TITLE : 転勤族の妻たち 講談社電子文庫 転勤族の妻たち 沖藤 典子 著   目 次 第一章 重たき日々の記憶 ——転勤問題への橋渡しとして—— 第二章 選択をせまられる妻 新婚早々に別居して 職業と老親との別れ いつもゼロからやり直し 自立を奪われる背景 第三章 夫の行くところはどこまでも これもひとつの生き方 親孝行をさせてくれる転勤 転居後の“居場所”を求めて 第四章 華やかな転勤であったけれど 姑《しゆうとめ》から解放されたはずが…… 波乱多し、海外駐在員の妻 子供の転校・老親をめぐって 第五章 自立を捨てなかった妻 別れて暮らす結婚 夫が辞めて帰ってくる! 妻の自立を支えるもの 終章 転勤——妻の岐路 あとがき 文庫版へのあとがき 転勤族の妻たち 第一章 重たき日々の記憶    ——転勤問題への橋渡しとして——  発車間際に飛び乗った。東京駅発午後五時四十七分のひかり二十六号は、ほぼ満席だった。  うかつにも、この時間帯の混雑を予想していなかった。座席指定券を買わなかったことを後悔しながら後ろの方まで歩いて、ようやくのこと空席を一つ見つけた。東京駅に来るまでに相当疲れていたので、腰をおろすことの出来る場所の発見は、旅路の安らかさを約束してもらったような嬉しさだ。左側二つの座席には女物の旅行バッグが置いてある。  二月半ばの水曜日夜の新幹線乗客は、驚いたことにほとんどがサラリーマンと思われる男たちだった。一日の仕事を終えて出張の途につくのか、あるいは出張を終えて帰るところなのか、それとも単身赴任者が家族のもとへ急ぐのだろうか。ビール缶を手に隣と喋りあっている男、黙々と弁当をとる者、夕刊や書類に眺め入る者、ゆっくりと動き出した列車の振動にそれぞれの背が微かにゆれている。あまりにも明るく影のない車内で、その灰色軍団とも言うべき背中は、総じて言えば人の形そのものが影であるかのように静かだ。  私は神戸に行こうとしていた。働く女性のための講演を依頼されていたのである。  この種のテーマを引き受けるたびに、いつもたじろぎを覚える。会社を辞めた女だというひけめや後ろめたさと同時に、働き続けている女への申し訳なさ、自分自身への口惜しさなどが入り乱れて困惑してしまう。  彼女たちはいったい何を期待して私に講演を依頼してくるのだろう。働き続けることの困難さ、働く女は仕事と家事の二つの荷を背負って、育児と老親看とりの二つの壁をよじ登る、この二つの荷と二つの壁の現実について語って欲しいというのか、そして何故私が辞めざるを得なかったか、あるいは辞めたあとどう思っているのか、そのあたりを聞きたいというのだろうか。ためらいつつも引き受けて、そしてそのあと後悔しながら悩むのだ。いつものパターン、儀式のようなものだ。  私はバッグから講演のレジメを引き出してもう一度考え込む。  ひかり号は徐々にスピードをあげながら、とっぷり暮れた都会の喧騒を二つに割ってつき進んでいく。講演内容を考えなくてはと思いつつも、私の目はその夜景に奪われていって、書類の文字が頭に入らない。窓ガラスに映るサラリーマンたちの横顔が、あるなつかしさをもって私にせまってくる。  会社員だった頃、私も出張が多かった。そして多くの場合利用するのは夜の新幹線であり、夜行列車だった。それがもっとも時間を有効に使えるからだ。山陰地方の出張に、夜行寝台で出かけて朝目的地に着き、一日の仕事を終えて、再び夜行に乗り込み翌朝東京駅から会社に直行する、そんな強行軍をしたこともあった。その時はどうしてこんなにハード・スケジュールで働かねばならないのかと思ったものだが、今にして思えば夢中で働いていたんだなぁと、仕事にのめり込んでいた自分をいとおしむ思いが湧いてくる。どんなスケジュールでもこなしてみせるという意気込みが、私を走り廻らせてもいた。  組織の中で有為な人材だと思われたい気持ちも強かった。上司や同僚から、彼女なら少しくらいの難行はやりとげるさ、そう思われることが私の望みでもあった。頭での勝負はちょっと弱いけれど、身体を使うことならまかしといて、そんな思いでもあった。  それは、アメリカの心理学者アブラハム・マズローが唱えた人間の五つの欲求段階における“評価の欲求”に深く根ざしたものであったかもしれない。  彼の言う五つの段階とは、第一に生理的欲求、第二に安全の欲求、第三に所属と愛情の欲求、第四に評価の欲求、第五に自己実現の欲求。人は、低次の欲求から、より高次の欲求に向けて満足を求めていくという。  私はこの四段階めの“評価の欲求”を求めることにあせっていたとも言える。  しかし、仕事をやる人間であれば、誰しもがこの評価を求めて働くのではないだろうか。疾駆する列車に座る男たちも、同じではないかと思う。ある者は疲れた表情を見せ、ある者は意欲を垣間見せながら、自分の価値を上役や同僚に示そうとしている。彼ら一人一人の仕事内容とか、社内の状況は違うだろうが、そして中には妻子を養うためにやむなく働いている者もいるだろうが、しかし仕事はそうした収入を得る手段を越えて、なんらかの人生上の意味を与えていると思う。  私も、新入社員時代のさしたる仕事も出来なかった人間から、少しずつ仕事をまかされるようになって、仕事を通して生きることが自分の生き方だと思うプロセスを経てきている。働くことは、収入を得る手段であると同時に、それ以上の意味のあることを身体で学んでいったと思う。  私は勤続十五年にして職場を去った。長い勤めの間には辞めたいと思うことはたびたびあったが、しかしその時私は、ようやくのこと仕事を通して生きることに、喜びを見出せるようになった頃だったのだ。 「結局のところ、あなたが辞めた理由は何なんですか」  こう問われたことも多いが、私には何か一つに理由を絞ることが出来ない。 「さあ、何だったんでしょうねえ、私にもよく分からないんですよ」  過去に対して「もしも」と言うことは意味のないことかもしれないけれど、私はやはり「もしも……」と考え込んでしまう。 「もしも、夫が転勤していなかったら……、そして夫が八年間の単身赴任を受け入れてくれていたら、私は辞めなかったでしょう」 「もしも、その転勤先も札幌のように遠くはなくて、行き来がしやすい所だったら、また考え方も変わったかもしれません」 「もしも、子供がもう少し大きくなっていれば、判断も違ったと思います。何分とも、中学三年と小学一年でしたから、子供にとって父親が必要でした」 「もしも、同居していた私の父が病気にならなかったら、それも癌《がん》などという痛みの激しい病気でなかったら……、さらには地域ケアなどの終末看護の体制が整っていれば、私はあんなにつらい思いはしなくてすんだと思います。その心身の疲労や亡くなったあとの後悔の思いがなければ、辞めなかったかもしれません」 「もしも、私が室長などという中間管理職になっていなかったら、もっと自由に休むことも出来たでしょうし、責任感に苦しむこともなかったと思います。あとになって、仕事も看病も、どっちも思うようでなかったと、悩むこともなかったでしょう」 「もしも、父の死後すぐに長女の高校入試をめぐって、夫の赴任先の北海道の高校にするか、このままそれまで住んでいた神奈川県県立にするか、その問題が起こらなければ、つまりはもう少し時間の余裕があれば、考え方も変わったかもしれません」 「もしも、私に兄や姉が、いや弟か妹か、とにかく誰か身近に相談でき、力になってくれる人がいれば、一人で悩まなくてすんだでしょう。そうすれば父親のいない家で、さらには祖父に死なれて淋しがっている二人の娘に対する良い智恵も生まれたかもしれません」  こうして「もしも」は無限連鎖していく。  つまりは、人が何か重大なことを決断する時は、けっして単純な理由ではない、いくつもいくつもの要素が複雑にからみ合っているものだということかもしれない。  これは、私自身の弁解でもあるだろう。  私は、簡単に会社を辞めるような女ではない。仕事に能力があるか、子供につらい思いをさせているのではないか、いろいろ思い悩むことはあったけれど、ちょっとやそっとのことで、生き方として決めてやってきたことを放り出すようなことはしない。  しかしこの時重要なことは、夫の転勤があったことなのだ。いくつも要因が重なったとはいえ、基本的には、転勤がなければ私は退職せずにすんだのである。転勤は、私の職業観を問い、家庭観を問うものであった。何故女だけがこうした悩みにつき当たらねばならぬのか、それを怒る以前に、現実をどう処理するか、目の前の問題であったのだ。私を選択と決断の岐路に立たせたものは、まさしく転勤であった。  夫に転勤の内示が出たのは、夫婦そろって勤続十三年めになろうとしていた三月のことであった。夫は大学院卒、私は学部卒で、勤続年数は同じだった。二人ともに、組織の中堅になりかかっている頃だった。  その年の二月末、私は十二人ばかりのセクションの室長辞令を受けている。ポストはあきらめていたものだったから、驚きと同時に、「やっていけるだろうか」と不安もまた大きかった。女に限らず男だって、登用の辞令を受けた時は、不安と恐ろしさを抱くものである。 「私に出来るかしら、どうしたらいいだろう」  しかしこの時、まだ転勤を予想もしていなかった夫は、こう言って私を励ましたのである。 「そりゃ誰だって初めから自信のある奴はいないさ。やってみればいいじゃないか。仕事はやっていくうちに自信が出てくるものだよ」  言われてみればその通りだ。私の周囲にも女の室長で大丈夫か、女が出れば、とれる仕事もとれなくなるという危惧の目はあったし、何よりもその思いを抱いたのはこの私である。私は不安を押えて言った。 「そうねぇ、ポストについている男の人たちは、みんなこうした思いを抱いて働いているのかもしれないわね。女も男も同じなんだわ」 「男社会って言うけれど、男だってそうそう馬鹿じゃないよ。相手が仕事出来るって思えば、女だ男だに関係なく仕事をまかせてくるものだよ」  私は調査機関に勤め、主として市場調査の営業企画をやっていた。折衝をし、見積書を作成し、調査票を作成する。実査と統計処理は他セクションでやって、データがあがったあとの分析と報告書作りを行なう。小さな会社であったから他セクションとの分業は必ずしもこのような流れではなく、時には全プロセスを一人でやることもあったし、フィールド・ワークの応援に駆り出されることもあったが、とにかく主たる業務は営業によって調査を受注してくることであり、管理職ともなれば、営業の比率はぐんと強くなる。女にまかせて大丈夫なのか、折衝相手の目にそれを感ずることもいくたびかあったし、社内的にも女のとってくる仕事は小さいとする目のあることも確かだった。実際には大きな仕事小さな仕事雑多だったのだが……。ただ、私はどんな小さな仕事でもいとわずに引き受けた。大きなものも小さなものも、かかる労力はあまり違わないから、男はどうしても大きな仕事をやりたがる。しかし、小さな仕事を続けていくことも大切なことなのだ。だから私は、いつも忙しかった。  一方夫は、建設会社の土木設計技師。二人はまったく畑の違う仕事であった。ところが、その夫に、札幌支社転勤の内示があったのは、なんと私の辞令が出た一週間後であったのだ。勤続十二、三年めの頃というのは、働く人間がそれぞれに転機を迎えるということであろうか。 「もしかしたら、札幌に転勤になるかもしれないよ。今度は長くなるらしい」  夕飯のあと片付けをしている私の背に向かって夫は言った。 「ええっ、まさか」  なぜ私は「まさか」などと言ったのだろう。後々まで私はこの「まさか」のひとことにこだわったのだが、実際のところ転勤はあり得ない話ではなかったのである。  それまでも、期間が一、二年の小さな転勤を三回経験している。その時は、本社設計部に籍を置いたままの、いわば出向のようなもの、当然のこととして単身赴任をしてきていた。 「今度も単身赴任で行くんでしょう?」 「さあ……。早くて五年だというし、今度は札幌支社に籍が移るんだ」 「そんな……」  私たち二人はもともとが北海道の人間であり、学生結婚だった。二人で就職のために上京してきた、いわば夫婦そろっての出稼ぎのようなものであった。上京当時は二人の両親もまだ北海道に居り、私としては東京就職が不満でならなかった。東京の暮らしに馴染めず、かつ私が大学四年のときに生まれた長女を私の実家に預けて上京してきていたこともあって、最初の一、二年の頃は、なんとかして札幌支店勤務にしてもらえないか、そればかり願っていた。私自身も会社に対する定着志向はまったくなかった。会社の仕事もおもしろくなく、人間関係もぎくしゃくとして、東京の人はつきあいにくかった。さらには年齢的にも、まだまだやり直しがきく頃だった。札幌で新しい別の仕事につきたいとそればかり願っていたのである。  しかし転勤はかなえられなかった。上京二年後には長女を引きとり、そのままずるずると東京近郊に暮らし、同居の夢をかなえられないまま私の母は他界してしまった。そしてその後一人暮らしの父を相模原市に自宅を建てた時にひきとり、同居を始めて三年が過ぎたところだったのである。  だから私の「まさか」のひとことには、あの時あんなに希望していたのにかなえられず、今やっと生活も落ち着き、職業生活にも意欲が湧いてきた、よりにもよって今この時になって、という激しい驚きがこめられていた。あの時あんなに望んだ札幌になんで今ごろ転勤になるのか、言ってみれば皮肉な運命への反語のようなものであった。  皮肉と言えば、私の昇格辞令一週間後に出た転勤内示だったこともそうだった。  私とて仕事に飽きたこともあった。いつまでこんな下働きみたいな仕事やっているんだろう、この会社に居れば居るほど、ただすり減っていくだけではないのか、そう思ったこともある。セクションが違えば昇格にも運不運はつきまとってくるものなのだが、私よりもあとに入社した男性がポストについていく姿を見れば、男女差別の現実を垣間見た思いにもなる。ポストになんぞつかなくてもいい、仕事だけはしっかりやっていこう、そう割り切ってはいても、人間関係につまずいたりすると、ふと夫に転勤の辞令でも出ないかなぁと思ったことも事実だ。 「ねえあなた、転勤ないの?」  と聞いたこともある。自分の理由で辞めることはいやだけれど、外側からの力で辞めるのなら「万やむを得ず」ということで引っ込みがつく。新しい土地に行って、新規巻き直しで何かこれまでとまったく違うことをやってみたいなぁという願望を抱いたこともあるのは確かだ。  しかし、今は事情が変わってしまっている。ポストについている人間が、外側の力で会社を辞めるなんて、そんなことは許せなかった。  しかも父が居る。札幌の家土地を整理して私のところにやってきて、まだ三年余、ようやく新しい友人が出来た父を、また別れのつらさにさらし、札幌に連れ帰るのか。そんなことは出来ない。  以来私たち夫婦の間では、転勤の話をすることを避けるようになっていた。 「もし転勤になるとして、いつ頃になりそう?」 「たぶん夏頃だと思うよ」  それっきり、転勤の話は途絶えた。実際、確かなことが分からない限り、話しあってみることも無駄に思えたのである。  正式の辞令が出たのは、七月の半ば頃であった。珍しく早く帰宅した夫は、叫ぶような早口で言った。 「出たぞ。八月二十日、札幌支店出頭だ」  汗だらけの顔は真赤になって、怒っているように見えた。  その時私がなんと答えたか記憶はない。たぶん沈黙で答えたのではないかと思う。来るべきものが来た……、心臓をどんと一突きされたような思いであった。  それからの夫婦の話しあいは、夫婦の溝をおし広げ、深くするだけのものだった。お互い避けていた転勤が現実のものとなり、話の焦点は、私が一緒に行くかどうか、つまり私が会社を辞めるか否か、辞めて一緒に行って欲しいと思う夫と、辞めたくないと主張する私との争いなのであった。なまじ内示後半年の期間があり、辞令が出た後も赴任が一ヵ月後と、準備期間がたっぷりあったことが私たちには災いしたように思う。  話しあってもお互い妥協点を見出せる性格のものではなかった。夫は社命で札幌に行く、これは現実なのだ。しかも、家族帯同の原則の前で、私に退職をせまっている。それに対して、私は仕事を辞めることは出来ないと答えているのだ。会社や職場、仕事に対する愛着が一挙に吹き出てきた思いだった。 「ねえ、とりあえず一年だけ単身赴任して下さらない? 私だってやっと仕事がおもしろくなった時なのよ。それに今は時期も悪いし。もし辞めるにしても年度末とか仕事の整理がついた時とか、それなりに決着がついていないと、途中で放り出したって言われるもの」  夫はこれまで私に仕事を辞めろとは言ったことのない人であった。私が「もういやになっちゃった。辞めたいなぁ」と愚痴をこぼすようなことがあっても「いろいろあるさ、仕事やっていれば。もうちょっと頑張ってごらんよ」と言う人なのである。  今でこそ彼の勤める会社も共働きが多くなったが、私たちが勤め始めた頃は、共働きなんぞきわめて珍しい存在だった。勤めて一年めくらいの頃だったろうか、直属の上司に二人で呼ばれてこんなことを言われたことがある。 「妻が働いていると夫の出世にさしつかえますよ。奥さん、旦那さんを出世させたかったら、仕事は辞めなさい」  その時夫は、猛烈に反論して言った。 「それは、私生活への干渉です。会社にはそんなことを言う権利はありません」  社宅に入れば生活が楽になることは分かっていても、私が仕事を続ける以上は近所づきあいが無理だと、狭い公団住宅に住み続けたのである。それは、私への思いやりだった。  しかし今、状況が変わっていた。彼自身も、転勤と家族帯同の原則の前に、自分の信念を変えざるを得なかった。そのことの内心の苦痛もまたあったのではないだろうか。自分で自分を裏切らざるを得ない苦痛……。会社の原則と自分自身の信念、あるいは私の希望との間で板ばさみになっている。 「僕にとって今度の転勤はチャンスなんだ……」  夫の会社の仕組みをよくは知らないが、昇進していくためには地方の支店に行き、現場体験を積み、そこで実績をあげることがルートなのだと言う。勤続十三年めにして彼はそのチャンスを掴んだ。出世のための転勤はばからしい、そう一笑に付してはしまえないものが、彼の中にはあった。彼もまた“評価の欲求”に燃えていたのである。彼はこの転勤に賭けようとしており、喜んでいるのだった。  私自身もまた彼のそうした気持ちは分かる。仕事の世界に身を置く人間ならば、誰だって目の前のチャンスは逃がしたくないし、万全の構えでもって立ち向かいたい、それは当り前のことでもある。その時に、家族も共に行くということは、場合によっては「ここに骨を埋めるぞ」ぐらいの意気を示すものであり、けっして腰かけで転勤してきたのではないという意思表示でもあるのだ。  しかし私の言い分もある。夫の会社の辞令が妻にまで及ぶなんて。 「だからといって私は今会社を辞めるわけにはいかないわ。あなただってそれは分かるでしょう?」  この論議はその一年半後再び私たち夫婦の間でくり返されることになるのだが、とにかくこの時私は強硬に単身赴任を主張した。かつて、時には望んだはずの“外側からの力”も、いざ現実になってみると、私の人生を挫折させるもの以外の何ものでもない。仕事や私自身のポストへの未練と同時に、子供も上が中学二年、下が保育園年長組と子供の成長による育児からの解放もあった。やっとここまで来たのに何を今さら……両方の思いが募ってきて、今の生活を変えることなど絶対にしたくなかった。  妥協案は、とりあえず一年間別居することだった。  八月の半ばに、私たち一家は札幌に出かけた。独身寮の夫の部屋を見、秋から冬にかけての細々したものを買い整え、寮のおばさんに挨拶した。食事は寮から出るし、掃除、洗濯は彼女がやってくれる。これなら単身赴任につきものの自炊もなく、生活上なんの差し障りもないではないか、私は心ひそかに、「あと一年、あと一年と引き延ばしていくうちに、五年ぐらい経ってしまうわ」と思って安堵したのであった。  しかし夫はこの単身赴任に納得していたわけではなかった。自宅で荷物を整理し、発送する間も不機嫌なまま黙りこくっていたし、札幌に着いてからも固い表情が崩れたわけではなかった。些細なことで子供を叱り、ぷいとホテルを出たまま、二時間も三時間も帰らないこともあった。私はつい夫の機嫌をうかがい、ハラハラしながら顔色に気を遣うことになる。  折しも、札幌の八月は盆踊りの季節だった。なつかしい北海道の太鼓の響きがホテルの窓を打つ。 「ねえ、私たちも行って踊りましょうよ。盆踊りなんて何年ぶりかしら」 「いや、僕はいいよ、あんたたち行きたかったら行けばいい」  夫はベッドに寝ころがったまま言う。 「そんなこと言わないで。家族そろって旅行するなんてめったにないことだし、行きましょうよ」  彼はしぶしぶ腰をあげてついてきたが、すぐ姿が見えなくなってしまった。はしゃぎ踊る子供のつきあいをしながら、私も心ははずまなかった。これからこの地に一人で働く夫のことを思うと私とて胸が痛い。しかも単身赴任を納得しておらず、その理由はただ一つ“妻が働く”ということである。なまじ“理解ある夫”であったが故に、彼自身も自分の過去の言動に腹を立てているのではないだろうか。あるいは夫の希望に従わずに、夫への協力よりも自分の仕事を選んだ妻への憎しみに似た思いもまたあったと思う。  しかも彼の勤める会社は保守的である。 「女房一人説得出来なくて、あいつもたいした男じゃないな」  そんな評価も彼の周りにはあった。これから新しい仕事に張切って立向かおうとする時、こうした周囲の目は、いろいろな面で彼にとって不利益をもたらすだろう。もしかしたら、それはまさしく“出世のさまたげ”になるかもしれなかった。しかし、それならばそれでもいい、彼にとっては口惜しいことであろうが、私は夫にそれほど出世してもらいたいとも思わない。  とにかく生活が軌道に乗れば、彼もあるいは単身赴任の方が気楽でいいと言い出すかもしれないではないか、私は一縷《いちる》の希望をそこにつないでおこう。  私たちの場合、単身赴任の理由が、一にも二にも妻が働くことにあり、各種転勤調査のトップを占める“子供の教育”という都合いい理由がなかった。もっとも、長女が中学二年であったから、教育上の理由としてあげられなくもなかったけれど、私も夫も子供をダシにする気になれなかった。教育上とはいえ、つまりは受験のためであり、公立中学から公立高校に行けばいいと考えていた私たちは、それほど教育熱心な親でもなかった。むしろ単身赴任は教育上のマイナス、家族で父親から学ぶことも子供にとっては大切な教育であると思っていたので、“教育”を単身赴任の理由にすることは私たちにしてみれば矛盾なのである。  私の父との同居も、単身赴任の理由の一つに入れられなくはなかった。表向きの都合としてはこれが一番無難だった。“妻の仕事”は大義名分とはなりにくいが、老父を動かしたくないというのは理由となり得る。たぶん夫はこれを前面に押し出して、「どうして家族が来ないの?」という質問をかわしていたのではないかと思う。そしてそれが故に、父の他界後、彼は窮地に立つことになったのだろう。  しかしその時、さきのことは何も分かっていなかった。昭和四十九年八月、私は悩みながらも主張を押し通し、夫を札幌に残して東京郊外の自宅へ帰ってきたのであった。  いつの間にか私と夫の場合の転勤の回想にふけっていた。  列車は新横浜を過ぎたところだった。食堂車に行っていたらしい隣席の二人が戻った。紺の制服を着た娘と母の二人連れだった。  聞くともなしに二人の会話が耳に入ってくる。しきりに私立の大学の名前が出て、どうやら受験帰りらしかった。 「もう一度家に電話してみるわ」  娘がそう言って私の膝をまたぐようにして出て行ったあと、私はふと残った母親に訊ねてみる気になった。 「受験ですか」 「ええ、そうなんですのよ」 「大学の?」 「いいえ、高校なんです。主人が四月に東京に転勤になるものですから、娘にこちらの高校を受験させようと思いまして。やっぱり東京はレベルが高いですね。一つは今日不合格がはっきりしたんですが、あとのがどうなるか、とりあえず帰って結果を待つことにしたんですけど……」 「大変ですわねぇ」  私も二人の娘の高校受験の時のことを思い出しながら言った。 「本当に。転勤、転勤で落ち着く間もなくて、子供の小さいうちはそれでもなんとかやってこれましたけど、大きくなると大変ですわ」 「そんなに何回も転勤したんですか」 「ええ、数え切れないくらい。中南米の方にも行きましたし。今日受けた高校でも、その頃ご一緒だった方々が何人か集まってまして、やっぱり帰国してからの教育が大変だったと皆さん言ってました」 「そうでしょうね。海外に行かれた方は国語と社会の差が開いているって言いますね。単身赴任はなさらなかったんですか」 「いいえ、とんでもない。たとえどこであろうと、家族はついていきますわ」  彼女は驚いたように顔の前で手を振って言った。ひとめで日本製ではないと分かる、凝った造りの金細工の指輪が窓に光を撥ね返す。夫は商社勤めか、銀行員か、裕福な家庭の主婦らしい落ち着きと身のこなしだった。  一方ではなんとか単身赴任を続けさせたいと夫婦の間に溝を作った女がいるかと思えば、一方にはこうして夫について歩くのが当然と受け入れている女がいる。転勤と一口に言っても、家族の年齢構成や妻の生き方によって受ける衝撃も違う。  今、年間八十万人の転勤者がいると言われている。そのうち、単身赴任するのは約四分の一だ。単身赴任が社会問題となって久しいし、現実に昭和五十九年二月に埼玉県で起こった留守家庭の主婦が子供三人を殺して無理心中を謀った事件は、我々に改めて転勤と単身赴任の問題を考えさせるものだった。  ゼンセン同盟(当時)では、単身赴任をなくそうと運動しているし、減税案など、単身赴任をめぐる話題は多い。  しかし、よく考えてみれば、単身赴任者は転勤者四人のうち一人、残り三人は妻子をひきつれた転勤なのである。その“共に行く妻子”の中には、隣席の彼女のように一緒について歩くのが当然、家族の団結を示す時だと思っている女もいるだろうが、私のように一年半に及ぶ確執の末、職業を放棄する形にならざるを得なかった女もいる。職業に限らず、サークルやボランティア活動など、なんらかの社会活動を断念し、友人との別れ、新しい土地への不安など、転勤というものに疑問を持っている女もけっして少なくないはずだ。  夫の転勤は、妻から人生を剥ぎとってしまう。女の立場から考えると、はたして単身赴任をなくする運動だけでいいのか、疑問もあるのだ。単身赴任をなくするということは、家族が共に行くということだ。その時家族や女の生き方はどうなるのだろう。問題は単身赴任ではなくて、転勤そのものではないだろうか。 「でもねぇ……」  彼女が言葉を継いだ。 「私、つくづく娘は転勤のない人と結婚させたいと思ってますのよ」 「え?」  思わず私は彼女の横顔を見あげた。  家族そろって夫について歩くのが当然だと言っていたのに、あまりに思いがけない言葉だった。転勤のたびに生活を変更せざるを得なかった女の、これが正直な思いだろうと思って私は聞いた。  私も、夫が単身赴任のあいだ、どれだけ転勤さえなかったら……と呟いたことだろう。  夫不在の生活は、最初のうちこそ解放感もあり、身軽になったような思いだった。夫は夜残業で遅くなった時でも、帰り道一杯飲んできた時でも、それが当然というように堂々と帰ってくる。私は、残業ですら何か悪いことでもしてきたかのように「遅くなってごめんね」などと言いつつ、小さくなって帰る。この不合理さに腹を立てつつも、妻が遅く帰ることへのこだわりから脱け出せなかった。  それが、夫の不在によって頭上の暗雲がとり払われたように、何をやっても気軽になった。夫の存在を意識しなくてすむということは、子供や私の父への家庭責任とは別に、なんと私をいきいきとさせてくれたであろう。  しかし、これもわずかの間のことであった。  別居生活が始まって半年、転勤の内示が出てからちょうど一年経った時、父が癌を発病したのである。忘れもしない、昭和五十年三月のことであった。  三月初めのある朝、父が首の後ろが痛いと言う。寝ちがいでもしたのかなぁ、それにしてもひどい痛さだと言った。  近所の外科病院では、たいしたことはない、首の骨がびっくりしたんでしょう、そんな診断であった。だがなかなか良くならない。四月になって大学病院で検査を受けたところ、即刻入院を言い渡されたのである。  それからの私の生活は、病院と家庭と会社を走り廻るものとなった。家には、中学三年と小学校にあがったばかりの娘が残された。  六月に手術、七月に退院したのだが、入院中はそれでもまだ楽であった。医療の目と手のある所に居れば安心でもあったし、本人も回復への意欲と希望の中に居た。基準看護の病院であったから家族がつきそって寝泊りすることもなく、病院にまかせてもおけた。手術の時に休んだりはしたけれど、仕事にはさしたる障害もなかったのである。  問題は退院してからであった。首の骨に転移してきた癌は、手術でもとり切ることが出来ず、退院後旬日のうちに再び痛みが始まり、手のしびれと足の麻痺が起こってきた。 「いったいこの病気は何なんだ? 良くなったとばかり思って退院してきたのに、これは手術の失敗ではないのか? どうしてお前は病院を告訴しないんだ」  父は苦しさに顔を歪めて私にせめ寄ってくる。病名も知らされず、快方にも向かわない苦痛の中で父は精神的には苛立ちを抑えられない。肉体はどんどん衰弱していく。  もう一度入院させてくれないかという私の願いに対して、病院の反応は冷たかった。 「あなたのお父さんのような人を入院させていたら、病院はたちまち一杯になってしまいます。お家で看病してあげて下さい」  痛みの問題がもっとも私たちを苦しめたものだった。病院から出る薬はまったく何の役にも立たない。タオルを熱く蒸してそれを痛む所にあてるだけ、そうすれば少し気持ちがいい。熱帯夜と言われた真夏の夜、蒸し器と病床を往復する私は、睡眠不足と疲労とで次第に神経がささくれ立っていく。仕事にミスが重なったのもこの頃だった。国連婦人の十年のメキシコ大会の夏は、私にとっては涙と汗と疲労だけで過ぎていった。  職場では、私は夫の単身赴任を誰にも語ってはいなかった。後に私は、多くの人から「突っ張りだ。そこまでしなくとも、上手に他の人の助けを借りるべきだった」と言われたが、私が一番恐れていたことは「辞めるのではないか」と周囲の人たちから思われることだった。あるいは「辞めた方がいいんじゃない」と言われることであった。突っ張りと言われれば確かにその通りだが、家庭の事情を職場には持ち込みたくなかったし、何らかの目や言動によって私の気持ちが左右されるのを恐れてもいた。父の発病によって言いそびれてしまった部分もあった。  夫に対して強引に単身赴任を主張し、あと一年と言いつつずるずる引き延ばしていこうとは思っていたが、私自身確たる信念があったわけでもない。  第一、当初五年ということだったけれど、はたして五年で帰れるものかどうか、さらには父親不在のままの生活を続けていっていいものかどうか、私には判断材料がないのだった。これがもう少し近いところで、行き来がもっと簡単に出来るものなら考えようもあるが、東京・札幌ではあまりに遠すぎる。飛行機で一時間半とはいえ、やはり遠いのである。経済的にも飛行機代は家計を圧迫する。  夫の方も、なぜ家族がついてこないのか、夫婦仲が悪いのだろうと陰口されている。赴任して三ヵ月ぐらい経った頃、夜中に突然電話がかかってきたことがあった。 「俺、会社辞める。辞めてそっちに帰るワ」  何が原因だったのか私には分からないが、上司との関係もうまくいってないらしい。彼もまた新しい人間関係の中で、“家族が来て当然”とする彼らの常識との闘いに疲れていた。  こんな状況の時に、「辞めて旦那さんの所に行った方がいいんじゃない」と私の方の“常識”が囁きかけてきたら、私の気持ちもぐらついてしまう。時期を見て、親しい友人にだけは話そうか……と思っているうちに父が発病し、言う機会を逃してしまったのであった。  父が発病してからというもの、私はどんなに夫の不在を呪ったであろう。  こんな時ちょっと相談出来る人がいたら、苛立っている父にひとこと慰めの言葉をかけてくれる人がいたら……、さらには一晩でいいから交替してくれる人がいたら……、私は何度思ったかしれない。  辞めて戻る、と夫から電話があった時私は何のためらいもなく「うん、そうしなさいよ」と答えている。心底夫に戻って来て欲しかった。ある時は、この家庭の窮状を夫の上司に伝えて、東京転勤にしてもらえないかと手紙を書いたこともある。しかし、そのことを相談した知人から、夫の立場を悪いものにするから止めた方がいいと言われて断念した。ただでさえ微妙な立場に居る夫を思えば、とても投函する勇気が湧いてこなかった。そしてそれ故に私の疲労はますます深いものとなった。  仕事と看病の二つを綱渡りのようにして続けていた私に、決定的な打撃を与える事件が起こったのは、八月に入って間もない夜のことであった。  真夜中トイレに立とうとした父は、動かなくなりつつあった足をもつれさせて転倒し、ガラスの本箱に頭をつっ込んでしまった。頭にも腕にもガラスの破片がつき刺さり、血まみれになって隣の部屋に寝ていた私を起こしに来たあの姿を私は忘れることは出来ない。  救急車で運ばれた病院はつきそい婦をつけるか、家族がつきそうかどちらかだった。私は今この状態にいる父を他人に頼むことは出来なかった。この日から私は会社を休み続け、退院後も、出社したりしなかったりの生活が続き、父が亡くなるまでの八ヵ月の間にいったい何日休んだことだろう。  私の仕事は部長が替わってやってくれていたが、アテに出来ない人間として仕事からはずされていた。当然の処置であり、気持ちの上ではそれで救われていた面もあったけれど、たまに出社して会議などに出てもさっぱり状況が分からない事態は、やはり私にはショックだった。今まで一所懸命走ってきた道のりが急にぼんやりとなって見えなくなってしまったような呆然たる思いだったのも事実だ。  しかしそれも、日数が経てばまたもとに戻るだろう。問題は、父の死後急に職業継続への意欲があやふやになっていったことだった。仕事はつまらなく、周りの人もよそよそしく映ってくる。組織のコマに過ぎない人間、代替可能の存在、この世にその人でなければならない仕事など一つもないのだ、頭では知りつくしていたそれを、現実に目の前につき出されてみると、胸の奥底までも冷え冷えとしていく無力感のようなものに落ち込んでしまっていた。仕事にやる気が出てこなかった。身体がだるくて重かった。仕事へのむなしさは父の死後始まったと言っていい。  夫は、父の存命中からも、札幌へ転居するよう、しきりにすすめていた。一つには父の看病で疲れ切ってやせていく私と、その間放り出されたに等しい子供たちのことを案じてのことであり、二つには、彼の面子《メンツ》の故であった。家族帯同に、なぜ彼がこれほどにこだわったのか、私は本当の理由は知らない。転勤の話は、この時からすでに十年以上経った現在でも私たち夫婦にとってはタブーであり、避けていたい話題なのだ。だから、いったい単身赴任中彼に何が起こり、どんなことを言われ、どんな大変さがあったのか、正確なところは分からないし、今さら知ってみたところでどうしようもないが、とにかく、非常に面子にこだわったのは確かであった。  父が亡くなったのは十一月十日だった。この直後問題になったのは長女の受験だった。ひかり号の隣席の主婦の言うように、高校受験は転勤族にとって最大の悩みなのである。  夫は赴任地札幌の高校を受験させたい、私はこのまま神奈川県県立を受験させたい、この対立の間に立って娘もまた動揺している。夫婦の決断の時でもあった。娘の受験校を決めるということは、私の職業、夫の生活を決めることでもあったのだ。私の職業観、家庭観をも問われていた。父の死のショック、職業への奇妙な無力感、その精神的な落ち込みの時に決断をせまられたのも、考えてみればむごいことであった。  もし、北海道道立高校を受験させるとしたら、願書は、学区外受験者ということで、一般受験生よりも早く、正確な期日は忘れたが、確か一月中旬頃までに出さなければならない。夫は夫で早く決めたいのである。父の存在という、単身赴任理由もなくなったためか、夫は強硬だった。  とりあえず、あとまた一年と頑張ってみて、やっぱりやっていけないとなったら転校の編入試験を受けるという考え方もある。しかし娘は、それは絶対にいやだという。  彼女もまた微妙な気持ちに揺れ動いていた。  親しい友達と別れ、神奈川方式で積みあげてきた過去のアチーブメント・テストの結果を反古《ほご》にして北海道道立の高校を受験するのは気持ちが納得しない。社会科などは、やはり内容に違いもあるし、受験の傾向も新しく調べ直さなければならない。この点だけを考えたら、北海道行きを拒否したい。  だが、北海道に行くということは、母親が会社を辞めることだ。それは、これまで彼女が担ってきた家事や、妹の世話から解放されることを意味する。帰りの遅い母親に代わって夕飯の仕度をしたり、妹のための風呂の心配をせずに学校生活を楽しみたい。クラブ活動も思い切りやってみたい。もしこのままここに残れば、妹と二人だけで夕飯を食べたりの母親代わりは続くのだ。彼女はこんなふうに言った。 「そりゃ、ママがいきいきと働く姿を見ているのは好きよ。ママだってこれまで頑張ってやってきたんだし、続けた方がいいとは思う。だけど、私もクラブなんかやってみたい。このままここに残れば、それも出来ないし……」  思えば私が働くというのは、彼女をアテにする現実によって支えられている。とくに父があの真夜中のケガで入院した時には、姉妹二人で一ヵ月以上も留守番をしていた。妹の世話から解放されたいと思うのも、率直な思いだろう。彼女をアテにせずやっていくことを心がけるとしても、やはり彼女の負担になる部分のあることは避けられない。  夫は強硬に北海道の高校受験を主張している。しかも、決断の時期は切迫していた。正月休みの間に決定しなければならないのだ。  後々になっても、私は、この間の時間不足を嘆かないわけにはいかない。この時もう少し時間の余裕があれば……。私も、会社に出るようになって一月余、長い休みのブランクをまだとり戻せないでいた。何よりもこの精神状態の不安定さ、職業への執着が妙に薄れてしまっていた時に、決断の時期があったということは、夫には幸いしたろうが、私には不運なことであった。  夫が明日は札幌に帰るという一月三日の夜、私たち夫婦は最後の話しあいを続けていた。食卓には、夕飯のハム・ステーキの皿やナイフやフォークが散らばっていた。 「ねえ、私もいろいろ考えたけど、やっぱり仕事を辞めるのはいやなの。せっかくここまで来て……。あなただってそれは分かっているじゃないの」  会社に行けば居心地の悪いものを感じはしても、まだ私には退職の決断は出来なかったし、未練も湧いてくる。 「だけど僕ももう独身寮には居れんのだよ。もうそろそろ出て欲しいと言われて家も用意した。そこに俺一人で住めっていうのか」  彼は夏頃から新しい家を用意していたのである。そのために私も預金を解約して頭金を送っていた。まだ父が存命中のことであり、その時の私の気持ちとしては、もし父が長びくようなら、夫の転勤ではなくして父の看病のために会社を辞め、その時は札幌転居もやむを得ないかと思っていたのも確かだった。しかし今はもう父も居ないのだ。 「だってそれは最初から俺一人でも住むって言っていたじゃない。今さらそんなこと言うのおかしいわ」 「だけどこっちの立場も考えてみてくれよ。札幌に行ってからいろんなことがあった。一番つらかったのは『なぜ奥さんが来ないのか』と言われることだった。そりゃ今まではおじいちゃんの病気もあったし、動けない状態だったさ。しかし今は違うんだよ」 「だからって、なんで私が会社辞めなきゃいけないの。あなたが辞めればいいじゃない。あなただったら技術があるんだから、再就職も出来るでしょう。でも私にはないの。三十七の女にそうそう再就職があるはずないじゃない。辞めたら私はおしまいだわ」 「俺だって辞めることを考えたさ。だけどそれは出来ない。やっぱり出来ない。俺は男なんだから……。それに立場っていうものもある」 「だったら私だって出来ないわ。ねぇ、どうしてそんなに家族同伴でなきゃいけないの? 単身赴任がどうしてそんなにいけないことなの?」  単身赴任がどうして彼をこんなにまで苦しめているのか、私には解せないことであった。札幌は、“札チョン族”と言うほどに単身赴任者の多い街である。会社の中でも単身赴任者は彼一人ではないはずなのに、なぜそんなにも別居にこだわるのだろう。今もなお問うことを止めた疑問として、それは、私の中に燻り続けている。  平行線をたどる固い空気をつき破るようにして夫はいきなり立ちあがった。テーブルの上のナイフを掴むと、自分の腹につき刺すようにしながら怒鳴った。 「お前は俺に死ねっていうのか、俺がどれほどつらい思いをしてきたか、分からないのか」 「よしてちょうだい」  私は叫んだ。その声に夫は、はっと我に返ったのか、ナイフを放り出して叫び返してきた。テーブルについた両手がワナワナと震えている。 「よその女房はみんな亭主についてくるんだぞ。どうしてお前はついてこないんだ!」  アルコールが入っていたせいだろうか、これまで見たこともなく激昂した姿だった。  この時のナイフの件を、私は誰にも話したことも書いたこともない。夫婦の一番の恥部に触れるような、永久に記憶から消し去りたい光景なのだ。  しかしこのナイフが、私の退職決断に大きな影響を持ったことは否めない。  考えようによっては、ナイフまで使って脅そうとして、なんたる卑怯。そんな男のところにキャリアを棒に振ってまでついていくなんてまっぴらご免、事実私は醒め切った目で夫を見ていた。どうせ辞めていったって、これじゃうまくいきっこない、このままここに留まっていた方がより良い選択だ。夫にしてみればとっさに手が出てしまったものだろうが、脅しに屈服するような、そんな女とみくびられてたまるか、そんな気持ちが私を二階に駆けあがらせた。  一人になって、ようやく冷静になると、どっと涙があふれてきた。  いったい転勤って何なんだ、女と男がこれほどに対立しなければならないほどの、そんな重要なことなのだろうか。妻の生き方、家庭のありよう、そんなものまでもぶち壊して、いったい会社とは何なんだ、そこに働く人間とは何なんだ? 「どうして俺についてこない」  なんと陳腐で、こっけいな言葉だろう。幼稚な発想だろう。夫婦とは、どちらがどちらについていくという、そんな性格のものではないはずだ。  酔いをして言わしめたのだろうか。  しかし、私は夫に対して怒りを持ちながら、もう一方で、こうして荒れてまで私を赴任地に連れて行きたいと思っている夫の胸のうちに対して無関心ではいられなかった。「俺についてこい」このひとことを言おうと思えば、約二年前の転勤内示の際に言えたはずだ。言わなかったのは、彼にとっても、それは言ってはならない言葉だったからである。  この二年間、私も悩んだけれど、夫もまた悩んでいた。過去、お互いに仕事をする世界を持つことを励ましあい、人間関係や職場のいろいろのことを語りあってきた夫婦にとって、転勤は信念と世間的な常識との闘いだった。夫は、なまじ妻の生き方に理解があったが故に悩まなければならなかった。  もし、はいはいとつき従う妻であれば、彼はこんなに悩まなくていいはずだ。私にしても、単身赴任を割り切る男が夫であれば、悩まなくてすむ。信念への裏切りに傷つきながら常識を押し通そうとする夫、常識を破ることに苦しみながら信念を押し通そうとする妻、二人共々に信念にも常識にも徹し切れずにもがいている。  それにしても、なぜ女だけが、職業か家庭か、この二者択一をせまられるのだろう。確かに夫も、彼自身が辞めることも考えたと言うが、それは現実性を帯びなかった。彼が自分は辞められないと思えば思うほど、私への圧力は強くなるのだ。なんという理不尽さであろう。職業と家庭、この二つは男にとっても女にとっても、自転車の二つの車輪のようなもの、両方そろっていてはじめて人生の道を安定して走れるというものだ。それを、男は当然のこととして持ち得ても、女には許されないというのだろうか。  こうした理念としての職業観・家庭観から言えば、私には辞める理由は何もない。  だが、現実の生活の面ではどうか……。単身赴任の留守家庭、しかも祖父は苦しみつつも、あっけなく亡くなり、その淋しさの中で思春期を迎える娘二人を抱え、相当に厳しい職業環境のもと、私はやっていけるのだろうか……。何よりも背と背を向きあわせているような両親のもとに育つ子供の未来はどうなるのだろう。  子供の寝顔を見ていると、急に気持ちがしぼんでいった。  今でも私は退職を決断した時の心理状況がよく分からないのだが、うすあかりを浴びて無心に眠る子供の顔の安らかさが、私への無言の哀願のように思えたのも事実だった。「おじいちゃんが居なくなって淋しいの。ママ、お願いだから家に居て……、パパと一緒に暮らそうよ」そう言っているような気がしてならなかったのである。一人の死がもたらした喪失感や淋しさは、家の中にその人の思い出があればあるほど、日常の感情を支配してくる。母子三人で暮らすのは恐ろしくもあった。  いや、子供のことは理由にならない。私自身が仕事を続けていくための気力を失っていた。自信もなくしていた。夫婦がかくも争うことに疲れてもいた。この時私の心を支配したものは、多くの妻たちが、何か決断する時に思う、「私さえ犠牲になれば……」とする思いであったかもしれない。私さえ我慢すれば、丸く納まることなのだ……。私には離婚する勇気もない。女手一つで子供を育てる不安は、この一年半たっぷり味わった。それに加えて父の死。今度また何かあったら……、その恐怖も抜き難い。  辞めようか……、私は思った。辞めたあとのことは分からないけれど、生き方というのは代替が可能だ。だが、心の離反は、ひとたび壊れてしまったら、代替ないし修復は可能だろうか。私が辞めて解決することは理不尽だ。だが、もっとも私にとって傷が浅くてすむのは、辞めることではないのだろうか。生き方の総体から見れば、職業は生きるための手段、手段のために全体を見失ってしまうのではないか……。  ナイフに屈服したのかもしれない。常識に負けたのかもしれない。生活の一番楽な方に寝返ったのかもしれない。しかしその時一番私が欲しかったのは家族のぬくもりのようなものだった。夫婦の言い争いはもうたくさんだ、別居を続ければこの不和はいつまでも続くだろう、どちらかが犠牲にならなければ……。今別居を決断したら、三年は続けなければならない。途中編入は娘に可哀相だ。辞めるとしたら今しかないのだ……。  職業への執着、信念への固執、その反作用のように、退職への決意が拡がっていった。  札幌に行こう、どんな生活が待っているか分からないが、一からやり直してみよう、他人の意志、いや夫の会社の都合で人生を曲げられた口惜しさに一生苦しむかもしれないが、それも一つの生き方だ。実際、その後「主体性がないじゃないの」と言われて返す言葉もなかったことがあるが、私は迷い悩みしながら職業を続けることに自信がなかったのである。  正直のところ、決意というほどのものではなかった。それより他に方法がないなぁとする深いあきらめの方が強かった。さきのことはともかくとして、私は今平穏でありたいのだ。人の死のあとの寂寥感を埋めるための、温いものが欲しかった。こんなふうに家族のそれぞれがささくれ立っているのはつらくてたまらない。私は、未来の展望よりも、今の安逸さを選んだのかもしれなかった。弱い人間の常として……、私は妥協の道を選んだのだ。  私は階下に降りていった。夫は居間のソファに蒼白な顔のまま座り込んでいた。その背に向かって、私は一息に言った。 「パパ、私、会社辞める」  とうとう言ってしまった。溜息のような声だった。夫もしばらく黙り込んでいたが、背を向けたまま、 「じゃ……、札幌の高校を受験させるんだな」 「それがあなたの希望だから。子供にとってもいいことだと思うし……」  転勤が妻から職業を奪っていいものか、彼には一人の人間として私にそれを強要する権利があるのか、考えることはたくさんあったが、私はもう考えることにも疲れていた。  こうして私は、夫の転勤先に転居した。夫は、一年半の単身赴任の後に、五年八ヵ月の札幌生活があった。  その札幌時代、私は一冊の本を上梓した。  友人たちと始めた同人雑誌に、父の発病から死に至るまでの私たちの生活の記録を書いたものを載せたのだが、それが新潮社から出版されたのである。上梓にあたって、職業観やら家庭観を書き加え、『女が職場を去る日』と名づけられた。退職後三年めの出来ごとであった。  私の生活は変わった。その後、曲がりなりにも本を出し続け、原稿依頼や講演に追いかけられる毎日となった。退職の時には、思ってもいなかった方向に私は歩き出したのだった。そして、このことを一番喜んだのは、他ならぬ夫ではなかったかと思う。  