TITLE : 証券恐慌——山一事件と日銀特融 講談社電子文庫 証券恐慌——山一事件と日銀特融 草野 厚 著  目 次 プロローグ———忍び寄る信用不安 運命の日がくる/ 深夜の記者会見——田中蔵相と宇佐美日銀総裁/山一事件、三つの側面/日銀特融決定までの政治過程/三つのアプローチ/本書の構成 第一章 矛盾———証券市場の体質 1 悪循環の構造 四十年不況へ/証券界、空前のブーム/運用預り制度による資金調達/逆回転が始まった/証券会社の経営悪化 2 山一式経営の弱点 強気一本槍/公開ブームの後に/裏目に出た拡大路線/株式市場の暗転 第二章 苦悩———深刻化する証券不況 1 動き始めた大蔵省 証券行政の甘さ/坂野通達の波紋/証券界への指導強化 2 証取法改正の舞台裏 大蔵省証券局の誕生/昭和二年の金融恐慌/経営体質の強化と証取法改正の動き/免許制をめざす 3 大蔵省・日銀の対立——「共同証券」めぐる思惑 株式棚上げ機関の必要性/構想めぐる銀行界の内部の反応/共同証券の発足/資金をどこに求めるか/日銀の別枠融資/資金繰り悪化への対応/直接融資の道を探る/田中蔵相と日銀のギャップ 4 銀行・証券の確執——「証券保有組合」誕生の内幕 ようやく腰をあげた証券界/積極的な日銀 第三章 危機———山一証券の経営破綻 1 山一の首脳陣更迭 後手に回る合理化/新社長の登場/大手四社への資金貸し付け/融資順位は日興、大和、山一、野村 2 報道協定と国会対策 取材攻勢/マスコミへの働きかけ/社会党への根回し 3 赤字は二八二億円 実態解明に乗り出したメインバンク/厳しい日銀の姿勢/メインバンクの思惑/富士銀本店の山一「再建室」/再建案の作成 4 田中蔵相と高橋銀行局長 大蔵省内の説得工作/銀行局長、苦渋の判断/大蔵大臣のゴー・サイン 5 日本銀行への打診 反発の声あがる/対立続く日銀と大蔵省 第四章 決断———二八二億円の日銀特別融資 1 潜行取材が続く——報道協定のすき間 洩れた「協定」の事実/核心に迫る/昭和四十年五月二十一日 2 予想外のシナリオ 緊張高まる霞が関/共同記者会見/社会党の憤り/国会での論戦/波紋 3 証券恐慌の危機 解約客、殺到/立ちすくむ証券界/協議続く/日銀切り崩しへ 4 昭和四十年五月二十八日——日銀氷川寮のトップ会談 突然の招集/一喝した田中角栄蔵相/「無担保、無制限」の救済融資/日銀とメインバンクの対立/日銀特融二四〇億円に決まる 第五章 回避———危機管理の構図 問題の推移と主役の変化/出番なかった自民党/危機的状況の中での決定/田中角栄と山一事件/宇佐美日銀総裁の登場/成功した危機管理/危機におけるリーダーの条件/報道の果した役割 エピローグ———陽はまたのぼる…… 山一、日銀特融を完済/証取法の改正/再建案めぐる駆け引き/ようやく決まった再建計画/順調に進んだ返済/二七五社に免許/国債の発行へ 注 参考資料 あとがき 文庫版あとがき        * この作品は一九八六年六月、日本経済新聞社より、『昭和40年5月28日——山一事件と日銀特融』として刊行されたものです。 本電子文庫版は、講談社文庫版(一九八九年三月刊)を底本とし、文中の役職、肩書き等は、講談社文庫版のままといたしました。 証券恐慌——山一事件と日銀特融 プロローグ——忍び寄る信用不安 《運命の日がくる》  昭和四十(一九六五)年五月二十日、夜九時過ぎ、大蔵省詰めNHK記者大山昊人(ひろと)(現・NHK解説委員)は、いつものように東京・新宿区百人町の大蔵省証券局財務調査官加治木俊道(後に証券局長、関西電力副社長)の官舎に夜まわりをかけていた。加治木は後に東京商大(現・一橋大)卒としては初めて大蔵省の局長ポストを射とめることになる逸材である。  加治木はしばらく大山と会話を交したが、官舎の狭い玄関脇にある電話が鳴って中座すると、なかなか戻ってこなかった。しかし、時折聞こえてくる「本気か」、「何とか書かないようにはできないのか」、「日本を潰すつもりか」といった加治木の興奮した声で、大山には何が起きたかがすぐにわかった。いよいよどこかの新聞社が五月初めに結んだ報道協定をくぐり抜けて、山一問題を記事にしようとしているのだ。加治木への電話はその通告に違いなかった。  それにしても不思議だと大山は思った。朝日、読売、毎日、日経、産経、東京、共同通信のいわゆる七社会加盟各社とNHK、時事通信、日刊工業が、大蔵省側の要請を受け入れ、山一の再建策が固まるまでは報道をさし控えることになっているはずである。事の詳細が明らかになれば、極めて大きな社会不安が起こる恐れがある、という大蔵省側の主張にマスコミが一歩譲った形であった。  いったいどの社が抜こうとしているのだろうか。大山はマスコミに身を置く人間として、加治木とは全く別の意味で気が気ではなかった。前年暮れに大蔵省担当になった大山は、それまでNHKが七社会に加盟していない悲哀をいやというほど味わわされていた。この問題で大蔵省は報道の自粛を条件に七社会に対して情報を提供する一方、他社には一切詳細を知らせていなかった。それを大山は、自分としてはさして関心のない絵画の話題(加治木の絵は玄人はだし)等を通して、加治木と近しくなり、ようやく七社並みに待遇されるところにまでこぎつけたばかりだったのである。他社が抜くのを手をこまぬいて見ているわけにはとてもいかなかった。  十五分ほどして説得に失敗した加治木が戻ってきて、その謎はとけた。報道協定に参加していない西日本新聞(本社・福岡)が、独自の取材をもとに翌五月二十一日金曜の朝刊トップで書くというのである。それから約一時間、加治木とNHKにも報道させろという大山との間で押し問答が続いた。大山には、まだ十一時五十五分の最終ニュースに間に合う、そうすれば、西日本を抜ける、という思いがあった。勿論、報道協定の了解事項に、もし一〇社以外が報道した場合でも、これを無視するとの一項があったことは承知していた。しかし、このような特ダネの機会はめったにあるものではない。大山は、NHKは七社会の正式メンバーではないから、拘束されないという些か無茶な論法で、報道させてほしいと加治木に迫った。  もとより加治木の心境は大山にも痛いほどわかった。NHKは全国ネットで、しかも情報伝播のスピードでははるかに新聞を凌ぐ。加治木の言うように、そのニュースは日本経済に壊滅的打撃を与えることになるかもしれない。大山としてはまさに複雑な気持としか言いようがなかった。特ダネをとったものの、ニュースにすべきではないという気持が心のどこかにあったからである。自分の書いた原稿によって、たしかに自殺する人々が出てくるかもしれない。しかし真実は伝えたい。加治木は「NHKが流すのなら、お前の家の前で首くくりがでるよ」とまで言った。  局に戻った大山は結局、上司の判断を仰ぐことにした。石井克己政経部長の指示は、この段階ではニュースにはするなというものであった。大山は力が抜けるのを感じた。こうして、西日本新聞に一歩先んじて山一証券の経営悪化を伝えるという、大山の目論見は幻となって終わった。深夜、その決断を電話で伝えた大山に対し、加治木は一言「ありがとう」といっている。 《深夜の記者会見——田中蔵相と宇佐美日銀総裁》  場面は変わって、それから八日後の五月二十八日午後十一時半、大蔵省記者クラブ(財政研究会)である。田中角栄大蔵大臣は急きょ招集をかけた各社記者を前に、次のような声明文を読み上げていた。 「政府および日本銀行は現段階において証券界の必要とする資金については、関係主要銀行を通じて日銀が特別融資を行うことを決定した。さしあたり山一証券については主要三行がこの融資を行うことを決定した。特別融資の措置等を含めて証券金融については抜本的対策を早急に講ずる」(日本経済新聞——以下、日経と略記——昭和四十年五月二十九日)  同じ時刻、こちらは東京・港区六本木の自宅応接間で、宇佐美洵日銀総裁が同趣旨のことを、集まった記者団に説明していた。  大蔵省と日銀のトップ二人がわざわざ深夜に記者会見を開いたことも、日銀が伝家の宝刀(日銀法第二五条)を抜いてまで、証券業界に対し、特別融資を行うという発表の内容そのものも、事態の深刻さを伝えるに充分であった。いったい山一証券に何が起こったのであろう。なぜ、大蔵省は報道管制を敷いてまで、山一証券の経営悪化が明るみに出ることを防ごうとしたのであろうか。一民間企業が倒産の危機にあるという事実を、なぜ、大蔵省はそれほどまで隠さなければならなかったのであろうか。 「日本銀行ハ主務大臣ノ許可ヲ受ケ信用制度ノ保持育成ノ為必要ナル業務ヲ行フコトヲ得」  このように規定した日銀法第二五条は言うまでもなく、緊急避難的措置を定めたものであり、めったなことでは発動されないと考えられていた。後のことになるが、昭和五十四年、二八四億円にのぼる赤字を出して経営危機に陥った大光相互銀行に対して、日銀は金融秩序全体に影響するものではないとして、救済融資を見送っている。にもかかわらず、なぜ、山一証券(正確には大井〈現・和光〉証券に対しても)には救済融資という救いの手がさしのべられたのであろうか。  当時の関係者は問題の処理に当たって、昭和二年の金融恐慌の経験に多くを学んだという。山一事件当時とは、経済、政治的環境が全く異なるとは言え、昭和六十年代の政治家、大蔵官僚、日銀や、銀行、証券の金融マン、マスコミ人は、この昭和四十年の歴史的事件に何を学ぶであろうか。 《山一事件、三つの側面》  戦後の日本経済史に残るこの一大事件は、筆者のような政策決定過程の分析に関心をもつ研究者にとってだけでなく、広く一般読者にも極めて興味深いものだと思われる。その理由は三つある。  第一に、この事件のプロセスは、危機管理という観点から見て、極めて興味深いことである。日本における危機管理の議論は、核戦争を如何に回避するかを中心に発展してきたアメリカのそれとは大きく異なり、地震等大規模災害、過激派による破壊行為の防止、食糧危機への対応等を中心にして展開してきた。そして最近では、経済不安を前提とした危機管理についても関心が高まりつつある(注1)。  日本政府は昭和五十九年四月、アメリカとの間で金融市場開放のスケジュールについて合意した。その後六十年に入り巨額の対日貿易赤字に直面するアメリカ政府は、その進捗状況の遅れを指摘している。しかし、国内整備が充分に行われないままで、自由化が促進されれば、中小金融機関を中心に経営が悪化する恐れが出てくる。  このような状況の下、昭和五十九年十月には、日銀が信用組合の経営危機を想定した預金保険機構(個々の金融機関に代わり、預金者一人当たり三〇〇万円を限度に預金引き出しに応じる機構)の発動演習を行ったと伝えられた(注2)。これまで、ほとんど現実に起きるとは考えられてこなかった信用不安発生の可能性を、日銀も考慮しはじめているのである。  ところで、危機は、予測ができなかった状況下で発生する場合と、あらかじめ関係者が危機の到来を予測し、回避策及び対応策を講じた状況下でなおかつ発生する場合とがある。明確に区別できるわけではないが、大地震などの自然災害や、ハイジャック、テロ行為によって生じる危機はどちらかといえば前者に属し、また経済的な要因によってもたらされる危機は後者に属すると考えることができよう。  日本では、昭和五十三年に続いて発生した伊豆沖及び宮城沖地震、同じ年の三月末の過激派による成田新国際空港襲撃事件などから、危機の第一のパターンについては世論の関心も高く、法制面での整備も行われてきた(注3)。しかし、経済的要因を中心として起こる可能性の強い危機の第二のパターンについては、それほど活発な議論は行われてこなかったのである。仮に、そのような研究が行われているとしても、社会的な影響を考慮して公にされることはなかったのかもしれない。とすれば、そうした研究の空白を埋めるという意味で、この研究には意義があるといえよう。なぜなら関係者が、その到来を予想し、回避する道を探ったにもかかわらず、結局は発生した危機をどのように収拾したのか、山一事件は資料的な裏付けに基づいてフォローすることが可能だからである。  もとより事件の起きた二十四年前と現在とでは、経済の実態が大きく異なっており、したがって、いたずらに現在と過去の類似性を強調すべきではないのかもしれない。ましてや、山一事件は旧証券取引法下の証券業をめぐる問題であり、現在の信用機構には通用しないという指摘も可能である。にもかかわらず、経済危機を目前にした時、その当事者達は何を最優先の課題とし、どのような行動をとろうとしたのか、山一証券への日銀特融事件は教えてくれるはずである。  第二に、第一の点とも関連して、この問題をめぐるマスコミの役割が興味深い。報道の自由と公共の福祉、つまり知る権利と報道が社会に与える影響との関連については、これまでも研究の対象とされてきた(注4)。しかしマスコミの報道が政治過程に具体的にどのような影響を与えているのか、というマスコミと政治の関連については、その資料収集の難しさもあってほとんど検討がなされてこなかった。この山一事件の場合、一連の流れ即ち、その実態を把握したマスコミに対し、内容が報道された場合の社会的影響を考慮した政府が、報道の自粛を主要マスコミ機関に要請したものの、結局は報道協定に加わっていなかった地方紙の報道を契機にして、山一をはじめとする証券各社に対し取り付け同然の騒ぎが始まったという、マスコミ、政府、一般大衆三者のそれぞれの反応が明確に跡づけられるという点で、極めて珍しいケースである。高度情報化社会の今日、こうした問題に対するマスコミの報道姿勢如何によっては、一挙に社会不安が発生する事態が生じるとも限らない。報道の自由と公共の福祉との境界線はどこに引かれるべきなのか。このような点について山一事件は問題を提起している。  第三は、脳梗塞の発作に倒れ、事実上その政治生命を断つことになった田中角栄が当時の大蔵大臣であったことである。昭和四十九年の金脈問題による首相辞任、ロッキード事件での逮捕にもかかわらず、その後中曽根内閣に至る歴代自民党政権に対し、なみなみならぬ影響力を発揮してきたことは周知の通りである。しかし、田中に対する世間の関心は、あらためて指摘するまでもなくロッキード事件を中心とするスキャンダラスな側面に集中しており、それ以前に彼がどのような政治的決断を行ったかについては、昭和四十七年の日中国交回復という例外を除いてほとんど触れられていない。  田中角栄は第二次、第三次池田内閣の大蔵大臣を務め、池田首相の所得倍増計画を推進し、さらに池田の死去によって発足した第一次佐藤内閣においても引き続きその任にあった。山一証券への日銀特融は田中が、池田の高度成長政策を批判してきた福田赳夫にその職を譲る直前の出来事であり、田中の大蔵大臣としての最後の重要な決定であった。この問題を通して、田中角栄の政治家としての側面に分析を加えることも大いに意味があろう。  さらに、この事件は、政治学的な観点から見ても、ユニークな性格を有している。即ち、戦後日本の数ある政策決定(日本政府による主要な決定)の中で、昭和四十六年のいわゆる、ニクソン・ショック(事実上のドル切り下げを中心とするアメリカの新経済政策)に対する日本の方針作成の過程と同様、危機的状況の中で行われたという意味においてである。ある論者が述べるような危機決定(クライシス・ディシジョン)の三つの要件、つまり政策決定者にとって、当該事件が予想外であり、最終決定までの時間的余裕がなく、しかも決定すべき事柄がその国にとって極めて重要である、という要件を厳密な意味で、この事件は満たしているとは言えない(注5)。しかし早急に最終判断を下さなければ、あるシステム(この場合は信用機構)の存続にとって、決定的な打撃が生じかねなかったという意味では、まさに危機の中での決定であった。政策決定過程研究の進展に伴い、その事例研究は増加しつつあるが、危機決定については、戦後の日本では、その種の例が極めて少ないこともあって、ほとんど行われてこなかった(注6)。本書はその点を補うことになろう。 《日銀特融決定までの政治過程》  本書は、以上のような問題意識から、山一証券に対し、なぜ日銀が特融を行ったかを解明するが、あらかじめその分析の対象期間とそこに含まれる問題について説明を加えておこう。  日銀特融の政治過程と言えば、一般的には昭和四十年五月二十一日の西日本新聞の報道から五月二十八日の日銀氷川寮会談における特融決定までを指すことが多い。しかし、本書の分析で明らかになるように、その部分は事件のクライマックスにしか過ぎない。それを欠いては、この一大ドラマが成立しないことも確かだが、特融決定の前後の期間、とりわけ昭和三十七年以降、次第に証券不況が深刻化し、三十九、四十年と極めて異例な株式の棚上げ、買い上げ機関である日本共同証券、日本証券保有組合が発足する過程を無視することはできない。この点については、証券経済的な角度からは研究がなされているが、政治的な角度からこそ分析される必要がある(注7)。  なぜなら破局に至る過程で(正確には半年前まで)、この間、政権の座にあったのは、異常とも言えるほど株に興味を示した池田勇人であり、また池田内閣の大蔵大臣も池田と同様、株に関心のあった田中角栄であった。その二人は金融引き締めを譲らず、政府と対立を続けた山際日銀総裁に代えて、民間から三菱銀行頭取の宇佐美洵を起用した。サンウェーブの倒産直後で、「四十年不況」が到来したばかりの昭和三十九年十二月のことである。こうした一連の事実(日本共同証券を含め)と山一事件は一見何らの関係もないように思われる。ところが、政府が反対ないし消極的姿勢をとる日銀を如何に説得し、首相ないしは大蔵大臣の意向に従わせるかという点で、そこには共通のパターンが見られたのである。この政府と日銀の間にあって、市中銀行の役割も興味深い。  市中銀行に対し、融資ルールの確立を求める大蔵省は、一連の企業倒産、吹原産業事件などで、その指導を強化していたが、証券不況の処理に当たって、大蔵省と市中銀行は、日本銀行に対し共同で事を処したかのように見える。他方、証券不況が進むにつれて、日銀と証券会社の関係が密接になる過程も、対大蔵省、市中銀行との関係とは対照的という意味で注目に値する。  以上のように、特融決定以前の様々な出来事が、五月二十一日から二十八日に至る一週間に起こった問題と絡みあっているのである。したがって本書では、この政治過程の起点を昭和三十六年頃からととらえることにしたい(注8)。また政治過程の終期は単に特融決定の時点ではなく、昭和四十年十月の改正証券取引法の施行を経て、山一が特融を完済した四十四年十月までとする。そうすることによって、事件を契機としたあるいはそれ以前から懸案であった問題が、どのような過程をたどって処理されたかが明らかとなるはずだからである。 《三つのアプローチ》  山一証券に対する日銀特融の政治過程を分析するに当たって、具体的な方法としては次に述べるいくつかの枠組が考えられる。  第一は最も包括的に政治過程を捉える方法であり、日銀の特別融資が決定されるまでに、何らかの形でこの問題に関与したすべての関係者、関係団体を視野に入れるという枠組である(注9)。つまり救済される側の証券業界、融資先の証券業界と関連を持つ銀行業界、さらには報道の自由を標榜するマスコミが政府及び日銀に対し、どのような方針で臨み、その目的を遂げるために如何なる活動を展開したかについて焦点をあてる。したがって、この分析は次に述べる第二の枠組に比べ政府内のアクターの相互作用よりは、政府内のアクター(大蔵省、日銀)と政府に属さないアクター(証券、市中銀行、マスコミ)との関係に注目する。  第二は、この問題の所轄官庁であった大蔵省、より詳しく言えば銀行局、証券局、それに証券界に膨大な資金を投入することになった日本銀行などの組織間、個人間の利害対立、調整、駆け引き等に焦点をあてるという、いわゆる政府内政治モデル(官僚政治モデル)である。  第三は、この問題の事実上の最高政策決定者であった田中角栄大蔵大臣の目を通して、この政治過程を再構成するという方法である。つまり、大蔵省という組織の利益及び役割という観点から、大蔵大臣としての田中が、この問題をどのように捉え、行動したかということである。田中個人の心理的側面を重視するということになろう。  以上三つの分析枠組のうち、ここでは、いずれか一つを選択するのではなく、それぞれを併用することにしたい。田中角栄個人の役割、あるいは大蔵省と日銀の攻防、銀行、証券、マスコミの存在といった、いずれの一点を欠いても、この政治過程を正確に描くことは困難であるという理由からである。それはまた、主要な経済問題に関連する日本の政治過程の多くは、三つの分析枠組の特徴を何らかの形で包含している、という筆者の仮説にも基づいている。同時に、この方法は、政治過程が実はいくつかの小さな決定の連続から成り立っている、という「現実」にも沿うものである。  以上の説明から筆者の関心が、政策の決定に参加し主要な役割を果したのは誰か、それはどのような理由で可能であったのか、という点にあることが明らかになったと思われる。  もとより政治過程全体、即ち昭和三十六年半ばから昭和四十四年秋に及ぶ期間を、以上三つの枠組を並列的に用いて分析するわけではない。ある論者が指摘するように、日本の政治過程は時間の経過に伴い拡散から収斂へと向かう傾向がある。即ち政治過程の初期、中期においては、当該問題に関心を持つアクター(官僚、自民党、財界、業界等)が、それぞれの立場から影響力の行使を試みるが、争点が次第に明確になるにつれて、決定に参加するアクターの数は限定され、首相あるいは大臣を中心とする政策決定者及びその周辺に位置する助言者集団に、その議論は委ねられるのである(注10)。この集団の構成員は何も官僚、自民党議員に限られるわけではなく、問題の性格あるいは政策決定者との個人的関係から、財界、業界、マスコミの人が加わる場合もある。  いずれにせよ、山一問題の場合でいえば、初期、中期では、漠然と証券不況対策をめぐる議論に、数多くのアクターが参加し、山一の経営危機が焦点となった後期の段階では、ごく少数の限られたアクターのみが決定に加わったのである。 《本書の構成》  こうしたことから、本書では、まず最も包括的な第一の枠組に始まり、政治過程の進行に伴い政策決定者間の取り引きを強調する第二の枠組、そして最高政策決定者の心理的側面に焦点をあてる第三の枠組の分析へと移行する方法によって議論を進める。  より具体的にいえば、第一章では、まず昭和三十六年から四十年にかけて、しだいに不況色を強めていく証券市場の推移をデータを交えながら叙述する。さらに事件の主役である山一証券の当時の経営状況について触れる。この部分は、いわば事件の背景説明である。  第二章から第四章にかけては本書の中心部分であり、前述の分析枠組に従って広角から接写へとレンズを変えることによって政治過程を描く。第二章では証券不況に対する行政の対応、証券、銀行業界の役割が分析される。第三章では、昭和三十九年秋、山一証券の業績悪化が表面化した後、大蔵省、日銀、都市銀行、マスコミはどのように反応し、行動しようとしたのか、その点が取り扱われる。第四章では、実際に発生した取り付け的状況に直面して、田中大蔵大臣を中心とする政策決定者集団がどのような議論、取り引きを展開し、日銀法第二五条の発動に至ったかが分析される。  第五章では危機管理及び政策決定論の観点から、この問題がどのような意味をもったかが検討される。その後半の部分では、田中個人の心理状況についても推論を試みる。山一への日銀特融事件といえば、日銀法第二五条発動の経緯について語られることが多く、その特融返済をめぐる関係者の議論は、あまり明らかにされていない。そこでエピローグでは、山一証券が如何なる過程を経て再建にこぎつけたかを叙述する。 *本書は、筆者が入手した一次資料を含めた文書資料、すでに刊行済みの事件関係者に対するインタビュー記録及び、今回、筆者があらためて行ったインタビュー等に基づいて構成されている(資料については巻末を参照)。なお、関係者との取り決めにより、筆者が行ったインタビューの内容は本文中に直接的には引用されていない。また、本文中、敬称は省略させていただいたことをお断りしておきたい。 第一章 矛盾——証券市場の体質 1 悪循環の構造 《四十年不況へ》  昭和三十三年以降、株式市場は折からの岩戸景気、また池田内閣の所得倍増計画によって空前の活況を呈し、三十六年七月十八日には、東証のダウ式平均株価は一、八二九円七四銭の大天井をつけた後、騰落を繰り返しながら、三十八年四月五日には、一、六三四円三七銭の戻り高値を記録した。  しかし図1から明らかなように、その後、株価は下がり続けた。昭和三十九年一月の日本共同証券、四十年一月の日本証券保有組合と、買い上げあるいは凍結機関の発足後も、株価は本格的な反騰を見るに至らず、山一特融の二ヵ月前の三月には一、二〇〇円の大台も割り込んでいた。実に最高値から三三パーセントの値下がりである。  昭和三十九年秋から約一年間は、いわゆる「四十年不況」として知られる景気後退期に当たっており、企業倒産が続出した。昭和三十八年の四半期ごとの平均倒産件数は五〇〇件以下だったのに対し、昭和三十九年には八〇〇件、四十年にはついに一、五〇〇件前後になっている(図2)。負債総額もそれにつれて四〇〇億円、一、〇〇〇億円、一、五〇〇億円と急増した。  昭和三十八年のIMF(国際通貨基金)八条国への移行、翌三十九年のOECD(経済協力開発機構)加盟、さらにはその年の秋の東京オリンピック開催と、日本が国際社会で先進工業国としての地歩を固めた後に、不況が一挙に進行したことは如何にも皮肉であった。  昭和三十八年の「オリンピック景気」と呼ばれる景気上昇の最中、七月にはケネディ大統領がドル防衛のために金利平衡税の創設を明らかにしたため、国際収支への悪影響を懸念した政府・日銀は、三十八年末、金融引き締めを再開した。これにより景気は三十九年十月をピークに下降に転じ、民間設備投資は落ち込み、個人消費も伸び悩むことになった。そして既に述べたような形で倒産件数だけがうなぎのぼりに増え続けるのである。  国際収支の均衡をまって昭和四十年一月には、公定歩合の引き下げによる金融引き締めの解除が行われたが、時既に遅く、事態は一層深刻化した。三十九年十二月のサンウェーブ、日本特殊鋼に引き続き、四十年に入ってからは三月の山陽特殊鋼、そして本書の扱う五月の山一証券と、大型の企業倒産ないしは業容悪化が続発した。四十年不況の原因についての議論はともかく、産業界の供給過剰現象はついに家電、鉄鋼など一七業種の不況カルテルによる減産を招き、構造不況という言葉が盛んに使われるようになった。(表1)  ここで重要なのは、山一証券の経営行き詰まり、あるいは証券不況と四十年不況との関連である。既に述べたように、昭和三十八年から三十九年秋にかけての好況の再現期においても、東証修正平均株価はほぼ下降し続けたのであり、また手数料収入の増減につながる出来高も、三十九年以降、日本共同証券が買い出動を行った時期を除いて図3が示すように減少している。つまり後述するように、証券業界は、この間、急速に業績を悪化させていた。言いかえれば、証券業界にとって、四十年不況は業績悪化の原因ではなく、それを促進する要因に過ぎなかったのである。それより遥か以前から証券業界自身大きな困難に直面していた。しかし皮肉なことに、その原因はまた、昭和三十年代中頃の空前の株式ブームを支えてきた要因でもあった。 《証券界、空前のブーム》  証券業界の苦境について述べる前に、昭和三十年代の高度成長期の金融構造について簡単に振り返っておこう。  企業が資金を調達する方法としては、長短の銀行借り入れ、社債・株式の発行が考えられるが、この時期、銀行借り入れ(=間接金融)が圧倒的なウエートを占めていた。即ち証券市場は相対的に未発達だったのである。たとえば昭和三十二年から四十年にかけての外部資金調達に占める銀行借り入れの割合は平均七四パーセントであったのに対し、株式は一六・五パーセントにしか過ぎなかった(注1)。その理由は一つには個人の貯蓄が安全性を重視して銀行預金に集中したからであり、第二に政府が銀行中心の政策を進めたためであった。その結果、都市銀行が貸し付け競争によってオーバーローンに陥ると、日銀は貸し出しによってこれを助けるという構図ができあがっていた(注2)。即ち、証券市場は資金調達の限界市場としての役割が強かったのである。このような間接金融の優位即ち銀行の優位は行政の対応振りにもはっきりと表れていた。大蔵省理財局に証券部が置かれたのは、東証株価がピークを過ぎた昭和三十七年五月のことであり、大蔵省証券局の誕生は、それからさらに二年後の三十九年六月を待たねばならなかった。  しかし、このような間接金融優位の金融構造のもとで、三十年代中頃の証券界は空前のブームに沸き返っていた(図1参照)。神武景気、岩戸景気として知られるように、三十年代前半は、金融緩和を背景として株価は上昇し続けた。それは企業の好収益という事情もさることながら、株式の需給関係のアンバランスによる側面が強かった。  そのアンバランスを招いた要因の一つが株式投資信託であった。大衆が証券市場に積極的に参加する契機となった株式投信は、定額、解約自由という点で、郵便貯金、銀行預金と類似商品との印象を与えることに成功した。しかも少額資金で購入ができ、実際に平均利回りが年二割から三割と、銀行預金の金利をはるかに超えるものも現れたから売れ行きは好調であった。その結果、個人金融資産に占める株式投信の比率は昭和三十四年の五・八パーセントから三十六年には一七・六パーセントと大幅に増加している(注3)。  株式投信への大衆の関心の高まりが短期間に生じたことは、間接金融偏重のもとで株式の発行数が相対的に少なかったこともあって、株式の需給関係を逼迫させ、株価の高騰を招いたのである。  こうした賑わいの最中、昭和三十六年一月には公社債投信が発足した。従来の株式組み入れの投信とは別に、債券だけを組み入れて運用するという投信である。発売当時、ある証券会社の地方支店がPR用垂れ幕に「銀行よサヨウナラ証券よコンニチハ」と書いたことは、この商品の爆発的売れ行きを暗示したものといえた。設定一ヵ月で四六〇億円、三ヵ月過ぎたところでは一、一二〇億円も集めている。この金額は昭和三十四年一年間で株式投信の集めた約六割にのぼっていた。株式や株式投信には二の足を踏み、いままで証券会社に馴染みのない新しい客も公社債投信を買った。市場は明らかに過熱していたのである。それは次の数字がハッキリと示している。株式の出来高が昭和三十三年から三十七年の間に、三倍の三三億株(月間平均)に、増資も約三倍の五、八〇〇億円に、さらに新規公開株も三十七年には一八七社と、過去五年間の平均の三倍を越えていたのである(注4)。  他方、こうした市場のエネルギーの高まりを反映して、証券各社もこの間、業容を急速に拡大している。表2が示すように、昭和三十三年に比べて三十八年には、各社従業員数は三倍、資本金は五倍、店舗数は約一・五倍に達した。  当然のことながら、このような営業あるいは市場規模の拡大は、証券会社の資金需要の増大を促した。たとえば、推奨販売用に必要な株の購入(当時証券会社は、株を安値で買い入れ、市場の実勢価格よりも安く客へ販売し、利ザヤを稼がせる推奨販売を行っていた)、宣伝費、人員の増加に伴う一般管理費、設備投資、増資、公開株の引き受けと資金需要は極めて旺盛であった。 《運用預り制度による資金調達》  問題は証券業界にとって、このような業容の拡大に見合う資金調達の道があったかどうかであり、またその業績が好調であったかどうかであった。  まず資金調達の方法について述べよう。前述したように、証券界に対する行政側の施策は充分とはいえず、金融の道はほとんど制度化されていなかった。資金調達の有力な手段は、いまでは廃止されている運用預り制度であった(注5)(昭和四十三年四月の免許制移行時の廃止を目途に漸時縮小)。実は大蔵省が昭和三十年に証券一九社に対して認めたこの制度こそが、山一事件を起こす大きな種となっている。その運用預り制度とは次のようなものであった。  現在も同様だが、各証券会社は、日本興業銀行、日本長期信用銀行、日本不動産銀行(現・日本債券信用銀行)のいわゆる長期信用銀行三行等が発行する金融債(ワリコー等一年ものの割引債とリッコー等五年ものの利付債)を受託販売していた。長信三行は長期金融機関ということで支店の設置が普通銀行に比して制限されていたから、その不備を証券会社の販売力によって補っていたのである。ところが当時、証券会社は顧客にいったん売却した金融債を日歩一厘の品借料を払ってまた預り、それを銀行、中小金融機関、あるいはコール・マネーに対する担保として用いて得た資金で、株式や公社債の在庫金融や自己売買を行っていたのであった。  この仕組を当時の状況に沿ってより具体的に見てみると、次のようになる(注6)。  金融債券発行銀行(長期信用銀行等)と証券会社はワリコー、ワリチョー等割引債の九七パーセントが個人によって消化されているところから、その販売に努める。その際、証券会社は銀行の一年定期預金や利付債(長期信用銀行等によって発行されるもう一つの金融債)は一〇パーセントの利子課税を受ける結果、利子(利回り)は実質四・九五パーセント、六・五七パーセントにしかならないこと、他方、割引債は利子課税の対象にならないので、利回りは六・二二四パーセントにも達する点が顧客に対し強調される。証券会社はその顧客に対し、預り書に記名捺印するだけで買った割引債を証券会社に預ければ、日歩一厘の支払いを受けられることを説明し、それは運用預りにしない場合の利回り六・二二四パーセントより〇・三八八パーセントも有利な六・六一二パーセントになることを強調する。ここで大体の客は購入した債券を運用預りとする。  さて運用預りを認められた大手四社を含むいわゆる運用一九社は、運用預りによって手にした借入有価証券をコール市場でコール・マネーをとり入れるための担保に使用したり(注7)、日本証券金融、都市銀行その他の金融機関などからの資金調達のための担保とすることになる。  こうして得られた資金は少なくとも、当初、その大部分は、自社の投機的売買益を得るための株式買い付け資金として用いられたが(注8)、さらに証券会社は、その買い付け済みの株式を担保として、掛目七割で資金を借り、株式を買い付けることもあった。このようにして「買い付け株式—→担保差し入れ—→銀行借入金—→株式買い付け」の循環は当時、必要に応じ、何回も繰り返されたのであった。  これが運用預りと呼ばれる制度の仕組である。預金と同様の効果を生むという意味では客に、また資金調達の手段としては証券会社に、さらに販売増につながるという点では発行銀行にとって、それぞれメリットのある制度には違いなかった。 《逆回転が始まった》  問題は、その運用預り制度が昭和三十八年以降のいわゆるケネディ・ショックを境に訪れた株価下落の下で、その性格を著しく変質させたことである。証券各社は運用預りによって得た資金を単なる運転資金としてだけではなく、借金返済用に利用しはじめたのである。それでも運用預りが小規模に留まっていたならば、さほど問題ではなかった。ところが表3から明らかなように昭和三十三年から四十年にかけて運用預りは急ピッチで増え続けたのである。しかも株価がピークを過ぎた三十七年以降にその傾向が著しかった。  このような状況は、仮に客が証券会社に預けた金融債(主として割引金融債)の返還を一斉に求めてきた場合に、極めて深刻な事態をもたらすことを意味した。既に述べたように、借金返済用、あるいは株式保有のための資金を調達するために、客から預った金融債は担保として用いられているのである。したがって、証券会社が客の求めに応じるには、手持の株を売却し、その代金を借入金の返済として貸し手に支払い、担保の割引金融債を取り戻さなければならない。これはコール市場や銀行等からの資金借入の場合も同様であるから、新たな借り入れを除けば、証券会社として残された道は株の売却しかなかったのである。したがって、昭和三十七年頃から始まった投信解約の増加が株価の落勢を強めたことは言うまでもない。  それと同時に、投資信託会社がコール市場に放出していた資金を引き上げはじめた。即ち証券会社はこれに応じるために、手持ちの株式を売却せざるを得なかったから、さらに株価は下げ足を速めることになった。  もとより運用預りのみが、証券会社の経営を窮地に追いつめたわけではない。昭和三十年代後半の株式投信、公社債投信の急成長は証券会社の経営拡大を支えるものであったが、それはまた、ひとたびつまずくと経営悪化を促進する大きな要因となった。それは次のようなことである。  昭和三十六年半ばまでの株価の急上昇をもたらした原因の一つが、株式の需給関係の逼迫であることは既に述べたが、そのことは投信の解約が増加したり、株式の発行が増加した場合、需給バランスを崩し、一転、株価が下落することを意味していた。三十六年七月の公定歩合の引き上げに始まる金融引締政策は、まさにそうした不安を現実のものとしたのである。東証ダウは七月十八日の一、八二九円七四銭をピークに、十月十九日には一、三一五円五五銭をつけ、その後は下降線を描きながら四十年にはついに一、一〇〇円の大台を割った。  株式投信による運用可能資金額は、昭和三十五年約二、二〇〇億円、また三十六年約三、一〇〇億円増加したが、表4に見るように、その後は急激に減少し三十七年約七六〇億円、三十八年は、わずか二四億円の増加にとどまっている。言うまでもなく解約、償還が三十六年以降増加したのに対し、三十七年以降、新規の設定が急激に落ち込んだためである。具体例をあげることによって、運用状況が如何に惨憺たる有様であったかを示そう。第一〇〇回山一投信は、同社に対する特融決定当日の四十年五月二十八日には、額面を割ること何と四〇パーセントの三、一五〇円にしか過ぎなかったのである。これは必ずしも例外ではない。各社の投信はのきなみ不振が続いていたのである。  他方、金融引き締めによって、それまでのように銀行借り入れに依存できなくなった企業は限界市場としての株式市場に殺到したから、株式数は急増した。たとえば昭和三十二年から三十五年の東証一部上場会社の有償増資額は八、五〇〇億円に過ぎなかったのに対し、三十六年から三十九年には、ほぼ二兆円にも達したのであった。  このような状況が株式の需給バランスを崩し、株価の下落を招き、さらには経営を悪化させたのである。 《証券会社の経営悪化》  しかし、当時、財務調査官だった加治木も後に指摘しているように、もし当時の証券会社が、いわゆるブローカー業務(客からの委託売買業務)に基礎を置いていれば、その財務体質が株式相場の変動でこれほど大きな影響を受けることはなかったであろう(注9)。もちろん、不況時には、株式売買高は減少するから、ブローカー業務を主として行っていた場合でも、財務体質の多少の悪化は避けられない。とはいえディーラー業務(自己売買業務)に会社の基礎を置いていた場合と、その被る影響は格段に異なったと考えられる。  当時、各証券会社とも、主としてその利益をディーラー業務に求めていた結果、株価の値下がりは直ちに手持有価証券の大幅な評価損を生み、財務体質の急速な悪化を招いたのである。  そうした証券会社の経営悪化に拍車をかけたのが、既に述べたように発売と同時に爆発的な人気を呼んだ公社債投信が、その後販売不振に陥ったことであった。公社債投信は株と預金の中間的商品という性格もあって、一時的にせよ大衆の銀行離れを促すほどの売れ行きであった。しかし、それは銀行側の激しい反発を招き、結局、証券側は利回り引き下げに応じざるを得なくなったのである。こうして公社債投信の大きなメリットは失われてしまった。他方、昭和三十六年七月からの公定歩合の引き上げ、金融引き締めによって、公社債投信を抱えていた各企業は、一斉に売りに出したから、大変である。当時、公社債の流通市場はなきに等しく、その結果、売りに出された公社債は、やむなく証券会社が買い取らざるを得なかったからである。手持資金がなければ、証券会社は借金をしても買い取らざるを得なくなった。公社債投信への人気は急速に冷え、証券会社の体質は一層弱体化した。  このような業績不振にもかかわらず、前述のように、昭和三十七、八年頃まで従業員、支店数等を増やすなど、証券会社は営業規模を拡大し続けたから、人件費をはじめとする一般費は増大した。こうして各社ともその業績をますます悪化させることになるのである。とりわけ昭和三十九年九月期、野村証券を除く大手三社(山一、日興、大和)がそろって赤字を計上したことは、世間の注目をひいた(注10)。