池田満寿夫 尻出し天使   第一章 天使が私を攪乱する  武蔵小金井の駅に着くまで車中で二度吐いた。  車内には乗客は数人しかいなかった。外はすでに朝焼けになっている。  駅のホームもまだ人はまばらだった。柱時計が六時を指している。タクシーが一台だけ待っていた。勿論乗るつもりはない。ポケットには百円玉一個さえ残っていないだろう。  酔っていたわけではなかった。陳腐ないい方だが死ぬほど疲れていた。Tから手紙が来たのはおとといの昼頃で、昨日の午后彼女に会い今朝別れるまで一睡もしていない。恐らく妻のキヨミも一睡もしないで待っているだろう。結婚してからTとはじめての情事をしたのだ。妻のいる家へ帰るのが恐しかった。私がTと逢引していることを知っているからだ。必らず昨日《きのう》の夜までには帰ってくると約束して出た。だがついにTと一晩明かしてしまったのだ。  弁解の余地はない。口腔の中にはTの股の間からあふれた果汁の匂いがまだ残っている。八重洲口前の安ホテルには歯みがきと歯ブラシが置いてなかったのだ。シャワーさえなかった。いわば情事の総ての痕跡と証拠を身に付けたまま、妻のところへ帰ろうとしているのだ。  おとといTから速達がとどいた。速達です。の声で郵便配達夫から手紙を受け取ったのは妻のキヨミだった。私はアトリエで油絵を描いていた。アトリエといってもせいぜい十畳位の板の間の部屋で他に六畳の和室があるバラック建築である。妻はすぐ差出人の名前を確かめた。ローマ字でTとしか署名していない。神戸からである。 「Tって誰れなの?」  妻が入口に立っている私に聞いた。あの女に違いないと思ったが、知らないと答えた。 「知らない人が速達を出すのかしら」  妻は九歳年上である。彼女はわざとらしく眉間にしわを寄せた。私は上目使いで妻の顔を見た。 「開けていいわね?」  当然の権利ででもあるかのように妻が言った。  選りに選って速達という危険な方法で手紙を送って来たTが悪いのだ。私に妻がいることは知っている。キヨミが開封するかもしれないと考えなかったのか? [#ここから1字下げ]  明日五月三日午后東京へ行きます。二時、新宿駅東口二幸前まで来て下さい。あなたの手紙がわたしの心をかき乱しました。宿命を感じます。  Gli angeli mi disturbano [#ここで字下げ終わり] [#地付き]Tより       短い文面だった。妻の顔色が変った。  Gli angeli mi disturbano 多分イタリア語だろう。意味は分らなかった。イタリア語を使う女。キヨミはそれが許せなかった。唯の女性ではないと直感したのだ。しかし彼女は年上の知恵を見せつけるために冷静さを装った。 「この女性に会ったのね?」最初の質問がそれだった。 「あなたは十日前、アバンギャルド協会の全国集会があるといって神戸に行っています。その時会った女でしょう。誰れなの? このTという人は」  図星だった。しかし誰れなの? と聞かれてもTはTであるとしか言えない。なにしろ神戸で会ったのはせいぜい三時間なのだ。 「しかもあなたはこの女に手紙を出したのね。どんな手紙? 言わなくても分っているわ」 「それなら聞かなくてもいいだろう」 「さあ、あなたどうするつもりなの?」  妻が微笑を浮べる余裕さえ見せて言った。すぐには返事は出来ない。心臓の鼓動だけが、耳鳴りのように聞える。九歳も年上の女と結婚している男の顔って、これなの? Tが元町の居酒屋で喚声をあげた声が耳元で聞える。あなたって妻の奴隷なんだ。冗談言うなよ。ぼくは奴隷じゃない。そう、じゃあ愛しているの? すくなくとも一時間前に会った君よりは愛しているさ。偉いわ。ぬけぬけとそんな風に言うところが可愛いんだな。可愛いと言われて背筋がぞくっとした。しかし、おこった顔をして見せた。二十四歳にもなったのなら当然だろう。わたしは二十三歳。とTが微笑した。ロメオとジュリエットにしては年を取りすぎているわね。じゃあ昨年大学を出たのかい? 留年したかったけど頭が良すぎてね、卒業させられたわよ。大学はどこですか? あなた真面目にそんなこと知りたいの! ええ、ぼくは大学出ていないんですよ。気に入ったわ。その方が格好いいのよ。親の金で大学出るよりはね。教えて下さいよ、どこの大学なんですか? スパゲッティ大学よ。え? 「あなたが決められないなら私が決めてあげます」と妻が言った。  九歳年上の女はやはり違う。彼女は妻であり母であり姉である。Tは生意気な妹だ。共通しているところといえば父親がいない点だ。一方は死別し、一方は愛人のところにいる。それはわたしの責任ではない、とTが言った。母の責任でもない。要するに血統の問題よ。父の祖父は橋の下で暮していたのよ。わたしはそう決めている。外語大のイタリア語を出て、どこの馬の骨か分らないあなたとここでこうやって焼酎を飲んでいるのも血統の問題だからなのよ。 「どうやって決めるんだ。じゃんけんでもするの?」 「あなたは会いたいでしょう?」  いやどうでもいいと思っている、と言ってやった。勿論本当ではない。 「それなら行かないのね」 「いや、行かなきゃいけない」 「どうでもいいのに、何故行く必要があるの」 「礼儀なんだよ」  礼儀? キヨミはさすがにけげんな顔をした。確かに意表をつかれたようだ。 「先方から会いたいと言って来たろう。会えるか、会えないか返事をしてあげるのが礼儀だろう。知らん顔は出来ない。子供じゃないんだ。社会人としての礼儀だよ」 「あの手紙はラブレターじゃないの。妻のいる男へラブレターを出す方が非礼じゃないの」  それはぼくは知らない。ラブレターだとは思えない、と反撥した。 「分ったわ。じゃあその女の人に会って、どうするつもり?」 「ぼくは君に会えない、と報告するだけだよ」  キヨミはあ然として私の顔を見た。まばたきが多くなっている。困惑し、反論しようとしているが、うまくいっていない証拠である。  妻と私とは対等ではない。九歳年上の彼女の方から母であり姉であり、妻である立場を望んでしまったからだ。つまり寛容さを示さなければならない立場にいるのだ。そうでなければ、若い夫はいつ飛び出すか分らない。そのためにキヨミは母の遺産を使って郊外にアトリエという名の鳥カゴを作ったのである。しかし、それはタブーだ。言ってしまったら総てが駄目になる。  すくなくともキヨミと一緒になってから、芸術家としてではなく、小市民としては平穏な日々だった。挿画を描いたり雑文を書いたりして最低月五千円の生活は維持して来たのである。恐らくキヨミにとって一つの安心感は、私に金がない、という事実だった。実際のところ、Tに会うために新宿へ出る電車賃以外に百円さえも持っていなかったのだ。総ての収入をいったんキヨミに渡してしまうという極めて小市民的な美徳を実践して来たからに他ならない。  何故だ、と問われても困る。鳥カゴの中から逃げ出せない小鳥の礼儀かもしれない。 「コーヒーぐらいは飲むでしょう?」  妻の顔がぎこちなく頬笑んだ。そのお金どうするつもり? という質問が隠されている。 「いや、道端で話すだけで帰ってくるつもりだよ」  中央沿線で金の借りられる友人たちの顔をあれこれ思い浮べた。二十四歳にもなって五百円の金さえ自由にならない不遇というか無能さに腹が立った。 「なんなら私も一緒に行きましょうか?」とキヨミが言った。明らかに妻の方に余裕が出ている。小学校の入学式じゃああるまいし。若し妻のキヨミと一緒に行ったらTはどんな反応を示すだろうか、と一瞬考えた。洒落たフランス映画ならありそうなシーンだ。そして三人でシモーヌ・シニョレ主演の「年上の女」を新宿武蔵野館で観る。しかし私は、馬鹿気ている、と妻に言った。 「恥をかくのはキヨミの方なんだ」 「その女の人の方が美しい、といいたいの?」 「美醜の問題じゃないよ。知性の問題だよ」 「妻のいる男にラブレターを出す女に知性があるものですか!」  不意にキヨミが吐きすてるように言ってアトリエから出て行った。  どちらかが本当におこらない限り、解決しない。私はむしろほっとした。  一人になるとTに対する恋情がこみあげて来た。神戸の居酒屋に先輩格の相川しげると入った時、Tがカウンターに座っていたのだ。相川とTとは以前から友人だった。ねえ、ミケランジェロ・アントニオーニの「情事」観た? Tがいきなりそう聞いて来たのだ。観たけどさっぱり分らない映画だったと正直に答えた。恋人か女房が、島で突然消えてしまうといった内容だった。あの女優なんて言ったっけ。モニカ・ヴィッティじゃないの。サンタモニカじゃないね。どアホウ! でも面白い人ね。Tはカウンターに片ひじを付き、髪をかきむしった。面白い女だな、と私の方も思った。この男はね、年上の女房と結婚しているんだぜ、と相川が余計なことを言った。籠の鳥ですよ。会いたさ見たさに怖さも忘れ。違う違う、ケージの中でしょう。ケージ? 檻よ。檻の中の去勢されたライオンならまだ見込みはあるわ。  あの時何故キスしたのか。カウンターで、衆人注視のなかで。胸が熱くなった。熱いキス。素早く舌を入れた。結婚歴三年のキャリアと言うべきか。桜色に染ったTの顔。厚くゆがんだ唇。   Gli angeli mi disturbano  街はまだ眠っていた。時々タクシーが通るだけで、歩いている人間はほとんど見当らなかった。アスファルトの道路は濡れている。夜中に雨が降ったのだろうか。  前方の自然公園の緑がまだ黒く見える。上水にそって右に折れ三つの橋を通り越せばわが家だ。更にいくつかの橋を通り過せば太宰治が愛人と入水した場所になる。  妻のキヨミは一睡もしないで待っているだろう。Tは今頃は小田原あたりを通過しているかもしれない。汽車の窓から身を乗り出して手を振りながら過ぎ去っていくT。情事のあとで男は妻のもとへすごすごと帰っていく。出来ればここで時間を止めてしまいたい。ジ・エンドの字幕が出れば、情事の思い出だけが残る。だが、今の私は妻のもとへ帰ろうとしている。  Tと一緒に汽車に乗りこんでしまえば、妻のいる家の扉は永遠に開けなくてすんだのだ。その決断が出来なかったのは、あなたは帰らなければいけない、とTが言ったからだ。天使は地獄を見なければいけないのよ、とのたまったからだ。わたしはあなたを待っています。わたしにはそれしか出来ないじゃないの。男なんだから、あなたが決めることなのよ。今ここで別れるのはわたしだってつらいわ。あなたの首を引っぱって神戸まで行きたい。でもそれは何の解決にもならないのよ。あなたには妻がいる。あなたたちの関係は知らないわ。知ろうとも思わない。わたしにはあなたしか見えない。多分、わたしはあなたを愛していると思う。そんな風にTはプラットホームを歩きながら低い声でぼそぼそと言った。  突き離されているのか、引き寄せられているのか分らない。分っていることは再び妻のいる家の戸口を開けなければならない試練だ。糸の切れた凧がふんわりと地上に落ちるのとは違う。いたずらをした子供がべそをかきながら扉の前でしゃがみ込んで、お母さん、入れてよ、という光景が浮ぶ。二十四歳の男の姿ではない。浮気をした男たちは、どんな顔と表情をして妻のいる扉をたたくのか。酔っぱらって、風月堂のケーキをぶらさげて玄関で酔いつぶれる。これは一つの手だ。だが今は酔ってもいなければ、手には何も持っていない。ズボンの裾に自からの吐瀉物の断片をくっつけているだけだ。  何を恐れているのか、と自問自答する。要するに何も予想出来ないからなのか。扉の向うの暗闇で、キヨミは刃物を砥いでいるかもしれない。泣きくずれているかもしれない。鍵を閉めて入れてくれないかもしれない。あるいは鼾をかいてねているかもしれない。朝の六時である。普通なら寝ている時間だ。だが今、私は家の方へ歩いている。昨日の午後、Tに会った時そこまでは予想出来なかったのだ。  ゴールデンウイークの新宿は混雑をきわめていた。  どこもかしこも人の波で、自分の意志とは無関係に改札口から押し出されて二幸の前まで来てしまったという工合だった。歩行している人たちと、立停っている人たちとが入り乱れ、Tがどこにいるのか分らなかった。  不意に彼女の顔が識別できないのではないかと不安になった。なにしろ一度しか会っていないのである。しかも約束は彼女からの一方的なもので、何かの都合で来れなくなることだって有り得るわけだ。若しこちらが来れなかったとしても、もともと責任はないのだ。 「まだ何も起ったわけではありません。たかが一通の手紙が来ただけです。あなたが行かなくても、あなたが約束したわけではないのだから、あなたには何の責任もないじゃないの。その人が来るという確かな保証なんてないのよ。若しその人が来ていなかったら、どうするつもりなの」 「君が喜こぶだけじゃないか」 「あなたのために悲しんであげるわ」  妻のいう通りになるかもしれないと、ちらっと考えた。  手紙が舞い込んでから、家を出るまでの二十数時間、キヨミとの間でどんな闘いをしたか、思い出すのさえ厭だった。逃げ場のない檻のなかで、表面はあくまで冷静さを見せながら、相手の皮をむき合い、時には傷口をなめ合い、いつものように情交し、夕飯を食べ、ラジオを聴き、冗談をいい、安心させ、じっと時の進むのを待った。だが闘いは終ったわけではなかった。  実際のところ私自身でさえ、Tに会うべきかどうか決定出来ないでいたのだ。妻の言い分や主張は正しかった。たったの一度しか会ったことのない女からの手紙に攪乱される方がおかしいのだ。キスしたとしても、お互に酔っていたのだし、冗談として忘れてしまっても誰れにも罪はない。こちらからTに手紙を一通だけ出したことは確かだが、愛の告白と言ったようなものではなかったはずだ。一目見て好きになりました、なんて書いたわけではない。表面的にはきわめて儀礼的な内容だったのだ。  だがこちらから出した一通の手紙がTの心をかき乱したのである。意外というより驚きだった。  横断歩道を渡っている人波のなかに、こちらに向って手を振っている女がいる。白い帽子をかぶり、白い胸のあいたブラウスを着ている。五月の光のなかでそこだけがまぶしかった。夏が一足先にやって来た感じだ。Tだ。スローモーションのように、ゆっくり揺れながら、人波をかきわけてくる。 「待たせてごめんね。来ると信じていたわ」  かすかな香水の匂いが鼻腔をくすぐった。唄いたい気持だった。この瞬間のために妻を捨ててもいいと思ったくらいだ。 「ネクタイなんかして。でも似合うわよ」  Tは思いきり幅の広いひだのついた黄色いスカートをはいていた。思っていたより脚が長い。そして赤いハイヒール。生れてはじめてハイヒールの女を見た気がした。キヨミはいつも平たい靴しかはいていなかったのだ。 「どこへ行こうか?」  Tの腕がすでに私の腕にかかっていた。有頂天になったが、膝ががくがくした。人々の視線が自分たちにだけ向けられている気がして、足が地に着いていなかった。 「新宿御苑に行こう」  やっとの思いで言った。  とにかく、彼女の服装は目立った。口紅の色もひときわ濃く見える。並ぶとハイヒールの分だけTの方が高かった。  御苑に入るのははじめてだった。ここにも人があふれていた。私たちは出来るだけ人の少ない小路を選んで散策した。結局ポケットには帰りの電車賃しかなかった。金のかからないところといえば御苑しかない。そのことがずっと頭を専有していた。友人から金を借りることさえ出来なかったのだ。 「奥さんもわたしの手紙読んだでしょう?」  言うべきかどうかためらったが、「読んだよ」と正直に言った。 「困った?」  ある意味ではTの無邪気さにちょっと腹が立った。もっとこちらの立場を考えて巧妙にやってくれれば、こんなに恥をかかないですんだのだ。 「十分だけ会って、帰ってくるって約束したんだ」 「誰れに?」 「女房にだよ」  Tの唇が少しゆがんだ。厚ぼったい目の奥が一瞬空虚になったようだった。 「だって、仕様がないだろう。手紙を見られてしまったんだから。大変だったんだよ。出られなかったんだ」 「本当にわたしに十分会って帰るつもりだったの?」 「そんなはずないだろう」 「帰りたければ帰ってもいいのよ」  今度はこちらが一瞬空虚になった。何と答えるべきか、言葉を失った。しかし握り合っている手は離れていなかった。こちらの指先にTの指の力が加わった。 「おこらないでしょう?」 「いや、おこっているよ」  Tは不安な表情で私の顔をのぞき込んだ。二匹の猫がじゃれ合っている感じだ。大温室の前に出た。こんな巨大な温室があるとは知らなかった。  大温室の中に入った。熱帯植物の匂いとむっとした暑さが、急速に発情をうながした。Tの顔も上気している。体中から発汗した。脳髄が精液で充たされる。あなたはその女と寝れないはずよ! 妻のキヨミが勝ち誇ったように、しかし幾分どもりながら叫んだのを思い出した。そうだ、あのことを忘れていたのだ。いや忘れていたというより、忘れようと努力していたのだ。到底口には出して言えない。  Tがまた私の顔をのぞき込んだ。まぶたがふくらんで、目尻が白くまくれている。その表情がひどく可愛い。一瞬泣いているのかと思わせる。  真紅の花を咲かせたサボテンの前に来た。 「十年に一度しか咲かない花だわ」Tが解説した。どう見ても女性器にしか見えない。  妙に黙り込んでしまった私に対して、Tも無言で応じて来た。大温室を出て再び樹木のおい茂った細道を歩いた。自分の体に起ったあのことが頭から去らない。  御苑は想像していたより広大だった。これが都心の新宿にあるとは信じ難い気持にさせる。どんな細道を歩いていても、誰れかが通りすぎていく。どうするつもりなの? Tの眼差しが訴えている。どうしたらいいのか自分でも分らないのだ。頭が重くなり、体が硬直してくる。Tもだんだん不機嫌になってくる。時々顔を見合せて頬笑む。だが何の役にもたたない。迷路のなかに入り込んでしまったのだ。刻々と可能性が遠のいていく気がする。 「どうするつもりなの?」  とうとうTが言葉に出して聞いた。  分ってもらいたい。金がないんだよ。そして……。私は悲しげな表情でTをみつめた。 「好きだわ」Tが言った。 「ぼくだって好きだよ。好きだ。だが何もやってあげられないんだ」 「奥さんのことは忘れなさい」Tははじめて命令する口調で言った。あなたの言う通りにしていたら、何が始まるの? 明らかにTはそう言っている。 「ねえ、お腹すかない。恋は胃袋からって言うわ」 「うん」と私はあいまいな返事をした。腹は減っていた。お金がないんだよ。君にごちそう出来ないんだ。喉まで出ている言葉が音にはならない。 「前から中村屋のカレーライスが食べたかったの。わたしがおごるわよ」 「ありがとう」  小さな声で言った。うれしかったが、どうしても素直になれなかった。 「どう、おいしいでしょう」  銀製の器に盛られたカレーライスをほおばりながらTが言った。  味に関する感覚は無くなっている。そば屋かラーメン屋で食べればカレーは百円である。中村屋のカレーは五百円した。すっかり落ち込んでしまったのだ。水ばかり飲んだ。時計は六時を回っている。Tの眉間にもしわが出来ている。彼女は自分を軽蔑しているだろうと思った。泣きたくなった。もう二度と会ってくれないだろう。空元気も出なかった。Tの目だけを凝視していた。 「ねえ、そんな目で見ないで。たまらなくなるじゃないの」  Tは怒るように言い、生ビールを注文した。 「あなたの奥さんのためにカンパイしようか」  皮肉ではなく本気な顔でTが言った。 「いや、止めておこう。このビールに毒が入っていて、二人とも死ぬかもしれないからね」 「あはは、やっと冗談が言えるようになったのね。じゃあ、あなたの笑顔のためにカンパイ!」  胸がつかえた。またもや泣きたくなった。 「君は天使だよ」やっとの思いで言った。 「Gli angeli mi disturbano天使が私を攪乱する。正式には天使たちだけどね。分っていた? 天使はあなたよ」  そう言う意味だったのか。 「じゃあ、ぼくはいい天使で、君は悪い天使だよ」 「あら、どうして?」 「ぼくを地獄に突き落したからさ」  Tがジョッキを置いてこちらをじっと見た。震えるほど色気がある。彼女は幾分すねた方が魅力があるのかもしれない。 「つらいの? わたしとこうしていることが」 「うれしいよ。夢にまで見たよ。だが何も出来ない。何もしてあげる力がぼくにはない」 「何もしてくれなくていいのよ。わたしはあなたに何も期待していないわ」  いかにも、気だるそうに、不機嫌な口調だった。正直言って少し安心した。しかし、不満でもあった。 「時間は大丈夫なの?」  妻のことがTの頭を横ぎったに違いない。あるいは私に対する憐憫からだろうか。だが何も言う権利を持っていなかった。Tは私から逃れようとしているのだと思った。  青ざめた顔でTを見つめた。胸の開いたブラウスの襟から白い胸元がかすかに波打っている。紅いマニキュアの指が目にしみる。ビールのせいで流木にやっとしがみついている感じがした。やがて、それは河口に向って流れていくだろう。もう二度と機会は訪れないかもしれない。 「出ようか」と私の方から言った。目的は見つかっていない。Tの唇がゆがみ、軽くうなずいた。最後のビールを飲み干す。鉛のように食道を降っていく。  Tがタクシーを停めた。いよいよ別れだなと思うと、また泣きたくなった。 「東京駅まで送ってくれる?」Tが沈んだ声で言った。後部座席でしっかりと手を握った。たまらなくキスしたくなる。体が震える。キスしたい。Tの顔もひきつったように見える。唇をかみしめ、彼女の指に力がこもる。バックミラーに運転手の顔が写っている。じっと背後の気配に神経を集中している顔だ。  車が停る。Tが歩きだす。黄色いプリーツのついたスカートが蝶のように逃げていく。筋肉質のしまった脚が格好よく前後にはばたく。蜜でぬれた彼女の股が遠ざかる。私が追いかける。何も出来ないじゃないの! Tの背中が叫んでいる。このお尻に触りたくないの。  スカートの中で天使ちゃんのお尻の白い桃の割れ目から赤い舌がのぞいているに違いない。 「もう一時間一緒にいたい」とTに言った。彼女の眉間に深いしわが出来た。 「わたしと寝たいの?」Tの方から言った。私は小犬のようにうなずいた。 「わたしも寝たいわ」  パチパチと拍手をしたいところだ。  Tは苦笑いをした。目の前に手頃な安ホテルの看板が見えたからだ。  足取りも軽くホテルに入った。部屋は四畳半位でダブルベッドが置いてあるだけだ。騒音がたえまなく侵入してくる。ボーイが出ていくなり、二人は激しく抱き合った。安物のフランス映画のシーンのように。そして長いキス。射精してしまいそうな長いキス。舌がからみ合い南方の熟れた果実の匂いと、汗の混った唾液が口の中にひろがる。  私はいきなりTをベッドへ押し倒し、上からおおいかぶさった。右手がTのスカートの中へ侵入しお尻の割れ目に指が延びた。 「待ってちょうだい! 電気を消してくれる?」  Tはあえぎながら、命令するように言った。 「ぼくは明るい方が好きなんだ」 「駄目! わたしは駄目よ」 「きみの全身が見たい」 「駄目よ。恥しいのよ。お願いだから電気を消して」  仕方なく立ちあがって壁のスイッチを切った。 「しばらく待っていてね」  暗闇の中でTは衣服を脱いだようだった。そしてベッドのふとんの中にもぐり込んで言った。 「あなたも入っていいわ」  私は大急ぎで裸になると毛布の中へ頭からつっこみ、いきなりTの蜜であふれた花びらを暗闇のなかで吸ったのだ。無我夢中で素早い動作だった。Tは身もだえ、両太股で私の頭部をはさみつけた。舌が彼女のあふれ出る蜜を吸い、なめらかな花芯を噛んだ。 「ひどいわ」とTは身をのけぞらせながら言った。  それから私は彼女の上に乗り、折れそうなほど硬直した陰茎を彼女の果汁の洪水のなかへ吸いこまれるように挿入した。  射精のあとやっと毛布から首を出し、Tの化粧がくずれ泣いたような顔と見詰め合った。窓からの薄明りで安物のホテルにいる現実を味わった。ひどいことをするのね。とTが言った。 「あなたっておかしな人ね。虫も殺さない顔をして、やる時だけは野獣のようになるんだから」  狂暴すぎたことは認めなくてはならない。余裕がなかったのだ。なにがなんでもTを突き抜きたかったのだ。Tが満足したかどうかは分らない。早くいきすぎたかもしれない。私たちは再び情交した。  二度目の時は途中でTの花芯が渇いて来た感じだった。少し痛みを覚えたが強引に射精するまで続けた。 「ひどいわ」とTは苦痛でゆがんだ顔で再び言った。  情事としては上出来ではなかったように思う。妻のことが頭に浮ばなかったといえば嘘になる。だが、それはどうでもいい。Tの指が私の下腹部をまさぐっているのだ。彼女は何かの異変に気がついたのだろうか? 「ねえ、電気つけてくれる」  Tはいらいらした口調で言った。 「どうしてだい? 急に」  心臓が高鳴っている。 「あなたのを見たいのよ。そこに立ってもらいたいの」  早鐘のように心臓が鼓動する。しかし観念してTの命令通りにした。私の陰毛が剃られていたのだ。一週間前、キヨミに剃られたのである。理由は言いたくない。陰毛の剃られた陰茎は丁度頭髪を剃った僧侶のように見える。 「頭を剃った天使ね。分ったわ、あなたとあなたの奥さんとの関係が」 「違う。自分で剃ったんだよ」  分ったわ、あなたとあなたの奥さんとの関係が。抑制したあの時のTの声が耳元でした。空は完全に明るくなっていた。奥さんのところへ帰りなさい。プラットホームでうめくように言ったTの虚な瞳が忘れられなかった。  アトリエのトタン屋根が朝日で輝いている。あの中に地獄が待っているのか。私は僧侶のように戸口に近づいていった。 [#改ページ]   第二章 歯を磨きたい 「一晩中待っていたわ。一睡もしないで。あなたが帰って来た時、決して戸を開けまいと思ったの。でも何故開けたか分る? あなたが可哀そうだからじゃないわ。妻を裏切って他の女と寝た夫の顔が見たかっただけなのよ。思ったように間の抜けた顔をしていたわ。一晩中泣いていたのに、あなたの間の抜けた顔を見たら、涙が停ってしまった。心配しなくていいのよ。おこりませんから。でも、全部をわたしに話してくれる? そうしたら、おこらないわ。いつか、こういう日が来ると思っていたのです。丁度三年目ね。絵に描いたように三年目。今日がわたしたちの結婚記念日だと知っていた? 嘘を言わなくていいのよ。忘れている方があなたらしいわよ」  妻のキヨミは笑みさえ浮べていた。確かに泣いたあとは認められる。だが何故こんなに御機嫌なのか。私がどんな顔をしているか自分自身にさえ分らない。妻の言う通り間の抜けた顔をしているのだろう。山のように考えていた弁解の言葉が、ズボンの裾から一つずつ、こぼれ落ちていく気がする。歯を磨きたい。 「お腹空いている?」  妻はどこまでも妻の顔をして聞いた。何も答えたくなかった。出来るだけ沈黙していた方がいい。幾分悲しそうな表情で。時々、Tがしたように唇をゆがめるか。 「何か食べたの?」  電車の中で全部吐いてしまった。Tの果汁の匂いだけが、そして多分胃液のかすが口の中に残っている。歯を磨きたい。 「昨夜はあなたが帰ってくると信じて、カレーをつくって待っていたのよ。自分でもおかしかったわ。あなたのお母さんのカレーとわたしのと、どちらがおいしいかしら、なんて考えたんですから」  昨夕中村屋でTと五百円のカレーを食べた。キヨミがカレーをつくったとしたら、偶然の一致かもしれないが、やはり薄気味悪い。若し、Tとカレーを食べたよ、と言ったら、どうだろうか? 自然に下唇を噛みしめた。 「何がおかしいの?」 「笑ってなんかいないよ」 「笑ったわ」 「笑うはずがないじゃないか」 「そうかしら」  歯を磨きたい。そして眠りたい。ものも言わずにベッドにもぐり込めばいいのだ。それが出来なかった。ベッドは和室の六畳に置いてある。ダブルベッドというより手製のもので一人では広すぎ、二人では狭すぎる。この家には十畳位のアトリエと六畳の和室と、その中間にある四畳位のダイニングキッチンしかない。アトリエがあるだけで神に感謝しなければならないだろう。  和室はいわばキヨミの部屋である。ベッドはそこにしか置いていない。大抵はキヨミの方が先に眠っている。彼女の暖ためたベッドの中へもぐり込むというわけだ。眠っているはずのキヨミがそっと手を延ばしてくる。まだ膨張していない岬をぎゅっと握りしめてくれる。じょじょにふくらんでいく。  こちらから先にベッドへもぐり込むことは許されていない。奇妙な話だが、キヨミが神のような声で宣言したのだ。それが彼女の家風であり、即ち、二人の約束である、と勝手にきめたのである。家風と言われると文句が言えない。なにしろこの家は彼女の母の遺産で建てたのだから。 「紅茶でも入れましょうか」とキヨミが言ったのでうなずいた。コーヒーでなく紅茶のところが彼女の流儀である。コーヒーは体に良くないと信じているのだ。玉子も二つ以上食べてはいけない。オムレツをつくる場合でも玉子は一つしか使わない。その代り、ジャガイモがたっぷり入る。オランダ風だと言うが、本当かどうか分りやしない。  浮気をして来た夫に紅茶を入れる行為にキヨミは満足しているようだ。 「ロシアでは紅茶にジャムを入れるのよ」とキヨミが言う。変なことを知っている女だ。 「そんな馬鹿な」 「『アンナ・カレーニナ』を読んだことないの?」 「ヴィヴィアン・リーの映画なら高校時代に観たけどな。トルストイは好きじゃない」 「読みもしないで意見を言うものじゃないわ」 「ドストエフスキーの方が好きだよ」  一週間前に「カラマゾフの兄弟」を夢中になって読んでいた。あの三人兄弟のうち、自分は誰れに近いかを思いめぐらしたが、面倒くさくなった。所詮はドストエフスキー的人間ではない。自分にたりないのは過剰さだ。  キヨミの入れた紅茶を飲んだ。勿論ジャムなど入っていない。砂糖だって入っていないのだ。ズルチンという人工糖料だ。糖分は脳を悪くするとキヨミは言う。母親だってそんな馬鹿なことは言わない。母親の作ってくれたホット・ケーキを思い出す。蜜がたっぷり。Tの河口に蜜があふれる。洪水のような蜜。愛の量と比例するのか単なる生理作用か。勃起力も愛と比例するか。愛よりも水分の問題かもしれない。人体の八十二パーセントは水分である。紅茶を飲めば水分が増えるはずだ。その分だけ勃起力が早まるかもしれない。歯を磨きたい。  七時を少し回ったところだ。今頃になって気が付いたが雨戸が全部閉めてある。もっともキヨミが朝起きるのは八時前後である。私は九時までは寝ている。いつも起きた時は雨戸は開けられている。 「雨戸を開けようか」  出来るだけ無難なことを言った方がいい。 「開けないでちょうだい。このままの状態でいたいの。朝が来たことを知りたくないのよ。あなたは昨夜からずっとここにいたと、信じたいの」  キヨミは私が入って来た時と同じ微笑を浮べながら言った。ある意味では胸をつく科白だ。こんなうまい科白はなかなか言えるものではない。幾分、しんみりした気持になった。部屋の中の暗さが情緒をくすぐる。Tと過した夜が遥かかなたに滑っていく。Tを乗せた列車は丹那トンネルをくぐっている頃だろう。トンネルを抜けると富士山が現われるはずだ。 「誤解しないでね。わたしは惨めじゃないわ。惨めなのはあなたの方なのよ。それさえも知らないとしたら、あなたはとっても惨めな人なのよ」  妻はせいいっぱい微笑を浮べている。彼女の寛大さは多分信仰のせいだろう。左の頬を打たれたら右の頬を差し出せ。この人を見よ!  惨めとはどういうことですか。とは聞かなかった。だが微笑までは浮んで来ない。依然としてどんな顔をしていいか、皮膚の感覚が言うことを聞かないのだ。払いのけようとしてもTの顔が浮んでくる。彼女の内股の感覚が、脳髄の中心に残っている。それが惨めなのか。キヨミが次に何を言い出すか、唯うかがっている状態。弁解の余地はないのか。キヨミはいったい何を見たというのだ。何も見ていないのだ。私が家を出て、一夜明けて帰って来ただけではないか。私とTとの情事のそばでキヨミの幽霊が立っていたのか。ベッドの中でTが唄った歌を知っているか。 「誤解しているのはキヨミの方じゃないか。ぼくは何もしていないんだ」  多分、最もおろかなことを言ったに違いない。キヨミの顔色が変ったのだ。 「嘘をつく人が一番嫌いです」 「本当だよ。彼女とは何もしていないんだ。一晩中、飲屋で話していただけだよ」  浮気をしても絶対に白状してはいけない、と何かの本で読んだ。現場を目撃されていない以上、絶対に告白すべきではない。それが相手に対する礼儀である。妻は百パーセント、そうだと思っていても、一パーセントはそうでないかもしれないと希望をつないでいるものなのだ。崖っぷちに立っているのはキヨミの方である。嘘をつくことで救われるのはキヨミの方ではないか。  Tと情事をしたと告白すれば、妻は私の行為を許すためには、私とTとを許さなければならないだろう。だが私が嘘をつけば、嘘を許すか、どうかの選択である。百パーセントは許せないが、一パーセントの嘘なら許すことが出来る。その方が遥かに楽な選択であろう。 「どんな話をしたかなんて聞かないわ。あなたが嘘をついていることも分っている。いい? 浮気してもいいのよ。大切な夫が帰って来たんですもの。歓迎しなくちゃ。わたしはね、昨夜あなたを待ちながら、いろいろ考えたの。あなたと一緒になった頃のことや、母の死んだことや、あなた自身の性格について。泣きながら考えたわ。あなたが、わけの分らない、ただイタリア語だけが出来る女といちゃついている間、わたしはあなたの心について考えたわ。きっとあなたは心を病んでいるのよ。心の病気なのよ。病気なら、直るわね」  恋の病いと心の病気とどこが違うのか。恋の病いは特定の女性に対する過剰な恋心がつのった病気である。心の病気なら、原因は一つだけではないだろう。キヨミと一緒にいることが病気の原因であると考えられないこともない。あるいは単に体調のせいかもしれない。  おいしいものを食べ、太陽に当って、田舎道を散歩して、楽しいセックスをしたら、病気は直ると、キヨミは言う。そして歯を磨けたらもっといい。言うことなしだ。  あなたは絵の才能があるわ。誰れも認めなくても、わたしが認めます、と泣きたくなるような賛辞を呈したのもキヨミだ。彼女はこの世で、私の絵の才能の最初の発見者である。そして娼婦以外の女とはじめて情交した相手もキヨミだ。才能はあるけどわたしがいなければあなたはぼろぼろに壊れてしまう。素晴しいプロポーズだ。あなたは体《てい》のいい奴隷じゃないの。Tがそう言った時反撥出来なかった。奴隷には奴隷の論理がある。そう反撥出来なかったのはTの口紅のためだ。真紅の口紅がまぶしかったのだ。多分Tが若かったからだろう。 「ひどく眠いんだけどね」とうとうキヨミに訴えた。 「わたしだって一睡もしていないのよ。でも眠くないわ」 「ぼくは眠い」 「でも眠ってはいけないわ。あなたはわたしを裏切ったのよ」 「裏切ったわけじゃない。約束の時間に帰れなかっただけじゃないか」 「そうでしたわね。でも一般的には約束を守らないのは裏切りも同然なのよ。あなた、自分の顔に何がついているのか知っているの? 鏡を見たらどうなの? 浮気をするなら、絶対に妻に見破られないようにしたらいかがですか」  思わず、どきりとして、唇に手をやった。Tの口紅がまだ残っていたのだろうか。さすがに鏡を見る気はしなかった。  キヨミは真剣な眼差しでこちらを見ている。そして不意に一滴くの涙が彼女の頬を流れた。 「あなたは何んて馬鹿なんでしょう」  普段でも浅黒いキヨミの顔が一瞬暗黒の森に見えた。大きなどんぐり眼が異様に見開かれている。一種の発作の起きる前兆である。極度に緊張してくるとキヨミはよくこの種の疑似発作を起した。まばたきが激しくなり、顔が紅潮し、身を震わす。全身で拒絶反応を起すのである。心の病気はキヨミの方ではないか。  帰宅してからキヨミが冷静さを保とうと彼女自身に言い聞かせ、こちらに対しても姉さん女房的に振るまおうと努力していたことはよく分る。非はこちらにある。弁解の余地はない。しかし、浮気をしました、すみません、とあやまればいいのか。もう二度といたしませんと少年のような顔をして、頭を下げればすむ問題なのか。私はTとは寝ていないと言い張っている。現場を目撃されていない以上、永遠に嘘はつける。勿論決して楽しいわけではない。  ところがキヨミは私の顔に情交の痕跡を発見したのだ。Tの口紅の跡としか考えられない。しかし若し本当についていたとしたら、Tが別れ際に注意したはずだ。