[#表紙(表紙.jpg)] 池波正太郎・鬼平料理帳 佐藤隆介・編 目 次  特別語り下ろし  江戸の味・池波正太郎  鬼平料理帳・春 [#この行2字下げ]白魚と豆腐の小鍋だて  田螺と葱の饅  独活の|ぬか《ヽヽ》漬  菜飯と田楽  蛤鍋  鴨の叩き団子と晒葱の吸物  鮎並の煮つけ・鯨骨の吸物  鱒の味醂漬・わけぎと木くらげの和えもの  白玉餅  茶漬  鬼平料理帳・夏 [#この行2字下げ]生鰹節  川海老の塩焼  鮎飯  磯浪そば  天ぷら蕎麦  |しんこ《ヽヽヽ》泥鰌  軍鶏の臓物鍋  鰺の塩焼  鯉づくし  瓜揉み  茄子の糠漬・練り辛子添え  にぎり飯  鬼平料理帳・秋 [#この行2字下げ]卵酒  沙魚の煮つけ  餡かけ豆腐・けんちん汁  芋酒  芋膾  鱸の塩焼  里芋と葱のふくめ煮  一本饂飩  鰻の蒲焼  柿の味醂かけ  鬼平料理帳・冬 [#この行2字下げ]白粥に葱入りの煎り卵  兎汁と桜飯  のっぺい汁  蜆汁  根深汁  鴨脂と千住葱の吸物  狸汁  鰈の煮つけ  蒟蒻の白和え  蒟蒻の煮しめ  大根と剥き身の煮物  編者のあとがき  文庫版のためのあとがき  参考文献一覧 [#改ページ]   特別語り下ろし   江戸の味・池波正太郎 [#改ページ] 〔江戸前〕ということばの本来は……  物の本に、 「江戸時代の深川は、イタリアのベニスに比較してもよいほどの水郷であった」  などと書かれている。現代《いま》の人たちにはとても信じられないだろうけどね。そういう人は、たとえば安藤広重の〔名所・江戸百景〕の中の、深川を描いた浮世絵を見るといいんだよ。広重の絵筆が表現した江戸の町というのは本物《ヽヽ》なんだ。戦前の深川を知っている人なら、それが実感としてわかる。  江戸湾、つまり東京湾の汐の香り、すっきりとした住民の気風《きつぷ》、深川の町を縦横にめぐる堀川と運河の水の匂い……そうしたものがある程度、広重の世界をとどめていたからね。  いわゆる〔江戸前〕というのはね、東京湾には、隅田川、神田川、その他いろいろな川の水が流れ込んでいる。川の水は塩分が入っていない。その塩分が入っていない川の水と、塩分の入っている東京湾の水とが混じり合って、特殊な水質になっているわけだよ。当然、そこに棲息する魚介は、特殊ないい味がした。これが〔江戸前の味〕というわけ。むかしの話ですよ。いまは川がみんな汚れちゃって、海も汚れちゃっている。だから、江戸の前にある海……いまの東京湾では魚も貝も、みんなダメになってしまった。いまでは、本当の〔江戸前〕というのは望むべくもない。  たとえば同じ鮃《ひらめ》にしても、千葉県の銚子の沖合で獲《と》れたものと、江戸湾で獲れたものとでは、まったく味わいが違っていたんだ。  ぼくの〔市松小僧の女〕という芝居の大詰は、深川の黒江町の小間物屋の場面なんだが、そこへ出て来る魚屋に、 「こいつは銚子鮃だが、ばかにできやせん。ここの旦那が好きだから持って来ました」  といわせているのも、そのためですよ。  それで、いま江戸前、江戸前というけれども、もうむかしのように味のいい魚も貝も獲れやしないじゃないか、それなのに江戸前という表現を使うのはおかしいと、こういうことをいう人がいる。理屈をいえばそういうことになる。結局、いま江戸前というのは、江戸風、東京風の料理ということですね。たとえば、江戸前鮨といえば、東京の握り方の鮨ということで納得すればいいわけで、格別、江戸前を使うことが気障《きざわ》りなことではないと思う。  ぼくらが子どもの頃でも、江戸前の魚介はずいぶん獲れた。まだまだ汚れていない海がすぐ身近にあったわけですよ。おじいさんに連れられて、鈴ヶ森のあたりとか、品川のちょっと先とか、ああいうところへ汐干狩りに行ったものですよ。  そういうことで、カニも獲れるし、ハマグリ、アサリ、シジミはもちろんのこと、シャコね、ああいうものは下町では昼間、売りに来たものです。  あれは何ていうカニだったかな。あんまり大きくない……渡りガニか。それを昼間売りに来るから、おじいさんが、 「カニ買ってこォい」  というと、ぼくらが金だらいを持って行って、買って来て、塩ゆでにしたやつを食べたもんです、おやつに。うちのような錺職《かざりしよく》の、職人風情の家で三時にカニが食べられるということは、いかに安かったかということだね。  ぼくが株屋に入ったときが十三でしょう。入った年に、演舞場へ芝居を観に行ったら、演舞場の横の采女《うねめ》橋で、夕河岸《ゆうがし》が出てたんだよ。ハマグリだの、アサリだの、あるいはカニ、それこそ東京湾で獲れたばかりの江戸前の魚介を売っている夕河岸ね。  木箱を並べて、その上に板を置いて、そこへ魚や貝を乗せて売っているわけだ。マルセイユの港の魚売りと同じだよ。  演舞場のすぐ横に夕河岸が立つということは、築地から銀座の裏あたりには、それだけ人がたくさん住んでいたということです。だからこそ夕河岸が立つんですね。  小さな料理屋なんかも、みんなそこで仕入れて行く。銀座の古い酒場〔エスポワール〕の前にある〔富久むら〕というおでん屋、いま有名な店になっちゃって高いそうだけど、あそこのおやじが〔三越〕の裏に屋台で出ていた頃ですよ。その屋台の頃から、〔富久むら〕のおでんというのは有名だったんだから。たとえば、そういう連中も、その夕河岸へ買いに来たものなんだ。 上へ行くほど食べものはひどかった……  戦前までは、浅草なら浅草に住んでいる場合、一町内で全部用が足りてしまうわけだ。わざわざ他所《よそ》まで出て行かなくても。芝居小屋もあれば、映画館もある。支那料理屋がある。洋食屋がある。鮨屋がある。荒物屋、小間物屋、酒屋、味噌屋……全部あるわけで、町単位の自給自足というか、いまのフランスの田舎の町と同じことだよ。  江戸時代も当然そうだったということです。それで、江戸前の魚や貝などを、小さな居酒屋とか小料理屋で出したものです。〔シャコめし〕とか、貝柱の〔柱めし〕とかね。むかし懐かしいそういうものを今度、神田の〔花ぶさ〕で始めましたよ。混ぜ御飯や炊き込み御飯、いまはいろいろあるけど、〔シャコめし〕や〔柱めし〕はちょっと珍しいんじゃないか。 〔シャコめし〕というのは、牛蒡《ごぼう》の笹がきとシャコを入れて炊き込んだもの。江戸時代の食べものの一つですよ。  時代考証的にいうと、たとえば長谷川平蔵が日常食べていたものというのは、町人よりひどいものです。よく吉原へ行って遊んだりしている町人に比べたらね。  上の方へ行くほど、食べているものはひどくなる。大名なんか平蔵よりもひどい。  大名というものは、きれいな御殿に住んで、たくさんの召使いにかしずかれて、贅沢三昧に暮らしているように見えるけれども、それは大名としての体面を保つことであって、実生活そのものは非常に質素にしなければいけない。そういう体面を保つための金を浮かすために、自分自身の生活は極度に質素にしているのが大名なんです。  それが本当の大名というもので、贅沢大名で悪いことをして享楽にふけっている大名なんていうのは、まず徳川幕府二百五十年のうちに少数あるだけなんだから。あとの大名はみんな実に質素な暮らしをしていた。自分がそういうふうにしていないと、手本にならない。たとえば足袋《たび》なんかでも、一足の足袋を継いで継いで、もう継ぎどころがなくなるくらい継ぎだらけの足袋をはいていたわけですよ。それが殿様なんだよ。  封建時代の大名というと、みんな、お妾さんをたくさん抱えて、贅沢三昧していると思う人が少なくないけれども、それは言語道断の間違い。いまの天皇陛下が質素なものを召し上がるのと同じですよ。  長谷川平蔵が日常食べるものだって、だから、きわめて質素なものなんだ。器物はそれなりに上等なものだけれども、内容そのものはね……。  ことに平蔵の場合は、火付盗賊改方という役目をつとめていて、役料は多少出るけれども、それだけではどうにもならない。自分の金で犯人を探索したりしなくてはならない。そういう仕事のための出費が多いから、日頃はなおさら質素にしている。  武士よりも町人、職人なんかの方が、食べるということについては、ずっと贅沢だったわけです。だから〔髪結新三《かみゆいしんざ》〕の舞台に出てくるように、三分《さんぶ》の初鰹を買っちゃうんですよ。  当時、一両っていうと、現代の約二十万円だ。それを、三分といったら十何万円でしょう。それだけの大金をポンと出して初鰹の片身を買うんですもの。職人とか、ああいう連中というのは、そんなことをやっていたわけだ。旗本はそんなこと、ほとんどできない。金が自由にならないんだから。  旗本の場合は、全部、用人を通じてでなくては金が使えない。用人が会計係なんだから。ぼくの小説〔男の秘図〕を読めばわかるように、筆一本、帳面一冊買いたくたって、いちいち用人や年寄に伺いを立てなきゃならないわけだからね。  だけど、武士とはいっても御家人になるとまた話は違う。三十俵二人|扶持《ぶち》なんて、実際は町人も同じなんだから、博奕《ばくち》で稼いだ金で飲んだり食ったりするということもできる気楽な身分の、下っ端のほうの侍だったら、金が入ったときはいくらでも贅沢できる。  だから、その頃の料理屋というのは、客は町人が多いわけです。侍も身分の軽い御家人だったら、目黒不動へ参詣をしたときは筍飯《たけのこめし》でも何でも食べられるけど、百石以上の旗本の場合は、滅多なところには行けない。  平蔵のように特殊な役目についている者は、浪人姿で行けばどこでも入れるけれども、大名の家来とか大きな旗本の場合は、行く料理屋は決まってくる。 江戸名亭〔八百善〕のこと  江戸時代の料理屋の花形は、何といっても〔お留守居茶屋〕と呼ばれるものだ。大名家の江戸留守居役というのは、いわば各藩の外交官です。こういう職にある人びとが料理屋を使う場合、いろんな点で秘密が守れるとか、そういう条件の調《ととの》ったところでないと困るわけだ。だから自然にいくつかの限られた店になる。  その頃の料理は、いまの会席料理と違って、「盛り込み」が多いんです。まず向付があってという、いわゆる会席のやりかたは、江戸では比較的新しいんだよ。 〔八百善〕という有名な料理屋は、あまり大きくはないけど、とにかく江戸の名亭として鳴らしたものなんだ。そこの主人、四代目八百屋善四郎というのがなかなか頭の切れる男だったらしくて、文人墨客との交際も広く〔八百善〕の名を江戸中にとどろかせたわけです。  この〔八百善〕が出した料理啓蒙書に〔料理通〕というのがある。それを見るとね、だいたいが盛り込みなんだ。刺身なら刺身が大きな器で出て、それを取り分けて食べる。取り分けて食べるというのが江戸の、一応のやりかただったんだろうと思いますね。  それはむかしから、大きな広間で宴会をするときには、全部一人ひとり別々にお膳が出ますけど、七、八人か十人ぐらいで、くだけた宴会の場合は、盛り込みが多かったらしい。時代とともにだんだん茶懐石というものが普及して、その懐石料理というのが会席と名を変えて、江戸でもひろまって行ったんだ。  そういう会席料理になってから、向付だ、何だという一人ずつ全部別々の出しかたになったわけです。 〔料理通〕という本はなかなか面白いよ。料理そのものについて知るところも多いけど、それにもましてこの本に推薦文や挿絵を寄せている芸術家たちの顔ぶれが凄い。酒井抱一や谷文晁が絵を描いているし、蜀山人の狂歌が入っているしね。  蜀山人の狂歌の一つに、こういうのがある。 [#2字下げ]「詩は詩仏 書は鵬斎に狂歌俺 芸者小勝に料理八百善」  いずれもその頃一流の人気者を詠み込んだ歌で、それほどに〔八百善〕の評判は高かったということですね。  ぼくは一度、〔八百善料理〕というものを試食したことがある。もちろん、むかしのテキストに従って、現代の料理研究家が再現したものですけどね。  鮃の刺身を食べさせるのに、岩茸を付け合わせにして、醤油じゃなくて煎酒《いりざけ》というものを使っているんだよ。これが実によく合っていて感心しましたね。  煎酒というのは、そのときに聞いた話だけれども、本当は古くなった酒を使ってつくるそうだ。酒一升に対して、大きな梅干し二十粒ぐらいを入れて、土鍋で煮つめて、そこへ今度は鰹節を削ったものと塩を少し入れて、さらに七合ぐらいまで煮つめる。それを漉《こ》したものが煎酒なんですって。  そういうふうに手をかけて、いろいろと工夫をしていたわけで、それは味も素晴らしかったに違いないけれども、値段もバカ高かったというね。大名もときどきお忍びで来るし、旗本は来るし、金持ちの町人は来るし……とにかく金をたくさん持ってるやつでなきゃ行けないわけだ。だから〔八百善〕へ行くということが、一つの見栄だったんでしょうね。  幕末にアメリカのペリーが来航したときの話だけど、どんなものを食べさせたらよいかというので、幕府がいろいろと頭を悩ましたんだよ。それで結局、〔八百善〕と、もう一店、これも有名な料亭〔百川〕とが協力をして、饗応《きようおう》の膳部を調えることになった。  そのときの献立を見ると、デザートとして、柿をむいてみりんをかけまわしたものが出ているわけです。これはちょっといいなと思って、〔鬼平犯科帳〕の中でも使ったよ。 饂飩、蕎麦、そして天ぷら  饂飩《うどん》は関西が本場かもしれないけど、元禄時代からもう江戸にもありましたよ、蕎麦と一緒に。ただ、東京の人はあんまり饂飩の嗜好がないかもしれないな、蕎麦ほどには。  また、東京の塩っ辛い汁で食べたら、饂飩というのはそれほどうまいとはいえないんだよ。これはやはり、関西《むこう》の薄味の汁のほうがいいんだ。  だけど、東京の人が京都へ行って饂飩を食べると、 「お醤油ないか……」  っていうからね、女でも。東京育ちの人はそういいますよ。塩っ辛い饂飩も悪かないんだからね。一所懸命、土でも掘って汗を流して、そのあと饂飩屋へ行って塩っ辛い饂飩を食べたら、これはうまいんだよ。だから、関東が塩辛くてだめだとか、京都でなくてはというのはバカなんですよ。それぞれにいいものなんだ。  蕎麦というと、いまは天ぷら蕎麦なんかがもてはやされているけれども、元禄時代にはそういうものはなかった。柚子切《ゆずきり》とか、胡麻切とかはあってもね。いまは、逆にこういうものがなくなっちゃった。  神田の〔まつや〕へ行くと、頼めば柚子切をやってくれます。一人じゃちょっと無理だけど、人数がまとまればね。柚子を入れて打った蕎麦、なかなかいいものだよ。  天ぷら蕎麦というのは、ずっと後になってから生まれた。天ぷらが一般化してからのことだからね。徳川家康が鯛の天ぷらを食べて、それが原因《もと》で病気になって死んだといわれている。だから、あの頃からあったわけだけれども、それが一般の人たちの食べものになるまでには、やはり、ずいぶん年月がかかっている。  家康の頃の天ぷらというのは、恐らく衣つけて揚げたんじゃないと思うんだよ。空揚げだろうと思う。ただ、材料を油の中に入れるだけでね。衣をつけて揚げるようになったということが、一つ新しい時代を物語っているわけです。  というのは、衣というのは結局、小麦粉でしょう。そういう余剰生産ができるようになるまでは駄目で、戦争がなくなって百年か百二十年か経《た》たないと、そういうふうになって行かないわけなんだよ。  平和が続けば続くほど、現代と同じようにいろんなものが出てくるわけで、天ぷら蕎麦ができたのも、ちょうど鬼平の頃なんだ。たちまち大流行したんだけど、まだ当時はエビなんか揚げないね。貝柱のかき揚げですよ。  で、天ぷら専門の大きな、いい店なんてない。みんな屋台だ。天ぷらというのは下賤な食いものとされていたんだから。天ぷらが上等になって高級天ぷら屋が生まれたのは、明治、いや大正になってからだろうねえ。  魚介そのものがだんだん高くもなってきたし、天ぷら自体は非常にうまいものだから、どんどん高級にして食べさせる考えかたが出てきて、高級天ぷら屋になったわけだけれども、むかしは、さっきも話したように、一般の庶民の家で三時にカニを売りに来れば毎日食べられるという時代だったから、天ぷらも安い庶民の食べものだった。天ぷらの材料なんて、ごく安い魚が多いわけだからね。  鬼平の時代に、今日のわれわれがきょうはちょっと張り込んで鰻を食べよう、ステーキを食べようというような感じで、贅沢をするとすれば、それは刺身ですね。鰹の刺身なり、鮪の刺身なり、あるいは鮃の刺身なり……そのときの旬《しゆん》のものを刺身で食べるのが、まず庶民の一番の贅沢だったでしょう。  むかしは、鮪なんて赤いところしか食べなかったんだよ。いまでこそトロを珍重するけど、江戸時代は樽へ捨てちゃったんだから。だれもトロなんて見向きもしないで、捨てるのに困ったものなんだ。 鬼平の頃、握り鮨はまだなかった…… 〔鬼平犯科帳〕には、鮨というのは出て来ない。というのは、当時すでに鮨はあったけど、いまでいう握り鮨のようなものはなかったから書かない。  いまのような鮨はもっと後ですよ。あの頃は油揚げの、いわゆる〔お稲荷さん〕。その後で小鰭《こはだ》の鮨が出て来る。鬼平の頃よりかちょっと後になる。この小鰭鮨というのは白木の鮨箱をかついで粋《いき》な恰好で売りに来たものです。  鮨がいまのようなかたちになったのは、やはり〔与兵衛鮨〕からでしょうね。約百五十年前の文政年間に、両国に〔与兵衛鮨〕が生まれた。これが今日の握り鮨の起源です。  ──与兵衛は握り鮨の元祖で「鯛ひらめいつも風味は与兵衛ずし、買手は店に待つて折詰」「こみあひて待ちくたびれる与兵衛ずし、客ももろとも手を握りけり」などと詠まれているが、初代与兵衛が初めて本所横網に開店したのは文化七年(一八一〇)で、握り鮨の創始は文化末年もしくは文政の初期というから、もとはやはり押し鮨であったに違いなく、魚肉を細かく砕いた「おぼろ鮨」を作って呼物にしたのも同人だというから、よほど創意に富んだらしく、屋号の「花屋」よりも与兵衛の名の方が通りよくなった──  と、本山|荻舟《てきしゆう》の〔飲食事典〕にある。  それまでは屋台の安い食べものだった鮨を高級にして、お座敷で品よく食べさせるというのは与兵衛が始めたわけですよ。いま、京都の〔松鮨〕あたりで先代がいろいろ考えて工夫している鮨、手のかかる細工の鮨ね、それと似たようなものを与兵衛がやっていますよ。  むかしの鮨屋というのは、いまのように付台《つけだい》の前で食べることはなかった。ぼくらの子どもの頃もそうですよ。みんなテーブルで食べたものです。それにいまみたいにガラスのケースの中に材料を並べておくということもなかったんだ。きょうは何があるかというのは全部、職人まかせなんだよ。  初めての鮨屋へ行くのはこわいというんだけれども、テーブルさえあれば、ちっともこわくない。テーブルに坐って、一人前くださいといえば、いくらも取られない。その代わりこっちも好みのものはいえないわけだ。一人前全部トロばかりというわけにいかない。向こうが塩梅《あんばい》してくれるものを食べて、その中でうまかったものを追加すればいい。また、そういう客には、本当の鮨屋はよくしてくれる。  ぼくらが株屋の小僧時代には、夜中に稲荷鮨を売りに来たね。夜食に買って食べたよ。まだ、ろくに小遣いもない時分にね。いまの稲荷鮨なんか問題にならない。うまいですよ、それは。米がいいし、油揚げいいし、醤油がいいんだから。  独特の呼び声を掛けて売りに来るんだよ。そうすると、住込みの店員がみんな二階からざるを降ろして、そこへ稲荷鮨を入れてもらって、スーッと引き上げるわけだ。稲荷鮨っていうのは明けがた近くまで売っているんだよ。場所によってね。  それは溝口健二監督の映画〔残菊物語〕を観ればわかる。だいたい夏の午前三時頃、六代目菊五郎が赤ん坊で、乳母のお徳があまり暑くて赤ん坊が泣くものだから抱いてね、築地の河岸のところへ涼みに出る。そこへ菊之助が帰って来るときに、 「いなァりさん……」  という呼び声が聞こえるんだよ。  むかしは明けがたまで、何かしら働く人がいたりして、いろいろな商売が夜っぴてあったわけです。  いまは両国の川開きに花火を見に行ったって、帰りに一杯飲もうったって、なんにもなくなっちゃうんだから……あんなものだけやったってしようがない、風俗にも文化にもならないと思うね。 池波正太郎流〔柱めし〕 「鬼平は、ずいぶんお粥が好きですねえ」  といった人がある。朝御飯にしょっちゅうお粥を食べているというんだよ。あれは結局、作者であるぼく自身が好きだから(笑)……。  葱入りの煎り玉子というのもそうなんだ。それはぼくが食べているものだから小説の中でも使っているわけだけれども、煎り玉子そのものは江戸時代からあるんだから、そこへ葱が入ってもおかしくない。むしろ、当然のことなんだ。  だいたい自分が普段やっていることを時代小説の食べものに使っているんですよ、ぼくの場合。ただ、いまあっても鬼平の時代になかったもの、というのがある。  たとえば、白菜なんていうのはないだろう。白菜は明治になってからですよ。玉葱もね。だから、そういうことは気をつけなければいけないけど、全部一応、江戸時代の料理の本で調べて、書いておかしくないと思えば、その通りに書くわけだ。  白菜なんて日本的な野菜でしょう、いかにも。それで、つい、江戸時代からあるように感じちゃう。日本の地つきの野菜みたいにね。だけどそうじゃないわけだ。  日本の場合、江戸時代にあって、いまはないっていうものは、材料的にはあまりない。ただし、味そのものは全然違っているだろうし、料理のしかたも現代の家庭でするそれとは恐らく違うでしょうね。  むかしは手軽に味わえたのが、いまはなかなか……というものは少なくないだろうと思う。前に話した〔シャコめし〕とか〔柱めし〕なんかそのいい例ですよ。いまはシャコなんて高いからねえ。 〔柱めし〕なら、やろうと思えば自分の家でも簡単にできるよ。そんなに高かないよ。御飯をうんと熱く炊いてもらって、醤油を別の小皿に入れて、その醤油に少量の酒を落として混ぜておく。熱い御飯の上に味の素を振りかけておいて、小皿の醤油に貝柱を漬け込んで山葵《わさび》を入れる。それを熱い御飯の上に乗せ、箸で、ざっくりとかきまわして、ちょっと蓋をしておくんだよ。蓋を取って、食べる寸前に揉み海苔を振りかければ、〔柱めし〕になる。  生鰹《なまり》というのは、このごろはほとんど見ないけど、本当に新鮮な生鰹節《なまりぶし》というのはうまいものなんだ。ぼく自身はあんまり好きでもないんだけどね。うちの母なんかお惣菜によく使いましたよ。  魚屋に、いい生鰹があったら取っといてくれって頼んどいたら、この間、持って来た。それで久し振りで、うちでやってみたが、そんなにまずくなかった。ちょっと甘酢のようなものに胡瓜《きゆうり》を合わせて食べるとか、濃い味噌汁に入れて食べるとかするんだけどね。  ぼくが株屋にいた時分、ぼくを可愛がってくれた他の店のおじいさんの外交さんは、この生鰹が好きで、よく食べていました。このおじいさんが若いお嫁さんをもらって、ぼくが遊びに行ったとき、そのお嫁さんが山の芋を一所懸命摺り鉢で摺っているから、 「何かできますか、それで……」  って訊《き》いたら、 「芋酒なんですよ」  って、真っ赤になったんだよ(笑)。  おかしいなァと思って、芋酒なんてそんなもの、おいしかないでしょうといったら、おじいさんがいうには、 「いや、正ちゃん、そうじゃないんだよ。若い嫁《の》をもらうと、|これ《ヽヽ》が効くんだ」  それで、やっと、ぼくもわかったわけだ。  で、時代小説を書くようになってから、江戸時代の食べものをいろいろ調べてみると、芋酒を居酒屋で出しているんだね。それを看板にしていた居酒屋がある。それほどいいんでしょうね。  だけど、これは、ぼくはやったことはないんだ。あんまりうまいものじゃないんだろうと思う。練り酒とはいうものの、まあ、薬のようなものでしょう。ねばねばした感じが何となく精力剤として効くように思ったんじゃないか(笑)。 〔鯉料理〕あれこれ  平蔵の時代、鯉料理というのはあちこちにあったと思う。織田信長の時代から、鯉というものは非常によく使われているわけですからね。天正十年(一五八二)五月十五日、天下統一を目前にした織田信長は、三河の徳川家康を安土に招いている。このときの饗応役に命ぜられたのが明智光秀なんだ。だけど、信長の怒りを買って、途中で任を解かれている。光秀としてはきわめて不面目なことになったわけで、それが謀叛の原因の一つと伝えられているけど、本当のところはわかりません。光秀自身でさえ思いもかけなかった激しいものが、突如として胸の奥から衝《つ》き上げて来たんだからね。  で、このときの安土での大饗宴の献立というのが記録に残っているんだ。それはもう大変なご馳走なんだけど、その中にも〔鯉の汁〕が一品、入っていますよ。  鯉という魚は日本の風土に合うんだね。飼育しやすい魚であることから、生簀《いけす》で飼ってどんどんふやして行くことができるわけだ。だから、専門の鯉料理屋なんていうのもできるわけですよ。  この間、木曾の妻籠の〔生駒屋〕っていう、むかしのままの旅籠《はたご》の|あれ《ヽヽ》を残しているところに泊まったら〔鯉の洗い〕が出た。これがうまいんだなあ。とにかく木曾の清冽《せいれつ》きわまりない水の生簀で生かしてあるからね。  鯉は〔洗い〕とか、〔鯉こく〕とか、あるいは〔飴炊き〕のようなものが主になっているけれども、鯉というものは肝もうまいし、眼玉もうまいし、いろんなところがうまいんで、いろんな料理法がある。鯉の〔塩焼き〕なんて実にうまいものですよ。〔皮の吸物〕とか〔皮の酢の物〕とか、ずいぶん鯉料理にはバリエーションがあるんだ。  そういう江戸時代の鯉料理の伝統を残しているのは、まあ他にも店があるだろうけれども、三重県の多度神社の門前町にある〔大黒屋〕でしょうね。ここは八代将軍・吉宗の頃から続いている鯉料理屋です。本当にむかしと同じような鯉料理を食べさせる。  多度神社の本宮は天津彦根命《あまつひこねのみこと》といって、|天照 大神《あまてらすおおみかみ》のお子さんだそうだよ。伊勢神宮と並ぶ大神宮で、東京ではあまり知られていませんが、向こうでは名高い神社です。  その門前町だからね、風格があっていいんだよ。時代劇にそのまま使えそうな町だね。〔大黒屋〕は瓦屋根に連子《れんじ》窓、油障子が入っていてね。白壁の塀で、中庭に池があって、その水がきれいなんだよ、実に。そこに見事な鯉が群れをなして泳いでいるわけだ。  池を望んで鉤《かぎ》の手に座敷があってね。その奥座敷で鯉料理を食べたんだけど、ぼくはずいぶん鯉を食べてきたけれども、あれほど多彩なものとは知らなかったな。  どれもこれも、野趣にあふれていながら、調理が洗練されていて、何ともいえずおいしかった。もう、凄く気に入っちゃって、翌日、また〔大黒屋〕へ行ったよ。二日目には、ちゃんと前日は出なかったものを出すんだからね、偉いものですよ。  むかしは東京にも、いい鯉料理屋があったんだけどねえ。有名な店もあった。それがいまじゃ場所も変わり、大きなビルになっちゃって、迷子になりそうでしたって、だれかいってたよ。評判になって、ビルを建てたりすると、料理屋というのはたいてい駄目になるね。 本当にいい酒は冷酒《ひや》で飲む  江戸時代は、一般の人たちは、ほとんど焼酎は飲まない。むろん飲む人もいましたよ、職人なんかにはね。  焼酎というのは、飲むためというより、怪我をしたときの消毒薬なんだ。いまでいう薬用アルコールですよ。霧にして吹きかけるんだ、シューッと。  酒はやっぱり関西からの〔下《くだ》り酒《ざけ》〕が一番人気があったといわれている。灘の方から船で運んで来るわけだ。富士山を横に見て揺られて来る酒だから〔富士見酒〕とも呼ばれていました。  はじめのうちは馬で運ばれていたんだよ。それが後に船で輸送するようになったのは、大名屋敷が大量に買ってくれて物凄く儲かるということになったから。寛永年間に〔菱垣《ひがき》回船〕が定期的に往来するようになった。その後、享保頃から〔樽回船〕という回船問屋がのし上がって来た。どのぐらいの量が運ばれていたかというと、元禄十年(一六九七)に六十四万樽、田沼時代には年間百万樽に及んだという記録が残っている。  関東一円の地回り酒も江戸へ入って来たけれども、せいぜい年間十五万樽で、量としては〔下り酒〕の比じゃなかったというね。  江戸時代の酒は、いま、われわれが日常飲んでいる酒に比べて、格段にうまかったと思う。変な話だけど、宮中には〔菊正宗〕の一番いいのが、いまでも献上されるんです。劇作家たちが入江侍従に招《よ》ばれて、宮中の馬事倶楽部の食堂か何かでご馳走になったことがある。その日、陛下が召し上がるのと同じ献立で、ということで。そのときに〔菊正〕が出た。それはもう戦前の〔菊正〕を思い出した、と、だれかがいってましたよ。 〔菊正〕にもいろいろあるんですよ。同じ特級でもね。われわれが普段すっと行って、いい〔菊正〕が飲めるのは、やはり浅草の〔藪〕だね。あそこの酒はいい。むかしのいい酒というのは、頭に来ないんだよ。そういう意味では、たとえば〔越乃寒梅〕なんかがむかしの酒を思わせるね。冷酒《ひや》で飲んでも頭へ来ない。ぼくは一口飲めばわかりますよ。本当にいい酒というのは、絶対に頭に来ないものなんだ。  むかしは、〔八百善〕のような料亭で出す場合はお燗をすることもあるけど、本当にいい酒を出すときは冷酒ですよ。それを銚子に入れるわけだ。  銚子というのは、つまり、土瓶みたいなものです。徳利と銚子がいつの間にか混同されて、いまは「お銚子一本……」なんていっているけど、あれは間違いなんだね。  酒を買う場合、一般の町民は容《い》れものを持って酒屋へ行くわけだ。いわゆる貧乏徳利みたいなものを持ってね。もう少しちゃんとした家では、酒屋に届けさせる。鬼平のような旗本の屋敷では全部取り寄せる。樽でね。柄樽《えだる》とか角樽《つのだる》とかいわれる、長い柄《え》のついたのがあるでしょう、あれですよ。普通は白木のものだけど、お祝いごとなんかでは朱塗りの角樽も使われましたね。奉書でちょっと飾ったりして。 むかしの船宿というものは…… 〔鬼平犯科帳〕シリーズに登場するいろいろな食べもの屋、料理屋。これは実在のものもあるけど、ぼくが自分で命名したものも多い。というのは、いま残っているそういう料理屋の名前が出ている本は、だいたい幕末が多いんだよ。寛政時代の平蔵が生きていた頃は、むろん料理屋はあったけれども、江戸時代末期ほどたくさんはないわけですよ。ちょうど戦前と現在のようなものです。  いまは、軒並みに食いもの屋ばかりだろう。つい三十年前までは、こんなことはなかったんですから。それと同じで、幕末に近づくにつれて急速にふえているわけだ。  どういう店が多かったかというと、まず、蕎麦屋だ。蕎麦屋は平蔵の頃も多かった。いまの蕎麦屋とはちょっと違う。つまり、何にでも利用されていたんです、蕎麦屋が。喫茶店の代わりでもあるし、腹ごしらえすることもできるし、酒場の代わりでもある。  逢引きも、二階座敷がみんなあったから、できたけどね。ぼくらの子どもの頃にも、座敷があった店がありましたよ。〔蓮玉庵〕もお座敷があったからね。もっとも逢引きといったって何もできやしない(笑)。  これが船宿なら、一応これは宿なんだから、何でもできることになる。金次第でね。船宿というのは便利なものだったんです。食べものもうまいしね。板前がいて、ちゃんとつくる。それはもう、いい魚がどんどん入って来るもの。むかしの船宿というのは、いい料理をちゃんとこさえてくれたんですよ。といっても宴会用のいろいろな料理は出ない。あくまでも酒の肴です。何か他に、ちょっと飯でも食いたいとか、注文があれば、近くの店から届けさせる。  江戸時代の船というのは、結局、いまのタクシーみたいなものだ。そのぐらい縦横に川や運河が整備されていたわけです。川を伝わって行けばタクシーより速いんだから。そういうものの溜まり場である船宿がいっぱいあったということは、いかにその頃の江戸の町がいい町であったかということですよ。  川のない都会なんていうのは全然駄目ですよ、情緒がなくて。日本橋の上へ高速道路をかけてしまうのだからね、東京都のコッパ役人どもが。  もうずいぶん古い話だけど、柳橋か浅草橋の船宿から小舟を雇って銚子まで行ったことがあるんだよ、夏ね。  夏の土曜日、四時頃出て行って、食べものや酒をいっぱい積んで、ゆっくり、ゆっくり行くんだよ。そして船の中で一杯やるわけだ。月を見ながら、ござを敷いて、飲んだり食ったり……あれはよかったねえ。  遊びに行くんだから急ぐことはない。昼間は葦の葉蔭で昼寝をしたり、釣りをしたりね。そして、川岸を見ると、それこそ鯉料理の店なんかあるわけだよ。そういうところへ船をつけて、船頭も一緒に上げて、飲んで、そこの座敷で昼飯を食べて、また船に乗ってずうっと行く。だから、銚子へ着いたのは確か翌日も夜遅くじゃないかな。  いまでも行けるんじゃないの、江戸川から入って行って利根川へ出るわけだから。何とかもう一度あれをやりたいと思ってね、調べてくれるように頼んであるんだけど、なんだかむずかしいらしいな。 大石内蔵助は牛肉が好きだった……  江戸時代には、表向きは肉食というものがなかったわけです。鶏肉《とり》や軍鶏《しやも》、それから鴨なんかは食べていたけれども、四つ足の動物は食べない。  といっても本当に全然食べなかったかといえば、そんなことはないんだよ。〔兎汁〕なんていうのがあったわけだからね。江戸には二、三軒、〔兎汁〕を食べさせる店があった。まあ、その程度で、一般的じゃなかったけどね。  牛だって近江の方では食べていたんだから。それはもう元禄時代から。大石内蔵助が牛肉を食べて、こういうものは倅の主税には食べさせるな、倅のような若い者には毒になるから……という手紙を小野寺十内に書いているんだ。小野寺十内が内蔵助のところに牛肉の味噌漬を送ったら、そういう返事が来た。  大量生産されているわけじゃないから、だれでもが牛肉を食べていたわけじゃない。薬用というか、一種の病人食だね。〔薬喰《くすりぐい》〕と称して食べていたんですよ。 〔鬼平犯科帳〕に書く食べものというのは、前にもいったように、ぼく自身が食べているものを基本にして、それで時代考証的に間違いがないかどうか調べて、それを書いているわけだ。〔蒟蒻《こんにやく》の白和え〕にしろ、〔鴨の叩き団子〕にしろね。 〔白和え〕なんていうのは本当に東京のものだという気がしますね。〔白和え〕のうまい料理屋があってね、浜町のあたりに。五代目菊五郎が、若い者にそれを買いに行かせるんだよ。そのときにね、 「白和えを買いに行くときは、鉄火な恰好して買いに行け」  そういったという話がある。 〔鴨の叩き団子〕は晒《さら》し葱をたっぷり添えて食べる。ぼくの家ではときどきやるけど、うまいものなんだよ。それから鴨を軽くあぶっておいて、醤油につけて、小さく切る。鉢に生卵をどんどん割って、それをかきまわして、その中へ鴨の小さく切った肉を入れて、葱を入れて、それを熱い飯にかけて食べるんだよ。醤油を落としてね。  |それ《ヽヽ》、だれが食べたと思う? 討入りの晩に大石内蔵助が食べているんですよ。堀部弥兵衛のところへいったん集まって、それで行くわけだから、全員じゃないけど、内蔵助と他の何人かが食べているんだ。  