[#表紙(表紙2.jpg)] 本能寺(下) 池宮彰一郎 目 次  一以《いつもつ》て之《これ》を貫《つらぬ》く〈承前〉  志、千里に在《あ》り  兵は猶《なお》、火の如し  月明らかに星|稀《まれ》なり  抜山蓋世《ばつざんがいせい》  死生命《しせいめい》あり  志、満たすべからず [#改ページ]   一以《いつもつ》て之《これ》を貫《つらぬ》く〈承前〉  時、天正三年(一五七五)陰暦五月二十一日。  信長は、一点に賭けていた。  ——勝頼《かつより》、来《きた》って決戦するか、それとも早々に軍を撤するか。  勝頼は動いた。  あるみ[#「あるみ」に傍点]原(後の|設楽ヶ原《したらがはら》)の、東の山の端《は》に朝日が昇った。  地表には濃い朝霧が立ち籠《こ》めた。梅雨の晴れ間である。低湿地のあるみ[#「あるみ」に傍点]原はぬかるみがひどい。 「踏み地が柔らかい。馬脚が止らぬよう注意を怠るな」  武田騎馬兵団の長、馬場美濃守信春《ばばみののかみのぶはる》は、馬上から、蹄《ひづめ》の跡に溜る泥水を見詰めた。 「なんの、たかの知れた猫額の原、一気に駆け抜け、敵を蹴散らしてごらんに入れる」  前掻《まえが》きする乗馬の手綱を絞った第一陣の将、山県三郎兵衛昌景《やまがたさぶろうびようえまさかげ》が、戦場焼けした顔に、不敵な笑みを浮べて答えた。 「頼むぞ、三郎兵衛、無敵武田の名を守らねば、甲斐《かい》の国が保てぬのだ」  馬場信春は、第二陣武田|逍遥軒信廉《しようようけんのぶかど》の陣前に馬を進めた。 「焦るなよ。霧の晴れるまで待て、相手は智略の信長ぞ。あやつはどのような策を構えおるやも知れぬ。それを確かめるまで馬を控えよ。われら武田騎馬勢の突進は一度限りで二度ない。疾《と》きこと風の如く、侵《おか》し掠《かす》めること火の如し。風林火山の教えを忘れるな」  凜《りん》とした馬場信春の声は、先陣の山県勢から三陣の西《にし》上野小幡昌盛《こうずけおばたまさもり》一党、四陣武田|典厩信豊《てんきゆうのぶとよ》(信玄の弟|信繁《のぶしげ》の嫡子)一党にまで響きわたった。  信長は払暁《ふつぎよう》と共に、急速に布陣を入替えた。馬防柵の軍兵はすべて四重目、五重目の柵に退き、予備勢となった。一重目、二重目、三重目の柵には、新規購入の三千|挺《ちよう》の鉄砲隊が、それぞれ一千ずつ配された。  家康勢の鉄砲隊五百も、それに倣《なら》った。それでも足らずと見た信長は、従来の鉄砲一千を家康勢に加え、更に陣間に信長馬廻鉄砲五百を配した。 「こたびの戦《いくさ》は、味方一人も破損すべからず、依って柵前に突出すること固く停止《ちようじ》とする。一人たりとも命に背く者あらば、味方たりとも容赦あるべからず。射ち殺すべし。前段の鉄砲射ち放しなば、速やかに後段に退き弾籠《たまご》めを為《な》せ。その間に中段の鉄砲前段に進み、射ち放つべし。前・中・後段、代《かわ》り代《がわ》りに射ち、間を置かず、敵を射ち払え」  三段交代制によって、鉄砲斉射を連続し、武田勢の騎馬突撃を薙《な》ぎ倒そうという策である。  十五世紀、欧州で発明された火縄銃は、従来の戦闘法を一変させるほどの威力があったが、弾籠めに時間を要する点と、雨天に使用不能の点で重要視されず、欧州でもせいぜい突撃発起の際、敵の尖兵《せんぺい》を薙ぎ倒す以外に使用されなかった。その連続射撃の途《みち》を開いた信長の独創的発想は、世界史でも特筆に値する発明であった。  もちろん武田勢は、それを知らない。  朝霧は、なかなか晴れない。  梅雨の長雨を溜めこんだ山地は、徐々に山間の低湿地を潤す。初夏の暑い日差しがそれを蒸発させ、山の冷気が霧に変化させる。  勝頼は若年の常として、短兵急だった。結果を早く見たい。勝鬨《かちどき》を挙げたかった。 「……もう陽は高い。何で戦を始めぬ……」  愚痴をこぼすうちは、まだよかった。そのうち激情に駆り立てられた。 「使番! 各陣に告げい! 早々に戦を始めよ!」  伝騎(騎馬伝令)が、各陣へ駆けた。  各陣は色めきたった。信玄在世の頃、戦闘開始を督促されたことは一度もない。信玄はむしろ過早を戒めることに徹した。  その小倅《こせがれ》から督促を受ける。各将は恥辱を感じ、怒気を抑えるのに苦辛した。  だが、騎馬兵団長馬場美濃守信春は諾《うべな》わない。  伝騎は、苛立《いらだ》つ勝頼の意を伝えるため、また走った。  三度目、遂に第一陣山県三郎兵衛が堪《たま》り兼ねた。 「出ますぞ! もはやおとどめあるな!」  馬場信春も、決断せざるを得ない。 「よし、行けい! 頼むぞ!」  山県隊が前進を開始した。初め粛々と、次第に速さを増した。遂に早駆けとなった。 「叫《おら》べ! 者ども!」  猛気を発した獣に似た喚声が起った。山県隊は馬上に身を伏せ、槍を前に構えて突進した。  馬防柵は目前、と見た瞬間、前方に川幅を広げた連吾川《れんごがわ》が出現した。 「あっ!」  咄嗟《とつさ》に飛越《ひえつ》した人馬は三分の一に満たない。過半は雪崩《なだ》れを打って川中に転落した。  混乱の中で態勢を立て直す一瞬の隙に、馬防柵前段に鉄砲を構えた信長・家康勢の一斉射撃が山県隊を襲った。  天地も轟《とどろ》く銃声とともに、山県勢は算を乱して斃《たお》れた。距離はわずかに三十間(約五十五メートル)足らず。家康・信長鉄砲隊前段一千七百挺が放つ銃弾に、山県隊の死傷は、眼を覆う有様となった。  猛将山県三郎兵衛は尚も屈せず、部下を叱咤、怒号した。 「死ねや! 甲斐武田の侍心《さむらいごころ》を示すは今ぞ! われに続く御味方あり、われら捨て石となって武田勝利の礎《いしずえ》とならん!」  馬を立て直した山県勢は、馬防柵に殺到し、馬体を叩きつけて柵を倒そうと試みた。  現地調達の柔《やわ》な資材なら押し倒されたであろう。だが美濃・尾張で選び運んだ丸太材は頑丈で、武田勢の馬体を苦もなく撥《は》ね返した。  山県三郎兵衛昌景。武田騎馬軍団|先鋒《せんぽう》の将である彼は、愛馬に心|篤《あつ》いことで人後に落ちない。  その彼が、愛馬諸共、馬防柵に自らを叩きつけた。信長鉄砲隊の銃弾を太腿《ふともも》と脇腹に受けたが、その痛みを超える一念があった。  ——この柵を突破しなければ、武田軍団は滅びる。  だが、頑丈な柵は、頑として撥ね返した。馬体と、彼の甲冑《かつちゆう》の躰《からだ》と、その一念を。  三度、四度、遂に骨の砕けた愛馬が斃れた。柵に取りすがった三郎兵衛は覚った。信長の底知れぬ深い企みを、智謀と策略を。 「嗚呼《ああ》……」  三郎兵衛の眼に、前段の柵の鉄砲隊と交代した中段の鉄砲隊が、銃を構える姿が映った。  その間、わずか十間(約十八メートル)。彼に向けられた銃口が火を吐く。それが彼の滅びだった。山県勢は敵に一矢も報いず潰滅《かいめつ》した。  後方の武田軍は、実状がよく把握できなかった。掻き乱された霧の彼方に、轟然《ごうぜん》たる銃の発射音とともに、濛々《もうもう》と黒煙が立ち上り視界を遮る。当時の鉄砲火薬は夥《おびただ》しい黒煙が欠点とされていた。信長はそれさえも計算し、利用した。 「どうやら……三郎兵衛は、事成らなんだと見ゆる……」  騎馬兵団長馬場信春は、第二陣に突進を命じた。  第二陣、武田逍遥軒信廉は、信玄の四弟、優れた将才と共に、画技卓越した風流人でもある。夙《つと》に信玄の下にあって数々の戦功を挙げた。  その彼の隊も、連吾川の山県隊の惨状に馬足を止《とど》めた一瞬に、信長・家康勢鉄砲隊の斉射を受け、為《な》す術《すべ》なく潰滅した。重傷を負った逍遥軒が、辛うじて後方に運ばれたのが唯一の救いであった。  ——これは、只事《ただごと》ではない……。  兵団長馬場信春は、唇を噛《か》んだ。  前夜、彼は総大将の勝頼に進言した。 「まず、威力偵察を」  威力偵察は、選抜した小部隊をもって軽戦を挑み、敵の威力を知る、故信玄の常套《じようとう》作戦だった。  だが、勝頼は言下に否定した。 「早々《はやばや》と威を示せば、敵に逃げられてしまうわ」 「では、払暁、せめて斥候《せつこう》を」 「無用。たかの知れた猫額ほどの原、必要ない」  それが、この結果である。折も折、後方の本陣からの伝騎が、勝頼の命を齎《もたら》した。 「何をためらう。続けざまに騎馬勢を繰り出し、敵陣を突破せよ」  否やは許されなかった。第三陣小幡隊が突進し、更に第四陣典厩信豊隊が発進した。  信長・家康勢鉄砲隊の斉射は、間断なく続いた。  第三陣・西上野小幡一党の赤備え(赤色の武装)、第四陣典厩信豊一党の黒備え(黒色の武装)が、相次いで潰滅するのを望見した兵団長馬場美濃守信春は、この戦の惨敗をはっきりと自覚したようである。  その思いに拍車をかけたのは、本陣の勝頼の、相も変らぬ督促であった。 「こたびに限って敵陣突破が未だ成らざるは何たる醜態か。早々に本陣に出向き、臆したる所以《ゆえん》を弁明せよ」  馬場信春は、顔色一つ動かさず聞き流し、傍らを見返って言った。 「どうやら、われらは長生きし過ぎたようだ。弁明は泉下に赴いて亡き信玄公に致すとしよう」 『信長公記《しんちようこうき》』は、斯《か》く伝える。 「かくのごとく、御敵入替へ候へども、御人数(味方の者)一首《ひとかしら》(一人)も御出しなく、鉄炮ばかりを相加へ、足軽にて会釈(鉄砲足軽であしらい[#「あしらい」に傍点])、ねり倒され、人数をうたせ引入るなり。五番に馬場美濃守、推《おし》太鼓にてかゝり来《きた》り、人数を備へ、右同前に勢衆(軍勢)うたれ引|退《しりぞ》く」  後段で、記述は討ちとった首の見知る分を列記した。それは山県三郎兵衛に始まり、馬場信春に終る将領である。武田二十四将のうち、十五将が長篠《ながしの》の戦に参陣し、うち八将が戦死し、五将が重傷を負った。  尚、同書は、 �中にも馬場美濃守手前の働比類なし�と、絶讃している。  馬場信春は、馬防柵前段の手前で馬を射たれ落馬した。彼は屈せず残兵を率いて徒歩《かち》で突進し、前段を突破して中段に至り、太刀を振るって奮戦したが、残兵|悉《ことごと》く射たれ、自身も数創を受け戦闘不能に陥った。  彼は身を柵に凭《もた》せ掛け、立ったまま頸筋《くびすじ》を脇差で斬り、壮烈な自尽を遂げた、という。  勝頼は、騎馬兵団潰滅まで、本陣の床几《しようぎ》から腰を上げなかった。かつて信玄がそうであった。その点だけは真似た、といわれる。  馬場美濃守討死の報を聞いて、勝頼は初めて本陣前に起《た》ち、戦場を望見した。  あるみ[#「あるみ」に傍点]原一帯に、累々《るいるい》と人馬の死屍《しし》が横たわる。連吾川畔から馬防柵にかけて、土居の如く積み重なった死屍のすべてが、武田勢の潰滅を物語っていた。  勝頼は逆上し、戦慄《せんりつ》した。頭に血の上った彼は、徒歩兵団の突進を命じた。  騎馬兵と異なり、行動の遅い歩卒は、狙撃の格好の的となった。地はぬかるみ、累積する死屍に足を奪われた歩卒は、柵前に辿《たど》り着く前に悉く撃ち倒された。  長篠の合戦は、こうして終った。  三重・五重の馬防柵、従来の鉄砲隊に加えた三千の新規鉄砲、世界で初めて試みられた連続射撃の威力。その三つが本邦最強を誇る武田騎馬軍団を、完膚無きまでに叩き潰した。  織徳《しよくとく》連合軍は、事故で怪我した者を除いて、戦闘での死傷者は一人も出なかった。足軽の末の末まで、無事に戦闘を終えた。  それに引替え、常勝武田の決戦兵力一万五千のうち、その戦死者が一万を超えたとき、不敗の神話は崩壊し、強悍《きようかん》の将兵は算を乱して敗走を開始した。  織徳連合軍は勝利した。その内実は信長一人の勝利であった。完璧の勝利である。  鳳来寺《ほうらいじ》まで敗走した武田軍の残兵は、そこで漸《ようや》く態勢を立て直し、甲斐への帰路についた。  家康は、当然追撃を提議した。織徳連合軍は無傷の三万余の兵力を持つ。追撃は兵法の常道であり、付け入って武田家の息の根を止めることは、徳川家の多年の願望であった。  だが信長は、鰾膠《にべ》もなく拒否した。 「折角の申し出だが、暫《しばら》く時を擱《お》こう」  家康は大不満であった。思いもかけぬ好機の到来である。みすみす見逃す手はない。  家臣団も、そう訴えた。 「何たる吝嗇《りんしよく》ですか。兵力の損耗を惜しむにも程がある。いま一度強く押してみては如何《いかが》」  家康は憮然《ぶぜん》として言った。 「だが……われらはこの戦で何ひとつ貢献しておらぬ。であるから、そのようなことは言えぬ」  家康の通史『当代記』は、家康とその家臣団の不満をこう伝える。 「この時、直ちに信甲へ打入られるは、誠に少しの手間も要りまじきところ、信長は濃州(岐阜)へ帰馬、家康公は遠州(浜松)へ帰馬し給ふ間、信甲敗軍の者ども、暫《しば》し気を休めけるとなり。是も甲州を強敵と思召《おぼしめ》し給ふゆゑか」  多分に皮肉と厭《いや》みで書かれた文章である。  だが、信長は彼らにこう言いたかったであろう。  ——敗けたのは、武田勝頼であり、武田軍団そのものではない。武田軍団は潰滅することで、その勇猛をわれらに示した。  然《しか》り、合戦は武田勢の主導の下に展開した。信長が率いる織徳軍は終始|防禦《ぼうぎよ》に徹した。武田勢は血気に逸《はや》る主将の命ずるままに、死をも怖れず潰滅した。  織徳軍が甲・信に攻め入ったら、その立場は逆転する。防禦に武田勢は死を決する。  ——織徳軍に、武田勢の誠忠と勇猛があるか。  どうも、心許《こころもと》ないのである。信長は完璧な勝利に驕《おご》らず、非常の自制心を発揮した。  信長の読みは深かったと言えよう。  長篠で惨敗を喫した勝頼の猛気は、衰えを示すどころか、以前にも増して強烈の度を加えた。  その年のうち、早くも小山城救援のために遠江《とおとうみ》に侵攻した。更に翌年、翌々年と遠州の高天神《たかてんじん》城や横須賀城をめぐって、家康との間で攻防が繰り返された。  ——武田の勢威、依然衰えず。  長篠であれほど潰滅的打撃を蒙《こうむ》りながら、家康を相手になお、これだけの戦いぶりを見せる武田勢に、信長は驚嘆するほかなかった。  そして、勝頼というよりも、長年信玄によって鍛え抜かれた武田軍団そのもののしぶとさに、いささか辟易《へきえき》させられた。  だが、この時期から、上杉、北条、そして家康を相手に転戦する勝頼の動きに、一定の攻戦略が見られなくなった。事ごとの出陣の目的も、その時々の気紛れとしか思えない。  ——勝頼は、亡父信玄の遺臣に、おのれの勢威を誇示しようと、無用の戦を起している。  信長は、そう観察した。  ——驕児《きようじ》、当るべからず。 �足長�(韋駄天《いだてん》)と綽名《あだな》される信長にしては、異常な辛抱強さで機を待った。  遠江と駿河を舞台とした徳川、武田両軍の一進一退は、何と天正十年まで七年間も続くのである。  ——いったい、いつまで時を擱《お》くのだ。  家康とその家臣団の鬱憤《うつぷん》は募る一方だったが、信長はそれを無視し続けた。  話を、長篠合戦の直後に戻したい。  武田騎馬兵団の潰滅の報は、燎原《りようげん》の火の如く天下に広まった。  反信長勢力は震駭《しんがい》した。浅井・朝倉の滅亡、長島一向|一揆《いつき》の大虐殺に続く武田勢敗北の報は、反信長勢力の意気を沮喪《そそう》させたといっても過言ではない。殊《こと》に当面敵対を続けている石山本願寺は大打撃を受けた。頼みの綱の武田が敗北したとの報が伝わると、本願寺と提携していた畿内・畿外の土豪の離反が相次ぎ、俄《にわか》に落魄《らくはく》の色濃くなった。十一世|顕如光佐《けんによこうさ》は態勢の立て直しに追われる結果となった。  それとは別に、信長のとどまることなき躍進に、既成権力の所有者の間に動揺が生じた。王法の京都朝廷、商権保持の堺|納屋《なや》衆などである。  前《さき》に信長に臣従した海上交通の雄、九鬼《くき》一族の動向を併《あわ》せ考えると、堺の守護不入権を持つ隊商などは、大いにその私権を脅かされる事になる。  信長は、宿敵石山本願寺の動向を慎重に見守っていたが、この年八月、突如軍を催して越前に入った。  ——北陸を安定させないと、常に背後を脅かされる。  それは、浅井・朝倉が健在であった頃と変らない脅威である。  その脅威を取り除くには、一向一揆を使嗾《しそう》する石山本願寺が凋落《ちようらく》を示している今をおいて無い。  ——一揆勢は殲滅《せんめつ》するしかないか。  信長は、長島一向一揆殲滅戦の時と同様、深く思考を廻《めぐ》らせたに違いない。  その実証に、それ以前も以後も、信長は一向宗を禁制とした事実は無い。  敵対しなければ、信長は特定の宗教を弾圧しようという気は無かった。信長が生涯を賭けて築こうとした新時代の体制を邪魔しなければ、彼は信仰の自由を認めようとした。事実、石山本願寺が和を乞うて以後は、一向宗徒を殲滅するような事はなかった。  ——この、百年続いた戦乱の世を鎮静させるには、政治であれ、宗教であれ、あるいは商業の利権であれ、あらゆる既得権を一度清算させなければならない。  そのためには、邪魔もの、反抗するものを�一殺多生《いつせつたしよう》�の原理に基づいて、根絶やしにする。信長が得た結論は、そのようなものであったに違いない。  越前に入った信長軍は、同国に盤踞《ばんきよ》する一向一揆勢の殲滅を開始した。  国中の一揆勢は、右往左往して山々へ逃散した。信長勢は山林を尋ね捜して、男女を隔てず斬り捨てた。八月十五日から十九日までに捕殺した者一万二千二百五十余と記された。その他生け捕りにされた者を併せると、その数は三、四万と推定される。  この後、信長の領国で一向一揆は根絶した。繰り返して言うが、一向宗(浄土真宗)が根絶されたわけではない。その後の北陸一円は一向宗の信仰篤きまま、今に続く。  加賀・越前の一向一揆平定は、石山本願寺に大打撃を与えた。この年十月、本願寺顕如は信長に和を乞い、講和を結ぶ。  だが、その和平は長くは続かなかった。本願寺顕如は亡命中の足利《あしかが》将軍|義昭《よしあき》と通じ、中国毛利の支援を恃《たの》んで再び戦端を開く。それはわずか半年後、天正四年(一五七六)四月である。  越前一向一揆を平定した信長は、国の領分のほぼ三分の二を柴田勝家に預け、施政を委ねた。宿老筆頭の勝家は、光秀・秀吉に続いて大名の格を得る。信長が氏素性に囚《とら》われず、いかに光秀・秀吉を優遇したかが窺える。  朝倉氏を攻め滅ぼした後、奉行として一時越前にいた光秀は、それから間もなく大和に転進していた。松永|弾正久秀《だんじようひさひで》の居城であった多聞《たもん》城を守備するためであった。それも長くは続かず、東美濃に侵入した武田勝頼を迎え撃ち、次いで鳥羽に布陣して長島の一向一揆を征伐し、更には河内《かわち》の三好残党および一向宗徒を攻撃するなど、休む間もなく信長の命の下、東奔西走していた。  長篠合戦には、光秀の出陣を命じなかった信長だが、今回の一向宗徒討伐には酷使した。有能な家臣と見れば容赦のない信長は、この時点から二月ほど前に、光秀に別の特命を与えていた。 「暇々に、別の出陣の用意を調えておけ」 「武田勢の追撃でござりますか」 「否……丹波《たんば》だ」  信長の答えは意表を衝《つ》いた。京の都のある山城と、摂津に境を接する丹波を版図に入れようという構想である。四面に敵と戦いながら、なお版図を拡張しようという信長の積極策は、驚嘆に値する。 「兵大(兵部大輔の藤孝《ふじたか》)に丹波の桑田と船井を与えた。これを援けてやれ」  丹波国は、京兆尹《けいちようのいん》(京職の長官、左京・右京大夫)であった細川家が守護職を世襲し、船井郡の内藤氏が守護代を務めていた。藤孝はその細川家と姻戚関係にあり、京都周辺の情勢に通じていたことから、起用されたのであろう。  だが、守護職や守護代は、とうの昔に名目だけのものになり果て、丹波では八上《やかみ》城の波多野《はたの》氏や、黒井城の赤井氏、宇津《うづ》城の宇津氏らが、それぞれに地域の実権を握って割拠している。  ——藤孝殿も、だいぶ手を焼くことになろう……。  だが、それも取り越し苦労であった。光秀も藤孝も、丹波攻略になかなか取りかかれそうもなかった。ともに、越前・加賀に猖獗《しようけつ》した一向一揆の平定に動員されたからである。  信長が、一揆討伐のため越前の一乗谷に布陣した同じ日、光秀と藤孝は加賀に侵攻した。織田軍は間もなく加賀奥郡で一揆勢一千余を討ち取り、鎮圧は一段落する。  そうした一日、藤孝は光秀の陣所である小さな御坊(寺)を訪れた。戦の後の荒れた境内には薄《すすき》の穂が茂り、北陸路は秋の気配が濃厚であった。 「上様は」  と、藤孝は言う。足利義昭の手を離れ、信長に臣従を誓った藤孝は、家臣としての物言いに改めている。 「このまま越後の上杉に仕掛けるおつもりであろうか」  光秀は、明快に答えた。 「それはないと思われます。藤孝殿とそれがしに丹波攻略を仰せつけられました。中国が先でござろう」 「やはり、毛利か」  信玄亡き後の上杉謙信は、確かに本邦最強の軍団であり、事を構えれば最大の敵であろう。しかし、謙信には天下を動かすほどの大望があるとは思えず、領土拡張の野心も見えない。ひとり超然と郷国越後に武勇を誇り、侵さず侵されぬ態勢を堅持するにとどまるであろう。  しかし、中国の十ヵ国を支配し、巨大な領地を持つ毛利氏は、別の意味で恐るべき大敵であった。強兵という点では、信玄や謙信の軍団に一籌《いつちゆう》を輸《しゆ》するであろうが、その代り動員兵力や、それを養う経済力では群を抜く。  加えて本家毛利|輝元《てるもと》を支える吉川元春《きつかわもとはる》、小早川隆景《こばやかわたかかげ》の兄弟は、共に天下の智将・名将の聞えが高い。  信長が、全力を挙げても、確たる勝算は立たなかった。まして東に北条、一敗は喫しても猛気盛んな武田、北陸の雄上杉が反信長を標榜《ひようぼう》し、足許の畿内に石山本願寺が余喘《よぜん》を保つ。信長の四面|楚歌《そか》の状況は依然変っていないのである。  この状況下で、新たに毛利に戦を仕掛けるのは、無謀の譏《そし》りを免れない。  だが信長は、敢えて更なる大敵を討つ決意を固めていた。  ——畿内と、その周辺の安寧を保つためには、反信長勢力の根源である毛利を討たねばならぬ……。  信長の究極的な目的——新時代の基盤を構築するためには、最小限度毛利を中国の端に逼塞《ひつそく》させるか、可能ならば討滅しなければならぬ、と、見た。  ——考えてみれば、ずい分と廻り道をしたものだ……。  信長は、そう自嘲したに違いない。  足利義昭を引っ担げば、肝心の当人が反信長勢力を煽動《せんどう》する。  石山本願寺を叩けば、叡山が妨害する。  叡山を蔭で操る浅井・朝倉を討てば、甲斐の武田が出てくる。  武田を討てば、毛利が石山本願寺を援ける。  ——枝葉をいくら切り落しても、幹は枯れぬ。幹を伐採しても根は残る。  信長は、毛利を討つために、生涯を賭けようと決意した。  信長が灼きつくように毛利征討を欲したのには、もう一つ理由があった。瀬戸内の通商路である。  この時代、数ある戦国大名の中で、信長ほど商業経済に通じた者はいない。  ——経済の裏付けなくして、天下の運用は為し得ない。  だが、事が天下となると、その経済も莫大である。西日本の商業経済の大動脈である山陽道と、瀬戸内の海上交易を押えることは、信長が構想する新しい世のために、必要欠くべからざるものであった。  ——毛利富強の基は、山陽・瀬戸内の経済を専有している所為《せい》だ。  その毛利を突き崩す。それは軍事力の脅威である甲斐の武田、越後の上杉、そして宗教勢力の脅威である大坂石山本願寺などを倒すこととは、まったく別の意味があったのである。  それが、中国戦線を担当させる武将の人選にも表れていた。 「光秀殿を先鋒に、丹波から丹後、但馬《たじま》を経て、山陰から毛利の搦《から》め手を衝《つ》こうという戦略か」 「いやいや、山陰は牽制の策。上様の事ゆえ、正攻法として山陽道から攻め下る手もお考えのはず。それはどなたに仰せつけられたか……」 「それで読めた。恐らく羽柴筑前《はしばちくぜん》(秀吉)殿に違いない。実は先日、上様への勅使|勧修寺晴豊《かじゆうじはるとよ》殿が北ノ庄の御本陣に到着されてな、それに同行した上京の吉田神社の神官、兼見《かねみ》殿がわしの所にも陣中見舞いに立寄られたが、その折、羽柴筑前殿が軍師竹中半兵衛を播磨《はりま》に派遣したと聞いた……」  藤吉郎と光秀は、信長の計らいで、それぞれ羽柴筑前守秀吉、惟任《これとう》日向守《ひゆうがのかみ》光秀と名乗りを改め、官名を得ていた。因《ちなみ》に信長自身は前年、参議に補任《ぶにん》されている。  ——秀吉と光秀に戦功を競わせて、尻を叩こうという策か。  そう邪推する者がいたら、信長は憫笑《びんしよう》したであろう。  ——そのような姑息な手だてで済む相手か。おれの最強兵団を二つとも山陽・山陰に振り向けてもまだ足りぬ。最後の決着はおれ自身が出陣してつける。  西方の強大な敵に対して、信長はそこまで考えていた。光秀と秀吉の起用は、まさにその第一歩である。  どちらが有利とも不利とも言えない。生来楽天的な秀吉は、�中国を靡《なび》かせる�と言うが、信長はそう単純に信じない。  むしろ山陽が不利と見た。  ——毛利は、地味豊かな山陽の防衛に、主力を投ずるに違いない。  山陽の不利は、山陰の有利に通ずる。嶮路《けんろ》ではあるが光秀が機動力を発揮して、長駆|安芸《あき》の毛利の本拠を衝けば戦は面白くなる。  更にこの二人は、信長にとって単なる最強兵団の長というだけではなかった。信長はこの二人を、瀬戸内の海を中心とした巨大な通商交易圏を支配し運用するに適した、新時代の能力を持つ人材と考えていた。  今回の中国攻めには、柴田勝家、丹羽長秀、滝川一益という、敵の軍事力破砕を目的とした旧来型の武将では不足であった。家臣の能力を量り、凄まじいまでに酷使する、信長の天才的な人材起用の才能が、遺憾なく発揮された場面であった。  ——筑前と日向、おれの構想を継ぐにふさわしいのはどちらの男か。  新しい世に思いを馳《は》せ、おのれの天運、天命のやがて尽きるであろうことを予感する信長は、ふとその疑問にとらわれることがあった。  ——しかし、難儀な土地だ。  丹波のことである。藤孝はそう思わずにはいられない。  信長が足利義昭を擁して上洛を果した時は、ここ丹波の豪族の多くが信長への帰順を申し出た。しかし、信長と義昭の対立が深まるにつれ、各地の領主たちの向背は定かならぬものとなっている。  その豪族たちは、複雑な山岳地形を利用して、あちこちに堅城を築き、互いに鬩《せめ》ぎ合っていた。 「丹波最大の勢力である波多野氏は、今のところわれらに味方しております。まずはここを足掛りに、黒井城の赤井|直正《なおまさ》を攻略すれば、播磨への道も、但馬への道も開けましょう」  光秀は、これまでに考え抜いた丹波攻略の方途、割拠する豪族の状況などを、熱心に語った。藤孝も、中途で意見を挟みながら聞き入った。  ところが、光秀がふと言葉を途切らせた。いつの間にか秋の日は落ち、二人が座す御坊の本堂を夕闇が覆いつつある。光秀の小姓が運んできた燈明の燃える音が、かえって静けさを引き立てた。 「どうなされた、惟任殿」  光秀は、ぽつりと言った。 「上様は、何故、われら二人に丹波攻略をお命じになられたのであろうか」 「……旧幕臣であるわれら二人に、という意味でござるか」 「…………」  藤孝の直言は、光秀の肺腑《はいふ》を衝いたようである。光秀の不安の兆しは、藤孝にも伝わった。 「光秀殿、それは考えすぎであろう。上様は、貴殿の才量を高く買って、こたびの戦を命じられたのだ」  藤孝は殊更《ことさら》に明るく言ったが、長年幕臣として数々の人心の動きや離反を見てきた彼は、光秀と親密に接近することの利害を考えずにはいられなかった。  ——人に、猜疑《さいぎ》心は付きものだ。信長殿とて例外ではない筈……李下《りか》の冠、瓜田《かでん》の履《くつ》の譬《たと》えもある。  ところが信長は、その例外中の例外であった。こうした二人の懸念を一向に気にした節が無い。  それどころか、三年後の天正六年(一五七八)八月、信長は自ら媒酌の労をとって、藤孝の嫡子与一郎と、光秀の娘玉子を婚姻させた。新郎新婦は共に十六歳。与一郎は忠興《ただおき》と名乗り、その後各地の戦場で活躍する。妻玉子は三国一の美女と謳われ、後に伽羅奢《ガラシヤ》の洗礼名で史上に名を残す。この夫妻が数奇の運命を辿ることは、光秀、藤孝ともに知る由もない。  信長は、家督を継いだばかりの尾張時代、弟の信行《のぶゆき》を擁立しようとした柴田勝家や林秀貞に背かれ、近くは妹婿の浅井長政にも背かれた。それだけ苦い目に遭いながら、自分が信頼する家臣や同盟者に限って、その背叛を疑ったことが無かった。  家康などは最もよき例である。浅井・朝倉攻めなどに、家康の軍勢をさんざん動員しておきながら、家康が強敵武田信玄の猛攻を受けると、これを熱心に救援したとは言い難い。しかも武田通謀の疑いで、家康の正室|築山《つきやま》殿と嫡男|信康《のぶやす》を亡き者にせよと、非情極まる強要を行っている。にも拘らず、一度たりと家康を疑ったり、背叛の懸念を抱いたことがない。  光秀と藤孝に対しても、旧幕臣が結託して背叛する可能性を猜疑した様子はなかった。  信長は、自分に背くことより、無能であったり、怠慢であったりすることの方が許せないという、不思議な価値観の持ち主であった。その思いは死に至るまで変らなかった。  加賀の戦陣を引き払った光秀と藤孝は、早速、丹波攻略に着手した。事の懈怠《けたい》は信長の最も忌み嫌うところである。 [#改ページ]   志、千里に在《あ》り  信長の生涯の終末は、刻一刻と迫りつつある。  この時期、信長の果敢な行動が続いて、彼の真意——彼が生涯を賭けて何を目指し、何を考えて行動していたかが、ひどく掴《つか》み難くなっている。  わずかに残る彼の軌跡を辿《たど》って、それを推理してみたい。  信長が、十五代将軍|義昭《よしあき》の擁立、飼い殺し状態を思い切り、京から追放したのは元亀四年(一五七三)である。その追放劇を敢行すると彼は、江州|安土《あづち》の地に築城を思い立ち、その準備に着手した。  安土の旧名は、その地に古刹《こさつ》のあった事から、その寺名|常楽寺《じようらくじ》が用いられていた。  常楽寺の地は、信長が宿敵越前朝倉家を攻めるに当って、たびたび軍勢の根拠地として使用された。常楽寺は岐阜と京を結ぶ湖南回廊を扼《やく》する要地であった。  安土という地名・城名は、信長が命名したと伝えられている。城を構えた山の上に、安土寺という古刹があったためとも言う。それも考慮の内であったかも知れない。安土の文字には�平安楽土�、あるいは�安穏楽土�の意が含まれていたという説が有力である。  後世、国家の安穏と、戦国の世の脱却を意味する安土という名は、様々な論議を呼んだ。  ——天子の御座《おわ》します京をさておき、おのれの私城に天下支配の理想を意味する名をつけるのは、僭上《せんしよう》の譏《そし》りを免れない。  という論から、  ——あるいは天皇制を廃し、おのれが天下独裁の地位に就く心算《つもり》ではなかったか。  という強引な説までが流布された。  信長の性格からみて、そのような迂遠の策を含める考え方は、俄《にわか》に信じ難い。なぜなら、考えを持つと同時に他を顧《かえり》みず実行に移すのが彼の特色であった。過去二百三十五年間も続いた足利将軍を弊履の如く棄てるのに、何ら逡巡するところなかった信長である。当時大した権力も持たず、数百の公家を抱える京都朝廷に、当座の利用価値は殆《ほとん》ど無かったとみてよい。  信長は、——申すに憚《はばか》りあるが——無用の長物に等しい京都朝廷に対し、生涯尊崇の志を抱き続けた。  何故であろうか。  それは、本来天子の在り方が、私心・私欲を持たざることにあったためと考えられる。  無類の理想主義者であった信長は、そうした神に近い天子という存在に、心|惹《ひ》かれた。  ——この私利私欲、私心の横行して憚らざる戦国の世に、そうした存在が有り得るのか。  天皇制、という。元来は独裁権を持ち、行使するが如く思われがちだが、そうではない。政治権力は臣下の有能の者に委ね、あくまでも公平無私、事に当って勧告するのみにとどめ、億兆の安寧福祉をのみ祈念するという。  さすがに一千余年を閲《けみ》する天皇制の中には、時に親政を目指した天子の、世に現れた事も無いではなかった。建武の中興における後醍醐《ごだいご》天皇などはまさにそれに当る。だがそれは一時的現象にとどまり、一時期を過ぎると旧に復した。  信長は早くからその稀有の存在に崇敬の念を抱き続けた。時に戦略上和平を望むことがあり、天子を利用(?)したことも一再にとどまらない。  天子は、和平のためとあれば、勅使を差し遣わして一時的|和睦《わぼく》を慫慂《しようよう》することにも吝《やぶさ》かでなかった。信長は多少こころの痛みを感じながらも、その天子の徳に深い感銘を覚えたものである。  あえて言う。彼に天子を凌《しの》ごうという野望は皆無であった、と断言できる。この世にも得難き徳望は、彼の美意識に十二分の満足を与えたに違いない。  まことに、世は挙げて私利私欲、権謀に奔命した。かかる反省なき人心の荒廃は、長い歴史の中で、武力の横行した戦国時代と、廉恥《れんち》心を喪失し、責任回避に終始した昭和末期から平成に至る拝金狂奔の現代をおいて、他に類例を見ない。その点では日本歴史の中で最大の危機であり、あったと言えよう。  安土、平安楽土は、信長の長くはなかった生涯を飾る理想の祈念であった。それを自らの野望の表現と見るのは、行き過ぎの感がある。  信長は、安土築城に先立つ一ヵ月余前、不意に奇妙な行為を敢行した。  天正三年(一五七五)十一月二十八日を以《もつ》て、信長は織田家の家督を嫡男|三位《さんみ》中将|信忠《のぶただ》に譲り、岐阜城館を出て家臣佐久間|右衛門尉信盛《うえもんのじようのぶもり》の屋敷に移った。  ただの形式ではない。尾張《おわり》・美濃《みの》の領地を譲っただけでなく、家重代の曾我五郎《そがのごろう》所持と伝えられる星切《ほしきり》の太刀のほか、三国の重宝を悉《ことごと》く信忠に与えた。 『信長公記《しんちようこうき》』によれば、 「信長御茶の湯道具ばかり召置かせられ、佐久間右衛門私宅へ御座を移させられ、御父子共御果報大慶珍重々々」  と、ある。  信長、この年四十二歳。壮気未だ盛んな年頃である。越前朝倉を討滅し、江北浅井を攻め滅ぼし、武田|勝頼《かつより》を長篠《ながしの》に撃破したが、石山本願寺は反信長の旗幟《きし》を掲げ、中国毛利も漸《ようや》く敵意を示した。東に武田・上杉、西に本願寺・毛利・紀州|雑賀《さいか》衆が、挟撃態勢をとる。まさに四面|楚歌《そか》、多事多難と言っていい。  信長はこの多難の時期、家督を嫡男に譲った。何で譲る必要があったか。隠居したわけではない。織田家の名目上の地位と、家の重宝は惜しげもなく与えたが、ただ一つ、軍事の統帥《とうすい》権は掌握して離さなかった。  その意味は何か。謎を解く唯一の鍵は彼の死生観だけである。「人間五十年、下天のうちを比ぶれば、夢まぼろしの如くなり」彼は奇妙な予感に取りつかれ、それを固く信じていた。  ——余命はあと八年。われはただ突き進むのみである。父祖の代から続く織田の血脈は、嫡男信忠に托《たく》す。ただし今は戦国の世、優れた智略と戦法を備えなければ家系は残らない。依《よ》って残る八年の間、嫡子信忠を後見し、智才を磨き、統帥の妙を伝えて、托するに足る将器とする。  八年、という。信長は二、三年の誤差を計算に入れ、信忠練磨の期間としたに違いない。  身一つになった信長は、安土築城をおのれの人生の集大成と思いこんだ節がある。その壮麗な結構は、当時の常識を遥かに超えた。 「その構造と堅固さ、財宝と華麗さにおいて、それらはヨーロッパのもっとも壮大な城に比肩し得るものである」  宣教師ルイス・フロイスは、その『日本史』のなかで絶讃している。  信長の安土築城の意図については、様々な説がある。  ○信玄の歿後《ぼつご》、反信長の意志を標榜《ひようぼう》した越後の上杉謙信の上洛戦に備えるため。  ○既存勢力の策謀が絶えず渦巻く京の地を避け、且《か》つその京を制圧するに至便なため。   (琵琶湖に船舶を用意しておけば、朝に安土を発して夕に坂本を経て京に軍団を派することができる)  ○西に畿内・紀伊・四国・中国・九州を望む前進基地となり、背後に北陸道・東山道・東海道を扼《やく》する交通の要衝たり得る。  ○近畿・東海・北陸の三文化圏の接点であるという位置。  ○景勝の地に宏壮・雄大・華麗の城郭を築き、天下を威服せしめる。  安土築城は、信長にとってそれらをすべて包含した自己表現の普請作事であった。  普請総奉行は、譜代の宿老|丹羽《にわ》五郎左衛門|長秀《ながひで》を充《あ》てた。丹羽長秀が一代の栄誉と励んだのは言うまでもない。  信長の命令は、相も変らぬ性急さであった。 「大至急に行え」  長秀は、懸命に努めた。  安土城は、比高五十五間(約百メートル)ほどの安土山の複雑な山襞《やまひだ》に、多数の曲輪《くるわ》を配し、その城郭をすべて石垣造りとした。  高石垣造りは、六角承禎《ろつかくじようてい》が観音寺《かんのんじ》城を造るとき用いられた。それは安土近くの馬淵《まぶち》や穴太《あのう》の石工の技術によるもので、信長はその石工を総動員したと見られる。  山の南側に新たに切り開いた街道沿いに、家臣団の居住地が設けられ、湖から引き込んだ水路によって物資の輸送路と掘割を兼ねた。この地域と在来の港町�常楽寺�と�慈恩寺《じおんじ》�をつないで、新町が造られた。  安土では、岐阜城のように山上の要害と、山裾の侍町・市場町とが分離せず、一体化した。この形式が安土の画期的な特徴で、近世の城と城下町の在り方に、先鞭《せんべん》をつけた。  信長は、その画期的意義を自覚し、禅僧|玄興《げんこう》に「安土山之記」を書かせ、狩野永徳《かのうえいとく》に城と城下町の有様を描かせた。その屏風絵《びようぶえ》は後にローマ法王に贈られた。  信長が叡智を結集したのは、安土城の天守であった。  天守は安土山頂の本城にあった。高さ六間(約十一メートル)、八角形の天守台に、高さ五尺(約百五十センチ)の正確な高石垣を築き、その天守台を土台にして、高さ十六間半(約三十メートル)の木造部分が建てられた。石垣と木造部が一体化して設計されたことに、この建造物の画期的な特徴がある。  天守は、石垣内の地階を含めて、五層七階という宏壮・雄大な建物で、半地下の地階には武器庫、金蔵、それに台所があったようである。  一階は、信長の住居に用いられ、室町将軍邸の常御所《つねのごしよ》と同じ広さの七間×六間のほか、信長の居室には襖《ふすま》に水墨の梅花図、付け書院には烟寺晩鐘図《えんじばんしようず》が描かれていた。その奥は信長の側室や侍女が住む。東側には信長の寝所があった。また南には対面所と、出仕した侍のいる遠侍《とおさぶらい》、東北部は配膳とその係の部屋。ほかに土蔵と衣裳部屋などである。  二階は正規の対面所と宴会場、三階には能舞台や広間、御座の間。四階は小屋裏の段で唐破風《からはふ》の内部は四畳半の小部屋である。  五階は八角堂で朱塗りの柱、内部の金箔押しの壁には釈迦十大弟子の絵像、勾欄《こうらん》の縁の壁には鯱《しやち》と飛龍が描かれていた。  最上階六階(地階を数えれば七階)は唐様仏堂の形で、縁・勾欄がめぐり、柱と内部の壁はこれまた金箔押し、孔門十哲の絵が描かれた。  天守の屋根は、三彩陶《さんさいとう》の瓦葺《かわらぶ》き、各重屋根に千鳥《ちどり》破風、頂上に鯱、上二層の屋根の軒に風鐸《ふうたく》、外壁は黒漆塗りという贅美《ぜいび》を尽した。  問題視されたのは、安土山西尾根の曲輪内に造られた�総見寺《そうけんじ》�という寺であった。  城郭内に七堂|伽藍《がらん》を備えた寺を建立するというのは、前代未聞であり、後世にもその例を見ない。  それらは、信長に服した湖南の名刹�長寿寺《ちようじゆじ》�や、その他の寺院から移築したものであったという。  勿論《もちろん》、天正四年に築城に着手した直後ではない。歴史年表というのは便利なようで杜撰《ずさん》なもので、安土城に関する記載は「二月、信長、安土城を築き、ここに移る」とある。  安土城の天守が築かれたのは三年後(天正七年)で、総見寺建立は更に二年後(天正九年)である。  話の先走りをかえりみず、天守や総見寺を話柄に上げたのは、壮大な里程標となった安土城の結構と、その意義を一括して記述したかったからに外ならない。  壮麗な安土城の天守閣は、復元図を見るとかなり風変りな印象をうける。軍事・政治目的の天守の上に、八角堂を象《かたど》る仏教の堂宇を乗せ、更にその上に儒教の聖堂を重ねている。これは安土城が完成して後の天正八年のことだが、司祭オルガンティーノが、安土城近くに修道院の建造を申し出た。彼の記録によれば「信長はいかなる仏僧にも(略)地所を与えていなかったし、(略)外来者《よそもの》に彼が地所を付与することはあり得ないと思われた」のに、「そのような申し出があったことを喜び」、自ら土地を選んで与え、修道院の出来栄えを無上に喜び、祝いの品を贈ったという。  天正七年の天守閣、八年の修道院、九年の総見寺建立を見ると、信長の宗教観がうかがえる。彼は(一向宗徒の大虐殺を二度も敢行したにも拘らず)、無宗教主義では有り得なかった。特に他の者の信仰に容喙《ようかい》することを避け、公平に扱うことに努めたといえよう。  その上で、彼がいかなる宗教を信仰したかは、永遠の謎である。恐らく……あらゆる宗教を超越した独自の宗教観を抱き続けたのではなかろうか。  総見寺について、彼は騒然となる話題を世人に提供した。拝《おろが》む本尊が置かれなかった。  その代りに、奇妙な�盆山《ぼんさん》�という石を置いた。それは神体とは違う意味であった。彼は仏龕《ぶつがん》を作り、その石を収納して寺院の一番高所に置いたが、拝礼せよとは命じなかった。  一説によれば、信長は予自らが神体である、「おれを拝め」と言っていた、とある。それゆえ、彼は天皇をも超えて、おのれを神とまで思うに至った、という。果してそうであろうか。 「おれを拝め」という言葉は、おのれの宗教観を凡愚に説明する煩瑣《はんさ》を嫌った信長が、嘲弄《ちようろう》の意を込めての放言であった。  信長独自の宗教観は、遂に明らかにされなかった。  天正四年、築城が始まると、信長は岐阜より安土への移転準備にとりかかった。 「早急に住居を整えよ」  二月二十三日に壁土も乾かぬ城に早くも移住した。  普請は、一階の信長の居室が出来《しゆつたい》したばかりであった。信長は丹羽長秀の普請・作事の進行状況がひどく気に入ったようである。持参した茶道具の中から名物の珠光《しゆこう》茶碗(中国製の青磁)を長秀に与えた。前にも述べたが信長の茶道具|下賜《かし》は、その道具の貴重もさることながら、拝領する当人に茶道を許す意味がある。恐らく長秀は宿老の身でありながら、茶道楽を許可されていなかったに違いない。『信長公記』は特記して、それを伝えている。  また、馬廻の者には山下《さんげ》に各々屋敷地を与え、それぞれ普請に励むよう下命した。 『信長公記』は、工事の有様を手短に伝えている。 「四月|朔日《ついたち》より、当山大石を以て御構の方に石垣を築かせられ、又其内に天主を仰付けらるべきの旨にて、尾《び》・濃《のう》・勢《せい》・三《さん》・越《えつ》州(越前)、若州《じやくしゆう》(若狭《わかさ》)・畿内の諸侍、京都・奈良・堺の大工・諸職人等召寄せられ、在《ざい》安土仕候て、瓦焼唐人の一観(一官の誤り)相添へられ、唐様《からよう》に仰付けらる」  信長は、ひどく大石にこだわった。津田坊の大石を安土山の麓《ふもと》まで運んだが、特に�蛇石《じやいし》�という大石は、どうしても山へ上がらない。そこで羽柴(木下)秀吉・滝川|一益《かずます》・丹羽長秀の三人の兵団長に命じ、一万余の軍兵を動員して、昼夜三日をかけて運び上げた。「昼夜山も谷も動くばかりに候キ」、とある。  天正四年四月の時点で、信長の安土築城はまだ緒《ちよ》についたばかりといえる。  だが、信長の周辺の情勢は、彼を城普請に専念させる程の余裕を与えなかった。  その四月、前年十月和睦したばかりの石山本願寺が、亡命中の足利将軍義昭に唆《そそのか》され、中国の覇王毛利氏の支援を頼みに、またしても敵対行動を開始した。  このため、明智光秀・細川|藤孝《ふじたか》の兵団の丹波《たんば》攻略を中止させ、天正元年に信長に帰服した摂津の豪族荒木|村重《むらしげ》の手勢を加えて、石山城に立ち向わせる。  荒木村重は、元は摂津池田城主池田|勝正《かつまさ》の部将であったが、池田家の内訌《ないこう》に乗じて茨木《いばらき》城主となり、元幕臣和田|惟政《これまさ》を高槻《たかつき》城から追い、摂津東半国を勢力下におく程の威勢を示した。  天正元年、将軍義昭の槇島《まきのしま》城蜂起の際、信長に帰服、その功により摂津一国の支配を委ねられた。その後、旧主の池田勝正を高野山に放逐、伊丹《いたみ》城主伊丹|忠親《ただちか》を追って同城を接収、有岡城と改称、以後山陽方面の軍事を担当する。  端倪《たんげい》すべからざる荒木村重を加えての石山本願寺攻撃は、意外にも明智兵団と細川・荒木の手勢の、思わぬ惨敗となった。  昨秋以来、丹波|戡定《かんてい》作戦の傍ら、東美濃から大和、畿内、京都と、東奔西走した疲労の累積もあったであろう。  ——半年前、和を乞うほどに衰弱した一揆《いつき》勢に、なにほどの戦力があろう。  と、相手方を軽視した疎漏《そろう》もあった。  それにも増して、昨年来、対石山本願寺戦の一切を委任されている織田家の宿老、佐久間右衛門尉信盛の情報不足と油断は否めない。  本願寺攻撃に取り掛った光秀らの軍勢は、宗徒方の巧妙な包囲網に、まんまと陥った。  ——意外に手強《てごわ》い。  光秀らがそう覚ったとき、四方に配置されていた本願寺勢の数千挺の鉄砲が、息つく暇のない乱射を見舞った。 「射てや、射て射て! 一人たりと逃がさず射ち果せ! 仏罰の恐ろしさを思い知らせよ!」  鉄砲陣で、踊る仕草《しぐさ》で指図するのは、紀州雑賀党の棟梁、雑賀孫市こと鈴木|孫市重秀《まごいちしげひで》であった。  雑賀党は、紀ノ川河口を本拠とする鉄砲傭兵集団で、越前朝倉家と縁故が深い。逆に信長は、一時、金に飽かせて雇ったこともある。雑賀孫市は豪快無比な男で、信長はその性と気質に惚《ほ》れこみ、家臣に加えようと様々に誘ったが、応じなかった。  その孫市が度重なる本願寺の説得に屈して、その戦列に加わっていた。信仰心もさることながら、本願寺がこの半年の和平期間に、金に糸目をつけず買い与えた鉄砲・弾薬の豊富な量は、光秀らの保有量を遥かに超えていた。  散々に射ちすくめた末に、本願寺は一万を超える突撃集団を繰り出して、光秀らの軍勢に襲いかかった。  光秀・藤孝・荒木らは、懸命に防戦に努めたが、劣勢覆うべくもない。まず信長から派遣された寄騎《よりき》勢が崩れた。信長譜代の部将原田備中守直政(別姓・塙《はのう》)が、本願寺勢の銃撃に凄絶な戦死を遂げたのをきっかけに、戦列は潰乱《かいらん》し、惨憺《さんたん》たる敗走に移った。  この時の本願寺勢は、闘志|凄《すさ》まじく、光秀らの軍勢を鏖殺《おうさつ》せずんばやまずと、悪鬼の如く追撃した。光秀らは残兵をまとめ、天王寺砦《てんのうじとりで》に逃げこみ、立て籠《こも》るのが精一杯であった。  ——これではわが殿(信長)の戦法を、逆に仕返しされたのと同じではないか。  それも道理、相手方の雑賀孫市は、鉄砲の用法では信長を凌ぐ巧妙さがある。  ——それにしても、敵の豊富な武器・弾薬・兵糧は、どこから入手し得たか。  本願寺は、和平期間を十二分に活用していた。  五月五日、京都に在った信長は、急報に接した。 (御味方、敗北。光秀ら残余の兵を率いて天王寺砦に籠る。原田備中討死、敵は勢いに乗じ、砦を攻撃中)  信長は、俄然本領を発揮した。造営したばかりの二条の居館から湯《ゆ》帷子《かたびら》のまま乗馬、一鞭《ひとむち》、河内《かわち》を目指して疾駆した。急ぎ従う者は百騎ばかりであった。  河内|若江《わかえ》に到着、軍容を整えようとしたが、事態の急変に、兵数が集まらない。その間に前線からの急使が相次いだ。  信長が聞き知った状況は左の通りである。  ○天王寺砦に取り掛った敵の兵力は、一万五千にふくれあがった。  ○砦に籠った味方は三千足らず。   