[#表紙(表紙.jpg)] 話 の た ね 池田弥三郎 目 次  ㈵ 人をばかにした話[#「人をばかにした話」はゴシック体]     いけしゃあしゃあ     万八のはなし     医者のはなし     無 学 の 学     無  筆     合わぬ計算     一 人 合 点     職 業 図 会     風が吹いて     処 置 な し     愚 兄 賢 弟     転 失 気     ふんどし三話     ささいのこと     ことばのやりとり     取 り 違 え  ㈼ 色恋あの手この手[#「色恋あの手この手」はゴシック体]     手 帳 小 町     演出された失恋     雪のあけぼの     妬婦・皇后安子     宇治の橋姫     人を呪咀して乞食となる     悋気の処理     三つの人形     五百八十年     十七年に二十三人の妻     最初の結婚     仏 の 絆     他人の夢で出世する     面影の似た男  ㈽ 悪徳のすすめ[#「悪徳のすすめ」はゴシック体]     スパイ大作戦     結 婚 詐 欺     消え失せた患者     かたりの手くち     さいごの一夜妻     耳が聞えなくなった女     後 家 の 情     千二百二年前の殺人事件     戦わずに負けた盗人     改心した盗人     足ばやとはやわざ     臆病と間抜け     盗人アラカルト     女 盗 人     女の力持ち     大力の水の女  ㈿ にんげん以外[#「にんげん以外」はゴシック体]     蛸     ジョーズのルーツ     鹿 の 声     犬あらそい・馬あらそい     殿 上 の 猫     狐の妻二題     地獄からの使者     鬼 一 口  ㈸ えらい人の話[#「えらい人の話」はゴシック体]     神功皇后墓違い     光明皇后とシュークリーム     三条天皇の失明     呑んべえ道隆     賢 人 実 資     済時の失態     ダンディー朝光     ぐうたら佐理     兼ねる公任     三 才 女     清明の占い  � ためになる話[#「ためになる話」はゴシック体]     貯めすぎた男     実 物 教 育     夢は合せがら     力をも入れずして……     雨乞い小町     あの世までの恨み     蟻通の神の由来     あだ名の付け様     天下分け目の相撲一番  � 口なおし[#「口なおし」はゴシック体]     ままならぬ心     堂々たる裏切り     寝返りの理由《わけ》     自殺既遂者の弁     一 言 多 い     あ と が き [#改ページ]   ㈵ 人をばかにした話 [#改ページ]   いけしゃあしゃあ  蛙の小便で、いけしゃあしゃあ、と言うけれども、世の中には、そんな男や女が意外に多い。そんな小咄を並べてみよう。      *  客に向って亭主が、 「めしはあるが、麦めしだから、食べたくなかろう」 「いやいや、手前は生れつきの麦めし好き。麦めしと言えば三里行っても食う」  それではというので、ふるまった。それからいく日かたって、その客がまたやって来た。亭主、 「お前さんは麦めし好きだったね。生憎《あいに》く今日は麦めしがない。米のめしはあるが」  すると、その客、 「いや、米のめしと言えば五里行っても食う」 と言って、また食った。 [#地付き]——『醒睡笑』      * 「俺は将棋をさすが、せいぜい五十手で、その先は見えない」  これを聞いて、これはたいへんな上手だ。普通は、三手先が見えるものではない。それほどの上手とも聞かなかったが、ともかく一番お手合せをと、駒を並べて、 「では、手前が先手を致します」 と、角の先の歩をついた。かの男、しばらくじっと考えていたが、駒も動かさず、 「いやあ、これは、俺が負けだ」 [#地付き]——『噺本大系』      *  髪を乱した女、息せききって大橋へかけて来て、一文投げて通った。橋番が、 「これこれ、姉《あね》さん。二文だよ」  女は振り返って、 「わたしゃ、橋の真ン[#小さな「ン」 ]中まで」 [#地付き]——『噺本大系』      *  誰が手づまの名人か、名人は豆蔵だ、いや誰それだとうるさいときに、 「いやいや、それらはみな下手だ。うちの裏にいるかごかきの八兵衛が一番だ。まず、あれほどの名人はない」 「そうか。どれほどの上手だ」 「この間も、足にしらみがいたのを見付けて、手でつまんで、灰ふきの中へ捨てた。で言うには、『今のをここから出して見せましょ』と言って、首筋から出した。なんと、手づまの名人ではないか」 [#地付き]——『噺本大系』      *  やんごとなき上つ方の北の方へ、大きな杓子を差し上げたものがあった。初めてみるものとて、何なのかわからない。おそばのものにお尋ねになったが、誰も存じませぬと申し上げる。はした者達なら存じておろうと、聞きにやったら、皆、おかしがって、お答えしない。「名を知っている者がおりません」と申し上げると、ややあって、北の方、 「われはこれを推《すい》した。鬼の耳かきであろうよ」 [#地付き]——『醒睡笑』      *  旅びと、在所の者に、「この川の名は何と言いますか」と言う。「あいそめ川と言います」と言うわけで旅びとが、 「では、この手拭いを染めて下さい」 と言って手拭いを差し出すと、ところの人が受け取って、水に入れ、ひろげて渡した。 「なんにも色がついていないな」 「いや、水色にそまりました」 [#地付き]——『醒睡笑』      *  京の町でのこと。「しだれ柳の物見」なるものを持ち歩く。ある人、この柳を見付け、ことわりもなしに、取った。 「これは乱暴な。なんとなされる」 「知らんのか。『柳はみとり』と言うではないか」  なるほど、もっともと合点して、いきなり、棒を持って来て、彼の鼻をぶんなぐった。鼻からぱっと血が出た。 「何をする、乱暴な」 「いや、それこそ『はなはくれない』と言うことよ」 [#地付き]——『醒睡笑』      *  鷲を生けどりにする方法を伝授しよう。  まず、猿の皮をまるむきにして、中へ砂利や小石を一ぱいにつめる。そして、中のつめものがこぼれぬように、皮を縫って、これを岩の下などに置いて、生きているかのように動かす。  すると、鷲がやって来て、猿を引き裂いて、中の小石を猿の肉と思って、無性につめこんでしまう。すると、腹が重くなって、飛ぶことも出来なくなり、あきれはてて、 「ほんに、わしとしたことが」 と言うのを合図に、生けどる。 [#地付き]——黄表紙『虚言八百万八伝』      *  最後の鷲の小咄は、動けなくなった鷲を生けどったら、鷲が口惜しがって言った。「ほんにわしとしたことが」とした方が、落ちの効果はありそうだ。特に、口で言う場合は、そうしないと、効果がうすくなる。 (『噺本大系』は江戸時代の笑話集を収めた全集で東京堂刊、全八巻) [#改ページ]   万八のはなし  江戸時代に万八《まんぱち》という男がいた。たいへんなうそつきである。  この万八、父は滅法《めつぽう》弥八といい、母は欺城《だましろ》屋の遊女でその源氏名を虚言《そらごと》といった。万八の幼名は千三《せんみつ》(千のうち三つしか本当のことがないの意)で、成長して万八という。万のうち八つしか本当のことを言わない。九千九百九十二までがうそだという。たいへんな男もいたものだ。  こんなふざけた男のことを書いた黄表紙『虚言八百万八伝《うそはつぴやくまんぱちでん》』の作者は、四方屋本太郎正直《よもやほんたろうしようじき》という人で、四方赤良《よものあから》(大田蜀山人)のことだといわれるが、どうも疑わしいとする説が有力である。つまり作者までがうそをついているのである。その本からいくつか——。      * ・すずめを取る方法 庭のくぼみくぼみに酒をこぼし、また庭のうちに、酒をひたした米飯を沢山まいておく。雀が集まり酒めしを食い、のどがかわくから、酒を水かと思ってのむのでだんだん酔いがまわる。そこへかやの実、なつめの実をばらばらとまく。雀は枕だとおもって気持よく眠ってしまう。そのいびきを合図に、高箒《たかぼうき》ではき寄せて「籠の中へ、ばらばらばら」 ・信濃で酒を売る方法 信濃の国はひどく寒い国で、冬の内は酒屋で酒樽の呑み口を抜くと、流れ出る酒がそのまま凍って棒になってしまう。それを山刀でぽきぽきと打ち折り、それを縄で五本十本とたばねて置くと、客は一連二連と買いに来て、火でとかして呑む。あるとき、万八がまちがえて、小便の凍ったのを酒だとおもって拾って帰り、それを呑んで胸を悪くし、へどを吐いたらそれがまた凍って困ったという。 ・鳩の取りかた 鳩をつかまえるには、糸のさきへ白豆を一つぶ、しっかりと結わえつけ、その豆に下剤の巴豆《はず》というものを塗っておく。そこへ鳩がやってきて、この豆を食うとすぐに腹をくだし、たちまちその豆を糞にしてひり出す。それをまたほかの鳩が食って糞にすると、だんだんに他の鳩が食っては垂れ、食っては垂れして、じゅずつなぎになる。注意……十羽めぐらいで巴豆を塗り足すと可。 ・奥州で声が凍ること 奥州の湯の原辺に万八が住んでいたとき、隣家の老婆に毎朝万八が「ばば様、茶ができた」と声をかけた。ところが婆さんは耳が遠いのかぜんぜん茶を呑みにこない。それも道理で、その呼び声は壁に凍りついていた。春になって暖かくなると、となり境いの壁がいっせいに、 「ばば様、茶ができた、できた、できた、できた……」 ・提灯のつくり方 万八が壇の浦に住んでいたころ、そこは昔平家の一門が滅んだところゆえ、海中にて夜な夜な陰火《いんか》(鬼火)が燃えた。そこで万八は、紙袋を沢山こしらえて、この陰火を拾い集め、紙袋のなかに入れて持ち帰り、風の当らぬところへ吊して置いた。あとで提灯の代用にするためである。 ・虎をつかまえる方法 万八が唐土へ渡ったときのこと。千里つづいた竹やぶで、五尺に三尺ほどの穴を掘り、このなかへはいり、上に木製の戸を一枚、蓋にしてかぶせて置いた。そこへ虎がでてきて、戸を踏んで、みっしりと踏み抜いたところを、その足をつかまえて縛る。虎はうろたえて騒ぎ、またかた足を踏み抜くところを、固く縛る。こうして四足ともにぜんぶ縛りつけ、戸板ぐるみ引きずって「どいた、戸板」と言いながら家へ帰る。 ・大蛇を生捕る法 てんびん棒のまん中程を、細引でしっかりと結わいつけ、これを小脇にかかえこみ、大蛇の正面へ立ち向う。大蛇は一口にこれを呑み込もうとして、口をアンとあくところへ、無二《むに》むざんに飛びこみ、上あごと下あごへ、てんびん棒で突っかい棒をかい、口をふさぐことがならぬようにして飛び出し、その細引で、すぐさま「ようい蛇《じや》、ようい蛇」と引っ張る。 ・猩々緋で金持になること 万八が潯陽《じんよう》の江のほとりに住んだころ、酒を沢山蓄え置いたところ、猩々《しようじよう》がやってきて思うままに呑み尽し、前後も知らず寝入ったとき、この猩々をそっとはだかにしておく。酒のにおいに蚊がおびただしく集まり、からだ一面にとり付いて血をしたたかに吸い込み、蚊がうごけなくなったところを、羽箒で払い落して、これを締め木で締めて血をしぼる。この血で猩々緋という深紅色の染料を作り、猩々緋のラシャとして売り出せば、黄金白銀は泉のごとく、万八歳の齢《よわい》をたもち、「尽きせぬことこそ、めでたけれ」ということになる。 [#改ページ]   医者のはなし  ある所に、柔《やわら》出来庵という、字は全く読めないが、才気のある医師がいた。だいたい、この名がおかしいが、これは近所の人達が付けたあだ名で、「かかると投げる」というこころだという。  この出来庵先生、どんな病気でも、療治は痰の療治だけしかしない。ある人がきいた。 「出来庵先生。先生の療治は、いつも痰の薬ばかりおもりなさるが、それで間に合うものですかな。人というものは痰で死ぬものなんですかな」  出来庵先生が言った。 「そうとも、そうとも。なんのわずらいでも、人間は痰で死ぬものじゃ」 「どうもおかしいな。痰でばかり、死ぬというのはね。じゃ、浮気者が酔狂で、間違って死ぬのも、痰ですか」 「そうとも。ひょうたんという痰じゃ」 「じゃあ、喧嘩口論で頭を割れて死ぬのも痰ですか」 「さよう。みょうたんという痰じゃ」 「へえ。それじゃ、泥棒などが人のものを盗んで、おかみの掟《おき》てにあって死ぬのも痰ですかな」 「さようさ。それはだいたんという痰」 「じゃあ、川へ身を投げたり、首をくくったりして死ぬのも痰かな」 「ああそれは、たんきという痰」 「それではね。幼い子どもが川狩りなどで水に溺れて死ぬのも痰ですかな」 「むろんだ。じょうだんという痰じゃ」 「ああ言えばこうとおっしゃるが、それでは、夜道や山道で、辻切りや追いはぎに逢って、殺されて死ぬのも痰でしょうかな」 「いかにも痰じゃ。それは、人々がよく慎むべき、油断という痰じゃ」      *  この話、「病論は言ひ勝ち」という題の話だが、別の本には医師の名が道庵という名で、「藪医師道庵が事」として載せてある。|たん《ヽヽ》の語例も、順序も全く同じである。  これなどは、|たん《ヽヽ》の用語例を少し入れ替えれば、いくらでも新しく出来るだろう。 「毒薬をもられてころりと死ぬのも痰か」 「さよう。簡単という痰じゃ」 などはどうだろう。  ところで、医者というのは、近世の庶民の生活の中では、なかなか「人気」がある。「柔出来庵」で、かかると投げる、と言ったようなことも、一種の人気であって、落語の世界でも重要な人物だ。藪医者の弟子が竹の子で、その名も藪井竹庵などという。      *  ある医者、伊勢講のあるところへ、ふと立ち寄った。 「これはまた、たいそうお賑かで」 と言うと、伊勢講の当番の、その家の亭主、 「今日は、伊勢講の集まりでございます」 「これはまた、御苦労なことで」 「さよう。あなた様のお薬と同様で、よく|まわり《ヽヽヽ》ます」  薬がよく効いて|まわる《ヽヽヽ》というのと、番がすぐ廻ってくるの|まわる《ヽヽヽ》とを、ひっかけて言ったわけで、賞められたのだから、医者は喜んで、帰って行った。  さてその足で、もう一軒、知った家へ寄った。そこも、どさくさと忙しく、宴会の仕度などしていた。亭主が出て来て、 「今晩は、手前が番に当って、伊勢講をつとめます。ちょうどいいところへおいでになった。御自由に、お手もりで、お酒などひとつ召し上れ」 「これはどうも。御苦労なことですが、お目出たいことでございますな」  亭主が言った。 「いや、あなたのお薬と同じことでして、たびたび、あたります」 [#地付き]——『噺本大系』      *  薬が|まわる《ヽヽヽ》のはよく、薬に|あたる《ヽヽヽ》のはいけないわけだ。だから、前の亭主に賞められて気をよくしていたところを、後の亭主には軽くやられた、というわけだろう。  薬の知識も昔は昔なりに相当あったのだろう。西鶴の『名残の友』にこんな話がある。      *  いきさつは省略するが、俳諧の連歌、百韻一巻の中に、恋の句が一句もなかった、というのである。そのこと自身、実はたいへん珍しいことだが、それに対する批評がたいへんしゃれている。 「さてさて、この御新作、まことにおみごと。老眼をおどろかしました。ただ、願わくはこの一巻に、腎薬を呑ませたく存じます」      *  漢方では性欲と腎臓との関係を説き、その衰弱を腎虚といった。その欲望の昂進薬が腎薬である。恋の句のない百韻を、腎虚とみたわけである。 [#改ページ]   無 学 の 学  名月のこうこうとくまなく照り渡っている夜、二人の者が月見をしていた。 「月は動いていくものだから、ちょっとそらしたら、落ちそうなものだ。落ちたら拾おうじゃないか」 「そうよ。もろこしへは落ちたようだな。『月落ち、烏啼いて』という詩があるからな。しかし、日本では、延喜の帝の時分は、落ちなかったようだな」 「そうか。何か証拠があるか」 「さればさ。延喜の帝の第四の皇子、蝉丸の宮の謡にある。『世は末世に及ぶとても、日月は地に落ちぬ』とある。だが今は、それからだいぶ経ったから、もしかすると、月が落ちることもあろうよ。落ちるとなったら、それは笠で受けるがよい。これも謡にちゃんとある。『富士太鼓』に『月落ちかかる山城も、はや近づけば笠をぬぎ』とあるからな。今夜の名月も落ちないものでもない。うっかりと見ていてはだめだ。いつ落ちてもいいように、笠を持つことにしよう」  さて、この二人、翌朝の八時まで、笠をかまえていた。      *  これは二人ながらに無学無知な場合だが、さすが謡曲は行き渡っていたとみえて、こういう市井の人々も文句だけは聞きかじっていた。前章の医者の「たんづくし」の話よりも自然でいい。  これが誇張されてくると——、  兄が弟に向って、 「お前、そんなところで、物干し竿など持って何をしている」 「お星様を一つ捕ろうと思ってるんだ」 「ばか。そこじゃ低い。物干しへあがれ」 という話になり、さらに親父が加わって、 「それで届くものか。もう一本竿をつなげ」  こういうのに比べると、前のは、謡曲のもどきであるだけに、結構な味がある。 [#地付き]——『噺本大系』  そんな、ばか気た話を並べてみよう。      *  ちっとばかり、仮名の読める者が、仲間に向って言った。 「ちかごろは、つれづれ草をたびたび見ているんだが、なかなかいいものだ」  仲間の一人が膝をすすめて、 「しかし用心が肝要だ。口あたりがいいと思って、たくさん喰べなさんなよ。つれづれ草のあえものも、すぎれば毒だと聞いているからな」 [#地付き]——『醒睡笑』      *  ある人、芹焼きを食って、 「何とふしぎだな。芹焼きというものは、火にあぶるものではない。だから、芹煮とか、煮芹とかいうはずなのに、芹焼きというのはふしぎじゃあないか」  そばにいて、これを聞いた者が言った。 「しかし、芹はまだしも、鍋で煮るものだから、焼くということとも縁があるが、まったくもって、火の気もないのに、月代《さかやき》というものさえある」 [#地付き]——『噺本大系』      *  ある所へ行って、床の間の掛け物を見ると、画が描いてあって、その上に何か書いてあるので、 「もし、あの画の上の書付けは何でござります」 と聞くと、亭主、 「あれは、賛でござります」 と言った。またほかへ行って床の間を見ると、掛け物に文字が書いてあるので、 「もし、あの掛地に書いてあるのはさんでござりますか」 と聞くと、 「いや、あれは詩でござります」  また別の所で掛け物を見ると、これにも何か書いてあるので、 「あれは、四でござりますか」 「いや、あれは語(悟)でござります」  見るごとにだんだんに数が増えていく。そこでまた別の家の床の間の掛け物に、字が書いてあるのを見て、思い切って、 「もし、あれは六でござりますな」 と聞くと、亭主、 「いえ、これは質でござります」 [#地付き]——滑稽本『室の梅』  今日でも落語の演目にある「一目《ひとめ》上り」のたねである。落語では「質の流れだ」と落したり、「七福神だ」と落したり、「いや、あれは芭蕉の句だ」と落したりする。 [#改ページ]   無  筆  あるとしのこと、疫病がはやって、諸人が大いに難渋した。家々では山伏を頼んで、疫病除けの祈祷をして貰い、お守り札をいただいて、門口にはり、疫病神のはいってこないようにというお守りにした。  あるけちんぼうな男が、それを羨ましいことには思ったが、さりとて山伏を呼んで来て祈祷してもらえば、それはちっとやそっとの礼ではすむまい、お守りは欲しし、礼金は惜ししで、どうしたもんだろうと思案した。  挙句の果てにこすいことを思い付いて、よその家にはってあるお札をはがして来て、はっておけば、御利益は変るまいと、その晩、こっそりと、よそのうちにはってあるお札をはがして来て、自分のうちの門口にはり、何食わぬ顔をして寝てしまった。  そのあくる朝、隣りのうちの者が、何気なく見ると、門口に「貸しだなあり」と書いた紙がはってある。夜逃げをしたわけでもあるまいが、ふしぎなことがあればあるものと、まだ寝込んでいる亭主を叩き起して、あんまり朝寝坊をしているから、近所の子どもがいたずらをして、お前さんのうちを、空き家にしてしまったんだ、と言った。  亭主、あくびをしながら起きて来て、 「いや、それは疫病神のお守り札だ」 という。 「そんなばかな。お守り札ならば、『貸しだなあり』などと書くはずはないではないか」 という。亭主、しまったと肝をつぶしたが、ぬからぬ顔をして、「さればさ」とあらたまって言った。 「いや、それはこういう所存でござる。疫病神が来ても、この札を見れば、この家には人がいないと思って、はいるまいと、それでわざと、『貸しだなあり』と書きました」 [#地付き]——『噺本大系』      *  これは、後に「貸屋無筆」という落語になってよく知られている。親が無筆で、字が読めない。子の方は学校に行っているので、字もよめるし、一通りの理くつもいう、といった、明治時代には実例も多かったろうと思う設定になって、やはり、はやり病いのお守り札に、「鎮西八郎為朝の御宿」と書いてはってくれと頼まれる。よそからはがしてはっておくと、これが「貸家」札だ。子どもに笑われて親父が言う。 「これをはっておけば、疫病神も、あきだなだと思うからはいらない」  江戸時代になると、いっそう無筆は多かったろうし、目くそが鼻くそを笑うことにもなりかねないのだが、はなしはずいぶんある。      *  奴が二人づれで出かけた。一人の奴が、封をした状を一通拾った。これをおしいただいて、ああ、いいものを拾った、とよろこんでいる。つれが言うのには、 「そんなものを拾って、なんになるというのだ」  拾った奴は無筆で、こう言った。 「いや、久しく国もとへたよりをしないでいた。さいわいこの状をやろう」 [#地付き]——『噺本大系』      *  無筆な男、状を五つ六つことづかって、出かけはしたものの、さて、名書きが読めないから、どれをどこへ配ったらいいのかわからない。ええままよ、てんぼの皮と思って、ともかく、近所から片付けてしまえと、三丁目の伊与屋へ顔を出して、 「ごめんください。これは、京都から、こちらさまへと、ことづかりました」 と、書状一つ、取り出して渡そうとしたところが、取り次ぎの者が名書きを見て、 「これは、手前どもではありません。名書きが違っています」 と返した。そこでまた一つを取り出したところ、いやそれも違ったと言うわけで、 「どうも、お前さんは無筆だね。持っている状をみんな、ここへお出し。うちにあてたのを探してみるから」  すると、かの無筆、あわててふところをおさえて、 「とんでもない。みんな出させておいて、なかでいいのをより取りにしようというのか。そうはいきません」 と言った。 [#地付き]——『噺本大系』      *  もう一つ、親が無筆である親子の話。  親父は、息子が字がうまいというわけで、自慢してつれて歩く。  あるところで、大きい字を書いてくださいという注文で、何の苦もなく、紙いっぱいに書いて見せた。 「いやこれはよく出来ました。しかもこれは親父様の大好物の字じゃ」 とほめたので、親父は顔を赤くして、うちへ帰り、 「やいせがれめ。人様の前で、書く字も多かろうに、あんな字を書きおって、親に恥をかかせることがあるか」 「あれは、酒という字でござります」  親父、にっこり笑って、 「そうか。おらあ、女房のことでも書いたかと思った」 [#地付き]——滑稽本『室の梅』 [#改ページ]   合わぬ計算  以前こんなことを聴いた。寄席の話の枕だったろうか。  願いごとがあって、願をかけて、三年間酒を断つことにした。しかし、いかにも辛《つら》いので、改めて六年に延ばして、その代り晩だけ飲まして貰うことにした。しかしそれでもまだ辛いので、改めて十二年に延ばして、毎日、朝晩飲んでいる。  どこかに、計算を錯乱させるものがある話だが、それにしても、荒っぽい話で、あまり、いただけない話だ。  ところが江戸の噺本の中にある「三年坂の因縁」というのが、まさしくこういう一類の中での、それなりの筋の通ったものの一つだと知った。      * 「これこれ、おやじどの。ころびなさったな。どこも打ちはなされぬか」 「いえいえ、けがはいたしませんが、悲しいことには、この三年坂で一度ころんだ者は、必ず三年めに死ぬと昔から言い伝えておりますので、三年めには死ぬのかと思うと、それが悲しゅうございます。当年、六十一になりますけれども、三年や五年のうちに死にましてはならぬ身でございます。と申しますのは、大ぶんの金を、ある人に貸し付けましたが、その人が倒産いたしまして、その返済の約束がやっと整いました。十年賦で返すからというので、それで手を打ちました。その十年がかりの返済を、やっと三年とって死んでしまうのかと思いますと、これが何とも残念で、いのちが惜しゅうてなりません」 「これこれ、ここなおやじどの。お気遣いなされずに、ころびついでに、まあ、あと四、五度も、ころばっしゃれ」 「はてまあ、この人は。としよりだと思って、からかいなさるのか」 「いやいや、からかっているのじゃございません。こなたのためを思って、まあ四、五度もころばっしゃれというんです。すでに昔から、この坂で一度ころんだ者は、三年めに死ぬ、と言い伝えております。一度ころんで三年めに死ぬんなら、二度ころんだら六年めに死ぬことになる。三度ころんだら、九年めに死ぬことになる。数多くころぶほど、年がのびる道理じゃございませんか。こなたも、十年賦の貸金返済を、皆取ろうと思うんなら、あとまあ、三度もころばっしゃれ。一度は今ころんだから、合せて、四度。すると三四の十二年は、間違いなく、命が延びますよ」 「いやもう、これはかたじけない。それじゃ、短いけれども、あと三十年長生きいたしますように、膝頭が割れようとままよ。十度ほど、ころびましょう」      *  考えようによると、これは迷信打破に、効果のある話で、そのせいか、こういう理くつの立て方と説きように、福沢諭吉の書いたものの口ぶりを連想する。  右の話のような、錯乱の論理みたいなこととは少し違うが、西鶴の『本朝桜陰比事』に、「待てば算用もあいよる中」という話がある。|あいよる《ヽヽヽヽ》はもちろんかけ詞で、算用も合い、そして相寄る中ということだ。      *  昔、都の町に「うなづきばば」といって、仲人口のたいそううまい者がおった。仲人口をきいて、夫婦の仲をまとめるのが職業で、それで暮らしをたてていたが、このばばが口をきいて、まとまらぬ話というのはまったくなく、みな、めでたしめでたしと結ばれたのであった。  あるとき、男が三十五、女が十五という二人の縁組をまとめようとして、男の年を隠して、まとまるところまで話が進んだ。  ところが、娘の親が、聟がふけていて、三十五にもなるということを聞き出して、この結婚に異議をとなえた。聟の身体に何の不足もないけれど、いかにも二十歳の違いはこまる。とっても娘はやれない、というのである。しかしここまで話が進んだ以上、男の方では、何としてもこの娘を嫁に迎えなくてはと、破談にすることを承知しない。  仲人のうなづきばばも困り果てて、この始末をつけるために、奉行所に持ち出した。そこで双方ともに召し出された。 「娘の親は、男になにか特別な欠点があるというならば、それを申せ。年が違うということならば、すでに結納も交したことなのだから、娘をこの男の嫁として、送るように」 「いえ、申し上げます。年のことは、中に立って口をききました者が、あんまりないつわりを申しまして。うちの娘は十五、あちらの男は三十五。これでは、年が二十も違います。せめて、半分の違いならば、娘を送りましょうが。どうかここのところを、お聞き分けくださって、似合わぬ縁として、結納の品もお返し致したく、お願い致します」 「さようか。せめて半分の違いならば、と申すのじゃな。ではこういたせ。この結婚、五年待て。五年たてば男は四十。娘は二十。望み通り、半分の違いと相成るぞ」      *  蛇足を加えるまでもないが、娘の親の言った「半分の違い」は、二十歳の半分、せめて十歳ぐらいの違いならば、というつもりだったのを、名奉行がしらばくれて、四十と二十ということにすり替えて、まるく納めたのだ。 [#改ページ]   一 人 合 点  焙烙《ほうろく》は呼び立てながら、横町などへ売りに来たものであった。ちょうど欲しいと思っているところへ、「ほうろく、ほうろく」と呼び声を立てながら売りに来たので、おかみさんがあるじに向って、 「旦那。あのほうろく売りをお呼びになってくだされ」 と頼んだ。 「これ、これ。ほうろくや。ほうろくがもらいたい」 「へえ。どんなところに致しましょう」 「一番いいのを見せてくれ」 「これが一番でござります。お値段はこれは七十文でござります」 「七十文。そりゃ高い。十文にまけろ」  焙烙売りは、あまり値切られて、むっとして、「とても、とても」と取り合わないで、行ってしまった。  と、向うのうちから、買おうと声がかかって呼びこまれた。そこでも同じように、一番いいのが欲しいのだが、どれだという。 「へえ、一番いいのはこれですが、向うのうちで、十文にしろというので、とんでもないと、売らなかった品です」 「いや、こっちはまだその下だ。七文なら買うわ」  焙烙売り、いよいよ腹を立て、べらぼうめ、ばかにするなと怒り散らし、一番の焙烙を荷へしまいこもうとして取り落した。がちゃとばかりに、微塵にくだけてしまった。  はじめの夫婦、こっちからその様子を見ていたが、亭主、 「おい見たか。今のを買わなくてよかった。もう、こわれちまった」 [#地付き]——『噺本大系』      *  一人合点というか、一人で勝手に納得し、一人で勝手に心得ている、という手合いは、意外にいるものだ。      *  ある人、はじめて醤油屋を思い立った。小売りをやろうというわけである。  さて、詰め樽から、はかり売りをしようとしたが、呑み口からは醤油がなかなか出ない。どうしたものかと思っていると、買い手が気の毒がって、そりゃ、樽のふたのところに、きりでもんで小さい孔をあければ、自由に醤油が呑み口から出てくるよ、と教えてやった。  醤油の新店の亭主、これを聞くと、はらはらと涙を流し、ものも言わずに、じっとさしうつむいている。きりもみを教えてやった客がどぎまぎして、 「恥をかいたと思って歎いているのかい。しかし、恥じゃないよ。聞くは一たんの恥、聞かぬは一生の恥。少しも恥ずかしがることはない」 と言って、なぐさめた。すると亭主は顔をあげて、 「いやいや、それを知らなかったから恥ずかしい、口惜しいというわけで、泣くのではござんせん。今、教えて貰ったことを、せめて、三年前に知っていたら、親父を死なしはしなかったものをと、それが残念で、涙が出るのでござります」 という。「それはまた、どうして」と聞くと、亭主、 「さればでござります。わたくしめの親父は小便がつまりまして、相果てましてござります。こうしたことを知っておりましたら、あたまへ、きりもみをして孔をあけ、小便の出をよくしてやりましたろうものを」 [#地付き]——『噺本大系』      *  貧しい暮らしをしている友達のところへ、桜の花の一枝を持って、訪ねて来た、ふだんからの風流仲間。亭主悦んで、これを早速徳利にいけて、しばらくはこれを眺めて楽しんでいたが、やはりこのままではもの足りぬ、一杯飲みたいな、ということになり、巾着の底をはたいて、やっと二十文ほど取り出した。これで酒を買えば、二人が飲むくらいは何とかなろうと、亭主は出かけて行って酒を買って来た。  かんをつけて、さていよいよというところへ、折あしく、大酒呑みと名うてのなにがしが、お久しぶり、と訪ねて来た。はてこまった。こちらは早く飲みたいけれど、ここで出したら酒が足りぬ。一人で飲まれてしまう。さりとてこの男、いつ帰ろうとも知れぬ。案じわずらっていたが、しばらくして亭主、はじめの客に向って、 「さて、水辺の鳥は、どう致しましょうかな」  すると、それを受けてはじめの客が、 「山に山を重ねないわけにはいきますまいな」  つまり、|※[#「さんずい」、unicode6c35]《さんずい》に酉《とり》は酒、山を重ねれば出という字。  これを聞いた大酒呑み、字は全く知らぬ無筆のこととて、一人合点。 「わあ、なさけない。またお二人で、連歌をなさるのか。それはごかんべん」 と逃げて行った。 [#地付き]——『噺本大系』 [#改ページ]   職 業 図 会  ものに心得た老人が、碁を打っている人々の家業をあててみせようと言って、「あれは侍衆、これは出家衆、またあの人は医者、こちらはお百姓、それにもう一人は商人」と一人々々について言って行ったが、どれも少しもたがわず、ぴたりとあたった。聞いた人が舌を巻いて、 「どうして、それがわかりました」 「いや、なに。碁を打つときのことばを聞いていれば、おのずと知れることだ」 と言って、次のように解いてみせた。  ——旗色が悪い。勝って甲の緒をしめたがよい、などと言うのは、侍衆。  ——死ぬる、死ぬる。なむあみだぶつ、なむあみだぶつ、などと言うのは、出家衆。  ——もはや、耆婆《ぎば》(名医)の薬でもだめ。脈があがった、などと言うのは、医者。  ——とかく地を多く取ったがよい。地を拡げよう、などと言うのは、お百姓。  ——こまかに目をせせったがよい。とかく損をしないようにしよう、などと言うのは、商人。 [#地付き]——『噺本大系』      *  職業がらということは、今日でもあろうが、昔はとりわけ多いようだ。同じ仏教でも、浄土宗と法華宗とは、小咄のいい餌にされているし、坊主もしょっちゅう材料にされているが、それらは後にしてほかの職業を眺めてみよう。  質屋の娘が嫁入りした。夫婦仲もよかったのだが、つまらぬことにも、とかく「九九」がことばに出る。たまに見えたお客人の前でも「九九」を使って、ものを言う。なんともみっともないことなので、とうとう、この嫁を離縁した。そのときにこの嫁が言うのには、「三四十二で嫁入りし、四四十六で子をもうけ、四五二十にて、去らるるよ」 [#地付き]——『醒睡笑』      *  ある家で、井戸掘りと屋根の葺き替えとを一度にやったので、掘り師と葺き師とが、同じ作業場で顔を合せることになった。屋根屋が井戸屋に向って言った。 「互いに同じ職人ではあるが、そなたよりは、わしが上座につく位だ。何故と言って、身分の高貴な方々のおられるところでも、その上へあがるし、神社仏閣の堂塔の上へもあがるのがわしじゃ。それに引き替え、そなたは地面の底へはいっての仕事だから、人の踏んづける下へはいるのだから、わしよりは下になるわけだ」  井戸掘りは腹を立てて言った。 「なんの、なんの。おれの方が上だ。さっきこの家のお杉どんが、昼飯の仕度が出来たと言って呼びに来たときのことばを聞かなかったか。『屋根屋殿、下《お》りて昼飯としやれ。井戸掘り殿、上《あが》って飯食わしゃれ』と言った」 [#地付き]——『噺本大系』      *  桶のたがを取り替えるのを仕事にしている「かづら結い」の職人が、町の中の路のかたわらの地べたにすわりこんで、仕事をしていた。ふと見ると、向うの家では、屋根の上にあがって、屋根屋が葺き替えをやっている。かづら結いがつぶやいた。 「羨ましいこった。同じ職人でも、高いところにあがって、高みから世間を見おろして、人より上にいて渡世をする者もいるのに、おいらみたいに、犬っころにも蹴散らされたりして、まったくよくない商売じゃ」  これを聞いた屋根屋が言った。 「どうしてどうして、何のいいことがあるものか。高みにいるから、冬は吹きっつぁらしのぶるぶるだし、夏は夏で、一日中照りつけられ、居眠りでもしようものなら、ころげ落ちる。なかなか、見た目ほどには楽ではない商売さ」  このやりとりを耳にした男が、 「これこれ。上を見れば見たできりがない。下の方も見たらどうだい」  桶屋が聞いて、 「おいらよりも下でする仕事があるか」 「はて、おいらは井戸掘りじゃ」 [#地付き]——『噺本大系』      *  職人の種類も減り、町でも横町へ来る物売りがめっきり減った。威勢よく「鰯こい」というあとから篩売りが「ふるい、ふるい」。そのあとから古金売りが「ふるかねえ、ふるかねえ」、というのも洒落れた話だ。「時蕎麦」の話は、「鵜のまねする烏」の失敗話の一類だが、それには、 「おい、甘酒屋。あついか」 「へえ、おあつうございます」 「あつけりゃ、日蔭を歩きな」  これをまねした男が、 「おい、甘酒屋。あついか」 「ちょうど、よろしゅうございます」 「そうか。じゃあ、一杯くれ」 などというのもある。  山中の別荘村へ、麓の村から自動車を仕立てて、はるばるやって来る八百屋さんが、別荘村で、合図代りにレコードをかける。北島三郎の「函館の女」。 「はるばる来たぜ。はこだてへ」 [#改ページ]   風が吹いて  廻国巡礼の六部が、六部になった因縁を、語り申すべいとしゃべりだした。  人というものは、運がなくちゃあ、持ち上げようにも、なんとしても頭があがりようがない。  わしは若いときにはお江戸にいましたが、そのときは、なんでも夏のとっつきから秋へぶっ続けて、毎日々々、ひどい風が吹き続けたことがありました。そのとき、何か金もうけでもしようってことで、いろいろと首をひねりましたが、とうとう、とてつもないことを思いつきました。金もうけ疑いなしの妙案というわけです。  何をはじめたかって、箱屋をおっぱじめたってわけでさあ。やれ重箱だ、やれ櫛箱だと、箱って名の付くものは片端から買いこんで、これを売って、大もうけをしようというつもりだったんです。  風が吹いたによって箱屋になるとは、どういう思案かとお言いなさるがの、まずお聞きゃれ。  毎日々々、とっ拍子もなく風が吹いて、お江戸はもう、ひどい砂ほこり。そだもんだから、自然に砂ほこりが人の目の中に吹きこんで、目玉のいかれてしまう者が、たんと出来るこったろうと、ふんだんです。そこがわしの思案したところで、世間に、急に目の悪いもんが出来たからって、別にどうしようもない。なっちまったもんの不幸で、それらは何かして暮らしをたてなけりゃならない。そうすれば、みんな三味線を習い覚えて、門に立つよりほかにはあるまいと考えついたんです。  そうすると、三味線屋がどこの店も大繁昌して、あっちでもこっちでも猫の皮が欲しい。それで、世間の猫がかたっぱしからとっつかまって殺されてしまうから、鼠どもが大はびこりで、お江戸中をあばれ廻って、箱という箱を、みんなかじってしまうってことは、火を見るよりも明らかなことだ。  そこでわしがかねて買いこんで置いた箱を取り出して、箱屋商売をおっ始めたら、羽が生えたように売れに売れて、大もうけするという段取りになるはずだと、考えたわけなんです。  それで、身上のありったけを投げ出して、箱をしこたま買いこんだと思わっしゃい。ところがそうは問屋が卸さない。まるっきり、売れやあしませんや。きっと売れるという算段がみごとにつっぱずれてしまったんで、所詮わしは商いには向かない、金もうけの運には恵まれていないと、一念発起して、六部となりました。世の中というものは、思わくどおりには、いかないもんでござんすなあ。      *  これは『膝栗毛』の中にある話で、聴き手は弥次郎兵衛と北八とである。つまり、旅の一夜のつれづれに、身の上話の一つで語られる話だが、おとし咄を創作したのか、世間にすでにあった咄を挿入したのか、その考証はおくとして、普通は、風が吹いて、桶屋がもうかるという話になっている。猫がいなくなって、鼠が桶を食い荒らすから、というわけだ。それが諺みたいなまでになって、原因と結果とが飛躍しすぎているというと、「風が吹いて桶屋がもうかる」みたいな話だ、という。  しかし、順ぐりに、次へ次へと思いがけない方へ転回していく話というのは、ずいぶんあるように思う。長谷観音の御利生を説いた藁しべ長者の出世譚も、つまりはそれだ。  観音のお告げで、目がさめてから、最初に手にしたものを捨てずに持っていろと言われた男が、山門でころんで、起き上ったら、ころんだときに、一本の藁しべを握っていた。歩いていくと、虻が顔の周りを飛び廻ってうるさいので、つかまえて、腰をしばって、飛ばしながら歩いていくと、貴人の子どもが珍しがって欲しがるので、与えるとお礼に蜜柑を三つくれた。今度は、旅の途中で水がなくて、渇して死にかけていた人にその蜜柑を与えて救って、お礼に布を三反貰った。藁しべがたちまち布三反になった。  その次は、原話の『宇治拾遺物語』も少し無理だが、引いて来た馬が病気で倒れてしまったところに行き合せて、始末に困っている馬の持ち主の従者に、布を一反与えて、死んだ馬を自分のものにした。そしてまた遥かに観音を祈請したところ、馬が生き返った。そこで、残りの布一反で鞍など買い整え、あとの一反で十分に馬に飼料を与えて、堂々と乗って行くと、急に任国に発つ人のところに行き合せ、馬をゆずって、家邸と田地とを預ったが、その人が遂に帰って来ず、帰らなかったらという約束通りに、その家邸や田地が自分のものとなり、長者になったという話。  外国種の話では、とり替えるたびに、値打ちの下っていく話もあって、結局、牛一頭が家鴨一羽になってしまう。行き逢った人が、さぞかし、家で待っている細君が怒るだろうというと、いや、うちのは怒らない、わしのすることには間違いがないと言う筈だと言う。そんなばかなことがあるものかと大金を賭けて、男の家へ行ったところ、出て来た女房が、牛を家鴨に替えて来た男に、お前さんのすることには間違いがない、と言ったので、大金をせしめた、というような話があった。詳しいことは覚えていない。  鼠の嫁入りで、世界で一番強い者の所へ嫁にという選択で、太陽・雲・風・壁・鼠とぐるりと廻って、鼠のところに嫁に行ったという話もあった。 [#改ページ]   処 置 な し  あるところで、人々が集まって碁を打ち始めた。  どこにでもいるものだが、そんな席で、とかく脇から口を出して、助言をしたがる人がいる。そこでも、そういう男がいて、うるさくて仕方がない。ああ、そこんとこはきれ、ああ、そこんとこはおさえてと、一手一手に口を出す。  みんな、興がさめてしまって、どうか、頼むから、脇からの助言は無用に願いたいと言うのだが、口をつぐむのは、その当座の一二手だけのことで、すぐにまた口を出す。  とうとう、みんなも我慢しきれなくなって、 「これほどみんなが、口を出すなと頼んでも、すぐに口を出す。それは、お前さんがここにいて、目で見てるからだ。ここから出て行ってもらいたい」 「いや、俺もそう思う。とかく、目で見ているのが毒なんだ」 と、その場は納得して、席を立ち、半町ほど帰って来たところで、ぱたりと碁の友だちに出会った。  この助言を言いたがる男、 「いや、これはこれは。どちらへ」 「なに、ちょっと手すきなので、上の町の会所へ、碁の見物にでも行こうかと思っているところさ」 「そうか。実は俺も今まではあそこで見ていたんだが、何しろ、下手の横好きばかりでね。まだるっこくて仕方がないんで、今、引き上げて来たところさ。それにしても、いいところで会った。俺が引き上げてくるときに、白の方がだいぶおされていた。しかしまだ白の方には、すみにきってとる手があるんだ。ごめんどうだが、あちらへ行ったら、その手があることを忘れるなと、注意してやってくれ。頼んだぜ」 と、言伝てをした。 [#地付き]——『噺本大系』      *  ある男、ばくちに負けて、すってんてんになり、着る物までとられて、まるはだか。うちへ、帰ろうにも帰られない。おまけに寒くてどうしようもないので、辻堂の縁の下にもぐりこんだ。  もぐりこんでみると、そこに犬ころが一匹いた。しめた、これこそ日本一、と思い、犬ころを抱いて、ちっとはそれであたたまった。  ところがそこへ、誰やらがもう一人、もぐりこんで来た。誰だと言うと、この男もばくちに負けて、身ぐるみはがれたくち。ぶるぶる震えながらやって来て、 「ひどいめにあった。もう、ばくちはこりごりだ」 と言いながら、闇に目がなれて来て、先客の様子を見ると、何やら抱いている。後から来たのが、 「それは一体なんだ」 「いやそのこと。犬ころが一匹いてくれたんで、お蔭でこごえ死にもしないで、すみそうだ」 「それは重宝だ。ちっとの間、俺の方に貸してくれ」 「とんでもない。だめだよ」 「そうか。それじゃ、その犬ころを賭けて、一番やろうじゃないか」 [#地付き]——『噺本大系』      *  ここに出てくるようなのは、全く、処置なしであり、お手上げである。「人間分類」を立てるとすれば、「処置なし族」とでも言うより仕方がない。まだ、こんなのもある。      *  ある人のところに、女の子が生まれた。はじめての子で、父親は大喜び、名も|おはや《ヽヽヽ》と付けて、どうだ、|はや《ヽヽ》という名はいい名だろう。これからあと、いくたり出来ても、|はや《ヽヽ》の字を付けよう、と言い言いしているうちに、また女の子が生まれた。父親は早速に、|こはや《ヽヽヽ》と付けた。  女房が言うのは、 「お前さん、いくら|はや《ヽヽ》の字が好きでも、このうえまた娘が生まれたら、|はや《ヽヽ》の字はもう付けられまい。いいかげんにしたらいい」 と言った。しかし男親は、そうなるとかた意地者で、 「いやいや。何人生まれても、|はや《ヽヽ》の字をつける」 と、一人りきんでいた。するとまた懐妊した。今度も安産で軽かったが、それがふた子で、しかも二人とも、女の子だった。女房は夫に向って、 「これ、旦那どの。この二人の娘には、もう、|はや《ヽヽ》の字は付けられまいが」 と言った。夫は、いや、そこを付けずにおくものかと、ふた子の娘たちに|はや《ヽヽ》の名を付けた。いわく、|またはや《ヽヽヽヽ》、|いやはや《ヽヽヽヽ》。 [#地付き]——『噺本大系』      *  この|おち《ヽヽ》は、わたしがちょっと細工した。原文は「いやはや、又はやとつけてよびけり」で終っているのだが、訳文では、逆にしてみた。いやはやがあとの方が、かた意地の父親の、覚えず洩らす歎息が聞かれるだろうと思ったからだ。これはさかしらだろうか。別の名を付けるとすれば「もはや」「矢継ぎばや」などでもいい。 [#改ページ]   愚 兄 賢 弟  男の子を三人持っていた父親が、ある時、三人を呼び集めて、言った。 「昔、もろこしに、蘇老泉という人があった。この人には、軾《しよく》、轍《てつ》という二人の子があった。この子達がまだ幼かった時に、父の老泉は、二人の一生の間のことを見透して、文章にして書いておいたが、後になって思い合せると、二人の子達の一生は、父の見透しに寸分違わず、父が書いておいた通りであったという。  さて、そこでだ。わたしは別に、老泉を気取るわけではないが、今のうちに、お前達の心のほどを見ておこうと思う。なんでもいいから、お前達のめいめいの望みを言ってごらん。わたしはそれで、お前達の先行きを見透しておこう」  こう言った。  この三人の子達は、上の二人は、ちっとばかり、知恵おくれともいうべき者で、末の弟は、利発な生まれつきであったが、まず順序に従って、長兄から言うことになった。そこで長兄が言った。 「わたしは、富士の山が欲しい」 「これはまた大きな望みだな。富士山を手に入れて、何にしようというのだ」 「枕にしたい」 「さすがに総領だ。富士の山を枕にしようとは。うむ、なかなかいいぞ。それで、次はどうだな」  すると、次兄は負けずに言った。 