手紙のたのしみ 〈底 本〉文春文庫 昭和五十六年九月二十五日刊  (C) Teiko Ikeda 2001  〈お断り〉  本作品を「文春ウェブ文庫」に収録するにあたり、一部の漢字が簡略体で表記されている場合があります。  また、差別的表現と受け取られかねない表現が使用されている場合もありますが、作品の書かれた当時の事情を考慮し、できる限り原文の通りにしてあります。差別的意図がないことをご理解下さいますようお願い申し上げます。 〈ご注意〉  本作品の全部または一部を著作権者ならびに(株)文藝春秋に無断で複製(コピー)、転載、改ざん、公衆送信(ホームページなどに掲載することを含む)することを禁じます。万一このような行為をすると著作権法違反で処罰されます。    目  次  手紙交遊録   小島政二郎さんと川口松太郎さん   家永三郎君との交流   井筒俊彦君との交際   角川源義君の思い出   伊原宇三郎さんのイラスト付の手紙    ——小またの切れ上った女   富田正文さんの教え    ——勝海舟と福沢諭吉  礼  状   礼状について   小泉信三さんの手紙   厨川文夫さんの手紙   伊原宇三郎さんの礼状   折口信夫の谷崎潤一郎宛礼状  戦中の手紙   三十年戦争   小林多喜二の死    ——志賀直哉の手紙   二・二六事件    ——反乱将校の遺書   軍 事 郵 便    ——一主計将校・安藤 蕃の手紙   大東亜戦争勃発    ——叔父・池田大伍の手紙   出征する子へ    ——小泉信三の手紙   中学生の「戦中」    ——『少年期』より   戦没学生の手紙  感動をさそう手紙   哀 し き 父    五 島 慶 太    福 沢 諭 吉    三遊亭円朝   恋 い ぶ み    手紙における素人玄人    芥川龍之介    谷崎潤一郎    萩原朔太郎   夫と妻との手紙    さまざまなケ─ス    外国から内地の妻ヘ     ——二葉亭四迷    戦地から銃後の妻ヘ     ——森外    獄中獄外の夫と妻     ——宮本顕治と百合子    離 縁 状    去り、去られた夫と妻     ——永井荷風と妻・八重   悲しい知らせ    留学中の弟子への手紙     ——寺田寅彦    妻、母を失った父子のやり取り     ——岡本一平、太郎   エピローグ     ——夏目漱石の手紙   あ と が き      章、節名をクリックするとその文章が表示されます。 [#改ページ]    手紙のたのしみ [#改ページ]      手紙交遊録

   
小島政二郎さんと川口松太郎さん  わたしなどが、敬愛の念を持っていたり、親近感を持っていたりする先輩から、手紙をいただくという場合は、たいていは、わたしが|先様《さきさま》の御迷惑も考えずに、自著をお送りした場合のお礼状としていただくことが多い。そういう性質のものだから、それらの手紙は何と言っても心のかまえ方が多少ともよそ行きであることは免れない。  そういう先輩の中でも、小島政二郎さんと川口松太郎さんとからいただいたお手紙は、「礼状」といったわく組みのそとに出ていて、その点では特に親しみ深く、なつかしい。自著を贈呈するということの前に、親愛感を持った心のかよいがあるからだろう。それを「交遊」などという語で言い表わしては、先様に失礼だが、いいお手紙をいただいては、まいまい恐縮している。  小島さんは三田の大先輩であって、久しく、親しい感じは抱いていたが、かるがるしく近づいていける相手ではなく、遠くから|眺《なが》めている相手であった。親しさを上廻って、かしこまりを覚えさせられてきた。折口|信夫《しのぶ》先生を介したり、久保田万太郎さんが間におられたりして、だいぶ親しくなって、かなり自由に口がきけるようにはなったけれども、それでも小島さんには後輩に甘えきりにはさせないきびしさがある。親しさの|溢《あふ》れたお手紙であっても、そこに後輩に対するいたわり深い、きつい目を、わたしはいつも感じる。そういうお手紙を、すでに十通近くもいただいている。  その中で、一番初めにいただいたものを、一通だけ掲げることを許していただこうと思う。    御本を有難う存じます。いつも読んでからお礼状を書こうと思い、ついお礼の機会を逸してばかりいて恐縮しております。それで今度は頂くと、すぐ書きました。あなた得意の題材ゆえさぞ面白いことと楽しみにしています。    私の本をお買い下さったそうで、申訳なく存じます。どういうものか、私は手のろで、まだもう一冊お送りしなければならない本があるのですが、それも発行所へ行ってサインをするのが遅れているため、お手もとへ差上げられずにいます。近々お届け申し上げます。    お手紙に、西洋ではサイン本を送られると、送られた人は同じ本を買って読むのにはそっちの方を読み、サイン本は書庫にしまって置く風習があるとあったので、なるほどと敬服しました。こんないゝ習慣のあることは初めて知り、大変楽しい思いをしました。 [#地付き]五月九日 小島政二郎     池田弥三郎様 このお手紙で、わたしは「手のろ」という東京語を知った。小島さんは、ことばにはひどくやかましく、気を許してしゃべっていると、  ——あんたなぞが、「わりと」などということばを使ってはいけません。  と、ぴしりとやられてしまう。こわい方だ。それなのに、このお手紙によると、わたしはこの大先輩に知ったかぶりみたいなことを書き記した手紙などを差し上げたらしい。  川口松太郎さんになると、同じ先輩と言っても、親愛感がぐっと気安くなって、兄貴分みたいな感じが強くなる。川口さんもまた、思い立ってすぐ葉書を書く、といったいき方で、小島さんの言われる「手のろ」とは反対である。テレビを見た、ペロペロと相変らず舌を出していたな、というようなことを、じかに、しゃべるような自由さで、葉書をくださったりする。——それなのに不用意なことに、それらの記憶にある葉書の幾葉かが見当らない。それで、ごく最近にいただいたものを二通出さしていただく。   『行くも夢 止まるも夢』読了。いい随筆集だね。三田を去る淋しさ、東京への名残りおしさ、晩年の新生を北国に求めるしみじみとした情感が全篇に流れている。感慨深くよむ。然しあなた(で、いいのかな)が東京にいないのは淋しい。いたところでめったに会えないのだが、いてくれるということ、物の判る人が近くにいると思う安心。そういうものだね。    弥三さん北国 わしゃ芝居町    いろはにほへと ちりぢりに [#地付き]川口松太郎       池田弥三郎様    次ぎ次ぎに本が出て、頂くので弥三さんばかりよんでいるような心持、ありがとう。    ナンウだろうが、ナンゴウ(池田注。白浪五人男の南郷力丸のこと)だろうが、どちらでもよくなってしまったが学者はそういかないのだろうね。どれが良貨で、どれが悪貨か判らない世の中。「舌つづみ」かね「舌づつみ」かね。一億総イナカッペみたい、ほどほどにあきらめますよ。どっかで一度会いたいな。岡田で一杯なぞどうですか。  前者は東京の玉川宛の葉書、後者は富山県魚津市の洗足学園短期大学宛の封書である。  今気がついたのだが、小島さんも川口さんも、ともに久保田万太郎さんとかかわりがあって、わたしに対して親愛感を持ってくださった背景には、久保田さんの存在があったと思うが、またさらに、お二人とも東京者であって、生活気分や感情の点でも、年齢差を除けば、ごく近いところに、お二人がいらっしゃったことになる。  このお二人が、ありがたいことに、わたしの『著作集』の月報に、文章を寄せてくださった。「ありがたいことに」というのは、ただ、おいそがしいのに、というだけのことではなくて、深いところでのわたしへの批評が、その文章のむこうにあることが感じられるのが、「ありがたいこと」なのである。  小島さんは、ほとんどわたしについて語らず、大半をわたしの師、折口信夫について筆を費していられるが、折口信夫、およびそのむこうにいる柳田国男について、その民俗学のわからなさについて、はっきり言っておられる。それもいかにも小島さんらしく、文章表現の|晦渋《かいじゅう》さからくる、民俗学のわからなさを|衝《つ》いておられる。そして文章の最後のほんの四行で、わたしのことに触れ、池田の文章は整然としていて分りいい、と言ってくださっている。そして、「東京人の文章の模範的なもの」とまで言ってくださっている。  そしてこの指摘は、実はわたしにとっては、きつい響きを持っている。柳田・折口の民俗学が、そんなに分りいい文章で書き表わせるのか、ということなのだ。そこに小島さんの鋭敏な受容力と眼力とがあるように思う。わたしは決してこの小島さんの|賞《ほ》めことばにいい気になってなどはいられないのである。 『著作集』に寄せられた文章は、公的な発表ではあるが、実は個人宛の私信に近いものだと思う。とりわけ、川口さんの文章は私信のような親しさに満ちている。しかもやはりその中に、先輩としての苦言が潜んでいる。ことにそれが川口さんの言として発せられると、東京者のわけ知りの兄貴に、痛いところをぴしりと刺されたという気持ちで、やはり「|参入《まい》った」と言うよりほかはない。  月報掲載の文章などは、なかなか人目に触れにくい。手紙のすぐ近くにあるものとして、転載しておきたい。   東京ッ子の文章○小島政二郎   どう云う|訳《わけ》だか分らないが、民俗学の本は私には十分に納得が行かなかった。   柳田国男の最初の本は、河童のことを書いた、四六判の薄い本だったが、どこに狙いがあるのか分らず、十分に納得が行かなかった。「|遠野《とおの》物語」も、人が云う程面白いと思わず、狙いが分らないまま、柳田国男の本は買わなくなった。   折口信夫の国文学の面白さに引かれて、慶応の文学部に来て貰うキッカケを作ったのは私だが、民俗学になると、国文学程面白くなかった。情熱があって、狙いもハッキリしていて面白いのだが、ところ分らないところがあって、困った。   先生とは親しかったので、遠慮なくその話をしたところ、  「それは私が薬を飲んで書くもんですから、飛躍して書き足りないところが生じるのでしょう」   先生は薬の名を云われたのだが、忘れッぽいのでハッキリしない。何とか云う興奮剤だった。つい考えが|先《さき》ッ|走《ぱし》って、文章が追い付かなくなるのだと云っていられた。   歌舞伎芝居——殊に、大阪の俳優について書かれたものなんか、先生独自の見方があって、|贔屓《ひいき》強くって、その役者の個性を把握されている確かさが、我々東京生れの者には掴まえられない、「教えられる」面白さがあって、楽しかった。   雀右衛門を語って、|女形《おやま》論など、先生以外にはあすこまでは云えないところなど、目のナントカを払い落された喜びを感じた。先生の実川延若贔屓はまた格別のもので、書かれたものの外に、先生のお口からいろの話を聞いて楽しかった。   しかし、東京者には延若は余り縁がなかった。と云うのは、余り東京へ来ることが少かったからである。   先生のお蔭で、延若のよさを知り、「よし、見てやろう」と思った時には、もう延若の晩年で、     実川延若、毎日演劇賞をうく   膝なでゝ|余寒《よかん》しづかに老いしとよ 万太郎   見たい時に見ることの出来ない|廻《めぐ》り合わせだった。   兎に角、先生の議論、講義、随筆には、学者なのに、珍らしく貴重な情熱があった。   池田さんのことを書かないうちに、約束の枚数になってしまった。|慌《あわ》てて結論だけ云うと、池田さんの文章は整然としていて、飽くまで東京の人の文章だ。だから、池田さんが書かれると、民俗学の本も分りいい。民俗学の外のことを書いた場合も、分りよくって、つい読まされてしまう。分りにくい文章で悩まされて来た私には、|救《すく》いだった。諸君にも、そう云う恩恵を与えてくれることと思う。東京人の文章の模範的なものとして私は愛読している。   私の大事な弥三さん○川口松太郎   池田弥三郎は天ぷら屋の|伜《せがれ》である。銀座四丁目から数寄屋橋へむかって左側にあった「天金」という看板の大きな店構えが弥三さんの生れた家でその当時の銀座の名物店だった。銀座ばかりでなく明治の東京の名物店だった。大正十二年に私は同じ銀座の新聞社に勤めていて月給日になると天金の天ぷらで飯を食うのが何よりの楽しみであった。天ぷらもうまかったが、|かくや《ヽヽヽ》のお香々の素晴らしさは今でも忘れない。天金についての思い出は多いが、弥三さんがあすこの息子かと思うと他人のような気がしないのだ。それほど親しみの多い店だったし、女傑と噂の女将が弥三さんのお母さんなのだろう。本当の江戸前天ぷらとうまいお香々と偉いお母さんだから弥三さんみたいな立派な人間が出来上ったのだ。   天ぷらと国文学は無縁だなぞという|勿《なか》れ。明治の東京商人がどれほど|暖簾《のれん》を大切にしたか、律|気《 ママ》と誠実と一徹とが明治人間の気骨だった。弥三さんの血の中には東京人の一徹な気骨が根をおろしている。芸術は怠惰の中にも生れるが学問は誠実の外には生れない。折口信夫を師と仰いで、好くも悪くも折口精神の盲目的継承者でもある。盲目的な点は不満なのだが私の色目には藍より出でて藍より青いような気がする。多くの学者は文学を軽蔑し勝ちなのだが弥三さんは文学が判るのだ。文学者は物を知らないと思われているが、学者に較べれば知らないのが当然で、学者は知るための努力、文学者は描くための努力であり、弥三さんはその両方を兼ねる才能を持っている。持ちすぎているために|却《かえ》って損をしている場合も多い。広範な学問と円満な常識と正確な判断力とが諸方面から望まれて引っ張り出されて何々委員何とか理事等々無数の名誉職を押しつけられて時間をムダに使っている。器用貧乏人宝、人が好いからいやといえない。最近の報道では一切の名誉職を辞し晩年の著作に取りかかるとあったので陰ながら喜んでいるのだが是非ともそうして貰いたい。私よりはずっと若いのだし晩年というには早すぎるが、年を取るにつれて一年が短かくなる。うかうかしていると間に合わなくなる。   私が在原業平を書いた時には誰の本よりも池田弥三郎博士の「在原業平」(淡交社版)が一ばん役に立った。業平の解釈が学問的でなく文学的なのだ。伝説中の人物だけに残されているのは歌ばかりで事跡は殆んど想像だ。それだけに弥三さんの文学的考察には同感が深かった。つづいて私は今、後水尾天皇を書いている。天皇の事跡を調べ出した時には天皇の伝記を書いた古い本を送って下すって「参考にせよ」と手紙をくれた。実に親切だ。まだこれからも古代史の中に書きたい材料が多いので池田博士の教示を仰がねばならぬ事も多く私には大事な弥三さんなのだ。   公職を追放して学業一筋に徹する精神は、店の暖簾を大切にした偉いお母さんの江戸っ子気骨に通ずる。母上の霊を安んずるためにも健康を保って国学者の晩節を全うして頂きたい。 [#改ページ]    家永三郎君との交流  雑誌『文藝春秋』の「同級生交歓」に出たことがあった。東京市立一中の同学年生で、わたしを入れて七人であったが、人選など、わたしに荷がおりたので、わたしに親しい人々を選んだ結果になった。その中に家永三郎君がいた。  今、九段高校になっている母校に行って、入口のところに七人が並んで、カメラに収ったのだが、その撮影は昭和四十年一月八日のことだった。中に、当時NHKの国際局長だった館野守男君がいて、彼はいたずらっぽく家永君とわたしとを指して、「おんなじ同級生で、左と右と、こうも離れるものか」などと言った。しかし、中学生時代は館野君のほうがよっぽど左で、家永君は早くから学究タイプの静かな生徒であった。その家永君に、わたしはその時、卒業以来四十年ぶりに会ったわけだった。  わたしはその後「同級生交歓」の説明に「七人の侍」という文章を書き、その中で家永君について、こう書いた。  ……家永三郎君が抜群の秀才であったことはたしかで、一年生の時に、「落花の雪にふみ迷う……」という、太平記の道行の詞章を、「鎌倉にこそ着きにけれ」まで、朗々と暗誦したのには、びっくりした。一見、病弱そうな体躯であったが、しんが強くて、それが今の家永君の、世間での発言にも汲みとれるように思う。市立一中を出てから、家永君に会ったのは、この、写真撮影の時が久しぶりだったのだと思う。もっとも、年賀状の交換や、時に、著書のやりとりぐらいのことはしている。  この年賀状のことで、思い出すことがある。それは、ある年の賀状に、彼は万葉集の中の、山上|憶良《おくら》の歌を一首だけ書いてきたことがあった。大学生時代であった。   世の中を 憂しと|恥《やさ》しと 思へども   飛び立ちかねつ 鳥にしあらねば  この賀状を見た時に、わたしは彼にはかなわないというひけめを改めて感じるとともに、その気持ちが多少の反発となって、しかし「うしとやさしと」と世の中を感じるにしては、まだおたがいに若いではないかと思い、少しペダンティックだなと思った。  ところが、それから一年か二年か|経《た》った頃だったろうか、わたしは本屋で彼の新著を見かけ、早速買い求めて、一気に読んだ。それは弘文堂の教養文庫で、新書判型の一〇〇ページ余りの小著であって、読み通すことはたちまちに読み通したが、何やらガンとなぐられたような気がし、同期の友人が、もう遠くへ行ってしまったように思った。その新刊書は、『日本思想史に於ける否定の論理の発達』(昭和十五年十一月十日発行)であった。そしてその時に、年賀状を思い出し、「うしとやさしと」と世の中を観じていることは、彼にとって、決してペダンティックでもなんでもないことなのだ、とわかりかけたように思った。しかし、どうしてそう思っているのかはまだわたしにはわからなかった。  このことに関連しての、家永君の心境が、というより、その心境の一端が、わたしにわかりかけてきたのは、ずっとあとのことになる。それが次に掲出する、昭和四十七年九月七日付の手紙だ。  この手紙は、わたしが昭和四十七年八月に刊行した『私説折口信夫』(中公新書)の贈呈に対しての礼状であった。そしてこの手紙は、『私説折口信夫』の著者であるわたしに、実に示唆に富む内容のものであったが、それは、文学部国文科に行ったらそこに折口信夫がいた、というような幸福に恵まれたわたしに対して、師というものについての別の苦悩の道を歩いた彼の、貴重な告白にも似たものであって、わたし自身、この手紙を読んで、無反省だったわたしの、師に対する安穏さにあぐらをかいていた自分の好加減さについて、摘発された思いがしたのであった。  わたしがこの自著を、特に「私説」と|名告《なの》ったのは、勝手な、|杜撰《ずさん》な折口信夫伝、などというつもりではもちろんなかった。むしろ「わたしの折口信夫」といったつもりであった。しかし、わたしの身近な者の中にさえ、その真意が|汲《く》み取れずに、わたしの考証が不備だと衝いて、私説と公説とにはだいぶ違いがあるようだ、などと皮肉っている者がいたくらいだったのだが、さすがに家永君はそんな末節の問題としては|捉《とら》えずに、師と弟子、教授と学生という問題として、わたしと折口信夫との仲を考えてくれた。それを示してくれた手紙だったから、わたしには、この手紙が特に印象的だった。そして、この手紙を読んではじめて、大学生時代の彼が、「世の中を憂しと恥しと」という歌に共鳴した心境について、実感的に触れることが出来たのであった。学徒の行く道にも、初手から条件の違いがある。その条件は、常に誰にとっても同じ幸・不幸をもたらすものではない。Aにとっての幸福な条件は、Bにとっては不幸な条件かも知れないのだ。そのことに、今さらのように気付かしてくれた手紙だった。    池田弥三郎様 [#地付き]家永三郎     久しくお目にかかる機会もありませんが、ますます御|筆硯《ひつけん》御多祥大慶至極に存じます。玉稿「私説折口信夫」御恵投にあずかり、ありがたく厚く御礼申しあげます。    私は折口学については到底理解できそうもありませんので、遠くから眺めて来ただけですが、目下東京教育大で柳田国男の総合研究の代表者に祭り上げられております(単にやとわれマダムとしてで私が適任だからではないのですが)故、いずれ研究をまとめねばならず、その点、柳田折口の接点をきめこまかく追っておられる部分は、まことにありがたいおしごととして拝読いたしました。    そして、次に、貴兄がこの人を師として全面的に傾倒しておられる御心情を拝しては、かつて学校で直接教えを受けた恩師の中に、世俗的な意味で多大の「お世話」にはなっても、学問・思想においては常に反逆者としてしか対し得ず、学問・思想の精神を、一度も|謦咳《けいがい》に接したこともない(後年一、二回面会しますが)田辺元、津田左右吉という、母校と縁のない先学から汲みとる外なかった私の経歴に比較し、学窓以来これだけ心服できる良き師をもたれた貴兄と私との、研究者としての幸不幸のへだたりのあまりにも大きいのに、感慨|新《あらた》なものがありました。ただ、そのような経歴の故に、自分が大学の師となってから後も、学生では絶対に「師弟」という関係を以て|相見《あいまみ》えず、弟子一人ももたずさふらふと言った親鸞をまねて(親鸞はそう言いながらも門侶交名に名をつらねる「弟子」をもっていました)、不受不施の原理を以て孤独の道を貫いてきた私には、御高著に現われているような柳田、折口とその門下との関係(柳田折口関係をもちろんふくめて)は、いささか違和感なしには読過できなかったことを率直に告白いたします。師運に恵まれなかった不幸者のひねくれたヤッカミとお聞き下さって結構ですから、お怒りにならぬように。    今一つ、私は、昭和十六年十二月八日、祖国の破滅への道が決定的になったとの絶望感にうちひしがれていたその間もない頃、「日本評論」誌上で「はるかなるかなや 汐路のみんなみに 伴の隼雄は今し戦ふ」という釈迢空の作を見て、歌人一般に対し、深い断絶感を覚えたこと(この歌は、その思想の|如何《いかん》にかかわらず、そのリズムの故に三十年後の今日でも暗記しています)を、これまたかざらずに告白しておきます。    いろいろの意味で、私にはたいへん興深い御著作でした。小生近年心身ともに疲れ、還暦を目前に力すでに尽きた感じですが、ご承知のように、中学時代から病弱だった私が、いくさに死なず、病に死なず、人生五十年を十年も超えて還暦を来年に迎えるまで生きのびただけでも我ながら不思議に思うほどで、「命なりけり」の感を改めて深くしております。     九月七日  家永君も、律義にわたしの贈呈する本に対して礼状をよこされる。それがたとえ葉書一葉であっても、盛り込み切れないような感想と、自身の近況を伝えてきてくれる。次の手紙は、わたしが慶応義塾大学退任にあたって出した『三田育ち』について、送ってくれた手紙だ。そしてここにも、彼自身がみずから語っている彼自身の人生があって、わたしの深い興味を|惹《ひ》く。そして同時に彼は、たくまずして、手紙の書き方も示している。寄贈を受けた本への礼状などは、とかく型にはまった無味乾燥なものになり勝ちだが、それは自分を語らないからなのだ。  同時に、同級生の手紙は|辛《つら》くもある。ともにいつわりなく、とるべき年をとってしまったということだ。   池田弥三郎様 十二月二十三日 [#地付き]家永三郎     著作集が順調に進行しそのたびに一冊ずつ頂戴して貴兄の博学健筆に驚いているとき、御新著「三田育ち」を拝受いたしました。厚く御礼申しあげます。お若い頃(今も私などより精神的にも肉体的にもはるかにお若いのに失礼ですが、相対的に今よりお若いという意味で使いました)からの写真やその頃からの回想は、私の全然知らなかった貴兄の半生をヴィヴィッドに拝見でき、たいへん興深いものがありました。冒頭の御回想を拝読し、私が学生時代から耳にしていた(誰から聞いたか全然記憶がありませんが、一中の同期生であったことだけはまちがいありません)貴兄についての「神話」(神話学や民俗学のいう「神話」ではありません)と「史実」との微妙なズレとある程度の史実性とがはっきりわかりました。その「神話」というのは、「池田君は、はじめから文学部を志望していたのであるが、御両親(あるいは叔父君)が家業をつがせるために経済学部へ入るように求められ、やむなく経済学部へ入学したが、どうしてもそこを出る気になれず、無断で文学部へ移った」というのでした。御高著で御兄さんがおいでで貴兄が家業をおつぎになる必要のなかったことをはじめて知り、「神話」というもののいいかげんなものかが明らかになりました。16ページに国文学科を選んだのは「外国語が出来なかったからほかにいくところがなかったのだ」というのが「半分ぐらいはほんとう」と書かれているのを読み、「おれのことみたいだな」と思いました。私は、学校では英語の成績がわるくはなく、旧制高校で英語の中等学校教員免許状をとったくらいですから、成績はよかったのですが、実用的には全然役に立たない、つまり、外国語の本を一定のスピードで読み通す能力が全然ないので、ほんとうは大学で哲学か倫理学かをやりたかったのですが、消去法で、日本語でやれる学問として国史学科に入学したのでした。旧制高校から東大に入るとき、文学部|でも《ヽヽ》入学試験があったのですが、合格発表のとき、合格していたのを見てガッカリしました。とうとうこんなとこへ入ってしまったのか、と思って。だから、私は学校の恩師には申しわけないのですが、一日も早く「国史学科」から脱出することばかり考えていました。その点、貴兄が折口信夫という「一人の師」にめぐりあい、終生たゆまずその道を追求することとなられたのを、うらやましく思います。私は、そのような「師」にめぐりあえず、学校を出てからは「この道やゆく人なしに」の歎きをいだいて常に孤独の道を歩み、いつも袋小路につきあたっては出たり入ったりし、日本史学プロパーの世界からはみだした隣接領域への縄張り荒しみたいなことを続けて今日にいたりました。    幸なことに過去の事実はすべて「史学」の対象になるので、史学の教師として一昨年東京教育大を定年でやめるまでメシをくってきましたが、そのような私の遍歴と苦悩のあと、——その内容はおそらく貴兄には御興味ないと存じますので、ただその外観だけを御笑覧に供するために、自分一人で作った著作目録——これは、私の退官記念論文集に論文を贈ってくださった方々への謝意を表するために作った自家版です——を同封いたします。    昨年春、中央大学の法学部に拾われて、日本政治思想史を担当することとなり、六五才にしてはじめて念願の「日本史学」を脱出できましたが、別に「政治思想史」が専門というわけではなく、この講義は「政治学科」の専門教育の一つなのですが、私は、法律は少々独学で勉強し関係の著作も何冊か書きましたけれど、政治学というのはいっぺんも教わったこともなく、自分で勉強したこともないので、「政治学科」の教師というのも我ながら妙な気がして、結局私は自分にピッタリの職場を求め得ないままに生涯を終ることになりそうです。    学生のときから一貫して親方日の丸の国立学校の中だけでくらしてきた私は、これまた65才にしてはじめて私立大学の専任となり、しかも文学部のようなコジンマリした学部とちがい法学部というマンモス学部に籍を置き、新しいことをつぎつぎと体験しています。これも一つの勉強と思って、最後の御奉公をしている次第です。御礼の筆がすべりつまらないことを長々と書きつらね失礼いたしました。    年末も迫りました。どうかよい新年をお迎え下さい。 [#改ページ]    井筒俊彦君との交際  井筒俊彦が珍しく随筆を書いて、その中で、師について、朋友について書いた。家永三郎君から|貰《もら》った手紙を中心に、師友について考えさせられたわたしは、どうしても、井筒について書き記しておきたい衝動にかられる。彼とも長い交際であったし、その仲はもちろんこれからも続いていくはずだ。その彼の「朋友論」ははなはだおもしろい上に考えさせられる。  前に挙げた家永君の手紙に、   ……(池田が)国文学科を選んだのは「外国語が出来なかったからほかにいくところがなかったのだ」というのが「半分ぐらいはほんとう」と書かれているのを読み、「おれのことみたいだな」と思いました。  とあった。そして「外国語が出来な」いということを、家永君が「おれのことみたいだな」と同感したというのは、わたしから言えばずいぶん|謙遜《けんそん》なことばで、わたしの場合とは段が違うと思う。しかしわたしが、おれは外国語がだめだと、はやばやとあきらめをつけてしまったのは、そばに、井筒俊彦がいたからだと思う。なんだか、井筒のせいにしてしまうようで、彼には気の毒だが、これも「半分ぐらいはほんとう」なのだから、致し方がない。  井筒の語学はずば抜けていた。しかし彼は人が彼のことを語学の天才だと評すると、それは違うと言った。彼の場合、三十数カ国の言語をマスターしているのは、天才ではなく、努力だと言う。たしかに身近にいて、彼が新しくことばの勉強を始めたのを見ていると、それはまさしく努力そのものであった。——しかしそこに彼のいささかの考え落しもある。努力だけではどうにもならないこともある、ということだ。そして彼はそのことについて身近な友人に対して考えてやるゆとりを持たなかった、とも言えるのだ。自分に対して厳しい努力を|強《し》いた彼は、友人にも、後輩にも、彼等が彼と等しい努力をすることを要求した。もっともこういう弁解は、彼に対して、早くから負け犬となったわたしの、はかない抵抗とも言えるだろう。  その頃、もう二人とも大学の文学部の学生になっていたが、文学部の教室では、「井筒は語学の天才だが、文学はわからない奴だ」などという、言わば|口惜《くや》しまぎれの批評があった。ところが彼は突然、わたしのやっていた同人雑誌に、次の一篇の詩を載せて、文学青年どもを|唖然《あぜん》とさせた。事実みんなびっくりしたのである。——今採録することは井筒をしてひんしゅくさせるかも知れないが、わたしとしては忘れることの出来ないもので、彼にしても、もはや手もとにはないだろうから、掲出しておきたい。それに彼との交際の戦前の記念となるものは、一通の手紙もないのだから。     ぴろそぴあはいこおん      ——philosophia haik——  海は暗くなつてゐた。しとしと時雨の降る日海岸の砂に天井を向いて寝てゐたら、まつ白い土人がそろとはひ寄つて来てこんな事を言つた。私は東へも西へも平気で飛ぶ鳥になつて蝶々の夢が見たいです。昔あなたの国にローシとか言ふ人がゐて、その弟子にバシヨーとか云ふ人がゐましたつけ? 万物は流転して一理ありですか。あなたの国では分らない人が多ぜい居るさうですね。私達は生れるときから知つてます。うかするとイカルスになると云ふことぢあありませんか。海でもだめ、空でもだめ、あゝ! 地平線が恋しい。僕は答へた、あゝ僕も地平線が見える。だけど、僕は海が恋しいんだ。おゝタラツタ。タラツタ。ふと見たら白い土人は何処かへ居なくなつて、大きな ALBATROS ががグル空を旋回してゐた。そしてマラルメの笑ひを笑つてゐた。——(虚実論)—— [#地付き]——『ひと』第六号。昭和十年一月一日——  戦争から帰って来たわたしは、彼の住所を調べて、たよりを送ったらしい。それに対して彼はすぐに返事をくれた。    池田君    久しぶりの御手紙深い感動を以て読みました。君が僕の事を思い出してくれたことや、僕と母にあんなにやさしい同情の言葉を送ってくれたことを心から感謝します、そして君の様な古い友人を六年もの長い危険な時間の後にふたたび無事に僕達のところへ帰らせてくれた運命にも深く感謝しています。    君と最後に逢ったのはたしか銀座辺りの喫茶店だったと記憶していますが、あれからもう六年にもなるとは随分時の経つのも早いものですね。その長い間全然学問から引きはなされ師友とわかれて異国に暮していた君の事を思うとほんとうに気の毒に感じます。しかし文学というものは|畢竟《ひつきよう》リルケも何処かで書いているように感情ではなくして体験であり、僅か十数行の素晴しい詩をつくるために人は二十年も三十年も黙々として時の流れに堪え、種々様々のことを経験せねばならぬとすれば、荒涼たる満洲の原に君が「雲居ぬ地平」に詠んでいるような生活を送った六年の年月は決して無駄ではなかったでしょう(|序《ついで》ながら鳥船に載った「雲居ぬ地平」は君と別れてから僕が接した唯一の君の言葉で、あれを読んだとき、何となく君から突然手紙を貰ったような幻想に襲われたことを今でもよくおぼえています)    たゞ一日怠っても退歩すると言われている学問を六年も中絶され、書物も焼いてしまわれたそうで、今後の君の苦心は並々ならぬものがありましょうが、君の辛抱強い性格は必や障碍を|悉《ことごと》く排除して新しい活路を開かれることゝ信じます。    なお御書面によれば奥さんを貰われた様子でおめでとうと心からお祝いします。    現在私達の家の近所はチブスが|猖獗《しようけつ》を極め、その上私自身も数日前から風邪にやられていますので大変危険ですから、もう少し経ってから是非一度遊びに来て下さい(但し土、日は毎週家に居りません)或は御都合の折、一寸貴宅の略図を書いて送って下されば|序《ついで》の時お寄りします。    まだ書きたい事は一杯ありますが、あんまり慾張らないことにしましょう、ではいずれ拝眉の上にて。    御兄上様奥様によろしく     四月廿日 [#地付き]井筒俊彦      池田弥三郎様  彼は当時、杉並の西荻窪に住んでおり、わたしは京橋区新富町の、焼け残った兄の家に身を寄せていた。六年ぶりの消息であった。間借りの一部屋で、繰り返し繰り返し読んだ。そして、まだ貰ったばかりで、当然井筒を知らず、戦前の友人を知らない家内に、説明しいしい、読んで聞かせた。戦争が終ったのだという実感が、心の底からふつふつとたぎってくることを感じた。  さて、珍しく井筒が随筆を書いた。  雑誌『三田評論』の昭和五十五年一月号から六月号まで、「三田春秋」という欄に、いわば一回読み切りの短い文章だが、それは今や世界的|碩学《せきがく》井筒俊彦の現況、特にその学と人との形成を語って、まことに興味のつきないものであった。残念なことに六回で終ってしまったが、それはあとの手紙の中で井筒自らが語っているところで、編集者の罪ではないが、しかし惜しいことをしたものだ。もう少し編集者に職業意識が|旺盛《おうせい》だったら、そして、もうひと押しふた押しすれば、この文章はもっともっと書き継がれて、貴重な記録となりえたものをと思う。  師友のことについて、井筒はその第五に「正師を求めて」を書き、その第六に「師と朋友」を書いている。そしてこれは、やはりわたしにとって、貴重な記録となっている。わたし自身のことに筆が走っている点は、おもはゆいけれども、学問の道にある者として、その師、その友を考えさせ、身にしみるものがあった。  あとで考え合せると、すでに「三田春秋」の執筆にかかっていた頃、久しぶりに井筒から次の手紙を貰った。わたしが慶応義塾を退任するにあたって、記念に編んだ『三田育ち』贈呈への礼状であるが、おそらく「三田春秋」の執筆、およびその計画を考えていた時期で、わたしとの、昔のことなどを思い出すことが多かったのだろう。    前略  相変らず元気のことと思う。この間慶応のシンポジウムではレセプシオンか何かで逢えるかとひそかに期待していたがまことに残念。   「三田育ち」出版おめでとう。まことに興味|津々《しんしん》面白くて仕事も時間も忘れてしまう。行間に君の面目|躍如《やくじよ》として笑ったり感動したりした。君は素晴しい人間だ——あるいは、素晴しい人間になった。しかもこれからいよ本当の仕事を始めるという意気軒昂たるところが実にいい。だがそれにしても「名士」には名士なりの辛さがあるものだと始めて知った。    私は仕事のつかれを休めるためもあって暮(二十六日)から正月十五日まで京都に遊びに行く。ホテルG(住所……電……)に滞在しているから、もし万一あちらに旅行することでもあったらお寄り下さい。    奥様によろしく、家内からもくれも、と。     十二月廿四日 [#地付き]井筒俊彦      池田弥三郎様 ついでに、「三田春秋」を抜粋しておこう。師友のことについての個所である。   だがそうこうしているうちに予科時代も終わりに近づいた。池田弥三郎が、文学部に折口信夫という|桁《けた》はずれにえらい先生がいるという情報を持って来た。私はもっと前から西脇順三郎先生のことを考えていた。とにかくそっちに行こうというので、池田と私は二人そろって経済を止め、文学部に進んだ。「正師を求める」われわれ二人の、それが運命を決する一歩となったのである。 [#地付き]——「正師を求めて」——  井筒の次の文章は「師と朋友」という題のもので、ことに考えさせられることが多い。しかし、この文章はことに運びが緊密で、さりとて全文掲載もものものしいので、井筒のゆるしを|乞《こ》うて抜粋しておくことにしたい。  井筒の説くところによると、「朋」は同じ|とも《ヽヽ》でも友とは違い、「同類、おもむくところ同じきを云う」ということだ。そして池田とは「朋であることに始まって、友となって現在に至った」というのである。そしてここには、師としての西脇順三郎、友としての池田弥三郎、さらにその池田の、師としての折口信夫との仲が明確に記されている。   学問は自分ひとりでするもの、孤独者の営みでなければならないと私は若い頃から勝手に思いきめていた。それに、とにかく事実上、志を合わせて同じ学問にいそしむ仲間というようなものは、幸か不幸か私のまわりにはついぞ出現したことがなかったのだ。   だがそうかといって、特に人付き合いが悪かったわけではない。仲のいい友達は、その時その時で私にもあった。だから、もし「朋」と「友」とを区別して考えるなら、私には|友《ヽ》はあったが|朋《ヽ》はなかった、ということになるだろう。   こういうと、すぐ頭に浮かぶのは池田弥三郎のことだ。|朋《ヽ》であることに始まって、突然途が二つに分かれ、|友《ヽ》となって現在に至った、というのが彼と私との交わりの経過だからである。経済学部予科の頃から同級で、二人とも将来は文学に行きたいという気持ちでは一致していた。そして二人とも、どういうわけか、哲学がやたらに好きだった。   だが、予科時代が終わる頃には、彼の心は急速に国文学に傾いていたのだった。そして私と一緒に文学部に進んだ彼の目の前には、折口信夫のカリスマ的な姿が立ちはだかっていた。   もともと西脇順三郎先生の斬新な詩論にひかれて文学部に移った私だったが、折口先生にだけは少なからず関心があった。さっそく講義に出てみた。伊勢物語の講読。異常な経験だった。古ぼけた昔のテクストが、新しい光に照らされると、こうまで変貌してしまうものか。私は目をみはった。が、それよりも、どことなく妖気漂う折口信夫という人間そのものに、私は言い知れぬ魅惑と恐怖とを感じていたのだった。危険だ、と私は思った。この「魔法の輪」の中に曳きずりこまれたら、もう二度と出られなくなってしまうぞ、と。はたして弥三郎は、かつてのイケダ哲学なぞどこへやら、手放しで折口国文学の流れの中に身を投じて行った。そしてそういう彼のまわりを、同じ折口|鑽仰《さんぎよう》者の固い|朋《ヽ》構造が、がっしり取りかこんでしまったのである。私にとってそれは近寄りがたい|城砦《じようさい》だった。その中にいる弥三郎は、もう私の|朋《ヽ》ではなかった。|友《ヽ》だった。   私自身の師事した西脇先生は根っからの孤独者だった。折口先生とは正反対で、私の性格にぴったりだったのである。学統も学派もそこにはなかった。|朋《ヽ》構造もなかった。からっとした知的雰囲気の中にとっぷり身をひたして、飄々たる先生の講義を聴いているうちに、広い、無限な学問のひろがりの地平が、孤独者としての私の前にひらけてきた。それが私の学問の将来を完全に決定した。   師と朋友。因縁の糸のしがらみがもたらすこれらの要素によって、若い学者の辿る道がまるで違ってしまう。折口先生の後継者としてすでに功成り名とげた池田弥三郎との四十年の交わりの起伏を憶うたびに、無量の感慨が胸に湧く。  昭和五十五年三月の慶応退任をひかえて、わたしはわたしなりに、半生をふり返ることが多かった。昭和五十四年の秋、『柳田国男と折口信夫』という本を、谷川健一氏との対談で作ることになり、慶応の退任記念ともなり、またわたし個人の新生、再出発にもなるというわけで、夏から、対談のためのメモを作り、三日がかりで対談を行なった。続いて昭和五十五年へかけて、その速記原稿の手入れ、校正と、柳田折口両先生と対座しているような気持ちでいることが多かった。そしてそれは必然的に、家永三郎君の場合、井筒俊彦君の場合と、わたしとの対比にまで、考えさせられることが多かった。本は年末刊行の運びとなったが、やはり現在の心境では、ことに井筒の文章の示唆するところによって、もっと考えを深めなければならないと思っている。  昨年は健康の回復をなんとしても第一に目指さなければならなかったわたしは、夏休みになるとすぐに山ごもりして休養したが、そこから書き送った手紙に、井筒はすぐに次の手紙をくれた。しかし、秋には東京で逢おうと言ってくれたことにも、とうとう応ずることが出来ないままに、昭和五十五年も暮れてしまった。しかし二人の交遊はまだ流れ続いている。交際はうれしいことに、まだ進行中である。    拝復    三田春秋六ヶ月書くので昔のことなどいろ憶い出しているうちに、君と一緒だった頃がむしょうになつかしくなり、つい筆が滑って勝手なことを書いてしまった。失礼の段御|寛恕《かんじよ》乞う。    だが三田評論はもうたくさん。君のように緩急自在、天衣無縫の名文家とは違って、限られた紙数に、コンパクトな内容を入れたいと思うと、おそろしく苦労する。六ヶ月でこりした。    例年の通り八月からヨーロッパに出掛けます。帰国は十月中旬の予定。秋にはぜひ逢って語りたい。    君の手紙を読んで感動した。だが一抹の淋しさみたいなものも心にしのびこんできた。なぜだろう。二人とも年をとったせいなのか。    君の書く文章にしみした深みが出てきたためか。    しかし、君の字には若々しさがある。ます元気で御活躍をいのる。     七月廿日 [#地付き]井筒 拝      池田弥三郎様  おわりに井筒君の簡単な経歴をつけくわえておく。  大正三年東京生れ。昭和十二年慶応義塾大学卒。同二十二年に同大の文学部教授になり現在名誉教授。言語学者として諸国語に精通し、特にアラビア語、アラビア哲学の研究では世界的に有名。著書に「アラビア思想史」「アラビア哲学」などがある。 [#改ページ]    角川源義君の思い出  縁があって富山県の魚津に住むようになってからは、自然と、富山県出身の方々に、注意が向くようになった。その方々のお名前をここに書き記すことは省略するが、角川源義君のことは、やはりこちらに来て、想い出すことが多い。ある日、まだ出来て間もない、水橋の「水橋郷土史料館」を訪れたら、富山県出身の諸名士の写真が飾られ、その紹介が記されていたが、角川君のはその最右翼に掲げられていた。彼は水橋の出身であったから、水橋の郷土史料館には、ことに縁が深い一人だったわけだ。——水橋は今は富山市の中にはいっているが、ここが通説では、大正七年の米騒動の発生地ということになっている。別の説では滑川だとも言うが、要するにこの二つの町はごく近く、隣り合っている。——  角川君の生前、何かの折に、一緒に魚津に出来る新設の大学へ行こうよ、などと話し合ったことがある。角川君には春樹・歴彦という、立派な後継者も出来たことだしするから、そろそろ出版事業は息子さん達に任せて、学究の徒としての後半生を送りなさいといったような、余計な指図がましいことを言ったりした。その勧めは、角川君にとって、まんざら突飛なことでもなく、その証拠に、彼は最晩年に、慶応義塾大学の国文科の、大学院の兼任講師を、わたしの要請にまかせて引受けてくれた。不幸にして、天が|齢《よわい》を貸さず、わずかの期間でそれは終ってしまった。それは悔んでも悔み切れないが、また、どうにもならないことであった。  角川君との付き合いを、|遡《さかのぼ》って始めから語るとすれば、長い話になるが、折口信夫先生歿後、必ずしもただちに、わたしと親しくなったわけではない。ことに彼は国学院大学であり、わたしは慶応だったから、同門と言っても、微妙なところで違いがあり、ことに若いうちは、同門ということで、却って反撥し合うこともないではなかった。このことを突き詰めて行くと、国学院に対して、批評がましいことも言わなければならなくなり、それはわたしの望むところではない。わたしがしかしそれを強く感じさせられたのは、わたしの『まれびとの座・折口信夫と私』(昭和三十六年六月、中央公論社刊)に対して、彼が『図書新聞』に寄せた書評(昭和三十六年七月八日)を読んだ時であった。それは部分部分の引用などでは十分でなく、結局全文の通読によって、理解してもらうより仕方がないが、決して全面的には納得もしないし、許容もしないという感情が背後に流れていた。「三田の連中は折口先生にあまやかされている。われわれ国学院の者は、もっときびしい教育を受けたのだ」という気持ちが出ていた。その為に、この批評の文章はやや主観的に流れ、それがわたしにはおもしろかったが、次の一節などはわたしにはかなりコツンと来るものがあった。  