友人の多くは言う。 「あなた、かえって辞めて良かったんじゃない?」  だが私にはどっちが良かったかは分からない。選択しなかった方の未来は見えてこないからだ。あのまま勤めていたら、今頃は窓際族になっていたかもしれないし、能力の無さにホゾを噛む毎日であるかもしれない。あるいは、安定した収入と地位を得て、今の私よりもはるかにいきいきとやっているかもしれない。少なくとも物書きという孤独な仕事と、仲間が限られていることの淋しさ、つぎの仕事の不安定さに悩む日々は味わわなくてすんだようにも思う。そして何よりも、結局は夫のせいで辞めた女じゃないか、とするレッテルは貼られないですんだはずだ。 『女が職場を去る日』出版後、私に対する賛否両論があったことは事実だ。職業を生きる上での大切なものとする私の職業観に共感を示してくれた人もたくさんいた。そしてその信念を守り続けることの難しさ、とくに、老親介護問題に悩む女たちからは多くの手紙をもらったし、それがその後私の主テーマにもなった。  だが、これは“敗北の記録だ”とする目があったのも事実である。夫のせいで会社を辞めた主体性のない女、そう糾弾する手紙もあったし、大学時代の友人で女性問題で活躍する人からは「あんた、評判悪いよ」と電話をかけてきた。  その一方で「あなたは自分の大切なものを捨ててまで家庭を大切にした人」と、あたかも女はこうでなくっちゃ、犠牲こそが女の美徳だといわんばかりの賛辞もある。  いずれの批判も私は甘受せざるを得ない。決断し、行動した過去のことについて論じても、何も得るものはない。問題はいかにこれからを生きていくかということだ。  それと同時に、私に一度も仕事を辞めるよう言ったことのない、しかも私の協力者であった夫をして、ナイフを握らせてまで、「なぜ俺について来ないのか」と言わしめた転勤というものの非情さについて、私はもう一度整理しておきたい。少なくとも、犠牲となってついていくことが女の美徳であり、家族とはそうした犠牲の上に成り立ち、夫の職業上の成功、あるいは出世こそが女の生きがいであるとする見方には、ノーを唱えなければならないのだ。それを夫への愛とすり替えてはいけないのだと、私は思う。  ふと、私は我に返って、隣席の主婦に視線を送る。  家族がついていくのは当然だと言う彼女でさえ、娘は転勤のない人と結婚させたいと述べたではないか。このひとことの中に、どんな彼女の生活と思いの数々がこめられていることだろう。  企業は、多くの妻たちの、けっして表面には現われない悲しさや口惜しさの上に立って繁栄を誇っている。単身赴任が問題になるとはいえ、それは、前述のように転勤者四人のうち一人のことなのである。残り三人は、家族帯同で移動している。その、一緒について歩く妻たちはどんな思いであろうか。  私のように肉体の一部をひきちぎられる思いで夫の赴任先に行った女もあろうし、「転勤もまた楽し」と喜んで行った女もいるだろう。単身赴任を押し通して自分の意志を守った女もいるだろう。転勤は、夫の移動を通して、女の生き方に深く関わっているものだ。最近は、女性の職場進出に伴って、女性の転勤も増えている。女性もそこまで活躍する人が多くなったことは時代の変化として嬉しいことだが、その時、彼女たちの多くは単身赴任だ。夫が自分の職業を捨てて妻についていったケースとか、さきに定年になった夫が、妻の赴任地に行って定着したケースもあるにはあるが、非常に少ない。家族帯同の原則は妻にのみ要求されていると言って過言でない。  列車は新大阪駅に着いた。母娘は立ちあがると、丁寧な挨拶を残して降りて行った。転勤を受けとめ、それに対応した生き方を選んでいこうとするその後ろ姿には、健気さと悲しさのようなものが漂っている。列車に乗り合わせた男たちがそれぞれに企業戦士なら、その背後にいる家族もまた否応なく企業の闘いに巻き込まれている。  夫の転勤と妻の立場について書いてみよう、私は思った。転勤は、私にとって一番触れたくないテーマであるけれど、一度は整理しなくてはならない問題だ。  女の迷いや悩み、あるいはあきらめ、健気さ、そういったものを追うことによって、女の側から転勤への問題提起としたい。転勤は企業の経営姿勢や規模、業種、人事観、社員一人一人の意欲や能力と密接に関わっているものではあろうが、家族の幸福なくして企業の繁栄はあり得ないのではないだろうか。転勤に際して、あまりにも等閑視されている家族の問題を一人一人の妻の呟きの中から浮かびあがらせてみたい。私の転勤体験を織り混ぜながら……。  当然転勤にもいろいろのケースがある。夫の職業が違えば妻の立場も違うし、妻一人一人の個性によって転勤の考え方も違ってくる。出来るだけいろいろの立場の妻にインタビューを試みてみよう。  第二章では、私のように選択をせまられた仕事を持つ妻たちの思いを、第三章では転勤を積極的に受けとめ、それをバネとして生きようとする妻の姿を、第四章では華やかな転勤と言われながらも、幾多の辛苦を味わわなければならなかったケースを、第五章では、転勤はあったけれども妻の自立を守り通したケースを、それぞれドキュメントとして報告し、最後に私なりの見解を示してみたい。それぞれが優しさに満ちた妻の告白であり、生き方を模索する女の姿であり、現代に生きる女と男と企業のあり方への問いかけとなっている。  それではまず、選択をせまられた妻の悩みから……。 第二章 選択をせまられる妻 新婚早々に別居して  ここに一人、岐路に立つ女がいる。  大野美津子、二十六歳。結婚二年が過ぎたところ。広告代理店の調査課勤務。  夫は大学時代の同級生で、大手鉄鋼メーカーの経理課勤務。同い年の恋愛結婚。  夫の会社には内規がある。新入社員は三年間本社勤務、その後は地方の支社に大体五年ぐらい行かされると。その後はまた本社に戻り、それから何年かしてまた地方に出される。地方をぐるぐる廻るのではなくて本社と地方を行ったり来たりするのが、主な転勤のパターンだった。  結婚を前提につきあっていた頃から、三年経ったら転勤ということは分かっていた。それ故に、結婚そのものに対しても、彼女は踏んぎりがつかなかった。一時期は約束を反古にした方がお互いのためではないか、そんな話しあいをしたこともあった。 「私だって勤めたばかりだから、そう簡単に辞めたくはないのよ。あなたは女が仕事を続けることには賛成だけれども、サラリーマンである以上は転勤があるのは当り前だし、転勤族の妻として、辞令のたびに反抗するようではお互いやり切れないじゃない? 仕事を続けたいと思っている以上は、あなたの妻として失格なんじゃないかしら」  性格からいっても、移り住むたびに仕事や友人にさよならをして、また新しいそれらにとり組めるような、そんな柔軟性はない。まだ若いのだし、このままズルズルつきあうのは止めた方がいいのではないか、思い惑う日々が続いた。  別れるんなら、今のうちだという思いもあった。結婚していざ転勤となれば、結局悩むのは妻である。職業か家庭か、男は二者択一に悩むことはない。  一生仕事を続けていきたいと思って就職した会社である。三年ぐらいで辞めれば、「だから女は……」「女はすぐ辞めるから……」と言われるに決まっている。  だが別れる決心もつきかねた。お互い好きあって、結婚を前提に長いことつきあってきたのだ。彼が転勤のある企業に就職したという理由だけでは別れられない。男と女とが別れるには、もっと、本質的な理由が必要なのだ。美津子は言った。 「あなたの転勤で会社を辞めるのはいやだわ。もしそうなったら、単身赴任してもらうわよ。それしか方法はないでしょう?」  彼女自身父親の転勤であちこちに行っている。子供心にも新しい土地に馴れるまではつらかった。あれを再び体験するのはいやだ。かといって、結婚をあきらめることも出来ない。結局は、別居するしかないのだ。  この時彼はこう答えている。 「その時その時でベストな方法を考えていこうよ。転勤があるから結婚をやめるなんて、そんな馬鹿なこと考えないで」  悩みながらも二人は結婚に踏み切った。  だが実際に、広島への転勤辞令が出てみると、事態は想像以上に深刻であった。新婚早々の別居ということが、彼の会社内では、あり得べからざる新奇なこととして興味の的となる。しかも体質の古い企業、妻が働いていることも、我儘《わがまま》をさせているという感覚があった。女房一人牛耳れないのか、あいつもダメな男だ、そんな目が夫の神経をささくれ立たせる。  伝統ある企業というのは、こうした古い体質を、いったいいつまで持ち続けるのだろうか。個人としては一人一人私生活のことは企業に影響されないと思っている。それなりの思想も知性もある。しかし、周囲から押しかぶさってくるこの無言の圧力、社会通念の枠組み、それらが次第に夫を妻への支配者に変えていく。進歩的と自任する夫でも、いったんコトが起これば、組織の思想に順応していくのだ。夫自身が組織の中で生きていくために保護色を身にまとってしまうのだ。  大野美津子の夫も、いざ転勤が現実になると、この保護色の厚い衣を被って彼女の前に立ちはだかった。 「女房まで働かせているっていう目があるんだよ。そうしなきゃ家計が成り立たないのは、僕がしっかりしていないからだと言われる。そんなこと言われるなんておかしいとは思うけど、実際言われてみると……」  夫もまた、自分の理想と現実の壁の間に立って悩んでいる。しかし、美津子は思う。  ——私が働くことと、家計とは関係ないわ。私の意志の問題よ。それに、あなたは組織の中で出世していきたい男かもしれないけれど、そのことと私が働くこととは関係ないわ。私が自分の世界を持ちたいということを理由にあなたの出世が遅れるなんて、次元の違う話よ。私のことは、あなたへの評価と何の関係もないじゃない。第一私は、そこまでしてあなたに出世してもらわなくていいの——。  しかし、これは口に出しては言えなかった。やはり夫が夫の世界の中で生きていくことの邪魔はしたくない。 「そうは言うけど、結婚の時から、転勤になったらとりあえず別居しようって決めてあったじゃないの。それがお互いに一番無理のない形だって。人はとやかく言うかもしれないけど、私たちにとっていい方法を選ぼうってあなただって言っていたじゃない」  夫は、不承不承にうなずいた。だが心から納得していたわけではない。  その頃彼女は非常に忙しく、週休二日制の会社なのだが土曜も日曜も出勤しなければならない状態だった。  こんな時、会社に行くと言えば必ず夫は不愉快な表情になり、喧嘩になる。友達に会うとか、実家に顔を出すとか言い繕って家を出るのであった。夫の変わりように目をみはる思いだった。夫は、男社会の中で変わりつつある……。  夫の両親も自分の親も、単身赴任には反対であった。 「結婚してまだ一年も経たないうちに別居するなんて、それじゃなんのために結婚したんですか。そんなこと不自然ですよ」  親たちの言い分には、新婚早々の別居ということへの反対と、夫婦たるもの同居するのが当然だとする、夫婦としての“常識”に関するものと両方がこめられていた。確かに今の社会通念からすれば、新婚で別居ということには、冷たい目があっても仕方ないと美津子も思う。  驚いたことに、親たちの反対に対して、美津子をかばって弁護してくれたのは他ならぬ夫自身であった。 「そんなこと言うけど美津子もまだ働いていたいんです。調査という仕事について日も浅いし、何も身についていないから、今はいやだ、辞めるのは早いと言っています。それに、僕たちまだ若いし、子供も居ないんだから、お互い納得いくような生き方をしてもいいと思いますよ」  このことは後々まで美津子の夫への感謝の思いとなった。会社からも親戚からも、いろいろ言われているらしいのだが、彼女の耳には入れようとせずに、防波堤となってくれている。その防波堤は、美津子を守ると同時に攻めるものでもあったのだが……。  とりあえず彼には、「一年だけ別居しよう」と言ってあった。「ずっと」などというと大変なことになる。一年、あと一年と言いながら、考え方や状況の方が少しずつ変わって、結局はずっとということになるのではないかとする甘い期待……。  夫は念を押した。 「一年経ったら来るんだな」 「行くわよ。その頃になったら仕事の整理がつくから」  しかし、今別居九ヵ月が経っているけれど、状況は少しも変わらない。向こうの考え方も、彼女自身の考え方も、あの時のままだ。とすると、もうじき再び大論争が起こることになるだろう。  夫は社宅に住み、食事は自炊である。美津子も一ヵ月に一回は行って、掃除をしたりはするが、大体が二人で遊び廻ってしまう。彼は九州の生まれと育ちではあるが、一人暮らしを学生時代からやっていて生活的自立が出来ている。きちっと室内は整理してあるし、「こんなもの作ったよ」と料理を出されることがある。こんな時はやはり、可哀相になぁ、一所懸命やっているんだな、と胸が痛む。まだぐちゃぐちゃに汚い方が救いもあるような気すらする。  彼の収入は手取り十七万円、彼女は十五万円(昭和五十九年)。電話代が月に二万円くらいと交通費が三万円の計五万円。この費用は彼が負担し、あとは別会計、東京での彼女の生活は彼女の収入でまかない、彼の広島での生活は彼の収入でやっている。なんとなく独身時代の続きのようにも思うし、生活にさしたる悲惨感もない。働いているからこそ別居しているのだが、それ故にお互いが豊かに生活出来る。  独身時代と同じようにして暮らしながら、しかし、“結婚”ということが二人の間にはさまると、その同じ生活形態もなんと中身は違ってこざるを得ないものか、改めて美津子は驚く思いだ。  最近彼女は、ひどく心理的な振幅が大きくなった自分を感じる時がある。仕事はいつもおもしろいばかりではないし、自信のない時やうまくいかないこともあり、人間関係に傷つくこともある。そんな時は、辞めようと思ってしまう。結婚前や一緒に暮らしていた時には、あり得なかった心の動きだ。しかし翌朝になると、やっぱり辞められないと思い、それに加えてちょっと何かいいことがあると絶対辞めるもんかと心に誓う。その辞める、辞めない、の振幅が大きく、自分でも感情をもてあましてしまうのだ。  いよいよつらくなった時には、 「よし、辞めよう!」  この仕事が終わったら辞める、来月辞表を出そうと声に出して言う。だがいざ辞めるのかと思うと未練が湧いてくる。こうして彼女はピンチをくぐり抜けてきた。  しかし、情緒不安定の波は押さえ切れない。  一番いやなのが夕方である。残業もなくて定時に帰宅した時など、他の家には灯りがついていて、主婦たちが夕飯の仕度をしている。家庭なればこその賑わいを感ずる時、私はいったい何をやっているのだろう、いつまでこんな生活を続けるつもりなのかと思ってしまう。おそらく彼はもっとつらいに違いない……、そう思い始めると、心の大波は広島での家庭生活に向けて激しくうねり始めるのだ。  気持ちが落ち込んでいる時には、彼に会っても何か意志の疎通しないものを感ずる。これも日常生活の襞《ひだ》がないからなのではないだろうか、夫婦はやっぱり一緒に暮らさないと駄目ではないのか、そんな疑問が頭をもたげてくる。  多くの人は、「夫婦は一緒に暮らさなきゃ」と言う。元気な時は、「一緒でなきゃどうしてダメなの」と反論し、その問いが、とにかく理屈ではなく感情的な常識の押しつけであることに激怒するのだが、気持ちが沈み込みはじめると、とどめようもなく一緒に暮らしたいなぁと思ってしまう。  そしてまた元気になれば、毎月毎月新婚旅行しているようなものだ、一緒に暮らしてマンネリな夫婦になるよりも、ずっと新鮮でいいじゃないかと開き直る。  とにかく、この情緒不安定を我ながらもてあましてしまう。職場でも彼女の気分の浮き沈みはちょっとした評判であり、それを知っているが故に、彼女も憂うつなのであった。  つくづく夫婦とは不思議なものだと彼女は思う。わずか一年余の同居で、こんなにも夫の存在が精神生活に強い影響を与えるなんて……。夫が居れば、ちょっと話しあうなどの気分転換でどんなに救われていたことか。独身時代に戻っただけだ、何も変わりはないではないか、そう思ってはみるものの、自分で説明出来ないほどに無理がある。  こうした夫婦の関係と彼女自身の心理的状態の他に、彼女には、職場の問題での悩みも二つあった。一つは、差別雇用であったことと、二つには職場の人々の彼女を見る目である。  最初の差別雇用。彼女の職場は、A種とB種に分かれている。男はA種、女は大卒でもB種なのである。もともとB種は、長期アルバイトの救済策だったのであるが、それがいつの間にか女子を採用する時の条件となり、B種がいやであれば採用されることはない。  A種とB種とでは、月収、それによるボーナス、将来の年金や退職金が違い、ポストへの道が開けていない。A種であれば一定の年期ごとに主任、主事と、ポストではなくとも身分として保障されたものが得られていくが、B種であれば定年まで続けようと主任になることはなかった。  大野美津子は勤続四年にして、もう同期入社の男性と月二万円の収入の違いがある。仕事はまったく同じであるにも拘らず、賃金は差別され、将来への展望もない。その怒り、口惜しさ。夫に向かってなぜ女だけが犠牲になるのと叫びながら、職場ではなぜ女が差別されるのか、その理不尽さに耐えなければならないのだ。  夫と一緒に広島に行ってしまおうか、そう思う気持ちの中には、この差別の屈辱に甘んじるくらいならば、強く自分を求めてくれる夫に尽くしたいとする気持ちもあるのだ。展望もなにもなく、続ければ続けるほど差ばかり開いていく職場に、それほどまでにしがみつかなくていいんじゃないだろうか。  今の会社で、これが私のキャリアです、というものを積んだら、あとは転職していいんじゃないだろうか、ここだけが一生の職場じゃあるまいし。やがて夫は再び東京に戻り、そしてまた地方に出る。転勤族の妻の道を選んだ以上は、全国的に通用する資格を身につけて、柔軟性のある働き方が可能な方法を、今のうちから見つけておいた方が得策なのではないだろうか。二十八歳になったら、消費生活アドバイザーの資格がとれるというから、主婦の生活感覚を活用するそうした道に進むことも考えられる。  子供が出来ても働きたいし、一生何かやっていきたい。前にやっていた仕事が無駄にならない形で転職するとしたら、消費生活アドバイザーなどは、もっともいい方法だ。少なくとも、過去の実績が何の役にも立たないような働き方だけはしたくないし、階段を少しずつあがっていくような形の、たとえ収入はなくとも、自己実現の道だけは手放したくない。とすると、今少しでも若いうちに別の方法に向けての準備を始めた方がいいのではないだろうか。  大野美津子の揺れ動く気持ちには、職場の差別の故に、今やっている仕事と自分自身の将来設計に向けての方向性とが一致していないことがかなりの比重を占めている。仕事のおもしろさ、かきたてられる好奇心、それらとは別に、やはり職場での位置づけのなさが彼女を苦しめていた。 「だけど、今辞めれば、こうした差別はとりあげられないで、やっぱり女は夫の都合次第で辞めるのかって言われてしまう。それを思うと口惜しい……」  こうして再び彼女の思考は堂々めぐりを始めるのであった。  職場におけるもう一つの問題は、いったいいつ彼女は辞めるのだろうという目があることだった。夫との別居はいつの間にか会社の人たちに知れ渡っている。 「旦那さん一人で放っておいていいの?」  こんな言われ方をすると思わずカッとなるし、仕事にしてもどのくらい責任を持ってやるつもりか色眼鏡で見られているような気がする。  今彼女は、ある企業の時系列調査を担当している。来年度の企画見積りを出そうということになった時、同僚の一人が言った。 「担当者が変わった時にも、ちゃんと分かるようにしておいてくれな」  年間計画の話をしているけれど、あんたはいつほっぽり出すか分からないじゃないか、あんたが辞めたらこっちがやんなきゃなんないんだから、しっかり頼むよな、そんな雰囲気を感じて彼女は唇を噛んだ。  口惜しかった。違う、私は年間計画の仕事を途中で放り出すような人間じゃない、そこをなぜ分かってくれないのか、いつ辞めるか分からない人間としてしか見られないことが情けなかった。  上司や同僚の、心配して言っているのかもしれない「旦那さん一人にして……」についても、暗に「辞めてついて行った方がいいんじゃないの?」と言われているようで心が落ち着かない。一人で頑張っている城壁に、無情の釘が打たれて、守り通そうとしているものに亀裂が入っていく。  加えて、 「旦那さん浮気するよ、一人にしておくと」  何かというとこれが出てくる。男って一人になるとそんなに浮気するものなのだろうか。あるいは夫婦の性への好奇心をそういう形で表現しているのだろうか。これもまた言われて腹の立つ言葉だった。  一度夫に冗談めかして「浮気していない?」と訊いたことがある。 「僕は真面目にやっているのに、君はそんなふうに思っていたのか!」  と、一喝されてしまった。  しかし、その時のほっとした思い……。お互いの信頼はあるけれど、万一彼が浮気したらどうしようとも思う。自分から言い出した別居だから、仕事を続けることの代償としてそのくらいの授業料は払わなきゃなんないのかなぁ、嫉妬に狂って泣き喚くことだけはすまい、だけど、思いはやっぱり乱れる。  それにしても、人は男は浮気するものと決めつけてくるけれど、女への浮気の警戒はないのだろうか。彼もまた「奥さん一人にしておくと浮気するよ」と人から言われているのだろうか。もし浮気するとしたら、娘時代の性格から言って自分自身の方であるような気もするのだ。  実家の親も、女の一人暮らしへの心配や婚家への体面をはばかってしきりに言ってくる。 「早くお前も仕事辞めて広島に行きなさい。別居続けていたら子供も作れないでしょ。トシとるとお産が大変になるんだから、早いとこ産んでしまいなさいよ。仕事、仕事って、いつまでも青くさいこと言ってないで、いい加減夫や家庭のこと考えたらどうなの?」  とくに最近はうるさくなってきた。  彼女はつくづく思う。女はどうしてこういつもいつも“年齢”を言われなくてはならないんだろう。結婚適齢期に出産年齢、この二大イベントの前には、「私はこういう生き方をしたい」とか「こういう仕事をしたい」とか言うことは、大人気なく、落ち着きのない、困った者だというレッテルを貼られてしまうのだ。  夫の転勤と別居、しかも新婚一年をようやく過ぎたところで始まったそれは、大きく世の常識に背くものであった。しかもその原因はただ一つ、仕事を辞めたくない、その思いにつきるのだ。夫は別居に対して本心では納得はしていない。さらにまた彼女自身も、これが本当にベストな生き方なのか確信が持てない。  だが彼女には、その上に職場の差別の問題がある。未来への展望のなさは、今日という日の仕事への意欲にもかかわって、彼女の職業継続意欲に揺さぶりをかけてくる。  ある時は、絶対に辞めないで頑張ろうと思い、ある時はなんで女だけが根なし草のように男の仕事に合わせてついていかねばならないのか、その理不尽さに怒りが爆発し、またある時はこう呟く。 「すごく懇意にしているお得意さんだって、いつまで仕事を出してくれるものか……。先方の担当者が変わればそれでおしまいっていうこともある。あの会社のためにと一所懸命仕事したってむなしいものよ。だけど夫婦は死ぬまでのもの、ギリギリの岐路に立ったら私は彼を選ぶわ。今はまだその極点にまで行っていないんだわ」  結婚したことを後悔してはいない。やっぱり彼のことが好きだし、今は別々に生きることを選んでいても、また一緒に暮らせる時が来たら一緒に暮らそう。親にも言ってある。 「若い夫婦にはいろんな形があっていいと思うのよ。何年か離れて暮らしてみるのも、長い人生を思えばいいかもしれないわよ」  だけど、長くは続きそうもないなぁと思う。もう喧嘩はしたくない。これが痴話喧嘩の類ならなんと楽だろう。生き方をめぐるあらそいなのだ。だからお互いつらく、傷つけあい始めるとどんどん深みにはまっていくような気がする。いい加減、将来への安定を考えて、妥協しようか……。三たび、四たびの堂々めぐりが始まるのである。  この家庭の不安定と、組織の中の位置づけの不安定と両方を抱えて、今大野美津子がひたすら願うことは、心が平和でありたいことだ。こうした問題を語りあう仲間が欲しい。揺れ動く気持ちを分かってくれた上で、女が仕事を続けるとはどういうことか、夫婦って何なのだろう、夫にとって妻とは、妻にとって夫とは……、そういうことを一緒に語れる人とめぐり会いたい。  会社にも共働きの先輩はいるけれど、いずれも転勤のない職業の人を夫にしている。だから、話しても分かってはもらえない。「大変ねぇ」とは言ってくれるけれど、それ以上の共感や有効なアドバイスは得られない。悩むことを分かっていて結婚して、そしてやっぱり悩みと迷いに落ち込んでしまった気持ちを、分かってくれという方が無理というものでもあるだろう。  美津子は思う。  何も考えないで、さっさと辞めていく女も多い。自分のように悩んで悩んで辞めた女でも、やっぱり「女は旦那さん次第でアテに出来ない」と言われるのだろうか。その批判を甘受してこれから生きていくのは、あまりにつらい……。女性の地位の向上と思って頑張ってはきたけれど、辞めることはやっぱり女の足を引っ張ることになるのだろうか……。  このインタビュー半年後、美津子は会社を辞めた。妊娠して、出産ぎりぎりまで勤め続け、その後広島の夫のもとに行った。インタビューの時子供の話は出なかったが、すでに妊娠していたのかもしれない。産休をとらずに辞めたところに、彼女の美意識のようなものを感ずる。  妊娠が彼女の悩みに終止符を打たせた。夫の転勤は、彼女の職業継続を断念させ、女はやっぱりアテにならないとする実績を残したものだった。そして彼女自身もその屈折を背負って生きていかねばならない。 職業と老親との別れ  高田エミ子は、別居するかどうか、ギリギリまで迷った末に、辞表を出した。単身赴任をするかどうか、つらい議論の末彼女が折れたのであった。保母として勤続九年め、仕事がようやく軌道に乗り、おもしろさが分かり始めた時だった。三十一歳での退職。  夫は三歳年上、自衛隊勤務。結婚は彼女が二十五歳の時だった。共働き六年めで試練を迎えた。  職業問題と同時に、もう一つの悩みは両親のことだった。  エミ子は三人姉妹の長女、妹二人はさきに結婚して家を出ており、エミ子が両親と共に暮らしていた。長女として親の面倒をみるのは当然と、小さい頃から思い込んで育ってもきた。  結婚の時、一番気にかかったのは両親のことだった。同居を前提とした結婚でなければならない。その点、見合いの相手は男ばかり三人兄弟の三男坊、彼もまたエミ子の家庭事情に従って、高田の家を継ぐべく養子縁組をし、姓も高田を名乗ることを快諾してくれている。エミ子の心を動かしたのは、まさにこの点だった。  当然職業がら、転勤はないのか、気になるところだった。彼女は山形生まれの山形育ち、この地を動きたくないし、両親とて動けるものではないのだ。父は四十八歳にして病いに倒れ、今は脳軟化症による言語障害がある。もし転勤があったとしても、この両親を連れていくことは出来ないし、さりとて置いていくことは気持ちが許さない。  彼女の不安に対して彼はこう答えた。 「昔と違って、最近は自衛隊も転勤は少なくなりましたよ」  家を守り親の世話をすることを小さい時から自分の義務として考えてきたエミ子にとって、この言葉が、結婚の決断をさせたと言っても良かった。  仕事も続けたい。子供好きのエミ子にとって保母という仕事は毎日が新鮮な発見と驚きの連続だった。職業と家庭と、その上両親に親孝行が出来る毎日、それこそがエミ子にとって理想的な結婚だったのである。彼は、この希望のすべてをみたしてくれる存在であった。  こうしたエミ子の希望は、しかしながら、新婚旅行の時から翳《かげ》がさし始めていた。 「もしかしたら、北海道にだけは行かなくてはいけないかもしれないよ」 「えっ、そんな。話が違うじゃない。転勤はないと言ったじゃないの」 「いや違わないさ。転勤が少なくなったとは言ったけれど、僕が転勤しないとは言ってない」 「そんな、詭弁だわ。私が転勤を恐れていたことを、あなただって知ってるじゃない。親を残して動くことは出来ないんだから」 「なにも今すぐ急に転勤すると決まったわけでもなし、そんなに怒ることないと思うよ。僕は、もしかしたら北海道にだけは行くことになるかもしれないと、予想を話しているだけなんだから。転勤にならないかもしれないんだし。とにかく、そういうこともあり得るということを話しておきたかったんだ。その時どうするかということは、その時に考えればいいんだから」  エミ子は「騙《だま》された……。その可能性があるのなら、なぜそう言ってくれなかったの。正直じゃないわ」胸にこみあがってくるものがあったが、口に出して言うことは出来なかった。  もし彼が結婚前に転勤の可能性を言ったなら、結婚をとりやめていたかどうか、それは分からない。結婚というものは、まず一緒に生きていくことが納得出来るかどうかを考えるものであって、将来転勤するかどうかを考慮に入れるということは、じつに些末《さまつ》なことにも思える。しかし、彼が正直ではなかった……、両親のことを彼女ほどには真剣に考えていなかった……、そのことがエミ子に後々までの心の傷を残すことになったのは確かだった。さらには、もし明らかに転勤する男と知っていたら、結婚への決断もなかったのではないかという気もする。何よりも口惜しいのは、エミ子の一番重大関心事を、こんな形ですり抜けてしまった男の狡猾さだった。もうあともどり出来ない所まで来てしまってから、本当のことを語ったのではないだろうか。  波乱含みの新婚生活スタートだった。 “もしかしたら”の可能性の話が、現実の転勤内示となったのは、結婚四年後だった。二人の子供も生まれて生活も安定し、エミ子も“転勤”を忘れかけている頃であった。赴任地は千歳市、五、六年の期間だという。 「おじいちゃんやおばあちゃんを残して行くなんて私には出来ないわ。それはあなただって分かっているでしょう?」 「土地つき、家つきの跡とり娘だからな」 「なにその言い方、ずい分いや味ね」  エミ子も夫が高田家に養子に入り、姓を変わったことで、「男のくせに」と言われていることを知っている。私のせいで申し訳ない……と思うと同時に、それは、結婚の時から分かっていたことだとする思いもある。想像以上の風当りなのだろうとは察しがつくが、今さら、いや味な言い方をされることはないと開き直る気持ちもある。 「いいよ、僕一人で行くから。君はこっちに残っていたらいい」 「本当? 単身赴任してくれるの?」 「だってそれしか仕方ないだろう。その代わり、籍を抜いて行こうと思うんだ」 「籍を抜くって、あなた、それどういうこと?」 「だから、そういうことさ。離婚した方がいいんじゃないかな、単身赴任するくらいなら」 「冗談じゃないわ、あなた。子供だって二人、三歳と一歳になったばかりよ、それを離婚だなんて、単身赴任するっていうのは、そういうことなの? 離婚したいの、あなたは?」 「僕だって離婚なんかしたくないよ。だけどあいつはやっぱりなーって人から言われるのがつらい。これまでさんざん、何かとそういう目があったから、これで単身赴任となったら何言われるかしれたものじゃない。そんないやな思いをするくらいなら、いっそ別れた方がいいと思っている」 「…………」  エミ子は絶句したままだった。  夫はそこまで追いつめられているのか……。だけど、私だってこの土地を動きたくはないのだ。第一に親のこと、第二に九年も続けてきた保母の仕事。この二つは、エミ子が生きていく上に欠くことの出来ないものなのだ。  離婚か、ついて行くか、エミ子は二者択一をせまられていた。  保育園には離婚した母子家庭の子も何人か来ている。母子とも表面は元気そうにやっているが、やっぱり生活は大変なようだ。情緒面の発育にしても、けっして偏見ではなく、父親不在の影響が現われているように思う。死別の子と離別の子とでは微妙に違う。どこがどのように違うのかエミ子にも分からないのだが、離別の子の方が傷を見えない所で負っているような気がするし、それを母親が埋めるのは、大変なことなのだ。その苦労を日常見ているだけに、夫と別れることはエミ子には恐ろしかった。  両親も転勤と聞いて驚いたようだ。  しかし、父はあきらめが早かった。 「長いこと父親と離れて暮らしていると、『お父さん』と子供が呼ばなくなるそうだ。なに、五、六年なんてあっという間に経つさ。お前たちも、若いうちに世帯の苦労をした方が将来のためにもなるというものだよ。父さんや母さんのことは心配しなくていいから、四人で行きなさい」  この時、父六十歳、母五十七歳だった。  友人たちは、北海道と聞いて「まあ、いいじゃない。ついでにあっちこち旅行して歩けばいいでしょ」などとうらやましがっていたが、旅行ならいざしらず、生活者として行くとなると不安がつきまとう。山形から一歩も出たことがなかったのだから……。  何よりもエミ子を苦しめたのは、今まで私はいったい何のために努力してきたのだろうとする思いだった。親のことにしても、結婚も、職業も、すべて長い生涯のプランのもとにやってきたつもりだった。それが、親を悲しませ、職業を棒に振る結果になる。そんな結婚をしてしまった自分が恨めしく、親のためと思った結果が裏目に出てしまったことが情けなかった。  しかし、一方ではもし千歳について行けば、夫に対して時として感ずる息のつまるような遠慮から解放されるという思いもあった。自分の親と同居していることによる些細な感情の行き違い、これは日常のちょっとしたことに数限りなくあった。ごはんをよそう順序、風呂の順序、家族で旅行する時、お墓参り……、夫が自分の親に対して遠慮しているんじゃないかと思うことがそのまま、エミ子の夫への遠慮の思いとなった。だから、つい言いたい言葉も我慢して呑み込んでしまう。夫婦喧嘩も思うように出来ないなんて、いびつな夫婦だと何度思ったことだろう。  両親と別居して、夫も両親への遠慮から解放されたいのだろう。その気持ちも分からないエミ子ではなかった。  思い悩む日々が続いた。  新婚の頃、夫が神奈川の職業訓練大学校に半年ほど行っていたことがある。あの時は、居るべき人が居ないとは、かくも淋しいものなのだろうかと思う欠落感があった。「淋しい、淋しい」そう毎日思っていたが、あれがまた五年も六年も続くのだろうか。  転勤というただそれだけのことで、それ以外別れる理由もなく離婚するのはいやだ。夫はどのくらい本気でいるのか知らないが、少なくともエミ子には離婚する気はない。養子である夫が単身赴任することの拒否感から離婚を口にする気持ちも分かる。それでは、やっぱり仕事を辞めてついて行くことになるのだろうか……。  夫は八月五日に任地出頭と決まった。その間、たびたび北海道に出張しては、帰ってくるたびに「北海道はいいところだ」という話をする。言外に、あんないいところへ行かないなんて、バカだなぁと言っているようで、子供っぽい。  悩みながらも、やっぱりついて行くしかないなぁ、とエミ子はあきらめた気持ちで思った。  これも自業自得かもしれない。この世には割り切って単身赴任する男も多いというのに、よりにもよって保守的な男と結婚してしまった。自分にも親にも良かれと思った結婚だけれど、結果は最悪、これ以上裏目の出ようもないほどに一番恐れていたことになってしまった。  退職か……と思うと、仕事への未練が崩れ落ちた壁土のようにエミ子を圧迫する。子供が病気した時など家に居られたらいいなぁと思うこともあったけれど、いざ退職となると身体の一部が剥ぎとられていくような痛さを感じる。夫は転勤したところで、友人も仕事も失うことはない。だけど私はこれで何もかも終わりだと思うと、ふとんをかぶって泣く夜が続いた。とくにその年エミ子は初めてゼロ歳児保育を担当しており、職場の中堅リーダーとしてもいちもく置かれている存在だった。なついていた子供たちと別れ、友人と別れ、誰一人知る人のいないところへ行く、しかも自分の意志ではなく他者の意志で……。泣いても泣いても涙は涸れなかった。  一日でも長く勤めたくて、引越し間際まで保育園に通っていた。夫は、そんなエミ子に苛々して、一緒に転勤となった友人家族を引きあいにしては言う。 「あっちの方はもう準備出来ているというのに。早く辞めて準備したらどうなのかね」  男は、女が仕事を辞めるということに関して何の心の痛みも感じないものなのだろうか。他人の意志で人生を動かされる妻への痛痒はないのだろうか。  千歳の住宅は、民間借家で、そこは転勤族が多く住んでいる一画である。家賃の扶助は全額は出ない。自分の収入(昭和五十八年、年収で一六〇万円ぐらい)はなくなるし、以前は親の家だったから家賃は要らなかったのが持ち出しになるし、経済的には苦しくなった。  それ以上に、夫の給料だけで暮らす毎日は息がつまりそうだ。自分の自由にできるお金が欲しい。  転勤族の妻は屈折しているなぁと思う。夫に対して「あなたのおかげで犠牲になったのよ」とする被害者意識と、養われる身の上になって「あなたのおかげでメシ食わせてもらっています」とする卑屈な思いとが同居している。犠牲代として何かぱあっと買物でもしようかと思う一方で、そんなことしたら申し訳ないとする思いとがあるのだ。  退職金は四十五万円だった。半分は自動車の運転免許をとるために貯金し、半分はおじいちゃんにヘルス・ロールというふとんを買って送った。  親の方は、精神的な淋しさを別とすれば、車で三十分の所に住んでいる妹が時々様子を見に行ってくれるから、今のところは問題がない。孫が居なくなって楽になったのか、少し太ったと言ってきた。  つらいのは、保育園の友人からの手紙だ。エミ子が担当していた子が歩くようになったとか、こんなことが出来るようになったとか書いてあると、その友情のありがたさと共に、失ってしまったものを見せられているようで悲しい。  こんな時、ふと再就職しようかなぁ、パートでもいいから……と思う。しかし夫はこう言うのだ。 「母親が働くことは、子供を犠牲にすることだからね、もう少し大きくなってからにした方がいいと思うよ」 「あなたも変わったわね。結婚する前は『女性も働くのが当り前だ』って言っていたじゃない」  夫は黙して答えなかった。  千歳へ転居したあと、気が抜けたような毎日が続いた。胸の中に、大きな穴が開いてしまって、何をしても、何を見ても埋めることが出来ない。引越し荷物を片づけながら、または近所の公園で子供を遊ばせながら、保育園に居たら今頃何をしているだろうかと、思いは職場のあれこれに飛んで行く。  それでも暑い間は、忙しかったからまだ気も紛れていた。  喪失感とも言うべきものが、身体の隅々にまで吹き込んできたのは、九月に入ってからだった。千歳の九月は、まるで山形の十一月だ、風の音が冷え冷えとなって、病葉が飛んできて……、その秋の風情がエミ子の中のモヤモヤしたものをかき立ててくる。運動会などの秋の行事の数々が、華やかに記憶の底を駆け廻る。馬見ヶ崎での“いも煮会”はもう済んだだろうか。さといもや豚肉、こんにゃく、にんじんを煮込んで車座になって食べる郷土の楽しみ。ほっくりとした陽だまりの中でのとろけるような笑い、風の柔らかいそよぎ、それに比べれば千歳はなんと風も冷たければ、水道の水も冷たいところだろう。外気の冷たさは、心をより一層こごえさせ、寒いものにしていく。  身体の調子も良くなかった。何が原因なのか全身にブツブツが出来て治らない。こんなことはこれまで一度も体験したことがない。かゆみと微かな痛さ、赤くただれたような皮膚、医師も風邪が原因ではないだろうかと、首をかしげるばかりだ。もし悪い病気だったらどうしよう……、しかし夫はいとも簡単に言ってのける。 「もし内臓からきているものだったら長びくかもしれんな。そしたら山形に帰れや」  何も心配はしてくれていないのだろうか、精神的にも不安定で、ちょっとした夫の言葉も心のトゲとなる。 「お前一日中家に居るんだから、もっときれいに掃除したらどうなんだ」  以前だったら、「ごめんよ、今やるから、あんたも手伝ってよ」と軽く返事出来たものが、妙につっかかっていくのだ。 「私だってやってるわよ。だけど、子供がすぐ出してきて散らかすんじゃない。働いてるからって偉そうに言わないでよ」  感情がささくれ立って、言葉だけが沼から湧き出す悪臭のように吹き出してくる。 「ナニイ、もう一度言ってみろ」 「何度でも言うわよ。私だって遊んでるんじゃないんですからね。この病気だって千歳に来たせいよ。山形にいたらこんなことにならなかったわ」 「それじゃ帰ればいいじゃないか、帰れよ、さっさと帰れ」 「帰るわよ、来たくて来たんじゃないですからね」  こうして「帰れ」「帰る」のいさかいが続いていく。  とくに、徐々に寒くなり、家の中に閉じ込もりがちになると、行き来する友人も出来ないまま、子供と夫以外は誰とも口をきかない日が続いた。空はどんよりと曇り、毎日が濁った空気をほんの少しかきまわしているだけのような、むなしい思いのまま過ぎていく。世の動きからも取り残され、このまま庭に散っている枯葉のように朽ち果てていくのかと思うと、涙がこぼれてくる。  やっぱり離婚すればよかった。今からでも遅くない。離婚して山形に帰ろう、そうすればこの正体不明の湿疹も治るかもしれないのだから……。  市役所からの広報で“離婚願望”と題した講演会があると知ったのは、こうした悶々とした毎日を過ごしていた頃だった。三人の講師による三回の講座である。  千歳市は転勤族の街である。その講座に集まった人たちのほとんどが転勤族の妻だった。  転勤をしてつらい思いをしている人がこんなに居るのか、離婚したいと思って悩んでいる人がこんなに居るのか、エミ子は驚くと同時に、同じ思いの人が居ることに安心し、慰められる思いだった。  冷静に考えてみれば「帰りたい」「帰る」と夫に向かって叫んでみたところで、荷物や子供のことを考えれば不可能なのだ。山形の人たちに対しても五、六年と言ってある以上、今頃オメオメと帰ることも出来はしない。帰りたくても帰れない、それが現実なのだ。それだったら、この現実を受け入れた生活をしなければならないのではないだろうか。  いつかは山形に帰る。そしたらまた勤めよう。辞める時に、パートでもなんでもいいから、また働かせてね、と頼んである。本当に実現するかどうかは別として、今はそこに望みをつないでおこう。  そのために、今は充電期、保母以外のいろんなことをやって幅広い何かを身につけるのも大切なことだ。その何かが何なのかが分からないのが悩みなのだが、まずは気力と体力を充実させておきたい。  講演会は、エミ子に新しい目を開かせるものとなった。  転勤族の妻がこんなに健気でいいんだろうか、その苦さを噛みしめつつ、こうエミ子は思うことにしたのだ。——転勤は、今まで経験出来ないことが味わえるんだから、長い目で見ればプラスになるはずだわ——。これで良かったのだと思わなくっちゃ、やり切れない。いつまでも、ぐずぐずと過去にしがみついているのは、エミ子の性分に合わない。  同じ講演を聞きに来た人と親しくなった。 「あなたと知りあってから、旦那につっかかっていかなくなったのよ」 「あら、私も同じ」  二人は期せずして同じことを考えていたと笑いあった。両方同時に夫が留守の時などは泊りがけで喋り込む。こういう友人が見つかったことが何よりも嬉しい。  長い雪に閉ざされる生活が終わりに近づき、空気が暖かくなごやかに感ぜられるようになった頃、湿疹も消えた。  この頃からエミ子は、週一回ジャズ・ダンスに通うようになった。仲間作り、健康作りが大事だと思った。子供二人を連れて春浅い街を歩いていると、ふっと、千歳もなかなか住みよい街だな、と思えるようになった自分に気づくことがある。  夏になったら、両親を札幌に呼ぼうか。子供たちは、夜おじいちゃんおばあちゃんの写真を見ないと眠れない。電話や手紙も大事だけど、なるべく会う機会を作らないと、子供は忘れてしまう。また一緒に暮らすことを考えると、ブランクがマイナスにならないようにしなくちゃ。  二、三日前、夫は何気なく言った。 「もしかしたらこの転勤、七年ぐらいに長びくかもしれないよ」  エミ子は、我ながら驚くほどの平静さでそれを聞いた。今やっと親しい友人も出来て、千歳に長く居るのも悪くない。幸い、今のところ千歳以外に動くことはなさそうだから、ありがたいことだ。  だけど、五年が七年になるのはいいけれど、一生を千歳で過ごすのは困る。いつの日か、エミ子は山形へ帰りたい。  親の死に水をとらなければならないのだから。 いつもゼロからやり直し  久野静子は、ピアノをやっている娘へ口ぐせのように言う。 「もしあなたね、一生ピアノを続けていきたいと思ったら、転勤のある人と結婚しちゃ駄目よ。お母さんの二の舞になるからね」 「分かってるわよ。ちゃんと考えてるから」  札幌で結婚して、秋田、東京、神戸、再び東京と移動して、そのたびにゼロからやり直しの人生を生きてきた。その苦い思いがつい口に出てしまうのだ。大学生の男の子も居るが、彼にも、転勤のない職業について欲しいと思う。  静子は生まれも育ちも札幌、札幌以外の土地で暮らす人生があるなど、想像したこともなかった。父は公立高校の教師をしていた人で、転勤を断り続けていたらしい。  放送局勤務の男と結婚する時、相手も転勤については何も言わなかったし、彼女も転勤の有無を考えるとか話しあうとか、思考がそちらに働くことなどまったくなかった。彼女の頭の中に“転勤”という文字はなかったのである。  もし転勤のある男と初めから分かっていたら……、後になって時々考えるが、しかし、結婚の時は転勤というものへの実感がなかっただけに、「転勤があるぞ」と言われても「そう」と答えたような気もする。もし実家が転勤族で母の苦労などを見ていたとしたら、そんな男との結婚は拒否したのではないかと思うが、これはあくまでも仮定のこと、転勤というものがどんなものか分からなかった以上は、何と答えるか想像しにくい世界のものだ。  大学では英語を学んだ。卒業後は大手外資系石油会社に勤め、結婚後も仕事を続けていたのだが、妊娠四ヵ月の時に辞めた。つわりがひどかったのと、夫の勤務が不規則で共働きするのは大変だったためである。何よりも会計課の文書相手の仕事よりも、自由な形で英語を教える仕事をやりたいとする気持ちが強かった。給料もいいし、男女差別もない会社ではあったけれど、結局はOLの一人にすぎなく、仕事は雑務や翻訳などでつまらなかった。丸三年勤めた。  そもそも就職の時に、父の跡を継いで教師になりたいとする気持ちもあったのだが、大学四年の七月に企業の就職が決まってしまい、教職免許はとったものの、会社勤めの方を選んでしまった。だから退職の時は、さしたる未練もなく、むしろ子供たちを集めて自宅で出来る英語の家庭教師をする方が、自分に向いていると思ったのだった。家庭と両立出来る仕事であることに魅力があった。  勤めを辞めてすぐ家庭教師を始めた。勤めていた会社の職員の子供たちが生徒になってくれ、一対一の個人教授やグループ学習と合わせて十人ほどの規模だった。  長男出産後は、当時住んでいた団地の集会所を借りてのラボ学習も始め、細々とした個人営業とはいえ、まずまずの状況。子育てしながらの主婦の働きとしては高収入といえた。  安定した生活に第一回の嵐が巻き起こったのは、長男が五歳、長女が生まれた直後のことである。  八月も終わりに近づいたある日、夫から電話が入った。 「おい、転勤の内示が出たぞ」 「えっ。転勤? どうして?」 「どうしてって、仕事だよ。そのくらいのこと分かってるじゃないか」 「…………」 「秋田だよ。一週間以内に赴任することになったから。じゃ」  夫の声は興奮しているのか、カン高く響いた。  そういえば、去年夫は言っていた。 「どこになるか分からないけど、来年あたりは転勤になるかもしれないよ」  夫の勤める放送局は、転勤が多い。誰それが今度どこへ転勤になった、そんな話は日常会話として珍しくはなかったのだが、いつも他人事として聞いていた。毎年調査書を書かされる。転勤するとしたらどこに行きたいか、などと。必ずしも希望通りにはいかないが、多少は考慮されることもある。夫の場合は、東北出身ではあるけれども両親はすでに亡く、どこぞへの転勤希望があるわけでもなかった。夫は、転勤したくないと書いていなかったのだろうか。  受話器を持ったまま静子は呆然としていた。生まれ育った地、親のいる土地を離れたくない。秋田だなんて……。秋田で暮らすなんて想像も出来ない。  性格的に言えば、積極的だし、物おじしない。新しいものにもすぐ馴れるタチだ。しかし、この時襲ったものは、まったく見知らぬ土地に行くことの猛烈な不安だった。  あとになって彼女は、理屈ではない、感情的な拒絶感だったと振り返る。札幌を動きたくない、その一念だった。軌道に乗り始めた仕事への未練もあるにはあったが、それほど強くは意識しなかった。とにかく動きたくないのだ。  夜、猛烈な夫婦喧嘩となった。