目下住吉付近で明智|弥平次秀満《やへいじひでみつ》が、味方の敗兵二、三千を取り纏《まと》めているが、武器・矢弾《やだま》を捨てての敗走に、当座の用には役立たない。  ○味方の討死。原田備中のほか、塙喜三郎、塙小七郎、蓑浦《みのうら》無右衛門、丹羽小四郎。  ○天王寺砦籠城の者、惟任《これとう》日向守《ひゆうがのかみ》(明智光秀)、佐久間甚九郎、猪子兵介《いのこひようすけ》、大津伝十郎、ほか江州(近江)衆。  ○細川兵部大輔、佐久間右衛門尉信盛、荒木村重らは、木津川口《きづがわぐち》付近に後退し、後図を模索中。  信長は、即座に決意した。 「然《しか》りといへども五、三日の間をも拘《ささ》へ難きの旨度々注進候間、攻殺させ候ては都鄙《とひ》(都と田舎。国中の意)の口難御無念の由」(『信長公記』)  と、七日、辛うじて集った軍勢を進発、 「一万五千ばかりの御敵に、纔《わず》か三千ばかりにて打向せられ」(同前)た。  信長は、先手の足軽にうちまじり、駆け廻り、ここかしこと下知し廻ったが、射ちそそぐ鉄砲玉は激しく、浅い手傷を負った上に、更に脚部に命中、鮮血|淋漓《りんり》の有様となった。  だが信長はさらさら屈する色なく、天道照覧して苦しからずと、莞爾《かんじ》として突進し、雨霰《あめあられ》の如き鉄砲乱射の中を、敵にどっと攻めかかった。 �信長、鑓《やり》をおっ取りて、素破《すわ》かかれと仰せらる�  有名な戦場描写の一節は、この時の信長の勇姿を眼のあたりに見る如く伝えている。  信長は、自ら槍を振《ふる》って一揆勢を突き立て斬り捨て、天王寺砦に駆け入り、すでに玉砕を覚悟の光秀とその残兵との合体を果した。  この石山本願寺攻め天王寺砦の一戦は、戦の規模が小なるゆえに史書に往々にして省かれるが、信長の一生で�桶狭間《おけはざま》の合戦�に匹敵する大難戦であり、これほど信長の英姿を伝える戦はほかにない。そして更にそのあとが凄かった。  天王寺砦に駆け入った信長は、群がる明智兵団の敗兵に、慌ただしく声を掛けた。 「光秀……光秀は如何《いかが》ある」  軍兵を掻《か》き分け進み出た光秀が、膝を支《つか》えた。 「お、御前《おんまえ》にござります」 「おう光秀……堅固で重畳《ちようじよう》」  信長は、ニコッと笑った。震いつきたい程の魅力ある笑顔であった。 「早速の御救援、有難き倖せにござります」  光秀は、感動に涙した。 「あ、上様、御手傷を負われましたか」  見れば信長は、朱に染まっている。 「大事ない。着替えはあるか」 「は……直ちに」  信長の美意識は、血の汚れを嫌った。  信長が着替える間に、率いた手勢が次々と砦に入った。丹羽長秀・滝川一益・羽柴秀吉・稲葉|一鉄《いつてつ》・氏家左京亮直通《うじいえさきようのすけなおみち》など錚々《そうそう》たる面々が、急な召集に軍勢間に合わず、二百三百の馬廻のみで参陣している。  続いて佐久間信盛・細川藤孝・荒木村重ら敗軍の将領が駆けつけた。奈良から馳せ参じた松永|弾正《だんじよう》も加わっている。  信長は、まず軍列を整えた。  御先《おんさき》一段。佐久間信盛・松永弾正・細川藤孝・若江衆  二段。滝川一益・蜂屋《はちや》兵庫|頼隆《よりたか》・羽柴秀吉・丹羽長秀・稲葉一鉄・氏家左京亮・伊賀伊賀守(安藤|守就《もりなり》)  三段|御備《おんそなえ》。信長馬廻 「この砦は光秀に任す。軍列は直ちに本願寺に攻めかかるぞ」  信長の言葉に、戦馴れた一同は仰天した。惨憺たる敗戦の後である。味方の兵力は四、五千。相手方は天王寺砦の包囲を解き、撤収中の軍勢は一万四、五千。後詰の兵力は一万を超えよう。到底勝ち目はないと思われた。 「ま、ま、お待ち下され」  老巧の丹羽長秀が進み出た。 「御味方、無勢に候えば、この度は御合戦御|遠慮《えんりよ》が至当か、と存じまする」 「ばかを申せ。本願寺勢が斯程《かほど》近く寄せ合う事がまたと有るか。上意であるぞ」  これまで本願寺勢は石山の城砦《じようさい》に立て籠り、堅固な城壁を楯《たて》に戦い続けた。今回は勝利に驕《おご》り、城砦を出ている。  それを勝機ととらえた信長の戦略眼は、並居る将領を遥かに超えた。 「上意」の一言に、拒む術《すべ》なき将領は、ここが一期《いちご》、と覚悟を決めた。  信長は、その中の荒木村重に眼をとめた。  信長は、荒木村重の逡巡を見逃さなかった。 「村重、異存があるか」  信長の言葉は、意外に優しかった。  ——新参者、それに石山本願寺の近くで所帯を張る身なれば、懼《おそ》れもあろう。 「木津川口の備えが、些《いささ》か心許《こころもと》ないかと存じます。近辺の一揆勢が蜂起して、背後を衝《つ》くおそれもあるか、と……」 「相わかった。その方を先駆けと思ったが、右衛門(佐久間信盛)に代えよう。木津川口はそちに任す。行け」  信長は、前段の戦同様、先陣の卒伍《そつご》に身を入れ、追撃に移った。  本願寺勢は、意表を衝かれ、周章狼狽の極に達した。  信長は、 「かかれ、かかれ」  と、大音声《だいおんじよう》を発し、槍を振って敵勢に突入した。彼は昨秋、京都朝廷の恩命に浴し、大納言に任官している。世に大納言の突撃というのは類例を見ない。その捨身の働きに、味方の武将・部将は奮いたった。  信長勢の突撃は、石山本願寺の城門間際まで続き、討ち取りし首級二千七百余、負傷者は本願寺勢全員に及び、ために兵気は逼塞《ひつそく》し、以後天正八年、本願寺|顕如光佐《けんによこうさ》が信長に和を乞うまで、二度と城外に出戦することは無かった。  この戦が終熄《しゆうそく》すると、信長は、  ——もはや本願寺一統は、昔日の勢威を回復することあらじ。  と、見極め、次なる手を打った。  石山本願寺を取り囲む四方の城砦に十ヵ所の付城《つけじろ》を設け、住吉の浜手に要害を拵《こしら》え、佐久間信盛を将に包囲陣を構え、完全に封じ込める策を採った。  その完成を見たのは、六月初旬である。信長は未練なく大坂を離れると、安土に帰る。中途で取り止めていた安土築城を、七月|朔日《ついたち》に再開、 「何《いず》れも粉骨の働きに依って、あるいは御服、あるいは金銀・唐物《からもの》拝領、その数を知らず」  と、惜しみなく褒賞を与え、督励に努めた。  その七月十五日、本願寺に味方する旧勢力の筆頭、中国毛利家が、遂に起《た》って敵対行動を開始し、海上から石山本願寺に兵糧を搬入しようと行動を開始する。  ——毛利も敵対するか。余儀なき戦。  信長は、聊《いささ》か感慨を禁じ得ない。中国毛利は家祖毛利|元就《もとなり》が、「天下を望むこと勿《なか》れ」と家訓を残している。  ——毛利は何で、火中の栗を拾うか。  恐らく、中国制覇の既得権の保持に汲々《きゆうきゆう》としたためであろう。  応仁の乱以来百十年目を迎えた戦国の世を治めようとする信長にとって、生涯最大の敵を迎える事となった。  話柄を暫《しばら》く前に戻す。  志摩国《しまのくに》、という地名がある。東海道十五国の一つで、延喜式《えんぎしき》(律令の施行細目)では下国(大・上・中・下の最下位)とされた。現在の三重県南部に当る。  下国であるだけに、面積は狭小で人口は寡少である。物成りは極めて少なく、住民の多くは山(林業)か海(漁業)に依存しなければ生活《たつき》が成り立たない。  志摩の鳥羽《とば》に、九鬼嘉隆《くきよしたか》という土豪がいる。  その頃、豪族を名乗るには、一族郎等を養い、土地・勢力範囲を保有し、守護し、時には他を攻めて拡大しなければならない。  志摩は狭隘《きようあい》・貧窮の地であるから、土豪が大をなすのに困難である。が、近年に至ってその打開の方策を樹《た》てた者が現れた。  九鬼嘉隆。彼の方策は、海賊であった。  古来、人の交通と物資の輸送に至便な方法は、船舶に依る水上輸送であった。陸上交通は多くの人力を要し、しかも昼夜の時間制限がある。船舶に依れば人は休んでいる間に交通し、物資は大量輸送が可能である。四面海に囲繞《いによう》されているわが国は、海上輸送に依存することが盛んであった。  近畿・西国の物資を東海・東国へ輸送する船舶が通行するのに、必ず通過するのは紀伊半島の南端である。その東方に位置する志摩に盤踞《ばんきよ》する九鬼一族は、物資を強奪する絶好の地に拠っている。  かと言って、無闇《むやみ》やたらと強奪すれば、報復を招きかねない。�海賊大将�を自称した一族の棟梁九鬼嘉隆は、報復の軍費に足らぬ程度の通行税を課する事で、一族郎等の生活の資を稼ぐこととした。その兼合いの妙で彼はなかなかの具眼の将であったと言えよう。  九鬼嘉隆の具眼は、それのみにとどまらない。永禄十一年(一五六八)、伊勢に侵攻した織田信長に着目した九鬼嘉隆は、翌十二年、早くも信長の幕下に入り、その水軍を一手に引き受ける。嘉隆二十代の晩期の頃である。  信長の鋭敏な頭脳は、この頃から水軍の重要性を深く認識していた。  ——他日、大をなすには、自前の水軍を持たなければならぬ。  信長は、志摩鳥羽の小海賊に過ぎぬ九鬼嘉隆に支援を惜しまず、育成に努めた。嘉隆もまた信長の期待に応える器量を持ち、信長の京都進出を援け、琵琶湖の舟運開発に努め、信長軍団の岐阜・京都往来に、資すること多大であった。  話を元に戻す。天正四年七月、石山本願寺の包囲陣を完成して再び安土城築城を再開した信長の許に、飛報が到来した。 (中国毛利、海上より本願寺に兵糧搬入を策す)  毛利家には、一代にして中国十ヵ国を領する大を為した元就の遺訓が存在する。 「誤って天下を望むこと勿れ。領国を保全して次代に伝えよ」  孫の輝元《てるもと》の代になると、躍進する信長に怯《おび》え、畿内の戦乱に手出しする事となった。  毛利家の中央情勢への武力介入は、流亡中の足利将軍義昭の使嗾《しそう》である。義昭と毛利家の仲介をつとめたのは、僧侶の安国寺恵瓊《あんこくじえけい》であった。  安国寺恵瓊は、若年の頃から京の東福寺《とうふくじ》に学び、知己・知友を多く持った。その縁故の多岐、多才を買われて、大国毛利の外交役を務めた。  恵瓊はかつて、京を制した信長を評して、 「信長の代五年三年は持たるべく候」 (信長の代は、五年三年は持ちましょう)  と、続けて、 「明年辺は、公家などに成らるべく候かと見及び申候」 (しかも来年あたりは、公家の仲間入りするような、高貴な官位を得ると思われます)  と、いう。 「左候《さそうろう》て後、高ころびにあふのけにころばれ候ずると見え申候」 (それやこれやの後、思わぬ事態の急変に、高転びに転ぶかも知れませぬ)  と、予言し、 「藤吉郎さりとはの者にて候」  と、人物評を付け加えた。  その予言はみごと的中し、藤吉郎秀吉が天下を取るに及んで、天下にその眼力の鋭さを喧伝《けんでん》された。  実は、それ程のものではない。  田舎僧の彼は、背後にある中国の覇者毛利の勢威によって、当時の既存勢力である京都朝廷や足利将軍、叡山・石山本願寺等と、盛んに交際した。恵瓊の予言・評言は彼らの綜合的な念願を文字に記したに過ぎない。  七月十五日、大国毛利の水軍は、七、八百艘の荷船・軍船を動員して、海上から石山本願寺に兵糧・矢弾を搬入すべく木津川口に迫った。  信長の水軍である九鬼嘉隆の兵船三百余艘は、これを迎撃するため出動し、ここに木津川口の海戦が惹起《じやつき》された。  木津川口の海戦は、信長の期待に反し、九鬼水軍の惨敗に終った。  毛利水軍の主体は、往古、瀬戸内の海で覇を唱えた村上水軍である。中世、因島《いんのしま》・弓削島《ゆげじま》を中心に盤踞した村上一族は、南北朝時代に水軍の基盤を確立して、海賊大将としての勢威を張り、室町幕府から海上警護の特権を認可された。戦国末期のこの頃、中国を制した毛利氏に従い、その水軍となった。  志摩鳥羽の出来星《できぼし》である九鬼嘉隆とは歴史が違う。船体は堅固で、軽舟を圧倒する大船は九鬼水軍の三倍五倍の数を揃えている。  ——軽舟は操船に便利で、進退の自由が利く。  という九鬼嘉隆の言は、資本基盤の弱小な者の弁解に過ぎない。航空機が出現するまでの海上威権は、大艦巨砲主義で一貫している。  巨砲と言えば、武器装備の点でも、両者の差は隔絶していた。九鬼(信長)水軍が鉄砲や弓矢で攻撃しても、大船の厚い船板や甲板を覆う木楯を撃ち抜けない。一方村上(毛利)水軍は、火矢を主力に�焙烙《ほうろく》�と称する火弾の投擲《とうてき》機を用いて、容赦ない火攻で相手方を攪乱攻撃する。防禦《ぼうぎよ》手段のない九鬼水軍は瞬く間に劣勢に陥り、船の過半は炎上し、敗走するしか無かった。  石山本願寺包囲陣の一角が破綻《はたん》し、毛利の補給路が確立すると、俄然本願寺勢は活気付き、包囲陣を委任された佐久間信盛は、意気|沮喪《そそう》した。  信長は、堪えるしかなかった。  ——毛利との対戦は、強力な水軍無くしては勝ち目がない。  だが、潰滅した水軍は、一朝一夕に再建できない。その再建に当っては、百数十年の歴史を持つ村上水軍を撃破する工夫が必要だった。  とかく気短と見られがちの信長は、異常な忍耐力を示した。  彼は、九鬼嘉隆に敗戦の責めを追及せず、かえって豊富な資金を与えて、再建を督励する一方、村上水軍撃破の秘策を練った。  ——おれの周辺の状況・情勢は、一向に変らない。  信長は、そう思ったに違いない。  かつて信長は、反信長勢力の連合に、機動軍団を駆使して必死に対抗した。その中で叡山を焼滅させ、浅井・朝倉を討滅し、足利将軍義昭を追放し、信玄の侵攻に堪え、長篠に武田軍団を撃破し、加賀・越前と長島の一向一揆を一掃した。  そして、今——。  元将軍の義昭は毛利に身を寄せ、この年の二月、檄《げき》を飛ばして関東における北条・上杉・武田の飽くことなき交戦の休止を提言し、「相・越・甲」の三国同盟を勧め、また上杉謙信(長尾景虎)と本願寺との不和を調停して、謙信の上洛出陣を要請した。相も変らぬ信長包囲網である。  この時期(天正四年半ば)、反信長連合の包囲網は、左の通りである。  東・北 北条・勝頼・謙信の三国同盟  西   石山本願寺・毛利・紀州雑賀党  信長が上洛を果した頃(永禄十一年)と、あまり変らない。  内実は大いに変った。浅井・朝倉の頃と比べると、相手は一段と強力になった。  信長の実力も、格段に強化された。  北方、北陸方面には柴田勝家の兵団に、前田|利家《としいえ》・佐々成政《さつさなりまさ》・不破光治《ふわみつはる》ら三名の部将を寄騎として付し、謙信の侵攻に備え、東方、東美濃には嫡男信忠の兵団に滝川一益の兵団を併せて、勝頼の進出を阻止し、東海には同盟国家康の軍団が駿河《するが》進出を策している。  本拠地安土城には丹羽長秀の兵団が事態の急変に備え、石山本願寺の戦線は、宿老佐久間信盛が信長直轄軍団と近隣小大名の寄騎を統括して、本願寺覆滅を図る。  水も洩らさぬ布陣と言っていい。そして更に信長は、最強の二兵団をもって、西進を企図していた。即ち明智兵団をもって丹波を、羽柴秀吉の兵団をもって播州《ばんしゆう》を征するため、着々と歩を進めている。  こうして見ると、信長の軍容は、戦国期最大・最強と言えよう。たとえ一方面の戦況が不利に傾いても、信長軍の勢威は、もはや不動であった。  それかあらぬか、信長自身の性格に微妙な変化があらわれた。それは天王寺砦の一戦からである。  従来の信長は、戦に臨んで徹底的に相手方を叩き潰す方針を貫いた。敗けて尚、時日をおかず復仇《ふつきゆう》戦を企図し、再攻する。唯一の例外は長篠の合戦であるが、これとても武田軍団を徹底的に叩き、完膚なきまでに打ちのめした。その後、直ちに甲州侵攻を実施しなかったのは、動員兵力の不足で勝算が立たなかったためであろう。  だが、先般の天王寺砦の戦は違っていた。光秀らの敗戦を、電光石火の出撃で勝戦に逆転し得た信長は、敵の本拠、石山本願寺への攻撃を続行しなかった。敵の出城・砦に付城を付し、木津川口に軍船を派して、兵糧攻めを実施した。  ——勝を六分でおさめる。  信長は余裕を示したが、それは明らかに誤りだった。火のように攻めれば覆滅できた本願寺は、辛うじて気息を継ぐうち、大国毛利が介入した。  天正四年七月の、木津川口の海戦の敗北は、高い代償を要した。以後本願寺が力尽きて石山の地を明け渡すまでに、貴重な四年の歳月が費やされる。  信長と共に、家臣団や周辺の人にも、意識の変化が蔓延《まんえん》した。それは玄妙な自然の理である。  剛強を謳《うた》われる同盟国家康の三河《みかわ》軍団は、家臣団の鉄の結束を誇りとする。信長の機動軍団の特異性は、秋霜烈日《しゆうそうれつじつ》の締め付けであった。  信長が、拡大・飛躍を目指して機動軍団を編制した頃、その主体は尾張へ流れこんだ諸国の敗兵や流民であった。実戦で鍛えられ、他に倍する褒賞・昇進の途を与えられた傭兵は、信長に依る厳しい締め付けと甘い褒賞によって、強悍《きようかん》の名をほしいままにした。  その後、信長の飛躍によって、所要兵力は膨脹の一途を辿《たど》り、傭兵では賄い切れなくなった。所要兵力は故地尾張のほか、家臣に与えた新付《しんぷ》の地から徴募された。即ち五個の家臣兵団と信忠兵団、直轄馬廻、連枝《れんし》部隊、外様大名軍の構成は、この時期、左の通り分類された。  東美濃方面軍 信忠兵団(尾張衆—森|長可《ながよし》ほか)、滝川兵団(北|伊勢《いせ》衆)  北陸方面軍 柴田兵団(越前衆—佐々成政・前田利家・不破光治、加賀衆—堀江・島)  大坂方面軍 佐久間部隊(摂津衆—荒木村重・池田|知正《ともまさ》・中川|清秀《きよひで》、大和《やまと》衆—筒井|順慶《じゆんけい》・松永久秀、南|山城《やましろ》衆—狛《こま》・荘村《しようむら》その他)  丹波方面軍 明智兵団(近江・北山城衆—明智秀満、山城西岡衆—細川藤孝、丹波衆—小畠《おばた》・川勝《かわかつ》)  播磨《はりま》方面軍 羽柴兵団(美濃衆—竹中|重治《しげはる》ほか、近江衆—宮部|継潤《けいじゆん》・阿閉貞征《あつじさだゆき》)  遊撃、予備軍 丹羽兵団(若狭衆、尾張衆、近江衆、美濃三人衆—稲葉一鉄・氏家直通・安藤守就)  直轄兵団 馬廻(尾張衆馬廻、美濃衆馬廻、北畠|信雄《のぶかつ》、北伊勢衆—神戸信孝《かんべのぶたか》)  外様大名軍 磯野|員昌《かずまさ》、朽木元綱《くつきもとつな》、北畠|具教《とものり》、若江三人衆—池田・野間《のま》・多羅尾《たらお》、旧公方衆—三淵《みつぶち》・上野・伊勢・京極・細川係累ほか  このように編制が複雑多岐にわたると、統帥は間接的となり、信長の威令は届き難くなる。その時期に信長が合戦に�勝は六分�という微温的な態度をとることは、各方面に影響を与えた。  信長は、合戦以上に安土築城に重きをおいた。生涯の集大成という意識が働いたのであろう。だが、それは彼の偉業達成に弛《ゆる》みを生じた。即ち命令遂行の不徹底に始まる抗命・背叛・謀叛に到る危機の醸成である。  年、改まった天正五年(一五七七)二月。  信長は突如軍団を動かし、紀州に進攻、雑賀党の掃討作戦を敢行した。  中国毛利は本願寺に補給支援したが、兵力投入を避けた。  ——紀州はわが領域外、介入は物資に限る。  毛利元就の遺命を杓子《しやくし》定規に守ることで、表面を糊塗《こと》する汲々の態度を採った。  信長は、その姑息《こそく》を見逃さなかった。  ——今のうちに、本願寺の支援勢力を討つ。  信長は、播州進攻前に、調略工作に没頭している秀吉の兵団を転用した。更に、滝川、丹羽、明智兵団に藤孝の軍も加え、万全を期した。  さしも優秀な鉄砲傭兵集団も、圧倒的な兵力をもって進攻する秀吉兵団と信長直轄兵団に敵する術《すべ》なく、忽《たちま》ち敗勢に陥り、潰滅は間近となった。  その豪放|磊落《らいらく》な性格から信長に愛された雑賀党の棟梁雑賀孫市は、一党の一向宗信仰から石山本願寺に加わったが、戦《たたかい》、利あらず降伏した。  安土築城に専念の信長に、新たな問題が派生した。  ——信長は、安土に都を構える心算か。  京の人士の猜疑《さいぎ》による「口難」である。 「京」は、桓武《かんむ》帝以来、都であり続けた。  中世以降、覇者の交代甚だしきため、京の人士は余所者《よそもの》に対し猜疑激しく、その世評・風聞は毒を含んで、天下の情勢を変える程の作用を持ち続けた。  信長が、「口難」と称したのはその為である。  已《や》むなく信長は、京に祭礼を催す。内裏《だいり》作事の受け持ちごとに舞台を設け、稚児《ちご》若衆を着飾らせて笛太鼓・鳴物の拍子を合せて築地《ついじ》の築造を行ったのである。  帝《みかど》も公家も、女御《にようご》・更衣《こうい》も、かほどおもしろき遊覧は無しと寄り集って詩歌に興ずる。見物の人々、囃子《はやし》に合せて築地に土を運び、忽ちにして築地は出来《しゆつたい》した、という。  それでも、京のさがない「口難」を鎮めるに能《あた》わずとみた信長は、おのれの居館の修復を実施する。  これまで信長は、機を見て祭礼を催したが、これほどまでに都の評判を気にしたことは無い。  祭りといい、居館の修復といい、この時期の信長は精神的に常人並の弱さを露呈した。これも安土築城に依る安定感の為《な》せる業《わざ》であろうか。閏《うるう》七月十二日には、前《さきの》関白|近衛前久《このえさきひさ》の強い要請で、前久の子息の元服を、落成したばかりの信長居館で行っている。さすがに信長は「昔年より、禁中にて御祝言を催すのが例である」と再三辞退したが、正親町《おおぎまち》天皇の「こたびは信長館で挙行したし」との上意あり、是非に及ばなかった、という。  信長の、そうした心の隙を衝くように、越後の上杉謙信が行動を起した。  世に謙信・信玄を龍虎に譬《たと》える。信玄亡きあと、謙信は信長にとって最強の敵と言っていい。もとより勝算は無きに等しい。ただ相手方の攻勢が何処《いずこ》でとどまるか、あるいは上洛を意図しての行動か、その点は一切不明であった。  信長とすれば領国を侵されて無抵抗のままでは名聞が立たない。北陸探題を命じた柴田勝家に出動を令したが、柴田兵団のみで抗拒できる筈《はず》がない。丹羽・滝川・羽柴兵団に加勢を命じた。  越中を勢力圏に収めていた謙信は、まず能登《のと》に侵攻した。能登|七尾《ななお》城に内訌《ないこう》があり、一部は謙信と手を組み、他の一部は信長に進出を頼んだ。謙信の北陸進出は、それをきっかけに始まった。  閏七月、謙信は能登を席巻し、七尾城を囲む。七尾城攻略に二ヵ月を要した。急《せ》かず焦《あせ》らず悠々たる歩みである。謙信はこの時、胸中の思いを一片の詩にあらわす。  霜は軍営に満ちて秋気清し  数行《すうこう》の過雁《かがん》 月|三更《さんこう》  越山|併《あわ》せ得たり能州の景  遮莫《さもあらばあれ》家郷の遠征を懐《おも》ふは  清涼の響きがある。戦というのをこれ程すがすがしく表現した人物は他に類例を見ない。  一方、柴田勝家を総大将とした丹羽・滝川・羽柴の兵団と、前田・佐々の寄騎勢は、加賀に進出、佐久間|盛政《もりまさ》の居城加賀|大聖寺《だいしようじ》城に前線基地を設営し、諸将を集めて謙信迎撃の陣を布いた。  この時、秀吉は、勝家と意見を異とし、際どく対立した挙句《あげく》、単独で陣を撤し、近江長浜へ帰陣してしまう。  勝家の邀撃策《ようげきさく》は、何の変哲もない布陣であった。即ち秀吉と前田・佐々勢を第一陣とし、以下滝川第二陣、丹羽第三陣、勝家は甥《おい》の佐久間|玄蕃允《げんばのじよう》盛政と共に本陣を構え、手取川《てどりがわ》を前面に謙信と対峙《たいじ》するという、従来の戦法から一歩も出ない作戦であったという。  ——このようなありきたりの戦法で、謙信に勝てるか。  秀吉は、おのれの兵団を温存するため、あえて抗命に踏み切ったのである。  秀吉が陣を撤して近江に兵団を戻す。間も無く能登七尾城を攻略した謙信は加賀に侵攻した。  柴田・丹羽・滝川の兵団と、前田・佐々の寄騎部隊は、小松の北、手取川の海辺近くに布陣して、謙信の軍を迎撃した。  鎧袖一触《がいしゆういつしよく》であった、と戦史は伝える。信長軍の各兵団・各部隊は、謙信の軍勢の巧妙な駆け引きに翻弄《ほんろう》され、強烈な突進を支え切れず、次々と敗走した。  謙信の軍の強さは桁違《けたちが》いであった。 「世上に流布されている程に、信長勢は強からず」  謙信は、そう評したという。  手取川の合戦後、謙信の採った行動は奇妙だった。彼は当然為すべき追撃を為さず、全軍を手取川畔に止めた。  戦場跡を仔細《しさい》に検分した謙信は、捕虜から信長軍の軍情を聴取すると、一転して軍を返した。  謙信の意図は不明である。何の為の行動であったか、史書は伝えていない。  威力偵察、と見做《みな》すほかないが、それにしては作戦の規模が大きすぎる。  ——謙信は、何か期するところがあったが、その期待が外れたので、空しく去ったのだ。  そういう噂が流れた。  あるいは、加賀の泥湿地を検分した謙信は、前線から消えた秀吉兵団の遊撃戦——補給遮断——を懼《おそ》れたのかも知れない。その点では、敗勢必至と見た秀吉軍の過早の撤退は、絶妙の策と言えよう。  前《さき》に柴田勝家と争い、独断で兵団を返した秀吉は、近江長浜に帰着すると、ひとり安土に参上した。信長に報告するためである。  軍令違反は死に値する。まして信長は苛烈の性格である。  ——主命は、事の如何《いかん》を問わず。  秀吉にとっては、生涯最大の賭けであり、最大の危機であった。 「曲事《くせごと》の由御|逆鱗《げきりん》なされ」と『信長公記』は信長の怒りを伝える。  信長の怒りの凄まじさに、人々は、秀吉の命運は尽きた、と思った。  秀吉は長浜に戻り、門を閉ざした。  その蟄居《ちつきよ》は十日と続かなかった。  信長上洛以来帰属して命に服していた大和の松永弾正|少弼《しようひつ》久秀が、突如背いたのだ。久秀は信貴山《しぎさん》の居城に立て籠《こも》った。  ——何でだ。  冷静さを取り戻した信長は、必要になった秀吉兵団の動員を躊躇《ためら》わなかった。  世人は驚かなかった。天正四年の木津川口の海戦の敗北は、大国毛利の参戦を意味し、天正五年の信長軍の越前出兵は、謙信上洛の近きを予想させる。機を見るに敏な松永久秀は、先手を打ったつもりであろう。  天正三年九月以来、二年余を費やしても、光秀の丹波平定戦は遅々として進まなかった。とりわけ信長与党であり、最大勢力であった波多野|秀治《ひではる》の裏切りは予想外であった。  波多野勢は剛強で、八上城も堅固であったが、調略し帰服させた筈の丹波の土豪の反転・離反には手を焼いた。落城寸前にまで追い込みながら、土豪征伐に囲みを解く事が再三だった。  信長も、日頃に似ず、性急な督促をしなかった。  ——本格的な中国侵攻となると、東海に在る家康の三河軍団は使えなくなる。その代りとなるのは剛強の丹波兵だ。  信長の胸中には、それがあったに違いない。  焦らぬ信長は、光秀の兵団を容赦なく他に転用した。そのため光秀は、天正三年秋から天正七年夏に至るまで、八上城の城攻めを十七度も挫折に追いこまれた。  この年(天正五年)八月、八上城を囲む光秀の許に、信長から松永久秀背叛の報と共に、応急派兵の下命が齎《もたら》された。  ——松永久秀の謀叛?  光秀は已《や》むなく囲みを解き、丹波各地に所要の兵を配置して、兵団を山城の勝龍寺《しようりゆうじ》城に戻した。勝龍寺城には寄騎の細川藤孝の軍勢が待機している。  光秀が城に入ると、先客が来ていた。前関白近衛前久と、堺の千宗易《せんのそうえき》である。  明智光秀・細川藤孝・近衛前久・千宗易と揃うと、当然茶事となった。  茶のよさ、便利さは、集う者の身分差、格式を問わないことにある。茶室という狭い空間に身を入れると、前関白であろうと武将・商人であろうと、一個の人間同士となる。あるじと客になって、茶の幽玄を楽しむ。  四人の親しさから、茶会は砕けた茶事となった。亭主は本来藤孝が務めるところだが、宗易が替って亭主役となった。宗易はこの頃信長に重用されて織田家の茶頭《さどう》となっている。その権威が増すにつれて家中に茶事の師範や、信長に命ぜられての接待行事の主宰が繁忙となり、堺|納屋《なや》衆としての商業・運搬業の俗事は使用人に委せ、長子|紹安《じようあん》(後の道安《どうあん》)と共に、茶道に専念している。  到着したばかりの光秀に合せて、茶懐石が振舞われた。各々が久方ぶりの顔合せとあって、近況披露などに話の花が咲いた。 「それで亭主殿、どうであったかな。弾正の様子は」  近衛前久が、待ちかねたように宗易にせがんだ。  宗易は、信長の使いとして、信貴山城に松永弾正久秀を訪ねての帰途らしい。光秀の到着前、近衛前久は謀叛を起した松永久秀の様子を聞き訊《ただ》していたところとみえた。 「それが、どうも……一向に腹を割った話になりませず、まこと不調法なお役目となり、何と復命してよいやらほとほと困惑致しております」  宗易は、苦笑をまじえて嘆息してみせた。  光秀は、その久秀討伐に出向く中途である。事の成行にうといだけに聞き耳を立てた。 「謎の多い男ですな。今時《いまどき》、何で離反を決めたか……わが殿も、初め容易にお信じ難かったようで」  藤孝は、光秀に話を振った。 「そこもとは、どう思われる」 「さあ……」  と、光秀は言うしかない。 「それがしはこのところ、丹波の山の中を転々とする身で、推量の仕様もありませぬが……やはり、公方《くぼう》殿(足利義昭)の差し金でしょうか」 「当然、そうであろうが、何で今の時機と思うたのだ」  この戦国の世に浮遊する前久としては、情勢の的確な判断は命の種である。 「密事《みそかごと》好きの公方様ゆえ、へたに数射った鉄砲が、思いがけず弾正殿の胸中に当ったのでございましょうよ」  宗易は、低く咲《わら》って、続けた。 「大方、謙信殿上洛をあてにして、と思いますが、それが加賀から急に兵を返す。何ででございましょうか、どう思われます?」  宗易は、問題の核心に触れた。 「謙信め、本気で上洛する気など初めから無かったのと違いますかな」  藤孝は、冷笑を浮べて言った。 「それをあて[#「あて」に傍点]にして松永|輩《はい》が兵を挙げたとすれば、とんだ粗忽者《そこつもの》という外ありませぬ」 「それがしもそう思います」  光秀が、藤孝の言葉に続いて言った。 「あの男には、天下を望む気は無い。自らの力量を知っての事にござりましょう。あれの望みはせいぜい関東|管領《かんれい》……小田原の北条になり代って、関東八州を制するが生涯の望み、と聞いております」  光秀は、おのれの見解をそう言い切った。 「では謙信がこたび北陸に兵を進めた目的《めあて》は……」  と、前久が重ねて問いかけた。 「恐らく、われらの反応を見定めるためか、と愚考致します」  光秀は、言葉を強く言った。 「織田家中のかなり力有る者か、あるいは枢機《すうき》にかかわる者かに、ひそかに内応を約した者があり……謙信を誘ったと考えられます。それが……手取川の一戦で、内応の徴《しるし》があらわれなかった。それで謙信は、軽々《かるがる》と決戦をあきらめ軍を返した……」  一同は動揺の色を示し、沈黙した。  と、その沈黙に、藤孝が素早く反応した。 「それは至当な見解だな。手取川合戦には織田方の二大決戦兵力、つまり羽柴勢・明智勢が参加しておらぬ。謙信はそれを江北決戦に誘いこむ罠《わな》と見た。それゆえ軍勢を退いた……」 「惟任《これとう》(光秀)殿、何かそれらしき徴候に気付かれなんだか」  近衛前久は、せわしく問いかけた。 「いや一向に……恐らく内応者は、筑前《ちくぜん》(秀吉)殿の動きに事成らずとみて、謀事《はかりごと》を放棄したとみえます」 「その内応者とは……」  と宗易が言いかけると、藤孝はすかさず答えた。 「言うまでもない事、松永弾正でござる」  一同は、それぞれに頷いた。 「なるほど、それで読めたわ」  近衛前久は、納得の声をあげた。 「きざし[#「きざし」に傍点]に聡《さと》い信長殿が、早晩気付くとみて離反に踏み切った……弾正(久秀)らしい気の廻しようではある」  四人の、枢機にかかわる会話は、それで終った。  翌朝、信貴山城に軍を進める光秀は、脳裏に澱《おり》のように残る疑念を晴らしかねていた。  ——松永弾正に、上様の枢機にかかわる、それ程の陰謀が組めるであろうか……いや、それほど彼は重要な位置にない。彼は踊らされたに過ぎぬ。陰謀の主はほかにいる。  信貴山城の包囲陣は完璧であった。  総大将は信長の嫡子信忠、先鋒は羽柴秀吉、大和口に丹羽長秀、摂津口は滝川一益の各兵団が配され、遥か摂津石山方面に佐久間盛政が、寄騎荒木村重・筒井順慶と布陣している。  兵団が到着すると、光秀は寄騎の細川藤孝を伴って、信忠の本陣へ出向いた。 「遠路大儀であった。相も変らぬ父の性急、迷惑であったな」  信忠は、父信長に似ず、家臣の扱いに丁重だった。 「恐れ入ります。些《いささ》か手間どりまして遅参致し、お詫び申し上げます」  光秀は神妙に頭を下げた。 「早速だが日向守《ひゆうがのかみ》(光秀)、筑前(秀吉)と替ってくれい。父は筑前の播磨攻めを急いでおられる」 「畏《かしこ》まりました。して総攻めはいつ頃……」 「あ、いや、この方の指図あるまで攻めてはならぬ。父君のきついお申し付けである」 「…………」  怪訝《けげん》そうな光秀に代って、藤孝が口をさしはさんだ。 「では、弾正(松永久秀)めの降伏を待つ御所存で」  信忠は、苦笑して頷いた。 「悪に凝り固まった男だが、禁裏や公方の残党の扱いに、捨つるは惜しと思われておる」  実は、松永久秀は、信長の代理で朝廷との交渉や将軍義昭への工作を、一手に委されることを期待していたようである。だが、信長はそう甘くなかった。久秀を充分に飼いならすまでは使う気にならなかった。久秀は期待が外れ、織田家部将から白眼視されているのが不満で、背叛に踏み切ったようだ。 「先般、千宗易に使いさせて、降伏を奨《すす》めてみたが、あやつめ助命の約束を信じられず不調に終った。藤孝、そちから今一度、説き聞かせてくれぬか」 「てまえ如き者の言葉を信じますかどうか……助命致すには条件などありましょう。それをお聞かせ願いとうござる」 「うむ、大和で切り取りし所領はそのまま呉れてやる。その代り……あやつが物狂いに集めおる茶道具の名物を、質として差し出《いだ》せ。それで今度ばかりは許してやろう」  松永久秀は、信長と競い合う茶道具|蒐集《しゆうしゆう》で知られている。いかにも信長らしい処罰であった。 「おもしろき趣向にはござりまするが、あやつに通じますかどうか……ともあれ行って参りまする」  久秀は、説得の使者に藤孝が立ったことでひどく驚いたようである。だが同時に落胆の色を見せた。久秀は頑として降伏を拒み、攻められて落城の寸前、名物|平蜘蛛《ひらぐも》の茶釜を首に掛けて爆死した。一世の梟雄《きようゆう》らしい最期であった。  明けて天正六年(一五七八)正月。  昨年十一月右大臣に叙任された信長に年賀を表するため、五畿内(大和・山城・河内・和泉・摂津)、越前・尾張・美濃・近江・伊勢等々、信長の勢力圏の面々は、安土に参賀、元旦の礼に伺候した。  信長は、そのうち十二名に朝の茶を振舞って報いた。  三位中将信忠(嫡男)  二位法印(武井|夕庵《せきあん》、右筆《ゆうひつ》)  林佐渡守秀貞(宿老)  滝川|左近将監《さこんしようげん》一益(兵団長、大名)  長岡(細川)兵部大輔藤孝(部将、外様大名)  惟任(明智)日向守光秀(兵団長、大名)  荒木摂津守村重(準兵団長、大名)  長谷川|与次《よじ》(尾張豪族)  羽柴筑前守秀吉(兵団長、大名)  惟住《これずみ》(丹羽)五郎左衛門長秀(兵団長、宿老大名)  市橋九郎右衛門|長利《ながとし》(美濃豪族)  長谷川|宗仁《そうにん》(側近)  これに加賀転戦中の柴田|修理亮《しゆりのすけ》勝家(兵団長、宿老大名)、前田又左衛門利家(譜代部将)、佐々|内蔵助《くらのすけ》成政(譜代部将)を加えたあたりが、信長の最も信頼した者たちであろう。  書き添えておくが、こういう節目の時の茶事は、単なる饗応や趣味の芸事ではない。信長の茶は天下経営の一環である。即ち軍事・政治と匹敵する。信長が茶の湯で対人関係を取り結ぶのは厳しく自分と相手を鍛え、礼を守り、一挙一動を整え、作法を遵守する精神的な鍛練である。  その点では、後に道楽に堕《だ》してしまった秀吉の茶の湯とは、根本的に異なる厳粛な行事であった。  二月、諜者《ちようじや》は越後に異常な気配のある事を伝えた。  ——謙信、動員下令か?  雪解けを待って、軍事行動を起すと見られた。  信長とその軍団は緊張した。謙信の意図はその胸三寸に秘められて、余人の窺い知るを許さない。彼の宿願の関東制覇か、それとも上洛戦の再興か、後者となれば信長は、乾坤一擲《けんこんいつてき》の決戦を試みなければならない。  信長が、柴田勝家とその寄騎、前田利家・佐々成政らを加賀に進出させ、正月参賀を制禁したのは、謙信の動きに未然に備えるためであった。  三月。一大異変が伝わった。当の上杉謙信の急死である。天下を望めば果し得たであろう一代の英傑は、雄図空しく世を去った。享年四十九。  ——彼もまた、人生五十年、夢まぼろしの一生であったか……。  信長は、その感慨を口にすることなく、連日、鷹狩に没頭したと伝えられる。  その反応のありように、信長の哀惜の情を汲《く》みとることができる。  思い起す彼の若年の頃、誠忠の臣|平手政秀《ひらてまさひで》が、彼の異常な挙動を憂いて諫死《かんし》した。その折、信長は異装のまま山野を駆け廻《めぐ》って鷹狩に没頭した。彼は獲物を得ると馬上でそれを引き裂き、空に投げた。天にある亡き政秀に供えたい、との思いに衝き動かされたのだ。  その異常な哀惜表現に通ずるものがあった。  播州は、毛利十ヵ国の域外にあって、その勢力圏におさまっていた。  播州には、群小の豪族がひしめきあって、力を競っている。毛利は巧みにそれらを操って、おのれの勢力の扶植に努めてきた。  黒田官兵衛|孝高《よしたか》は、播州で枢要の地姫路に隣する御着《ごちやく》城の小領主、小寺藤兵衛政職《こでらとうべえまさもと》の家老である。小寺政職は小心翼々の凡才で、大をなすに足りない。黒田官兵衛は毛利家の桎梏《しつこく》を脱するため、新興の織田信長に望みを掛けた。  ひそかに安土に来た黒田官兵衛を謁した信長は、小寺氏への助力を約束し、秀吉の補佐を命じた。  信長は播州進攻の糸口を掴んだ。  前年(天正五年)十月、中国遠征軍の指揮を委ねられ、中国探題に任命された秀吉は、播州御着城に兵を入れ、他日の大を期して姫路の城を拡張し、播州一円の攻略に東奔西走した。同年十二月、備前《びぜん》国境に近い上月《こうづき》城を攻め陥した秀吉は、多年毛利氏に抵抗を続ける尼子《あまこ》氏の末裔|勝久《かつひさ》に与えて新城主とした。  斯《か》くして東播磨三木城の別所長治《べつしよながはる》、御着城の小寺政職らが信長に帰順したため、順調に進んだ秀吉の播磨平定であったが、毛利も然《さ》る者、謀略戦を以て報いた。今年(天正六年)、思わぬ事態が起った。二月に別所長治が突然背叛し、毛利方に寝返って三木城に立て籠《こも》ったのである。  年賀の挨拶に安土に伺候していた秀吉は、軍勢を率いて三木城を攻囲した。そこへ、更なる凶報が飛び込んだ。毛利が動き始めたのである。  毛利氏は、備前一国を領し帰属を誓う宇喜多直家《うきたなおいえ》への体面上、上月城失陥を看過するわけには行かず、吉川元春《きつかわもとはる》、小早川隆景《こばやかわたかかげ》の両将が出兵、天正六年四月、上月城を囲んだ。  秀吉は三木城にも兵を残し、荒木村重と共に上月城救援に急行した。同時に信長にも援軍を要請した。 「東国と西国の兵で白兵戦を展開し、必ずや毛利に打ち勝ってみせよう」  自ら気負い立って出陣しようとした信長は、諸将に押し止《とど》められた。 「今は尚早にござる。この時機、上様の主軍が西へ動けば、甲斐の勝頼がその隙に乗じましょう。ここは耐忍の時……」  信長は、その懸命の進言を容《い》れ、とりあえず明智光秀、滝川一益、丹羽長秀を進発させた。その上、信忠の軍団にも後を追わせた。  救援軍は、錚々《そうそう》たる顔触れだが、咄嗟《とつさ》の出陣とあって軍勢が揃わない。加古川あたりまで進出したが、播磨一円に不穏の気配が満ち満ちている。  ——寡勢と見られたら、事態の急変も測られぬ。  進軍が停止した。一向に上月城の救援に現れなかった。  秀吉は、焦慮に身を灼く思いであった。  ——播州で信長与党の尼子氏を助け得ぬとなると、他の土豪を慴伏《しようふく》させることは覚束《おぼつか》ない。このままでは、黒田官兵衛と営々築いてきた播磨の親信長連合が瓦解《がかい》する。  必死の思いの秀吉は、自ら京に上り、信長に直接救援を請うた。  播州の状況を切々と訴える秀吉の言葉を、信長は聞きながら、その心は反対の畿内情勢の分析に追われていた。  ついに、秀吉の言葉が途絶えた。  信長は、心気を澄まし、沈思の後、おもむろに断を下した。 「已《や》むを得ぬ。そちは軍を返し、三木の別所にかかれ」 「…………」  秀吉は、暫《しば》し言葉を失った。  言われてみればその通りである。秀吉の兵団は播州から備前をのぞむあたりに突出した。それを確保するにはかなりの兵力が必須である。  だが、信長にそのような余剰兵力が有ろう筈がない。各所の戦線では所要の兵団が戦況の打開に援軍を求め続けている。信長の機動兵団は各所を駆け廻《めぐ》って、手当に奔命している。どの戦線も兵力の抽出は即崩壊につながる。 「畏《かしこ》まりました」  播州に戻った秀吉は、せめて尼子氏の血脈を救出しようと兵を掻《か》き集め、上月城下にまで進出したが、毛利の吉川・小早川勢の重囲に陥って、惨敗を喫した。  程なく上月城は陥落し、尼子勝久は自裁して果てた。遺臣山中|鹿介《しかのすけ》は偽って投降し、ひそかに再起を策したが、これを看破した毛利の手の者によって、備中|合《あい》の渡《わたし》で殺された。多年にわたる尼子の抵抗運動は終熄の已むなきに到った。  毛利勢の上月城確保により、勢い付いたのは大坂石山本願寺である。  ——上月城への進出は、毛利勢の畿内進出の前触れなり。本願寺勢は一層活溌に行動し、戦況好転させざるべからず。  本願寺は、畿内外の宗徒に檄《げき》を飛ばし、弾薬・兵糧の大量搬入を命じた。  蹶起《けつき》したのは、紀州雑賀衆と、泉南|淡輪《たんのわ》衆である。早速船団を組み、諸国調達の軍需物資の海上輸送にかかった。  信長は、上月城放棄の決断の時から、かかる事態を予期していた。彼は急使を志摩に派して、再建中の九鬼嘉隆の水軍に、上方《かみがた》出撃を下令した。  七月十六日、摂津海面に進出した九鬼水軍は、輸送途中の雑賀・淡輪水軍をさんざんに撃破し、石山本願寺の意図を断ち切った。  淡輪海戦の結果に、衝撃を受けたのは、石山本願寺だけではない。泉南にあって海外貿易の最大商権を持ち、諸国大名群に治外法権の輸送権を有する商業都市、堺にとって、信長の目指す既得権打破の進展は、もはや脅威にとどまらず、恐怖と化した観がある。前《さき》に背叛の挙に出た松永久秀の企ての裏には、豊富な軍資金の提供を約した堺納屋衆の影があったと思われる。  表向きは信長に恭順の意を示しながら、裏では反信長勢力の後押しを続ける堺の意図は、隠れもせぬ事実であった。  七月十七日、堺の港に異変が起った。突如巨大船団が入港したのだ。その数は五百以上、まさしく雲霞《うんか》の如き船群であった。華やかな旗幟《きし》でそれと知られる九鬼水軍の総兵力である。  しかも、群なす九鬼水軍の船は坡塘《はとう》の脇に片寄せられて、山のような巨船が船着き場に到着し、船繋《ふながか》りしている。それも六隻である。  人々は仰天した。常識を遥かに超えたその巨船は、舷側いやが上にも高く、更に甲板上に高く鉄張りの高壁を廻らし、整然と穿《うが》った銃眼には、長鉄砲や、江州|国友《くにとも》村の鉄砲|鍛冶《かじ》が鍛造した大筒が覗《のぞ》く。  信長が、過日の木津川口の海戦に惨敗した戦訓を基本に、自ら設計し九鬼水軍に命じて造船した、本邦|嚆矢《こうし》の甲鉄戦艦であった。  だが意外な事に、入港の翌日、船団は堺から姿を消した。大坂表へ乗り出し、海上交通路の封鎖を開始したのである。  九月三十日、信長は、意外な行動を示した。彼はわずかな供廻りを従え飄然《ひようぜん》と堺に現れて、視察を開始した。  この時期、軍勢を伴わぬ信長の行旅が、いかに危険であるかは言を俟《ま》たない。堺は俄然色めきたった。堺納屋衆は既得権益の保全と拡大に都市の興廃を賭けている。  ——これは、飛んで火に入る夏の虫だ。  だが、信長はそうあまくない。無謀にいのちを賭ける人間ではない。彼は常に完璧を期し、最も効果的に行動する。  再び巨大船団が入港し、堺の津に着岸した。  その前衛は逸早《いちはや》く上陸を開始した。忽ち街衢《がいく》に警衛の兵が奔《はし》る。万が一、信長に危害が及ばんか、堺の街は報復の血の雨が降るだろう。男ばかりではない。女子供も、老人病者も容赦なく殺戮《さつりく》される。家屋は焼き払われ、堺はこの世から消滅する。 �守護不入�、驕《おご》り昂《たかぶ》った堺の人士は一瞬に肝を冷し、戦慄を覚えた。  街の大木戸には、出迎えの納屋衆を始め、見物の群衆が人山を築いた。  信長は、いとも冷静に告げた。 「一日《いちじつ》、堺の港を借用する。面倒あらば政所《まんどころ》の司(代官)、松井|友閑《ゆうかん》に申し立てよ」  納屋衆の代表今井|宗久《そうきゆう》が謹んで答えた。 「面倒などもっての外、信長様の御成り、光栄に存じ奉ります」  因《ちなみ》に信長は、この年四月に右大臣を辞任している。従って今井宗久は右府様(右大臣の称)という官名をもって敬称としなかった。  この日、初めて信長の検分に供する甲鉄船は、目一杯に飾り立てられていた。幟《のぼり》、旗、吹き流し、差し物を色彩鮮やかに風に靡《なび》かせ、幔幕《まんまく》張り廻らし、集めた兵船も同様に飾りたてられていた。  船着き場は、見物人が雲集した。その人波を分けて、納屋衆をはじめ商人たちが、進上物を持参する。異香・薫香たちこめる中を、信長はただ一人戦艦に乗船して、心ゆくまで仔細《しさい》に見て廻った。  ただ一人、というのが凄絶である。戦艦の検分というのは、堺の商人どもに対する示威ではない。余人を誘って自慢げに見せぬのは、覇者の誇示ではなく、発明家になり切っている趣がある。天才の面目、躍如たるものがあった。  終って信長は堺納屋衆の筆頭今井宗久の邸に立ち寄り、「日頃の協力、過分なり」と沙汰《さた》し、茶事を済ませた。その後、津田|宗及《そうぎゆう》・千宗易・天王寺屋道叱《てんのうじやどうしつ》(別名|道巴《どうは》・堺北ノ庄の人)・紅屋宗陽《べにやそうよう》ら四人の家に立ち寄って、その日のうちに住吉に戻り、住吉大社の社家に一泊した。  堺に宿泊しないところに、信長の要慎《ようじん》がある。白昼ひとりで巨船を検分する点に彼の大胆さがうかがえる。その緩急自在が彼の持ち味であろう。  信長は、社家に九鬼嘉隆を呼び寄せ、黄金二十枚、御服十|襲《かさね》、菱喰鳥《ひしくいどり》の折詰二折を褒美として下賜、ほかに嘉隆抱え人数に千人扶持、九鬼勢を寄騎として指揮した滝川一益にも千人扶持を与えた。  翌十月一日、京に戻った信長は、些事《さじ》に遭遇する。居館に入ると、留守居の住阿弥という者が他出して不在だった。まさか信長が立ち寄ると思わず、外泊していた。また久しく召使っていたさい[#「さい」に傍点]という女も同様であった。信長は容赦せず、両名を成敗してしまった。  ——職務に狎《な》れるな。  信長は、職務に狎れることをひどく嫌悪した。留守居は公務である。ために禄《ろく》を与えている。費えも支給する。  公務を疎《おろそ》かにすることは、世の乱れの源である。扶持も経費も年貢や冥加《みようが》金、関銭《せきせん》等の税をもって賄《まかな》われている。税は庶民が骨身を削り、汗を流し、智嚢《ちのう》を絞って稼いだ金の一部を収納した金である。  その金を、公務に携わる者は、暮しの費えとして支給される。その代償として税を徴収された者に、全身全霊を捧げて奉仕しなければならない。それを不都合と感ずる向きは、公務に就く事を辞退すべきである。 �職務に狎れるな�というのは、それを言う。  職務に狎れると、公務員はおのれの受くる報酬を、私企業と同然であるかの如く錯覚する。私企業は、おのれの責任において利益を生むことに対する報酬である。公務員は利益を目的とせず、公務に殉ずることの報いである。それが狎れると、報酬は上司が与えるもの、あるいは為政者が恵むもののように思いこむ。  公費も同様である。