アサリの剥き身を、塩と酒と醤油で薄味に仕立て、たっぷりした出汁《だし》で、葱の五分切りと一緒にさっと煮て、それを汁ごと熱い飯にかけて食べるというのは、ぼくらは年中おふくろに食わされた。これはもう江戸時代からあるものなんだ。うまいんだよ、本当に。  アサリと大根の千切りでもいいんだよ。千切りにしておけば大根はすぐ煮えるからね。さっと煮て大急ぎで食べなきゃいけない。煮過ぎたら駄目だからね、アサリは。  アサリの他に、ハマグリでもやる。このときは味噌を使う。それが〔深川めし〕ですよ。むかし、ずいぶんやりましたよ。何といったってハマグリがいいし、葱がいいんだからね、当時は。だからもう、まずかろうはずがない。  沙魚《はぜ》を生醤油と酒でからめて、さっと煮たもの。これもうまいんだ。これもむかし、船で釣りに行ったときなんかに、よく出たよ、船の中で。獲りたての沙魚なんていったらもうね……さっとからめておいて、本当に煮えるか煮えないかのところで食べる。やっぱり江戸の味の一つといっていいでしょうね。 お女郎に教わった朝の一品〔浦里〕  遊廓のまわりには、いろいろな食べもの屋があるわけです。台屋《だいや》という仕出し屋とか、饂飩屋とか、一品物の料理屋もあるし、むろん居酒屋もある。  それで吉原へあがったら、台のものを取って食べるわけだ。うまいものでしたよ(笑)。ぼくらは、朝帰るときに、お女郎がつくってくれたものです。吉原のいい店では、泊まった客の、ことに自分がいいと思った客には、お女郎が自分でつくるんですよ。大根おろしをもらって来てね。  確か〔浦里《うらざと》〕とか何とかいっていたな、あれは。朝になると、お女郎が下へ降りて行って、大根おろしと揉み海苔をもらって来る。そこへ、梅干しの種をぬいて、このくらいの小鉢にちぎった梅干しを入れて、大根おろしを入れて、揉み海苔をかけて、お醤油をちょっと落すんです。おつなものだよ、なかなか。  この間、銀座の小料理屋へ行ったら、いきなりその〔浦里〕が出て来たんで懐かしかったなあ(笑)。おやじは知らないでつくっているらしいんだけど、評判がいいんだって。これはこういうものだよっていったら、ヘェーッなんてびっくりしてましたけどね。  お女郎が朝、気に入った客につくってくれるものに、もう一つ〔玉子のぶわぶわ〕というのがある。これは煎り玉子なんだよ。油揚げを台所でもらって来て、自分で細く切って、砂糖をわりあい甘めに入れて、醤油を入れて、甘辛くして長火鉢でバーッと炒《い》ってくれるの。油揚げを入れるのが特徴なんだ。お女郎ってそういうことも|まめ《ヽヽ》にしてくれたんだ。とても大変なんだよ、いまの家庭の若い主婦なんかと比べたらね。でも、そういうこまやかなサービスをしてくれるのは、あまり大きくない店のお女郎だけ。大店の女郎なんて威張っていてやらない。  粋な食べものといえば、〔小鍋《こなべ》だて〕だね。江戸の末期には確かにあったんだけど、鬼平の頃はどうかなあ。まあ、あってもおかしくない。 〔小鍋だて〕というのは一人か二人で食べるものなんだよ。まず差し向かいでやるのが一番いい。材料は余りものでも何でもいいわけです。あるものを何でも材料にできる。出汁《だし》を小鍋に張って、そこへ入れて煮ながら食べるんだから。非常に親密な感じになるわけですよ、雰囲気として。小鍋だから大勢じゃできない。入れるそばから引き上げて食べる。だから、ぐたぐた煮るような材料は駄目ということになるね。鍋はむろん土鍋です。 〔湯豆腐〕もいいもんだ。いまの豆腐はあまりうまくなくなっちゃったけどね。こういうものは材料をゴチャゴチャと入れたら駄目なんだ。簡単なほどいい。油揚げを入れた湯豆腐ぐらいがいいわけです。それから大根ね。大根を千六本に切ったのを湯豆腐の中に入れると、豆腐がうまくなるの。やってごらんよ。  ほんのちょっと知恵をはたらかせれば、うまいものはいろいろとあるはずなんだよ。現代《いま》はそういう頭のはたらきが鈍くなってしまった。むかしの人というのは、年中、頭を使っているわけです。  たとえば、この魚を買ったら、あしたは保《も》たないな、だからきょう一日で食べてしまわなくてはいけない、それなら料理はこうこうしようとか、こっちで火をつけてゆでている間に、もう一方で何か刻むとか、そういうふうにして二つのこと、三つのことを同時にやるわけでしょう。その訓練が自然に感覚を鋭いものにするんだよ。 「一切れの生胡瓜にも涼を追い」  握り飯ひとつでもね、紫蘇の葉を細かく刻んで、ちょっと塩を入れて、それで握ったらうまいものなんだ。こんなことはだれにだってできるわけですよ。 〔菜飯〕だって、わけない。大根の葉っぱなんて、いまの人はほとんど食べないだろう。そういう時代になっちゃった。もったいない話ですよ。大根の葉は非常にうまいものだけど、食べかたを知らないし、食べるものだと思っていないんだね。  大根の葉はちょっと塩に漬けておいて、刻んで熱い御飯に入れる。炊き込むより、熱い飯に混ぜたほうが簡単だし、おいしいんだよ。〔柱めし〕と同じ要領でやればいい。  糠漬の古漬を刻んでやってもいいんだよ。それから〔生姜《しようが》めし〕なんかもうまいね。生姜を摺りおろして、それを醤油と酒でちょっと味をつけて、飯にかけて、かきまわして食べる。御飯がすすんでしようがないよ、こういうのをやると。  沢庵《たくあん》なんか細かく刻んで、白胡麻を振って、ちょっとお醤油を落すんだ。それだけで握り飯をつくる。うまいねえ、いい沢庵でやったら。  沢庵は、普通、東京の一般の家では漬けない。漬物屋というのがあって、そこで買って来たものだ。漬物屋というよりも、芋の煮たのを売ってたり、味噌漬を売ってたり、干瓢《かんぴよう》売ってたりという、そういう店があったわけだよ。そういう店で沢庵も売っていた。むろん、八百屋でも売っているし。  大きな商家なんかは、みんな、自分のところで沢庵を漬けるよ。奉公人の主要惣菜だからね(笑)。裏長屋の職人さんなんかは、買って食べていた。沢庵だってばかにはできない。うまいのは本当にうまいんだからね。  前に話した、妻籠の〔生駒屋〕、ああいうところへ泊まると沢庵のうまさがしみじみわかる。泊まらなきゃわからないね、こればかりは。むかしのままの宿屋だから、汚いだろうと思ったら、便所でも何でも本当にきれいになっていてねえ。それを家族でやっているんだけど、食べもののうまいことね。  沢庵だって自分の家で漬けたものであるし、鯉でも生簀に飼っている鯉を料理する。主人が朝、籠を持って山へ行って、山菜を採って来る。それが夕方の膳につくんだ。ああいうところへ泊まってみると、むかしの暮らしというものがどういうものだったか、わかりますね。本当に食べるものがみんなうまくてねえ。  四季それぞれにふさわしい食べものがあったわけだよ。いまは年中何でも出回っているから、かえって物の味がわからなくなっちゃった。  だからさ、たとえばむかしの人が井戸水へ漬けておいた胡瓜揉みで、どれほど涼しさを感じていたか、いまの人にはその感覚がわからなくなっている。 [#2字下げ]「一切れの生胡瓜にも涼を追い」  って俳句があるよね。知らない? 池波正太郎作だ。アッハハハ。だから、そういうものですよ。むかしの人のほうがいろいろと暮らしの楽しみ方を知っていたんですよ。  茄子なんかでも、糠漬を出しておいて、井戸水へ漬けておく。それで練り辛子で食べるとかね。ピリッとして夏はいいもんですよ。  白瓜は、薄く切ったパンに辛子バターを塗って、上に薄く切った白瓜を乗せて、サンドイッチにする。これもなかなかいいよ。  それから、生の瓜と茄子を薄切りにして、塩で軽く揉んで、要するにひと塩漬けにするんだよ。そこへ枝豆のむいたのを混ぜ込む。ぼくは夏中、毎日食べてる。うまいよ、酒が。 [#改ページ]   鬼平料理帳・春 [#改ページ] 白魚《しらうお》と豆腐《とうふ》の小鍋《こなべ》だて [#ここから2字下げ] 「ときに平蔵」 「む?」 「いったい、あの良いにおいをぷんぷんさせていた刺客は、だれにたのまれて、お前さんを殺《や》ろうとしたのかね?」 「それさ」平蔵は半眼《はんがん》の表情となり、 「これは、おれの勘だがね」 「よく当るからな」 「どうも、粂八のききこみが気になる。蛇《くちなわ》の平十郎という大泥棒さ」 「なるほど」 (中略) 「こうなると、蛇の平十郎のうごきが、おれは気になってきた……」  このとき利右衛門が、手料理の白魚《しらうお》と豆腐の小鍋だてと酒をはこんできた。 「や、これはよい」 「春のにおいがたちのぼっているなあ、左馬」 「うむ、うむ」 「森さん……いや、御亭主」 「はい」 「お内儀はどうした?」 「ようやく、落ち着きましたようで……いまはじめて、私の過去《むかし》をはなしてきかせました」 [#ここで字下げ終わり] [#地付き]『暗剣白梅香』  白魚というのは、なかなかむずかしい魚だ。それというのも、これをシラウオと読むかシロウオと読むかで、話が違ってくるからである。  長谷川平蔵と岸井左馬之助が小鍋《こなべ》だてと洒落《しやれ》込んでいるのは、いうまでもなく本当のシラウオのほうで、古くから江戸の佃《つくだ》の名物であった。学問的にはシラウオ科の硬骨魚。  このシラウオとしばしば混同されるのが、ハゼ科の硬骨魚シロウオである。どちらも淡水・鹹水《かんすい》両方に棲み、春先産卵のために河口から遡《さかのぼ》り、白色透明で姿の小さく優美なところなど、非常によく似ている。しかし、よくよく観察すれば、シラウオは頭が小さくて体型も縦扁しているのに対し、シロウオは円筒形で頭も円い。  さらに、シラウオは、分類上、鮭鱒に近いから背に脂鰭《あぶらびれ》があるが、左右の腹鰭は互いに離れている。一方、シロウオは脂鰭を持たず、左右の腹鰭は癒合して猪口形になっている。このように両者は、まったく別の種類の魚なのである。  ところで、肝腎の味についてはどうか。これは意見が分かれるところだ。 「シラウオよりもシロウオのほうがうまい」  と、平野雅章著〔たべもの歳時記〕(文春文庫)はいい切っているが、本山荻舟著〔飲食事典〕(平凡社)のほうは、 「シラウオの淡泊上品に対し、シロウオも新鮮なものはやや美味ながらなお腥臭を免れず、死んでからは論外である」  と、断然シラウオに軍配をあげている。  江戸名物の白魚は、そもそも勢州・桑名の優良種を移したものだそうな。伊勢湾を故郷とする白魚が、江戸で佃の名物になったのは、大坂の二度の戦陣で東軍のために水上の便宜を助けたという摂津佃の漁民が、幕府の命によって江戸に移住したものの、江戸湾の漁業は先住の漁民が既得権を主張するので、手が出せない。そこで、新漁民に対して白魚漁を幕府が特許したのが始まりという。家康はこの白魚が大好物だったらしく、毎年、佃の白魚は将軍家へ献上されるならわしであったよし。   「あけぼのや白魚しろき事一寸」  あまりにも有名な芭蕉の句だが、同じ芭蕉の句に、   「白魚に価あるこそうらみなれ」  というのもある。  どうやら白魚、昔から漁獲量の少ない、貴重なものであったらしい。だから嵐雪は、   「白魚や汝等の食ふものならず」  と、皮肉をいい、古川柳には、   「佃島女房は二十筋かぞへ」  とある。これはどういうことかというと、白魚の市販単位を「一《ひと》チョボ」といい、二十一尾を一単位として売るのがきまりだった。あの小さな魚を一尾ずつ数えて売ったのである。その一チョボ二十一尾を、一尾ごまかして二十尾で売る女房の才覚は、いっそいじらしいというしかない。  こんな川柳があるのを見ても、白魚がいかに貴重視されていたかがわかる。それでも競ってもとめたのが江戸っ子だったのだ。  白魚といえば、歌舞伎の名作〔三人吉三〕の台詞を思い出さぬわけには参るまい。私のようなものでも、つい、うたいあげてみたくなるような七五調の名調子である。 「月《つき》も朧《おぼろ》に白魚《しらうお》の、篝《かがり》もかすむ春の空、冷《つめ》てえ風も微酔《ほろよい》に、心持よくうかうかと、浮かれ烏の只《ただ》一羽、塒《ねぐら》に帰る川端で、棹《さお》の雫《しずく》か濡手で粟、思いがけなく手に入る百両……」  ここで、 「御厄《おんやく》払いましょう、厄落し」  と、入って、 「ほんに今夜は節分か、西の海より川の中、落ちた夜鷹は厄落し、豆沢山に一文の、銭と違って金包み、こいつァ春から、縁起《えんぎ》がいいわえ」  篝《かがり》もかすむ春の空……というのは、古典的な白魚の漁法を伝えているわけで、船側に篝火《かがりび》つまり誘魚灯を焚き、集まって来る白魚を四つ手網ですくいとった、いわゆる「すくい」の白魚でないと本物でないなどと通はいったそうだ。  白魚は、新鮮な間に塩と酒とで淡味《うすあじ》の汁を煮立て、あとからごく少量の醤油で調味したところへ入れ、溶き卵を落としかけてふわふわにした玉子とじが美味。  そして、酒客のためには、豆腐を配したチリ鍋が定式。平蔵と左馬之助が食《や》っているのが、まさにこれである。  白魚と卵をさっと炒りつけて、海苔を混ぜ、山葵《わさび》をつけて食べるのも洒落た味わいかた。ま、何にしても新鮮な白魚が手に入ればの話。それも「子持ち白魚」のことで、川をのぼって産卵を終わったらもう、おしまい。   「子をもてば白魚までがまづくなり」(柳多留) [#改ページ] 田螺《たにし》と葱《ねぎ》の饅《ぬた》 [#ここから2字下げ]  七十をこえた老密偵・舟形《ふながた》の宗平《そうへい》は、このごろ、大分《だいぶん》に健康を取りもどしたようである。  いつも、野菜や川魚を買う物売りの婆さんが、宗平に、 「こんなものは、好きじゃあねえかね?」  小さな笊《ざる》に入れた田螺《たにし》を出して見せた。 「ほう。婆さんが採《と》ったのかい?」 「そうとも」 「もらおうよ。いくらだえ?」 「銭はいらねえよ。いつも買ってもらうだから、あげるだよ。そのつもりで出しただよう」 (中略)  宗平は、田螺と野菜を、いそいそと台所へ運んで行った。  田螺は蝸牛《かたつむり》のような形をした淡水螺貝で、水田や池沼にすみ、冬は泥中に隠れているが、水ぬるむころに這《は》い出してくる。  これをゆでて剥身《むきみ》にし、葱《ねぎ》をあしらい、饅《ぬた》(味噌|和《あ》え)にしたものは、大滝の五郎蔵が若いころからの大好物であった。 [#ここで字下げ終わり] [#地付き]『見張りの見張り』  近頃の若い人にタニシといったところで何のことか、まず、わかるまい。日本人の食生活もそれだけ変わってしまったということであろう。タニシという代わりに、 「ま、エスカルゴの一種だよ……」  といったら、目を輝かせて、早速注文するかもしれない。フランスにエスカルゴあれば日本に田螺あり。その味わいは甲乙つけがたい。  田螺。古名はタズヒ。地方によってタツブまたはタツボ。信越地方では単にツブ。ちょっと知ったかぶりをしていえば「中腹足目タニシ科に属する淡水産巻貝」である。しかし「田圃《たんぼ》でとれる栄螺《さざえ》だよ」というのが一番わかりやすいだろう。  といっても、これは|壺焼き《ヽヽヽ》にはしない。やっぱり饅《ぬた》にとどめをさす。もともと泥臭いところのあるものゆえ、味噌味で仕立てるのが一番いい。串に刺して味噌をつけて焼くのもうまいし、味噌煮も悪くない。  貝のまま味噌汁にするという賞味法もある。信州あたりではこれを「ツブ汁」と呼び、手づくりの味噌に貝から出るダシが調和して蜆汁をもしのぐ美味である……という人もある。  現代《いま》はどうか知らないが、山形地方では見合いに「吸いツブ」と名付けて、必ず田螺の料理を出すならわしがあったという。箸の代わりに長い楊子《ようじ》を一本つけて出す。その楊子を手にして、田螺を一つずつ、肉を掘り出しては味わい、貝の中の汁を吸う。それゆえの「吸いツブ」で、これをやるには、どんな|はにかみや《ヽヽヽヽヽ》の娘でも顔を上げぬわけには行かないのである。  田螺には天ぷらという味わいかたもある。埼玉県比企地方に伝わる「源兵衛揚げ」というのがそれで、小麦粉に少量の黒胡麻を混ぜてどろどろに溶き、これを衣にして田螺の剥き身を揚げたもの。味噌のエキスともいうべき味噌ダマリにおろし大根とおろし生姜を薬味につけるそうな。  少年時代を越後の高田で過ごした私にとっては、田螺は懐かしい味の一つである。あのころは全然ありがたいとも何とも思わなかったが、今にして思えば、 (もったいないことをした……)  と、後悔する。女子供や酒を嗜《たしな》まぬ人間にとっては、田螺は所詮《しよせん》、無縁のものであろう。これはお惣菜ではなく、やはり酒の肴である。化学肥料と農薬の一般化で、田螺はいまや「幻の味」となりつつある。やんぬるかな。 [#改ページ] 独活《うど》の|ぬか漬《ヽヽづけ》 [#ここから2字下げ]  そのころ……。  清水門外・役宅の寝間で、長谷川平蔵は久栄に肩をもみほぐしてもらいながら、 「ああ、極楽《ごくらく》、極楽……」  独活《うど》の|ぬか《ヽヽ》漬を肴に、寝酒をやっていた。 「昨日はな、仙右衛門どのと円通寺へ行ったよ」 「ま、さようでございましたか」 「和尚にも久しぶりに会うてきた」 「おすこやかにおわしましたか?」 「うむ。すっかり歯がぬけ落ちてしまわれた」 「まあ……」 「おれたちも、すぐにああなる」 「ま、いやな……」 「好きな沢庵《たくあん》も噛めなくなる、ということよ」 [#ここで字下げ終わり] [#地付き]『盗賊婚礼』  独活《うど》の大木《たいぼく》。躰《からだ》ばかりは大きいが、役に立たぬ人のたとえ……と辞書にある。独活に対してはまことに失礼な言であろう。なるほど独活は茎の高さおよそ二メートルに及び、そのくせ簡単に折れる。だからといって「役立たず」どころではない。  ざっとゆでるか熱湯をくぐらせて、浸し物にも和え物にも用いるし、また、旨煮《うまに》、吸物、酢の物、汁の実、刺身の|つま《ヽヽ》、味噌漬、あるいは「鬼平好み」(ということは即《すなわ》ち池波正太郎好み)の糠漬と、その用途はすこぶる広い。  独活の生命とするところは、何よりも香気と歯ざわりのよさである。だから、新鮮なものなら、生《なま》で食べるに限る。皮をむいて、適当に庖丁し、薄い塩水に放ってアクを抜き、これに食塩を振って食べてもうまいし、醤油をちょっとつけてもいい。それだけに、鍋物や汁物に取り合わせるときは、煮過ぎてしまったら独活を味わう意味はない。  独活はウコギ科の多年草で山野に自生し、早春に宿根から生ずる若芽が食用として珍重される。遺憾ながら当節では、こういう本物の独活はなかなか手に入らない。   「雪間より薄紫の芽独活かな」  芭蕉  われわれが八百屋で買って来るのは、たいてい栽培された|もやし独活《ヽヽヽヽヽ》である。これは秋季または早春に株を植えて、土や|もみがら《ヽヽヽヽ》などで覆い、主として窒素肥料を与えて育てた若い柔かい茎に他ならない。 「食べものの季節感を忘れさせる罪深いものの代表はキュウリとウドだ……」と、辻留のご老体は嘆いておられるが、すぐに続けて、「一年中出廻るウドは、もっぱら刺身のケンや薄く切って吸物に浮べ、また丸むきは煮合せにと重宝」とある。(辻嘉一著〔味覚三昧〕中公文庫)  |もやし《ヽヽヽ》の独活の功罪はさておき、一度は自然に育った山独活の得もいえぬ芳香を味わう必要があるだろう。もう、香りが全然違うのだから。 「焚火に突込んで外皮が黒くなるほど焼き、熱いうちに皮をむいて、辛口味噌かキャビヤでも、つけていただく旨さにまさるものはありません」  と、辻嘉一は書いている。  独活、芹《せり》、蕗《ふき》、蕨《わらび》、山牛蒡《やまごぼう》などの春の野草は、粕漬《かすづけ》もうまい。そのつくりかたを書いておこう。知り合いの小料理屋で教わったものである。  独活は五センチの長さに切り、皮を厚めに丸むきし、水にさらしてアクを抜く。芹は熱湯を通して陸《おか》あげし、冷ます。蕗は粗塩を振りかけて板ずりにし、そのままゆでて水にとり、薄皮をむく。蕨は灰汁でゆでて水にとり、アク抜きをする。牛蒡は葉を切り落とし、塩を入れた米のとぎ汁、または糠を加えてゆがいておく。  酒粕《さけかす》と味噌を四対一の割合で合わせ、酒少々、塩少々を加えて、よく練り、漬床《とこ》をつくる。これに前記の材料を漬け込めばよい。漬かりの早い芹・蕗・蕨は二、三日頃から、独活や牛蒡は一週間目から食べられる。  適当な容器に、まず漬床を半分入れ、上を平らにならして薄いガーゼを敷く。その上に材料を並べて、また一枚ガーゼをかけ、残り半分の漬床をのせる。こうすれば、折角おいしく漬かったものを、わざわざ洗わずに賞味できる。右、蛇足を承知で一言。  大事なことを忘れるところだった。独活の皮の|きんぴら《ヽヽヽヽ》、これは絶対のおすすめ品である。むいた皮を千切りにし、ちょっと油を落とした鍋で酒と少量の醤油でさっと炒りつける。この一品だけで軽く二合は飲める。私が十年来通っている酒飯処《さけめしどころ》〔おもや〕で教わってきたもので、飯のおかずにもむろん悪くない。 〔おもや〕は、池波正太郎が描く江戸の煮売り酒やを彷彿《ほうふつ》とさせるいい店だが、場所は敢《あえ》て明かさない。 [#改ページ] 菜飯《なめし》と田楽《でんがく》 [#ここから2字下げ]  あれから長谷川平蔵は、忠吾と女が、北野天満宮うらにある〔紙庵《しあん》〕という風雅な料亭へ入ったのを、つきとめている。 〔紙庵〕は、天満宮・表参道にならぶ料亭と同じく、菜飯《なめし》と田楽《でんがく》を売りものにしているようだが、紙屋川沿いのこんもりとした木立につつまれ、母屋《おもや》のほかに、茶屋めいた離れが二つほどあって……そのうちの一つへ、忠吾と女が入って行った。  平蔵は、それを見とどけてから〔紙庵〕の奥庭へ面した小部屋へ入り、酒を注文した。  木立の向うに、二人が消えた〔離れ〕の戸口の一部と窓が見える。  二人が入ってすぐに、その窓の障子《しようじ》が内側から開いた。平蔵は|くび《ヽヽ》をすくめた。  女だ。あの女が落ちついたさまで、凝《じつ》とあたりの気配をうかがっているらしい。 (気づかれたか……いや、その筈はない) [#ここで字下げ終わり] [#地付き]『艶婦の毒』  菜飯《なめし》といえば田楽《でんがく》。田楽といえば菜飯。これは|つきもの《ヽヽヽヽ》で「菜飯田楽」と連称されることも多い。  菜飯は、文字通り、青菜を刻んで炊き混ぜた飯である。小松菜、京菜、蕪などの緑濃い葉を使うと物の本にあるが、大根の葉っぱが一番うまいような気がする。  普通は、細かく刻んだ菜を薄い塩味に仕立てた飯に炊き込む。しかし、飯だけを別に炊いて、あとから菜を混ぜ込む方法もある。ざっとゆでて刻み、軽く塩を振った菜を、炊き立ての熱々《あつあつ》の飯に混ぜる。このほうが色がよく、香りも高い。この場合、一応刻んだ菜を空鍋でざっと炒《いた》めておくのが秘訣とか。  野草なら嫁菜《よめな》。キク科の多年草で、山野に普通に見られる。秋に咲く小花は茶花として愛されるが、春の若葉は食用として捨てがたい。灰汁を加えた熱湯でゆで、水に放って十二分にアク抜きした後、固くしぼりあげて刻む。この水は|こまめ《ヽヽヽ》に何度も取りかえなくてはならない。午前中にゆでたものが、ようやく夕飯にアク出しが間に合う、と心得ねばならぬ。   「君がため春の野にいで若菜摘む……」  と、昔からうたわれているように、摘み草は古来、日本人ならではの佳《よ》き風習。いつの間にか|それ《ヽヽ》がすたれてしまい、野菜は、八百屋かスーパーで買うものと思い込んでいる人が多い。春の一日、野山に出て摘み草を楽しみ、売っている野菜では味わえない菜飯のおいしさを試されては如何。  ところで、菜飯を炊くときは、酒を少々加えるのを忘れないこと。また、上に煮出《だし》昆布を適当に切ってのせ、炊きあがったタイミングを見はからって手早く引き出して蒸らすと、菜飯の味は一段とよくなる。  いまは亡き辰巳浜子の名著〔料理歳時記〕(中央公論社)に、紫蘇御飯《しそごはん》というのが出ている。これも一種の菜飯だろう。 「──葉が少し大きくなると、香り高いしそご飯が始まります。こんなに山ほどのしそがどうなるかと思うほど摘みます。よく洗って細かくきざみ、塩でもみ、青ねずみ色の汁を堅く絞ります。ご飯は普通に炊いて五分くらいむらしたらしそを入れてよく混ぜ合わせます。しそがみどり色にさえて、素晴しいご飯ができます」  本当に素晴らしい紫蘇御飯ができ、(偉大なる浜子先生に感謝……)と頭を下げずにはいられないはずである。拙宅で酒席を設けたとき、しめくくりにこの紫蘇御飯を出したら、三杯おかわりをした男がいたものだ。  さて……菜飯田楽の「田楽」のほうに移ろう。〔鬼平犯科帳〕シリーズに、田楽はしばしば登場する。たとえば、〔密告〕の一篇では、冒頭にこうある。 [#ここから2字下げ]  秋から春にかけて……。  清水門外の火付盗賊改方・役宅からも程近い九段坂下に、雨や雪がひどいときでないかぎり、毎夜のごとく葭簀張《よしずば》りの居酒屋が出る。  亭主は久兵衛《きゆうべえ》といい、五十五、六の老爺《おやじ》で、日暮れ前に小さな荷車をひいて来ると、縁台《えんだい》を二つほどならべ、そのまわりを葭簀で囲《かこ》い、商売の仕度にかかる。  売り物は燗酒《かんざけ》に、いわゆる|おでん《ヽヽヽ》……といっても、当時はまだ、いろいろな種《たね》を煮込んだ|おでん《ヽヽヽ》はあらわれていない。豆腐と蒟蒻《こんにやく》を熱した大きな石の上で焼き、柚子味噌《ゆずみそ》をつけて出す田楽《でんがく》。これが、おでんのはじまりだったのである。 [#ここで字下げ終わり] [#地付き]『密告』  田楽。正しくは田楽焼。この名の起こりは日本古典芸能の一つ「田楽」である。広辞苑によれば、もともとは田植えなどの農耕儀礼に笛・鼓を鳴らして唄い舞ったものだが、やがて専門の田楽法師が生まれた。  その田楽法師が演ずるものに「高足《こうそく》の曲」というのがある。「高足」とは、柱の高さおよそ七尺、横木一尺ほどの、いわば竹馬《たけうま》で、これに乗ってさまざまな曲技を演じた。その恰好と、豆腐に一本串を刺して立てた形が似ているところから、田楽焼の名が出たというのが通説。  いまは、もっぱら木の芽田楽が主流で、春の味の代表みたいにいわれているが、往時は冬季炉辺のすさびとして、酒の肴でも飯のお菜《かず》でもなく、茶受け代わりに用いたそうな。 「エレキテル」で有名な平賀源内は、豆腐が大好きで、田楽の焼きかたについても独特の炉を発明したと伝えられている。その小型炉で焼くと、串が焦《こ》げなかったよし。一体、どんな炉であったものか……。  現実問題としては「辻留」流にならうのがよろしかろう。辻嘉一著〔茶懐石〕(婦人画報社)からの|請売り《ヽヽヽ》をすれば……、  まず、七輪に強くおこした炭を用意する。ここへ大きめの餅焼き網を置く。別に金属製の弁当箱二個に水を張って、七輪の両端に置く。弁当箱の距離は、串に刺した豆腐の長さよりわずかに長めに離す。こうしてから、串に剌した豆腐の表面を少しあぶってから裏がえし、木の芽味噌を塗りつけて、すぐまた裏がえして味噌を塗った面を焼く。こうすれば折角の青竹に焦げ目がつかない、という寸法。  木の芽味噌のつくりかたは、山椒の木の芽をすり鉢ですりつぶし、赤味噌または八丁味噌に砂糖・味醂・出汁《だし》少々を加えて好みの味にすりのばし、弱火《とろび》にかけてどろりと練ったのを用いる、というのが普通。  これが辻留流茶懐石ともなると、もう少し凝っている。大根の葉を使うのである。まず、大根の葉をすり鉢ですって水を入れ、よく混ぜた後、味噌漉《みそこ》しで漉す。その青い水を鍋に入れて火にかけると、湯の表面に青い色素体が浮かんでくる。|それ《ヽヽ》をすくい取り、木の芽とともにすりつぶし、煮ておいた白味噌を入れ、ほのかな緑色にして使う……というのである。  ちょっと手間をかければ、簡単にできることである。こういうプロの知恵はどしどし盗んで活用したい。 [#改ページ] 蛤《はま》  鍋《なべ》 [#ここから2字下げ] 「さあ、今夜は何でも好きなものを召《め》しあがって下さい。御馳走させていただきますよ」 「いつも、すみませんなあ」 「なんの。私はな、まことに失礼ながら、旦那のお顔を見ていると、何かこう、こころたのしくなってまいります」 「酒の肴《さかな》になりますかな、こんな顔が……」 「なりますとも、なりますとも」 「は、はは……」 「うふ、ふふ……」  蛤《はまぐり》と豆腐と葱《ねぎ》の小鍋《こなべ》だてが運ばれてきた。 「旦那。春になりましたなあ……」 「まったく……」 「ま、おひとつ」 「かたじけない」  やがて、忠吾が役宅へもどる時刻が来た。一本眉も、強《し》いて、これをとめようとはせぬ。 [#ここで字下げ終わり] [#地付き]『一本眉』  春を最も春らしく感じさせるのは貝たちだ。蛤《はまぐり》、浅蜊《あさり》、蜆《しじみ》、赤貝《あかがい》、|玉※[#「王+兆」、unicode73e7]《たいらぎ》、水松貝《みるがい》、鳥貝《とりがい》、青柳《あおやぎ》……みんな書けばむずかしい字ばかりだが、味わいの優しさはやはり女らしさに通じるものがあり、雛の祭りも貝なしではおさまらぬ。  その数ある貝類の中で王様格が、蛤。日本の各地に貝塚が発見され、その数二千に及ぶといわれるが、これは縄文時代に生きていたわれわれのご先祖さまが、せっせと貝類を食べていたしるしに他ならない。  学者が調べたところによると、貝塚を構成する貝は二枚貝《にまいがい》・巻貝《まきがい》合わせて二百余種。全国百カ所以上の貝塚から発見された貝の種類を多いものから順に並べると、㈰ハマグリ㈪カキ㈫アカニシ㈬サルボオ㈭オキシジミ㈮シオフキ㈯ハイガイ㉀ツメタガイ㈷アサリ……だそうである。  その形が栗《くり》に似ていることから、浜の栗、蛤と名付けられたといわれるが、いわれてみればなるほどと思う。蛤の形はいつ見ても美しい。しかも、この貝の二枚は、幾千幾万個集めても、|もと《ヽヽ》の一対でなければ決して合わない。それゆえに古来「一夫一婦」のあるべき姿を象徴するものとして、めでたく取り扱われている。一夫一婦というシステムが本当に人間の生活に適した、唯一の夫婦制度であるかどうか……これについては異論なしとしないが、それは本書の主題ではないからやめよう。  結婚式の献立に、蛤の吸物を欠かせないものと定めたのは、何と徳川八代将軍・吉宗公である。陰暦十月はいわゆる神無月《かんなづき》で、日本中の神様が出雲の国に集まり、一年分の縁結びをそこで行なうとされているが、いまでも婚礼シーズンのピークである陽暦十一月は、折しも蛤の好季節で、これなら貧富の別なくだれでも祝膳に供することができ、一夫一婦の教えにもなることだからよろしかろう……というわけだ。  蛤は、晩春から夏にかけて産卵期に入り、繁殖後は肉がやせて味も落ちる。まあ、アサリや、カキと違って中毒する心配はほとんどないから、夏場に蛤を食べても死にはしないが、 「雛節句が過ぎたら仲秋名月まで蛤を食べるな」  という古来のしきたりは守るべきだろう。  さて、蛤の賞味法。改めて書きのべるまでもあるまい。蛤吸《はますい》と俗称される吸物。酒蒸《さかむ》し。「その手は桑名の」と必ずだれかがいう焼蛤《やきはまぐり》。こう並べて書いているだけでよだれが出そうになる。  わが木村忠吾が一本眉に御馳走になっている「蛤と豆腐と葱の小鍋だて」は、数々ある蛤賞味法の、それこそ白眉《はくび》といってよかろう。平たくいえば「蛤鍋《はまなべ》」である。  剥きたての蛤を、薄い塩水でざっと洗って水を切り、焼豆腐、葱、三葉《みつば》、乱切りの独活など、好みの青味・薬味と共に大皿(大笊も悪くない)へ用意する。  味はむろん酒塩味《さかしおあじ》。焼鍋にぱらぱらと塩を振って酒を煮立たせ、材料はなるべく少しずつ入れて、煮えるか煮えないかというところで、さっと引きあげて食べる。煮え過ぎは絶対に禁物。好みで醤油を落としたいというなら制《と》めるわけにも行かないが、ほんの一滴、最大限二滴にとどめるよう。淡い塩味にこそ蛤の真味はある。  これが蛤鍋の定式であるが、剥き身でなく貝のままでも、また一興。その場合は、貝の口が開く瞬間を待って、ぱっと食べなくてはならない。  どういう料理法であれ、蛤を用いるときは前もって十二分に砂を吐かせておくことが大切で、塩水の中へ庖丁でも火箸でも、とにかく鉄でできているものを入れて一晩漬けておくと、きれいに砂吐けができる。  もう一つ、大事なことは、使う前に必ず貝と貝を叩き合わせて音色を確かめること。金属的な澄んだ音ならよく、濁った音がするのは死んでいる証拠。これを怠ると、たった一つの死貝のために、貴重なおつゆ全部をだいなしにすることもある。貝ごと椀に入れる潮汁《うしおじる》ならずとも、貝の表面をごしごしと洗っておかねばならぬのはご存じの通り。   「蛤や玉の如くに洗はるる」  高田一平 [#改ページ] 鴨《かも》の叩《たた》き団子《だんご》と晒葱《さらしねぎ》の吸物《すいもの》 [#ここから2字下げ]  料理人の勘助が、長谷川平蔵の夕餉の膳の吸物へ、かの毒薬を入れたのは、翌々日のことであった。  吸物は、鴨《かも》の叩き団子《だんご》と晒葱《さらしねぎ》である。  役宅の大台所では、平蔵の膳ごしらえは勘助が一人でやっているので、声をかけるまでは女中たちも近寄って来ない。  白い粉を落したとき、勘助はわれながら落ちついていた。 (これで、おたみが帰って来てくれるのだ)  吸物へ落しこんだ毒薬は、 (|あっ《ヽヽ》……)  という間に溶けた。 [#ここで字下げ終わり] [#地付き]『白い粉』  鴨は古くから日本人にとって最も親しい野禽《やきん》であったらしい。それは万葉集に、たとえば、   葦の葉に夕霧立ちて鴨が音の   寒き夕し汝をば偲ばむ  とあるのを見てもわかる。日本に渡って来る鴨の種類は三十余種もあるという。夏の間、北方のシベリア方面で雛を育て、九月上旬から十一月頃に大群をなして飛来し、三月の上旬から五月にかけて再び北へ帰って行く。  鴨が真味を持つのは年が明けてからだ。渡って来たはじめの頃は、当然、鴨だって長旅の疲れでやせこけている。それが日本の河川湖沼でうまい小魚をたっぷりと食べて、丸々と肉がつき、脂がのったところを人間サマが食べるのだから、申しわけないような話。  数ある鴨のうちで、一番喜ばれるのは青首《あおくび》のマガモ。形も大きく、赤味を帯びたやわらかい肉は、野鳥の中でも最上とされる。フランス人も鴨は好きである。〔鴨のオレンジソース〕というのはまずくない。しかし、フランスで鴨料理といえば、実は、たいてい合鴨《あいがも》《キャナール》。本当の鴨の場合は、メニュウに「キャナール・ソーヴァージュ(野鴨)」と書いてある。  鴨料理は断然、日本のほうが上なのではないか。鴨鍋《かもなべ》、鴨汁《かもじる》、鴨雑炊《かもぞうすい》、鴨雑煮《かもぞうに》、鴨のお狩場焼《かりばやき》、鴨飯《かもめし》、そうそう鴨南蛮《かもなんばん》を忘れるわけには行かない。江州・長浜に琵琶湖のうまい鴨を食べさせる有名な専門店のあることは知っていても、私なんぞが簡単に行けるわけではない。それで、せめては浜町の〔藪〕へでも駆けつけて、 「お酒を一本。それから鴨南蛮をおねがいします」  ということになる。鴨の肉は脂のついたままを|すき身《ヽヽヽ》にするのが定法で、これがびっしり並んだ熱々《あつあつ》の鴨南蛮をすすり込むと、全身に活力がみなぎってくる、ような気がする。ちなみに、鴨南蛮のナンバンとは葱の異名だそうな。 