胸の中にあるものに黙って耐えるという性格ではない。何でも口に出して表現しないと納まらないのだ。 「私はいやよ。行くならあなた一人で行って。親も居るし、友達もたくさん居るのよ。見ず知らずの所になんか行きたくないわ」 「単身赴任しろって言うのか」 「そんな人いっぱい居るじゃない。あなただって出来なくはないでしょ」 「俺はいやだ。そんなみじめな生活はしたくない」 「じゃ断って」 「お前本気でそんなこと言っているのか。転勤拒否をしてみろよ。一生うだつがあがらないんだぞ」 「いいじゃない。それだって」  どうせこの転勤だって配置転換の一つに過ぎない。転勤が栄転だったのは昔の話だ。それに、転勤して夫が出世していくことイコール妻の幸せ、月給があがって偉くなっていくのを助けるのが妻の道だなんて、今どき考えられやしない。出世しないんならしなくってもいいわ。 「お前は俺の足を引っ張るつもりか? 家族が一緒に行ってこそ、会社でも認められるんだ」 「じゃ単身赴任している人はどうなの? あの人たちは認められないことをやってるわけ?」 「単身赴任にはそれなりの理由が必要なんだ。子供の教育とか、親の病気とか」 「転勤拒否はしない、単身赴任はしたくない、あなたはそう言うけど、私はここを動きたくないのよ。それじゃ別れるしかないじゃない。別れましょうよ、離婚しましょうよ」 「離婚するのは勝手だよ。だけど、法律的には妻の要求として通らないぞ。慰謝料だって一銭もやらんぞ。身ぐるみぬいで出ていけ」 「そんな勝手な話ないでしょ。あなたの都合で別れるんだから、出すのが当然だわ」  とは言うものの、現実的に考えてみればたいして財産も預貯金もあるわけじゃなし、月々の安月給から慰謝料払うったってたかがしれている。「別れましょ、離婚しましょ」と言うのは感情が言わせているだけ、別れたあと生活出来ないことぐらいお互いに分かっているのだ。赤ん坊かかえて、月々の家庭教師料だけではやっていけない。実家に帰ると喚いてみたところで、歯学部に通っている弟の教育費に苦慮している両親の生活を思えば、おいそれと帰るわけにはいかない。もしこれが見合い結婚ならば、結婚を親のせいにして「お母さんから出た話でしょ」ところがり込むことも出来ようが、恋愛して自分で選んだ結婚、親への手前そんなことは出来ない。  生活面ばかりではなく、やっぱり夫への未練もある。結婚して六年も経てば、なんで惚れたのかしらと、しらけた思いで恋愛時代を振り返ることもあるけれど、男を転勤というただそれだけの理由では捨て切れない。くやしいけれど、一家の生計の担い手ではあるし、子供二人の父親でもある。この安定した生活と過去二人が培ってきた歴史を振り切ることは出来ない……。  動きたくないとする感情と、離婚して失うものと、秤《はかり》にかけてみれば、やっぱり失うものの方が大きい。冷静になって考えてみれば、離婚などはまったく現実的でないのだ。  ついて行くしか方法はないのだろうか。その女のくやしさをどこに訴えればいいのだろう。  その後転々とした転勤生活の中で、この時のショックが一番大きかった。他人の意志で動かされることの切なさが彼女を支離滅裂にしてしまった。 「いやよ。とにかく、絶対動かないから」 「じゃ離婚しかないな。お前は、サラリーマンの女房として失格だ」  転勤のニュースは広まって、友人や知人から電話が入る。会社時代の同僚は、 「いいじゃないのついて行けば。新しい土地に行くのもおもしろいと思うけどなぁ。向うでまた塾やればいいじゃないの。あなたそういうつもりで会社辞めて独立したんじゃないの?」  日が経つにつれて、動くまいとする静子の決心もぐらついてくる。冷戦状態のまま口もきかない夫との生活も淋しいものだ。  静子の天秤《てんびん》は、大きくついて行くことの方に傾いていく。気がつくと引越しのことをあれこれ考えていることもある。 「あと三日したら俺は秋田に行くぞ。お前はどうするんだ」 「しかたないでしょ。別れたら暮らしていけないんだから」  せっかくここまできて、またゼロからやり直しかぁ、別れを惜しむ子供たちに「ごめんね、ごめんね」をくり返しながら、次の先生を探して一人一人の子供の後を頼んだのであった。  秋田に着いてすぐ始めたことは、チラシ作りだった。当時まだゼロックスのようなものはなくて、ガリ版刷りのものだったが、夫が勤め先で作ってきてくれた。  こういうことについては、夫は一貫して協力的だった。 「あなた、せめてもの罪ほろぼしと思ってるんでしょ」  時にはいや味も言うが、英語が好きでその能力もある妻の仕事を夫が理解してくれていると思えば、やっぱり嬉しい。彼なりに自分の妻たるものの理想像があって、女房のやりたいことには協力していこうとする気持ちのある人なのだ。札幌時代にも、不規則な勤務ではあるけれど、早く帰った時には自分でご飯仕度をし、炊事もやってくれた。夜の授業で遅くなる時は、車で迎えにも来てくれた。だから仕事を続けてもこられたのだが、それ故に離婚のふん切りもつかず、結局はついて来てしまった。  千枚ほどのチラシを自分で配って歩いた。ポスターを作って、お店に貼ってもらうこともした。  ボツボツと教え子が増え、口コミで輪が広がっていく。今度こういう先生が社宅に引越して来たんだって、そんな噂が生徒を呼んできてくれる。  転勤族の妻として、馴れなければならないものが三つある。一つは気候、もう一つは言葉、三つめにはその土地固有の人情などの風土性のようなもの。  気候は、札幌に似ているような気がした。すぐ秋になって冬を迎え、その雪の多さと毎日のどんよりした冬空には参ったけれど、札幌ほど寒気はきつくない。  言葉には驚いてしまった。言っていることがまるで分からなく、外国にでも来たような思いだった。英語の方がまだ分かる。よく札幌に転勤で来た人が、言葉が荒っぽい、変な言い方があって戸惑うことがあると言っていて、札幌以外は知らない彼女は、へぇ、そんなものかと思っていた。たとえば、 「子供が学校で先生に『そんなもの持ってないで投げなさい』って言われたんですって。子供は変なこと言うなと思いながらもぽんと投げたら『何するの。ゴミ箱に投げなさい』って言われて、『捨てなさい』ってことだと分かったのよ」  その時は、ゲラゲラ笑いながら聞いていたけれど、実際に何を言われているのか分からずにポカンとしている自分を見出すと、土地が変わるということは、違った言葉に出会うことであり、それに馴染んでいかなければならないのが転勤族の妻なのだとつくづく実感するのだった。  夫も子供もすぐ秋田の言葉を覚えて、方言でのやりとりを楽しんでいる。転勤への心理的拒否感が静子をして秋田弁に馴れさせないのかもしれなかったが、塾をやっていく上には、言葉を覚えなければ、意志疎通も思うようでない。思いがけなかった伏兵ではあるけれど、これも乗り越えなければならないハードルだ。  ただ人情は篤い土地柄で、人々は親切だった。ポスターなども気持ち良く貼らせてくれる。  子供が小さくて、子育ての大変な時ではあったけれど、仕事の面では一番気持ち良く働けた時代だった。夜の授業の時は、ベビー・シッターを頼んで出るのだが、やはり子供は淋しがって泣く。収入と支出とを計算すると差し引きゼロに等しかったが、知らない土地で夫の帰りだけを待つ生活は恐ろしい。ヤケッぱちになったり、無気力になったりしないためには、人手を頼んでも自分の仕事を手放さないことだった。実際、秋田へ引越した当初の友人のいない淋しさを、静子は忘れることが出来ない。子供にもつらい思いをかけただろうが、仕事とそれを支えてくれた人々の親切が、彼女を救ったのだった。  静子の仕事は、自分の子供の成長に合わせて教える子の年齢が変わってきている。幼児の頃は幼児中心、小学生になれば小学生中心、中・高生になれば中・高生中心、我ながら苦笑してしまうほどに現金だった。今子供は高校生と大学生になってみれば、小さい子の英語教育など、面倒くさくてごめんだと思う。  秋田では、保母さん兼任のようなものだった。 「先生おしっこ」 「おやつまだぁ?」  英語の歌を歌ったり、カード遊びをやったり。次第に友人も出来てきて、子供の病気の時など代わってもらったりもするようになったが、少なくともそれまでには一年くらいかかっている。  生活が落ち着くにつれ、あちこち旅行もするようになった。春には十和田湖、男鹿半島、角館などにもドライブに出かけた。きりたんぽなどの秋田名物を食べていると、仕事も軌道に乗り、旅行もし、人情もいい秋田の生活は悪くはないと思う。ただしかし一点気に入らないのは、これが自分の選びとった生活でないということだ。  それは、静子の自尊心とも関係があるかもしれない。この後の転勤でもそうなのだが、夫が階段をあがっていく契機として、積極的に転勤を受けとめていると思えば思うほど、彼女自身は何か割り切れないものが強くなっていくのだ。夫に振り廻されて生きているような自分に納得が出来ないのである。  どうして素直に受け入れられないのだろう、これも自我が強すぎるからなのだろうか……。何か良くないこと、たとえば子供が風邪引いたなどのようなことでも、転勤のせいだと思ってしまう。すぐ札幌と比較して、札幌に居ればこんな目に遭わなかったと思ってしまうことに、我ながらうんざりしてしまうのだった。  その一方で教え子の数もだんだん増えていく。二DKの社宅ではなんとしても狭い。いつまで秋田に居るかは分からないけれど、土地の値段は上がりこそすれ下がることはないだろう、利殖の意味もあって、マイ・ホームを購入することにした。四年ほど経った頃である。 “マイ・ホームを建てると転勤”のジンクスもあるし、時期的にも再び動かされる頃かもしれないが、ちょうどいい物件があって決心したのだった。その時静子は、まさか家が仕上がって、建築会社から鍵を受け取るその日に、転勤の辞令が出ようとは、思いもしなかった。 「えっ、今度は東京転勤ですって? 札幌じゃないの? 札幌に転勤願いを出してくれって、あれほど頼んでおいたのに」 「俺だって、好き好んで転勤するわけじゃないよ」 「やっと秋田の生活に馴れたところよ。今教えている高校生をどうしても志望校に入れさせてあげたいのよ。いやだわよ」  札幌ならいざしらず東京だなんて。これがもし札幌への転勤なら文句言わずについて行くだろうと思うけれど、東京に行くくらいなら秋田に居た方がまだマシだ。 「ねぇ、これからもこうやって根なし草みたいな生活が続いていくんでしょ。転勤のたんびにお互いにいやな思いして、言い争いして、いやだわ私。会社辞めて下さい。お願いします。これを機会に札幌に帰りましょうよ」  最後は涙声になった。札幌から秋田に来る時は泣かなかったのに、だんだん札幌から遠くなっていくのかと思うと、心細さが涙になってこぼれてくる。弟が無事歯科医を開業したとはいえ、何かと娘を頼りにする親のことも気がかりだ。親不孝な身が恨めしい。 「いいよ、辞めたって。あんた俺の仕事探してきてよ」  とはいうものの、放送局のプロデューサーをやってた男なんぞというのは、ツブシのきかない人間の最たるものと言っていいかもしれない。お互い機嫌のいい時は、夫婦で塾やろうか、養豚業も儲かるってよ、いや一杯飲み屋がいいなんて冗談話に花を咲かせることもあるが、いざ現実に職探しとなると、三十七歳の男にそうそう就職の口があるものではないし、今よりも生活のレベルを落としたくない欲もあれば、これもまた離婚話と同じく、むなしい願いだ。大きな声で喚けば喚くほど、あとが淋しい。  結局、新築の家はそのまま貸家にして、一家は東京の社宅に移り住む。後に神戸時代この家は売ってしまうが、持ち主が一度も住まない家だった。この時静子は三十五歳、長男は小学校四年、長女は幼稚園の年少組。  この頃静子は大学時代の友人にこう書き送る。 「転勤族の妻というのは、職業をあきらめねばならないものとつくづく思い定めました」  静子のたくましさは、再び東京でも発揮される。会社勤めとは違って、実力だけが支えの仕事にたずさわっている女の強みかもしれない。  転居の慌ただしさが一段落すると、さっそくチラシ作りにとりかかった。今度は夫が忙しくて手伝えないと聞くと、息子の小学校に出かけていって頼んだ。 「すみませんが、チラシを刷らせて下さいませんか」  我ながらどうしてこう強心臓が発揮出来るのか不思議なのだが、仕事をしない自分というものを想像するのが恐ろしい。またまたゼロからやり直しだと思うと、口惜しくて気持ちはますます屈折するのだが、それが強ければ強いほどじっとしていられなかった。  さすが東京は違うんだなぁと思ったのは、たちまち生徒がついたことだった。中・高生の家庭教師、塾、ラボ、その他に頼まれて時間講師を二教室、空いた日が一日もないほどに忙しく、充実してきた。そうなれば現金なもので、東京生活も悪くないと思う。生徒は二十人余、静子は忙しいと毎日が楽しいタチなのである。  長男の転校もまずまず、子供は二人ともすぐ友達を作って東京生活にとけ込んでいった。  静子の持ち前の積極的性格が発揮され始めた。教師仲間の中に友人も出来、教え方や教材などの情報交換、研修会などにも顔を出すようになった。刺激が多くて、溌剌《はつらつ》としていく自分を感じる。秋田は人情が篤くてそれなりの良さもあったが、東京の女たちの活発な雰囲気には別の味がある。  それともう一つ、夫の転勤でウジウジとしていることは、マイナスにこそなれプラスにはならないとする意識があった。夫は相変わらず飛び廻っていて夜も遅い。夫を精神的に頼りにしていたのでは、たちまちノイローゼになってしまう。深く考えると限りなく気が滅入っていくけれど、それを抑えるものは自分のやりたいことを、三たび一からのやり直しでやっていくことなのだ。忙しくしていれば考えなくてもすむ。考えなければ気も楽だし、機嫌よく元気でもいられる。  静子はつくづく思う。転勤族の妻は、現実肯定主義者でないとやっていけないなぁと。いや、むしろ否応なく現実を肯定していくようになってしまうのかもしれない。いつまでも過去に執着し、今生きているこの生活を否定していたのでは、得るものは何もないのだ。我ながら健気すぎるんじゃないかしら、と思う気持ちもあるけれど、家計の担い手である夫を中心に生活している以上は、これ以外の方法はないのではないか……。そしてまた、静子は、夫がいきいきして働いているのを見るのは嬉しいのだった。これも夫への愛情なのかなあ、夫の喜こびは妻の喜こびとなることは、やっぱり否定出来ない感情なのだった。  それにしても、自分の力で出来るものを持っていて良かった。仕事は友人を作り、その土地に馴染んでいくための、なんと有効な手段だろう。  この時代が、一番仕事に熱中していた。下の子も小学校にあがり、自由な時間がたっぷりと増えた。長男出産以来、待ちに待っていた育児からの解放、やりたいことが出来る。  また転勤があるかもしれないという気持ちもあったのは確かだ。しかしまあ五年は大丈夫ではないだろうか、静子は再び社宅を出ることを考え、マンションを買った。下の子の勉強部屋も用意してやりたかったのである。家庭教師をするにしても、マンションの方が周囲の目を気にしないですむ利点がある。  マンション生活も落ち着き始め、東京で三度めの夏を迎えようとしていた夕方、珍しく夫から電話が入った。何か様子が変である。静子は冗談めかして言った。 「何か言いたいことあるんじゃない? 少し変よ。まさか転勤じゃないでしょうね」 「いや、じつは、そのまさかなんだよ」 「なんですって! だってあなたまだ三年よ。三年しか経っていないのよ」 「三年だから転勤はないとは決まっていない。とにかく転勤なんだ」 「ひどいわ。やっとやっと生活が軌道に乗ったところじゃないの。いやよ、私は動かないわ。で、どこなの? どこに行くの?」 「神戸」 「ええっ。神戸……。ますます札幌から遠ざかるじゃない」 「俺だって行きたくて行くわけじゃない。仕事、仕事なんだ。とにかく帰ってからゆっくり話すよ、じゃな」  冗談じゃないわ、会社の都合であっちやらされ、こっちやらされ、将棋の駒だってもっと落ち着いているわよ。そりゃ男はいいかもしれないわ、転勤によって新しい仕事に挑戦していけるんだから、だけど女はどうするのよ、いつもいつもいつも中断ばかりじゃないの!  カチンと切れてしまった受話器を握りしめたまま、静子はこみあげてくる腹立たしさに時の過ぎるのを忘れていた。今夜はまた再び言い争いになる……。彼は言うだろう。 「好き好んで転勤するわけじゃないんだ。俺だってつらいんだよ」  夫は夫で次の職場での緊張と、今の職場を離れる心残りに揺れていることだろう。  いったいなに故にこんなに転勤させるのだろう。仕事柄、いつもフレッシュな感覚で働く人間を求めたいとか、一ヵ所に長く留まると人間関係に癒着が出来てくるとか、転勤をさせる側にはそれなりの理由がある。 「向うで君のような人材を求めているんでね」  と言われれば、男はその気になって奮い立つかもしれない。転勤によって気分一新でやる気が出ることもある。働かせる側と働く側の利害が一致する場合もあるだろう。  だけど、転居させられる家族の思いに、彼らは一度だって思いを馳せてくれたことがあるだろうか。  夫が転勤すれば家族はついていくのが当然、あるいは、最初は文句や涙や口論があっても、結局はついて来ざるを得ないんだから、ちょっとの嵐は辛抱してなどと思っているのではないだろうか。そして、単身赴任は淋しくてみじめで、仕事にも悪影響があってよくよくの理由でもなければ社会的な承認は得られない。何よりも男たるもの、妻を説得し連れて行くべきである、それも勤務評定の中に入っているのではないだろうか。  夫に出世して欲しいとは思わない。また夫もそうそう出世にこだわる男ではない。彼が欲しいのは肩書きではない。仕事の充実なのだ。彼は彼でやはり仕事の世界に自己実現や評価されたい欲求を抱え込んでいる。競争意識とまではいかなくとも、男同士あいつがあの仕事をやるんなら、オレはこっちで勝負だとする意識もあるだろう。  妻として長いこと一緒に暮らしていれば、その辺のことは自然に見えてくる。愛しあって結婚して、共に生きていれば、男のそうした望みをかなえさせてやりたいとも思う。だからといって、自分がこうして常に犠牲になる生活も、どこかいびつではないだろうか。  妻のジレンマはそこにある。  夫の気持ちも大切にしたいし、自分の仕事も大切にしたい。せっかくここまでやってきて……。思えば口惜しいではないか。転勤のショックから立ち直らせてくれた仕事が、次の転勤のショックをより大きなものにしてしまう。なんという皮肉であろう……。  とにかく、今度こそは何と言おうとも単身赴任してもらおう。それが一番の方法だ。マンションを買ったのも、もし社宅に居れば、いざ転勤という時に否応なく明け渡さなくてはならないその強命を受けなくてすむという意識もあったのだ。  単身赴任と聞いて、夫は不機嫌に押し黙ったままだった。 「秋田の時みたいに、辞める辞めないで喧嘩するよりもいいじゃない。あなたは会社一筋に生きていく人なんだから、神戸で一所懸命やって。私はここに残って私なりにやるから」 「いつまで俺を一人でやらせる気なんだ」 「分からないわ。だってまた三年で動くかもしれないんでしょ? 三年ぐらいすぐ経つわよ。このつぎは札幌になるかもしれないんだし」 「転勤の期間なんて予測出来るもんじゃないよ。とにかくさ、転勤のたびに喚《わめ》かれるんじゃ俺だってかなわないよ」 「それは私の言うことよ。転勤のたびにチラシ作って生徒集めて、軌道に乗ったらさようならじゃない」  ただこの時静子には一つだけ心配ごとがあった。夫はもともと身体の丈夫な人ではない。すぐ胃がやられるのだ。ストレスを受けるとなおさらである。今度はデスクという立場、側にいてやらなきゃならないのではないだろうか……。やっぱり、この人を見捨てられないし、これも愛というものなのかなと思ったりする。 「だからね、いつまでとか決めないで、当分の間、ということにしましょうよ。今はまだ夏でしょう? 受験生も抱えているから、あの子たちへの責任もあるのよ。途中で放り出すことは出来ないんだから」  言いながら、いずれは行かなきゃならないなぁという気はした。しかし、夫が動く、ほい妻も、こんな図式にすんなり従うことには抵抗があるのだ。悪あがきかもしれないけれど、妻の持つ社会的責任というものも、夫に示しておきたかった。妻にも“面子《メンツ》”があるのだということ、あやつり人形ではないということだ。 「分かったよ。俺一人で行くさ」 「そう、そうしてくれるのね」 「しかたないじゃないか」  重苦しい日々が始まった。もともとお互いに何でもポンポン言いあう夫婦なのだが、夫はブスッとして押し黙ったまま、必要なこと以外口をきこうともしない。  単身赴任というのも大変なものだと静子は思った。何か妻が途方もない我儘をしており、とんでもない難行苦行を夫に押しつけているかのような罪悪感が頭をもたげてくる。寝具を新しくし、下着や洋服類、社宅での自炊に備えての家事用品などを買い整え、荷物にして発送する忙しさの中で、こんなに精神的につらいんなら、一緒に行った方がまだ気分的には楽かもしれないという気もしてくる。  単身赴任の妻は皆こういうつらさを味わうのだろうか。この世には喜んで単身赴任する夫もいるかもしれないけれど、多くは苦虫千匹噛《か》みつぶしたような顔をしているのではないか。それに耐えて何年も別居するというのは、よほどの精神力がなきゃダメだと改めて静子は思ったものだった。  しかしながら別居生活が始まってみると、これはまぁ、なんと気楽な毎日であることだろう。何時に帰るか分からない夫の、しかも夕食済ませてくるものやら、帰ってくるまで消息不明の夫のために、食事のあれこれを心配する必要もない。母子三人、思いのままの生活、あとで振り返ってみても、別居を始めた二、三ヵ月の頃の解放感はうまく口で言い表わせないほどだ。単身赴任も悪くないなと思った。近所の行きつけの一杯飲み屋のママさんがいい人で、夫の帰りを心配することもなく飲んでいると、しみじみ生きているという気がするのだった。一家の世帯主、その緊張感と、お酒を飲んだあとのゆったりした気分、この二つがあることがたまらなく心地良い。  しかし、近所の人たちの好奇の目、これは想像していた以上だった。 「そろそろ現地妻が出来る頃じゃない? 今夜あたり電話しなくちゃ駄目よ」  どうしてこうも夫を単身赴任させると“夫の浮気”が出てくるのか。無責任な言葉とは知りつつも腹立たしい。しかし、言われてみれば落ち着かない気持ちになるのも事実だった。自分から言い出した別居とはいえ、もし夫に浮気されたら、絶対に冷静ではいられない。  冗談めかして電話で言ってみる。 「近所の奥さんがね、そろそろ現地妻が出来たんじゃないかって言ってるわよ。もしかしたらそうなんじゃない?」 「馬鹿者。何ほざいてんだ。そんなことが出来るくらいなら、苦労するもんか」  それを聞くとどっと安心する不思議さ。  もう激しく抱きあうこともなくなった夫婦だけど、いざ居なくなってみると、すっぽりと包み込んでくれる人が欲しくて夜眠れないこともある。セックスそのものもそうだが、ふっと温かく大きなものに触れたい時がある。手を伸ばせばそこに居た人が居ない淋しさは、これもまた思っていた以上のものだった。解放感と自由と孤独は、いつも三位一体のようについて廻るものだと、静子は知った思いだった。  次第に静子の心は揺れてくる。  大きくて暑苦しくて、時として疎ましい夫も、居なくなってみると、身体の一部をそぎ落とされたように淋しい。改めて静子は、夫婦って何なのだろうと考え込む。よく“夫婦の絆”という言い方を耳にし、“絆”って何なのだろうと思ったこともあったが、別れて暮らす時に感ずるこの実体の定かでない空白感のようなものが、もしかしたら“絆”の正体なのかもしれない。やっぱり夫婦って一緒でないと駄目なのかなぁと思ったりする。  こうした静子の動揺を見すかすようにして、中学一年の息子の態度が反抗的になってきた。父親という抑えがなくなって、彼もまた解放感に煽《あお》られているのか、お金の使い方が乱暴になってきた。 「あなたこの頃お小遣い帳もつけていないんじゃない? 買い食いなんかやってるんじゃないの?」 「だけどママ、お小遣いってのは、子供が自由に使っていいお金でしょ。僕の思うようにしていいはずだよ」 「あらあなた、ずい分と偉そうに言うじゃない。そんなこともしパパが聞いたら、怒るわよ。パパが居ないんだから、あなたがしっかりしなくっちゃいけないんじゃないの?」 「いちいち僕のすることに口出ししないでくれよ。それにパパが居ないからと二言めに言うのも止めて欲しいな。迷惑なんだよ、そんなこと」  たぶんこれは精神的な成長期にある男の子の、ごく普通の振舞いであり、物言いであるとは思うけれど、父親が居なくなってから息子がひどく反抗的になってきたように思えてならないのだ。父親の前では絶対に言わないようなことだ。  やっぱり別居は私には出来ないのかもしれない、気弱くなって静子は考えた。子供には父親が必要だ、とくに男の子には……。これから中二、中三と育っていく中で、女には手に負えなくなることがあるのではないだろうか。校内暴力や非行なんて、まさかとは思うものの、連日の新聞を見ると、我が子に限ってと安心していられる材料は極めて乏しい。  ころばぬ先の杖、ということもある。しかも胃弱な夫は、仕事のストレスで参ってくるかもしれない。ひとたび生活に不安を持ち出すと、歯止めなく暗い雲が広がっていく。  三月、仕事にひと区切りつく頃が潮時かもしれないなぁと思い始めた。しかも高校受験ということを考えれば早い方がいい。中二の終わりとか、中三になってからの転校は可哀相だし、もし東京の高校に入ってしまえば、万一何かが起こったとしても、転校は容易ではなくなる。東京の高校に入れたいという思いもあっての別居の主張だったが、今は移るんなら早い方がいいと思い始めていた。心細くなっていた。  こうして女は、夫のことや子供のこと、つまりは家族のしがらみの故に、仕事の世界をとりこぼしていくのだろうか、その疑問を払い除けることは出来ないが、とにかく神戸へ行こう。  東京生活三年半にして、静子は神戸に転居したのであった。  神戸では、さすがの彼女も意気消沈してしまった。いくら頑張っても、こうして転勤のたびに元のモクアミになってしまう。その無念さを思うと、とうていまた始める気にはなれなかった。あとの人を探すのも大変だった。辞める一ヵ月前は、子供たちとの別れのつらさと、後任者探しで心身共にくたびれ果てた。だんだんボロふとんになっていくような気持ちだった。打ち返しのたびにコシが弱くなって弾力性を失う綿のように、撥ね返す力がなくなっていく。  もう教室を開くのはやめよう。意気込んで生徒を集め、教える仕事に熱中するのは、なにか恐ろしい。もういやだ。また四、五年もすれば転勤は目に見えている。どこに行っても出来る仕事とは思っていたし、確かにその通りではあるけれど、別れのつらさを味わうのは計算外だった。自分の意志でなく別れることが、こんなにも心を傷つけるものだとは……。  しかし落ち着くにつれて、やはりじっとしていられない。それが静子の性格でもある。自営業はやらないとして、塾の雇われ講師をやろう。講師なら辞めるのも簡単、心にわだかまりを残すことも、責任を感じることもないだろう。それと同時に、もう少し勉強したい。外人が多い街と聞いている。生の英語を学ぶチャンスにしようと静子は思った。今勉強しないと駄目になってしまうとする危機感もあった。このままだと再起不能になる。  三ヵ月もすると社宅の奥さんたちとも仲良しになり、夕食のおかずの配りっこなどもするようになったけれども、北の国の人間に関西は住みにくいと思うことがたびたびあった(この時彼女は、家二軒持ちながら、それを各々人に貸して社宅に住んでいた。そしてこの神戸時代に秋田の家を売る)。  やはり転居するたびに孤独感がついて廻る。東京の友人に電話して心の憂さをぶつけてはみるが、電話だけでは語りつくせないし、手紙でもうまくいかない。会って話す充実にはかなわないのである。  勤めに出ることにしたのは正解だったと静子は思っている。塾に出かけると、そこは仕事の世界、厳しいけれども気の張りというものがある。さらに勉強に出かければ、久しく味わわなかった充電の喜びがある。出たついでに名所を見物し、時には京都までも足を延ばした。転勤を利用しなくっちゃ、とまたしても貪欲さが頭をもたげてくる。  神戸には丸五年居た。  一家は再び東京へ転勤で、移り住む。この時長男は浪人開始、長女は中学三年であった。前年に東京転勤の内示があったのだが、長男が高三であったのを理由に引きのばしを頼んでいた。子供の受験やその他子供がらみのことは、“拒否”としては受けとられない。  静子は思っていた。子供は東京の大学を受験させよう、それを理由に東京に戻る。夫は必ずしも東京転勤になるとは限らないが、子供がここまで大きくなれば、もう別居してもいい。  ところが偶然にも東京転勤となり、この時ばかりは喜んで東京に戻ってきた。札幌に帰りたいという気持ちもあるが、離れてからもう十五年近い歳月が経っていれば、心理的な距離は東京の方が近い。住む家も札幌にはないが、東京にはある。全国から人が集まっている雑居的都会は性にも合っている。  夫も東京には戻りたいと思っていたらしく、毎年の調査書には、東京を転勤希望地にしてあった。北国の人間には関西のどこか排他的雰囲気には違和感がある。これは、夫婦共通の認識だった。  今東京に戻ってきて、静子はつくづくともう動くのはいやだと思っている。  転勤には体力と心の柔軟性が必要だ。  あの重いダンボール箱を持って立ち働くには肉体的な若さが要る。夫は、荷物なんぞにおかまいなく職場に出ていくが、そのあと始末は全部妻の仕事、子供の学校のことやら近所の人たちへの挨拶やら、裏方たるや肉体的疲労はすさまじいものだ。加えて、環境の変化への順応性、トシと共に頭の中が頑固になってきて適応出来なくなる。若い時は、いやいやながらでも、どんな人に会うかしら、どんな所かしら、ついでに名所見物しようとする好奇心もあるけれど、トシと共にそれもなくなっていく。  転校のたびに子供に与える心理的な影響も心配の種だった。とくに下の女の子が友達との別れを惜しんで泣いている姿を見ると、親の都合とはいえ、むごいものだと思う。  転校先でも、いじめられることがあったらしい。その時は何も言わなかったが、最近テレビでいじめの番組を見ていた時、ふと呟いたのだ。 「私だって、転校のたんびに似たようなことがあったわ」  子供は転校によって強くなっていったかもしれない。転勤が子供にとって幸福だったか不幸だったかは、なんともいえない。  それにしても今から考えると、よくノイローゼにもならずやってこれたと思う。子供が居たからこそやってこれたような気もする。子供は近所の人たちとのパイプ役だった。子供を通して友人も出来、どんなに助けられたかしれない。子供がいなかったら、見知らぬ土地で、外に出る理由も見つからず、日がな一日家にいて、いったいどうなっていたかしらと思うのだ。  転勤族は子供がいた方がいい。それも小さい子供の方がいい。安易かもしれないけれど、生きることは現実だ。  妻の性格としては、楽天的、思いつめない性格、忘れやすいタイプであることが必要だ。以前居た土地の思い出は捨てていく。そして、人生への展望が失われるなどと考えない方がいい。  転勤は妻にとってメリットか、デメリットか考えることがある。メリット四割というところかなと思う。  転勤は静子を否応なく現実主義者にした。プラスの面を考えて生きていこうという気持ちが働く人間となった。前の社宅ではああいう失敗をしてしまったから、今度はうまくやろうという気持ちも働くし、いいところだけを見て生きていかなくちゃ、何事もあきらめが肝心という肚《はら》も出来た。居直りかもしれないけれど。  転勤を乗り越えられたものの一つに、子供の存在も大きかったけれど、好きな仕事を持っていたことが大いなる助けであったと思う。苦労を苦労とも思わず、よくまぁ飽きずにやってきたとは思う。全国的に通用して出来るものを持っていたことは幸せだった。そして、それ故にプラスの面を感ずるのだが、他流試合でもまれたことは、あのままずっと札幌に居たら温室の中のひ弱な花にすぎなかったと思わしめるものがある。これは一ヵ所に定住していたら分からないことだった。各地の塾での評価のされ方とか、厳しさとかを思い知った。それが大きな刺激となって、意欲をかき立ててくれたと思う。  だけど、よく新聞の投書欄などで、「私は何回転勤しました。全国各地に友人がいて、人生のかけがえのない財産です。転勤も楽しいものです」と書いている人がいるけれど、静子には驚きだ。そういう人も中にはいるかもしれないし、おつきあいも上手で性格も申し分ないのかもしれないけれど、凡人にとっては、移動して歩くということは即喪失である。  確かに行くさきざきで友達は出来た。秋田では、別れを惜しんで送別会をしてくれた。角館名産の桜細工の立派な下駄を記念品として戴き、大事にしまってはあるけれども、やっぱり去る者は日々に疎しなのである。そりゃ、転勤した当初は手紙や年賀状とかやりとりするけれど、三回が二回になり一回になりしていつの間にか音信が途絶えてしまう。  結局は心を語る友人を見出せないで来てしまった。友情を育てていくには時間がかかる。同じ仕事や生活範囲の中で、お互いの共感が生まれ、時には喧嘩や仲直りの中から人間の発見が積み重なっていく。それは、一ヵ所に十年とか二十年とか長く住んではじめて得られるものだ。深い友情で結ばれていたと思っていた人ですら、別れると続かない。どんなに親しくしていた友人でも、ひとたび離れてしまうと、その仲が遠くなってしまうのは、秋田でも神戸でも同じだった。その土地の人情とか気風以上に物理的な距離が友情を疎いものにしてしまうのだ。もしかしたら、自分の人間性かなぁと思ったりもするけれど、これはごく普通の転勤族の妻たちの共通の悩みなのではないだろうか。  それ故に、夫に対して腹立ちもあるのだ。  あの人は、職場は変わっても、同じ大きな組織の中にいて人間関係が継続している。秋田で同じ職場だった人と、出張先で出会ったとか、東京に戻ってみれば向うも来ていたとか、人間関係に断絶がない。そのプラスマイナスもあるかもしれないけれど、静子の目から見ればうらやましい。  うらやましいと言えば、夫は転勤のたびに送別会、歓迎会となんと賑やかなことだろう。人間関係をリフレッシュし、先輩やら後輩やらにとり囲まれて、あれは快感だろうなぁと思う。こっちは、送別会も二つあればいい方、歓迎会なんて、いまだかつてしてもらったことがない。夫は見知った仲間の所へ、それなりの評価をぶら下げて出かけるが、妻は常に新しい見知らぬ人々の所に入っていくのだから。この彼我の違いがくやしい。  転勤族の妻になったことで、人生をどこかあきらめながら生きてきたと思う。女としてあるいは一人の人間としては夫を恨みながら、だけれども夫の側で暮らすことに安心してついていく。このジレンマからは、夫が定年退職するまで解放されないだろう。  あとプラスって何があるかなぁと静子は考え込む。子供たちと秋田ではああだった、神戸ではこうだったと思い出話をすることもある。カマキリがいつのまにか繁殖して、天井が真黒になったとか、ヒルに吸いつかれて泣いて帰ってきたとか、そんな話をしている時は、子供を自然の中で育てて良かったと思う。だから、自分の側から見ればマイナスな部分であっても、子供の側から見ればプラス、またはその逆と、プリズムのように光の当て方でプラスもマイナスも違ってくる。結局、こうやって生きてきたのだから、肯定するしかないと思いはそこに落ち着くのだ。  とにかく、東京に戻って三年、ようやっと生活は落ち着いた。  今夫は五十二歳、定年は五十九歳だから、あと一回ぐらいは転勤があるかもしれない。 「パパね、上の人と喧嘩しちゃ駄目よ。飛ばされたら困るからね」  こう言うのが口癖になってしまった。  東京に戻って再び始めた教室も順調だ。一年でも長くこの地に居たいと思うから、夫にはすべてに慎重に、腹の立つ事も抑えてやっていって欲しい。  もっとも、今度転勤になったら、断固単身赴任だと決めてはいる。しかし、やっぱりその時になってみないと分からないと思う。 「私は夫の犠牲になんてなりませんわ。夫には単身赴任をさせています」  なんて言っているいわゆる著名人というのもいる。静子にはそれがいい生き方なのかどうか分からない。かといって、自分のようにくやしがりながらも転々と夫についていった生き方が良いとも思えないけれど。  夫の職業と自分の仕事と、夫婦の絆と家族の生活と、すべてをバランス良くやっていきたいと願っていたことは確かだ。それ故に犠牲になった部分もある。  だけど、つまるところは夫を愛していて、一緒に暮らしたい、そう思っただけだったのかなとも思う。古いのかもしれないが、夫の喜びを自分の喜びとしていたところもある。平凡な女の考えることはこんなところに尽きるなぁと、一人苦笑するのであった。 自立を奪われる背景  この章にとりあげた妻たちは、いずれも夫の転勤によって職業を捨てざるを得なかった女たちである。久野静子のように個人の実力の仕事をしている人ですら、土地が変わるたびにゼロからやり直す苦労を味わわなければならない。  会社員であった大野美津子、保母であった高田エミ子は、退職後の再就職はない。辞めることに未練があり、なんとか勤め続けたいと思ってみるものの、“夫と共に行く”転勤の前で、女の望みは春の淡雪ほどの抵抗力も持ち得ない。仕事とは何か、夫婦とは何か、悩みながら、職業生活においては「だから女はすぐ辞める」「夫次第でアテには出来ない」と女の地位を下げるのではないかと苦しんでいる。三人が三人とも単身赴任を考えるが、高田エミ子は最初から一緒に行き、残り二人も半年か一年後には夫のもとに行っている。  私も、別居期間一年半の後に退職して、夫の赴任先に転居した女である。  三人が三人とも、私に重なってくる女たち、とくに大野美津子は、調査という仕事の類似性、妻に理解ある夫、「あと一年」と言い続けようと思うあたり、私とまったく同じ心の軌跡を味わっている。  高田エミ子の親の問題も、私にはその苦渋がよく分かる。夫が妻の姓を名乗っているのも私と同じだ。妻の姓を名乗る男を夫にした場合の奇妙な遠慮、普段は感じないことでもいざ転勤となり、単身赴任となれば「やっぱり養子だからなぁ」とする目を意識せざるを得ない。そのような目なんか気にしない、人が何と言おうと勝手だと思ってはみても、傷つく心には、やはり無関心ではいられないものであり、その傷を出来るだけ少なくしようとして、自分を犠牲にしようか……と思ってしまうのだ。  私の場合は養子ではなく、ただ単に妻の姓を夫が名乗っただけなのだが、今なおそれを養子と見る目にどれだけいやな思いを重ねてきたことだろう。だから、夫が「どうしてオレについてこない!」と叫んだ時、私の胸の中には抜き難く姓のことがあった。この人がこれまでの間私の姓を名乗ったが故に味わってきた口惜しさが、そんな言葉で爆発したのではないかとする申し訳なさもあったのだった。高田エミ子がぎりぎり悩んで、最後には老親を山形に残し、職業を捨てて夫に従った気持ちの底には、やはりこの姓のことがあった。結婚時、女の九十八パーセントが夫の姓を名乗る日本社会にあって、いくら夫婦は対等と言われても、戸籍の筆頭者が妻である家庭では、夫が上位であることを当然とする社会通念に反するものとして、妻の方に遠慮がつきまとうものである。それは、転勤をきっかけとして、意識の表面に現れてくる。夫の姓を名乗る大野美津子ですら「妻一人牛耳れなくて」とする目があることを語っていたが、これは、妻の姓を名乗る男にはより強力な圧力となる。夫を愛すればこそ、妻は、社会的に一人前であろうとする意欲を捨てざるを得ない。  転勤は、夫による妻への支配という側面を強調するものである。妻が自分の人生を生きようと職業を大切にすることは、夫にとってマイナスの評価になる。妻に対して支配力を持つことが夫の条件、その前提に立って転勤は当然のことと考えられている。そしてじつは、こうした企業風土は、男にとっても悩みとなっているのだ。妻もまた一人の個人、共に生きる人間と考える、妻の自立に許容度の高い夫ほど、会社や周囲の“常識”との間に立って苦しまねばならない。  昭和六十一年四月より施行の男女雇用機会均等法により、働く女性はますます増える。長期勤続を志す女性も多い。それなりのポストを目ざす女性も増える。加えて、高学歴化の社会にあって、男女共に個の思想が芽生えている。当然、働き続けようとする女性にとって、夫の転勤は妻の職業の継続や結婚生活を脅やかすものとなる。今後、自分の職業を大切に考える女は、転勤のない男を人生の伴侶に求めるしかない。転勤のある企業に勤める男は、結婚難の時代を迎えるだろう。  こうした状況に備えて、最近は、流通業を中心に、新しい人事、給与制度を導入する企業があい次いでいる。  ダイエーでは若手社員を三つに分ける「スパーク計画」。三十代前半くらいまでの一般社員に、全国に転勤の可能性のあるN(ナショナル)社員、全国を十一ブロックに分け、ブロックを越えての異動はないP(プロフェショナル)社員、転勤を伴う異動のないE(エキスパート)社員。N社員は、どこに転勤するか分からないが、部長、本部長へと出世の道が開けている。これに対しP、E社員は、生活の安定は図りやすいが、昇進には限度がある。そしてこれは、五年ごとにコースを選び直せるという。私見を言えば、生活の安定と昇進とが三者択一になっているのは、転勤しないことをマイナス、一種の懲罰としているかの感を受ける。  西武百貨店では「キャスト制度」、ジャスコでも、入社希望者が勤務地域を全国各地か、または近畿、西部、関東など五つのブロックから選ぶ。五年後にはコース見直しも出来る。もっとも、中高年対策や賃金体系などの点で、まだまだ改良の余地はあるというが、少なくとも本人の希望を無視した転勤は見直しされ始めているといえる。  しかしまだまだこうした制度を導入している企業は少ないし、もっと問題なのは、夫婦の間に意識のズレがあった場合である。妻は夫の転勤を希望しない、だが、出世欲とまでは言わないにしろ、仕事に好奇心や積極性のある夫、そして、妻の希望に無関心な夫は、仲間との競争を求めて転勤を求めるかもしれない。口では、転勤なんかしたくないと言いながらも、人間関係の変化や新しい分野への挑戦を求め、刺激を求めて転勤に期待をかける。社会的にも、家庭なんぞを顧《かえり》みない男への評価は高い。こんな男を夫にし、しかも妻も職業継続に意欲がある場合、結局は夫婦の職業観、人生観をめぐって対立が起こるのだ。夫婦の間の対等性が保証され、単身赴任への偏見がなくならない限り、夫に従うことによって挫折を味わう妻の悲しみは消えていかない。  今、転勤の実態はどのようなものであろうか。  労務行政研究所の調査データ(昭和五十九年九月)をもとに、概観してみよう。  まず、企業による単身赴任の認否状況。妻にとってもっとも気になるところだ。「やむを得ぬ場合は単身赴任を認め、援助を行なう」が七十パーセントともっとも多い。これは、“やむを得ぬ”と認められることがまず第一で、働く妻の辞めたくないとする意志が、この中に入るのかどうか。これも結局は家族帯同を言っているのではないだろうか。ついで「本人の自由意志にまかせる」二十二パーセント、「帯同赴任が原則で、個人都合の単身赴任には援助しない」八パーセントとなっている。この結果からすると、ほぼ八割の企業が“家族帯同”を転勤の原則としており、ここに夫の移動に対して有無を言うこともかなわぬ妻のつらさがある。また、夫の意識としても、会社の原則を守らねばならぬと、妻へ圧力をかけることになる。  この調査によると単身赴任者の割合は十九パーセント、転勤期間は三〜五年とする企業が大半を占める。標準的な異動回数は、四十五歳課長クラスで四・六回、このうち転勤は二・五回、転勤一回当りに要する概算費用は家族帯同赴任で七十三万円、単身赴任で三十六万円程度。  それでは、単身赴任の理由としてはどのようなものが多いのだろうか。  同調査によれば、「子供の教育・進学」九十四パーセント、「住宅取得ずみ」四十七パーセント、「両親の転居が困難」二十一パーセント、「家族の病気・出産」十四パーセント、「妻が勤めている」八パーセントの順である。質問形式が、「主なもの二つ」と指示しているにも拘らず、妻が働くことを理由にあげた人は、昨今の主婦二人に一人が働く時代とも思えぬほど低い。これは、“住宅”とか“子供の教育”とかにふりかえられているのだろうか。少なくとも転勤から見る限り、妻が働くことは、まだ市民権を持ち得ていないと言えそうだ。それ故に、大野美津子のように、住宅も、子供も、両親も、そこに関しては理由がなく、妻の職業がストレートに表面に出る場合にはそれだけ夫も妻もつらい立場に立たされることになる。  単身赴任については、マスコミなどでもずい分話題になり、労使の動きとしては“家族ぐるみ転勤”の方向にある。確かに子供の高校編入の問題など、やむを得ぬ単身赴任のために中・高年サラリーマンはつらい思いをしたかもしれない。日本生産性本部の、単身赴任者実態調査(昭和五十七年)によると、「一人の生活がやり切れなくなることがある」四十二パーセント、「だれも居ない自宅に戻るのが気が重い」三十二パーセント、「気分がいら立つことが多くなった」十五パーセントなど、一人暮らしの淋しさはあるだろう。家計への圧迫もある。病気の時の心細さや日常生活の大変さも家族一緒の時の比ではないだろう。とくに、何もかも妻にやらせていた生活的自立の出来ていない男の場合には苦労も多いはずだ。  しかし私は、単身赴任者の生活困難だけを理由に、単身赴任をなくそうとする動きには賛成しかねる。たとえば、読売新聞(昭和五十九年二月二十一日)の社説の一部にはこう書かれている。  企業に対しても、家族状況を十分考慮に入れての転勤発令、学期に合わせた異動を行うよう努力を望みたい。また、内示から発令まで、ある程度の準備が出来るよう、その期間にも適当な配慮がほしい。そして何よりも、単身赴任を極力避ける努力を、労使でしてほしいと思う。  その点で、これまでの労組活動は、単身赴任手当を制度化すれば事たれりといった考えがなかったか。単身赴任のルールづくりなど、活動の余地は多いはずである。  だが、それにしても気になるのは、転勤の話があった時、あまりにも安易に単身赴任の結論を出してはいないか、ということである。家族の中、夫婦の間での“最も大切なもの”の順序が逆転してはいないだろうか。  この転勤シーズン、単身赴任と決めてしまう前に、もう一度、家族で話し合ってみてはどうだろう。(傍点は筆者)  この中で気になるのは、後半部分とくに「あまりにも安易に単身赴任の結論を出してはいないか」というくだりである。私がインタビューした妻たちは、夫を単身赴任させることに悩みや苦しみを抱き、ぎりぎりの決断を下した人ばかりである。私にしてもそうだ。夫への申し訳なさや遠慮、夫の不機嫌に気まずい思いをし、その姿はけっして安易な結論ではない。世論の単身赴任者の妻への見方とは、なぜかくも冷たいのだろうか。大野美津子が語ったように、あたかも妻の我儘でもあるかのような受けとられ方があるのだ。夫婦は一緒に暮らすものとする前提の上に、人生を中断させられる、高田エミ子や久野静子の嘆きは、この社説の筆者には分かっていない。  なくすべきは単身赴任のみではない。人事の刷新とか、全国事情の精通とか、出世競争などの名目において、転勤を当り前とする企業の経営風土そのものが見直されなければならない。「もっとも大切な順序」の名において切り捨てられる女の人生に対して、男の働き方そのものへの反省こそが今求められるべきものだと私は思うのである。  単身赴任を決断した家族の悩みは深い。夫もまた苦労するだろうが、妻もまた苦労しているのである。  労働省の「勤労者家庭の妻の意識調査」(昭和五十九年四月)によれば、サラリーマン家庭の十六パーセントが単身赴任を経験しており、「留守家庭で困ったことがある」と九十二パーセントが答えている。一位は「経済的負担」、二位「子どものしつけ、勉強、進路」、三位「夫の生活が分からず不安」、四位「夫の病気やけが」などがあげられており、単身赴任する夫のつらさもさることながら、留まった妻の側の大変さもまた計りしれない。  久野静子も夫の単身赴任中の息子の変化に驚き、父親不在の影響かと神戸行きを決心するが、私もまた別居中は、子供や日常生活に何かの翳《かげ》がさすと、これも父親がいないための悪影響ではないかと恐れた。同居していても朝早く夜遅い夫は、ほとんど不在に近い状況なのだが、単身赴任という尋常ならざる生活形態をとるおびえのようなものが、妻の心を支配するのである。それもやはり、家族は一緒に暮らさねばならぬとする常識に、知らず知らずのうちに我々の心が染めあげられているからではないだろうか。  妻にとっては、単身赴任であれ、同行であれ、いずれを選択しても、苦労は大きい。