上級機関が支出を許可すると、その出所を忘れる。天から降ったものか、地から湧いたもののように錯覚して、費消する際の使命感を喪失する。いつ費《つか》おうが、どう費おうが、おのれの恣意《しい》次第のように思いこむ。  繰り返して言うが、公費は飽くまで納税者の金であり、公《おおやけ》のためのものである。費消するに当っては、天地神明に背かず、納税者を納得させる理がなければならない。些《いささ》かも私心があってはならないのである。  信長が、住阿弥・さいの両名を成敗した裏には、両名の怠慢のほかに公邸の公費支出に不正を見つけた所為《せい》もあったに違いない。『信長公記』は往々にして筆の足らざる憾《うら》みがある。 [#改ページ]   兵は猶《なお》、火の如し  年の暮間近の石山本願寺は、毛利の兵糧搬入を待ち侘《わ》びていよう。  ——毛利との海上決戦は、十一月初旬には実現するであろう。  毛利方との海上決戦(信長は、石山本願寺の死命を決する戦と見ていた)を予定していた信長の作戦計画に、思わぬ齟齬《そご》が起った。十月十七日に荒木摂津守|村重《むらしげ》が寝返ったのである。  荒木村重、この年四十四歳。不惑を過ぎて壮気盛ん、豪放|不羈《ふき》、戦国武将の標本のような男である。  出自は丹波《たんば》の波多野《はたの》氏の支族という説がある。父の代から摂津の池田|勝正《かつまさ》に仕え、戦功常人を凌《しの》ぎ、家老に累進した。勝正が京都に進出した信長に帰属したため、京都奪回を図る三好三人衆と戦い、撃破を続けた。後に池田一族が分裂し、信長に離反したとき、主家を見限って信長に仕え、戦功顕著により摂津一国を預けられて準兵団長格に登用された。  異常な抜擢《ばつてき》と言っていい。それだけ信長に気に入られたと言える。戦《いくさ》に臨んでは豪快な戦法を駆使するが、一面繊細な神経を持ち合せ、茶の湯の素養高く、後に利休《りきゆう》(千宗易《せんのそうえき》)七哲の一人と言われた。  尾張《おわり》半国から累進した信長は、多方面に敵を多く持つ一方で、慢性的な人材不足に悩み続けた。特に大軍を委ねる人材がなかなか見当らない。彼の股肱《ここう》となるべき兵団長に、近江浪人出の滝川|一益《かずます》や小者の出の羽柴秀吉、美濃《みの》浪人の明智光秀を充《あ》てる有様である。尤《もつと》もその三人は諸大名の垂涎《すいぜん》の的となるほどの逸材ではあったが。  出自に拘泥せぬ信長だが、人物評価には独自の鑑識を持ち、人使いは極めて厳しい。磨り減るほどに酷使する。その点なかなか難しいあるじであった。  半面、ひどく甘い点があった。戦上手で戦況判断に優れ、時に硬骨であり、時に思考に柔軟性を持ち、その使い分けに妙味のある者にはひどく弱かった。また芸術に関する素養の優れている者も愛寵《あいちよう》した嫌いがある。  問題は、背叛の性癖の有る者に寛大であった点である。  ——優れた資質を持つ者は、おれに背かない。  そう過信したようである。若年の頃に背いた柴田勝家を許し、家臣の筆頭に置き続けた。また前《さき》の松永|弾正少弼久秀《だんじようしようひつひさひで》や、今回の荒木村重のように、信長の特異な性格を見抜き、骨身を惜しまず働く者に甘かった。  村重が背いたのは、些細《ささい》な因であったという。  当時村重は、中国(毛利)攻めの基地として、伊丹《いたみ》(有岡)・花隈《はなくま》二城のほか、尼崎《あまがさき》の海上警備なども委任されていたが、寄騎《よりき》の一人中川|清秀《きよひで》の家来が、当面の敵石山本願寺に兵糧米を売ったという嫌疑がかかった。  このような利敵行為の処分には、前例がある。織徳《しよくとく》同盟で結ばれた徳川家康には、水野|信元《のぶもと》という伯父があった。家康の生母|於大《おだい》ノ方の兄に当り、古くから今川氏を見限って織田方に帰属し、家康との同盟には力を添え、|三方ヶ原《みかたがはら》の合戦には信長派遣の寄騎として働いた。  信元は長篠《ながしの》の戦のあと、信忠《のぶただ》兵団に属し、東美濃にあって武田|勝頼《かつより》軍に備えていたが、かねて親交のある美濃岩村城主秋山|信友《のぶとも》(武田方)に兵糧米を融通した疑いがかかり、陣を捨てて逃亡を図った。家康は同盟の誼《よしみ》をもって、大恩ある伯父信元のために陳弁、助命を嘆願したが信長は許さず、厳命して殺させた。  ——前車の覆《くつがえ》るは後車の戒《いましめ》。  村重は、その事例を恐れたのだと言われている。 (荒木村重、有岡城に拠《よ》って背叛)  聞く者は事の意外に驚愕《きようがく》した。信長ですら俄《にわか》に信じなかった。  ——あの男には、身に過ぎた厚遇を与えた。背く筈《はず》がない。  信長は、村重と昵懇《じつこん》の者を選んで真意を確かめようとした。  選ばれたのは、丹波に転戦中の明智光秀である。光秀と村重は、筋目《すじめ》は遠いが足利《あしかが》将軍|義昭《よしあき》の家来筋に当る。明敏な光秀と剛勇の村重は、各々足らざるを補う仲で、心友の交りを結んでいた。それに、村重の嫡男新五郎の妻は光秀の娘であった。 「どのような仔細《しさい》か、存分を申させてみよ」  信長の言質《げんち》をとりつけて、光秀は有岡城に向った。同行したのは京・堺の政所《まんどころ》の司《つかさ》(代官)、松井|友閑《ゆうかん》と万見《まみ》仙千代である。 「おぬしは領地を頂《いただ》き城を持つ大名にまで昇進した身ではないか。それに近々兵団を預かる身になると聞く。上様(信長)は瑕瑾《かきん》は咎《とが》めぬと約束なされた。われら、いのちに賭けておぬしの無事をはかる。翻意せい」  三名に対面した村重は、謀叛しておきながら意外にも昂揚の色はなく、いかにも物憂げであった。 「わしは誤ったのかも知れぬ。だがもはや何を申し上げても詮無きこと」  謎めいた言葉を洩らしたきり、あとはひと言も言わなかったという。  信長は、その報告を聴取してもなお、村重に執着した。  ——あやつ、対本願寺戦、対毛利戦の勝利の確信を失ったのであろう。  些細な事の猜疑《さいぎ》は打ち消すことができるが、戦の勝敗にかかわる予見はとり消しようがない。武士はその予見にいのちを賭ける。  ——惜しみて余りある男だ。  信長は、有岡城を厳重な包囲下において事態の推移を見守った。  月|更《かわ》って十一月、毛利の大船団が出現し、石山本願寺の海港、木津川口《きづがわぐち》に接近した。  毛利水軍は、瀬戸内の海で勇名を馳せた村上水軍を中核として、兵船・荷船六百数十艘という。  ——信長め、性懲りもなくまた水軍を調えたそうな。もう一遍叩き潰して村上水軍の凄《すご》さを思い知らせてくれる。  村上水軍のその考えは、従来なら立派に通用したであろう。戦巧者は、先例を重んじ、先例に従って、戦を規定する。戦はこうするものだ、歴史は繰り返す、と。  だが、歴史に同一局面は有り得ない。人も物も時々刻々に進歩し、変化する。時代は変るのである。戦も、公共事業も、金融も、商取引も。巧者と呼ばれる者はそれを知らない。いや認めようとしない。変化が怖いのである。  確かに信長は、海戦の未経験者であった。ただし偉大な発想の持ち主であった。従来通りの九鬼《くき》水軍を使って、木津川口の海戦で惨敗した。何で敗けたか。数で圧倒された。水軍の訓練度が違った。戦法が無茶苦茶だった。  経験者なら諦めるところである。数の不足を補うには長い年月がかかる。訓練度も同様である。相手方を凌ぐ戦法を編みだすにも……。  未経験者の信長は、恐ろしく多忙だった。長年月をかけている暇がない。数を補い、訓練度を満たす即効的な戦法は無いか。信長は一瞬の閃《ひらめ》きで覚った。相手方を凌ぐにはこれしかない、と。  その、未経験者信長の独創が、木津川口を埋め尽す毛利水軍の兵船・荷船六百余艘の前面に現れた。それは山なす巨大戦艦六隻であった。  銃火を見舞い、火焔弾《かえんだん》を放っても、鉄張りの甲板・櫓《やぐら》は苦もなく撥《は》ね返す。唖然《あぜん》、呆然とする中を悠然と迫る巨艦は、長鉄砲と大筒の砲火を浴びせて来た。抵抗力のない毛利の兵船・荷船は木端微塵《こつぱみじん》に砕かれ、火焔に包まれて沈没してゆく。  これは、一方的勝利というより、殲滅《せんめつ》であった。歴史を誇る毛利水軍は崩壊した。逸早《いちはや》く遁走《とんそう》した数十艘の兵船の外は悉《ことごと》く摂津の海の藻屑《もくず》と化した。  偉大なる発想の勝利であった。  以後、毛利水軍は、度々の本願寺の要請にも拘《かかわ》らず、再び出撃する事はなかった。  信長もまた、巨大戦艦を二度と使用していない。巨大戦艦は巨大なりに致命的な欠陥を多く持っていただろう。進退駆け引きの不自由さ、上部構造が過重のため風浪に弱く、長距離移動に難のあることなどが想像できる。  それにも増して信長は、敵の意表を衝《つ》いた一方的勝利を、二度と求めなかった。桶狭間《おけはざま》合戦や長篠の合戦、それに今回の第二次木津川口の海戦などである。  第二次木津川口海戦は、幸いに波おだやかな日に行われた。 「僥倖《ぎようこう》で得た勝ち戦は二度と無い」  彼は、おのれの才を誇らなかった。むしろその才の弱点をよく知っていたといえよう。  彼の天才たる所以《ゆえん》も、そこにあった。  第二次木津川口海戦における毛利水軍の潰滅は、石山本願寺に大打撃を与えた。  ——毛利の救援、頼むに足りず。  一向宗徒の意気は沮喪《そそう》した。「いつかは勝つ。仏道栄光の日は必ず到来する」という必勝の信念が揺らぎ始めたのである。  本願寺以上の衝撃を受けたのは、商権確保を唯一の拠りどころとした商人都市の堺である。  信長は、この時期、安土《あづち》における楽市・楽座を断行した。  ——これが、新時代の基盤である。  新首都(?)と目される安土において、旧来の独占的商権を持つ富商や同業組合の特権を認めず、自由営業・自由競争に委す制度は、日本の中部・西部一円に独占的商権を持つ堺に、深刻な打撃となる。  信長の狙いは、単に商業・運搬の既得商権打破にとどまらない。既得商権は中央・地方の官僚による統制に繋《つな》がっている。統制経済が撤廃されれば、官僚の行政指導権が消滅する。  ——官僚・官憲を腐敗させてはならない。その根を断乎《だんこ》として断ち切る。  官僚の特権を可能な限り縮小すれば、横暴・横着が改まり、接待・饗応・付け届け・賄賂が断たれる。  富商と官僚の前途を脅かす楽市・楽座は、過去、大津・草津などの交通の要地に施行されていたが、戦況の繁忙に、拡大することなく過ぎていた。  ——信長の小手先の人気とりよ。ま、田舎町の一ツや二ツなら目を閉じて、嵐の吹き過ぎるのを待てばよい。  富商、殊に堺の商人はそう楽観していたが、安土の楽市・楽座は、その希望的観測を微塵に打ち砕いた。  ——信長、怖るべし。われらの命脈を断つ懼《おそ》れあり。  堺に潜在する敵意は、深く、根強く、醸成されつつあった。  毛利が本願寺の要請に応じて、水軍による大量補給を強行し、信長が創始した鉄張りの軍艦によって潰滅的打撃を与えられた事によって、両者は全面戦争に突入した。  二年前の天正四年(一五七六)二月、紀伊由良の興国寺に逼塞《ひつそく》していた将軍足利義昭は、毛利を頼って備後《びんご》の鞆《とも》に船を乗り着けた。義昭は直ちに毛利の重臣|吉川元春《きつかわもとはる》を通じ、当主の輝元に幕府の再興を図るよう要請した。  この前年に、備中《びつちゆう》、因幡《いなば》を平定していた毛利氏は、いずれ信長と衝突することも已《や》むなしと考え、将軍義昭の擁立を決断した。  毛利という、信長に匹敵する巨大な後ろ楯を得た義昭は、水を得た魚の如く、得意の御内書《ごないしよ》外交を開始した。その最も効果的な結果が、石山本願寺と毛利の提携であった。  毛利の目指す理想は、室町幕府体制の再興と、中国十ヵ国の保全による毛利私権の確保と擁護にあった。  そこで、亡命中の義昭を、上洛させ、幕府を開かせようとした。  保守派の目指す大義名分は、いつの世も同じだと言えよう。現状維持である。現状というのは長く続くと必然的に凝《こ》りを生じ、凝りは腐敗を生む。一度与えた権利・権限は恒久化して既得権となり、関与する者の私権となって私利を生ずる。そればかりか行政は停滞し、民衆を圧迫し、一部権利者のみが逸楽を貪《むさぼ》る結果となる。  義昭が鞆に現れた年の十一月、毛利輝元は居城の郡山《こおりやま》に一族重臣を召集し、義昭の帰洛戦を検討した。その結果採用されたのが、信長に対する断交策と、次の三道併進策であった。  瀬戸内の毛利水軍は淡路の岩屋城を拠点とし、大坂湾岸に上陸する。  輝元と小早川隆景《こばやかわたかかげ》は、将軍義昭を擁して山陽道を攻め上がり、京の正面から侵攻する。  吉川元春は山陰を東上し、但馬、丹後から京の背後を攻める。  こうして毛利氏は、信長との全面戦争を辞さない姿勢を示した。将軍義昭の御内書外交もこれに拍車をかけた。武田勝頼は上杉謙信、北条|氏政《うじまさ》との和睦に同意し、義昭の上洛を支援することを約束した。謙信は更に、石山本願寺の顕如《けんによ》とも同盟した。天正四年の秋には、反信長勢力の結集に成功したかに見えた。  ——濃尾の出来星、何するものぞ。  文字通り、四面楚歌の中にあって、それから二年、信長は手を拱《こまぬ》いていたわけではない。秀吉を西国管領に任命し、対毛利作戦を指揮させた。また、謙信の突然の死、信長の甲鉄船による毛利水軍の潰滅などにより、信長包囲網は綻《ほころ》び始めた。こうした中で毛利勢は、播磨に侵攻した秀吉軍に対し、本格的な反撃を開始した。  播州国境付近に進出した小早川隆景は、ひそかに強力な土豪|別所長治《べつしよながはる》を使嗾《しそう》して、反信長の旗幟《きし》を上げさせた。それに呼応して吉川元春は、播州北部の上月《こうづき》城を包囲し、反毛利の尼子勝久《あまこかつひさ》を攻めた。  別所長治の寝返りと、毛利両川軍(小早川軍と吉川軍)の上月城攻囲により、秀吉の播州平定は停滞した。しかも、上月城の尼子勝久への救援が鈍かったため、織田方に帰順していた播州一円の土豪は動揺した。別所氏に続いて離反する者も出始めた。  別所氏は、長治の曾祖父|則治《のりはる》が大をなした。則治は三田《さんだ》・伊丹(有岡)の西、姫路を結ぶ美嚢《みなぎ》郡一帯を領有し、中小の土豪を従えて、播州一の威勢を誇った。  父長勝の後を継いだ長治は、剛勇の聞え高い猛将であったが、所詮播州という畿外の地方豪族に過ぎない。中央政権を樹立して時代の改革を目指す信長の壮大な理想に理解が及ぶ筈がなかった。  長治は、因循で退嬰《たいえい》の毛利の支配にあきたらず、秀吉に帰属した御着《ごちやく》の小寺《こでら》氏の家老黒田官兵衛の説得に応じて、折から西進を企図した信長に従うこととなった。だが、兵力不足の信長の西方進出が停滞するうち、毛利氏から復帰を勧誘され、加えて信長の人柄に対する不信もあって、突如信長から離反する旨を宣した。  その不信の裏には、体制改革を急ぐ信長の、性急で苛烈な命令に対する反感もあったに違いない。  長治は、離反に当り、慎重な準備を調えていた。拠るところの三木城は鷹尾山の峰続きの丘陵にあり、要害堅固で難攻不落を誇る。長治は挙兵に当り一万余の中小土豪勢を集め、三木本城に七千五百、支城の神吉《かんき》城・高砂《たかさご》城・端谷《はしたに》城にも所要の兵を配して、徹底抗戦の構えをとった。  信長の非情な命令で、已《や》むなく上月城の陣を撤した秀吉だが、三木城攻略は、遅々として進まなかった。通常城攻めには城方の三倍以上の兵力を要する。三木城には播州の名門別所長治の威名に参集した総勢一万を超える兵力が立て籠《こも》った。  秀吉の兵力は一万三千、決定的に兵力不足の上、山なみ深く、土地不案内の秀吉勢の不利は免れない。 (戦況、馨《かんば》しからず)  秀吉が辛うじて戦線を維持し得たのは、幕将竹中半兵衛|重治《しげはる》に負うところ大であった。  竹中重治は、少ない兵力を巧みに使って、反攻に出撃する別所勢を随所に撃破し、多少の優勢を保った。  表現に�巧み�というが、当事者としては身命を磨り減らす心労であった。元々不治の胸部疾患を持つ彼にとっては、耐え難い日々であったに違いない。話は多少先走りするが翌天正七年六月、不世出の戦術の天才と言われた彼は、三木城の陥落を待たず陣中にて歿《ぼつ》した。享年三十六、惜しまるる死であった。  荒木村重の立て籠る有岡城と、別所長治の三木城が、信長の当面の対敵目標である。  二つの城は、摂津|茨木《いばらき》から姫路に達する重要幹線道路にある。両城の距《へだ》たりは直線で十里(約四十キロ)、六甲山系の屈曲した道程を計算すれば、十五里(約六十キロ)前後か。強行軍なら一日半で到達できる。  無論、畿内の摂津・山城と姫路を結ぶ街道は、それ一筋ではない。姫路から北方へ迂回して、三田を経て池田、更に東進して西国街道に出、京に達する街道。あるいは海岸沿いに加古川《かこがわ》、明石《あかし》、兵庫を経て尼崎で西国街道に出る街道など、道は四通八達している。  それであっても、三木、有岡は幹線であることに相違ない。信長軍と秀吉兵団の補給・連絡に大いに妨げとなるばかりか、両城の間が打通《だつう》されれば、秀吉兵団は背後を衝かれ、重大脅威となることは明白である。  にも拘《かかわ》らず、信長は両城の攻略を急がなかった。かと言って懈怠《けたい》を許したわけではない。  信長は、光秀らの村重に対する投降勧告が不調に終った後も、手を変えて様々な人士を有岡城に送り、調停工作を荏苒《じんぜん》と続けた。  ——村重の叛意がどれほど敵(本願寺・毛利)に通じているか、見定める必要がある。  摂津に軍を進めた信長は、まず本願寺攻めの付城《つけじろ》を見廻った。村重の叛意が激烈なものであれば、当然本願寺へ誠忠を示すため、本願寺攻めの前進基地である付城を攻撃する筈である。だが一向にその気配はない。  ——村重は、本願寺と通じての叛意ではない。すると、毛利とはどうだ。  信長が危懼《きく》したのは、その事であった。  いま瀬戸内の海から来攻する毛利の大船団が、尼崎で村重と連携行動をとれば、信長にとって由々しき事態となる。  だが、その気配もなかった。毛利水軍は本願寺への補給を目指し、第二次木津川口の海戦を惹起《じやつき》した。  海戦は、巨大戦艦の威力をもって、信長方の大勝利に終る。  ——毛利も村重と通じておらぬ。あやつめ、孤立無援だ。  信長は、安土から来着する信忠兵団や丹羽兵団、直轄軍団を指揮して、村重の属将中川|瀬兵衛清秀《せへえきよひで》の茨木城、高山|右近《うこん》の高槻《たかつき》城を囲み、投降勧告した。  今は、一兵たりと惜しむときである。  信長は、両属将を極めて寛大に扱った。高山右近・中川清秀は感激して投降し、旧に復した。  支城を悉く失った村重は、有岡城に孤立した。信長は見野《みの》の郷(現・川西市)に、蜂屋《はちや》・惟住《これずみ》(丹羽)・蒲生《がもう》・若狭勢を置き、小野原(現・箕面市)に、中将信忠・北畠|信雄《のぶかつ》・神戸《かんべ》三七|信孝《のぶたか》を布陣させ、有岡城を囲んだ。  それからが、長い。 (無理攻めをすな。立ち枯れを待て)  包囲の諸軍は延々と滞陣を続けた。時折小競り合いはあったが、大掛りな攻城戦は一度もない。  信長は、軍兵の一兵を失うことも恐れた。  かつて叡山《えいざん》の焼打、長島をはじめ各地の一向|一揆《いつき》の虐殺、越前朝倉の一乗谷《いちじようだに》討滅等々、史上に例のない大量虐殺を敢行した信長は、軍兵ひとりのいのちを惜しんだ。  矛盾に似て、矛盾ではない。  彼は、短い生涯に、ただ一つの目標を持った。 �時代の変革�  それすらも、あまりに遠大である。彼は一つを選んだ。 �既得権の打破、討滅�  それすらも、達成にほど遠い。焦慮に胸|灼《や》く思いの彼は、道徳律を規定した。 �一殺多生《いつせつたしよう》�  である。人のいのちは何よりも尊い。そのいのちを費やして、理想に邁進《まいしん》する。  彼の理想達成にいのちを費やす軍兵は、宝である。惜しんでもあまりある。  理想を妨げる者を、教化する暇はない。この時代、理想を掲げる者は彼しかいなかった。  ——われならで、誰かなさむ。  彼は、容赦なく、迷妄の輩《やから》を抹殺した。ために稀代の殺戮者と呼ばれた。  少し話が横道に逸《そ》れたようだが、このまま続けたい。それは荒木村重の背叛に至った原因である。  信長の生涯は謎に満ちている。右筆《ゆうひつ》太田|牛一《ぎゆういち》が記した『信長公記《しんちようこうき》』は第一級の史料とされているが、江戸期に書かれたもので記憶の相違もあれば、秀吉・家康の時代を経ただけに、為にする記述もあったに違いない。日本歴史に比類なき天才の思考を、右筆が窺い知ることが可能かどうかも疑わしい。  寡黙であった信長の思考経路を知る事は、同等の天才でない限り不可能である。われらは事績の中から僅かな手掛りを探って、あれこれ類推するのみである。  信長は苛烈であった、と断ずるのは易い。狂気に近いと言うのはもっと容易である。  狂気じみた苛烈さだけで、家臣が身命を賭《と》して戦っただろうか。確かに苛烈ではあった。家臣を容赦なく酷使した。  酷使されて尚、家臣は忠誠を惜しまなかった。信長は大理想を掲げた。  ——荒《すさ》み切ったこの国を作り直す。  戦国期にそのような理想を掲げた領主はいない。最強の信玄・謙信も領土拡大しか考えなかった。  然《しか》も信長は己れの人生の終末点を予告した。 「人間五十年、ひとたび生を得て滅せぬ者のあるべきか」  信長は己れの余命を理想実現に足らずとみた。そのため理想社会の基盤造りに生涯を捧げた。  家臣は、主君の理想に酔い、悲壮美にうたれた。  ——人生、意気に感ず。この主君に身命を捧げて悔いは無い。  信長が着々と大業を推進してゆくうち、極《ご》く少数の者がその理想の実体を知った。  それは、彼らの野心・野望と余りにかけ離れた国家像であった。  ——これが、われらの最終目的か?  極く少数の者とは、深い教養と人生哲学を持った者であり、戦に没頭する無教養の輩と異なる。  後に、利休七哲の一人と謳《うた》われる荒木村重も、その極く少数の中の一人であった。  ——この人に付いて行けぬ。この人の大業を扶翼《ふよく》できぬ。  そう思いつめた時、荒木村重の運命は窮まったのである。  何が荒木村重を謀叛に踏み切らせたか。  配下が石山本願寺に兵糧を密売し、そのことが発覚したためという説を前《さき》に述べた。同様の例で誅殺された家康の伯父、水野信元の例を思い浮かべ、思い詰めた挙句《あげく》、背叛したというのである。  だが、それとこれとは人のありようも違い、状況も異なっている。当時、多年の同盟者で、武田家の西進|防禦《ぼうぎよ》に当っていた徳川家には、武田方通謀の疑いが濃かった。水野信元殺害を命ずる裏には、家康の本心・異心を確かめる意があったと思われる。荒木村重は現役の準兵団長格であり、戦功比類なく、要地有岡城を押えて立派に任務を果している。兵糧を売った配下を糾明し、その首を捧げて信長に詫び、石山本願寺攻めに加わって戦功を挙げれば、処罰どころか逆に賞詞を与えられたであろう。その辺の呼吸のわからぬ荒木村重ではない。  最も考え易い謀叛の因は、足利義昭や石山本願寺、毛利家の使嗾である。だがこれも矛盾が多い。足利義昭が信ずるに足りぬことは、畿内で勢力を伸長した村重がよく知っている。天主教徒の村重に、本願寺は説得力を持たない。毛利の退嬰も彼のよく知る所である。  では、その真因は何か。もちろん使嗾した人物は居るだろう。毛利の安国寺恵瓊《あんこくじえけい》も説得しただろうし、商権の危機に堺の納屋《なや》衆は利をもって誘い、京の勢力を代理する近衛前久《このえさきひさ》や公家たちは、安土築城に危機感をつのらせていたに違いない。  それらを綜合しても、荒木村重が——信長を扶翼せず——と踏み切ったその心理がわからない。信長のどのような言動が村重を失望させたか、過去を探る必要がある。  ここに、かつて信長が柴田勝家に遣わした「掟・条々」という文書がある。  天正三年八月、信長は突如越前に軍団を出動させ、朝倉|義景《よしかげ》滅亡後、同国を実質上支配しつつある一向一揆の軍を、打倒・殲滅する挙に出た。  九月、掃討戦を終えた信長は、柴田勝家を同国に留置く旨、下知し、「掟・条々」を渡した。その第六項に、こうある。  一、大国を預置《あずけお》くの条  与えるのではない。預け置くと明記してある。  尚、その際、柴田目付を命じた不破光治《ふわみつはる》・佐々成政《さつさなりまさ》・前田利家に授けた「心得」の文書には、「越前国の儀、多分(大部分)柴田覚悟せしめ候」とある。 �与える�とは記していない。預けるのである。前《さき》の光秀の近江坂本や、秀吉の近江長浜も同じであった。  当時、領国を分与され、大名の格を得ることは、麾下《きか》の将にとってこの上ない栄光であった。領国は子々孫々に至るまで継承され、ゆるぎない所領となる。その資格も、同盟者として扱われるようになる。たとえ下命に絶対服従を強いられても、表向きは外様の武将大名と同格なのである。  だが信長は、麾下の将への領国の分与を嫌った。あくまでも預け置くことに固執した。  ——彼らは戦士であり、軍事の専門職である。領国治政の専門家ではない。  信長が柴田勝家に与えた「掟・条々」の主旨がその辺から窺える。 「掟・条々」は、細事・些事に至るまで、施政を厳しく規制している。その中には、 「鷹をつかふべからず」というような、意外な規制まである。  その大半は、ごく当り前の施政心得である。例えば「国中へ非分の課役申懸くべからず」とか、「公事《くじ》(裁判)篇の儀、順路憲法たるべし(道理に適《かな》い公正たるべし)。努々贔屓偏頗《ゆめゆめひいきへんぱ》を存ぜず裁許すべし」など、なぜこのようなことを言い聞かせなければならないのか、と思うほどである。  その事々に、信長は「細部にわたってわれらに相尋ねよ」と、しつこい程、念を押している。「何事においても信長申し次第に覚悟肝要に候」と、施政については独断専行をきびしく戒めているのである。  要は、一時期越前の施政は委すが、信長の方針に違《たが》うことなく、すべて信長に相談せよという。その上での「預ける」の意は、いつでも「召し上げる」の意を含んでいる。  信長の描く世界は、軍人は軍の世界のものであり、国政とは別、と切り離している。  その考え方は、武将にとって驚天動地の衝撃であった。  戦国大名の将の望みは、領国・領分を得て大名格にのし上がることであった。  大名の格を得れば、収税の権を行使して、封禄《ほうろく》をおのれの意思のままに配分したり、費消することができる。家来を召し抱え、昇進させ、充分に褒賞を与えられる。軍卒の徴集も自由裁量である。  城を持つ、その威容をわが物とする。妻妾《さいしよう》を蓄える。贅《ぜい》に暮そうと節倹に努めようと勝手である。  城も領地も、子々孫々に至るまで継承させる。すべておのれの私物だ。一国一城のあるじと言われる。それも心をくすぐる。  秀吉は北近江の領分を得、長浜の城主となると、出陣・帰陣の度に見送り出迎える領民に、好んで言葉を掛け、「里の者」と呼んだ。領民までがおのれの物、という満悦感があふれていた。  それが�借り物�だと言うのである。戦を果てなく続けなければならない。所領は転々と�召し上げ��預け�られて移動する。施政は臨時の軍政の域を出ない。定住は望めない。家来に知行地を与えることもできない。所詮は�浮き草稼業�なのだ。  天下が治まり、戦が無くなると、もっと悪い。政治権力は取り上げられる。正規の行政に加えて貰えない。武人のなれの果ては、軍事諮問官として主君の許に勤務し、無聊《ぶりよう》をかこつしかなくなる。恐らく戦を知らぬ官僚が我が物顔に横行するなかで、肩身せまく生きるしかなくなるだろう。  ——おれはいい。我慢するとしても、家来はどうなる。  身命を捧げて尽してくれた家来は、主君の抱く大理想など、理解しないだろう。彼らは君臣一体となって懸命に働いた。その報いが空しきものと知ったら、どれほど怨むか、合わす顔がないのだ。  信長の「掟・条々」は、すべての家臣に、同時期に渡されたものではないようだ。  現に記録に残るその文書は、柴田勝家の分しか発見されていない。  これからの叙述は、すべて推理と想像の範疇《はんちゆう》だが、恐らくかなり時をおいて、大名分《だいみようぶん》の領国を与えた兵団長格の家臣たちに遣わしたものと思われる。  当然、家臣団の筆頭に位した柴田勝家が、最初であろう。次は丹羽長秀、そして滝川一益あたりか。  彼らは、その「掟・条々」を、単なる訓戒としてしか読まなかったようである。「掟・条々」を懼《おそ》れ畏《かしこ》むだけで、何の反応を示した事実も残っていない。  考えてみれば無理はない。彼らは生れ落ちた頃から戦に明け暮れて、何ら学問的素養も読解力も、文意を探る推理力も持たなかった。殊に柴田・丹羽・滝川らは一介の武弁に過ぎない。  羽柴秀吉にしても同然であった。家臣団の中で、学問・教養のある武人は、一に細川|藤孝《ふじたか》であろう、二に荒木村重か、三に田舎廻りの浪人から身を立てた明智光秀であろう。その点では畿内で生れ育った村重は、光秀を抜く存在であった。 「掟・条々」を藤孝は貰っていない。光秀が授与されたのは余程後だったらしい。その頃光秀は丹波平定戦に明け暮れ、寧日ない有様だった。  ——領国経営の訓令か、いずれその時がきてから、ゆるゆると熟読しよう。  光秀は、筐中《きようちゆう》に仕舞い納めたままで忘れていた。  最後に授与されたのは、準兵団長格の荒木村重であったようだ。  村重は、一読し、更に二度三度と熟読するうち、その文面の重大性に気付く。  信長の真意を知った荒木村重が、光秀らに会ったとき、謀叛に蹶起《けつき》した昂揚の色はなく、なぜか憂い顔であったのは、そのためであったに違いない。 「わしは誤ったのかも知れぬ。だがもはや何を申し上げても詮無きこと」  村重は、光秀を謀叛に誘わなかった。  ——今、言っても理解し得まい。いつか思い知るだろう。  本来なら、柴田勝家や佐久間信盛のような猪突猛進の者か、安逸に堕する性格の者は背き易い。丹羽長秀のように譜代の家臣でありながら、常に他人の後塵《こうじん》を拝した者、うだつの上らぬ戦場ばかりに酷使された滝川一益なども、背いてふしぎではない。  何で理非に明るい教養人の方が背くか、その暗合に謎を解く鍵がありそうな気がする。  信長は、まだ荒木村重を説得することを止めない。  少し先走るが、次の年天正七年(一五七九)、信長は忠実な同盟者の家康に、仮借なき要求を突きつけた。  元服間もない頃から苦楽を共にした妻の築山殿と、すでに初陣を果し、赫々《かくかく》の戦功を挙げ、嘱望される嗣子信康が、宿敵武田勝頼と通謀した疑いがあるから、然るべく処置せよと言うのである。  家康は苦悩した。だが、信長の寸毫《すんごう》も譲らぬ強烈な意志に、家康は両名を死に追いやった。後世大を為《な》した家康は、過去に恬淡《てんたん》であることで有名だが、嫡男信康の非業《ひごう》の死には、終生愚痴をこぼしたという。  それ程の信長が、叛意を明らかにした荒木村重には執着して止《や》まなかった。遂には、調略の名手と言われた秀吉に、説得方を命ずるほどであった。  秀吉は、名代に、得難い幕将の黒田官兵衛|孝高《よしたか》を差し向けた。黒田孝高は村重との親交が篤い。その富楼那《ふるな》の能弁をもってすれば、説得も可能と考えての措置である。  官兵衛と村重が、どのような会話を交したか、分明でない。官兵衛は、村重とひそかに結んだ旧主|小寺政職《こでらまさもと》に謀られて、言葉を交す暇なく、村重の居城有岡城の地下牢に幽閉されてしまったという。  世上に、黒田官兵衛は、村重と共に有岡城に籠ったと、噂が流れた。  信長は、事ここに至って処断に踏み切った。  まず村重の人質、幼な児二人を六条河原に引き出して斬り、官兵衛の人質の嫡男|松寿丸《しようじゆまる》(後の長政《ながまさ》)を預かる竹中半兵衛に誅殺《ちゆうさつ》を命じる。  ——もう、後へは引かぬ。  信長は村重の家臣、高山右近と中川清秀を調略し、味方に引き入れる。村重は左右の手を奪われたに等しく、有岡城に逼塞《ひつそく》するの已むなきに至った。  だが、それからが難事であった。有岡城はよく猛攻に堪え、年を越えても陥落しなかった。  信長は、家臣の人間関係を一切顧慮しなかった。  人付合いにはおのずと親疎があり、愛憎が作用する。たとえば譜代の宿老柴田勝家と、小者上がりの新参の羽柴秀吉は、ひどく仲が悪かった。  それを承知で信長は、勝家の危殆《きたい》に秀吉に援軍を命じ、また秀吉軍の支援に勝家を使った。  かつて上杉謙信が北陸路で上洛の気配を示したとき、勝家と秀吉は反目し合って、危うく大事になりかけた事があったが、信長は一切調停しなかった。  ——人の一生は僅か五十年、その短い間に大志を達成しようと思えば、仲間同士の好悪の感情など、微々たることではないか。  信長は、幼少の頃から肉親の情に恵まれなかった。血族と領地を争い、十年の抗争を経て、ようやく勢力の統一化を達成した。  莫逆《ばくぎやく》の友という者はない。感懐を口にする相手も持たなかった。おそろしく孤独であったため、感情にいささか傾きがある。  今回の村重討伐には、光秀と秀吉も参加を命じられた。  この年の三月から丹波|八上《やかみ》城の波多野氏を攻囲していた光秀は、十一月に村重の臣下、中川清秀の籠る茨木城攻めに加わった。秀吉は高槻城の高山右近を囲む織田勢の一翼を担った。  中川、高山の両名とも、説得に応じて信長に帰服したため、およそ一ヵ月ほどで、光秀は丹波の、秀吉は播磨の、それぞれの戦線に戻った。  明けて天正七年(一五七九)、光秀は亀山城(現・亀岡市)に入り、懸案の丹波平定の戦を本格的に再開した。そこへ思いがけず、細川藤孝が軍勢を率いて到着した。 「またしても寄騎だ」  藤孝は苦笑してみせた。本来光秀と丹波攻めを行う筈の藤孝は、居城が京に間近いため、信長の絶え間ない便利使いに、席の暖まる暇がない。 「てっきり、荒木攻めに加わっておられると思いましたが」 「高山右近や中川瀬兵衛(清秀)に元のあるじを攻めさせて、荒木と懇意のおことやわしをお使いにならぬ。いったいどういう思惑か、あの御方の胸中は、いつもながら理解の外だな」 「これはそこもと様のお言葉とも存じませぬな。そこもと様は上様と大の御|昵懇《じつこん》、近頃度々の安土詣でに寧日ないと聞きました」  光秀は、昔から腹蔵なく語らい合える藤孝を迎えた喜びに、冷かし半分の戯《ざ》れ言《ごと》を口にした。 「いやそれが、お呼び出しは茶の湯のお相手か詩歌のお話ばかりでな。政務や軍務のことは一向にお話しにならぬ。たまさか洩れ承るお言葉の端々で、あれこれ当て推量するばかりよ」  とは言うものの、藤孝はいささか得意げである。 「それで、どう思われます。村重めの背叛の理由《わけ》は……」 「わからぬ」  藤孝は、一言で言った。 「わかりませぬか」 「あの御方でも理解できぬと言われるのだ。わからぬとしか言えぬ……」  藤孝は、言葉を探す風情を見せた。 「実は、村重が織田家離反と言い出す十日ほど前、わしの長岡の城に立ち寄った」 「それで?」  光秀は、身を乗り出した。 「京へ出向いての帰り、と申しておった。ひどく鬱屈《うつくつ》の様子なので訊《たず》ねたが、訳を言わぬ。ただ……これまで苦労をかけた家来どもに合わす顔がない、と申してな。匆々《そうそう》に帰って行きよった」 「…………」  藤孝は、光秀の顔色を窺うように、言った。 「これは……わしの当て推量に過ぎぬ。あらぬ疑いを招いては困るが、あの男……誰かに何か吹きこまれた節がある」 「本願寺ですか、それとも毛利……」  藤孝は、軽く頭を横に振った。 「京であやつめと会うた者を調べてみた。あやつ、切支丹《キリシタン》の祈りの会に赴いたらしい。伴天連《バテレン》のオルガンティーノ。それにそのあと立ち寄った近衛家の茶会で、近衛前久殿と、堺の千宗易……怪しいといえば、どれも怪しい」 「いったい、何ごとを吹っ込まれたとお思いですか」 「それが……言葉の端々からの当て推量だが、あの御方様の先々の御構想に、荒木村重の名が載っていなかったらしいのだ……」  光秀は、破顔一笑した。 「そのようなことは取るに足りませぬな。上様の御大業は途半《みちなか》ばにも達しておりませぬ。先々の御構想の内にわが名を加えたければ、今の功名手柄に励むことこそ肝要……村重め、少し欲が深すぎると思います」 「いや、そこもとの申す通りだ」  藤孝は、うって変った明るい笑顔で応じた。 「村重め、所領を得て大名格となったら、あれほど鋭かった智恵に曇りが生じ、保身に汲々《きゆうきゆう》となったのであろう。些細な事で一生を誤るとは、愚かなことだ」  藤孝は、さっぱりと話を打ち切った。 「さて、こたびの丹波攻略だが、どう攻めるおつもりか」 「波多野の八上城は、長きにわたる包囲で枯れつつあります。まずは同族の氷上城を陥して、われらの背後を衝かれぬように致しては如何《いかが》」 「よかろう。では及ばずながら、力添えいたそう」  光秀と藤孝による丹波征討の大攻勢が始まった。  この年(天正七年)は、信長にとって停滞の年であった。  石山本願寺は依然頑強に抵抗し続け、荒木村重は有岡城に引き籠って、誘っても出戦せず、播州三木城の別所長治は意気盛んで、寡勢の秀吉兵団を翻弄し、城攻めもままならない。  正月早々から信長は、安土周辺の鷹狩に明け暮れた。  戦機が動くと性急この上ない信長だが、戦況が停滞すると無類の気長さを示す。戦など忘れたように鷹狩に熱中し、飽くことを知らない。  ——へた[#「へた」に傍点]に動けば敗ける。戦というものには潮どきがある。持久こそ武将の真価の発揮どき。  生涯孤独癖の信長は、常に醒《さ》めていたと言える。  平生《へいぜい》もそうだが、戦の切所《せつしよ》、生死の分れ目にぶつかっても決して熱くならない。信長の意識には常に分身のもう一人の信長がいて、冷たく自分の挙動や思考を見守っているかのような感がある。  そのあらわれが桶狭間《おけはざま》合戦の退き際の鮮やかさである。  寡《か》をもって衆を討つ。それだけではない。敵の総大将の首を獲る。勝利に驕《おご》るのが当然である。誰しもが熱くなって戦果を拡大しようとするだろう。  だが、信長は徹頭徹尾醒めていた。戦場で敵も味方も熱狂の渦中にあるとき、彼だけは、もう一人のおのれが、冷やかに自分を見ていた。  ——ここは退きどき。  この戦場、田楽狭間《でんがくはざま》に到達するまで、敵の本陣を求めて、山また山を駆け廻《めぐ》っていた。  その時は、勝ち目などは考えなかった。敵の本陣を奇襲する。攪乱《かくらん》すればよい。敵の驕りを冷却させ、怯《おび》えさせる。ついでに兜首《かぶとくび》の二ツ三ツ獲ったらさっと退く。決戦などとは露ほども思わなかった。  それがどうだ。敵の総大将の首を獲った。これ以上戦って何ほどの戦果が得られよう。敵の反攻を許すだけではないか。  退くに如《し》かず、戦と勝負事は、勝ちの見えた局面を勝ち抜く、これほど難しい事はない。  鷹狩で鍛えた冷静な判断力が、桶狭間合戦の終局の勝利を齎《もたら》した。  鷹狩には、そうした効用がある。煩悶《はんもん》も鬱屈もよそにして頭を冷やす。おのれの有りようを冷静に見つめる。  三月、信長は摂津にあった。各陣を見廻りながら、鷹狩を続けた。石山本願寺の包囲陣、続いて荒木村重の有岡城包囲陣……。ふっと思いついて命令を下した。 「村重に反攻する気力は無い。包囲の軍勢の半ばを別所長治の三木城に向ける」  中将信忠の兵団が動いた。北畠信雄、織田|信包《のぶかね》、三七信孝の手勢を併せて播州に入り、三木城攻略の秀吉兵団に加わった。  信長は、作戦を授けた。「戦をするな」と言うのである。  三木城の周辺、山と言わず谷と言わず、田野・渓谷にわたって二重の柵を立て廻し、五間・十間おきに物見の櫓を設け、蟻の這《は》い出る隙間もなく、外部との連絡を断った。  有名な「三木の干《ひ》殺し」である。  ふた月、み月は事もなく過ぎた。半年を経て、籠城方は苛立ちを見せた。味方毛利はおろか、播州一円の反信長勢力との連絡がとれない。坐《ざ》して喫《く》らえば山をも空し、兵糧は日に日に減る。攻城方は一向に攻めかからない。ただ厳重に警戒を強め、通行を断つだけである。堪《こら》えかねて突出しようとすれば、柵越しに鉄砲で射ちすくめる。攻城方は三万を超える軍勢、籠城方は一万、柵を打ち破るのは不可能である。  籠城方はよく耐えた、といえよう。これは戦にならぬ戦である。兵糧は尽き、餓死者が続出する有様となった。  六月、朗報があった。明智兵団が攻略に着手していた丹波八上城が陥落した。  八上城は、兵糧の準備を怠っていた。丹波の中小土豪が光秀の調略によって悉く離反していたことに気付かなかった。そのため補給に事欠き、忽《たちま》ち飢えて草木の葉を食らう有様となった。  たまりかねて突出を図った城兵は、城外に布陣した光秀兵団によって殲滅された。城主波多野秀治とその弟二人は、策にはまって捕えられ、安土に檻送《かんそう》された。  一説には、この時、本能寺ノ変の原因が生じたという説がある。城を攻めあぐねた光秀が、おのれの母を人質に送って波多野三兄弟を投降させた。しかし信長は、秀吉の助命嘆願を聞き入れず、波多野三兄弟を磔刑《たつけい》に処したため、光秀の母は城内にて殺された。光秀はこれを深く恨んだというのである。  これは根も葉もない俗説である。大方は本能寺ノ変の真因を検証できぬため、信長の非情による怨恨とこじつけたのであろう。  この頃、光秀の母はすでに世を去っている。当時、秀吉が兵糧攻めしている三木城は、八上城より先に包囲を開始しながら、未だ陥落していない。光秀が焦る必要はまったくなかった。  信長は、投降した波多野三兄弟を何故磔刑にしたか。事理は明白である。彼は剛強で耐久力に富む丹波兵を欲した。それをもって光秀兵団を再編制し、信長麾下の最強突撃兵団を作ろうとした。  それには、丹波武士統合の象徴的存在である波多野秀治とその一族を抹殺しておかなければならない。それと同時に、光秀に傷を残してはならない。  長い年月、丹波を転戦した光秀への、丹波武士の怨恨を払拭《ふつしよく》するため、信長は悪役を買って出たのである。事由はそれに尽きる。  四年にわたる丹波征討の間、光秀の軍門に下って臣従を申し出た丹波武士団は数多い。『細川家記』には、並河《なびか》掃部《かもん》(易家《やすいえ》)、四王天但馬守《しおうてんたじまのかみ》(又兵衛)、荻野《おぎの》彦兵衛、中沢|豊後《ぶんご》、波々伯部権頭《ははかべごんのかみ》、尾石与三《おいしよぞう》、酒井孫左衛門、加治石見守《かじいわみのかみ》などの名が挙っている。  嶮岨な山国丹波で鍛えられた将兵は、剛健であった。  毛利攻めに、特殊な用途で光秀の兵団を用いようと考えていた信長は、精強な丹波将兵をすべて光秀の麾下《きか》に組み入れた。信長が如何に光秀を重用し、絶大な信頼をおいたかがわかる。  丹波将兵を基幹にした明智兵団は、信長の軍団の中で最強と言われ、その強靭《きようじん》さは優に家康の三河軍団に匹敵すると評された。  ——光秀の丹波突撃兵団、日ならずして成る。  信長は、大いに満足であっただろう。  しかし、このことは後に、思いもかけぬ結果を生むことになるのである。  信長は、翌七月、突如長年の同盟国、三河の徳川家康に大鉄槌《だいてつつい》を下した。 「三河殿の正室|築山殿《つきやまどの》、嫡男|信康《のぶやす》殿、怨敵武田に通じ叛意あきらかなり。失い参らせよ」  家康との同盟は、十七年前に遡《さかのぼ》る。その翌年信長は長女五徳を家康の嫡男信康に嫁がせ、鉄の結束を固めた。  戦国期、国と国、家と家が同盟を結ぶことは珍しくない。だが十七年も続く同盟は稀有《けう》の事である。  その間、双方は互いに有無相通じ、十二分に同盟の利を享受した。信長は第一次越前攻め、姉川の合戦等々で参戦を要請し、剛強を誇る三河兵団を思うがままに使い、その上で東方の武田・北条など有力大名の進出を防がせた。  家康は、武田信玄との三方ヶ原の合戦に援軍を乞い、遠州進出に支援を得た。信玄歿後、勝頼の侵攻に信長は自身出馬して長篠で戦い、その野望を挫《くじ》いた。爾来《じらい》今日まで、供給された新兵器の鉄砲・矢弾《やだま》等、支援もなまなかなものではない。  信長の新戦法(鉄砲の大量使用)に、西方進出の宿願を挫かれた勝頼は、徳川軍団の内部崩壊を策して謀略の手を伸ばした。  岡崎城にあって孤閨《こけい》をかこつ築山殿は、妬心にかられ、その手に乗った。嫡男信康は、時を選ばず兵力抽出を求める信長の、有形の支援の少なきにあきたらず、築山殿の誘いに心を傾けた。  その危機的状況は、信康の正室である五徳から信長に逐一報告された。  信長は、暫《しばら》くは耐えた。他の家国の内部事情に干渉して、得難い同盟国を失うのは耐え難い。特に剛強の三河兵団は、他に代るものがない。  その代替の精強兵団の目処《めど》がついたのである。光秀の丹波突撃兵団が、いままさにできようとする。  信長は、あるいは離反するかも知れぬ家康に、最後通牒を突きつけた。妻と嫡男の両人を誅殺せよ、と言うのである。  家康は仰天して剛強の家臣団に諮《はか》った。意外な事に、誰一人として築山殿と信康を庇《かば》う者が無い。かえって躍進する信長に信倚する声ばかりが大であった。  家臣団あっての三河徳川である。それが家康兵団の他に例を見ない特色であった。  家康は、嘆きつつ信長の意に従った。  ——是非もない。  信長は、そう思ったであろう。もっと寛大な処置もあった。だが、通謀の相手が悪い。東方最大の脅威、武田軍団である。内部の腐蝕は決定的な敗因となる。  この頃の信長の立場は、後世の日露戦争における連合艦隊司令長官、東郷平八郎に酷似しているように思われる。  東郷の使命は、海上支配権の確立、保持である。その支配権が崩れると、大陸で戦う陸軍が孤立し、敗戦となる。  東郷の苦悩は、艦隊が一セットしか無いことにあった。相手方ロシアは連合艦隊に匹敵する極東艦隊を旅順に持ち、本国にバルチック艦隊を保有する。バルチック艦隊はやがて極東に回航し、極東艦隊と合流するだろう。  そうなったら勝ち目はない。海上決戦は砲の数と火力の差が決定的要因となる。一セットの艦隊が、二セットの艦隊と決戦して、勝てる筈がないのだ。  東郷の作戦は、まず極東艦隊に決戦を挑み、これを味方の一艦も失うことなく、徹底的に撃滅する。そうでないと遠来のバルチック艦隊に対するに、決戦砲火力が不足する。  これは、絵に画《か》いた餅に等しい。一艦も失わず、対等の敵を撃滅するのは難中の難事なのだ。  信長は——西に毛利、東に武田という大敵を持つ。そのどちらと戦っても勝算は五分しかない。  この時期、信長は決戦兵力の損耗を極力避けた。有岡・三木・八上の三城攻略戦に、性急な突進を避け、時日を要する兵糧攻めを採ったのは、そのためであった。  十一月、豪勇の誇り高い荒木村重が立て籠る有岡城も、一年目に命運尽きた。  籠城以来、村重は矢継ぎ早に密使を毛利に送り、援軍と兵糧の補給を懇請したが、毛利の応答は無く、連絡も寄越さなかった。  毛利の勢力圏の限界は、備前(現・岡山県)までであった。播州は帰服を誓う大小豪族に委ねられていた。  秀吉は、三木城攻略にかかる傍ら、備前を領有する毛利の外様大名|宇喜多直家《うきたなおいえ》の調略に奔命した。  宇喜多直家は権謀術策を駆使し、一代で備前一国を領有した梟雄《きようゆう》である。因循・退嬰の毛利家が勢力圏を東に延伸《えんしん》しようとしない事に不満を抱いていた。  ——これでは、おれの国が毛利防衛の最前線だ。  老いて死病に取りつかれた直家は、人たらしの名人秀吉に魅入られた。 「幼君八郎(秀家《ひでいえ》)殿の行末の安泰は、この秀吉にお任せあれ。身命賭けてお引き受け仕る」  直家は、ひそかに帰属を誓った。  備前に進出した小早川隆景は、炯眼《けいがん》よく直家の背信を察知した。  ——このまま毛利勢が播磨に進出すれば、背後を断たれる。  隆景は逆進して備中に撤退した。  補給を断たれ、矢弾・兵糧尽きて、有岡城の命運は旦夕《たんせき》に迫った。  万策尽きた村重は、九月に単身城を脱し、尼崎城に移った。後には毛利の物見に拾われて中国路に去った。  荒木村重の諸城を手中に収めた信長は、残された村重の家族・家臣を集めて六条河原で刑殺に処した。  時は十二月。