この「年譜」(池田注。『まれびとの座』所収の「私製折口信夫年譜」)の筆録は先生が公な聴き手を予想していない私語であるだけに、矛盾だらけな意見になり、誤解を招きやすい個所が少くない。この中で私に関する池田氏の格別なニュアンスをもった記述があるが、書評以外の仕事だから、いずれ御挨拶する。  だいぶ怒りをおさえて、ちょっとすごんでいるのだが、結局この「御挨拶」はなかった。わたしは意地悪だから、いつまでもこの文句を覚えていて、パーティーなどで逢った時に、「御挨拶というのをうけたまわろうじゃねえか」と、わざとでんぽうに言ったりしたが、逢えば彼も気の弱い面があって、ただ「いやあ」とばつが悪そうに避けてしまった。しかしこれは好加減にしていいことではなく、いつか真面目に対決してみたいと思っていたことだったが、わたしに言わせると、その後彼は社業の隆盛に伴ってめきめき|おとな《ヽヽヽ》になってしまって、彼を怒らしたわたしの文章などについては、取り上げる熱意を失っていってしまったようであった。  同時に、昭和三十年代が過ぎる頃から、彼も多少はわたしの学問なり仕事なりに理解を持って来てくれて、角川書店刊行の『日本文学の歴史』を一緒に企画したり、それについて二人で対談をしたり、あとで思えば晩年の十年間、昭和四十年代は、お互いにこだわりなく付き合う歳月となった。  その頃にもらった彼の手紙が一通、わたしの手もとにある。    呈上   「わが師・わが学」ありがとう存じました。さっそく拝見いたしておりますが、大兄の執念を深く感じました。    以前私などの抱いていた誤解も、恥しい事に思われました。   「神と神を祭る者」いかがでしたか。はじめあんなに書くつもりはなかったのですが、折口学の上で大切な「まれびと神」や「倫理」の問題や歌垣や隼人舞などが脱けているので、補うつもりで書いた部分が生じました。   「和邇氏」は是非御高見を承りたく存じます。学生時代に書いた事がありますが、京大の岸助教授など、和邇氏を問題にしたのは、自分が初めてだと書いていますので、一寸荒魂が発動しました。このために大和、河内、山城、近江とたびしげく旅しました。小林行雄さんの邪馬台国の同笵鏡説からも刺戟をうけて、同笵鏡を多数出土した、山城相楽郡椿井大塚山古墳の主人公がどうしても和邇氏と思われてなりませず、決定的に云い出したところ、小林さんの賛成を得られました。中国製の同笵鏡は不思議に和邇氏の同族関係の古墳から出ている事実と、東海道関東地方に出土するのは、和邇系の日本武尊東征に関係あるように思われました。このAB関係の外はCとして、大和川と木津川、淀川の二水系、さらに瀬戸内海の港々に出土する問題があります。ABが和邇氏であってみれば、Cもまた和邇氏であろうと推定され、卑弥呼に代って魏の国へ朝貢したのは、和邇氏ではないかと最近想像し始めています。和邇氏は水系を握っていた豪族だからですが……一寸問題が大きくなりすぎるので、コワいのですが……    貴方の「かんなび」説を強力に私が支持したいのは、一つは和邇氏にも関係するからです。和邇氏は古墳時代以前から栄えた豪族と思います。春日山の岩倉神を司祭したばかりでなく、各地方の岩倉神をも司祭しています。「かんなび」は明らかに古墳へと影響を与えている筈です。    以前新書で「源義経」を書いたときから、啓蒙的な文章は落第だと自分でもつく判りました。今度の本が売れなければ、私の責任で、今度の仕事に御好意をよせて頂いた大兄や小林さんに誠に申訳なく思います。「和邇」は大兄や小林さんに読んで貰いたいと思ったため、難解な退屈な文章になってしまいました。おゆるし下さい。    しかし、いつか是非御意見を承りとう存じます。楠本君から、五十冊の記念会?があるときき及んでいますが、そうした会がありましたら喜んで、馳せ参じたく思います。なにとぞお忘れなく「お呼び」下さい。近頃流行の「オヨビデナイ」はこまります。    国学院の学生に失望されていられるだろうと、恐れています。これも深くおわびします。 [#地付き]角川源義      池田弥三郎様  角川君は、ふしぎにその手紙に日付を書かない。その上、封筒の消印は例によって不鮮明だから、はっきりした日取りは不明ながら、昭和四十二年五月の頃のものだと思う。それはわたしの『わが師・わが学』が四十二年四月の刊行であって、それを彼に寄贈したことに対する礼状だからである。  その時、すでに彼は文学博士の学位をとり(昭和三十六年)、その和邇氏に関する所説などは、はなはだユニークなものであった。書中、「一寸荒魂が発動し」たなどと書いているところは、まだまだ若々しい情熱が躍動している。同時にそこに自信のほども見られると思う。この年、彼は数え年で五十歳であった。  しかし、彼とは和邇氏の論をかわすことなく終ってしまった。わたしの境遇にも、晩年最後の大きな変動があったことが主な原因で、その結果、否応なしにわたしは学問から遠ざけられてしまったからである。それは、四十二年十月の文学部長就任(内定は七月)であり、それも運悪く、もっとも烈しい大学の騒動の時期で、慶応は四十三年、四十四年と、二年間連続で、いわゆるバリストに学生達が突入した年であったから、わたしは全く書斎とそれに続く学問の世界から引き離されていたのであった。右の手紙の末尾に、彼は「国学院の学生に失望云々」と書いているが、それは、四十二年四月から、わたしが国学院大学の兼任の講師となり、国文科でひとこま持つことになったからなのだが、その就任については、学部長の佐藤謙三教授の強い委嘱に|応《こた》えたわけで、その学部長の背後には、三十九年以来、国学院の兼任講師となっていた彼の|推輓《すいばん》があったものと思う。不幸にして、三田でのわたしの学部長就任が重なり、わたしは佐藤教授や角川君の好意に応えることが出来ず、三年勤めて、国学院をやめさせてもらった。そんな、年譜の表面を辿っても、わたしが当時、学問上のことで、角川君との仲を深めることが出来なかった事情が読みとれると思う。  角川君が、母校国学院大学の文学部の講師となって、学究への道へさらに一歩踏みこんだ昭和三十九年四月、彼の身辺にはもう一つ喜びごとがあった。それは末の娘の真理さんが、慶応義塾中等部に入学したことであった。中等部は、新制中学として発足した当時からわたしが勤めていたところであったが、わたしは昭和二十六年に学部の専任になって以来、OBとして現任者にうっとうしがられることを避けて、故意に近づかないようにしていたので、角川君のところのこの喜びごとも、耳にすることなく過ぎた。そして、突然、その死を告げられた時は、すでに六年の歳月が過ぎ、大学の課程に籍を置いていた時であった。  その不幸なる死については、語るのを遠慮し、従って、次の手紙の掲出も見合せるべきかとも考えたが、すでに生前の彼は、よくその悲しみに堪え、自身筆を執ってもいるので、十分に気持ちの整理もつき、|諦《あきら》めにも達していたと思うので、あえて採録することにした。  その前後の事情については、彼自身の筆になる、井上靖さんの『星の祭』の「解説」が、次の手紙の貴重な解説ともなっているが、その「解説」自身、一読に値する彼の秀作の一つである。    呈上    御手紙拝見いたしました。折角と皆さまから大切に育てて頂いた真理がこんなことになって、申訳なく深くおわびいたします。    中学校へ進むにあたり、鈴木信太郎先生が大へん心配して下さいまして、現佐藤(朔)学長のもとに、娘のことで参上して下さいました。私たちはもとより、当人も合格の見込みないとあきらめていたわけです。なにしろ五十人に一人ということですから、当人も無駄だからと言っていたくらいです。合格の報に私たちは夢のように思ったことでした。合格の上は、諸先生の期待にそむくようなことがあってはならぬと願いつづけておりました。西村(亨)さんも、随分可愛がって下さいました。漸く、大学(法学部)に進んだ直後に、悲劇が生れたわけです。次男が結婚し、コーポラスが六月にならぬと出来あがらぬため、同居しておりますため、当人は随分と気を使い、すっかりくたびれてしまったようです。私たちの部屋に寝させておけば、こんなことにならなかったと今から後悔しても始まりません。    折角、中等部、女子高と御世話になり、お育て願ったのに、申訳なく存じます。本人のためにかけてありました保険、(こんなことになろうとも思わず少額ですが)三百万円ほどあるようです。手続きもこんなことでなか面倒ですが、女子高へ寄附いたす心算でおります。    これからの学費や嫁入り仕度に要する金額から云いますと、問題にもならぬ金額です。女子高新築資金の万分の一にもと思ってのことです。白井浩二(司)校長に御伝言願えれば幸甚です。    女子高卒業のとき、家内が申すには、卒業記念の着物新調に本人は反対し、あんな金があれば女子高へ寄附した方がいいといっていたそうです。保険金の寄附はもとより本人も心から喜ぶことと存じます。    芽出度く慶応を卒業し、花嫁姿で家を出て行く日を夢まぼろしのように思い描いて参りました。(この手紙書いておりましても、涙がとめどなく流れて困っています)    葬式の日にも、初七日の日にも、多くの学友たちが、悼ってくれました。初七日の日は学友たちの花で、真理の遺骨も写真も埋ってしまいました。いい学友たちを、こんなに沢山真理が持っていたのかと驚きもし、これも慶応であったからとつくづく思いを新にしているわけです。    御見舞心からありがたく存じます。 [#地付き]角川源義      池田弥三郎様  この手紙も、角川君は日付を記していないが、消印によって、五月三十一日であったことがわかる。すると、書中の初七日が過ぎて、直後のことで、何やかやと忙しい頃だったと思うが、その|さ《ヽ》中に、彼はこの手紙を書いたわけだ。何度読んでも身に|沁《し》みるものがある。  続いて、ついでにと言っては失礼だが、短いものを添えておく。日付は正確にはわからないが、同年の九月二十日までのものだろう。文中の「批評文」というのは、九月九日に放映されたNHKの「日本史探訪」に対するもので、これは「曾我兄弟」を主題に、二人でしゃべり合ったものだ。  はじめ、NHKからわたしに荷がおりた時、わたしの対談の相手を、係の人は、歴史家の二、三を候補として交渉したのだが、曾我兄弟のような、史料の乏しい、多分に民俗的な人物については、文献史学の人々には敬遠されていると見えて、誰も引受け手がなかった。それでわたしの知恵で、思い切って人選を切り替え、角川君に白羽の矢を立てた。角川君とわたしとでは、日本|史《ヽ》探訪からは少しはずれるかと、係の人は|危惧《きぐ》したが、わたしは押し切った。結果は好評であった。    呈上    先日は失礼いたしました。能登の御旅行いかがでしたか。御留守中に批評文が毎日新聞(九月十一日附朝刊)に出ております。ご覧なさったかと思いますが、もしかと思い同封いたしました。   『箱根町誌』に曾我物語を二〇〇枚書くことにしていますが、子供のことでショックを受け、さっぱりです。家庭人らしくなったので、女房は喜んでいるようですが……    お恥しい話ですが、いっぺんに晩年がやってきた思いがいたします。    晩年を意識した仕事もせねばなるまいなんて、お笑い下さい。    折口全集のノート篇期待しています。 [#地付き]角川源義      池田弥三郎様  このNHKのテレビに出たことが、出版人角川源義君にあるヒントを与え、やがてこの放送が、出版物として再現することになった。今に到るまで延々と続いている角川書店の『日本史探訪』はここから生れた。  当時、角川君は言っていた。  ——近頃は全く、企画の点では伜どもに叶わない。親父の企画はほとんどだめで、伜どもの企画が大いにあたっている。『日本史探訪』は久しぶりの親父の企画の成功で面目をほどこしました。テレビに引張り出したあなたに、あらためて感謝しています。  こういう短い手紙からも、娘を失った父親のその後がのぞき見られて、いたましい思いがするが、同時に、人間としても数歩も深い|処《ところ》に到達したように思う。しかし、これ以後、彼からは手紙を貰うことがなかった。「晩年」の創作・研究に打ち込んで行ったもののようであった。  なお、なじみの薄い読者のために、朝日新聞社刊行の『現代人物事典』の「角川源義」の項を再録させてもらおう。   国文学者、角川書店創立者。一九一七(大正六)年十月九日富山県生まれ。中学二年のとき校友会雑誌に小林一茶の伝記を書き、俳句をつくりはじめた。三七年折口信夫、武田祐吉の学風を慕って国学院大学に入学、柳田国男の民俗学講座にも欠かさず出席した。四一年卒業し教師のかたわら処女作『悲劇文学の発生』を刊行したが、敗戦直後の十一月角川書店を創業、角川文庫を創刊して戦後の文庫本時代の先達となり、さらに『昭和文学全集』で全集ブームの先頭をきって社業の土台をきずいた。一方、六一年には『語り物文芸の発生』で文学博士、六四年国学院大学文学部講師、七五年慶大文学部大学院講師となり、同年国学院大学理事に就任したが、その年の十月二七日に五八歳で死去した。晩年、社業を後継者にゆだね、年来の宿願であった国文学研究の条件がととのったところで死を迎えたのは惜しまれる。著書は句集『ロダンの首』(五六年)、随想集『雉子の声』(七二年度エッセイストクラブ賞)ほか多数。 [#改ページ]    伊原宇三郎さんのイラスト付の手紙     ——小またの切れ上った女  突然、伊原宇三郎さんから、ずしりとしたような感じの、長いお手紙をいただいた。「突然」というのは、その前後、しばらく伊原さんにもお目にかからず、長いお手紙をいただくようなことがらの進行もなかった時期だったからだ。解説はあと廻しにして、まず、その手紙を挙げておこう。     池田弥三郎様 [#地付き]伊原宇三郎    御健祥と存じます。御無沙汰しています。   九月の二日、折口先生の十年祭に一ノ宮へ参りました。或は久しぶりお目にかゝれるかと存じましたが。   読売新聞の「日本語のみだれ」、いつも諸家の御意見を面白く拝見していますが、昨年の貴兄の書かれたものゝ中に一つ、或は御参考になるかも知れんと存ずることがあるので、念の為御知らせいたします。   それは、「小|また《ヽヽ》が切れ上るというが、|こまた《ヽヽヽ》というものはない」意味の御発言について。大分前のことですが、私達のモンパル会という、パリ以来の仲間の会を鎌倉の福島繁太郎君のところで開いた時、ゲストとして小島政二郎氏も見え、雑談の末、小島氏が「長いものに巻かれる、の|長いもの《ヽヽヽヽ》って何だろう」といった種類の疑問を沢山出されました。その時「|こまた《ヽヽヽ》」も出たのですが、久米正雄、宮田重雄といった博識のヴェテランも、誰一人解明出来ず、大笑いでした。その時、久米氏は「歩く時の蹴出しの処の切れ上り」じゃないかと言い、誰かゞ「目尻の線の切れ上り」など言ったことを憶えています。      そのことが頭にあったので、その後何かの用で柳田先生を訪問した時、ついでに御尋ねして見ました。先生の御説明は流石に明快なもので、明瞭に|こまた《ヽヽヽ》は在るのです。それによりますとのようになります。普通の股が大|また《ヽヽ》で、鼠蹊線の作る股が小|また《ヽヽ》となります。その小またが「切れ上った」のは二つの線のなす角が鋭角的に上へ|切れ上り《ヽヽヽヽ》、(2図)、そうでないのは、それが鈍角になります。(3図)   では、何故「切れ上った」のがいゝかというと、切れ上った女の人は必ず床が良く、性愛技巧に優れている。つまり、腰の蝶番機能が|先天的《ヽヽヽ》に優秀で、敏活で、前内へ締める力が強い、のだそうです。これは恐らく数多くの経験の帰納されたことなのでしょう。そう言われてみると、の無器用と鈍感は十分想像されます。   先生の話では、この言葉は「江戸の通人」が始めて使い出したものだそうで、女の品定めをするのに露骨な直接的表現でなく、何とも江戸っ児らしいすっぱりした表現だと感心しました。   その時、一寸不安だったので、「着衣の上からでも判りましょうか」と訊くと、「勿論見えます。歩く時とか、立居の振舞の時に、その動による皺、|襞《ひだ》が明瞭にその角度を示します」とのことでした。   成程、その皺や襞がはっきり見えぬ様な厚着の女は江戸っ児のお眼鏡に叶わなかったことも十分首肯出来ます。   更に類推して、|小また《ヽヽヽ》の切れ上った女、寝ていゝ女は、|所謂《いわゆる》柳腰の痩せ型で、太った女は失格ということも自然に言えると思います。グラマーの流行などなかった江戸時代としては、小|また《ヽヽ》は一つの大きな魅力だったでしょう。   大分前の「芸能」で、奥野信太郎、戸板康二両氏の対談で|花柳《はなやぎ》章太郎評の時、奥野氏が花柳を絶讃し、小またの切れ上った女と評していました。   戸板氏が「小また」って何だろうと質問すると、奥野氏は「小またの小は、|小《ヽ》耳に挟む、|小《ヽ》太り、|小《ヽ》面憎い、(例は違ってるかも知れませんが)などの小で意味はなく、足|捌《さば》きの活々と敏捷……」という風に説明しています。   花柳の女には、随分沢山の褒め言葉を贈ることが出来ますが、私は柳田先生の御話を伺って以来、|小また《ヽヽヽ》の方だけは体質的に失格と見ています。尾上梅幸も同然で、歌右衛門の方が合格。もし花柳が粋で小またの切れ上った感をよく出したら、それは、体つきでなくて、芸の力だと思います。私にはあの太さがその故にいつも邪魔になりますが。   小またのことは、たま機会があって柳田国男先生に訊くことが出来ましたが、折口先生の方は|何《ど》うなのか、これはとう伺うことなしに過ぎました。   或は貴兄の「そんなものは在りはしない」と同じでいらしったものなのか、何うなのでしょうか。   貴兄には御知らせしておく価値がありそうに思えたので、一筆書きました。御自愛祈ります。     十月一日 [#地付き]不一   こういう、詳しい御教示を先輩から与えられることは、全くありがたいことで、ことに第一流の洋画家、伊原宇三郎氏の女体の素描がのせられているのは、まことにもって、貴重なことだと思う。  この手紙の執筆のきっかけになった、読売新聞の連載記事「日本語のみだれ」の中に書いたわたしの文章は、今、切り抜きが見当らず、また、その後の単行本にも収めたかどうか、まるっきり忘れてしまった。しかし幸いなことに、それからまる一年とは遡らない、前の年(昭和三十七年)の十二月十七日の西日本新聞に「こまたの切れあがった女」という題の短い文章を書いたものが残っている(拙著『ふるさと東京』昭和三十八年七月五日刊に収む)。説としては、ほとんど、伊原さんが読まれて、そして執筆のきっかけになったわたしの文章というのと、違わないと思うので、それをまず、転載しておきたいと思う。    こまたの切れあがった女   こまたの切れあがった女、という表現がある。どういう女かというと「せいのすらりとして、こ意気なようすの女」をいうと辞書にある。しかし、それをなぜそういうのかは、よくわからない。いろいろな説があるが、要するに「こまたの切れあがった女」ということばからくる印象を分解して、説明している説にすぎないのが多い。   相撲のほうには「こまたすくい」という手がある。動詞にしてこまたをすくう、ともいい、こまたをとる、ともいう。こまたということばは、この二つの用例しか知らない。相撲の手の場合のこまた、おおまたの違いは|股《また》の部分の名称ではなく、とり方の区別を大小でいっているものらしい。たとえば右手で相手の右股をすくう場合が小、反対に右手で相手の左股をとる場合が大である。ただし、おおまたとはいうが、おおまたすくいということはないらしい。それから想像して、こまたすくいとは、ちょいと股をすくうこと、おおまたをとるとは大きく深くかかえるように股をとる、ということらしい。そしてこういう接頭語はほかにもある。   たとえば、こくびを傾ける、という。このこくびは「小さい首」ではなく首をちょっと傾ける、ということであろう。   こみみにはさむ、こみみに聞いたことばなどというのもそれで、ちょっと耳にした、ということだ。   こびんをきられる。びんをちょっときられる。   こばなをうごめかす。鼻をちょっとうごめかす。   こわきにかかえる。脇にちょっとかかえる。   こごしをかがめる。腰をちょっとかがめる。   もっとも、こての場合は高手小手とそれぞれ部分をいい現わしていて、高手は肩からひじまで、小手はひじから手首までをいっていることははっきりしている。「小手投げ」という相撲の手は、手をとってちょいと投げるというような気分はあるが、やはり相手の小手の部分をとって投げる投げ方だろう。こてにふるなどといういい方もある。  こんな例を並べてみると、こまたが切れあがっている女というのは、こまたがどこかと考えることは無意味であって、股がちょっと切れあがっている女ということなのだろう。そして、股がちょっと切れあがっている女とは、多分、あしが長く、胴がふつうの人にくらべて短いということだろう。つまり、日本人特有の座高の高い、あしの短い、あひるのような感じでない女のことをいったことばだと思う。 [#地付き](三七・一二・一七)  わたしは、「小股」の|こ《ヽ》としてよりも、「切れあがっている」状態について言っているのではないかということにこだわっていたわけだが、これで、すっかり氷解し、わたしは以後、旧説の|曖昧《あいまい》さを捨ててしまい、もっぱら、伊原氏伝承の柳田説に従っている。  伊原さんのお手紙にある雑誌『芸能』での奥野信太郎・戸板康二両氏の対談というのは、当月の芝居を|観《み》ての閑談で、ずいぶん長く続いていた。その中で奥野信太郎さんが言っておられた説は、その前後にわたしが奥野さんから質問されて、わたしが答えた内容だったので、読んだ時に、わたしはおやおやと思ったことがあった。  それはともかく、伊原さんのお手紙は私信だったから誰の目にも触れなかったわけで、従ってこの名説は、世間に流布はしなかった。そのうちに世間に妙な江戸趣味の流行が起って、江戸っ子がる連中がさまざまな解釈をこれについて言うので、わたしは『週刊朝日』の「古典横丁」という連載の中で、この説を紹介した。 「古典横丁」というのは、古典の一部を掲出して、それを解釈し、解説の文章を付けるといった構成で、二十四、五回も続いたろうか。    《OL読むべからず 古典横丁おんな生態講座》    こまたの切れあがった女  どうか、|小脛《こまた》の切れ上った、水気たっぷりという、名婦人を、生け捕りてえものだ。 [#地付き]——小袖曾我薊色縫。  どうぞして、いい女をとっつかまえて、酒の相手でもさせてえもんだ。こう、小またが切れ上ってよ、水もしたたるってような女を、よう。   御家人くずれみたいな、門前町のごろつきみたいなのが、鳥居前の茶店の縁台で、よきかもござんなれと、舌なめずりをして待っている時の、仲間うちでのやりとりの文句に、黙阿弥はこう言わせている。   さて、この「こまたのきれあがった」というのが、まいまいのことながら、問題だ。   中には、目尻が切れ上がってることだ、などと言ってる人もあるが、そんな、狐がついたみたいな顔の女が、いいはずがない。だいいちこの説では、こまたがどこを指すのかわからない。   こまたは、もものつけ根の鼠蹊部の左右の線の画く角がそれで、その反対の、ももの内側の線の作る角がおおまただ。こまたが切れあがるのは、その角度が鋭角で、ぐっと上まで、その線がきわだっていることだ。   以前わたしはこまたの|こ《ヽ》は、ちょっと、という意味で、またがちょっと切れ上がっていること——こくびをかしげる、こみみにきいた、こごしをかがめる、などの|こ《ヽ》で、首をちょっとかしげる、耳にちょっと聞いた、腰をちょっとかがめる——と解していたが、そのわたしの解釈を読まれた伊原宇三郎さんが、絵入りで、柳田国男先生の解釈を教えてくださった。   以来、わたしは右に述べたような、伊原氏伝承の柳田説に従っている。  これは『週刊朝日』の五十年九月五日号で、前にいただいた絵入りの手紙からは十年余り経っていることになるが、この週刊誌の雑文が伊原さんの目に触れ、伊原さんはまた詳しい「こまたの切れあがった女・後釈」とも言うべき手紙を寄せられた。まことに有難いことで、これで、解釈は決定したと言っていいと思う。    池田弥三郎様 [#地付き]伊原宇三郎    御健祥と存じます。   今週の週刊朝日の御随筆拝見しました。思いがけないところへ小生の名が出ていたのでおどろきました。   あの件、前にお知らせしました時には、柳田先生の御言葉を、細大漏らさず御伝えするだけでなく、補足のつもりで私の受け取り方も書き加えました為に、ぐだと、拙い文章をかいたことを今もはっきり憶えて居ます。其後、先生のお言葉が次第に整理がついて来ると、実に簡単明瞭なことがわかりました。それは、つゞまるところ「下腹が出ていない体」の一語につきることに思い到りました。この言葉は先生は、はっきりおっしゃらなかったので、自然、前便にも書かれなかった訳ですが、これなら総ての説明がつきます。   下腹が出て居なければ、誰でも|こまた《ヽヽヽ》は切れ上がります。下腹が出ていなければ、先生のおっしゃった蝶番度のいゝことも、物理的に説明がつきますし、|床よし《ヽヽヽ》というのも男側からみて、既に身につけている物理的要因から来るところが多いと思われます。   下腹が出ていなければ、顔は別として、腰部が締まって、江戸っ子好みの|姿《ヽ》になりましょう。こまたの切れ上った女が全部良いとは言えないと思いますが、良さの確率度が非常に高いということは納得出来ます。先生は「永い経験から来ているのでしょう」と言われ、続けて「それを識ったかぶりの江戸っ子が、気取って口にしたのでしょう」と言われました。   「床|よし《ヽヽ》」と「色好み」は一寸違いますね。|こまた《ヽヽヽ》は主として前者に結びついている素質だと考えられます。   又当然、二十才前後に「|こまた《ヽヽヽ》が切れ上っている」と言われた人でも、三十才近くなって脂肪がつき、下腹が出てくれば、もう誰も|こまた《ヽヽヽ》の切れ上った女とは見てくれないでしょう。   「|色《いろ》は年増に止めをさす」「女盛り」などいろ言いますが、それらは「|こまた《ヽヽヽ》」とは又別なジャンルの話で、|こまた《ヽヽヽ》万能は通用しないかと考えられます。   以上、柳田先生の御話を練り直した私の考察を御知らせいたします。   御自愛を祈り上げます。     九月一日 [#地付き]不一   読者のために伊原さんの略歴を付しておく。  洋画家(明治二十七年〜昭和五十一年)。徳島市生れ。大正十年東京美術学校(現芸大)を卒業し、同十四年から五年間ヨーロッパに留学した。帝展でたびたび特選となり、後審査員となる。日本美術連盟委員長などの要職を歴任し、日本美術界発展に大きな功績を残した。 [#改ページ]    富田正文さんの教え     ——勝海舟と福沢諭吉  まだ戦後の、アメリカの占領下にあった時代に、慶応義塾の名をローマ字で表記する必要がおこった時、義塾の|訓《よ》みはギジュクか、ギジクかきめられないで困った挙句に、曖昧なところはとってしまえというわけで、ケイオウ大学としてしまったという話が伝えられたことがあった。その頃、富田正文さんにお目にかかった折に、一体慶応義塾は、ギジュクですか、ギジクですかとうかがったところが、富田さんは、  ——福沢先生は「じく」だったようです。  と言われた。三田の山に登って行くと、そこに福沢先生の私邸があり、始めて慶応義塾を訪れて来た人が、よく間違えて、私邸の玄関を|音《おと》なうので、先生は御自身で書いて貼り紙をされた。それは塾はあちらという矢印を書かれたもので、それには「じく」と書いてあったという。  富田さんは、福沢諭吉研究の当代の第一人者であるが、右のような具体的な事項を実によく知っておられる。わたしは福沢先生については、事の大小を問わず、富田さんにまずうかがうのだが、その都度、懇切丁寧な教えを受けて来た。世間一般では、早慶野球戦の折に塾生が歌う「塾歌」の作詞者として知られているが、それは現われた一端であって、福沢諭吉、慶応義塾、さらにそれを中心にした明治文化史についての知識は、たいへんなものであり、また、それについての情熱も、到底、われわれには及びがたいものがある。  ここに紹介したいのはその富田さんからいただいた一通の書簡であって、勝海舟と福沢諭吉について書いたわたしの文章について、詳細な教示を与えられたものである。わたしの蒙を|啓《ひら》いてくださったばかりでなく、福沢先生の「瘠我慢の説」の解説としても、まことに貴重なものである。わたしの書いたものの足りなさについて、わたしの不勉強を、もっと強く|叱咤《しつた》されても、わたしは一言もないのだが、富田さんの手紙は、その温厚なお人柄そのままに、実に暖かな行文であって、わたしはこれをいただいて、後輩としての幸せをしみじみと感じた。  わたしの文章というのは、『勝海舟全集』の、「海軍歴史」(勁草書房、昭和四十六年)の末尾に寄せたもので、後に小著『たが身の風景』(読売新聞社、昭和五十一年)に収めた。富田さんの手紙を理解していただくためには、その荒筋だけでも記さなければならないが、幸いなことに、神戸女子大学教授の伊藤正雄氏が、その「『瘠我慢の説』私説」(神戸女子大学紀要、昭和五十年)の「付、参考文献」に要領よく紹介してくださっているので、ここにそれを借用しようと思う。わたし自身が改めて|梗概《こうがい》を記すよりも、客観的に処理されていると思うからでもある。   勝海舟の周囲 [#地付き]池田弥三郎   一、小泉信三と勝海舟 二、福沢諭吉と勝海舟 三、勝海舟の行蔵 以上三章より成る。福沢の勝嫌いと、その福沢の気持を忠実に継承した小泉信三の海舟観とに対して、批判的見解を示したもの。勝のともすれば偽悪的になりがちな言葉を、江戸っ子的性格の反映と見る。そして〈『瘠我慢の説』の所論は、一読人を痛快ならしめるが、勝は福沢より維新当時の諸情勢に精通していたはずである。その正確な判断に基いて行動したのだから、福沢の批判は、あまりに性急であり、一面的であり、とりわけ、非同情的に過ぎはしなかったか〉として、勝が江戸を戦火から救った措置を高く評価している。維新後の勝の進退にしても、〈旧幕臣の生き方にはさまざまな類型があったので、福沢の如く「我是なれば彼非なり」として勝を一方的に責めるのは苛酷に失する〉とした。また、福沢がこの書を勝や榎本に送りつけて返事を催促し、後年『時事新報』がわざわざ元旦号にかかる個人批判の記事を掲げた態度をも不可解と評している。この筆者の如く、慶応義塾出身者中にも、福沢を批判し、勝に同感する論者の現れたところに時代の推移を思わせる。なお池田氏の随筆集『わたしのいるわたし』(三月書房、昭和四十六年)中の「余生の説」も、『瘠我慢の説』の福沢説に対して、海舟の生き方に同情共感を寄せている。  伊藤教授の解説に付して、なお加えるならば、わたしは昭和四十二年十月から四十四年九月まで文学部長を勤め、三年四年の二夏、過激派学生の手によって、学園を封鎖されるという異常な事態に対応した。その直後に、「余生の説」(四十五年)と「勝海舟の周囲」(四十六年)とを書いたのだが、もう一つ、四十五年九月十六日に、江藤淳氏と『日本の名著』のために対談をおこない、それは遅れて五十三年二月の「月報」に、「海舟の極意」として掲載された。富田さんの手紙は、四十六年三月十四日付だから、富田さんはもちろんこの「対談」は見ておられない。今、それらの諸篇を再読すると、当時のわたしは、大学紛争の|傷痕《きずあと》がかなり深く、自分自身の余生のことや、自分の勤める大学と自分との距離の感覚について、大学人の去就を目前に見ての感慨など、考えさせられることが多かった時期であったことに、あらためて心付かされないではいない。「勝海舟の周囲」も、そういう心境の中で書かれたものであったことを付け添えておきたい。    拝啓 「海舟全集」の第二回配本を御恵贈に預り、昨日落掌、早速エッセイを読ませて頂きました。「海舟全集」は戦前に持っており、|専《もつぱ》ら海軍歴史を利用したものでしたが、戦災で失ってからまた買うのも|業腹《ごうはら》なので、必要が起ると図書館ので間に合せていました。新版を買おうかどうしようかと考えているうちに、第一ホテルでお話を承り、いよいよ買わねばならぬと決心したところでした。   さて御寄稿のエッセイを拝読、私の全集解説が甚だ舌足らずであったことを顧みて赤面の至りです。「瘠我慢の説」についての解説は、石河幹明著『福沢諭吉伝』第一巻第十七編「榎本助命の運動」の第三章「勝榎本の進退を論ず」と、その編の附録(「瘠我慢の説」と栗本の評)があり、小泉信三の「瘠我慢の説と栗本|鋤雲《じようん》」と題する講演筆記があります(小泉全集第二十一巻所収)。   この二ツで私の解説の不行届は殆んどカヴァされていますが、それはアトで御一読ねがうとして、一応御不審の条々につき私の解説の補説をいたします。   福沢は旧幕臣の新政府への出仕を必ずしも全面的に認めなかったわけではなく、福沢の斡旋奔走によって新政府へ仕官した旧幕臣は幾らもありました。しかし勝榎本のように新政府の顕要の地位を占め勲爵の栄光に身を耀かすというような在り方には、|聊《いささ》か釈然としないものがあったようです。福沢の新政府への就職斡旋は、その人のために生活の途をつけてやるというくらいの考えであったように私は思います。   福沢は多年勝榎本の進退について不満を持っていたが、或るとき興津の清見寺で咸臨丸乗組員の墓に詣でたとき、その傍に一基の記念碑があり、「食人之食者死人之事 従二位榎本武揚」とあるのを見て慨然として筆を執って「瘠我慢之説」を草したと石河さんは書いています。(石河さんは「伝」にはこれを「明治二十四年に」と書いていますが、どうもこの年にはそんな小旅行をした様子がありません。二十三年十一月の静岡遊覧のとき清見寺に行っておりますから、私はそのときのことであろうと思います(福沢全集十八巻一二一八号書翰)。   「瘠我慢の説」の脱稿は碑を見てから一年の後ということになります(或は一二一八号書翰の年代の推定違いかと調べてみましたが、これは間違いありません)。   人の食を|食《は》む者は人の事に死すというなら、榎本の函館の勇戦はよしとして、明治政府の禄を食むのは如何かというのが、福沢の言い分でしょう。木村栗本は共に|市井《しせい》に隠れて文墨を事としていた人々で、平素から福沢とは|昵懇《じつこん》の間柄でありましたので、まずこの両人に示したのでしょう。徳川頼倫に贈ったのは明治二十九年その洋行のときで、これは全集十八巻一五九七号鎌田栄吉宛書翰を御覧下さい。   栗本がこれを読んでいかに感激したかはその草稿への栗本の書き入れが証明しています。実物は廻り廻って塾の図書館の所蔵に帰しましたが、石河さんの伝記編纂中に、槇智雄氏の父君武氏が図書館に来て、「奥羽日日」に掲載の事情を話をしてくれたことがあります。小泉図書館長の周旋で、石河さんその他塾内数名の人々と共に私も助手として席末で傍聴しました。その「奥羽日日」への発表時期を、石河は明治三十年頃といい、小泉ははっきりしないといい、富田は明治二十七年前後と記しています。同じ話を聞くのに同席した三人がこのように食違っているのですから、考証というものはツクむずかしいと思います。私が何によって二十七年前後と書いたか今思い出せませんが、なお心がけて拠りどころを調べてみます。   次に福沢が「瘠我慢の説」を草して、公けにする意図を有しながら十年も|筐底《きようてい》に秘蔵していて、三十四年一月になって発表したのはどういうわけかという問題。   福沢がその時その場の所感を綴って筐底に蔵した文章はホカにも少くありません。「|丁丑《ていちゆう》公論」は明治十年に書かれて、二十余年を秘蔵され、その死去の前後に発表され、「旧藩情」も明治十年に書かれて、死後数ヶ月後に発表され、「分権論」も脱稿後一年間は写本で人に贈っていましたが、一年後に漸く本になりました。「唐人往来」などは三十数年も経過してから、初めて生前の全集緒言に採り入れられて世に知られました。しかもこれらの或るものは、福沢が自から複本を作って人に贈り、或は草稿を示して他人に写し取らせたりして、写本として可なり流布されたものもあります。   私は勝、榎本両名の生存が「瘠我慢の説」の公表を遅延させた最大の理由であろうと思います。それが他の新聞などに掲載され、或る程度公知の事実となったことと、福沢が脳溢血にかかって自から筆を執ることができなくなり、筐底に在った原稿などを探っては「福翁百余話」の一篇一篇を大切な宝物のような扱いで、十日おき二十日おきぐらいに惜しみ惜しみ時事新報に発表していた様子から察しても、勝も歿したアトだし、世間に歪んだ形で流布されていることでもあるし、あの文章を公けにしてもよいでしょうと側近の人々から勧められて、発表を承諾したのであろうと思います。出す以上は、あれだけの大文章だから、元旦号から載せようということになったのであろうと思います。この文章の発表は、福沢の意志よりは側近の人々の考えの方が大きく働いていたと見る方がよいと思います。それにしても生前にこれが発表されたお蔭で、徳富の批評に反駁した石河幹明の文章が作られたのは、後世の我々にとっては幸であったと思います。   福沢と勝とは共に一世の人傑で、それぞれ個性の強い人物でしたから、互に反駁するところがあったのでしょう。どちらも陽性電気を持っていたからでしょう。   以上は、石河さんの「伝」と小泉さんの講演筆記をお読みになれば十分で、私のは蛇足のようなものですが、話の段取りをつけるために記した次第です。   右とりあえず読後の所感を記して、御礼のことばに代えます。匆々拝具     三月十四日 [#地付き]富田正文      池田先生        侍史  この懇切な、読後の所感と御教示とは、まことにありがたく、感動した。わたしがその御指示通りに、『福沢諭吉伝』と『瘠我慢の説と栗本鋤雲』とを読んだことはもちろんであるが、今ここで改めてそれについての議論を進めるつもりはない。ここでは、こういう詳細な御教示を、後輩に対して与えられた御好意についての喜びを語ればいいのだと思う。  ただ、これらの御教示に従って、順序もなく関係史料を読んでいるうちに、福沢先生が勝海舟に会いに行っておられたという、簡単な記事が目に触れた。それは明治十二年四月十一日のことであって、もちろん、ここの「瘠我慢の説」とは直接には関係はない。用件は、当時財政上の危機に見舞われていた慶応義塾を維持するために、徳川の宗家に対して、借財を交渉することを思い立たれ、当時、徳川家の顧問のようなことをしていた大久保一翁を四月十日に、続いて翌十一日に勝海舟を、それぞれ訪問している。交渉は結局不調に終ったが、この時の海舟との面談については、『慶応義塾百年史』には、特に「勝海舟には面談で言いつくせなかった点をさらに補うため、別に『存意荒増し紙に記して』さし出した」と、大久保一翁宛福沢書簡二六八を引用して、書いてある。その用件の内容は別として、福沢先生が、必ずしも好感を持ってはいなかった勝をわざわざ訪れて、慶応義塾のために言いにくい借財を申し入れている、そういう面会があったということは、わたしの興味を惹くところだが、詳しいことはこれ以上はわからない。小泉信三さんが、勝に好感を持っていなかったことの理由の一つに、勝が福沢先生に向って、「君はまだ寺子屋みたいなことをやっているのか」と言ったということを指摘しておられるのだが、その勝のことばが、この面談の折のことだった、ということにでもなれば、この面談の運びの一部が想像もされるのだが、それらは全くわからない。また、この折の面談の模様についても、書かれたものの外にあることを知らない。  富田正文さんの紹介としては、『日本近代文学大事典』を引用しておく。池田の執筆するところだが、なにしろ、わずか二〇〇字という割当てであって、意を尽していない。   明治三一・八・二〇─(1898─)水戸市藤井町生れ。福沢諭吉研究家。大正十五年三月、慶応義塾大学英文科卒業。慶応義塾にあって石河幹明の助手として福沢諭吉の全集編纂、伝記の制作にあたり、また「三田評論」の編集を担当した。『福沢諭吉全集』全二一巻別巻一冊を完成して、昭和三九年度の日本学士院賞を受け、慶応義塾大学名誉教授となる。現在慶応通信会長。戦後の大学通信教育の経営面での功績も忘れ難い。 [#改ページ]      礼  状

   
礼状について  わたしなどの場合でも、ずいぶん多くの書籍の寄贈を受ける。つぶさに数えてみたわけではないが、毎月およそ三十冊内外に及ぶと思われる。そのほかに宣伝・広告といった目的のものもあるが、それらを除いて、少なくとも個人から個人への寄贈本については、礼状を書いていた。もちろん、寄贈本は著者への礼儀としても、読んで、そして礼状を書くのが当然のことであり、わたしも長くそれをたて前として来た。しかしこれは、数年前から、物理的な理由からあきらめざるをえなくなってしまった。平均して毎日一冊、太陽が東から昇ると、新刊の書籍が一冊ずつ、机上に置かれるのでは、これを本務の余暇に通読するということは、到底不可能なことになった。 それでは礼状を出さないのかということになるがそういうわけにもいかない。そこで、心ないことと知りつつ、わたしは次のような文句の葉書を印刷した。
 住所氏名までは印刷しないこと、書名と日付と、宛名だけは少なくとも必ず自分で書くということを、せめてもの心やりとして、とりあえず、ともかくこの葉書を出す、ということにしたのである。決していい方法ではないが、贈ったほうから言えば、着いたのか着かないのかわからない、という不安だけはこれでとりあえず解消する、次善の策だとは思っている。  わたしが一番初めの著書を出したとき、それは昭和二十九年のことだったが、わたしはその本の中に、わたし宛の葉書を入れた。宛先にわたしの住所氏名を印刷したものである。それは、このことについて洩らした、折口信夫先生のことばを記憶していたからである。折口先生は自分のところへ贈られた本の中に、そういう葉書のはいっていたのを見て、「これは行き届いているね」と言われた。 ——礼状はすぐに出さなければと思うけれど、住所がわからなかったりして、つい出しそびれることがあるからね。  わたしはこのことを覚えていたので、自分の著書の場合に実行してみたのだが、あとあとの場合から遡って考えてみても、回収率はさしてよくはなかった。礼状を寄越す人は葉書の有無によらず寄越すし、寄越さない人は葉書を入れておいても、結局寄越さないのである。少しがっかりしていたときに、ある先輩が、「きさま、お礼を強要するのか」と言ったので、そういう受取り方もあるのかと思って|嫌気《いやけ》がさして、第二著以後は、やめてしまった。  これは今でも惜しいことをしたと思っている。|左顧右眄《さこうべん》することなく、わたしの流儀として押通せばよかったと思う。今までやっていれば、わたしなりの主意が理解されたかも知れない。  その後の長い年月にわたる経験から言って、寄贈を受けて、当然恐縮していいはずの後輩が、意外に礼状をよこさない。ことに後輩の学校勤務者、会社勤めの友人などには、よこさない者が多い。それは、多分、住所がわからないからだろうと、わたしはそれをそう善意に解釈している。  横道にそれるが、本を贈ってくれた著者に礼状を出そうとして、はたと困ることがある。それは、その著者の住所がわからないことがあるからで、それが意外に多いのである。本によってはその奥付の著者名の脇や、略歴の末尾にその住所が記してあることもあるが、それは最近のことで、一般的には、著者の住所は記さないのが、しきたりのようだ。あるいはこれは、単行本を刊行するくらいの著者ならば、当然、社会的にもある地歩を占めた人であって、手に入り易い人名録などに、住所は記してある、というのが常識なのかも知れない。しかし、今日のように、おびただしい数の本が出版され、中には私家版や自費出版なども増えてくると、必ずしもその著者名は、ありふれた手帳類の末尾の住所録には載っていない人も多い。そういう広範囲にまで、単行本の著者がひろがったのである。  寄贈を受けた本は読んでから礼状を出すのが、礼儀である、ということを、ことの筋であると立ててみると、これも多少余談だが、出版記念会なども、ちょっと|腑《ふ》に落ちないことがある。というのは、その会に出席すると、その出版記念会の対象である著書を、出席者にくれるという運びの会が多い、ということだ。とすると、そのパーティーの会費の中に、書籍代がはいっているという仕組みなのかもしれないが、そんなみみっちい推量はともかく、出席して、帰りに手にする本の出版を祝うというのは、どうも運びが逆なように思う。元来、出版記念会というのは、その本を読んでから出席するものであろうし、それが著者に対する礼儀だろうと思うからだ。  ところで、寄贈を受けた書物に対する礼状を、読んでから出すという律義さを立て通している人達が、わたしの友人知己の中にも何人もおられる。中には、こちらが先輩に対する礼儀から挨拶のつもりでお贈りした本に対してまで、きちょうめんに、わざわざ目を通して、その上で感想とともに礼状を寄せられるかたがあって、これには全く恐縮させられてしまうのである。そしてこれは、第一に、不精をきめこみ勝ちのわたしに対して、きびしい実物教育である。  こういう、ひたすら恐縮という感想を、まいまい抱かせられた先輩の中には、小泉信三さんと厨川文夫さんなどがおられた。さらにまた、詳しい感想と教示とを与えてくださった先輩の中には、伊原宇三郎さんや富田正文さんなどがおられる。それらのかたがたからわたしがいただいた手紙を次にいくつかあげていきたい。 [#改ページ]    