単身赴任であれば、そのことに悩み、職業のある妻は自分の職業観との板ばさみに悩み、職を辞して赴任地に行けば、職を失ったつらさ、孤独感に悩むことになる。行くも地獄、残るも地獄。  大野美津子は言った。 「私のように悩んだ末に、会社を辞めた女でも『やっぱり女は』と言われるのでしょうか。私が辞めるのは、夫の会社の転勤のためなんですよ。私が仕事出来ないとか、人間関係を作れないとか、私個人の理由ではないんです。どうして夫の会社が非難されないで、私が女の足を引っ張るものとして非難されなければならないのでしょうか」  そして、夫の赴任地に行った高田エミ子は、職業のない自分に愕然《がくぜん》とし、思い出すのはありし日の働いていた自分の姿ばかりだ。職業と別れ、友人と別れ、誰一人として知る者の居ない地に行かなければならない妻の孤独に対して、夫たちは驚くばかりに無関心だ。夫もまた知らない人の組織の中に入っていくのだろうが、仕事でつながる集団は仲間も出来やすい。いみじくも久野静子が言ったように、歓迎会や何やかの集まりで知己を作っていけるのである。しかし、家庭に居る妻はそのようなわけにはいかない。心を語りあう友人が出来るまでに時間がかかる。そしてその間、高田エミ子のように、原因不明の病気に悩まされることもあるのだ。  私もまた、夫の赴任地に行った当初、職業を失い、友と別れた空白感のつらさを、痛いほどに味わったとする思いがある。  札幌に着いた朝、雪が降っていた。その寒さがまず私を悲しませた。空はどんよりとして、世界が閉じられてしまったような、息苦しさを感じる。つい昨日までの東京の風がなつかしい。桜のつぼみがふくらんで、同僚たちは花見の計画をたてていたではないか、すべてが遠くなってしまった思いだった。  電話がすぐつかなかったことも心理的な空白感を大きくした。かつては毎日、机上の電話が鳴りっぱなしの忙しさの中で、身体には熱気があった。仕事が回転していくおもしろさ、その渦の中に電話はあった。それが一日中、誰からも電話もこなければ、仕事もない。黙々とダンボールの中の食器を片づけ、押し入れを整理する時間は、あまりにも彩りがなくて、そのモノトーンの風景に涙があふれてくる。夫も子供もいない昼間、一人で家に居るのは、恐ろしいほどに孤独であり、思い出すのは会社のことばかりだった。  もう会社も辞めたんだから、頭の切り換えをしなくては、会社の仕事中心の日常スケジュールから、自分のためのスケジュールを作らなくては……と思うが、いったいどんなスケジュールがあるというのだろう。私は、はじめて、主婦とはスケジュールがないのだ、と思い知ったのである。  いみじくも久野静子は、転勤族には小さい子供が必要だと言った。公園への散歩や子供を通したつながりが妻の孤独を救うと述べているが、確かに私も子供のPTAで救われた。さらには住宅が不便な所にあるが故に、車の運転免許をとろうと自動車学校に入ったことも、キッチン・ドリンカーにならずにすんだ方法だったと思う。とにかく、転勤族の妻の最大の敵は、転居当初のこの孤独感にある。会社で仕事をしている夢を見る。目覚めたあとも夢と現実が入り乱れて、「あ、私は会社を辞めたんだ、今札幌に居るんだ」そう思うまでに時間がかかり、現実を確認すると同時に寂寥感がせきあげてくる。自分のスケジュールを持とうとする努力と孤独感との闘いが、転居当初の私の毎日であった。  夫の転勤は、妻のこうした精神的葛藤に支えられている。夫を転勤させる企業は、妻に対しても、なんらかのアプローチをするべきではないだろうか。転勤は企業の問題、家庭内のことは夫婦の問題と放置してしまっている現状では、夫も妻も苦しむのである。別居にしろ同伴にしろ、転勤という事態に投げ込まれた妻の孤独に対して、せめて夫を通してでもそれを和らげるような、対策が必要である。夫が仕事ばかりの世界に生きるがために、留守家庭での一家心中事件が起こっているが、これも企業や組織による転勤者への配慮が欠けていたからではないだろうか。新しい職場で心機一転仕事にのめり込む夫たちの後ろで、妻の心は蝕《むしば》まれていく。単に妻の性格、忍耐力欠如などと妻を批判するだけではすまないことである。  しかし一方では、夫の転勤が妻にとって不幸ばかりでないのも事実である。家庭の状況や、希望の有無、これまた妻の性格や活動状況とも関わるのだが、転勤を生活の刺激としてそれをバネに自分の人生を前進させようとする妻もいる。見方によっては夫にとっても企業にとっても都合良い女とも言えるが、生き方や考え方が百人百様である以上、居ても不思議ではない。ただそれが、妻のあるべき姿として他人への指図や、妻たるもののモデルとなることが問題なのだ。  次章においては、転勤もまた楽しと新しい地に赴いた妻たちのケースを紹介しよう。しかし彼女らとて、転勤に伴う何かしらの心身の抑圧もあった現実が垣間見えている。それを克服しようとしている健気な姿とも言える。 第三章 夫の行くところはどこまでも これもひとつの生き方  来年は転勤があるものと覚悟を決めている。二度めの転勤、まだどこに行かされるか分からないが、どこに発令されようともついて行こうと思っている。むしろ、今度はどこかしらと楽しみでもある。  小原美樹子(三十六歳)。結婚当初は、夫の会社の人たちのいろいろな転勤苦労話を聞いて、困ったなぁどうしようと思ったことはある。だが、一つ所に長く住んでいると妙に飽きてくる。新しい所もいろいろ知ってみたい気がする。旅行もままならない主婦にとって、転勤は最高の気晴しになるのだ。新しい友人を作り、知らない所を見物して歩き、珍しい料理を食べる、それらは、変わり映えのしない毎日をやりすごす日々からすると、刺激に満ちていて、心を浮き立たせてくれる。一度めの転勤でそれを味わった。そして思ったものである。転勤も悪くないなぁと。だから二度めの転勤が心待ちになるのである。  もっとも、人が生きていく上では、波風のない穏やかな日常は大切なものだ。「住めば都」で、どんな所でも馴れた土地とはいいものだ。だが美樹子には、嵐のごとき突風が吹く非日常的なめまぐるしさがないと、主婦として人間として鍛えられていかないような気がする。引越しという体力気力を要する期限つきの作業をやり終えた時の清々しさは、一人前になったような自信を与えてくれる。  転勤は、サラリーマンの妻である以上、当然のものとして受け入れるべきだと思っている。もっとも、最初からこう思ったわけではないし、悩みもあったのだが、今は夫も緊張して張り切っている以上は、妻もそれを支えるものとして、頑張らなければならないと思うのだ。転勤が大変なのは、転居に伴う種々雑多ないわば引越しビジネスともいうべきもの、それさえ乗り越えれば、転居当初の淋しさや土地に馴れるまでに時間がかかることなど、とりたてて言うべきほどの問題ではない。日時が解決してくれることだと思い定めている。あくまでも生活の表面的な変化にすぎない。  夫婦や家族は、どの地で暮らそうと、それによって影響を受けるものではないはずだ。転勤は妻もまた何かの闘いを強要される面もあったが、一度それを乗り越えた自信が、次の転勤を恐れさせなくなっているのだった。  夫は北海道警察に勤める地方公務員。同い年である。彼は結婚地三笠市には転勤で来ていて、市役所勤務の美樹子と知りあった。  恋愛当初から、一生三笠に居る人ではないと知っていた。北海道各地を転々とするのが警察官の宿命である。  美樹子が結婚したのは三十歳の時。本当は結婚をあきらめていた。職業を持つ女として一人で生きていこう、そう思っていたのだ。美樹子には病気があった。股関節脱臼で脚が思うようでなかったのである。医師からは手術をすすめられていたが、下手をすれば一生車椅子になるかもしれないとも言われ、悩んでいた。良くなるとしてもどの程度良くなるものなのか、身体的ハンディを克服すべく手術を受けるや否や、判断材料もなかったのである。  夫と知り合ったのは、そんな不安の中にいる時だった。ともすれば悲観と嘆きに陥りがちな心を優しく包んでくれる。 「頑張って手術を受けてごらんよ。きっとうまくいくから。心配ばかりしていたら、何も出来ないじゃないか」  その言葉が手術を決心させた。入院三ヵ月の間も、見舞いを欠かさない。車椅子を押しては散歩に連れ出し、未来を語りかけてくる。お互いが必要な相手として求めあっている……、美樹子は素直な気持ちでプロポーズを受けとめた。彼の出現が、一生を独身でなどとは肩ひじ張った思いだったと教えてくれたのである。  五月に結婚式を挙げようと話していたところが、二月の昇任試験で合格となった。となると、四月に転勤は確実、それじゃ式は早くしなくちゃと、三月末に急遽くりあげた。転勤を前提とする結婚だった。  当初、このまま三笠に居てくれれば共働きも出来るのにと思ったが、結婚してすぐ別居するなんてことは出来ない。一緒に居たいから結婚するのに、それでは何のための結婚か分からない。仕事は好きだったし、一生を独身の前提で働いていたから努力もしていたが、それだからといって単身赴任させるなんて思いもよらないことだった。未練がなかったと言えば嘘になるが、結婚の方が大事だった。  赴任地は千歳だった。  しかし、新しい土地での生活と新婚生活と二つ同時のスタートは、やはり美樹子に悶々とした毎日をもたらすことになる。土地への馴染《なじ》めなさと仲間のいない淋しさ、さらには結婚そのものの理想と現実の落差……。  恋愛時代には気がつかなかった夫の性格。機嫌がいい時はいいけれど、不機嫌になるとむっつりと黙り込んでしまうやりきれなさ。アイロンのかけ方、靴の磨き方、料理のあれこれの口うるささ、こんなに細かい人だったのか、こんな人について行っていいんだろうか、この当時が一番離婚願望がふくれあがったと彼女は振り返る。  この時、もう一度仕事につきたいと痛切に思った。職場の活気を求めて職安にも行ったが、夫は妻が働くことに反対だった。仕事柄、いつ帰宅するか分からないから、常に家に居て欲しいと言う。確かに、張り込みなどが始まると、泥棒と同じ生活を続けることになり、普通のサラリーマンのように、朝出かけて夕方帰るというわけにはいかない。事件はいつも突発的に起こるし、それに対応出来るように夫も妻も心構えていなければならなかった。改めて美樹子は、警察官の妻になることの大変さを知った思いだった。夫の職業が、いかに妻の生活に影響を与えるものかということも知った。自分の職業は断念せざるを得ない。  転勤族の妻の宿命、選択した人生だと割り切ってみようとは思ったが、淋しさが募ってくると、目に入る風景も心を楽しませはしない。この頃の美樹子を救ったのは、市役所勤めの頃、同じ課に居た同い年の友人が、たまたま千歳に住んでいたことだった。お互いの昔を知っていて、共通の話題があって、家庭のこと夫のこと、何でも喋ることが出来る。旧友が居てくれたおかげで、どれだけ孤独感に陥らずにすんだことか。  しかし友人とて、何もかもさらけ出して喋れるものではない。お互いどこかに姿も色も見えないガードがあって、そこからは入っていけないし、入ってきてもらっても困る。それを感ずるのもまたやり切れないものだった。親友とて、完全な存在ではない。じわじわと漂ってくる海霧のようなものが、いつの間にか心を湿っぽくし、視界を奪っていく。どうやったら目の前が晴れるのだろうか……。  この赴任当時、夫は学校に入れられていて、週に一度帰ってくるだけの生活だった。これが三ヵ月続いた。  友人は一人だけ、家のことはすぐ終わってしまって何もすることがない。クッション作りもしてみるけれど、勤めの頃の仕事のように打ち込めるものではない。気晴しに実家に行ってみても、もうここは自分の家ではないという感じに驚いた。夫との家に帰ってくると、借家であるにも拘らず、すっと気持ちが落ち着くのだ。実家はもう帰るところではないんだなぁ、その思いが、より一層淋しさをかき立てる。  夫は毎晩のように電話をくれたが、毎日閉じ込もりっ切りの生活は、気がおかしくなりそうだった。札幌まで出かけて行って気晴しするような経済的ゆとりもない。待つだけの生活の味けなさ……。  孤独感、閉塞感、そして夫の性格の意外な発見、しかも身体のハンディのせいか、何ごとも我慢と口返しもせずの遠慮がちの生活、やっぱりこの結婚は失敗だったかなぁと思い、これから先の生活に自信を失っていた。  妊娠したのはこの頃だった。子供の出現は妻の孤立を救ってくれるものだったが、この時も警察官の妻の大変さを思い知るものだった。  子供は二人できたが、出産はどちらも、夫の休める日に合わせての計画分娩だった。美樹子の親戚は事情があってお産の手伝いに来られない、夫の親戚も同じ、転勤先で夫婦だけの世帯で、しかも警察官という職業では、夫の公休日に合わせて出産する以外方法はないのだ。それでも事件が起これば家庭の事情に関係なく動員される。  子供が出来てからは、生活が変わった。ちょうど借家から官舎に移ったことも手伝って、同じ職業の夫を持つ妻たちとのつながりが急速に増えていった。子供を通じてのちょっとした会話が、美樹子の心を安定させていく。顔見知りがやがて友人になっていった。  警部の奥さんを中心にして集まる“つどい”も、楽しいものだった。たいした話は出ない。鉄砲玉を夫に持つ妻の愚痴、子供のこと、生活の工夫、とりとめのないお茶飲み話ではあるけれど、美樹子にとっては、警察官の妻の共通の悩みや話題に触れて、心のもつれがほぐれていく思いだった。これは、かつての友人からは得られない心のなごやかさだった。何よりも気に入ったのは、夫の職場の話はしない、夫の階級と妻とは無関係、座る場所も自由なら、言葉づかいにも余計な心配りが必要なかったことだ。安心して同じ立場の感想が喋れると美樹子は思った。  だがそれも、日が経つにつれてやっぱり完全には心を慰めはしないと思うようになってくる。生活がらみの話ばかりではなく、もっと生き方や考え方を、外側から見る醒めた目が欲しい。この点に関しては、官舎の奥さんたちとの話は、物足らなく一時しのぎのものでしかあり得ない。  この時知ったのが、市の社会教育の講座だった。下の子のおむつがとれ始めた頃から、熱心に通うようになる。母親学級や市民大学セミナーなどに積極的に参加した。  子供を預かってくれる保育室のあることもありがたい。始めた以上はトコトンやらねばならない気性の彼女は、両方とも一日も休まないで出席し続けた。  これが彼女にとっては大きな自信となったし、刑事の奥さん以外のまったく別種の新鮮な感覚の友人たちの発見につながっていった。やがて気の合った人が十五、六人集まって、文芸的なサークルを作ろうということになり、美樹子も加わった。ほとんどが転勤族の妻たちだ。 「千歳は転勤族の街ね。みんな言うわ、『とうとう千歳くんだりにまで来てしまったか』って」 「とくに、東京の人は、北海道に来るのは左遷のイメージがあって、泣き泣きっていう人が多いみたいよ」 「東京から九州に転勤する人ってのは泣き泣きじゃないのかしら」 「さぁ、皆同じだと思うけど、とくに北というのは都落ちって感じで、イメージ悪いのね」 「だから、知事さんがテレビ局に申し入れしたそうよ。左遷イコール北海道はやめてくれ、都落ち的なイメージで北海道を扱われると困るって。本当よね。迷惑ね」 「それはそうだけど、やっぱり、北海道くんだり、千歳くんだりっていう意識はあるわよ」 「それじゃいっそのこと、この会の名前『くんだり』にしようか。発行する雑誌も『くんだり』、転勤族の妻の開き直りよ」  賛成意見、反対意見、代案などいろいろ出たが、結局、このいささか皮肉っぽい「くんだり」に名称も落ち着き、美樹子もメンバーになった。「くんだり」の人たちとのつきあいで、気持ちの整理はついてきた。退職から結婚、転居と続いた中で積もりに積もっていたものを吐き出し、孤独からは解放された。  この「くんだり」のありがたさは、転勤先に行っても会員であり続けられることである。文集発行の時にも参加出来る。通信も受けとれる。いわば、転勤による孤独を味わい尽くしてきた妻たちが、全国どこに行ってもつながりを持ちあっていようとする、心の自衛組織でもあった。  夫について歩くことを生き方と考えているけれど、昨今の女の自立論議を耳にすると、はたしてこれでいいんだろうかと美樹子も悩むことがある。まるで主体性のない、夫の奴隷のような女なんじゃないかと見られる口惜しさもある。「くんだり」はそういう現実の生き方と、心のギャップに悩んでいる主婦にとっては、心の自立を確認する大切な機能を持っている。  美樹子は思う。  夫について歩くことをまず生活の第一にして、その範囲の中でやりたいことをやっていく、そういう生き方もあっていいのじゃないかしら。結婚したての頃は、夫の給料を使うことに抵抗があり、申し訳なくて使えないと思った。自分の収入をなんとかして欲しいと願い、夫の性格についていけなくて離婚したいと思ったこともあるけれども、今はまず夫をたて、夫について歩きながら、気持ちの世界で自立を考えていった方がいいのかもしれない。その勇気を持って生きていきたいと思う。  夫の転勤だけれど、たぶん、来年あたり場所は今のところは未定だけど動かされるだろう。  早い人は二、三年で移動している。平均すれば五、六年というところか。もう丸六年千歳にいるのだから、心の準備だけはしておかなければなるまい。  昔と違って、今は転勤が出世につながるということはないようだし、昇任試験に受かったような場合を別とすれば、栄転ということもない。  転勤がどういう基準で行なわれるのか、妻にはまったく分からない。一応調査書は毎年廻ってきて、第一希望、第二希望などと書くようになっているらしいし、妻や家族の病気とか老親を抱えている場合は考慮されると聞いているが、くわしくは知らない。  家を建てたというようなことはまったく考慮されない。どこそこに行きたい、ということは書くけれど、どこそこに行きたくないということは書かないし、希望を書いてもその通りにいくものではない。調査書そのものが参考程度にすぎないもので、どこに行かされるのかは闇の彼方にある。  夫は転勤の内示が出たら相談してくれると思うし、断ったからといって格下げになるものではないと思うけれど、余程のことがない限り、断るなんてあり得ない。  男としては、転勤して、そこで実績をあげて出世していきたいとする気持ちはあって当然だと思う。現に、上にあがっていくための試験勉強をしている姿を見ていると、妻としては出世して欲しいという気持ちではなく、夫が志しているのなら、助けてやりたいと思う気持ちがある。それは、妻の夫への隷属と批判されるべきことだろうか。もし、批難する人が居たら、それはあまりにも人の心を知らなさすぎると思う。夫婦が共に一つの目的に向かって生きようとする姿勢の現われではないか。  ただ一つ残念なのは、常に妻から夫への協力であり、夫の喜びを妻の喜びとする生活が多過ぎることだ。もっと家庭の中が平等に、妻の喜びも夫の喜びとするような、夫が妻に妥協する生活もあっていいと思う。これがなくて一方的に常に妻の側からの働きかけばかりが求められていることが、美樹子を時としてやり切れなくさせるのである。  転勤ということも、結局は夫婦の間の生き方の志向や、人生観でその色あいが変わってくるのではないかと思う。今のような夫婦のありようでは、何かお互いの平等性がない。そこに俺が動くから、お前もついて来いと一方的に言われると、夫婦は上下じゃないよ、命令する者とされる者じゃないよと言いたくなるものが生まれてくる。  しかし、冗談まぎれに夫が、 「俺を置いて出て行かないでくれな」  などと言うのを聞くと、喜怒哀楽の激しい夫も可愛く見えてくる。  こういう夫婦が、今の日本の平均的な夫婦かもしれないとも思い、時として奴隷ではないかと思う怒りを鎮めてしまう。  とにかく、結婚した時に転勤は宿命だと思ったのだし、ついて歩くことを自分の人生だと思い定めたのだ。夫について歩けないと思った時、その時は離婚する時、転勤を受け入れている間は、夫婦は平和なのである。  三十六歳という年齢はさほど若くはないけれど、知らない土地に行ったら、その土地の良さを思い切り勉強するのも悪くない。しかも、転勤地は北海道内、実家への行き来とてどこに行ってもそうそう不便ではないし、生活が大幅に変わるものでもない。まだ子供二人も小さいし、当分は家の中で出来ることを楽しみながら、転勤ライフに喜びを見出していくつもりである。これもまた、妻の生き方ではないだろうか。 親孝行をさせてくれる転勤  吉田啓子(三十三歳)は、名古屋に来て三ヵ月が経ったところである。  札幌で結婚して、千歳、名古屋と二度めの転勤だった。千歳への転勤時と比べて、いつの間にこんなに荷物が増えたのか、引越しは妻の仕事とはいえ大変だった。転居費用は会社持ちだったが、出来るだけ自分でしようと思ったから、食器包みや、ダンボール箱の調達(これは主にスーパーにかけあって古箱をもらった)、電気、ガス、水道、銀行関係、出発日に間に合わせるべく気忙しい日々だった。  だがそれも、転勤族の妻なら誰でも味わうごく普通の慌ただしさ、過ぎてみればさぁやるぞと張り切って不要物整理に汗を流していた毎日がなつかしいくらいだ。転勤はいつの間にか増えているガラクタを整理するのにうってつけの機会なのである。  名古屋への転勤は第二希望だった。第一希望は、出身地福岡。可愛がって育ててくれた夫の祖母が八十九歳の高齢でまだ元気でおり、親戚たちも多い。行きたかったのは、祖母存命中の福岡だったのだが、福岡はやはり希望者が多いのか、かなえられなかった。その代わり、第二希望の名古屋には夫の両親が住んでおり、彼らにとっても啓子夫婦にとっても、嬉しい転勤だった。  両親は、ある会館の管理人として住み込んでおり、まだ元気だからとりあえずは同じ市内に別居することになった。夫は一人息子なので、親や祖母のことをいつも気にしていたし、名古屋であれば福岡に行くにしても近くてありがたい。転勤は、祖母、両親、彼女ら夫婦、皆にとって待望のものであり、幸運な出来事だった。  夫の父は五十五歳とまだ若いのだが、昨年暮れに肝硬変と診断された。千歳と名古屋は、飛行機二時間とはいえ、やはり遠い。病気が心配でちょっと電話しても、たび重なれば電話代もバカにならない。歯がゆい思いをしていたところへの転勤、動くなら祖母か両親のもとへと思っていたことが実現して、紙切れ一枚で動かされるサラリーマンの宿命の中で、会社の温情を感じる。  夫は航空会社の営業部勤務。  職場結婚だった。結婚と同時に退職した。地上勤務とはいえ、何十倍かの競争で入社し、希望を持って働いていた。共働きをしたいと思ったが、支店長からの圧力で辞めざるを得なかった。共働きを認めない会社ではなかったのだが、支店長の個人的考えとして、相手が社外の人間ならいざしらず、社内の結婚である以上、どちらかが辞めるべきだというのである。そうなると彼女が辞めることになる。勤めて三年め、仕事も覚えて一番脂の乗っている時だっただけに口惜しくもあったけれど、小さい支店の中で波風立ててまで勤め続ける勇気もなかった。涙を呑んでの退職だった。  札幌には四年居て、千歳への転勤となった。当時三歳の長男と生まれたばかりの長女を抱えての転居。しかしこの時は、転勤という実感はさしてなかった。千歳・札幌間が車でも一時間、特急に乗れば三十分という距離の近さが大きかったと思う。地続きのしかも近い所、友人との別れの実感もなく、子供を媒介にしてすぐ友人も出来た。性格的にはそれほど社交的でもなく、友人作りがうまいとも思えないのだが、札幌の友人との友情も続くなかで新しい友人が出来ていったのは、本当に幸せだった。  やがて次男が生まれ、三人の子供たちの成長を中心にした生活をすると同時に、市が主催する婦人大学セミナーや「くんだり」の会にも参加し、女性の生き方について学んできた。  千歳には六年居たのだが、楽しい思い出ばかりだ。若い頃やっていた七宝焼きの技術を生かして、週一回二時間ほど福祉センターで知的障害者(十五歳から六十歳ぐらいまで)十数人に七宝焼きを教えていた。わずかの時間育児から解放され、自分の好きなことをやりながらお金がもらえることは、ベビー・シッター代を払ってしまえば残りわずかであったとはいえ、ささやかな充実感だった。名古屋に来るのに一番心残りだったのは、これともう一つ、朗読奉仕だった。夫の転勤のために、中途半端なやめ方をしてしまったという未練もないとはいえない。  もしこれが勤めであったなら、もっと苦しんだだろうと思う。幸か不幸か退職後のボランティアなので、どこの土地に行ってもやる気さえあれば復活は可能だと割り切っている。  名古屋転勤が、もう一つ嬉しかったのは、七宝焼きの本場だということだ。社宅からバスで三、四十分のところに七宝町がある。落ち着いたら、本格的に勉強し直そうとも思う。千歳でのボランティアをやめた心残りをカバーしてあまりあるものが、ここにはある。親孝行が出来て、自分の勉強が出来て、恵みの転勤であった。  しかしながら、結構ずくめばかりでなかったことも事実だ。  何よりも不安だったのは、本州での生活経験がないことからする気候への心配。転勤は四月だったので、夏の暑さに耐えられるだろうか、梅雨とはいったいどんなものなのか、自分も子供もうまく馴《な》れられるかどうか不安だった。母親の立場になれば誰しもが思うことは子供の健康である。  つぎには子供の学校のこと。長男小学三年、長女小学一年、転校はうまくいくだろうか。とくに長男は、幼稚園時代に登園拒否を起こしたことがあるので、またもやと心配でならない。  まず気候への馴れ、大人の方は思っていたよりすんなりといったように思うが、子供の方は悪い予感が的中してしまった。  長男には、ぜん息がある。場所が変われば納まるかという期待もあったのだけれど、結果は裏目に出た。梅雨入りと同時に発作が起こるようになり、とくに雨の日は激しく咳込む。夜通し苦しむ日も月に四、五回あり、学校も連続して十日間休むという状態。それ以外にも発作のたびに欠席する。心配していたいじめもなく、名古屋弁にもすぐ馴染んではいたけれど、やはり精神的な緊張が子供ながらにあったのだろうか。  千歳に居た頃は年に一、二回軽い発作がある程度、こんなにひどいことはなかった。夜通し咳込んでいる姿を見ると、このまま死んでしまうのではないかという恐怖が背筋を冷たくする。千歳に居ればよかった、転勤は失敗だったのだろうか、親の都合で可哀相なことをしてしまったと後悔の思いが胸をよぎる。千歳と違って青空も多いし、社宅も郊外にあって空気はきれいなのに、湿度と精神的衝撃の影響だろうか。  加えて、長女や次男にも異変が起きた。まず長女が、東海地方では四年ごとに流行するというマイコプラズマ肺炎にかかった。学校も三週間欠席、それが一段落してようやく登校許可がおりたと思ったら、今度は次男が似たような咳をし始めた。こっちの方も同じ病気ではないかと疑いが持たれている。  一難去ってまた一難、まったく違う気候風土の所へ子供を抱えて行く場合、こうした肉体的な面での影響も無視出来ない。  長男はこんな具合いに休んでばかりなので、成績もがたんと落ちてしまった。転校直後は成績が下がると聞いており、覚悟もしていたが、通信簿を見てびっくり、これが将来に悪影響を及ぼさなければいいがと、気がかりでならない。  名古屋は千歳と違って教育はのんびりしていない。第一、教科書が難しい。千歳は夏休みなんて宿題はなかったけれど、こちらは一年生からびっしりだ。絵日記、読書の感想文、水泳指導など、ついていけるかしらと心配になってくる。  ただいい先生にめぐり会えたのが何よりもの幸せだった。とくに長男は女の先生で、休みがちな子供のために、何かと気をつかってくれる。制服もないのがいい。千歳では皆がジャージ姿で、入学式も音楽会もジャージ、この皆が同じということに抵抗感があったのだが、名古屋では何を着せてやってもよいのが気に入った。これで病気さえ良くなれば言うことないのだけれど。  福祉問題に関心のある啓子にとって、名古屋では知的障害児の学級が、一般学級と併設になっているのもいいと思う。  夫の忙しいことは予想外だった。  三ヵ月は試用期間だと思ってくれということで、毎晩残業が続いている。忙しくて帰って来られない時などには、子供が欲求不満を起こすのか母親に向かって「お前、なんだよう」とつっかかってくることもある。夫も新しい職場で大変だろうが、家族もまたそれぞれの形で大変さを抱え込んでいる。  しかしそれを夫に言って愚痴ろうという気にはならない。夫は夫で一所懸命やっているのだから、それぞれの持ち場でベストを尽くしていこうと思う。  社宅住いが故に助かっている部分も非常に多い。転勤者への受け入れ態勢が出来ていて、困った時にはお互いに助けあう精神が自然に出来ている。お店の情報や病院、学校のことなど、細かに教えてくれた。これも皆が転勤者の家族なので、思いやりが深いのかもしれない。  なおありがたかったのは、札幌、千歳時代同じ社宅に居た人が名古屋の社宅にも居て、はからずも再会したことだった。引越しの時にはお茶を運んできてくれたり、他の人を引き合わせてくれたり、このことが孤独感からずい分救ってくれた。野菜をはじめとして物価も安いし、品物も豊富、北海道に比べて気候にさえ馴れれば暮らしやすいと思う。社宅も三LDK、千歳より一部屋多くてしかもきれい、住宅が良くなったのが嬉しい。ただ、北海道に居れば寒冷地手当ということで石油代が出て、一冬の暖房費をまかなえたが、名古屋は暑くて一日クーラーを入れていても熱帯手当のようなものは出ないから、経済的な面ではややマイナスというところだろうか。  千歳の人たちともヘソの緒がつながっている。「くんだり」の会からは例会があると報告を伝えてくれるし、市の社会教育課の三浦昇氏(当時)は、婦人大学セミナーの講演会のテープを送ってくれる。手紙のやりとりも頻繁だし、これぞという精神的落差を感じないですんでいる。転居した淋しさ、別離の感覚を持たないで過ごせるのは、本当にありがたい。  このように、暮らしの面では、子供の健康だけが心配事で、他はさしたる波風もなく順調だ。思っていたよりも楽だった面もある。何よりも親の近くに来た安心感が大きかった。親が支えにもなってくれる。夫は一人っ子なのだけれど、親と必要以上にべたべたすることもなく、クールに接してくれる。こんなふうな男に育ててくれた親には感謝の思いもあるし、嫁として出来るだけのことはしてやりたい。これからが親孝行だ。  ただ、社会的活動の面ではいま一つ思うようでないのが残念だ。  各区の社会教育センター主催の講演会など問いあわせてみたのだけれど、託児施設を設けているのは婦人会館のみで、一歳半の子供連れでは行けないのだ。この点は、千歳の時のようなわけにはいかないなぁと、恵まれていた千歳での生活がなつかしい。  ボランティアも、なかなか活発なのだが、子連れの活動はお断りと言われると聞いてがっかりしてしまった。そのボランティアのレベルも千歳よりも高そうだし、次男が幼稚園に入るまで、少なくともあと三年は待たなければならない。ここ当分は千歳に籍を置かしてもらって、名古屋ででも出来ることを細々とやっていくしかない。  とりあえずは必要にせまられて、車の運転免許をとることにした。社宅が不便な所にあって、病院に子供を連れて行くのにもいちいちタクシーを頼まねばならず、それもすぐ来てくれるとは限らない。それで自動車学校に入ったのだが、二日通っただけで、子供の看病になってしまい中断している。九月になれば、夏休みも終わって再開出来るだろうと思っている。  せっかく知らない土地に来たのだから、あちこち見物して廻ったり、新しい刺激を受けるような所に出かけて行って、生活を楽しみたいと思っている。赴任途中、熱海に寄って一家五人思わぬバカンスを二日間楽しんだが、転勤をフル利用して思い出を作っていくことが肝心だと思う。名古屋港に来た新さくら丸を見に行ったのも楽しい思い出である。  夫はこれからも転勤はあるだろう。とくに出世を願いはしないけれど、夫が働きやすい所であれば、どこに行ってもいい。確かに紙切れ一枚がもたらす家族への影響は甚大だけれども、日本中あちこちで生活出来ることを喜ばなくてはと思う。その土地その土地の人々の関わりの中で有意義な毎日でありたいとも思う。  子供には可哀相なことだった。しかし、これも生き方の柔軟さを学んでいく一つの方法と、割切ることにしよう。  そして、数年後、この地を去る時に、また心残りの部分があるような生き方をしていきたいと思う。結局のところ、母親というのは、どこの土地に行っても暮らせるものではないかと思っている。  転勤というのは、確かに家族の危機である。とくに、転勤を契機として夫婦の関係がモロに出てくるものだと思う。転勤が問題なのは、転居とか転校とか外側の部分よりも、それまでお互いにどのような夫婦であったかが問われる点である。助けあい、生き方を認めあう夫婦であれば、乗り越えられるものである。  夫の性格に負うところも大きいと思う。夫は、九州男児とはいえ、子供のおむつ替えを手伝ってくれたり、この忙しい人が家に帰ってきてまで……と思うくらいこまめに啓子を助けてくれる。また、北海道の男と違ってリップ・サービスもいい。「その服、素敵だよ。似あうね」などとさらりと言ってくれる夫は、どれだけ子育てに追われる啓子の気持ちを救ってくれるだろう。仲のいい夫婦であることが、転勤をスムーズに運ばせた大きな要因である。  自分自身の人生設計としては、主婦としての役割をきちんと守り、ボランティアしながら社会とつながっていこうと思っている。もし夫が死んだらどうする……などということを言う人もいるけれど、そんなことは考えてみてもしようがない。その時はその時でなんとかなるのではないかとも思っている。  昨今は、主婦総悩みの時代で、不満や悩みを持っていないと一人前でないような言い方があり、満足していると言うと考えが浅いかのような目があるが、啓子自身は下の子が高校を終えるまでは今のままの生活でいいと思っている。共働きすることまでは考えていないし、また、夫を単身赴任させることなど考えたこともない。  この名古屋への転勤の時、夫は親の所から通うから単身赴任してもいいと言ってくれた。北海道生まれ、北海道育ちの啓子の気持ちを思って言ってくれた言葉なのだが、子供には絶対に父親が必要だ。子供は学校からも学ぶかもしれないが、家庭の中で父親や母親の生き方からも学ぶものだと信じている。自分一人ではとても子育てなんか出来ないし、夫の居ない生活なんて想像も出来ない。  これからもこの気持ちを大切にして生きていきたい。夫の行くところには、どこにでもついて行こうと思っている。 転居後の“居場所”を求めて  夫の転勤の受けとめ方は、妻の生活観によっても大きく異なる。これも一つの生き方と割り切っていく妻もあって当然だ。妻の職業とのかかわりの程度、社会参加などへの熱の入れようとも関係している。第三章に登場する主婦は第二章の主婦に比べて自分の全精神生活を没入させるほどのなんらかの激しい精神的な“ひっかかり”をもっていない。これは、夫にとっても会社にとってもありがたいことである。また、転居した新しい土地への好奇心も強く、良く言えば転勤もまた楽しと積極的メリットの発見に意欲的であるし、悪く言えばどこかあきらめているところがあり、執着心が薄い。第二章で久野静子が言ったように、転勤族の妻は現実肯定主義者にならなければならないという側面を、けっしてすんなりとではないにしろ、受け入れている。  確かに転勤には、生活をマンネリから救うものがある。いろいろの所で生活してみるのも悪くないと割り切ってしまえば、どこででも暮らせるものであろう。転勤を一概に悪いものだとも決めつけられないのは、こうした生活のアクセントとしての変化の面もあるからだ。よく海外赴任などで夫について行って、その土地のことを手記などに書いたり、転勤経験を小説に書く作家もおり、異質な文化との触れあいがなんらかの芸術に結びつくこともあるだろう。こんな場合は妻にとっては転勤は恵みであろうし、内面的あるいは精神的充実を求める立場から、夫と一緒に行った方がいいと発言する人もいる。  吉田啓子が言ったように、転勤によって、夫婦とは何なのだろうとお互いに考えるきっかけにもなる。夫婦仲のいいことが転勤をスムーズにさせるとも彼女は言った。一緒に行くにしろ、単身赴任するにしろ、生活の変化が起こった時に、夫婦仲のいろいろのものが吹き出してくるのも否めない事実だ。一緒に暮らしていて楽しくない夫であるならば、転居後の妻の孤独もより一層深まろうし、別居するにも決断は早いかもしれない。ただ私個人としては、単身赴任は夫婦仲が悪いからだろうとする世間の目には賛成しかねる。  基本的には、転勤で一緒に移ったあとも、妻が自分の生き方を大きく変更したり、大切なものを失ったりしないかどうかが問われるところだ。言ってみれば、妻自身の生きがい、精神的経済的自立がそこなわれないかどうか、そのあたりに転勤もまた楽しと言えるかどうかがかかっている。第三章に登場する主婦は転勤への受容性が高く、転居後婦人学級やセミナーに出ることで友人を作ったり、あるいは転勤後の生活設計を立てたりしている。どういうことに興味があり、どういうことをしなければ達成感が得られないかは、個人差のあるところで、一般論では語りにくいが、何らかの満足の基準線に触れているかどうかが、転勤後の精神衛生と大きくかかわっていると思う。 「何かやらなくっちゃ、だけど何をやったらいいのだろう」  この思いは、退職直後に転居した私の実感だった。私は、会社という組織の中での仕事しか出来ない人間であり、自分がどんなことに向いているのか、何が出来るのか分からなく、呆然とした日々だった。子供のPTAや運転免許のことは二章で書いたが、これらは私の心の中の何らかの達成感を約束するものではなかった。言ってみれば時間つぶし、つぎに何をやるかそれを発見するまでのツナギのようなものだった。とくに運転免許は、その何かが見つかった時に行動力を助けるための手段だと思っていた。  その一方で、共働きしていたのでは出来ないことをやろうとする心の動きもあった。選択してしまった現実を肯定しなければ、人は生きていけない。何か過去にはなかったもの、やっぱり辞めて良かったなぁと思えるもの、転勤族の妻なればこそ儲《もう》けちゃったなぁ、そう思えるものが欲しかった。会社での“机”を失ってしまった私は、それに代わって自分を縛りつけ、何かをすることで充実感を得る“居場所”が欲しかった。ここにこそ私は座るべきだ、そんな精神的物理的な場が欲しかった。  PTAはまずそのとっかかりだった。共働きの間、仕事の忙しさにかまけてPTAどころでなかった。子供に後ろめたく、近所の奥さんたちに申し訳ない思いだった、それをまず初めにやってみよう。  友人も欲しかった。たくさん顔見知りを作っておいて、その中から気のあう人を見つけていけばいい。PTAを足がかりとして、趣味のサークルにも籍を置いた。陶芸や紙版画を仲間と共にやり、あるいは一人で新聞の案内をもとにパン焼き教室に通うこともした。  再就職する気にはなれなかった。夫の転勤は、期限つきである。やがてはまた東京に戻る。もし再就職すれば、そしてそこで一所懸命働けばまた未練が生まれてくる。そうなれば再び退職をめぐって夫とのいさかいが起こる。「旦那さんの都合次第」と札幌でもまた言われることになるだろう。強い執着を持つようなことはしたくなかった。  会社を辞める時、「三年経ったら、また戻ります。きっともう一度採用して下さい」と頼んであった。三年で戻れるかどうか、またその時再就職が可能かどうか、その実現性以前に、周囲にそれを語り、その約束をとりつけない限り、退職の決断も出来かねたのである。  この三年というのは、長女の高校卒業までの年月である。彼女はたぶん大学は東京をめざすのではないか、そうしたら私も一緒に下の子を連れて東京に戻ろう。相模原のそれまで住んでいた家を人に貸す時も、契約を三年としてあった。私は、あくまでも三年にこだわりたかったのである。  だから、この三年間は、つぎの復職に備えての有効な充電期間にしたかった。仕事関係の本を大量に買い込んで机に飾り、一日を前の会社の勤務時間に合わせて、九時半から五時半まで机に向かう生活をしようと決めたりもした。  復職に備える勉強と、共働きでは得られないこと、この二つを目標に私の転勤後の生活はスタートした。これらは二つながらにして、転勤を有効なものにしようとするものであり、夫のために犠牲になったとする思いから逃れるためのものだった。しかし、一人でする勉強とはなんと味気ないものだろう。よく、晴耕雨読と言うけれど、何かこれこそが自分のやるべきことだと張り切る“耕”の世界がないと、“読”の方も今ひとつ心がはずまない。勤めていた頃は、本もツマミ読み、仕事に役立ちそうなところだけをさっと読んでそれで終わりだったが、その忙しさの中で読んだものの方が頭によく残っている。たっぷりある時間の中でゆっくりと仕事関係の本を読むことは、眠気と退屈との闘いだ。  車の運転免許をとり終えた六月になって、私は読書にも飽き、原稿用紙に向かった。退職前一年間の、父の看病と共働き生活、転勤をめぐっての夫婦の対立など、生活の記録を書き始めた。どこに発表するというアテのあるものではなかったし、書いてどうするというものではなかったが、胸につっかえているさまざまな思いを吐き出してしまいたかったのだ。  夢中で書いたと言って良かった。朝も昼も夜も、約二十日間原稿にかかりっきりだった。第一章に書いた「もしも……」の数々を、振り返っておかなければ、これから何をするにしても前には進めない思いだったのである。起きては書き、疲れては眠り、そんな生活を重ねながら、書き進んでいった。父への鎮魂の思いをこめて、ある時は泣きながら、ある時は、私は簡単に職業を辞める女じゃないんだと自分を励ましながら、書き続けた。家庭と職業とのバランスが崩れていった日々をもう一度確かめ、何が私を追いつめて行ったのか整理しておきたかった。自分のやり方が本当にこれで良かったのか、省みる気持ちも強かった。これも、辞めたことを是認するための、大切な儀式であったかもしれない。  その頃になると電話もつき、会社の友人たちが夜になると電話をかけてくれる。仕事の報告書を送ってくれた同僚も居る。私の心を唯一はずませ、慰めてくれたのは、旧友たちの友情だった。エア・ポケットに落ち込んだように、心を支えるものがなかった私にとって、無限の励ましでもあった。  七月に入って原稿を書きあげると、私は四週間の旅行に出かけた。退職金は当時のお金にして手取りで二百何十万円かあった。これを三分割し、三分の一は車の購入と運転免許費用に、三分の一は貯蓄に、三分の一は自分のために使いたかった。自分のための費用としては、勉強のための学資と心を慰めるもののために使いたい。うやむやに無くならないうちに、思い切って使ってしまおう。共働き生活の中でもっとも出来なかったのが長期の旅行だった。一家の主婦として貯金しておいた方がいいかなぁとも思ったが、とにかく使い切ってしまいたかった。欲しくて受け取った退職金ではないし……。お金なんてなくたって今のところはやっていける、現在この時点で必要なのは、自分を慰め励ますものなのだ。このチャンスを逃したら、そしてまた何かを始めてしまったら、もう二度とこのような大量の時間に恵まれることはないだろう。  エジプトからエーゲ海、ローマ、パリ、ロンドンと、食うや食わずの貧乏旅行だったが、この旅行が私にもたらしてくれた幸せの感覚は後々の財産になった。人は贅沢だといい、勝手なものだと言ったけれど、誰よりもそれを知っていたのは私自身であり、その贅沢と身勝手さが、退職ショックに居る私を救ったものだったのである。  この時夫はむしろ賛成だった。鬱々として家に居られるよりも、私がやりたいと思うことをやって元気にしている方が、彼にとっても心を軽くするものだったのではないだろうか。  この時期は夫がもっとも家庭的な時期だった。帰りも早いし、一家そろってハイキングしたり、一泊二日ぐらいの旅行やレストランでの食事や、気をつかっていたように思う。それも大体一年ぐらいの間ではあったけれど……。  旅行から帰って、夏休みが終わるのを待ちかねて私は大学の聴講生になった。もう一度基礎から勉強し直したい、大学四年の時は長女の妊娠出産と重なって勉強していないことが長い間のコンプレックスだったから、今こそそれを取り払うチャンスなのだ。毎日毎日教室に通って、若い学生たちと共にノートをとった。これはその後二年間続く。  しかし、心の中の飢えのようなもの、それは依然として消え去りはしなかった。こんな生活をしていていいんだろうか、何か他に確実な未来に向けて、今しっかりとやらねばならないことが他にもあるのではないだろうか。何をやってもいい、その多様な選択肢の前で、自分の選択の是認が得られないままに、あまりにも日々がとりとめないように思われて、じわっとした恐怖が襲ってくる。何も実りがないままに、時間だけがどんどん過ぎていくのではないだろうか……。  ある秋の朝、札幌の時計台の前を歩いていて、透明な光がつき刺さっているかのような白い三角屋根を仰ぎ見ながら、「居場所がない」そう実感した時の、胸底からつきあがってきた侘しさと恐れを私は今も忘れることが出来ない。三十代後半、人生の盛りとも言うべき時期に、細々とした勉強や趣味だけの世界で時間を費やして、こんなことをしていていいのだろうか。もっと他に、心身の全エネルギーを打ち込ませるような、そんな時の中に身を置くべきではないのか、いったい私は何をやっているんだろう……。居場所を求めてあれこれ手は出しているけれども、いずれも造りの悪い椅子のように身体がずり落ちそうになる。私がぴったりと座れる椅子はどこにあるのだろう……。  趣味と言えば、札幌に行って一年半ほどした頃、私は同人雑誌二誌に入った。一つは小説、一つは暮らしの雑記のようなもの。これまで小説を書いたことなどなかったが、見よう見まねでボツボツと書いては発表し、中には好評を得るものもあり、道内の小さいながらも賞を戴いたりした。しかし小説を書くことは確固とした自分の目標にはなり得なかった。ただ机に向かう習慣を守りたかったのと、ささやかな表現欲求に動かされていたに過ぎない。  もう一つの暮らしの雑記的な同人誌は『開かれた部屋』といい、偶然見た夕刊の小さな同人募集の呼びかけに応じたものだった。もしこの時、ここに目を落としていなければ、書いただけで、仏壇の上でほこりをかぶっていた「重たき日々」の四百枚の原稿は、永遠に陽の目を見ることにならなかっただろうし、その後の私の生活もなかっただろう。この初夏の夕ぐれ時の、ほんの二、三秒の時間が、私の将来を決定したと言っていい。  それから一年間、秋の号から始まって翌年の夏、つまり退職後一年半めから二年半めにかけて、秋、冬、春、夏の四号に、私は百枚ずつ四回にわたって「重たき日々」を連載した。と同時に、雑誌作りという今まで味わったことのない体験と、友人を得ることになった。割り付けや活字指定など、細々とした作業を引き受け、そうした仕事のおもしろさを知ることは、確かに私の心をはずませるものであった。  私にとって、最大の精神的危機とも言うべきものは、この『開かれた部屋』の第四号の編集が終わった夏であったと思う。会社を辞めて二年が過ぎている。「三年経ったら戻ります」と言っていたその三年までに、一年もない。一つのことが終わった解放感と、つぎ何をしようかという定めなさの中で、私を襲うのは、ただただ焦燥感だった。退職を最終的に決意したのは私自身であり、その決断の責任を負うのは他の誰でもない私なのだ、そう思って次の目標を探しては来たつもりだが、何も確たるものが得られないままに月日のみが過ぎていく。  退職して札幌に来てからずっと心の中に燻《くすぶ》り続けていた「東京に帰りたい。東京にさえ戻れば道は開ける!」の思いが、暴走した。「もういやだ、こんな何の目的もない生活はいやだ」、それじゃ東京に戻って本当に復職出来るのか、その確約もないのに、思いは東京に帰るその一点を登りつめていってしまった。もともと北海道生まれの、故郷であるはずの北海道に心の錨をおろすことも出来ず、あたかも東京が故郷であるかのように、「東京にさえ帰れば、私は楽になる」その思いにこり固まってしまったのだった。  ほんのちょっとした家族のいさかいがきっかけとなった。どこの家にもある子供のお金の使い方をめぐっての気持ちの行き違い。そこに札幌に行って二年後に同居し始めた夫の両親や、夫の妹がからんできた。夫も娘も姑も誰も信用出来ない。すべての血縁関係を断ち切ってどこかに飛び出して行きたい。今の現実に対してこれで良かったのだと思おうとすればするほど、反作用として強くなるこんな生活はいやだとする思いが、私を家出願望に駆り立てたのである。  お金のことは、表面的理由にすぎなかった。すべては私の“居場所がない”とする思いにつきるものだ。家を飛び出す理由を求めて苛々《いらいら》している気持ちに、恰好の理由が飛び込んできたようなものだった。 「東京に帰るわよ。荷物はあとで送って頂戴」  勤務中の夫に電話でそれだけ言うと、私は車に飛び乗った。