「わたしは近江の琵琶湖が欲しい」 「これもまた大きな望みだな。琵琶湖を手に入れて、何にしようというのだ」 「硯の水にしたい」 「うむ。これもなかなかいいぞ。なにしろ望みが大きいな。それでは、末の弟はどうだ。何が欲しい」  利発者の末の弟に、父親は大いに期待してこう尋ねた。すると末の弟は、 「わたしは別に何も欲しくはありません。そうですね、牛のくそが欲しいですね。三かたまりだけ」  父親と長兄次兄の三人は、なんということかと、大笑いして、「それをいったい、何にするのか」と聞くと、末の弟の言うのには、 「まず一かたまりは、子供がたわけたことを言っているのに、大喜びしている親父に食わせたい。それから、富士山が欲しいなどと言う者に一かたまり食わせたい。もう一かたまりは、琵琶湖が欲しいなどという者に食わせたい。これよりほかには、わたしの欲しいものはありません」  こう言って弟は、さっと逃げて行った。 [#地付き]——『噺本大系』      *  こういう場合に、三人の兄弟が、次々に三人三様のことを言い、そして、最後の一人、末弟が一番知恵があり、まっとうなことを言う、というのは、一つの型になっている。あるいは、これが、夢の話であって、末の弟の夢が実現して、至上の幸福を得る、というような話は、古今東西にわたって類型が多い。この話では、父と兄弟の三人が、末の弟にやられてしまうが、そして、父が働かないが、右の話のように、父親が手放しで喜ばないで、末の弟を支持する側に廻る話もある。  それから、日本の、こういうばかばかしい話では、とかく富士山と琵琶湖が引き合いにだされるところがおもしろい。  嘘つき村の話で、嘘のつき競べにやって来た嘘つきの名人を自称している男が、村にはいって来て、子どもをつかまえて、どえらい嘘をつかれて、逃げ出す話などもそれだ。 「おとっつぁんはどこへ行った」 「駿河の富士山が倒れかかって来たんで、お線香三本持って、つっかい棒をしに行ったよ」 「おっかさんはどこへ行った」 「奈良の大仏様のゆかたが汚れたってんで、石鹸持って、近江の琵琶湖に洗濯しに行ったよ」  こんなときに、富士山と琵琶湖とがとかく引き合いに出されるのは、日本人の一般的な知識として、この二つが「大きいもの」の代表として知れわたっていたことを思わせる。それに近江の国が陥没して琵琶湖が出来、そのとき駿河の富士山が生まれ出たという伝説も知られていた。  やっぱり、富士山が引き合いに出される話では、次のなどは、ちょっとほほえましい。      *  世間に、「こぼれ幸い」ということばがある。それはどういうことかというと——、  昔、三人姉妹がいた。仲が良くて、姉を真ン[#小さな「ン」 ]中にして、三人が一つ枕をして、並んで寝ていた。  ある晩、姉が夢を見た。 「わたしの身体の上へ、富士の山がころびかかって来た」  その夢の話を聞いて、夢合せをする者が言った。 「それは縁起がいい夢だ。それはあんたが金持ちの男と結婚する知らせだ」  すると、その夢合せを聞いていた次のむすめが、 「あれほど大きな富士の山が、ころびかかってくれば、姉さん一人の上にだけ、ころぶということはありますまい。姉さんの両側に寝ていたわたし達二人の妹の上へも、ころびかかってくるでしょうに」  こう言って、それを期待していたところが、この三人姉妹、はたして三人とも、それぞれ富貴な男と結婚した、という。これよりして、こういう幸せを、「こぼれ幸い」ということとなった。 [#地付き]——『醒睡笑』  夢の合せ方がうまくて、姉の幸せに、あやかったわけである。 [#改ページ]   転 失 気  落語に「転失気」という題の咄がある。もっともらしく、むずかしくこう書いて、|てんしき《ヽヽヽヽ》と読む。咄は、この耳馴れないことばを聴いた男が、正直にさらりと質問してしまえばよかったのに、知ったかぶりをして、心得顔に口を合せたために、失敗したという、落語としてはありふれた運びの咄で、落ちもあまりうまくない。  それなのに、ここにこれを持ち出したのにはわけがある。つまり、本来の、そのものずばりの名の連想のえげつなさを避けて、ここではこの名に入れ替えて、話を進めようというわけだ。ただし、その名を題とする落語を紹介するわけではない。      *  転失気などと、しかつめらしい語を持ち出したので、ここでは、左大臣藤原時平公に登場して貰う。  時平という人は、大へんな笑い上戸で、おかしいとなったら、意地にも我慢にも、どうすることも出来ない。そして、いったん笑い出したとなったら、まったく常識では考えられないほど、身をもだえて笑い続ける、といった有様である。  歌舞伎芝居の方では、新歌舞伎十八番に「時平《しへい》の七笑《ななわら》い」というのがあるが、これなども、時平の笑い上戸だった事実が、次第に誇張されて、ここまで話が進展したのだろう。  それはさておき、時平は藤原氏一族の勢力を背景に、思いのままの、勝手気ままを押し通そうとする。時平に並んで、右大臣は菅原道真であったが、官位の上下関係は厳然としているから、時平が我意を通そうとはかると、道真にはそれをとどめるすべがなかった。  ある時、大事な事がらで、またそんなことがあった。どうにも、とどめようがないと、道真は歎息して、 「こんどのことは、どうしても、左大臣殿のやり方が不都合だと思うけれども、この人がこうするという以上、どうしようもない。しかし、なんとかとどめようはないものだろうか」 と、愚痴まじりにもらした。すると、それを耳にした下役の某が言うには、 「そんなこと、大したことじゃありません。まあ、わたしにお任せ下さい。きっと、左大臣殿の無理押しを、中止させてみせましょう」 と言う。そんなことが出来るものかと、道真は半信半疑で、 「しかし、いったい、そちはどうしようというのか」 と言ったけれども、その役人は取り合わないで、 「ま、細工は流々というところ。だまって見ていて下さい」 と言う。  さて、いよいよ、会議の場所である。時平は重々しく正面の座に就き、右大臣以下、諸卿がずらりと居流れる。重苦しい空気の中で、時平は思い通りにことを運ぼうと、興奮して発言していると、例の役人がその場に出て来た。「申し上げます」というわけで、文ばさみに文をさしはさんで、きちんとした上奏の礼式を崩すことなく、もったいぶって、時平の前に座をすすめた。そして、文を捧げて差し出した瞬間に、高々と一発、転失気を鳴らした。  時平は、受け取ろうと差し出した手が、わなわなと震え出して、笑い始めた。笑い出したとなると、さてもう笑いがとまらない。会議もなにも、あったものではない。 「今日はもう、どうしようもない。右大臣殿に、お任せする」 と、それさえみなまで言わずに、かかえられて、身をもだえながら、退席してしまった。おかげで|こと《ヽヽ》は道真の思わく通りに、無事に運んだ、という。      *  ところで、転失気とは何かということは、もう、今さら言うこともあるまいと思う。まだ釈然としない向きには、もう一つ、話を書き添えておこう。  時平、道真に登場して貰ったのだから、役不足のないように、征夷大将軍徳川家康に、御出馬を願おう。  大坂夏の陣も終結して、世の中は名実ともに、家康のものとなった。さて、家康主催の祝賀の大宴会である。二代将軍秀忠を始め、家康の子息達、譜代・外様の諸大名が綺羅星のごとくに居流れた。  その厳粛な席で、突如、家康公が高々と転失気を放ったのである。あっと息をのむ一座。すると、徳川御三家の筆頭、尾張家の義直が進み出て、 「兵権、御手におさまり、祝着至極に存じます」  負けじと紀伊家の頼宣が、 「武運長久、慶祝の至りに存じます」  すかさず、水戸家の頼房が、 「天下泰平、おめでとう存じます」      *  この辺の話なら笑い話ですむけれども、昨今、転失気の爆発事故が、ニュースになっている。こうなると、笑いごとではすまない。 [#改ページ]   ふんどし三話  あんまり、品のいい話ではないが、笑いをねらう小咄には、昔からとかくふんどしの話が多い。転失気まで落ちたついでにその話をしておこう。東京の下町の子ども仲間では、「長い話をしてやろうか」と言って、「天から長い越中ふんどしが降って来た」というのがあった。「長い」というのを、「ナガーイ」とのばして言うだけのことだったが、こんな他愛のないことを言っては、よく笑い合った。これではあまりに不完全で、おそらくもう少し前後があって、もう少しきわどい話だったに違いない。  弥次郎兵衛と北八になると、とかくそんな話ばかりしている。      * 「なんと弥次さん。つかぬことを聞くようだが、白い手拭いをかぶると、顔の色が白くなって、とんだいきな男に見えると言うことだが、ほんとうかねえ」 「そりゃそうに違いない」  そこで北八が、袂からさらしの手拭いを出して、ぎゅっと頬っかぶりにすると、通りすがりに、女達が、北八の顔をのぞいて見て、みな、笑いながらすれ違っていく。北八はぐっと得意顔でそり返り、 「なんと見たか、弥次さん。どんなもんだ。今の女どもが、おいらの顔を見て、嬉しそうに笑っていったわ。どうでも色男は違ったもんだ」 「おきゃあがれ。笑うはずだわな。手めえの手拭いを見ろよ。もめんさなだのひもがさがっていらあ」 「やあ、こりゃ、手拭いじゃあない。越中ふんどしだ」 「手めえ、ゆうべ風呂へはいるとき、ふんどしを袂に入れて、それなりに忘れていたんだ。大かた、今朝顔を洗って、それで拭いたんだろう。きたねえ男だ」 「そうよ。道理で、わるぐさい手拭いだと思った」 「ぜんたい手めえが、ふだんからしわん坊だから、こんな恥をかくんだ」 「なぜだい」 「もめんなんぞをしめるから、手拭いと取り違える。おいらを見ろ。いつでも絹のふんどしだ」 「それだと言って、屋根屋が、長局の葺き替えに行きゃあしまいし、絹をしめることもねえよ。ままよ。旅の恥はかき捨てだ。   手拭いと 思うてかぶる ふんどしは さてこそ恥を さらしなりけり とはどうだ」      *  弥次郎兵衛と北八のふんどし話はまだ続く。 「ふんどしを鼠にひかれた話だがね、北さん。順礼や六部と、木賃泊りをしたと思いなせえ。時に手めえが夜中に起きて、何かまごまごしている。もの音でみんなが目を覚して、おまえさん、何をしてなさるというと、手めえが言うには、いやわしは、ふんどしを鼠に引かれやした。たしか、二階の方へ引いていったようだと言うと、同宿の順礼も六部も、そう言われりゃあ、わしも枕元に置いたふんどしが見えぬ、という騒ぎになった。  こりゃみんな鼠にひかれたらしい。なんでも二階へ行ってみやしょうというので、みんな伴《つ》れ立って、はしごをあがりやした。そうすると、二階の隅の方で、三味線の音がする。こいつはふしぎだと、あがり口からすかして見ると、鼠どもが大勢よって、みんなのふんどしをひろげて見て、一匹の鼠が言うのには、おいらが引いて来た六部のふんどしは、振うと三味線の音がするのは、どうしたことだ。合点がいかぬと言いながら、そのふんどしを、口にくわえてふるって見ると、なるほど、チチチチチンチンなぞとなりやす。  そこでまた別の鼠が言うには、六部のふんどしに限って、三味線の音がするのもふしぎだ。ものはためし、おいらが引いて来た順礼のふんどしもふるって見ようと、おなじく口にくわえてふるうと、これも、チチチンチンチンとなりやした。  こいつは妙だと、また一匹の鼠が、おれは北八とやらいう男のふんどしを引いて来たが、これは越中だから、短いから鼓弓の音がするだろうと、くわえてふるって見たところが、ズズンズンズンと、義太夫の三味線の音がしやす。  そこで鼠どもが、こいつはふしぎだ。六部や順礼のふんどしは、みなかわいらしい、歌三味線の音がするに、なぜ北八とやらがふんどしは、義太夫三味線の音がするんだろうというと、隅っこの方にいた、分別臭い一匹の鼠がしばらく考えていたが、そりゃそのはずだと言う。なぜそのはずだ。はて、北八とやらは、大かた太棹だろうよ」 [#地付き]——『膝栗毛』      *  余白にもう一つあげておこう。  ひぢりめんのふんどしをして、はでに見せようと、「八内、明日は愛宕へ参るぞ」と命じて翌朝早く湯を立てさせ、身を清めたまではよかったが、ひぢりめんを湯殿の竿にかけたまま忘れて、あわててそのまま出かけていった。坂にかかって、裾をからげると、通りすがりの者が、にこにこ笑っていく。どうだ、おれの晴姿をみたかと得意になっていると、茶屋の女どもが腹をかかえて笑い、八内までが笑い出した。ふしぎに思ってよく見ると、笑うも道理、ふんどしをしていない。 「八内め。主に恥をかかせおったな」  八内、おそれいって、 「いや、お前様ほどの方がふんどしをしておられぬのは、大ていのことではあるまい。何ぞの願かと存じました」 [#地付き]——『噺本大系』 [#改ページ]   ささいのこと  江戸見物に出て来たいなか者、四、五日逗留しているうちに、あるときの膳に、|さざい《ヽヽヽ》のつぼ焼きが出て来た。  もとより、山家育ちのことだから、つぼ焼きという料理が、さざいの実をとり出して、味をつけて、ふたたび貝に納めてあるものだ、などということは知らない。それどころか、さざいそのものさえ、見たことがない。ただ、まるごと食うものだと心得て、そのまま、ふたもとらずに噛った。ふたといっても、さざいのことだ。あの口のところをふさいでいるふたは、石のように固い。外側の、角《つの》ばっかりのでこぼこを、いきなりかじりにかかったので、あるじは思わず笑って、 「もしもし。それはふたをとって、中の実だけ、召し上ってください」 と言ったものだから、いなか者は恐縮してしまって、 「いやどうも、これは失礼をいたしました。存ぜぬこととて、大事なお道具に、歯形をつけてしまいました」 [#地付き]——『噺本大系』      *  |さざい《ヽヽヽ》というのは、さざえの訛りだ。江戸以来、東京者は「栄螺」と書くあの貝を、さざいという。はえ(蝿)が|はい《ヽヽ》になったり、かえる(蛙)が|かいる《ヽヽヽ》になったりするのと同じで、正確に、|はえ《ヽヽ》・|かえる《ヽヽヽ》と言われると、どうもいなか臭く感じる。「梅は咲いたか、桜はまだかいな」にしても、その替え唄「浅利とれたか、蛤はまだかいな」を唄って、「さざえはりんきで、角ばっかり、しょんがいな」と、|さざえ《ヽヽヽ》と唄われると、重苦しい。江戸の本で、栄螺を|さざゐ《ヽヽヽ》と書いているのは、|い《ヽ》と|え《ヽ》と、いったり来たりする発音に気がついていたからだろう。   二三人 栄螺のことで 喧嘩をし というのも、ほんの些細な栄螺のことで、という洒落をねらっているわけだ。      *  いなか者が、食事の席で、とかく笑いものにされることは多かったようだ。  明治二年の夏のこと、鹿島万兵衛は用事があって、友人四、五名と、つれ立って深川の木場に行き、そのもどりに、昼飯をたべようと、八幡前の平清《ひらせい》にあがった。江戸でも有名な料理屋である。女中が、風呂が沸いているから、食事の前に汗をお流し下さいというので、一同どやどやと風呂にはいった。するとその中の一人が、 「深川の水は、塩気があって、風呂の湯なども、茶のような色だと聞いていたが、この湯はそうでもないな」  などというので、 「いや、これは、一荷いくらという水道の水を運んで来て、沸かした湯だ」 と説明したものだから、「さすがに平清だ。それにしてもそりゃ高くついてる湯だ」というわけで、みんな、そうそうに上った。  そこまではよかったが、座敷にとおると、床の間の脇に、西瓜が真ッ二つに割って置いてある。 「こいつはありがてえ」 と、一人が湯上りののどをしめそうと、その西瓜をあんぐりとやった。女中を始め、ほかのものも大笑いだったが、当人は一向気付かず、平気でいた。実はその西瓜、座敷の蝿を集めるために、かた隅に置いてあるのだと聞いて、その男、大さわぎで、はき出すやら、うがいするやら、大笑いであった。  これに似た話はまだほかにもある。  ある夏の夕方、大伝馬町辺の大店の隠居が、番頭二三人づれで、高砂町の万千楼に上った。二階に上っていくと、ちょうどそのとき、表の通りを「鰯こい、鰯こい」と、威勢のいい、夕河岸の鰯を売りに来た声が聞えた。すると、つれの一人が、 「ねえさん。早く、早く。あの鰯を買って、ぬたにしてくれ」 と注文した。料理屋でも、何々楼と名|告《の》る店は、それなりの格式もあるうちだし、まして二階に上るお二階の旦那衆が、呼び売りの鰯のぬたでもあるまいが、女中はかしこまりましたとお受けして、いたまえに通し、やがて膳に出て来たので、一同、一流の料理をよそに、鰯のぬたで舌鼓、というのも、おかしな具合である。  鰯のぬたを平げて、一段落すると、女中が丼鉢に豆腐を、こぶりの半丁ほどのを入れて、めいめいの膳に添えた。すると一人が言った。 「おい、ねえさん。この奴豆腐は、ばかに大切りだな。それに、これには何をつけてたべるんだ」  女中はおかしさをこらえて言った。 「いえ、これは召し上るお豆腐ではございません。『お箸洗い』でございます。このお豆腐へ、皆さんの、鰯のぬたを召し上ったお箸をおつっこみあそばしますと、お箸についた生ぐさいにおいがとれますんでございます」  皆々、恥入って、ほうほうのていで、立ち戻った、という。  以上のはなしは、鹿島万兵衛の『江戸の夕栄』に出ている。万兵衛の履歴については、中公文庫にはいった『江戸の夕栄』の解説にゆずることにする。  大伝馬町辺の大店の隠居、とあって、いなか者の話ではないが、「高砂町の万千楼」などにいくのには、場違いだったのだろう。  風習が違えば、とんちんかんは仕方がない。つい、大正の頃までは、帝国ホテルの宴会で、フィンガー・ボールの水で、がらがら、ぷっと、うがいをするお客さんもいたというのだから。 [#改ページ]   ことばのやりとり  ある人、小者を雇い入れた。聞いてみるとその小者は、今までは黄檗山にいた、というので、 「その方は、隠元のお書きなされたものは持っておらぬか」 と問うたところ、 「いかにも、持っております」 という答え。これはいいことを聞いた、してやったりというわけで、 「それではそれを、明日、座敷の床の間にかけておけ。拝見つかまつろう」 ということだったので、小者は「かしこまりました」と言って引き下った。  翌日、起きて、早速床の間を見ると、ひどく古くなった下帯が、床の間にかけてあった。びっくり仰天して、小者を呼んで、「これはいったい、どういうことか」と聞いたところ、けろりとして言った。 「いや、これが、隠元様がおかきなされたふんどしでござる」 [#地付き]——『噺本大系』      *  書なり絵なり、「おかきなされたもの」と言ったのを、小者はてっきり「おかきなされたふんどし」ととったのである。同音異義の取り違えである。しかし、こういうのはとかく単なる駄洒落になってしまう。ことばの洒落は少しひねってある方がいい。  多少は侍めいた、従って少しもっともらしいのが、どこで耳にしたのか、豆腐のことを、品よく言えば「おかべ」だと心得て、主人に向ってのことばの中で、しきりに、おかべのしる、おかべのさいと言った。主人はたしなめて、 「豆腐をおかべと言うのは、女房衆のことばで、男がそんな女房詞を使うものではない」 と言った。なるほどもっともと、男は主人の注意を胸におさめていた。  あるとき、この男、主人が留守番で、お出かけの奥方にお伴をしていったが、帰って来たその男に、主人が、一座の様子を聞いた。 「おふるまいにあずかりましたが、朝食をいただいておりますと、はやしが聞えてまいりました」 「ほほう。して、謡は、なんであったか」 と聞かれて、その男、 「それとはっきりはわかりませんでした。何しろ、豆腐越しに耳にしておりましたもので」 [#地付き]——『醒睡笑』      *  ある人のところへ客が見えた。夏のことだったので、主人はそうめんをふるまおうとしたが、薬味のからし粉が見付からない。ひき出しの中、茶だんすの中に、いろいろと紙袋がはいっているのだが、その袋に、中に何がはいっているのか書いてないので、お客人を前にして、いちいち袋をあけては中をのぞかなければならなかった。気ばかりあせったが、だいぶお客人を待たしてしまって、そしてともかく無事にふるまいをおえた。  さて、日暮れにおよんで、息子がよそから帰って来たので、親父は、 「ああいう紙袋には、これには何、これには何と、それぞれ、入れてあるものの名を書いておくものだ。そういうように、書き付けてないものは、いそぎの時の役に立たないことになる」 と言った。息子は、なるほど、よくわかりました、と納得したが、やがて親父が寝た時に、その紙帳に、筆をもってくろぐろと、 「このなかにおやじあり」 と書き付けた。 [#地付き]——『噺本大系』      *  重言ということはつい癖になる。  山の中の山中で、昔の武士のさむらいが、馬から落ちて落馬して、赤い顔して赤面し、などと、よく言ったものだ。こういう「重言」ということは、昔からあったと見えて、それをさらに裏返して、「重言、苦しからずという事」という咄があった。  重言を言い付けたくせで、夜の夜中にてもあらばこそ、昼の日中に、山中の山なかにて、馬から落ちて落馬して、うでのかいなを打ち折って、医者のくすしにかかって、養生して療治したので、ようやくのことなおって平癒した、と言う。  それを友人が立ち聞きをして、さてさて、お前の言うことは、みな重言ではないか。みっともないから、よそでは決して言うんではない、とかたくいましめた。するとその男、へらず口を叩いて、 「何を言うか。お前みたいな無筆にも困ったことだ。一体、聖人、賢人のことばには、重言は非常に多いものだ」 「へえ。そんなことが、何の本に書いてあるか」 と言うと、その男、 「知らないのか、お前は。謡の本を見てみろ、ちゃんと書いてある。   高砂の浦に着きにけり。高砂の浦に着きにけり。 どうだ」 「いや、それはめでたいことだから、重言でもさしつかえはない」 「それではこれはどうだ。   跡とぶらいてたびたまえ。跡とぶらいてたびたまえ。 という謡だってあるぞ」 [#改ページ]   取 り 違 え  さる家に働いていた小者、実直で、律義で、よく働くので、旦那は大そうお気に入りで、「三吉、三吉」と、いつも身のまわりの用をさせていた。  ある日、旦那は珍しく三吉をうちへ残して、よそへ出かけて行ったとき、三吉が、御内儀のそば近くへよって来て、声をひそめて、 「お恥ずかしいことでございますが、わたくしめが心底を、御内儀さまに申し上げとうございます」 と言う。御内儀は顔を赤くして、 「まあ、そこつなことを。お前、あたしに何を言おうと言うのだえ」 と言ったところが、三吉はもじもじと、 「かねてから、申そう申そうと思っていましたことを、やっと、人目をしのんで申し上げましたのに、御聞き届けがない上は、わたくしめも、覚悟を致しました」 と言う。御内儀も少しうすきびわるくなって、こわごわ、 「はて、それほどに思いこんでいることなら、また重ねていい折もあろうが」 「いや、今が一番のいい折」 と、御内儀の手をぐっと握って、涙をはらはらとこぼし、耳のはたへ口をよせて、 「今からは、わたくしめが食事は、おしつけて、たっぷりと盛ってくだされ」 と言った。      *  これは「喰ひ違ひ」という題の咄だが、こういう、多少あぶな絵式な進行で、しかも、御内儀とともに、読者も聴き手も一緒にひっかけて、おしまいにすとんと落す咄は、沢山ある。はらはらさせるところがしんじょうで、だから、専門のはなし家の技巧で、いっそう面白くなる。  同じ咄の変形を、どちらが先かはわからぬが、もう一つ、別の本から引いておこう。      *  きくやの与三郎がおかたさまへ言うには、 「おそれながら、申したいことがござります。お叶え下さるなら申しましょう」 と言う。 「これはまた、かるはずみなことを。人に聞かれたらどうするのだえ」 と言ったところ、与三郎は、 「わたくしめも、いったん口に出した以上、御得心なければ、是非に及び申さぬ。勘忍致しかねます」 と言う。おかたも致し方なく、 「それほどに思っているのなら、いつなりとも」 と言う。 「それでは、ただ今、申し上げましょう」 「それはあまりに急な」 「いや、人のいないときだから、今」 と言って、耳もとでささやいた。 「朝夕の御飯が、足りないのです。もうちっと、おしつけて盛ってくださいまし」      *  こういう、取り違えのおかしさでは、こんなのもある。  正月なので、檀家の人がお寺へ出かけて行った。御馳走にあずかって、少し酔いが廻って来た時分にこう言った。 「今日はお正月のことでもあり、こちらのお大黒様を拝まして下さりまし」  住持は取り違えて、 「拝まして下されとはちとお恥ずかしい。ずんど、不器量でござります」  お客人は、取り違えに気がついて、 「いや、その大黒ではござりませぬ」 と言うと、住持いよいよ取り違えて、 「さてはそこもとは、おりんがことも知っておられたか」      *  この話に、「おりん」という女の名前が出て来る。忠臣蔵に「昔の奏者、今のりん」という、浄瑠璃の文句があったが、どういう名なのだろうか。  それはともかく、江戸の咄には、まだほかにも同じような咄がある。  ある寺に、名作の大黒のある由を聞き及んで、旦那が行って、これが是非見たいと所望した。坊主はこれを聴いて、 「いやいや、愚僧は大黒は持ってはおりません」 「いえ、よく心得ております。わたくしはほかの人とは異なり、口はかたい。是非是非拝見いたしとうござります」  それではと坊主が承知して、「言語道断」というべき女房を呼び出した。旦那は肝をつぶして、 「これではござらぬ。|ほん《ヽヽ》のを御見せ下さい」 「さてさて、よくまあ御存知で。どうぞ、くれぐれも御内聞に願います。方丈様が内々欲しいらしいので、深く隠しておりますが、そこもとのことゆえ、御目にかけよう」 と言って、もう一人、美人を呼び出した。  都の出家は、多分こうはあるまい。      *  終りの一句、原文のまま。なんとなくおかしい。 [#改ページ]   ㈼ 色恋あの手この手 [#改ページ]   手 帳 小 町  小野小町という女の人は、たしかにいたには違いないが、生きていた小町よりも、残った名の小町の方が、世間一般ではずっと有名になり、人気も今に続いている。  小町娘ということばが出来て、小町とは美女の代名詞となり、ところにつれてのなになに小町と言えば、あたかも今の、ミス・なになにの先取りの呼び名だが、しかし、小野小町が美女だったという証拠はなにもない。伝え通り、出身が出羽の国の郡領の娘だったとすれば、ずうずう弁のおじょうさんだったかも知れない。  小町針という針は、百人一首の「おひめさま」のような、貴女の絵姿を描いた包装紙にはいっていた針だが、糸を通すメドのない針で、だから小町針という名が付けられた。小町にふられた男達の、くやしまぎれの言い立てかも知れないが、美女の名を独占している小町に、そうした身体的欠陥をひそかに言い伝えるところが、いかにも民衆の感覚であろう。それでも、その名はあまりにあけすけだというわけで、いつの間にかこれを、待ち針と言いならわした。裁縫の実際での小町針の用法は、たしかに、縫い進んで来るのを、こちらで待っている役をしている。  小野小町は、奥州のどこやらで、野たれ死にをしたという。そういう最期を遂げる小町の一生を、いくこまかの絵に描いたものがあって、昔は銀閣寺の壁に、掛け軸になってかかっていた。栄枯盛衰の仏教の哲理を、あざとく示したいやな絵だったが、この節では、観光客の目に触れるところにはかかっていない。小町のむくろを野犬が喰べていたりするのだから、まったく、小野小町に対する夢をぶちこわした。  能の世界で、小町の人生のひとこまひとこまを、あれやこれやと描き出したことも、小野小町の実像虚像を、想像の中に豊かに躍らせることになった。 「七小町」という。小町の一生の、七つの場面である。清水小町・雨乞小町・関寺小町・草子洗小町・鸚鵡小町・卒塔婆小町・通小町である。  ところが、能作者が見落した、こういう一連のなになに小町という呼び名の中に、加わるべき、もう一つの小町があるとしたのが、噺本の作者である。題して「手帳小町」。小野小町一代記における手帳にまつわるお話、というわけだ。  小野小町という人は、みめかたち人にすぐれて、美人の評判が高く、ことにその歌は、一世を風靡したと言うほどのものであった。だから、ましてや偶然にちらりと一目その姿を見た、ということになったら、もう心をおさえることが出来ず、こがれにこがれて、毎日毎日、千通の恋文を送り届けるといったことになってしまうのが常だったが、小町の方は情のこわい女で、そんな恋文への返事などは一切書かなかった。  なかでもとりわけに深く深く思いこんだのが、その名も深草の少将であった。  それほど深い思いならば、その思いのたけを示して、百夜の足をお運びなさいと言い渡されて、さらばと通いはじめた。一回二回とその回数を、車の榻《しじ》にしるしを付けて、とうとう約束の百夜となったが、小町の方はもとよりはじめから、少将の恋を入れるつもりなどはない。かわいそうに少将は、思い死にに死んでしまった。  少将思い死にの噂が伝わると、さすがに、小町のうちの方では、お女中達があれやこれやとの取り沙汰で、女達の同情はなんとしても少将に集まる。それにしても、うちの小町様の情のこわさ、いっぺんの回向ぐらいをたむけても、色好みの女の沽券《こけん》にかかわるわけでもなかろうと、小町のおそばにさし寄って、 「お気の毒にも、少将様には、とうとうおなくなりになりました」 と告げた。  小町はそれを聞いても、さのみ驚く様子もなく、身近に仕えているばあやを呼んだ。 「ばあや。いつもの手帳を持って来てちょうだいな」  ばあやが持って来たのは、表紙に「ほれ帳」と大きく書いた帳面で、小町に恋文を送った男の人名索引である。小町は「……お・く・や・ま・け・ふ」とめくっていって、 「ああ、ここ、ここ」 と、深草の少将のページを開いて、ばあやに渡しながら言った。 「ここんとこ、消しといてんか」 [#改ページ]   演出された失恋  能因法師の話は後にも出てくるが、能因ほどになると、歌道に熱心なのもいささか狂気じみてくる。そういう人のことを当時のことばで「すきもの」という。今日の好き者とは違って、道に執着する人ということだ。その道熱心なのは悪いことではない。ことに和歌の道に執着をもつのは立派なことで、当時「すきもの」はほめことばだった。『袋草紙』にも「すきぬれば秀歌はよむぞ」と能因が言ったなどと記している。  能因法師が、   都をば 霞とともに 立ちしかど 秋風ぞ吹く 白河の関 の歌をよんで、われながらいい出来だ、これをただ人に見せたのではおもしろくない、やはり奥州まで旅をして、白河の関ではこんな歌をよみましたと披露しなくてはというので、世間には旅に出たと言いふらして門を閉じ、毎日裏庭に出て日に当っていたという話は、あまりにも有名だ。   わらじくいまでは能因気がつかず  これなど伝説にすぎないだろうが、歌道に執心をもつすきものの手本としてこんな話が喜ばれたのだ。わらじくいは今で言えば靴ずれだ。  能因の話とよく似た話では、鳥羽天皇の后、待賢門院璋子に仕えた加賀という女房の逸話がある。この人も女流の歌よみとしてはかなり名のある人だったが、ある時、   かねてより 思ひしことぞ ふし柴の こるばかりなる 嘆きせんとは という歌を作った。柴を「樵《こ》る」にひっかけてこりごりするという意味の「懲《こ》る」を出してきたのだが、いかにも男に見捨てられた女の嘆きをうまくよみこなしている。捨てられはしまいか、捨てられはしまいかと、以前から心の奥底でひそかに恐れていた。それがとうとう現実のものになってしまって、あたしは男に捨てられてしまった。恋なんかもうこりごりだ。そういう女の心境だ。  これもうまい歌ができただけに、ただ発表したのではもったいない。本当にそういう境遇にあってよんだというなら、世評も一層高かろうというものだ。つまり、架空の境遇を想定したフィクションよりも、現実の人生のひとこまの記録のほうが読者の心をうつ感動の度合も強かろうというわけで、この加賀という女房は「かねてより」の歌を現実のものにするための演出にとりかかる。  当時、源有仁という好青年がいた。後三条天皇の皇孫で、一度は皇位継承の第一の候補にまでなったが、事情あって源氏の姓を賜わり臣籍に下った男で、後に左大将から左大臣にまで昇進する。和歌や芸術方面のたしなみも深い、当代一流の人物だ。加賀が交渉をもったのは、有仁が三位の中将から内大臣、年齢もやっと二十歳前後というはなやかな時期だったかと思われる。  まず相手にとって不足はない。加賀はこの人物に狙いをつけて、どこでどういうふうにかかわりを生じたものか、やがて有仁とわりない間柄になった。時を経て、男の心に|あき《ヽヽ》が来る。頻繁だった訪れがたまさかになり、たまさかの訪れも絶えはてたころ、加賀は有仁のもとに消息をおくった。「かねてより思ひしことぞふし柴のこるばかりなる嘆きせんとは」の歌が効果的に使われたことは言うまでもない。有仁はひどく感動して、人にも語ったのだろう。やがて、この歌の評判が世間にぱっと広がって、『千載集』撰進のおりには恋の部に入集するという栄光にさえ浴した。「花園左大臣(有仁)につかはしける」という詞書をつけて、作者もまちがいなく待賢門院加賀とあるのだから、この事実だけは信じないわけにゆかない。  ただし、本当に歌が先にできて、あとから恋が演出されたのか、その辺の真偽となると保証の限りでない。『著聞集』や『十訓抄』が筆を揃えて載せているところを見ると、ずいぶん名高い話ではあったらしい。  ともかく、「かねてより」の歌一首の世評の高かったことから、加賀は人呼んで「ふし柴の加賀」という。歌の道においては名誉ある名を得たわけだが、同じように名歌によってあだ名せられた女流歌人に「待宵の小侍従」がある。この人が評判になったのは、   待つ宵に ふけゆく鐘の 声聞けば 飽かぬ別れの 鳥はものかは という歌だ。これは『新古今集』に入集しているが、昔から恋の文学の上で訪れを待つ宵の辛さと、暁の鳥の声にうながされる別れの辛さと、どちらが恋の情緒がまさっているかを比べて、文学的論争の種とする伝統がある。この歌もその伝統の上に立って待つ宵の辛さのほうに軍配をあげたので、この歌によって「待宵の小侍従」の名が付けられた。  この小侍従のところに後徳大寺実定が通っていた。これも左大臣にまで至った人物だが、才能ある女房がこういう一流の貴族の愛を受けるのは女として名誉なことだったのだ。ある明け方、実定が女のもとを去ろうとして、別れがたげに見送っている小侍従を、ふり捨てて帰るにしのびない気がした。お供をしていた蔵人を召して「なんとでもよい。ひとこと言ってやれ」と言いつけた。仰せを受けた蔵人は戻って来て、まだ端近く立っている女の前に膝をついたが、何と言ってよいものやらわからない。おりしも暁の鳥の声がしたのを幸いに、   ものかはと 君が言ひけむ 鳥の音《ね》の けさしもいかに 悲しかるらん と、とっさの機転でよみかけて、そのまま実定の後を追った。  待宵の小侍従の表看板である「待つ宵に」の歌に対して、暁の別れの辛さを強調したところが、この歌の手柄だろう。この蔵人、それ以後「ものかはの蔵人」と呼ばれることになった。 [#改ページ]   雪のあけぼの  紫竹堂鸞栖《しちくどうらんせい》という誹諧師、自分では紀貫之の後胤と称しているが、真偽のほどは知れない。  逸話の数々が伝えられているが、その一つに、重代の宝物という話がある。  もとより誹諧師のこととて、同じ仲間の誰彼のもとに身を寄せて、旅に暮らしている中に、難波にしばしと家を借りたが、二カ月の家賃をためてしまった。きびしい催促に、持ちこんだのが、重代の宝物と触れこんでの、三寸四方の箱一つであった。その中味というのが、昔、能因法師と加久夜の節信との初対面に、能因が引出物として持って来た、長柄の橋のかんな屑と、節信が取り出した、井手の蛙のひからびたものと、そのふた品がはいっていたという。  この両人初対面の折の引出物の話は、『袋草紙』にある有名な話で、いずれ詳しく述べるつもりだが、家賃の滞納に困った鸞栖が、思いついた、重代の宝物だったに違いない。  この鸞栖が、暮も押し詰まってから、一夜色町に遊んだことがあった。早くも夜半の鐘が聞え、しんしんと更けていく刻限、ひどく寒いので、雨戸を開けてそとを覗くと、寒いも道理、近年になく珍しい雪で、すでに七八寸も積もっている。 「これは、発句の題材にもせよと、天が降らしてくれた雪だ。それを寝込んでいては申しわけがない。とりわけこの里の寝覚めは、一段と趣味深くもあることだから、ひとつ、これから夜のひき開け頃まで、雪見と洒落よう。かんにん袋ならぬ誹諧袋の緒を切って、吟嚢を肥やすとしようか」  鸞栖は下駄をつっかけて、九軒町の九軒並んだ揚屋の軒下に、雪を避けつつ歩いてゆくと、同じように、雪に誘われた人か、向うから、白いものが動いて来るのが見えた。はて、と見守ると、むこうはこちらに気がつかぬかして、低く、謡曲のひと節か、何やら吟じつつやって来る。それは、少女に傘をさしかけさせた女であった。  これはと、俄かに好奇心の動いた鸞栖が近寄って、 「こんな雪の晩に、まだ里馴れぬ振り袖姿。しかもたった一人、禿《かむろ》をつれてのおひろいは、これから朝込みの席におでかけとも思われません。投げ節の寒稽古とでもいう御修行か」 と言うと、 「いえいえ、とんでもない。珍しい今宵の雪景色を、知らん顔しているのも不風流なと笑われようかと、ひょいと思い立って歩いているまでのこと」  やさしいそのもの言い、もの腰に、口説きようによっては、よい首尾も得ようかと、鸞栖はぴたりと身を寄せて、 「それはそれは、風流な。わたしもまた、同じような心から、こうして、雪見としゃれたわけで。しかしまた、御身のようなおひとにお目にかかるとは、そもそも、それをつらつら、思いみますれば」  など、口ごもりつつ言い寄ると、女も折からの雪に雪折れした様子。してやったりと嬉しくて、 「さてこちらへ御一緒に」 と言うと、 「人目の多いところはかんにんして。知った人に逢っては厄介ですから」 と言う。それももっともと、近くに顔見知りのばばがいたのを幸い、そこの戸口に立って、 「こんな刻限に御迷惑ながら」 と言うと、寝入ったところを起されても、さすが色町に長いばばのこととて、万事をのみこんで、 「さてさて、この雪に御難渋のこと」 と迎え入れて、わざと有明の行燈のあかりもつけず、まっくらやみの中を案内して、「上り口で足を打たせられるな。それ、そこに水壺が。こちらの壁際には煙草盆、けつまずかぬように。向うが仏壇、おつむに気をつけて」と、一々に教えて、「こたつの火をかき起して、ゆっくりとお休みなされ。このばばは娘のところに泊りに参ります」と、万事を察しての気の通しよう。  鸞栖は夢心地の幸せにひたり、禿を裾の方に寝させ、雪で冷えきったたがいのからだを、ぴたりとつけているうちに、早くも東の窓は雪明かりで、夜明けの気配。隣りの家の子が泣き出すと、ばあさんらしい声が念仏を称えて、もはや起き出す時刻となった。 「明け離れぬうちに、おいとまをいたします」 と言う女に、 「ほんに今宵は不思議な御縁で、この契りは忘れようにも忘れられませんが、これを契りの始めとして、なにとぞ、行く末長くおつき合いを頼みます。それにしても、あなたはどちらのおかたで」 と尋ねると、女は、 「恥ずかしながら、わたくしは誠の女郎ではございません。こういう雪の夜に現われ出ずる、雪女と申す者」 と言ったかと思うと、かき消すように消えてしまった。すると禿も、 「あたしは霰《あられ》でござんす」 と言って、ころっと消えてしまった。      *  浮世草子の『好色万金丹』にある「雪の曙」という話だが、この話の落ちはまことに味がある。雪女の禿だから霰なのだが、原文、そこのところは急ピッチで、 「……とてかき消すように失せければ、禿も『霰でござんす』とて、ころりと消えにけり」 とある。 [#改ページ]   妬婦・皇后安子  村上天皇の皇后になられた安子は、藤原師輔の女で、御兄弟は伊尹、兼通、兼家らであり、甥にあたる方々には、道隆、道兼、道長など、まさに錚々たる人物がいた。人がらは他に対しての同情の心が厚く、側近に仕えるはしばしの者に到るまでも、行き届いた世話をなさった。  そういう心の方だったのに、これが背の君の女性関係ということになると、たいへんな焼き餅焼きで、一旦こうとなったら天皇もなく皇后もなく、一人の嫉妬深い女そのものになってしまう。大国主命のすせり姫、仁徳天皇の磐媛とともに、まさに三妬婦の一人というべき方であった。  ある夜、村上天皇は皇后の御殿を訪れて、立てきってある格子を叩いて、合図をなさったが、中からは格子を開けない。いつまで叩いていてもはてしがないので、天皇は到頭しびれをきらして、そのとき伴れておられた少年に言い付けて、 「お付きの女房に、どうして格子を開けないのか、きいて来い」 とおっしゃった。その少年は、どこか開いたところはないかと廻り歩いたら、一カ所だけ、廊下のはずれに開いたところがあって、中には人がいる様子だったので、寄っていって、「みかどが開けるようにとおっしゃっていらっしゃいます」と言った。すると、それに対してはなんの返答もなくて、ただ何人かの女達の、どっと笑う声が聞えただけだった。  少年は戻って来て、かくかくでございましたと申し上げると、天皇は、 「毎度のことだ」 と、にが笑いをしてつぶやいて、そのままあきらめて、お帰りになられた。  しかし、もっとだらしのない結末に立ち到ったことがあった。村上天皇の後宮には、美人で名高い女御芳子がおられた。藤原済時の妹である。皇后と女御とは、天皇の御座所近くのお控え場所が隣り合せで、あるとき、お二方が同時に居合せたことがあった。皇后も、普段は身近に相手の立ち居を耳にするわけではなかったが、従って、女御芳子に嫉妬の鋒先を向けるわけではなかったが、偶然そういうことになったので、どうも気が静まらない。いったい、女御の容貌はどんななのだろうという好奇心から、中のへだての壁に穴をあけて、女御の部屋を覗きこんだ。高貴のお方も、ずいぶん、はしたないことをするものである。  壁の穴から覗いてみた女御は、すばらしく美しかった。なるほど、天皇が御寵愛なさるのももっともだ、と思っているうちに、むらむらと、嫉妬の心が燃え始めた。そして、土器《かわらけ》を叩きこわしてこまかくして、その壁の穴から、女御の方へ投げつけられた。  さすがに天皇もこの所業にはお怒りになった。ちょうど、女御のところに来ておいでになったときで、目前でその乱暴な振舞いを御覧になったのだから、腹に据えかねたのも無理はない。  ところが問題はこの後始末である。  天皇は直接に、張本人の皇后に対しては、その怒りを向けないのである。 「これほどのことは、女どもがやれることではない。これは皇后の兄弟達、伊尹、兼通、兼家などが計画して、けしかけて、やらせたのに相違ない」  天皇は、皇后の男兄弟三人をその場で殿上さしとめ、自宅で謹慎ということにしてしまった。  皇后安子は、自分の所業を反省する余裕もなく、かあっと来てしまった。 「すぐにおいで願います」  皇后から天皇への出頭命令である。天皇も、どうせこの勅勘問題だろうと、無視していらっしゃると、「さあ、早く」「どうして来てくださらないのか」と、ひきもきらぬお使いである。これ以上行かなければ、あとあとがたいへんだろうと、いやいやながら行ってみると、案の定、 「どうして、このようなことをなさるんです。たとえ、みかどを傾けるような罪があったとて、お許しなさるはずの方々なのに。さあ、今すぐに、御命令をお取り消しなさいまし」 と短兵急である。 「今すぐ取り消したのでは、朝令暮改もいいところだ。綸言汗の如し、とも言うではないか」 「いいえ、過って改めるに何とやら。外聞が悪いからなどと言って、あとでなどは許しません。すぐ係りの者をここへお呼びになって」  どうも、歯がゆい程の、聖帝の楽屋である。土器投げつけの一件はそのままになってしまったばかりでなく、頭のあがらぬ亭主ぶりが、千年の後までも伝えられることになった。 [#改ページ]   宇治の橋姫  昔、宇治の郡に、岡谷《おかのや》式部という、富裕の者があった。その妻は、小椋《おぐら》の里の領主、村瀬兵衛という人の娘であった。  この妻は、もの嫉みの心がきわめて深く、うちに召し使う者は、年歯もいかぬ少女に到るまで、少しでも人並みな者は、夫の気をひきはせぬかと追い出してしまうので、岡谷の家の女達は、五体不自由な者ばかり、ということになってしまった。  男と女との、わりなき仲となった物語というと、それが全く縁もゆかりもない、よそのことであっても、むらむらと嫉み心が沸き立って、腹を立て、怒り出して、食ものどを通らない、という有様だった。  ましてや、自分の夫のこととなると、ちょっとしたことにも気を廻し、挙句の果てには責めて泣きわめくといったわけで、夫を門の外にも出さぬということになってしまった。さすがに岡谷も扱いかねて、実家へ戻そうとすると、わたしにいとまをくれて、実家へ戻すなどということをしたら、鬼になって、とり殺してやると、形相もすさまじく罵り、わめくといった次第であった。こんなわけで、夫婦の仲もしっくりとはいかず、何年か経ったけれども、子も出来なかった。  さてこの岡谷は、常に草紙の類を好んで読んでいた。ある時、妻に向って、 「昔の物語には、いろいろの女が出て来るが、源氏物語には、嫉み心の深い女の例としては、六条の御息所《みやすどころ》や髯黒の大臣の北の方などが書かれている。御息所は烈しい嫉み心から、死んで鬼となって祟りをなし、大臣の北の方は、昂じてもの狂おしくなり、夫に火鉢の灰をぶっかける、というような仕儀になった。みな、もの嫉みの心の深かった女の例として伝えられて、後世にまで、不名誉な妬婦の名を残している。しかし、恐ろしくはあったけれども、これらの女達は容貌はすぐれていて、眉目《みめ》うるわしい人だったと伝えている。あなたも、たとえ悋気の心は深くても、なかなか、いい顔立ちをしているのだから、せめて心を鎮めて、そんなに威丈高になって、嫉んだりしないがいい」 と、たしなめた。  すると、この女房はひどく腹を立てた。 「あたしのきりょうがわるいのを嫌って、別の女に心を移そうというのだね。あたしがこの姿で、顔立ちもよくないというので、世間の男達にも嫌われるんだ。ようし。いっそ、生を替えて、鬼となって、思うままに姿を変え、女に心をふらふら移す男どもに、思い知らせてやる」  こういう間にも、髪はさかさまに立ち、口は横に広く裂け、顔の色は真っ赤になり、眼には血がさして、すごい形相となったが、涙をはらはらと流したかと思うと、すっくと立って、そとへ駆けだして行ってしまった。そしてあれよあれよという間に、宇治川に飛びこんでしまった。  岡谷は大いに驚き、すぐに、水練の達者な者を頼んで、川の流れを探させたが、そのなきがらは、とうとう見付からなかった。  そこで岡谷は、平等院において仏事を営んで、そのいかりを慰めたが、七日という日の夜の夢に、妻が現われて、岡谷に言った。 「あたしは死んで、この川の神となった。この後、宇治橋を渡って、縁を結ぶ者があったら、決して、末遂げさせないから、そう思え」  こう言ったと見て、夢はさめた。  さてこの後、宇治橋を渡って、嫁に行く者は、必ず夫婦末とげることなく、離縁されるということになった。