これほどまでに大手各社の業績が悪化していることは証券業界、大蔵省、日銀を除いて充分には知られていなかったからである。  ここで重要なのは、これまでの記述から推測できるように、各社とも業績悪化の大きな原因が借入金の支払利息にあった点である。即ち営業収支ではなく金融収支がより問題だったのである。たとえば昭和三十九年九月期の全国証券会社の収支状況をみると、当期損益は二六四億円の赤字(経常収支は二四四億円の赤字)であり、一方、支払利息は四二一億円にのぼっていた。金利負担が如何に大きかったかが、明らかであろう。  しかし後に明らかとなるが、表5のもとになる証券会社が発表した数字の中には、相当程度手を加えられたものもあり、実態は想像以上に深刻であった。  しかし、こうした状況の下でも、各社は営業活動を続けざるを得なかったから、安易な資金調達手段である運用預りにこれまで以上に依存せざるを得なくなった。赤字転落が公となった昭和三十九年九月から山一事件の起こる一ヵ月前の四十年四月まで、運用預り残高はさらに四四二億円増えて二、九三二億円に達した。  以上の説明から明らかなように、経営の悪化は多かれ少なかれ証券界全体に見られたのである。それでは、なぜ大手四社の中で山一だけが日銀特融を受けざるを得なければならないほど、苦境に陥ったのであろうか。ここで山一証券固有の事情について触れよう。 2 山一式経営の弱点 《強気一本槍》  まず最初に指摘しなければならないのは、山一証券の売買方法が古い相場師的体質を持っていたことである。既によく知られているように、山一証券の大神一社長と山瀬正則株式部長のコンビは、当時兜町の教祖と呼ばれるほど、証券界の信望を集めていた。その商いの方法は一言でいえば、強気一本槍で売り方に対し買い上がるというものであった。実際、彼らは昭和二十五年の旭硝子の仕手戦に見られるように、数多くの勝利を収めてきたのである(注11)。その強気の姿勢は昭和三十七年の株価反落の過程でも変わることはなかった。その結果、しばらくは小型の品薄株を買い上がり、ある程度の成績を収めたものの、次第にその確率は低くなっていった。彼らの強気の方針とは裏腹に経済の実勢が悪化したからである。大神が述べた相場哲学即ち「ある合理的な条件を見出して、その企業の株を買い進む場合に、資金の限界を考えず故意に売り向って来ても、必ず最後には買い方の勝利となるものだ」(注12)という強気の姿勢は、もはや通用しなくなっていた。  そして、株価が急速に下降線をたどり、客が手持株を放してくるという状況で、彼らは苦境に立たされることになった。客が売りに出してきた株を市場に放出すれば、さらに株価は下がる。したがって山一証券は、やむを得ず手持するという事態となったのである(表6)。こうした商法の度合が強かったことこそが、他社に比較して山一が大幅な手持株の評価損を生み出す一つの要因となった。 《公開ブームの後に》  これに加えて証券界の名門としての歴史的経緯もあり、山一証券が幹事(幹事になればプレミアムが入る)、副幹事を務める上場企業の割合が業界最大であったことも大きな問題であった。こうした傾向は、昭和三十六年十月の二部市場(東証、大証、名証)の発足によって、一層顕著となった。たとえば東証二部上場企業数は発足当初三二五社に過ぎなかったが、折からの公開ブームによって、約一年後の三十七年十二月にはほぼ一・五倍、四六七社にまで増えている。そこで、山一が幹事、副幹事を務めた企業のシェアは何と四〇パーセントにも達していたのである(注13)。  別の資料によれば、山一が幹事を務め、昭和三十五年から三十七年にかけて上場した企業数は一部、二部合わせて一六〇社であり、野村の九九社、日興の九六社、大和の五四社を大きく引き離していた(注14)。こうした数字は如何に山一が新規上場企業の発掘に熱心だったかを示すものと言えよう。  言うまでもなく、山一が新規上場に力を入れた一つの理由は、公開値と市場値の差額分をプレミアムとして手に入れることができるという商売上の妙味にあった。たとえば公開値が一五〇円に決まったとすると、幹事証券会社は新規上場企業の株主から、一五〇円の値段でまとまった株数を引き受けることになる。当時、市場値が公開値の二・五倍から三倍にいきなりなるケースは稀ではなかったから、幹事を多く務めていた山一は、その恩恵を大いに受けたのである。  しかしこのことは、二部市場への人気が離散し、株価が下落すると、反対に山一の経営を圧迫する大きな要因になった。客が山一が幹事になっている企業の株を売れば、自社で抱えこんだり、逆にそれ以上の下押しを避けるために、買い向かわざるを得なかったからである。また山一が将来の上場を見越して大量に仕込んだ企業の株が、結局、陽の目を見なかったケースや、公開してはみたものの、その後の成果は思わしくないといったケースも少なくなかった。  たしかに山一が主幹事となって東証二部に上場していた株は、株価の低落とともに大きな評価損を生み出している。具体例をあげよう。富士、三菱をメインバンクとする松岡ビンクスは昭和三十七年五月二十九日、公開値三五〇円で売りに出された。この株はその後連日ストップ高を演じ、一週間後には六八〇円、さらには七月に九三〇円の高値をもつけたのである。しかしその後は一転下降線をたどり、山一が日銀特融を受ける直前の昭和四十年五月二十五日には、何と額面割れの四八円にまで下落した。高値からの値下がり率は実に九四・七パーセントである。松岡ビンクス同様、富士、三菱をメインバンクとし、山一を幹事とする三正製作の株式上場は、昭和三十七年九月二十一日であった。売り出し価格一八〇円のこの株は、一挙に四六九円の高値をつけ、三十八年三月には七五〇円の高値まで買われた。しかし、この株も特融直前の四十年五月二十八日には五一円まで下げている。九三・二パーセントの下落率である。日銀特融後、これら二つの株がさらに値を下げたことは言うまでもない。それぞれ三六円、四九円(昭和四十年七月十三日)をつけている(注15)。  このような傾向は、山一が幹事となっていた企業の株価全体に見られたのであり、例外ではなかった。ある統計によれば、山一が幹事を務めた一二三社のうち、昭和四十年七月十三日現在、高値から九〇パーセント以上値を下げたもの一八社、八〇パーセント以上二八社にものぼっている。こうして二部市場のブーム終了とともに、山一には膨大な評価損をかかえた株が残されたのである。  しかし、このような二部市場への対応と、それによる業績の悪化は、山一の営業姿勢にのみ帰せられるべきものではない。二部市場は一言でいえば、折からの高度成長の波にのって登場してきた中堅企業にとっての資金調達の場であった。特に二部市場発足の三ヵ月前には金融引き締めが行われたから、各企業とも長期資金調達を証券市場に求めたのである。同時に繰り返し述べるように銀行を初めとする金融機関も企業に対する貸付金の回収ならびに顧客の安定という観点から、中堅企業の株式公開を強く支持した。  ところで、このような公開・増資ブームが証券不況に拍車を掛けたことからすれば、それを慫慂した銀行の責任が問われるのは自然の成行きであった。後に、山一救済の過程で銀行の果した役割が問題にされるが、以上のような銀行と企業との株式公開、増資をめぐる関係も当然に指摘されていた。  いずれにせよ公開及び増資は、新規上場企業にも、また幹事役の証券会社にも、さらには融資する側の金融機関にとっても歓迎すべきものであった。その意味では、山一が幹事を務めた多くの新規上場企業のメインバンクが、富士、三菱両行であったことは記憶されてよい。この両行は日本興業銀行とともに、山一の経営悪化の過程で重要な役割を演ずることになる。三菱、富士はメインバンクとして山一問題にどのように取り組んだのであろうか。 《裏目に出た拡大路線》  極めて積極的な営業政策を裏づけるかのように、山一はその営業規模を昭和三十三年から三十七年にかけて急速に拡大した。たとえば、表7に見るように昭和三十七年の社員数は三十三年の三倍、九、二二三人の規模に達し、業績不振が明らかになった三十九年でも八、〇〇〇人を超えていた。他方、営業所の数も三十七年には三十三年より四一店増えて一一五店を数えている。このような営業規模の拡大は山一のみに見られたわけではない。しかし証券業界全体の数字と比べてみても、山一の伸び率は驚異的であった。昭和三十三年から三十七年の四年間に山一証券一社で、業界全体の増加分の一割強を占める六、三〇〇名を採用しており、それは人件費を含む一般管理費の膨張として経営の大きな圧迫要因となった。  加えて、しばしば指摘されるように経営が不振に陥った昭和三十九年に至っても、山一は評価損の生じた株を子会社に移動させる等の粉飾を行って、表面を繕い、経営改善の努力を怠っていた。強気の営業方針は、一層、山一を面子(メンツ)の維持へと向かわせたかに見える。  さらに、業界トップの座を争っていた野村とは対照的に、山一の大神—山瀬体制が合理性よりは義理人情を重んじたことも、経営の改善が急務とされる局面では大きなマイナスとなった。大神の面倒見のよさは、かえって人員削減等合理化への道を妨げる結果となったのである。実際、山一が営業規模の縮小に踏み切るのは他社よりも大幅に遅れた。  そして、最後に最も重要な点として記憶されなければならないのは、山一の場合、資金調達の手段としての運用預りに対する依存度が非常に高かったことである。数字を見ると昭和三十七年九月には三五一億円であったものが、四十年三月末には実に五五五億円にも増加している。そのシェアは運用一九社中の約二〇パーセント(四大証券シェアは六七パーセント)にも達していた。 《株式市場の暗転》  以上から明らかなように、昭和三十年代後半、株式投信・公社債投信の不調、増資ラッシュによる株式需給のアンバランスは、政府の金融引き締め政策、ケネディ・ショックとも重なって株価の急激な下落を招き、証券各社はその結果、経営上、大きな痛手を受けることになった。同時に昭和三十六年夏までの証券ブームに各社とも思いを馳せ、経営合理化の着手は遅れたから、その業容は悪化するばかりであった。他方、証券金融の不整備から、資金調達の相当部分を運用預りに委ねていたため、各社とも業績の悪化が公となり、客による運用預りの引き出し、投資信託、累積投資の解約が続出することを恐れていた。  このような一般的な状況の中で、山一はそれまでの強気の営業方針を取り続けた結果、他社に比較し、その被った打撃の度合は大きく、なお一層、運用預りへの依存度を高めていった。つまり、証券界全体の不況と山一自身の抱える問題とが重なりあって、山一証券の業績は急速に悪化したのである。もし山一問題が山一固有の原因で起こったのであれば、事は簡単であったと言ってよい。しかし証券界全体の体質と関わりあっていたことは、事態の解決を一層困難にさせた。山一の経営難は山一のみならず、証券各社に対する運用預り等の解約殺到の契機となる恐れがあったからである。  さらに、これは金融債の発行銀行である興銀をはじめとする長信三行への不信につながる可能性もあった。  加治木が報道管制を敷いてまで、山一の経営悪化の実態を明らかにするのを拒んだのも、まさにその点を懸念したからにほかならなかった。そして、こうした考え方は、山一の業績悪化を知った関係者にほぼ一致して見られたのである。 第二章 苦悩——深刻化する証券不況 1 動き始めた大蔵省 《証券行政の甘さ》  証券業界は既に述べたような形で、昭和三十六年七月を境に明暗を分けることになる。証券業界のこのような急成長に続く長期の不況は、大蔵省の証券行政の強化・充実をもたらすことになった。しかし、そこまでの道のりは決して平坦なものではなかった。  昭和三十二年の神武景気、三十四〜三十六年の岩戸景気によって、株価(年平均)は五三五円から一、五四八円まで棒高を演じ、出来高も一二〇億株から四八三億株へと膨らんでいる。この間、行政側の対応はどのようなものであっただろうか。  まず業界に対する監督、指導の根拠となった証券取引法(以下では旧証取法と記す)の性格について述べなければならない。実は、この旧証取法は登録制、即ち一定の要件を備えた業者は自動的に営業を開始できるという規則になっていた。こうしたこともあって、昭和三十年代はじめからの証券ブームにおいても、その営業活動について大蔵省は原則的に証券業者の自主性に任せるという考え方でのぞんだ(注1)。しかし、株の大衆化に伴い、客と業者との間にトラブルが増えたために、適切な投資勧誘を行うよう業者を指導し、財務体質の悪化あるいは各種法令違反について、悪質な場合は営業停止、登録取り消しを行うことにしたのである。  当時の証券業界のマナーの悪さを伝えるエピソードは枚挙に暇がないが、たとえば、「営業マンは客の屍を乗り越えて進め」とか、「人の金を自分の金と思え」ということが、業界内で平気で口にされていたという(注2)。実際、「必ず上がります」という、現在では、禁止されている勧誘方法は大衆投資家の悲劇を増やしていた。儲かれば客も自殺はしないのであり、したがって客の屍を乗り越える必要もなかった。また保護預りとして客から預かった株券を担保とし資金調達を図ろうとしたケースもないわけではなかった(注3)。大手四社を中心とする証券業界の熾烈な競争は、結果的にこのような証券営業マンのマナーの悪さを助長したのであった。  本来、このような業界の姿勢を正すためにこそ、前述した取り締り中心の行政、即ち警察行政的な色彩の濃い旧証取法は効果的に用いられるべきであった。ところが、そうした状況には全くなかった。旧証取法によって大蔵省は各業者への検査を行い、法令違反があると認められた業者に対しては審問を行い、営業停止、登録取り消し処分を行うことになっていた。しかし、株価、出来高とも急上昇をとげていた昭和三十四年から三十六年にかけて、審問が行われた件数は七〇、五九、三七と減少しているのである(注4)。  昭和三十七年七月、大蔵省の理財局証券部証券第二課(現・証券局業務課)課長となった坂野常和(後に証券局長、現・日本化薬社長)が述べるように、それまでの証券担当者が、事態の深刻さを充分に認識していたとはとても思えない状況であった(注5)。  もとより行政側が全く手を打たなかったわけではない。昭和三十四年四月には、理財局証券課を第一課とし、第二課を新設した。さらに専任の財務調査官を置き、坂野が第二課長に任命される直前の昭和三十七年五月には証券部が設置された。このような組織の拡充に伴い、大蔵省は証券会社の経営基盤の強化、安定化、業務の拡大、投資勧誘の適正化、小口投資家の育成などを試みている。たとえば、昭和三十四年から三十五年にかけて、証券会社の最低資本金の引き上げ、本業(証券会社)と投信委託会社の分離、大手一四社に対する累積投資業務の承認、広告宣伝に関する通達、運用預り業務に関する通達、店舗新設に関する規制といった一連の措置を講じているのが、その具体例である(注6)。  しかし、当時の大蔵省証券担当者自身も回想するように、こうした規制が徹底を欠いていたことは事実であり(注7)、そこに省内ですら坂野のような厳しい批判が生まれる余地があった。  なぜ、このような微温的な行政が続いたのであろうか。あまりに急速な証券界の発展に、行政側が充分に対応し切れなかったことはもちろんであるが、別の理由として昭和三十五年に登場した池田内閣の証券界に対する姿勢が考えられる。池田は積極経済政策を進める上で、それまでの内閣より一層証券市場の機能を重視した。たしかに間接金融に偏重していた金融システムを、資本市場の育成を図ることにより、直接金融の比率を高めることには大いに意味があった。  しかし池田自身、毎日の株価の高低に一喜一憂するほど株好きであったとなれば話は些か異なってくる。株式市況こそが日本経済のダイナミクスを表すものと信じて疑わなかった池田には、市場の需給関係によってではなく、人為的に操作された株価の形成であっても、それが上昇している限り許容できるものであっただろう。  このような池田と株の結びつきを示すエピソードは数多いが、有名なのは、昭和三十八年十一月、故ケネディ・アメリカ大統領の葬儀列席のために訪米した際の一件である。池田はその夏から急落しつつあった株価を気にして、その動向を留守を預かる黒金官房長官に問い合せてきた。このことを、黒金はうっかり新聞記者に洩らしてしまったのである。当時、池田の秘書官だった伊藤昌哉は、このことが報道されることによって、国民の池田離れが急速に進むのではないかと懸念している。それほど池田は株価に執着した(注8)。  人脈的にみても、池田あるいはその派閥である宏池会は証券業界に近い。京都大学時代、同窓であった野村証券の奥村綱雄(昭和三十八年当時会長)とはことに親しく、池田のいわゆる不遇時代(昭和二十七年の通産大臣辞任から三十一年の石橋内閣の大蔵大臣就任まで)に、熱海の野村別邸を提供するなど、物心両面で援助を続けたほどだったといわれる(注9)。また宮沢喜一と並んで池田派の若手ホープであった大平正芳は、岳父が創設した三木証券の専務を務めていた時期がある(注10)。  このようなことから、従来、さほど政界と人脈的なつながりを有していなかった証券業界は池田に大いに期待し、実際、昭和三十年頃から三十六、七年にかけ、業界の政治献金も池田に集中することになった(注11)。しかし正確を期すためにつけ加えれば、池田が証券界の要望通りにその政策を進めたとは必ずしも言えない。後述するように、大蔵省に証券局の設置をみたのは池田の首相在任期間中だが、業界が繰り返し主張していた配当分離課税は、その間ついに実現に至らなかった。 《坂野通達の波紋》  以上のように、池田と証券界は極めて特色のある関係であり、前述のケネディ葬儀の際のエピソードなどは、大蔵省では知らぬ者がいないほどであった。このような状況の下で、はたして官僚が強力な行政指導を通じて、場合によっては営業の廃止を命じるなどということが可能であっただろうか。元来、現状維持を望む傾向が強い官僚が、外科手術的な方向転換に指導力を発揮することは、そもそも無理だったとも言えよう。その中で坂野常和は異色の官僚であった。昭和三十七年七月に証券第二課課長に就任すると、直ちに証券会社支店の新規開設を停止した。表2から明らかなように昭和三十七年に支店増設のスピードがようやく弱まり、翌年以降減少をはじめたのは、部分的にせよ、彼の指導の結果であった。同時に坂野は借入金の制限、自己売買の規模の制限を打ち出している。当然のことながら、証券業界は反発し、それまで証券行政を担当してきた理財局の官僚さえも驚きと同時に困惑の色を隠さなかった(注12)。  もちろん坂野がこのような諸策を打ち出したのは、単にマナーの悪さを改めさせるという消極的な意味だけではなく、その裏で証券各社の経営が相当悪化していることに気がついたからであった。坂野はそれまでの一連の諸策が充分な効果をもたらしていないと考え、それらを集大成した形で昭和三十八年七月五日、いわゆる坂野通達と呼ばれる「証券業者の財務管理等について」という財務官通達を出している。通達の内容は、自己資本に対する負債比率、固定比率、有価証券保有比率について制限を設けるというものであり、特に最も問題であった運用預りについては、純資産の三倍を限度とし、二倍が望ましいと述べていた。どのように考えても証券業界には厳しい内容であった。とりわけ有力な資金調達の手段である運用預りの規制について業界は猛反発し、坂野個人も「月夜の晩だけではない」など生命の危険さえ感じるほどの脅迫をしばしば受けたという。  業界の不安もある意味では当然であった。この頃になると、大手四社を中心にいわゆる運用一九社は、資金調達の相当部分を運用預りによって手にした金融債を担保とするコール資金に依存する状況にあったからである。昭和三十七年の全国証券業者の借入金状況でみても、コールの取り入れは全体の五四・七パーセント、実に二、一六四億円にも達している(注13)。したがって、坂野通達の内容を当然のことと受けとめる業者がいる一方、財務体質の悪いところの中には、手持株を手放さなければならないところもでてきたのであった。坂野としては、そのようなショック療法による一時的な株価低落は織り込み済みであり、通達が完全に履行されれば、財務体質は改善し、結果的に株価は反発すると見ていた(注14)。  坂野の目論見を大きく狂わせることになったのは、通達発表の僅か二週間後の七月十八日に、ケネディ大統領がアメリカの対外投資抑制を求めて利子平衡税の実施を明らかにしたことであった。これによって翌日の東証ダウは六四円四一銭安と一日の下げ幅としては開所以来の記録となった。利子平衡税の発表がこれほど株価に響いたのは、当時の日本経済が貿易収支の赤字を資本収支の黒字即ち、外資の導入によって補っていたからである。  ケネディ・ショックと通達は何の関係もなかったが、証券業界では両者を結びつけ、この暴落に対し、坂野への感情的反発を強めることになった。証券業界がその本音ともいうべき裏面史を書き記した『証券外史』は、坂野通達、ケネディ・ショック、ケネディ暗殺による下げを昭和三十八年の三つのショック安と位置づけ「環境、地合いの悪いところへ、この連発ショックはこたえた。証券恐慌という地獄の入口ともいってよかろう」と記している(注15)。  こうした証券界の反発とケネディ・ショックによって坂野通達の履行は、しばらくの間棚ざらしとなる。それは大蔵省内でも坂野通達への批判が強かったことも関連していた。池田首相が歴代総理に比較して、株価の騰落に強い関心を持ち続けていたことは既に述べたが、おそらく池田の指示もあったのであろう、田中大蔵大臣は、その通達を弾力的に運用するよう事務当局に指示している。田中自身も坂野の「走り過ぎ」を些か当惑の目で見ていたことは、昭和三十九年三月六日の衆議院大蔵委員会での発言からうかがわれる。 「ケネディ・ショックが起きたか起きそうなときにやった(通達=筆者注)ということから言うと、時期が適当でなかったのじゃないかということは、私も現在そのとおり考えております。やはりいいことでも時を選んで十分な慎重な配慮の上になされなければならぬことは、言うをまたないわけであります。私もその問題については、その当時はあまり——まだ一年目でありましたし、事務当局を重んじ過ぎたということもあるようであります。(中略)でありますから、通達は出しましたけれども昨年の末ごろまで(昭和三十八年末まで=筆者注)約半年にわたって、この通達の趣旨と精神は十分理解してもらいたいと思いますが、これが運用については、前向きで弾力的な方法をとろうということをしいて私から事務当局に申しつけて、これが昨年中期以後における株式業界の低迷の一つの大きなものだったとは考えておりませんけれども、まあ時期、タイミングはあまりうまくなかったことは、みずから認めております(後略)」(傍点筆者)(注16)  このようにして、証券界の恐れた坂野通達の実施は事実上ストップをかけられたのである。他方、株価は一向に上昇の気配を見せず、したがって各社の財務内容はさらに悪化した。営業マンのモラルにも改善の気配は見えなかった。 《証券界への指導強化》  昭和三十九年三月、大蔵省は、全国証券会社五五九社の三十八年度決算が各社の金繰りの一層の苦しさを示しているとして、借入金増加の原因となっている手持株式、債券、不動産の処分を進めるように、強力に行政指導を行うことを明らかにした(注17)。同じころ大蔵省はまた、昭和三十七年十一月から三十八年十一月までの証券事故の実態を発表し、その中で事故件数二八一件、被害金額は一四億六、五〇〇万円、平均五二〇万円であることを明らかにしていた。事故内容の主なものは、客から預った証券の横領、客から預った投資資金の横領、証券会社の社員、外務員が勝手に投機をして会社に損害を与えたもの等多岐にわたっていた(注18)。  こうした実態の把握に基づいて漸く、大蔵省は業者への指導を強めていくことになるが、その対策の中には、なぜこの時期まで放置されてきたのか、首をかしげたくなるようなものも含まれていた。たとえば、ここではじめて全国証券業協会連合会に全国の不良外務員のブラック・リストを備え、新たに外務員として登録する際は、このリストと照合する、あるいは取引客の印鑑は取引開始の際に登録したものに限って通用させる、さらには各協会に苦情相談室を設ける等である。  このように昭和三十七年七月、坂野が証券第二課長に就任以来講じてきた諸策も、業者数、店舗数の減少を除いて充分な効果をあげてはいなかった。その業者数の減少も、登録取り消しの件数増、登録基準の引き上げ(元引き受けの場合、資本金を従来の二倍の二億円に)というよりはむしろ長期にわたる株価不振によって、証券業の経営に新規参入する魅力が失われたことによっていた。つまり坂野一人の手には負えないほど証券業界の抱えていた問題は大きく、また複雑だったのである。  当時の証券行政を組織の整備状況からみてみると、昭和三十四年五月、折からの投信ブームを背景に理財局に証券担当の財務調査官(審議官)が置かれ、三十七年五月には証券第一課、第二課が証券部を構成していた。そして昭和三十八年五月から加治木俊道が証券部長に就任している。つまり、まだこの時点では、理財局内で証券行政は行われていたのである。ところが、前述のような株価の低迷、証券業界の未成熟から生じた混乱が重なるにつれて、大蔵省内外で証券局を設置すべきという声が急速に高まっていった。証券業界のマナーの悪さも、その一因は大蔵省が証券行政に本腰を入れていないからだ、というのである。  しかし、肝心の大蔵省証券担当官僚の中でも、証券部長の加治木は証券局独立構想には必ずしも賛成していなかった。彼の考え方は要するに、金融局というような大きな局の中に証券部、銀行部があってしかるべきで、証券局だけで証券行政を行おうとしても、間接金融に偏重している実態にはそぐわないというものであった。「下手に独立するよりむしろ理財局証券部の方が、核の傘じゃないけれども、大きな傘のなかにいるということでよい」というのである(注19)。加えて加治木としては登録制即ち、取締中心の警察行政的状況のままで証券局をつくることは、かえって大蔵省を窮地に追いつめることになると考えていた。つまり登録制の下で、証券業界のマナーを正すことは極めて困難であり、一方、警察行政的だからといって大蔵省が責任を回避できるかといえば、それも日本の風土からして難しい。銀行行政ほど体制が整備されていないにもかかわらず、責任はとらなければならない。これではかなわない。これが加治木の率直な考えであった。具体的には、証券業の登録制から免許制への切り替えを骨子とした証券取引法の改正が行われなければ、証券局を設置したところで大した意味はない、というものであった。  このような免許制への移行という加治木の考え方は、後述するように、証券部内の支持を充分に得たものではなかったが、実際には昭和三十九年六月の証券局の独立と並行する形で話が煮つめられていくことになる。それは田中大蔵大臣の直接の指示の結果であった。昭和三十九年四月八日、田中は衆議院大蔵委員会で、社会党の堀昌雄の質問に答え、大蔵省設置法改正案が成立して証券局が新設されたら免許制を積極的に考えたい、と述べたのである(注20)。驚いたのは事務当局であった。特に何も知らされていなかった下僚は、たとえば、証券第二課課長補佐だった宮下鉄巳(現・関西国際空港専務)は、現行法即ち登録制の手直しによって、この困難を乗り切れると信じていただけに、大変慌てたという。  こうした田中の発言は、堀の質問、つまり免許制必要論に単に相づちを打つ形で、偶然になされたのであろうか。その当時の状況から考えて、そうした解釈は必ずしも正しくはない。なぜなら後述するように、加治木は昭和三十九年一月に発足する日本共同証券設立問題の最終段階で、田中と協議を重ねているからである。そのような場で証券局独立構想、あるいは登録制から免許制への切り替え問題が、話し合われたと推測することは決して不自然ではない。田中自身、坂野通達の一件以来、証券部の業務に対し個人的に注意を払っていたことも、そうした解釈を裏づけるものであろう。いずれにせよ、この免許制検討の発言は加治木の要望と田中の意向が一致した結果だった、と思われる。 2 証取法改正の舞台裏 《大蔵省証券局の誕生》  昭和三十九年六月、証券局をつくってしっかりすべきだという田中の意向を反映して、証券局が誕生した(注21)。初代局長には広島国税局局長時代、池田首相とつながりのできた松井直行(後に大阪証券取引所理事長)が就任し、そして財務調査官には加治木、総務課長には坂野と、旧証券部が横すべりし、加治木が、その後、重要な役割をになうことになる安川七郎(後に国税庁長官、現・日本債券信用銀行名誉顧問)を銀行局から引き抜き、新たに業務課長に据えた。二人は昭和二十二年前後に銀行課で、金融緊急措置令や金融機関再建整備法などの企画立案に携った経験がある。そして、倒産しかけていた中小金融機関の救済にも従事している。既に証券業界の窮状をよく把握し、証取法の改正も必要になるかもしれないとみていた加治木は、安川の協力が是非必要だったのである。しかも安川の下で働くことになった課長補佐の水野繁(後に証券局長、国税庁長官)も銀行行政を経験していたから、奇しくも新設の証券局に、管理色の濃い銀行行政に精通し、また信用秩序に問題意識の強い三人の人物が配置されたのである。このことは、その後の証券行政に強い影響を与えることになる。  ところで、業務課長に就任した安川は、証券界の実態を知らされて、大きなショックを受けたらしい。あるところで、次のように書いている。 「発令後に当時の証券業の実態を知らされるに及んで、私の大蔵省の生活もこれで終るかも知れぬと感じたのである。それは、行政上の始末は永年の経験で何とか切りぬける自信めいたものはあったのだが、恐慌的な事態の場合には当局の担当には責任を賭けた決断が必要であり、同時に精神的な重圧も加わった生理的な体力の問題があるからである。思い切ってやってみようという功名心と、死ぬかも知れないという不安が交錯した」(注22)  学生時代から金融論や景気変動論に一番興味を感じ、とりわけ信用恐慌や銀行破綻の問題についてひもとく機会の多かった安川は、並み並みならぬ意欲で、この問題に取り組んだようである。安川に仕えた水野は、着任直後に安川から、国会の了承を得ずに日銀から金を引き出す方法はないかと問われ、後日、安川の意図を見抜けないままに、日銀法第二五条の存在を伝えたことを、いまでも鮮明に記憶しているという。  信用機構の再建整備から大蔵省生活を始めた安川の勘では、この証券不況を乗り切るには、とても尋常な手段では困難であった。問題は極めて複雑であったからである。つまり、問題は、赤字の増加した証券会社がその金繰りのためにコールを使い、しかもその担保には運用預りによって客から預った金融債をあてているところにあった。したがって株価の低落が起これば、証券会社の赤字と、金融梗塞と、さらには客による運用預り等の解約が循環的に拡大し、結果的に証券界の先行不安感が一般投資家に広がるおそれがあった。ということは、証券会社の赤字棚上げ対策が論理的には優先すべきであるにせよ、それ自身が投資家の不信を深めることにもなりかねず、したがって抜本的な対策は講じられないのであった。  こうしたジレンマに立たされた安川としては、昭和二年の金融恐慌の二の舞だけは絶対に避けたかった。安川の理解では、それは直接的には、片岡蔵相の渡辺銀行に関する議会答弁、その背後にある事務当局の情報の取り扱いの不手際によって生じたものであったが、より根本的な原因としては、心理的要因が支配する信用機構の問題が政治的な駆け引きによって議論され、また報道機関が不用意に報じた結果だと考えていた。安川は、その後こうした点を念頭に、日銀法第二五条発動の可能性も胸に秘めながら、証券対策を講じることになる。以下では、安川を含めた山一事件の関係者の多くが思いを馳せた、昭和二年の金融恐慌を振り返ってみよう(注23)。 《昭和二年の金融恐慌》  大正十五(一九二六)年、大蔵大臣に就任した片岡直温は直ちに金解禁を決めるが、同時に銀行業界の経営内容の悪さを驚きをもって知った彼は、銀行の整理、統合を決意する。これを放置すれば金解禁後に予想される不況時に破綻を生ずることは明らかであると考えたからである。そして、いわゆる震災手形法案を議会に提出した。関東大震災震災地振り出し手形のうち支払い不能分を公債で穴埋めするというこの法案は、実質的に台湾銀行をはじめとする不良銀行あるいは不良企業の救済政策であった。  当初、議会の論戦は穏やかであったが、次第に政党間の利害も絡んで政治問題化するに至った。ことに与党憲政会が野党政友本党と提携した結果、最大野党の政友会は猛反発し、この法案をとらえて政権揺さぶりを図ることになった。震災手形の発行者とその所有銀行を発表するよう政府に迫ったのである。政府も、法案の審議を促す意味でも、ある程度具体的事実を明らかにせざるを得なかったから、一般大衆も報道等を通じてその実態を知るに至った。  こうして多額の震災手形を抱える渡辺銀行等に対し緩慢な取り付けが始まったのである。その渡辺銀行は三月十四日、手形決済に窮することになった。実際にはこの日、資金調達はギリギリで間に合い支払いは行われたが、それより先事務当局から決済不能の可能性大との報告を受けた片岡蔵相は、渡辺銀行は既に決済不能に陥ったと判断し、同時に遅れている震災手形法案の審議促進を狙って「渡辺銀行は取付に遭い破綻云々」の答弁を行ったのである。これが予想外の波紋を投げかけることになり、渡辺銀行は翌三月十五日から休業することになった。  震災手形法案反対の国民大会が開かれる中、不安を感じた一般預金者は他行に対しても引き出しのため殺到したので、東京周辺の中小銀行の大半は、一週間のうちに取り付けにあうことになった。その後、法案が貴族院を通過して取り付けはいったん収まったかに見えたが、三月二十四日、台湾銀行が同行所有の震災手形の大半を占める鈴木商店に対し、新規貸し出しの停止を決めた結果、今度は金融機関の台湾銀行に対するコール回収が殺到した。こうして台湾銀行の経営は行き詰まることになる。  若槻内閣はこれに対し、同行救済を日銀の貸し出しによって進めることを決め、緊急勅令を立案して枢密院に諮詢した。しかし、前述したような憲政会対政友会の対立が絡んだために勅令案は否決され、結局、若槻内閣は四月十七日総辞職し、一方、台湾銀行は休業のやむなきに至ったのである。こうして一時収まったかにみえた取り付けは、前回を上回る規模でしかも全国的に広がることになった。支払い停止の銀行が続出し、日銀は手元の紙幣を全国の銀行に貸し付けたものの、ついに四月二十一日には底をつく状態となった。  事態の解決は田中義一政友会内閣の誕生を待たねばならなかった。高橋是清蔵相は緊急勅令によって三週間のモラトリアム(五〇〇円以上の支払い、三週間引き延ばし)を実施し、他方、この間、政府は臨時議会を召集して、日本銀行に五億円以上の損失保障を約束して、金融機関救済のための特別融資を行う一方、台湾銀行に対しても二億円の損失保障を行うという法案を成立させた。この結果、モラトリアム明けの五月十三日には、漸く取り付けは収まりを見せ、長期にわたった金融恐慌はピリオドを打つことになるのである。  この歴史的事実の中にはいくつかのポイントが含まれていた。とりわけ昭和四十年当時の大蔵官僚の立場に立ってみれば次の点が指摘できた。第一は、人心の不安を招くおそれのある信用機構に関連する法案の国会提出には、慎重の上にも慎重を期さなければいけないということである。問題が政党間の対立を引き起こす可能性がないか、あるいは駆け引きの道具に供される恐れがないかが、法案を国会審議に委ねる前に充分に検討されなければならない。第二に、法案が仮に国会に提出された場合に、報道機関がそれをどのように取り上げるか、センセーショナルに扱い、結果的に取り付けなどを引き起こす恐れがないかが、注意深く観察されなければならない。この点については、法案の国会提出前の官僚による政府案作成の過程でもあてはまる。第三には、いうまでもなく官僚自身の対応ぶりである。政府案作成の過程では第二点と同様な理由で機密の保持が求められ、万が一取り付けが発生した場合には、逡巡することなく直ちに、その広がりを防ぐための処置がとられなければならない。そのためには、現行の法体制の下では、どのような措置が可能なのか、あらゆる角度から検討される必要がある。  以上のような示唆を含んだ金融恐慌を、加治木、安川、坂野ら大蔵省の実務担当者は実際に経験していたわけではなかったが、省内では代々語りつがれてきた話であった。したがって彼らが証券対策を講じる際に、まっ先に、金融恐慌の際の問題点を思い浮かべたのは極めて自然なことであった。後に述べるように、山一救済の過程で重要な役割を演じることになる何人かの政策決定者達の中には、実際、金融恐慌の取り付けを目のあたりにした人々もいた。こうした事実は、問題解決にどのような影響を与えたのであろうか。 《経営体質の強化と証取法改正の動き》  話を昭和三十九年六月に戻そう。安川が証券局業務課長に就任した時、既に述べたように業界の状況は手の施しようがないほどに悪化していた。それに対する最も適切な方法は大蔵省が充分な権限をもって戦争直後、銀行に対して行ったのと同様、証券会社整備法案を作成し、業界の再建整備を行うことであった。  しかし、この方法は二つの点で難しかった。一つには個々の会社を一つずつ再建整備していくには、関係銀行の協力が必要となり、それは事務的にも極めて繁雑になる可能性があるということであった。それ以上に問題だったのは、次のような点であった。即ち、金融恐慌の最大の教訓は、前述のように信用機構の問題が政治的に取り扱われてはならないこと及びマスコミへの漏洩を如何に防ぐかということであった。党利党略の材料になる可能性があり、マスコミの格好の材料となる再建整備法案の国会提出には、彼としても慎重にならざるを得なかったのである。  こうして当初は、後述するような免許制に対する反対論が局内で根強かったこととも相まって、証券会社の赤字処理は行政指導という形で密かに進めることとした。しかし表に出さないで行う赤字処理では所詮大したことはできない。結局、安川は赤字処理を地道に進めることも重要だが、悪循環の環を絶ち切ることが必要という判断に立つことになった(注24)。それは既に安川が業務課長に就任した際に議論となっていた証取法の改正即ち免許制への移行と、この赤字対策を絡めるというものであった。  最終的に国会に提出された改正案では、あらかじめ免許制度を導入しておいて、約三年の間で免許の基準に達するように証券会社の再建整備を行い、その間に新しい免許制度に合格しないような財務体質の悪い会社は整理するか、合併によって経営基盤の強化を図るとしていた。この法律案は表向き免許制の形をとってはいたが、真の狙いは証券会社再建整備法と同様の効果を期待するものといってよかった。最大のポイントは免許制への移行期間を置いているところにあった。即ち、その間はこれまで同様登録制が続いているから、それをフルに活用して財務体質の悪い会社は登録取り消しを行い、証券界全体を身軽にするというのであった(注25)。  この登録制から免許制への切り替えは、またもう一つの狙いを持っていた。即ちそうすることによって一般投資家に対し、証券界の背後には信用の基礎としての国が存在することの安心感を与え、努力する証券業者には喪失しつつある経営の自信を取り戻させ、行政が責任の一端を制度上負わざるを得ないようにすることができるというのであった(注26)。  これは証券業の育成に政府が責任を持つという点で、それまでの登録制と大きく異なっていた。即ち何度も述べているように、登録制では行政は証券会社が赤字になれば取り消すという形でしか原則的に関与せず、また廃業の結果生じる客の損害は、客と証券業界双方の自己責任の問題としてとらえられていた。 《免許制をめざす》  坂野総務課長を中心とする旧証券部組の多くは引き続きこのような登録制を支持し、それを部分的に改めることによって対処しようとしていたから、加治木及び証券局発足時に新たに加わった安川、水野らの免許制推進派と、大きく対立することになった。最終的には坂野らも国会に提出された改正案に同調することになるが、それは坂野のこれまでの主張がある程度取り入れられたからであった。証券会社の実態をこの二年間つぶさに観察してきた坂野からすれば、免許制への移行は加治木、安川らが考えるほどには容易には思われなかった。免許制に移行するにしても、現在登録済みの業者の既得権をむやみやたらに奪うわけにはいかず、結局、かなりのものは免許制の下で残ることになる。そうなればツケは大蔵省にまわってくるが、それでもよいのかというのであった。  