「鴨が葱を背負って来た」  といわれるぐらい、鴨に葱はつきものである。しかし、料理の本では、鴨に最もよく合うものは芹と教えている。たっぷりと脂のついた鴨の肉は、どちらかといえばくどい感じになりやすいから、芹で味を中和させるのである。  鴨の叩き団子と葱の吸物。これは、いわゆる葛たたきの親戚だろうか。鴨の大へぎにしたものに薄塩をあて、一時間ほどおき、片栗粉をまぶして、昆布出汁の煮えあがったところへ放りこむ。適当の煮えかげんで椀にとり、お清汁《すまし》とするのである。葱だけでもいいし、葱と豆腐を入れるのも悪くない。なお、葱は焼き葱にすると、ちょっと料亭風になる。  長谷川平蔵宅の鴨の叩き団子は、庖丁でよく叩いてミンチにした本当の団子のようにも思える。私の田舎では、鴨ではなく鶏を使ってよく叩き団子をやったものだ。小骨もいっしょに全部叩いてしまう。その根気のいる作業を父に命じられ、ふくれっ面《つら》でやったことを覚えている。 〔飲食事典〕に載っている鴨飯のつくりかたは次のようである。 「肉を卸して脂皮を煎じ、その湯で飯を炊く。鴨の肉はこそげてよく叩き、酒と醤油で好みの味をつけ、熱い飯の上にかけて出す。飯には淡塩味をつけておくとよく、叩きの肉は共脂《ともあぶら》でちょっと炒めてから煮るとよい。刻みセリ、揉み海苔などを加える」  鴨料理のことを調べていたら、鴨叩《かもたたき》というのがあったが、何と魚料理の一つだった。|※[#「魚+祭」、unicode9c36]《このしろ》を材料に、内臓や眼球などを除いた残りを全部、頭から骨もろとも細かく叩いて、揚豆腐をこれに叩き混ぜ、小さく団子にしたものを、鳥鍋のようにシラタキ、芹、葱、焼豆腐などと共に淡味の割下《わりした》で煮て食べる、とある。  何でも伊予の好事家の発明になる郷土料理の一種だそうで、何故《なぜ》か鴨の味がするそうな。 [#改ページ] 鮎並《あいなめ》の煮《に》つけ・鯨骨《かぶらぼね》の吸物《すいもの》 [#ここから2字下げ]  上方《かみがた》でいう〔あぶらめ〕という魚。  関東では鮎並《あいなめ》というし、江戸へ入る小さなのを〔クジメ〕ともよぶ。  長谷川平蔵は若いころから、この鮎並が大好物であった。  鮎並は細長い姿をしてい、緑褐色の肌《はだ》に斑文《はんもん》が浮いているし、鮎のような姿ながら、あまり美しいとはいえぬ。  平蔵は、これを辛目《からめ》に煮つけたものが、好きであった。  その日。  鮎並の煮つけが、夕餉《ゆうげ》の膳にのぼった。 「や、これは……」  たのしげに箸を取って一口《ひとくち》。  傍にいた妻女の久栄《ひさえ》は、さだめし、夫・平蔵の口から、 「うまい!!」  の一言が洩《も》れるとおもっていたのだが、平蔵は小頸《こくび》をかしげ、もう一口。 「いかがなされました?」  久栄の問いにはこたえず、平蔵は、鯨骨《かぶらぼね》の吸物《すいもの》に口をつけて、 「妙な……」  と、つぶやいたものである。 [#ここで字下げ終わり] [#地付き]『白い粉』  アイナメという魚。人によってさまざまな説があるのが面白い。  私が座右の書としている本山荻舟の〔飲食事典〕では、 「関西・東北ではアブラメ、北海道ではアブラコ、また東京では小さいのをクジメという。普通には煮肴として賞美され、鱗《うろこ》・鰓《えら》・腸《わた》をのぞき、姿のままあるいは適宜に切り、醤油・酒または味醂・砂糖少々でからめに煮付ける。その他ざっと湯がいて椀ダネ、またチリ鍋などに用いて淡白な風味が喜ばれる。三枚におろして照焼にし、また味噌漬・粕漬にももちいられる」  とあり、私も鮎並といえば辛目の煮つけに限ると信じ込んで来た。ところが、 「アイナメの料理はどうしたらおいしいか。ためらうことなくいえるのは、照り焼き。それにたくさんとれたら南蛮漬け、そうでないときは山椒焼き。それに限る」  と、断じてはばからぬ人もいる。(岩満重孝著〔百魚歳時記〕中公文庫)  岩満重孝の主張によれば、アイナメの味は晩秋の頃から脂がのってうまくなる、という。しかし、平野雅章は〔たべもの歳時記〕(文春文庫)の中で、 「東京では四、五月、大阪では三、四月頃を味のしゅんとしています(夏場がしゅんというひともいる)」  と述べ、さらに賞味法については、 「照り焼き、塩焼き、刺身、煮つけなどにしてもうまい魚ですが、本命はから揚げ。いくぶん小柄なものがよく、低目の温度で、ゆっくり揚げると、頭から尾、ヒレまでも食べられます」  と、教えている。  南蛮漬《なんばんづけ》は、から揚げにした材料を南蛮酢《なんばんず》に漬け込んだものだから、鮎並の賞味法について岩満、平野両氏の意見は同じようなものと解してよかろう。それにしても「旬《しゆん》」の解釈がこうも違うというのは、どういうことか。ま、われわれとしては、冬場を除いてほとんど一年中うまい魚と覚えておけばいいようだ。  アイナメを鮎並と書くのは、アユナミのうまさゆえか。それとも姿かたちが鮎に似ているからか。「愛魚生」という洒落た書きかたもある。  関西風の、ちよっといい春の肴がある。 〔あぶらめの白酒《だるま》焼〕という。鮎並を三枚におろし、腰骨を取り除いて上身にする。鱧《はも》の骨切りの要領でていねいに切り、縦に串を二本打って薄塩をし、身のほうから中火で焼く。  卵白一個分を軽く泡立てて、白酒大さじ三杯をまぜ、白酒衣《だるまごろも》をつくる。火の通った鮎並の身のほうに白酒衣をたっぷりめにかけ、薄く焼き目をつけて仕上げる。これは大阪・船場で長いこと修業を積んだ料理人・森川賢次の創案である。 〔鯨骨《かぶらぼね》の吸物〕というのは、文字通り、鯨《くじら》の骨を使った珍しいものだ。江戸時代、鯨は「勇魚《いさな》」と称し、魚類として扱われたから、主産地の肥前・長門・土佐・紀州方面では盛んに賞味されたという。  しかし、はるばる東国まで鯨肉を輸送することは所詮、無理な相談だった。それゆえ東国では、鯨といえばサラシクジラ、あるいはこの鯨骨《かぶらぼね》のことであった。  鯨骨《かぶらぼね》は、蕪骨《かぶらぼね》とも書く。天保三年(一八三二)に刊行された〔鯨肉調味方〕なる一書の中では蕪骨の文字が当てられている。それによると……、  鯨骨というのは、鯨の頭部の軟骨だそうな。骨の中で一番やわらかく、上品なものとされたらしい。荒ごなしをした軟骨を二週間ばかり、毎日水を取り替えて漬け、十二分にさらした後、これを鉋《かんな》で削り、さらに細長く切り、再び水に漬けて二週間ぐらいさらす。  それをスノコかゴザに取って、ていねいに並べて乾燥する。そうすると、いわば軟骨のたたみいわしのようなものができる。こうしておけば何年経っても変質することなく、江戸まで運んでも心配なかったわけだ。 「是を水に浸しほどきて、しぼり上れば、雪のごとく白色也。花がつを、青みなどを取合せ、三杯酢にて用てよし。  右のごとく水に浸しほどきて、しぼり上げ、吸物すまし下地に入。玉子とぢにしてよし」  というわけである。  京都では、いまはどうか知らないが、この鯨骨とワカメから抜き捨てられる太い筋とを適当に切って合わせ、調味酢に漬けたのを珍重したものという。典型的な京都人の知恵であろう。そのままでは食べられそうもないものを取り合わせて、独特の美味を創《つく》り出す巧みさにおいて、京都人の右に出るものはない。  鯨骨の吸物は、懐石の箸洗《はしあらい》によく用いられる。箸洗は、小吸物とも呼ばれ、吸物というよりは白湯《さゆ》に近い淡味をよしとする。一汁三菜で一応食事が終わったあと、八寸を持ち出して主客が盃事を行なうが、その区切りとして箸洗を出すことになっている。  箸洗の極意は「かめのぞき」と同じだという。歌舞伎の二枚目が冠《かぶ》る白い手拭《てぬぐい》には、ほんのわずかに藍色がさしてある。藍がめを|ちらっ《ヽヽヽ》とのぞいた程度の色ということからの「かめのぞき」。箸洗の味は、この心得でやればいいということである。つまり……沸《たぎ》った湯の中で昆布を四、五回かきまわしてすぐ引きあげた程度の淡い出汁《だし》に、梅干しの皮をはぎ取った|へぎ《ヽヽ》梅を入れ、お湯でもどした鯨骨を数条浮かせればよい。 [#改ページ] 鱒《ます》の味醂漬《みりんづけ》・わけぎと木《き》くらげの和《あ》えもの [#ここから2字下げ]  墓参をすませたのち、 「今日は平蔵さまよ。|ちょと《ヽヽヽ》、おもしろいところで昼餉《ひるげ》にしましょう」  と、仙右衛門がいう。 「ほほう。この近くかな?」 「さよう、さよう。すぐ、目の前で」 (中略)  それは〔瓢箪屋《ひようたんや》〕という料理屋で、風雅な|わら《ヽヽ》屋根の、いかにも田舎ふうな店構えながら、中へ入ると塵《ちり》ひとつさえ嫌《きら》いぬいた、清《きよ》げな座敷が四つほどあり、中庭から裏手へかけては、さわやかな竹林になっていた。 「これはよい」  平蔵は、たちまち気に入ってしまった。  芹《せり》の味噌椀。わけぎと木くらげを白味噌で和《あ》えたものとか、鱒《ます》の味醂漬《みりんづけ》を焼きあげて嫁菜《よめな》をそえたものなど、別に凝《こ》ったものではないが、それだけに念が入っていて、 「これはよい、これはよい。このあたりに、このような店があるとは、実に知らなんだ」 「お気に入りましたかね?」 「いつから、このような?」 「なんでも、ここへ店を出してから五年になるそうで。主人《あるじ》は六十がらみの、いたっておだやかな人柄でな。独《ひと》りものだそうですよ」 [#ここで字下げ終わり] [#地付き]『盗賊婚礼』  木くらげは木耳《きくらげ》と書く。菌類の一種で、精進料理ではなくてはならぬ珍味とされている。もともと淡泊で、ほとんど無味に近く、歯当たりのよいのが生命。  秋に闊葉樹に寄生するが、ことに桑の枯木に生じやすいという。その形が人の耳に似ているので木耳である。主産地は九州の宮崎・熊本両県。  木《き》水母《くらげ》という書きかたもある。質が寒天に似ているからである。乾燥した木くらげは、さながら革のようになり、たいていは黒い色をしている。しかし「白木耳」と呼ばれるものもあって、これは中華料理の好材料として大いに珍重されるという。  水あるいは微温湯に浸《ひた》してやわらげたものをいろいろに利用する。擬製豆腐《ぎせいどうふ》、がんもどき、けんちん、茶わん蒸し、五目《ごもく》飯などに木くらげは欠かせない。浸《ひた》し物にもすれば、和《あ》え物にも調和し、煮しめに合い、酢の物にもよい……とあっては、万能の素材といってよかろう。しかも、一年中、いつでも使える。こういう重宝《ちようほう》なものを発見し、活用した昔の人の知恵には、ただ恐れ入るばかりである。  鱒《ます》の味醂漬《みりんづけ》。  これはどういうものなのだろうか。吉井始子編・著〔翻刻江戸時代料理本集成〕(全十一巻・臨川書店)に当たってみたが、よくわからない。〔鱒の甘漬《あまづけ》〕というのが索引にあったので、その項を見ると、これは粕漬《かすづけ》だった。  鱒はサケ科の硬骨魚で、もともと鮭とは親類筋に当たる。だから、かつては川と海を往復していた。それが何らかの原因で海に下ることを妨げられ、一生涯、河川に留まって暮らすようになった。これを陸封魚《りくふうぎよ》と呼ぶ。日本には陸封魚の仲間が多い。ヤマメ、ビワマス、ヒメマス、カワマス、ニジマス、イワナ、コアユ、ワカサギ、チカ、ハリヨ、イトヨ……いずれも陸封魚であるという。 「川の宝石」などと美称される虹鱒《にじます》は、味にまったくクセがなく、それゆえ塩焼もいいがいささかたよりない感じがしないでもない。バター焼やフライにするのはそのためである。洋風に調理するときは、白ワインをたっぷりと振りかける。そうしてソースや塩、胡淑、バターをきかせる。  平蔵を大喜びさせた「味醂漬」も、あまりにも味の淡泊な鱒を一段とおいしくする工夫だったろう。  もし、|それ《ヽヽ》が鱒の照り焼であったとしたら、味醂と醤油を合わせた|つけ汁《ヽヽヽ》に魚を漬けておき、味がしみたところを見はからって焼くのである。照り焼は、つけ焼、きじ焼、山椒焼などとも呼ばれる。  割《わり》醤油にいきなり生魚《なまざかな》を漬け込んでしまうと、残り汁が無駄になりやすい。生魚を漬けた汁をそのまま焼けた魚にかけるのは気色《きしよく》が悪いからだ。  そこで、鰻の蒲焼の要領で、まず一度|素焼《すやき》にし、つけ汁に二、三回、ひたしては焼き、ひたしては焼きする。そして仕上げにもう一度、つけ汁をかけるのがよい……と、辰巳浜子の教えにある。(〔手しおにかけた私の料理〕婦人之友社) [#改ページ] 白《しら》 玉《たま》 餅《もち》 [#ここから2字下げ]  驟雨《しゆうう》がきて、春雷が鳴った。  祇園《ぎおん》町のなじみの茶屋を出て、ぶらりと祇園の社《やしろ》(八坂神社)へ立ち寄った平蔵は、あわてて、境内を東へぬけ、長楽寺への道の曲り角から木立の中へ入ったところにある小さな茶店へ飛びこみ、雨をさけた。  そのとき、お豊は二十四、五歳であったろうか……。  彼女は、その茶店〔千歳《せんざい》〕の女|主人《あるじ》で、背丈のすっきりと高い、しなやかな肢体のうごきに、京の女にも江戸の女にもない爽《さわ》やかな躍動感があって、接待に出た彼女を見たとたんに、平蔵の胸はさわいだ。 (中略)  二月、三月と、平蔵は〔千歳〕へ通いつめた。酒も出してくれるのがなによりであった。  小女がひとりと、老爺ひとりをつかい、お豊も店へ出て客をもてなす。〔白玉餅《しらたまもち》〕というのがあって、糯米《もちごめ》の粉をねった純白のねじり団子《だんご》へ砂糖をかけただけのものなのだが、平蔵はこれをもらって酒をのんだものだから、 「あれ……意地悪《こんじよわる》なことをなさります」  お豊が笑い出し、それがきっかけで口がほぐれた。 [#ここで字下げ終わり] [#地付き]『艶婦の毒』  京・嵯峨野の鳥居本に〔平野屋〕という風雅な料理屋がある。夏は鮎料理で名高く、秋は松茸をたっぷり使ったすきやきを供する。  すぐ並びにもう一軒〔つたや〕というのもあって、こちらも悪くない。しかし、何故か圧倒的に〔平野屋〕のほうが知られているようだ。 〔平野屋〕の店先で、緋毛氈を掛けた縁台に坐って食べる|※[#「米+參」、unicode7cdd]粉《しんこ》餅が好きだものだから、それを白玉餅にして平蔵に食べさせたわけだよ……とは、池波正太郎の弁。  白玉《しらたま》の、あの滑らかな舌ざわりは、私の場合、つねにお盆の墓参りの記憶をよみがえらせる。越後の高田では、お盆は八月で、一年中で一番やりきれない季節である。東京の暑さと違って湿度が高く、濡れた大気がねっとりと肌にまつわりつく。  そんな日に、ようやく墓参りから帰って来ると、必ず昼飯は素麺と精進揚げで、そのあとに井戸で冷たくしておいた白玉が出るきまりだった。あれは高田のならわしなのか、それとも私の家だけのことだったのか……。  白玉をつくるのは簡単だ。白玉粉(寒晒粉《かんざらしこ》ともいう)を水でこねて丸めたのを、熱湯の沸《たぎ》ったところへ入れ、浮きあがったら網杓子ですくいとり、冷水に放つ。これだけのことである。〔鬼平〕のように砂糖をかけた白玉で酒を飲んだことはないが、案外|いける《ヽヽヽ》かもしれない。  ちなみに、白玉粉とは糯米《もちごめ》粉を寒水に晒したもの。厳寒の候を選び、糯米の粉砕したものを清水で洗浄し、三日から十日ほど毎日水をかえてこれを繰り返す。最後に布袋に入れてよくしぼり、水気を去って乾燥する。古くは河内の観心寺でつくられたので「カンシンジ粉」の呼び名もある。  白玉粉は長く保存のきくものだから、いつも一袋、常備しておくとよい。味噌汁や清汁《すまし》の実にしても乙なものだし、おろし大根に三杯酢を加えた「白玉のおろし和え」もいいものである。一種、禅味とでもいうべきものがある。  それにつけても鬼の平蔵(あるいは池波正太郎)、よほどに白玉が好物らしい。〔明神の次郎吉〕の一篇にこうある。 [#ここから2字下げ] 「今日は帰りに、ちょいと御役宅へ寄って来ましたよ」 「そうかい。銕《てつ》つぁん……いま、長谷川さまにお変りはねえか?」 「昨日、冷やした白玉《しらたま》を三度もおかわりしてめしあがったとかで、何だか、お腹をこわしておいでのようでしたっけ」  三次郎が舌うちをして、顔をしかめ、 「まったくいやになっちまわあ。あの銕つぁんが、砂糖をぶっかけた白玉を三杯も……てっ。あきれ返ってものもいえねえ」 「ふ、ふふ……」  おまさは、裏手で行水《ぎようずい》をして汗を流すと着替えをし、 「旦那、ちょいと出て来ます。今夜は帰りませんけど……」 「おいおい、あんまり、おどろかすなよ」 「いえさ、彦十おじさんのところへ行き、むかしばなしでもしてきますのさ」 「なあんだ」 [#ここで字下げ終わり] [#地付き]『明神の次郎吉』 [#改ページ] 茶《ちや》  漬《づけ》 [#ここから2字下げ] (さて……斧五郎の野郎め、なんとか、ひどい目にあわせてやらなくては、おれの胸がおさまらねえ)  いちおうは、主人の三浦彦兵衛へ報告をするつもりだが、長助には、それとは別に目算がある。  躰の痛みも忘れ、いまは、あの御家人を、 「やっつける!!」  計画を考えることで、蛙《かわず》の長助は昂奮をしてきた。  この世の中に只一人の身寄りもない五十六の老爺には、こんなことさえも常人にはかり知れぬ生甲斐《いきがい》となるのである。  魚の干物《ひもの》を焼き、昨日からの冷飯に熱湯をかけて、掻きこんだ後で、生卵を三つも口へながしこんだ長助は、杖を取って、 「へっ……今日は、いそがしいぞ」  と、家を出たが、 「む……痛え、痛え……」  呻き声をあげながら歩きはじめた。 [#ここで字下げ終わり] [#地付き]『蛙の長助』  冷飯《ひやめし》に熱湯をかけて掻き込む。これが茶漬の原型である。(正確にいえば湯漬《ゆづけ》だが)こういう飯の食べかたは長屋の八つぁん、熊さんだけのものではない。  平安朝時代の貴族たちは、夏は「水飯《すいはん》」と名付けて水漬《みずづけ》を食するならわしであったという。鎌倉時代から戦国末期まで、武士階級はもっぱら湯漬を常食とした。  本来は簡素な便法であった茶漬は、江戸中期以後、次第に贅沢料理の一部へと姿を変えて行く。太平が続き、食糧生産にゆとりができ、一方では味覚が発達した結果、いわゆる「料理茶漬」なるものが登場するに至る。  確かにそれはうまいものである。鯛茶漬、天ぷら茶漬、鰻茶漬、まぐろ茶漬。みんなうまい。むしろ欠点は「うま過ぎる」ところにあるのではないか。米の飯本来の滋味が忘れられてしまう。米が主役でなくなり、魚菜のほうがスターになる。こういう料理茶漬はやはり邪道というべきである。とは申せ、そのうまさには逆らえなくて、出されれば私もつい食べてしまう。ひどいときは|おかわり《ヽヽヽヽ》さえしてしまう。反省しなくてはならぬ。  弁解するわけではないが、私は家では文字通りの茶漬しか食べない。茶のかわりに出汁《だし》を使った料理茶漬より、やっぱりそのほうがおいしいと思う。ありあわせの手近な材料で、手早く作ってさらさらと掻き込む、そういう素朴さが茶漬のいのちだと思うのである。  中国・明代の隠士である洪自誠《こうじせい》の名著〔菜根譚《さいこんたん》〕にいわく、 「|※[#「酉+農」、unicode91b2]肥辛甘《じようひしんかん》は真味《しんみ》に非ず。真味は只《た》だ是《こ》れ淡《たん》なり。神奇卓異《しんきたくい》は至人《しじん》に非ず。至人は只だ是れ常《じよう》なり」  ※[#「酉+農」、unicode91b2]肥辛甘とは、べたべたと濃い酒、脂肪の多いこってりした肉、唐辛子などの刺戟的な味、砂糖の甘ったるい味、のこと。これらはいずれも人びとの珍重する一種の美味ではあるが、いつもいつも※[#「酉+農」、unicode91b2]肥辛甘ではたまらない。どうしたって飽きてしまう。結局、偏味であって真味でないからである。真味とは清水のごとくさらりとして淡泊なもの。真に偉大な人物とは一見平凡で尋常なもの……これが洪自誠のいわんとするところである。  いいことばだと思う。そして、茶漬を掻き込むたびに、このことばを思い出す。  真味只是淡の最たるものは、懐石のしめくくりに出る「湯桶《ゆとう》」だろう。普通の料理屋では、食事の最後に番茶でお茶漬を……ということになるが、懐石の場合は、それが湯桶になる。これは、本来、御飯を飯器へうつし終わった後、釜の底にくっついている御飯をそのまま弱火にかけ、ほんのり狐色になったところへ熱湯を注ぎ入れ、塩で薄味をつけたものである。一粒の飯も無駄にしない精神がいい。  ほとんどあるかなしかの淡い味で、食事の後味をさっぱりとさせる、それが湯桶の役割であり、そのさわやかな香気はまさに「淡」の一語に尽きる。湯桶は、中国から茶が伝来する以前のもので、茶とはまた違った風情のあるものだから、一度お試しになるとよい。  自動炊飯器で飯を炊く時代にどうやって湯桶をつくるか。実に簡単な方法がある。米を洗い、炮烙《ほうろく》かフライパンで狐色になるまで煎る。これを鍋に入れ、熱湯をさして十分間ほど煮立て、塩をひとつまみ加える。これでもう立派な湯桶である。正式な懐石の席でなければ湯桶を出してはならぬという法はない。家に酒徒を迎えたときこれを出せば、よろこぶこと請合いである。  また茶漬の話にもどるが、江戸時代後期には随分と茶漬屋が流行していたらしい。茶漬屋といっても今日の軽食堂である。中には結構有名になった店もあり、「山吹茶漬」などは、   「山吹の茶漬食つても身にならず」   「身にもならぬものは山吹御茶漬」  と、古川柳に取り上げられている。  どのように頭をひねってみても、所詮、茶漬は茶漬で、そう高い金が取れる食べものではない。しかし、ときには「一人前百両」の料理を味わってみたいという物好きが出て来て、これに対して小さな茶漬屋の亭主が「百両の茶漬」を請け合ったという話がある。  どこの料理屋でも一人前百両という法外な料理は思いもつかないのに、茶漬屋が二つ返事で引き受けたから驚いて、一体どういう料理を出すのか、献立を書いて見せろというと、 「献立を御目にかけます迄も御座りませぬ。中位な伽羅《きやら》で飯を炊きまして、朝鮮人参のひたし物でお茶づけ」  古典落語研究で名高い早大教授・興津要の愉快な本〔江戸食べもの誌〕(作品社)に紹介されている笑い話である。  現実に目の玉が飛び出るほど高価な茶漬を出したのは例の〔八百善〕である。  ある早春の一日、美酒美食にはもう飽きあきしたという気障《きざ》な客が三人、〔八百善〕の座敷に上がって、こういった。 「極上の茶漬が食べたい。金に糸目はつけない……」  女中、黙って一礼し、一度板場へ引き下がった後、再び現れて、 「少々時間がかかりますが、お待ちいただけましょうか」  少々待つくらい一向に構わぬと、客は待つことにした。ところが一刻《いつとき》(二時間)たっても出て来ない。ついには、かれこれ半日も待たされてしまった。  ようやく運ばれて来たのは、別段どうということもない茶漬と香の物。味は確かに申し分なかったが、さて、勘定という段になって驚いた。何と一両二分。現代の貨幣価値に換算すれば、三十万円にも当たるだろうか。  あっけに取られている客に、〔八百善〕の主人は次のように説明した。即ち、温室のない当時としては非常に珍しい瓜と茄子を香の物に用い、茶は宇治の玉露、米は越後の一粒選り、中でも一番金がかかっているのは、 「お茶に使った水でございます」  宇治の上茶に合わせるには、この辺りの水ではよくない、それゆえわざわざ早飛脚を仕立てて、玉川上水の取水口まで水を汲みに行かせた……というわけである。その飛脚代を含めての一両二分、決して法外な値ではござりませぬという主人のことばに、客は、さすが天下の〔八百善〕と感心して帰ったそうな。  話としてはなかなか面白いし、多少の誇張はあるにせよ、これは実話だという。しかし、どうも後味のよくない話である。客といい、亭主といい、どっちもどっちだなあと私は思う。茶漬というものを|おもちゃ《ヽヽヽヽ》にしているところが気に入らない。  茶漬は沢庵と梅干しがあればいい。せいぜい凝っても梅がつお茶漬。「梅がつお」というのは、梅干しの皮をむき、梅肉だけを裏ごしして、同量の鰹節と合わせ、少しずつ酒を入れながらのばしたもの。鰹節は削ったものをさらによく揉んで粉にしたものを使う。  御飯を茶碗に六分目ほど盛り、上に梅がつおを薄くぬりつけるようにし、その上にまた御飯を少々盛り、そこへお茶をかけ、浅草海苔の細切りを好きなだけかければいい。二日酔いの朝はこれに限る。この梅がつお茶漬も辻嘉一の一著〔料理のお手本〕(中公文庫)から教わったものだが、酔いつぶれては拙宅に泊まって朝帰りする客たちに絶賛を博している。  なお、梅がつおは、保存がきくから大量にこしらえて冷蔵庫に入れておけばよい。 [#改ページ]   鬼平料理帳・夏 [#改ページ] 生《なま》 鰹《り》 節《ぶし》 [#ここから2字下げ]  この日の、長谷川平蔵の夕餉の膳にのぼったものは、生鰹節《なまりぶし》の煮つけに、蚕豆《そらまめ》の塩ゆで。竹の子と|わかめ《ヽヽヽ》の吸物など、質素なもので、先ず、酒と共に二組の膳部が書院へ運ばれた。  給仕は、久栄と侍女の貞《さだ》がつとめることになった。  平蔵が、まさに興味津々《きようみしんしん》といった顔つきで、書院の次の間へ入って行くと、そこには沢田小平次が詰めている。 「沢田。どうだ?」 「はい。しずまりかえっております」 「ふうむ。やはり、狂うたのかな……?」 「そうとしか、おもえませぬ」 「よし。ともあれ、青木助五郎の気狂《きちが》いぶりを見てくれよう。おれが呼ぶまでは入って来るな。そこにいてくれい」 (中略)  それから、助五郎が膳の上のものを食べ、酒をのむありさまというのは、まるで、人間のすることとはおもわれぬ。  第一に箸《はし》をつかわぬ。手づかみで食べるか、皿小鉢へ口を突き込み、むさぼり喰《くら》う態は、どう見ても獣類《じゆうるい》としかおもえぬ。  飯は、生鰹節をむして入れた濃目の味噌汁に豆腐の厚焼きで食べたのだが、これを食べながらも助五郎は、 「油揚げは、まだか。まだか、まだか、まだか?」  しきりに催促《さいそく》をする。 「油揚げを、どのようにして召しあがられます?」 「生《なま》でよい。生で、生で、生で」 [#ここで字下げ終わり] [#地付き]『狐雨』  私はこの助五郎の、 「生《なま》でよい。生で、生で、生で」  という台詞がむやみと気に入ってしまい、それで、いささか長い抜き書きになってしまった。狐に憑《つ》かれた人間の様子をこれほど見事に活写できる作家は、池波正太郎より他にない……といったら他から文句が出るだろうから、そう|ざら《ヽヽ》にはいないといっておこう。何度読んでも吹き出してしまい、涙が出るまで笑いころげる。〔狐雨〕の一篇は〔鬼平犯科帳〕というハードボイルドの中で、ちょいと風変わりなユーモア小説ではあるまいか。  閑話休題。  江戸っ子気質と不可分のものとされる初鰹《はつがつお》のことを、ここでは書きたい。たまたま鰹にまつわる話は、これまでに調べたところでは、〔鬼平〕シリーズの他のどこにも出て来ないからである。   「目には青葉山ほととぎす初鰹」  という素堂の一句はあまりにも人口に膾炙《かいしや》しているが、初鰹で面白いのはやっぱり川柳の世界。目の色変えて初鰹を待ち焦がれた江戸っ子たちの様子がよくわかる。   「金持と見くびつて行く鰹売」   「かみ様ぢや出来ぬとにげる初鰹」  金持ちに限って財布の紐はかたく、上方者《かみがたもの》にはこの値打ちがわかろうはずもなし、という皮肉。  とにかく値が高いのでなければ初鰹とはいえないという気張りようで、女房を質に置いても食べなきゃおさまらない。一体、どのくらい高価なものであったか……浜田義一部著〔江戸たべもの歳時記〕(中公文庫)によると、 「……たとえば、一八一二年(文化九年)に魚河岸へ入荷した最初の鰹船は、三月二十五日であった。数は十七本で、うち六本は将軍家御買上、三本は料亭八百善へ売れ、値は二両一分である。残り八本が魚屋にわたり、うち一本は中村歌右衛門が三両で買い、大部屋の下積み役者に振舞った──と蜀山人が書いている」  ということで、歌右衛門の買った鰹一本三両は、今日の貨幣価値で一両が二十万円とすれば、実に六十万円ということになる。  それほどの初鰹でも、たちまちにして稀少価値は薄れ、お惣菜に成り下がる。そうなると、   「伊勢屋さんまうくへるよと鰹売」  伊勢屋が当時ケチンボの代名詞であったことは先刻ご承知の通りである。   「初鰹女房に小一年いはれ」  それも覚悟の上で飛びつかずにはいられないのは、もっぱら江戸の亭主族であって、女房のほうはいつの時代も冷静堅実だった。   「その値では袷があたらしく出来る」  と、イヤミをいい、   「意地づくで女房鰹をなめもせず」  という強情ぶりである。  この時代、鰹は辛子《からし》で食べたものらしい。というのは、仏頂面《ぶつちようづら》の女房に、   「そのつらで辛子をかけと亭主言ひ」  だからである。怒りにまかせてかいた辛子ほどよく効《き》くということだ。  鰹と辛子については、元禄時代に徳川五代将軍・綱吉を批判するような絵を描いたばかりに捕えられ、三宅島へ流された画家・英一蝶《はなぶさいつちよう》の有名なエピソードがある。一蝶の三宅島でも鰹は食べられたが、残念、辛子が島になかった。そこで、   「初鰹辛子がなくて涙かな」  の一句を、俳人・其角に書き送ったそうな。  これを見て其角が思わず胸を打たれ、   「初鰹辛子があつて涙かな」  と、返句を送ったとか。  蜀山人の日記に出て来る〔料亭八百善〕は江戸で一、二を争う名亭で、面子にかけても江戸市中で一番早く初鰹を供したものらしい。ところで……蜀山人同様、〔八百善〕をひいきにした粋人画家・酒井抱一が詠んだ一句に、   「三月三日初鰹   翌日八百屋善四郎石浜の別荘にて   二日目は矢次早なり初なまり」  というのがある。やれやれ、ようやく生鰹節《なまりぶし》にたどりついた。  生鰹節は略して|なまり《ヽヽヽ》ともいう。かちんかちんに固くなってしまう前の、いわば、やわらかい鰹節。こまかくむしって野菜と煮つけたり、胡瓜と合わせて酢の物にしたり、味噌汁に入れたり……と、用途は広い。  しかし、最も簡単で酒の肴にいいのは、ただむしりほぐして、大根おろしと山葵《わさび》醤油で味わうというもの。土佐の高知出身の若い友人が、ときたま帰省した際、土産に買ってきてくれる土佐節は絶品で、ついでに〔司牡丹〕を一本提げて来てくれれば、もう何もいうことはない。故・檀一雄は、スペインに産するハモン・セラノ(豚の腿を丸ごと燻したハム)を絶賛したが、日本の生鰹節だって決して負けやしない……と私は思う。  生鰹節には初鰹のような華やかさはない。初鰹が初夏の主役なら、こちらはあくまでも渋い脇役である。「町奉行所は檜舞台、火盗改メは乞食芝居」というなら、生鰹節こそわれらが平蔵のつつましやかな食膳にふさわしい。  そうはいっても、これはこれで立派なもてなし料理の材料なのである。江戸時代の料理テキスト〔料理早指南〕からいくつか調理法を書き出してみようか。  平鉢《ひらばち》には、ほどよい大きさに切った生鰹節を薄口醤油で煮、葛だまりをかけたもの。山葵《わさび》あるいは辛子を添える。  中皿《ちゆうざら》には、厚く大きく切った生鰹節を焼いて塩をふり、蓼酢《たです》をかける。  大猪口《おおぢよく》は、生鰹節を小さく賽《さい》の目に切り、黒胡麻味噌であえたもの。これは|青あえ《ヽヽヽ》もよし、とある。青あえというのは、 「いりこをよくゆにして、たしたまりにてよく煮候て あをまめをすり塩かげんしてあへ申事也」  と、〔料理物語〕に解説があったが、私にはよくわからない。 [#改ページ] 川海老《かわえび》の塩焼《しおやき》 [#ここから2字下げ]  平蔵が、おまさをみちびいた場所は、市ヶ谷八幡宮境内にある〔万屋《よろずや》〕という料理茶屋の〔離れ〕であった。ここは平蔵|なじみ《ヽヽヽ》の茶屋だ。  酒が出て、川海老《かわえび》の塩焼きやら穂紫蘇《ほじそ》の吸物《すいもの》がはこばれ、女中が去ってしまうまで、平蔵は沈黙したままである。  おまさには、それが不気味であった。  平蔵が出した盃へ酌《しやく》をするとき、おまさの手がふるえ、盃が音をたてた。 「おまさ。お前は何故に、二代目の狐火を庇《かば》うのだ?」  |ずばり《ヽヽヽ》と問われ、おまさはとっさにいいぬけもならず、|はっ《ヽヽ》と顔を伏せてしまった。こうしたときの平蔵の呼吸は実に見事なものであって、 「お前、先代の狐火のもとではたらいていたとき、いまの二代目勇五郎を抱いたな?」  すかさずにたたみこまれ、二の句がつげない。 [#ここで字下げ終わり] [#地付き]『狐火』  川海老は、淡水の河川池沼に棲むエビの総称である。その代表格がテナガエビ。淡水産としては大型のエビで、一対の手のように長い歩脚を持っているので、この名がついた。  生きているときは暗褐色か淡褐色だが、煮たり焼いたりすると、非常に美しい赤色に変わる。夏の食膳を飾る見事な赤である。  そのまま煮つけてもおいしいし、串刺しにして味醂醤油の付け焼きにすると、海の海老とはまた一味違った味わいが楽しめる。しかし、さっと塩味で炒りつけただけで最高の夏肴になる。むろん、塩ゆでも悪くない。 〔当流節用料理大全〕には、 「是ハ汁ニ成リ候 但夏中遣申候」とあるから、清汁《すまし》にも用いられたものらしい。  川海老は茶懐石の好材料でもある。辻嘉一著〔茶懐石〕(婦人画報社)を本棚から引っぱり出し、初風炉の月の点心というのを見ると、やっぱり川海老をつかっていた。 「酒、味醂、薄口醤油で調味した汁が煮えあがってきたところへ、熱湯をくぐらせ表面がちょっと色変りした川海老を入れて煮、ひえるのを待って皮をむき、煮汁に浸して盛りつけます」  と、ある。即ち川海老の旨煮《うまに》である。こういうふうにして杉木地の短冊盆に恰好よく盛りつければ、いかにも京風の優雅な料理ということになる。 [#改ページ] 鮎《あゆ》  飯《めし》 [#ここから2字下げ]  玉川から漁《と》れた鮎《あゆ》の膾《なます》が酒と共に運ばれて来た。 〔伊勢虎〕は、このあたりの料理屋のほとんどがそうであるように、目黒名物の筍飯《たけのこめし》・筍料理を売りものにしているが、夏は、玉川の鮎を生簀《いけす》に放しておき、いろいろに料理して食べさせる。 「ま、ひとつ……」 「うむ……」  盃を重ねつつ、忠吾が、 「ところで……」 「へい。実は……」 「何の相談だね?」 (中略)  はなしがすんでから、伊勢虎名物の〔鮎飯《あゆめし》〕が出た。  醤油の淡味《うすあじ》をつけた飯がふきあがったところへ、頭をとった新鮮な鮎を突き込み、尾先から引き出して骨をぬき、飯の中へ残った魚肉をかきまぜ、飯茶わんへ盛って出す。 「いえ、その味も、よくわかりませんでした」  と、役宅へもどって来た木村忠吾が、長谷川平蔵にいった。 [#ここで字下げ終わり] [#地付き]『さむらい松五郎』  数年前のこと……。  池波正太郎は、武州・鉢形城を舞台とする新作を書くために、現地取材を思い立った。  そして、 「あのあたりに、いい宿はないか、君、調べてみてくれないか……」  と、私に命じた。  