「彼女は来ない」  「なぜ?」  和彦は食いつくように言った。「彼女をどうおどしたんだ!」  「何もおどしたりせん」  「嘘《うそ》だ!」  「いいか、よく聞け」  田沢の声は、静かだが、よく通って、有《う》無《む》を言わさぬ圧《あつ》倒《とう》的《てき》な力がある。「——あの娘《むすめ》は自分から私の所へ連《れん》絡《らく》して来たのだ」  「連絡?」  「お前が今日の五時にここへ来ているはずだとな」  「そんなはずが——」  「彼女に聞かずに、どうしてここが分るというんだ?」  和彦は黙《だま》った。  「お前はあの娘を好《す》きかもしれん。あの娘だって、そうかもしれない。しかし、あの娘が好きなのは、銀行員のお前で、浮《ふ》浪《ろう》者《しや》や、泥《どろ》棒《ぼう》のお前じゃない」  和彦がハッとするのが、気配で分った。  「あの金はどうした?」  「金って……」  「分っているんだ。残高が合わなかった。お前が持ち出した三百万のことだ」  間があって、田沢が続けた。「——いいか、あの娘はその金を見てしまった。それで怖《こわ》くなったのだ。当り前だろう。一《いつ》緒《しよ》に捕《つか》まれば横《おう》領《りよう》の共《きよう》犯《はん》だぞ」  「これは……返すつもりだったんだ」  「馬《ば》鹿《か》め!」  田沢が鋭《するど》く言った。「返すつもりで盗《ぬす》んだといえば、罪《つみ》にならんと思うのか!」  和彦が何か低い声で呟《つぶや》いた。朋子には聞き取れなかった。  「あの娘《むすめ》は父親が横《おう》領《りよう》の罪《つみ》で追われているんだぞ。そのために散々苦労したのだ。そんなことは二度とごめんだと考えて当り前じゃないか」  「でも……」  「ともかく、その金をこっちへよこせ」  少し間を置いて、鞄《かばん》のファスナーを開ける音がした。  「——よし。この三百万は、今のところ、まだ不明ということになっている。どこか支店の金庫の隅《すみ》にでも放り込《こ》んでおいてやる」  「お父さん……」  「何だ」  「彼女《かのじよ》は……僕《ぼく》のこと、何か言ってた?」  「さあ。どうだったかな」  「教えてくれよ!」  「いい加《か》減《げん》に目を覚ませ!」  田沢が激《はげ》しい調子で言った。「お前はあの女に同《どう》情《じよう》した。それだけだ。——恋《こい》だの愛だのといったことは、お前には分らんのだ」  「違《ちが》う、そんな——」  「お前は利用されただけだぞ、分らんのか?」  「どういう意味だい?」  「少しは目が覚めるかと思ったぞ。——全く、どうしようもない奴《やつ》だ。あの女はお前との手切れ金を受け取った。それでもお前はまだこりずについて行く。あの女にとってはお前はいいカモというわけだ」  「お父さん! それ以上言うと——」  「何だ?」  田沢は切り返した。「あの女は、ここを教えて、お前が三百万の金を盗んだのを黙《だま》っている代りにと金を払《はら》わせたんだぞ」  「嘘《うそ》だ!」  「嘘か? それなら、なぜここへ来ない? なぜここを私《わたし》に教えたんだ? もし、お前に泥《どろ》棒《ぼう》の真《ま》似《ね》をさせたくないなら、自分で来てそう言えば良かろう。お前たちは一《いつ》緒《しよ》にどこかへ逃《に》げるつもりだったそうだな」  「そうだよ」  「それなら、金を返させて、その上で一緒にどこへでも行くのが本当だろう。私に教えて、任《まか》せたのは何のためだ?」  ——長い沈《ちん》黙《もく》があった。  細い、すすり泣《な》きの声がした。  「もういい」  田沢が静かに言った。「若《わか》い内は、これも一つの勉強だ。お前は危《あや》うく、取り返しのつかんことをやるところだった」  「お父さん……」  「私に任《まか》せろ。この金のことはちゃんと始末をつける。お前はフランクフルトへ発《た》てばいい」  「でも……もう……」  「心配するな。全部手配してある。——いいか、向うへ行ったら、今度のことは何もかも忘《わす》れてしまえ。分ったな?」  田沢が、息子の肩《かた》を軽く叩《たた》く音がした。「よし。分ればいい。——あの女のことは心配するな。もうお前には近付かんだろう。フランクフルトへ三年も行っていれば、総《すべ》てが変ってしまうものさ」  田沢が立ち上ったらしい。靴《くつ》音《おと》がして、コートを手にする音がした。  「さあ行こう。今からハイヤーで飛ばせば、予定通りに乗れる」  ——朋子は唇《くちびる》をかんだ。