口の中にはTの膣から流れた果汁の匂いが残っている。歯を磨かなければいけない。いやひょっとしたらTの香水の匂いかもしれない。恐しい早さでこれらのことを考えた。 「何もついていないわよ——でもあなたは蒼ざめたわ。無意識のうちに唇に手をやったわね。何がついていると思ったの? 女の口紅。それとも石炭の粉でもついているの?」  目を激しくまばたきながらキヨミが言った。  しまった。誘導尋問だったのか。私はてれ隠しに苦笑した。 「何がおかしいの?」  また同じ質問がくる。錯乱状態がくる証拠だ。出来れば私の方からわめきたい。早くわめいた方が勝なのだ。 「トイレに行く」  実際トイレに行きたかったが、わざわざトイレに行くと宣言した自分が腹立しかった。トイレには洗面所は付いていない。便器が一つ埋っているだけだ。その横に私が建てた、というより壁を囲い、トタン屋根だけを乗せた風呂場がある。壁に板鏡がぶら下っている。その下の棚に歯ブラシと歯磨粉が置いてあるはずだ。 「駄目です」とキヨミが言ったのには驚いた。この世の中で人間の生理現象を規制できるのは軍隊と警察ぐらいだろう。ここは牢獄なのか? 雨戸は全部閉められ、ドアにも鍵が掛けられている。キヨミと私の前に電灯が一つぶらさがっているだけだ。  自分の家のはずだが、別世界にいる感じだ。家全体が下降していくような気配を覚える。妻であるキヨミが何をしようとしているのか分らない。不気味だ。得体の知れない恐怖心に襲われる。たかが一人の女と情交しただけではないか。妻と別れようと宣言したわけではない。先のことは分らない。例えば十年先、自分がどこにいるのか分っている人間なんているのだろうか。一年先だって同じことだ。一年先自分がどんな絵を描いているか分らないのと同じだ。  今日が結婚三周年記念日だと言ったキヨミの言葉を思い出した。その重要な事項について、何も答えなかったことを根に持っているのだろうか。あの時熟練した道化師のように、さか立ちでもして見せたら、バラ色の人生が流れていたかもしれない。  何事も最初の印象が大切である。広津和郎は松川事件の被告たちの目が澄んでいる、という最初の印象で被告の擁護を決意した。多分、私の目は澄んでいなかったのだろう。目の裏側にTと過した一日が張りついたままだったのだ。今の瞬間でも払いのけられるものではない。Tと再び会える機会があるかどうかさえ不明である。何も約束しなかったのだ。  あなたは地獄へ帰りなさい。わたしはくだらない日常に帰るわ。Tは確かにそう言った。うれしかったわ、と言ってくれたが、又会いたい、とは言わなかった。私もあえて言わなかったのだ。まだ人生を変えたいと思っていなかったからかもしれない。  私はあえてトイレに行ってはいけない、と言った妻に逆らわなかった。むっとしたが犬の気持になってやろうと決心したからである。なによりも妻の発作というか陰気なヒステリー状態を見るのが堪えられなかったからだ。  彼女の錯乱に巻き込まれたくなかった。これまでにすでに三度経験している。結婚前の情交で妊娠した時と、私の両親が二人の結婚に反対した時と、小金井にアトリエを建てる彼女の提案に私が賛意を表さなかった時とだ。今は妻の発作が彼女の自衛手段であり、要求を通すための、有効な本能的演技であることを知っている。狂暴にはならないが、攻撃的になり、最後は全身がわなわなと震え、こちらに限りない不安感と恐怖心を起させるのだ。  キヨミはトイレへの通路を丁度ふさぐような格好で立っている。押しのけて行こうと思えばそう難しいことではない。肉体的には九歳若いこちらの方が遥かに有利だ。しかし、いつも私は彼女の要求に従って来た。いやその前に私の青年の性の欲望にキヨミがことごとく応じてくれたという事実を忘れてはなるまい。  三年間の性生活は優に常軌を逸したものだったとさえ言える。食事をすることと、セックスすることとが対等だったのだ。  私にとって結婚とはいつでも情交できる女が身近に存在している特製の檻だった。  新婚早々の夫が妻の待っている家へ近づくと勃起してバンドをゆるめながら玄関へ飛び込む、といった外国小説を読んだことがある。不意にその一節を思い出し、膀胱が膨らむのを感じた。  私は椅子に座っていたが、立ちあがった。膀胱を空にしなければならない。 「二人で死にましょうよ」  キヨミが甲高い声で早口に言った。一瞬心臓が凍った。いかなる意味でも死という言葉は衝撃力を持っている。 「何を言っているんだ。馬鹿馬鹿しい」  即座に否定した。 「おおきたない。あなたは汚れているわ。あの女の毒が身中に染みているわ。わたしには見えるのよ。あなたがどんなに嘘をついてもわたしには見て感ずる力があるのよ。汚れてしまったあなたをどうすればいいか。死ぬより仕方ないでしょう。わたしはあなたを愛しているわ。だから一緒に死んであげる」  あまりの馬鹿馬鹿しさに今度は否定する気にもならなかった。 「どうやって死ぬつもりなんだ」 「どうやってですって? よくそんな風に言えたものね」 「ぼくは死にたくない」  こちらも真剣になっていた。彼女の策略に引っかかっているのかもしれないが、余裕は出てこなかった。 「あなたは汚れている……」 「分ったよ。汚れちまった悲しみに、今日も小雪が降りかかる、だろう」 「わたしは本気なのよ。一度はわたしもあなたを許す気になったわ。でもあなたの汚れは永久に消えない。汚れたあなたがわたしの中に入るのは生理的に堪えられないわ。どんなにわたしが愛していても、もう駄目なのよ」 「じゃあ、別れるより仕方ないだろう」  思わずそう言ってしまった。無理心中よりは合理的なはずだ。  みるみるうちにキヨミの顔が紅潮した。いとも簡単に別れるより仕方ないだろう、と言った夫の言葉が信じられなかったのだ。  キヨミが何か叫んだが意味は聞き取れなかった。  彼女の立っている背後は料理台になっていて、庖丁が何本か置いてある。実はさっきからそれが気掛りだったのだ。振り向いて手を延ばせば、すぐ手に握られる位置にいるのだ。まさか庖丁を握っていきなり刺すなんてことはあり得ないだろう。しかし心のどこかであり得るかもしれないと私が意識したことは、キヨミの側にも同じ意識が働いているかもしれないのだ。  痴情の果の殺害事件の新聞記事が頭をかすめた。ある人間は永遠に人を殺さないが、ある人間はいとも簡単に殺害する異常さを持っている。私自身でも他の人間に殺意を抱いたことがまったくなかったとは言えない。いやこの瞬間に於て、殺意を抱いたのはキヨミより私の方だったかもしれない。庖丁の位置が気になり出したのは何よりもその証拠ではないか。  理性の手のとどかない暗部で人はいつの間にか地獄を用意しているのかもしれない。 「助けてちょうだい」  今度はキヨミの口からはっきりした言葉がほとばしり出た。 「わたしを捕まえてちょうだい。さもないとあなたを殺すかもしれない。怖いのよ。わたし自身が怖いの」  私は大急ぎでキヨミの両腕を押え込むように捕えた。  キヨミは押えて下さいと言っておきながら、私から逃れようとして身もだえた。恐しい力だった。私は手を振り切られないように右腕を彼女の首に回し、左の腕で腰を押えなければならなかった。それでも彼女は逃れようと脚をばたつかせた。芝居なのか本気なのか相変らず私には理解出来なかった。  押え込もうとする自分自身の肉体にキヨミの熱した体温と波打つ肌の感触が伝わって来た。狼狽と緊張の間から知りすぎている妻の肉体への一種の安堵感がのぞきはじめていたのだ。腰に廻している手がまるでおびき出されているかのように、彼女のお尻の割目に侵入し、内股に延びている。 「駄目よ、駄目。さわらないで。あなたは汚れているわ」  絵に描いたようにキヨミはのけぞり、セーラー服の女学生のような声を出した。  妻の内股はかつてないほど濡れていた。欲情が一気に襲った。キヨミを壁に押えつけ、下着をむしり取り、立ったまま彼女の背後から蜜の巣へ挿入した。こんな体位で情交したのははじめてだった。キヨミの方もかつて聞いたことのない叫び声をあげた。  キヨミはぐったりとお尻を丸だしにしたまま床にうつぶせになっていた。天使から遥かに遠いやせたお尻だった。お尻の割目が奥へ行くほど黒ずみ、精液でつやつやした陰唇が顔をのぞかせている。  私は再び欲情した。お尻の形態がいつも私を挑撥するらしい。しかし今度は行為の途中で膀胱から押し寄せてくる圧力を制御出来なかったのだ。キヨミの蜜の巣のなかに放出した。素晴しい快感と後悔に同時に浸され、いとおしさと敵意とが脳髄を襲った。  信じられないことだが、キヨミはもう眠っていた。このまま死んでくれたほうがいいと一瞬思った自分が恐しかった。そして私自身も下半身を晒したままキヨミの上に、折重なって眠ってしまった。歯を磨きたいと夢見ながら。  目を覚した時、室内は明るくなっていた。  裸の腹の上に毛布が掛っている。薄目をあけて周囲を見廻す。椅子とテーブルの脚の向う側に出来そこないのロートレックのお尻を丸出しにしたヌードが背中を向けていた。はっとして上半身を起した時、キヨミの顔がこちらを振りむいた。ひどい格好じゃないか。 「お目覚になったの?」  台所に立っているアンバランスなヌードが言った。  パンティぐらいはいたらどうなんだ? 「今、お茶を入れるわ」  ひどく御機嫌だね。どうしたんだ? 「もう午后の三時になるわ。わたしは一時間前に起きたの」  キヨミがお尻を見せながら笑っている。お尻が笑う。ことこととリズムをとりながら。タクワンを刻む音だ。お茶にタクワン。残念ながら山国育ちの私の好物だ。菓子はめったに食べない。前衛画家は菓子を食べてはいけないのだ。女の蜜ならいい。股にくるんだ蜜。棒でかきまぜる。そうだ、キヨミは庖丁を握って、タクワンを刻んでいる。砂山の砂に埋めたジャックナイフ。 「あなた、オチンチン丸出しで寝ていたわ」  自分だってあれを丸出しで寝ていたくせに。 「毛がないのでびっくりしちゃった。でもすぐにわたしが剃ったのを思い出したわ」  悪い思い出が蘇った。  情事のあとTに見られたのだ。あの時、自分で剃ったのだ、と弁解はしたが、その理由は説明しなかった。毛虱という前世紀の貧困と不衛生を象徴する遺物が巣食ったのだ。こちらの責任ではない。時代が悪いのだ。  アトリエでこっそり取っているところをキヨミに発見されたのだ。アトリエに入る時ノックぐらいしたらどうだ。戦時中生き抜いた女だけに前世紀の小動物の存在を知っていたのはさすがだった。髪の毛にたかられて困ったわ、と物分りのいいことを言ってくれた。丸坊主にした女の子もいたのよ。多分彼女自身だったのではないか。毛の根元に食いついているから剃らなきゃ駄目よ。そして見事に剃られたのだ。これは陰謀ではないだろう。非文学的で非絵画的なだけだ。剃られている間に勃起するおまけまでついた。勿論キヨミが股を拡げて迎えてくれた。  こんなことを喋ったわけではないのに、それがあなたの夫婦生活なの? とTは怒りに満ちた語調で言ったものだ。もう神戸に着いている頃だろう。その間、妻と情交している姿を思い浮べただろうか。あなたは優しいけど不潔だわ、と言ったのもTだ。あなた汚れている、わたしを助けて、とキヨミが言ったのも覚えている。そのキヨミがお尻を丸出しにして庖丁を握り、歌でも唄うように、わたし決心したのよ。あなたとは別れないわ。あなたの毛虱を取ってあげる女がどこにいると思う? と言ったのだ。  私は沈黙していた。妻が右手に庖丁を持っている。主婦は日に何度か庖丁を握る。恋人は手に汗を握る。歯は朝磨くより、夜磨いた方がいいわ、と妻が言う。外から帰って歯を磨く夫は浮気をして来たからなのよ。分っているの? もうあの女と二度と会わないと約束しなさい。そうしたら歯を磨いてもいいわ。キヨミがお尻を丸出しにし、庖丁を握りながら唄うように言ったのだ。 [#改ページ]   第三章 泣く女 「何故札幌へ行かなければならないの?」とキヨミが言う。 「アバンギャルド協会の展覧会があるからさ」 「でも何故わざわざ札幌まであなたが出掛けていく必要があるの」 「協会の総会も兼ているんだよ」 「汽車賃は誰れが出すの」 「協会が出す」 「売れないグループなのに、よくそんなお金があるわね」 「パトロンがいるんだよ」 「誰れなの」 「札幌の土建屋のおやじなんだけどね。新しい美術に理解があるのさ」  それは本当の話だった。その代り出品した絵は全部パトロンのK氏が買う。五十号で四千円だ。とびきり安い。すくなくともどんなにわれわれの絵が売れなくても六千円は欲しいところだ。しかしK氏は四千円以上は絶対に出さない、と宣言した。展覧会の経費だって馬鹿にならない。なんて言ったって誰れも買おうとしない絵を買ってくれるのだ。これが北海道でなく、東京か大阪なら、われわれだって快く納得しただろう。北海道じゃね。なんの意味があるのかグループのなかでもさんざもめた。結局出品したい奴だけ出かけることになった。四千円もらっても、汽車賃と宿泊費で消えてしまう。しかし夏の北海道は格別だ。  誰れも夏の数日を北海道で過すのが夢なのだ。何のことはない、採決を取ったら全員が行くことになった。東京から五人、大阪から六人、名古屋から三人。福井から二人。アバンギャルド協会のオールスタッフである。  キヨミはやっと了解した。私の才能を信じて結婚したのである。札幌とはいえ、作品を発表するチャンスに反対する理由はない。K氏のコレクションに私の作品が納まるだけでも意義のあることなのだ。なにしろK氏はピカソとかミロとかアルプとかを所蔵している大コレクターなのだ。そこをキヨミにも強調しておいた。  ちょっとした夏休みね、なんてキヨミも笑顔をつくってくれた。  ポール・アンカの「ダイアナ」がラジオから流れている。平尾昌章が「君はぼくより年上と、まわりの人は言うけれど、なんてったってかまわない、ぼくは君に首ったけ」と日本語で歌う。しかし九歳年上のキヨミはこの歌詞をお気にめしていないらしい。パット・ブーンの「砂に書いたラブレター」の方がいいと言う。そのくせ守屋浩の「僕は泣いちっち」もお気に入りなのだ。  年上の女は甘い声に魅かれるのだ。幸田文の随筆を読みながら「僕は泣いちっち」もないだろう。もっとも私は水原弘の「黒い花びら」を聞きながら、ピカソのゲルニカ風の油絵を描いているのだ。ピカソの真似なんか古いと雷鉄が言う。こけおどかしの雷鉄なんてペンネームを付けていながら本人はシャガール風の幻想画を描いているのだから笑ってしまう。何でも彼は六本指のシャガールの自画像に惚れ込んでしまったのだ。それならまだカンディンスキーの真似をしている水野の方が遥かに進んでいる。われわれの集団はあらゆる前衛的手法を容認すると宣言していながら、ビュッフェ調からレジェ調まで雑居しているのだからいいかげんなものだ。最近になって、モンドリアンこそ唯一の画家だと言いはじめた男がいるが、まだ誰れも耳を貸そうとしていない。昨日までキリコ風の絵を描いていた男がいくらそう主張しても信じることは出来ない。いずれこの集団は崩壊するだろう。  ピカソに「泣く女」という油絵がある。勿論実物はまだ見ていない。アトリエの壁に複製画を鋲で張りつけて満足しているより仕方ないのだ。一説には恋人のドラ・マールを描いたものだと言われている。涙腺がパイプのように飛び出し、むき出した歯がハンケチを噛みしめ、ハンケチと手とがダブルイメージになっている。一つ一つ描かれた指の爪があたかも飛び散っている涙に見える。わめき、苦しみ、大声で泣き叫ぶ女を、これほど破壊的にドラマチックに描いた肖像画はないだろう。左翼の連中はファッシストに肉親を殺された女の悲しみと怒りを表現していると言う。しかし私にはこの女が恋人のドラ・マールだとしたら、ピカソへの嫉妬のためヒステリーを起している女を描いたものにしか見えない。  一九三七年当時ピカソとドラ・マールの間は妻のマリー・テレーズ・ワルテルとの三角関係で壮絶なものであったと、伝記作家も書いている。口には出さないが、この「泣く女」はキヨミによく似ている。と言っても面長で美しいドラ・マールそのものに似ているわけではない。あくまでサディスティックに描いたピカソの「泣く女」に似ているのだ。勿論キヨミは夢にも思っていない。大体に於て私がピカソの影響を受けつつあることに対して、内心喜こんでいないようである。モディリアニイ風の憂うつな女を描いていた頃の方がいいと考えている節がある。誰れでもピカソ風の怪物に描かれることを内心は嫌っているのだ。もっとも私はキヨミをモデルに使ったことはない。画家が妻をモデルにするなんて、近親相姦的である。それに似ていないと言われるに決っている。女は美しく描いてやれば喜こぶ。こんなに奇麗かしら、と言いながらも口元がほころんでいる。しかし常に例外はあるのだ。なかには明らかに敵意を表わして、鼻の先で笑う女がいる。馬鹿にしないでよ。あなたに真実を見る目があるの? キヨミがどちらのタイプの女であるか三年経っても分らないのだ。モデルに使わない方が精神衛生的に安全である。そもそも私ははじめから個人ではモデルを使わないことにしているのだ。ヌードならなお更である。密室のアトリエで裸の女と向き合って長時間を過すなんて、とうてい出来ない相談だ。欲情したら誰れの責任なのか。モデルもまた自分を見つめているという関係が堪えられない。今描いている絵は「モデルのいない画室」というタイトルになるはずだ。タイトルの方が先に浮んだのである。北海道展に出品するためだがあと五日しかない。  時々、キヨミがのぞきにくる。何度のぞきに来てもタイトル通りにモデルは不在である。こちらが具象系の画家なら、彼女はアトリエに座り込んで監視しているだろう。  水原弘の「黒い花びら」が相変らずラジオから流れてくる。「恋の悲しさ、恋の苦しさ、だから、だから、もう恋なんかしたくない、したくないのさ」水原弘がハスキーな声で絶叫する。ピカソの「泣く女」が泣く。Tを思い出す。通俗的なメロディに胸がかきむしられる。キヨミはカンバスの進行状態をのぞきに来ているのではない。こちらの通俗的な心をのぞきに来ているのだ。こっそりとTに手紙を書いていないか監視しているのだ。  あの日以降Tからは一通の手紙もこの家には来なくなった。  キヨミの大好きな平穏な日が続いている。梅雨が過ぎ、周囲の樹葉が勢いを増し、七月の陽がトタン屋根をじりじりと焼く。蟻の群がせわしく庭を横切る。  私は一枚五百円のカットをせっせと描く。採用されるのは五回に一回位だ。学習用の挿画を描く。まさる君のお正月とか、カルタ遊びとか、凧上げとかの童画である。杵の持ち方が違うとか、そんな凧では上らないとか、編集会議で田舎の教師たちからクレームをつけられる。シャガールの六本の指を描きたくなる気持が分る。この子供の顔には精気がありませんな、小学四年生にしては胸がふくらみすぎている、など得意気に注意される。そのくせ、編集会議が終り、酒盛になると、どうです似顔絵を描いてくれませんか、とねだられるのだ。こちらが一生懸命描いたのに、おやこれが私ですか、なるほど絵描きさんは見方が違うものですな。とか、将来高くなるかもしれませんなあ、あはは。とか、これはシュルですかと見当違いなことを言われる。これは表現主義なんですよ。表現主義って何ですか。つまりですね、見たままを描くのではなく感じたまま描くということです。私は目に見えないものを描く、とポール・クレーが言っています。ほほう、難しいですね。じゃあシュルって何ですか。赤ら顔の教頭らしき男が聞く。夢と現実の境を無くすことでしょう。と私が答える。ほほう、つまり酒を飲んで酔っぱらっているようなものですな。まあ似たようなものでしょうね。酒ではなくイメージで酔っぱらうようなものでしょうか。杵の持ち方を間違えて描く画家が答えたって、誰れも感心しない。似ていないのがシュルというわけですな、ははは。数学の教師が物知り顔に言う。いつかあなたの方が似顔絵に似て来ますよ。これはピカソがガートルード・スタインに言った言葉だ。学習書出版社の社長が帰りがけに金をつつんでくれる。まあポケットマネーというところだ。帰りに新宿の喫茶店でTに手紙を書く。パット・ブーンの「砂に書いたラブレター」が流れている。ぼくは砂になりたい。風に乗ってあなたのところへ行きたい。あなたのすみずみまで侵入したい。返事は西荻窪のA宛に下さい。くれぐれも本名を使わないこと。  あれからA経由で五通の手紙を受け取った。勿論キヨミはまったく知らない。Tとなんらかの方法でコミュニケーションしていると疑ってもいいはずなのに、キヨミは安心しきっている。あるいはそう見せかけているのかもしれない。  この七月下旬、わたしは軽井沢に滞在しています。あなたに会いたい。多分愛していると思う。  最近Tからこんな手紙がとどいたのだ。こちらだって会いたい。死ぬほど会いたい。だが何を理由に軽井沢へ行くか。  キヨミにこの夏は軽井沢あたりに行ってみたいな。と様子をうかがうジャブを出してみた。  そんなお金、どこにあるの? というのがキヨミの常套句だ。しかし今回は違った。 「わたしもあなたと軽井沢へ行きたいわ」  と目を輝かせたのだ。これはヤバイ。東京から近すぎるのだ。キヨミが堀辰雄の愛読者だったのを忘れていたのだ。  堀辰雄の住んでいた信濃追分の家を訪問したいと言う。旅嫌いのキヨミの返事としては予想外だった。堀辰雄と堀多恵との愛のあり方が素晴しいのだそうだ。  キヨミとの恋愛中、いわゆるラブレターなるものを出し合ったことはなかった。キヨミの谷中の家の二階に下宿していた友人が転居したので、その代りにこちらが住んだからである。下宿屋の娘と恋をして結婚したのだから、効率としては最高に良かったわけだ。ラブレターという愛の証しが残っていないのが彼女にとっては残念だった。勿論結婚してからだって手紙は書ける。ただしどちらか一方が遠くへ行っていなければ成り立たない。三年の間その機会もなかった。私が旅に出たとしてもせいぜい二泊ぐらいである。出すつもりだったという手紙を帰宅してから何通か読まされたことがある。要するにキヨミは文学少女の域をまだ脱していないのだ。  しかも読む本の傾向は私の趣味とはまるで違っている。幸田露伴とその娘の幸田文。森鴎外とその娘の小堀杏奴。「銀の匙」の中勘助。内田百※[#「門/月」]、永井荷風、折口信夫。雑誌は羽仁もと子創刊の「婦人之友」と花森安治の「暮しの手帖」。ヨーロッパ文学ではロマン・ロラン、ヘルマン・ヘッセ、トーマス・マン、等々である。私といえば目下ヘンリー・ミラーとアポリネールに心酔中なのだ。申し訳ないが、これではキヨミと私の間は文化的断絶としかいいようがない。これ程教養の土台が違い、年齢も違う男と女が結婚しているとはいかなる理由なのか。参考のために言うとTはモラヴィアを翻訳中である。将来ダンテの神曲の新訳に挑戦したいと言っている。襟を正すというべきか、肩をすくめた方がいいか、神曲など訳しはじめたら、天国への道は遠のくばかりだろう。それでも彼女等は股を開げ、艶かな「黒い花びら」にこちらのだらしのない男根を受け入れてくれたのだ。自分にとって最大の不幸は子宮を持っていることであると、Tは歓喜の叫びをあげたあと、うるんだ目で吐き捨てるように言った。  私にとって最大の不幸は多分Tを愛しはじめていることかもしれない。  軽井沢へ直接出掛けるわけにはいかない。私は幾日も進行しない「モデルのいない画室」のカンバスを眺めながら、思案にくれていた。 「モデルのいない画室」、タイトルの素晴しさに惹かれて描きはじめたが、たちまち行きづまってしまったのだ。そこへ、アバンギャルド協会の北海道展の話が持ちあがった。私の頭の中に点と線の構図が出来上ったのだ。札幌から一日早く出て、奥羽・羽越本線経由で軽井沢を廻って帰ってくるプランである。急がば廻れ。いやこのプランは私にとってはナポレオンの遠征にも匹敵する。  恋人との密会の計画はどうしても犯罪の匂いがついて回る。アリバイ工作を考えなければならないからだ。  札幌行きは七月二十五日に決ったと協会から通知があった。私はその通知書をキヨミに見せて、説得した。 「君も行ければいいんだけどね」心にもないことを言った。 「年上の女がついて行ったら笑いものになるわ」  キヨミはしおらしいことを言った。 「ぼくだって遊びに行くわけじゃないんだ。グループ展は画家にとっては戦争みたいなものさ。まず陳列の壁の取り合いからはじまる。いかにグループのなかで自分の作品が目立つかを競わなくてはならない。それから批評合戦さ」 「いやね」 「それでもぼくたちのグループは民主的なんだよ。何事もボスが決めるんじゃなく、協議して決めるからさ」 「女の人は入っていないの?」 「三人いるよ」 「大丈夫かしら?」  何となく、ぎくっとした。Tとは直接関係はないが、キヨミの方も遠回しに情勢を判断しようとしているに違いない。 「えっ? どういう意味なんだい」 「画家仲間って、いいかげんなんでしょう。男と女の関係が」 「それだから困るんだ。三人ともちゃんと結婚している」  嘘だった。三人とも結婚していなかった。 「結婚している方が却って危いわ。あなただって結婚しているくせに、旅先で女と出来たんですからね」  さらりとTとの一件を持ち出されたのには内心驚いた。 「何もしなかったじゃないか」  何度も強調しておく方がいい。地獄に落ちたって口を割らないことだ。 「そうでしたわね。いいかげんのところがあなたなんだから、いいわよ。浮気は所詮は浮気だわ。いいのよ、浮気したって。唯子供だけは孕ませないでね」  痛烈なパンチだ。無理しているのだろうが、口元に微笑を浮べているところが自信の表われだ。妊娠したと嘘をついて結婚を強要したのはキヨミではなかったか。結婚してから医者の誤診だったと軽くいなされたのだ。しかも妊娠しなくて良かったわ。あなたの子供を生んだらきっと社会の迷惑になるでしょう、とまで聖職者のような顔をして言ったのだ。いずれにしても、こっちだって子供は欲しくなかった。年上の妻から、お父さんなんて言われた日にはやっていられない。  一年後にキヨミは妊娠出来ない欠陥を子宮に持っていることが判明した。悪い血統を社会に残さないためにかえっていい、と再び言われた。  私の父は私生児だった。そして現在、居酒屋を経営している。つまりそれが悪い血統の総ての理由である。その時逆上して一度だけ妻をなぐった。肉親の悪口には堪えられなかったのだ。はじめて男らしさを見せたわね。ご立派よ。でももう二度とこのことについては言わないわ。キヨミは鼻血をエプロンで押えながら言った。見上げたものだと言うべきだろうか。私も二度と暴力をふるわなかった。 「この世の中に自分の分身がいるなんて気持悪い」  まんざら嘘ではなかったが、キヨミのごきげんを取っておく必要もあった。しかしキヨミが「あなたが北海道へ行っている間、わたしは軽井沢に行くわ」と言った時狼狽を通り越して恐怖を感じた。 「結婚してから、わたしたちは新婚旅行さえしなかったわね。そのお金をあなたの画材に回した方がいいと考えたからよ。そしてわたしは唯の一度も旅行していないわ。旅行嫌いのように見せかけていたけど、あなたに負担を感じさせないためだったの。あなたは展覧会のため札幌にさえ行けるようになった。本当は喜こんでいるわ。やはりそれだけ余裕が出来たという証拠ですものね。札幌まで行くなら、帰りに奥羽・羽越本線に乗り、信越線に乗りかえ軽井沢を通っても、運賃はたいして違うわけじゃない。わたしだって幾日も軽井沢にいようという了見じゃないわ。二日もいれば充分なのよ。だから札幌から来たあなたと軽井沢で会って一緒に東京へ帰ってくる、というのはとても素適な計画だと思うわ」  キヨミの提案はあたかも私がTに会うために考えた計画とまるで一緒だったのだ。このTとの密会の計画は絶対に私とTだけしか知っていない。Aを介したTからの手紙は読んだあとは途中で破り捨てている。身を切られる思いだが、証拠を持っているわけにはいかない。もとをたどればこの夏軽井沢にでも行こうかと言った軽口がいけなかったのだ。キヨミの少女時代からの軽井沢へのあこがれを呼び覚してしまったようだ。  Tはこの二十日から軽井沢の彼女の知人の別荘に泊る予定になっている。落ち合う約束は二十八日である。明日速達でTに手紙を出しても彼女の出発前に間に合うかどうか分らない。今日出せばかろうじて間に合うかもしれない。だがキヨミに隠れて手紙を書くことは不可能に近いのだ。  こちらが出掛ける理由を大急ぎで考えなくてはならない。時刻は三時を廻っている。小刻みに身体のどこかが震えている感じだ。  あるいはキヨミの計画を変更させるかだ。だがこれも名案が浮んでこない。落ち着く必要がある。いやなによりも停滞している「モデルのいない画室」を完成させなければならない。作品の集荷は三日後にせまっているのだ。  どう素適なプランでしょう、とキヨミがくり返して言う。 「何故、黙っているの」  とキヨミが催促する。すぐには嘘も出ないほど混乱している。水原弘の「黒い花びら」が遠くの方で聞える。ピカソの「泣く女」が正面の壁で叫び声をあげる。  絵画というものは部屋を飾るために作られたものではない。それは敵に対する防衛的な、そして攻撃的な兵器なんだ。とピカソが言っている。  泣き叫ぶピカソの恋人ドラ・マールの肖像は何に対する防衛であり攻撃なのか。「泣く女」はあの記念碑的な壁画ゲルニカの延長線上にある作品である。ゲルニカは周知のように一九三七年四月二十六日、フランコの要請に応じたヒットラードイツの爆撃機が、ゲルニカというスペインの小さな町を全滅させた悲劇に対するピカソの怒りと悲しみと抗議を表現した絵画である。この三米五十センチ×七米八十センチにおよぶ大作をピカソは五月十一日から描きはじめほぼ二ヵ月で完成させた。その制作過程の記録写真を撮ったのがドラ・マールである。ドラ・マールは単なる写真家としてたたずんでいたわけではない。れっきとした恋人として妻のいるピカソに寄りそっていたのだ。  ゲルニカにはナチへの抗議という大義名分があるが、一方に壮絶なエロティシズムの葛藤が隠されていると見る批評家たちもいる。ドラ・マールという美しく気性の激しい女との愛憎のドラマである。進行中の作品の前で狂おしいばかりの愛の闘いがあったからこそゲルニカという傑作が生れたと言っていいだろう。  そしてドラ・マールはピカソの前で思いきり泣く。それはあたかもピカソに対する防衛と攻撃でさえある。  しかし私のアトリエではキヨミは少女のようにはしゃいでいる。泣きたいのは私の方だ。ラジオのヒットパレードではマヒナスターズが「妻という字にゃ勝てやせぬ」と甘い声で唱和している。   不安よ、おお、私のよろこび   お前と私は一緒にゆく   ざりがにが進むやうに、   後へ、後へと。 [#地付き]ギヨーム・アポリネール     [#改ページ]   第四章 耳のなかの水  キヨミの軽井沢行きを断念させるか延期させるかは不可能だった。  若し私たちが軽井沢で会えないのなら、あなたは北海道へ行く資格がないわ。と言われた。  私にとっての北海道行きはグループ展に参加するという理由よりは、軽井沢で待っているTに会うための偽装旅行だったから、断念するわけにはいかなかった。しかし軽井沢でキヨミと落ち合う約束をすれば、当然、Tに会うことは難しくなる。Tは旧軽の知人の別荘に十日程滞在すると言って来ていた。私との密会を期待している以上、知人は不在のはずである。密会の状況としては申し分ない。五月に東京で会って以来、二ヵ月半は会っていなかった。  Tは多分、愛していると思う、と手紙のなかでいかにももったいぶった言い方をしたが、私に妻がいることを考慮しての表現に違いない。Tらしいと思ったが、なんと言ってもたったの二回しか会っていないのだ。その女に自分が加速度的に惹きつけられているのが不思議でならない。一夜の情事にしても必らずしも�最高�の出来ではなかったはずだ。しかもキヨミに陰毛を剃られた無惨な痕跡を見られている。その失態を理由に二度と会えなくても文句の言いようはないのだ。  だがTは手紙の中でもその件についてはなにも言及していなかった。ただ、  あなたが丸坊主になっているおかしな夢を見たわ。  と書いてあった。陰毛のないオチンチンの隠喩であることは間違いない。  そこに白い帽子を乗せてあげたわ。  と続く。モラヴィア的な表現なのかどうかは分らないが、気に入った。  Tが白い羽根飾りの帽子なら、キヨミは色のあせたフェルト帽だ。どこにも掛けられない帽子。一番似合うのはキヨミ自身の頭の上でしかない。  そのフェルト帽を軽井沢の白樺の枝に掛けたい、と言い出したのだ。 「いったいどっちなの? 軽井沢へ来るの? 来ないの?」  キヨミはフェルト帽の下から大きなどんぐり目で聞く。 「明日まで考えよう。今は出品作の完成しか頭にないんだ」と私が答える。 「モデルのいない画室」とタイトルだけは気に入ったものが出来たが、肝心の絵の方は難渋していた。トラック便でまとめて送る都合上明日がぎりぎりの〆切だった。どっちみち絵具の乾くひまはない。濡れたままの状態で送り出すか、自分で持っていくしかない。  壁らしき空間のなかにヌードを描き、それをギリギリまで消していく、というのが最初のアイデアであった。ピカソというより、はり金のように人体の肉を削り取っていくジャコメッティの方に近い。細くしていく代りに限界まで消していこうというわけだ。人体を消していく行為は要するにホワイトで塗りつぶしていくことである。人体を描いては塗りつぶし、また新たに描き、塗りつぶしていく。そうすることで何重にも消された人体が重なっていき、デリケートな空間が現出する。  しかし実際にやってみると、細部にこだわりすぎ、なかなか気に入った状態にならなかった。  キヨミの奴も、こちらの絵の進行工合に照応するかのように、アトリエに現われたり消えたりする。 「何故、何度も描いたり消したりするの」  半ばあきれ顔に、半ば不審そうに聞く。 「制作中は邪魔するなと言ってあるじゃないか」 「邪魔なんかしていないわ。唯眺めているだけよ」 「それが邪魔なんだよ」 「要するに私が存在していることが邪魔なの」  キヨミの顔が紅潮しているのが分った。 「少なくとも黙っていてくれないか」 「わたしに消えてもらいたいと思っているのでしょう。だからカンバスの上で何度も何度もわたしを消しているんでしょう」  思わず、えっ、と叫んだ。  まさにキヨミによって、自分が何を望みながら非生産的な手法にこだわっているのか、無意識の深層を見事にあばかれたように思えたからだった。はっきりそう自覚していたわけではない。だが描いては消しているうちに、果てしない自虐的な泥沼にのめり込んでいる不安を感じていた。塗っても塗っても不様なヌードがひび割れた白い壁から幽霊のように現われてくるのだ。消す行為も描く行為も意味を失っていたのである。  決してそんなことはない、と否定はしたものの、キヨミを納得させるのは難しかった。 「何も、消している女がキヨミとは決っていない。全然似ていないじゃないか」 「随分次元の低いことを言うのね。女がわたしに似ているとか似ていないとかはどうでもいいことなのよ。あなたがいくら否定してもわたしには直感力があるわ。あなたの欠点は画家のくせに嘘をつくのがへたなのよ。芸術って虚構でしょう? あなたはどんなにわたしをカンバスのなかで消そうとしても、消せないわ」  今度は妙に勝ち誇ったような口調で言った。あながち彼女の言っていることは間違いではない。結局私の絵は文学的なのだ。だから見破られるのである。  不意に制作を続行するのが厭になった。屈辱のようなものが胸を重苦しくした。ここでカンバスを破けばキヨミは後悔するだろうか。あるいは筆を投げつけるとか。しかし私は笑っていた。  ある考えが浮んだのだ。北海道へ行くと言って、行かずに直接軽井沢へ一足先に出掛ける、というニュープランである。 「何がおかしいの?」  予想したようにキヨミが聞いて来た。 「キヨミには負けたよ。もうこの絵は描かない」 「じゃあ、北海道の方はどうするの?」 「これから新たに描くさ」 「だって時間がないじゃないの」 「なら、古い絵を出す」 「恥をかくわよ」 「未発表作品なら、新作と同じことだよ」 「あなたはそれで満足なの」 「満足じゃないけど、キミの感情を害するよりはましだろう」  キヨミは幾分ばつの悪そうな表情をした。しかしすまないという感情は抱いていないらしかった。  急に部屋が暗くなった。夕立が来そうだった。  間もなく雨が激しく降り出した。  キヨミはアトリエから立ち去らないで籐椅子に腰掛けている。  