[#表紙(表紙.jpg)] 最後の忠臣蔵 池宮彰一郎 目 次  仕舞始《しまいはじめ》  飛蛾の火  命なりけり  最後の忠臣蔵 [#改ページ] [#見出し]  仕舞始《しまいはじめ》      一  道に迷った。  江戸に直《す》ぐな道はない、という。  関八州の広野の端、海辺の漁村に平城を構えた家康《いえやす》は、攻め手を防ぐ要害の代りに、土地の起伏や地形に合わせた堀割《ほりわり》に沿って、町並を作った。そのため、切絵図では整って画《えが》かれている道が、実際にはうねりくねって、方角の感覚が微妙に狂う。北へ向っている筈《はず》がいつしか東にそれ、西に曲るのが南に向っていることが間々ある。  町に、町名の標示は一切無かった。  要所を占める宏大《こうだい》な武家屋敷には、門札も表札もなく、その敷地の角々が、直角であることはまず無かった。その角度の違いが方向感覚の狂いにつながる。それに四通八達の堀割の橋が不規則に架けられ、ひとつ間違うと予想もしない町に迷いこんだ。  町並を歩くには、大店《おおだな》の看板や店構が頼りだった。だが、それは表通りに限られていた。通りから裏へ入ると、そこには俗に九尺二間の裏長屋という庶民の住居が密集していた。一棟間口九間、奥行二間半、それに六世帯が住む、一世帯三坪二合五勺の棟割長屋に往来は無い。通路はすべて狭い路地で、それが複雑に入り組み、至るところに袋小路があって、さながら迷路を呈している。  寺坂|吉《きち》右衛門《えもん》は、幾度かその路地裏に迷いこみ、西も東も判らぬ状態となっていた。  元禄《げんろく》十五年(一七〇二)十二月十五日、折柄《おりから》大寒の気節である。前夜の激しい北颪《きたおろし》は夜明け方におさまり、数日ぶりの陽光が積雪にまぶしく映えたが、気温は一向にあがらず、道の雪は氷状のまま凍り、踏む草鞋《わらじ》の裏にきしんで、寒気は背筋に這《は》い上がるようだった。  その底冷えを感じながら、吉右衛門は身をさいなむ焦慮に汗をかいていた。大石|内蔵助良雄《くらのすけよしたか》が用意して与えた身支度は、寒さ凌《しの》ぎに万全のものだった。旅支度の侍装束は下着に股引《ももひき》に真綿の刺子《さしこ》縫いを用い、温石《おんじやく》まで用意されていた。足袋《たび》底に唐辛子を入れる周到さであった。  だが、討入装束から、その上士の旅装束に着替える違和感が、今も身から離れない。その着替えた空屋敷の、火ノ気一つない門番小屋の寒さが肌身に滲《し》み透っている。  ——これは、身分違いだ。足軽の衣服ではない。  その観念が、下着の裏に隙間風のような冷気となって残っている。 「よいか、われら一統から離れたら、つとめて落着いて歩け。江戸御府内は急ぎ足をすな。公儀の眼はいずこにも光っておる。不審と見咎《みとが》められ、詮議《せんぎ》をうけては身の役目は水泡と消ゆるぞ。道を急いではならぬ。能《あた》う限り番屋番所を避け、ゆるゆると参れ」  堀部安兵衛《ほりべやすべえ》が、別れ際に説き聞かせてくれたその言葉が、耳について離れない。  そのくせ、足は知らず知らず急ぐのであった。次第に息ははずみ、動悸《どうき》は早鐘の如くなり、眼がくらみ、ただ夢中で足を運ぶ。きびしい寒気の中で、額に汗がにじむ。背筋でその湿り気が冷える。寒熱|交々《こもごも》の苦しみだった。  ——何でだ。何でこうも胸が切ないのだ。  そう反復する思いがあった。ほんの二、三|時《とき》前は、本所|吉良《きら》屋敷の屍山《しざん》血河の戦場に身をおいた。吉右衛門は伝令役として表門勢と裏門勢の連絡に駆けめぐり、同志の死闘を眼《ま》のあたりにし、自らも二、三の敵と白刃《しらは》を交えた。  内蔵助は言う。人の勇怯《ゆうきよう》は時の勢いであると。四十七人の同志が敵を斃《たお》すの一念に燃えて敵陣に突入するとき、死は生の先わずか一歩を踏み出《い》だすだけの容易《たやす》さがあった。  その死生観の異常な昂揚《こうよう》は、敵を討ち果した後も続いた。勝利の充足感と安堵《あんど》は、むしろ完璧《かんぺき》な終結——切腹による侍の美の完成を渇望する思いがあった。  ——一年十ヶ月、苦患《くげん》に耐えた一統と共に、死を迎える……。  そこには、死の恐怖は微塵《みじん》もなかった。  それが……吉右衛門ひとりに限って、急変したのだった。  いま、吉右衛門は、ひとり同志一統を離れて、身なりを変え、見知らぬ江戸の町を歩く。  同志一統四十六人の、壁の如き支えは、一瞬に消え失《う》せた。 (高家《こうけ》討入は、天下の大罪である)  不意に、追われる者の不安と恐怖が襲う。 (御府内に、公儀の眼が光っておるぞ。詮議をうけては身の破滅……)  町に、人の眼がある。眼、眼、眼……。 「生きよ。おのれはひとり生きるのだ。死んではならぬ。屹度《きつと》申し付くるぞ」  その内蔵助のきびしい言葉に、言いしれぬ甘美が秘められていた。それは突忽《とつこつ》と蘇《よみがえ》った生への渇望であった。  吐く息吸う息の切なさは、その甘美と、追われる者の恐怖との相剋《そうこく》から生じた。  それは、この世に生を受けて三十八年、未《いま》だ味わった事のない切なさだった。一年十ヶ月、死生を共にした一統の四十六名が、誰も覚えのない切迫感であった。  ——苦しい。この胸をしめつけられる苦しみは何だ。  干涸《ひから》びた咽喉《のど》が、ぜいぜいと鳴る。吉右衛門は、路傍の凍った雪を掬《すく》って、頬張った。  痛いほどの冷感が、咽喉から鳩尾《みぞおち》に落ちてゆく。こめかみがずきんと痛む。痛みは脳に残って、頭が割れるように疼《うず》いた。  明らかに、寝不足のせいだった。十三日の夜、吉右衛門は、多年の上司吉田|忠左衛門《ちゆうざえもん》と沢《さわ》右衛門《えもん》父子の仮住居である新麹町《しんこうじまち》六丁目の家を引払うため、徹夜で働いた。明けて十四日、家財の始末を済ませた吉右衛門は、湊《みなと》町の船溜《ふなだま》りに赴き、上方《かみがた》から搬入した武器・兵糧《ひようろう》の残りを、舟で本所|竪川三之橋《たてかわさんのはし》、林町五丁目の小荷駄基地へ運び、更に剣術道場を偽装したその小荷駄基地から、吉良屋敷と七間道路をへだてた相生《あいおい》町二丁目の前線基地、米穀商|美作《みまさか》屋五兵衛こと前原|伊助《いすけ》宅への搬送に当った。  十四日深更、同志四十六人が内蔵助の令一下、吉良屋敷を目指して奔出するまで、吉右衛門の労務は、休む間がなかった。  四十七人の一統で、足軽、という最下級の準士は、寺坂吉右衛門ただ一人であった。  足軽、であっても、外出には大小を帯び、羽織を着用する。外見には歴とした侍であった。だが、正規の身分は士分に準ずる者であって、士分の家に出向いた際、敷台に手をついて礼を行ない、口上・用件を述べる。決して座席に上がることはない。道路で上士に逢《あ》う時は、履き物を脱し、路傍にかがみこむ。雨の日、傘・足駄を用いることを許されず、終生給金取りで、石取りに昇進することはない。  吉右衛門は、若い頃から郡奉行《こおりぶぎよう》吉田忠左衛門に目をかけられ、手附《てつけ》に重用されたが、年三両一人|扶持《ぶち》から五両二人扶持に昇進したのが精一杯であった。  赤穂《あこう》藩が健在の頃、筆頭国家老の大石内蔵助は、塩相場で得た簿外の金で、他日非常の時に役立つと見た藩士に、ひそかに撫育《ぶいく》の金を与え、文武の研鑽《けんさん》と生活の補助に当てた。内蔵助の腹心吉田忠左衛門の推挙を得た吉右衛門も、その一人であった。  昨元禄十四年、藩廃絶の悲運に遭遇した際、吉右衛門は、多年の恩顧に報いるため、ためらうことなく内蔵助の企てに加わった。  当初百二十五名を数えた結盟の者の中で、足軽は吉右衛門と、同じ組下の矢野伊助の二人だけであった。内蔵助は両名の義心に感じ、士分と同等に扱い、差を以《も》って別することはなかった。  だが、身分差は同等に扱われても、職務の差は抜き難いものがあった。一年十ヶ月に及ぶ苦節の間、その働きは走り使いや張り番、荷運びなどの労務から、士分の者の雑務まで、足軽相応の仕事に追われ、寧日ない日々を送った。それを自他ともに当然とみていた。  討入当日までに、同志の脱盟|逃竄《とうざん》が続出し、その数は八名にのぼった。矢野伊助もその一人であった。本所の小荷駄基地に働いていた矢野伊助は、身近の上士が相次いで逃亡するのを見て、気力喪失し、逐電《ちくてん》した。  ——おれと伊助の勇怯は、一髪の差であった……。  いま、同志一統と離れ、流亡の身となった吉右衛門は、惑乱しつつ足を運びながら、しきりとそう思った。  数刻前までの異常な気力の昂揚は、いま信じ難い思いがあった。  町筋を見失なったのは、新橋と汐留《しおどめ》橋を見誤ったあたりからであった。芝口で迷い、闇雲に赤坂を目指した身が青山辺を彷徨《ほうこう》した。  ——もう、どうにもわからぬ。  眼もくらむ思いで、歩きに歩いた。時刻は容赦なく過ぎた。  疲れ果てた足が、ハタと止ったのは昼過ぎて後であった。吉右衛門の眼前に、ここ二ヶ月あまり、見慣れた町並があった。  荒物屋の路地へ入って三筋目に、なつかしい袋小路があった。その突き当りにひそと静まる空屋は、昨朝立退いた吉田忠左衛門の仮住居であった。  表戸も、小庭に面した雨戸も、すべて釘《くぎ》で閉ざされていた。残雪に押しひしがれた南天の赤い実が、眼に痛い。  吉右衛門は、濡《ぬ》れ縁に、崩れるように腰を落した。  割れるように痛む頭を抱えて、吉右衛門は鬱積《うつせき》した思いを口にした。 「なんで……なんでおれは、ここにいるのだ……」      二  血戦の吉良屋敷を後にして、高輪泉岳寺《たかなわせんがくじ》に引揚げる赤穂浅野の一統四十七人が、途次さしかかった築地鉄砲洲《つきじてつぽうず》の空屋敷、旧藩邸前で休息したのは辰《たつ》ノ上刻(午前八時頃)に近い頃合いであった。  路傍に、三々|伍々《ごご》憩う一統に、二名の配下を従えた裁着袴《たつつけばかま》に火事羽織、身なりきびしい侍が近付いた。 「もと赤穂浅野の家中に物申す。これは御公儀|御徒目付《おかちめつけ》、糟屋《かすや》半左衛門。たれぞかしら分の者はあるか。申し伝える儀がある」  両国橋で渡橋を遮ぎられ、深川から永代橋に迂回《うかい》を命ぜられた時から、一統の隊列の後に、追尾監視する公儀の手の者の姿があった。  内蔵助と、二名が、その前に立った。 「もと国家老、大石内蔵助にござる。御用の向きお伺い致す」 「てまえ、もと郡奉行、吉田忠左衛門」 「江戸詰|馬廻《うままわり》使番、富森助《とみのもりすけ》右衛門《えもん》と申す」  頷《うなず》いた糟屋半左衛門は、告げた。 「昨夜来の仕儀につき、大目付仙石|伯耆守《ほうきのかみ》様には、御登城前に概略を御聴取なされたいとの趣きである。用に足る者両三名、愛宕下《あたごした》御役宅まで同道されたい」 「承りました。暫時《ざんじ》お待ち願いたい」  内蔵助は、更に参謀の小野寺|十内《じゆうない》、江戸組の束ね役、堀部弥兵衛を呼び寄せ、しばし協議した。  一統を代表して口上を述べ、詮議に応ずるのは大役である。衆議は惣《そう》参謀の吉田忠左衛門の老巧な思慮と、江戸詰使番の富森助右衛門の弁口を選んだ。  隊列を離れかけた両名に、内蔵助は忠左衛門を呼び戻し、更に何事か小声で相談を続けた。  頷き納得した忠左衛門は、隊列の寺坂吉右衛門を呼び寄せた。 「吉《きち》右衛《え》、ご家老がそちに大役を頼みたいとの事だ。あとで承れ」 「は……?」  とまどった吉右衛門に、忠左衛門は優しい笑顔を作った。 「わしも御用でここを離れる。もう会えぬ事となろう。長の年月……」  忠左衛門は、絶句した。老いた慈顔が歪《ゆが》み、涙が溢《あふ》れた。 「苦労をかけたな……さらばだ」 「は、はい……」  わからず問いかける吉右衛門に背を向けた忠左衛門は、富森助右衛門と共に、徒目付に従って去って行った。  茫然《ぼうぜん》と見送る吉右衛門は、むずと肩先を掴《つか》まれた。奥田|孫太夫《まごだゆう》であった。 「来い、吉右衛」  江戸組参謀の堀部安兵衛が、空屋敷となっている元藩邸の門番小屋へ、吉右衛門を呼びこんだ。  凍りついて火ノ気のない門番小屋は、身震いするほどの寒さだった。  奥田孫太夫は、前原伊助、神崎与五郎《かんざきよごろう》が担ってきた長持を運びこみ、内から侍|衣裳《いしよう》から手甲脚絆《てつこうきやはん》、足袋《たび》、草鞋《わらじ》までを次々と取り出しながら、吉右衛門に命じた。 「さ、早く、その戦さ支度を脱いで着替えろ。寸刻がいのちの分れ目だぞ。急げ」 「な、なんでございます。何で私めが……」  四の五の言う暇を与えず、伊助と与五郎が吉右衛門の戦さ装束を剥《は》ぎにかかる。  遅れて入ってきた内蔵助が、痛ましげに吉右衛門を見守った。 「寺坂吉右衛門、そちに最も難儀な役目を申し付けねばならぬ……」  肌襦袢《はだじゆばん》まで剥ぎとられて、寒さに歯の根の合わぬ吉右衛門は、懸命に内蔵助を瞶《みつ》めた。 「この最後の際に、最後の役が残った。そちは今から一統を離れ、赤坂今井の南部坂に参り、御後室|瑤泉院《ようせんいん》さまに書類書状を届け、昨夜の討入の見たままを告げるのだ。それが済んだら西に下り、芸州広島浅野御本家に足を伸ばし、御舎弟大学様に同様の御報告を致しくれい」 「お、お待ち下さりませ。ご、御用の向きはわかりましたが、わ、私めが何でそのような……」 「ええ、もたつくな。言うのはあとでよい。ちゃっと手を添え、身支度を早うせい」  気短かな神崎与五郎が叱咤《しつた》した。 「叱《しか》るな。吉右衛にとってはうろたえて当然なのだ。これはわしの死に欲だ」  内蔵助は、温顔を吉右衛門に向けた。 「この一挙、果すまでは後々の人の口などどうでもよいと思ったが……討入の凄《すさ》まじかった戦い、一統の者の決死の働きを眼のあたりにして、未練が生じた。公儀の今日までの仕様では、おそらく吉良屋敷の決戦の有様は後に残るまい。事成った今、それも止むを得ぬ事とは思うが、人と人がいのちを賭《か》け捨てた合戦に、あらぬ噂が流布されるのは耐えられぬ……」  吉右衛門も、その身支度を手伝う前原伊助と神崎与五郎、見守る奥田孫太夫、堀部安兵衛も、ハタと手を止めて内蔵助を瞶めた。 「人は、さかしら顔で言いたいものだ。人のいのちは何より大事……四十に余り五十に近い一統の中には、心|臆《おく》した者もあった、卑怯に戦いの場を逃げ避けた者もあったとな……まして今の公儀、どのような讒謗《ざんぼう》を言いたて、われらの働きを中傷するやも計られぬ……」  内蔵助は、それを口にするのも苦い思いであった。 「わしはな、こたびの企てで、三つの戦さを仕掛けた。その一は公儀の権勢権力をゆるがすまつりごとの戦さ、その二は理財(経済)、赤穂の小藩が大敵にうち勝つ金の運用の戦さだ。第三に天下御法への戦さ、亡き殿を無為に死なせた法の恣意《しい》に戦さを挑んだ」  内蔵助は、ひと息ついた。 「三つの戦さは、それぞれに、相応の勝利をおさめたように思う。だが……勝ち戦さを最後まで勝ち抜くことは、至難のわざだ。われら亡きあと、戦さ相手はどのような汚なき手を構えるやも知れぬ。それを封ずる手は生き証人を世に残すしかない。その生き証人の世にある限り、人は根も葉もなき作り話をためらい、口をつつしむのだ」  安兵衛が、一同に鋭く告げた。 「時が延びる。手を急げ」  一同は、反射的に元の仕事を続けた。まだ事の判断のつかぬ吉右衛門も、ただ手足を動かし、身支度に懸命となった。 「よいか、吉右衛」 「は、はい……」 「そちが身分軽い足軽ゆえ選んだのではないぞ」 「…………」 「そちは討入の際、伝令役をつとめ、表門と裏門のつなぎに何度となく戦さ場を駆け抜けた。大屋根から俯瞰《ふかん》もした。われら四十六人は局所局所で敢闘したが、そちほど戦さの全般を見聞した者はほかにおらぬ……」 「は、はい……」  吉右衛門の思い出がよみがえる。激しかった戦さ、死ぬ方がましと思った役目、その思いが胸にこみ上げ、訳もない涙が頬を伝わる。 「よいか、使いの役目は名目だ。使いに一人走った者がある。それが公儀に世人に伝わればよいのだ……使いを急ぐな。幾日幾月かけてもよい。身をいとい、いのちを惜しめ。われら一統が処断され、死に絶えた後も生きて生き抜くのだ。それが大事の役目である」  内蔵助は、一拍の間、吉右衛門を瞶めて後、奥田孫太夫に告げた。 「あとの細々《こまごま》とした心得は、おぬしが説き聞かせてくれい。頼む」  吉右衛門は、そのあとの孫太夫の説話を、夢うつつに聞いた。頼みにもならなかった浅野家御|親戚《しんせき》に立寄らぬこと、立寄れば必ずや公儀を憚《はばか》り、殺されるか捕えられよう……。  それより、年月を経て、ほとぼりのさめた後、一統の者の家々を廻り、討入の仔細《しさい》を告げると共に、後々の暮し向きの相談に与《あずか》ること、その費《つい》えは大坂|天満《てんま》の天川屋に預けおいた金を使うこと……等々。  その他、雑多な心得を吉右衛門は聞き流した。いずれ記憶の底によみがえることもあろう……孫太夫は、それに賭けて、喋舌《しやべ》りに喋舌った。  内蔵助は、断を下した。 「最後の最後まで、人選びに迷った末の仕儀だ。事の判断のつかぬであろうそちを、ここで放す……安兵衛、お屋敷を通り抜け、通用口に案内してやれ」  頷《うなず》いた安兵衛が先に立つ。出て行きかける吉右衛門に、内蔵助は、最後の言葉をかけた。 「寺坂吉右衛門、そちの盟約は解かぬ。そちは何年何十年生き延びようと、四十七名の一人である」      三  目印は、門外に一際高い百日紅《さるすべり》の樹。  赤坂今井南部坂、備後三次《びんごみよし》浅野土佐守|長澄《ながずみ》の下屋敷である。  播州《ばんしゆう》赤穂浅野|内匠頭長矩《たくみのかみながのり》の奥方|阿久利《あぐり》ノ方は、長矩が刃傷《にんじよう》切腹の後、実家である三次浅野家に戻り、仏門に帰依して名を瑤泉院と改め、下屋敷に住いして余生を送っている。  この日、奥用人落合|与《よ》右衛門《えもん》は、年の暮を控えて下屋敷を訪れ、歳末事務の処理を検分していた。  八ツ刻(午後二時頃)になろうかという頃、用部屋で休息の茶を啜《すす》っていると、用人浅川三郎右衛門が慌《あわ》ただしく駆けこんできた。 「何事だ、三郎|右衛《え》」 「只今南部坂御門の門番部屋窓下にてうろんな者が声をかけ、御用人落合さま御在邸ならば火急お伝え致したき儀これありと申し、案内を乞《こ》うております」 「何者だ、そやつは」 「もと播州赤穂の国家老、大石内蔵助どのの使いと称しておりますが」 「大石——?」  落合与右衛門は、三次浅野家譜代の家臣で、瑤泉院阿久利ノ方が輿入《こしい》れの際、附用人として数年鉄砲洲浅野屋敷に出向し、国許《くにもと》から出府した内蔵助と面識の間柄であった。  昨年、江戸へ下向した内蔵助が、瑤泉院阿久利ノ方にお目通りした際、与右衛門はひととき同席したが、何の関心も持たなかった。  ——所詮《しよせん》は、亡家の臣。  碌々《ろくろく》なすところなき様に、歯がゆい思いもあったが、さりとて不穏な事態でも起これば、主家にわざわいがかかる慮《おもんぱか》りもあって、懸念もないではなかった。  それから年余——音沙汰《おとさた》は絶えたままである。  ——大石め、また下向しておったのか……。  脳裏をかすめたのは、歳末という季節である。  ——借財の申し入れか。  舌打したい心地で座を立った与右衛門は、浅川を見返った。 「その使いは、見知りの者か」 「いえ、旅姿卑しからざる者と見受けましたが、顔色悪しく、落着かぬ態で……」  音物《いんもつ》など持参すればとも角、ただ使いというのでは格別の扱いをする要は無い。与右衛門は門外で事を済ませようと、くぐり戸に足を運んだ。  ——ずい分と長い……。  浅川三郎右衛門が、内玄関で待ちくたびれていると、小脇に桐油包《とうゆづつみ》を抱えた与右衛門が、ひどく衝撃をうけた態で、蒼惶《そうこう》と戻ってきた。 「落合さま……」 「いかん、大変な事が起きた。すぐさま御後室様にお目通りする」  奥へ入りかけた与右衛門は、一瞬ためらってから、浅川に囁《ささや》いた。 「よいか、他言は無用だぞ。昨夜、赤穂浪人が推参、高家吉良どのを討ち取った」 「えッ……」  浅川は、一瞬、眼がくらむ程の衝撃をうけた。 「ついては、あの使いの者だが……」 「門内に招き、休息致させましょうか」 「ならん。あれは身なりこそととのっておるが、足軽だ」  思わず舌打した与右衛門は、いまいましげに呟《つぶや》きを洩《も》らした。 「おのれ……今少し、身分ある者を使いに出せなんだか……」  士分以下の足軽の切なさは、瑤泉院阿久利ノ方と、落合与右衛門の対応にもあきらかであった。  事の重大に、瑤泉院は、暫《しば》し言葉を失なった。  ——まさか……。  と、思う。夢想だにしなかった事である。  だが、夢まぼろしではない。現にその討入に加わった者が、知らせに来ているというのである。  内匠頭《たくみのかみ》在世の頃の事、刃傷の時の衝撃、落髪の時の哀傷が、走馬燈のように脳裏に明滅する。歓喜や感動が湧くには、まだ暫《しばら》く時を要する。当座は驚愕《きようがく》の中に、しきりと迷想と妄想が駆けめぐった。  ——落着かねば……見苦しからぬよう振舞わねば……故主の妻らしう……。  瑤泉院は、努めて気息をととのえた。 「その使いの者……門前に立たせてあると申しましたな。是非にも会うて話が聞きたい。屋敷へ入れてはたもらぬか」 「あ、いや……それはならぬかと心得ます。元々お目通り叶《かな》わぬ卑しき身分の者にございます」 「でもあろうが……聞けばその者、昨夜は内蔵助らと共に、いのちを捨てて働いたとか。さだめし疲れ果ててもいよう。またこの寒さ。こごえてもいよう。せめて一夜、休息などとらせてやりたいが……」 「御後室様」  与右衛門は、開き直る気配をみせた。 「これは、天下の御法を破り、高貴の人を殺《あや》めし大異変にございます。縁戚に当るお家にどのような連累が及びますか計られぬいま、その一味をかくまうなど以《も》っての外……」  寄りうどの身の瑤泉院には、返す言葉が見当らなかった。 「まして、使いとは申せ、足軽風情……湯茶を供することもなりませぬ。早々に追い払うのが至当か、と心得ます」  言葉通りの措置であった。  門前近くに一|時《とき》(約二時間)近く佇《たたず》んだ寺坂吉右衛門は、湯茶はおろか、腰を下ろすことも叶わぬまま、浅川三郎右衛門によって追い払われた。 「よいか、その方いかなる事があっても、このお屋敷へ参った事を口外してはならぬ。その方の姿は見掛けなかった事とする。早々に立去れ。二度とそのつら、見せるな」  固く閉ざされた門扉をあとに、吉右衛門は足を引きずり、喪家の狗《いぬ》の如く、南部坂の雪道を下りはじめた。  風が鳴った。  門前で過ごした長い長い待ちの間に、陽光は翳《かげ》り、空は雲に閉ざされた。  ——また雪か、それとも雨……。  吹き始めた寒風は、そのまま吉右衛門の心の隙間風となった。  ——これが、侍心の宣揚の褒賞か。  胸中に湧く鬱憤《うつぷん》も、燃えあがることなく、燠《おき》となって消える。  ——せめて、熱い湯茶の一杯なりと、咽喉《のど》に通したかった。  その思いのほうが切実だった。  ——どうする。どこへ行く。どこで一夜を過ごす。  あてはなかった。おのれを含めて四十七人の同志は、悉《ことごと》くが仮住居を引払った。  同志の知り人や縁者は、わずかはいる。だが企てに頼みとなり難かった者は、おそらく三次浅野家と同様の扱いであろう。  さりとて、企てに義侠《ぎきよう》を示した三田の人入れ業の前川忠太夫を始め二、三の者は、当然公儀の手の及んでいることが予想された。 「それほどの大事を惹《ひ》き起こしたのだ。生きようと思ったら、まずその大罪をおのれの心に刻みこめ。人を頼らず、おのれの才覚で生きよ」  奥田孫太夫の言葉が蘇《よみがえ》る。  ——才覚、とは何だ。  平生の吉右衛門なら、何か智恵が浮んだであろう。だが、二夜を眠らずに過ごし、生死を賭《か》けて働き、疲労|困憊《こんぱい》したいまの脳裏には、何の閃《ひらめ》きもない。  あるのは、追われる者の辛労と恐怖だけであった。 「生きよ、と、言われたが……」  吉右衛門は、鉛のように重い足を運びながら呟いた。 「つらい……死ぬる方がよほど楽だ」  もう泉岳寺近くを辿《たど》っているであろう、四十六人の一統を思い、羨望《せんぼう》に胸を灼《や》かれた。  高輪泉岳寺へ向っていた一行は、仙石屋敷へ出向いた吉田忠左衛門、富森助右衛門の両名をのぞき、四十四名であった。吉田、富森の両名は、後に仙石屋敷で一統と合流する。  一行の歩みは、重傷の近松|勘六《かんろく》を始め、手負いの者をいたわり進んだため、予想外に時を要した。  それにも増して、一同の疲労が並大抵でなかった。徹夜で死力を尽した戦さを経た気力の滅失は、覆うべくもなかった。  内蔵助は、つとめて気長に対処した。  高輪の大木戸が近い。  大木戸を過ぎれば、泉岳寺は目と鼻の先である。 「辛《つら》かろうな……」  遅れがちの隊列を待ちながら、傍らの奥田孫太夫に、そう呟いた。 「は……今暫くの辛抱でござる。少し急《せ》かせましょう」 「あ、いや……この者たちの事ではない。吉右衛を思いやったのだ」 「寺坂……が事ですか」  孫太夫は、白い歯を出して、笑ってみせた。 「あやつ……一度捨てたいのちが助かるとあって、こおどりしておるやも知れませぬ」 「孫太夫、それは甘いぞ」  内蔵助は、きびしい眼で見返った。 「おぬし、生から死への転回は身を以《も》って味おうたが、死から生への急転はまだ体験しておらぬ」 「は……」 「むかし、室ノ津で西国通いの船の水夫《かこ》から聞いた事がある。船が嵐で難破して沈みかけたとき、嵐をついて小舟が助けに来たと思うてみるのだ。その小舟が難破の船の三人か五人しか助けられぬとなったとき、今が今まで助け合うて、力の限りを尽した水夫たちが、一斉に仕事を棄て、われのみは助けよと泣き叫び、果ては仲間同士が争うという」 「なるほど……勇怯《ゆうきよう》は時の勢いとはそれですな」  堀部安兵衛が、傍から口をさしはさんだ。 「いま、吉右衛は惑乱のさなかにある、と思う。死ぬるが目当てと思い定めた身が、生きようと変る。寄る辺なき他郷でただひとり、あの男、何を考え、どこをさまよって歩いておるか……それを思うと胸が痛んでならぬのだ」  孫太夫も、安兵衛も沈黙した。 「罪つくりな事をした……」  内蔵助は、促して歩きだした。 「だが……止むを得ぬ事でもあった」 「やはり、選ばれましたのは、足軽ゆえ、ですか」  と、孫太夫が遠慮がちに訊《たず》ねた。 「そうではない、と、吉右衛には言ったが……実は、それもある」  内蔵助は、苦い思いを噛《か》んだ。 「侍心の確かな者……とは思ったが、公儀が名ある侍では見逃すまい。足軽なら、三年五年逃げおおせれば、不問に附すやも知れぬ……それを頼みに、たった一人の足軽を、放してみたのだ」 「きゃつめに、脱盟の汚名が付いて廻るやも知れませぬな」  安兵衛が、ポツリと言う。 「論議の的となろう。討入ったから盟約の者、身を隠したから脱盟の卑怯……だがな、その身にならぬとわからぬ事がある。それは、法をおかして後、逃げることの辛さと難しさだ。それを考えたとき、吉右衛が卑怯か否かがわかるであろう」  孫太夫と安兵衛は、沈黙した。 「侍のみごとさを世に残してくれ、と頼む気持ちと、辛かろう戻れ、と呼びかけたい気持ちがある……」  内蔵助は、前方に見え始めた高輪の大木戸を見て、大きな溜息《ためいき》を洩らした。 「ともあれ……吉右衛門は、われら四十六人に倍し、三倍する苦患《くげん》を身にした、結盟の士にまさる同志だ」 「それに思いを致す具眼の士があればよいのですが……」  言いさした孫太夫は、近付く大木戸に待ちうける野次馬を見て、一瞬、眼がなごんだ。      四  申《さる》ノ上刻(午後四時頃)、徒目付《かちめつけ》石川弥一右衛門ら三名が泉岳寺に至り、仙石|伯耆守《ほうきのかみ》の下命を伝えた。 「一同、打揃うて愛宕下御役宅に出頭致すべき事、怪我人の手当てもあれば急ぐに及ばず、夜蔭《やいん》に及ぶも差支えなし」  内蔵助ら四十四人が、寺に落着き、休息をとって間もない頃であった。  役宅に出頭して、当座の処置を申し渡されれば、四十六人は別れ別れに大名家預けとなる。  