両者の言い分はそれぞれもっともであったから、なかなか調整はつかなかった。しかし、次第に加治木、安川らの免許制を基本に置きつつ、その中に坂野の手になるこれまでの財務体質等に関する諸通達の内容を盛り込む形で調整が図られつつあった。加えて、田中大蔵大臣の免許制支持が明らかとなって、もはや免許制への移行は動かし難いことになった。田中は、本来、車の両輪であるべき銀行と証券が、一方は免許制、片一方は登録制では不釣合と述べていたからである。  安川は既に、最終的な局内調整を経ないまま八月には、新証取法の逐条を書き始めている。このままでは次期通常国会への提出が間に合わないと考えたからである。  安川のメモによれば昭和三十九年八月二十九日には、最終的に国会に提出された法案、即ち「普通の業法の体裁をとりながら再建整備の効果を埋め込んである案」が省議で決まっている(注27)。  免許制導入に際し、安川らは、財務体質の健全化、人的構成の改善、営業態度の改善を重視することにした。そのうち最も重要だったのは第一の財務体質に係わる部分であり、自己売買業務(ディーラー業務)への依存からの脱却、即ち手数料収入を中心とした財務体質への転換であった。自己売買は、顧客との委託売買業務(ブローカー業務)の円滑な遂行または市場機能維持に必要な限度に限るとした。そして銀行の預金業務と実質的に差のない運用預りは免許制移行と同時に禁止し、それまでに既存の契約は整理縮小することとした。さらには証券会社の系列会社が運営する結果、その癒着の弊害が指摘されていた投資信託業務は、運営上の境界を明確にすることとするなどとした(注28)。  ここで一つ大きな疑問が残る。それは安川が最も懸念していた、再建整備法案の国会提出によって生じる可能性の高い、証券各社の経営実態の露見は、免許制への移行を柱とした証取法改正の国会審議においても起こりうる事態ではなかったのかということである。その点について、安川は不安を抱かなかったのであろうか。安川は次のように述べている。 「たとえ、証取法立法の段階で赤字破綻と立法審議が交錯することが、昭和二年三月における銀行法審議のときと相似た状況になる危険を冒してもと、腹を決めた」(注29)  つまり彼らは再建整備法によった場合と同様、取り付けという「爆弾」を抱えたままで証取法改正の審議に臨むことを覚悟したのである。しかし、手を打たないわけではなかった。時計の針を先に進めることになるが、その年(昭和三十九年)の十二月初めには、安川は松井証券局長とともに法案説明要領を作って関係方面への根回しを始めているからである(注30)。それはまさに国会審議の過程で野党議員が、この法案を政府攻撃の材料とし、結果的に業界の実態が明らかになることを避けようとしたからであった。  しかしこの頃、既に関係者の間では、具体的に〇〇証券は危ないということがささやかれており、その筆頭として山一証券があげられていた。朝日新聞(昭和三十九年十月十六日)は、金融界、財界では証券市場対策の一環として、個々の証券会社の立て直しに乗り出すことになり、まず不振の目立っている山一証券について、興銀、富士、三菱の三行が再建案の検討を始めたと報じていた。安川らの懸念していた危機は一歩一歩近づいているかのように思えた。  次節では大蔵省内の動きから目を離し、証券不況と銀行との関係について述べよう。 3 大蔵省・日銀の対立——「共同証券」めぐる思惑 《株式棚上げ機関の必要性》  自らも上場企業の株を所有し、それらの主力銀行としての立場にあり、その一方で融資という形で証券業界に深い係り合いを持ってきた銀行は、証券業界の苦境にどのように対処してきたのであろうか。  既に述べたように、当時、証券不況の大きな原因として株の供給過剰が指摘されていたが、日本興業銀行、三菱銀行では、昭和三十八年夏前から、この問題について真剣に検討を始めていた。中山素平興銀頭取(現・同行特別顧問)は、この異常事態に手を打つには、大規模な株式の棚上げ機関が是非とも必要との結論に達するが、興銀内部では早くから菅谷隆介企画室長(後に新日本証券会長)が中心となり、投資信託からの放出株を吸収する新機関設立の必要性を中山に進言していた。そうすることによって市場の需給関係が調整され、事業会社の増資も容易になるであろうという目論見もあった。中山らは戦前、同じような目的を持った日本協同証券の設立に参加した伊藤謙二・元興銀総裁に意見を求めるなどして、その原案作りを急いだ(注31)。  他方、しばらくして宇佐美洵三菱銀行頭取の口から中山、菅谷らに伝えられることになるが、証券市場に対し興銀と同様の認識から三菱銀行内でも、過剰株の棚上げ機関の必要性が検討されていた。新機関の形態を組合形式にするか、株式会社にするかで、両行間に意見の違いはあったが、速やかな対応を要することで意見の一致をみている。  他方、株式棚上げ機関設立のアイディアを打診に大蔵省を訪れた菅谷を驚かせたように、加治木も既に何らかの新機関を作ることで、この事態に対処しようとしていた。昭和三十八年五月、大蔵省の証券部長に就任して以来、加治木はノーマルな株式市場を形成するには、合理的な判断力を持った機関投資家の存在が必要とみていた(注32)。このように一部関係者が、多少の意見の違いはあったものの、市場が正常になるまでの間、そうした人為的な機関を作ることの必要性をほぼ同時期に説きはじめたほど、株式市場の先行きは深刻なものであった。  中山、宇佐美は当時、金融界のもう一人のリーダーであった岩佐凱実富士銀行頭取(現・相談役)とまず接触、続いて大蔵省の加治木らと密かに協議を重ねた。さらには佐々木直日銀副総裁(後に総裁)も訪れている。  中山、宇佐美、加治木らが心配したのは、株式市場をこのまま放置すれば、投信の解約が増加し、その結果、投信組入銘柄の売りが殺到、ひいては市況の悪化が深まることになるのではないかという点であった。このような悪循環は一般投資家の不安、動揺を招き、またそれによって業者の経営破綻が生じれば、金融秩序が混乱し、信用恐慌にまで発展する恐れが充分にあるというのである。ことに中山にとって重大だったのは、銀行自体の資産内容が、保有株式の担保価値の下落に伴い、急速に悪化する懸念があったことである。  こうした点を考慮するならば、株式を相当程度保有する金融機関が、株式市場に責任を持ってもよいのではないか。このように彼らは考えたのである。  加えて興銀、日本長期信用銀行、日本不動産銀行(現・日本債券信用銀行)のいわゆる長信三行にとって、金融債の販売を通じ証券界が特別な意味を持っていたことは、中山がこの問題で積極的に動く一つの動機となった。長信三行を中心に発行される金融債は、証券会社の運用預り用債券として用いられ、よくも悪くも証券界の資金調達の要となっていたからである。この証券不況が一層深刻化した場合には、ほぼ百パーセント個人向けに消化されていた割引金融債のイメージは大きく崩れる可能性もある。このように興銀の関係者は考えたのである。 《構想めぐる銀行界内部の反応》  しかし、彼らはこうした構想を直接の関係者以外に公にするわけにはいかなかった。当時の株価は大蔵省の政策変更に敏感に反応し、実際、前述のように昭和三十八年七月の坂野通達が発表された時には、大幅な下げを記録したのである。このような未成熟な証券業界にとって特別な機関の設立はどのようなインパクトをもたらすとも限らない。したがって彼らとしては、設立の目途も立たない段階で、構想が明らかになることは絶対に避けるべきだと考えた。この点については大蔵省内でも同様であった。つまり証券局内部でさえほとんど議論らしい議論は行われず、田中大蔵大臣、池田首相にも、設立がほぼ間違いない段階になって漸く報告された。  したがって昭和三十九年一月の発足にこぎつけるまで、前述した極めて少数の人によってお膳立てが行われた。肝心の証券業界と正式な会合が行われたのも、昭和三十八年十月九日を待たねばならなかった。銀行側から中山、宇佐美、井上薫(当時、第一銀行頭取、全銀協会長)の三頭取と、証券界から野村の北裏喜一郎副社長(後に同社長)、大和の福田千里会長(現・相談役)、日興の湊守篤副社長、山一の大神一社長が出席したこの会合には、大蔵、日銀側も同席し、市場の環境を中心に意見が交されたという。銀行主導の共同証券も証券側の協力なしでは、円滑な運営は困難だったからである。株式市場の現状認識では証券側と「深刻」という点で一致し、新機関の設置についても、少なくともこの席上では格別な反対はなかったという。  他方、大口の出資者となるはずの関東を中心とした都銀への説明は遅れた。十二月三十一日、興銀、三菱、富士の三行常務会で共同証券設立が正式に決まった後のあけて昭和三十九年一月十日のことである。当然予想されたように、中山が行った設立趣旨の説明と出資の要請は、様々な質問を受けることになった。たとえばある銀行の頭取は、自己責任の原則に立てば、潰れるものは潰れるのが当たり前であり、そのようなものは救済すべきでないと主張し、これに対し中山は、設立理由のうち、ことに証券界全体のパニックがひいては金融恐慌につながる恐れを強調した。また中には、政府と一体となって日本共同証券を作る点を、官民協調だとして批判する者もいた。しかし、この日本共同証券の設置が、あくまで緊急避難的なやむを得ざる措置として、中山は反対意見を退け、結局、銀行団の合意を取り付けたのであった(注33)。  しかし、中山が説明対象を関東系の都銀に対してのみ行ったことは、金融機関の協調という意味で、若干の問題を残すことになった。ことに関西系の銀行、即ち住友、三和の両銀行は、日本共同証券の設立を後日伝えられると、関東の銀行だけで、このような機関を設立したことは不愉快であると感情的反発を示したのであった。この事実は、それから約一年後の山一救済をめぐる金融機関の動きを考えると極めて興味深い。関西系銀行は、彼らが山一のメインバンクではなかったという点を考慮しても、一様にその救済に消極的姿勢を示したからである。  日本共同証券の設立が前述のように、大蔵省及び銀行団のリードによって急がれたことは、また証券界にも微妙な波紋を投げかけていた。当初、静観していた業界も買い上げ機関の形態について、土壇場になって証券会社の形をとることに証券界は強い反発を示した。銀行主導の新証券会社の誕生は、ますます業界への銀行の侵食を許すことになるというのであった。たしかに、そうした懸念を証券界が持ったとしても無理はない状況にはあった。大株主の銀行側としては、これまた当然であったが、証券不況の進行に伴い、興銀、富士、三菱をはじめとする銀行の各証券会社に対する人材派遣が行われつつあったからである。  結局、証券界は日本共同証券は市場から株式を買い入れるだけで、一般客相手のブローカー業務及び社債業務は行わないなどの留保条件をつけた上で、漸くこの構想を支持している。 《共同証券の発足》  いずれにせよ日本共同証券は昭和三十九年一月二十日、資本金二五億円(三十九年十一月以降三〇〇億円)で発足した。出資者は当初、都銀一二行、長信二行、証券四社(昭和三十九年十一月以降、都銀一四行、長信三行、信託七行、地銀五六行、証券一六社、生・損保四〇社)であった。  日本共同証券の発足は、その設立構想の発表が昭和三十九年一月十日に行われるや、直ちに三五円の反発を示したことからも明らかなように、市場では好感をもって迎えられた。しかし、一般的な観測は、朝日新聞(昭和三十九年一月十一日)が報じたように厳しいものであった。即ち対立しがちだった証券界、銀行界が協力して資本市場育成に乗り出すことを評価し、株価を下支えする効果を認める一方、市場でだぶついている株式は一、〇〇〇億円を超えており、したがって、資本金二五億円及び金融機関の協調融資一〇〇億円の資金量では、どの程度実効が伴うかはわからないというのであった。  実際、このような懸念は現実のものとなるのである。中山、加治木が資金量の不足に気がついていなかったわけではなく、それどころか、資本金を少なくしたのは、同証券に対する一部の不安を払拭しようという意図からでもあった(注34)。にもかかわらず、日本共同証券の三月の買い出動以降も、株価の反騰は長続きせず、池田首相自らダウ一、二〇〇円防衛を口に出すようになった結果、同証券への買い支え要求はさらに強まることになり、資金量の絶対的不足が生じることになったのである。 《資金をどこに求めるか》  それでは、日本共同証券はどのように資金調達を進めたのであろうか。当初二五億円でスタートした資本金は昭和三十九年三月には五〇億円、そしてこの月に初めて買い出動を行った結果、市中銀行の協調融資が二〇億円行われている。そして四月にはさらに資本金が一〇〇億円に増え、市中銀行協調融資も八〇億円に達している。しかし、これでも資金量は足りず、その増額の方法を模索するのである。  ここで重要なのは、日本共同証券のこうした株買い上げ資金の拡大の必要性に伴い、間接的とはいえ、日銀の証券界に対する貸し出しが増加してきたことである。これまでの記述から明らかなように、日本共同証券は当初、後に発足する日本証券保有組合とは異なり、日銀と資金的つながりはなかったのである。  日銀はそれまで証券界に対し、金融引き締めとの関連や株式市場とは係り合いを避けるという伝統的な考えから、距離を置いた関係を保ってきた。もとより、日銀は、日本証券金融(株)を通じて証券業界へ融資を行っていたし、昭和三十六年十一月以降、証券会社のコール依存がコール市場全体の混乱を招く恐れがあると判断した日銀は、証券会社のコール取り入れを投信のコール放出額の範囲内に抑制する指導に乗り出しており、少なからず証券界に関心を持ち続けてきていた。  しかし、金融面で証券業界に融資など特別の配慮を行うことに、日銀は慎重な姿勢を示してきたのである。ところが、それは昭和三十九年九月頃から明らかに転換することになった。その予兆はそれより半年前の三月、既に現れていた。  よく知られているように、当時、金融政策をめぐる日銀、大蔵の対立は激しかったが、山際日銀総裁は前年十二月に打ち出した引き締め政策を漸く三月に至り公定歩合の引き上げという形で仕上げた。貿易収支の赤字幅が拡大したからであった。しかし、この措置が株価のこれまで以上の下落を招くことは明らかであり、それはまた池田首相の期待とは相反するものであったから、三月十七日、山際はわざわざ四大証券首脳を招き、「公定歩合の引き上げによって株価は一時的ショックを受けるだろうが、日銀としては、日本共同証券を通じて株価安定に協力する」と述べたのであった(注35)。これが日銀の公式の場での最初のコミットメントであった。  しかし、この山際発言にもかかわらず、それまでとは違った形で、実際に日銀が日本共同証券に資金融通を行うのは秋口を待たねばならなかった。それは恐らく日銀レベルが依然、慎重な姿勢を崩さなかったためであろうし、またその間は、市中銀行の協調融資で何とかしのげることができたためであろう。それに転機を与えたのは九月二十二日、田中大蔵大臣による証券対策の発表である。田中は佐々木日銀副総裁及び金融、証券、産業界の代表を招き、同省が打ち出した株式市場対策に基づく資本市場の育成について協力を要請したのであった。  田中蔵相は、第一に(後に実現することになる)株式供給過剰を抑えるための増資調整について、政府が統制する考えはないが、関係者が積極的に協力すること、第二に日本共同証券の大幅増資が必要であり、関係者の間で早急に具体案を固めること、第三には証券対策のため日銀も積極的な面倒をみること、第四には大蔵省は証券取引法の改正を次の通常国会に提出し、企業の自己資本増強などのための税制改正を積極的に検討すること、第五には証券業界は合理化につとめ、相互の協力を強めること等について出席者の理解を求めたのである(注36)。 《日銀の別枠融資》  こうして、日銀は、田中蔵相の公の場での発言もあり、伝統的な政策を捨て、証券界へのコミットの度合を深めるのである。とはいえ、佐々木日銀副総裁の次のような発言は、日銀が田中蔵相の打ち出した方針について、決して積極的支持を与えていたわけではないことを示していた。佐々木は「日銀としても共同証券の資金拡充という方向には賛成であり、増資や融資に応じた各銀行については特別配慮する。しかし証券対策融資分については日銀貸出しの別枠扱いと決める必要はなく、そのへんのやり方は日銀に任せてほしい」と述べていたからである(注37)。  ところが実際には、このような佐々木の言明にもかかわらず、日銀は貸出限度額とは別枠の融資を行うことを決めるのである。昭和三十九年十月二十二日のこの決定は、  一、十月十五日以降の出融資分につき、貸出限度額制度適用先の都銀十行に対して、同限度の別枠扱いを認めること。  一、共同証券振出手形を日銀適格担保とすること。 としていた。  これより先の十月十四日、興銀の中山頭取は共同証券協調融資団幹事として山際日銀総裁を訪れ、次の四点を申し入れている(注38)。  一、共同証券の資力をふやすために市中銀行が協力できる資金量は一、〇〇〇億円が限度であり、それを超える資金は政府、日銀で面倒を見てもらいたい。  一、市中銀行が資金協力する一、〇〇〇億円の範囲内の資金については日銀の協力を求めたい。またこの資金は窓口規制および日銀貸出限度額の別枠扱いにしてもらいたい。  一、共同証券の手形を日銀貸出の適格担保扱いにしてもらいたい。  一、市中金融とは別に日証金を通ずる融資の活用も考えてもらいたい。  中山はこうした要望を同じ日、田中大蔵大臣にも伝えている。  中山としては言を左右にして、融資を渋る日銀に業を煮やしての行動であった。彼の日銀に対する不満は、次の談話から充分読みとれる。 「例えば共同証券の大口出資者である都市銀行の、共同証券に対する増資払込み資金や協調融資は日銀の窓口規制の別ワクとして資金を出すべきだ。ところが日銀は引締め手直しととられることを心配して、必要資金の一部だけを追認する考えのようだが、この際はむしろはっきりと“非常措置”として特別ワクを認めた方がよい。ほかの業界が便乗して滞貨融資などを要求してくるのを、断るのに都合がよいと思う」(朝日、昭和三十九年十月一日)(傍点=筆者)  中山がここまで日銀融資にこだわり続けたのは、直接にはたびたびの買い出動の結果、共同証券の担保繰りが苦しくなり、市中銀行からの資金調達さえままならなくなっていたからであり、より根本的には、このまま株価の低迷が長期化し、投信の解約が共同証券の買い上げ能力を超えて続けば、金融恐慌につながるという見方によるものであった。それには予防的措置が是非とも必要であり、昭和二年の恐慌時の対応策にならって日銀は協力すべきだというのであった。  佐々木の九月二十三日の消極発言にもかかわらず、十月二十二日、日銀が別枠扱い融資の決定を行わざるをえなかったのは、明らかに大蔵省の方針と中山らの陳情が功を奏した結果であった。 《資金繰り悪化への対応》  以上のような日銀の支援を背景に、日本共同証券は昭和三十九年十一月には資本金三〇〇億円、市中協調融資借入一、〇〇〇億円と資力を充実させた。また日銀の特別配慮額も結果としては八四五億円(うち貸出限度額別枠扱六二〇億円、出融資見合貸付二二五億円)の巨額にのぼった。  ここで前述の中山興銀頭取の山際日銀総裁に対する要望を振り返ってみたい。問題はその第四点、即ち市中協調融資とは別に日証金(日本証券金融(株))を通じる融資を申し入れている点である。この頃、しきりにダウ一、二〇〇円防衛がいわれ、共同証券は昭和三十九年十月から十二月にかけて、連日のように出動しダウ採用銘柄の大量買い入れ(一、六五二億円)を行っており、ますますその資金繰りに苦しむことになった。他方ダウ一、二〇〇円を守るという点からすればザラ場はともかく、引け値では十月安値一、二〇三円、十一月安値一、二〇二円と辛うじて共同証券はその目的を達していた。  このようなたび重なる共同証券の資金繰り悪化に対して、日銀はどのように対処したのであろうか。結論から述べれば、日銀はここでも、共同証券の求めに応じている。昭和三十九年十二月以降、日銀は日証金経由で共同証券に対する資金融通を行うことになったからである。これ以上の市中銀行による資金調達は日銀の特別配慮があっても、限界に達したと判断したからであった。昭和四十年一月まで続く、この資金融資は総額六七八億円にのぼった。この融資は共同証券の振出手形を主たる担保とする一種の特融であること、また金利について当初、一部徴収猶予の措置をとった点で、共同証券側に有利な内容であった。  その後、共同証券が大幅な利益を計上するに至った段階で、日銀内では金利については、将来出世払いのかたちで、相当の追加徴収を行いうる余地を残しておくべきだったとの意見や、利益処分等の重要事項については、日銀との事前協議を確認させるべきだったとの意見が聞かれた。しかし、少なくとも昭和三十九年十二月の共同証券は、融資を受けるにも担保が不充分という状況に追い込まれていた。実際、日証金経由の融資に際し、共同証券から日証金に差し入れる担保は、その不足分を日産、日立、八幡製鉄等事業会社五〇社から借株を行わざるを得なかったほどであった(注39)。その総額は二五二億円にものぼった。  以上のように、日銀は、特別配慮に始まり日証金経由の融資まで、多額の資金を日本共同証券に対し投入することになった。しかし先述のような日本共同証券の買い入れの内容(同証券の買い入れ対象とならなかった銘柄と株価との跛行性)については批判も多く、またそれに対して資金供給を続ける日銀に対しても同様の指摘があった。  これに対する日銀の公のコメントは、このような形での株価水準の防衛はいったん開始した以上、途中で放棄することはかえって政策に対する信頼を失い、混乱のもとともなりかねない。したがって、放置することはできないというものであった。しかし、こうした見解を額面通り受けとることは、あまりに単純に過ぎよう。そのような側面があったことも事実ではあろうが、同時にこれまでの叙述から明らかなように、事務レベルには政府・大蔵省をバックにした日本共同証券、それを支える興銀、三菱、富士各行の動きに対し、強い不満があった。実際、次に述べるように、日銀はこれ以上の中山、あるいは田中蔵相の要求を頑としてはねのけるのである。 《直接融資の道を探る》  日証金経由の日銀融資を受けても、日本共同証券の資金繰りは依然苦しかった。投信放出の株を次から次へと拾いあげねばならなかったからである。こうした状況の下、中山らは日銀の日本共同証券に対する直接融資の可能性について検討し始めた。昭和三十九年十一月十六日、十二月六日の朝日新聞の記事は、そうした彼らの希望を伝えていたかのように思われる。  しかし、こうしたたび重なる要求に日銀事務当局は激しい反発を示すことになった。彼らとしては、それがまず第一に日銀の正統的な政策運営の軌道から外れて、悪しき前例を作ることになること。第二に日銀はこれまで金融市場を通さずに直接融資した例はなく、厳しい不況の際でも、民間金融機関を通じて融資する方法をとってきた経緯があること。したがって、今回も同様に処理すべきであるというのであった。彼らの一部は政府の政策配慮によって共同証券に対し、日銀がなぜこれほどコミットする必要があるのかと厳しい批判を展開していた。  こうした日銀事務当局の政府及び協調融資団に対する不満は、十二月十八日に開かれた衆議院大蔵委員会の席上で、穏やかではあるが、明確に伝えられたのである。後述するようにこの日は、山際日銀総裁の後任としておそらく誰も予想していなかった、三菱銀行頭取の宇佐美洵の起用が明らかとなった翌日であった。それだけに表立っては聞かれたことのない日銀の政府批判がいつもより明確に打ち出されたのであった。  山際の後継者と目され、それが叶わなかった佐々木直日銀副総裁は、社会党の堀昌雄委員の次のような質問に対し、ここぞとばかりの答弁を行っている。少し長くなるが引用してみよう(注40)。 堀委員=「最初にいま中山興銀頭取もお触れになりましたが、いま私たちが当委員会においてかなり論議をいたしております問題の性格でございます。いま佐々木日銀副総裁も、不安動揺防止のためにさらに一段と進めた措置をとる必要もあるかもしらぬ、こういうふうなお話がございましたけれども、現状でも私どもは普通の証券会社の性格とは異なることを了解をいたしておりますけれども、しかし現実に共同証券が行っておられる株式の買い入れの状態を見ますと、私は必ずしも公共性という問題について十分であるかどうか、やや疑問を持つところでございます。 (中略)  そうしますると企業採算もありましょうけれども、さっき三森(良二郎、共同証券社長)さんも市場全体の安定とおっしゃるならば市場全体の安定ということばが、みながすなおに理解できるような措置がとれるようなものにならない限り、国家信用をもってあと非常にばく大な資金を出すなどということは、私は国民全体として納得ができないことではないかと考えるわけです。  そこで伺いたいのは、一段と措置を進めるについて、このままでもやられる意思があるのか、共同証券側が何らか公共性について私どもが納得できる変更、たとえば定款上の問題等、外側から見てだれしもが納得できる公共性に対する転機といいますか、そういう部分の増加といいますか、そういうことに基づいてその機能も公共的な機能もさらに強くするという何かの区切りがない限り、私は次の措置を進めていただくことに納得ができないわけです」(傍点=筆者)  堀のいう次の措置が日銀の共同証券に対する直接融資を指すことは明らかであったが、佐々木は次のように答弁している。 佐々木参考人=「ただいまおっしゃいました御意見、私ども全く同意見でございます。日本銀行としていままでやっておりましたことは、御指摘のありましたように共同証券の手形を担保にしたというような点がほかと違う点かと思いますけれども、これは日本銀行として担保としてとります手形の範囲をどうきめるかという、いままでと同じ仕事のやり方の中の裁量の問題でございますが、これからさらに一歩進めるという場合には、いままでのそういうようなやり方を越えたやり方であるという趣旨で私も先ほど申し上げた次第であります。したがって、そういうことを中央銀行としてやります場合には、国民全体の方がみな納得していただくかっこうでなければやるべきでないと考えております」(傍点=筆者)  このように、大蔵省、共同証券側の構想、即ち日証金を通さずに日銀資金を直接導入する、という構想は日銀の強い反対にあったのである。この佐々木の発言は事務レベルの方針と一致していたことは、当時、日銀の総務担当理事であった福地豊が、共同証券を事実上見放したのは同証券に対する融資が一日三五億円(日証金経由)にのぼった十一月頃であるとの見解を示していると言われていることからも明らかである。同時に後述するように、この佐々木の発言は既に、証券界独自の過剰株式棚上げ機関に日銀が深く関与する形で煮つまっていたことと関連があろう。中山の共同証券の規模を拡大すれば済むという見解とは違って(注41)、日銀は秋口から新機関設置のために証券界と極秘裏に接触していたからである。  このようにして、昭和三十九年三月から四十年一月まで、一、八九六億円にのぼる過剰株を吸い上げた日本共同証券は買い入れをストップすることになったのである。 《田中蔵相と日銀のギャップ》  以上の議論の中で、特に記憶されねばならないのは、大蔵省内部で証取法の改正をめぐり意見の相違があったと同様、低迷する株価対策について共同証券設立に奔走した中山興銀頭取ら銀行団及び、それを支持した田中蔵相と、日銀との間に、大きな溝が存在した点である。日銀の支援を受けるという中山らの構想は、市中銀行あるいは日証金を通じるという間接的融資という点では日銀に受け入れられたものの、直接の融資は聞き入れられるところとはならなかった。それは、この問題のみならず他の問題でも、日銀と大蔵省が対立していたことと無関係ではないように思われる。  たとえば、金融政策全体の進め方をめぐって、緩和の方向をめざす池田内閣と引き締め堅持の日銀が対立し、日銀側がやむなく譲歩を重ねてきたこと、あるいは日銀法の改正問題でも大蔵大臣の指示権を認めるべきとする政府とそれを渋る日銀が対立したこと——こうしたことが微妙に絡んでいたように思われる。  そして池田内閣はこのような両者の懸隔を山際総裁の更迭によって一挙に解決しようとしたのであった。この点については後に改めて述べるが、先に引用した佐々木副総裁の国会発言の背後には、いま述べたような政府側と日銀の感情的ともいうべき対立が存在したと言えよう。つまり昭和三十九年秋の共同証券に対する日銀融資問題の性格は、単に証券不況をめぐる政策観の相違以上のものだったのである。こうした解釈は、ドラマの進行に伴いより説得力を持つはずである。 4 銀行・証券の確執——「証券保有組合」誕生の内幕 《ようやく腰をあげた証券界》  以上のような対立の構図は、共同証券を支えてきた銀行団と証券業界の間にも少なからずみられた。銀行と証券は公社債の発行条件をめぐって、それまで鋭く反発しあってきたように、証券側には銀行の証券界への介入を嫌う根強い雰囲気があった。たとえば、それは共同証券発足の際の一部証券界の反発にもあらわれていた。  ところで、共同証券は私企業としての性格から営利を追求せざるを得ず、買い入れ株は一部上場の優良銘柄に限定せざるを得なかったから、二、三流株及び二部株は依然放置されたままとなった。また池田首相がダウ一、二〇〇円にこだわったために、ダウに影響のある株しか買い上げないという現象もあらわれた。つまり過剰株の棚上げという当初の目的は充分には達成されないままに、昭和三十九年末を迎えていた。こうした点を補い、また証券会社の経営悪化を助長していた業者保有株、さらには投信保有株を一度に大量に棚上げする目的で、日本証券保有組合が昭和四十年一月十三日に誕生する。これは、証券不況対策は銀行主導ではなく証券業者自身の手によるべきだ、という当時の証券業界の意向に添っていた。  証券業界は、この段階まで昭和三十七年以降の証券不況に対し何らの対策も講ぜず、銀行にその役割を委ねてきたのであろうか。こうした解釈は大筋の上で正しい。なぜなら、昭和三十八年夏過ぎ、興銀、三菱が中心となり共同証券構想が練られていた頃、日証金の高山広副社長が個人的に、過剰株棚上げ機関を証券業界に打診したものの、業界が消極的な反応しか示さなかったという経緯があるからである(注42)。共同証券の発足前というから、恐らく昭和三十八年末の日証金役員会であろう。高山の前述のような提案に対し、証券業界代表役員の大和証券福田会長は、証券業界の体質が弱くなっている時に、これ以上、負担になるようなことはできないと、反対したという。こうした構想は証券界の全面的協力があってこそ実現すると考えていた高山は、共同証券が間もなく発足したこともあり、いったん手をひくことになる。  たしかに、証券界内部を結束させることは、その業界の性質から極めて難しい。たとえば、当事者間に様々な思惑があったにせよ、株式不況からの脱却を図ろうとして、買い出動した共同証券に対し、売りを浴びせかけたのは当の証券各社であった。また古い話になるが、昭和二十四年当時、日銀が証券業界に対し国債を買い上げ、その資金で株を買えと指導している際に、売り逃げていたのはやはり一部の業者であったと言われている。このように、銀行などと比較し、証券業界をまとめることは多くの困難を伴うのである。  しかし、その後、前述のように共同証券の資金繰りが苦しくなり、他方、株価の低迷が著しくなるに及び業界自身も漸く重い腰をあげはじめることになる。しかしこの時も、これまで残された資料から判断する限り、日証金のイニシアティブによるものであり証券界は受け身であった。  日銀OBの高山が、既に根まわしを終えていた日銀から新しい棚上げ機関を作らなければ、資金は共同証券に行くことになると設立の催促を受けたのは、昭和三十九年十一月末のことであった。急がなければと考えた高山は、十二月一日、谷口日証金社長と瀬川野村証券社長の会談を漸く実現させ、業界側の決断を促している。その席で谷口は、証券界最後の対応として株価のテコ入れ機関を作ってみたらどうか、将来それが大きな経済力になるかもしれない。証券界には銀行の共同証券にあたるものがないが、結局惨めなことになるかもしれない、との趣旨を述べ、瀬川の大局的な判断を期待した。  その時点では既に共同証券の行き詰まりが明らかになっていたこともあって、瀬川は谷口の話を受けることになる(注43)。瀬川は業界を、谷口は大蔵省を、そして東京証券取引所理事長の井上敏夫は日銀という具合に分担を決めた上でそれぞれ折衝し、十二月二十九日には関係者の合意が成立している。まず共同証券と対抗的ではまずいということから、任意組合という形が決まり、  一、組合運営は大蔵大臣の指導を受ける。  一、清算時利益の半分は公共的目的に留保。  一、組合員の対外代表権は認めない。 等の点が定められた。 《積極的な日銀》  この証券保有組合構想が谷口、井上、高山らのリードによって進められた点は興味深い。彼ら三人はいずれも日銀出身だからである。そして先述の谷口の言葉に見られるように、このままでは、銀行の証券界に対する発言力はますます強くなってしまう、という彼ら日銀出身者の懸念が、この構想を推し進める原動力になったのであった。その背景として、大蔵省、市中銀行と日銀との間に微妙な関係があったとする見方は、あながち誤りではなかろう。日銀も構想を実現するに当たって、公共性を強く前面に押し出すよう注文をつけている。そうすることによって、株式会社であった共同証券よりも日銀融資(日証金経由)をスムーズに行うことができるからであった。その点は、宇佐美・新日銀総裁からも直接、業界首脳に対して求められた。これは、最後の対策であり公共目的であること、市場は自由価格に戻り、業者は体質改善を進めることなどが、宇佐美から証券界トップに伝えられている。  このようにして、日本証券保有組合は、昭和三十九年の大晦日、田中蔵相の了承を得、あけて一月十三日に正式に発足した。共同証券が買い入れを行うことができなかった二部市場株、また市況低迷の最大の原因であった投信組入株を中心(総肩代わりの七八パーセント)にして、証券保有組合は昭和四十年一月から七月までの間に、二、三二七億七、〇〇〇万円の肩代わりを行うのである。  こうした組合成立の過程で、日銀とは異なり大蔵省があまり積極的でなかった点は、これまた興味深い。加治木、坂野らは共同証券があるのに証券保有組合を作れば屋上屋を重ねることになり、新たな資金負担はさらに業界の体質を弱めることになるというのであった。もとより大蔵省にとって、組合成立は面白かろうはずもなかった。興銀、三菱らと組んで発足させた共同証券に対し、最終段階で融資を渋った日銀が今度は、証券界を全面的にバックアップする形で類似の機関を作るというのである。感情的なしこりがなかったといったら嘘になろう。  いずれにせよ、共同証券の買い入れ銘柄が一部上場優良株に限定されていたという事実からすれば、新機関設立の必要性はたしかにあったが、この構想を耳にした加治木は、あまりプッシュする気にはなれなかったのである(注44)。 第三章 危機——山一証券の経営破綻 1 山一の首脳陣更迭 《後手に回る合理化》  証券業界は、この一大不況をどのように乗り切ろうとしたのか。その具体策として日本証券保有組合が設立されたことを前章で明らかにしたが、ここでは時計の針を昭和三十九年春頃まで戻して、各証券会社が一向に活況を取り戻せない株式市場によって、どのような痛手を受け、どのように対処しようとしたのか、その点について触れよう。  既に述べたように、株価は日本共同証券設立の報をはやして昭和三十九年一月三十日には一、三〇〇円の大台に乗せていたが、三月中旬には公定歩合引き上げにいや気をさし一、二〇〇円割れ寸前まで下落していた。  昭和三十九年三月初めには、こうした株式不況が証券各社の経理を圧迫しているとみた大蔵省は、その最大の原因を多大の借入金に伴う金利支払いととらえ、借入金増加の原因となっている手持株式や債券、不動産等の処分を進めるよう行政指導している。さらに四月には、支店の新設の原則的禁止、新規採用の制限を求めている。そうした中で四月十四日、東京証券取引所は昭和二十九年以来十年ぶりの赤字を記録した(注1)。  株価は五月頃からやや上向きに転じ始めたが、これによって証券各社の業容が急速に回復するとはとても思われなかった。そのようなことから各社とも大蔵省の指導に従い、あるいはそれ以前から独自に始めていた合理化をさらに進めるのである。  こうした中で、大蔵省は野村、日興、山一、大和の各社に対して、九月期決算をそろって無配にするよう求めた。大蔵省としては大衆投資家が株の値下がりで手痛い損失を受けている時に、当の証券業者が無理に利益をひねり出した形で配当を続けるのは好ましくないと判断したからであった(注2)。結局、最後まで配当の意向を示していた野村を含め四大証券会社はそろって無配を決めている。  ところで肝心の山一証券自身は、この頃どのような状況にあったのであろうか。既に大蔵省の検査も入り、大蔵省証券局からも経理担当役員が事情聴取を受けていた。しかし、当時の大蔵省の証券担当者が回想するように、その報告はとても大蔵省を満足させるようなものではなかった。第一に期限が遅れ、漸く持ってきたと思えば、前月とは異なる数字を堂々と提出するという具合であった。どうやら、大蔵省検査用と実際の帳簿を使い分けているらしい。証券担当者には、そうとしか思えなかった。  経営状況がよく把握できないという意味では、肝心の山一関係者も同様であった。昭和三十七年以後、メインバンク三行のうち、富士、三菱両行から営業担当の磯部明、経理担当の中島俊一両専務が送り込まれ、実態の把握に努めていたが、経営悪化の事実は確かであるにもかかわらず、その内容はようとしてわからなかった。このことは、山一が日銀特融を受けざるを得なくなった時点で、両行が各方面から批判を受ける原因になる。即ち、なぜ山一に対し人材を投入しながら、そこまで事態を放置してきたのかという指摘である。この点について、当時の大蔵省証券担当者は「大神ワンマン体制の下、それを具体的につかむことは誰であれ極めて困難だったようだ」と、回想している。しかし両行派遣の役員の能力も同時に問われなければならないことは改めて述べるまでもない。  いずれにせよ、山一は、両専務を迎えたにもかかわらず、一向に業績は上向かず、ますます赤字幅を拡大していった。そしてついに前述のように、昭和三十九年九月期の決算では、公表三四億五、五〇〇万円の赤字を計上したのである。  もとより山一自身、経営悪化に対し全く手を打たなかったわけではなく、その点は既に述べた通りである。しかしそのスローテンポぶりと無定見さが大きな問題であった。  たとえば後に同じように、経営悪化に陥る日興証券は既に昭和三十八年後半に六店を整理し、三十九年に入っても二店を閉鎖していた。また大和も昭和三十八年の三店に引きつづき数店を整理した。このように他社に比して業績が良好な野村、山種両社を除けば、各社とも既に合理化に着手していたのである。ところが山一は、昭和三十九年春に至って漸く三店の閉鎖を決めたに過ぎなかった。しかも昭和三十九年十一月には、毎日数億円の赤字を出しているにもかかわらず、日本橋で新本店建設に着手(特融後直ちに取り止め)している。借入金が過去五年間に四倍にも達し、一方、株式売買手数料は二・六倍にしかすぎないという状況の下でである。山一の合理化への対応は他社に比して遅れたというよりは、無きに等しかったというべきであろう。 《新社長の登場》  山一証券の実質的なオーナーでありながら、経営はほとんど大神社長に任せていた小池厚之助会長も、こうした事態についに重い腰をあげた。東京オリンピックを間近に控えた昭和三十九年九月のことである。山梨県出身の小池は、出身地を同じくする経済同友会の小林中に話をもちかけ、その結果、中山興銀、岩佐富士、宇佐美三菱の各行頭取が善後策を協議したのである(注3)。この三者の話し合いの中で経営陣刷新が決まったが、後任社長の人選は難航した。当初、主力銀行の富士から派遣するという話もあったが、結局これは実現せず、日産化学の日高輝に決まるのである(注4)。中山らが日高の日産化学再建の手腕を高く評価したためであった。  説得役は中山である。折からアメリカに出張中だった日高の帰国を待って、中山が日高に山一の社長就任を依頼したのは、昭和三十九年十月十日、オリンピック開会式の当日のことであった。日産化学の経営が漸く軌道に乗り始めた時だっただけに、日高の返事は芳しいものではなかった。