ひどく居心地が悪かった。こちらの新しい計画をキヨミは既に予知しているような気がしたからだ。 「ねえ、愛しているの?」  あまりに突然だったので水を浴びせられたように背筋がぞくっとした。何か気まずい前触が来そうな薄暗い舞台に立っているような気がした。  激しい雨音が妙に不吉に響いた。 「愛しているに決っているじゃないか」  雨滴で翼が重くなって低く飛んでいる鳥の鳴き声に似ていた。 「よく聞えなかったわ。もう一度言ってよ」 「愛しているよ」 「そう、今度は聞えたわ。でも愛って何かしら?」  自分の女房にこんな質問をされるのはうれしくない。Tに聞かれたら、どんな風に答えるだろうか、と考えた。しかしいずれにしてもすぐには浮んで来ない。聞かれた相手によって違う答え方が出来るものとしか言えない。 「変らないものが愛だろう」  まるで正反対のことを言ってやった。 「そうかしら。愛は変るのよ。変らない愛は神への愛だけだわ」  キヨミはこちらのおどおどした目付きを、しっかりと見すえながら言った。  勿論、そうだよ。自分の方からそう言わなかったいまいましさで気が沈んだ。 「わたしはあなたを愛しているわ。でも少しずつ愛し方が変って来ている気がする。あなたが変って来たからなのよ。三年前のあなたじゃないわ。無我夢中でわたしにしがみついて来たあなたじゃない。きっと、少し余裕が出て来たのね。でも絵だって描けなくなっているでしょう。描いては消し、消しては描く。心に迷いがあるからなのよ。わたしを、しっかりと見つめることさえ出来ないじゃないの。あなたの才能が何かで蝕まれているのよ」  多分名指しでTと言いたいところだろう。愛がどうのこうのと言っている間はいいけど、こちらの仕事にまで踏み込んでくるのは許せない。警告を発しておく必要がある。 「ぼくの仕事には口をはさまないって約束だったろう。はっきり言うけど、君はぼくのマネージャーじゃないんだ」 「口をはさんだわけじゃないわ。わたしの感想を言っただけよ」 「それが口をはさんだことじゃないか。批判するのは許せない」 「批判じゃないわ。あなたを愛しているから心配しているのよ」  愛ってなんて便利な言葉なんだろう。  こっちだって愛しているなら邪魔しないでくれ、と言いたい。そこにいるだけで邪魔なのだ。だがキヨミは椅子から動こうとしない。ロダンの考える人のようなポーズでこちらを凝視している。私にとって貴重な時間をわざと浪費させようとしているとしか思えない。心が焦ってくる。何に対してなのか分らない。 「どうして、わたしをモデルにして描こうとしないの」  また不意に変な質問をして来た。  ヌードらしき形体は描いているが、総てモデルなしの空想画である。浪人時代に研究所で何度か実際のモデルを使ってヌードを写生したことはある。いわゆる反自然主義的な絵を描きはじめてからは、風景にしろ人物にしろ、対象を実写する描き方はやめているのだ。もっとも座興で似顔絵を描かされる場合は別だ。似顔絵なんて絵画ではない。これは画家の道化としてのサービスなのだ。  美術学校とか研究所でヌードモデルを使うのはやむを得ないとしても、個人の密室としてのアトリエでヌードを描くのは、想像しただけで欲情してしまう。モディリアニイは恋人を裸にし情交してからヌードを描いた。あるいはモデルと情交し、恋人にした。モディリアニイのヌードの肌の輝きは精液の匂いなのだ。芸術という名目で画家はモデルの衣裳をはぎ取り、股を拡げさせ、絵筆と一緒に男根まで侵入させたのだ。そして女たちはモディリアニイに傑作をつくらせた。貴公子のようなラファエロだって、アトリエで何をやっていたか分りやしない。うらやましい限りだ。  モデル代のない画家は女房をヌードモデルに使う。それだけはしたくなかった。美的規準からキヨミを観察した場合、あらゆる点で失格である。それはヌードではなく、みすぼらしいはだかである。無名時代の画家の絵が妙にみすぼらしいのは女房をモデルにするからに他ならない。それを批評家はリアリズムと言う。リアリズムの画家は食べ残した皿と裸とを同列に見ているのだ。それはいつでもセックス出来る容器にすぎない。 「キヨミをモデルにするために結婚したわけじゃないよ」  考えぬいた末に、多分最高の答弁をした。 「じゃあ、何のために結婚したの」  次の答えは極めて簡単である。 「愛していたからさ」 「愛していた。過去形なのね」 「いや、違うよ。愛していたし、今も愛しているという意味じゃないか」 「愛しているならわたしをヌードモデルに出来るはずよ」 「そりゃあ出来るだろう。画家は総てのものを描かなければならない、とレオナルド・ダ・ヴィンチも言っている。しかしレオナルドは十六世紀の画家だからね。二十世紀の画家は選んだものしか描かなくていいんだ」 「じゃあ、わたしのヌードは選ぶなかに入っていないというわけね」 「絵のモチーフとしては選んでいない。しかし、妻としてはキヨミを選んだんだ。いいかい、現代画家は私生活や日常と、画題とは別なものなんだ。毎日うどんばかり食べているから、うどんの絵を描かなきゃいけないのかい? 女房と暮しているから女房のヌードを描かなきゃいけないのか。犬もいたら犬も描かなきゃいけない……」 「でもあなたはわたしのヌードらしきものを描き、何度も消していたわ」  またキヨミは先程の問題をぶり返して来た。自分のヌードを消されたのが余程腹が立つのだろう。 「さっきも言ったけど、あれは君のヌードじゃない」 「じゃあ誰れなの」 「芸術は虚構だと言ったのはキヨミじゃないか。単なるヌードだよ。そうだな、ヌードとしてのヌード。ヌードという形体にすぎないんだ」  今度はキヨミの方が黙り込んだ。明らかに彼女の方が分が悪かったからだ。  雨はやんでいた。 「じゃあ、わたしのヌードって何なの?」 「キヨミという女の容れ物かな」  そう言うと、さすがにキヨミも苦笑した。 「容れ物に過ぎない、ということなのね」 「いや、そこまでは言っていないよ」 「要するに美しくない、ということね」 「いや、美しいとか醜いとかは結局主観の問題なんだ。現代の画家は美しいものを、わざと醜く描くし、醜いと思われているものも描いている。汚ないものさえ、平気で描くんだ。ダリなんて、ウンコまで描いているよ」 「Tさんのヌードはきれいなの?」  まったくの不意打ちだった。  否定する前に顔があかくなった。あやうくTの裸を知っている素振をするところだったのだ。 「知っているはずがないだろう」  あわてて強く否定した。 「さっき消したヌードはわたしでなく、Tさんなんでしょう」  馬鹿だな、妄想だよ、と即座に否定したが、キヨミの指摘はまんざら間違ってはいなかった。はっきりTと決めていたわけではないが、Tのイメージがつきまとっていたことは否定出来ない。  最初キヨミは消されたヌードは彼女自身だと言い、今になってTでしょう、と主張し出したのだ。外観はヌードという単なる形体である。しかしその心は? とキヨミは聞いているのだ。  その心なんて、分りやしない。そう言ったら、自分で描いていながら、何を描こうとしているのか分らないの、と反撃されるに違いない。ではこう答えたらどうだ。キヨミでもあるし、Tでもある、と。そして、またそのどちらでもない、と。馬鹿にしないでよ、と言われるに違いない。しかし、それが一番正確な答えかもしれないのだ。 「若しTならどうなんだい」  何故かこちらもキヨミに挑戦したくなった。キヨミ流に解釈すれば、Tの存在を消したい願望を持っている、ということになる。キヨミはどう答えるか? そこが知りたい。  多分その矛盾に気がついたのだろう。キヨミは口ごもった。 「消したままにしておきましょうよ」  キヨミは照れたように微笑した。女は微笑さえすれば総て許されると思っているらしい。こちらが微笑すれば、嘘をついていると思われる。 「本当はね、あなたとやりたかったのよ」  キヨミの口からとまどい気味にこの言葉がもれた時、雨滴が耳のなかに入ったような奇妙な気分に襲われた。三年間結婚していて、はじめて聞いた言葉かもしれない。Tが現われてからキヨミとの情交が幾分ひかえ目勝になっていたことは事実だ。しかし決して情交をお互に嫌ったわけではなかった。Tとの情交が、こちらの夫婦生活に決定的な影響を与えるまでには至らなかったのだ。若し、キヨミが本気になって、私が汚れていると信じているなら、彼女の方から肉体の交渉を拒絶しても良かったはずだ。だが結局は日常というオブラートのなかに解消されてしまったのだ。  キヨミの方が積極的な気分になっている時でも、こんな風に露骨な言葉で要求したことはなかった。  私は驚きをもってキヨミを眺めた。さっきまでの彼女と違った女のようにさえ見えた。どんぐり目のふちと出張った頬骨が赤く染っている。  急に欲情が襲った。  キヨミを籐椅子に腰掛けさせたまま、スカートをはぎ取り、パンティをむしり取った。そして彼女の両脚を肘掛けに持ちあげ、思いきり太股を押し拡げた。こんなみだらな恰好をさせたのははじめてだった。私はまじまじと黒い花びらを眺めた。紅色の突起した彼女の核を吸った。あの匂いが口中に拡がった。  キヨミは体をのけぞらせて身もだえた。太股で頭部をしめつけられた時、耳のなかに水が侵入してくる感覚を覚えた。硬直した岬の中を火柱が貫通する。  再び雨が降り出していた。キヨミも彼女自身の洪水でびしょ濡れになった。アトリエでの情交ははじめてだったのだ。  その日私たちは続けて三回情交した。最後はアトリエの床を転がりながらやった。とても不思議な気分だった。天井が異様に高く感じ、未完成のまま放棄したカンバスが、窓のように見えた。塗り込められた絵具の内側にTの姿が見え隠れしているように見え、耳のなかが熱くなった。  翌日、私は駅前の郵便局から軽井沢にいるTに電報を打った。アス・カナラズ・イク [#改ページ]   第五章 汽車は出ていく  出発の朝になって、わたしも上野駅まで一緒に行く、とキヨミが言い出した。  そんな必要はない、と血相を変えて拒絶した。女房が駅まで送りにくるなんて、仲間たちに対して格好が悪い、と主張した。 「そういう意味じゃないの。あなたはみんなと北海道へ行きなさい。私は同じ駅から軽井沢へ出掛けるわ」  ぞっとするような宣告である。  今日の午后Tは軽井沢の駅で私のくるのを出迎えるはずになっている。彼女がこちらからの電報を受け取っていればの話だが。上野駅では仲間たちに会い、急に重要な用件が出来たので札幌まで同行出来ないと了解を得る。父が病気になったと言ってもいいだろう。母でもかまわない。肉親のキトクに勝る理由はないのだ。そして仲間たちを送り出し、軽井沢行きの列車に乗り込む、という手はずになっていたのだ。最初の予定ではそれから五日後にキヨミが軽井沢に来る。その時どういう形で出迎えるか、実はまだ決っていない。キヨミは信濃追分の油屋に宿を取ることになっている。普通なら私が油屋まで行けばいいのだが、Tの宿泊している旧軽と信濃追分の油屋との位置関係がよく分らないのだ。こちらは北海道から奥羽・羽越本線で直江津まで来て、信越線に乗りかえ長野経由で軽井沢まで来た、という設定になっている。時間表を頭にたたき込んでおかないと、すぐぼろが出るだろう。  ところがキヨミは今日青森行の列車に乗り込んだ私を見送ってから軽井沢へ行くと言い出したのだ。こちらの心の中の計画をいかに推察したのか、知る由もないが、偶然にしては何もかも適中しすぎている。決めた以上はテコでも動かないのがキヨミである。それなら彼女の予想をはるかに越えたプランを考えればいいのだ。一歩後退、二歩前進。  東北本線にいったんは乗って、小山で両毛線に乗り換え、高崎まで行き、そこで信越線に乗りつぐ。その間ほぼ三時間半はかかる。上野から軽井沢までは鈍行で四時間かかる。よもや高崎でキヨミに出くわすことはないだろう。危険なら小山で下車し時間をつぶせばいいのだ。とっさにそう考えたわけではないが、最初の計画通り札幌まで行って、軽井沢までもどってくるよりは遥かに楽な旅だ。そう思うと幾分気が楽になった。  しかし問題はTの方だ。約束の時間に列車から私が降りて来なければ、どう考えるだろうか。がっかりするだろうか、それで総て諦らめてしまったら終りだ。Tの宿泊予定の別荘にも電話はない。何故だ、と怒ってみたところではじまらない。こちらにだって電話が入っていないのである。私の田舎の実家にも電話はない。いや、Tの神戸の家にも電話はないのだ。人間は電話のない世界に数千年、いや数万年は生きて来たのである。問題は電話が普及しはじめているにもかかわらず、まだ所有していない家が多数あるということだ。  キヨミはこちらが彼女の言い分を聞いたので、すっかり舞いあがってしまった。まだ朝の六時である。仲間たちとの上野駅での集合時間は九時だ。武蔵小金井駅から上野までは一時間半は見なければならない。 「わたしたち五日間も会えないのよ」  急にしんみりした口調でキヨミは言ったが目は笑っていた。 「淋しくないの?」  キヨミの鼻の穴がふくらんでいる。 「そりゃあ淋しいさ」仕方なく言った。 「グループの仲間と一緒なら、わたしのことは忘れているでしょう」 「まあ展覧会が目的だからね」 「だから、忘れていても仕方ない? 本音はそうなんでしょう?」  胸ぐらをつかんで放りなげたい気持だ。 「そうだな、ベッドの中に入ったら思い出すかもしれない」 「わたしを思い出して、オチンチンを触わるの?」  何だって! 私はしげしげとキヨミの顔を見た。九歳年上の妻という名の女が涼しげな表情で、兎のような目でこちらを凝視している。あなたはあの人から逃れられないわ。そう言った時のTの冷やかな表情が、二重写しに浮んだ。 「七時にはここを出発しなければならないんだ」 「準備は全部出来ているわ。あなたの下着も着代えのシャツも、ちゃんとボストンバッグに入れてあるわよ。歯ブラシだって入れたわ。たった一つだけ入れてないものがあるの」 「へえー。なんだい」 「キヨミの体よ」  こちらにキヨミへの愛があふれていたら、抱きしめたいところだ。  君の死体ならボストンバッグにつめてもいい。ふとそんなフレーズが浮び、背筋がぞくっとした。死体をボストンバッグにつめ、北海道まで行く。何故か札幌でなく旭川だ。夏なのに雪原を歩いている。雪の下に埋めるつもりだ。灰色の空が棺のように雪原を覆っている。だが、ボストンバッグのあまりの軽さに何故かぞっとする。 「ボストンバッグに入るかな?」しばらくとまどった後で言った。 「そうね、全部は無理でしょうね」  ひどく非現実的な声音に聞えた。  ボストンバッグを開けようとするが、ファスナーがひっかかってうまく開かない。 「じゃあ、どの部分がいいかな」  キヨミの切断された下半身が目に浮んだ。 「あなたなら、どの部分を持っていきたいの?」  こんな馬鹿気たゲームに、キヨミの方はあくまでこだわって来た。明らかに一種の心理テストを試みているに違いない。  匂いだけでいい、と答えるか、目玉だけでいい、と言うか一瞬迷った。 「目玉だけでいいよ」 「あらっ」とキヨミは驚きの声をあげた。彼女にとって予想外な答えだったのだ。しかしすぐ、顔をしかめた。 「目玉だけなんて、気持悪いわ」 「部分はどこだって気持悪いさ。ゴッホのように耳なら美しいのかい」 「いやよ、そんな話は」  キヨミは不意に悲鳴をあげた。自分で言い出したくせに、具体的な形体が目に浮んだのだろう。  上野駅には予定の全員が集っていた。  雷鉄、飛竜、豆鉄砲、ネコ、ミソサザイ、である。勿論これはあだ名である。ちなみに私のあだ名はツバメだ。年上の女房を持っているからに他ならない。 「お世話になります」  よせばいいのにキヨミは仲間たちに深々と頭を下げた。柄にもなく体の大きい雷鉄が恐縮して、同じように深々と頭を下げたのは滑稽だった。雷鉄が最年長者といっても二十六歳である。ミソサザイはやっと二十歳になったばかりだ。陰でキヨミをオールド・ミスと言っているのは周知のことだ。結婚しているんだからミスはおかしい、と誰れかが注意したら、豆鉄砲が、いや敬意を表しているからさ、と応答したと、ネコがこっそり教えてくれた。ネコは自分こそマリー・ローランサンだと信じている、美人だが的のはずれた女だ。彼女と話していると、こちらの知性がおかしくなっていく。  そもそも、私がこんな連中とグループをつくっていることがキヨミには気に入らなかった。まず第一に真面目にやっているのかどうか疑わしかったのだ。一度だけ連中が私のアトリエに集った時があった。息子の同級生が誕生日に集ってくれたかのように、キヨミは年上の妻らしく、かいがいしく料理を出したり、ウイスキーをふるまったり、訳の分らない議論に耳を傾けて、せいいっぱいつき合った。勿論連中が帰ったあと、キヨミのフン懣が爆発した。 「あの人たちが芸術家なら、チンパンジーの方がよっぽど知性があるわ。尻尾で描くロバの方が遥かに天才だわ。シュールリアリズムとかキュービズムとか、訳の分らないことばっかり言って、寝小便をたれて、得意がっているんじゃないの」  キヨミにとって不幸だったのは、彼等の作品を一度も見ていないことだった。いやその方が幸せだったかもしれない。作品を見たら実際に胃ケイレンを起したかもしれない。本当はそれほど過激ではないのだが、要するに現代絵画を理解出来ない手合には、ジャクソン・ポロックとロバの尻尾で描いた絵との違いが解明出来ないのだから、どんな説得も不要である。  問題はキヨミの理解力とは別に、われわれのグループに強力な統一力が欠けている点だ。実態を正直に言えば現代美術としてレベルは決して高くはない。あえて断言すれば猿マネの集団なのだ。シュールリアリズムを云々しているネコが、絵までマリー・ローランサン風に堕落しているのはいただけない。最大の論客である雷鉄はレジェを賞讃していながら、今だにシャガール風の甘い幻想画しか描けない。一番進んでいるのが、豆鉄砲だろう。もう絵は描かないと言い出しているからだ。動く彫刻に興味を持っているらしい。ミソサザイはクレー信者で、テキスタイルに色目を使っている。まあ女らしい発想と言えば、目を三角にしておこるに違いない。  キヨミにとって第二の不満は、彼等がいかなる手段で生活しているのか、まったく分らない点にあった。あなたは利用されている、と言うが、それは私に対する過大評価だ。いかがわしさに関しては、彼等と対等なのだ。しかし、キヨミの本音は、ネコが若くて美人だったからである。しかも攻撃的で、そのくせ妙にコケティシュなのだ。酔った勢で私の頬にキスしたシーンが許せないのだ。  キヨミがわざわざ上野駅まで一緒に来たかったのは、どうもネコを観察しておこうと考えたような気がしてならない。  Tが現われるまで、ネコに対して好意以上の感情を抱いていたことは確かだ。だが、おかしな真似はしていない。ネコがグループの男どもに愛嬌を振りまいているのは感心出来ないが、特に飛竜に対して必要以上に接近しすぎているような気配がある。もう寝ているかもしれない。若し会が分裂するとすれば主義主張の違いよりも、ネコが原因になるかもしれない、という予感がする。しかしネコの名誉のために言っておく必要があるが、東京のグループが存続しているのもネコがいるためかもしれないのだ。残念ながらわがアバンギャルド協会の主導権は大阪の連中が握っているのである。  大阪には影丸という、まるで忍者のような名前の、はえ抜きの前衛画家のリーダーがいる。何でも二科会の会員だったが脱退し、数年前から自由な芸術運動を旗印に若者たちのリーダーになっているが、何しろ会員の絶対数が少なく、玉石混淆であるのが何となく頼りない。既成の権力を倒すためには新しい勢力が権力を握るというのが、政治力学であるはずだが、影丸は権力をくつがえすという野望は持っていない。芸術家の権力などたかが知れている、無視するだけで充分である、とぼそぼそ言っているだけなのだ。そんな彼に人望があるのは、奥さんがとびきり美人だからである。と言ってしまうと身もふたもないが、アバンギャルド協会を単なる美術家の集団ではなく、デザイン、演劇、写真なども含めた多様な運動に持っていきたいと考えている点が評価されているのだ。ピカソだって、口ばしが黄色かった、というのが影丸の口ぐせで、画家が美人妻を持っているのは自分の唯一の美徳である、とのたまっている点がおかしい。 「奥さんもどちらかへ旅行ですか」と聞いたのは豆鉄砲である。 「ええ軽井沢へ行きますわ」  キヨミがキ然として答える。 「軽井沢って金持の行くところでしょう?」  ミソサザイが馬鹿なことを言う。 「私たちは貧乏ですわ。この人が北海道から来ることになっていますの。先に失礼してご迷惑をお掛けしますけど」  キヨミが余計なことを喋った。 「そうですか、知らなかったな」  雷鉄が意外な、とばかり私の顔を見た。このことについて深入りされるのは極めて危険だった。こちらの計画がずたずたに切られてしまう。  その時グループから離れて立っていたネコがやって来た。はじめて気がついたが、彼女の自慢の長髪がショート・カットされていたのだ。 「あら、どうして髪を切ったの?」  すかさずキヨミが聞いた。 「自己改革よ」  ネコが無愛想に答えた。 「そう。まだ若いのね。その方が似合うわ」  キヨミが歯の浮くようなお世辞とも皮肉ともとれる口調で言った。 「あなたも、きっと髪を切る時があるわよ」  ネコの応答にははっとする程の敵意が込められていた。 「どういう意味かしら」  むしろキヨミの方が軽蔑したような声を出したのはさすがというべきか。何しろ問題が北海道のスケジュールからはずれたらしいのが有難かった。グループの予定では札幌には二泊しかしないことになっている。キヨミと落ち合うのは五日後だ。グループの予定が知れたら、まずい結果になるのは明白である。いや何よりも、はたして今日中に軽井沢へ行けるかどうかさえ、あやしい。いかに口うるさい仲間をだまして脱出出来るかあやふやになって来ているからだ。キヨミさえついて来なければまだ可能性は強かったのだ。今のところ外堀が埋められつつあるといえるだろう。勿論そんなこちらの危惧とはおかまいなしに、うまい工合というべきか、反って逆効果というべきか、キヨミとネコとの間に対立が生じた。 「いつか男に逃げられるわ」  ネコが最悪なジョークを言った。キヨミにとって男とは即ち夫である私のことだ。 「あら、わたしには男なんて居ないわ」  キヨミは平然と言ってのけた。驚いたのは、こっちの方だ。気負い込んだネコも一瞬気勢をそがれた形になった。 「じゃあ、ぼくは何なんだい」  嫌悪な雰囲気を和らげるためにジョークのつもりで言った。というより、やはりそう聞かざるを得なかったのだ。 「あなたは、わたしの夫です」 「夫は男じゃないのか」  ネコのみならずグループの全員がキヨミの答えに注目した。ほんの少し挨拶して別れるつもりだったキヨミが今や話題の中心人物になった感じだった。なんといっても彼女はこの場では最年長者である。彼女自身それを意識しているかどうかは分らない。 「芸術家ですわ」  キヨミはあたかも勝利者の如くのたまった。論理的には何の妥当性も見出せなかったが、妙に納得させられる効力があった。全員があっ気に取られている間、豆鉄砲が、そろそろホームへ移らなければ席が確保出来ない、と注意した。何故か、挑撥の張本人のネコは顔を紅潮させてはいたが、あえて反撥しようとはしなかった。 「じゃあ、みんな行くか」  雷鉄が一応リーダーらしくみんなをうながした。 「私も行かなくてはならないわ。この人をよろしくお願いします」  キヨミは育ちのいい姉さんらしく、今度は打って変って神妙な口調で言った。 「浮気はさせませんよ」  豆鉄砲が余計な口をはさんだ。  キヨミがまたつまらない応答をするのではないかと、ひやひやしたが、今度は余裕たっぷりに、頬笑んでみせただけだった。  信越線と東北線、ホームは違うが改札口は同じである。  私はきわめて複雑な気持だった。雑沓を押し分けて歩きながら、キヨミという女が考えている以上に奇妙で、ある種の魅力をまだ持っていることが、心の負担を重くした。 「必らず信濃追分までくるわね」  横を並んで歩いているキヨミが耳元で念を押した。 「勿論、行くに決っているじゃないか」 「五日後の午後三時二十分着よ。駅で待っているわ」  そこまでは約束していなかったはずだ。 「札幌でのスケジュールもあるし、そんなに正確にはいかないよ」  苦がりきった気持で言った。 「ここに予定表が記してあるわ。あなたを軽井沢の駅で出迎える。それがわたしの願望なの。分るでしょう?」  動いている列のなかで、キヨミと言い争っている時間はなかった。それに仲間たちがまわりで耳をそば立てている。私は仕方なく、予定表を受け取りながらうなずいた。  改札を通過すると右が東北線で左の階段を上ったところが信越線のホームである。そこでキヨミが立ち停った。 「では、みなさんご機嫌よう」  歯の浮くような山の手弁で挨拶し、おまけに手まで振った。つられたようにネコをのぞいて全員が手を振ったのは滑稽だった。 「素敵な奥さんじゃない」  と言ったのは一番年少のミソサザイだ。 「頭があがらないだろうな。芸術家だとさ」  飛竜が皮肉たっぷりに言った。  ネコだけは黙りこくって、私の方をぎらぎらする目でにらみつけていた。  座席はやっとの思いで全員確保したが、全員一緒というわけにはいかなかった。横の座席に座ったのはネコである。偶然なのか、どちらかがそれを望んだのか、分らない。すくなくとも私は望まなかった、と思いたい。  乗り換えの小山まで約一時間しかない。その間に、自分が何故急にみんなと行動を共にしないで下車するのか、全員に納得させなければならない。しかも三十号大の油絵を持っていってもらう難問がある。集荷日に間に合わなかったからだ。  しかし、もう一つの危惧があった。本来ならキヨミが乗ったであろう列車に私が乗るはずだったのだ。軽井沢の駅ではTが私を待っている。とすると、キヨミとTがプラットホームで出会う可能性がある。だが、二人はお互に会ったことがないので、仮に顔をつき合せたとしてもお互を認識する確率は低いに違いない。必らずTが迎えに来ていると断言出来ないし、キヨミの目的が信濃追分なら、軽井沢で下車しないで、追分の駅で降りる可能性の方が強い。しかし私には、はっきりとあなたを軽井沢の駅で出迎えたいと言ったのだ。信濃追分の油屋に泊っているはずのキヨミが、何故、軽井沢の駅まで出迎えようと言ったのか。何もかもが、あいまいな予想でありながら、何もかもが最も危惧する結果を持つような変な予感がする。要するに今回のTとの密会に関する情報があまりに不確定なものばかりなのだ。自分では綿密な計画をたてたつもりでも、一つ予想がはずれると、もう先が読めなくなる。仮にこちらの計画通りに運んだとしても、ほぼ同時期にTとキヨミの両方に、お互にさとられずに会うことが出来るだろうか。私にとって最大のミスは軽井沢周辺の地理にまったくうとい点で、それならあらかじめ調査しておこうという気持さえ持たなかったのだから、何をか言わんやである。  しかも運悪く、というか当然かもしれないが、ネコが変にからみはじめたのだ。 「夫は男ではない、芸術家です、だってさ。よく言ったわね。じゃあ、その妻は何なの。妻は芸術家ではない、女です、と言うことになるじゃないの。その女である妻は、男でない芸術家の夫に何をするの?」 「もういいよ、その話は。女房は人見知りするんでね。時々緊張のあまり変なことを言うんだ」 「へえー、あなたでも奥さんの弁解をするのね」 「いや、ネコよりね、ぼくの方が自分の女房について知っているというだけさ。敵意を持ったのはキミの方だろう?」 「違うわ。あの人の方が気にくわないことを先に言ったわ」 「彼女が何を言ったか忘れてしまったがね。まあ結局、人生には変りないわけだろう?」 「人生ねえー。あなたの人生? それとも私の人生?」 「うーん、お互の人生さ」 「冗談じゃない。わたしの人生とあなたの人生とは違うわよ」 「そりゃ、そうだよ。だけどほら、フランス映画などで、�セ・ラ・ヴィ�と言うじゃないか。肩をすくめてさ。あれと同じようなものさ。まあ年の差じゃないかな」 「わたしが青二才っていう意味?」 「違うよ。キミの方が若くて美しいから、キヨミの奴、ヤキモチ焼いたんだろう」  この台詞はネコを幾分よろこばせたらしい。はじめて彼女の表情がコケティシュに変った。  しかし、ここでよせばいいのに、つい聞いてしまったのだ。 「だけどね、どうして髪を切ってしまったんだ。長くていい髪だったのに」  電気にでも触れたようにネコは叫び声をあげた。「どうして、どいつもこいつも髪を切ったことに関心があるの? あなた方には関係ないことでしょう!」前の座席に老人夫婦が座っていたが、まるでエイゼンシュタインの映画のワン・ショットのように口をあんぐり開けて、ネコと私の顔を交互に眺めまわした。  その時離れた席にいた豆鉄砲が飛んで来た。周囲の乗客たちの視線がいっせいにこちらに向けられている。 「ネコはね、失恋したんだよ」  豆鉄砲が更に火を付けるような最悪な秘密情報を喋った。 「馬鹿もん!」  ネコは手に持っていた週刊誌を豆鉄砲に投げつけた。私は必死になって座席から飛び出そうとするネコの腕を引っぱった。 「芸術論ならともかく、つまらないことで、ケンカすることはないだろう」  雷鉄がやって来てネコを説得した。 「マリー・ローランサンならそんなことぐらいで怒らないよ」  私がお世辞のつもりで言った。 「われわれの女王は気が短いからな」  豆鉄砲もお世辞に追従した。  列車はすでに大宮を通過していた。小山まで二十分位しかない。落ち着こうとしたが気だけが焦る。  これもこちらにとって有難いのかどうか、向いの席の老夫婦が「お仲間だけの方がいいでしょう」と席を譲ってくれたのだ。豆鉄砲と雷鉄が向い合って座ることになった。やはり、これはまずかったと考えるべきだろう。彼等の好きな芸術論というか方法論がはじまったからである。まず私の出品作が旧作であることに対して雷鉄がいちゃもんをつけはじめた。旧作といっても、せいぜい三ヵ月前の作品で、しかも未発表なのだ。こちらが言わなければ新作で通用するのに、つい、今回のグループ展のために描いた作品が完成出来なかったので自分の方から旧作を出すと言ったのが、そもそもの間違いだったのだ。  第一、その作品を彼等はまだ見ていないのである。私だけが集荷日に間に合わなく今日持参したということがマイナス要因になっているに違いない。その件をせめられても、出品しないというのではなく、現に手に持って来ているのだから、そんなに非難されるいわれはないはずだ。今回は記念碑的なグループ展で、各自五十号以上の大作を出品するという約束だったのに、三十号とは何事か、と雷鉄は私を非難した。 「それについては弁解の余地がないさ。だけどくだらない大作よりも自信のある作品の方が重要ではないか」と抗弁した。 「意志の問題だよ。確かに理屈はそうだけど、全員がそうしたら、大義名分がたたなくなるじゃないか。作家にとって絵の大きさはそんなに馬鹿にしたものだろうか。全員の出品作が五十号以上という意気込みこそが、われわれの情熱の証ではないか。お前は敗北主義だよ」 「じゃあ、どうすればいいんだ。出品を取り止めろと言うのか」 「そうだな、それしかない」雷鉄が冷たく言い放った。血が逆流した。 「それは無茶よ、あまりに非人間的だわ」と抗弁してくれたのはネコだった。 「作品も見ないで、あなたがそんな風に命令する権利はないわ。あなたはリーダーでもなんでもないじゃないの。リーダーは影丸でしょう。彼の意見を聞くまでは、誰れも強制出来ないはずよ。若し、この人が出品出来ないなら、わたしも出品しないわ」  強力な助だちである。しかし何故ネコが必死になって抗弁してくれたのか、その本意は分らなかった。豆鉄砲が、鳩が豆鉄砲をくったような顔をしたのはご愛嬌だ。 「じゃあ、ツバメの絵をここで見ようじゃないか」  雷鉄がとんでもない要求を出した。  小山の駅に到着するまで後十分しかない。ここで下車しなければ総ての計画は水の泡になる。こちらの席の雲行きが怪しくなっているのを気にして、飛竜とミソサザイがやって来て、通路に立っていた。 「こんなところで油絵を見せられない」断固として主張した。 「場所もわきまえないで、みんな失礼じゃないの」  ネコが異様なほどこちらに肩入れしてくれたのがまぶしい。 「ここで絵を拡げるくらいなら、ぼくは下車して帰る」  思いきってそう言ってやった。 「わたしも下車するわ」  と、とんでもないことをネコが言った。はっきり言って大迷惑だったのだ。展覧会を捧に振って、Tとの密会をはたそうとしたのに、ネコまでが一緒に下車されたのでは何にもならない。  私だけならともかく、ネコが出品しないとなると、困るのはグループそのものである。唯でさえ少人数のところへ、二人の不出品が決れば、様にならない。言っちゃなんだが、私とネコとはグループの中でも最も有力視されているのだ。 「困るなあ、そんな我が儘をされちゃあ」  雷鉄が顔をしかめた。 「要するに大きさの問題だろう。芸術運動の本質には関係ないじゃないか」飛竜が言った。 「百号大の印象派を出されるよりは遥かにいいよ」豆鉄砲が物知り顔に弁明してくれた。 「まだ全員が全員の絵を見ていないわけでしょう? この人だけが、こんな場所で審査されるなんて残酷だわ」  ミソサザイまで応援に廻ってくれた。 「それに審査をしないというのが我々のたて前じゃないか」豆鉄砲が決定的なルールを提言した。  三十号でも出品を認める方向へ傾いて来たことは、こちらにとってむしろ工合悪かった。彼等から下車を余儀なくされた方が、本当は都合良かったのだ。体中がびっしょり汗で濡れていた。運命の別れ道がもうそこまで来ている。  絵画は過程である。完成などあり得ない。  不意にマチスの言葉が無関係に脳裏をかすめた。グループ展を選ぶか、Tを選ぶか、瀬戸際に立っていた。 「あと三分で小山に着きます。両毛線高崎行きは二十三分の待ち合せです」  聞き取りにくかったが車内放送があった。  射精しそうなぐらい体が震えた。 「まあ出品してもらおうじゃないか、こいつの奥さんにも、よろしくって頼まれたことだし」  年長だけが取り得の雷鉄が言い、ネコをのぞいて全員が笑った。 「ぼくは出品しない。小山の駅で下車する」自分でもびっくりするほどカン高い声で宣言した。  全員が目をむいて、口をあんぐり開けた。  列車が小山駅のホームに停車した。  私はボストンバッグと三十号の油絵をかかえて、待てよ、とか止めろよとかの声を背中に聞きながら席を飛び出した。腕力で引き止めようとするものはいなかった。下降客に押されてプラットホームに降りて、ほっとして振り返った時、恐しい勢で駆け降りてくるネコの姿を見た。悪夢の一瞬だった。車中へ押し返そうとしたが、汽車は動きはじめていた。 「どうして君までが……」  言葉にならないほど動揺していた。 「あなたに同情したからよ」  ネコも息をはずませながら言った。 「有難とう。しかし……」 「困るの?」 「いや……、つまりどういうことか……」 「わたしにだって分らないわ」  列車の最後部が視界から消えようとしていた。七月の終りの陽差しでネコの顔がまぶしく異様に白っぽく見えた。 「これがセ・ラ・ヴィでしょう?」 「煙りが目にしみるよ」  私は憮然として言った。馬鹿野郎! [#改ページ]   第六章 マリーとギヨーム 「どうするつもりなんだ」  ほとんど人のいなくなったプラットホームで、ぼう然と見つめ合っていたが、とうとう私の方からマリー・ローランサンに聞いた。 「あなたしだいよ」  和製ローランサンのネコが幾分気怠そうに答えた。  あなたしだいで花びらを開いてもいいという意味なのか。ローランサンの花びらなら、灰色っぽいピンク色をしているだろう。乳首は灰緑色かもしれない。  ネコの額からうっすらと汗が流れている。化粧をしていないが、小麦色の肌はなかなかきれいだ。顔が長く、目尻がつり上っているのがローランサンたる所以だ。 「どうしてこんな駅で降りたの?」  返事をとまどっているうちに今度はネコの方から聞いてきた。 「ぼくにだって分らないよ」  慎重に言葉を選んで答えたが、勿論答えになっていなかった。 「じゃあ、目的はないのね」  たたみかけてネコが聞いた。  軽井沢まで行くつもりだ、とは答えられない。Tとの密会は分らないだろうが、女房のキヨミの後を追っかけるのか、と思われては男が立たない。たちどころに軽蔑されるだろう。 