六条河原の刑場に引き出されたのは二十余人の一族で、それらは見せしめのため、悉く斬首された。  ひと口に虐殺という。その言葉から受ける衝撃は、いまの時代と大きな差がある。応仁の乱以来百十二年、国内に戦は絶えず起り、殺戮が繰り返された。人は戦乱の中で生れ、育ち、暮し、死んだ。殺伐は日常だった。  人の命が限りなく軽い時代だったのである。  年明けて天正八年(一五八〇)。光秀は依然丹波の山中で行動していた。  光秀は、軍事行動の傍ら、道を拡張して均《なら》し、橋を架けるなど、土木作業に励んでいた。  ——難治、というのは、人心の荒廃が因ではない。交通の停滞が人心の離反を齎《もたら》すのである。  明智兵団の過半が、工兵と化した観があった。この年、降雪は比較的少ないと言われたが、積雪を払いつつ行う普請工事は難渋を極めた。  降りしきる雪の中、光秀の野陣へ慰問に訪れたのは、信長の茶頭《さどう》千宗易である。聞けば宗易は、旧知の光秀の苦労を思いやって、自ら発企しての慰問行であった。  光秀は、腹心の左馬助秀満に命じて急造させた野小屋に宗易を迎え、茶会を催した。  野小屋は板屋根・板壁、足らざるところは板楯を並べて補い、桐油《とうゆ》紙を張り廻《めぐ》らせて隙間風を防ぐ粗末なものであった。  空に鳴る吹雪は容赦なく降りそそぎ、板屋根のここかしこは雪の重みにたわむ。はためく桐油紙の破れから粉雪が舞いこむ。その中で「和敬清寂」の茶の湯は、心静かに執行された。  寄り集う将領は、それぞれに深い感銘をうけた。中でも新規取り立ての丹波出身者、四王天又兵衛や並河易家の感動は、一方ならぬものがあった。  ——わが殿、明智光秀様は、戦略・戦術に長《た》け、類《たぐい》なき勇猛を示されておるが、一面このような風流を解し、当代一流の茶道に通ずる。まさに文武両道に達した教養人である。  ——われらは、よき御主君に恵まれた。われら身命を捧げてこの殿を天下第一の武将大名に推し上げねば冥加《みようが》に尽きる。  たしかに光秀は、家臣に将来の栄達を約束するに足る異能鬼才の人物である。だが彼は信長という稀代の天才に仕える身であり、信長なくしてはその才能を世に顕《あら》わすことのなかった環境に置かれた。  丹波の山国育ちの将領には、その分限《ぶげん》が理解の外であった憾《うら》みがある。それが後年、思わぬ事態を惹《ひ》き起す因の一つになった。  茶会を終えて後、光秀は宗易と地酒を酌み交しながら、絶えて久しい四方山《よもやま》話に移った。  話柄は、昨秋、行方を晦《くら》ました荒木村重の消息に触れた。  会話は沈みがちであった。 「村重は……無事でおりますかな」  光秀は、重く言った。荒木村重の消息は昨年末以来絶えている。 「無事に過ごしておりますよ」  宗易は、事もなげに答えた。 「ただ、毛利の扱いはひどく冷たいようで、時節柄、寒いことだとこぼしておられます」 「では、やはり毛利へ……?」 「女子供や家来どもを救おうと、救援をお頼みに奔られたとか。あの御人は世間で言うほど卑怯者ではござりませぬ」  宗易は、世間の噂——妻子・家臣を見捨てて一人逃げたという村重の評判を否定した。 「それは……」  問いかけようとする光秀に、宗易は言下に答えた。 「年の暮に、例のお方様から手紙を頂きました。備後|鞆ノ津《とものつ》あたりに匿《かくま》われておるらしゅうございます」 「それは……? 堺の?」  宗易は頷いてみせた。 「私めの家の者……。畿内と毛利領を往き来できるのは、荷駄宰領の者しかおりませぬ」  光秀は、溜息を洩らした。二人とも感慨が深い。暫く黙りこんでいた。 「何でであろうな」 「何がでございます?」 「村重を迷わせた源……背けばこうなるものと知れておるのに……」 「迷いに迷った末でございましょう。あのお方の悪い癖で、迷うたらすぐさま色に出さずにはおられませぬ。その癖、色に出しても踏ん切りがつかぬようで。有岡の城で一年近くも為すところなく過し、かかる憂《う》き目《め》となったのだと存じます。一万余の軍勢を持ち、尼崎・花隈のほかに茨木・高槻と名立たる城を四つも五つも持っておれば、目に物見せる背きようがあったものを……」  宗易の顔に傷ましげな様子が窺えた。 「然《しか》し……」  光秀は嘆息した。 「何で城捨てたあと、妻子や家臣が捕えられたと知って腹切らなんだか……解《げ》せぬな、あの男の心底は」 「それでございますよ。手前もそれを使いの男に言づけたのでございますが、その返事が来ております。今更にいのち惜しとは思わぬが、この先、信長という男とその周囲の者の有りようを見届けたいとありました」 「…………」 「どうでございます。日向《ひゆうが》様、その辺にそこもと様の疑念……離反の因《もと》が隠されている、と、てまえは思うのですが」 「上様に何か因《いん》ありと申されるのか」  宗易は頷き、光秀の気配を見守った。 「一向に……思い当る節はない……」 「…………」  二人は、黙然と酒を啜《すす》るのみであった。 [#改ページ]   月明らかに星|稀《まれ》なり  足かけ三年、まる二年、善戦健闘した東|播磨《はりま》の三木城が、最後の日を迎えた。時に天正八年(一五八〇)一月。  善戦とは合戦で全力を出し切ったという意味ではない。言語に絶する悲惨な状況によく堪えたことをいう。  秀吉が、信長の命ずるままに作った三木城包囲陣は、旧来の常識を遥かに超えたものであった。  信忠らの援軍を得た秀吉は、まず神吉《かんき》、志方《しかた》などの支城を抜いて、三木城を裸にした。支城の将兵を三木城に追い込むことによって、籠城人数を増やし、兵糧攻めを効果的にしようという策でもあった。援軍が帰還した後は、城の周辺に柵を設け、本格的な包囲戦に入った。  毛利氏は、二百隻の船で海路から兵糧を搬入しようとした。明石《あかし》、魚住《うおずみ》に現れた補給部隊に対し、秀吉は三十もの砦を築き、三木城との補給路を遮断した。更に、荒木村重傘下の花隈《はなくま》城や、加古川を経由して兵糧を入れようとする毛利勢も次々と撃退して、その望みを断った。  完全に孤立した別所勢は、何とか補給路を打開しようと城外に打って出るが、攻城軍はこれをあしらうばかりで、積極的な戦闘を行わない。秀吉軍はただじりじりと包囲網を縮め、城まで五、六町(約五、六百メートル)と迫るばかりだ。水濠には網を張り、夜は費えを惜しまず煌々と篝火《かがりび》を焚《た》き、ひたすら厳重な包囲を続ける。  ——これが城攻めか?  野戦と並ぶ花形戦闘と謳われた攻防戦が、攻守双方にとってただ堪えるだけの、退屈でくすんだ戦になってしまった。  丹波《たんば》の八上《やかみ》城、摂津の有岡《ありおか》城、そして播磨三木城の攻防——信長の独創によって、この頃から城攻めの概念は大きく変わりつつあった。  さて三木城である。『播磨別所記』によれば、長期にわたる籠城により、「城内には、旧穀ことごとく尽き、すでに餓死する者数千人、初めは糠《ぬか》まぐさを食い、中ごろは牛馬、鳥犬を食い、後には人の肉を刺して食う事限りなし」という有様であった。  籠城軍の衰弱を待っていた秀吉は、与力の別所孫右衛門を通じて、開城を勧告した。  城内から、返書が届いた。 「城主別所長治、弟|友之《ともゆき》、さらに叔父|吉親《よしちか》、以上三名が切腹いたすによって、忠節を尽くした者どもを助命いただきたい」  家臣のために、あるじが切腹して果てる。その悲壮には甘美の響きがある。秀吉はその申し入れに讃嘆し、樽酒を城中に贈って承諾した。  別所兄弟は約束通り自害し、吉親は、その遺骸を隠そうと城内に火を放ったため、家来の手にかかって殺害された。  かくして、三木城は戦わずして陥落した。  その際、重臣の一人後藤|将監《しようげん》(新左衛門)は、折から有岡城の監禁から救出された黒田|官兵衛孝高《かんべえよしたか》に、幼な児を托して自刃した。その子は成人して黒田家の侍大将となり、天下に勇名を馳せた。後藤又兵衛|基次《もとつぐ》である。  三木城攻めを承った秀吉は、陣中で稀代の軍師竹中半兵衛|重治《しげはる》を病で失う。この後、秀吉は戦法戦術の巧拙問わぬ兵糧攻めに魅せられ、この攻城法を得意技として多用するようになった。  八上城、有岡城、三木城の相次ぐ失陥《しつかん》は、はしなくも大毛利の退嬰《たいえい》と、その戦力の限界を露呈する結果を招いた。  加えて、第二次|木津川口《きづがわぐち》海戦の惨敗がある。  ——毛利、頼み難し。  石山本願寺の士気は沮喪《そそう》した。孤立無援の絶望感が、ひしひしと胸に迫る。  ——この機、逸すべからず。  信長は、時を移さず禁裏に働きかけ、正親町《おおぎまち》天皇より石山本願寺に向けて、和睦《わぼく》講和をすすめるよう勧告の勅使|差遣《さけん》を奏請した。  禁裏はこれを受け入れ、勅使として前《さきの》関白|近衛前久《このえさきひさ》、勧修寺晴豊《かじゆうじはるとよ》、庭田|重通《しげみち》の三方が大坂に下せられた。  勅使を迎え、勅旨を承った本願寺門跡|顕如光佐《けんによこうさ》、その子|教如《きようによ》は、信長の威光が京都朝廷を動かすほどのものであることを、今更ながら痛切に思い知らされる。だが、勅旨は反抗を許さない。いや許さないどころか、絶体絶命の本願寺が、勅旨を畏《かしこ》むという大義名分を得て矛《ほこ》を納め、本来の宗旨である衆生済度《しゆじようさいど》の道に戻る絶好の機会であることを思い知るのである。  講和の取り決めは滞りなく進み、四月、顕如光佐は石山本願寺を退去、元亀《げんき》元年(一五七〇)反信長を標榜《ひようぼう》して蹶起《けつき》以来、十年にわたる合戦は、信長の一方的勝利をもって終熄《しゆうそく》するに至った。  教如は八月、石山本願寺を立ち退き、父顕如の後を追って紀州|雑賀《さいか》に移った。  信長は本願寺を接収すると、惜しげもなく火を放ち焼き払う。要害の地大坂石山が、再び宗門|一揆《いつき》の根拠地になることを徹底的に嫌ったためである。  三木城を攻略した秀吉は、備前《びぜん》の宇喜多直家《うきたなおいえ》の調略にも成功し、意気揚々たるものがあった。 「早速に進駐致したく存じまするが」  秀吉の提言に、信長は意外に乗らなかった。 「暫《しばら》く待て。取りあえずは播磨の毛利党を掃討し、中国討入りの足場固めに専念せよ」  大至急が口癖の信長にしては、珍しい慎重ぶりである。  案ずるに、信長は光秀の突撃兵団の整備拡充に、いま少し日数をかけたかったのではあるまいか。  突撃兵団を活用する信長の毛利攻めには、独特の秘策があったに違いない。その秘策が始まりかけた時、思いもかけぬ事態の急変があって、本能寺の悲劇を生む。その経緯を順を追って解明したい。  秀吉は不満であった。彼はかなり焦っていた。  ——おれの兵団は格別のものだ。上様の信頼度は並ではない。  そういう自負が生じたのは、いつの頃からであっただろうか。  確かに秀吉兵団は、目まぐるしく多用された。酷使と言っていい。秀吉は不満を抱かなかった。唯一の例外は謙信動くの報によって、加賀に出陣する柴田勝家の兵団に、寄騎《よりき》として加えられたときであった。  ——柴田づれの下風には立てぬ。  秀吉は勝家の作戦に異を唱え、戦線を離脱して勝手に近江長浜の居城に立ち帰った。  信長は、その独断専行に激しい怒りを示し、蟄居《ちつきよ》謹慎を命じた。切腹が当然の大罪と見られた。  だが、その際、突如起った松永|弾正《だんじよう》久秀の背叛で、処分は有耶無耶《うやむや》になった。信長の手許に、咄嗟《とつさ》に使える兵団が無い。秀吉とその兵団は急遽《きゆうきよ》出動を命ぜられ、畿内に急行した。  そのあと、処罰が蒸し返されることはなかった。  信長は、家臣に無類の厳しさをもって当った。秀吉のこの事は、唯一の例外である。  ——それだけ、おれは愛されている。  と、秀吉は得意となっただろう。他の家臣も、  ——偏愛が過ぎる……。  と、思ったに違いない。  果してそうだろうか。  大理想を抱いて短い人生を突っ走る信長は、無類の厳しさをもって人に当った。理想の妨げになる徒輩は容赦なく殺した。理由は一つ。  ——教化している暇がない。  家臣に対しても同様であった。主君にも、職務にも狎《な》れることを許さない。些細な瑕瑾《かきん》も見逃さず、犯す者は厳刑に処した。  秀吉は、それを熟知していた。理論立てて理解したわけではない。無智な彼は動物的感覚でそれを感得していた。動物的感覚でそれを逃れる術《すべ》を知っていた。自らを動物化して従うこと。人扱いをされないことである。  信長は、生涯秀吉を�猿�と呼んだ。秀吉も信長に対しては�猿�と自称した。宿老柴田勝家などは、秀吉を蔑《さげす》む際は、わざと�猿�と呼び、信長は面前で言われても咎めなかった。  ひどい綽名《あだな》である。信長は人に異名を付けることが巧みで、光秀は�金柑頭《きんかんあたま》�、足利義昭は�葱坊主《ねぎぼうず》�と呼ばれた。 �金柑頭�と、�猿��葱坊主�は、それぞれに似て非なる綽名である。�金柑頭�は容貌だが、�猿�は同じ容貌でも人外、人扱いしない蔑みの響きがある。�葱坊主�もその類《たぐい》だが、さすがに当人に面と向って言ったことはない。  綽名は、言い得て妙である。自ら�猿�と称《とな》え、信長も�猿�と呼ぶ。その親しみには愛情が包含されている。だが、信長の愛は人に対してのものではないようだ。愛玩に近い。如何な信長でも座敷で粗相した愛犬を斬り捨てた事はないし、時に制禦《せいぎよ》の利かぬ愛馬を斬った事もない。  ——あれは可愛げ抜群の男だが、惜しいかな品性・教養に欠ける憾《うら》みがある。気に入らぬ事があっても、人並に叱責すると、あの男の特性を生かして使えなくなる。  秀吉に対して、信長はそういう前提条件を持っていたように思われる。だから秀吉の度を越えた好色を咎めず、時折の狎れた言動も寛大に許したのであろう。  その秀吉は、信長の下命を奉じ、播州一円の各地を転戦していた。  ひと口に、中国十ヵ国を領有するといわれた毛利家の実体は、長門《ながと》・周防《すおう》・安芸《あき》・備後《びんご》・備中《びつちゆう》・石見《いわみ》・出雲《いずも》・伯耆《ほうき》・美作《みまさか》を領有し、備前(宇喜多)・因幡《いなば》(山名)の有力大名を帰属させ、播磨・但馬《たじま》・淡路《あわじ》の中小豪族を慴伏《しようふく》させて、勢力圏に組入れていた。  それが信長の勢力伸長によって、毛利勢力圏の外縁部、丹波・丹後の中小土豪が征服され、内縁部の播磨が信長の攻勢を受けて失陥した。更に備前を領有する有力大名宇喜多氏が調略され、離反したことが明らかになった。  毛利は一矢報いたいところだが、元来因循・退嬰に陥りがちな家柄のため、構えて信長と戦う気迫に欠け、姑息な対応策しかとっていない。  因循・姑息といっても、莫迦《ばか》にはならない。富裕を誇る毛利家は、勢力圏内の中小豪族に金品のほか、矢弾《やだま》・兵糧を惜しげもなく与え、多年懐柔に努めてきた。その効果は根強く残り、前《さき》の波多野氏(丹波)、別所氏(播磨)等の大豪族が公然と信長の進出を拒み、果敢に抵抗して梃子摺《てこず》らせた。  播磨平定を呼号したが、播州一円にまだ毛利に意を通ずる中小豪族はかなり多い。それらは交通不便の山間部に城砦を構え、毛利党を名乗って信長に抵抗の意志を示している。  それらを、しらみ潰しに討伐するのは労多くして功の少ない戦であった。  ——このようなことなら、いっそ弟の小一郎秀長《こいちろうひでなが》と交替すればよかった。  秀吉はそう愚痴をこぼす。秀吉の実弟秀長は、秀吉が中国攻めの総指揮に当ると、別動隊を率いて但馬に進攻、その地の征討に当っている。  秀吉の愚痴は、詮なきものに過ぎない。秀吉は機を見て備前に進攻、宇喜多直家を傘下におさめ、山陽道に兵を進めることが予定されている。たかの知れた山陰の但馬の戡定《かんてい》にかかずりあってはおられない。  秀吉は、北播磨の山間、広瀬城に拠《よ》る宇野政頼という毛利党の土豪を攻めた。こうした僻陬《へきすう》の土豪は、今も弓矢が主戦力で、鉄砲火力の威力を知らない。瞬く間に城砦を攻め陥《おと》し、遁走する宇野政頼を追って、因州国境に至った。  中国|脊梁《せきりよう》山脈の峠から見下ろす因州平野は、六月の日差しの下に広がっている。遠い町なみは鳥取の城下町であろうか。  秀吉は、飽かず眺めた。 「中国攻めには、まだ間のある様子……いまのうちに因幡を征して、後顧の憂いを断つのも手だが……」  信長の命令は、�播州一円�と限られている。  秀吉は未練を生じ、迷っていたが、やがて全軍に命じた。 「姫路に軍を返す。上様のお言いつけには背けんからな」  秀吉はおのれの首筋を平手で叩いてみせ、カラカラと笑った。  この頃、信長は、多年の煩《わずら》いであった石山本願寺の滅却を成し遂げたのを機に、家中の粛清を断行していた。  粛清の始まりは、宿将佐久間|信盛《のぶもり》の弾劾《だんがい》である。  信盛は累代の家臣で、自身は信長の父|信秀《のぶひで》に仕え、信長の家督相続に尽力して信任を得た。信長の上洛戦には六角承禎《ろつかくじようてい》を攻め、叡山《えいざん》の焼打、三方ヶ原の戦、長島の一揆《いつき》平定、松永久秀の討伐など、戦功は枚挙に遑《いとま》がない。  だが、その資質は、信長にとって満足のゆくほどではなかったようである。  ——兵団を委《ゆだ》ねるには器量が足らぬ。いま少し様子を見ての事にするか。  といって並の部将扱いにするには、功績がきらびやかに過ぎる。  信長は、天正四年、石山本願寺攻めの主将に任じ、軍勢の総指揮を命じた。  石山本願寺は、これまで度々述べた通り、城地は難攻不落、城兵は殉教の精神に燃えて結束堅く、攻城は困難を極めた。  当時から昨今に至るまで、信長は四囲に敵を控え、東奔西走、繁忙を極めた。  そのため、本願寺攻めは停滞した。軍勢を集め、本格的に攻城戦を展開しようとすると、他の地域で急変が起る。信長は応急派兵のため、本願寺攻めの軍勢から兵力を抽出する。  それが原因で、作戦が挫折することが度々あった。  当初、信盛は焦《じ》れ、苛立《いらだ》ったに違いない。だがそのような事態が度重なるうちに慣れ、次第に狎《な》れた。  八月八日に信長が発した自筆の「折檻状《せつかんじよう》」にはこうある。  一、汝《なんじ》ら父子(信盛・信栄《のぶひで》)、ともに五ヵ年、在陣しておきながら、武勲・戦功が一つもない。  一、本願寺攻めに、武力に訴えることなく、謀略一つ用いず、ただ付城を堅守するにとどまった。思慮もなく未熟である。  一、丹波における明智光秀のめざましい働きを見よ。播磨の羽柴秀吉の活躍も比類なきものであった。また池田|恒興《つねおき》の花隈《はなくま》城攻略も、天下に名を挙げた。汝らはどうか。  一、柴田勝家も越前の支配を確立するため、加賀に進攻している。  一、武事に未熟なら謀略をめぐらし、それで不充分ならなぜ信長に相談し、指図を仰がなかったか。五ヵ年間にそういうことは一度もなかった。  一、汝らは、信長の家中にあって、格別な扱いを受けておった。三河・尾張・近江・大和・河内・和泉に寄騎の衆を持ち、根来《ねごろ》の僧兵にも寄騎を命じておいた。紀州を合せると寄騎は七ヵ国に及ぶ。それに自分の手勢を加えておいて、兵力不足を唱えるなど、以《もつ》ての外である。  以下、細かな非違の条々を挙げて、信盛父子を糾弾する。わけても末尾に近い一ヵ条には、  一、信長の代になってから、三十年も奉公しているが、その間、佐久間|右衛門尉《うえもんのじよう》が比類なき働きを示したことは、一度もない。  と、痛烈に言い切っている。その上で所領も軍勢の指揮権もすべて取り上げられ、遠国へ追放処分となった。 「このおれが?」  と、信盛は暫《しばら》く耳を疑い、信じなかった。  やがて、信長の怒りが本当と知ると、俄《にわか》に慌てふためき、身一つで倅《せがれ》信栄とともに高野山《こうやさん》へ走り、剃髪《ていはつ》して保護を求めた。  だが、 「高野山に入ること叶わぬ」  との更なる信長の御諚《ごじよう》により、下人にも見捨てられた佐久間父子は、熊野の山中奥深く分け入った。  この頃、戦況報告のために安土に出向いた光秀は、丹波への帰途、京の千宗易《せんのそうえき》の屋敷に立ち寄っていた。 「あれは驚きました。それがし昨年来、ここ丹波に出陣中にて詳しいことは何も知り得ませぬが、その折檻状とやらの条々は、如何なることをお咎めなので……」  宗易は、堺|納屋《なや》衆の商権を使用人に譲り、一介の隠居として信長に仕え、茶頭《さどう》の地位を得ている。  身分はともあれ、宗易は信長から茶の湯の師と仰がれる身であり、光秀も門弟である。言葉遣いは丁重にならざるを得ない。 「その折檻状の中身を公になされぬのだ、上様は……」  宗易は、困ったように笑みを浮べた。 「そのため、様々な取り沙汰が横行しておりますよ……五年にわたる本願寺攻めは懈怠《けたい》続き、時も、兵も、思うがままに使える身でありながら、唯《ただ》の一度もこなたより攻めかからず、策略ひとつ提言したこともない。のんべんだらりと茶の湯にふけり、遊び呆《ほう》けておった……どうやら、その一条が真っ先に書かれておったのは、まことのようで……お蔭を以てこの宗易も、とんだ迸《とばち》りを受け、暫くは安土|詣《もう》でもつつしむ有様でござりました……」  宗易は、低い声で、くくくと笑った。 「なるほど、それはあろうかと愚考致すが、今更始まった事ではなし、他に何か差し迫った事でもあるか、と思うが」 「そう、有力な当て推量がひとつござりますよ」 「それは、如何なることで……?」 「明智様の讒言《ざんげん》による、と申しますので」  光秀は唖然《あぜん》となり、顔色を変えた。 「これは心外な、ご冗談が過ぎる」  千宗易は、真顔で応えた。 「たしかに度の過ぎた言葉ではござりますが、あながち冗談とも思えませぬ。京童《きようわらべ》どもは専らそう噂しております」 「まことか、それは」  光秀の顔に危惧《きぐ》の色が走った。 「そこもと様に嘘偽りを言うて何になりましょう」  宗易は、冷静さを面《おもて》に、言葉を続けた。 「これは心得ておかれませ。俗に根も葉もなき噂、と申しますが、噂というのは案外、根もあり葉もあるものでございます。根というのは誰ぞが為《ため》にするところあって、話を作り、人の間に流す。その作り話が枝葉を生じ、効き目をあらわす。そうなればもう当人が何と弁解しようととどめられませぬ……要慎《ようじん》が肝要でございますよ」 「…………」 「噂はよう出来ております。ここ数年そこもと様は昔鬼が棲《す》むと言われた丹波の山中で、実り薄き戦を続けておられました。それに引替え佐久間殿は石山本願寺を囲んだなり、遊び呆けておられた。そればかりではない。毛利の援《たす》けが途絶えたのを幸い、兵糧・矢弾を本願寺に大量に売り付けたという疑いもござります。佐久間殿を讒言する者はそこもと様が適任……そうは思われませぬか」 「お待ちあれ」  光秀は、口を差しはさんだ。 「上様の御折檻が、仮に讒訴《ざんそ》によるものと致そうか。なれば真《まこと》の讒訴した者がおる筈《はず》……誰だと思われるか、その者は」 「これは難問」  宗易は苦笑した。 「敵方の、例えば足利将軍義昭殿と考えるのは容易《たやす》いが、上様が信じますまい。柴田・丹羽・滝川殿は佐久間殿と長年肝胆相照らす仲、それにかような手の込んだ噂は流せぬ。羽柴殿は八方美人。さてそうなると粗暴な佐久間殿がこき使った兵部大輔《ひようぶだゆう》様(細川藤孝)あたりか……」  光秀は、笑って見せた。 「これは軽忽《きようこつ》な……藤孝殿はそれがしと切っても切れぬ仲ゆえ申すが、そのような陰険な性格ではござらぬ」 「そうは申されますが、あの御方の氏素性からみれば、時勢とはいえ野卑な佐久間殿の下風におかれる事に、堪え難い思いがあったのでござりましょう」 「仮にそうであったとしても、それがしにまであらぬ噂を立てるとは……」  光秀は混迷の面持ちでそう呟《つぶや》いた。 「それも、已《や》むを得ぬ手だてであったかも知れませぬ。あの御方は世評次第で将来の、大きな途《みち》が塞《ふた》がれる大事な身……」  ——細川家養子が、それ程の氏素性か?  真の素性を知らぬ光秀は、解《げ》せなかった。  八月十七日、信長は、大鉄槌《だいてつつい》を他にも下していた。  国許《くにもと》尾張にあって内治・行政に当り、後方支援の任にあった譜代の宿老、林佐渡守|秀貞《ひでさだ》を、佐久間信盛と同様身一つで追放した。  秀貞は、信長が織田一族の統合を目指し苦闘していた頃、信長の生母土田御前の命に服し、信長の弟|信行《のぶゆき》を擁立し跡目に立てようと図った。その叛乱は信長の迅速な行動によって討伐され、秀貞は同じ宿老柴田勝家と共に信長に降った。  当然両名は誅殺《ちゆうさつ》されると思われたが、信長は既往を咎めず、そのまま宿老として重用し、柴田勝家は北陸管領として兵団を率い、越前《えちぜん》を領するに至っている。秀貞は郷国尾張・美濃の行政を統括して久しい。  それが、二十年以上も昔の信行擁立を責められ、突然の召し放しとなった。信長麾下の将領は戦慄《せんりつ》した。  ——長年仕えれば、瑕瑾《かきん》を生ずる。その時は許されても、いつか咎めを受ける。  家臣はその信長の苛烈な性格に、怨嗟《えんさ》の念を抱いた、と後世に伝えられている。  史書のどれにも、諸人が納得できるような処分理由が述べられていない。佐久間信盛の怠慢、林秀貞の旧悪と、一応|尤《もつと》もらしく理由を書いているが、その分析を欠いている。恐らくは右筆《ゆうひつ》の姑息な当て推量であろうと思われる。  林秀貞の二十数年前の旧悪を論《あげつら》うならば、柴田勝家の同罪を除外した理由は何か。  勝家が有用の材であり、秀貞が無用という理由は納得し難い。戦国武将にとって郷国・本拠地の重要性は論ずるまでもなく、後方支援に練達の人材を欠くことは、前線の将以上に重大である。  佐久間信盛も然《しか》り。この時期多年の宿敵であり続けた石山本願寺は、頼みの毛利の因循に前途の望みを絶たれ、信長と和睦《わぼく》・恭順した。  本願寺が止戦恭順すれば、次なる敵は中国十ヵ国の雄毛利氏である。その巨大・強力な勢力には、須臾《しゆゆ》の弛《ゆる》みも許されない。  この重大な時期に、信長は、前《さき》に荒木村重の兵団を叛乱で失い、今また佐久間信盛の兵団を折檻で消滅させる。さなきだに兵力不足をかこつ信長にとって、二個兵団の同時期消失は大打撃であった筈である。  それを自ら発企して強行したのは、信長の狂気じみた性格、と理由付けるのは容易《たやす》い。だが、忘れてならないのは、信長の徹底した合理主義である。  合理主義者の信長は、前の荒木村重の謀叛《むほん》に、おのれの体制の弛緩《しかん》を感得し、反省したに違いない。  ——この弛緩は、全軍崩壊の危機を孕《はら》んでいる。  林秀貞  佐久間信盛  両者は共に信長の父信秀の代からの重臣である。  よほどの理由と緊急性がなければ、大国毛利との全面戦争を控えたこの時期、追放という極端な処分は常識的に考えられない。  にも拘《かかわ》らず、信長は電撃的に強行した。  ほかに、何か理由があったのではないか。それを考えてみたい。  考え得る最大の理由は、ただ単なる「旧悪」や「怠慢」ではなく、重臣——長年の権力者——が往々にして陥る「腐敗」ではなかろうか。  林秀貞の場合、郷国(尾張・美濃)の内治・行政はすべて委任されていた。戦場から戦場へ目まぐるしく移動する信長は、郷国の内政を顧みる暇が無かった。  勿論《もちろん》、柴田勝家に与えた「掟・条々」と同じように、林秀貞にも同様の指図書を与えていただろう。  大国を預け置く、与えるのではない。それは近江坂本の光秀や、北近江の秀吉と同様であったに違いない。  信長は細事・些事《さじ》にわたって厳しく規制した。「鷹を使うな」「茶事にふけるな」という遊閑の事まで戒めた。「非分の課役の禁止」「公事《くじ》(裁判)の依怙《えこ》・偏頗《へんぱ》の戒飭《かいちよく》」など余すところはない。  だが、「腐敗」は起った。起らなければふしぎである。  絶対的な権力は、絶対に腐敗する。  古今東西を通じての鉄則である。  一つの例を挙げよう。信長は新しい時代の基盤を作るため、既得権の打破に邁進《まいしん》した。その具体的な施策に「楽市《らくいち》・楽座《らくざ》の設置」がある。楽市・楽座は旧来の有力商人による独占的な市の開催や、座を設ける特権を廃し、新規の商人にも自由な営業を認める、まさに自由経済の基本的な政策であった。 「楽市・楽座」は、市の開催権・座の設置権を世襲の形で持つ土地の豪商、あるいは商品貨物の運送権をもってその権利を併せ持った堺の商人にとって、独占を否定されたことにより大打撃となった。  市と座(それによる商品の種類・数量・価格の設定)の独占的既得権を打破された豪商たちが、必死懸命に権利の回復を図った事は想像に難くない。  行政を司《つかさど》る織田官僚は、「楽市・楽座」を持て余した観がある。市と座の自由設置に乗じて、争いを起す者が跡を絶たず、自由取引の名の下に悪徳商人が横行し、商業道徳は無視され、不正が跳梁《ちようりよう》した。  信長が、きびしく申し渡したにも拘らず、官僚は保身を図ると共に権力行使の甘き味を忘れられず、規制強化に手を染めた。  それが「官僚腐敗」を誘発した。  林秀貞は、高級官僚の常として、楽市・楽座の正常運営のため、規制を設け、次第に強化した。  ——与えられた職務の責任を果す。  秀貞の論理は、その一点にあった。  一見、その論理は正当に見えるが、そうではない。官僚の陥り易い凡慮である。  政策の遂行に当る者は、  ——職務を果す。  でなければならない。派生する諸問題は本旨に則《のつと》って処理する。それによって生ずる責任には、  ——われ、本旨を違《たが》えず。  の信念をもって当るしかない。その信念が無ければ、官僚の資格はない。  楽市・楽座の本旨は、あらゆる規制を撤廃して、「既得権」を消滅させることにあった。 「自由」は「放縦」に陥り易い。だがそれを懼《おそ》れていては、市場を支配する「既得権」の打破は望めない。信長はそれを承知の上で、あえて楽市・楽座の政策を強行した。  当然の事に、悪徳商人は横行したであろう。一部に金権をもって支配を企む者が現出したかも知れない。それらの弊は綿密に調査し、実状を把握して、個々に処置・処断すべきであった。  その煩雑さを避けるため、官僚は規制を設け、一括して処理しようと図る。「責任を果す」ため、取り締まりは強化され、数多《あまた》の規制が設置され、「自由」を標榜した楽市・楽座は規制の巣窟《そうくつ》と化した。  規制に不慣れな新規参入者は、たちまち逼塞《ひつそく》した。規制馴れした「既得商権者」は規制の裏を潜《くぐ》って跳梁した。土地の豪商や遠国商人は、規制強化に奔命する官僚・官憲に取り入って、更なる規制を誘い、それを利用して利を得た。 「規制」は「腐敗」を生んだ。「規制」執行に当る官僚に湯茶を供することから始まる供応は、宴を催すに至り、茶の湯の際に贈られる茶器は名物・銘品となって、遂には金員の贈与に発展した。  ——戦で身命を磨《す》り減らすは愚か者、悧口《りこう》者は後方で楽々と金を儲ける。  その戯《ざ》れ言《ごと》が耳に入った信長は、怒りを爆発させた。  ——その罪、万死に値する。  だが、林秀貞は譜代の重臣である。またその配下にあって、「上に倣《なら》う」者は、人としての弱さに負けたと言えなくもない。  それ以上に、信長は内治の担当者である諸官僚を根こそぎ失うことの混乱を顧慮した。 「一罰百戒」  この重大な時期、それを採らざるを得ない。  信長は、林秀貞の旧悪を名目に追放の処断を下した。  佐久間信盛の追放の真因もまた「腐敗」である。  軍という厳正な組織は、およそ「腐敗」と縁遠いもの、と思われがちである。  だが、軍もまた「腐敗」する。平和時であろうと戦時であろうと、「腐敗」は起り、浸透する。  わが国の軍事組織体にも「腐敗」が起ったことは、まだ記憶に新しい。  戦国期にも「腐敗」は横行した。当時の「腐敗」は今ほど複雑ではない。  最大の「腐敗」は、軍兵の数のごまかしであった。信長の麾下の大名格の兵団長に、それが起った。  大名格の将は、領地|封禄《ほうろく》の高によって、軍役(軍勢の動員数)が課せられる。騎馬の士数、徒歩の軍兵数が厳正に定められる。  その実数をごまかす。将兵の数の多寡《たか》は、将の支出の多寡に直結する。実数が少なければ懐が肥える。  戦陣に赴き、領地を離れると、主将は将に預けた領地に代官を派遣し、年貢や課役金の徴収を代行し、前線の将に送る。また主将が支給する軍費や武器・矢弾、兵糧も軍役の高によって補給するから、実数が少なければ、差額は将の収入となる。  信長の軍団は、そうした「腐敗」の少ないことで有名だった。寡少の兵で圧倒的な反信長勢力に当るため、機動力が必要だった。麾下の兵団は東奔西走して席の暖まる余裕がない。信長麾下の兵団長は、兵力をごまかすゆとりが無かった。  唯一の例外は、佐久間信盛の兵団であった。石山本願寺の難攻不落に信長は、敵の蠢動《しゆんどう》を抑制するため、信盛の兵団を張り付け、包囲陣を委任した。  ——信盛の一個兵団では、攻勢転移は無理である。精々兵糧攻めしかあるまい。  その信長の戦略に、信盛は怠惰に陥り、兵力の補充を怠り、実数を誇大に見せかけて、補給物資のかすめ取りに専念した。  上が乱れれば、下これに倣う。その譬《たと》え通り、信盛の兵団の「腐敗」は全軍に浸透し、蔓延《まんえん》した。その末に配下の軍兵が敵本願寺勢にひそかに兵糧を売るという不祥事が露顕した。  これもまた、罪万死に値する罪科である。  信長は厳密に調査して実状を知った。だが信盛もまた林秀貞と同様、譜代の重臣である。今更誅殺に処するに忍びない思いがある。  それ以上に、信長の決断を鈍らせたのは、当面の敵である石山本願寺が降伏したという事実である。  ——次なる敵は、大国毛利。  その毛利に、付け入る隙を見せることは不利この上ない。已むなく信長は「怠慢」を名目に、信盛を永久追放に処した。  荒木村重の乱、佐久間信盛・林秀貞の追放と、信長の苦渋に満ちた決断が終る頃、彼を取り巻く情勢は思いの外、転回していた。  話は多少、前に戻る。  この年(天正八年)の春。信長は安土に家康の使者を迎えた。  使者は石川|伯耆守数正《ほうきのかみかずまさ》。西|三河《みかわ》の旗頭。東三河の旗頭酒井|忠次《ただつぐ》に次ぐ老臣第二席に当る。  数正は、武骨一点張りの家康家臣団の中で唯一の外交適任者である。気が練れ、気遣い・気配りに優れ、言語明晰、ひとかどの知識人である。  石川氏は累代松平氏(徳川の前身)に仕え、数正自身は今川氏の人質となった竹千代(後の家康)に扈従《こじゆう》し、駿府《すんぷ》(現・静岡市)で苦難の歳月を送った。桶狭間《おけはざま》合戦後、自立を果した家康の妻子の奪還に功あり、家康も一目置くほどの器量人である。  ——三河の小心者は、人使いがうまい。  使者の顔ぶれで、用向きの重要性や緊急度がわかる。使者が徳川庶流と称する家臣筆頭の酒井忠次なら、危機感が強い。手練《てだれ》の数正なら相談事に違いない。ただしかなり重要度は高い。 「兵をお貸し願えませぬか」  信長の最も苦手とする要求である。 「何に使う」  例によって、言葉は短切である。 「勝頼《かつより》を駿河《するが》から追い払います」  数正は、呼吸を心得ている。単刀直入に切りこんだ。  五年前の天正三年。織徳連合軍は長篠《ながしの》で勝頼の武田軍団を、完膚なきまでに潰滅させた。  その際、家康は勢いに乗じて甲州に攻め入ろうと慫慂《しようよう》したが、信長は聞き入れなかった。 「折角の申し出だが、暫く時を擱《お》こう」  だが、敗戦後の勝頼は猛然と奮起し、前より激しくなった。  ——父信玄が三方ヶ原で大勝した相手に敗れた。嗣子としてこの恥辱を雪《そそ》がなければ、あるじの沽券《こけん》にかかわる。  その猛気は、長篠戦の四ヵ月後、大軍を率いて遠州侵攻を図ったことでもわかる。  以来、勝頼は毎年侵攻し、決戦を挑んだ。兵力で劣り、兵の精強で一籌《いつちゆう》を輸《しゆ》する家康は、その度ごとに浜松城に籠《こも》り、鋭鋒を挫《くじ》くことに努めた。  だが、度重なる心労に堪え難い思いは痛切である。  数正は、その意を言外に含めた。  ——いつまで待てばよいのだ。  それを察せぬ信長ではない。困惑の態をあらわした。 「折角だが、いま軍勢は中国路に向いておる。三河殿に貸す余裕がない」  実は、信長は家康の腹の内を読み切っていた。  ——いろいろ理由を言い立てたいであろうが、これは戦略上の要求ではない。単なる感傷だ。  家康は、駿河のうちで、特に駿府が欲しかった。ただの欲望ではない。咽喉《のど》の干涸《ひから》びた者が、一滴の水を欲するような切実な思いだった。  その欲望は、辛酸を嘗《な》め尽した人質時代に根ざしている。  父は横死、母は離別して去り、寄る辺なき幼少の頃、彼はいつ恣意《しい》に殺されるかの危機感に苛《さいな》まれ、奴隷の如く蔑まれ、悪罵・嘲笑の中で虐待された。  今川義元の寵臣孕石《ちようしんはらみいし》主水《もんど》という軽薄な男が、当時の竹千代に向って、さも憎さげに言ったことがある。 「三河者の小倅《こせがれ》など、面も見とうない。眼の汚れだ」  その家康は、今や遠江《とおとうみ》・三河二ヵ国五十余万石の太守である。  考えようは、二つである。屈辱の地を跡形もなく焼き払い、破砕して只の平地としてしまうか。それともわが支配の下に置いて、かつての苦難の地を逍遥《しようよう》して思い出を楽しむかである。  家康は、後者であった。だが、どちらにしても単なる感傷に過ぎない。強いて言えば児戯に近い。  信長には、そのような感傷は無い。だが家康のそうした感傷は理解できる。  それだけに、閉口した。 「いかがでござりましょう。われらの切なる願望、御再考願えませぬか」  数正は、粘った。 「それとも、大戦《おおいくさ》が間もないとか……」 「まあな」 「すると……いよいよ毛利攻めで?」 「さてのう……」  信長は、曖昧に返事を濁した。  実は、信長は毛利攻めを本格化する前に、武田を討滅すべく機を窺《うかが》っていた。  ——武田に背後を衝《つ》かれてはたまらない。  そのため、中国進攻が遅れている。  信長が、勝頼を屠る策を練っていると知れば、家康は欣喜《きんき》するであろう。だが機密が洩れる恐れがある。信長は家康の家中に、武田の諜報網のある事を懸念していた。 「であるが、三河殿の根強い思いもわかる。そこでどうかな、足許《あしもと》を固める意味で、高天神《たかてんじん》の城を攻め取っては」  遠州高天神城は、平坦な遠州平野にあって唯一の要衝、小笠山《おがさやま》山塊の端、鶴翁山《かくおうさん》にあり、周囲は絶壁に囲われ難攻不落と言われた。  城は、応永二十三年(一四一六)、今川|了俊《りようしゆん》によって築かれ、今川氏の遠州支配の最大拠点とされ、「高天神を制する者は、遠州を制す」の聞えが高い。  永禄十二年(一五六九)、今川|氏真《うじざね》を追放し、遠州を版図に収めた家康は、小笠原与八郎|長忠《ながただ》を城将に命じて守らせた。元亀二年(一五七一)、遠州に侵攻した武田信玄は、これを攻めたが陥《お》ちずに終る。  信玄亡き後、その子勝頼は、おのれの威勢を誇示するため、天正二年(一五七四)、二万余の大軍で包囲力攻し、漸《ようや》く陥《おと》した。  長篠の合戦後、家康は度々奪回を図ったが、陥ちず、今に至っている。  ——駿河を得れば、孤立無援となった高天神は陥せる。  度々の城攻めの損害に、家康が考えた方策である。それを信長は、あえて攻め取れと言うのであった。  信長は、石川数正に言った。 「筑前《ちくぜん》(秀吉)が、難攻不落の三木城を陥した。その策を教えよう。誰か絵図面を持て」  信長は、言葉を続けた。 「高天神は、糧秣《りようまつ》の貯え乏しく、日々の費えは江尻《えじり》(現・清水市)からの舟運に頼っておると聞いた。その遮断は北徳同盟を発動して、北条水軍に頼め。あとはこのように砦と防柵を厳重に張り廻《めぐ》らせれば、城兵の士気は萎《な》える。抜からず行え」  石川数正は、絵図面を眺めて長嘆息した。  ——なんと、これは合戦ではない。一大土木|普請《ふしん》だ。  徳川勢は、高天神城を包囲する七つの砦を着々と築いてきた。それを幾重《いくえ》もの柵や空堀で結び、鉄壁の包囲陣を完成して、人や物の出入りを断つという策である。 「城攻めの人数は一万を要すまい。その代り遠州一円の農夫・人足・浮浪の者を残らず集め、その人数で一挙に築き上げるのだ」  数正は、ただ一つ疑問を呈した。 「高天神の城攻めが始まったと伝われば、勝頼が後詰に出張ると思われます。その防ぎは如何仕《いかがつかまつ》りましょうや」  信長は、からからと笑った。 「三河衆が六、七年かけて陥ちぬ高天神の城だ。その包囲に後詰を迎え撃つ策を加えれば、遠来の武田が軽く陥せるかよ」  真顔に戻った信長は、更に付け加えた。 「心配致すな。勝頼が動いたと知ったら、われらの軍勢が東美濃から三河を経て駆けつける。勝頼め、軍を返すに違いない」  信長は、その効果も計算に入れていた。  ——高天神を見捨てれば、勝頼の威信は地に落ち、全軍の士気が一挙に衰退する。  家康には、有名な処世訓がある。 「学ぶ、は真似《まね》ぶである。人の智恵というのはたか[#「たか」に傍点]の知れたもの。独創は人の眼を驚かすだけで、そう大したものではない。古今東西のよき例を真似よ。おのれの才は人並のものと思えば、先人の智恵を素直に受け入れられる」  それは今川義元の軍師僧、駿府|臨済寺《りんざいじ》の住持、太原崇孚雪斎《たいげんすうふせつさい》の言だという。  その家康は、信長を終生|畏怖《いふ》して已まなかった。 「かの御人は百世に一人の神人であり、凡愚のわれらの遠く及ばぬ御方であった。当座は理解が及ばぬ事でも、かなりの年月を経ると真価がわかる」  家康は、生涯に最初で最後となる大土木普請による城攻めを開始した。  当然の如く家臣団は反対した。 「城兵はわずか一千余。何を恐れてこのようなばかげた普請をなさる」 「一揉みに揉み潰しましょうぞ。いのち惜しんでの土工|三昧《ざんまい》は末代の恥、力攻めに如《し》くはなしと心得ます」  家康は、苦り切った。  ——こいつら、何もわかっておらん。  高天神城攻めに動員した一万余の兵力は、来攻するであろう勝頼の大軍に対抗する虎の子の決戦兵力である。城攻めに一兵も損じたくない。 「これは安土殿の御指図による作戦である。異論は許さぬ。精出して働け」  四万とも五万ともいう、農夫・人足を動員して攻城土木普請が始まった。  その大掛りな工事は、意外な効果を齎《もたら》した。日毎にその有様を見る城将岡部元信、軍監横田|尹松《ただまつ》ら一千余の城兵の士気が沮喪した。  ——このような城攻め工事では、逃れる途はない。  補給も絶えた。北条水軍は徳川方の厳しい要求に、海上航行に慣れぬ武田の輸送船を撃破して、高天神への連絡を断った。  天正九年二月、勝頼は軍を動かし甲州を発した。総勢一万五千。駿河に入るとまず東進し、三島に至って北条軍と対峙《たいじ》した。  相州から到着した三万の北条軍は、大量の鉄砲、弓矢を備え、五重の陣を敷いた。しかも全軍が、折敷《おりしき》(片膝立て)の射撃姿勢で待ち構えていた。  これを見た武田軍の諸将は、あろうことか、長篠の二の舞を恐れて、兵を退いてしまった。  勝頼は激しく臣下を叱責したが、高天神の救援に向かうかどうか迷って動かなくなってしまった。もはや無敵と謳われた武田軍団の面影は無かった。  時は容赦なく過ぎてゆく。空しく停滞する武田軍に、飛札《ひさつ》が届いた。 (東美濃に展開中の織田|信忠《のぶただ》兵団、動く。先遣隊は遠州に急行中)  信忠は尾張|清洲《きよす》に入って待機し、先遣隊は水野|監物《けんもつ》、同じく宗兵衛が統率して、長駆遠州横須賀城(高天神の南)に進出した。  ——また、新手の敵か。  去就に迷う勝頼を最終的に決断させたのは、包囲された高天神城から昨年の秋に届いた書状であった。城の守備兵が連判で勝頼の救援を要請する中、ひとり横田尹松だけが、勝頼の出陣を無用と言ってきた。 「高天神の救援を行えば、信長と家康の軍勢はお屋形様の背後を断ち、北条は甲州に侵攻しましょう。それがし、高天神の城番を命ぜられました時から、生きて甲州へ戻るつもりはさらさらござりませぬ」  尹松も、織徳連合軍は、長篠のように柵と濠を築くだろうと、危惧している。武田勢にとって、長篠の惨敗は、よほどの悪夢であったようだ。  合戦の後、敢えて深追いしなかった信長であるが、戦の結果は着実に、常勝武田軍を蝕んでいた。「時を擱く」という信長の戦略は、みごとに実を結んでいた。  勝頼は、甚五郎の理を認め、意を決して甲州に戻った。  高天神城は見捨てられ、一ヵ月後に命脈尽きた。  城将岡部元信は、遂に最後の決断を下した。 「餓死して空《むな》しく果てんよりは、最後の力を振り絞って一戦を挑み、甲州武士の名を後世にとどめん」  全将兵|悉《ことごと》く死を決した。  夜半、高天神の城門は開け放たれ、城兵は包囲陣に果敢な突撃を開始した。  銃弾・征矢《そや》は雨霰《あめあられ》と降り注ぎ、攻防の刀槍は月光に燦《きらめ》く。たちまち屍山血河《しざんけつが》の修羅が現出した。  最後の攻略戦とあって、遠州横須賀城に勝頼の襲来を待ちうけていた榊原康政《さかきばらやすまさ》・本多平八郎忠勝・鳥居元忠らの軍勢が加わり、遠州平野に野陣を張っていた石川|康通《やすみち》・大須賀康高・酒井重忠ら控えの手勢も駆けつけた。  多勢に無勢《ぶぜい》、兵力差に圧倒された城兵は、絶望的な突撃を繰り返すほかはなかった。  城将岡部元信以下、横田尹松らは、壮烈な討死を遂げ、城兵悉く死に絶え、城はあえなく陥落した。  六年半という長年月にわたって、家康の駿河進出の障害となり続けた南遠江の牙城は、家康の手に帰した。  甲斐武田家は、清和天皇を先祖にいただく源氏の直流、源|義家《よしいえ》の弟|新羅三郎義光《しんらさぶろうよしみつ》が、甲斐守に任ぜられて以来、甲斐の国守として連綿と続いた名門である。  その武田家は、戦国末期に至って晴信《はるのぶ》入道信玄という英傑を生み、最強の軍団を駆使して近隣を圧した。  おそらく、領国が海道筋にあれば、容易に上洛を果し、天下に号令し得たであろう。不幸にして交通に便を欠く山国であったことと、近くに上杉謙信という好敵手が存在し、相争って決着を見なかったため、偉業を達成し得ず終った。  勝頼は、その子として生れ、父の威名を継いだ。  名門という華やかな家柄と、父信玄が築きあげた天下無双の最強軍団を得た勝頼は、天下一の幸運児と目された。だが幸運は必ずしも人に幸せを齎すとは限らない。運勢はそれを掴《つか》み得るか否かによって決まる。  年歯二十八で、不世出の英雄信玄の偉業を継ぐには若年に過ぎた。また父の威名は彼を鍛える妨げとなった。端的に言えば彼は世間知らずに育ち、細やかな人間関係の綾に対する配慮がまったく無かった。  名家の子には、往々にしてそういう癖がある。俗に言う�貴人に情なし�と。勝頼にはまさにその癖があった。  軍団というのは、戦士の結合体である。戦国期最強と謳《うた》われた武田軍団は、数万の勁悍《けいかん》な軍兵と、それを指揮する卓抜の部将によって成立している。彼らは信玄の人としての魅力に惹《ひ》かれて臣従し、厳しい鍛練に耐えた末、その統率の下、必勝の戦法を学んで今日を得た。  信玄卒去に遭遇した彼らは、後継者の勝頼の資質を、固唾《かたず》を呑む思いで観察した。新たなあるじは彼らの命運を決定する。吉凶はあるじの器量次第である。  亡き信玄が偉大であればあるほど、若い勝頼には重荷で有り過ぎた。信玄は上洛戦の半ばに病死する。勝頼にとっては過早の家督相続である。若い勝頼は�背伸び�した。  ——父に優るとも劣らぬ将器を部下に示さなければならない。  その対照相手は、不世出の英傑信長である。勝頼には無理、と言うしかない。だが若い勝頼はその無理を押し切った。——三年、わが死を秘せ——という父の遺言を無視して、近隣に戦を仕掛けた。その戦は悉く龍頭蛇尾に終る。  戦に明け暮れた末の、高天神城の落城であった。  勝頼は、重大な誤ちを犯した。  彼は、その誤ちに気付かなかった。誤ちという観念すらなかった。  ——禄で養う家臣は、当然主家に殉ずるべきもの。  彼には、そうした観念しかなかった。  