しかし最終的に社長を引き受けた理由は、指導を仰いでいた小林中から「迷惑でも山一行きを決断してもらいたい」と要請されたからであったと、後に日高は記している(注5)。  ここで重要なのは、日高が就任にあたり一つ条件を示したことである。それは山一再建に対する富士、三菱、興銀三行の全面的支援である。三行は、当然これを受け入れざるを得なかった。日高としては、これによって山一破綻、日銀特融、再建の過程で、三行に対し、道義的責任を果すよう求める根拠を持ったことになる。  十月二十九日開かれた山一証券の決算役員会で、日高は社長に就任した。他方、経営悪化の責任をとって、小池厚之助会長、花岡実副社長、藤田寛治専務のほか四常務、三取締役、二監査役の合計一二人が退任し、小池会長は相談役に、大神社長は会長に、二人の取締役は監査役にまわった。一方、取締役の補充は、日高を含め五人であったから、役員数は七人減って二七名となった。  この頃、同様の危機に直面していた日興も、山一と同じく再建策として、役員の減員、減俸、系列会社首脳陣の総退陣、さらには役員の自動車送迎の廃止などを決めている。  ところで、山一の経営責任を問われた小池会長、大神社長の心境は、どのようなものであっただろうか。その種の資料は乏しいが、たとえば、朝日新聞(昭和三十九年十月二十一日)は、小池が言葉少なに「もう六十六歳の老人だ、若い人にゆずるべきだ」と語ったことを伝え、また大神が「日本の経済成長に酔い、錯覚に陥った。この責任をとらざるを得ない。できれば跡始末をつけてやめたいが、それもかなうまい」と述べたことを明らかにしている。たしかに大神は、この退陣に未練を残していた。そしてまだ投機による売買益で、この急場をしのげると考えていたようである。社長辞任の決まった大神の下を訪れた歌川令三毎日新聞記者(元・毎日新聞編集局長)に涙しながら、いまは陰の極、手元に三〇億円あればなあと語っている。  大神のこうした個人的な感情は別にしても、銀行による業界支配を恐れていた証券界は、おしなべて山一の首脳陣更迭を複雑な気持で眺めていた。そうした当時の業界の雰囲気を次の記事が的確に伝えている。 「『われわれの今の気持は、進駐軍を迎える終戦当時の日本政府の心境ですよ』——ある大手証券会社の首脳はこう語っている。“進駐軍”とは銀行から証券会社に派遣される役員のこと。会社の合理化計画も、重役の解任、留任もすべては“進駐軍”の胸三寸にある。各証券会社はいまや手術台に静かに横たわり、銀行家の切開手術を甘んじて受ける気持という」(注6)  こうした中で、野村をはじめとしていくつかの証券会社が銀行に「頭を下げ」ていなかった。野村の瀬川によれば、証券界に金融界から人が入ってきてバックアップしてくれるのはよいが、証券界の立ち直りはあくまで証券人によってなされるべきであって、ほかからきた人が最高首脳になってやっていくことは好ましくないのであった(注7)。しかし、首位を独走する野村に対する風当たりは証券界はともかく、銀行界でも強く、九月期に各社とは異なり野村一社のみ有配を主張したことが、それに輪をかけていた。三菱、富士、興銀とメインバンクを共通とする山一、日興両社の提携・合併が、一部金融界で論議されたのはこの頃のことである(注8)。両社が一つになれば、野村に充分対抗できるという銀行団の野村への思惑が、そうした構想に秘められていた。  日本共同証券設立の経緯や、以上のような銀行の人材派遣は、いやが応でも銀行による証券界乗っ取りへの危機感を高めることになった。それは、興銀の中山が証券側の不安は充分承知しており、そのような意図は全くなかった、と述べているにもかかわらず、存在したのである(注9)。  山一首脳陣の交代は、以上のように、証券界に複雑な波紋を投げかけることになった。当然のことながら、当事者である山一の社内は、日高の登場を期待と不安を持って眺めていた。日高が日産化学で一、二〇〇人にのぼる人員整理(希望退職者を含む)を行ったと伝えられたこともあって、一部の社員に動揺を与えていた。日高の社長就任から一年後の昭和四十年十月、当時、山一証券従業員組合執行副委員長だった岡安克之は、金融筋から人を迎えることに関しては、社内では心理的な反発があったと述べている(注10)。  一方、当の日高は、事業会社としての日産化学と証券会社の性格の差を充分理解していたようであり、日銀特融直後に、あるところで次のように発言している。 「日産化学という事業会社の場合は、多少赤旗が立っても気にならなかったが、山一に赤旗が立つのは信用の点から大変なことだと思う。この点、大きな違いである。赤旗を立てず静かな中での整理・再建を意図してきた(以下略)」(注11)  結果的には、前出の岡安が続けて語ったように、こうしたやり方が成功し、一年後には、山一社員の不安も払拭され、再建は日高を置いてはいない、という高い評価を社の内外において受けることになる。  しかし、その点は別にしても、日高が社長に就任した際、その社業は予想以上に悪かった。稟議制度もなく、営業数字をつかもうにも充分整理が行われていない、という状況だったのである。したがって、社長を引き受けた後、直ちに磯部専務を委員長にすえ、大森取締役ら八人の委員からなる健全化委員会を発足させてはみたものの、その苦境はなかなかつかめなかった。この点は、山一が、関係会社多数を利用して複雑な粉飾を行っていたことが大いに関連している。たとえば、山一関西不動産、東和産業などに貸付金の形で株式を移動したり、決算直前に朝日土地興業などの手持株を買い上がって評価損を食い止めるなどの操作を行っていたのである。 《大手四社への資金貸し付け》  いずれにせよ山一は、いま述べたような形で、日高新社長の下、再建に向けて第一歩を踏み出したが、しかし日本銀行の事務レベルは既にこの段階で、山一の救済は不可能と判断していた。それは、日銀の証券界に対する資金貸し付けの性格及び、その推移をみることによって明らかになる。  日本共同証券は前述のように、昭和三十九年春に買い出動を行い、年末までに一、七四二億円の株を吸いあげることになるが、買い支えの効果を上げるためには、大手四社の協力、協調の態勢が是非とも必要とされた。しかし、当時の状況から四社の自力だけでは、そうした目的を達成することはほとんど不可能であった。このようなところから日銀は大蔵省側の強い要請があったことも考慮し、まず四社に対し協調買い資金の貸し付けを行うことを決めるのである。  実は大蔵省はそれまでにもたびたび、日銀に対し証券界に対する直接の資金貸し付けを打診している。しかし日銀は、その要請を「現状ではこれ以上の措置を講じる必要はない」と断る一方、次のような条件を提示していた。つまり万が一事態が悪化した場合には、対日本共同証券ではなく、日銀は大手四社に対しても、日証金経由で、協調買い資金の貸し付けを行うことを条件付で了解していたのであった。それらの条件とは、東証ダウ一、二〇〇円程度を目途とする大蔵省の増資調整は必ず実施する、新型投信設定を行わない、四社は当分無配とする、将来運用預りを廃止する——ことなどである。  これらの条件は、九月に田中大蔵大臣から発表された証券対策に近いが、一方、その当時の日銀の雰囲気、即ちいつまで続くかわからない株価の低迷と業者の経営悪化の尻拭いを、日銀が一手に引き受けるのはかなわない、という雰囲気を反映していた。  大蔵省としては、これら日銀提示の条件には反対する理由もなく、そうこうするうちに、何よりも一、二〇〇円台の維持が次第に困難となったために、協調買い資金の貸し付けが四社に対し行われることになったのである。  日銀は、この協調買い資金の貸し付けの過程で、山一を事実上見放すが、その点を明らかにするには資金の流れに注目しなければならない。  日銀が実質的に貸し付けを開始したのは九月四日である。その際、九月三日の株式の手持高を基準残高として、四社が四日以降株式買い入れを行い、それによって手持高が基準高を超えた場合には、その範囲内で融資を行うことが決められた。  このような基準によって、株式買い入れを行った四社は十月末、株式手持残高一、二〇八億円を記録している。八月末に比べ一七六億円の増加であった。このうち日銀は一六二億円をカバーしている。  しかし、その間にも、各社の資金繰りは窮迫し、また皮肉なことに、買い入れ株式に係る評価損が累積したために、日銀は十月中旬以降、新たにコール等返済用の体質改善資金として四社に対し計二〇〇億円をつぎこむことになった。この措置とは別に、引き続き協調買いのための資金として、四社に対し二〇〇億円、さらに十一月の中旬からは、大商、玉塚、山叶(三社は後に合併し、新日本証券)等中堅一〇社に対しても、五〇億円の範囲内で貸し付けが行われることになった。  ここで重要なのは、中堅一〇社に対する資金貸し付けの名目は、日本共同証券との協調買いということであったが、日銀ははじめから、そのような意思はなく、一〇社がその資金をコールの返済に充当するのを黙認した点である。それほど各社の業容が悪化していたということになろう。後に、一〇社のうちの一つ岡三証券の加藤精一社長は、当時の経営状況の実態は、社内でも、一、二の人しか知らなかったほど、惨憺たるものであったと述べている(注12)。  このように日銀の協調買い用の貸し付け資金の性格は、共同証券が十月末に日銀の特別配慮を受け、資力を充実させたこともあり、次第に変化することになった。そこで次の問題は、日銀が四社に対し、共同証券との協調買いのための貸し付け資金をどのように配分したのかという点である。 《融資順位は日興、大和、山一、野村》  十一月初旬までは各社別の融資額に開きはなかった。ところが十一月中旬以降は、かなりの差がつくことになる。これまでの議論からすれば当然のことながら、九月決算で三四億円の赤字を計上し、経営陣の更迭にまで事態が発展していた山一証券に対し、特別な配慮がなされてよかった。ところが各社別の融資残をみてみると、たとえば野村は、十一月六日四二億円→十二月二十一日五二億円、以下日興は五一億円→一三五億円、大和は三九億円→八六億円、山一は三五億円→八二億円となっていた。つまり融資振り分けの順位は、日興、大和、山一、野村であった。この時点でも、配当を行う意思を表明していた野村を別にすれば、最も痛手の大きかったとみられた山一は振り分け順位最下位であった。しかも、日興とは五三億円もの開きがついている。十一月から十二月にかけて日銀がテコ入れしたのは、この数字にみる通り山一ではなく日興だったのである。  なぜ、日銀は山一ではなく日興に集中的に貸し付けを行ったのであろうか。その理由は、日銀がこの段階で既に山一は絶望的であり、存亡の危機に立たされているのはむしろ日興と判断していたからに他ならない。  当時、振り分け額に差が出たのは(中堅一〇社には均等振り分け)、四社が協調買いに際し一週間交代であたっていたこと、したがってたまたま売り物が多い時期に当たった会社の買いが多く、それが結果的に融資額に反映したと説明された。しかし、これは公式的な見解であり、日銀には日興を集中的に支援する意図が初めから強かったのである。たとえば日銀は、日興が多額の買い入れによって融資を受けた後、直ちに売り抜け、その利ザヤを得たことを黙認している。この融資の性格からいって、本来許されるべき行為でなかったことは言うまでもあるまい。それも日興再建のためにはやむを得ないとの判断からであった。こうした一連の事実からすると、日銀はこの時点で、大手四社のうち、少なくとも一社(山一)の倒産はありうるとの見通しに立っていたことになる。  昭和四十年五月、山一に対する日銀の特別融資が行われようとした際、日銀側が当初反対した一つの理由は、一私企業の経営悪化に対し、中央銀行が救済に当たることは筋が通らないというものであった。しかし前述の記録からする限り、日銀は山一への特別融資にさかのぼる半年前の三十九年十一月には、事実上、個別企業の救済に踏み切っていたことになる。  なぜ、日銀が日興への支援を決めたかについては、日興こそが存亡の危機に立たされていたからだという理由では不充分であろう。山一、日興ともに倒産するよりは、日興だけでも立ち直らせ、証券不況が金融恐慌へと拡大するのを防止したいという認識が日銀にあったこと、また、それまでの各社との接触から、日銀としては山一の再建は不可能という見解を持つに至っていたことなどが考えられる。加えて確認する材料はないが、当時、日興の社長であった湊と池田首相が極めて近かった点から、この振り分けを説明する仮説も興味深い。  いずれにせよ、日銀は証券界への資金貸し付けに当たり、自動的に各社均等にではなく、政策的配慮も充分加えた上で、これを行ったのである。  日銀の配慮で日興が急場をしのいだ半年後、今度は絶望と判断していた山一に対し日銀は、二八二億円にのぼる特融を行った。日銀がなぜ、このような判断を下すに至ったか。その謎を解くには、話を先に進めなければならない。 2 報道協定と国会対策 《取材攻勢》  山一経営陣の刷新を契機にして、一部マスコミが動き始めた。なかでも日刊工業新聞の日銀担当記者松本明男は日本共同証券設立の取材過程で、山一危うしの話を聞いていたこともあり、スタートは早かった。  松本は昭和三十八年夏頃から、株式市場の現状は供給過剰であり、プールないしは凍結の機関が必要ではないかと考えていた。松本はこの構想を瀬川野村証券社長はじめ関係者に持ちかけるが、大方の反応は予想通り冷淡なものであった。その中で興銀の菅谷隆介企画室長だけは、興味を示し、後日、松本により詳しい話を求めている。  奇しくも、同じ時期に大蔵省、興銀、マスコミの中で類似の構想が検討されていたのであった。こうしたこともあり、松本は他社に先がけて、興銀を中心とした情報収集チャネルを確保したのであった。取材過程で山一の危機は聞いていたものの、松本にはいま一つその実態がつかめていなかった。そうこうするうちに、山一の小池会長、大神社長が後継者も決めずに退陣の意向を明らかにした。昭和三十九年九月のことである。この結果、相当事態は悪化しているとみた松本は、精力的に取材を開始した。松本としては、後継者問題に興銀が関係するとすれば、それは山一が事実上、銀行の管理下に置かれていることを示すものだと判断した。  取材を重ねて改めて驚いたのは、公表された山一の九月期決算三四億円の赤字と、個人的に手に入れた数字があまりにも違いすぎるという点であった。既に、メインバンクの一つ富士銀行の小谷常務から赤字は一〇〇億円を下るまいとは聞いていたものの、数字を積み重ねていくと、山一の赤字は優に二〇〇億円を超えてしまう。明らかに何らかの操作が行われている。こうした粉飾ぶりを黙視するわけにはとてもいかない。これが、経済記者として漸く中堅になりかけた松本の率直な思いであった。  他方、この頃になると、大蔵省証券局は山一の状況を直接、間接のルートを通じて逐一把握しつつあった。したがって、松本をはじめとするマスコミの取材の活発化の兆しに、加治木、安川らは気が気ではなかった。数ヵ月前に考えた最悪のシナリオ、即ち、証取法の改正が国会で審議中に、山一の経営悪化が明るみに出て、大衆が動揺し、取り付け騒ぎが起こるのではないかという危惧である。既に第二章で述べたように、そうした点を心配した安川らは十二月に、野党国会議員を中心に根まわしを行っていたが、彼ら大蔵省の証券担当者としては、証取法の改正案が通るまでは、山一に何とか持ちこたえてほしい、こうした気持で一杯であった。  話を松本の取材に戻そう。昭和四十年一月、松飾りの取れた頃というから七日過ぎのことであろうか。松本は田中角栄蔵相を訪ねている。話の中心は公定歩合の引き下げ問題だったが、山一についても探りを入れた。田中の答からは、山一の深刻な事態についての情報が大臣まで届いているようには思われなかった。この点については、加治木、安川らの話とも符合する。彼らが田中蔵相に、山一の窮状を克明に伝えたのは、それより遥か後のことだったからである。もとより、旧経営者の更迭などから、山一の不振が尋常でないことは田中も認識していたであろう。しかし、興銀の中山頭取が、日高新社長の誕生によって、この事態を乗り切れると判断していたのと同様(注13)、田中蔵相も経営陣の刷新によって山一は立ち直るとみていた。よもや、特融に至るとは、田中も中山も考えてはいなかったのである。  この頃から、興銀、富士銀等に対し、松本はこの山一問題を記事にすると伝えている。富士銀行本店に置かれた山一メインバンクの「再建室」に日参して調べあげた、その内容には絶対的な自信があった。  しかし、予想通り、彼らの反応は芳しくなかった。それどころか、彼らは大変な剣幕であった。「とんでもないことだ」。ある意味で、彼らのそうした反発も当然であった。次第に再建案が固まりかけていた頃だったからである。しかし、松本としても簡単に引き下がるわけにはいかない。それならば妥協して、前向きの内容、即ちメイン三行の支援で、山一の再建は可能という記事にするからと食い下がったが、了解は得られない。こうしたやりとりが続いているうちに、松本の動きは次第に上から封じ込められることになった。 《マスコミへの働きかけ》  興銀の菅谷経由で話を聞いた中山興銀頭取、あるいは直接、報道すると申し入れを受けた加治木らが、そうさせてはならないと、次々に手を打ち始めたからである。  再建策を練っていた大蔵省及び銀行の実務担当者達もさることながら、より大局的な立場からこの問題に取り組んできた加治木、中山らの不安は一層深刻であった。中山が後に語ったところによれば、その時の思いは、昭和恐慌の時はまだコミュニケーション手段が充分発達していなかったから、恐慌のスピードが遅い、これに比べ山一の場合はテレビ、ラジオの発達で恐慌の波及の仕方が段違いに速く、一挙に恐慌がくる危険性がある(注14)。したがって、絶対に報道されては困るというものであった。菅谷としては、松本の取材努力に敬服もし、次第に解禁してもよいのではという気持になっていたが、中山のこうした説明に、あらためて問題の深刻さを認識し、引き続き松本の引き止め役を務めることになった。  この場合、日刊工業新聞が富士銀行と取り引きがあり、同社の旧幹部の中に田中角栄大蔵大臣(その後、田中角栄著『日本列島改造論』は日刊工業新聞社より出版)と個人的なつながりを持っていた人がいたということが大きな影響を与えた。上層部からは、この際、筆を折ることもやむを得ずとの声が聞こえ、特に編集局長からは「洛陽の紙価を高めればよいではないか」と慰められている。  松本が情勢の変化に合わせて何度となく書き直した原稿のポイントは、  一、新山一で再建  一、メインバンク三行の全面的バックアップ  一、日銀の低利金融の引き出し というものであり、さらに松本の見解として、運用預りが山一破綻の原因の一つであること、再建ができるかどうかは疑わしいこと、赤字は公表三五億円の約一〇倍に達する見通しであること——などがつけ加えられていた。  実は、こうした松本の動きが「プロローグ」で述べた大蔵省と七社会間の報道協定が生まれるきっかけとなっている。  松本の取材内容をキャッチした大蔵省証券局の加治木財務調査官は事態を重く見て、日本経済新聞の円城寺次郎常務(後に同社長、現・日本経済新聞社顧問)に相談している。円城寺は加治木に、新聞、通信社関係の集まりである七社会(編集局長会)の存在を教え、そこでもし書かないことを決めれば、準加盟の日刊工業も従わざるを得ないだろうとの見通しを伝えた(注15)。  いずれにせよ、加治木は日刊工業の松本に対し、他社が報道しそうになったら、すぐ通告するとの一札を入れた上で、七社会の経済部長に、山一報道について自粛を求めている。四月下旬のことである。  加治木は後にエコノミスト誌の回想の中で、昭和三十九年の暮れ頃から、マスコミ各社の自粛を要請したと受けとれる発言をしているが、恐らくこれは記憶違いであろう。実際は昭和四十年春、それも四月も遅くなってからのことだと思われる。  加治木は、在京七社の経済部長が集まったその席で、率直に山一証券の状況を説明し、大蔵省がどのような方針でいくのか、再建見通しについて述べた。いま、山一証券の件が世間に漏れたら証券会社は全部潰れてしまう。山一だけが潰れるのではない。書くべきか、書くべきではないか、ひとつあなた方の良識で判断してもらいたい。加治木はこのように訴えたのである(注16)。  加治木のこうした話にさかのぼる数ヵ月前には、既に各社とも取材を重ねていたから、加治木の申し入れを受けた彼らは、その対応に苦慮した。加治木の申し入れを最終的には受けざるを得ないとの判断にたった経済部長に対する前線の記者達の反発は激しかった。  いずれにせよ、初回は各社経済部長、二回目は各社経済部デスクと、加治木邸での七社会に対する説得は難航したが、結局、各社ともいくつかの条件をつけた上で、この要請を受けた。五月二十三日頃までは報道をさし控えるが、二十四日朝刊には、取材結果を掲載すること、その間、国会審議で、山一の社名が口にされた場合には直ちに、規制解除というような条件であった。この時加治木は、五月二十六日に予算委員会で社会党の横路節雄が質問する予定だから、それまでは待ってほしいと七社会に依頼している。しかし、彼らはその依頼を断っている(注17)。  ここで不思議なのは、なぜ加治木が地方紙を加えた報道協定を結ばなかったのかということであろう。加治木の説明では、話し合い先を拡大すると、情報が漏れる恐れが大きくなり、かえって危険ではないかという判断からであった。しかし、これは後に明らかになるように加治木の最大の痛恨事となる。 《社会党への根回し》  加治木にとって、マスコミと同様、予想される危機の引き金になる恐れがあるのは、社会党議員の国会質問であった。昭和四十年一月に国会に上程され三月に始まった証取法改正の審議は幸い順調に進んでいる。このまま何事もなければ、五月の連休明けにも衆議院を通過するはずである。何とかして、それを現実のものにしなければならない。  他方、社会党の堀昌雄、横路節雄、有島輝武、只松祐治ら大蔵委員会を中心とした面々は、当然のことながら、山一の経営悪化のニュースをキャッチしていた。ことに堀の場合、証券局長の松井直行と海軍時代からの知己という点が政府との情報交換という意味で幸いした。堀はその松井に、山一は大きな問題を抱えており、社会党としては黙って見過ごすことはできない、近々国会で取り上げると述べている。当然のことながら松井の反応は、現在、政府としては手を打っている最中なので、もうしばらく待ってほしいというものであった。  堀たちも事の重大性及び、それが明るみに出ることの影響は充分承知していたから、しばらく質問をさし控えることになった。ところが、堀はある日、東京・九段の宿舎で書記長の成田知巳から直々に、山一の状況は承知しているのか、国会では取り上げないのかと問われるのである。堀は、これまでのいきさつを説明し、混乱を起こす恐れがあるので、国会では取り上げていないと述べ、その場をつくろったが、成田の直接の話となれば、堀も無視するわけにはいかない。堀は国会質問を決意する。  結局、証取法改正の成立の目途もたった五月十日前後に、堀は衆議院大蔵委員会の吉田重延委員長に対し質問通告を行った。  大蔵省側の反応は驚くほど早かった。堀らは大蔵省大臣室に呼ばれ、田中大蔵大臣、それに松井証券局長、加治木財務調査官らから、もうしばらく時間を貸してほしいとの要請を受けた。彼ら大蔵省側は、こうした要請の背景として、山一の再建案はもうすぐまとまるという点を理由としてあげた。しかし、堀としても、書記長からの話があったことを考えれば、易々とは引き下がるわけにはいかない。そこで堀は重ねて、いつを目途に、またどのような条件で待てばよいのかを尋ねている。それに対し、加治木らは、社会党の質問でマスコミの報道を解禁させると答えた。即ち、加治木らの考えは、社会党に質問を控えてもらう代わりに、再建案は彼ら野党側の質問に対する答弁という形で発表する。そうすることによって、大蔵省側の報道規制という目的は遂げられ、他方、社会党は面子を失わずに済むことができるからであった。他方、マスコミは政府の答弁で明らかになった山一再建計画を報道する。  このような大蔵省側のシナリオを、堀らとしても、全く考慮しないわけにはいかなかった。大臣からの直接の要請だったからである。また大蔵委員会のベテラン議員である堀としては、田中、加治木らのそうした考え方をよく理解できたし、何よりも社会党の質問が契機になって取り付けが起きたなどと言われたくはなかった。  この場合、重要なのは、大蔵委員会での社会党の存在は、当時世間が抱いていた社会党のイメージとは大きく異なっていたということである。よく知られているように、佐々木更三委員長、成田書記長のコンビは、社会党内では左派グループに属しており、政府との対決色を鮮明にしていた。  ところが、大蔵省証券局の発足、あるいは免許制への移行等、証券行政の主要事項について、政府側と掘ら社会党の大蔵委員との間に意見の不一致はほとんどなかった。それどころか、堀らが、証券行政に対し一歩踏み込んだ発言をする田中大蔵大臣とともに、大蔵官僚をリードしたと言えないこともないのである。堀には、大臣就任前に政調会長を務めていた田中に対し凡ようとの印象しかなく、大臣になってはじめて彼の頭の回転力の速さと決断力に驚き、大いにその認識を改めたという。  他方、大蔵省側の堀の証券知識に対する評価も極めて高かった。結果的には、こうした社会党と田中大蔵大臣及び大蔵省の間の一種の信頼関係が、堀らが大蔵省側の要請を受け入れる下地となったのであった。 3 赤字は二八二億円 《実態解明に乗り出したメインバンク》  さて富士、三菱、興銀のメイン三行は、山一の新体制発足後から再建案作成のために、本格的に山一の実態把握に取り組み始めていた。三行の中では特に富士が、この再建案作成の過程をリードしていた。しかし、関連会社と山一の関係が不明確であり、またメモ程度の経理関係書類が次から次へと見つかるために、彼らの作業も極めて難航していた。ちなみに、山一の関連会社は、山響不動産、山一関西不動産、東和産業、東洋航空工業、国際友情倶楽部、フェアレーンズ等一二を数えていた。  当時、富士の審査一部で証券担当だった辻野猛(現・同行常務)は、このような状況のなかで漸く、山一の経営状況を解明しつつあった。そして辻野は、忘れもしない昭和三十九年十二月二十四日、その概要をつかんだのであった。当然のことながら、その数字は十一月に公表された九月期決算よりも山一の経営が遥かに厳しい状況にあることを示していた。辻野はこれを富士、三菱両行から、山一に派遣されていた磯部、中島両専務に報告する一方、メインバンク三行の常務にも伝えている。彼らは一様にその傷口の深さに驚き、とりわけ磯部、中島らの驚愕ぶりは尋常ではなかったという。  他方、十月末に山一立て直しのために社長に就任した日高は、こうした数字をもとに、年明けの昭和四十年一月中旬には、大蔵省に対し再建要綱を提出している。これ以降、山一再建をめぐって、具体的に関係者がどのような議論を戦わしたかは明らかではないが、一つ明らかなのは、この段階で既に関係者の間で、三行を中心とした民間レベルで再建を図る案と日銀の支援を仰ぐ案とが検討されたということである。  たとえば、興銀の菅谷は、株式市場は閉塞状態にあるのであり、ある時点で必ず盛り返すはずである。したがって、三行のリスクで面倒を見るべきだと考えていた。それに対して、関係者の間に広く聞かれたのは、倒産寸前の企業に銀行が深入りすることは、株主に対する背任罪を構成するというものであった。この考え方でいけば、公的機関による救済、即ち日銀資金による救済ということになる。  言うまでもなく、後者は三行(前出の菅谷は例外)の意見であった。ただここでつけ加えておく必要があるのは、彼らも日銀法第二五条による緊急の融資を、念頭においていたのではないことである。彼らはそれまでと同様、通常枠以外の特別融資を考えていたのであった。 《厳しい日銀の姿勢》  昭和四十年一月中旬、再建要綱を大蔵省に提出した日高は、続いて三行が中心になって練った金利棚上げを眼目とする再建計画を作成し、大蔵省、日銀の協力を依頼した。しかし、そこからが問題であった。三行側の計画は、日銀資金の導入を前提とした再建計画だったからである。三行としては日銀の了解を得た上で、山一の関係銀行に対し、融資の協力方を依頼する予定であった。  ところが、三行が予想していた以上に、日銀の態度は厳しかった。こうした銀行の打診に対する当時の日銀の一般的な反応は、最初は手を拱(こまね)いていて、事態が悪くなってから日銀だけでやってくれという銀行の姿勢は、あまりにも虫がよすぎるというものであった。  一般的には日銀への特融は五月に至り、山一の状況がさらに悪化した時点で、初めて考慮されたと理解されているが、以上のように三行は既に独自の立場から、日銀資金によって山一救済を図ろうとしていたのであった。  そしてそれはまた、日本共同証券、日本証券保有組合等を通じ、三、四〇〇億円にのぼる資金を既に投入していた日本銀行の反発、とりわけ営業部を中心とした事務レベルの三行に対する批判を招いたのである。  他方、三行にとって頼みの綱である大蔵省のこの時点での態度は、如何なるものであったのだろうか。三行の方針を大蔵省が支持したという証拠はない。大蔵省は日銀法第二五条による山一救済をシナリオの一つに考えつつも、まだこの段階ではそれを認めることはなかったのである。つまり大蔵省、日銀の歩調は少なくとも、この時までは同一だったといってよい。  もちろん日銀としても、いずれ何らかの特別措置実施のやむなきに至ろうとの認識はあった。しかし、個別企業の救済のために、特別措置を実施することはできないというのが大方の意見であり、それに前述のような感情的な反発もあった。こうしたことから、三行を中心とする関係銀行団の一層の努力を促すという、事実上の拒否回答を行ったのである。このようにして、三行が当初考えた方法は暗礁に乗りあげる。  他方、この間にも、山一は毎月三億円程度の赤字を累積している状況であったから、三行はとりあえず山一の取引銀行一八行の金利棚上げ(三行及び関係一三行は利息全額、安田、三菱の両信託銀行は利息日歩一銭を超える分)を具体化するよう各行と折衝を開始している(しかし後述するように、話し合いは進展しない)。 《メインバンクの思惑》  以上のように、メインバンク三行が直接的に責任を回避したいと考えたことこそ、山一が一層深刻な状況に陥りつつあることを示すものであった。もとより、山一を潰してはならないという点で、三行間に意見の不一致はなかった。しかし具体的な救済方法について、三行の足並みは完全には揃っていなかったのである。たとえば、運用預りに用いられた金融債の発行銀行としての責任から興銀が、またメインバンクの中でも富士が、日銀総裁に宇佐美洵を送り出した三菱よりも、救済に熱心であるように思われた。  三菱の消極性は、昭和三十七年から筆頭専務として中島俊一を山一に送っていたにもかかわらず、正確な実態が一向につかめなかったことと関連がある。即ちこれ以上、山一に深入りしては危険という認識があったのである。同時に三菱には、メインバンクを務める日興証券が既に述べたように、山一同様極度の経営不振に陥っており、そちらに力を注がなければならないという事情もあった。  山一が倒産か再建かの二者択一を迫られていた時に、三菱出身の中島専務は健康上の理由から辞表を提出した。そのことも、三菱のこの問題に対する消極性を示すものとみられた。  いずれにせよ、以上述べたように、メイン三行の足並みは必ずしも揃っていなかった。しかし、どのような形にせよ、メイン三行がある程度の責任を負わざるを得ないことも明らかであった。つまり最終的に日銀の資金をあてにするにせよ、あるいは三行が全面的に面倒をみるにせよ、山一の経営の実態把握は彼ら三行の責任であった。そうしたことから、前年暮れに富士の辻野が明らかにしたおよその数字を受けて、興銀、三菱の担当者は、さらに詰めの作業を続けることになった。 《富士銀本店の山一「再建室」》  他方、証取法の改正案が衆議院で採決される予定の日だったというから、おそらく五月初旬、連休明けの頃だったであろう。証券局業務課課長補佐だった水野繁は、急きょ国会から大蔵省に呼び戻された。加治木財務調査官からの呼び出しであった。そこで、水野は初めて山一の状況が、伝えられている以上に悪いことを知った。このことは、同時に、それまでの間、省内でも秘密が保たれていたことも示すものであった。いずれにせよ加治木の指示で、水野は三行の実務担当者が詰めている富士銀行本店に急いだ。山一「再建室」に当てられた会議室の壁には山一関連会社の図表と、それまで明らかにされた数字が書きこまれており、水野をひどく驚かせた。  この段階、即ち五月の連休明けの段階で、大蔵省が水野を直接、三行の実務担当者のところへ送り込んだことは、加治木らが事態をそれまでより切迫したものととらえていたことを示すものであろう。即ち、この頃は、報道各社との協定が結ばれるか結ばれないかの段階であり、また日銀融資を断られた三行は日銀から求められた市中銀行レベルでの救済がいよいよ困難になりつつあると考え、盛んにより高度の措置を、大蔵省に依頼しつつある時期だったからである。そして、何よりも肝心の山一証券の業容が急ピッチで悪化しているという事実があった。  こうしたところから、加治木はこれまで以上に大蔵省が介入しなければならない状況を想定、水野を送り込み、自らの責任で再度山一の実態を正確につかむという方法を選んだものと思われる。この時、水野は加治木から、いざとなれば日銀特融という方法があるから、と聞かされている。  水野も加わって明らかにされた山一の昭和四十年三月末の赤字は、子会社に移動した疎開株実損六九億円、手持株式評価損一〇九億円、関係会社株式プレミアム損二九億円を勘案すると、資本金八〇億円に対し、実に二八二億円にのぼっていた。これは公表された数字八四億円の三倍を超えるものであった。  このような数字を踏まえ、大蔵省の水野、富士の辻野をはじめとする三行の実務担当者は、山一の月間収支均衡案作成に取り組んでいる。  しかし、ここで興味深いのは、再建案作成に当たっていた三行の実務担当者達は、まだ日銀法第二五条発動を必要とする事態になることを全く予想していないという点である。このことは、既に何度も指摘した運用預りの危険性については、一部関係者を除いては充分に認識されていなかったことを示すものであった。 《再建案の作成》  さて、山一の再建案、即ち月間収支均衡案のポイントは、長短借入金の金利棚上げ、店舗数、従業員の削減にあった。その中でとりわけ問題となったのは、メイン三行以外の関係銀行(第一、東京等一五行)からの借入金の金利棚上げをどのように扱うかであった。四月末、メイン三行首脳が改めて山一再建のため、金利棚上げを行うことを決めてはいたものの、それ以外の関係銀行との折衝は、この五月初旬の段階においてもまだ充分には進んでいなかった。メイン三行の方針がまだ完全には一致していなかったことと、何よりも山一の状況把握に時間がかかったためであった。  関係銀行との話し合いの中で三行は、三行並みの条件で、他行の協力を求めたが、関係銀行の中には棚上げするにしろ三行がより重く責任を負うべきだとの主張や、三行には経営責任があるのだから、三行だけで面倒をみるべきとの意見があった。その結果、話し合いは五月の中旬までもつれこむことになる。五月十九日には佐藤一郎大蔵事務次官、佐々木直日銀副総裁も出席して井上(第一)、金子(東海)、中村(勧銀)をはじめとする関係銀行首脳を説得したが、そこでも棚上げに関し基本的な同意は取り付けたものの、完全な合意を得るには至らなかった。その時の状況は次の『戦後金融財政裏面史』の一節がよく伝えている。 「うっそうとした木立ちに囲まれ、外界から隔絶された奥深い一室では、佐藤大蔵省事務次官、佐々木日銀副総裁、岩佐富士銀行頭取、中山興銀頭取、中村三菱銀行副頭取らが主役となり、井上第一、金子東海、中村勧銀の各頭取はじめ、山一に融資している関係銀行首脳に『信用恐慌防止のため』利子棚上げについて切々と協力を訴えていた。  その前日に連絡を受け、何事かと急遽駆けつけた関係銀行の首脳連は金融マンとして身につけた日ごろの素養から表情にこそ出さなかったものの、内心では割り切れぬ不満を秘めていた。銀行にとって利子を長期間(いちおう三年間になっているがめどはたっていない)棚上げするということは、常識では考えられぬことだ。  しかも山一については関係銀行はかねがね不信をもち、主力銀行の富士、三菱、興銀のなまぬるいやり方に批判がくすぶっていた。山一をして今日の危機に至らせたのは山一自身の責任が大きいことは事実だが、主力銀行ももっと早くから対策を講ずるべきでなかったか。こうした銀行間の複雑な感情問題とならんで、山一の再建案がなまぬるいとする批判も強かった。  もちろん各銀行とも『信用恐慌を防ぐため』との錦の御旗に公然と反逆するわけにはゆかない。だが、事前の段階では関係銀行のなかには利子棚上げに反対するところもあったし、日銀氷川寮にいきなり呼びつけ大蔵、日銀首脳の面前で協力をとりつけたやり方に『まるで虎の威を借りるようなもの』と憤慨する銀行も多い」(注18)  以上のことから明らかなように、加治木にとって魔の木曜日となったあの五月二十日の前日においても、再建案の細部の詰めは残されたままだったのである。 4 田中蔵相と高橋銀行局長 《大蔵省内の説得工作》  話を大蔵省内部に戻そう。大蔵省が山一の経営実態を示す数字をほぼつかみつつあった昭和四十年三月の雨の降る晩であった。安川証券局業務課長は加治木財務調査官の部屋を訪ね、万が一にも山一が取り付けにあった場合には、日銀法第二五条の発動しかないと述べている。元来、この問題は、メイン三行の責任で処理すべきだと主張していた加治木も、日銀出動の可能性を考慮する段階に来ていると判断していたから、安川の意見に異存はなかった。五〇〇億円にのぼる運用預り債券の引き出しが一斉に行われれば、民間銀行の手に負えるものではないとの認識からであった。もとより、そのような事態を招かずに問題を解決することが最善であることには違いがなかった。  しかし、万が一、そうした事態に立ち至った場合でも、メイン三行を中心に、関係銀行団が最大限の努力をしていることが明らかになっていなければならない。その点について安川は、メインバンクが最大限の努力をして、なおかつ限界を超して手の打ちようがないというときでないと、日銀特融を申請する大義名分がたたない。したがって、態勢を整える一方、結局は伝家の宝刀を抜く時がいよいよ来るのかもしれないと考えていた、と述べている(注19)。  そうしたことから、加治木、安川は引き続きメイン三行に再建案作成を督促する一方、大蔵省内の対策に着手した。  加治木のなすべきことは、この問題を所轄とする高橋俊英銀行局長(後に公正取引委員会委員長)を説得し、日銀から特融の了解を取り付ける一方、田中大蔵大臣の許可を得ることであった。しかし、「ゴリポン」の愛称で親しまれたその高橋も、局長就任早々、融資ルールの確立など厳しい銀行行政を展開し、特にこの頃、発覚したいくつかの経済界の事件をめぐっては、銀行批判をくり返していた。  実際、この頃、銀行の姿勢を問われる不祥事が相ついでいた。昭和四十年三月六日には山陽特殊鋼が負債額五〇〇億円を抱えて倒産した。荻野社長の強引な経営が倒産の大きな原因とはいえ、同社には、山一同様三菱、それに神戸銀行から役員が派遣されており、したがって、放漫経営を見逃してきた銀行の責任も追及されていたのである。また四月二十一日に衆議院大蔵委員会で取り上げられた吹原産業事件では、三〇億円の手形をめぐって、三菱、大和、三和の上位三行が関係していた(注20)。  こうしたことから、山一に対する日銀特融が決まる約二週間前の五月十二日には、全金融機関に対し、「姿勢を正して経営の刷新に努力せよ」と、異例の蔵相依命通達が出されたほどであった。既にこれら一連の事件以前から、高橋局長は石野大蔵次官—大月銀行局長時代の都市銀行と大蔵省の協調関係、悪くいえばなれ合いの関係を修正しようとしていた。  こうしたことからすれば、高橋がメイン三行の責任を問題とせずに、日銀資金による山一救済案を支持するようにはとても思えなかった。反対に、三行のこれまでの姿勢を強く叱責する可能性が大であった。  ところがである。加治木の予想とは全く違って、高橋の反応は極めて好意的であった。四月に入ってからのことである。「メイン三行が山一に融資するので、その金繰りを日銀にみてもらうよう折衝してもらいたい」このように頼む加治木に対し、高橋は既に証券界の不況に充分通じており、下手をすれば金融恐慌まで発展する可能性があるとの見解を示した。