「急に田舎の母に会いたくなってね」  とっさにそう言ったが、すぐ変更した。 「連中と一緒にいるのが嫌になったんだ。一人になりたかったんだよ」 「へえー」ネコは小馬鹿にしたような声をあげ、続けて「本当かなあー」と言い、疑がうような眼差しでこちらの目の奥をじっと見つめた。欲情をさそう眼差しである。 「わたしがここにいるのは迷惑なの?」  ネコはわざとぶっきら棒に言い、勝手に歩き出した。 「君はどうするつもりなんだ。グループ展をスッポかしていいのか」  私の出品作は現在手に持っているが、ネコの方は既に発送してある。彼女が不在でも、作品を展示するかどうかは奴等の裁量にまかされる形になるだろう。同じように二人が途中下車しても、条件が違うのだ。 「あなたって情けない人ね。札幌のグループ展なんか、どうでもいいのよ。あんな連中と一緒にやって行ける? わたしが今問いたいのは、このプラットホームに於ける、あなたとわたしの個人的な関係なのよ」  マリー・ローランサンが、ボーヴォワール女史のような口調でまくしたてたのには驚かされた。  サルトル流に言うと、私はネコと同じ場所にいるが、まだ彼女の領域に属していない、と言うことになる。そもそも個人的な関係とは何か。セックスを期待する関係なのか。単にコーヒーでも一緒に飲みましょう。そしてチチやハハのことを語り合いましょうということか。そうしたら軽井沢で待っているTはどうなるのか。Tとの密会関係、プラスネコとの個人的関係、プラスキヨミとの夫婦関係てなことになる。  プラットホームはとどまる所ではない。改札を出るか、次の汽車に乗るかの単なるステップである。ネコは既に改札口の方へ歩いている。しかし今は立ち止って、欲情をかりたてる姿態である種の関係を要求している。軽井沢へ行くつもりなら、両毛線に乗り換えなければならない。発車まで二十分もない。だが彼女の領域に引きずられていく自分を制御出来ないでいる。 「個人的な関係って、何なんだい?」  私は無垢な少年のような顔つきで聞いた。 「ねえ、駅前でアイスクリームを食べる?」  これがマリー・ローランサンの答えだった。  頭の中の時計の針が突然停ったように思えた。あどけない二十二歳の娘が、口をとがらせて私の前に立っていた。  両毛線の乗換を数時間延しても、今日中に軽井沢に着くだろう。Tには悪いが、既に予定の時間には着かないのだ。ローランサンちゃんとアイスクリームぐらいならつき合ってもいいだろう。その方がスムーズに事が運ぶかもしれない。 「そうかい。ぼくは盛りそばが食いたいんだけどな」  とりあえず茶化してみた。 「じゃあ、アイスクリームと盛りそばのある店を探せばいいでしょう」  ネコは驚くほど無邪気に応答した。  私たちは肩を並べて改札口を出た。勿論キップは途中下車である。  駅前の店をさけて、ちょっとわきに入った出来るだけ汚なそうな大衆食堂を見付けて入った。ショーウインドーに、ほこりをかぶったカツ丼やざるそばの見本の横に、アイスクリームの見本もあったからである。グラスに綿を丸めてつっこんであるというアイスクリームである。 「なかなか前衛的じゃないか」 「そうね。ピカソのオブジェみたい」  二人は気持よく笑った。貧乏人同志の意志が通じ合った心地好さを感じた。  客は誰れもいなかった。椅子につくと安物のデコラのテーブルがガタガタ音を立てた。  どこにでもいる田舎のおかみさん風の女が薄よごれたメニューを持って注文を聞きに来た。 「盛りそばとアイスクリーム」  ネコが予定通りに注文した。 「どっちを先にしますか?」  女がなまりのある声で聞いた。 「盛りそばの方にきまっているじゃないの」  ネコが口をとがらせて言った。 「なかには変なお客さんがいましてねえ。うちはお客さん本位ですから」  おんぼろの店なのに志だけは一流をまねているのが妙におかしかった。 「じゃあ一緒でいいわよ」 「それでいいんですか? アイスクリームがとけますよ」  女が真面目な顔で言ったので、つい笑ってしまった。 「アイスクリームに盛りそばをつけて食べるからいいわよ」  ネコがひどいことを言った。 「へえー、そうですかあー。変った方ですねー」  女はからかわれているのを知っているのか知らないのか、本当に感心した声を出した。 「ねえー、面白いじゃないの」  女が奥に引っ込んでから、ネコがうれしそうに言った。 「フランスの田舎みたいに、エスプリがあるね」  こちらも調子に乗って言った。 「こんなのエスプリって言うの?」 「えっ? そうだなエスプリより、一種のファルスかな」 「何? ファルスって?」 「訳せば笑劇とでもなるかな。ちょっとしたお笑い、という意味さ」 「へえー。ツバメって何でも良く知っているのね」  ネコが私に向ってはじめてあだ名を使ったのが妙にくすぐったかった。幾分うれしくもあった。 「ギヨーム・アポリネールはどうやってマリー・ローランサンをくどいたか知っているかい?」 「知らないわ。教えてよ」  こんなに目を輝かしたネコを見たことがない。 「才気がある。おお小さなわが太陽よ」  私は歌うように言った。 「そして、わたしを女にしたようだ、と叫んだのさ」  ネコは珍しく笑った。 「それ、どういう意味なの? だってアポリネールって肥っていて、醜男《ぶおとこ》でしょう? ローランサンも醜女《ぶおんな》って意味?」 「うーん。その辺の意図は分らないな。しかし彼等の恋は悲劇で終った」  ネコの|顳※[#「需+頁」]《こめかみ》がぴくっと動いた。 「ツバメはアポリネールじゃないわね?」 「ぼくは才気もないし、頭に包帯もしていない」 「才気はあるわよ。ないのは技術かもしれないわ」 「ずばりだよ。才あって技なし。あはは」  それは本当に思えた。 「技あって才なしよりずっといいわ。でもあなたは早く結婚しすぎたわ」  ネコがひどく緊張した表情で言った。  返事に困っていると丁度いい工合に盛りそばとアイスクリームが運ばれて来た。  女がなかなか立ち去ろうとしなかったのがおかしかった。本当に盛りそばをアイスクリームにつけて食べるかどうかを確かめたい風情だった。  ネコは給仕の女を無視して、盛りそばを普通のやり方通り、そばダレにつけて食べはじめた。  女はがっかりしたような、納得したような顔つきで、それでも安心して奥へ引っ込んだ。 「実際にそばをアイスクリームで食べると思ったのかしら?」  ネコがあきれ顔で言った。 「マリー・ローランサンならやったかもしれないな」  そう言ってから、しまったと思った。案の定ネコは憮然とした表情をしたのだ。   トリノの若い娘のなかに一人のきれいな子がいる。   あわれな若い男が白いネクタイで洟をかんだ                  アポリネール  ネコはこちらをにらみつけながら、本当に、目の前で、盛りそばをアイスクリームにつけて食べ出したのだ。   遠くの村々は彼女らの瞼に似て   レモンにまじって彼女らの心臓がぶら下っている。                  アポリネール  私は太鼓のように騒ぎもせず、キリギリスのようにあわてもせず、兎のような目でネコの食べる姿を眺めていた。  これはシュールリアリズム的な食べ方である。いや、これはキュービズム的な食べ方である。 「どんな味がする?」  絵具のとけたローランサンの絵のような顔をしているネコに聞いた。 「あなたもしてみないの?」  上目使いで口を動かしているネコがこちらにも強要した。   非情な役者 つややかな新しい獣が   飼い馴らした人間たちに命令する           アポリネール 「アラビア人はそばとアイスクリームは一緒にして食わない」 「えっ? それどういう意味?」ネコが怪訝な顔で聞いた。  実はこちらにも分っていなかった。意味不明のことを言うのは青年の特権である。 「コーランと聖書は一緒にならない、という意味さ」 「胃袋のなかに入ればそばもアイスクリームも一緒になるじゃないの」  ネコが驚くほど巧みに反論した。 「うんこになったら原型はなくなる」  これはまずかった。いきなりネコが食べかけのそばとアイスクリームを吐き出してしまったのだ。テーブルにはナフキンも何もなかった。ネコはむせびながら更に吐いた。 「おばさーん、雑巾か何か下さい」  私はあわてて奥に向って叫んだ。   ぼくを許せ ぼくのもの知らなさを   ぼくを許せ 古い詩の芸を忘れたぼくを              アポリネール 「どうされたんです」  給仕のおばさんが飛んで来た。  おばさんは素早くエプロンのポケットから手ぬぐいを出してテーブルの上の吐物をふき取った。 「どうされたんです。大丈夫ですか」  おばさんが再び聞いた。 「すみません。気管の方へ入っちゃったんです」  ネコがしおらしく弁解した。 「お冷やでも持って来ましょうか?」 「ビール下さい」  素早くネコが注文した。 「えーっ? 朝からビールを飲むのかい?」 「あなたの責任よ」 「そうだな」  私は何気ない振で、周囲の壁を見廻した。ビールの値段を知りたかったのだ。 「冷しビール一本百五十円」と手書きの紙片が柱時計の横に張ってあった。 「グラスは一つですか二つですか」おばさんが奥の方から聞いた。 「三つちょうだい」とネコが大声で言った。  おばさんが奥から急いでやって来た。 「どうしてグラス三つですかあ」  それはこちらも聞きたかったことだ。 「一つは私、もう一つはこの人、それから残った一つは、あなた、おばさんのため」  ネコは呪文でもとなえる口調で言った。 「わたしにもですかあー」  給仕のおばさんはびっくりしたような、困惑したような、絵具を混ぜ合せた顔つきをした。 「ご迷惑をかけたから」  ネコは淑女のように答えた。   片翼しかないこの鳥について詩が作れる   電話便でそれを送ることにしよう              アポリネール  三人でカンパイした。冷たいビールが一息でのどを通過した。おばさんは気持だと言って、枝豆を大皿に盛って提供してくれた。 「きっぷがいいんだなローランサンは」  おばさんが恐縮しながら奥に引っ込んでからネコに言った。彼女にそんな一面があるのが、なんとなくまぶしかった。 「一度してみたかったのよ。男の人がよくやるじゃないの。飲屋のおかみさんにさ」  ひどく愛らしい弁解が返って来た。 「朝からビールを飲むなんて、ぼくだってはじめてだよ」  もっとも十時を過ぎていたが、それは本当だった。 「朝からビール飲むって、ひどく贅沢な気分がしない? この枝豆もおいしいわ」  私はまじまじとネコの顔を見た。断髪の顔がゴダールの「勝手にしやがれ」のジン・セバーグにちょっと似ている気がした。その感想を言ってやった。ネコは信じられないぐらい頬を桜色に染めた。 「誰れにも言っちゃ駄目よ。『勝手にしやがれ』を見てから髪を切ったのよ」  私は笑わなかった。仲間の豆鉄砲が「失恋したからだよ」と言ったが多分それも理由の一つだろう。相手は誰れだったのか? この際聞いて見ようと思ったがやめた。しかしゴダールの「勝手にしやがれ」は私も見たがショックだった。筋を話せと言われてもうまく要約出来ない。画面が揺れ動いているシーンが断片的にめちゃくちゃに繋がっているだけだ。 「ネコがジン・セバーグなら、ぼくはジャン・ポール・ベルモンドというところかな」 「さっきまでは私がローランサンで、ツバメがアポリネールだったんじゃないの?」 「勿論そうだよ。でも現代人は何重にも人格が持てるんだ」 「うまいこと言うわね」 「右の耳で水原弘の黒い花びらを聞き、左の耳でプレスリーのハートブレイク・ホテルを聞く。右にピカソがいて、左にジャコメッティがいる。表にカミュがいて裏側にヘンリー・ミラーがいる。それが現代だよ」 「へえー。じゃあ表に妻がいて、裏側にわたしのような女がいてもいいのね?」  急いでビールをグラスにつぎぐっと飲み干した。ネコの顔が二重に見える気がした。   君がカーテンをあけてくれよ   と ほら窓が開いている         アポリネール  不意に欲情が襲った。ヘンリー・ミラーは階段の横や公衆電話ボックスの中で情交している。田舎の大衆食堂のテーブルの下でネコと情交しているシーンが浮んだ。犬のような格好で。欲情した頭脳と股間との中間で、心臓の音がぶら下っている。犬の睾丸が膨らみ、長い舌を出す。 「もう一本ビールたのもうか?」 「いいわよ」  ネコが天使の声でいとも簡単に同意した。 「見知らぬ町で、こうやって朝からネコとビールを飲んでいるなんて、信じられないな」 「そうね。わたしって、こういうこととても好きなのよ。毎日が予想出来ないことで過ぎていく。雲の上を歩いたり、テーブルの下で四つんばいになったり、樹の下で寝ていたり、酒場のすみでキスしていたり、そして絵を描く。素適じゃない?」  確かにネコは「テーブルの下で四つんばいになったり」と言った。こちらが直前に思い浮べたシーンとあまりに重なり合っている。  ぶら下った心臓がはねている。 「その、テーブルの下で四つんばいになったり、と言ったけど、どう言う意味? いや何のためなんだい?」決心して聞くことにしたのだ。 「あら、そんな風に言ったかしら?」 「言ったよ。間違いなく。びっくりしたんだ」 「どうして?」 「どうしてって、ひどくワイセツだからさ」 「そうかなあー。わたしは子供の頃、よくテーブルの下で人形と遊んだり、四つんばいになって漫画を描いていたわ。それがワイセツなの?」 「子供のイメージなのか」 「そうよ」 「いや、つまり、ぼくは今のきみが、テーブルの下で四つんばいになる、のかと思ってさ。裸でね」思いきって言ってみた。 「ふーん。そんな風に取ったの? それで裸で四つんばいになって、どうするの?」  カマトト振っているのか、無邪気なのか分らない。二本目のビールの残りを、自分のグラスについだ。 「つまり、ヘンリー・ミラーのように、セックスすることかと思ったんだ」  あははとネコが笑った。「男って、そんな風に思考するのね」  今度は急に酔がまわった感じだった。 「それで、四つんばいの女がわたしで、相手の男があなた、なんだ」  ネコの口調もろれつが廻わらなくなっていた。   美 蒼白さ 底知れぬ菫色   休息を求めても無駄だろう   真夜中にはじめよう   ひまさえあれば自由だ        アポリネール  私たちは大衆食堂を出た。街にはたくさんの井戸があり、空ろな樹々の間から七月の陽差しが舌を渇かせた。街はどこまでも続き、彼女の「窓はオレンジのように開いている」(アポリネール)に違いなかった。 [#改ページ]   第七章 見知らぬ街で  男が女と路上を歩きながら欲情したらどうするか。  私はさっきからそのことばかり考えていた。ズボンのなかは充分に膨らんでいた。マヤコフスキーのように「ズボンをはいた雲」が路上をデモ行進していた。彼はとうとう古びたピストルで自殺した。  でもボクはルパシカを着ていない。古びた汗のにじんだ白いシャツしか着ていない。アメヤ横丁で見付けた赤いネクタイをしめていたかった。ネクタイ一本買えない男なんて、多分女に欲情する資格なんてないんだろう。布地の面積に比してネクタイは高すぎると思わないか?  口のなかでぶつぶつ言ったら、横を歩いているネコが「何か言ったの?」と聞いた。すくなくとも、彼女も欲情している。さっき飲んだビールのせいもあるが、目のふちが桜色に染り、めくれあがった唇がひどく濡れている。  Tと新宿御苑を歩いていた時と同じ焦りと絶望を感じた。脳髄と下腹部が限りなく膨張していくのに、皮膚の全面が硬直していく。結婚している男なんだから、もう少し余裕があっていいはずだ。 「マヤコフスキーのことを考えていたんだよ」 「誰れ? マヤコフスキーって」 「知らないのか」 「ロシアの天才ダンサーでしょう?」 「馬鹿、それはニジンスキーだよ」 「じゃあ、知らないわ」 「ソビエットの未来派の詩人さ」 「ソビエットにも未来派なんてあったの」 「元はイタリアだけどね。日本にだって未来派があったんだから、ソビエットにあっても不思議じゃないさ。もっともイタリアの未来派はファッシズムと結びつき、ソビエットの未来派は革命に同調しようとしたが、つぶれてしまった」 「でも、未来派って、なんなの?」 「機械と騒音を賛美することかな。つまり機械が欲情することさ」  我ながらうまいことを言ったと思った。 「機械が欲情するとどうなるの?」  ネコは兎の目で聞いた。 「解体するより仕方ないだろう」  そうだ、ボクは欲情で解体しそうだ。マヤコフスキーならボクサーのような巨体で女を小脇にかかえ、カフェの便所へ飛び込むだろう。私たちはうらぶれた詩人のように人通りのない露路を歩いている。初恋の女と田舎道を唯歩いていた頃と何一つ進歩していない。結婚してから三年の間、すくなくとも三百回以上はセックスをしているだろう。にもかかわらず、私は虚ろな目で解体しそうな過熱した赤いネクタイをズボンのなかで膨らませたまま、欲情を未来派にすりかえているのだ。  ネコはあははと声を出して笑ったが、何か空しかった。 「未来派って男の専売なの」  意表をついた質問だった。そう言われてみると未来派の画家や詩人たちのなかに女はいなかった。ネコの大好きなローランサンは、なにはともあれキュービストの一員である名誉をになっているが未来派ではない。 「機械と騒音の好きな女がいない、ということかな」 「わたし、オシッコしたいの」  まさに未来派的な返事が返って来たというべきか。大衆食堂でビールを飲んでからすでに一時間以上、目的もなく道路を歩いていたのだ。気がついたら川辺の土手の手前に来ていた。いや人気のない方へない方へと歩いて来た結果、川辺の土手に到達したというべきかもしれない。  トイレを探すとしたら喫茶店か駅にもどるしかない。民家に入って頼む勇気は持っていなかった。 「どうする?」  万感の思いを込めて聞いた。ネコは欲情している。堪えられなくなったから、尿意をもよおしたのだ。そうとしか思えない。未来派的に考えなくてもそうだ。こちらの希望を言えば土手へ上って、樹影でお尻をまくってくれることだ。  ネコにこちらの意志が通じたかのように、彼女は不意に土手に駆け上った。  足元にネコのボストンバッグが放り出されている。三十号のカンバスの他に彼女のボストンバッグを持って、ゆっくりと私も土手に登った。対岸の土手まで五米位しかない。川というより、上水である。桜並木が両岸をうっそうと覆っている。左右を見廻しても、どこにもネコの姿は見えなかった。私はくしゃくしゃになった新生の箱から、半分折れかかった一本を口にくわえ、たて続けに煙を吸った。上水は水嵩もあり流れも早かった。ふとアトリエのそばを流れている玉川上水を思い浮べた。対岸の土手を女が歩いている。一瞬どきっとしたが、勿論妻のキヨミが歩いているはずはなかった。女は何か叫んだようだった。犬の名を呼んだのかも知れない。それが私の名を呼んでいるように聞えた。キヨミはまだ軽井沢には着いていない。密会を約束しているTは何をしているのか。まさか私の名を呼んでいるわけではないだろう。そしてネコはこのごく近いところでお尻を出してしゃがみこみ、地面に彼女の水分を染み込ませているだろう。  背後に犬の吠える声が聞え、悲鳴に似た女の叫び声がした。十米ほど先の叢におびえて立っているネコの姿が見えた。私は急いで彼女の方へ走った。 「わたし犬が嫌いなのよ。もう少しでお尻を噛まれるところだったわ」  スカートのホックをとめながらネコが泣き声で訴えた。私は手に持ったボストンバッグでスピッツらしき犬を追い払った。  飼主の呼び声がし、犬が橋の方へ向って駆けて行くと、ネコは反射的に叢にしゃがみ込んだ。私も彼女の横に腰を下ろそうとした時、「そこは駄目よ!」と激しく引き寄せられたのだ。一瞬、そうか彼女のオシッコした場所なんだと思ったが、体はネコの上に覆いかぶさっていた。唇が重なり、舌がからみ合った。驚くほどの早さで私の指は彼女の股の間の、なめらかな湿地帯に潜入していた。ネコは何一つ抵抗しなかった。叢の匂いと彼女のチーズをとかしたような匂いが口の中に拡がった。歯が触れ合いガタガタと鳴った。  桜の樹の下の叢で、おそらく非常に不様な格好で、現代風にいえばペッティングをし合っている男女に、再び犬がやって来て吠えた。今度は犬の後方に飼主の女の気配がした。  びしょびしょになった指をズボンになすりつけて私は立ち上った。硬直した中年の女の敵意をこめた視線を背後に受けながら、二人は土手を下りた。私の下腹部もびしょびしょだった。ズボンの中の雲が膨らんで歩くのが困難だった。ネコの内股にも透明な液体が流れ続けているに違いない。かがむような格好で彼女はついて来た。  爆発しそうな茎を桃色の海のなかへ没入することだけしか頭になかった。未来派の絵のように赤と青の欲情が交叉していた。 「お腹が痛いわ」  ネコが膨れあがった唇から小さな声で訴えた。それは疑いもなく発情のシグナルである。  そしてネコは決心したように「お金なら持っているわ」と言った。ひどい屈辱だったが、暗雲のなかにコバルトブルーの隙間が見えたことは確かだ。Tの時もホテル代は女の方が払った。女達は常に私より、幾分かの金持だった。いくばくかの金はTとの密会のために取っておかなくてはならない。 「いや、ぼくだって持っているよ」  私はかろうじて言った。昼食代なのか、ホテル代なのか、二人ともあえて言わなかった。グループの連中と札幌へ行っていれば、持ち続けている三十号の油絵をパトロンのK氏が四千円で買ってくれるはずだった。それが今回のTとの密会の軍資金のほとんどだったのだ。その望みを私の方から放棄してしまった。今となっては懐の二千円が総てだ。このあたりでホテル代がいくらするのか、見当もつかない。郷里から上京していらい自費でホテルか旅館に泊ったことは一度もなかったのだ。私の生活の価値体系のなかで、宿泊代は完全に脱落していた。Tとの情事の時彼女がホテル代をいくら払ったのか思い出そうとしても出て来なかった。盛りそば三十円。ラーメン四十円。焼酎三十円。カレーライス百円。コーヒー六十円。何故コーヒー代が六十円もするのか、おこってみてもはじまらない。輸入品なのだ。では発情代は幾らが正当なのか? 新宿三丁目の赤線で娼婦との一回分が五百円と聞いたことがある。郷里までの運賃と同額である。七時間汽車に乗っているのと、三分間女の上に乗っているのと同じ値段だ。それでも男達は女の上に乗る。しかし売春防止法が成立してから、一回のセックスの値段が非合法になり、価格表から消えてしまった。高級クラブや銀座のバーにも価格表は表示されていない。一ぱいのハイボールやジンフィズが幾らなのか。それでもある種の男達は平然と女の腰に手を回し、高級スコッチを飲んでいる。輸入品のコートや下着を付けた女達のクリトリスはダイヤモンドで飾られているだろう。男達はペニスに香水を振りかけて髪を金色に染めた女達の海へ船を浮べるだろう。妻の一回のセックス代は亭主から幾らもらったらいいかしら、と女房のキヨミが言ったものだ。そんなことしたら、あなたは破産するわね。とも言いやがった。液体をしぼり出すのはこちらの方だ。しかし誰れもその価値を認めようとしない。頭のいい男達はコンドームの中へ射精する。そしてそれはゴミ箱へ捨てられる。 「幾ら持っているの」  ネコがあっけらかんに聞いて来た。私の方は少し狼狽した。あなた童貞なの? と聞かれる位の衝撃力はある。こんなことを聞くのは下品な女か、鈍感な女だ。さもなくば母親か妻ぐらいなものだ。 「二千円位かな」  しかし私は答えた。 「ふーん」  ネコは鼻を鳴らし、それから「素適じゃないの」と言った。 「君は幾ら持っているんだい?」  彼女と対等になるために私の方も聞いた。 「五百円かな」  ネコは再びあっけらかんに言った。私は笑い出した。五百円で人生が変るだろうか? だが何故か気が楽になった。自分より貧乏な女がいる、という設定がなんとなく気に入った。ついでに君は処女なの? と聞きたいところだ。しかし、そんなことはたいして重要ではない。問題は一回のセックスが幾らにつくかだ。ホテル代二人で千円までなら出してもいい。勿論、彼女には出させない。 「お金、貸してもらえないかしら?」  私たちが少し疲れたのでバス停前の空地に置いてあるベンチに腰掛けた時、ネコが思いつめた声で聞いて来た。  私は唖然としたが顔は平静を粧った。お金なら持っているわとあたかも宿代をネコが払ってもいいように言い出したくせに、逆に借金を請求して来たのだ。親密だった感情が急速に引いていくのが分った。すぐには返事が出来なかった。 「家賃払わなきゃあいけないのよ。私も札幌のグループ展で買ってもらうことになっている四千円を当にしていたの。でもこんなことになっちゃって、きっと連中は脱会したものとして展示しないでしょう。すると困っちゃうんだな。下宿に帰れないのよ。家賃払わないとね」  ネコは半分不貞腐れたように言った。それから、つけたすように、あなたは帰るところがあるからね、とぶつぶつつぶやいた。 「幾ら必要なんだ」 「二千円必要だけど、あなただって困るでしょう、千五百円でいいわ。わたしの全財産五百円をたせば二千円になる」  彼女の計算では確かにそうなるかもしれないが、こちらにとってはそうはいかない。軽井沢でのTとの密会にわずか五百円の持ち金ではどうにもならない。やはりこの際自分は軽井沢へ行かなくてはならないのだ、と告白してしまわなければならないだろうか。しかも、妻と落ち合うためではなく、Tという恋人と密会するためだと。たった一つしかない餌を他の魚に取られてしまうわけにはいかないのだ。では何故、桜の樹の下でわたしにあんなことしたの、ひどいわ、と言われるにきまっている。いや泣き出すかもしれない。奥さんにばらしてやると脅迫される可能性もある。そもそもネコに対しては前から幾分好意は持っていたが、女としての対象には考えていなかったのだ。トモダチで充分だったのだ。今朝グループの連中と一緒に会って、東北線に乗り小山駅で私が飛び出した後をネコも勝手に飛び出したまでのことだ。私が望んだわけでも、願ったわけでもない。ネコが自発的及び衝動的に行動したのである。いわば私の予定の行動のなかへ、突然侵入して来た異分子なのだ。ネコさえついて来なければ今頃は両毛線に乗り、軽井沢へ向っているはずだ。  二人はバス停前のベンチに腰掛けていたが、何人かのバス待ちの人たちが立ったりベンチに腰掛けたりしはじめた。さすがに、人前で、金を貸す借りるの話ははばかられた。直射日光もまぶしい。目を細めて左右を見廻すと、  御休息、お二人様五百円  宿泊お二人様千円  この横五十米先  あたみや  という電柱の看板が目に入った。  漂流の末いかだを見つけた気分だった。どちらが先に手を延すか。とりあえず私の方が立ちあがった。お腹が痛いとネコが訴えたのを思い出した。それが何故お金を貸してくれになったのか分らないが。下腹部の膨張はおさまっていた。接触したいほどの親密さは消えていたが、からだ全体がけだるかった。  ネコは黙ったままついて来た。何かを決定する時、人はむしろ曖昧な気分に襲われる。結果の責任を逃れたいからなのかもしれない。  あたみやは旅館というより民宿に近い造りだった。スリガラスの格子戸をがらがらと音をたてて開けるのも一興だった。たたきの床の下駄箱の上がカウンターの窓になっていて、若い女の顔がこちらをのぞいていた。 「御休息ですか、お泊りですか」  若い女があわてて出て来て、アクセントのある早口で聞いた。 「休息です」 「では五百円いただきます」 「先払いなんですか」 「そうですよ」  ネコがはじめて、くすっと笑った。  宿代を払わないで逃げる奴がいるのだろうか?  若い女は金を受け取るとエプロンのポケットにねじり込んで、どうぞ、と言ってうつむきかげんに先を歩き出した。  木の板の廊下がぎしぎし鳴り、奥へ行くほど薄暗くなる。突き当りに洗面所という標示のある左隣りの部屋に案内された。 「今お茶を持って来ます」  若い女が出て行ってから、二人は顔を見合わせた。六畳の部屋で角に鏡台があり、中央に折りたたみ式のちゃぶ台があるだけのなんとも味気なく、わびしい部屋だ。窓が裏庭に面しているらしく、レースの汚れたカーテンが引かれている。押し入れがあるから、その中にふとん類がしまわれているのだろう。せんべいのような二枚の坐ぶとんの上の染みが異様に不潔感をさそう。  若い女が茶を持ってもどってくることを考えると、すぐにネコを抱きしめる気にもならない。あれほどつっぱり屋だったネコが畳の上に直に座ったまま押し黙っているのが息苦しさを倍増させる。出ましょう、と言わないのが不思議なくらいだ。  こんなひどい部屋なら入らなければ良かったと思った。昔からひどい部屋にはなれていたが、得も言われぬ不潔感が気分を沈ませた。ネコに向って頬笑もうとしたが頬がひきつった。さすがのネコも異様に目を光らせたまま一語も発しようとはしない。 「死人の匂いがするわ」  突然ネコが言った時、私は思わずぎくりとし飛びあがるほど怖じけた。死の匂いはなんとなく感じていたが、死人《ヽヽ》の匂いと言ったのが、異様な恐しさを与えた。 「ねえ、押し入れのなかに誰れかいるんじゃない?」  そう言った彼女自身の顔が蒼白だった。 「そんな馬鹿な」  私はかろうじて否定したが、彼女の直感の方が正しい気がして、本当に震えた。この旅館は露路に面していたが、それにしてもこの静けさは、それ自身で無気味だった。そう大きな声をだしたわけでもないのに、二人の声が妙に反響するのも気味悪かった。他に客のいる気配はまったくしなかった。  向き合って見つめているネコ自身の存在さえが薄気味悪く思えて来た。お茶を持ってくるはずの若い女はなかなかもどって来ない。出ようか? と喉まで声が出かかっていたが、何故か言葉にはならなかった。やっとの思いでネコと旅館に入ったのである。このまま何事もなく退散するのが惜しかったのだ。しかし彼女の方からも出ようとは言わなかった。ネコには恐怖を楽しんでいる節がなくもなかった。 「ねえ、さっきの女、外から鍵を掛けていかなかった?」  こちらも感じたことをネコはいつも先に口に出した。その度に背筋に悪寒が走った。ひょっとしたら彼女は防衛するために不吉なことを口走っているのかもしれないと、考えたが、こちらの感覚の方がおびえきってしまっていたのだ。「そんなことないさ」と立ちあがって戸口を確かめに行く勇気さえ失っていた。  押し入れのなかに妻のキヨミの死体が隠されていて、戸口の外側にはTが耳をすませて立っている、という幻覚に襲われていたからかもしれない。  それでもネコに軽蔑されないために立ちあがった時、幸にも廊下の方に床をぎしぎし鳴らして足音が近づいてくるのが聞えた。私は急いで座り直しお茶が運ばれてくるのを待った。  しかし、音もなく戸口が開き、女が部屋に入って来た瞬間、ネコは悲鳴に近い声をあげて、窓際の方へ飛びのき、私の方も全身が硬直するほどの衝撃を受けたのだった。  若い女のはずが、茶を運んで来たのは老婦人だったのだ。冷静になってみると、これほどまで恐怖にかられる方が滑稽だったとしか思えない。  私たちは老婦人の運んで来たお茶も飲まずに旅館を出た。戸外の陽差しが、こんなにうれしく思えたことはない。 「もう少しでカンバスを忘れるところだったよ」  私はやっと平常にもどった語調で言った。何かつきものが落ちた感じだった。 「その絵を見たかったのに」  ネコの表情も元にもどっていた。 「いや、見ない方がいいよ。知られざる傑作にしておいた方がいい」  私たちは、お互に、あえて、今起ったことについては意見を言わなかった。何かしら、後めたさがまつわりついていたからである。 「急にお腹がへったわ」  彼女の頬に色彩があふれた。 「カレーライスでも食おうか」 「いいわね」  私たちは駅前のごくありきたりな食堂に入った。さすがに店内は客であふれていた。 「人間がなつかしいなあ」  テーブルに付き周囲を見廻しながら、言ってみた。 「大袈裟ね。でもその方があなたらしいわ」 「カレーライスとライスカレーとどこが違うか知っている?」  Tと新宿の中村屋で同じようなことを言ったのを思い出した。 「カレーライスの方はライスの上にカレーが乗っていて、ライスカレーの方は、ライスとカレーを別々に持ってくるんでしょう」  ネコがまぶしそうな顔で答えた。 「いや逆じゃなかったかな。ま、どうでもいいことだよ」  私たちは一皿百円のカレーライスを注文し、食べた。人間って、物を食べている時が一番幸福なのかもしれない。フランス映画に出てくるカップルのように、頬笑み合った。  ネコは二度とお金を貸してくれと言わなかった。実はその申し出がいつまでも頭のすみに残っていたが、忘れた振りをしていたのだ。 「札幌までの切符は有効なんだろう。やはりネコは札幌へ行った方がいいと思う。まだ間に合うはずだよ。君が脱会したら、展覧会は成り立たないし、プリマドンナのいないオペラみたいだからな」  こんな風にあたかも予定していたかのようにすらすら言えたのが不思議だった。今度はネコも素直にうなずいてみせた。 「そして、あなたは?」 「軽井沢へでも行くさ」  その言い方も極めて自然だった。  ネコはちょっと顔をしかめたが、何も追求して来なかった。 「こうやってみるとネコもなかなかの美人だね」  お世辞でなく、そう思えたのだ。 「後悔していないわ。楽しかったわ」  ネコが頬杖をついて言った。カレーで黄色に染った歯がひどく子供っぽかった。ネコとセックス出来たのに、しなかったことが幾分残念だった。Tのために貞節を守ったのかもしれない。 [#改ページ]   第八章 夏の匂い  風景が流れる。  前の座席にいる小さな女の子がさっきから泣きわめきはじめている。隣りの母親らしき女は叱りつけているだけで、あやそうとはしない。  頭が割れそうに痛い。もうすぐ横川の駅だ。何度も見た風景が車窓の外を流れる。ネコとはうまい工合に小山の駅で水に流した。三拝九拝して油絵を札幌まで持っていってもらうことにしたのだ。その代り結局虎の子の千円を取られた。ネコはいいのよ、と言いながら、本当にうれしそうな顔をした。こちらは破産寸前だ。  頭が割れそうに痛い。女の子の泣き声が針のように脳細胞につきささる。文無しに近い男が恋人と不倫の密会をする。どう考えても理想の絵とは遥かにかけ離れている。いや、なによりもTが軽井沢の駅でまだ待っていてくれているかどうか問題だ。約束の時間から四時間も遅れているのだ。待っていない方に賭けるのが当り前だ。  汗が流れる。 「うるさいな、黙らせたらどうなんだ」  通路に立っている土方風の男が我慢出来なくなって母親に向ってどなった。 「ほら、黙りなさい。怖いおじさんが怒っているわよ」  やせた狐のような若い母親が男に聞えよがしにカン高い声で女の子に言った。 「怖いおじさんか。まいったね」  男は感情を害された風もなく逆に苦笑した。  あれほど泣きわめいていた女の子が、ぴたりと泣きやんだのにはあっ気に取られた。 「泣く子も黙る鬼の鬼平次か」  連れの男が冷かし半分に言った。  土方風の男は幾分得意気に鼻の穴をふくらませた。  涙と鼻汁でくしゃくしゃになった女の子の顔が小憎らしかった。母親は紙袋からキャンディの箱を出し、まず自分で一つなめてから女の子に口うつしで与えた。はじめからキャンディを与えていれば泣かなかっただろうに、それまでの態度と口うつしの行為とあまりにかけ離れているのに呆れた。しかし、 「一ついかがですか?」と不意に女からひどく真面目な表情でキャンディの箱を差し出された時大人気もなく顔が赤くなった。桜の樹の下の叢でネコに覆いかぶさって舌をからめ合っていた光景を思い出していたからだ。 「いえ、甘いものは駄目なんです」 「そうですか」  女は何故か口元に微笑を浮べた。どこから見ても美しくない女だった。年は三十半ばだろうか。 「私も甘いものは駄目なの」 「えっ? でも今お子さんにキャンディを……」  喋りたくもなかったが、つい口に出てしまったのだ。 「変なくせなんでしょうね」  女は答えたが、意味は分らない。どういう意味ですか、と聞きたいのを我慢して、こちらも微笑して見せた。これで会話がと切れるのを願った。頭痛は少しおさまっていたが地球を支えているように重い。 「絵を描いているんでしょう?」  女が探ぐるような目付きで聞いて来た。 「どうして分るんですか?」  またもや口をきいてしまった。 「靴に絵具が付いていますわ」  成る程と感心した。シャツやズボンには絵具は付いていないはずだったから、女の観察が見かけによらず鋭いのが分った。