その事は、下命の手違いで泉岳寺に先行していた浪士引取りの水野|監物《けんもつ》、松平|隠岐守《おきのかみ》の家中から洩れていた。  同志分散、恐らくは生別死別を兼ねるであろうと、内蔵助を始め惣《そう》参謀、参謀、束ね役は後始末に繁忙を極めた。  暗い曇天は、日暮れ頃から氷雨になった。  雨脚は、時につれて激しくなり、高輪泉岳寺から三田、赤羽橋を経て増上寺を迂回《うかい》し、西ノ久保から仙石屋敷まで、濡《ぬ》れに濡れて歩く四十四人は、ひどく難渋した。 「悪い雨ですな」  奥田孫太夫は、内蔵助に話しかけた。 「吉右衛門は、殊の外、こたえていような」  内蔵助は、暗さの増した顔で応《こた》えた。 「寺坂の事なら、御放念なされ」  孫太夫は、呟くように言った。 「能《あた》うる限りの手は打ちました。あとはあやつの運次第……今は一統四十六人の事のみに専念致すべきか、と心得ます」 「…………」  見返った内蔵助に余は告げず、孫太夫は足を速めた。  仙石屋敷では、伯耆守のほか、上使として目付鈴木源五右衛門、同役水野小左衛門、ほかに徒目付、小人《こびと》目付らが列座して、一統を待ちうけた。  一統の取調べは、戌《いぬ》ノ下刻(午後九時頃)に始まった。  用人桑名|武《ぶ》右衛門《えもん》が、内蔵助以下の姓名、旧職、旧禄《きゆうろく》、年齢を呼び上げ、個々に応ずる。  その個名点呼で問題が生じた。呼名の最終の、寺坂吉右衛門に応ずる声がない。  私語のざわめきが起こった。 「……そう言えば、顔を見ない……はて、どこへ行った……いや、覚えがないが……」  桑名は、当惑げに、内蔵助に問いかけた。 「人数が一名、欠けておりますが……寺坂吉右衛門」  安兵衛が応じた。 「吉良家では、めざましく働いておりました……引揚げの着到にも、点がついております」 「鉄砲洲御屋敷前までは、確かにおった……」  と、孫太夫がうけた。 「確かあの折、お呼び出しをうけた吉田忠左衛門どのが、伴《とも》にお連れになったのでは……」 「いや、別れを告げたが、そのような事はない」  忠左衛門の言葉に、前原伊助がハタと膝《ひざ》を打った。 「それだ。組頭の吉田様にお供すると見せかけて、逐電《ちくてん》したのだ。それに違いない」 「いや、お供するつもりが遅れてはぐれ迷い、身の処置に窮して今頃、腹切っているやも知れぬ。あれはそういう男だ」  不破数《ふわかず》右衛門《えもん》が、きっぱりとそう言い切った。  数右衛門の言葉に頷《うなず》いてみせた内蔵助は、仙石伯耆守に向き直って、頭を下げた。 「いずれにしても、軽き者のことゆえ、うろたえての仕儀、是非なき次第にございます。重ねての御|詮議《せんぎ》、無用に願い上げまする」 「…………」  ヒタと、瞶《みつ》める内蔵助と眼を合わせた伯耆守は、かすかな微笑を浮べた。 「数にも入らぬ足軽が、それまでようも働き、また働かせたものよ。それで充分……重ねてその名は言うまい」  伯耆守は、桑名を促した。 「武右衛門、寺坂とやらの名をのぞけ。浅野|内匠頭《たくみのかみ》家中の者は、四十六名である」  詳細な取調べが終ったのは、亥《い》ノ下刻(午後十一時頃)過ぎである。四十六人は水野、松平のほか、細川越中守、毛利|甲斐守《かいのかみ》の四家に分散して、お預けとなった。  あとは、断罪を待つ身となった。  人眼を恐れながら、あてどもなくさまよった吉右衛門は、御府内の西、下渋谷村あたりで精根尽き果て、無住の堂宇の濡れ縁で、暫《しば》し泥のような眠りを貪《むさぼ》った。  ——昨夜の今日、御府内の危険は計り知れない。やはり街道へ出るしかない。  降りだした氷雨に目覚めた寺坂吉右衛門が、品川を目指したのは、子《ね》ノ刻(午前零時頃)であった。  桐油紙《とうゆし》一枚を羽織った吉右衛門は、御府内絵図を案じ、暗い田舎道を西に辿《たど》り、目黒川に出て川沿いに品川を目指した。  わずか一|時《とき》半(約三時間)、無住の堂宇の縁でうたた寝をしただけであったが、気力はおどろくほど回復し、冷静さが戻った。  与えられた振分荷に入っていた焼米を噛《か》む。あまい米の味覚が、口にひろがる。天水|桶《おけ》の雨樋《あまどい》の水を受けて呑《の》む。甘露の心地がした。  日中の惑乱が、しきりと思い出された。  驚天動地の指令に吾を失ない、街に出て道に迷ったのが惑乱の因であったように思う。  目黒川の川瀬に突き当る頃、もう羽織った桐油紙も耐え難くなって千切り捨て、濡れるに任せて足を運んだが、川べりの草に足をとられ、転倒することも一再にとどまらなかった。  雨、雨、雨。泥にまみれ、濡れそぼった肌を刺す寒気は体温を奪い去り、絶え間ない身の震えと歯鳴りが、残り少ない体力を消耗させた。  日暮れ方には非情な内蔵助を怨《うら》み、天運の逆転を嘆いたが、三更を過ぎる頃はその意識も失《う》せ果てた。  目黒川は、灯《あか》りひとつ見えず、暗く続いた。  吉右衛門は、もう歩行の態をなさなかった。よろつきよろぼい右に左に千鳥足で泳ぐように進んだ。  ——おれは死ぬ。凍え死ぬ。  ふっと、余念が湧いた。  底の抜けたような暗闇の中に、甘美な誘惑が手招きするようだった。  ——死ぬは法楽。  吉右衛門は、ぐらつく首を振って、その誘惑を払った。  ——何の、この愚かな所業で死ねるかよ。  噛みしめた唇が切れて、血の塩味が舌にひろがる。  鉄砲洲以来の、おのれの愚かしさに、はらわたのよじれる思いがあった。  ——死んでは済まぬ。おれを侍と遇した同志一統に報ゆることが出来ぬ。  その一念を、念仏のようにくり返して、一歩半歩を進めた。  不意に、道に出た。  人の作った道、往来する道の、なんと易々楽々な事か。吉右衛門は蘇《よみがえ》ったように足早になった。灯りは消えているが人の住む家が、点、点と続く。  東、と思われる方の空に、払暁の色が射した。雨はいつしか霧雨と変っていた。  と、突然、吉右衛門は、品川宿の街道に立ったおのれを発見した。  軒を並べた人家には、なつかしい匂いがたちこめていた。  ——助かった。これで凍えずに済む。  膝に、腰に、潮の退くような脱力感があって、覚えず、よろめいた。  だが、薄れゆく朝もやの向うに、思わぬ光景があった。  街道をふさいで、丸太組みの新しい木戸が設けられ、五、六名の番士が警戒に立つ姿が見えた。  吉良屋敷討入は、前代未聞の争乱である。  その波及に備えて、取りあえず街道に検問を設けるのは、当然の措置であった。  ——いかん、戻るか。  戻れば江戸府内、地獄の再現である。  ——これが、運の尽きか。  思わずよろめく吉右衛門の、濡れねずみの肩を支える手があった。 「寺坂さま、赤穂の寺坂さまでしょう。お待ちしておりました」  小さな顔がさしのぞいた。口先が尖《とが》ってみえる可憐《かれん》な顔だった。 「そなた……」 「お見忘れですか。吉良様討入の時、根城の店屋で御飯を炊《た》いたきよ[#「きよ」に傍点]ですよ。鎌倉の明石《あかし》茶屋のきよです」  ぐらり、崩れかかる吉右衛門を支えたきよに、近くの暗い茶店からとび出した小婢《しようひ》や若者が力を副《そ》えた。きよの召使たちであった。  品川、千住、板橋、内藤新宿などに設けられた臨時の木戸は、五日目に撤廃された。その間、不審の者の往来はなく、また本所吉良屋敷の争乱は、意趣による一過性のものと断定されたため、という。      五  年の暮。  鎌倉雪ノ下の明石茶屋の檜風呂《ひのきぶろ》に、寺坂吉右衛門が湯を使っていた。  檜の香が、むせるほどたちこめている。  ふた月前、討入のため江戸下向する大石内蔵助のためにつくり、ただ一度の用に供した湯殿である。  対吉良屋敷の前進基地、侍長屋と七間道路をへだてた前原伊助の米屋で、討入の補給のため、飯を炊き、汁をつくったこの家のおかみ、きよのことは、奥田孫太夫から洩《も》れ聞いたことがある。  きよの亡夫は、鉄砲洲藩邸の台所方であったが、数年前に急死した。  内蔵助は、嫁ぐ前のきよの可憐さを記憶していたので、藩邸を退去する憂き目となった事をあわれみ、撫育《ぶいく》の金を割いて明石茶屋を購《あがな》い、たつきの途《みち》を立たせた。  その恵みが生きて、江戸組の会合や、京への往復の足場となった。  内蔵助が滞在したのは、わずか三日であった。  その内蔵助へ報恩のため、湯殿をつくって供したきよは、討入の際も、願って働いた。  補給の酒飯の搬送に当った吉右衛門は、きよの懸命な働きを鮮烈に覚えていた。  ゆるゆると湯槽《ゆぶね》に身を沈めた吉右衛門は、舟型の屋根を仰いだ。  板屋根は、木羽葺《こばぶき》である。  折柄《おりから》、時雨《しぐれ》にあった内蔵助は、 「木羽葺は雨声がいい。音が躍る」  と、嘆賞したという。  ——一度、聞きたいものだ。  風流とは縁遠い吉右衛門も、しみじみとそう思う。 「お湯加減はいかがさまですか」  戸を開けて、裾《すそ》端折《はしよ》り襷《たすき》がけのきよが覗《のぞ》いた。 「あ、頃合いです」  吉右衛門が照れ気味に、顔をざぶっと洗うと、きよはするりと洗い場に入った。 「お背な、お流し致しましょう」 「それは平に……身がすくみます」 「ま、寺坂さまは……どうして、そのように遠慮深くなされます」  きよは、小桶に湯を汲《く》みながら、笑いかけた。 「いや、それは、それなりの訳があります」  吉右衛門は、品川宿で辛き一命を助けられ、その導きで十日余り、この家に厄介になっている身を言ったのだが、きよはそうとらなかった。 「おわかりでしょうか。それとも奥田さまが何か……」  むしろ嬉《うれ》しそうな探りの眼だった。 「いや、何も……」 「ではやはり……」  ひとり納得したきよは、さわやかな顔で言った。 「私、たった一度ですけど、ご家老さまの想い女《め》にしていただきました。そのお情けを心の支えに一生を過します」  吉右衛門には、腑《ふ》に落ちるものがあった。料理茶屋渡世の女にしては、凜《りん》とした姿勢が最初から眼についた。 「でも、ご遠慮は無用にして下さいまし。奥田さまにうかがいました。大変なお役目……きっとご家老さまでも、お背な流すと思います。私が代りたいのです」  奥田孫太夫は、高輪大木戸で内蔵助らを見送りたいと待ったきよを見かけ、吉右衛門の救出を頼んだ。  きよは訳を知って、品川宿の茶店を借り切り、夜っぴて吉右衛門を待ったという。  ——ご家老という人は……。  吉右衛門には、深い思いがあった。足軽という準士にまで及ぼす深慮と、台所方の若後家に、たった一度の契りでその人生に恵みを与えるその人柄にである。  再度すすめられて、吉右衛門はもう辞退しなかった。  背中の垢《あか》を流される心地よさに、生れて初めての法楽を味わった。 「すっかり、お丈夫になりましたこと」 「もう、元の躰《からだ》に戻りました。いつでも出立できます」  吉右衛門は、しみじみとそう言った。  討入引揚げの日のことは、遠い日のように思えた。  ——あの日の惑乱は、何であったか……。  その答は、きよが奥田孫太夫を通じての内蔵助の言葉を伝えてくれた。 「吉右衛門はな、きょう一日、地獄の苦しみに悶《もだ》えよう。それは無駄な惑乱ではないのだ。きのうまでの死を決した吉右衛門は終って、生を貫き通す新たな吉右衛門となる、その生れ変る産みの苦しみなのだ」  また、こう言い添えた、という。 「この苦患《くげん》を通り抜けなければ、天下を統べる公儀と相対して、常に戒めて止まぬ存在とはなり通せぬ。わしは吉右衛門の心栄えを見込んで選んだ。その事を忘れぬように……と伝えてくれ」  大石内蔵助、この人の辺《へ》にこそ死なめ。遺志の下に生きむ。吉右衛門の胸中に沸々と湧く熱鉄の意気があった。  きよと吉右衛門は、檜の香に酔い、その人を想った。  明けて元禄十六年。正月二日。  鎌倉鶴岡八幡宮の舞殿では、恒例の仕舞始の行事が開かれた。  きよは、鎌倉に住んで以来、好んで仕舞の師に就き、学んだ。  料理茶屋を営んでも、元は侍の家の者、台所方とはいえ士の端くれである。その出自の衿持《きようじ》を忘れぬため、習う仕舞であった。  修業の浅いきよは、門弟の末に近い。しかし選ばれて今年は舞う。  荘重の謡曲が流れて、きよは舞った。毫《ごう》も隙を見せぬきびしい舞いであった。  舞殿の人垣の外に、旅姿の寺坂吉右衛門の姿があった。  冬霜を思わせるきよの舞いは、かえって内蔵助の春日の顔を浮ばせるようである。  朗々の謡は、内蔵助の説諭を連想させた。 (人は生れ、やがて死ぬ。生きる日々は甲斐《かい》ある生を送れ。死するは生き甲斐を尽して死ね。それが侍の道、侍の志である)  ——生き甲斐を尽そう。  かつて、無益な死におびえた吉右衛門は、生き甲斐を求めて、旅の一歩を踏み出した。  行手は西、長い旅が始まる。  ——仕舞始……終いの始まりか。  源氏山に、斑雪《はんせつ》が陽光に映えていた。 [#改ページ] [#見出し]  飛蛾の火      一  備後三次《びんごみよし》街道から山陽道に出た寺坂吉右衛門は、空の小荷駄馬を曳《ひ》く馬子から声を掛けられた。 「お侍さんよ。帰り馬だで安うしとくが、乗って行かんかね」  聞けば、備前《びぜん》西大寺から備後府中に早生《わせ》の大豆を一駄運んでの帰りだという。  ——ま、たまさかの奢《おごり》、大目に見るとするか。  荷鞍《にぐら》に乗った吉右衛門に、馬子は妙な事を訊《たず》ねた。 「旦那《だんな》は、お連れさんをお捜しと違うかね」 「連れだと?」  荷駄を下した府中宿の問屋で、三人連れの旅侍が血相を変えて人を尋ねていた。その捜し相手の人相風態が、吉右衛門にそっくりだったというのである。  吉右衛門の胸中に、ずきりと応《こた》えるものがあった。  ——三次浅野家の家中だ。  三次の城下町に半月余り滞在した吉右衛門は、出立前の四、五日、身辺に付いて廻る監視の眼から、不穏な気配を感じとった。  吉右衛門は足軽、準士である。士分でも余程武芸に練達しないと、そうした気配は掴《つか》めない。だが吉右衛門には、討入の企てに過ごした日々が脈々と生き続けていた。一年十ヶ月、六百六十日は正に薄氷を踏み渡る毎日だった。その間、吉右衛門は、組頭の吉田忠左衛門を始め、不破数右衛門ら武芸達者の同志に鍛えに鍛えられた。 (相手は吉良・上杉だけではない。公儀・柳沢の眼が光っている。油断すな、千丈の堤も螻蟻《ろうぎ》の穴を以《も》って潰《つい》ゆのたとえもある)  螻蛄《おけら》や蟻に等しい存在と自覚している吉右衛門にとって、これほど適切な言葉はなかった。  殺気めいた気配を感得した吉右衛門は、三次浅野家に仕える縁者の許《もと》に寄寓《きぐう》している同志遺族の歴訪を取止め、直ちに三次城下を離れた。 (危険を避ける道はただ一つ。三十六策|走《に》ぐるをこれ上計とす)  東軍流の達人であった大石内蔵助の遺訓である。  その勘は当った。吉右衛門を血相変えて追尾する者がある。それは恐らく三次浅野家の重役どもの命を受けた刺客に違いない。 「少々道を急ぐ、酒手をとらすほどに足を早めてくれい」  馬子は、上士の旅装束の吉右衛門を上客と見てとったのであろう、二ツ返事で歩幅を伸ばした。  街道沿いの農家の庭に、採り残した柿の実が、秋空に色映えていた。  討入後、泉岳寺へ引揚げの途次、寺坂吉右衛門は頭領大石内蔵助の命を受けて、ただ一人隊列を離れ、逃亡|鼠竄《そざん》の身となった。  以来、寺坂吉右衛門の身の上は、毀誉褒貶《きよほうへん》が渦巻くこととなった。いのちを捨てて討入に加わった以上、赤穂浪士の一人であるという説と、公儀の断罪を恐れて遁竄《とんざん》した脱盟者であるという弁が付いて廻った。  一方、法的にも微妙な立場となった。討入後の大目付の審問裁定で、赤穂浪士は四十六士と記録された以上、咎《とが》める筋合無しとする論と、高家《こうけ》名士の邸宅に押入り、そのいのちを奪ったこと紛れもなき罪人とする議である。  逃亡直後、将軍家直轄領の江戸府内で捕えられていれば、間違いなく断罪に処せられたであろう。だが、天領外となると、追捕《ついぶ》するには公儀の指示なくしては叶《かな》わぬことであった。その公儀の処置は曖昧《あいまい》に終始した。事が天下の耳目を集めたため、世論の動向を見定めなければならなかったからである。士分以下の足軽だけに、かえって始末が悪かった。その点、内蔵助の深謀はまんまと図に当ったと言えよう。  半年以上、あるいは一ヶ年を要するとみられた四十六士の処断を、わずか五十日、年末年始の行事を除けば十余日で全員切腹という果決な処置をとった公儀は、四月、事件連累の者の処分を決めた。  四十六士の遺児の中、十五歳以上の男子は大島流罪。十五歳未満の男子は、年齢達するを待って執行。女子は身内縁類を問わず、お構いなし。  遺児の流罪に異論が有った。吉良の横死と家|取潰《とりつぶ》しに憤懣《ふんまん》やる方なき実子上杉|弾正大弼綱憲《だんじようだいひつつなのり》は強硬に処刑を主張し、縁者の紀州大納言家がそれを後押ししたため、慰撫《いぶ》するのに、かなり骨を折ったようである。  右の処分に依《よ》って、吉田忠左衛門次男、伝内(二十五歳)、村松喜兵衛三男、政右衛門(二十三歳)、間瀬久太夫次男、佐太八《さだはち》(二十歳)、中村勘助長男、忠三郎(十五歳)の四名が、遠島となり、十五歳未満の待命者は十五名に及んだ。  この時も、寺坂吉右衛門に対する処置は、何一つ行われなかった。  翌宝永元年四月、次代将軍と下馬評の高かった紀州中納言|綱教《つなのり》と、その奥方で五代|綱吉《つなよし》唯一の実子である鶴姫が、相次いで流行の麻疹《はしか》に感染し、日ならずして世を去った。  綱教の六代将軍擁立につとめていた柳沢|吉保《よしやす》は、一転して、綱吉の甥《おい》に当る甲府宰相|綱豊《つなとよ》の擁立に奔命した。  先の四代将軍家綱の時も嗣子なく、世嗣問題は在世中から紛糾した。幕議の中に三弟の甲府宰相|綱重《つなしげ》(綱豊の父)を推そうという動向が顕著だったが、下馬将軍と仇名《あだな》された時の大老、酒井|忠清《ただきよ》はこれを喜ばず反対し沙汰止《さたや》みとなった。綱重はそれを怨《うら》みとして行状大いに荒れ、延宝六年(一六七八)に暴死した。  二年後の延宝八年、家綱逝去の際も、綱重の弟、館林《たてばやし》宰相綱吉の推戴《すいたい》についても同様なことが起こったが、老中堀田|正俊《まさとし》は水戸|光圀《みつくに》と謀《はか》って酒井忠清の専横を遮り、綱吉を五代将軍に推戴したため、酒井忠清は一朝にして失脚し、間もなく急死した。一説には自殺とも伝えられている。  柳沢吉保は、その前例を懼《おそ》れ、逸速《いちはや》く綱豊に取入ろうと、旗幟《きし》をあらためると共に、長年にわたって幕政を専断したおのれの業績を慎重に検討した。  ——綱豊|卿《きよう》が六代将軍に就いたあと、過去の瑕瑾《かきん》を咎めだてされては、この身の一大事。  吉保は、ひたすらそれを懼れた。  八月、吉保は、芸州広島四十二万石、浅野綱長の江戸家老をはじめ、分家の備後三次、浅野長澄、親戚《しんせき》の美濃《みの》大垣十万石、戸田|氏定《うじさだ》のそれぞれ江戸家老を召致した。 「先の赤穂浪人の高家吉良邸討入の一件だが……調べ直してみると、御処分にいささか疎漏があるようだな」  浅野一族の家にとっては、悪夢に似た不祥事である。三家老は恐懼《きようく》した。 「内々御指図を賜わりますれば、御公儀を煩《わずら》わせるまでもなく、浅野家一統の手を以《も》って然《しか》るべく処置|仕《つかまつ》りまするが……」 「いや、それ程大仰なことではないが……御処分から漏れた寺坂とか申す足軽身分の者、あれはどこぞの家にて養いおるのか」  吉保がさりげなく口にした名が、吉右衛門の身を急変させた。 「滅相もござりませぬ。いずれを徘徊《はいかい》致しおりますか、皆目行方が知れませぬ」  とりあえず糊塗《こと》したが、浅野家一統に恐慌を及ぼしたことは紛れもなかった。  ——権勢並ぶ者なき柳沢どのの意に逆らったら、どのような厄難が舞い込むやも知れぬ。  彼らはひたすらそれをのみ恐れた。  江戸を離れた寺坂吉右衛門は、変転の日を送った。鎌倉に半月、京、大坂で六ヶ月、播州《ばんしゆう》赤穂とその近在で一ヶ年、広島で二ヶ月、内蔵助の遺命で同志の遺族を歴訪し、討入始末の報告を済ますと共に、併せて旧藩士の相談事や行末の面倒見に寧日ない日を送っていた。  元禄は十七年の三月で元号改まり、宝永となったその年の秋、吉右衛門は浅野本家の重役筋から、内々の申し入れを受けた。 (芸州浅野本領での滞留は、御公儀に憚《はばか》りあり。早急に立退かれたい。以後|何方《いずち》に出向き移ろうと勝手たるべきこと)  浅野本家にとって、赤穂浅野の討入事件は、侍の本分を貫いた快挙として、誇りとするに足りた。だが一面、外様《とざま》大名として幕政を奉ずる立場からは、忌むべき事件であったとも言える。この不得要領の申し入れは、進退に窮した本家の弥縫策《びほうさく》であった。  この苦しまぎれの方針は、吉右衛門が次に移った三次浅野家の意図にも表れた。本家の敬遠策以上に危機感を抱いた三次浅野は、家の禍根となるやも知れぬ吉右衛門の抹殺を企図したのである。      二  吉右衛門は、道を急いだ。  備後府中から福山は、元禄十一年まで続いた水野|勝岑《かつみね》の旧領で、この頃は隣国、備中松山領と共に、備前岡山池田家の預り領であった。外様の三次浅野が準譜代池田領に追手を踏みこませるあたりに、並々ならぬ決意がうかがえた。  岡山で小荷駄馬を下りた吉右衛門は、夜道をかけて山陽道をひた上り、夜明け方、備前片上村に至って舟を雇った。  片上村は、瀬戸内の海が三里も入海となっている港で、知る人ぞ知る海上通行の要地である。播州赤穂へは島々を縫って小半日で達する。赤穂に生れ育った吉右衛門は熟知しているが、他国者には知恵の廻《まわ》らぬことであった。  追いに追う三次浅野の侍が、片上村を通り越し、船坂峠の嶮《けん》に差しかかる頃、吉右衛門は本街道を遥《はる》かに外れた赤穂の御崎で、舟を下りていた。  ——領主が変っても、領民の暮しは変らぬものだ。  六十年前、常陸《ひたち》から転封となった浅野長直と、時の筆頭国家老、大石|良欽《よしかね》の苦心の経営がみごと功を奏して、瀬戸内きっての富裕と言われる赤穂は、この頃、隣国播州|竜野《たつの》の脇坂《わきさか》家の預り領となっていた。外様の預り領とあって法制もゆるやかで、吉右衛門が暫《しばら》く身を置くには、都合のよい土地である。  吉右衛門は、赤穂郡草田村に帰農している杉原多助の家を訪れた。  杉原多助は、同じ吉田忠左衛門の組下で、吉右衛門の後輩に当る。人柄は軽忽《けいこつ》だが、それだけに人付合がよく、そのため人の噂や消息を聞くに便な男であった。それに半年ほど前、吉右衛門が訪れたとき、失火で家を焼き途方に暮れていたのを、持ち金を融通して救ってやった。それを若女房共々恩に着て、懸命に尽してくれる。 「おう、吉右衛門どの、ようおいでじゃ、さあ草鞋《わらじ》をぬいで」  真黒に日焼した女房が、早速五右衛門風呂を沸かしにかかる。 「暫く厄介になりたい。納屋《なや》の隅でも貸してくれぬか」 「納屋どころか、母屋《おもや》の端までここはおぬしの家も同然じゃ。恥かしながらまだ借りた金子《きんす》、返せそうもないわ」 「借財などと水臭い事を言うな。昔の家中の者は助け合えという大石さまのお言いつけで融通した金、倖《しあ》わせに恵まれたらまたどこぞの者に恵めばよい」  吉右衛門は、赤穂城下で買い求めた濁醪《どぶろく》と魚を、みやげに手渡した。 「季節が早いが鰤《ぶり》が手に入った。今宵《こよい》は呑《の》んで昔話に花を咲かせようではないか」  ——年々歳々花相似たり、と、いつか小野寺十内さまから聞いたことがある。小野寺さまは古今の絶唱と教えて下さったが、正にその通りだな……。  時刻は二更(午後九時から十一時)か。吉右衛門と多助、若女房は食って呑んで酔い潰れた。女房は囲炉裡端《いろりばた》に肘枕《ひじまくら》で寝込み、多助は板壁に凭《よ》ってうつらうつらしている。秋口の夜風が身に染《し》む吉右衛門は、身を横たえたまま粗朶《そだ》を火にくべた。  すだく虫の音が、かまびすしい。  ——赤穂の御城で聞く虫の音も、ここで聞く虫の音も少しも変らぬが……歳々年々人同じからず、とは、この事か……。  むっくりと身を起こした多助が、眠気を払うように首を振った。 「吉右衛門どの……噂を聞いたか」 「謎かけのような事を言うな、噂とは何の噂だ」 「ほい、しまった、話が先に飛んだ。あやつが事よ、美濃《みの》の大垣へ行った……」  言いさして、多助は口をつぐんだ。 「大垣? それがどうした」 「いや、これはやめた、面白うもない話だ、聞き流して下され」  多助は、狼狽《ろうばい》の色が顕《あらわ》だった。 「大垣というと、麦屋《むぎや》がことか、麦屋佐平」 「…………」  多助は、済まなさそうに、こっくりと頷《うなず》いた。  麦屋佐平も、同じ吉田忠左衛門の組下で、吉右衛門と同様、手附に重用された。吉右衛門とは最も仲のよい友垣であった。  刃傷《にんじよう》の大変の前年、麦屋佐平は母を流行《はや》り病で亡くした。父親は十年前に死んで、麦屋の家は佐平と妹の篠《しの》の二人暮しであった。佐平は三十三歳、篠は十八歳、そして吉右衛門は三十六歳、篠の倍の年齢だった。  吉右衛門に、嫁に貰《もら》えとすすめる声は多々あった。足軽同士、釣合う縁である。だが、吉右衛門は肯《がえん》じ得なかった。  ——年齢《とし》が違いすぎる。  篠が並の器量なら、それでも貰ったであろう。だが、篠は足軽身分の女《むすめ》とは到底思えぬ気品を持ち、京人形のような初々しい乙女だった。  その篠は、兄が頼る吉右衛門を、寺坂の小父御《おじご》さまと慕った。慕われれば慕われるほど、嫁にと言い出せぬ吉右衛門であった。  そうした折に、刃傷の大変が起こった。  藩内は混乱の極に達した。その中で大石内蔵助は、着々と討入の企てをすすめた。かねてから撫育《ぶいく》金を恵与されていた吉右衛門は、一議に及ばず企てに参加した。  人の食を食せし者は、人の事にて死す。  撫育に当って示されたその誓約の言葉は、吉右衛門にとって、絶対のものであった。  麦屋佐平は、撫育に与《あずか》ったが、企てに加わらなかった。内蔵助は非常の時に不向な者と見てとったようである。  ところが麦屋は、藩廃絶の大変に、思わぬ果報を得た。容易に開城を肯じない内蔵助に、恭順を説くため、浅野家|親戚《しんせき》諸藩は、各々重臣を差向けた。その一家、美濃大垣十万石、戸田家からは、当時�大垣の権左《ごんざ》�と呼ばれた名家老、戸田権左衛門が出向いた。  その�大垣の権左�の伴《とも》に、有田数之進という武芸練達の中士がいた。有田は機あって篠と会い、ひと目で恋着して、嫁にしたいと申し出た。  戸田権左衛門は、粋《いき》な計らいをみせた。足軽の女《むすめ》では憚りがあろうと、麦屋佐平を、大垣戸田藩の下士として取立てることとした。中小姓五石三人|扶持《ぶち》の最下級ではあるが、足軽準士と異なり、歴とした士分である。  死を決して侍の道を貫こうとする吉右衛門は、果報を得た麦屋佐平を心から祝い、別れた。  それから今日まで、三年の月日が流れた。 「佐平の果報は、長続きせなんだらしい。近頃、討入の評判がまたまたぶり返してのう……企てに加わらなんだ者は侍仲間でひどく肩身を狭う暮しておるらしい……」  多助は、眉《まゆ》をひそめて語った。 「侍とは厄介なものじゃ、わしらのように早々と見切って百姓になった者の方が勝かも知れん……」 「肩身が狭い、というのは、何か苛《いじ》められでもしておるのか」 「そうであろ、詳しゅうはわからんが……大垣のお侍に嫁いだ妹御も、離縁になったとか聞いた」 「…………」  吉右衛門は、思いがけぬ話に、言葉を失なった。 「かと言うて、吉右衛門どのも苦労じゃのう……いのちがけで討入を成し遂げても、出世はおろか落着く家も無い。蔭《かげ》でいくら褒《ほ》めて貰うても、身の安まることがあるまい」  それは、的を射た言葉であった。何のための辛苦であったか、辛苦の末に何を得たか、と問われても返答の仕様がない。褒めそやす者と、忌み嫌う藩と、その狭間《はざま》で流浪するしかない吉右衛門であった。  ——あの篠どのが、離縁……?  おのれの事より、その衝撃に打ちのめされた感があった。  