家臣が、あるじに忠節を尽すのは、主家の家柄や禄の多寡によってではない。あるじ自体の人柄に対してである。  理はどうであれ、あるじが籠城している家臣を見殺しにした。  それも一朝一夕の城ではない。天正二年以来六年半の間、孤城となっていたままの城である。その間の城将・城兵の労苦は察するに余りある。それを一議もなく見捨てた。  ——勝頼殿は信玄公に及ばぬ。  武田の家中に、そういう囁《ささや》きがひそかに伝播《でんぱ》した。  その声は、やがて信長の耳に伝わる。信長が待ち望んでいた声であった。  話は一転する。  中国攻めの秀吉兵団は、備前で停滞していた。信長に帰服を申し出た備前の国主宇喜多直家の病|篤《あつ》く、軍議を開くこともままならない。直家の嗣子八郎(秀家)は、未だ十歳に満たぬ幼な児である。  ——悲運の家に付け入ったと言われては、後々の障りとなる。  宇喜多の備前兵は、強悍《きようかん》の聞え高い。秀吉はそれを手勢に加えようと、慎重に対処していた。  その秀吉の眼は、山陰に注がれた。  ——この手詰りの間に、因州に足がかりをつくってみるか。  因幡、伯耆は、秀吉の作戦行動外の地域である。だが、信長は常に積極策を好み、消極に堕《だ》することを嫌う。  ——出過ぎたとお叱りを受ければ、平謝りするだけよ。  このところ少々狎れ気味の秀吉は、因州の要《かなめ》、鳥取城に眼を注いだ。  この頃の因幡鳥取城主は、山名豊国《やまなとよくに》という。  豊国の家、山名氏は清和源氏新田氏の支流であり、上野《こうずけ》国山名郷が本拠であった。南北朝末期には、中国地方で十一ヵ国に及ぶ守護職を持ち、それが実にわが国六十余州の六分の一に当るところから、�六分一《ろくぶのいち》殿�の名で知られた。  しかし、山名豊国の代になると、六分一の威名はまったく振わず、毛利氏に臣従してわずかに因幡の一部に逼塞《ひつそく》するに至った。  戦国時代の始まりとなった�応仁の乱�は、山名氏と細川氏の対立抗争による。山名、細川の両氏が百三十余年の戦国時代に存続し、また山名豊国と細川藤孝がともに足利から徳川の四代を生き抜いたことは、不思議な因縁である。  ——先祖が細川家と争うたほどの名門なら、子孫も藤孝殿と同等の智略家かも知れぬ。  だが、それは秀吉の買い被りだったようだ。  実体は典型的な没落名家の子孫で、家名を誇るだけの凡庸な城主であった。  しかも、毛利氏と尼子氏の間で揺れ動き、尼子を裏切り毛利に帰服する際には、人質となった家臣の家族をあっさり犠牲にしている。この裏切りは家臣に諮《はか》ることなく独断であったというから驚く。  ——このあるじは、家来の身を思いやる気持がまったくない。  秀吉は、呆れかえる一方で、方策を考えていた。  ——これは存外簡単かもしれぬ。  早速、密書を鳥取に送った。 「家名といのちが惜しくば、織田氏に服すべし。背けば大軍を差し向け磨り潰す」  まずは脅しの一手である。 [#改ページ]   抜山蓋世《ばつざんがいせい》  そもそも、戦国時代の発端は、応仁の乱と言われている。  応仁元年(一四六七)から文明九年(一四七七)までの十年間、足利将軍の管領《かんれい》畠山氏と斯波《しば》氏両家の相続争いが契機となって、東軍細川|勝元《かつもと》と西軍|山名宗全《やまなそうぜん》が、それぞれ諸大名を糾合して京都を中心に激しく争った。ために京都は戦乱の巷となり、幕府の権威はすっかり地に落ち、世を挙げて群雄割拠の戦国時代を現出した。  以来百余年を閲《けみ》して、細川家の末裔藤孝は織田信長の麾下《きか》に属し、山名家の血筋をひく山名|豊国《とよくに》は、毛利氏に従属して、辛うじて余喘《よぜん》を保つ。奇しき因縁と言えよう。  秀吉が御《ぎよ》し易しとみた山名豊国は、意外にも投降勧告を断固拒否してきた。  しかし、鳥取城に対し秘策を持つ秀吉は、あくまでも調略にこだわった。ために手を尽して、更に山名氏の内情を探った。  その結果、信長の果断に畏怖し、かなり動揺しているが、中村春続、森下道誉らの家臣団が毛利帰属で結束し、すでに援軍を要請していた。彼らは伯耆《ほうき》に近い鹿野《しかの》城の毛利勢に、妻子を人質に取られていた。ここで織田方に与《くみ》すると、先年の尼子《あまこ》から毛利への寝返りに続いて、今回も人質が犠牲となってしまう。 「一度ならず二度というのは酷《むご》うござる。われらの妻子|眷族《けんぞく》は、手妻《てづま》の種ではござりませぬ」  ——なるほど、鹿野城か。山名の人質をそっくり奪い取れば、鳥取城は手つかずで我がものとなるのだが……。  だが、兵力が足りない。秀吉は備前《びぜん》を領有する宇喜多直家《うきたなおいえ》と、協力関係を結んでいた。備前の隣国|備中《びつちゆう》には、毛利|小早川《こばやかわ》家に従属する清水|宗治《むねはる》という強力な武将がいて、備前宇喜多家の侵攻に備え、隙《すき》あらば攻勢に転じようと構えている。  秀吉の誤算は、傘下におさめた宇喜多直家が立ち居も儘《まま》ならぬ重態に陥《おちい》った事である。  秀吉は、直家の幼な児八郎(秀家《ひでいえ》)を擁して、暫《しばら》く守勢を執《と》らざるを得なくなった。  その情報を得て、備中の清水宗治は、盛んに蠢動《しゆんどう》する。頼みとした宇喜多勢は、主将が病床にあるため使えない。秀吉は信長に救援を要請したが、甲斐《かい》侵攻をひそかに企図している信長には、その余裕がない。  ——所在の兵力で、戦果を挙げよ。  信長の長所であり、最大の欠点は、おのれの戦略を一切部下に知らしめなかった事にある。  秀吉は錯覚した。  ——上様は、宇喜多勢を使えぬ現状を御理解でない。それゆえこのおれを不甲斐ないと思《おぼ》し召しておられる。  秀吉は、弱敵を探した。その結果、眼をつけたのが因州鳥取の山名氏であった。  備中清水宗治の蠢動には、秀吉勢の最少兵力を充《あ》てた。足らざるところは宇喜多勢が防ぐであろう。領国を侵されて抵抗せぬ軍勢は無い。  秀吉は、兵団兵力の過半をもって因幡《いなば》に侵攻すると、鳥取城前面に布陣して降伏を勧告し、動静を見守った。威圧するための軍勢は割けない。従って鹿野城を攻める兵力が無い。  ——どうする。どうやって鹿野城にある山名氏の人質を奪取する。  出雲《いずも》の国人で、亀井新十郎|茲矩《これのり》という者がある。父は尼子《あまこ》氏の家臣で、亀井茲矩はその後を継いで尼子氏に仕えた。  尼子氏は天文年間、出雲・隠岐《おき》・因幡・伯耆・備前・美作《みまさか》・備中・備後《びんご》の八ヵ国の守護に補せられる程の威勢を示したが、一族の間の内訌《ないこう》絶えず、そのため衰勢を招いた。  永禄《えいろく》年間、台頭した毛利氏の侵攻を支えきれず、遂には滅びに至った。  亀井茲矩は諸国を流浪し、天正の初め、尼子氏再興を図る旧臣山中|鹿介《しかのすけ》に従って転戦したが、鹿介が毛利氏に降伏して殺害された後、その部下を糾合して秀吉に属した。  亀井茲矩の軍勢は、武器・防具調わず、土民に等しい雑軍である。が、秀吉はこれを利用しようと思い立った。  秀吉は、彼らに装備を与え、更に自軍の旗幟《きし》を貸与して、鹿野城に差し向けた。ついでに土民を金で雇い、俄《にわか》仕立の軍勢に仕立てた。 「よいか、構えて戦するな。擬勢を誇示して相手方を恫喝《どうかつ》せよ」  突如、降って湧いたように因幡に出現した亀井勢は、鹿野城を包囲した。  さしたる要地ではなく、取るに足りない小城ゆえ、秀吉が大軍を差し向けて来ようとは誰も予想していない。鹿野城内は驚愕した。  亀井勢は、秀吉の指示通り、城に申し入れた。 「山名家人質を引き渡せ。さすれば城将・城兵の無事退去を許す。万が一攻城戦に及べば、城の将士は兵卒の果てまで殲滅《せんめつ》する」  城を望む山々には、秀吉軍の旗幟が翻《ひるがえ》り、粗笨《そほん》な城を圧するかの如き勢いである。  城将|三吉《みよし》三郎は、一議に及ばず服した。  ——かような支城に殉ずるは、無益な戦《いくさ》だ。  三吉は人質を渡して、安芸《あき》の吉田郡山へ去った。  鳥取城前面に展開した秀吉軍は、はかばかしく攻めようとしない。山名勢が様子を探ってみると、播州方面から脊梁《せきりよう》山脈を越えて運送される攻城材料の蓄積に努めているようである。  防禦《ぼうぎよ》に当る山名勢も、戦意は盛んでなかった。  ——無理に戦をすることはない。毛利一門の吉川式部少輔経家《きつかわしきぶしようゆうつねいえ》殿が、海路城番として赴任されるとの事である。戦は手馴れた毛利勢に任せておけばよい。  そう考えていた山名勢の眼前に、秀吉は鹿野城から奪って来た人質を突きつけた。それだけで山名勢は脆くも崩れた。もとはと言えば、人質を殺されないための籠城であった。  ——一時的に、織田方に帰属しよう。  毛利方、吉川経家が来援するまでの方便である。  秀吉は、山名家の帰服を信用していたわけではなかった。人質はそのまま預かり、今は配下の亀井茲矩が守る鹿野城に再び収容した。  やがて秀吉軍は、潮の引くように退去した。山陰の外れにいつまでも大軍をはりつけておく余裕はないとみえた。  実はもう鳥取城には、芸州の毛利本家から、密使が到着していた。城番吉川式部少輔経家の赴任の知らせである。  ——大国毛利が御一門の武将吉川経家殿をお遣わしになる。定めし大軍を帯同なされ、兵糧・矢弾《やだま》も大量に持参されよう。  そんな筈がなかった。当時の因州鳥取は、織田・毛利の角逐《かくちく》の場から遠く離れている。その埒外《らちがい》の地に大軍を送るほどの余裕は、毛利になかった。  その点では、秀吉軍が遥かに有利であった。地続きの播州一円に展開している軍は、機動力に富み、有事即応の態勢にある。  雲煙万里の鳥取城防衛の任に当る吉川経家は、決死の覚悟であった。出陣の際、軍列の先頭に自らの首桶《くびおけ》を掲げたほどの決意であった。  ——一門の将を派遣すれば、土着の豪族が競って参陣するだろう。それらを糾合して秀吉軍に当れ。  それが毛利本家の指令であった。  それらは、諜報活動に長《た》けた秀吉にとって、すべて計算に織りこみ済みであった。彼は鳥取城攻略にあたって、三木城の干殺しで成功した策を、再び用いようと考えていた。  ——城を徹底的に干し上げる。  秀吉は、海路をとる吉川経家の船団が、さして大きなものでない事も計算に入れていた。  一方の山名家の重臣・将領は、城の攻防戦より、城下に来航した若狭《わかさ》の商人の動向に気をとられていた。  商人は、米穀の買い入れに狂奔していた。 「北陸路で大戦《おおいくさ》がある。上杉家が高値で米麦を買い漁っている。平価の二倍出すから売れ」  鳥取の外港|賀露《かろ》は、降って湧いたような米麦・雑穀取引で賑わっていた。  この若狭商人は、秀吉の命で動いていたのである。  米穀の値は急騰した。山名の重臣はその利に眼が眩《くら》み、城内の兵糧の大半を売り払った。  ——大国毛利が大量の米穀を持ちこむだろう。  鳥取城の山名勢は、重臣・将領から軍卒に至るまで、米穀の取引に狂奔した。城は米を悉《ことごと》く売り払っただけで飽きたらず、近郷近在の農家を駆け廻って、米を買い集め、商人に売り払った。  ——米穀の値が二倍以上に高騰する機会など、滅多に有る事ではない。  鳥取城は城をあげて、仲買い商になった観があった。 「織田家に従属を誓っておきながら、毛利の城番が持ちこむ米穀をあてにするのは解《げ》せない」  あるじの山名豊国が見かねてそう言うと、吉川経家を迎え、再び毛利に与《くみ》するつもりの重臣たちは、 「織田の顔色をうかがうばかりで、自らの気概を持たぬ殿には、仕えるつもりが失せた」  と、城から叩き出してしまった。  豊国は、何を思ったか、播州を目指して逃げた。  播州の国境にさしかかると、秀吉の軍勢が滞陣しているのに出会った。  ——家来に見限られたあるじは多い。だが城から叩き出されて、敵を頼るとは……。  秀吉は委細を聞いて呆れたが、そのまま豊国を手元に置くことにした。  明けて天正九年(一五八一)三月、新城番として赴任した吉川経家は、兵糧の米麦を悉く売り払った山名勢の振舞いに、唖然《あぜん》となった。  石見《いわみ》、出雲、伯耆、そして因幡と、遠路を辿《たど》って来た経家の軍が兵糧を大量に運んで来られる筈がない。 「各々方は、何をもって秀吉勢の来攻に対応されるお心算《つもり》か」  慌《あわ》てて近郷近在の米穀を買い集めにかかったが、これまた悉く売り払われて一粒も手に入らない。  同じ年の正月十五日、信長は安土《あづち》で盛大な左義長《さぎちよう》(爆竹)行事を催したあと、明智光秀に命じて京都における�御馬揃《おんうまぞろえ》�を布令し、各将がそれぞれに結構を尽して参加するよう急報させた。  予定の二月二十八日、五畿内・隣国の大名・小名・御家人は挙《こぞ》って参集し、前代未聞の大馬揃の行事が決行された。  上京内裏《かみぎようだいり》の東側には、南北八町の馬場を設営し、禁中東門の築地《ついじ》の外に行宮《あんぐう》を建てた。仮の宮殿とはいえ、金銀を惜しみなく用いて装飾し、天皇を始め公卿・殿上人《てんじようびと》以下の歴々が見物した。  入場行進に始まる馬揃は、三河の家康や播磨の秀吉らを欠くとは言え、濃尾の本国勢や、この月、北国平定報告に来合わせた柴田勝家、前田|利家《としいえ》の軍勢も加わり、かつてない大盛儀であった、という。  この頃、大業の半ばを達成した信長は、その威を示し、大敵中国毛利を圧する意図があったのであろう。生涯最大の催しであった。  天下の盛儀�京都馬揃�が無事終了すると、諸将は帰国を急いだ。信長にとっては最大の宿敵石山本願寺が降伏し、顕如光佐《けんによこうさ》が寺域を引き渡し退去したが、まだまだ周辺に敵は多い。一大示威行動の後にそれらがどう反応を示すか、それに備えなければならなかった。  そのなかで、光秀と藤孝《ふじたか》は伸びらかであった。光秀の丹波《たんば》平定を機に、寄騎《よりき》として度々協力した細川藤孝は、昨天正八年、丹後ほぼ一国を信長から拝領した。  普通、寄騎という加勢の者が領地、封土を得る事はない。しかも信長は、勝家・光秀・秀吉と異なり、預けおくのではなく、与えると明言した。  ——細川藤孝だけは別格。  しかも京の近くの国を与える。信長の厚志は際立っていた。  それはさておき、今は光秀が軍政を担当する丹波も、藤孝が領主となった丹後も、平定が完了し、中国毛利も山陰から侵攻する策を放棄している。  四月も半ば過ぎ、光秀は藤孝の誘いに応じて上洛した。藤孝は丹後移封を機に、旧地長岡と勝龍寺城を信長に返上することとなったため、名残りの茶会を催すというのである。  勝龍寺城は、すでに警固の城代として、猪子《いのこ》兵助と矢部善七郎が入っている。茶会は、長岡京の旧址の池畔に、藤孝が建て用いた茶室で行われた。招客は光秀のほか、前《さきの》関白近衛|前久《さきひさ》と千宗易《せんのそうえき》だけであった。  ——名残りの茶会というに、この少人数は何か密会めいている……。  光秀の胸中に、ちらと翳がかすめたが、馴染《なじ》みの顔ぶれとあって、なごやかな会話が進んだ。 「こたびの信長様の馬揃、以前にも増しての華やかさ、みごとでござりましたな」  宗易の嘆賞に、藤孝が言葉を添えた。 「あれほどの盛儀は、本邦|嚆矢《こうし》と言っても過言ではないと存ずる。いや、光秀殿の宰領、おみごとでござった。骨折りの甲斐があったと申すもの」  光秀は、赤面狼狽の色を示した。 「てまえの宰領とは、とんでもない事……それがしは上様のお布令を伝え廻るのが精一杯で……あとは叱られ叱られ、駆けずり廻ったに過ぎませぬ」 「その謙譲が、日向守《ひゆうがのかみ》の長所でもあり短所でもある。今の時世では目立つ事こそよけれ、働き目立たぬ者は貧乏くじを引く。この躬《み》がよい例だ」  前久は、笑いながら不満を洩らす。と見て宗易がすかさず話頭を転じた。 「兵部大輔様の新御領地、丹後は景勝の地と聞き及んでおりまする。是非にも見物に罷《まか》り越したく思っております」 「躬も同様」  前久は、すぐ尻馬に乗ってねだった。 「名勝|天《あま》の橋立《はしだて》を借景に、野点《のだて》を楽しむのが年来の望みでな。幸い日向守は隣国、どうだ一緒に参ろうではないか」  光秀は慌てた。 「いやいや、そうもなりませぬ。新知の領土もろくに見廻らぬうちに、物見遊山など、安土に聞えましたらただ事では済みませぬ」 「そういえば、つい先頃、安土では女子衆の懈怠《けたい》が発覚して、大層な騒ぎがあったそうでござりますな」  宗易のその言葉に、藤孝も一瞬、顔を曇らせた。  ——この茶会が信長公の耳に入れば、どのような咎めを受けるか。  信長が最も嫌悪するのは、職務の懈怠である。前《さき》の京都居館の留守居役・女中頭の成敗があり、最近は信長が竹生島《ちくぶじま》詣でに長浜へ出向いた折の一件がある。  天正九年四月十日、信長は小姓のみ五、六騎を連れ、長浜へ馬を駆けさせた。そこから船で竹生島に参詣しようというのである。  ——遠路であるから、今宵はお気に入りの羽柴様の居城、長浜で過ごされるのだろう。  と、安土城の女房たちは、城下の桑実寺《くわのみでら》に赴き、終日遊び暮した。  だが信長は竹生島に寸刻滞在しただけで、水陸併せて片道十五里の道を馬で駆け抜け、その日のうちに安土城に戻った。  女房たちはまだ帰っていない。 「許し難き横着、ただちに縛り上げて差し出せ」  信長からの使者を迎えた桑実寺は大いに驚き、寺の長老を派して詫《わび》を入れた。  信長は、自制を求めた長老の言いぶしが気に入らないと成敗し、女中たちを残らず斬り捨てた。  人は信長を苛烈《かれつ》と怖れたが、彼に優しさが無かった訳ではない。むしろ人一倍の思いやりがあった。  信長の思いやりは、広範に亘《わた》っていた。この時期、二十万に近い信長の兵員は、北は積雪丈余の北陸戦線から、南は地形複雑な紀州|雑賀《さいか》、東は美濃から三河・東海にかけての対武田戦線、西は播州・備前から因幡にかけての対毛利戦線と、二六時中休みなく戦っている。  ——後方にあって、安逸を貪《むさぼ》り、職務をおろそかにする者は許さず。  それが信長の前線将士に対する思いやりであった。要するに優しさを表現する方法に欠けるところがあったのであろう。  ——おれに懈怠の咎めはない。  光秀は、その自信をもって、茶会の誘いに応じた。  信長にとって藤孝は、貴重な存在であることは言うまでもない。  京を制圧してみると、信長は八方に敵を迎えた。政治・軍事・宗教・経済、それらの旧勢力が反信長に結集した。  信長は、藤孝の卓越した分析能力を活用して、その実体を把握した。彼らは旧時代の既得権益を持ち、よって将来も優越的繁栄を維持しようとしている。  だが、私利私欲を恣《ほしいまま》にする既得権の横行・跋扈《ばつこ》によって世は乱れ、戦乱は絶えず起り、民衆の安寧・秩序は失われ、救いなき世の中は果てなく続く。  信長は、生を得てより諦観《ていかん》を持っていた。 「人間五十年、下天のうちを比ぶれば、夢まぼろしの如くなり。ひとたび生を稟《う》け、滅《めつ》せぬもののあるべきか」  下天は仏教語にいう下層の天、四王天《しおうてん》である。四王天の一昼夜は人間界の五十年に当る。  その儚《はかな》い一生の間に、人間は何を為《な》し、どのような足跡を残すか。  信長は、新しき世を自らの力で創造するには、おのれの一生では時間が足らず、とみた。  ——生あるうちに、世のあらゆる既得権を打破・討滅しよう。さすればわれに続く者が新しき世を作る。  信長は、幕府再興を目指す足利義昭を既得権の亡者とみて、敵視した。  義昭は軽佻浮薄《けいちようふはく》な弱輩者だが、頭脳は鋭敏である。策略を駆使して信長を陥れようとした。  結果、信長は義昭を京から追った。だが征夷大将軍の官名をそのまま捨て置いた。官名を剥奪《はくだつ》すれば新たな将軍を名乗る者が現れて世を乱す。それを慮《おもんぱか》ってのことであった。  当然のことに、光秀は憂慮せざるを得ない。  信長は、室町幕府、足利将軍を根絶やすつもりに違いない。  その足利将軍に縁の深い者たちが、信長に一言《ひとこと》の断りもなく、あたかも密会の如くこうして集まっている。  信長が知ったらどう思うか。おそらく激怒するだろう。  ——これは叛逆行為である。その罪万死に値《あたい》する。  光秀は、信長の苛烈をひたすら恐れた。  浅井、朝倉。  彼らは死んで後、髑髏《どくろ》を晒《さら》され、漆《うるし》をかけて箔濃《はくだみ》にされ、酒盃代りに弄《もてあそ》ばれた。  荒木|村重《むらしげ》の妻子は、京都六条河原で馘《くびき》られた。  光秀は不安になった。才人である彼も、信長の思考には、考えが及ばなかった。  深夜にも拘《かかわ》らず、光秀は近くの長者の家に仮泊している供の者に、出立準備を命じた。  ——この地には安土を懼《おそ》れぬ輩《ともがら》が勝手気ままにふるまっている。関わると身の破滅を招く。  光秀は、支度を調え夜明けを待った。 「惟任殿にお目にかかりたい。少々話がある」  藤孝のおとなう声がした。 「あ、兵部大輔様、どうぞこれへ」  光秀は、急いで内へ招じ入れた。 「夜中、ご無礼とは存ずるが、御出立の様子と見えたので、御意中うかがいに参った」 「これは御挨拶が遅れて申し訳ござらぬ。それがし丹波留守居の者が気がかりゆえ、早々に立退くが至当と心得、出立仕ります」 「御口上、確かに承った。お引きとめ致す名分もこれ無きによって、ご自由になされよ……さて、光秀殿」  藤孝は、固苦しさを一変して、親しげに声をかけた。 「客人たちの、戯《ざ》れ言《ごと》が過ぎたようだ。気にかけてくれるなと言いたいが、ちと無理かも知れぬ」 「いや……御無礼仕りました」  藤孝は低く笑った。 「安土に告げ口されれば、猜疑《さいぎ》心のお強いあの御方の事だ。即刻懈怠の疑いがかかる」 「それは……それがしもお咎めがありましょう」 「それよ、光秀殿が安泰を保っておる所以《ゆえん》は」  藤孝は、またしても低く笑った。 「あの御方がわれらの期待を裏切らぬ限り、われらの方から御期待を裏切ることはない。天地神明に誓う」 「それをうかがって安堵《あんど》仕りました」  光秀は、低く頭を下げた。  光秀が任地丹波亀山城に戻り、軍政に励んでいる頃、信長は安土で多忙な日々を送っていた。  わが国にはローマ法王派遣の巡察使ヴァリニァーノが来朝していた。  ヴァリニァーノの来朝は、信長の要求によるものであった。  信長の切支丹《キリシタン》政策は、開放的の一語に尽きる。天文十八年(一五四九)イエズス会士フランシスコ・ザビエルの鹿児島来着に始まる切支丹の布教は、苦難の道を歩みながら、着々と成果を挙げつつあった。  豊後《ぶんご》の大友|宗麟《そうりん》を始め、荒木村重の与党高山|右近《うこん》、秀吉の幕将黒田|孝高《よしたか》等は、いわゆる切支丹大名と呼ばれ、信者は、社会の上層部にまで及んでいた。  信長は、足利義昭を伴った上洛戦の翌年、永禄十二年(一五六九)、初めて宣教師ルイス・フロイスと接触した。四年前、まだ三好・松永|輩《はい》が京都を制圧していた頃、幕府は一旦布教を許した切支丹政策を一変し、ガスパル・ビレラやフロイスたちを京から追放していた。ビレラ、フロイスらは、信長に京都会堂の復帰を求めたのである。  好奇心旺盛な信長は、西欧文明の一端を聞き知ると、直ちに彼らの京都居住を許可した。  ——宗教の影響を恐れていては、文化・文明の進歩は望めない。  信長は徹底した合理主義者である。  ——宗教は飽くまで形而上のものである。それが形而下の政治に及ぶとき、厳正に取り締まればよい。  彼は、その信念を貫いた。  一向一揆が猖獗《しようけつ》したこの時代、徹底的な殲滅《せんめつ》政策を採り、毫《ごう》も揺がぬ態度を守り通した信長は、唯の一度も一向宗そのものを禁止した事は無かった。  ——宗教自体は恐るるに足らぬ。為政者に確乎《かつこ》たる信念があればよい。  信長は、その信念で、西欧の切支丹に対処した。  信長が、切支丹に開放政策を採ったのは、未知の西欧科学のためであった。  科学は、合理の所産である。彼はこの時代の人間としては珍しく�地球球体説�や�地動説�を、極めて素直に信じ、疑わなかった。  一通りの科学知識を得ると、彼の関心は西欧の政治歴史に及んだ。  ——西欧では、どのような政治形態を採っているだろうか。  彼は、その時代の君主帝王制を聴取したが、一向に感心するところがなかったようである。  ——わが国の政治とそう変らない。  だが、政治学が歴史に及ぶと、俄然興味を覚えた。  それは古代ローマ帝国の歴史であった。  ローマ帝国は、古代西欧最大の国家である。イタリア半島、テヴェレ川の河口に、前七〜八世紀頃建てられた都市国家に端を発し、王政・共和政・第一次と第二次の三頭政治を経て、前二七年オクタヴィアヌスが皇帝となった。最盛期の版図は小アジアからイベリア半島、南はアフリカ地中海沿岸から、北はイギリスに及び、当時世界最大の領域を所有し、軍事・経済・土木建築・法制に稀有《けう》の才を発揮した。西暦三九五年に東西に分裂し、東は一四五三年にオスマン・トルコに滅ぼされるまで続き、世界最長の歴史を持った。  ——それ程の大国家が繁栄を維持するのに、どのような政治体制を布《し》き、どのような法制を施行したか。  信長は、その知識を得ようと、フロイスやオルガンティーノに執拗に問い質《ただ》した。  だが、彼らには信長が満足する程の知識がない。已《や》むを得ず彼らは、歴史学に該博な知識を持つ巡察使ヴァリニァーノが東洋巡歴中なのを幸いに、彼の来朝を懇請して、信長に引き合わせた。  ヴァリニァーノは、持てる知識を披瀝《ひれき》して、信長の期待に応えた。  だが、ヴァリニァーノは、長く日本に滞在できない。  彼は貴重な文献史料をフロイス、オルガンティーノに貸与して、早々に日本を去る。  ルイス・フロイスやオルガンティーノは、信長の飽く事なき執拗な質問攻めに、悪戦苦闘した。彼らはこれまでに信長ほど旺盛な知識欲の君主に出会ったことがない。その点信長は貪欲を極めた。  天正九年のこの時期、信長はその研鑽に貴重な月日を費やしていた。  信長の異常な熱意は、フロイス、オルガンティーノに、並外れた期待を抱かせたようである。  ——この国の魔王信長は、遠からず統一国家を建設するであろう。その時に耶蘇《ヤソ》教が国教に制定されれば、東洋布教の一大拠点となる。  彼らは、信長の天才的資質を単純に画一的に判断したようである。  だが、信長は端倪《たんげい》すべからざる資質の持ち主で、単一宗教に帰依する程の単純な性格ではなかった。  その一例は、永禄十二年(一五六九)、宣教師追放を説く日蓮宗徒|朝山日乗《あさやまにちじよう》と、宣教師フロイス、ロレンソとの宗論で、日乗は宣教師たちの舌鋒にさんざん打ち負かされたが、日蓮宗の廃絶や日乗の追放などは一切行わず、宗教論争は単なる対論にとどめおく冷やかさを示した。  ——宗教というのは、形而上の論に過ぎない。  信長は、耶蘇教の宗論より、未知の文化・文明に心惹かれたに過ぎなかった。  天正九年(一五八一)七月、秀吉は二万の大軍で再び鳥取城を包囲した。例によって三里四方に柵を築き、河には乱杭や逆茂木《さかもぎ》を設け、水底には縄網を張った。諸陣には櫓が立てられ、夜間には万灯の如く篝火が焚かれて、厳重な見張りが行われた。海上にも警戒の船を遊弋《ゆうよく》させるという徹底ぶりであった。  吉川経家が持参した兵糧米は、およそ一ヵ月で尽きてしまった。籠城の覚悟のない城下の人々まで、城内に収容してしまったためである。籠城方は、将兵だけで四千を超えた。急遽、安芸吉田郡山の本城に支援を要請したが、陸路海路とも、秀吉の包囲網を突破できなかった。  織田方も、細川藤孝が兵千五百を率いて、日本海側から秀吉への兵糧補給を行った。この時、松井康之が指揮する藤孝の輸送船団は、千代河口で毛利の兵糧船五隻を分捕り、六十五隻の船を捕獲した。  山陰を受け持つ吉川元春《きつかわもとはる》の救援もはかばかしくなく、毛利水軍も敗れ、鳥取城の糧道は完全に断たれてしまった。  三木城の干殺しをそのまま踏襲した攻城法は、またしても絶大な効果を挙げた。  攻略軍はまったく仕掛けず、城方が攻勢に出ると、鉄砲の応射で退け、白兵戦を避けた。後世に語り伝えられる�鳥取城のかつやかし(渇)殺し�が、着々と進行した。  およそ四千人の籠城が三ヵ月を過ぎると、城内は深刻な様相を呈した。  こうした包囲戦で、攻め手はひどく楽と思われがちだが、そうではない。将兵の戦意を維持するのに大変な心労を要する。  緊張感を失うと警戒が弛《ゆる》み、厭戦《えんせん》気分が瀰漫《びまん》する。私利に走って城方に兵糧を売る者が現れる。また相手方の窮状を見かねて脱走を許し、兵糧の搬入を許す者が出る。戦意の維持には、適度の休養が必要である。  秀吉は、攻囲陣に楽市(運上金免除の市場)を設け、物売りや酒食の店屋を造らせた。楽市とあって、処々方々から商人が集まり、大変な賑わいとなった。  秀吉は更に、歓楽街まで設けた。歌舞・音曲の見世物小屋を建て、毎日興行させ、遊女屋や揚屋《あげや》まで造った。  それらを充分に利用させるため、士卒に特別の手当を支給した。もっとも歓楽街は秀吉の直営であったから、抜かりなくその支給金は回収した。  対照的に、城内は凄惨を極めた。餓鬼の如くやせ衰えた男女が柵際にやって来ては、しきりに助けを求めた。攻囲軍が鉄砲で撃ち倒すと、まだ息のあるうちに刃物を手にした人間がやって来て、その肉を取ってゆく。なかでも頭部の味がよいとみえ、首を奪い合った。「人の命ほど情けないものはない」といったことを『信長公記』の作者は記している。  三木城の満二年に及ぶ籠城でも、ここまで窮しなかった。それほど秀吉の事前に打った手は、巧妙であり、悪辣《あくらつ》だったとも言える。  そうした惨憺《さんたん》のなかで、身勝手な山名の家臣団を抑え、厳として崩れなかった吉川経家とその手勢は、みごとと言う外ない。  秀吉は、包囲の効果を疑い、敵の戦死者の腹を裂いて調べた。  ——もはや、限度である。  そう見極めた秀吉は、城内へ使者を送って、開城を勧告した。 「義によって命を失う習いも大切と考えるので、吉川式部少輔、森下道誉、奈佐日本助、三大将の首を差し出す。よって、残る者を助け出されたく」  城内からは降伏の申し入れがあった。森下道誉は山名氏の重臣、奈佐日本助は但馬の海賊大将である。  秀吉は、城番として赴任早々の吉川経家は加勢に過ぎず、科《とが》が少ないと考えていた。それで何とか経家を助けようとした。  ——ここで情けを施せば、他日毛利本軍と戦う際に、効果があるだろう。  だが、経家は、城士の安泰を願って真っ先に腹を切った。  一方で、山名家の重臣たちは、あるじを追い出し籠城に及んだ。秀吉は、この科は軽からず許し難しと思い、全員に切腹を命じた。  十月二十五日、かくして鳥取城は陥落した。  秀吉は、直ちに安土へ急使を派して、信長に諸般の報告を言上した。  信長は黙々と聴取した。その胸中に湧く存念は、複雑だった。  因幡鳥取城の攻略は、信長の戦略構想外であった。  信長の構想では、山陰は明智光秀、羽柴秀吉の担当は山陽道である。  備前から備中へ、秀吉の兵団を進める。所在の毛利方の土豪・領主を撃破して、備後に兵を進める気勢を示す。  毛利勢は、本国安芸が危殆《きたい》に瀕《ひん》するため、毛利|輝元《てるもと》の本隊と、その両翼の吉川元春・小早川隆景《こばやかわたかかげ》の両軍が、総力を挙げて備後に出陣するであろう。  それを見澄まして、信長の機動軍団が、秀吉兵団への増援に、山陽道へ急進する。  機動軍団に先駆するのは、光秀の丹波兵団である。播州に先行した光秀兵団は、機動軍団を離れ、突如北上を開始する。前《さき》に秀吉の軍勢が地ならしを済ませた美作《みまさか》を通過し、因幡を見捨てて伯耆に入り、石見を駆け抜けて、一挙に毛利の本国安芸を衝く。  ——最強の光秀の突撃兵団をもってすれば、電撃作戦は可能であろう。  信長は、一年先|乃至《ないし》は二年先に展開するその戦略構想を楽しんでいた。  その構想を乱す秀吉の因州鳥取城攻略戦である。  ——猿め、余計な事をする。  秀吉の心理もわからぬではない。備前でみごとに調略を果した宇喜多直家が、思わぬ重患に倒れたため、戦況が停滞した。  その埋め合せの鳥取城攻略だった。よくぞ相手方の内情を調べ抜き、成功したと褒《ほ》めてよい。  だが、褒め切れないものがあった。城攻めの方策は、信長が創始した播州三木城の攻略法の模倣である。それはよしとしても、実施の方法が気に入らなかった。  巧妙、の域を越えて、あくどすぎる。  一廉《ひとかど》の武将が米買い商人を操って、敵地で金にあかせて兵糧を買い漁《あさ》る。その陋劣《ろうれつ》さがやり切れない。  ——あやつには、戦の美意識が無い。  戦に謀計・謀略は付きものである。だがその謀《はか》りごとには、越えてはならぬ微妙な一線がある。その一線がどの辺に引かれるかは到底説明し難い。それは感覚と意識の問題であろう。  例えば、稀代《きたい》の悪人と言われた松永|弾正久秀《だんじようひさひで》の場合である。一代の間におのれのあるじを殺し、天下の将軍を弑虐《しぎやく》し、東大寺を焼き払うという悪虐を恣《ほしいまま》にした松永久秀が降伏したとき、信長はこれを許して、大和一国の切り取りを認めた。これは謀計であった。  ——あやつめ、いつかはしくじる。  悪はそう長くは続かない。  将軍義昭の背叛も、美意識で処理した。  ——天下の将軍は、殺さぬものだ。  長島一向一揆の殲滅や、浅井・朝倉の処断について、後世の者は軽々に言う。  ——信長は、残虐・苛烈な人間である。  松永久秀への措置や、足利義昭の追放についても言う。  ——信長の行動原理は、矛盾に満ちている。  丹波征討を命じた光秀に、古くからその地に勢力を伸長した波多野《はたの》氏を磨り潰《つぶ》すよう命じておきながら、秀吉の鳥取城のかつやかし(渇)殺しには嫌悪の情を抱く。  ——そうしたやり方はせぬものだ。  それもまた信長の武士|気質《かたぎ》と、美意識のなせるわざであろう。彼自身にはその感覚に何の矛盾も感ぜられなかったに違いない。  信長の対秀吉観は、この頃、大きく変化したと思われる。  ——あやつは�人たらし�の名人だが、おれの後継者には向かぬ。  人生五十年と割切っている信長は、おのれの後継者選びに腐心していた。  彼が選ぶ後継者は、単に武をもって天下統一を果すだけの人材では有り得なかった。  ——�人たらし�は、天下統一の大業を果すやも知れぬ。だが……この国に新しい時代を築くに値しない。  何の為に、旧勢力と戦い、宗教勢力を敵に廻し、京都朝廷や足利幕府、あるいは堺の豪商から嫌悪されたか。  妥協の方途はあった。妥協さえすれば今の十倍も早く、天下統一の偉業は進展したであろう。  だが、信長は敢えて孤立の途《みち》を突き進んだ。  ——妥協はできぬ。妥協すれば新たな時代の芽が潰《つい》える。  彼の目指す新時代への途の最大障壁は�既得権益�であった。官も民間も、宗教も軍事勢力も、それぞれに既得権益を持つ。あらゆる方面に既得権益ががんじ[#「がんじ」に傍点]搦《がら》めにはびこり、人はその既得権益の擁護に腐心・奔命する。  ——手段が陋劣であってはならない。政略・戦略が醜悪では、人心は掌握できない。  新しき世、新しき秩序をどういう形で築くか。信長は模索するうち、四十代の末にさしかかった。  ——藤吉郎は、万人に優れた才を持ってはいるが、人に仕えてこそ本領を発揮する。やはり後継者は光秀か。  信長の思念は、その結論に到達しつつあった。  秀吉は信長の命令を受けた。 「淡路を獲《と》れ」  六万石、淡路一島を攻め陥すのは容易《たやす》かった。  これで毛利水軍の大坂湾侵入は困難となった。  明くれば天正十年(一五八二)、信長は数え年四十九歳の春を迎える。  前の年の暮、播州から秀吉が安土に参向した。戦況報告を兼ねて歳暮の献上を行うためであった。  思えば、信長から中国の経略を命じられたのが天正四年(一五七六)七月、爾来五年を越える歳月が経過した。当初は、強大な毛利を相手に、秀吉がどこまでやれるか、信長の家臣団も冷やかであった。  それがいまや、山陽道では宇喜多家の備前・美作《みまさか》まで進出している。山陰道でさえ因幡《いなば》の鳥取城を陥し、伯耆《ほうき》との国境《くにざかい》まで迫っていた。瀬戸内でも、毛利水軍の拠点、淡路の岩屋城を攻略し、来島《くるしま》村上水軍を味方につけてしまった。  秀吉一人の力で、毛利が企図した三道併進策を瓦解させてしまった感がある。  しかもこの間、石山本願寺攻め、紀州の雑賀《さいか》攻め、松永弾正の信貴山《しぎさん》城攻めなど、他の戦線にも従軍している。  ここ数年、信長の家臣で最も華々しい成果を挙げたのは、秀吉であっただろう。  ——この喜びを、主君信長にひけらかしておくことは、悪いことではない。  秀吉が思いついたのは、歳暮の御祝儀に安土へ行くことだった。秀吉らしい智恵である。  古くは歳暮として米や魚を贈った。これは神仏への供物の一部で、同じ物を食することにより、人との繋《つな》がりを強めると考えられていた。この時代、歳暮は戦国大名間にあっても、有効な外交手段として活用されてきた。  安土に到着した秀吉は、十二月二十日、小袖二百を始め様々な品を信長に進上し、女房衆にもそれぞれ贈物をした。その夥《おびただ》しい品数は、信長を含めて一同の耳目を驚かせたという。  この頃、信長には�執次《とりつぎ》�と称する官房が形成され、信長身辺の諸事を司《つかさど》るように定められていた。  執次の報告で、秀吉の安土帰着を知った信長は、拝謁の手順を省いて登城を命じた。 「後継者選び」という問題を別にすれば、秀吉は愛敬に富み、楽しい人間であった。  信長は、伺候した秀吉を身近に招き寄せ、語り合った。 「鳥取では山名の娘をかどわかしたとか、相も変らず達者なことよ」  信長は、いつになく饒舌《じようぜつ》であった。  ——おれは、この男を後継者から除いた。  その秘密は信長以外誰も知る者はない。そう思っても酷使に堪えて忠節に励み、今も信長の機嫌をうかがうに汲々《きゆうきゆう》たる様を見せる秀吉に、労《いたわ》りの言葉を掛けてやりたい。その思いが信長にある。  ——上様は怒っておられぬ。  秀吉は、鳥取城奪取が戯《ざ》れ言《ごと》として語られたことに安堵した。因州鳥取城への進出は、彼の一存で行われた。その越権行為の重大さを思うと、深淵を覗《のぞ》くような懼《おそ》れがあった。  ——この種の心配は、もうこれきりにしたい。  秀吉は、上機嫌を示す信長に、あらためて誠忠を心に誓った。  信長は、秀吉の意中を手に取るように汲みとっていた。  ——猿め、おれの機嫌をとり結ぼうと、かほど必死懸命になっておる。  その可憐さに惹かれた。  ——こやつ、後継者などという大役に就けんでも、充分満足するに違いない。  信長も自分の決断に、心中ひそかな満足を覚えた。 「名城、大敵を相手に一身の覚悟で一国を平げたること、武勇の名誉、前代未聞」  信長は恐悦する秀吉に声をかけ、更に褒美《ほうび》の品として、但州金山茶の湯道具十二種の名物を与えた。  秀吉は感涙に咽《むせ》び、一言も応えることができなかった。  翌朝、再度登城した秀吉は、御礼の言葉を伝え、無人の御座の間を拝すると、その足で播州へ発向した。  奇しくもそれが、信長と秀吉の最後の別れとなった。  秀吉が、古今未曾有の歳暮を信長に贈って、その厚恩への礼としたことや、信長が秀吉に、 「武勇の名誉、前代未聞」  と褒《ほ》めたたえたことは、両者の虫の知らせであったかも知れない。  天正十年元旦、安土城は未曾有の年賀の者を迎えた。  信長の一門、縁者、近隣の大小名、豪族や、はるばる京から出向いた公家衆。更に麾下《きか》の将領、侍衆、果ては所縁《ゆかり》の僧侶、富商、豪農、職人頭に至るまで数知れず、雲霞《うんか》の人出のため、高く積み上げた石垣を踏み崩し、死傷者が続出する有様となった。刀持ちの従者は、主人の刀を失い、困惑する者が多数出た。  この年、信長は奇抜な布令を出していた。従来、登城する者には厳しい資格制度がある。軍事機密に属する城にとっては当然の事だが、元旦に限ってその制限を大幅に弛《ゆる》め、望む者には安土城を縦覧させるというのである。  但し、礼銭百文、というのが如何にも信長らしい。  ——おのれの武力・資力で築いた城を、他人にただ見せる法は無い。  その礼銭が、唯の百文というのが信長の真骨頂である。財貨を軽んぜず、貪《むさぼ》らずという信条を示している。  執次衆は、総動員で整理に当った。群衆、と言っていい人々は城内の総見寺毘沙門堂《そうけんじびしやもんどう》の舞台を見物し、表御門から三つの門を通り、天守閣の下の白洲に参上する。信長はそこで跪拝《きはい》を受け、年始の言葉を掛ける。  順序は恒例により定められている。一番は御一門衆、二番は他国衆、三番は安土在住の者、身分で席次を定めず、住居する地によって順序を規定するあたりが、信長好みである。  年頭の挨拶は、三位《さんみ》中将信忠が先頭であった。北畠中将|信雄《のぶかつ》が次ぎ、織田源五(長益《ながます》)、織田上野守|信包《のぶかね》と続き、一門の人々となる。三男|信孝《のぶたか》は四国攻めの準備のため不参であった。  更に他国衆が続いた。それぞれ階《きざはし》をあがり、座敷の中に通されて、御幸《みゆき》の間(天皇行幸の間)を拝観した。  馬廻役・甲賀の地侍などは白洲で待つ。信長は、「白洲にては皆々冷えよう。南殿《なんでん》(天守閣のうち、皇居|紫宸殿《ししんでん》を模したところ)へあがり、六角定頼を祀《まつ》った江雲寺殿《こううんじでん》を見物せよ」と、細かな心遣いを示した。  御幸の間の結構のみごとさは言語に絶する装飾であったという。  近くのどの座敷も、狩野永徳《かのうえいとく》が心血を注いだ名所図絵が描かれ、御廊下から御幸の間は、屋根は檜皮葺《ひわだぶき》、装飾の金物はすべて黄金、その彫刻は細密、畳は備後表に縁《へり》は高麗縁《こうらいべり》と繧繝縁《うんげんべり》である。  一段高い天皇御座は黄金の飾りで光輝き、薫香《くんこう》たちこめて、えも言われぬ結構であった。  一同は、台所口へ参るよう指示を受けた。信長は厩《うまや》口に立って、百文の祝い金を手ずから受取り、背後に投げる。その颯爽《さつそう》の姿は、詰め寄せた者たちに、異様な感動と歓喜を沸騰させた。  信長は、安土城の公開に、さほど気を遣っていなかった。  ——人が秘す機密などは、人の口から必ず洩れる。  その観念は、次の信条に繋がる。  ——人が作り出した困難は、人の智恵と努力で打開できない筈がない。  信長が多くの人々に安土城を見せたかったのは、その堅牢無比の防禦《ぼうぎよ》力ではない。彼ならでは創造し得なかったであろう、その芸術性の結晶した姿と内容であった。  ——われならで誰か為《な》し得ん。  その昂揚《こうよう》した心と共に、更に次なる飛躍を目指す高ぶった心の表れでもあった。  彼は、十年の歳月を費やして得た石山本願寺の城砦《じようさい》跡に、新たな城造りを計画していた。  大坂城の構想が熟成しつつあっただけに、信長は安土城の公開をためらわなかったのであろう。  安土城を遥かに凌駕《りようが》する城の構想は、後に天下統一の偉業を達成する秀吉が築く大坂城に、その一端をうかがい知ることになる。  だが、それは文字通り一端に過ぎない。信長が見れば恐らく嗤《わら》ったであろう。  ——豎子《じゆし》、われに遠く及ばず。  信長の大坂城は、夢と消え去る。  安土城すら、万人の眼に触れたこの後、わずか半歳を経ずして、一縷《いちる》の灰燼《かいじん》と化し、この世から消える。安土城の公開は、せめてもの名残りに、信長の夢の一端を語り伝えるための、天の配剤と考えられなくもない。  信長が、来朝して謁《えつ》したローマ法王庁の巡察使ヴァリニァーノを数十日で解放し、宣教師に京都在住を許したことは、前に述べた。  信長は、その短い滞在期間中、西欧歴史の造詣《ぞうけい》深いヴァリニァーノから、歴史学を学んだ。主点は古代ローマ史であった。  ——科学に優れた西欧は、どのような政体を試みたか、その成否の結果を知りたい。  信長の灼《や》けるような熱望に応えるため、宣教師のルイス・フロイスとオルガンティーノは日本を離れるヴァリニァーノから史料文献をゆずり受け講義を続行した。  かつて、信長に初めて謁したとき、宣教師オルガンティーノは地球儀を献上し、 「地球は、球形をなしている」  と、説いた。更に天体は地球を中心に動くもの(天動説)ではなく、地球は天(宇宙)の一部であって、太陽の周囲を公転し、自転するもの(地動説)と説いた。その説は西欧ですら、理解されるに数百年を要したにも拘らず、信長は直ちに理解を示した。 「その説、理に適《かな》う」  信長に対するラテン語での古代ローマ史に関する講義は、困難を極めたであろうと想像される。  歴史を説くには、受講者の該博な予備知識が必須である。また歴史の分析には思想・哲学が欠かせない。更にその用語・術語に深遠な理解が必要不可欠である。  そうしたあらゆる面で、まったく隔絶した文化・文明の東洋の一|島嶼《とうしよ》国家の、然《しか》も武人に説く事が如何に難しいか、想像に余りある。  最大の難点は言語の相違である。適当な訳語が無い。殊《こと》に形而上の思想・哲学を伝えるのに、言葉の違いは決定的であった。  ヴァリニァーノの後を継いだオルガンティーノや、ルイス・フロイスら宣教師の日本語知識は、到底練達とは言い難かった。その補助に当る日本人信者のラテン語知識は、更に劣悪だった。  障害は、そのほかにも数多くあった。この時期、その障害を打破することは、常識からみて不可能であった。  にも拘らず、ルイス・フロイス、オルガンティーノの講義が、数ヵ月間も続いたのは、信長の狂気染みた異常な執着心と、「一を聞いて十を知る」のを遥かに超え、「一を聞いて十、百を知る」鋭敏な理解力に依《よ》るものであった。  尤《もつと》も、歴史を正確に伝えようとするヴァリニァーノに対して、信長の観念は大きく懸け離れていた。信長は知識を得ようとする気ははじめから無かった、と言える。信長は歴史そのものの正確な知識を求めていなかった。変遷の歴史の節目における原因と結果だけが関心の的だった。もっと約《つづ》めて言えば、西欧の政権・政体の成り立ちや衰亡から、彼が目指す新しい時代相への示唆を求めていた、と言えよう。  信長は、立板に水を流す勢いのヴァリニァーノと、閊《つか》え閊え意味不明の訳語を並べるルイス・フロイスの言葉の中から、どのような意味を汲みとり、啓示を受けたであろうか。  それは、永遠の謎となった。史料に信長の感銘や、未来を洞察する言葉は伝えられていない。右筆《ゆうひつ》太田|牛一《ぎゆういち》の平凡さでは、信長の天才的な閃《ひらめ》きを伝えることは、木に縁《よ》りて魚を求むるより至難の業であろう。  試みに、古代ローマの歴史を略述する。  古代ローマは、イタリア北部から中部にかけて勢力を伸長したエトルリア人と、南部に進出したギリシャ植民の二大勢力の間《はざま》に温存されたラテン民族によって形成された。  最初の政治形態は、王政であった。ローマの王は、王自体が神であるエジプトとは異なる。神の意志を人間たちに伝える神官のメソポタミアの王でもない。力をもって人間を従える豪族の首領のギリシャ王とも違っていた。ローマの王は、ローマ人の集合体の意を代表する統率者である。  ローマ王は、市民集会の選挙によって選ばれる。市民集会は市民の中から王を選ぶ訳ではない。もしそんな事をすると、巧言令色、人気とりに長《た》けた者が王になり、人気とりに終始する愚民政治になってしまう。  市民集会の権限は、拒否権の発動に限られていた。積極的にある者を王にしろ、とか、こういう政策をやれ、という事をしない。王位を得る者は、市民集会の投票で許諾を得なければならぬ。重要政策——税の改正とか戦争行動、裁判官の任命、法律の制定なども、市民集会の討論を経て、諾否の投票が行われる。拒否されれば王といえど政策を取り下げなければならなかった。  市民集会というのは、後向き(諾否はするが、提案はしない)だと評する者もいる。だがたとえ後向きであってもその権限は大きく、為政者の放逸を戒める効果は絶大であった。汚職・涜職《とくしよく》・退嬰《たいえい》・因循《いんじゆん》・放埒《ほうらつ》・専横を戒めるに最適であったと伝えられる。  