仕方なく、ほーっ、という驚きの声を上げた。 「私、画家のモデルをやったことがあるんですよ」  今度は一種の衝撃を受けた。こんなやせて醜い狐の女が……。 「絵描きって何故か私のようにやせている女の裸が好きなんですね」  こちらの疑問に対する答えが直ぐ返って来た。 「どこでモデルをしていたんですか」  やはりそう聞かざるを得なかった。 「主に美術学校でしたわ。武蔵野美大とか、東京芸大にも時々行ったわよ」  芸大入試失敗者には無関心を粧おうとしても自然に好奇の目でモデルだったという女を見詰めないわけにはいかなかった。どうしても聞きたい二つの質問があった。何故ヌードモデルになったのか、描かれる側からの学生達の反応はどうだったのか、である。その質問に対して女はまず「あなたは芸大に行っていないの?」と逆に聞いて来た。 「三度受けて三回とも失敗しました」  自分がまだそう答えることにひどい屈辱感を持っていることが腹だたしかった。 「駄目な人なのね。でもあの連中よりも、あなたの方が才能があるかもしれないわ」  そう言われて奇妙な気分になった。妻のキヨミは九歳年上だが、この女もほぼ同じ頃の年代に見える。彼女等は概して若い男に向って、駄目ね、でも才能があると言うのを得意にしているらしい。見ただけで才能があるのかないのか、どうして分るのか、と反論したいところだ。しかし余計なことは喋らないことにした。  汽車は横川に停車し、碓氷峠のトンネルをくぐりはじめている。  この女は顔はひどいけど体はいいのかもしれない。水玉模様のワンピースを透して彼女の肉体が想像出来た。顔を横に向かされたポーズを取ればこの顔だってさまたげにはならないだろう。やせているが腰に張りがある。美大生たちは腰の大きなモデルが好きなのだ。クールベー以来の伝統である。 「新宿の青線で娼婦をしていたのよ」  一つトンネルを抜けたところで女が不意に言った。何故か心臓が音をたてて鼓動した。私の隣りに座っているサラリーマン風の男はさっきから目を閉じていたが、この時うすく目を開けて女の方をちらっと見た。女の子は涎をたらしたまま、こっちは本当に眠っていた。鬼の鬼平次と言われた男は連れと競馬の話に熱中している。人情話風の光景である。 「ある時、美大生が上ったの。しなくても裸を見たいと言うの。その代り半額にまけてもらいたいだってさ。なかなかの好青年でね」  女の口調がなれなれしくなっていた。 「あのーう。当時青線では幾らだったのですか?」 「あなた知らないの?」 「東京ではそういうところへは行ったことがないんですよ」  女はしみじみとこちらの顔を見詰めた。汽車はまたトンネルに入った。 「赤線でちょいの間が五百円。青線は相手によって相場が違ったわ。千円取る時もあれば二百円の時もある」  トンネルの中で女の声は高くなった。 「まさか学割なんかなかったでしょう」  女ははじめてカン高い声で笑った。 「学生だって大人だってやることは同じよ」 「そうですかねえ」 「馬鹿ねえー。学生の方が体力があるから、こっちの方が疲れるのよ。でもこっちのオマンに入ったらすぐ放出しちゃう学生が多かったわ」  ほんのわずかだけ明るくなったかと思ったら、すぐトンネルの暗闇になった。女の声は大きくなっていたが、それでもごとんごとん鳴る車輪の音で聞き難かった。 「その美大生がね、こんなところで働いているなら、大学へ来てモデルをしないか、と誘ったのよ。はじめは馬鹿にしていたけど、毎日やって来て、裸だけ眺めて帰るの。馬鹿にされているのか、どうか分りゃしないじゃないの。でもね、そのうち裸になって眺められているのが、気持良くなって来たのね。いい男前だったわ。やっぱり、その美大生に惚れたのね。オマンしてくれたら、モデルになってもいいと約束したの。いい、それまで誰れ一人私の体をほめてくれた男はいなかったのよ。その美大生が君の肉体はフランス人のようだ、って言ってくれたわ」 「そうか、それであなたはモデルになり、その男と同棲したけど、今は別れている……」  女は急に沈黙してこちらをまぶしそうに眺めた。やがて見る見るうちに両眼に涙があふれ出た。  列車は幾つものトンネルを抜け広々とした空間に出た。軽井沢の構内に入ったらしい。  私が立ち上った時女の子が再び泣きわめきはじめた。 「ぼくはここで降ります」  うつむいている母親に言った。 「成功したら私をモデルに使ってね」  女は喋り過ぎた後悔からしわがれた声で言った。これが旅なのだ、と思った。見知らぬ者同志がすれ違って身の上話をして別れる。多分もう二度と会わないだろう。この女の別れた美大生の靴も絵具で汚れていたのかもしれない。  プラットホームにはTの姿はなかった。約束の時間から四時間も遅れたのだ。勿論失望はしたが望みが断たれたわけではない。Tの借りている家まで歩いていけばいいのだ。降車した乗客の一番最後から改札口を出た。  何人かの出迎えの人たちがいたが、そこにもTの顔はなかった。それでも私は一人一人の顔を確かめた。後ろ向きになっている女性がいれば前の方に廻って盗み見た。落ちている紙切れを札かと思って拾ってみる心理に似ている。やはり、どこかで狼狽している自分がいた。  駅前に出ている地図を眺め、旧道の方向を見当付けた。  何年か前に一度だけ軽井沢に来たことがある。なじめなかった街だ。カラ松の林があり、芝生があり、コロニアル風の別荘が点在していた。どこもかしこもひっそりとしていて、時たま犬の吠える声がする。若い女がテニスのラケットを荷台にくくりつけて自転車に乗っている。英語の標識がある種の違和感を与えたものだった。  その時はある作家を尋ねたのだが不在だった。手入れされた芝生の庭が貧しい青年には別世界に見えた。外国にあこがれていながら、外国風のたたずまいや雰囲気に出くわすと、おじ気づいたのだ。何ものかに対する、多分上質な社会や人種に対する劣等感が気分を白けさせたのだろう。有名な画家や作家たちの別荘がある、というだけで羨望と裏腹の反撥とが平衡感覚をぐらつかせたのだ。  Tがこの夏軽井沢に滞在すると知った時、かつて味わったことのあるこの感覚が何度か決断をにぶらせた。  軽井沢でモラヴィアを翻訳している女。それはまるで雲の上に立っている白いユリの花に思えた。彼女の日常生活を一度も見たことがなかったし、翻訳された本だって読んでいない。しかし現在二冊目の本を翻訳中で、近い将来一流の出版社から刊行される約束になっている、と聞いただけで、彼女は疑いもなくヒロインだったのだ。一流の出版社から本を刊行する人は厚い幾重にも重なった重い扉を突き抜けた才能と幸運とを持っていた。それは個展をするよりも、遥かに輝しく、難しいことのように思われた。  前に軽井沢に来た時はすでに夏を過ぎていたが、今回はいわばサマーシーズンに入ったところだ。駅前通りを往来する人々が、申し合せたようにサマーハットをかぶり、色とりどりの開襟シャツやポロシャツを着て半ズボンをはいているのが、私には異様な光景に見えた。サングラスをかけた女に出会うと、女優かダンサーのような気がして胸がときめいた。  これが避暑地というものなのか、というまるで異国に来たような、不安と期待とが入り混った、足が宙に浮いたような気分になっていた。  かつて嗅いだことのない夏の匂いが街のなかに漂っていたのだ。漂白剤とノリのきいたシャツを着ている感触とでも言おうか。すれ違う度に香水とミルク色の汗の匂いを残していく若い女たち。白いショートパンツ。褐色の脚。白い運動靴。白髪の品のいい老夫婦。白いステッキ。白い馬。白い首。白い腿。白い夏。パット・ブーンの「砂に書いたラブレター」。白いブラジャー。白いパンティ。カオルさんでしょう? 不意に背後で声がした。えっ? Tが立っていた。白い帽子、白いブラウス、白いスカート。外国映画のように道の真中で抱き合った。  白い夏の匂いがあらゆる隙間から侵入する。 「うわあー匂うわ」  Tが顔をくしゃくしゃにしながら悲鳴をあげた。 「えっ?」 「あなたの汗の匂い。ひどいわ」 「そんなに匂うのかい?」 「ひどい。ひどい。でも好きよ。汗の匂い」 「わきが、だろう?」 「そう、そう、わきがね」 「田舎に帰ると親父から良く言われたよ。臭いから早く体を洗って来い、と。わきがは遺伝なんだ。親父からの」  少しむくれながら言った。 「四時間も待っていたのよ。のどがかわいたのでここでアイス・コーヒーを飲んでいたの。ふっと窓から外を見たら、あなたが歩いていた。腰をふらふらさせながら」 「そうか。待っていたのか」  胸がつかえた。 「どうして遅れたの?」 「どうしようもなかったんだよ」 「奥さんに、引き止められたのね」 「そうだな」  はじめて嘘をついた。 「いいわ。もうそのことは聞かない」 「有難とう」  なにかひどい罪を犯したような気がした。一瞬、頭の中が白くなった。白いブラジャー。白いパンティ。白い欲情。  白が流れる。  私たちは腕を組んでいた。誰れも知っている人間はいない。避暑地。開放された人々。白いネクタイ。白いパンティ。うわついた声。うわついた足どり。  二人は彼女の宿泊している別荘へ直行した。旧道のカラ松林の中にひなびた一軒の家屋があった。そのわりには芝生は手入れされ、青々としていた。家屋は一応コロニアル風の二階建でテラスがあったが、外観はどう見ても廃家であった。ホワイト・ハウスのような家が出現するよりはよっぽどいいが、いささか期待を裏切られた感がなくもなかった。 「ほら『蜜の味』という映画があったでしょう。あれに出てくる家に似ていると思わない!」  しかし内部は外景ほど痛んではいなかった。リビングルームには応接セットもあり、色はあせていたがカーペットが敷かれ、石で造られた暖炉がついている。白い家、白い壁、白いスカート、白いパンティ。白い欲情。私たちは激しく抱き合ったまま、ソファーに倒れ込んだ。白い帽子が白いワンピースの下で押しつぶされ、白いパンティが宙に舞った。  長い若々しい脚が私の胴にからみつき、金魚のような彼女の舌が私の口のなかで泳いだ。長いうねりの中で私の岬が彼女の蜜の海のなかで唄った。白い液体を放出するのと同時にTはうめき声をあげた。完全にエクスタシーを共有した喜こびが二人の全身を電撃のように走った。  下半身を晒したTの体が長々とソファーの上に横たわっていた。 「随分長い脚なんだな」 「今頃気が付いたの。わたし昔から脚自慢だったのよ」  やせて湾曲した自分の脚がひどく見劣りした。もっともTの肉体にも欠陥がなくはなかった。腰から下の健康な頑丈さに比べ胸が極端に貧弱だったのだ。 「不思議な体形だね」  わざと言ってやった。 「だから画家は困るのよ。すぐ女の体を批評するんだから。ミロのヴィーナスに比べたら、誰れだって奇形だわ」 「いや、ミロのヴィーナスなんか少しも美しくないよ」 「わたしの方が美しい?」 「勿論気に入っているさ。ぼくにとって君は奇蹟だよ」  洋風の建物とインテリアと夕暮のせまったオレンジ色の陽射しとが、普段なら歯の浮くような科白を平気で言わせた。幾分翻訳調なのは多分モラヴィアのせいだろう。  この建物のなかにTと二人しかいないという状況が私を更に興奮させた。大ぴらに拡げたTの股の間の露出した襞を思いきり吸った。しめった夏の匂いが口中に拡がり岬は再び硬直した。そして航海に向った。  目を覚した時Tはあお向けのままソファーに眠っていて、私は床のカーペットにうつぶせになって眠っていた。私の方には薄手の毛布が掛っている。  あれから二人でウイスキーの角びんを飲んだ。びんのなかにはまだ三分の一ほど残っている。腕時計を見ると十時になっていた。眠っているTを起そうかどうか考えたが、そのまま寝かせておくことにした。  ベランダ側の窓は閉めてあった。多分途中でTが起きて窓を閉め、私に毛布を掛けたのだろう。Tの寝顔を眺めているのが不思議な気がする。恐しく長い一日だった。窓の外は真に暗く、カラ松林からもれてくる明りはなに一つなかった。こんな淋しいところにすくなくとももう五日以上滞在している彼女の勇気に舌を巻いた。不意にTが息をしているかどうか不安になった。彼女のむき出しの脚に触り、一瞬どきっとした。冷たく感じたのだ。しかし太股の方は熱かった。目を固くしめて額にしわを寄せて眠っている顔が幾分興ざめだった。  だが自分はこの女を愛しているのだ、と思った。そう考えなければ恐しかったのだ。耳をすますと蛙が遠くの方で鳴いている気がしたが、空気がゆれているような音でもあった。立ちあがって大きな窓の方を見た時、黒い人影がじっとこちらをうかがっていた。冷水を浴びたように心臓が凍った。しかし直ぐに自分自身の影であるのを知って胸をなでおろしたがひどくおびえている自分が情けなかった。  たまらなく夏の匂いを嗅ぎたくなった。私はTの股に顔をうずめた。頭のなかで風景が流れた。 [#改ページ]   第九章 鏡のなかで  再び真夜中に目を覚した。  ソファーに寝ているはずのTの姿がなかった。私は全裸のまま、飛び起きた。  一階の二つの部屋は煌々と電灯が付いている。昨夕この別荘に来てから二階へは一度もあがっていなかったのだ。多分、書斎と寝室があるはずだ。  階段の登り口から暗い二階の気配をうかがった。登るべきかどうか考えた。Tがいるとしたら寝室だろう。しかし寝室へ行く前に何故自分を起してくれなかったのか。いささかの不満がわいた。若し、二階にもいなかったら、という考えが頭をかすめた。下着を付けるべきかどうかも考えた。すくなくとも、ここは自分の家ではない。勿論彼女の家でもない。Tと私以外に、誰れかいるような気がした。そう考えると得もいわれぬ恐怖に再び襲われたのだ。  耳をすましたが二階からの物音は何もない。暗闇の二階へ登っていく勇気はなかった。かといって、明るすぎるくらいの一階にじっとしているのも、実のところ怖かった。要するに臆病な男なのだ。この私は。  しかし他人の別荘で全裸で歩き廻っているのは妙にぞくぞくする快感があった。真暗闇の外から誰れか室内を覗いている人間がいるとしたら、多分こちらよりも胸を高鳴らしているだろう。ちょっと江戸川乱歩的な想像で猟奇的だが、そもそも別荘という所が猟奇的で犯罪的なのだ。日常生活から隔離された場所に人は犯罪的な匂いを嗅いで興奮するのだろう。窓ガラスにカーテンがないのは私の責任ではない。外から見たらシネマスコープのように、室内そのものが巨大なスクリーンになっているに違いない。カーテンはないがさすがに雨戸はついている。だが今更雨戸を閉める気にはなれなかった。自から室内を閉してしまう方が恐しい気がしたのだ。室内からはその窓が巨大なミラーになっている。  裸で立っている私の全身が写っている。ジェームス・ディーンのヌードからはほど遠い年老いたムンクの裸像に近い。肋骨を触ったら木琴のような音がするわね、と言ったのはTだ。股間の鶏のトサカが勃起してくる。自分の全裸を鏡に写していると勃起してくるのはナルシストの傾向を持っているからだろうか。あるいは青年だけに起りうる特権だろうか。  トサカを勃起させたまま二階へ登っていったら、Tは何と言うだろう。不意に登る気になった。  木の階段は、怪談屋敷さながらに、手探りで一歩登る度にみしっみしっと音がした。登りはじめると、下から眺めていた時よりも暗さが気にならなくなっていた。下からの明りがかすかに反映しているせいだろう。  階段を登り切ると一坪ほどの廊下らしき空間があり扉が左右に二ヵ所あるだけだった。二ヵ所とも扉の隙間からかすかに明りがもれている。どちらの扉から先に開けるか迷った。どちらかにTはいるはずだが、どちらから先に開けても結果は同じだ。チャンスは一度しかない、という選択ではないのに、どちらから先に開けるかを迷っている自分がコッケイだった。一方の扉のなかにTがいることは確実だが、他の一方にもう一人の女がいるような気がする。そのもう一人の女の方がはっきりしない。妻のキヨミでもローランサンのネコでもない。いくらなんでも彼女たちではあり得ない。にもかかわらずあり得ないことがあり得るとどこかで期待しているのだろうか。キヨミでもネコでもない女、つまり会ったこともない女なら、あり得るかもしれない。幻想の女なら、扉を開ける前まで、常にどこかに存在しているが、扉を開けた時消えている。ひょっとしたらTまでもが幻想の女になっているかもしれない。  左の扉を開けたら不意にライオンが飛び出して来て右の扉を開けたら海水が侵入して来るかした方がキリコ的だ。ライオンがまず私を食う。その私を食ったライオンが海水に押し流され南支那海を漂流し、ある王国の舟にライオンが救われ、切り開いた腹の中から私が出て来てその王国のお姫様実は妻のキヨミと再び結婚すればシンドバッド的だ。  それらの想念がいかに馬鹿げていようとも、見も知らぬ家の閉ざされた扉をはじめて開けようとする時、誰れでもこの程度の想像はするに違いない。そして現実は常に裏切られる。ある時は甘美に。  最初に右の扉を開けた時(多分私は右ききだったからだろう、それも注意深くというより、おそるおそるシンドバッドが鯨の子宮口を開けた時のように)私はダリ的な光景(それも良質なきわめて平凡な)を見たのである。一人の女が(当然Tではあるが)全裸で机の前の椅子に背を向けたまま腰掛けていたのだ。  一瞬、息をのむくらい神秘的な美しさに打たれた。真夜中に全裸の女が机に向って何か書きものをしている姿はむしろきわめて宗教的である。彼女をつつむ空間は白ペンキのはげた壁と窓ガラスと灰色にくすんだ床しかない。女がいなければ単なる廃家である。部屋全体が何となく霞んで見えるのはスタンドの光源が弱いからだ。  私が扉を開けたのをTはまだ気が付かないほど一心に書きものに熱中している。扉を開けた直後は気が付かなかったが、Tの向っている机の前の窓ガラスは黒いミラー状になっていて、彼女のうつむいた顔とその背後に勃起したままの全裸の私の像が写っていたのだ。ダリ的というよりはベルギーの画家、ポール・デルヴォー的な光景である。  全裸の男女が黒々とした陰毛を見せびらかせて、真夜中の街をさまよい歩き、一人のみすぼらしい男が今娼家の扉を開けたのだ。女はモラヴィアという好色なイタリア作家の小説を翻訳中である。あの退屈な、と言ったら、Tは目をむいておこるだろう。ヘンリー・ミラーなんてワイセツで饒舌なだけじゃないの、と言うに決っている。だから文学論はしない方がいい。ポール・デルヴォーの陰毛の方がはるかに易しく優しい。見えた世界がそのままである。隠されたものはお尻の穴だけだ。腹の中は小説家にまかせればいい。画家は女の背中とその向うの自分の裸像を見ている。Tはモラヴィアに夢中。窓ガラスのなかの私に気が付いていない。ヴィーナスのように背中は無防備である。だから書きものをする女の姿は美しいが、彼女にはその背後にいるものが見えない。  勃起させたまま彼女がいつ自分に気が付くかしばらくじっと立っていた。こちらから見ると、彼女の目の前の窓ガラスに私の全裸姿が写っているのだから気が付かないはずはないのだ。ほんのちょっと視線を上げれば、私の像が目前に見えるはずだ。  にもかかわらずTは物思いにふけった(窓ガラスに写っている彼女の顔をこちらから見れば)顔付きで、気が付いていてもわざと知らぬ振りをしているか、本当に集中しているのか、私を無視し続けているのだ。  見てはいけない姿を見ているのかもしれないという不安感に襲われて来た。私とて、制作中の姿は見られたくない。その鉄則を知っていながら、妻のキヨミはしばしば扉の隙間からこちらを観察していたのを、私は知っていた。ひどく妻が不潔に感じたものだ。  多分、Tは私の気配に気が付いているだろう。男が見てはいけないものが二つある。出産と化粧中の姿だ。近年ではものを書いている姿も入るかもしれない。いや源氏物語以来と言うべきかもしれない。こちらから眺めている限り、ものを書いているようにも思索しているようにも見えるが、実は単に眠っているのかもしれないと考えはじめた。  いっそのこと、こちらから声をかけるか、近づいていって、わっ! とおどかすか、しようかと考えた時、うつむきかげんだったTの顔がおもむろに上った。  ミラー状になっている窓ガラスのなかで、Tの視線と私の視線とが合った。頬笑もうかと思ったが彼女の眼光の鋭さにむしろ息をのんだほどだ。情けない話だが、勃起していたトサカがみるみるうちに萎縮していった。 「そこにいるのは誰れなの?」  Tがつぶやくように言った。低いが変にドスのかかった声だった。  私は少年のように黙っていた。誰れなの? と聞くまでもなく私だということは分っているはずではないか。だとしたら、何故わざわざ聞く必要があるのか。 「誰れなの?」  相変らず窓ガラスのミラーのなかの私を見詰めたままTが言った。  私はかたくなに沈黙を守った。強盗がそうであるように。Tの方もかたくなに背後にいる私の方を振り向こうとはしなかった。暑いのか、寒いのか分らない。二人の男と女が全裸で動かぬままいる状態が奇妙に荒涼とした感じだった。やはりポール・デルヴォーの光景に似ている。ゴシック建築の代りに年代の古びたイギリスコロニアル式日本風別荘の違いはあるが。 「ぼくだよ」  萎縮したトサカをぶらさげた偽少年が答えた。 「分っているわよ。何故ここにいるの?」  依然として振り向こうともしないTが背中から声を発している。  誰れなの? と聞き、今度は誰れだか分っていると言い、そして何故ここにいるのかと問う。やはり文学少女はどこかいじわるで、どこか冷たく、そのくせ好色だ。多分、次には何故裸でいるの? と彼女自身も裸のくせに聞いてくるに違いない。女たちはいつも何故? が好きなのだ。 「君を探していたら、ここに来てしまったんだ」 「それなら何故裸なの?」  案の定聞いて来たので、腹の中で舌を出してやった。 「目が覚めたら裸だったんだ」 「裸で女のいる家の中を歩き廻るのはよくないわ」 「君だって裸じゃないか」  とうとうこっちも言ってやった。 「私が裸なのは許されるの。私の家なんだから」  それは間違っている。彼女は数日この家を借りているだけではないか。友人だか知人だかよく分らないが、とにかく借りている家を自分の家だと主張出来るんだから、先が思いやられる。しかし、ここで議論してもはじまらない。背中を見せているが顔の方は鏡のなかなのだ。彼女から見れば私も鏡のなかだ。Tがあえて振り返ろうとしないのは、振り返れば現実がここにあるからに違いない。  Tからは鏡のなかの私の裸体の全身像が見えているはずである。私の陰毛も萎えた陰茎も一枚の平面のなかの絵である。同じ平面のなかにTの顔も写っている。  Tがゆっくりとタバコを喫いはじめる。彼女の吐くタバコの煙りが鏡のなかの私の陰毛の上をなびいて流れる。目を細め、口元をとがらせて、Tはゆっくりとタバコの煙りを吐き続ける。 「わたしを愛している?」  Tが突然聞く。彼女なら草むらの上でウンコをしながらでも、わたしを愛している? と聞くかもしれない。いついかなる時でも、女たちは愛であふれているのかもしれない。 「愛しているよ」  私は味気なく答える。桜の樹元にオシッコをひっかけながら、犬の気持で答える。彼女の指先からタバコを取りあげたい。 「ぼくにも一本喫わせてくれないかな」  とりあえず言ってみる。心は囚人である。はじめてTの口元に微笑が浮ぶ。彼女は私が何かを要求するのを待っていたのだ。  Tは新しいタバコを新たに口にくわえ、喫いかけのタバコから火を移す。 「タバコに火を付けてあげたわ」  そしてこちらに振り向いたのだ。  私はおそるおそる近付いた。私の口元に彼女がタバコをくわえさせてくれた。 「手を使っちゃ駄目よ」  口にくわえたまま、数回続けてすぱすぱ喫った。思ったよりは難しい術ではない。  その時、Tがいきなり私のトサカを握りしめたのだ。彼女の手のひらのなかで急速に充血する。動脈が音をたてて膨らんでいくのが自分にも分かった。  Tは驚きの声をあげた。 「男って単純なのね」  それはないだろう。こちらは仕掛けに従順に従っただけのことだ。敏速な反応は複雑なメカニズムの結果なのだ。  Tはしげしげと眺め、指の先でもてあそんでいる。 「不思議なものなのね」  今度はつくづく感心した口調で言う。  タバコが私の口から落ちそうになる。左の手で下方の突起物を握り、右の手でタバコを私の口から離してくれる。 「ねえ、夫婦でもこんなことするの?」  Tの真剣な眼差しに今度は私の方が驚く。 「さあ……」  私はあいまいな返事をする。 「わたしって、おかしい?」  Tが不安な表情で聞く。 「おかしくなんかないさ」 「こんなことされるの嫌いでしょう?」 「いや、嫌いじゃないよ」 「好き?」 「厭がる男もいるかもしれない」 「あら、どうして?」 「男だって様々だよ」 「あなたは好きなんでしょう?」 「他の女なら、厭だな」 「あらっ」とTが上目使いで見上げ、声を出した。性的経験では年は一つしか違わないが私の方がはるかに先輩である。なんてったって、三年も結婚しているんだから。Tにとって、それが最大の不安材料なのだ。  再びガラス窓の鏡に視線をやった。女が夢中になって男の突起物をもてあそんでいる。やがて、女の口の中へ吸い込まれるだろうか。次の頁を開くまで期待通りにコトは運ばれるだろうか。  コーヒーの匂いで目が覚めた。あるいはTがベランダから呼んだのかもしれない。  顔にまともに陽が差している。  二階の寝室で寝ていたのが不思議だった。  窓から顔を出すと、真下のベランダにこちらを見上げているTの顔があった。アメリカ映画みたいだなと思った。自分が今まで目覚めた朝のなかで最高の朝だった。裸のままでいることがむしょうにうれしかった。昨夕、この別荘に来てから、ずっと裸のままではないか? 夢にまで見たヌーディスト・クラブにいるような気分だった。  裸のままで、ベランダへ出た。  さすがにTはTシャツを着て、白い半ズボンをはいていたが、裸で突然現われた私を見て、半ばあきれたように言った。 「外から見えないからいいけど、外国じゃないのよ」 「外国みたいなもんだよ」 「あなたって本当に変な人ね」 「君も裸になったら?」 「そうしようかあー」  今朝のTは変に素直だった。 「でもやめておくわ」 「なんだあ」  少しがっかりしたが、大した問題ではない。コーヒーの匂い。本物のバターを使ったトースト。二つの目玉焼。青い空。カラ松林。そしてこの陽差し。 「目玉焼って何故二つ焼くんだろうな」 「目玉は二つあるからよ。だから目玉焼って言うんじゃないの」 「アメリカじゃ何んて呼ぶのかな」 「フライド・エッグでしょう」 「それじゃあ玉子の天ぷらじゃないか」 「フライ、というのは何も天ぷらのことを差すわけじゃあないのよ。焼飯もフライド・ライスって言う」 「成るほどな」  こんなたわいもない会話がひどくうれしかった。裸でベランダで朝食をとる。これは何風と呼べばいいのか。カルフォルニヤ風か。いやゴダール風だろう。  Tもにこにこしている。 「デザートにグレープ・フルーツがあるわよ」 「何だい? グレープ・フルーツって。ブドウのこと?」 「今、流行っているのよ。若い女の子の間で。三島由紀夫が毎朝カルフォルニヤから輸入したグレープ・フルーツを食べているんだって」 「じゃあ、高そうだな」 「一つ五百円もするわ」 「そんなに高価なのか」 「それでもメロンより安いわ。軽井沢の知人からもらったのよ」  一杯四十円のラーメンしか食えない男にとって一個五百円のグレープ・フルーツは一種のカルチャーショックだった。そんな高価なフルーツを今どきの若い女の子たちが食べているという。憮然とした気持になった。  Tが軽やかに運んで来た皿の上のグレープ・フルーツは半分に輪切りしてある夏みかんにしか見えなかった。 「夏みかんじゃないか」 「ところが中味が違うのよ」  そう言われて、スプーンですくって食べてみたが、たいしてうまいとは思わなかった。 「本当はね、蜂蜜をかけてオーブンで焼くとおいしいの。でもこの家のオーブンがこわれていてね」 「三島由紀夫が何故こんなものをうまいと思ったのかな」 「あなた三島由紀夫は好きじゃないんでしょう?」 「好きじゃないね」 「じゃあ、どうにもならないわよ。彼の好きなものが分るはずないじゃないの。モラヴィアだって好きじゃないでしょう?」 「いや正直言って読んだことがない」 「読んでいないくせに、モラヴィアは好色だって言ったわけ?」  多分、次に言いたいのは、モラヴィアが好きでなければモラヴィアの翻訳をしているTも好きになれるはずがない、ということだろう。  それは違う。しかしどうやって弁明するか? 五百円の半分のグレープ・フルーツを食べたばっかりに、どうやら、こちらの分が悪くなったようだ。 「モラヴィアは読んでいないけど、モランディなら知っているよ」 「モランディって何?」 「はじめは形而上学派の画家で今は静物ばかり描いている。三島由紀夫は好きでないが、ガートルード・スタインなら好きだね」  Tはげらげら笑い出した。 「お互の知識を披露し合っても仕方ないわ。どうやら、あなたとわたしは素材が少し違うようね。でも愛し合っている。それでいいんでしょう」  それでいいのか? そんな簡単に妥協してしまっていいのか。  朝の陽光がさらされた股間を直射した。ちぢこまっていた生物がむっくりと起き出した。 「ね? それでいいのよ」  Tが笑いながら、今目を覚した私の生物を細い長い指でつまんだ。 [#改ページ]   第十章 ベッドの舟 「ねえー。お昼なに食べる?」  Tがとても優しい声で聞いた。朝食を食べてからまだ三時間しか経っていない。その間私たちは二度情交した。一度はリビングルームのソファーの上で。次は二階の寝室のベッドの上で。パンを食べるようにセックスをする、と言ったのは、確か、ヘンリー・ミラーだったように思う。パンを食べるように気楽に、という意味なのか、パンを食べるのは結局は生存のためだから、生きるためにセックスする、ということなのか、その辺はよく分らないが、要するにセックスは日常的な行為である、という意味なのだろう。しかし、世の中パンを食えない人たちもいる。となるとパンの代りにセックスを、ということにならないか。いやパンを得ることも出来ない人間はセックスも得ることは出来ないと考えるべきか。 「何考えているの?」  Tが幾分すねた表情で聞いた。  すぐ返事をしないと、彼女たちは必らず、心のなかに侵入しようとする。だが男たちは決して本当の内容を話さない。 「昼食はそばかカレーかどちらがいいか考えていたのさ」  彼女の果汁で濡れた私の岬がぴくぴく小鳥の翼のように動いている。もう一度したいと言ったら色情狂に思われるだろうか。 「もっと気のきいたものが浮ばないの?」  私たちは裸のままベッドに横たわっている。裸でいることが日常的な情景になったのか。こんな状態でいるのがとてもうれしい、と言葉に出して言えないのは、多分自分がアメリカ人でないからだろう。  君のコンが食べたい。  しかし、これも言葉にならなかった。  コン、はフランス語で女のアレのことだ。アラゴンの詩の翻訳で最近仕入れた知識だ。   旅   私はコンからコンへ旅をする。  そんな詩だった。すっかり気に入った。女陰から女陰へ旅をする。どこで切符を仕入れるか。それが問題だ。フリー乗車、オーライ。 「果物が食べたいな」  Tにこの隠喩が分るか。分らないだろうな。  だから、 「あら、どんな果物?」なんて聞いて来たのだ。 「アメリカの女性は昼にはサラダと果物しか食べないって言うじゃないか」 「わたしアメリカの女じゃないわ」 「勿論分っているよ」 「じゃあ何故そんな風に聞くの?」 「こんな西洋風の別荘にいると、果物が食べたくなる」 「あはは。さっきはそばかカレーなんて言っていたわ」 「君のお尻を見ていたら、果物が食いたくなったのさ」 「まあ、低俗なのね」  そうは言ったがTはまんざらでもない表情で目尻にしわをつくって頬笑んだ。時には低俗の方が女に好かれる。大急ぎで体を回転させて、Tのむき出しのお尻に触りふくらんだ山を左右に分けた。開かれた後ろから眺めた彼女の桃色の渓谷は濡れて光っていた。指を挿入したら、それまでじっとしていたTがはね起きたのだ。 「駄目よ!」 「何故だい?」今度は私が聞いた。 「痛いわ。それに後ろからは厭なの」 「どうして? 愛しているんだろう?」 「でも駄目よ。犬の気持になるのよ、止めてちょうだい!」  少し傷付いた。 「奥さんといつもそうやっているの?」  幾分すねた顔をしているのを気にしたのかTが無理に笑みを浮べて聞いた。  妻のキヨミとは後背位で一度だけセックスしたことがある。Tと最初に情交したあとだ。だが再び許してはくれなかったのだ。女性たちは何故背後からの情交を厭がるのか。話ではキリスト教徒は禁じられているという。そうだキヨミは教会になど一度も行ったことがないのに、自分はキリスト教徒だと言っていた。まさか、Tまでが自称キリスト教徒ではあるまい。本当のキリスト教徒なら妻のいる男との情事は禁じられているはずだ。汝姦淫するなかれ、とキリストは言った。神はいない! とニーチェは叫んだが、他人の女を抱きたくなった時、そう叫んだのかもしれない。おかみさんならいるけど、神はいないよ、と言ったのは落語家だ。落語家の方がニーチェより進んでいると言ったら、おこるのは誰れだろう。情交する時だけ女たちはキリスト教徒になるのだろうか。正常位だけが神から許された正当性のある人間だけの体位で後背位は動物の体位であると誰れが教えたのだ。正常位だってこっちはとうの昔から犬の気持になっている。恥も外聞もなくオチンチンをおっ立て、覚えたてのコンに入りたがり、おこられると尻尾を丸めて遠くから吠える。私流に言えばそれは誠実さなのだ。金の首輪をしているか、野良犬かの違いだけだ。  Tが妻のキヨミとの比較を要求したのは確かにこれで二度目だ。それは彼女にとって屈辱なのか、私にとって屈辱なのか。それはこちらの答え方によって決るかもしれない。 「ねえ、おこっているの?」  黙り込んでいる私に言った。 「いや、そんなひどい質問にどう答えたらいいのか、考えているところなんだ」 「奥さんが出てくるといやなのね」 「正直言っていやだね。自明の理だよ」 「分っているわ。あなたにとっても、わたしにとっても厭なことよ」 「それなら聞くべきではない」 「でも、避けて通れないわ」  それはそうだ。しかし避けて通れないとはどこかへ行く目的を持っていなければ、なんの意味もない。どこへ行くのか? それなら後背位セックスも避けて通れないはずだ。人間も最初は動物のように背後からセックスしたと言われている。女たちはそれを時代の逆行、種の逆行だと考えているらしい。動物のように四つんばいになるのが厭なのだ。いや待ちたまえ。Tはキヨミと後背位セックスをしているかどうかを聞いたのだ。それには答えていない。避けたつもりが、どこかで避けて通れなくなったのだ。何んのために。二人の愛のためか。じゃあ愛って何んだ。密会して、何度も情交することか。グレープ・フルーツを食べて、モラヴィアの話や、Tの学校の話を聞かされることか。キヨミを信濃追分の宿に待たせたまま、Tと後背位からの情交をせまることか。Tと私との間にキヨミという妻がいる。いや私とキヨミとの間にTが侵入して来たのだ。世間でいうところの三角関係という奴だ。正三角形ならうまくバランスが取れているはずだ。立てても横にしても完璧なバランスである。一本がはずれたら、もはや面を形成できなくなる。残った二本の稜線が重なり一本の線になってしまう。つまり夫婦とは二本の線が重なった一本の線である、ということか。他の女が現われると線が面になる。それだけ空間が広くなる。世間が広くなるというわけだ。その余計な空間の分だけトラブルが増えるということかもしれない。  三角形でなく、もう一本の女の線が重なり三本重なったら、何を意味するのか。二重苦の上に三重苦がやってくるだけなのかもしれない。夫婦とは二人の人生を背負い込むことだ。それにもう一つの人生を背負い込んだら、二十四歳の男には多分重すぎるのだろう。背負い込まなくて、横に置いておけばいいのだ。必要な時だけ引き寄せる。一人の女には束縛され、他の一人とは自由な関係でいる。図式的には決して悪いはずはない。  Tが結婚という目的を念頭において避けて通れない、と言ったのか。それは分らない。既に結婚している男に、結婚したいと告白なり要求なりすることは、独身の男に向って言うより何十倍も難しいだろう。しかし、いつかは言うかもしれない。いや、そもそも求婚とは、男の方から女へ意志表示するものではないか。キヨミの時は妊娠を告げられた。