仔細を知りたい、だが、大垣に赴けば三次浅野の例にある如く、どのような危難が待ち受けているか計り知れない。いのちを狙うは過激だが、引捕えて公儀へ引渡すぐらいの事は、当然考えられる。 (生きて、生き抜け、それが使命である)  と、内蔵助は遺命を残した。 (よいか、同志のためにのみ働くな。われらの一挙のため、どれ程旧藩士が迷惑を蒙《こうむ》るやも知れぬ。そちの才覚で能《あた》う限り救え)  とも遺命した。  そのいずれを採るかは、吉右衛門の才覚ひとつであった。  夜明け早々に、吉右衛門は再び旅装をととのえた。 「お、おぬし、発《た》つのか、暫《しばら》く足を止めると言うたではないか」  人の好い多助が、おろおろと付きまとう。 「済まぬ、その心算《つもり》であったが、急に気が変った」  台所から走り出た女房が、弁当包を渡すのを押し頂いた吉右衛門は、言葉を継いだ。 「縁といのち有ればまた会おう、さらばだ」 「ど、どこへ行く」 「大垣」  吉右衛門は、秋霜の戸外へ足を踏み出した。      三  美濃路。中山道《なかせんどう》は大垣の北西、赤坂宿を抜け、北東で杭瀬《くいせ》川を船渡しで越え、美江寺《みえじ》宿、河渡《ごうど》宿を経て、加納宿、鵜沼《うぬま》宿と辿《たど》る。奇妙なことだが、戸田家十万石の城下町、大垣は、街道外れである。  戸田家は三河の出身、徳川家譜代の臣で数々の武功あり、関ヶ原戦役で秀忠の幕下にあって真田昌幸《さなだまさゆき》の上田城を攻め、その功績に依《よ》って大名に列した。三代家光の寛永年間、美濃大垣十万石を領するに至る。この頃の領主|采女正《うねめのしよう》氏定は、赤穂浅野|長矩《ながのり》の姻戚|従弟《いとこ》に当るため、公儀とのはざまにあって苦労したと伝えられている。  その一面、武功の家だけに士道の詮議《せんぎ》が盛んで、赤穂浪士の討入に快哉《かいさい》の声多く、赤穂藩廃絶の際に召抱えられた赤穂藩士は、企てに参加しなかったことで肩身狭く世を渡らなければならなかった。  麦屋佐平の場合は、殊に際立った。元は足軽準士の身が、家老戸田権左衛門の格別の引きで下士に登用されたのである。表立った功績もなければ、武芸才腕があったためでもない。辛うじて彼の身を支えるのは、妹の夫が藩中切っての武芸達者、有田|数之進《かずのしん》であるということであった。  その依りどころの篠が、有田家を離縁になった。有田数之進は離縁の訳を家中の者に触れ廻《まわ》って言った。 「赤穂の快挙に加わらなんだ未練侍を、身内には持てぬ」  身分の差、素性の相違、加えて武芸の道に暗い麦屋佐平にとっては、耐え難い日々が続いていた。その佐平の許《もと》に、使いの男が手紙を齎《もたら》した。男は、赤坂宿の北山にある宝光院という寺の下男であった。  会いたい、とのみ記されたその手紙の主は、絶えて久しい旧友、寺坂吉右衛門であった。  金生山宝光院は、本尊|虚空蔵菩薩《こくうぞうぼさつ》、奇《く》しくも大石内蔵助が京で密議に使った嵐山《あらしやま》の旅宿、桐屋《きりや》のある智福《ちふく》山|法輪《ほうりん》寺の本尊と同じ仏である。宝光院の虚空蔵は弘法大師の作、寺の開基も大師であるが、京の虚空蔵のほうが年代が白鳳《はくほう》とかなり古い。  吉右衛門は、天川屋儀兵衛の計らいで、京の五摂家筆頭関白|近衛《このえ》家の用人を務める旧藩士、進藤源四郎の添書を得て、この寺に宿をとった。進藤源四郎は、大石内蔵助の命を受けて近衛家に仕え、旧藩士の面倒見に尽力している。  納所《なつしよ》の案内で本尊を拝観した寺坂吉右衛門は、寺内に祀《まつ》る鎮守|御嶽権現《みたけごんげん》の書院で、美濃平野を一望して、感嘆の声を放った。見はるかす晩秋の不破、安八《あんぱち》両郡の沃野《よくや》は刈田《かりた》に落穂を焼く煙が靉《たなび》き、蕭条《しようじよう》の野趣を伝える風情であった。  小坊主が、来客を告げた。庫裡《くり》の玄関に立った女客は、御高祖頭巾《おこそずきん》を外して、微笑んだ。 「お久しゅうございます」 「は……」 「お見忘れでしょうか、篠でございます」  吉右衛門は、呆然《ぼうぜん》と見とれ、激しい狼狽《ろうばい》に襲われた。 「お篠どのか……いや、みごとに変られたな、見違えた」  数えれば三年になる。男の三年はそう長い年月ではない。容貌《ようぼう》に大した変化はあらわれない。  だが、女は環境の違いで激変する。三年以前の篠は、清澄可憐《せいちようかれん》な乙女であった。それが臈《ろう》たけた武家の妻女に変貌していた。透きとおる白い顔、艶々《つやつや》しい丹花の唇、明《さや》けき眸《ひとみ》、緑の黒髪、昔の気品は人柄の重みとなって見えた。  ——これが、足軽の女《むすめ》か。  青虫が蝶《ちよう》になったほどの違いであった。 「それで……佐平は?」 「それが、きょうあすとお勤めを外せず、取りあえず私がご挨拶《あいさつ》に参りました」  寺から借りた庫裡の一部屋に落着いた二人は、暫《しば》し茶を啜《すす》りながら話のきっかけをとつおいつした。 「何でこのようなお寺さまに……いえ、兄の許をおたずね下さらなかったのは、何か訳があっての事でしょうか」  篠のためらいがちの問いかけに、吉右衛門は苦笑するしかなかった。 「訳はあります。浅野家御|親戚《しんせき》筋の諸家にとって、それがしはかなり迷惑な人間になり果てておるらしい」 「と、おっしゃると……?」  吉右衛門は、浅野本家から領内立退きを迫られたこと、三次浅野家から不穏な追尾を受けたことなどを話した。 「そう言えば……御家老の戸田さまから、おふれがあったと聞きました。赤穂浅野家ゆかりの者が立廻った際は、時をおかず届出るように、と……」 「大方、御公儀の意向が変ったせいでしょうな。致し方ありません」  淡々と言ったが、吉右衛門は苦い思いを隠せなかった。  ——ここも、か……。 「それはそうと……お篠どのには、嫁ぎ先から……?」 「いえ。私の方から去り状をいただきました」  篠は、顔色も変えず、きっぱりと言った。 「いや、家内の事情に立入る心算はない。わしは大石さまから内々申し付けられております。元の藩士の暮し向に難儀があれば、相談に乗るように……と」 「…………」 「討入の事は、すべて大石さまの専断でなされた。事は天下の御法に背くとあって、人を選んだ。その人選びに洩《も》れた者も、赤穂侍のひとりである事に変りはない……」 「それで、相手方が納得致しましょうか」 「どういうことです」 「私は、このように思います。小父御さまの言葉で納得する程の分別があれば、説き聞かすまでもなく、赤穂の侍の苦しい立場を思いやって下さる……その思いやりに欠けるのは、お人柄に何かがある……違いましょうか」 「…………」  吉右衛門は、篠の言い立てる意味と、別の事を考えていた。  ——変れば変るものだ……。  以前の篠は、風にも耐えぬ楚々《そそ》とした乙女であった。その楚々たる風情は凜然《りんぜん》としたものに変った。  ——人の妻となると、こうも変るか。  有田数之進は、武芸達者と聞いた。その武芸専一の感化を受けた所為《せい》であろうか……。  気付くと、篠は無言で差し俯《うつむ》いていた。 「いや、失礼した。それで……」  あわてて取り繕う吉右衛門に、篠は消え入る風情であった。 「お恥ずかしゅうございます。小父御《おじご》さまに心安《こころやす》だてに、このような事を言い立てて……」  ——そうだ、それで昔の篠どのだ。吉右衛門は、人知れず安堵《あんど》の思いに浸った。  いつしか時は過ぎ、日が傾いた。 「夕餉《ゆうげ》をとってお帰りなされ、大垣までは二里半、腹減っては道がはかどるまい。誰か人を頼んで送らせよう」  そう言う吉右衛門に、篠はすがるように顔色をうかがった。 「小父御さまゆえ、思い切ってお頼み申します。今夜、こちらに泊めていただけませぬか」 「…………」 「いえ、兄もそう申しておりました。是非にもお願いしてみよ、と」  吉右衛門は、当惑した。四十路《よそじ》を迎えてなお独り身ではあるが、まだ枯れてはいない。篠は二十二歳の女盛りである。 「訳を聞こう」 「訳を申さねば叶《かな》いませぬか」 「さよう……是非にも聞きたい」  吉右衛門は、ひたすらおのれの煩悩を恐れた。むかしの篠は清澄であるだけに犯し難いものがあった。だが、男を知った篠は蠱惑《こわく》に満ちていた。以前のすんなりとした痩《や》せぎすの姿態は丸味を帯び、胸や腰の肉付きは紛れもない。吐く息さえも香気がただよっていた。 「では……申します。お笑い下さいませ」  篠は、袖口《そでぐち》に手をかけると、辷《すべ》るように片腕を捲《た》くし上げた。  白妙《しろたえ》の二の腕に、青痣《あおあざ》になって縄目《なわめ》の痕《あと》が残り、一筋二筋、鞭《むち》と思われる赤い筋が刻まれていた。  吉右衛門は、思わず息を呑《の》んだ。 「お恥ずかしゅうございます」 「…………」  ——これは、得難い獲物であったに違いない。  吉右衛門は、一瞬の中に、すべての経緯を理解した。清楚で気品に満ちた美貌と、白妙の肌、しなやかな姿態を持つ篠は、数之進の嗜虐《しぎやく》の癖にとって、燃えて止まぬ対象であった。 「そうか、そうだったのか」 「はい……それで今宵《こよい》、別れた有田が兄の許《もと》へ、掛け合いに来ると申しております」 「…………」  苛虐《かぎやく》の性癖は、男女の性別を問わず、弱者に発揮されるだろう。吉右衛門は麦屋佐平の難儀を察した。それ故に篠を吉右衛門の許へ送った苦衷を。 「さて、どうするか」  吉右衛門は座を立って、夕餉を頼みに出て行った。  赤坂の宝光院を出たのは、暮六ツ半(午後七時頃)であった。  秋の残照は短い。暗くなった夜道を、吉右衛門と篠は、ひたすら歩いた。  考えねばならぬことは山ほどもあった。  有田数之進は、おのれの歪《ゆが》んだ性癖を隠すため、篠との別れ話の理由として佐平が討入の一挙に参加しなかったことを言いたて罵《ののし》るだろう。聞き手の藩士を伴うに違いない。  その紛争に介入すれば、寺坂吉右衛門の存在が明るみに出る。浅野本家、三次浅野の例をみても、大垣戸田家は当然の事に吉右衛門に何らかの処置を採らざるを得ない。暗殺か、召捕って公儀に引渡すか、それとも追放か。  生きて生き抜かなければならぬ吉右衛門の悩みは、それにあった。 (三十六策|走《に》ぐるをこれ上計とす)  介入を避けるべきであろう。それをこうして自ら近付く。  悩みに悩んで、吉右衛門は黙々と道を辿《たど》った。 「あの家でございます」  侍長屋に差しかかると、篠は灯《あか》りの見える一軒を指し示した。  表口のあたりに、四ツ五ツ提灯《ちようちん》の灯が見え、人だかりがしていた。 「まだ揉《も》めごとが続いているようだな」  吉右衛門は、提灯の灯を吹き消すと、篠に動かぬよう身振りで示して、ひとりその家に歩み寄った。  表口を背にして麦屋佐平が立ち、それを血気盛んな藩士が四、五名、半円に囲んでいた。 「どうだ、出向くかどうか、はっきりせい」  佐平の前に立って詰問しているのは、有田数之進であった。背高のがっしりとした体格は、三年前と変らない。 「河渡《ごうど》八幡の境内、明日の七ツ刻、もちろんおぬしとおれの一騎討だ。いや、馬はいらん、足軽どのに心得のない事はわかっておる」  笑いを含んだ声は権高であった。 「無法は困る。果し合いは藩の掟《おきて》に背く」  佐平の低い声は、力弱かった。 「何を大層な、果し合おうなどと言ってはおらん。赤穂の侍の有りようを、ちびっと見せて欲しいだけだ」  横合いから、若侍が口をはさんだ。 「それよ、それ、討入に加わらんでも腰抜けとは限らぬ、そう言うたではないか、おぬし」 「名誉の赤穂で足軽が、腑抜《ふぬ》けの大垣では中小姓、その違いを腕で見せて頂こうというのよ」  侍たちが、口々に言いつのった。佐平は、唇を噛《か》んで押し黙っていた。 「何もいのちのやりとりをせいとは言わぬ」  有田は、余裕を見せて見下した。 「木刀もこちらで用意しておく。三年続いたおぬしとの悪縁を、それで決着をつけようと言うのだ。お互い、侍らしくな」 「おぬし、それが昨日今日まで、義理とはいえ兄弟であった者に言う言葉か」  佐平は、堪《たま》りかねたように叫んだ。 「篠には篠の存念がある。その離別の腹いせを兄で晴らそうというのか。それが大垣の士道か、無法極まるではないか」 「何を言う。離別したのはおれの方だ」  有田は怒鳴った。 「卑怯《ひきよう》未練の赤穂侍を兄に持っては、藩中に顔向けならん、そう思って去り状を書いたが、三年連れ添うたあの女がいかにもあわれでならぬ。それでおぬしと義絶したら、復縁してもよいと申したのだ」 「…………」 「しかし、これではっきりした。天涯孤独の兄と妹は離れ難いという。嫁して夫に従えぬ不心得な女に未練はない。だがな、これまで兄と呼んだおぬしには言い分がある。赤穂で足軽だったおぬしを、ご家老に推挙したのはおれだ。しかも士分にな」 「…………」 「その折、うぬは討入の企てのあることを隠し、おれをあざむいた。おかげで、卑怯未練な者を推挙したと、藩内の笑いものにされた。その償いをせいというのだ。それが無法か」 「……しかし」  佐平は、声を詰らせて言った。 「わしは元々足軽身分、剣術などろくに習ったことはない」 「まだ未練を口にするか」  有田は、耐えかねたように絶叫した。 「立合って恥をかくのが厭《いや》なら腹を切れ。うぬの同じ家中は、事を成し遂げて、切腹した。うぬに出来ぬ筈《はず》はない」  佐平はわなわなと震えた。 「卒爾《そつじ》ながら……そのこと、無縁のおぬしに言われる筋合はない」  一瞬、有田は飛び退くと、刀の柄《つか》に手を掛けた。 「おのれ、何奴だ」 「この者の友人です。播州赤穂の元家中、寺坂吉右衛門」  有田を始め、四、五人の同輩は、雷に打たれたように、声を呑《の》んで、吉右衛門を瞶《みつ》めた。 「……そうか。討入のあと、いのち惜しさに逃げたという足軽か。眼の寄る所へは玉も寄るというが、本当だな」  有田は、明らかな虚勢だった。声がしゃがれていた。 「ならば言おう」  吉右衛門は勃然《ぼつぜん》たる怒りをこめて言った。 「おぬしは、侍同士|白刃《しらは》を交えていのちのやりとりをしたことがあるか」 「…………」 「相手は謙信公以来、武名を以《も》って鳴る上杉侍、しかも味方に倍する敵勢と、半夜にわたって鎬《しのぎ》を削った。その者をいのち惜しんだと言われる美濃大垣侍の、道場剣術がいかほどのものか、見せていただこう」  吉右衛門は、冷然と告げた。 「河渡八幡、あすの七ツ刻、赤穂侍の侍心をお見せする。くれぐれも足軽風情におくれをとらぬよう……美濃大垣侍の名が泣きますぞ」  言い捨てて、吉右衛門は佐平と篠を促し、家の中へ入った。      四 「済まぬ、取り返しのつかぬ事におぬしを引き入れた」  上り端《はな》の囲炉裡《いろり》に坐《すわ》り、篠の淹《い》れた茶を啜《すす》った吉右衛門は、苦く微笑んだ。 「おぬしが詫《わ》びることはない。これはわれから望んで立ち入ったのだ」 「いや、そうではない。おぬしの義侠《ぎきよう》は隠れもない。だが……名誉の討入に名を連ね、その中でただひとり生き残ったおぬしを、わしのような不甲斐《ふがい》ない者のためにいのち賭《か》けさせるとは……」 「佐平……おぬしは討入の評判に、おれという者の値打を買い被《かぶ》っている。おれは昔と変らぬおぬしの古朋輩《ふるほうばい》の吉右衛だ、友垣《ともがき》として降りかかった災難を分ち合うのは当然ではないか」  吉右衛門の言葉に、佐平はなおさらうなだれた。 「……吉右衛、わしはな、赤穂大変の際に、大石様を恨みに思うた。大石様はかねてから何名か、ひそかに撫育金《ぶいくきん》を与えて備えておられた。わしもそのお眼鏡に叶い、年毎に身に余る金をいただいた。それが……あの大変の折に、お声がかからなんだ」 「そうか……そうだったのか」  吉右衛門は、頷《うなず》いた。 「そのうち、ここ大垣のご家老が、赤穂藩士慰撫のためおみえになり……わしを大垣藩にお召抱えになるとお声が掛った。蔭《かげ》に有田数之進が篠を見染めたためというが、わしは一切知らぬ。わしは……浅はかにも、大石様の御心底を確めようと、わざとその事を申し上げてみた。ところが大石様は、大事を毛ほどもあらわさず、大層お喜びになり……戸田様には、わしの事を、あれは侍奉公に役立つ男と御推挙になった。それでわしは……大石様を見限り、再仕官の道を選んだ……」 「それは……」  吉右衛門は、嘆息した。 「それでいて、おぬしは加えられた。足軽仲間では矢野伊助もだ。何でおれが選に洩《も》れたか、納得がゆかぬ……」 「なあ、佐平……ならば言うが、大石様が一番苦心なされたのは、人選びであった。腕が立つだけではない、侍心の確かな者、生死の覚悟の定まった者、それだけではない、事を成し遂げても果報はない、天下の法で容赦なく裁かれ、いのちを失なっても悔いなき者……」 「吉右衛……」  佐平が言いかけるのを、吉右衛門は制するように首を横に振った。 「言うは易く、行なうは難しという言葉がある。討入に加わったのが立派、選に洩れたが士道不覚悟というのではない。これは長い一生の生きように、それぞれ違いがある……他に生きようのある者は、その道を選ばせたいと、大石様は仰《おお》せられた。あの大変の折、わしも矢野伊助もほかに生きようがなかった。それでせめて、走り使いになりと使っていただこうと願ったが、合戦ならいざ知らず、法をおかしての企てに士分以下の者は加えられぬとあって、われら二人は揃って腹を切り、企てに殉じようと覚悟を決めたのだ」 「……そ、そうか……」 「その矢野伊助ですら、討入の前夜に逐電《ちくてん》した……侍衆の中で随一の槍仕《やりし》、高田郡兵衛どのも中途で脱盟……人の生きようというのは量り知れぬのだ」 「…………」 「人は、わが身に関わりなければ勝手な事を言う。忠臣よ義士よ武士の鑑《かがみ》よと……だが、その内実は、事成し遂げても打首同様の切腹、それだけではない。御子までが十五歳をもって遠島流罪……ひとりいのち長らえたおれも、この二年、いつ下るかわからぬお咎《とが》めを覚悟して、毎日毎夜を過ごしておるのだ。これはおれが選んだ一生、悔いてもはじまらぬ。おぬしも、だ」  語りながら吉右衛門は、土間に立った。 「待て、吉右衛、どこへ行く」  吉右衛門は、苦笑を浮べてみせた。 「佐平よ、おぬしが主取りしていなければ、古朋輩のよしみで一夜の宿を借りるが、御高家吉良どのを殺《あや》めた赤穂浪人の一人をかくまったと知れては、戸田様のお家に傷が付こう。わしは広島に滞在中も、一夜たりとも侍衆の家に厄介になったことはない……あす、河渡八幡の境内で会おう」  吉右衛門は、言い捨てて出て行った。  月あかりに、すだく虫の音が囂《かまびす》しい。  時刻は三更に近い。この夜更《よふけ》に宿を探すのは無理だった。  ——どこぞに辻堂《つじどう》か農作小屋はないか。  侍長屋を抜けると木立があって、先は田野だった。吉右衛門はゆるゆると歩を運んだ。野宿には馴《な》れている。見知らぬ土地を旅すると宿にありつけぬことが少なくなかった。  小走りに後を追ってくる足音に、吉右衛門は足を止めて振り返った。  ——篠、に違いない。  案の定、篠だった。 「小父御《おじご》さま」  吉右衛門は頷いて、あたりを物色した。  道の傍らに道祖神の塚があり、農夫が時折休むためのものか、頃合の石が不揃いに据えてある。吉右衛門はその一つの土砂を手拭《てぬぐい》ではたき勧めて、おのれは斜めの石に腰を下ろした。 「お泊りいただけると思いましたのに……」 「お聞きの通りだ。こうした身となると、はたの迷惑に気を配らなければならぬ……厄介なもの、とわれながら思う……」 「私……是非にもお尋ねしたいことがあって、不躾《ぶしつけ》に追って参りました」 「はて」 「明日の果し合い……お勝ちになれますか」  吉右衛門は、あらぬ方を見て小首をかしげた。 「さて、なあ……侍の立合いというのは、やってみなければ分らぬ、としか言いようがないが……」 「私もそう思います。小父御さまは討入を果されたゆえ、自信がおありとは存じますが、有田は鐘巻《かねまき》流で藩中指折りの使い手……」  吉右衛門は腰をさぐって煙草入を取出すと、火打石を使って一服つけた。そのやや長い間合を待ち続けた篠は、先に口を切った。 「小父御さまは、兄を助けるお心算《つもり》で、いのちをお賭《か》けになるのですか」 「いや……」  吉右衛門は、一度言葉を切ったあと、ゆるゆると答えた。 「何か、役に立ちたいと思ったことは確かだが……果し合いまでの心積りはなかったな」 「では、世上に謳《うた》われる赤穂浪人の一人として、面目を立てようと……」 「そんなことはない」  吉右衛門は、言下に否定した。 「行蔵《こうぞう》は内《うち》に存す、と、大石様は言われた。われら四十七人は討入をもって侍の生きよう、義を貫いた。それだけのこと。世人が褒めようと謗《そし》ろうと、われらの為《な》し遂げたことは毫《ごう》も変るものではない……人の生きようとは、そういうものなのだ……」  吉右衛門が、独り言のようにしみじみと言うのに、篠はかぶせるように言葉を重ねた。 「それでは、私のために……」  吉右衛門が向き直るのを見て、篠は言葉を途切らせた。 「篠どの……」 「…………」 「そなたのため、と言えば、嘘でも美しく聞えるだろう。確かに宝光院で再会した時は心動いたこともあった……だが、われから果し合いを買って出るというのは、そうとばかり言えぬようだ……」  篠の顔色が動いたのは、明らかに失望のため、と見えた。 「ありようは、疲れたのだな。家なく、妻も子もなく、行先のあてもない。いつまで続くか目途《めど》も立たず、先ゆきの望みもない。長旅にほとほと疲れたようだ……それでふっと魔がさした」 「小父御さま……小父御さまはまさか……」  吉右衛門は、微笑んでみせた。 「魔がさしたのは一時のこと、むざと斬られる心算はない。未熟な剣だが存分に立合ってみる。辛《つら》かろうと天命尽きるまで生き抜くことが、わしの使命だ」  篠は、緊張の張りが切れたように、うなだれた。 「兄者の言われた通り、そなたがわしを頼ったのは当り前のことだ」 「いえ、その事ではございませぬ。実は赤穂の御大変の三月ほど前、組頭の吉田忠左衛門さまから内々のお話がございました。多少年は違うが寺坂の小父御さまの嫁にならぬか……と」 「…………」  吉右衛門は、はじめて耳にする秘事に、心の動揺を懸命に隠した。 「その、多少と言われた年の違いに心が定まらず……つい御返事を延び延びとしているうちに、御大変が起こり……願ってもない果報と、人柄も確めず有田に嫁ぎました。その末が今の仕儀……私の心の底に増上慢があったと思います。寺坂の小父御さまなら身を捨ててでも助けて下さるだろう……と」 「もうよい、篠どの。言うて甲斐《かい》なきことは言わぬ事だ」  吉右衛門は、強く言った。 「人の生きる道には、数々の別れ道がある。そなたは選んだ道を歩み、わしも選んだ道を歩いていまここにいる。ふり返ったとて元には戻らぬ」 「まこと、元には戻らぬものでしょうか」 「戻ってどうなる。元禄《げんろく》十五年十二月十四日、江戸本所の吉良屋敷で、わしは死んだ」  吉右衛門はゆっくり立上がると、目礼し、夜闇の中に消えた。      五  秋とも思えぬ熱い日射しを浴びていた境内は、八ツ半(午後三時頃)を過ぎると急速に冷気が増し、斜陽が長く影を引いた。  もう蝉の声は絶えていた。森と静まる中に間近に迫った冬の気配がうかがえた。  拝殿を廻《まわ》って、吉右衛門の姿が現われた。相変らずの旅姿であった。  待ちうけた十人ほどの藩士の中に、鉢巻、襷《たすき》、袴《はかま》の股立《ももだち》を取った有田数之進の姿が見えた。その群れと離れて、御《み》手洗《たらし》のあたりに、麦屋佐平と篠らしい男女の姿が遠くうかがえた。 「待ちかねたぞ」  歩み寄る吉右衛門を、迎えるように進み出た有田が大声で言った。 「まだ、七ツにはいくらか間がある」 「それより申し入れることがある。足軽風情を相手にいのちを惜しんだとあっては大垣侍の名がすたる。真剣で立合いたいがどうだ」 「いいでしょう、木刀でも真剣でも、死ぬときは死ぬ」  二人は、足場を確めて向合うと、刀を抜いた。がっしりとした体格の有田の構えには、相手を圧倒する気力が溢《あふ》れて見えた。それにひきかえ、吉右衛門の構えには、水のような静かさがあった。  討入の企てが進むなかで、吉右衛門は、武芸練達の同志から、鍛えに鍛えられた。  赤穂浅野家の足軽だった吉右衛門は、木刀もろくに握ったことが無かった。その吉右衛門に、討入決戦に間に合うよう剣術を教えこむのは、至難の業と思えた。  最初、教導に当ったのは、不破数右衛門だった。不破は吉右衛門の頭に、綿を詰めた目笊《めざる》をかぶせ、青竹で叩《たた》きまくった。 「いいか、頭の上に白刃《はくじん》が降ってくる。その気配を察知しろ。一瞬のうちに覚れ」  棒立ちの吉右衛門の前後を走り廻りながら、不破は容赦なく叩いた。 「痛いなどと泣言を言うな、痛いから覚えるのだ」  痛さが充分身に染《し》むと、前後左右に飛び退って、避けることを習った。 「速すぎればつけ込まれ、遅ければ打たれる。一瞬の気合を覚えろ」  討入の数ヶ月前、京の東山山中の訓練で、堀部安兵衛が、間合のとり方を教えた。 「相手の眼を見るな、おまえのような鈍な者が相手と眼を合わすと、手もなく引込まれる……相手の帯を見ろ、その帯で相手との間合を計れ、相手の刀が一寸届かず、こちらの刀が届く、その一寸の距離を見切るのだ」  最後は、堀内源左衛門道場の高弟、奥田孫太夫だった。 「構えている時には、なかなか隙は窺《うかが》えぬものだ。だが、相手を打とうと行動を起こすと、隙はおのずと生ずる。それを打つのだ。……剣の要諦《ようたい》は、相手に先んずる剣の速さだ。剣は瞬息、これに尽きる」  根の尽きた吉右衛門は、こう訴えた。 「てまえは足軽、生涯、一対一の立合いなどすることはありません。むだかと思いますが」 「ばかを言え」  どの教導も、異口同音に怒鳴った。 「一対一の立合いも出来ん奴が、戦場で役立つか。戦場は修羅《しゆら》の巷《ちまた》、すべての要因が反射して行動出来ぬと働けぬ。戦場とはそういうものだ」  思案に余った吉右衛門は、大石内蔵助の許《もと》へ訴え出た。  仔細《しさい》を聞いた内蔵助は、事も無げに笑顔で教示した。 「斬られることを厭《いと》わぬ事だな」 「と、申されますと、相手を斃《たお》さなくてよろしいのですか」 「わしがその方らに望んだのは、吉良の白髪首《しらがくび》ひとつが目当てではない。赤穂武士の生きよう死にざまの美しさを天下に示すことにある。相手は天下に名だたる上杉侍、かなわなんだら見苦しく生きようとするな。見た目に美しく斬られて死ね。足軽までがみごとに死んだとあれば、われらの志は遂げられる」 「美しく斬られる、というのは、どのように」 「それは、そちの工夫だ」  内蔵助は笑った。  討入の戦場で、吉右衛門はその教示を胸臆《きようおく》に、一つの事を心掛けた。  ——美しく斬られよう。  吉右衛門の会得した美しさは〈後へ退《ひ》かぬ〉ことであった。  いかに相手が兇悍《きようかん》、凶暴で迫っても後へは退かぬ。剣刃が身に迫っても踏張って、相打ち覚悟の剣を振るった。  相手は凄《すさ》まじい剣戟《けんげき》に逆上し、間合も見当も碌《ろく》に見定めず、斬ってかかった。それにはこちらが怖《おじ》けたじろぐであろうという目算があった。  斬られようと踏張った吉右衛門は、三人までも上杉侍を斃した。  いまの吉右衛門がそれであった。相手は大垣戸田家切っての武芸達者、尋常なら敵《かな》うまい。だが足軽身分の者が剣刃に一歩も退かず壮絶に斬られれば、赤穂侍の士道は立つ。どうせ惜しからぬいのちではないか……。  身を捨てて、相打ちを目指す吉右衛門には、研ぎ澄ました冷徹な思念がみなぎっていた。  対峙《たいじ》は長く続いた。  有田は焦り続けた。こんな筈《はず》ではない。相手は足軽、勝って当然なのだ、勝たねばならぬ、勝たねば……。  仕掛けたのは有田であった。化鳥《けちよう》のような絶叫と共に、渾身《こんしん》の力をこめた白刃が、吉右衛門の肩口を襲った。だが、いのちを賭《か》けた真剣の立合に、気後れがあったのであろう、間合がわずかに遠く有田の白刃は空を斬った。