しかし私は、ハンドルを千歳空港には向けず、なぜか正反対の小樽の方に向けたのである。そちらには、私の母違いの姉で、知能と身体に障害のあるY子が住んでいる。札幌を離れるのなら、まず彼女に会って、ありったけのお金を渡しておきたかった。しかし、理由はそれだけだったのだろうか。彼女に会った後も、私は千歳に向けてバックせず、反対方向の小樽の海へと向けて車を走らせたのだ。  夜明け近くまでぼんやりと海を眺めていた。  いったい私は何をやっているのだろう、東京、東京と言ってみたところで、住むに家なく、職もないではないか、どうやって生活していこうというのだろう。駄々っ子のように、いやだいやだをくり返して、目の前のものを投げつけてばかりいる。自分の意のままにならなかったと言って、ちょっとしたことにも腹を立てるこの幼稚さ……。私には本当の意味で人生を開拓していこうという勇気などないのだ。観音様の手の平を暴れ廻る孫悟空のように、夫や家族の外に飛び出すことなど出来ないままにただ暴れているだけではないのだろうか。  興奮が醒めてくるにつれて、自己嫌悪がこみあがってくる。この時下の子を連れていたことも、私を家に帰らせることになったかもしれない。 「ママ、お家に帰ろうよ、一人でどこにも行かないで」  泣き続けながら寝入ってしまった小学四年生を見ていると、寝顔を見ながら退職を決断した夜のことがよみがえる。子供たちのために良かれと思って下した決断に、心から納得出来ないままに日を送り、そしてまたその日々の安穏さに耐え切れないと、家を飛び出してしまった情けなさ。東京へ行くことも、家に帰ることも、どちらにも決断出来ないまま車の中で夜を明かしながら、私は泣いた。無性に淋しくて、悲しくて、口惜しくて、涙ばかりが流れてくる。  途中何度もバス停で車を止めては「ここから家に帰りなさい」と言っても、「いやだ」としがみついてきた何かにおびえたような子供。この子を残して東京に行くことは出来ない。私にはその度胸がないのだ。結局は文句を言い、不平を鳴らしながら、その日暮らしのように、生きていくしか、私には方法はないのだ。  新潮社から「重たき日々」を出版しませんか、という話が来たのは、この家出茶番劇から二ヵ月経った九月の初め頃だった。 「えっ、私の書いたものが本になるなんて、そんな……」  電話口で絶句した日のことが今も忘れられない。それにしても、友人や父を知る人たちに読んでもらえばそれでいいと思って書いた家庭内のことを、一般に公にしていいものだろうか。恥ずかしい。 「それは大丈夫ですよ。ただガンの闘病記というのはたくさん出ていますから、これにあと百枚くらい、あなたの職業観とか辞めたあとの生活も含めて家庭観をつけ加えて書いてくれませんか」  なおもためらう私に彼はこう言った。 「トライしてみませんか」  ……トライしてみませんか、身体の奥深くにしまい込んでしまったものに、火をつけるような言葉だった。 「トライしてみませんか」  そうなのだ、私の日常のやり切れなさは、この未来に向けてのトライがないことなのだ。仕事を引き受ける時の、「私に出来るだろうか」と身の引き締まる緊張感。達成に向けてのワクワクするような好奇心、そうしたもののないのが、私の日々の苛々の原因なのだ。トライのない生活は人から謙虚さを奪う。能力過信と夢ばかりを増長させ、その分だけむなしさも増幅させるのだ。  トライしてみよう。その時私は『女が職場を去る日』として上梓されるこの本が、私の方向を決定づけるものになるとは夢にも思わなかったが、少なくとも出版までの半年くらいは一つの仕事の完成に向けて意欲をかき立てていかれる。本の出版ということよりも、その期間たぶん私はいきいきと張切るに違いない生活のありようの方にこそ、むしろこの時の私は救いを感じたのだった。  退職後三年にして、私の処女作は出版された。そしてこの三年というのは、私一人ででも東京に戻るかどうか決断の時期でもあった。  長女は東京の大学入試に失敗して、地元の学校に通うようになった。夫の転勤はまだまだ長びきそうだ、私一人で戻るかどうか、そのことは再就職するかどうかともかかわっているのだが、結局私は楽な方を選んだのではないかと思う。さしたる希望をもっての出版でもなかったけれど、本を出すことに賭けたとも言える。私は、引き続き札幌に残る道を選んだ。それが一番家庭にとって、波風が立たない方法でもあった。「三年経ったら戻ります」と言ったことを事実上反古《ほご》にしたのである。  出版された本は、私の予想をはるかに越える反響だった。講演、テレビ出演、原稿依頼、初めて知るマスコミの渦のなかに、私はおびえながらも巻き込まれていった。文筆を自分の“居場所”と思い定める確固としたものはなかったが、少なくとも趣味やPTA、サークルをやっているよりも、充実感があったことは確かだ。小遣い稼ぎにと思って細々とやっていた調査会社のアルバイトやモニターなどとは比べものにもならないほどの達成感がそこにはあった。  もともと私は文筆の修業などしたこともない。初めの頃は「文章がカタイ」「あなたでなければ書けないことを書いて下さい」などと書き直しを命じられることも多々あった。「婦人雑誌は論文を載せるところじゃないんですよ」と言われたこともあった。朝、徹夜で仕上げた原稿を航空便で送り、翌朝には再び航空便で書き直しのために舞い戻ってくる。しかし私はそうしたことが少しも苦痛ではなかった。何をしたらよいのか、迷い悩みした日から比べれば、作品をより良いものにするためのエネルギーなど、たかがしれているし、もともと人間一人考えることなど狭いものだ。世の中を知っている編集者が直した方がいいというのなら、その方がいいに決まっている。  こうして私の生活は一変した。再び多忙の日々が始まったのだ。  私は、出版に関しても、その後の仕事に関しても、一切夫に相談することはしなかった。自分で決めて自分で実行する。夫としてはそれで救われた面もあるのではないだろうか。苦情を言ったり、ましてや止めろと言ったりすることはなかった。  夫の転勤によって職業を中断させられ、その理不尽さに苦しんでいた妻が、つぎの仕事を見つけて這いあがろうとしている、それは彼自身救いでもあったはずだ。  札幌での生活は五年十ヵ月だった。この約六年の生活の前半三年は焦りと苛立ちの日々であり、後半三年は戸惑いと新たな目標に向けての努力の日々、その中間点に『女が職場を去る日』がある。  再び東京に戻ったのは、夫の転勤によるものだった。夫は約八年の札幌勤務であった。この時の転勤にはまったく抵抗はなかった。帰りたいと思っていた東京であり、帰るべき所と思っていたからだ。姑夫婦は、さきに群馬の夫の妹のところに引越しており、なつかしい所に帰る人が共通に抱く安心の思いを持って帰って来たのだった。ただ、札幌に就職した長女を残してきたことが、気がかりではあったけれど……。  札幌を去る時、「こっちに来る時はずい分抵抗があったけれど、向こうに戻る時は抵抗ないの?」と言われたものだ。確かに札幌には知り合いも増え、日中友好協会とか大学婦人協会、母と女教師の会など、別れ難い組織もあったけれど、いつかまた去る日が来るとする恐れがあったのだろうか、私の関りは薄いものであり、ある一定ライン以上は深入りしていなかった。だから抵抗する何の理由もなかった。  待望の東京転勤だった。住む場所も前と同じ所、何の不安も未練もなく、張り切って戻ってきたのである。  だが、転居というのは、やはり何らかの衝撃を与えるものなのだろうか、再び奇妙にうそ寒い淋しさが押し寄せてくる。父が病み、そして死んで行った家には思い出が多すぎる。トイレを掃除していた時、床のタイルに古い血痕を発見した。これはもしかしたら真夜中に転んで本箱のガラス戸に頭から倒れていったあの時の血ではないのか、背筋に冷たいものが走り、目を覆いたい思いに襲われた。  あの頃は……、子供も小さく毎日が激しいピストン運動のようなものだった。会社と家と、仕事と子育て、老父の看病と、身体を限界まで使い、張りつめた日々であった。今は子供も大きくなり、働きに出ようとすれば、あんなにも望んでいた楽な状況ではないか。それなのに、私にはどこにも出かける所はない。この転勤当時、二冊めの本『銀の園・ちちははの群像』を発表し、つぎの『女が会社に行きたくない朝』の原稿執筆中であった。しかし、帰ってきても前とは同じでないという現実が、私を打ちのめしたと思う。東京にさえ帰ればと思いつめていたけれど、帰ってみても状況は札幌と同じ、あの活気に満ちた日々は帰ってこない。  札幌がなつかしかった。私は何ごとにも未練執着し、前と比較せずにはおられない性格なのかもしれないが、札幌で作りあげたいろいろなつながりがまた再び途絶えてしまったことを感じないわけにはいかなかった。  何よりもショックだったのは、あんなにもなつかしいと思い浮かべては、心のより所にしていた元の会社の友人たちと、共通の話題が何もないことだった。仕事を通じて組みあがっていた友情は、六年も経つと、その仕事という仲介物がないが故に、むしろお互いがつらい思いをする。辞めた当初の一、二年なら組織や仕事もまだ引き続いているものがあり、私にも入っていける話題の余地があったが、六年の歳月はこの技術革新の時代にあって、完全に私を置いてけぼりにしていた。  元の上司に会って、復職の可能性も聞いてみた。しかし彼はこう言ったのである。 「長い目で考えてごらんよ。あなたは今せっかく新しい仕事を始めて軌道に乗ってきたところじゃないの。会社に戻るよりも、そっちに進んだ方がいいと思うけどね」  同人雑誌に出していた「重たき日々」を新潮社に紹介してくれた人だった。恩人でもある人のこの言葉は、私にとって一番いいと思う方向へのアドバイスだったと思う。そうなのだ、今さら会社に戻ったところで、勉強も途中放棄のままだし、四十三歳の女にとって居心地のいいものではないだろう。友情だけでやっていけるものではないことも、私には分かる。職場に戻りたいとする希望は、仕事そのものよりも、もう一度濃密な人間関係の場に身を置きたいとする思いだったのかもしれない。仕事を通じて共感しあえるものが欲しいと思っていただけにすぎないとも言えた。  職場復帰は断念せざるを得なかった。そして知ったことは、東京には会社員時代の友人以外、友達と呼べる親しい人の居ないことだった。その友人たちとも、三十分も話をすればもう共通の話題もなく、くり返すのは昔話だけ、お互いの“現在”について語り合うことは出来ないということだった。  再び孤独感に襲われた。昼間一人で新宿あたりをぶらついて、時に観たい映画があれば時間をつぶして帰って来る。知った人と街角で出会って「やあ」と声をかけあうこともない。東京という街は、大味のひらめのように噛みごたえも味もない、ただ雑踏だけの空間だった。やはり私は、どこに行くあてもない“居場所”のない女だった。なまじ東京へ帰ることへの期待が大きかっただけに、現実との落差が身にこたえる。  会社の友人たちは、遊びにおいでよとしきりに言ってくれる。会えばなつかしいし、楽しい。しかし、会社に行くのはむしろ怖しくさえあった。「いらっしゃい」「お元気そうですね」そういうごく普通の挨拶も、お客さんでしかない立場の現実を知らせてくれる。札幌時代、上京してきて会社に寄った時には何とも思わなかったそれらの言葉も、今また東京に戻った身には、会社を辞めた女のやりきれなさをかきたてるもの以外の何ものでもなかった。  喉に異常を感じはじめたのは、転居して三ヵ月経った頃だった。ゴロゴロしていて食物が呑み込みにくい、触ってみると何か喉元のあたりが大きくなっているように思える。声も出しにくい。何か腫瘍のようなものでも出来たのだろうか。もし、悪性だったら……。  しかし、病院でのCTスキャンなどの検査では、何の異変も発見されなかった。結論はストレスではないか、精神的なものの影響で異常感の起こることがあると教えられた。  心の持ちようから言えば、札幌に行った時の方がはるかに緊張したものがあった。大学時代四年間住んでいたとはいえ、住む場所はまったく知らない所、どんな人が近所に住んでいるものやら、さらには自分は何をするべきか、悩みはあったけれど、失業神経症なんぞにかかってたまるか、自分を鼓舞し励まそうとする心の動きがあった。あれだけつらい思いで会社を辞めたのだから、会社員では出来ないことをやってみよう、しっかり充電しなくてはと気負いもまたあった。家族の団結を立て直さなくてはと役割に忠実であろうとする気持ちもあった。いずれ東京に戻るのだからと、いつも東京に目を向けていたことも気持ちの張りになっていたと思う。  しかし、東京に戻ったことは、復職の夢を断ち切り、新たな仕事や友人を作ることに立ち向かわせるものだった。四畳半の書斎を、こここそが“居場所”と思い定めなければならなかったのである。近所の奥さんたちが集まって歓迎会を開いてくれ、これもまた、ここが“居場所”なのだと再確認させてくれるものだったが、改めて退職ショックを味わわねばならなかった。  もっとも、復職がかなわないのなら、他の会社に再就職するとか、あるいは自分で何か組織を作るとか、考えなくもなかった。しかしそれとて何らかの実績とか人脈に支えられるものだ。私にはそのような力も覇気もない。あれこれ考えて、つまるところは今のこの現実を是認し、それに従って生きる以外に方法はないのだった。  こうした物思いがストレスになっていったのであろう。基本的には、これが自分の生き方なのだと思い定めて、それに没入する以外にこのストレスから逃れる方法はない。私は、四作めとなる『平安なれ 命の終り』のホスピス取材にのめり込んでいった。夫の転勤によって会社を辞めた女、そのレッテルは口惜しいが、事実その通りなのだ。開き直って「そうですよ。私は夫の転勤でキャリアを棒に振った不甲斐ない女です。でも、職場は去っても、仕事は捨てませんでしたよ」と言う以外に私を支えるものはない。仕事だけは、迷い悩みながら、自分の出来ることを発見してきた。かつて組織にいて、何も考えなくとも仕事が与えられていた安穏さをなつかしみ、自分で自分のするべきことを見つける苦しさにともすれば挫けそうになりながら、ただ一点女の生き方は家事、育児だけではない、何か“評価の欲求”“自己実現の欲求”に応えるものがあるはずだと生きてきた。いやこれからも生きていく。主体性がないと言う人は言え、女には家庭や夫の職業とのバランスをとりながら生きていかなければならない者も居るのだ。  結局は、夫の行くところはどこまでも一緒に行かねばならない、それならばいっそのこと転勤先での生活を楽しいものにしよう、夫とて苦労しているのだからと、妻は健気にも気持ちの立て直しを計る。私も、まったく同じ心の軌跡を味わってきた。夫の転勤によって押しつぶされてしまうことは、自分に対して許せない。新しい努力を試みる。鉛を金に変える錬金術師のようなものだ。  前述のように、多くの人からこんなふうに言われる。 「あなたはかえって会社辞めてよかったんじゃないの」  そんな時私はいつも、「さぁ、どっちが良かったか分かりませんよ」と答えるのを常としているが、捨ててしまった未来の方は考えようもないのだ。退職を選択してしまった以上は、退職後の生活をより良くしたい、その思いだけで生きてきた。この問いかけは永遠に回答の出せないものである。それが故に、ストレスも大きくなるのかもしれない。  私の場合は“引越しうつ病”と言われるものに近かったかもしれない。執着性格で、「いったん起こった感情がなかなかさめない」この性格を持つのは、医師の報告によれば、仕事熱心で凝り性、几帳面、正義感や義務感・責任感が強い人だそうである。私の場合は、さして仕事熱心でも正義感が強いわけでもないが、しかし、“引越しうつ病”でなかったとも言いきれない。  転勤のたびに友人との別れや、心をこめてやっていた仕事から離れ、心を慰めた風景に別れ、家という狭い空間の中に閉じ籠り、心を打ち割って話せる人も出来にくい状況に置かれる多くの転勤族の妻は、多かれ少なかれ、この“引越しうつ病”になる危険性を持っている。どんなに望んでいた転勤であろうとも、生活というものが必然的に持つさまざまな変化に対して、もし悪いことが起こった時には、これも転勤のせいかと思ってしまう心の動きは捨てきれないものだ。夫とてその思いは持つに違いないが、しかし生活を背負う妻にとっては、転勤によって起こった“つらさ”の感じ方は夫以上に深刻である。何度も言うようだが、妻はたった一人で、生活の外面的あるいは内面的なストレスの解決のために、孤独な努力をしなければならないのだ。いやいやながらの、意志に背いての転勤であればなおさらのこと、喜んで転勤した場合であっても、心身に受ける打撃は大きい。  次章においては、老親看とりの問題、子供の転校、妻の健康など、転勤の故に拡がった家族の波紋を、ケースによって見ていきたいと思う。“居場所”を求めての精神の葛藤は少なかったにしろ、別の形で蝕まれた妻の生活の記録である。 第四章 華やかな転勤であったけれど 姑《しゆうとめ》から解放されたはずが…… 「転勤」と聞いた時の嬉しさを、弘子は今も忘れられない。姑の監視の目から逃れられる。息詰まる緊張から解放されるのだ! そうか、転勤という手があったのか、もっと早くに気がつけば良かった。  長男の嫁だった。仙台という土地柄か、長男の嫁に対する目は厳しい。 「嫁というものは、いつ呼び出されてもいいように、いつもきちんと準備しておくものです」  夫の両親は六十代、車で三十分ほどのところに別居している。この別居も、この方が気楽でいいと言う姑の主張の結果なのだが、三十分という距離は、遠くもない代わりに近くもない、まことに煩わしい距離だった。何かがあるとすぐ呼び出しがかかる。もっと遠ければ行けない口実も作れようし、近ければ行くのにも楽なのだが、三十分というのは行かねばならず行くに気軽な距離というわけにもいかない。しかし何はともあれ絶対に行かねばならないのである。  親たちは、舅の母つまりひいおばあちゃんも加えて、老人三人のくらし、その心細さもあったのだろうが、その八十九歳のひいおばあちゃんの具合いが悪くなってからというもの、呼び出しは頻繁だった。弘子の私生活はないも同然、姑と“姑の姑”の二人に仕える生活に振り廻されていた。夫には妹と弟が居るけれど、遠くに住んでいる。一番近い長男夫婦が面倒を見ることになる。結婚の時から覚悟はしていたものの、嫁というものへの精神的な圧力の強さに、弘子は驚いた。  朝姑から電話がかかってくる。 「弘子さん、おばあちゃんの寝巻きを取り換えますから来てちょうだいな」 「あの……、でも、私少し風邪気味で……」 「働かないでゴロゴロしているから風邪引くんですよ。外に出れば治ります」  もしこれが自分の風邪ならば、湯たんぽだ水枕だと大騒ぎして寝ているのに……、どうして他人というものに対してはこうも無関心なのだろうと弘子は唇を噛む。  天気が良ければ良いで洗濯をしに来い、ふとん干しを手伝って欲しい、いっそのこと電話がこないうちにさっさと家を出てしまった方がいい。しかしそんな時は、夜になると不機嫌な声の電話がかかってくるのだ。 「弘子さんも忙しいらしいわね。小さい子が居るというのに、嫁がそんなに家を空けていていいのかしらね」  この姑も、大姑にはずい分苦労したと聞いていたが、自分の痛めつけられたやり方で今また嫁をいびろうとしているのではないか、くり返される嫁・姑のやりきれない関係に、結婚の夢も打ち壊された思いだった。  夫の家は二代続いての銀行員の家庭、何ごとにもきちっとした生活上の掟がある。言葉づかい、立居振舞い、銀行関係者の人たちとのおつきあいの仕方、たぶん大姑からしつけられたのだろうが、姑はことごとく弘子に口出ししなければ気がすまない。商家に生まれ育って、忙しい母親の片腕にこそなれ、やかましく言われたことのない弘子には、驚くことばかりだった。銀行員の家庭の固苦しさ、格式や序列に敏感な気の配り方なども、若い弘子には違う国のしきたりのように思える。  大姑は年のせいか、弘子に優しかった。姑の姑仕えの苦労話が信じられないほどだった。それ故にこそ、大姑が病気になってからというもの、弘子を呼びつけるのかもしれなかった。これではまるで通いのお手伝いのようではないか、そう思いつつも日参していた。その大姑も息を引きとり、これで解放されるかと思っていた矢先の転勤話である。二重に解放された思いだった。バンザイを叫びたい気持ちだったと弘子は振り返る。  吉井弘子(四十七歳)の夫は、仙台の地方銀行に勤めている。その転勤は約十年前のこと、初めての移動だった。大姑が亡くなって一ヵ月ほどした三月一日のことである。福島支店への次長としての栄転。  弘子は、その頃、子供の幼稚園の父母会会長をしたり、消費者運動をしたり、仙台の中で活躍の場を持っていたが、さしたるショックもなかった。そうしたことへの未練よりも、姑の監視の目がなくなる方がはるかにありがたいことだった。福島ではそうおいそれとは呼び出せまい。その時長男が小学五年、次男は幼稚園入園直前、長女一歳八ヵ月、次男の入園料や制服代は無駄になってしまったが、そんな出費はなんとも思わなかった。  とにかくあの家から離れられるのだ、これからは自分で立てた予定通りの生活が出来る。日曜日だってどこへ出かけようと自由、いちいち報告したり弁解したりしなくてもすむ。弘子の胸は大きくふくらんで、呼吸するのも楽になったような気がする。気にするまいとはしていたけれど、姑の存在はこんなにも日常を拘束するものだったのだろうか。  夫は三月一日に辞令が出て、一週間後には赴任しなければならない。銀行はその点非常に厳しく、いつも身辺をきちっと整理しておくことが義務づけられているのだ。時間の余裕を与えないことで、貸付けなどにまつわる事故を未然に防いでいるという。基本的には人間不信を前提にしたやり方だとも考えられるが、そんなことは弘子にはどうでもいい。とにかく決まった以上は早く行こう、さっさと行ってしまいたい。  しかし子供の学校の都合や、住んでいた家の借り手が見つかるまでなど、家族が急に動くわけにもいかない。とりあえずは夫に単身赴任してもらい、三週間後の春休みには一家全員福島に落ち着いたのだった。単身赴任は原則として認められていなかったが、弘子もまた仙台に残るなど考えもしなかった。友達だってこれまで通りにつきあえる。転居は、悪いものはその土地に置いていける、良いものは持っていけると誰かが言ったように、姑との関係とはおさらば出来て、友情は持っていけるのだ。  弘子は転居の慌ただしさを楽しみながら、勇んで福島に赴いたのだった。その時弘子は、その後起こる両親の入院に、一家が振り廻されることになろうとは、夢にも思わなかった。  福島の春は美しい。桃、梨、りんご、桜などの花々がいっせいに咲きほころび、街中が花の香りに包まれる。仙台での活動から離れた心淋しさも確かにあったが、それ以上に福島の人々は優しくて親切、両手をあげて懐深く迎え入れてくれた。思いがけず手に入れた自由、これを満喫しなくっちゃ、さて何から始めようか、思いをめぐらす朝のひとときの楽しさ。「ちょっと来てちょうだい」の電話のないのは、なんと心をのびやかにさせてくれることだろう。  この転勤を一番喜んだのは夫のようにも思えた。心なしか、いきいきして明るくなったようだ。弘子とて姑のことで夫に愚痴ったりはしなかったが、夫は夫なりに姑に振り廻される生活に重苦しいものを感じていたのだろうか。彼もまた福島に来て、長男という立場の荷から解放されたらしい。夫婦が明るくなれば子供も元気だ。なんと転勤とはありがたいものか、弘子は大きく背伸びをする。  長男の転校は少々心配だったが、先生の中に弘子の大学時代の友人が居て、すぐ学校にも友達にも馴染んでいった。  ただ一つ困ったことは、六年進級で行ったため、クラブ活動がみんな決まってしまっており、入れるところがなかったことだった。ところが息子はまったく意に介さず、ただ一つ空きのあった調理クラブに入ったのである。 「お母さん、男の子僕一人だけどおもしろいよ。女の子ってね、男の子が見ていると恥ずかしがって食べないの。だから、僕一人でパクパク食べちゃうの」  弘子にも、男の子が調理クラブなんかとする偏見はなかった。むしろ長男の選択に感心し、子供のうちからこうした生活技術を身につけることは、なまじな勉強よりもはるかにいいことだと思った。後に彼の調理の腕前は、少々大げさに言えば一家を支えるものとなり、夕飯や弟の弁当作りにまで発揮されることになる。  張り切って、福島生活はスタートした。  何年居るか分からないけれど、居る間はいろんなことをやってみよう、福島を知ろう。  さっそく、市の消費者モニターになった。ついで計量モニター、公民館の市民大学講座、弘子の存在はたちまち有名になって、読売新聞の同行取材記者というのもやった。お茶についての、主婦の生活感覚に密着した記事は、好評を博した。この地に馴染んで精一杯やろうとする弘子の心意気を表わすものであった。  はじめての社宅生活も物珍しかった。  社宅の奥さんを自宅に集めて、「男たちだけが楽しむっていう法はないわよね」と、もち寄りパーティーをやったり、秋には菊人形を見に行ったり、その人脈は今も福島会として続いている。  前任者までは、社宅の階段掃除は、次長の奥さんはしないことになっていた。だが弘子は、次長の奥さんだからって特別扱いは許されないと思った。 「夫の階級は妻には関係ないわ。皆で平等にやりましょうよ」  夫からは、社宅管理は次長の妻の仕事だ、と言われていたけれど、弘子には、“管理”などという気はさらさらなかった。妻には階級はないのである。皆が同じ立場で楽しもう。  福島の夏は暑かった。アスファルトがへこんで自転車のワダチが出来るくらいなのだ。それも朝の九時という時間にである。弘子は、仙台と福島、そんなに離れてもいないのに、なんという違いだろうと驚いたが、その暑さはちっとも苦にならなかった。毎日が自由で楽しくて、結婚十三年めにしてやっと手に入れた幸せだった。  だがこの青空を胸に抱え込んだような生活も、半年で終わってしまった。  十月に入って、しきりに姑から心細い声の電話が入るようになったのである。 「この頃ね、奇妙に足がもつれて歩けないのよ。それに、しびれがひどくてね、夜も眠れないの」 「お医者さんは何て言っていますか」 「近所のお医者さんね、どうもはっきりしなくて、一度国立病院に行ってみようかと思っているんだけど」 「そうした方がいいですわ」 「だけど私一人じゃねえ。おじいちゃんもこのところ風邪気味だからあてにならなくて」  舅は六十八歳、姑は六十三歳、老人とはいえまだまだ若い部類に入る二人である。二人協力しあってやってもらいたいとは思うものの、姑の意識には、妻とは夫に仕えるものであって、逆に夫が妻を支えて一緒に病院についてきてくれるものとする考えはない。  弘子は溜息をついた。ともかく行かねばならない。コトあるたびに嫁を使わねばならない姑の性格がうらめしい。この時弘子は、舅もまた重大な病気の前哨にあることを予想だにしていなかった。まさか、病院二つを駆け廻ることになろうとは……。  国立病院での検査結果は、骨に出来た悪性腫瘍《しゆよう》、即刻入院手術を宣告されたのである。癌の原発はどこだか分からないという。あとになって乳癌の転移ではないかと言われたが、まったく気がつかないことだった。  十一月、風邪気味だ、咳がいつまでも続いておかしいと言っていた舅が倒れた。驚いて入院させた病院で、肺炎だと言われる。熱もなく咳だけだったので、よもや肺炎などとは想像もしていなかった。肺に膿が溜っていて、こっちも油断のならない状態であった。  姑の手術が行なわれた。脚がしびれたり、歩けないのは、癌が骨盤に転移したためだという。進行は相当に早く、早ければ三ヵ月、長くても一年の命だろうと言われた。幸い痛みは今のところたいしたことないが、やがてモルヒネでなければ抑えられない痛みに襲われる、そうなれば長いものではないという説明だった。  姑の入院、一ヵ月後の舅の入院、二つの病院に福島から通う毎日が始まった。  朝七時台の急行に乗るには、六時半には家を出なければならない。次男の幼稚園の送り迎えは社宅の奥さんに頼み、下の長女の手を引いて駅に急ぐ。雪の降る朝、木枯しの冷たい朝、二歳の娘はむずかって歩かない。 「ママ、おんぶ、ねぇ、おんぶ」 「駄目、自分で歩きなさい。それじゃ家にお帰り、ママ一人で行くから」  娘は泣きじゃくって母親の手にしがみつく。  神経がささくれ立って、娘にも優しく出来なくなっている。なんとかしなければならないと思うけれど、この重病人二人、いったいどうしたらいいのだろうか。  福島に来て、浮き浮きとしていた毎日が嘘のように消えていった。  近所の奥さんたちが見かねて娘を預かってくれるようになった。長男の調理クラブの腕前が発揮されたのもこの頃である。幼稚園の弟と二人で留守番をして夕飯の仕度をしておいてくれる、一家の力をあげての病院通いであった。  その年も慌ただしく暮れて、お正月の祝いも終わった頃、姑の放射線治療も一段落した。そろそろ退院させる時期を迎えている。しかしこの寒さの中、どこに退院させたらいいのだろうか。弘子は夫と相談する。 「おじいちゃんはまだ退院させられないし、あの家に病人を帰らせることも出来ないわ。福島に連れてこなくちゃならないんじゃないかしら」 「おふくろは何と言っている?」 「それがどうもはっきりしないのよ。福島には来たくないらしいの。だってお友達も居ないんですもの。私には家に帰りたいって言っています。だけど病人を一人暮らしさせることも出来ないわねぇ」 「やっぱりここに来るのが一番いいな。よし俺が説得しよう」  こんな話しあいをしていた寒い朝、病院から電話が入った。 「大変です。おばあちゃんが倒れました。すぐ来てください」 「どうしたんですか。何があったんですか」 「脳血栓です。かなり状態は悪いです」  退院は延期になった。放射線科にかかりながら内科にかかる毎日となったのである。  左半身に軽い麻痺が残った。リハビリと言語訓練が続いた。  姑は、不自由になった口を動かしながら言う。 「いったい私の病気は何なの? ちっとも良くならないじゃない。座骨神経痛って言うけれど、身体中が壊れてしまったみたいになってしまった。私はもう廃人になるんじゃないのかしら」 「大丈夫よ、おばあちゃん。リハビリを一所懸命やれば、そのうちきっと良くなりますよ」 「私はこの家に嫁に来て四十年、あの厳しい姑に仕えてきて、やっとおばあちゃんが亡くなったら、こんな病気になって……」 「本当にね。苦労ばかりでしたものね。これからおばあちゃんの時代になりますから、元気出して下さいよ」 「だけど良くなるのかしらねぇ。くやしいねぇ。無念ですよ、これからと言う時に……」 「…………」 「それに、あなたたちだって、福島にさっさと行ってしまってねぇ。転勤以来、ロクなことがないじゃないの。仙台に帰してもらうこと出来ないのかね」 「さぁ、彼も頼んでいるらしいですけど、仕事ですから……」 「いったいいつまで福島に居るつもりなの。これじゃとうてい一人では暮らせそうもないし、かといって福島に行くのはいやですよ、あたしは」 「あと何年居るんでしょうねぇ。それが、私にも分からないんです。本当に」 「私が倒れて、おじいちゃんも倒れて、あなたたちは福島だし、いいことが一つもないじゃないの」  姑は詰問口調だった。弘子は口をつぐむ。  福島に行けた、姑から解放された、そう思ったのも束の間、こうして病院通いの毎日は弘子の家庭そのものも破壊しかけている。転勤の嬉しさと、老親看とりの責任を負う長男の立場とを思うと、複雑な思いで黙り込むより方法はなかった。  それでも姑は快方に向かい、なんとか自宅での療養も可能になった。 「ね、おばあちゃん、福島に行きましょう。私もおばあちゃんを一人では置いておけないし。おじいちゃんもまだまだ入院が長びきそうですから」 「この年になって……、情けないわねぇ。それしか方法はないのかもしれないわね」  姑はしぶしぶのようにうなずいた。ともかく姑を引きとって、週に二回くらい舅の病院に通う、こんな生活設計を立てたのだった。  四月になって退院日が決まった。  ところが明日退院という日の夕方、トイレに行こうとした姑は、ベッドからずり落ちるようにして転んでしまったのである。大腿骨骨折。再び退院は延期となった。ただちに整形外科病棟に移され、脚をつるす絶対安静の毎日。癌細胞が腰の骨にも転移していて、骨が脆《もろ》くなってしまっていたのだった。姑を退院させて引きとれば少しは楽になるかと思っていた弘子の思案は見事にはずれて、病院通いの毎日は続く。  つくづく転勤がうらめしかった。転勤直前の大姑の死、その直後に始まった舅と姑の病気、福島と仙台を往復する日々、弘子の体力も限界に来ている。疲労が澱のように溜ってきて、たまに家に居る日はボロくずのようにふとんの中で眠り込んでしまう。転勤以来家の中がガタガタと崩れていく。転勤と病気とは関係がないとは思うものの、姑の言うように転勤以来いいことが一つもないのはどうしたことだろう。ただ単に夫の勤め先が変わり、住む場所が移っただけなのに、下の部分の木片を一つ抜き取られて壊れていく積木細工のように、何か土台のようなものが失われてしまった。転勤というのは、生活上の脆い部分をくっきりと露呈させてしまうものなのだろうか。  八月になって、姑の退院はようやくのこと、本物となった。自宅でのリハビリ方法を教えてもらい、生活上の諸注意を受けて、福島の社宅に連れ帰った。  しかし、この同居は予想以上の困難を新たに弘子に課してくるものだった。  そのまず第一は舅の精神的な変化だった。 「来るのが遅いじゃないか。おばあさんにばっかりかまけていて、俺のことは忘れてしまったんだろう」  汗を拭き拭きかけつけた弘子を睨《にら》みつけて舅は言う。姑と二人入院していた頃は、もの分かりのいい舅だったのに、退院した姑がうらやましくてならないのだろうか……。しかし姑も、舅の病院に出かけて行く弘子に冷たい目を投げて言うのだった。 「私一人を置いておじいさんのところに行くんですか。あなたは外に出るのが好きな人だから仕方ないわね」  姑も我儘《わがまま》になってきた。リハビリも、弘子が無理強いさせて、つらいことをわざとさせているような言い方をする。 「放っといて下さいよ。私しゃ、寝てる方が楽なんだから」  夫が居る時と居ない時では、こんなに態度が違うのかと驚いたのも、この頃だった。昼間はリハビリをいやがり、掃除に食事に、子供たちの走り廻る音にさえ文句を言う姑が、息子の顔を見ると、しゃんとなって言うのだ。 「あなた方に迷惑かけないように、私も頑張っていますよ」  姑仕えの厳しさをつくづくと思い知らされる毎日だった。  同居生活が三ヵ月ほど続いた頃、姑は、なんとしても仙台に帰ると言い出した。 「でも、これから寒くなるんですよ。一人暮らしでは無理です。せめて春になるまでここに居て下さいませんか」 「私もそうしようかと思ったけどねぇ、こんな狭い社宅じゃ息が詰まりそうですよ。お手伝いを頼むくらいの貯えはありますからね、一人で気ままにやっていた方が楽ですよ」  確かに3LDKの社宅に、わんぱく盛りの子供三人と姑との六人暮らしは、落ち着きがなかった。 「あなたたちも、いつまで福島に居る気なんですか。仙台に帰してもらえるように、上の方にせっついて、なんとかしてもらいなさい。とにかく私は仙台に帰りますよ」  姑の意志は固かった。  弘子としても、癌という病気の知識がない。あと三ヵ月から一年と言われて、ともかく一年は経った。このあとどうなるかは分からないが、今は姑の気のすむようにしてあげるべきではないだろうか。姑がそう希望するのなら、お互いそれが一番いい。  その一方でやはり弘子は夫にせっつかざるを得ない。 「とにかくあなた、一日も早く仙台に帰れるようにしてもらわないと、みんなが倒れてしまうわ。お願いだから、転勤願いを出して……」  夫も、さすがに「そうだなぁ。このまんまじゃ、何が起こるか分からないものな」とうなずく。 「もし、この転勤が長びくようだったら、私一人だけでも仙台に帰らなきゃならない事態になるかもしれないわ」  夫は黙ったまま何も言わなかった。  師走に入って姑は、仙台の家に帰って行った。もちろん福島から車で送って行き、お手伝いの手配やら、近所の人や親戚へのお願いやら、さらに舅の病院通いのあとに姑の家に立ち寄るなど、弘子の忙しさは減りはしなかった。  念願かなって、ようやく仙台への転勤辞令が出たのは、福島への辞令が出たちょうど二年後の三月一日だった。場合によっては降格もやむを得ないと覚悟していたが、大きな支店の次長へと、事実上の栄転だった。  弘子は、複雑な思いでその知らせを聞いた。福島への未練はなかった。親しい友人や活動の場を見つけはしたけれど、それも半年で雲散霧消、苦しい思い出ばかりの町になってしまった。仙台にも親しい友人は居るし、戻れるのは嬉しいけれど、これからまた再び新しい形で舅・姑の看病が始まるのだ。これまでは、仙台・福島という距離に助けられていた。姑の一人暮らしもなんとか軌道に乗り、頻繁に電話をかけてくることもなかったが、同じ仙台となると、車で三十分の距離をものともせず呼びつけられる毎日が始まる。それでも、子供たちを置いて一人戻らなければならないかと思っていたことからすればよしとしなければならないだろう。  とりあえず電話ででもこのことを知らせよう、そう思って弘子は受話器を取りあげた。 「おばあちゃん、仙台に帰れることになったわ。辞令が出たのよ」 「そうぉ。良かった、良かった。これで私もひと安心だわね。本当に良かった」  素直な姑の喜びの声が弘子の胸を打った。この病魔に襲われた姑のために、舅のために、もうひと頑張りをしなくっちゃ、弘子は新たな覚悟を決めたのであった。  姑が再度脳血栓の発作で倒れたのはその直後だった。  夕方になって、奇妙な胸さわぎがする。念のためと思って電話してみたが誰も出ない。おかしい、こんな時間に外出するなどあり得ないことだ。隣の家に電話して、見に行ってくれないかと頼んだのだった。 「弘子さん、大変なことになったよ。おばあちゃん、お風呂で倒れていた。いま救急車呼んだところだけど、あなたもすぐ来てちょうだい」  息子の転勤の知らせの喜びが、脆くなっていた脳血管を刺激したのだろうか、弘子が駆けつけた時には、もう姑には意識はなかった。姑はそのまま五日間昏睡状態を続け、息を引きとったのである。  社宅は、辞令が出た一週間後には次の人のために明け渡さなければならない。家族は即引越しなのである。  仙台の家は、福島に行く時に、貸していった。銀行員の転勤の事情を話し、その時はすぐ出てもらう約束で、安い値段で貸して行ったのであるが、いざその時になってみると、地上権をタテに出ていってくれない。敷金を全額返すということで家を明け渡してくれたのは、三月末であった。  息子二人は学校と幼稚園がある。この二人はとりあえず福島の友人宅に下宿させることにした。上の息子は中学一年が終わるまで、下の息子は幼稚園が終わるまで。それにしても、この銀行は三月初めという、学期の中途半端な時期に、何故転勤などをさせるのだろう、企業にとっては好都合であっても、家族の立場というものをまったく考慮に入れていないやり方ではないか、弘子は改めて転勤の家族に与える影響の大きさを知った。  とにかく、一週間後には社宅を明け渡した。荷物は一時倉庫に預け、夫婦と下の娘はホテル住まい、その間に姑の葬式を済まさねばならなかった。  ふと見ると、夫の髪が真っ白になっていた。眉間には縦一本深い筋が刻み込まれている。転勤の緊張と母親の死の二重ショックが夫の容貌までも変えていた。弘子は後々までこの時の夫の悲愴《ひそう》な顔を忘れることが出来なかった。  夫の新任銀行の初出勤の日は、姑の葬式の日であった。しかしながら、さすがの夫も疲れ果てていて、この日は出勤出来なかった。夜は昏睡を続ける姑に弘子共々つき添い、昼間は福島に戻って得意先の挨拶廻りや事務引きつぎをやりこなしてきたのだ。葬儀が終わると、夫は倒れるようにして眠り続けた。  三月末になって、ようやく一家はもとの我が家に落ち着くことが出来た。この時長男は中学二年の新学期、次男は小学入学、長女は幼稚園入園という時期である。下の二人はとくに問題はなかったけれど、長男は、再びかわいそうなことになった。  福島で彼はテニスクラブに入っていたが、仙台の中学には空きがなかった。もしどうしてもテニスクラブということであれば、一年生と同じ扱いになるという。中学二年は、クラブ活動の中心メンバーなので、選手を選ぶにしても、どうしても一年から続けている子が優先となる。努力賞的な意味あいもあるのだった。しかし彼は、一年生と同じじゃつまらないと言って、止めてしまった。息子の傷心を思うと弘子もつらかったが、学校の方針もやむを得ないものだと思う。一年生からスクラム組んでやってきた新二年生にとって、息子は招かれざる人間でもあったのだ。子供には子供社会の掟というものがある。それに従わねば、息子自身もつらいものだろう。  テニス部はあきらめることにして、しばらくは部活なしの生活を続けたが、やがてブラスバンドに空きが出来て、ようやく彼も落ち着いた。  その他のことでは、近い所の転校であるし、言葉の上でも教科書でも、先生とのつきあいの面でもさしたる影響はなく、スムーズに仙台の生活に馴れていった。幼い頃からの友達が居たことも幸いした。  子供たちはたくましく育ってくれたと弘子は思う。子供なりに親が苦労していると思ってか、文句も言わずに自分のことは何でも自分でやってくれた。子供たちだけでの留守番、身の廻りのこと、入浴やおもちゃの片づけ、母親に言われる前にきちんと片づけてしまう。子供にかまってやれないことが不憫でならなかったけれど、こうした不幸も結果から言えば子供には良かったかもしれない。転勤という移動によるものよりも、続出した病人に母親がかかりっきりだった生活上の困難が、三人を自立した子にしていってくれた。しかしそれも、転勤がなければ、もっと楽だったという思いもあるのだけれど……。  舅の入院は続き、一家が仙台に引越した年の十月、そのまま入院さきで息を引きとった。舅七十歳、姑六十五歳の死であった。一年に二つ葬式を出した。  その後十年間、夫には転勤はない。  それにしても、あの二年間はいったいどういう星まわりだったのだろうと弘子は思う。  頼りにしていた長男の転勤が、老親二人を失意の底に落とし、それが相つぐ発病になったのだろうか。いや、癌という病気や肺炎にはそれなりに理由があるもの、精神状態とは関係ないものだろう。それじゃなぜ、不運が足並みそろえて、軍靴の響きのように、弘子の生活を襲ったのだろう。もし転勤がなかったら? と弘子は考えてみるけれど、その仮定法に答えられるものは何もない。  転勤そのものは、弘子の家族にも、弘子自身の精神生活にも打撃を与えはしなかった。むしろ、仙台と福島両方に友人が出来て、儲けものであったとする思いもある。  だが、老いた両親にとっては、やはり息子一家の転居は老いを深めさせるものであった。心細く、不安に陥れるものであったろう。  そして、弘子自身も、転勤は老親から解放させてくれるものであったとはいえ、いざ病気になられてみれば、あまりにも思い残すことが多すぎる。仙台に通う汽車の中では、絶対に悔いのないようにやろうと心に誓いもしたけれど、いざ二人に亡くなられてみれば、後悔することばかりだ。  あの二年間のことは思い出したくもないと思って生きてきた。だから、誰にも話さなかった。いや喋れなかった。誰かに言う気になれなかった。後悔の念も、なぜ長男の嫁ばかりが背負わなければならないのか、その疑問の思いにもすべて封印をしておいた。  しかし最近、老親介護問題についてある新聞社に取材されたことがあった。十年ぶりに思いのたけを吐きつくして、そのあと弘子は寝ついてしまった。涙があとからあとから吹き出て、どうしてこう泣くのだろうと思いながらも、泣き続けた。十年経って、やっと心の中の氷が解けて、それが涙になったのだろうか。  今、長男は大学を終えた二十三歳、次男が高一、長女は中一になった。夫は五十歳。定年まであと八年。  あと一回ぐらいは地方への転勤があるかもしれないと思う、しかし、今度は子供をタテに単身赴任してもらうことにしよう。  主婦にとっての最大の財産は人である。仙台で、自分の体験をもとに老後問題を考える会を組織し、その活動が軌道に乗ったところだ。これらの人とのつながりを大切に育てていきたい。もう四十七歳ともなれば、夫について行って新しい出会いを求めるほどの元気もない。  ただ問題は、夫の会社が原則として家族同伴の転勤を求めていることである。恐らく夫は単身赴任を承知すまい。  しかし、夫の転勤で妻の社会活動の場が奪われるのは理不尽だと思う。このまま、気心の知れた人たちの輪の中で中年期を充実していきたい。さらには、また動いたとたんに何か良くないことが連続して起こってくるのではないかという恐怖もある。もう二度とあのような思いは味わいたくない。じっとしていたい。仙台にさえ居れば、何かが魔力から守ってくれるような気もする。  やはり動きたくない最大の理由は、老後に向けての生きがいの問題だ。中年期からの活動こそが、老後の精神的な豊かさを創りあげる。姑の無念さの分までも、弘子は取り戻して生きていきたいと思うのである。 波乱多し、海外駐在員の妻  ベイルートに始まり、デュッセルドルフ、パリ、十二年間の海外駐在員生活、よくぞ乗り越えてきたものだ。  初めての海外赴任の時は、未知の国へと喜び勇んで出かけた。海外に出ることは、エリートの証明、“花の駐在員”と言われて、妻としても誇り高く、羨望の目を受けて心が躍った。  しかし、子供が大きくなり、夫婦も中年期にさしかかってくると、長びく海外生活は、子供の教育の問題、健康の問題と心安まることのない毎日となった。馴れない土地での生活の切り廻しを一手に引き受ける駐在員の妻とは、つくづく体力と気力の要る“商売”だと谷岡葉子(四十五歳)は思う。  若かったからやってこられた。苦労を苦労とも思わない外国への好奇心や新鮮な驚きがあった。しかし今、東京に落ち着いてみると、母国に暮らす静けさは得がたいものだ。  もし今また海外への辞令が出たら……、海外一二〇店を持つ商社であれば、可能性はないとは言えないけれど、もう動きたくない。だが夫は一人暮らしの出来るような男ではない。地の果てまでもついて行かなければならないなぁと思う。いや、地の果てであればなおさらのこと、ついて行ってやらなければなるまい。  これもわが人生、生き方だったと思うし、起伏に富んだ過去の生活は、余人には得られないそれなりの収穫をもたらしてくれるものでもあったのだが……。  その一方で、何もかもが中途半端に終わってしまったと苦い気持ちもある。海外生活が子供の将来にハンディとならぬよう、夫婦の亀裂とならぬよう、そればかりを考えていた生活、自分のことを考えるゆとりがなかった。駐在員の妻は夫と総ぐるみで会社のために働かねばならないとする生活の現実に追われてしまった。  ところが日本に落ち着いてみると、女の生き方とか自立とか、女をめぐる話題が連日マスコミを賑わしている。いったい自分の中に何が残ったのかと問いかけてみると、何かむなしいことばかりやってきたような焦りを感じる。日本にずっといれば、違った自分になっていただろうと思うと、改めて自分にとって駐在員の妻とは何だったのか問う気持ちにもなってくる。  職場結婚だった。夫が北海道の四年制大学を終えて入社したその年に、彼女も短大を終えて入社、共に大阪に本社のある商事会社の同期生。  葉子は、船場で四代続いた材木問屋の娘。入社の時には、総合商社の名に魅かれこそすれ、転勤のある職場かどうか考えもしなかった。入社して初めて社長訓示の中で、海外支店の数の多さや海外赴任の話を聞いた。大変な会社に入ったんだなぁとは思ったけれど、海外赴任者は全体の一割と聞いてなんとなく安心もする。まさか後に、自分が恋愛し、結婚する相手がその一割に入る男であろうとは、想像もしなかった。  結婚に際して祖父が「出世する男かね」と訊ねた時、葉子はこう答えている。 「商社に入ってくる男の人は、みんな海外に行きたい人ばかりや。谷岡はんがそういうエリートの道を行く人かどうか、うちには分からしまへん」  初めての転勤内示は長女がお腹に居た頃だった。行き先はインドネシア。ええっ、この人は、海外に行く人やったんか、葉子は嬉しいような恐ろしいような複雑なショックを受けた。  この時葉子は泣いて夫に反対した。時あたかもスカルノ大統領の失脚で内戦が続いていた。しかも身重で、いやや、絶対に行かれへん、出世が遅れたってかまへん、行かないで欲しいんや。先のことなどどうなってもいいと思った。  夫は断った。内示の段階でもあり、また内戦激化のため原則として独身社員にすべしと会社方針の変化もあって、決してすんなりとはいかなかったが、葉子の希望が通る形となった。  だから、その後長女、長男と出産し、結婚四年めにベイルートへの内示があった時には、夫婦とも今度は断れないとする覚悟のようなものがあった。 