あなたがどう考えようと私は生みます。若し生ませたくなければここから出ていって下さい、と宣言されたのだ。いわば女の方からの結婚強制宣言である。だが結婚して二ヵ月目に妊娠は医者の誤診だったのよ、と、きわめてあっさりと妻になった女から言われた。総てキヨミの猿芝居だった可能性もある。  罠にはまったのだ。勿論それが結婚した総ての理由ではない。彼女のコンに誘惑されたのだ。パンを食べるように情交に明けくれた。旅にも出ないで、一つのコンのなかで日が暮れていった。そして三年目にして、やっと旅に出たのだ。ひばりのさえずりを聞きながら、バターをぬった焼たてのパンとグレープ・フルーツが食道を下っていった。  カーテンもない窓からいっぱいの陽を受けながらTと私は裸のままベッドの上で、くっついたり離れたりしながら朝の数時間を過したのだ。素晴しいと言えば素晴しい。ベッドという小さな舟の上で南太平洋を漂流している感じだ。どこに流れていくのか分らない。無人島に二人で漂着すれば永遠にそこにいられるだろう。避けられないものがあるとしたらそこでは退屈という悪魔だろう。  私の永い沈黙をTはふてくされたような表情で見つめていた。 「わたしを知ったこと後悔しているんでしょう」  Tはそう言って上半身を起し、サイドテーブルに置いてあったピースを口にくわえた。火を付けようとしたので、私が急いでマッチをすってやった。 「有難とう」  Tは本当にうれしそうに頬笑んだ。タバコをはさんでいる長い指の先に赤いマニキュアをしている。娼婦みたいに見えた。そう言ってやったら、 「マグダラのマリアみたいでしょう」とTが答えた。 「なんだい、マグダラのマリアって」 「キリストを愛した娼婦よ」 「へえー」  キリストの名が出てくるとやばい感じがする。こちらは「汝姦淫するなかれ」しか知らないからだ。 「じゃあ、ぼくは君のキリストかい?」  冗談のつもりで言った。  不意にTの目に涙があふれたのには一種の衝撃を受けた。 「あなたはわたしにとってキリストかもしれないわ。わたしの心を救ってくれたのよ」  彼女の言う意味がよく分らなかった。私も真剣な目付きでTを眺めたが、どこか虚なものが漂っていたに違いない。 「そう、その目付きよ。その虚な目付き。たまらないわ。わたしに何かを求めている。その目を見ていると、助けてあげたい気持になるのよ」  Tは私にキリストを感じ、それが彼女を救ってくれたと言っておきながら、同じ虚な目を見て今度は救ってあげたい、と言う。論理的に分らない。  あなたを救いたい気持にさせたことが、わたし自身の救いである、とTは言った。この理屈もよく分らない。しかし妙に感動を与えたのだ。  キリストは人々の魂を救済するために自から十字架を選んだ。私から考えればそれは敗北主義である。いや、唯宿命に従っただけかもしれない。Tによると娼婦であるマグダラのマリアだけが、キリストの人間としての弱さを知っていて、彼を愛し、受難の悲しみによって聖女になったのである。Tのとうとうと述べる説を拝聴していたが、結局よくのみ込めなかった。情事とキリストとどういう関係があるのか。キリストは女と寝たことがあるのか。ベッドの上でピースを喫いながら、時には娼婦のように、時には聖女のように、Tは喋った。お尻を出したまま。時には天使になり、時には小悪魔になる。悪魔ならお尻に尻尾があるはずだ。なんなら尻尾にキスしてもいい。  私がTについて聞きたいことは沢山ある。われわれの舟はどこへ行くのか。そして、彼女はどこから来たのか。生れた場所、育った土地、家族たち。そして恋人は私がはじめてでないにしろ、現在、他に誰れかいるのか。関西に住んでいながら、関西弁でないところも聞きたい。いや、まだある。そもそも私が画家である以上、私がいかなる絵を描いているのか、一度も関心を示さないのは何故か? 私の家系についても知ろうとしない。私の妻との関係だって、ほとんど知っていないに等しいのだ。この別荘の持ち主とどんな関係にあるのかさえ特に喋ろうとはしないのだ。  男と女とが出会い、愛し合い、そして情交している。私はキリストになり、Tはマグダラのマリアとかになりすましている。今のところそれだけしかない。  父親の職業は? 兄弟姉妹の数は? お給料は? ご趣味は? 将来の夢は? ついでに血液型は? ご宗教は? 健全な男女なら、会って十二時間もすればおおよその事情は判明してくるはずだ。だが私たちはお尻を見つめあっただけで了解したのだ。もっともTはお尻からの侵入を拒絶したが。  そうした事情を全部脳髄に浸み込ませてから情交し、健全な子供を生む。多分、それが世間で言うところのまともな結婚であろう。キヨミの時も何かあいまいだらけのまま、舟に乗り込んでしまった。誰れからも祝福されず、結婚式さえしなかったのだ。キヨミの両親はすでに亡くなっていた。たった一人の妹は結婚して九州で暮している。私には兄弟はいない。両親は新潟の小さな都市で居酒屋を経営している。私は家出同然で東京へ出て来たのだ。キヨミとの結婚は当然ながら両親に反対された。あとのことはどうでもいい。警察の調書じゃないんだから。  どうやらTの両親は別居しているらしい、という気配はある。幸にも母一人子一人ではなさそうだが、弟はいるようだ。ひょっとしたら、年齢が若いだけでキヨミと同じような舟に乗り込んでいるのかもしれない。誰れからも祝福されない航海を望んでいるのかもしれない。それなら後背位からやらせてもらいたい。Tが天使なら四つんばいになって欲しいのだ。ギリシャ人のように。文明はそこから生れる。  結局私たちは今朝から三度目の情交をした。勿論正常位で。そのかわり、Tはマニキュアの爪でこちらの背中をかきむしってくれた。放出すると、総ての事情が頭から消えてしまった。窓から見える空の青が目にしみた。  昼食といってもすでに二時を過ぎていたが二人で街に出ることにした。さすがに裸でいることに退屈して来たのだ。外出する前にTはシャワーを浴びると言い出した。狭い浴室で一緒にシャワーを浴びているうちに、また欲情しそうになった。モーパッサンは一日に十三回勃起したという。そのあげく脳梅毒で死んだ。  シャワーなんてプールでしか浴びたことがない。アメリカ人はシャワーしか浴びないって本当だろうか。  Tと抱き合ったままシャワーを浴びた。背はほとんど同じだが、背のびしなければ岬がコンに到達しない。シャボンですべすべしたTの太股の間にはさまったまま、お湯が精液を流した。Tにはその事件は黙っていた。やはり、ひどく恥しかったからだ。  さっぱりした白いブラウスがTによく似合った。衣裳を着ると妙に肩が張ってみえるのはどうしてか。靴だけが赤いのもよく分らない。若い女の間で流行っているのかもしれない。そういえば上野の駅で別れた時キヨミの靴も赤かった。魔女の靴は赤かったか? それにしてもTの口紅の赤は少々どぎつすぎる気がする。  そして白い帽子。天使ちゃんの出来上り! 裸になればマグダラのマリア。即ち娼婦。キリストまで誘惑しようとした女。  旧軽井沢のいわゆる銀座通りまで出る間にちょっとしたことが起った。  何故だか、また理由が分らないが、天使のようにはね歩いていたTが突然、 「信濃追分まで行こう」  と言い出したのだ。  飛びあがらんばかりに驚いた。顔が蒼白になったかもしれない。だがその瞬間Tは道を横切ったリスに気を取られたので気付かれずにすんだようだ。 「どうしてだい?」  出来るだけ平静に聞いた。 「追分のそばがおいしいんだって」  とんでもない答えが返って来たので胸をなでおろしたが、勿論同意するわけにはいかない。たとえそばであろうがキヨミのいる至近距離にわざわざ出掛ける馬鹿はいないだろう。 「さっきはそばより気のきいたものを知らないの、と言ったばかりじゃないか」 「あっ、そうだったわね。あなたといちゃいちゃしている間に、影響されたのかしら」  Tは天使の服を着ている時の方が素直であるようだ。キヨミが信濃追分の油屋で私を待っている事実は知らないと確信出来た。 「そうそう三笠ホテルの洋食が有名だわ」  三笠ホテルといえば梅原龍三郎とか谷崎潤一郎などが常宿にしている歴史的なホテルである。高価なメニュが目に浮んだ。 「行ったことあるのかい?」 「ないわ。ないから興味があるんじゃないの」 「それはそうだけど、正直言って階級的なコンプレックスを感ずるな」 「あはは。あなた共産党?」 「ぼくはルンペン・プロレタリアートだよ。組織にはいかなるものにも属したくない」 「こんな時だけ、断固となるんだ」  Tの口調までどことなくネコに似て来た。 「上品なものにみんな敵意を感ずるの?」 「そこまでヒネクレテいないよ」 「じゃあ、行ってみようよ」  議論しているうちに旧軽銀座通りに出た。植民地的なにぎわいにこちらも足が軽くなる。横文字のカンバンが変に気持を浮き浮きさせた。これじゃ二人で舟に乗って無人島へ行くのは無理かもしれない。人々はベッドから起きて街へやってくる。そして再びベッドへもどる。一人で寝るか、好きな女が横にいるか、あるいは犬と寝るか、人様々だ。恋人なら、どこかで離れなくてはならない。軽井沢には三日間滞在出来る秘密の時間がある。愛の入学試験なのか期末試験になるのかキリストにだって分りやしない。 「今翻訳しているモラヴィアが本になれば印税が入るのよ」  Tが突然言った。  幾らぐらい? と聞きたかったが、我慢した。やはり最低の礼節は守らなければならない。 「売れれば二万円ぐらいにはなるわよ」  尋ねもしないのにTの方から言った。こちらの四ヵ月分の収入だ。 「これだけあれば二人で逃げられるかな」  Tが男の声音で言った。  えっと立ち止った時、前から来た男にぶつかりそうになった。  こんな重大な内容を何故、こんな人通りを歩きながら言うのだろう。  わたしは天使なのよ。あなたをさらって行きたい。  彼女の目はそんな風に言っているように思えた。 「ねえ、三笠ホテルでコーヒーを飲もうよ」  Tがにこにこしながら言い腕を組んだ。  だが、天使ちゃんのお尻には尻尾が生えているかもしれない。 [#改ページ]   第十一章 ある晴れた日に 「わたし妊娠したらしいの」  とTが言った時、自分の顔色が蒼白に変るのを感じた。平静を粧おうとしたが、全身がこきざみに震えてくるのをどうすることも出来ない。  コーヒーを飲もうと言って三笠ホテルのレストランに入ったが、私たちは、というよりTは独断でビールの中ジョッキーを注文したのだ。明治のロマンチシズムの装飾のなかで、金色の縁のついた陶器製のジョッキーのビールを飲んだ時は気分はアールヌーボーの緑色に染っていたのだが。  レストランは半分位席がうまっている。今のTの発言は隣りのテーブルに座っている老夫婦にまで聞えたかもしれない。婦人の方が金縁の眼鏡を少しあげて、ちらっとこちらを見たからだ。  Tと最初の情交をしたのは五月のゴールデンウイークだ。二ヵ月半以上は経っている。だが何故、こんな衆人環視のなかで、妊娠した、と言わなくてはならないのか。別荘に二人だけいる時にいくらでも切り出せたはずだ。いや本当に妊娠したのかどうかは分らない。キヨミの時は彼女の家の玄関口で宣言された。何故玄関口だったのか、これもよく分らない。いやなら、今すぐこの家から出て行きなさい、と言われた。つまり反対なら一歩も家にはあげられません、という意味で、玄関口だったのかもしれない。  結婚していない男女が無防備と無知のため、女が妊娠した場合、男は何故加害者の気持になり、女の方は被害者になりすますのか。妊娠はある人々にとって古くさい表現だが愛の結晶であり、至宝である。しかしある人々にはゲリラ的な爆発物で、愛の踏絵になる。中間なんてあり得ない。結局生むか生まないかを決めるのは被害者である女なのだ。彼女たちは、妊娠を探知し、うつろな眼差しをした男に向って、まず妊娠の事実を告知しなければならない重責を荷なっているが故に、神が言ったはずの、はじめに言葉ありき、を見事に横取りしてしまったのだ。  何故宣言された私にわくわくした喜こびの感情がわいて来ないのか。種を持ったオスとしての尊厳と誇りとを感じないのか。おろかにも二度も同じドジをふんでしまったという悔恨しか襲って来ないのか。  キヨミの場合は彼女の方の頬もひきつっていたが、目の前にいるTはむしろふてぶてしい口調で、口元に頬笑みを浮べている。こちらの蒼ざめた表情を見て、腹の中で軽蔑しているのかもしれない。それでも彼女はこちらの返事を待っている。  こんな時にこそ、ユーモアに満ちた返事が何故出てこないのだ。 「モラヴィアなら、なんと答えるだろうな」  おそるおそる言ってみた。 「弱き者よ、汝の名は女なり、と言ったでしょうね」 「それはシェイクスピアのハムレットの科白じゃないか」 「当り前じゃないの」  Tがパロディとして使ったのは分るが、モラヴィアとの関係に於てどこにエスプリがきいているのか、実はよく分らなかった。だが、私は笑ってみせた。うしろめたい笑いだ。何しろTの腹には爆発物がこめられているのだ。本当にオレの子供かな、なんて聞いたら、アールヌーボーのジョッキーが飛んでくるだろう。 「ヴィーナスは泡から生れたというけど、君のお腹のなかに神話が生れたというわけか」  メタファーになっているかどうか分らないが、今流行のメタフィジック調な言いまわしを使ってみた。総てが冗談なら、生きていることに多少の楽しみは残っている。 「祝福してくれる?」  今度はTの表情の方がこわばっていた。  見えないものに対しては祝福出来ない。 「医者に診てもらったのかい?」 「堕す相談に行ったわ」 「えっ?」 「神戸に帰ったら、堕すつもりよ」  不意に心臓の鼓動が激しくなった。ほっと一安心したが、安心した自分の本音がひどく、いまわしかったのだ。Tに本心を見抜かれるのがたまらなくつらかった。この世の中で最も卑劣な男のような気持だった。 「それが最上の方法でしょう? 他に何かある?」  Tは巧みにこちらを崖っぷちに追い込む。 「君はさんざ考えて結論を出したろうけど、ぼくは今、聞いたばかりなんだ。考える時間が欲しい」  それは本当の気持だ。Tに私の子供が出来、出産したら勿論困る。彼女の選択が現在の二人にとって正しいことは間違いないし、私自身もそれを望んでいるが、矛盾するかもしれないが何か不満が残った。この感情はなかなかうまく表現出来ない。これも今流行の敗北主義ではないか。若しTと結婚出来るなら、Tの受胎告知は善良な夫たちのように感動し、歓喜したかもしれない。勿論絶対に結婚出来ないわけではない。キヨミと別れればというより、キヨミが別れてくれさえすればTとの結婚は夢ではない。  見るまえに跳べ、は新進作家、大江健三郎の小説のタイトルだ。元はW・H・オーデンの詩のなかにある。  見るまえに跳べ。いやもう飛んでいるのかもしれない。後ろを振り返ってその谷間の深さに恐れをなしたのだ。  若い女は妊娠を結婚の取りひきに使う。彼女等の子宮のなかまでのぞけるのは産婦人科の医者しかいない。若い男は恋人の、妊娠したわ、という発言を信用するしかない。  Tは妊娠したと言い、十分もしないうちに堕すと告知した。もともと妊娠していないのにそういうストーリーをつくることも可能だ。恋には崖っぷちが必要なのだ。男は女のつくりあげるいくつもの難問を突破しなければ勝利者になれないのかもしれない。要するに試されているのだ。コンドームを使わなかったのがうかつだったのか、あんなゴム製品は娼婦とする時だけで充分だ。二人とも無防備だったことが愛の証しではなかったのか。責任は両方にある。 「いくら考えても同じよ。私たちは結婚出来ないんだから」 「若し結婚出来るとしたら、生むのかい?」  せいいっぱいの返答だった。 「生まないわ」  Tはそう言って素速く視線を落した。  席を立ちかけていた老夫婦が私の方を見つめ、夫の方がかすかに口元を動かしたように思えた。  何故か分らないが断崖からつき落されたような気持になった。仮に結婚出来たとしても子供は生まない、と言ったのだ。あなたを愛していないと宣言されたようなものではないか。妊娠したらしいと言われた時も断崖からつき落されそうになり、堕胎すると宣言された時内心はほっとしたが、たとえ結婚したとしても子供は生まないと断定されると、こちらの意志がぐらついたのだ。 「堕すのはあなたに迷惑をかけないためよ」 「妊娠を手段に使いたくないのよ」 「妊娠したことで子宮の存在を知ったわ」 「子宮は意志とは無関係に孕むわ」 「女の業ね」 「私はあなたを愛しているらしい」 「愛していると言ってもいい」 「でも�らしい�とあえて言うのは子宮を持っているからなのよ」 「あなたの奥さんも子宮を持っている」 「妊娠したと嘘をついて結婚を強要したのでしょう?」 「あなたは同じことを二度くり返すけど、私はくり返さない。いやくり返させないために子供は生まないわ」 「生むとか、生まないとか言って男をまどわしたり、私自身をもまどわすようなことはしたくないの」 「絶対に生まないと決めることで本当の女になりたいのよ」 「子宮を持っていて子供を生まないのなら、愛していると言えないわ。愛しているらしいとしか言えないじゃないの」  Tはカラ松林の小路を歩きながら呪文のようにぼそぼそと喋り続けた。二十三歳そこそこの女のステートメントとは思われない。ひどく理づめだが、どこかおかしい。しかし反撥出来ない。所詮、こちらは子宮などという物騒な器官を所有していない。申しわけありませんとあやまるしかない。  女は創造に適していないとTは言う。子宮で子供を生産するから、もともと他のものを創造しなくていい体質なのだ。それがくやしい、と言う。  白い帽子をかぶり、赤い靴をはいた天使ちゃんの喋る言葉としてはかなり過剰だ。ボーヴォワールの「第二の性」でも読んでいたら、なんとか張り合っていけたかもしれないが、読んでいない。  Tの話を信用すると彼女は今、私の種を宿しているのである。神戸にもどってから、堕胎手術をすることになっている。それは彼女の決定である。しかし、もし、ここで絶対に生むんだ、と私が主張したら、どうなるか? ひょっとしたら、いくら強がりを言っていても、彼女の意志がぐらつくのではないか。むしろTはそう私が言うのを待っているか望んでいるかしているのではないか。胎児はまだ彼女の子宮のなかでうごめいている。Tは決定したと言っているが、よく考えてみると私の方は何も決定していないのだ。口をただもぐもぐ動かしているだけだ。  女はどうやって妊娠を自覚するのか。ものの本によると月経が止まる。乳房が張ってくる。つわりが起る。物理的な変化はこれしかない。昨日から数回、Tと情交したが、それらの変化は私の側からは認められなかった。気が付かなかったのだ。こちらの気の付かないところで、彼女が吐いている気配もない。心のなかまでは分らないが、外観上は何一つ変化しているようには思えないのだ。  そもそも医者に行ったと言うが、医師から宣告されたとは明言していない。そこまで疑ったら、こちらの人格の問題になるだろう。愛していれば信じなくてはならないのだ。お腹のなかの胎児が私の子供だという証拠はどこにあるのだろう? 勿論そんな風には考えたくないが、こちらだって一度はキヨミにだまされたのだ。キヨミはあくまで医者の誤診だと言い張っている。そんなに疑われるのなら、わたしは死にます、とさえ言った。キヨミがTと違うところは、すくなくとも私の子供を欲しがっているという点だ。非常に生みにくい体質だが、絶対に妊娠しないというわけではない、とこれもヤブ医者の診断を信じているようだ。内密な話だが、妊娠出来ないキヨミの体質が、二人の性生活を活発にしたといえるかもしれない。女房と情交している限り、避妊のわずらわしさはなかったのだ。  Tを孕ませたのはまったくのうかつだった。無知な少年と少女の情交じゃあるまいし、すくなくとも結婚している男にとって、この失敗は愛の問題ではなく、単なる技術上の問題である。いや愛だって技術だ。技術のないところからは何も生れない。子供を生まないための技術が時には愛のためにだって必要なのだ。  十八歳の時はじめて田舎で娼婦を買った。二百円だった。正確には一分で二百円というべきだろう。女からコンドームを付けられた次の瞬間に、射精してしまったのだ。沼の中に入らない前にしなびてしまったのだ。その意味では童貞を守ったといってもいい。  だが屈辱だけが残った。コンドームに対する拒絶反応を持ってしまったのだ。コンドームは避妊の目的と同時に性病予防の目的も持っている。  赤線地帯では娼婦がコンドームを用意しているが、一般の女たちはコンドームをハンドバッグに入れていない。男たちだって、ポケットに入れていないだろう。十円銅貨のように男も女もいつもポケットにコンドームを入れていれば、不用意な妊娠はもっとへるはずではないか。  そう言えば最近の小説のなかでコンドームを使う描写のあるものに出会ったことがない。映画の情交シーンだって、誰れもコンドームを使わない。随分おかしな話だ。だから、男と女のどちらがコンドームを持参しているか分らない。誰れが猫に鈴をつけるか?  優雅なコンドームの使い方。とか、相手に気付かれないようにコンドームを付ける方法。とか、誰れか、書くものはいないのか。スキンのようなゴム一枚があなた方の人生を救います。  コンドームを持ち歩いている女は、相手に付けるために所持していることになる。若し相手がいたとしても、何故持っているか詰問されるに違いない。自分以外の男に使用するだろうと勘繰られるにきまっている。相手がいなければ、これほど残酷な話はない。ハンドバッグのなかで一年間も眠っているコンドームの話なんて哀れだ。これは男にとっても同じ事情だ。  恋人同志で薬局に入り、どのコンドームが似合うかしらと話し合いながら購入するシーンはまだアメリカ映画にだって現われていない。そのかわり、アメリカでは女性用避妊具のペッサリーが流行っているという。相手に気付かれずあらかじめ挿入しておけるのが、便利な点だ。男と約束したら、挿入しておく。だが男が現われなかったら、一人淋しく膣から抽出しなければならない。これもわびしいな。  コンドームをあらかじめ付けたまま歩いている男なんているだろうか。これは悲しき漫画だ。  じゃあ、どうすればいいんだ? ベッドにもぐり込んでからあわてて薬局へ買いに行くのかい。  ねえ、愛しているわ。でも妊娠したら困るでしょう?  何故女はベッドのなかで優しくこう言わないのだろう? 妊娠するのは女の方なんだから。  結局避妊器具を使い出すのは結婚してからなんだ。ささいな行為で傷つかなくなってからである。出産計画なんてうまい口実までつくっている。  しかし結婚前の、あるいは恋人同志の情交では、それを知っていながら、知らない素振りをするのだ。そして男はある晴れた日に、突然女から妊娠したと告げられる。  若し、Tから「妊娠したらしい」と告げられた時、間髪をいれずバンザーイとでも叫んでいたら、どうなっていただろうか。嘘でもいいからそうすべきだったのだ。今からではもう遅い。  二人ともすっかり沈黙してどこまでも続くカラ松林を歩いている。  Tが何を考えているか分らない。  普通の若い男女は軽井沢へ来て、何をして過すのか? テニス。サイクリング。散策。パーティ。追分で待っているキヨミは今何をしているのか。目の前にいる女が何を考えているのか分らないのだから、離れている女が妻であっても分るはずがない。ローランサンのネコも札幌で何をしているのか。展覧会は明日からはじまる。誰れの作品をどこに並べるかひと悶着起しているかもしれない。  こぢんまりしたテニスコートの前に来た。何組かがプレイしている。申し合せたように男も女も白いショートパンツをはいている。  Tと並んで金網の外からぼんやりと眺めた。 「テニスなんて面白いのかな」 「面白いからしているんでしょう」 「それはそうだ」 「セックスって面白いの?」  今度はTが聞いて来た。Tの額に汗がわずかに浮んでいる。ここで笑ってごまかせばいいのだ、と思いながら、少年のようにどぎまぎした。 「面白いという言い方は変だよ。気持いいんじゃないか」  ひどく馬鹿げた返事だと思ったが、とっさに言葉が浮ばなかったのだ。 「気持いいのかしら?」 「ぼ、ぼくは気持いいと思うけどな」 「気持いいからするの?」 「いや、愛しているから、したくなるんじゃないのか」  第2コートでプレイしている女の子の太ももがいい。男の方はヒゲをはやしていて気に入らない。 「じゃあ、奥さんも愛しているんでしょう」 「えっ?」 「だって、奥さんともセックスしているんでしょう?」  Tの目はボールを追っている。 「気持いいから、彼女ともしているってわけ?」  脚のきれいな若い女の方がボールをはずした。ヒゲの男が目尻を下げてにこにこしている。彼等はテニスの後、セックスをするのか。 「習慣だよ」  仕方なく言った。 「習慣でも気持いいんでしょう」  Tはあくまで「気持いい」にこだわっているようだった。 「君にはセックスは気持よくないのか」  若いショートパンツの女がボールを拾った。スポーツにはルールがある。だがセックスにはルールはないらしい。 「気持よくないわ」  Tはそういい放った。 「ぼくとしても?」  今度はTの方が黙った。 「この話は止めにしよう。きっと二人とも傷つく」  私はいく分男らしく言った。 「結局、男と女とは感じ方が違うのかもしれない。一方は妊娠し、一方は発射するだけだもの」 「スポーツなら男と女は対等だよ。たとえ、女がボールをはずしても、ゲームは再開される」  私としては気のきいた科白を言った。  Tは黙ったままだった。  私たちはテニスコートを離れ、再びカラ松林の小路を歩いた。 「歌でも歌おうか?」  Tはびっくりしたように立ち停った。歌を忘れたカナリアのように。 「わたしの歌聞きたい?」 「聞きたいな」  Tは立ち停ったまま、ある晴れた日のアリアを調子はずれの音程で歌いはじめた。  不意に泣きたくなった。何故だか分らない。  Tが歌い終った時、というよりも途中で歌をやめた時、私は彼女を抱きしめた。カラ松の林のなかで。  彼女の目にも涙があふれた。  私たちはお互を支えながら歩き別荘にもどった。たいした庭でもないのに広大な敷地に見えた。一羽のキジがあわてて草むらの中へ逃げた。 [#改ページ]   第十二章 ブリキの舟  世の中の結婚した男女は、式のあとただちに新婚旅行へ出掛ける。  このしきたりが日本でいつ頃から定着したのか知らない。すくなくとも日本古来から伝わったしきたりではないだろう。どうせ欧米の風習を真似た、明治以降のものだろう。正常な、というのは新郎も新婦も童貞と処女であるような男女が、結婚式という儀式をすませ、はじめて交わるために旅行に出る。結婚式とは中味を吟味せず、包装紙だけを見て、品物を買ってしまうようなものだ。男の方は童貞を証明する方法も道具も必要ないが、女の方は処女膜というアキレス腱があり、初夜に血液が出ないと、処女でなかったということになり、破談になる場合もあるそうだ。しかし戦争に負けて十数年も経つと、女の方も知恵が出て来て人工的な処女膜を装置するものも現われて来たという。  私はというと、キヨミと結婚したが結婚式をしなかったし、新婚旅行にもいかなかった。私の画家仲間たちはもっとあいまいで、結婚しているのか、同棲なのか、単なるつき合いだけなのか、分らない連中ばかりだ。そもそも二十一歳で年上の女性と結婚してしまった私の方が例外なのだ。  どう抗弁しても、仲間たちは姉さん女房と結婚し、食わしてもらっているとしか考えていないようだ。  良く言えば母性愛をくすぐる資質を持っているらしく、悪く言えばヒモ的な天性を持っているらしい。小金井にアトリエを建ててもらったのだから、何を言われても仕方ないが、腐っても枯れても生活費は私がかせいでいるのである。キヨミの方は入れ物をつくってあげたのだから、わたしは何もしませんと、そうそうに宣言し、大船に乗った気持でいるのだ。勿論キヨミの言うことに文句のつけようはない。船をつくってくれたのだから、動かすのは私でなければならない。  今までのところ、ペンキを塗りたての船はうまく動いて来たというべきだろう。暗闇とまではいわず、靄のなかを何んとか漂って来たといった方がいいかもしれないが、すくなくとも沈む心配は持っていなかったのだ。  私のかせぎは少なかったが、何んとか食べていけたし、キヨミが浪費家でなく、何から何まであり合わせで間に合わせ、戦時中の耐乏生活を戦後も守り続けていても平気だった性格に大いにおうところがあったからだ。  結婚してからの三年間、新しい衣裳は一着も買わなかったし、化粧品も、メンソレータムを顔とか手とかに塗ってすませ、身につけるもので買うものといったら、年に二回、平べったい靴を買うだけなのだ。生活必需品はすべて彼女の母親が使っていたもので間に合わせ、料理も豆腐とか煮物とかで、肉は百グラム、魚は干物と決っていた。貧乏な画家にとってキヨミは主婦として申し分なかった。彼女にも友人はいるはずなのに、結婚してから誰れ一人、家に訪れるものはなかった。銀座とか新宿とかへ一人で出掛けるということさえなかった。外出といえばせいぜい駅前の商店街ぐらいである。  そんなキヨミが突然、信濃追分へ行きたいと言い出したのだ。  確か、「わたしたち新婚旅行もしなかったんだから」というのが最大の理由だったはずだ。そうだ新婚旅行もしなかったし、結婚指輪もあげなかった。何故急に思い出したように旅行する気になったのか。グループ展を名目に私が北海道へ旅行することに対する対抗策であったと考えられなくもない。しかし札幌へ行かずに軽井沢でTと密会する秘密をキヨミがかぎつけたとはどうしても考えられないのだ。はじめてキヨミと情交したあとで、彼女は何のためか、わたしは処女だったのよ、と言ったが、証拠を見せてはくれなかった。三十歳になっていたキヨミが処女だとは一度も考えたことがなかったし、今でも同じだ。三十になるまで男を知らなかったなんて、むしろ気持悪い。それはまるで売れ残りの女と結婚したようなものではないか。 「わたしだって恋愛はしたのよ」こちらの疑問に答えるようにある日キヨミは言った。  大人の恋愛だったと誇らしげに言ってくれたが、何故その男と別れたかは説明しなかった。どうも相手の男に妻子がいたような気がしてならない。それが大人の恋愛なのだ。 「あなたみたいに軽薄な若い男と結婚するなんて考えてもいなかったわ」  この科白はいわば口ぐせだった。キヨミの口振りではどう考えても、結婚してやったのよという押しつけがましさが、みえみえだった。キヨミにとって私との結婚が青天のヘキレキだったことは多分本当だろう。では何故、妊娠したと嘘をついてまで結婚を強要したのか。その辺の事情は何も解明してくれない。あなたの才能を信じたの、と泣きたくなるような科白を威厳をもって言い、わたしを嫌いになったらいつでも別れてあげるわ、とこちらの心をくすぐってくれた。  でもまあ舟は沈まなかったし、性的関係はむしろきわめて好調だった。若い男は、チンポコだけ握っていれば大丈夫と信じているのかもしれない。乳を飲ませるように股さえ開いてくれれば万事良好だったのだ。  ところがある日、Tという若い女が天から降って来たのだ。多分、Tも雲の上で足を滑らしたのかもしれない。落ちたところがブリキの舟に乗っていた私だったのだ。  見たこともないルージュの口紅を塗り、異人さんのような赤い靴をはき、レース模様の下着をひらひらさせて、舞い降りたのだ。  ブリキの舟は沈まなかった。ほぼ三ヵ月の間、舟はぐらぐら、ぐらついた。かなきり声をあげたり、野良犬のようにうなったり、壊れたバイオリンのようにぎこぎこ鳴いた。  描きかけのカンバスを塗り直す時が来たのだ。青の時代から桃色の時代へ。理由などない。絵を変えることが必要なのだ。そのためには生活を変えなければならない。そして、更にそうするためには女が変らなければならない。  翌朝目覚めたら、隣りに違う女が寝ていた。と夢みない男は一人もいないはずだ。しかし大抵の男は昨日の背広を着て、入口から出ていく。なにはともあれ、女房の味噌汁を飲まなくては落ち着かない。昨日会った同僚の顔を眺め、同じデスクに肘をつき、とどけられている新聞を読み、引出しからアスピリンを出して二錠口に放り込み、カレンダーで今日という日付を確認し、ラジオの天気予報を聞き、いつもと同じ生活がはじまる。  今私の隣りにTが眠っている。ある意味では信じられないことだ。多分この分だと明日の朝もTはまだ隣りに眠っているだろう。  しかし、あさっての朝は分らない。油屋で待っているキヨミと軽井沢の駅で会わなければならないのだ。キヨミとは何度も言い争ったが、結局、札幌から直江津を廻ってくる上り列車から、降りてくる私をどうしても駅で迎えたいと言う彼女の主張を受け入れてしまったのだ。そのためには二時間前に軽井沢を出て、小諸あたりで下り列車から上り列車に乗り換え再び軽井沢の駅に逆もどりする軽技をやってのけなければならない。  なんという馬鹿馬鹿しさだ。この件についてはまだTに話していない。単にあさっての昼頃東京へもどらなければならない、と言ってあるだけだ。不本意だがTにも嘘をついていることになる。Tとの密会のあと、東京へもどらず、よりによって信濃追分まで来ているキヨミに会う計画になっている、と打ち明けたら、ブリキの舟はたちどころに沈没してしまうだろう。  Tもきっと軽井沢の駅まで送って行くと主張するに違いない。Tに来られたら、目の前で下り列車に乗るわけにはいくまい。上り列車に一応乗り込んで、横川で下り列車に乗り換え、小諸で再び上り列車に乗り換えるという更に複雑な離れ技を演じなくてはならないのだ。  二兎を追うもの一兎をも得ずと、格言にあるが、軽技をなんとかこなしても、二人の女に嘘をつかなくてはならないのが、なんとしても厭だ。密会とは要するに二人の女をだますことではないか。 「何か言った?」  横に眠っているTがいきなり聞いたのには驚いた。 「何も喋っちゃいないよ」  優しく髪をなでて言った。 「そう、それならいいわ」  うっすらと目を開けているが明らかに寝ぼけている。 「夢でも見ていたのだろう」 「そう、夢だったのか。夢の中で変な女に会ったわ」  Tは何かをふるい落すかのように頭を激しく左右に振った。  Tが夢の中で会ったのはキヨミかも知れない。しかしTは実際にキヨミには会っていないので夢の中に現われた女は現実のキヨミとは違うキヨミであろう。 「それで、どうしたの?」  そう聞いたが、Tはまた眠りに落ちてしまった。  翌朝目が覚めたら、このままの状態で部屋が見知らぬ海辺に打ちあげられていたらどんなにいいだろうと思った。最近、妻なり夫なりが普段のまま出掛け二度と家に帰って来ないケースがあるのを新聞で読んだことがある。蒸発というそうだが、どこかで違う人生を送っているのか、誰れかに殺されたのか、待っている人間には勿論分らない。  若し私が蒸発なり、失踪なりしたら、キヨミはどうするだろうか。Tと失踪したら、昔風に言えば駆け落ちになる。しかし日本にいる限り、現在の実名で絵を発表することは出来ないだろう。ペンネームを使えばいいかもしれないが、写真が出たりするとバレてしまう。いや、なにより、自分のかけがえのない仕事をこそこそ、びくびくしながら発表することは堪えられない。まだ美術界ではほとんど知られていないが、だからといって名前を変え、私自身をいつわることは出来ない。犯罪者じゃあるまいし、世に隠れて生きては行けないのだ。第一、Tが賛成しないだろう。彼女だって本名でモラヴィアの翻訳を出版しようとしている。  正々堂々とやるべきだ。しかし何を?  何を本当に自分は望んでいるのか。キヨミと別れてTと一緒になることなのか。あいまいのまま、二人の女の間をうろうろすることなのか。若しTと一緒に暮すのが可能になったとしたら、いったいどんな新しい生活が待っているのか。生活のどこが根本的に変るのか。懸命にTとの新しい生活を頭に描こうとしたが、にやにやしている自分の顔以外何も浮んで来なかった。  自分の心がTの方へ傾いて来ていることは確かだ。しかしキヨミとの夫婦関係を完全に心のなかで清算してしまっているわけではない。やっと手に入れた(例えキヨミが建ててくれたにしろ)アトリエを手離すのもつらい。ひょっとしたらもう一生アトリエなど持てないかもしれない。画家にとって仕事場は女よりも大事なのだ。多分、だからこそキヨミは母親の遺産を投げ出して私のためにアトリエを建てたのだ。アトリエを捨てて他の女に走るだけの勇気はないだろうと安心しているに違いない。