すかさず吉右衛門の白刃は、有田の脇腹を打った。  だが、吉右衛門は、打つにとどめた。刃先は有田の衣服を斬り裂いたが、胴に巻いた晒布《さらし》一枚で止った。 「それまでだ。双方刀を退け」  駆けつけた戸田権左衛門が、大声で呼ばわりながら、急ぎ足で歩み寄った。 「ご家老」  御手洗から駆け寄ろうとする麦屋佐平を眼で制した�大垣の権左�は、刀を納めた吉右衛門に、深々と頭を下げた。 「寺坂吉右衛門どのと見受けたが」 「いかにも、寺坂吉右衛門にござります」 「過ぐる年は、めざましきお手柄であったなあ……戸田権左衛門、あらためて祝着に存ずる」  戸田権左衛門は、果し合いに集った十人余りの藩士を見渡した。 「その方どもの軽率を叱る前に、わしは悔ゆることがある。それを先に話す……過ぐる年、赤穂浅野家断絶の折、わしは主命をうけ、大石どのの説得に参った。わしと大石どのは二昔《ふたむかし》前、京で伊藤仁斎先生の許で机を並べた古朋輩であった。それだけに……あの御仁の胸の内は、何もかも見通せると思ったが身のあやまり……あとで討入の事を知り、大恥をかいた」  戸田権左衛門は、手にした鞭《むち》で、乾いた地面を掻《か》き撫《な》でながら、述懐を続けた。 「他人の胸中を知り得なかったのが恥ではない。天下を驚倒させる大事は、大石どの一人の力ではないのだ、その下に四十六人の決死の士があり、更にそれを知りつつ、大事を洩《も》らさぬ三百の藩士あって、事は成就したのだ……大石どのは、その無名の三百の旧藩士に報ゆるため、名を惜しむこの寺坂吉右衛門どのを世に残された……討入の大事は、赤穂浅野の家臣総掛りの成果であった」  息を継いだ戸田権左衛門は、声を励ました。 「翻ってわが藩はどうだ。家老のわしにその深慮遠謀があろうか、家臣の一人一人に、いのちを捨てて義に殉ずる者、名を捨て力を添える者がおろうか、それを思うと、心許《こころもと》なくてならぬのだ」 「ご家老……」 「わかればそれでよい、わしとてその方らを叱る資格はない」  戸田権左衛門は、吉右衛門に向き直って続けた。 「麦屋佐平の書置で、遅れ馳《ば》せに参ってのこの始末だが……収めていただけようか」  吉右衛門は頷《うなず》き返した。 「異存はございませぬ……ただ、この麦屋佐平は、この場限りで退身致させ、連れて参ります」 「さ、それは……」  戸田権左衛門が異を唱えようとするのに、吉右衛門は言葉をかぶせた。 「遺恨が残ります。有田どのは譜代の御家来、これをいましめとして、後々大事にお使いなされるが至当かと存じます。それに引替え、麦屋佐平は侍奉公に不向きかと心得ます。別の生きようを選ばせましょう……どなた様も、御免を蒙《こうむ》ります」  吉右衛門は、麦屋佐平と篠を促し、立去りかけた。 「戸田さま」 「何か……」 「手前に……何か御用の向きは、ございますまいな」  吉右衛門は、戸田権左衛門を見返るとにっこり笑いかけた。 「いや、別に……」 「では、随分とお達者で」  ——ここは無事に済んだ……。  大坂表へ連れ帰って、麦屋佐平と篠にどのような暮し向を立てさせるか、問題はまだ片付いていない。天川屋儀兵衛に任すしかあるまい。  ——その佐平に比べ、おれは……。  目途《めど》の立たぬ道が、吉右衛門の前に続いていた。 [#改ページ] [#見出し]  命なりけり  秋海棠《しゆうかいどう》      一  箱根路に塔之沢《とうのさわ》という温泉地がある。  小田原の郊外で海にそそぐ渓流、早川の上流に沿う湯治場で、箱根七湯(芦之湯《あしのゆ》、木賀湯《きがのゆ》、底倉湯《そこくらのゆ》、宮《みや》ノ下湯《したゆ》、|堂ヶ島湯《どうがしまゆ》、湯本湯《ゆもとゆ》と、塔之沢湯)の一、箱根|山裾《やますそ》の湯本より約半里、名刹阿弥陀《めいさつあみだ》寺の辺を塔の峯《みね》と称したので、山下の沢にできた村を塔の沢と唱えた。『新編|相模国風土記《さがみのくにふどき》稿』巻二十七に、「海道中、小名三枚橋(湯本宿外れの橋)より西方へ分るゝ一条は湯泉道なり、幅五尺、三枚橋より行くこと五町にて岐路あり、右は塔之沢温泉」云々《うんぬん》、とある。  道が平坦《へいたん》で交通至便な湯本湯は、とかく喧噪《けんそう》の憾《うら》みがある。塔之沢は山水の美景は絶佳で、座敷を渓流の上にしつらえ、温泉を筧《かけい》にとって湯滝とし、肩、腰、膝《ひざ》に打ち、あるいは湯槽《ゆぶね》に浴しても、昼夜|溢《あふ》れ流れる湯は清泉のようである。糸竹の音、楊弓《ようきゆう》、軍書読《ぐんしよよみ》の席も養生の慰めとなる。数ある箱根の湯の中で、正に極楽の湯と言えよう。  宝永二年(一七〇五)十月の末、その塔之沢で元湯、秋山弥五兵衛と並んで由緒を誇る一之湯、小川沢右衛門方を訪れた旅姿の侍があった。 「当宿に、京都近衛家の御用を承る寺坂吉右衛門という御人が滞留、と聞いておるが、御意を得たい。取次を頼む」  侍は、相州小田原大久保家家臣、先手《さきて》物頭の早崎|主馬之進《しゆめのしん》と名乗った。年の頃四十歳台半ば、温厚篤実な人柄と見えた。 「これはようこそお立寄り下された。先《ま》ずは茶なりと一服、召上がり下され」  出迎えた寺坂は、すでに出立の身支度を調え終っていた。  一昨日、小田原の番所で出会った旧知の二人は、この日、早崎が箱根の関所番に上番するとあって、箱根宿まで道連れを約していた。  寺坂と早崎が知り合ったのは、元禄十六年の一月である。旧臘《きゆうろう》吉良家討入を果した寺坂は、頭領大石内蔵助の命を受け、ひとり存命をはかるべく、引揚げの途次、同志の隊列から抜けた。その後、約半月、同志ゆかりの鎌倉の明石茶屋で心身を休めた寺坂は、同志が遺《のこ》した家族への報告と、暮し向の相談に与《あず》かろうと、西上の旅に出た。  その寺坂が最初に出合った難関は、箱根の関所であった。当時は手形一枚なく、当って砕ける覚悟で関所の門をくぐるほかなかった。  寺坂は、あえて偽名を用いなかった。天地神明に恥じざる一挙を為《な》し遂げた、という自負が、そうさせたのである。 「旧赤穂浅野家、家来、寺坂吉右衛門」  名乗りをうけて、関所を預る小田原大久保家の者は当惑した。  討入の噂は、江戸と京大坂を結ぶ東海道筋にいち早く流れた。討入の行動から参加した赤穂浪士の姓名、年齢、身分まで、驚くほど詳細に、また驚くほど荒唐無稽《こうとうむけい》な風聞を交えて、多量に流布された。  その中に、討入後行方知れずとなった寺坂吉右衛門の噂があった。噂は寺坂がいのち惜しさに逃亡したというものと、討入後に生き証人を残す大石内蔵助の深慮に依《よ》るものとのふた通りである。  やがて、公儀の討入事件に関する通達が、箱根関所にもたらされた。通達は討入を赤穂浪人の一味徒党に依る法秩序への反逆行為と断じ、旧赤穂藩士の江戸入府を厳しく取締り、不審の者の勾留を指令していた。  だが、その通達には、討入の一味を四十六士と断定し、寺坂吉右衛門の名はその中からのぞかれていた。  後世、忠臣蔵と呼ばれる討入事件は、幕政二百六十五年間における最大の争乱である。不慮に生じたこの事件に、対応が混乱したのはむしろ当然であった。  その混乱のさなかに、寺坂吉右衛門が現われたのである。公儀の思惑に従って天下の罪人と扱うか、世論の通り士道を貫いた義士とみるか、その判断は一《いつ》に関所番の裁量にかかっていた。  当時、関所の番頭にあったのが、早崎主馬之進であった。早崎は寺坂の毅然《きぜん》たる態度と、悪びれぬ物腰に、ゆるがぬ侍心を見てとった。 「目出たく御本懐を遂げられ、侍の冥利《みようり》、羨《うらやま》しく存ずる。通行の儀、一向に差支えござらぬ。お通りめされい」  他藩の者とはいえ、上士が足軽に告げるには、過分な言葉遣いであった。その言葉の中に、早崎のなみなみならぬ心遣いがこめられていた。  一旦《いつたん》、京へ上った寺坂は、町人ながら企てに協力を惜しまなかった大坂の悉皆《しつかい》問屋、天川屋儀兵衛のはからいで、旧藩士進藤源四郎が再仕官した近衛家の御用手形を貰《もら》い、京、大坂から播州《ばんしゆう》赤穂、同じく加東郡《かとうごおり》と、旧浅野領に住居する同志遺族や旧藩士を歴訪、次いで芸州広島の浅野本家、備後三次《びんごみよし》の浅野分家に寄宿する者たちを見舞い、相談事や暮し向の処理に当った。  旧赤穂藩士の身を置く処は、予想を越えた範囲に広がっていた。最も遠いのは奥州白河に中村勘助の妻と、矢頭《やとう》右衛門七《えもしち》の母と妹が身を寄せていた。常陸笠間《ひたちかさま》には勝田新左衛門の家族が本家に寄宿するなど、東国には遺族が点在している。 (討入の同志と否とを問わず、旧赤穂浅野家に籍をおいた者たちの行末に心を配れ。一人たりと餓える者、切羽《せつぱ》詰って罪を犯す者を出すな。それが赤穂士道を世に残す基《もとい》である)  大石内蔵助の遺命を奉じて、寺坂は西に東に旅を続けた。箱根の関所を越えた回数は五指に余る。その都度寺坂は、最初の邂逅《かいこう》に手厚く扱ってくれた早崎を徳として、挨拶《あいさつ》を怠らず、今日に至っている。  塔之沢一之湯を連れ立って出た寺坂と早崎は、一旦湯本湯に戻り、畑宿までの登り道を、殆《ほと》んど言葉を交すことなく歩いた。名だたる箱根路の登り坂に、まず呼吸を調えるのが大事だったためである。  初冬陰暦十月末になると、吹く山風は肌に冷たく、日中でも山蔭《やまかげ》に氷が解けず、重畳の山なみは紅葉散り、名残の錦繍《きんしゆう》を偲《しの》ぶ風情であった。  感嘆の声を放つ寺坂を見返って、早崎は言った。 「もう少々季節が遅うござる。あと半月早ければちょうど見ごろ……年来、是非一度そこもとをお招きして、紅葉狩にご案内したく念じておりましたが、まだその機を得ませぬ。どうやら今年も、掛け違うたようで……」 「なかなか……てまえ卑賤《ひせん》の身、さような風流は身につきませぬ。お志だけはありがたく、頂戴仕《ちようだいつかまつ》ります」 「それにつけても、ご心痛であられましょうな。お察し致します」  寺坂は、怪訝《けげん》な顔で早崎を見た。 「はて、何の事でござりますか」 「いや、先を急がれるご様子……伊豆大島《いずおおしま》の一件であろうと思いますが、違いますか」 「いや、一向に何の事か……」 「では、ご存知ない……これはご無礼仕った、考えてみれば旅から旅のそこもと、かような内々の知らせはお耳に入るのが遅れて当然……実は先年、大島へ配流となりました間瀬久太夫どののご子息、佐太八《さだはち》どのが今年の春先より煩《わず》らいつき、養生|叶《かな》わず、夏の終りに身罷《みまか》りました」  思いもかけぬ凶報であった。寺坂は雷に打たれたように、思わずその場に立ちすくんだ。      二  大石内蔵助が、吉良屋敷討入の企てを進める中で、盟約に加えぬ者が数多くいた。それは家名の存続や、遺家族の事情を配慮しての事であった。  内蔵助自身、嫡男|主税《ちから》は加えたが、次男吉千代以下の子弟は妻りくに托《たく》して残した。吉千代は討入の年に十二歳、父内蔵助の遺命に依り仏門に入った。  惣《そう》参謀吉田忠左衛門は嫡子沢右衛門を加えたが、次男伝内を残し、間瀬久太夫は長男孫九郎を参加させ、次男佐太八を残し、村松喜兵衛は長男三太夫を加え、三男政右衛門を残し、中村勘助は長男の忠三郎を参加させなかった。  内蔵助が見込んだ通り、公儀の討入事件に関する処断は厳しかった。世上に伝えられる賞讃《しようさん》や憐憫《れんびん》の沙汰《さた》は後世に作られた偽説である。公儀は在野の同情論に対し、武士の面目を立てて切腹という処置で表面を取繕ったが、その実、天下の御法に背いた罪人という苛烈《かれつ》な扱いをゆるめなかった。  その表われは、遺児に対する連坐《れんざ》の罪である。遺児男子十九名の中、十五歳以上の吉田伝内(二十五歳)、間瀬佐太八(二十歳)、村松政右衛門(二十三歳)、中村忠三郎(十五歳)を、切腹直後に召喚し、四月、伊豆大島へ流罪とした。その際の携行許可は金子二十両、米二十俵と定められたが、あまりに急な執行のため、金子は十両に満たず、米は二俵余りしか携行出来なかったという。  更に、十五歳に満たぬ男子は親戚《しんせき》預けとし、十五歳に満ちた年に順次流罪に処す旨、居住の各藩に申し渡した。  その処分待機の者は、左の十五名である。 [#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]   大石吉千代(十三歳、内蔵助次男、僧籍のため、処分保留)   同 大三郎(二歳、内蔵助三男)   片岡新六(十二歳、源五右衛門長男)   同 六之助(九歳、源五右衛門次男)   原 十次郎(五歳、惣右衛門長男)   矢田作十郎(九歳、五郎右衛門長男)   富森長太郎(二歳、助右衛門長男)   不破大五郎(六歳、数右衛門長男)   中村勘次(五歳、勘助次男)   木村惣十郎(九歳、岡右衛門長男)   大岡次郎四郎(八歳、木村岡右衛門の次男、大岡藤左衛門の養子となり改姓)   茅野《かやの》猪之助(四歳、和助長男)   奥田清十郎(二歳、貞右衛門長男)   岡島藤松(十歳、八十右衛門長男)   同 丑之助(七歳、八十右衛門次男) [#ここで字下げ終わり]  先の四人が遠島流罪になって、二年が過ぎた。島の様子は何一つ伝わらない。ただ世間一般の常識として、苛酷《かこく》な暮しであろうことは想像された。 『池田家履歴略記』に依れば、岡山池田藩の藩士津川門兵衛の娘であった千馬《ちば》三郎兵衛(四十七士の一人)の妻は、正月を迎えて息子が年をとる毎に、遠島となる日が近付くので、思い煩らって涙を流すばかりであった、とある。だが、前述の遠島処分待ちの浪士遺児に、千馬三郎兵衛の子は無い。恐らく三郎兵衛の深慮で、親類書に名を記されなかったのであろう。三郎兵衛らしい考え方であった。  それにしても、間瀬佐太八の死は意外であった。大目付間瀬久太夫は厳格な人柄を以って聞え、孫九郎、佐太八を幼少の頃から厳しく鍛えた。孫九郎は槍術《そうじゆつ》、佐太八は柔術の名手として知られ、人並すぐれた体格の持ち主であった。また佐太八は快活な性格で人に愛されたという。伊豆大島へ流罪となった四名の遺児の中で、最も耐久力があり、五年十年の流人生活に耐え得るであろうと思われていた。  ——大石さまの奥様には、むごい知らせであろうな。  寺坂は、思いを遠く但馬《たじま》ノ国に馳《は》せた。  但馬豊岡京極家の家中|石束《いしづか》家には、内蔵助に托された次男吉千代、三男大三郎、長女くう、次女るり(旧名ふう、進藤源四郎の養女としたが、程なくりくの手許《てもと》に戻った)を抱えて、公儀のその後の処分をひそと見守る内蔵助の妻りくがいる。  連坐遠島の刑を待つ遺児の中で、最も年嵩《としかさ》は大石吉千代である。吉千代はこの年、宝永二年に十五歳を迎えた。すでに十二歳の年に仏門に入った吉千代に対し、公儀が「構いなし」として遠島処分を取消すか否かは注目の的となったが、公儀の通達は「明年まで保留」という素気ないものであった。  宝永三年には、片岡源五右衛門の長男新六が十五歳に達する。おそらく公儀は吉千代・新六と両名が揃ったところで、第二回の遠島を実施するのではないかと思われた。  大石・片岡両家の遺族の憂いもさることながら、来年以降次々と遠島の年を迎える遺児の家の嘆きは如何《いか》ばかりであろうか。それを思うと寺坂の胸は暗く閉ざされる一方であった。  畑宿を過ぎて後、間瀬佐太八の死を口にした早崎主馬之進は、その後寺坂と殆《ほと》んど言葉を交すことなく来たが、道がようやくお玉ヶ池にさしかかると、ためらい勝ちに口を開いた。 「お嘆きは尤《もつと》もな事とは存ずるが、もはや日も過ぎ、また海山をへだてては如何ようにもならぬ事、それより今後の事が大切かと心得ます。どうであろう、今宵《こよい》は箱根宿に一泊なされ、長の旅路の疲れなど癒《いや》し、この後の事を思案なされては……憚《はばか》りながら身共がお取持ち致します」  早崎の言葉に、寺坂は感謝の眼差《まなざ》しで答えた。 「数ならぬ私めに過分なお言葉、身に余ることとは存じますが、これより真ッ直ぐ上方へ向おうと存じます。道々思案致したき事もござれば、今日はこのまま三島へ下る所存、あしからず御|了解《りようげ》の程を願います」  早崎は、ただ頷《うなず》くほかなかった。      三  京、近衛家の別邸は、賀茂川《かもがわ》に架る丸太町橋と二条橋の間、西詰《にしづめ》の川岸にある。対岸の阿州屋敷や越前屋敷、遠く加州屋敷の大屋根を遠望するその屋敷は、夏なら水面《みなも》を吹渡る川風に、涼をとる絶好の住居だが、師走《しわす》間近の今は京名物の底冷えに、殆んど使用されることがない。  その屋敷に、この二、三日、旅の女人客が滞留していた。女人客の名は大石りく、但馬豊岡から入洛《じゆらく》した。  りくが訪れたのは、今年の春、大|伯父《おじ》進藤筑後守|長富《ながとみ》の後を継ぎ、近衛家の家宰《かさい》(家老)に就任、従四位ノ下|諸大夫《しよだいぶ》、播磨守《はりまのかみ》に任官した進藤|長保《ながやす》、旧赤穂浅野家足軽頭四百石、進藤源四郎|俊式《としもと》であった。  筆頭国家老であった大石内蔵助には、赤穂侍の統率者として、侍の本分を貫く討入の企てと共に、もう一つの心労が重なっていた。それは旧藩士の身の振り方をつける事であった。  卒然と主家が亡《ほろ》びた、とはいえ、三百有余の家臣がたちまち餓《う》え、乞食《こつじき》、物盗《ものと》りに身を落すような事があっては、世の物咲《ものわら》いである。討入の企てにより士道を顕現する一方で、旧藩士とその家族が、世人に後指さされぬ暮し向を立てさせなければならなかった。  内蔵助は、自らが望まれた近衛家の家宰の役職を、又従兄弟《またいとこ》の進藤源四郎に譲った。 「おぬしは、わしより文治の才がある。大伯父の職を継いで世に出よ、そして旧藩士の一人でも多く、公家侍に再仕官が叶うよう、力を尽してくれい」  決死の志の道を選んだ内蔵助と比べて、生きて赤穂侍の面倒見に当った進藤源四郎の働きは、優《まさ》るとも劣らぬものであった。彼の尽力によって京都朝廷の公家衆の家々に、公家侍として就職した旧赤穂藩士は、六十名を越えた、と伝えられている。  両三年、旧藩士の再仕官に尽してきた進藤源四郎に、雄飛の機がめぐってきた。  宝永二年の春、大伯父進藤筑後守長富は卒中で倒れ、身罷《みまか》った。当然後継者の座にあった源四郎が、近衛家家宰の職に就いたのである。  以来半歳余、前任の筑後守長富が老齢であったため、とかく欠けること多く衰退気味であった近衛家の家運を挽回《ばんかい》すべく、新任の播磨守長保の八面|六臂《ろつぴ》の働きが続いた。  そのさなかの秋口、思わぬ凶報が見舞った。討入連坐の罪で伊豆大島に流罪となった四名の遺児の中、間瀬佐太八が病死したという知らせである。  進藤長保は、但馬豊岡に在る大石内蔵助の妻りくに急報すると共に、善後策を講ずるため、入洛を要請したのであった。 「折角お招きしておきながら、進藤どのには折悪しく殊の外の御用繁多、今もってご挨拶《あいさつ》にも罷り越せませぬ。まことに申し訳もございませぬ」  近衛別邸に旅装を解いたりくの取持ち役は、進藤長保が就任早々、近衛家奥向に登用した老女|戸山局《とやまのつぼね》であった。  後世、俗書で浅野|内匠頭《たくみのかみ》の後室、瑤泉院《ようせんいん》に仕えたと伝えられた戸田局は、実は近衛家奥向にあって、進藤長保と共に、近衛家の家政に辣腕《らつわん》を振るったこの戸山局の訛伝《かでん》である。 「いえいえ、こちらは私ごとの手前勝手な訪れ、さようなご斟酌《しんしやく》はご無用に願います」  丁重に頭を下げたりくは、笑みを浮べてしげしげと見、言葉を継いだ。 「それにしても、お変りありませぬな、以前より若やいで見えますほどで……」 「ま、奥様としたことが、そのようなざれ事を……」  戸山局は、笑ってみせた。  りくと戸山局は、旧知の間柄というより、もっと深い血縁である。戸山局の旧名は大石|千尋《ちひろ》、討入に参加した大石瀬左衛門の母であった。  大石瀬左衛門の家は、内蔵助の分家筋に当る。瀬左衛門の伯父大石|無人《ぶにん》は豪気|闊達《かつたつ》、赤穂浅野家の名物男と世にうたわれたが、故あって藩籍を離れ、嫡子三平は、奥州弘前四万七千石津軽家に仕えた。その無人の父|信云《のぶこれ》が、内蔵助の曾祖父《そうそふ》良勝の弟に当り、無人の弟信澄が瀬左衛門の父である。  大石無人とその子三平は、早くから討入の企てを知り協力を惜しまなかった。討入の当夜も、一党と共に吉良屋敷に出張り、屋敷の外にあって、逃れ出る者に備えたのは有名な逸話である。  無人が浪人した後も、弟信澄は赤穂浅野家にとどまり、組頭として四百五十石を給された。その信澄が元禄三年に世を去って後は、長男孫四郎が組頭三百石を継ぎ、次男瀬左衛門は分知して馬廻役《うままわりやく》百五十石となった。  浅野長矩が刃傷《にんじよう》の際、瀬左衛門は江戸在府藩士の中で重きをなした原惣右衛門と共に、公儀の断罪を知らせる第二の使者に選ばれた。早打の先触れから二人の顔振れを知った内蔵助は、到着前から藩廃絶という決定的な凶報を察知したという。原惣右衛門と共に大石瀬左衛門は、それ程の重きを得ていた。  瀬左衛門は、兄孫四郎と共に、衆に先んじて内蔵助の討入の企てに加わった。  だが、大石孫四郎の名は、討入の四十七士の中に無い。それは内蔵助が分家大石家の名跡と、その家族の行末に、深い思いを致したからであった。  当時、分家大石家には、後家となった母千尋と三人の姉妹があり、姉妹はいずれも未婚であった。  長姉|美豆《みづ》は、播州に並ぶ者のない美女とうたわれたが、十八歳の折に不慮の病に見舞われ、失明の身となった。その美豆は浪士切腹の年に二十八歳、次女|田鶴《たづ》は十七歳、三女|静《しずか》は十五歳。  老母と失明の長女、年少の次女三女、四人の寄辺なき身を誰が面倒を見るか、内蔵助は苦慮の末、剣才に優れた瀬左衛門を同志にとどめ、文治の資質と温和な性格の長兄孫四郎を世に残すこととした。  孫四郎の身柄を托された進藤源四郎は、近衛家の納戸役《なんどやく》に迎え入れ、おのれの腹心として重用した。  話は多少前後するが、大石孫四郎は宝永六年、中御門《なかみかど》天皇が皇位につかれ近衛家の後嗣|家熙《いえひろ》が摂政に就任した際、その姫君|尚子《しようし》に仕え、女御《によご》となった姫の禁裏における出所進退・折衝、統理、統轄一切を取仕切った。  その後、孫四郎は享保《きようほう》十五年、老齢を以《も》って隠居したが、同二十年、桜町天皇の受禅の際、内裏御使番を奉仕するなど、京都朝廷にあって重きをなした。 「まったく、思いもかけぬことでありましたなあ、間瀬さまのご子息……」  戸山局は、掻取《かいどり》の襟《えり》を合わせながら、歎息《たんそく》を洩《も》らした。 「まことに……」  りくの言葉も沈んでいた。 「討入の前、内蔵助が申すには、このたびの企ては天下を騒がす大事、公儀の憎しみが如何様《いかよう》なものか計り知れぬ。最悪の場合を考えおくように……との事で、さとの父とも思案の末、わが家の吉千代は仏門に帰依させましたが……それすらも、はきとした御宥免《ごゆうめん》のご沙汰はなく、ただ御裁断を待つばかりで……」  近年、幕政は悉《ことごと》くと言っていいほど、柳沢吉保の恣意《しい》即断で決せられていた。その柳沢吉保も、甲府宰相|綱豊《つなとよ》が将軍世子の座に就くと、その辞色を窺《うかが》わざるを得ない。だが綱豊とその側近は、まだ綱吉の名で発せられる治政を、一挙に変換するほどの力を持たない。必然的に幕政は停頓《ていとん》し、退嬰《たいえい》的に傾いた。  そのあらわれが、赤穂浪士の遺児処分であった。当初の申渡しによれば、この年、十五歳に達した大石吉千代は、遠島に処せられる筈《はず》であった。その件に関し大石内蔵助は遠謀深慮から一石を投じ残した。遺児の仏門入りを公儀がどう扱うか試したのである。仏門入りを認めてお構いなしとなれば、遺児は揃って僧籍に入り、事なきを得る。その最初の試金石が、大石吉千代の処分であった。  赤穂浪士の切腹は、処分を急ぎ過ぎ、苛烈《かれつ》であったとの風評が、年と共に強まりつつあった。だが、処分を専断した柳沢吉保は、風評など一向に気にかけなかった。その柳沢も、次代将軍の座を約束された綱豊の動向には意を注ぐ要があった。元から赤穂浅野に贔屓目《ひいきめ》であったとされる綱豊が、さし迫った大石吉千代の処分にどういう意向を示すかは、柳沢の将来にかかわる大事であった。  綱豊側も慎重であった。西ノ丸入り早々の事であり、その力はまだ未知数である。あえてその意を明らかにせず、柳沢の処置を見守る姿勢を採り続けた。  ——ここ暫《しばら》くは柳沢の意に任せ、世評の動向を見定めて後、態度を鮮明にすればよい。  両者相すくみあうなかで、この年の大石吉千代の処分は保留のままに過ぎた。 「いっそ、あの折に、遠島御処分の皆々様がこぞって僧籍にお入りになれば、案外お取扱いも違ったかも知れませぬなあ……」  戸山局は、思案にくれたあと、ふとそう洩らした。 「討入の前、内蔵助は皆様にそうすすめたそうでございます。それが吉田さまを始めお四方は、あとつぎを僧侶《そうりよ》にすれば武士の家が絶える、とあって、お聞入れにならず、そのままに……」  りくの声は、自責の思いあってか、絶え入るばかりであった。 「そのお心は痛いほどにわかりますが、さてこの先、いかが致したものか……」  戸山局にとっては、他人事《ひとごと》とは思えぬ痛みがあった。分家大石家を存続させるため、長男孫四郎を残し、次子の瀬左衛門を企てに参加させた。  ——兄、なるがゆえに咎《とが》なく、子、なるがゆえの流罪は、手落ちの沙汰も甚だしい。  その連坐法の不文律は、当時の抜き難い慣習であった。 「それにつけても、戸山どの……」  りくの言葉遣いは丁重であった。もとは本家と分家、家老職と上士の差があったが、いまはそれが逆となっていた。戸山局は、五摂家筆頭、近衛家の奥仕えとして、官位まで得ている身である。 「これからご処分を受ける者の身も気がかりでございますが、それよりいま島で憂き目に遭うておられる方々……わけても吉田伝内どのの身が案じられてなりませぬ」 「はい、あの……」  戸山局は思わず顔を赤らめ、声をはずませた。 「存じております、お美豆さまとの事……」  りくは微笑んで頷いてみせた。  大石瀬左衛門の姉、美豆と、吉田忠左衛門の次男伝内は、知る人ぞ知る仲であった。  美豆と伝内は年少の頃、同じ絵画塾に学んだ。年若の伝内を、三歳年上の美豆は弟のように慈しみ庇《かば》い、伝内は姉のように慕い親しんだ。  その姉と弟に似た仲が男と女の相思と変ったのは、乙女となった美豆が不慮の病いでめしいの身になってからであった。  美豆の不幸をわがことのように悲傷した伝内は、その療治に尽瘁《じんすい》し、惓《う》むことを知らなかった。大石家の親子が医療の限りを尽し、効なく断念しても、伝内はひとり思い限ることなく、祈祷験方《きとうためしかた》から古伝・口碑までを漁《あさ》り続けた。  播州には、眼病に鶸《ひわ》の黒焼が特効ありという口伝があった。鶸は翼の長さ二寸余りの小鳥で背は暗黄緑色、腹は鮮やかな黄色で雄の胸は特に美しく、鶸色の名のもととなった。北国|蝦夷《えぞ》松前で繁殖し、秋口南に渡る一時期播州を通る。その得難い小鳥を獲《と》ろうと伝内は、七日も山野を放浪した事もあったという。  文目《あやめ》も分たぬ身となった美豆は、年下ではあったが親身も及ばぬ真心を尽す伝内に、いつしか頼る心を芽生えさせた。  美豆と、繊細|花車《きやしや》の気味はあったが、端麗の伝内との取合わせは、余所目《よそめ》にも好一対と見られ、行末は僅《わず》かながら分知分家して、夫婦となることが約束された身であった。  だが、元禄《げんろく》十四年の赤穂藩廃絶で、二人を取巻く環境は一変した。伝内の父吉田忠左衛門は大石内蔵助の惣《そう》参謀として、討入の企てに参画する身となり、また美豆の弟大石瀬左衛門も中核の士として力を尽すこととなる。  吉田忠左衛門は、長子沢右衛門を同志に加えたが、次男伝内は、内蔵助に特に願って外した。内蔵助も分家大石家には格別の思入れがあり、喜んで伝内に美豆を托《たく》すこととした。  