もし、よさそうな宿が見つかったら、私も一緒に連れて行き、その晩に〔男の系譜・江戸時代篇〕の語り下ろしをするからというのである。願ってもないことだったので、私はありがたく礼を述べ、さっそく宿探しにかかった。  場所は荒川の上流、東上線の終点・寄居《よりい》である。その先の長瀞《ながとろ》あたりは観光バスも行く名所だが、果たして寄居に池波正太郎を満足させ得るほどの宿があるかどうか……正直なところ、あまり期待は持てなかった。(寄居町の皆さん、どうかお許しを)  思い余った私は、池波正太郎の著書を添えて寄居町役場へ手紙を送り、これならという宿の紹介を乞うた。やがて親切な返事が届き、素晴らしい宿を教えてくれた。  それが〔京亭〕である。  池波正太郎は大いに〔京亭〕に満足し、鉢形城址の取材も、その夜の語り下ろしも大成功だった。私としてはいささか面目を施したことになる。やがて、池波正太郎は〔忍びの旗〕という長篇小説を完成した。  その一節に、こうある。  埼玉県の北西部にある寄居《よりい》町は、秩父《ちちぶ》市の北東に位置している。  奥秩父の山脈《やまなみ》を水源とする荒川が、秩父市・長瀞をながれてきて、その川幅《かわはば》が大きくひろがるあたりに寄居町はある。  駅前から南へ通ずる通りの両側は、美しい柳の並木だ。  この通りを十五分も行くと、荒川に架かる正喜《しようき》橋のたもとへ出る。  ここまで来ると、荒川をへだてた前方右手一帯の断崖《だんがい》の連《つら》なりが、|いや《ヽヽ》でも目に入ってくる。  この断崖上が、武州・鉢形城の址《あと》だ。  大手口《おおてぐち》を南西に、搦手口《からめてぐち》を北東にした鉢形城は、東西三百七十メートル、南北七百五十メートルにおよぶ。  深い木立に被《おお》われた城址《じようし》に、むかしの建造物は何一つ残っていない。  だが、本丸・二の丸・三の丸の曲輪《くるわ》址は、いまもあきらかに見てとれる。 〔京亭〕は、まず、建っている位置がいい。荒川越しに鉢形城址をほとんど真正面に望む絶好の場所である。  次に、建物がいい。庭がいい。何しろ、そもそもは〔祇園小唄〕の作曲で不朽の名を残した佐々紅華《さつさこうか》が、 「ここを、永住の地にしよう……」  と、思うがままに趣味を生かし、財を惜しまずに建てた家である。それと知らない人は京亭が旅館であるとさえ気付かずに通りすぎてしまうだろう。  しかし、この京亭で何よりも池波正太郎を喜ばせたものが、他ならぬ鮎飯《あゆめし》であった。鮎飯のつくりかたは池波正太郎が書いている通りで、何も付け加えることはない。強いていえば、葱や青紫蘇などを細かく刻んだ薬味をたっぷりと用意しておき、熱々《あつあつ》の飯にこれを混ぜこんで食べるということぐらいである。 〔さむらい松五郎〕の一篇で、その名前だけを知っているに過ぎなかった私は、その日以来すっかり鮎飯のとりこになり、もう何回となく京亭へ通っている。その都度、飲み仲間や後輩たちを誘って行っているが、みんな申し合わせたように大の鮎飯党になるのが面白くてたまらない。  初めて一緒に行ったとき、池波正太郎は、 「こういう宿は、だれにも教えちゃ駄目だよ」  と、私に釘をさしたものである。心ない客が押しかけて折角のよさが|だいなし《ヽヽヽヽ》にされることを恐れたからだろう。だが、当のご本人が〔よい匂いのする一夜〕(平凡社)の中で京亭のことを書いてしまったから、私も安心して宣伝ができるというものだ。なんといっても熱海や箱根のような観光地ではないし、団体客がバスを連ねて乗り込むという心配もない。たった三組か四組の客しか泊まれない京亭なのである。  いい酒ほどさらりとして岩清水に似る、という。京亭で出す酒は〔白扇〕といって、地元・寄居で醸《かも》されるものだが、水のようにすいすいと喉《のど》をすべり落ちて行く酒である。車で京亭へ行ったときは、私は必ず何本か買い込んで帰ることにしている。 [#改ページ] 磯《いそ》 浪《なみ》 そ ば [#ここから2字下げ]  東玉庵に、盗賊が三人、押し入った。  同じ熊井町には〔翁《おきな》蕎麦〕という大きな蕎麦やがあるけれども、東玉庵は大川沿いの永代橋に近いところにあって小体《こてい》な店だが、 「飯田町の東玉庵の支店《でみせ》だけあって、なかなか食べさせるよ」 「私はなんだね、このごろ翁蕎麦よりも東玉庵のほうが好きだね」  土地《ところ》の評判もよく、開店して一年そこそこのうちに、相当の繁昌《はんじよう》ぶりとなった。  本所・深川が巡回の受けもち地区である木村忠吾は、火盗改メの役宅でも|名うて《ヽヽヽ》の〔食いしん坊〕だけに、東玉庵へは何度も足をはこんでいたのであった。  長官《おかしら》の長谷川平蔵に、 「忠吾《うさぎ》よ。ちかごろ、お前が廻っているところに、何か、|うまい《ヽヽヽ》ものは見つからぬか?」  と、問われて忠吾が、 「熊井町の東玉庵で出します磯浪《いそなみ》そばというのが、ちょいとよいものでございまして」 「ほう……」 「大根おろしに|もみ《ヽヽ》海苔《のり》をあしらいまして、なかなかにその乙《おつ》なもので……それに、主人夫婦が気だてもよろしく……」 [#ここで字下げ終わり] [#地付き]『盗賊人相書』 〔鬼平犯科帳〕シリーズに登場する食べものの筆頭は、恐らく蕎麦《そば》だろう。江戸の人びとの暮らしと蕎麦は切っても切れない間柄であったらしい。池波正太郎もまた、七代続いた生粋の江戸っ子の末裔《まつえい》として、まことに蕎麦好きである。  蕎麦好きは、蕎麦の食べかたが違う。映画狂の池波正太郎の供《とも》をして、試写会の帰りに一緒に蕎麦屋へ入ることも珍しくないが、池波正太郎の蕎麦の食べっぷりの鮮やかさといったらない。私も人後に落ちない蕎麦好きのほうだが、とても真似ができない。  蕎麦屋で、あるとき、池波正太郎に教えられたことを忘れない。それは、|ざるそば《ヽヽヽヽ》についてきた薬味の葱とうずらの卵を、私がそのまま猪口へ入れようとしたときであった。 「卵なんか入れたら駄目だぞ」  と、一言。 (なるほど。それが本当の蕎麦好きの、つまりは東京人《とうきようびと》の感覚というものか……)  と、そのとき私は思った。  そもそも蕎麦とは、何よりも香りと、あの|しゃきっ《ヽヽヽヽ》とした歯ざわりを賞味すべきもの、ということを考えれば、 「蕎麦は、|もり《ヽヽ》に限る」  という一徹者《いつてつもの》が少なくない所以《ゆえん》もわかる。  江戸時代の高級な蕎麦屋は、いろいろと凝った蕎麦をつくって大名・旗本の諸家へ出入りすることを競ったという。  たとえば、春は「七草なずな切」「若草切」「荒磯切」、雛の節句に「五色蕎麦」。夏は「木の芽切」「けし切」。秋は「菊切」「芋切」。そして冬ともなれば「茶蕎麦」「柚子切」「蜜柑切」。また四季を通じて「卵切」「白卵」「鯛切」「海老切」「貝切」などの趣向を誇った……と物の本にある。  しかし、それらは結局、贅沢な遊戯に過ぎず、今日ではすっかり姿を消している。蕎麦はやっぱり変哲もない、ただの蕎麦切。これにとどめをさすということだろう。そして蕎麦切本来の滋味は、|もり《ヽヽ》で味わうのが一番ふさわしいということである。そういえば浅草・並木の〔藪〕には、|ざる《ヽヽ》すらない。海苔がのっていては、蕎麦そのものの香りが損なわれるからだろう。  海苔をかけることさえも拒むのは、それだけ蕎麦に自信があるということでもある。実際、並木の〔藪〕の蕎麦はうまい。辛《から》めの|つゆ《ヽヽ》もいい。|あれ《ヽヽ》が江戸時代の正統を継ぐつゆの味だと聞く。日本中に蕎麦の名所はあり、それぞれに味自慢をして尽きるところがないけれども、たいていの場合、つゆに物足りなさを覚えるのは私だけだろうか。並木の〔藪〕のつゆを持参して各地の蕎麦を食べ歩くことができたら……というのが私の夢である。  あくまでも粋に、威勢よく食べる|もり《ヽヽ》に比べると、|かけ《ヽヽ》のほうは食べる様子にも色気がなく、下品であるとしたのが江戸っ子気質だったらしい。|かけ《ヽヽ》は「だし汁かけたるを上略して掛《かけ》といひ、かけはどんぶり鉢に盛る」というところからの|かけ《ヽヽ》だから、|ぶっかけめし《ヽヽヽヽヽヽ》と同じで品が悪いのである。そこで、   「ぶつかけがよいと花嫁言ひかねる」  などという川柳も生まれることになる。  蕎麦は夏にも秋にも栽培できる。江戸の人びとが愛好していた蕎麦はもっぱら三多摩物だったが、ことに〔深大寺蕎麦《じんだいじそば》〕と呼ばれる夏蕎麦は絶品とされた。後作の関係上、収穫を急いで早刈りにするため、外皮の中の甘皮がまだ青々としていたくらいで、従って挽粉にも自然青味が残っており、いかにも清新な味わいであったという。〔鬼平犯科帳・あきらめきれずに〕の一篇に、  ──野菜の田舎料理に酒。そのあとで、お静が手打ちにした蕎麦《そば》が出た。酒に火照《ほて》った口中に、冷たい蕎麦をすすりこむ快味は、蕎麦好きの平蔵にはたまらなかった。汁《つゆ》に大根おろしをそえたのもよい。──と、ある。  お静が手打ちにしたこの蕎麦こそ〔深大寺蕎麦〕に他ならぬ。いまから二十四、五年も前に一度、その名にあこがれて深大寺まで蕎麦を食べに行ったことがあった。辺りにはまだ武蔵野ののどかさが残っていて、茶店の一軒で味わった蕎麦はおいしかった。だが、数年前、ふと思い出して子どもを連れて訪れたとき、深大寺一帯の様相は一変していた。もはや都心と変わるところがない。  明治座へ行くと必ず寄る浜町の〔藪〕の蕎麦も本当においしいと思う。 「飲まぬくらいなら、蕎麦屋へは入らぬ」  という池波正太郎の真似をして、素晴らしい艶《つや》の焼海苔を肴に酒を一本飲み、天ぷら蕎麦を食べ、帰りに一袋百円の揚げ玉を土産に買う。家でつくる|かけ《ヽヽ》蕎麦にこの〔藪〕の揚げ玉を入れると、蕎麦の格が急に上がるような気がする。子どもたちは味噌汁に入れて大喜びしている。  その浜町の〔藪〕に「霧下そば」という書が飾ってある。その字が非常にいい。それで覚えているのだが「霧下そば」とは何処の産をいうのか知らずにいた。蕎麦が寒冷の地を好む植物であることは聞きかじっていたから、霧深い山あいで穫れたうまい蕎麦……ぐらいの意味だろうと思っていたのである。  今度、調べてみたら、 「信濃川の上流・千曲川のさらに上流、甲斐・武蔵・信濃の三国にまたがる甲武信嶽の麓に近い�川上そば�が、村外不出の妙味として信州一を誇るのは、年中霧が立ち籠めて普通の穀類など尋常には実るべくもない山間の畑地に、その霧の中でわずかに白く開花すると、早くも秋冷がおとずれるため、辛うじて実を結ぶというので、俗に�霧下そば�と呼ばれ」うんぬん。  と、〔飲食事典〕にあった。本山荻舟という人は本当に何でもよく知っている。ほとんど呆《あき》れるばかりである。 [#改ページ] 天《てん》ぷら蕎麦《そば》 [#ここから2字下げ]  蛙の長助が〔白髪《しらが》そば〕の大黒屋を出たのは、暮六ツをすぎてからだったが、初夏のことで、夕闇も淡い。  長助は、両国橋へ出る手前の店屋で、ぶら提灯《ぢようちん》を買った。  長助の顔が、ほんのりと赤い。大黒屋の二階座敷で寝そべり、ゆっくりと二合ほど酒をのんだあとで、貝柱《かいばしら》のかき揚げを浮かせた天ぷら蕎麦を二つも食《や》った。  なかなかどうして、長助は|ぜいたく《ヽヽヽヽ》なことをしているのである。 (どうせ、もう長えことはねえのだから、生きているうち、せめて飲み食いだけは、好きにしてえな)  だから、ふところへ入った金を長助は出し惜しまなかった。 [#ここで字下げ終わり] [#地付き]『蛙の長助』  享和元年(一八〇一)といえば、長谷川平蔵の没後数年を経た頃だが、その年に江戸の大和田安兵衛なる者が刊行した〔料理早指南〕という一書によると、 「てんぷら──鯛平目《たいひらめ》の身をかまぼこだねにして山のいもとうどんの粉しほとを入 よくすりまぜ ぎんなんきくらげのるいこまかに打てまぜ よくこねませ 丸ゆばの大きさにして ごまのあふらあるひはかやくるみの油《あぶら》のるいにてあげて 小口切にする也」  |これ《ヽヽ》は、どう見ても「さつま揚げ」である。そういえば大阪・道頓堀の東の外れにある関東煮《かんとだき》の名店〔たこ梅〕へ初めて行ったとき、「てんぷら」という品書きを目にしてびっくりしたことを思い出す。東京でいう天ぷらをおでんに入れてしまうのかと思ったのだ。  語源的には、大阪の「てんぷら」も東京の「天ぷら」も、どうやら同じらしい。そしてこの名付け親は戯作者・山東京伝だという説がある。  京伝の弟・京山が書いた〔蜘蛛の糸巻〕という本に、てんぷらの由来が載っている。それによると……、  天明時代の初め頃(即ち鬼平の活躍期)、利介という大坂者が放蕩の結果駆落ちして愛妓と一緒に江戸へやって来たが、たちまち生活に困り、夜店でも出そうということになった。そこで思いついたのは、 「大坂にて|つけあげ《ヽヽヽヽ》という物、江戸にては胡麻揚げとて辻うりあれど、いまだ魚肉あげ物は見えず……」  ということ。ついては、大坂の|つけあげ《ヽヽヽヽ》ではつまらないから、何かいい名前を考えてもらえまへんやろか……と京伝のところへ頼みに来た。そこで京伝先生、「天麩羅」なる名称をひねり出して与えたというのである。 「天は揚ぐる也、麩は小麦粉、羅は薄衣の義」  とは、いかにももっともらしい。しかし、本当のところは、 「利介。お前は天竺《てんじく》浪人だ。その天竺浪人が江戸へふらりとやって来て始めるのだから、即ち�天ふら�だ……」  と、山東京伝は洒落たのである。  右の京伝命名説は、実は、全然信用するに足りない。京伝が生まれるずっと前から、天ぷらということばは使われていたからだ。では、天ぷらなる名称はどこから来たのか。清水桂一編〔たべもの語源辞典〕(東京堂出版)には、さまざまな説が列挙されている。  天上の日の意のスペイン語・イタリア語(Tempora)からで、この日には獣鳥肉は食べないで、魚肉鶏卵を食したところから、魚料理の名となったもの……という説。  油を天麩羅《あぶら》と書いて、これを音読したもの……という説。  調理という意味のポルトガル語(tempero)の訛《なま》りである……という説。  まだある。  昔、スペイン人が日本人の「かきあげ」という調理を見て、うどん粉に魚類を混合するもの、かき混ぜて揚げるものということで、テンプラ(=攪拌するの意)と呼んだ……という説。この説に従えば、蛙の長助が二杯も食べてしまった「貝柱のかき揚げ」を浮かせた蕎麦こそ、正真正銘のテンプラ蕎麦というわけだ。  本山荻舟の〔飲食事典〕は、 「日本に初めて建立された教会堂は南蛮寺とよばれ、昇天寺というのもできた。宣教師によって伝えられた調理法を寺(スペイン語でテンプロ)料理の意味でテンプラと訛ったとて、少しも異とするには当らない」  と、している。  蕎麦のことは〔磯浪そば〕の項で、知ったかぶりのありったけを書いてしまったから、ここでは天ぷらのことを書いた。というよりは、蛙の長助の感懐に共感するところ大なるものがあり、どうしてもこの一項を設けたかった……というのが本音である。いま、私は四十五歳。昔ふうに「人生五十年」と考えれば余命いくばくもない。 (どうせ、もう長えことはねえのだから、生きているうち、せめて飲み食いだけは、好きにしてえな)  しみじみ、そう思うのである。いくら平均寿命が延びたからといって、自分が明日死なぬという保証はどこにもないのだから……。 [#改ページ] |しんこ《ヽヽヽ》泥鰌《どじよう》 [#ここから2字下げ]  ──けれども岩五郎の脳裡《のうり》には、高岡の町の小さな家で旅から帰って来たときの父と母の、いかにも仲むつまじい団欒《だんらん》があざやかに、強烈にしみついている。  また卯三郎も、そのころは、なめしゃぶるようにして、たった一人の息子を可愛がったものであった。 「おれが故郷《くに》じゃあね、|しんこ《ヽヽヽ》泥鰌《どじよう》といって、小ゆびほどの小せえ泥鰌がとれる。父ちゃんは、こいつを鍋へ入れてね、|ごぼう《ヽヽヽ》をこう細く切って、味噌の汁をつくるのがうめえのさ。大きい鍋にいっぱいこしらえてよ。おっ母と三人で、ふうふういいながら何杯も汁をすするんだ」  と、岩五郎が双眸《りようめ》をかがやかせて、お勝に語ったことがある。 [#ここで字下げ終わり] [#地付き]『浅草・御厩河岸』  夏の暑い盛りに、汗を流しながら食べる泥鰌鍋《どじようなべ》はうまい。泥鰌と味噌と牛蒡のササガキさえあれば、自分の家でつくっても簡単……とはいうものの家人が嫌《いや》がる。そこで、気の弱い亭主は〔駒形どぜう〕まで足をのばすことになる。われながら腑甲斐ない話である。 〔駒形どぜう〕五代目の渡辺繁三さんが、家庭向きのうまい泥鰌汁のつくりかたを発表している。その大要をご紹介させていただこう。  まず、頭が比較的小さくて、よく太った泥鰌を選ぶ。水からあげてボールに取った泥鰌に、少し酒をかける。泥鰌は、当然、暴れはじめるが、七、八分もすればおとなしくなる。  鍋に味噌汁を煮立たせた中へ泥鰌を入れる。煮えが止まって、また煮立ってきたら、火を弱め、しばらく弱火のまま煮込む。箸で泥鰌の胴中をはさんで持ち上げてみて、頭と尾がちょっと|しなう《ヽヽヽ》ぐらいが煮加減だそうな。  さて、そこで椀に泥鰌を入れ、別の鍋に新しく味噌汁を煮立たせ、ササガキにした牛蒡をこの味噌汁にくぐらせて、泥鰌の上におき、はじめに泥鰌を煮た味噌汁を新しい味噌汁の中へ入れて混ぜ合わせ、煮立ったところを椀にはる。薬味は葱。  折角専門家がこうして秘伝を公開してくれたのだから、やはり一度は自分の家でやってみなくてはなるまい。そのとき家人には、江戸川柳にあるように、   「どじやう汁女房となりへ行て居る」  ということにしてもらおう。  泥鰌といえば「柳川《やながわ》」が最もポピュラーだが、これは発祥に二説ある。  一は、江戸発祥説。文政のはじめ頃、江戸南伝町三丁目で万屋某という者が、初めて泥鰌を裂いて骨・頭・臓物を取り去り、〔骨抜鰌鍋《ほねぬきどじようなべ》〕として売り出した。その後、天保時代になって、横山同朋町に移り、〔柳川〕という屋号で人気を集めるようになった。いつしかその評判が京阪にまで伝えられるに至った……というのである。時代は同じ文政のはじめだが、創案者は江戸本所大川端石橋町の石井某なる鰻屋だ、とする説もある。  もう一つは、九州・筑後の柳川を発祥地とする説。この地方は古くから「柳川鍋」という土鍋を焼いており、幸い辺りでたくさん獲れる泥鰌をこの土鍋で煮たことから、この名が生まれた……という。  万屋某にしても、石井某にしても、もとは柳川出身者だったかもしれないし、いまさら柳川鍋の発祥について論じることもない。  泥鰌は、鰻と同じように、蒲焼《かばやき》にしてもおいしい。私の死んだ父は、ことのほか泥鰌の蒲焼が好きで、子どもたちもよくお相伴をさせられたものだ。だから、私の場合は、泥鰌といえば〔柳川〕より蒲焼で、東京へ出て来るまで〔柳川鍋〕というものを知らなかった。 [#改ページ] 軍鶏《しやも》の臓物鍋《もつなべ》 [#ここから2字下げ]  つぎに、軍鶏《しやも》の臓物《ぞうもつ》の鍋が出た。  新鮮な臓物を、初夏のころから出まわる新|牛蒡《ごぼう》のササガキといっしょに、出汁《だしじる》で煮ながら食べる。熱いのを、ふうふういいながら汗をぬぐいぬぐい食べるのは、夏の快味であった。 「うう……こいつはどうも、たまらなく、もったいない」  次郎吉、大よろこびであった。  三次郎も、やがてあがって来て、次郎吉や左馬之助から、あらためて、宗円坊|終焉《しゆうえん》の様子をきいた。  宗円の遺体を背負った次郎吉は、小田井の宿場へ引き返し、宿外れにある妙音《みようおん》寺という小さな寺へ遺体をはこび込み、事情をはなし、供養の金も置いて、後の|とむらい《ヽヽヽヽ》をたのんでおいたそうである。 [#ここで字下げ終わり] [#地付き]『明神の次郎吉』  |鬼平ファン《ヽヽヽヽヽ》ならだれだって〔五鉄《ごてつ》〕の名を知っている。長谷川平蔵と配下の密偵たちにとって重要なアジトの一つだからである。私の友人の一人は、それこそ熱狂的な鬼平ファンで、幻の〔五鉄〕を求めて本所|界隈《かいわい》をうろうろと探しまわったぐらいだ。平蔵の時代に本当に〔五鉄〕は存在したか……そんなことを詮索するのは野暮の骨頂というものだろう。われわれ鬼平狂にとって、〔五鉄〕はまぎれもない実在の軍鶏《しやも》鍋屋《なべや》なのである。  都会ではおろか田舎でも、近頃、軍鶏の姿を見る機会は少ない。闘鶏の盛んなところなら話は別だが。  軍鶏は、その文字の通り、まことに闘争心の旺盛な鶏である。二羽の雄軍鶏を一緒にしておくことはできない。どちらかが傷つき息絶えるまで戦い続けるからだ。越後の片田舎で暮らしていた頃、私の家に軍鶏がいた。太郎という名だったが、私たち家族の者にさえ猛然と躍りかかって来る喧嘩好きだったことを覚えている。いつの間にかいなくなってしまったが、いまにして思えば、親父たちの腹におさまってしまったに相違ない。太郎のために合掌。  軍鶏は、数多《あまた》ある鶏の一品種で、もっぱら闘鶏用に飼育されている。他の鶏たちに比べて一段と背が高く、姿は精悍そのもの。羽毛の装飾は少なく、色は赤笹(褐色)、白笹、銀笹および黒の四種が普通という。一名、シャムともいい、シャム(タイ国の古称)あたりが原産地ではないかといわれている。  何しろ喧嘩好きの鶏《とり》だから、素晴らしく筋肉が発達している。配合飼料を強制的に飽食させられて、歯ごたえも何もない当節のブロイラーなどとは、比べものにもならない。その引きしまった肉のうまさは、鶏肉《とり》好きにはたまらない。  軍鶏鍋も要するに普通の鶏肉を使った鳥鍋と調理法は同じである。東京・神田|連雀町《れんじやくちよう》、といっても現今は千代田区神田須田町一丁目と神田淡路町二丁目という地番に変わってしまったが、そこに戦前からの姿で鳥料理屋の〔ぼたん〕が残っている……はずだ。三、四年前、私が行ったときには確かに残っていた。だからといって現在もそのままだと保証できないのが今日の東京である。  しかし、まあ、あの〔ぼたん〕なら心配ないだろう。そこへ行って鳥鍋を食べてみれば、〔五鉄〕名物の軍鶏鍋を味わったような気分になれるだろう。座敷は古びているし、畳もすっかりやけてしまっている。特別に店の人の愛想がいいわけでもない。それでも、朱塗りの、それがところどころ剥《は》げたり色が変わったりしている箱火鉢で、備長《びんちよう》の炭を赤あかとおこして食べる鳥鍋には、われわれを平蔵の時代へ連れて行ってくれるような|何か《ヽヽ》がある。  私が食べた鳥鍋で印象深いもう一つの店は、京都の〔鳥弥三〕だ。有名な店だからどなたもご存じのことだろう。仲居のおばさん(おばあさんといったほうが正確である)が、ここの鶏肉《とり》は他処《よそ》のとは違いますと胸を張って講釈してくれたものだ。確かに、その味は間然するところなかったが、店の構えはいささか仰々しい感じがしないでもない。〔五鉄〕のイメージは、やはり、〔ぼたん〕に濃い。  もう一軒、両国あたりのどこかで、これは本当に昔からの軍鶏料理の専門店だというところへ、一度だれかに連れて行かれたことがある。残念ながら、どうしても店の名も正確な場所も、いまは思い出せない。特に関心のあるかたは、近頃多い食べあるきのガイドブックでお調べください。相当由緒ありげな店ではありました。  軍鶏も名古屋コーチンも、なかなかわれわれ庶民の手には入らない。昨今の鶏の九十パーセントまでがブロイラーだというのだから。しかし、そんなことをうるさくいっていたのでは、永久に鳥鍋が食べられなくなってしまう。ブロイラーならブロイラーでも充分|美味《おい》しく代用できます……と、亡き辰巳浜子の名著〔料理歳時記〕にある。それをご紹介しよう。金沢名物の治部煮《じぶに》のスタイルである。 「大切りにした鶏肉に、小麦粉に少量の砂糖を加えたものをはたきつけて、味醂と醤油を合せて出汁を煮立てた中に順々に入れ、鶏肉に火が通ったらすぐ引き上げ、芹・春菊・椎茸・生麩などを盛り合せ、ゆずの輪切りとわさびを添えていただくのです。また、ぶつ切りにしたものを味醂と醤油を合せたつけ汁に十分から二十分つけ、油をひいた鉄鍋で焼きながらいただくお狩場風もよいでしょう」  もし、近くに鶏肉屋《とりや》があって、新鮮な臓物《もつ》が手に入るのだったら、断然〔五鉄〕風の|もつ《ヽヽ》鍋をみずから試してみなくてはなるまい。軍鶏でなくても鶏の|もつ《ヽヽ》というのは実にうまいものだ。いや、鶏に限らず、およそ鳥獣の臓物はそれが新鮮でありさえすればすべてうまいことおびただしい。  高名な詩人にしてワイン通としても知られる牧羊子女史、即ち開高健夫人が、〔おかず咄〕(文化出版局)の一節で、�モツは味覚の百花斉放�と題して次のように書いておられる。 「肉であればなんでもおいしい肉! といってとびついていたあいだのなんとウブでありましたことよ。というわけで、モツ料理の底しれない神秘と魅惑、その味覚のバラエティーにとりつかれたが最後、サーロインもテンダロインも所詮はお子さまランチの域を出ないとさとらされ、大人の味覚の世界へと目覚め、旅立つことになります。芸術の多様性をうたった中国のほめコトバに百花斉放とありますが、モツ料理の珍味、滋味はまさしく味覚の百花斉放というべきで、おかずとしてはもちろん、わけても酒の肴には垂涎の絶品……」  牛や豚の臓物となると下ごしらえがいろいろとむずかしく、セミプロ級の腕前を持たなくては手にあまる。だが、鶏のもつなら話は簡単。出汁《だし》というか割下《わりした》というか、それさえ調えておけばいつでも気軽に、そしてありがたいことには信じ難いほど安く、もつ鍋を賞味することができる。  割下は、まず、酒と味醂を同量に合わせる。次に、合わせた量と同じだけの醤油を加える。最後に、それらを合わせた全量と同量の煮出汁を加え、ざっと煮立たせる。これが基本である。比率を数字で表わせば「酒1・味醂1・醤油2・煮出汁4」ということになる。  とはいえ味ばかりは人それぞれに好みがある。右の基本はあくまで一般的基本であって、それ以上のものではない。要は自分の好きでいい。新牛蒡のササガキをたっぷりと用意して、汗みずくになって臓物鍋《もつなべ》を食べよう。添え野菜は牛蒡でなければならぬということもない。葱よし、三葉よし、芹があるときなら芹もよし。さらには焼豆腐でも、白滝、麩、何でもどんどん入れてしまおう。〔五鉄〕の三次郎が怒るかもしれないが、そういう鍋もまたうまいのである。 [#改ページ] 鰺《あじ》 の 塩《しお》 焼《やき》 [#ここから2字下げ]  夕暮れも近くなり、お幸は台所へ入って、夕餉の仕度にかかった。 「お幸。今日の惣菜《そうざい》は何だね?」 「あの、先程、組屋敷へ出入りの魚やが、活《いき》のよい鰺《あじ》を持ってまいりましたので、塩焼にいたしまして……あの、爺《じい》やは煮魚が好きですから煮つけにいたします」 「ほう、それはよいな」 「あとは、お豆腐。それ、その水桶に冷やしてあります」  こういって、お幸が、大福餅のように白く肥《こ》えた躰へ精いっぱいの科《しな》をつくり、 「それにあの、焼茄子のお汁《つゆ》でございます」 「そうか、うまそうだな。うまそうだな」 「あれ、旦那さま……」 「む?」 「何やら、空が……」  いつの間にか、夏の夕暮れの明るさが、急に陰《かげ》ってきはじめた。 [#ここで字下げ終わり] [#地付き]『俄か雨』  昭和三十年代のはじめ頃、学生だった私の主菜は鰺《あじ》だった。塩焼を大根おろしでというのも好きだし、鰺の干物《ひもの》もさらに好き。それが非常に安かったから、自炊生活の学生にはまことにありがたい魚であった。  卒業前の一年間は、私としては空前絶後の勤勉ぶりで、毎日、朝から晩まで大学の図書館に籠ったものだ……と書きたいところだけれども、自分を美しく飾るのはよそう。しかし、まあ、よく頑張ったことは事実である。  その一年間は、もっぱら外食にたよらざるを得なかった。何を食べていたか。鰺である。新宿西口の大ガード近くに�小便横丁�の異名を持つ飲食店街があって、その一軒の飯屋《めしや》が私の行きつけだった。入口のところで三百六十五日、天ぷらを揚げていて、カウンターに坐って天丼をたのむと、揚げたての熱々《あつあつ》を山盛りの丼飯にのせ、別鍋で温めている汁《つゆ》をたっぷりとかけてくれる。この天ぷらが鰺で、天丼一ケ五十円也。おみおつけが一杯十円で、実《み》は年中わかめ。他にほうれん草のお浸《ひた》しがやはり十円。だから、百円あればお大尽《だいじん》の気分だった。釣り銭の三十円で、歌舞伎町の映画館でナイトショウを観ることができた。いまにして思えば夢のような時代である。  その大衆魚中の大衆魚、鰯と共に私の生命の綱であった鰺が、いまや一尾六百円も七百円もするというのだから、たまったものではない。 「活鰺とはいわない。鰺の干物でいい」  と、家人にいうと、 「こんな小さな鰺の干物が、いま一枚いくらだかご存じでしょうか」  と、切り口上でやり返される。 「黙って亭主のいう通りにしろ!」  と、行きがかり上、こちらも突っぱる。初鰹を買うか買わないかで揉めたという江戸時代の亭主と比べ、あまりにも話のスケールが小さい。話題を変えよう。  鰺とは味也、その味の美をいふなりといへり──と、新井白石先生はのたもうたそうな。日本中ほとんどどこの海でも獲れ、さながら「国魚」の観がある。だが、台湾あたりでも獲れるらしい。種類は多く、単にアジといえばマアジのことを指すが、他にムロアジ、オニアジ、メアジ、シマアジ、さらにはイトヒキアジなど十数種に及ぶ。「アジ科」の特徴は例の鋸《のこぎり》の歯のような竹莢《ゼンゴあるいはゼイゴ》だ。調理に際しては、まず、庖丁で|これ《ヽヽ》を尾のほうから削ぎ取ることになっている。  近頃すっかり高級料理に成り上がってしまった、鰺のたたき。あれは元来が魚の餌であったという説がある。  相模湾のどこかで漁師が鰺釣りをしていたときのこと。その日は釣れ過ぎたかどうかして、コマセのアミが足りなくなってしまった。コマセとは鰺釣りの糸の先に小籠をつけて入れておく寄せ餌のことである。粗く編んだ籠のすき間からアミがこぼれ落ちて、魚たちを誘う仕掛けだ。そのアミがなくなったものだから、急場の思いつきで、釣った鰺を微塵切《みじんぎ》りにし、コマセの代用とした。たまたま、漁師がそれをつまんで口に入れると、 「こりゃ、いける! 鰺に食わせるのはもったいない」  これぞ〔鰺のたたき〕発見の真相というわけである。漁師たちが船上で最も簡単な調理法として利用していたのは事実だろう。料理と名づけるほどのものでもなかったのだ。それが、さる料理教室の先生によってテレビで紹介されたから、いっぺんに高級料理になってしまった。  鰺といえば〔くさや〕のことに触れぬわけには参らない。酒飲みがよだれをたらすくさやはムロアジを塩汁に漬けた後、乾燥したものである。この塩汁がただの塩汁でなく、先祖伝来の秘蔵秘伝のものだという。伊豆七島が名産地だが、特に新島のそれが極上とされている。  くさやの問題点は、焼くときのあの匂いだ。それでこれまた夫婦喧嘩のタネになりやすい。拙宅ではそのために七輪《しちりん》を一つ買い、池波邸からくさやの|おすそ分け《ヽヽヽヽヽ》にあずかったときは、アパートの屋上でこれを焼くことになっている。焼いて、熱いのを我慢してこまかく身をむしり、酒をふりかけ、瓶に密封しておく。これがわが家の夫婦協定である。熱い焼きたてが食べられないのは、私に広い庭つきの一軒家を買うだけの甲斐性がない所為《せい》で、だれを恨むわけにも行かない。 [#改ページ] 鯉《こい》 づ く し [#ここから2字下げ]  生簀《いけす》からひきあげたばかりの鯉を洗いにした、その鯉の|うす《ヽヽ》紅色の、ひきしまった|そぎ《ヽヽ》身が平蔵の歯へ冷たくしみわたった。 「むむ……」  あまりの|うまさ《ヽヽヽ》に長谷川平蔵は、おもわず舌つづみをうち、 「これは、よい」  すると、おなじ緋毛氈《ひもうせん》を敷いた|腰かけ《ヽヽヽ》にいる木村忠吾が、 「まるで、極楽《ごくらく》でございますな」  などと、妙に年よりじみたことをいうのが平蔵にはおかしかった。 [#ここで字下げ終わり] [#地付き]『兇剣』 [#ここから2字下げ]  弁天社・境内の〔平富〕の奥座敷で、相模の彦十は網虫の久六と向い合っていた。  久六も今日は、酒も料理もいいつけてくれて、 「実はなぁ、彦十どん。この年齢《とし》になって危ねえ橋をわたろうというのは、それだけの事情《わけ》があるのだ。ま、ひとつ、聞いておくれ」  妙に、しんみりとした口調になった。  この〔平富〕は、川魚料理で知られている。  先ず、そぎとった鯉《こい》の皮の酢の物。同じく鯉の肋肉《あばらにく》をたたいて団子《だんご》にし、これを焙《あぶ》ったものへ|とろみ《ヽヽヽ》のついた熱い甘酢《あまず》をたっぷりとかけまわした一皿など、めずらしい料理が出たものだから相模の彦十は、 「へへえ……おらぁ、もう三十何年も、本所《ところ》を巣にしていながら、この店の名物は耳に聞いてはいても、こんなにうめえとは知らなかった。こいつは、ぜひとも銕……」  銕つぁんに知らせなくちゃぁならねえ、といいかけた彦十、あわてて口を噤《つぐ》んだ。 [#ここで字下げ終わり] [#地付き]『むかしなじみ』 [#ここから2字下げ]  何事もなく、単身微行《たんしんびこう》の見廻りをすませ、亀戸天神への参詣も終えて、玉屋方へ入った平蔵が、あるじの彦次郎夫婦や|おきさ《ヽヽヽ》の歓待を受け、おもわず長い時間《とき》をすごしたのも、 (今夜は、お熊婆のところへ泊まればよいのだから……)  その心づもりがあったからだろう。  先ず、平蔵が大好物の酒の肴《さかな》が出た。これは削《そ》ぎ取った鯉の皮を細く切って、素麺《そうめん》と合わせた酢の物と、雄の鰹の肝の煮つけである。  こうした料理は、他の料理屋では客に出さぬ。  夏の鯉は味が落ちるというが、鯉の皮にふくまれた濃い脂《あぶら》を合せ酢がやわらげていて、何ともいえぬ味わいだ。 [#ここで字下げ終わり] [#地付き]『蛇苺』 [#ここから2字下げ] 〔五鉄〕へ着くと、左馬之助は次郎吉を二階の小座敷へ案内した。  亭主の三次郎も、宗円坊のことはよく知っている。  左馬之助が手短かに、わけをはなしてきかせると、 「そ、そりゃあ、ほんとうですかえ……」  三次郎はおどろきもし、またそれだけに、次郎吉の親切を深くよろこび、 「まかせておいて下せえ」  板場へ下りて行って、みずから庖丁《ほうちよう》を取り、仕度にかかった。 (中略)  三次郎は、先ず、鯉の塩焼を出した。  鯉の洗いとか味噌煮とかいうけれども、実は、塩焼がいちばんうまい。  酒も、とっておきのを出してくれた。 「こりゃあ、どうも……ふむ、ふむ。こいつは、へえ、たまらなくうまい」  次郎吉は、舌つづみをうち、「あんまりのむと、こんなうめえものが腹へ入りません。ですからすこしずつ……」と、なめるように、ゆっくりと酒をのんだ。 [#ここで字下げ終わり] [#地付き]『明神の次郎吉』  鯉の洗い。  鯉の皮と素麺《そうめん》の酢の物。  鯉の肋肉《あばらにく》の叩き団子《だんご》・甘酢かけ。  雄鯉の肝の煮つけ。  鯉の塩焼。  鯉の味噌煮。  