あたかも私の運命を握っているかのような自信でいるのだ。  決断しようとすればするほど、様々な悲観材料がブリキの舟におし寄せて来る。何故自分にとってとんでもなく不利な選択をしようとするのか、という声が頭の中で鳴り響く。  悩んでいるのは私の方だけなのか? Tだって悩んでいるはずだ。現にキヨミらしき女が彼女の夢の中に現われたのだから。一番のほほんとしているのは追分の油屋に宿泊しているキヨミかもしれない。大好きな堀辰雄の終《つい》の住処を尋ねて、かつての文学少女の夢をかなえていることだろう。私とTとの密会を夢にも知らず、夢みる瞳で浅間山の噴煙を眺め、田園風景を満喫しているに違いない。神の目を持っていたら、天空を飛翔して、キヨミが何をしているか眺めたいところだ。  だが、Tは何を考え、何を望んでいるのか。私たちの将来について、大袈裟にいえば運命について、この二日間、むしろ二人は意識的に相談することを避けて来た。今日の午後のTは、ぞっとするほどいじわるだったし、同時に涙もろかった。実現するかどうかはともかくとして、結婚したいとどちらかが言うべきなのだ。  嘘でもいいから愛して! という表現がある。そこにはせっぱつまったいじらしさがある。だが、嘘でもいいから結婚したいと言って、とはなかなか言えない。まして奥さんと別れて、とは言えないだろう。バーの女たちは常套句のように口からすらすら出るが、男をうれしがらせる手段で誰れも本気には考えていない。なんといってもTはまだ二十三歳だ。キヨミの老練さから比べれば、肩を怒らせ、みけんにしわをつくっても、所詮はヒヨコなのだ。モラヴィアを翻訳できても、現実世界ではキヨミに勝てるわけがない。  合計してわずか四日ぐらいしか一緒にいなかったTと、すくなくとも三年を過したキヨミとでは当然Tの方が不利に見える。しかし三年いた女房と別れ、Tと一緒になりたいという要求が私の内部に大きな勢力となりつつあるのは、過去の経験が絶対でない証明ではないか。  女は横に眠っていて、男が女の寝顔を眺めながら、ぐちゃぐちゃと物思いにふけっている。男は女が目覚めている時は何も考えないで、女が眠っている時思いをめぐらすものらしい。自分で決定出来ないことを、女の方に転嫁しようとしているのだ。  男は女に会うためにはあらゆる障壁を乗り越えて、彼女の子宮に到達するが、密会の情事がすむと、途方にくれるのだ。頭のいい男たちは入口から、はにかみ笑いを浮べながら、既成の現実へもどっていく。しかし今度、いつ会おうかをちゃっかり約束している。多分、私もブリキの舟に乗って、キヨミの家へもどっていくだろう。何事もなかったように顔をつくろい、冷汗をかきながら、住みなれた女房の子宮のなかで身をひそめる。  こんな愚にもつかないことを頭に描きながら寝顔を眺めているとはTも知らないだろう。もっともTの方だって、どんな夢を見ているのか、こちらには分らない。  夢のなかにキヨミらしい女が現われたとしたら、当然私も現われているはずだ。今私に眺められて眠っているという夢を見る場合だってあり得る。キヨミと私の情交をTが見ている夢だってあり得る。Tと私の情交をキヨミが眺めている夢かもしれない。  眠っている女を眺めていると欲情に襲われるのは、私の責任ではない。男の前で完全に無防備でいる状況をつくりだしている女の方がワイセツなのだ。実は彼女たちは眠ったふりをしているのだ。しかし女はいつも誰れかの謀略で眠り姫にさせられていると信じて疑わない。白い馬に乗った王子様が助けにくるのを百年も待つことが出来るのは、眠っているからだ。目覚めて待っているのは女房ぐらいかもしれない。  いや彼女たちは夢のなかで覚めているのだ。だから、夢の内容を本気にする。前兆は夢の中に現われ、彼女たちを不合理な巫女に仕立てあげる。  眠れる美女の前で勃起するのも巫女のお告げだ。罪を犯すのはいつも男の方だが、眠り姫がお目覚めの時は間髪を入れず、あなたと結婚したいのです、と宣誓しなければならない。姫は答える。今何時かしら? わたし随分と眠ったようだけど。あら百年も眠っていたの? ああ、百年もあなたという人がくるのを待っていたのね。そう姫が喋っている間、王子の精子が膣腔を無我夢中に駆け上っているのだ。  しかし姫は宣言する。わたし、妊娠したけど子供は生みません。  Tが妊娠していると言ったのは昨日だ。そして神戸へ帰ってから堕すと断言した。あなたに迷惑かけたくないからだと言う。街から別荘へ帰った後、まだ一度も情交していない。何故だか良く分らないが、情交することが奇妙に気がひけたのだ。Tの方からも積極的に要求して来なかったし、私の方も欲情を押え込むところがあった。こちらだってデリケートな神経は持っているのだ。堕すと決っている胎児をはらんでいる恋人の子宮へ向って射精する気にはなれない。私の立場からどうしても子供を生めと命令できないばかりか、実はTが堕すと言ってくれた温情に内心ではほっとしているのだ。だが手離しで喜こんでいるわけではない。とりあえず一つの難問は解決しそうだが、それで総て良しではない。  私の手がTの眠っている腹の上へ延びゆっくりとなではじめた。Tの表情がほほえんでいるように見える。この手の下の彼女の腹のなかに私たちの子供が眠っている。そう考えると胸がつまった。なにはともあれ女を妊娠させる能力だけは持っていたのだ。生ませる能力があるかどうかは分らない。勝者と敗者が一緒にいる気持だった。  手が自然に彼女の腹の下へ滑っていく。Tの入江はびしょびしょに濡れていた。ブリキの舟が吸い込まれるように桃色の入江に入った。 [#改ページ]   第十三章 霧の中  一つの考えが頭に浮んだ。  Tが眠っている間に別荘を出ることだ。そうしなければ彼女は軽井沢駅まで見送りについてくるだろう。  キヨミは上野駅での別れ際に五日後の午後三時二十分着の上り列車を軽井沢駅で待っていると一方的に宣言した。すなわちあさってだが、Tと軽井沢駅で別れ、上り列車に乗り、横川あたりで下り列車に乗りかえて、更に小諸で上り列車に乗りかえ、再び軽井沢駅でキヨミの出迎えを受けるという気狂いじみたスケジュールを取らなければならなくなる。Tと別れた同じ構内でキヨミと会うわけだ。いかになんでも生理的に堪えられるものではない。このままTといれば不可避的にその手順をふまなければならなくなるだろう。最悪の場合、軽井沢駅でTとキヨミがはち合わせすることになるかもしれない。それら総てを回避するためには今日か明日中に別荘を抜け出し、一足先に追分まで行き、いきなりキヨミの宿泊している油屋を尋ねる手段しか残っていない。  そうすれば、何も煩雑な手順をふんで、何度も列車を乗り換える必要はない。そんな単純なことに何故早く気が付かなかったのか。  そのためにはTが眠っている間に別荘を出るより方法はない。何もかもTに告白するよりは、こっちの方がめんどくさくないに決っている。何も言わずに別荘を出たら、最悪の場合、Tに再び会う機会はなくなるだろう。つまり一方的に関係を断つというか、文字通り彼女から出ていくのだ。大袈裟に言えば、永遠の別れになる。  こちらがTを捨て、Tは私に捨てられたことになる。そんな事態をTが望むはずもないし、許すはずもない。  Tの立場から考えると、この別れ方は最も卑劣な別れに属する。私にとっても決して後味のいい別れではない。ましてや、私自身、Tと別れたいとは思っていないのだ。キヨミの方をすっぽかして、Tとどこかで一緒に暮したいという願の方が大きいのだ。  私が別荘を出るよりも、妻のキヨミの方を裏切るべきなのだ。  若し私が信濃追分に行かなかったら、どうなるか。いや、今回はすっぽかしたにしろ、小金井の住居にもどるとしたらどうなるか。キヨミが泣きわめこうが、怒り狂おうが、元のサヤにおさまるに決っている。それが夫婦の関係ではないか。  Tの話ではあと二日、ここに滞在する予定になっている。まさにキヨミと約束した日だ。場合によってはTは私に一緒に東京まで行こうということになるかもしれない。成り行きとしては充分にあり得る。彼女は神戸へもどり、私に宣言したように、腹の中の子供を堕すに違いない。そのTの行為は私との離別を意味しているのだろうか。私の子供を堕すことによって、私との関係のいっさいを清算しようとしているのか。それは分らない。  二人の先行きが分らない間に、子供を生むことは確かに二人にとって決して望ましい選択ではない。だが実際に子供を堕してしまった後で、なお私に対する愛に変化は起きないという保証は何もない。  Tは愛しているから子供を生まないと言ったが、次に愛しているから別れようと言うことだって出来る。  若しキヨミという妻が存在していなければ、Tは私の子供を生み、結婚するだろうか。 「どうしてキヨミさんと結婚したの?」とTが聞いた時、私はあえてキヨミを愛していたからさ、と答えた。 「では今でも奥さんを愛しているの?」とTは聞いて来た。  いや、君が現われたので何かが狂いはじめている、と答えたが、ここでもあえて、キヨミを愛していない、とは断言しなかった。それは私にも自尊心があったからだ。新しい恋人の前で、妻の悪口を言うのを好まなかったし、愛していない女と一緒にいると思われるのが厭だったからだ。 「若しわたしが現われなかったら、あなたは何事もなく、奥さんを愛しているんだ」とTは言った。  多分そうかもしれないし、そうでないかもしれない。 「じゃあわたしはあなたにとって、現われなくてもいい女だったのね」とTは言った。 「そんな問題じゃあない。すでに君はここにいるし、ぼくは君を愛している。妻とどちらを愛しているか、と言われたら、君の方だと断言してもいい。しかし、だから困るんだよ。今すぐキヨミと別れるのは難しいからだ」 「何故なの?」 「つまり、いろいろな手続きがいるからさ。キヨミは別れない、というに決っている」 「どうしてそう思うの?」 「キヨミの性格だろう」 「愛しているのね?」 「どっちが?」 「キヨミさんもあなたもよ」 「いや、そんなことはない。すくなくとも、ぼくは……」  Tとの間でこんな会話を限りなく続けていても、舟はどこに向っても動いていないのだ。  だが私は軽井沢までやって来たのだ。そして……どう行動するか今思案中なのだ。すくなくともキヨミとの約束を破ろうと考えはじめているのだ。  ほんのわずかうとうとして目覚めた時、Tはまだ隣りに眠っていた。一瞬キヨミかと思ったくらいだ。  霧のなかにいるような気がする。窓からはカラ松林の影が焦点のぼけた遠景にしか見えない。霧で閉された光りが遠い記憶のように、ゆらゆら揺れている。  隣りに眠っているTを一瞬キヨミではないか、と錯覚したことにひどく厭な気持になっていた。深層のなかで、自分はまだキヨミに属しているのか、と思ったからだ。どこかで、びくびくしている自分がいまわしかった。キヨミの何をおそれているのか。さっき眠りかかっているTと情交していた時、不意にキヨミがそばに立っている気がして、途中で萎縮してしまったのだ。Tは半分、眠っていたが、その異変に気が付いたはずだ。だが、何も言わなかった。くるりと背中を見せて再び眠ってしまっただけだ。  得も言われぬ荒涼感に襲われた。窓の外も室内も、ベッドの上も霧で覆われ、どこか何も無い場所に漂っている感覚だった。七月の末なのに寒さに震えた。裸のままで眠っていたからだ。隣りに眠っているTにしがみつこうと思ったが、何故か体が硬直した。  脱ぎ捨てた衣服が床に散らばっている。ベッドから降りて衣服を着た。Tは額にしわを寄せて眠っている。  この別荘に来てから、Tが仕事机についていたのはその夜だけだ。勿論こちらだって情交以外は何もしていない。お互に仕事の話をしていないのが妙に不自然だった。  Tは私がどんな絵を描いているのか、無関心ではいられないはずなのに、私の絵については何一つ、質問してこなかった。従って、私に関するTの関心のなかに、私の絵が入っていないことは確かだ。こちらの才能を無視しているとは思えないが、こちらの絵を見たことがないのだから、どうやって才能を知ることが出来るのだろうか。もっとも私の方も彼女が翻訳したモラヴィアをまだ一度も見せてもらっていない。キヨミはあなたの才能と結婚するのよ、と震えたくなるほどの言葉を浴せてくれたが、Tは文学を志ざしているにもかかわらず、芸術論議をしようとはしなかった。  この知人の別荘も一風変っているというか、壁には一枚の絵も掛っていない。台所に浅間山の写真を使った古びたカレンダーが掛っていただけだ。Tは持ち主の知人から別荘を一時的に借りているだけだから、この無味乾燥な壁についての責任はない。 「何の絵も飾っていない家って、気持いいね」と確かに私も言った。  どんな既成事実からも自由でありたい、とTが答えたような気もする。一人の男と一人の女が何もない白い壁のなかで会ったのよ。素適だと思わない? 過去もなく未来もなく、現在しかない。なんて、詩人のようにTは言ったが、そんな抽象的な表現で総てが充されるなら、誰れも悩まないさ。  恋愛とは白いカンバスなのか。白いカンバスの上に二人が絵を描いていく。だが、どんな絵でもいつかは完成させるか、失敗するかにせよ、筆を置かなくてはならない。素早く描くか、長い時間をかけて描くかによって、筆を置く時間も違ってくる。筆を置いた時が恋の終りか、あるいは結婚への出発か、誰れにも分らない。ブリキの舟は白いカンバスならぬ白い霧の中を漂っている。  ここには新聞も来なければ、ラジオの音もない。それが新鮮な気もするが、世間から隔離された不安感を増幅する。  私は音をたてないように寝室を出て、隣室のTの書斎に侵入した。  ここも壁には何も掛っていない。仕事机と椅子しか置いていなく、本棚さえないのだ。Tは自分の本棚を他人に見られるのは嫌だと言ったことがある。 「そうだな、手紙の書き方とか、人とうまく喋る方法とか、結婚入門なんていう本があったら困るものな」 「あはは、あなたっておかしな人なのね」 「おやじの本箱には麻雀の勝ち方、とか演説の仕方なんていう本しかなかった」 「ベストセラーの書き方、なんていう本があるけど、その本自身が売れないのって、おかしいわね」 「結婚入門の著者が未婚だったりしてね。ぼくの最初におやじにねだって買ってもらった本が、小説入門だったんだ」 「へえー。小説家になりたかったの?」 「絵は売れないと信じているんだ。小説なら印税が入る」  そう言った時でも、Tはどんな絵描いているの? とは質問して来なかった。むしろ、あなたには文才はあるわよ。あなたの手紙たまらなかったわ、と言っただけだ。  勿論それはそれでうれしかった。  この部屋も霧が充満していた。Tの仕事机が霧で覆われた窓の前にまるでマグリットのダマシ絵のように浮いている。  机の上には原稿用紙と原書らしきものとイタリア語の辞書が乗っている。   ローマの女 [#地付き]アルベルト・モラヴィア   [#地付き]訳 T            原稿用紙にはそれだけしか記入されていない。  つい笑い出してしまった。あんなに深刻な顔で机に向っていたのに、たったのこれだけしか書いていなかったのだ。要するに、まだなにもやっていないのだ。Tはすでに何日か前から来ていたはずだ。一人前の翻訳者の顔が、急に少女っぽい顔に見えて来た。  再び笑いがこみあげて来た。五月に会った時はあたかも翻訳は進行中で完成真近かな口振りだったではないか。軽井沢ではダンテの神曲の新訳に挑戦したい、と勇ましく言っていたような気がする。  それがどうだ。まだ何も始めていないのだ。こちらがブリキの舟なら、あちらは空気の入っていない赤い風船みたいなものだ。体だけはグラマーだが、中味は小鳥ではないか。妊娠したと言ったが、これも嘘で大人に見せようとした狂言かもしれない。もっとも、こちらだってキヨミから見ればくちばしの黄色い小鳥だ。  しなびた赤い風船に酸素を入れたら、この霧の中をふわふわと漂って、どこかへ消えてしまうような気がする。こちらは霧の中を漂うブリキの舟だ。  何か気が軽くなったような気分になった。  翻訳の印税が二万円入るとTは言ったが、それだっていつのことか分らない。  今度は苦笑がもれた。二万円あれば、なんとかTと新生活をする基金になるかもしれないと、頭のすみの方で考えていた節もあるが、それも霧の中にまぎれ込んでしまうだろう。  私はゆっくりと書斎を出た。  再びTの眠っている寝室に入ろうかどうしようかと迷った。人は何故、閉った扉の前にくると、迷うのか。  人生は何万という扉で出来上っているのかもしれない。一つ開けても次の扉が待っている。その扉の向うに何が待ち受けているか、予感はあっても、開けるまでは分らない。誰れかが、ものすごい早さで走って来て、次々に扉を開けてくれればいいのだ。部屋に入る前に、部屋の内部が見えれば、どんなにいいだろう。  Tが寝室のベッドで眠っていることは間違いない。霧の中のベッドで眠り、夢のなかでモラヴィアを翻訳しているだろう。  ローマの女。それは多分美しい娼婦の物語かもしれない。  若し今この扉を開けないで、別荘を出て行ったら、次にはいかなる扉が待っているのか。私は夢遊病者のように階段を降りた。霧が階下から流れ吹き上ってくる。  リビングルームの窓が開いていて、霧がどんどん侵入してくる。その向うに青灰色の人影が立っているような気がした。心臓が早鐘のように鳴った。  霧の向うの人影はキヨミだったのだ。敵意に満ちた目が私の脳髄を貫通した。  霧の中の人影はまぎれもなく妻のキヨミだった。全身が硬直した。  亡霊かもしれない、と最初は思った。亡霊だったら、もっと恐怖したかもしれない。あり得ないことが、あり得る方が恐しい。  何故キヨミがここにいるのか?  どうやって、この密会場所を探し当てたのか?  次に何が起ろうとしているのか。  硬直した体のなかをこれらの疑問が素早く駆けめぐった。  軽井沢と追分との距離なら歩いてだって往復出来る。キヨミがたまたま軽井沢に来ていて、街のなかで私とTとを発見し、後をつけていたのかもしれない。それなら大いにあり得るし、現にキヨミはそこにいるのだ。私自身軽井沢の街のなかでキヨミに遭遇するかもしれないという不安は常に抱いていた。どこにいても妻の幻影におびえていたのだ。軽井沢と信濃追分との距離を考えれば、密会を妻に発見されるという可能性が皆無でなかったことは、はじめから予想されていたとも言える。あるいは心のどこかで、こう言う事態が生ずることを望んでいたかもしれないのだ。  幸福の絶頂に死を望むように、Tとの密会が妻の出現によって一挙に破滅するのをひそかに予想していたのではないか、と言われれば絶対にそれを否定出来ないだろう。  もうかなり前から私は部屋中に満ちた霧の中にいた。今見ている総ての現象が悪夢ではないか、と何度も考えた。  霧の流れが、山頂に流れる霧のようにはっきりと見え、その中にキヨミが立っている。忍者映画を見ているような感じだ。  ベランダへ通ずる窓は大きく開いている。部屋に入るつもりなら、そこから入ってくるだろう。しかしキヨミは動こうとはしない。じっと敵意に満ちた目で私を眺めているだけだ。  二階の寝室にはTが裸のままで眠っている。いつそのままの格好で階下へ降りてくるか分らない。  ドライ・アイスの霧で覆われた舞台で奥のカーテンから裸の女が出てくるシーンを予想しながら妻と向き合っている状態に似ている。観客の方が先に予想していて、舞台上の役者は何も知らない、というシーンはあるが、ここには観客はいない。不意に自分が観客のような気になる。裸のままのTが降りて来て、キヨミと向き合う。私は都合よくこの場から消えて、舞台を眺めている。それも一つの願望かもしれない。  どちらから先に声をかけるか?  キヨミ! どうしてここが分ったんだ? あるいは単にキヨミ! とだけ名を呼ぶか、どちらかだ。  だがキヨミの方からも何も発しない。唇がこきざみに震えているだけだ。  笑うべきだろうか? とも考える。  勿論キヨミの方も頬笑まない。  馬鹿野郎! 帰れ! とどなるべきか。  十分が経過する。いや実際には二分位かもしれない。  憎しみのキヨミのどんぐり目から涙が流れる。  キヨミがわめいたり、泣き叫んだりしてくれた方が、ずっと有難かったかもしれない。一挙に怒りや憎しみや嫉妬が噴出し、つかみ合いのケンカになる方が気が楽だ。  だがキヨミは亡霊のように無言のまま涙を流したのだ。  何故かこちらも声が出なかった。二階にTが眠っているのが意識のなかにあり、何かをさけようとしていたからかもしれない。一方で三者の対決を望み、他の一方でなんとか隠密に終らせようとする願望が働いているに違いない。  どちらかが何かを仕掛けるのをじっと待っているのだ。  キヨミの方が後ずさりをはじめている。憎しみの眼差しが、何かを訴えるような眼差しに変っている。  キヨミは霧の中をじりじりとこちらを見ながら後退していく。  細い絹の糸にひっぱられているかのように、私の方もいつの間にか部屋からベランダへ出ていたのだ。  キヨミが霧の中へ隠れてしまいそうになると、私の方が歩調を早め、距離を縮める。すると、またキヨミの方が後退する。  ベランダを降りたことは覚えているが、多分まだ庭の中にいるのだろうか。私自身も完全に霧の中にまぎれ込んでしまったのだ。  不意にキヨミを見失ってしまった。  やはり幻覚だったのだろうか。あるいは夢の中にいるのだろうか。  頭の中まで霧が入り込み、真白になっている感じだ。まさか庭の中で遭難するはずはないだろう。  影のようなものが霧の中を横切る。  思わず妻の名を呼んだのだ。  するとどうだろう目の前にキヨミが現われたのだ。やはり自分は夢を見ているのだと思った。 「とうとうわたしの名を呼んだわね」  とキヨミが低い声で言った。  はっとしたが、まじまじとキヨミの顔と全身を見詰めた。わずか三日間会わなかっただけだが、ひどくフケて見えた。どう考えても美形からは離れている。この女が自分の妻なのが理解出来ないくらいだった。  キヨミの目がぎらぎら光っている。 「どうしてここにいるのが分ったんだ」  そう聞かずにはおれなかった。 「あなたの女から聞いたのよ」  信じられない。私はほとんど叫ぶように言った。 「そんな馬鹿な! いつのことなんだ?」 「こちらの手のうちは話せないわ。あなたはあの女に遊ばれたのよ」  キヨミは鼻腔をふくらませながら言った。  なんとかして筋道を見つけ出そうとしたが迷路パズルから脱け出せなかった。嘘に決っている。キヨミの嘘に決っている。そう信じても胸の高鳴りはやまなかった。  若しかしたら、キヨミの話は本当かもしれないという疑惑を拭いきれなかったからだ。ほんの十数米のところにTはまだいるはずである。今から別荘へもどり、二階に駆けあがってTに確かめることだって出来る。そうするのがキヨミの嘘を確認する最上の手段だと分っていながら、体の方が動かなかった。キヨミはTのことをあの女と言った。これだって許し難い。  何かひどい言葉をキヨミに浴びせかけたかったが、何一つ浮んで来なかった。そもそも密会していたのはこちらの方だ。いかなる理由でも発見者であり、被害者でもあるキヨミに対して暴言をはくいわれはないわけだ。 「どうするつもりなの?」  わめきも、叫びもしないでキヨミが口元に微笑を浮べながら言った。  どうするつもりなのか。こっちの方だって聞きたいところだ。  こんな時普通の男ならどう答えるのだろうか。いやどんな行動に出るのだろうか。情交の現場に踏み込まれたわけではない。今のところ、キヨミがTに会ったという気配もない。Tから聞いたと言ったが、まさか会って聞いたわけではないだろう。いやいや、そんな風に考えるのさえ間違っている。聞いているはずなんかないんだから。 「御自分がどうすればいいのかも分らないのね?」  いつもの教育ママ的な言葉が返って来た。キヨミの方がはるかに冷静になっている。それは認めなければならないだろう。図星なんだから。  沈黙している方が損だとは分っていても、何一つ喋るべき言葉が出て来ないのだ。イタリア人の俳優のように雄弁によって自己の不利な条件を正当化させる言葉が出て来ない。馬鹿の一つ覚えのように知らないと言い張ることだって出来るのだ。  唯穴の中の兎の気持で相手の出方だけをうかがっているしかない。真白な頭の中に、二階で眠っているTの姿が現われたり消えたりしているだけだ。別荘の方から私の名を呼んでいるような気さえする。しかし、今は霧の中だ。頭の中も霧だ。心臓の鼓動だけがベートーベンの「運命」を鳴らしている。打楽器の連打が続く。気が狂ったように笑いたくなる。ゴッホのように歯ぎしりして、けもののようにうなり声をあげたい。いや、チャップリンの道化師になりすました方がいいのだ。  あるいは急に走り出して逃げる。どこへ? なんて聞かないでくれ。もともとブリキの舟には羅針盤なんかついていないのだから。いい女の方へ進むだけだ。結末はハデな方がいい。いや結末なんて永遠にやって来ないだろう。 「教えてくれるかい?」  私は弱々しく言った。これも一つの作戦である。 「情けない人ね。教えてあげようか」  キヨミのドングリ目がいっそう大きくなった。鼻腔が広がっているのは興奮している証拠だ。  予想もしなかった光景が出現したのだ。  キヨミは素早くスカートをはずし、下着まで脱いで、下半身を露出させたのだ。不様な肉体が妙に生々しく、寒々とした曲線が欲情を刺戟した。人は必らずしも美しいものだけに魅かれるわけではない。時には惨めな状況や、痛々しい肉体に挑発される。見なれている妻の肢体が、霧の中で新潟の小さな町の売春宿ではじめて情交した娼婦に見えたのだ。  男と女は予想も出来ない様々な場所で情交する。街の公衆電話ボックスの中とか、駅のみすぼらしいトイレの中とか、道端に放置された壊れた車の中とか、台所の料理台の上とか、馬小屋のわらの中とか、映画館の暗闇のなかとか、大学の研究室とか、宮城前広場の叢とか、洗濯物の干してあるベランダとか、仏壇の前のコタツのなかとか、男と女は二つの体が重なる場所なら、どこででも性交して来たのだ。たとえ妻といえども予想外の場所でそのチャンスがあれば発情する。  野外の霧の中で、しかも恋人のTが十数米先の別荘の二階に眠っている、というきわどい状況が私を発情させたのだ。発情には愛はいらない。  私とキヨミは立ったまま情交した。自分の陰茎が熱くぬるぬるした坑道をしっかりと密着して往復している感覚が絶頂へ達し、思わずうめきながら射精した。キヨミは、へなへなと、濡れた芝生の上に座り込んでしまった。  かつてないほど妻がオルガスムスを感じたことは確かだ。こちらにしても同じかもしれない。二人のセックス・ライフがこれほどまでうまくいっているのに、何故別れる必要があるのか。  キヨミが常に積極的に彼女の股を開きさえすれば、この夫は決して別れることはないだろうと考えたとしても不思議ではない。現に私たちは至上の悦楽を共有し、満足し合ったのだ。霧の中で。 「素晴しかったわ」  キヨミは不様な下半身を晒したままの姿勢で言った。  私もうなずいた。  そう、あなたなんて、いつもオチンチンが立っていて、あるいはオチンチンを立たせてくれるオンナがいればいいのよ。田舎の娼婦相手で、触られただけで射精し、二度目の時は十秒で射精し、恋人には股を触ることも出来ずいつもふられていて、下宿の便所でオナニーばかりしていて、満員電車のなかでは女のお尻に押されただけで遺精し、日活名画座では痴漢の心でどきどきし、一人の女もものに出来ず、口先だけでサルトルやカミュを喋り、裸のモデルを見ると欲情するので、何枚もパンツを洗い、エロティシズムは観念だと偉らそうなことをつぶやき、何人もの女にキッス一つ出来ないで逃げられ、コンニャクを股にはさんで射精し、年増女の香水の匂いで下痢をし、見たこともない女陰を記号で描き、子宮こそ宇宙だとのたまい、ヘンリー・ミラーにかぶれているくせに公衆電話ボックスで女をひざまずかせる勇気もなく、ひたいに青筋を浮べ、頭の中は行き場のない精液で充満し、ピカソが共産主義者になったので、マルクスの資本論も読んだことがないくせに、いや解説書は読んだけど三頁で投げ出し、そのくせ共産党に投票し、ロシア語の歌をカタカナで覚え「ともしび」だけは一番だけロシア語で歌い、フランス語で「枯葉」を覚えようとしたけど無理で、結局水原弘の「黒い花びら」しか歌えず、今日はピカソ、明日はカンディンスキーと毎日スタイルが変り、結局はシャガール風の売り絵を描き、永久にパリには行けないと悲愴がり、毎日焼うどんばかり食べていた時、わたしの花びらに絵具だらけの指をつっこみ、ついでにオチンチンを入れさせてもらい、はじめてカタギの女と情交出来たのじゃなかったかしら。その恩も忘れ、若い女と調子づいて、いっぱしの画家の顔をして、色男になったつもりでうれしがり、不条理だとか、自由なる性とか、わたしがならしてあげたオチンチンを若い女におっ立てて、愛だとか情事だとか、その本当の意味も分らないで、よもやわたしから別れようなどとは考えていないでしょうね。  やせているくせにつき出ている下腹部から顔をのぞかせているキヨミの女陰が、そんな風にぺちゃくちゃお喋りしたのだ。  勿論こちらにも反撃の理屈は山ほどある。しかし黙っていた。  霧が少しずつ消えていくのが分かった。  若し二人がまだ別荘の庭にいるとしたら、霧が晴れた時、二階の窓から一望のもとにTに発見されるだろう。  現にまるで幕があがるように、霧の緞帳が急速に消えはじめていたのだ。しかし、もっと驚いたことは、二人は十数米どころか、ベランダからわずか数米位のところにいたのである。  霧が晴れ、視界が開けて来たというのに、キヨミは下腹部をさらしたままスカートをはこうとさえしないのだ。  今、Tが窓からのぞいたとしたら、いっさいの恥が彼女の目を直撃するだろう。いかに私が破廉恥でも、この光景は絶対にTに見られたくはない。  キヨミは別荘にTがいる気配を感知しているに違いない。おそらくキヨミは、一世一代の芝居を演じようとしているに違いないのだ。  いかにその姿がコッケイで恥知らずで、惨めだとしてもキヨミにとっては価値ある舞台なのだ。  今ここで唯一出来ることはキヨミの首をしめることだろう。そして雑木林の中へひきずっていく。そうしたら、総ての関係から解き放される代りに、総てが終ってしまう。それは困る。おふくろの泣き悲しむ顔は見たくない。画家としての才能を死の灰の中に埋めたくもない。やはり私にも多少の理性は残っているらしい。  もう、Tを失ったも同然だと思った。霧の中とはいえ、そして相手が妻だったとはいえ、Tとの至近距離で、世にも破廉恥な裏切り行為をしてしまったのだ。例えTが見逃してくれるにしても、私自身が堪えられない。  腹をくくるより仕方ないだろう。  逃げも隠れもせず、精液で濡れたままの醜い家鴨の股を拡げたキヨミの横に座って、私は二階の窓を見上げることにした。  そうだ私自身も小犬のチンポコを丸出しにしたままにだ。  誰れがこんな終演を予想しただろうか。くだらない小説家の考えたファルスだ。 [#改ページ]   第十四章 ネコの部屋  キヨミと軽井沢から小金井のアトリエにもどってから一ヵ月が過ぎた。  Tからはなんの音沙汰もなかった。  あのような別れ方、というよりほとんど逃亡したようなやり方でTの方から何か言ってくるのを待っているなんて虫のいい話だし、こちらから内密に手紙を出すにしても、何一つ弁解する余地がなかった。  あの瞬間からTとは永遠にさよならしたようなものだ。  幸せだったことは、いや今だに心残りと不安とをかき立てる理由は、庭の中央にキヨミと下半身を晒した不様な格好で座って別荘の方を数分間見上げていたにもかかわらず、寝室にいるはずのTが一度もこちらから見える場所、たとえば二階の窓とか、リビングルームの大きなガラス戸に姿を現わさなかったことだ。別荘の庭で何が起っているか、熟睡していて気がつかなかったと考えられないこともないが、しかしどこかこちらから見えない場所で、私とキヨミとの破廉恥な情交を観察していなかったとは断言できない。  何もかもがはっきりしていながら、何もかもがあいまいなまま、次の幕に移ってしまった感じだ。Tに対して苛酷なまでの情景が、Tにはまったく気づかれずに、不意に彼女の視野からこちらが消えてしまったとしたら、考えようによっては、もっと卑怯な別れ方かもしれない。  ささいなことを言えば、ボストンバッグは別荘の内部に置いたままだった。気が付いてはいたが、あの時はTに発見される方を望んでいたキヨミを無理矢理に引っぱって、文字通り逃走したのだ。  キヨミが望んだように、妻が迎えに来た事実をTにはっきり認識させた方が良かったかもしれない。どのような地獄が出現しようが、すくなくともある状況は説明出来たはずだ。  若しTが何も知らなかったとしたら、私の意志で逃走したと思われても仕方あるまい。  今更許しの手紙を出すわけにもいかない。ひどい結末だ。ブリキの舟はほとんどTの方へ沈みかけていたのだ。  Tがどのように怒り、どのように軽蔑し、そしてどのように悲しんだか、私には分らない。予告したように神戸に帰り私の子供を堕したろう。そして彼女の予想と決断が正しかったことが、せめてもの慰めになったことだろう。  一ヵ月も経ったのについにキヨミに彼女がどうやって私とTとの密会場所を知ったのか、聞くことは出来なかった。  キヨミはこともあろうに、Tから聞かされたと言ったが、そんなはずは絶対にない。こちらを失望させようとした茶番だ。Tとの情事をT自身がキヨミに知らせる理由など万が一にだってないに決っている。  しかし……と私はこの一ヵ月の間、反問し続けていた。万が一のその又万が一、若しキヨミの言ったことが正しかったら……。それはまったくあり得ないことだが若しそうだったら……。しかしなんのためにTがわざわざキヨミに密告する理由があるのか。万が一そうだとしたら考えられる理由は一つしかない。私とTとの関係を故意に破局へもっていくためだ。しかし、何故そんな愚劣で老獪で卑怯で手間のかかる手段を選んだのか。簡単に別れよう、と言ってくれればいいのだ。  もともとそんなに長い付合いではないし、絶対に別れられないしがらみとか義理とかがあるわけではない。せいぜい線香花火ぐらいにしか燃えなかったのだ。めらめらと納屋が焼けたぐらいだ。だが、若し万が一にでもTの方から密告したとしたら、殺してやりたい。  そして若しそれがはじめから思っているようにキヨミの狂言だとしたら、やはり殺すに価する破廉恥な言動だ。と言いながら一ヵ月間、キヨミと何事もなかったように暮しているのだ。自分が何を考えているかキヨミが知ったら失神するだろう。  しかしこちらからキヨミに真相をただそうとしつっこく攻めないのはどちらか一人を死刑執行する破目に追い込まれるのを猶予したからである。いや、それよりも、やはりTの側から考えたら、私のとった行動は許し難い。その罪の方がはるかに心を重くした。殺すとしたら自分自身ではないか。  日ましにT側からの沈黙が苦痛になって来た。神戸まで飛んでいって、彼女の太股に頭をうずめてあやまりたいという要求がつのって来たのだ。「熱いトタン屋根の猫」という映画があったが、まさにその心境だった。  じりじりと八月の太陽がアトリエのトタン屋根を焼いている。窓を開け放っていても、とめどもなく汗が流れる。キヨミはさかりのついた猫のように、どこででも股を拡げてひっくり返る。汗と共に悔恨と欲望がキヨミの膣に流れ込む。貧しき者たちは日夜セックスをして過したり。どこかにこんなフレーズがあったような気がする。愛がなくても情交は出来る。純粋な物理運動の方が快感は大きいかもしれない。脳がリラックスするからだろうか。愛だとか征服欲だとか考えないで、純粋に肉体同志の摩擦の方が快感を明確に自覚させるのだ。要するになじみの気楽さとでも言おうか。唯問題は両方にその気があるかないかだ。今のところキヨミは恥も外聞も軽井沢に捨てて来たようだ。股さえ開いてあげれば突入してくるセックスマシンが立っているというわけだ。  アトリエにもどってから一週間目に、ネコから手紙が来た。  札幌でのグループ展について、ぐたぐたと要領を得ない筆致で報告してあった。この手紙は非常に運よく、キヨミが駅前の商店街へ買物に出ている留守の間に配達された。命びろいしたようなものだ。  キヨミがどの程度までこちらの行動を認知しているか、分らない。まさかネコと小山の駅で途中下車した行動までは知らないだろう。