小泉信三さんの手紙  小泉さんはわたしにとっては大先輩であって、慶応義塾では評議員会議長の要職にあられたが、そとでは、皇太子殿下の御教育係を務めておられて、公私ともに多忙をきわめておられた。わたしにとっては、余りに懸隔のある大先輩だったので、出版の都度さし上げるというわけではなかったが、お届けすると必ず礼状をいただいた。なくなられてから出た『小泉信三全集』(文藝春秋刊)には、千八百七番までの一連番号を付した『書翰集』上下二巻が収められているが、まだまだこれだけですべてが|網羅《もうら》されているわけではない。それはわたしのいただいたもので、全集編集のときには見あたらなかったのが、あとで出て来たりしているので、ほかの人々のもとにも、まだ沢山のものが残っているだろうと思う。筆まめでもあられたのだと思うけれども、ただそれだけで、これだけの量が、私信として書かれるわけはないと思う。小泉さんの|懇篤《こんとく》な人柄の端的な現われだと思う。わたし自身の著書に対する感想であって、その点はおもはゆいが、小泉さんの全集二十五巻の『書翰集』にはいっていないものを一通、ここに紹介しておきたい。昭和三十二年のものである。   「日本人の芸能」御贈り下され、ありがたくお受け致しました。全篇拝見(全篇の過半拝読)大へん面白く存じました。おぼろげに考えていたことを立証されたように感じた個所もいくつかありました。   (先日、あるところへ、今日スポーツは一部分民衆の祭礼に対する要求を満たしている、と書きましたが、御著書を見て、必ずしも無根拠の断定でないことを知り、安心しました。)    定めし御骨の折れたことと御察し申します。美事な書冊として完成したことを御慶び申し上げます。家人の郵便物処理混雑のため、折角の御贈本を漸く今日開封、拝見がおくれ、お礼がおくれましたこと、何卒御許し下さい。    和木清三郎軽快何よりと存じます。先日、夫人に見舞をいうつもりで訪問しましたところ、和木君自らパジャマ姿で玄関に現れ、顔色も言語も晴れやかで、大へん安心しました。   右、御礼かたがた御報のみ。     六月二三日 [#地付き]小泉信三      池田弥三郎様  わたしの『日本人の芸能』は、昭和三十二年六月十二日、岩崎書店の刊行。「日本人の生活全集」の中の一冊で、刊行の趣旨が「写真でみる日本人の生活全集」ということだったので、わたし自身の撮影した写真も多くはいっており、それが文中の「定めし御骨の折れたこと」ということになったのだと思う。  末尾の一段にある「和木清三郎」は、戦前の『三田文学』、当時は『新文明』の編集長で、小泉さんに私淑していた。小泉さんも和木さんを声援して、『新文明』には毎月原稿を書いておられた。こういう末尾の一筆に、実によく人柄が現われていて、書翰全体を暖かいものにしている。実にいい手紙だと思う。  お礼状というものは、手紙のなかでも実は一番書きにくいものかも知れない。ことばがつい通り一遍のものになってしまい、ありきたりで、さし障りのない、従って、心情が空廻りしているものになり勝ちなのだ。それは出発点において、お礼状は、書くほうの心持ちそのものに、厚薄があるからだ。はっきり言って、飛び立つほどの嬉しさから、欠いてはならない義理に迫られての挨拶まであるからだろう。どうしても書きたい、書かねばならぬという、|熾烈《しれつ》な、内側から突き上げるような心情にそそられる、ということが、常にお礼状の背後にある、というわけではないのだから、つい、よそよそしいことばの羅列ということになってしまうのだ。 そういうことからくる書きにくさを避ける方法の一つを、わたしはまた小泉信三さんの手紙から学んだ。それは、わたしがお送りしたわたしの本についての礼状の一つである。   「銀座十二章」面白く読みました。   小生は新橋際に「千とせ」という料理屋のあったのを憶えています。また八丁目東側の日英商会というものに、たびたびラケットを買いに行きました。大正元年、留学を命ぜられて、山崎ではじめての洋服を作り、荘司ではじめて理髪しました。歯の治療には久しく鍋町の小幡に通いました。     五月二八日  葉書に一気に書いたものだ。『銀座十二章』は、昭和四十年五月二十五日の発行だから、小泉さんの手紙の日付が五月二十八日であるというのは、わたしが発行日よりも少し前にお送りしたとしても、非常に早い礼状である。  それはともかく、この短い文章のなかに、小泉さんの銀座の思い出が、五つも盛り込んであって、こういう手紙は、本が本であるだけに、著者としては非常にありがたい。そしてそこに、寄贈書に対する礼状の有効な書き方の一つが示されている。つまり、本のお礼は、その本の内容につかず離れずに、それと関連して、筆者自身のことを書く、といういき方もあるということである。  しかし、こういう礼状なら気軽に書けそうだと思うけれども、さてなかなかそうはいかない。思ったこと、感じたことを、そのまま書く、ということは、実はむずかしいことなのであって、やはり小泉さんなどは、一流の文筆家であったと、あらためて感嘆するのである。  続いてもう一つ挙げておく。これは全集二十五巻下、番号一二九九として採録されている。   「まれびとの座」御贈り下され難有存じます。折口さんとは遂にゆっくり話をする機会を得ませんでしたが、小生塾長在任中、たしか水曜日に、女学生の一群が教室の入口に|佇立《ちよりつ》して折口さんの講義の時間を待っているのをたびたび見て、折口氏の影響力を知り得たこともありました。    私が教授のとき、北吉君の出していた「祖国」という雑誌が、「金がものいう慶応義塾」という題で、塾の試験が公正に行われていないという悪意の記事をのせたことがあります。同僚教授の成瀬義春氏と小生とが少し腹を立て、時の塾長林毅陸の許しを得て、北君に詰問状を出し、証拠を示す用意があるのかと問うたところ、北君は誠意ある返事をしなかったので、遂に訴訟となり、結局新聞に謝罪広告を出す(雑誌は自然廃刊)ということで片附いたことがあります。    その時、雑誌相手に大人気ない、と吾々は批判されましたが(無論激励したものもあります)、或る日、折口氏はわざわざ教員室で私に近づいて来て、私はあなた方のなさることに賛成で、御成功を祈っています、といわれました。それが多分始めての対話であったと思います。    同じ学校に長く奉職しながらこれ以上立ち入ったお話をする機会を得なかったのは、結局御縁がなかったものと思います。    右御礼旁記憶のまゝを記しました。     七月十五日 [#地付き]小泉信三     池田弥三郎様  わたしの『まれびとの座』は、副題が「折口信夫と私」であって、昭和三十六年六月、中央公論社の刊行である。  前に挙げた『日本人の芸能』刊行の時は、わたしは文学部の一助教授で、小泉さんは遙かに遠く高い存在であったが、『まれびとの座』刊行の時は、常任理事であって、評議員会議長の小泉さんとは、その間の距離がぐっと詰まっていた。公私にわたって、往き来も繁くなっていたが、小泉さんは、会った折に口頭で、などという無精はされなかった。  雑誌『祖国』の事件は、わたしなどが慶応にはいる直前のことで、予科一年のフランス語の時間に、担当の高橋広江さんから、教場でその話を聴いていた。しかし、折口信夫先生と小泉さんとが、そのことで、そういう関係にあったということは初耳であった。折口信夫の史料として、新しいものを加えたわけで、わたしは非常に興味を惹かれた。  この手紙の中で小泉さんが、「批判されましたが」と書いて、カッコして「無論激励したものもあります」と、挿入しているのは、いかにも運筆が自在で、じかに話を聞いているような思いがある。それは最初の手紙に「全篇拝見(全篇の過半拝読)」とあるのにも似ていて、はなはだ親しみやすい気がする。  小泉さんからいただいた手紙はまだあるが、「礼状」ということに限ると、さしあたってこのくらいである。昭和三十九年七月に、わたしは常任理事を退任し、ふたたび小泉さんを、遠く高く見ることになったが、それから二年たらずで、わたし達はこの敬愛すべき大先輩を失った。昭和四十一年五月十一日のことであった。 [#改ページ]    厨川文夫さんの手紙  |厨川《くりやがわ》文夫さんも、わたしの寄贈の本に対して、必ず礼状を寄越される方であった。慶応の文学部での先輩の一人だし、ことに|畏敬《いけい》していた学者であり、暖かい人柄のお方だったので、こちらはついなんでもないつもりで差し上げるのであったが、厨川さんは必ず読んだ上でのお手紙を、それもきまって封書でお寄越しになるのであった。ありがたいと思うと同時に、まいまい恐縮してしまって、お目にかかる度に、「先生、それでは恐縮ですから」と申し上げるのだが、厨川さんはにこやかに笑うだけで、相変らず、かたくきちんと礼状をお書きになるのであった。  統計式なことをしてみたり、勤務評定式なことをしてみたり、というような、意地悪いことはしたことはないが、贈呈した本に対して、きちんと礼状を寄越されるのは、わたしにとっての先輩のほうが、後輩よりもずっと多いのである。これをわたしはあえて理由付けをしようとは思わないが、多少、「異な思い」がしないでもない。  厨川さんは明治四十年七月の生れ。御尊父は、『象牙の塔を出て』、『近代の恋愛観』などで、大正期の文明批評家の代表者の一人であった厨川白村である。しかし、御子息のほうは、むしろ父の英文学者の面を継いだ、地味な学究の徒であった。中世の英語英文学の研究者としての業績は、わたしなどにはうかがい知ることは出来ないが、その研究業績に対して、慶応義塾は福沢賞を贈っている。福沢賞は世界的水準を抜く業績に対して与えられる賞で、そのために、文学関係の成果に対してはほとんど与えられることがなく、毎年、医学部工学部の人達ばかりに贈られていたが、厨川さんは始めて、文科系の業績でこれを取得された。そういう学者であった。  だから、わたしの雑文集などをお送りして、貴重な時間をその読みに使わせるなどということは、もとより遠慮すべきことだったのだろう。しかし、先輩後輩という関係はありながらも、同じ文学部の教員としての親近感から、甘えるような気持ちもあって、わたしは自分の著書を献じていた。  律義な厨川さんの礼状は、わたしの|手許《てもと》に数多く保管されているが、ここではその中から三通を選んでみた。まず掲出するものは、昭和三十五年十二月十六日付のもので、わたしはその年の七月、文学部の教員の仲間からは一応離れて、常任理事になっていた。以下三通とも、わたしの常任理事在任中にいただいたものだが、そういうことは、少しも厨川さんの手紙には反映していない。相変らず、親切な兄貴分というべき方であった。  対象になった『日本故事物語』は、昭和三十三年十二月に河出書房から刊行した同名のものと、三十四年六月に同じ所から出した『民俗故事物語』とを併せて、改めて、三十五年十二月に『日本故事物語』として出したものである。これは、|諺《ことわざ》や成句の類の事典ともいうべきものであるが、かなりわたし流の「おあそび」の要素があった。そしてこれらのものに厨川さんは決して全面的には賛成していなかったことが、あとの手紙でわかる。    前略   「日本故事物語」を御恵投下さいまして、いつもながら御厚意ありがとう存じます。昨夜さっそく拾い読みいたしましたが、実に面白く、今まで勝手に想像していたのとは、全くちがった起源の語句が多いのに驚いています。「駄目を押す」がもと囲碁の言葉だったとは、うれしい驚きでした。「さわらぬ神にたたりなし」の御解説は、外国の悲劇文学を読んだ時に考えたことが、この国に昔からあったのかと、今さら、身近の物事を知らぬのに、首をちぢめたい心地がいたします。感想を申し上げれば果しもなく、とにかく小生にとってこれは座右において、常に御厄介になる御本と存じました。    常任理事として、御多忙なばかりか、「団交」とかなんとか、お心づかいの多いことでしょう。どうぞ、くれぐれもお大事になさいますように。    取りあえず御礼かたがた。 [#地付き]草々不一  [#地付き]厨川文夫      十二月十六日    池田弥三郎様  次に掲げるものは、昭和三十七年一月二十九日付のものであるが、この手紙は、わたしに大きなショックを与えた。もろもろのわたしの雑文集などは、決して心そこから厨川さんは納得など、してはおられなかったのだということがはっきりしたのである。その意味で、わたしを感激せしめたお手紙である。   「日本芸能伝承論」お送りいただき、簡単に有難うと申し上げる以上の深い感謝に満たされています。   今までは全く気づかなかった大兄の御学問の大きさ、深さを、霧の間からふと仰ぎ見た驚きであります。私はこれまで、大山岳の麓の花さく林で、大兄の御招待をうけ、それを愉しみながら、ひそかに大兄の学問のために惜しんでいたのでありました。何というおこがましさ、何というあさはかさ、自らをむち打ちたくなる心であります。まことに峯の奥になお高い峯があり、さらにそのかなたに、まばゆく輝く峻嶺を望見して、その美しさのこの世のものとも思われぬのに、茫然としています。   これはまことに困った事態で、バツの悪さったらないのです。しかもそれだけではありません。西洋の中世の文学の背後に何かありそうだと模索していたものが、御大著の第一部、民俗文学序説に示されているのに気づきました。今ごろになって漸くです。これは歓びですが、お恥しいことです。謹んで、正月某日の酒席での暴言を、お詫びします。   またこういう物すごいことでなく、小生の至らぬ処をお導き下さい。   ありがとうございました。     一月二十九日 [#地付き]厨川 文夫     池田弥三郎様  ともかく大へんなお賞めに預ったわけで、その点は、なんとも恥かしいのだが、わたしが感動したのは、賞められたから、ではない。この畏敬する先輩が、かねて、後輩のわたしを暖かく見ていてくださり、しかも、わたしに対して、とるべきところは採るが、許せないところは許さないという態度を持しておられ、それをこういう形で、はっきりと示してくださった、ということであった。  これは、当時のわたしにとっては非常にありがたいことであった。「当時のわたし」というのは、かなり「憎まれっ子、世にはばかる」的な存在であった。少なくとも、先輩の大教授、中教授のひんしゅくを買いながら、一見、学校をよそに、そとの世界でばかり、活躍しており、書く本も、『はだか風土記』だとか、『酒、男、また、女の話』だとか、内容は決して下劣ではないのだが、見た目には印象の悪い、今になって、自分でも若気の到りと思うような題名の本ばかりであった。  厨川さんは、それらを必ずしも皮相的にのみ見て否定する、という先輩ではなかったが、またすべて肯定するというわけでもなかった。  文中にある「正月某日の酒席」というのは、一月六日、文学部長の佐藤朔教授のお宅へ、文学部教授の厨川文夫、松本正夫、近山金次の諸氏と、当時常任理事だったわたしとが招かれた時のことだったに違いないが、幸か不幸か、わたしは厨川さんの言われる「暴言」については全く記憶がない。  佐藤朔さんは明治三十八年、厨川さん、近山さんが四十年、松本さんが四十三年で、この五年ほどの間に、慶応の文学部の哲・史・文にわたる俊秀がひとかたまりをなしていた。わたしなども早くから、折口信夫先生の口からじかに、自分と、わたしなどとの間におられるこの先生方が、文学部の学問を背負って立つだろうと聞かされて、ひそかに尊敬の念を抱いていた。  その四人の先生達の席に、わたしが呼ばれたのは、わたし個人よりも、むしろ常任理事という肩書からだったのかも知れないが、ともかく、厨川さんの右の手紙によれば、わたしは、これらの、文学部のもっとも有能な、第一線の教授達に、このとき、いろいろとたしなめられたのだと思う。そんな、記憶の果てにあることを、厨川さんのこの手紙が呼びさましてくれる。まさに手紙は、忘れているわたし達の生涯のひとこまの照明灯だと思う。  もう一つ、挙げておきたいのは次の手紙である。昭和三十九年四月刊行の、講談社版現代新書『光源氏の一生』についての礼状であって、日付は三十九年四月七日である。店頭に出るか出ないうちに、もうお礼の手紙をいただいているわけだが、この著書刊行後、間もなくわたしは理事を退任して文学部に戻り、以後は必ず毎週一回、教授会でお目にかかることになったのだが、それでも厨川さんは決して、会った時に口頭で、などという不精をなさらず、お贈りすればきちんと封書で、礼状を寄越されるのであった。   急に雑木林の若芽が吹き出し、春めいてきました。   御機嫌いかがですか。   御新著「光源氏の一生」を御恵投いただき、いつもかわらぬ御好意のほどありがたく存じました。   この世界的な古典の原語のむずかしいのと、長大な量のために、原典ではついぞ読み通したことがありません。「光源氏の一生」で、はじめて、この大作の芸術的構成がわかり、幾多の|細《こまか》い言葉の意味をお教えいただいた次第です。加茂神社の近くで生れ、京都岡崎の平安神宮の近くで少年時代を過しましたので、御新著の中の写真も懐しいものですが、少年の頃あまり見馴れて、その由来も意味も尋ねたことがありませんでした。今になって、始めて、情感として源氏物語の世界に結びついたという、まったくうかつな、お恥しい話です。しかしそれさえ、御新著から今お教えをうけなかったら、経験せずにしまったことでしょう。   門外漢にとってよい御本をお作り下さいましたこと、御好意とともに、深く感謝して居ります。   お忙しい御日常と存じます。くれぐれもお大事に。   末筆ながら御奥様によろしく。     四月七日 [#地付き]厨川文夫     池田弥三郎様 [#改ページ]    伊原宇三郎さんの手紙  洋画家、伊原宇三郎さんとわたしとの御縁は、折口信夫先生を介してのものである。  伊原さんは明治二十七年徳島県の生れであるが、中学校は大阪の今宮中学であって、その時、その五期生として、折口先生に国語を教わった。この五期生と、一年上の四期生とが、若き日の折口信夫の情熱を傾けた教育を受けた人々で、その中の十数名は、やがて今宮中学を去って上京した折口のもとに集まって起居をともにした。伊原さんもその中の一人であった。  折口先生には、その生涯の歩みに沿って、いくつかの門弟の集団があったが、この今宮中学の四期五期の人々が、もっとも古く、もっとも親しみ、折口先生もまた、もっとも心を許していた。折口先生は明治二十年の生れだから、師と言っても、わずか七歳の違いであって、折口先生は伊原さんのことを呼ぶのに、「ウーチャン」で通しておられた。  この伊原さんが、折口先生の依頼で柳田国男先生の肖像を画かれたが、次いで、伊原さんの意志で、折口先生の肖像を画くことになり、昭和二十四年八月、箱根の山荘に滞在しておられた折口先生の肖像画を制作された。——この肖像画は後に伊原さんからわたしに保管を托され、現在、慶応義塾に寄託されている。その経緯については、伊原さんからのわたし宛、四通の私信がある。——  伊原さんとは、この箱根での滞在、制作の機会にわたしもいたことから親しくなったのだが、わたしの『私の食物誌』について、詳しいお手紙をいただいたのは、その中に、この箱根滞在の折のことが出てくることが、直接のきっかけであったように思う。  伊原さんは、まず受取ったという礼状をおよこしになり(四十年八月六日付)、続いて読後に、詳しい手紙を寄せられた(四十年八月十六日)のである。     池田弥三郎様 [#地付き]伊原宇三郎    「私の食物誌」御恵贈に預かり、有難く厚く御礼申し上げます。   折口先生の影響もあり、生来食い意地の突張った小生には、又とない好読物、まして知人も数タ登場していますので、早速今日から読み通したいと存じています。   折口先生の御命日がまた近づいて来ました。日が経つにつれ、益々先生の影像が鮮明になって来ます。全く不思議な魔力と申さねばなりません。   御自愛祈ります。   右御礼。 八月六日 [#地付き]不一     池田弥三郎様 [#地付き]伊原宇三郎    御恵贈下すった「私の食物誌」、やっと今日読み終えました。   数年前、新聞は四つもとっていたのですが、つい読み過ぎるのと、段々その必要がなくなって来たので、東京と毎日をやめて二つにした為、今度始めて全部を拝見したことでした。   もちろん大変興味深く拝読、特に折口先生が頻りに出て来て下さるので、いろ懐かしい憶い出にふけりながら読みました。   文中にもあちこちに見えていますが、こういう種類の随筆なので、随分いろんな意見が寄せられました由、書き送るその気持はよく解るので、誰にもある知ったか振りと、一つには貴兄の文章に誘導訊問的なところがあって、つい誘い出されてしまうようです。   順序不同で、私の気のつきましたことを御笑い草に書いてみます。   一、オードブル、(hors d'uvre)と書くことがもう日本では普通のことのようになってしまいましたが、これは絶対に「オール・ドーヴ(ブ)ル」と書いて頂きたいと存じます。知ったかぶりを書きますと、これは三つの字から成って居り、          それ故、オールドーヴルは「作品の枝葉部」「主題以外の部分」、料理では「主皿以外の前菜」となります。美術展覧会の無鑑査は「オールコンクール」、その他、並外れ、時節外れ、流行外れなどのとき、よく使われます。     それ故、片カナで書く時、略しようがない、一寸発音し難いのと長いのでつまったのでしょうが、アイスクリン以上に意味不明になると存じます。   一、サンド|イ《○》ッチ これは原語にWが入っているのですから、やはり「サンドウイッチ」の方が適当ではないでしょうか。反対に、   一、ポ|ワ《○》ブル 仏語のoiは必ずオァと発音しますが、Wが入っていないのですから「ポアブル」が正しいと思います。東|亜《ア》と東|和《ワ》が違うように。     エスポワールはエスポアールとしたいところ、その方が発音もきれいです。同じく、   一、キャビ|ヤ《○》 これも原語がiaですから、私の好みではキャビ|ア《○》で行きたく思います。     これは前から気になっていることで、イタリ|ア《●》をイタリ|ヤ《●》、ピ|ア《●》ノを|ピヤ《●》ノと皆平気で書きますがYの字が入っていないのですからヤはおかしい訳です。     このワやヤの発音は日本人の細胞的欠陥で、パリのフランス語の先生が絶望していました。   一、ポークソテー・ア・ラ・イハラ 恐れ入りました。但し、laは女性冠詞、男性はleで、私は男です。(文法)はそのまゝ。 は発音し難いので |《オー》(複数は |《オー》)となりますから、ポークソテー・オー・イハラでないといけません。     これは一寸ミステークでした。(但し「伊原|家の」《メーゾン─女性》という意味だと又違って来ます)   一、|酢柑《すだち》 これは私の郷里徳島の御自慢のもので、最近は東京の料亭でも大分使うようになってきました。     「酢柑」の字は私には馴染のない字で、昔は「酢橘」と書きました。事実、これは橘の一種ですし、すだちのだちがそれですが、多分漢字制限の結果でしょう。字面から言っても「橘」は残したいところです。そろ第一便の届く頃ですが、いつも出盛りはドッと来て始末に困っています。お好きで、特別のルートを御持ちでなければ、その時御送りしましょうか。お国自慢でなく、酢としては最高、北大路魯山人は「酢の王」と戦前に言ってました。     最高は松茸にですが、普通の酢の用法の外にたとえば澄し汁、みそ汁、煮魚、漬物、うま煮、西洋料理、支那料理、何にかけても思いがけない調味料になります。   以上、文字通り妄言多謝。   御自愛祈ります。   先生の御命日がまた近づいて来ました。     八月十六日 [#地付き]草々不一     追而   一、凾舘屋 銀座六丁目の表通、西側の凾舘屋は不思議と詳しい店構えを憶えています。(大正四、五、六年頃)     随分珍らしいものを売っていたので御尊父などきっとご贔屓だったに違いありませんが、店つきは、其後の銀座に似つかわしくないディスプレーの下手な日本風の商家で、やゝそれに近いものを今日本橋附近で見ます。     カルピスの三島海雲さんが蒙古から引揚げて帰った翌年位、私が上京、三島さんの|甥《?》の|麗城卓爾《コマキタクジ》先生(例の「初恋の味」のキャッチフレーズを創った人)が今宮中学で折口先生と同僚の国語の先生で、その御紹介で三島さんと知り合いになりました。其後親しい関係が永く続きました。     (三島さんは日露戦争の宣撫班の坊さん。戦後現地に残って一旗のつもりが失敗して帰国)     蒙古で憶えて帰ったヨーグルト式で、脱脂乳に乳酸菌を培養した物|凄《スゴ》い酸っぱいもの、カルピスの前身、「醍醐|酥《ソ》」を売出すことになったが、チラシを刷る金もない状態で、私が美術学校一年の時、肉筆のポスターを三、四十枚かいて三島さんの居る本郷林町附近のお湯屋と床屋へかけて廻ったことがあり、多分、その二三年後位に「カルピス」が売り出されます。     醍醐酥もカルピスも共に牛乳からクリームを抜いた、カスの脱脂乳。そのクリームに乳酸菌を弱く培養したものを「|醍醐味《サルピスマンダ》」と名付け(お釈迦さんが名付けた「最高の味」の意の由)て、それを凾舘屋で売り出しました。(醍醐酥の一、二年後)     生粋の生クリームで、始めて食べた時はそのうまさに肝をつぶしました。     凾舘屋の名物の一つとなり、井上正夫と喜多村緑郎が逸早くファンになったことが三島さんの自慢でした。相当高価でしたがコストに追いつかぬとかで永く続きませんでしたが、勿論御尊父など、いの一番に飛びつかれたことゝ想像します。     そんな訳で、上京最初に出入した店として、今も鮮やかに憶えています。     尚、「カルピス」は、当時流行し始めた|カル《ヽヽ》シウムとサル|ピス《ヽヽ》マンダ両方から、二字ずつとって作ったもので、いろ当時のことが思い出されます。 『私の食物誌』は昭和三十九年一年間にわたって「東京新聞」に連載されたもので、それに手を入れて、河出書房から開板された。伊原書簡に、新聞の購読を減らしたということが書いてあるのは、そのために、新聞連載中は知らなかった、という含みであろう。  なお『私の食物誌』は、昨年新潮文庫に収められた。  ついでながら記しておく。折口先生の肖像画をわたしを通して慶応義塾大学に寄贈されるについて、伊原さんは折り目正しく、一通の書を寄せられた。いわば、寄贈の証明書とも言うべく、古風に言えば、「折り紙」と言ってもいいだろうと思う。これを次に掲げておきたい。   昭和二十四年夏 箱根仙石原山荘でお描きいたしました 折口信夫先生の御肖像画(八号・P)を先生を顕彰するに最も応わしい代表的な場所に掲げて頂くために 寄贈いたします 作品の所有権 著作権も亦同様で 総ての取り決めは一切貴台にお任せいたします     昭和四十八年五月一日 [#地付き]伊原宇三郎      池田弥三郎様  昭和四十八年は折口先生歿後二十年であった。わたしはその記念行事として、「講座古代学」を三田において開講したが、同時にその時に、記念の展覧会を三田の大学図書館において開催した。その折に、肖像画は会場に掲げられ、右の伊原さんの折り紙も、展示された。 [#改ページ]    折口信夫の谷崎潤一郎宛礼状  ごく親しい間がらでは、かえって、手紙のやりとりということは少ない。友人仲間で、ごく親しくしていても、「会う」ということがそう頻繁でなく、しかも筆不精ではない、加藤守雄や戸板康二などからは手紙を貰うことが多いが、もっとも親しんだ折口信夫先生の場合は、永いお付き合いの間に、ついに一通も貰ったことがなかった。用件の手紙さえ一通もない。それはそのはずで、何か用があれば、すぐに電話で呼ばれてしまうか、簡単なことなら電話で済んでしまうからだ。だから、その手紙をきっかけにして、人間付き合いにまで筆を進めていく素材としての手紙は、受け取り難いのである。ずいぶん、折口先生には叱られ、たしなめられもしたが、——またごくたまには賞められもしたが——それらは証拠の品として差し出すことが出来ないのである。  小泉さんの手紙にあったように、折口先生は、『祖国』の事件の時に、同僚ではあるが、さして親しくはなく、今までは会釈をする程度であった小泉さんのところへ、つかつかと寄って行って、真情を吐露して、声援している。その場を想像すると、この折口の率直な態度に、小泉さんは多少めんくらったかも知れないし、|咄嗟《とつさ》に応対に困ったかも知れない。  しかし、こういう、|止《や》むに止まれぬ発言が、ふだんは人前ではむしろ寡黙な折口であったが、時に噴き出したようである。  加藤守雄の話によると、加藤と並んで都電の席にいた折口は、斜め向うの席に、長谷川伸がいるのに気がついた。一面識もないのに折口はつかつかとその前に行って、名を名告り、いつも、いいものを書いていただいて、たいへんに有り難いというような礼を言って、席に戻ったという。折口は前から長谷川伸のファンであったが、特に『|相楽《さがら》総三とその同志』のような、埋没してしまった人生を掘り起す長谷川伸の仕事に、共鳴し、これを尊重していた。これは、折口の高度の正義感に発するものだったと言えると思う。  この正義感は、実は折口の民俗学の原点にあるのだが、それが端的に現われている折口の手紙がある。著者からその著作物の寄贈を受けた時の、礼状として書かれたものだから、ここに加えておきたい。  昭和四十七年七月のこと、わたしは故人谷崎潤一郎氏の夫人谷崎松子さんから、一通の手紙の御寄贈を受けた。それは折口信夫が谷崎さんに送った手紙であって、おそらく、昭和四十年七月三十日に谷崎さんがなくなられて後、その遺品の中から出て来たものであって、わたしが折口信夫の門弟であることを御承知の松子夫人の、わたしへの御好意であったと思う。  すでに折口信夫の書翰は集められて、折口信夫全集第三十一巻に、二百九十一通が収められているが、もちろんこの手紙は未収録のもので、すなわち全集刊行以後の新発見のものとして、他日「補遺」として編纂されるべきものの一つである。その後、『三田の折口信夫』という本を、歿後二十年を記念して、慶応義塾大学内の国文学研究会が刊行(四十八年十月)した折に、とり敢えずその中に収めておいた。いろいろな意味で貴重な折口書翰の一つである。  ところでこの手紙は、文面によって、日付が「五月一日」であることは確かであるが、年は直接にこれを決することが出来なかった。封筒の消印が不鮮明であって、読みとれないからである。  余談にわたるが、どうして日本の郵便の消印というものは、その大半が不鮮明なのであろうか。機械が悪いのか、扱いが乱暴なのか、古い手紙の考証にあたっては、まいまい、じりじりさせられる。ないならいっそなければ始めからあきらめるが、「ここまでおいで」式に、どうしても読みとれない程度に|捺《お》してあるのだから、まったくたちが悪い。ついでにもう一言文句を言えば、「郵便番号はハッキリと」という文句などが、やけにハッキリと捺してあって、その犠牲になって、差出人の住所のほうは読めない状態になってしまっている、というのもまいまいのことだ。郵便番号をハッキリ書けとわれわれに要求して協力させ、差出人の住所氏名のほうはどうでもいいだろう、というのでは、アンバランスに過ぎるではないか。  さて、この折口書翰も、消印の不鮮明なために、直接の証拠がないのだが、わたしは内容から、これを「昭和二十年」と推断している。そして、これが昭和二十年五月一日付のものであるということは、内容から言って大事なことなのである。すなわち、そのときは、「大東亜戦争」中のことであり、しかも形勢は日に日に|枢軸《すうじく》側(日・独・伊)に非なりというときであった。そういうときに、折口が書いた手紙である。  内容は、折口が谷崎から『|細雪《ささめゆき》』上巻の寄贈を受け、それに対する礼状である。そして折口が谷崎の『細雪』を読んでいたのは、昭和二十年四月のころのことであった。ということは、当時起居を共にしていた者が目撃している。そういうことから、わたしはこの手紙が昭和二十年のものであることを推断したのである。  折口が寄贈を受けた『細雪』上巻は、橘弘一郎氏の『谷崎潤一郎先生著書総目録』によれば、「昭和十九年七月十五日 谷崎潤一郎発行 菊判三百ページ 浜田印刷所(大阪市)印刷」のもので、二百部限定の、谷崎の著書のなかでのただ一つの私家版である、という。つまり、世間普通の読者の目には触れず、手にもはいらなかったものだから、寄贈を受けた折口の喜びも、さこそと推量できるのだが、それにしては、翌年五月の礼状というと、その間にやや日が経ち過ぎているように思う。  このことについてはわたしはこういう風に想像している。それは、折口に対して、谷崎は出版後ただちに『細雪』を寄贈したのではなく、折口が昭和二十年三月に単行本にした青磁社版の『古代感愛集』を谷崎に贈ったのに対して、その返礼として折り返し、谷崎が贈ったのではなかったか、と思うのである。谷崎は折口の一歳年長であり、一方は生粋の東京ッ子、片方は生粋の大阪ッ子であり、学校生活も全く縁がなかったから、自然二人の間には私的な交際はなかった。従って谷崎のほうから自費出版の私家版を、刊行と同時に折口に対して贈呈することはなかっただろうと推察されるからである。  谷崎は、戦争中は当局によって、好ましからざる文学者としてマークされていた。谷崎の年譜によると、谷崎の『潤一郎訳・源氏物語』の刊行は、予定よりはるかにおくれて、しかも一部分はごっそりと削除されたりして、ともかくも完結したのは、昭和十六年七月のことであった。まさに大戦|勃発《ぼつぱつ》の前夜であった。情勢は、ヨーロッパにおける独ソの開戦、それに対する|牽制《けんせい》としての満州における関東軍の大増強、日本軍の仏印進駐、そして十二月八日についに大東亜戦争の勃発、という風に進行していった。その戦時下に、谷崎は、十七年に『細雪』の稿を起し、それが翌十八年一月から、雑誌『中央公論』に掲載され始めた。しかし、一月号、三月号と掲載された後に、戦時下、国民の戦意の|昂揚《こうよう》に協力すべき作品ではないという理由からだったのだろうが、もちろん弾圧する側は理由などは明らかにはしていない。要するに、陸軍省報道部の|忌諱《きい》に触れて、六月以降は掲載禁止ということになってしまった。上巻二十九章の中、十九章で中止となったのである。  その十九章の終りに「作者云う」という一言が添えてあったという(中央公論社版『日本の文学』23、『谷崎潤一郎(一)』の年譜による)。今その文章は谷崎の全集二十三巻に収められているが、今読んでも、酷薄無惨な弾圧に対して、無念の|臍《ほぞ》を噛みしめている作者の思いが切々と感じられる(細雪上巻原稿第十九章後書)。  作者云う——此の小説は日支事変の起る前年、即ち昭和十一年の秋に始まり、大東亜戦争勃発の年、即ち昭和十六年の春、雪子の結婚を以て終る。最初の計画にては一、二箇月の間隔を置きつつ引き続き本誌に連載する予定なりしが、その後作者に於いて改めて考うるところあり、此の作品が戦時下の読み物にあらざることを感ずるに至りたるを以て、一往掲載を中止し、他日、これが完成発表に差支なき環境の来るべきことを遠き将来に|冀《ねが》いつつ、当分続稿を|篋底《きようてい》に秘し置かんとす。読者諸君も、作者の決意を諒とせらるることを信じて疑わざるもの也。  しかし谷崎は、十九年四月、熱海市西山に疎開し、そして七月に『細雪』上巻は、前に述べたごとく、私家版として|僅《わず》か二百部ではあるが出版され、谷崎はこれを友人知己に|頒《わか》ったのである。  さて、こういう事情を考えた上で、次の折口の書翰を読んでいただきたい。戦時下、もし官憲の手による私信の開封、検閲の手がこの手紙に及んだとしたら、折口とて、無事ではなかったであろう。しかも、『古代研究』の著者として、日本の宮廷生活に民俗学的な考察を加えた折口は、必ずしも「好ましき国学の徒」とは思われていず、『古代研究』の発行停止さえ、たびたび噂されていた時代であった。   細雪頂戴、しみありがたく拝読いたしました。あんなことになって、当時感じた残念と申そうか、無念と申そうか、胸につかえて居たやるかたないものが、おかげで、一どきにさがりました。   時効を超越したものゝしかた、健全も不健全も、わきだめない連衆の肩できる風のすさまじさ、さだめてこれも、天下後世のわらいぐさになることでしょう。同時代の生活者として、深く恥じを感じます。   御新著こそ、すこしはずみをつけて申さば、新時代の道徳書というべきものでしょう。あの明るさは、よい生活者の持つ明るさなのです。責任者は、思うにあの御作をどうこうというている訳ではないのでしょうが、あのお作を犠牲にしたのについては、しただけの責任はあります。   くらい思想から|頸《くび》を出したばかりの人々には、あゝ言うものでも、やりだまにあげる勇気が出るのでしょう。文学をはなれて言うことが、あの人々同様にゆるされるなら、私どもだって勝手なことを申します。私どもは、あの本の言語に教えて頂くことが、多かったことを申しあげたいと存じます。   われの遠のいている間に、これだけ発達した姿の大阪詞を見ることが出来た訳です。『蓼喰ふ虫』などででも、承知はして居ましたが、今度のは、人物がすべて、健全な生活者ばかりなだけに、自分等の今後の詞というものに信頼感の持てる気がしました。そうさせて頂いた点では、「旧ざいろく」の一人として、御礼申すほかはございません。   御挨拶言上いたすつもりが、くどくなってはなはだ恐縮でございます。     五月一日 [#地付き]折口 信夫       谷崎大人         まかたち [#改ページ]      戦中の手紙

   
三十年戦争  普通「三十年戦争」と言えば、わたし達が西洋史の勉強で覚えた語である。事典によれば、「ドイツを舞台として一六一八〜四八年の三〇年間、ヨーロッパ諸国をまきこんだ大戦争」とある。しかし、ここでわたしの言うそれは、日本における「三十年戦争」であって、それは一部の日本の軍人が抱いた、日本による東洋制覇の夢を実現する戦争を、あらかじめ、そう名付けたものであったらしいが、事実はあえなく十五年で、それも日本の無条件降伏で終止符を打った。今、時に「十五年戦争」と言われることがあるが、その新語の背景に、幻影の「三十年戦争」があって生れた語なのかどうかは知らない。  わたしが三十年戦争という語を耳にしたのは、大学生の時代であった。昭和六年に大学予科の一年に進学すると、その年の秋、満州事変が始まった。そして間もなくわたしは何かの機会に、軍人の口からその語を聞いたのである。その三十年というプランが果してほんとうにあったのかどうかはわからないが、すぐにも終ると思った満州事変がなかなか片付かず、ずるずると、昭和十二年の日中事変に進み、やがて、十六年には大東亜戦争(当初、太平洋戦争はそう呼ばれた)に突入していった事態に当面しながら、わたしはたびたびこの語を思い出していた。  だから、三十年戦争ということを考慮に入れると、日本は昭和六年から「戦中」ということになる。普通「戦中」というと、もちろん太平洋戦争(昭和十六年十二月八日から二十年八月十五日まで)の期間を指し、「戦中派」などという語も、その足掛け五年を指しているわけだが、わたしの体験した昭和六年以後、今から思うと異常な出来事が相次いでいて、その経験は、その当時にあっては、「歴史」としては認識はされなかったけれども、今にして思えば、たしかに戦争は始まっていたのである。  今さら言うのも弁解がましいが、それらの出来ごとの一つ一つは、ほとんど、ことの真相は、詳細にはわたしなどの耳には届かなかった。かつての幸徳秋水の大逆事件や大杉栄らの殺害事件も、噂話のように耳にはいるだけで、ほとんど、闇から闇へ葬られてしまった。さすがに、昭和十一年の「二・二六事件」などは、首都東京における|騒擾《そうじよう》事件で、四日間にわたったことだったから、完全に国民の目に届かないように覆い隠すことは出来なかったが、しかしそれさえも、順序立った真相の報道などはなかった。国民一般の「認識不足」は止むを得なかったとしか言いようがない。  昭和八年の、特高(トッコウ。特別高等警察)の拷問によって殺された小林多喜二のことも、志賀直哉の手紙さえも伏字だらけで、わたし達は「取調べ中の心臓麻痺」という警察発表を、あやしいとは思いながら、結局事実を知るすべはなかった。  ただ、昭和十年に起った「天皇機関説」は、議会での発言などは新聞で伝えられ、わたし達も関心を持ったけれども、純粋の学説の論議が政治問題化し、美濃部達吉が東京帝国大学教授の地位を軍部の圧力によって追われる事態になっては、もはや公然とあげつらうわけにはいかなくなってしまった。  そしてその翌年が二・二六事件であった。「二・二六事件」と言っても、戦後育ちの人達には、もう耳遠い語となったらしい。これについて質問したところ、若い人達の中には、明治維新の頃の事件かと思っていた、と言った者がいたという話を、もう十年も前に聞いてびっくりしたことがあった。考えてみれば、「青年将校」だとか、「軍部」だとかいう語も、縁遠い語になってしまっている。「戦中」用語は、今やかなり詳しい注解を必要とすることになってしまっている。  ここには、その戦中の手紙のいくつかを集めてみた。手紙としては、友人の死を悼んでの見舞いの手紙であったり、獄中から家族に宛てての通信であったり、あるいは、母と子、父と子、叔父と甥、友人の間などでかわされた手紙を選んでみたが、こうして集めてみると、おのずから、戦中という苛烈な時代に生きた人達の、生活記録ともなっていて、「戦中」の体験者の記録として、側面からの興味も十分に持っていると思う。 [#改ページ]    小林多喜二の死     ——志賀直哉の手紙  志賀直哉については、ここで紹介するまでもなかろう。「小説の神様」と言われた作家であったが、その手紙も、たとえ私信であっても、いささかのゆるみもない、まさに珠玉の文章と言うべきだろう。  小林多喜二は明治三十六年の生れだから、明治十六年生れの志賀直哉とは、ちょうど二十年の懸隔がある。秋田に生れ、北海道小樽で育ったが、昭和初年のプロレタリヤ文学運動の代表的な作家となった。また、日本共産党に入党した小林は、「戦中」の国家権力の弾圧によって、地下活動にはいらざるを得なくなったが、「特高」の手によって捕えられ、築地署内において、言語に絶する拷問を受け、昭和八年二月二十日、遂に殺害されてしまった。年は三十歳であった。  小林は二十歳年長の志賀直哉を尊敬し、その習作時代から強い影響を受け、手紙を送ったり、著作を贈呈したりしていたが、地下生活にはいる直前の、昭和七年四月には、奈良在住の志賀のもとを訪れている。ただ一度の面会であった。  志賀もまた小林を認め、「前途ある作家」として注目していた。岩波書店版の『志賀直哉全集』の「書簡」篇には、小林宛の志賀の手紙が二通(昭和六年七月十五日、八月七日)掲載されているが、後者はことに長文であって、当時のプロレタリヤ文学に対する批判としても、重要な意味を持っている。また、そういう批判の私信を志賀に書かせるだけの期待を、志賀が小林に対して抱いていたことを示している。  その小林が不幸なる死を遂げたのが、昭和八年二月二十日、そしてその日からわずか四日後に、志賀はその死を悼んで、小林の母、小林せき宛に、次の手紙を書き送っている。手紙の日付は二月二十四日である。(『全集』第十二巻所収。番号、六二九。)   拝呈 御令息御死去の趣き新聞にて承知誠に悲しく感じました。前途ある作家としても実に惜しく、又お会いした事は一度でありますが人間として親しい感じを持って居ります。不自然なる御死去の様子を考えアンタンたる気持になりました。   御面会の折にも同君帰られぬ夜などの場合貴女様御心配の事お話しあり、その事など憶い出し一層御心中御察し申上げて居ります。同封のものにて御花お供え頂きます。     二月二十四日 [#地付き]志賀直哉     小林おせき様 この手紙、『全集』の「後記」によれば(紅野敏郎氏執筆)、昭和八年五月二十七日発行の『文化集団』六月創刊号に発表されたが、それには、  〈人間として親しい感じを持って居ります。・・・・・御死去の様子を考えアンタンたる気持になりました。〉  とあったという。小林の死の尋常でなかったことを言っている「不自然なる御死去」のくだりが伏字になっていたわけだが、これが昭和十三年六月の改造社版の『九巻本全集』になると、  〈人間として親しい感じを持って居ります。〉  とあるだけで、あとは削除されているという。昭和八年から十三年までの時の推移が、そこにまざまざと読みとれる。——わたしなどがこの志賀の手紙を始めて読んだのは、改造社版の全集であったのだから、そこに「知らされざる当時の社会情勢」の一端を、想像することが出来る。