随分いろいろな鯉の料理が〔鬼平犯科帳〕に出てくる。川魚料理の名店がこの時代にはあちこちで評判を競い合っていたに違いない。鯛が海魚の王なら、鯉は川魚の長。その独特の味わいは日本人の口に合い、江戸時代のはじめ頃から盛んに養殖も行なわれてきたという。  鯉は、古来、祝儀の魚であった。 「鯉ばかりこそ、御前にても切らるるものなれば、やんごとなき魚なれ」  と、兼好法師も書いている。御前にても切らるるうんぬんが、いわゆる「式庖丁」の儀式を指すことは改めていうまでもないだろう。私は式庖丁の儀なんて見たこともないが、確かに|どこか《ヽヽヽ》で読んだ覚えがある。それも、池波正太郎が書いていた。となれば〔食卓の情景〕(朝日新聞社)だったろうか……調べてみたら、やっぱりあった。京都・西陣の一隅にある〔万亀楼〕で、中村錦之助(現・萬屋錦之介)そっくりの生間《いかま》流二十九代の家元・生間正保が、古式にのっとって鯉を切りさばく情景が、生き生きと書かれている。 「ゆったりとした両手のうごき、眼のくばり、躰のかまえのいちいちに、意味がふくまれてい、一種の舞踊を見ているようであった。  この式庖丁というものは、貞観元年(八五九)に藤原中納言政朝が定めたもので、その後、宮中における大礼儀式には、かならず、餐膳《さんぜん》の前に、この式庖丁がおこなわれたという」  と、ある。すでに千年をこえる歴史を持つ由緒ある儀式なのである。金屏風を背に、狩衣と烏帽子《えぼし》に威儀を正した庖丁人が、舞うがごとくに鯉をさばく……その間、鯉は文字通り「俎板《まないた》の上の鯉」でびくともせず、不意に時間だけが千年余の昔に逆行する。さぞかし見事なものだろうな……と思う反面、何だか鯉が可哀そうなような気もする。しかし、鯉の洗いと聞けば、たちまち舌なめずりをするのだから、私もはなはだ勝手な男である。  鯉。コイ科の淡水産硬骨魚。体やや側扁して肥大、口辺に二対の鬚があり、一列の鱗が三十六枚あるとて「三十六鱗」とも「六々魚」ともいう……そうな。 「六々変じて九々鱗となる」  という中国のいいならわしは、例の登竜門の故事に由来する。九々鱗とは、むろん、竜のこと。  中国大陸を貫流する黄河は、その源を遠く崑崙《こんろん》山脈の奥に発し、積石山を経て竜門に至るが、このあたりは奔流すこぶる急で、春三月、諸魚が登ろうとしてみな斃死《へいし》する中に、鯉のみが登り得て竜になる……という名高い伝説。いかにも「白髪三千丈」式の中国らしい豪快な話ではある。  鯉の料理法については、〔鬼平犯科帳〕にほとんど書きつくされているが、敢て蛇足を加えるならば、〔鯉のしんじょ〕というものが〔四季献立集〕に載っている。 「鯉摺身《こいすりみ》のごとくこしらへ、長芋《ながいも》おろし少し交 塩少々入れ 金《かな》じやくしにてすくひ取り 湯煮し 子は別にゆでふりかける也」  とあるから、早い話が鯉の|つみれ《ヽヽヽ》の上等品だろう。しかし、この本が出たのは天保七年(一八三六)だから、わが平蔵時代にそういう鯉料理があったかどうか定かでない。なればこそ池波正太郎も書いていないのである。  一般に、鯉は三年以上を経ないと産卵せず、寿命は概して十五年ぐらいとされているが、稀には百年をこえる長寿のものもあると聞く。国が広大で河も長大な中国では、六尺以上の大鯉もさして珍しくないそうだが、日本でもかつて琵琶湖で五尺五寸という大物が獲れたという記録がある。  そういうことを知った上で、改めて〔大川の隠居〕の一篇を読み返してごらんになるとよかろう。数ある〔鬼平犯科帳〕の中でも特に私の愛好してやまぬ名篇中の名篇である。 [#ここから2字下げ] 「旦那。明日は雨になりやすよ」  と、友五郎。 「何をいう。月が出ているではないか」 「月よりも、大川の隠居《いんきよ》のほうがたしかでございますよ」 「大川の隠居?」 「ほれ、ごらんなせえ。あそこに出て来ましたよ」  友五郎が舟《ふな》|ばた《ヽヽ》を、手で拍手《ひようし》をとって叩きながら、大川の川面《かわも》へ向って、 「おう、隠居。久しぶりだなあ」  まるで、人にはなしかけでもするように声を投げると、川面が大きくうねった。  そこへ視線を移した平蔵が、おもわず、 「あっ……」  と、いった。  川波のうねりが、たちまちに舟ばたへ近寄ったかとおもうと、そのうねりの間から魚の背びれがあらわれた。  魚も魚、平蔵と友五郎が乗っている小舟ほどもあろうかとおもわれる大鯉の背びれなのである。 (中略)  平蔵は、背すじがさむくなった。  魚の目とも人の目ともおもわれぬ不気味な光りをたたえた〔隠居〕の目であった。 「旦那。この隠居は、もう七、八十年も大川に棲《す》んでいるのでござんすよ」 「そうか……」 「あっしが若いころからの、古い|なじみ《ヽヽヽ》でさあ。いまの隠居は五尺を越えていましょうよ。目方はさよう、十貫もありやすかね。なじみの船頭の声をちゃんと聞きわけて、ときたま姿を見せてくれますがね」 [#ここで字下げ終わり] [#地付き]『大川の隠居』 [#改ページ] 瓜《うり》 揉《も》 み [#ここから2字下げ]  大滝の五郎蔵は、夜に入ってから帰ってきた。  今日も五郎蔵は、暑熱の日中を変装して江戸市中を歩きまわり、 「怪《あや》しい奴……」  に、目をつけていたのであろう。  おまさは、五郎蔵が好物の紫蘇《しそ》の葉をきざみこんだ瓜揉《うりも》みと、白焼《しらやき》にした鰺《あじ》を煮びたしにしたものを膳へ乗せ、これも五郎蔵の好みで、冷酒を茶わんに酌《く》んで出した。  裏手で行水《ぎようずい》をつかった五郎蔵が、さっぱりとした浴衣《ゆかた》に着替え、 「宗平|爺《とつ》つぁんは、もう寝たかえ?」 「ええ、先刻《さつき》。このごろは暗くなると、すぐに眼がくっつきそうになるといいますよ」 「それだけ爺つぁんの躰が、よくなったのさ」 「そうですねえ……」 [#ここで字下げ終わり] [#地付き]『むかしなじみ』  日本という国に生をうけたよろこびは、四季があるということだ。南洋の島々や東南アジアの国ぐにへも何回か旅をしたが、三百六十五日カンカン照りの真夏では、やっぱり、 (此処にはとても住めぬ……)  という気になる。  四季があると何故いいか。「飲むための主題」がそれだけ豊かだからである。酒を飲むこと即ち生きることと心得ている私のような人間にとっては、それが何よりうれしい。  雪が降れば、雪見酒。  花が咲けば、花見酒。  その花もさまざまである。寒梅。紅白の桃。早咲き、遅咲きの桜。花菖蒲。秋には菊。すすきを飾って月見酒という手もある。紅葉の季節には、どうしても紅葉酒。  ことほど左様に日本の春夏秋冬は、それぞれに美しく、それぞれに「飲まねばおさまらぬ」気にさせる。日本万歳と叫びたくなる。  しかし……である。  雪深い越後に育った私は、とにかく暑いのがきらいだ。寒さは何でもない。いくら寒くても、それなりに|よさ《ヽヽ》もある。 「あんなグータラ亭主、さっさと見切りをつけて別れておしまいよ」 「だって……」 「だって、何さ」 「だって、寒いんだもの……」  という、有名な落語の台詞もあるではないか。寒い時期はいろいろなものがうまくなる。 「寒《かん》」は美味の代名詞といってもよい。寒鰤《かんぶり》、寒鮒《かんぶな》、寒鯉《かんごい》、寒《かん》すずめ、寒餅《かんもち》、酒は寒造《かんづく》り。並べただけで生つばが出る。  それに反して、夏はどうか。  暑さからは逃げようがない。梅雨の最中《さなか》から残暑の候まで、私は死んだふりをきめこむしかない。もし、「瓜《うり》」というものがなかったら、とても生きてはいられないだろう。  蒸し暑く、頭に血がのぼりやすい日本の夏を楽しみに変え得る、ほとんど唯一のもの……といってはいい過ぎだが、瓜こそは造化の神がわれわれ日本人に与え給うた至高至善の恵みではあるまいか。五郎蔵ではないが、さっぱりと風呂で汗を流して浴衣に着かえ、胡瓜《きゆうり》揉みで冷酒を一杯、ぐいーっとやれば、このときばかりは、 (日本の夏は素晴らしい……)  などと思ったりしないわけには参らない。  物の本によると、瓜といういかにも清涼感を表わした名称は、やはり「潤」(うるおい、しめり、しっとり)と説明できるところから出たそうである。  日本は瓜天国《うりてんごく》だ。そんなことばがあるかどうか知らないが、三杯酢に浸した瓜揉みの歯ざわりと香りを楽しむたびに、理屈ぬきでそう思う。胡瓜ひとつにしても、日本の胡瓜と外国のそれとでは比べものにもならない。どうもアメリカやヨーロッパで味わう胡瓜は、確かに胡瓜には相違ないのだが、大味《おおあじ》で香りに乏しく、歯ざわりがだらしなく、胡瓜を食べた気がしない。  胡瓜の原産地は東インド、ヒマラヤの麓《ふもと》のあたりであるという。それが中国へ渡り、やがて日本へやって来た。中国へは西域《さいいき》を経てもたらされたため、胡椒《こしよう》、胡桃《くるみ》、胡麻《ごま》などと同様に「胡」の字がついた。日本渡来は相当古い時代のことらしい。平安朝の文献には、すでにその名が見えている。  ビニールハウスやら何やらのおかげで、いまや胡瓜は一年中われわれの身辺にある。その是非をここで論じてもはじまらぬ。だが、六月から七月にかけての太陽の直射によって育った胡瓜は、温室物とは香りが違う。やはり「旬《しゆん》」に味わってこその真味である。口やかましい食通や料理専門家は、 「それにしても近頃の胡瓜は、胡瓜ともいえない。戦前の胡瓜なら、瓜揉みの匂いが二階までも届いたものだ……」  と、慨嘆するが、もはやどうにもなりはしない。私の記憶でも、子どもの頃、田舎で食べた胡瓜は、もっと何倍も胡瓜らしい香りがしていた。土から口までの距離も時間も短かったからであろうか。 「三里四方の野菜を食べてさえいれば延命長寿まちがいなし」  と、昔の人はいった。今日、都会に住む人間にとって、それは夢のまた夢である。  胡瓜の成分は、たいていのウリ科の植物がそうであるように、九六・五パーセントまでが水である。だから栄養学的には何の意味もない……と馬鹿なことをいう徒輩もいないことはない。そういう人に無理に食べてもらう必要はさらさらない。  胡瓜にはカリウムが多く含まれている。これを多量に摂取すると、体内の塩分がそれに応じて多く排泄《はいせつ》される生理現象が生ずる。そうすると今度は、自然と躰が食塩類をより多く要求しはじめる。胡瓜の塩揉みや「もろきゅう」は伊達《だて》ではないのだ。そうやって食べるのが一番いいという神様の教えなのである。 「うりうりがうりうりにきてうりうらずうりうりかえるうりうりのこえ」  月々に月見る月は多けれど……と同じ類《たぐ》いのことば遊びだが、よくまあこれだけ「うり」を並べたものである。実際、日本にはいろいろな瓜がある。胡瓜《きゆうり》、越瓜《しろうり》、南瓜《かぼちや》、冬瓜《とうがん》、西瓜《すいか》、甜瓜《まくわうり》、苦瓜《にがうり》、糸瓜《へちま》……何だか漢字テストをされているような気がしてくる。  越瓜《しろうり》というのもなかなかいいものだ。これも近頃は五月から顔を出すが、本当にうまくなるのは暑さが本物になる七月から。「越」は現在の中国・広東および広西地方の古名で、原産地は東南アジアの熱帯地方とされているが、「越」を経てひろまった瓜だから越瓜である  漢名「越瓜」に対して、和名は「あさうり」「わさうり」あるいは「つのうり」等とさまざま。 「白瓜」ということばが初めて登場するのは、わが国最初の百科事典ともいうべき〔和名類聚抄《わみようるいじゆしよう》〕であるという。平安朝の中期に〔延喜式《えんぎしき》〕の続刊という形で出た解説書である。  関西ではもっぱら奈良漬専用の観がある越瓜だが、「雷干《かみなりぼし》」は古くから江戸名物の一つであった。越瓜を、まず、八センチほどに切り、外皮をごく薄く剥《は》ぐ。それから中心へ割り箸を突込んで|ぐりぐり《ヽヽヽヽ》とやり、種子をきれいに取り去る。次に、切り口へ斜めに庖丁を入れ、瓜をまわしながら切り進める。庖丁はできるだけ薄刃の、よく切れるものでないと、うまくいかない。  さて、うまく切り進むと、螺旋状にどんどん剥《む》けて、薄緑色のきれいな紐になる。これを竹箸に掛け渡して天日に干す。外が固く干しあがり、中心はまだ半生《はんなま》といった頃合いをはかって取り入れ、水洗いをしてから、二センチほどに切りそろえる。これで雷干の材料はできあがった。  あとは、いよいよ味わう番である。あまり酸味の強くない三杯酢に漬け、花かつおをかけて食べる。 「越瓜の雷干は、音の美味とでも言える洒落たものであります……」  とは辻嘉一老の名言であるが、盛大に|こりこり《ヽヽヽヽ》と音を立てて味わうに限る。その快い音を一段と高めたいなら鮑《あわび》も賽《さい》の目《め》に切って入れよう。しかし、高価な鮑を入れなくても十二分に夏の醍醐味《だいごみ》は味わえる。  ついぞ私は知らなかったが、糸瓜《へちま》も食べられるそうな。 「皮を分厚くむいて、そのまま水から茹でると、字のごとく糸状になってくれます。二センチ強に切り揃え、三杯酢やごま醤油などでいただくと、思いがけない洒落た美味に驚かれることでしょう」  と、これも辻嘉一からの請売りである。  毎年、夏は小さなベランダの鉢に糸瓜を植える。その結果はいつも家人の化粧水になるだけだった。今年は三杯酢を試してみるとしよう。 [#改ページ] 茄子《なす》の糠漬《ぬかづけ》・練《ね》り辛子添《がらしぞ》え [#ここから2字下げ]  その左側に〔槌《つち》や〕という煮売り酒屋があった。まわりには、びっしりと寺院がたちならんでいるが、それだけに客も多い。つまり、寺院に囲まれていれば、夜になると人目にもたたぬし、近くの大名・武家屋敷の渡り中間《ちゆうげん》などが酒をのみに来るには絶好の場所といってよい。 (中略)  長谷川平蔵は、少しはなれた衝立の蔭へ坐り込み、小女に酒をたのんだ。  遅れて入って来た平蔵を、甚助は|ちらり《ヽヽヽ》と見たが、そのときは平蔵、まだ塗笠をぬいでいなかったし、先刻とは打って変った着ながしの平蔵が、よもや、あの羽織・袴で馬に乗っていた武家だとはおもっていない。  小ぶりの茄子の糠漬《ぬかづけ》に練り辛子《がらし》をそえたものと、酒が運ばれてきた。この茄子が意外にうまい。  戸障子は開け放してあり、そこから冷んやりとした風がながれ込んでくる。 (これは、よい)  平蔵は俄然《がぜん》、おもしろくなってきて、盃を口へふくんだ。 [#ここで字下げ終わり] [#地付き]『助太刀』   「これやこれ江戸紫の若|茄子《なすび》」  宗因  鮮やかな茄子の紫紺色ほど、夏の間、われわれを楽しませてくれる色は少ないだろう。   「色は茄子の一夜漬」  と、諺《ことわざ》にもいう。糠味噌から出したばかりの色の美しいことといったらない。たちまち色が変わってしまうから、親の敵にでも出会ったように大急ぎで食べなくては損である。  日本人が昔から茄子好きなのはどうしてだろうか。あの色、なめらかで艶《つや》のある肌合い、独特の風味、どことなくとぼけた感じのユーモラスなかたち……その辺を精密に分析して行けば、茄子ひとつを材料に日本文化論が書けるかもしれないが、私などには所詮できない相談だからあきらめるしかない。せめて、せっせと食べるにしかず。漬けものが第一等だが、煮てよく、焼いてよく、揚げてよく、夏から秋まで毎日食べて飽きることがない。  茄子は縁起《えんぎ》のいいものである。   「一富士、二鷹、三茄子」  と、昔から夢占いの大吉とされている。しかし、夢で見るだけよりは、やはり食べるほうがさらにいい。そう思うのは私ばかりではなくて、蕪村の一句にはこうある。   「夢よりも貰ふ吉事や初茄子」  初物《はつもの》が大騒ぎされたのは初鰹のみならず初茄子もそうだった。これに初鮭、初茸を加えて「初物四天王」という。  英一蝶《はなぶさいつちよう》という人はさまざまなエピソードで知られているが、大名と張り合ってついに手に入れた石灯籠に灯を入れ、打水《うちみず》をした涼しい庭を見渡す縁側の膳には、出入りの八百屋が売りつけていった|走り《ヽヽ》の茄子を一品、それで晩酌の盃を傾けながら、 「天下にこれほどの贅沢はない」  と、いったそうである。  茄子は初物だけでなく、「終わり初物」といって、もうこれで来年まで味わえませんよという、半ば霜げたものがまたよろこばれた。   「あかぎれが切れると茄子もしまひ也」   「秋茄子はしうとの留守にばかり食ひ」  いずれもよく知られた古川柳である。後の句が「秋茄子は嫁に食わすな」という俗言を踏まえてのものであることはいうをまたぬ。  ところで、秋茄子を嫁に食べさせない理由だが、これにはいくつもの説がある。まず、出どころは、   「秋茄子《あきなすび》早酒《わささ》の粕《かす》に漬けまぜて嫁にはくれじ棚に置くとも」  という〔夫木集〕の一首であり、そこまではだれしも異論はないのだが、その先で解釈が違ってくるのである。  嫁|いびり《ヽヽヽ》を生き甲斐とする万代不易の姑気質を表わしたもの、とする説。  いや、そうではなく、茄子は食べ過ぎると腹が冷えて必ず腹痛下痢を引き起こす、それゆえにこれは、むしろ大事な嫁をいたわる姑の優しさを詠んだものである、という説。  あるいは、秋が深まるにつれて茄子も果中の種子が少なくなることから、「子種《こだね》」を失うことを恐れてである、という説。   「孫の顔見たら許さん秋茄子」  という句もあるくらいだから、第三の説は案外一般的に信じられていたのかもしれない。  右の説は全部間違いで、実はここでいう嫁とは「嫁が君」即ち|ねずみ《ヽヽヽ》のことに過ぎず、嫁姑の争いとは何の関係もない、という第四説もあるのはご存じだろうか。  総じて茄子は、煮るにも焼くにも、何故か胡麻の油がよく合う。そのことを最も強く感じさせるのは「茄子の胡麻だれ漬」だろう。暑中にふさわしい小付《こづけ》としてご紹介する。わが座右の一書・辰巳浜子著〔料理歳時記〕からの抜き書きである。  胡麻を香ばしく煎って、味噌になるまでよくよく摺《す》る。生姜をおろし、胡麻の五分の一くらいの量を混ぜる。味醂、醤油でやや固めにとく。ここで砂糖を入れれば女子供向き。酒徒には砂糖は邪魔である。  胡麻だれの用意ができたら、茄子を油焼きする。鍋に胡麻油を入れ、煮立ち始めたら直ちに、茄子を切るそばから入れて行く。両面にこんがり焼き目がついたら、順にあげて胡麻だれに漬け込む。茄子から何ともいえぬうまい汁が出て、胡麻だれがちょうどよい加減になる。  熱々《あつあつ》もよし、冷たくして味わうもよし。こういうのを肴に飲んでいれば、たとえ鰻にごぶさたをしても夏バテの恐れはさらにない。 [#改ページ] に ぎ り 飯《めし》 [#ここから2字下げ]  昼すぎだが、まだ、日は高い。  茶店には女房と娘がいるので、すぐさま老爺は出て行った。  女房がこしらえてくれた|にぎり飯《ヽヽヽヽ》には紫蘇《しそ》の葉をきざんでまぜ、塩かげんもよろしく、野菜の煮物の皿と共に、平蔵は|むしゃむしゃ《ヽヽヽヽヽヽ》と三個も平らげてしまった。 (なんということだ、今日のおれは……)  であった。 (いまいましい剣術つかいめ……)  おもわず、舌打ちが出るのであった。 (だが、|あやつ《ヽヽヽ》め、尋常ではない。剣術はかなりやったようだが、どこかおかしい) [#ここで字下げ終わり] [#地付き]『追跡』  どうしてもうまくてたまらない、だからつい食べ過ぎてしまい、 (これでは、また太ってしまうぞ……)  と、半ば後悔しつつも、なに明日から減食すればいいのだと、またもう一杯……それが白い米の飯である。世の中にこんなにうまいものが他にあるだろうか。  こういうことを書けば、おのずと年齢《とし》がわかるというものだ。しかし、いまさら年齢を気にするほどの年齢ではなし、大威張りで御飯礼賛をするとしよう。豊葦原瑞穂《とよあしはらのみずほ》の国の国民《くにたみ》として、御飯よりもパンがおいしいなどとぬかす現代の若い連中は許しがたい。  彼らの不幸は、本当の米の味を知らないことである。御飯というものがこれほどおいしいものかと実感したことがないのである。そして、米食民族よりもパン食民族のほうが何となく上だと思い込んでいる。けしからぬことだ。  古来、日本民族にとって米に勝る美味はなかった。平安朝時代、平城天皇の大同三年(八〇八)に、安倍真直・出雲広貞の両名が勅を奉じて撰述したという〔大同類聚方〕は、わが国の最も古い医書の一つだが、そこには誇らかに、こう書かれている。即ち、 「天地間之衆味、米第一」  米のうまさ、米の素晴らしさを称えた一人は、かの一休和尚で、人間は飯と汁があればそれで十分、あとは一杯|飲《や》って寝れば極楽だと喝破している。きちんと書けば、 「一代の守本尊は飯と汁となり、奢りを斥け倹約を違へず、家事をよく勤め、一杯飲んで寝たところ即ち極楽なり」  名言である。人生のあるべき姿がここに要約されている。現代社会の生活はあまりにも奢りに走り、倹約を忘れ、家事を等閑視しているのではなかろうか。  戯歌《ざれうた》の傑作に、こういうのもある。   「米・刀・女の才智・富士の山・畳・美濃紙・味噌・鰹節」  日本が世界に誇るべきものを並べた歌だが、その筆頭に米が置かれている。その米の真価が忘れられつつある。情けないというよりは恐ろしいことである。  つややかに光りかがやく米の飯は、銀飯《ぎんめし》と呼ばれ、鮨屋の隠語にいまもあるごとくシャリと呼ばれて尊ばれた。シャリはいうまでもなく「仏舎利」のシャリである。最もありがたいものである。それゆえに、だれでもごく自然に手を合わせ、 「いただきます……」  と、感謝をこめて祈った後に、しみじみと米の味を味わった。「御飯《ごはん》」ということばそのものが、米のありがたさを如実に物語っている。御飯を食べる習慣が薄れて行くにつれ、感謝の念も、「いただきます」と手を合わせるならわしも一緒に消滅しつつある。そして日本人が日本人でなくなりつつある。これが恐るべきことでなくて何だろう。  いつも、そんなことを考えているものだから、米を粗末にする人間を見ると頭に血がのぼる。ちかごろの若い人は、御飯粒が飯碗にこびりついていても平気だが、私は他人がそうするのを見るだけでも我慢がならぬ。駅弁を買えば、まず、蓋の裏についている飯粒を全部、一つずつきれいに食べなくては気が済まない。多少なりとも「飢え」というものを体験している戦前生まれの宿命だろうか。  米の飯の真味を最も感じさせるのは、やはり、握飯《にぎりめし》であろう。往昔は「屯食《とんじき》」と呼ばれたものの一種で、中古禁中または貴族の邸宅などで饗宴の際、庭上に並べて供された簡素な食事のこと……と本山荻舟は〔飲食事典〕の中に書いている。これを俗に「むすび」というのはもと女房ことばであるという。しかし、辻嘉一老は、「むすび」ということばにはさらに深い意味があるとする。万物は日輪より生ずる。太陽あっての生命《いのち》である。「日《ひ》」とはそもそも「霊《ひ》」の意であり、上古はおよそ物の霊なるを称して「ひ」といったという。この日のことをまた「産巣日《むすび》」という。万物はこれによって生ずることを意味している。この産巣日という神秘が食べものにも通じて、神秘的なおいしさの生まれる御飯を「むすび」というようになったに違いない……というのが辻老の説である。 「むすび」ということばの語源が学問的にどうであるかはどうでもいい。しかし、それが産巣日に由来するという辻嘉一の説には逆らいがたい説得力がある。 「両手に水をつけ、荒塩を塗りつけ、御飯を取りあげて固くむすびますと、両手の温《ぬく》みと湿《し》めり気と塩気によって、霊妙な旨味がかもしだされるのでありまして、ニギリメシ──と簡単無礼な呼び方でなく、|おむすび《ヽヽヽヽ》と申すべきであります」(中公文庫〔味覚三昧〕)  という一文に、私は感動するのである。といっても、「おむすび」はさすがに照れくさく、家ではいつも「おにぎり」というのだが。  両手の温もりが伝わってこその握飯であり「おむすび」である。だから、妙な道具を使って型抜きしたものは断じて「おむすび」ではあり得ない。  握飯にも昔は関東風と関西風があった。京阪では多く俵形につくって黒胡麻をまぶし、江戸では円形ないしは三角形につくって、胡麻をまぶすことは稀であったという。しかし、交通が発達し、流通が大規模になって日本全国が画一化されている今日では、握飯もまたどこへ行っても同じである。それが文明の進歩ということなのだろう。  いわゆる「幕の内」弁当には必ず小さなおにぎりが入っている。これは江戸時代に、もっぱら劇場関係者が手軽で便利な中食《ちゆうじき》として利用したのが始まりで、それが楽屋の役者たちの愛好するところとなり、さらにはひいき客までがこれを真似るようになり、ついには芝居茶屋でも商品化するに至ったものだ。  華やかな芝居の世界に生まれたものだけに、「幕の内」はたちまち贅沢で洒落たものへと発達した。玉子焼、かまぼこ、椎茸の煮しめ、焼き烏賊、鳥のうま煮、魚介の照り焼、栗の含め煮、こういった汁気のない|つまみ物《ヽヽヽヽ》が季節と好みに応じて取り合わせられ、「幕の内」は次第に芝居見物になくてはならぬ景物となって行くのである。ちなみに、江戸の「幕の内」では、おにぎりは小さく長円形につくるのが定式で、これに対して扁円または花形などに押し抜くのが京阪風であったという。  握飯なんて小学校の遠足以来お目にかかったことがない……という人もいるかもしれない。気の毒なことである。握飯はなにも子どもの遠足用と決まったものではない。これは酒の席でもまことに結構なものである。  空っ腹でいきなり飲みはじめるというのはあまり感心しない。そういうとき、とりあえず小さく握った一口《ひとくち》おにぎりを出すのが、拙宅のならわしである。塩だけのもの、紫蘇をきざみこんだもの、鱈子《たらこ》をまぶしたもの、あるいは味噌を塗って軽くあぶったもの、ちりめんじゃこを混ぜて握ったもの等々、バラエティは数限りなく考えられる。手間もかからぬ。これを一つ二つ食べてから、ゆっくりと腰をすえて飲みはじめるのである。  どういうわけか、握飯というのは冷めてからもうまい。だから、今日は飲んべえが集まるぞというとき、家人は大量の一口おにぎりを用意する。いろいろな趣向のものを、全部小さな一口サイズに握り、大皿に山と積んでおく。酒宴が終わろうとする頃、熱い味噌汁の一杯も出せば、残っていたおにぎりはあっという間に消える。どんなにお腹《なか》がいっぱいでも不思議におにぎりは腹におさまってしまう。やはり神秘の食べものである。 [#改ページ]   鬼平料理帳・秋 [#改ページ] 卵《たまご》  酒《ざけ》 [#ここから2字下げ]  毎日、秋の雨がよくふりつづいた。  久兵衛たちの処刑が決まったのは九月も中旬になってからのことで、 「私も年齢《とし》だなあ。夏の疲れが|どっ《ヽヽ》と出たようで、どうもいかぬよ」  平蔵は妻女の久栄《ひさえ》に苦笑をもらした。 「たまさかには御休息をなさいませんと……どこかへ気ばらしにでも」 「それもよいが、明日から早速に取りかからねばならぬこともあってな」 「それは?」 「なに、大したことではないのだが……」  すぐに竜淵堂一件へ取りかかるつもりなのだ。 「久栄。おもいきって、きらいな卵酒《たまござけ》でものんでみるか、精をつけるために、な」 「まあ……」 [#ここで字下げ終わり] [#地付き]『妖盗葵小僧』  ここでは、長谷川平蔵、 「きらいな卵酒《たまござけ》でものんでみるか……」  といっている。これは半ば冗談として妻の久栄に甘えているのだ。もちろん、いい酒をそのまま冷酒《ひや》でやるのが一番いいに決まっているが、平蔵は必ずしも卵酒が大嫌いというわけでもないのである。  それが証拠に、〔毒〕の一篇でも、やはり風邪を引いたと称して、久栄に、 「これ、女房どの。卵酒をこしらえてくれぬか」  と、要求している。  平蔵は、妻女・久栄が手ずからこしらえた卵酒でなくては承知しない。そこで── [#ここから2字下げ]  久栄は、侍女と共に台所へ出て仕度をととのえ、これを平蔵の居間へ運び、火鉢の前へすわり、手ずから卵酒をつくりにかかった。  小鍋へ卵を割りこみ、酒と少量の砂糖を加え、ゆるゆるとかきまぜ、熱くなったところで椀《わん》へもり、これに生姜《しようが》の搾《しぼ》り汁を落す。これが平蔵好みの卵酒であった。  久栄は、なれた手つきながら、凝《じつ》と火の加減と箸《はし》の先を見つめている── [#ここで字下げ終わり] [#地付き]『毒』  ということになる。 「なれた手つきながら……」  という一句で、平蔵の卵酒好きがわかるというものだ。  久栄が火加減と箸先から目を離さないのは、卵酒をうまくつくるも、つくらぬも、すべて|そこ《ヽヽ》にかかっているからである。煮過ぎた卵は固くなってしまい、卵酒の態をなさない。細心の気くばりが肝要であり、それゆえにこそ「女房どのの手づくり」でなければならぬということにもなる。  失敗しない卵酒のつくりかたは、先ず、酒だけを煮立ててしまうことだ。あまり酒の気を強くしたくない場合は(奈良漬を食べても酔っぱらうという人もあるから)、煮立った酒に火をつけてボッと燃やし、アルコール分を減らす。そこへ適量の砂糖を入れ、火をとめる。必ず火をとめることが眼目である。それから卵をほぐして入れれば間違いがない。なお、卵酒には卵黄だけを用いるのが定法とされている。しかし、白身も一緒に入れてしまったって、そこは好きずきでよかろう。  風邪気味のときなど、卵酒は躰が温まってよいという。平蔵が久栄にたのむのも、たいていそういうときである。とはいえ、風邪を引かなくては飲んではいけないというものでもない。寒い季節の懐石料理、たとえば夜咄《よばなし》の茶事などには、寒さをついて訪れた客のために、寄りつきに入るとすぐ卵酒を出す。それが甘酒の場合もあるが、要は、 「身も心も温まるように……」  という思いやりである。 〔料理物語〕では、卵酒と練酒《ねりざけ》を味で区別し、塩味のものを卵酒、砂糖の入った甘いものを練酒としている。どちらも冷酒で卵をとき、出すときに燗をつける点は変わらない。塩味の卵酒というのも案外いいのではなかろうかという気がするが、まだ試したことがない。  卵酒といわずに「エッグ・ノッグ」といえば立派なカクテルだ。これは銀器にぶっかき氷と卵一個、砂糖をティースプーン三杯、ウイスキーをシェリーグラス一杯分、それから牛乳をいっぱいに注ぎ入れ、シェーカーでよくシェークし、クラレット・グラスで供することになっている。ナツメグ(にくずく)をちょっときかせるのも悪くないし、さらに好みのリキュールを加えてもよい。  それにしても東西に卵酒があるのは面白いことだ。人間の考えることは世界中どこでもそんなに変わらないようである。 [#改ページ] 沙魚《はぜ》の煮《に》つけ [#ここから2字下げ]  ゆっくりと大川(隅田川)をのぼり、浅草・今戸橋に近い〔嶋《しま》や〕という船宿へ舟をつけたのは、八ツ(午後二時)ごろであったろうか……。 (中略) 〔嶋や〕には気のきいた板前がいて、ちょいとうまいものを食べさせるので、平蔵は|ひいき《ヽヽヽ》にしている。  さわやかに晴れわたった秋の空をながめながら、親しい友とのんびり酒をくみかわすことが、 「いまの|おれ《ヽヽ》の気ばらしになってしまった。おれも|じいさま《ヽヽヽヽ》になったものよ」  平蔵は、|ほろ《ヽヽ》苦く笑った。 「何をいうんだ。銕《てつ》さん」  と、左馬之助は、 「それならひとつ、粂八と三人で、|こってり《ヽヽヽヽ》した女《の》を抱きに行こうではないか」  息まいたものだ。 「ほほう……左馬には、まだ色気があったのか?」 「当り前だ。五十まではやるとも」 「ふ、ふふ……」  平蔵は、あぶらののった沙魚《はぜ》を、生醤油《きじようゆ》と酒で鹹《から》めに|さっ《ヽヽ》と煮つけたのを口へ入れて、 「女より、このほうがよい」 [#ここで字下げ終わり] [#地付き]『五年目の客』  ハゼは、沙魚とも鯊とも書く。広辞苑には蝦虎魚などというむずかしい書きかたも出ている。スズキ目ハゼ科に属する魚の総称で世界中に六百種もあるそうな。ほとんどは海水に棲むが、淡水産もいれば、汽水を棲み家とするのもいる。  日本にいるハゼは約二十種。その中で、 「江戸前の沙魚」  と呼ばれるのはマハゼあるいはホンハゼ。川の水と海の水が混じり合う河口近くの浅いところに棲み、秋晴れの続く頃ともなれば、釣人の絶好の対象となる。  素人でもわりあい簡単に釣れる、船の上で釣ったばかりの沙魚を天ぷらにして食べたらこたえられない……という悪友の誘いに乗って、一度だけ暗いうちから起き出して、沙魚釣りに出かけたことがある。結果は、一日中努力した甲斐もなく、たった三尾。  釣りのことになると、今年中学三年になる愚息に到底かなわない。この中学生は受験地獄など他人事と思い込んでいて、日夜、釣りの研究に余念がなく、将来は釣具屋と決めこんでいる。このことを聞いて、池波正太郎が、 「大学などへ行って四年間も浪費するより、早く世の中へ出て釣具屋になるほうがずっといい。ぜひ、釣具屋になれ。応援してやるぞ……」  と、いったものだから、愚息はすっかり|その気《ヽヽヽ》になってしまった。親としては、いささか複雑な気持ちである。  何年か前、この長男が初めて釣りに行き、大量の沙魚を釣ってきた。私は大いに喜んだが、家人は奥の部屋へ逃げ込んでしまい、 「沙魚だけは見るのもいや……」  と、出て来ない。あの姿かたちがどうしても気味が悪くて、料理をするどころではないという。確かに鮎や鯛のように優美とはいいがたい沙魚である。結局、知り合いの板前に頼んで全部下ごしらえをしてもらい、揚げるだけは家人がしぶしぶ揚げた。随分と高くついた沙魚の天ぷらだった。  沙魚の真味は秋の彼岸の頃といわれ、中日(秋分の日)に釣った沙魚を食べると中気《ちゆうき》にならないといういい伝えがある。薄く衣《ころも》をつけた天ぷらが代表的な沙魚の賞味法だが、長谷川平蔵(即ち池波正太郎)が、 「女より、このほうがよい」  と、いったように、生醤油と酒だけで鹹めにさっと煮つけたものこそ最上の美味ともいわれる。  新鮮な沙魚なら、糸づくりの刺身もよい。これは小さいものではだめで、二歳以上のフルセと呼ばれる大物を釣り上げたときのやりかたである。   「薄濁り来し潮やふるせ釣」  野石  子持ちの沙魚を背びらきにして、中骨を取り、子を中に詰めなおし、もとの形に竹の皮を裂いたものでくくり、甘からく煮つめるという料理がある。こうなると立派な料理屋の一品である。  秋に釣った沙魚を保存して、正月用の甘露煮にしようという場合は、内臓を出してしまってから風干しにし、それを一度焼いて、さらによく干して保存する。私のように三尾しか釣れなかったというのは例外で、たいてい何十尾とまとめて釣れるものだから、この保存法は覚えておくと重宝する。沙魚の焼干《やきぼし》は冬の間の鍋料理の煮出材料としてもなかなか乙なものである。  江戸時代に、どんな沙魚の料理があったろうかと調べてみたが、特別に変わったものは見あたらなかった。やっぱり、油で揚げておろし醤油で味わうのがよいと書いてある。田楽・唐がらしみそ、あるいは山椒みそ、というのもあった。これはちょっとよさそうに思える。今度、倅が釣ってきたときに試してみよう。 [#改ページ] 餡《あん》かけ豆腐《どうふ》・けんちん汁《じる》 [#ここから2字下げ]  門外の東の濠端に、夜になると〔茶飯《ちやめし》売り〕が荷を下す。ひどい雨でもないかぎり、かならずあらわれる。このあたりは幕府の御用屋敷が多く、夜ふけてからそれぞれの小者や、夜勤の者たちが腹をみたしに出て来るので、なかなか繁昌《はんじよう》をしているし、お上《かみ》のゆるしも得ていた。  あるじは五十五、六の、でっぷりと肥った老爺で、無口だがおだやかな人柄だし、それに茶飯がうまい、そのほかに餡《あん》かけ豆腐《どうふ》も売るし、燗酒《かんざけ》も出す。寒い夜などに気が向くと熱い〔けんちん汁〕の用意をしていることもあって、このあたりでは大評判になり、長谷川平蔵も、時折、食いしん坊の木村忠吾が夜勤のときなど、よびつけて、 「おい、うさぎ。濠端へ行け。ただし女房どのに気取られるなよ」  などと、銭をわたして茶飯と餡かけ豆腐を買いにやることもあった。  今夜も、茶飯売りは出ていた。 [#ここで字下げ終わり] [#地付き]『あきれた奴』  餡かけ豆腐。豆腐をやや大形に切り、たっぷりと水を加え、食塩を一つまみ入れ、煮加減をはかってすくいあげ、湯を切る。豆腐を煮るときは「塩一つまみ」を加えるのがよいということになっている。こうすると、普通の豆腐でも淡雪《あわゆき》のようにやわらかくなり、しかも少々煮過ぎても|す《ヽ》が入らない。  深い器に取った豆腐の上から、煮立てた葛餡をどろりとかけ、おろし生姜《しようが》、さらし葱、あるいは揉み海苔などを添えて、ハイお待ちどおさま……という次第。葛餡は、煮出汁に醤油・味醂などでややこっくりと味をつけ、煮立たせたところへ水で溶いた葛を加えて練ったもの。  餡かけ豆腐も、けんちん汁も、子どもの頃によく食べさせられたものだ。それというのも私の母が〔豆腐屋〕の血を引いているからである。母の実家は、信越国境に威容を誇る妙高山麓・赤倉の小さな湯治宿で、屋号を〔豆腐屋旅館〕といった。名の通り、実際に豆腐を手づくりしてい、それが名物だった。  学校が休みのときはきまって赤倉へ預けられて育った私は、こと豆腐のつくりかたなら、なかなか詳しいのである。叔父や従兄たちが毎朝三時起きして石臼《いしうす》をまわし、片手に持った木杓子で少しずつ、水をたっぷりと吸ってやわらかくなった大豆をすくい入れながら挽く様子を、この目で見ているからだ。 〔おぼろの餡かけ〕というのが私の大好物だった。餡かけ豆腐の一種には違いないが、豆腐が違う。まだ、しっかりと固まり切らぬ〔朧豆腐《おぼろどうふ》〕を用いるのだから、うまくないはずがない。丸い玉子も切りようで四角……というぐらいで、豆腐は四角のものと決まっているけれども、朧豆腐に限っては形があってないような感じ。椀の中の、半透明な葛の下に重なり合っていた、あの朧豆腐のことを思い出すとよだれが出そうである。いまにして思えば〔豆腐屋旅館〕なればこその凄い贅沢だった。  ちなみに、その宿は戦後豆腐づくりをやめてしまい、屋号も変えてしまった。だから私にはもう、おぼろの餡かけを気軽に味わう望みがない。無念至極。  けんちん汁。  これも豆腐料理の一つで、いわゆる卓袱《しつぽく》料理に属するものである。俗に「ケンチン」といっているが、巻繊または巻煎と書き、「ケンチェン」と発音するのが正しいそうな。精進料理の場合は、各種の野菜を繊《せん》に切り、豆腐はこまかく突き崩し、それぞれ胡麻油で炒めて混ぜ合わせ、醤油と酒で下味をつける(このプロセスが即ち「繊」ということになる)。  右の材料を湯葉《ゆば》で巻いて、止口《とめぐち》に水溶きした葛粉を塗り、最後に油で揚げるか、あるいは好みの味に煮ふくめる(湯葉で巻いて形をととのえることが即ち「巻」)。  しからば、なにも巻いてないのに|けんちん《ヽヽヽヽ》汁とは、これいかに。茶飯売りの無口な老爺が気が向くとつくるというけんちん汁は、豆腐を絞って水気を去り、胡麻の油で炒めたところへ、ささがき牛蒡、麻の実などを加えてなおよく炒め、別に清汁《すましじる》をつくり、椀に具を入れ、汁をはって、最後に揉み海苔を加えてあったはずである。  この、仕上げの揉み海苔が「巻」のつもりなのだ。ケンチンは文字通り繊に刻んで煎ったのを巻くのが趣意だから、揉み海苔を加えるのは「海苔巻」の略したかたちに他ならぬ。  豆腐料理に興味をお持ちのかたは、何としても一度、天明二年(一七八二)刊〔豆腐百珍〕に目を通さねばなるまい。話には聞いていたが、読んでみるとこんなに面白い本はない。すべての豆腐料理を尋常品《じんじようひん》・通品《つうひん》・佳品《かひん》・奇品《きひん》・妙品《みようひん》・絶品《ぜつぴん》の六段階に分類し、一から百まで、通し番号をつけて並べてある。  絶品の説明には、 「──奇品妙品は最《もつと》も美味といへども膏粱《むますぎる》に慊《きらひ》なきにあらす 絶品は珍奇模様《めつらかもやう》にかかはらずひたすら淮南《とうふ》の真味を覚《しる》べき絶妙の調味《てうみ》をしるす 豆腐嗜好《とうふすき》の人 是《これ》を味ふべし」  とあって、九十四番から百番まで、 「|油※[#「火+(世/木)」、unicode7160]《あげ》ながし」「辣料《からみ》豆腐《とうふ》」「礫《つぶて》でむがく」「湯やつこ」「雪消飯《ゆきけめし》」「鞍馬《くらま》とうふ」「真《しん》のうどんとうふ」の七品を挙げている。この名前から、それぞれどんなものか、ご想像になれますか。正解はどうぞ、〔翻刻江戸時代料理本集成〕(臨川書店)の第五巻二十一ページをごらんくだされ。 [#改ページ] 芋《いも》  酒《ざけ》 [#ここから2字下げ]  九平の|おもてむき《ヽヽヽヽヽ》の稼業は、居酒屋の亭主である。  神田・豊島《としま》町一丁目の、柳原土手に面した一角に、 〔芋酒《いもざけ》・加賀や〕  と染めぬいた|のれん《ヽヽヽ》をかかげ、ごく小さな店をやっているのだが、気が向かなければ店の戸を開けもしない。  それでいて、 「芋酒は加賀やにかぎる」  近辺では評判がよい。  芋酒というのは……。  皮をむいた山の芋を小さく切って笊《ざる》に入れ、これを熱湯にひたしておき、しばらくして引き上げ、摺《す》り鉢《ばち》へ取ってたんねんに摺り、ここへ酒を入れる。  つまり、|ねり《ヽヽ》酒のようにしたものを、もちいるときに燗《かん》をして出す。 「いやもう、加賀やの芋酒をやったら、一晩のうちに五人や六人の夜鷹を乗りこなすなざあ、わけもねえ」  と、これは近辺の大名屋敷にいる〔わたり中間《ちゆうげん》〕の|せりふ《ヽヽヽ》だ。 [#ここで字下げ終わり] [#地付き]『兇賊』  九平ご自慢の芋酒《いもざけ》なるもの、果たして本当にそれだけの効能があるかどうか……学者にいわせたら恐らく否定的な答えが返ってくるだろう。しかし、〔鬼平犯科帳〕を読むと、どうしても効《き》きそうな気がするから不思議である。そしてまた、 (これは絶対に効くのだから……)  と、自分自身で信じてさえいれば、本当に効きめがあるものではなかろうか。  世の中には数限りなく|その道《ヽヽヽ》に効くと称する薬が売られている。得体の知れぬそんな薬よりも、明らかに何の害(副作用)もないだけ芋酒のほうがずっとよい。  山の芋は、その名の通り、山野に自生するヤマノイモ科の多年生蔓草だ。茎は細く、他の植物にからまって伸び、長さ数メートルにおよぶ。夏に可憐な白い小花をつける。  地上の蔓にも小さな球状の実がなり、これを零余子《むかご》という。蔓を引っぱると、簡単にポロポロ落ちる。零余子は細い竹串に刺して|つけ《ヽヽ》焼にすると、ちょっとした酒の肴になる。  また、零余子飯《むかごめし》というのがある。 「米四カップにむかご一カップくらいの割合に、酒と少量の塩、醤油を加えて炊きあげ、おひつに移す時、新生姜のみじん切りを大匙山一杯を軽く混ぜ合せます」  と、辰巳浜子の〔料理歳時記〕にある。これを型で抜いた物相飯《もつそうめし》にすると、茶懐石風になって、大威張りで客に出せる。  零余子は、時期になると八百屋でも売っていないことはないが、普段から散歩がてら注意していると、案外身近なところに発見できるものである。東京近郊でいえば武蔵野の雑木林などが宝庫。それと知らずに、だれもが見過ごしていて、ああもったいない……と思うことがよくある。その下に埋れている山の芋本体まで勝手に掘り起こしては問題だが、零余子ぐらいなら拾い集めて頂戴してきても罰は当たらないだろう。  天然の山の芋は、特に自然薯《じねんじよ》の名で呼ばれる。これはステッキのように細長く、地中深くにまで達しているので、われわれ素人が掘ると、たいてい途中でポッキリ折れてしまう。長いものは二メートルにもおよぶが、そこまで伸びるには何年もかかる。  自然薯だけでは到底需要をまかないきれないので、これを改良してもっと手っ取り早く収穫できるようにした品種がいろいろつくり出されている。  真っすぐなのが長芋。  |ひね《ヽヽ》生姜のようになったのがツクネ芋。  仏手柑《ぶつしゆかん》のような掌状のものがヤマト芋。  扇子を開いたようなのが扇子芋。  扇子芋の小形版が銀杏《いちよう》芋。  穫れる場所の地形や土質によって、形も呼び名もさまざまに変わるが、どれも自然薯の改良種である。それらの中で、 「一番おいしくて色の白いのは関西のツクネ芋……」  と、辻嘉一著〔味覚三昧〕(中公文庫)にはあるが、まあ地元産の山の芋だって悪くはないだろう。ただし、真っすぐな長芋ばかりは、美しい白肉で、千切りにして揉み海苔をかけた一品としてはいいが、粘りが弱くて水分が多いので、とろろにはあまり向かない。とろろは、やはり、あの粘りが身上《しんじよう》だからである。  とろろは、古来、「精《せい》がつく」食べものとして珍重され、「山薬《さんやく》」とも呼ばれてきたそうな。〔和漢食物本草〕という古書には、 「とろろ汁折々すこし食すれば、脾腎のくすり気虚を補ふ」  とある。芋酒がもてはやされた所以《ゆえん》である。芋酒のつくりかたは池波正太郎が書いている通りで、早い話が「酒でときのばしたとろろ」である。一度実地に試してみれば、 「一晩に五人や六人……」  乗りこなせるかどうか、ご納得いただけよう。  山の芋には、澱粉《でんぷん》の消化酵素であるジアスターゼが、驚くほど豊富に含まれている。ジアスターゼの含有率が高いことでは大根おろしが有名だが、山の芋には遠く及ばぬ。だからこそ「麦とろ」という食べかたが考え出されたのである。  麦飯《むぎめし》というものは、本来、あまり消化のいいものではない。その麦飯にとろろ汁をかけ、ほとんど噛まずに何杯もおかわりをする。これほど胃に悪い食べかたはないわけだが、それが山の芋のジアスターゼのありがたさで、麦とろで消化不良を起こすことはまずない。  ジアスターゼは熱に弱いから、そういう意味でもとろろという方法で山の芋を生食するのは理にかなっている。昔の人の知恵というものは大したものなのだ。栄養学やら何やらを持ち出して理屈をこねるより、黙って古人の前に頭を下げるほうが、よほど得るところが多い。 [#改ページ] 芋《いも》  膾《なます》 [#ここから2字下げ]  九平の店で評判の食べものは、 〔芋膾《いもなます》〕である。  これは、里芋《さといも》の子を皮つきのまま蒸しあげ、いわゆる〔きぬかつぎ〕をつくり、鯉やすずきなどの魚を細目につくって塩と酢につけておき、芋の皮をむいて器《うつわ》へもったのへ魚の膾《なます》をのせ、合せ酢をかけまわし、きざみしょうがをそえた料理だ。  季節になると、加賀やの芋膾を食いに行こうというので、酒ののめない連中も九平の店へ押しかけるさわぎ。  気が向くと九平は、芋飯を炊《た》いて客へ出したりする。  どうも九平、芋が大好きなのらしい。 [#ここで字下げ終わり] [#地付き]『兇賊』  膾《なます》は、また鱠とも書く。  膾のほうが古くから用いられていたらしい。二種類の表記があることでもわかるように、もともとナマスとは、魚介に限らず、獣肉を千切りにしたものにも用いられることばだった。これは、わが国最古の調理法で、 「ナマスは細切肉の意で、ナマは生、スは醋である。生魚の肉を細かに切り醋で食うからナマスで、サシミ以前の名称である。(中略)  調味料はすべて醋が主であるから、サシミとは庖丁の景容で本質的にはナマスであり、現在のように醤油で食うサシミが主になったのは近世のことである」うんぬん。  と、本山荻舟は〔飲食事典〕の中で述べている。ところが、清水桂一編〔たべもの語源辞典〕によると、 「生肉をナマシシともいった。このナマシシがナマスになった。なますに、酢を用いるようになるのは、室町時代である。鱠は平安時代から盛んに用いられていたもので、酢を用いるからナマス(生酢)である説は間違っている」  だそうな。  学者というものは随分と厳密に物事を|せんさく《ヽヽヽヽ》するものだが、われわれとしては、この際、ナマスの由来が「生酢《ナマス》」でも「生肉《ナマシシ》」の訛りでも構わない。  それよりも芋膾である。  これは、なかなかの珍品であるように思われる。衣《きぬ》かつぎと膾を合わせたところがユニークだ。私の虎の巻である〔江戸時代料理本集成〕の総索引を鵜の目鷹の目で探したのだが、どうしても芋膾という一語は見つからなかった。  膾は「かて膾」といって、膾につくった魚に季節の青もの、大根、人参、あるいは独活《うど》の類《たぐ》いをきざみ、魚の相手に盛る、これが膾という料理の基本的な心得である……と〔八百善料理通〕の一節にある。しかし、ケンと呼ばれる添えものに芋はついに登場しない。  いろいろ考えた末に、これはいわゆる「かて膾」のジャンルに属するものではなく、あくまでも〔芋膾〕というオリジナル料理であろうと私は勝手に決めこみ、それ以上調べることをあきらめた。ともあれ池波正太郎が書いているからには、平蔵の時代にそういう料理が存在したことは間違いない。われわれ鬼平狂としては、そう信じていればよい。  九平の芋膾は鯉やすずきを使うと書いてあるが、これは旬《しゆん》の白身の魚なら何でもうまいだろうから、いずれ秋になったらどこかの料理屋でこしらえてもらおうと思っている。素人では、やっぱり、合わせ酢の微妙な加減がむずかしかろう。 [#改ページ] 鱸《すずき》 の 塩《しお》 焼《やき》 [#ここから2字下げ]  亡父遺愛の銀《ぎん》煙管《ぎせる》を手にした平蔵が、さもうまそうに煙りを吐いたとき、久栄と侍女が酒などを運んであらわれた。 「いかがなされました?」 「何が?」 「辰蔵が、泣いております」 「ふうん……」 「父上への申しわけに、腹を切るなぞと、申しておりまするが……」 「おお、切るがよかろう」 「なれど……」  侍女が運んできたものを置き、一礼して居間から出て行った。  それは、鱸《すずき》の塩焼《しおやき》であった。 「ほう、落ち鱸か……」 「五鉄《ごてつ》が届けてくれまして……」 「さようか。うまそうじゃな」 「先ず……」  と、久栄が酌《しやく》をした。 「うむ……」  と、盃をほした平蔵が、これを久栄にあたえ、 「さ、ひとつ……」 「ま、そのような……」 「よいわさ。本所のむかしにもどるがよい」  久栄へ酌をしてやった平蔵が、箸を把《と》って鱸の皿へつけた。 「殿さま……」 「む……?」 「辰蔵が、あの、腹を切ると申して……」 「切らせろ、切らせろ」 [#ここで字下げ終わり] [#地付き]『雲竜剣』  鱸《すずき》は古名を「節雪《すじゆき》」といった。それが転じてスズキとなった。すすいで洗ったように身が白く清らかなところから出た名称であるという。  いわゆる「出世魚」である。成長するに従って名前が変わる。東京では、稚魚をコッパと呼び、二十五センチぐらいまでの当歳魚をセイゴ、三十センチをこえた二〜三年魚をフッコ、五十センチをこえて成魚となったものをスズキと呼ぶ。ときには老大して三尺に達するものも珍しくない。  浅海魚で、北海道から九州まで、多くの内湾や沿岸に棲んでいるが、東京湾の鱸がことに名高い。「江戸前」を代表する|いなせ《ヽヽヽ》な魚なのである。暗青色の背、燻《いぶ》し銀の腹部、スズキ型ということばさえある美しい体型。魚河岸の古老にいわせると、 「こんな美《い》い女はいないねえ。それだけに苦労させられる……」  ということになる。商《あきな》いのむずかしい魚なのだそうな。河岸の問屋では、大盤台に五、六本ずつ並べて氷水でしめる。このとき塩をきかさないと鮮度がたちまち落ちてしまい、鱸独特のコリコリとした身がやわらかくなって、売りものにならない。また、スズキ型の美しいスタイルが身上《しんじよう》だから、それにも気を遣わねばならぬ。腹がペチャンコにならないように、ときには筆の柄を尻に突っ込んで息を吹き込んだりもするそうだ。  旬としては夏の魚である。河豚《ふぐ》ほど薄くはしないまでも、引きづくりにして、その引きしまった白身の歯ごたえを楽しむ。ポンズに紅葉《もみじ》おろしが普通だが、辛子味噌に限るという人もいる。  いつもは海岸近くに棲む鱸だが、夏になるとかなり川の上流までのぼって来る。餌の小魚たちを追ってのことだが、漁師は、 「夏バテの鱸が真水を飲みに来る……」  と、信じて疑わない。  秋になると、川にのぼっていた鱸が、再び海へ帰る。それが平蔵の食膳に供された「落ち鱸」である。塩焼にすれば、淡泊な中に何ともいえぬ滋味があり、さすが「江戸前」の代表と実感する。青い酢橘《すだち》を、あるいはレモンでも、しぼってかけると味が一段と引き立つ。椀ダネとしても珍重される高級魚である。〔料理物語〕には、 「鱸の汁は、昆布だしにて清汁よし、上置昆布、海髪《おご》も入れ、雲腸入れてよし、薄味噌にても仕立て候也」  と、ある。海髪《おご》は訛ってウゴとも呼ばれる紅藻類の海草で、灰汁《あく》を加えて湯がくと鮮やかな緑色になり、刺身のツマとして重用されているのはご存知の通り。また、雲腸とは白子《しらこ》のことである。  鱸は「松江魚」とも書く。中国の呉の松江《しようこう》に産するものが、古来、天下の珍品とされてきたからで、同名の島根県松江の宍道《しんじ》湖で獲れる鱸も名高い。これは真冬に「沖すき」として味わうものだそうだが、残念ながら、まだその機会に恵まれない。 [#改ページ] 里芋《さといも》と葱《ねぎ》のふくめ煮《に》 [#ここから2字下げ]  板屋根の、世辞《せじ》にも「よい」とはいえぬ造《つく》りだが、店構えはかなり大きく、表障子を開けはなして、紺地《こんじ》に〔一ぜんめし・どんぶり屋〕と白で染めぬいた大暖簾《おおのれん》が掛けてあった。  中は、幅《はば》一間の通路をはさみ、両側が|入れこみ《ヽヽヽヽ》の板敷きで、その上に薄縁《うすべ》りが敷きつめてある。  その一隅に、長谷川平蔵はすわりこんだ。 (中略) 〔どんぶり屋〕では、酒を出さぬ。出来るものは、いわゆる〔定食《ていしよく》〕のみであり、だまってすわると、盆にのせられた〔定食〕が運ばれて来て、食べ終れば七文を盆に乗せ、出て来ればよい。  すわった平蔵の前へ、盆が運ばれて来た。  熱い飯に味噌《みそ》汁。里芋《さといも》と葱《ねぎ》のふくめ煮と、大根の切漬《きりづけ》がついている。 「ふうむ……」  平蔵は、里芋を口にし、感心をした。  里芋と葱とは、ふしぎに合うもので、煮ふくめた里芋に葱の甘味がとけこみ、なんともいえずにうまい。なかなかに神経をつかって煮炊きをしている。 [#ここで字下げ終わり] [#地付き]『土蜘蛛の金五郎』  里芋の原産地は熱帯の東インド地方であるといわれる。日本へ渡来したのは随分古いことで、万葉集にも登場しているぐらいである。山野に自生する山の芋に対し、里に栽培されるから里芋。昔は「家《いえ》つ芋」と呼ばれた。  里芋が一番うまいのは旧暦の八月十五日、いわゆる仲秋名月の頃である。それで、この夜の月を「芋名月」などという。三方《さんぽう》に土器《かわらけ》をのせ、そこへ餅と小芋を十二個ずつ盛って月に供える。閏年《うるうどし》だけは十三個ずつ盛る。これが古来のしきたりだと物の本にあるが、昨今どれだけの人びとがこの風流なしきたりを守っていることか。  サトイモ科の芋は、調べてみると物凄く種類の多いことがわかった。私がこれまでに知っていたのは「八《や》つ頭《がしら》」と呼ばれるもの、京都名物の「いもぼう」に用いられる海老芋、それに石川芋ぐらいだった。細かく分けたら何十種とあるらしい。  それらのうちで代表格が「青芋」で、これはさらに青茎《あおくき》と赤茎《あかくき》に大別される。石川芋は青茎種に属し、海老芋は赤茎種に属する。  赤茎種は俗に「赤芋」とも呼ばれ、芋もうまいが同時にその茎も、いわゆる「ずいき」として珍重されている。このずいきには哀しい記憶がある。  終戦の前年、当時小学校(正しくは国民学校といったが)二年生だった私は、父の郷里である越後の高田に疎開《そかい》した。東京に比べれば段違いに食糧事情はよかったはずだが、母は非常に苦労をしたらしい。金は通用せず、物々交換でなければ何も手に入らなかった。そのため、きものも指輪も何もかも、 「おまえたちのために、全部、米や野菜に換えてしまった……」  と、今でも母はこぼす。  ある日、母が、 「きょうは、ずいきの味噌汁だよ……」  と、にこにこ顔で、私たちによそってくれた。一口食べた瞬間、|あっ《ヽヽ》と思ったがもう手遅れ。強烈な|えぐみ《ヽヽヽ》で唇といわず、舌といわず、完全にしびれてしまった。数千本の針がいっぺんに突き刺さったようなあの感触を、私は今もって忘れることができない。それは芋の部分しか食用にならぬ種類の茎だったのだ。口の中から目に見えない針がすっかり抜け落ちるまで何時間もかかり、とうとうその晩は、家族のだれもが眠れなかったことを覚えている。以来、私は、ずいきの酢の物を味わうときは、どうしても及び腰になってしまうのである。  古くから日本人にとって最もなじみの深いものだけに、里芋の賞味法もさまざまだ。長谷川平蔵を感心させた「里芋と葱のふくめ煮」はその最も巧みな一例である。芋も葱も、それぞれには別にどうということもない、ありふれた材料に過ぎない。それがたまたま一緒に煮ふくめられると、まったく思いもよらぬほどの美味に変貌する。これが相性《あいしよう》の不思議である。  小芋と飯《いい》だこの煮物。これも相性の見事な例だろう。秋も深まり、里芋がいよいようまくなった頃、飯だこが現れる。食べるのが気の毒なような、一口サイズの可愛らしいたこだ。秋を過ぎると飯だこは頭(といっているが、実は胴)の中に子を持つ。その子が御飯粒を思わせるので、飯だこである。  飯だこは、まず、塩で揉んでよく洗い、すみつぼと目、口を取り除き、熱湯をかけて|さっ《ヽヽ》と霜ふりにする。里芋は面とりむきにし、塩と酢を加えた熱湯でさっとゆで、引き上げてよく水で洗う。こうすると特有の|ぬめり《ヽヽヽ》がきれいに取れる。あとは、出汁、酒、味醂、醤油、ひとつまみの塩を合わせた煮汁で、たこと芋をじっくりと煮ればよい。  およそどんな料理でも、里芋を使う場合はぬめりをきれいに取り去るのが原則とされている。たいていの料理テキストに、そう書いてある。ところが、辰巳浜子のように、 「ぬめりを取ってしまっては、さといもの美味しい養分がみな流れ出てしまって、カスを食べることになる……」  と、真っ向から反論を唱える人もいるのだから、料理というものはむずかしい。 「さといもは、皮をむいたら決して水に浸《つ》けてはいけません。最初にさっと洗って、皮をむいたら、すぐ堅く絞ったふきんで拭きあげてください。茹でたり、ぬめりを洗うのも不要です。上等の鰹節の出汁なども必要ではありません。煮干や昆布の出汁で結構です。味がついた煮汁でいきなり煮あげてごらんなさい」  というのが辰巳浜子流。  一体、どちらが本当なのか。料理には本当も嘘もなくて、いろいろ人さまざまでいいのだろうと私は思う。かくかくしかじかでなければならぬと思い込むのが、こと食べものに関しては、一番馬鹿げたことである。 [#改ページ] 一《いつ》 本《ぽん》 饂《う》 飩《どん》 [#ここから2字下げ]  深川・蛤《はまぐり》町にある名刹《めいさつ》〔永寿山《えいじゆざん》・海福《かいふく》寺〕門前の豊島《としま》屋という茶屋で出す名物の〔一本饂飩《いつぽんうどん》〕は、盗賊改方の長官・長谷川平蔵が少年のころから土地《ところ》では知られたもので、 「おれが、本所・深川で|悪さ《ヽヽ》をしていた若いころには、三日にあげず、あの一本うどんを食いに行ったものだ」  などと平蔵、むかしをなつかしんで深川見廻りの若い同心たちへ語ったこともあった。  五寸四方の蒸籠《せいろう》ふうの入れ物へ、親指ほどの太さの一本うどんが白蛇のようにとぐろを巻いて盛られたのを、冬はあたため、夏は冷やし、これを箸でちぎりながら、好みによって柚子《ゆず》や摺胡麻《すりごま》、ねぎなどをあしらった濃目の汁《つゆ》をつけて食べる。 [#ここで字下げ終わり] [#地付き]『掻掘《かいぼり》のおけい』 〔鬼平犯科帳〕の連作がついに百回に達したとき、これを記念して江國滋と池波正太郎が対談をしている。その対談が掲載されたのは〔オール讀物〕の昭和五十一年十月特別号だから、もう六年も前のことになる。この間に、池波正太郎自身はすっかり眉が白くなった(これは長命のしるしだそうな)が、われらが鬼の平蔵はあまり年齢《とし》をとらず、ますますめざましい働きを続けている。われわれ熱狂的鬼平ファンとしては、まことに慶賀にたえない。池波正太郎ある限り鬼平も健在なのだから、池波正太郎にはできる限り健康で長生きをしてもらいたいものだ……と、しみじみ思わずにはいられない。  さて……。この記念対談の中に一本饂飩《いつぽんうどん》が登場する。読めば読むほど奇妙な食べものだから、江國さんとしても作者に質問せずにはいられなかったに違いない。そのくだりを抜き書きしよう。 江國 ……それから、深川蛤町の名刹《めいさつ》、永寿山海福寺門前の「一本うどん」。 池波 これは当時あったんです。 江國 いまないですね。 池波 いまはないです。 江國 どんなものかと思ったら、文中を拝見する限り、にょろにょろと、うんこみたいな感じで(笑)、きしめんの三倍くらいの……。 池波 そうです。要するに、そばがきのような感じのものですね。一本うどんを、ツルツルッとは食えないわけですから、箸でちぎって、つけ汁に入れて食うわけです。 江國 実際に「一本うどん」と称していたわけですか。 池波 ええ。「一本うどん」と看板かけて、これは元禄の頃からあったんですね。これは本当にあった言葉を使ったんですけれども。 江國 なるほど……。各篇に、それ以外にも例をあげればキリないくらい、食いものの描写はしょっちゅう出てくるわけです。それだけの下地があるだけに、このあいだの〔雲竜剣〕で、同心の片山慶次郎が殺されて、平蔵が憤怒の情で、その夜の膳が「口へ入れるものの味がさっぱりわからなかった」と、献立も書いてないし、普段だったら、必ず書く池波さんなんだけれども、それだけ|はらわた《ヽヽヽヽ》が煮えくり返っているという感じが、その一行でみごとに描かれている。 池波 書いていて平蔵の神経になっちゃっているから、自然にそういう風になってしまうのですね。  これで「一本うどん」については、よくおわかりいただけたことと思う。それにしても奇妙な食べものだ。こればかりは、たとえ現代にもあったとしても、正直な話、どうも食指が動かない。  うどんというのは、そもそもは奈良時代に渡来した唐菓子の一種だそうである。最初は小麦粉の団子に餡を入れて煮たのを「混沌《こんとん》」と称した。丸めた団子には始めも終わりもなく、何がどうなっているのか混沌としてわからないからだという。まるで嘘みたいな話だけれども、どうやら本当らしいのである。  しかし、いくら何でも「混沌」では食べものらしくない。そこで、せめて偏《へん》を食偏に改めようということになり、「|※[#「食+昆」、unicode991b]飩《こんとん》」と書くようになった。熱く煮て食するものだというので、やがて、「温飩《うんどん》」とも書くようになる。これがまた食偏でなければおかしいというわけで、ついに「饂飩《うどん》」になった……という次第である。  細い|ひも《ヽヽ》状に切った現在のうどんは、昔は「切麦《きりむぎ》」といった。切麦を熱くして食べれば「熱麦《あつむぎ》」、これを冷やして賞味すれば「冷麦《ひやむぎ》」である。今日ではアツムギのほうは消えてしまい、ヒヤムギということばだけが残っている。  うどんは、挽いた小麦の粉を、塩水を加えてよくよくこねあわせ、これを麺棒で薄く練りのばしたのを折り重ねて細く切ったもの、である。それを日に当てて乾燥させれば乾《ほし》うどんだ。  そうめんは、しからば、うどんとどう違うか。そうめんは、小麦粉を塩水でこねたのを麺棒で薄くのばし……と、ここまではうどんと同じだが、その先が少し違う。薄くのばしたものを円筒状に巻いて細く切り、そこへ胡麻油あるいは綿実油を塗って、さらに細長く引きのばす。それから干すのである。  うどんは|手打ち《ヽヽヽ》にしたものをすぐに食べるのを最上とするが、そうめんは逆だ。できたばかりの新製品より、古いもののほうが珍重される。京都の錦小路では「三年物」は新しいものよりぐんと値が張る。これはどういうわけかというと、年を越すごとに油っ気が枯れて、さらさらとした歯ごたえのよいものになるからである。そうめん狂にいわせると、 「ムシがついていないようでは、そうめんじゃない」  ということになる。  名古屋名物になっているきしめんも、やはり、うどんの一変型である。これは元来、こねた小麦粉を小さく丸め、それを押しつぶしてつくったものだった。その形が棋子《きし》(碁石)に似ていたので、きしめんと呼んだのである。それがいつの間にか今のような、平べったくて長い形状に変わったにもかかわらず、呼び名だけはそのまま引き継がれた……と、本山荻舟は解説している。  うどんの仲間として忘れがたいのは、山梨県の郷土料理「ほうとう」である。初めて甲府へ行ったとき、一日運転を頼んだタクシーの運転手氏に、 「この辺では何がうまいのかね?」  と、尋《き》いた。ところが、 「別にないです」  と、素気ない。  あわびを煮しめた「煮貝《にがい》」というのは知っていたが、煮貝で腹ごしらえというわけにも参らぬ。どうしたものかと思案していたときに「ほうとう」の看板が目に入った。 「あれは……?」  と、しつこく尋くと、 「ほうとうは、ほうとうです」  百聞は一見にしかず。とにかく食べてみればわかると、小さな大衆食堂風の一軒へ飛び込んだ。運転手氏は、さっぱり浮かぬ顔で、しぶしぶ私につきあってくれた。生まれて初めて食べた「ほうとう」は文句なしのうまさで、私は大いに感激した。  要するに、手打ちうどんの味噌煮込みである。厳密には、うどんとほうとうと、どこか微妙な違いがあるのかもしれないが、私にはわからない。ほうとう。どういう字を当てるのか全然見当もつかなかったが、今度調べてみたら「|※[#「食+専」、unicode993a]※[#「食+托のつくり」、unicode98e5]《ほうとう》」という物凄くありがたそうな字を書くのだった。これも奈良時代の唐菓子に由来するというから、いずれにせようどんの親戚である。  甲州の人たちにとって、ほうとうは金を払って外で食べるものではない。それぞれの家庭で自製して食する郷土食なのである。運転手氏がつまらなそうな顔をしたわけだ。気の毒なことをしてしまった。 「うまいものなら、南瓜《かぼちや》のほうとう」  といういいならわしが甲州人の間にはあるそうな。南瓜を入れるのがほうとうの定法らしい。しかもこれは、清少納言の時代からの|きまり《ヽヽヽ》である。〔枕草子〕に、こうある。 「時のほどにもなり侍りければと、罷り申して出づるを、しばし|ほうちはうたう《ヽヽヽヽヽヽヽ》まゐらせむなど、とどむるを、いみじういそげば……」  ほうちはうたう、漢字で書けば熟瓜※[#「食+専」、unicode993a]※[#「食+托のつくり」、unicode98e5]で熟瓜は南瓜のことに他ならぬ。  ほうとうが甲州名物になったのは、戦国の名将・武田信玄のおかげだといわれる。信玄袋や陣中味噌(一昼夜で食用になる味噌)などと共に、恰好の陣中食として信玄が領民へ普及させたという。  ほうとうは、だれにでも家で簡単につくれる。小麦粉を水でこね、麺棒で大きくのばし、折りたたみ、庖丁で細長く切る。別に季節の野菜をたっぷりと入れた味噌汁をつくり、この中にほうとうを入れて、よく煮込む。味噌汁の出汁《だし》は煮干《にぼし》がいい。薬味には、きざみ葱や青紫蘇など。  私は、たいてい豚の三枚肉《ばらにく》も放り込む。邪道ではあろうが、そのほうが好きなのだからしかたがない。秋だったら、しめじ、初茸、えのき茸、なめこ、何でもいい、そのときにあるきのこを入れる。  熱いところをふうふう吹くようにして食べ、汗をたっぷりとかけば、いやなことはみんな忘れてしまう。 [#改ページ] 鰻《うなぎ》 の 蒲《かば》 焼《やき》 [#ここから2字下げ]  尾行をしながら辰蔵は、鰻屋〔喜多川〕のことをおもい浮かべていた。〔喜多川〕へは悪友の阿部弥太郎にさそわれ、三度ほど食べに行ったことがある。去年の春ごろに開業したばかりの〔喜多川〕は、小体《こてい》な店で、主人の惣七《そうしち》夫婦に料理人、小女《こおんな》をふくめて五人きりの人手で商売をしているのだが、押すな押すなの繁昌ぶりであった。  蕎麦にしろ鰻にしろ、近年は、調理法に贅沢《ぜいたく》な変化があらわれてきはじめた。辰蔵が子供のころは、鰻なぞも丸焼きにしたやつへ山椒味噌《さんしよみそ》をぬったり豆油《たまり》へつけたりして食べさせたもので、江戸市中でも、ごく下等な食物とされていたものだ。とても市中の目ぬきの場所に店をかまえて商売ができる代物《しろもの》ではなかったのである。  それが近年、鰻を丸のままでなく、背開きにして食べよいように切ったのへ串を打ち、これを蒸銅壺《むしどうこ》にならべて蒸し、あぶらをぬいてやわらかくしたのを今度は|タレ《ヽヽ》をつけて焼きあげるという、手のこんだ料理になった。これをよい器《うつわ》へもって小ぎれいに食べさせる。 「鰻というものが、こんなにおいしいものとは知らなかった……」  いったん口にすると、後をひいてたまらなくなる。客がたちまちに増え、したがって鰻屋の格もあがり、江戸市中にたちまち、鰻屋が増えたのだ。 [#ここで字下げ終わり] [#地付き]『泥鰌の和助始末』  鰻が大好きで、週に一度は食べる。 (世の中に、こんなにうまいものが他にあるだろうか……)  と、そのたびに思う。  鰻の食べかたは池波正太郎に教わった。要は、お腹をぺこぺこに空かせておいて、ひたすら鰻にかぶりつくこと、である。 「蒲焼が来るまで、何も食べちゃいけない。せいぜいお新香ぐらいで酒を飲みながら、待つんだよ。そのお新香さえもいけないと、ぼくらは若い頃にいわれたものだ……」  と、池波正太郎はいった。  ほぼ忠実にその教えを守っているが、肝焼《きもやき》があると、つい手が出てしまう。蒲焼にもまして肝焼に目がないからである。あの、ほろほろとした苦《にが》さが何ともいえない。  鰻の蒲焼という食べものも、関東人と関西人の間で、つねに激論のテーマになる。  