「これは会社の命令だ。俺は行くからな。君だって商事会社の社員が転勤を断り続けたら一生うだつがあがらないことを知っているだろう」  有無を言わせぬ夫の言葉だった。 「一回目の転勤としては破格な扱いなんだぞ。ベイルートには、中近東総支配人席があって、あの辺の母店なんだ。イラン、イラク、クエート、サウジアラビア、カイロ、ヨルダン、スーダン、オマーンなどのカバー地域だから、俺みたいな若さでそんな所に行けるのは、幸せだと思わなくちゃ。普通はもう少し小さい支店を廻ってから行かされるような場所なんだ。君だってそのくらいのこと分かるだろう」  夫の言う通り、ベイルート支店は日本人駐在員七人に現地スタッフが大勢働く中近東の拠点なのである。  しかし葉子には、ベイルートと言えば地中海に面した所くらいの知識しかない。はるか彼方の遠い国レバノン、その首都、一体どんな暮らしの街なのか想像を越える。今ほどにガイド・ブックもなく、喜びようも分からないのだ。  転勤と知った仲人さんがやって来て、 「いい所に行くことになりましたなぁ。あそこは中東のスイスと言いましてな、気候はいいし、物は豊富だし、風光明媚、私も若ければ、谷岡君が居る間に行ってみたいですな。若い人は、ほんま、うらやましいですわ」  この言葉で葉子の心は決まった。そんなにいい所なのか、好奇心がムクムクと盛りあがってくる。小さい子供を連れていくことが最大の不安ではあるけれど、なんとかなるだろう、期間は五、六年とか、商社員の海外赴任は家族同伴が原則であれば、行くしかないのだ。それならばいさぎよく、張り切って行こう。  即決即行が葉子の気性、さっそく図書館に行ってベイルートの知識を仕入れる。  夫はとりあえず単身で出かけることにし、葉子は枚方市の借家を引き払って大阪の実家に転居した。昭和四十三年の夏も終わりの頃であった。この時九ヵ月間別居する。  その間葉子は、ベイルート生活に必要なものを買い整える。レバノンは小さい国ながらも交通の要所、輸入品もいろいろあると聞くが、日本のものはあまりないらしい。食事にうるさい夫を思うと、持てるだけのものは持って行きたい。  しょうゆは石油缶サイズのものを五缶、しいたけ、こんぶ、干ぴょう、複合調味料類、みりん、海苔にサラダオイルまで、山のように運び込まれる食料品や家庭用品を見て、実家の母が笑って言った。 「あんた、もう一度お嫁に行くんかいな」  貯金から夏のボーナスまでを使い果たしての大買物だった。  荷物を船便で出した後、昭和四十四年、三歳と二歳の二人の子を連れて、葉子は機上の人となった。  ベイルートに着いたのは、夜中の二時半、この時間が後々にまで夫婦を悩ますことになるのだが、ともかくも着いた。夫が、どこでどう話をつけたのか、乗客が降りる前に飛行機のタラップを駆けあがって機内に飛び込んで来た。はるか異国での再会、子供を抱きあげる夫、父にしがみついて泣く子供、それを見守る妻、お互い言葉が出てこない。ただ、「よかった、よかった」と涙をこぼしあうばかりの夫婦だった。  ベイルート生活が始まった。  一時期フランス領であったためか、想像以上にしゃれた街だった。アラビックとヨーロッパのいいものが影響しあって出来たような街、フランス語も英語も通用する。英語は娘時代からの得意だし、フランス語も勉強していたから、言葉での不自由はない。日常用語はアラビア語だが、それもさして難しいものではなく、すぐ覚えてしまった。  気候はからっとしていて雨も少ない。温度はいつも二十五度ぐらいか、暑くはない。  何よりも気に入ったのは住宅だった。その広さに葉子は驚く。八百平方メートルもあるのだ。大サロンに中サロン、ベッド・ルーム三つ、食堂、トイレ三ヵ所、風呂二ヵ所の家具つきマンション。幅広いバルコンには、フリルをたっぷりとったレースのカーテンが、地中海の潮風に優しくはためく。大きく拡げた白鳥の羽のようなゆらめきは、いつか夢で見た王宮のように華麗なたたずまいだ。  そこから眺める地中海もまた、どんなにか葉子の目を楽しませたことだろう。朝と昼と夕ぐれでは海の色が変わる。視界はるかに拡がる天の鏡を敷きつめたような海は、白く、あるいは銀色に光をはね返す。とくに好きだったのは夕ぐれの海で、沖は濃い紺色に、浜辺はサファイアを敷きつめたような淡い緑が拡がって、地球上にこんな美しい所があったのか、胸が微かに痛くなるような眺めだった。  子供たちは、家の中でボール投げしたり、自転車で走り廻る。掃除、洗濯は通いのお手伝いさんが来てくれる。  しかも、月給は日本に居た時の三倍、日本では手取り十万円弱だったものが、三十万円になり、家賃はたったの六万円、生活全般が日本に居た時より数段楽になった。  とは言うものの、結構ずくめでなかったことも確かだ。とりわけ、料理には参った。材料の買出しには、長靴をはいてスーク(市場)に出かける。日本のマーケットのようなわけにはいかない。魚、肉が丸ごと地べたに並び、後ろを振り向くと牛の頭がそのまま置いてある。鶏が首をしめられて叫びをあげている。腸が積みあげられ、血が流れ、飛び交うアラビア語の喧噪。  鯛もイカもサイズが日本では考えられないくらい大きい。魚をおろせば台所はうろこだらけ、イカはスミで真っ黒になる。しかも味は大味、さまざまなカルチャーショックがあったけれど、食物のことが、一番大きな驚きであった。  喜んで来たとはいえ、やはり最初は淋しかった。母のことばかりが思い出されて、夜になると日本はこっちの方にあるんだなぁとバルコンに立つ。その頃は電話も通じなかった。会いたい思い、思う存分日本語で喋りたい思いが胸にせきあがる。二、三年ほどして生活もずいぶん馴れた頃、日本と電話が通じるようになった。お互い「もしもし、もしもし」だけでそれ以上は接続しない電話であったけれど、あの時の嬉しさは忘れられない。  夫は、妻の淋しさを頭では分かっているだろうとは思うけれど、慰めの言葉の出ない人だ。すまんなぁとか、苦労かけるなぁとかそんな一言でもあれば慰められようが、妻をいたわる言葉はついぞ聞いたことがない。  昼頃、電話がかかってくる。 「今夜お客さん三人連れて帰るぞ」 「そんな。今からじゃ買物も間にあわんわ」 「ばか、それで駐在員の女房が務まるか」 「うちの苦労も知らんくせして、何言うとる」  しかし電話はもう切れている。知るもんか放っとけとは思うものの、やっぱり料理を始めてしまう。時には三人と言っておきながら六人も連れて帰る。同じ商社の社員ばかりではなく、関連会社の人まで連れて来るから、女房の苦労はよそに、夫の評判ばかりが高くなる。  それでも皆、熱い国で働いて疲れ切っているから、みそ汁を出してあげると大喜びする。羊の脂だらけの食事の人たちにとって、ちょっとした塩おにぎりや焼魚、つけものなどが、どんなご馳走にも勝るのである。  その姿を見ていると、こういう人たちの助けになってあげなあかんと葉子も思ってしまう。これも会社のためだ。自分も勤めていた会社、愛社精神のつづきかしらと思わず苦笑してしまうのだった。  夫の仕事は思っていたよりもハード・ワークだった。  日本からの飛行機はいつも夜中の二時半にベイルートに着く。葉子が乗って来た便である。南廻りは、ロンドンかパリに朝九時頃着くように組まれているから、途中のベイルートはどうしてもこの時間になるのだ。  ベイルートに来るお客さんはカジノで遊びたがる。そのおつきあいをして夜中の二時頃ホテルに送り届け、その足で空港に向かって日本からのお客さんを迎え入れる。それをまたホテルまで送って、自宅に戻るのが五時頃、七時頃まで寝て、朝はきちんと会社に出る。昼間は昼間で、電話やテレックスに追い廻されて一日を過ごす。そしてまた夕方いったん戻ってシャワーを浴びて服を着替えて出て行く。そんな毎日だった。  夜中二時半着の飛行機には苦しめられどおしだったが、夫も若ければ妻も若い、若かったからこそ出来たことだった。家の中のすべてが、夫の仕事の役に立つように、日本からのお客さんのためにと整えられていた。夫はかわいそうなくらい人に気を遣い、どの人にも喜んでもらおうと、肉体を酷使する。 「あんた少しおかしいのとちゃうか」  時には腹が立って夫に毒づくが、この人も言葉こそないけれど、私には感謝しているのだろうと思うと、次の言葉を飲み込んでしまう。異国で働く夫にとって、妻は言わず語らずのうちに絆を強くする戦友なのだとの思いが、淋しさや腹立ちを紛らわせてしまうのだ。  次第に駐在員の奥さん同士とも親しくなっていった。支店長夫人が、駐在経験も豊富で英語、フランス語、アラビア語をこなす人だった。十人から十五人ぐらいのお客の接待が支店長宅である時は、駐在員の妻全部に召集がかかる。彼女からはずい分料理も教えてもらった。また接待の仕方とか、駐在員の妻のありようとか、勉強になったと思う。  一番心配だった子供たちも、病気一つせず元気だった。お腹もこわさず、風邪もめったに引かず、一日中太陽に当たって飛びはねる。はだしにパンツ一つでたくましく育っていく。一度だけ風土病のカイカイにかかって、治らずに困ったことがあったが、現地人の運転手が連れていってくれた専門医のもとで、すぐ治ってしまった。  子供を育てるにあたっては、日本的なものから遠ざけたら駄目だと確信していた。だから、日本の昔話の絵本などをダンボール三つぐらい持って行っていた。長女がベイルートの日本人学校に入ると、算数や国語のドリルを大阪の母に送ってもらう。この母がまた行動力の人で、手紙を受けとるとすぐ本屋に走り、そのまま郵便局へ持って行く。この母のおかげで、その後の海外生活も含めて、どれだけ助けられたことだろう。実家をあげての応援があったればこそ乗り越えられた。  ベイルート生活は夫六年、家族五年半、その間一度も帰国することなく、よく頑張ったものだと思う。あれは不思議な力だったと今にして葉子は思う。自分の頑張り次第で道は開けると一途に思い込んでいたし、またそれが出来る体力と気力があった。  レバノンに限らず中近東は、風俗、習慣の違いもさることながら、精神的に日本とはるかに違う国である。欧米の方がまだ馴染みがある。何事もアラーの神次第、価値判断の基準がまるで違う国での生活は、不思議の国の鏡でも覗くような驚きに満ちていた。そしてその鏡に照らして、日本人というものもよく見える。  日本人は、水をものすごく使う国民だと改めて教えられた。だからマンションを探す時も、日本人家族が何世帯入っているか、三世帯以上居たら駄目ということになる。雨が降らない国だから、水は貴重品だった。水源地から来る水を、管理人がビルの上のタンクに貯水しなければならないのだが、時々忘れてしまう。しかし彼は悠然として言う。 「インシャーラ(神のおぼしめし)」  これが日本のマンションなら大騒ぎになるところだが、向うは誰も怒ったりはしない。管理人が、ちゃんと水をあげておく男かどうか、これがマンション探しの重要ポイントなのだが、これはあくまでも日本人の感覚なのである。  長男がベイルート日本人学校に入学した年の六月、帰国命令が出た。  地中海の夕陽とも二色に分かれる海の眺めとも、これでさよならかと思うと、涙がこみあがる。一日を終えて夕涼みの風に吹かれながら、幾度となく日本を想ったバルコンにも、二度と立つことはないだろう。帰りたくないなぁ、と葉子は思った。  過ぎ去ってみれば楽しい思い出ばかりだった。ヨーロッパへの家族旅行、レバノン各地の旅行、からっと乾いた大地、やっぱり来て良かった。対日感情も良く、お手伝いの姉妹や現地の人々が、泣いて別れを惜しんでくれる。  昭和四十九年一家は帰国し、東京勤務となった夫と共に、船橋の社宅に落ち着いた。  初めての社宅生活、しかも、六畳二間と台所しかないその住宅の狭さ、葉子は生活の落差に愕然とする。しかも悪いことに梅雨の季節だった。ほとんど雨の降らないベイルートから、雨ばかりの日本へ。物心ついた時からベイルートに暮らしていた子供たちは、傘を持つことも長靴をはくことも知らない。 「いやや、学校なんかに行きたくない」  長男は登校拒否にも似た症状を起こし始める。お腹が痛くなる。何やらブツブツが出来る。長女の方は性格的にも明るくて、すぐ日本の生活に順応していったが、弟の方は、タクシーを呼んでくれ、そうでないと行かないと言い張り、叱れば泣いてすねる。  一方、荷物はダンボールに百個。とにかく当座必要なものだけを出して、あとは倉庫に預けたが、何よりも住宅の狭さに息が詰まる。 「せもうてせもうて、もうこんなとこに住めん、パパなんとかして。英治だってゆかりだって、勉強部屋もないんやて、ひどすぎるわ」  調布に建築中のマンションを見つけた。冷暖房完備で、間取りも、洋間二つに和室二つ、広いリビングキッチン、ベイルート生活に及びはしないが、日本の高物価であればこれでよしとしなければならない。日本の住居水準からすれば高級だ。つくづく日本は狭い所に人間がひしめいて住んでいる国だと思った。  社宅には八ヵ月いてあくる年の三月に、調布に引越した。子供たちは馴れぬ日本での短期の間の二度の転校だった。早生まれの長女は四年生、弟は二年生からの編入となった。  幸い二人とも成績は良かった。漢字も書けるし、言葉にも困らない。とくに姉は、編入そうそうクラスで女子一番の成績をとり、両親を喜ばせた。  六年生の時には「お米の思い出」という作文で文部大臣賞ももらった。昭和四十八年の第四次中東紛争時、エジプトからの米の輸入が止まり、何日も米が食べられない生活が続いた。その時日本から送ってもらった日本米のおいしさが忘れられないというものだった。感受性も、国語の力も、心配ない。  弟の方は、国語のハンディは後々まで残った。二、三年生の頃は野球がしたくて勉強嫌い、宿題もしないで遊び廻って母親を悩ませるが、それは男の子のごく普通の成長だろう。  転勤のことはいつも頭にあった。今度はどこにやらされるのだろうか、どこにやらされてもいいように、家族の態勢を整えておかなければ……。  長女が六年生の十一月、再び内示がおりた。ドイツ、デュッセルドルフ、辞令発令は翌年四月一日。大体三年という予定だった。  転勤期間が三年となると、帰国時には長女の高校進学の問題がひかえている。海外帰国の子供の受け入れをするという六年制の私立中学に頼みに行き、もし高校生で戻った場合の受け入れを約束してもらった。弟の方は、中二で帰れば、高校入試まで一年余の期間があるからなんとかなるだろう。しかし実際には、この約束は反古になってしまうのだが。  子供の学校と同時に困ったのはマンションのこと。  だがそれを除けば、心理的な転勤への拒否感はまったくなかった。ベイルートで外国生活の良さを満喫している。また広い家で、近所づきあいの窮屈さもなくやっていける。しかも欧州は何度か遊びに行っているし、暮らしてみるのも悪くはない。中世からの歴史、絵画、音楽、いろいろとおもしろいものがあるだろう。再び好奇心が葉子を活気づける。期待に胸ふくらませて辞令が正式におりるのを待っていた。マンションの方は、冬は夫の母が札幌から出て来て留守番をすることと、一応の話し合いはついた。  ところが二月になって、ある日突然葉子は腹部の激痛に襲われた。寝ても起きても、転げ廻るとはまさにこのこと、七転八倒の痛さ。血尿も出た。とりあえず駆け込んだ病院に四日間入院し、尿管に結石が出来ていると知らされた。ベイルートの硬水が原因らしい。  手術しなければならない。石を薬で溶かすやり方もあるが、今転勤を目前にしていて、悠長なことはやっていられない。ちょっとでも動けば痛い状態では、荷物の整理も出来ないのだ。  手術しようということで、手術の出来る病院に転院、四週間の入院となった。尿管に添って十五センチ切る。出てきた石は直径一センチもあった。  退院後も、重いものを持ってはいけないと言われるし、身体もしんどいし、三十八歳になって身体の変りめであることを知らされた思いだった。入院やら手術やら病後の養生やらで、家族の出発は八月にのばすことになり、夫は再び一人で赴任して行った。健康だとばかり思っていた葉子の思いもかけない蹉跌であった。水の怖さを思い知らされもした。転勤は、その時影響を与えなくとも、後々になって、こんな形で身体に積み重なってくるものがあるのだろうか。  次の問題はマンションのことである。夏は暑いから北国暮らしの姑には無理だけれど、冬には来てもらえばいいと夫は言い残して出発して行った。夫も彼女も、まだ三年しか住んでいない家を人に貸すのはいやだ。確かに冬場だけ姑に別荘代りに来て住んでもらうのはいい考えだが、しかしよく考えてみればこのコンクリートの家の中で姑ただ一人、友人とていない東京郊外に来て、万一何かがあったらどうするのだろう。しかも姑は東京の交通の知識がないから、いつも羽田とこの家の間を送迎しなければならないのだ。彼女たちが居なくなったらいったい誰がするというのだろうか。夫の思考には、この点が抜けて落ちている。  しかも暑くなるにつれて、たまに家を閉め切って出かけた日などは、室内の温度は四十度を軽く越える。これが三年も続いたらどうなるのだろう。  デュッセルドルフの夫に電話する。 「この家閉め切っていくのは無理ですわ。うち、貸して行きます」 「駄目だ、他人に使わせるなんて絶対に俺は許さんぞ」 「そんなこと言うたかて、あんた七月八月に家を閉め切っていたらどんなことになるか知らんから、そないなこと言うてますのや」 「俺がこっちに来る時、決めてきたじゃないか。おふくろはもう来る気でいるんだ」 「うちだって、他人に貸しとうない。だけど真夏に閉め切って行ったら、家は目茶目茶になります。お姑《かあ》さんかて、友だちも居らん所で、一人ぽつんとしていなきゃならんのです。気の毒ですわ。それに、もし万一何かあったとしても、うちら外国に居て、どうにもなりませんやろ」  一瞬夫は詰まったようだったが、彼はあくまでも反対だと言う。持ち家のある転勤族にとって、家を貸すか空家にしておくか悩みの種なのだが、貸すことに対するためらいは、また戻ってきた時にすぐ出てくれるかどうか、その心配によるものなのだ。夫もそれを言い張る。夫の都合のいい時間となれば、こっちは真夜中、地球の裏側との電話による夫婦喧嘩が続いた。  とにかく葉子は夫の反対を押し切ることに決めた。妻には妻の論理がある。夫は観念論で言っているだけなのだ。現実にローンの返済や閉め切って行くことによる家の傷みを考えれば、戻った時のことはまたその時、貸して行くのがいちばんいい。問題は荷物、夫は荷物を一歩でも出すのはまかりならんと言うけれど、一部は実家に送り、一部は洋間一部屋に押し込んで、あとは捨てた。転勤族は荷物に愛着を持ってはいけないのだ。  夫からは日本人学校の都合もある、遅くとも八月四日には到着せよと厳命の電話が来る。だが病後の身体は思うようには動かないし、重いものを持つことは禁じられている。暑い日盛りの中を立ち働きながら、つくづく転勤はつらいと思った。子供たちもせっかく馴れた日本の生活や友達との別れをいやがって反抗する。 「ママだってこの身体で行きたくないんよ。だけど、皆が行ってあげなきゃ、パパはどないする? な、元気出して行こう」  こうして八月初め、葉子は再び夫の任地に赴いたのだった。長女中学二年生、長男小学五年生の多感な二人を連れて……。  デュッセルドルフでの生活が始まった。  静かで清潔な街、ホコリもごみもなく、街中が公園のような美しさ。観光客も少なくて、日本人は五、六百人ぐらいか、皆ドイツ生活を楽しんでいる。  規律が厳しいのにも驚いた。夜十時以降には風呂に入ってはいけない。公園でもうっかり芝生に入ると、たちまち注意を受ける。何ごとも大雑把だったベイルートとは格段に違う。  日本の食料品は潤沢に手に入った。乾物屋さんが近くにあって、何でも手に入る。日本から再び大量に持って行ったが、それも不要なほど食物には心配なかった。  ただ言葉には苦労した。週三回先生に来てもらって子供と三人でドイツ語の勉強、夫もこの年になって語学はつらいとこぼすけれど、葉子も同じ思いだ。しかし海外生活のつまずきは言葉で始まる。必死にならざるを得ない。  しかし、生活全般は平穏だった。子供は環境に馴《な》れるのが早い。心配していた拒否感も間もなく消え、長女は子供の頃から習っていたピアノ、弟はサッカーに夢中になった。その弟も美術の好きな先生にめぐり会ってから図工に熱中し、マルチン祭の提灯行列での提灯コンクールに、二年連続一位をとった。長女もピアノ演奏をレコードに吹き込むなど、二人とも芸術面で大きな影響を受けた街だった。  デュッセルドルフでの快適な生活も、二年余で終わりとなった。夫が今度はパリへの転勤となったのである。 「えっ、パリ? 三年で日本に帰れるんやなかったんですか」 「お前何年駐在員の女房やってるんだ。予定通りにいくもんじゃないことぐらい知ってるだろう」 「そんなあほな。子供はどうします」  いずれにしろ長女は中三、この子は日本に帰すか、日本の大学とつながりのある全寮制の高校、もし可能なら、英国立教にと思っていた。そこへ予定外のパリ転勤となった。母子の受けたショックは大きかった。とくに、息子は泣いて抗議する。 「僕は行かないよ。もう友達と別れるのはいやなんだ。僕一人でここに残る」  ようやく生活が軌道に乗ったところだというのに、葉子も腹が立ってならなかった。 「あんた、ほんまにどうかならんのですか。これじゃあまりに子供がかわいそうですわ」 「うるさい。何遍言ったら分かるんだ。これが俺たちの宿命なんだ」  宿命か……。人からは花の駐在員とうらやましがられるけれど、その陰にある妻や子供の悲しみ。宿命と言ってあきらめてしまうにはあまりにもむごいものだ。ぷいと書斎に立って行く夫の後ろ姿を見ながら泣けてしようがなかった。  夫は三たび、単身でさきに行くことになった。  デュッセルドルフの冬は霧に包まれて寒い。パリまでの六時間の道のりを、彼は車で行く。  夫が去っていく車の赤いテール・ランプが、ひな祭のぼんぼりのように淡く闇ににじんでいくのを見ると、再び涙が頬を伝う。これが駐在員の宿命、夫もかわいそうだが、あとから行く方もつらい。いっそこのまま、三人で日本に帰ってしまおうか。  だが思い出すのは母の言葉だ。 「どんな地の果てかて、谷岡はんを一人にしておいたらあきまへんで。あの人が居てこそのあんたや。男はいい仕事しよう思うたら、家のことをきちっとしてあげる人が必要なんや。あんたが居ればこそ、日本食も食べて健康保てるけど、あの人一人にしておいたら、何食べるものやら」 「…………」 「夫婦のことも考えなあかんて。お互いあとでしっくりいかんようになるもんや、別居してるとな」  夫はカタブツだと信頼はしているけど、スタイルが良くて男前、しかもお金も持っている。いつもハツラツとして、スーツをぴしっと決めている夫は誰の目から見ても魅力的だ。葉子だって、中年の魅力のある駐在員を見て、素敵な方だなぁと思うこともあるんだから、夫をそういう目で見る女性が現われてもおかしくない。  男盛りのセックスのことも考えなければならない。いくら誓いあった夫とて、性の誘惑に負けてしまうこともあるだろう。信頼はしているけど、以前チラと何かがあったんじゃないかと思ったこともある。男は一人にしておいてはいけないというのは、本当だと思う。別居してから浮気が始まり、家庭崩壊に陥った駐在員や蒸発して行方の知れない人もいる。そんなことにならない保証など、誰にもないのである。一家がまとまって、夫を盛り立てて暮らしてこそ、家族は平穏なのだ。  浮気をされるのは絶対にいやだ。妻がそばについていなければ、ふとそんな気にならないとも限らない。疲れて帰ってきて暗い寒い部屋での食事作りなんて、あの人には出来やしない。お腹を空かせて一人ベッドに寝ころがっている時に誰かが「ご飯食べに来ません?」などと声をかけてきたら、そちらの方に心がなびいてしまうことだって考えられる。女の人から熱心に声をかけてきたら、気を許してしまうことだってあって当然だ。  心をとり直して、パリへ行こう。やっぱりパリへ行こう。今度は、葉子が息子を説得する番だった。 「パパかて、好きで行くんやないよ。会社の命令なんや。従わなかったら、会社辞めんならん。パパもあんたのこと心配してはった。だからな、パパのとこ行こ? あんたが友達と別れるのつらいこと、パパもママも知ってる。だけど、しかたないのや。ママかて友達と別れるのつらい。つろうてつろうて、なんでこんな思いせなならんと思うけど、これもパパのためや、皆で行ってあげんと、パパも身体壊してしまう。な、分かってね」  つらかった。自分の本意でもないところで、子供を説得しなければならない。商社員の宿命、夫も宿命なら、妻も宿命、そんな親を持った子の宿命でもある。  クリスマス休暇には、親子でパリに出かけた。おいしい料理を食べさせ、ルーブル美術館やオランジェリー美術館に連れて行って、夫婦で息子の心をパリに魅きつけようとする。ついに息子も言った。 「パリって東京と同じ匂いがするね。なつかしい感じだよ」  親の心を察しての言葉だったろう。姉が側から口をはさんだ。 「そうだよ。あんたはママとパリのパパの所に行きなさい。私だって日本に帰るのあきらめたんやから」  この娘も内心では日本に帰りたかったのである。しかし葉子は決断出来なかった。実家のある大阪に行かせる方法もあるが、大学までを考えると、高校からの一貫教育の所に入れたい。しかも、日本は遠い。その点ロンドンなら飛行機一時間、何が起こってもすぐ行ける距離だ。遠くにはやりたくない。  その十二月には、英国立教の受験があった。彼女は一人で受験に行き、合格ラインの成績をとって帰って来ている。  一月の末になって、娘はロンドンへ、母親と息子はパリへと引越しが始まった。  その引越しがまた大変だった。  社宅の家具は前任者からひきついだもの、普通は後任者に残していく。パリの社宅には前任者からの家具が残っているのだ。しかしこの時、谷岡家の転居が遅れたため、後任者は一時別のアパートに入ることになってしまい、そこで家具を揃えてしまったという。家具を持って出て欲しいと言うのは、当然の要求なのだが、それではこの家具はどうしたらいいのだろう。夫は言う。 「捨てるしかないな。先方の言う通りにするのが筋だから、家の中のものを全部片づけて来るように」  捨てろと言われても、何年か使ってきて、これからもまだ使えるものばかり、ドイツ人の友人たちにずい分ひきとってはもらったが、中には夫の働きで買ったものも残っている。それを全部捨てなければいけないのか、雪の中のゴミ捨て場に何度も足を運ぶ。蛍光灯までもはずして持って行って欲しいと言われたが、持っていきようもなければ捨てるしかない。  愛着のあった家具を、誰かに使ってもらうと思えば心も慰められようが、雪の中に捨てることに、涙がこぼれてならない。転勤のために移動して歩く生活の中で、いろんな別れやたくさんのものを捨てて来たが、こんなにつらいと思ったことはなかった。頑張り屋、気も強いし楽天的と思っていたけれど、気も弱くなってしまっているのだろうか。  長女はロンドンに落ち着き、息子と夫婦三人はパリでの生活が始まった。  パリは水が悪い。ベイルートのようなことが起こったら困る。飲み水はいっさい水道を使わずに、お茶もおみそ汁も、ご飯を炊くのもビン入り蒸留水のエビアンを使う。それを買ってきて、三階にまで運ぶのは重労働だった。日本の店のような配達などないのだ。ベイルートの時のようにお手伝いを頼むことも、物価高のパリではかなわない。  たちまち身体具合いが悪くなった。下痢が続いて、お腹がしくしく痛む。パリのアメリカン病院に行ったところ、慢性盲腸炎、手術しなければ治らないという。  子供たちの夏休みまで待って、息子をイギリスのホーム・ステイにやり、代わりに娘が夏休みに帰ってきたところで手術を受けた。お産以外では入院したこともない身体だったのに、尿管結石に続いてまた再び……、長びく海外生活の緊張で、健康が音をたてて崩れ出したのではないだろうか……。  娘もげっそりやせて帰ってきた。十二人一部屋で二段ベッド、二十四時間同じ人と一緒のスケジュール生活、加えて勉強のプレッシャーや思春期の娘の感情の揺れ、まだ両親が恋しい年頃を他人の中で暮らしているのだ。  これまでどんな時でも涙を見せず、常に弟を励まし元気づけ、母親の片腕であった長女が、涙を流しながら、 「パリに来たい。どこでもいいから、パリの高校に入れて」  よっぽどつらいんだろうなとは思ったものの、慰めて帰してやる以外に方法はない。こんなつらい思いをさせてまで行かせる意味があるんだろうか……内心ではそう思いつつも、「将来のことを考えてみ、せっかく入れた学校なんやから、がまんして頑張らなぁ……な」  と言わざるを得ない。  長女がロンドンに戻り、入れ替わって息子が帰ってきて、夏は終わったが、その頃から、また体調がおかしくなってきた。いつもおしっこがしたい。最初は膀胱炎かと思ったのだが、病院では、膀胱にも腎臓にも異常はないという。横になると尿意は止まるのだが、立ちあがって何かしようとするとたちまちトイレに行きたくなる。  フランス人しか診ないと言われたが、紹介状持参でやっと診てもらった病院では“神経の疲れ”だと診断された。薬も出なかった。  日本に一時帰国した際、診てもらった大学病院でも、尿道のさきがちょっと赤い程度、子宮筋腫があって、少し尿道が圧迫されているかもしれないが、いずれにしろたいしたことはないと言われ、もらった薬三種のうち、二種は精神安定剤だった。  この自分が、よりにもよって神経をやられるなんて。夫に気を遣い、子供たちに気を配る生活が、澱のような疲労を神経にこびりつかせていたのだろうか。華やかと言われる海外赴任生活も、裏を返せば、なんらかの後遺症を背負うものらしい。妻が一番重く背負う。夫は職場に出ればいろんな人とのつきあいの中で、気分を発散させることも出来るし、いやいやながらついて来た子供も、それなりに友達をすぐ作っていく。しかし、夫次第でつきあいを断ち切られる妻には、心を割って話せるような人はなかなか出来ないのが普通だ。デュッセルドルフでやっとそういう友人が出来たと思ったらパリに来て、パリにはまだそういう友達は出来ていない。仲良くなるのに時間がかかって、仲良くなると別れる。行く方もショックだが、残される方も大ショックを受けるのが、駐在員の妻の世界だ。  しかも、子供が二人とも小さかった頃は、公園や学校で、母親同士の交流が友情につながっていった。子供が居たればこそやってこれた。つくづく、子供の居ない駐在員夫婦は悲劇だろうなぁと思う。  そして今、息子も中学三年になり、子供の親たちとの交流も少なくなってきた。ひがな一日、セーヌ川の上流に建つ郊外のマンションで一人で暮らす妻の生活は、孤独の壁にとり囲まれている。  しかも夫の健康管理は駐在員の妻の最大任務である。駐在員は日本からお客さんが来るたびにフランス料理をつきあわされて、胃の中はいつもバター・ソースと肉ばかり、これで糖尿病とか痛風にならなかったら鉄人だ。よく葉子は夫に言った。 「あんたって人は、よくよく丈夫に出来てるんやね。鉄のハラやわ」 「そうだ。頭は二番手でもよろしい、胃や腸がしっかりしていることが大事なんだ。だから皆も、うちの会社は“胃と腸商事”だって言ってるよ」  ハナの駐在員どころか、ハラの駐在員なのだ。だから、日本食を食べたいというお客さんや、昔からのつきあいの気心しれた客人が来た時には、喜んで家に連れ帰ってくる。そしてそれは、夫には好都合なのだが、妻には疲労となる。夫の身体を守ろうとすると妻の負担になるのだ。  これまでも来客は珍しくはなかったのだが、身体はめっきり調子を崩してしまって、思うように動いてくれない。つくづく身体が基本なのだと思った。判断力や行動力がなくなっていく。  その夫も、相変わらず、大変だなぁとか、苦労かけるなぁとか口に出せない日本男児。病院に行ってきた話なんぞも、途中ですっと立って隣の部屋に逃げてしまう。  神経症の責任だって半分は向うにあるはずだ。他のことでは尊敬出来ることがたくさんあるけれど、妻への冷淡だけは許せない。 「うち、大阪に帰らしてもらうわ。もうこんな生活たくさんやわ!」  夫の消えたドアに向かって叫んではみるものの、中学三年、高校受験を控えている息子がいれば、一人で帰ることも、連れて帰ることも、決心は出来ない。  あの人だって、表向きは強がりでカッコつけだけど、いつも妻が励ましてあげなきゃならない人だ。 「パパはよう頑張るわ」「パパは偉い!」「パパがようしてあげはるから、皆ついてくるねんよ」  やっぱり一人では放っておけない。つくづく夫婦って何なのだろう、答えの出ない応用問題を前に考え込んでしまう。  息子の進路を決めなければならなかった。  夫婦の意見としては、日本の高校に入れさせることだった。長女の不憫さを見、しかも将来の大学進学や就職までを考えれば、日本の生活に馴れさせるべきではないだろうか。小学一年から五年までの四年間しか日本の生活を知らない子を、ひとり日本に帰すのもつらいけれど、それが一番いい方法なのではないか。  ちょうどその頃、会社の人が、日吉に社の寮があり、海外に行っている人の子供(男の子だけ)を預かっているという話を教えてくれた。  第一志望を慶応高校と決め、他に二つの高校に願書を出した。母子は受験のために帰国する。  ところが、慶応受験の前日、息子は流感にかかって三十九度の熱を出す。夜っぴて氷で冷やしながら、葉子は泣いた。いったい何年間この日のためにお金と神経を使ってきたことだろう。転勤の苦労の中でひたすら子供にだけはつらい思いがないよう心を砕いてきた。よりにもよって、その苦労が報われるかと思ったこの日になって熱を出すとは、これまでの苦心はいったい何のためだったのか、このつらさを誰に訴えたらいいのだろうか。 「英治、今日までずい分勉強してきたなぁ。日本に居る子に負けないようやってきたもんな。これで受からんかったら、運命やて。あきらめんといかんな」  朝になって、熱は平熱に戻った。もう駄目だと思っての受験だったが、合格発表の日、彼の名前はそこにあった。 「やった! やったぜ、ママ!」  合格が決まって、息子は日吉の寮に残った。 「ママ、じゃね、さよなら」  息子は夕陽の中を走り去って行く。逆光の中に黒いシルエットが細長く伸びていく。その後ろ姿を見ながら、泣けて泣けて、どうにもならなかった。これでまた何年間か、別々に暮らすことになる。一人置いて行くことが、とりかえしのつかない事故につながることだってないとはいえないのに、母はパリへ帰っていかなければならない。電車に乗っても、とめどなく涙が流れてくる。  こうして、一家は、長女はロンドンに、長男は日本に、夫婦はパリに住む生活が始まった。一家離散という言葉があるけれど、これはまぎれもなく、離散家族だ。夫婦二人になってしまって、身体中の力が何かでひきちぎられたかのように、虚《うつ》ろな毎日だった。子供のことを思って涙ばかりがこぼれてくる。  どこの土地へ行っても、そこのお料理と言葉だけは習い続けていた。考えようによっては、これで子育て終了、何か自分のためになるようなことをしよう、おしっこしたい感覚は相変わらず続いていて、昼間一人家に居ることはよくない。同じような環境の人とつきあうことが大切だ。再び葉子は、フランス料理とアート・フラワーを習い始める。  長男が高校一年になった年は、長女が高校三年である。一難去ってまた一難、今度は長女の大学問題が起こってきた。  本人の志望は慶応だったけれど、葉子としてはまた受験でイライラするのはつらい。 「日本の立教大学への枠が七人分あるって聞いたんやけど、あんた立教に行ってくれへんか。先生も、今の成績なら推薦受けられる言うてはるし」 「そやけど、英治だって慶応行ってるんやし、私だって慶応行きたいんよ」 「気持ちは分かるけど、ママはもうしんどうてこれ以上神経使うことかなわんわ。せっかく無試験で入れるんやから、ママのお願い聞いて欲しいわ」 「…………」  翌年長女は、立教大学入学手続きのために帰国した。  この一年間、息子がパリへ二度も来たり、こちらもイギリスへ行ったり、日本へ行ったり、月給をもらうのは、飛行機賃を払うためかと思うような生活だった。それもとにかく、日本とパリの二ヵ所だけに落ち着きそうだ。  パリ生活も四年めに入っていた。あと一、二年は居ることになりそうだし、パリからまたどこかにやられるかもしれないが、さきのことは分からないとしても、とにかく一家がほっとする時を迎えていた。  長女の住宅は、調布のマンションと決め、借家人には二月いっぱいで明け渡してもらうように頼んであった。そうすれば長男も日吉から移ってきて、姉弟で暮らせる。  その時、夫が言い出したのだった。 「ママ、君も日本に帰ったらどうか。子供二人だけというのも心配だし、そのおしっこの方もなんとかせんと放ってもおけんだろう。日本に帰れば治るかもしれん」 「そやけど、あんたは一人では暮らせん人や。そう思うたから、これまでずっとついてきたんやないの」 「十月頃には、日本に帰れるかもしれん。だから、君はさきに帰っておれ。ゆかりだって、ずっと外国暮らしで日本のこと何も知らんだろう。女の子には、母親が必要だ」 「ほんま? 十月には帰れるの」 「まだ内示も出てないから、俺の勘だけどね。それに、金がかかってしようがない。俺一人で頑張るから、心配せんで子供たちのこと見てやれ」  嬉しかった。やっぱり夫は考えてくれていたんだ。夫が心配か子供が心配かと言われれば、やっぱり子供の方が心配だ。  帰ろう、日本に帰ろう。長女の大学入学までに、マンションを元に戻して、母子の生活を始めよう。  マンションの一室に入れてあった荷物は、その後借り手の申し入れで埼玉の倉庫に移してあった。  マンションに続々と荷物が到着する。大阪の実家に預けてあった荷物、パリから、ロンドンから、日吉から、埼玉の倉庫から、荷物、荷物で荷物に殺されそうだった。なるべく荷物は持たないようにはしていたけれど、子供二人にそれぞれ必需品を買い揃え、各地での記念の品もやっぱり増えていっていたのだ。  この時の葉子の心づもりとしては、夫は一人で頑張るとは言ったけれど、まず無理だろう、子供二人の生活を軌道に乗せたらまたパリに戻ろうとするものだった。  そんな四月の早朝、夫から電話が入った。 「おい、帰国だぞ、東京勤務だ!」 「ええっ……」  声が喉の奥でからんで音にならなかった。 「六月だ、六月になったらパパも帰るぞ」  夫の声も大きくはずんでいる。早くても十月、それもアテには出来ないと思っていたのに、六月だなんて、電話を切ると葉子は部屋の中を走り廻った。  この嬉しさをなんと表現したらいいのだろう。 「みんな、起きて、起きて、パパが帰るて、六月に帰れるんやて」  三人は抱きあってまた泣いた。前半はともかく、後半は泣いてばかりいた海外赴任生活も、これで終わるのだろうか。  後になって、夫は述懐する。 「会社の方も、見るに見かねたんじゃないかなぁ。英治が慶応に入った頃から、そろそろ帰さなきゃかわいそうだと思っていたらしいよ」  六月に夫は帰ってきた。そしてこの時になって、なんという不思議であろうか、パリ以来三年余苦しみ続けてきた、あの、おしっこしたい感覚がぴたりと治ったのであった。  今夫は四十七歳、部長補のポストにある。  定年は第一次定年が五十五歳、第二次が六十歳。五十五歳になったら辞めてもいいんじゃないかと妻は思う。人の二倍は働いてきたのだから、あとは楽な勤務にしてもらって、よくぞ倒れなかったと思う身体を今後は大事にした生活がしたい。  転勤もまたあるかもしれない。どこの国に行ってもすぐ役に立つ男であるから、ないとは言えないだろう。本人の意志次第だが、妻としては断ってくれないかなぁと思う。もし転勤となっても、もうついて行かなくてもいいという気持ちもある。とは言うものの、やっぱり、その時になればついて行かなきゃならんと、思うだろう。  今はとにかく、さきのことを考えるよりも、休息の時にしたい。夫と歌舞伎を観る会に入った。日本の料理やファッション、観光、充電の時なのだ。中華料理も習っている。お料理だけは、和・洋・中華、どんなお客さんが来ても慌てないだけの自信がある。これまでも、洋裁、あみもの、お習字、恥ずかしくないだけのことはやってきた。  だけどこれから長い老後に向けて、どうしたらいいのかしら……、と思うこともある。  友人はほとんどが駐在時代の人ばかりだ。向うでの生活感覚が身についているから、つい合理的な割り切った考え方になってしまう。それは日本人社会の、とくに女のつきあいの中では、時として邪魔になる。話題も共通のものが持ち得ないし、近所の奥さんなんぞにも、海外に長いこと行っていたなんてあまり言えない。聞かれたら答えるけれど、そういう質問もあまりない。  駐在員時代の友人に「近所の人ともあまりつきあえなくて、孤独なのよ」と言ったことがあったが、その時彼女らも、異口同音に、「そうなのよねぇ。うっかり言うと、ひけらかしているように思われるし、黙っているともったいぶっていると言われるし、難しいわ」と共感を示したのだった。  人生トータルに考えた時には、これで良かった、とするものもある。子供の教育も細かく言えばあれこれあったけれど、よそ様には進学も思うようでなかったケースもあるだけに、これで満足出来る結果だ。夫も順調に会社の信用を得、仕事の世界に生きている。  夫を恨み、泣いたこともあったけれど、人様には体験出来ないことを悲喜こもごも合わせてたくさん味わったことは財産だ。語学も、アラビア語、英語、ドイツ語、フランス語が出来る。総体的に言えば得たものは大きかった。  しかし、一人の女として見た時、好きなことは全部犠牲にし、いつも自分のことは後廻しだった。いったい何が自分に残っているんだろうと思うと、ふっとむなしい思いが吹き抜ける。お掃除と洗濯と料理と、それが妻の仕事、母の仕事と、家族の快適さを用意し続けることで送ってきた二十年。  これからは“自分のため”その一点に絞った何かを発見しなければならない。今度転勤があったら夫婦二人だから、よほどしっかりしたものを持っていないと孤独に負けてしまうと思うのだった。 子供の転校・老親をめぐって  第二章で述べたように、単身赴任の理由の圧倒的多くは、子供の教育問題であり、老いた親の存在である。  しかし、“家族帯同”の原則からすれば、四人のうち三人までが、家族と引越しをする。そうなれば当然起こってくるのが、転校と親をどうするかの問題である。今回私がインタビューした九人と、私自身との計十世帯のうち、転校があったのが五世帯だった。親の問題では五世帯が悩み、うち二人は親を置いての転勤、一人は親の元に帰り、一人は親の元にそのまま留まった。もう一つ私のケースは親の死後の転居であった。  父親が単身赴任をすれば、子供は転校しなくてすむ。子供にとってはありがたいことである。新しい学校での教科や進み具合いの違い、友達との関係、先生との関係、環境変化は子供に与える影響も大きいはずだ。高校ともなれば、編入試験の問題もある。高校生を持つ転勤者のじつに七十六パーセントが単身赴任をしているというデータ(行政管理庁)も、高校での転校の難しさを示すものだ。  確かに高校の編入は難しい。行政管理庁の十都道府県六十高校の転入状況の調査によれば、三年三学期の受け入れ措置をとっている高校はほとんどない。三学期の転入は、一、二年とも半数が受け入れ拒否である。また、一年生の一学期も「新入学生を選抜した直後であり、各種行事が集中している」と受け入れるのはまだ少ない。つまり、全国的に見て、転入試験を受けられるのは、一、二年の二学期か、二、三年の一学期ということになる。文部省も、各都道府県に次のような通達を出している。  (イ)転入学の試験の回数は年に原則として最低三回行うこと  (ロ)四月に異動が多いので、転入試験は四月にも実施せよ  (ハ)手続きを簡素化せよ  (ニ)試験に関する情報を流せ  これに対応して、試験日や定員を増やす高校は確かに多くなった。朝日新聞は、昭和六十一年二月二十日の朝刊(大阪本社版)で、「転勤家庭—公立高転入門戸広がる」として、都道府県別の転入の実情を報道している。  高校側の受け入れ姿勢の柔軟な対応は、転校を可能にする。とくに、新一年生になる時の転入学試験の願書受け付けの期日を遅らせることは、受験生にとっても親にとっても朗報である。  だが、学年途中や学期途中での転校となると、初めからその学校に入るのと違った苦労がある。受け入れ側の対応によっては、子供は大きな打撃を受けることにもなる。一年生の最初からならいざしらず、この学期中途転校は、子供にとって必ずしもプラスにはならない。とくに中学生の場合、吉井弘子の話でもクラブ活動のことが語られていたが、子供社会のルールを乱すものとして歓迎されないのである。転校しやすくなるのはいいことだと思うが、果たしてそれが本当にいいのか、疑問も拭えない。  次に、私の子供の中学校転校体験を少し述べてみることにしよう。  前述のように、札幌への転居は、長女は高校入試からの新一年生、次女は小学二年になる時だった。この時の悩みは、私の退職問題と神奈川県県立を受けさせるのか、北海道道立を受けさせるのか、両方がからみあっているものだった。しかももし北海道の高校を受けさせるとすれば、一月中旬頃が期限だった。この余裕のなさが、結局は私の退職につながった一因であったことは前にも述べた。これも、編入試験を受けさせるようなことはしたくないとする親の思いであったと思う。前記の朝日の記事のように、入学願書の締め切りがせめて一般受験と同じかそれよりも遅いくらいであれば、転居予定中学生の親はどれほど楽になることだろう。  札幌での高校生生活、および小学生生活は、子供にとって、さしたる悪影響はなかったように思う。上の子は、札幌市内の中学から生徒が集まって来た新しい集団であり、言葉の違いの驚きや、中学時代からの友人が居ないことなど若干のもたつきはあったものの、すぐ馴れていった。むしろ、神奈川県という遠い所から来た子という珍しさも手伝って、仲間づくりは他の子よりも早いくらいだった。共働きを続けていれば出来なかったであろう念願の部活も、バスケット部に入って、たちまち脚も腕も太くなっていった。  下の子も、二年編入という学年の変りめが幸いしたのか、スムーズに溶け込んでいけた。しかも、転入当初総生徒数八十名というきわめて小さな学校、木造校舎の木の匂いが漂う家族的雰囲気だった。校長先生も教頭先生も全生徒の名前を知っており、皆“ちゃん”づけで呼ぶ。住宅急造地で、その時も確か十人くらいの転校生がおり、二、三年のうちには二百名を超え、三百名となり、新校舎建設という急変化の始まりの頃だったから、たちまち古株になってしまった。秋頃から地域の子供会の剣道部に入って、指導の先主が学校の先生でもあり、みんなに可愛がられた小学生活だった。  この点では、今回インタビューした多くの主婦たちが、健康上の問題はあったけれど、転校そのものにはトラブルは起こらなかったと述べていたことと一致する。私もまた、子供は親よりもはるかに早い環境順応性があると思ったものだった。  問題は下の子が札幌から、再び神奈川の自宅に戻った時だった。  子供としては、いずれまた父親の東京転勤はあるものと思っていたから、友達との別れの淋しさで涙ぐむことはあったが、昔馴染みの子供も居るし、姉が通った中学でもあり、さしたる不安もなかった。これが油断だったのだろうか。中学一年の三学期の転校は、思いもよらぬトラブルを起こすことになったのである。  それはまず、服装問題から始まった。  転入日、子供は前の中学の服装のまま出かけた。セーラー服にお気に入りのブラウス、黒い靴下。ところが、黒い靴下がクラスに衝撃を与えたのだった。担任も生徒も、 「つっ張りの子が入ってきた!」  私もうかつだった。前日、風邪気味の子供をホテルに残して私一人で転入手続きに行った時、学年主任との面談で、制服はまだ着られるから、そのまま着用するとは話し合ったが、それ以外のもの、通学靴、上ばき、靴下、髪の長さのことは話題にしなかったのである。前の中学では、セーラー服の下に着るものは、白・グレー・黒・紺であれば何を着てもよく、また靴下の色もとくに派手なものでなければ何色でも許されていたし、靴の指定もなかった。  ところが、編入した中学では、すべて学校指定のもの、靴下も白と決められていたのである。上の子の時どうだったか、記憶にはないのだが、こんな細かなとり決めはなかったような気がする。あとになって「この二、三年、急に厳しくなったのよ」と友達の母親から聞かされたが、まさか黒の靴下が問題になるとは思わなかった。  その学年主任が、 「私も親の転勤で何回も転校しましたよ。子供っていうものは、結構意地悪いもので方言を嘲笑うから、半年も口きかなかったこともありましてね……」  などと言ったこともあって、こうした転校経験のある先生が居るのなら、子供への心遣いも違うだろうと安心していたのだったが、その学年主任と学級担任とは何の話し合いももたれていなかった。その日、担任から黒い靴下を厳しく注意されて翌日は白にしていったが、今度は制服を叱られた。 