——  手紙の中で、志賀は小林の死を新聞で知ったと書いているが、新聞に報ぜられた小林の死因は「取調べ中の心臓麻痺」という警察の発表だけだったのだから、その死を、志賀が「不自然なる御死去」と記しているのは、作家という位置での、別の情報が得られたからなのでもあろうか。もっとも、ほとんどの人達が、こういう場合の警察の発表を、そのことば通りに受取ることはなかった。すでに、こうした発表に対する国民の信頼は失われていた。ただ、それに対して疑いを|質《ただ》そうとする勇気も、次第に国民の側においてなくなっていったことが、結局、国の破局に向っての無謀な歩みを、防ぎとめることなしに、なすがままにさせてしまった、ということになった。  この手紙は、わたしの編著『日本人の手紙』(昭和五十年二月二十二日白馬出版刊)の中にも掲出したが、それには岩松研吉郎君(現在慶応義塾大学文学部助教授)が、次のような「解説」を執筆している。   小林せきは、多喜二の母。長子は早世し、夫とも死別して、多喜二を頼ること厚かった。多喜二もまた、母への情は細やかであったようである。   権力によって殺され、その葬儀までも弾圧されていた、当時の「国賊」に、立場の違いを自認しつつも、ふかい人間的な同情をよせ、死後すぐに、書き送った手紙として、志賀直哉のモラル・バックボーンのたしかさをよく示している。率直で淡々とした筆致も、いかにも志賀直哉らしいものである。   この小林の死の頃から、プロレタリア文学運動は急速に退潮期に入り、やがて、いわゆる「暗い谷間」の戦争協力文学の時期に、文学は向ってゆくのだが、ここで、ためらいなく小林を追悼し、「アンタンたる気持」を表明した志賀が、そのなかで自己を守ってゆるがなかったことは、注意して想起しておいてよい。逆に、そうした志賀であるが故に、この手紙のあたたかさが、一そうたしかにも感じられるのである。  なお岩松君は、手紙の本文の「注」として、「前途ある作家」ということばについて、次のように記している。  小林多喜二は、習作時代から、志賀直哉の文学につよい影響を受け、手紙を送ったり、著書の献呈をしたりしてきていた。志賀もまた、これに応えて、たとえば、昭和六年八月七日付の多喜二宛書簡では、次のように書いて、小林を批判しつつ認めている——「手紙大変遅れました。/君の小説、『オルグ』、『蟹工船』、最近の小品、『三・一五』という順で拝見しました。/『オルグ』は私はそれ程に感心しませんでした。『蟹工船』が中で一番念入ってよく書けていると思い、描写の生々と新しい点感心しました。/『三・一五』は一つの事件の色々な人の場合をよく集め、よく書いてあると思いました。/私の気持から云えば、プロレタリア運動の意識の出て来る所が気になりました。小説が主人持ちである点好みません。プロレタリア運動にたずさわる人として|止《や》むを得ぬ事のように思われますが、作品として不純になり、不純になるが為めに効果も弱くなると思いました。大衆を教えると云う事が多少でも目的になっている所は芸術としては弱身になっているように思えます。〔下略〕」。世間的にも、小林は、『中央公論』・『改造』など、当時のいわゆる一流誌に作品が掲載され、「前途ある作家」とよばれうる存在であった。  右の文中に引用されている小林への志賀の手紙は、書簡番号五九八である。 [#改ページ]    二・二六事件小林多喜二の死     ——反乱将校の遺書  昭和十一年二月二十六日に起った、いわゆる「二・二六事件」(『世界大百科事典』には「ににろくじけん」とある。わたし達は「にいにいろく」、もしくは「にいてんにいろく」事件と言っていた)は、何と言っても、わたしの大学生時代の最大の社会的事件であった。しかしそれとても、経験した出来ごとを一つの立体的歴史的事実として構築することは不可能であった。陸軍部内の急進派に、皇道派と統制派とがあって、次第にその対立抗争が烈しくなりつつあった、などということを、的確に知ったのは、すべて「戦後」のことであった。しかしすでにその頃、軍の首脳部が急進的な青年将校を忌避して、これを遠|退《ざ》けようとし、それらの将校の多くいた東京の第一師団の満州派遣をきめ、これを発表したことが、|蹶起《けつき》の引き金になったらしいということは耳にしていた。「要するに行きがけの駄賃さ」などという「真相」がささやかれていた。それはともかく、その事典の記事によって、二・二六事件を解説すると、 〈一九三六年(昭和一一)二月二六日、東京市内でおこった陸軍部隊の反乱事件。〉  ということになる。しかし、過去の事実として記述すれば、「反乱軍」ということになるが、初めは「蹶起部隊」などとも言われ、わたし達には、クーデタを起したらしい軍隊の一部を、是とするのか非とするのか、一向にわからなかった。もし|頑是《がんぜ》ない子どもから、素朴に「この人、いい人、わるい人」と聞かれたら、即座には誰も答えられなかっただろう。  わたしはその日は大学の学年末の試験で、東京築地のアパートを朝九時頃に出た。アパートの前が市電の築地の終点で、そこは折返しの新宿行の起点となっていたのだが、電車は日比谷行ばかりで、普段日比谷行などは出ていないので、変だなとは思ったが、学校に行くのには差し支えはなかったので、別に大して気にも留めずに、三田の大学へ行った。答案を書き|了《お》えて教場を出て来ると、友人の加藤守雄がうしろから来て、「おい、池田。ちょっと愉快なことが起ったよ」と言った。今朝、警視庁が軍隊に襲われて、警官がだいぶやられたらしい、と言うのである。これがわたしが耳にした二・二六事件の第一報であった。加藤は警察病院の院長をしていた伯父の家に下宿していたので、そのほうからの情報であった。  加藤が「愉快なこと」と言った真意は、いろいろと憶測が出来るけれども、第一は、当時われわれの前には「憲兵」などは現われず、もっぱら巡査であり、ことに特高の惨虐、無理無体については、まいまい聞かされていたから、警官がやられたと聞いて、軽い意味で|溜飲《りゆういん》のさがる思いがしたのだったと思う。しかしもう一つは、いわゆる「戦中」のうっとうしさが、次第にまわりから押しつぶされそうな力でじわじわと迫ってくるのを感じていたので、何でもいい、この|憂欝《ゆううつ》を一掃してくれさえすれば、という気持ちがあったことも否むことが出来ない。  事件の記録類を読むと、当日は|霏々《ひひ》として雪が舞い、銀座の繁華街も灯を消して死の街と化した、などと書いてあるが、どうもそれは絵空ごとだ。たしかに雪は降ったが、それは前夜半から早暁へかけてのことで、少なくとも、朝に到った時にはすでに止んでいた。そして銀座の街も、いまにも内乱が始まり、撃ち合いが始まるかも知れないという懸念はあったが、一方、物見高い野次馬気分や、何とか真相が知りたいというような気持ちも働いて、相変らず街裏には人が出ていて、看板のネオンなどは遠慮したかも知れないが、決して死の街などではなかった。ということは、大衆は、騒ぎは陸軍内部のことで、われわれには関係はない、ということを|嗅《か》ぎわけていたのだということになる。事件が首謀者の望んだ方向へは進まず、国民一般の支持も得られず、間もなく|終熄《しゆうそく》してしまったのも、当然のことだったと思われる。  その前後のことだったと思う。軍隊と警察との対立が大阪で起った。ことの起りは軍人が交通信号を無視し、これを制止した巡査と抗争になり、それが、子どもの|喧嘩《けんか》に親がついた形に発展して、軍隊と警察との対立になった。その争いの中で、軍隊側がわれわれは天皇の|股肱《ここう》だと見栄を切ったところ、売りことばに買いことばで、警察側も黙ってはいず、軍人だけが何も天皇の股肱ではない、われわれだって臣民であって、股肱の警官だと言い返した。そこで論点は、警官は天皇の股肱かどうかと言うことになったが、軍人に対しては「朕は汝等を股肱と頼み」と、天皇が勅諭の中で仰せられているが、警官に対してはそういうおことばがなく、結局、その論争では警察側が負けて、泣き寝入りするという結果になった。  こんな話をここに持ち出したのは、この出来事などが、国民一般の面前に、横車を押す「軍部の姿」がちらつき始めた、印象的な一|瑣事《さじ》であったからだ。  わたしの父などはごく平凡な一人の市井人に過ぎなかったが、二・二六事件に対する感想は、近頃、軍部は少し図に乗り過ぎる、という|顰蹙《ひんしゆく》であった。思想問題などにはなんの理解も持っていない人だったから、感情的な批判を自分達のことばで言うだけのことであって、しかしそれだけに大衆の反応をそこに|見易《みやす》かった。わけを聞いてみると、東京の下町の、関東大震火災に遭遇した罹災者達は、戒厳令を布いて、治安の維持はもとより、日常生活の給水給食まで、手厚く世話を焼いてくれた軍隊に対して、それ以来深い信頼を寄せていた。それなのに近頃の軍部は民衆の信頼に根ざした感情に|狎《な》れて、図に乗り過ぎる傾向が目立つようになっていたが、とうとうこんな、べらぼうな事件を起してしまった、というのである。そして、民衆特有の敏感さから、「軍隊」と「軍部」という語をちゃんと使い分けていた。軍隊は親しむべく、軍部は|厭《いと》うべきものであった。  この事件に対する当時の知識階級の人達の反応はさまざまであったが、言論の統制と圧迫とが、今日からでは想像もつかないほどであった時代だったから、多く、口を|緘《かん》して語らなかった。この時に、もっとも早く反応を示して、納得し得ない憤りを表現したのは、わたしの知る限りでは、歌人釈迢空(折口信夫)であった。折口は、『中央公論』四月号——ということは、三月の発売であり、従って制作は事件の直後ということになる——にまず短歌六首を発表し、続いて四首を加え、昭和十二年に到って、それらは前後十七首に及ぶ連作となった。これは当時としてはもっとも勇気を要することであったが、折口も後に回想するごとく、これらの歌を制作し発表し得たことは、はなはだしい倖せであったというほかはない。——それらについては拙著『私説折口信夫』(中公新書)一四八ページ以下を見ていただければ幸いである。——  ところで、前説はこのくらいにして、事件の当事者の側に目を転じよう。そして、本書の本筋に立ち戻って、一通の手紙を挙げておこう。それは「戦中の手紙」としても、はなはだ貴重なものである。——以下、『日本人の手紙』からの引用を主とする。注や解説は、現慶応高校教諭金井広秋君の筆になるものである。またこの手紙を選択してわたしに示してくれたのも、同君であった。  手紙は、二・二六事件の|首魁《しゆかい》磯部浅一が、事件後捕えられていた獄中から、妻登美子、弟須美男に宛てたものである。日付が昭和十一年七月六日になっているのは特別に意味がある。すなわち事件の首謀者達十四名に対して、死刑の宣告がくだったのが前日の五日であって、この手紙はやがて処刑される運命の確定していた人によって書かれたものである。だから「遺書」と言ってもいいものであるが、手紙の中には、「大切な事は遺書に詳しく書いておく云々」とあるので、ちょっと戸惑うが、事実上は遺書とみていいものだろう。ただし、磯部の場合は、村中孝次とともにほかの人達と分離され、ほかの人達が即決的に七月十二日には処刑されてしまったのに、このあと、一年余り獄中生活を送っていた。  磯部は、山口県大津郡菱海村河原に、明治三十八年に生れた。大正十五年、陸軍士官学校を卒業し、昭和八年、陸軍経理学校を卒業して二等主計となり、同九年、一等主計となったが、同年四月、「十一月二十日事件」によって、村中孝次とともに停職処分を受け、「粛軍に関する意見書」を作製して配布したために免官となった。二・二六事件の文字通りの首魁であり、昭和十二年八月十九日に処刑された。年は数え年で三十三歳であった。    拝啓。梅雨が晴れたら暑くなる事だろう。|御前達《おまえたち》は元気かね。私はとても元気だ。身体も元気だが、それよりも精神が非常に元気だから安心せよ。    次の件はよく考えてそれぞれ処置せよ。   一、臼田様へ手紙を出したいから住所を至急通知せよ。   一、|山《(1)》口と|新《(2)》京へは、私が決して忠義道をフミチガエテ居らぬと云うことをよくよく知らせて呉れ。   一、新聞社その他の者に面会するな。今は何事も云うてはならぬ。   一、山口の弟等があわてて上京したりする様な事がない様にあらかじめ通知しておけ(上京させない方がいいのだよ)。   一、私の身の上の事ばかり心配しては、|野《(3)》中さんや|河《(4)》野さんにすまないと云うことを考えよ。又自分の不幸をなげく先に、|田《(5)》中さんやその他新婚したばかりの奥さん方や、子供の二人も三人もある奥さん方の事を考えねばいけないぞ。   一、差入品を|有難《ありがと》う。着物類は絶対にいらないからもう決して心配するな。食品の方は果物は止めて呉れ。その代りに夕御飯を入れて呉れ。あまり心配しないでカンタンにして呉れないとこまる。   一、|分《(6)》籍の件は早くしてくれて大変よかったね。御前がよく気をつけてやって呉れるので将来のことも少しも心配はない。安心し切っている。   一、これから先は私の代理は|須《(7)》美男さんだから何事につけても須美男さんを表面に立てよ。そして女は出シャバラない様にせよ。   一、一日も早く新京の父母と一所になる様に努力せよ。   一、御経の浄写したのを入れて呉れて誠に有難い。御前達も御経をよめ。   一、|と《(8)》み子、御前には須美男さんをたのむよ。此の数年間運動にばかり力を入れて、お前達二人の世話をちっともせず、かえって叱ったりしたのは誠にすまなかった。特に須美男さんに済まないから、将来私にかわって御前が死力をつくして須美男さんを成功さして呉れ。   一、須美男元気かね。あんたは必ず立派な人物になると兄さんは信じて居る。兄さんの期待にそむかぬ様努力せよ。姉さんは弱いからよく助けてあげよ。お前は男だから姉さんが泣く時でも決して泣いてはいけないぞ。男子は強くなくてはいけないぞ。   一、その他、大切な事は遺書に詳しく書いておくからその積りでいよ。   一、神仏を信ぜよ。必ず御前達を|援《たす》けて下さる。     十一年七月六日    登美子殿    須美男殿  家族への手紙のことだから、当事者以外にはわかりにくいこともあり、また固有名詞なども出てくるので、わずらわしいが「注」を付しておく。  1 山口県。磯部の弟が居住。  2 満州国の首都。磯部の両親が居住。  3 |野中四郎《のなかしろう》(明治三十六年〜昭和十一年)。陸軍大尉。二・二六事件当時、歩兵第三連隊第五中隊長であり、村中孝次、磯部、栗原安秀、安藤輝三、香田清貞とともに事件の「首魁」。二月二十九日午後、陸相官邸の一室で拳銃をもって自決。  4 |河野寿《こうのひさし》(明治四十年〜昭和十一年)。航空兵大尉。事件には単身所沢飛行学校より参加、湯河原に牧野伸顕を襲う。受傷し熱海陸軍|衛戌《えいじゆ》病院に入院中、三月六日|自刃《じじん》する。  5 |田中勝《たなかまさる》(明治四十四年〜昭和十一年)。陸軍中尉。昭和十年十二月、平山久子と結婚。事件に至る。処刑(昭和十一年七月十二日)後、十月十二日、長男孝誕生。事件の急進派の一人である。  6 籍を分けて、独立すること。磯部浅一を分籍し、磯部亡き後、弟須美男を戸主として、家を守ろうとしたのであろう(あるいは、磯部が妻登美子に指示したか?)。  7 磯部の弟。  8 磯部の妻。  最後に、金井広秋君の書いた「解説」を載せておく。     昭和十一年七月六日、渋谷区宇田川町陸軍刑務所より、磯部登美子へ宛てた遺書。安藤、栗原以下十四名は、七月五日の死刑宣告後、七月十二日に処刑されているが、磯部と村中孝次だけは、十四名が処刑される前日、突然分離されて、さらに一年余の獄中生活を送り、昭和十二年八月十九日、最期を遂げている。遺書執筆後、磯部は、一年余にわたって生きつづけたわけである。   磯部は、二・二六事件の中心であった「青年将校」のうち、恐らく、もっとも強烈な個性の持ち主である。死刑の求刑があった後、たまたま磯部と一緒になった栗原安秀は、「磯部さん、あんたは不思議な人だ、あんたに会うと何だか死なぬような気がする」と言ったという(磯部「獄中手記」)。磯部は、彼以外の「お人好な」青年将校たちと違って、「諦め」を知らぬ男であり、つまりは、決して「|成仏《じようぶつ》」し得ぬところの、|此岸《しがん》の生にあくまでも執着し抜いた「悪鬼」であった。死刑宣告後、処刑までの一年余の間に執筆された「行動記」「獄中日記」「獄中手記」等は、かかる激しい個性の阿修羅のような生きざまを伝えている。  「毎日大悪人になる修業に御経をあげている、戒厳司令部、陸軍省、参謀本部をやき打ちすることも出来ない様なお人好しでは駄目だ、インチキ|奉勅《ほうちよく》命令にハイハイと云って、とうとうへこたれる様ないくじなしでは駄目だ、善人すぎるのだ、テッテイした善人ならいいのだが、余の如きは悪人のくせに善人と云われたがるからいけないのだ」(獄中日記)。   磯部の考えでは、「維新革命」の挫折の根源は、主として、磯部を含む青年将校たちの、軍部に対する(天皇を中心とした「旧勢力」に対する)「幻想」にこそあった。今、獄中にあって、いつ死刑を執行されるかわからぬ身で、磯部は叫ぶ。「陛下、なぜもっと民を御らんになりませんか、日本国民の九割は貧苦にしなびて、おこる元気もないのでありますぞ。陛下がどうしても菱海(磯部の号)の申し条を御ききとどけ下さらねばいたし方御座いません、菱海は再び、陛下側近の賊を討つまでであります。今度こそは宮中にしのび込んででも、陛下の大御前ででも、きっと側近の|奸《かん》を討ちとります」(獄中日記)。   磯部の絶叫は、むろん徹底的に無効である。天皇にしろ軍閥にしろ、磯部の絶叫なぞにおかまいなく、適当にやっていく腹だったろうし、現に、適当にやっていた。鬼のように精力的な磯部は、一時、妻を介して、北一輝・西田税との関係を記し、両名への当局の弾圧を批判した文書を獄外で発表することに成功し、当局をあわてさせたが、要するにそれだけのことであって、磯部の「呪い」は磯部の死体とともに闇に消えるしかなかったのである。   磯部の遺書が、他の青年将校のそれに見られるごとき、「国士」風・文学青年風センチメンタリズムを微塵も含んでおらず、徹頭徹尾「娑婆的」なのも、磯部の真面目をよく示している。 [#改ページ]    軍 事 郵 便     ——一主計将校・安藤 蕃の手紙  戦中の手紙の中には「軍事郵便」と称するものがたくさんにあった。軍務に服している軍人が、内地外地を問わず、兵営内で|投函《とうかん》すれば、それには皆「軍事郵便」という印が捺された。というよりも、始めから朱の色で軍事郵便と印刷してある封筒を使用したのである。そして必ずそれには「検閲済」という印と、検閲者の|捺印《なついん》とがあった。軍人には「私信」などの権利はなく、信書の秘密などということは、軍部にとってはナンセンスであった。右だろうと左だろうと、過激思想には極度に敏感だったための警戒と、反軍的思想や|厭戦《えんせん》気分を|煽《あお》るような内容のものも摘発の対象となり、続いて「防諜」ということが神経質なまでに|喧《やかま》しくなっていった。「防諜」ということから、「軍事郵便」はすべて差出し場所を記さず「派遣軍」「部隊」「隊」という固有名詞であった。  もっとも、わたしなど、その警戒のうらをかいて、後に召集されて、行く先は満州の奉天らしいと聞いて、もちろんそんな地名は書けないが、書き出しの文句を拾うことを、留守の者と約束しておいて、   ほんとうにいろいろとありがとう。……   うっとうしい雨が続いています。……   天気も間もなく回復するでしょう。……  と書いて「奉天」という地名を知らせたりした。  たくさんの手紙だから、「検閲済」の捺印なども好加減かと思っていたが、必ずしもそうではなくて、満州にいた時に、わたしは一度中隊長に呼ばれて、わたしの手紙の文句の一部について、注意を受けたことがあった。別に思想問題だとか、防諜などにひっかかったのではなく、この書き方は留守宅の人に余計な心配をかけることになる、という、親切な注意だった。わたしはそういう注意を受けたということよりも、検閲済という印は、好加減にぽんぽん捺しているのではない、ほんとうに読まれているのだということを知ったのである。  ところが、どういうことか、わたしの手箱の中から、ひとたばの「軍事郵便」が出て来た。本来ならば、わたし宛の軍事郵便などが「戦後」になって、まとまって出てくるなどということはあり得ないのである。わたしが内地在住の「地方人」——軍隊においては、軍隊以外は「地方」と言った——として受取った軍事郵便は、昭和十六年七月十五日のわたしの応召入隊以前のものであるから、わたしの軍隊生活の間に、東京の留守宅の戦災による焼亡の折に、すべて|烏有《うゆう》に帰してしまったはずなのである。それが数通まとまって出てきた。  差出人はすべて安藤蕃。当時は陸軍の主計将校で、現在は日本短波放送の社長。わたしとの付き合いは、昭和六年四月、慶応の経済学部の予科にはいった時からで、今日に到るまで、交遊はまさに五十年に及んでいる。前に本書に登場した井筒俊彦、加藤守雄など、皆同じ交際の履歴である。そしていまだに、もっとも遠慮なく言い合える仲である。  この、安藤の手紙が出て来たので、本書の「戦中の手紙」の構想が立った。すなわち、三十年戦争(実際は十五年)の折に、気負いもたかぶりもなく、平然としてその時代を生きていた、いわば平凡な多くの日本人の、典型の一つをそこにみることが出来る。「戦中」を生きた人達の大半は、右よりでもなく左よりでもなく、世間が右よりになれば左と目され、世の中のほうが変って左よりになれば右だと言われる、と言った、もっとも平凡にしてしかもゆるがない、健全な人達だった。そういう「一人」の記録として、安藤の手紙をみることが出来る。歴史家は顧みない。それゆえにこそ大事な記録である。  その上に一つ付け加えたいことは、主計将校だった彼には、実際には検閲はなく、軍事郵便ではあっても、それはフリー・パスであったから、たとえば同じ召集された軍人でも、わたし達には言えないことでも、彼は平気で書いている。そして「職業軍人」でない将校、それも経理の将校であったことが、その感じ方、考え方を、とらわれないものとしている。少なくとも、たてまえにわざわいされたつまらなさはない。むしろ、軍人に宛てて出す時のわれわれのほうが、相手の迷惑を考えて気をつかった。  以下配列する安藤蕃の手紙は、昭和十四年三月のものから、昭和十六年四月まで。お互いに数え年で、二十六歳から二十八歳までのもので、ここに並べた手紙の最後のものを受取った後、三カ月余りで、わたしは応召、出征した。なお安藤蕃についてはわたしは「旧友・安藤蕃」を書き、『わが戦後』(牧羊社刊)に収めた。   拝啓   先日は失礼。あの時は続けて三日外出した。静岡の親戚に不幸があり、親爺が丁度議会で忙しく行けぬので小生名代にて行って来た。久し振りに汽車に乗り、最近の慾望の一つを満し得た。   春の訪れを感じつゝ仲々暖かくならないのには閉口してる。去年の今頃は、丁度富士で一期の検閲を済まし、帰営した頃で、品川からの帰り路汗に濡れて居た。   廿六日附で一等兵に進級して、廿七日から二泊三日の外泊を得て帰宅して、無上の幸福を味わったものだ。来年の今頃は、首尾よく満期除隊、或は召集解除で、更に大きな幸いを感じたいものだ。   此の頃は、仕事の方も少し宛サボリ、要領を覚えて来た。   今衛生部見習士官十五名、経理部見習士官二名で、見習士官室に入って居たが、衛生部の連中は全部配属が決り、夫々、佐倉、甲府、国府台、習志野、等々に行って仕舞い、経理の方も一名新設付きで、歩一へ転属して仕舞い、今此の中隊には小生一人、従って将校室に起居して居る。所謂将校なるものとは今余りつきあいがないので、其の折合いに目下苦心して居る。   来週は、二日、三日と休みが続く。良い映画でもあれば、又観に行こう。「トランプ物語」見たか。仲々興味深かった。|抑々《そもそも》の発端が気に入った。モーパッサンの嫌いな貴兄もあの位の皮肉なら肯定する事と思う。   昨日は午前中、吉祥寺の姉の所へ行き、赤ん坊をつれて、井ノ頭など散歩して、エラク|和《なごや》かに成って来た。春の空気を充分吸収する積りで居る。 [#地付き]安藤 生      三月廿七日    弥三郎兄  わたし達は「徴兵延期」の恩典に浴していたが、昭和十二年三月に大学を卒業し、その年、徴兵検査を受けた。安藤は甲種合格、わたしは第一乙種合格、加藤守雄は丙種合格であった。さしあたり、加藤はほとんど軍隊とは無縁、わたしは召集される危険の圏内、安藤は現役として入営がきまっていた。そういう状態で、わたし達の「戦中」の生活の、大学卒業以後が始まり、次第に本格的な「戦中」になっていく。  右の手紙にある安藤の「親爺」は、戦後に文部大臣を勤めた安藤正純氏である。  まだ、軍隊生活もどこかのんびりしていて、安藤は来年の今頃は首尾よく「満期除隊」か「召集解除」で、などと言っている。こんなことが自由に言えたのは、彼が将校だったからで、しかもこの手紙だけは軍事郵便ではない。外出した時に、投函したと思われる普通の郵便物である。  次には印刷した葉書で、中支派遣軍の所属になった挨拶状がある。日付は昭和十五年一月二十六日である。彼も人並みに「日夜軍務に|鞅掌 罷 在《おうしよう まかり あり》候間」などと書いている。「中支派遣軍岩松部隊細谷部隊本部」となっているが、次の手紙になると「岩松部隊高品部隊経理室」となり、上海だ、南京だなどと、防諜上の禁止事項を平気で犯している。  この中支滞在中に貰った手紙が三通ある。初めの二通は昭和十五年のもので、六月十五日付のものと、八月二十五日付のものだ。そしてこの間に、どうしたことか、わたしが彼に送った八月四日付の手紙が、彼の手紙にまじって出てきた。しかし日付ではそういう順序になるが、内容からみると、必ずしも、直接のやりとりというわけではない。   君には知らさずに此方へ来て仕舞った。全くの所知らせる暇が無かったと云っていゝ。わいと送られるのが嫌で、極めて親しい者丈に知らせたんだが、君には銀座の方へ一寸寄り、兄上に丈話して来た訳。然し、結局の所、出発の事が知れて仕舞い、親爺の関係者がゴタ来て仕舞い、私の望んで居たスマートな出発は出来なかった。汽車が出てから、親しい人達ともろくに話の出来なかった事が無暗と淋しかった。其れ丈に、黙って乗って来て、品川送って来て呉れた女の子の優しさを沁々と感じたものだ。   熱海で降りて仕舞い、ホテルで数時間を過し、午後十一時何分かに急行に乗って寝台車へ潜り込んだあたりは 仲々スマートだろう。大阪で下車して、三時間許り叔父貴の所へ寄り、寛いだ。之から戦争へ行く様な気分には全然成れず、広島で下車するのに危く拳銃を忘れかけたりした。   俺は最近相当運に乗って来て居る。(兵隊に採られたと云う事を除けば。)|宇品《うじな》から乗船した船の一等運転士が従兄で、上海の四日間、豪遊な生活をするに至っては、吾が武運(君は悪運と云うに極ってるが、)に頼る気持が益々強い。上海では遊べなかった。同船した部隊からチブスが発生した為、|傍杖《そばづえ》喰って、呉淞の外れの方に二日間隔離された。最初の晩、一里許り離れた村に|匪賊《ひぞく》の襲撃があり、銃声に起されて、武装して待機する等、余り好い気持ではなかった。   南京は良い都市だ。些か広過ぎて、間の抜けた様な感じはあるが、大陸的な気分が濃い。当地は南京より汽車で四時間、景色のよい、良い処だ。経理室は市街の中央にあり、中国銀行跡を使用してる。官舎は此処から徒歩廿分許りの小高い丘の上にあり、俺の部屋は十五畳許りの洋間、ファーニチュアも揃ってるし、君の居た山田アパートの部屋などとは一寸格が違う。一向に戦地へ来た様な気がしない。尤も当地は比較的治安も維持されてるし、市街も開けて居る。然し、聯隊の分屯大隊は数里離れた所で連日敵と戦闘して居る。之等の大隊からの請求如何で何時派遣されるか判らぬ状態だが、一向に出鱈目を仕度い様な気持にも成れぬ。唯、暑いのには閉口だ。日中は百二、三十度に昇る、然し、空気が乾燥してるので、其れ程には感じない。此の炎天の中で当地の支那人は能く働く。一見怠惰に見える彼等だが、粘り強い労働力を持って居る。復興の活気が街全体に溢れて居る。   水が飲めないので、ビール許り飲んで居る。当地に在る師団の野戦倉庫の倉庫長と云うのは吾々の一期前の幹部候補生で、二三日の中にすっかり意気投合、従ってビールの補給には事欠かない。   仕事は忙しいが、何とかやって居る。仕事の方には、精力を出し切らずに、自分の研究をし度いと思ってる。当地へ来て支那人と云うものに強い興味を覚えて仕舞った。彼等の生活を知り度い慾に駆られて居る。言葉も不自由を感ずるので、支那語の本を買って来た。   欲しいものは大抵街に在る。唯、本に不自由する。時折、面白い本が出たら送って呉れ。煙草はうまいものが安くて恵まれてる。内地へ帰ってから、当分、弱る事と思う。   兎も角も此処はそんなに悪い所ではない。仕事や何か無くて、本でも読んでるなら割合に暮しいゝ所だと思う。此方へ来る前、内地で遊んでも面白さを感じなくなって居た小生、今の所は大して、内地に未練を感じて居らぬ。加藤にも便りし度いが、今の所余り手紙は書けない。知ってる連中には皆に宜敷く伝えて呉れ。    昭一五     六月十五日    池田 兄 [#地付き]安藤 生   次の一通は私の安藤宛の手紙。   例の如き無沙汰で、又怒られそうだ。戦地に居ると、する事が簡単だから、いくら忙しくても、余力を手紙に集中する事が出来るらしい。その証拠には、軍人の返事の方が、きちょうめんだ。此は銃後の人間の熱誠の足りなさでも何でもないのだ。と俺はそう思っている。   後手に廻りだした事を言って来たのが、二度来たと思ったが、すぐあとから、暑中見舞が来た。暑中見舞の方は消印がトシマだったから、苦笑した。俺もきっと、うちに言いつけてさせるに違いないので、おかしかったのだ。君もさすがに都会人だよ。   生徒を教えていると、彼等が都会の子な事に、驚く事がある。此間、七月の本試験の最中、かんとくをしながら、徳川夢声の「くらがり廿年」と言う文庫本を読んでいた。机の間を廻りながら読んでいる中、おかしくてふふふっと笑いを洩すのだ。すると其声を聞いたまわりの二、三の生徒達は、俺が彼等の答案を覗いて、おかしな誤りを発見し、それを笑ったのだと合点して、あわてゝ、答案を見直すのだ。   くらがり廿年は、『新青年』の黄金時代に続いていたから、君もしっているだろう。やはり才筆の面白さ以外に、内容自体が回顧的興味をそゝって、懐しくもあり、淋しくもあった。俺達の子供の頃は、ちょっと吹く口笛が、リゴレット、カルメン、デアボロだったんだから、今のジャズ流よりは高尚だったのだが、源流が源流なのだから、同じ様なものだ。併、自転車を走らす小僧さんの口からなにわぶしが洩れるより、ボッカチオでももれた方が宜しいよ。   ぜいたく品がいよ十月からうられなくなる。俺が制限値段で困るのは、万年筆の五円也だが、今オノトを二本もってるから、とう分いゝだろう。すると、制限値段にひっかゝる俺の必需品はないのだ。いかに俺が普段つゝましかったかゞ|訣《わか》るだろう。が一方から言えば、万年筆は俺の生活に直接関係があるので、制限値段の低すぎる事が訣るので、外の品は俺と直接の関係がないから訣らないのかもしれない。万年筆五円では、俺にはどうにもならないが、それと同じ様に、三百円では、西陣織など、どうにもならないのだろう。だが、実生活は、ちっともこの禁制でみじめにされたとは思われない。   人間なんて、すぐ慣れてしまう。怖しい程それが早い。助かりもするけれど、淋しくも思う。事変勃発当時とは比較にならぬ逼迫状態も、緩慢に来たから、つぎと慣れていった。それは助かりだと思う。併、人生の悲しみもこうしてなれてしまうのかと思うと淋しい。今年、七月の下旬、生徒百丗名と山中湖畔の山荘にくらしたが、その中の一人が、不幸、急病で不帰の客となった。大変な苦労を、そのためにした。それが十日間滞在の三日目の出来事であった。四日目五日目と、その出来事が僅かずつうすれてはいったが、夕映えの美しい畔りに居て、はれやかな気分に浸っていると、おびやかす様に、「あゝ、こゝであれがなくなったんだ」と言う記憶がよみがえって来る。すると、妙に悲しい景色になってしまうのだ。人生なんて、こう言う悲しい景色を、あちこちに一つ一つ作ってゆく旅なのだと思うと空おそろしい気がするが、幸か不幸か、それを忘却させ、慣れさせるものがあるのだ。いつまでも此記憶が鮮明ではやりきれないが、しかし、あれ程の大事——実際おお事だった——をも、いつか忘却してゆく事は、淋しいと思う。戦争で、こんな俺の経験なんか、笑いとばす程の苦しみの中にいて、しかし君には、もっとすみやかに|なれ《ヽヽ》と忘却とが来るのだろう。そんな事に就いて、君はどう思っているだろうか。   今俺は、信州野尻湖畔の旅宿にいて、此をかいている。二、三日後には赤倉にうつり、ひと勉強するつもりだ。以前は、こう言う安逸面を書きおくる事は、はゞかられたが、今はそう思わない。今日にも召集が来れば、やはり平然と一兵になれる自分だと思うと、戦争の様な時にも、人各ゞの生き方の違い、天命の相違のある事を、為方ない事に思うのだ。   壮健であられよ。     八月四日 [#地付き]池田弥三郎     安藤 蕃様   拝啓   私の戦地に於ける歴史も已に三ヶ月を数えるに至った。此の三ヶ月間に私の上に起った事、私がして来た事は、私の生涯の中で確に歴史として残る事だと思って居る。誰でも興味ある仕事には熱中出来る。先刻御承知の様に私みたいな至極我儘なそして、束縛の極めて嫌いな男がどうして此んなつまらない仕事に夢中に成り得たか省みて自分にも判らない。多分周囲の熱情に|不知不識《しらずしらず》溶け込んだのだろう。   前線に出て糧秣の補給の巧く行かぬ時など曾て感じた事のない様な焦燥に駆られた。此んな時だって疲れ切って|喘《あえ》いで居る兵隊達に少しでも早く給養してやり度い等と云う|高邁《こうまい》な精神が宿って居た訳でも何でも無いのだが。又、師団の経理検査があると云って、出征以来(当隊の)出鱈目に成ってる帳簿を整理するのに四日も徹夜したり、之が私がした事かと、夜等独り静かに物を考える時など目を|瞠《みは》って居る。   此の私の大きな経験から戦争と云うものゝ醸し出す雰囲気が少し宛乍ら最近判って来た様な気がする。怠惰な者を駈り立て、臆病者を勇者にする魔力を此処に発見する。鈴木聞多の戦死の報を見て此の感を一層強くして居る。塾以来会社に持ち越した彼との親交で凡そ決死隊など縁の遠い男である事を私は知って居る。而も新聞記事に偽りなければ、彼は厳然として決死隊の先頭に立って壮烈な戦死を遂げた勇士なのだ。   最近私の活動範囲が広くなった。今は当地から一歩も出ずに高い処から見下し乍ら仕事をして居たが、近頃は、前線にも時々出かけるし、南京にも事務連絡で時々出張する。此の両者の開きの大きい事は凡そ滑稽だ。一方は弾丸の音を聞きに行く様なものだし、一方は音楽を聞き、映画を見、生ビールに寿司が喰える。ビルディングは冷房して居て、意気な洋装の|姑娘《クーニヤン》を見受ける。それで居て、何だか自分の住む世界でない所へ来た様な気分に成る最近の私だ。唯、本屋の店頭に立って、内地の本がぎっしり詰った棚を見渡す時久し振りで内地の香りをかいだ様な気持になる。   先日の出張の折、改造社版の「チロル短篇集」を買って来た。毎晩、スタンドの下で之を開く時、旧い形容だが、全く恋人の息吹きを感ずる様な気がする。毎日夜になると俄然私のロマンチシズムが燃え上る訳だ。   今日、君からの小包受取った。自宅からのモロゾフのチョコレートと一緒に届いた。当分の間、私の部屋は、内地の香りが立ちこめる。二冊の本を読み終り、チョコレートを喰べ終る時は。   加藤が先生に成り、君が又先生に成った。加藤が女学校の先生に成り、君が商工の先生に成った事が、極めて自然の位置についた様にも思える。   一度涼しくなったのに、又もや猛暑がぶり返して来た。残暑と云う奴だろう。大陸丈に、其の意志表示が凡そはっきりして居る。    時折便り呉れ。久しく「唐人の寝言」を聞かないから。     八月廿五日 [#地付き]安藤 生     池田 兄  兵隊は「軍隊」をウンタイ(運隊)だと言った。まさしく言い得て妙であることは、わたしも身に沁みて感じた。  安藤の次の、まだ中支にいた頃の昭和十六年一月二十一日付のものは、短い内地帰還をはさんでのものだが、明るい彼の性質にもかかわらず、気分の上に多少のかげりがさしているように思う。それが具体化したように、彼のその次の手紙は、北支からのものになっている。いい目、いい目と出て来ていた彼の軍隊生活が、彼に言わせると、「後手へ後手へと廻る」ようになったという。彼にとっても軍隊はウンタイであった。  最後の四月七日付の後は、わたしも軍隊にあって彼の手紙を受取るようになり、従って、記憶に残る幾通かの文言はあるが、残念ながら、現物がない。この記録も、そこで自然にひと区切りになると思う。    此方へ帰還した翌々日君の手紙が着いた。そして温かいものに触れた時の様に嬉しかった。君が何とかして手紙等と云う極めて不完全な通信機関を通じて思想を伝えようとして居る努力は何時も認めてるし、又それ丈に感謝して居る。    君からの便りがないからと云って、別に冷淡だとも感じた事もないし、銃後はタルンどるとも考えた事はない。少し理屈ぽくなるけれど、何も戦地に居るからと云って、内地の奴等何故手紙を寄越さないのだろうなどとむくれる理由にはならない事だと私は考えて居る。“銃後は冷い”などと天を仰いでる御人もあるけれど。    兎に角今度の出張は相当気持の変化を起させるものだった。内地へ帰り度いとは誰もが考える事であるし、私も同様だったけれど、仕事を終えて再び此方へ帰還する頃は、全く内地には未練がなかった。少しでも早く帰って落着き度い気持で一杯だった。之は私許りでなく他の連中も同様だったらしい。未練といえば、女の子のきれいな事、米の飯の美味い事位が想いに残った位だ。    東京に行った時は未だ上陸して三日目だったし、目まぐるしい行事で頭はイカれて居たし、物事をはっきりと見届けるには行かなかった。    京都へ帰ってから出発するの廿日間内地の煩わしさは身に沁みた。物はない、統制などと云っても其の系統が混乱して居る(その結果が物がない様に成るのかも知れないが。)誰もが陰鬱相だ。此の人達は嘘ではない、ほんとうに物資がない事、生活が苦しい事に悩んでるのだ。そして、意識の中にか、無意識の中にか、“物資がなくて俺達が苦しんでるのは、物資を皆戦地へ送って仕舞うからだ”、と云う気持が多分に潜んで居る様に感じられた。之は私の|僻目《ひがめ》かも知れない。然し人込みの中から受けるあの眼差し——何と云う冷い眼だろう——からは、如何にしてもそうした感じが受け取れる。之は非常に恐しい事だと思う。此う云った環境の中に敢然と生きる丈の気持の余裕がないので、勢い、同類項許りの呑気な土地へ帰り度いと云う利己的な帰着に達した訳だ。事の是非は別として、私の気持は判るだろう。    航海は全く平穏無事だった。南京へ着くは何も知らずに平和な夢に浸って居られた。敵の冬期攻勢が俄然|熾烈《しれつ》に成って居り、聯隊も一部出動して居り、大隊長戦傷、中隊長戦死等々の情報をはじめて南京で聞いた。死んだ中隊長と云うのは、私の極めて仲の良かった中尉で、幹部候補生だと云うのに武骨一点張りの所がとても感じが良かった男だ。    此んな状況に驚いて、南京から直ちに夜間航行して蕪湖行った次第。経理室では親友の次級主計は此の戦闘に行って居て居らず、折角重い思いをして持って帰ったレコードを喜んで聴いて貰う当ても外れて仕舞った。私は私で留守中に工兵隊附|被仰付《おおせつけらる》なんて命令が出てるし、僅か一ヶ月許りの間に色々と動きが有るものだ。    正月を送って早々当地南京へ転任して来た。今と異り、今度は高級主計と云う所で、経理全般の智識には余り自信はないが、兎も角も粘土細工を味わう様に、自分の好みと行き方をそっくり実現し得る喜びは有る。環境もすっかり変って仕舞った。同じ支那であり乍ら、又々新らしい生活に入って居る。此処は、一段と発展した感が深い。内地と殆んど変らない便利さだ。トーキーもあれば、デパートもある。それに、破壊から建設への過程に特有な治外法権的な空気が多分に有るので面白い事は面白いが、余程気をつけないと身を持ち崩す事に成り相だ。官舎が又中心地に近い所に有るし、夕食後、着流しに下駄を突っかけて、散歩に出たり映画を見に行ったり出来るのだ。今度は相当本を読む積りで、内地から大分仕込んで来たけれど、未だ一冊しか読んでない状態、尤も今は転任後の挨拶状を出したり、身の廻りの整理をしたりして、余り暇がなかった事もある。    私は今度は思想的なものは避けて、機械学講座だとか、力学通論だとか、微分学だとか、此んなもの許り持って来た。隊から帰って来ると、此のラヴォラトリーに籠ると云う寸法だ。   「キュリー夫人伝」読み終った。伝記を之丈面白く読んだのは、懺悔録以来だ。今は一寸調子を落して、ヴィッキー・バウムの「上海ホテル」を読んでる。グランドホテルの縮小版だ。グランドホテルの時は各自のパーソナリティに一寸興味をよばれたが、マーティンズサマー、上海ホテルとこう毎度々々同じ構成で書かれると、興味を失って来る。之を読んで仕舞ったら、ブールジェの「大戦と女達」を読む。それからは、一寸旧聞に属するが、ロティの「アフリカ騎兵」を読む。    此方へ来て、討伐に出る機会がなくなったと思ったら、二度許り戦闘の夢を見た。蕪湖に居た頃は、一度も此んな夢は見た事がなかったのに。昨夜は進撃中本部と離れて計手と数名の兵と共に敵に囲まれた夢をみた。余り戦争ごっこの事を知らないだろうが、私達非戦闘員に等しい経理官は、聯隊ならば聯隊本部、大隊付ならば大隊本部を決して離れてはいけないのだ。之はつく身を以て体している。此の恐しさが今頃に成って夢に出て来たらしい。    君の書いたもの、是非読んでみたいが、文藝春秋が手に入らぬ。必ず送って呉れ給え。   (池田注。友人・高見沢由良の名で書いた懸賞論文「七・七禁令と帰還兵」が『文藝春秋』昭和十五年十月号に掲載された)    最近の豊田正子(池田注。当時その『綴方教室』がベスト・セラーとなった)の流行を指摘した君の正義感或は潔白感に|悉《ことごと》く同意して居る。斯うしたものゝ提灯持ちするジャーナリズムに唾を吐きかけたい気持だ。    加藤は何してるの、未だ若い人をやってるのか。    此方は珍らしく昨日から雪が降って居る。今日は積雪四、五寸、当地では稀な事だ相だ。今日は頭がぼやして居る。又、其の中改めて便りしようと思う。兄上に宜敷く。    一月廿一日   弥三 兄 [#地付き]安藤 蕃    拝啓    相変らずの事と思う。    小生又転任した。内地から戻って直ぐ南京へ転任し、二ヶ月余りで三月の定期異動に引っかゝり今度は北支へ来て仕舞った。此の異動では私達同期の者が大分動いて居る。どうも現役並の取扱いをされてるらしい。    私は北支那方面軍経理部附の命令を受けて北京に来たが、其処で駐蒙軍に配属されて現在|蒙疆《もうきよう》に来て居る。そうしてさゝやか乍ら部隊長に成って仕舞った。    此処は風に明け風に暮れる。毎日昼を過ぎると風が荒れ出し、特有の風塵が狂う。そして一夜吹き通して朝に成ると静まる。城外へ一歩出ると砂漠が眼前に開ける。駱駝の群が行ったり来たりする。何処を見ても灰色に塗り潰されて新鮮な緑色や澄んだ青空を望み度い衝動に駆られる。    雨は去年の九月から降らない。五月六月の風塵を過ぎると雨期に入り一ヶ月も二ヶ月も降り続く。砂漠の中に忽然として河が流れる。    私は今運命の波の不思議さを沁々味わって居る。私の運命論はつとに御承知の筈だが、今更その確信を強めて居る。私は渡支以来極めて好運の波に乗って来た。此の事はずっと前に君への手紙に書いた記憶が有る。どうも今度はその波から外れたらしい。総てが後手へ後手へと廻る。従って之から先私の受ける試練は覚悟して居る。そして私の経験では斯うなったらどん詰り落ちなければ之の波に乗り移れない事を知って居る。    当地は調べると仲々興味深い事実が相当あるらしい。言語は別として風俗、気象、経済、政治、総べて私の今歩いた所と一風変って居る。殊に経済的には、此処には西北貿易と云う昔乍らのバーターが行われて居り然も之が非常に重要性を有して居るし、之に就いては、仕事の余暇に少し研究を進めて見る積りで居る。家屋に就いては二三文献を得、少し許り知識を得た。此の中には弥三の趣味に合う様な特異点が少くない。何れ晴れて帰国の節嬉しがらせてやる。帰国と云えば、私の前任者は事務を私に引継いで今日帰還の途に上った。煩わしい一切の仕事から離れて内地へ帰る此の男の顔は抑え切れぬ喜びに輝いて居た。之を見送って別に羨しさも妬ましさも感じなかった。    此処へ来てから未だ充分の落ち着きを取り戻せない為余り本が読めない。最近読んだものでは、ブールジェの「死」が良かった。ブルーノ・タウトの「日本美の再発見」も面白く読んだ。今、同じ岩波新書の「トルキスタンヘの旅」を読んで居る。私は随分遠くへ来た積りで居るけれ共、之を読んでタイクマンの足跡を辿ると、私の居る所など殆ど彼のスタートラインにしか当らない事を知った。