その目論見《もくろみ》では、伝内は、近衛家用人となった進藤源四郎が引受け、分家大石家の嫡男孫四郎と共に、近衛家の家臣に登用される筈《はず》であった。  それが、思わぬ挫折《ざせつ》となった。伝内によって吉田の家名を存続しようとした忠左衛門の思いが仇《あだ》となって、二十五歳の伝内は、連坐の罪によって遠島処分を申渡され、元禄十六年の春、伊豆大島へ配流となり、今日に至っている。そして今、同じ流罪の身となった間瀬久太夫の子佐太八の病死の知らせが届いたのであった。 「美豆さまも、さぞかし気落ちなされておいででありましょうな。御不自由なお躰《からだ》ゆえ、身に障らなければよいが、と案じております」  りくは、面に憂いをあらわして、心底案ずる様子であった。 「いえいえ、伝内どのも美豆も、名誉なご一統に連なりました身、時のさだめと覚悟は致しておりますが……大石さま奥様にとりましては、面倒見・相談事に与《あずか》る一統の者は四十家を越えております。ご心労さぞかしと……ご推察申します」 「ご丁重なお言葉、身に染む思いでございます」  りくの上洛は、元禄十五年、内蔵助と離別し山科《やましな》の家を去って以来、三年ぶりであった。  その年、りくは但馬豊岡の実家石束家に寄寓《きぐう》して寺入した吉千代のほか、大三郎、くう、るりの子らを育てる傍ら、討入同志の遺家族の相談事に与っていた。  それがこの度、大島流罪中の間瀬佐太八の死去の報が届き、遺家族の問合わせが相次いだため、内蔵助が後事を托した進藤源四郎に相談しようと、京へ出向いたのであった。 「生憎《あいにく》な事に禁裏諸行事が重なっておりまして、ここ数日どうしても暇がとれませぬ。御用向の事相分っております程に、お目にかかる折にははきとした御返事申上げられますので、暫くお待ち下さい」  それが、戸山局を通じての、源四郎の伝言であった。 「お寒うございましょう、蔀戸《しとみど》を閉めさせましょうか」  賀茂川を吹渡る北風は、もう冬の間近なことを告げている。岸辺には冬鳥の集う姿が寒々と見えた。      四  草津の宿を早発《はやだ》ちした寺坂吉右衛門は、八ツ下りに京の三条橋畔の雑踏の中を歩いていた。  ——さて、進藤さまを訪ねるか。  半歳《はんとし》余りの旅を終えたばかりの吉右衛門は、五摂家の筆頭近衛家の門をくぐるのが如何《いか》にも気重であった。  進藤長保は磊落《らいらく》な人柄で、足軽だった頃の寺坂にも分けへだてなく、親しい友人同様に扱ってくれた。だが討入後、旅を続ける吉右衛門は、天川屋を通じ道中手形や近衛家御用の書証などの面倒をかけながら、まだ一度も会っていない。それだけに気おくれしてしまう吉右衛門であった。  ——進藤さまも忙しいお躰、ご都合を伺ってから参上するのが礼であろう。  昨年までは用人職で、近衛家の私臣であったが、吉右衛門が東国へ旅立つ前、任官して諸大夫|播磨守《はりまのかみ》となった進藤長保は官人である。御所にかかわる公務が重なっている。まして就任早々とあっては、その多忙は容易に察せられた。  ——さて、そうなると、どこぞに宿をとらねばならんが……。  吉右衛門は、雑踏の中で歩度をゆるめた。  行く人、すれ違う人、人は無縁に歩き来り去る。吉右衛門は人ごみが嫌いだった。討入の直後、彼は同志の群れから離れ、以後|天涯《てんがい》孤独の人となった。親兄弟は無い、同志の遺族や元赤穂浅野の藩士だった知己は多いが、討入の修羅場を越えた吉右衛門には、誰もが一目置く雰囲気《ふんいき》があり、また吉右衛門自身にも越え難い堰《せき》が生じた感があった。  孤独の身での一人旅は、寄辺なき寂寥《せきりよう》があろうと察する人があったが、吉右衛門はかえって気楽であった。人通りの絶えた山道を歩くとき、肩肘《かたひじ》張らぬ思いを楽しむことも度々だった。  それが、町中の人込みの中にいると、孤独がひしひしと身に迫った。  ——行交う人には、それぞれに住居があり、親兄弟妻子があって、今日の営み、明日の望みがある。おれにはそれがない。  逆旅《げきりよ》、宿屋の意である。  逆、の文字には迎えるという意がある。逆旅は旅人を迎える、即ち旅宿である。  思えば、元禄十四年、赤穂浅野家が断絶し、城地播州赤穂の足軽長屋を出て以来、寺坂吉右衛門は定まる家はおろか、仮住居も持たず、足掛け五年の間、逆旅の日々を送り続けている。  足軽であった寺坂吉右衛門を、組頭であった吉田忠左衛門の家来とみるのは訛伝《かでん》である。  組頭は士分、足軽は準士という身分差はあるが、同じ主家に仕える上司と下輩であり、家中の者であることに変りはなかった。  なかには公私の別をはき違えて、足軽を家来同様に扱う上士や、それを当然と見る家中の者も無いではなかった。  だが、討入の企ての惣参謀をつとめるほどの吉田忠左衛門は、組下の寺坂吉右衛門が参加したことを喜びこそすれ、公私の別は厳しく守り続けた。はじめ播州加東郡の旧赤穂藩の飛領に仮住居を構え、後に京に移り、江戸に下って討入前の隠れ家に住居した時も、吉右衛門についぞ私用を申付けた事はなかった。  吉右衛門は、赤穂藩健在の頃から、目をかけ引立ててくれた吉田忠左衛門に深く恩義を感じ、常に私用をも果すようつとめたが、それは自ら気遣いしての事に限られていた。  そのため、忠左衛門は、旅宿に同宿することはあったが、仮であれ住居に吉右衛門を泊める事は避けた。吉右衛門は企ての間、大事な連絡の使いをつとめるため、忠左衛門の身近に宿をとり、日夜忠左衛門の許《もと》へ通った。宿は旅籠《はたご》と限らず、農家の納屋に宿ることもあれば、茶店の片隅を借りることもあった。  それも、逆旅、と言えよう。討入の事成って、ひとり同志の遺族や赤穂の旧臣の家々を廻る吉右衛門は、おのれの住居を持つことなく過した。  それがもう三年近くになる。  ——石の上にも三年、と言うが……。  なつかしの京の土を踏んで、吉右衛門はひどく疲れを感じていた。  京の町は、吉右衛門にとって故郷の赤穂より思い出の残る土地であった。赤穂での三十余年の暮しは、足軽という侍以下の身分で、上士中士の頤使《いし》に従っての日々であった。だが赤穂浅野家断絶後の京での暮しは、まったく違っていた。  討入という企ての遂行に、各人がおのれの特技を生かして働いた。そこには士分準士の身分差はない。それが大石内蔵助の一貫した方針だった。  健脚と、抜群の記憶力、吉右衛門はその特技で使番をつとめた。それと注意力が、相手方の尾行や見張りを察知した。吉良家家老小林平八郎が雇った数人のあぶれ剣客が、山科の大石宅をつけ狙ったときも、逸速《いちはや》くそれを見抜き、警護役の不破数右衛門に注意したのも吉右衛門の働きだった。  上士中士に交って同志として扱われた一年余の歳月は、吉右衛門に心躍る思い出を残した。  その配慮を示した内蔵助もいない。きびしさの中に目をかけてくれた忠左衛門も、死生を共にした同志も、生きて再び会う事なき黄泉《よみ》の人となった。吉右衛門ひとりが憩う家も、苦楽を分ち合う家族もなく流亡の旅を続けている。  ——さて、進藤さまを訪ねるには……。  近衛家の御屋敷は、禁裏御所の北隣り、今出川通りにある。道を北西にとらなければならない。  ——きょうに限ったこともあるまい。  吉右衛門は、賀茂川沿いの道を南へ下って行った。      五  五条橋はむかし松原通にあった。いまの松原橋の位置である。豊臣秀吉《とよとみひでよし》の代に南へ移した。実際は六条坊門に当る。従って六条通が五条橋通となったため、六条通の名はその南の小路に移り、細々と形骸《けいがい》を残すのみとなった。  賀茂川をひとまたぎにする大橋は、江戸期にあっては三条橋と五条橋だけで、あとは広い河原を幾筋にも分れて流れる瀬ごとに小さな橋を架け、通行人は一旦《いつたん》河原に降りてその幾つもの小橋を渡って対岸に至る。小橋は賀茂川が増水するたびに流失するから不便この上ない。それ故に繁華は三条と五条に集中した。いまの四条の殷賑《いんしん》は江戸後期まで無かった。  五条橋の東詰、川端通には通行人が憩う茶店が櫛比《しつぴ》して茶汲女《ちやくみおんな》が妍《けん》を競い、客を呼びこむのが京の名物の一つとされていた。その東五町ほどのところに若宮八幡という社があり、祭るところは石清水《いわしみず》八幡と同神で、当時はなかなかの賑《にぎ》わいで、殊に武家の参拝客が多かった。  燈油の貴重な当時の事とて、そうした人の往来も夕暮近くになると途絶えるのが常である。若宮八幡の門前の茶店も早々に店を閉じる。  四、五軒の茶店の中で、最後まで客の残った一軒が店を閉じようとしていた。板戸を嵌《は》めていた店の女あるじが人の気配に振り向いた。  近くに来かかった旅姿の侍が足を止めて、隣家の茶店の中年女に何か訊《たず》ねている。  ふと見て女あるじはいぶかしげな顔になった。 「もしや……寺坂どの、元赤穂浅野家のご家中であった寺坂吉右衛門どのではありませぬか」  隣家の中年女に会釈して、女あるじの許へ歩み寄った吉右衛門は、 「……やはり各務《かがみ》さまのご新造さまでしたな」  と、安堵《あんど》の色を浮べて頷《うなず》いた。 「たしかこのあたり、と思うてたずね参りましたが、あいにくと時刻が遅くなり、難渋致しました」 「それはそれは……前もって飛脚などをお遣わしになれば、陽のあるうちにお迎えに参りましたものを……」  日中の飛脚なら、容易に探し当てたであろう、と言うが、それは叶《かな》わぬことであった。吉右衛門がたずねてみようと思い立ったのは三条大橋でうろつき歩いてからの事、まだ一|時《とき》とたっていない。 「恐れ入ります。お歴々のご妻女さまのお迎えなど……」 「何を仰《おつ》しゃいます。それは昔のこと、今はしがない茶店のあるじでございます。それに引替え吉右衛門どのは、先年ご主君さまの讐《あだ》を討ち、世間で評判のご忠義の侍におなりになったお方……」  女あるじは、気付いて誘った。 「これは気付かぬこと……立話もなりませぬ。どうぞ、この裏に住居しております、粗末な家でございますが、お通り下さいませ」  と、茶店横の路地へ導き入れた。  名は、槇《まき》、という。  赤穂浅野家が断絶して、大石内蔵助が討入を企てた際に、衆に先駆《さきが》けて参加を申し出た者の中に、各務|八《はち》右衛門《えもん》という侍がいた。家禄《かろく》百石、勘定方|郷方廻《さとかたまわ》りで、当時播州加東郡の郡奉行《こおりぶぎよう》をつとめる吉田忠左衛門の許へ、赤穂本城から毎月米の作柄を調べに来て、秋には年貢米を取立てるという役目であった。  各務八右衛門は四十歳を越えた壮年で、算勘にすぐれる一方、格式にうるさく、忠左衛門配下の足軽で郡奉行手代を兼務する寺坂吉右衛門には格別きびしく当った。田畑の見廻りに同行した吉右衛門は、返事の仕方が気に食わぬと言って手にした青竹で叩《たた》かれることも再三であった。  企てに参加した後も、各務八右衛門は赤穂にとどまって、討入決行の時機を待つ同志の監督に当った。当時京に移って惣参謀役をつとめる吉田忠左衛門の指示を伝えるため、吉右衛門は度々赤穂の各務の仮住居へ出向いたものである。  京の大石が、同志に身分差なし、の方針を一貫してとり続けたのに反し、各務は足軽身分の寺坂を侍扱いしなかった。各務の仮住居を訪れても、玄関を上がる事は許されない。敷台に手をついて口上を述べたあと、台所へ廻り、土間にかがみこんで湯茶の接待を受ける。  その湯茶を振舞ってくれたのが、後妻の槇であった。  槇は、丹波|綾部《あやべ》一万九千五百石、九鬼志摩守隆常の物頭役桑山信兵衛という者の次女に生れ、家中の者と婚約したが婚礼前に許婚《いいなずけ》に死なれ、いわゆる行かず後家になっていた。それを、ふとした縁で知合った各務八右衛門が器量望みで後妻に迎えた。当時八右衛門は四十三歳、槇は二十四歳、十九歳も年の違う夫婦であった。  二人が所帯を持って半年後に、赤穂浅野家に大変が起こり、断絶となった。大石内蔵助の討入の企てが進行する間、最初百二十五人を数えた同志は次々と脱盟し、討入の半年前の夏には六十一名に減ったが、各務八右衛門は志を変えず、依然同志であり続けた。  その夏、来るべき厳寒の討入に備えて、内蔵助は、惣参謀の吉田忠左衛門、参謀の小野寺十内、不破数右衛門らに諮って、まず同志六十一名に最後の分配金を支給した。 (討入の時機は目睫《もくしよう》に迫った。この分配金で家計の後始末を為《な》し、あとに残る家族の身の振り方をつけよ)  次いで内蔵助は、江戸、京大坂、赤穂近在に分散している同志を何班かに分ち、交替で京の東山に集め、身体と武術の合宿鍛練を行なった。  浪人暮しは一年余にわたる。身体のなまるのは避けがたい、とあって、体力と戦技の鍛練は火の出るような厳しさで行われ、矢田|五郎《ごろう》右|衛門《えもん》、武林|唯七《ただしち》が骨折したほか、重傷九名、軽傷はほとんど全員が負った。  各務八右衛門は、最終班に組入れられ、八月上旬に赤穂の仮住居を引払い、京の四条|萬里小路《までのこうじ》の旅宿に妻の槇を残し、東山|稚児《ちご》ノ池の合宿に入った。  鍛練の初日、あまりの激しさに度肝を抜かれ、やや茫然《ぼうぜん》自失の態であった、と指南役の不破数右衛門は言う。その初日と二日目はどうやら過したが、三日目の朝になると姿が見えなくなった。  ——大方、妻女の宿へ行ったのであろう。  若い後妻を娶《めと》ってから、まだ二年に満たない。剛健な体躯《たいく》をもてあましたのであろうと、不破と同じ指南役の堀部安兵衛は、冗談めかして言ったものだった。  だが、次の日も、更にその次の日も姿を現わさないとなると、只《ただ》ごととは思えなくなった。  寺坂吉右衛門が、四条萬里小路の宿へ様子見に出向いた。 「稚児ノ池の仮小屋から姿を消したその夜のうちに、宿へ立帰ったそうです」  戻ってきた吉右衛門は、そう報告した。 「御内儀に預けてあった持ち金を残らず取上げて、そのまま宿を出《い》で……未《いま》だに便りひとつ寄せて来ないとの事でした」 「やはり逐電《ちくてん》か」  吉田忠左衛門が、吐き出すように言った。 「身の始末をつける金を早目に支給したのが仇《あだ》となりましたな」  と、小野寺十内は舌打ちした。 「八右衛門め、名詮自称《みようせんじしよう》、忘八になりおった」  不破数右衛門が難しい漢語で罵《ののし》った。  忘八とは、仁、義、礼、智、忠、信、孝、悌《てい》の八徳を忘れた者を言う。 「まあ、よいわさ」  内蔵助は微笑を浮べて参謀たちを制した。 「士道不覚悟の者はいずれは落ちる。早い目に落ちてくれぬとこちらの目算が狂う。これでよいのだ」 「なるほど、その慮《おもんぱか》りあっての事でしたか」  十内が、納得した顔で頷いた。 「吉右衛、大儀であったな、もうよい……それともまだ何か言う事があるのか」  忠左衛門の問いかけに、吉右衛門は吾にもあらず顔を赤らめた。 「はあ、あの……残されたご内儀はいかが相成りましょうか、取りあえず宿の払いの足しにもと、私めの持ち金を渡して参りましたが」  吉右衛門は、つい先刻、宿で別れてきた槇の面影を思い浮べた。槇は小藩ではあるが物頭という重役並の家に育った佳麗な女性であった。それが行かず後家という薄命に見舞われ、年のへだたった再婚の男に嫁ぎ、主家が断絶した夫は禄を失ない、その夫は盟約に背いて逐電し、ひとり取り残されて無一文の身となった。この二、三日の間、どれほどの不安と絶望に身をさいなまれたことか。足軽の吉右衛門に恵まれた一両足らずの小粒と銭を繊手に握りしめ、血の気を失って必死に瞶《みつ》めた端麗な顔が、眼に灼《や》きついている。 「これは難題だな……その妻女、美形か?」  内蔵助は、思いもかけぬ事を訊《き》いた。 「は……」 「であろうな、微禄のそちが有り金をはたいて恵むほどだ」 「ご家老、ざれ言が過ぎますぞ、はじめからほかの生きようを選んだ者のほうがまだましです。盟約に加わり今日まで多分の御配慮に与《あずか》りながら、この期に及んで脱盟逐電するとは犬にも劣った奴、その妻女に情けなど無用でござる」  いままで黙っていた堀部安兵衛が堰《せき》を切ったようにまくしたてた。 「まあ、そう言うな、安兵衛、妻女に罪があるわけではない……十内どの、幾らか都合してやってくれぬか」 「またですか……あのような輩《やから》に二度とはちと痛い」  そう言いながら小野寺十内は、身近においた手箱から、十両程の小判を数えて吉右衛門の前においた。 「苦労だが、いま一度宿に出向いて八右衛の妻女に渡してくれ」  吉右衛門が手を伸ばすと、内蔵助が声を掛けた。 「これよ、それでは仏作って魂入れずだ」 「足りませぬか」 「宿代を払い、当座は凌《しの》げるであろ、だが坐《ざ》して食らわば山も空し、と言うではないか」 「しかし……」 「この一年、京女の色香の中で策を練った。京は色町、眉目《みめ》よき女子が食いつめれば落ちる先は知れておる」  内蔵助は、いつか真顔になっていた。 「これは他人事《ひとごと》ではない。われらの企てが成就したあと、あれみよ赤穂の歴とした侍の妻女が身を売り色を鬻《ひさ》いで世を送ると咲《わら》われては、赤穂武士の末代までの名折れ……わしはその名聞を大切にしたいのだ」  一同は、森と静まりかえった。 「これは、年甲斐《としがい》もない短慮でござった」  十内は、あらためて二十五両の封金を二包とり出し、吉右衛門に渡した。 「吉右衛よ」  内蔵助は、また笑顔に戻って呼びかけた。 「骨折りついでに何か身過ぎ世過ぎの道を探してやってくれい。眉目よき若妻とあればわしも血が騒ぐが、こう事がさし迫っては会うている暇がない。そちは独り身、相手は士分の妻女であれこの期に及んで斟酌《しんしやく》無用、わしに見習うてうまくやれ」  一同はどっと笑った。内蔵助の好色は知らぬ者がない。それに引替え吉右衛門は、遊里に伴《とも》しても女と遊んだ事がない。三十を半ば過ぎても女を知らぬ物堅さは、これまた有名であった。  その取合せの妙に、笑いは暫《しばら》く止らなかった。      六 「や、いかいお世話になりました。かようなお取持ちに与ろうとは、夢にも思いませなんだ」  茶店の裏手に、十三、四坪ほどのささやかな住居がある。その家に誘《いざな》われた吉右衛門は、夕餉《ゆうげ》の膳《ぜん》に舌鼓をうった。  元はと言えば、五条辺に宿をとるつもりであった。それが生憎《あいにく》と江戸の金毘羅《こんぴら》講の一行がふたつも泊り合わせて、部屋が足らず気味の上に、一見《いちげん》の独り旅とあって嫌われ、途方に暮れた時、ふと思い出したのが槇であった。  ——あの折も、天運であったが……。  内蔵助の恵みの五十両を持って、再び四条萬里小路の旅宿に出向いた吉右衛門は、宿のあるじに折入っての相談を持ちかけた。 「実はご亭主に置きざりされて身の始末に困っておる。何か女手ひとつで暮しの立つ途《みち》はあるまいか」  槇にもようやく運が向いたのであろう。宿のあるじは丁度その折、親戚《しんせき》の者から貸金の抵当に押しつけられた五条若宮八幡の茶店の始末に困り果てていた。 「こうなれば元金を切って格安にお譲り致しましょう。茶店という商売は何の手業《てわざ》も要りませぬ、器量よしの女子が営めば、繁昌すること請合いでございます。それに若宮八幡様は石清水様の分れ、二条の御城勤めのお侍や所司代屋敷、東西町奉行所のお役人衆で賑《にぎ》わいます。お武家さまのご妻女でしたら鬼に金棒と存じますが……」  話はとんとん拍子に決まった。吉右衛門は槇に五十両の金子を渡し、よろずの事を宿のあるじに頼んで別れた。  それなり、再訪する暇なく、吉右衛門は二ヶ月後に討入のため、京を発《た》った。  そして、三年……。  ——たしか、五条若宮八幡、と聞いたが……。  五条の宿という宿に断られた吉右衛門は、もし健在ならば槇に宿の引合わせを頼もうと、たずね歩いたのであった。 「お宿の仲立ちはいと易いことにございますが、町人衆で込みあう宿より、いっそこの家にお泊りなされませ。あの時以来の積る話もございますほどに……」  槇は、すがるような眼で吉右衛門を瞶めた。 「いや、お志はありがたいが、見ればご内儀のお独り住居《ずまい》、男の私めがご厄介になっては傍《はた》の見る眼が……」  槇は、眼許《めもと》に微笑みを浮べて言った。 「なんの、連れ添う夫に捨てられた後家暮し、傍の眼を気遣うほどのものではございませぬ、それに寺坂どのはいのちの親……そのようなお心遣いはご無用になされて下さりませ」 「お間違えなさるな、あの折の金子はご家老大石さまの……」  槇は、首を何度も横に振った。 「それも、寺坂どののお口添えがあったればこそ……あの時、お見捨てになられたら、今の私はござりませぬ」  まずは風呂《ふろ》に、と誘われて台所口を出ると、軒庇《のきびさし》の内に、ささやかな五右衛門|釜《がま》を仕つらえた風呂場があった。 「今年の春、ようやく風呂を設けました」 「それはそれは……どうやらご繁昌のようでござりますな」 「はい、お蔭《かげ》さまにて身過ぎ世過ぎに不自由は無うなりました」  ゆるゆると湯に漬《つか》って出ると、夕餉を共にした六畳の部屋に、夜具が敷き伸べてあった。  代って槇が風呂を使う気配に、吉右衛門はわが身の溶けるのを覚えた。ひとつ所で暮しを営む家の温かさがすぐ手近にあった。吉右衛門は、煙草盆を引き寄せた。旅の寒空で、これだけは内蔵助の悪癖を真似るようになった。 「どうぞ、咽喉《のど》を潤して下さりませ」  市井の暮しが身についたのであろう、湯上がりの細帯姿に羽織をはおった槇が、盆に大ぶりの湯呑《ゆのみ》を二つのせて、すすめた。 「はしたのうございますが、ご相伴させていただきます」  口許へ運ぶと、芳醇《ほうじゆん》の香がした。珍らしい澄み酒であった。 「お淋《さび》しゅうございましょう、人伝てにうかがいました。寺坂どのは家なく、妻子なく、旅から旅へとか……」 「は……」  ひたと瞶《みつ》める槇の眸《ひとみ》に、吉右衛門は吾にもあらず身がおののいた。 「私も……淋しさに堪えて参りました」 「ご内儀……」 「槇、とお呼びなされませ」 「では、槇どの」 「寺坂さま、もうよろしいのではありませぬか、旅は……」  吉右衛門は溜息《ためいき》をついた。 「ここに身を落着けて、お暮しになりませぬか」 「槇どの、どうもうまく言えぬが……」 「何でございましょう、仰《おつしや》りませ」 「私はこの年まで、不様な事だが、知らぬ……」 「……それで?」 「私は足軽だ、身分違いの士分、それも上士の家の女性《によしよう》とは、叶《かな》わぬことだ」  槇はつと立って、行燈《あんどん》に羽織を掛けた。暗い中に槇の顔が白く浮び上がって見えた。 「ではせめて、過ぐる年の恩返し、存分になさりませ」  吉右衛門が、槇にきつく押し入ったのは、それから間もなくであった。  吉右衛門は槇にしがみつき、槇は戦慄《せんりつ》した。二人は同時に痙攣《けいれん》し、自失した。 「これか。このようにすぐ終るのか」  吉右衛門は、槇の柔脆《じゆうぜい》な頬に口を寄せて、吐息した。  朝の陽はとうに昇っていた。  槇は、甲斐甲斐しく吉右衛門の身支度を介添えしていた。 「必ず……おまえさま」 「心得た。そなたが京で暮したければこの茶店を続けるがよい。わしは……侍奉公で無うてよい。手内職であれ、小商いであれ、男|一人《いちにん》、何程か稼ぎはあろう」  旅姿を調え終った吉右衛門は、袴腰《はかまごし》を打って自身に喝を入れた。 「それとも、侍身分が望みなら大和郡山へ行こう。お頭吉田忠左衛門さまがお手配下された。郡山の本多家に、お娘御の婿どの伊藤十郎太夫という方がおられる。それを頼るように、とな……」 「いつお戻りになられます」 「禁裏御用繁多の進藤さまだ。赤穂浅野家御家中のくさぐさの事、悉皆《しつかい》御報告申し上げるだけでも四日や五日はかかる。その上の御相談ごとがあれば九日十日……あまり長引くようなら、そのうち一度、お暇を願って戻って来よう」  去りがてに、笑顔で振り返った。 「では、行っておいでなされませ、旦那さま」 「槇……」 「え……」  吉右衛門は槇の耳許に口を寄せ、囁《ささや》いた。槇の顔に紅が散った。      七  大化の改新に参画し、抜群の偉功をたてた大織冠《たいしよつかん》、藤原|鎌足《かまたり》を始祖とする近衛家は、中世大いに栄えたが、源平合戦の頃より朝廷の権力は式微して、その臣である公家も困窮の一途を辿《たど》った。  戦国の世を経て、徳川幕府の時代になると、朝廷は権威あるものとされたが、実質はそれに伴わず、朝臣は禁裏の内で余喘《よぜん》を保つに、汲々《きゆうきゆう》たる有様となった。だが、将軍をはじめ三百諸大名の官名官位任免の権を、形式的ではあったが保ち続けた朝廷の権威は、横暴な幕府と雖《いえど》も認めざるを得ない。  元和《げんな》六年、二代将軍秀忠は天皇家と血縁を結ぶことを策し、おのれの娘和子を入内させ、和子は寛永元年中宮となって後水尾《ごみずのお》天皇の女子を生んだ。幕府は度々後水尾天皇に譲位を迫り、遂に寛永六年、後水尾天皇は上皇となり、和子が生んだ興子内親王が明正天皇となった。幕府の意図は一応成就したように見えるが、幕府に回ってきたツケは大きかった。不満やる方なき後水尾上皇をお慰めするため、京都東北郊に修学院離宮を造営することとなり、後水尾上皇は数年の年月をかけて、結構壮大、宮廷文化の粋を凝らせた離宮を造営した。その莫大《ばくだい》な費用は、幕政初期の財政を急速に傾けた。  幕府は圧制を以《も》って朝廷に臨みながら、一面、その権威を容認し、懐柔にこれ努めた。そこに朝臣である公家のつけ入る隙もあったし、その存在を誇示する途も生じた。  藤原氏の嫡流であり、公家最高の五摂家の筆頭である近衛家は、代々朝臣最高位である摂政関白の職に就くのが慣例となっていた。  元禄《げんろく》三年、近衛家の当主|基熙《もとひろ》は四十三歳で関白に補任され、以後十三年間、その職にあったが、剛毅《ごうき》不屈の性格がわざわいして、時の東山天皇との折合い悪く、元禄十六年、職を辞するに至った。その後嗣|家熙《いえひろ》は三十七歳。当然父の官職を襲うものと思われたが、家熙は元禄六年に右大臣に就任して以来、官職が昇進していない。  家熙は、その下の内大臣職を二度つとめた。貞享《じようきよう》三年(一六八六)から貞享五年(二月一日)までと、同じ貞享五年(二月十六日)から元禄六年(一六九三)までである。この後期は当然右大臣に昇進するのが、一期遅れた。この頃から父基熙と東山天皇の間に何か確執を生じたらしい。  摂政と関白は、殿下の敬称を得る。職を辞したあと、嗣子が摂政か関白に補任されれば、太閤《たいこう》の称号を附与される。豊臣秀吉は関白職を六年つとめ、養子の秀次が関白に補せられたため、太閤の称号を得た。その後、徳川家康は元和二年に二十日間だけ太政《だじよう》大臣(左大臣の上)に就いたに止《とど》まったため、殿下の敬称も太閤の称号も得ていない。太政大臣の職は家康以来、この頃まで絶えていた。  家熙は、江戸中期最高の文化人と言われ、茶道、立花《りつか》、香道、書道を極めたほか、「槐記《かいき》」という画期的な文化論を著し、諸芸の形式的な固定に痛撃を与えたほか、文学でも後世に残る事蹟《じせき》がある。  それだけに、官職に寄せる関心は薄かったが、基熙にとってはそうでない。おのれの代に嗣子が他の摂家の下風に立つ事に、残懐の念を断ち得なかった。  宝永二年、近衛家の家宰進藤|播磨守《はりまのかみ》長保と名を変えた源四郎は、次第にその敏腕を振るうようになった。  進藤長保が補佐した近衛家熙は、宝永四年、関白に任ぜられ、父基熙はめでたく太閤の称号を得たばかりか、宝永六年東山天皇御譲位、中御門天皇受禅の際、二ヶ月間太政大臣に、また家熙は摂政に任ぜられ、翌宝永七年、父基熙の後を襲って太政大臣に任官し、近衛家は位人臣を極める。これら一連の宮廷工作に当たった進藤長保の快腕ぶりは、以って窺《うかが》い知ることができよう。  この時期、進藤長保は生涯で最も多忙を極めていた。だが、彼は寺坂吉右衛門の訪れをないがしろにする気はなかった。  ——おれには、近衛家よりもっと大切な御人がある。それは亡き大石内蔵助どのだ。  そう公言して憚《はばか》らぬ長保であった。それだけに赤穂四十六士の遺族や旧臣の許《もと》を廻《まわ》り歩く寺坂吉右衛門の存在は貴重なものに思えた。 「長の間、苦労であったな。