橋を渡るのを避けて、舟で川を渡ろうとする者には、その女が眉目わるき女ならば別段のこともなかったが、顔立ちのいい女が渡ると、きまって、烈しい風が吹き出して、舟は覆りそうになった。  このために、嫁入りの行列が川を渡ってゆく時には、川岸の人々は皆、興味を持って、新婦の乗った舟を見守った。風が荒れず、無事に渡ってゆくと、あの新婦はきりょうがわるいのだということになった。宇治川に、波風が立たないのは、嫁のきりょうがわるいからだと、誰もが口々に言い伝えた。      *  この話は、浅井了意の『伽婢子』(怪談もののごく初期の集)に、「岡谷式部が妻、水神となること」として載せてある。編者はこの話を、怪異譚として伝えたことになるが、しかし、嫁入りの一行が川を渡って来るときに、風波が立つか立たないかによって、迎える方の側の人々が、まだ見ぬ輿の中の新婦のきりょうを測定した、というのは、いかにも庶民らしい気楽さであって、それが、怪異を軽いユーモラスな話に転回していて、おもしろいと思う。  この岡谷の妻が、宇治の橋姫になった、というようには、浅井了意は筆を運んではいないけれども、おそらくこれも、たくさんあった宇治の橋姫伝説の一つであろう。  日本では、水の女神はことに嫉妬深く、今も、嫁入りの一行が、その前を避けていくという神の社は、あちこちにある。 [#改ページ]   人を呪咀して乞食となる  年老いた尼の、もの乞いをして、かつがつ暮らしを立てている者があった。われとわが身を顧みて、その来し方を、こう語った。  わたしはもと、四条の宮にお仕えしていたはした女で、|みなそこ《ヽヽヽヽ》と呼ばれていたものでございます。  その頃、わたしのめんどうをみていてくれた男が、地方官になりまして、任地にまいりますにつき、わたしをつれて行こうと思うがどうかと誘いましたので、わたしも行くことに心を決めました。そこで、御主人様にもその由を申し上げてお暇を願い、お仕えしている宮のうちの方々にもお話しして、用意を整えて、出立することになりました。  宮におかせられても、わたしの出立を祝って、旅の装束を賜わり、女房の方々も、ごめいめいに、扇や懐紙など、いろいろと御餞別の品物を、行き届いておはからい下さいました。まことにありがたく、かたじけないことでございました。  さて、いよいよ明日の暁に京を離れるという予定で、念のために、すっかり仕度も整ったということを男の方に言ってやりまして、わたしは実家に帰って、そこへ迎えに来ることになっている男の車を待っておりました。  ところがその日は、男の車がやってまいりません。また、何の知らせも参りません。どうもおかしい、何かさし障りでもあって、出発が延びたのかと思いまして、使いの者をやって、様子を聞かせましたところ、 「こちらは、予定の通り、早く、今日の暁に、おでかけになりました」 ということでした。  だんだんに様子を聴いてみますと、男はわたしをつれていくつもりでしたが、それを知っていた北の方は、ずっと知らん顔をしていて、いよいよ出発という暁の直前、夜中になってから、むずかり始めて、 「わたしは自分がおつきしていくものとばかり思っていました。わたしをさし置いて、いったい誰をつれていくと言うんです」 と言ったものですから、男はそのまま、わたしに替えて、北の方と一緒に、下っていってしまった、というのです。  その当日になって、ことわりなしにすっぽかされて、面目もなにもありません。すごすごと、今さら宮のもとへも帰れません。わたしの一生は踏みにじられてしまったのです。これで悪心が起らないわけはありません。恥ずかしくて、人前にも出られない身となってしまったのです。  わたしはそのまま引きこもって、身を清めるためにもの忌みをして、さて、貴船の社に百夜詣りをしました。憎い、北の方をのろい殺すためです。 「わたしは、自分の安穏を祈って、相手だけが不幸なようになどと願うのだったら、この願は叶えられないかも知れませんが、わたしはわたしの生命を奉ります。もし生きているならば乞食をする身となり、あの世では無間地獄に落ちる報いを受けたとて、決して歎きません。どうか、あの女の生命をおとり下さい。なにとぞあの女をなきものにして、このいきどおりをお助け下さい」  こう、お祈りしたのです。  ところが、まだ百日の願を果さぬうちに、男のうちの者から、あちらの様子を聞くことが出来ました。女は死んだのです。  男は、わたしとの約束を破ったことを、面目なく、すまぬことだとは思っていたようですが、わたしがこのことを、これほどまでに思い詰めて、いきどおっていたということまでは、思い到らなかったのです。国に下り着いて一月ほど経った頃、あの北の方が湯殿におりました時に、立ち上る湯気の中へ、天井から、したぐつを履いた、一尺ほどの足が下りて来たのです。北の方はびっくりして、女房に、「あれ、あれ。足が、足が」と言いましたが、ほかの者には何も見えません。北の方の目にだけしか見えないのです。  さてそれからは、すっかりおびえてしまって、湯浴みをするどころではなく、気がのぼって、騒ぎ立てたりしているうちに、病いが次第に重くなって、間もなく死んでしまったということでした。  したぐつを履いた足とは、京からわざわざ神様があちらまで出かけていって下さったのでしょうか。なんにしても、嬉しくて、悦びが隠しきれませんでした。  しかし、その後わたしの方は、万事、ことがうまく運ばなくなりました。すっかり貧しくなってしまって、とうとう、乞食をする身となりはてました。その時分は、時には罪深い、おそろしい夢などを見ましたが、それももとよりわたしが自分から、神に申して願ったことなのですから、今さら、何を恨みようもないことでしたし、そう思う心もちゃんと出来ておりました。  しかし、次第に年をとって来て、老いさらばえた身になってみますと、来し方のことを振り返らないわけでもありません。どうして、人をのろい殺すというような、罪深い悪心を起し、この世ばかりでなく、来世になっても、行くところへ行けないような身になってしまったのかと、思い返すこともありますが、それももはやかいないことでございます。 [#地付き]——『発心集』 [#改ページ]   悋気の処理  悋気と言えば、女の方のことときまっているようだが、男の嫉妬もないわけではない。「密夫」という題で——。  亭主、間男を押えて真二つに斬り殺した。妻敵《めがたき》討ちだから、討ち果してもいいのだが、ほんとうは、重ねておいて、四つにしなければならないのに、この男、女房の方は殺そうともしない。女房が、 「わたしもともに、斬ってくんなせえ」 というと、亭主かぶりをふって、 「いや、そうはすまい」 という。女房は手を合せて、 「慈悲じゃ、殺してくんなせえ」 というと、亭主、 「いいや、殺さぬ。あの世で添わせてなるものか」 [#地付き]——滑稽本『市川評判図会』      *  間男が出て来たついでに、けしからぬ小咄を、一つはさんでおこう。  間男を見付けられた男、ひらあやまりにあやまって、ようやく小判五両で話をつけたまではよかったが、さてその金の才覚に困って、意気地なくも女房になんとかならぬかと、相談を持ちかけた。女房もびっくりして、一体どうしてそんな金が急にいるのかと問い詰めると、男は是非なく真相を語って、 「しくじったよ。たった一度のことを押えられた」 と言った。女房はさてこそとうなずいて、 「あきれたねえ。二度とふたたび、そんなことするんじゃないよ。だけど、そんな金払うことはない。あちらから差し引き、十両取っておいで。あたしはあの人と三度じゃもの」 と言った。 [#地付き]——『噺本大系』      *  続いて、嫉妬深い女の話、二つ。  仏師の妻に嫉妬深い女房があった。木像を造るのにも、女体を造ると、もうそれだけでねたむ始末。ある時、夫の仏師の留守に、弁才天をあつらえたいという人が来た。女房が言うには、 「弁才天のことかしこまりました。しかし、うしろつきは弁才天にして、顔は仁王でよろしければ、造らせましょう」 と言った。 [#地付き]——『噺本大系』      *  一在所の女達が、悋気講を結んだ。その中の一人が夫に死なれ、もはや、悋気すべき夫もいないこととて、講仲間からはずれようとした。中でとりわけ悋気深い女が言った。 「だめ、だめ。悋気はこの世ばかりじゃあない。女も、死んであの世へゆくんだから、たとえ仏になったからとて、油断は禁物だよ」 [#地付き]——『噺本大系』      *  少し話がそれるけれども、女の顔は、とかく話題になる。そんな話で似たようなのを二つ。  八十ばかりになったばあさんが、それでもまだ市に立っていた。ところが同じ市に、一人の若い衆がやはり立っていて、それが、このばあさんに目をとめて、あちらこちらへとついて廻って、ばあさんから目を離さず、しげしげと見詰めている。  ばあさんは、心の中で思うには、この若い衆、あたしに気があると見える。それなら、一晩ぐらいは付き合ってやろう、というわけで、声をかけた。 「もしもし。そこな若いおひと。何か、あたしに御用でもおありかな。遠慮なく、おっしゃったがいい。あたしに出来ることなら、なんなりとも、かなえ申そうほどに」  すると、この若い衆が言った。 「いや、別に。お頼みしたい用があるわけではございません。実は手前は、瓦師の息子でござんすが、お前さんの顔が、鬼瓦のお手本にうってつけだと思って、つくづくと見させてもらっています」  それを聞いて、あてがはずれたばあさんは、 「あのここな、役立たずめが」 と言った。 [#地付き]——『噺本大系』      *  瓦師の住んでいる近所に、天下一品とでも言えそうな、きりょうのわるい娘を持った人が住んでいた。それが、二十四、五というのに、ぽっくりと死んでしまった。  瓦師は、娘の親のところへおくやみに行って、おいおいと声をあげて泣いた。娘の親は悲しい中でも喜んで、死んだ娘のために、それほどまでに泣いてくださる。それにしてもお手前は、どうして、さほどまでに悲しいのかと聞いたところ、瓦師が言った。 「娘御をなくされて、親御様はさぞかし力落しでござんしょう。手前もたいそう力を落しました。これからはもう、鬼瓦の手本がなくなりました」 [#地付き]——『醒睡笑』      *  容貌の美醜の醜の方を、鬼瓦にたとえるのも、時代というものだろうか。現代の建築では、鬼瓦などもう全く消えてしまったから、連想が生き生きとしなくなる一方だろう。さて今は、なににたとえるのが、一番普遍性があるだろうか。 [#改ページ]   三つの人形  御所がたに仕えるひとりの女房がいた。女房には恋びとがあった。ふたりは深く愛し合っていたが、なにしろ女は宮仕えの身である。そうちょいちょい男と逢うわけにはいかない。なにかの折に、御簾《みす》のあいだから、女は男の姿を垣間見る程度で、思いのたけをゆっくり語り合える時間などない。充たされぬこころを抱いて女は日々をなやみ暮らした。  女はとうとう男の姿を人形に彫らせた。生き写しの木像にきざませたのである。その人形は抜群の出来ばえだった。色つやの彩色といい、耳、鼻、口のかたち、歯のかず、毛のあなまでも、寸分たがわぬ恰好の人形がここに完成したのだった。もし恋びととこの人形と、そこにちがいがあるとしたら、それは魂があるかないかの差だけであった。  ところが、出来あがった人形をそば近く置いてみると、あれほど恋しかった男の姿は、いまの女のこころにはかえって気味わるく怖ろしく感じられてくる。生身《いきみ》そのままを写した人形は、まことに興醒めなもので、うすよごれた不快感を女のこころに与えてしまうのである。さしもの恋もいっぺんに醒めて、そばに置くのもいやになった女は、この人形を捨ててしまったという。 [#地付き]——『難波土産』近松の言説      *  元禄以前の、町人経済の上昇期の京都島原に、多くの遊客から慕われた吉野太夫という名妓がいた。島原のような公許の遊廓では身分や地位は用をなさない。ここは、金がものをいう治外法権の世界だった。  吉野をじぶんのものにしようと目論む大尽たちが張り合ったなかで、長崎の客で、廓では鹿《しか》という呼び名で知られた男がついに吉野の身請けに成功する。そうとは知らずに、大金をかかえ、はるばる越中の国から吉野を我が有《ゆう》にしようと上京してきた新《しん》という男は、このことを知ってがっくりと膝を折った。かれは男としての生き甲斐すら失った。しかし、他人のものとなった吉野を、それでも新は忘れることができない。蓄財のすべてを投げだして、浮き世の未練を捨てた新は、その名にちなむ吉野山の片ほとりに、ひとり住みの小家を構え、木綿《きわた》を繰り習う仕事をおぼえながら、わびしい敗残の余生を送る。  だが、新にはわずかな楽しみもあった。かれはわが住み家に、吉野太夫に似せて作った姿人形を飾っていたのである。  ある日、目のさめるような美女を伴った道者が、新の家のまえを通りかかり、この人形に目をとめた。 「あの人形は、もしや吉野太夫の姿ではありませぬか。そしてあなたは松葉屋の新三郎さまではありますまいか」  道者は江戸の豪商、小田原町の中《なか》と呼ばれた遊客であった。かれもまた吉野を籍《ひか》そうとして果さず、その代替として江戸の名妓小紫を落籍し、彼女を愉しませようとしてこの旅行を思い立ったのだと語る。  道者の中は、新の思いの深さに打たれ、連れていた小紫をゆずりたいという。小紫は新の心意気に感じて身をまかしたという。 [#地付き]——『好色二代男』      *  大名の奥方に仕える女がいた。浅草の下屋敷につつじ見物のお供をしたとき、奥方が侍女たちに悋気講をせよと命じる。じぶんの身の上を懺悔して、恋が実らなかった怨みを話し、男を憎む物語を互いにし合うゲームである。庭には美しい女の人形が一体据えられた。この女人形のまえで、侍女たちがそれぞれ失恋の怨みを語るのである。そして、なぜじぶんが失恋したのかを話すとき、男をじぶんからうばった女を、この人形に見立てて、人形を責めさいなむという仕掛けであった。  これを奥方が見聞して気晴しをするわけで、事情をのみこんだこの女は、じぶんの番になったとき、いきなり人形を組み伏せて馬乗りになり、 「おのれ、妾《てかけ》の分際で殿様のお気に入り、本妻をないがしろにして思うままなる長枕。ただ置くものか」 と、にらみつけると、奥方はすっかり気に入って、 「それよ、それよ。国元から美女を呼び寄せて、本妻のわたしを打ち捨て、明け暮れなずんでいらっしゃる。口惜しくて仕方ないから、こうしてその女めの姿人形を作らせて、このように責めるのじゃ」 と告白したという。 [#地付き]——『好色一代女』      *  以上、三話のうち後にあげた二話は、吉野太夫の人形も、大名の愛妾の人形も、ともに人形を人形として認めたうえで、その人形の背後に恋しい遊女への、または憎むべき妾女への己れのおもいを通わせようとする形式である。このばあい、人形は、それを通して愛情なり怨念なりを持続するための媒体となっている。  いっぽう、御所づとめの女の作った人形は、恋しい男に逢えぬこころを充たすための人形なので、これは人形がすなわち恋びとそのものであるべく、女から需《もと》められているのだ。それは人形でありながら、女にとっては、人形であってはならないように要求されていた。代替物によって充たそうとする愛は、その愛までをほろぼしてしまう、という、これはひとつの教訓であろうか。 [#改ページ]   五百八十年  ある男、永ねん連れ添った女房が急にいやになり、なんとかして追い出そうとおもい、しきりに喧嘩をしかけるのだが、女房はその手に乗らず、どうにも追い出す口実が見つからない。たまりかねた男は、とうとう女房にこう言った。 「率爾《そつじ》ながら、お前を見ていると胸くそが悪くなる。言いにくいことだがどうか別れてはくれまいか」  女房は答えた。 「やむを得ません。それほどにおいやならわたしは里へ帰りましょう」  女房はやがて、嫁入りのときの衣裳を着、髪にも油をつけ、お歯黒をつけ直して、別れの挨拶を言いに男のまえにあらわれた。その姿は、昔の初々しい新妻のときと同じようだった。  男はこの女房のようすを見て、しまった、とおもった。だが、じぶんから出て行けと言い出したのだから、いまさら止めるわけにはいかない。ちょうど、女房が去って行く道に川があったが、男は川の端まで送ってきて、女房を舟に乗せ、向う岸に着けてやる。女房は舟から上り、 「さらば、さらば」 と男に手をふって去って行く。ここで男は女房に言った。 「おい、舟賃を出せ」 「そんな、あなたとわたしのあいだで、なんで舟賃などというのですか……」 「それは夫婦であったときのこと。別れたからは他人なのだから、舟賃を出せというのだ」 「嫁入りのときの姿で出て行くわたしに、舟賃があるわけがないじゃありませんか」 「ならば去らせるわけにいくまい。戻れ」 という次第で、男は女房を連れ帰り、以後、五百八十年添いとげたという。 [#地付き]——『噺本大系』      *  似た話がいくつかある。そのどれもが、ひと悶着の末によりが戻って、夫婦がもとのさやにおさまる内容だ。その話のさいごに、五百八十年契りをかわした式の祝言が付いている。「五百八十年七廻り」ということわざで、延命長寿や末長いことのたとえにいう。  七廻《ななまわ》りとは干支《えと》の七廻りで、六十回で一廻りする干支が、七回も廻れば四百二十年も生きたことになり、それに五百八十年を加えると、ちょうど鶴寿のように千年の長命年数となる。五百八十年は、江戸の俗説によれば彦火火出見尊《ひこほほでみのみこと》の年齢だというがよくわからない。      *  ある男、女房がやかまし屋でどうにも耐えられない。それに強いのでこわくて仕方ない。とても面と向って「暇をやる」なんて言えたものではない。たまたまこの「わわしい」女房が親里へ行った留守に一計を案じた。男は太郎冠者を呼んでこう命令する。 「お前は、女房の親里へ行き、この暇《いとま》の状を渡してこい」  聞いた太郎冠者がびっくりした。それはだめです、という。 「あのオカミサマは、世のつねのおかみさまとはちがい、殊のほかに『わわしい』かたで、そのような離縁状を持参いたしましたならば、私はどんな目に逢うか知れませぬ」 「すると、お前は山の神はこわいが、みどもはこわくないのだな」 「いえ、そんなわけでは……」  結局、太郎冠者は主人のいいつけに従って、おそるおそる女房殿の許《もと》へ、暇《いとま》の状を持参することになる。なにごとかとおもって読んだ女房は烈火のごとく怒り狂った。 「おのれ、引き裂いて退《の》けようか、食い裂いてくれようか」  女房はすぐに夫のところへ舞い戻った。お前さまはなんて情ない男なのか。ちゃんとじぶんで「暇をやる」となぜ言えぬ。お前のような男は、「藪をけとばせば五人や七人いつでも出てくるほどのもの」だが、去られたとおもえば、わたしの誇りが許さない。ちゃんとしたしるしの物をわたしに与えて、そのうえで去状《さりじよう》を出しなさい。  男は、おろおろしながらも、 「なになりとも、そちが好きな物をやるほどに、それを持って早う出て行け」 と言った。女房は袋を取り出した。 「わたしはこれが欲しゅうござる」  言うやいなや女房は、袋を男の首に引っかけた。かくて離婚は不成立となる。狂言『ひっくくり』の概要だ。      *  これが近世の笑話になるとだいぶ下《しも》がかってくる。別れて欲しい女房に、男がなんでも好きなものをやるから、と誓文を立てて言うと、女のほうでは、 「われらの欲しきものは、これよ、とて、五、六|寸《すん》なる物を、ひんにぎり、取って帰ろうという」  男は誓文を立てた手前、どうにもならず、五百八十年契りをこめた、というのだ。 [#地付き]——『噺本大系』  いずれにせよ、夫婦の機微をうがって、この三話の男たち、すこし気の毒にも読めた。 [#改ページ]   十七年に二十三人の妻  人間の結婚生活は、運がよくても墓場だというのだから、運の悪いひとには地獄のようなものになる。それも煎じつめればそれぞれの心掛けということだろうが、なかにはどうにもならないような、人間の業《ごう》に魅入られて破滅の道を辿る人生もあった。  これは十七年のあいだに二十三人も女房をとりかえた男のはなしである。  江戸時代のこと、仙台に住んでいた九平次という男は、入|聟《むこ》して女房と一緒になったもののどうしてもその女に馴染めず、それに地方の生活を嫌い、京都へ出て一旗上げたい若気の気負いから、親類縁者の意見にも耳をかさず、ある日、忽然《こつぜん》と女房を置き去りにして仙台を出奔した。  置き去りというのは、離縁状(三下り半)を渡さずに、夫が女房を捨てて家を出ることをいう。出奔して十カ月たっても夫が帰らぬばあい、その婚姻は解消となり、妻は再婚してもかまわなかった。  しかし九平次の妻はこの出奔を恨み、どうしても再婚しようとしなかった。京に出て、この様子を聞いた九平次は、両三度まで仙台の妻にあらためて離縁状を送ったのだが、女房のほうは夫への心中立てをしていっかな再縁しない。  九平次が女房を嫌ったのは、つね日ごろから悋気を言いつのり、ちょっとしたことにもやきもちを焼いて男に食ってかかったのがそもそもの原因だった。それにしても入聟の身で家を飛び出すという以上、この男女の仲は他人の窺い知れぬなにかがあったか、男のほうが妻というものに法外な幻想を描いていたかのいずれかであろう。  京に出た男は四条通り河原町辺に両替の銭店を出した。丁稚と飯炊き女と、都合三人口の小所帯である。京の生活はつつましく、仙台の女がひとりで食べる量で、京では五人口が養えるほどだった。それでいて、京女は上品だし手仕事にもまめである。他国から働きに出てきた近所の夫婦者たちは、みな共稼ぎの生活をしていた。それを見るにつけ、九平次は女房を持つほうが経済的だと思うようになる。かれは、寺町の白粉《おしろい》屋の娘で十人並みの器量の女を妻に迎えた。  この女、仙台の女房とは格段のちがいで、男の夜遊びにもいっこうに平気で、すこしの悋気もおこさない。どうも変だと思って気をつけていると、なにやらべつに男がいるような様子である。九平次は「憎い女め」と思うから、その後は外出をやめて女房を監視していると、耐えられなくなったのか、女は九平次を嫌って「暇《いとま》を呉れ」と言い出した。それからはわざと椀や皿を割り、仮病の昼寝をし、漬物桶にも構わずに腐らせ、毎日湯をわかして風呂に入り、傘は乾さずにたたむなど、みすみす損の行くことばかりするようになった。これでは経済が成り立たない。男はついに女の望みどおり離縁させてやった。  やはりある程度年配の女のほうがよい、そう考えた九平次は、次に、六角堂のまえの順礼宿の娘で、亭主に死なれた出戻り女が、ちょっと美人なのにほだされ、二十七だというから、サバを読んでも三十ぐらいだろうと思い、これと結婚したのであったが、貰ってみたらこの女意外に年寄りじみていた。  こっそり事情を知る人に尋ねたところ、この女にはことし三十七になる娘があって、これは十七の時の子のはずだから、たぶん女の年齢は五十二、三という。うんざりした九平次はそれまでの費用を無駄にしてこの女とも離婚してしまった。  その後、公家がたに勤めた御殿女中あがりの美女で、心のやさしい、ひとに好かれる女性を、こんどこそと思ってかれは妻にする。しかし女は俗世間にあまりにもうとく、貧世帯の台所をあずかるにしては、どうにもならぬほど貴族的であり過ぎた。別れは辛かったが、摺鉢のうつぶせになっているのを見て、富士山の姿を移した焼物よ、と眺めているような女ではどうにもならない。やはりこの女とも離婚である。      *  このあと九平次は烏丸に住いを持ち家賃が相当程度入る借家を持つ後家のところへ入聟となる。そこには隠居の爺婆と、妹、姪をふくめた居候が八、九人もいて、さらに莫大な借金まであった。その返済の労働力として九平次が必要だったのである。かれはここも飛び出すほかはなかった。  その次にかれは、竹屋町の古道具屋の娘を貰う。器量も人並み、持参金も相応にあり、夏冬の衣類もたっぷり持っての嫁入りであった。こんどこそ、ようやく幸せが訪れたと九平次は喜んだ。一カ月ほどたってその喜びは恐怖に変る。娘は、こころがときどき異常になり、丸裸で、わめきながら表通りに飛び出して行くのである。かれはこの女もまた親元に送り帰すほかなかった。      *  こうして十七年間に九平次は二十三人の女房を取り替えた。その結婚費用でかれはとうとう赤貧の身に落ちぶれる。竹田通りの町はずれ、伏見街道ぞいの裏長屋にひっそりと住み、菅笠の骨竹を削る仕事をしながら、その日暮らしの生活をやっと送る毎日のなかで、ようやく九平次は、京へ出てきてからの歳月をしみじみとふりかえる気になった。そしてかれは、仙台にいる親類のひとりに、一通の手紙を書いた。その中にはこれまで述べたことが書かれてあり、その末尾には次のような文句があった。 「これほどかなしい身の上になりましても、捨てた女房にはみじんも心が残りません。早く再縁するように御伝言下さい」 [#地付き]——『万の文反古』 [#改ページ]   最初の結婚  日本で一番初めに結婚したのは、イザナギの命と妹イザナミの命の二神である。妹(イモ)は男きょうだいから女きょうだいへ、また夫から妻へ言う語だから、この場合二神は、兄妹とも夫婦ともとれる。  背の神が妹なる神に、 「あなたの身体はどのように成熟しましたか」 と問うと、妹の神が、 「わたしの身体は成熟したけれども、成熟しきらないところが一カ所あります」 と答えたから、背の神が、 「わたしの方は成熟し過ぎたところが一カ所あるから、あなたの成熟していない所に、わたしの成熟し過ぎたところを刺し塞いで、国土を生みたいと思うが、いかがなものでしょう」 と問いかけ、同意を得て、国土と神々とを生んだという。  もともとは霊魂の成り具合を問いあう問答であったろうが、『古事記』の書き方だと、何かはじめから男女「まぐわい」の方法を知っているみたいでおかしい。 『日本紀』の一書では、セキレイの尾の仕草を見て、結婚の方法を知ったという。川にいるセキレイだからきれいだが、清流の岩で尾をぴょんぴょん上下する動作で連想したというのだから、男の神にしかわかるまい。セキレイを後に「とつぎおしえ烏」(『和名抄』)と言った。  厳密には最初というわけではないが、中世初期にはこんな話もある。  昔、土佐国幡多郡に農夫がいて、住居のある浦とは別の浦に水田を営んでいた。春さきになると、住居近くに苗床を作り、苗が育つと、その苗を船につみ、ほかに食物をはじめ馬鍬、柄鋤、鎌、鍬、斧、大斧など道具一さいを積み込んで、田のある浦に渡っていた。  さてある年、十四、五歳の息子と、その妹で十二、三歳の娘を船の見張りに残して、農夫は妻と田植え女を雇いに上陸して行った。ほんのしばらくの間と思ったから、船を少し砂地に乗り上げ、艫綱もつながないで出かけた。子どもたちは船底でねころがり遊んでいたが、いつの間にか二人ともに寝入ってしまった。その間に満潮になって船は浮き上り、沖へ吹く風にあおられてただよっていたが、今度は引き潮に引かれて沖合に出てしまい、そうするとおりからの南風に吹かれて、帆を上げたようにずんずんと進んで行ってしまった。ほんとうにわずかな間のできごとだったのである。  兄妹は船のゆれに目覚めた。いつもの浦とは似つかぬ陸地を遠く沖を流れて行くのを知って、泣き叫んだけれど、どうすることも出来ない。潮流と風に運ばれているよりしかたがなかった。  一方、両親は田植え女を雇い入れ、船に乗せようと浜辺に来ると船がない。胸さわぎはしたが、もしかすると子どもたちが風の当らない場所へ船を移動させたのかと思って、心あたりの浜を走りまわり探したけれど、どこにもいない。何度も探しまわったが、とうとう、子どもたちを見つけることができなかった。  船は南風にのって、はるか南の島に漂着した。兄妹は恐る恐る島に降りて船をつなぎ、あたりを見わたしたが、人かげとてまったくない。引き返す手だても知らず、しばらくは泣いているばかりだった。そうしているうちに、妹の方が、 「もうどうしようもないわ。でも死ぬのはいや。船に積んである食べ物があるうちは、少しずつ食べて何とかなるけど、それがなくなったらもうだめ。だから、この苗が乾かないうちに、どこかに植えましょう」 と提案した。こうなると男の子の方はだらしがない。 「その通りだね。お前の言う通りにするよ」 というわけで、水のある所に苗を置き、そうして、鍬や鋤があったから田に適するところを整えて、苗を植えた。つぎに大斧も斧もあったから、何とか家らしいものを作った。当座の食べ物を食べ尽してしまうと、木の実などを拾い食べて、やっとのことで秋を迎えた。運がよかったのだろう、幸いに秋のみのりは豊作だった。兄妹はそれを刈りとり、そしてまた春には種をまいた。  幾年か過ぎた。兄妹といってもやっぱり男女だったから、自然に|めおと《ヽヽヽ》になった。そうして子どもたちが生まれ、またその子どもたちが成長してお互い好き同士が結婚し、子孫が島いっぱいになったということだ。その島を今に妹背の島と呼んでいる。 [#地付き]——『今昔物語』      *  原文には「下衆」とあるが、階級語というより、庶民、百姓をいう語で、今でいう農夫にあたろう。何も知らない農夫の子どもたちの身の上に起ったことを、筆者は告げたかったのである。記紀では国々神々の誕生はとかれているが、人の誕生は語られていない。自然発生的に気がついたら存在していたといった書き方である。それに比べて今昔の方は、まさしく庶民の話となっている。南方的ですこやかである点、妹の方の知恵と裁量で事が運んでいく点、話のたねとしては、ある面では記紀などよりもう一段階古いのではないかというような所がうかがわれて楽しい。 [#改ページ]   仏 の 絆  奈良の右京の殖槻《うえつき》寺のあたりの里に、一人のみなしごの娘がいた。父母がいた頃には、家も豊かで、屋敷や倉が建ち並び、使用人も沢山いた。その時分に父母は別棟に仏殿を建て、二尺五寸の観世音菩薩の銅像を据え、朝夕礼拝していた。やがて両親が次々と亡くなると使用人達は逃げ去り、牛馬は死に、蓄えもなくなって、娘だけが何の才覚もなくとり残された。娘には通って来る恋人も、まして夫もいなかったから、両親が残した仏殿に赴き、観音像の手に縄をかけてその端を握り、どうぞして私に幸福をさずけて下さい、とただひたすら祈るのみしかなすすべがなかった。  同じ里に、大変裕福な男がいた。その男細君を亡くして不自由を感じていたが、ある機会に娘を見て、しみじみいいなと思った。で、仲人を立てねんごろに言い寄った。娘は、 「ごらんになる通りの貧乏で、着る物もこれしかございません。顔を隠す用意もないのです」 と答えた。この時代、顔もあらわに人に逢うことなど、まして求婚者であってみれば考えられないことだったから、娘は昔よかっただけに、恥ずかしくてどうしていいかわからない。男の方はそんなことで躊躇はしない。 「貧乏のことぐらいわかっている。ただゆるすかゆるさないかではないか」 とばかり、強引に娘の家にやって来た。咎めだてる男手も、介添になる女もいない。娘はいやだったけれど、男を入れるより仕方なかった。  そうして戯れているうちに、娘はだんだんに男に心をゆるして、ちぎりをこめてしまった。  その日から雨が降り続いた。これ幸いと男は三日間も逗留した。しかしさすがに三日目になると、ひもじさが身にしみて来た。それで男は、 「腹がすいてたまらない。何か食べさせてくれないか」 と頼んだ。娘はこのことばがこわかったのだ。 「はい、ただいま差し上げます」 と言って、竈《かまど》に火を焚き、土鍋をかけたものの、中にいれるものがない。頬を伝う涙をおさえてそこにうずくまってしまった。やがて、娘は口をすすぎ手を清めて、観音像を安置してある堂の中にはいっていって、 「私に恥をかかせないようにして下さい。今すぐに、たからが欲しゅうございます。たったいま」 と例の縄のはしを握り一心に祈った。だが男の手前いつまでもお堂の中にいるわけにもいかない。再び竈の前にすわると、あてもなく泣きながら、灰をかきまわしていた。  すると、午後の四時頃のこと、門を叩いて人の呼ぶ声がする。出て見ると、隣りの乳母であった。 「お客さんがあると聞きまして、家の主人がこれを差し上げて下さいと言われまして。ただ器はあとで返して下さい」 と言って、御馳走を沢山に置いていった。娘はうれしくて、何かあげようと思うのだが何もない。着ている垢じみた着物を脱いで、 「こんなものでお恥ずかしゅうございますが、使って下さいませんか」 と使いの乳母に与えた。  男は遅いのでいらいらしていたが、その御膳を運び込むと、驚いて娘の顔をまじまじと見つめた。貧乏だとわかりきっている娘が、自分のためにこんな立派な御馳走を備えてくれたことが意外でもあり、本当にかわいいと思った。  翌朝男は帰っていったが、早速に、絹十疋と米十俵を送り届け、 「これではやく着物を縫い、酒を作りなさい」 と言ってよこした。  娘は着物を縫い上げるとそれを着て、いそいそと食器をもって隣りに礼に行った。  ところが隣りの細君は、そんなことをした覚えはないと言って、まるで娘が食器を盗んだかのようにひったくると、 「ばかばかしい。あんた何かに狂ったのじゃない」 と言って、とりあわない。途方にくれて、娘は、使いに来てくれた乳母を呼んでもらったが、これも全く知らないと言う。  追い帰されて、娘は、困った時にいつもするように、観音像を拝みにお堂にはいると、あの垢じみた着物を、観音様がかぶっていたのである。  男は娘と正式に結婚した。それ以来、家は富み、夫婦仲よく、天寿を全うしたと言う。 [#地付き]——『日本霊異記』  それにしても空鍋を焚くといった心境は、男には理解できない。そうしていれば、鍋の中に自然に粥でもできると思うものなのか。それとも一寸延ばしにしてでも、男の気持をひきとどめておきたいと思うものなのか、はかり知れない。だが、時と場合と相手によって、男はこうした女の行為を、ばかばかしいととることもあるし、かわいいと思うこともあるものである。 [#改ページ]   他人の夢で出世する  他人の夢を買い取って自分の夢とし、その人の運命をわが運命としてしまうということがある。 『宇治拾遺物語』に備中の国の郡司のむすこで「ひきのまきと」という人のこととして載せている話がそれだ。  この男がまだ若かったころ、ちょっと気になる夢を見たので合せさせてみようと思って夢解きの女のもとに出かけた。用件そのものはすぐにすんだのだが、ついでにその女とあれこれの物語をしていると、どやどやと大勢の人がやってくる物音がした。聞けば国の守の惣領の若君が夢解きを尋ねてきたのだった。供の者などもたくさんいるので、まきとは奥の部屋に入って、たまたま穴のあいているところから様子をのぞき見していた。  すると、若君がこれこれしかじかの夢を見た、これはどういうことだろうと問うている。女は、「これは珍しい夢でございます。必ず大臣にまでおなりになるはず。返す返すめでたい夢を御覧になったものです。決して人にお語りになってはいけません」  そう言ったので、若君は喜んで、衣を脱いで女に取らせて帰って行った。  そのあとで、まきとは奥の部屋から出て、女に、いまの夢をおれに譲ってくれ、と相談をもちかけた。 「夢は取るということがある。いまのおひとの夢をおれに買い取らせてくれ。国の守は四年の任期が過ぎれば都へ帰ってしまう。おれは土地の人間だし、郡司の子であるのだから、おれを大事にしたほうがお前のためでもあるじゃないか」  そう説得して、とうとう女に承知させてしまった。 「それでは、あの方がおいでになった時のように門からお入りになって、語られたとおりにあの夢を寸分たがわず語ってごらんなさい」 と言うので、まきとはその通りにして、自分の見た夢のことにして先ほどの夢の話をし、同じように衣を脱いで与え、喜び勇んで帰ってきた。  その後学問に精を出して、だんだんその道に達し、ついには公に召し出されて、遣唐留学生として唐土に渡り、さらにさまざまのことを習い覚えて帰朝した。本朝でも第一の学者となって昇進し、ついに大臣にまで至った。  夢を取られた国の守の子は、官《つかさ》もなくて終ったということだった。 「ひきのまきと」というのは「きびのまきび」、すなわち吉備真備のことに違いない。その実歴はこの話のまきとの履歴に近い。その上、真備という人には、なにか不思議な伝承がまつわっている。別に恨みをいだいて死んだ人でもないのにその御霊が祀られて御霊八所のひとつに数えられたり、夢に関しても、真備の唱えた夢たがえの歌などというものが平安朝の社会に伝えられている。   あらちをの かるやの先に 立つ鹿も ちがへをすれば 違ふとぞ聞く  これは、呪歌であるから意味がよくわからないのは当然といえば当然だが、こんな歌が真備に関して伝えられていて、『袋草紙』でも誦文の歌の第一番目にあげている。      *  夢を買い取った話では有名なのがもうひとつある。『曾我物語』が頼朝の妻政子の話として伝えているものだが、政子が二十一歳のおり、腹違いの妹の見た夢を買い取ったという話だ。しかしこれはだまし取ったというに近いようだ。  その妹がそのころ、どことは知れぬが高い山に登り、左右のたもとに月と日を入れ、実の三つなった橘の枝をかざすという夢を見た。不思議な夢だと思って姉に語ったが、姉のほうはそれが大変な吉夢だと気が付いた。これはうまく買い取ってしまおうとたくらんで、 「それは大変恐ろしい夢ですよ。悪い夢を見て七日のうちに人に語るといけないことがあるというのに、どうしたらいいでしょう」 などと、まことしやかに言い出したもので、妹はすっかりこわがってしまった。 「お姉様、なんとかしてください」 と泣き付いてきたので、 「それじゃ、悪い夢はたがえてしまえばいいと言いますから、そうなさい」 「たがえるってどうするんですの」 「売ってしまえばいいのです。誰かにお売りなさい」 「でも、悪い夢を買う人なんかいませんでしょ」 「では、わたしが買ってあげます」 「まあ、嬉しい。でもお姉様のお身に悪いことが起らないかしら」 「だいじょうぶ。たがえてしまえばいいのだから」 というような具合で、うまうまと政子の口車に乗って、妹は夢を売ることにした。政子が代価として北条の家に伝わる唐の鏡に小袖をひとかさね添えたから、妹は大喜び。政子のほうも心ひそかに幸運を期待していたが、夢のしるしはたがわず、この後間もなく頼朝から婚儀の申し入れがあった。  これも頼朝自身は当腹の子のほうが親に大事がられているからと、妹を望むのだが、仲に立った藤九郎盛長が政子の人柄を見込んで政子のほうに消息を届けたのだ。これから二人の仲が成り立って、親の北条時政もそうなった上はと頼朝に肩入れする。その力に頼って頼朝は世に出ることができたのだが、政子は政子で、天下の将軍の御台所となって、みごと本望をとげたのだった。 [#改ページ]   面影の似た男  蒸発した夫の留守宅にはいりこんで、まんまとその家の主人になりすました男がいる。近所の者が、すっかり騙されたほど、その男と蒸発した亭主とは瓜二つの顔かたちだった。それでもいつのまにか世間ではことの真相に気付きはじめる。あのご主人は、ひょっとしたら贋ものじゃないかしら。世間のくちに戸はたてられない。このうわさが広まると、当の奥さんは必死になって、あの人は本物の亭主だと言い張ったという。江戸時代中ごろにあったはなしだ。      *  日向の国、橘村というところに、与太夫という指折りの物持ち百姓がいた。かれは多くの作男や下女を使ってゆたかな生活を営んでいた。かれには三歳になる与太郎という男の子と、夫婦仲のよい妻があった。ある日かれは使用人たちを連れて小高い山へ行き柴刈りをした。下男、下女が柴をかつぎ連れ立って帰ったあとも、与太夫はひとり残って働いていたが、日が暮れてもかれは家にもどらなかった。探しに出た者たちが、山で発見したものは、与太夫がその日着ていた茶小紋の羽織だけで、それは笹かげの道もないところに引き裂かれたようになって落ちていた。みなが嘆くなかにも、ことに与太夫の妻は身もだえして神々を祈り、それから二十日あまりも国じゅうを探しまわったが行方が知れない。三つになる子を抱いて、彼女はそれからひとり身を立て夫の留守を守る。里の女には惜しいほどの顔立ちゆえ、慕い寄る村の若者も多かったが、女はすこしも取り乱さず、九年という歳月が流れた。こんにちの蒸発亭主というのとはちがう。むかしの山里にはこうした奇怪な行方不明者が折々はあったようである。  話は変って、そのまた村続きに、伝介という小百姓がいた。そのころ四、五年続きの凶作で食うに困り、日ごろ蓄えもろくにしなかった伝介は、ある日ひそかに家を出、妻子も捨てて漂泊の身となった。これは正しく蒸発といってよい。伝介はいつしか浮浪者となり流れ流れて安芸の国宮島へやってきた。千畳敷の御堂(厳島神社の大経堂の俗称)でごろ寝している伝介の耳に、同じ境遇の男の声が聞えてくる。その声はまざまざと故郷のなまりで、あの与太夫の声に似ている。夜の明けるのを待ち兼ねてその声の主を見ると、まぎれもなく消息不明の与太夫その人だった。涙とともに声をかけ、すがりつく伝介にたいして、しかし与太夫と思われた男はきょとんとした顔で答えた。 「私は与太夫という名ではない。大隅の国風の森の辺の桜村というところの者で、一家散り散りになってのいまの境遇だ。名は小平太という」  これを聞いても伝介の不審は晴れなかった。年のころ、顔かたち、声音、それに左の首筋にある打ち疵の跡まで、どう見ても与太夫である。そう思って呆れている伝介に、こんどは小平太が不審を抱く。小平太が訊く。 「その与太夫という男はどうしたのだ」  伝介は、九年まえの出来ごとを詳しく語り聞かせる。それを聞いているうちに、小平太のこころに悪心がめばえてきた。じぶんが与太夫に似ているのを幸いに、その女房をたぶらかし、世を楽々と送ってやろう……。  その場をごまかして、伝介と別れた小平太は与太夫の里わたり、日向の落水《おちみず》村近くに忍びこみわざと呆気《うつけ》のまねをして、天狗にさらわれた者といううわさを言いふらした。  与太夫の妻はそのうわさを聞いてじっとしておれず、小平太のところへ尋ねてきて、一目見るなり嬉し涙にくれた。うりふたつの男を九年ぶりに見て、女は前後を忘れたのである。女は男をわが里に連れ帰り、人々を集めて祝い酒をくみ、十一歳になっている一子与太郎に会わせ、移り変ったよもやま話にやがて夜も更ける。女は、 「長い難儀に、やつれ給うことよ」 と男をいたわり、その夜は珍しい添い寝の枕を交したのである。  かくして、二年の歳月がたつ。      *  小平太と与太夫の妻とのあいだには、もう与太郎の弟もでき、一家はうまくおさまり、村人も疑うものはいなかった。  その二年めの夏、村は旱魃におそわれた。村では古例にのっとり、住吉大明神に祈誓をかけて雨乞いをすることになる。十一年まえのひでりのときも、その願書は与太夫が書いていた。このたびも吉例にならい与太夫に書いて貰わねばならない。  だが、与太夫ならぬ小平太は元からの無筆であった。村人はこのころから与太夫を疑いはじめた。あれは、にせものではないのかと。そうした気配を感ずるたびごとに、与太夫の妻はかえって腹を立てて泣き悲しんだ。 「物が書けないのは、天狗にさらわれて気が抜けたためなのです。このひとは与太夫です」 と。村人は陰で笑った。「めいめいの好き好きだ」と村人は言った。そしてこのことはそのままになり、別にかまう者もなくこの「うそ」をそっとしておいてやったという。 [#地付き]——『懐硯』      *  与太夫の女房は、当然小平太を夫ではないと判っていたはずである。それでいて彼女は小平太を、失踪した夫として信じたかったのだ。それで世間が渡れるならそのままこの「うそ」を信じたかったのである。村人たちは、こうした女のすがたを温かく許してやった。ひとりの女の生活や、家の成り立ちが、この「うそ」によって守れるなら、これを黙認し許容しようという、村落共同体の温かい知恵がこのはなしにはうかがえるのである。 [#改ページ]   ㈽ 悪徳のすすめ [#改ページ]   スパイ大作戦  数年前、銀行の夜間金庫に故障の札を貼って、少し離れた場所に本物そっくりの臨時の夜間金庫を設置し、どうぞそちらへお入れくださいと誘導して、うまうまと夜間の預金をせしめていった泥棒があった。その知能的な着想と手のこんだやり口が世間を騒がせて、あれはテレビの「スパイ大作戦」がヒントだろうなどと、ひとしきり話題になったものだった。  テレビのドラマや洋画の世界では、今やこの種の大がかりなトリックものが大流行している。よそ目にはおおげさすぎると思われるほどの、しかも奇想天外なトリックをしかけて、みごと成功する。あるいは目標に到達しようという、その寸前に思いがけない故障が入って、せっかくの苦心が水泡に帰する。そんな大同小異の筋立てだが、着想の奇抜と手に汗握るスリルの連続が人を飽きさせない。主人公が悪人の場合にも、観客としてはトリックの成功に期待する。別に悪に加担するわけではないが、これほど大がかりなトリックになると、その計画の完遂自体が痛快なのだろう。  奇抜なトリックが喜ばれたのは現代の輸入もののフィルムばかりではない。昔の人たちもこんな話は大好きだったようだ。  しかるべき身分の人の子で、出家して禅師の君と呼ばれていた人があった。これが性来の怠け者、学問も修行も一向する気はなく、何をするでもなく日を送っているうちに、おかしな評判さえ立ち始める始末で、師の御房からも見放されたも同然になってしまった。それがどこをどう細工したものか、賀茂の社の神官の娘に言い寄ってうまく結婚にこぎつけた。師の御房にも言いつくろって、その家近いところに宿を構え、そこに妻を迎えて住むことにした。たいしたことはないまでも、妻の実家からの仕送りもあり、まずまずの暮らしができるようになった。  そのうち戦乱などが起って世の中が騒がしくなり、田舎から京へ送ってくるはずの物資などとだえて、京中の人々が生活に苦しむようになった。禅師の君も落ち着きなく暮らしているうちに、年の暮近くなった。どうして正月を迎えようかと人並みに思いはするものの、怠け者のこととてとりたてて思案をめぐらすでもない。ただ手をつかねているだけだ。  ところが、そこへ天から降ってきたように耳よりな話がまいこんだ。師の御房のもとにいるところへ、禅師の君を尋ねて、はなだ色の襖《あお》に青い袴をはき、腰に太刀を帯びた立派な侍がやってきた。 「お話し申し上げたいことがあります」 と言うので、縁の近くに招き寄せると、 「実は、私がお育て申した、さる貴い方の姫君がいらっしゃいます。以前は宮仕えなどもなさいましたが、世の中が変って|つて《ヽヽ》もなくなり、こんな時世になったからには素性いやしからぬ出家の方などを夫にもちたい、とそんなお望みでございました。そこへあなた様のことをお噂する者があって、この方こそとお心を決められました。私は、特別な仰せで参ったのですが、姫君は筑紫に所領も二、三お持ちです。ですから、生活にはお困りということもありません。かく申す私なども、その御恩で馬の一匹も持ちまして、こうして無事に過しております」 と、そんな話なので、禅師の君はこれこそ長年心に願っていたとおりだ、どこぞの神か仏のお蔭に違いないと、日ごろの不信心は棚に上げて、 「いや、そういうお話なら、こちらに異存はありません」 と答えた。 