私は先頃から支那語を本格的に勉強する計画を樹て、専ら此奴に|齧《かじ》りついて居る。支那語学習の本には規則的な説明をして居るものが極めて|尠《すくな》い。支那語四週間が一番文法的に説明して居る。僅か宛乍ら喋り得る語句が|益《ふ》えて行くのは非常に楽しい。    私がニュースに出て居るの知ってるか?    二月末の師団作戦で朗渓城入城の時朝日か同盟か盛んに撮影してるのを見たが、南京で此方へ出発する前の日図らずも上映してるのを見た。歩兵聯隊長、工兵聯隊長、参謀、副官、主計と馬を連ねて入城する場面はチョイと|くすぐっ《ヽヽヽヽ》たい気持がする。    うっかり忘れて居たが、虎屋の羊羹と、あられ有難く頂戴した。兄上に宜敷く伝えて呉れ。 [#地付き]安藤 蕃     弥三郎兄 [#改ページ]    大東亜戦争勃発     ——叔父・池田大伍の手紙 「戦中の手紙」の中に、叔父・池田大伍の手紙を加えたい。年月順にいって、昭和十六年十月から十二月までのものだから、配列の位置としてはここが適当だと思う。十二月八日、太平洋戦争の勃発で、「戦中」は文字通りの戦中となる。その大戦の勃発前夜、わたしはすでに満州にいて、陸軍二等兵として軍務に服していた。以下、大伍の三通の手紙を、発信順に、解説をまじえて記しておく。(この部分は、かつて「叔父・池田大伍の手紙」として書き、後に、拙著『わが戦後』《牧羊社刊》に収めたものだが、今「戦中の手紙」の一環として、筆を加えた。)  池田大伍は本名は銀次郎。わたしの父、金太郎の弟である。この兄弟は、兄は明治十七年一月三十日生れ、弟は翌十八年九月六日生れの|としご《ヽヽヽ》であり、兄は家業のてんぷら屋の三代目を継ぎ、弟は早稲田大学の英文科に学び、坪内逍遙に師事して劇作家となった。ちょうどそれが、わたしの場合にもよく似ていて、わたしの兄は家業を継いで四代目となり、弟のわたしはやはり|としご《ヽヽヽ》で翌年に続いて生れ、文学部に学んだ。そのための混乱がよく伝えられて、叔父がてんぷら屋の当主となったり、わたしが叔父の子となったりした。しかし、池田家のこの二代の兄弟は、双方ともに、先代の方がスケールが大きかった。父と兄とはともかく、わたしと叔父との場合にみても、叔父は昭和十七年一月七日、五十八歳で急逝し、すでに今のわたしの年にはいなかったわけだが、それまでに、近代演劇史のいくページかを占める仕事をなし了えていたのであり、それに対してわたしの方は、それより十年近くも長生きしていて、これといったまとまりもない月日を、ろくろくと過ごしているにすぎない。  ところで、わたしは満州の兵隊ぐらしで、三通の手紙を叔父から受取った。ほんとうは四通だったのだが、第一信はわたしの手に届かなかった。あとの三通は、わたしはすっかり忘れてしまっていたが、満州から、何かのついでに、遺族——というべきか、わたしの従妹のところにでも送ったらしく、それがまたわたしの手に戻って来て、その間のいきさつは、きれいさっぱり忘れてしまったが、ともかく、気がついたときには、わたしの手もとにあった。全くの私信であるが、実にいい手紙で、戦地の甥に送った手紙として、貴重なものだと思う。話す通りの、そのままの文章で、たかぶりもなく、てらいもなく、そういう意味で、記録に|遺《のこ》す意味が、私を離れて十分にあると思う。最小限の注をあとに付け加えて、発表しておきたい。    弥あちゃん、第二信を出します。そういえば第一信は読みましたか。どうもまだ読まないようだ。実はとっくに出したのだが、名宛の部隊名が一字ちがっていたので、或いはそれで届かないのかも知れない。そうとするとまことにつまらないことをした。併しそれはありそうな間違いで、実は英子がお前のお母あさんに電話できいた時、お前のお母あさんが、竹冠りの|ささ《ヽヽ》の字といったのを、英子は竹冠りの|かさ《ヽヽ》ときいてしまったのだ。それで笠原隊とかいて出してしまった。それもさっきお前のはがきがきてはじめて気がついた。何うして何ともいってこないのだろうと少しは不審にもしていた。それで返事がきたら第二信を出そうと控えていたのだ。今度のはがきの様子ではたしかに読んでいないね。ま、仕方がない、少しはこっちの様子も知れようかと貞子さんと舞踊講演会で出会った話をかいてあげたのだよ。    ところで再々はがきを有難う。一体いえばこっちからもっと出さなければならない所だが今の訳で済まないことをした。おたずねの政男は此間中の江南作戦に参加していたのではないかとおもっているが、まだよく解らない。いずれにしてもまだすぐ帰ってくるという訳にはいかないのではないかとおもっている。    弥あちゃんも一体いえば、何もそっちまで連れてゆかなくってもよさそうに思うのだが、これも御奉公の選にあたったのだからしかたがない。誰もかれもゆくというものでもないが、誰もかれもゆかないという者でもない。丁度ここからここまでという数の中へはいった訳だから、しっかりとやるさ。一々向、不向きを考えて選んでいては大きな動員なぞ出来ない。適不適に拘らず御奉公の選にあたったのだからやるのだという訳だ。みんなもそうしてきたのだ、弥あちゃんもそうするのさ。ただあんまり行きすぎてしなくってもいい無理なことをしなくってもいいよ。分相応ということがあるものだ。所謂すて身で平心で御奉公をすることだ。こんなことはいわなくってもいいが、お前の気性にはどこか唯でいられない所があるからいっておくよ。    お父っさんのことなど気にしないがいいよ。東京にいた時の通りでおいで。そんなことが気になるのは、もうそれだけそっちに行った気になっているのだよ。万事平気で、東京にしては今年は少し寒いな位の気でおやり。貞子さんもまことに可愛いい人だ。大分銀座のお母あさんの気にもいっているらしい。これも婚約時代が少し長いな位の気でおやり。婚約時代は長い方が楽しみなものさ。日々のお勤めは読書のつもりでおやり。たしかにそれよりは楽な筈だ。    手紙には学問のことが書いてあったが、読書の暇が出来たら、本を送ってもいいよ。ただし私の送る書物は疲れるとおもって控えている。これは相談の上でなければ送れない。もしそういう余裕が出来て読む気なら知らせておよこし。また私の方から選んで送ってもいいよ。    慰問袋はもうぽつぽつ送れるらしい。随分いろんなものが届くだろう。家でも英子が工夫している。しかし、欲しいものがあったらなんでもいっておいで。貞子さんやお母あさんへいってやったもので沢山欲しいものは、知らせておよこし。わたしの方からも送ってあげるよ。    ところでも一度いうがおとうさんのことは気にしないがいい。今あの注射をやめなければならない程、東京の事情は迫っていないよ。あれはお前のおやじの楽しみなのだ。まあああさしておくさ。ただし叔父さんから言えなら、一言位いってもいいよ。よきに処理するから心配しないがいい。やめさせなけりゃあならない時にはお母あさんに相談してやめさせるよ。    そう、私の身辺のことと、学問のことはこの次、第三信の時からはじめよう。では左様なら、また。    身体を丈夫に御奉公を大事に。日夕祈っているよ。     十月九日      弥三郎さま [#地付き]池 田 大 伍   わたしのうちは商家だったから、わたしは家族の中では「弥あちゃん」と、ちゃん付けで呼ばれていた。祖母と父とは、弥三郎と呼び捨てであったが、ほかの叔父も叔母も、従兄弟や兄弟も、みな、ちゃん付けでわたしを呼んでいた。そのふだんの呼び名で、書き出している。  英子というのは叔母。叔父は早く妻をうしない、二度目に迎えたのがこの叔母で、ヒデコだったが、叔父の娘がすでにヒデコ(秀子)だったので、叔母の方はエイコと呼んだ。叔母は叔父の死後、三十四年目の昭和五十年、安らかに眠った。  わたしの部隊は笹原隊。山砲連隊三七九部隊の第三大隊段列(砲弾の輸送隊)であった。三大隊の三個中隊、第七、八、九中隊に、弾薬を運ぶ任務の中隊で、従って、馬が百頭近くいる中隊であった。馬といっても駄馬で、背中に弾薬を積んで、ひいて歩く馬であった。その中隊長・陸軍中尉笹原助太郎の名によって、笹原隊と言ったのを、電話で、ささをかさと聞き違えたというのだ。  貞子は実はてい子で、現在のわたしの家内である。婚約して、挙式しないうちに召集令状が来たために、叔父などにも立ち会ってもらって、解消はせずに、ストップしたままでわたしは応召した。わたしの歓送の席で、叔父に初めて紹介した。そういう形だったので、叔父の手紙にたびたび「貞子さん」が現われる。  政男とあるのは片山政男氏。叔父の長女の配偶者で、当時、研数学館の若い館長。やはり召集されていた。叔父の予期よりも早く、この翌年に召集解除になったが、そのとき叔父は急病の、臨終の床にあった。 「連れてゆかなくてもよさそうに思う」などという言い方は、検閲のある軍隊でははなはだあぶないのだが、叔父はそんなことにはかまわずに、思った通りを自由に書いている。 わたしが、叔父への手紙で、父についてのどういう心配を訴えたのか、はっきりしないが、父は胃けいれんの苦しみをおさえるために打ったパピナールに中毒していて、すでに十年余り、近所の医師のもとに通って、日に十本前後の注射をしていた。戦争がひどくなって、薬が間に合わなくなったら、というような心配だったのだろうと思う。そのことが、すぐあとの文句に出て来る。 「日夕祈っている」というのは、決してただの挨拶ではなく、信仰家の叔父は、ほんとうに、真心をこめて祈っていてくれた、と思う。  日付の十月九日は、昭和十六年のことである。わたしは、その年の七月、独ソ戦に伴う、関東軍特別大演習、俗称カントクエンの大召集にひっかかって、東部十二部隊にはいり、すぐに満州に送られた。兵営はハルピンのミルレル兵舎といって、日露戦争のとき、沖・横川の両氏が捕えられて収容されていた兵舎であった。    第三信    弥あちゃん、第三信だ。弥あちゃんのはがきは五日程前に来た。それからついゴタゴタしていて、まだ書けなかった。    果して第一信はみなかったのだね。なに別段大したことは書かない。ハルピンの水のわるかった思い出話をかいたのだよ。何とかホテル(もう忘れた、たしか北陽ホテル)の風呂場で、足を蹈んがけて、はいれず、また洋服をきてしまった覚えがあるのだよ。併し、今は飲み水なぞはすっかりよくなっているだろうね。何しろ近代都市で、その外は万事東京にいるより、よくはないかねえ。しかしこれからは寒くなるのだ。おつとめは大変だねえ、しっかりやっておくれよ。兵舎の中の設備はきっと結構だろうと安心しているよ。何にしても第一線にいるよりいいよ。    延ちゃんはよかったね。そう、よかったというよ。お父うさんの為にね。君もすっかり安心したろう。いや実はその後の東京の状態も大分変ったよ。魚河岸なぞも大改革さ。伏見やの兄貴は失業だよ。孝ちゃんは市場の雇員になってしまったよ。そうして天ぷら掛りだそうで、毎日、銀座の兄貴と顔があうそうだ。銀座の兄貴、大勉強、やる時はやるよ、感心している。お前も安心おし。銀座の方はまず大磐石だよ。当分どう事情がかわっても大丈夫だよ。    ハルピンでは新聞はみられるだろ。亜米利加の方とは大分緊張しているね。今日のラジオによると昭和六年以降の丙種合格も召集するそうだ。一年現役志願兵も満五十一歳まで服役するのだそうだ。尤も乙種がそうみんな出られる訳でもないので、その一部補充だとおもうが、何れにしても、一度は誰でも若い人は兵営の生活をしなければならないだろうね。    ところでどうだね。勉強でも出来るような余裕が出来たかね。そんなら何か本を送るよ。何としてもどうせいった|序《ついで》だ、機会も多いことだろうから、支那語の勉強はおし、これはいくらでも追々本はそっちで間にあうだろう。往く先々、いろいろ役に立つとおもうよ。    私の生活は話す程のこともないが、何かやっているよ。此間うちは、万一に備えて、穴倉に専念していたよ。銀座なぞでは笑っていたが、昔し、掘っておいたのが、役に立ちそうなので、復活したのだよ。そうして、目ぼしい本はほうり込みいいように縛ってある。使うときにはほどくのだよ。知っての通、碌な本もないが、あれだけまとめるのも一寸骨が折れるから、後でだれが読んでもいい。散らしてしまうのはおしいからだよ。順によむと、それでも一流の学問にはなるよ。その順序は書いておく積りだよ。無論これは君がかいってきてからの話だ。送ってもいいとおもう本も二三、よんだが、これもそっちの話をきいた上のことにしようとおもっているよ。ではそのうち第四信をかく。今日はこれだけ。     弥三郎さま [#地付き]大伍より        十月十四日  わたしの兄、延太郎。このとき、横須賀の重砲に召集されたが、即日帰郷になって帰って来たことを言っている。兄はそれっきり、召集されないで終戦を迎えた。  前の手紙の日付から、五日しか経っていないのだが、この手紙では、内地の情勢が変っていくことが書かれている。伏見屋の兄貴というのは、叔母(叔父の先妻)の実家の兄で、孝ちゃんはその弟である。伏見屋は、魚河岸の江戸時代から名のある伏見屋清右衛門。江戸以来の問屋の制度が、時局の統制みたいなことで、一切が御破算になってしまったのだ。銀座の兄貴というのは、わたしの父で、こういう時代になって、市場へ、率先して買い出しに行っているわけだ。叔父の家は築地にあり、伏見屋の一家もその近くで、父は銀座に住み、築地の魚河岸へ行っていたわけだ。叔父は用心深く、空襲などにそなえて、準備を始めていたらしいが、これはずいぶん早手廻しであった。そして、やがて昭和二十年、銀座のわたしの家は焼けたが、叔父の家は戦災を免れた。しかしもうそのときは、叔父はいなかった。  わたしは、大学卒業後、どの道召集は免れないと思い、中国語の会話などを少しかじっていたが、そんな程度でも、満州へ行ってから、兵営のそとに出ると、多少の用は弁じた。そして、なにごとも機会だと思って、ロシヤ語の勉強を始めていた。ハルピンの街の本屋で、ウーソフの教本を買ったのだ。この本も、東京へ送ったとみえて、最近までわたしの手もとにあった。  叔父の学問は、英文学だったが、独学で中国の古典を勉強し、かなり自信があったようだ。戦前、翻訳した元曲が、吉川幸次郎氏の目にとまり、平凡社の東洋文庫に収められて、昭和五十年に出版された。わたしのやっていた同人雑誌『ひと』に連載したものであった。    第四信    実はとうから出したいとおもっていたが、先ずそっちからの便りを聴いてからとおもっていたのだよ。ところが君からの便りはとうに来た。一週間前にきた。それが今日まで延びたのは、丁度その時日米会談が決裂に瀕していた。それでどっちかに決るまで、二三日待とう、従って書くことも変るからと待っていたのだよ。果して二三日すると、到頭朝のラジオが、日本は今暁米英と戦争状態に入れりと来た。それから相次ぐ勝報、丁度日露戦の時の日本海戦当時のような快報が続々くる。とうとう便りがあってから一週間、まだ返事を書けずにいたのだよ。    何も昂奮していた訳ではない。書くならもう少しもう少しと欲張っていたのだよ。もういい。ハワイで米国主力艦隊撃滅、マレーで英国主力艦隊撃滅ときた。先ずよかった。これでたしかにこの戦争の大勢はもう決したようなものだ。お前もそっちできっと心配していたろう、もう大丈夫だよ。内地へもまず空爆もない、南の方からはだめ、北からもまず大丈夫らしい、この戦争はまず大抵六ヶ月、半年位で荒増しの形はつくだろうという見込だ。無論もっと早いという人もある。二十日位だという人もある。まさかね。    併しそれからがえらい。まず五年位はもっと足りない暮しをしなけりあならない。つまり荒増形がついたあとの資源開発が大変なのだ。若い者も随分その方へも徴発されるかもしれない。併し今までとちがって先きに楽しみがある。誰もそれでおのずと元気が出てきたようだ。そう、たしかに支那事変で重慶ばかり相手にしていたのでは、憂鬱になるよ。こうなってくると所謂大東亜共栄圏の前途が大分はっきりしてきたからね。そうだ、それで、今度の戦い大東亜戦争と呼ぶことになったのだよ。お前心配していたおとっさんも元気だ。お前の兄貴も心配することはないよ。こういう時局になってくると、どんな若い者だってぐっと気がしまってくる。たしかに若い者には薬の時だ。誰もかれもしっかりしなけりあやってゆけない時がきたのだよ。    それはそうと、お前、怪我をしたそうだね、それでももう全くよくなっているようで安心したが、いけなかったねえ。ま、何も修行だ、しっかりおやり。    それでねえ、私ははじめからおもっていたのだが、こういう時局になったら、どこにいても同じだ。その職責に忠実にして国家に御奉公することだ。もう全く私意などというものはもってはならないのだ。一体世の中のことは何だって、私意をもってやっていいものは、一つもないわけだが、在来はえらい人達だけが、それをやって、あとはみないやいやながらついてゆくという建前だった。それもただ筋書だけだったかも知れない。ところが今日では人々皆英雄だ。達者だ。それでなければいけないのだ。こうなってくると戦後の世界は、資本主義の是正はまだなこと、将来の文化形態も余程かわってこなければならない。今から一寸予測はゆるさない。    一体世の中のことというものは、(相変らず、叔父さん一流の理窟だが……)悟りと迷いの二つだけだよ。悟りというのは、一切を空と悟って、無私の境にいることだ。迷いというのは、大きな理想をもって、その為に私をすてて進んでゆくことだ。(つまり一切の理想は悟りからみれば煩悩という訳さ)ところでこの二つは一致する。無私という所で一致する。それが迷悟不二というやつさ。解ったかい。    それで悟りというやつは、とかくそればっかりだと、活動力がなくなって所謂悟りすました人になってしまう恐れがある。といって、迷いの方は元より絶えぬ苦しみがある。所謂煩悩の苦しみだ。ではどうしたらいいのだ。すなわち大煩悩をもっていて、それに捉われずにいることだ。    そんなことが出来るかって、それが出来るのが信仰の道だ。真言の方で、大欲大貧の道といって、その前には小欲小貧は影をかくしてしまうのがそれだ。更に解りやすくいえば、絶えず向上の道にいそしんでいることだ。進める時はぐっと進み、進めない時は心を餓えさせずに待っていることだ。すべてお前の身に関したことは大丈夫だと信じて平気でやっていることだ。このお勤めを果していればすべてうまく行くと信じていることだ。何事も神さまにお任せ申して安心していることだ。お母あさんも拝んでいるよ。お父うさんも拝んでいる。叔父さんも無論朝夕二度おがんでいるよ。これは大きな力だよ。    戦争にいってもその人の修養でいろいろ貰ってくるものがちがっている。お前はどうせいったのだ。一番いいものをもらっておいで。何時かいったとおもうが哲学も、文学も立派なものは、戦争の中から出てきたのだよ。ソクラテスをご覧、ホーマーをご覧、ツキヂデスをご覧、恐らく戦争が一番これらの人をこしらえたのだよ。あ、ごめん、大分つまらないお説法になってしまった。怪我をしたときいたので、ついこんなことをいうようになってしまったのだ。つまりは何も考えずに、すべて大丈夫だとおもって、平気でやっておいで。では左様なら、また。    キャラメルは歯がわるくなったなら、気を付けてたべておくれ。あずきの罐、まだ二つばかりある。お前へあげるよ。     十二月十五日 [#地付き]大 伍        弥三郎殿    それからハルビンは叔父さんの口癖で、ひとりでなまっているのだよ。併し Harbin はロシア読みではないようだ。ロシア語でHは|え《イ》だし、bは二つあってこの方のbはvだよ。結局よくわたしには解らないよ。大隈にでもきいてみよう。  この手紙を書いた叔父は、このあと、第五信は書かなかったものと思われる。そして、第四信を書いた十二月十五日から、二十日余り経って、急性肺炎で、なくなってしまった。  叔父のなくなったことは、東京からは知らせて来なかった。わたしがショックを受けることを、心配してであったらしい。しかし、そんな不自然な|緘口令《かんこうれい》をしいているうちに、わたしは、別の人からの手紙で、知らせるという形でなく、当然わたしが知っていることとして、それに対する見舞いという形で、叔父の死を知らされた。直接法でなく、間接法であることが、かえって、大きいショックとなった。つまり、なくなったという事実だけは疑うことは出来ないが、どういう事情なのか、病死なのか事故死なのか、それさえも一切わからないわけであった。  わたしは、東京の留守宅へ手紙を書いて、これでは、東京からのたよりが、信頼出来なくなってしまう、と書いた。東京からは折返し返事が来て、詳しい様子を知らせて来て、さらに、今後はなんでも知らせるから、ということだった。——もっとも、その後、わたしの父が、築地警察署に四十いく日も留置されるということがあったのだが、それについては、やはり何も知らせて来なかった。このことについては、緘口令が徹底して、わたしは、復員するまで知らなかった。  今、あらためて読み返してみると、出征の軍中にあって、こういう手紙に接し得たことは、全く幸せなことだったと思うのだが、やはり、わたしの性癖など、よく見ていたことだと思う。  〈お前の気性には、どこか、唯でいられない所がある〉  そのために「お前」は、行き過ぎて、しなくてもいいことまで、無理にしてしまう。そこまでしなくてもいいと「あたし」には思えることが、「お前」の言動にはある。  これには、一言もない。  こういう、忠告をしてくれたとき、叔父は五十七、わたしは二十八であった。今年、昭和五十六年は、わたしはすでに、その数え方だと、六十七である。そのときの叔父より十年も年を重ねながら、いまだに、だまってはいられない、ただでいられない、といった、くらしの姿勢があらたまらないでいる。  右の三通の手紙の中、その三番目、「第四信」は『日本人の手紙』の中に「戦地の甥への叔父の手紙」として、わたし自身の解説を付して掲載した。およそ、右の本文の中に包含されているが、なお次の数行を引用しておきたい。   この手紙は、十六年十二月八日、戦争勃発直後の、一知識人の受取り方を、率直に示している。戦争が終って、復員して来てからは、周囲の人から聞く戦争の話は、すべて、結末がついてから、その時点での判断を、開戦の折に遡らせて、誰も彼も、敗戦を百も承知であったという話ばかりで、戦争帰りのわたしには、とっくりと呑みこめないことが多かった。この手紙にある叔父の言うところは、認識不足の責めは負わねばならないが、しかし、当時、全く市井の一市民であった人は、ほとんど完全に、つんぼ桟敷におかれていたことを、考えなければならない。今になって思えば、日本の勝利を信じたまま、開戦一カ月目になくなった叔父はしあわせだったと思う。   叔父は、二代目左団次を介して、永井荷風とも付き合いがあり、荷風の『断腸亭日乗』には、ある時期、しばしば登場している。 [#改ページ]    出征する子ヘ     ——小泉信三の手紙  小泉信三さんに、本書ではふたたび登場していただく。戦中の手紙として、これを逸することは出来ないからである。しかしこれを「手紙」として扱っていいかどうかは多少問題があるかも知れない。現に『全集』の「書簡」の編者はこれを書簡としては扱っていない。しかし、本書のような構成の本では、これを手紙として挙げないわけにはいかない。特に、父親が子に与えた手紙は数が少ないこともあって、世の父親族にも改めて提示したい思いがしきりである。  文中の固有名詞の注解をすれば、小泉家は祖父小泉信吉、父信三、母とみ、妹加代、妙の名が見える。この手紙の受取人である信吉は大正七年の生れで、昭和十七年十月二十二日、南太平洋上の最前線の艦上において戦死した。もちろんこの手紙はそうした運命の結着以前、しかしほとんど帰還の予測を持ち得ない、父子の間で、父から子に手渡されたものである。    君の出征に臨んで言って置く。    吾々両親は、完全に君に満足し、君をわが子とすることを何よりの誇りとしている。僕は若し生れ替って妻を択べといわれたら、幾度でも君のお母様を択ぶ。同様に、若しもわが子を択ぶということが出来るものなら、吾々二人は必ず君を択ぶ。人の子として両親にこう言わせる以上の孝行はない。君はなお父母に孝養を尽したいと思っているかも知れないが、吾々夫婦は、今日までの二十四年の間に、凡そ人の親として|享《う》け得る限りの幸福は既に享けた。親に対し、妹に対し、なお仕残したことがあると思ってはならぬ。今日特にこのことを君に言って置く。    今、国の存亡を賭して戦う日は来た。君が子供の時からあこがれた帝国海軍の軍人としてこの戦争に参加するのは満足であろう。二十四年という年月は長くはないが、君の今日までの生活は、如何なる人にも恥しくない、悔ゆるところなき立派な生活である。お母様のこと、加代、妙のことは必ず僕が引き受けた。    お祖父様の孫らしく、又吾々夫婦の息子らしく、戦うことを期待する。 [#地付き]父より      信吉君  小泉信三は、その子、海軍主計大尉小泉信吉戦死の後、記念のために『海軍主計大尉小泉信吉』という一書を書いた。終戦の直後、昭和二十一年に三百部の限定本を作り、知友にわかった。  その後、多くの人の勧めにも拘らず、あらためて出版することを承知せず、しかもその声価は高く、数少ない本が、回読されたり、筆写されたりした。幻の名著と言われた書物であった。歿後、多くの要望にこたえて、昭和四十一年八月、文藝春秋から刊行されて、いわゆるベスト・セラーとなった。今は、全集第十一巻に収められている。  この手紙は、昭和十六年十二月八日の戦争勃発直後、海軍経理学校の補修学生の卒業試験を終えて、二十日卒業式、ただちに軍艦那智に配属がきまり、二十三日に出発することになった、そのわずかの期間に、父信三が「心残りなく勤務させたい」と思って書いたものである。実にみごとな手紙である。信三は、福沢諭吉のごとく、多くの手紙を残した人であるが、その中で一つを選べということになれば、まず誰しも、|躊躇《ちゆうちよ》なくこの手紙を選ぶだろうと思う。  この手紙について、信三自身が右の書物の中で、手紙の引用に続けて書いているところを次に掲げておく。   私はこれを|偶々《たまたま》持ち合せた紙質の良い鼠色のレタアペエパアに書き、二つに折って、同じ色の西洋封筒に入れた。或る朝、妻と二人茶の間の火鉢に当っている少しの閑があった。私は封筒を取り出して妻に見せた。これを信吉に遣ろうと思うがどうだろうときいた。妻は読み了って涙を拭いて、やっぱり信吉に読ませて頂いた方が好いと思うと言った。   その日であったか、別の日であったか、信吉と二人自動車で外出した。私は封筒を彼れに渡した。彼れはすぐ躊躇なく、走り出した車の中で、開いて中味を読んだ。二三度読み返したようであったが、顔を輝やかせて「素敵ですね」といい、軍服の胸のフックを外ずして、封筒を内懐に収めた。「素敵」とは何をいうか。恐らくは、子として父母に満足を与えていると告げられたのを喜んだのであろう。それきりで彼れはこの手紙に就いては何も言わなかった。しかし、彼れの心に何かを留めはしたのであろう。後に彼れがスラバヤ海戦に参加したとき、戦闘の開始に先だって、この手紙を取り出して、読み返し、それを内懐にして配置に就いたと、帰って来て話した。  小泉信三は明治二十一年に生れ、昭和四十年になくなった。福沢諭吉の晩年を知っていた、数少ない慶応義塾の先輩であった。大学卒業後、母校の教壇に立ち、四十歳そこそこの若さで塾長となり、本書にいう「戦中」の、その困難な中で、私塾の経営行政に任じた。戦禍により、いたましい被害を全身にうけたが、奇蹟的に回復した。その後は、慶応義塾評議員会議長を勤めたが、すでに、日本の小泉として、その良識と、気骨とは、まだ記憶に新たなところである。専門の経済学、社会思想史などの業績のほかに、多くのエッセイがあり、全集二十八巻(文藝春秋刊)に収められている。 [#改ページ]    中学生の「戦中」     ——『少年期』より  波多野勤子さんの『少年期』は、副題に「母と子の四年間の記録」とある。この「四年間」は、昭和十九年から昭和二十二年までであって、戦中から戦後へかけての期間である。実を言うと、戦争経験者が異口同音に言うことは、生活のつらさは、戦中よりもむしろ、終戦後の数年だったということだ。すると『少年期』の背景になっている四年間は、戦中最後の|苛烈《かれつ》な時期から戦後のどん底の国民生活の始まりの時期にあたっている。その四年間に取り交された母と子との間の手紙の集成であるから、『少年期』はそれを目標に編集されたのではないが、おのずからの効果が、その時期の貴重な記録をなしていると言えよう。 「母」は明治三十八年生れ、昭和十九年に数え年で四十歳を迎えた波多野勤子さん。「子」はその長男の一郎さんで、ちょうどこの四年間というのが、中学一年から四年までにあたっていた。『少年期』は、この母子が、ノートに文字で記した会話を中心に、第一信から第七十五信まで、整理編集されているものだ。児童心理学者波多野勤子博士の透徹した眼と、一人の母親の心とが、緊密に交錯していて、いわゆる「戦後」のささくれた人達の心に、明るい暖かい灯をともしてくれた本であった。今、手もとに旧版がないが、それは、昭和二十五年頃の開板だったと思う。  波多野勤子さんは、夫君は心理学者の波多野完治氏であるが、波多野氏は、巌松堂書店の初代重太郎氏の次男であった。勤子さんはこの義父に信頼されて、傾いた時代の巌松堂書店の建て直しに奔走するというような、異常な能力を発揮している。それは勤子さんが編集した『追憶・巌松堂書店主波多野重太郎』によって、かいまみることが出来る。同時に、『少年期』の著者、ファミリースクールの理事長としての波多野さんしか知らなかったわたしとしては、この『追憶』を読んで、知らなかった一面に触れてびっくりした。そして改めて『少年期』の成立過程を思い浮べて、納得するところがあった。  さて、『少年期』から採録するとなると、選択に迷うのだが、第三十六信から第四十信までの七通を挙げておきたい。この第四十信のやりとりで、一郎の中学一年生時代が終り、続いて、『少年期』の手紙は二年生時代にはいり、その二学期からは終戦後の時代にはいっていく。そういう時点での、以下、七通のやりとりである。  第三十六信    ○○○○一郎から母へ    お母さま  スケートどうもありがとうございました。だいぶ前にお願いしたきり、なんともおっしゃらないので、もうだめなのだとばっかり思っていました。ゆうべはうれしくてうれしくて、なかなか眠れませんでした。なんだか遠足の前の日の小学生みたい——自分でもそう思って、おかしくなってしまいました。でも目をつぶると、氷の上をさっそうと走っている僕の姿ばかり頭に浮かんで、どうしても眠れないんです。足がなって足がなって、とうとう時計が一時を打つまで起きていました。    今日も学校で授業のおわるのが待ち遠しくてたまりませんでした。四十人のなかで靴のスケートを持っているのは、ほんの二、三人です。あとは皆下駄スケートなんです。皆がほめてくれたり、(馬鹿な奴はうらやましいので、わざとけなしたりしましたけれど)すると、なんだか遠い昔の僕が返ってきたような気さえしてきました。    でも、こんなにうれしかったのもすぐだめになってしまいました。だって氷の上にはじめて乗ってみたら、とても|辷《すべ》るし、それに下がすき通って見えるので、なんだかこわくて、どうしてもうまく辷れないんです。せっかくいい靴をはいても、ぼんやり立っているだけだし、皆はにやにや笑うし、さすがの僕もしょげちゃいました。でも帰るころになったら、だいぶ動けるようになりましたから、この調子ならすぐうまくなると思います。上手にすべれるようになったら、お母さま一度見にきてくださいね。さっそうとしたところを見せてあげますから。    それじゃ、今日はこれでおやすみなさい。    明日は英語の臨時試験があるのですが、あんまりうれしかったので……。    大好きなお母さまへ    諏訪へ来て、はじめてほんとうに心から楽しい一日でした。  第三十七信    ○○○○一郎から母へ    お母さま  このあいだから気になっていたんだけど、なんだか聞くのがこわくて、今まで黙っていましたが、お母さまのあのオーバーはどこに行ったの? まさかお売りになったんじゃないと思うけど、四五日前から寒そうにオーバーなしでいらっしゃるので心配になって……。ね、お母さま、まさか、まさか僕のスケートを買うんでお売りになったんじゃないでしょうね? 昨日外から寒そうな恰好で帰っていらっしゃったお母さまを見た時、もしやと思ったんだけど……。    ね、お母さま、ほんとうのことを言ってください。 [#地付き]一郎      二月二日    ○○○○母から一郎ヘ    一郎  あなたは目が早いのね。お母さんは、だれにも気がつかれないように、ずいぶん気をつけていたんだけど、とうとうあなたには見つかってしまったわね。一郎は悲しがるかもしれないけど、ほんとうはあなたの心配していたとおりなのです。このあいだから一郎にスケートを頼まれていたので、早く買ってやりたいとは思っていたけど、なかなかそれだけの余裕ができなかったの。そして、いよいよ明日学校でスケートに行くというのに、あなたがなんにも言わないのを見ていたらお母さん、たまらなくなっちゃったの。それで前からほしいと言う人があったので、思いきってあのオーバーをゆずってしまいました。でも決して心配しないでね。まだハーフ・コートもあるし、それにほら、青い——あなたが、幼稚園のころよくよろこんで中へ入ってきた、あのオーバーがあるのよ。    ですから、それよりあなたが、あんなに喜んでいるのを見ていると、お母さんにはオーバーを着ているよりずっとずっとあたたかく感じられます。あなたがあんなにはしゃいだのも、ずいぶん久しぶりね。お母さんはオーバーなんか少しも惜しいとは思いません。お母さんにとって一番大事なのは、あなたのきれいな心だけ。だからお母さんのことを思ったら、その心だけはいつまでもいつまでもなくさないようにね。それがお母さんのたった一つのお願い。ね、わかってくれるわね。    さ、また明日から元気でスケートにいっていらっしゃい。そのうちにお母さん見に行ってあげますよ。 [#地付き]母     大事な 一郎へ  第三十八信    ○○○○一郎から母へ    お母さま  やっぱりそうだったのね。ごめんなさい。ほんとうにすみませんでした。お母さまの苦労も知らないで、あんなにはしゃいで……。    今まで、お母さまをいじめるのは、お父さまや欣二たちだけだとばっかり思っていたのに、いくら知らなかったとはいっても、僕までがこんなにお母さまを苦しめていたなんて、——まだまだ、僕が気がつかないで、お母さまに苦労をかけているかもしれないと思うと、たまりません。もう僕には、お母さまの心以外なんにも信じられなくなりました。僕自身が信じられないんですものね。お母さまは、よく僕の心をきれいだっておっしゃるけれど、いったいどこがきれいなのでしょう?    お母さまは僕の心の一面だけしか知らないのじゃないでしょうか? いけないとは知っていてもぼろぼろの洋服を着て、凍った道をとぼとぼ歩かなければならない時など、たのしかった昔のことが思い出されます。そしてコウリャンの入った御飯と、真白な御飯を見れば、あさましいとは思いながら、つい農家の連中がうらやましくさえなります。あわてて打ちけしはしますが、でもそういう気持がおこるのは事実なのです。    お母さま、お母さまを悲しませるつもりは少しもありませんが、一郎の心はもうこんなによごれてしまっているんです。自分でも気がつかないうちに、戦争のためにこんなになってしまったことから考えると、僕の中に残っているきれいな心をいつまで育てていけるか、それも僕にはわかりません。    なんだか、とってもみじめな気持です。 [#地付き]一郎     かわいそうな お母さまへ     二月六日  第三十九信    ○○○○一郎から母へ    お母さま  今日は諏訪へ来てから初めての空襲でしたね。お母さまはごらんになったかどうか知りませんが、僕たちは山へ逃げていたので、B29がずーっと白い尾を引いて飛んで行くのがよく見えました。初めて見たので、こわいというよりとてもきれいな感じがしました。でもあんなのに僕たちの国がやられるかと思うと——僕たちさえなんともないなら、いじわるの人ばかりいるこんな諏訪なんか、きれいにやられちゃったほうがいいとも思いますが、東京がやられると思うと、じっとしていられません。    お母さま、お母さまはいつか、お父さまといっしょに新宿で見た飛行機の映画、おぼえていらっしゃる? テストパイロットの話。   「高度三千高度三千、ただいまより背面飛行、背面飛行」っていうやつ。あの後で僕がテストパイロットになりたいと言ったら、すっかり笑われてしまいましたね。でも僕、今日敵機を見ていたら、なんだかまたそんな気持がしてきたのです。    学校でも内藤たちは|陸幼《りくよう》へ行くと言うし、予科練志望の人も、だいぶいます。お母さまに言えばどうせ反対されると思ったので、今までだまっていたのですが、僕も予科練かどこかへ行きたいのです。身体に自信がないのが一番困るんですけど……。でも一万メートルの上空を飛んでくるB29に、いくら竹槍を振りまわしたって相手にならないし——僕にだって日本男児の血も流れています。    お母さま、小学校五年の学芸会のこと、まだ覚えていらっしゃるかしら? あの時、みんなでいろいろ意見が出た結果、僕の“|不惜 身命《ふしやく しんみよう》”をやることになったでしょう。でもその後で、本田たちが自分の意見が通らないので、不平を言っていたら花田先生が、「各自が意見をたたかわすのはたいへん結構だが、一度こうときまったら、たとえ自分の考えとは違っても、喜んで協力するのがほんとうの男だ。」っておっしゃったんです。僕もほんとうにそうだと思います。    ほんとうにそういえば、僕はお父さまにももっと積極的になっていただきたいんです。でも、このごろはそれもむだだと思うようになりました。お父さまはあれでいいのでしょう。あくまで自分の主義に生きるのもりっぱなのかもしれません。    だけど今日本では、一人でも多くの軍人が必要なのでしょう? だから、せめて僕が、お父さまのかわりにでもお国につくしたいのです。    お母さま、ゆるしてください。     二月十六日  第四十信    ○○○○一郎から母へ    お母さま  このごろは、ちっとも僕に書いてくださいませんね。僕は毎日たのしみにしてノートをあけるのに、いつもなんにも書いてありません。    いそがしいお母さまにむりを言うようですが、少しでいいから書いてください。    僕の心はこのごろ毎日大ゆれにゆれています。これをささえるのはお母さまの心しかありません。どうぞ僕をささえてください。    僕は、なんとかして、正しく生きたいと思っています。けれども、何が正しいかがわからないで困ります。学校の先生の話だと、この戦争のためには、すべてをささげるのがいいのです。友だちもそう言います。けれども、お父さまは、それはいけないとおっしゃるのでしょう。お父さまだけならいいけれど、お母さまもそう思っていらっしゃるのでしょう。僕は正直にいって、お父さまだけなら、黙殺してしまえるのです。    だけど、お母さまがそう思っていらっしゃるなら、そのほうが正しいのではないかという気がしてくるのです。そこで僕は苦しんでいるのです。    お母さま、どうぞ僕を正しく生かしてください。どうぞ、どうぞ、公平な気持で正しい判断を聞かしてください。 [#地付き]迷っている一郎より     なんのちゅうちょもなく、まっすぐに敵にぶつかって行かれる人がうらやましいと思います。     三月六日    ○○○○母から一郎へ    このごろは、あなたも知ってるとおり、毎晩原稿かきにおわれているもので、ついあなたにも、何も書かず、いけないお母さんだったのね。    あなたのこのごろの気持、あなたが何も言わなくても、お母さんにはよくわかっています。むりのないことだと思っています。そうしてかわいそうだと思います。    だけど、それにたいするお母さんの返じは、もう半年待ってちょうだい、ということです。半年がむりなら、三ヵ月でもいい、三ヵ月でも、もう少し様子がわかるでしょう。    お母さんもだいぶ修業ができたから、あなたの心を殺してまで、からだを助けようとは思いません。りっぱな軍国の母にはなれなくても、きれいな心のあなたのお母さんらしくは、大丈夫なってみせますよ。ただ、もう少し、もう少し待ってね。  右の中、第三十九信については、母の波多野勤子さんが、同書の「母の反省」という文章の中で、次のように言っている。   疎開先の諏訪でB29を見たとき、一郎はとうとう父や母にそむいてでも戦いに参加しようとはっきり決心したようです。心のうちにあったもやもやが敵機を見た瞬間に、はっきりと形になったというわけでしょう。   まだ中学一年生ですから、いくらあせってみても、たいして役には立たないでしょう。しかし、そう言ってはあまりにかわいそうです。また、そのように言ったら、かえって反抗的にもなるでしょう。そこで私はこれにたいして、なんの返事もしませんでした。が、正しさに生きたいという一郎の気持ちがあまりにもあわれでありましたので、私はもうこれ以上、一郎をむりに引きとめておく気がしなくなっていました。ただ犬死にだけはさせたくないと思っていました。すくなくとも、本人が自分が役に立ったと思って死ぬようにしてやりたいと思いました。   これは、いくじのない母親の私としてはせいいっぱいの決心です。どうしたら、むだなく死ねるか、ということが私にもわかりませんでしたが、このようにせっぱつまった気持ちの子をとめておくのには、期限つきにする必要があると思い、私は三ヵ月待つように言いました。その三ヵ月の間に戦局がはっきりとみとおせるなどとは思ってもいなかったのですが、せめて三ヵ月あれば一郎にとってもっともいい方法をみつけることもできようし、また軍国の母としての心がまえを私なりに身につけたいとも思ったからでした。   この、期限をきったことは、一郎に希望をもたせて成功のようでした。 [#改ページ]    戦没学生の手紙  戦中の手紙の最後には、やはり戦没学生の手紙を置きたい。そして、「戦中」のとじめとしたい。  ここに選んだ手紙は、手紙というには余りに短いが、これ以外に書きようのない、ぎりぎりの文章である。  筆者海上春雄が、出撃にあたって、父母海上浩氏夫妻に宛てたものである。海上春雄は、大正十年上海に生れ、静岡高校にはいったが、戦時の非常措置によって高校を昭和十七年に繰り上げ卒業して、十月に東京帝国大学経済学部に入学した。しかし、翌昭和十八年九月には、法文系の大学教育が停止されたために、大学生の特権であった徴兵猶予が廃止され、従って、徴兵の年齢に達していた法文系の学生は、すべてが入営することになったので、海上春雄も十二月一日に入営した。これが「学徒出陣」である。そして二十年一月九日、フィリピンのリンガエン湾において、海軍挺身隊の一員として戦死した。数え年二十四歳であった。  その手紙は次の通りであった。   父上様、母上様。   元気デ任地へ向イマス。春雄ハ|凡《アラ》ユル意味デヤハリ学生デシタ。 [#地付き]春 雄   この手紙について、『日本人の手紙』の中で、岩松研吉郎君(前出)の書いた「注」および「解説」を次に引用しておく。     この手紙は「ルソン島某地にて出撃前『メモ』の紙片に鉛筆書のもの」である。これより二か月ほど前に、海上春雄は「遺書」をすでに綴っているから、これは、海軍挺身隊の陸軍船舶兵見習士官としての海上が、絶対に生還の可能性のない出撃に際して、あわただしくも走り書きした、父母への別れの手紙である。   海上は、フィリピンのリンガエン湾で戦死した。「任地」はすなわちかれの死の地である。「凡ユル意味デヤハリ学生デシタ」と書くとき、かれはすでに半ば死者として、自己の生をふりかえっているのであるが、なおかれは、死の地を、「任地」——生きて任務をはたしつづける生の地と記し、「元気デ」そこへ「向イマス」と書く。そのようにしか書くことができない、軍隊のなかでの表現である、ともいえるが、同時に、父母への思いやりの情を読みとることもできる筈である。   死を前にしてなお、「ヤハリ学生デシタ」と書いたとするなら、海上にとってのこの表現から、知性や理性への、苛烈な状況のなかでの哀切な意味づけの感情を、われわれは読みこんでよい。このような心情は、多くの戦没学徒の手紙・手記に共通するものであり、たとえば京都大学の永田和生は次のように書いている。  「僕は考える。世界戦争の激しい展開の中を、力強く自己を貫徹していく法則を。バルカン、北アフリカ、地中海、まさにこの時代に僕は前線の兵士となる。僕の思いを君は十分にわかってくれるだろう……」   海上の行文には、この|たかぶり《ヽヽヽヽ》はないが、逆に簡潔なだけに一そう感情の深さがこめられてもいるのである。   幾百万の人びとの血の上に、昭和二十(一九四五)年八月十五日に終った昭和の十五年戦争の証言の一つとして、この手紙をここに収めた。軍陣戦野からの手紙は、もとよりこうしたものにとどまらず、むしろ、時代の支配的思潮を反映して、愛国尽忠の決意を示したものが多い筈であるが、異常な状況のなかでなお、人間のいとなみとして書簡をつづることが絶えなかったことをたしかめるためには、やはり、このような出陣学徒のものが、最も適切である。   戦没学徒の手紙・手記は、敗戦後の数年間に、『はるかなる山河に』、『きけ わだつみのこえ』にまず編まれ、その後も、個人の遺稿集としての『わがいのち月明に燃ゆ』、『戦争・文学・愛』などの刊行が続いた。そして、とくに『きけ わだつみのこえ』の大きな反響は、「わだつみ会(日本戦没学生記念会)」を生み、その「死んだ人びとは、還ってこない以上、/生き残った人びとは、何が判ればいゝ?……」というよびかけ——これは、『きけ わだつみのこえ』の初版によせた渡辺一夫の序文に引かれたフランスの|抵抗《レジスタンス》の詩の一節だが——にこたえて、学生の反戦運動が、静かに、しかし広く展開されたのである。この意味で、この海上の手紙を含めた戦没学徒の書簡は、独特な意味を、近代日本の手紙のくさぐさのなかで、もっている。   なお、ここではふれる余裕がないが、『戦没農民兵士の手紙』が、のちに刊行され、学徒兵の手紙とは違う意味で、大きな影響を与えたことをつけ加えておきたい。 [#改ページ]      感動をさそう手紙

   