どのあたりまで足を伸ばした」 「奥州白河に中村勘助どのの御内儀、矢頭右衛門七どのの御母堂、まずそのあたりが遠かった方で、いずれも今度が二度目となります」 「それで、面倒事はなかったか」 「は……江戸で二、三。旧御家中の方々が頼母子講《たのもしこう》などに手を出し、難渋のご様子……早速に天川屋の出店に伝え、手当を頼んだほかは、どうやら息災で暮してあるようにございます」  長保は二度三度と頷《うなず》いて見せた。吉右衛門は、言葉を続けた。 「この三年の間に御遺族、旧御家中の方々の暮し向はほぼ定まったかと見受けました。多少の落ちこぼれは出ましょうが、三年五年の間はまず変りなきものと思います。それで……」  吉右衛門は、ふと口をつぐんだ。 「それで……?」  促されて、吉右衛門は思いきって腹を割った。 「この三年……旅から旅の毎日に、疲れ果てた気が致します。どのようなあばら屋でもよい。わが家と言うものを持って、ゆるゆる休みたい、と」  長保は、吐息した。 「無理からぬことだな。おぬしは大事を仕遂げての後、三年一千日の余もさすらいの旅を続ける。その訪れる先々は、それぞれに家があり妻子があり、肉親がある……人としては堪え難い思いがあろう。今日までようやってくれた。亡き内蔵助どのに代って礼を言う……」  居住いを正した長保は、頭を下げた。 「も、もったいない。私めの方こそ大石様のお言いつけに背き、身勝手な言い分……恥入るばかりでございます」  吉右衛門は身を縮め、平伏した。 「それで、あてはあるのか」 「は……」 「落着く先よ。一人暮らしは難しかろ。女子ができたか」 「お、恐れ入ります」  吉右衛門は、それしか言いようがなかった。 「よいよい。わしは責めているのではない。むしろ祝《ことほ》ぎたいほどだ……だが、しかし……」 「…………?」  吉右衛門の問いかける眼差しに、長保は苦く頷いてみせた。 「おぬしの辛《つら》い心情を察していながら、つい狎《な》れて、また新たな難題を持ちかけるところであった。許してくれい。もう言わぬ」 「何でございましょう。その難題と仰《おお》せられるのは……?」 「いや、言うまい」 「いえ、是非にも……」  吉右衛門の顔色に、長保は歎息《たんそく》した。 「これはわしがあやまった。言いかけて止めるは眠った子を起こすようなもの、聞かねばおさまるまい。では言うが、必ずともに気にかけるなよ」 「はい」 「おぬしも旅先で聞いたかも知れぬが、伊豆大島に流罪中の間瀬久太夫が倅《せがれ》、佐太八が身罷《みまか》った。まだほかに吉田伝内、村松政右衛門、中村忠三郎の三名が流罪中である」 「…………」 「なお、追って流罪に処せられるべき者が、大石吉千代どののほか十四名、公儀の沙汰《さた》待ちとなっておる」 「承知致しております」 「それで、ご遺族の方々が心配なされてな……流罪中の御子の御赦免は下りぬものか、沙汰待ちの者への御宥免《ごゆうめん》は、と、わしが許へ相談が相次ぎ、遂《つい》には内蔵助どの御妻女をはじめ、吉田どの、片岡どの、原どのなどのご家族が五、六名、京へ参られ善後策を講じようと、先日から近衛家二条別邸にご滞留中なのだ」 「お待ち下さい。ご相談に参られる、というのは……何か進藤さまに目算でもおありということでしょうか」  長保は、頷いてみせた。 「無い事はない」 「は……」 「無い事はないが……」  長保は苦い笑みを浮べて、吉右衛門を見た。 「進藤さま」  吉右衛門は、思い詰めた顔で呼びかけた。 「忘れてくれい、吉右衛……」 「いや、うかがいます。それは、いのちにかかわることでございますか」 「…………」  ためらった後、長保は頷いた。 「では、尚更《なおさら》の事。先年、吉良屋敷で一度捨てたいのち、私めが尻《しり》ごみして余人に代えたとあっては、侍の一分が立ちませぬ。討入のご一統を離れるとき、大石さまが仰せられました。私めの盟約は解かぬ。何年何十年生き延びようと四十七名の一人である、と……」  長保と吉右衛門は、瞶《みつ》め合ったまま動かなかった。      八  二条河原町、近衛別邸は、日頃の寒々とした人影乏しいたたずまいとうって変わって、この十日余り、客の滞留が相次いでいた。  しかもその客は、女性に限られていた。だからといって華々しさはない。年栄え二十歳代はただ一人、あとは三十、四十の大年増から年嵩《としかさ》は六十歳代。いずれも武家の後家である。大石りくをはじめとする赤穂浪士の遺家族たちであった。  近衛家家宰、進藤長保が別邸に参着したのは、頃合八ツ下り、まだ日暮には間のある頃であった。  滞留中の後家たちは、奥書院に集まった。公家の式微が噂される元禄期であったが、五摂家筆頭の権威は流石なもので、高麗縁《こうらいべり》の畳、黒木の柱、鴨居《かもい》、欄間の透し彫、如鱗木《じよりんもく》の天井板、古びてはいるが贅《ぜい》を尽くした結構であった。 「ながながとお待たせ致し申し訳ない」  長保はまず丁重に詫《わ》びた。 「いえ、私どもの方こそ……御用繁多なそこもとさまのお手をわずらわせ、申し訳なく思っております」  一同に代って、内蔵助の妻りくが挨拶《あいさつ》を述べた。長保は今は官職にあって従四位ノ下、諸大夫の高き身分にある。りくの挨拶は慇懃《いんぎん》であった。 「これは恐れ入る。いまはどうであれ、昔は御|親戚《しんせき》同士、また同僚の仲、分け隔てなくうちとけた話など致したいが、それは差し迫った相談事のあとに致したい。まずは当面の相談を致しますがご異存ござるまいか」  りくを始め、吉田、片岡、原、富森の妻たちが一様に同意の頷きを返した。 「では申し上げよう。赤穂浪士四十六人に対する公儀の憎しみは依然強く、遺児流罪にかかわる赦免、宥免の沙汰は、今以ってまったく望みなしでござる」  厳しく言い切った長保の言葉に、一同はざわめいた。予期はしていたものの、失意は隠せなかった。 「就中《なかんずく》……今年六月、将軍家生母、桂昌院どのが身罷られた。当然、大赦の沙汰あるものと期待したが、それがない。この事は、幕政を預る柳沢吉保めが、亡き殿の刃傷《にんじよう》に始まり、吉良邸討入に終る事件に、おのれのおかした失態を覆い隠さんがため、この事に一切触れず済まそうという魂胆とみた」 「柳沢さまが……」  りくは歎息した。将軍綱吉は老耄《ろうもう》に達し、幕政を壟断《ろうだん》する柳沢吉保の権勢は依然として続いていた。 「それでは、まったく打つ手なし、とお思いですか」  返事はわかっていたが、一同に代って、そう念を押さなければならなかった。 「さよう……ただし、一点をのぞけば、だが」 「一点? と申しますと……?」 「いまの世で、まともに赦免宥免を論議しようとしても、悉《ことごと》く公《おおやけ》には扱われず柳沢の手で闇に葬られよう。だが、ただ一つ……柳沢の手に余る方策がある」 「それは……?」 「赦免宥免を論議するのではなくて、前《さき》に処罰を免《まぬか》れた者が公に自首して出る。これならば柳沢とて、闇に葬るわけにはゆかぬ」  一同は、意外な長保の言葉に沈黙した。  ——処罰を願い出るとは、何の事であろう……。  ひとり、りくの脳裏に閃《ひらめ》くものがあった。  ——処罰……まだ処罰を受けぬ者が一人いる。 「もしや……それは、寺坂吉右衛門どのの事ではございませぬか」  長保は、笑顔で頷いた。 「さすが、内蔵助どののご妻女……よく見抜かれた。いかにも吉右衛門めにござる」 「あの寺坂どのを……」 「さよう、大目付の許《もと》へ自首させ、処罰を乞《こ》います。さてこれをどう扱うか……当然、幕閣をはじめ世人の悉くが論議する。その論議は、討入後の内蔵助どのを始め四十六人の処断が当を得ていたかに及ぶでしょう。あれから三年……世の見方も変わりました。四十七士一挙は忠臣義士の呼び声が高い。その最後の生き残りを、先の四十六士と同様、無残に切腹させるか。幕政を預る柳沢は、大いに苦しむところとなる……」  りくを始め一同は、長保の言葉に固唾《かたず》を呑《の》んで聞き入った。 「その先は、わからぬとしか言いようがない」  長保は冷静に言い切った。 「もしも……これはもしもの話だが、吉右衛門を助命するには大赦令を発し、この事件に関連するすべての者に恩赦を与えるしかない。そうなれば……流罪の者は赦免宥免される……考えぬいた方策は、これしかござらなんだ」  一同は沈黙し、暫《しば》し静寂の時が流れた。  やがて、口を開いたのは、りくであった。 「進藤さまのご説、ご尤《もつと》もとは存じまするが……それはあまりに……むごい手だてと存じます」 「…………」  長保は先を促した。 「確かに助命されるとのお見込みがあれば別……なれど、今もって流罪の者の赦免も宥免も計らおうとはせぬ御公儀……当人が望むとあらば切腹のご沙汰を下すなど、いと易いことでございます。一度は死を決し働いた身が、わが夫内蔵助の言いつけで死よりも辛い命を長らえ……いままた、私どもの子の生贄《いけにえ》となって死地に赴くなど……」  長保は歎息して述べた。 「しかし……いま何か手を打たなければ、大島流罪の者三名はもとより、これから島に送られる十五名の御子たちは、死に絶えるまで浮世の土は踏めぬことになります」  一同はまたしても沈黙した。 「それで……吉右衛門どのは……?」  りくは弱々しく尋ねた。 「自ら、名乗って出ると申しております。しかし……あの者には三年の流浪の末にようやく得た女子《おなご》がある」  一同は、と胸を突かれたように長保を見た。 「あるいは、途中、気が変わるやも知れませぬな。これは柳沢どのの手の及ばぬ大目付、内蔵助どのほか四十五名を扱った仙石|伯耆守《ほうきのかみ》の許へ名乗り出て貰《もら》わねばならぬ。となると、江戸への一人旅……人の心は量り知れませぬ」 「ご当人はいま、どこに……?」 「この屋敷におります。その決意の程を確かめようと、いま、さる者と会うて貰っております」  長保は、思いを馳《は》せるように小首をかしげ、あらぬ方を瞶めていた。  その頃、寺坂吉右衛門は、同じ近衛別邸の奥の小書院で、故大石瀬左衛門の母の戸山局と会っていた。 「それは奇縁でございましたなあ……」  戸山局は長息して言った。  吉右衛門は、京へ帰着して後の槇との出会いを隠さず話していた。 「各務《かがみ》どのの妻女なら、赤穂浅野家が無事な頃、何度も会っております。人並みすぐれてお美しい上に、おしとやかな方……それが吉右衛門どのと結ばれるとは……思いもかけぬことでございましたな」 「いや……」  吉右衛門は恥じらって、顔を赤く染めていた。 「何と申し上げればよいか……私めも槇どのも共に倖《しあ》わせ薄い身……薄命の者同士が互いに助け合うて生きようと、申し合わせた矢先でございました」 「その槇どのを残して、今一度、死地に赴かれようとは……お気の強い……いえ、とがめるのではありませぬ。折角、掴《つか》んだ倖わせの道、もそっと大切になさいませぬか」  吉右衛門は、淋《さび》しげに微笑んだ。 「今も心が迷います。ですが……私めは大石さまのお言いつけで、惜しからぬいのちを長らえている身……浮世の未練に引かされては、同志の方々に泉下で合わす顔がございませぬ。これも前世の宿縁。もし天運があれば、いつか槇どのと再び目見《まみ》えることもありましょう。今は四十七人の一人として、悔いなき働きを致したいと思いまする」 「そのお覚悟を承りますと、私としては何と申せばよいか……言葉がございませぬ……」  戸山局が首うなだれて絶句した時、廊下を来た女人二人が部屋に入ってきた。  戸山局にとっては長女と三女、亡き大石瀬左衛門の姉と妹に当る美豆《みづ》と静《しずか》であった。  静に手を引かれた盲目の美豆は吉右衛門の前に坐《すわ》ると、両手を仕えた。 「大石の家の姉娘、美豆にござります」  玲瓏《れいろう》の響を思わせるすずやかな声にふさわしい容姿は、この世のものとは思えぬ研々《けんけん》の艶美《えんび》であった。  ——美人薄命とはこの事か。  吉右衛門は、思わず息を呑んだ。 「寺坂さまの並々ならぬお志を承り、涙致すほかござりませぬ。何卒《なにとぞ》……何卒、吉田伝内さまをお救い下さいますよう、身に代えてお願い申し上げまする……」  美豆が涙ながらの言葉を受けた時、吉右衛門はおのれの運命の逃れ得ぬことを覚《さと》った。      九  翌日、年の瀬迫る京を後に、寺坂吉右衛門は東下の旅に出た。  五条若宮八幡に待つ槇に別れは告げなかった。今更会ってどうなろう。吉右衛門は近衛家二条館からそのまま旅立つほかなかった。 「各務どののご妻女には、及ばずながら私から訳を申し述べ、吉右衛門どのの無事のお帰京を待つようお願い申します。何卒お心置き無うご東下なさりませ」  年老いた戸山局が、真心こめてそう送り出してはくれたが、それで済むとは到底思えなかった。  三条|蹴上《けあげ》から山科《やましな》へ、吉右衛門は夢中で歩いた。人の別れがこれほど切ないものとは初めて知った。四ノ宮を過ぎ逢坂山《おうさかやま》にかかる。登りつめて下りにかかった時、ふと記憶に蘇《よみがえ》るものがあった。  三年前、元禄《げんろく》十五年秋、大石内蔵助の一行七名は、討入に臨む畿内《きない》同志の最後の組として、京を離れた。  伏見で会同し、同志家族の身のふり方をつけ、大坂|天満《てんま》の天川屋に託す討入支度の点検を済ますと、内蔵助らはもうそれぞれの家へ帰る余裕はなかった。 「忠左(吉田忠左衛門)どのも、わしも親子連れ、それに長年連れ添った老妻には覚悟を言い渡してござる。さして未練はないが、内蔵助どのはなあ……せめて一夜なりと、長岡天神に帰してあげとうござった」  小野寺十内がしみじみと述懐したものである。  長岡天神のささやかな寓居《ぐうきよ》には、内蔵助が愛《め》でてやまぬ可留《かる》がいた。  だが、内蔵助は、別れも告げずそのまま旅立った。永別は即、死別となった。内蔵助は討入を済ませ、切腹し、可留の消息は絶え、今は知る由もない。  ——あの折、大石さまはこの逢坂山で京を見返り、名残りを惜しまれた……。  吉右衛門は急いで道を引返し、峠に立って西の方を見返った。  三年前と同じように、東山|連峯《れんぽう》は初冬の空の下に、くっきりと浮び上がっている。  内蔵助はその時、足許の小花を摘んで、可留を偲《しの》んだ。  その花は今は無い。冬寒に枯れた雑草が茶褐色に折敷くのみである。  吉右衛門は、しみじみと内蔵助の心情を思い遣《や》った。  ——いまのおれは、あの時の大石さまと同じようだ。  いのちを捨てに、東《あずま》へ下る。契りを交した女子を残して京を去る……。  ——いや、違う。似て非なるものだ。  誰に説かれたのでもない。強いられたのでもない。内蔵助はひとり思い立ち、何の報いもなき死の道を歩んだ。生涯に最後の恋を自ら捨てて……。  ——おのれはどうだ。  吉右衛門は、胸さいなまれる思いがあった。内蔵助はその胸中を誰にも打明けず、従容と事に当り、死んだ。それをおれは……未練は進藤長保に、戸山局に打明け、それでまだ煩悩を捨て切れずにいる……。  ——恥じなければならぬ。寺坂吉右衛門、おのれはいのちある限り、四十七士の一人ではないか。  吉右衛門は、東へ向って一歩を踏み出した。もう京を振り返ろうとはしなかった。  京を発《た》って五日目。  大津から草津、水口、鈴鹿《すずか》峠を越えて関、四日市、桑名から船路を宮(熱田)、岡崎、吉田を通って新居の関所、浜名湖を渡って浜松、中ノ町、天竜川を過ぎて掛川から、小夜《さよ》の中山にさしかかっていた。  山あいに屈折の坂路が続く。左右に深い谷が隠見する。峠に、親を失ない捨て子となった赤児《あかご》に代って泣く夜泣石があり、その前に茶屋があった。  三年前、内蔵助の一行が通りかかった際、茶店で暫し休息した。一行の中の小野寺十内は、何やら紙片を入れた小箱を夜泣石の畔《ほと》りに埋めた。 「十内どの、何をしておられる」  問いかけた内蔵助に、十内は笑顔で応《こた》えた。 「家の妻に思い出を作って遣わそうと思いましてな」 「はて、それが……?」 「われらが死に果てし後、妻がこの地を通るやも知れませぬ。その折、掘り出して手前のいまの感慨を偲んで貰おうと、古歌を一首、書いて入れました」  小野寺十内と、妻の丹は、共に歌道に堪能《たんのう》であった。討入前も、また討入後細川藩邸で公裁を待つ間も絶えず手紙を取交した。  その頃の、小野寺丹女の歌に、   筆の跡 みるに涙の しぐれ来て     言ひかへすべき 言の葉もなし  と、ある。  元禄十六年二月四日、小野寺十内は細川家の庭先で腹切って世を終った。  丹女はその後、老母の死を看取《みと》った。彼女の兄灰方藤兵衛(馬廻役武具奉行百五十石)は、当初盟約に加わったものの、公家日野大納言家に再仕官した元重役の奥野|将監《しようげん》(番頭一千石)に誘われて脱盟、公家侍となった。そのため、小野寺夫妻は義絶した。丹女には他には身寄りが無かった。  夫と養子(小野寺幸右衛門・討入後切腹)、それに老母を亡くした丹女は、夫と養子のほか甥《おい》の大高源吾、岡野金右衛門の合せて四人の供養塔を洛東《らくとう》二条下ル願海山西芳寺に建立、供養の後、洛中五条上ル本圀寺塔頭《ほんこくじたつちゆう》了覚院に入り、絶食して自害した。  あるいは丹女が、おのれの死後、東に下ることがあるやも知れぬ、と小野寺十内が埋めた小夜の中山の小箱は、遂《つい》に掘り出されずに過ぎた。  ——まだ、あるだろうか。  吉右衛門が夜泣石の裏手に廻《まわ》ってみると、目印の小石もそのままに、掘り出した形跡はない。  ——見る人もなく、朽ち果てる小野寺十内さまの形見……掘り出そうか、それともこのままにしようか。  吉右衛門は暫《しば》し迷った。  思い起こせば、同志切腹以来、吉右衛門はこの地をすでに五回通っている。その間、気にもとめず通った。それがいま、三年前と同じ死を決して通った時、勃然《ぼつぜん》とそれが気にかかったのである。  ——そうだ。もし伝手《つて》でもあれば、ご妻女さまの墓に納めていただこう。  吉右衛門は、土を掻《か》き分け、小箱を掘り出した。堅木作りの小箱は土中の湿気に黒く変色していた。  ——開くまい。ご妻女にあてた形見の品……。  吉右衛門は、小箱を背負袋に納めた。  宝永三年の年が明けた正月五日の朝。  虎ノ門に近い愛宕下《あたごした》の大目付仙石|伯耆守《ほうきのかみ》の屋敷では、あるじ久尚《ひさなお》が登城の身支度を調えている最中であった。  玄関先には、すでに供揃《ともぞろ》いが整列し、あるじの登城を待っている。  八の字に開かれた門を通って、おずおずとその供揃いに近付いた旅姿の中年の侍があった。渋紙色に日焼けした顔は風采《ふうさい》があがらず、衣類は払いきれぬ土埃《つちぼこり》にまみれている。  ——どこぞ土臭い田舎侍に違いない。  玄関であるじの出を待つ用人の桑名武右衛門が見咎《みとが》めて声を掛けた。 「これは大目付仙石伯耆守さまの御屋敷である。うろんな者の推参は罷《まか》りならぬ。名を名乗れ」  田舎侍は、はっと片膝《かたひざ》つき、恐懼《きようく》の様で答えた。 「恐れながら申し上げます。てまえは元|播州《ばんしゆう》赤穂浅野家の家来、寺坂吉右衛門と申す者、先年高家吉良|上野介《こうずけのすけ》さまお屋敷に推参し、吉良さまを討ち果した罪に依《よ》り、切腹申し付けられました一統の者の一人にございます。その際、仔細《しさい》あって一統を抜け、諸国を流浪し今日に至りました。省みれば天下の御大法に背きし事、何とも恐れ多く、また同志一統に対し死に遅れしこと遺憾に堪えず、今日ここに自首し罷り越しました。御法に照らし存分にお仕置下さいますよう、御願い奉ります」  三年前、大石内蔵助ら四十六名の赤穂浪士が討入を果し、自首した際、主人仙石久尚の命に依り、その処置に当った桑名武右衛門は、当時の有様と成行を刻明に記憶に止《とど》めている。  それだけに衝撃はひと通りではなかった。 「なに、寺坂吉右衛門とな」 「左様でございます」  元禄十五年十二月十五日の深更、泉岳寺から移送された赤穂浪士の取り調べは、仙石久尚が直々当った。  桑名武右衛門は、浪士から提出された連名帳を手に、まず個名点呼を行なった。ところが呼名の最終の寺坂吉右衛門に応ずる声がない。  討入には、確かに参加していたと、浪士仲間の堀部安兵衛が言う。引上げの際の着到にも点がついている。  命惜しさの逐電《ちくてん》か、それともはぐれ迷っての行方知れずか、論議が渦巻いた。  内蔵助は言う。 「軽き身分の者ゆえ、うろたえての仕儀、是非なき次第にございます。重ねての御|詮議《せんぎ》、無用に願い上げまする」  仙石久尚は、内蔵助の意中を汲《く》んだ。  ——この大事に当り、現場の生き証人を一人残す。  久尚は、桑名に命じた。 「数にも入らぬ足軽を、ようそれまで働かせた。それで充分……寺坂とやらの名をのぞけ。浅野家家中の者は、四十六名である」  久尚の即断で、高家討入、貴人殺害の罪人は四十六名とされ、翌年二月四日、切腹|仰付《おおせつ》けられ、全員自刃して果てた……。  そのたった一人の自首である。  ——何のための自首か。  桑名は取りあえず、寺坂に家士二名を配し控えさせ、あるじ久尚へと走った。  凝然と、桑名の報告を聴取した仙石久尚が最初に洩《も》らしたのは次の一言であった。 「ううむ……それは、難題だな」  桑名は、気遣わしげに主人の顔を仰いだ。 「あの際……足軽寺坂吉右衛門の名を省いたのは、罪に当りましょうか」  久尚は苦笑して軽く首を振った。 「いや、それなら咎めだてされたとて、わしひとりが腹を切れば済む。難題はほかにある」 「と、仰せられると……?」 「あの折は、御府内にて剣戟沙汰《けんげきざた》に及び、高貴の御方を殺害せし大罪人なれど、武士の情けとして面目を立てさせ、腹切らせて済ませたが、あれからかれこれ三年……世の値踏みはうって変って、忠臣よ義士よと褒めたたえ、泉岳寺の墓前に香華が絶えぬ……」 「なるほど……先例にならい、天晴《あつぱ》れ忠臣義士を今更切腹させれば、世の論難は免れませぬな」 「ならば助命するか。そうなると先の四十六士の断罪は失態であったと言われても仕方あるまい」 「……これは正に、難題……でございますな」  仙石久尚は、冷笑した。 「はて、柳沢どのをはじめ御老中若年寄がどう取裁くか……登城、届出の前に、その憎いしゃっ面[#「しゃっ面」に傍点]見ておくか」  久尚は、闊達《かつたつ》な足どりで居間を出て行った。  玄関脇の小部屋に、若侍二人に付き添われて沙汰を待つ吉右衛門は、襖《ふすま》の開く音に見返った。 「その方か、寺坂吉右衛門とは……予が仙石伯耆である」  久尚は、ずいと入って吉右衛門を見下ろした。 「これは……」  吉右衛門は平伏した。 「お目通り叶《かな》わぬ身分卑しき者にございます。恐れながら、御通りを願い上げまする」  足軽は、士分に準ずる低き身分である。いまは罪人として出頭したため、調べの部屋に入ってはいるが、旗本千八百石仙石伯耆守と同座を許される身ではなかった。 「斟酌《しんしやく》は無用にせい。その低き身分をもって、侍一統と力を合わせ、長の年月苦労を重ね、みごと侍の一分を貫き本懐を遂げた。そちの志、天晴れである」 「お、恐れ入りまする……」  久尚の慈顔に、吉右衛門は涙を浮べた。 「したが……お目こぼしの身が、いのち捨てるを覚悟で名乗り出るには、何か仔細があろう。それを聞きたい」 「は、はい……」  吉右衛門は口をつぐんだ。 「その裏に策ありと見た。そちの一存ではあるまい。誰か絵図を画いた者があろう。何者だ。せめてその名だけでも打明けぬか」 「…………」  沈黙したなりの吉右衛門に、久尚は豪快に哄笑《こうしよう》した。 「よいよい。その方の口からは言い難《にく》くあろう。この先二ノ手三ノ手と打つ手を見れば、おのずと知れること……それを楽しみに待つとしよう……武右衛門」 「は、はっ……」  と、背後で桑名武右衛門が命を待った。 「この者、当分屋敷にとどめおく。身分低しとて粗略に扱うな。世上に名高き勇者である……ただし、外出は一切罷りならぬ。便り言づても差しとめよ。よいな」  平伏した吉右衛門は、頭上を通り過ぎて行く久尚の足音を聞いた。      十  仙石|伯耆守《ほうきのかみ》より届出のあった寺坂吉右衛門の自首の件は、その日の中に月番老中から将軍綱吉の許《もと》へ報告された。  御側《おそば》御用人柳沢吉保がその事を知ったのは、ずっと後刻、夕景間近であった。  御側御用人は君側第一の役で、御側衆、御側御用取次を統括する。将軍のお耳に入れる事はまず御側御用人にはかり、その裁量を待つのが慣例である。事後承諾ということはない。  元禄《げんろく》十四年三月、浅野|内匠頭《たくみのかみ》の刃傷《にんじよう》に始まる事件は、翌十五年十二月の赤穂浪士による吉良邸討入に発展し、天下の耳目を集めた。事件が大事に立至ったのは、処理に当った柳沢吉保の不当な専断に依るとの評言が流布され、知らぬ者はない有様となっている。それゆえ柳沢吉保は、討入後の赤穂浪士の処分についても、半年一年はかかるであろうと言われた審議期間を極度に短縮し、天下を二分する程の勢いをみせた助命論を退け、早々に全員を切腹させて異論を封じた。  その法理論についても、兎角《とかく》の評論が絶えなかった。  ——将軍綱吉の偏寵《へんちよう》を頼んでの専制。  と、批難の声も多い。  吉保自身、あれは失態——という自覚がある。刃傷事件の際、過早《かそう》に事を処した。数ある刃傷事件は悉《ことごと》く加害者の切腹・家断絶で処理され、あとに紛争を生じた例がなかった。  それが、赤穂浪士の件だけは禍根を生じ、討入という幕政に例のない大事件に発展した。吉保は刃傷事件の過早な処置に論議が及ぶことを避けるため、またまた早急に非情の措置を取った。  ——関係者がすべて死に絶えれば、事はおさまる。死人に口無し。  吉保の思惑はまんまと外れ、赤穂事件の評判は根強く残った。  吉保は、ひたすら論議の再燃をおそれた。浪士の一人寺坂吉右衛門が討入後に姿を消し、諸国を流浪しているとの噂を聞いても、公には無視し、追捕《ついぶ》の手配を命じなかったのもそのためである。  ——浅野の親戚《しんせき》筋で、心利いた者があれば、公儀を憚《はばか》り、ひそかに闇に葬る処置をとるであろう。  その期待も空しきままほぼ三年が過ぎた。  その間、柳沢吉保の周辺に変動があった。  将軍綱吉には、天和《てんな》三年(一六八三)に唯一の男児徳松が死去して以来、世子がない。その血を継ぐのは紀州中納言|綱教《つなのり》に嫁いだ鶴姫だけである。  将軍後嗣に目されたのは、その綱教と、綱吉の兄甲府宰相綱重の嫡子綱豊である。  家康以来の直系の血筋から言えば、甲府綱豊が最も近い。だが綱吉は女婿《むすめむこ》の綱教に執心した。わが娘に将軍家正室の座を与えたかったのである。  綱吉の寵臣柳沢吉保は、当然紀州綱教擁立に力を注いだ。そのため綱豊は身に害の及ぶのを恐れて病身を装い、韜晦《とうかい》に努めた。綱豊擁立派の水戸|光圀《みつくに》は、早くに隠居の身に追いこまれ、国許に退隠の生活を送った。  綱教が六代将軍の座に就けば、柳沢吉保の権勢は次代に続いたであろう。だが、一代の権勢を得た吉保の天運はそこまで続かなかった。  宝永元年(一七〇四)四月、鶴姫は流行の麻疹《はしか》にかかり、綱教がこれに感染した。鶴姫の病状はにわかに革《あらた》まり、年二十九歳にして急逝し、綱教もまたその後を追った。  同年十二月、甲府綱豊は将軍後嗣として江戸城西ノ丸に入り、名を家宣《いえのぶ》と改めた。後の六代将軍である。  翌宝永二年(一七〇五)、綱吉は、多年おのれの意を迎え尽力した柳沢吉保に報いるため、家宣の旧領甲府城を与え、山梨・八代・巨摩《こま》の三郡、十五万千二百八十石余の大大名とした。  この時、吉保に下しおかれた朱印状の文言は、空前絶後のものであった。 [#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]   甲斐国は枢要の地にて、一門歴々領し来ると雖《いえど》も、其方《そのほう》真忠之勤に依り、今度山梨八代巨摩三郡一円、之《これ》を宛行《あてが》い訖《おわ》んぬ、先祖の旧地永く領地せしむ可《べ》きの条|件《くだん》の如し [#ここで字下げ終わり]  林大学頭信篤《はやしだいがくのかみのぶあつ》が起草した時には、�政務の功�とあったのを、綱吉は特に命じて�真忠の勤�と書き直させた、という。  