そして結局は、総本山(日銀)を動かさなければならないだろう、との見通しも明らかにしたのである。加治木は、この高橋のものわかりのよさに仰天し、同時に関門を一つ突破したことに胸をなでおろしたという。  この場合、次の点は重要である。即ち昭和十六年入省と加治木の方が高橋より年次は一年遅いが、預金部時代に席を同じくして以来、二人は個人的に極めてウマの合う親しい間柄だったということである。関係者の話によれば二人は、しばしば互いの部屋を訪れていたという。たしかに、そうした関係を示すかのように、加治木は後に、高橋の追悼集出版の幹事役を務めている。加治木も高橋とのこうした個人的なコミュニケーションの間に、証券界の苦境についてしばしば触れていたのかもしれないと証言している。  証券局は誕生して日も浅く、大蔵省内での地位も決して高くはなかったこと、また問題の性質が証券局から銀行局への依頼事項であったことを考えれば、このような二人の個人的に密接な関係が、問題の処理に大いに役立ったことは明らかであろう。本来ならば松井証券局長が動くべきところを加治木が動いたのも、松井局長は証取法改正を担当して多忙であったからというよりは、加治木がこの問題に長じ、また高橋とも緊密な関係にあったからという説明により説得力がある。 《銀行局長、苦渋の判断》  とはいえ、高橋が加治木との個人的関係によって依頼を受け入れたわけではない。高橋はなぜ、日銀法第二五条の発動を支持したのであろうか。本人が故人となったいま、その理由は知る由もないが、いくつかの理由が考えられる。  第一は、既に述べたような形で融資ルールの確立を説いた高橋が、銀行団に対し、その舌の根も乾かぬうちに倒産寸前の山一に追い貸しせよ、などと言えたのだろうかということである。  第二は、この年の二月十八日の衆院大蔵委員会で高橋が、大和銀行の信託分離(同行は唯一、信託経営を行っている銀行)に触れ、その経営が悪化しているが如き発言を行ったことに関連している。高橋は社会党の武藤山治の質問に対し、現在大きな銀行で信託業務を併営しているのは大和銀行だけであり、一行だけ残っているのは問題なので、多少無理はあっても、銀行全体の立場から分離するよう指導すると答えている。さらに、記者会見でも、大和銀行の不良貸し付けなどの経営態度は好ましくないので、前から指導してきたこと、外部負債が多いので経営が信託部門に偏り、分離した場合、銀行部門をどうするかが問題になる、などと述べている(注21)。  こうした高橋の発言に対し、大和側が驚きと同時に怒りを隠さなかったことは当然であったが、山一事件との関連で言えば、次の点が重要である。即ち、その晩直ちに寺田副頭取が日銀大阪支店長及び本店沢田営業局長に連絡を取り、預金引き出しに備え、緊急融資の手はずを整えたのである。第二章で述べた、昭和二年の金融恐慌の二の舞を恐れてのことであった。  第三には、後述するような、この問題に対して予想される田中大蔵大臣の意向である。当時、省内で、高橋は田中に極めて近いとみられていた。前述の大和銀行の信託分離発言も田中の指示によるものというのが、当時の大方の見方であった。  二人の関係は、高橋が大蔵省の資金運用部時代に、若手代議士として売り出してきた田中と会ったことに始まっている。それ以来、高橋の頭には自分は財政政策に関する田中の師であるという意識が強く、田中の大蔵大臣就任には、盛んに「やりにくい」を連発したという。しかしまた、二人の間柄は高橋がダダッ子の田中をあやすようなものだったという証言もある。いずれにせよ、田中が高橋に絶対の信頼を置いていたことは疑いがない。  こうした三つのことと、加治木の日銀法第二五条発動要請に対する高橋の好意的発言とが大いに関連があることは確かであろう。  ただし、高橋が日銀法第二五条発動に双手をあげて、賛成していたとも考えにくい。たとえば、高橋は加治木同様、本来は三行が山一の再建に責任を持つべきとみていたようである。五月二十一日の例の西日本新聞のスクープが出る少し前というから、五月中旬であろうか。興銀の青木常務は菅谷企画室長とともに高橋銀行局長を訪れ、山一の関係資料を手渡した。高橋は、その際、興銀はじめメイン三行が全責任を持って、山一の面倒を見るつもりはないかどうかを、かなり突っ込んで聞いているのである。まだ、この時点で、高橋は三行の線も考えていたということになろう。この点についてつけ加えておくならば、興銀内部では、中山頭取以下、長期信用銀行の立場からみて、三行だけによる山一救済は避けるべきだとの意見に固まりつつあった。  こうしたことに加え、高橋が渋々これを承知せざるを得なかったと思われる、いくつかのエピソードがある。高橋を囲む親しい報道関係者(たとえば、毎日の山村喜晴、時事の斎藤文則)が何人かいるが、その誰にも、この山一証券に対する日銀特融事件の経緯を話していない。事の重大性からみて些か不思議である。また高橋の令息は、「政策的な話を好む父」からしばしば省内のエピソードを聞くことが多かったが、一度も日銀特融について聞いていないのである。  さらに、五月二十八日、日銀特融発表の深夜の記者会見で、ウイスキー・グラスを片手に質問に答える高橋に、日本経済新聞の若手記者白石文昭が、「こんな重大な席で、その態度は不謹慎ではないか」と詰めよると、「俺の苦しい胸の内も察してくれよ」と答えたというのである。  もちろんこの点については、後述するように、高橋は関係銀行の説得に疲労困憊していたという別の解釈も成り立つ。しかし、筆者は第一の解釈、即ち高橋としては本来避けたかった手段ではあったが、信用恐慌の恐れもあり万やむを得ざる措置として、日銀法第二五条発動支持に踏み切らざるを得なかったという解釈に、より魅力を感じる。いったんこうと決めたら、梃子でも動かず、その道をまっすぐに進むと言われた高橋局長には、そうした解釈がよりふさわしいからである。 《大蔵大臣のゴー・サイン》  他方、田中大蔵大臣の内々の決断は驚くほど早かった。昭和四十年五月初め、高橋、加治木、安川が田中に対し、山一問題についてレクチャーすると、田中は深刻な表情を見せながら、「実態はよく理解できた」と答え、続いて具体的にどのような措置が可能かを質した。  これに対し、加治木らが日銀特融しかないと進言すると、田中はしばらくの沈黙ののち、「君、これは大変なことだぞ」と一言だけいった。日銀法第二五条発動の了解を与えたのである。人払いして、大臣が裁断するまで、僅か十分か十五分のことであったという。  このようにして、歴史的決定のゴー・サインはあっけないほどの短時間で決まった。安川は、田中の表情が一瞬引きしまったのを覚えているという(注22)。  この二五条発動の省内における決定が、このような形で行われたのは、言うまでもなく極めて異例である。省内でも高橋銀行局長、加治木財務調査官、安川証券局業務課長等ほんの一握りの人々が関与しただけであった。これは、一般的な官僚機構の決定方式、即ち課長補佐が起草し、より上位の人々の決定を仰ぐ稟議制とは全く異なっている。また、ある論者が述べるように、あらかじめ省内幹部で政策の大枠について合意があり、トップ・ダウンの形で、下僚に細部の政策立案を行わせる場合とも異なっていた(注23)。まさに秘密を要する事柄の性質がそうした通常の決定方式をも回避したのである。  以上のように、後述する五月二十八日の大蔵省、日銀、関係銀行団の決定以前の、田中大蔵大臣の決断が重要だったのだが、特に次の点には留意する必要がある。  それは、加治木、安川らが田中蔵相に二五条発動を要請したのが、本当に五月初め、即ち相当、山一の危機が迫ってきた時点だったのかどうかということである。話を先に進めることになるが、五月二十六日の衆議院大蔵委員会で、社会党の有馬輝武委員はこの点を追及している。つまり、これほど、重要な問題をなぜ、大臣が間際まで知らなかったのかというのである。 有馬委員=「何日ごろ知られたとおっしゃいましたか。私はいまよく……」 田中国務大臣=「いまから十日ばかり前だと思います。十日ばかり前か十二、三日ばかり前かさだかではありませんが、私が談話を発表した前十日くらい、一週間くらいであります」 有馬委員=「これもやりとりになりますから申し上げませんけれども、こういった経緯があったあとならばはっきりおっしゃい。あなたは加治木財務(〈ママ〉)官を通じて十日どころではなくてそれ以前から手を打っておられるじゃないですか」 田中国務大臣=「そういうものは打っておりません。あなたの誤解です」(注24)  この後も有馬は田中に食い下がっているが、これは有馬の質問を誤解とはねのけた田中の証言の方に信憑性がありそうである。加治木、安川らには、あまり早く大臣の決断を求めて、後日それを覆されたら一大事という思いがあったようである。ことに田中大蔵大臣のそれまでの行動様式を知る彼らは、なおさらその点に注意を払ったのであった。  一般的に言って政治家と官僚の関係は微妙である。官僚が彼らの希望する政策なり決定を実現しようとする際、その政策の決定が必ずしも政治家の期待と一致しない場合、あるいはその実行にあたって政治家の干渉を回避しなければならない場合には、官僚の行動は極秘の裡になされる。この日銀特融はその典型例といえる。  しかしながら後述するように、田中が山一の業績不振を五月以前において知らなかったとは思われない。日刊工業新聞の松本記者が、一月初旬に田中を訪れた際、それほど深刻な事態ではないとの認識を示していたからである。田中の頭には日本共同証券、それに日本証券保有組合に対する日銀貸し付け、あるいは各証券会社に対する日銀の融資によって、おそらく山一を含め、証券界は立ち直ると見ていたのではないか。それが松本に対する答えとなって表れたのである。したがって、田中は山一の苦境を了解しつつも、日銀がこれ以上テコ入れする必要はないとみていたのではないか。  このように考えれば、その数ヵ月後に、山一の状況を聞かされた田中が、驚きの表情をみせながら、しばし沈黙の後に了解を与えたのは当然であった。そして、また国会答弁で自分は十日ほど前にはじめて山一の話を知ったばかりだ、と述べたのも、あながち嘘とも言えない。それほど深刻な状態になっているということを改めて知ったという意味においてである。 5 日本銀行への打診 《反発の声あがる》  同じころ日銀の佐々木副総裁は、高橋銀行局長(大蔵省)から万一の場合の日銀法第二五条発動の打診を受けていた。佐々木としても、予想される山一証券に対する取り付けが証券恐慌に、さらには金融恐慌へと拡大する可能性を防ぐには、二五条の発動しかないとの判断に傾いてはいたが、それでも反対論は営業局、総務部中心に根強かった。  基本的にどの組織における事務方もそうであるように、できるだけ面倒なことは避けたかったし、仮に発動するにせよ、大蔵省に頭を下げて許可をもらう必要はないという考えも強かった(日銀法第二五条には、その発動に当たっては、主務大臣の許可を得てとある)。また、山一に発動すれば、日興もと際限がなくなる恐れもあった。実際、営業局及び総務部のごく一部は昭和四十年四月の時点で、証券各社の業績をかなり的確につかんでいた。そうしたことから仮に日銀が特融を山一に行えば、他社に波及するのは必至とみていたのであった。  以上の理由から、日銀の事務方の空気は、一般に二五条発動に反対ないし慎重であった。したがって、その問題が佐々木と高橋銀行局長との間で相当程度、詰められていたことを知った時の、彼らの驚きはまた大きかった。  このような営業局、総務部の姿勢は、当時日銀が大蔵省に対して抱いていた感情的反発と、大いに関連があった。これまで既に述べたような形で、日銀は大蔵省の求めに応じて、証券界に対して三、四〇〇億円からの資金をつぎ込んできた。それはまた、見方によっては、これまで以上の関与を日銀に求めることになったのだが、いずれにせよ、これほど巨額の資金を証券界へ投入したことへの日銀内部の批判も厳しかったのである。 《対立続く日銀と大蔵省》  また日銀法改正問題をめぐっても、大蔵、日銀の対立は感情的レベルに達するほど激しかった。昭和三十二年夏から三十五年夏まで、金融制度調査会で延々議論された日銀法改正問題は、ついに結論が出ず、よく知られているA案、B案の両案併記の答申となった。大蔵省は両者が対立した場合に、大蔵省の指示権を認めるA案を、日銀はその議決権を一定期間延期するB案をそれぞれ支持し、合意に達しなかったのである。それから四年後の昭和三十九年三月、高橋銀行局長が口火を切って日銀法改正を再び問題にした。大蔵省内の大勢はA案を支持していたが、特に田中蔵相は強硬であった。日銀の絶対的中立性ということはあり得ない。金融政策について、政府が国会に対し責任を持つかどうかを考えてみても、それは明らかである。検察の中立性にしても、検察庁法第一四条で法務大臣の指揮権を認めている。もし日銀法に金融政策に対する大蔵大臣の権限が法律上の表現として明記されることで、日銀の中立性が侵されるというのでは、話し合いなどできないと述べている。このように田中は大蔵省の指示権明記を当然とみなしていた。  日銀の内情は複雑であった。反対論は根強かったものの、指示権を別にすれば、日銀法改正そのものについて、山際正道総裁(昭和三十九年十二月に辞任)は反対していなかったからである。こうした状況の下で日銀法改正は、証取法改正と同様、昭和四十年の通常国会での審議を目ざして事務レベルの作業が進められた。しかし結局、自民党内での調整がつかず、国会提出は見送られたのである(注25)。  この場合、次の二つの点が山一への日銀特融との関連で重要である。第一は、後に詳しく触れるように、昭和三十九年十二月、三菱銀行頭取宇佐美洵が山際の後任として日銀総裁に就任したことである。民間人、宇佐美の起用は池田内閣から佐藤内閣への申し送り人事と言ってよいが、池田退陣後も田中蔵相が強く彼の就任を推さなければ、その実現は困難だったと思われる。その田中は先述のように、日銀に対する指示権の明記に固執していた。またそれまでの経緯から、新総裁の立場も田中と同じだと考えられたから、当初、日銀事務レベルの宇佐美に対する感情的反発は大きかった。  第二は、大蔵省内で日銀法改正を担当した高橋銀行局長は、どちらかといえば日銀に同情的であったということである。高橋は政府が日銀の人事権を握っている以上、個別政策については、日銀の中立性を最大限に認めてもよいとの考えであった。つまり高橋の議論のポイントは、昭和十七年制定の日銀法を、IMF八条国への移行等、開放体制により適合するよう改めるべきだということであり、指示権の有無ではなかった。この点は日銀の立場と一致する。  その高橋は、日銀法の改正問題では、佐々木副総裁と問題点を詰めていたが、他方、この二人は山一特融問題を取り扱っている。日銀法改正をめぐる大蔵、日銀の対立は激しく、それがひいては自民党の議論にもはね返り、結局、国会への提出は見送られた。しかし、こうした過程での高橋、佐々木のコミュニケーションの積み重ねは、山一をめぐる二五条発動にプラスになりこそすれ、マイナスにはならなかったのであった。つまり高橋が日銀の立場に同情的だったことは、日銀に対して二五条発動を求める際に、有利な材料となったという意味においてである。佐々木は、事務当局の反発を抑えて二五条発動を決めるが、それを容易にさせた一つの理由は、高橋の存在であっただろう。  大蔵、日銀の対立で、もう一つ重要なのは、既に述べた金融政策をめぐる問題である。一つだけ再確認をしておけば、昭和三十八年十二月の時点で、既に貿易収支の赤字幅拡大に対応して引き締め政策の必要性を強調していた山際は、大蔵省側の反対を抑えて公定歩合を引き上げようとし、大蔵、経済界の批判を受けていた。山際は池田首相と大蔵省の同期生だったが、日銀総裁時代、次第に政策面で池田と折りが合わなくなっていたのである。  以上のように、大蔵省と日銀は、この頃、深刻な緊張関係にあった。そして、それはまた中立的立場にあるはずの日銀政策委員にも少なからず影響したかにみえる。彼らの中には、特融が議論された段階で二五条を発動するにせよ、政府に保証を求めるべきであり、法案を用意してもらうべきだという声もあったほどであった。  このように、日銀の姿勢は全体として二五条発動に慎重であった。 第四章 決断——二八二億円の日銀特別融資 1 潜行取材が続く——報道協定のすき間 《洩れた「協定」の事実》  日銀の大蔵省に対する抵抗、また再建案をめぐる関係銀行の足並みの乱れ、さらには、漸く協力を取り付けた報道の自粛がいったいいつまで続くのかといった点が、加治木、安川をはじめ大蔵省関係者を大いに悩ましていた。特に取り付けの引き金になる恐れのある新聞報道が気がかりであった。そして、そのような不安は徐々に現実のものとなりつつあった。加治木が根まわしを怠っていた西日本新聞が精力的に取材を開始していたからである。  昭和四十年五月の連休明けの土曜日、八日のことである。兜町詰めの西日本新聞記者松尾励は、机を並べる某社のキャップから驚くべき話を聞いた。朝日、読売、毎日、日経、産経、東京、共同通信の在京七社及び時事通信、日刊工業、NHKの三社が大蔵省との間に、山一問題で報道の自粛協定を結んだというのである。それも七社会は、大蔵省からの情報提供と引き換えに申し合せに応じたという。松尾も何かあるなと薄々は感じていた。しかし、まさか大手各社だけが勝手に取り決めを結ぶとは。疎外された気分を通り越して、松尾には、憤りだけが残った(注1)。  松尾にこの情報を洩らした某社のキャップの意図が、どのようなものであったかは分からない。しかし一つだけ明確なことは、これを知った西日本新聞が、独自に取材を開始する結果になったことである。松尾が持ち返ったこのニュースに驚いた東京支社の近見政経部長、松尾、吉安裕幸、川崎彰三は、その日の夕刻に早速、今後の方針を協議している。その席では七社にならって報道の自粛という話は出ていない。それもそのはずである。他社とは違って、大蔵省から記事を書けるだけの内容提供を受けていないのである。それに、小世帯のブロック紙としては、大手各社のようにきめ細かな取材は困難であった。こうしたこともあり、松尾が他社からこの話を聞いてくるまで、山一の実態について西日本新聞は充分にはつかんでいなかったのである。  いずれにせよ、八日夕刻に開かれた会議では、各社ともある時期にくれば報道に踏み切るであろうから、我社も独自に取材を重ねるという結論になった。つまり、問題が国会で表面化すれば協定は有名無実になるであろうし、山一の再建策が決まれば、信用不安の恐れなしとして、各社とも報道するだろうというのである。  こうして、西日本新聞は取材に全力を注ぐことになった。 《核心に迫る》  取材をはじめて十日後の五月十九日、松尾は山一の関係会社、角丸証券に高宮社長を訪ねている。松尾が大阪勤務時代に山一の常務を務めていた関係で、高宮と松尾は顔なじみである。北海道への出張から帰社したばかりの高宮に、松尾はこれまでの取材結果をぶっつけて、その反応を探った。山一の元常務でしかも関係証券会社の社長となれば、当然、確度の高い情報を手にしているに違いない。松尾の勘は当たった。高宮は帰り際の松尾に、宮崎など一三支店を閉鎖するそうだと、ポツリと洩らしている。  松尾には、この高宮の話が大いにヒントとなった。  松尾はこうして支店閉鎖の裏付けとさらに正確な情報を求めて関係筋を当たり始めた。しかし、松尾にとってショックだったのは、以前から親しくしていた山一の中堅幹部が訪問した前日に既に退社していたことであった。これまで想像していた以上に事態は深刻なのかもしれない。松尾にはそのように思えた。  他方、この間にも七社の方は、大蔵省からオフレコの条件で情報を得ていたようであり、西日本新聞の大蔵詰めの吉安記者は自社独自で動こうにも動けないもどかしさを感じていた。  社会党の動きが活発になり、それとは対照的に山一のメイン三行が沈黙し、さらには既に述べたように、大蔵省証券局の水野繁が加治木の指示で、不眠不休で山一の経営実態調査に取り組んでいたのも、この頃のことである。  話を西日本の取材に戻そう。松尾が山一系中堅のD証券のS常務を訪れたのは、スクープの前日、即ち五月二十日午前十一時のことである。松尾はSとの面会によって最後の詰めを行おうとしていた。S常務はその春まで西日本新聞本社のある福岡でD証券の福岡支店長を務めていた関係で、西日本の面々とは近しかった。そんな気安さと山一出身ということもあって、S常務は松尾の取材攻勢とその根気に負けたようであった。勿論、松尾が既に集めた材料が功を奏したのかもしれない。Sは松尾に逆に聞いている。そしてフーッと一息ついた後で、Sは一気に再建策のあらましを語った。松尾が事前に入手していた情報と大きな食い違いはなかったが、それでも山一関係者からの直接の話とあれば、その信用度は遥かに高くなる。松尾が胸の高まりを抑えることができなかったのは、Sが山一の日高社長に確認した情報として語ったからであった。  あわててD証券を辞した松尾は、とるものもとりあえず公衆電話に飛びついた。勿論、翌二十一日の朝刊で報道するよう、近見政経部長の了解を得るためであった。反対するとも思われなかったが、それでも明快な部長の答を聞いて松尾は安心した。一度、社に戻った後、松尾は山一の反応を探るために、再び取材に向かっている。まだ、どこの社も、こちらの動きには気がついていないようであった。他方、近見は大蔵省から直接、報道自粛の要請が行われることも考えて身を隠している。いまから振りかえれば大げさとも思われるこうした事実も、当時、特ダネをとれるかどうか瀬戸際にあった彼らにとっては、必死の思いから生まれた苦肉の策であった。  大蔵省担当の吉安記者が、加治木財務調査官に報道する旨、電話連絡したのは、それから数時間たった午後九時過ぎのことである。「プロローグ」で記したNHK大山記者の加治木邸訪問中、加治木を憤慨させた電話の主は、この吉安であった。 《昭和四十年五月二十一日》  以上の経緯から明らかなように、一部の憶測とは違って、西日本新聞は独自の取材をもとに、山一問題の概要を報道した。彼らを発憤させ、取材に向かわせたのは、何よりも報道協定から外されたことであった。しかし、そのニュースを西日本に洩らしたのが、七社会のメンバーだったという事実は如何にも皮肉である。  西日本新聞としても、取材中に報道の是非について議論を重ねなかったわけではない。それでも最終的に掲載に踏み切った理由は、七社に対する反発を別にすれば、次のようなものであった。  たしかに山一問題の大衆投資家への影響は大きく、したがって報道に当たっては慎重な態度で臨む必要があろう。しかし同時に、この事実をいたずらにひた隠しにすることは、かえって大衆投資家の目をおおうことになり、結果的に対策を怠った大蔵省などを一方的に擁護することになるのではないか。それでは公正な報道をすべき言論機関の使命にもとることになる。  この見解が、事実に照らし合せて正しかったかどうかは別として、彼らはそのような理由に基づいて報道を決めたのであった。しかし、その際に、大衆投資家への影響を充分に配慮して、センセーショナルな扱いは極力避けることにした。したがって、こうした配慮から出来上がった五月二十一日付朝刊一面の見出しは、「山一倒産の恐れ」というような直接的なものではなく、「近く再建策発表」という点を強調していた。しかし、その見出しの表現がどのようなものであれ、この西日本の報道がもたらした影響は、まさに安川、加治木らが想定した最悪のシナリオにそうものであった。加治木が電話口にしがみつき、必死になってその自制を求めた報道内容はどのようなものであったのだろうか。歴史的な記録という点からも、また、二十一日当日に急きょ発表された再建策と比較する点でも、その全文を引用することは意味があろう。 ------------------------------------------------------------------------------- 山一証券、経営難乗り切りへ 近く再建策発表 社党、国会で追及か  山一証券(資本金八十億円、社長、日高輝氏)は、経営難打開のため、かねて主力三銀行(富士、三菱、興銀)の協力をえて、抜本的な再建策を検討していたが、このほど㈰店舗・人員整理などの内部合理化㈪金利負担の圧縮を柱とする経営改善策を固めた。同社は業界内部への影響を考慮して、あくまで経営難の表面化を避けてきたが、社会党が国会で同問題を追及する動きを見せてきたため、近く再建策を発表する予定である。産業資本調達の使命をもつ大証券が、このような経営難に直面したことは前例のないことである。しかし、政府や日銀は『系列会社や一般投資家に実害がない前向きの対策だから、連鎖倒産や社会不安を招く心配はまったくない』とし、証券界建て直し策の一環として、同社再建を援助する姿勢をとっている。  同社再建案の内容はつぎのようなものとされているが、銀行側は、金利負担の軽減問題についてなお最終的な調整を続けている。 【社内合理化】 ㈰店舗の整理統合=現在の九十店舗のうち、宮崎支店など十三店舗を六月末までに閉鎖、閉鎖支店の業務はもよりの有力支店に移管する。最終的には七十店舗をメドとし、不採算店舗はこんごも整理する。  ㈪機構の簡素化=本社を中心に部、課の大幅な統廃合を実施、これによって生ずる遊休ビルは売却、整理する。  ㈫人員整理=閉鎖支店、機構簡素化に伴う余剰人員を中心に人員整理を進め、現在従業員六千七百人(四月末)を最終的には五千人ていどとする。 【金利負担の圧縮】 銀行借り入れ金にたいする金利(月一億五千万円ていど)のタナ上げ、あるいは低利融資への切り替え。  証券界の業績は、三十六年度以降、景気調整下の株価不振で悪化の一途をたどり、昨年度(九月年一回決算)は、四大証券はじめ軒並み無配に転落した。とくに山一証券は、昨年度三十四億円の大幅赤字を出して経営難に陥った。このため、同社は興銀出身の日高輝氏が新社長に就任、経営改善のため大都市十一支店の閉鎖などの合理化に取り組んできた。  しかし、はてしない株式市場のドロ沼相場で、営業収入は大幅に落ち、半面、金利負担や人件費など諸経費はふくれあがる一方で、この三月仮決算(昨年十月—本年三月)でも、約九億円の赤字を出すなど、経理内容はますます窮迫、業界内部に“黒いウワサ”が流れていた。  消息筋によると、同社の負債総額は約六百億円といわれ、うち主力三銀行をふくむ銀行借り入れが二百六十億円で、これが経理面を大きく圧迫している。  同社の再建策について銀行筋は『この実施によって経常収支の黒字転換は早いが、完全な再建にはかなり時間がかかる』とみている。  谷野山一証券常務の話 経営の自力再建策については、まだ発表の段階でない。しかし、地方支店の閉鎖や本社役職者の整理など合理化は、すでに実施段階にはいっている。だが、昨年秋からの合理化で企業体質はかなり改善され、経常収支は黒字に転換した。いずれにしても一般投資家に迷惑をかけることは絶対にない。 (解説 省略) -------------------------------------------------------------------------------  どのように試みても、西日本新聞の報道を差し止めることは不可能になった二十日の深更、加治木は、安川、坂野ら大蔵省関係者に、登庁後直ちに緊急会議を開くよう連絡、さらに興銀中山にも、この事実を電話し善後策の検討を依頼した。坂野の回想によれば、加治木は大変な慌てぶりだったという。  他方、中山のところへは、深夜、長谷川才次時事通信社長からも連絡があった。通信社としては西日本が報道する以上、目をつぶるわけにはいかない。朝からファックスで流すから、了承していただきたいという内容であった。中山には、もはや、それを抑えることは不可能であった。そして、ついに来るべきものが来てしまったの思いで、中山が日高へ連絡をとったのは、五月二十一日、午前一時頃のことである。中山は、長谷川の話の内容を手短に日高に伝え、朝までに善後策を考えておいてほしいと依頼している。  日高は困惑した。「善後策を考えて置け」と言われても考えようもない。銀行への了解工作は始めたばかりだったので、その帰すうはなおはかり知れない段階にあったのだからと、その時の気持を後に記している(注2)。  この点については中山も、日高と同様に感じていた。再建案がまとまっても、関係銀行の協力が充分に得られなくては、意味をなさない。五月十九日に、日銀氷川寮で行われた関係銀行間の会合では、基本的に山一再建では一致したものの、細部では一致していなかったし、主力三行の姿勢を追及する声もあった。こうしたことが、何となく中山の気分を重くさせた。 2 予想外のシナリオ 《緊張高まる霞が関》  一夜明けた五月二十一日、大蔵省内の動きは慌しかった。いつもより早く登庁した証券局の担当者達が早速、善後策を協議する一方、午前十時からは田中蔵相を交えて臨時の会議が開かれている。皆それぞれの思いで西日本の山一報道を受けとめていたが、そのうちの何人かは比較的冷静にこの事態を受けとめていた。これまで報道管制を続けることができたことこそ、不思議だったのかもしれない。彼らはそのように考えていた。  日銀も、そして興銀をはじめとする主力三行も大蔵省と同様に混乱していた。この先、いったいどのようなことになるのか、見通しがハッキリしないという意味においてである。当時、興銀証券部の調査役として山一の経営事情を分析していた林鍾三(後に水戸証券副社長)は、この日はじめて、事態の深刻さを知り、その責任を痛感したという。  場面を大蔵省に戻そう。午前十一時半、田中蔵相は記者クラブで、漸く先ほどの会議でまとまった談話を発表した。いうまでもなく、その目的は西日本の報道で運用預りの解約が始まり、一般投資家が動揺するのを防ぐためであった。当時の報道は、いつになく、田中蔵相の表情が真剣だったと伝えている(注3)。その談話は次のようなものであった。  一、山一証券については、金融機関の協力を得て再建の方策を具体的に決めることになっているので、大衆投資家に不安を与えることはない。投資信託も別会社でやっており、投資家に迷惑がかかることは全くない。  一、現在の店舗や従業員を整理するなど、会社側の合理化計画や金融機関の利子棚上げなどの特別援助措置で、経常収支はつりあうと予想される。日本銀行も必要があれば通常の資金繰りの枠内で、弾力的配慮をすることもありうる(注4)。  以上の談話の中で、特に注目すべきところは、日本銀行の特別配慮について触れている点である。即ち、この時点で、大蔵省は既に最悪の事態を想定して、日銀トップの同意を取り付け、このような内容を明らかにしたものと思われる。  日銀では関西出張中の宇佐美総裁に代わり、佐々木副総裁が大蔵大臣談話を補足する形で、日銀としての対策をより詳細に述べていた。 「日銀としては銀行団の山一証券の金利タナ上げによって、同社の収支対策はメドがついたものと考えるが、今後も再建計画の実施状況を見守りながら弾力的に資金操作を考えたい。たとえば山一のコールで借入れた資金の肩代りが必要となれば、取引銀行を通じての資金操作によって分担軽減をはかる。  また、運用預りに解約が殺到する場合は日銀としても信用不安を防止するため、全面的に援助する考えであり、それは山一だけでなく運用十九社に対しても同様、万全の資金対策をとる。しかし、金利タナ上げというような特殊な再建策がとられたことは、それだけきびしい合理化が要求されるものであり、今後の再建計画の実施についてもきびしい態度をとらねばならないだろう」(傍点=筆者)(注5)  この佐々木の談話はいくつかの点で極めて重要である。第一は、この時点で山一に対する運用預り解約の可能性及び、それに対する対策について触れていることである。第二に、山一の再建計画の実施について、日銀があえて厳しい姿勢を明らかにしていることである。  談話のポイントが何故この質の異なる二点にあったのであろうか。おそらく、それは次のように考えることができよう。つまり、事務レベルの反対はあったものの、西日本の報道という新たな事態を迎え、日銀幹部としては最悪の事態を想定した山一救済対策を講ぜざるを得なくなったのであった。もとより大蔵省の高橋銀行局長を通じて佐々木副総裁に対し、日銀の支援態勢を強調してほしい旨要請があったことは事実であろう。しかし、既に度々指摘してきたように、日銀内部は、これ以上の山一支援には慎重な姿勢を示しており、それは山一自身の責任のみを追及するだけでなく、主力三行のこれまでの姿勢を批判するという形になって表れていた。第二の点、即ち山一の再建計画に対し厳しい態度で臨むことをあえて明らかにしたのは、そのような批判に対する答でもあった。そしてそれはまた、証券界に対し安易な姿勢をとってきた大蔵省への遠回しの批判でもあった。 《共同記者会見》  大蔵省、日銀がこのような声明を出していた頃、当の山一証券自身はどのような状況にあったのであろうか。社内では、西日本新聞の記事内容が充分伝わらなかったこともあって、朝のうちは平静であった。しかしNHKのニュースが追っかけるように報道したため、昼過ぎには社内のあちこちで立ち話をする姿が見られ、この話題でもち切りとなった。皆、それぞれの将来がかかっているだけに当然のことではあった。  他方、半年前に社長に就任したばかりの日高輝にとっては、目がまわるような忙しい一日だった。日高は三回も記者会見を行っている。第一回は、午前中の田中蔵相のそれを受ける形で、主力三行、即ち富士の岩佐凱実頭取、興銀の中山素平頭取、三菱の中村俊男副頭取三者同席の下で行われた。午後一時半から全国銀行協会の会議室で行われた会見には、金融クラブの記者は勿論、兜クラブ、社会部の記者もかけつけたために、会見場は人いきれでムッとしたと、当時の報道は伝えている(注6)。  まず、後に山一の関係銀行間で問題となるのだが、富士の岩佐が次のように発言した。 「山一証券は一ばん大きな問題をかかえているが、証券界全体としても問題は多い。いささかでも信用不安がおこれば、日本経済全体に波及する。大局的見地から銀行界でも話し合い、大蔵省、日銀も検討して山一再建策が大筋において固まった。もう信用不安がおこる心配は絶対にないと思う」  言うまでもなく、主力三行以外の関係銀行を刺激したのは、再建策が大筋において固まったと述べた点であった。たしかに、山一を救済するという点では意見の一致をみてはいたが、その条件等細部については依然対立していた。それにもかかわらず何故なのかというのである。他方、主力三行の側にしてみれば、銀行団が結束して山一を支援することを明らかにしないかぎり、この記者会見は何の意味もなかった。その点を公の場で示してこそはじめて、信用不安発生の可能性を少なくすることができるからであった。  山一側が事前に用意した再建案の骨子は、  (1) 都銀及び長銀一六行の融資額約二〇〇億円(この時点での推定=筆者注)の金利全額、信託銀行二行の融資額約六〇億円の金利のうち日歩一銭を超える分を、さしあたり三年間棚上げする。この間は元本の返済も猶予する。これによって月額約一億五、〇〇〇万円の金利負担を軽減する。  (2) 併せて、遊休資産などの処分、店舗および従業員の削減、経費節減などの経営合理化を進め、経常収支の均衡を図る。 というものであった(注7)。  このうち、店舗は四月末現在の九〇店を六月末までに七七店に整理、従業員は六、七〇〇人から六、〇〇〇人に縮小すると説明された。  あらためて説明するまでもなく、この発表から西日本新聞の報道内容が細部の点においてもかなり正確であったことがわかるであろう。  こうした合理化と銀行の支援を前提に、市場出来高を一日一億株とし、その中で山一のシェアを一四パーセント、一株当たりの手数料収入を五三銭と見込むと、経常収支が均衡するというのが、この再建案のポイントであった。  日高は席上、 「主力三銀行のおかげで、約一億五、〇〇〇万円の金利を棚上げしていただくことになった。これで経常収支の均衡がとれる目途がついた。こんどは黒字にもっていくことを期待しながら、資本市場のにない手としての使命を自覚し、努力していきたい」  と述べた。  他方、三番目に発言した中山は、日高の説明を補足するように、 「いま日高社長は、金利の棚上げが約一億五、〇〇〇万円と言われたが、実際にはこれ以上になる。というのは日銀も日本証券金融会社を通しての融資を考えているからだ。あと残っているのは技術的問題だ。たとえば金利の棚上げ期間を三年とするか、それとも一年にしておいて、山一証券の覚悟をうながしながら、そのあと延長するか……」  と、銀行団側の立場を明らかにした。実際には、日証金経由の日銀融資という中山の構想は実現せずに終わるが、それはともかく、山一側の自助努力を促した中山の発言は、主力三行が必ずしも山一を無条件に救済するものではないとの点を、山一に対してもその他の関係銀行にも明らかにしたという点で意味があった。  日高はこの後、東証、日銀の記者クラブを回っている。それぞれの場で、山一がここまで追い詰められた原因について語っているが、たとえば東証の兜クラブでは、 「日本経済の高度成長のヒズミが証券界に集約された。それが不振の最大原因。池田倍増計画の受け取り方にも間違いはあったが、政府の誘導政策も適切ではなかった」  と述べる一方、山一のこれまでの経営上の問題点を次のように指摘した。「もうけよりもシェア競争——量的拡大に走った結果だ。膨大な設備投資が命取りになった」日高は、その典型例として京都支店をあげた。当時としては、大変近代的なビルであったらしい。入口には総ガラス張りの自動ドアが備えつけられ、そこから二階の営業部まで直行できるようになっていたという。日高によれば、こうした店舗では逆に客が異和感を感じて入ってこないのであり、無駄な投資の典型であった。  日高はこのように懇切丁寧に山一側の事情と対策を説明すれば、この危機を乗り切ることができると考えていたらしい。実際、それほど日高が窮地に立たされる場面もなく、記者会見は、まずまずのうちに終了した。それに、日高は勿論のこと関係者の誰もが心配していた東証ダウが、野村、日興、大和の大手三社が必死に買い支えた結果、一円四六銭高の一、一四二円六九銭で引けたことも、日高を安心させた。  このようなことから、翌日以降、運用預りの引き出しや投信の解約が殺到する可能性は少なくなったと、日高は判断したと思われる。実際には、後述するようにそれとは全く反対のことが起こることになる。 《社会党の憤り》  さて、話の先を急ごう。  西日本新聞の報道を、大蔵省の加治木や、興銀の中山、それに当の山一の日高らとはまた別の思いから受けとめていた人々もいた。社会党の衆議院議員堀昌雄や横路節雄らである。既に述べたように、堀らが山一問題を国会で取り上げると通告して以来、大蔵省は一貫して何とか再建策が固まるまで待ってほしいと要請してきたのであった。初めは加治木からの要請であったが、最後には田中蔵相自ら説得にあたったこともあり、社会党側はこの要請に応じてきたのである。しかし、それは、次のような条件によっていた。つまり、五月二十六日の衆議院大蔵委員会で社会党が質問し、それに対する答弁で政府側は再建策の骨子を明らかにする。それまではマスコミの報道を控えさせる。  こうしたシナリオは、社会党に花を持たせるという意味から、また政府側にはそれまで時間を稼ぎ、再建策をより具体化することができる点で、それぞれにとり魅力的であった。それだからこそ、社会党としては、このシナリオに乗ったのである。ところがである。西日本は五月二十一日、報道に踏み切ったのであった。彼らの怒りと憤りは激しかった。  とりあえず事情説明をと訪れた加治木に対して、その約束違反を鋭く追及している。加治木にも彼らの気持は充分に理解できたし、それだけに加治木の西日本に対する怒りもつのったのであった。加治木は社会党の議員に対しては、ただただ頭を下げて、予定にはなかった出来事の発生によって、約束を守ることができなくなったことを詫びた。それしか方法がなかったからである。 《国会での論戦》  それでも社会党の怒りは鎮まらなかった。公の場で一言、述べる必要があると考えたのであろう。五月二十六日の衆議院大蔵委員会では、トップ・バッターとして質問に立った社会党の有馬輝武委員は、その点について次のように追及している(注8)。 有馬委員=「最初に大臣にお伺いしたいと思いますが、本日は山一証券の再建対策につきまして新聞で発表された爾後の問題についてお伺いをしたいと思いますけれども、その前に、政府もこの問題については慎重であったし、また私たちも一般投資家に与える影響というものを考えて慎重に対処してまいったつもりでおります。