ゆえに——王は王なるがゆえに、終身制であった。だが世襲ではなかった。その子が王位を継ぐなど、ローマでは誰も考えなかった。  王というより終身制の大統領に近い。  古代、という時代には、神(仏)という絶対的な存在が必要不可欠であった。中世、あるいは近世に至るまで、それは続いている。  ローマの宗教を考える上で、何よりも注目に値するのは、専任の神官(僧侶)が存在しなかったことであろう。俗事に一切関わらない、神と人間の間の仲介に専従する人々を、ローマ人は置かなかった。  それは、神官(僧侶)の専横を防止する。  過去、叡山を焼き、石山本願寺と戦い、長島・越前の一向一揆を殲滅せざるを得なかった信長の、最大の悩みは政教分離政策だった。  古代ローマは、易々とそれを解決した。ローマの神官・祭司は宗教人でなく、一般の人士から市民集会の許諾投票を得て任命された公務員であった。宗教色は薄くなるが、過度の宗教偏重に陥ることがない。政治との確執や、癒着は起りようがなかった。  ——ローマを強大にし、永続させたのは、宗教についての彼らの考え方であったようだ。  市民集会の投票権は、軍制に連動する税制によって票数が定められた。課税は財産の多寡《たか》によって五段階に分けられ、最高は百人から最低二十人の下士卒の経費一切を負担する。票数はそれに連動して最高九十八票から最低二十票が与えられた。無産階級は予備兵五名の経費、票数も五票、予備兵は首都防衛に充てる。  王政も代を重ねると、終身制の王と王族は専横に陥る。七代、二百四十年を経ると王族の乱れが顕著になった。ローマ人は王一族に愛想をつかし、王政を廃し、共和政に変えた。市民集会で許諾される執政官の任期は一年、しかも独裁を避けるため二名とした。  王に代る執政官には特別の才能を必要とする。有能な人材は、そう有るものではない。一年毎の交替で人材は枯渇の一途を辿《たど》った。そうなると人材を豊富に持つ門閥の集まりである元老院が供給源となった。  元老院は、端的に言えば後世の上院(貴族院)である。王政時代から設けられた元老院の議員は、終身制で選挙を経ない。下院に当る市民集会と同様、重要政策について、許諾・拒否の議決権を持つが、積極的に行政に参与することはない。  ローマの共和政は、執政官と元老院、市民集会の三本柱に支えられた。  ——ローマの共和政とはどのような政体なのか。  そう尋ねられても答えはなかなか難しい。  執政官に光を当てれば王政に見える。元老院に注目すれば貴族政だと言える。市民集会を重要視すれば、民主政だと断ずるに違いない。実体はその三つを組み合せたものである。  だが、執政官の唯一の供給源であった元老院は、次第に執政官と密接に結びつき、三本柱は二本柱となった。更に経済力を持つ者が軍制を牛耳り、多数の票を持つ市民集会は、次第に元老院と癒着を深め、有力政治家による統領政がローマを占めるに至った。  ローマの話は果しないのでやめる。信長がヴァリニァーノの話から何を発想したかは永遠の謎である。だがその天才的な分析能力から、何か新しい時代への構想を抱いたに違いない。その構想は世に受け入れられず終った。  古代ローマの歴史を数十日にわたり講義したヴァリニァーノ、そのあと数ヵ月にわたって講義したルイス・フロイス、オルガンティーノは、信長が切支丹に帰依するであろうことを期待した。  それは無理からぬ期待であった。信長は前《さき》に京と安土に南蛮寺(教会)を建てることを許し、更に安土にはセミナリヨ(イエズス会の教育機関、聖職志願者の予備教育校)とコレジヨ(学林、神学校)の設置を認可していた。  ——日々、われらを召して講義を聴取するからは、よほど深い信仰心があるに違いない。  だが、その予想は外れた。信長は正月を機に講義を取りやめた。理由は一言であった。 「倦《あ》いた」  正月二十五日、信長は伊勢神宮の式年遷宮《しきねんせんぐう》に、莫大な造営費を寄進し、その式典を復活させた。  彼にとって切支丹は、仏教各宗派と同列の宗教であり、あえて差別排撃はしないが、自ら帰依する心はまったく無かった。  信長の時代は、粗々《あらあら》しい現実の時期であった。すべての既成の観念が打破され、新たな創造が激しく渦巻く。その中にあって自らが攪拌《かくはん》する信長は、思考を行動の後に置いた。  ——思考を先立たせて、立ち止ってはならぬ。まず単純に行動せよ。その後で考察すればよいではないか。  彼は、その信念で猛進した。  二月。彼は猛然と行動を起した。彼の人生の掉尾《とうび》を飾る軍事行動である。  信長は宿願の武田討滅戦を開始した。  武田四郎|勝頼《かつより》  新羅三郎義光《しんらさぶろうよしみつ》(源|義家《よしいえ》の弟)に始まる甲斐源氏の嫡流武田家を、一代にして滅亡に至らしめた人物として、世に愚昧《ぐまい》と評せられた。  その評言は、酷に過ぎよう。戦国武将としての彼の能力は、並々ならぬものがあった、と言っていい。  ただ、彼が継いだ武田家が、名家に過ぎた。更に彼の父、信玄が世に傑出した大人物であった事が、彼に背負いきれぬ負担となった。  信玄は、天与の峻嶮《しゆんけん》に囲われた甲府盆地にあって数百年安逸を貪《むさぼ》った武田一族を糾合して、領土拡張に努めた。北に信濃、南に駿河を制すると、遠く上州に兵を出し関東を窺《うかが》うほどの勢いを示した。旧領甲斐に倍する一大強国を築き上げたのである。その強剛は越後の上杉謙信と優に比肩し、戦国期に冠たる英雄と呼ばれた。  信玄の四男に生れた勝頼は、元々その後継者たる事を約束されていなかったが、図らずも信玄の後継者となった。  時に勝頼、年齢二十八。熟成には若すぎる年である。信玄は強大国に達するまでに、多くの勇将・智将を麾下に持った。俗に武田二十四将と呼ばれるその将領は、信玄に畏服《いふく》すること甚だしく、弱年の勝頼は彼らの統率に一段の工夫が必要であった。  ——亡き信玄公は、一世の英雄であった。だが弱年の当代(勝頼)は頼みがたい。  卓出した創業者の後継の難しさがそこにある。暫くは隠忍自重して部下の進言に従い、徐《おもむろ》に時機を待つべきであっただろう。  ——父信玄は、二十一歳で祖父信虎を追い、領主の地位を確立した。二十八のおれにできぬことはない。  時代相も変化し、甲斐武田の周辺の情勢も異なる。威権の確立を焦る勝頼は闇雲《やみくも》に亡父の方針——領土の拡張——に突っ走った。  関東の雄、北条氏との盟約も、締結と破棄を繰り返すうち、信頼関係は崩れた。遠州への無益な進出と長篠合戦の敗北は、勝頼自身の威名をかえって傷付けた。  勝頼は、戦に次ぐ戦を強行した。名ある将領はあるいは討死し、あるいは傷付いて戦陣を去った。領民は軍費と軍兵の徴発に、疲弊した。  信玄、世を去って九年。強国武田の内実は、朽木の如く空洞化した観があった。  信長は、それを辛抱強く待ち続けた。駿河を欲して止《や》まぬ家康の、度重なる援軍要請を謝絶して、ひたすら待った。  ——戦って勝てぬ相手ではない。だが決戦兵力を損じたくない。その兵力は中国毛利との決戦に温存しておかねばならぬ。  その武田との決戦の機が、遂に到来した。  二月一日、武田勢の進攻に備えて美濃岩村城に兵団をとどめている三位中将信忠の許に、木曾街道|苗木《なえぎ》城の遠山久兵衛から、急使が届いた。  武田領、木曾一円を領する木曾|義昌《よしまさ》が、信長に帰服する旨、密使が到来した、と言うのである。  信忠は直ちに出陣準備にとりかかると共に、安土の信長に急報した。  ——遂に、武田の一角が崩れた。  だが、信長は慎重だった。 「木曾路国境まで軍を進め、後命を待て」  信忠は命に従い、遠山久兵衛に命じて木曾義昌の弟、上松蔵人《あげまつくらんど》を人質として納め、国境に布陣した。  二日、木曾義昌の背叛を知った武田勝頼は、一子|信勝《のぶかつ》と共に、甲斐|新府《しんぷ》の城より出馬、兵一万五千を率いて諏訪《すわ》の上原に陣を据え、各地の味方に通報して、事態に備えた。  三日、信長は、諸方面からの一斉進攻を通告した。即ち駿河口からは徳川家康勢、関東口からは家康と同盟関係にある北条|氏政《うじまさ》、飛騨《ひだ》口からは金森五郎八長近の諸勢を進発させ、信長・信忠の機動軍団が、二手に分れて伊奈口から進攻する旨を申し送った。  信忠は、濃尾の兵を木曾口・岩村口の二手に分けて出動した。これに対し武田勢は伊奈口の要所に諸兵を配し、滝ヶ沢に要害を構えて、これに下条伊豆守|信氏《のぶうじ》を入れ置いた。だが、家老下条九兵衛が謀叛《むほん》を企て、二月六日に伊豆守を追い出し、岩村口から河尻《かわじり》与兵衛|秀隆《ひでたか》の兵を引き入れ、信長の味方に加わった。  この急戦に、早くも武田勢の属将に背叛の挙に出る者が現れる。武田諸勢の頽勢《たいせい》は覆うべくもない。  一方、信長は、正月以来征討中の紀州|雑賀《さいか》の作戦行動を急がせた。三日から八日にかけて信長の機動軍団と各兵団は阿修羅《あしゆら》の如く荒れ狂い、所在の城砦を片端から攻め陥《おと》し、雑賀党の首領|土橋《つちばし》平次が立て籠る城砦を木端微塵《こつぱみじん》に粉砕し、脱出を図る残党を追撃して討ち取った。  ——やれば出来る。やれぬのは目的意識の把握不足と、不退転の信念が欠如していた所為《せい》だ。  信長の明確な意図——明日は宿願の甲斐武田を討滅する——が伝播《でんぱ》すると、全軍が奮起した。 「こたびの戦、二度あらじ」  信長は、対武田戦を前に、全軍にその意志を布令《ふれ》た。  二月九日、紀州雑賀を征討した信長の機動軍団は、戦捷《せんしよう》を祝う暇なく、全軍方向を転じ、東美濃へ急行した。得意の電撃機動である。  信長は、三日以来、紀州雑賀に行動中の軍団の転進に、抜かりなく後方支援の手を打った。即ち大和・伊勢・尾張に、武器・矢弾《やだま》・糧秣《りようまつ》・衣類等々を蓄積して、軍団の補給を行った。  二月九日、信長は信州進攻に当り、指令を発した。  一、信長出馬に就いては、大和の兵出動に当り、筒井|順慶《じゆんけい》統率の事。但《ただ》し高野山方面の諸将は居残り、金剛峰寺《こんごうぶじ》の僧兵に備え、吉野口の警固を命ずる。  一、河内《かわち》の同盟諸将は、高野、雑賀表を警固の事。  一、和泉《いずみ》一国の軍勢は、紀州方面の防備に当る事。  一、三好康長は、四国に出陣の事。  一、摂津国は池田|恒興《つねおき》が留守居し、子の元助《もとすけ》・輝政《てるまさ》、出陣すべき事。  一、上山城の衆は、出陣用意の事。  一、中川瀬兵衛と多田《ただ》は出陣。  一、藤吉郎(秀吉)は中国一円に宛置《あてお》く事。  一、細川藤孝は、丹後の警固、出陣はその子の与一郎(忠興《ただおき》)と一色五郎義有《いつしきごろうよしあり》の事。  一、惟任(明智)光秀は、出陣用意。  信長の周到な準備がうかがえる。尚、追而書《おつてがき》がある。今度の戦は遠国であるから、人数は少な目でよい。在陣中、兵糧尽きざるよう配慮すべし。但し、兵数を多く見せかけるよう、力を尽せ、というのが要旨である。  この指令書で注目に値するのは、秀吉を播州に残し、光秀を参陣させたことであろう。中国戦線の重要性もあって秀吉を残したのであろうが、光秀を丹波から抜き、細川藤孝にその後を預けたのは、どうあっても光秀に武田討滅と、その領国処分を直接見せておきたかったからに違いない。  信長は、この時期、光秀の使いように格別の配慮があったように感じられる。  二月十二日から十四日にかけて、三位中将信忠は、おもむろに軍を木曾路に進めた。緩慢とも見える動きである。信忠は信長の来陣を待ったに違いない。  早くも信州松尾城主小笠原|掃部《かもん》大輔が帰服を申し出た。妻籠《つまご》口の団平八忠直・森勝蔵|長可《ながよし》が先陣として先駆けし、木曾峠を越え梨子野《なしこの》峠に至ると、小笠原勢は各所に煙火をあげて降伏の意を表した。  それを遠望した伊奈|飯田《いいだ》城の坂西《ばんざい》・星名《ほしな》(保科)弾正の勢は士気沮喪して、城を捨てて退去した。  武田勢の戦意喪失は覆うべくもない。殊に甲斐にとっては辺境に当る木曾・伊奈方面には、その兆候が著しい。信長にとっては、待った甲斐があった、と言うべきであろう。  信長は、長篠の合戦に勝利して以来、直接境を接する東美濃と木曾路一円にかけては、�侵《おか》さず、侵されざる�静謐《せいひつ》・安穏の状態を堅持し、敵の安逸を誘い、倦怠《けんたい》を待った。  ——年若で、性急・好戦の勝頼に、武田軍団の厭戦《えんせん》気分の蔓延《まんえん》を待つ。  信長は、滅びゆく老大国の掉尾《とうび》の勇によって、自軍の貴重な戦力が消耗するのを避けたかったのである。  ——信州木曾口に異変。織田信長の軍勢、侵攻開始。  急報は、勝頼が最近構えた甲斐新府城に到来した。  続いての凶報が相次いだ。  ——木曾義昌、離反。信長方に寝返り、侵攻の先鋒を務める模様。  信州木曾の領主木曾義昌の背叛は、武田方の人々を驚かせた。義昌は故主信玄の信頼|篤《あつ》く、その娘を妻に迎えるほどの間柄であった。  ——木曾殿が裏切るようでは、世も末か。  人々が戦に先立ち、暗澹《あんたん》の気分に閉されたのは、言う迄もない。  ——小笠原掃部大輔|信嶺《のぶみね》、信長方に降る。松尾城(現・飯田市)無血開城。  小笠原十郎三郎信嶺は、これまた信玄から諱《いみな》の一字を下賜《かし》されるほどに信頼された。信玄在世の頃なら、離反など思いも寄らなかったであろう。  勝頼の新府城に木曾義昌背叛の情報が入ったのは早い。二月二日、信忠とほぼ同時に知った。  勝頼は、直ちに動員を令した。�疾《と》きこと風の如く�と信玄譲りの風林火山の旗幟《きし》にある。勝頼はとりあえず手許の兵力一万を率いて西に向った。  急の知らせに集まる軍勢は、予想外に少なかった。五千余である。総勢一万五千余の兵力を擁した勝頼は、諏訪に到着すると本陣を構え、侍大将|今福《いまふく》筑前守|昌和《まさかず》に兵三千を与え、木曾街道|奈良井《ならい》の手前、鳥居《とりい》峠に進出させた。  信長方の先鋒は、木曾義昌の兵に遠山久兵衛父子の勢が加わって、奈良井坂を駆け登り、はしなくも武田方今福勢と占拠争いとなった。  鳥居峠の戦は、信長方の勝利となった。今福勢は跡部治部丞《あとべじぶのじよう》、有賀備後守、笠井某、笠原某など、かつての武田二十四将の跡目を嗣《つ》ぐ若者が戦死を遂げ、将の首四十余を敵に授けた。  この時、加勢に駆けつけた信忠直参の士は、織田源五郎|長益《ながます》(後の有楽斎《うらくさい》)・同赤千代|信正《のぶまさ》・同孫十郎|信次《のぶつぐ》・稲葉彦六|貞通《さだみち》・梶原平次郎|景久《かげひさ》など二十余人。その過半は二十代の匂い立つ若武者であった、という。  鳥居峠を失って後退する今福筑前守に代って、武田の名門馬場美濃守|昌房《まさふさ》が、深志《ふかし》城(現・松本市)に立て籠り、鳥居峠の信長方と向き合って対陣した。  三位中将信忠の軍勢は、木曾路より伊奈に進出した。木曾谷、伊奈谷の嶮路《けんろ》と山なみは散発的に抵抗する所在の武田方土豪以上の難敵であった。大軍を進める信忠にとって、兵糧補給は難渋を極めた。  武田勢の反攻は、驚くほど微弱だった。それと言うのも勝頼治世の九年間、戦に次ぐ戦に軍費は涸渇《こかつ》し、領民に対する苛斂誅求《かれんちゆうきゆう》は年毎に厳しく、加えて内政に無関心の勝頼に乗じて、下級官吏は腐敗し、汚職・涜職《とくしよく》が横行して、領民の怨嗟《えんさ》は頂点に達していた。  伊奈方面の武田諸将は、思いもかけぬ住民の叛乱に周章|狼狽《ろうばい》した。住民は己れの家に火をかけて焼き払い、信長方へ走った。  ——どうか、織田様の領民にお加え下され。  伊奈に進攻した信忠には、武田諸勢の動向が手にとるようにわかる。それにひきかえ甲州から迎撃に駆けつけた武田方は、諜報活動が閉された上に、糧秣に事欠き、宿泊する農家も無い。士気が沮喪した。  ——これが、亡国の兆《きざ》しか。  本国甲斐で徴用された軍兵は浮足立った。逃亡兵が続出した。  信州防衛に出動した武田勢は、戦わずして衰弱しつつあった。  甲斐進攻に当り、駿河口を一手に委されたのは、同盟者の徳川家康である。  家康が、駿河領有を望んでから久しい。  三河岡崎で自立を果した家康は、今川氏の衰亡に乗じて、三河一国、遠江《とおとうみ》と進攻を果したが、同じ時期、武田氏は甲斐より南下、先に駿河を手中に納めると、上洛を企図して更に遠江を窺《うかが》った。  相手は梟雄《きようゆう》武田信玄が率いる堅剛武田軍団である。新興の徳川勢は懸命に防衛に努めたが、駿河に進攻する程の力を持たなかった。  家康には、駿河について格別の思いがあった。幼少の頃から青年期の初めまで、人質として苦艱《くかん》を嘗《な》めた。その思い出の地である。  ——苦難の思い出を、領有によって晴らしたい。  家康のその思いを、信長は汲《く》みとっていた。 「三河殿は、駿河口より甲斐に討入るように」  その信長の指令が発せられる以前から、家康は武田工作に着手していた。  武田家の駿河探題は、穴山梅雪《あなやまばいせつ》という者である。  梅雪、穴山|信君《のぶきみ》は信玄の甥、妻は信玄の娘で、二重の縁に結ばれた最高の親族であり、家臣団の筆頭に位する。領分は富士川流域一円の枢要の地で、信玄在世の頃は重要な戦に悉《ことごと》く参陣し、領国政治にも参与した。  それが、勝頼の代になると、様相が一変した。信玄の威名をおのれに代えるに急な勝頼は、各方面に戦を起す傍ら、領国独裁支配を図り、枢要の地を領分として譲らず、加えて駿河一国を支配する梅雪と不仲になり、その確執は表面化するに至った。  家康は、その間隙《かんげき》に乗じて調略工作を倦《う》まず続けた。その末の甲斐進攻指令である。  家康は、信長に進言して、穴山梅雪の寝返りの承認を得た。 「甲斐における梅雪の領分を安堵する」  梅雪の武田家背叛は、それで決定した。  武田家は、外に戦を繰り返し堅固を誇るかのようであったが、内情は四分五裂しかけていた。  諏訪にいる勝頼の陣中で軍議が紛糾している頃、武田方の名だたる将領の無惨な醜態が白日の下に曝《さら》されていた。  信玄の弟で、勝頼の叔父に当る武田|逍遥軒信廉《しようようけんのぶかど》が、勝手に陣を引き払い、はやばやと府中(甲府)へ退却してしまった。伊奈を領する逍遥軒は、真っ先に織田の総大将信忠に立ち向う筈の重臣であった。  また、信玄の甥で勝頼の従弟にあたる武田|典厩信豊《てんきゆうのぶとよ》も、病と称して、五度のうち三度は軍議を欠席した。  穴山梅雪の寝返りなど、まだましであったのかも知れない。彼の離反は、嫡子勝千代を、勝頼が婿にしなかったことを恨んでいたためであった。梅雪の正室は信玄の娘であり、従って勝千代は信玄の孫に当る。  しかも家康は、調略とは思えぬ真摯な態度で、礼を尽くして熱心に説得した。  もちろん武田勢の一画を崩し、甲斐進攻を滞りなく進めたいという思いはあった。戦後の処理を容易にしようという魂胆もあった。だが、どうもそれだけではなかったようである。  家康は、長年の宿敵であった武田信玄という武将に、格別の思いを抱いていた。それは、憧憬という感情に近いものであった。その信玄の武田家をこれから滅ぼそうとしている。 「武田の行跡《こうせき》を残したい……」  最後の決戦を前に、実利とは別の純粋な思いが、家康の心中に澎湃《ほうはい》と湧き起こった。その表れが、信玄に相貌が似ているという梅雪への異様なこだわりであった。光秀が「唐崎の松」に示した執着のごときものであったかもしれない。  家康は勝頼滅亡後も、熱心に梅雪の面倒を見た。信長から安土に招待された時も、徳川の重臣と共に、この梅雪を同道したほどだ。  家康の熱意にほだされた梅雪は、苛烈な信長に降るより、家康を頼った方がましだと考えた。そう決心してしまうと、行動は早い。二月二十五日、甲府で人質となっている妻子を、雨の夜に紛れて奪い返した。 「穴山逆心」との知らせを受け取った勝頼の諏訪本陣では、典厩信豊をはじめ多くの将士が陣を引き払い、新府の館に撤収してしまった。勝頼自身も、旗本があらかた逃散してしまったので、やむなく千人ばかりを引き連れ、新府の館に籠るしかなかった。  昔日の強兵ぶりは見る影もない武田軍団にあって、ただ一人勇名を馳せ、万丈の気を吐いたのは、勝頼の弟、仁科《にしな》五郎|盛信《もりのぶ》であった。  信玄の五男盛信は、長く繁栄した信州仁科荘(現・長野県大町市)の仁科氏が信玄に滅ぼされたあと、その名跡を継いだ。  信玄の死後、兄勝頼をよく助け、天正七年、伊奈郡|高遠《たかとお》城主となった盛信は、三月初め、信忠の二万数千の大軍を迎え、わずか数百の城兵をもって頑強な抵抗を試み、奮戦力闘の末、城兵と共に壮烈な討死を遂げた。その際、家臣の諏訪勝右衛門の妻女は、自ら髪を切り、甲冑《かつちゆう》に身を固め、馬上|薙刀《なぎなた》をふるって群がる敵を薙ぎ倒し、十重二十重《とえはたえ》の包囲の中で華と散った。  信長に代って主力軍の指揮をとる信忠は、進攻に先立ち、武田一族を抹殺するよう厳命をうけていた。  信長の非情の命令には、すでにある種の予兆・予感があったに違いない。  ——人間五十年、下天のうちを比ぶれば、夢まぼろしの如くなり。  信長は、この年の正月、数え年四十九を迎えた。正確にあと一年と言わぬまでも、まず二、三年。長くて五年のうちに死を迎えるだろう。  ——壮絶な死でありたい。  美意識の強烈な信長は、そういう詩的願望に取りつかれていたに違いない。  それとともに——ひどく俗な概念に囚《とら》われていた。それは死後の混乱の根絶である。  ——旧勢力の復活を許すな。  わけても武田は、信長にとって生涯の大敵であった。東に信玄とその武田軍団という敵が存在しなかったら、信長の理想への途《みち》は早く達成し得たであろう。  ——おれの後継者に、その轍《てつ》を踏ませたくない。  その思いが、信長の最後の戦となる甲州征討において非情な命令となった。  信忠は——信長の命令に対する忠実な遵奉《じゆんぽう》者であった。それ以下でもなく以上でもない。それが信忠の器量であったと言える。  信忠は、誠実にその命令を履行した。  武田一門の居城・居館は平地となるまで毀却《ききやく》され、親類、家老なども捜し出され、悉《ことごと》く成敗された。  信忠の主力軍が甲信国境を越え、武田の本領に雪崩《なだ》れこんでも、信長はまだ動かず、安土にとどまっていた。  一方で家康は、穴山梅雪を案内に、甲斐へ乱入した。  三河岡崎で自立して以来、駿河今川という途方もない大勢力に怯《おび》え続けた。今川に靡《なび》くわけにはいかない。靡けば併呑《へいどん》されてしまう。そのため西の隣国、尾張の信長と攻守同盟を結び、その機嫌をとる事に終始した。  その、抜くべからざる大勢力、と思われた今川を、一挙に覆滅したのが甲斐の武田信玄である。信玄は功利をもって家康を誘った。駿河と遠江を互いに分け取りにしよう、と。  分け取りを果してみると、信玄は今川などが及びもつかぬ強さの勢力であることがわかった。  信玄は、駿河の西方、上洛への道になみなみならぬ野望を持っていた。家康は領国を奪われぬため、必死懸命に戦わなければならなかった。  信玄と、その軍団の強さは言語に絶した。おそらく、この時期、わが国で最強の戦力であった、と言えよう。  家康は、十余年武田軍団と戦ううち、その脅威のなかで、畏敬《いけい》を持った。  ——おれの軍勢も、武田軍団の如くありたい。  それは、果せぬ夢のようであった。  ところが、思いもかけぬ武田の滅びが到来した。  ——これぞ天の恵み。  家康は、信玄の遺した精強な甲州兵をわがものにしたいと考えた。武田信玄に対する憧憬を満たすと同時に、自らの兵団を強化するという実利もあった。  そのため、帰順を申し出る甲州侍を助命し、悦んで扶持《ふち》を与えた。  家康の武田軍団に対する思い入れは徹底しており、後に徳川勢の具足を武田と同じ色揃えにしたほどであった。 [#改ページ]   死生命《しせいめい》あり  諏訪《すわ》の武田勢を殲滅《せんめつ》し、高島城を跡形もなく毀却《ききやく》した信忠《のぶただ》の本軍は、一路南下を開始した。目指すは甲州、新府《しんぷ》の城、勝頼《かつより》の本営である。  同じ日三月三日、勝頼は一戦も交えることなく新府の城館に火を放ち、落去した。呆気《あつけ》ない落城であった。戦略上の放棄ではない。防衛の軍勢が集まらなかったのである。動員兵力四万を呼号した武田軍団は、あるじと戴く勝頼の命令が下る前に逃竄《とうざん》流亡し、新府の城に集った兵は一千に満たなかった。 「何故だ」  勝頼は、そう叫びたかったに違いない。近年わが国の企業において、そういう事態が散見する。企業の長が取締役会で突然解任される。好況の時には有り得ない。不況のさなかに起る謀叛《むほん》・離反である。  何故か、と思うのは、当人の不覚である。長たる者は常に事態に対処するおのれの施策に、最悪の結果を覚悟しておかなければならない。楽観より悲観を予測しないのは愚か者の施策である。それと同時に、人心の掌握に欠けるところが無いかの反省がない。  このような長の通弊は、身近に阿諛《あゆ》迎合の茶坊主をおいて、その追従《ついしよう》に酔う愚かさである。  勝頼の側近に、小山田信茂《おやまだのぶしげ》という佞姦《ねいかん》の者があり、勝頼の信を一身に集めていた。武田の一門・一族が勝頼を見限った一因は、勝頼が小山田信茂以外の進言は悉《ことごと》く退けるという癖があったため、と言われる。  武田家の命運が決したこの新府城焼亡の時、今後を如何《いか》にすべきかの論議が紛糾した。信長の仮借《かしやく》なき追撃は急である。亡国の臣は頼み難い。武田家の血脈を伝え残すのは、この論議の決にかかっていた。  離反する者相次ぎ、この武田氏最後の軍議に参集した家臣は、寥々《りようりよう》たる有様であった。  その中に、上州沼田の城主真田|昌幸《まさゆき》がいた。  真田氏の出自は分明でない。鎌倉初期に御家人であった海野幸氏《うんのゆきうじ》の孫、幸春《ゆきはる》が真田七郎と称している。おそらくは海野氏の所領、信州|小県郡《ちいさがたごおり》真田庄の地名を称したのが始まりではなかろうか。  戦国大名としての真田氏は、幸隆《ゆきたか》(昌幸の父)に始まる。幸隆は海野|棟綱《むねつな》の子で、海野氏の惣領職《そうりようしよく》(本家)を継ぎ、真田氏を称したという。だが、何で海野姓を棄てたかが明確でない。これは推量の域を出ないが、海野氏の分家筋で、真田七郎と名乗った幸春の子孫である幸隆が、惣領職の棟綱の婿として入り、真田姓をそのまま称したものではなかろうか。  天文十年(一五四一)、甲斐《かい》の武田|信虎《のぶとら》(信玄の父)は、信州に侵攻、海野平の合戦で鎌倉時代から続く名門海野氏を撃破、棟綱は上州に蒙塵《もうじん》した。この年武田信虎とその子|晴信《はるのぶ》(信玄)の間に紛争が起り、信虎は追われて駿河《するが》に逃竄、甲斐は晴信の占めるところとなった。  翌天文十一年から父信虎に代って信州に侵攻した晴信は、数年後に上州の小幡《おばた》氏、越後の大熊氏とともに真田幸隆を取り立て、村上氏の支配下にあった真田氏本領の回復を着々と進めさせた。  幸隆の帰属とともに、三男昌幸、四男|信昌《のぶまさ》は甲州への人質とされたが、彼らはそのまま晴信の旗本に取り立てられ、以後、武田家一筋に仕えた。  元亀《げんき》四年、信玄が歿《ぼつ》し、勝頼が跡目を継ぐ。一年後、幸隆が死去して真田家は嫡男|信綱《のぶつな》が継ぐが、信綱は翌天正三年、長篠《ながしの》の合戦で戦死、次弟|昌輝《まさてる》も戦死したため、跡目は昌幸が継いだ。  昌幸は、小県郡及び上州沼田の所領経営に当るうち、図らずも武田勝頼の衰亡に直面し、かつて厚恩をうけた信玄への報恩を志した。  上州沼田城は小城だが、越後の上杉、相模《さがみ》の北条の角逐の的となっている要衝である。両者を操れば武田家再興の基盤たり得ると進言した。  それに反対したのは、勝頼の寵臣《ちようしん》小山田信茂であった。彼はおのれの持城である甲州|岩殿《いわどの》城(現・大月市)に避退するよう誘った。  勝頼は、一途に信茂の忠誠心を信じ、それに従った。  三月三日早朝、勝頼は新府の館に火を放ち、戦わずして岩殿へと落ちて行った。  三月五日、信長はようやく安土《あづち》城を進発した。帯同したのは明智光秀と、その兵団である。  信長が、かなり余裕を持っての出陣であったことは、茶の相手として千宗易《せんのそうえき》を伴い、また当人の観戦致したしの希望を容《い》れて、前《さきの》関白|近衛前久《このえさきひさ》の参陣を許したことでもうかがえる。  信長の移動は、悠々閑々《ゆうゆうかんかん》たるものであった。  六日 岐阜に入る。  七日 降雨のため、岐阜に滞在。  八日 岐阜より犬山へお成り。  九日 兼山《かねやま》泊。  十日 高野《こうの》に陣を取る。  十一日 岩村に着陣。  その日、甲州では、滝川左近|一益《かずます》が、重大な諜報《ちようほう》を得た。武田四郎父子(勝頼と嫡子|信勝《のぶかつ》)・簾中《れんちゆう》(夫人)・一門の人々が駒飼《こまかい》の山中に引き籠《こも》っているというのである。  直ちに諜者を派して確かめたところ、三日に新府城を落去した勝頼は、甲府をよそ目に見て勝沼に至り、小山田信茂を頼みにして山中に分け入り、駒飼という山家に着いたという。  ところが、居城岩殿城に誘引した小山田信茂は、信忠本軍の追撃急なることを知った。そこで保身のため勝頼を見限り、守護しがたい旨を申し伝え、冷酷にも突き放した。  勝頼一行は、ハタと当惑した。新府城か甲府にあればまだしも、一切を捨てて落去・逃竄の身となっては、為《な》す術《すべ》が無い。万策尽き果てた感があった。  新府を出立した時は、士卒五、六百はいたものが、行旅の途中で脱落する者相次ぎ、今また落ち行く目当ても尽きたと知ると、殆《ほとん》どが姿をくらまし、去り難い縁を持つ者わずか四十余人となり果てた。  もう移動する事も出来ぬと知って、勝頼と一行の者は、田野《たの》という片田舎の平屋敷に応急の柵をめぐらし、陣所と定めた。勝頼の周辺に寄り集うのは、数多くの女房たちとその侍女ばかり。それらが勝頼一人を頼りに居並ぶ。勝頼は腸《はらわた》も千切れる思いであったに違いない。来し方を思えば悔ゆる事、山ほどもあったであろう。だが天を恨み他人を咎《とが》めても詮なき事であり、今は無明長夜《むみようぢようや》の闇に踏み迷い、思い乱るるばかりであった。  滝川勢が屋敷を取囲むと勝頼は、一門の女房・子供を次々と刺殺し、武者は打って出て、残らず討死した。勝頼の自刃《じじん》を見届けた嫡子信勝は、奮戦して斬り死し、十六歳を一期《いちご》に花と散った。  勝頼父子の首級が信長の許に届けられたのは、三月十四日、浪合《なみあい》に入った日であった。  信長は、十八日、高遠《たかとお》城に陣を移し、更に十九日には上諏訪の法華寺《ほつけじ》(法花寺)に陣を据えた。  本陣近くに陣をとったのは、織田七兵衛|信澄《のぶずみ》と側近の菅屋《すがや》九右衛門、堀久太郎、長谷川|秀一《ひでかず》、蒲生《がもう》忠三郎(氏郷《うじさと》)、細川|忠興《ただおき》、池田|元助《もとすけ》(恒興《つねおき》の子)ら、それに高山|右近《うこん》、中川|瀬兵衛《せへえ》(清秀)、筒井|順慶《じゆんけい》ら外様の大名勢、惟住《これずみ》(丹羽)長秀、明智光秀ら兵団の長であった。  この法華寺滞陣中に、重要な挿話が生れた。 「諏訪郡のうちは、みな上様の兵だ」  信長の本陣を訪れていた光秀は、女婿の織田信澄に言った。 「雪崩《なだれ》を打って帰服したようです」  信澄は信長の弟|信行《のぶゆき》の子、近江大溝《おうみおおみぞ》城主である。天正二年、信長の仲立で光秀の娘を娶《めと》った。いつもは、信長の三男|信孝《のぶたか》の兵団に属しているので、光秀とは久しぶりの対面であった。  諏訪は勝頼の母方諏訪一族の地である。しかも、佐久郡、伊奈郡と共に、信玄が最も早い時期に攻略した、いわば甲州に次ぐ武田の故地であった。だが、時勢の変転によって武田家は滅び、宿敵信長の進駐を見た。すると、人々は争って信長に靡《なび》いた。 「われらも年ごろ骨折った甲斐があってこそ、かような目出度《めでた》きことにあう。冥加《みようが》な事よ」  光秀が、誰にともなく独り言《ご》ちた感懐を、信長が耳にした。  光秀の言うことは尤《もつと》もである。武田攻めの成果は、今甲信二州に攻め入った軍勢だけの功績ではない。越前《えちぜん》で戦う柴田勝家、丹波《たんば》を平定した光秀、播州《ばんしゆう》から備前《びぜん》・備中《びつちゆう》に攻め入った秀吉ら、信長全軍が、兵力不足に耐えて武田戦に協力した無限の努力に依る。  信長は、瞬間に理解した。だが次の一瞬に別の閃《ひらめ》きが脳裏に走った。光秀を帯同したのは単なる護衛のためではない。間もなく訪れるであろうおのれの終末に、後事を彼に托《たく》そうという思いであった。言葉が口を吐《つ》いた。 「光秀」  光秀は振り向いて信長に気付くと一礼した。別に聞かれて悪い事を言っていない。  だが、信長の考えは違っていた。論功行賞は主将の専管事項である。  にも拘《かかわ》らず、部下はそれを私語する。主将は厳しく取り締らなくてはならない。それを——将来、主将となる身が——部下の分際で禁を破ったら、示しがつかなくなる。例えば戦って勝利を得たとき、間接的に協力した他の戦場の将にも賞を与えなくてはならない。  そうなると、部下は無限大に肥えふとる。  信長は、褒賞を与えるのに、吝嗇《りんしよく》ではなかった。だが傍《はた》から見ると吝嗇に見え、そう評されている。  ——おれは、物惜しみしているのではないのだ。  部下が肥えふとるのを懼《おそ》れている訳ではない。  彼は、おのれがひそかに目指す理想社会——戦国の世が治まった新しい秩序——の下に、巨大な領土を持つ戦国大名の存在を考えていない。  ——軍事力と財政は、中央統一政権が管掌する。軍事行動が必要な時は、軍務担当官に所要の兵力を貸与して、事に当らせる。褒賞は財貨で与え、領土・封禄《ほうろく》をふやすことはしない。  そういう制度には、戦国大名はこぞって不満を抱くであろう。それは武将大名の既得権の侵害だと。  ——その旧態依然たる既得権こそ、打破しなければならない。そうでないと新しい秩序、新しい世の中はできない。  信長の、既得権打破の思想は、そこにまで到達していた。 「今、何と申した」  信長の眼は、冷たく光っていた。 「は……」 「うぬは、間違っておる。功を論ずる事と、賞を与える事は、主君たるおれの専管だ。汝《なんじ》はそれを犯した」 「…………」  光秀は、みるみる蒼《あお》ざめた。信長の論は間違っていない。  信長は、手にした蝙蝠《かわほり》扇で、光秀の禿《は》げ上がった頭頂部を丁々と打った。無論叩いたのではない。形式的な懲罰である。 「謹《つつし》め。うぬは近頃増長気味だぞ」  光秀は、慌てて平伏した。  ——これは、愛の鞭《むち》だ。  主従ともに、そう感じたに違いない。  だが、傍らで呆然《ぼうぜん》と見た織田信澄は、畏怖《いふ》した。彼には信長を畏怖する訳があった。  信澄の父、信行は、信長の実弟でありながら、信長と相容れぬ不仲の母に使嗾《しそう》され、家督を争って背叛し、信長に誅殺《ちゆうさつ》された。その記憶が終生つきまとった。  だが信長は、当時幼な児であった信澄を敵視しようとはせず、一門の者として取り扱い、側近から取り立てて近江に所領を与え、大溝城の主とした。  ——おれの子、信雄《のぶかつ》や信孝の支えになるやも知れぬ。家臣扱いに不満がなければ、一門|連枝《れんし》として目をかけてやろう。  信長の寛容は信澄に伝わらず、信澄は終始懐疑的であった。  ——信長公は古き怨恨を忘れぬ。林佐渡、佐久間信盛と同様、いつ追放されるやも図り知れぬ。  その怯《おび》えが、このささやかな挿話を誇大に曲げて伝えさせた。 「惟任《これとう》(明智)殿は、信長公に大層な叱責を受けた。些細《ささい》な感懐を聞き咎めた信長公は、惟任殿の首筋を掴《つか》んで高欄にその頭を擦りつけ、さんざんに打擲《ちようちやく》した」  そうした噂話が、真実の証明もなく、四百年以上も史実として伝わるには訳がある。  この時点から数ヵ月後、信長は突然不慮の事態に遭遇し、忽然《こつぜん》とこの世を去る。討ったのは光秀である。  信の置ける史料は、信長の光秀に対する抜群の厚遇と信頼を伝えている。光秀が信長に背く転位は、いつ、どのようなきっかけで起ったか、一切が不明である。  当時の世人や、後世の歴史家は、こぞってその叛逆の原因を探究した。だが納得するに足る解答は遂に得られず、今日に至っている。  こういう場合、横行するのは俗説である。  天才の事績は理解し難い。時に卑俗に解釈する。奇矯《ききよう》、と称《とな》えるのはまだましな方で、狂気じみた発作とか、魔にとりつかれた狂気とか称えて、納得しようとする。信長が強行した虐殺や殲滅《せんめつ》をそうした表現で一括始末する。  確かに、叡山《えいざん》の焼打や長島一向一揆の結着には、そうした事実があったであろう。それには百数十年、日夜戦乱に明け暮れた時代相というものもあれば、王法と仏法が鎬《しのぎ》を削った一種の宗教戦争の様態もあった。虐殺・殲滅は信長だけがやったわけではない。日本国中の戦乱で数多く見られた現象である。ただ信長だけが、突出した成果を世に残した事や、天下統一の大業を進めた事、更には時代変革を企図し、短い年月に強引に推進したため、後世に悪名を残した。  大方は、信長の天才的行動を、殊更《ことさら》にあげつらった。諏訪法華寺の挿話もその類《たぐい》である。話の曲解が卑俗で、取るに足りない。  繰り返して言う。この時代は仏教で言う「一殺多生《いつせつたしよう》」の時代であった。そうでなければ戦の結着がつかぬ時代であった。平和の時代に殺伐と譏《そし》ることは容易《たやす》い。  甲州攻めでも信長は、諏訪大社を焼き、武田家の菩提寺恵林寺《ぼだいじえりんじ》を焼いた。  とくに、夢窓国師《むそうこくし》が開いた名刹《めいさつ》恵林寺は、武田方の残党を匿《かくま》ったため、長老の快川《かいせん》国師以下、百五十余人の僧侶もろとも焼却された。  安禅、必ずしも山水を須《もち》いず  心頭滅却すれば、火も自《おのず》から涼し  この時、快川が猛火の中で唱えたとされる、最後の偈《げ》である。  恐らく信長はこう言いたかったのであろう。 「恵林寺は武田家の菩提寺として、累代多額の寄進を得て今日の大寺となった。それには格別の仏果・功徳《くどく》ありと言い暮したに違いない。それが一朝にして惨たる滅亡となった。どこに仏果なり功徳があったか。その詐言を恥ることなく、新たな支配者に楯突くことで寺の威厳を示そうとする。その陋劣《ろうれつ》万死に値する」  ——あまりにも酷すぎる。  光秀はそう思ったが、その常識的な考え方が凡庸なのである。革命という非常の行動は、生ぬるい考え方では達成できるものではない。  玉石ともに砕く。  それゆえに、革命は非常手段であり、生半可な考え方は通用しない。また軽々に決行すべきものではない。国家と民族がそれしか生存の道がないという時以外は、厳につつしむべきものなのである。信長はまさにその時に直面していた。  珍しく、信長が詠《よ》んだという狂歌が残っている。  勝頼と名乗る武田の甲斐もなく    いくさに敗けてしなのなければ  信玄以来、強敵であり続けた武田家の討滅に、信長が得た喜悦のほどがうかがえる。  信長は、家康に対しては、格別の思いがあった。永禄五年(一五六二)、織徳《しよくとく》同盟を結んで以来二十年、家康は常に忠実な同盟者であり続けた。戦国時代、これほどゆるぎなく守り続けられた同盟は、他に例を見ない。  信長にとって織徳同盟は、東方より常に威迫する強大国、甲斐武田への備えであった。最盛期の武田は織田・徳川が束になって戦っても、到底勝てる相手ではなかった。それを家康は、支えきったのである。  しかもその間、信長は欲するままに家康の軍勢を抽出して、おのれの用に当てた。越前朝倉攻め、姉川の合戦、湖南回廊の打通《だつう》と、挙げればきりのない程であった。家康はよくその要求に応え、時に死力を尽して信長のために戦った。武田への通謀の疑いがかかると、妻と嫡子を犠牲に供するほどの律儀を示した。  二十年、脅威の武田が遂に滅んだ。  ——家康には、充分報いてやらずばなるまい。たとえ、少々は理想を曲げても已《や》むを得ぬ……と、信長は思ったに違いない。  十九日、甲斐市川を出て、二十日信長の諏訪法華寺の本陣に出仕した家康は、戦捷《せんしよう》祝賀を言上した。 「こたび早速に本意を達したること、先年長篠において甲信武田勢を討ち果したるゆえなり、共に慶賀に堪えず。そこもとには駿河一国を賦与《ふよ》し参らす」  と、信長は告げた。  領国を与えることは、戦国大名の存続につながる。大名制度の廃止を考える信長にとっては多大の譲歩である。  ——だが……家康に与える褒賞は、これしか無い。  家康の灼《や》けるような熱望、駿河一国領有は已むを得ぬ事であろう。  ——家康一代は、別格として扱う。  信長は、新秩序の構想を、そう変えていた。  同日、家康の仲立で、穴山梅雪《あなやまばいせつ》が伺候した。  家康は、梅雪寝返りの条件、本領|安堵《あんど》を信長に認めさせるため、いろいろと気を遣った。家康の忠告に従い、梅雪は臣従の証として、信長好みの馬を贈った。  信長は凝った細工を施した脇差を与え、叔父であり岳父でもある信玄に似ているという梅雪の容貌を無遠慮に眺めた。 「この脇差、その方によく似合う。……甲斐|巨摩郡《こまごおり》の本領、しかと安堵しよう」  信長は、甲州の人心収攬を顧慮し、家康の願いを聞き入れてやった。  翌三月二十一日、小田原北条|氏政《うじまさ》の使者が諏訪に来着した。端山大膳大夫《はやまだいぜんのだいぶ》という。氏政よりの戦捷祝賀の口上あり、坂東産の馬二十頭、江川の酒、白鳥など、いろいろ進上した。執次は滝川左近一益である。  信長に喜悦の色はなく、さりとて往年のように、「気に入らず」と突き返すほどの気概も示さず、無言のまま受け取った。  ——氏政は、噂に違《たが》わぬ凡庸だな。  氏政と勝頼は、この十年の間の前半は固く同盟し、氏政の妹が勝頼の正室となっていた。  過ぐる天正六年、越後の上杉謙信が死去すると、跡目争いが起った。謙信は生涯不犯のため、実子がない。養子は二人、北条氏政の弟で、人質から養子とした三郎|景虎《かげとら》と、長尾|政景《まさかげ》の二男で謙信の甥に当る景勝《かげかつ》である。勝頼は初め氏政の弟の景虎を推したが、軍資金の提供や領地の割譲などで条件が折合わず、結局景勝についた。  そのため、北条氏との関係が悪化し、氏政は東駿河や西|上野《こうずけ》に出兵し、度々戦火をまじえた。  ——勝頼も愚昧《ぐまい》だが、氏政も陋劣である。争って何の得がある。  今回の信長の甲州攻めで、氏政は信長の説得に応じ、協調の立場をとった。さりとて積極的に甲州へ攻め入る事はしない。ただ勝頼を見捨てるにとどまった。結果、勝頼は身を寄せるところを失い、甲州|塩山《えんざん》の近く田野の地で自尽し果てた。氏政の妹である正室も、夫に殉じて自害した。  その氏政が、戦捷祝賀の使者を送る。いつかは戦わなければならない信長の許へである。戦略上からみても、妹への愛情からみても、敗残の勝頼は保護すべきであろう。それを見捨てて、恬《てん》として省みない。  ——名門の子、というのは、度し難い。  信長は、すでに氏政を見限っていた。彼の関心は端山という北条の使者より、執次の滝川一益に注がれていた。  ——豪勇で聞えた左近一益も年とったものだ。  近江浪人の一益は、信長が美濃《みの》攻めを企図していた頃、傭兵から取り立てられ、兵団の指揮を委《まか》された。伊勢《いせ》平定に活躍し、柴田勝家・丹羽長秀ら重臣に次ぐ地位を占めた。  その後、明智光秀・羽柴秀吉の台頭によってその威名はとみにおとろえ、第二級の兵団長として大和・摂津・河内《かわち》・紀州の戦場を転々とし、際立つ戦功を挙げていない。  信長は今回の甲州入りに、信忠本軍に加えた。だが甲州武田勢は意外なほど脆《もろ》く、一益の戦功は、流竄《るざん》の勝頼の首級を獲《と》ったに過ぎない。  三月二十三日、信長は滝川一益に沙汰《さた》を下した。上野《こうずけ》国ならびに信州の内二郡を与えた。 「その方も年をとり、遠国に遣わす事、心痛むが、関東一円の平定を申し付ける。以後関東|管領《かんれい》として励め」  信長にしては、例のない感傷である。これも何かの予兆か。  三月二十八日、甲州平定を終えた三位《さんみ》中将信忠は、戦捷報告のため、甲府から諏訪へ参上した。この日、季節外れの時雨《しぐれ》激しく、凍死する兵卒が数多《あまた》出た。  信長は、甲州から富士の裾野を見物し、駿河・遠江を廻って帰洛の予定であったため、 「諸卒はこれより国許《くにもと》へ帰し、重立つ頭分だけが伴するように」  と下命し、直轄軍も解き、帰国を命じた。  翌二十九日、木曾口・伊奈口は、帰国する軍兵で雑踏を極めた。  この日の朝、所領の割当てが発表された。甲斐の国は、河尻与兵衛(秀隆)に代官を仰せ付け、直轄領とした。駿河は家康、関東上野の国は滝川一益、信濃《しなの》は一郡二郡と細分割し、今回の戦功者に当てた。  次いで、甲斐・信濃の法令を発した。  一、関所で税(通過税)を徴収してはならない。  一、農民に本年貢以外の税を課してはならない。  一、忠節を尽す者は取り立てるが、抵抗する者は自害させるか、追放せよ。  一、訴訟には、よく念を入れて糾明・解決せよ。  一、国侍は丁重に扱え。油断なきよう気を遣え。  一、支配の者一人が欲張るが不満の種である。所領を引き継ぐ際は皆に分かち与えよ。分に応じて家臣を召し抱えよ。  一、濃尾本国より奉公を望む者あらば、よく身許を確かめ、旧主の了解を得よ。  一、城普請堅固を旨とせよ。  一、鉄砲・弾丸・兵糧を備蓄せよ。  一、各自が支配する所領単位で、責任をもって道路の整備をなせ。  一、所領の境界を争う時は、互いに憎しみを持たざること。  信長は昼過ぎ、諏訪で名残りの茶事を催した。亭主役は千宗易、相伴《しようばん》は近衛前久である。  それに先立ち、信長は信忠を呼び寄せ、その軍を諏訪に当分とどめおき、甲信両国の静謐《せいひつ》を見届けて後、帰還せよ、と命じた。 「これは内々の話だが、わしは中国攻めに当り、その方に軍団の指揮を委ねてみようと思っておる」  意外な話に、信忠は動転した。 「何と仰せられます。それでは御自身出馬なされぬと……」 「いや、そうではない」  信長は、苦笑して見せた。 「次の毛利討伐は、わしの最後の大戦《おおいくさ》になるやも知れぬ。それゆえ些《いささ》か幼気染《おさなぎじ》みるかも知れぬが、絶えて久しくなった若い頃の桶狭間《おけはざま》合戦を、今一度やってみたいのだ」 「…………」  信長は、夢見るように宙の一点を瞶《みつ》め、微笑んだ。 「使うは光秀の丹波勢……長駆して敵の本営を衝《つ》く……おもしろい戦となるやも知れぬ」 「ま、お待ち下さりませ。私めに軍団を切り廻す器量など、到底備わっておりませぬ」  信長は、真顔になると、信忠に眼を注いだ。 「最初から器量を備え持つ者など誰もおらぬ。慣れ、習い、鍛え、覚えるのだ。今すぐ軍団の統帥を委ねるとは言っておらぬ。わしの生あるうちは後見してやる。だがよいか。長くはないと思え。わしの命数もいつかは尽きる」 「…………」  人間五十年——信長はいつもそう言う。信忠は頭《こうべ》を垂れるのみであった。 「そちが創るのだ。新しき世、戦のない世を……私欲を捨てよ。ただ天下を思え。そちもまた五十年のいのちである」  程なく茶事が始められた。  主客の座に着いた信長は、いつに変らぬ態《てい》に見えた。  だが、亭主の宗易は、一事に眼をとめた。  信長の耳が、ほのかに赤い。何か茶事の前に、昂奮するような事があったに違いない。 「何事か、ござりましたか」 「なんのことだ」 「いささか、お心がおたかぶりになっておいでのように、お見受け仕りました」 「わかるか、さすがだ」  信長は、苦笑してみせた。確かに心たかぶる事であった。信忠はわが子であるが、心底を開いて話した事はない。すべて命令として意向を伝えたのみである。  それが、今度に限って秘事を打ち明けた。  ——おれは死ぬ。おれのやった事は夢まぼろしと化す。  一世の天才も、感慨を禁じ得なかった。嫡子信忠に織田家の後事を托したが、果して彼の運命がどう変転するか。人間、死後の事はわからない。  ——おれらしくない。未練な思いだ。  その痛切な思いが、信長の一生固く閉ざした口を、舌を緩めた。 「長の年月、知己であったその方らに言うておく。新しき世が来る。その方らの身分も既得の権も通用せぬ世となろう。心新たに生きようを考えることだな」  宗易は深く受けとめたが、軽躁《けいそう》の近衛前久は反射的に反応した。 「身分も、既得の権も失うと言われると、公家の地位が空しくなるという……」 「さようさな。公家は申すまでもない。天子様の御身分もいかに御扱い申すべきであろうか、考えておる」  信長は、感慨深げに言った。 「宗易は茶事で身を立てる。先見の才ありというべきであろう。向後、商人の権は無くなる。万人平等に競い合って物の流通を図る。安逸は許されぬが、おもしろき世となる」 「すると、お大名方は……?」  宗易は、鋭くその構想の真髄を衝いた。 「天下が安らけくなった暁には、戦人《いくさびと》の長たる称号を与え、軍兵・軍団と切り離す。領地は与えぬ。私兵も認めぬ。王土の果て、率土《そつと》の浜《ひん》、これみな天下万民の物である」 「では、どなたがこの国をしろしめすか」  宗易は、最終の一点を尋ねた。 「おれは統領というのを考えておる。天子の下に最高の武将一、二名、理財に長《た》けた者などを併《あわ》せて二、三名か。任期を限り、協議して天下を治める……」  信長は、ふと吾にかえった。 「おれの威令が天下に行き渡れば、だが……はて、夢に終るやも知れぬ。構えて他言すな」  驚天動地、というもおろかである。信長の述懐をまじえた話に、宗易も前久も動転しながら惹《ひ》き入れられた。  ——この話、聞き捨てならぬ。  両名とも、期せずしてそう思った。何とか話をつないで、更に詳しく話を聞こうと、懸命になった。  宗易も前久も、座談の名手である。無類の聞き上手の両名に誘われて、信長はいつになく長広舌となった。  信長にすれば、信玄の頃から二十年、常に心にかかった武田が滅び、自軍の軍勢が転進を開始した直後である。気は晴れた上に、為すべき事の何一つない愉安《ゆあん》の午後である。気が緩んだ上に、話柄が死後の事という現実遊離である。思わず度を越えた。  作法に外れるのを承知で、茶事のあと、酒を所望し、口を潤しつつ語った。 「天子は、この世に得難き無私・無欲の御方にあらせられる。俗事にかかずらせ給うことは如何《いか》にも恐れ多い。天下万民の重大事に限って、統領の諮問《しもん》に応じその是非につき最終裁定者となすべきかも知れぬ。天子より何か御提案|賜《たまわ》る事の無きようにしたい。さすれば事の責めは臣下にあって天子の傷つき給う事はない」 「軍事・政務を統《す》べ行うのが統領である。統領は複数の合議制がよい。単数は独裁に陥る恐れあり、数多ければ議がまとまらず、かえって党派を組む。数は二名か三名、任期は三年ほどか、統領は再任を認めず、世襲も同断である」 「統領の諮問と補佐に当る重臣会議を考えておる。戦功顕著の大名・武将、公家の代表、理財に長けたる者、法制に詳しき者、内治・内政に優れたる者など、およそ四、五十名。それに海内諸国から一人宛、代言人を差し出すことも苦しゅうない。次なる統領は、重臣会議の面々から選ぶ」 「わしは、重臣会議と同等の衆庶会議を設けたいと思っておるのだ。天下を運用する税、治安を守る軍勢の費用を弁ずる税を納める者を、等級を定めて遇したい。試みに財貨税と呼ぼう。財貨と、財貨を生む土地の広さに応じて税を納め、その多寡《たか》によって入れ札の札数を付与する。身分・格式・生業の種別は問わぬ。その衆庶の会議は、直《じか》に政務は担当せぬ。政務の決定事項に諾否を決めるのみ。諾否は入れ札の多寡による」 「茶事、音曲、歌舞、詩歌、絵画、工芸、筆墨、およそ芸事に関わるものには、格別の保護を与えたい。政務と軍事、理財だけで成り立つ世は殺伐として味気なく、むしろ醜くさえある。世俗を超えた美の世界こそ、この世の生き甲斐なのだ」 「大名に領地を与え、兵力を委ねることが戦乱の元なのだ。諸悪の根源は大名制度である。戦に長じた者は、護国・護民官として報酬を与え、必要な軍勢を時に応じて貸し与えればよい。兵はまとめて政権が雇う。それがこの案の眼目である」  話題は最後に、信長|麾下《きか》の武将に移った。 「三河守(家康)は、格別に扱おうと思う。一代を限り駿・遠・三の太守とし、重臣会議の長《おさ》としたい。太守も会議の長も世襲は許さず、二代からは護民官として重臣会議の一員として扱う」 「三位中将(信忠)だが、初代の統領に加える。おれ一代の働きの褒賞として、それ位の我儘《わがまま》は許されよう。三年統領を務めたあとは、三河守に代って重臣会議の長とする。年ばえもちょうどよかろう」 「おれの真の後継ぎは、惟任|日向守《ひゆうがのかみ》(光秀)である。惟任には、天下統一まで、三位中将と力を合せて働く。そのあと、初代統領の一人となろう。信忠と光秀、それに関白一条あたりか。三人が三年一期の任期を一期終えた後、真の新しき世が始まると見てよい」 「羽柴|筑前《ちくぜん》は使える男だが、統領とせぬ方がよい。あの如才のなさは新しき世を古き世に戻す恐れがある。重臣会議も無理である。下情に通じておるゆえ、下人の会議、衆庶会議の長《おさ》として、農・工・商の意見を集めさせたい」  さすがの信長も、疲れを見せた。宗易に向って茶を所望した。むずと掴んだ茶碗からひと息に呑み、苦味を味わうかのようであった。 「それで、いつ頃……」  前久が、間の抜けた問いかけをした。 「…………」  信長は、眉を寄せた。饒舌《じようぜつ》を悔ゆる色があった。 「いつという事はない。おれが死んでからの事だ……人間、死後の事までは責めを負えぬ。まっとうに聞くな。たわ言と思え」 「さようでございますな。これは胸中の御鬱懐《ごうつかい》を晴らされる戯《ざ》れ言《ごと》、そうお聞き申しております」  宗易は、あまりに際どい話柄が続いたので、懼《おそ》れを感じ取った。 「宗匠は、ひどいことを言う」  信長は、苦笑したが、何かほっとした様子がうかがえた。 「人間五十年、夢まぼろしと言うではないか。これは夢よ。五臓六腑《ごぞうろつぷ》の疲れで生じた夢物語よ」  信長は、笑って座を立ち、出て行った。  焉《いずく》んぞ知らん、信長の生涯一度の饒舌が、彼の天運・天命を暗に示していた。  信長は、一睡の後、前日の長広舌を忘れた。  忘れたというのは言い過ぎかも知れない。だが記憶はおぼろげであり、取りとめなかった。興に任せて過した酒の量が度を越え、酔いが深かった所為《せい》かも知れない。その放言が大事に至るだろうという自覚がなかった。  この二十年間、事あるごとに信長の前に立ちはだかった武田勢を討滅し、信長は珍しく寛《くつろ》いだ気分になった。その証拠に、諏訪から安土へ帰還するに際して、富士の裾野から駿河・遠江《とおとうみ》を通る回り道を選んだ。  家康は機会ある毎に、二とない神秘の霊峰を絶讃した。彼は駿遠国境から遠望する富士を我もののように誇った。  ——家康が駿河を欲するのは、富士を占有したいという欲望の表れではないか。  信長は、そう思った。  ——駿河の富士は、家康の多年の奉公に報ゆるため授けるが、甲州の富士は譲らぬ。  信長は、麾下の将領の願望と期待を敢えて無視して、甲州を直轄地とし、 「甲州より富士の根かたを御覧じ、駿河・遠江へ御まはり候て、御帰洛あるべきの旨、上意」  と、早々に下達した。  ——おれが得んと欲する日本を、日本の美をこの眼で見たい。  四月二日、折から大雨であったが、信長は予定を変えず諏訪を出立、大ヶ原に陣を移した。  三日、大ヶ原を発ち、五町ほど行くと、山間に遠く、秀麗の富士山が現れた。碧空に皓々《こうこう》と白雪をいただくその様に、一同はただ見惚《みと》れるばかりであった。  ——これが富士か。  信長は、暫《しば》し凝然と見入った。  ——よくぞここまで来《きた》る。われ、天命を謝す。  わが国最強の軍団を保有した甲斐武田家の滅亡は、まさに時代を変えたと言えよう。  信長は、中世から近世へ、時代の扉を押し開けた。未だ関東に北条氏政、中国に毛利|輝元《てるもと》、四国に長宗我部元親《ちようそかべもとちか》、九州に島津義久、等々の名有る戦国大名が鬩《せめ》ぎ合っているが、信長の勢威はそれらを圧し、天下統一も時間の問題視されるに至った。  ——まずは、おれの大業も峠を越えた。  信長の愉悦、充足感は譬《たと》えようがなかった。  甲府滞在は、七日にわたった。滝川左近一益は、命を受け関東上野に進発した。丹羽五郎左衛門、堀久太郎秀政、多賀新左衛門|常則《つねのり》は暇を賜わり、滝川一益と同道、草津に赴き、湯治して休養をとった。  信長も、かつてない奢《おご》りをおのれに許した。凱旋を兼ねての東海道遊歴である。  甲州から駿・遠・三の三ヵ国は、すべて徳川家康の領土である。十日ほど前、信長からその通告を受けた家康は、急遽《きゆうきよ》家中に総動員令を発し、万全とも言える歓迎歓送の準備に狂奔した。  四月十日、信長は扈従《こじゆう》三十、軽騎百を従えて、甲府を発った。  ——徳川家の今日あるは、多年織田家の支持支援を得たお蔭である。われらは信長公の驥尾《きび》に付して新たに駿河一国を得た。その厚恩に報ゆる誠心を表すこの機に疎漏なきよう、努めよ。  吝嗇《りんしよく》の聞え高い家康も、この時ばかりは費えを惜しまず蕩尽《とうじん》した。また家中の者も叶う限りの人手を集め、士卒はもとより高禄の将までが率先して鋤鍬《すきくわ》を振るい、汗水流して畚《もつこ》を担ぐことを厭わなかった。  その突貫工事の成果は、信長が甲府を発つと間もなく現れた。  戦国期の当時、道は狭隘《きようあい》の悪路である。戦国大名は領内に侵入する敵勢の進撃を遅延させるため、幅広で平坦な道は禁物とした。例外は信長だけであった。信長は機動軍団の活用に備えて、道の拡張と補修を怠らなかったという。  それを知る家康は、まず道の開豁《かいかつ》に意を注いだ。信長の一行は、快適な諾足《だくあし》で馬を乗り進めた。 「三河殿、なかなかにやりおるわ」  信長は、満足げに扈従の者に声をかけた。  間もなく、道は笛吹川に突き当る。徒渡《かちわた》りの筈が、新造の橋が架けられていて、警戒の家康手勢が怠りなく徒列していた。  最初の宿泊地|姥口《うばぐち》(現・中道町)には、簡素ではあるが本建築の宿館が用意されてあり、先行した家康が、接伴のため待ちうけていた。  信長は上機嫌で、 「おことの手際よさには感じ入る」  と、絶讃してやまなかった。  最初の一日の行程でわかるように、家康のもてなし振りは、微に入り細をうがつ慎重さであった。道端の五木の枝は、進行を妨げぬよう剪定《せんてい》され、少憩に適した丘には見晴らしのよい茶屋が設けてある。  ——この気遣いようたるや……。  信長は、この時、家康の真髄を見た。  ——この男は、単純な小心者ではない。  信長は、家康を小心者と見ていた。戦略行動であれ戦闘であれ、彼は非常に慎重であり、緻密《ちみつ》であった。その用心深さは度を越えていた。  ——家康には天才的な閃きがない。  彼の率いる三河兵の強悍《きようかん》は、累代仕える家臣団の朴訥《ぼくとつ》で粘着力に富む三河者の気質と、鞏固《きようこ》な団結力を持つ家臣団の結束力に依るもので、家康自身の資質によるものではないと思いこんでいた。家康は単なる家臣結束の象徴にすぎない、と。  ——いや、そうではない。この気遣い、人の心を読む力、人の心を満悦させる配慮、それらが並外れているから、人の心を集め、統合の象徴たり得るのだ。  ——これは、別種の天下を統《す》べる資質かも知れぬ。  信長は、炯眼《けいがん》よく家康の特性をそう見た。  ただし、それだけであった。家康は信長にとって代るような存在ではない。  翌日宿泊した本栖《もとす》にも、家康の建てたみごとな館があった。それは二重、三重の柵に囲まれ、供の者の小屋も用意されていた。  翌払暁、本栖を出立した信長は、一面見渡すばかりの高原にさしかかった。  広大な草原に大喜びした扈従の者たちは馬をせめ、狂ったように草原を駆け廻った。  ——まことに稀有、然も秀麗。類《たぐい》なき名山なり。  信長は、白雪を頂く雄大な山容を一人飽かず見惚れていた。  そのあと、富士の熔岩流によって生じた人穴を見物した。ここにも手廻しよく休み茶屋が設けられてある。茶屋と言っても茶を振舞うだけではない。『信長公記《しんちようこうき》』によれば、�一献進上�とあるから、酒食の用意を調えて振舞ったと思われる。  大宮(現・富士宮市)は、富士山を御神体として崇《あが》め祀《まつ》る富士|浅間《せんげん》大社のあるところで、社人、社僧|罷《まか》り出で、参道を掃除して出迎えした。信長は源|頼朝《よりとも》の狩倉のあった上井手の丸山(現・富士宮市上井出のうち)に立寄り、|浮嶋ヶ原《うきしまがはら》(現・沼津市原)を遠望、案内の将の説明を聞き取り、その夜は大宮に一泊した。  宿舎は大宮司の屋敷内に、家康が新築した。一夜の宿館とはいえ、金銀を鏤《ちりば》め普請美々しく、四方に警衛の諸陣の小屋をかけ置き、馳走も並々ならぬものであった。  信長は、御感《ぎよかん》斜めならず、家康に当座の謝礼として、  一、御脇差 作吉光  一、御長刀 作一文字  一、御馬 黒駁《くろぶち》  を贈った。いずれも秘蔵の名品、名馬である。  翌朝、大宮を払暁に発ち、足高山(現・愛鷹《あしたか》山)を左に見て富士川を越え、神原(現・蒲原《かんばら》)にて御茶屋に休息、一献進上。暫くは向地《むこうじ》の千本松原から六本松、紫に霞む伊豆《いず》半島の岬や果ては深沢の城(現・御殿場市)に至るまでの兵要地誌を聴取した。  次いで、由井(現・由比町)、清見ヶ関、興津《おきつ》(現・静岡市清水)、三保ノ松原、羽衣の松、久能《くのう》城と巡歴、その夜は穴山梅雪の居城であった江尻城に一泊。翌日は駿河府中の今川氏の旧跡を見物、持舟城(現・静岡市|用宗《もちむね》)から名にし負う宇津ノ谷峠を乗り越え田中城(現・藤枝市益津)に泊る。翌朝は未明に出立、瀬戸川の川端で休息、一献。次いで嶋田の町(現・島田市)より大井川を越える。信長は馬で、士卒は徒歩《かち》で渡ったが、家康は数多《あまた》の将士を川中に乗り入れさせ、渡河の織田勢に間違いが起こらぬよう、堰《せき》を作って水勢を柔らげた。  懸川《かけがわ》(現・掛川市)で一夜を明かし、次の日は見付の国府、鎌田ヶ原、三ヶ野坂に新築の屋形あり、一献進上。高天神城(現・小笠郡大東町)などの戦跡を手に取る如く見て、池田の宿より天龍川にかかる。折柄、信濃路に大雨があったためか、川流は奔騰した。  家康は、その激流に舟橋を架けた。上古より容易に舟橋の架けられる所ではない。それを、家中総出で両岸から数百の綱を曳き、舟をつなぎ並べてその上に板を敷いた。  浜松城に泊る。ここで小姓衆、馬廻衆はすべて暇《いとま》を出された。みな思い思いに本坂越え(遠江、三河の国境の山道)や、今切《いまぎれ》の渡し(浜名湖の海口の渡し)を通ったりして、信長より先に安土に帰城する。信長の供は弓衆と鉄砲衆のみとなった。  信長は、甲州武田攻めに先立ち、兵糧米八千余俵を黄金五十枚で買付け、浜松城に備蓄しておいた。  だが、その備えはもはや無用となった。 「これは、三河殿の家来衆へ、骨折りの礼である」  信長の家康領通過は、わずか五日ほどである。いかに心を遣い、贅を尽くした接待を受けたとはいえ、八千余俵の謝礼とは豪気であると言えよう。なぜなら家康の費えの過半は宿館であれ橋梁であれ、信長が持ち去るわけではない。家康の許に残るのである。費消したのは家臣の労力と、酒食の料に過ぎない。  それでも信長は、寡少と思った。人の誠心誠意は金品に代え難しという。 「いまは旅の途次、三河殿への返礼は帰って後に考えよう」  家康という人物は、信長に対する赤心を、微笑ましいまでに物と形で表した。  川には橋を架け、泊りの館は新築し、道中には茶屋を設ける。悪路は道を拡げ、石を取り除く。御膳の用意には、京や堺に人を遣わし諸国の珍味を調える。随行の諸卒や馬にさえ小屋を用意し、すべてを賄う。 『信長公記』は、信長の感銘を、「家康卿万方の御心賦《おんこころくば》り、一方ならぬ御苦労、尽期《じんご》なき次第なり。併《しかしながら》何れの道にても諸人感じ奉る事、御名誉申し足らず。信長公の御感悦申すに及ばず」と、記している。  四月十七日、浜松を朝方出立した信長は、今切の渡しを家康が提供する御座船で渡った。美々しく飾った船中で、別れの一献を交す、お供衆の船も多数寄り添い、賑々しい限りであった。  道中、案内に務めた家康の家臣何某に、心付けの黄金を謝礼に渡し、信長は、折柄降り出した雨の中を、吉田に向った。  信長の遊歴の話は、余りにくだくだしいのでこの辺で終る。  安土帰城は四月二十一日のことであった。信長に残された日々は、もう一月余りしかない。  長年の同盟者家康に身を預け、僅かな手兵だけで信長は、甲州から帰城した。開けた草原を見つけると無邪気に馬を駆り、三河者の無骨だが律儀な接待に目を細め、道中の名所旧跡に大方ならぬ興味を示し、案内者を質問攻めにした。  家督相続後、家中統一のための肉親との闘争、尾張一国の統一戦、桶狭間、美濃攻め、上洛、浅井・朝倉との再度の合戦、叡山・石山本願寺戦、等々、数え上げれば切りの無いほど、信長は戦に明け暮れた。その四十九年の生涯で、この旅ほど身心ともに寛《くつろ》いだ日々はなかったであろう。  信長が駿河の府中で、家康から今川氏の古跡を案内されていた天正十年(一五八二)四月十四日、秀吉は備中高松城を攻略するため、龍王山に布陣していた。  備前から備中に進攻した秀吉の兵団は、要衝高松城に拠る清水|宗治《むねはる》の調略が成功せず、城攻めの準備に手間どっていた。  清水宗治は、備中の国人《こくじん》領主で、毛利輝元の叔父|小早川隆景《こばやかわたかかげ》の麾下に属し、勇猛の聞え高い。秀吉は信長の命を受け、蜂須賀家政《はちすかいえまさ》(小六正勝の子)・黒田|孝高《よしたか》(官兵衛)の両名を送り、備中・備後《びんご》二ヵ国を与えるという破格の条件で、味方するよう交渉した。だが宗治は肯《がえん》ぜず、交戦の已むなきに至った。  少々話が先走るが、秀吉が考案した城攻めの方策は、城外を貫流する足守川《あしもりがわ》を堰きとめて、折からの梅雨どきの増水により、城を水没させるという壮大な計画であった。  信長が、多少迂遠の懸念のあるその策を許可したのは、備中高松城の攻略に時日を要すれば、毛利輝元の本軍と、吉川元春《きつかわもとはる》・小早川隆景の支軍が、救援に駆けつけるだろうという予測を立てたことによる。  ——毛利は、備中で一大決戦を挑むに違いない。  信長は、かねてから練りに練った雄大な毛利攻めの方策を展開する機を狙っていた。  同時に信長は、四国侵攻を計画していた。相手は長宗我部元親という土佐出身の豪族である。  長宗我部元親は土佐|岡豊《おこう》(現・南国市)の小領主の子として生れた。家を嗣ぐと、土佐の七豪族の本山・安芸《あき》・津野などの有力国人を次々に倒し、三国司の一、一条|兼定《かねさだ》を豊後《ぶんご》に追い、土佐を統一した。更に阿波・伊予《いよ》・讃岐《さぬき》に侵攻、ほぼ四国を掌中に納めた。その戦略は狡智《こうち》を極め、梟雄《きようゆう》の名を恣《ほしいまま》にした。  信長は使者を送って、帰服するよう勧告したが、元親は断乎拒絶したため、征討の軍を派することとなった。総大将は信長の三男三七信孝、丹羽兵団をもって事に当るべく、着々準備中である。  両作戦とも、発動は六月初旬を予定した。その僅かな隙間の日々に、信長は家康とその家臣団への返礼を企図した。  ——家康が、天然の美を馳走してくれたからには、何よりも自分の美意識の具現である安土城を見せたい。  信長の使者が、浜松へ急行した。 「できれば、重臣ともども安土へ招待したい」  家康側に謝絶する理由はない。  信長は、富士見物に軽騎百騎・扈従三十を伴った。  家康も、護衛を伴わず、重臣十余名を帯同した。飽くまでも恭謙を示そうとする家康は、招待による見物旅行ではなく、一国拝領の御礼言上であると称した。そのあかしに、裏切りによって本領安堵を得た穴山梅雪入道も同行させた。  家康一行は、五月十四日、近江の番場《ばんば》(現・滋賀県|米原《まいばら》町付近)に宿泊した。  家康一行の道筋に当る大名武将は信長から、「おれの面目を潰すな」と厳命を受けていた。番場一円を領する丹羽長秀も、この宿場に宿館を新築するなど、家康の饗応ぶりに倣った。  その番場宿に、更なる接待者が現れた。三位中将信忠、信長の世子である。信忠は甲州から安土へ向う途中、番場に立ち寄った。家康に挨拶すると、その日のうちに安土へと出発して行った。  家康は恐懼《きようく》した。  信長が家康の接待を心ゆくまで楽しんだのに比べ、家康はかつて経験したことのない手厚い接遇にも、内心では気を引き締め、信長を喜ばせることに努めた。  ——大国と同盟した小国の悲哀には、こういうこともあるのだ。  折角のもてなしにも、緊張の解けぬ家康は自嘲したことだろう。しかしまた、こうした用心深い気遣いが、後にこの男を別の運命に誘うことになる。  五月十五日、家康一行は、安土に到着した。  安土城下の家康の宿館は、大宝坊《だいほうぼう》という寺に定められた。  大宝坊での接待役は、明智光秀が命ぜられた。  織田の家中では、この光秀と細川|藤孝《ふじたか》が武家の典礼に精通しており、洗練された接待役として、まずは適任と認められた。  大宝坊に着いた家康は、まず光秀と挨拶を交した。  だが、いつもと違って光秀の応答が鈍い。何かに心を奪われているようである。  ——はて、また信長殿からお叱りを受けられたか。  人を使う立場の者は、叱られ役を持つ。それとなく周辺の者を戒めるため、最も信頼する者をわざと叱る。光秀はその立場だった。  光秀の心中を占めていたのは、千宗易から洩れ聞いた信長の未来構想であろう。  信長から接待役の光秀の補助を命ぜられた宗易は、繁忙の接待準備の間に、諏訪法華寺の本陣で近衛前久と聞いた信長の述懐を、逐一告げた。  宗易が期待したほど、光秀に衝撃を受けた様子はなかった。至極平静に、時には謎めいた微笑が頬をかすめることすらあった。  ——はて、この男……生涯、望みの大名としての栄達が有り得ぬというのに、何を考えておるのか。  宗易は、光秀の心情がどうあるのか、合点がゆかなかった。  光秀も当初は多少の驚きがあった。その動揺を押し隠して話を聞いた。  ——ほう、信長公は、そのような思い切ったことを考えておられるのか。  宗易は、前置きとして、信長の死生観を説明した。それが光秀を冷静にした。  ——人間五十年……信長公はそれを信じ、あと長くても二、三年の命と覚悟召されている……。  信長が宗易に語ったのは、死後の未来構想である。  ——世に人の命ほど、先行きのわからぬものはない。わからぬから人は生きて行けると言える。信長公の構想など、所詮は夢。夢のまた夢物語だ。  そう考えると、宗易の熱の籠《こも》った打ち明け話も、底が見えてきた。  ——宗易殿は、天下一の茶頭《さどう》とまで言われておるが、堺の商人として大をなした身にとっては、商権自体が消滅する事には未練があろう……。  思いは、次々に湧いた。  ——それにしても、ようこれほどの新規な構想が湧くものよ。さすがに信長公、史上またとない天才の名に恥じぬ。  統領・重臣会議・衆庶会議と構想が進むうち、天子のありようから、信長の嫡男三位中将信忠の処遇、三河守家康の扱いと移って、藤吉郎秀吉に話が及んだとき、光秀の頬に会心の微笑がかすめた。  ——秀吉は、衆庶会議の長か。みごとな御眼力だ。  今が今まで光秀は、秀吉を最大の好敵手と見て、ひそかに闘志を燃やしていた。  ——あの、人に取り入る術《じゆつ》の巧みさ。臆面もなき人たらしの術……あれは武士にないわざ[#「わざ」に傍点]だ。おれには到底できぬ。  気位の高い光秀は、それが弱点と知りつつ一籌《いつちゆう》を輸《しゆ》していた。  それが、信長の評はまさに当を得ていた。  光秀は、宗易の話に酔っていた。  だが、冷静に考えると、光秀は事の容易でないことに思いが至った。  ——このような大胆、且《か》つ奇想天外な政治改革を、人が支持するだろうか。  信長が、後継者に当てたのは、光秀である。この場合の後継者というのは、単に所領を受け継ぎ、織田軍団に号令することではない。それらは当座、信長の嫡子、信忠の掌中のものである。光秀が引き継ぐのは信長の天下統一の大業、そして未来構想、政治体制の変革である。  ——人が支持する筈がない。おれは反対の憎悪と怨嗟《えんさ》を一身に受ける事になろう。  光秀は、怯えを感じた。  人は、既得権に異常な執着を持つ。既にわがものとなっている権利・権益は絶対に手放したくない。手放さない。理も非もない。肉親の愛すら超える。現在多発している相続権の争いがそれである。光秀と親しい間柄にある千宗易の堺の商権、近衛前久の無為徒食の尊貴の権、ともに天下の権から見れば取るに足りない権利・権益だが、彼らですら死に物狂いで抵抗する気配が窺《うかが》える。近衛の公卿位の世襲も同じである。  ——日本国中が敵になる。おれに堪えられるだろうか。  それを考えると、憂鬱《ゆううつ》になった。顔色に出た。家康に気付かれた。  家康が安土に到着した翌々日、突然、光秀の接待役は解任となった。  あらぬ噂が流れた。信長が不意に大宝坊の台所を検分した際、新鮮度の欠けた魚の臭気が鼻をつき、信長は激怒して光秀を叱責し、罷免《ひめん》したという。  如何にも光秀は接待役であるが、信長の絶大な威光で集めた魚鳥が新鮮でない筈がない。また調理に当る料理人は、京から呼んだ一流の者を選《え》りすぐっている。台所に悪臭が立ちこめるなどあろう筈がない。  真相は、備中高松城の水攻めを遂行中の秀吉から、戦況の急変を告げる使者の到来であった。 「毛利の援軍、到着。輝元の本隊を中軍に、吉川元春・小早川隆景を両翼とし、総勢三万余。高松城西北の山々に布陣。当方の模様を観望しつつあり」  と、いう。秀吉は別にこう添えていた。 「毛利方の戦意は見かけほど激しいとは見えませぬ。積極的に戦を挑む様子なく、和睦《わぼく》の機を窺う気配にござります。その際は如何取り計らいましょうか。御伺い申し上げます」  信長は、会心の笑みを洩らした。  ——敵は、わが術中にはまった。  毛利の戦意は高くない。出陣して和睦の機会を窺う。それは既に老大国の衰退を示している。  ——和睦などと片腹痛い。この機にかねて用意の山陰突破作戦を敢行し、毛利の本拠を根こそぎ覆滅《ふくめつ》してやる。  秀吉の飛札《ひさつ》が届いたのは、十六日の夜である。信長は深夜、光秀を安土城に呼び寄せた。 「読め」  信長は光秀に、秀吉の書状を投げ渡した。一読して光秀は、書状を信長の前に戻した。 「芸州に討入りますか」  信長の言葉は極端に短簡である。応ずる光秀の言葉もそれに準じて短い。 「知れた事。その方接待役の任を解く。早々に領国に立ち戻り、出陣の用意を致せ」  前に述べたが、信長は山陰の電撃作戦をひそかに策していた。即ち秀吉の兵団をもって山陽道を西進させる。迎撃のため毛利勢が芸州を進発し、秀吉勢と相対したとき、援軍として信長の機動軍団が播州に入る。その先駆を務めた光秀の兵団は、中途で突如方向を変え、北上、前《さき》に秀吉が調略済みの美作《みまさか》を通過して伯耆《ほうき》・出雲《いずも》に進出。備後・石見《いわみ》の国境付近を席巻し、毛利の本国芸州を衝《つ》く。手薄な毛利の留守勢は、手もなく潰《つい》えるであろう。  信長は、光秀のほかにも、長岡与一郎(細川忠興)、池田勝三郎(恒興)、塩河(塩川)吉太夫《きつだゆう》、高山右近、中川瀬兵衛に出陣を命じた。  光秀は、夜の明けるのを待って家康に面会を求め、接待役罷免の事を告げた。 「日向守殿、何の落度があってお役を免ぜられたか、訳を教えて下され。それがしが上様にお目にかかり、屹度《きつと》お取りなし致しましょう」 「さ、それは……」  光秀が言える訳が無かった。対毛利作戦の機略は、信長軍にとって最高機密である。同盟者の家康であっても、いつどこで洩れるやも知れぬ。 「上様の御機嫌を損じた、と御承知置き下され」  光秀は、そう欺いて座を辞した。 『明智軍記』に、主城坂本城へ戻る準備をしていた光秀の許へ、信長の使者青山与三が出向き、 「惟任日向守に出雲、石見を賜うとの儀なり。さりながら、丹波、近江は召し上げらるるとの仰せである」  と、伝えた話が出てくる。  従来の丹波と近江南三郡は、一ヵ国半と解すべきであろう。丹波は取高二十六万余石だが、これは軍政管轄地で、正規の所領は、近江南三郡で二十万石である。  出雲は十八万六千石。それに表高のほかに漁業・海産物豊富で、海上交通の通過税もばかにならない。  それに石見、ざっと十一万余石が付与された。合せて三十万石、これが正規の禄高となる。  従来の解釈では、出雲・石見は敵地(毛利領)であるから、光秀は丹波と近江の一部の所領を召し上げられて、無禄となり、家来どもは、明日の食に事欠くと信長を怨んだとある。  そのような事は無い。光秀は所領からの年貢米は、昨年末に徴収している。今の時点で所領を返上しても、今年の収穫期以後までは困窮する事はない。  信長も光秀も、山陰突進作戦が発動すれば、秋を待たず毛利を討滅する事を予定している。  出陣に際して、毛利の所領を与える旨を告げたのは、如何に信長が意気軒昂《いきけんこう》かを示すものであり、光秀に対する激励でもある、と解釈すべきであろう。因《ちなみ》に甲州討入りの際、信長は参陣の将士に扶持米《ふちまい》を別途に配っている。中国攻めの光秀兵団を飢えさせるような愚かな仕打ちをするわけがない。  五月十七日、光秀とその家臣たちはひそと安土を去り、主城近江坂本へ帰った。  突然の接待役解任に、人々は訝《いぶか》り、あらぬ風聞が駆け廻《めぐ》った。  ——惟任日向守、不興を蒙《こうむ》る。  真相をひた隠す信長は、洩れ聞くその噂に会心の笑みを浮べたであろう。  ——策はひそかなるを以て善《よ》しと為《な》す。  山陰電撃作戦は完全に秘匿された。  その噂を裏付けるかのように、光秀の眼は真っ赤に充血していた。実は徹宵《てつしよう》、信長との作戦の打合せに、寝る暇がなかったのである。  光秀は、接待の用意を撤収する自分の家臣にも、その理由を告げなかった。驚くほどの自制力である。あるいは来るべき電撃作戦発動の際、部下の驚愕《きようがく》を見て楽しみたいという稚気があったのかも知れない。  突然の帰国に、家臣の戸惑いは想像に難くない。彼らはあえて光秀にその訳を尋ねようとしなかった。彼らも噂を半ば信じ、光秀の心情に触れるのを避けたのであろう。  光秀は、近江坂本城で妻子との別れを惜しんだ。その際、彼は、 「近々、この坂本の城は召し上げられる。転居の用意を致しおくように」  と、告げた。  さすがの光秀も、妻子へのその一言は禁じ得なかったのであろう。それが他に洩れて、またまた噂を増幅させた。  信長も、光秀と同様、噂に対して無関心を装った。それより光秀を解任したあとの接待役が問題だった。目下の安土には光秀に代る重臣がいない。秀吉は備中、柴田は北陸、滝川は関東上野に出陣中である。丹羽は四国攻めの準備で不在だ。  残るは信長自身しかいない。  彼は総見寺《そうけんじ》に家康一行を招き、幸若八郎九郎大夫に舞を演じさせた。その後、丹波猿楽の梅若大夫に能を申し付けたが、これが見苦しいほど不出来であった。  激怒した信長は、能役者を折檻した。慌てた側近たちが、再度八郎九郎大夫に舞わせたので、ようやく機嫌を直した。  ——なんと、天下人ともあろうお方が……。  と、家康やその重臣たちは鼻白んだという。  信長にすれば、客の家康一行に打ち明けられない秘事のため、光秀を解任し、おのれが代っただけに、能役者の不出来が我慢できかねたのであろう。  また、その秘事である乾坤一擲《けんこんいつてき》の大作戦開始に、昂奮を抑えかねたに違いない。  次の日、高雲寺殿《こううんじでん》での宴会の折、信長は家康のほか、酒井忠次、石川数正らの重臣たちの前に、手ずから膳を運び、すすめた。  家康らが恐懼したのは言うまでもない。  そうした信長の過剰な接待ぶりも、信長の激情の一端として、対光秀の噂を更に増幅した気味がある。信長にすれば心躍る作戦の秘匿に、多少度を越えたにすぎなかった。  五月二十六日、丹波亀山の主城に到着した光秀は、部将を集め、中国毛利攻めに参陣する事を告げ、兵力動員と出撃準備を督励した。  光秀が居城坂本から出陣せず、丹波亀山で動員を下令した事は、明智兵団が丹波で編制されている事を証拠だてている。  山陰急襲の作戦は、勿論告げない、極秘の策である。ただ矢弾《やだま》の量を通常の倍量に増し、携行の非常食(糒《ほしい》など)の準備を怠らぬよう命じた。 「中国の陣には、上様も参陣なさる。補給の事、思うに任せぬかも知れぬ。それに備えよ」  と、言葉短に伝えたのみである。  繰り返すが、丹波は山国である。諸将領が兵を徴集するのに、多少時間がかかる。北部の要衝《ようしよう》福知山城から亀山までは里程十里余、軍勢の移動に一日を要する。  集合は、六月一日を予定した。因に旧暦五月は二十九日で終る。  部下への通達が終ったその夜、光秀は細川藤孝の使いを迎えた。  光秀は、使者に会うなり不審を抱いた。 「その方、田辺から参ったのか、それとも宮津か」  ——どちらにしても身形《みなり》の汚れが並でない。それにひどく疲れている。  使者は、恐縮し、ためらいがちに答えた。 「いえ、備前|下津井《しもつい》からでございます」 「下津井? 聞かぬ土地の名だな」  下津井は岡山の南、児島半島の南端に近い瀬戸内航路の小港だが、光秀には馴染《なじ》みがない。  それより、備前という地名が光秀の気にかかった。下津井は戦闘地域ではないが、備前と備中の境に近いという。  ——備中では、秀吉が高松城を水攻めしておる筈。そのようなところへ、何で兵部大輔《ひようぶだゆう》(藤孝)殿が……?  使者が持参した書状には、�是非にも内々面談致したき儀あり。二十七日、愛宕権現《あたごごんげん》の一坊、威徳院にて待つ�とのみ記してある。  ——何の用事か。内々、とあるのはなぜか。  さっぱり要領を得ない。だが、謝絶もできない。光秀にとって藤孝は、終生離れ難い人である。恩義を被り、また教養の師でもある。加えてその嗣子与一郎忠興は娘婿であり、寄騎である。  光秀は、重臣筆頭の左馬助秀満《さまのすけひでみつ》や、最も信頼する部将の斎藤|内蔵助利三《くらのすけとしみつ》に告げた。 「明日、愛宕権現に参籠《さんろう》する」  当時の武将にはよくある事であった。戦陣に赴く前に戦捷《せんしよう》を祈願する。  だが、光秀はやった事がない。彼は飽くまで理性の人であった。  五月二十一日、家康は京に入った。  信長は、家康の案内役に、側近の長谷川秀一を充てた。秀一は信長の富士見物の際、家康が接待指導に借り受けた士である。信長は彼の機転を愛し、応接役に用いていた。  信長は家康に、京の居館を用いるようすすめたが、家康は平に辞退し、古くから京都外交を委ねている呉服商茶屋四郎次郎宅に宿をとった。 「同郷のよしみもござりますれば……」  という家康の言葉に、信長は、 「遊覧の旅なれば、それもよかろう」  と、いたわりを見せた。  家康の京滞在は八泊九日である。その間、畿内の大名小名は競って家康の接待に当り、早朝から夜陰に及んだため、さすがに家康も疲れ果て、名代《みようだい》に酒井忠次や石川数正ら重臣をあてることが多かった。  家康は、二十九日、京を発ち、堺に赴く。繰り返すが二十九日は五月最後の日である。  話を少々戻す。  五月二十七日、光秀は亀山城を発ち、愛宕へ参籠《さんろう》に赴いた。  京都の北西郊、丹波高地の端に愛宕山がある。標高三千尺(約九百メートル)、愛宕権現を祀る霊山である。  光秀の丹波亀山城は、その南西の麓にある。領地の守護神として信仰するのに不思議はない。ましてこの度、丹波の所領は信長へ返還することになった。そのお礼詣での意味もある。愛宕参籠を疑う者はなかった。  家臣にすれば、突然の所領返還に、多少の疑懼《ぎく》を抱いた者もあったであろう。  だが光秀は何のためらいもなくその命を畏《かしこ》み、戦意・闘志を漲《みなぎ》らせ、出陣準備に余念ない。  ——殿と安土の御主君の間には、枢機の密命・密約があるに違いない。  誰しもそう感じとっていた。  今、愛宕山に登る光秀の方が、疑念を生じている。信長に対してではなく、細川藤孝の不可解な行動についてである。  ——何で亀山城に来ぬ。密談の用とは何だ。  藤孝は、甲州陣に参加していない。光秀の施政下の丹波の防衛を兼ねていた筈である。その藤孝が使命を放棄し、何で備前の果てまで密行していたのか。  保津川《ほづがわ》を渡り、山中に入った。鬱蒼《うつそう》の山坂を登る。光秀は、いつになく脚が重く感じられた。 [#改ページ]   志、満たすべからず  愛宕《あたご》山は、丹波領に属する。光秀は丹波征討を開始して以来、信長の命で領主として扱われている。  山僧たちは、丁重に迎えた。  奥まった部屋に旅装を解くと、能化《のうけ》の一僧が挨拶に罷《まか》り出た。儀礼の言葉を交して後、僧は訊ねた。 「湯浴《ゆあ》みの用意が調っております。それとも夕餉《ゆうげ》になされますか。どちらでも……」  光秀が答えようとすると、廊下の足音が近付き、声とともに人が姿をあらわした。 「差し支えなければ、夕餉を共に致したいと思って罷《まか》り越した。如何《いかが》かな、日向《ひゆうが》殿」  粗服の細川|藤孝《ふじたか》である。親しげな笑顔はいつもと変らない。  二人は、僧が用意した離れの一室で、余人を交えず酒を酌み交した。 「甲州陣では、倅与一郎《せがれよいちろう》(忠興《ただおき》)が大層世話になった。礼を申す」 「礼などと大仰《おおぎよう》な、戦場は相身互《あいみたが》いでござる。またこたびの中国陣では寄騎《よりき》として力添えをいただく。苦労をおかけ申す」 「お心遣い、痛み入る……扨《さて》、安土《あづち》では宗易《そうえき》殿から例の話……聞かれたそうだが」  あ、と光秀は思った。  ——噂とは、速いものだ。 「ああ、上様の先の御構想でござるか。いやもう、たわいもない絵空事《えそらごと》で」 「そうかな。織田家中の者は、それぞれに、かなり際どく反応しておるようだが」  藤孝は、いつになく口調が鋭い。  ——さては近衛前久《このえさきひさ》殿、千宗易殿が、身の大事と触れ廻っておられるな……。  光秀は、思い当った。前久は貴族の権、宗易は堺の商権の持ち主である。信長の未来構想が現実のものとなれば、それらの既得権は消滅する。触れ廻って織田家中の意向を確かめるのは当然の事であろう。 「そこもとは、どう思われる」  藤孝は、その返答次第で、敵か味方かを分かつ心算《つもり》らしい。 「ご心底、打ち明け願えぬか」  光秀は昏迷の底に突き落された。信長の構想を是と言えば、藤孝の敵となろう。非と称《とな》えれば信長に対する叛逆に与《くみ》する事になる。 「…………」  藤孝は、これ程の重大事に、ひどく自信に満ちているように見えた。  ——はて、どれほどの者を味方につけたか。  藤孝は、去就に迷う光秀に、溜息を洩らして言った。 「そこもとは悧口者《りこうもの》よ。自身の考えの前に織田家重臣の意向を確かめる。その要慎《ようじん》あってこそ、今の身分がある」  藤孝が、呵々《かか》と笑ってみせた。  甲州征討の帰途、東海道へ廻った信長は、家康の接待を受けた。  中山道を辿《たど》った近衛前久と千宗易は、信長に先んじて近江《おうみ》路に帰着した。  そこで二人は別れた。道中の話合いで分担を決めたのであろう。前久は越前《えちぜん》から加賀に進出して布陣中の柴田勝家を訪ねた。 「恐れ入るが、お人払い願いたい」  前久の顔色で、ただごとならずと見てとったのであろう。勝家は夜陰、仮小屋の茶室で前久の密談に耳を傾けた。  北陸路は梅雨の中休みで、十八夜の月が耿々《こうこう》と山野を照らす。その月光を浴びて勝家は、衝撃に絶句して言葉を失った。 「それは実《まこと》か」  とは、問い返さなかった。五摂家の筆頭近衛家の当主、前《さきの》関白がはるばる北陸路を辿って機密を伝える。似非《えせ》話であろう筈《はず》がない。 「わしは、上様から大恩を被った身である」  勝家は、そう言う。 「上様が御家督を御相続なされる折、わしは御母君土田御前に誘われて、御弟君|信行《のぶゆき》様を擁立しようとして、上様の追討を受けた」  勝家の顔は、血の気を失って見えた。月光の所為《せい》ではない。血も凍る思いだったに違いない。 「弟君信行様は上様の逆鱗《げきりん》に触れ誅殺《ちゆうさつ》されたが、先に降伏したわしはお目こぼしに預かり、年寄(家老)の筆頭に返り咲き、以後懸命に働いて今日を得た」  勝家は、語り続けた。 「あの御気性激しい上様が、何でわし如き者を寛大に御扱い下されたか……その御恩沢を思えば、寝《いね》る時も脚は向けられぬ。上様の思《おぼ》し召《め》しとあらば、いついかなる時にいのち召されるとも悔いはない……」  前久は、その長広舌に辟易《へきえき》気味となった。 「では、上様の御考えには背くまいと……」 「いや、お待ちあれ」  勝家は、急いで制した。 「上様の仰せは、まさに驚天動地……何でそのような事を思いつかれたのか、訳がわからぬ……この戦国乱世に、人は何を以《もつ》てあるじを君と仰ぎ、いのち捧げて御奉公するか……あの御方はそれを御存知ないのか……」  勝家は、情が激した。 「そうだ、御存知ないのだ。上様は生れながらにあるじと仰がれた。であるから考えた事もない。家来がいのちを捨て、妻子の暮しを擲《なげう》って御奉公するのは、天然自然のわざと思っておられるに違いない」  前久は、苦笑するしかない。彼自身が出自の尊貴で万民の上に位し、それで飯を食っている。他人の事をとやこう言えた立場ではない。 「前関白殿。武士は主恩と義理で成り立つというが、戦国の世も百年余も続くと、そうばかりは言っておれぬ。見所あるあるじを持たねば、わが身の命運が尽きる。あるじが家来を選ぶかに見えて、その実、家来があるじを選んでおるのだ。上様においても然《しか》り、尾張《おわり》半国の小領から身を起されて、天下をお望みなさる。このあるじにお仕えすれば、戦うて向う所敵なし。われらも御奉公の甲斐あって、数十万石の封禄《ほうろく》を得る、行末は百万石の太守も夢ではない……」  前久は、頷《うなず》いてみせた。 「それじゃよ。御奉公の仕甲斐というのは……わしが百万石を得れば、わが一族は十万二十万の封禄を得る。日頃身命を捧げて働く家来どもは、数千石数万石の大身に取り立てられ、子々孫々の代までの安楽を得るのだ。それなくして何の為の御奉公か。何が望みでへいつく張り、あるじの命《めい》を畏《かしこ》むか。上様はその道理がわかっておられぬ……」  前久は、ようやく結論を知り得た。  ——信長殿の筆頭家老でも、この程度の知能か。  前久は、腑《ふ》に落ちた心地がした。驚天動地の信長の構想——戦国大名の廃止、あらゆる既得権の打破という大理想——も、所詮は絵に画《か》いた餅に過ぎないのだ。 「で?……どうなさる」 「?…………」 「上様が、さような事を言い出されたら、そこもと何となさるおつもりかな」 「その覚悟は、とうから持っておる」  勝家は、勢いこんだ。 「あるじが家来の分を侵すそのようなお考えは承服致しかねる。万が一……でござるぞ、万々が一、さような事をお考えの時は、早速に諫言《かんげん》申し上げ、お聞き入れなき時は、その場を去らず、刺し違えて相果て申す」  ——まさか、そこまではすまい。  前久は、そう見切っていた。  ——だが……強硬な反対である事は、言を俟《ま》たない。それさえわかればよい。  前久は、早速に京へ立ち戻って、この意見を伝えねば、と、心|急《せ》いた。 「なるほど……修理《しゆり》殿(勝家)ですら、さような姑息《こそく》でござりましたか」  光秀は、苦笑を浮べた。彼の面《おも》に動揺の色はない。むしろ楽しんでいるかのように見えた。  藤孝は、その面貌《めんぼう》の裏に隠された光秀の心を見透かそうと、見つめていた。 「で? ほかの方々は……?」 「うむ。その間、千宗易殿は丹羽五郎左殿にお目にかかり、委細を打ち明けて考えを問い質《ただ》したそうだ」  丹羽五郎左衛門長秀。織田家臣団の中で、柴田勝家に次ぐ第二位の宿老である。 「上様にお仕えする身に、官位など無用」  と、信長が度々|奨《すす》めた官位叙任を拒み通して、今も五郎左という呼び名を押し通す頑固である。 「五郎左殿はどのように言われました」 「それが、四国攻めの準備を仰せつかって、多忙を極めておられたが……宗易殿から上様の構想を聞くと、俄《にわか》に気落ちなされてな。準備も何も手が付かなくなり、ひどく落胆の態《てい》であったそうな……」  丹羽長秀は、失望をあらわに、一遍に年とった様子に見受けられた。 「……やはり、なあ……やはり……」  と、呟《つぶや》くばかりであった。  宗易は、穏やかな口調ではあったが、言外に強く返事を迫る気概を示した。 「まこと、思いも寄らぬお考えを洩れ承りました。この上は織田家家中の方々にひそかに打ち明け、善後策を講じますことが肝要かと存じます」  宗易は、言葉を継いだ。 「して、如何なされますか。お心の内をお洩らし願いとうござります」  長秀は、その言葉が耳に入らぬように、呟きを続けた。 「あの御方様は、そういう御人である……奇想天外、われらの及びもつかぬお考えを抱き……それにまっしぐら、突き進む。もはや、誰もとどめ得まい。われわれ凡愚の輩《やから》は、ただ黙って付き従うしかないのだ……」 「では、そこもと様は、上様にどこまでも付き従う、と……?」 「まあ、お待ちあれ」  長秀は、吾に返ったように言った。 「戦国の大大名は、われら多年の夢……だが、上様がそれを捨てよと仰せあるならば、捨てねばならぬ……だが、わしは……家来どもにそうは言えぬ、凡愚の浅ましさ、家来どもに夢を捨てよとは……言えぬ」 「ならば……」  宗易は、声を励ました。 「どう致します」 「どうもせぬわ」  長秀は、打ちのめされたように、肩を落した。 「上様が、さようにお考えならば、もはや賛同も反対もせぬ。成行きに任す。それで身が滅ぶるならば、それに甘んじよう」  長秀は、ぽつりと心境を吐露した。 「ありようは……このまま御奉公を辞して頭《つむり》を丸め、高野山《こうやさん》に引き籠《こも》りたく思う」  それが、長秀の心情であった。  日はとっぷり暮れた。  昼過ぎまでは薄日のさす天候であったが、夕暮と共に雲は垂れこめ、あたりが闇に包まれると、梅雨時特有の小雨が降り始めた。 「蒸して参りましたな」  光秀が、ぽつりと言った。  藤孝と光秀は、部屋を移し、母屋の奥まった一室で人を遠ざけ、対座していた。 「おこと、きょうは亀山からの山歩き、疲れておろう。休むとするか」  藤孝は、薄い笑みを浮べ、光秀の気色を窺った。 「いや、なかなか……まだ肝心の事を伺っておりませぬ」  光秀は、これも笑顔で応じた。その微笑の裏に、動ぜぬ色があった。 「筑前《ちくぜん》(秀吉)が事か? 筑前がどう反応したかをまだ言うておらぬ」 「それも、ござります」  秀吉の反応は、光秀の最も気になるところである。藤孝は意識的にそれを後廻しにしている。 「その前に、ひと言……そこもと様は、如何お考えか、それを伺わぬうちは、話が先に進みませぬ」  光秀は、真顔に戻って、厳しい口調で言った。 「前関白殿が加賀に出向かれたのも、宗易殿が丹羽殿を陣屋に訪ねられたのも、みなそこもと様のお指図でござりましょう。織田家中の者以外のそうした方々を動かすのは、そこもと様に何か大きな後ろ楯がおありか、それとも大きな企て事があっての事か、その辺の事情をお伺い致しとうござります」  光秀は、ずばりと切りこんだ。 「如何」  突然、藤孝は笑いだした。声をあげて笑った。 「さすが……さすがである。惟任《これとう》日向守光秀殿、当代随一の才智、見識……上様が、余人をおいて後継を委《ゆだ》ねるだけの事はある……」  藤孝は、笑いをおさめて、真顔になった。 「いや、恐れ入った。