文言は所詮、紙の上の形容に過ぎない。この時すでに柳沢の栄光とその権勢は頂点を過ぎていた。四年後、将軍綱吉がこの世を去り、家宣が将軍の座に就くと、吉保は隠居の身となり、その子吉里は甲斐甲府から大和郡山へ国替となる。表高は同じ十五万千二百八十八石だが、枢要の地甲斐と、閑地大和郡山とは比ぶべくもない。  宝永三年初頭のこの頃、柳沢吉保は、西ノ丸の家宣の意を迎えようと、汲々《きゆうきゆう》としていた。  先に館林宰相から西ノ丸に移って将軍継嗣となった綱吉の先例に従って、家宣は甲府宰相の奥座敷の構成人員がそのまま西ノ丸に入った。甲府家は十五万石の規模だから大幅に人数が不足する。それに営中典礼に通じない。殊に正月行事にはそれが顕著であった。  家宣の簾中熙子《れんちゆうひろこ》が本丸に赴いて、将軍夫妻と対面する時は、本丸大奥の女中たちが何か手落あればと鵜《う》の目|鷹《たか》の目で待ちうけたが、その都度吉保とその子吉里以下柳沢一族の奥仕えの女中が総出で手伝い、大奥の女たちは手も足も出ない有様であった、という。  そうした奉仕は、後に何も実を結ばなかったばかりでなく、吉保に思わぬ隙を生じさせた。  すなわち、宝永三年御用始の日、仙石伯耆守が寺坂吉右衛門自首を届出たとき、柳沢吉保は西ノ丸に出向き、正月行事の手助けに奔命していた。  ——御用始の日に、重要案件はあるまい。  吉保の観測は裏目に出た。居合わせたら当然おのれの権限で切腹なり遠島なりの指示を与えるところ、不在であったばかりにその件は将軍の許にまで届いてしまった。  もっとも、以前なら老中が一日手許に止めおき、吉保にはかっていたであろう。頂点を越え、凋落《ちようらく》の途を辿《たど》り始めた者の運勢は、周辺の人には敏感に察知される。並いる老中は、吉保不在のため、当然の事のように事後承諾とした。  老耄《ろうもう》の綱吉は、大奥に伝わる赤穂浪士の評判をひどく気にしていた。  ——後世に伝わるおのれの治績に瑕瑾《かきん》があってはならない。  執拗《しつよう》にその事にこだわる綱吉は、吉保の進言を待たず、幕閣に下令した。 「この者の処置は重大である。慎重に、情理を尽して計るよう、論議を尽せ」  寺坂吉右衛門の身命は、綱吉のひと言で天下の大事となった。柳沢吉保が臍《ほぞ》を噬《か》んでも手が及ばない。進藤長保が憂慮した�柳沢吉保の掣肘《せいちゆう》�を切り抜けたのは、正に天運としか言いようのないものであった。  営中の論議は紛糾し、いつ果てるともなく続いた。 [#改ページ]  満天星《どうだんつつじ》の花      一  柳沢吉保は、寺坂吉右衛門の自首に関して意見を開陳せず、態度不鮮明のまま遷延と日を過ごした。  ——事が公けとなる前に、即決すべきであった。  その感が深い。助命論と断罪論が白熱すれば、必然的に赤穂四十六士の処断の是非に論が及び、更には刃傷《にんじよう》事件の処理についても、その当否が論議される。  柳沢が吉良をかばった理由の一つに、将軍後嗣の問題がある。吉良上野介の実子である三郎は上杉家の養嗣子として米沢十五万石を継ぎ綱憲《つなのり》を名乗り、紀州大納言光貞の娘|為姫《ためひめ》を正室に迎えた。  為姫の弟、綱教は、将軍綱吉の娘鶴姫を正室とし、六代将軍の有力候補となった。柳沢吉保はその擁立に政治生命を賭《か》けた。  それも、今は空しい。  吉良家は赤穂浪士の討入で滅亡し、紀州綱教とその正室鶴姫はこの世を去った。  いま、西ノ丸に入っている家宣の天下が目前に迫っている。  吉良・上杉をかばう要因は何一つ無い。それどころか、綱教擁立に尽力したこと自体が柳沢吉保にとって触れられたくない瑕瑾である。  ——この件、どう処理するか。  思案に迷った柳沢吉保は、お抱え学者|荻生徂徠《おぎゆうそらい》の帰府を待った。  荻生徂徠は、昨宝永二年秋から伊勢・大和に赴き、国学の文献調査と、今井|似閑《じかん》、天野信景《あまのさだかげ》など国学者との交流に当っている。 (御用|有之《これあり》、急ぎ帰府せよ)  吉保の急使に、徂徠は荏苒《じんぜん》と時を過ごし、柳沢邸に出頭したのは二月の半ば過ぎであった。 「寺坂吉右衛門が事でございますか」  徂徠は、暫《しばら》く思いを凝らす風であった。 「厄介な事になった。上様のお耳に入ったからは、足軽とて簡略には扱えぬ。上様には赤穂浪人の顛末《てんまつ》を、今も心にかけておられるご様子である」 「されば……今少し、御裁断をお待ちなされてはいかが」 「待つはよいが……待って何か善処の見込みが立つか」 「これは殿のお言葉とも覚えませぬ」  徂徠は薄笑いを浮べた。 「足軽風情の挙動に、天下を預る枢機の顕貴が、一様に頭を悩ます……全体その目論見《もくろみ》が、足軽風情に立てられるとお思いですか」 「……そちもそう思うか」  吉保は、何時《いつ》に無く真剣な顔で言った。 「は……」 「何者が、何の目算あって企《たくら》んだことかな」  吉保は、宙の一点を見すえて呟《つぶや》いた。 「察するに……赤穂浅野の旧家中かと存じます。先の大石内蔵助めといい、こたびの蔭《かげ》の者といい、天下を恐れざる不逞《ふてい》の輩《やから》……田舎侍とみてご油断なきよう……その魂胆を見極めるまで、ご裁断を待たれたが得策かと心得ます」 「わかっておる」  吉保は、重く頷《うなず》いた。 「したが……いつまでも祟《たた》るの、赤穂の一件は……」  吉保は、歎息《たんそく》をこめてそう洩《も》らした。元禄元年|御側《おそば》御用人となって以来十八年、御営内に扶植してきた勢力は抜くべからざるものとなっている。その吉保がおのれの行跡ではじめてみせた弱気であった。  ——お抱え学者の徂徠なら、何か励ましの言葉か、強気の発言がある筈《はず》……。  そう期待した吉保は、徂徠の次の言葉に顔の蒼《あお》ざめる思いがあった。 「思惑違いというのは、えてしてさようなものでございます。浅野が刃傷の折には、鶴姫さまも綱教さまも御健在……それを方寸に入れての御処置に誤りはございませなんだ。それが今、仇《あだ》となるのは……」  徂徠は、その言葉が吉保の期待を外れていることを感じとったが、あえてたじろぐ気色をみせなかった。 「この上は、わざわい転じて福となすよう……一層のお心入れが肝要かと愚考|仕《つかまつ》りまする……」  徂徠の意見具申はそれまでであった。具体的な方策は何も無い。吉保はそのなかに徂徠の心中を的確に推量した。  ——こやつ、予の衰勢を算用しておる。  以来、柳沢吉保は二度と荻生徂徠の意見を聴取することはなかった。  捌《さば》きものという言葉がある。捌きは裁きである。理非を明らかにし裁断する手続きをいう。  江戸期、司法は独立した役職ではなかった。捌きは一手限りのもので、勘定奉行、寺社奉行、町奉行が、いずれも自分のかかわる支配限りで調べ裁く。これを手限《てぎ》りものと言った。  ところが、事が幕政一般にかかわるものとなると、裁判所が別に設けられていた。評定所である。捌きものは小事件で、評定ものは大事件といえよう。評定ものには寺社奉行と勘定奉行とか、町奉行と寺社奉行とかいうように、二手掛り、あるいは三奉行が揃って立会う三手掛りと言うものがあり、さらに大目付、目付が加わる五手掛りというものまであった。伊達《だて》騒動、黒田騒動のような幕藩体制にかかわる大事件がそれであった。  寺坂吉右衛門の自首は、足軽という身分低き者一人の処分にもかかわらず、評定所五手掛りとなった。  五手掛りの結論は二月末に老中の手許《てもと》に届けられた。裁決は自首に依り罪一等を減じ「遠島」である。  老中は十八年間の慣例に基《もとづ》き、裁決を柳沢吉保の許に上げた。  公的には、幕政の実権は依然として将軍綱吉と柳沢吉保の掌中にある。だが西ノ丸にいる次期将軍家宣の存在は無視できない。特に次代に権勢を保とうとする吉保にとっては、大事件の裁決を決定するのに継嗣家宣の意向は重要であった。  吉保は、五手掛りの裁決を西ノ丸家宣の許にもたらした。 「重き御案件を御内示いただき、柳沢どのの手厚き御配慮には、西ノ丸さま殊の外御|感佩《かんぱい》の由にございます。早々に御所思お伝え申すべきところ、一昨日より御台所さま御兄君、京より不時に御出府、御対面の儀取行わせられ、不日将軍家にお目通り願うとのことにて、その経次に忙殺されております。暫くの間御猶予願いたしとの御口上にございます」  西ノ丸御側衆、間部《まなべ》越前守|詮房《あきふさ》の口上である。  間部詮房は、もともと喜多七太夫門下の能役者である。甲府宰相であった頃の家宣の、能楽|稽古《げいこ》の相手をつとめるうち、その美貌《びぼう》から御小姓に召し出《い》だされた過程は、綱吉における吉保の立場と酷似している。家宣の西ノ丸入りと共に御書院番頭並となり、御側衆に進んだ。  ——こやつは、わしの最大の政敵。  家宣をわが薬籠《やくろう》中に取りこもうとする吉保と、これを喰《く》い止めようとする間部詮房の政争は、この時期から白熱の有様となっていた。  ——京から御台所の兄君が……。  勅使(天皇の使者)、院使(上皇の使者)以外に、公家が江戸を訪れることは滅多にない。たまさかあっても非公式の旅とあって、公儀が饗応《きようおう》することはない。京都所司代の届出を受けるだけである。  だが、吉保は日常|煩瑣《はんさ》な書類の中から、目敏《めざと》く見たその届書の名を覚えていた。 「西ノ丸御台さま御兄君と言われると、確か近衛家の……」 「さよう、前《さき》の関白近衛基熙さま御隠居に依《よ》り、ご家督を継承なされました左大臣家熙さまが、西ノ丸さま、御妹君さまにご挨拶《あいさつ》のため、東下《とうげ》なされております」  吉保は、臣下最高の家柄近衛家と、廃絶した小藩の足軽の間に、関連があろうとは思いも及ばなかった。 「いや、これは意外でありましたな。お兄君が赤穂浪人にそれほどの関わりがおありとは……」  酒盃《しゆはい》を手に、西ノ丸家宣は、感慨深げに対座の近衛家熙に言った。 「それが、この者をわが家の家宰に選びましたのは父の基熙……と申すより、先代の家宰進藤長富でしてな、躬《み》はあてがい扶持《ぶち》に家宰を任せおる次第……これが赤穂浪人の出とは思いも及ばぬ次第でありました」  家熙は、下座に控えている進藤長保をかえりみた。 「恐れ入ります」  長保は、軽く頭を下げる。 「ところがこの長保、武家の出とは思えぬ才気|煥発《かんぱつ》の者で、いささか衰勢に傾きかけたわが家を立て直し、躬を左大臣につけ、わが娘|尚子《しようし》を入内させ、東宮の女御にすすめ、わが父基熙が果せなんだ夢を一つ一つみのらせております」 「なるほど……進藤長保とやら、それも噂に高い大石内蔵助が教えに依るものか」 「それもござります。われら吉良さまを狙う一統は、内蔵助どのの指図がままに出所進退をゆだねました。近衛家家宰の職も、はじめわが大伯父進藤長富が内蔵助どのの才を見込んで是非にと望まれしもの、それを内蔵助どのには、それがしに、家門経営の才あり、と申され、代って近衛家にお仕え申す身となりました。いまのそれがしは、内蔵助どのの眼がねに背かざるよう、愚昧《ぐまい》の身に鞭打《むちう》って御奉公仕りおります」  頷きつつ聞き入っていた家宣は、ふっとこう洩らした。 「聞く程に大石という者、才智といい、眼力といい、よほど優れた……神の如きものであったようだの」  長保は、真顔で首を振り、打消した。 「さようなご評価は、かの者の本意に背くかと心得ます。内蔵助と申す御人は、事に臨んで迷い多く……煩悩にさいなまれ……わが身わが心を責めさいなんでつとめる悩み多き者にござりました。その平々凡々たる者であればこそ、あれ程の大事を成し遂げたと存じます。あれが世に優れた穎智《えいち》天才であれば、かえって思いあやまりて取り違うこと多く、事成った後に様々な批判酷評が生れたでありましょう。凡庸を自ら認める者であればこそ、百般の事に気を配り……長く世の賞賛を浴びる事になった、と心得ます」 「ふむ……たとえば、どのような……?」  家宣は、ますます興味をつのらせたように身を乗り出した。 「さよう……内蔵助どのが心を砕きましたのは、一《いつ》に武士の尊厳を保ち、世にそれを示す事にありました。それは単に吉良どののいのちをいただく事に止《とど》まりませぬ。討った者の妻子が後に落魄《らくはく》し、餓《う》えて物乞《ものご》いし、他人の金銭をかすめ盗《と》るようでは武士の尊厳は保てませぬ。それは討入の同志一統に限らず、旧赤穂藩士の悉《ことごと》くが生計《くらし》の立つよう、思搆《しこう》するのが国家老のつとめ……それに内蔵助どのの苦労がありました」 「…………」  家宣は、暫《しば》し無言で、その言葉を噛《か》みしめるようであった。 「いや、よい事を聞かせて貰《もら》った」  家宣は辞色をあらためて、家熙に言った。 「やがてはこの身が天下を統《す》べる身となる。そう申すと憚《はばか》りあるが、御当代将軍家の秕政《ひせい》は正さねばならぬ。そうは思ってもこれが長年の間施行されると、あれこれと関わりが生じて、一概に法を撤し、役職を廃することが難しゅうてな……なかなか思うようにはゆかぬ……われらは天の才に恵まれざるを嘆きとしておったが、今の話を聞くとそうではない。平々凡々の才が百般の事に悩んで事をすすめる、それが大事であることがようわかった」  家熙は、頷いて答えた。 「それは、禁裏についても同じことが言えます。父基熙は御承知の通りの強情我慢、当今《とうぎん》(今上天皇)と反りが合わず、思わぬ衰運に見舞われました。それをこの長保は、一挙に非運を挽回《ばんかい》しようとはせず、まず鷹司《たかつかさ》どのを関白に、大炊御門《おおいみかど》どのを左大臣、九条どのを右大臣にと、競い合う公家衆の官職を昇格させて地固めなし、それぞれに面目をほどこさせてわが近衛家の為に一臂《いつぴ》の力を貸すようはかる……その配慮の深さに舌を巻いております」  家宣は、頷いてから、言葉を継いだ。 「その家宰の長保どのが、寺坂吉右衛門を使嗾《しそう》して自首せしめた。その狙いは何かな」 「使嗾とは、きびしい仰せでございますな」  長保は、苦笑した。  話の中途ではあるが、左大臣近衛家熙はこの頃従二位、西ノ丸家宣は参議正四位ノ下、進藤長保は諸大夫従四位ノ下、官位にさしたる差はない。因《ちなみ》に将軍綱吉は征夷《せいい》大将軍、右大臣正二位である。言葉遣いはほぼ対等であった。 「当人の名誉のために申し上げまするが、これは当人の発意、吉良屋敷討入で切腹致しました一統の者の遺族が被りました連坐《れんざ》の罪の再吟味を願うための所業と聞き及んでおります」  家宣は、笑って言った。 「それが、足軽が考えた方寸だと?……申すではないか、長保」 「…………」  長保は、苦笑するほかなかった。 「まあよい。躬も聞き及んでおる。公儀の憎しみ殊の外強く、十五歳を越えた遺児は遠島、十五歳以下の者は、十五歳を待って施行とか……」 「意外にお精《くわ》しゅうございますな」  家熙が言葉をはさんだ。 「これは御台の兄君にはちと申し上げ難いが、奥に躬が子を身籠《みご》もった女子がおる……」  言いよどんだ家宣の後を受けて、長保が口をはさんだ。 「お喜世の御方でございますな。確か赤穂浪人の一人、富森助右衛門から聞き及んでおります」  そのお喜世の方は、六代家宣の世子を産む。七代家継である。お喜世の方は将軍生母として大奥に君臨することとなる。月光院がそれである。 「富森助右衛門か、なつかしい名だ。あやつめ喜世の兄分とあって、浪人後、早速に召抱えの沙汰《さた》を伝えたが、それを袖《そで》に致して吉良屋敷討入に加わりおった。憎い男よ」 「それは、重なる奇縁でございますな。西ノ丸どのも赤穂浪人と満更無縁とは申せませぬようで」  家熙は、冷かすように家宣を薄笑いして見た。 「いかにも……それゆえ、寺坂吉右衛門自首の処分について、内意を求められておるが、手許にとどめおいてある」 「ほう、如何《いか》なる処分でござりまするか」 「遠島」 「……なるほど、いかにも柳沢様らしい策ですな……」  長保は、思案を凝らす様子を見せた。 「仕組んだものよの、家宰どの……」  家宣は、皮肉な顔で長保を見た。 「赦免、お構いなしとすれば、討入連坐の罪の遺児たちの遠島を宥免《ゆうめん》せねばならぬ。さりとて大石らと同じ切腹、死罪とすれば、世間がまた騒ぎ、刃傷《にんじよう》から討入についての公儀の処分が再びむし返される……折角おさまった水面に一石を投じて波紋を起こす策……みごとなものだ」  家宣は、カラカラと笑う。家熙も笑い、長保は苦笑した。 「わが家の家宰がいかほど食えぬものか、お分かりいただけましたかな」  と、家熙が言う。 「いかさま、これで兄君どのの関白御就任は程なく本決りとなり申そう……」  これは先の話だが、家宣が言う通り、近衛家熙は翌宝永四年関白となり、二代続いての関白就任とあって父基熙は永代|太閤《たいこう》の称号を附与され、宝永六年関白家熙は摂政に、前の関白基熙は太政大臣に就任、近衛家は宿願を達する。進藤|播磨守《はりまのかみ》長保の才腕の冴《さ》えは一世に鳴り響いた。 「よくぞ考えた、と褒めておこう。だがそれだけで赤穂浪人連坐の罪の宥免はちと無理だ。大老格の側用人柳沢吉保という厄介な邪魔者が、おのれの権勢を賭《か》けて遮るぞ」 「……やはり、さようでござりましょうか」 「柳沢吉保にとって、刃傷から討入にかけての処置は、生涯ぬぐい去ることの出来ぬ禍根となった……連坐の罪の宥免は、それを公けに認めることになる」 「…………」  長保の顔が曇った。失望の色は隠せない。  家宣は、その長保を見て、得意げに笑みを浮べた。 「どうやら失意の態と見受けたが、そう心配致すことはない。この家宣、十余年の長きにわたって当代将軍家、ならびに柳沢吉保と渡り合うて来た。これしきの事に策が無うては今日のわが身は有り得ぬ」 「恐れ入ります。策がお有り遊ばしまするか」 「まあ委《まか》せておけ。ついては兄君にもお働き願わねばなりませぬが……ご承知いただけますかな」 「いかにも……何ごとに依らず、申し付け下され」  家熙は、莞爾《かんじ》と頷いてみせた。      二  三月十四日、奇《く》しくも浅野|内匠頭長矩《たくみのかみながのり》の祥月命日である。  西ノ丸訪問中の左大臣近衛家熙は、この日家宣と同道、本丸にて将軍綱吉に謁することになった。  謁見は御白書院で行われる。家熙は時候の挨拶の後、昨年六月逝去した将軍生母|桂昌院《けいしよういん》への哀悼と弔慰の言葉を述べる。綱吉はこれに応《こた》え謝詞を述べたあと、家熙の父、前の関白基熙の多年にわたる公武調和の労をねぎらい、併せて家熙家督相続の祝詞を述べる。  陪席者は、筆頭老中土屋|相模守政直《さがみのかみまさなお》ほか老中四名(老中稲葉丹後守正通は風邪のため欠席)、大老格御側御用人柳沢|美濃守《みののかみ》吉保と、御側御用人上席松平右京大夫輝貞。それに近衛家熙の家宰、進藤播磨守長保、また家熙の義弟に当たるところから、特に西ノ丸家宣にも席を賜った。  行事は恙《つつが》なく終り、近衛家熙はあらためて綱吉が私的に招いた客として、将軍御座所の間である紅葉ノ間に通された。  紅葉ノ間では、綱吉より酒肴《しゆこう》が供される。歓談におよそ一|時《とき》が予定された。相伴は家宣のほか、柳沢吉保と進藤長保の両名、馳走《ちそう》役は松平輝貞の御小姓番、中奥での饗応《きようおう》に女はまじえない。  さすがの柳沢吉保も、五摂家の筆頭近衛家の新当主が将軍謁見の裏に、赤穂浪人の末、足軽寺坂吉右衛門の命運が懸っていようとは、思いも及ばなかった。  話柄《わへい》は、生涯孝心の篤《あつ》かった綱吉の心を忖度《そんたく》して、桂昌院のことに触れた。 「江戸にはじめて入府して、眼を奪われましたは護持院の結構でござりましたな。さすがに将軍家、桂昌院さまの仏神帰依のお心にお応えするに、あれほどの大伽藍《だいがらん》を建立なされるとは……」 「御過褒恐れ入る。予が二十余年の長きにわたって将軍職を大過なくつとめ得たのは、幼少の頃よりの母の薫陶《くんとう》の恵みである。母は微賤《びせん》の生れであったが、向学の志篤く、幼き余に経書を学ばせ、一日もたゆとうことが無かった。その母の恩に報ゆるに、護持院如き一寺閣にては、まだ足りぬ心地がする」  桂昌院は、もともと京堀川通西|籔屋町《やぶやちよう》の八百屋仁左衛門の娘である。当時お玉という名であったのが、春日局《かすがのつぼね》が上洛《じようらく》の際、その美貌と細腰が眼に止り、召抱えられ、江戸に伴われて大奥に勤めるうち、三代家光の手がついて綱吉を生んだ。  四代家綱に嗣子なく、また次兄、甲府宰相綱重が暴死したため、思いがけず末弟の綱吉は五代将軍の座に就き、お玉の方は将軍生母桂昌院として一代に畏敬《いけい》を受くる身となった。  だが、元は無智文盲《むちもんもう》の平凡な女である。それだけに学問に憧《あこが》れる半面、甚だしく迷信深かった。  かつて京の八百屋の娘であった頃、一日|仁和寺《にんなじ》に詣《もう》でた折に、一人の僧から、 「この容貌には、測るべからざる尊貴の相がある」  と、予言された事から、お玉は綱吉を懐妊した時、その僧を頼んで安産の祈祷《きとう》を依頼した。  効あって綱吉は無事に産まれ、将軍職に就く。その僧|亮賢《りようけん》は、桂昌院によって護国寺建立を得、住職となった。  亮賢が先に住職であった神田知足院に、後任として推挙されたのが隆光である。隆光は桂昌院の依頼を受け、綱吉の嗣子出産祈願のため、神田橋から一ツ橋に至る五万坪の宏大《こうだい》な知足院本堂を造営し、寺名を護持院と改めた。  だが、綱吉は嗣子に恵まれない。窮地に陥った隆光は、 「上様の生れ年|戌《いぬ》年にちなみ、御犬をはじめ生類を憐愍《れんびん》し保護されれば、前世の罪障は消滅し、子孫に恵まれましょう」  という恐るべき迷信を、桂昌院に吹き込んだ。  綱吉は無類の親孝行であった上に、周易を愛好し、五行説、干支《えと》の誤釈を信奉していたため、史上類をみない生類憐愍の法を施行し、生涯改めなかった。  それを西ノ丸家宣は悪法秕政と断じ、撤廃の機をうかがっている。政敵柳沢吉保にしても、綱吉の意に違背せぬことを最高の為政方針としていただけで、彼自身はこの迷妄の信仰を毫《ごう》も信じてはいなかったのである。 「して、将軍家には、御生母御供養のために菩提寺《ぼだいじ》を建立なされるおつもりですか」  家熙は、話を詰めた。 「いや、それは……」  綱吉に代って、柳沢吉保が答える。 「桂昌院さまには、すでに護国寺、護持院と二つも大寺をお持ち遊ばされておられます。それに御公儀御威勢を以《も》って元字金銀を改鋳致し、すでに十余年を経ておりますが、当初古金銀貨の混用を認めましたのが仇《あだ》となり、今以って古き金銀貨の回収が停滞しております。古き金銀貨の回収が終りませぬと、多額の費えを要する寺閣の建立は思いも寄らず……御供養の儀は今少し先の事かと存じます」  元禄《げんろく》期、江戸を中心とする普請作事経済は頂点に達し、米を中心とする侍社会は、その経済力を、工、商の町人に奪われつつあった。  その顕著なあらわれが元字金銀貨の改鋳である。五代綱吉と大奥の浪費に傾きかけた幕府経済を立直そうと、金銀含有量を減じた元字金銀貨に改鋳したが、含有量の多い古金銀貨の交換回収が思うようにはかどらず、幕府経済の立直しは停頓《ていとん》し、寺閣の建立などままならぬ状態におちいりつつあった。  それを言う柳沢吉保の言葉に、綱吉は不満の意を隠せなかった。綱吉の顔色を目ざとく読んだ進藤長保は、咳払《せきばら》いして口を切った。 「確かに桂昌院さま御供養の寺院は、護国寺、護持院の壮麗な大伽藍で事足りておると拝察|仕《つかまつ》ります。なれど御孝心深き将軍家におかれましては、尚《なお》一層の御供養を望まれるのはさもありなんと存じます。そう申しては憚《はばか》りあれど、寺閣の建立は誰しもが思いつく御供養。それより一段と思いを凝らして、古今東西の誰もが為《な》し得ざる御供養をなされてはいかがでござりましょう」  綱吉は、思わず膝《ひざ》を乗り出した。 「それは……何であるか。近衛家の家宰、直答を許す。申してみよ」  柳沢吉保も、思わず聞き耳を立てた。 「されば……御公儀初代、東照大権現家康公は、御逝去後に正一位を追贈されました。二代台徳院秀忠公も同じ。正一位追贈は三代|大猷院《たいゆういん》家光公まで続きましたが、御先代厳有院家綱公より正二位に改められました。これは三代様までの並々ならぬ御治績顕彰のため、との事にございます。従って万代続く御公儀の将軍家は、すべて正二位止りとなります。されど……」 「うむ……」  綱吉は、眼を輝かし、先を促した。 「桂昌院さま御治績は、微賤の家の出でありながら、今日の繁栄を築きし事、三代様までの御功績に優るとも劣らぬものと存じます。そこで禁裏に奏請して、女人としては例なき従一位追贈を計られてはいかが」 「従一位……」  綱吉は、感に打たれて顔を紅潮させた。 「さすが五摂家筆頭の家の家宰……官位最高の追贈とはよう考えた……のう、美濃」  柳沢吉保も頷《うなず》かざるを得なかった。 「なるほど、寺閣の建立に優《まさ》る名案、とは存じまするが……御逝去遊ばされてすでに十ヶ月……御追贈奏請には、いささか手遅れかと……」 「いやいや、さようなことはない。御葬儀に優る盛大な一周忌法要をも催され、それに併せて勅使御差遣、官位御追贈という手だてがあります」  そう進言する家熙に呼吸を合せて、家宣が提言した。 「いかがでございましょう。御逝去の時に仰せ出《い》だされなかった絶えて久しき大赦令をおふれ出しなされては……さすれば御一周忌法要は、御葬儀に一段と優る意義深きもの、と万人が認めることと存じまするが……」  綱吉は、ハタと膝を打った。 「それはますますの名案……将軍職が亡き母君に尽す最後の孝養に、これより上はない……美濃、将軍職の権限を以って万民の罪科を二等三等減じ、亡き桂昌院さまの御遺徳を感銘致させるよう……早々に手配り致せ」  中国の『漢書』劉向《りゆうきよう》伝に「号令如汗、汗出而不反者也」(号令汗の如くす、汗は出でて反《かえ》らざる者なればなり)とある。また『礼記』に「子曰、王言如糸、其出如綸」(子|曰《いわ》く、王の言糸の如く、その出ずるや綸《りん》の如し)ともいう。王者の言は発言した時は糸の如く細いものだが、先々実行の際には組紐《くみひも》の如く太くなるという意味である。そしてその王者の言は汗のように、一度出たら元に戻せないものであるという。 「…………」  無言で平伏する柳沢吉保に、家宣はとどめの言葉を浴びせた。 「先日来、赤穂浪人の末の者につき、何やら案件を寄せて参ったが、論議致すまでもなくこれで決着だな」  平伏の柳沢吉保に、衝撃が襲った。  吉保は、寺坂吉右衛門の自首の黒幕と、その恐るべき策略を一瞬に覚《さと》った。      三  それからひと月——。  江戸は四月に入ると暖気一段と増し、日中は汗ばむほどの陽気になった。  朝といっても辰《たつ》ノ刻(午前八時頃)を過ぎると、陽《ひ》ざしは強くなり、爽涼《そうりよう》の気は消えて湿気が増す。  愛宕下《あたごした》、仙石伯耆守の屋敷で、もう百日余り無為の日を過す寺坂吉右衛門は、さすがに身を持て余していた。  一月、この屋敷に自首した直後は、座敷|牢《ろう》というほどではなかったが、板敷の小間に閉居して、部屋外に監視の家士がつき、陽の目に会うことも叶《かな》わなかった。  天下の大罪人とあっては、当然とも言えるその扱いは、用人|榊原《さかきばら》源右衛門の一存であったらしい。十日余りしてその扱いように気付いたあるじの仙石久尚は、早速に処遇を改めさせた。畳敷きの八畳間が供され、控《ひかえ》の間に詰める小姓《こしよう》は、監視というより、吉右衛門の用事取次という態になった。それまで一汁三菜の食事も二汁五菜の客扱いとなり、入浴も三日に一度は許された。  それでも、庭に出ることは叶わず、陽は一日に二度、庭に面した障子を開け放した時に射しこむのを楽しむだけであった。  寒中は、かえってその方が凌《しの》ぎ易かったといえる。吉右衛門は三年余り続いた旅の疲れが一度にどっと押し寄せたかのように、来る日も来る日も茫然《ぼうぜん》と、なすところなき日を送った。  ——旅で、一日たりと休みをとった日はなかった……。  