涙《なみだ》が溢《あふ》れ出《で》て、頬《ほお》を流れ落ちて行く。  「——お父さん」  ドアを開く音がして、和彦が言った。  「何だ?」  「ごめんよ、心配かけて」  「もういい。忘《わす》れるんだ」  ドアが閉《し》まった。  「ありがとうございました」  遠くで声がして、重い扉《とびら》がきしんだ。  朋子はソファに伏せて、泣《な》いた。——だが涙は、それほど続かなかった。  ソファに起き上ると、朋子は、大きく何度か息をついた。  ドアがノックされた。  「はい」  「あの——何か飲み物をお持ちしましょうか?」  「いえ、結《けつ》構《こう》です」  朋子はそう答えると、バッグから、ハンカチを出して顔を拭《ぬぐ》った。コンパクトの鏡に、自分の顔を映《うつ》して、  「ひどい顔してる……」  と呟《つぶや》いた。  仕《し》度《たく》をして、コートを手に、部屋を出る。  「ありがとうございました」  と受付の男が言った。  「あの、料金はいくらですか?」  とバッグを開けると、  「もういただきました」  と答えて来る。  「え? でも、さっきのお金は別に——」  「いえ、先に出られた方が、二部屋分だとおっしゃって」  「そうですか……」  田沢が払《はら》って行ったのだ。  コートをはおって、外へ出ると、たちまち凍《こお》るような風が吹《ふ》きつけて来て、朋子は首をすぼめた。  どこへ、というあてもなく、歩き出した。  ——もうすっかり外は暗い。  そろそろ会社が終って、サラリーマンやOLの姿《すがた》が、新宿の街《まち》に見え始めている。  木《こ》枯《がら》しが、朋子の頬《ほお》の涙《なみだ》をたちまちの内に乾《かわ》かして行く。——泣いている暇《ひま》はないんだ。そう朋子は呟《つぶや》いた。  ふと、ショッピングビルの前で足を止めた朋子は、中へ入って、赤電話を探《さが》した。  かじかんだ手を握《にぎ》ったり開いたりして、十円玉を入れると、ダイヤルを回した。  「はい」  すぐに、美幸の声がした。  「名前を言いなさいよ、電話に出たら」  「何だ、お姉さんか」  「何だ、じゃないわよ」  朋子はちょっと笑《わら》って、「久米君は?」  「今日、バイト」  「遅《おそ》いの?」  「十時頃《ごろ》ね、帰るの」  「そう」  「今どこからかけてるの?」  「新宿」  「会社の帰り?」  「今日はさぼったの」  「私《わたし》には学校さぼるなって怒《おこ》るくせに!」  「お金払《はら》って行くのと、もらって仕事するのじゃ違《ちが》うでしょ」  「理《り》屈《くつ》ね。何してるの?」  「何も。——暇《ひま》だったら出て来ないかと思って」  「寒いじゃない」  「若《わか》いくせに何よ」  「何か買ってくれる?」  「金《きん》額《がく》次《し》第《だい》ね」  「じゃ行く!」  「正《まさ》に現《げん》金《きん》ね」  朋子は苦《く》笑《しよう》して、「じゃ……今、三《みつ》越《こし》の近くなの。どこか場所知ってる?」  「ケーキのおいしい店があるの」  「そういうことには詳《くわ》しいのね。どこ?」  朋子は説明を聞くと、「分ったわ。三十分?——四十分かな」  「店にいて。すぐ出るから」  分った、とも言わない内に、電話は切れた。朋子は受話器を戻《もど》して、息をついた。  表に出て、美幸の言った店に向って歩き始める。風の冷たさが、いくらか和《やわ》らいだような気がした。  年の暮《く》れが迫《せま》っているのだ。——人々があわただしく歩いて行く。  見上げると、デパートの前面一《いつ》杯《ぱい》にクリスマスツリーを形どった、イルミネーションが輝《かがや》いていた。  光と、音楽、そして雑《ざつ》踏《とう》。  朋子は、その海のような広がりの中を歩きながら、今、行くべき場所があることが、嬉《うれ》しくてたまらなかった。 かけぬける愛《あい》  赤《あか》川《がわ》次《じ》郎《ろう》 ------------------------------------------------------------------------------- 平成12年12月8日 発行 発行者  角川歴彦 発行所  株式会社 角川書店 〒102-8177 東京都千代田区富士見2-13-3 shoseki@kadokawa.co.jp Jiro AKAGAWA 2000 本電子書籍は下記にもとづいて制作しました 角川文庫『かけぬける愛』昭和62年4月25日初版刊行 平成5年2月20日25版刊行