にもかかりませず、急遽大臣談話を発表せざるを得なくなった経緯について最初にお伺いをしたいと思うのであります」 田中国務大臣=「私が山一証券の問題を承知しましたのは約十日前でございます。その後社会党の皆さんとか各新聞社の方々、そういった方々から山一証券の問題に対して承知しておるがという話がございました。ございましたが、皆さん専門のお立場にある人々の、あなたがいま御指摘になったようないろいろ及ぼす影響というものを考えられて、非常に良識的な行動をされた結果、山一証券の再建対策といいますか、会社、銀行を中心にして十分な再建対策ができ上がったという時期に発表した、こういうことがいままでの経緯でございます(後略)」  事実とはあまりにもかけ離れたこのような田中蔵相の答弁は、当然のことながら、有馬ら社会党議員を刺激した。これに続く答弁の中で、田中が政府としては慎重な配慮をしてきたと述べた、その言葉尻をとらえて有馬は、 「いま慎重な配慮ということを言われた。慎重な配慮しておって一紙に流れる、それが慎重な配慮ですか。それが野党に対する、また各社の協力に対するお答えですか」  と、さらに田中を問いつめている。  しかし既に西日本が記事にしたことは事実であり、その事実を田中が覆せるわけもなかった。田中は、些か開き直って次のように答弁している。 「慎重に配慮というのは、私たちの慎重な配慮というよりも、社会党の皆さんもこれらの問題に対して承知しておられたようでありますが、質問等は行なわれないで慎重な態度でこの事件に対処された皆さんのことを言っておるのであります。各新聞とも私に対して一部承知しておるがということはございましたが、各新聞もかかる報道に対して非常に慎重を期した。こういう事実を申し述べておるのでありまして、この間の事実は私が申し上げておるとおりであります。(中略)どうしてこういうものが流れたのだということを聞いてみたのですが、これはもう新聞は統制しているわけじゃありませんし、各社が非常に配慮していただいたということについては事実、そのままを申し上げたわけではありますが、それは一部に報道されたということは事実でありますから、そういうことを契機にして発表せざるを得なかった、発表いたしました、こういう事実をそのまま申し上げておるのですから、そのままをひとつすなおに受け取っていただきたい」  以上のような田中蔵相とのやりとりから明らかなように、社会党議員は西日本新聞の報道にあくまでこだわったのであった。  つまり、この問題、即ち山一の救済如何の問題では、社会党の出番は事実上なくなってしまったからである。彼らの怒りも無理はなかった。  通常、国会において政府側が野党側の抵抗にもかかわらず政府案を通そうと試みる場合、しばしば野党の出番を作ることによって、野党の審議妨害を避けようとする。野党は出番を与えられることによって満足し、少なくとも議事の進行に協力することになる。  ところが、この場合、そのような通常パターンとは些か異なっていた。社会党側としては証取法の改正に積極的に協力してきたという思いがあった。もとより同法の改正にさしたる異論はなかったが、それでも、国会での質問を控えてきたということもあり、社会党としては政府に対し、充分な貸しがあると考えていたのである。当然のことながら、それなりの出番が与えられない限り、社会党としては満足できない。このように考えていた。そうした社会党の出番として設定された五月二十六日の質問の前に、西日本がスクープしてしまった。  通常のシナリオ通りにドラマは進行しなかったのである。 《波紋》  大蔵省に裏切られたという感情を持ったという意味では、いわゆる七社協定に参加した各社も同様であった。ことに、他社に先がけて情報を集めていた日刊工業の松本の思いは複雑であった。西日本に劣らない記事が書けたはずであったのに……。他方、各社若手記者の上層部に対するつき上げは激しかった。手を拱いているうちに、地方紙に抜かれてしまったではないかという批判である。  彼らに対し、協力を求めた大蔵省には、当然のことながら、リークしたのではないかという各社の抗議が殺到した。しかし、ここでも、加治木らにできることは、西日本の報道が、大蔵省とは何の関係もなく行われたことを説明することだけであった。  しかし、報道関係者はそうした点について抗議を続けるどころの騒ぎではなくなった。西日本が朝刊で報道したその日つまり、五月二十一日の各紙夕刊が一斉に、山一問題を大きく取り上げた結果、事態は大きく動き出したからである。ついに大蔵省、日銀、メインバンク三行が最も懸念した運用預りの解約が全国一斉に始まったのである。 3 証券恐慌の危機 《解約客、殺到》  五月二十一日、西日本新聞によって山一問題が報道されたその日は、大手各証券会社の協力もあって東証ダウは一、一四二円六九銭と堅調であった。前日比一円四六銭高である。まだ投げ売りはない。  しかし翌二十二日土曜日から、株価は徐々に下げ始め、二十七日木曜日には一、一〇〇円台スレスレにまで値下がりした(表8参照)。ついに恐るべき事態を迎えたのである。この下げ幅は現在の株価水準からすれば、大きくはない。しかし、当時、日本共同証券や日本証券保有組合が株価を下支えし、結果的に相場が死んでいたことを考慮すれば、極めて大きい値下がりだったといってよい。  山一証券の全国約九〇の各支店には、新聞報道で経営悪化を知った一般投資家が次々に駆けつけていた(注9)。誰もが、虎の子の財産の行方を心配してのことであった。前の年、夫の退職金で、投資信託と割引債券を買ったある中年の婦人は、予定通り土地を買っておけばよかったと悔み、またある老人は、新聞を見て一瞬まさかと思い、ついでだまされたと感じたと、語っていた。  具体的な解約状況を示そう。山一証券広島支店では、二十二日早朝から約四〇〇人の客が詰めかけ、投信の解約及び運用預り、保護預りの引き出しを行い、その解約額は、一、〇〇〇万円を越えた(朝日、昭和四十年五月二十二日)。  そのころ、大蔵省の証券担当者のところにも、中年の婦人をはじめ、何人かの一般投資家から、運用預りを解約すべきか、問い合せが相ついでいた。誰もが冷静さを欠いているようであり、それだけ事態が深刻なことを示していた。  半日営業のこの五月二十二日でさえ、全国の山一証券の各支店には普段のおよそ五倍、合計約一万四、〇〇〇名が詰めかけた。  このような状況の中で、今後の見通しについては、大蔵省内でも見解が分かれた。たとえば、いざとなれば、自衛隊のトラックか何かで日銀から札束を運び、山一証券のカウンターの上に積めば、投資家は安心して帰るという松井証券局長のような楽観論があり、他方、加治木のように、一日、二日のことで判断するわけにはいかない、四、五日様子を見てみなければ、気を許すわけにはいかぬという見解もあった。事実は、加治木の悲観的見方の通りに推移する。  山一への来客数は、二十二日の約一万四、〇〇〇名から、休み明けの二十四日には約一万七、〇〇〇名と増え、そして二十五日には若干落ちついて一万二、〇〇〇名となった。しかし、ここで収まるかと思われたが、前述のように二十六日の国会質問で山一問題が取りあげられたために、再び来客数は急増した。そして特融決定の当日には、ついに通常の六〜七倍の二万八三八名にも達したのである。実際、全国の山一証券の各支店内には、投資信託の解約や運用預り、保護預りの引き出しをしようとする一般投資家の長蛇の列ができたのであった。  その間、二十二日から二十八日までの運用預り、投資信託の解約累計は一七七億円にのぼった。ここで重要なのは、二十二日から二十五日までの三日間の解約合計が六九億七、〇〇〇万円にすぎなかったのに対し、二十六日以降、特融決定の二十八日までの三日間に一〇〇億円あまりが集中して引き出されたことである。事態は国会質問を境にして一層深刻さを増したのであった。  このような取り付け同然の騒ぎは、次第に他社にも広がりはじめ、街には次は〇〇証券が危ない等の流言も飛びかい始めた。  こうした危機的状況の中で、大蔵省証券局にとって不幸中の幸いだったのは、既に証取法改正案の成立(五月二十四日、参議院通過)に目途が立っていることであった。つまり彼らが心配していたのは審議中に取り付けが始まった場合、特融を発動してそれを止めたとしても、証券界を抜本的に立て直そうという証取法の改正が流れてしまう可能性が極めて高いということであった。そうしたことからすれば、事実上の取り付け状態に突入してはいたものの、免許制を定めた新証取法の成立に見通しが立っていることは、まだしも幸いであった。  したがって、どのようにしてこの取り付け同様の危機状態を脱するかが、次の問題となった。山一単独で頑張れるギリギリのところまで頑張ってもらわねばならない。連日、金繰りに追われていた山一の日高社長が、日興の湊守篤社長に緊急の融資を申し入れたのはまさに、運用預り等の解約がピークに達しつつあった五月二十五、六日のことである。湊は、興銀時代から親しい日高社長から、このままでは資金不足で、山一は倒産してしまう、あと一〇億円急場しのぎに貸してほしいと依頼されたと後に記している(注10)。湊は直ちに遠山会長に相談、非常時のために残しておいた一〇億円の債券を貸すことに決めた(注11)。  日高が、同業の日興証券に緊急融資を申し入れなければならなかったことこそ、山一が事実上、各金融機関から融資をストップされつつあることを示すものであった。  日高は当然のことながら、日銀をも訪れている。しかし、二十五日の段階では、佐々木は確たる返事をしていない。できるだけ頑張ってほしいとだけ述べている。 《立ちすくむ証券界》  さて、このような事実上の取り付け騒ぎに対し、当の証券業界はどのように対応しようとしていたのであろうか。一般には、山一に日銀特融が行われるまで、証券業界は確たる動きを示さず、また動けるはずもなかったと解されているが(注12)、これは事実に反するようである。勿論、彼らの行動が、田中大蔵大臣に日銀特融を決意させたというような意味で影響を与えたことはなかった。次に述べるように、業界の陳情は田中が既に二五条発動を決意した後であり、また西日本新聞の報道後のことだからである。  西日本新聞が山一問題を記事にしたその翌日の五月二十二日、前東京証券取引業者協会議長の吉野岳三は、田中蔵相の私邸を訪ねている。その前の晩、よくよく考えてのことであった。吉野には、信用を第一とする証券界で、四社の一角に経営危機が表面化したとなると、大変な信用の失墜であり、ほかにも波及しないで収まるものかどうか、かなり疑問であった。田中に対し、吉野は、今後の推移如何にもよるが、最悪の事態も考慮に入れて、真剣にその対策を準備しておいてほしいと陳情している。田中は何と答えたのであろうか。残念ながら吉野の回想からは、田中の返事の内容をうかがうことができない(注13)。  いずれにせよ、証券業界こそ、この山一の取り付け的状況を、息をこらしてじっと見守り、その行方に注目していたのであった。いつ、自社に取り付けの客が押し寄せるかも分からないからである。  他方、これ以上の山一支援を避けようとしていた日銀も、日一日と増加する来客数、解約状況を目の当たりにしながら、事務レベルを中心に、日銀法第二五条発動やむなしの方向に向かいつつあった。しかし、日銀事務当局が瀬戸際まで興銀、富士、三菱のメインバンク三行の責任で、この問題を処理するよう求めていたことも確かであった。たとえば、西日本の報道以降、日銀の渡辺孝友総務部長(現・国際証券顧問)から興銀の中山頭取に対し、何とか興銀の方で面倒をみれないかと、頻繁に電話がかかっている。とはいえ、時々刻々山一の払い出し状況が報告されていたこともあり、丸テーブル(理事会)の雰囲気も次第に、日銀が乗り出す以外に、この危機を救う方法はないとの結論に近づきつつあった。二十六日に、山一の日高社長自らが佐々木副総裁に融資申し入れを行ったことも丸テーブルで検討された。  必死に事態を打開しようとしていたという意味では、メイン三行も同様であった。この頃になると、多額の資金を貸し付けていた三行も、気が気ではなかったからである。日銀乗り出しの鍵となる各関係銀行の再建策に対する合意取り付けに、メイン三行の関係者は奔走している。その結果、漸く二十六日過ぎになって、利子棚上げに各行が協力することで大筋の話し合いがまとまった。メイン三行がより重い負担を負うべきだとする、その他関係銀行の主張は、一年後に改めて金利棚上げ条件を再検討するという三行側の主張に譲歩したのである。  皮肉なことに関係銀行の合意を促進したという意味で、取り付け的状況は効果的に作用したのであった。 《協議続く》  さて肝心の大蔵省内は如何なる状況であっただろうか。前述のように、高橋、加治木らは既にこれより前の段階で田中蔵相に対し、万一の場合には、日銀法第二五条発動の必要が生じるかもしれないことを伝え、その了解を取り付けていた。しかし、彼らは次のいくつかの条件が満たされるまで発動の決定を引き延ばしていた。単独でその限界まで努力したと認められること、取り付けが他社にも波及する可能性が高くなること、関係銀行の山一支援策が大筋で固まること。  彼ら証券局の担当者がこのような慎重な姿勢を示したのは何よりも、二五条発動の持つ意味の大きさからであった。五月二十一日の西日本の報道以降、それまで省内ですら一部の人々しか知らなかった山一問題は、公に論じられることになり、二十六日の省議でも取りあげられた。しかし、五月二十一日の蔵相談話で明らかにされた、山一に対する日銀の特別配慮の可能性について、省内全体の雰囲気は否定的であった。蔵相談話は超法規的な二五条発動を指したものとは受け止められておらず、通常の日銀貸し出しの枠を超えた銀行あるいは日証金経由の融資と考えられていたが、それでも、省内の批判は厳しかった。銀行局、証券局を除けば、この問題の背後の事情に精通していなかったせいでもあろう。主計局、理財局では私企業に対し、何故そこまで国が支援する必要があるのかといった意見が大勢を占めていた。  このような点と、前述のいくつかの点が考慮された結果、二十六日の省議では、あらためて、メイン三行の責任で、この問題は処理されるべきことが確認されたのであった。  報道されたその内容は、  一、山一は顧客からの投資信託や運用預りなどの解約は、顧客の要求があればすべて応じるべきである。  一、解約が増えて山一が資金難に陥った場合は主力銀行の富士、三菱、興銀三行を中心にした関係銀行が面倒をみる。 というものであった(注14)。  こうした中で、五月二十八日には、ついに東証ダウは一、一〇〇円を割り一、〇八九円七〇銭(前場)まで下げている。前年秋に、病に臥した池田に代わり首相に就任していた佐藤栄作は、加治木ら大蔵省の証券担当者を呼び、当面の株価対策について質している(注15)。新聞報道からは、この場で彼らが一、一〇〇円大台割れに対し、日本共同証券の買い出動の必要を検討、結局その必要なしとの結論に達したことしか、明らかではない。しかし、恐らく山一問題についても佐藤首相は、今後証券局として、どのような対策をとる予定であるか、彼らに説明を求めたであろう。そして加治木らが、その説明の中で、二五条発動の可能性について触れたことは、まず間違いがなかろう。  その「万一の時」が、刻一刻と近づきつつあった。 《日銀切り崩しへ》  東証副理事長の田口真二(現・平和不動産相談役)が、日銀の佐々木副総裁から電話を受けたのは五月二十七日木曜のことである。佐々木と田口は証券保有組合の成立過程で、しばしば意見を交した間柄である。佐々木の目的は、証券業界に通じる田口から、山一問題について、業界内部の状況を聞こうというものであった。田口が、「事態は急迫しており、捨てておけない。早急に具体策を打ってほしい」と述べたのに対し、佐々木は、「とにかく、今週一杯頑張ってもらいたい」と答えている。田口には、いよいよ何か特別な措置が講ぜられるように感じられた。  田口は、こうした特別の措置を確実なものとするため、居合せていた吉野岳三とも相談の上、日銀に再度、陳情することにした。その後慌しく、吉野が田中蔵相、宇佐美日銀総裁と会談したのは、こうした経緯の上でのことであった。  吉野が田中と会談したのは、歴史的会談が行われる七、八時間前の二十八日午前中と思われる。田中は、この日の午後は、会期末を控えた衆議院本会議で、農地報償法の審議にかかり切りだったからである。この段階で田中は、既に二五条発動を決心しているようであった。「一応抜本策を決めたので来週月曜三十一日には発表する」と述べているからである。しかし吉野としては、火の手は既にあがっており、山一は崩壊寸前と判断していたから、来週というような悠長なことは言っておれなかった。明日土曜は半日とはいえ営業日であり、さらに解約が増えることは間違いがないことを指摘し、対策が決まったら、即刻発表していただきたい、と田中に申し入れている。  吉野がもう一人の重要人物、日銀の宇佐美総裁に会ったのは、その日の営業終了後のことであった(注16)。もう既に、この段階では、日銀は二五条発動を決めていたと思われるが、吉野は勿論知る由もない。また宇佐美も、この段階で、証券業界に言質を与えるわけにはいかなかったであろう。吉野は田中に対するのと同様、即刻の対策を要請して、宇佐美との面会を終えている。  他方二十八日、昼近くの大蔵省証券局である。担当官あてにかかってきた山一証券の経理担当常務からの電話は、極めて切迫していた。「もうどこの銀行も、信用金庫も、一〇〇万円ですら貸してくれない」まさに悲痛な訴えであった。たしかに、つなぎっ放しにした受話器の向こうからは、山一社員のススリ泣きの声が洩れ、日高社長が彼らに対し、しきりにハッパをかけているのが聞こえてくる。電話の主の話が嘘ではないと判断した担当官は、直ちに加治木のところに飛んだ。二五条発動の要請である。  日銀内部でも、こうした状況の下、いよいよ二十八日午前開かれた政策委員会では、佐々木副総裁が、特に山一に対する二五条発動の可能性について触れ、さらにその場合には一任していただきたいと述べ、出席者の了解を取り付けている。  後に、二十八日夕刻から開かれた日銀氷川寮での会談前に、日銀内部が二五条発動をめぐり一致していたかどうかが問題となるが、恐らく次のような鎌田日銀理事の証言とも重ね合せるならば、この段階で少なくとも佐々木自身は二五条発動を決意し、内部の了解も得ていたと判断していたと思われる。営業担当の理事であった鎌田に対し、その日の午後、多島総務課長(現・日本証券金融(株)社長)から出張先の長崎に電話があり、日銀として最終的判断をせざるを得ないことが伝えられているからである(注17)。この電話口で、鎌田も特融しかないと述べている。 4 昭和四十年五月二十八日——日銀氷川寮のトップ会談 《突然の招集》  このようにすべてのお膳立が整ったところで、いよいよ二十八日夜七時過ぎから、東京赤坂の日銀氷川寮で、関係者が出席し、最終的に山一証券に対する特別融資問題が検討されたのであった。途中から出席した田中蔵相をはじめ参集した関係者は、大蔵省から佐藤一郎事務次官、高橋銀行局長、加治木財務調査官、日銀から佐々木副総裁、さらには興銀の中山、富士の岩佐、三菱の田実の各頭取であった。  各頭取とも急きょ招集をかけられただけに、なかには既に始まっていた会合を途中で退席して駆けつけた者もいた。折悪しく、富士の岩佐は所用で、また三菱の田実は株主総会の開催日にあたったため、氷川寮到着は大幅に遅れた。特にこの日、吹原産業事件後、初の株主総会という特別な意味を持った三菱の田実の場合は、総会後の打ち上げパーティーから直接かけつけたため、まだ、その余韻を漂わせての出席であった。  他方、株主総会後のパーティーを正宗副頭取に任せた興銀の中山は三行の中でただ一人、六時前後に氷川寮に入り、夕食をとりながら関係者の到着を待っていた。中山としては、まだ日銀が実際に二五条発動に踏み切るのかどうか、一抹の不安を拭いきれずにいた。そうした会合出席前の中山の心理状態は、興銀の関係者にも伝わっていたようである。菅谷は、中山が会談の見通しについて何も語らず、ただどんなに遅くなっても待機しているようにと言われたことを記憶しているという。  日銀の佐々木の場合は、既に副総裁一任を取り付けていたと了解はしていたが、それでもまずは原則論としての三行責任論を展開せざるを得ないと考えていた。  他方、この段階では日銀特融によるしか、この緊急事態を乗り越える道はないとみていた大蔵省の加治木は、ともかくできるだけ早急に関係者が合意に達するよう祈っていた。  このように、どの関係者も最終的には二五条発動しか取り得る手段はないとの認識を持ちつつも、その思惑は微妙な点で異なっていたから、八時頃に漸く始まった話し合いの滑り出しは難航した。  佐々木及び大蔵省の高橋が、山一経営の一角を担ってきた三行の責任論で口火を切り、日銀が面倒をみるにせよ、三行を経由する形にしたいと述べたのに対し、三行側はあくまで日本証券金融経由を強く主張した。実際、彼らはできるだけリスクを少なくしたいと考えていた。しかし、日銀にしてみれば、このような要求は、三行側の責任逃れの姿勢を示す以外の何ものでもなかった。  日銀の見解では、日証金経由の融資は救済ではなく、株の購入資金にのみ限られるのであり、したがって、そのような方式による融資は断じて認め難いと反論した。佐々木は既に述べたように、二五条発動を決意してはいたが、それでも三行がメインバンクとして間接的な責任をも避けようとする姿勢には我慢がならなかった。高橋も、佐々木と同様の立場から、三行経由を条件としての二五条発動論を展開した。  いずれにせよ、問題に精通していなかった佐藤一郎大蔵省事務次官が司会を務めたこともあって、当初このような議論が延々と続いた。まさにトランプのババ抜きゲームである。 《一喝した田中角栄蔵相》  そうした流れに変化をもたらしたのは、やはり田中蔵相の登場であった。田中としては、加治木、安川らの説明を了解し、二五条発動を直ちに決断したことからも明らかなように、何はともあれ、山一を救済し、この取り付け騒ぎが金融恐慌に発展することを防ぐことだけを最大の目的としていた。したがって、田中には三行であろうが日証金経由であろうが、特に関心はなかったと思われる。最も重要なのは山一を倒産させてはならない、そのためには日銀から金を出させる、このただ一点だったであろう。  このような考え方を持ち、しかも難航した農地報償法を漸くこの日、採決にまで持ち込んだ田中からすれば、関係者の議論は極めて歯がゆく映ったはずである。  到着後、しばらくして田中は中山に向かって、突然「山一の資金繰り二〇〇億円は興銀で用意できないか」と言って中山を慌てさせている。その時、「不可能ではないが、経営者として責任をとらざるを得ない」と中山は答えたという。しかし、田中の真意は興銀から資金を引き出すことではなかったであろう。日銀に対するシグナルであった。田中としては自分がとうに決断したはずの日銀法第二五条発動を、何故日銀が渋るのかという点に強く憤りを覚えていたのである。  次のようなエピソードがある。その席で田実三菱銀行頭取が、「証券取引所を閉めてゆっくり今後の方策を考えよう」と発言したのに対し、田中は「それでも都市銀行の頭取か」と一喝、それを境にして急転直下、特融が決まったというのである。しかし、これには後日談がある。実は田中が大声をあげたのは、この段階でも、依然、煮え切らない日銀の佐々木に対するメッセージだったというのである。日銀氷川寮会談の二、三日後、田中自身、同席した関係者の一人に語っている。  既に述べたように、田中は、日銀新総裁に大方の予想を裏切り、三菱銀行の宇佐美洵をあてたが、その際に最も有力な対抗馬だったのは、田中が怒鳴った真の相手佐々木であった。田中と佐々木は、佐々木が福田赴夫に近かったこともあったせいか、昭和三十九年以降、その政策をめぐり衝突する場面が多かった。ことに証券不況をめぐる日銀融資問題では、第二章で述べたように、原則論に固執する日銀から大蔵省が漸く、資金を引き出したという経緯があった。このような過程で、おそらく田中には、佐々木が慎重すぎる男として映ったのであろう。田中が、日銀氷川寮会談で、佐々木に対しあえて関係者の記憶に残るほど声をはりあげたのは、こうしたそれまでの二人の間柄と無関係ではない。  田中の到着まで延々続いていた議論は、こうして田中の一言で完全に流れが変わった。漸く日銀が山一再建を全面的にバックアップすることを約束したからである。ただし、特融は三行経由であり、この点に関しては、日銀の言い分が入れられていた。加えて、この段階では、特融の金利あるいは担保の徴求などについては最終的な詰めは行われなかった。恐慌への波及を恐れて、ともかく大枠を決め、それを発表し、人心の不安を一掃するというところに狙いが定められたからである。しかし同時に、今回の騒ぎの発端は証券界に対する金融の道の不整備によるという中山の提案で、「抜本的対策……」の一項をつけ加えることで出席者は合意した(注18)。そして融資の限度額は各行八〇億円、計二四〇億円(後日各行一三〇億円まで増額)と決められた。この会議までに試算した限りでは、この程度の範囲内で、山一に対する解約要求は鎮まると思われたからである。  しかし、田中蔵相の強いイニシアチブによって、報道機関に対しては、日銀は貸出限度なし、即ち無制限に山一に対し融資すると発表することが決められた。翌日の新聞が、無担保、無制限を見出しに大きく掲げ、一般投資家の動揺を防ぐことを狙ったのである。五月二十一日にはマスコミが政府を出し抜き、今回は政府がマスコミを利用する番であった。  この点は極めて重要であろう。一般的に現在でも、山一に対する特別融資は無制限だったと考えられており、実際そのような記述が多いが、これは、一般大衆に対する心理的効果を狙った田中が、あえてつけ加えたものであった(注19)。こうして、歴史に一ページを残すことになった日銀氷川寮会談は漸く終了した。既に時計の針は午後十時半をまわっていた。 《「無担保、無制限」の救済融資》  会談を終えた関係者の誰もが、疲労こんぱいし、また同時に打つべき手は打ったとの安堵感に浸っていた。決定内容を聞いた大蔵省証券局業務課の宮下鉄巳は、これで明日からの箱根行き(課内旅行)は中止せずに済むなとボンヤリと考え、他方、興銀の菅谷は興奮を抑えながら淡々と、無担保、無制限決定の報を伝える中山の話を聞いて、それにしても政府は大したことをやるなと思っていた。勿論、ホッとしたという意味では、同じように興銀で中山の帰りを待っていた日高をおいて他にはいないであろう。これまでの人生で“ロンゲスト”の一日だったと記している(注20)。さらに、日銀では佐々木の帰りを待って、深夜、氷川寮会談の決定を追認する形で、丸テーブル(理事会)が開かれた。ここまでくれば、誰もがやむを得ない措置としてこれを認めざるを得なかった。  しかし、氷川寮会談後のハイライトは何といっても、午後十一時半、急きょマスコミ各社を招いて開かれた記者会見であった。一般大衆の不安を抑えるという目的から、あえて翌二十九日の朝刊に間に合うようセッティングされた記者会見では、田中大蔵大臣が大蔵省内で、また宇佐美日銀総裁は自宅で淡々と、無担保、無制限による特別融資決定の報を読みあげていた。各紙の記者は、この内容に驚きを隠さなかった。ここ二、三日の経緯からみて、日銀が相当、思い切った救済策をとることは予想していたものの、一私企業に無担保、無制限という形で、事実上の救済融資を行うとは、思いもよらなかったからである。こうして翌朝の各紙は一面にこの決定を大きく報じた。田中の目論見は見事にあたったのである。  日銀法二五条発動の効果は直ちにというわけにはいかなかったが、次第に解約状況にも落ちつきが見られるようになった。しかし、五月二十一日以降七月三十一日までの山一に対する解約状況は、運用預り債券二三三億円、借入有価証券一二二億円、無担保借入金三億円、計三五八億円にも達していた。このことは特融決定発表後の二十九日以降も引き続き山一に対し、一八〇億円にものぼる払い出し要求があったことを示していた。その意味では、特融の発表が一般投資家へ与えた効果もあくまで徐々にしか過ぎなかった。しかし二十九日を境に、その前後で決定的に異なったのは、山一の全国各支店でもはや一般投資家の長蛇の列がみられなくなったことであった。 《日銀とメインバンクの対立》  五月二十八日の決定に基づき、山一に対しては六月七日の第一回四五億円、六月九日の第二回六〇億円など七月二十八日までに、計二八二億円の特融が行われた。六月まで特融がズレ込んだのは二十八日以降も依然、日銀と三行の間で細部の調整が必要とされたからであった。  これまでの経緯から充分明らかなように、日銀としてはあくまで特融は例外的なものであり、第一義的には三行が責任を持つべきだと考えていた。したがって、特融の実施に当たってはそれなりの条件をつけたのである。まず山一に対しては、  一、通常の営業活動に伴うものを除く資産負債の移動については日銀の事前承認を求めること。  一、一切の担保余裕(関係会社分を含む)を特融担保として三行へ差し入れること。  一、昭和三十九年十一月の社長更迭前三ヵ年の間に代表取締役であったものの私財を提供すること。 の三点であり、当然のこととは言え、見方によっては極めて厳しいものであった。  同時に日銀は三行に対しても、  一、特融の金利等融資の条件については日銀の指示に従うこと。  一、特融担保として山一振出手形の他融資額の二割相当額以上の三行保有債券を差入れること等を内容とした特約書を提出すること。 を求めた。  この日銀の要求に対し、富士、三菱、興銀のメイン三行は強い反発を示している。そして反対に、  一、債券差入れは行わないこと。  一、山一から返金がない限り日銀に対する返金は行わないこと。 の二点が特約書に明示されるべきと主張したのであった。  日銀と三行の綱引きは、特融の発表以降も続いていたのである。結局、この攻防は三行頭取が宇佐美総裁と話し合った結果、事実上、日銀の主張に沿う形で決着をみている。 《日銀特融二四〇億円に決まる》  このようにして、限度額が二四〇億円(昭和四十年七月六日に三九〇億円に増額)にのぼる特融の詳細が決まった。金利は日銀基準貸付利子歩合(公定歩合の変更にスライド)、担保は山一の振り出す三行あて手形(事実上無価値)及び貸付金額の二割相当額以上の担保価額を有する三行の有する担保適格債券であった。  三行はこれらの条件で日銀から融資を受けた後、それを次のような条件で山一証券に対し貸し付けることになった。担保は山一及び傍系会社の有する不動産計六五億三、〇〇〇万円及び、旧役員等の私有する不動産・有価証券・現金計一億七、五九〇万円であり、金利は一・七八銭(日銀から三行に対するものと同じ)であった。  この措置で山一の旧経営陣のうち、結局、小池厚之助前会長は、東京・世田谷区北沢の、また大神一前社長は東京・渋谷区松濤のそれぞれ土地及び住宅を手放すことになった。  それにしても、日銀は何故ここまで強い態度で臨んだのであろうか。五月二十九日の日銀政策委員会では極秘事項として、特融は日銀と山一の間に立つ三行にリスクを負わせるものではないとの確認を行っていたほどなのにである。日銀の方針は一見矛盾している。恐らく、事実上の無担保の融資に批判的であった事務レベルが、事態が落ちつくのを待って巻き返しに出たものであろう。それに、最終的には三行にはリスクを負わせないにせよ、形の上では三行の有責任をあくまで認めさせたいという日銀の基本方針があったとも考えられる。いずれにせよ、日銀は最後まで渋ったのである。  加えて、次の点を指摘しておく必要があろう。山一振り出しの手形が実質的には無価値であり、通常の規定からみれば極めてゆるやかなものではあったが、担保は差し入れられていたという事実である。加えて役員の私財が三行宛担保として提供されている。こうしたことを考えれば、日銀特融は無担保ではなく実質的な無担保と呼ぶのが適当であろう。  とはいえ、そうした点を考慮したとしても、この貸し出しが日銀にとって異例であった事実に些かも変わりはない。たとえば、日銀はこの特融によって生じるかもしれない損失に対し、毎期末特融残高の五パーセント相当額につき貸倒準備金の積み増しを行っている。政府に損失補償を求めることは困難とみられたからである。その額は、昭和四十年上期から山一の返済の見通しがついた四十二年下期まで、六期計九四億八、〇〇〇万円にものぼった。 *  他方、特融の決定、実施にもかかわらず株価の方は引き続き値下がりを続け、七月十日過ぎにはついに一、〇〇〇円台スレスレの一、〇二〇円四九銭をつけた。結局、株価の反騰は国債発行の方針決定(七月二十七日)を待たねばならなかった。株価は、その決定後、僅か四ヵ月で五〇パーセントの値上がりを示すことになった。そして、それはまた当然のことながら、山一を含む証券会社の業績を急速に回復させることになった。後述するように、特融返済が予想以上に順調に推移し、また再建が軌道に乗った大きな理由は、山一自身の破綻の原因でもあった投機による利益増によっている。歴史はまことに皮肉と言わざるを得ない。 第五章 回避——危機管理の構図 《問題の推移と主役の変化》  本書は、単に昭和四十年五月二十一日の西日本新聞のスクープ以降の事実上の取り付け、それに対する政府、日銀の対応にとどまらず、問題の発端となった昭和三十年代半ばの株式ブーム、その凋落、大蔵、日銀、市中銀行の対応といった点をも視野に入れて、日銀特融に至るまでのメカニズムを解き明かしてみた。  そこから明らかになったのは、昭和三十六年から三十八年中頃まで、即ちこの政治過程の初期及び中期と、日銀法第二五条発動が決まった四十年五月当時とでは、政策決定に主として携ったアクターの顔触れに大きな変化があったことであった。たとえば初期、中期においては、大蔵省証券局と証券業界が専ら主役を演じたのに対し、三十九年に入ると市中銀行、日銀、さらには大蔵省銀行局が加わり、四十年になるとマスコミ、社会党の登場を見た。そして最後の段階では、田中大蔵大臣、佐々木日銀副総裁(恐らく宇佐美総裁も)、中山興銀頭取、岩佐富士銀行頭取、それに大蔵省証券局の加治木財務調査官、高橋銀行局長ら少数の人々の手に決定は委ねられたのである。  このような流れは問題の性質が変化したことと関連がある。即ち、初期、中期においては、山一が個別に問題となったのではなく、証券界全体の体質をどのように改善するかが、大蔵省内で検討されていた。昭和三十八年夏の坂野通達に代表される、一連の動きがそれである。証券業界の抱える問題が構造的であると一部の者は感じつつも、この段階では監督官庁としての大蔵省と証券業者のレベルの問題であった。言い換えればルーティン化された日常の業務の延長線で問題は処理されていたと言えよう。  ところが、昭和三十八年も夏過ぎになると、証券不況の最大の原因は株式の過剰にあるとの認識が、証券業界に深い係り合いを持つ興銀を中心として起こり、その結果三十九年一月には日本共同証券が誕生した。この段階では、問題が大蔵対証券のレベルに留まらず、外に広がりを見せたと言えよう。この日本共同証券に対する融資をめぐり日銀が主要なアクターとして登場する。そして既に述べたように、日銀は日証金とともに証券業界を後押しして日本証券保有組合設立を支援するのである。  この頃になると、山一証券の問題が個別に論じられるようになる。これまでのアクターとは性格の全く異なる、即ち事実を公正に伝えることを目的とする、マスコミがその帰趨を注目した。そして報道協定が結ばれ、西日本の報道、日銀法の二五条発動と続くのである。最後の争点は言うまでもなく二五条発動の是非であった。  筆者が「プロローグ」で、一つの大きな問題の政治過程は小さな決定の連続であると述べたのは、右に見たような意味合いにおいてである。  しかしながらそのことは、いくつかの決定にみられる政治構造上の特徴が相互に排他的であったことを示すものではない。初期、中期、後期を通して、証券業界、銀行業界、とりわけ銀行の動きに注目するならば、この政治過程は紛れもなく「日本の政治過程は利益集団その他の団体の主張を背景とした多元的過程」であるという指摘に合致する(注1)。ただし次の点は記憶されなければならない。大蔵省、及び日銀(正確には特殊法人の株式会社であるが、中央銀行としての性格を考慮して)を、官僚機構として一括りにし、証券業界と銀行業界の関係をみた場合、官僚内が分裂し、大蔵省は銀行と、日銀は証券とそれぞれ事実上の連合関係を結んだ点である。この傾向は共同証券、証券保有組合が成立する政治過程の中期において顕著であった。言い換えれば多元的モデルにも、色々なパターンが存在することをこの政治過程は明らかにしている(注2)。  他方、既に述べたように大蔵省と富士、三菱、興銀の山一メイン三行の間には、それぞれの局面において意見の不一致があり、また山一の取引銀行一八行の中でも、ことにその金利棚上げをめぐって、メイン三行とその他の銀行が意見の食い違いを見せていた。また、興銀が特にその批判の対象とされたように、証券会社への銀行からの役員派遣は、証券界と銀行界のあつれきを増幅した。しかしこうした関係者間の意見、思惑の相違は、大蔵省と日銀の間にみられたそれとは根本的に質を異にする。後者、即ち大蔵と日銀の対立構造は、要するに、政府が、一業界の救済には日銀資金を使用すべきではないとする日銀から、事実上の救済資金を引き出そうとしたために生じている。一方、細部において異論はあったが、大蔵省も、銀行団もそして証券界も、原則として日銀資金による証券業界の救済には賛成の立場であった。この点が、大蔵対日銀の関係とは最も異なっている。 《出番なかった自民党》  ところで、このような日本の政治過程の多元的モデルは、いわゆる政・財・官モデルとして知られているが、この構図のうち、財界を民間諸利益として置き換えた場合、次のような関係になる。官僚は民間に対しては強く、民間は政治家に対して影響力を及ぼし、政治家は官僚に対して権力を振るうというのである(注3)。この図式にあてはめるならば、この山一の政治過程では、驚くほど与党自民党の係り方が少ない。この点はどのように理解すべきなのであろうか。  まず事実関係からすれば、自民党が全くこの問題に関心を示さなかったという解釈は正しくない。自民党の政調会長を務めたこともある賀屋興宣は、問題が明るみに出た時点で、加治木や水野に対し説明を求めているからである。しかし、加治木らは賀屋に格別注文をつけられた記憶もないという。筆者の知る限り、自民党の動きはこのようなものであった。それでは何故、彼らは大蔵省、日銀に対し圧力活動を展開する必要がなかったのであろうか。  第一は政策決定の構造上の特徴との係り合いである。最近では、これまでとは違って日本の政策決定過程における官僚と自民党の関係が、自民党に有利になっているという見方がかなり聞かれる。猪口孝は、この両者と民間=社会諸利益の力関係の変化を、次の時期区分に従ってみている。第一期は占領期と経済復興期(一九四五〜五五年)、第二期は高度成長前期(一九五五〜六四年)、第三期は高度成長後期(一九六四〜七三年)、第四期は低成長期(七三年以降)である。この中で第三期を政権党(自民党)がその立場を官僚への寄生から、着実に官僚との共生へと発展させた時期と捉えている(注4)。つまり、この時期に自民党が政治過程で発言権を増したとみている。他方、榊原英資、野口悠紀雄は予算編成に絞ってみた場合、官僚主導型は既に一九六〇年以降、自民党によって侵食されていったとみている(注5)。  いずれにせよ、こうした研究業績からしても、この山一事件が起きた昭和四十年当時、現在我々が認識しているほど、政策決定過程における自民党の役割は大きなものではなかったと言えよう。しかしながらこの場合、以上の一般的な特徴に基づく説明だけでは不充分であろう。それまでにも、個別のケースでみれば、いくつかの疑獄事件を見るまでもなく自民党が官僚の決定を覆したり、自民党の政治家が官僚をバイパスして決定を行ったこともあるからである。問題は、山一問題が自民党にとり重要な利害を有したかどうか、そして官僚が行おうとした決定が、そのバイタルなインタレストに反したかどうか、ということであろう。  このような視点からみると、山一証券を含めた証券界の不況、それを象徴する株式市況の低迷が、自民党の国会議員にとって見逃せない問題であったことは容易に推測できる。当時、各証券会社が政治家に対し、自社の推奨株を事前に知らせ、政治資金づくりに一役買っていたことは、関係者の間ではよく知られた事実である(注6)。このことからすれば、彼らは何らかの行動を起こしてもよかった。  