「お前、いったいいつまでその服着てくる気なんだ。髪も切ってないじゃないか」  大勢の子供たちの前でその髪を引っ張られたというのである。子供はショックを受けて学校から帰って来た。私は学年主任に、これはいったいどういうことか、電話を入れた。ところが、 「担任もまだ若いから行き過ぎがあったかもしれませんが、お宅の子供さんにも問題があります。廊下とんびをしたっていうじゃありませんか。それが学校の規律を乱しているんです」  あっちのクラスに昔馴染みが居る、こっちにも居る、そういうことでもともと陽気でおきゃんな性格の娘は、廊下をはしゃいで走り廻ったものらしい。会えばお喋りに夢中になって、ベルと共に着席も出来なかったのだろう。それが、目にあまる行為だった、だから叱ったというのである。  それにしても、靴下や髪の長さ、制服がそれほど大事なら、なぜ転校前日にそれを言ってくれなかったのだろうか。子供にしても、前の学校では当たり前とされていたことが、どうしてこっちの学校では許されないのか、分からない。 「もういやだよう、学校になんか行きたくない。制服出来るまで行かない!」  私もその日は休ませることにした。すぐ制服を作るべくデパートに走ったが、ちょうど新入生のための縫製時期と重なって、どんなに急いでも一ヵ月はかかるという。なだめすかして、一日だけ休もう、おいしいものでも食べに行こう、とは言ってみたものの、私立の中学にでも入れた方がいいか、考え込まざるを得ない。  この時子供に味方してくれたのは、いわゆる“つっ張り”グループの元気のいい子供たちだった。 「先生、そんなこと言うけど、この子は転校してきたばかりで何も知らないんじゃない」  と先生につっかかっていく。娘の転入は、学級に波乱を巻き起こしてしまったのだ。服装という、いわば外側の問題だけのために……。  この後娘は急速につっ張りの子供たちと仲良くなり、彼女らとの友情を密にしていくのだが、その最初の発端は、靴下が黒であったことだった。余談ながらこの若い先生は、他の中学に転勤し、そこで生徒の集団暴行に遭ったという噂を聞いた。生徒を暴力に走らせる原因は、先生にもあると私は思っている。私自身、転校によって子供同士での何らかのトラブルやいじめなどはあるかもしれないと覚悟はしていた。しかし先生とのトラブルは想像だにしていないことだった。これも、管理教育に走り過ぎた学校体制のひずみなのであろうか。私の育て方の甘さもあるとは思うが、子供が環境変化を受ける時点では、先生の方にももう少し暖かい目もあっていいと思う。  学校を休ませたその日、私は子供と話しあった。 「前の学校で許されていたことが、こっちの学校で許されないのはおかしいと言ってみても、それが決まりなんならやっぱり守らなくちゃね……」 『悪法といえども、法は法なり』、私のもっとも嫌いな言葉なのだが、今はこれを言ってなだめる以外にない。心の中では、先生のものの言いようもある、転校で興奮気味の子供をどうしてもっと長い目で見てくれないのか、そう思う気持ちもあったけれど……。 「私のどこがいけないの、札幌に居ればどうってことのないことばかりじゃないの。私一人ででも札幌に帰りたい!」  子供は子供なりに、六年間も札幌で過ごしていれば、札幌のカルチャーを背負っている。札幌の方がいい、札幌に帰りたい、一人で下宿して前の中学に通うと言い張るのだった。 「それじゃなかったら、私立に入れて。もうあの学校には絶対に行かないから」 「私立に行くことはママも考えてるの。だけれどねぇ、私立に行っても、また似たようなことがないとは言えないのよ。制服が出来たら落ち着くと思うから、それまでの辛抱よ。ママも、もう一度先生に会って、よく話しておくからね」  これも試練の一つだ。大きくなって異質の文化圏に入って行くことだって考えられる。その時は、今日のことを思い出して、上手な身の処し方をするのではないか。我慢ということも大切なことだ。こんな話をしながらとにかく気持ちをなだめ、四日めからは登校させたのだった。 「勉強出来る子って嫌い。陰ではこそこそ言うくせに、先生には何も言えないのね。私は絶対にああいう子たちとはつきあわない」  子供たちも、自分たちの文化とは違うものを持っている娘を遠まきにして眺めている感じだった。先生のみならず、子供たちも、異質なものへの目が厳しかった。これほど情報網が発達している現代において、異質性への排除の力がかくも強く働くものなのか、私は恐ろしいものを感ぜざるを得なかった。この体験を四国での講演で話したところ、会場から、夫の転勤で転校させたが、うまくいかなくて母子だけ前任地に戻ったという話を聞かされた。転校は単に編入時の問題だけでなく、こうした異質文化への許容性がなければ、うまくいくものではないのである。札幌では、転校した小学五年生の子の自殺事件も起こっている。  言葉も問題だった。二年生になって担任が変わり、やれやれと思っていた時、彼女は発音でショックを受けることになった。「礼」とかけ声をかける時「れい」と言えず「れえ」と言ってしまうのだ。これは北海道弁なのかどうなのか。北海道は方言が少ないと言われている土地ではあるが、やはり私も若い頃上京当時言葉ではずい分嘲笑《あざわら》われている。発音の仕方が少し違うのではないだろうか。担任の女教師は耳ざとくそれを聞きつけて、 「もう一度言いなさい」 「れえ」 「何をふざけているの。『れい』でしょ」 「れえ」 「もういいわよ。座りなさい」  帰ってきて娘は言った。 「早く担任が変わればいいと思っていたけど、変わってみてもやっぱり同じなのね。札幌の中学の先生はみんな優しかったし、叱られたことなんてないのに、こっちに来てからは叱られてばっかり。どうしてこっちの先生は冷たいんだろう」  つっ張りグループの子と仲良くしているつっ張りの子、その色眼鏡でしか子供を見ないのだろうか。この先生も転勤となり、中学三年になってたまたま道で出会った時、高校はどこを受けるのか聞いたという。娘がある私立の名を挙げた時、彼女は言下にこう言ったそうだ。 「あ、そりゃダメよ」  娘は悲しい顔で帰ってきた。結果はやはり不合格だった。もしあのとき「あなたの力では難しいかもしれないけど、頑張ってね」と言ってくれていれば、同じ不合格でも受け止め方は違ったものになったのではないかと思う。  服装の次は、部活の問題だった。吉井弘子の長男と同じように、招かれざる人間だったのだ。  中学一年から卓球部に入っていた彼女は、転校後も卓球部に入りたいと思っていた。札幌に居る間からこちらの友人に手紙を送り、転居の日には、卓球部の子供たちが遊びに来てくれるなど、受け入れは良かった。転校時彼女を慰めたのは卓球だったと言ってよい。  ところが二年生になって、選手を決める段階で彼女は悩み出した。選手は六人、彼女は七人めの部員だった。もし彼女が入らなければ、六人は揃って選手になれる。彼女が入ったために一年生からやっていた子が一人落ちざるを得ないのだ。子供たちは二派に分かれた。あとから入ったといえども一年生からやっているのは同じなのだし、力も二番手か三番手、選手になっていいというグループと、やっぱり一年生からの六人で選手になろうというグループ。娘としては選手にはなりたいし、かと言って選手に洩れる子には申し訳ない。多感な時代の心の混乱は大きかった。指導の先生との悶着もあって、部活の問題には母子ともに疲れ切ってしまった。  中学生の転校は難しいものだなぁと私は思った。先生との関係、子供たちとの関係、勉強、部活、どれをとっても甘いものではない。それまで私は、“子供の教育上”の理由で単身赴任する人に冷たい目を向け、子供をダシにしているのではないかと思っていたが、この学校社会の閉鎖性が続く以上は、単身赴任は子供の心を守る上で賢明なやり方なのだと思うようになった。おそらく、私がインタビューした主婦のケースにおいても、子供の将来を思って口をつぐんでいるものがあるのではないだろうか。  子供は必死になって耐えている。勿論、転校によって得るものもあるだろう。たくましくなりもしよう。だが、プラス・マイナスを考えると、私の娘の場合はマイナスの方がはるかに大きかった。親たちの世代の中学生活と今の子の中学生活とでは、規則においても、高校進学の面でも、子供集団の質においても、まったく違う。自分たちの過去の体験で子供の生活を考えることは、危険である。転校生を受け入れる学校も、こうした視点から胸奥広い気持ちで生徒を受け入れて欲しいと思うし、企業においても転勤・転校を安易に考えてもらいたくない。  海外赴任者の教育上の悩みも大きな問題である。  谷岡葉子は、息子が高校受験前日、流感で高熱を出した時「いったいこれまでの苦労は何のためだったのか」と泣いた。そして海外生活での長い緊張からか、心身症のような病気を引き起こした。子供達が日本的なものから離れないように、国語や社会などの学力が劣らないようにと、気を配り続けることは、体験のない者には分からない苦労であったろう。受験への不安も、悪評高いとはいえ国内にいれば偏差値である程度判断出来ようが、彼らには目安すらもない。しかも外国における狭い日本人社会の中で、どこの家の子はどこに行ったとか口うるさいことも緊張を高める。親の見栄とばかりは言えないプレッシャーが子供にもかかってくる。 「幸い二人ともまあまあのところに入ってくれたから、パパの顔つぶさないですんだと思っているんですよ」  葉子は語っていたが、正直な実感だ。何よりも、海外生活が子供の将来にハンディとならぬように気を遣う駐在員の妻の努力は痛々しいくらいだ。  最近は、“子弟寮”を作って、海外赴任者や地方在住社員の子供を預かっている企業もあるが、多くは高校生以上で男子のみ。中学生以下や女の子は転校するか、他の何らかの個人的解決にならざるを得ないのである。  海外在留邦人は昭和六十年で四十五万人を越えたと言われている。そのうち約二十五万人は永住資格を取っていると言うが、残り二十万人強は海外赴任なのだ。単身赴任と家族同伴の比率は詳らかではないが、谷岡葉子のような苦労、谷岡家の子供たちと同じ悲しさを味わった一家はけっして少なくはないだろう。  高齢化社会と転勤もまた大きな問題である。  私の場合は第二章の高田エミ子と非常によく似た家庭環境だった。妻の親との同居、姓も妻の名、幼時から親孝行しなくてはならないと思い育ったあたり、その類似性に驚く。転勤の衝撃の中には、親をどうするかということも大きかった。しかも私の父の場合は、札幌の土地と家を処分して、永住の決意で転居してきてまだ四年にもならない頃のことだった。見ず知らずの土地へ娘を頼ってやって来て、ようやくのこと気心知れた友人も出来た時になっての娘婿の転勤辞令、この頃はまだ発病前で、元気でもあったのだが、 「お前たちが札幌に行くんなら、父さんも行かねばならんだろうな。だけど、割り切れないねぇ。やっとここに馴れたところだというのに……」  当然だ。妻でさえ新しい土地にはなかなか馴れないもの、ましてや老齢になれば、ここが終《つい》の栖《すみか》と決めた所から動きたくないものだ。夫に単身赴任を言い張った気持ちの中には、この父を再び動かしたくないとする強固な思いがあった。そしてまた父にすれば、自分のせいで娘の夫を単身赴任させてしまったのか……とする葛藤もあったのである。  もしまた、親を置いて転居すれば、高田エミ子のように、望郷の思いは親故に一層強まることになる。親のことが心配で、かつ面倒をみるつもりで決断した結婚が裏目に出たことに悩むことになり、それが夫との不和にもつながる。責めたてられる親不孝の思いに、いつかはきっと、一日も早く親の所に帰りたいとする落ち着きのなさに見舞われるのだ。  私も高田エミ子も実の娘ではあり、次の第五章に登場する金子幾子も娘である。三人三様、私は父の病死後夫の赴任地に行き、高田エミ子は故郷に置いて行き、金子幾子はそのまま親の家に居続けた。幾子は、親のことを思って動かないことによって自立を守り通したことになる。「嫁の実家の強さ」の陰口に傷つくことはあったにしても……。  老親問題を語った五人の妻のうち、三人は実の親子、残り二人が嫁の立場だった。この二人は対照的に一人は姑からの解放を喜び、もう一人は、親元に帰れることを親孝行と喜んでいる。  転勤が姑からの解放であることは、吉井弘子の場合にとどまらない。昔ながらの家制度の名残りに苦しむ妻にとって、別離は福音でもある。朝日新聞の日曜版「本音ほんねホンネ」欄にこんな投書が載ったことがある。福岡県の三十七歳の妻の『転勤がもたらすブリリアントな午前』。  スープのやけどしそうな距離に夫の実家と小じゅうとの家がある環境から解放され、転勤で福岡へ来て一年あまり。  千円均一のTシャツを買ってもジロッとにらまれ、四当五落は受験生のみならず嫁のためにある言葉かと思うほどの睡眠不足、娯楽不足、里帰り不足、そしてついでに酸素不足の日々……。思えば今は夢のようだ。夫と子どもたちを送り出した後の、充実した家事の合間には、学生時代に勉強した外国語をブラッシュアップ。平凡でささやかだが、気分だけでもブリリアントな私の午前だ。  はるか東京におわしますオトウサマ、オカアサマ、そして小ジュウトさま! 分からんめえも! 博多の生活は天国のごとある。  まことにこれがホンネというものであろう。  しかし、残された老親にとって心身の打撃となるのもまた、嫁の気持ちとは別に色濃く存するのではないだろうか。吉井弘子のケースは、それが端的に現われたものであると思う。嫁にとっては干渉であっても、姑にとっては善意の親切、嫁依存から抜け出せない今の多くの老人にとって、嫁に去られることは健康さえ損なうものでもある。しかも残してきた親の病気は、転勤者の家族にとって、どんなにかつらいものであろう。吉井弘子は、福島から仙台へと通いづめの毎日、家庭は実質的に母親不在となった。  彼女の話で胸を打つのは、仙台再転勤の知らせを受けた直後、風呂場で姑が倒れてしまうところだ。病気の身体で一人暮らす姑の心細さはどんなものであったろう。弘子からの電話に湧き立つような喜びで、風呂でも焚いて入ろうかと入浴の準備をする。そして、熱い湯にひたったまま倒れてしまう……。  弘子の衝撃も大きかった。人の死はどんな場合でも看とった者には悔恨の思いがつきまとうものだろうが、彼女にはより強烈であった。あれほど喜んだ転勤であったというのに、幾度となく「転勤さえなければ……」と呟いてしまう。  それにしても、もうなくなったはずの家制度の柵《しがらみ》は、なんと強固で根強いものだろう。老親看とりの責任はすべて嫁にかかるのだ。しかも、長男の嫁ではなおさら、親にしてもまわりの義兄弟、姉妹にしても、それは「長男の嫁の仕事であり、責任だ」ということになる。この社会通念の故に嫁は苦しむし、またそれをタテにして手を出そうとしない親戚の前では、どうして私ばかりがと思いつつも、やらざるを得ない。人間愛としても病む人を放っておけない。  今、福祉は施設ケアから在宅ケアへと転換の時期にあると聞く。しかしこの日本の嫁偏重の老親看とり構造の中で、在宅ケアは中年期の女にとって荷をより一層重くするだけだ。ますます女の苦しみは増えていく。老人にとっては、在宅ケアは人間本来の姿だとも言われるが、在宅ケアが本当に人間愛に満ちたものになるためには、病気に精通した専門家集団の目と手がなければならないし、家事援助のヘルパーや給食サービス、入浴サービスなどの地域のネット・ワークがなければ、本当の意昧での老人の幸せはない。ただ単に、家制度の復活や、嫁の親孝行論議だけで在宅ケアは、老人にとっても嫁や看とる立場すべての者にとっても展望は開けない。  さらに、こうした在宅ケアへの方向と、転勤とは、真向うからあい矛盾するものである。在宅ケアが完全な形で充実すればともかく、現在のような状況の中での在宅ケアの強調は、病む親を抱えた時、夫を単身赴任させる。男手を失った家族の看病は妻の疲労や子供への悪影響を招くものとなる。転勤が拒否出来て、仕事上も将来に影響を及ぼさなければいいが、その転勤を受けなかったことによる夫の心理も無視出来ないものがある。  それでは、何らかの施設に預けて行けばいいかとなると、それもまた最善の解決策ではない。距離にもよるが、見舞いにもそう簡単には通えず、老親の方も“置いていかれた”落魄感が老いを深めてしまう。弘子の両親もこの離別感が強かったのではないだろうか。  私の友人は、東京から札幌への転勤に際して、老母を特別養護老人ホームに預けたが、入園後急激にボケ症状が始まり、行方不明になることがしばしば起こる。そのたびに呼び出されるから、生活はいつも不安定である。しかも彼は、老母をホームに預けていることは会社に対して内緒にしているという。  転勤を恰好の別離とばかりに、精神病院に入れたまま、無連絡の夫婦もいる。長い家族の歴史が、老親との埋めようのない溝を作ってしまったその後始末に、病院が利用されたのだった。  多くの老親たちは、馴れた土地を動きたくないと言う。実際、息子夫婦の転勤先に同行して、友人も出来ないままに孤独な日々を過ごす老人も居るのだ。老親の年齢、健康、性格にもよるけれど、転勤は置いていかれても、同行しても老いにとっては幸せなものではない。  転勤制度は、高齢化社会とは、まったくあい容れないものである。転勤を断ったとしても、意欲のある夫にとっては、苦悩を背負い込むことになるし、受諾しても問題は起こるのだ。老人の自立などと言われても、その可能性は加齢と共に低くなる。それを支える仕組みや社会全体の公的介護への意識改革がない限り、転勤は誰に対しても幸せをもたらさない。  親と離れられない、その思いで転居を拒否し続けたのが次章に述べる金子幾子である。前述のようにそれによって彼女は自立の道を保ち続けることが出来た。  それでは、次章においては、自立を捨てなかった二人の妻の物語を見ることにしよう。悩みながらも意志を守り続けた妻の姿である。 第五章 自立を捨てなかった妻 別れて暮らす結婚  夫の単身赴任は二十年近く続いた。夫はあたかも、惑星の周りをぐるぐる廻る衛星のように、動かない妻の周囲を廻っていた。妻は、民放局のフリーのアナウンサー。夫も放送局報道部記者。金子幾子(四十七歳)。  結婚したのは二十八歳の時、二人は同じ民放局の同僚だった。彼女は、結婚と同時にフリーとなった。  女の二十七、八歳は、職場において迷う時期である。仕事はどうやら一人前に出来るようになってきたが、このままずっと組織に居続けるかどうか確たる意志も持てない。しかもポストへの道も女には開けていないから、将来どうなるのか分からない。そんな時ふと思う。このまま一生ここで仕事をやっていていいのだろうか。  しかも、仕事における理想と現実の力のギャップに悩む時期でもある。仕事はできるようになってきた、もっと高度なものをしたい。しかし実際にやってみると思うように出来ないし、評価も得られない。もうこれ以上伸びられないのではないかという不安、続けてやっていかれるのだろうかとする才能への疑問、何をやってもスロー・テンポだなぁという自己批判、そのくせ周囲や上司からの批判にはがっちり身がまえてしまい、ちょっとした言葉にも傷つく。  結婚話が持ちあがっていた頃、幾子の心理状況はこんな具合いだった。仕事の世界で生ききれないのではないか、いややれば出来るはずだ、そんな葛藤の中にあった。  夫は、共働き否定論者ではなかったが、実家の父は言った。 「結婚するんなら仕事を辞めなさい。あぶはち取らずになるよ」  当時共働きは少なかったし、やがて生まれる子供のことを考えると、いつまで続けられるか自信もない。今にして思えば早計であったとは思うけれど、ちょうど職場や仕事の面で壁につき当たっていた幾子にとっては、このまま勤め続けることへの、何か自分でもよく分からない危機感のようなものも手伝って、父の言葉にさしたる抵抗もなくうなずいたのだった。  未練がなかったと言えば嘘になるが、今の状況を思い切って捨ててしまおう。そうしないといつまでも壁の前に立っているだけだ。レギュラーの仕事を一つもらって退職し、フリーのアナウンサーになった。CMのナレーターだった。  結婚願望の虜《とりこ》になっていたわけではない。女の幸せが結婚にあるとは思っていなかった。しかし、家庭があって子供を産み育てる中で、ボツボツと仕事をやっていくことの方が、自分には向いているように思えたのである。  新世帯は、姫路だった。小さな一戸建ての借家に住む。その頃夫も民放局を辞めて別の局の嘱託になっていた。すぐ正職員になれるという話だったが、なかなか正式採用とならず、それによる収入の差は、その後もずっと続くことになる。  翌年長男が生まれて、フリーの仕事も辞める。この後一年間専業主婦をやるが、この間が経済的にも精神的にも一番つらい時期だった。  結婚五年めにして、夫は尼崎へ転勤となった。やっと正職員になって、第一番めの赴任地である。昭和四十五年だった。  その頃幾子は再びCMのナレーターをフリー・アナウンサーとしてやっていた。子供を連れて姫路から大阪へ出勤する。実家に子供を預けて仕事をすませ、子供を連れて姫路に帰るという生活をくり返していた。子供が小さい間は良かったが、幼稚園に入る年齢になって、はたと困ってしまった。保育園に入れようかと思ったが、仕事が不規則、夜遅くなる時もあるし、地方出張もある。送り迎えの人を誰か頼むにしても、おいそれとは見つからない。困っているのを見かねて、実家の母が言った。 「子供がかわいそうじゃないの、それじゃ。大阪のこの近くの幼稚園に入れなさいよ。ここだったらあなたの仕事場にも近いし」  夫の仕事も不規則であてにはならない。それじゃそうしようかということで、子供は大阪の幼稚園に入れることにした。家財は姫路に置いたまま、生活の主流を大阪に置き、時々姫路へ帰る生活になった。この時は、むしろ妻の方が大阪に単身赴任しているような生活だったのである。  このことについて夫は、表面的には何も言わなかった。経済的にも幾子が働かなければやっていけなかったし、妻が働くことに反対ではなかったからである。幾子自身も、一度は辞めて家庭に入ってみたものの、仕事の世界の魅力がようやく分かりかけてきていた。大阪に生活の本拠を置くことによって、より仕事に熱中出来るようになっていた。  だから、夫の尼崎転勤というのは、大阪にぐっと近くなり、夫が妻や子供の所に来るのにも、妻が夫の所に行くのにも、歓迎すべき転勤だった。これまでの半別居生活、そのなかでの夫婦、親子の関係は、同じ別居でももっと密なものになり得る。この時は、転勤によって生活が変わるとすれば、良い方向に向かうものと考えられたのである。  これまで土曜、日曜だけが会える日であったが、それ以降は平日でも大阪に仕事のあった時などは、夫は尼崎に帰らずに幾子の実家に帰って来る。生活の本拠はむしろ大阪であって、尼崎の家の方が臨時宿泊所のようなものであった。  しかしこの平穏も長くは続かなかった。一年後に草津転勤の辞令が出た。ちょうど次男が生まれた直後だった。この時再び彼女は仕事を辞めた。  一緒に行こうかなぁと思った。当然家族同伴が求められている。妻子を伴った転勤でないことへの周囲の批判もあるし、この変則的な生活の仕方に対する好奇の目もあった。  尼崎の頃、夫が、オレもつらいんだよなぁと言ったことがあった。 「女房の実家に振り廻されてるんじゃないかって、口うるさく言う奴がいてさ、オレも正職員になったことだし、君仕事辞めて、尼崎に来てくれないか」 「そんな……。じゃ、私は何のために働いていたの? 生活が苦しい間だけ働けばいいものなの? あなただって言ったじゃない、二人で一緒に頑張っていこうって、それが今になってそんなこと言うなんて」 「だけど、オレだってつらいんだよ。一人でめし炊いたりすることぐらいはなんでもないさ、だけど、女房一人牛耳れないような奴なんてって見方があるんだよ」 「フリーになってから、仕事を開拓していくのがどんなに大変だったか、あなただって知っているでしょう。それなのに、家庭の事情が良くなったから、オレの評判良くするために辞めろでは、あんまり私の心を無視しているんじゃない?」  夫なりにつらい思いをしていることはよく分かる。だけど、それだからといって、ここまで来るためには、夫よりはるかにつらい思いを味わった私の心はどうしてくれる、女が働くのは生活の苦しさを救うものだけではないはずだ。つらい思いなら、私だって同じだ。別居しているのは何かあるからじゃないかという周囲の目、お定まりの旦那さん浮気するわよ、その不愉快さに耐えてきた。仕事仲間や昔の上司なども言う。 「あんたの旦那って人は、よっぽど人間がでけてるか、他に女が居るか、どっちかやろな。放っといたら、ろくなことあらへんよ」  そんな時はくやしくって、涙がこぼれた。男の浮気ばかり言っていて、女は貞淑なものと決めてかかっていることもおかしなことだと思う。  草津転勤と聞いた時、一緒に行こうかなと思った気持ちの中には、こうした周囲の目に疲れてもいたし、「亭主シリに敷いて」とか「怖い母ちゃんだ」と言われることへの抵抗もあった。子供が二人になって、さき行きを考えると、父親が必要だとする思いもあった。ちょうど、出産で仕事をしていなかったことも影響していたと思う。  そう決心しかけた時、同居していた妹が結婚して家を出た。幾子は四人きょうだい、姉と弟と妹が居る。姉は早くに結婚して家を出、弟も結婚して四国に居た。一人残っていた妹の結婚は、母にはショックだったようだ。 「皆出て行ってしまうのかい? 同時に四人も出て行くなんて、淋しくてかなわんわ」  母は血圧が高くて、人一倍の淋《さび》しがり屋、父と二人きりになるのかと思うと心が揺らぐ。加えて、仕事への未練も湧いてくる。転勤族の妻で仕事を持つ多くの女は、夫や子供の生活と自分の仕事の間で揺れ動くが、幾子にはもう一つ親のこともあった。  考えてみれば、赤ん坊を抱えて草津に行けば、仕事との縁が切れてしまうかもしれない。大阪に居ればこそ母に頼んで家を出ることも出来るし、仕事の世界に広がりを持つことも出来る。草津に行くことは、仕事を続ける上では絶対的に不利だし、母親に淋しい思いをかけさせることにもなる。だがその一方では、妻子を伴った転勤でないことに、夫への風当たりはより一層強くなるだろう。  迷いの日々が続いた。なぜ女だけがいつもいつもこうして迷うんだろうと怒りながら、将来と現実と、自分と夫と、家族と老親と、仕事と家庭と考えあぐねていた。  ぎりぎりになって、幾子は決断した。 「私やっぱりここに残るわ。仕事も続けたいし……。それに、これまで仕事をやってこられたのも、母のおかげなんだから、今淋しがっている母を置いて行かれないもの」  夫は不機嫌だった。なまじ妻の働くことに理解を示し、妻の考えや行動を支持してきたが故に、『男としての器量』なるものを疑われることになる。夫は夫の世界で一所懸命やっているというのに……。転勤、本人の意志と関わりなく住む場所も働く場所も変えられるというこの制度は、夫にとっても妻にとってもつらい。  最終的に出した結論は、「若いうちなればこそ別れて暮らしてもいいのではないか、お互い活力のあるうちはやりたいことをやっていこう」とするものだった。夫は、単身赴任を決意したのだった。  引越しには、家族全員でついて行った。荷物の整理や細々したものを買い整え、男世帯がスムーズにいくようにするには、やはり女の知恵が必要だ。しかしこの時、家族の分の旅費は支払い対象にならなかった。一度出たのではあるけれど、一緒に住んでいないのならと言われて返却した。おかしな話だと幾子は思う。別居であれば、生活が落ち着くまでは、二度も三度も行かねばならない。家族同伴であれば一度だけ、しかも片道ですむ。近い所だから、さしたる家計への打撃もないけれど、それにしても、転勤のための家族旅費が、同伴者にしか認められないのは、この制度そのものが、女は男について歩くものという前提の上になり立っている証拠である。  草津と大阪に別れて住む生活は七年続いた。  別居で心配したのは、父親と離れて育つ子供への影響である。とくに男の子であれば、父を男のモデルとして育つはずだ。生活の中心が父親だということだけは、子供にしっかりと植えつけておきたい。祖父がいるとはいえ、やはり父親とは違うのだ。  どんなことでも必ず、それはお父さんに相談してから、お父さんに報告してから、とお父さんを前面に押し出していた。父親の悪口も絶対に言わなかった。少々、父親を理想化してしまったのではないかと思う点もあるけれど、一緒に暮らして形だけは整えているくせに悪口を言いあっている夫婦に比べれば、子供に与える影響はいいはずだと思っていた。  とはいうものの、一週間ぶりに帰って来る父親はいつも優しく、一緒に暮らす母親はガンコで厳しい。父親と母親が逆になってしまった。父親がもっと厳しくなってくれないと、母親は優しくなれないではないかと思うけれど、それを夫に要求するのも酷なことであろう。  別居夫婦に対して言われる最たるものは子供の非行であるけれど、これは祖父が父親役を代行してくれたことにより、その面での心配はなかった。  仕事は順調だった。さまざまな会合の司会や子供たちを集めての話し方教室、仕事がおもしろくてならなかった。  しかし、変則的な生活への好奇の目は相変わらずだった。こんな事もあった。  ある時、昔の仕事仲間で仲の良かった男友達から電話がかかってきた。 「久し振りに一杯やらないか。たまには出て来いよ」  その言葉に何の疑いもなく出て行ったが、会ってみると雰囲気がどうもおかしい。出かけて行ったことで何かを許したかのような視線がまとわりつく。別居しているから、性的に淋しいんじゃないか、とでもいうような男の目だった。昔の馴染みだと思って気軽に出かけて行ったことが悔やまれる。騙されたような不愉快さと口惜しさで、さっさと置いてけぼりにして帰って来てしまった。  よく友人たちに「あんたは色気がないねぇ」と言われていたけれど、別居している女への目となると、別のものになるのだろうか。離婚した友人が、夫と別れたとたんに性的な好奇心の目で見られると話していたが、一般常識と別のところで生きようとする女への好奇の目を改めて知った思いだった。  昭和五十三年、三度めの転勤辞令が出た。貝塚である。子供は、上が中学二年、下が小学一年になっていた。この時もまた幾子は一緒に暮らそうかなぁと思っている。しかし今度は、中学生が居る。遠方ならいざ知らず、この程度の近さなら、これまでと変わりはしない。  貝塚転勤は五年だったが、この間に実家近くに念願のマイホームを建てて、母子はそちらの方に移り住んだ。生活費は、夫が必要な分をとり、残りを妻の方に送るという生活だったが、このマイホーム建設で経済的にも見込みが立って一段落したような思いだった。  その後堺に一年間移り、昭和五十九年大阪へ転勤となって、約二十年ぶりに夫婦は一緒に暮らすこととなった。その間ずっと妻は自分の縄張りの中に生き、夫は大阪の周辺を半円形に移動して歩いていたことになる。  今同居を始めて一年、一緒に居るということはこんなにも精神的に楽なことかと思う。以前はちょっとした物音にもすぐ目が覚めた。戸締まりはちゃんとしたかしら、何かあったのではないか、そんな不安と緊張が常にあった。そんな生活から比べると、男がいつも家に居る生活はなんと安心出来るものかと思う。よく近所の主婦たちが、たまに一週間くらい夫が出張で留守にすると解放感に満ちあふれると言うが、ずっと生活を別にしてきた女にとっては、一緒に暮らすことは、安心という名の別の解放感があるものだ。  子供が大きくなって、病気や不意の熱などに脅かされることのなくなったのも楽になった原因の一つだ。万一子供たちに何かがあっても、もはや自分一人で責任を負うこともない。共同責任者の夫は側に居るし、夫に全部押しつけることもやろうと思えば出来る。自分から主張していた別居だけに、気負っているものも大きかった二十年間だった。  この二十年間に悔いはない。百人の顔には百の違いがあるように、家族も様々であっていい。私たちにはこのやり方が一番良かったと思うものがある。  働き盛りの年代をお互いに一所懸命働いてきた。夫の犠牲になることなく生きてきたのは、恨みを持たないためにも良いことだった。  もっとも夫にしてみれば、二十年も放っておかれたとする思いもあるらしい。しかし、幾子の側からすれば、夫は単身赴任でたっぷり自由時間があったではないかとする気持ちもある。こちらは子供を抱えて、土・日には洗濯物を持って帰って来る夫の機嫌をとり、夫がうらやましくてならなかった。  生活の細々したことに煩わされず、身軽に飛び廻っていた夫、本拠地を大阪に置いて、その生活の安定の上に、夫は夫で自由を満喫したはずだ。夫にしてみれば、暗くて寒い部屋に帰るのはみじめだったかもしれないが、それは、共働きの女ならみんな体験していることである。自由であるということは孤独でもあるということだ。  男は、帰って来れば誰かが必ず迎えてくれるもの、という固定観念から抜け出せない。そこからはずれている生活は、みじめで淋しい。夫もまたその“常識”に苦しんだかもしれないが、見方をちょっと変えれば、お互いもっともいい生き方を選んだとも言えるはずだ。  単身赴任は、男の脆《もろ》さのようなものもあばき立てる。世の社会通念と違うことをするのを恐れ、群れていて人並みであることをもって安心する。その点、二十年もの間、放っておかれたとする気持ちがあるにせよ、その常識と闘い続けた夫を立派だと幾子は思う。個人としての生き方を認め、共に闘うことに協力的だった。  今幾子は、週四回はレギュラーの仕事を持っている。公民館の話し方教室が週二回、子供の話し方教室週一回、日本ライトハウス(視覚障害者職業・生活訓練センター)での話し方指導が週一回、この他に単発の司会や講演などが月に二、三回はある。とくに目の不自由な人たちへのレッスンには熱を入れている。彼らはいろいろな意味で問題を抱えている人たちだ。声も小さいし、発音も悪い。つきあう範囲が狭いから特殊なコミュニケーションしか持っていない。新しい職種開発として電話交換などもあるが、それには話し方そのものの勉強が必要だ。彼らとつきあうことによって、今まで知らなかった心の世界に目が開かれた思いもある。  夫はまた転勤があるかもしれない。今までのように自宅に近い関西エリアとは限らないが、やはり単身赴任してもらうことになるだろう。  今のこの仕事を捨てることは出来ない。この年齢になって新しい仕事を開発するのはあまりに大変である。勉強したいことも沢山ある。日本人が日本語を正しく喋ることへの興味、音声表現のつきせぬおもしろさ。これらを捨ててまで夫の赴任地について行くことは出来ない。  幾子の仕事を励まし、子供たちの世話を助けてくれた父は七十九歳、母も七十五歳、老いが目立ってきた。もし仕事を放棄することがあるとすれば、この老親に何かが起こった時である。子育て期親を頼りにした女として、親が苦しむ状況になれば放ってはおけないのだ。  しかし、それ以外のことでは仕事は手放すまいと思っている。転勤は、妻の生き方までも左右するものであってはならないはずのものだ。吹く風はまだ冷たいし、友人たちの半ば羨望、半ば誹謗の声に傷つくこともあるけれど、そんな時には「ナニ言ってんだい。やった人の勝ちなんだから」と開き直ることにしている。  子供から手が離れて、仕事もいよいよこれからだ。時間が欲しいとあれほどに思ったその時間をようやく手にしている。その毎日を大切にしていくことが、人間的に成長していくことだと、幾子は思っている。 夫が辞めて帰ってくる!  いま下塚圭子(三十一歳)は、未来に微かな希望を抱き始めている。単身赴任していた夫が、会社を辞めて帰って来るというのだ。  単身赴任がいやで帰ってくるのではない。妻の「あなたが辞めればいいじゃない」の言葉に負けたわけでもない。夫自身が、自分の本当にやりたい仕事はここにはないと、会社に見切りをつけたためだ。  妻は、自分の仕事を続けたいと悩んだが、夫は逆に、このまま今の仕事を続けていていいのだろうかと悩んでいた。  夫は大手家電メーカーの電機技術者、専門はコンピューターなのだが、やらされているのはビデオ関係のものばかり、やりたいことと現実の仕事とのギャップが彼を苦しめていたようだった。  転勤辞令が出た時は、二番目の子供の出産直前だった。正確には、転勤ではない。工場移転に伴う移動である。横浜市に隣接する町から埼玉に移る。自宅から電車を乗り継いで三時間余の距離、通勤は不可能であり、他の多くの家族は新しい工場周辺に家を見つけて移り住むという。工場移転であるから、ここに再び戻る可能性はまったくない。  当然夫婦の間で、彼らもまた新しい住居を求めて移転するか、このまま留まるかが議論となった。移転するとなると、圭子が仕事を辞めなければならない。  圭子にしてみれば、ようやく見つけた再就職だった。子持ちの二十八歳がこんなにも就職の難しいものなのか、身にしみている。職のない、家事・育児専念というものが、なんとむなしいものかということも味わい尽くしている。それを振り出しに戻すことは出来ない。  二人は、九州の大学の同期生、二十五歳の時に結婚した。結婚前は、大学院修了後熊本の高校の英語教師をやっていた。若い頃から英語が好きで一生やっていこうと思っての就職だった。  だが、結婚相手が住むのは横浜。迷いと悩みの日々を過ごした後、まだ若い、大都市であれば英語を使う仕事も沢山あるだろうと、結婚と同時に退職に踏み切ったのである。学生時代からの長いつきあいであった男と生きる人生を選んだ。  やがて長女が生まれた。子供は可愛い。しかし、友人も知人も誰一人として心を打ちあけて話す人のいない都会のアパート生活の中では、子供への愛情すらもが重荷になってくる。いったい私は何をやっているんだろう、こんな生活でいいのだろうか、そんなイライラが昂じてくると、子供にも夫にも優しくなれない。自分でも驚くような鋭い声で子供を叱りつけている。  夫は女性が働くことに賛成する男だった。 「君のような人間は外で働く方がいいだろうな」  こんな言葉に励まされて、新聞の求人案内を見るようになった。翻訳の通信教育も受けており、翻訳家になりたかった。  翻訳の求人を見るたびに応募してみるのだが、「経験がない」と断られ続けた。あきらめかけていたころ、年齢性別経験不問の今の会社の広告を見て応募したのである。十数人の中からたった一人の採用、嬉しかった。子供は一歳半になっていた。  翻訳部門は全部で二十三人、そのうち十人はタイピストだが、残りの十三人は男女半々で翻訳をやっている。キャリアをつけて、ポストを得ていく組織になっている。主任は四人だが、うち三人は女性と、女性の職場として将来展望もある。  仕事は技術文書の翻訳、次から次へと廻ってくる文書はこなし切れないほど多く、いったん保育園に預けている子供を引きとった後、子連れで職場に戻ってワープロを打つ夜もあった。  ようやく職場を見つけ、仕事も安定し、生活全体が歯車に乗ってきた時になって持ちあがったのが、工場移転であったのだ。 「いやだわ私、仕事のない生活なんてもうコリゴリなの。私はここに残るわ」  再び見知らぬ土地に行って、ゼロからやり直すなんて。夫の会社の都合に振り廻されるのはいやだ。  翻訳はフリーでも出来る。お金のことだけを考えたらその方がいいかもしれない。しかし、それでは進歩がなくなるのではないかという恐れもある。会社に居れば、アメリカ人も居てあれこれ指導してくれるし、教えられることも多い。人と人との間でもまれることには、金銭には替え難い成長がある。ふと何気ないお喋りの中にも、納得したり反発したり反省したりするものがあるし、そしてそれが気晴しになることもある。これは、家の中に一人居たのでは得られない世界だ。しかも、病気の時の保障とか老後への年金、仕事の量的な安定など、将来を考えると、会社勤めの方がいい。今は、職場の中で能力を伸ばし、キャリアを積んでいくことが一番いい方法なのだ。  動きたくない。やっと手にしたものを捨てることは出来ない。 「ねぇ、あなただって本当にやりたいのはコンピューターなんでしょう? 他に転職することを考えた方がいいんじゃない? 替わるなら若いうちだと思うけど……」 「そんなこと言ったって、どこでもいいというわけにもいかないよ。転職するにしろ、配転してもらうにしろ、一度は埼玉に行かなければならないんだ」 「でも私は動かないわ。転職の可能性があるんならなおさらのことよ。将来の見通しがつくまでここに居るわ」 「分かったよ。僕一人で行くさ」  憮然《ぶぜん》とした表情だった。やっぱり単身赴任はいやなのだろう。だけど、夫のために犠牲になる人生を選ぶことは出来ない。  夫は不機嫌なまま自分で荷物をまとめると、会社の単身者寮に入った。その直後に二番めの子供の出産があったのだが、ちょうどその出産日の日曜日と月曜日家に居ただけで、産休は三日あるはずなのに、火曜日には帰って行ってしまった。実家の母が来て、上の子の面倒をみてくれたから何とか乗り越えられたけれど、この時の夫の冷淡は圭子の心を寒くした。  夫について行かないということだけで、どうしてこんな冷戦状態になるんだろう。夫は会社の寮に入っている。食事はおいしくないと外食しているらしいが、洗濯物は持って帰るし、精神的なくつろぎを除けば、生活上の困難はないではないか。こちらは、子供二人育てながら働いていこうとしているのに、とてつもない迷惑を夫にかけているかのようなふるまい。やりきれないなぁと圭子は思った。  大人なんだから、栄養管理も生活上のことも自分でやってもらいたい。そんな日常の些細なことよりも、二人がお互いの目標に向かって生きることの方がよほど大事なことではないか、不機嫌な夫の背を見送りながら、学主時代から“生きるための仲間だ”と思っていた夫の別の面を発見した思いだった。男は男社会に入ると、そこに順応していくために、かくも保守的になるのか、自分をどこかに取り落としていくことに気がつかないのか、不安にもなってくる。  夫の転勤と産休とが重なったため、会社の方も心配したようだ。 「一人で大丈夫ですか。産休が終わっても来てくれるんでしょうね」 「もちろん、辞めるなんて考えてもいません」  と答えてはみたものの、いざ実際一人で幼児と乳児の二人を抱えてみると、仕事と育児の両立は難しく、こういう時夫が居てくれたらなぁ、と思うことも多い。  勤務時間は朝八時半から夕方五時十五分まで、朝は六時に起きて掃除、洗濯、七時には赤ん坊の長男を背中に、二歳の長女を自転車の前に乗せて家を出る。保育ママさんの家と保育園を廻って会社に出勤、雨の日などはせめて一人だけでも車で送ってくれる人が居れば、どんなに助かるだろうと思う。  病気の時もつらい。休めればいいけれど、仕事の締め切りなどでそうもいかない時もある。子供が心配でそっと会社を抜け出す時、自分一人のことだけをして、仕事の世界にひたり切っている夫がうらやましい。家事や育児も二人協力しあってやっていこうと話しあっていた青春の夢が、こんな結果にしかならないとは……。  子供は一日一回は「パパは帰って来ないの?」と聞く。金曜日の夜に帰って来て、月曜日の朝早くに出て行く父親、普段の日に居ないのはおかしいと気づいているようだ。  子供のためには、別居生活はよくないのかなぁと思ってしまう。疲れている時など、感情にまかせて叱りつけていることがある。子供は逃げていく場を失っている。片親だけで子供を育てる難しさを痛感するのだった。  会社でも、どうして辞めてついて行かないの? と言われる。とくに女性の先輩から言われるとつらい。 「私は子育て中はずっと家に居て育児に専念していたのよ。下の子が小学校にあがってからパートで再就職したわ。やっぱり子供が小さいうちは母親が側に居てやらなくっちゃ。子育てが終わってから勤めた方がいいんじゃないの?」  とかく女は、自分のやり方を他人に押しつけたがる。自分と違うことをしている後輩にはひとこと言わないと気がすまないらしい。  そう言われればそうかなぁ、試行錯誤の毎日ではあるけれど、経験者からそれを言われると、ひどくむなしいことでもやっているような気持ちになって考え込んでしまう。  長女は最近情緒不安定になっているのだろうか、弟が生まれたせいもあるかもしれないが、時々どもったりする。ちょっとしたことでも気に入らないことがあるとワッと泣き出したりもする。父親も居なく、母親も疲れている毎日の中で、子供の心は大丈夫だろうか。共働きの母の悩みに加えて、別居生活への戸惑いと一人で何もかも背負う緊張感。やはり子育て中は家に居た方がいいのだろうか……。  子供のことへの干渉に加えて、お定まりの浮気説。これは男性が言う。 「男って放っとくと浮気するものだよ」  聞き流してはいるけれど、やっぱり不愉快だ。  二重生活を送ってはいるが、単身赴任手当は出ない。子供の教育上の理由か、家に老人とか病人が居て動けない場合以外は、手当は出ないのである。妻は夫の転勤にはついて行くのが当然だから、“職業”などを持つための単身赴任は対象にならない。あまりに妻の人権を無視したやり方ではないか。自分の生き方を求めようとする意識の問題と、夫婦がどのような生活の形をとるかということとは違う次元のもののはずなのに、これまで多くの働く妻から言われていたように、あたかも妻がとてつもない我儘をしているかのように、罰でも与えるごとく、手当ては出してくれない。  夫の会社でも、埼玉の方に翻訳の仕事を探してくれると言って来た。会社としても単身赴任が目ざわりなのと、夫に辞められたら困ると思っているらしい。  しかし夫とて、いつまで今の会社に居るか分からない。夫が辞めて別の土地に住むことになれば、また自分も辞めざるを得なくなる。そんな不安定なことは出来ないし、男の状況によって左右される生活は拒否したい。  今の仕事は工業英語が中心だけれど、やがては文芸書の翻訳にも力を伸ばしていきたいと思っている。仕事はおもしろいし、職場の波風も最近は治まってきた。将来への希望のある今の仕事は捨てられない。自分の意志を曲げずに生きていこう。  しかし、家族一緒に暮らしたい思いも強い。自分にとってのあるべき姿と、家族としてのあるべき姿がぶつかりあう今の生活はあまりにも迷いが多すぎる。いつまで続けられるのだろうと思う時が一番つらい。  夫も淋しいと言う。妻が動かない限り、夫が今の会社に勤め続けるとすれば、半永久的に別居生活が続くことになる。  夫は夫で考え続けていたのではないかと思う。別居生活半年めの頃、言ったのである。 「コンピューターの仕事をやらせてくれるっていう会社があって、そっちの方に履歴書を出したよ」  今の会社には辞表を出したらしい。  良かったぁと思った。夫が戻って来れば、まさに一件落着、胸がはずんだ。夫は夫の道を生きるために、帰って来るというのだ。肩の力が抜けて、視野が明るくなった思いだった。妻が夫の犠牲になるのではなく、夫が妻の犠牲になるのでもなく、お互いが生きるために一番いい方法で、別居が解消されようとしているのだ。妻としても、夫が一番やりたいと思う道を歩んでもらいたいと思う。そしてそれが妻自身の道とも合致していることに幸せを感じる。未来が開けてきて、希望という言葉が改めて意味をもって輝く。  うまくいくことを祈るばかりだ。  夫と妻が別れて暮らすのは、やっぱりつらい。ちょっとした愚痴や相談ごと、何気ない会話、感情の行き違いや喧嘩も含めて、夫と妻は一緒に暮らしていないと心が離れていく。その淋しさ、夫婦って不思議なものだなぁと思う。  こうした夫婦の生活を無残に引き離す転勤は残酷だと思う。転勤であっても妻が犠牲にならない道を歩み続けた女は、企業の持つ非情さに驚くばかりである。 妻の自立を支えるもの  私が退職した時、ひたすら考えたことは、職場は去っても仕事からは去ってはならないということだった。前述のように、何かやらなくては……と思い、何が私の仕事なのか思い悩み、一時期は八つの組織(グループや同人雑誌も含めて)に属していた。いろいろやっていくうちにその何かとは何なのか、分かってくるのではないか、そう思って身近に出来ることを探し続けていた。そのことが後々の財産になっていったかどうかはともかくとして、転勤さえなければ、悩まなくてもいいものであった。その試行錯誤があまりにつらくて、時には苛々と家族に当たり散らしながら、あまりの未来の見えなさに慄然とする思いだった。まだ三十八、九の女が、あと四十年以上もの歳月をこんなふうにして過ごすのか、体力も気力もある中年期をこんなふうに生きていていいのか、一方ではあれこれやってみて人生消却法でもいいとあきらめに似た思いを持ちながら、一方では会社を辞めたことはなんと愚かな決断であったかと胸のいたむ後悔をひきずっていた。  とにかく仕事と言えるものを持たなくては。収入があってもなくても、自分がひたすら打ち込めるもの、そこに「評価の欲求」と「自己実現の欲求」を満たし得るもの、それがなくては生きるのも難しい。  本章の二人の妻は、仕事の世界を守り続けた。一人は二十年間を別居で、一人は夫が転職するという形で。二人ともどもに、夫を単身赴任させることに悩み、女が経済的・精神的な自立を選んだ時の、心の傷を背負っているけれども。  