「さっそくに邸のほうにおいでいただくのも人目がありますゆえ、まず姫君があなた様のお宿へ渡られ、十日ばかり御一緒にお暮らしの上お引き移りいただきたいと思います」 「それでお迎えの車は」 「いや、お車も牛もどうせ遊んでおりますから」  これまで外出しようにも乗り物がなかったが、この人を迎えると、今後は思いのまま牛車で出かけることができる。禅師の君はほくほくして、明日にでもと約束して侍を帰らせた。  宿に帰ると、さっそく宿の主人を呼んで事情をうち明ける。主人も慾にからんで協力を申し出たから、次には妻に、年が明けたら聖《ひじり》の修行をするとか、適当な口実を設けて年内に賀茂へ送り帰すことにした。  師走の二十九日、いかにも清げな牛車に、雑色《ぞうしき》、牛飼いなど付き添い、先日の侍が宰領して、姫君の一行がやってきた。禅師の君はてんてこまい、相好くずして迎え入れた。姫君というからにはおっとりした人かと思いのほか、愛嬌たっぷり、顔を合せてもいつもにこにこしている。これは宮仕えをして人なれがしているせいだろう、とそれも気に入って、禅師の君は夢のように日を送っている。  宿の主人も所領の役などにつけてもらう約束だから、家の証文を質において、買ったり借りたり、諸事万端調えて一生懸命もてなしたが、さて年が明けて何日たっても、一向姫君の邸に移るけはいがない。恐る恐る侍に問うてみたところが、くだんの侍はにやりと笑って、 「お前はなんと世の中を知らぬどん百姓だろう。これが近ごろはやりの商売。どうも世の中が乱れて年も越しかねたから、しばらくお前のところを借りたまでさ。こうなってはもうおしまい。それ、者ども、鼓打て、銅拍子はやせ」  そう言ってにぎやかに囃し立て、姫君も侍も舞を舞いながらうち連れて出て行った。  あとには、諸事の用意に使った借金の証文だけ。禅師の君と宿の主人とは、顔を見合せて溜め息をつくばかりだった。 [#地付き]——『十訓抄』 [#改ページ]   結 婚 詐 欺  人をだます方法も、時代によっていろいろ変る。今日では到底通用しないような方法も時代時代の習俗の中ではりっぱに成功することがある。  王朝の結婚は暗闇の中で成立する。男と女がたがいに顔を見ることもなく、男は女の噂を聞いて恋心をつのらせ、しげしげ消息をつかわす。女のほうに脈がありそうだとなると自身訪ねて行くが、それも簾や几帳《きちよう》ごしに、ほのかにけはいを感ずるだけ。ことばのやりとりも直接ではない。間に立った女房がいちいち取り次いでの応接だ。  男女がたがいに顔を見るのは、ふたりがすっかりうちとけて、男が昼間も女のもとに留まるようになってからだ。そんな結婚の習俗だから、うまく利用すれば相手をだますことだってできる。  光源氏が末摘花という、鼻が象のように長く、しかも先端が赤く色づいている、猪首で胴長な、ちょっと類のない醜女をつかませられたのも、仲に入った大輔の命婦のいわば口車に乗せられてのことだった。大きな荒れた邸に、親王様の忘れ形見の姫君がただひとり、琴《きん》のことを相手に暮らしている。そんな外側の条件だけを強調するから、光源氏もついロマンチックな空想をそそられて、そのお姫様に是非一度会ってみたいという気になる。大輔の命婦は光源氏をそそのかすだけそそのかしておいて、自分はするりと身をかわしてしまう。強引に姫君の居間にまで押しこんだのは光源氏の責任だというわけだ。  暗闇の手さぐりになんとも納得のゆかないものを感じた光源氏は、一度明るい光線のもとで姫君を見てみたいと思う。何度目かの訪れに、おりしも雪の降り積もった早朝、雪景色にかこつけて姫君を端近く誘い出した光源氏は、横目を使って姫君の容貌を盗み見する。それが前述のような大変なお姫様だったわけで、昔の『源氏物語』の読者が抱腹絶倒した場面だ。      *  反対に、女の側がとんでもない男を、気がつかずに婿にしてしまうこともある。  長者の家で大事にかしずいているひとり娘があった。母親が器量好みで、どうぞこの娘の婿には器量のよい男を持たせたいと、かねがね人にもそう言いふらしていたので、誰知らぬ者もなかった。一方、ここに賭博渡世の|ばくち《ヽヽヽ》の息子で年若い男がいた。これが目と鼻と口を全部顔のまん中に寄せ集めたような、くしゃっとした顔で、ちょっと類のない醜男だった。それがどうしたはずみか、長者の家で器量好みの婿さがしをしていると聞いて、ひとつおれがその婿になってやろうと言いだした。  そのたくらみがちょっと変っている。まず口のうまいなかだちを雇って長者の家にやる。しかじかの家の子で天下第一の顔好しと言われる男が婿になりたいと言っているがどうだろう。そう言わせたところ、うまうまとひっかかってきた。娘の母親は何よりも器量好しが望み。そんな男がいるのならということで、とんとん拍子に話がまとまって、いつ幾日に婿入りというところまで進行した。  当夜になると、ばくちの息子は貴公子然とよそおって、たくさんの供を従えて長者の家に乗りこんだ。ばくち仲間がたくさんいるから人数に不足はない。それぞれ牛飼いや従者になりすましてやってきたから、長者のほうでは話のとおり立派な婿君が来たと思って喜んでいる。月の明るい夜だったが、うまく紛らわして、内へ入ってしまえば、あとは暗闇の中での応接だからなんとでもなる。  一夜二夜と無事に通って、そのうち|ところあらわし《ヽヽヽヽヽヽヽ》ということになる。そこでばくちの息子はひとくふうした。仲間のばくちのひとりを忍びこませて、若夫婦の寝ている天井裏に上らせた。みしみしと音を立てて、恐ろしげないかつい声で、 「こりゃ、天下一の顔好し」 と呼んだものだから、家中の者が鬼が出たと騒ぎ出した。みんなが集まってきたその中で、婿の君があれはわたしを呼んでるのではないかと言って、うろうろする。 「返事をしてはいけませんよ」 と止めるのに、三度目に呼ばれたとき、思わず声が出たというふうに、 「はいっ」 と答えてしまう。すると、鬼がわめきたてる。 「ここの娘はおれが領じて三年になるのに、何と思って通って来るのだ」 「そんなことは存じませんで……。どうぞお許しを」 「ええ、憎い奴だ。ひと言尋ねるぞ。命と顔と、お前はどちらが惜しい」  婿がためらっているのを見て、舅も姑も、「命とおっしゃい、命と」と口々に勧める。 「命でございます」 「そうか。ならば吸うぞっ」  声とともに、婿の君は「痛い、痛い」と顔を抱えて転げまわる。鬼は大声で笑いながらみっし、みっしと帰って行った。  脂燭をともしてみなが婿の顔を見ると、目と鼻と口がひと所に吸い寄せられて、見るも無惨な顔。婿殿は泣きながら、 「ああ、顔と言えばよかった。こんな顔になって生きていたとて何になろう。鬼の領じている娘とも知らず、こんな所に来て……」 とくやしがる。 「その代りには、わたしどもの持っている宝を差し上げますから」  舅は気の毒になって、さまざまな財宝を取り出して婿に与え、なんとか機嫌をなおそうとする。土地が悪かったかも知れぬと、場所を選んで新しい結構な家を作ってくれる。ばくちの息子はなに不自由なく、安楽に世を送ることになった。 [#地付き]——『宇治拾遺物語』 [#改ページ]   消え失せた患者 「毛を吹いて疵を求める」という中国の諺がある。毛を吹き分けてまで他人の|あら《ヽヽ》を探し出す、容赦のないきびしさの比喩に使う諺だが、それとは違って、これはまた、毛を分けて病根をたずね、あげくのはてに馬鹿を見た昔の医師《くすし》の話だ。  典薬《てんやく》の頭《かみ》なにがしという、宮廷に仕えて位もいただいている、おもおもしい身分の医師があった。名声世間に隠れもなく、しかるべき家構えのうちに住んで、頼ってくる患者の数も多かった。この医師のもとへ、ある時一台の女車が乗り入れてきた。相当の身分の人と見受けられて、雑色たちが付き添い、門番が問いかけるのに返事もせず、どんどんと車を引き入れてしまう。しかるべき所に寄せて、雑色はさっと左右に退いて畏まっている。  あるじの医師が驚いて出てきて、 「これはどちら様で。なに御用でおいでになりましたので」 と問うと、どこの誰とは言わず、ただ、適当な局《つぼね》を作っておろしてほしいと言う。声のけはいなど由ありげなので、この典薬の頭そわそわとして、さっそくひと気を離れた隅の間を掃き清めさせ、屏風を立て、うすべりなど敷いて、用意のできた旨を答える。  車には主人とおぼしき女性のほか、案に相違して供の女房なども乗っておらず、十五、六の女《め》の童《わらわ》ひとりが付き従っている。その女の童が蒔絵の櫛の箱など持っておりると、さっと雑色たちが集まってきて、車に牛をかけ、飛ぶようにして出て行ってしまった。  さて、女が局に落ち着いたところへ典薬の頭がまかり出る。用件を聞こうとすると、 「まず、こちらへ。かまわずお入りになってください」 と言う。簾の内に入ってみると、女の童は屏風の後に控えていて、女は典薬の頭とまるで長年の夫婦かなんぞのように差し向いになる。見れば年のころ三十歳ばかり。髪の具合をはじめとして、目鼻口もと、どこひとつとして悪いというところがなく、香をたきしめ、なえた衣を着て、別段恥じらう風もなく、なつかしげに向い合っている。  そんな有様だから、典薬の頭はてっきりこれは自分の自由になる女だと決めこんでしまった。この三、四年、連れ添った妻に死なれて独り身だったから、これはありがたいと、歯の抜けた顔をしわくちゃにして、 「さ、さ、なんなりとおっしゃるがいい。わしでお役に立つことなら、なんでもしてあげますぞ」  そう言いながら膝を寄せてゆく。  女は少ししんみりして、 「ほんとに人の心というものはあさましいものですわ。命惜しさにはどんな恥も忘れてしまって、……ただ助かりたい一心でこちらへ参りましたの。もうすべてをお任せいたしますから、生かすも殺すもあなた次第でございます」 と涙ぐんで、はてはほろほろと涙をこぼし続ける。わけのわからぬままに典薬の頭も気の毒になって、 「さ、事情を話してごらんなさい」 と言うと、女は袴の股立ちを少し開けて、 「これを」 と言う。  見れば雪のように白い肌の、そのあたりが少し腫れている。その具合がちょっと気がかりなところがあるので、袴の紐を解かして、念入りにさぐってみると、女の恥ずかしい場所、奥深いあたりに腫れ物ができている。しかも、特別警戒を要する悪性のもの。典薬の頭は初めて合点がいって、それと同時に女がいとおしくもなってきた。 「よし、よし。これはわしにお任せなさい。日ごろの腕の見せどころじゃ。ない手を出しても治して進ぜますぞ」 というわけで、この日以後、典薬の頭はあたりに人も寄せず、みずから襷《たすき》がけで治療に当った。  七日ばかりあれこれと手を尽して、ようやくよくなってきた。今は冷やすことは止めて、茶碗に摺りおろした薬を日に五、六度鳥の羽でもって付けるばかり。 「もうだいじょうぶ。安心なされ」 と言うと、 「恥ずかしい有様をお見せして……。あなたは命の親でございます。甘えついでにもうひとつお願いでございますが、帰りますときにはこちらのお車で送ってくださいませ。そのおりには宿も申しますし、この後はわたくしも始終こちらへ参りますから」  そう言うものだから、もう四、五日はこのままここにおいて、あとはこの女はおれのものだ、と典薬の頭はすっかり気を許していたが、その夕方、女は女の童を連れて姿を消してしまった。  それもねまきにしていた薄綿衣ひとつを着たまま。ちょうど夕方になって、典薬の頭が夕食を調えて持ってきたところが、衣が脱ぎちらしてあって、女の姿が見えない。きっと屏風の後で用を足してるのだろう、悪いところへ来た、とそのまま帰って、しばらくして来てみたが相変らず。灯もともしてあるし、櫛の箱もある。こんなに長く何をしているのかと、屏風の後をのぞいてみたが、そこにも姿はない。うち中灯をともして捜してみたが、もぬけのから。典薬の頭はみごとたばかられたのだった。 『今昔物語』はこの典薬の頭の様子を「手を打ちてねたがり、足摺りをして」しわだらけの顔にべそをかいて泣いた、とこっぴどく描写している。いい年をして好色な典薬の頭には全く同情がない。反対に女に対しては、「いみじく賢かりける女かな」と絶賛している。  治療代のことは全く問題になっていない。 [#改ページ]   かたりの手くち  江戸は谷中のあたりのある寺の、住職の身にあったことである。  この住職、遊里に足を踏み入れて通ううちに、なじみの女が出来た。到頭、この女をうけ出したが、さりとて、寺に住まわせるわけにもいかない。旦那方の目もあるし、思わくもある。そこで、一策を案じて、門前の豆腐屋の老夫婦に頼むことにした。 「実はこの女は、拙僧の姪でござるが、身よりがなく、拙僧が預らなくてはならなくなりました。ほかにめんどうをみてやる者もいないのですが、さりとて、寺に置くのも、どうも似合わしくないものですから、どうかひとつ、御夫婦で、何かとめんどうをみてやっていただきたい」  こう頼まれて、人のいい老夫婦はこの女を預って、何かと世話をしていた。  ある日のこと、年のころ三十ばかりの侍が訪ねて来た。 「身共は、この寺の住職の甥でございます。このたび、住職の在所からこちらへ出て参りましたが、身共の妹を、前々から伯父の住職が引き取って、めんどうをみてくれていたのですが、承ればそこもと御夫婦が、お預りくださっていた由、まことにお礼の申しようもなく、かたじけないことでございました」  侍は心から感謝の思いをのべ、これはまことに些少ながら、ほんのお礼のしるしと、肴代として少々のものを老夫婦に贈り、 「さて、妹のことでござりますが、ようやく、身のふり方も都合がつき、かたづけますことになりましたので、それもことを急ぎますゆえ、今日、身共が引き取りまして、連れて参りたく存じます」 と言う。豆腐屋も、 「いやそれはまことに結構なことでございました。したが、今日は生憎くお住職さまがお留守でございますので、手前どもの一存では、取りはからいにくうございます。お帰りを待ってからのことに……」 と言ったが、女もそばから、 「御心配には及びません。これは、たしかにわたくしの兄でございます。兄に連れられて参るのでございますから、今、お目にかからずにお暇いたしましても、決して、わたくしを咎めるわけもございません」  こう言って、女は急いで仕度を整え、兄の侍も、かさねがさね、礼を丁寧に申し述べ、 「伯父の住職は留守でございますが、お帰りになって、このことを耳にしましたなら、さぞかし、喜んでくれることと存じます。また改めて、近々に、お礼に参上仕ります」 と挨拶をして、侍は女を連れて、帰っていった。  さて、住職が寺に立ち戻ってから、豆腐屋夫婦は寺に行って、お留守の間にかようかようのわけで、お預りした姪御は、兄御が来られて、ご出立になったという始終を語った。  住職は大いに驚いた。無論、兄などと称する侍は居ない。もともと、女も住職の姪ではないのだから、そんな甥がいるわけもない。男としめし合せて、手に手をとって、道行としゃれたことがわかり、腹の中は煮えくり返るようだが、豆腐屋夫婦に向っては、何とも言いようも、しようもない。 「いや、それはまことに重畳。長い間、いろいろとお世話をかけました。あれも、身のふり方がきまって、伯父としても、喜んでおります」  おかしい話であった。 [#地付き]——『耳袋』      *  同じ『耳袋』の書き留めた話でも、次の一話は、|かたり《ヽヽヽ》は|かたり《ヽヽヽ》でも、ユーモラスなところがないが、ついでに書き留めておく。      *  安永九年のこと、通りかかった若い侍に、一人の盲人が、封じた状を差し出して、 「国元から来た書状でございますが、少々気がかりのこともありますので、御めんどうながら、開封して、お読みいただきたい」  若い侍が、請いに任せて読んでやると、その中の文面に、 「金子の無心を言ってよこしたが、こちらも不景気ゆえ、二百疋さし遣わす」 とあった。盲人は、悦んで、その二百疋を渡してくれという。若い侍は驚いて、 「文面には、金子をさし遣わすという文句はあるが、右の金子はこの状の中にはない。それは、別に届くのではないのか」 と答えたが、盲人は承知しない。目が見えぬ者とあなどって、同封してあった金子をかすめ取ったのであろうと言い募る。いろいろと言いなだめてもますます疑うばかりで、どうしようもない。  若い侍は、よんどころなく、盲人を屋敷へ召し連れ、金子をさし遣わしたという。      *  この話を書き記した『耳袋』の編者は、この話の教訓として、こう書いている。 「憎き盲人ながら、若きものは右様のおりから心得あるべき事なり」  ちなみに、この文章では長さの都合で省略したが、若い侍の家来たちは、盲人が手紙を読んでくれといったときに、御主人に「やめるように」ととめている。当時(安永の頃)、そんな|かたり《ヽヽヽ》が徘徊していたのかもしれぬ。それにしてもこの侍、ずいぶん弱腰である。 [#改ページ]   さいごの一夜妻  十七年のあいだに二十三人の妻を取り替えて、ついに落魄した男の話を前に紹介したが、あんなに無惨な状態になっても、歯を食いしばって意地を張り通し、故郷へ帰ろうとしない男の姿には、一種、はりつめたすがすがしい男のさいごの誇りが感じられて、それが西鶴文学の魅力なのだともおもわれてくる。  それにしても二十三人の女房とはすさまじい。同じ西鶴本のなかから、裁判沙汰をあつかった『本朝桜陰比事』の一篇をとり出して、こんどは一生のあいだに二十九人余の妻をもった男の末路と、その後の成り行きを追ってみることにした。巻二の九にあるはなしである。      *  むかし、京の都小川通りの北に、組み紐の技術できこえた「車うち」という名高い糸屋があった。江戸時代の糸屋というのは、|糸屋もの《ヽヽヽヽ》とよばれる小ぎれいな女を置いて、これを店の飾りにし、ときには客のあいてなどをさせたものだった。女は、店の看板でもあり、この店でも、そんなわけで姿のやさしい女を多く置いていたのである。  ところでここの主人はとりわけ色好きの、たいへんな精力家であった。一生のあいだに女房を離別すること数を知らず、たしか二十八、九人までは世間の人も勘定して笑っていたのであるが、こんな、よくない行跡でもいつか見慣れてくると、しまいにはうわさもしないようになるものである。主人のほうは、そんなうわさには頓着なく、あいも変らず女房を迎えては追い出し、追い出しては迎えるくりかえしを続けていた。  広い京のことである。情報の広まりかたも現代とはちがう。こんなひどい男のところへも、そうとは知らずに嫁入りしてくる女が尽きなかった。だが、天命というのだろうか、淫酒のふたつに身をもちくずした男は、だんだん身体がだめになり、どんな女を貰っても気に入った生活ができなくなったのである。それでもこの亭主、いまはもう仲人も頼まずに、とっかえ引っかえ婚礼をすましていたが、ついに精も根も尽きるときがきて、ある日、縁組みをかわしたばかりの女房のまえで、木乃伊《みいら》のようになった姿のまま眠るように息を引きとったのだった。      *  この死人にはひとりの子もなかった。ただ身内といえば、あまり利口でない弟が同じ家に住んでいるだけであった。町内の人たちはこれにふびんをかけた。できることなら、この、一晩だけで後家となった女房と一緒にして跡目を継がしたいものと相談した。  ところが、こうした家へ嫁にくる女などはだいたいまっとうな女ではない。この女房、ひどくしたたかなねだり者で、人の指図に従うどころではない。彼女は、この少し足りない弟に財産の一部を与えて追い出したあと、じぶんが遺産をひとり占めにしようと思案する。 「亡き夫は、いまわのきわに、財産はすべてお前に譲る。私の最期のときにこうして夫婦になったのもよくよくの縁だ、と遺言しました」 と、死人の口を証拠にして我を張り通したのである。ついにこの一件は裁判沙汰に発展することになった。      *  お奉行は次のように仰せ渡しになった。 「家は弟に継がせるのが至当である。後家には、しかるべき遺産の分配をしてやるがよい。後家が家を継ぐという理由はどこにもない」 と。おさまらないのは後家である。この女は口がしこくも奉行に向って、 「|ごけ《ヽヽ》とは、後の家と書きますれば、私に家の後が継げない道理はございません。亡夫の遺言もあることでございます」 と申し上げた。奉行は後家の顔を見ていたが、やがてこう仰せ渡しをした。 「女の身にして、文字の吟味までできるとはまことに利発ものである。なるほど、違いない。だが、お前のように若い身盛りに、これからの永い年月、女のひとり身を立て通すことができるだろうか。女盛りをあたら亡夫の位牌を守って朽ち果てるより、良縁を求めて再婚したほうがよかろうと存じて計ったまでである。よくよく分別をきわめてみよ。そのために数日の猶予を与える。裁許はこの次にしよう」  こうして数日後、再度奉行所に一同が集まったとき、後家は墨染めの衣を着、殊勝な顔つきでひかえていた。奉行はこれを見咎める。 「これはこれは惜しい姿になったものよ。して、その姿は何ゆえだ」 「はい、お奉行さまは私を疑われて、後家を立て通すことなどできまいと仰せられました。ふたたび夫を持つことなど考えてもおりませんので、亡夫の菩提を弔おうと思いまして、かくは姿を替えましてございます」  奉行は、ここできっとなって女に尋ねた。 「ならば尋ねる。出家とはいかなる文字を書くのか」 「はい、家を出ると書きます」 「よろしい、お前は後家の身で出家とは相なった。出家とは家を出ると書く。よって、ここに裁許申しつくる。この女を、そのほうらが家から即刻追い出しませい」 [#改ページ]   耳が聞えなくなった女  京は北野の片ほとりに、質屋と酒屋の商売を兼ねて、にわかに分限になった男がいた。家が栄えるにしたがい、多くの召使いを置くようになったが、そのなかにひとり姿のやさしい物縫い女がいた。物縫いというのは、お抱えの裁縫女のことである。この女、いつのころからか、青梅を好くようになり、次第におなかが大きくなってきたので、主人のお内儀は心配して、「相手はどんな男か」といろいろ問いただしてみたのだが、深くかくしていっこうに白状しない。あまりに隠すその様子が憎らしく、お内儀はおもいあまってとうとうこの女を、「家風に合わぬ不作法者」ということで暇を出し、親元に帰してしまった。それから半年ほどの月日がたった。  ある日、この家の主人は急にめまいがすると言って倒れたが、みなみなが呼び立てるあいだにもう息が絶えてどうすることもできず、あっというまにあの世へ旅立ってしまった。まだ子どももない夫婦の仲で、跡にのこったお内儀の悲しみはひとしおだったが、しかもこの主人の生国は出羽の国で、都には親類とてなく、その野辺送りは女房のほうの親戚だけがやっと集まるという淋しさだった。  その葬式の用意のさいちゅうに、以前、暇をやった物縫い女が乳呑み子を抱いて駆け込み、 「この家の跡取りはこの子でございます。旦那さまのお手がついて、私はこの子を産んだのです」 とわめき立てたのである。そのいきさつはこの店の番頭がよく知っているという。番頭がその声を聞きつけて、「私はなにも存じません」というと、女は番頭にしがみつき、泣きながら、 「お前の主人筋にあたるこの赤子にむかって、よくまあそんな白々しいことを。こないだも、お前は、旦那さまからの養育費を持って、私のところへ来たではないか」 と、大声をあげるのだった。こういう騒ぎで葬礼もめちゃめちゃになり、とうとう訴訟ごとにまで事件は発展した。      *  お奉行さまはまず番頭に聞いた。 「あのせがれは主人の子か」  番頭は答えた。 「内輪のことは知りませぬが、旦那の言いつけで、女の住み家の藤の森まで、毎月末に金を届けに参りましたことだけは本当です」  奉行はそれを聞いて次のような判決を下した。 [#ここから1字下げ] 一、この子は亡き主人の子として跡目《あとめ》をつがすこと。 二、物縫い女は母親だが、乳母としてわが子を育てること。 三、内儀はこの子の母として、子の成人の後は隠居すること。 四、財産は一族と町役人が管理し、商売は番頭がさばき、この子が十五歳になったら子に渡すこと。 五、この子の出生について、後日疑わしいことが知れたら、内儀は奉行に申し出よ。 [#ここで字下げ終わり]  以上であった。      *  連れ合いに死なれた悲しみのなかでも、後家になった内儀はこの下女の子のことがどうにも|ふ《ヽ》に落ちなかった。あの人に子が作れるはずがない、と内儀はおもう。  子のないことを嘆き、承知の上で妾もなんにんか置いた。子が産れたら、夫が私に隠すはずはない。どう考えてもこれは変である。  内儀は、それからいつとはなしに耳が聞こえないまねをはじめた。そして夫の後生をねがう毎日だけが続く。かくて翌年の春、彼岸の日がくる。  一家をあげての墓参の日、内儀は男の子の手をとって、墓石に向って言った。 「お前のととさまはこの石塔になってしまったのよ。よくよくお水をあげなさいね」  いまは乳母におさまった物縫い女は、このとき、せせら笑って番頭と顔を見合せた。 「なにを言ってるんだい。この子の父親は、ここに竪縞の羽織を着て立ってるじやないか」  内儀はこれを聞いて、そ知らぬふりで家に帰る。翌朝、内儀はこっそりと奉行所の門を叩いた。 「私に財産の望みはさらさらありません。ただ、血筋のない者を跡継ぎにするのは、亡き夫の手前、なんとも申しわけが立ちません」  奉行は、子の母と番頭を喚問した。女は奉行の前でわめき立てる。 「なにを言っているのですか。町中、知らぬ人もなく、諸事、筆談で用を弁じ申すこと、そのこと隠れ御座なく候」 と。内儀は笑って言った。 「よしなき罪作り、たしかに私は耳の聞こえないまねをいたしました。その証拠はこの通り……」  かの女は去年からの家のなかの様子を、いちいちくわしく申し立てた。これですべては明白となる。子は、番頭の子に相違なかった。両名ともにお仕置きときまったとき、内儀は亡夫の供養のために、ふたりの助命を願い出る。番頭のほうはお許しが出ず断罪されたが、女のほうは願いが聞き届けられ、京の五条の橋の上で、頭に摺鉢をかぶらせ、手に火吹き竹と杓子を持たせ、下女にまちがいないという恰好をさせて三日のあいだ晒し者になった。世間に、この女の罪状を周知させるためであった。子どもは、この物縫い女の親元に下げ与えられ、末々は出家させるように、という条件で養育を言い渡されたという。 [#地付き]——『本朝桜陰比事』 [#改ページ]   後 家 の 情  むかし京の町に、絹織物を手広く商って、一代のうちにたいそうな財産を築いた男がいた。こういう働き者は長生きしない。男は四十二歳の厄年に、世ざかりのさなかに急死してしまった。それで、ことし二歳になる女の子に財宝はのこらず譲ることになった。のこされた細君はまだ三十三歳の女盛りだったが、きっぱりと髪を切り、浮世をはばかる姿となって、後生をねがう日々を送った。  商売のほうはやめてしまい、財産は両替屋(いまの銀行のような店である)に預け、所帯を小さくし、奉公人の数をへらし、それでかえってゆったりとした生活を送ることにしたのである。  年若い未亡人、幼女がひとりいて、家が豊かでのんびりと遊んでいる。これに目をつけない男がいるだろうか。  ある春の花見どきのことである。この若後家は、東山のお寺でひらかれるお談義の聴聞に、一家をあげて参詣にでかけ、門の戸を外からしめて、留守番も置かずに春の一日をたのしんだ。夕暮れどきに帰宅してみると、奥座敷のほうに人影がうごいている。みんなはびっくりして、くちぐちに「昼盗人だ」と叫びながら取りかこみ、庭の片隅に追い込んで行った。いくら世帯を縮小したとはいっても、この江戸時代の資産家は召使いの数だけでもまだ七人はいたという。泥棒は追いつめられて隣家とのさかいの塀を乗りこえようとするところを取りおさえられた。  とらえてみれば、とは世間でよく言うことばだが、この泥棒はこともあろうに、常日ごろよく言葉をかわす、南隣りの家の、十七歳の息子であった。駆けつけた町内の人びと、相手が知り合いの若者ではなんとも具合が悪い。世間体ということもある。表沙汰にならぬように、ことを穏便におさめようと、寄り寄り話し合うことにした。ところがである。  この息子、なにを思っているのか、わざとその席にのさばり出て、 「私がここに忍んでいることは、こちらのお内儀も承知のはずだ」 と言ったのである。これではことがおさまらない。さては、ふたりは示し合せた仲だったのか、ということになる。未亡人は涙を流して言った。 「覚えもない言いががりをつけられては口惜しゅうございます。私の子と言ってもよいような若い人に、なんで不義などはたらきましょう。不義をする気なら、私には相手にことは欠きません。女も女によるべし」 と、ひとすじに思案をきめて奉行所へ訴えてしまった。      *  お上《かみ》は、その若者に訊いた。 「密通いたしおるならば文通もあったであろう。その証拠を出してみよ」 「互いに人目を忍ぶ仲でありますゆえ、その都度、火中にいたしまして、文の残りはござりませぬ」 「しからば科《とが》はまぬかれまい。なんぞ、他の証拠はないか」  若者はしばらく考えてから、「恐れ多いことでありますが」と言って、着物を脱ぎかけ、肌着の浅黄色の小袖に三つ蝶の紋のついたのをお目にかけた。 「これは、あの後家の下着でございます。風の吹いた夜の別れぎわ、あの方が私に着せて帰してくれました。かような次第でございますのに、盗人との沙汰は是非もないこと……」  若者は涙をうかべて言上した。 「お内儀、右の次第、しかと相違ないか」  お奉行さまのお尋ねに、未亡人はひっそりとうつむいたままであった。そしてややあってから女は顔を上げて答えた。 「世の外聞を考えまして、ずいぶん包みかくして参りました。このように表沙汰になりましたのも、大かたならぬ因果と存じられます。いかにも私は、あの若者と密通仕りました」 「さようか。しからば何の子細もない。内儀の、無用の言い立てに公儀の御用をさまたぐる段、くせごととは思うものの、これまたおろかな女ごころであろう。よいよい、罷《まか》り立て」  ことは、これで終ったかにみえた。そのとき、若者は頭を下げて奉行に言上したのである。 「申し上げます。私、後家と密通などいたしておりませぬ。私のたくんだ悪事でございます。お許しください。  私はよしなき若気の至りで、親の金を大分に使い込み、危く勘当されそうになりましたのを、一門の人びとのとりなしでようよう許されました。それからは小遣いも減らされ、遊びも思うままにならず、ふと出来ごころで、この隣家の有徳《うとく》なるに気づき、忍び込んで盗みをしようと考え、万一の用心に言いのがれのため、この下着をこしらえておいたのでございます。私は悪人でございました」      *  奉行の裁決は次のようであった。 「後家のこころざしは立派である。若者の命を助けたいばかりに、世間の恥をもかまわず、密通したことにして、若者をかばおうとした。諸親類は以後しっかり後見をするがよい。また、この男のことは、悪事明白なるによって、このたびは処罰すべきであるが、内儀の情ある心に恥じて、みずからの罪を自白した段、神妙である。よって罪一等を減じて、自今、京より所払いにする」  むかしの裁判官、すいも甘いもかみわけていたようである。 [#地付き]——『本朝桜陰比事』 [#改ページ]   千二百二年前の殺人事件 「兄弟は他人のはじまり」という諺もあるが、一方「五本指で切るにも切られぬ」というのもある。五本指はどの指を切っていいというものではないというのと同じで、骨肉の間柄をいうのだが、ことに兄弟姉妹の縁の深さについて言うようだ。そうした近い親しい間柄を、奈良時代では「葦蘆《あしおぎ》の隙《ひま》」と言ったらしい。中国出典の諺でいえば、「兄弟牆《けいていかき》に鬩《せめ》ぐ」である。兄弟喧嘩は垣根の内でする、の意である。  光仁天皇の御代、宝亀九年の冬、十二月も押詰まってのことである。備後国葦田郡(今の広島県芦品郡)大山の里に、品知牧人《ほむちのまきひと》という人がいた。正月を迎えるにあたって、必要な品物を買おうというので、同じ国の深津郡(広島県深安郡)深津の市に出むいた。市につく途中で、日がとっぷりと暮れてしまったので、仕方なく葦田郡の葦田の竹原に野宿することにした。  地に落ちた竹の皮にくるまって寝入ろうとしていると、どこからともなくうめき声が聞えて来た。耳をすますと、 「ああ目が痛い。目が痛い」 と言っている。牧人は、その声に恐ろしくなって、終夜一睡も出来ず、うずくまったまま夜を明かした。  翌朝、明るくなってから、こわいもの見たさに声のしたあたりを捜して見ると、髑髏が一つころがっていた。よく見ると、竹が一本髑髏の目の穴を貫き通して生えていて、風のそよぎに目の縁にこすれる。かすかな音が、その度にするのである。  これでは痛いに違いないと合点した牧人は、その竹を抜きとり、その上自分の食い料の干飯をさしむけて弔い、さて、 「わたしに幸福をさずけて下さい」 と祈った。  その日、市に行っての交易は、どれもこれも思い通りになったので、牧人はもしかするとあの髑髏が願いによって、恩を返しているのではないかと思ったりした。買物をすませ市よりの帰途、その晩もまた同じ竹原にやどった。すると例の髑髏が生きている時の姿を現わして、しみじみ語って言うには、 「わたしは葦田郡|屋穴国《やなくに》の郷《さと》の穴君《あなぎみ》の弟公《おときみ》という者です。強悪な叔父秋丸にここで殺されました。やがて肉は腐り落ち空洞になった目に筍が生い出て、風が吹くたびにややもすると目の縁にこすれて、その都度の痛みといったらなかったのですが、あなたの慈悲心によってその苦痛は取り除かれました。今は楽になり喜びに耐えません。それで、慈悲深いあなたの御恩に報いたいと思います。わたしの両親の家は屋穴国の里にありますが、この大晦日の宵に、両親の家にお出で下さい。その夜でなければ、恩をお返しすることが出来そうにありませんから」 と言った。牧人はその話を聞いてますます心に怪しんで、他人には喋らなかった。  大晦日の夜に、約束通り牧人はその家に行った。魂はすでに来ていて、牧人の手をとり亡き人の魂祭りの祭壇のある室内に請じ入れ、供えてある神饌を分けゆずって共に食べ、残りは皆包んで、ほかの財物と一緒にくれた。  ややしばらくあって、突然に魂は姿を消した。両親が御祖先諸霊を拝むため、はいって来たからである。両親はそこにいる牧人を見て驚いて、はいって来たわけを尋ねた。牧人はそこで、しかじかかくかくと前にあったことをくわしく述べ立てた。  両親は早速に秋丸を捕えて、弟公殺人の容疑について詰問した。 「一年前、お前がわしらに語ったところでは、お前は弟公と一緒に市に行って、途中たまたま借りた物を返さないでおいた貸主に出会い、道なかで返済をせまられ、弟公を置いて逃げて来たと言ったな。で、家に着くと、『弟公は帰って来ましたか』と尋ねたな。わしはお前に『まだ帰っていない。会っていないし』と答えたのを覚えているだろう。今聞くところとは、なんでお前の話とこうも違うのだ」 となじった。秋丸は一々言いあてられ、そら恐ろしくなって、事の次第を隠すことが出来ず、今はと観念して、 「ちょうど去年の十二月の下旬のことでした。正月の物を買い調えるため、わたしは弟公と連れだって市に行きました。弟公が交易用に持っていましたのは、馬と布と綿と塩でした。市に行く途中日が暮れたので竹原に仮寝した夜に、わたしはひそかに弟公を殺し、持ち物を奪い、馬は深津の市で讃岐の人に売り、その他の物は今も小出しにして使っておりました」 と答えた。両親はその告白を聞くと、 「ああ、わしらの可愛いあの子は、お前に殺されておったのか。他の盗賊ではなしに」 となげき悲しんだ。  だが、諺にいうように「父母を同じくする兄弟は、葦《あし》と蘆《おぎ》のように近いものだから、その過ちを隠して外に漏らさない」というわけで、秋丸を追放しただけで、罪を世間に現わすことはなかった。一方、他人である牧人には厚く礼をした上、更に御馳走をした。  しかし、牧人は家に帰ると、この事件を物語らざるをえなかった。こうして、この話は伝わったというわけである。 [#地付き]——『日本霊異記』 [#改ページ]   戦わずに負けた盗人  白浪五人男の台詞では「賊徒の張本、日本駄右衛門」の「張本」を、チョウボンと濁って言う。しかし、これは歌舞伎役者の訛りではなくて、古くから、首謀者や首魁のことをいう張本はチョウボンと言ったらしい。  さてその強盗の張本に、交野の八郎という者がいた。それが今津にいるという情報がはいったので、後鳥羽上皇は武士どもを遣わして、捕縛させようとし、御自身も、お出かけになって、海上からその召し取りの様を御覧になっていた。  ところが八郎は屈強な奴で、武士どもが四方を取り囲んで捕えようとするが、とび違い、かけ違って、なかなか捕えられない。上皇は、心もとなくお思いになって、御舟の上に立ち上って、櫂を手にとって、それで指図をなさったところ、八郎もついにからめとられた。  水無瀬の離宮に召し出して、「汝ほどの奴が、どうして、からめとられたのか」とお聞きになったところが、八郎が言うのには、 「上皇様の武士どもなら、ものの数でもございませんが、上皇様が立ち上っての御指図を見ましたところ、櫂を片手にとって、それを扇かなんぞのように扱っていらっしゃいました。あれははなはだ重いものでございますが、それを片手でかるがると持っていらっしゃるのを見て、へたへたと力が抜けてしまい、そこをつかまえられてしまいました」 と申し上げたので、上皇は御機嫌もよく、「身近に仕えよ」ということで、御家来になさった。  それ以来、この交野の八郎は、上皇の「御中間」という、侍と小者との間の位置の者となって、身近にお仕えすることになった。上皇の御出ましの時には、烏帽子をかぶり、袴の裾をたかだかとくくり上げて、両脚を出して、颯爽と歩き廻った。なかなか、小気味のいい恰好に、上皇も目をかけて、重用された。 [#地付き]——『古今著聞集』      *  後鳥羽上皇といえば、日本短歌史上、指折りの歌人でもいらっしゃったわけだが、この話に伝えられたような、強盗がびっくりして、へたへたとしてしまうような、抜群の力を持った方でもあった。さてこそ、北条氏を向うに廻して、天皇御謀反ということにもなったのだが、戦わずして、相手を屈伏させてしまったという話も、豪勇な者の話として、伝わることが多い。  名高い「袴垂」という男も、賊徒の張本の一人で、「いみじき盗人の大将軍」などと言われているが、これがまた意気地なくも、藤原保昌にひとにらみされている。この保昌、歌舞伎の舞台では、源頼光の独り武者、平井の保昌《ほうしよう》などと名告って、顔なじみであるが、伝えはさまざまであって、藤原保昌の兄か弟かが藤原保輔で、この保輔が袴垂保輔だとも言う。盗賊列伝も、このあたりにまで遡ると、はなはだ曖昧になってきて、おもしろい。      *  この袴垂という盗賊の張本が、ある年のこと、初冬十月の頃、衣料が入用になったので、ちっとばかり手に入れようと、京の町をうかがい歩いた。  月がぼんやりとでている真夜中に、京の町もすっかり寝静まっている。ふと、月あかりにすかして見ると、着物をたっぷりと着こんだと思われる男が、伴もつれずにただ一人、笛を吹きながら、ゆっくりと歩みを運んで来る。袴垂はしめたと思った。これこそ、飛んで火に入る夏の虫、ではないが、衣料をおとりくださいと言わぬばかりの|かも《ヽヽ》ではないかと、舌なめずりをする思いだった。  走りよって、何なく身ぐるみはぎとれそうに思ったのだが、近づいてゆくと、何となく様子が違う。仕方なく少し離れてあとをつけて行くと、先方は全くつけられているとも知らぬ様子で、相変らず笛を吹いている。いつまでそうもしていられぬから、足音を高くしてうしろに迫ったところが、笛を吹きながら、振り返った様子が、全く落ち着いていて、しかも寸分のすきもない。あれやこれやと仕掛けてみるが、どうにも手を出させない。ごうをにやして、今度こそはと刀を抜いて走りかかったところ、やっと笛をやめて、 「何やつだ」 と言う。思わず心も消しとんで、地べたにすわりこんでしまった。そこへまた、 「何やつだ」 と声がかかった。もう、逃げようにも逃げられぬと、だらしなくも、 「追剥ぎでござります」 と答えてしまった。 「追剥ぎと言っても、名のある奴か」 「はい。少しは人に知られた、袴垂という者でござります」 「聞いたことがあるような名だな。うしろからいきなり切りかかるとは物騒な奴だ。おれについて来い」  そう言って、またむこうを向いて、平然と笛を吹いて行く。音いろは全く乱れていない。袴垂は観念してしまって、すごすごと付いて行った。邸に着いてみると、これが、藤原保昌であった。 「衣料がいる時は、おれのところに来い。相手を誰とも知らずに切りかかったりして、ひどいめに逢ったりするな。おれだったからよかったようなものだ」  保昌はこうたしなめて、袴垂に綿のたっぷりとはいった着物を与えた。  世の中にはたいした人もいるものだと、後に袴垂が人に語ったという。 [#地付き]——『宇治拾遺物語』 [#改ページ]   改心した盗人  後鳥羽上皇の頃の交野の八郎のことは前に言ったが、やはりその頃、大殿・小殿という名の、評判の強盗の首領がいた。大殿は捕えられ、小殿は検非違使の庁に名告り出て、やがて、大納言家の徳大寺殿の家人、源康仲に仕える身となった。交野の八郎も上皇に仕える身となったが、つい昨日まで、もっとも危険な敵対者が、一転して、身近に仕えるということは、源義家の家来となった安倍宗任をはじめ、例が多かった。これは、神と精霊との対抗が、抵抗から一転して、強力な味方となり、先導者となった歴史を踏まえているものと思われる。  小殿というのは、小殿平六と言ったが、この強盗の降伏は、いっぷう変っている。  ある日小殿は、検非違使の庁の三等官、高倉章久のもとへまかり出た。 「日ごろ、年ごろ、あなた様方が、捕えようとしても捕えられないで来た、小殿という強盗はわたくしめでござります。考える子細があって、こうしてまかりでました。どうぞ、捕縛なさってください」  章久は、信じられないという気持で、まずひと通り、小殿の言うところを聞いてみた。 「御不審は御もっともでございますが、全く関係のない者が、自分は強盗だと言って、名告り出るわけがありません。正真正銘の小殿でございます。  実は、わたくしは長い間、裏街道を歩いて来ました。西国の方では海賊をし、東国では山立ちをしました。都では強盗をし、田舎に行っては追剥ぎをやりました。そういう、世渡りをして来たのですが、決して、のんびりと過して来たわけではありません。それどころか、夜は安眠もできず、昼は昼とて心のくつろぐなどということもなく暮らして来ました。今にして思いますと、つくづくと恐ろしいことで、生きながら地獄の苦しみにいるようなことでございます。しかも、生涯をこのまま安穏にすごせるわけもなく、ついには捕えられて、恥をさらし、悲しいめをみることでございましょう。こう思い始めると、矢もたてもたまらず、いっそ人手にかかろうよりはと、進んで自首して参りました。年ごろの罪の報いに、どうぞ、御存分になさってください」  今と違って、昔はこう言って来た者の今までの罪を数えたてて、ただちに処刑するということもなかったとみえて、小殿はやがて、源康仲のもとに仕えて、給与までも給わる身となった。小殿は悦んで、今までの仲間なども、様子を知っているところから、それらの召し捕りにも、大いに活躍することになった。なにやら、近世の岡っ引きみたいでもあるが、何しろ大物の強盗だったのだから、いったんこうなった上は、大いに役に立つ働きをすることになった。  こうして、小殿の働きで、当時名うての盗賊の張本の一人、真木島の十郎も、からめとられた。  十郎の召し捕りを命じられた小殿は、 「承知しました。何しろ十郎はたいへんな剛の者ですから、まず、武力の秀れた者を三十人ほどお貸しください。それから、何でも結構ですが、盗品だと言えるような物を何か一ついただきとうございます」  こうして、三十人余りの人数と盗品めかした馬具とを用意した小殿は、十郎の家に向い、もし十郎が逃げた場合に、現われると思われる道の要所要所に、人数を分けて立たせ、自分と一緒に、現場にとびこめる器量のある者を家の近くに隠し、自分はただ一人で、十郎のかくれ家にいった。「おれが声を立てるのを聞いたら、とびこめ」と言いおいて、十郎の門をほとほとと叩いた。十郎が中から「誰だ」と言ったので、 「平六だ。ここを開けてくれ」 と言うと、十郎は警戒心もなく、普段着のままで出て来た。平六は用意の盗品と見せた馬具を取り出して、 「これをちょっと預ってくれ。今、よそへ行かねばならぬから」 といった。十郎は気軽に受取って、「まあ、ちょっと寄って、飲んでいけよ」と誘ったので、しめたと、小殿は中へはいった。それとなく気を配ると、うちの中にはほかに男もいないようで、一人いた女も、酒を求めに出してしまったので、ここぞと小殿は十郎に躍りかかり、 「とった、とった」 と呼ばわった。声を聞いて、隠れていた者どもがとびこんで来て、おり重なってからめとってしまった。 「はかられたか」 と十郎は口惜しがったが、とうとう、康仲の家につれていかれた。  真木島の十郎逮捕の功名を、康仲は得たが、実はそれは、小殿平六の働きであった。      *  小殿は盗賊の張本の一人であったが、言わば仲間と袂をわかって、官に屈したわけで、しかも、もとの仲間をだまして、逮捕したりしている。そこにこだわりを持つ向きもあろうけれども、実は、アウト・ロウの忠誠というものは、知己に感ずということが根本であって、自分を認めて、それ相応に取り扱ってくれる者に対して、その真実の心を傾ける、というのが、のちのちまでの生き方であって、これは、侠客などのモラルにまで、引き続いていくのである。 [#改ページ]   足ばやとはやわざ  小殿平六の話をもう一つ書いておく。それはこの男が非常に足が早かったということについてである。  いったい、人にすぐれて足が早い、などということは、それが仇になって、悪の道にはいりこむことになったりもするのだろう。『大菩薩峠』にでて来る裏宿の七兵衛なども、そういう盗賊だったが、この小殿もそうであった。  もっとも、この話は、小殿がすっかり心を入れ替えて、前に書いたように、大納言家に仕えるようになってからのことだ。  ある時、急のことで、宇治産の布が十反入用ということが起った。それがどうしても翌日の午前十時前に必要なのだが、今はもう午後の八時である。先方の様子はわからないが、ともかく使いをやってみようということで、力者が使者に選ばれて、これに代金を持たせ、警戒のための武士として小殿をつけて、出発させた。  小殿はまゆみの弓をひょいと肩にして、下駄ばきであったが、明日の朝までにという使いだから、つい気がせいて、足早になる。力者というのは、僧形で、力わざをもって仕えている者をいうのだが、この時使者に選ばれた力者は、足が早いということで評判のある者だったが、これが、汗だくになって歩いているのだが、とても下駄ばきの小殿について行けない。これでは制限時刻までには帰れそうもないと判断した小殿は、七条河原まで来た時に、力者に向って言った。 「あんたの歩きぶりでは、この急ぎの御用が間に合いそうもない。あんたの預っている代金をこちらにおよこしなさい。