恐らく大蔵省、日銀に対し自民党の国会議員が圧力活動を展開しなかった一つの理由は、その資金づくりに対する後ろめたさから説明できる。一度、公になれば税金の問題もあり、面倒が起こることは明らかだったからである。他方見方を変えれば、彼らは動く必要がなかったとも言える。総理大臣の池田も、大蔵大臣の田中も、既に述べたように株式市場に、極めて大きな関心を持ち、それなりの対策を事務当局に指示し続けてきたからである。言い換えれば、自民党国会議員の利益は、池田、田中の二人に代表されていたといってもよい。  この政治過程において、自民党に目立った動きが見られなかったのは、以上の理由からだと思われる。 《危機的状況の中での決定》  加えての問題は、これら関係者の間に閉鎖的な連環性があったかどうかである。即ち危機回避に際し、一つの方針でまとまっていたかどうかである。前述のように、大蔵、日銀をはじめとして、意見の分裂、対立が見られたが、この政治過程の特徴が以上のようなものである限り、日本の政策決定過程において稀有なものとは言えなかったであろう。ところが、この政治過程においては、ある時点で政治構造の一部が変化し、その結果、極めて戦後日本の政治過程には珍しいタイプの決定、即ち危機的状況の中での決定が生まれたのであった。  言うまでもなくそれは、政府とマスコミの間の関係の変化である。報道によって山一問題が一般大衆の知るところとなり、それが運用預り等の解約の引き金となることを恐れた大蔵省は、在京七社に報道自粛を申し入れ、七社側もそれを受け入れていた。大蔵省は同様に野党が国会質問で、この問題を取り上げないように、働きかけてもいた。こうした、大蔵対マスコミ、野党のいわば安定した関係は、この報道協定から外されていた西日本新聞が独自の取材を下に問題を報道した結果、根底から覆された。  そして、それは、この政治過程の基本構造である大蔵対日銀の関係にも、大きな影響を与えることになったのである。それまで山一に対する特別融資に、消極的な姿勢を崩さなかった日銀が漸く腹を決めたという意味においてである。即ち、西日本新聞の報道は、予想通り運用預りをはじめとする山一に対する解約要求を引き起こし、他の証券会社に対しても同様な動きが見られた。その結果、日銀はこれが単に証券恐慌に留まらずに、金融恐慌に発展する恐れがある、という他のアクターの見解に同調することになったのである。  即ち西日本新聞の報道は、この多元的政治過程における各アクターの認識の一致を促したと言える。同じ多元的状況でも、五月二十一日以前とそれ以後では、その性質は大きく変化したのであった。  ところで、筆者がプロローグで述べたように、この政治過程を危機決定(クライシス・ディシジョン)と見なすのは、次のような意味からである(注7)。  即ち、第一に事態は政策決定者にとって、予想外の出来事だったということである。つまりマスコミ七社に報道自粛を要請し、それがこれまで守られてきたことから、よもや西日本新聞が報道するとは大蔵省の誰もが予想していなかったことである。  第二に、決定までの時間が極めて短かったことである。再三述べた通り、取り付けは燎原の火の如く短時日のうちに拡大し、一刻の猶予も許されない状況に陥っていた。もしも西日本の報道がなければ、最終的な山一再建の方針を決定するまでには、時間的ゆとりがあったと考えられる。その意味で、まさに危機の中の決定であった。  そして第三に、この決定は極めて日本の国益にとって重大な利害を持つ問題に係っていた。単に証券界にとどまらずに、金融界にも関係する問題だったからである。運用預り金融債の発行銀行の長信三行、とりわけ興銀の受けるダメージは、問題の推移によっては計り知れないものがあったと思われる。産業資金の担い手としての興銀の威信失墜は、日本経済にも暗い影を落とすことになったであろう。そのことに加え、池田内閣以来、課題であった資本市場の育成が、ここで頓挫する可能性があった。  以上のように、この決定は、いわゆる危機決定として三つの要件をおおよそとはいえ満たしている。 《田中角栄と山一事件》  しかしながら、それまでの政治構造が西日本の報道によって変えられた結果、大蔵対日銀の対立は変化し、日銀が山一の救済に踏み切ったとする見方は、あまりにも政治過程を単純化しているといわざるをえない。そこで、次に考慮されなければならないのは、このドラマに登場した人物とりわけ、田中角栄大蔵大臣と山一問題との関連である。  田中が大蔵大臣に就任したのは、昭和三十七年七月、第二次池田内閣のことである。再選が確定的といわれた水田三喜男前蔵相の後をついだ田中に対しては、大野、河野派等反池田グループから厳しい批判が寄せられ、また政調会長時代の強引なやり方を知る大蔵官僚の評判も決して芳しいものではなかった。首相の池田すら、この人事にはあまり乗り気ではなかったといわれる。しかし、持ち前の勘の鋭さと行動力で、池田内閣の高度成長政策の推進とIMF八条国移行とOECD加盟という開放体制の実現を果した田中は、この山一問題を手がける昭和四十年には、省内外でその実績に対し高い評価が与えられていた(注8)。  その田中が大臣就任以来、関心を抱き続けた施策の一つは、資本市場の育成であった。それは既に触れた大蔵省証券局の誕生や証取法の改正をめぐり、田中が事務当局をリードしたことからも明らかである。言うまでもなく、こうした田中の動きは、高度成長の原動力を証券市場の活性化に求めた、池田首相の強い意向を受けていた。  田中は後年、あるところで、大蔵大臣三年間に行った重要な政策として、証券局の設置と証券取引法の改正、さらに日銀法第二五条の発動をあげた。そして山一問題について、次のように述べている。 「山一証券という一私企業の問題に対してこれを発動することに世間は強く反対した。しかし私はこれをあえて私の責任で発動した。証券恐慌は即金融恐慌につながるという確信を持っていたからである。またこれを発動されたことによって日本銀行は名実ともに中央銀行になったと思う。いわゆる間接資本の銀行行政だけではなく、産業資本の面に対しても中央銀行としての力を発揮した」(注9)  加えて田中自身、池田とは違った意味で、即ちより実利的な観点から株式市場に関心を示したことは、たとえば記者との懇談の席で、しばしば日本共同証券の買い出動を話題にしたり(買い出動すれば株価は上がる)、地元後援者が日本共同証券の買い出動前に株を大量に売却したことに同情したり、高橋銀行局長を介して日本共同証券の買い出動を頻繁に要請していたことからも明らかである。過剰株の買い上げ、棚上げ機関である日本共同証券、日本証券保有組合の設立を積極的に支援し、これら機関及び証券業界に対して、四、八〇〇億円もの日銀資金を融資させたのは、右に述べた田中の個人的思惑とも一致するものであった。  しかし、恐らく田中には別の思惑もあったであろう。この証券不況を切り抜けることは政治家の力量を示すまたとない機会であったからである。当時は四十年不況のまっただ中で倒産企業が続出し、また四月には吹原産業事件も発生するなど、自民党政権に対する国民の信頼は揺らいでいた。案の定、国政選挙のバロメーターともいうべき六月の東京都議会選挙で自民党は敗退し、来たるべき七月の参議院選挙でも苦戦が予想された。  このような佐藤新内閣の極めて苦しい船出の中で、田中は、自民党幹事長のポストを狙うのである(特融直後の六月六日に行われた佐藤内閣の改造で、自民党幹事長に就任)。そのポストを確実なものにするためには、蔵相任期を有終の美で飾ることが是非とも必要であった。その意味で、一つ処理を誤れば政治家としての田中の描いたシナリオが根底から崩れるとも限らない、山一問題を大過なく乗り切らねばならなかったのである。  五月二十八日、日銀氷川寮の会談で、田中が言を左右にする日銀の佐々木を念頭において、田実三菱銀行頭取を一喝したというのも、以上のような政治家田中角栄としての立場を考えれば、当然のことであった。 《宇佐美日銀総裁の登場》  田中にとって幸いであったのは、こうした彼の意図するところを実現するだけの状況に恵まれていたことであった。最も重要なのは池田の経済政策のブレーンでもあり、また田中とも極めて近かった宇佐美洵三菱銀行頭取が、昭和三十九年暮れに日銀総裁に就任していたことである。池田と田中が、山際前総裁時代の日銀の金融政策とりわけ、その後半時のそれに極めて批判的であったことはよく知られている。彼らと日銀の間の溝を埋める目的で、また政府の日銀に対する影響力を強める目的から池田と田中は宇佐美の起用にあえて踏み切ったのであった。  この宇佐美の登場は次の点を考えると極めて興味深い。一つは新総裁に内部出身者の起用を待望していた日銀から、この人事が極めて冷ややかにみられたことである。宇佐美自身も就任直前の日本経済新聞紙上で、次のような日銀批判とも受けとめられる発言を行っていた(日経、昭和三十九年十一月二日)。 「さっき日銀の話が出たけれども、自分のところさえしっかりしておれば、日本全体はだいじょうぶというとんでもない錯覚を起こしている。結局、企業間信用が非常にふくらんじゃって、もう動きがとれなくなるということを考えないで、放ったらかしておったというようなことで、いまのような現象が現われてきたんだろうと思う。もっとも日本銀行がけしからぬというより、日本銀行はあの程度だろう(笑い)」(注10)  日銀内部から、宇佐美のこの発言に対し、批判が高まることは充分予想されたが、わざわざ沢田悌日銀営業局長が三菱銀行に注意を促したというのも、また極めて異例であった。宇佐美の総裁就任は、その一件から僅か一ヵ月半後のことである。日銀内部のショックが、外部の予想を超えるものであったことは充分に想像される。  第二は宇佐美の登場を決して歓迎していなかった日銀サイドが特融に対し、極めて消極的な姿勢を取り続けてきたという点である。既に本文中で指摘したように、日銀事務レベルは証券四社に対する十一月の日本共同証券との協調買いのための資金貸し付けの振り分けに際し、もはや「絶望的」な山一証券よりも、当時、存亡の危機にあった日興証券を優先していた。他方、宇佐美の就任は十二月十七日のことである。その宇佐美が日銀特融に弾力的であったことは、就任後に、あるところで、次のように述べていることからも充分想像できる。日銀法第二五条発動より三ヵ月前のことである。 「だから、更生法というような方法で、いいところは残す、悪いところは切るというような手を使うようになるわけです。私は一九三三年にアメリカにいまして例の大恐慌、それから昭和二年の日本のパニックも経験したのです。これは経験した人でないとわからない苦しみです。その経験のない人がふえてきたのですから、イージーになりますが、われわれとしては、あの苦しみを国民の皆さんに味わわしたら大変だと思っています。一つの事業会社がどうこうということではないのですからね」(注11)  この発言があり、そして五月二十八日に山一に対する特融の決定が行われた。宇佐美が総裁の座にあったことが、日銀特融を妨げる方向にではなく促進する方向に働いたことは、紛れもない事実であろう。  宇佐美に直接仕えることになった日銀マンの一人は、総裁は日銀法第二五条発動に関し、佐々木副総裁以下に任せ、格別の指示はなかったと語っている。確かに佐々木が大蔵省の高橋銀行局長と山一問題で協議を続けていたのは事実であるし、日銀事務レベルも最後まで富士、三菱、興銀の三行責任論を展開した。事実、氷川寮の会談でも同様のことを佐々木は主張している。しかし、それはあくまで日銀内部の不満を和らげる目的からであったろう。本文中に記したように、佐々木個人としては既に、この危機を乗り切るには大局的な立場からみても、第二五条発動しかないと決意していた。佐々木を含め日銀マンが、この問題に関する宇佐美の意向を知らぬわけはなかったし、宇佐美の背後にいる田中の重みも感じざるを得なかったからである。このように、山際から宇佐美への総裁交代は、日銀にとって決定的な意味を持ったのであった。  以上述べたように、西日本新聞の報道を契機として危機的様相を呈しつつあった山一問題は、宇佐美が日銀総裁の座に就いていたという、田中にとり極めて有利な条件の下で、事態収拾の手がかりをつかんだのであった。 《成功した危機管理》  しかしながら、このようにして政治過程の基本構造である政府、大蔵と日銀の対立が、皮肉にも緩和されたという解釈は、この政治過程の一側面を伝えているにしか過ぎない。  本文中の記述の多くの部分を割いたように、加治木、安川、坂野らの大蔵官僚が、証券行政のあり方について、日銀法第二五条発動にさかのぼる数年前から検討していたことが、この事件の事態収拾を裏から支えてきたのであった。つまり強調されなければならないもう一つの側面は、危機管理としての教訓である。既に明らかなように、彼ら大蔵省の証券官僚はでき得れば、運用預りの引き出し、投信の解約という事態を見ずに、山一問題を処理したかった。即ち、再建策の発表と同時に、第二五条を発動し、混乱を抑えるというシナリオである。その目的を達成するためにこそ、彼らはマスコミと報道協定を結び野党の国会質問にも歯止めをかけたのであった。この段階で一つの行き違いが起こった。加治木はブロック紙である西日本新聞には報道自粛の要請を行っていなかったのである(注12)。  この山一事件の場合、西日本の報道が、特融発動に最後まで慎重であった日銀、あるいは山一の救済に冷ややかな態度を示していた関係銀行、大蔵省の一部の認識を改めさせ、合意達成の契機になったという意味では、肯定的に評価されるべきであろう。しかし、危機管理の教科書的手順からいけば、指摘されるべき点はある(注13)。つまり加治木、安川らは「〈リスク計算Risk Calculation〉を周到に行い、起こり得べき“悪い事態”や“より悪い事態”に備えて、応用問題の答案を用意しておき、もしなにか起こっても〈読み筋の危険Calculated Risk〉として対処すること」という手続を充分には踏んでいなかったからである。応用問題の一つとして、マスコミの報道協定違反ないしは、スクープという“より悪い事態”を考えておく必要があった。また山一再建案の作成過程における関係銀行間の足並みの乱れも事前に予想されるべきであった。再建案自体が事態収拾の鍵であったことを考えると、大蔵官僚はこの点について、より注意を払ってよかったはずである。  とはいえ、日銀法第二五条の発動によって、事態を収拾する、というシナリオを発動の一年余り前から描いていた、という加治木、安川らの手腕は、危機管理の観点からすれば、高く評価されるべきであろう。もとより彼らが推進してきた証券行政に対する評価とは区別して考えなければならないことは当然である。それでも、危機管理に当たった彼らが決して、最善を夢見ることなく(関係銀行による収拾)、次善としての第二五条の発動を推進し、それに向けて機が熟するのを待っていた態度は適切であった。金融恐慌への発展という最悪の事態を回避するためには、大蔵省、日銀にとっては最善である三行による事態収拾は不可能になるかもしれないという判断を、彼らが一年余りも前から有していたことは、この危機管理を有効に機能させた重要な要因であったと言えよう。 《危機におけるリーダーの条件》  加えて、前述した田中角栄大蔵大臣の決断振りも、その思惑がどこにあったかはさておき、危機的状況の中でリーダーがとるべき模範を示している。即ち、大蔵省の加治木、高橋、安川らの日銀法第二五条発動要請に対し、田中は、しばらく考えた後、「これは、大変なことだぞ」と一言述べて決断を下している。危機管理に際しリーダーに望まれることは責任体制の確立等と並んで、事件処理の大方針を速やかに決定することである。反対に、現場を困らせるのは明確な判断を下さず、あるいは「最善を尽くせ」などと述べることだとされる。こうしたことから考えれば、田中の決断は、具体的処理は部下に任せ、最後の責任は自分が負うというリーダーの一つの模範を示したといえよう。  さらに、五月二十八日の日銀氷川寮での会談で田中が示した態度も、事態収拾を決定づけたという意味で極めて重要であろう。もし田中が、五月初旬の第二五条発動を了解した後、事態の推移に対し、あれこれ逡巡し、たとえば会談において三行の責任を改めて追及していたとすれば、その後の状況はどのように展開していたかはわからない。田中がいったん決まった大方針、即ち日銀法第二五条の発動を、関係者に了解させることを唯一の目的として、この会談に臨んだことは、議論を混乱させなかったという意味で、危機管理におけるリーダーのとるべき態度にかなっていた。また、融資の限度額は二四〇億円に決まったにもかかわらず、対外的には「無制限」と発表することにした田中のアイデアは、大衆に安心感を与え、この危機的状況を救うに際しプラスとなった。  以上のような、大蔵省の証券官僚と田中大蔵大臣のとった行動が、この危機管理を曲がりなりにも機能させることになったが、他方、日本共同証券(昭和三十九年)、日本証券保有組合(昭和四十年)の設立の過程で、大蔵、日銀、銀行業界、証券業界の間で充分なコミュニケーションが保たれてきたことは、間接的にせよ、この危機を管理するに際し役立ったのであった。もとより、そのことは、これら関係者間で、当該問題をめぐる認識、見解が一致していたという意味ではない。それは再三述べてきた点である。  しかし相互に合意形成の条件となる情報を、彼らが山一事件発生の前から共有してきたという事実は、危機的状況の下で、より合理的な決定を行うのにプラスの要因となったのであった。その意味で山一への特融決定に至る三年間は、この問題に係わった人々にとって、皮肉にも一種の教育過程となったのである。危機管理を、その予測、回避、限定、終結、事態の旧状回復を計画的に行うことととらえれば、この山一事件は、そうした手順がスムーズに進むか否かの大きな鍵は、日頃の情報収集と同時に、人の問題に帰着することを教えていよう。 《報道の果した役割》  最後に、ある山一の関係者が述べるように、西日本新聞の報道がなければ、特融は避けられたという見方について述べよう。一言でいって、運用預りによる資金繰りに、山一が過度なまでに依存していた以上、それはほとんど不可能であった。何故なら、遅かれ早かれ、再建案は発表されねばならず、その段階で、運用預り、投信の解約が激増することは目にみえていたからである。ただし、実際に発生したような形で、劇的に山一の全国各支店が取り付け同様の騒ぎに見舞われるということはなかったかもしれない。  他方、加治木、高橋、安川らは、「解約」殺到の事態も考慮して、第二五条発動を検討していたのであった。しかし、彼らにとって、望むべくは、再建案と特融発表を同時に行い、瞬時のうちに、取り付けを沈静化するということであった。したがって、一時的にせよ西日本新聞の報道がもたらした社会的不安は、彼らの最も望ましいシナリオには含まれていなかった。その結果、社会党への約束が反故になったという後ろめたい気持もあった。しかしこの報道が、関係銀行の合意を促し、日銀内の第二五条発動に対する抵抗を最終的に封じ込めたという意味では、彼らにとっても歓迎すべきものであった。  思えば、この政治過程は、それぞれの関係者がそれぞれの思惑を胸に秘め別々のゴールを目指したものの、結局は一つの方向に進み、しかもその結果は、概ね周囲が納得できたという類の典型であった。山一証券が事件後、僅か四年四ヵ月で特融返済を終え、再建が軌道に乗ったことも関係者の大半が予想しない嬉しい誤算だったからである。 エピローグ——陽はまたのぼる 《山一、日銀特融を完済》  日銀特融から四年四ヵ月後の昭和四十四年十月一日、日本経済新聞の朝刊は、山一証券について、次のように報道した。 「山一証券は九月三十日、日銀の特別融資の残り四十九億八千万円を完済した。それとともに日本興業銀行、富士銀行、三菱銀行の主力三行から各十六億六千万円の肩代り融資を受けた。 和光証券(旧大井証券)は七月末に完済しているので、これで日銀の変則的な融資は完全に解消したことになる。また山一、和光両証券は、再建のために分離していた旧会社(株式会社山一、株式会社大井)と一日合併し、それぞれ新発足する。なお大蔵省は三十日、この合併を認め、新会社に証券業の免許を与えた」  日銀特融発表の時とは打って変わって、各紙とも地味な報道ぶりであった。しかし、その内容は、事件関係者にとっては大きな意味を持っていた。昭和四十年当時、十八年かかるとも十九年かかるともいわれた特融の返済を、山一証券が、僅か四年四ヵ月余りで終えたことを伝えていたからである。そのことはまた、これまでの間、事後処理に追われていた、山一はじめ大蔵省、日銀、さらに三行の関係者が漸く、山一事件から解放されることを意味していた。  昭和四十年、二八二億円にのぼる日銀特融を受けた山一は、直ちに、再建への途を歩み始めたわけではない。それへの手がかりをつかんだに過ぎなかった。再建が証券市場の動向に左右される部分が大きいことは明らかであったが、何よりも山一自身と関係三行がどのような再建計画を作成するか、また大蔵省が証券対策をどのように進めていくかが、再建への鍵となるに違いなかった。 《証取法の改正》  既に第五章で述べたように、昭和四十年五月、国会は証券取引法の改正案を通過させていた。これにより、登録制が廃止され、代わって証券業の営業に際しては、所定の免許を取得することが義務づけられた。業務の種類は、(1)有価証券の売買を行う業務(ディーラー業務)、(2)有価証券の売買の媒介・取り次ぎ・代理ならびに有価証券市場における売買取引の委託の媒介・取り次ぎ・代理を行う業務(ブローカー業務)、(3)有価証券の引き受け及び売り出しを行う業務(アンダーライター業務)、(4)有価証券の募集及び売り出しの取り扱いを行う業務(セリング業務)——の四種であった。  この改正証取法は十月一日に施行されることになったが、現行の登録証券業者の免許制移行時期は、昭和四十三年四月一日と定められた。このことは言い換えれば、既存の業者はそれまでに、改正証取法の定める要件を具備しない限り、免許を取得できないことを意味していた。  改正証取法は証券会社の最低資本額を、元引き受け業務のほかに、自己売買、委託売買業務などを兼業する幹事会社は三〇億円とする一方、負債比率を一〇倍とするなど、資格要件を細かく規定していた。(1)売買取引などに関し虚偽の表示を行うこと、顧客に対して特別な利益提供を約束して勧誘すること等を禁止し、(2)手持有価証券は業務上必要最低限にとどめ、一部銘柄に片寄らず流動性があること、(3)預り金、借入金等はその金額や条件が資産の状況からみて不健全でないこと、(4)受託有価証券はその数量過当でなく、安全な施設に整然と保管されていること——などが定められた(注1)。要するに、旧証取法下で効果的には取り締まれなかった、推奨販売、保護預り株券の流用、さらにはバイカイ等が、この法改正により禁止されたのである。  こうした証取法の改正は再建を目指す山一証券(正確には大井証券も)にとっては、また別の意味を持っていた。借入金の返済計画を明確にし、同時に右にあげた要件を満たすことを明らかにしてはじめて、再出発の途が約束されるからであった。 《再建案めぐる駆け引き》  再建計画をめぐる関係者の話し合いは難航した。予想された通り、それぞれ自己に有利な条件で決着をつけようとしたからである。事実関係をあえて単純化する危険を冒せば、関係者の手に、事実上その身柄を預けた山一は別にして、一方の極には、特融の性格からして、その返済に当たっては可能な限り、富士、三菱、興銀が責任を負うべきとする日銀があり、他方の極にはできるだけ責任の軽減を図る途を模索する三行があった。大蔵省はこの間に立って、やや三行寄りの姿勢をとっていた。  こうした話し合いが、昭和四十年七月二十七日の国債発行の発表を境とした株価の反騰、証券業者の業容改善の下で行われたことは、問題を一層複雑にしたかにみえる。それは明らかに日銀の立場を強めたからである。  たとえば、昭和四十一年に入り、各新聞とも、山一の再建案の見通しについて報道を開始したものの、三月に入っても、最終的な合意に達したという声は一向に聞かれなかった。この段階までにおよそ固まったのは、次の二点、即ち、第二会社を設立し、旧会社に日銀特融二八二億円、繰り越し欠損四二億円、子会社貸付金四〇〇億円などを残すこと、新会社は大証券の一つとして再建し、新資本金を八〇億円程度とするほか、旧会社とほぼ同じ規模を維持することだけであった。  これらの諸点についても、合意するまでに多くの議論が関係者の間で交わされた。日銀からみれば当初持ちこまれた三行の再建案は特融の意味を理解しない不満足なものであった。たとえば特融金利を当初三年間、全額徴収猶予(元本優先返済)にしていた点、新会社収益の吸収ルートを不動産賃貸料のみに限定していた点、将来利益を生む見通しにある証券保有組合組合員の地位を新会社に移すとしていた点、旧会社に特融債務を残しながら、新会社は四年目以降配当を考慮していた点——等が問題であった。  日銀としては、三行案の基本である新旧両会社に分離することはやむを得ないとしても、利子棚上げ等及び、新会社の収益吸収ルートを不動産賃貸料を主体とする経路のみに限定している点は特に認め難かった。そして見込み以上の収益が出た場合は、これを何らかの形で旧会社に流し、特融の返済に充当させるべきと述べていた。日銀は主力銀行としての三行の立場、他の一五行との関係などからみて、三行はこの際相当の犠牲を払う必要があると考えていたのである。  このような関係者間の話し合いの難航ぶりは、昭和四十一年二月二十二日、日高山一社長が記者会見で、「われわれとしては、すべての関係者が納得できる形で再建案ができあがることを望んでいる」と述べたことで裏づけられた(注2)。  一方、その席上、日高は市況の回復によって、営業利益が一ヵ月四億五、〇〇〇万円まで向上している(この中には、一八行棚上げ分の金利は含まず)点を強調して、関係者の話し合いが早急にまとまることを希望していた。  他方、日銀、大蔵、三行の間で最も意見の対立を見たのは、特融の返済方法であった。重ねて述べたように、三行側はできるだけその危険負担を避けようとし、他方、日銀は全く逆の考え方で望んだのである。二月末に大蔵省案として報道された内容は、元利同時返済を規定している点で日銀寄りであったが、また今後十年間に月額二億八、〇〇〇万円を返済するとしていた点は、七年間に三億円プラス「出来高にスライド」を主張する日銀よりは三行側に有利な内容であった(注3)。 《ようやく決まった再建計画》  結局、こうした経緯を経て、昭和四十一年六月十一日、発表された山一の再建計画は、以上のような問題について、次のように規定していた(注4)。  一、日銀特融は旧会社が毎月最低二億一、四〇〇万円ずつ定額で返済する。  一、向こう三ヵ年、手数料収入が年間一六〇億円を越えたときは、それに伴う超過利潤の三分の一を特融返済にあてる。その後二年間、手数料収入が一八〇億円を越えた場合、やはり利益の三分の一を同時返済する。  他方、山一の三行からの借入金については、九七億五、二〇〇万円のうち、新会社への出資額二七億円を除いた額を旧山一に残し、金利は三年間日歩一銭とすることを規定していた。また他の一五行からの借入金一五〇億四、〇〇〇万円については、新山一への出資金一〇億八、〇〇〇万円を除いた額を新山一に引き継ぎ、金利は三年間原則として日歩一銭七厘とすることが決められた。三行分の金利は支払猶予とされ、また金利を一銭にとどめた点は、他の一五行よりは三行が余計に負担を負うことを意味していた。  再建案の残りの諸点の概要は、次のようなものである。  一、新たに「株式会社山一」を設立する。  一、山一証券は臨時株主総会の承認を経て、商号ならびに営業を新会社に譲渡し(当初譲渡価格四〇億円)、証券業を廃業して他の事業を継続する。  一、山一証券は営業譲渡後、特別融資の計画的返済に当たるほか、新会社への不動産および電子計算機の賃貸などの業務を行う。  一、山響不動産と山一関西不動産は七月下旬の臨時株主総会の承認を経て、九月一日に合併、「山一土地建物株式会社」と改称する予定。  以上のように山一証券の再建は新会社、旧会社、不動産会社の三本立てで進められることになった。そして、新会社の資本金は九〇億円とし、また、出資金の振り分けは、のれん代の見返りとして旧会社が四〇億、三行が各九億、計二七億円、残りを一五行と取引先が、それぞれ負担することが決められた。  他方、特融の返済は、この計画によれば、東証の一日平均出来高を一億二、〇〇〇万株とし、そのうち山一のシェアを一〇・五パーセントとして計算した場合、約十九年間かかると見込まれた。  このように山一の再建案は、日銀対三行及び、やや三行寄りの姿勢を堅持した大蔵省との綱引きの中で決まったが、当初の三行案よりは元利同時返済、三行貸付金の金利返済の当面の猶予を規定していた点で、相当程度、日銀の要求を満たしたものと言ってよかった。  たとえば、日銀の沢田営業局長は「特融の元本優先返済だけは国民感情からも許せないから、元利同時返済の方針一線(〔ママ〕)だけは固く守った」(注5)と述べている。とは言え、後に特融返済が予想以上のピッチで進んだ段階で、日銀内部では、大蔵省に対し、山一(和光についても)には暫定免許を与えるよう求めるべきであったとか、あるいは、三年後に元本の優先返済の再検討のふくみを持たせるべきではなかった等の意見もあった。他方、日銀の要求に譲歩する形となった三行側にも言い分はあった。経営にある程度タッチしてきた責任は負うとしても、これは貸付金の金利棚上げなどで行うべきではなく、また山一の破綻は取引銀行だけでなく、証券行政を進めてきた大蔵省にも、またここまで放置してきた日銀にも責任はあるはずだ、というのである。筆頭メインバンク、富士銀行の小谷常務は「日銀特融が国民の金なら、われわれの資金も大衆預金である」と語ったほどであった(注6)。  返済計画作成の遅れは、以上のような関係者の対立の結果であったと言えよう。  しかし、そうした意見の不一致は、先述の如く、日銀特融の返済が急ピッチで進んだために、急速に解消していく。 《順調に進んだ返済》  昭和四十一年九月一日、新証取法の下で第一号の免許を与えられた山一証券は、どのように返済を進めたのであろうか。  まず昭和四十二年五月には二五億五、〇〇〇万円、四十三年五月には五一億円と、既にこの段階で、極めて順調に返済は進んでいたが、翌年の四十四年五月にはそれまでの分と合せて計一九四億七、〇〇〇万円の返済を終えたことで、見通しが明確になった(注7)。八月末には、さらに三五億三、〇〇〇万円を返済し、そして九月末に主力三行は残額の五二億円について肩代わり融資を行った。その結果、日銀特融は完済された。返済を開始した昭和四十一年八月三十一日から三年と一ヵ月後のことである。  このような短期間で返済を終えることができた理由は何であろうか。日高は、その喜びの声の中で、「新発足できるのは日本の経済成長のおかげ」(注8)と述べたが、四十年不況からの脱出の過程でいち早く株価が反騰したことは、山一の再建にとって希望をもたらすものであった。確かに、既に上げた数字からも明らかなように、昭和四十三年三月以降の株式市場の急上昇が、この返済期間の短縮に大きく貢献している。たとえば、四十三年九月期の手数料収入は二一二億円にものぼっている。同時に四十四年五月までの一九四億七、〇〇〇万円の返済金のうち、六七億五、〇〇〇万円は日本証券保有組合に対し買い戻し条件付で売却していた株の利益金であった(注9)。  もとより、こうした外部的な要因に加え、山一自身の再建努力を無視することはできない。昭和四十一年九月一日、新証取法下で免許証券会社第一号となった山一は、従業員五、二二六名、店舗数七八店といずれもピーク時の約六割の規模にまで縮小されていた。これは四大証券の中で、山一が最小規模となったことを意味していた(第三位の大和証券は従業員六、〇五五名、店舗数八二店)。  一方、社長の日高は三〇〇台近くあった社用車を処分し、また役員の車も外車から国産車に変え、自分自身も仕事以外では、社用車を使うことを控えたともいう(注10)。またそれより先、日銀特融発表直後の四十年七月には、管理職全員が申し合わせて夏のボーナスを自発的に返上し、定例給与の一部も辞退している(注11)。  さらに、昭和四十一年九月一日に発足した、新会社山一証券の出資者が八五社にものぼったことは、法人に強いと言われた山一ならではのことであり、また日高が興銀時代に培った顔の広さを裏づけていた。こうしたことが山一の再建に挑む社員にとって安堵感を与えたことは充分に想像できる。関係者の想像より希望退職者が多くはなかったことも、以上述べたことと関連があろう。  他方、事件の過程で役員が私腹を肥すといった倒産劇にしばしば見受けられる状況も見られなかった。旧経営陣の小池相談役、大神会長(特融時点で辞任)は、既に述べたように他の元役員とともに、私有財産(現金、有価証券、不動産)を担保に供し、昭和四十一年八月には、そのうち現金及び有価証券一、三三〇万円は特融返済に充当され(注12)、他方その小池の手放した東京・北沢の土地には、現在では、日本証券業協会東京研修所センターが建っている。  当然のこととは言え、旧経営陣がこのようにして責任の所在を明らかにしたことは、この山一事件の政治過程の中で特に記憶されてよいであろう。もとより、彼らが、この事件に対する責任を免れ得るわけではない。しかし、山一の経営破綻は旧経営陣の責任という議論が広く行われる中で、彼らがこのような態度をとったことはあまり知られていないのである。他方、このエピソードは日銀が最後まで山一証券に対し「けじめ」をつける姿勢を崩さなかったことを示していた。旧役員の担保差し入れ及びその後の措置は日銀の強い指示によるものであったからである。 《二七五社に免許》  昭和四十三年四月一日、新証取法に基づいて、二七五社に対し証券業の免許が交付された。これにより既に免許を受けていた山一、和光(旧大井)両証券と合わせて、全国で二七七社の「新証券会社」が誕生したことになる。山一特融直後の四十年九月期には、業者の数は四八四社を数えていたから、およそ四〇パーセントの減である。また審査を申請した業者が三〇二社だったことから考えれば、それ以前に、残りの業者は廃業に追い込まれたことになる(注13)。この数字は、政府、あるいは取引銀行の救済融資を受けた大手証券に比べ、中小証券の痛手が大きかったことを物語っている。  当時、菊地満極東証券社長は「四大証券はじめ運用一九社に対しては日銀法第二五条発動などの救済措置があるのに、中小業者の金融措置がないのは片手落ちである」(注14)と福田大蔵大臣(四十年六月三日就任)に述べたとされるが、そうした声は、一般大衆への影響度からして、大手業者を優先せざるを得ないとの「正論」に霞がちであった。  自由競争と自然淘汰の原理により証券業の発展と適正な運営とを期待する登録制の下で、開業した業者のうち、大手業者のみに自由競争に反する政府の救済措置がさしのべられ、中小業者には冷然と登録制の原理が適用され、廃業に追い込まれたことは、たしかに矛盾している。しかしこれも当時は、まさに登録制から「証券業者の社会的地位の向上をはかり投資者保護に資することを目的とする」(注15)免許制への移行期であったために生じたやむを得ざる現象であったとみるのは、中小証券に対し酷に過ぎるであろうか。  他方、最後まで大蔵省に批判的であった日銀が、この点に関し、後めたさを覚えていなかったといえば嘘になろう。現実に証券業界に日銀資金が流れたことと、大蔵省からの資金融通の要請に対する日銀の終始一貫した批判的姿勢を考えると、田中の率いる大蔵省の前に日銀の力はあまりに弱かったと言わざるを得ない。それでも、再建の過程において日銀が示した山一及び、山一のメイン三行に対する筋を通した対応は、おそらく、中小証券や倒産した一般企業の山一問題の処理に対する不満、批判を考慮した結果だったのではないだろうか。 《国債の発行へ》  本書を締めくくるにあたり、この山一問題が日本経済全体の中でどのような意味を持ったかについて触れておこう。第一章で述べたように、四十年不況は証券不況の原因というよりはむしろ、状況を悪化させる要因に過ぎなかった。これまでの分析で明らかなように、証券業界自身の抱える問題と、それに対応すべき証券行政の整備の遅れが、山一証券への日銀特融の背景にはあった。しかし、そのことは、この事件が単に証券業界の出来事であり、日銀が特別融資を行ったという一点を除いて、日本経済全体には大した影響を及ぼさなかったということを意味するものではない。  東京オリンピックの終了とともに訪れた四十年不況は、山陽特殊鋼、サンウェーブなど上場企業の倒産あるいは事実上の倒産を含むものであった。他方、この大型不況に対し、大蔵省、日銀とも従来の不況時と同様、金融政策によって乗り切れるとの見通しを持っていた。宇佐美は昭和三十九年十二月に日銀総裁に就任した後、四十年一月、まず公定歩合一厘引き下げを行った。そして、その後はかばかしくない景気の推移に応じて、日銀は四十年の四月、六月と立て続けに公定歩合の引き下げを断行している。このような状況の下では、「不況を財政赤字拡大策によって克服するというフィスカルポリシーやケインズ政策の発想がうまれてくる余地はなかった」(注16)のである。  ところが、昭和四十年七月二十七日、その一ヵ月ばかり前に田中角栄の後をうけて蔵相に就任していた福田赳夫は、戦後初の長期国債の発行による景気対策を打ち出し、明確にそれまでの政策を転換した。政府は金融政策のみならず、財政政策による不況の克服を目指すことを公にしたのである。  恐らく、五月二十一日以降、二十八日の日銀特融決定に至る、山一事件のヤマ場は、この政策転換に関する大蔵省(主計局)と自民党・財界の意見対立に決着をつける効果をもたらしたと思われる。大蔵省は国債発行はもとより、景気刺激策に反対であった。主計局からみれば、この景気の低迷は、決して不況ではなく、経済調整期、今後の望ましい経済成長実現のための体制整備の時期であった。したがって、この間に企業経営の合理化、債務比率の低下などが図られるべきだという主張を展開した(注17)。  他方、自民党及び経済界からは設備過剰、供給超過を解消するために、財政による有効需要の創出が求められ、その手段として国債の発行による公共事業の増加が要求された。また、当時、国際化、開放体制への移行に際して、企業の競争力強化を求める声が強かったが、この立場からは、企業減税の財源としての国債発行が期待された(注18)。  つまり、大蔵省証券局、同銀行局、日銀、興銀、富士、三菱、それに当事者の山一証券が、事態収拾をめぐって頻繁に協議を重ねていた昭和四十年五月、大蔵省主計局は四十年不況対策で何らかの結論を下すよう求められていたのである。  福田蔵相の国債発行発言にさかのぼる二ヵ月前の五月二十六日、主計局は不況対策関連の会議を開き、そこで国債問題を取り上げている。これまでの記述から明らかなように、五月二十六日は、山一事件にとり極めて重要な意味を持っている。その日は国会で山一問題が議論され、五月二十一日の西日本新聞の報道以降、全国的な規模で始まった取り付け的状況などが明らかになった日なのである。  谷村裕主計局長は会議の席上「公債発行論が強く主張されており、結局発行に踏み切ることになるかもしれない。その際、世論におされてやむを得ず発行することにしたいという形にすると、財政当局に対する世間の信頼が失われるおそれがある。したがって発行するならば積極的な形で発行するようにしたい」(注19)と述べ、事実上の政策転換を明らかにした。  既にこの時点では、山一をはじめとして証券界に対する日銀の救済措置(日銀法第二五条に基づくものではない)が新聞紙上を賑わしており、一方、中小企業を中心に収まる気配のない倒産は、政府に対する強力な財政措置を迫っていた。  こうした状況の下で、主計局は均衡財政政策の放棄につながる国債発行を事実上決定したのである。山一に対する運用預り、投資信託等の解約続出の報は否が応にも不況感を一層煽るものであった。中尾主計局次長が前述の会議で「出す時が来たようだ」と発言しているのは、山一問題によってさらに深刻化した日本経済の状況と無関係ではないであろう。もとより二十一日以降、山一問題が公になったことが直接、主計局官僚の国債発行に対する姿勢を決定づけたとはいえない。しかし、山一に対する取り付け的状況が証券恐慌、ひいては金融恐慌、さらには不況の一層の長期化をもたらすのではないか、という不安を、彼らの間にかきたてたことは確かであろう。