哀 し き 父      五 島 慶 太  その人物は、ある朝、|忽然《こつぜん》とわたしのうちの庭の中に立っていた。まさに「忽然」という語がぴったり、という現われかたで、わたしが気がついた時には、庭の奥深い|一劃《いつかく》に、朱塗りのステッキをついて、手には真白な手ぶくろをして、すっくと立つ、といった感じであった。  荒れた庭の樹木や、目の前を流れる多摩川や、その向うに見える富士山を、視線とともに首を振り向けて直視していた。それは|微塵《みじん》も感傷などの伴わない行動であった。そして、全く無言のまま「検分」をすますと、びっくりして縁側に立っていたわたしに|一瞥《いちべつ》を与え、完全に無視して、出て行ってしまった。師の影を踏まずといったように、やや離れてつき従っていた、平凡な背広姿の青年が、多少ばつが悪そうに縁先のわたしに軽く頭を下げて、そそくさとあとを|逐《お》って行った。——この堂々たる、|魁偉《かいい》な人物こそ、当時、その異常な覇気と事業欲とによって、「強盗慶太」の異名を奉られていた、五島慶太氏であった。  あとで思い合せてみると、占領軍による公職追放がようやく解除になって間もなくの頃のことで、東急の会長に返り咲いた氏が、多摩川ぞいの二子玉川の地に、東急の事業の一つとして、遊園地などを計画していて、付近の土地を見歩いていた、その実地踏査のひとこまだったらしい。そしてわたしが間近く氏を見たのは、あとにも先にも、この一度限りのことであった。  ところで、この人を父とした五島昇さんが、昭和三十四年十二月号の『文藝春秋』に、「父の遺書」と題する一文を寄せている。慶太氏は、昭和三十四年八月十四日になくなっておられるから、この文章は、永別後間もなく書かれたものと思われる。  それは、昇氏がタイとインドとへの、始めての海外旅行に出発する前日、昭和二十八年二月十八日に受取った、父慶太氏の手紙とそれへの回想の一文であるが、そこに引用された手紙は、昇氏によると、「二枚の会社用の便せんにペン字で書かれ、そのスタイルは独得の指令書どおりである」と説明されている。だからその手紙は、いわゆる「遺書」として初めから書かれたものではなかったのだが、晩年まで事業に奔走していた「父」の、子にあてた、めったにない私信であったというわけであろう。    昇殿         パパ   旅行中の注意   一、暴飲、暴食、絶対禁止、   一、生物、生水ハ一切飲食セザル事、   一、睡眠ハ必ズ八時間以上トル事、従ツテ就床ハ必ズ十時以前ニスル事、   一、「ゴルフ」ヲシテモ、ゴルフ場ノモノヲアマリ喰ハナイ事、   一、「ロスト・ボール」ヲ探シテ「ラフ」ニ入ラナイ事、「ラフ」ニ入レバ毒蛇ニカマレルノ憂ヒアリ
[#地付き]以上   この注意は、考えてみれば至極あたりまえのことだが、よそのうちの庭先に、ことわりなしにはいりこんで来て、すっくと立っていた容貌魁偉な人物と、自分のことを子(当時昇氏は三十六歳)に向って「パパ」と書く人物とは、わたしの頭の中で、どうしても一つに溶解しない。そして、事業を進めていくにあたっての「指令書」の形式を借りた殺風景な手紙、「借りた」というよりも、この形式でしか書けなかったに違いない、あるいは、文章の起承転結などを考えて筆を進めることは、まどろっこしくて到底出来なかった五島慶太氏が、最後の一条で、ものの見事に「パパ」になってしまっているところが、いかにもおもしろい。事業の第一線にいた慶太氏も、やはり「哀しき父」であった。   ——球が見つからないからといって、ラフなんかにはいって行って探すんじゃないよ。毒へびにやられるかも知れないからね。 「ロスト・ボール(lost ball)」は直訳すれば紛失球。打った球が落下地点で見つからない場合である。「ラフ(rough)」は、グリーンやフェアウェーなどの外側の雑草地帯である。  五島慶太氏は明治十五年四月十八日、長野県上田市の近郊に生れ、昭和三十四年八月十四日になくなった。昇氏はその長男。今その業を継いでおられる。      
福 沢 諭 吉  ——かわいい子には旅をさせ  と言う。そしてこの諺の背景にある旅は、  ——旅は憂いもの辛いもの  であった。旅はレジャーではなく、心身鍛錬の場であり、人間修行の道場でもあった。しかし、いざその旅に立たせるとなると、人の親の心の闇は、さまざまに思い乱れもしたようである。  その様子の一端を、五島慶太氏の昇氏への指令書のような個条書きの手紙に見たわけだが、続いて次に、福沢諭吉の手紙を挙げておきたい。内的事情は異なるが、これも同じく外地に旅立つ子に対する父の注意事項であって、それを心覚え式に、個条書きにした点も、似ていると言えば似ていると言えるだろう。  ことに、慶太氏の個条書きが最後に「ラフ」の毒へびに対する注意を喚起したように、諭吉の手紙も個条書きの最後は「父」がまるだしになって来て、長男一太郎に対して、飲酒を戒めて、血気の定まるまで抑制せよと、「懇願」しているところが、いかにもほほえましく、また心を打つのである。ここにも哀しき父がいたのである。  外地への旅立ちと言っても、福沢兄弟の場合は単なる旅行ではなく、勉学のための留学であって、父母の|膝下《しつか》を離れる期間の予定も長期にわたるはずであった。その時、父諭吉は五十歳。長男一太郎、次男捨次郎はそれぞれ二十一歳と十九歳。そのアメリカヘ向けての出発は、明治十六年六月十二日であった。  諭吉は兄弟二人の送別のために、前日の十一日に宴を催しているのだから、留学の心得というべきこの手紙の内容は、口頭で伝えられてもよかったのだが、諭吉はこれをわざわざ巻紙にしたためて、送別の宴の前日、六月十日の日付でこれを兄弟に送った。   一、|執行中《しゆぎようちゆう》、日本にいかなる事変を生ずるも、こなたより父母の命を得るまでは、帰国するに及ばず。父母の病気と聞くも、狼狽して帰るなかれ。   一、一太郎は農学と方向を定めたる上は、もっぱらその業を修め、かつ農学の理論よりも実際の事に力を用い、帰国の後、ただちに実用に適用する様心掛け申すべき事。   一、捨次郎は物理学の一科に志し、あるいは電気学などいかがと思えども、その辺は本人の見込みにまかする事。   一、両人とも、学問の上達は第二の事として、いやしくも身体の健康をそこなうべからず。故に就学の期を長くして、例えば三年のものを五年にするも苦しからざる事。東西の人、その体力、天賦の強弱あり。深く慎しむべきものなり。   一、一太郎は酒量深きに非ずしてむしろ酔うに易きものというべし。畢竟、気力の弱きよりして自から制するあたわざる者なれども、幸いにして生来なおいまだ飲酒の習慣をなさず。今にしてこれを禁ずるははなはだ容易なるべければ、断然酒を飲むなかれ。三十前後、血気定まりたる後は、いかようにも勝手なれども、学問執行中に酒に酔うなどの事ありては、人に軽侮せられて、本人の不幸は無論、父母も為に心を痛ましむること少なからず。くれぐれも慎しむべきものなり。この一事は父母より厳に命ずるに非ず。あるいは父母の懇願とも申すべき個条なれば、よくよく|合点《がてん》いたすべきなり。   右の条々書き記して送別するものなり。     十六年六月十日 [#地付き]諭 吉        一太郎殿       捨次郎殿  この手紙の第四条で、諭吉が三年のところを五年かかってもいいから健康をそこねるなと言っているのは、まさに「落第の勧め」であって、親の情のしからしむるところで、しかも今の「教育ママ」達が忘れてしまっていることだが、第一条で、日本に何が起ろうとも、父母が病いに倒れようとも、あわてて帰国するなと戒めているのは、理にもとづいた注意であって、この手紙は情理かねそなえたものと言えるだろう。この手紙を初めとして、子煩悩の諭吉は、この二人の留学中、明治十六年から二十一年までの六年間に、実に三百何十通もの手紙を書いたという。  ちなみに、諭吉は天保五年十二月十二日生れ、一太郎は文久三年十月十二日、捨次郎は慶応元年九月二十一日に生れた。諭吉は多くの子女に恵まれ、一太郎をかしらに四男五女の九人の子がいた。  なお右に挙げた手紙は福沢全集に収められており、その番号は「五五八」号である。      三遊亭円朝  右に挙げた二通の手紙は、「手紙」とことさらに言うのは、ややはばかられるが、それは一つには、それらが、いかにも手紙というものの持っている約束的な形式から、全くはずれているからであるにすぎない。言いたいことを言い、書きたいことを過不足なく言っている点では、むしろ名文と言っていいだろう。  次に、内容の点で、右二通に続くものとして、幕末から明治にかけての|はなし《ヽヽヽ》の名人、三遊亭円朝の手紙を載せておきたい。文章はがらりと変って候文であるが、父親としての子に対する真情の吐露ということで、ここに配列した。  円朝は天保十年に生れ、明治三十三年、ちょうど十九世紀の最後の年に、数え年六十二歳でなくなった。人情噺、怪談噺に傑出し、また、旧幕時代の義理人情を、新しい時代の好尚に応えられるように、仕立て直したり、新作したりした。その名はあまりにも大きく、とうとう、二代目を継ぐ者がなく、この名は円朝とともに消えてしまった。  それほどの人物であったが、家庭生活は必ずしも幸福ではなかった。  円朝の最初の妻はお里と言った。|御徒町《おかちまち》の同朋倉岡元庵という人の娘であったが、正式に結婚したというのではなかったらしい。性質は放縦で、その上大酒家であり、結局離別ということになった。お里はその後吉原の娼妓となり、吉原の|幇間《ほうかん》、|松迺家《まつのや》露八の妻となり、夫婦して吉原に住んでいた。  円朝には、お里との間に、朝太郎と名付けた一子があったが、お里の離別の時に、朝太郎は円朝の手もとで育てられることになった。やがて円朝は後妻のお幸を迎えたが、お幸はもと柳橋の芸者で、才覚のある上品な人物であって、円朝にはよく仕えたが、朝太郎との間はしっくりとはいかなかったらしい。  この朝太郎が、新聞種になるような事件を起してしまったので、子の教育に苦慮した父の円朝は、箱根のむこうの、三島の|禅刹《ぜんさつ》・竜沢寺の星定和尚に、朝太郎を預かってもらうことにした。  明治十三年十月のこと、円朝は子をつれて三島に行き、朝太郎を預けて帰って来た。そして中一日おいて、次の手紙を星定和尚あてに送った。(永井啓夫著『三遊亭円朝』青蛙房刊、所収)    一昨夜はまれなる嵐にて、|其方《そちら》様は山路ゆえ、さぞかし当りも強く、|如何《いかが》に候やと御案じ申し上げ候。    さて、|此度《このたび》は、御やっかい者を頼み、何とも御気の毒さまに存じ候え|共《ども》、小子の教育にては人となる事むずかしく、それに実母の方へ送り候時は、義理ある父も心がけよからず、母もまた身上よろしからず。ことに盛る所ゆえ、当人の病|発《おこ》り、末々|不便《ふびん》に存じ候ゆえ、もてあまし者と存じながら、御無理を頼み候所、御聞き済まし下され、千万有難く御礼申し上げ候。愚妻もよろしく御礼申し上げ候。    その折|跡《あと》を追い、だだをこね候ゆえ、|打擲《ちようちやく》をわざと致し、また腹立ちまぎれ、当人怪我を致しはせぬかと、|不便《ふびん》に思い、箱根山を越え候時、涙とどまらず、今にわすれがたく存じ候。|是《これ》も子ゆえに迷う親心にて、どうか当人の心改り候|様《よう》、御教導下されたく、|此《この》段|憚《はばか》りながら御当住様へくれぐれも御伝言下されたく(候——原文にはない)。    当人どうか|居《い》つきそうに候や。|跡《あと》より衣類手道具送り候や。御返事下され候えば有難く、御朋輩衆へも御頼み下され候|様《よう》、伏して頼み候。|何《いずれ》も御礼のみ。早々不一     十月五日 [#地付き]三遊亭   [#地付き]  圓朝     御老師様  この手紙については、『日本人の手紙』に大高洋司君(現、常葉学園橘高校教諭)が解説を書いているので、それを引用しておきたい。  明治十三年十月五日付。三島の禅刹・竜沢寺星定和尚宛の書簡である。この年八月、円朝(時に四十二歳)の一子朝太郎(十三歳)の非行が発見され、新聞種になるという事件が起きた。これを気に病んだ円朝は、息子を更生させようと、星定和尚の許に預けたのである。このことには、老師と親しく、また円朝の心の師でもあった山岡鉄舟が、力を貸したらしい。鉄舟から老師宛の手紙も残っている。  朝太郎は、円朝と先妻のお里との間に生まれた一人息子だが、実母お里は、遂に円朝の正式な妻とはならず、朝太郎のみ円朝の許に引き取られた。ところが、円朝の後妻お幸と朝太郎との間はしっくりいかなかったらしく、非行の記事の載った『東京曙新聞』(明治十三年八月十三日付)には、お幸にいじめられたが故の犯行(スリを行なう)ということになっている。しかし、お幸の賢夫人ぶりを示す話も他にあり、どうやら真相はそうではないらしい。実母から受け継いだ放縦な性格と、継母ゆえのコンプレックス、それに円朝が高座から高座へと渡り歩くのに忙しく、よく朝太郎の面倒を見てやらなかったことが、朝太郎を非行に走らせた原因とみてよいようである。  ともあれ、この事件は、円朝に大きな打撃を与えた。最初は実母お里の許に預けようとしたが、太鼓持露八と再婚して吉原に住んでいるお里であってみれば、この繁華の地に朝太郎をやることは、円朝にはできなかった。その間の苦悩が、文面にありありと見てとれる。そこで彼は、山岡鉄舟を通じて星定和尚に朝太郎を預けることを決意したのであった。別れに臨んでだだをこねる朝太郎を、円朝は打擲した。「箱根山を越え候時、涙とどまらず、今にわすれがたく存じ候」というあたり、子を想う父親の気持ちが感じられて痛ましい。高座さながらの「子別れ」を、実際に演じなければならなかったのである。折から四十二の厄年でもあり、痛恨いかばかりであったろうか。また、衣類、身の回り品を送ることにかこつけて、老師にその後の朝太郎の様子を尋ねようとするなど、さりげなさの中に、父親としての愛情が感じられるのである。しかし、円朝の努力にもかかわらず、朝太郎は遂に更生しなかった。 [#改ページ]    恋 い ぶ み      手紙における素人玄人  われわれが自由に読みうる「私信」は、圧倒的に、文筆業者のそれが多い。それは、それらの手紙は私信とは言いながら、職業がらその創作活動の成績の一部として扱われ、早くから|蒐集《しゆうしゆう》されて公開され、いわば公の存在となっていた、という事情によるのだろう。  わたしはかつて『日本人の手紙』という本を編集、刊行した。すでに本書において、たびたび引用したところであるが、その本の編集にあたって、広く政界・財界などの人達の手紙も集めようと思ったのだが、それらの人達の手紙は、われわれにとって親近感が淡く、結果的に文学界関係の人達の手紙が多くなってしまった。編集に協力してくれた人達が、近代文学に関心の深い人達であったことにもよると思うが、近世・近代・現代にわたって、一人一通を目安にして選んでいくと、われわれの記憶にある、かつて感動を覚えた手紙は、どうしてもそこに偏ってしまったのであった。  前章に配列した手紙は、それでもややその偏りからのがれることが出来たかと思うが、五島慶太氏の手紙などは、普通ならば、われわれの目に触れることなどは、ほとんど望めないものであったに違いない。そしておそらく、世間の大勢の「哀しき父」達は、多くの手紙を書いたに違いないのだが、それらのほとんどすべては、完全な私信として、われわれの目に触れることなく、消えていってしまった。  同時に、完全な私信というものは、書き手(差出人)と読み手(受取人)との人間関係について、第三者である完全な読者は、知ることがはなはだ少なく、たとえ目に触れたとしても、感動の度合は、作家などの手紙の場合に比べて、はるかに低いのは当然であろう。それは単に、しろうととくろうととの違いというだけではない。  それは、完全な創作であっても、手紙が出てくる小説の場合についても言えることである。作家が小説の中で、その登場人物の書く手紙を書く。その手紙を受取った作中人物は、その手紙を読んで、感動したり感涙にむせんだりしている。しかし、読者は一向に、その手紙に感動しない、というようなことがある。それはやはり小説としては不成功であろう。  しかしここで考えなければならぬことがある。それは、在来の日本の書簡文というものの型についてである。わたし達の与えられた古い教養は、書簡文と言えば、まずきまった型を教えられた。拝啓と書き出し敬具と結ぶ。春暖の候、貴下益御盛栄と書き出す。そしてある時期、文章改革の上で定型破壊ということが始まった。感情の伴わないきまり文句はやめるべきだ、紋切り型は排斥せよ、というわけだ。そして、真情のこもった、思ったまま、感じた通りを書け、ということだった。そして在来の拝啓敬具などの文範そのままの手紙を、人は書かなくなってしまった。  しかしこの指導はあやまっていた。思ったままに書く、感じた通りに書くということが出来れば、それは作家である。くろうとなのである。しろうとにはそれが出来ないから、昔の知恵者が、型を作ってくれたのだ。型に沿っていけば、しろうとにも手紙は書けた。しかしその型を失ってしまったしろうとは、今、手紙も書けなくなってしまったのだ。  その点では、以下、本書に配列した手紙は、皆、作家の手紙で、書くための役には立たない。しろうとの文範にはならないのである。その代り、ほとんど小説の効果と同じように、興味をそそり、感動を誘う。私信であるがための、第三者にはわからぬ事情の説明と固有名詞の解説とがあれば、むしろ、書き手の作家からも独立して、一本立ちしている特徴を備えている。  そういう手紙を、内容によって|凡《およ》その仕分けを試みて、配列していってみたい。かつて『日本人の手紙』として編集して掲載したものの再編である。「解説」その他をそのまま引用した場合には、すでに本書でそうしてきたように、原著において無署名であったものも、本書では名を記して、その労を謝したいと思う。      芥川龍之介  芥川龍之介は明治二十五年に生れた。龍之介の龍はその年の|干支《えと》辰歳に|因《ちな》んでいる。昭和二年、数え年三十六歳で、みずからその生命を絶った。中学一年生であったわたしは、夏休みにはいったばかりのある日、新聞の紙面一杯に、その記事が出ていたことを覚えている。すでに小学生時代から、その名は知っていたことになる。しかしその頃の「鬼才」といった印象と、この手紙の印象とははなはだ違う。素直な、東京の下町っ子の性格が、いかにもおだやかに感じられ、そのあたたかな情感が読者の胸を打つ。  この手紙は、大正五年八月二十五日の朝、千葉県一の宮町一宮館で書かれたものだが、その時芥川は友人の久米正雄とそこに滞在していた。そしてその前日、八月二十四日には、夏目漱石がこの二人にあてて手紙を書いている。——その手紙も本書に採用した。——もちろん、漱石の手紙の内容は、この芥川の手紙とは無関係だが、同時に、この手紙を執筆した時の芥川は、まだ、前日付の漱石の手紙は読んでいないはずである。 「解説」(飛ヶ谷〈旧姓森〉美穂子君執筆)によると、この前後、漱石と芥川(および久米)との間には手紙の往来が非常に盛んである。しかし、芥川はそれからわずか三カ月余りで、師漱石と永別している。       八月二十五日朝 一の宮町海岸一宮館にて    |文《ふみ》ちゃん。    僕はまだこの海岸で、本をよんだり原稿を書いたりして暮しています。いつ頃うちへかえるか、それはまだ、はっきりわかりません。が、うちへ帰ってからは、文ちゃんにこう云う手紙を書く機会がなくなると思いますから、奮発して、一つ長いのを書きます。    ひるまは仕事をしたり泳いだりしているので、忘れていますが、夕方や夜は東京がこいしくなります。そうして、早く又あのあかりの多いにぎやかな通りを歩きたいと思います。しかし、東京がこいしくなると云うのは、東京の町がこいしくなるばかりではありません。東京にいる人もこいしくなるのです。そう云う時に、僕は時々、文ちゃんの事を思い出します。    文ちゃんを貰いたいと云う事を、僕が兄さんに話してから何年になるでしょう。(こんな事を文ちゃんにあげる手紙に書いていいものかどうか、知りません。)貰いたい理由は、たった一つあるきりです。そうして、その理由は、僕は文ちゃんが好きだという事です。勿論、昔から好きでした。今でも好きです。その外に何も理由はありません。僕は、世間の人のように結婚と云う事と、いろいろな生活上の便宜と云う事とを一つにして考える事の出来ない人間です。ですから、これだけの理由で、兄さんに文ちゃんを頂けるなら頂きたいと云いました。そうして、それは頂くとも頂かないとも、文ちゃんの考え一つできまらなければならないと云いました。    僕は今でも、兄さんに話した時の通りな心もちでいます。世間では僕の考え方を何と笑ってもかまいません。世間の人間は、いい加減な見合いと、いい加減な身もとしらべとで、造作なく結婚しています。僕にはそれが出来ません。その出来ない点で、世間より僕の方が余程高等だとうぬぼれています。    とにかく、僕が文ちゃんを貰うか貰わないかと云う事は、全く文ちゃん次第できまる事なのです。僕から云えば、勿論、承知して頂きたいのには違いありません。しかし、一分一厘でも、文ちゃんの考えを無理に動かすような事があっては、文ちゃん自身にも、文ちゃんのお母さまや兄さんにも、僕がすまない事になります。ですから、文ちゃんは|完《まつた》く自由に、自分でどっちともきめなければいけません。万一後悔するような事があっては大へんです。    僕のやっている商売は、今の日本で一番金にならない商売です。その上、僕自身も|碌《ろく》に金はありません。ですから、生活の程度から云えば、いつまでたっても知れたものです。それから、僕は、からだもあたまも、あまり上等に出来上っていません。(あたまの方はそれでもまだ少しは自信があります。)うちには、父、母、伯母と、としよりが三人います。それでよければ、来て下さい。    僕には文ちゃん自身の口から、かざり気のない返事を聞きたいと思っています。繰返して書きますが、理由は一つしかありません。僕は文ちゃんが好きです。それだけでよければ、来て下さい。    この手紙は、人に見せても見せなくても、文ちゃんの自由です。    一の宮は、もう秋らしくなりました。|木槿《むくげ》の葉がしぼみかかったり、弘法麦の穂がこげ茶色になったりしているのを見ると、心細い気がします。僕がここにいる間に、書く暇と書く気とがあったら、もう一度手紙を書いて下さい。「暇と気とがあったら」です。書かなくってもかまいません。が、書いて頂ければ、尚うれしいだろうと思います。    これでやめます。皆さまによろしく。 [#地付き]芥川龍之介   塚本文は、明治三十三年海軍軍人塚本善五郎の長女として生れた。明治三十七年の日露戦役に、文と弟八洲を残して行った父は、そのまま不帰の人となった。跡を追うように相次いで祖父母も逝き、母は幼い姉弟を連れて、実家である本所相生町の山本家に身を寄せた。明治四十年のことである。  母の末弟である山本喜誉司は、当時、府立第三中学の生徒で、文はこの若い叔父を「兄さん」と呼んで親しんだ。喜誉司には、ごく仲の良い級友があって、家も近かった(本所小泉町)ため、始終往き来していた。自然、文も顔見知りとなり、彼が山本家を訪れると、文が喜誉司にこう知らせるようになった。 「兄さん、芥川さんが来たわよ」  ——龍之介は十六歳、文は八歳であった。  この手紙は、それから九年ののちに書かれた。「兄さん」とあるのは、無論、山本喜誉司のことである。  大正五年——それは芥川龍之介にとって、あらゆる意味で“はじまり”の年だった。この年の二月、久米正雄や菊池寛らと発刊した『新思潮』(第四次)の創刊号に、彼は『鼻』という短篇を書いた。夏目漱石がこの作品を絶賛したことから、芥川はたちまち文壇の寵児となった。九月には『新小説』に『芋粥』を発表し、ついで十月には『中央公論』に『手巾』を掲載するという、めざましさである。  彼は七月に東京帝大の英文科を卒業した。就職も決まらず、文筆一本で立つにも至らないまま、ひとまず大学院に籍を置いて、八月十七日から久米正雄と共に、千葉県一の宮海岸に遊んだ。『芋粥』を書き上げた直後である。この海岸で彼は、師・夏目漱石に宛てた手紙によれば、「海岸で、運動をして、盛に飯を食って」「何時に起きて何時に寝るのだか、——さっぱり分」らないという「ボヘミアンライフ」を楽しんだ。そして、幼な馴染みともいうべき文に、この手紙を書いた。  それから四か月後、つまり大正五年十二月、芥川龍之介と塚本文は、正式に婚約した。文がまだ跡見女学校の生徒だったため、その卒業を待って、大正七年二月二日、龍之介二十七歳、文は十九歳の春、結ばれる事になる。  こうした事情を頭に置いて、この手紙を読み返してみるとき、それは単なる|求婚《プロポーズ》ではなく、傲りと野心と不安とに満ちた青年が、公には作家としての第一歩を踏み出そうとし、私には様々な曲折ののちに(龍之介にはこの前年の頃、みのらぬ初恋のあった事が伝えられている)文との生活を選びとろうとしている、その重要な決意の|あかし《ヽヽヽ》でもある。  現在、芥川全集には婚約期間中に文に宛てて書かれた手紙が、この求婚の手紙をも含めると十八通、収められている。それらはすべて、兄が妹をいつくしむようなやさしさと、まだ少女のように純真な文に対する思いやりとに満ち、『羅生門』の作者の、もう一つの顔を見せている。ちなみに、その二、三を引用すると、次のようなものである。 「文ちゃんは何にも出来なくっていいのですよ。今のまんまでいいのですよ。そんなに何でも出来るえらいお嬢さんになってしまってはいけません。そんな人は世間に多すぎる位います。  赤ん坊のようでおいでなさい。それが何よりいいのです。僕も赤ん坊のようになろうと思うのですが、中々なれません。もし文ちゃんのおかげでそうなれたら、二人の赤ん坊のように生きて行きましょう。」(大正六年九月十九日) 「妙なのは、文ちゃんの顔を想像する時、いつも想像に浮ぶ顔が一つきまっている事です。どんな顔と云って云いようがありませんが、まあ微笑している顔ですね。その顔を、僕はいつか高輪の玄関で見たのです。そうしてそれ以来、その顔にとっつかれてしまったのです。」(同十月九日) 「この頃ボクは、文ちゃんがお菓子なら頭から食べてしまいたい位可愛いい気がします。嘘じゃありません。文ちゃんがボクを愛してくれるよりか、二倍も三倍も、ボクの方が愛しているような気がします。」(同十一月十七日)  ここに掲げた手紙を含めて、これら一連のラヴ・レターは、龍之介の愛した女性の面影を|髣髴《ほうふつ》させ、すなおであることの難しさと尊さとを、しみじみと思わせるものがある。      谷崎潤一郎  谷崎と芥川とは、谷崎が芥川の六歳年長であるが、二人の間には暖かい交流があった。そのことはすでに小島政二郎さんがその著『眼中の人』に書き、ほかの多くの人も書いている。決定的な違いは、芥川が三十六歳でなくなったのに対して、谷崎は八十歳まで生き、しかも最後までその創作活動を続けたということであろう。また、ここに掲出した根津松子への恋文が書かれたのは、谷崎四十七歳の折のことであったが、それに対して芥川のそれは、二十五歳の折のものだということも、対比的な興味をそそられるだろう。  この章の題名を、わざと古めかしく「恋いぶみ」などとしたのは、とりわけこの谷崎の手紙などからきている。恋文も訳せばラヴ・レターであるが、だからと言って、芥川のは恋いぶみというにはふさわしくなく、谷崎のはラヴ・レターというにはやはりふさわしくないだろう。    御主人様、どうぞ御願いでございます。御機嫌を御直し遊ばして下さいまし。ゆうべは帰りましてからも気にかかりまして、又御写真のまえで御辞儀をしたり掌を合わせたりして、御腹立ちが癒えますようにと一生懸命で御祈りいたしました。眠りましてからもじっと御|睨《にら》み遊ばした御顔つきが眼先にちらついて恐ろしゅうございました。ほんとうにゆうべこそ泣いてしまいました。取るに足らぬ私のようなものでも可哀そうと|思召《おぼしめ》して下さいまし。|何卒《なにとぞ》御慈悲でございますから御かんべん遊ばして下さいまし。外のことは兎も角も私の心がぐらついていると仰っしゃいましたことだけは思いちがいを遊ばしていらっしゃいます。それだけはどうぞ御了解遊ばして下さいまし。そして今度伺いました節にはたった一と言「許してやる」とだけ仰っしゃって下さいまし。    |先達《せんだつて》、泣いてみろと仰っしゃいましたのに泣かなかったのは私が悪うございました。東京者はああいうところが剛情でいけないということがよく分りました。今度からは泣けと仰っしゃいましたら泣きます。その外御なぐさみになりますことならどんな|真似《まね》でもいたします。むかしは十何人もの腰元衆を使っていらしった御方さま故、これからは私が腰元衆や御茶坊主や執事の代りを一人で勤めまして、御退屈遊ばさないよう、昔と同じように御暮らし遊ばすようにいたします。御腹が癒えますまで思うさま我がままを仰っしゃって下さいまし。どんな難題でも御出し下さいまし。きっと御気に入りますように御奉公いたします。その代りどうぞあの誤解だけは御改め遊ばして下さいまし。外のことならば我が儘を遊ばせば遊ばすだけ、私になさけをかけて下さるのだと思って、有難涙がこぼれる程に存じます。ほんとうに我がままを仰っしゃいます程、昔の御育ちがよく分って来て、ます気高く御見えになります。こういう御主人様になら、たとい御手討ちにあいましても本望でございます。恋愛というよりは、もっと献身的な、云わば宗教的な感情に近い崇拝の念が起って参ります。こんなことは今迄一度も経験したことがございません。西洋の小説には男子の上に君臨する偉い女性が出て参りますが、日本にあなた様のような御方がいらっしゃろうとは思いませんでした。もう私はあなた様のような御方に近づくことが出来ましたので、此の世に何もこれ以上望みはございません。決して、身分不相応な事は申しませぬ故一生私を御側において、御茶坊主のように思し召して御使い遊ばして下さいまし。御気に召しませぬ時はどんなにいじめて下すっても結構でございます。|唯《ただ》「もう用はないから暇を出す」と仰っしゃられるのが恐ろしゅうございます。    十二三日頃御うかがいいたすつもりで居りますが、その前に今一度御|文《ふみ》さしあげます。しげ子御嬢様にも|何卒《なにとぞ》宜しく御伝え願い上げます。そのうち一度神戸へ参り根津様こいさまに御目にかかり|度《たく》存じております。    何卒御きげん御直し下さりませ。これ、此のように拝んでおります。     十月七日 [#地付き]潤一郎       御主人様         侍女  この手紙に出てくる「しげ子お嬢様」は、手紙の宛先の根津松子の妹重子であり、すぐ次に「こいさま」と言っているのも、この場合、重子である。根津様とあるのが、当時松子の夫であった根津清太郎である。この頃、清太郎松子夫妻は別居中であった。  大阪の生活では、東京でいう「お嬢さん」が「いとさん(いとはん)」である。「船場のいとはん」などと歌にもある。あるいは「とうさん」とも言う。そして姉娘に対して妹娘は「小糸さん」もしくは「こいさん」である。しかしこういう呼称には微妙な言い分けがあり、感じ方の違いがあって、その土地の者でなければ、実感的には感じ分けられない。ことに東京者のわたしには、それに伴う親近感など、とても辞書の説明だけではわからない。  以下、八木光昭君(現、ポーランド、クラコフ大学講師)執筆の「解説」を引用しておく。   根津松子は大阪の藤永田造船所の大株主森田安松の四人姉妹の次女である。大正十三年二十二歳で大阪屈指の綿布問屋根津清太郎に嫁した。昭和五・六年頃は谷崎の経済的困窮時代で、高野山の泰雲院に宿泊し『盲目物語』を書き上げた後、文士や画家のパトロン的存在であった根津の別荘の離れに住んだ。芥川龍之介を介して谷崎がはじめて松子と逢ったのは昭和元年に溯る。谷崎は昭和七年二月に転居したが、夫の放蕩の為別居していた松子がその隣に越して来て以来頻繁に往復するようになり、松子に求婚するに至った。昭和五年、永年連れ添った千代子夫人を佐藤春夫に譲り渡した後、六年四月に結婚した|丁未《とみ》子夫人とも別居し、九年三月新居を構えると共に松子と同棲し、十月に丁未子夫人と離婚して翌十年一月に正式に結婚している。この時松子夫人には二人の子供があったが、長男は後に叔母重子の養子となり、長女は谷崎家に入籍した。   谷崎潤一郎の文学はよく女性|拝跪《はいき》型の文学といわれる。実際、彼の作品には、美しく気高く神々しいまでの女性とその前にひたすら跪く男という基本構図が描かれる。その頂点に立つ『盲目物語』『蘆刈』『春琴抄』等が書かれたのは昭和六年から九年にかけてであった。この時期はまさに谷崎が松子夫人と熱烈な恋愛関係にあった時期である。そのありさまは引用書簡に見られる通りである。松子夫人は潤一郎にとって単なる恋愛対象ではなく“宗教的な感情に近い崇拝の念”を起こさせる人であった。それはちょうど、自らの眼をつぶしてまで春琴との愛に生きようとした『春琴抄』に於ける佐助に通ずるものである。師弟関係を結んだ佐助は春琴に厳しく打擲されてひいひい泣くのだが、それを春琴の愛であるとして喜ぶ佐助と、手紙の中で松子夫人に“泣けと仰っしゃいましたら泣きます”“我が儘を遊ばせば遊ばすだけ、私になさけをかけて下さるのだと有難涙がこぼれる程に存じます”という潤一郎とはまったく瓜二つである。潤一郎の珠玉の小説の裏には松子夫人との恋愛が介在していたのである。彼は後年『雪後庵夜話』という文章で次のように振り返っている。   〈友人たちには薄情な仕打ちをしたけれども、新しい家庭の刺激で私の創作熱は俄然旺盛となった。M子(注・松子)との結婚を発表以前、人目を避けつつこっそり逢っていた頃から——いや、それ以前、根津家に出入りして根津夫人としての彼女と交際を許されていた頃から、既に私の書くものは少しずつ彼女の影響下にあったに違いなく、「盲目物語」や「武州公秘話」などにその|兆《きざ》しが見える。(中央公論社出版の盲目物語の最初の単行本の題簽を、私は根津時代の彼女に揮毫して貰っている)だが明瞭に彼女を頭の中に置いて書いたのは「蘆刈」であった。次いで「春琴抄」を書いた時にもまだ公然と同棲してはいなかった。M子の父の安松が、嘗て高雄の神護寺の寺中に一建立で建てた地蔵院と云う尼寺があった。M子は私を伴ってその尼寺に十日ばかり|匿《かく》まって貰ったことがあったが、私はその間にあの作品の大部分を脱稿したのであった。〉   又、引用書簡より一月前の手紙にこう書かれている。   〈はじめて御目にかかりました日からぼんやりそう感じておりましたが、殊に此の四五年来はあなた様の御蔭にて自分の芸術の行きづまりが開けて来たように思います。私には崇拝する高貴の女性がなければ思うように創作が出来ないのでございますが、それがよう今日になって始めてそう云う御方様にめぐり合うことが出来たのでございます。実は去年の「盲目物語」なども始終あなた様の事を念頭に置き自分は盲目の按摩のつもりで書きました。(略)さればあなた様なしには私の今後の芸術は成り立ちませぬ。もしあなた様と芸術とが両立しなくなれば、私は喜んで芸術の方を捨ててしまいます。〉  常に理想を追い求め続ける芸術家が、自らの芸術を放擲してもかまわないと言うほどの人間に現実に遭遇するなどということはまったく稀有なことだ。そのような人間を自分のものにしようというのだから、松子夫人に対する求愛の手紙がこれほどまでに熱烈なのもあながち無理からぬところである。  松子夫人の前での潤一郎のあまりに徹底した低姿勢ぶりに大方の読者はああまでみじめったらしくしなくてもと思われると思う。確かにそこにはマゾヒスティックなものが感じられ、少少異常の部類に入るかも知れない。しかし、ここで潤一郎を少し弁護しておかねばという気もする。だいたいラヴ・レターというもの自体が、自己卑下・対象賞讃の基本線に成り立っているものだからで、多かれ少なかれ、“私はあなたの|僕《しもべ》です”“あなたは私の太陽だ”式の書きようはどんなラヴ・レターにも常に見られるところだろう。後々いかに亭主関白を誇った男性にしたところが、結婚前に出したラヴ・レターはこんな調子で書かれているに違いない。“お前は俺の奴隷だ。黙って俺についてくりゃぁいいんだ”式の高姿勢なラヴ・レターも聞かぬではないけれど、そんなに自信がある人はだいたいラヴ・レターを出す必要もないわけだ。この基本線をぐっと鮮明にして、パッパッと塩・胡椒をきかせたのが潤一郎の手紙という次第だ。が、大分塩・胡椒がききすぎているきらいがあって、潤一郎が松子夫人に面と向かって求愛した言葉が「お慕い申しております」であったなどと聞かされると、いまだに世の人々の耳に残る皇太子との結婚の際の美智子妃殿下の言葉が思い出されて、男たるものいくら何でもそこまでと言われる向きも多いであろう。  同じく近代文学史に於いて|耽美《たんび》派と称される潤一郎が兄事していた永井荷風とは対女性観がまるで反対なのが面白い。潤一郎はこう述べている。  〈先生は女性を自分以下に見下し、彼女等を玩弄物視する風があるが、私はそれに堪えられない。私は女を自分より上のものとして見る。自分の方から女を仰ぎみる。それに値する相手でなければ女とは思わない。〉  女性にとっては結婚するとしたら断然潤一郎型の男性を相手に選んだ方が幸せに違いない。  もっとも潤一郎型の男性に女として認められればのはなしではあるが。      萩原朔太郎  常識的には、恋いぶみは男女異性の間において取り交されるものだろう。日本文学史を眺め渡してみても、「相聞往来」は、原義は消息を取り交すことで、初めはその当事者が、何も恋愛関係にある男女でなければならないというわけではなかったのだが、いつかそれは恋の消息に限られていき、相聞歌はおよそ恋愛歌を中心とするようになって、やがて「恋歌」になってしまった。それに平行して、散文において、後世の「|懸想《けそう》文」にまとまっていく歩みをみても、やはりやり取りの当事者は、男女であることが通常である。そういう常識的扱い方からすれば、ここに挙げる萩原朔太郎の手紙は、男から男へのものなのだから、恋いぶみとして分類するのは、不適切かもしれない。  しかし、相手に対して、自分の衷情を披瀝して、その|眷顧《けんこ》を請い、愛情を求める手紙は、恋いぶみでないとは言われないだろう。事実、この手紙の中で朔太郎は白秋に対する自分の真情を「恋」と呼び、その感情は、当時恋愛中であった女性の「えれな」を思う以上だと言い、「同性の恋」とも書いている。だから常識的にはややずれるところがあっても、この手紙を恋いぶみの中に入れても、見当はずれではない。  文中の固有名詞、北原隆吉は白秋の本名。室生は室生犀星、河野は河野慎吾、広川は広川松吾郎である。皆、白秋をめぐる人々、というか、兄事し師事した若き詩人、歌人達である。「えれな」というのは、当時朔太郎と恋愛関係にあった女性で、その愛称であろう。そういう愛称が白秋あての手紙の中に出てくるのだから、朔太郎とえれなとの恋愛は、少なくとも白秋は知っていたわけで、そういう私的なことが知られている仲間でもあったことが、同時に、そういう仲間達が白秋を中心にして存在していたことが、そういうところから読みとれるであろう。ちなみに「えれな」は、後に他家に嫁し、いくばくもなくして、肺結核のためになくなった、という。  室生犀星は、後に、朔太郎、大手拓次とともに、白秋門下の三羽烏の一人と言われた人であるが、特に朔太郎とは深い友情をかわした。そして、白秋以下、さして年齢の差があるわけではない。  朔太郎の生年月日は明治十九年十一月一日であるが、初め朔太郎自身、明治二十一年と言っていたという。それは師とする白秋が、十八年一月二十五日の生れであって、昔風の数え年ではわずか一歳違いということになってしまうので、朔太郎はそれを考えて、生年を二年引下げていたのだという。従って、以前は朔太郎の生年は二十一年として、事典などにも記されているが、今日では十九年ということになっている。しかし生年をいつわるところに、ほほえましい朔太郎の感情が反映していると思う。  大正三年の時点で、昔風の数え年で記述すると、白秋三十歳、朔太郎二十九歳、犀星二十六歳ということになる。朔太郎の詩壇における地位が決定したのは、大正六年刊行の『月に吠える』をもってするのが、文学史の説くところだが、そうすると、この手紙の背景になっている時期は、犀星との親交、白秋への傾倒の時期であって、朔太郎はまだほとんど無名ではあったが、やがて『月に吠える』に集成されていく作品が発表されたり、胎動したりしていた時期にあたっていた。   北原白秋様    わずかの時日の間に、あなたはすっかり私を|とりこ《ヽヽヽ》にされてしまった。どれだけ私があなたのために|薫育《くんいく》され|感慨《かんがい》されたかということをあなたには御推察が出来ますか。朝から晩まで、あなたからはなれることが出来なかった私を御考え下さい。一日に二度も三度もおうかがいしてお仕事の邪魔をした私の真実を考えてください。夜になれば涙を流して、白秋氏にあいたいと絶叫した一人のときの私を想像してください。    真実心から惚れた人、北原隆吉様まいる手紙だ。文字に誇張はありません。私はあなたを肉親以上の母と思う。私はかなりいろいろな人につきあったが、不幸にして心から惚れた人はありませんでした。(好きな人は多いが)室生君は始め僕に悪感をいだかせた人間ですが、三か月の後にはすっかり惚れてしまいました。今では室生君と僕との仲は相思の恋仲である。こんな人はもはや二人とはあるまいと確信していたのが、あなたに逢ってから二度同性の恋というものを経験しました。恋といっては失礼かも知れないが、僕があなたをしたう心は|えれな《ヽヽヽ》を思う以上です。万有をこえて涙を流すものに合掌するものに真実を認めてください。    かつてあなたの芸術が私にどれだけの涙を流させたか、その涙は今あなたの美しい肉身にそそがれる。真に随喜の法雨だ。身心一所になる鶯の妙ていだ。私の感慨は狂気に近い。かんべんして下さい。あなたをにくしんの母と呼ぶ。    十八日、晴明のベランダ、安楽椅子のうえ、赤い毛布の夢みる感触。    なにか|哀《かな》しく私は泣いた。双手で顔を|蓋《おお》っていたけれども、涙はとどめなく顔に流れた。烈しい憤怒ののちのものまにや性の哀傷、くるめく奔狂の恋魚は胸いっぱいに泳ぎまわった、光る天景、うらうらとはれわたった小春日の日光、みどりの松の葉。    どういうわけか室生君が恋しくてたまらなくなった。遠くの空で彼が私を呼んでいる。あなたはそばで子守唄をうたっている。しずかなしずかな夢みる東京麻布高台の小春日に、私の涙はきりもなく流れてやまなかった。松のみどり葉と笹の葉がわけもなく私の新らしい涙をいざなう。    私はあんな快よい、そして哀しい思いをしたことは今迄に一度もない。私は哀傷にほとんどたえられなくなった。心中ひそかに、あなたが私のそばに立寄られんことを怖れていました。もし椅子のそばにあなたが来られたならば、私の哀傷はあなたの手を涙で汚して、醜い絶叫と変じたに相違ありません。    涙によごれた泣顔をあなたや河野君に見られるのがきまりが悪かったため、逃れるようにして御宅をとびだしました。しかし坂下町の通りに出ると、二度涙がこみあげて来た。私は往来を歩くにどれだけきまりのわるい思いをしたかわからない。うつむいて眼をこすりながら、あてもなくあの辺の寂しい通りを歩きまわりました。番町の親戚へつくと同時に、いそいで湯殿へとびこんで顔をあらった。    祖父さんのとめるのを無理にふり切っても、あの晩はあなたに逢わずにはいられなかった。その日以来、あなたは|ほんとう《ヽヽヽヽ》の私の恋人になってしまいました。    広川君と二人で|麹町《こうじまち》のレストランであなたのお噂をしながら感慨の涙にむせんだことをご推察下さい。あなたと最後にあったあの前の晩のことを忘れないでください。    