わたし一人で走って行って、布を手に入れて、持って来ましょう」  しかし、小殿の前身のこともあるから、持ち逃げでもするのではないかと疑って、力者は代金を渡さない。 「お前さんは、警護に付けられた者だ。布の入手の使者はわたしなんだから、代金を渡すわけにはいかないよ」  小殿は笑って、 「ばかばかしい。持ち逃げでもすると思ってるんですね。わたしがその代金を取ろうと思えば、あんたを無事にはさせておきませんよ。わたしに張り合おうなんて、愚かなことだ。さ、早く寄越しなさい。ともかく、御用を欠かないことが、この際大事なんだから」  こう言って、代金を受け取ると、小殿は、 「あんたはすぐ帰って、このことを報告しておきなさい」  力者は、かれこれ十二時頃に帰って来て、この由を告げたが、大納言家でも、小殿にしてやられたのではないかと、疑う者もいたがそこへ、ひょっこり、小殿が帰って来た。見れば、宇治産の布十反を、ちゃんと持参して来た。つまり、力者が七条河原から帰邸するまでの間に、宇治まで行って、用をたして、帰って来た、というわけだ。かりに、七条の京都駅から宇治駅まで、地図の上の直線距離でも十キロはある。それを考えると、小殿の足早はまさに人間わざではない。      *  もう一つ、小殿の語った武勇の男のことを書き添えよう。盗賊渡世の経験で、唯一度だけ、自分よりも強い男に出会った、という、男のことだ。  まだ小殿が盗賊だった頃、兄貴分の大殿と山崎のあたりに住んでいた時のことだ。夜がしらじらと明ける頃、犬がしきりに吠えたが、小殿は別に気にもとめなかったが、大殿はきっと聞き耳をたてて、 「犬の啼き声がおかしいぞ。そとに出て見てくれ」 と言った。そこで、弓矢をとって出て見ると、白い直垂にひき入れ烏帽子の下人二、三人をつれて歩いていく男がいた。身のたけもたかだかとして、見るからにがっしりとした法師で、身なりは物の具もつけず、太い棒だけ持って、歩いて行った。小殿が内へはいってそう言うと、大殿は、 「それはあやしい。どこへ行ったか、行き先を見たか」  小殿がそれはたしかめなかったと言うと、 「役立たずだな。お前と一緒に暮らしているのは、こんな時の用に立てたいからだ。もう一度見て来い」 と言ったので、小殿がいそいで出て見ると、大殿の言う通りで、通り過ぎたと思った法師が、この家の門に向って立っていた。さてはと思って、小殿は矢をつがえて、法師に向って射放った。はずれるはずがないのに、法師はかるがるととび上ったので、矢はむなしく六寸ばかり下をとんで行った。あきれた奴だと思って、内に走り帰った。  大殿は、内にいたが、外の様子を察して、中戸の所に太刀を抜いて、はいって来たら斬ろうと待ち構えていた。小殿がはいるのに続いて、法師がはいって来た。大殿のことだから、うまくやったと思ってみると、法師は手にした棒で、大殿の刀を受けるやいなや、大殿の額を打って、うつぶせに打ち伏せてしまった。そこへどやどやと大勢がはいって来て、その時、大殿はからめとられてしまったのであった。  小殿は、大殿が打ち伏せられたと見てとると、そのまま裏へ逃げて淀川にとびこみ、水の底をかいくぐって、対岸の八幡の方へ行って、うまく逃げおおせた。  小殿が生涯で、唯一度出会った、手ばやく心剛なる者とは、この法師のことであった。 [#改ページ]   臆病と間抜け  臆病者という者は仕方のないもので、夜道をこわごわと歩いていて、自分の足音を、誰かがつけて来るのだと思いこんで、たまらなくなって駆け出すと、追って来る者も駆けて来る。やっと家へとびこんで、戸をうしろ手にぴしゃりとしめてほっとしたが、帯をぎゅっとつかまれてしまった。助けてくれと声を上げたので、家人が出て来て見ると、戸に自分の帯をはさんでいた、などという話がある。  次の話は、強盗の手下の、見張りに立たされた法師が、臆病のために、あたら生命を落したという、おかしいような、気の毒なような話である。『古今著聞集』にある。      *  ある所に強盗がはいった。あまり、ものの役に立ちそうもない仲間の法師が、見張り役にされて、門口のところに立っていた。  門の脇に立っている柿の木をたてにとって、その下で、矢を一本弓につがえて見張っていたまではよかったが、折ふし秋の末のことで、柿には実がびっしりとなって、それもうれきっていた。  すると、うれた柿の実が一つ、法師の上から落ちて来て、ちょうど法師の脳天にあたった。うれきっていた柿の実は、ぐしゃりとつぶれて、ちりぢりばらばらになって、とび散った。ひやりとしてつめたい。  びっくりした法師が、こわごわ頭に手をやってみると、なにかよくわからぬが、ぬるぬるとしている。法師は、てっきり矢で射られて、血だらけになってしまったものと、すっかりおじけづいてしまった。  仲間の一人に言うのには、 「おれはもうやられた。深いいたでを負ってしまった。もうだめだ。とても生きてはいられない。俺の首を打落してくれ」 と言う。頼まれた仲間の者がさし寄って、「どこをやられたのだ」と聞くと、「頭を射られた」という。どれどれと、探ってみると、何かはっきりはしないが、べっとりとぬれている。すかしてみると、何やら赤いものが手についている。こりゃ、やっぱり、やられたらしい、おびただしい血だ、と思った仲間も、相当軽率だったわけだが、 「射られたにしても、大したこともなさそうだ。俺が肩を貸してやるから逃げ延びよう」 と励まして、肩にかけて歩かせようとしたが、法師はもうがっくりしてしまっていて、 「いやいやだめだ。もうとうてい、助かりそうもない。捕えられて、辱しめを受けたくない。頼むから、首を討ってくれ」 と言う。仲間も、いつまでもかかずらわってはいられないから、法師の言うままに、到頭首を討ち落した。  さて、法師の首を包んで、大和国まで持って行って、この法師の家に届けて、実はこれこれであったと、始終を物語った。妻子は歎き悲しみながらも、首をあらためてみると、どこにも矢のあたったあとなどはない。 「胴体の方に、傷を負ったのでしょうか」 と言われて、 「いや、そうではない。御本人は、頭を射られた、とばかり言っていました」 ということなので、何かの間違い手違いということで、悲しさ、悔しさがいやましたが、もう、死んだ者は生き返らなかった。  こんなとび抜けた臆病者が、強盗の手先になったり、いさぎよく死に急いだりしたのだから、何ともばかばかしい話だ。  忠臣蔵の勘平の腹切りでも、二人侍が先に与市兵衛の傷口を改めてやれば、むだ死にもしなかったろうものを、この場合は、追われる身ということもあろうが、この仲間の事後処理が何とも割り切れぬ。      *  もっとも、強盗の中には、臆病ばかりでなく、だらしのないのもいる。鷺流の狂言にある「金藤左衛門」という作に出てくる、金藤左衛門という、山中のスッパなども、相当にだらしがない。  名告りはものものしく「雲の上の金藤左衛門」などと言うのだが、これが、山越しをして、親里へ往こうとしている女を、山中で襲って、小袖をまきあげた。ところが、間が抜けているスッパで、油断しているところを、女に薙刀を奪い取られ、逆に女におどかされて、自分の腰のものまでも、取り上げられてしまう。  狂言は、弱いはずの女が強かったり、強いはずのスッパが弱かったりするところに、笑いと皮肉との、一つのねらいがあり、仕立てがあるのだが、この間の抜けたスッパを、金藤左衛門と名付けているところにも、おもしろみがある。  きんとうということばは、よくはわからないことばだが、金当、緊当、禁当などという字をあてている。あるいは、懃答などとも書いている。つまりは、語源はわからないというほかはない。  しかし、「これはこれは、おかたいことで」と、相手の律義さに敬意を表して言う挨拶語であって、東京でも、つい近い頃まで、「ごきんとうさま」と言った。もと、借金や、ものの代価を即刻返すときに、貸した方で言うことばだったという。だから、狂言でこのスッパを金藤としたのは、奪い取った小袖をすぐもとの持ち主に返したことになるから、そう言ったので、「藤」としたのはいかにも人の姓らしくしている。これに左衛門を付けたのは、人名化の語尾で、「きんとうさん」とからかっているわけだ。だから、野球などで点をとられて、その裏ですぐ取り返せば、点を与えてくれた相手に向って、「ごきんとうさま」と言ってもいいわけだ。 [#改ページ]   盗人アラカルト  ある家に盗人がはいった。ちょうど、あるじが目を覚してこれに気が付いたが、あるじは、盗人が引き上げて行くところを引っ捕えてやろうと、物かげにひそんでいた。そして、そっと障子の破れから部屋の中をのぞいて、見張っていると、この盗人、様子が少しほかの盗人とは変っている。  折角忍び込んだのに、その辺の品物を少々取って、持って来た袋に入れた。さして欲張って、たくさん詰め込もうともしない。そして、さて帰ろうとして、部屋の中の釣り棚の上の、灰を入れておいた鉢を見付けると、何を思ったのかこの盗人は、鉢の中の灰をつかんで、ぱくぱくと食っていたが、やがて、今取って袋の中に入れて持って行こうとした品物を取り出して、元のところに置いて、帰って行こうとした。  あるじは待ち構えていたので、なんなく打ち伏せて、からめ取ってしまった。しかし、どうにもこの盗人の所行が腑に落ちないので、いったいどうしたわけかと聞いてみたところ、この盗人はこう言った。 「申しわけありません。わたくしめは、もともと、物を取ろうなどという気は、さらさらありませんでした。しかし、この一日二日は、全くたべるものが手にはいらなくなってしまって、どうにもひもじくて、我慢が出来なくなってしまい、つい、盗みの心が起って、生まれて初めて、ひと様のうちへ忍びこみ、ものを盗もうなどという心になったのでござります。  ところが、少々ばかり品物をいただいて、さて帰ろうと致しましたときに、ひょいと、釣り棚の上の鉢の中に、なにやら、麦の粉のようなものがあるのに気が付きまして、それを手にしたところ、矢も楯もたまらなくなって、夢中で口に入れました。始めのうちは、空腹のあまり、何を口に入れているのかもわかりませんでしたが、いく度も口に入れているうちに、やっと人心地がついて来まして、そうなって気が付いてみましたら、それは灰でござりました。さすがにそれで、もう口に入れるのはよしにしました。たべ物でないものをたべたのでござりましたが、ともかく、おなかがくちくなりましたので、もの欲しさも消えました。悪うござりました。  しかし、空腹のあまり、我慢出来ずに、こんな悪心を起したのでござりますから、たとえ灰にせよ、口に入れたおかげで、腹がくちくなった以上はと、盗った物は元のように、お返ししたのでござります」  あるじは、この話を聞いて、この盗人を、あわれともまたふしぎなこととも思い、折角盗みにはいったしるしにもと、わずかばかりの品物を与えて、帰してやった。 「もう、ひと様のところに忍びこんだりなんか、するのではないぞ。これからも、にっちもさっちもいかなくなったら、あたしのところへ、遠慮せずにやって来たらいい」  あるじに助けられた上に、こうまで言われて、盗人はすっかりあるじに心服して、この後、常にこのあるじのもとに、出入りするようになったと言う。  この話を伝えた『著聞集』の筆者は、 「盗人もこの心あわれなり。家あるじのあわれみまた優なり」 と、感想を書き添えている。      *  蛇足を加えると、『著聞集』には「偸盗」という見出しでまとめた巻が一巻設けられていて、賊徒の張本から、大盗、女盗の数々を記して、二十話にも及んでいるが、意外に、悪心を入れ替えた盗人の話が多い。法印の説経に教化された山賊などもでてくるが、それは教えの力とも言えるけれども、中には、音楽の音色に感動して、心を改めたというような、これも、優にやさしい盗人もいる。  有名な博雅三位《はくがのさんみ》の家に盗人がはいった。三位は驚いて、板敷の下に逃げこんで隠れていたが、盗人が引き上げてから出て来てみると、家中、目ぼしい物は一物も残さずに取って行ってしまった。どういうわけか、ひちりきが一つだけ、残っていたので、三位はそれを手にして、吹奏した。  すると、その音色を耳にした盗人が、感動してしまって、立ち戻って来た。そして、 「ただ今の、あなたさまのひちりきをうかがって、浅間しい盗み心がすっかり洗われました。まことに、あわれにも尊いことでござります。いただいた品々は皆、お返し致します」 と言って、取った品物を皆元へ戻して去って行った。博雅三位とは、|源 博雅《みなもとのひろまさ》のことで、醍醐天皇の孫。蝉丸の秘曲を伝えたという音楽の名匠であった。      *  もっとも、秀れた音楽に心を打たれたという、優なる盗人ばかりでもない。「偸盗」の巻の第一話の男は、心なき奴であった。 「元興寺」という名の琵琶は名器の聞えの高いものであったが、持ち主が金が入用で売ってしまった。それを、後朱雀院がまだ東宮であらせられたときに、お買いになった。  修理の必要があって、しかるべき人のもとへ、持たせておやりになったところ、その使者に立った者が、数珠《じゆず》の玉を加工する職人の妻であったが、その夫の職人が、どういう量見からか、琵琶の甲の尻のところを、三寸ほど切り取って盗んでしまい、そこへはつまらぬ木がはめこまれていた。これほどの名器を何と思ってそんなことをしたのか、ひどい奴がいる者だと、作者はくやしがっている。しかし、盗人ならそれがあたり前のことで、前の盗人達は、例外なのだと言うべきだろう。 [#改ページ]   女 盗 人  承和四年十二月五日、と書き出すとものものしいが、この夜、清涼殿に女の盗賊が二人はいった。清涼殿といえば、天皇の夜のお休みどころがある建物だが、そこへはいったのだから、多分、勝手知ったものだったのかと思うが、詳しいことは書いてない。仁明天皇は大いにお驚きになって、蔵人等に命じ、宿衛の者につかまえさせた。やっと一人は捕えたが、一人は逃げてしまった、とある。ともかく、宮中の私生活の行なわれるところだから、女の方がはいり易かったのかも知れぬ。 [#地付き]——『続日本後紀』      *  右の記事には「女盗」とあるが、例の『著聞集』には、「女盗人」が登場する。  大納言隆房が、検非違使の別当であった時に、白川に強盗がはいった。  その家に、しっかり者が一人いて、強盗どもとたたかっていたが、そのうちに、強盗の仲間の方にまぎれこんでしまった。それにしても、こちらは一人だから、改めて立ち向ったところで勝ち目はない。いっそ、仲間のような顔をして、強盗どもが、盗んだものを分けるところまでついて行って、強盗の顔を見、また散り散りに別れて行く時には、つけて行って、その棲み家を見出してやろうと考えた。たしかにしっかり者である。そんな心組みで、知らん顔をして、仲間になりきって、ついて行った。  さて、朱雀門のあたりまで来た。めいめいに物を分けて、この男にも与えた。見ると、強盗の中に、若くて美しい男がいて、声と言い、様子と言い、人並み勝れている。年の頃は二十四、五と思われる。胴腹巻といって、軽快な鎧を身につけ、左右の籠手をさし、長刀を持っていた。服装は緋色のはでなくくり紐の直垂を着、袴の裾はたかだかとくくり上げていた。この若い男が強盗の首領とおぼしくて、てきぱきとことをさばいている。ほかの強盗どもは、皆、この男の指図に従っていて、見た目には主従のようであった。  さて、散り散りになった時に、くだんの男は、この首領らしい者の行く先を見届けようと思って、後にさがって、見え隠れについて行った。首領らしい男は、朱雀大路を南へさがって、四条まで来て、そこから東へ曲った。そのあたりまでは、はっきりと目にとめていたのだが、四条大宮の、検非違使の別当、大納言隆房の邸の西の門のあたりで、かき消すように、その姿が見えなくなってしまった。そこで、そのあたりを、行きつ戻りつしてみたが、どこにもいない。おそらく、この邸の築地を越えて、この中へはいったに違いないと見きわめて、その時はそのまま帰って来た。  翌日、朝早く行って、中へはいったと思われる築地のあたりを見ると、昨夕つけて来た首領は、傷を負っていたとみえて、道々に血がこぼれていた。そしてそのこぼれた血のあとは、門のところまで続いていて、そこで切れていた。これは、例の首領らしい強盗の若者は、疑いもなく、この邸の中にいる者だということを示している。  そこで男は立帰って、自分の主人に、かくかくと、一部始終を語った。その主人は、都合よくも、検非違使の別当に仕える者で、隆房大納言の邸に出入りしていたので、すぐさま参上して、ひそかにこの由を申し上げた。  隆房はびっくりして、家中の者をきびしく調べたけれども、一向に、らちがあかない。すると、例の血のしたたりのあとが、北の対の屋の、車宿のところまでこぼれていることがわかった。そうなると、この対の屋に、局を賜わっている女房の中に、盗賊をかくまっている者がいるに違いない、ということになり、局をすべて調べようと隆房は北の対にいる女どもを皆呼び集めた。すると、それらの女どもの中で、大納言殿と呼ばれていた女房が、この間うちから風邪をひいていて、お召しに応じられないと届けて来た。しかし隆房は許さない。 「なんとでもして、人の肩を借りてでも、やって来い」 と、強い催促を言ったので、言い逃れようもなくて、しぶしぶと出て来た。  そこで、大納言という女房の居処を調べたところが、まず、血のついた小袖が見付かった。さてはというわけで、なおも調べを進めると、床板が切ってあるところがあった。その板を上げてみると、床下にさまざまな物の隠してあるのが見付かった。その上、例の、つけて行った者の報告にあった、首領とおぼしき者の服装、緋色のはでなくくり紐のついた直垂や袴なども出て来た。さらに、面が一つあった。おそらく、この面で顔を隠して、男と見せかけて、夜な夜な強盗をしていたのだ。美しい、若い上臈その人が女盗人であったのである。  大納言隆房は驚きかつあきれた。自分は検非違使の長官である。つまりは、東京で言えば、首都の警察の元締め、警視総監ともいうべき職掌の者だ。その家の侍女が女盗人だったのだから、驚きあきれるのも無理はない。隆房はただちに官人に言い付けて、女を逮捕し、真昼間から獄に繋いだ。そして、顔を隠す小袖なども皆はぎとって、顔をむき出しにしたままにして、諸人の目に晒した。見物人が群れをなして集まり、まるで市のようだったという。  年はせいぜい二十七、八、細やかで、背丈も髪のかかり具合も、すべて欠点のない、むしろ、人に秀れた容姿の女であった。  見物人が立ち去りかねたのも無理はない。昔の鈴鹿山の女盗人のことなども蒸し返されて、近ごろ珍しいことだと語り合った。 [#改ページ]   女の力持ち 『古今著聞集』の「相撲強力」という見出しの章の中には、女の力持ちの話がでてくる。その一人は、近江国高島郡海津というところにいた、遊女の|かね《ヽヽ》という女で、|かね《ヽヽ》は常々どんな男が五、六人がかりでかかって来ても、あたしをおさえつけることは出来ないだろうと、豪語していた。  あるとき、手を差し出して、五本の指の一本一本に、五張の弓を一度にはらせて、指の力だけでも、これほどのものだ、ということを、人々に披露した。  |かね《ヽヽ》は、海津で名の聞えた法師の相手にきまっていて、何年も、法師は|かね《ヽヽ》との暮らしを続けていた。  ところが、あるとき法師は浮気心を起して、同じ海津の、ほかの遊女のもとへ、ひそかにかよった。これを、|かね《ヽヽ》が耳にしたから、|かね《ヽヽ》の心はおだやかではない。  ある夜、法師が|かね《ヽヽ》のところへ来た。|かね《ヽヽ》は法師の腰を両足ではさみつけた。はじめのうちは、法師はじょうだんだと思って、「おい、よせよ、よせよ」などと、ふざけていたが、|かね《ヽヽ》ははずすどころか、だんだんに強くはさみつけて、 「このくそ坊主め。人をばかにするのも、いいかげんにするがいい。人もあろうに、同じところの仲間の女に心を移すなんて、なにごとか。にくらしいったらありはしない。こらしめてやるから、そう思え」 と言って、ますますしめあげた。|かね《ヽヽ》の大力に逢ってはどうしようもない。とうとう、口から泡をふいて、死にかかってしまった。それをみて、|かね《ヽヽ》は法師をやっと両足から解放した。法師はもうくたくたになってしまって、やっと息をしている有様だった。|かね《ヽヽ》は法師に水をぶっかけたりしたので、二時間ほどしてようやく、法師は普通になった。これでは、|かね《ヽヽ》の目を盗んで浮気をするのも、命がけだというわけだ。  そのころ、東国の武士どもが、大番役になって、上洛しようとして、この海津にその日の宿をとった。まだ、日が高かったので、武士達は湖に馬を引き込んで、馬の脚を冷やした。長途を歩く馬の手入れである。  ところが、その馬の中の、とりわけたくましい一頭が、何か、もの音に驚いたらしく、突然狂奔した。武士達が大勢馬に取りすがって引きとめようとしたが、馬はものともしない。とりすがる人々をはねとばして、まっしぐらに駆け出した。  ちょうどそこへ|かね《ヽヽ》が行き会わした。|かね《ヽヽ》はちっとも驚かない。馬は口につけてある綱を、ひきずって駆けていくので、|かね《ヽヽ》は馬が前を通りすぎたときに、高い足駄を履いたまま、むんずと綱のはしを踏んづけた。勢いこんで駆けていく馬は、いきなり綱をおさえられたので、つっころびそうになって、やすやすと、とまった。馬のうしろから追って来た武士達も、さすがに|かね《ヽヽ》の力に驚いた。  見ると、綱を踏んづけている|かね《ヽヽ》の足は、高い足駄が地面の砂の中にもぐりこんで、その足くびのところまでが、砂にうずまっていたという。  狂奔していく馬の加速度的な力と、それを瞬時にぴたりと踏みとどめた足の力との、力くらべみたいなものであったが、|かね《ヽヽ》の大力は見ごとに、馬の勢いに勝ったわけであった。  このことが評判になって、|かね《ヽヽ》の大力はさまざまに取り沙汰されたが、聞く人々、誰も皆、おじ怖れたと言う。      *  こういう、いわば異風な力くらべということが、いろいろに伝えられている。相撲のような、ルールのある力くらべではない、力くらべである。  となると、源平合戦の、さまざまなエピソードの中の一つ、錣《しころ》引きに触れねばなるまい。  かたや平家の侍悪七兵衛景清、かたや源氏の郎党三保谷の四郎の、八島の合戦の折の、首と腕との力くらべである。  錣引きなどは、多分に芸能的になって、話が面白くなっているのだろうが、景清一人に追いまくられて、さっと引いていく源氏の軍の中で、景清が目をつけて、よき敵ござんなれと三保谷の四郎を手取りにしようとして、うしろから、三保谷の冑の錣をつかもうとする。それを嫌って、三保谷が取りはずし取りはずしているうちに、とうとう、むんずとつかまれてしまった。それを、遁れようとして前に進む。ひきよせようとうしろへ引く。互いにえいやえいやと引き合ううちに、錣がちぎれてしまった。三保谷は遁れて、遠くから振り返り、さてもおそろしい、汝の腕の強さよと言う。一方景清は、ちぎれた錣を手に持って苦笑い。汝の首の骨の強さよと言ったという。  錣引きなどに、女性が登場しないのは、前の近江の海津の|かね《ヽヽ》の話のあとには、ちょっと、続きがうまくないが、馬の手綱を踏んづけて、じっと踏みこたえた|かね《ヽヽ》の姿には、錣を引っ張られて、これもじっと踏みこたえた三保谷の姿が重なってくるのである。 [#改ページ]   大力の水の女  平安朝のまだ始めの頃らしいが、佐伯氏長という者がおった。相撲の節会に召されて、越前の国から京をさして上って来た。  近江の高島の郡の石橋というところを通ったときに、ひなにはまれなというべき女が、川の水を汲んで桶に入れ、それを頭に載せて運んでいくのに出逢った。  氏長は、ふと見て心が動き、そのまま見過す心地もしないので、馬からおりて、桶をおさえている女の腕のもとへ、手をさしいれた。女はにこにこと笑っていて、氏長を袖にするような風でもなかったので、ひどくいとしい思いがして、女の腕をぎゅっとにぎったところが、女はその腕を桶からはずして、氏長の手を脇にはさんでしまった。  氏長はこれはしめたと喜んだが、いつまで経っても、女は氏長の手を放してくれない。それで、脇から引き抜こうとすると、ますます、ぎゅっとはさんでしまって、氏長の手を放さない。どうにもならずに、氏長は女の脇に手をはさまれたままの恰好で、のめのめと女の行くままについていって、とうとう、女の家にまで来てしまった。  女は家にはいって、桶の水を始末して、さてようやく手を放してくれて、笑いながら、 「いったいあなたはどなた。どうしてこんなことをするんです」 と言った。女の様子は、近寄ってしみじみ見ると、ふと一目見たときよりは、一段とすぐれている。 「わたしは越前の国の者です。今度、京の相撲の節会に召し出されました。力の強い者を、国々からお召しになる中に入れられたので、これから京へ行くところです」  氏長がこう言うと、女はうなずいて、 「それはあぶないことでした。京へは、国中から広く力のある者を集めるのですから、さだめて、世に秀れた大力の者もいるでしょうよ。あなたは、箸にも棒にもという程の、甲斐性なしの弱虫でもないけれども、とてもその程度の力では、相撲の節会でいい成績をあげるわけにはいきません。あたしがこうしてあなたに逢ったのも、何かの縁でしょうから、まだ節会までは日数もあるから、三七日のほど、ここに足をおとめなさい。その間に、ちっとばかり、力をつけてあげましょう」  氏長が思うには、さいわいまだ日数があるから、逗留しても差し支えはないし、美しい女と暮らすのだから、一石二鳥だというわけで、女の言うままに、そこに留まった。  女はその晩から、こわい飯を多くして氏長に食わせた。女が自分からその飯をにぎって食わせるのだが、これが固くて、少しも食い割ることが出来なかった。始めの七日は、とてもだめだったが、次の七日のうちには、ようやく、食い割ることが出来るようになり、さて次の七日になると、見ごとによく食うことが出来るようになった。  こうして、三七日の間に女は氏長に、すっかり力をつけてくれた。 「さあ、今はもう節会も近づきました。それに、まずまずこのくらいならば、京で力を争っても、そうひけをとることもないでしょうよ」  こう言って、女は氏長を、京へ出立させてやった。——この氏長が京へ出て、どんな成績をあげたかは、『著聞集』の編者は書き伝えていない。  さて、この高島の郡の女だが、この女は、田なども多く持っていた。ところが、田に水を入れる時に、村びとはどの田にどれだけの水を、といったことを論じ合って、自分の田に少しでも多く水を引こうとし、女とあなどって、その田へは水を配分しなかった。  女は、夜になるのを待って、夜陰に乗じて、表面の広さが六、七尺もある、四角な石を持って来て、水の取り入れ口のところにその石を置いた。水口をせきとめて、ほかの村びとの田へは水が流れ込まず、自分の田にだけは流れて行くように、横向きに置いたので、水は思いのままにせかれて、女の田だけが、たっぷりとうるおった。  翌朝になると、村びと達は驚いた。しかしどっかとせきとめている大石は、百人がかりでも動かせそうもなかった。しかも、それだけ大勢の人々によって、石をどけようとすれば、田は皆踏み荒らされてしまう。どうしたものだろうと、村びとは相談の上、女にわびを入れて、 「これからは、決して、女と見くびって、勝手なことはいたしません。御望みだけの水をお取り下さい。ですからどうか、この大石を取りのけて下さい」 と頼みこんだので、女は、「じゃあ、まあ、そういうことにしましょう」というわけで、また夜になってから、夜陰に乗じて石をひきのけた。  その後、長く水争いもなく、田に水が枯れて焼けつくなどということもなかった。  この女のことを、氏長の話の中ではそうは呼んでいないが、後段の田の水の話の段では「おほゐこ」と呼んでいる。「大堰子」であろうか。ともかくこの大石は「おおい子の水口石」と言われて、高島の郡にあるという。      *  氏長の話では、ただ、水を汲んで運んで来たというだけが、女と水との関係だが、後段の話は全く「水の女」の話の類型である。すなわち、古代では「水の女」というべき、水の管理に任ずる宗教的女性が活躍していた。その系統の話である。 [#改ページ]   ㈿ にんげん以外 [#改ページ]   蛸  蛸と烏賊とはまるっきり違うのだが、それでいてどこか似ている。頭だか胴だかわからなかったり、足が何本もあったりすることの、無責任な印象からだろう。空に上げる凧のことを、烏賊幟と言ったりするところにも、何か、似よりがあるのだろう。  喰べ物としては、烏賊の方が、効用ははるかに広くて、塩辛になったり、するめになったりするが、そういう点は蛸は烏賊の敵ではない。てんぷらにもなって、いかてんというが、たこの方には、たこてんはない。  それなのに、人気は断然、蛸の方が圧倒的だ。  あのまるい、ほんとうは胴にあたる部分が、頭に思い寄せられて、蛸坊主だとか、蛸入道だとかいう語も生まれた。風呂の中で暖まって、湯気をたてていると、ゆで蛸のようだと言われる。どうしてもそれらは、蛸であって、烏賊ではない。烏賊もそう言われても、納得するだろう。  いかさま!      *  忠臣蔵の七段目、由良助と九太夫との、狐と狸のばかし合いのようなやりとりの挙句に、主君塩谷判官の逮夜に、九太夫が喰べろとつき出すのも蛸である。それを遠慮なくいただきながら、由良助が言う。   手をだして 足をいただく 蛸ずかな  これも、蛸だからさまになるので、烏賊ではどうにも、さまにならない。  坊主と蛸との結び着きも、蛸坊主ばかりではない。生臭ものを隠れて食うというときに、とかく蛸が使われる。「娘道成寺」のきいたか坊主が、ひそかに持ち込んだ生臭ものも蛸で、酒のさかなはぬかりはないと、またぐらから取り出すのが、これまた蛸だ。どういうわけか、こういう場合には、蛸である。  ところで、こんな話がある。  京都の蛸薬師のそばのある寺でのこと。住持がひそかに蛸を手に入れた。大っぴらに、鍋で煮るわけにもいかないから、薬罐の中にいれてゆでていた。  折あしく寺の檀那がやって来て、薬罐のかけてある炉のそばに、ぴたりとすわってしまった。住持は気が気ではないが、さりげなく火をかき起したりしながら話をしている中に、薬罐の湯がたぎって、沸騰したので、檀那が何気なく蓋をとると、中は蛸だ。檀那はびっくりして、 「御坊。この薬罐には、蛸がはいっております」 と言ったところ、住持は落ち着いたもので、すましてこう言った。 「さてこそ、さてこそ。この間のひでりに、寺の水がきれて、蛸薬師に水を貰いにまいりました。その水を、今こうして火にかけました。これこそ、蜻薬師の御神体が現われたもうたものと見えます。もったいなし、もったいなし」  そう言って、薬罐ごと、奥へ持って行ってしまった。 [#地付き]——『噺本大系』      *  蛸はひもじくなると、自分で自分の足をたべてしまうという。そういう知識をもとにしで出来たことばが「蛸配当」、略して「たこはい」だ。利益があったように装って、無理な配当を行なうことが、自分で自分の足を食うようなものだ、というわけだろう。  これがまたいくつかのはなしになって書き留められている。  蛸がつくづくと思った。人間は、うまいものは蛸に限ると言って、とかく俺たちを捕りたがる。どうせ俺も長いきはすまい。人間に食われてしまうなら、一生の思い出に、どれほどうまいか、一本だけ食ってみようと、食ってみたところが、めっぽううまい。これはたまらぬと、つい、たちまち八本全部たべてしまった。  そこへ友だちの蛸がやって来て、肝をつぶし、お前の恰好はなんじゃ。見られたもんじゃないと言って笑った。 「何をかくそう、人間どもが、うまいものは蛸に限ると言うから、ちと食ってみたが、こたえられぬ。もう一本、もう一本と思って皆食ってしまった。残った胴がどうもならぬ。お前、食ってくれ」 [#地付き]——『噺本大系』      *  大蛸が磯にあがって寝ていたら、猿が見つけて、すばやく木からおりて来て、足一本もぎとって、木にあがって食ってしまった。蛸は怒って、だまして海へつれていこうと、どうだ、もう一本やってもいいぞ、とやさしい声を出して招いたところ、猿はかぶりをふりふり、 「いや、その手は食わぬ」 [#地付き]——『噺本大系』      *  もう一つ、蛸の話。  一間四方ほどもある大蛸を捕えたまではよかったが、さて、ゆでるだんになって、鍋も釜も役に立たない。一人の智慧者が風呂桶でゆでればいいと言う。そりゃいいというわけで、風呂桶の中でゆでて、さてもういい時分と蓋をとったら、大蛸がぬっと頭を出して、 「おい。ゆかたを持って来い」 [#地付き]——『噺本大系』 [#改ページ]   ジョーズのルーツ  日本の古典に登場するワニは、鰐(クロコダイル)なのか、鮫(シャーク)であるのか、にわかには決しがたい。日本には鰐は棲息していないが、南方からもち来たった知識や、説話として将来されたものもあろうし、祭りの時は恐ろしい猛獣としてその作り物が登場したことも考えておかねばならない。ここでのワニは、日本で起きた事実談として語られるのだから、一応鮫のこととしておくが、書くには古来からの習慣に従って、ワニと書くことにする。      *  天武天皇二年七月十三日に事件は起きた。出雲国意宇郡の安来郷に住んでいた語部猪麻呂という者の娘が、ヒメ埼の波打際で遊んでいたところ、ワニに襲われ、海中に引きずり込まれた。父の猪麻呂は必死になって娘を引き上げたが、すでに息が絶えていた。父は娘の遺体をその浜辺に埋め、その場所を離れることができなかった。かわいい娘のあまりにあっけない、むごたらしい最期だった。埋葬地をうろうろ歩き嘆き悲しみ、こみ上げてくる怒りをおさめることができない。それで矢尻を鋭くし、鉾の刃を研ぎ、そのワニの寄るのを待ったが、人の力ではどうすることもできない。そこで天神地祇、就中《なかんずく》出雲の大神にその荒魂だけがこの地に結集してくれることを一心に祈った。そうして数日間が過ぎた。  その時、海面がむくむくとふくれ上り、沖から百余のワニがおもむろに群れて来た。じっと見ると一匹のワニを囲むようにして来る。浜辺まで寄り来ると、そこを去らずにいる。猪麻呂は鉾を挙げて、そのまん中のワニを突いた。ワニはのたうちまわりやがて死んだ。すると百余のワニは囲みを解いて、海に散って行った。猪麻呂はその腹を裂いた。はたせるかな娘の足が一本出て来た。猪麻呂はそのワニを串刺にして、道のほとりに立てた。そのときから今にいたるまで六十年が経過した。 [#地付き]——『出雲風土記』  天武二年は西暦六七三年。それから六十年経ったのだから七三三年で、その年は出雲風土記が奏上された天平五年にあたる。してみるとこんな事件があったことは半ば信用することができよう。ただ古代では神の力に頼るよりなかったし、当事者が語部だったことに、物語のふくらみを感ずるのみである。  中世になると、また違った内容となる。      *  昔、駿河国に私市宗平《きさいちのむねひら》という相撲取りがいた。力はあるし技はよし、左方の最手《ほて》(大関。当時の最高位)であった。宗平が大関になるについては、同じ左方に参河国の伴勢田世《とものせたよ》というこれも威風堂々たる大関がいたが、これを投げとばしたから勢田世は脇(今の関脇)にさがり、宗平が大関になったのである。  さてある四月のこと、駿河国で鹿狩が催され、大関宗平も参加していた。一頭の大鹿が背を射られ逃げ場を失ない、海にはいって泳いで逃げて行った。湾の向う側の山に逃げこまれたら取り逃がしてしまう。宗平はざぶっと海にとび込み、もう三、四町も先にいった鹿に追い着くと、その後足をむずと掴んで肩にかけるようにして、岸へと引き返しはじめた。  その時に、沖の方から一筋の白波がすうっと宗平の方へ近よって来た。岸にいる射手どもは大あわてにあわてて、 「大関、ワニだワニだ。早く逃げろ」 と叫んだが、宗平は鹿を手ばなさない。波がさっと宗平のところに来たと思うと、宗平の姿は一瞬波間に見えなくなった。射手たちは食い殺されたかと息を飲むほどに、また宗平の姿が現われて、相変らず鹿をかついで泳いで来る。岸から一町ばかりになった時に、また波が宗平のところに来、しばらくたつと沖へと引き返す。見ている者は気が気ではない。あんな鹿は捨てて、早く来ればいいのにと気をもむばかりで、手だしのしようがない。岸まであと一、二丈までたどり着いたところで、また波が立ち寄って来た。岸の者は皆集まって、「早く陸へ上れ」とののしるが、宗平は足をふんばっている。  宗平はワニの鏡のような目と、さけた口の鋭い歯を見た。食いつくと思った瞬間、残った鹿の後足をワニの口にぐいっと押し込み、そうしておいてワニの鰓に手を差し込むと身を屈めるようにして陸地めがけて投げとばした。ワニは一丈ばかりも陸に投げ上げられて、ばたばたはねまわっているところを、射手たちがよってたかって、射殺した。  後になって射手たちが宗平に尋ねた。 「どうして食われずにすんだのです」  宗平は答えた。 「ワニは獲物の肉を食いちぎると、その場では食わずに、必ず自分の住処に置いて、またその残りを食いに来る。わしはそれを知っていたから、最初の時は鹿の頭をくれてやった。二度目には前足と腹とを食わせてやった。三度目に来た時に、尻と後足を食わせておいて投げ上げたのだ。その習性を知らない者は、一度に手をはなしてしまうから、二度目には自分が食われてしまうことになる。だが、やはり力がなくては無理というものだよ」 [#地付き]——『今昔物語』      *  古代では神の力に頼ったところを、中世では知恵と力量とでワニを仕留めている。何とも壮快でいい。左の最手は、東の横綱で、今でいえば北の湖だが、北の湖ではこの場面を想像するには少し太りすぎのようだ。しかし、輪島か若乃花ならば、絵になりそうだ。 [#改ページ]   鹿 の 声 「鹿鹿角何本」という遊戯があった。ジャンケンのようなもので、そう言って一人が相手の背後で指を出し、その数を当てるのである。鹿の角は二本に決っているが、枝が分れているからそれを何本といったので、この遊び、明治以来の外国種であるのか、わが国にはやくからあったものか決着がついていない。だが児童の遊びとして流行ったのだから、鹿がごく身近かな動物であったことはわかる。  日本文学の上では、鹿は鳴き声に注意が集中して、それを聞くと悲しい気持が起るという約束があった。   奥山に 紅葉ふみわけ 鳴く鹿の 声きく時ぞ 秋は悲しき などの歌が牽引力になったのかも知れない。  豊臣秀吉が「奥山にもみぢふみわけ鳴く蛍」と連歌の前句を作った。満座は笑うのをこらえるのに必死である。すると連歌の上手だった細川幽斎が「しかとは見えぬ杣のともしび」と付けたという。できすぎているから前もって打合せておいたのだろう。しかし、付けたのは曾呂利新左衛門だともいうから、どだい、作り話だろう。      *  大和国にある夫婦がいて、長い間お互いに限りなく思い合って暮らしていたが、男はどうしたことか別の女を作った。それだけではなく、その女を家につれて来て、一つ屋根の下に壁一重を隔てて住んで、もとの細君の方には少しも来なくなった。細君はつらいとは思ったが、それでもことばに出して嫉妬するようなことはしなかった。  秋のある夜、細君は夜寒にふと目を覚した。鹿の声が聞えて来た。傍にものを言う夫もおらず、さえざえとした声をじっと聞いていた。すると、壁を隔てた向うから、 「聞いていますか、西隣さん」 と言ってよこした。 「何をです」 「鹿の鳴く声をですよ」 「はい聞いております」  何カ月ぶりかの夫との会話であった。しばらくして、 「どのように聞いているのです」 と問うてきたから、細君は、   我もしか なきてぞ人に 恋ひられし 今こそよそに 声をのみきけ と答えた。「以前はこの鹿のようにあなたになき慕われたわたしでしたが、今はただ声だけをよそに聞いております」といった意味である。男はこの歌をこの上ないものと感心して、今の女を送り帰し、もとのように暮らした。 [#地付き]——『大和物語』      *  鹿の声を聞いていたのは、この平安朝の夫婦だけではない。  仁徳天皇三十八年七月のこと、天皇は八田皇后を伴って高殿に登り涼をとっておられたが、毎夜|刀我野《とがの》から鹿の声がした。それが月末になるとふっと聞えなくなった。天皇は皇后に「これは何のしるしだろう」と尋ねられたが、皇后はお答えしなかった。翌朝宮中に大きな包みが献上された。中には牡鹿がはいっていた。天皇がどこでとれた鹿かと問われると、「刀我野でとれました」という返事だった。天皇は皇后に「わたしはこの頃気塞ぎであったが、わずかに鹿の声を聞くことによって心を慰めておった。とった佐伯部の者たちはそんなことは知らないでとったのだろうが、やはりいやな気がする」と仰言って、佐伯部を地方に転居おさせになった。 [#地付き]——『日本紀』      *  昔、刀我野に牡鹿がいて、その正妻の牝鹿はこの野に、第二の妻は淡路の野島にいた。それで牡鹿はしばしば野島に通っていた。ある時牡鹿は正妻の牝鹿に語った。 「今夜わたしは夢を見た。わたしの背中に雪が降り置き、また薄が生えていたが、この夢は何のしるしだろう」 と言った。正妻は夫の鹿が度々野島に行くことをにくんでいたので、偽って夢合せをして言った。 「背中に草が生えたのは矢を射られるしるしです。また雪が降り置いたと見たのは、白い塩を塗られるということです。あんたが淡路の野島に渡ろうものなら、必ず船人にあって海中で射殺されますから。絶対野島に行ってはいけません」 と告げた。だが牡鹿は野島が恋しくてならない。とうとう耐えがたくて海を渡った。すると途中で船に出会い、正妻が言った如く射殺されてしまった。それで刀我野を夢野というようになった。 土地の諺に「刀我野に立てる真牡鹿も、夢合せのまにまに」と伝えている。 『摂津国逸文風土記』にある話で、これは土地に伝わる諺物語であった。      *  夢合せはたとえ偽って合せても、その通りに運命が導かれていくのである。それにしても鹿でも妻というものは恐ろしいものだ。  八田皇后が天皇の問いにうかつに答えなかったのも夢合せではないが、何かそれなりの理由があったに違いない。  さて、万葉植物園ならぬ万葉動物園では、鹿は何と言って鳴くのだろう。『播磨風土記』に鹿が「比々」と鳴いたという記事がある。「比々」は「ひ」の長音を表わし、上代の「ひ」はP音に近かったから、「ぴー」と鳴いていたわけだ。 [#改ページ]   犬あらそい・馬あらそい  南無阿弥陀仏の浄土宗と、南無妙法蓮華経の法華宗とは、どういうわけか、はなはだ仲が悪い。狂言の「宗論」以来、面白おかしく世上に伝えられている対立だが、町の民衆の生活の中では、泥仕合的なやりとりが伝えられている。      *  浄土宗の寺と、法華宗の寺とは、ことのほか仲が悪い。  法華の寺で犬を飼って、その犬に浄土宗の宗祖法然上人の名をとって「法然」と付け、盛んに法然々々と呼び立てる。浄土の寺でも負けてはいない。やはり犬を飼って、それに法華宗の祖師日蓮上人の名をとって「日蓮」と付け、しょっちゅう日蓮々々と呼び立てる。そして「法然め」の貧乏臭い様子を見ろの、「日蓮め」の意地のきたなさを見たかなどと、互いにそしり合っている。  とうとう犬同士の噛み合いになる。  浄土の方では声援して、「日蓮それ行け」とけしかける。法華の方でもわが犬を応援して「法然負けるな」と声をかける。  そのうちに、浄土の寺の「日蓮」が噛みまけて、尻尾を巻いて逃げてしまった。法華の連衆は大悦び。 「なんと見たか。うちの『法然』には、米の飯を食わして置くから、どうだ、強いところをよく見ておけ」  浄土の連衆も負けてはいない。 「あたりまえだ、負けるのは。うちの『日蓮』には、屎を食わして置いたんだ」 [#地付き]——『噺本大系』      *  浄土寺の犬が「日蓮」、法華寺の犬が「法然」。この「日蓮」と「法然」とが噛み合って、法華寺の犬が勝ったので、法華寺の小僧が大悦びで手をうって、 「日蓮が負けた。負けた」 と言った。この咄、題が洒落れている。 「犬勝って、宗旨は負」      *  憎しみの相手の名を家畜につけて、その名を呼び立てるなどというのは、次元の低い、いやがらせだが、必ずしも、寺同士のいさかいごとの程度ではない。れっきとした武家の世界にもあって、ややオーバーに言えば、天下の大乱のもとにもなっている。  平宗盛という人は、その兄の重盛と比べられて、その精神の不鍛練さを、軍記物語の作者に指弾されている人だが、こんな話が伝わっている。  源三位頼政の嫡子、伊豆守仲綱は宮中にまでも名の聞えた名馬を持っていた。名を「木《こ》の下《した》」と付けて、大切にしていた。  この馬に目をつけたのが宗盛である。評判の名馬をいただきたい、と使者を遣わした。仲綱はもとより手放す気はない。生憎、田舎に連れ帰らして、休養をとらせておりますので、などと繕って、差し出さなかった。ところが宗盛の家来達が、 「その馬は一昨日まではおりました」 「いや、昨日もおりました」 「いえいえ、今朝も馬場で乗り廻しているのを見ました」 と口々に言うので、宗盛は、 「憎っくい奴め。惜しんでよこすまいとするんだな。よし。何としても手に入れよう」  そこで毎日々々一日に五度六度、また七度八度と使いをやって、是非に是非にと要求した。父の頼政がそのことを耳にして、 「たとえ、黄金で出来ている馬にしても、それ程に目をつけて、宗盛殿が欲しがるとあるならば、差し遣わすべきだろう」 といさめたので、仲綱はしぶしぶ「木の下」を差し出した。  すると宗盛は、 「馬はさすがに名馬だが、出し惜しみをした仲綱の奴が気にいらぬ」 と言って、この馬に「仲綱」という名を付け、御丁寧に、胴中に「仲綱」と焼き判を捺させて、 「それ、仲綱めに鞍を置け」 「仲綱めを打て」 と、さんざんにはずかしめた。  このことを耳にした頼政は、宗盛のあまりに小人物なのに愛想をつかし、この人物に率いられる平家の世は、もはや長くはない、と見切りをつけ、以仁《もちひと》王の令旨を奉じて、平家追討の軍を起すことに踏み切ったと言う。  ところで、頼政の家来に渡辺|競《きおう》という心きいた者がおった。頼政の挙兵に加わるのにちょっとおくれて、京に留まっていたところを宗盛に呼び出された。三代相恩の主君の手に加わらないのはなぜかと聞かれて、朝廷に叛いて賊となった者の手に加わるつもりはないと言って、宗盛の側近に加えられた。そして頼政等の陣に夜討ちをかけることを建議していれられるや、宗盛秘蔵の「煖廷《なんりよう》」という名馬を賜わり、さて、京の自邸を焼き払って、頼政の手に加わった。  煖廷には仲綱が木の下の報復に、 「昔は煖廷、今は平宗盛入道」 と焼き判を捺して、宗盛の邸の門内に追い入れた、という。  子どもっぽいやりとりだが、『平家物語』で、有名な話だ。 [#改ページ]   殿 上 の 猫 「犬猿の仲」とは仲の悪いことをいう諺であるが、犬と猫も、「犬は三日飼えば三年恩を忘れず」「猫は三年飼っても三日で恩を忘れる」などいつも対照的にされて、それが反映してか、犬と猫とも仲が悪いことになっている。  清少納言のお仕えした皇后定子のみかどは、一条天皇であるが、天皇は猫が大変お好きで、清涼殿で猫を飼っておられた。