そのことは、皮肉にも、彼ら主計局の官僚が、均衡財政といういわば、これまで堅持してきた伝統に縛られずに、広い視野で、国債問題を捉える場を提供したのであった。  福田蔵相の国債発行発言をはやして、七月二十八日の東証ダウは、一挙に前日比一四円一三銭高の一、〇六六円一九銭をつけた。その後株価は棒上げを演じ、一ヵ月で三月六日以来五ヵ月ぶりに一、二〇〇円台を回復している。勿論、福田蔵相の発言は直ちに不況からの脱却を保証するものではなかった。その意味では、経済的実態の裏づけのない反騰には違いなかった(注20)。しかし、漸く体質改善に着手した証券界にとって、この国債発行決定のニュースは、何にも変え難い朗報であった。いわば心理的に大きな支えとなったのである(注21)。他方、この国債発行発言を境に徐々にではあるが、日本経済は四十年不況から脱出し、いざなぎ景気と呼ばれる空前の大型景気へと進むことになる。 注 〈プロローグ〉 (1) 一般に入手しやすいものとしては、佐々淳行『危機管理のノウハウ』(PART1〜2)PHP研究所、昭和五十九年、桃井真『危機のシナリオと戦略』PHP研究所、昭和六十年、富田信男・堀江湛『危機のデモクラシー』学陽書房、昭和六十年がある。戻る (2) 特集「マネー最前線・地方金融機関はいま」「日経」昭和五十九年十月十二日によれば、預金保険機構発動の机上演習から明らかになったことは、物理的な理由(資金量ではなくて、いくつものコンピューターや膨大な事務処理量)によって、精々発動可能なのは資金量二〇〇億円、預金者二万人程度の信用組合くらいが限界だという。戻る (3) 前者については、昭和五十三年五月に国会を通過した大規模地震特別措置法が、後者については同時期に成立した新東京国際空港の安全確保に関する緊急措置法がある。戻る (4) たとえば次のようなものがある。伊藤正己「『報道の自由』と公権力」内川芳美他編『講座・現代の社会とコミュニケーション』(第三巻)東京大学出版会、昭和四十九年、六五〜八六頁。西尾勝「政策形成とコミュニケーション」内川他編、前掲書第四巻、八九〜一〇八頁。戻る (5)Charles F.Herman (ed.) International Crisis, Free Press, 1972.戻る (6) 日本政府が戦後直面した典型的な危機決定の数少ない例としては、昭和四十六年の第二次ニクソン・ショックによって、日本の通貨政策が変更を迫られたケース及び、昭和四十八年のオイル・ショックによって、日本外交が対米協調か資源確保のためにアラブ寄りに転換するか否かを迫られたケースとがある。前者については塩田潮『霞が関が震えた日』サイマル出版会、昭和五十八年、後者についてはマーク・セラルニック「第一次石油危機における日本の対外政策」近代日本研究会『日本外交の危機認識』山川出版社、昭和六十年、三〇九〜三三四頁、を参照のこと。  福井治弘は戦後の日本の外交政策決定過程の一つのパターンを「非常時型」と呼び、ルーティン化された日常の決定パターンと区別している。そこでは、一方で問題をめぐる一般的論争に政党、ある種の圧力団体、マスコミ、市民グループなどが広範に巻き込まれ、また他方では、政府部内における決定の参加者は首相はじめ、少数の政治家、高級官僚等少数に限られるとしている。山一事件の過程をこのモデルによって説明できないことはないが、日銀法第二五条発動が外的刺激(西日本新聞のスクープ)に強く促され、異常事態の下で行われたという特徴を充分に説明できない。福井治弘「沖縄返還交渉——日本政府における政策決定過程——」『国際政治』(第五二号)、有斐閣、昭和四十九年、九七〜一〇四頁。戻る (7) その代表的なものには、川合一郎編『日本証券市場の構造分析』有斐閣、昭和四十一年、岡崎守男・浜田博男編『現代日本の証券市場』有斐閣、昭和五十四年、有沢広巳監修『証券百年史』日本経済新聞社、昭和五十三年がある。戻る (8) この点については、議論があるかもしれない。三沢潤生が述べるように、ここでは国の政策決定過程(政治過程)をイーストンの言う特定の価格の配分についての国の基本的な志向ないし意図の確立と宣明に至る過程と捉えるとしよう。その場合、日銀特融の直接の契機が西日本新聞の報道にあったとみれば、この政治過程は、五月二十一日以降の一週間ということになり、他方、西日本新聞の報道以前から特融の検討が公にされてはいなかったものの、行われていたという事実を重視するとすれば、この政治過程は遥かに長期にわたるものとなる。言うまでもなく、筆者は後者の立場に立つ。三沢潤生「政策決定過程の概観」『年報政治学』岩波書店、昭和四十一年、五〜三三頁。戻る (9) 政策決定過程の分析枠組については、次を参照。渡辺昭夫「政策決定」『季刊国際政治』第六一・六二号、有斐閣、昭和五十四年、二六九〜二八五頁。細谷千博「対外政策決定過程における日米の特質」細谷千博・綿貫譲治編『対外政策決定過程の日米比較』東京大学出版会、昭和五十二年、一〜二〇頁。グレアム・アリソン(宮里政玄訳)『決定の本質』中央公論社、昭和五十二年。戻る (10) 別枝行夫「佐藤内閣後期の日中関係」『法学政治学研究』第二号、成蹊大学、昭和五十六年、六九〜八九頁。戻る 〈第一章〉 (1) 『調査月報』日本銀行、昭和四十一年六月号。荒川弘『証券恐慌前後』日本評論社、昭和四十二年、三二頁よりの引用。戻る (2) 有沢広巳監修『証券百年史』日本経済新聞社、昭和五十三年、二六〇〜二六一頁。戻る (3) 『調査月報』、昭和四十一年六月号。荒川弘、前掲書、五頁よりの引用。戻る (4) 証券会社の営業規模及び株式市場関係のデータは特に断りがない限り、各年度の『大蔵省証券局年報』による。戻る (5) 運用預りについては以下を参照のこと。  小竹豊治「運用預り金融と山一証券恐慌」『三田商学研究』昭和四十二年、第一〇巻第三号、一七〜四二頁。浜田博男「証券会社の金融」『体系・証券辞典』東洋経済新報社、昭和四十五年、五九〇〜五九六頁。「運用預りをめぐる諸問題」『財界観測』野村総合研究所、昭和四十年九月号、四〜二一頁。小竹豊治・川口弘の対談「金融構造からみた山一問題」『エコノミスト』昭和四十年六月七日号、一四〜二三頁。戻る (6) 小竹、前掲論文、一八〜二二頁。戻る (7) 証券会社のコール・マネーの取り入れは、自社系統の投信放出のコール・ローンを他の取り手に優先して市場レートより一厘高で取る場合と、短資業者を仲介として信託銀行、農林中金、信用金庫、地方銀行の放出するコール・ローンを仲介手数料二毛五糸ないし五毛を含めて市場より一厘高で買い取る場合とがある(第一の場合も仲介手数料は同レートで短資業者へ支払われる)。戻る (8) 小竹によれば、資金の用途は以下のようなものであった。(1) 一般顧客に推奨販売する予定で、事前にある銘柄を大量に買い付けるため。(2)市場の買い気を誘い手持ち株式を売り逃げる目的で株価をつり上げるため。(3)投機的売買を行うため。(4)幹事会社である事業会社の増資を成功させようとし、旧株式を市場で買い操作し、時価を騰貴させるため。(5)証券会社が関係銀行との了解のもとに、銀行の融資している中小企業の株式を公開して第二部市場に新規上場する際の工作のため。(6)株式時価の一層の低落を防ぎ、また反騰させようとして株式を買い付けるため。小竹、前掲論文、二〇〜二一頁。戻る (9) 加治木俊道の証言「四〇年証券恐慌」志村嘉一編『戦後産業史への証言』(第四巻)毎日新聞社、昭和五十三年、一四一〜一四二頁。戻る (10) 昭和三十九年九月期において利益を計上したのは、東証正会員一〇〇社中二七社であり、配当を行ったのは二〇社に過ぎなかった。戻る (11) 旭硝子をめぐる仕手戦とは次のようなものであった。昭和二十五年二月、旧三菱化成の整備計画に基づき、新光レーヨン、日本化成とともに発足した旭硝子の権利株をめぐり、山一を筆頭に日興、玉塚など大手八社が買方に、山種、角丸、成瀬など中小三二社が売方にまわり、攻防を繰り返したが、結局、資金力で勝った買方が最後の勝ちを収めた。当時、山一証券副社長だった大神は、仕手戦の最後の段階で自ら陣頭指揮に立ち、僅か十四、五分で一四・五万株、つまり一分間一万株の割合で三七〇円から一気に四四〇円にまで買い上がり、売方を窒息させたという。三鬼陽之助「株はもうこりごりだ」『文藝春秋』昭和四十年新年特別号、二八〇頁。戻る (12) 「大神一論」『経済往来』昭和三十年一月号、五八頁。戻る (13) 大曲直「再検討を要する山一証券」『中央公論・経営問題特集号』中央公論社、昭和四十年秋季号、一四二頁。戻る (14) 二宮欣也『四大証券の内幕』徳間書店、昭和四十四年、一四六頁。戻る (15) この叙述は大曲、前掲記事を参考にした。 戻る 戻る 戻る 戻る 戻る 戻る 戻る 戻る 戻る 戻る 戻る 〈第二章〉 (1) 松井直行「大蔵行政の展開」有沢広巳監修『証券百年史』日本経済新聞社、昭和五十三年、二八一頁。著者は山一事件当時の大蔵省証券局長。戻る (2) 筆者のインタビューした複数の関係者の証言。戻る (3) たとえば、松井証券局長は社会党只松祐治委員に対する答弁の中で、「ごくまれな例ではございますが、ついお客さんから預ってあったものを、証券業者自身が自分の計算で売買するときに、拝借する、使ってしまうというようなことはあるわけですが、これは申すまでもなく証券取引法以前の問題でございまして……」と述べている。「衆議院大蔵委員会議録第三三号」昭和四十年四月二十一日(「証券関係国会審議録(三)」日本証券経済研究所編『日本証券史資料』日本証券経済研究所、昭和五十九年、六六六頁)。戻る (4) 『大蔵省証券局年報』、昭和三十九年版、一七八頁。戻る (5) 坂野常和の証言「証券不況と再建対策の断行」五十畑隆編『戦後財政金融政策外史』日本列島出版、昭和五十八年、二〇五頁。戻る (6) 松井、前掲論文、二八一頁。戻る (7) 同上。戻る (8) 伊藤昌哉『池田勇人・その生と死』至誠堂、昭和四十九年、二一二頁。戻る (9) 細金正人『兜町四社』全貌社、昭和四十三年、八八頁。戻る (10) 「大神一論」『経済往来』昭和三十年一月号、五八頁。戻る (11) 細金、前掲書、九〇頁。戻る (12) 坂野常和の証言「高度成長の証券行政」志村嘉一編『戦後産業史への証言』(第四巻)、毎日新聞社、昭和五十三年、二六〇頁。戻る (13) 日本経済新聞証券部編『兜町二十年——戦後証券市場史』日本経済新聞社、昭和四十四年、一三一頁。戻る (14) 坂野常和の証言、五十畑編、前掲書、二〇三頁。戻る (15) 東京証券業協会証券外史刊行委員会『証券外史』東京証券業協会、昭和四十六年、二九二頁。戻る (16) 衆議院大蔵委員会議録第三号、昭和三十九年二月六日(日本証券経済研究所編、前掲書、四〇〇頁)。戻る (17) 「朝日」昭和三十九年三月八日。戻る (18) 同上、昭和三十九年二月十六日。戻る (19) 加治木俊道の証言「四〇年証券恐慌」志村編、前掲書、一四七頁。戻る (20) 「朝日」昭和三十九年四月九日。これに先立つ一年ほど前の三十八年六月から証券取引審議会は、登録制に代わる免許制問題を検討しはじめ、三十九年二月には「証券会社について免許制を基本において、今後も問題をさらに検討していく」との答申を行っている。田中の発言はこれより一歩進んだものだったと言えよう。戻る (21) 安川七郎の証言「証券恐慌」エコノミスト編集部編『証言・高度成長期の日本』(下巻)、毎日新聞社、昭和五十九年、三五七頁。戻る (22) 安川七郎「証券恐慌からの脱出」『同友』昭和四十五年一月号、五〇頁。戻る (23)これ以下の金融恐慌の叙述については、特に次の研究書を参考にした。中村隆英『昭和恐慌と経済政策』日本経済新聞社、昭和五十三年。八百板正雄『昭和金融政策史』皇国青年教育協会、昭和十八年。戻る (24) 安川、前掲論文、五四頁。戻る (25) 安川の証言、前掲書、三六〇頁。戻る (26) 安川、前掲論文、五四頁。戻る (27) 安川七郎「免許制日記」『ファイナンス』昭和四十三年五月号、三一頁。戻る (28) 加治木俊道「免許制への移行」有沢編、前掲書、三二〇頁。運用預り業務の実体が、銀行業務と大差ないという意味は次のようなことである。両者ともに対象物が現金か有価証券の差はあるが、いずれも有価物であり、信用証票である。銀行は預け入れられた預金を貸付金等に運用するが、運用預かりでは、自社の資金調達の手段に利用する。いずれの場合にも預け入れられた有価物は、リスクの伴う用途に運用され、預金には金利が、運用預りには預り料がその対価として払われるという意味で両者には差がないと論じる。戻る (29) 安川、前掲論文、五五頁。戻る (30) 安川「免許制日記」前掲誌、三一頁。戻る (31) 中山素平の証言「山一救済の舞台裏」志村編、前掲書、一五八頁。戻る (32) 加治木の証言、志村編、前掲書、一四〇頁。戻る (33) 中山素平「そっぺい戦後財界史・第一〇回」『財界』昭和四十七年六月十五日号、一三九頁。戻る (34) 衆議院大蔵委員会議録第四号、昭和三十九年十二月十八日(日本証券経済研究所編、前掲書、五二四頁)。戻る (35) 「朝日」昭和三十九年三月十八日。戻る (36) 同上、昭和三十九年九月二十三日。戻る (37) 同上。戻る (38) 「朝日」昭和三十九年十月十五日。戻る (39) 中山、前掲記事、一三九頁。戻る (40) 衆議院大蔵委員会議録第四号、昭和三十九年十二月十八日(日本証券経済研究所編、前掲書、五二三頁)。戻る (41) 中山、前掲記事、一四〇頁。戻る (42) 高山広の証言、日本証券経済研究所編『日本証券史資料・証券史談(一)』昭和五十九年、三〇六〜三〇七頁。戻る (43) 瀬川美能留の証言、日本証券経済研究所編、前掲書、一六八〜一六九頁。戻る (44) 加治木俊道の証言、志村編、前掲書、一四六頁。 戻る 〈第三章〉 (1) 「朝日」昭和三十九年四月十五日。戻る (2) 同上、昭和三十九年八月十九日。戻る (3) 同上、昭和三十九年十月十六日。中山素平「そっぺい戦後財界史・第一〇回」『財界』昭和四十七年六月十五日号、一四一頁。「日高輝」『私の履歴書』(経済人16)日本経済新聞社、昭和五十六年、五四頁。戻る (4) 松沢卓二『私の銀行昭和史』東洋経済新報社、昭和六十年、九六頁。戻る (5) 日高、前掲書、五五頁。戻る (6) 「朝日」昭和三十九年十月二十一日。戻る (7) 瀬川美能留の証言、日本証券経済研究所編、前掲書、一六七頁。戻る (8) 「朝日」昭和三十九年十月二十一日。戻る (9) 中山素平の証言「山一事件の舞台裏」『エコノミスト』昭和五十三年二月二十一日号、八二頁。戻る (10) 「日高輝人物論」『フェイス』昭和四十年十月号、一一頁。戻る (11) 日高輝の証言「再検討を要する山一証券」『中央公論・経営問題特集号』昭和四十年秋季号、一四七頁。戻る (12) 加藤精一の証言「中小証券の歩んだ道」志村嘉一編『戦後産業史への証言』(第四巻)、毎日新聞社、昭和五十三年、一三七頁。戻る (13) 中山「そっぺい戦後財界史」、前掲雑誌、一四一頁。戻る (14) 中山の証言、前掲雑誌、八三頁。戻る (15) 加治木俊道の証言「四〇年証券恐慌」『戦後産業史への証言』(第四巻)、毎日新聞社、一五二頁。戻る (16) この点について『週刊新潮』昭和四十年六月五日号は「山一証券新聞報道の内幕」として、加治木とは若干異なる朝日新聞中田経済部長のコメントを掲載している。 「五月の連休前に、大蔵省証券局の首脳から私のところへ“調べておられるようですが”といってきたんですが、“そのとおりだ”といったら、“今やられたら困るんだがな”といってましたよ。しかし“困るといっても、われわれのほうで書くべきだと考えられるときになったら書く”とそのときはそれだけいったんです。が、そういうことがあったし、各社みんな他社の顔見ながら取材してたわけなんで、その直後にあった七社の部長会の例会で、書くとか書かないでなく、こういうことを書くことの影響は、どうかということをバク然と話として出したんです。そうしたらどこもやはり自動ブレーキがかかることをいってました。で、ある社が自分とこは見送る、といったら期せずして一致しました。しかしこれはあくまで実質的に何か決めたことじゃないんです。が、連休が明けてから二日目だったか三日目。大蔵省から“あれ、どうなりました。書くなら伝えたいこともある”といってきたんで“話したいことあるなら、七社の部長会という場があるから、そこへきたらどうだ”といったんです。そうしたら部長会に証券局長の代理で財務調査官が来ましたよ。そして、われわれが考えていた以上に、われわれが考えたような問題を強調するんです。だから当たり前のことでしかなかったけれど、われわれは“あんたにいわれたからやめるんじゃなく、われわれの意向としてもう少し様子みてと判断している。もういいとなるのはいつごろになるか”といったんです。そうしたら“できたら二十日前に線を出したいが、それはむずかしいように思うから、五月末になりそうだ”といってましたね。われわれはあくまでそれを聞いておいただけなんです。(中略)記事押えたって協定で、じゃないし、いわれてでもないですからね。第一、内容聞いてなけりゃ協定もクソもないですよ。(後略)」戻る (17) 金融財政事情研究会編『戦後金融財政裏面史』金融財政事情研究会、昭和五十五年、三四八頁。戻る (18) 金融財政事情研究会、前掲書、三五一〜三五二頁。戻る (19) 安川七郎の証言「証券恐慌」エコノミスト編集部編『証言・高度成長期の日本』(下巻)、毎日新聞社、昭和五十九年、三六四頁。戻る (20) この事件は、昭和三十九年七月の自民党総裁選にからむ一大詐欺事件。大和銀行が吹原に対し三〇億円の銀行保証小切手を現金の裏づけなしに発行し、また三菱銀行が同様に預金の裏づけなしに三〇億円の通知預金証書を吹原に詐取されたことで、銀行の乱脈融資ぶりが大きく問題とされた。同時に、この事件の背後には自民党政治家の介在も取り沙汰され、一層事件はスキャンダラスな様相を呈した。戻る (21) 金融財政事情研究会編、前掲書、三三四〜三三七頁。戻る (22) 安川の証言、前掲書、三六六頁。戻る (23) 山口二郎「政策の転換と官僚制の対応——公債発行問題と大蔵省主計局の行動を素材として」『国家学会雑誌』第九八巻、第七・八号、一〇五頁。田中善一郎「第一次田中内閣」『日本内閣録6』第一法規出版、昭和五十六年、二一八〜二二八頁。戻る (24) 衆議院大蔵委員会議録第四一号、昭和四十年五月二十一日(日本証券経済研究所編『日本証券史資料』日本証券経済研究所、昭和五十九年、八五七頁)。戻る (25) 金融財政事情研究会編、前掲書、三二〇〜三二六頁。 戻る 〈第四章〉 (1) 以下の記述は次の資料に基づく。「西日本新聞社報」昭和四十年六月十五日、「西日本新聞編集局報」一五六号、昭和四十年六月五日、同一五七号、昭和四十年六月十五日、「西日本新聞審査週報」昭和四十年五月二十八日。戻る (2) 「日高輝」『私の履歴書』(経済人16)日本経済新聞社、昭和五十六年、六〇頁。戻る (3) 『サンデー毎日』昭和四十年六月六日号、二一頁。戻る (4) 「朝日」昭和四十年五月二十一日。戻る (5) 同上。戻る (6) 『サンデー毎日』前掲記事。戻る (7) 日本興業銀行編『日本興業銀行七十五年史』昭和五十七年、五〇六頁。戻る (8) 衆議院大蔵委員会議録第四一号、八七五頁。戻る (9) 以下は『サンデー毎日』前掲記事を参考。戻る (10) 「第一線社長百人」『中央公論・経営問題特集号』昭和四十二年秋季号、四一二頁。戻る (11) 実際には、日銀特融が行われたので、日興証券の資金融通は行われていない。戻る (12) たとえば、当時、大蔵省証券局総務課長だった坂野常和は次のように述べている。「ずっとあとになり、一部の人がもっともらしく、特融なしでも済ませたとか、証券界首脳が大蔵省に働きかけたなどと、解説しているが、あの決断がなければどんなことになったかわからない。加治木さんや安川君らが進言したのを、銀行局長の高橋さんが英断して決まったのが真相ですよ。むろん、最終的な決断は田中さんが行った。その意味では、いかにも党人政治家らしい決断だった。証券会社からは、とても大蔵省や日銀に救済融資を頼めるほどの状況ではなかった」(坂野常和「証券不況と再建対策の断行」五十畑隆編『戦後財政金融外史〔上〕』日本列島出版、昭和五十八年、一九四〜一九五頁)戻る (13) 日興証券編『五十年史』昭和四十五年、六一九頁。戻る (14) 「朝日」昭和四十年五月二十七日。戻る (15) 「朝日」昭和四十年五月二十八日。戻る (16) 日興証券編、前掲書、六二〇頁。戻る (17) 鎌田正美の証言「証券金融改革」エコノミスト編『証言・高度成長期の日本』(下巻)、毎日新聞社、昭和五十九年、三七三頁。戻る (18) 証券金融の拡充については、昭和四十四年、土屋清、高橋亀吉等が「日本の証券政策——資本市場対策への提言」の中で、証券専門銀行設立の必要性を説いたが、証券市場が立ち直り、各社の業績が急速に回復する過程で、そうした議論は行われなくなった。戻る (19) たとえば以下を参照。日本証券経済研究所編『現代証券辞典』、昭和五十六年、八〇頁。有沢広巳監修『証券百年史』、昭和五十三年、三一六頁。有沢広巳監修『昭和経済史』(下)昭和五十五年、三一六頁。有沢広巳監修『昭和経済史』(下)、昭和五十五年、三〇一頁。以上、いずれも日本経済新聞社。戻る (20) 日高、前掲書、六二頁。 戻る 戻る 〈第五章〉 (1) 村松岐夫『戦後日本の官僚制』東洋経済新報社、昭和五十六年、三一九頁。日本の政治過程を多元的に捉える見方は、もはや通説と言ってよい。大嶽秀夫『現代日本の政治権力』三一書房、昭和五十四年、大嶽秀夫編『日本政治の争点』三一書房、昭和五十九年所収の諸論文もそうした観点に立つ。ほぼ同様の見解として、日本の外交政策決定過程を「自民党、官僚層、財界の三集団の間には、いわば水平的な相互作用があり、これらと最終決定単位との間には垂直な相互作用がある」とする細谷千博の業績がある。細谷千博「対外政策決定過程における日米の特質」細谷千博・綿貫譲治編『対外政策決定過程の日米比較』東京大学出版会、昭和五十二年。戻る (2) 大蔵省と日銀の対立は社会的変化に伴って顕著になったというよりは、本文中で述べたように、組織的利益から生じる金融政策をめぐる見解の相違、大蔵省の日銀に対する優越感から生じているとみられる。戻る (3) 猪口孝『現代日本政治経済の構図』東洋経済新報社、昭和五十八年、一七八頁。戻る (4) 同上、一七八〜一九一頁。戻る (5) 榊原英資・野口悠紀雄「大蔵省・日銀王朝の分析」『中央公論』、昭和五十二年八月号、一三〇頁。戻る (6) 現在でも、この実態は変わっていないという次のような指摘がある。「ただ糸山のような“ガラス張り”は例外。政治家が選挙資金稼ぎのために株を動かしているという話は、カブト町では日常のように流布しているものの、実態は灰色のベールに包まれている。大手証券の最高幹部のクラスの“トップ・シークレット”といえよう」(小泉貞彦『兜町・裏の裏』同友館、昭和五十七年、一一一頁)戻る (7) チャールズ・ハーマンは国際的な危機の概念として意外性、決定の緊急性、問題の重要性を挙げたが、国内の決定についてもこのような要素を使って、決定の形式を区別することは意味があろう。たとえばルーティン化した日常的な決定や、重要ではあるが、決定するまでに時間的余裕のある決定と、この山一事件のクライマックスでみられた決定の形式は区別される必要がある。 Charles F.Herman.(ed.), International Crisis, Free Press, 1972.戻る (8) 一部の研究者は、大蔵大臣の田中はほとんど官僚の言うなりであったというが、これまでの記述から明らかなように、こと証券政策に関する限り、強い指導力を発揮したと言えよう。官僚に対するコンプレックスから、過剰なまでに官僚に依存したという解釈は、山口二郎「政策の転換と官僚制の対応(二)——公債発行問題と大蔵省主計局の行動を素材として——」『国家学会雑誌』(第九八巻第七・八号)、昭和六十年、一〇五頁、及び田中善一郎「第一次田中内閣」『日本内閣史録』(第六巻)、第一法規出版、昭和五十六年、二一八〜二二八頁を参照。戻る (9) 「日経」、昭和四十三年九月二十日。戻る (10) 同上、昭和三十九年十一月二日。この頃の宇佐美と日銀の関係については、吉野俊彦『歴代日本銀行総裁論』毎日新聞社、昭和五十一年、三一四〜三一五を参照。戻る (11) 『週刊東洋経済』昭和四十年二月六日号。戻る (12) 後日談として次のようなエピソードがある。山一問題をいち早く報道した西日本新聞は、昭和四十年度の新聞協会賞にこの記事を推薦した。しかし大手各社は状況は把握していたが、報道の自粛協定により報道を控えていたにすぎないとして、西日本新聞の記事はスクープに当たらないとした。戻る (13) これ以下の議論については、以下を参考にした。佐々淳行『危機管理のノウハウ』(PART1)PHP研究所、昭和五十九年、特に第二章「危機対処」と第四章「統率力」。桃井真『危機のシナリオと戦略』PHP研究所、昭和六十年。 戻る 〈エピローグ〉 (1) 『証券年鑑』(昭和四十一年版)、東京証券取引所、四九〜五二頁。戻る (2) 「日経」昭和四十一年二月二十三日。戻る (3) 「日経」昭和四十一年二月二十六日。戻る (4) 「日経」昭和四十一年六月十一日。戻る (5) 同上。戻る (6) 同上。戻る (7) 「日経」昭和四十四年六月七日。戻る (8) 「日経」昭和四十四年七月十五日。戻る (9) 同上。戻る (10) 宮本惇夫「名門山一証券の復活」『月刊ペン』昭和五十三年一月号、一三六頁。戻る (11) 「日高輝」『私の履歴書』(経済人16)、日本経済新聞社、昭和五十六年、六五頁。戻る (12) 山一旧役員私財提供内訳は次の通り。不動産一億六、二六〇万円、現金、有価証券一、三三〇万円、山一株式九九万八、五一〇株。戻る (13) 『ファイナンス』昭和四十三年五月号、一七〜二二頁。戻る (14) 「日経」昭和四十年六月十六日。戻る (15) 昭和四十三年三月三十日、免許書交付に際しての水田大蔵大臣の談話。戻る (16) 内野達郎『戦後日本経済史』講談社、昭和五十三年、一九九頁。戻る (17) 山口二郎「政策の転換と官僚制の対応(二)——公債発行問題と大蔵省主計局の行動を素材として——」『国家学会雑誌』(第九八巻第七・八号)昭和六十年、九九頁。戻る (18) 同上、九二頁。戻る (19) 大蔵省主計局「公債発行に関する議論(メモ)」昭和四十年五月三十一日、『昭和四十年度における公債発行に関する資料集第一巻』大蔵省主計局、一七一〜一七三頁。同上からの再引用。戻る (20) 九月九日には、一、二七七円一五銭まで上伸したが、その後は反落し、十月五日には再び一、二〇〇円割れとなっている。本格的な反騰は十月末の不況対策の発表を待たねばならなかった。十一月には一、三〇〇円台、十二月には一、四〇〇円台を回復し、大納会には一、四一七円八三銭をつけたのであった。戻る (21) 日高、前掲書、六四頁。戻る [参考資料] 面接者一覧(役職は当時のもの) 浅野克孝(山一証券経理課) 阿部康二(証券団体協議会事務局長、元山一証券専務) 荒川弘(産経新聞記者) 伊藤昌哉(池田首相秘書) 歌川令三(毎日新聞記者) 大山昊人(NHK記者) 加治木俊道(大蔵省証券局財務調査官) 鎌田正美(日本銀行理事) 川嶋節夫(日本銀行国債局) 近藤道生(大蔵省銀行局課長補佐) 呉文二(日本銀行総務部参事) 西条信弘(証券団体協議会) 坂野常和(大蔵省証券局総務課長) 佐々木直(日本銀行副総裁) 斉藤文則(時事通信記者) 白石文昭(日本経済新聞記者) 菅谷隆介(日本興業銀行企画室長) 鈴田敦之(毎日新聞記者) 田口真二(東京証券取引所副理事長) 徳田博美(大蔵省大臣官房) 近見正男(西日本新聞東京支社政経部長) 辻野猛(富士銀行審査一部証券担当) 中山素平(日本興業銀行頭取) 林鍾三(日本興業銀行調査役) 細金正人(日本経済新聞記者) 堀昌雄(社会党衆議院議員) 松尾励(西日本新聞記者) 松本明男(日刊工業新聞記者) 宮智宗七(日本経済新聞記者) 宮下鉄巳(大蔵省証券局業務課課長補佐) 水野繁(大蔵省証券局業務課課長補佐) 望月嘉幸(日本興業銀行調査役) 安川七郎(大蔵省証券局業務課課長) 山村喜晴(毎日新聞記者) 渡辺孝友(日本銀行総務部長) 参項文献 【証券・経済一般の主な単行本】 荒川弘『証券恐慌前後』日本評論社、昭和四十二年。 石原定和『戦後証券市場の構造分析』千倉書房、昭和五十六年。 川合一郎『日本証券市場の構造分析』有斐閣、昭和四十一年。 岡崎守男・濱田博男編『現代日本の証券市場』有斐閣、昭和五十九年。 有沢広巳監修『証券百年史』日本経済新聞社、昭和五十三年。 中村孝俊『高度成長と金融証券』岩波書店、昭和四十年。 東京証券業協会証券外史刊行委員会編『証券外史』東京証券業協会、昭和四十六年。 日本証券経済研究所『日本証券史資料・国会審議録(三)』昭和五十八年。 日本証券経済研究所『日本証券史資料・証券史談(一)』昭和五十九年。 日本銀行調査局『わが国の金融制度』日本銀行調査局、昭和五十二年。 玉置和宏『日本銀行・裏の裏』同友館、昭和五十七年。 日本銀行『日本銀行』財経詳報社、昭和五十六年。 八百板正雄『昭和金融政策史』皇国青年教育協会、昭和十八年。 中村隆英『昭和恐慌と経済政策』日本経済新聞社、昭和五十三年。 池田民雄『大蔵省証券局』財経詳報社、昭和四十四年。 内田稔『比較日本の会社・証券会社』実務教育出版、昭和五十八年。 二宮欣也『四大証券の内幕』徳間書店、昭和四十四年。 金融財政事情研究会『戦後金融財政裏面史』金融財政事情研究会、昭和五十五年。 細金正人『兜町四社』全貌社、昭和四十三年。 内野達郎『戦後日本経済史』講談社、昭和五十三年。 経済企画庁編『現代日本経済の展開——経済企画庁三十年史』経済企画庁、昭和五十一年。 飯田経夫他編『現代日本経済史(下巻)』筑摩書房、昭和五十一年。 香西泰『高度成長の時代』日本評論社、昭和五十六年。 有沢広巳監修『昭和経済史(下巻)』日本経済新聞社、昭和五十五年。 今野豊弘『銀行と証券』日本経済新聞社、昭和四十六年。 日本経済新聞証券部編『兜町二十年』日本経済新聞社、昭和四十四年。 【伝記・回想録】 「瀬川美能留」『私の履歴書』(13巻)昭和五十五年、「宇佐美洵」『私の履歴書』(14巻)昭和五十五年、「日高輝」『私の履歴書』(16巻)昭和五十六年、「北裏喜一郎」『私の履歴書』(18巻)昭和五十六年、以上いずれも日本経済新聞社。 松沢卓二『私の銀行昭和史』東洋経済新報社、昭和六十年。 『回顧録・戦後大蔵政策史』政策時報社、昭和五十一年。 五十畑隆編『戦後財政金融政策外史(上)』日本列島出版、昭和五十八年。 エコノミスト編集部編『証言・高度成長期の日本(下)』毎日新聞社、昭和五十九年。 志村嘉一編『戦後産業史への証言(四)』毎日新聞社、昭和五十三年。 一木豊『蔵相』日本経済新聞社、昭和五十九年。 伊藤昌哉『池田勇人・その生と死』至誠堂、昭和四十一年。 『山際正道』山際正道伝記刊行会、昭和五十四年。 『高橋俊英・人と足跡』高橋俊英伝記刊行会、昭和五十六年。 【社史・年鑑・辞典等】 『証券年鑑』(昭和四十一年版)、東京証券取引所。 『大蔵省・証券局年報』各年版。 日本証券経済研究所編『現代証券辞典』日本経済新聞社、昭和五十六年。 『日本証券保有組合記録』資本市場振興財団、昭和四十四年。 『日本共同証券株式会社史』日本共同証券財団、昭和五十三年。 『証券投資信託二十年史』証券投資信託協会、昭和五十年。 『日本興業銀行七十五年史』日本興業銀行、昭和五十七年。 『五十年史』日興証券、昭和四十五年。 『和光証券二十五年の歩み』和光証券、昭和四十七年。 『日本証券金融株式会社三十年史』日本証券金融株式会社、昭和五十五年。 【雑誌記事】(本文中に用いたものを除き、特に重要なもの) 岡本吉司「四十年不況について」(上・下)『ファイナンス』昭和五十三年八、九月号。 「山一問題の反省と教訓」『朝日ジャーナル』昭和四十年六月十三日号。 「金融構造からみた山一問題」『エコノミスト』昭和四十年九月二十四日号。 「山一問題と日本経済」『エコノミスト』昭和四十年六月十五日号。 三宅義夫「恐慌時の日銀の役割——山一特別融資をめぐって」『エコノミスト』昭和四十年六月二十二日号。 「信用危機防衛の一〇〇日」『朝日ジャーナル』昭和四十年十月三日号。 「三十年代後半の大蔵省を語る」『ファイナンス』昭和四十七年八月号。 高橋俊英「今後の金融政策の方向」『週刊東洋経済』昭和三十九年七月二十七日号、同「日銀法改正の焦点」『週刊東洋経済』昭和四十年三月十三日号。 鈴木隆「兜町転落の詩集」『文藝春秋』昭和三十九年十二月号。 「証券行政の今後」『ファイナンス』昭和四十三年五月号。 松本清張「山一証券事件を斬る」『文藝春秋』昭和四十年八月号。 鈴木松夫「通貨の番人に挑む宇佐美洵」『日本』昭和四十一年六月号。 「証券と金融をめぐる諸問題」『証券経済時報』昭和四十二年九月号。 【新聞】 「朝日新聞」、「日本経済新聞」、「西日本新聞」、「読売新聞」、「毎日新聞」、「産経新聞」、「日刊工業新聞」等の各紙を参照した。 あとがき  ひょんなことから知遇を得た文藝春秋の浅見雅男氏から、山一問題の研究依頼を受けたのは、昭和五十八年の夏も終わりの頃だったと思う。筆者には朧げな記憶しかなかったこの事件は、浅見氏の説明によると、戦後日本経済史に残る一大事件であるにもかかわらず、本格的にはほとんど誰も取り組んでいない大問題なのだという。執筆を終えて、その理由が漸く分かったような気がする。経済学者にとって政治的に過ぎ、また筆者のような政治学者にとっては全く逆の意味で、挑戦するにはクリアすべき課題の多い事件だからである。  そうしたことから考えれば、筆者がこの作品を通じ、どの程度、問題の核心に触れ、全体の姿を描くことができたか、一抹の不安は残る。それでも筆者が興味を失わずにこれたのは、この事件に関わった大蔵省、日銀、市中銀行、証券、マスコミというアクターの多彩さによるものであった。この事件には、それらの関係者の利害、主張が明確に現われており、その展開も極めてダイナミックな政治過程だったからである。  しかし、筆者が証券知識を有していないこともあって、本書の完成までには予想以上の困難に出合った。昭和五十九年の一月に開始したインタビューも、筆者が新潟県浦佐にある国際大学に勤務していることもあり、思うようには進まなかった。  それに加えて、この問題を手がけるまで迂闊にも知らずにいたのだが、勤務先の国際大学の中山素平理事長が、この事件の重要関係者ということも、正直言って気を重くさせた。当然のことながら、分析上の中立性を保つには、関係者とは等距離にいた方がよいからである。研究者として、場合によっては、理事長と異にする意見を書かざるを得ないかもしれない。そのような点が大変気になった。しかし結果的に、そうした不安は杞憂に終わった。この研究の重要性を強調し、筆者を激励して下さったのは他ならぬ中山理事長だったからである。  こうして一応の作業を終えたところで、昭和六十年三月号の『文藝春秋』誌に中間的な発表を行った。既にインタビューを終えていた一部の方々から頂戴したコメントをも参考にしながら、改めて書き下ろしたのが本書である。  筆者にとって幸いであったのは、本研究の開始とほぼ同時期に、平和安全保障問題研究所で、危機管理をはじめとする安保問題を勉強する機会を得たことであった。それは、この問題を危機管理の角度からみる目を養わせてくれた。  また、これまで、筆者が手がけた事例研究と同様、事件関係者の温かい御協力が得られたことは大変幸いであった。中には極めて貴重な第一次資料を提供して下さった複数の方々も含まれている。これらの方々に心からの感謝を表明したい。  とりわけ、大学院のゼミで報告の機会を与えて下さった東京大学の中村隆英教授、また何度となく筆者との面談に応じて下さったNHKの大山昊人解説委員、証券団体協議会の西条信弘事務局長、さらには本書誕生のきっかけを作っていただいた文藝春秋の浅見雅男氏にはとりわけお世話になった。ここで厚く御礼申し上げる。とはいえ本書中に発見されるかもしれない誤りは、全て筆者の責任であることは言うまでもない。  最後に『日米オレンジ交渉』の時と同様、出版の機会を与えて下さった日本経済新聞社出版局の方々に感謝したい。   昭和六十一年六月 プリンストンにて    草野 厚 文庫版あとがき  昭和六十四(一九八九)年一月四日、東京証券取引所の大発会は大賑いのうちに終了した。前年の大納会の過去最高値三万一五九円を上回り、三万二四三円六六銭を記録したのである。  昭和六十二年十月のブラックマンデーによる暴落を六十三年四月には埋め、その後多少の波乱はあったものの、東京市場は高値をジリジリと更新してきた。そして新年を迎え三万四〇〇〇円台も夢ではないとの強気の声がしきりである。  ニューヨーク市場をはじめ海外市場がブラックマンデーの後遺症から抜けきっていないにもかかわらず、ひとり日本の市場だけが活況を呈しているのには理由がある。成長率、貿易収支、物価など日本経済の基礎条件が欧米に比べ優れているからであり、国内の余剰資金の流入がそれに輪をかけているからである。    そのような時勢に、証券恐慌などと古い出来事を振り返る必要がどこにあるのかという声も聞こえてきそうである。しかし、山一証券の事実上の倒産と日銀による救済の過程はいくつかの点で、現在にも通用する意義を持っている。  第一は、銀行、証券をはじめ金融機関が経営上の危機にさらされた場合に、どのように対処すべきかを教えているということである。一般預金者の不安を静め、取り付けを防ぐにはどうすべきか、マス・メディアへの対応をはじめ、ここにはいくつかのヒントが含まれていよう。この点については銀行、証券等の監督官庁である大蔵省にとっても参考となろう。  第二は、東京市場が史上最高値を更新する中、昭和六十三年には三協精機製作所や新日鉄をめぐるインサイダー取引やリクルート事件、明電工事件、それに野村証券課長による詐欺など証券業界の不祥事が相ついだことと関連がある。ついにそうした状況を見かねた大蔵省証券局長は公開の席で、証券業界に対し次のように警告した。透明性の欠如や、違法ではなくても特定のものが常識を越えて利益を享受することは一般投資家に不公平感を抱かせることになり、早急な是正が必要である、と。問題は、このような証券業界の実態は、山一事件が起きた二十三年前と、基本的にはほとんど変わっていないと見られていることであろう。  勿論、この事件の直接的原因は運用預りという現在では廃止された制度によるところが大きく、また証券業界の体質が脆弱であったことも強調されねばならない。しかし、外務員はじめ業界のモラルの低さや商習慣が事件の背景にあったこともまた確かなのである。その意味で、証券業界が歴史の教訓としてこの事件を振り返る価値はあろう。  第三は、第二にも関連して歴史は歴史として正確に後世に伝えられねばならないということである。証券業界史や社史の類には筆者がここに記したことは十分に書かれていない。記されている場合でも、断片的であるか恣意的である。業界には不名誉な事件であったとしても、それを後に残すことは、既にあげた二つの理由からも必要であろう。  もとより本書の作業が完璧であるとは言えないし、一つの解釈にしか過ぎない。その意味では本書も読者をはじめ様々な人々の批判に委ねられなければならないのである。  文庫版に際し『昭和40年5月28日』から『証券恐慌』と、内容が一目瞭然なタイトルに変えた。一人でも多くの人に読んで頂きたかったからである。  最後になったが文庫本出版の労をとられた講談社の関山一郎氏、それに文庫版での出版を御快諾頂いた日本経済新聞社出版局に厚く御礼申し上げる。   平成元年一月 草野 厚  証 券 恐 慌(しようけんきようこう)  山一事件(やまいちじけん)と日銀特融(にちぎんとくゆう) 電子文庫パブリ版 草野厚(くさのあつし) 著 (C) Atsushi Kusano 2001 二〇〇一年六月八日発行(デコ) 発行者 中沢義彦 発行所 株式会社 講談社     東京都文京区音羽二‐一二‐二一     〒112-8001     e-mail: paburi@kodansha.co.jp 製 作 大日本印刷株式会社 *本電子書籍は、購入者個人の閲覧の目的のためのみ、ファイルのダウンロードが許諾されています。複製・転送・譲渡は、禁止します。