しまいには御宅を訪問するのが|きまり《ヽヽヽ》が悪くてたまらなくなりました。あまり度々なものですから、それに私は内気でおく病ですから、妹さんとばあやさんにはとんだご迷惑をかけました。    はじめ私はあなたをどこか|こわい《ヽヽヽ》人だと思った。今ではなつかしくてたまらない人だ。逢いたい、逢いたい。    私はきちがいだ、あまり一本気すぎる、そのくせ|おく病《ヽヽヽ》だ。憎い奴は殺さなければ気がすまない。好きな人は抱きつかなければ気がすまない。僕はここにいます。十月二十四日。朔太郎    河野君によろしく。僕はもう何とも思っていません。あの事件はあなたが僕にイヤミを言われたことから駒が出たのです。あなたが僕の心事を理解しておられないと思ったことが、僕を気狂いにさせたのです。    今朝、母が上京しました。僕は留守番です。  右の手紙は、木俣修著『北原白秋あて書簡集・若き日の欲情』(角川書店刊、昭和二十四年)からの引用であるが、日付は「十月二十四日、朔太郎」とあるので、それにきめていいと思うが、文中には別に「十八日」という日が記してある。これは多分、この手紙が一気に書かれたものではなく、日記のような形をとりながら、めんめんと書き継がれていったことを示していると思う。  この手紙についての小文の解説と朔太郎の紹介を『日本人の手紙』から引用しておく。井口樹生君(現、慶応義塾大学教授)の筆になるものである。   電話の発達した今日ではもともと手紙を書く機会が少なくなったが、白秋への恋心ともいうべき心情を訴え続けた日記をそのまま送りつけたような内容の手紙は、あるいは後に残る手紙というものを書くまいと思わしめるかもしれない。だが、電話という会話では得られない、儀礼の挨拶状ではうかがえない、確かに生きている詩人の抒情が、この手紙に存在していることがわかろう。   当時白秋二十九歳、朔太郎二十七歳であったが、若くして一家を成した白秋とまだほとんど無名の朔太郎との間には大きなへだたりがあった。同年九月四日付の手紙では、「あなたというものが恋人のようにもなつかしく、教祖のようにも尊く見えたのです」と言っている。その焦がれ思いつめた師と仰ぐ白秋の片言が、不安な詩人の心を突き刺してしまったらしい。青年期に特有の自堕落と野望とを、人一倍多くかかえ込んでいる朔太郎であった。本文では訂正しておいたが、錯乱としかいいようのない、誤字だらけの手紙であるが、全体を貫く師への思い、真情の吐露は、読む者を赤面させるほど真直で一途である。生涯抒情詩を歌いつづけた詩人にとって、一番大切だったのは、この純粋性であったのだろう。   萩原朔太郎は明治十九(一八八六)年十一月一日、群馬県前橋に医師密蔵と妻ケイの間に生まれた。三十九年前橋中学を卒業の後、熊本の第五高等学校、岡山の第六高等学校に籍をおいたが、いずれも落第退学している。   大正二(一九一三)年、二十七歳の時、北原白秋の雑誌『|朱欒《ザンボア》』に詩や短歌を発表し、同誌に掲載された室生犀星の『小景異情』を読んで感動し、文通をはじめ、ともに白秋に近づいた。白秋との交友はほとんど崇拝に近いものになる。大正六年二月、処女詩集『月に吠える』を刊行。同十二年にはさらに詩風を発展させた『青猫』を発表した。昭和十(一九三五)年頃になって、後進の詩人達に大きな影響を持つようになり、雑誌『四季』に中心的な存在として迎えられた。   晩年は数多くの評論を書いたが、昭和十七年五月十一日、肺炎のため自宅で死亡、五十五歳であった。   朔太郎は、病的な感覚と幻想を織りなす象徴的な詩風によって、それまでの日本の近代詩が持ち得なかった自由な表現を獲得することに成功した。口語自由詩の完成者と評価されている。 [#改ページ]    夫と妻との手紙      さまざまなケース  家族の平生の暮らしの中では、普通、手紙のやり取りということはない。一つ屋根の下に寝起きしている家族の人々の間には、普通ならば、会話があるわけだから、何も書いたものによらなくても、用は通じるはずだからである。  前に「戦中の手紙」の章の中に挙げた、波多野勤子さん母子の間では、「戦中」という特別な状況のために、母子が顔を合せることが少ないことから、連絡帳のようなものが工夫され、子が母に、母が子に手紙を書いた。それを、児童心理学者の波多野さんがみずから編集したのが、洛陽の紙価を高めた『少年期』であった。しかし、当時この本が広く流布したために、この本をまねて、子が母に、常に一緒に寝起きしているのにもかかわらず、わざわざ手紙を書くというようなことが流行して、識者の眉をひそめさせた。特別な環境にない母子ならば、会話が優先するのが当然だからである。  これが、夫と妻との間ということになると、平生の暮らしの中で手紙が取り交されるということは、まず絶無と言っていいだろう。あれほど、かつて筆まめだった恋人同士も、夫妻という関係に進めば、全く筆不精になってしまう。それは同時に幸福な夫婦の暮らしの|あかし《ヽヽヽ》と言っていいと思う。だから、夫と妻との間の手紙は、夫妻が別居の暮らしに身を置いた場合のものが、そのほとんどすべてであると言えるだろう。  その別居は、夫の「旅行」ということによる場合が多い。ことに近代以後の生活では、夫の外遊という機会が増え、日本人の場合、妻を残して行くことが多いので、外地から内地の妻に宛てたものが多い。本章では、その例として、二葉亭四迷の手紙を取り上げた。  それに対して、旅行は旅行でも、「出征」という場合がある。これは当然単身で行くのだから、戦地の夫からの手紙ということになる。ここでは森外のそれを挙げることにした。これらは当然、内地の妻からの手紙もあるはずだが、内地と外地との、夫妻の相聞往来は、まとめられてはいないようだ。  それらの別居に対して、さらに「不幸な」別居ということになると、近代現代の生活では、思想問題のために、片方が逮捕されて獄中の生活を送るという別居が加わる。「戦中の手紙」の中に、すでに挙げた磯部浅一の場合がそれであるが、特に、本章に挙げる宮本顕治、百合子夫妻の場合は、夫妻の往復書簡を掲げることが出来た。  それらは、個々の場合において、表面的には幸不幸はあるにしても、夫妻の関係は継続しているわけだが、もう一つ、夫と妻との間が断絶した場合がある。そういう別居における手紙、たとえば別れた妻に送る手紙というものもあるわけだが、ことに、そういう生活にはいるという時、あるいは、そういう別居の開始を告げる「離縁状」というものがある。これは、夫が夫としての位置での、最後の手紙ということになるが、全く一方的なものであって、今日の社会ではもはや考えられない。妻の言い分は一切聞かず、有無を言わせずに、妻の居場所を逐う宣言であって、完全な男性中心、夫優位の社会でなくては通用しない、勝手きわまるものだと言うべきであろう。これを「去り状」というのからして、夫中心の言い方であろう。去り状はそのきまった形式、書き方から、「三下り半」という。  以上の場合場合で、夫と妻との間で取り交される手紙のすべてを尽すわけではないが、以下、いくつかの手紙を紹介しよう。      外国から内地の妻ヘ       ——二葉亭四迷  二葉亭四迷が帝政ロシヤにはいったのは、明治四十一年六月のことで、ちょうど、日露戦争と第一次欧州大戦とのはざまの時期であった。「文学は男子一生の仕事にあらず」と言った四迷としては、朝日新聞社の特派員として、当時の首都ペテルブルグ(現在のレニングラード)において、必ずやなすあらんという期待を持っていたに違いないが、不幸にして病いに倒れてしまった。  次の手紙は、帰国の予定がきまり、その出発を間近に控えた日に書かれたものであるが、この手紙の次に、四月十七日付で、同じく妻の柳子に送ったものが残っており、それを最後に、四迷は印度洋上において、不帰の客となった。  ここに挙げる手紙を書いた時には、四迷はまさか刻々と死が迫っているとは考えず、旅費のことも一応解決し、帰国の予定も立ち、「まずこれで私も助かったらしい」と書いている。それははかない希望的な予測に過ぎなかった。その次の、あとから思えば死の直前の、最後の手紙はごく短く、  〈今朝マルセーユ着、病状に異りたる事なし 四月十七日 辰之助 柳子殿〉  とあるだけである。    医者のいうに、「あなたの熱はいつ迄たっても下る見込みがない。されば無理なれど、多少の危険を冒し、熱のあるまま、この|彼得堡《ペテルブルグ》を退去する外は策なし。|彼得堡《ペテルブルグ》に居っては遂に死あるのみ」と。    目下熱は三十八九度が普通にて、時には四十度を超すことあり。普通の場合ならば、少しも身体を動かしてはならぬのなり。現に便所へ通うことにも医者は不賛成にて、|無 拠《よんどころなく》、便器にて用を足し居る始末。然るを身体を動かすをいとうどころか、|彼得堡《ペテルブルグ》を退去して日本へ帰れというのは、医者も余程持ちあぐねたものなり。    医者がこういう意見なら、危険な話なれど、|拠《よんどころ》なし、|彼得堡《ペテルブルグ》を去るの外なし。    併し、如何にして日本に帰るべきかが問題なり。    |西伯利《シベリア》鉄道に由れば、九日程でハルビンに着、それより二日程で大連着、三四日で日本着、早く日本へ帰れるけれど、ハルビンに着くまで九日間程毎日間断なく、からだをゆすられ通しは覚悟でなければならぬ。一寸下宿から病院へ赤十字馬車でゆっくり運ばれても、病院へ着いた時は熱が大分高まった位だ。毎日ゆすられて、熱が高まらぬ筈はない。途中、熱が四十度四十一度となり、殆ど人事不省に陥り、それで無事にハルビンまで着き得るか否か、これ大疑問なり。    医者の意見は、「確かな事は受合えぬ、けれど、生命に拘る程の事はなかるべし」と。    友人等は皆、医者のこの説に反対にて「|倫敦《ロンドン》まで汽車で行き(実は |Antwerp《アントワープ》 という処まで)、四月十日出帆の加茂丸に乗込んで、海路帰朝すべし。その方が安全なり」という。私もそれは|然《そ》うだと思う。    しかし、ここに考えなきゃならぬのは、旅費の点なり。    |西伯利《シベリア》経由なら 円位で十分なれど、|倫敦《ロンドン》経由にて海路を|執《と》る時は、どう倹約しても 円程は掛る。社からそんな金は容易に出さぬ。談判したら渋々出すかも知らぬが、私は出して貰いたくない。|仍《よつ》て、みす危険を冒すのなれど、そう無算当の事も出来ぬと思い、私は|西伯利《シベリア》経由を決心した。    然るに、どうして〔も〕友人が承知せぬ。激論までして、遂に旅費は友人が引受けて、一文も私は出さぬでも好いという、一寸聞くと不思議な話に|纒《まとま》って、今一週間程して、当|彼得堡《ペテルブルグ》を退去して、|倫敦《ロンドン》に行き、四月十日の加茂丸で帰朝と決し|た《 ママ》。    当地から|倫敦《ロンドン》までは、大阪商船会社の重役末永という壮士の頭のような、私とは至極合口の男が世話して連れてって呉れる筈だ。    まずこれで私も助かったらしい。    若し友人が居なかったら、私は死んだかもしれぬ。    この友人というのは夏秋亀一といって、今度|彼得堡《ペテルブルグ》で懇意になった昨今の友人だ。    お前には事情が分らぬだろう。不思議でならんだろう。しかし聞く人が聞くと直ぐ|解《わか》る事だから、旅費の事など何も話してはならぬ。ただ、病気故、入費は余計掛れど海路帰朝するそうです、と人にはいうておくべし。    夏秋は近々、|西伯利《シベリア》鉄道で帰朝するから、或はたずねるかもしれぬ。しかし、この度は非常に御世話になりましたそうで|難有《ありがと》うございます、と淡|白《 ママ》に礼をいうておくべし。御馳走などは成るべくせぬがよし。三月二十六日 露都病院 辰之助 柳子殿  当時、ペテルブルグにおける四迷の一カ月の生活費は、六、七十円であがると、別の手紙の中に書かれているので、旅費がいかに高かったかということが想像されると、八木光昭君(前出)は注記している。続いてその八木君の「解説」と四迷の略伝とを挙げておこう。  宛て名の長谷川柳子は四迷の妻である。  朝日新聞社の特派員としてロシアに派遣され、日本文芸の翻訳・紹介に努め、日露間の友好平和に力を注ごうと決意した四迷であったが、仕事が軌道に乗らぬうちに肺患が悪化し病床に伏すこととなった。経済的に恵まれなかった彼は、自ら重い病気を負っているにもかかわらず、金の問題に苦慮する。日本に帰るのには多額の費用がかかるのだが、その費用を一人の友人が調達してくれることについて、妻に「事情が分らぬだろう。不思議でならぬだろう。しかし聞く人が聞けば分ることだ」と書いている。そんな大金が調達できたというのは四迷一家にとっては不思議なことなのである。月々の暮らしにも困るような生活をしていた四迷は、坪内逍遙に宛てて何度も借金の申し込みの手紙を出している。四迷の一生は金に追いまくられた生涯であった。旅費のめんどうをみてくれた夏秋なる人物がやって来ても御馳走しない方がよいと妻に指示する四迷、そこには金に苦労した彼の姿が浮き彫りにされていて、まことに哀れだ。四迷は帰路印度洋上で死んだ。遺体はシンガポールで火葬されたという。   四迷は文学者と実業家の二面を持った人物であり、その生涯の足跡をたどってみると、この二面の間に揺れ動いていたことが明白である。言いかえれば、文学者にも実業家にも徹し切れずに、不遇のまま終ってしまった人なのである。政治にそして実業に強い関心を向けるというのは、或る意味で明治の半ばに青年期を迎えた男子の一般的傾向でもあった。   四迷は明治二十年という早い時期に、日本にはじめて西欧リアリズム小説の考え方を導入して、小説『浮雲』を発表した。この作品が日本の近代小説の|嚆矢《こうし》たる作品とされるわけだが、それ以前、明治十年代を中心に世に風靡していた一群の小説があった。政治小説である。これら政治小説は自由民権運動を背景に発展したもので、代表的な作品には、矢野龍渓『経国美談』(明治十六〜十七年)、東海散士『佳人之奇遇』(明治十八〜三十年)、末広鉄腸『雪中梅』(明治十九年)などがある。当時の知識青年たちにこれらは広く迎え入れられたのである。四迷はまさにこの時代に青年期を送ったのである。そもそも彼がロシア語を勉強することにした動機は、日本が近代国家として成長していけば、必ずやロシアとの間に大陸に於いて利害の衝突があろう。その時日本を守る為にはロシアについて熟知していることが必須の条件であると考えたからだという。新しい小説理論を日本に導入し創作していった四迷には、一方にこのような政治や実業に対する強い関心が常にあったのである。   しかし、四迷の生涯は実際には恵まれぬものであった。いつも金に追い回された生涯であった。その揚句、彼は異国で病気になり、帰路の船上で死んでいったのである。まことに哀れである。政治や実業に志し不遇のうちに死んでいった多くの明治人がいたことを考えてみるとき、四迷の悲劇には単に一個人の悲劇とは考えられぬものが含まれていよう。   この手紙を妻に宛てた夫の手紙としてみた時に、ここには責任感に裏打ちされた、一家の主人としての決然たる態度がみてとれる。異国に於ける病床からの、それも生命にかかわる病気にかかっている人間の手紙である。しかし、ここには妻に対して自分の不安をあからさまには述べていない。その強い自制心は明治人特有の克己心というべきものであろうか。“火の用心。おせん泣かすな。馬肥やせ”と陣中から妻に宛てて手紙を送った一武士に一脈通ずるものがあるように思える。   元治元年、江戸市ヶ谷に生れる。本名、長谷川辰之助。明治十四年、東京外国語学校露語学部に入学。ここでニコライ・グレーの影響を受け、ロシア文学に傾倒した。坪内逍遙の知遇を得、明治二十年『浮雲』を発表した。日本の近代リアリズム小説の嚆矢たる作品とされる。『あひびき』『めぐりあひ』など、ロシア文学の翻訳を発表するかたわら、内閣官報局の雇員となった。明治三十年官報局を辞した彼は、東京外国語学校教授をしていたが、三十五年に到り、ハルビンの徳永商会の相談役として大陸に渡った。さらにそこを辞し、北京の京師警務学堂提調代理となったが、三十六年に帰国する(この前後の満州における四迷の動静は、断片的ながら、『石光真清の手記』〈中公文庫〉の中に記されていて興味深い)。帰国してから再び文筆活動を再開し、日露戦争を契機として大阪朝日新聞に入社する。この期の小説作品として、『其面影』『平凡』などが書かれた。後、ロシア特派員としてペテルブルグに滞在するが、肺結核が悪化し、さしたる仕事もせぬまま、帰路の船上で客死した。四十五歳。      戦地から銃後の妻ヘ       ——森 外  明治三十七、八年戦役、すなわち日露戦争の|さ《ヽ》中、第二軍医部長として従軍した森外の、妻しげ子に宛てたものである。  戦地と言っても、外の、というよりも、軍医森林太郎の勤務地は、前線ではなく、またこの手紙を宛てた妻のしげ子は、外にとっては|後添《のちぞ》いの妻で、二十歳ほどの年齢のへだたりがある。その、夫というより|庇護《ひご》者というようないたわりが先にたっている点が、この手紙の基調になっている。差出人の名をでれ助と自称しているところなどがその一つの現われで、切迫した戦争の空気はない。   つるばみの なれしひとへの きぬのうへに かさねんきぬは あらじとぞおもふ  この歌は、外が妻のほかの女性に、妻以上の者がいるものか、と言っているのだから、「妻のおのろけ」と言うことになる。つるばみで染めた、やわらかになったひとえの着物、それではないが、なれなじんだわたしの妻がいる以上、さらにそれに重ねて着るに価する着物ではないが、妻以上の者はあるまいと思う、と言うことだ。そしてこれは、外が教養を示して、万葉巻十八の大伴家持の歌を念頭において作っているものだ。   紅はうつろふものそ つるはみのなれにし衣に なほしかめやも  くれないのはでばでしい色をもって、家持は遊行女婦|さぶるこ《ヽヽヽヽ》をたとえて言い、それに対して、くろずんだ色であるつるばみに、なれなじんだ妻をたとえている歌だ。手紙の中の歌は、この歌によって作った外の|戯作《げさく》歌であって、器用なものである。 『日本人の手紙』から「解説」も採録しておく。中村(旧姓増田)由紀子君の執筆によるものである。   一月十五日のお前さんの手紙が来ました。いろのものをおくっておくれたそうだね。ついたらいずれ御返事をするけれどどうか皆さんへもえいちゃんにもお礼をいって|頂戴《ちようだい》。   こちらは一月になってからあまりあたたかで二十二日に雨になったところが夜雪にかわって二十三日半日雪がふって今日は急に零下十六度七分という寒さにもどった。又ペンの|尖《さき》のインキがこおって此のとおりボテになる。ここが満州のところなのだろう。しかし二月十日頃までしのげばまず安心だろうとおもうよ。   軍司令部に小川一真の大きな写真帖があって東京の芸者をあつめたものだ。すきな女の上に一同名をかけということだ。そこで女の|貌《かお》のないところへ妻のおのろけをかいてやった。   つるばみのなれしひとへのきぬのうへにかさねんきぬはあらじとぞおもふ   ツルバミというのは昔の染色でクロずんだ色なのだ。それを万葉集という本に妻の事にして遊女の事をクレナヰ(紅の花ぞめ)としてある。どうだ。ずいぶんでれ助だろう。|併《しか》しあまり|増長《ぞうちよう》してはこまります。   一月二十四日 でれ助 しげ子殿  手紙の宛先は森しげ子。外の二度目の妻。大審院判事荒木博臣の長女。明治三十五年小倉左遷時代の外と再婚、外四十一歳、しげ子二十三歳であった。外の指導のもとに『波瀾』『あだ花』等の小説を書いたりもした。  日露戦争に第二軍医部長として大陸に赴いた外から妻へ宛てられた手紙である。彼はこの二十歳近くも年の若い妻に対して、四、五日毎に筆まめにこのような便りを書き送った。それらは時にはユーモアに富んだお喋りを交えて、妻を|宥《なだ》めたり、|労《いたわ》ったり、諭したりという年長者としての庇護の情がにじみ出ているものだが、そこには時折作り物めいたと言えるほどの饒舌さが漂っていることがある。長男の於菟に宛てたものの方が、ほとんどが葉書に、一、二行歌や句を|認《したた》めてあるだけで、回数もずっと少ないけれども、自然さがある。  話はそれるが外の家族に対する優しさというものは有名で、その妹や子供達は多くの回想の中で数々のエピソードを記してその優しい思いやりを懐しんでいる。たとえば、即興詩人の翻訳を母のためにわざわざ大きい四号活字を用いて印刷した事など良く知られている話である。末娘の小堀杏奴の筆になる外像は次のようなものであった。  〈唯自分が遊んでいる傍に、いつも落着いた父が葉巻をふかすか本を読むかしていてくれると、父の持つやわらかな楽しい気持が乗りうつってくるようでとても楽しかった。〉  これは晩年の姿であるが、一家の長として、そのような雰囲気の中に家庭をおさめていこうとする姿勢は若い頃から変らない。従って二度目の結婚生活が気難しい母と我儘な妻との間で、睨み合いの状態に入ると、余計双方への配慮が働くようになる。戦地からの妻への手紙にも、  「千駄木や曙町や南鞘町からたび人が来ればいろ気骨のおれることだろうと思う。母も少し気むずかしいのだからどうかやわらかにあしらってもらいたい。すべてだれにもやさしくしてあんまりだまってもおらず、いいすぎもせぬというところでうまくやっておいておくれ。おれがいればおたがいにおもいちがえなんぞのないように、なる|丈《たけ》間にいて梶をとるのだけれどそれが出来ないからお前さんにしっかりしてもらうより外しかたがないのだ。」という言い廻しが見えている。このような意識が「皆さんによろしく 林/やんちゃ殿」「一月十八日のおまえさんの手紙が来たよ。こん度のは大そう御機嫌の好いとき書いたものと判定する。いい子のときとだだっ子の時とすっかり知れるからおかしい。」という父親のような態度になって現われるのかもしれない。      獄中獄外の夫と妻       ——宮本顕治と百合子  次に宮本顕治、百合子夫妻の手紙を掲出する。この往復書簡については、やや説明を要することがらがあるので、少しくどくなるが注を加えることにする。  妻、宮本百合子は本名宮本ユリ。旧姓中条百合子。明治三十二年東京小石川に生れ、日本女子大英文科予科中退。『伸子』『播州平野』『道標』等、多くの小説を残し、昭和二十六年になくなった。  これに対して、夫、宮本顕治は山口県の出身。百合子におくれること、ほぼ十年、明治四十一年の生れである。東京帝国大学経済学部卒業。すでに在学中に、雑誌『改造』——当時第一流の綜合月刊雑誌——の懸賞文芸評論に応募し、その『敗北の文学』が第一席となり、華やかに文壇に登場した。昭和六年に共産党に入党。七年二月、中条百合子と結婚したが、その年の四月、百合子は検挙され、顕治は池下活動にはいったが、翌八年十二月に検挙され、昭和二十年十月、日本の敗戦後に出獄するまで、十二年間もの長い獄中生活を送った。戦後は共産党中央委員として、政治家としての道を歩み、現在、党の委員長である。  こうした二人の経歴をつき合せてみると、この二人は、数え年で記すと、顕治二十五歳、百合子三十四歳で結婚したが、その同居生活はわずか二カ月にして破られ、この二人がふたたび相逢うたのは、顕治三十八歳、百合子四十七歳の時であった。そしてこの長い「別居」を強いられた夫妻は、その間、手紙を交し合うことしか、「交流」の手だてはなかった。しかもその手紙は、獄中生活にある者の手紙も、送られてくる手紙も、ことごとく厳重に検閲され、検閲者の一方的な判断によって、字句は抹消された。従って、手紙による夫妻の交流と言っても、そういう厳然たる条件を前提としていたことは、忘れることが出来ない。  ここに掲出した手紙は、は百合子から顕治への昭和十七年十二月二十一日付のもの、はそれに対する夫から妻への同年十二月二十八日付のものである。  昭和十七年十二月という時点において、この夫妻の別居は、夫は獄中に、妻は獄外にという生活であった。百合子は昭和十六年十二月(太平洋戦争勃発は十二月八日)にまた逮捕されて、巣鴨拘置所に収監されたが、在監中に熱射病となり、予後がはかばかしくないために、自宅に帰された。ほとんど失明状態であった百合子の手紙は、手紙の文中に出てくる「ペンさん」と仮称されている女性によって代筆されていたが、昭和十七年の手紙の中では、この手紙だけが自筆である。  そういう状態のもとに書かれたものだということと、もう一つ、昭和十七年という年は、日米開戦第二年目であって、世間一般においては、戦勝気分が続いていた時である。そういう時点に、夫妻の間で交された一組の往復書簡である。       きょうもお軽の手紙ですが、紙を|更《か》えて。これなら恥しいほどズルズル長くはなりますまいから。    十七日のお手紙をありがとう。    隆治さんのことはやるだけやって見て全くようございました。あとから送った磁石(夜光)やウィスキーなどが十六日に届き、十八日に最後の面会だったそうでした。ウィスキー、磁石、等、|紀《ただし》さんに大骨を折って貰いました。ウィスキーはポケット用のビンではこわれるから大さわぎして水筒を買い(これも今はない)それに入れかえて送りました。隆治さんから十九日に電報が来て、    イロイロノゴハイリヨアリガタクウケマシタゲンキニシユツパツ    とあり、それを見たら涙が浮びました。有難く|うけ《ヽヽ》と電文をかいているところにも、あの人の気質がよく出ております。生かしてかえしたいと切望します。実に、それを願います。    ウィスキーは|内国産《ないこくさん》でも、現在は薬用に足りるだけ純質なのが少くて、散々人手を経て一ビン買い、小売りをしないというので大枚を投じ、うちにあると、無駄にのむ奴がいるから紀さんにあずけてあります。それから水筒を又一つ入れて達治さんに送っておきましょうね、今度のように気を|揉《も》むのは辛いから。    達治さんも同じ方角でしょう、そちらに重点がおかれているらしいから。磁石は手に入るかどうか。天文の本は紀さんの意見では非実用の由です。    実に特別な年末ですね。    この家での生活は、子供が三人になったら又一つ様相変化して大変なものです。太郎は今私と一つ部屋に寝ております、泰子が四十度ほど熱を出しているので。赤ん坊についている看護婦さんは、泰子が熱を出すと同時に自分も熱が出たそうで、ねております。赤ん坊が人工栄養だし、泰子がああだし、お母さんは本当に二人の子供の間でキリキリまいをしております。したがって私はどうしても家のことに手を出さずにはいられなく、そのため過労してパニックも生理的におこったのですが、よくよく考えて、もう余りつかれないようにしようと決心したので、この二三日は幾分ましです。    ペンさんはこの頃は一週一度にしております。「自分の生活とまるで関係がないから」とはっきり言われると私は切ないから、もうこういう方式で自分がかくことにしました。あなたにだけは、用足し手紙は仕方がないが。    寿江子の体いろいろありがとう。    こうやってチラチラと定まらない視線の間から、段々に少しずつ字も書いて行くのがいいのでしょう。全く視力の回復の手間どるのは苦痛となって来ました。本はよめません。知っている字をこうやって半ば手の調子にたよって書くことの方が出来るのね、使う字もわかっているし。この頃は少し頭の疲れもしずまって来て、注意もやや集注するようになったので、眼のおくれは一層切実に感じられることとなりました。    近日うちにお金もお送りいたします。森長さんや九段は例年通りでよろしいでしょう?    もう一度は年内にかけますね、或いは二度? この一つ二つの手紙の中で今年出来たものをみんなおみせして、新年は新しい諧調をもってはじめたいと思います。風邪はお気をつけになって。       先日は寒いところを寿江君御苦労さん。    泰子さんはその後いい方だろうか。皆、御心配のことと思う。回復へ向うように。薬、どてら、など|有難《ありがと》う。オリザビトンは、疲労に非常にいいから是非ユリの服用をすすめる。僕の方は、今絶対的に必要としているのではないから、ビタスだけで結構だ。薬は永く持続していると、「慣れ」の現象でききめが薄くなることがあるから、そちら、オリザビトンを一、二月やってみるのは非常にいいと思う。万一、僕の方入用のときは、ユバモンでも何でものめるようにするから、こちらのことは少しも心配なく、あるのを使うこと。こちらは今は主にビタスを飲んでいるから、オリザビトンは送らないでいいから。脚気気味だったときの経験によると、実によくきいたから、きっと、ユリの回復にもいいと信じる。『和独』小型は、箱入だろうか。もし箱でなければ、こちらに間違って来たのを返送して、大型のと交換してもらえるが、箱付だと、箱は、届いたとき廃棄されるから、交換不能だから、小型のままですます。眼科のお医者に近くみてもらったかね。|養生訓《ようじようくん》は「一、よむな、書くな、一、よく眠れ! 一、パニックを起すな」この三つだね。すべては回復後のたのしみにして根気よく養生すること。こちらへの返事もなくていいから心配なく。用事は、病人への手紙に書くことは形式だけでも、やはり責任を感じさすことになるから、寿江君宛にしておくから、ユリは|呑気《のんき》にしていること。寿江君も御苦労さんだが、まあ非常時妹役としてもらおう。全く養生中を|差入《さしいれ》の心遣いをいろいろさせて、ユリにも気の毒だった。金は、持ち高を先日からしらべ中だから、近く分ると思うが、大分あるだろうから、当分は心配ない。今は、何もかも皆に世話になるばかりだが、いずれ御恩返しのときもあるだろう。    この正月は『笛師のむれ』や『ロビンソンクルーソー』などよむ予定。サンドは、なかなか|確《しつか》りした腕前だね。技術的に言っても、描写と説話を巧みに駆使して、読者をあかさないところが。クルーソーは、隆治へ送ってやるつもりでいる。隆治も、この数年を無事だったら、いい本を供給して成長を助けてやる場合も来るだろう。そのときには、読ます本にも不自由もないときだから。富雄も元気でいるらしく、葉書時折くる。送った本など、よろこんでいるようだ。ユリも今年は|御難《ごなん》だったが、人生御難つづきでもないものだから、元気で。今年は、天気がよかった代りに、空気が乾いて風邪は乗じ易いかも知れないが、幸いその後風邪の御見舞も受けないでいる。今度は来年に入ってから書くことになるが大事に。皆さんへもよろしく。  注記を続けよう。  書き出しの「お軽の手紙」というのは、「仮名手本忠臣蔵」の七段目で、大星由良之助が読んでいる手紙を、お軽が二階から鏡に映して読み、仇討ちの計画の進行していることを承知するという、作劇上重要な意味を持っている手紙を指して言っているのだが、それが、由良之助の旧主|塩谷判官《えんやはんがん》の妻の手紙なので、|女手《おんなで》の「まいらせそろ」で、長々と巻紙に書いてある。百合子は、自分の手紙もそれに劣らず長ったらしく、巻紙を使用して書いていることを、|戯《たわむ》れてそう言ったのであろう。内容にまで立ち入って、比喩として用いているわけではあるまい。  文中の固有名詞。  隆治さん。顕治の弟。陸軍の命令で、この頃、南方へ派遣。顕治の指示で、百合子は人を介して、ウィスキー、磁石などを、隆治のもとへ送った。  達治さん。顕治の長弟。昭和二十年八月六日、広島の原爆投下の当日、三度目の応召入隊中、行方不明となった。  太郎。百合子の甥。  泰子。百合子の姪。  寿江子。百合子の妹。  森長さん。森長英三郎。数年間にわたった顕治の公判、大審院への上告などに関する実務を献身的に行なった人。  ユリ。妻百合子のこと。百合子の本名は、宮本ユリである。  富雄。顕治の従弟。  その他、「養生訓」は、貝原益軒の有名な著作だが、その名を借りて、夫が妻に対して妻の健康回復のための指針といったものを示したのである。獄中の夫の、妻へのいたわり、思いやりが感じられる。顕治の手紙に「ユリも今年は御難だったが」とあるが、これは、百合子が拘置所から自宅へ帰される、というほどの大病にかかったことを指していて、文中の「養生訓」と「御難」と関連している。  文中、百合子が「パニックも生理的におこった」と書き、顕治もほかの手紙で「……こう云ったからとて、使いの人の口上の仕方がどうのこうのとパニックを起したり、難題出したりしないこと」などと書いている。妻のカッとする怒りの言動を、夫妻の間で、パニックと呼んでいたのだろう。  顕治の獄中での読書の片鱗がうかがわれる手紙で、『笛師のむれ』はジョルジュ・サンド(フランスの女流作家)の傑作と称される「田園小説」(一八五三年発表)。『ロビンソンクルーソー』はイギリスの作家ダニエル・デフォーの作(一七一九年発表)。  なお、この手紙は筑摩書房刊『十二年の手紙』上・下(後、文春文庫に収録)からの引用で、注記は、金井広秋君(前出)執筆のものに拠った。以下、同君の書いた「解説」に沿って進める。  百合子のものは昭和十七年十二月二十一日付。顕治のものは同年十二月二十八日付。  百合子と顕治の結婚は昭和七年二月である。四月には百合子の検挙があり、百合子の検挙と同時に地下活動に入った顕治も、昭和八年十二月検挙され、以降昭和二十年十月まで獄中にあったわけであるから、宮本夫婦は、日本敗戦までの十三年間、たった二か月一緒に暮らしただけということになる。これを要するに、百合子三十三歳・顕治二十四歳の年から、百合子四十六歳・顕治三十七歳の年まで、当局の監視のもとで(拘置所では、被告人のところへ送られてくる手紙、被告人の出す手紙のことごとくを検閲し、拘置所がそうせねばならぬと判断した字句はすこぶる事務的に抹殺される)書簡を交わしあうことによってしか「交流」し得なかったということである。  しかし、書簡からうかがわれる両者の「夫婦生活」には、あの未曾有の大戦下にあって殆ど「奇蹟」としかいいえぬような、或る「雄々しさ」がみなぎっている。かれらは、不自由な条件のもとで、泣き言をいわず、自分たちの途を確信し、ひたむきに勉強し、互に励ましあう。「人生を漂流しているのでなく、確乎として羅針盤の示す方向へ航海しているということは、それにどんな苦労が伴おうと、確かに生きるに甲斐ある幸福だね。漂流の無気力な彷徨は、生きるというに価いしない。たとい風波のために|櫓《ろ》を失い、計器を流されても、尚天測によってでも航海する者は祝福されたる者|哉《かな》。そして生活の香油も、そういう航海者にのみ恵まれる産物であって、その輝きによって、生存は、動物でなく人間というに値する生彩と栄誉、詩と真実に満されてくるものだね」(顕治。昭和十九年十月十日付)。「そうです、全く非人間的な現象が人間らしいものとなるのは、上塗りのコテ工合でゆくものではありません。|孜々《しし》として勉学する、孜々として勉学する、ここに無限のものがあります。この頃はね、私がこういう生活しているせいかもしれないが、作家の誰彼が、どこでどう生活しているか、ひところのサロン的彷徨出没がなくなったから、普通の人々は全くわれ関せずのようです」(百合子。昭和二十年二月十一日付)。  かれらは、あの「暗い時代」を見事にたたかい抜いた。それは、人間というその名に値する人間のためにこそ担われた、孤独な、しかし限りなく美しいたたかいであった。今日でこそ、押しも押されもせぬ「大政治家」と化し、記者会見などして円熟味を示している顕治ではあるが、当時は、清潔な不屈の若者であった。百合子は、これらの手紙が交わされた期間、『冬を越す蕾』をはじめとする多くのエッセイ、『乳房』などの小説を執筆し、「非人間的」なものに抵抗しつづけた。その百合子が、獄中に在る年下の夫に対しては、ういういしい「女らしさ」を見せているのも感動的である。  なお、右二通は、世間が、全体として、未だ戦勝気分に浸っている時期に交わされたものであることに注意したい。 「敵」が勝ち誇り、宮本夫婦を軸とする側が全き少数へ追いおとされてしまっているとき、「いずれ御恩返しのときもあるだろう」と書く顕治の、透明な、不敗の確信には、今日のわれわれの胸を強く揺がす「魂の高貴」が刻印せられている。      離 縁 状  夫妻の、夫婦としての人間関係の平穏な生活の中でのやり取りの手紙に対して、離縁・離婚という別居という境遇での手紙を例示するにあたって、まずここに、離婚の宣言というべき、「離縁状」について書き記しておきたい。  まず、ティピカルな「離縁状」を挙げてみよう。      離縁状の事   一この|歌《うた》と申す女、下三条村源右衛門殿世話をもって貰い請けしところ、この度、離別いたし候う上は、かさねて、いずかたへ縁付き候うとも、これにおいて差し構えこれなく候。よって離縁状くだんのごとし。     天保十年亥年八月 [#地付き]伝四郎       うたどのへ  右のように、訓読し、ひと続きに書いたのでは、いわゆる「三下り半」の形式がわからないから次に原型を伝えるために、『江戸の離婚——三下り半と縁切寺——』(石井良助著。日経新書)に掲載されている、石井氏所蔵のものを、書き写しておこう。(『日本人の手紙』に檜谷昭彦君《慶応義塾大学教授》が執筆したものに依拠する)     離縁状之事   一此哥と申女、下三条村源右衛門殿世話    以貰請処、此度離別いたし候上は、重て    何方え縁付候共、此ニおゐて差構    無之候、仍て離縁状如件、     天保十亥八月 [#地付き]伝四郎(爪印) [#地付き]うたどのへ     この離縁状には、まず「|事書《ことがき》」がある。それに「離縁状之事」とあるのは比較的に例が少ないという。その点で、まず典型的なものと言ってよい。  離縁状には、二つの文言が含まれていることが必要である。それは、  1、離婚文言。  2、再婚許可文言。  である。右に挙げた離縁状には、  1、此度離縁いたし候(おれはお前を離縁する)。  2、重ねて何方へ縁付き候とも差構えこれなく候(この上はどこの誰と再婚しようとかまわない)。  と、ちゃんと1・2にあたる文句が書いてある。  そしてこの離縁状というのは、ふつう、三行半に書いたので、俗に「みくだりはん」と呼ばれたという。その語源については異説もあるが、ともかく、右に掲出したものは、約束通り、三行半にしたためてある。  近世の一般庶民の生活では、離婚は全く簡単であって、妻は全く一方的に無視され、夫が妻に宛てて、型通りの離縁状を与えさえすれば、それで離婚は成立したのである。それは、「三下り半」の俗称のほかに、|去《さり》状とも|暇《いとま》状とも|退《の》き状とも、また縁切り状とも言われたが、それらの名称からみても、離婚は夫の都合によって成立したことがわかる。  石井良助博士の説明によると、これを三行半で書くという理由は特になく、ただ近世中期以降に、世間的な習慣となってひろまったのにすぎないという。石井説によれば、三行半の形式は、短い文章で書くことが望ましいという意向が働き、同時に「七去」の考えが影響して、七去の法の七条の半分という考え方から、三行半の形式が生じたのか、と推定しておられる。「七去」というのは、夫が妻を離婚する理由の七カ条を言う。父母に従順でない子がない多言である窃盗をする淫乱嫉妬悪疾、を数えている。今日では、「窃盗」はともかく、ほかはほとんど離縁の理由にはならない。もっとも今日では「性格の不一致」などという、余り明確でないことが離縁の理由になったりするが、それにしても、夫からの一方的処置ということは、もはや世間が許さない。      去り、去られた夫と妻       ——永井荷風と妻・八重  大正四年二月十日、荷風・永井壮吉の妻八重は、夫に対して縁切り状をしたため、これを書き置きとして残して、出奔した。かつて、全く見られなかった妻の夫に対する、去り状であり、退き状であり、離縁状であった。    一筆申残しまいらせ候。私事こちらへかたずき候事、よくにも見えにもあらず。ただ捨てがたき恋のれきしがいとおしさに候。もとよりなれぬ手業、お針もおぼつかなく水仕の事は云うまでもなく候。さぞお気に入らぬ事だらけと、御きのどくに存じ上げ候も、私はそのくらいの事くんで下さる御方と、日々うれしくつとめ居り候|処《ところ》、あなた様にはまるで私を二足三文にふみくだし、どこのかぼちゃ娘か大根女郎でもひろって来たように、御飯さえたべさせておけばよい。夜の事は売色にかぎる。|夫《それ》がいやなら三年でも四年でもがまんしているがよい。|夫《それ》は勝手だ。女房は下女と同じでよい。「どれい」である。外へ出たがるはぜいたくだとあたまっから仰せなされ候。なるほどそれも御もっとも。世のつねの夫婦ならばそうなくてはならぬ処、さなきだに女はつけ上がりたがる者。夫としてはつね日頃そのくらいに女房をおしつけておかなければならぬ事、私とてもよく存じ居り候。私は殊にあなたがそれほどになさらずとも、来る時すでに心にちかいし事もあり、決して御心配かけるほどぜいたくや見えをしたがる者にてはなく候。そんな事わからぬあなたともおもわれず、つまりきらわれたがうんのつき、見下されて長居は|却《かえ》って御邪魔。此意味、向嶋の老人に|咄《はな》し候ても通ぜず、よんどころなく候。|此《この》手紙父に御見せ下されて、あなた様の御気のすむようどうとも御はからい下され|度《たく》候。右申し残し候。あらかしく    二月十日夜八時半 八重より 旦那様 御許  この出奔の一件に関しては、媒酌人であった二世・市川左団次、当時荷風が主宰していた雑誌 『三田文学』の発売元籾山書店の主人で、荷風と親交の深かった籾山庭後、および永井家出入りの人、酒井晴次などが間に立って、仲介のために奔走したが、荷風は八重の出奔後二週間経った二月二十四日付で、八重に宛てて手紙を書いた。十四日という日数の経過は、妻に離縁状を叩きつけられた衝撃から平静さを取り戻させ、家出した妻に与えた別れの手紙として、まさに完璧なものと言っていいものを、荷風をして書かせることになった。    一筆申し入れ候。さてこの|度《たび》は思いもかけぬ事にて、何事も|只《ただ》一朝にして水の泡と相成り申し候。一時の短慮二人が身にとり一生の不幸と相成り候。|今更《いまさら》未練がましきことは友達の手前一家の手前浮世の義理の是非もなし。ただ涙を呑むより外致し方御座無く候。酒井君より三升人形御所望の由聞き及び候につけても、そなたが御心中云わぬはいうにまさる程の事、私の胸にはしみ感ぜられ申し候。何とぞ末長うこの人形の世話なし下され|度《たく》御願い申し候。    |扨《さて》、私はそなた去りたる後は今更母方へも戻りにくく候間、これより先一生は男の一人世帯張り通すより外致し方なく、朝夕の不自由今は只途法に暮れ居り候。お前さまは定めし舞扇一本にて再びはれしく世に出る御覚悟と存じ候。かげながら御成功の程神かけていのり居り候。    かえすがえすこの度の事残念至極にて、お互に一生の大災難とあきらめるより|詮方《せんかた》なく、私の胸の中もとくとお咄し致し|度《たく》存じ候えども、一度友達を仲に入れ候上は表立って|如何《いかん》とも致しがたく、いずれここの処しばらく月日をへだて候わば、再びお目にかかり、しみお咄し致す折もあるべきかと、それのみ楽しみに致し候。このことそなたもよくお考え下され|度《たく》、|先《まず》は未練らしく一筆申し候。早々。     二月二十四日夜半 [#地付き]壮吉より     お八重どの  手紙の中に「三升人形」のことが出てくるが、これが小道具として、実に効果的なので、さらに荷風の『大窪だより』を引用しておきたい。それは大正三年三月三十一日の記事であって、八代目団十郎に似せた三升人形——三升は八代目(および、第二、三、六、九各代の団十郎)の俳名——を買い求め、これを「親しき女」すなわち八重のもとに送り届けたいきさつが記されている。  「桜の花三分|通《どおり》開きかけ|春風駘蕩《しゆんぷうたいとう》たる|好《よ》き日と相成申候。然し上野博覧会開始中は電車雑沓致し散歩も殊の外|難渋《なんじゆう》と存じ候間|仲通《なかどおり》の道具屋古本屋をあさり歩きし末|日蔭町《ひかげちよう》の|村幸翁《むらこうおう》をたずね申候。主人折好く居合せ多年|根岸辺《ねぎしへん》の質屋の倉に在りしを近頃聞き伝えて手に入れしものなりとて八代目団十郎が似顔の人形見せ申候。|世話《せわ》の|鬘《かつら》二ツ|黒縮緬《くろちりめん》の|紋付竝《もんつきならび》に|羽織藍微塵《はおりあいみじん》の|二枚重緋縮緬《にまいがさねひぢりめん》の繻絆柳に燕の|縮緬浴衣《ちりめんゆかた》なぞの衣裳を添え|紺博多《こんはかた》の|独鈷《とつこ》の帯は|殊更《ことさら》人形の為めに織らせしものの如く見え申候。そもこの人形の持主|大家《たいけ》の娘か|御殿女中《ごてんじよちゆう》かいずれとも知る由はなけれどかく|価《あたい》を惜しまず見事なる人形までつくりなして役者をめで喜びし心根|流石《さすが》は昔の女なればこそと|思遣《おもいや》られて|不憫《ふびん》になり候儘古本屋の|塵 堆《ちりうずたか》き店先に隠し置かんよりはと思いて|価《あたい》を問い持ち帰り申候。然し我が身は男なれば|朝夕《ちようせき》の世話とて思うにまかせぬ|故《ゆえ》親しき女の許へ昔の持主にもおさ劣らず|劬《いたわ》り呉れるようこまごまと云添えて送り遣し申候。」  こに挙げた荷風の手紙については、八木光昭君(前出)の行き届いた「解説」があるので、『日本人の手紙』から引用しておく。