実はそれを先に言わなかったには訳がある。叶《かな》う事なら言わずに済ませたかったが、おことにそう言われると隠し立てもなるまい。いのちを托《たく》して打ち明けよう、よろしいか」  光秀は、領いた。 「わしが近衛前久殿、千宗易殿の甲州帰りを関ヶ原で出迎えたのは、四月十五日、上様の帰還に先立つ六日前であった。ちょうど安土に所用あって参った折に、両名の帰着の知らせがあったので、茶の湯など催し、旅の疲れを慰めようと、関ヶ原まで出張ったのだ」  藤孝は、いつになく敬語を略して話していた。光秀は気付かぬ振りで聞き入った。 「そこで、上様が洩らした話を聞いた。両名はこれより、越前と近江|佐和山《さわやま》に出向き、修理殿(柴田勝家)、五郎左殿(丹羽長秀)の意向を確かめに行くと言う。わしは宗易殿の手づるで堺に行き、船で備中沙美《びつちゆうさみ》の浜に出向いた……」 「備中へ……?」  光秀は、不審の声を放った。備中は言うまでもない毛利領。目下秀吉が兵団を率いて進攻を開始し、内陸の高松城の清水|宗治《むねはる》を攻めて水没させる策を実施中と聞いている。 「まあ聞かれよ。細川家の手勢は倅与一郎忠興に委ねておる。何地《いずち》へ行こうと気儘《きまま》な身だ」  藤孝はそう言うが、そんな気楽さの許される状況ではない。仮にも敵地に潜行するとなれば、相当の危険を覚悟しなければならない。  光秀は、話の腰を折るまいと、じっと聞き入った。  沙美の浜は備中の入海で、白砂青松の明媚《めいび》な風光で名高い。  宗易の荷船に便乗した藤孝は、その浜で船を下り、従者二人を伴って、北方の竹林寺山《ちくりんじやま》に足を運んだ。竹林寺山は往古同名の寺があったと聞くが、今は廃《すた》れて跡形もない。当時、その眺望を利用して毛利方が置いた見張りの番所があった。  藤孝の一行が案内を乞うと、番所の表口に現れたのは、平装の若侍であった。 「恐れ入ります、長岡様であられますか」  長岡は、細川の異姓である。藤孝が頷くと若侍が、先に立って番所内に導いた。 「こなたらは、だいぶ先に着かれたか」  藤孝が、そう訊ねると、若侍は恐縮の態で答えた。 「いえ、ほんの半刻《はんとき》(約一時間)前に、着いたばかりにござります。元々が無人のこの番屋、何も片付いておらず、相済まぬことにござります」  若侍は、奥の一室に来ると、板戸越しに内へ声を掛けた。 「長岡様、御到着にござります」  内より咳《しわぶき》の声がして、低く応じた。 「お入り願え……そちたちは退《さが》ってよい。こなたから声掛けるまで控えておれ」  藤孝は、戸を排して内に入った。 「御免を被る」  薄暗い室内に、円座に坐る人影があった。 「懐かしや、兵部大輔《ひようぶだゆう》殿」  人影は、絶えて久しい足利十五代将軍|義昭《よしあき》である。その姿の変りように、藤孝は息を呑んだ。  年は確か四十六である。だが流亡の年月は義昭の壮気を無残に奪った。今見る義昭は還暦を過ぎた老爺《ろうや》と見紛《みまご》うばかりであった。  かつての義昭は、才気にあふれ、血気盛んな貴公子であった。それが鬢髪《びんぱつ》白きを加え、無為徒食の所為か小肥りになった。いや肥えるというより、浮腫《むく》んだと見える。眼光は失せ、顔色青白く、立居振舞いも鈍いように見受けた。 「上様……」 「兄者殿……お久しゅうござる」  思いもかけぬ義昭の言葉である。 「な、何と仰せられます」 「いや、以前の身ならばいざ知らず、この義昭、もはや世に捨てられた身にござる。何の隠す謂《いわ》れがござりましょう。あらためて御挨拶|仕《つかまつ》る。兄者殿、弟の身を以てこれまで数々の御無礼を重ねました。その上に……足利の血脈《けちみやく》を伝え、将軍位を相承《そうじよう》せんがため、あるじの位《くらい》を侵し、お言葉に背くこと度々にござった。その横暴の報いあらわれて、今の見苦しい体たらくをご覧に入れます。お恥かしき事にござる」 「…………」  藤孝は、暫《しば》し応ずる言葉を失った。  細川藤孝は、天文三年(一五三四)の生れである。当年四十九歳。  父は、足利十二代将軍|義晴《よしはる》、当時二十四歳であった。未だ正室を持たぬ身であった。母は儒学者清原|宣賢《のぶかた》の娘であったという。  義晴の父、十一代|義澄《よしずみ》は、堀越公方《ほりこしくぼう》足利|政知《まさとも》の子である。義澄は、管領《かんれい》細川|政元《まさもと》の後援を得て十代|義稙《よしたね》を追い、将軍位を簒奪《さんだつ》したが、その実細川政元の傀儡《かいらい》に過ぎず、後に政元が暗殺されると、十代義稙が細川高国と結んで再上洛したため、蒙塵《もうじん》して近江で客死した。細川氏の専制と戦国大名化したための圧迫に虐《しいた》げられた悲劇の将軍といわれた。  藤孝の父義晴は、播磨《はりま》の赤松氏の庇護《ひご》の下に育った。  十一代義澄を追い、十代義稙を将軍位に復帰させた細川高国は、間もなくその義稙と対立、義稙は阿波に客死、義晴は高国に擁立されて十二代将軍位に就く。それを機に高国は義晴に正室を娶《めと》ることを斡旋《あつせん》した。妻は五摂家の筆頭、近衛|尚通《ひさみち》の息女である。名は法名が慶寿院と伝わっている。  名門の息女、仲立は幕政を壟断《ろうだん》する管領である。否やはない。だが問題はその十二代義晴の庶子であった。高貴の正室を迎えるに、側室とその子の存在は、いかにも名聞が悪い。  細川高国は、強権をもってその側室を幕臣|三淵晴員《みつぶちはるかず》に嫁がせて、糊塗《こと》した。そのため藤孝は、三淵家の子として育てられた。  十二代義晴は、近衛家から迎えた正室との間に三男二女を生《な》した。嫡男(実は次子だが)義輝《よしてる》(初名義藤)は、後に十三代将軍となる。次男|覚慶《かくけい》(還俗《げんぞく》して義秋。後の義昭)は奈良興福寺|一乗院《いちじよういん》の門跡、三男|周《しゆうこう》は京の金閣寺の住持に補せられた。  藤孝は六歳の折、父義晴の計らいで和泉《いずみ》半国守護職の細川|元常《もとつね》の養子となり、十三歳の時、義晴の嗣子となった義藤(義輝)の諱《いみな》の一字を貰いうけて藤孝と名乗った。  その年、十二代義晴は、京を制圧した阿波の豪族|三好長慶《みよしながよし》に追われて近江に亡命、義輝は同地で元服、第十三代将軍の宣下《せんげ》を受けた。  その際、両名の父義晴は、隠し子の藤孝に言って聞かせたという。 「足利将軍の威権は、初期の放埒《ほうらつ》が祟《たた》って今に見る衰微の有様となった。われもまた家臣の権勢に押され、嫡男藤孝に将軍位を継がせること叶わず、あまつさえ日蔭の身とした。いまそちの弟義輝が十三代将軍となる。そちはこれも天運と思い定め、彼を扶翼《ふよく》して足利将軍の威権回復に努め、行く行くは管領となって幕政を掌握し、足利将軍と室町幕府の再興に力を尽すよう、頼みいるぞ」  その父義晴の望みは空しく、十三代義輝は三好・松永|輩《はい》に弑《しい》せられ、藤孝が擁立を図った十五代義昭は、無残な流竄《るざん》の身を晒《さら》している。 「兄者がここ備中に下られるに当り、堺の商人千宗易は、その手筈書きを兼ねてこたびの一件を、詳細に書き添えてくれた……」  と、義昭は言う。  互いに表向きの主従と、裏の兄弟の間柄を確認し得た二人は、打解けての会話となった。 「兄者が堺を出立する前に、近衛前久殿も交えて、この先の打ち合せを抜かりなく行うとあったが……それは済ませられたか」 「委細……相済んでおります」 「それにしても信長は、思い切った事を考えつくものよ。驚き入って言葉も出ぬ……あれは、天魔と言うべきかも知れぬ」 「…………」  藤孝は、微笑を浮べた。  ——天魔か、今のこの世の中には、天魔はいくらでもいる。  信長が魔王であるならば、本願寺の顕如光佐《けんによこうさ》も魔であろう。浅井、朝倉、叡山の僧も、松永|弾正《だんじよう》、武田|勝頼《かつより》も、いずれも世を乱し顧みぬ魔族である。夫子《ふうし》義昭もかつては魔王であったではないか。  その藤孝の冷たい微笑に、義昭はそれと覚ったようである。 「いや、今にして思えば、躬《み》は将軍位にこだわり、権勢権力を得ようと狂った。おれも天魔に魅入られておった、としか言えぬ」  藤孝は、ここまで足を運んだ本旨に思い至った。 「肉親とは言い条……お前様は歴とした将軍にあらせられる。そこでお訊ねしたい。信長殿の構想、如何致します」  藤孝は、更に一歩踏み込んだ。 「黙ってお見過しあるか、それとも精一杯、歯向うてみられるか……いずれとお考えなさりまするか」 「知れた事……天子を裁定者などと畏れ多い。それに幕府を消して重臣や衆庶の会議を持つなど片腹痛し、大名武将にとって功名手柄が空しくなるは生き甲斐、働き甲斐の消滅であろう。公家・商人の権を奪うは生死の分れ目である。断乎《だんこ》その構想は潰《つぶ》さなければならぬ……」 「言うは易《やす》うござりますが、行うは至難の業《わざ》……旭日昇天の勢いの信長公を潰すには如何致したらよいか……」 「それは、筑前(秀吉)だ。あれは利を以て動き、敵味方を瞞着《まんちやく》して今日を得た男だ。信長の構想を聞かば、必ずや悪辣な手だてを講じよう。あれは道義の心を持たぬ、あれを頼め」  ——なるほど……。  と、思った。落魄《らくはく》したとはいえ、さすがに往年の謀略の心は失《う》せていない。眼の付けどころが抜群である。  義昭は、言葉を継いだ。 「そこで言おう。信長が失せたら、天下は引っ繰り返るような争乱が起る。その争乱を鎮めるため、一、二年を限り、躬が将軍として号令しよう。そのあとは長幼の序に則《のつと》り、将軍位を兄者に譲る。その時は明智光秀を管領に任じ、軍務を委《ゆだ》ねる……」 「で? 筑前は?」  と、藤孝は、すかさず切りこんだ。 「あれは……適宜、処置することだな。信長ですら見切っておる男だ。あのような下品《げぼん》の男の顔は、見とうもない……」 「その辺は、衆知を集め、策を講じましょう。差し当っては筑前の腹の内を探ってみませぬと、何とも言えませぬ」 「ついては……近衛前久殿の朝廷工作と堺の軍資金は、もはや話合い済みだな」 「委細、済ませております。事が起れば旬日を経ず、今井|宗久《そうきゆう》、津田|宗及《そうぎゆう》が納屋《なや》衆を糾合《きゆうごう》して、数万貫の軍資金を進上するとの事にござります」  話が核心に触れると、義昭はうって変り生き生きと、往年の活気を取り戻したようであった。  愛宕山の夜は更けた。雨音はその後も続いている。  ——陰謀は明らかだな。藤孝、近衛前久、千宗易、それらがそれぞれの権……足利将軍の、朝廷貴族の、堺の商権の既得権を守ろうと懸命に動いている……。  光秀は、ひとり冷めていた。いや冷めた自分を楽しんでいた。  ——上様は、これら欲の亡者と比べると、格段の天才である。  光秀自身、才智と思慮では、信長に次ぐ者との自負がある。  世が変る。新しい秩序、新しい体制の下に国全体が変る。それ自体、楽しい事に違いない。  光秀は、失う物の少ない自分を喜んでいた。家臣団と言っても、左馬助秀満《さまのすけひでみつ》、斎藤|内蔵助利三《くらのすけとしみつ》など、死を鴻毛《こうもう》の軽《かろ》きにおいて尽してくれた家臣は、数えるほどしかいない。  今度の中国攻めの発動前に、光秀の兵団は組織が一変した。岐阜以来、光秀の下で働いた将領は、殆《ほとん》どが信長の麾下《きか》に復帰した。彼らもまた、嬉々《きき》として戻って行った。それらの者に義理は無い。彼らは信長の新体制の下で、おのれの生きる途《みち》を探すだろう。  兵団は、新付《しんぷ》の丹波の者で固められている。その働きはこれからのものである。  光秀が——戦国大名としての地位を失うとしても——行く末に心配りせねばならぬ者は五指にとどまる。  ——それらは、なんとかなる……それよりも天才信長の許《もと》で、後継者の任に当る。その喜びの方が大である。  光秀は、ひとつ重大な事を見落していた。  それは、藤孝ほどの者が何でこのような重大事を、出陣直前の光秀に、いともたやすく打ち明けたか、という点である。  藤孝は、容易に光秀の心を引きつけ得るとは思っていまい。  それを、口に出すからには、何かがある。  罠《わな》。  光秀は、知らずその罠に引き入れられかけていた……。 「さて、これからが肝心な事だ」  藤孝は、接待の僧が用意してくれた湯冷しを湯呑に注ぎ、咽喉《のど》を潤した。 「足利公方(義昭)と別れると、その足で備前に戻り、また国境《くにざかい》を越えて、備中高松城の城攻めの陣に筑前(秀吉)を訪ねた」  秀吉は、精強の守将清水宗治を敢《あ》えて力攻めせず、遠巻きに包囲陣を布《し》いた。  兵力の格段に劣る宗治は、城に固く閉じ籠って、毛利の援軍を待った。  秀吉には、策があった。城外を流れる足守川《あしもりがわ》を堰《せ》き止めて田野に溢水《いつすい》させれば、低地にある高松城は水没する。  秀吉は丘陵の狭隘《きようあい》部に、長大な堰堤《えんてい》を築いた。堰き止められた川の水はたちまち高松城外を満たし、刻一刻と城を水没させて行く。  藤孝が到着した時、城の石垣の半ばまで水は達していた。 「やあ、よく座《わ》せられた。お久しゅうござる」  秀吉は、上機嫌で藤孝を迎えた。 「梅雨時ゆえ、雨はひっきり無しに降ると思いきや、三日降れば二日休み、二日降れば三日の日照りじゃ、なかなかに計《はか》が行かぬ。まあ御覧《ごろう》じあれ」  口ではそう言うが、得意さは隠せない。  元々が単純な男である。その得意顔も愛嬌の一つで、人たらしの術といえよう。藤孝は与《くみ》し易しと見た。  藤孝は、人を遠ざけさせて、秀吉に信長の未来構想と、柴田勝家、丹羽長秀の反応を、事細かに話して聞かせた。  最初は、根も無い噂話を聞くように楽しんでいた秀吉は、話が終りに近付くにつれ、真顔で聞き入り、遂には顔色を失い、膝に置いた掌《て》が震えだすのをとどめ得なくなった。 「暫く……お待ち願えまいか」  話が終ると、秀吉はそそくさと座を立った。  後架(便所)に行くのかと思ったが、そうでない事がわかった。秀吉は小姓を呼び、軍師を務める黒田官兵衛の許に使いさせた。  官兵衛が来ると、二人は小部屋に閉じ籠り、しきりと密談を交す風情であった。  かなり長い間、藤孝は放って置かれた。  一刻(約二時間)余も経って、秀吉は座に戻った。 「や、御無礼仕った。陣中の事ゆえ、思い付いた事があるとすぐさま処理致すが肝要……思わぬ時を過ごし、さぞ手持ち無沙汰《ぶさた》でござったと推察致す。申し訳もござらぬ」  藤孝は、黒田官兵衛も座に加わるであろうと思ったが、その様子はない。そのうちかなり離れたあたりで官兵衛の叱咤《しつた》する声が聞こえ、本営の中は俄にざわめき始めた。  ——わしを出し抜くつもりかよ。世にかほど狡猾な奴はない……。  藤孝は、苦々しく、そっと舌打ちした。  愛宕権現の社家の一室で、光秀は押し黙ったまま、身じろぎもせず、藤孝の次の言葉を待った。  秀吉の反応は、織田家中の面々の運命を決める。前久、宗易と藤孝の巡歴の順序は、自然にそうなった。  ——あやつめ! 好かぬ男だ。  光秀は、それまでさほど気にかけていなかった秀吉への憎悪が、かほど強いのを知って、われながら驚いていた。  ——嫉妬ではない。わしはあの男の教養の無さ、臆面もない媚《こ》びへつらい、いけしゃあしゃあとした態度が好かぬのだ。  それは、嫉妬であったかも知れない。それも無類の強烈な嫉妬のなせる感情の激発とも言えよう。普段は無意識に、極めて親密に交際しながら、内には瞋恚《しんい》の炎《ほむら》を燃やしていたに違いない。  藤孝は、焦《じ》らすかのように、ゆるゆると話を続けた。  秀吉は、官兵衛と相談し結論を得るまでに、元の平静さを取り戻し、にこやかな笑顔で藤孝に対した。 「いや、思いもかけぬ上様の御様子を洩れ承り、有難き事でござった」  藤孝は、皮肉をこめて問いかけた。 「如何でござる。そこもとだけは大名の望みを断念致されるかの」 「さてのう……それがし卑賤の身を以て上様のお見出《みいだ》しに預かり、今日の栄達を得申した。たとえ今日限り元の卑賤に戻りましても、決して不足はござらぬが、修理殿、長秀殿と同様、これまで身命を尽して働きくれた家中の者の事を思えば……その失望落胆は見るに忍びぬものあり……」 「では、いのちを賭けてお諫《いさ》め致すか……」  秀吉は、薄笑いを浮べた。 「そこもと百も承知でござろう。われら家来どもが五人十人腹切ったとて、一旦思い立った事に心変りなされる上様ではない……」 「…………」  藤孝は、灼《や》ける思いで、次の言葉を待った。 「さりとて、お歴々は余りに策が無い。諫言《かんげん》お聞き入れなくば刺し違えるという修理殿は過激に過ぎる。また丹羽殿は優柔不断、どちらもとるに足りぬ、そうなると安土様は、この猿めが料理するしか無いか」  秀吉は、からからと笑った。 「では、どのように……」 「それは秘中の秘、滅多に言えぬ……と申せば、身も蓋《ふた》も無いか」  秀吉は、またも笑った。その笑いは自信のほどを誇示するかのようであった。 「兵部大輔殿。そこもとこの筑前に一臂《いつぴ》の力を貸し給えればお教えしよう……いや、打ち明けて御同意なければ、そこもとを真っ先に討ち滅ぼしてもよいが」  そう威丈高に言ったが、さすがに声を低めた。 「近く、かの御人《おひと》は、この備中に御出馬なされる。それまでにわれらは毛利との和睦《わぼく》を調えておくつもりだ。御到着と同時に軍議と称してこの陣中に誘いこみ、取り籠《こ》めて監禁し、わが手中に置く。事成るや直ちに軍を返し、京を制圧する。かの御人の御下命と称するわれらの行動に、靡《なび》く者は味方に組み入れ、背く者は謀叛、叛逆として討つ。事治まった上でかの御人に政権委譲を迫り、御隠居を願う。あとはわれらの天下……というのは如何かな」  これは、今日で言うクーデター。兵力を用いて急激な非合法手段に訴え、政権を奪う。  藤孝は、度肝を抜かれた。この短時間に計画を発企し、水も洩らさぬ態勢を整える、その行動力の速さが彼の身上と言えよう。 「……だが、それには種々の難事、難関があろうかと存ずる。万事がそううまく運ぶであろうか」 「ま、細工は流々《りゆうりゆう》……お委せあれ」  秀吉は、すでに手を打ち始めた、という。毛利との和睦に、相手方の外交僧|安国寺恵瓊《あんこくじえけい》を呼び寄せている。更に彼の三万の兵団は、中国大返しの準備を開始した。即ち軍兵は装備を打ち捨て、裸身同然で京へ引き返す。装備と矢弾《やだま》、兵糧は、播磨の姫路に用意しておいて軍装を整える、というのである。 「中国大返し……」  藤孝から聞く光秀は絶句した。  ——さすがは秀吉……。  信長を監禁して、その威権を借り、天下を簒奪《さんだつ》する。その方策を須臾《しゆゆ》の間に考案する。一分の隙もない。  光秀は、秀吉を見縊《みくび》っていたようである。智略では優るとひそかに自負していた。人たらしの術《すべ》では劣るが戦略では譲らない。その自信が音立てて崩れ、胸が塞《ふた》がれた。 「日向殿」  藤孝は、切羽《せつぱ》つまった口調で呼びかけた。 「…………」 「わが身の秘めた素性といい、筑前から聞き出したかの者の戦略といい、これまで打ち明けても、おこと、決心がつかぬのか」 「…………」  光秀は苦悩した。 「おことが大切と思う安土殿の命脈は、もはや尽きたと思ってよい。今の世に戦国大名を廃して治まるものか。信長公が言われるおことの後継者の道は、おこと自身が自らの決断で開く外はないのだ。このままでは筑前の下風に立つしか、おことの生きる途はない」 「藤孝殿」  光秀は、すがる気持で問いかけた。 「もしも、でござるぞ、それがしが筑前に先んじて事を起せば、どれ程の者が味方するでありましょうか」 「それは……大義名分によるな」 「大義名分……」  光秀は、苦痛に顔を歪《ゆが》ませた。 「あるじに刃《やいば》を向けて、大義名分は立ちますまい」 「いや、立つ。それが立つのだ。安土であれ、またなにびとであれ、畏《かしこ》きあたりより宣下を受けた将軍位は、武家の棟梁……これを扶翼することはまさに大義名分である」  藤孝は、更に言葉を続けた。 「誰が変を起そうとも、人心を収攬《しゆうらん》するには大義名分が要る。人が非常な混乱の中で去就に迷う時、その迷いを覚まさせるのは大義名分でござる」  藤孝は、まだ苦悩を続ける光秀を、憐《あわ》れむように見て言った。 「その大義名分は、それがしの掌中にある。それをお忘れあるな」  ——おれは、征夷大将軍に就く身である。  言外にその意を含めて、藤孝は座を立った。  翌二十八日は、朝から雨であった。  ——帰城は、明日に延期するか。  光秀が出立をためらっていると、京から連歌師の里村|紹巴《じようは》がやって来た。 「西坊《にしのぼう》にて連歌の催しをなさるとの、細川様のお言伝《ことづ》て承りました」  藤孝が、光秀があまり思いつめぬように配慮したのであろう。  その藤孝は、急用と称して朝方下山していた。  気はすすまなかったが、光秀は連歌の催しを挙行するしかなかった。  その連歌の会から、俗説が生れた。光秀の発句は「ときは今あめが下《した》知る五月哉《さつきかな》」であったという。�とき�を光秀の血統�土岐《とき》�、�あめが下�を�天下�と詠んで、光秀の決意表明だ、とする説である。更に「本能寺の濠の深さは」と口走り、出された粽《ちまき》を笹の葉ごと食らった、ともいう。  これは連歌師の紹巴が事後、さかしら顔で作り事を言いひろめたのであろう。光秀は発句や挙動で、おのれの心中の秘事を洩らすような浅薄な男ではない。以下、神籤《しんせん》を三度も引き直した挿話も同前である。  紹巴は、千宗易から托された書状を光秀に渡した。光秀が開き見ると、信長の日程が記してあった。五月二十九日安土を発ち、その日の夜、京都四条|西洞院《にしのとういん》の本能寺に入る。伴うのは扈従《こじゆう》の者二十余名、足軽・小者、料理番などは二百人である。  信長に先立ち、三位《さんみ》中将|信忠《のぶただ》は、前日二十八日、手勢五百を率い京の妙覚寺《みようかくじ》に入り、信長との合流を待つ。  六月一日は、両者とも京に滞在する。おそらく日をおかず、中国へ進発するであろうと思われる。  尚、家康の一行が京を発ち、堺見物に赴くのは二十九日である。堺での宿館は堺の政所《まんどころ》の司《つかさ》(代官)松井|友閑《ゆうかん》の屋敷で、その接待を受ける。家康は六月一日、堺を見物し、二日京へ戻り、信長と別れの宴を持つ。  二十九日、光秀は愛宕を降り亀山城に戻った。  信長は、軽騎の扈従を伴い、五月二十九日安土を出立、同日夕刻京都本能寺に入り、先発の設営の者と合流した。  一夜、疲れを休めた信長は、六月一日、京都御所に参内、奉伺を済ませたあと、本能寺に戻って、畿内・畿外の貴顕の挨拶を受けた。  来客は、日暮れまで続き、やがて、先行していた三位中将信忠が、宿舎妙覚寺を出て、本能寺を訪れた。  信長は、嫡子信忠の訪れをひどく喜んだ。戦に明け暮れていた頃と異なり、この時は数日前、安土でいろいろ指図を与えている。それが年余も会わなかったような懐かしみぶりであった。 「もう来客は断れ。会わぬ」  と扈従の者に、酒肴《しゆこう》の用意を申し付けた。  この夜、陪席したのは、はるばる筑紫《つくし》(九州)から、信長の許に挨拶に罷《まか》り越した博多《はかた》の商人たちであったという。奇態なことに近間《ちかま》の堺の商人はひとりも訪れていない。 「あれらは中国路で待ち受けておろう。人を出し抜くことが好きな奴らよ」  信長は一向気にせず、博多商人が持参した名物・銘品を並べさせ、一々吟味した上で、買い上げた。  信長の美術品に関する造詣《ぞうけい》は、尽る事を知らない。話が弾み、酒がすすんだ。  歓談数刻、夜が更けて、博多商人たちは辞して宿に戻った。その後、座に残ったのは、信忠と京都留守居役の村井|貞勝《さだかつ》、側近の森|蘭丸《らんまる》ら、ごく少数の者であった。  この夜、信長が何を語ったか、是非にも知りたいと思うが、記録には残らなかった。この座にいた者は、翌朝ひとりも生き残らなかった。永遠の謎となった。  その夜は、夜半過ぎから霧がたちこめ、梅雨どきの湿気のため、灯火がぼうっと霞《かす》むほどであったという。墨絵の如く幻に似た父子歓談の図は、信長の最期を飾るにふさわしい一幅の画題であっただろう。  信長が京で過した最後の一日——六月一日。  光秀は、丹波亀山城にあって、ひたすら細川藤孝の指令の届くのを待ちわびていた。  出陣の丹波兵団の馬揃を、早々に済ませた。その兵力は一万三千。  すでに数日前、寄騎の摂津衆——池田恒興、高山右近、中川|瀬兵衛《せへえ》、塩川吉太夫《しおかわきつだゆう》らの一万には、摂津|三田《さんだ》で合流するよう申し送ってある。  ——あの軍勢は、手許にとどめておくべきだった。  悔いても後の祭りである。藤孝が秘事を伝えてくれるのが、あまりに遅かった。  光秀がその秘事を聞き知った時、即座に考えたことは、信長の許へ走って委細を打ち明け、裁断を仰ぐという一事であった。  光秀は一夜考えた末、翌早朝丹後の居城へ帰る藤孝と再び会って相談した。  だが、藤孝は賛同しなかった。 「それはわしも考えた。あの御方のことだ。烈火の如くお怒りになり、筑前(秀吉)や修理(勝家)めを誅殺なさるだろう」  藤孝は一旦言葉を切って、光秀の顔を覗《のぞ》きこんだ。 「わしがそうしなかったのには、二つの理由がある。一つは織田軍団の崩壊を招く。北国から柴田の兵団、西から筑前の兵団が京に攻め上《のぼ》る。おことやわれら、それに丹羽五郎左の兵団が立ち向うとあれば、織田軍団は真っ二つに割れ……これまで進めてきた天下統一の大業は乱離骨灰となる」 「それは……」  光秀が言いかけるのを、藤孝は制した。 「待て、その前に肝心なことを言う。誅殺なさるには軍勢が要る。その軍勢はどこに在る。今の上様は裸身《はだかみ》同然ではないか」  信長の頼みの綱は、直轄の機動軍団である。信長は、これまで機動軍団の動静は、軍事の最高機密として、味方にも秘匿し続けた。迅速な機動の目的は、敵の意表を衝くことにある、というのがその理由である。  それが、今の緊急事態に仇《あだ》となった。中国出陣の命を受けた機動軍団は、とうに美濃を発したに違いない。いまごろは尾張から伊勢を駆け抜け、大和あたりか。これも播磨に入れば待ちうける秀吉が信長の下命と偽って、麾下に組み入れるであろう。精強ではあるが元々が傭兵である。  形勢次第で容易に相手方に付く。  顔色蒼《がんしよくあお》ざめた光秀は、ひそかに計算を立てた。秀吉兵団は寄騎を含めて一万八千、それに機動軍団四万を組み入れれば総勢五万八千。  光秀の兵団は一万三千。寄騎の摂津衆を呼び戻し、丹後の藤孝勢を加えても二万六千。秀吉勢の半分に満たない。  更に——異変が生じたとなると、北国の柴田兵団が行動を起すに違いない。信長の未来構想に真っ向から反対の勝家は、敵方に廻ること必定である。  ——この事態は、どうにもならぬ。  光秀は、胸塞がれる思いで、藤孝を凝視した。  藤孝は、諭《さと》すように言った。 「よいか、日向殿……事が急に過ぎて、今のわしにもこれという方策が立たぬ、だが……」  藤孝は言葉を継いだ。 「事態がどう急変しようとも、必ず打開の途《みち》はある……わしには、筑前や修理づれにない隠し玉がある。禁裏と堺だ。天子の御威光と堺の金、これを操れば途は開ける……」 「いや、さような迂遠なことより、今が今、どう致せばよいかと……」 「早まってはならぬ、と申すのだ」  藤孝は、かぶせて言った。 「情勢は、予想通りには動かぬ。かほどの異変、時々刻々に変る。暫くは推移を見守ったがよい」 「では、上様は……」 「このまま、中国路へ進発なされたらよい。そこもとも出陣されよ。筑前めが背叛をやってのけるか否か……やればやったで、わしには打つ手がある。そこもとはそれまで面従腹背、時機を待つのだ」  かつて十三代将軍義輝の頃、京に威勢を誇る三好・松永|輩《はい》を相手に、八面六臂《はちめんろつぴ》の策謀を尽した藤孝である。その言葉に千鈞《せんきん》の重みがあった。 「そこもとは、一途《いちず》に安土殿の身を案じておろうが、今はその時ではない。何よりも大事は、これまで築き上げた天下掌握の大業を、いかに崩さず、後に移すかにある」  藤孝は、暗に足利幕府体制の復活を匂わせた。光秀には、それを感得する余裕がない。  もはや出立の時刻である。藤孝は座を立った。 「早まりめさるなよ。われらと共に謀り、心を合せて万全を期さねばならぬ」  そして、更に一言つけ加えた。 「後ほど、詳しい手筈を送り申そう、それを待たれよ」  その指図が、今もって来ない。  実は、藤孝は、光秀の寄騎として出陣する倅の忠興をさしとめるため、そのゆとりが無かったのだが、それを光秀は知る由《よし》もなかった。 「細川勢が到着したら、軍議を開く」  光秀は、左馬助秀満や斎藤利三ら麾下の部将に伝えて、待ち続けた。  陽は昇り、やがて傾き、日暮が迫った。  長い一日、光秀の繊細な脳裏には、様々な思念が渦巻き、浮んでは消えた。  光秀の頭脳は、疲れ果てていた。人はあまりに煩悶《はんもん》すると合理の考えがいつか薄れ、感情に支配されがちとなる。  疲労|困憊《こんぱい》した光秀の頭脳を領したのは、信長に似た美意識の昂揚であった。  ——あの男の下風には立てぬ。  光秀は、信長の麾下にあって、常に第一位を占めた。  ——上様は、おれを後継者と目しておられる。  未来構想を知って、尚更であった。  上位にあって秀吉を見るとき、何のわだかまりも持たなかった。むしろ愛すべき男、と思っていた。  それが今、逆転しようとしている。  ——あの下品《げぼん》、野卑さは堪え難い。  軽蔑《けいべつ》は、憎悪に変った。信長の卓絶した未来構想も、おのれの後継者としての栄光も、あの男の一挙によって泥土に踏み躙《にじ》られる。  ——どうすればよい。もはや藤孝殿は頼りにならぬ。どうするのがおれの途だ。  ふっと思った。  洩れた未来構想に、家臣は悉く悖戻《はいれい》の意を示した。信長の命運は尽きたと見るべきである。  命運尽きたあるじにこだわるべきではない。今は敵秀吉の出端《ではな》を挫《くじ》くこと、あやつめの野望を打ち砕くことに専念することこそ大事である。  ——あやつめは、上様を取り籠めて、兵馬の大権の譲渡を迫るに違いない。ならばその玉《ぎよく》を砕き、おれが後継者として天下に号令したらどうだ。  明らかな妄想である。だが乱れに乱れた光秀の脳裏から、理非も分別も消し飛んでいた。  光秀の軍は戌《いぬ》ノ刻(午後八時頃)、亀山城を出陣した。軍団は中国へ向う三草《みくさ》山方面ではなく、逆の東方へ向った。  子《ね》ノ刻(午前零時頃)近く、光秀の軍勢一万三千は、山城・丹波の国境、山陰道|老ノ坂《おいのさか》に差しかかって停止した。右に道をとれば播州三田道、左に折れて長い坂を降れば右京区鷹ヶ峯に入る。  兵に夜食を命じた光秀は、副将左馬助秀満を始め、重立つ部将を召集し、俄に軍議を開いた。  議する事柄は、信長|弑虐《しぎやく》の一事である。  光秀は過日、千宗易から聞き知った信長の未来構想から説き始めた。  各部将の驚愕《きようがく》は如何《いか》ばかりであったか。恐らく混乱に陥ったことは想像に難くない。  ——戦国大名という栄達の途は無くなる。  人間には、誰しも見果てぬ夢のような望みがある。明日のいのちの計り知れぬ戦士にとっては、その夢がいのちのあかし[#「あかし」に傍点]であった。  その希望の灯を無残に打ち消す信長の未来構想に、各人が抱いた反応は、憎悪であった。  光秀は、信長麾下の部将の対応を説明した。それに京都朝廷の意向、堺商人の反発を付け加えた。  各部将は、ますます困惑の度を加えた。いかにすれば身を全うできるか。驚天動地の事態は、目前に迫っている。わけても秀吉の機敏な行動力は、彼らの危機感を駆りたてた。 「先んずれば人を制す、の譬《たと》えがござる」  各人の昏迷を一気に醒《さ》めさせたのは、左馬助秀満のひと言であった。 「事は急を要します。安土のかの人は、軍勢を率いず京に宿っております。だが明日は計り知れぬ。今宵この時を逸すれば、機会は二度と無きものと心得ます。今は決断の機《とき》、たとえ足利将軍、細川兵部大輔の意に背こうと、われらの手に天下を掌握する。それしかわれらの生きてこの世にある途はござりませぬ」  衆議は一決した。世に憎悪ほど勇気を駆りたてるものはない。信長と秀吉、その二人に対する家臣団の憎悪と反感は火と燃えた。  各部将は、それぞれの部隊に散った。あとは行動あるのみである。全軍戦闘準備に狂奔した。  命令は続けざまに飛び交った。 「敵は本能寺にあり」  ついに、全軍に対して戦闘目標が下令された。  その間に、一万三千の軍勢は漲《みなぎ》る水が千仞《せんじん》の谷を決する勢いで、老ノ坂を駆け降った。  夜明け前——睡眠中の信長は、異常な胸苦しさに悶えた。  ——おれは、呼吸が止っている……。  ふっと我に返ると同時に、呼吸が戻っていた。  今日でいう過労による睡眠中の�無呼吸症候群�であろうか。そうであっても当人が自覚するのは稀有といっていい。  ——昨夜は、近頃になく酔いが過ぎた……。  まだ夢うつつの信長は、反省した。動悸が速い。しきりと不安感が襲う。  ——年をとった所為《せい》か……おれももう若くは無いのだ。人生五十年はあと半年……。  心気を鎮めようと呼吸を整える瞬間、かすかな空気の波動を感じた。遠く伝わるその波動には、異常の重さがあった。  ——はて、地震《ない》か、それとも大量の人の動き……?  信長は、がばと撥ね起きた。 「誰かある! 蔀《しとみ》を開けよ!」  すぐさま応える声がして、小姓頭の森蘭丸が小走りに来ると、ばたばたと蔀を開けにかかった。  寝床に坐した信長の鋭敏な五感は、遠くかすかに潮騒《しおざい》に似たどよめきを感じとった。 「待て、あの音は何だ」 「は……?」  蘭丸には、感じとれない。 「見て来い! 西の方角だ」  間髪を容れず、蘭丸は走り出た。異常な感覚を持つあるじに仕えるには、こうでなければ務まらない。  廻廊を走り、欄干《おばしま》の角へ来たが、庭木や塀が邪魔で遠望が利かない。庭に飛び下りると縁の下の大|梯子《はしご》を引き摺り出し、大屋根に掛けた。  信長は、心気が治まらない。得体の知れぬ不安感がしきりと襲う。立ち上がって白絹の寝衣の帯を強く締め、鴨居の大身の槍を取り鞘を払った。穂先の白刃が光った。  ばたばたと、荒い足音と共に蘭丸が駆け戻った。真っ蒼に血の気が失せていた。 「町辻に軍兵が溢れ……此方《こなた》に寄せ来まする」 「…………」  信長は、頷いたが言葉にならない。  思念が渦巻いた。  ——何者か、おれを殺《あや》めようとする。いまここに在る手勢は、小者・料理人まで加えても二百余人……戦にはならぬ。  油断。という考えが飛び込んだ。  ——いや、油断ではない!  信長は、断乎としてその考えを打ち消した。  ——これは天の為せる業《わざ》だ!  信長は、努めて冷静に言った。 「謀叛か、それとも……」  いずれかの残党の襲撃か、考えられるのはその二つしかない。 「旗幟《きし》は紛れもなき桔梗《ききよう》の紋、惟任日向にござります」 「光秀が?」  一瞬、耳を疑った。  ——あやつが、何故……。  思い当る節は無い。後継者と思い定めた男である。しかも必勝の大戦略を発動した直後に、謀叛を起すとは……。  信長は、おのれの大理想、驚天動地の政体構想が漏洩したとは、夢にも思い浮ばなかった。  ただ、それが空しく雲散霧消したことを覚った。  ——これは、天命だ。天運はそれを許さなかったのだ。  突如、近くで喚声があがった。寺の奥深いこのあたりまで、ばしッ、ばしッと流れ矢が飛んだ。  遠く近く、叫声怒声が波打って聞える。物具《もののぐ》の触れあう音、何かを破壊する音——明智勢は、寺門に取り付き、僅かな信長の侍どもが必死に戦を始めたらしい。 「う、上様! お早くお立退きを……」  蘭丸の弟坊丸や侍臣が駆けつけ、呼ばわった。皆、決死の形相だった。  手飼の家臣に背かれ、逃げ惑う。その醜態は信長の美意識が許さない。  信長は、莞爾《かんじ》と微笑み、かすかに首を横に振った。 「相手は光秀ぞ、考え抜いての仕業だ」  取り逃がす筈がない。信長は覚悟を示した。 「上様……」  蘭丸が絶句した。 「是非もない」  信長は、短切に最後の言葉を吐いた。  その言葉には、二つの意味があった。仕方がない、已むを得ないという意と、是(良い)、非(悪い)を問うべきでないという意である。  おそらく、信長の発した意味は、後者であろう。戦国の世に誰が誰と戦おうと、善悪の定めはない。勝った者が正義で敗けた者が邪悪として葬られる。  そういう無秩序を一掃しようと、大理想を胸に抱いた信長である。だが天は、それを完遂させなかった。それも天意である。天意に善悪はない。ただ服すしかない。  ——だが、光秀は、悪名を千載の後まで残すだろうな。  信長は、この期に臨んでなお、光秀を惜しんだ。  ——あやつも、英雄なのだが……。  本能寺は城郭に紛《まご》う厳重な構えであった。濠深く塀高く、諸門は堅固に閉されていた。  だが守る者小者まで加えて二百余名、攻めるは一万余。ひとたまりもなかった。付近の民家を毀《こぼ》って濠を埋めた軍勢は、八方から乱入した。  高欄の信長は槍をふるって群がる軍兵を突き伏せたという。光秀の将安田作兵衛が一の槍をつけたというのも俗説の域を出ない。  信長は残り少なの扈従に防ぎを委ね、奥まった部屋に入り、端座して衣類をくつろげ、抜身の脇差に袖付衣《そでつけごろも》を裂いて巻いた。  敵味方が放った火が、音立てて迫った。襖《ふすま》が、畳が、轟《ごう》と燃え始めた。  信長は、ためらいもなく、白刃を腹に突き立てた。激烈な衝撃が襲った。  信長は苦痛の中で、ふしぎな安楽を感じた。 「これで、楽に寝《い》ねる」  一生は、苛烈の一語に尽きる。寝る暇を惜しんだ。  だが、それを悔いたことはない。天の与えた時は、余りにも短かった。志を遂げるに到らなかった。それも天運である。  志、満たすべからず、という。満つれば欠ける。満たされぬから信長の志は永遠である。  白光が視界を領した。信長は死んだ。  二条|衣棚《ころものたな》の妙覚寺に宿営していた三位中将信忠は、殆《ほとん》ど同時刻に光秀の丹波兵団に襲われた。  村井貞勝(春長軒)らの進言により、信忠は構えのしっかりした二条新御所(元の信長居館)に移ることとした。不意の襲撃に戦備《いくさぞな》え整わず、五百の兵の過半は討たれたが、信忠一行は包囲陣を突破して、近くの二条新御所に立て籠った。しかし、御所には皇太子|誠仁《さねひと》親王がお住いであった。  天皇家に崇敬の念の篤い信忠は、親王を戦火に巻きこむことを恐れ、親王御動座の間、一時矛を納めるよう、光秀に申し入れた。  嵯峨天龍寺《さがてんりゆうじ》に本営を構えた光秀は、これを受け入れ、暫しの休戦となった。  親王が御動座になられると、直ちに戦は再開された。その頃本能寺襲撃を終えた軍兵がそれに加わり、包囲の軍勢は一万数千にふくれ上がった。  多勢に無勢《ぶぜい》である。所詮《しよせん》敵すべくもなかった。  信忠は、二条新御所に火を放ち、火中で腹切って死んだ。遺言は短切であった。 「わが屍《しかばね》を敵手に委ねるな。縁の下に隠せ」  火災は御所を全焼し、信長の嫡子信忠は、遺言どおり灰燼《かいじん》に帰した。  六月二日払暁に始まった本能寺ノ変は、昼時までに終った。  本能寺ノ変で、最も衝撃を受けたのは細川藤孝であった。それは、人の歴史に往々に現れる痛烈な皮肉、としか思えない。  藤孝は、光秀に、くれぐれも念を押した。 「早まりめさるなよ。われらと共に謀り、心を合せて万全を期さねばならぬ」  この稀代の陰謀家は、壮大な策略を構えていた。彼の眼中には秀吉の機敏な反応と行動などは物の数ではなかった。  ——秀吉が信長を幽閉すると同時に、京に足利義昭を迎え、京都朝廷の勅諚《ちよくじよう》を得て幕府再興を宣明する。  秀吉の中国大返しには、四国征伐のため大坂に集結中の丹羽兵団を当て、北陸の柴田兵団には背後の越後上杉勢、上州の滝川兵団には小田原の北条が牽制《けんせい》の戦を起す。  京に幕府の軍として駐留するのは、最強を誇る光秀の丹波兵団であり、藤孝は信長の退隠を布令して、市中の動揺を抑える。  ——信長が隠居すれば、家臣団もおさまるであろう。あとは幕府の天下。  その目論見は、音立てて崩れた。一廉《ひとかど》の将と見た光秀は、過敏に反応し過早に行動した。  六月二日の昼、信長・信忠の死は確認された。屍は猛火のため消滅したが、逃れた形跡は無く、また火焔《かえん》に包まれた遺骸を見たという証言もあった。  天龍寺の本陣で、光秀は堪え難いほどの虚脱感に襲われ、惘然《ぼうぜん》自失していた。余りにも呆気ない結末であった。信長に相見《あいまみ》えて以来、十四年の歳月は何であったか。いや五十五年の生涯そのものが何であったか。その思いが走馬燈のように胸中に駆けめぐる。  そうした心思《しんし》はすべて回顧に費やされ、将来には向けられなかった。  ——これからどうする。どうすればよい。  思念は脳裏をかすめるが、一向考えがまとまらない。失って知る信長の存在の大きさであった。  光秀の家来たちは、あるじの異常な様子に、直《じか》に触れるのを避けた。光秀は唯一人放っておかれた。  光秀は、藤孝の説にあった柴田・丹羽の諸将の反応を待った。光秀は独り勝手に事を起した心算は無い。誰かが参陣することを頼みとした。  だが、誰一人、支援の使者を齎《もたら》す者は無かった。光秀の行動が余りにも拙速だったためである。誰もが信長亡き後の情勢を見極めようと逡巡した。光秀を使嗾《しそう》した藤孝までが中国攻めに出陣した嫡男与一郎忠興を呼び戻し、形勢観望のため、宮津城に立て籠った。  光秀は矢継ぎ早に使者を送って参陣を促したが、藤孝は応じないばかりでなく、忠興の正室に迎えた光秀の娘|玉子《たまこ》を離別させ、丹後山中に幽閉する豹変《ひようへん》ぶりを見せた。  京を制圧した光秀は、孤立無援に陥った。京都朝廷にあった近衛|前久《さきひさ》は逸早《いちはや》く姿をくらまし、堺の納屋衆の一人、千宗易も、支援はおろか度々の呼びかけを無視して、便り一通寄越さなかった。  その頃、所在が不明であった機動軍団の消息が、ようやく光秀の耳に入った。軍団は伊勢を通過して摂津を目指すうち、伊賀の嶮路で信長の死を知った。  あるじを失った軍団は四散した。鍛えに鍛え、抜群の機動力と強悍を誇った軍団は、信長あってのものだった。  所詮は傭兵、と言えなくもない。一部はそのまま伊賀の地に土着して郷士となったともいう。  あまりにも呆気ない末路であった。  ——われは、天下人。  光秀はそう宣明したが、心はうつろであったようである。軍用金の最も大事なこの時期に、銀子五百枚を正親町天皇と誠仁親王に寄贈している。  最も機敏に反応したのは、やはり秀吉であった。秀吉は早くから意を通じていた信長の側近長谷川|宗仁《そうにん》の密報をうけると、内通を密約していた毛利家の外交僧安国寺恵瓊を督促し、毛利との和睦交渉を六月四日に取り纏《まと》めさせ、同日夕刻、水攻めしていた高松城周辺の堤を切り、六日、軍をとって返した。  史上、最速と言われた中国大返しの開始である。  夜を徹して秀吉の兵団は、京を目指し走った。  秀吉の中国大返しの迅速は、当時の常識の埒外《らちがい》である。  秀吉の本軍が摂津尼崎に到達したと同じ時間で、現在の自衛隊の移動でも漸《ようや》く播州|加古川《かこがわ》にさしかかるあたりという。秀吉の中国大返しが、如何《いか》に周到の準備のもとに行われたかを物語る。  それと同時に秀吉は、友軍誘致の策を抜かりなく実施した。大坂付近に集結中の、信長三男|信孝《のぶたか》と丹羽長秀の兵団に、信長|復仇《ふつきゆう》の戦に加わるよう誘った。 「秀吉が尼崎に? まことか?」  老巧の丹羽長秀も、信じ難く、暫く参陣をためらったほどである。  伊賀から近江に向っている筈の二男|信雄《のぶかつ》も誘った。大和に在《あ》る筒井順慶の牽制には役立ったようである。  秀吉の誘致は、光秀の寄騎にまで及んだ。池田勝三郎恒興を始め、高山右近、中川瀬兵衛ら摂津衆の城持ち外様の大名は、呆気なく秀吉兵団に加わった。  ——かかる大事を引き起すに当って、何で事前に相談に与《あずか》らせない。われらを軽んじた。  武将に有りがちの夜郎自大が、彼らを秀吉方に奔《はし》らせたといえよう。  人たらしの名人と言われる秀吉の、抜け目ない調略が、この時大いに効果を発揮した。  尼崎に滞留中の秀吉軍は、日に日に肥《ふと》った。中国大返しの軍一万八千、信孝・丹羽兵団二万に、摂津衆一万を合せると、その兵力は五万に近い。  その間、光秀は、鬱々《うつうつ》として、何ら為《な》すところなく日を過した。  京・山城から安土・近江にかけて実施した信長残党の掃討戦は、すべて左馬助秀満と斎藤内蔵助利三という光秀の両将によって行われた。  だが、来るべき秀吉との決戦に当てる兵力は寸毫《すんごう》も増えない。動員した丹波兵団一万三千に、近江坂本城の留守兵力と、丹波亀山の城兵が、手持ちの兵力のすべてであった。  ——藤孝、近衛前久、千宗易に欺かれた。  実質はそうであろうが、光秀はそう思わなかった。 �死せる孔明《こうめい》、生ける仲達《ちゆうたつ》を走らす�という中国の逸話がある。それのみを思った。  織田信長  その威名は、死した後も絶大であった。光秀の遠く及ばぬ力を持っていた。彼はその威に叩きのめされていた。  秀吉が尼崎を動いた。決戦の時は迫った。  摂津から京に至る淀川沿いの経路で、唯一の隘路口《あいろぐち》が山崎である。  兵力の隔絶した秀吉の大軍を迎撃するにはここしかない。光秀は藤孝の旧城|勝龍寺《しようりゆうじ》城を本拠に、山崎に布陣した。それにしてもどうしたことか、秀吉軍が迫ってから防柵を結い、濠を掻《か》き上げる作事に追われた。しかも、重臣左馬助秀満とその手勢は、安土に残したままである。  兵力も不足なら準備も不足、更に戦意も不足である。この頃光秀は気力を失って物の用に立たず、合戦の準備は、斎藤利三らが代って指揮したという。秀吉軍は五万、光秀軍の三倍を超える。その差は戦わずして相手を圧した。  これだけの兵力差があれば、通常は野戦を避け、勝龍寺城に籠るのが順当な作戦であろう。だが光秀は秀吉との決戦に固執した。  ——籠城して何になろう。援軍のあては無い。  光秀は、秀吉を眼中に置いていない。彼の意識は飽くまでも信長にあった。敵《かな》わぬまでも信長の威と戦う。敗北は必至だが、それが戦国武将の意気地であった。  山崎の合戦は、開戦前から勝敗が決していた。その点では最も愚劣な戦といえる。秀吉軍はひたすら数を頼みに押しまくる。戦略も何もなかった。参加の将士は主君信長弑虐の報復を大義名分に、次なる天下での飛躍を目指して餓狼《がろう》の如く功名手柄を漁る。抜け駆けはとどめようがない。  光秀軍は、懸命に防いだ。彼らはそれぞれに天運の尽きを自覚していた。見苦しくなく戦場の露と消える。廉潔の名を残すだけの戦であった。  光秀の丹波兵団は、最強の名に恥じず、敢闘した。ただそれだけであった。数は絶対である。  やがて惨敗の時が来た。  戦野に屍《しかばね》を晒《さら》すより、居城坂本城で左馬助秀満らと合流し、最期の時を迎えようと光秀は考えた。十名足らずの扈従の士と共に、戦場を脱した。  しきりと、落人狩りの土民に襲われた。応戦の将士を残して光秀は先を急いだ。畷《なわて》を経て淀川の右岸を伏見に向い、小栗栖《おぐるす》にさしかかった時、光秀は待ち伏せていた土民の槍に脇腹を突き通され、程なく落馬した。  一説には、このあたりに勢力を持つ服部《はつとり》党という土豪の一党である、という。あるいはそうかも知れない。  脇腹の槍傷は致命傷であった。地面に坐った光秀は、筆をとって辞世の五言絶句を書く。  順逆無二門(順逆、二門無く)  大道徹心源(大道、心源に徹す)  五十五年夢(五十五年の夢)  覚来帰一元(覚め来りて一元に帰す)  叛逆者の汚名を蒙《こうむ》ったために、その詩は高く評価されなかったが、教養人の武将らしいみごとな辞世であった。第二句の�大道�とは、信長の未来構想を指したのではあるまいか。信長は「人間五十年、夢まぼろしの如くなり」と称え、光秀もまた「五十五年の夢」と遺した。  ともに大志は、夢と消えた。 角川文庫『本能寺(下)』平成16年1月25日初版発行