人の場合、昇殿をゆるされるのは五位以上で殿上人というが、この猫は五位の位を与えられ、さしずめ殿上猫とでもいう身分であったから、「命婦のおもと」と名付けられていた。命婦は四位五位の女官をいう。だから多分この猫は雌の猫だったのだろう。「命婦さま」と呼ばれていたのである。そうしてこの猫には、れっきとした人間の「馬の命婦」という乳母がついていた。  ある日「命婦のおもと」は、御殿の端近いところで、日なたぼっこをしながら、うとうとしていた。たとえ猫であっても、五位の女性ともなれば、そんな端近へ出ていってはいけないのである。乳母の「馬の命婦」が驚いて、 「まあ、お行儀がわるいこと。こちらへおいでなさい」 と呼んだけれども、猫はねむそうな目を心持ち向けただけで、動こうともしない。といって「馬の命婦」も端近へははしたなくて出ていけない。じれったくなった乳母は、驚かそうと犬を呼んだ。 「おきな丸、おいで。命婦のおもとに食いついておしまい」 と言ったから、相手は犬だ、見境がない。いきなり猫にとびかかった。猫はびっくりして、御簾の中へとびこんだ。  天皇はちょうど朝食を召し上っていたが、おびえた猫をふところの中にお入れになって、男どもをお召しになった。蔵人の忠隆という者が参上すると、 「おきな丸を打ちこらしめて、犬が島へ島流しにしてしまえ。今すぐに」 とお命じになった。けしかけた「馬の命婦」も乳母として失格だというので、解任、謹慎ということになった。  この争い、もともと犬に分が悪い。猫は殿上で飼われるから五位、犬は地べたにいるから地下《じげ》で六位以下である。人間になおせば、地下の爺が、昇殿をゆるされた妙齢な女官を白昼おそったのだから、もちろん勅勘ものである。  犬のおきな丸は、さんざんにこらしめられて追放された。女房たちは、おきな丸だって時勢にあって羽振りがよかったこともあったのに、とあわれがっていたところ、二、三日経った昼ごろ、犬のひどい悲鳴が聞えて来た。流人ならぬ流犬の身のおきな丸が、勅命もはばからずのこのこ帰って来たのを蔵人に見つかり、打擲《ちようちやく》されたのである。やめるようにと言ってやると、 「死んでしまったので、門の外に捨てました」 という返事であった。その夕方、ひどく腫れ上った面相のみすぼらしい犬が、やって来てよたよたと歩いている。「おきな丸」と呼んでも振りむこうともしない。陰で世話をしていた女に見せたが、 「似ているところもあるが違うようです。おきな丸は死んでしまったのでしょう」 というし、食べ物をやっても食べないので、多分違う犬だろうということで、沙汰やみになってしまった。  その翌朝、天皇が朝の身仕度をなさっていると、その犬が元おきな丸がいた場所に寝そべっているので、清少納言がそれで思い出して、 「きのうは、おきな丸が大層打たれたようですが、死んでしまったとはあわれなことです。こん度は何に生まれかわって来るのでしょう。どんなに切ない思いをしたことか」 と言っていると、犬が、震えながら涙を流した。それがおきな丸であった。そんなことで、自然に御勘気も解けた、という話。 [#地付き]——『枕草子』  おきな丸が震えながら涙をこぼした様子は、その後も好話題となって、いつまでも女房たちの笑いや涙のたねとなっている。  清少納言の筆は、終始、おきな丸に対して同情的で、五位をいただいた猫に対しては、多少、批判的であるのがおもしろい。  少納言は従五位相当官であり、清少納言の父清原元輔は従五位上が極官であった。本人自身でなく、父や夫が四位五位の者で宮中に出仕している女性を「外命婦」という。猫の「命婦のおもと」は本身が五位で「内命婦」であるから、清少納言より序列が上であったのかも知れない。それでは、内心多少は批判的にならざるを得なかったであろう。  ところで、仮りに万葉動物園を作るとしたら、猫のおりには、さしずめ「いぬ」と書いておくことになる。万葉集には猫の歌がなく、従って万葉動物園にも猫は|いぬ《ヽヽ》のである。 [#改ページ]   狐の妻二題  昔、欽明天皇の御代のこと、美濃国大野郡(岐阜県揖斐郡)に、一人の男がいた。その男が妻にするのにふさわしい美女を求めて、道にしたがって馬に乗って出かけた。里を離れてやがて山すその曠野に出ると、その野の中で美しい女に出くわした。女は男に気があるかのように艶っぽくなよなよとする。男はちらちらと盗み見し、流し目をして、 「どこへいらっしゃるのですか」 と訊ねると、美女は、 「よい縁を求めにやって来た者です」 と答えた。男は、美女の心をひこうとしんみり語って、さて、 「わたしの妻になりませんか」 と切り出した。女は、 「でも……」 と言いながらもうなずいて、そのまま男の家につきしたがって来た。それで男はこの美女を妻として、一緒に住むことになった。  しばらく時がたった。女は懐妊して、男の子を生んだ。ちょうどその時、男の家の犬もまた、子犬を生んだ。ところが、その犬の子は、その細君に向ってことあるごとに敵意を示し、歯をむきだしにして吠えついた。細君はすっかり怯えて、夫に、 「この犬を始末して下さい」 とたのんだけれど、夫はそのままに聞き流しておいた。  春の二月、三月の頃だった。かねてから用意しておいた供出用の米をつく作業の折、細君は稲つき女たちにお昼をあてがおうと碓屋にはいって行ったところ、そこにいた例の犬が、急に吠えつき、噛みつこうとした。女は驚きのあまり、その瞬間に本の姿の狐になって、はっと気がついた時には、垣根の上に登って、ちょこなんと坐っていた。  夫はその姿を見て、あまりのことに呆然としていたが、でもやっぱり可愛かったのだろう。 「お前と俺とは子までなした仲だ。それで、俺はお前を決して忘れはしない。だから、いつでも、来《き》つ寝《ね》」 と呼びかけた。それでその獣を「きつね」と言うのである。  今はと別れる時に、狐の妻はとき色の裳の裾を引き引き、名残りおしそうに去って行った。夫は去り行く妻の姿にみほれ、恋慕の情に耐えがたくて、歌いかけた。   恋はみな わが上《へ》に落ちぬ たまかぎる はろかに見えて 去《い》にし子ゆゑに [#地付き]——『日本霊異記』 『霊異記』を書いた景戒は、更に続けて、その狐の残した男の子の名を「きつね」とし、その子孫が、美濃国の「狐の直《あたい》」であると記している。  この話、竹田出雲の『蘆屋道満大内鑑』や河竹黙阿弥の『女化稲荷月朧夜』として、今日でも歌舞伎の舞台にかかっているが、そのもっとも古いものである。  いつでも来て共寝をしようの意の「来つ寝」のことばから「きつね(狐)」となったという落語もどきの語源説明もさることながら、やはり、狐にもどった細君が、とき色(桃の花の色)の裳裾を引きつつ惜別していく様があわれである。  ところで、勿論、狐はいつもこんなに可憐であるわけはない。平安朝も末になると、大分いたずらをしはじめる。      *  今は昔のことである。京に住む雑色の男の妻が、たそがれ時分に用事ができて、都大路に出かけたまま、いつまでたっても帰って来ないので、男は、なんでこんなに遅いのだろうと、いぶかしく思っていたところに、妻が「ただいま」と部屋にはいって来た。  さて、しばらくして、同じ顔をした、恰好までまったく同じの妻が「ただいま」とまたはいって来た。  夫たるその男が、何とも奇妙な心持ちになったこと察するに余りある。  二人のうちどちらにせよ、一人は狐かなんぞに相違ないと思ったけれど、どちらが本当の妻だかわからない。つらつら思いめぐらして、えいままよ、後に来た妻がきっと狐に違いないと、思い定めて、男は大刀を抜きはらい後に来た妻に走りかかり、やっと切りつけようとすると、その妻が、 「こなさん何をする。わたしじゃぞえ、わたしじゃぞえ」 と言って泣きわめく。それでは前に来た妻だとばかり切りつけると、その妻も同じように、 「こなさん何をする。わたしじゃぞえ、わたしじゃぞえ」 と言って泣きわめく。ああだこうだとののしり騒いでいるうちに、どうもやっぱり前に来た妻があやしいと、そいつをひっとらまえたところが、その妻は言うに言われぬ臭い小便をさっとひっかけた。男はたまらず手をゆるめたとたん、たちまち狐になって、「こうこう」と鳴きながら、開いたままの戸口から都大路へ逃げて行った。 [#地付き]——『今昔物語』  この話、全く同じの二人の妻を前にして、呆然としている男を自分に重ねると妙な気になる。  しかし今昔の筆者は、このあと、この男を思慮のない男と断じ、その時もう少し考えて、二人の妻を二人ともども捕え縛っておくべきだったと判じる。そうすれば、いずれはどちらが狐であったかわかるものをと悔しがるが、いかがなものだろう。一緒に縛られた本当の妻が、後で何を言い出すかわかりはしない。 [#改ページ]   地獄からの使者  何とも言いがたい悪寒が、ぞうっと体を走ることがある。そういう時には、死神か悪鬼がとりつこうとしているのかもしれない。  聖武天皇の御代のこと、平城京の左京六条五坊に、楢《なら》の磐嶋《いわしま》という人がいた。磐嶋は大安寺の銭を三十貫借り受けて、海産物やら塩やらを買い入れに、越前国敦賀の船つき場に赴いた。さて取引きを無事にすませ、現品を馬に載せ、越前の国境の愛発《あらち》の関を越えて近江に出、琵琶湖の塩津から船に乗せて出航した。その段になって、急に悪寒が体を通り抜けた。船は一度に大量の荷を運搬するのにはいいが、風を待ち待ち行くから足は遅い。それで磐嶋は船を止め、馬を借りひとり陸路をいそぐことにした。  近江の高島郡を過ぎ、志賀の唐崎まで夢中でやって来て、ふと後を振り返ると、三人の男が追って来る。その間、一町ばかりであった。それが山城の宇治橋にたどり着いた時にはもう近くに追いついて、やがて一緒に馬を並べた。磐嶋は不審に思い、 「あなた方は、どこへおいでの方ですか」 と尋ねた。三人の中の一人が、 「わしらは閻魔庁の役人で、大王が楢の磐嶋をお召しなので、今迎えに行くところだ」 と答えた。磐嶋はそれを聞くと、 「お召しになっているのはかく申すわたしですが、また何の御用でしょう」 と問うた。使いの鬼は答えて、 「わしらは先にお前の家に行って問うたところ、家人が言うには『商売に行ってまだ帰っておりません』という答えだったから、敦賀の船着き場まで行って捜し求め、今捕えようとした時に、四天王の使いがやって来て、『今連れて行ってはいけない。寺の金を借りて取引きの資金とし利息を寺に奉納しようとしている際だから』と言ったので、しばらくの間猶予を与えているのだ」 と言い渡し、一息ついて、 「ところでお前、なにか食い物をもってないか。お前を探し出すのに思いのほか手間がかかり、わしらいささか腹がへった」 「旅行中のこととて、こんなものしかございませんが」 と恐る恐る干飯をさし出すと、鬼はむさぼり食って、 「お前さん、わしらに近寄らん方がいいよ。邪気にあたるといかんから」 など、やさしいことも言う。  さて、鬼に同行されたまま、磐嶋は家に帰りついた。磐嶋はあらためて食事を用意させ、鬼たちをもてなした。鬼は、 「わしらは牛の肉が好物でな。じゃによって、牛肉をご馳走してくれんか。牛をとり殺す鬼というのはわしらのことだて」 と注文するので、磐嶋は、 「ごもっとものことでございます。わたしの家にはよく肥えた斑牛が二頭おります。それを献上いたしましょう。ですが、ものは相談ですが、いかがでしょう。それで、わたしをおゆるし下さらんでしょうか」 とおうかがいをたてた。鬼は、 「わしらは、大分お前にご馳走になってしまった。だからその恩に報いたいが、そうしてお前を免すとなると、今度はわしらの方が重い罪を得て、鉄の杖で百回たたかれることになる。それはいやだ。で聞くのだが、お前と同い年の人を知らんか」 と言った。磐嶋しばらく考えたが、 「どうも心あたりがありません」 と答えると、協議した上一人の鬼が、 「年はいくつになる」 とたずねたので、 「わたしは戊寅の年の生まれです」 と答えると、鬼は、 「おれが聞くところによると、率川の社の社前で易者をしている男がいるが、そやつが丁度同い年だから、お前に替えるに手頃だな。そいつを連れて行こう。だが、牛一頭ではわしらの腹の足しにはなったが、打擲される罪はまぬかれない。だから、わしら三人の名を唱えて金剛般若経百巻をどこぞの坊さんに読ませてくれ。さて、そのわしらの名だが、おれは高佐麻呂、これが中知麻呂、もう一人が槌麻呂というのだが、忘れるなよ」 と言いおいて、その夜半に退去した。  翌朝みると、牛一頭が死んでいた。磐嶋は早速大安寺の南塔院に参って、沙弥の仁耀法師に願い出、これこれのことにより、金剛般若経百巻を読んでいただきたいと語った。仁耀は、二日間で読みおえた。すると三日目になって、例の閻魔庁の鬼がやって来て、 「大乗経典読誦の力によって、百叩きの罰を免ぜられた上、今迄の扶持米よりも飯一斗を増して賜わったよ。ありがたいことだ。いや貴いことだ。それで今からは、節ごとにわしらのために、死後の冥福を祈って供養せよ」 と言うと、すうっと消え失せた。  磐嶋は九十余歳まで長生きして死んだそうである。 [#地付き]——『日本霊異記』      *  本文は例によって唱導のことばをこの後に続けている。  鬼が食べ物によって段々譲歩するところも面白いが、やはり琵琶湖の西岸を追って来るところがいい。奈良朝末期の文章なのに、妙に実感がある。 [#改ページ]   鬼 一 口  好きになったからといって、すぐに相手と交渉が持てるというような、幸せな現代の話ではない。まして、ちょっとましな身分の女ともなれば、兄弟であっても男と名のつくものには顔も見せないのがあたり前だったころの話である。  そんな深窓の女が好きになった男は、何とかして、どうにかならないものかと、長年に亙って手を尽していたが、とうとう、女を連れ出すことに成功した。男の背におぶさった女は、育ちがいいから、恐怖心などはない。何ごとももの珍しく、あたりを見廻すと、草葉に露がおりている。それさえも知らないのだから、「あれ、なあに」などとあどけなく聞いたりしている。男の方は、それどころではない。行く先は遠いし、その上雷まで鳴り雨もはげしく降ってきたので、校倉《あぜくら》の中に女を押し入れて、自分は弓・|胡※[#「竹/祿」、unicode7c36]《やなぐい》を背負ったまま戸口に立ち、「はやく夜が明けてくれればいい」と思っていたところ、その倉にいた鬼が素早く女を一口に食ってしまった。女は「ああ」と叫んだけれど、雷鳴にまぎれて男の耳には聞えなかった。やっと夜があけて、男は倉の中を見たが、連れて来た女がいない。じだんだ踏んで泣いたけれどもどうしようもない。その時、男のよんだ歌。   白玉か なにぞと人の 問ひし時 露と答へて 消なましものを  この深窓の女は後の清和天皇の后、高子である。高子の兄弟の藤原基経と国経が、たまたま妹の泣く声を聞きつけてとり戻したのを、このように鬼が食ったとは言ったのだ。 [#地付き]——『伊勢物語』  最後の部分は、この話を歴史上の実録と思わせようとした後世の人間の注であろうが、とするとこの男は在原業平である。この段の、「鬼はや一口に食ひてけり」の文句が有名で、「鬼一口」ということばができた。『古事談』では、その時、業平は人々にとりおさえられて、髻《もとどり》を切り落されたとある。それでは宮中に出仕することができない。それで東下りをしたというわけだ。そんな境遇を芭蕉は、   髪はやすまを しのぶ身のほど と吟じている。  この同じテーマが、上田秋成の『雨月物語』になるとこうなってくる。  妻を裏切った男が、鬼となった妻の亡霊に魅入られる。男は陰陽師に書いてもらった呪文の札を戸毎に貼って家に籠り、四十二日間を過すことになる。夜毎に鬼は家の周囲をめぐり、はいり込むすき間を捜すが、護符にさまたげられて男にとりつくことができない。身もよだつような呪いの声を発するが、男はじっと耐え、朝になると隣りの男と壁越しに昨夜あったことを語り、それを唯一のなぐさめとして、やっと四十一日間を過す。最後の一夜は殊にすさまじかったが、ふっと、その物音が静まった。夜がしらじらと明けて、窓から光がはいって来たのである。男は隣りの男に声をかけると、隣りの男も、 「厳重な物忌みで、さぞお苦しかったでしょう。早くお顔を拝見したいし、私の方へお越し下さい。いま戸を開けますから」 と言って、戸を半分開けかけた時、 「ああ」 と言う叫び声がした。隣りの男は驚いて外に出ると、明けたと思った夜は、まだ真暗闇であった。鬼は最後の力をふりしぼって、窓を明るく見せたのである。隣りの男は火をともして、声がしたあたりを捜すと、死体はなく、ただ男の髻だけがぽつんと落ちていた。      *  しかし似たような話はもっと古いところにもある。  聖武天皇の御代に、こんな歌がはやった。 [#2字下げ]汝《なれ》をぞ 嫁に欲しと誰 あむちのこむちの 万《よろず》の子 南無々々や 山人さかもさかも 持ちすすり 法《のり》申し 山の知識 あましに あましに  当時、大和国十市郡|庵知《あむち》の村に、|鏡 作 造《かがみつくりのみやつこ》といって大変富める家があった。娘が一人あって万の子と言った。嫁にも行かず、通って来る男もなく、美人であったから、噂を聞き伝えて家柄のいい男たちにも求婚されていたが、それでもなお断っていた。  さて例によって一人の男が結婚の申し込みをし、返事もしないうちに、そそくさと贈物を届けて来た。受けとれば結納の品となるものである。見ると美しい色に染めた絹の布が、車に三つも満載されていたから、娘はうれしくなってしまった。  それで娘は男を近づけ、男のことばに従って、閨の中に入れた。その夜、 「痛きかな。痛きかな」 という声が三遍聞えたが、両親は「慣れぬことだから」とそのまま寝てしまった。  翌朝いくら経っても物音がしない。母親が心配して戸を叩いて呼び起しても返事がない。あやしんで戸を開けると、娘はもちろん、男の姿もない。なおよく見ると指一本が落ちていた。男から贈られた結納の品はと見ると畜類の骨と化し、車はグミの木に変っていた。人々はあるいは神のしわざか、もしくは鬼に食われたのだろうと、噂しあった。前の歌は、この災いの起る前兆であったのである。 [#地付き]——『日本霊異記』  本文では「頭一指」を残し、あとはすべて食われていたとあるが、頭は省いた。『霊異記』を記述した景戒は僧侶であったから、その頭を韓渡りの箱に入れて供養した旨書きたかったに違いないからである。指一本では供養するに足りない。「鬼一口」の話は、鬼が一口にからだ全体を食ってしまうよりも、髻なり指なりが残っている方が恐ろしい。 [#改ページ]   ㈸ えらい人の話 [#改ページ]   神功皇后墓違い  日本の神様はなかなか人間的である。喜怒哀楽などは、神様の知らない感情であるはずだが、日本の神様は遠慮なしにそれらを人間に向って示すのである。位階を進めてくれと要求したり、恩賞が足りぬと言ってだだをこねたり、気にいらないと言っていやがらせをやってこわもてをしてみたり、特に女神になると、人間並みの嫉妬心を、第一の妻である女神が第二の妻である女神に向って、ぶつけたりする。そのたびに天皇は、神様の御機嫌をとって、なだめにかかったり、お礼のものを差し上げたりして、応接にいとまのない目にあわされている。  平安朝にはいって五代目の、第五十四代仁明天皇の時代などは、漢文の歴史が残っているせいもあって、神様の発動がひどく盛んだったことが、記録に残されている。とりわけ、そういう神様にまじって、ついこの間までは人間であった祖先の天皇が、なかなかうるさく天皇にいやがらせをやっている。ことに仁明天皇の祖父にあたる、平安朝第一代の桓武天皇が、何度も祟りを示し、そのために天皇はたびたび柏原の御陵に、使いをさしむけている。しかし、桓武天皇が、何が御不満なのかは結局わからずじまいであった。  そんな中で、仁明からは、飛び離れて遠い祖先の神功皇后が、ときどきその存在を知らせて、記録の上に出没している。  仁明天皇は、位に即かれるとすぐに、和気真綱を遣わして、御剣と幣帛とを、八幡大菩薩の宮と、神功皇后の香椎の廟とに奉っている。八幡様も、まだその頃は男山まで移動して来てはいないので、和気真綱ははるばる九州まで出かけて行ったのである。清麻呂以来、九州への勅使は和気氏の担当でもあったのである。これはもちろん即位のことの御報告のためだが、しかし、どうして母なる神功皇后と、子である応神天皇とされた八幡様とが、特に選ばれたのかは、書かれていない。  次には、遣唐使がさし遣わされた時に、海路の平安を祈願して、勅使がさし向けられたのだが、この時は九州ではなく、大和にある御陵であった。  この時は、神功皇后の御陵とともに、天智・光仁・桓武の三天皇の御陵にも、幣帛が奉られている。この三天皇は、のちのちまで、平安朝の代々の天皇から、近陵《きんりよう》(当代の天子と御関係の深いおかたの御陵)として選ばれている方々だからふしぎはないが、この三天皇に神功皇后の御陵が加えられているのは、やはりなんとしても、飛び離れ過ぎている。  ところが仁明の御代も半ばに達した頃、九州の阿蘇では、地異というべき異変が起った。それは、健磐竜《たけいわたつ》の神という名の神が管理している神霊の池が、今までどんな旱魃にも、まんまんと水を湛えていて、涸れるなどということはなかったのに、急に水が減って、水位が四十丈もさがってしまった、というのである。四十丈と言えば、百二十メートル余りである。大宰府からは驚いてこのことを知らせて来た。  健磐竜の神というのは、もう一つの名が阿蘇津彦という。肥後の国阿蘇の郡の代表者であることを示している名だ。宮廷に対してはなかなかうるさい神様であって、仁明天皇は承和七年七月に、従三位の位階を贈ったのだが、それでは不満だったのか、その年の九月頃から神霊の池の異変が起り始めた。  ところで、この時も、朝廷は大和の神功皇后の御陵に、大和守正躬王を遣わして、九州阿蘇の異変を告げ、その御守護を祈願している。どういうわけなのか、九州のことというと、神功皇后を引っ張り出さなければならなかったようである。あるいは、逆な言い方をすると、九州に異変が起れば、それは神功皇后の祟りであると受取る考え方、感じ方が平安朝の天皇の側にあったと言うべきかも知れない。  阿蘇の神霊の池の騒ぎが、三年越しでほぼ静かになってから、承和九年の年末に、朝廷は突然、神功皇后の御陵に神宝をたてまつって、国家の平安を祈っている。そしてこの時始めて御陵の名が、楯列《たてなみ》山陵として記されている。しかし、この時も、何で特にこの御陵に神宝を差し上げなければならなかったのかは書いてない。やはり年末にあたって、そういう要求が、示された何かがあったのだろう。  ところが、翌承和十年になると、御陵が鳴動したり、なにか真っ赤なものが飛び去ったりというような、ただごとでない異変が相次いだ。もともと、楯列の御陵は、間近いところに二つあって、北の楯列の御陵を成務天皇とし、すぐ南にある同じ楯列の御陵を神功皇后の御陵として、お祭りして来た。ところが余りに奇異なことが続くので、使臣たちが集まって、古記録を取り出して検討してみたところ、神功皇后と成務天皇と、御陵を取り違えて、今まで、神功皇后の御陵だとばかり思って、成務天皇の御陵を空しく拝んでいたということがわかった。それでは神功皇后も、おさまらなかったはずである。  これ以後、神功皇后の御陵へは、仁明天皇は何もしておられない。なが年の間違いが訂正されて、皇后もやすらかに眠られたのであろう。一度だけ、御代の末に、勅使が香椎の廟へ差し遣わされているが、それはこの記録、『続日本後紀』の筆者が「理由がわからない」と注記している。 [#改ページ]   光明皇后とシュークリーム   ふじはらの おほききさきを うつしみに あひみるごとく あかきくちびる 「法華寺本尊十一面観音」と題する会津八一の歌である。法華寺は光明皇后が父不比等の没後、その邸宅を移したもので、尼寺の総本山ともいうべき寺である。  昔、印度の乾駄羅国の王が、夢にでも肉親の観世音菩薩に会いたいと願い、その姿を拝し絵に写し、わが国の彫工に依頼して三体を作った。その一体は乾駄羅国に持ち帰り、わが国に留めたうちの一体が、法華寺の十一面観音像だという伝えがある。彫工は絵柄だけでは心もとないので光明皇后のお姿を写したというのである。「光明」と名告るくらいだから美しかったに違いない。身体が衣を通して光ってしまうくらいの麗人だったのである。  あまりすぐれていると人のそねみを誘い取沙汰される。愛知県鳳来山の寺伝に、皇后の母親は鹿だったという伝えがある。  昔、利修仙人が鳳来山の山で修行していた時に、毎朝勤行をすますと岩窟の外に出て小便をするのを常のこととしていた。ところがあるとき牝鹿がそのお勤めの声に聞きほれていたが、そのうち笹にかかった小水をなめるようになり、やがて妊娠して女の子を産み落した。  それを仙人は故郷の奈良に送って、ある貴人の家の門の外に棄てさせた。家の主人は藤原不比等で、拾い育てたところ成長してますます美しくなり、聖武天皇のお后になった。ただ母親が鹿だったため、足の指だけは二つにしか分れていなかった。それを悲しまれて、足袋というものをお作りになった、というのである。  もちろん、これは伝説である。同様の物語が和泉式部についても語られ、第一布製の足袋ははるか後代の発明で、光明皇后はあずかり知らない。  光明子は不比等の三女で、藤三女として六国史に登場する実在した皇后で、悲田院や施薬院を建てたことで有名である。この時代は中国は唐の時代で、世界の文明が集まっていた。わが国からも遣唐使が派遣され、多くの文物が輸入されていた。奈良時代は一面ではハイカラな華やかな時代だったのである。東大寺には世界の薬品が集められ、また乳牛や糖類も入っていた。鹿猪を殺すことを禁じた皇后は、一方乳製品は食していたと思われる。      *  東大寺の建立が完了し誇らかに思っていた皇后は、ある夕ベ宮殿の天井から不思議な声を聞いた。 「皇后よ傲《おご》るなかれ。浴室を作り諸人を入れせしむれば、その功は言うに及ばない」 と言うのである。皇后は大変喜んで早速に浴室を作り、貴賤を問わず入浴させた。その上で発願して、自ら千人の垢を流すことを誓った。宮臣は怖じ恐れたが、皇后の志は強かった。そうして九百九十九人の垢を流し、あと一人という時、身体がねじ曲った病の者が来た。入室するやいなや、なんともいえぬ悪臭が充満した。一度はひるんだ皇后もあと一人で誓願を果すと気をとりなおして、病人の後にまわり垢をこすった。すると病人が、 「わたしはこの悪病を得てずい分久しくなりますが、たまたま名医にみてもらったところ、その医者がいうには、この瘡の膿を人に吸ってもらえばなおるというのです。だが世の中にはそんなことまでしてくれる慈悲深い人はいません。それでいまだにこんな有様です。聞き伝えますところによりますと、皇后様には、無差別なご救済を行なっておいでだとのこと、はなはだもったいないことですが、もしや吸ってはいただけないものでしょうか」 と切願した。  皇后はしばらく躊躇したが万やむをえない。瘡に口をあて膿を吸い取った。そうして病人に告げた。 「わたしがお前の瘡を吸ったことを決して人にしゃべってはいけない」 と、その途端、病人は大光明を発し、 「皇后よ、|阿※[#「門<人/(人+人)」、unicode95a6]仏《あしゆくぶつ》の垢を流したと人に語られるな」 と告げるや、厳かな整端なお姿となり、光と馥郁たる香りのうちに、たちまち見えなくなってしまった。 [#地付き]——『元亨釈書』  中世の宗教譚ははなはだ醜悪残酷なところがある。勿論、事実譚ではないが、こんな話が流布した背景はわからぬでもない。阿※[#「門<人/(人+人)」、unicode95a6]仏とは薬師如来のことである。  さて例の歌人は、   ししむらは ほねもあらはに とろろぎて ながるるうみを すひにけらしも   からふろの ゆげたちまよふ ゆかのうへに うみにあきたる あかきくちびる   からふろの ゆげのおぼろに ししむらを ひとにすはせし ほとけあやしも と歌ったが、筆者はこの話の瘡に一口シュークリームを想像したことだけを報告する。 [#改ページ]   三条天皇の失明  伊勢の斎宮というのは代々の皇女が巫女として神宮に奉られ、穢れのない身をもって神に仕えたものだ。天子の御代が変ると、未婚の皇女の中から斎宮がうらないによって選ばれる。あるいは適当な皇女のない場合には、皇女の資格でもって天皇に血統の近い皇族の女性の中から選ばれる。新たに任命された斎宮は最初は宮中で、ついで京の郊外にある野の宮に移って長い潔斎の生活を続け、三年目の九月になると、いよいよ伊勢へ出発する。  伊勢への旅行を斎宮の群行《ぐんぎよう》と言って、京の町の人々がその出発を見送ったものだが、出発に先立って、斎宮はお別れのため宮中に参内する。なにしろ、天皇の在位の間は、よほどのことでもない限り任を解かれることがないのだから、いわば今生での父子の別れとなるかも知れない。うら若い斎宮にとっては悲しい行事だが、このとき「別れの御櫛《みくし》」ということがあって、天皇が斎宮の髪に櫛を挿しておやりになる。櫛は神の占有のしるしだから、人間としての親子の関係を断ち切り、これからはひと筋に神に仕える生活に入るようにとの告別の式だ。そして、この櫛を挿して後、たがいに見返ることなく別れるのが決りになっていた。  三条天皇は冷泉天皇の御子で、この方も親譲りのもののけに悩まされたが、別れの御櫛の際に後を振り返ったというエピソードがある。斎宮に任ぜられたのは女一の宮当子内親王、実の親子だから情愛も深かったろうが、斎宮の額髪に天皇みずから別れの御櫛を挿して、おことばがあり、奥へ入ろうという際に、振り返ることなどあるはずがないのに、ひょいと振り返られた。当時内覧だった道長がびっくりして、不思議な思いがしたと後日人に語った。『大鏡』がそう伝えている。 『大鏡』には、なおこの天皇に関する不思議な出来事がいくつか載せられている。  三条天皇は退位の後失明する。しかし、外見は普通の人となんの変るところもなく、きれいな澄んだ目をしていらっしゃる。見えないというのが嘘のような気がするのだが、どうしたわけか、時々は見えられることがあるらしい。御座所の前には簾がかけてあるが、その簾の編み糸がはっきりと見えるなどと言われることもある。  この上皇が特に可愛がっていられたのが道長の娘妍子の腹に生まれた禎子内親王だが、この皇女が参上すると、幼い髪のふさふさしているのを手さぐりにさぐって、 「この美しい髪を目に見ることのできないのが辛い。じれったいことだね」 と、涙をほろほろとこぼされる。おそばに伺候する人々も思わずもらい泣きをした。  この皇女が参上するたびに、しかるべきものをみやげに下される。退位の後は三条大宮にある後院に入られて、それで三条院とお呼びしたのだが、ある時などこの院の地券を幼い姫宮に与えられた。禎子がそれを手にしたまま帰ったのを見て、道長が、 「いや、なかなかしっかりしていらっしゃる。古い紙きれ一枚、よく反古《ほご》と思ってお捨てにならず、しっかり持ってお帰りになったものだ」 と大笑いに笑ったので、乳母《めのと》たちが、 「人聞きの悪いことをおっしゃる」 と鼻白んだことだった。  上皇は冷泉院もこの姫宮に与えようとしたが、それはさすがに道長が、 「代々宮廷の御領でしたものを、いまさら個人のものとしますのは、不都合でございましょう」 と辞退おさせした。だから、冷泉院と朱雀院は後々まで宮廷のものとして伝わった。  ある時、禎子が参上するのに弁の乳母がお供をしていった。その乳母がどうしたわけか、右に挿すべき挿し櫛を左に挿していた。すると、不意に上皇が、 「お前、どうしてそんな変なふうに櫛を挿しているのだい」 と言われた。この時には見えないはずの目が見えていたのだ。  上皇の目が見えなくなったについては、以前病気のために金液丹《きんえきたん》という強い薬を服用されたことがあった。その薬を飲んだ人はこんなふうに目をわずらうのだと言う人もあったが、実は桓算供奉《かんさんぐぶ》のもののけのせいらしい。桓算供奉というのは醍醐天皇の時代の叡山の僧で、僧位のことで恨みをもって憤死し、それ以来天皇の血筋にたたっている怨霊だ。ある時、そのもののけが現われて、 「おれがお首のところに乗っていて、左右の羽で目をふさいでいる。時々羽ばたきするから、少しお見えの時もあるのだ」 と言った。死んで天狗になったものと考えられていたのだろう。  醍醐天皇は三条天皇からは曾祖父に当る。曾祖父伝来のこの桓算供奉の怨霊、父帝以来の元方の怨霊など、こうしてさまざまな怨霊を受け継いでいるのだから、天皇といってもやすらかなものではない。  この上皇は目の治療のためあらゆる手を尽したのだが、効験がない。もともと虚弱なからだであるのに、医師《くすし》たちが、 「寒中の水を頭におかけするといい」 と申し立てて、氷の張っている水をざぶざぶと頭に浴せたことがある。上皇は顔色も失って、ただぶるぶると烈しく震えていたという。  なんともあわれなお気の毒な話だ。 [#改ページ]   呑んべえ道隆  藤原道隆という人は藤原兼家の長男で、内大臣になって、関白もなさった方だ。長生きをなされば、まさにこの筋が藤氏の嫡流であったから、あるいは弟の道長の全盛の時代というのは来なかったかもしれぬが、それが大酒呑みだったから、四十三歳で、ぽっくりなくなってしまった。  道隆がなくなった、一条天皇の長徳元年(九九五)という年は、「大疫 癘の年」といったと『大鏡』の作者が記している年である。四、五月ごろからその流行病が猖獗を極め、五位以上の殿上人だけでも死する者六十余人、道路には死骸が満ち溢れたという。道隆はそのまっ最中、四月三日に病気になって関白を辞し、十一日になくなった。そう聞けば、誰だって、関白までも、流行病でやられたかと思うだろうが、それが飲み過ぎだったというのだから、御立派である。病状は知れないけれども、脳出血か何かだったのだろう。『大鏡』の作者までが、 「実はその世間を騒がしていた流行病で倒れたのではなくて、大酔乱酒がたたってのことだった」 と、わざわざ、注を加えているのも、道隆には気の毒だが、なにかおかしい気がしてならない。  しかも、いまわの際まで、お酒のことが忘れられなかったらしい。いよいよというときに、家族の者が西の方に向わせて、臨終の正念を願って、どうぞ、念仏をおとなえ下さいまし、と言ったところ、 「済時に朝光。やつらも極楽にいるんだろう。さて、ではあちらで一緒に飲むとしようか」 と言ったという。なまじ、神妙に念仏を唱えるよりも、その方がよほど道隆らしい最期であった。  この済時と朝光とは、片方は小一条の大将と言い、片方は閑院の大将と言った。平生からの大酒の仲間で、つまり関白が、近衛の左右の大将をかたわらにして、三人つるんで飲んでいたのだ。この両人が道隆のうちへ行くと、尋常の様子で帰って来たことがない。普通の様子で、平静に帰るということを、沽券にかかわるとでも思っていたらしくて、べろべろに酔って、着てるものはしどけなく、人にかかえられて、車に乗る始末だった。よそへ行くということになると、一つ車に三人が乗りこんで、邸を出るときから飲み始め、しまいには、車の前も後も、簾を全部まくり上げ、御本人達は烏帽子は脱ぎ捨てて、もとどりもばらばら、といったありさまだった、というのだから、大したものだ。  ところが、この道隆はまた、大酒は大酒でも、人にさすがと思わせることがあった。ぐでんぐでんに酔っぱらっても、ひと寝入りするとパッと目がさめて、あれほどの酒がどこへ行ってしまったのかと思うほどに、けろりと正気に返ってしまうのだ。  こんなことがあった。  賀茂へ御参詣になったとき、普通は、正式の盃ごとは、三度というのがきまりであったから、神官たちも心得ていて、大かわらけを用意して、それで三度さし上げた。ところが道隆はそれでは満足しない。きまりもなにもあったものではない。三度はたちまちに飲み乾して、もう一杯、もう一杯、また一杯、また一杯と、七、八度もたて続けに飲んでしまった。賀茂の御参詣は、そこで終るわけではない。引き続いて上社に廻るわけだ。さすがの道隆も、車が動き出すと、たちまち酔いが発して、そのまま、うしろへひっくり返ってしまった。進行する方向に向ってすわっていて、そのままうしろへのけぞったのだから、車の尻の方を枕にしたわけだ。そしてそのまま、ぐっすり、眠りこんでしまった。  さて、続く車には、弟の道長が、大納言でついて行ったが、前の車に乗ったはずの道隆が、見えない。夜になって、松火《たいまつ》がともったので、ほんとうなら、道隆の姿が、簾を透して見えなければならないのに、前の車にはそれらしい姿が見えない。それもそうだろう、本人はひっくり返って寝てしまっているのだから、姿はそとからは見えないのだ。どうしたんだろうと、いぶかしくは思ったが、そうこうするうちに、車は上社の社前に着いた。さて参拝である。  ところが道隆は正体もなく眠りこけていて、車の着いたことも知らない。車についている従者達は、知ってはいるが起そうともしないで、そばに控えている。  道長は車を下りて、関白殿は、と聞くと、かくかくだと言う。まさか、泥酔して参拝しなかった、では通らない。そこで道長が、声をかけたり、扇で合図をしたりしたが、一向に起き出る様子もない。ごうをにやした道長が、車に近づいて、手をさし入れ、乱暴にぐいぐいと袴の裾をひっぱった。これで、道隆は、ぱっと目をさました。  しかし、ひっくり返って寝込んでいたのだから、さぞかし、ふた目とは見られない姿で出て来るだろうと、道長がやきもきしていると、やがて車を下り立った道隆は、櫛も笄もまったく乱れたところがなく、きちんとした身づくろいで、涼しい顔をしていた。そこはかねての用意で、かくこそあらんと、道具類一式を、ちゃんと車の中に持参していたのであった。 [#改ページ]   賢 人 実 資  藤原道長が全盛をきわめたころ、世はあげて道長に靡いている時代に、ひとり剛直をもって屈しなかった人物がいる。晩年右大臣にまで至り、「賢人の右府」と称せられた藤原|実資《さねすけ》だ。もともと実資の養父(実際には祖父)実頼は摂政・関白となり、藤原氏の摂関家としての家格を確立した人で、有職故実にも詳しい。実資にも『小右記』という日記があり、実頼相承の有職家としても名があった。  実頼の弟師輔が道長の祖父に当るが、師輔の娘安子が村上天皇の皇后となって、冷泉・円融両天皇の生母となったので、権勢がこの系統に移ってしまった。長徳五年道長に内覧の宣旨が下り、右大臣に昇進、藤原氏の氏の長者となってからは、道長の勢力がゆるぎのないものになったが、実資には、もともと師輔の九条流よりも、実頼を祖とする自分たち小野の宮流のほうが本流だという誇りもあったろう。  これはまた別系統の藤原氏だが、済時の娘※[#「女+成」、unicode5a0d]子が三条天皇の皇后となることが決った。その立后の式が行なわれようという日に、公家たちがいっこうに参内しようとしない。三条天皇には東宮時代以来、※[#「女+成」、unicode5a0d]子と並んで道長の娘妍子が女御としてあがっているものだから、みんな道長の意向をはばかって参列しようとしないのだ。この時実資が、道隆の子の隆家らとともに参内して、無事に儀式をとりおこなったということがある。  その隆家は妹定子の生んだ親王を東宮に立てて道長に対抗しようと画策したが果されず、眼病の治療のため宋の名医にかかるという名目で大宰権帥となって九州に下った。在任中たまたま刀伊《とい》の来冦があったのを、隆家がおおいに奮闘して退け、勇名を馳せたが、この反道長派の隆家の功に対し論功行賞を主張したのが実資だった。  歴史の表面に伝えられる実資は、こういう正義感の強い硬骨の人物だが、説話集などの伝える逸話には、またちょっと違った一面がある。  円融天皇の時代、実資は蔵人の頭であったが、たまたま式部の丞藤原貞高という人が台盤について食事中に頓死するという事件があった。宮中では珍しいできごとなので大騒ぎになり、さて遺骸をどこから出したらよいか、実資にうかがいが立てられた。 「これは東の陣から出すがよい」 と実資が答えたので、蔵人所の役人や滝口の侍たち、女官や主殿司《とのもづかさ》、下役人にいたるまで物見高い人々がどっと東の陣に集まって見物しようとした。その間に、実資は、 「殿上の畳のままおし包んで西の陣から出せ」 と言い付けたので、誰も見ていないうちにさっさと門外に出し、父の三位が受取って邸に帰った。十日ばかりたって、実資の夢に貞高が現われて、大勢の見物の前だったらどんなに恥ずかしかったろうと、死後の恥を隠してくれた礼を泣く泣く述べて立ち去った、という。  この話などいかにも実資を思慮分別のすぐれた人物として伝えているが、同じ『十訓抄』はこれと並べてちょっと不思議な話も載せている。  実資が新しい家を造って引越してきた夜、火鉢の火がはねて御簾のへりに燃えついた。しばらくくすぶっていると見るうちに炎となって燃え上るのを実資はじっとながめていた。人々が立ち騒いで消そうとするのをも制して、火勢がひろがった時になって、笛一本だけをとり、「車寄せよ」と命じて、静かに立ちのいた。  こんな話はわれわれにはちょっと理解しがたい気がする。『十訓抄』は、実資がこんな思いがけないことから大事になるのは、天の与える災害だ、人の力で防いでも、もっと大きな災厄を下されよう、家ひとつは惜しむに足りない、と言ったと伝えるが、運命を達観するところに賢人の賢人らしさがあると考えたものだろう。 『発心集』には、実資が内裏から下がってくる途中で、車の後から白い着物を着た小さな男が付いてくるのが見えるともなく見えたという話を載せている。これが閻魔王の使い、白髪丸というもので、そう名乗ると同時に実資の冠の上に躍り上って消えてしまった。家に帰り着いて後つくづくと鏡を見たら、白髪がひと筋あるのを見いだした。それから実資は発心して、後生の勤めなどを常にするようになったという。これも不思議と言えば不思議な話だが、やはり賢人が運命を達観したという話だろう。  ところが、賢人の右府実資にも、ひとつだけ賢人に似合わぬ弱点があった。それは女に弱いことだった。これも『十訓抄』にある話だが、実資の邸の北の対の前に井があって、女たちが始終水を汲みに来る。その中に若い女がいると、実資はひと気のない部屋へ招き寄せ、一儀に及ぶ。このことを関白頼通までが聞き知って、自分の邸の雑仕の女の中でみめのよいのを選んで、水を汲みにやった。もし実資にひっぱりこまれたら水桶を捨てて帰って来い、と言い含めておいたので、その女はそのとおりにした。後日、実資が頼通の邸に来た際に、公用の話が終って、 「先日の私のところの水桶を返していただきたい」 と言い出されたので、実資は赤面して逃げ帰った。  ある時、実資の邸の前を様子のいい女が通りかかったのを見て、早速門から走り出て抱き付いた。それを見ていた人があって、 「あれが賢人のおふるまいか」 と言いかけたところ、実資は、 「いやいや、女事に賢人などあるものか」 と答えて逃げこんでしまった。 [#改ページ]   済時の失態  大酒呑みの関白藤原道隆がなくなったときに、なあにあちらに行けば二人がいるから、また一緒に飲めると言ったというその二人、済時と朝光とは、道隆よりも、済時が十二、朝光が四つ、それぞれ年長だったが、三人とも仲良く、同じ長徳元年の、それも三月から四月までの一月ぐらいのうちに、ばたばたと続いてなくなってしまった。もっとも、済時は道隆におくれること十日余りだったのだから、道隆の臨終の折には、まだ|あちら《ヽヽヽ》へは行ってはいなかった。道隆のことばには何か間違いがあるのだろう。  この済時という人は、祖父は忠平、父は師尹、伯父は師輔、妹は村上天皇の女御芳子で、どちらを見ても、立派な人達ばっかりだったが、どうも世間の評判はあまりよくない。つむじまがりで気むずかしくて、気障で見栄坊だというのだ。  進物などがあると、庭前に並べておいて、夜はいったん取り納めるが、翌日になるとまた取り出して来て並べて置く。おあとの奉り物があるまではそうしておく。それではまるでこれ見よがしで、催促がましいやり口だと言われたが、御本人は、それが古書から学んだ古風なやり方なんだと、すましていた。  しかし、済時は、御自分の甥にあたる永平親王のことで、しなくてもいいことを仕でかして、親王を笑い者にしてしまい、分別者よ、知恵者よと言われていた評判を落してしまった。  この永平親王は、村上天皇の八の宮であった。御父は、醍醐天皇と並んで、延喜・天暦の治と、その治世をたたえられた帝であり、御母は、今言ったように女御芳子であったから、母方の祖父は左大臣師尹であり、父系も母系も立派なものだったのに、御様子はともかく、御心の方は「極めたるしれもの」と言われた方であった。だから、様子を知っている人達は、堯の子堯ならずとはこのことかと歎いていた。  済時は、自分の考証癖か、古風な知識の誇示か、昔は盛んに行なわれていた、親王主催の饗宴を復活して、それを八の宮に勧めたのである。もともと大酒家で、宴会好きの遊び人という資質も十分な済時のことだから、宮様の名を借りて、大勢の上流貴族達を集めて、大いに飲んで騒ごうというわけである。  その宴会が近づいて来ると、済時はいろいろと宮を御指導申し上げる。大饗の主催者としての、儀式的な方面のとりなしなどはさておいて、その準備はもっぱら宴会をどう盛会に持っていくか、という方面のことばかりである。 「よござんすか。これはと目をつけておいた大事のお客様が、さっさと中座して帰ろうなどとしたら、『もうしばらくどうぞ、お付き合い下さい』などと言って、うまあくおとめしなければいけません」 などと、いろいろと細かく、お教えしたのであった。  招かれた方は招かれた方で、人まじわりの出来るような人だとは思ってはいないが、親王という位置の方が主催して呼びかけた会合なのだから、無下に不参というわけにもいかない、というわけで、皆、ぞろぞろと参会したのも、なるほど考えてみれば、まことに古風な心情の現われ、というわけであった。  しかし、生憎なことに、その日は、もっと本格の宮廷行事のある日で、それとぶつかってしまったわけで、皆、宮の方へはちょっと顔を出して義理を果して、公の行事の方に行くつもりだったから、宴会の方はそうそうにして、座を立ち始めた。  この様子を見て、宮は、済時があらかじめ教えておいてくれたことはこれなんだなと思い出して、済時の方へ、たびたび視線を投げて、今か、もういいのか、と意向を聞こうとすると、目を見合した済時が、 「そこそこ。今ですよ」 と合図をした。  宮は大任の出番だというわけで、早くも緊張で上気して顔を真っ赤にして、さてそうなると、気はあせっても口からことばが出ない。もじもじとしていたかと思うと、急に、ことばもかけずに、帰りかけた人々の肩や袂にとりついて、宮のつもりでは引き止めたのだろうが、止められる方は、着ているものを脱がせられかねないような、乱暴狼藉なことになってしまった。  宴席は大騒ぎとなってしまったが、一同、声をあげて笑うわけにもいかず、「さてこそ」と、宮の狂態に、笑いを噛み殺した珍妙な顔付きで、口々に、あれやこれやとことわりを言い言い、引き上げて行った。  済時はくやんだが後の祭りである。この宮をそそのかして、大饗などの事を運んだことも残念だし、第一、この宮に、かくかく、しかじか、なさいましと、お教えしたことさえ、今になっては大失敗だった。  おまけに、非難は済時に集中した。