荷風の小伝も同君の執筆である。   新橋の芸妓、巴屋八重次は、本名内田ヤイと言い、明治十三年新潟に生まれた。荷風の一歳下にあたる。舞踊をよくし、藤間勘右衛門門下で藤間静枝を名乗った。荷風との出会いは明治四十三年六月頃からで、当時荷風は慶応義塾の教授となり、三田文学を創刊して文壇に重きをしめはじめていた。荷風は八重次との交情を続ける一方、大正元年の九月に斎藤ヨネと結婚する。この結婚は親の言いなりになったものらしく、入籍はしているものの、夫婦関係はうまく行かなかった。結婚直後から妻ヨネや両親に秘して、八重次と度々逢っている。この年の暮れの三十日父久一郎が脳溢血で倒れたが、この時荷風は八重次と箱根に遠出していた。翌日も八重次に引留められ、籾山庭後からの電話ではじめて父の急病を知るという始末であった。父が急死した翌月、荷風は妻ヨネと離別している。半年にも満たぬ結婚生活であった。父の死を契機として、荷風の行動は自由奔放さを増して行った。大正三年に入って、八重次は余丁町の荷風邸の近くに家を借り、永井家にもちょくちょく出入りするようになる。この年の三月、荷風は八重次を入籍している。八重次は花柳界に育った人ではあったが、佐佐木信綱に歌を、依田学海に漢籍を学んで文学芸者といわれた程であったから、荷風との結婚は八重次にとってこれ以上望むべくもないものであったろう。しかし荷風はこの結婚により、家柄を大事にし芸妓を家に入れることに反対する兄弟・親類縁者との行き来を断つ犠牲を払わねばならなかった。世の中に背を向け、八重次との結婚生活を楽しみ、「八重家に来りてよりわれはこの世の清福限無き身となりにけり」と述懐していた時に、降って湧いたように起こったのが八重次の出奔であった。大正四年二月のことである。   荷風との離別後、八重次はもとの芸妓となった。この年の九月に一たん|縒《より》を戻して再び同棲しているが、時のたつにつれ荷風生来の浮気癖が出ると共に、二人の関係は疎遠なものになってゆく。荷風は生涯のうちで、深くつき合った女性は二十名に及ぶと言われるが、八重次以後入籍した者はなく、その意味では“男世帯を張り通した”わけであって、荷風にとって八重次は大きな存在であったことは確かであろう。   名うての女性遍歴の|強者《つわもの》だけあって、女性に対する別れの手紙として、こんなに完璧なものは少ないのではなかろうか。女性との別れの手紙の巧拙など云々するのもどうかと思うし、また読者としてもこの種の手紙に利用価値の生ずることのないにこしたことはないのだが……。   参考としてあげた通り、八重次の書き置きの文面には激したままの感情がかなり直接に表われているのだが、荷風はそれに比して冷静な書きようである。これは八重次出奔から二週間という日時をおいてから書かれたものであることにかかわってこよう。女房が家出したといえども、男たるものあわてふためいて、感情のあらわな手紙などを書くべきではないということである。一筆申し残し候という末尾にも荷風の余裕がみてとれる。   一番大事なのは、荷風はあくまで自分を下げ、相手を立てていることだ。これから先自分は不自由な生活を余儀なくされ途方にくれている。あなたは定めし世の中で成功されることだろうと書きつつ、自分は未練一杯であると述べる。これなら受け取った方は決して悪い気はしない。かえって、そのみじめな様子にホロリとさせられて、原因がどうであれ貰った方で私が悪かったかしらと思わざるを得まい。かわいそうに私がいなけりゃ、あの人何もできないのにと思う女心の弱点をついているわけだ。それでいて二人の関係をきっぱり整理するのだという基本線をはずしていないところが心憎い。心憎いと言えば、うまく小道具を使っていることだ。文中人形のことに触れているが、人形というものそれ自体人の代りであり愛着の対象物である。そして、趣味を同じくした荷風と八重次にとって、この二人の大事にした三升人形は忘れ得ぬ愛の形見となったに違いない。もうここまで来ると、我々は足下にも及びそうにない。文人荷風なればこそといった感がある。   永井荷風。明治十二年十二月三日、東京市小石川区金富町に生れる。本名永井壮吉。父久一郎は官界から実業界に入り、日本郵船会社の横浜支店長の役にあった。漢詩をよくし禾原又は来青と号した。荷風は第一高等学校を受験したが失敗し、三十年外国語学校|清《しん》語科に入学したが、学業をよそに芝居や寄席に出入りし、小説に手を染めた。はじめ広津柳浪の門に入ったが、巌谷小波の主宰する「木曜会」に参加し、生田葵山・黒田湖山等と交るようになった。この頃からエミール・ゾラに傾倒し、三十五年その影響下に『地獄の花』を発表し注目された。三十六年にアメリカ、フランスに遊学した。四十一年帰朝するや『あめりか物語』を発表し一躍文壇の寵児となった。四十三年森外・上田敏の推薦によって慶応義塾の教授となり、『三田文学』を創刊した。しかし彼の自由奔放な生き方は学校当局と相入れぬものがあり、大正五年慶応義塾から去った。以後著作に専念した。日本の近代文明は西欧文明の皮相な輸入に過ぎないとして、江戸伝来の芸術に沈潜して行った。和漢洋の文学に通じた彼の文業は多岐に亙るが、冷徹な文人の眼を通して、その時代時代の世相を定着させた『腕くらべ』『おかめ笹』『つゆのあとさき』『東綺譚』などの小説が広く読まれている。昭和三十四年、市川市の仮寓で、誰にも看取られぬまま、そのスキャンダラスな生涯を閉じた。七十九歳。 [#改ページ]    悲しい知らせ      留学中の弟子への手紙       ——寺田寅彦  外地にいて、遠く離れた故国の消息を聴くのは、待ち遠しいものである。ことにわたしは、昭和十六年七月に応召出征して、終戦後に帰って来た。まる四年半の軍隊生活であった。そういう境遇にいる時には、何が嬉しいと言って、内地からの手紙が来た時が一番嬉しい。満州での兵営暮らしでは、夜の点呼のあとで、週番下士官が「書簡を達する」と言って、その日に着いた手紙の受取人の名を披露する。名を呼ばれた者は、わくわくしながら、下士官室に受取りに行く。きびしい辛い陣中の勤務に疲れ切っていても、消燈までの短い時間に、何度も繰り返して読んだものである。  しかし、内地からの手紙は、いい消息ばかりではなかった。わたしの場合、もっとも親しんでいた叔父池田大伍がなくなり——その叔父の手紙は本書に掲げた——、慶応の国文科で、一番目をかけてくれた先輩の波多郁太郎氏がなくなり——折口信夫先生の助手を務め、折口学の手ほどきをしてくれた人であった——、さらに、幼稚園から小学校、中学校、大学と一緒だった、もっとも親しかった友人の塩津貫一と、大事な人が三人までなくなった。そしてその死の知らせは、全部、兵隊暮らしの間に、満州で受取ったものであった。悲しい知らせであった。  同じ外地で受取った内地からの悲しい知らせの中から、ここに二つの場合のものを選んでみた。一つは寺田寅彦が|中谷《なかや》宇吉郎に宛てて書いた手紙で、もう一つは、岡本かの子の死の折に、かの子の夫岡本一平とその夫妻を父とし母とした子岡本太郎氏との間に交された手紙である。後者は次に紹介することにして、まず、寺田寅彦の手紙を掲出することにしたい。かなり長い手紙であるが、固有名詞以外は特に注記を必要としまい。  中谷宇吉郎の夫人は綾。藤岡作太郎(文学博士。国文学研究者として大きい業績を残した)の娘で、藤岡家は夫人の実家ということになる。藤岡君は藤岡由夫。中谷の友人で、著名な物理学者である。  田中館|愛橘《あいきつ》はやはり物理学者で、当時貴族院議員。この愛橘の養嗣子秀三もすぐれた地質学者で、寺田寅彦はこの父子と親交があった。(手紙の筆者寺田寅彦については、「解説」の執筆者檜谷昭彦君の要を得た紹介を、末尾に採録する。)こうした、日本における屈指の頭脳の人々を登場者とする、悲しい手紙である。  夫人の病気「丹毒」は、近頃とんと耳にしなくなったが、連鎖状球菌が外傷から侵入しておこる急性の伝染病であって、当時は命とりの病気とされていた。わたしの叔母(池田大伍の妻)も、髪をとかした時の櫛によるかき傷から菌がはいり、同じ丹毒にかかって若死にした。今ならば死ななくてもすんだはずであった。    五月五日、土曜日の朝、七時半過ぎごろ藤岡君から電話が掛かって来て、君の奥さんが前日来高い熱が出てジフテリアあるいは丹毒の疑いがあり、とにかく至急に手術を要するのであるが、あいにく大学の耳鼻咽喉科病室は全部満員で入院不可能、|呉《くれ》内科ならば空室があるがそれでは手遅れになる恐れがあるゆえお宅へ大学耳鼻の医者|を《ママ》来てもらって手術をする事になったとの事でありました。それで小生も上がってみようと思っていたところへ、岩波書店のものがやって来て、全集に関した話をしているうちに少しくおそくなり、例の小生の事でのんきに考えて土曜のコロキウムを平気ですませ、それから藤岡さんへ行ってみると、けさ順天堂病院に入院されたとの事でありました。それで神田まで行って昼めしをすませ、病院まで行ってみると、藤岡君は食事に帰られたあとで、藤岡御母堂がおいでになり、お話を伺ったところ、手術は割合に長くかかったが結果は良好で、とにかく呼吸困難であったのが気管へ|穿孔《せんこう》し管をさしたのでたいへん楽になり気分もよく、もちろん話はできないが紙へ何か書いて話をしておられるとの事でありました。小生は御遠慮して御病人にはお目にかからず、廊下で立ち話をしてお|暇《いとま》しました。それから何か御病苦のお慰めと思って三越へ行って、つるばらの小さな|鉢《はち》を求め、あす病院へお届けするように頼み、それから理研へ帰って来て、きたる十二日学士院へ出す地震の論文三つをタイプライターでたたいているうち六時過ぎた。帰って入浴、夕めしを食っていると、田中館先生から電話がかかり、何か聞きたい事があるというので、大急ぎで円タクを飛ばして|雑司《ぞうし》が|谷《や》のお宅へ参りました。あす貴族院で丹後震災地方の水準測量の予算が出るので、その説明の材料を聞きたいと言われ、いろいろお話ししているうち、|宅《うち》から電話がかかった。出てみると藤岡君が拙宅へ来てかけられたのでした。それは、医者の話にとにかくなかなか重態であるから知らせる先へは知らせるがよいとの事だが、ロンドンのほうはどうしようかとの御相談でありました。なにぶん西洋の事であるから、もう少し様子を見てからになさってはいかがでしょうかと申し上げ、それから田中館さんからちょっと病院なり藤岡さんのほうへ回りお目にかかってお話ししようかと申しましたが、それにも及ぶまいとの事でそのまま帰宅しました。ところがちょうど夜半十二時十分ほど過ぎに電話がかかり、出てみると、それは藤岡君でありまして、病勢急変、ただ今御永眠になったとの事でありました。そしてすぐに|西片町《にしかたまち》のほうへお引き取りになるとの事でありました。さだめて藤岡君が途方にくれておられる事と思いましたが、朝早くお伺いする事にきめて、さて眠ろうと思ってみたものの、いかに麻痺している小生でもあまりの事で頭の中がいっぱいになって寝られません。君の出発の時やらいろいろの光景がありあり頭に浮かんで来るのでした。朝出がけに筒井君、湯本君、山本君らに速達を出しに駒込局へ寄ったら、そこで富永夫人と治宇次郎氏夫人に会い、ごいっしょに参上いたし、藤岡御母堂、藤岡君、御令弟にお目にかかり、いろいろお話を承りました。    手術後、午後の症状はかなり安静、ただ少々|咳嗽《せき》があった。それでだんだん血清注射の効能が現われて来れば来るころであるというので楽しみにしておられたそうですが、医者のほうではかなり重態であると言っていたそうであります。九時過ぎ(?)藤岡君が拙宅からまた病院へ行かれ、しばらくしてから急に様子が変わり、意識が不鮮明になったのでさっそく医員に来てもらったがもう絶望の状態で、カンフルや食塩水の注射などできるだけの手当はお尽くしになったにかかわらず、ついに五日午後十一時五十五分に永眠されたとの事であります。よほど悪性のジフテリアであったそうであります。    お話によると、十日ほど前から少し御不快であったが、たいした事ではなく、三日は藤岡さんのおとうさんの御命日なので御母堂と墓参に行かれ、それから三越へ行って用を足しておられるうち、急に|悪寒《おかん》がして来たので急ぎ御帰宅になり、村松医師の診察を受けられ、また田所喜久馬氏(小生同県で大学耳鼻の人)にも見ておもらいになったが、ジフテリアのようでもあり、しかし丹毒らしいところもあった。それでとにかくジフテリアの血清注射を二回(聞き違えかもしれず)されたが効果が現われず、呼吸が困難なのでとにかく手術が必要という事になり、それから大学の病室を聞き合わせるという事になり、そのあとはすでに申し上げたとおりであります。    御令弟は昨日おいでになり、模様がいいのでひとまず鎌倉へ帰られたが、急電により自動車で鎌倉から御夫婦御上京、万端のお世話をしておられます。君の御母堂は今夜御入京の事と存じます。    米元氏御夫妻が、御発病御入院より最後の時まで、またお宅へお引き取りまで万端非常に御|懇篤《こんとく》な行き届いたお世話をくだされたそうでありまして、小生までも感謝に堪えません。六日朝偶然和達君が別用で僕に電話をかけて来たので、この話をしたら驚いてさっそくやって来られ、富山君と二人でしらせ状のあて名をかき、発送の手配をしておられます。山本君には朝速達と電報と出しておいたが、あいにく午前は外出していて、午後来ようとしたが藤岡氏のお宅を知らなかったためだいぶ苦心して四時ごろ来てくれました。お葬式まで、内崎君と交代でお手伝いする事に願いました。お葬式は明後八日午後、|蓬来町《ほうらいちよう》の藤岡家のお寺で挙行される事になっております。(松村任三さんがなくなられ、同日同刻吉祥寺で告別式あり、これも何かの因縁か。)君の悲しみを増すような事は、書けばいくらでもありましょうが、これらはいずれ御近親からの御報道がある事と存じます。小生はきわめて事務的に通信記者の役目を引き受けて、ただただ物質的な事がらをしたためます。ただ|怱卒《そうそつ》の際に承った事でありますし、また小生の目の届く範囲だけの事でありますからいろいろな錯誤もたくさんにある事と存じますから、この点をあしからずお含みを願います。    以上の御報告をかく事がかなりクルーエルなような気がしますが、しかしこういう際、事情の不判明という事ほど悩ましいことはないように思われますので、ことにこれほど遠く隔たっていてはなおさらそうであろうと考えますので、むしろできるだけ詳しい情報をさし上げるほうがせめてもの御|慰藉《いしや》かと存じます。    昨夜は静穏な満月の夜でしたが、きょうは曇ってから風が強くなり、なんとなく不安な天候であります。ちょうど昨日が端午の節句であったので、きょうもまだ|鯉《こい》の吹き流しを出している家もあります。    なお申し上げる事はいくらでもありそうですが、おいおいに申し上げる事といたしましょう。    なんと申し上げたらよいかわかりません。ただ君が電報を手にされて、どうしてもその文句の意味を認識する事ができなかったであろうと御推察申し上げます。    昭和三年五月六日午後四時五分 [#地付き]藤岡氏の書斎のデスクを借用して [#地付き]寅 彦   中谷君    二伸 どうか御自愛肝要と存じます。  この手紙については、檜谷昭彦君(前出)の「解説」をそのまま掲載しておく。  右の手紙の受取人は科学者で随筆家として名高かった中谷宇吉郎である。その年譜によれば中谷は右の手紙を受取る一年前、昭和二年の三月に東京帝国大学工学部講師となり、八か月後の十一月、文科大学(後の東大文学部)助教授で明治四十三年に物故した文学博士藤岡作太郎の長女綾と結婚した。中谷は後に雪に関する研究で世界的な学者になった俊秀で、低温物理学を専攻し昭和七年北海道大学教授となり、寺田寅彦門下として随筆にも健筆をふるった。彼は右のごとく昭和二年に結婚したがこの新婚生活は三か月間で中断しついにもとにもどらなかった。中谷は翌昭和三年の二月に文部省留学生として実験物理学研究のために英国に留学する。ロンドンのキングスカレッジでリチャードソン教授のもとで長波長X線の研究にしたがい、同時に英国物理学界の学者とまじわりその科学界の気風に共鳴した。ときに中谷は二十八歳である。この間の事情は中谷が『寺田寅彦の追想』のなかに、  〈昭和三年に私は文部省の留学生として英国へ行き、五年に帰朝して、そのまま札幌の大学へつとめることになった。その後先生の臨終の枕頭に立つまでの五年の間、遠く北海道の空から、先生の物理学が寺田物理学とでも称すべき新しい学問に発展して行く姿を、驚嘆の念をもって眺めていた。〉(昭和二十二年)  と書いてあるあたりから察する外はない。  そして英国滞在三か月にして中谷は師寺田寅彦から、この悲報を受取ったのである。こんにち、中谷の若き日のこの悲劇について、中谷自身が記したものをさぐるよすがはあまりない。またそれを探すことは非礼でもある。ここにこの手紙を収録する意義については、編者に別の感想がある。読者はむしろ、以下の事情を考えながらこの手紙を読んでほしいのである。  まず発信人の寺田寅彦は、明治三十年、寺田がまだ熊本の第五高等学校の学生で二十歳の時に結婚した。夫人は夏子といい十五歳くらいだった。この夏子夫人は病弱で明治三十五年に死去する。夫人の郷里高知で寅彦と別居して療養中だったため、その結婚生活は短くわびしいものだったらしい。後年寅彦はこの夏子夫人の思い出を随筆に書いた。それは明治三十八年四月の『ホトヽギス』に発表された。師夏目漱石の『猫』が連載中の雑誌である。これが寅彦の文名を高くした傑作『|団栗《どんぐり》』で、亡妻の追憶を淡々と語りつつ実に痛切な哀感を伝えている。寺田寅彦が教え子中谷に、英国へ向けて本文の手紙を書いたとき、その胸中に右の事情が想起されただろうことは想像に難くない。同時に受取る中谷のがわにも、師の右の文章『団栗』がやがて想起されたであろうと考えられる。というのは、中谷は昭和二十二年十一月に「『団栗』のことなど」という随筆を書き、そこに委曲をつくして師寅彦の亡妻への愛情を、寅彦の日記を援用しつつ描いているのである。それは『団栗』成立をめぐるみごとな考証にもなっていて寅彦文学研究にとっては必須の文献と目される資料でもある。編者はこの中谷の文章から中谷自身の亡妻への慕情をかいま見る思いがした。以上のような事情をふまえてこの手紙を読みかえすとき、師寅彦が弟子に対して非人情ともいうべき淡々とした筆致で、夫人の死の事情を報告する文章の行間に、感傷をこえた科学者同士の悲痛な交情が溢れているように思われる。ときに寅彦五十一歳だった。  寺田寅彦。物理学者・随筆家、筆名吉村冬彦。高知に生れ熊本の第五高等学校で夏目漱石に英語を習い同時に俳句を学び漱石門下となる。東京帝大物理学科を卒業し大学院で実験物理学を専攻、大正五年同大学の教授、翌六年「ラウエ斑点の撮影に関する研究」により学士院恩賜賞を受け、東大航空・理化学・地震の各研究所員となりそれぞれに寺田研究室を有した。  一方芸術家としても多彩な才能を発揮、漱石門下の随筆家として早くから著名であり、俳句、油絵、水彩画、ピアノ、ヴァイオリン等にもすぐれ、とくに俳諧に関する研究と実作は学術資料・文献としても注目に値するすぐれた識見を示し、さらに映画批評にも一家の見を成していた。昭和十年十二月三十一日に東京・本郷・曙町の自宅にて転移性骨腫瘍のため死去。五十八歳。『寺田寅彦全集』は文学篇十六巻、科学篇六巻(欧文論文五巻、和文一巻)があるが、のち新書判形式の文学篇十七巻も刊行(昭和三十六〜三十七年)された(岩波書店)。本文はそれによっている。      妻、母を失った父子のやり取り       ——岡本一平、太郎  父岡本一平、母岡本かの子、子岡本太郎の一家で、太郎のパリ留学中に、かの子が脳溢血で急死する、という悲劇がおこった。その悲しい知らせを綴った父と、外地でそれを知った子との間に、取り交された手紙である。ほとんど注記は必要がない。それよりも、まず、この心を打つ父子の手紙を読んでいただきたい。    (子・太郎から父・一平へ)    何度か手紙を書きました。何を書くべきか。又何を書いたらよいのか。丸で呆然としてしまって居て思うようなことも書けず、みな|反古《ほご》にして、結局今日迄のびになってしまいました。    あの電文を受け取った日は全くひどい打撃を受けました。    |然《しか》し、それから出来るだけ強く、お母さんが、ほんとうに何処かに立派に生きつつあるということを信じることに努めました。事実今はそんな気持になっていて、大分心がやわらぎました。然し初めの衝撃があまり強かったので十日を経った今日迄、肉体的にすっかり参ってしまっています。    今日あたりはそれでもどうやら元気が出て来ましたから安心して下さい。    はじめの三日間は打ちのめされたようになって床についたまま、眠りつづけてしまいました。目が覚めてお母さんの「死」を考えると、うそのようでもあり、又とても、恐ろしいことのようであり、変な気持でいると、突然|泪《なみだ》にむせんでしまったりしました。少し用事で外出しようとして、五分間も外を歩くと、もう、腰がぬけたようにへばってしまってアトリエに引きかえし床につくとそのまま又ぐっすりと寝込んでしまいました。    お父さんがお母さんの為に生きていたように僕も生活の大きな部分をお母さんのために生きて居りました。    お母さんの居ない後の空虚は、これからより強く生きることによってうめて行くつもりです。それは勿論お父さんもそうしなければなりません。    最後の電報にお父さんが僕のために生きるとありましたが、お互いのために生きることは勿論ですが、同時にそれぞれの責任のために強く生きることが僕にはのぞましく思われます。    これは数日にわたって考えたことですが、|若《も》しお父さんさえよかったら|一寸《ちよつと》の予定で日本に帰ってみたらとも思っています。    ソルボンヌ大学の方は来年つづければ良いと思います。    お父さんが賛成でなかったら勿論問題ではありません。    元気でいて下さい。    では又書きます。    (父から子へ)    タゴシ、おかあさんは眠られた。|歿《な》くなられたのだが死という字を使い度くない。単に眠られて眠りの中で修業されて又いつの世か僕たちに会いなさる。何かの形で。こんなにも僕たちの心の髄に食い入って強い絆を結び付けて行ったおかあさんが死ぐらいの現象形式で縁を断ち切られるものではない。きっと会いなさる。そのときにはおかあさんももっとよくなって僕たちが生涯そのお|交際《つきあ》いをして共に苦しんだ、あの説明し難い苦悩を浅くしてといて貰わねばならない。また僕たちも修業して一言でおかあさんを楽にさせ満足させ得られるほどの人間になっていなければならない。    きょうはおかあさんが眠られて八日目だ。こういう希望と解決を得て涙を流しながらでもこの手紙を書けるようになった。    タゴシ、僕がまず第一に君に|詫《わ》びねばならないのはおかあさんの眠られたことと、病気の事についての電報の知らせに、僕は君に生涯に一度の技巧を用いた事だ。これは僕が、|腸《はらわた》を|断《た》つ思いでおかあさんなり君のためによしと信じてやった事だ。まず事情をよく聞いて呉れ。いま弔問客が来出して逢わなければならない、ここでちょっと筆を|擱《お》く。    きょうは九日目だ。書き継ぐ。    おかあさんはおかあさんの母親が四十七歳で血管の病いで死んでいるので、普段からその肥満や血圧の予防手当をしているに係らず血管の病いに就いては極度な恐怖を持っていた。そしていまそれに罹られたのでおかあさんの打撃は強かった。血管の病いにも軽いのと重いのとあることを納得させるのに非常に骨が折れた。    この場合君に知らせて返電でも来たら、おかあさんはすぐ自分が危篤なのかと思い込み、容体を悪くするに決まっている。そして君からのその返電をおかあさんに知らせないように受け取って置こうとするのは不可能なことだ。    おかあさんの敏感性は「|巴里《パリ》からの電報——」のひと言を誰かからか聴き付けただけで異変するに違いない。それと前にいう通り医者と共に僕たちは少なくとも三四ヵ月で立直れる|身体《からだ》とばかり思い込んでいたので、おかあさんの身体がかなり恢復したこの秋にでも君は帰朝して逢うことにするか一度君と相談しての上でと決心した。    タゴシ、実際あの場合たとえ君に|急遽《きゆうきよ》帰って貰ったにしろ、おかあさんがあの身体で逢ったところで却ってどんなに遺憾が残るだろう。いつも若々しく美しい母の|俤《おもかげ》として君に抱いて貰っているその映像を破るようならあの容体ではそう逢い度くなかったろう。    おかあさんは病中一二度君のことに就いて言った。「太郎はどうするつもり」。この事はこの二年間ほどの日常の懸案にもなっていて、ときどきいい出すおかあさんの言葉でもあるから別に珍らしい事ではない。これに対して平常は僕は「まあ、巴里でやるだけはやらせるさ」というとおかあさんもうなずいていたが、今度の場合は僕の考えも少し変わった。おかあさんも身体が恢復したところで別離に堪える、以前ほどの元気もあるまい。それでおかあさんに「きみが身体が|癒《なお》った今年の秋頃にでも帰って貰うようタゴシと相談してみる」と答えた。そしてこれはおかあさんを元気付ける言葉にもなるし、諸事情はこうする方がいいところもあるのでこうすることに決心していた。    するとおかあさんは「帰って来ればまたときどきは仲が好すぎて駄々をこね合う、あの喧嘩が身体に障るようなことはないかしらん」といったが、僕は「タゴシも大人になってしっかりして来ているから大丈夫だ」と答えるとうなずいて黙っていた。    タゴシ、おかあさんは二三年前まで君に就いては「太郎はわたしさえいれば妻も愛人もいらないっていってた」というのを満足なことにしていたが、それから後はだいぶ変わって、「太郎には太郎の生涯がある」というようになった。そして君が帰って来たとしてか、また巴里にいるとしてか、定まらないままで太郎のお嫁さんになるような娘といってあれやこれや目星をつけたり取消してみたり例の調子でやっていた。君に関するおかあさんの考えの過程の事はあとで詳しく書く。    タゴシ、僕はそれと、君を動揺さすことを|しん《ヽヽ》から|惧《おそ》れた。君は近頃しっかりして来て僕等より立|優《まさ》った点もできているようだが、僕等の心にはやっぱりいたいけな子供として映っている部分が多い。何といっても異境の地に十年孤独を守って何か捉えようと苦心している君、慰め手や相談相手があるやらないやら判らない君に、心配させないで置いて、おかあさんが癒ったら、その吉報と共に経過を知らせることが出来るならこれに|如《し》くことはない。そしてそのことは充分できると僕は信じていたなにしろ本当に容態に|危惧《きぐ》を感じ出したのは医者が病院入りを勧め、おかあさんを病院へ連れて行った日の、すなわちおかあさんの眠られる前日なのだから。    おかあさんは眠られた。こうなると、もう唯一の仕事はいかにおかあさんの|眠前《みんぜん》の好みを立てておかあさんの悦びそうな眠りの床を作ってあげるかの事だった。    おかあさんはふだんの言葉で火葬が嫌いなことが判っている。そして武蔵野が好きだ。僕は極力骨折ってモダンな多摩墓地に松を二本取り入れた|瀟洒《しようしや》な墓地を手に入れた。そこでおかあさんは生れ故郷の土に和して肉体を|毀《やぶ》らぬ彼女の好みの土葬の形で眠られている。それから君も知っての通り、おかあさんは|オシャレ《ヽヽヽヽ》だ。病気になってから眠られるまで自分のやつれた姿を見度くないといって鏡を絶対に見なかったほどの人だ。この点の操持の固い事には僕等頭が下る。    いまもう弔問客が来た。出て応接しなければならない。この手紙出すのが遅れるといけないからここで途中うち切って出す。あと続きはあすの朝また書き続ける。 「解説」と、三人の紹介とは、中村由紀子君(前出)の担当執筆のものを引用しておく。  人の死は、残された人々の間に新しい交感を生み出す。かの子の死後、一平と、パリの太郎との間には、深い共感に満ちた長文の手紙がとりかわされた。そのうち、死の直後から二人が徐々に立ち直るまでの半年間の十一通の往復書簡が、後に太郎の編んだ「母の手紙」の末尾に付されている。  昭和四年十二月、一平、かの子、それに東京美術学校在学中の十八歳の太郎の三人はヨーロッパ巡遊の旅に出発し、太郎はそのままパリに留まって絵の勉強を続けることになった。そして、筆まめに手紙がやりとりされ、かの子から太郎へは「太郎さん、封じたのはうちの縁先のスノコに置いてあるサフランの鉢の花よ。造花みたいでしょう。私ね。あんたのために今までことわってた仏教の雑誌を書くわ。あんたに教えるためと思って、あんたに読ませるために。」という恋人に向けられたような調子の手紙も何通か送られている。そのような十年間が過ぎて、昭和十四年二月二十四日、太郎は突然「カノコ病気 回復の見込み」という電報を受け取った。しかし既にかの子は二月十八日脳充血で他界、太郎のもとには追いかけるように「カノコやすらかに眠る 気を落とすな あと文」「ぼくは君のために生きる。すこやかにあれ。苦しければ電打て」との電報が届けられるのである。ここに掲げた二通の手紙は、それに続くもので、まだ日が浅いため、気持を見つめる余裕は出来てはいるが自分の感情に対して他人行儀な空白は生まれていないし、またかの子の死の実感も完全には起こりきらないで、ただ「眠りについた」という事実だけが、そのままの形で受けとめられているようなところがある。だから、それ以後の手紙の方が、かの子を失った寂しさ、苦しさ、相手を慰めることで自分自身を納得させようと|《もが》く姿勢等は良く現われていると言えるかもしれない。しかし、死を抽象化し得ないという点では、最初の手紙の方が|勝《まさ》っているように思うのである。  一平の手紙でも触れているが、一平とかの子の夫婦生活は決して平淡には済まされなかった。寧ろ初期のそれは暗澹とも呼ぶべき状態であった。感情の起伏が激しく、且つそれを押える術を知らないかの子との衝突にさいなまれて一平は放蕩に走り、かの子は神経衰弱に陥って大乗仏教の研究に救いを求めて行った。物心つかない太郎を抱いて、迷い、絶望し、その幼児を相手に掻き口説くかの子の有様を、太郎は覚えている。そして夫婦の間が鎮まってからもかの子の|業《ごう》は一生彼女につきまとい悩まし続けていた。その事を一平は太郎に「三、四年前であったか、僕は正直に言うがおかあさんの神経の迷いの煩わしさには参ったことがある」と告白しているが、それを超えて結び付いていた三人の内の、一人が欠けた時に、残された二人の間に交わされた手紙である。  岡本かの子(一八八九〜一九三九)作家・歌人。二十二歳で結婚したが夫との性格的対立に悩み仏教研究に入った。『鶴は病みき』以後作家として活躍、死ぬまでの四年間で『老妓抄』『河明り』『生々流転』など、落日の美学と称される唯美的な作品を書いた。  岡本一平 漫画家。天井画、舞台装置等に携わっていたが、朝日新聞社に入って漫画を始め、鋭い描写と警句的漫文により特に政治漫画に新生面を開拓。代表作に『世界漫遊』『弥次喜多』。  岡本太郎 洋画家。十八歳で渡仏、ソルボンヌに学びながらアブストラクシオン=クレアシオンに参加。超現実的な重い感傷性から戦後は社会的アレゴリーの表現に向かう。彫刻、壁画等も制作し、文筆活動も行なう。 [#改ページ]

   
エピローグ     ——夏目漱石の手紙   君たち、牛になりたまえ。  師、夏目漱石が、弟子、芥川龍之介・久米正雄両名に宛てて書いた有名な手紙である。漱石は大正五年十二月九日になくなったのだから、この手紙を書いたのはその死の三カ月半ほど前ということになる。この手紙には、今まで掲出の手紙と替えて、注記の番号を本文に付して記しておく。注記および解説は飛ヶ谷美穂子君(前出)の担当執筆である。    この手紙をもう一本君等に上げます。君等の手紙があまりに|溌溂《はつらつ》としているので、無精の僕ももう一度君等に向って何か云いたくなったのです。云わば君等の若々しい青春の気が、老人の僕を若返らせたのです。    今日は|木《一》曜です。然し午後(今三時半)には誰も来ません。例の|瀧《二》田樗陰君は木曜日を安息日と自称して必ず金太郎に似た顔を僕の書斎にあらわすのですが、その先生も今日は欠席するといって、わざわざ断って来ました。そこで、相変わらず蝉の声の中で、他から頼まれた原稿を読んだり、手紙を書いたりしています。|昨《三》日作った詩に手も入れて見ました。「癲狂院の中より」という色々な狂人を書き分けたものだという原稿を読ませられました。中々思い付きを書く人があるものです。    芥川君の俳句は月並じゃありません。もっとも久米君のような立体俳句を作る人から見たら|何《ど》うか知りませんが、我々十八世紀派はあれで結構だと思います。その代り、画は久米君の方がうまいですね。久米君の絵のうまいには驚いた。あの三枚のうちの一枚(夕陽の景?)は大変うまい。成程あれなら|三《四》宅恒方さんの絵をくさす筈です。くさしても構わないから、僕にいつか書いて呉れませんか(本当にいうのです)。同時に君がたは東洋の絵(ことに支那の画)に興味を|有《も》っていないようだが、どうも不思議ですね。そちらの方面へも少し色眼を使って御覧になったら如何ですか、其所には又そこで、満更でないのもちょいちょいありますよ、僕が保証して上げます。    僕は此間、|福《五》田半香(崋山の弟子)という人の三幅対を、いかがわしい古道具屋で見て大変|旨《うま》いと思って、爺さんに価を訊いたら五百円だと答えたので、大いに立腹しました。|是《これ》は絵に五百円の価がないというのではありません。爺なるものが僕に手の出せないような価を云って、忠実に半香を鑑賞し得る僕を吹き飛ばしたからであります。僕は仕方なしに高いなあと云って、店を出てしまいましたが、其時心のうちで、そんならおれにも覚悟があると云いました。其覚悟というのを一寸披露します。笑っちゃいけません。おれにおれの好きな画を買わせないなら、やむを得ない。おれ自身で其好きな画と同程度のものをかいてそれを掛けて置く。と|斯《こ》ういうのです。それが実現された日にはあの達磨などは眼裏の一|翳《えい》です。到底芥川君の|ラ《六》ルブルなどに追い付かれる訳のものではないのですから、御用心なさい。    君方はよく本を読むから感心です。しかもそれを軽蔑し得るために読むんだから偉い(ひやかすのじゃありません、賞めてるんです)。僕思うに、日露戦争で軍人が|露西亜《ロシア》に勝った以上、文人も何時迄恐露病に罹ってうん蒼い顔をしているべき次第のものじゃない。僕はこの気炎をもう余程前から持ち廻っているが、君等を悩ませるのは今回を以て嚆矢とするんだから、一遍だけは黙って聞いてお置きなさい。    本を読んで面白いのがあったら教えて下さい。そうした後で僕に貸して呉れたまえ。僕は近頃めちゃめちゃで、昔読んだ本さえ忘れている。此間芥川君がダヌンチオの『|フ《七》レーム・オブ・ライフ』の話をして傑作だと云った時、僕はそんな本は知らないと申し上げたが、其後何時も坐っている机の後にある本箱を一寸振り返って見たら、そこにその本がちゃんとあるので驚いちまいました。たしかに読んだに相違ないのだが、何が書いてあるかもうすっかり忘れてしまった。出して見たらあるいは|鉛《八》筆で評が書いてあるかも知れないが、面倒だからそのままにしています。    きのう雑誌を見たら、|シ《九》ョウの書いた新しいドラマの事が出ていました。これはとても|倫敦《ロンドン》で興行出来ない性質のものだそうです。|グ《十》レゴリー夫人の勢力ですら、|ダ《十一》ブリンの劇場で跳ね付けたという猛烈のもので、無論私の刊行物で|数奇者《すきもの》の手に渡っているだけなのです。兵隊が|V《十二》、C、を貰って色々なうそを並べ立てて景気よく応募兵を煽動してあるく所などが諷してあるのです。ショウという男は一寸いたずらものですな。    一寸筆を休めて、これから何を書こうかと考えて見たが、のべつに書けばいくらでも書けそうですが、書いた所で自慢にもならないから、ここいらで切り上げます。まだ何か云い残した事があるようだけれども。    ああ、そうだ、そうだ。|芥《十三》川君の作物の事だ。大変神経を悩ませているように久米君も自分も書いて来たが、それは受け合います。君の作物はちゃんと手腕がきまっているのです。決してある程度以下には書こうとしても書けないからです。久米君の方は好いものを書く代りに、時としては、どっかり落ちないとも限らないように思えますが、君の方はそんな訳のあり得ない作風ですから大丈夫です。この予言が適中するかしないかは、もう一週間すると分ります。|適《十四》中したら僕に礼をお云いなさい。外れたら僕があやまります。    |牛《十五》になる事はどうしても必要です。吾々はとかく馬になりたがるが、牛にはなかくなり切れないです。僕のような老猾なものでも、只今牛と馬とつがって|孕《はら》める|事《こと》ある相の子位な程度のものです。    あせってはいけません。頭を悪くしてはいけません。根気ずくでお出でなさい。世の中は根気の前に頭を下げる事を知っていますが、火花の前には一瞬の記憶しか与えて呉れません。うん死ぬ迄押すのです。それだけです。決して相手を|拵《こし》らえてそれを押しちゃいけません。相手はいくらでも後から後からと出て来ます。そうして吾々を悩ませます。牛は超然として押して行くのです。何を押すかと聞くなら申します。人間を押すのです。文士を押すのではありません。    これから湯に入ります。     八月二十四日 [#地付き]夏目金之助     芥川龍之介様    久米正雄様    君方が避暑中もう手紙を上げないかも知れません。君方も返事の事は気にしないでも構いません。 〔注〕 一  漱石は木曜を面会日と決めていたので、その日は「木曜会」と呼ばれて、弟子達が漱石山房に集うのが恒例であった。 二  明治十五年〜大正十四年。本名哲太郎。明治三十八年中央公論記者、大正元年同主幹。雑誌編集に敏腕を持ち、殊に文芸欄にすぐれた眼識を示し、中央公論は文壇の登竜門と云われるに到った。 三  当時、漱石は午前中『明暗』を書き、午後には漢詩を作るのを日課としていた。 四  昆虫学者。理学博士。 五  文化元(一八〇四)年〜元治元(一八六四)年。名は佶。江戸末期の画家で、渡辺崋山の弟子。 六  l'arbre(フランス語で「樹」)の意か。 七  "The Flame of Life"イタリアの詩人・小説家・劇作家 Gabriel D' Annunzio(一八六三〜一九三八)の作品。 八  漱石は読書の際、その余白に短評や雑感を書き入れる習慣があった。 九  イギリスの劇作家 George Bernard Shaw(一八五六〜一九五〇)が一九一六年に発表した『ヴィクトリア十字勲章受勲者オフラハティ』("O' Flaherty, V. C.")をさす。 十  Gregory, Isabella Augusta(一八五二〜一九三二)イギリス(アイルランド)の女流劇作家。 十一 シングやイエーツやグレゴリー夫人らの作品を上演し、アイルランド演劇運動の母胎となった、アベイ座(the Abbey Theatre)のこと。ショーの前記作品はイギリスの政策を諷刺しているので、第一次大戦中の上演を拒否した。 十二 Victoria Cross(ヴィクトリア十字勲章)の略。一八五〇年ヴィクトリア女王の制定したもので、イギリス陸軍軍人で武勲のある者に授けられた。 十三 大正五年九月の『新小説』に載った『芋粥』のこと。 十四 八月二十八日付の芥川から漱石に宛てた手紙に、「先生にあやまって頂くよりは、御礼を云うようになる事を祈っています。」とある。 十五 八月二十一日付の芥川・久米宛書簡にも、「|無暗《むやみ》にあせってはいけません。ただ、牛のように図々しく進んで行くのが大事です。」とある。  久米正雄は、明治二十四年〜昭和二十七年(一八九一〜一九五二)。作家。長野県生れ。東大在学中芥川・菊池寛らと第三次・第四次『新思潮』を発刊、戯曲『牛乳屋の兄弟』で世に出る。のち通俗ものに転じ『月よりの使者』等を書いた。俳人としても、三汀の号で知られ、この書簡にもあるが、蕪村風の佳句の多い芥川に対し、久米は既に碧梧桐門下で新傾向派の一流に数えられていた。漱石没後、彼の長女筆子への愛に破れ、その体験を『破船』で描いたことは有名である。  当時、久米と芥川は千葉県一の宮海岸に避暑滞在中だった。この避暑及び芥川については、芥川龍之介の項を参照されたい。  多くの文人の書簡集の中で、漱石のそれ程多彩でしかも心を打つものはあるまい。青年時代の子規宛の五十通に余る熱情的な手紙から、ロンドン留学中に、鏡子夫人に孤独を訴える切々たるもの、小宮豊隆、森田草平、寺田寅彦、鈴木三重吉等、山房に集う青年達を、或いは叱り、或いは励まし、そして大きく包みこむような愛情の感じられるもの——そればかりではない。本来、ゆきずりの人にすぎないはずの、愛読者である小学生にも、祇園の女将にも、漱石は全く変わることのない自分の真実を、その手紙を通してぶつけてゆくのである。祇園の玄人の女である磯田多佳宛の三通の手紙(大正四年四月十九日付・五月二日付・五月十六日付)などは、殊に、小刀細工を嫌い、あらゆる場合にあらゆる人に対して、|真摯《しんし》なふれあいを求めた漱石の人となりがにじみ出て、胸を打つ。  ここに掲げた手紙も、既に書簡中の絶品として、多くの場所に引用されている有名なものである。漱石は教壇から出発した人であるが、弟子達への手紙を読むと、教育者としてまことにすぐれた人物であったことが思われる。一人ひとりの個性と性質とを敏感に見抜き、実に適切な接し方で見守り、導いている。  芥川と久米は、この前年(大正四年)十二月に入門したばかりの、漱石山房では最も新しい弟子である。(入門当時の事情は、久米の自伝的小説『風と月と』に詳しい。)しかし漱石は、彼等——殊に芥川に対して、殆んど異例な程の親愛を示している。『新思潮』に『鼻』を発表した際も、特に手紙を送って絶賛しているし、この半月ばかりの一の宮滞在中にも、芥川・久米宛で三通(八月二十一日・二十四日、九月一日)書き送っている他、九月二日には芥川個人宛に、『芋粥』の詳細な批評を書いている。八月二十一日付の書簡で「君方は新時代の作家になるつもりでしょう。僕もそのつもりであなた方の将来を見ています。どうぞ偉くなって下さい。」と云っているように、彼ら「ライズィング・ジェネレイション」(八月二十八日付、芥川の漱石宛書簡)への期待も勿論あったであろう。が、牛の如く超然とあゆんだ漱石の何処かに、芥川の資質と相通うものがあったとは云えないだろうか。「火花の前には一瞬の記憶しか与えて呉れ」ないと、漱石は書いたが、この手紙を受取った芥川が、のちに『舞踏会』という短篇で「我々の|生《ヴイ》のような花火」の美しさを描き、遺作となった『或阿呆の一生』の中では「|凄《すさ》まじい空中の火花だけは命と取り換えてもつかまえたかった」と書いたことを思うとき、深い感慨にとらわれざるを得ない。  芥川が漱石の死を知って「|歓《よろこ》びに近い苦しみ」(『或阿呆の一生』)を味わうのは、この書簡の三カ月後のことであった。 [#改ページ]

   
あ と が き  本書に借用した先輩諸氏の手紙の用字用語を当用漢字、現代仮名遣に改変したのは、文庫本であることの理由からであって、それはすべてわたしの責任である。このことをここに明らかにして、非礼については深くお詫びをしておきたい。  本書の中にたびたび引用した『日本人の手紙』については、本書の二〇四ページに説明しておいたが、その旧著を文春文庫に入れたいと言って来たのは文藝春秋の市川森生氏であって、それはもう三年ぐらいも前のことになる。しかしその時わたしは旧著はその編纂の目的が文庫本向きではないからという理由で、むしろ解体して新しく編纂し直したいなどと、大仕事を背負いこんでしまった。定年退職、地方生活への移住、その上、かなりの病気とその予後の療養生活とが重なって、仕事は一向にはかどらず、目次はおろか、組立ても出来なかった。  そんな頃、雑誌『郵政』に頼まれて本書の中に取入れた「礼状」の章の一部を書いたのがきっかけになって、わたしの貰った手紙を中心にまとめてみようかと思い始めた。しかしそれだけでは量が足りないので、旧著からも配列替えや書き足しなどをして、かなりの量を加え、また市川氏の博捜によって全く新しいものも加えることが出来た。なお旧著編纂の当時執筆分担してくれた慶応義塾文学部の人達の氏名も今回はすべて明記した。多くの人達の協力の賜物であることを感謝している。 [#地付き]池田弥三郎           文春ウェブ文庫版     手紙のたのしみ     二〇〇一年十月二十日 第一版     著 者 池田弥三郎     発行人 堀江礼一     発行所 株式会社文藝春秋     東京都千代田区紀尾井町三─二三     郵便番号 一〇二─八〇〇八     電話 03─3265─1211     http://www.bunshunplaza.com     (C) Teiko Ikeda 2001     bb011001