関東の蒲焼は、池波正太郎が書いている通りで、背開きにするのと一度白焼きにして蒸すことが特徴だ。これに対して関西は、鰻を腹から割き、蒸さずにそのまま焼く。どっちがいいとか悪いとかいう筋合いのものではないが、人間は|こと《ヽヽ》食いものの件になると激しやすい。  どうやら関東勢が優勢という中にあって、 「お前ら、知らんけどな、大阪のうなぎはうまいねんで。こんなベチャーとしたヤラシイうなぎは、うなぎのうちに入っとらん。うなぎいうもんはやな、パリッと焼いて、焦げた所がうまいねん。それがご飯の中にも入ったるんやで、もちろんご飯の上にものってるでえ。フタしてあるから、ご飯にむされて、やらこうなるんや。そのうち、大阪へいったら、いっぺん食わしたる」  と、東京生まれの子どもたちを相手に悲憤慷慨《ひふんこうがい》しているのはサトウサンペイである。(同氏著〔けっこうエーこといってるんですが〕文藝春秋)しかし、大阪でうなぎを食べて帰って来た子どもたちは、 「ぼくらは、東京のほうがいいな」  と、いったそうな。  氏《うじ》より育ち、東京で育てたのが失敗であった……とサトウサンペイは慨嘆しているが、必ずしも育ちだけで結論は下せない。というのは、姫路に江戸時代からの暖簾《のれん》を誇る〔森重《もりじゆう》〕という鰻屋があり、やがてはそこの当主たるべき子どもがいる。実は、私の甥っ子である。この小学生が何日間か拙宅に滞在したとき、一度、鰻を食べに連れて行った。鰻屋の倅だけに、 「三度さんど、鰻でもいい……」  というほどの鰻好きである。この子が生まれて初めて東京の蒲焼を味わって、いわく。 「お父さんの焼いてくれるのより、こっちのほうが、ずうっとええわァ」  しかし、彼が土産に持って来てくれた姫路の蒲焼も文句なしにおいしかったことを付け加えておかなければ、片手落ちというものであろう。  何故《なにゆえ》に、関東と関西で、こうも対照的な鰻の料理法が発達したのか。それは、 「地図をひろげてご覧になれば一目瞭然にその理由がわかります……」  と、辻嘉一はいう。  関東の、いわゆる関八州の水は、広大な平野を悠々と流れつつ、やがて集まって大利根川となり、氾濫《はんらん》をしては沼をつくり、霞ヶ浦となり、そうして太平洋へそそぐ。こういう悠然たる流れに育った鰻は、早瀬の鰻と違って、どうしても一種の泥臭さを伴う。それを取り去るための知恵が関東風の料理法であって、関東の鰻にはそれが最も適している。  一方、総じて関西の川は、山から海までの距離が短く、流れも早い。また、関西には火山がなく、土質がよい。このために関西の鰻は泥臭味が少ない。だから、昔から頭をつけたまま腹開きにして、時間をかけてそのまま焼きあげているのである……と、〔味覚三昧〕にある。  鰻を食べると精《せい》がつくというのは万葉の頃からの通説である。質のよい蛋白質と脂肪を大量に含み、しかもビタミンAの豊富さにおいては並ぶものがない。昔の人は経験的にそういうことをちゃんと知っていた。  吉田石麻呂《よしだいそまろ》という人は、ひどくやせていて、いくら食べても一向に太らない。そこで、大伴家持《おおとものやかもち》が石麻呂を冷やかして、一首。   「石麻呂《いそまろ》に吾もの申す夏やせによしといふものぞ武奈伎《むなぎ》とりめせ」  ひどい夏やせですねえ、鰻でも召し上がったらいかが……というわけだ。すると石麻呂が早速、歌でやり返した。   「痩す痩すも生けらばあらむをはたやはた鰻を捕ると河に流るな」  即ち、いくらやせていたって、生きているだけまし、そちら様こそ鰻を獲りに行って溺れ死んだりしないように……という忠告。食べもの論争も和歌でやりあえば優雅なものだ。  夏の土用丑《どよううし》の日には鰻を食べるならわしがある。だから、何となく鰻の旬《しゆん》は夏のように思われているが、実際は、鰻の味は一年中あまり変わりがない。強《し》いていえば、「秋の下《くだ》り」といって、川を下って海へ産卵に向かうときの鰻が一番の美味とされる。 「丑の日は鰻の日」という慣習の由来については、平賀源内のアイデアだという説、いや大田|南畝《なんぽ》(蜀山人)の着想だという説など、いろいろあってそれぞれに面白い。しかし、文政の頃、江戸は神田和泉町にあった〔春木屋善兵衛〕という鰻屋が元祖であるという説が、どうやら本当のようである。  春木屋の初代は、実は、青木勝馬という武士だった。松平右近という大名に仕えていたが、ある年の月見の宴に無断欠席をしたために叱責され、いや気がさした勝馬は侍を廃業して鰻屋になってしまった。肩肘張って暮らすより、ぬらりくらりと気ままに世渡りをしようというわけである。本名では恐れ多いので「青木」を「春木」に変えて屋号とした。  あるとき、出入り先の秋田藩・佐竹侯の屋敷(藤堂和泉家ともいう)から、暑中の蒲焼の保存法を尋ねられたので、土用の子《ね》の日、丑《うし》の日、寅《とら》の日にそれぞれ蒲焼をつくり、甕《かめ》に入れ、密封して土中に埋めた。後日、取り出してみると、子の日と寅の日に焼いたものは全然食べられたものではなかったのに対し、丑の日のものだけは色も味も香りも変わらなかった。そこで、丑の日の鰻には何か霊験があるに違いない……というので、春木屋善兵衛方では毎年、土用の丑の日に佐竹藩屋敷へ蒲焼を納めることになり、以後、 「土用丑の日元祖・春木屋善兵衛」  なる看板を掲げて大いに繁昌したということである。右の話は、多田鉄之助著〔食通ものしり読本〕(新人物往来社)に載っていた。  鰻の名店は各所にあって、多くの本に紹介されているが、これだけはどなたもあまりご存じあるまいという、変わったところを一つ。店ともいえない、屋台に毛の生えたような店である。屋号もわからない。鰻を焼く脂煙《あぶらげむり》で何もかも黒くなっているからだ。  場所は東京新宿の西口。通称「小便横丁」のちょうど真ん中にある。ここは、重箱に入った上品な蒲焼を食べるところではよもやない。カウンターに向かって、コップ酒か焼酎をやりながら「鰻のフルコース」を貪《むさぼ》りくらうところである。鰻の頭、|かま《ヽヽ》の部分、ひれ、骨、肝などを、それぞれ串焼で食べる。よほどの|鰻きちがい《ヽヽヽヽヽ》でなければ、店を見ただけで二の足を踏むだろう。しかし、実にうまい。  せいぜい十四、五人分の椅子しかないから、いつも満員である。間違いなく坐りたかったら、店が開《あ》くのを待って、 「三時きっかりに来てくださいよ……」  と、主《あるじ》はいう。酒を二杯飲んで、フルコースを往復《ヽヽ》しても二千円で釣りが来た、と思う。興味のあるかたはお出かけください。 [#改ページ] 柿《かき》の味醂《みりん》かけ [#ここから2字下げ] 「ま、おあがり下さい。取り散らかしておりますが……」 「では……」  中へ入って、新五郎は、すぐに酒の仕度にかかった。  平蔵が持って来た柄樽の酒を、新五郎は押しいただくようにして、 「躰が弱いくせに、これだけは、どうしてもやめられませぬ」 「のみようによっては、百薬の長と申します」 「はい、はい」  小坊主が、柿を剥いたのへ味醂をかけまわしたものを運んで来た。  一口食べて、 「これは、しゃれたものだ」  平蔵は、はじめての味わいに感心をした。 「坊さんというのは、あれで食べものには、意外な工夫をいたしますよ」 [#ここで字下げ終わり] [#地付き]『おかね新五郎』  柿は、もともと日本に自生していた植物らしく、古事記や日本書紀にも、人名あるいは地名としてしばしば「かき」ということばが出てくるという。北海道を除く全国に分布しており、種類も非常に多い。甘柿と渋柿に大別されるが、西日本には甘柿が、北日本には渋柿が主として栽培されている。 「桃栗三年、柿八年」  と、俗にいう通り、発育は遅い。しかし、接木《つぎき》をすれば三年ぐらいで実を結ぶ。日本が世界に誇る果物だが、つややかな美しい実ばかりでなく、柿の木も堅い材質がさまざまな器具の製造に珍重されている。近頃では、ゴルフのウッドクラブ用に最良の材料として、各地の柿の木が大量に伐《き》られているという。ゴルファーのために柿の木が根絶やしにされてはたまらない。これだけ科学が発達しているというのに、天然の貴重な柿材にまさる合成クラブはできないのだろうか。  酒好きは概して柿好きである。これはあながち根拠のないことではない。柿の成分に含まれているタンニンは酔いざましに効果があるからである。 「柿なます」という食べものは、正月の祝いに欠かせないものの一つになっているが、酒を飲むことの多い正月に柿なますを膳のきまりとした古人の知恵には、恐れ入るしかない。酢の物が肝臓の働きを助ける上に、柿の成分が酔いをやわらげる。実に理にかなった食べものなのだ。  三百六十五日、酒がなくてはいられないという飲んべえには、ぜひともせっせと柿なますを召し上がるようお勧めする。柿の出回っているときなら甘柿で、そうでない季節にも干柿を使って、柿なますをつくればよい。  大根と人参を細かくきざみ、ほんの少し塩をふりかけてしんなりさせ、固くしぼっておく。甘柿の皮を剥き、短冊に切り、大根・人参に混ぜあわせて、柿の甘味を大根になじませる。これを、味醂たっぷり、酢、醤油をほんの少し、入れたければ化学調味料も適当に加えたものに漬けこむ。菊の葉を敷いて盛りつけたり、笹の葉に盛って季節の小花を飾ったりすれば、ちょっと懐石風のしゃれた一品になる。  江戸時代には、柿を材料とした手のこんだ料理がいろいろあった。  たとえば、柿けんちん。これは、種子《たね》を取った柿を小口からきざみ、すり鉢でよくすりつぶす。そこへ寒ざらし粉(白玉粉)と極上の葛《くず》とを等分に混ぜたものを、柿の三分ほど加え、さらによくする。固すぎるようだったら水でゆるめる。  別に、牛蒡の千切り、三葉、木くらげ、椎茸などを全部一緒に味をつけておく。  生湯葉《なまゆば》を一枚置き、その上へすりあわせた柿を敷き延べ、きざんだ野菜類を並べ、くるくると端から巻きあげてとめる。こうしてできたものを、 「かや、胡麻等のあぶらにて揚げ、小口切にして酒菜《とりさかな》、重引《ぢゆうひき》、台引《だいひき》などに用ふべし」  と、〔素人庖丁〕にある。  他に、柿寄せ、柿の白和え、同じく黒和え、柿の海苔たたき、大根たたき、柿衣《かきころも》、小倉もどき、柿しんじょ等々。  柿の海苔たたきは簡単だ。柿を庖丁の背でよくたたき、そこへ浅草海苔を火どって揉みほぐしたものを加え、生酢《きず》でゆるめる。これを小鉢に入れて出すべし……というわけである。これにおろし大根も加えれば、大根たたき。試してみたが、酒の肴としては悪くなかった。  柿香物《かきこうのもの》というのもある。これは文字通り柿をそのまま糠味噌に潰けたもので「渋柿さしつかへなし」と注釈がしてあった。 [#改ページ]   鬼平料理帳・冬 [#改ページ] 白粥《しらがゆ》に葱入《ねぎい》りの煎《い》り卵《たまご》 [#ここから2字下げ]  その日の夜に入って……。  久栄は、みずから台所へ立ち、良人が好物の白粥《しらがゆ》に葱《ねぎ》入りの煎り卵をそえ、寝間へはこんで行った。 「ずいぶんとねむったものだな……」  久栄に起こされて平蔵は、われながらおどろいたらしい。 「|もの《ヽヽ》も食べず、用も足《た》さずにとはなあ……」  さも、おいしそうに粥と卵を食べるや、 「今日は、上様(将軍)が小松川のあたりへ鷹狩《たかが》りにおいであそばしたはず……」  そんなことをつぶやいていたかとおもうと、またも|いびき《ヽヽヽ》をたてはじめた。  平蔵の寝顔には、疲労が青ぐろく浮きあがり、|ひげ《ヽヽ》もあたらぬままなので、行灯《あんどん》のあかりで見ると、まるで病人に見えた。 [#ここで字下げ終わり] [#地付き]『礼金二百両』  江戸後期の農学者に大蔵永常《おおくらながつね》という人がいる。豊後《ぶんご》の人で、諸国の農事を見聞した後、みずからこれを実地に試み、その成果を何冊かの農業指導書として残した、と、広辞苑にある。一七六八年頃の生まれというから、長谷川平蔵よりは二まわりほど若いことになる。ちなみに、平蔵は延享二年(一七四五)に生まれ、寛政七年(一七九五)に五十歳で没している。〔長谷川平蔵──その生涯と人足寄場〕(滝川政次郎著・朝日新聞社)なる研究書を、その題名に惹かれて読んでみたら、そう書いてあった。  ところで、この大蔵永常の一文に〔竈《かまど》の賑《にぎわ》い〕というのがあって、白粥《しらがゆ》について延々と述べている。粥に関する話としては間然するところがないと思われるので、ちょっと長いがそっくり引用しよう。  関東にて白粥は味なきものとて食する人稀なり。つらつら考ふるに畿内辺のたき方は大いにちがへり。白粥はたき加減によりて美味にして勝手よきものなり。  先づたきやうはいつも食する飯の米を洗ふより前目に洗ふべし。未だ水に白みある位にして釜に入れ、水加減してたくに、吹上りたるとき火を減ずべし。吹上りこぼるるとて蓋を皆あけてたかば粥の味ひを失ふゆゑ、蓋を取りきらずに少しあけて火を減じたくべし。  このとき米二三粒を杓子にてすくひとり指にてつまみ見るに少し真《しん》のある位なるを、薪を引きつくし、煙草二三服のむ間そのまま置き、釜をおろし、また煙草二三服のむ間蒸し置き、釜より直にもり食すべし。  かくの如くしてたきたる粥は甘味ありて宜し。これを二年が間|朝夕《てうせき》するときは無病になり、容貌うるはしく極めて肥満する也。これは浪華にて多く試し見たることなり。(中略)  若き人は粥を食すれば腹減りて体つかるるなどといへども、声をつかふものは臓腑の働き強けれども粥を好めり。角力取は朝|地取《ぢどり》(稽古)しまひて多く白粥を好めり。  まあ、こんな具合だ。  大蔵永常の説では、関東では白粥は好まれないことになっているが、そうすると長谷川平蔵は「稀な人」ということになる。父・宣雄に随《つ》いて京都へ行って暮らしている間に、粥好きの関西人に影響されたのだろうか。  私自身の好みからいえば、圧倒的に雑炊《ぞうすい》である。というのも、冬の間中ほとんど毎晩のように鍋物をやるからで、しめくくりはどうしても雑炊ということになる。白粥は、もっぱら宿酔の朝か風邪を引いて寝込んだときに限られる。  滅多に食べないだけに、梅干しで白粥を食べるときは、しみじみと米そのもののおいしさを感じる。そして、ちょっぴり年齢《とし》を感じるのである。  平蔵の好物・葱入りの煎り卵は、間違いなく池波正太郎自身の好物である。東京・外神田の割烹〔花ぶさ〕といえば、いやしくも池波正太郎ファンであれば、だれでもご存知と思われるが、その〔花ぶさ〕で、池波正太郎が特に注文して葱入り煎り卵をつくらせるのを目撃したことがある。  いいつけられた板前が、たまたま若い人だった所為《せい》か、どうこしらえてよいのかわからなくておろおろしていたのを思い出す。それでもそこはプロの端くれ、どうにか自分なりに考えてつくった。一口食べて池波正太郎いわく、 「もっと、葱をたくさん入れるんだよ……」  ちょっと思い出したので書き加えておくが、粥をつくるには「行平《ゆきひら》」が欠かせない。ずんぐりむっくりした、把手《とつて》と注口《つぎぐち》のついた例の土鍋である。|あれ《ヽヽ》を何故「ゆきひら」と呼ぶか。加藤唐九郎編ずるところの〔原色陶器大辞典〕(淡交社)によると、そもそもは塩を焼くための道具より起こったもので、須磨へ流されて、   「わくらばに問ふ人あらば須磨の浦に藻塩たれつつわぶとこたへよ」  と詠んだ在原行平《ありわらのゆきひら》の名にちなみ、この名が生まれたよし。弟の在原|業平《なりひら》は色好みの典型的美男として歴史にその名を残しているが、行平のほうはどうだったのだろうか。 [#改ページ] 兎汁《うさぎじる》と桜飯《さくらめし》 [#ここから2字下げ]  ここは、京橋の東詰を北へ行った大根河岸《だいこんがし》にある〔万七《まんしち》〕という小体《こてい》な料理屋の、二階の小座敷《こざしき》である。 〔万七〕の名物は兎汁《うさぎじる》だが、将軍家も元旦には兎の吸物《すいもの》を口にするというので、数は少いが兎の料理を好む客もいる。 〔万七〕の兎は臭味《くさみ》のない野兎を使い、汁も鍋も平蔵の大好物であった。 「あのようにうまい物を口にせぬのは、食わずぎらいというものじゃ。のう、久栄《ひさえ》。二人でいっしょに、そっと万七へ行ってみようではないか」  いつか、妻の久栄へ冗談まじりにいうと、 「まあ、獣《けもの》の肉を、口にすることなど、おもうてみても恐ろしゅうございます」  と、久栄は眉《まゆ》をひそめたものだ。 (中略)  いつもの二階座敷へ入り、先ず生薑《しようが》と葱《ねぎ》をあしらった兎汁で酒を飲み、しばらく休んだのちに、これもここの名物の桜飯《さくらめし》と魚の刺身で腹ごしらえをするのが平蔵の|ならわし《ヽヽヽヽ》である。  兎汁といっても、ここのは小さな鉄鍋を火鉢にのせ、女中が出汁《だし》をそそぎ、客の目の前でつくる。淡泊な兎の肉の脂肪が秘伝《ひでん》の出汁に溶けて、平蔵にはたまらなくうまい。 (さて、そろそろ腹ごしらえをするか……)  銀煙管をしまった平蔵は、身を起した。 [#ここで字下げ終わり] [#地付き]『霜夜』  現代は肉食の時代といってもよかろう。若い人たちに、何でも好きなものをご馳走しようといったら、たいてい「それならステーキ」という返事がかえってくる。  デパートの食肉売場をのぞいて見れば、肉の種類のいろいろあることに驚く。あらゆる部位の牛肉が、とても覚え切れないカタカナ名前で並んでいるし、豚肉あり、羊肉あり、鶏肉あり、さらには七面鳥、ホロホロ鳥などというものさえあったりする。しかし、兎肉ばかりは見たことがない。  フランス人は、好きだからか、あるいは安いからか、よく兎肉を食べるようだ。池波正太郎の供《とも》をしてフランスの田舎を旅したとき、私も一度だけ兎肉なるものを味わった。薄切りにして濃いソースで煮こんであったような気がする。よく覚えていないのは、そこへ行きつくまでにコース半ばでダウンし、ほんの一切れを必死の思いで口にしただけだったからである。池波正太郎がきれいに食べたことはいうまでもない。  さて……。わが国の習俗として獣肉を食することが忌避された時代にも、兎肉だけは特別な扱いを受け、鳥類と同様に処理されていた。それゆえに兎は、鳥でもないのに「一羽、二羽……」と数えられるのである。  確かに、淡泊なその味わいは、獣肉というより鶏肉に近い。しかし、兎だけを鳥類と同格に扱う理由は他にもある。それは、池波正太郎がさりげなく書いているように、将軍家が正月の嘉例として兎肉の吸物を食べたからである。例年、上総・請西《じようざい》の領主・林家から師走の末に献上される野兎を用いるならわしであった……と物の本にある。 〔万七〕名物の兎汁は、池波正太郎の筆の所為《せい》で、非常にうまそうである。そこで、池波正太郎が、 「淡泊な兎の肉の脂肪が秘伝の出汁に溶けて……」  と書いた、その|秘伝の出汁《ヽヽヽヽヽ》とはどんなものか、何とかして調べたいと思った。江戸初期に刊行された〔古今料理集〕が、わずかにその手がかりを与えてくれた。 〔古今料理集・巻之二〕は、いろは順に食品名を並べ、それぞれにふさわしい料理名を挙げている。「う」の項の最後にこうある。 「うさぎ。賞翫にも用べきか。料理は鴨等に同。是は鳥と同意の物なり。取分吸物汁第一なり」  これだけでは何もわからない。  別のところに「うさぎ汁の事」なる一項を発見したときは、思わず飛び上がった。(しめた……)と思った。そこにはこうあった。 「うさぎ汁の事 本二共に右雁鴨等の汁に同然なり 但是は四足の内にて有ましきよしなり このみとしては賞翫にも用へきなり 但身計作りてゆかき水にて成ほとひやし間をゝきてさけニつけ用へきなり みそつけ粕つけ等ニシテよし」 「本二共に……」は「本汁・二の汁共に」である。身(肉)だけをとって湯がき、それを冷やした上で酒に浸《つ》けて用いる……のが秘訣らしい。これは特有の臭味を消すためだろう。そこまでは見当がついた。だが肝腎なことは相変わらず全然わからない。  次に「雁鴨等の汁」に当たってみた。すると、こうである。 「白鳥 ひし喰 雁 鴨の汁 取合せ切方煮方いつれも右鶴に同前 但鶴より外の鳥は不断の物にて候間もちろんめつらしからす さるによつて鶴よりかろくあんはいを仕かけへし みそかけんも鶴よりはうすく中みそたるへきか」  兎を調べたかったのに、結局、行きついた先は鶴だった。 〔古今料理集・煮方六〕の本汁の部にある、 「のしめ生鳥鶴白羽※[#「くさかんむり/支」、unicode82b0]※[#「くさかんむり/実」]喰雁鴨等 煮方の事」  は、次のようである。恥ずかしながら私にはチンプンカンプンだが、読む人が読めばわかるだろうと思い、敢て引用する。  白味噌はみたけ屋高砂屋流の白味噌をかたこしに能すりこして 出し半分水道水半分めしの取ゆ十分三程の積にして 味噌かけんは中みそとこみそとのあひたのくらゐにして とつくとよくこしてなへに七八ふんめほとに仕込て置 さて御客と一両人なとゝも云ときにかけて鶴のほねをに出しに入てに立吸合せ出し 前ならは袋出しを入てしんみとかろく出しかけんしてさてにほねも出し袋をも取出し 扨右作りたる鳥をその汁にてゆかきゆかきたる汁をなへへ入て時分を見合 御膳と申時にそれ/″\の道具鳥も一時に入てよきほとににてあんはいうまくしつほりと調て もろ白をちと過るほとにさしてふたをしておろし 出すまてはふたを取るましきなり(中略)  鶴の汁はみそのこき程かよきといへともこみそなれはみそのこきにせかれてにほひうすきといへり 又もたれてあしき事も有へき也(中略)吸口ねきの時はふたの上に置か 又は小皿に入てぜんに置へきか 鶴の汁たとへおそなはると云共に立を出す様にすへき也  ところで、〔桜飯《さくらめし》〕とはどんなものか。本山荻舟の〔飲食事典〕では、酒と醤油を加えて普通に炊いた色附飯《いろつけめし》のことと説明している。東京で普通に茶飯《ちやめし》と呼んでいるものは、番茶を煎じて塩味をつけた本来の茶飯ではなく、たいていこの桜飯である……というのが荻舟先生の御説。  しかし、単なる色附飯が〔万七〕の名物たり得るだろうか。もう少し、何か細工があったのではなかろうか。というわけで、調べてみると、江戸時代〔桜飯〕と呼ばれたものには章魚《たこ》が入るのが|きまり《ヽヽヽ》であったようだ。 「章魚《たこ》を常のごとく洗ひ 塩湯にて|※[#「さんずい+龠」、unicode7039]《ゆに》し 足計りを小口より随分薄く切 飯を常のごとく炊きたるに攪《かきま》ぜ 注子《めしつぎ》に盛《いれ》 蓋封《ふた》し置 食するに薄だれに加減《かげん》しかけ汁《しる》に用ゆ」  というのが〔名飯部類〕の説明である。〔素人庖丁〕なる料理書にも、だいたい同じことが書いてある。なぜ、これを〔桜飯〕といって〔章魚飯《たこめし》〕といわないのか。それはよくわからない。ただ、章魚をゆでて紅染《べにぞ》めにしたものを|桜だこ《ヽヽヽ》と呼んでいたことは事実で、そのあたりから〔桜飯〕という洒落た名が出たのではないか……と、私は勝手に想像している。 [#改ページ] のっぺい汁《じる》 [#ここから2字下げ]  芝・神明前の料理屋〔弁多津〕の二階座敷で待っている平蔵のもとへ、佐嶋があらわれたのは、それから間もなくのことであった。 (中略)  水のように冴えかえった冬の夕暮れである。  平蔵が注文しておいた熱い〔のっぺい汁〕と酒がはこばれてきた。  大根、芋、ねぎ、しいたけなどの野菜がたっぷりと入った葛《くず》仕立ての汁へ口をつけた平蔵が、 「うまいな」 「は……」 「おぬしが|ひいき《ヽヽヽ》にするだけのことはある。躰中が一度にあたたまってきたぞ」 「叔父が……あの叔父が、ぜひにもここへ参上し、御礼を申しあげたいと願い出ましたが、あえて、遠慮をいたさせました」 「それでよい」 「おそれいりまする」 「さ、のめ。口をつけぬか」 「は……」 「冷えるのう。明日は、雪にでもなりそうな……」 [#ここで字下げ終わり] [#地付き]『礼金二百両』 〔鬼平犯科帳〕シリーズの中で、のっぺい汁は比較的よく顔を出すものの一つである。 〔鯉肝のお里〕の一篇には、  ──橋のたもとに、京橋川を背にして、 〔のっぺい汁・いちぜんめし〕 の掛行灯が見えた。  ここは〔大根《だいこん》や〕という飯屋だ。土地《ところ》の者で知らぬ者はない。自慢の〔のっぺい汁〕がうまいし、酒も出す──  と、あるし、また〔妙義の団右衛門〕では盗賊改方の長官・長谷川平蔵が、 「冬になると弁多津の|のっぺい汁《ヽヽヽヽヽ》が恋しくなる」  と、つぶやいている。  のっぺい汁は、漢字では能平汁と書かれることが多い。濃餅とも書く。葛仕立てであるから汁が粘って餅のようだというので、こう書くのである。  能平も濃餅も、呼び名にそれらしい字を当てたもの。本来は「ぬっぺい」で、訛《なま》って「のっぺい」になった、「ぬっぺい」は、|ぬらり《ヽヽヽ》としている意……と、清水桂一編〔たべもの語源辞典〕で知った。越後の田舎では、「のっぺ」といっていた。子どもごころにも妙な名だなあと思いながら食べていたものである。里芋が必ず入るのが越後風だった。  要するに、葛をかいてどろりとさせた実《み》だくさんの野菜汁である。野菜の他には油揚げ、むしり蒟蒻なども、好みによって加える。つくりかたは至って簡単。深鍋にたっぷりの出汁を入れ、適当な大きさに切った材料を投げこみ、浮かんでくるアクを丹念にすくいとりながら煮る。  むろん、油揚げは熱湯をかけて油ぬきをしておかなければならないし、乾椎茸をもどした水は捨てずに出汁に加えたほうがいいし、里芋を入れるなら皮をむいてから塩揉みをして|ぬめり《ヽヽヽ》を取っておく……というようなことは常識である。  味つけは、塩と酒を主にして、砂糖・醤油は控えめにしたい。最後に、水ときした葛粉(小麦粉でもいいし、蕎麦粉という手もある)を流し入れて、一《ひと》たぎりさせれば出来上がり。  葛粉の代わりに小麦粉や蕎麦粉を用いるやりかたは決して邪道ではない。〔古今料理集〕には、 「のつへいとは 鳥計煎鳥のことくにして煮て出しさまにうとんのこ又はくづそはのこ等をときてかけ煮立出す事也」  と、ある。  江戸時代も初期の頃には、のっぺい汁は鳥料理の一種であったらしいふしがある。それというのも、〔古今料理集〕とほぼ同時代の〔料理物語〕にも、 「カモをいり鳥の如く作り、ダシタマリにて煮る、煮え立ち候時加減吸合せ、ウドンの粉をダシにて溶き、ねばるほどさし、煮えたち候時出し候、シギ・ウヅラなども」  と、あるからだ。  本来はかなり贅沢料理の一つだったものが次第に簡素化して、鴨がなくてもいい、鶏がなくても結構うまい……と、精進料理に変わったものらしい。〔和漢精進料理抄〕では、 「なたまめゆにしてかわむきあとさきつみ新しいたけ大きにきる 長いもいかた切 くづ少かき わさびをく」  と、完全にのっぺい汁を精進物にしている。 [#改ページ] 蜆《しじみ》  汁《じる》 [#ここから2字下げ]  墨斗《すみつぼ》の孫八は、たった独《ひと》りで、浅草・今戸《いまど》の料亭・三好《みよし》屋の奥座敷で酒をのんでいる。  風も絶えて、おだやかな日和であった。  三好屋の名物は〔蜆汁《しじみじる》〕で、小体《こてい》な料理屋であるが、贔屓《ひいき》の客も多い。  孫八は、葱《ねぎ》と蜆の剥身《むきみ》をあわせ、酢味噌《すみそ》で和《あ》えた小鉢には一箸もつけずに、ゆっくりと手酌《てじやく》でのみつづけていた。  障子を一枚開けた縁先《えんさき》の向うの柴垣《しばがき》へ目をやった孫八が、 (おや……?)  いぶかしげに立って、縁先へ出た。  柴垣に、冬の蝶が一つ、とまっているのに気づいたからである。 [#ここで字下げ終わり] [#地付き]『墨つぼの孫八』   「納豆としじみに朝寝おこされる」(柳多留)  そういう川柳があるように、納豆《なつとう》売りと蜆《しじみ》売りの声は、かつて東京の朝の風俗を象徴するものであったという。朝飯は熱い飯に納豆と蜆汁、これが東京の庶民のきまりであったらしい。それだけどちらも安価であったということだろう。  蜆はシジミ科に属する淡水産の小形の二枚貝で、淡水・鹹水が混じり合う河口あたりにも繁殖する。古来、優良な蜆の産地として知られるのは、まず琵琶湖。紫式部が〔源氏物語〕の想を練ったという石山寺の近くを流れる瀬田川の、いわゆる瀬田蜆がことに名高い。  しかし、武州の利根川産や隅田川筋の蜆も同じくらい有名だった。明治・大正の頃までは、江東の著名な料理屋から市内のひいき筋へ寒蜆《かんしじみ》を贈るならわしがあったと本山荻舟が書いている。  味は寒蜆。土用蜆《どようしじみ》は腹薬。  昔からそういうことになっている。一番肉が肥えて味がいいのは、寒中よりも春先という人もある。  昔の人は、蜆には特別の薬効があると信じ、ことに黄疸《おうだん》には蜆に限ると連日食べさせたものだそうな。これはあながち根拠のないことではないらしい。蜆は良質の蛋白質を含み、消化がよい上に、ビタミンB12を大量に含んでいるので、肝臓の働きを強める。そういうことを、理屈ではなく長い経験の積みかさねで、昔の人は知っていたのである。  蜆が黄疸に効くということについては面白い話がある。ある人がその効能あらたかなのに驚いて家に帰り、毎日、蜆汁をこしらえて、 「コレ、三助、庭の木の根へこれをかけろ」 「これをかければ、どういたします」 「この|しじめじる《ヽヽヽヽヽ》は、人の顔の黄色になつた病ひでも、これを食へば、色が白くなる。それで、草木にも、根へこやしにかければ、花がよく咲くといふ事じや」 「ハイ、そんなら、花の咲く木へは、たつぷりとかけましやうが、山吹《やまぶき》は、よしにいたしませう」  これも興津要先生の「江戸食べもの誌」に出ている江戸時代の小噺である。なるほど、黄金色に咲いてこそ美しい山吹の花が白くなってしまっては困るだろう。  蜆といえば蜆汁。それも赤味噌仕立てと相場が決まっている。非常にうまい貝である半面、独特のクセがあるからで、蛤や浅蜊のように清汁《すまし》にすることは、まずない。  蜆からいい出汁《だし》が出るから、ことさら鰹節は使わず、鍋にたっぷり水を入れ、蜆も同時に入れて火にかけ、煮立って貝の口が開いたら直ちに火をとめて、蜆を引き上げる。それから煮汁に味噌を加えて味を調え、食べる寸前にお椀に蜆を盛り、汁の煮えばなを注ぎ、薬味に粉山椒をふりこむ。私自身はどういうわけか粉山椒があまり好きではない(鰻のときだけは別だが)ので、刻み葱を入れたり、薬研堀《やげんぼり》(唐辛子)をふったりしている。  蜆の炊きこみ御飯もおいしいものだ。蜆汁と同じ要領でつくった煮汁で飯をしかけ、酒と塩と醤油少々で味を調えて炊く。蜆の身は別に振り出しておき、飯が吹いて水が引く瞬間に入れて蒸らす。簡単で実にうまい蜆飯。ぜひ、お試しあれ。 [#改ページ] 根《ね》 深《ぶか》 汁《じる》 [#ここから2字下げ] 「そ、それじゃあ何でございますか、昨夜、孫八の盗人宿へ……?」 「おお、泊った」 「まあ……」 「おまさ。おれもな、お前たちと同類《どうるい》だぞ」 「えっ。その、五両の手付というのは、まさか……?」 「手下になった、その手付さ」 「こ、これは、いったい、どういうことなので?」 「ま、飯を食べながら話そう。さ、早く……早く爺《とつ》つぁん、飯にしてくれ」  舌が焼けるような根深汁(ねぎの味噌汁)に、大根の漬物。小鉢の生卵《なまたまご》へ醤油《しようゆ》をたらしたのを熱い飯へかけて、 「む。うめえな……」  と、二十何年前の〔本所の銕《てつ》〕そのままの口調《くちよう》になった平蔵が、昨日の|いきさつ《ヽヽヽヽ》を語り終えて、 「それでな。おれと孫八は、すっかり息合《いきあい》が合ってしまったのだ。ああ、うめえ。もう一杯……それに根深汁もな……」 [#ここで字下げ終わり] [#地付き]『墨つぼの孫八』  落語の名作「垂乳根《たらちね》」に、|めったやたら《ヽヽヽヽヽヽ》とことば通いのていねいな女性が登場する。  葱を一本買うのにも、 「それなる一本字草《ひともじぐさ》は、いくばくぞや……」  といった具合だ。  あの、ヒトモジグサというのが、子どもの頃はわからなかった。葱の古名は「キ」で、「岐」あるいは「紀」の一字が当てられた。それを女房詞《にようぼうことば》でヒトモジとかヒトモジグサと呼んだ。「キ」は「気」(=臭)の意味で、葱の特性をよく表わしている。  ネギは、いうまでもなく「根葱《ねぎ》」の意である。もっぱら白い根の部分を食用としたので、いつの間にか根葱《ねぎ》のほうが通り名になってしまった。葱がなかったら日本料理は成り立たぬ……といってよいほど何かにつけて役立つ葱であるが、主役としてスポットライトを浴びることは滅多にない。〔根深汁《ねぶかじる》〕は、その例外の一つだろう。ついでにいえば「根深《ねぶか》」もまた古くからの葱の呼び名である。  葱は、植物学上は百合《ゆり》の仲間。原産地はシベリアのバイカル湖周辺で、有史以前から中国を経て日本へ渡来していたらしい。〔日本書紀〕には秋葱《あきき》の記載があり、神代より神聖なる神々への饌《そなえもの》として崇《あが》められて来た……と資料にある。天皇即位礼の大嘗会《だいじようえ》には、神饌の一つとして欠かせぬものというから、本来きわめて高貴な存在なのである。  それほど神聖視されていた葱を日本人の食生活から締め出したのは仏教だった。今日でも禅寺の入口に、しばしば、 「不許葷酒入山門」  の碑を見るが、葷酒《くんしゆ》の葷《くん》は、実は、葱のことである。正確には葱のほか、ニンニク、ヒル、ラッキョウ、ニラの計五種で、これらを葷菜《くんさい》あるいは五辛《ごしん》といって食することを禁じた。五辛を食べると躰が毒され、精神が乱されるというのが表向きの理由だったけれども、本当は(強精効果があり過ぎて、若い修行僧のさまたげになる……)という教育的配慮からのことらしい。  五辛のうちでも葱は一番刺戟性が弱いから、それに何といってもうまいものはうまいので、早くから一般に常用されるようになった。  まずは、串焼《くしやき》。  白根の部分を三、四センチに切りそろえて竹串に刺し、胡麻の油をちょいと塗って両面を焙《あぶ》り、片面に練り味噌を刷《は》き、熱いうちに食べる。焼きかたは、強火で手早く。練り味噌には木の芽をすり混ぜるのもよい。備前焼か何かの、いい器に盛って出せば、立派なもてなしの一品である。  葱の風呂吹《ふろふき》、というのがある。  茶人が好む風流なものとされているが、なに、われわれだって大いにやっていけないということはない。名前こそもっともらしいが、調理法は至って簡単で、根の白いところを一寸ほどに切り、塩少々を加えて蒸し、胡麻味噌でも山椒味噌でも、好きなものをつけて食べればよい。蒸すときは、やっぱり串を打って蒸したほうが形がきれいに仕上がる。蒸し加減は、やっと蒸気が通ったぐらいがいい。  もう一つ、根葱飯《ねぎめし》。  これは長谷川平蔵が没して数年後に刊行された〔料理早指南〕という本に載っている。根深汁を大喜びで食べる平蔵だから、根葱飯だって何度も食べたに違いない……というのは私の勝手な想像である。根葱飯のつくりかたは次のようだ。 