宮の御様子をよく知っているはずの済時が、わざわざ事を構えて、衆人の前に、尋常でない宮をまざまざと見せてしまった。なんのためにそんなことを、とみな口々に済時を責めた。  済時にしてみれば言い分もあろう。しかし宮をだしにして、飲もうなどとのたくらみがそもそもいけなかったのだ。 [#改ページ]   ダンディー朝光  前の話にでてきた朝光は道隆とは従兄弟の関係にある。  朝光の兄の顕光という人は、死んで悪霊になったので有名だが、それはともかく、この人を|あきみつ《ヽヽヽヽ》と読んでいるのに、弟の朝光の方は、|ともみつ《ヽヽヽヽ》とは読まずに、『大鏡』は|あさてる《ヽヽヽヽ》と読んでいる。これは『大鏡』の作者のちょっとしたいたずらだろうか。  と言うのは、この朝光という人は、たいへんなダンディーであって、道隆などの|ひき《ヽヽ》もあったのか、兄顕光よりも出世が早く、はやばやと中納言になって、なかなかきらきらしい、若手の有望な青年官吏であった。それだけに、人との付き合いなども相当にはでで、身なりや持ち物にも凝っていた。  とりわけ世間をあっと言わせたのは、矢筈《やはず》を水晶で造らしたことで、これを|胡※[#「竹/祿」、unicode7c36]《やなぐい》にさして背にして、行幸のお供に加わって馬を歩ませていると、矢筈が朝の光にきらりと光って何とも言えぬ、うっとりさせるいい男ぶりであった。近衛の左大将にまでなって、そうしたダンディーぶりを発揮していた。  ところがどうしたことか、朝光の北の方はれっきとした家柄のお姫様で、立派なお子達もいた方だったが、朝光はこの方を離縁してしまって、代りに、二十歳近くも年上の、そろそろ五十歳に手が届こうかという、大納言の未亡人を、後の北の方としたのであった。  別にみめかたちが人に秀れている、という評判が高かった人というわけではない。まして母親と言ってもいい程の年齢の人で、大納言のおふるというのだから、世間があっけにとられたのも無理はない。財産に目がくらんだのだと、評判はかんばしくなかったのは当然だろう。こうして折角のダンディー朝光《あさてる》も、出世の方も頭打ちになり、やがて左大将の職も捨て、閑職に転じてしまった。  しかし、だからといって、日日の暮らしがわびしかったとは言われない。さすがにこの後の北の方の、家庭でのサービスは、至れり尽せりであったからだ。  もともと、先の北の方を離縁した理由というのが「不合《ふごう》におはす」というのだから、つまり、お手もと不如意というわけなのだから、万事にはでな朝光に対して、物質的なサービスが行き届かなかった、というのが御不満だったわけで、それに引き替え、未亡人のサービスが朝光の心を捉えたというのだから、そもそもこれは財産目当てだったのだと言われても、まず一言もなかろう。  北の方は朝光の意を迎えて、部屋の中を立派にしつらえた。そして、朝光付きの女房には三十人もの女性を選びすぐってかしずかせ、目もあやな装束を着せた。朝光がよそから帰って来ると、かゆいところに手が届くようなサービスで、たとえば冬などは、惜し気もなく炭をつかって、たっぷりとこれをいけこんで、部屋に十分な煖を保っておく。そして外出着を脱がせると、みっしり香をしみこまして、すっかり暖めておいたふだん着にさっと着替えさせる。いろりにも、十分に炭をおこしておいて、それには鍋を二十も据えて、風邪をひかないようにという薬湯から、さまざまな煮物、御飯までが用意してある。大酒家の朝光のために、熱燗が準備されていること、もちろんである。敷物にはふっくらと綿をいれて、いざおやすみというと、三、四人の女房が大きなひのしを持って来て、寝具にすっかりひのしをかけて、暖かくして、おやすみなさいませという。ともかく、下にも置かぬというか、はれものにさわるというか、たいへんな扱いで、これがふだんのサービスなのだから、これを紹介した『大鏡』の作者までが、度が過ぎていると言わぬばかりに、あきれている。  夏のサービスのことは、特に書いてないが、これはあるいは北の方が寒がりで、自分ともども、寒さを防ぐことにとりわけ意を用いたのかも知れないが、生得寒がりなのか、それとも、年老いてとりわけ寒さが本人の身にしみるのか、北の方自身も、様子のよさは三十人の女房達に任せて、御自分は見栄えは悪いが、たっぷりと綿を使った綿入れを着こんでいた。  こう書いて来ると、どういうわけか昔の作者は、ほんとかうそか、次には年上の女性の悪口に筆を進める。  この未亡人は、まず色が黒い。おでこにはあばたがあるが、別に前髪を垂れて隠そうともしていない。第一にその髪の毛にしてからが、みどりなす黒髪とはいかず、貧相なちぢれっ毛である、という。だから、綿入れを着こんでいる恰好は、むしろ御自身の御面相などを、よく自覚していらっしゃるのだと、言えるかも知れない。  どうして、前の北の方を捨てて、後の北の方に心を移したのか気が知れないと、作者は言うのだけれども、とかく男女の仲は、はたからはうかがい知れぬことがあるはずだ。ただし、平安朝時代の貴族社会には、容貌にさえ目をつぶれば、あとはサービス満点の未亡人が、大勢いたようである。 [#改ページ]   ぐうたら佐理  藤原佐理の名は|すけまさ《ヽヽヽヽ》と読む。もっともこの題名は、グウタラ・サリと読んでも一向にかまわない。小野道風、藤原行成とともに、本朝三蹟の一人で、すなわち「世の手かきの上手」と言われた人である。  そう言って賞めている『大鏡』の筆者は、また、この人のことを「如泥人」と世間で言ったと伝えている。  |にょでいにん《ヽヽヽヽヽヽ》とは、ちょっと聞きなれぬ語だが、『大言海』には、用語例としてはここの例が挙げてあって、「泥のごとき人の意。なまけもの。しまりなき人」と訳してある。朝日古典全書の岡一男先生の注では、「泥は南海に棲む骨のない蟲の名といふ」とあって、訳して「どろけんのくず蟲」としている。おもしろい訳だが、さて今度は、|どろけん《ヽヽヽヽ》の由来がわからない。  ともかく、感じはわかる語だ。要するに佐理は、名人気質というのか、多少、ぐうたらだったのである。  その性質の現われで、とかく大事な時、大事な場所に、遅参するのである。藤原道隆が東三条の邸宅を造ったときに、障子には、例の歌絵を描かせ、その歌の文字を佐理に書かせた。そんなときには、まだ人騒がしくならないうちに、早く行って書いて、さっさと帰って来てしまえばいいのに、佐理はなかなかやって来ない。  そのうちに、関白道隆がやって来る。それにつれて、ぞくぞくと貴公子達も集まって来て顔を揃える。それでも佐理は現われない。ほとんどこれはという人々が皆集まり、日も高々とさし昇った時分に、散々人々を待たせた挙句に、ぐうたら佐理がやって来た。邸内の空気に、これは少ししくじったかなと思ったけれども、さりとて引き返すわけにもいかない。ひしめく人々に囲まれて、ともかく責任を果した。  すると道隆が当座の御祝儀に、女装束のひとそろいを取らせた。道隆も気がきかないが、貰った方はしまいようもないままに、それをひっかついで、ごった返す人々の中を、かき分け、かき分けして、退出した。何と言っても、ずぼら、ぐうたらの失態である。  しかしさすがに三蹟の一人で、神を感動させた伝えもある。  伊予国越智郡宮浦村の大山積神社の神は、後々まで、予州一の宮の三島明神として、なかなか霊験あらたかな神であったが、それだけに霊威の発現もいかめしく、海上を行く船びとたちには、怖れられていた神であった。  佐理は大宰大弐となって九州に赴任したが、任満ちて、海路をとって京に向った。ところが、伊予の国の海岸を向うに見る湊に船がかりをしたっきり、海が荒れて伊予の国へ渡れない。風が少し静まったからというので、碇を上げようとすると、また同じように風がひどく吹き出して来て、海面が荒れて船が出せなくなってしまう。  こんなことを繰り返して、むだに幾日かが過ぎた。どういうことなのかと、何度か占わせてみたが、そのたびに、ただ「神の御祟り」というだけで、いったい、どこの神が、どういうわけで祟っているのかは、一向にわからない。祟りというのは、神の意志表示だが、その神が何ものなのかがわからなくては、なだめようもないし、あやまりようもない。佐理達の一行は、全くのお手上げであった。  どうしたわけかと、恐れ慎んだ佐理の、ある夜の夢に、気高い様子をした翁が現われた。 「海が荒れて、いく日も船出が出来ずにいるのは、わたしがそうさせているのだ。どこの社を見ても、どの社にも額がかかっているのに、わたしの社にだけはそれがない。それがわたしの不満だ。わたしも、よその社と同じような額が欲しいが、いまさら、ほかの社と似たりよったりのものは欲しくない。わたしは、その額の字を、そちに書かせようとかねがね思っていたのだが、折よくそちが通りかかったので、またとない折だと思い、この際、是非とも書いて貰おうと思って、引き留めておいたのだ。わたしはこの浦の三島にいる翁だ」  夢の中で佐理は、かしこまりましたとお引き受けしたと思うと、目が覚めた。  すると不思議、日はうらうらと晴れて、絶好の航海日和となり、船を出すと追風が吹いて、飛ぶような早さで、たちまちに伊予の国に着いた。  佐理は約束通りに、まずいく度も湯あみをして身を清め、第一公式の正装に身をととのえ、神前において、扁額の字を書いた。そして、神官どもを召し出して、額を型通りに社の正面に高々と掲げさせた。  このおかげであろうか、それからの海路はまことに平穏であって、佐理の船はもとより、一行の末々の者の乗った供船に至るまで、安穏に、一路東に向って進んだ。  佐理の筆蹟を、本朝三蹟の一と賞めるのは、人が賞めることであって、それさえ大したことに違いないが、まして佐理の場合は、神様までが、それほどまでにして欲しがったというのだから、まさしく日本第一の御手と評判されても、決して賞めすぎではない。 [#改ページ]   兼ねる公任  京都市の西北の郊外、保津川が山峡を縫って京都盆地に流れ出すあたり、と言えば、有名な嵐山の景勝の地だが、保津川はここでは名を変えて大堰《おおい》川という。平安京遷都の初めごろ、この地方に勢力をもっていた秦氏という帰化人の技術によって、ここに大きな堰《い》(ダム)が設けられたからの名で、もう少し下流にゆくと、また名を変えて、桂川と呼ばれるようになる。  嵐山に今日もある大きな堰がなんの目的で作られたか、詳しくはわからないが、そのおかげで大堰川に広やかな水面ができて、貴族たちがここで舟遊びを楽しむようになった。龍頭鷁首の唐《から》風のよそおいをこらした舟を浮べて酒宴を催し、漢詩や和歌を作り、また管絃の演奏を楽しむ。広々とした野外に出かけてのこういう遊楽は貴族たちにはなによりの楽しみだったろう。嵐山が名勝になった要因のひとつにはこの地での舟遊びがあったのだ。  嵯峨天皇などはことに嵐山の景勝を愛されて、ここに離宮を設けられた。いま大覚寺となっているのがかつての離宮のあとだが、当時は春秋おりおりに天皇や上皇の行幸があり、貴族たちもしばしば逍遥に訪れて、王朝のはなやかな生活の舞台となったものだ。それにまつわるエピソードも少なくない。  延喜七年九月の宇多法皇の行幸には、多くの廷臣たちに加えて、貫之、躬恒らの歌人をもお召し連れになった。この時歌人たちの詠じた和歌が一部は『古今集』に収められたし、貫之の書いたその序文は「大井川行幸和歌の序」と呼ばれ、公式な和文の古いものとして後世に名を残した。  この行幸は嵐山の紅葉を賞する、いわば紅葉狩りのための行幸だったのだが、小倉山のあたりがことに錦を敷いたように美しかった。上皇以下しきりにその景色を嘆賞したが、時の帝は宇多上皇の御子、醍醐天皇だ。 「帝のみゆきがあろうなら、またどのように興が深いことだろう。帝に奏上しようではないか」ということになった。その心を、のちの太政大臣貞信公、藤原忠平が、当時右大弁としてお供をしていたが、こうよんだ。   小倉山 峰のもみぢ葉 心あらば いまひとたびの みゆき待たなん 「みゆき待たなん」の「待たなん」は待ってくれという意味で、紅葉に対して、必ずもう一度のみゆきがあるから、それまで散らずに待っていてくれと注文したものだ。  こうして天皇の嵐山行幸が実現し、この年は上皇と天皇と、二度の行幸が行なわれた。小倉山の紅葉も、忠平も、面目をほどこしたことだった。 [#地付き]——『大和物語』      *  藤原道長が大堰川で舟遊びを催したおりには、作文《さくもん》(漢詩)の舟、管絃の舟、和歌の舟と、三種類に分けて、それぞれの道に秀でた人をその舟に乗せることにした。いずれの舟にせよ、選ばれて乗るのは名誉なことだが、四条大納言藤原公任はいずれの道でも人に優れていた。道長も決めかねて、 「どの舟にお乗りになるかな」 と、公任自身に選ばせることにした。公任は、それではというので、 「和歌の舟に乗りましょう」 と、和歌を選んだが、この時よんだのが、   小倉山 あらしの風の 寒ければ もみぢの錦 着ぬ人ぞなき という歌だった。さすがに自分で選んだだけに見事な出来だと評判になったが、公任は、 「いやいや、作文の舟に乗ればよかった。作文の舟に乗ってこれほどの詩を作ったら、どんなにか名誉だったろうに。道長公が『どの舟にお乗りなさるか』と言われたのに、思わず心がおごって、われながら分別が浅かった」 と残念がっていた。 [#地付き]——『大鏡』      *  公任のように諸道の才を兼ね備えている人を「三舟の才」と称するが、公任以後では経信がやはり三舟の才をもって世に聞えた人だった。白河院の大堰川行幸のおり、やはり三種の舟を浮べて人々を分かち乗せられたが、諸人の関心の的だったのは、経信卿がどの舟に乗るだろうかという一事だった。ところが、時刻を過ぎても経信が現われない。上皇はことのほかごきげんが悪いし、舟もそれぞれに漕ぎ出してしまった。  そのころになって、経信がやってきた。舟が漕ぎ離れているのを見ると、水際に膝をついて、 「おおい、どの舟でもよい。漕ぎ寄せてくれ」 と、手をあげて舟を招いた。どの舟でもよいと言ったところが三舟の才ある経信ならではのことで、人々がどっとどよめいた。  実は、経信はこう言いたいばかりに、わざと遅刻したのだという。この時、経信は結局管絃の舟に乗り、そこで漢詩と和歌を作ってさし出した。まさに、三舟の才を兼ねたわけだ。 [#地付き]——『古今著聞集』      *  歌舞伎芝居には役柄を「兼ねる」ということがある。立役《たちやく》が女方を兼ねる。あるいは敵役《かたきやく》や老役《ふけやく》を兼ねる。それは器用にしわけるという以上に、それぞれの役柄の深みを表現しなければならないのだが、これができることは俳優最高の名誉で、「兼ル」の位を与えられるのは何十年に一人というほどまれなことだった。九代目団十郎や六代目菊五郎はその栄誉を得た名優で、その興行には「兼ル番付」が発行され、給金も付加される。これなど王朝の世界で言えば、まさに「三舟の才」に相当するだろう。 [#改ページ]   三 才 女  小学校で習った唱歌の中に「三才女」というのがあった。いまから考えてみれば、ずいぶん古典的な知識を子どもに教えたものだと感心するけれど、昔の小学校の唱歌には歴史や古典に取材したものが多かった。唱歌を通じて覚えた歴史の中の逸話も決して少なくない。 「三才女」の一番は、   色香も深き紅梅の 枝にむすびて 勅なれば   いともかしこし 鶯の   問はば如何にと 雲居まで   聞え上げたる 言の葉は   幾代の春か かをるらん というのだが、この題材は『拾遺集』からとったものだ。『拾遺集』に、   勅なれば いともかしこし 鶯の 宿はと問はば いかがこたへむ という歌があって、こんな説明が付けられている。  宮廷において紅梅の名木を求められたことがあって、京の町中のある家にこれはという名木があるのをお召しになることになった。天子の御命令であるからいなむわけにいかない。使いの者が来て掘り取って行こうとしたが、その紅梅の枝に鶯が巣を作っていた。家あるじの女が使いをとどめて、しばらく待たせ、まず宮廷に対してこの歌をさし出した。  帝の仰せでございますから、おそれ多いことで、私にいなやはございません。でも、この紅梅の枝に巣を作っております鶯がおれの宿はどうしたのだと問いましたとき、なんと答えたものでございましょう——。そんなふうに鶯をいとおしむことばの裏に紅梅に対する愛惜をも婉曲に表現してみせた。帝はこの歌に感心なさって、紅梅を召すことは思いとどまられた。  この話、『拾遺集』では女の名をしるしていないが、後には掘り取って行った紅梅の枝にこの歌が結び付けられていたというように、話がだんだんドラマチックになって、尋ねてみたらこの家あるじの女は貫之の娘だったと、作者までが決められてくる。和歌の名人の貫之の娘ならさもあろうというわけだ。 「三才女」の二番は、   みすのうちより宮人の 袖引止めて 大江山   いく野の道の 遠ければ   文見ずといひし 言の葉は   天の橋立 末かけて   後の世永く 朽ちざらん で、これは百人一首にもとられている、誰しも御存じの、   大江山 いく野の道の 遠ければ まだ文も見ず 天の橋立 の歌をめぐるエピソードだ。この歌の出典は『金葉集』で、これにも長い詞書が付けられている。  この歌の作者小式部内侍の母親は有名な女流歌人和泉式部だ。その和泉式部が夫の保昌に付いて任国の丹後に下っていた時分、都で歌合が催されて、小式部も歌よみのひとりに選ばれる名誉に浴した。そんなおりのある日、小式部の局の前を通りかかった公任の息子、藤原定頼がこんなことを言って、からかいかけた。 「歌の用意はできましたか。丹後へやった使いはまだ帰って来ませんか」  どうせあなた自身がよむのじゃないでしょう、お母さんに代作を頼んだのでしょう。そんな皮肉を言って立ち去ろうとする定頼の袖を、御簾の中から手を伸した小式部が捉えてそのままの姿で「大江山いく野の道の遠ければ……」と、歌をもって返事をした。  まだ天の橋立の地は踏んだことがありませんという表面の意味に、「文も見ず」——あなたのおっしゃる丹後からの手紙は見ておりません——という裏の意味をひっかけたもので、即座の機転でこれだけの歌のよめる人ならば、もちろん母親の助けを借りるまでもない。からかったつもりの定頼のほうがほうほうの体で逃げ出してしまった。 「三才女」の三番は、   きさいの宮の仰言  御声のもとに 古の   奈良の都の 八重桜   今日九重に にほひぬと   つかうまつりし 言の葉の   花は千歳も 散らざらん というものだ。これも百人一首にとられていて、作者は伊勢大輔。出典はこれまた『金葉集』。秀歌のひとつの条件として即座によむということがあるが、その点でもこの歌と前の小式部の歌とは共通している。  伊勢大輔は代々歌よみの家の生まれで、その才を見こまれて藤原道長の娘、一条天皇の中宮である上東門院彰子に仕えることになった。その宮仕えの初めのころ。どれほどの歌をよむだろうと、道長以下が好奇の目を光らせていたが、たまたま中宮の御前に道長公も居合せたところへある人が八重桜の枝を献上した。道長はその花を大輔につかわし、御前の硯に檀紙を添えて下された。一同目をそばだてて見る中で、大輔は硯を引き寄せ、墨をとり、静かにおしすると、さらさらと一首の歌を書いてさし出した。道長がとって見ると、   いにしへの 奈良の都の 八重桜 けふ九重に にほひぬるかな とあった。道長以下人々が感嘆し、『袋草紙』によれば「宮中鼓動す」というくらいだった。 [#改ページ]   清明の占い  阿部清明は陰陽道の大家で、かつ天文博士である。宮廷の陰陽寮の役人として、占いごとにも任じていた。仕事が仕事だから、さまざまなことが伝えられて、多分に伝説的な色彩をもって、その生涯のデテイルが修飾されている。スピリットのような、式神という下っぱの神を駆使して手下に使ったり、これを一条戻橋のほとりに封じ込めたり、ついには有名な、狐の葛の葉の子だということになったりしている。 『古今著聞集』の中の話に、こういうのがある。  御堂関白、藤原道長が厳重なもの忌みによって、御殿に籠っていたとき、大和の長谷の解脱寺の僧正観修、医師の典薬頭の丹波忠明、武士の八幡太郎源義家、それに阿部清明とが、おそばに詰めて、お守りしていた。  五月一日のこと、奈良から、早|生《な》りの瓜を関白殿下に献上してきた。 「おもの忌みの折からだが、早瓜を差し上げても、さしつかえはなかろうか」 というわけで、清明に占わせてみることになった。  清明が占って言うのには、この早瓜の献上の品の中には、毒気を持った瓜が一つある、ということで、やがて、 「これがそうです」 と申し上げて、一つの瓜を取り出した。 「祈祷を行なえば、この瓜の持つ毒気が現われることでござりましょう」  そこで早速、僧正観修に命じて、祈祷をおさせになった。しばらく、経文をとなえていると、やがてその瓜が動き始めた。さてこそというわけで、典薬頭の忠明に、毒気を治療することをお命じになった。忠明はその瓜を手にとって、とり廻し、とり廻しして、見ていたが、やがて、二カ所に針をたてた。するとそれきり、瓜は動かなくなった。  そこで今度は、義家に命じて、瓜を割らせたので、義家が腰の刀を抜いて、瓜を切り開いたところ、中に、小さな蛇が一匹いた。そして、忠明の立てた針は、見事にこの小蛇の左右の目にぴたりと立っていた。  また、義家は無造作に瓜を切り開いたようであったが、義家の刀は、これも見ごとに、小蛇の頭をすっぱりと切っていた。  参籠して詰めていた、清明、観修、忠明、義家の四人が、それぞれ、神技を発揮したわけであった。さすがにそれぞれの道で、評判の高い人々の振舞いであった。      *  さてこの阿部清明だが、『大鏡』には、例の花山院の御退位の悲劇の折に、ことを早くも占い知っていたことが見えている。  花山天皇は、永観二年(九八四)に、御年十七歳で御位に即き、翌々寛和二年(九八六)には、足かけ三年という短期間で、御位を一条天皇に譲っているが、これは兼家、道兼父子等のたくらみであった。花山天皇は、兼家の兄伊尹が外戚の祖父であり、それに対して一条天皇は、兼家が外戚の祖父であった。  花山天皇は、道兼にそそのかされ、先導されて、宮中を出て花山寺におはいりになったのだが、そこまでついて来た道兼は、天皇に続いて剃髪するどころか、 「剃髪いたします前に、父の大臣に、変らぬ姿をもって、もう一度逢って、かくかくのことと申して、必ずこちらに参上致す所存でございます」 と申し上げて、脱け出してしまった。天皇は、 「さては、われをば欺いたのだな」 とおっしゃって、よよとお泣きになったという。兼家一家の陰謀の犠牲であった。  ところで、花山天皇がひそかに宮中をお出ましになってから、その行列は、土御門から東向きに行ったわけだが、そのとき、清明の家の前を通過した。すると、清明の家の中から、清明自身の声が聞えた。 「みかどが、御位をおおりになるということが、すでに天変に現われていたが、それが早くも終了した、ということが現われている。この由、参内して奏上しよう。仕度を早くせよ」  こういう声が、当の花山天皇のお耳にはいったのである。続いて、清明が、 「式神の一人、とり急いで、内裏へ参れ」  すると、目には見えないが、何ものとも知れぬものが、戸を押し開けて出て来て、通り過ぎていく御行列を、うしろから見送っているような様子で、 「先帝の御行列が、ただ今、御門の前をば、お通り過ぎになりました」 という、声が聞えた、という。      *  阿部清明は、安倍晴明と書くのが普通で、系図には、安倍氏系図となっている。しかし地名では、阿部とも記されたりしている。  岡山県には、阿部清明が天体の観測をしたという伝説のある阿部山(標高二七〇m)があり、その峯続きの隣りの竹林寺山(四八一m)には、東京大学の天体物理学の観測所があり、東洋一の望遠鏡が備えられている。星の観測の最適地として、近代科学が選択したところに、それとは別に、古くから、清明が天体を観測したと伝える山があることは、伝説ながらふしぎである。 [#改ページ]   � ためになる話 [#改ページ]   貯めすぎた男  江戸時代の越前の国敦賀の港は、毎日の入舟が多く、その入港税の一日平均額は淀の川舟の運上金と変らぬほどであった。繁昌ぶりがしのばれるわけで、まるで京の町を見るような賑かさだったという。  ここの町はずれに荷ない茶屋で生活をたてる小橋《こばし》の利助という男が住んでいた。荷ない茶屋というのは、茶釜・茶器・水桶などを前後にかついで、客の需めで煎じ茶一服ずつを売る行商で、一服の代金は一文であった。利発な男で、担ぎ荷を体裁よく作り立て、襷がけに括り袴、烏帽子すがたといういでたちで、人より早く市に出ては「恵比寿の朝茶」というふれこみで売り声をかけたものだから、市に群れる商人たちも、その縁起のよさに魅かれてついついこの茶を需め、なかにはお賽銭のつもりで十二文も払う者まであったくらいによく売れた。こうして毎日良いかせぎとなり、利助はほどなく元手を貯めて葉茶店《はぢやみせ》を開くことができた。いちど運が向いてくると物事はなにもかもじぶんの思うとおりに動くもので、利助はそういう強い運に乗ったのだろう、やがて多くの手代をかかえる大問屋にまでのしあがる。じぶんの力でここまで大きくなった商人は、世間を見廻してもそう例がない。歴々の家からは、利助を是非聟に欲しいと言ってきたが、利助にはひとつの大それた心願があった。 「一万両たまるまでは女房を貰うまい。四十歳になってからでも結婚は遅くない」 ということである。この野望が、利助の商売にあせりを呼ぶことになる。もっと利潤を高くしたい、仕入れ値をもう少し低くおさえたい、その思いが利助に道ならぬ悪心をおこさせる。かれは、越中、越後に手代を派遣して、使い捨ての茶の煮殻を買い叩かせた。京の染物屋で使う茶色の染料に要るのだという口実だった。  利助は、この煮殻をひそかに飲茶のなかに入れまぜてこれを売った。こんにちの社会にもときおりみられる欠陥商品の典型例である。こういう職業倫理に欠けた人間は、現代社会では多くが法によって裁かれ、世論の糾弾にあって亡びるが、このはなしはそうではない。天がこれを咎めたのか、利助は突然狂人になったというのである。そしてかれはじぶんから身の秘密を世上に触れまわり、「茶殻、茶殻」としゃべり続けたという。このことはたちまちのうちに国中に知れ渡った。なんというさもしい心底よ、と世論はいっせいに利助を見放した。こうなると世間は冷たくきびしい。人のつきあいも絶え、医者までが往診をことわるしまつで、利助は湯水も通らぬほどの重態になる。わずかに残った使用人たちが、この瀕死の狂人を看取って、閉店同様になった家のなかにひっそりと暮らす毎日が続いた。      *  やがて利助の最期が近づく。かれはいよいよ息をひきとろうとするとき、 「この世の思い出に、私も一口でいいから茶を飲みたい」 と言って涙をこぼした。ところが、茶を口まで持っていっても、咽喉がふさがっているから通らない。こんどは利助は蔵の中からあるだけの金子《きんす》を取り出してじぶんの床のまわりに並べさせた。その金に利助はしがみついた。 「我《われ》が死んだらば、この金銀、誰《た》がものにかなるべし。思えば、惜しや、かなしや」  涙に赤い血がまじり、顔つきは「角《つの》なき青鬼のごとし」であったと原文はいう。幽鬼のようになった利助は家じゅうを飛びまわり、みなにおさえつけられて、ぐったりしたかとおもうとまた起きあがって金を尋ねまわる。そうした狂乱が三十四、五度にもおよんだ。  使用人たちは恐ろしくなった。だれも利助の病室に近づこうとしない。こうして二、三日がたつ。病室から物音が絶えてしばらくしてから、大勢が手に手に棒を持ち、こっそり部屋をのぞいてみると、狂人は金銀に取りついたまま、大きく眼を見開いて息絶えていた。  人びとは死骸をそのまま乗物に押しこみ、すぐに野墓に送った。のどかな春の日であったが、墓地に着くころ急にはげしく雨が降った。ものすごい稲妻がひらめき利助の棺に落ちたあとには、火葬まえの利助の死体が消え失せて、空の乗物が残っていたのである。      *  のこされた財産をそのままにして置くこともできない。町内の人びとは、利助の遠い親類を探し出し、遺産を相続させようとした。  ところが利助の生前の怪異を聞き知ったこの縁者は、身をふるわして恐ろしがり、箸一本も受け取ろうとしなかった。使用人たちも同様だった。仕方がないのですべてを売り払い、その代金は残らず菩提寺に納めることにした。人たちはまのあたりに天罰の恐ろしさを見て、みな菩提心を起したのである。  利助が死んでから後、利助とそっくりの人間が、あちこちの問屋をまわり、としどしの売り掛け代金の残りを集金して歩くという不思議なできごとがあった。死んでいることは承知しているものの、昔のままの姿で現われる利助の執心に怖れをなし、どこの家でも全額を支払ったという。  利助の住んだ家は誰ひとり近寄る者もなく、崩れ放題に荒れはてて、ひとはそこを化物屋敷といって語り草にした。 [#地付き]——『日本永代蔵』 [#改ページ]   実 物 教 育  雨の降る日のことであった。ある人のもとに集まって、気を許し合った連衆が、閑談を楽しんでいたときに、話が次第に歌の故事などのことになっていった。  誰かが、 「ますほの薄という語がありますが、あれはいったい、どういうものなんですか」 と聴いた。すると一座の中の老人が、 「わたしも耳にはしてますが、まだ実地にあたって調べてはおりません。なんでも、渡辺のあたりに住んでおられる聖が、ますほの薄のことを、よく知っておられると、聴いておりますが」 と言った。  その一座の中に、登蓮法師という人がいたが、この老人の話を耳にすると、今までみんなと一緒になってしゃべっていたのが、急にことば少なになって、閑談の仲間からはずれてしまった。何か考えごとをしているようであった。  しばらくして法師はあるじに向って、 「蓑と笠とを拝借願えませんでしょうか」 と言うので、あるじは、急になにごとかと思ったけれども、言うままに、取り出して貸し与えた。すると法師は、仲間達のはずんでいる話を皆まで聞かずに座を立って、蓑を着、笠をかぶり、わらぐつをはいて、急いで出かけようとした。  みんなふしぎなことに思ってどうしたわけかと、法師に聴いた。登蓮法師は、 「今うかがった、渡辺というところへ、行って来ようと思うんです。わたしもその『ますほの薄』というものは何だろうかと、つねづね疑問にしていて、頭にひっかかっていたんですが、そのことを知っている人がいるとうかがったので、矢も楯もたまらず、聞きにいこうと思うんです」 と言う。一同はびっくりして、 「それは結構なことだけれど、何しろ今はまだだいぶ雨が降ってます。せめて、雨がやんでからになさったら」 ととめたのだが、法師は、 「いやいや。そんなのん気なことは言ってはいられません。人の命は頼りないもので、わたしにしても、渡辺の聖にしても、雨の晴れ間を待っているうちに、どんなことになろうもしれません。ともかく、早速にも行って来ようと思います」 と言い捨てて、降りしきる雨の中を、出かけて行ってしまった。まことに知識欲の旺盛な、たいへんな人だと、みなみな舌を巻いて感心したことだった。  さてその登蓮法師は、目指す聖を尋ねあてて、「ますほの薄」を手に入れて、これを秘蔵していた。万葉集の用例以来、いろいろと取沙汰されて来たこのことばを、実物で、ぴたりと解明した、というわけであった。しかも、耳にするや否や、雨の中をとび出していくという熱意についても、伝えるに足りる佳話で、鴨長明の『無名抄』の中でも、有名な話の一つになっている。      * 『無名抄』では、右の話の中で、登蓮法師を指して「いみじかりける|すきもの《ヽヽヽヽ》かな」と言っているのだが、平安朝の半ば以後、この語を何と訳したらいいか。趣味人、風流人とでも言ったらいいだろうか。もちろん、男女関係における「好き者」という語からは、だいぶ意味は移って来ている。珍しい、常人と違った人、というような意味にもなって来て、「数奇者」などとも字をあてている。やがてはこれは「畸人伝」などに伝えられるような、奇人、畸人にまでなっていくのだろう。 『袋草紙』も、登蓮法師と同じ型にはいる「数奇者」を伝えている。  その頃、数奇者と言われた加久夜長帯刀節信という人、はじめて能因法師に逢ったときのこと、おたがいに、相手に対して感ずるところがあった。初対面で心を許し合ったというわけであろう。  能因法師、節信に向って、 「今日初対面の記念に、引出物としてお目にかけたいものがあります」  こういって、ふところから錦の小袋を取り出し、さてその中から、なんのへんてつもない、かんな屑を一筋取り出した。 「これはわたしの大事な宝物です。何だとお思いになります。これは、長柄の橋を造ったときの、かんな屑です」   津の国の 長柄の橋も つくるなり 今はわが身を 何にたとへん という歌の長柄の橋で、つくるなりは、造るなりか、尽くるなりかで、問題のあるところだが、さて、見せられた節信は大喜びして、やがてやおら、自分のふところから、紙につつんだものを取り出した。見るとそれは、かさかさになった蛙であった。 「これこそ、井堤の蛙でございます」  山城の国綴喜郡井手村の蛙というのは、蛙の中でも有名で、この蛙を、ほかの蛙のないているところへ放つと、衆蛙声をとどむというほどの蛙だ。  能因、節信の初対面に、長柄の橋のかんな屑と井堤の蛙と、実物を見せ合ったという話である。ただしこの趣味が昂じてくると、かぐや姫の天の羽衣、頼朝公十三歳のしゃれこうべ、ということにもなりかねない。 [#改ページ]   夢は合せがら  夢が何かの前じらせだと今でも気にする人が多いけれども、昔の人たちはもっと本気で夢の吉凶を信じている。どういう夢がどういうことの前兆であるか、これは誰でもすぐに判断ができたわけではない。夢解きという専門家がいて、夢の意味するところを解説してくれる。一般の人々はそういう人に問うて、自分の夢のよしあしを知ったのだった。 『大鏡』の兼家の伝には、当時は夢解きや巫《かんなぎ》にも優れたものがいたと言って、普通の人には思いがけない夢の真意を解いて、将来を予言した夢解きがいたことを伝えている。  兼家とその兄兼通との権力争い、官位昇進の競争はすさまじいものがあった。兼家はある時期兼通に徹底的に抑えられ続けて、ずいぶん長く不遇だったことがある。関白だった兼通が病気が重くなって、もうあやういという時に、兼通がすでに死んだと聞いた兼家は急いで参内して、関白任命を奏請する。ところがその場に死んだはずの兼通が人に助けられながらふらふらと現われ出て、 「最後の除目《じもく》(官吏任命)をおこないに参上しました」 と言い出したものだから、びっくりしてしまった。こうして関白はまたしても頼忠のほうにいってしまい、兼家に関白がまわってくるのは、七、八年先のことになった。兼家のその不遇時代のことだ。  兼家に親しいある人がこんな夢を見た。兼通の邸堀川の院から東のほうに向けてたくさん矢を射ると見る間に、その矢がみんな兼家の邸である東三条殿に落ちかかった。平素仲の悪い相手のほうから矢が射かけられたというのだから気にかかって、兼家に告げたところ、兼家もいやな気がして、早速夢解きを呼んで問うてみた。ところが、夢解きは、 「大変な吉夢です。世の中がすっかりこちらの殿に移って、いまあちらに集まっている人々もみんなこちらへ参るようになるでしょう」 と解いてみせた。この夢解きのことばは、まさにその通りになったのだから、たいしたものだ。  この話など、夢解きが人の察知できない夢の真意を推し得たというよりは、夢の合せ方がうまかったから運命を転換させたというふうに考えるべきものかも知れない。「夢と鷹とは合せがら」という諺があるが、夢をうまく解く(合せる)と、そのとおりの将来が実現する。夢にはそんな力があると思われていたのだ。  反対に兼家の父師輔などは、せっかくいい夢を見たのに、合せ方が悪かったばかりに手に入るはずの運をのがしている。  師輔がまだ若かったころ、朱雀門を前に、左右の足を西と東の大宮大路にふんばって、北向きに内裏を抱いて立つという、途方もなく気宇広大な夢を見た。そのことを人に話したところが、たまたま御前にこざかしい女房がいて、 「それはさぞかし股が痛かったことでございましょう」 と言った。当人は気のきいたしゃれを言ったつもりだったのだろうが、このことばがせっかくの夢を悪く合せたことになったから、運命が狂ってしまって、子孫は栄えたけれども、師輔自身は摂政や関白の官につくことができなかった。非常な吉相の夢も、こんなふうに悪く合せると、吉事が実現しないでたがってしまう。だから、気心の知れぬ人の前でうかつな夢語りはするものでない、と言われている。これも『大鏡』が伝える話だ。  似たような夢もあるものと見えて、伴大納言と世に称せられた伴善男は南都の西大寺と東大寺とを跨いで立ったという夢を見ている。  善男という人は異常なほどの出世をした人で、もともとは佐渡の国の郡司の従者に過ぎなかった。ところが、その頃右の夢を見て妻にしかじかの夢を見たと語ったところ、ふだんから善男を軽んじている妻は、「何を言ってるのさ」といった調子で、 「お前さんの股が裂かれる前兆かもね」 と解いてしまったから、せっかくの夢もたがってしまった。  善男はよせばよかった、つまらぬことを言った、と後悔しながら郡司のもとへ出仕すると、郡司がいつもそんなことはしたことがないのに、大変に善男をもてなして、円座《わろうだ》など取り出して向い合って席を設けてくれる。善男はうす気味悪くなって、それこそ股でも裂かれるのかと内心びくびくしていたが、この郡司が実は非常な相人《そうにん》であって、人相を見るのが上手だった。 「お前は大変な高貴な相の夢を見たはずだ。だが、それをつまらぬ人に語っただろう。だから将来高位につくではあろうが、必ず事件が起って罪をこうむることになるだろう」  そう語ったことばどおり、後に善男は縁故に従って都へ上り、とんとん拍子に出世して大納言にまで至ったのだが、応天門の変という世間を驚倒させた大事件を引きおこし、幸いに死罪はまぬかれたものの、伊豆に流されて、その地で生涯を終えることとなった。  応天門の事件というのは、善男が左大臣であった源信を失脚させるためしくんだもので、善男がわが子とともにみずから応天門に放火して、それを源信のしたことだと讒奏する。源信はあやうく冤罪をまぬかれたが、事件の夜たまたま現場に居合せた舎人《とねり》が、のちに伴大納言に仕える男と争うことがあって、その口から善男に不審があるとの噂が世上に広まって、ついに罪に問われることになった。夢の話と応天門の放火と、『宇治拾遺物語』が二話にわたって伝えている。  たかが夢だといっても、人生をこんなふうに狂わせることがある。だから、ゆめおろそかにしてはならぬ、という。 [#改ページ]   力をも入れずして……  和歌には霊妙不可思議な徳がある——と、昔の日本人は信じていた。人間の誠実のこもった、すぐれた歌がよまれると、天地も感応して奇跡が起ったり、死にかけていた病人がよみがえったりする。そんなことが信じられもし、信じられているから現実に現われもしたのだ。紀貫之は、和歌を文学として位置づけようと主張した『古今集』の序文に、 [#2字下げ]力をも入れずして天地《あめつち》を動かし、目に見えぬ鬼神《おにかみ》をもあはれと思はせ、男女《をとこをんな》の仲をもやはらげ、猛《たけ》きもののふの心をもなぐさむるは歌なり。 と、和歌の徳を説いている。  さてその貫之自身にもこんな経験があった。  貫之が所用があって紀伊の国に下り、都へ帰ってくるおりのことだった。道中で乗っていた馬が急に病気になって、泡を吹き、今にも死ぬかという騒ぎになった。通りがかった土地の男が、 「これはこの土地の神のたたりじゃろう。別に社があって祀ってるわけでもないが、えらい神様でな、これまでにもこういうことが度々あった。さ、神にお祈りなさるがいい」 と言う。さてはその神のたたりだったかというので、道中のことゆえ御幣などの用意もなし、ただ道ばたの流れに手を清め、ひざまずいて拝もうとしたが、社もなし、なんのしるしもなしでは、一向に頼りがない。 「いったい、なんという神ですか」 と問うと、 「蟻通《ありとおし》の神と申します」 と言う。それではというので、歌人のことだからさっそく一首の歌をよんだ。   かき曇り あやめも知らぬ 大空に ありと星をば 思ふべしやは  そうよんでたむけたところ、たちまちに馬の病気がおさまって、元気になった。『貫之集』に載せられている話だが、この歌、これほどの奇瑞をあらわした歌としては、どこがおもしろいか、後世のわれわれにはよくわからない。まっくらにかき曇った空のどこに星があろうとも思われない、というだけで、馬の病気と関係もなさそうだが、実はこれは物名の歌であって、「ありと星をば」というところに「ありとほし」という神の名がよみこまれている。神様が気に入ったとすれば、そこのところだろう。 『袋草紙』はこの歌のこの話を第一において「神仏感応の歌」という一群を載せている。赤染衛門といえば和泉式部と並べられた歌の上手だが、大江匡衡との間に生んだのが大江|挙周《たかちか》だ。その挙周がある時重病の床についた。これは住吉の神のたたりだという人があって、それではというので赤染衛門が三首の歌をよんで、その社に奉納した。三本の枝の分れた御幣にそれぞれ一首の歌を付けたのだが、   かはらんと 思ふ命は 惜しからで さても別れん ことぞ悲しき   頼みては 久しくなりぬ 住吉の まづこの度は しるし見せなん   千世ませと まだ緑子に ありしより ただ住吉の 松を祈りき という三首だった。  これを住吉の社の神前に奉って祈誓したが、とろとろとまどろんだ夢に白髪の老人が奥のほうから出て来て、この歌を付けた御幣を取って入ったと見た。挙周の病いは間もなく平癒したという。  似たような話を『古今著聞集』が伝えている。こちらは和泉式部の娘小式部の話だが、やはり重病の床に臥して、もう今が限りという有様だった。和泉式部はかたわらに付き添って日夜看病に明け暮れたが、この有様になって、ただ額《ひたい》をおさえて泣くばかりだった。  小式部は人の顔さえもわからぬほどだったが、わずかに目を見上げて、母親の顔をつくづくと見ていたが、絶え入りそうな息の下から、   いかにせん 行くべき方も 思ほえず 親に先立つ 道を知らねば と、かすかな声で詠じた。その時、天井の上であくびをしながらといった感じの声で、 「あな、あわれ」 と言うのが聞えた。それは病気の精霊が歌に感動した声だったのだろう。小式部の病気はその時から熱が下がり、やがて本復したという。これは「目に見えぬ鬼神をもあわれと思はせ」た歌と言えよう。再び『袋草紙』にもどるが、小式部内侍については、「男女の仲をもやはらげ」に相当する歌の話もある。  道長の子、藤原教通が小式部を愛していたころのこと、教通がしばらく病気して、平癒して久しぶりに上東門院の御所に参上した。そこの台盤所に小式部が伺候していた。教通は、 「どうして見舞いに来てくれなかったのだ。死のうとするところだったのだよ」 と言いかけた。もちろん、身分の違う小式部が教通の邸に見舞いに行くなど、できない相談であることは承知の上のことばだ。だが、小式部はそのまま行き過ぎようとする教通を引きとめて、こうよんだ。   死ぬばかり 歎きにこそは 歎きしか 生きてとふべき 身にしあらねば  生きている身でお見舞いに行ける私でございませんもの、死んで霊魂となって参ろうかと、本当に死ぬばかりに歎いておりましたのですよ。こう返事をされて、教通はその心根がいとしくてたまらなくなった。小式部をかき抱いて、そのまま局《つぼね》へ入ってしまった。  この話、前に書いた同じ小式部の「大江山」の歌の話とよく似たところがある。小式部というと、即座の秀歌ということに連想がはたらくのだろう。どうも日本の説話には、ひとりの人物に似た傾向の話が集中する癖があるようだ。 [#改ページ]   雨乞い小町 「力をも入れずして天地を動か」すといった和歌の徳の代表的なものは雨乞いの歌だろう。農業国日本のことだから、昔から雨の降る降らないは天下万民の最大の関心事だ。正史の上にも雨乞いの記事は度々見えているし、天皇みずからが雨乞いをしたという記録もある。  たとえば、皇極天皇の元年六月のこと、この月に大変な日照りが続き、七月になっても雨が降らない。群臣が集まって議して言うには、 「村々の祝部《はふりべ》の言うとおりに、あるいは牛馬を殺して諸社の神を祭り、あるいは市を移し、また川の神に祈りなどしたが、全くしるしがない。どうしたものか」 と困りはてていた。蘇我蝦夷は仏法にすがるがよかろうと寺々に命じて祈雨の法を修せしめたが、数日たって小雨が降ったに過ぎなかった。  八月一日、天皇がみずから飛鳥川の上流、南淵《みなぶち》の川のほとりに行幸あって、ひざまずいて四方を拝し、天を仰いで雨を祈られたところ、たちまち雷鳴がとどろき、豪雨が沛然として降り出し、五日の間降り続いた。天下みなうるおって、至徳ある天皇と讃嘆した。  こんな記事が『日本紀』に見えているが、平安京に移ってからは、雨乞いというと都近くでは貴船神社、やや離れては吉野川の上流、丹生《にゆう》川上の社にまず使いが遣わされることに決っていた。  都の中では王城の南にある神泉苑が雨乞いの場所として有名だ。宮廷で雨乞いを行なうことが決ると、仰せを受けた蔵人が人々を率いて神泉苑におもむき、池のほとりの石に水をそそぎかけ、一同高声に、 「雨たべ海竜王、雨たべ海竜王」 と唱える。七日を限ってこれを続け、雨が降らないと別の蔵人と交替させる。さいわい雨が降ると、御感にあずかって御衣を頂戴する。  あるいは陰陽師が術をもって奉仕することもあり、高徳の僧が召されて祈祷を行なうこともある。小野小町も勅命を受けて、神泉苑で雨乞いの和歌を詠じたという話がある。「雨乞い小町」という謡曲はそれを主題にしたものだが、廃曲になっており、細部はわからない。ところが、狂言の「業平餅」に小町の雨乞いの話が出てくる。それによると——、  ある年、天下に旱魃して、雨が一滴も降らない。民百姓は耕作の種を失って嘆き悲しんでいた。帝がこのことをきこしめされ、公卿に勅《みことのり》して高僧たちに仰せて御祈祷が行なわれたが、一向にしるしがない。そこで小野|良真《よしざね》の娘、小野小町といって世に隠れもない歌人を召され、雨乞いの歌をよめとの仰せ。小町は神泉苑の池のほとりに立ち、   ことわりや 日の本なれば 照りもせめ さりとてはまた 天《あめ》が下とは と、このようによんだ。その和歌の徳により、たちまちに雨が降り、五穀は成就、民は安全、まことにめでたいことだったので、小町にはほうびとして餅を下された。  こういう話だが、歌のお代として餅を下されたので、以来餅を|かちん《ヽヽヽ》(歌賃)ということになったという笑いに話を落している。それはともかくとして、「日の本」というから日が照るのはもっともだが、「天の下」ともいうから雨が降ってもいいだろうという変な理屈がこの小町作という和歌の主題だ。こんな理屈に感心して雨を降らせるとは水の神もあまり和歌の鑑賞は得意でないのかも知れない。しかし、雨乞いの歌というものは、みなその点が共通している。  能因法師が伊予守実綱について、その任国伊予へ下ったことがあったが、夏の初め久しく日照りが続いて、民の嘆きが浅くない。 