どう考えても時間的につじつまが合わないはずなのだが、あくまで私は札幌へ行ったことになっている。キヨミが根掘り葉掘り、札幌でのグループ展について聞いてこないのが意外といえば意外だ。行ったことのない場所について、ともかく相手を納得させるだけの説明をすることは並大抵ではない。 「札幌はどうだったの?」 「素晴しかったよ」 「どんな風に」 「とても涼しかった。さすがに北海道だな。それに空が広くてね。トウモロコシがうまかった」 「グループ展はどうだったの? K氏が買うことになっていたんでしょう?」 「それがちょっとあいまいでね。買うことは間違いないけど、金額の点で折り合いがつかないんだよ」 「どうしてなの?」 「Kさんは五十号の新作に対して四千円払うと約束したけど、ぼくのは三十号の旧作だろう。二千円しか払わないっていうんだ」 「一理はあるわね」 「そうかな。絵の値段は大きさには関係ないよ。旧作といっても三ヵ月前の油絵だし、内容的には他の連中の大作よりは良かったんだ」 「あなたが自信があるのは分るわ。でもそれは主観的な考えよ。でも結局は払ってくれるんでしょう? 二千円でも助かるわ」 「材料費は千円掛っているんだぜ」  この程度のやり取りで北海道を通過したのは有難かった。おそらくキヨミの頭の中は表面はともかくとして、軽井沢での事件で、ほとんど他のことについては関心がなくなってしまったのだろう。どうせ絵の仲間の話など、聞いても何んの役にも立たないと思っているに違いない。キヨミの視野のなかから、上野駅であんなに対立したのにネコの存在が消えてしまっていたのは不幸中の幸だった。用心深いキヨミからこちらのスケジュールの不合理さまで消えてしまったのだ。  ネコの手紙ではこちらの推察とは別に、K氏はひどく満足した様子で約束通り四千円を払ってくれたそうだった。むしろ不快感を表わしたのはグループの連中で、ネコが懸命に説得したと自慢気に書いている。しかし展覧会の方は地元の新聞からも無視され、地元の何人かの画家たちと交流出来たのが唯一の収穫であったが、問題はグループが解体する危機をはらんでいるという状況だった。つまり私を除名しようとする意見が圧倒的に強く、これもネコが体を張って、とにかく保留条項にしてあると言う。文面では私に関してネコは孤軍奮闘し、彼女自身でも何故あなたのためにこれほどまで弁護しなければならないのか理解に苦しむが、多分それはあなたのことを考えると天使の気持になるからかもしれないと名文句を並べ、お金をあずかっているから一日も早くあなたに渡したいので、連絡して欲しい、と結んであった。  ネコのアパートにも電話はない。  五日後に会いたいと手紙を出した。  キヨミにはグループの会合があると言って出掛けた。駅までの途中何度も後ろを振り返った。キヨミがつけて来ていないかを確かめるためである。他の道路を通っている可能性もあるので前方に対する注意もおこたらなかった。なにしろ軽井沢ではどこかから、つけられていたのだ。多分偶然こちらの姿を見たに違いない。Tが密告するはずはない。そう信じたかった。  ネコとの待ち合せを新宿の二幸前にしたのは馬鹿の一つ覚えみたいなところがある。勿論四ヵ月前、Tと待ち合せた同じ場所であることは知っている。神の配慮でネコがTに変っていたら、と考えて苦笑した。  約束の三時の五分前に着いた。日曜でもないのにひどい人出だ。みんな申し合わせたように男は白いシャツ、女は白いブラウスを着ている。その中に黒いブラウスを着ている女が目立った。ネコだった。黒ネコだ。 「時間間違えて三十分も待ったのよ。あなたのせいではないから安心して。随分久し振りな気がする。すぐ返事くれてうれしいわ」 「随分、ぼくのために奮闘してくれたようだね。感謝しているよ」  そう言われて黒ネコは幾分恥しそうに笑った。 「じゃあ、ビールでもおごってくれる?」  そういうところはいかにもネコらしかった。少し会わない間に、女らしくなったように思えた。幾分ふとったのかもしれない。唇が妙に肉感的だった。難をいえばへたな化粧をしていることだ。暑さで半分落ちかけていた。Tも化粧はうまいとはいえなかったな。口紅を赤く塗りさえすればいいと思っているのだ。キヨミは化粧さえのらない顔だ。  私たちは近くの百貨店の屋上のビアーガーデンへ行った。舞台がありバンドがハワイアンを演奏し、数人の踊子が腰みのをつけてフラダンスを踊っている。 「マンガみたいね」  と言ったのはネコだ。  空いているテーブルを見付けてすわった。驚いたことにフラダンスを踊っている踊子と同じ格好をした女が注文を取りに来た。さすがのネコもこの時は目を丸くして、笑いをこらえるためにうつむいた。 「生ビールにしますか?」  踊子のウエイトレスが聞いた。 「えっ? 生ビールって何?」思わず聞きかえした。 「樽から出したビールです」  ウエイトレスがおかしさを噛み殺して答えた。 「こりゃ、本当にマンガだわ」  ウエイトレスが去ってからネコがおどけた表情で言った。 「知らない間に世の中は進んでいるんだ」 「あはは。随分大袈裟なのね」  中ジョッキーの生ビールはうまかった。ネコの官能的な唇がビールのあわで濡れている。 「ねえ、わたし決心したわ。グループを脱退する」 「そうなるだろうと思っていたよ」 「あら、何故なの?」 「ローランサンは結局、キュービズムの仲間から離れた」 「そうだったわね。わたしがローランサンなら、あなたは誰れになるの?」 「ピカソ、と言いたいところだが力量不足だな」 「へえー。あなたって案外謙虚なのね」 「やっぱり、おれはおれだよ。ピカソでもないしアポリネールでもない」 「わたしだけがローランサンでいいの?」 「あはは。女の特権さ。女なら誰れでもローランサンになれるし、誰れでもローランサンをやめることが出来る」 「ふーん。分るような分らないような話ね」  こんな時ネコは画学生のように、感心した表情を見せる。そこが可愛いかった。でもきっと、わたしは妊娠したくないと言い出すに決っている。 「でも北海道は楽しかったんだろう?」  絵の売れた代金について話そうと思うのだがなかなか言い出し難かった。 「いいかげんな連中には楽しかったかもしれないけど、わたしには苦痛だったわ」 「苦行僧みたいな顔するなよ」 「でも、わたし苦行僧って好きなの。若い苦行僧ってセクシーじゃない?」 「そうか、君を感じさせるには苦行僧の顔をすればいいんだ。まあブランクーシーみたいな顔か、ジャコメッティかな」  ネコと喋っているとやたらに画家か彫刻家の名前が出てくる。やはり仲間意識が働くのだろう。幾分ネコに対して先輩面したいからかもしれない。ところがネコはブランクーシーを知らないのだ。そこでブランクーシーについて説明する。 「モディリアニイはブランクーシーから彫刻を習ったんだ。たしか、イサム・ノグチも弟子だったんじゃないかな」 「ブランクーシーってどんな彫刻なの?」 「総てのフォルムを最も原始的で最も根元的な原形へ還元しようとしたのさ」 「ふーん」  ネコは夢見るような目付きでこちらを見た。 「ジャコメッティは無駄な肉付けをけずり取っていき、一本の棒のような人体を彫刻したけど、ブランクーシーは違う。彼は石の中から生物の元素みたいなフォルムを取り出しただけだ。そこが素晴しい」  私は得意になって喋った。しかしブランクーシーの実物は見たことがなかった。女の股を見ることは出来ても、ブランクーシーの彫刻は見ることが出来ない。そういえばブランクーシーの方が女の性器よりも神秘的かもしれない。  二杯目のジョッキーが運ばれて来た。ウインナーソーセージを注文する。腰みのをつけたウエイトレスの尻がセクシーに見える。  そろそろ本題を切り出そうか。手紙通りだとすればネコが四千円持参しているはずだ。しかも小山で千円彼女に貸してあるのを思い出した。何かいやな予感がした。ネコならネコばばするかもしれない。 「手紙の中で、天使のような気持になった、と書いてあったけど、どういう意味?」 「わたしに言わせたいの?」  ネコがキャバレーのホステスのような声を出したが、顔が桜色に染っていた。 「ちょっとセクシーで優しい気持ね」 「ふーん」  今度はこちらが考え込んだ。自分に惚れているのかも知れない、と思ったが、そう意識すると急に体が硬くなった。 「天使はひっくり返ると、悪魔になる、ということ知っているかい?」 「堕天使というのは知っているけどね」 「舌出し天使とか尻出し天使とか、偽天使とか、天使にもいろいろある」 「じゃあ、わたしは尻出し天使がいいな」  ネコは無邪気に言った。  尻出し天使なんて、出鱈目なのに、ネコは張った網にわざとかどうか分らないけど、自から飛び込んで来たのだ。尾※[#「骨+低のつくり」]骨のあたりがくすぐったい。さて、では君のお尻を出してもらおうか? いやその前に絵の代金四千円を受け取らなくてはならない。 「もう一杯注文していいかしら」  ネコは目のふちを赤く染めながら、媚びるように言った。ネコを酔わせるのは簡単だが、酔わせてしまうと四千円の受領があやしくなる。 「勿論飲んだっていいよ。でもその前に今日会った理由を思い出してくれないかな」  私は少々大人びた口調で言った。 「あら、なんだったかしら?」  尻出し天使は舌出し天使になった。 「ほら、ぼくの絵の代金さ。君があずかっていると……」 「ああ、あれね。うん、確かにあずかっているわ。でもね、今日は何故か過激にあわてていて、三十分も前に来てしまったでしょう。アパートに忘れて来てしまったのよ」  舌出し天使が平然と頬笑んでいる。 「じゃあ、君のアパートまで一緒にもどろうか?」 「そうそう、それがいいわ。それが最上の方法よ」  下腹部の生物が膨らんだ。 「君の作品も見たいしね」  あわてて、つけたした。それにお尻も見たい。尻出しの天使のお尻。  私たちは西武新宿線に乗り上石神井の駅で降りた。電車に乗っている間も、ネコはぺちゃくちゃ喋り続けた。ほとんどがグループの連中の悪口だった。聞いているうちにK氏が全員の絵を買う約束だったのを思い出した。とするとネコも平等に四千円もらっているはずだ。だとしたら何もネコに同情する必要はない。  私たちは駅前から線路際の不動産屋ばかり多いごたごたした商店街を歩いて、人通りの少なくなった個所まで来た。 「そこのフミ切りを越したらすぐよ。あまり汚ないんでね。びっくりするわ」 「二人が座る場所ぐらいあるんだろう?」 「へへへ、二人が横になるスペースだってあるわ」  私は思わずネコの顔を凝視した。  電車がフミ切りの前をごとごと振動しながら通過した。電車の最後部が過ぎた時、反対側のフミ切りの前にキヨミに似た女が待っているのが突然目に入った。一瞬心臓が止る思いがした。 「ねえ、あの人あなたの奥さんに似ていると思わない?」  ネコも気がついて、私の顔を見た。 「似ていないよ」今度は即座に否定した。 「そうね、あの女ほど美人じゃなかったわね」 「幽霊みたいな女さ」  軽井沢のTの別荘のガラス戸の前に立っていたキヨミを思い出しぞくっとした。 「わたしだって裏切られたらバケて出てやるわ」ネコが妙に沈んだ声で言ったので再び背筋が冷たくなった。お陰で下腹部の膨張指数が減少した。 「ネコがバケたらバケ猫騒動じゃないか」 「あはは」  ネコが笑ってくれたので幾分気が和らいだが、今だに妻の幻覚におびえている自分に腹が立った。  ネコの部屋は木造二階建の今にも倒れそうな建物の一番奥にあった。  ネコはものすごく汚ないと言ったが、想像していたよりましだった。畳を汚さないために新聞紙が敷きつめてあり、三方の壁は油絵の習作やデッサンなどでうずまっていた。部屋の角に小型で古風な鏡台があるのが唯一女の部屋であることの証明だった。三年前までは自分も同じような六畳一間に住んでいた記憶がよみがえった。自称ローランサンなのに、ネコの近作群はシャガール風の甘い幻想画に変っていた。鶏や牛や山羊たちと自画像らしき女とが馬鹿騒ぎしている構図が多かった。男が一人も描かれていないことが注目すべき唯一のポイントかもしれない。フロイドならいかなる解釈をほどこすか。  狭い部屋のほぼ中央にあるイーゼルに三十号大のカンバスが裏になったまま置かれていた。一目見たとたんそれが自分の絵の裏側であることが分った。木枠も画布も手製だからだ。札幌のグループ展に出品した油絵だ。何故ここにあるのだ? そう考えるのと同時に血が逆流した。 「ねえ、分ってよ。分ってちょうだい。分るかなわたしの気持、わたしの苦境。あなたに言えなかったの。グループの全員があなたの絵を陳列するのを拒絶したのよ。だって、ほら、小山の駅に着いた時、あなたは突然飛び出したわ。つまり、奴等から言わせれば、あの瞬間、あなたはグループから離脱したのよ。わたしがどんなに抗弁しても、多数の採決には勝てなかった。あなたはあの瞬間から自動的に除名されたってわけ。分るわね。結局あなたが勝手に、いやあなたの意志でグループを脱会し、そして奴等があなたを除名した。だからさ、絵を私は持ち帰ったけど、K氏は奴等の意見に同調し、何も支払ってくれなかったわ。はじめにそう正直に報告すれば良かったのだけど、分る? わたしには出来なかった。わたしにはその勇気がなかった。わたしに出来ることといえばあなたにお尻を出すことだけよ」  ネコは涙ながらに叫び、うったえた。  テレピン油のしみ込んだカーテンで部屋は暗かった。ネコは背中をこちらに見せて悪びれずジーンズを脱ぎパンティを脱いだ。想像していたより遥かに均整のとれた丸い白いお尻が目前に現われた。ベルイマンの映画のシーンのなかに自分も参加しているようなひどく厳粛な気分に襲われた。ネコは目を閉じて新聞紙の敷きつめられた床に自から四つんばいになり、やがてひざを曲げて頭部を腕のなかに埋めて低くかがめ、異様なほど白く丸いお尻を思いきりつき出したのだ。少し黒ずんだ小さなイチジクの肛門が見え、すずめの嘴のような陰唇がさえずった。私はまるでシャムの王様のようにいきり立った生物を彼女のさえずりのなかへ挿入しようとしたが、ひざが震えて何度も失敗した。その度に天使のお尻がぴくぴく動き、生物の先端が蜜で濡れた。  あの出来事は不意に襲った嵐だった。  私のブリキの舟はひどく揺らぎ、方向を失ったまま、半月が過ぎた。助けてくれ! と私の舟が叫ぶのを、私は耳にし、キヨミの腹の上でもがいた。  八月の太陽がアトリエのトタン屋根をこがし、私は下腹を汗で濡らした。 「ねえ。アポリネールって可愛い男だったのではないかしら」  ネコの言葉に対して、私は半月も沈黙を守っている。 [#改ページ]   最終章 二つの手紙  九月に入って急に事態が進展した。  残暑のきびしい、ぐったりした午後、こともあろうに二通の速達が配達されたのだ。差し出し人はTとネコだった。  いかなる偶然によってか、同じ時刻に二人の女から速達がくるとは! しかもこの時、キヨミも家にいたのだ。 「速達ですよ」の声で玄関を出て、二通の封書を受け取り、差し出し人の名前を確認した時、すでに背後にキヨミが立っていた。 「誰れからなの?」  とっさに隠すひまもなくキヨミがカン高い声で聞いて来た。 「友だちからだよ」  低く震えた声になっていた。 「見せてくれる?」  母親の尊厳と姉の傲慢さと妻の優しさとをミキサーにかけたような表情でキヨミがすかさず言った。小犬ならオシッコをもらすところだが、生つばをのみ込んだ。  妻といえども私信を見せなくてはならない理由はないはずだ。しかし、いやだと言わなかったのは、どうにでもなれ、という気持が働いたからである。女たち二人が差し出し人の名前を堂々と本名を使って出すなんて、こちらの立場をまったく考慮していない行為だ。悪意にとればキヨミに知られても平気だという一種の挑戦状みたいなものではないか。彼女たちのおもいやりのなさに不快感を抱いたことも確かだ。彼女たちの二通の手紙を握りしめ、妻の前で本当はおびえて立っている私の苦境を彼女たちは予想したのだろうか。手紙は誰れもいない時に郵便箱に投げ込まれ、ひっそりと待っているものだとしか考えていないのか。 「おや、おやTさんと、ネコさんからなのね」  キヨミは封筒の裏面をいちべつし、いかにもわざとらしく落ち着きはらって言った。それから、暑いから家のなかに入りましょうと、手紙を返そうともせず、持ったまま玄関の扉を閉めた。玄関先よりも、家の中の方がよっぽど暑かった。  椅子に座り、米屋からもらって来たうちわであおぎながら、キヨミはわざとテーブルの上に二通の手紙を放り出した。 「あなたも座ったら?」  どうしたらいいか分らないままつっ立っている私に向って婦人警官のような口調でキヨミが言った。 「いくら、私があなたの妻でも、勝手に封を開けるわけにはいかないわ」  まず淑女としての礼儀を見せびらかし、いかにねずみを料理しようかという猫の優越感を唇のあたりに浮べながら、彼女の目の奥は私と同じようにおびえていた。 「三つ方法があるわね」 「どういうことなんだ」  二通の手紙は勿論まだ封は切られていない。Tからの手紙は軽井沢の別荘からこちらが逃亡して以来の、彼女のはじめてのメッセージである。何が書かれているか、読んでいないので分らない。想像もつかない。せいぜい、神戸で無事子供を堕しました、ということ位だ。ネコの方も、彼女の下宿で情交し、それっきりになっている。手間を掛けさせないという意味では、ネコは最適の女かもしれないと思っていたのだ。どこかでばったり会って、ちょっと熱中して情交し、笑って別れる。とても素適だと思わない? と言ってくれたのはネコだ。誰れにとったって素適だよ。そのネコ殿からの手紙だ。何が書かれているか、想像もつかない。いや最悪の事態なら予想できる。アナタノコドモヲハラミマシタだ。  一方は堕胎報告。他の一方は懐妊報告。しかもそれが同時に配達されるという奇蹟。神も仏もこの地上にいて、ブリキの舟を見殺しにしようというわけだ。キヨミの頭上にはモーゼのように一本の角が生えている。 「この手紙はあなたもわたしも中味は見ていないわ。何が書かれているのか、妻のわたしとしても興味があるわ。でもわたしの予感ではあなたにとっても、わたしにとっても不幸をまねく手紙のような気がするの。それなら、いっそのこと中味を読まないで焼いてしまいましょうよ。これが第一の方法。第二の方法は、これはあなたに来た手紙だから、あなただけ読むのが正しいと思うかもしれないけど、あなたの女からの手紙ですものね。妻であるわたしが読むのは当然の権利です。だから中味を見るなら二人で読むこと。第三の方法はわたしは読まない。そのかわり、あなたが声を出して読んでくれる。わたしは、そのうちのどれでもいいのよ。あなたが選んでください」  あたかも、あらかじめ練習していたかのように、すらすらとキヨミは条件をつきつけて来たのだ。  ドロボウ猫のくせにその上この条件はなんだ! と怒鳴ってみてもはじまらない。餌を投げ入れたのはTとネコの方なのだ。せっぱつまって手紙で通知するより方法がなかったのだろう。それなら速達なんて目立つ方法よりも普通便で良かったし、せめて差し出し人の名前を男の名にするとか、グループか出版社の名義を使えば、この惨劇はさけられたかも知れないのだ。特にTに言いたい。何故前の方法で西荻窪の友人宅に送ってくれなかったのか。確かにこちらが手に入れるまでは手間が掛る。しかし何よりも絶対に秘密は守れたのだ。そんなことを百も承知していながら、直接、本名で郵送して来たのには、余程の意味があるに違いない、としか考えられないではないか。  三つのうち一つと言われても、どれもこれもとうてい飲めるものではない。あえて選ぶとしたら第一番目の条件だろう。妻と共犯者になるとしたら、二人とも読まないで彼女等の手紙を闇に葬ってしまった方がいい。若し、といってもひどく馬鹿馬鹿しいけど、若しTとネコに相談したとしたら、やはり内容を見ないで焼くことを提案するだろう。 「見ないで焼くことにしよう」  私は重々しく提案した。 「あの人たちの言葉を無視してしまっていいのね? 言葉はつまり心なのよ。心を葬ってしまっていいの? 死者のように焼いて土に埋めていいというわけなのね」  一つ一つの言葉が胸に突きさすように、陰険でいじ悪く、辛辣だった。  二通の手紙をテーブルの上からつかみ取り、外へ飛び出してもいいのだ。それから玄関横に置いてある自転車に飛び乗る。  あと十秒後にそれを決行しようと考えながら、またたく間に五秒が過ぎ、十秒が過ぎた。ではあと二十秒の間の決断だ。しかし、その二十秒も過ぎ去る。  二通の手紙をつかみ取り自転車に飛び乗る。何故こんな簡単な行動が出来ないのか。ナイフでキヨミを刺そうというのではない。子供が菓子を盗む程度ではないか。  いや、この手紙の中に私の運命を変える何かが封じ込まれているかもしれないのだ。いかに偶然とはいえ、情交した二人の女から同時に手紙が配達されるとは、何かの前ぶれではないか。まさか残暑見舞ではないだろう。  キヨミはゆっくりと米屋のうちわで顔をあおいでいる。こちらの煩悶を楽しみながら。  キヨミだって本心は手紙の内容を読みたいのだ。だから第一の選択に対して、いちゃもんをつけたのではないか。 「あなたが本当にそれを望むなら、見ないで燃しましょうよ」  目はまだ不安でおびえているくせに、口元に微笑さえ浮べている。すくなくともこの一ヵ月の間、キヨミはないだ海のように、樹陰の小鬼のように、表面的にはのんびり過していたのだ。Tに関してはもう心配することはないだろうと、たかをくくっていたかもしれない。むしろ予定外だったのはネコの方だったに違いない。実際こちらにとっても、Tの手紙よりはネコの手紙の方がやばい予感がするのだ。いわばTは過去か半過去に属するが、ネコはどの時間《テンス》に属するのか判断する材料が少なすぎる。  砂漠で水に出会ったように、目の前のテーブルに置かれている手紙が読みたい。読みたい。全身が震えた。  いきなり、というより自然に手が延びたのだ。  ゆっくりと重なっている上の方の封書を持ちあげ、ゆっくりと封を切る。ゆっくりと中味を取りだす。ゆっくりとキヨミを無視する。ネコの手紙が先だったのは上に重なっていたからにすぎない。  キヨミのいる前で読み出すか、このまま二通の手紙を握って家を飛び出すか、まだ選択の余裕はあったのだ。人間は何故、一秒一秒次の行動を決定しなければならないのか。同時に何も決定出来ずに時だけが過ぎていく。理屈なんかどうでもいい。結局手紙を読み出していたのだ。  お元気ですか?  わたしの方はぐったりしています。何もしたくない。絵も描きたくない。夏はまだ続いているみたい。二週間ほど国へ帰るつもりです。まあ気が向いたら手紙下さい。住所は左記の通りです。  千葉県館山市船形  この間、飛竜君に会ったら結婚しないか、とプロポーズされました。いろいろ考えて結婚することに決めました。何故かあなたにこのことを知らせる義務を感じました。子供が出来たみたい。さよなら。  文面はむしろ、そっ気ないように思えた。私との行動については何一つ書かれていない。まず、それに感謝し、胸をなでおろした。飛竜と結婚するという宣言に対し、何の感情も起きなかった。自己保身にとってはむしろ有難い。子供が出来た、という点は予感どおりだったが、この文面では飛竜との子供としか解釈出来ない。だから飛竜と結婚することにしたのだ。文面通りに読むとそうなる。  キヨミが読んでもこちらに都合悪い文面ではないと判断した。 「読みたければ読めよ」  私はそう言ってネコの手紙をキヨミに渡した。この時点では不利な形勢が有利に逆転したような工合だった。こんな内容の手紙を見たがっているキヨミの方がいい面の皮だ。  しかし驚いたことにキヨミは手紙を受け取ると、声を出して読みはじめたのだ。しかも文面に対してこちらに質問さえはじめた。 「飛竜さんってグループの人でしょう」 「そうだよ。前からネコと出来ているといわれていた男さ」 「何故かあなたにこのことを知らせる義務を感じました……。何故義務を感じたのかしら?」 「そんなこと知らないよ」 「あなたと何もなければ、つまり単なるグループのお友達なら、義務を感ずる必要はないはずでしょう?」  とんでもないいい掛りだ。いやまさにキヨミの言う通りだが、ここですでに返答に窮した。 「志しを共にするグループの一員だから、義務を感じたのだろう」と一応、弁明した。 「義務を感ずるというのはあなたに何か特別な関係を負っているからなのよ」 「ネコが義務を感じていたって、こっちは全然義務を感じていないね」 「でも、子供が出来たみたい、ってどういうこと? 文脈的に義務の次に子供が出来た、とくれば子供が出来たことと、あなたに義務を感じたこととは関連があるわ。こんなところで突然子供が出来た、なんて変じゃない? この子供が飛竜さんとの間に出来た子供だという理屈はどこにもないじゃないの」 「じゃあ、誰れの子供だといいたいんだ」 「さあ、それは知らないわ。あなたの子供だとは書いていないしね。だからといって飛竜さんの子供でもない。きっと子供が天から降って来たんでしょう」  じゃあ、わたしは尻出し天使だわ、と言ったネコの言葉を思い出した。そのお尻の間にこちらの熱い棒が入ったのだ。まさか、あの時の種ではないだろう。どう計算しても一ヵ月半しか経《た》っていない。確かにキヨミの分析には一理あるのだが私の子供だと決めつける証拠はどこにもない。しかし、いつ、あなたの子供です、と宣告されるか、その可能性がぜんぜん無いわけでもない。背筋がぞくっとした。帰省先の住所を明記したのも、考えてみると、何かの暗号かもしれない。ネコはきっとこの手紙はキヨミも読むに違いないと推察していたのだ。だから、えん曲な表現を使ったのかもしれない。そんな風に考えていくと、なでおろしたはずの胸がうねりはじめた。キヨミに見透かされているという不安も増幅した。いや、それは考えすぎではないか。キヨミにそそのかされて深く考えすぎているのだ。文面通りに、素直に読めば、こちらに不都合なものは何もない。第一、ネコがそんな複雑な手段を講ずるわけがないし、キヨミがどのように解釈しても、ホコリ以上のものは出て来ない。問題はTの手紙の方だ。  そう考えた時、キヨミの手がさっと延びて、テーブルの上に残っているTの手紙を取りあげたのだ。  自分でも分らないが、その時発作的にキヨミを突き放し、手紙をうばい取った。  キヨミは叫び声をあげ、よろけて床に倒れた。  助け起そうかと一瞬考えたが、私の体は玄関を飛び出していた。  悲鳴に似た叫び声を後ろに聞きながら、自転車に乗っていた。  全力疾走で桜堤を走り、自然公園まで来て、自転車を停めた。汗で全身が水にひたったように濡れていた。直射日光をさけるため松林のなかへ入っていき、附近に誰れもいないのを確かめ、手頃な大きさの石の上にひとまず座ることにした。  ある程度計画していたとはいえ、自分の取った行動がひどく不可解だった。Tの手紙の内容だけは絶対にキヨミに知られたくなかった、には違いないが、逃げる瞬間、自分の頭が完全に空白になっていたことから、自分自身に対して恐怖を覚えた。手紙ではなく刃物だったら、キヨミを刺していたかもしれないと思った。  度を越すほどのキヨミの異常な叫び声がまだ耳のなかに残っている。彼女がTの手紙を取りあげたのが悪いのだ。自業自得ではないか。  私はまじまじとTからの封書を見つめた。なかなかの達筆である。キヨミを突きのけて奪い取って来た手紙だ。凶と出るか吉と出るか、心が騒ぐ。この封筒のなかに自分の運命が閉じ込められているような気がする。  むしろ封を切らない方がいいかもしれないという考えが頭をよぎった。しかし、それならなんのためにキヨミを突き飛ばしてまで奪ったのか。  恐る恐る封を切った。  長らくごぶさたしました。  多分あなたはもう二度とわたしから手紙が来ないだろうと信じているでしょう。わたしも、あの時以来、二度とあなたの顔を見まいと誓いました。あのような屈辱をうけたのは生れてはじめてです。わたしの怒りと悲しみは、あなたには分らないでしょう。あの時の情景を思い出すと、今でも身体が震えます。わたしは、あなたが部屋から霧の中へ出て行った時から全部知っていました。わたしも霧の中にいたのです。あなた方はわたしの目の前で情交し、しかもあなたの妻は、わたしの別荘に向って股を拡げ恥部をはずかし気もなく見せびらかしたのです。そしてあなた方は泥棒猫のように逃げました。よもやお忘れではないでしょう。  どうやってキヨミさんがあの別荘まで来たのか、わたしには分りません。あなたが教えたとしか考えられませんでした。その点に関しては今でも疑っています。あなたは計画的にわたしを侮辱し、わたしとの関係を一方的にご破算にしようとしたのでしょう。若しそうだとしたら、なんと悲しむべき卑怯なやり方でしょう。大声をあげて泣く気持さえ消え失せました。  わたしは予告したように、あなたの子供を堕しました。わたしは股を拡げ胎児を摘出しました。本当はあの時点でまだ決心がついていなかったのです。しかし、あの光景を目撃してから、わたしはわたしの身からあなたの毒を総て消滅したくなったのです。あなたはたえられないほど不潔です。  胎児を堕してからせいせいしました。もう永遠にあなたに手紙など出すまいと決心していたのに、何故手紙を出したか、きっと不思議に思うでしょう。そのことについては今は説明したくありません。  唯、次のことを知っておいてもらいたかったのです。  九月の新学期から教えている高校をやめました。自分の翻訳の仕事にうち込むためです。多分この手紙が着く頃、東京へ行っているでしょう。あなたにそれを知らせたのは、単なるわたしの気まぐれからです。どのように解釈してもあなたの自由です。  多分、この手紙はあなたの奥さんの目にもとまるでしょう。ひょっとしたら、あなたの手元にとどかないかも知れません。それならそれで、永遠にわたしたちは会わないでしょう。  手紙はここで終っていた。しばし、石の上に腰掛けたまま、ぼう然としていた。Tの言い分はもっともなことだ。何一つ反論出来ない。だがあの別荘での密会をキヨミに密告したのが私だと考えている点について、どうしても無実をうったえたかった。キヨミがTが知らせてくれたと嘘をついたことは間違いではなかったのだ。  しかし高校をやめ東京に来ているとは? どのように解釈しても、あなたの自由です、と言われたって皆目見当がつかない。東京のどこにいるのか、何も記されていないではないか。キヨミに読まれるのを予想しているのはいいが、やはり謎に充ちている文面である。  いったいTは何を本当に言いたかったのか? 単なるうらみごとだけではなさそうな気がした。本当に本心から私に怒りを抱いているなら、それこそ永遠に手紙も書かず、永遠に会う必要もないだろう。なによりも沈黙を守り続けることの方が、こちらにとっては苦痛なのだ。  Tは彼女がいかなる理由でかは明していないが、結局、東京に来ている事実を私に知らせたかったのだ。姿を隠したまま、私においでおいでをしているのかもしれない。居場所を記さなかったのは、キヨミに知られるのを怖れたからだろう。  文面のなかに何か暗号が隠されていないか、何度も読み返した。  キヨミをまねいたのは私だ、という誤解をどうしてでも釈明したかった。  唯一Tの居所を知る方法は、神戸の自宅に手紙を出すことだ。東京の居所に転送されるだろう。あるいは家族あてに、東京の居場所を聞く。いや、神戸まで私自身が出掛けていく。しかし、いずれにしても数日は要する。東京に来ているといっても、移住しようとしているのか、一時的な滞在なのか、この文面では分らない。  はがゆさにいらいらした。あの時キヨミさえ現われなければ、私の運命は変っていたかもしれないのだ。Tとの新生活が手でつかめるところまで近づいていたのだ。Tもそれを知っていたはずだ。  ひょっとしたら、Tと最初にあいびきした新宿二幸前で、待っているかもしれない、という考えがひらめいた。腕時計を見ると三時を差している。  急いで自転車に飛び乗った。  文面にあったこの手紙が着く頃、東京に行っているでしょう、という個所が重要なヒントになっているような気がしたのだ。  全力をだして武蔵小金井駅へ向って自転車をこいだ。  自分が、今どんなに汚ない格好をしているか気が付いていた。絵具だらけの仕事着を着たままだったのだ。しかもポケットには十円玉が幾つかあるに過ぎなかった。かろうじて新宿までの往復料金分しかない。勿論アトリエにもどるわけにはいかなかった。キヨミと一悶着起すことは間違いないし、どんなにひどい結果になるか、分り切っていた。  電車はすいていて座れた。  Tが二幸前でこの時刻に待っている確率は百に一つ位かもしれない。あんなひどい別れ方をしておきながら、百に一つでもTが二幸前に来ているとロマンチックに空想している自分がコッケイだった。  来ていなくても、もともとだ。過大に期待する気持を何度も何度も打ち消した。しかしいかに期待を打ち消しても、そしていかに自分の予感がコッケイであっても、心の高鳴りはますます強くなっていった。  ウイークデイのせいか、さすがの新宿駅前も人波はさほどではなかった。二幸前も待ち合せをしている人は数えられる位だった。  どこにもTの姿はなかった。  やはり虫のいい期待だったのだ。誰れもいなかったらその場に座り込みたい気持だった。  三十分待った。夕方が近づくにつれ、待ち合せの人々の数はじょじょに増えていく。  とうとう一時間待った。それでも五分後に現われるかもしれないと思うと、その場から離れる決断がつかなかった。  残暑は容赦なく体温と疲労とを増加させる。堪えられないほどのどがかわいた。駅まで歩いていき、水道の水をがぶがぶ飲んだ。  Tはもう現われないだろう。  水道の蛇口から口を離し歩きかけようとした時一人の女が立ちどまってこちらを見つめているのに気がついた。 「わあ! カオルじゃないの!」  まぎれもなくネコだったのだ。一瞬体が宙に浮いた感じがした。 「カオルじゃないかと思って、じっと見ていたのよ。何よその格好。夜逃げして来たの?」  体が宙に浮いたまま、風の中に舞っている感じだ。 「ネコこそ変な格好しているじゃないか? 今日の昼すぎ、手紙もらったよ」  やっとの思いで言った。 「そう、よかったわ。ここで会えて。奇蹟よ。これは奇蹟だわ」  こんなにネコの輝いた顔は見たことがなかった。リュックサックを背負い、手に何枚かのカンバスと、大きなトランクを持っている。多分、これから千葉の実家へ出掛けるところなのだろう。そう聞いた。 「そうよ。あなたも一緒に行かない?」  ネコはおどけた口調で言った。汗と甘い匂いがただよってくる。  二人は自然に並んで歩いていた。 「結婚するんだろう? おめでとう」  男の友達らしく、いさぎよく言った。 「でも、止めにするわ。あなたの顔を見たら、飛竜君と結婚したくなくなった」  ネコの声があまりに大きいので、通りすぎていく人達が振り返った。 「ビールでも飲まないかい。おれ、金持っていないんだけどな」 「あら、いいわよ。あなたには借金しているものね」  前に二人で入った屋上のビアーガーデンへ行った。九月も中葉をすぎてウイークデイのせいか、フラダンスもなく、空いていた。 「本当に飛竜とは結婚しないのか?」 「しないわよ。あなたとなら結婚してもいいわ」  ネコはあくまで、無邪気に言った。 「ぼくは結婚しているんだぜ」 「知っているわよ。でも今は一人でしょう?」 「えっ?」 「たった今は一人じゃないの」 「それはそうだよ」 「じゃあ、このまま千葉へ行こうよ」  ネコの目が本気なのにある驚きを感じた。  注文した生ビールが運ばれて来た。 「行こうよ。それから考えればいいわ。千葉へ行く私たちのためにカンパイ!」  思わず私もグラスを持ちあげた。 「カンパイ! これで決ったわ」  あ然として咳込んでしまったくらいだ。 「一つだけ聞きたいことがあるんだが……」  ネコの目をじっと見つめたまま聞いた。 「分っているわ。お腹の子供のことでしょう? まだはっきりしているわけじゃあないけど、予感がしたのよ。あなたの子供だってね」  予感か、いい言葉だ。こちらの予感ははずれたけど。 「マリア、みたいだな」 「あはは。マリア様か面白いね。ローランサンがマリアになる日か。マリアにカンパイ!」 「カンパイ!」  ひどく心がうきうきした。 「よし、千葉へ行こう」とほとんど叫ぶように私は言った。  ブリキの舟で。尻出し天使を乗せて千葉へ行こう。  アポリネールの詩は、堀口大学および飯島耕一両氏の訳を使わせていただきました(著者) この作品は平成三年八月新潮社より刊行された。