「ねぎ 白根ばかり ほそく せんにうちてよくゆでこぼし 水をきりをき 扨めしをつねのごとくたき ふき上るころに右ねぎを上に置 ふたをしてむし上るなり  また一しゆ白ねこまごまにして はじめより米にまぜてたく」  葱は昔から躰を|ぬくめる《ヽヽヽヽ》食べものとして知られている。それゆえ根葱飯も〔料理早指南〕の「苗字飯《みやうじめし》・冬の部」にある。味のつけかたが書いてないので、これも私の推測だが、酒と塩で米のほうに下味をつけておくのだろう。  ところで、同じ頃に刊行された〔名飯部類〕という本には、また別の葱飯《ねぎめし》が出ている。こちらは、 「栗子《くり》 皮牛房《かはごぼう》 椎茸《しひたけ》 麩《ふ》などの類切 扨何にてもあふら濃《こ》からぬ魚類《ぎよるい》を常のことく洗ひ三枚におろし身《み》計りを焼ほね皮を去り揉《もみ》細にし右の加料とともに葱《ねぎ》と煮置 前の染めしの部の山梔子飯《くちなしめし》に調和《ませあは》し達失汁《たししる》にて食す」  と、手のこんだ料理屋スタイル。海山里川の材料を贅沢に使った五目飯《ごもくめし》だから、これを葱飯と呼ぶのはどうかと思う。しかし、これらの材料を葱とともに煮るとき、葱から出る水分だけで、水を加えないこと……と説明にある。葱が全体の|まとめ《ヽヽヽ》役ということで、それで葱飯というのであれば、なるほどということになる。 [#改ページ] 鴨脂《かもあぶら》と千住葱《せんじゆねぎ》の吸物《すいもの》 [#ここから2字下げ]  平蔵が入浴を終えて出て来ると、久栄が酒の肴の仕度をととのえ、侍女に運ばせ、居間へあらわれた。 「鴨《かも》じゃな」 「はい」  鴨の肉を、醤油と酒を合わせたつけ汁へ漬けておき、これを網焼《あみや》きにして出すのは、久栄が得意のものだ。つけ汁に久栄の工夫があるらしい。今夜は、みずから台所へ出て行ったのであろう。  それと、鴨の脂身を細く細く切って、千住葱《せんじゆねぎ》と合わせた熱い吸物が、先ず出た。 「久栄。わしに、このような精《せい》をつけさせて何とするぞ?」 「まあ……」  久栄は顔を赤らめた。  四百石の旗本の、通常の暮しならば、とてもこのような冗談を、配下の者の前でいうこともあるまいが、そこは火盗改方の役宅の気楽さであった。  いちいち体裁《ていさい》にかまっていては、物事がはかどらぬ御役目なのである。 「おいしゅうございますなあ」  吸物の湯気で鼻先を濡《ぬ》らしていた佐嶋忠介が、目を細めて、おもわずいった。 [#ここで字下げ終わり] [#地付き]『火つけ船頭』  鴨《かも》のことは、〔鴨の叩き団子〕のところで書いたから、ここではもう少し葱の話を続けよう。  関東と関西は、しばしば食べもののことで意見が対立する。葱に関しても然り。関東人にとっては、葱はあくまで根深《ねぶか》であり、つまり白根の長いものほど佳《よ》く、緑葉の部分は惜し気もなく捨てるのが普通である。  ところが関西人は、いまでこそ嗜好が多少変わってきて葱の白根を賞する人もふえてきたが、古来、緑葉のやわらかさを喜ぶ風がある。そして、葱の緑葉をあっさり捨て去る東京人を奇異の目でながめたりする。さらに親切な関西人は、緑葉ならではの栄養価について、 「葱の白いところはビタミンB、Cしか含んでいないが、緑のところにはビタミンA、B、Cがそろっている。特にCが多い。葉の空洞の内側にある粘質には蛋白質もいっぱいある」  と、教えてくれる。  葱は青いところがうまいのか。  葱はあくまで白いところがうまいのか。  こんな論議はナンセンスである。関東の葱は白根がうまい。関西のそれは緑葉がうまい。もともと、葱の種類が全然違うのだ。  平蔵が食べている葱──千住葱《せんじゆねぎ》は、その名の通り千住が原産地で、茎も寒冷な気候に負けず、どんどん元気よく伸びる。その背丈は二尺七、八寸にも達し、白根の部分だけでも一尺四、五寸はある。太さも立派なものは直径一寸に及ぶ。白根は軟化し、独特の甘みを含み、|これ《ヽヽ》でなくては葱ではない……といいたくなるようなうまさを持っている。  上州・下仁田に産する、いわゆる下仁田葱《しもにたねぎ》も、やはり白根を賞味する。というよりこの葱は白根は太いけれど、短く、地上に露出した青茎の部分は霜にやられて見る影もなく、とても食べられたものではない。その代わり、白根の濃美な味わいはまた格別で、〔葱の風呂吹《ふろふき》〕に用いられるのはたいていこの下仁田葱である。信じがたいほどの甘みがある。その甘さがいやで、生のまま刻んで風呂吹用の味噌をつけて食べてみたことがある。非常にうまかったが、舌がしびれるほど辛《から》かった。  関西人が珍重する葱は、京都在・東九条村(いまはもちろん京都市下京区の町)を原産とする九条葱《くじようねぎ》である。これは、千住葱のような根の伸張力を持たぬ代わりに、淡緑色の葉鞘部の繊細でやわらかなうまさは何ともいえない。いつだったか師走もあと何日かで新しい年に変わるという頃、京都で食べた〔葱うどん〕の味は忘れられない。うどんが見えないほどびっしりと青い細い葱が入っていた。  ところで、関東の太葱の青い部分だが、これはそのまま捨ててしまったのではもったいない。骨つきの牛や鶏でスープをつくるとき、葱の青いところを投げ込んでおくといい。  もっといいのは、豚の三枚肉《ばらにく》の塊を買ってきて、鍋にたっぷり酒と醤油を入れ、肉を入れ、そのままでは固くてもて余す葱の青いところを入れて、気長に煮ることである。むろん、葱は白根も全部、一本そのまま使ったっていい。  こうして出来上がったものは、肉も葱も酒の肴にいいし、ラーメンをつくるときにいいし、形状判然としがたいほどやわらかくなった葱を熱い飯にのせて食べるのが、またいい。私の家の常備菜の一つであるが、名前はない。 [#改ページ] 狸《たぬき》  汁《じる》 [#ここから2字下げ] 「ま、一杯引っかけて行くがよい。今夜は、まるで、冬がもどって来たようじゃ。おい、婆さん、婆さん……」  すると店の方から、お熊の威勢のよい声が、 「ちゃんとわかっているよう、銕つぁん。肴《さかな》は何だとおもう?」 「肴の仕度もしてくれるのか?」 「蒟蒻《こんにやく》の千切《ちぎ》ったのを叩《たた》っこんだ、舌の千切れるように熱い……」  と、いいかけるのへ、 「ふうん、狸汁《たぬきじる》か……」  平蔵が、なつかしげな眼の色になった。  酒井祐助が目をみはって、 「あの、狸の肉でございますか?」  といったものだから、佐嶋忠介が、めずらしく吹き出した。 [#ここで字下げ終わり] [#地付き]『丹波守下屋敷』  狸汁《たぬきじる》を四つ足の狸の汁と思ったばかりに酒井祐助は笑われてしまったが、江戸時代、実際にそういう狸汁もあったのである。〔料理物語〕には、ちゃんと狸肉の味噌汁が載っている。大根や牛蒡などの野菜を入れ、吸口《すいくち》にはニンニク、だしは酒塩《さかしお》がよい……と書いてある。狸の肉は相当臭みのあるものだったと見え、 「身をつくり候て 松の葉 にんにく 柚《ゆ》を入 古酒にていりあげ その後水にて洗ひ上《あけ》 さかしほかけ候て汁《しる》ニ入よし……」  と、同書の狸汁之口伝《たぬきじるのくでん》は教えている。  しかし、お熊婆さんが平蔵たちにふるまってくれた狸汁は、精進料理の狸汁である。これは早くいえば蒟蒻汁《こんにゃくじる》だ。  蒟蒻は手でちぎり、空鍋に入れ、火にかけて水分を蒸発させる。別の鍋に少量の胡麻油を熱し、牛蒡・大根のササガキを加え、蒟蒻とともに炒めたのを味噌汁にする。葱を入れてもうまいことはいうまでもない。椀に盛ってから粉山椒か七味をふりこむのが定法とされている。芹の五分切りを散らすのもよい。  狸汁については、歴史に残る笑い話がある。徳川将軍五代綱吉といえば悪名高い「犬公方《いぬくぼう》」であるが、この時代、大奥に取り入って絶大な権力をふるった坊主に護持院隆光というのがいる。  この隆光が、ある寒気きびしい夜に登城した際、綱吉のお声がかりで、何なりと好きな料理をとらせるということになった。すると隆光、寒いから腹中を温めたいので是非とも狸汁を……といい出したものだ。  膳衆が肝をつぶして、それでも一応つくりかたを隆光に尋ねると、 「ゆでて叩いてつみ切って、鍋へ入れて汁にすればよい」  これには一同ますます驚いて、鳩首協議の結果、 「生類憐みの趣旨により、殺生禁断の御城内でそのように残酷なことは、断じていたしかねまする……」  と、調理辞退を申し出たそうな。むろん、隆光は僧院料理の蒟蒻汁を所望したのだが、酒井祐助同様、江戸城の膳部を預かる人びともカン違いをしたのである。 [#改ページ] 鰈《かれい》の煮《に》つけ [#ここから2字下げ]  小田原城下をぬけ、酒匂《さかわ》川をわたったとき、平蔵が、 「腹が空《す》いたな」 「さようでございますな。もう少し先の小八幡の茶店へまいりましょう。そこは、おいしいものを出しますので」 「お、さようか」  小八幡の、街道沿いに出ている茶店へ入ると、利平治が奥へ入り、亭主に食べるものをいいつけたようだ。 「どうやら、小田原城下で、お前さんに気づいた者はおらぬようだな」 「はい。なれど、横川の庄八に見られてしもうては、おしまいでございます」  麦飯に大根の味噌汁。鰈《かれい》の切身を味濃く煮つけたのを、 「うまい、うまい」  と、平蔵は二度もおかわりをし、飯を三杯も食べてしまってから、 「われながら、おどろいたな」  あきれ顔になったのを見て、利平治が、おもわず吹き出した。 [#ここで字下げ終わり] [#地付き]『熱海みやげの宝物』  どういうわけか子どもの頃から、お腹《なか》をこわすと、決まったように鰈《かれい》の煮つけを食べさせられた。いまでも家人が同じことをする。私の母は越後人であり、家人は横浜育ちなのに、申し合わせたように「お腹をこわしたときは鰈の煮つけ」と思い込んでいる。鰈という魚はよほど消化がいいのだろうか。  一口に鰈といってもいろいろある。  東京ではイシガレイを美味としているが、同じイシガレイでも北日本のものは独特の臭《くさ》み(泥臭い感じ)があって不味といわれる。おふくろの煮つけてくれるカレイは、どうやらイシガレイであったようだ。鰈の煮つけと聞いただけで、あの泥臭さがまざまざと甦《よみがえ》ってくるのである。  鰈と鮃《ひらめ》はなかなか区別がむずかしい。俗に、 「左ヒラメの右カレイ」  といい、黒いほうを上にして、腹を手前に置いて、目が左に来ればヒラメ、右に来ればカレイということになっているが、これで完全に区別できるわけではない。  縄のれんの一杯飲み屋で肴に出てくる、木の葉のような干ガレイは、瀬戸内海あたりで獲れるらしいが、普通デビラと呼ばれ、庖丁の背でとんとん叩き、酒・醤油を半々に割ったものをふりかけてさっと焙ると、骨離れがよくて、うまいものである。このデビラ(木の葉ガレイともいう)は、カレイのくせに目は左にある。  もっと変なのはアラスカに産するヌマガレイで、これは左右それぞれ、てんでんばらばらだそうな。もともと鰈にしても鮃にしても、稚魚の間は、目は他の魚たちと同様に左右に一つずつ分かれている。それが成長するにつれて、次第に海底にへばりつく生活となり、目もだんだん片側に寄ってくるのである。  鰈と鮃の判別は、口の大きさによっても、ある程度できる。口の大きいのがヒラメ、小さいのはカレイ。地方によってはヒラメのことを「大口《おおぐち》」、カレイを「口《くち》ぼそり」と呼ぶところもある。総じてカレイは|おちょぼ《ヽヽヽヽ》口《ぐち》であると思えばよかろう。  近海産の新鮮な鰈は、三枚におろして刺身がいい。東京の魚河岸で「ジミ」と呼ばれるホシガレイは、その名のごとく背中から腹にかけて美しい星のような紋様があり、寒い頃のホシガレイの刺身は、ヒラメに勝るとも劣らない。  マコガレイというのもある。大分県|日出《ひじ》の「城下鰈《しろしたがれい》」が有名だ。どうしてかというと、地元の人の自慢によれば、 「国東《くにさき》半島の、別府湾に面した日出《ひじ》の海には、海底からこんこんと湧き出る真水《まみず》がある。これが海水の塩加減を微妙に変え、飛び切りうまいカレイを育てる」  ということである。  そういうことなら、江戸湾に産するマコガレイもさぞやうまかったろう。隅田川の水と混じり合った江戸湾の水は、鰈に限らず、さまざまな魚を特別の美味に育てたものらしい。いわゆる「江戸前」の味である。かつては東京湾のマコガレイが「本場もの」であり、「場ちがい」より一枚も二枚も格が上だったのに、いまや見る影もない……と、知り合いの魚屋のおやじが嘆いていた。  冬場、京都へ行く用事があると、必ず錦小路へ駆けつけ、一塩の若狭《わかさ》ガレイを買って帰る。笹の葉を思わせる、すんなりと白い笹ガレイもいいし、菱形で身が厚く、脂のたっぷりとのった松葉ガレイもいい。  松葉ガレイは、皮をむいて料理する。黒い表の皮も、裏側の白い皮も、尾のほうからすっかりむき取って、肌のすべすべしたのを火にかける。やがて、厚い身に脂がジワジワと浮き出て、杉綾織《ヘリンボーン》の服地のような焦げ色がついたら、飛びつくようにして食べる。  合理主義の化身のような京女は、むいた鰈の皮さえも無駄にはしない。白と黒の皮を、のばしながらこんがりと焙って、細かく揉み、海苔のように熱々《あつあつ》の御飯にふりかけて食べるのである。  鰈は、刺身で食べた後の残り、つまり頭と中骨を、そっくり空揚げにして食べるとおいしい。軽くメリケン粉をまぶし、余計な粉をはたき落として揚げたのに、レモンを絞って全部食べてしまうのが私のやりかたである。  小料理屋でよく出るヤナギムシガレイ。紅色の卵がかすかに透《す》けて見える、あの優美な鰈は、京都でいう笹ガレイと同じものだろうか。同じでないまでも親類筋だろう。一干《ひとほ》しのヤナギムシガレイのうまさは、数ある干魚の中でも第一等に推していい。焼く前に縁側《えんがわ》と中骨にそって庖丁を入れておけば、焼きあがったとき箸ではらりと身がとれる。  春先になるとメイタガレイが三陸からやって来る。目の近くに一本、鋭いトゲがあって、うっかり素手でつかむと指の先を傷つけやすい。目に触れると痛いから「目痛《めいた》ガレイ」というのだそうだが、本当かしら。メイタは煮つけが普通だが、少し|あちら《ヽヽヽ》風に気取って一貫づけ(一尾そのまま)でバタ焼きにし、みんなでつつき合うのも楽しいことである。京都でいう松葉ガレイと、このメイタは、同じ魚のように思えるが、どうなんだろう。  思い出したが、鰈の刺身は「薄づくり」が定法で、梅肉醤油で味わうのを最上とする……と、何かで読んだ覚えがある。日出《ひじ》の城下鰈は確かにそうやって食べたように思う。  もてなしのために鰈を用いる場合は、身を細くつくり、ゆで卵の裏ごしと混ぜ合わせ、青いものを添えます……と、辻嘉一著〔料理のお手本〕にある。〔かれいの菜種和え〕というそうな。 [#改ページ] 蒟蒻《こんにやく》の白和《しらあ》え [#ここから2字下げ] 「有合せ一品のみ」  の、その一品は蒟蒻《こんにやく》であった。  短冊に切った蒟蒻を空炒《からいり》にし、油揚げの千切《せんぎ》りを加え、豆腐《とうふ》をすりつぶしたもので和《あ》えたものが小鉢に盛られ、運ばれて来た。  白|胡麻《ごま》の香りもする。  一箸、口をつけた平蔵が目をあげたとき、奥の板場との境に垂《た》れ下っている紺のれんのところにいた女房と、目と目が合った。  平蔵が、さも「うまい」というように、にっこりとうなずいて見せると、女房の目が微《かす》かに笑ったようだが、依然、口をきこうとはせぬ。 [#ここで字下げ終わり] [#地付き]『権兵衛酒屋』  普段、何気なく食べているが、そのくせ蒟蒻《こんにやく》とはそもそも何かと問われたら答えに窮する人もいる……のではあるまいか。蒟蒻がサトイモ科の多年草であり、原産地が交趾《コーチ》支那《シナ》(インドシナの南端、メコン河下流の低湿地)であり、わが国へは欽明天皇の時代に医薬用として朝鮮から伝わり、続いて推古天皇のときに中国から盛んに輸入され、国内で大量に栽培されるようになったのは、ずっと時代が下がって元禄年間以後のこと……というようなことを、おでん屋でさりげなく口にすれば、相棒が感心してくれるかもしれない。しかし、�さりげなく�というのはむずかしくて、たいてい鼻もちならぬ感じになるから、やっぱり黙々と蒟蒻を噛みしめているのがいいだろう。  蒟蒻はやや平べったい球形の地下茎を持っている。コンニャク芋《いも》とかコンニャク玉《だま》とか呼ばれ、これを乾燥して粉末にしたのがコンニャク粉。  コンニャク玉あるいはコンニャク粉から生まれる食用蒟蒻は、別名「砂払い」といい、いやしくも男子たる者はときどき蒟蒻を食べねばならぬとされている。古来、蒟蒻には腹中や睾丸《きんたま》にたまった砂を払う効用があると信じられているからである。医学的なことはわからないが、蒟蒻に整腸作用があるのは確かなようだ。よしんば男の急所の砂払いにならないにせよ、こんなに愛すべき食いものはない。煮こみのおでん、白和え、酢味噌、粕汁の実、煮しめ等々、どうやって食べてもうまい。蒟蒻を心太《ところてん》のように細い孔から突き出して製したシラタキがなくては、鍋料理も寂しいものになってしまう。  蒟蒻は調理の際に必ず一度ゆでこぼすとやわらかくなり、味もよくしみることになっている。そういうふうに教えている料理書が多い。しかし、これは空炒《からいり》りするのが本道である。そうでないと蒟蒻本来の風味が失われてしまう。  江戸時代の料理指南書に、いわゆる「百珍物《ひやくちんもの》」という一群があり、その中では〔豆腐百珍〕が名高いが、〔鯛百珍〕〔甘藷百珍〕さらに〔海鰻百珍〕に続いて〔蒟蒻百珍〕もちゃんとある。いずれも、その材料を使ってどれだけいろいろな料理ができるか、を列挙したものだ。 〔蒟蒻百珍〕は、 「蒟蒻玉の姿賤しといへともまた玉の名を逃れす新玉と唱へて賞味し貴となく賤となく給ふはなれの幸なるへし(中略)是を調味するにまた某巧拙ありて自然の美味を生す豈楽しからすや その調味のあらましを書綴りて数奇人の高覧に備ふるになむ」  という嗜蒻陳人の前書きに続いて、〔味噌懸《みそかけ》〕から〔玉すだれ〕まで計八十二種の蒟蒻料理を紹介している。ちなみに〔玉すだれ〕とは、 「細きいと作りをかんてんにてしめ よくひやかし 夏日取合《なつのひとりあい》によし 切かたこのみにまかす わさびじようゆ 大根おろし 又は太白《たいはく》かけ」  のことである。なかなか洒落たもののように思えるが、如何。ちょっと気取り過ぎという感じなきにしも非ずだが……。 [#改ページ] 蒟蒻《こんにやく》の煮《に》しめ [#ここから2字下げ] 「ゆるせ」  平蔵は茶店へ入り、あたりを見まわした。  変哲もない茶店である。  荷馬を外に繋《つな》いだ中年の馬方《うまかた》が一人、土間の腰かけで酒をのんでいた。  平蔵は、茶店の老婆に酒をたのみ、塗笠をぬぎ、馬方から少しはなれた腰掛けにかけた。  老婆が、ぶつ切りにした蒟蒻《こんにやく》の煮たのを小鉢へ入れ、酒と共に運んで来た。  唐辛子を振りかけた、この蒟蒻がなかなかの味で、 「うまい」  おもわず平蔵が口に出し、竈《かまど》の傍にいる老婆へうなずいて見せると、老婆は、さもうれしげに笑った。皺は深いが、いかにも人の善さそうな老婆だ。 [#ここで字下げ終わり] [#地付き]『逃げた妻』  俗に、 「坊主と蒟蒻は田舎がよい」  という。都会の坊主はスレっからしの生臭《なまぐさ》坊主が多く、信じるに足りない。蒟蒻も、水っぽい混ぜものの多い都会のものは不味《まず》い。むろん都会の坊主が全部だめということはないが、蒟蒻のほうは、まずだめである。平蔵が、おもわず、 「うまい」  と、口にしたほどの蒟蒻と、私などが近所の豆腐屋で買ってくるそれとでは、同じ蒟蒻ともいえないぐらいのものだ。  いい蒟蒻を手に入れることができたら、これを刺身で味わうという法がある。例の〔蒟蒻百珍〕には、 「指身《さしみ》──平づくりにして 但し丸にてさつとあぢを付る からしみそ又はわさび醤油取合せ見計」  と、ある。この「丸にて味をつける」の丸《ヽ》が何のことかわからない。スッポンのことを「マル」といったりするが、スッポンの出汁《だし》だとしたら随分贅沢なものだと思う。どなたかにお教えいただきたいものである。  そんな面倒な手をかけなくても、蒟蒻の刺身は乙なものだ。通称|こんさし《ヽヽヽヽ》。少し気取って「山河豚《やまふぐ》」。  蒟蒻の鉄板焼と称するものを拙宅ではよくやる。牛肉は高過ぎるからということもあるが、これはこれでおいしい。薄切りにした蒟蒻を酒と醤油に漬けておき、鉄板で焼きながら食べるだけである。薬味には七味を使う。軽く押しをしておいた豆腐もたいてい一緒に、同じ要領でやる。豆腐のほうは葱の微塵《みじん》切りをたっぷりとかけて食べる。  蒟蒻の炒煮《いりに》というのは、不意に酒飲みの客が来たときなど、ちょっといい肴になる。普通の蒟蒻をちぎって使うより、糸蒟蒻《いとこんにやく》のほうが味がなじんでいいだろう。  糸蒟蒻を空炒りし、適当な長さに切りそろえる。厚手の鍋に胡麻油を熱し、糸蒟蒻をよく炒める。火は思いきり強火。 「この胡麻油が旨味を出すのだから、必ず正真の胡麻油──それも最高級のに限る」  と、さる通人は力説しておられるが、なに、そうむずかしく考えることもない。  よく炒めたあとは、酒と醤油を加え、弱火にして、汁気がなくなるまで炒りつける。七味をふれば完成である。料理とも肴ともいえないほどの簡単さだが、これがうまいのだ。好みによっては、最後に粉鰹をまぶすのも悪くない。削った鰹節を空炒りして乾かし、よく揉んでふりかけると、油と煮汁を粉鰹がきれいに吸ってくれて、カラッと仕上がる。私個人の好みからいえば、粉鰹はなくもがな、である。 [#改ページ] 大根《だいこん》と剥《む》き身《み》の煮物《にもの》 [#ここから2字下げ] 瀬兵衛はお熊にたのみ、顔を洗い、こころ細くなっている白髪をなでつけてもらった。そして、小さな荷物をひろげ、洗いざらしの肌着に着替えたのである。  それを横眼に見て、平蔵は、 (爺さん。覚悟を決めたようだな)  と、おもった。  お熊は、豆腐の熱い味噌汁や、大根と剥《む》き身《み》の煮物などで、夕飯の膳を出してくれた。  瀬兵衛老人は、味噌汁だけを口にした。これも、これからの事態にそなえての|こころがけ《ヽヽヽヽヽ》というべきであろう。 [#ここで字下げ終わり] [#地付き]『寒月六間堀』  ここに登場する「剥《む》き身《み》」は、やっぱり浅蜊《あさり》のことだろうと思う。江戸時代の最も庶民的な食べものの一つ〔深川飯《ふかがわめし》〕は、油揚げ、豆腐、葱をきざんで、そこへ浅蜊の剥き身を入れ、味噌仕立てでさっと煮たものを、丼飯へかけて食べるものだった。  一度やってみればすぐにわかるが、こんなに簡単迅速で、しかも滅法うまいものは、そうあるものではない。ただし遺憾ながら、本当に鮮度のいい浅蜊を仕入れることは、それほど簡単ではなくなってしまった。だから、私などが得意がって自宅《うち》で食べているそれは、池波正太郎にいわせれば、 「そんなものは〔深川飯〕に似ているというだけだ。戦前《むかし》と現代《いま》では浅蜊が違うよ、浅蜊が……」  ということになるだろう。いや、これは私の|ひがみ《ヽヽヽ》であって、典型的東京人である池波正太郎は、断じて他人《ひと》が喜んで食べているものをけなしたりはしないはずである。  それはさておき、江戸時代の浅蜊はとにかく安かった。それゆえ、お熊婆さんの手料理に用いられる剥き身は、やっぱり浅蜊だったろうと思うのである。  浅蜊は、秋から春先までが食味の旬《しゆん》。昔は蛤同様、雛祭を限りとして仲秋の観月宴までは食べないのがきまりだった。繁殖期の間は中毒しやすいからである。  浅蜊も蛤も似たような二枚貝だと思うのだが、「格」という点では、昔からだいぶ差をつけられている。〔翻刻江戸時代料理本集成〕の総索引を見ても、蛤に関する見出しが三十六もあるのに対して、浅蜊のほうはわずか八つに過ぎない。これは少々片手落ちというものではなかろうか。  浅蜊の剥き身は、〔犬神の権三〕の一篇で池波正太郎が書いているように、塩・酒・醤油で薄味の出汁をつくり、葱の五分切りといっしょに小鍋だてでやるのがうまい。お熊婆さん式に大根と剥き身というのもいいだろう。大根の場合は千六本でなくてはなるまい。煮過ぎた浅蜊なんて食べられたものではないから、大根と剥き身が同時にさっと煮あがるためには、当然、千六本である。  千六本《センロッポン》というのは、実に洒落た名前だ。千本ちょうどでなく、六本《ヽヽ》半端がついているのが憎い。日本人のことばの感覚は文句なしに素晴らしい……と、つねづね感心していたら、何とこれは北京語だった。  大根の漢名は「蘿蔔《らふく》」である。蘿蔔は中国語でロープと発音する。繊切《せんぎ》りにした大根は「繊《チエン》蘿蔔《ロープ》」。これが訛ってのセンロッポンである……と知ったからといって私はがっかりなんかしない。センロッポンに千六本の字をあてた感覚は、やはり、なみなみでないと思うからである。  平蔵がこの日食べた大根は練馬《ねりま》大根に違いない。煮て味わうには最も適した大根である。かすかな|ほろにがさ《ヽヽヽヽヽ》の中に、何ともいえぬ大根ならではの甘味を秘めている。さらに、あの|白さ《ヽヽ》には犯しがたい気品すら感じられる。白という色は、古来、日本民族にとって聖なる色であった。それゆえに大根も全国各地でさまざまな神事と結びつけられ、ときには崇《あが》められ、またときには恐れられている。  |へっぽこ《ヽヽヽヽ》役者を「大根役者」というのも、大根の白さにひっかけてのことである。つまり白人《しろうと》(=素人)という意味なのだ。  大根役者のいわれには、もう一つ、大根はどのように調理しても食傷しないように、未熟な役者はどんな役に使っても決して|当たらない《ヽヽヽヽヽ》からだ……という解釈もある。若い女性の健康そのものの脚《あし》を大根脚《だいこんあし》といったり、どうも大根は「いい役どころ」では出て来ないようだ。大根さまに対してはまことに申しわけない話である。しかし、大根、|くさる《ヽヽヽ》ことはない。われらがスーパー・スター長谷川平蔵は無類の大根好きだから……。 [#改ページ] [#1字下げ] 編者のあとがき [#地付き]佐 藤 隆 介  何年か前のこと、NHKのテレビ番組〔この人と語ろう〕に池波正太郎が登場したとき、全国から熱狂的な鬼平ファンが集まった。縁あって私も、その一員に加えてもらい、|ちらり《ヽヽヽ》とではあるがブラウン管に顔を出した。それが鬼平狂としての私の自慢である。 〔鬼平料理帳〕というこの本を正当化し得る唯一の根拠もそこにある。これは料理の本でもなければ、食味の解説書でもなく、あくまでも一鬼平狂の、いわば読書日記にすぎない。手許にある十五巻の〔鬼平犯科帳〕シリーズを、飽きることなく読み返し、読み返しているうちに、自然に生まれた本というしかない。 〔この人と語ろう〕に集まった鬼平ファンの中に、泥棒たちの名前をリストに作りあげたという人がいた。私の親友には、江戸の地図に〔鬼平犯科帳〕に出てくる店を片っぱしから書きこんで悦に入っているというのがいる。私も自他共に許す鬼平狂として負けてはいられない。その一念が凝りかたまって〔鬼平料理帳〕になった。  この素晴らしいタイトルと、巻頭の特別語り下ろし「江戸の味」は、池波正太郎の温情によるものである。一日として暇な日というもののない池波正太郎が、わざわざ伊豆・大仁まで足を運んで、一夜、語り聞かせてくれたものだ。〔鬼平料理帳〕一冊の値打ちは懸《かか》ってここにある。  読むたびによだれが出てくるような〔鬼平犯科帳〕十五巻からの抜き書きと併せて、もっぱらそこだけをじっくり味わっていただければ幸いである。  ものを書くということは恥をかくということだと、いま私はつくづく思い知らされている。後悔先に立たずで、もはやどうにもならぬ。せめてはこの恥を己れの|こやし《ヽヽヽ》として役立てるべく、誓いを新たにしているところである。  なんとか一冊分の量を満たすために、私はもっぱら座右の愛読書から引用と請売りの限りをつくした。私の「虎の巻」ともいうべきそれらの参考文献一覧を別記し、それぞれの著者に対しては伏してお詫びとお礼を申し上げる次第である。 [#地付き](昭和五十七年二月) [#改ページ]  文庫版のためのあとがき [#地付き]編 者 〔鬼平料理帳〕という単行本が池波正太郎の温情によって誕生したのは昭和五十七年春のことであった。本が出たばかりのころは、わけもなくうれしくてたまらず、盛んに友人仲間に吹聴し、人の顔さえ見れば恩着せがましく一冊進呈したものである。  さいわい、みんな喜んで受け取り、次に会うと「面白かったよ」とお愛想のひとこともいってくれたりした。私はまるで私自身がほめられたような気になってしまい、大いに得意になったことを白状しなければならない。 〔鬼平料理帳〕は、あくまでも〔鬼平犯科帳〕シリーズの副読本《ヽヽヽ》である。〔料理帳〕だけを読んで肝腎の〔鬼平犯科帳〕のほうを読まなかったらどうにもならない。それは大学受験生が受験参考書だけを読んでサワリの部分を暗記し、そのくせ徒然草も漱石もドストエフスキーも決してちゃんと読んだことがない、というのに似ている。  池波正太郎が〔鬼平犯科帳〕各編の中で食べもののことを書くのは、かつて江戸の町に|あたりまえ《ヽヽヽヽヽ》のものとして漂っていた情緒、人情のあたたかさ、ことにさわやかな季節感を端的にしかもさりげなく表現するための、この作家独特の一手法として、である。  いつだったか、私が図に乗って、 「先生、もっともっと食べもののことを作品の中に書いてください」  と、馬鹿なことをいい出したところ、池波正太郎は|きっ《ヽヽ》と表情を改め、 「ぼくが食べもののことを書くのは、それが季節感の表現に必要な場合だけだよ。意味もなく書くわけにはいかない」  と、私をたしなめた。  そういうことからいって、本書のように小説のごく一部だけを勝手に抜き出し、いたずらに蛇足を加えて、それをまた一冊の本にしてしまうなどは邪道の極みともいえる。  池波正太郎が敢てこの「邪道」を許したのは、小説というものはひとたび生まれて一人歩きをしはじめたら、たとえ生みの親といえども黙って見守るしかないものだ……と、あきらめているからかもしれない。そして、それ以上に、一鬼平狂に対する思いやりからであったろう。〔鬼平料理帳〕は池波正太郎の温情によって誕生した、と冒頭に書いたのはそういう意味に他ならない。  私は自他共に許す鬼平狂である。いや、池波小説狂であり、池波正太郎狂である。自慢するわけではないが(といいつつ自慢をしているわけだが)、池波正太郎が書いた小説もエッセイも全部読んだし、一冊残らず書棚に並べているつもりである。これだけ池波正太郎作品が完備しているのは、すべての出版物を収蔵しているという国会図書館は別として、ここより他にはあるまいなどと|いい気《ヽヽヽ》になっている。  しかしながら私の「狂」たる所以《ゆえん》は、池波正太郎の同じ一冊の小説を何回となく読み返して飽きることがない、という点にある。何かといえば〔鬼平犯科帳〕である。〔藤枝梅安〕である。あるいは〔剣客商売〕である。長谷川平蔵も木村忠吾も、梅安さんも彦次郎も、秋山小兵衛と大治郎の父子も、さらには数え切れないほどの泥棒たちも、いまではみんな親戚のような感じさえする。  それほどなじみ深くなっているのに、なぜか私は読み直すたびに新作を読むときと同じ興奮に駆り立てられるのだ。私は恐らく「忘れる天才」なのだろうと思う。だが、自己弁解をさせていただくなら、読者をして読むたびに忘れさせ、何度でも繰り返して読ませずにはおかない小説こそ、本物の小説なのではあるまいか。  つねづねそう思っていたら、翻訳家常盤新平が同じことを書いている一文を発見し、大いに気をよくした。常盤新平ほどの�プロの読み手�でさえそうなのである。いまをときめくこの売れっ子翻訳家は、毎年、年末から正月明けの仕事はじめまで、〔鬼平犯科帳〕を第一巻からずうっと読み直す習慣がついてしまったそうな。とにかく〔鬼平犯科帳〕というのはそういう恐ろしい魔力を秘めた連作小説だということになる。  特定の作家にのめりこんだ小説狂は、ややもすると宗教の信者のごとくになりやすい。自分が心底いいと信じているものだから、そのよさを何が何でもまわりじゅうの人びとに教えたいと躍起になる。黙って自分一人で読んでうれしがっていればよいものを、あたりかまわず折伏《しやくぶく》したくなる。そうなると恥も外聞もない。私のような浅学非才の人間が〔鬼平料理帳〕を編んだのも、つまりは、そういうことである。  さて、あれから二年半たったいま、ついに〔鬼平料理帳〕が文春文庫の仲間入りをすることになったと聞いて、私はただもうおろおろするばかりである。請売《うけう》り専門の知ったかぶり、文字通りの半可通に過ぎないという私の正体が一層手厳しく糾弾されることになるだろう。文庫本とするにあたり、多くの方々からご教示いただいた点はできるだけ忠実に直したが、とても完全を期するなどは思いもよらない。改めて平身低頭し、すべては「狂」の「狂気」のなせるわざとお許しを乞うしかない。そして〔鬼平料理帳〕を脇に置いてどうか〔鬼平犯科帳〕全巻を熟読玩味されんことを、お願い申しあげる次第である。 [#地付き](昭和五十九年九月)  参考文献一覧 吉井始子編・著〔翻刻江戸時代料理本集成〕全十巻・別巻一(臨川書店) 石橋四郎編〔和漢酒文献類聚〕復刻版(第一書房) 森川賢次著〔酒の肴十二カ月〕(文研出版) 辰巳浜子著〔手しおにかけた私の料理〕(婦人之友社) 柊会編著〔日本の郷土料理〕(実業之日本社) 池波正太郎著〔食卓の情景〕(朝日新聞社) 清水桂一編〔たべもの語源辞典〕(東京堂出版) 多田鉄之助著〔食通ものしり読本〕(新人物往来社) 町山清著〔河岸の魚〕(国際商業出版) 四方山径著〔俳諧たべもの歳時記〕上・下(八坂書房) 秋山十三子・大村しげ・平山千鶴共著〔おばんざい─京の台所歳時記〕(現代企画室) 興津要著〔江戸食べもの誌〕(作品社) 大久保恒次著〔うまいもの歳時記〕(朝日新聞社) 牧羊子著〔おかず咄〕(文化出版局) サトウサンペイ著〔けっこうエーこといってるんですが〕(文藝春秋) 辰巳浜子著〔料理歳時記〕(中央公論社) 本山荻舟著〔飲食事典〕(平凡社) 佐々木三味著〔茶道歳時記〕(淡交社) 井口海仙編〔茶道用語集〕(淡交社) 森須滋郎著〔料理上手で食べ上手〕(新潮社) 池波正太郎著〔散歩のとき何か食べたくなって〕(平凡社) 池波正太郎著〔よい匂いのする一夜〕(平凡社) 平野雅章著〔食物ことわざ事典〕(文春文庫) 獅子文六著〔食味歳時記〕(文春文庫) 辻嘉一著〔辻留・料理のコツ〕(中公文庫) 辻嘉一著〔料理のお手本〕(中公文庫) 岩満重孝著〔百魚歳時記〕(中公文庫) 浜田義一郎著〔江戸たべもの歳時記〕(中公文庫) 平野雅章著〔たべもの歳時記〕(文春文庫) 辻嘉一著〔味覚三昧〕(中公文庫) 田中喜一著〔増補たべもの料理事典〕(第一出版) 暮しの設計〔江戸のおそうざい〕(中央公論社) 多田鉄之助著〔食通の日本史〕(新人物往来社) 江守奈比古著〔懐石料理とお茶の話〕(海南書房) 斎藤進監修・浅見安彦著〔調理材料事典〕(柴田書店)  単行本 昭和57年4月文藝春秋刊 〈底 本〉文春文庫 昭和五十九年十二月二十五日刊