「神は和歌に感応すると聞いています。あなたも歌人のほまれが高いのだから、試みに一首よんで、この国では聞えの高い三島の神に奉ってくださいませんか」 と、実綱以下役人たちがしきりに勧めるので、それではと能因が一首の歌をよんだ。   天の川 苗代水に せきくだせ 天くだります 神ならば神  これをみてぐら(御幣)に書いて、神主に奏上させたところ、かんかん照りの空が急に曇ってきて、大雨となり、枯れようとしていた稲葉がすっかり緑に返った。『古今著聞集』などに見えている話だが、この歌もやはり理屈っぽい。天上から人間世界に降臨する神ならば、天上にある天の川の水を下界に下して苗代水としてください。どこかお願いするというより、そうせざるを得ないよう、神に迫っている趣がある。  時代は下るけれど、宝井其角が向島の三囲《みめぐり》神社の社前で、土地の農民たちが雨乞いをしているところに行きあった。その人々に代って、其角は、   夕立や 田を三囲の 神ならば とよんで神前に奉った。田を見めぐるという名をもつ三囲の神ならば、これが見捨てておかれますか、とやはり神に問い詰めている。  其角の句集『五元集』には、この句のあとに「翌日雨降る」と書かれている。名歌の徳でたちまち雨が降りだすという小町以来の約束にちょっと遠慮したようだが、意地の悪い川柳子はそれを見のがさない。   夕立は 十二|刻《とき》して 降り出し と皮肉っている。  皮肉と言えば、一方でこんなに和歌の徳が信じられ、和歌に対する尊敬が持ち続けられていたのに、一方にはそれをひやかして、笑いの種にしている人もある。   歌よみは 下手こそよけれ 天地の 動き出《いだ》して たまるものかは  作者は宿屋飯盛こと石川雅望だ。 [#改ページ]   あの世までの恨み  王権の争いというものは、どこの国、どこの民族の歴史にもあって、凄惨な色どりを添えているものだが、日本の場合も決して例外ではない。皇位継承に関してはずいぶん血なまぐさい出来事もあり、全般に陰湿な感じのあることも否定できない。  平安朝になると、皇位継承の争いには大体ひとつの型ができあがってくる。それはある天皇にABふたりのきさきがあって、Aのきさきの腹に生まれた皇子が※[#Aの上に−]と、Bのきさきの腹に生まれた皇子※[#Bの上に−]と、どちらが皇位継承の権利を獲得するかという争いだ。それがとりもなおさず、Aのきさきを出しているaの一族、それはきさきの父または兄弟によって代表されるのだが、それと、同じようにBのきさきを出しているbの一族との争いということになるから、いっそう熾烈なものとなる。自己の一族の出身の皇子が帝位に即けば、母のきさきは皇后となり、外戚の祖父が摂政・関白となって政権を握る。『伊勢物語』で有名な惟喬親王と惟仁親王(後の清和天皇)との位争いなどもこの典型的なものだが、皇妃の背後の力となり得るような実力ある氏族がほとんど藤原氏だけになってしまうと、同じ藤原氏の中でどの血統が勝ちを制するかに争いの中心が移ってくる。  藤原元方はこの闘争の敗者の代表的な人物で、その恨みによって怨霊となり、長い間人々に恐れられた。元方の大納言といえば、当時の人々はぞうっと恐怖の感情にかられたはずだ。  それというのが、元方の娘祐姫が村上天皇の後宮にあがっていて、第一皇子を出産した。帝の寵愛も浅からず、疑いもなく皇太子になるものと期待をかけていたが、翌年同じように女御として入内していた師輔の娘安子の腹にも皇子が誕生した。師輔は忠平の次男、兄弟三人までが大臣の位に至った名門で、権勢も群を抜いている。その娘の腹に皇子が誕生したのだから、第一皇子であるとは言うものの、元方の娘の生んだ皇子の存在はたちまちに薄れてしまう。生まれて三月というのに、この第二皇子が皇太子に立つことに決った。後の冷泉天皇だ。  このことを聞いて以来、第一皇子の母祐姫は湯水さえものどを通らない。嘆きに臥して、命も危ぶまれる始末。失望落胆は元方も同じこと。すっかり世をはかなんでしまったが、この第二皇子誕生について、『大鏡』はひとつのエピソードを伝えている。  第二皇子のまだ誕生以前、安子が懐胎中のことだ。庚申の晩だからというので、帝の御前に人々が集まって、夜を徹して遊んだことがあった。庚申、すなわち「かのえさる」の日の夜は、寝ずに起きているという風習があって、民間でも「話は庚申の晩」などと諺に言う。平安朝の宮廷でもそうだったらしい。そのときは第一皇子の祖父元方はもちろんのこと、安子の父師輔もおそばにはべっていたが、攤《だ》という双六に似た競技が始まったとき、師輔がどれ一番、というので乗り出してきた。 「いま女御の腹にある御子が男なら、重六が出ろ」  重六というのは、二つの賽の目が両方とも六、最高の目だが、そう言って師輔が賽を振ると、ぴたりと六の目が二つ揃った。一同唖然としたが、中でも元方は顔色を失って、ものも言えない有様だった。後に怨霊として現われて、あの晩、胸に釘を打たれたる思いがしたと語ったという。  そんなことで、三年後に元方が失意のうちに死に、続いて祐姫もなくなった。元方は生前においては、権力の争いに完敗したわけだ。だが、その敗北が無惨なだけに後に残った恨みも深い。これから元方が怨霊となって、相手方の皇太子とその血筋にたたってゆく。 『栄花物語』がこの怨霊のたたりを克明に記述しているが、皇太子が成長するにつれて、ともすればおかしなふるまいがある。様子やことばつきなど、子どもとも思われない。帝も后もこれを嘆いて、さまざまな修法《ずほう》を行なわせるが、一向に効果がない。そのうち、年頃になって元服し、妃も定まるが、もののけが烈しくて結婚生活さえまともにとげられない。十八歳で帝位について、わずか二年で位を譲ってしまった。  母后安子もやはり元方の怨霊にとり殺された。妊娠中にもののけが烈しくなり、加持祈祷もしるしがない。その中で元方の怨霊が現われて、生かしておかぬとばかりに荒れまわる。やっと無事に出産があって、人々がやれ嬉しやと胸を撫で下ろしたとたんに、母君の方が消え入ってしまった。『源氏物語』の葵の上の死そっくりの、おそらくそのモデルになったろうと思われる場面だ。  冷泉天皇の御子で一代おいて帝位に即いたのが花山天皇だが、この天皇も在位二年ばかりで、しかも当代の天皇が在位のまま出奔するという前にも後にも類例のない事件をひき起す。『大鏡』は、 「冷泉院の狂いよりは、花山院の狂いのほうが手に負えない」 と言った人のあったことを記している。  和泉式部とはでな恋愛事件をひき起した為尊、敦道両親王も冷泉天皇の皇子だが、やはり性格に異常な点があるようだ。冷泉天皇の皇子で、もうひとり帝位に即いた三条天皇にも前に記したように怨霊のたたりがある。そして、この天皇を最後として、冷泉天皇の血統は完全に皇位から離れてしまう。  生前の敗者元方はこうして死後の世界において執拗な復讐をとげたが、これに対して死後の師輔はほとんど無力だった。『大鏡』は、即位の危ぶまれていた冷泉天皇の大嘗会の御禊《ごけい》の際、この時ばかりはもののけの働きもなく、大変りっぱに、きちんとした有様で渡御があったことを言い、なくなった師輔が御輿の中でしっかりと天皇の腰をお抱き申しているのが、人の目にも見えた、と伝えている。  あの世における争いでは、これが師輔のわずかな抵抗だった。 [#改ページ]   蟻通の神の由来  貫之が和歌を献じて名誉を残した蟻通《ありとおし》の明神の話は前に書いた。考えてみればこの明神の名前は不思議な名前だが、その名の由来を説明した話が『枕草子』に載っている。  昔、ある帝が若い人だけを大切にお考えになり、老人は不用のものとして、四十を過ぎるとお殺しになった。これではたまらないというので、みなその年になると遠い地方の国々にのがれて隠れてしまう。だから、都の内には老人というものがすっかりいなくなってしまった。  ところが、ここにひとりの中将で、たいそう時勢に合って、はぶりもよく、分別もすぐれている人があった。この人が七十に近い両親をもっていて、四十の人でさえ殺される、まして七十にもなるものが、と親たちは恐れ騒ぐのだが、子は大変な親思い。いや、遠い所にお住まわせするわけにはいかない、一日に一度はお顔を見なくては、というので、とうとう家の中の地面を掘って、その中に部屋を造り、両親を隠れ住まわせて、自分ひとりが通って行くようにした。世間に対しては、親は行き方知れずになったと言い、帝にもそのように申し上げ、こうして一時をしのいで暮らしていた。  この当時、唐土《もろこし》の帝がなんとかこちらの帝をたばかって、日本の国を討ち取ろうとねらっていた。それでいろいろ難題をもちかけてくるのだが、ある時、丸くつやつやと削った二尺ばかりの木を遣わしてきて、この木の根本と末と、どちらがどちらだと問う。帝をはじめ、誰も知りようがない。みなみな困りきってしまったが、この時、中将が隠しておいた親のところへ行って、こういうことがあると話した。 「それなら、わけはない。流れの速い川に投げ入れて、ぐるっと回って流れて行く先の方が木の末だよ」 と言うので、いかにも自分が思いついたというふうに申し出て、その通りやってみた。先になって流れて行く方に印を付けて、こちらが末と返事をさせたら、果してその通りだった。  すると、今度は二尺くらいの蛇の、同じくらいの長さのを二匹持ってきて、どちらが雄《おす》でどちらが雌かという。これも誰もその見分け方を知らない。中将がまたそっと親のところへ来て尋ねると、 「二つ並べておいて、細いすぼえ(若枝)をそばへ寄せてごらん。尾を動かす方が雌だよ」 と教えられた。内裏でその通りにしてみると、一匹はじっとしているが、一匹が尾を動かす。これが雌にちがいない、と印を付けて送り返し、無事難題を切り抜けた。  それでも唐土の帝はまだ諦めない。しばらく時をおいて、今度は七曲りに曲っている玉を送ってきた。これのまん中に穴が通っていて、左右に口がある。その玉に緒を通してみせろ、という。どんな細工の名人だって、そんなことができるわけがない。上達部《かんだちめ》、殿上人、世にある人すべてが手をあげてしまった。中将がまた隠しておいた親のところへ行くと、 「大きな蟻をつかまえて、腰のところに細い糸を結び付け、その糸にまた少し太い糸を結び付けるがいい。向うの穴の口に蜜を塗っておいて、こちらの穴から蟻を入れてごらん。蟻は蜜の匂いに誘われて、必ず向うの口ヘ出るから」 と言う。なるほどと思って、これも帝の御前でそのとおりにしたら、みごと七曲りの玉に緒を通すことができた。この玉を送り返したところ、さすがに唐土の帝も驚いて、これほどの知恵のある人のいる国はたやすく手に入れるわけにゆくまいと、以後すっかり諦めて、難題を言いかけてくることがなくなった。  帝はたいそうなお喜びで、中将をまたとないものとお思いになり、 「ほうびには何をつかわそう。どのような官《つかさ》や位が望みか」 と、お聞きになる。中将は、 「いえ、官も位も、望みではございません。が、ただひとつお願いがございます」 「それは何だ。遠慮なく言うがよい」 「では申し上げますが、行き方知れずになっている親を尋ね出して、都のうちに住まわせとうございます」 「それはたやすいこと。早速にそうするがよい」 というわけで、隠しておいた両親の命が無事に助かった。  この話そのものは昔話にも類話のある古い説話のひとつで、老人の知恵のありがたさを教えているものだが、『枕草子』はこのあとに不思議な記事を付け加えている。  この中将はその後だんだん出世して上達部《かんだちめ》、大臣にまで至った。さて、その死後に神になったのだろうか、その神に参詣した人の夢に現われて、一首の歌をよんだ。   七曲《ななわた》に まがれる玉に 緒を貫《ぬ》きて ありとほしとは 知らずやあるらん  そういう話だが、この歌、七曲りに曲っている玉に緒を貫き通して、そのため蟻を通した、その蟻通の神がすなわちおれだとは知らないでいるのか、そういう意味の歌だ。神に詣でた人によみかけたと説明されているが、歌そのものから見ると、これは神がたたって託宣を下したものに違いなさそうだ。  生前評判の高かった中将も、神になってからはあまり大切に扱われなかったのかも知れない。おれがあの蟻通の神なのにと、どこか不遇でひがんでいるようなところがある。この話にしても、前に書いた貫之の話にしても、そういう感じが共通しているのは、偶然に過ぎないのだろうか。 [#改ページ]   あだ名の付け様  前に詳しく述べた「ふし柴の加賀」や「待宵の小侍従」、「ものかはの蔵人」などは名誉あるあだ名をもらったものだが、反対に歌の上の失敗から不名誉なあだ名を付けられて、後世にまで憂き名を残した人もある。  白河院が鳥羽殿で月見の宴を催され、そのおり「池上の月を翫ぶ」という題で人々に歌をよませられた。その時にはいろいろ不思議なことが多かった。  まず第一にこの歌会の序を書いた経信の歌に「池上の月を翫ぶ」の題に相応する「池」ということばがなかった。それで世間でおかしく思ったが、息子の俊頼が問うてみたところ、経信は「世間でそう言っているそうだな」と言ったきり黙っていた。  それはともかくとして、高松宰相公定は月をよまなかったので、これはのがれようがない。「無月の宰相」という名が付けられてしまった。治部卿源能俊は、当時少将だったが、   池水に 影をうつして 秋の夜の 月の中なる 月をこそ見れ とよんだ。秋の月の中でもとくに美しい今宵の月というつもりだったのだが、月の中にまた月があるように聞えるので、これは大変、天変地異のような歌だというので「天変の少将」とあだ名が付けられた。  なにしろ歌の上の不名誉は生死にかかわるほどの大事だった時代だ。『蜻蛉日記』の作者道綱母の同母弟だった藤原長能などは、ある時の歌会で、   心憂き 年にもあるかな 二十日あまり 九日といふに 春の暮れぬる という歌をよんで、公任に痛いところを突かれた。長能のつもりでは、ことしは三月が二十九日しかない、三月が小の月だったのを残念がって、春が短く過ぎてしまったと言おうとしたのだが、公任が「春は三十日やはある」——春は三十日なのかい。九十日じゃなかったかしら——と言ったので、ぎゃふんと参ってしまった。それ以来、そのことばかりが心にかかって、食事もろくろくのどを通らない。とうとう重態に陥ってしまった。公任が使いをやって病気を見舞わせたところ、「あなた様が春は三十日やはあると仰せられました、そのことを嘆いているうちにこんな有様になりまして」と答えてきたということだ。 [#地付き]——『袋草紙』      *  それほどの時代だったから、「無月の宰相」や「天変の少将」も、そんな名を付けられてさぞや辛かったことだろう。しかし、後徳大寺左大臣実定は、大将だったころ「無明《むみよう》の酒」ということを歌によみこもうとして「名もなき酒」とよんで「名無しの大将」というあだ名が付いた。「無明」を「無名」と思いちがえていたのだ。この道の長者と言われた俊成でさえも「富士の鳴沢」をよむのに「富士のなるさ」とよみこんで失敗したことがある。「なるさは」の「は」を助詞と思いこんで、「富士のなるさ」ということばだと誤解していたのだ。これも「なるさの入道」というあだ名がつけられた。 [#地付き]——『無名抄』      *  平安朝の貴族社会もずいぶん辛辣な揚げ足とりが盛行していたものだが、さすがに歌ことばでやんわりと表現するところが、現代の高校生が先生たちに河馬だのゴリラだのとニックネームをつけるのとは、ちょっとつけ方が違っている。どこか風雅な趣がある。  少し時代が下って鎌倉の初期のことになるが、「鳴門の中将」とあだ名せられた人がいる。そのいきさつは『鳴門の中将の物語』という物語にまでなって世に喧伝せられたものだが、ちょっと話が入り組んでいる。  どの帝という名は伏せられている。ある帝が春のころ宮中で蹴鞠の催しのあったおりに、見物の中にいたひとりの女性を見そめられた。あり所を見させておこうと、六位の蔵人に命じてあとをつけさせられたが、女は早くもけはいを察して、うまく紛らわせて姿を消してしまった。帝は無念やるかたなく、その蔵人に是非とも女を捜し出すよう、もし捜し出すことができなければ罪科にも問うとの仰せである。蔵人は懸命になって、人の集まりそうな所、しかるべき家の娘など、いろいろに尋ねてみるが、なかなか見いだすことができない。帝はもの思いに沈んでながめがちに暮らしていられる。蔵人が思いあまって陰陽師にうらなってもらったら、夏の季に至ってもとの所に現われ出るだろうという卦が出た。  これに力を得て、女を見失った左衛門の陣のあたりにいつもたたずんでいたところ、五月の十三日最勝講の開白《かいびやく》の日に、女が様子を改め、五人の女たちと連れ立って聴聞に来たところを見つけ出した。今度はとうとうあり所をつきとめて、帝に申し上げる。早速消息を下されて、お召しがある。  女は白河のあたりのなにがしの少将という人の妻であった。お使いに返事をせめたてられて、今は隠しようもない。すっかり夫に事情をうちあけたところ、この男が分別のある人で、 「夫として妻を差し出すのははばかりが多い。かと言って、帝をお諌め申すというわけにもゆかぬ。人それぞれの運命のあるのが人生というものだし、帝にそれほど思われるのは女として名誉でもあろう。世評はともあれ、参上するがいい」 との答え。女は何度も拒んだけれど、ついに説得されて参上することになった。帝は本意をとげられて、その後もおりおりひそかにお召しがある。夫の少将にもそれとなく恩寵があって、中将に昇進した。  このことがいつとなく世に伝わって、口さがない世間は、この人を「鳴門の中将」とあだ名した。鳴門は今でも若布の名産地だが、昔は海藻すべてを「め」と称した。妻も「め」であるから、鳴門はよき|め《ヽ》(藻・妻)をいだすというしゃれだったのだ。 [#改ページ]   天下分け目の相撲一番  相撲は今でこそスポーツだとして、誰も疑う者はないが、しかし、必ずしも完全に近代スポーツでもない。だい一、ちょんまげにゆっていて、縄のれんのような|さがり《ヽヽヽ》を下げ、「花道」を出て来るのだから、多分に、芸能的要素を持っている。一方、禁じ手や封じ手があって、生命がけなどということはないが、その点、昔はかえって芸能どころか、相手を殺してしまうことも多かったのだから、はなはだ物騒な勝負ごとだった。  多分に伝説的な話は、二人の皇子のどちらが天皇の位に即くかという、いわゆる皇位継承の話だが、そのどちらかにきめるのに、相撲の勝負できめようとした話である。      *  天皇は第五十五代の文徳天皇。その文徳には皇太子の候補者として、皇子が二人おられた。第一の皇子は紀名虎の娘静子の腹に生まれた惟喬親王、第二の皇子は藤原良房の娘明子の腹の惟仁親王である。片や斜陽なりといえども、名族のほまれ高き紀氏の外孫で、第一皇子。片や日の出の勢いの藤原氏を外戚とする皇子。さてどちらを皇太子にたてるかということになると、そう簡単には天皇にしてもきめられない。愛情は惟喬の方に傾いていたし、惟仁の方は、性悪にして天子の位につくべき器に欠けていた(神皇正統記)と言うのだから、惟喬に皇位をゆずりたかったに違いないのだが、しかし、外祖父の良房には一目も二目も置かざるをえない。困り果てた天皇は、とうとう相撲によって決着をつけようと思いたたれた。  大福の予備選挙だって、利害のない者にも結構お楽しみの勝負だった。ましてやこれは、次の天皇を相撲できめようというのだから、大向うが悦ばないはずはない。もちろん、話の真偽のほどは保証の限りではないが、ともかくそれぞれの姻戚関係にあるものが真剣になったのはもとより、興味本位で見守る者にとっては、公家から一般庶民にいたるまで、これはまたとない大取組であった。  さてこの大取組、選手がまず対照的で、見物をうならせた。惟喬親王側は、外祖父の紀名虎が自分からその役を買ってでた。一方、惟仁親王側はと見ると、伴善男がわれに勝算ありと名のりでた。名虎は七尺豊かな大丈夫、筋肉隆々とした男ざかりの三十四歳、力は六十人力だという。善男はというと若年二十一歳のやさ男。はじめから勝負あったも同じと思われた。  こうなると人界の争いにはとどまらない。惟喬方は東寺の真済僧正に勝利の祈願を依頼し、惟仁方は山門の恵亮和尚に祈祷を委託した。宗門を巻きこんでの宗教戦争の様相も呈して来た。  両者「えい、えい」の掛声と共に、いきなり四つ手に組んだが、ともに嫌ってさっとさしほどく。今度は名虎が善男を小脇にさし挟んだと見るや、高々とさし上げて、「やっ」とばかり一丈近くも投げ飛ばした。惟仁側はあわやと思わず目をつぶった、その瞬間、善男は投げ飛ばされたその場所に、すっくと立っている。二度三度投げつけられても、くるりとからだをかえしてぴたりと立つ。勝負は長期戦となった。名虎は松のごとく微動だにせず、善男は藤のようにまつわりついて、勝敗がつかない。  一方、宗門の争いはと言うと、惟喬側は東寺に、 「まず勝ちは大丈夫と思いますが、何しろ勝負のことですから、万一をおもんぱかって祈祷を更にお願いします」 と使者をたてた。これに対して惟仁側はそれどころでない。 「いや、もう、何とも、見ていられません。何としてでもお力をお貸し下さい」 と、次から次へと使者が山門に駆け込む。  恵亮和尚はこの争いに敗れたら末代までも山門の恥になると、いよいよ最後の手段として、秘法中の秘法を行なった。すなわち、己れの頭を独鈷《とつこ》で突きやぶり脳髄をとりだしてこれを護摩の火にくべるという秘法だ。祭壇を設けた密室には黒煙がもうもうと立ちのぼる。その中にすっくと立った恵亮和尚は、 「この勝負、なにとぞ善男を勝たせたまえ」 と身をよじって祈った。  すると、大威徳明王が、突如牡牛となって現われた。そして祭壇を三めぐりしたかと思うと、「もう」と大声に鳴いた。  こちらは内裏の勝負の場所に、どこからともなく牛の声が響いて来た。そしてそれが名虎の耳にはいったとたんに、名虎は力がすうっと抜けて、へなへなとよろめいた。善男はえたりやおうと、その機をはずさず、やっとばかりに投げ飛ばした。名虎は空をきって、地べたに打ちつけられ、血へどを吐いて絶命した。東寺では、名虎敗北の知らせを聞くや、真済僧正は「ううううう」とうなり声のみ残して、その場で憤死してしまった。  かくて、第二皇子の惟仁親王が兄皇子を乗り越えて皇太子におなりになり、即位して清和天皇と申し上げる。兄君の惟喬親王は出家されて、叡山の麓の小野に隠棲されたのであった。 [#地付き]——『源平盛衰記』      *  惟喬・惟仁位争いの物語は、全く眉唾ものなのだが、どうしてそんな話が生まれ、まことしやかに伝えられたのか、ということの方に興味がある。  大小・強弱の対立が相撲という形で現われて、そして、小・弱が勝つというのは、日本人好みの話の型である。もちろんそれを、被支配階級の反抗、勝利などに結びつけるほど、解明は簡単ではない。 [#改ページ]   � 口なおし [#改ページ]   ままならぬ心  悪七兵衛景清は、両眼ともに盲目となり、日向勾当と名告って、九州宮崎の地に、その老残の身を送ったと伝えられている。  この景清が盲目となったのについては、近松門左衛門は『出世景清』に、次のようにそのいきさつを伝えている。  景清は生涯、源頼朝を仇とねらったのだが、遂にその望みを果すことができず、到頭捕えられて、獄につながれ、佐々木四郎高綱の手によって、首をはねられた。ところが、獄門にまでかけられたはずの景清が、まだ獄中で健在であるという情報が、畠山重忠によってもたらされ、頼朝公じきじきの検分ということになった。  ところが、獄門にかけられた首を検分すると、首はたちまちに光明を放ち、千手観音の御首と変じた。これはと一同驚くところへ、清水寺の大衆の注進によって、それが清水寺の御本尊の首ということが明らかになった。  そこで、頼朝は清水寺の観音の供養を行ない、希代の勇者ということで、景清の生命を助けることにした。 「もし、ふたたび景清を討ったのでは、観音の御首をふたたび討つことになる。汝はこの頼朝の生命をねらってきたが、もし今後、自分が汝に討たれることがあったら、それはこの頼朝が観世音の御手にかかったのだと考えよう。汝が生命は助けよう。日向の国の宮崎の庄を宛て、そこにて安穏に暮らすように」  景清は大いに感動して、涙をはらはらと流し、 「これほどの情ある君とも知らず、ひたすら平家一門の恨みと、つけねらったことが、今さら恥ずかしい」 と、男泣きに泣いた。  さて、宴会となり、景清は、一座の人々に勧められるままに、往にし八島の合戦の折の、三保谷とのしころびきの顛末を座興に物語った。三保谷の兜のしころに手をかけた景清と、たがいに引き合ううちに、しころがぷっつりと切れた、という、首の強さ、腕の強さの物語で、頼朝公以下、並みいる諸大名も、大いに興に入った。  宴果てて、頼朝公が座を立って行こうとした時であった。その後姿をつくづくと見ていた景清は、矢庭に腰の刀を抜いて、頼朝に真一文字にとびかかった。並みいる諸士はこれはと驚き、刀のつかに手をかけて、取り囲むと、景清はとびすさって刀を投げ捨て、身をなげうって、落涙した。 「あさましいことだ。どうか、かたがたもお聞き下さい。このような、有難い御恩賞を受けながら、凡夫の身の悲しさに、君の後姿を見ているうちに、たちまちに昔に返る恨みの一念が、むらむらと起って、思わず知らず、面目ないことを致してしまいました。まことにあさましいは人間の心。自分で自分の心がままにならないことでござった。これからも、自分で自分の心をいくら固く戒めても、君の御姿を拝するごとに、今のような心が起らないとは、われながらわかりません。それでは、今日の君のお情が、かえってあだともなりましょう。君の御姿を、今後一切見ることがないように……」 と、景清は脇差しをひき抜くと、いきなり、われとわが両眼を、えぐりだしてしまった。  頼朝は感に堪えかね、まことに前代未聞の侍よと、数々の恩賞を賜わったという。      *  この作は、近松がまだ三十四歳の頃の作であって、古浄瑠璃風な荒唐無稽なところがあるが、人間の心の起伏の、自分でどうにもならないという一面の真理を、たくみに筋の進行の上に生かしてきている。実際にこういうことがあったのかどうかは、もちろんここでは、問うところではない。頼朝に対する恩義を感ずる心もいつわりではなく、また、とっさに刀を抜いてとびかかる気持になるのも、うそではない。それが、人間の心のわびしさでもある。  こういう心の動きこそ、人間の弱さとでも言うのだろうか。先輩芸能である狂言にも、そういう心の、真反対に揺れ動くことを仕組んだものがある。『月見座頭』がそれである。      *  中秋の名月の夜、目の不自由な座頭が、野辺に出て、見ることの叶わぬ月のもとで、千草にすだく虫の音に耳をすましていると、一人の男が通りかかる。  この男、なかなか明るい、こだわりのない性質で、持参した酒を提供して、二人で楽しく飲んで時をすごす。和歌の話、あるいは小舞いに興じ、謡をうたう。しかしやがて興ある時が過ぎて、二人は名残りを惜しみながら、それぞれ別れて家路につく。  と、男の心に急に変化がおこる。名月の一夜を、あたら目の見えぬ者とすごしたということが残念だったというのか、動機は何も書いてない。突然、作り声をして、さっきの男とは別人であることを装って、座頭に喧嘩をしかけ、突き倒して立ち去ってゆく。誰ともわからぬ座頭は、最前の情の厚い人と、今の非道な男と、世にはさまざまな者がいるものだと、さびしく立ち戻る。  この男の心に、真反対の心が働くところ、作者はなまじ説明を加えてないので、かえって、人の心の起伏の、予測のできぬことを描いて、深い余韻を残している。誰にもこの二つの心が介在しているはずである。 [#改ページ]   堂々たる裏切り  南朝の後醍醐天皇の元弘三年(一三三三)は、北朝光厳帝の正慶二年にあたる。この年、後醍醐帝からひそかに綸旨を受けた新田義貞は、舎弟の脇屋義助とともに北条高時を討つための義兵を挙げる決意をする。  はじめ群馬県の新田郡を打ち出たときには、わずか百五十騎の勢にすぎなかったのに、夕刻、利根川を渡って馳せ参じた越後の一族等二千騎、甲斐、信濃の源氏五千騎など、続々と来たり会して大軍となった。  これにたいして鎌倉がたの反応はにぶかった。絶対多数をほこる北条政権を打倒できる勢力が、当時の日本にあるはずがない。武蔵の国の奥のほうから、いったいだれが打って出たというのか。これを蟷螂《かまきり》(カマキリ)の斧《おの》という。時世の移り変りを認識しない徒には、この種の感想が比較的多い。鎌倉がたはこのとき北条時政七世の孫、桜田貞国を将としてその勢六万余騎をもって、いまの埼玉県入間川へ向けて迎撃の軍を進発せしめた。だがすでにして新田勢は、現在の所沢市東部の平原、小手指が原に二十万七千という大軍を集結しつつあったのである。  戦闘は明らかに新田軍に有利に展開した。打ち負けた鎌倉軍は南多摩の分倍河原《ぶばいがわら》に退却し、ここで陣容の立て直しをはかる。いま、国鉄南武線の同名駅の周辺である。自軍敗戦の報に接した北条高時は、ただちに大軍を分倍河原に急送して、こんどは逆に義貞の軍を打ち破り、新田勢は堀金《ほりかね》(現在の狭山市堀兼)まで退却した。鎌倉軍は、ここで急追をかけるべきであった。長途の行軍と敗戦による新田軍の疲弊は甚しく、ここで追撃を受けていたら、おそらくひとたまりもなかったろう。幸運は新田軍に味方した。その日(同年五月十五日)の夜に、相模の国の三浦一族が六千余騎で新田軍に合流したのである。翌十六日の午前四時、再度分倍河原に決戦の幕は切っておとされる。まさか相模の三浦勢が新田軍に合流したとは知らない鎌倉軍は、てっきり自軍に味方するために近付いたのだと錯覚し、これがため散々に打ち破られて一挙に鎌倉まで引き退く羽目となる。いよいよ、新田義貞の鎌倉攻めの開始である。      *  鎌倉へ殺到した新田軍は、先鋒が極楽寺の切通《きりどお》しを破り、片瀬、腰越をさして追撃戦を展開した。いっぽう、義貞ひきいる本隊は逞兵《ていへい》二万余騎をもって、稲村が崎の砂浜を廻り、極楽寺坂ヘ一挙になだれこもうとして、二十一日の夜半に海岸に到着する。みれば波うち際には逆木《さかもぎ》を引きかけ、沖には大船を並べ矢倉をつくり、新田軍が砂浜を通れば横矢をかけて逆襲しようという陣形をとっていた。これではどうにもならない。無理をすればみすみす犠牲をふやすだけである。ここで義貞は後世の歴史にのこる名演技をやってのける。かれは馬から下り、甲《かぶと》を脱いで海上を伏し拝んだ。そして龍神にむかって祈誓する。 「仰ぎ願くは、臣が忠義をかんがみて、潮《うしお》を万里の外に退けて、道を三軍の陣に開かしめ給え」 と。黄金作りの太刀ひとふりを義貞は海中に投じたのである。その夜、月の入りがたに稲村が崎は二十余町にわたって海水が干上った。新田軍の前面に、平らな砂浜がひろびろと展開したのだ。横矢を射ようとかまえていた多くの兵船も、干潮につれて沖あいはるかに引き退いた。義貞は言った。 「是こそ古今の奇瑞に相似たり。進めや進め、つわものども!」  義貞幕下の武将、越後、上野、武蔵、相模の軍勢などはこの下知にふるい立った。稲村が崎の遠干潟をま一文字に突っ走り、鎌倉市内に乱入したのである。海水の干満をたくみに利用した義貞の作戦である。人心をとらえるみごとな演出であった。      *  ここに北条がたの武将で、曾我一族の流れをひく嶋津四郎という一人当千のつわものがいた。かれは相模入道北条高時の館を守護して鎌倉をかためていたが、浜辺の手勢が敗れ、敵兵すでに若宮小路(鎌倉の中央通り)に迫るという報が入るや、高時の命をうけ、防戦の将として前線に出馬することとなった。  高時は嶋津に酒をすすめ、名馬白浪を与え激励した。由比が浜の浦風に小旗の笠印をひるがえし、武具をきらめかした馬上の姿を、まことにあっぱれつわものよと歎ぜぬ人はなかったという。新田軍も嶋津の出撃にいろめき立った。名だたる源氏の悪武者は我こそ先に嶋津と組もうとし、馬を進めて嶋津に近づいた。両軍名誉の大力が他人をまじえず一騎打ちする。敵も味方も固唾《かたず》をのんでことの成り行きを見守った。  ところがである。源氏の武将に近づいた嶋津は、急に馬から飛んで下り、路上に正座して甲を脱ぎ、はいていた太刀をはずして膝の前に置き、さて静かに身なりを正した。北条方屈指の勇将が、戦わずして無抵抗のその身を敵前に置いたのである。嶋津四郎はこうして恥知らずにもおめおめと降参して新田勢に加わってしまったのである。この思いがけない嶋津の寝返りはすぐに北条がた全軍の士気に影響した。新田軍への降人は引きも切らず、北条軍はかくして滅亡へとむかうのである。  考えられないような裏切り行為は、こうして衆人環視のなかで堂々と敢行されたのであった。 [#地付き]——『太平記』 [#改ページ]   寝返りの理由《わけ》  戦国の世というものは、人心の向背つねならず、ふとした間隙をついて、弱者が強者の寝首を掻くといった例が多かった。そうしたばあい、よくいわれるのは、女の色香に迷って状況を見失い、むざむざ敵におくれをとるという愚将の所行についてである。南北朝の時代にも、忠臣蔵で名高い高師直のように、塩冶判官高貞の愛妻に恋慕して、無理無道に高貞を隠謀の罪で討ちはたし、その悪行によって後に誅されて終る例もある。この師直は勇将というより謀将で、あの時代が生んだ悪の一典型ともいえるのだが、その高師直の、いとこにあたる武将に高土佐守師秋という男がいて、これがまたいっぷう変った悪ものであった。この土佐守師秋は、じぶんの女を寝取られて、その腹いせに、あいての男を敵方に寝返らせ、折角の戦局を味方に不利な状況に追いやったのである。      *  南北朝の争乱も、あの楠正成や新田義貞が壮烈な戦死をとげ、後醍醐天皇方のその他の諸将、すべて追われて、大勢は足利がたに有利に展開しはじめたころであった。戦況はすでに南朝がたによるゲリラ戦の様相を呈し、大規模な作戦行動がみられなくなった暦応(延元)年間(一三三八—四一)のころとご想像いただきたい。  あるとき、四国の伊予の国から吉野の南朝がたへ特別派遣の急使が、敵の包囲をかいくぐって到着した。伊予一国をあげて南朝のために忠義のいくさをしたいから、しかるべき大将を一人さし下し給え、というのである。南朝がたは、脇屋義助をただちに派遣しようとした。そのときである。いままで足利がたに忠勤をぬきんでていた備前の国の佐々木|飽浦《あくら》三郎左衛門尉信胤という武将が、なぜか急に小豆島に上陸作戦を敢行し、これを制圧、南朝がたに寝返るという事件がおこった。佐々木のほうからも、「急ギ近日、大将御下向アルベシ」(大将を派遣してくれ)という急報が届いた。南朝がたは大よろこびであった。  この佐々木、建武の乱の初頭には、細川定禅に助力して足利将軍に忠功をたてた人物だから、武士の恩義を忘れて恨みをいだくことなどないはずなのに、どうして急に戦局不利な南朝がたに味方したのだろう。以下、南北朝の戦乱の様相をはなれて、ここでは右の事情を報告することにする。      *  当時京都の西園寺流今出河兼季の子の、菊亭殿とよばれた実尹の邸に、お妻《さい》という名の色めいた女房がいた。この女まことに美貌で色気たっぷりだったが、たいへんな好きもので淫乱このうえもない。そのころ彼女は、前述の高土佐守師秋にあい馴れて、宮仕えもろくにせずに土佐守と遊んでばかりいた。  土佐守には、鎌倉にのこしてきた本妻があった。本妻は関東生まれの田舎女で、そのうえひどいやきもち焼きで、さらに女にしてはもったいないほど猛々しいこころの持ち主だった。「わわしい女」という種である。  折から土佐守は、伊勢の国の守護に任命され京都をはなれることになった。かれはこのとき、この鎌倉の本妻と、菊亭殿のお妻という京女との両名を、ふたりともに連れて伊勢へ下向したいと考える。そこでまず鎌倉のほうの、うるさい女をさきに伊勢へ下した。それから土佐守はお妻を伴おうとしたのだが、この京女、ああだこうだと言いつくろいなかなか下向しようとしない。三日間、土佐守は待つ。そして強行手段に出る。      *  意を決した土佐守は夜半になって一張の輿《こし》を菊亭殿に横づけにし、強奪にちかいやりかたでお妻をまんまと手に入れる。かれはうれしかった。夜をこめて逢坂の関をこえ大津から瀬田の橋へ出、衣手《ころもで》の田上《たながみ》川あたりにさしかかったころに夜が明ける。土佐守の得意、いかばかりであったろう。  折しも比良の連峯から吹きおろす朝風ははげしく、恋びとの乗っている乗物の簾を巻きあげた。簾の下から女は衣の裾を少し出していた。これを出衣《いだしぎぬ》という。土佐守は、その出衣の奥をちょっとのぞいた。それから呆然となった。輿のなかには、年のほど八十ばかりの古尼が、額に皺を無数にきざみ、口にひとつも歯のない顔をこわばらせ、腰を二重にまげて乗っていたのである。 「狸が化けた、古狐が化けた。魔よけの弓で射てしまえ」  土佐守はびっくりしてこう叫んだが、この尼さん、泣きながら必死で陳述したところによると、尼はお妻にだまされて、一緒に田舎へ行こうと誘われ、迎えの輿がくるから待っているようにと言われて、このように身代りにされたのだった。  モトヨリ思慮ナキ土佐守、と原文は伝えるが、かれはかんかんになって怒った。再度京へ引き返したが、そのころにはもうどこにもお妻の姿はない。菊亭殿へ押入って、ようやく探しあてたお妻づきの女《め》の童《わらわ》を責め問うと、 「あの方はいろいろな男とお逢いでしたから、どこのだれとはっきりは判りません。ですがこのごろ、とくに佐々木三郎左衛門とかいう方とわけてお仲もよく、人目もはばからぬほどでした」 という。つまり土佐守など問題にされてなかったのである。腹にすえかねた土佐守は、即刻、佐々木の宿所へ攻め入ろうと計画をねりはじめる。急報は佐々木の許《もと》へ飛んだ。  自分自身から出た災難をのがれるすべはない。かくて佐々木は多年の忠功を捨てて、南朝がたへ寝返ったというのである。なんともあきれたことどもだ、と原文は結んでいる。 [#地付き]——『太平記』 [#改ページ]   自殺既遂者の弁  その頃、蓮華城という名の、人に知られた聖があった。前に登場して貰った登蓮法師という人は、この聖とは知り合いの仲で、何かにつけて心にかけて、親しい付き合いを続けていた。  そういう付き合いの何年かが過ぎたとき、ある日、聖は登蓮法師に向ってこう言った。 「この頃では、一年一年と、弱くなってまいりますので、死期が近づいていることは、疑いもないことです。このうえは、いまわのきわに、迷いを払って仏を念じ、往生を遂げることが、わたしの最高の願いです。そのためには、わたしの心の澄み切ったときに、みずから水にはいって、この世の命を終ろうと思います」  登蓮法師はこれを聞いてびっくりして、 「とんでもないことです。生きている限りは、たとえ一日でも、念仏を唱えて、その功を積むことこそ、願わしいことでしょう。自分から命を絶つなどということは、おろかな振舞いと言うべきでしょう」 と、ことばを尽していさめたけれども、聖の決心は堅く、一向に、法師の言うことに耳をかそうとはしない。法師もあきらめて、 「それ程までに思い込んでいるのでは、とうていわたしでは力が及ばないことです。では、あなたの望みに任せるより、致し方ありますまい」  こう言って、登蓮法師は聖に力を合せて、入水の折の準備にかかり、かくかくの次第だと、世間にも披露した。  さていよいよその日、聖は水にはいって、桂川の深みに進み、念仏を高らかに唱え、やがて、水の底に沈んで行った。  聖入水のことを聞いた人々は、その日は川のほとりに市のごとくに群れて、その趣を見て、尊み、かつ悲しんだ。登蓮法師も、長い間の付き合いを振り返りつつ、涙をおさえて、帰って来た。  さて、その後、日が経つうちに、登蓮法師は何となく身体の不調を覚え、それが、もののけに取り憑かれたような具合であった。周りの人達も不審に思って、念入りに祈祷などしたところが、取り憑いたもののけが、憑坐《よりまし》に移って、 「蓮華城なるぞ」 と名告った。入水したあの聖が、なんの恨みか、法師に取り憑いたのであった。 「蓮華城の怨霊とは、ほんとうのこととも思われない。長い間親しく付き合って、その入水に及ぶまで、わたしが恨まれる覚えは全くない。まして、この目ではっきり見届けたが、発心の様子もみごとなことで、尊く、ありがたいことであった。それなのに、いったいどうしたわけで、怨霊などになって、この世に現われるのか」  すると、もののけが言った。 「まさにそのことだ。わたしの入水のことを、あなたはたびたび思いとどまるようにと言ってくれたが、親しい付き合いだったあなたが、どうしてわたしの気持がわからないのかと思い、わたしはわたしの思いを遂げて、入水してしまった。人に勧められてしたことでもなかったから、当然、現世に何の思い残すこともなく、ひたすら正念を得て往生を遂げられると思っていたところ、いかなる天魔の仕わざと言ったらいいのか、まさに入水しようとしたときに、ふっと、自分から死んでいくことに、影がさして、命が惜しいと思う心が急にきざしたのだ。しかし、川のほとりに市をなして、わたしの入水を見守っている大勢の人達の目の前で、自分から思いとどまって、入水をやめるなどというわけにはいかない。あれ程、思いとどまるようにと言ったあなたが、今こそもう一度、やめろと言ってくれと、そういう思いをこめて、あなたの目を見たのだが、目と目とが見合いながら、あなたは知らん顔をして、とめるどころか、『さあ、早く、入水せられよ』などと、せきたてて、とうとうわたしを沈めてしまった。そのときの恨めしさに、極楽往生を遂げるどころか、迷いの道に踏みこんでしまって、苦しんでいる。思えばこれも、自分のおろかなることから起ったことで、誰を恨もうようもないことだが、いまわのきわに、くちおしいと思った一念を知らせようと、こうして、現われて来たのだ」 と言った。長明の『発心集』は、こう書いて、なくもがなの後日譚も、教訓も記していない。 [#改ページ]   一 言 多 い  七五三のお宮参りの、着飾った少女に行き逢った人が、その母親に言った。 「まあ、なんてかわいらしい。いいおべべを着て。ほんとに馬子にも衣裳でございますわねえ」  とかく女性は一言多い。  ある大学の助教授夫人、夫をさしおいて取りしきるので、それが夫の教授昇進にも何となく障害になっているという噂だったが、ある時、教授から、今日学校の帰りに、自宅へ寄って貰えまいかという電話だった。生憎、本人は出かけていたので、夫人が早速に出先に電話をかけた。本人が教授へかければいいものを、夫人が折り返し連絡して来た。 「文部省の委員会が四時近くまでかかりますので、お宅には四時半頃になるそうでございます。宅はほんとに気がききませんで。そんな時分どきに伺いますなんて」  これでは始めから、夕食のふるまいをあてにしていることになる。  この助教授夫人、夫の同僚の長男の名が、教授につけて貰った名だと聞いて、御本人に向って言った。 「まあ。ですからあたし、うちの子の名前は、先生にはお願いしなかったんでございますよ。だって、おことわりできませんものねえ」      *  もっとも、一言多いのは、何も女とばかりは限らない。ある人、自宅がぼやをだして、二階の書斎が焼けたとき、早速にかけつけてくれた友人の手をとって、泣かんばかりの感謝の表明であった。 「ありがとう、ありがとう。今度、君のうちが焼けたら、ぼく、すぐ行くよ」      *  こういう男が昔もいた。  源頼光の家に客人が大勢集まって、酒を飲み遊んでいた時に、弟の頼信も同席していた。頼光の郎等で平貞道という者が、接待役で酒を注ぎまわっていると、頼信が他の客にも聞えるような大声で、貞道を名指し、 「駿河国の何某という者は、この頼信に無礼をなした者だ。しゃつの首を取って、俺にくれ」 と言った。貞道は心中、「自分がお仕えしているのはこの家の主人、頼光様だ。頼信様はその御舎弟で主人筋にはあたるが、直接お仕えしているわけではない。こんな命令は頼信様直属の家来に申しつけるべきである。また、兄の郎等だという心やすだてに言われるのならば、そっと傍に呼んで耳うちされればいいものを、たかだか首一つぐらいのことに、声高に言われるなど、どうも正常じゃない」と思ったから、はかばかしい答えもしなかった。  その後、三カ月ほども経った頃、貞道は用事があって、東国に赴いた。その頃には、頼信のことばなど、すっかり忘れていた。ところが下向していく途中、あの頼信が首を所望した男に行きあったのである。すれ違って気がついて馬を引き返し、なごやかにことばを交し、さて別れる間際になって、その男が、 「頼信殿が貴殿にお言いつけになった件、存じてますよ」 と言った。貞道はその一言ではっと思い出した。それで、 「いや、そう言えばそんなこともありました。だがわたしは頼光様に仕える身で、頼信様の家来でもなし、それに大勢の方々の中でのおことば。突如のお言いつけで、理由もないことと思い、そのまま聞き流してしまいましたよ」 と笑って言うと、その男、 「京からそんな噂が聞えて来て、貴殿がわたしの首をうつおつもりかと、今すれ違った時は、胸がどきどきいたしました。だが、理屈にあわないとご判断なさったのはよろしゅうございました。いやはやお互いに無事でなによりです。じゃが、もし貴殿が頼信殿のことばを真に受けて、拒みがたいと思われたとしても、手前どもほどの者をそうやすやすと討ち果すことは……」 など片頬に笑みなど浮べて言ったから、貞道は、「普通ならこんな場合『手前の方もそんな風には思っておりませんでした』とか、もし勘気に触れた節が思いあたるなら『御勘当をこうむることがございましたら、それは慎まねばなりませんが、それほどのことではないと承りまして安堵いたしました』とぐらい言うべきなのに。何と生意気な口のききようだ」と思っているうちに、「こんな奴、どうせなら首を取って頼信様に差し上げよう」と思う心がだんだんふくらんで、ことば少なになって、「ふむ、ふむ。その通りですな」など呟いて、別れた。行き過させておいて、貞道は郎等どもに心中を打ち明け、武装をきっとし、取り返して、その男の一群に、わっと、押しかかった。その男、口では、 「思っていた通りだ」 などと言ったが、ことばとは裏腹に、油断しきっていて、何の用意もなかったから、たちまちのうちに首をはねられた。  貞道が頼信にその首を献上すると、頼信は大いに喜んで、駿馬に鞍を置いて貞道に与えた。貞道は後になって語ったという。 「何でもなく行き過ぎるはずの奴が、一言多かったために、首をはねられることになったよ。だが、頼信様が無礼な奴といわれたのは理由があったことで、そこまでお見通しだったのかもしれない」 [#地付き]——『今昔物語』 [#地付き]〈了〉 [#改ページ]   あ と が き  日本の古典の中から、思いつくままに、あれこれ、行きあたりばったりに拾い出したものを、およその類別を試みて排列してみたのが本書である。だから始めもなく終りもなく、どこから読んでいただいても結構である。  素材を拾い出してくれたのは、慶応の国文科の同僚の、西村亨・檜谷昭彦・井口樹生の三君であり、本の形に整えてくれたのは、文藝春秋の浅見雅男君である。記して謝意を表する。 [#地付き]池田弥三郎  〈底 本〉文春文庫 昭和五十四年四月二十五日刊