民法七五二条によると、「夫婦は同居し、互いに協力し、扶助しなければならない」となっている。普通の夫婦であれば、一緒に暮らしたいと思うのが当然だ。転勤は、そうした夫婦の感情に背くものである。妻の自立を妨げるものでもある。私自身は最後になって自立の道を途中から切り換えてしまったが、この二人の妻のように自分の仕事に愛着を持てば持つほど、民法の規定にも背くものとなる。とすると、転勤そのものが、民法にあい反するものではないのだろうか。仕事をし続けたいと願う妻の夫婦同居の権利を奪うものであり、妻の仕事を辞めさせる圧力は、働く権利を奪う。  ILOでは、「男女労働者=家族的責任を有する労働者の機会均等及び平等待遇に関する勧告」において、転勤に関しこう述べている。 「労働者をある地方から他の地方に移動させる場合には、家族的責任及び配偶者の就業場所、子を教育する可能性等の事項を考察すべきである」  また共働き夫婦の、妻の働く権利についても、具体的にその保障を行なうべきであるともしている。  弁護士宮地光子氏は、全損保大東京支部の講演の中で、共働き夫婦に関する単身赴任事件を紹介しているので引用してみよう。 ○秋田相互銀行、萩野夫婦事件(秋田地裁、昭和四十三年七月三十日)  判決。夫—秋田相互銀行勤務、妻—同銀行勤務。 「夫婦は別居の結果、経済的および距離的関係からいって、会うのは月二回ぐらい。別居による二重生活のためにこうむる精神的・経済的影響は、特に著しいものと言わざるを得ない」として、会社の転勤命令を無効と判断、夫を元の勤務地へ戻し、夫婦共働き、同居の権利を認めるべきである。 ○山陰放送事件(鳥取地裁、昭和四十四年九月二十七日)  判決。夫—山陰放送勤務、妻—島根婦人少年室勤務。 「妻が、島根婦人少年室に勤務している関係上、転勤命令により妻と別居するか、妻が退職するかのいずれかを選ばざるを得ず、……他に判断の事由のない限り、申請人は活発な組合活動を会社から嫌悪されて、不利益な本件転勤命令を受けたもの」として、組合活動を理由とした配転命令は無効であると明らかにし、さらに、共働き夫婦の同居の権利を守るため、夫を元の勤務地へ戻すよう命じる。 ○三井造船大橋事件(大阪地裁、昭和五十七年四月二十七日)  判決。夫—三井造船勤務、妻—病院栄養士主任。 「……年老いた父親とずっと大阪に住んでいて、大阪を離れがたい事情があること、妻が病院の栄養士主任をしていることを認定したうえ、会社の主張する『幹部候補生論』は、確かに将来管理職に就くことが予想される者らにとっては、各部門の実情を知る機会を広く得るためにも、一般的には望まれることであるとは言えようが、大学卒であるという事から、(全国各地に営業所等を有する場合に、)個人的事情をまったく抜きにして会社側の都合だけで配転を命ずるというのも行き過ぎの感を免れない。福岡へ転勤し、単身赴任した夫を元の勤務地である大阪に戻すこと」  この判決では、次の四つが具体的に明らかにされた。  共働き夫婦の妻の働く権利ばかりでなく、年老いた父親が居るという家庭の事情も十分に考慮されるべきであり、そうしたことは、全国に支店、営業所網を持つ大会社においても、社員への転勤命令を行なう際、当然留意しなければならず、仮に当該本人が大学卒で将来の幹部候補であったとしても、転勤を甘受しなければならぬ理由にはならない。  この三例は勝訴であるが、川崎重工近藤事件のように(夫—川崎重工勤務、妻—共済組合勤務、夫に神戸から岐阜への転勤命令)、いったん神戸地裁尼崎支部で配転無効の判決がありながら、大阪高裁では敗訴になった例もある。  以上が宮地氏の講演録からの抜粋であるが、裁判にまで持ち込むのはよくよくのこと、しかも夫の側に配転不当とする強い感情がある。多くの場合は、転勤にある程度の不合理を感じても、人事権は会社にあるとして従わざるを得ない。そこに、妻の悩みがあるのだ。夫が転勤を喜び、意欲を燃やしている場合はなおさらのことだ。私もまた、夫が仕事の世界の拡大と張り切っていたが故に、会社の不当配転ではなく、夫婦の問題として苦しまねばならなかった。  金子幾子が、二十年にわたって別居生活が出来た背景には、実家の存在がある。実両親の助けがあった。それ故に今彼女は、両親の高齢を前にして、 「父や母が、病気になった時には、仕事を辞めなくてはならないでしょうね」  と語っている。働き続けるためには、親の力が必要だった、そしてその親が病気になった時には、働き続けたことによって、より愛着の深まった仕事を、去らねばならないジレンマに落ち込むことになる。仕事を続けたいとする強い意志が彼女を支えていたが、それも未来においてはどうなるか分からない不安定さを抱え込まねばならない。  大正大学教授、望月嵩氏は、『サイコロジー』�33において、単身赴任家族をこう分析している。 「単身赴任という出来事によって、家族に変動が生ずる場合、家族の統合に向かうものと、解体の方向に向かうものとに二分される。  その分岐点は単身赴任問題をその家族がどう受けとめるか、単身赴任によって生ずる生活上の諸問題を処理できる物的人的資源をどれだけ確保しているか、の要件で決定される」  私はこの他に、家族の年齢構成と赴任地との距離も大きく作用すると思っているが、基本的にはやはりこの二つの要件、家族がどう受けとめるか、諸問題を処理できる物的人的資源をどう確保するかが問われるところだ。この二つが二つながらにうまくいかない場合に、単身赴任家族の悩みは大きくなるのだ。  金子幾子の場合は、の部分は実家に支えられたものであったが、夫との関係では悩みがあった。本章の二人の主婦のみならず、他の章でも登場した単身赴任体験(短期間であっても)の妻は「夫の不機嫌」をあげている。それが夫婦間、子供間に及ぼす家族への影響は大きい。昨今のように、単身赴任をなくする動き、つまり家族帯同の社会の動きにあって、妻の仕事などで単身赴任をする夫はより悲惨感を募らせ、外側からも同居の原則違反者として精神的な圧力をこうむることになる。夫も苦しむし、それによって家族も苦しむことになる。  現在、四十万人は居るだろうと言われている単身赴任者とその家族は、この二つの要件という細い城壁の上を手をつなぎあって歩いているような気がする。統合の側に落ちるか、解体の方向に落ちるか。「女なんてつまらない」と仕事人間の夫への抗議の遺書を残して三児を道連れに母子心中事件を起こした家族も、綱渡りのような心と生活を抱えていたと思う。  単身赴任によって、家族はどのように変化するのだろうか。NHK大阪放送局教育部が昭和五十七年に単身赴任家族千世帯をアンケート調査しているが、それによると、夫婦の側からは「より親密になった」二十パーセント、「やや疎遠になった」十九パーセント、「疎遠になった」二パーセント、「前と変わらない」五十八パーセント、六割が変わらず、親密と疎遠が二割ずつとあい拮抗する結果を示している。子供の方からは、「家族が団結するようになった」十三パーセント、「明るくなった」三パーセント、「(子供自身が)のびのびした」十五パーセントとプラス評価があるものの、「なんとなく活気がなくなった」二十四パーセント、「きょうだいげんかが増えた」六パーセント、「何か不安がつきまとう」十二パーセント、功も罪もありながら、若干マイナス部分に数値が高い。  こうした家族の変化をよりプラスの方向に持っていくには、コミュニケーションが大切だと言われている。  宮城県から兵庫県に単身赴任して二年になる音原元次氏(教員)は、その間に家族から毎日のように便りを受け取り、二年間で四六二通に達したという。氏は朝日新聞声欄に、このような事実を紹介したあとで、 「家族と離れてみて、家庭のよさ、家族との結びつきの強さを改めて認識したことも多い。要は、父親の単身赴任を、家族みんながどのようにとらえ、どのように乗り越えていくか、その心構えや行動が、単身赴任をプラスにもマイナスにもするのだろう。そして家族全員が単身赴任というハードルを無事乗り越えた時に、その結びつきも以前とは違ったものになると思っている」  と、家族の意志の一致や協力の大切さを訴えている。  単身赴任によって、失うものも大きいだろうが、発見するものもまた大きい。やはりここにも、望月氏の言う二つの要件がどれほどしっかりリンクして父親と家族をつなぐかということになる。そして、単身赴任を乗り越えるものは、夫の人間性や生活力、夫婦の精神的絆の強さということになるのではないだろうか。  もちろん、単身赴任が夫婦の危機を招く可能性は大きい。単身赴任の結果、離婚した夫婦もいる。  その中でもとくに性の問題は重要である。前記NHK調査によれば、単身赴任後夫の性的不満は「よくある」十一パーセント、「ときどきある」六十四パーセント、妻の側では性的不満によるイライラは十一パーセントである。実際に浮気した夫は十四パーセントだった。妻の方の資料はない。  この十四パーセントという数字は、高いのだろうか低いのだろうか、本書のインタビューでは夫を単身赴任させた経験のある妻全員が「旦那さん浮気するわよ」と言われている。単身赴任イコール浮気のような目からすれば低いと言えるが、しかし婚外性交が単身赴任によって引き起こされたという事実からすれば七人に一人の浮気は高い数字だ。妻にしてみれば単身赴任による緊張やストレスを受けながら夫に浮気されるということは、踏んだり蹴ったりである。多くの妻は「夫を信頼している」と言うが、その信頼を裏切るものでもあるのだ。  また、留守を守る妻への周囲の男たちの好奇の目もある。金子幾子は、男友達に飲みに誘われて、憤然として帰ってきた。  性の問題をこの一連の取材の中でどう取り扱うかは、私にとって最大の悩みだった。転勤族にとって、一緒に行くにしろ、単身赴任するにしろ、性は重大な問題である。幾子は、インタビューの終わりに「セックスのこと、あまりお聞きになりませんでしたね」と言ったが、私自身好奇の目で見られた過去を思うと、それを言葉として発することは美意識のようなものが許さなかったように思う。  単身赴任の妻のセックスの淋しさは、単に行為そのものがないということではない。もっと漠然としてとりとめのないものだ。今まで隣に寝ていた人が居ないそのスペースの広さ、ちょっと触れて確かめたい暖かく大きなものがない欠落感。布団をころげ廻って抱きしめるものが欲しいと思った記憶が私にもある。それは性的な渇きというよりも、夫婦が持つ日常性への飢えであったように思う。「ねぇ、どう思う?」「どうしたらいいかしら」「いいお天気ねぇ」「変な事件が起こったわよ」こんな日常会話と、もう一つの体温が欠けてしまったことによる胸がスカスカするような寒々しさ。胸の中の色とりどりのハメ絵がバラバラになってしまって、どうにも埋めようのない白い空間。心身の安定が崩れてしまうのだ。こうしたあまりにも微妙な夫婦の性を質問し、回答を引き出せるほどの自信もなかった。  夫と一緒にどこまでも行く妻は、浮気されたらいやだと答えている。夫の行動を全部知ることは出来ないが、少なくとも毎日一緒に暮らしていれば、変化は察知出来るだろうし、何よりもコトが起こった時に後悔しなくてすむ。浮気をさせないためにも、妻は側に居ることが必要だ。そして別居する妻は絶対的信頼をよりどころにする。家族帯同は、性のトラブルを未然に防ごうとするものであり、単身赴任は信頼を前提としているということにもなる。  単身赴任を続けながら、妻も自立の道を歩む。それは、多くの困難を背負うことになる。妻の緊張度は非常に高い。  だが、この妻の気持ちは社会的容認を得ていない。一九八六年七月、転勤と単身赴任に対して、次のような最高裁の判決があった。 「家庭生活上の支障は通常甘受すべき程度のもの。会社側は、業務の能率増進や労働者の能力開発などに寄与すると考えられれば、転勤命令を出せる」 “通常甘受すべき程度のもの”という表現は、単身赴任する夫や残される妻の思い、さらについて行かざるを得ない妻の心を無視したいい方ではないだろうか。改めて言うまでもないだろう。我が国はいまだ富国強兵の延長にあるのだろうか。  金子幾子は、いま二十年ぶりに夫と同居し、こんなにも安心し、落ち着き、多くの妻とは逆に夫の居ることで精神的な解放感を味わっている。下塚圭子にしても、夫が転職して戻って来ることで、父親不在の育児の不安が解消し、保育園の送り迎えなどでの夫婦の協力が可能になると語っている。単身赴任は夫にとっても生活的自立を問われることになるが、妻にとっても生活を背負う責任の重圧がある。  この二人の妻が仕事を理由に動かなかった背景には、はからずも二人ともが自己裁量の大きい、いわば自己実現型の仕事をしていたことがある。仕事が、単に労働力提供だけでなく、かなり知的な分野であった。悩みも大きかったろうが、意志を守り通せたのには、仕事の性質が非常に大きな比重を占めていた。  と同時に、その仕事が留守家庭生活を困難にさせるほどには、ハードなものではなかった。金子幾子はフリーであるし、下塚圭子もまだ若く、組織で働くことに学び得るものは多大としながらも、組織運営にたずさわる多忙さに身を置いてはいない。  再び私自身の体験に戻るが、もし私が室長職に居なければ、単身赴任も続けられたのではないかと思うことがある。そのあまりの忙しさ、気苦労の多さ、かかってくる責任の重さ、祖父なきあとの家庭に居る子供、すべてに自信を失ってしまったと言ってよい。キャリアを守らねばとする思いと、キャリアがあるからこそ守り切れない現実とのジレンマであった。もちろん、意志の弱さもあったろうが。  キャリア志向の女性が増えるにつれて、転勤はますます女の悩みとなってくる。夫婦が協力しあって家庭を守る原則を壊され、夫の生活的自立の未熟や周囲の目などで、妻の方が退職の決断をせまられる。  企業も、人事権を謳《うた》う前に、社会全体の動きを見渡した配転のありよう、組織の作り方、社員の育て方の再考が求められているのではないだろうか。さらには司法においても、不当配転に対する厳しい目を失ってもらいたくないし、家庭に対して暖い判断を持ってもらいたいと切に思う。 終章 転勤——妻の岐路  妻たちのインタビューは終わった。  登場する“転勤族の妻”は、それぞれに悩みを抱え、転居後の生活への適応に苦労を味わっている。そのショックは、喜んで同伴した場合であろうと、いやいやながらの転居であろうと、大きな共通性を持っている。  本章においては、若干これまでの章でのべたことと重複するが、岐路に立つ妻たちの思いを要約してみたいと思う。  〈家族と企業(組織)〉  アメリカの家族社会学者T・パーソンズによれば、現代家族の基本的な機能として“子供の社会化”と、“成人の精神的安定”の二つがあるという。  転勤は、家族帯同にしろ、単身赴任にしろ、この二つの家族機能に揺さぶりをかけてくるものだ。  転勤、と聞いた時の妻のショックは大きい。家族とは何なのだろう、夫婦とは何なのだろうと改めて問いかけられるのだ。単身赴任を続けた妻は“家族は一緒に暮らすもの”とする原則の故に、自分が折れてついて行くべきではないかと迷いを重ね、夫の赴任先に行った妻も、少数を除けば、一度は単身赴任を考え、動きたくない思いに悩む。どちらをとっても、転勤はショックを与える。  これまで、転勤族の妻のこうした細かな心の襞に分け入った意識調査が行なわれたことがあったろうか。  八割の企業が、“家族帯同”を原則とし、夫が動くのなら、妻も動くのが当然、人事権は企業にあるが、妻の人生への指導権は、夫にあるものと、転勤に関して妻の意向を確かめることはしない。女の運命は結婚次第、夫次第で女の幸せは用意される、転勤によって夫の“出世”が保証されるのなら、妻にとって幸せであるはずだと信じて疑っていないのだ。  しかしいま、そのことに妻の方から疑問が提出されている。妻には妻の人生があり、家庭とのバランスの上に、自分の生き方を持っていたい、家族総ぐるみで企業に巻き込まれたくはないと主張し始めたのだ。夫への辞令は、妻への辞令ではない。  転勤は“出世”を用意しなくなった。最近の各企業のポスト不足では、横スベリも多い。また、転勤は人事刷新にもなる反面、幹部候補生への教育の名のもとに、使いにくい者を出す、ある意味での懲罰人事にもなっている。ババヌキゲームのように、誰がいやな奴を引き抜くか、そうした人事が行なわれていることも、私自身長い会社員生活で知っている。その一方で、転勤が本人の将来のために、飛躍台になるのも事実だ。  しかしそれはあくまでも企業の都合である。  私たちは、転勤がもたらす家族への影響、夫婦の葛藤に、もっと目を向ける必要がありはしないだろうか。会社のためだからしかたないという発想は、あまりに企業戦士でありすぎるし、現代の徴兵制あるいは現代の一銭五厘物語として従順にすぎる。しかも戦争ならば家族ぐるみで出かける者はいないが、転勤は、“男の仕事を支えるのは家族”の旗印のもとに妻の人生をも変えようとするものである。  その一方で、妻もまた仕事と家庭の両方を生き方として求めるようになった。転勤は、こうした自立意識を持つ妻とともに生きようとする夫にとっては、家庭基盤を弱くするものともなる。妻の生き方に理解のある夫であればあるほど、夫自身も悩むことになる。  昭和六十一年四月より施行の男女雇用機会均等法によって、長期勤続によるキャリアを志向する妻が増え、企業もまたそれに期待するようになれば、夫の勤める企業と、妻の勤める企業は利害が対立することになる。それが夫婦の亀裂、分裂になることも十分考えられる。  とは言うものの、誰の目にも不当配転であれば裁判に持ち込む方法もあるが、夫が喜び勇んで行こうとする時、妻の葛藤は深くなる。ここに夫婦の対立が起こるのだ。妻としても、愛する者の志を曲げたくはないと思う。昇進や出世云々以前に、やろうと意気込んでいる人の邪魔をしたくはないと思うのは当然の気持ちである。  転勤のある企業と結婚前に知って、結婚をやめようかと考えた妻もいる。結婚後に知って「騙された」と苦しんだ妻もいる。転勤など考えもしないで結婚して、「しまった」と思った妻もいるし、転勤したあとのさまざまな葛藤に離婚しようかと悩んだ妻もいる。転勤を前提とし、次はどこか心待ちにする妻でさえ、転居後の孤独に悩むのだ。今後、前述のようなキャリア志向、高学歴女性が増え、自分の人生を主体的に考える女が多くなれば、安易な転勤をくり返す企業の若い男たちは、結婚難の時代を迎える。  転勤は家族にとって何が大切なのか、改めて問うものである。その大切さの順序は家族によって千差万別であろう。その多様性、家族の個性というものの尊重を無視するところに転勤の残酷さがある。昨今、家族の問題は各方面でとりあげられているが、家族のモデルというものは、いまだ発見されていない。転勤問題から家族を見た時においても、夫を中心にして家族の一致団結で同伴すべきだという意見から、夫も妻も個性を尊重して、どちらがどちらの犠牲になるものでもないとする意見まで、これまた千差万別である。少なくとも私は、良い家族とは一致団結して夫の任地に赴くことだという形で、特定のモデルを押しつけられることは拒否したい。あくまでも夫婦の自立性によって決断されるべき性格のものである。  企業の発展を謳い、その手段として転勤を行なう企業の人事政策は、基本的なところで間違っている。私の勤めていた小さな会社の例だけで言うのは危険かもしれないが、地方配転などあり得ない企業では、それなりの努力で人事刷新に心を砕いているのだ。転勤を出来るだけ少なくする方向に向かわない限り、社員一人一人の足もとが崩れていくことになる。  〈妻の自立と転勤〉  転勤辞令は、妻の社会的立場とは関係なく発令されている。  職業にしろ社会的活動にしろ、精神的にそれらの活動への関わりが深ければ深いほど、妻は葛藤を味わう。まさに妻は岐路に立たされる。  この時、企業の人事権は、夫婦の愛情にすり替えられる。夫を愛しているのなら、ついて行くのが当然ではないか、夫あっての妻ではないか、転勤によっていくばくかの昇進をすることは、家計を潤すものとなり、生活の安定にも結びつくものではないか……、一緒に住むのが夫婦というものだ……。この常識と、妻には妻の人生があるとする信念との対立が深まることになり、そこに愛情の問題がからんでくる。妻にとって、もっとも悲しくつらい選択が行なわれることになっていく。 「男と女が離婚するには、もっと本質的な理由が必要です。転勤は生活上のことです……」 「離婚しようかと何遍も思いましたが、生活のことを思うと、やっぱり別れられません」  愛情と生活と、そして自分、天秤にかけてみれば、自分の側の比重は軽い。どちらが辞めるか。よほどの例外でもない限り、現在の終身雇用制度の上では、夫の方が年長者であれば夫の収入が高いことになる。経済原則からすれば妻が辞めざるを得ない。さらに、愛情というものも、妻の犠牲がなければうまくいかないのではないか、これを犠牲などと思ってはいけないのだ。そうした思案のあれこれの末、妻は職業を捨てて夫との生活を選び転居する。  もしこの時、単身赴任を選べば、夫婦の軋轢《あつれき》はより深刻になる。  それにしても、単身赴任の理由として、“妻の職業”の比率の低いのには驚かされる。三十代前後の妻たちの就業率は、わが国独特のM字型就業構造が示す通り、非常に低い。しかしそれにしても、“子供の教育”“持ち家”“老親”に比べれば、あまりにも低すぎる。“妻の職業”を理由にしにくいために、他の無難な理由にすり替えているのではないだろうか。転勤問題においては、妻の職業は、まったく市民権を得ていない。  単身赴任をさせる妻も、結局は転勤に応ずる妻も、等しく思うことは、妻の同道如何によって夫の評価が変わることである。 「女房一人牛耳れないのか」 「カァちゃんが強いから、シリに敷かれて」 「女房の実家に頭があがらないから」  こうした社会通念の目によって、夫も妻も深く傷つくのだ。だいたい言葉からして“家族帯同”である。“帯同”、この言葉は、調査項目に使われており、私も多用はしたけれど、あまりにも古めかしい表現ではないか。持ち物とまでは言わないにしろ、連れて行く夫と連れられていく妻、夫婦の対等性をまったく感じない言葉である。連れられていく妻に心はないと思わせる表現でもある。  妻の自立は、夫の無能力の証明なのだろうか。女房を働かせるとは、不甲斐ない男なのだろうか。これに姓名や妻の実家の事情などが加わると、ますます、男としての評価を下げるものとなり、夫婦の苦悩は深くなる。  このあたりの社会や企業における意識変革がない限り、男も女も幸せにはなれないし、日本は社会的教養度の低い国にとどまり続けるだろう。妻の自立による夫へのマイナス評価はいい加減やめてもらいたい。  妻の自立は、むしろ夫の有能性の証明である。夫婦の絆が強いからこそ、妻は活動出来る。こうした視点に立って転勤問題が考え直されない限り、妻にとって転勤は“魔の辞令”であり続けるだろう。  それにしても驚かされるのは、単身赴任者の妻が判で押したように、性の好奇心で見られることだ。 「旦那さん、浮気するわよ」 「一人で放っておいていいの」  男からも女からも言われている。これを言われることの不愉快さと、父親不在の家庭の子供の養育問題が、単身赴任の妻の最大の悩みであり、これに「夫の不機嫌」が加わる。妻が自立を志すことは、夫に対して途方もない迷惑をかけ、大変な我儘をしているかのように思われ、その重圧と性の問題の故に、志はぐらついていく。  男は一人になると、それほど性の不満を持ち、浮気をするものなのだろうか。転勤について歩く妻は、「浮気は絶対にいやだ」と思い、単身赴任の妻は「信頼している」と答える。 「あの夫婦はしっくりいっていないんじゃないか、何かあるんじゃないか」 「夫婦仲が悪いんだろう」  とする目も夫婦を傷つける。夫の単身赴任イコール夫婦の不和、夫の浮気と結びつけて考えられることに、単身赴任の妻は抵抗感を抱き、口惜しい思いをなめる。  単身赴任の夫は悲哀に満ちているという説もある。馴れない土地で一日を働き、疲れた身体で暗い家に帰って来る。そのつらさ、わびしさ。しかしこれとて、共働きの妻なら、みなやっていることではないか。夫より一分でも早く家に帰ろうと、駅から走って玄関に灯をつける共働きの妻。  夫とは妻にかしずかれて、すべての家庭の雑事は妻がやるものとする“常識”と“世間体”の故に、自ら苦しんでいるのではないかと思う。つまるところは、生活的自立のない“甘え”の態度に他ならない。家事をやることで仕事に悪い影響を与えるなどとは、あまりに粗末な思考である。  とは言うものの、単身赴任者の妻は、夫に余計な負担をかけていることで苦しまねばならない。夫の自由さをうらやみながら、自分の責任で子育てする不安や、「これでいいのか」とする思い、あるいは他人の無責任な言葉に悩みながら、自立を捨てまいとそこに心の錨をおろしているのだ。自立を守るが故に重圧は厳しい。  転勤は、夫婦のありよう、夫婦とは何かを問いかけてくるものである。そこに夫婦にまつわる神話や常識がからんでくるが故に、さらには「一緒に暮らしたい」とする思いが加わるために、自立の道を捨てる方向に、妻自身も心を追い込んでしまうことになる。犠牲を犠牲と思わずに、次の道を探そうとする“健気さ”に席を譲るのだ。転勤族の夫婦は、こうした妻の“健気さ”に支えられているし、企業もまたそれを望んでいる。  転勤が妻の人権や労働権とまったく無関係に行なわれていることを、今我々は改めて問題にしなければならない。  〈転勤後のストレス〉  妻の健気さは、好奇心にも支えられている。  海外であろうと国内であろうと、新しい土地や人々を知り、一ヵ所に住んでいたのでは味わえない楽しみが得られる。姑から離れられると、古い家制度の桎梏《しつこく》に悩む妻は喜びもする。気分をリフレッシュさせ、新しい刺激を得て、生活のアクセントにしたいと願う。 「お母さんは、どこに行っても暮らせるのです」  と言った若い母親も居た。  小さい子供の居る妻は、子供を通して友人も作りやすい。多忙さの故に、気が紛れることもあろう。だから、子供が大きくなった夫婦、子供の居ない夫婦にとっては、転勤後の孤独とどう取り組むかが、主要な問題となる。  いや、すべての妻にとって、転勤後のストレスは大きな問題である。子供もまた、ある例ではぜん息がひどくなったり、環境変化の影響を受けざるを得ない。湿疹や心身症とも言うべき身体的な異常感に悩まされる妻もいる。  こうした妻の心身の健康に対して、夫は無関心である。夫もまた新しい環境の中で、たとえば“三ヵ月は試用期間と思え”式のハード・スケジュールを余儀なくされているのだ。一家を抱えて、この時とばかりに働かざるを得ない。  しかし夫はその忙しさの中で仲間も作っていける。歓迎会やつきあい酒の席も適応を早くしてくれるだろう。精神的ストレスも強かろうが、発散もしやすい環境にある。  妻の場合はそうはいかない。ストレスばかりがたまって、発散のさせようがないのである。  職を辞して夫の任地に行った妻は、とくに孤独感が強い。勤めている間は辞めたいと思ったことのある職場であっても、辞めてみれば湧いてくるのは愛着ばかり、今頃、皆はどうしているか、会いたい、話がしたいと、思うのは職場のことばかりである。再就職とて容易なものではない。中年期からの生き方を求めて、苦しい模索が始まる。 「やっぱり女は旦那さん次第で辞めるのね。アテに出来ないのね」  と、女への社会的評価を下げたのではないかとする責任感にも苦しむ。これほど悩んでも、その責任は女一人が背負うのか、夫を転勤させ妻に決断をせまった企業は非難されないのはおかしいと言った妻も居た。他人の意志による不合理な選択だとする怒りがそこにはある。結婚が失敗だったと意識されるのも、こういう時である。しかもいみじくも、仕事を中断され続けてきた妻が言ったように、 「転勤族の妻は、現実肯定主義でないと生きていかれないのです」  とする“根なし草”是認意識も働く。  こうした妻の心の動きは、夫にはほとんど通じていないと言ってよい。妻もまた、夫に余計な心配をかけまいと、自己解決を図ろうとする。妻の健気精神が発揮されてしまうのだ。  転勤後の妻のメンタル・ヘルスに対して、企業はもっと取り組むべきである。あまりにも夫婦の問題として放置されすぎている。  具体的には、転勤後の特別休暇、残業なしなど、夫を家庭に戻すような工夫や、何よりも夫の意識を変えるような、なんらかの社員指導が必要である。家族帯同を原則としながら、そのあとを放置している企業は、やらずぶったくりと、妻から批判されてもいたしかたない。長い目で企業の将来を考えるなら、人事管理、社員育成、組織構成の再考と共に、やむを得ず転勤させる場合の妻のアフター・ケアにも、本腰を入れて取り組まねばならないものだ。それは、単身赴任後の家族とて同じ問題である。  〈子供の問題〉  転勤は、単身赴任であろうと転居であろうと、子供にも強い影響を及ぼす。  単身赴任であれば、情緒不安定や父親不在による非行の問題が不安の種となるし、転居となれば、転校という一大変化を味わわなければならない。  留守家庭児の心身の影響については、メリット(団結するようになった、のびのびしたなど)、デメリット(活気がなくなった、不安があるなど)が言われているが、転校の場合はどうなのだろうか。  単身赴任問題が騒がれるようになってから、高校編入は以前よりもずいぶん改善された。転校しやすくなった。だがそれ故に、友人との別れや、新しい校風や規則などへの疎外感を持つ子供もまた増えている。とくに中学生の転校は、編入試験などもないので制度的には転校しやすいが、それが子供にとっては不幸になる場合もある。  子供もある年齢になってくれば、育った土地での文化を背負っている。言葉や行動にしても、子供だからとて、必ずしも順応は容易なものではない。一番の悩みは、部活であり、招かれざる人間の侵入は、それまで出来あがっていた子供集団の秩序を乱すものともなる。  学校側の受け入れ態勢による影響も大きい。  学校社会には驚くほどの閉鎖性がある。非行やいじめを心配するあまり、規則は厳しく、異質の文化を排除しようとする力が、先生にも子供にもある。留守家庭にも問題があるように、転校生を抱える家族も悩みを背負う。とくに高校受験を控えた中学生を持つ家族は進学問題で悩むし、故郷喪失者になっていく子供を思って胸を痛める。  今回のインタビューでは出なかったが、転校をきっかけに、性格が変わったり、成績が落ちたままもとに戻らなかったり、いじめの標的にされて登校拒否に陥ったり、転校生の周辺は、大人が考える以上に厳しいものがある。制度的に転校がしやすくなればなるほど、子供の心に与える影響への議論がなされていかなければならないが、この点に関してはどのような対策が講じられているのだろうか。多くは母親一人が子供を案じている。転勤に伴う変動の結果は、常に妻の肩にかかってくるのである。  このあたりも、いまだ根強い性別役割分担意識「夫はソトへ、妻はウチに」に支えられたままである。  子供は、転校によって精神が鍛えられる面もあろう。妻が孤独に耐えることによって、それも人生のプロセスだと思うように、子供も、余人には得られないものを得るのだとする考え方もある。しかし、だからと言って、「子供は適応性がある」と甘く考えてはならない現実もあるのだ。やり直しのきかない子育ての中で、転校がマイナスにならないように、長い目でみればプラスになるように、その母親の見えない苦労は計りしれないものがある。  〈高齢化社会と転勤〉  転勤辞令と共に起こる波紋は、老親にとっても小さなものではない。子供世代としても置いて行くか連れて行くか、とくに同居している場合は悩みが深い。単身赴任を選んでそのまま親の家に住み続けるケース、約束と違うではないかと怒りながら、親を置いて夫の任地に行くケース、親の近くに住みたいけれど結婚した以上は仕方ないと別離を決断するケース。古い家制度の柵《しがらみ》の中で“嫁”という立場に苦しんでいた妻は解放を喜びながら赴任するが、思わぬ親の病気で看病に苦労することになる。娘の立場と嫁の立場とでは、転勤と親との関係も微妙に異なるが、しかし、老いた親を残して夫の任地に行く妻にとっては、親孝行したいとする思いを挫折させるものである。残される方も精神的打撃は大きい。病気を誘発させるものともなり得るものだ。  転勤と老親看とりとはあい反するものである。昨今言われる三世代(四世代)同居論も転勤などがないという前提で語られているものである。もし、同居のために家を用意したとしても、単身赴任であればともかく、親だけを残して一家が出て行った場合は、後々まで多くのひずみを残すことになる。  高齢化社会を乗り切るために、今多く言われているのは、地域社会の成熟である。当然公的介護の充実も求められるが、やはりその一方で、地域の人々の手による相互扶助がなければ、老いは家庭という密室の中で、あるいは人里離れた施設などでと孤立化することは否めないだろう。  しかしながら、転勤族は、地域に根づかない。いつまた動かされるかと思えば、近隣との関わりは稀薄になるし、地域のボランティア活動や地域福祉の将来性への関心も持ちにくい。長くそこに住むと思えばこそ、老いを見通した生活設計や地域への参加も生まれてくるものだ。転勤族の妻の悩みは友人との別れであり、新しい友情が育ちにくいことである。老いを支えるものは、中年期からの仲間づくりにあるが、近隣において仲間を作れない妻たちにとっては、老いへの展望も開かれてこない。残される老親の問題と共に、中年期からの女の生き方にも翳を落とすものでもある。男にとっても、定年退職後の地域へのソフト・ランディングは難しいと言われている。中年期からの地域活動が大切なのだ。男もまた定年後は、平均で言えば十五年から二十年は地域で過ごさねばならない。男のライフ・サイクルから見ても、転勤は好ましいことではないのである。地域に根づかない家族ばかりを作りあげていく。  昨今、施設福祉から在宅福祉へと福祉政策の転換期にあって、老いを看とる家族の負担が大きくなろうとしている。転勤と在宅福祉とはどう両立させるのだろうか。転勤族の悩みはますます深くなる。病院や施設に頼むのならともかく、家に置いて行くのは不安であるし、連れて行けば行くで、親自身の孤独や病気の時の対処で問題が起こる。  もし転勤がこれまでのように年間八十万人もの人を動かす状況で続くのなら、充実させなければならないのは、地域における小規模ホームや公的介護のケアシステムである。企業の人事政策と、国の福祉政策とがまったくあい反する方向に向いている現状の中では、中年期の夫婦にとっても、老親にとっても老いに展望が開けてこない。  企業もただ単に定年退職後の退職金の運用の仕方や趣味の指導ばかりでなく、男の中年期からの働き方の問題も含めて、老親看とりのための男女共に利用できる看護休暇制度や、地域参加へのプログラムを持って高齢化社会への対応を用意すべき時期に来ているのではないだろうか。  企業は、豊かな社会実現のために努力してきた。これからもそれをめざしていくために、転勤は有効な方法とも言えるかもしれないが、しかし、その豊かさは何のためのものだろう。豊かな社会とは、経済的生活のみならず、精神的な活力をも約束させるものである。組織の原則だけを家族に押しつけてくるやり方は、豊かさの名に背く。  転勤族の妻や老いた親にとって、夫や息子は人質である。人質の命や将来を思って、自分たちはあきらめようとする。現代の人質政策を改めていくことによってこそ、本当の豊かな社会は開けるのではないだろうか。  以上、転勤問題を、主として妻の視点から追ってきた。  本文にも触れたように、転勤はすべての妻にとって不幸で、デメリットばかりだと言えない側面もある。人生にとっては、何が良くって何が悪いのか、定めようがないのも確かだ。  しかし多くの妻が語る生活設計のメドの立たなさ、孤独感などは、単身赴任であろうと転居であろうとついて廻っている感情である。何より転勤は、女性の自立志向を挫くものである。夫婦の対等性をも否定する、男社会の論理に他ならない。夫婦の愛情に名を借りた女性への支配の姿である。  岐路に立つ妻たちの悩みが、社会問題として大きく取りあげられることを願ってやまない。 あとがき  転勤問題は、非常に興味関心がありながら、しかし私にとっては、もっとも触れたくないテーマであった。転勤を語ることは、今なお私たち夫婦にとってタブーでもある。  創元社から、転勤について書いてみないかと言われた時、まず襲ったのは拒否感だった。そんな……、痛みに触れるようなことはしたくない。もう十二年以上も昔のことになるというのに、転勤話が出てからの夫婦の悶着や、夫の単身赴任中の老父の発病と死、私の退職に至るまでの悩み、葛藤、そして退職して夫の赴任地へ行ったあとの、喪失感や落魄の思い、次に何をするべきか探しあぐねた焦燥感、再び転勤と転居した後に来たストレス、どれをとっても思い出したくないものばかりだ。  しかし送られてきた資料を見ているうちに、私は考え込んでしまった。単身赴任問題がマスコミを賑わし、家族崩壊の典型のように言われ、夫の悲哀や留守家庭が問題視されているが、それは転勤者の四人に一人(別の資料では五人に一人)の問題ではないか。毎年八十万人は動くという転勤者の大多数は、家族連れ。この動かされる妻たちは、いったいどのような思いなのだろうか。書かれているものの多くは男の視点によるものか、女が書いているにしろ微妙に悩む妻の心情にまでかき分けて入り込んでいるものはない。  次第に心が動かされていった。しかし私の中の拒否感も容易には消えず、抵抗と興味がシーソー・ゲームのように行きつ戻りつした結果、原稿完成までに三年という月日を費やしてしまった。  転勤問題といってもさまざまな角度がある。切り口をどこに置こうか、私がもっとも悩んだのはこの点である。夫の立場、妻の立場、企業の立場、夫や妻の転職とて容易ではない終身雇用制度、単身赴任の諸問題、さらには海外の転勤事情、雇用機会均等法がらみでの働く妻自身の転勤など、考えるべき要素はたくさんある。  しかし私は、一点、夫の企業の都合で動かされる妻の心情、その声なき声とも言うべきものを探ることにした。夫が単身赴任したあと残された妻の問題も重要であるとは思うが、夫と一緒に転居することを求められた妻に対象を絞ることにした(結果的には単身赴任のケースも入っている)。  次に、どのような手法で転勤族の妻の問題にせまるかという方法論である。これまで等閑視されてきた妻の心情を探る一番いい方法、それはインタビューだ。聞き書きのようなスタイルが一番核心にせまるものになる。この“事実”を前面に生の形で押し出すことにより、妻の思いは説得性を持つものになるだろう。  さてそれでは、インタビューする妻をどのような方法で探すか。私の方で、何らかの仮説を立てておいて、それに合う人を探そうかとも考え、ある婦人雑誌に頼んで手記を募集してもらうことも考えた。その中から適当な人をピック・アップして追跡調査をする、そうすれば、転勤族の実態はより明確な形で整理されることになると思ったのである。  しかしそれも結局計画倒れに終わった。私の方で何らかの仮説によって基準を定めようにも、家族の歴史や妻の職業、地域、夫の職業の特色など、あまりにもバラツキが多い。一人一人がドラマを背負い、枠組みを設定するには無理が多すぎる。  考えた末、サンプルの無作為性を尊ぶことにした。どんなケースにめぐりあうかは分からないが、とにかく会って話を聞こう。ケースとしての取捨選択は行なわない。従って、インタビューを頼んだのは、私の周辺に居る友人・知人、あるいは知人のツテによる紹介など、きわめて個人的な範囲に居る主婦たちである。  ところが、実際に取材を始めてみると、これらの妻たちは、じつに現代の転勤族の妻として代表性が高いのではないかと驚かされた。共通性もあれば独自性、意外性もあり、九人までインタビューを進めた時には、一つには原稿枚数の限度もあったが、転勤が抱える問題のすべてとは言わないまでも、かなりの部分を多角的に包含しているのではないかと思えたのだった。この九人と私のケースと、十人の転勤族の妻で十分いけるのではないかと私は思った。  妻の年齢は、二十代の新婚から、四十代後半までにばらつき、転勤地も国内では北海道から中国地方、海外赴任も含めて多様である。夫の職業も、大手鉄鋼メーカー社員、国家公務員、放送局勤務者(二人)、航空会社社員、地方公務員、銀行員、大手商社社員、コンピューター技術者と、転勤族と言われる特色を備える職種に従事していた。こちらからは何の恣意性もなかったにも拘らず、よくこれほどいろいろのケースが集まったと、奇妙なところで感心させられたものだった。  取材に応じてくれた妻たちは協力的だった。だが多くの妻から「夫の会社にさしつかえることは書かないで欲しい」と釘をさされている。従って社名は出さず、名も仮名にすることが条件だった。社名も本名も出していいと言ったのは、一人だけだった。  私だって夫の勤める会社の名は出したくない。タブーになっている転勤を書くことによって、再び夫婦の間に悶着を起こし、夫の会社内での立場を悪いものにするのではないかと恐れる気持ちもある。彼女たちの、万一こうして本に登場することによって、夫婦のトラブルになったら……、あるいは夫が会社と気まずいことになったら……とする思いはよく分かる。個人的ツテによる取材申し込みだったから、断った人は居なかったが、応じてくれた妻の胸のうちは不安に揺れるものであったろう。私は彼女たちの条件をすべて呑み、原稿段階で見せて欲しいと言った人には、コピーを送ってチェックを受けた。ノンフィクションを書く者として度胸が足らないのではないかとも思うが、私には、他人を傷つけてまで書くべきものとは思えなかった。  妻たちが、どこまで細かく語ってくれているか、それは分からない。ケースによって粗密の感を受けるが、転勤の頻度、抱え込んだ問題の軽重、子供や妻の年齢などによっても違うことである。また、妻の立場の微妙さが語らせていない面もあろうし、言葉では語りつくせない思いもあったことだろう。インタビューした時間・場所にも影響されていると思う。  各ケースの記述に際しては、執筆者の見解が入り込まないよう努力したつもりである。しかし、原稿作成にあたって、私なりの感性でとらえてしまっている面がどうしてもあるように思い、これら前面に押し出した“事実”が、どこまで転勤族の妻の“真実”を掘り下げたものかとする疑問は、まとめ方がこれで良かったかとする思いと共に、いま脱稿の時を迎えて私を悩ませている。転勤族の妻たちの心情を、私の能力で出来得る限り深く追ったと確信はしているが、未熟・不備の点はご容赦願いたい。ともあれ現代の転勤問題に、妻の側からの視点として一石を投ずるものであれば幸いである。  遅々としてはかどらない仕事ぶりで創元社原章氏には本当に迷惑をかけてしまいました。資料集めなど氏の協力と心遣いがあってこそ、私もやり通せることが出来たと思っております。お詫びと共に厚く御礼申し上げます。  何よりもこの本は、インタビューに応じてくれた妻たちの協力があってこそ生まれたものです。あわせて心よりの感謝の思いを述べさせていただきます。   一九八六年八月 沖藤典子   文庫版へのあとがき 『転勤族の妻たち』ほど、書きにくい本はありませんでした。  わたし自身触れたくないテーマだったということもありますし、人生生きていくうえでなにが良くてなにが悪いか、一概には言えないからです。いいことも悪いことも、ひっくるめて生きていかなければならないのが、わたしたちの生活です。転勤を悪だときめつけることも出来ないし、かといってすばらしいことだと言うことも出来ません。  転勤というテーマはわたしにとって、座り心地のよくない椅子のように、どこか安定感の悪い、視点のおきづらい、従って書きにくいものでした。  いま文庫化にあたって、ゲラを読み返してみると、この居心地の悪さが文章のあちこちに現れているような気持ちがします。そして、じつはこれこそが転勤族の妻たちを支配している感情なのだと、改めて気がつきました。  夫に『転勤』の辞令が出た時から、妻はこの座り心地の悪い椅子に座ってしまいます。転勤は妻にとって、共に行くも地獄、単身赴任で残るも地獄、行くも天国、残るも天国、この椅子はまったく定まりません。  単行本出版以来、いろいろな方からお便りをいただきました。転勤がつらいなんて、言ってはいけないと思っていた、漠然と抱いていた気持ちを整理してもらった、わたしのもやもやしたものはわたしだけではなかった、などなど共感のお便りと同時に、企業による妻への支配、女性の自立を妨げるから、転勤という名の椅子は座りにくいのだというお便りもありました。  忘れられないのは、この本を読んで「転勤族の妻たちの集いをしよう」と、新聞投書をした妻の言葉です。 「最初、十人も集まればいいと思っていたのです。ところが、その日集合場所の北鎌倉駅に行くと、二百人か三百人か、数えきれないほどの人が集まっていました。みんな孤独で仲間を求めていたんですね」  この日は、わたしのところにも連絡がきていたのですが、先約があって行けませんでした。北鎌倉の駅に集まった転勤族の妻たち。わたしはその一人一人の顔を想像します。  これまでどこにも吐き出すことの出来なかった、いや吐き出してはいけない、なにもかも飲み込んで生きなければならない、そう思っていた妻たちの深い孤独を見るような気がします。集いに出れば解決するものではないのですが、でも、すくなくとも同じ気持ちを味わった人との会話に、救いを見出すことが出来るかもしれない、そんなせっぱ詰まった表情ではなかったでしょうか。  それは多分、彼女たちの夫にも子供たちにも、ましてや夫の会社の人たちには見せない顔だったように思います。言葉になりにくい転勤族の妻のホンネを初めて呟いて、だけど現実を肯定して生きていかなければならない、そんなつらさがにじみ出ていたのではないかと思います。  この集いは、その後会場を決めて継続して運営されています。  一般的には、転勤族の妻たちの活動は、仲間を求めていても、継続したものになりにくく、夫に辞令が出ればさようなら。さらさらと流れていく転勤族の妻たちの集いは、安定した活動にはなりにくいのです。会の維持が難しいのは当然です。集まってきた妻たちの意識もさまざまで、孤独という共通の感情を持ちながら、それ以上の言葉を持ち得ない淋しさも多くあることでしょう。  こうした状況のなかで、転勤族の妻たちの文芸誌『くんだり』が続いているのも朗報です。全国に散らばった妻たちが、『くんだり』を精神の故郷として交流を続けています。  本書に登場した妻たちのその後も、さまざまです。また再び転勤で移動した妻、念願の故郷へ転勤で帰ることの出来た妻、その後移動なしの妻、ついさきほどは、ようやく夫が定年退職、『転勤族の妻たち』から解放されたという葉書を受取りました。  転勤のある男を夫にして、それ故に生活を変えざるを得なかった女たちは、どう人生の決算書を書きあげるでしょうか。  この本が全国の転勤族の妻たちの気持ちをすべて代弁しているとは思いませんが、多くの夫たち、企業の方々に、妻の思いと涙を知っていただきたいと思います。妻の側からの、かなり一方的な書き方をしている本ですが、今まで言うに言えなかった妻の気持ちなのです。作家の重兼芳子さんは、雑誌の書評のなかで、「小骨の多い本、読むのに味はよくない」と表現されました。考えさせられる言葉です。  このたび講談社文庫に収録していただき、より多くの方々に読んでいただけると大変喜んでおります。いろいろなご批判、あるいはご教示をお待ちしております。  文庫化を快く承諾してくださった創元社には、深く感謝しております。ありがとうございました。  いろいろな方々にお礼を申しあげなければならないのですが、とくに講談社文庫出版部の守屋龍一氏と、創元社原章氏にお礼申しあげます。   一九九一年 初春 沖藤典子   単行本は創元社、一九八六年刊。 講談社文庫版は、一九九一年二月刊。 本電子文庫版は,講談社文庫版第四刷を底本とし、一部字句を改めました。 ●著者 沖藤典子 一九三八年室蘭市生まれ。一九六一年北海道大学文学部卒業。同年上京し、日本リサーチセンター調査研究部入社。調査部第二企画調査室長を経て、一九七六年同社を退職。執筆活動に入る。主な著書に『女が職場を去る日』『銀の園・ちちははの群像』(以上、新潮文庫)、『働きながら親を看る』(学陽書房)、『愛をさすらう女たち』(潮出版社)、『平安なれ 命の終り』(新潮社)などがある。 転勤族《てんきんぞく》の妻《つま》たち 講談社電子文庫版PC  沖藤典子《おきふじのりこ》 著 Noriko Okifuji 1986 二〇〇〇年九月一日発行(デコ) 発行者 野間省伸 発行所 株式会社 講談社     東京都文京区音羽二‐一二‐二一     〒112-8001 ◎本電子書籍は、購入者個人の閲覧の目的のためのみ、ファイルのダウンロードが許諾されています。複製・転送・譲渡は、禁止します。 KD000007-1