晴天の日は休まず歩いた。雨に降りこめられた日は衣類の繕いや肌着の洗濯に追われる。  宿は安宿を選んだ。金は天川屋が先々に為替で送るか出店で受取れるように計らってくれて、不自由することは稀《ま》れだったが、無駄な費えはできるだけつつしんだ。  ——この金は、大石さまが人知れず苦労してつくり、赤穂浅野の旧家中の艱難《かんなん》を救う大切な金……。  楽な日とて、一日も無かった。その疲労が吉右衛門を襲った。  半月余りして、躰《からだ》が常態になると連夜悪夢が襲った。悪夢は討入当夜の剣戟《けんげき》だった。吉右衛門は伝令役で、死闘を続ける敵味方の中を駆けめぐり、主将の命令を伝え、戦況を帷幕《いばく》に報告した。  その間、敵に襲われたことは一再にとどまらない。吉右衛門は未熟な腕で懸命に斬り結び、何度か白刃の下に身をさらした。  それが悪夢の図となった。夢の中で彼は死の恐怖を繰り返し味わい、絶望の叫び声をあげた。その悪夢が執拗《しつよう》に続き、止むことを知らなかった。  悪夢の苦悩の中で、唯一の救いはたまさかの艶夢《えんむ》であった。齢《よわい》四十の坂にさしかかって、初めて知った女体との甘美な契りは、吉右衛門の人生を変えたかの感があった。  たった一夜の甘美であった。むしろ数夜、数十度の思い出であれば、記憶は稀釈《きしやく》されたであろう。ただ一夜、一夜の短かさが吉右衛門の思いを増幅させた。  ——槇……。  渇した者が一滴の水を欲する耐え難い欲望が、四十男の脳裏をさいなんだ。  ——会いたい。この手で触れたい。あの肌に……。  灼《や》けるような渇望が、夢の戦慄《せんりつ》から彼を救った。  四月半ば、吉右衛門の処遇は新たな段階に移った。 「染井吉野は葉桜になり果てましたが、お屋敷には一本《ひともと》の峰桜がござる。いまが七分、ご覧なされてはいかが」  幽閉中、二度ほど顔を見せたことのある用人|長谷倉宇兵衛《はせくらうへえ》が、庭の通りがかりにさりげなく言ったひと言が、そのきっかけであった。  仙石伯耆守は、旗本としてはそれほど大身ではないが、大目付という役職の格式上、宏壮《こうそう》の屋敷を持っていた。吉右衛門は、庭を歩くことを許されたのである。  四月末のその日も、吉右衛門は奥庭の拝見に足を伸ばしていた。庭の四阿《あずまや》に近く、大屋根に届く高木があり、大ぶりの白い花片がはかなげにゆれる花をつけていた。 「気に入ったか、その花が」  飽かず眺めていた吉右衛門がふりかえると、着流しの常服に庭下駄《にわげた》の仙石久尚が立っていた。白皙《はくせき》の顔に渋茶色の郡内|紬《つむぎ》が洒脱《しやだつ》な人柄を表していた。 「は……いや……これは木蓮《もくれん》でしょうか」 「辛夷《こぶし》だ。発声がよいので武家屋敷は好んで植えるが、どうも花がはかなげで気に入らぬ……古武士では無うて、当世流の侍に似ておる」  話しながら久尚は、吉右衛門を促し、四阿に足を運んだ。 「そちが当屋敷に名乗って出て、もうどのくらいになる」 「三月半……ほぼ百日か、と存じます」 「屋敷を一歩も出ぬ日々は、気鬱《きうつ》であろう、近くの愛宕山にでも登ってみぬか」  思いがけぬ言葉に、吉右衛門は耳を疑った。 「よろしいのでございますか」 「まだ遠くは憚《はば》かりあるが、近間なら何とでも言い訳が立つ。明日にでも家の者に案内させよう」  そう言いながら、吉右衛門の反応を興味深げに見守った久尚は、笑顔になった。 「憎い奴だ。その頼りなげな風采《ふうさい》で、天下を騒がすばかりか、幕閣枢機の者を手玉にとりおって……」 「なんのことでございましょうか」 「まあよい、わしの独り言だ。そちの手の内がわかるまで、いのちだけは繋《つな》ぎとめおこうと様々に論を言いたて、遠島流罪という裁決に運んだのだ。それがとんだ恥かきとなった。御側御用人上席の松平右京大夫どのが内々|洩《も》らされた話では、再来月《さらいげつ》取り行わせられる桂昌院さま一周忌法要を機に、大赦免が下され、重罪軽罪の別なく恩赦となるとの事だ」 「えッ。それは、真《まこと》でござりますか」  吉右衛門は、声の震えを隠せなかった。 「偽りを申して何になる」  久尚は、呵々《かか》と笑った。 「お、恐れながら、念押し仕りまする。ただ今、伊豆大島に流罪となっております連坐の者は……ご、ご赦免になりましょうか」 「そうか。やはりそれが狙いか……それにつけても向う見ずな。そちはいのちを捨てるところであったぞ」  笑顔から真顔に戻って、しげしげと吉右衛門を瞶《みつ》めた久尚は、気色《けしき》を改めて告げた。 「如何《いか》にも……赤穂浪人かかわりの者の罪はすべて恩赦を賜わることになろう。流罪の者は赦免。流罪待ちの者には宥免《ゆうめん》の沙汰《さた》が下しおかれよう。ただ……今日あすという訳にはゆかぬ。手続きは能《あた》う限り急がせるがまずふた月……八月中ということになろう。そちの宥免もその頃になる」  久尚は立ち上がると、吉右衛門を見下ろし、独り言のように言葉を洩らした。 「どのような手順で事が進んだか、皆目知る由もないが……赤穂浪人の一件は上様より、すべての処分を終りと致すよう、念入りの御上意があったそうな……」  頭を下げる吉右衛門をそのままに、久尚は去りがての言葉を残した。 「どうやら……赤穂浅野と柳沢どのの四年続きの戦いは、おぬしらの勝だな」  翌日から三日続いた雨が上がって、吉右衛門は仙石家の家士谷沢数馬と佐原平右衛門に付き添われ、愛宕山権現社へ参詣《さんけい》の道を辿《たど》った。  愛宕山権現社の本地仏は勝軍地蔵尊であるため、特に武士の信仰が篤い。江戸名所図会には、「抑《そもそも》当山は懸岸壁立《けんがんへきりふ》して空を凌ぎ、六十八級の石階は、畳々として雲を挿《さしはさ》むが如く聳然《しようぜん》たり。山頂は松柏|鬱茂《うつも》し、夏日といへどもこゝに登れば、涼風|凜々《りんりん》としてさながら炎暑を忘る。見落《みおろ》せば三条|九陌《きうはく》の万戸千門は、甍《いらか》をつらねて所せく、海水は渺焉《べうえん》とひらけて、千里の風光を貯《たくは》へ、尤《もつと》も美景の地なり」云々《うんぬん》と、ある。  道を遥《はる》かに総門を望むあたりまで来た吉右衛門は、さりげなく谷沢と佐原に告げた。 「お気付きですか。先ほどから後を尾《つ》けてくる者がおります」 「はて……」  谷沢と佐原が振り向くと、やや遠く檜笠《ひのきがさ》を被《かぶ》った勤番侍とも見える者が、同じ道を来るのが見えた。 「大方、どこぞの藩士でしょう」 「芝増上寺に参詣の者か、と思います」  二人は、気にもとめず、そう答えた。  権現社の総門をくぐると、道は二手に分れる。正面は胸を突く急な石段が八十六段、圧するように聳《そび》え立つ。男坂である。馬術の名人|曲垣《まがき》平九郎が乗馬で登り下りしたという有名な急坂である。 「寺坂どのは足がなまっておいでだ。女坂を登りましょう」  佐原の言葉に吉右衛門はさからわなかった。それより背後から来た勤番侍が、三人を追い抜いて男坂にかかるのが気になっていた。  女坂は、右に迂回《うかい》するなだらかな石段道である。登りに楽だが距離は三倍を越す。吉右衛門らはゆっくりと登った。汗ばんだ肌に風が吹き上げる。  女坂を登りつめ、山上に至ると、本社の横手に葦簀張《よしずば》りの茶屋が十数軒、櫛比《しつぴ》していた。 「いかが、お休みになっては」  谷沢は、言葉半ばに絶句した。  男坂を先行した勤番侍が、一軒の茶屋に憩っていたが、三人を見ると腰を上げ、ゆっくりと歩み寄って来た。 「卒爾《そつじ》ながらお尋ね致す、元赤穂浅野家御家中、寺坂吉右衛門どのとお見受け申したが……」  吉右衛門は、悪びれず頷《うなず》いた。 「いかにも寺坂にございます。そこもとは?」  勤番侍は、左手で檜笠をとりながら、鋭い眼で吉右衛門を見すえた。 「お見覚えないか。それがしは寺坂どのの面体、しかと覚えておるが……」 「はて……」  侍の精悍《せいかん》な顔には、くっきりと刀傷がみとめられた。 「元吉良家家中、山吉《やまよし》新八郎でござる。過ぐる元禄《げんろく》十五年|師走《しわす》十四日の夜のお働き、おみごとでござった」  山吉新八郎。旧米沢上杉家の家臣。当主|綱憲《つなのり》の一子喜平次(後に義周《よしちか》と改名)が吉良家へ養嗣子として赴く際、望まれて附人《つけびと》として吉良家へ籍を移した。  赤穂浪士討入の夜は、上杉家派遣の侍を指揮して敢闘し、その右手首を斬り落とされる重傷を負いながら、あるじ義周を邸外に落し、その一命を守り通した。  だが、隠居の上野介|義央《よしなか》を討たれた吉良家に対する公儀の処断は過酷であった。翌年二月四日、赤穂浪士切腹の日、公儀は吉良義周に対し、領地召上げ、身は信州高島城主|諏訪安芸守《すわあきのかみ》忠虎の許《もと》へ長のお預けとした。清和源氏の嫡流の名家、吉良家はこの時をもって断絶した。  討入後の吉良家の家臣は、大半が上杉家に引取られた。流罪となった義周の残る家臣は、家老の左右田《そうだ》孫兵衛のほか、山吉新八郎ら六名であった。そのうち、配流の義周の供奉《ぐぶ》を許されたのは、左右田と山吉の二名だけであった。  高島諏訪家は、義周を名家上杉家の子息として丁重に扱ったが、公儀よりの預り人として警護は厳重を極め、生活は息を潜めるようであったという。四六時中監視される生活は、二十歳前後という若い義周には耐え難いものであったようである。宝永二年十月に発症した瘧《おこり》の病いは癒《い》えず、年を越えたこの年一月二十日未明、二十一歳の若さで世を去った。  左右田孫兵衛と山吉新八郎は、義周の葬儀や後始末を済ませ、春三月、上杉家江戸麻布中屋敷に帰着した。だが帰ってみれば当主綱憲も、上野介後室の富子も世を去っていた。  左右田、山吉の両名は、処遇未定のまま上杉家に寄宿する身となった。  その無為の日々、山吉新八郎は赤穂浪人の生残り、寺坂吉右衛門自首の噂を聞いたのである。 「山吉新八郎どのが、てまえに何のご用でござります」  新八郎は、つとめて低い声で終始話した。吉右衛門も相手の心中を忖度《そんたく》して声を低くした。  表面おだやかな二人の様子に、知り人と見たのであろう、仙石家の谷沢、佐原の両名は声の聞えぬ程に離れて、それとなく二人を見守っていた。 「それがしの主君吉良左兵衛義周さまは、今年一月二十日、配流先の信州高島でご逝去あそばされた。あるじを非業に死なせた家臣の無念、討入に加わられた寺坂どのならご理解いただけるかと思う。そこもとは敵の一人。共に天をいただき難い。尋常にお立合い願えまいか」  吉右衛門は、言葉半ばに、新八郎が目立たぬよう袖口《そでぐち》に隠していた右手首が顕《あら》われるのに眼を奪われていた。  右手首から先の拳《こぶし》が無い。  ——この男、左手一本で果し合おうと言うのか。  吉右衛門の胸に迫るものがあった。  ——われらもそうであった……。  右手首はおろか両手を失なっても、喰《く》らいついて吉良を討つ。それが赤穂侍の一分であった。 「いかにも承知|仕《つかまつ》った。暫時《ざんじ》お待ち下され」  吉右衛門はそう告げると、離れて待つ谷沢と佐原の許《もと》へ足を運んだ。  吉右衛門は両名に辞を低く何事か説明し、頼みこんでいる様子であった。両名が気色《けしき》ばむ様子のないところをみると、新八郎を旧知の者と説き明かし、暫《しばら》くの間、内密に話し合いたいとでも言い繕っているのであろうか。  やがて谷沢と佐原は頷き、新八郎に目礼して、茶屋へ足を運んだ。  新八郎の許へ戻った吉右衛門は告げた。 「小半時《こはんとき》の猶予をいただきました。どこぞ人眼に立たぬ場所へ参りましょう」  先に立って、本殿の横手に向う。新八郎は黙念と続いた。  眼にも鮮やかな新緑が、二人を包んでいた。  本殿裏の木立の中で、二人はやや間合をおき、向き合った。 「いざ……」  山吉新八郎は左手で大刀の柄《つか》を握り、鮮やかに腰をひねって白刃を抜いた。よほど習練したのであろう。その一挙動に鍛練の程がうかがえた。  吉右衛門も油断なく、ゆっくりと抜いた。道場剣術にはない気魄《きはく》がこもっていた。 「この泰平の世、侍とは言い条、刃《やいば》を抜き合わせ、いのちを賭《か》けて戦った者など滅多におらんのだ。いのちは無いものと覚悟さえ極まれば、怖いものなど何も無い」  討入前の火を吹くような鍛練の日々に、吉右衛門にそう教えた堀部安兵衛の声が今よみがえる。 「堪えよ。心気を澄ませ。相手の刀がわが身に触れたらその一瞬に刀を叩《たた》きつけろ。少なくとも相討ちになる」  堀内源左衛門道場の高足、奥田孫太夫は必殺の業をそう教えた。 「刀の向うに相手がいる。それを忘れるな。間合を詰めて詰めぬけ。刀で斬るな。鍔《つば》で斬れ」  不破《ふわ》数右衛門の教えである。  ——われも武士。彼も武士。互いに武士の一分を貫くためいのちを捨てる。何か惜しまんこのいのち……。  左手で斜めに構えた山吉新八郎の白刃が、眼前に光を放つ。その姿は気魄に満ち、吉右衛門を圧倒した。 「侍の一分は、美しく生き、美しく死ぬ事にある」  内蔵助の遺訓が吉右衛門の胸中に蘇《よみが》える。  吉右衛門は、たじろぐ心を叱咤《しつた》して、うむと踏張った。  ——死のう。死の間際にせめて一|太刀《たち》。  一瞬、相手の白刃が躍った。吉右衛門は避けようとせず、刀身を横なぐりに相手に叩きつけた。  冴《さ》えた刃金の打ち合う音と共に、新八郎は背後に飛び退いた。大刀を構え直そうとする吉右衛門の手に痺《しび》れが走った。 「待たれい」  新八郎の声は、意外に爽《さわ》やかに聞えた。 「仕掛けたそれがしが斯《か》く言うは慮外だが、この立合い、これまでにして貰《もら》えぬか」 「…………」  吉右衛門は口が乾き、言葉にならなかった。 「斬れると思った。斬って亡き主君の恨みの一端を晴らしたいと思った。だが、それがしも斬られ死ぬ……死ねば配流の地に朽ち果てたあるじの墓を誰がふるさとへ移す。ふるさと米沢の上杉家の土にあるじを戻す。恨みを晴らすよりそれが大事。と、いま思った……」  吉右衛門は、ようやく湧《わ》いた生唾《なまつば》を辛うじて咽喉《のど》に送った。 「……よう申された。御心中ご尤もに存ずる。互いに惜しからぬいのち。捨てようと思えばいつでも捨てられます。ここは互いに刀を引き、まずは使命を全う致しましょう」  二人は、互いに刀を退《ひ》き、鞘《さや》におさめた。  新八郎は、ふと気付いて、白刃に触れ、切られ落ちた小枝を拾った。小枝に白い吊《つ》り鐘状の小花が揺れる。 「それは……」 「ご存知ないか。満天星《どうだんつつじ》だ」  新八郎は、花の小枝を吉右衛門に渡した。 「また、会いたいものだな」  新八郎はくるりと背を向けると、足早に去った。      四  宝永三年六月十五日、上野|東叡山《とうえいざん》寛永寺において、桂昌院殿仁誉興国恵光大姉一周忌大法要が、施主、征夷大将軍徳川綱吉によって催された。  この日、勅使今出川|伊季《これすえ》は、霊前に畏《かしこ》きあたりの優諚《ゆうじよう》を伝えた。贈従一位、女人としては前例なき追贈官位である。 「従一位……予がこの世を去っても母君の官位は得られぬ。近衛家の新当主は得難い傑物であるな」  綱吉は、面を輝かせて扈従《こじゆう》の柳沢吉保に囁《ささや》いた。 「御意……」  柳沢吉保も顔面を紅潮させていた。彼は初めて味わう屈辱に、懸命に堪えていた。 「美濃、まだ赤穂浪人への恩赦を気に致しおるなら止めにせい」  綱吉と吉保は、互いに胸中を察し合う間柄であった。それでなくては吉保の幕政|壟断《ろうだん》は有り得ない。 「たかが痩《や》せ浪人の子の十五や二十……宥免したとて何程の事やある。母君の今日の栄《は》えからみれば些細《ささい》な事ではないか」 「さよう。さすがに将軍家の御大腹《ごたいふく》……感服仕りました」  傍らの家宣が微笑して囁いた。 「ごめん。御勅使御退出にござりますれば……」  吉保は、そそくさと座を退いた。  その日、桂昌院殿一周忌法要を以《も》ってする大赦令が天下に布告された。伊豆大島流罪中の吉田伝内、村松政右衛門、中村忠三郎に御赦免の沙汰が下されたのは八月十二日であった。同人らは九月七日、江戸帰着。親族の手に引渡された。  それより早く、京に大赦令が伝達された。七月十四日、京都所司代は上方各地の関連の者に、流罪待ちの遺児に宥免の沙汰の下りた事を伝達した。  大石|美豆《みづ》に妹|静《しずか》が付き添って、吉田伝内出迎えのために京を発《た》ったのは、八月初めと伝えられている。  目の不自由な美豆のため、天川屋儀兵衛は、江戸行きに便船を仕立てた。大和郡山十一万石本多|中務大輔《なかつかさたゆう》忠常に仕える娘婿伊藤十郎太夫の許に身を寄せていた吉田忠左衛門の老妻や、伝内の妹がその船に便乗したことは言うまでもない。  村松政右衛門の親族や、中村忠三郎の姉は、船旅が苦手とあって陸路江戸へ下向した。  九月七日、江戸永代橋畔で釈放された三名と肉親や許婚者《いいなずけ》の再会の様子がどのような有様であったか、それを伝える史料は何も残っていない。  ただ、吉田伝内ら三名は、いずれも出家したとある。僧籍に入ることを条件にした赦免であると書かれた史書もある。だが柳沢吉保が権勢を保持していたその頃、それだけの条件で赦免したとは考え難い。あるいは後世の訛伝《かでん》に依《よ》って書かれたものであろうか。  遺児たち三名が、赦免後、再仕官の途を望んで得られず、いずれも数年後に若死したとあるのは明らかな訛伝である。近衛家熙の娘で中御門天皇の女御《によご》となり、桜町天皇の生母となった新中和門院尚子に仕えた大石孫四郎(美豆の兄)の許で、用人をつとめた吉田某という者が、吉田伝内の後の姿であるという説がある。その説に信を置く理由は、吉田某の妻女が失明の身であったという点である。  これは推測の域を出ないが、赦免の遺児のその後が曖昧《あいまい》であるのは、あるいは柳沢吉保の仕返しを恐れたためではなかろうか。柳沢吉保が完全に失脚するのは、三年後、宝永六年一月、将軍綱吉が死去して後である。      五  寺坂吉右衛門が、以後お構いなしの沙汰《さた》を受けたのは、八月初めの頃であった。  沙汰を伝えた仙石久尚は、 「未練で聞くが、このまま屋敷にとどまって、予に仕えぬか。あるじが旗本千八百石では不足であろうが、世が変われば直参登用の途《みち》も開けよう。考えてみぬか」  と、懇慂《こんよう》したが、吉右衛門は固辞し続けた。 「侍奉公は、一度限りと致しとうございます。その辛《つら》さに到底堪えられませぬ」  そう腹を割って言われては、久尚も返す言葉がなかった。  早々に仙石屋敷を退散すると、吉右衛門は京を目指した。  だが生憎《あいにく》な事に、旧暦八月は大雨暴風の季節である。富士川、安倍《あべ》川、大井川、天竜《てんりゆう》川と続いて氾濫《はんらん》し、容易に渡れず二十余日を要した。  吉右衛門が三条橋畔に辿《たど》りついたのは八月も終りに近く、秋たけなわの頃であった。  折柄、北野天満宮の祭が五日も続いていた。参詣の客は好事を求めて賀茂川原の舞踊の小屋に集まる。三条橋畔は雑踏を極めた。  その人ごみに揉《も》まれながら、吉右衛門はとつおいつ迷った。  ——辛きいのちを救ってくれた恩人……近衛家の進藤さまをまず訪れるのが人の道……。それは道理である。だが道理の外に身を置く吉右衛門には、なぜかためらう思いがあった。  ——もうよいではないか。人として尽すだけは尽した。あの大腹であった大石さまなら、もう許して下さるであろう。もう勘弁してくれ。わしにも、人並の欲もある、望みもある。  吉右衛門は、いつか五条大橋の近くに辿りついていた。  ——何はともあれ、槇の顔をひと目。  矢も盾もたまらなかった。自然と急ぎ足になる。息が切れる。あえぎあえぎ吉右衛門は呻《うめ》くように呟《つぶや》く。 「槇よ……逃げよう。一緒に逃げて……いず地の果てでもよい。むつみ合うて暮そうではないか……もう離れぬ。二度と離れぬ。槇よ……槇……」  吉右衛門の足が止る。五条若宮八幡宮の社の表だった。茶店が立ち並んでいる。だが何としたことか。槇の茶店だけが大戸を閉じ、森と静まって人の気配がない。  吉右衛門は、不吉の予感に胸おののきながら、店の表に歩み寄った。 「あ、お槇はんのお知り合いの……」  吉右衛門の只《ただ》ならぬ様子を見守っていた隣りの茶店の中年女が、声をかけた。 「は……」  吉右衛門は吾《われ》に返って気色をあらためた。 「どうおしやしたんどすえ、えろう長い間、お顔見まへんどしたなあ……」 「…………」  吉右衛門は答えようもなく、絶句していた。 「お槇はんはなあ。寄ると触るとあなたはんのお噂して、えろう気ィ揉んでいらしたんどすえ。何でもお江戸で大層な難儀に合うておられるとか……もう生きて帰られるかどうかも分らしまへんとかなあ……」 「そ、それで、槇どのは……?」 「それがなあ……」  中年女は、言いよどんだ。 「お気ィ悪うされたらかんにんどっせ。わてが相談に与ったんやおへん。何でも御所《ごつ》さんにお仕えするえらいお局《つぼね》はんが度々相談にお見えどしてな……」  ——戸山のお局だ。大石様ご分家の……。 「それで? ご無事か? 槇どのは」 「へえ。ご無事もご無事、十日程前、所司代さまにお仕えするお侍の後妻に入らはりましてな……」 「十日前……」 「きょうは丁度、お里帰りという事で、裏のお住居を片付け旁々《かたがた》、ご夫婦で泊りに来はるとか……」  暮れなずむ五条大橋の袂《たもと》で、吉右衛門はひとり佇《たたず》んでいた。  怨《うら》むまい、と思った。男の世界、武家社会では止むに止まれぬことであっても、女子にひと言の断りもなく、死を決して旅に出たことに違いはない。  ——恨まれるのは、こちらの方だ。  どれほど恨み、恨みつつ待ったであろう。かつて討入前、夫に所持金を持ち逃げされ、置き去りの身になった。吉右衛門に恵まれた僅《わず》かな金を繊手に握りしめ、血の気を失なった顔で必死に瞶《みつ》めていた槇の顔は、今も眼に灼《や》きついている。  ——おれは、各務八右衛門と……槇の前夫と同じ事をした。  恨んではならぬ、と思いつつ、尚《なお》恨めしく思うのは未練が捨てきれぬのだ。吉右衛門は唇を噛《か》みしめて、時を待った。  やがて、五条の橋を渡る侍夫婦の姿があった。二人は擬宝珠《ぎぼうし》の蔭《かげ》に顔を隠す吉右衛門を見ることなく、談笑しながら通り過ぎた。  吉右衛門は、見送ろうとはしなかった。  ——これでいい。これでいいのだ。  吉右衛門は、小野寺十内の形見の木箱を取り出した。  のろのろと蓋《ふた》を開く。中には十内が老妻丹に、感慨こめて贈る古歌の短冊が収められていた。   年|長《た》けて また越ゆべきと 思ひきや     いのちなりけり 小夜の中山  歌人西行の歌であった。 「……いのち、なりけり……か」  吉右衛門は呟いた。今日のいのちもまたいのちである。 [#改ページ] [#見出し]  最後の忠臣蔵  《さい》 莢《かち》      一  但馬出石《たじまいずし》の古刹《こさつ》、昌念寺《しようねんじ》の山門|脇《わき》に、その年|古《ふ》りた孤樹は立っていた。  出石は五万八千石仙石家の城下町だが、同じ但馬で三万三千石を領する京極家の陣屋町豊岡に繁栄を奪われて、戸数千戸に満たぬひなびた町が出石川沿いに続く。昌念寺は東北の町外れ、丹後宮津に通じる道筋にある。  門前の腰掛茶屋に憩う寺坂吉右衛門は、その孤樹に眼を止めると、長い間黙然と見入っていた。  九秋もまだ半ばだが、若狭《わかさ》の海から吹抜けてくる風は肌に冷たく、孤樹の羽状の葉は大方散り尽し、捻《ねじ》れ曲った幹や枝に刺《とげ》が目立つ。いかにも堅そうな喬木《きようぼく》であった。  ——この樹は……。  吉右衛門は草木に明るくない。だが、おそらく生涯にただ一度しか見たことのないその樹影に、胸裏に疼《うず》く記憶があった。  ——あれは、十六年前……もう十六年になる。  享保《きようほう》三年(一七一八)の今から数えて十六年前、元禄《げんろく》十五年(一七〇二)。歳末も間近に迫った十二月十四日。  播州《ばんしゆう》赤穂浅野家の旧臣四十七士は、宿敵吉良上野介を討取らんと、江戸本所一ツ目の屋敷を夜襲した。  一年十ヶ月。機を窺《うかが》い、謀りに謀った討入であった。巧智を極めた謀略に油断しきった吉良の家臣と、支援に詰めていた上杉勢は、まったく不意を衝《つ》かれた。  赤穂勢の指揮を執る大石内蔵助は、奇襲の利に乗じ、表門と裏門から同時に戦闘を発起し、緒戦の勢いをそのままに、攻勢を採り続けた。  その赤穂勢の難点は、戦闘兵力の不足にあった。四十七人中、二十歳台は十三名、三十歳台十六名、計二十九名。当時高齢とされていた四十歳台六名を加えても三十五名。それが戦力の核心であった。  それにひきかえ、吉良家家臣三十余名のうち、十五名は非常に備えての屈強である。支援の米沢上杉家は、家中の子弟を選《え》りすぐって九十余名を派遣していた。三倍を越える戦力である。  加えて、吉良屋敷は討入必至と予測し、半歳をかけて防砦《ぼうさい》を造り上げていた。七十を数える本屋敷の部屋部屋は頑丈な板戸で仕切られ、部屋毎に攻略して奥座敷に到達するには、数日数夜を要するとみられた。  従って、本屋敷と侍長屋に囲まれた中庭が攻防の要となった。  庭には抜かりなく備えがあった。幾重にも土塀がめぐらされ、迷路を形成し、その間の通路が戦場となる。更にその先に身の丈を没する水濠《みずぼり》と、丈余の木柵《もくさく》が行手を遮っている。  剣戟《けんげき》は激烈を極めた。赤穂勢のひとりひとりに侍の本義に殉ずる志があれば、上杉勢には不識庵《ふしきあん》謙信公以来養い来った士道の誇りがある。四十七士には斬られても傷つかぬ武装の利があっても、上杉勢が有する戦士の数は圧倒的である。  両者は死力を尽してほぼ互角に渡り合い、一進一退の凄絶《せいぜつ》な死闘を続けた。  その間、寺坂吉右衛門は伝令の役を務めた。 「よいか、そち一人が足軽ゆえのかろき役目と思うな。こたびの伝令役は味方に命令を伝えるだけの走り使いではない。表門と裏門の間に群がる敵の中を突破して、味方の意思の疎通をはかる大事な役目である。遮ぎる敵は斬り払え、腕も立たねばならぬ、何十遍往復するか、足も無類の達者でなければ叶《かな》わぬ。更に……それだけではない」  頭領大石内蔵助は、言葉を続けた。 「他の者は、それぞれ局所で戦う。そち一人はその戦場を駆けめぐり、その総《すべ》てを見聞きするのだ。局所の有利不利と共に、全般の形勢を判断して、誤りなくわしに伝えよ。それを以《も》ってわしは味方を勝利に導く。それがそちの最も大切な役目である」  吉右衛門が奮起したことは言うまでもない。彼は内蔵助の言葉通り戦場となった吉良邸を駆けめぐった。ある時は敵味方の交刃を余所目《よそめ》に駆け抜け、また侍長屋の屋根から俯瞰《ふかん》もした。折柄《おりから》の横なぐりの雪|霙《みぞれ》に鮮血が飛沫《しぶ》くを見、怒号と叫喚と刃金が打ち合う響を耳にした。  交戦一|時《とき》半(約三時間)、赤穂勢と上杉勢は敢闘してゆずらず、攻防は停頓《ていとん》して交綏《こうすい》状態となった。  この時、内蔵助の脳裏に閃《ひらめ》くものがあった。地上の接戦に眼を奪われて、洩《も》れていた攻め口を覚《さと》ったのである。大屋根を打破って最強の突撃隊が奥座敷に突入して、怨敵《おんてき》吉良上野介を追い立てた。次いで内蔵助は、中庭に待機した挺身《ていしん》隊に令した。 「吉良は抜け穴をくぐるとみた。侍長屋の空井戸へ急げと伝えよ」  更に内蔵助は、言葉を継いだ。 「井戸は莢《さいかち》の木の根元だ。莢を目印にせよ」  莢。その聞き慣れぬ名が脳裏に灼《や》きつき、そして見た。白く映える積雪の中に、黒々と立つ木。その名の異様な響そのままに、捻れ曲り、無数の刺の光る樹影。  内蔵助の英知は冴《さ》えわたった。奥座敷から抜け穴に逃れた吉良上野介が、莢の根元の空井戸に姿を現わしたとき、その命運は谷《きわ》まった。凄惨を極めた戦闘が終ったのは、それから間もなくであった。      二 「おっしゃる通り、莢でございますよ」  初中訊《しよつちゆうたず》ねられるからだろう。腰掛茶屋の老爺《ろうや》は、飽いた口調で答えた。 「やはり……な」  吉右衛門は、樹影を瞶《みつ》めたまま、老爺が換えてくれた渋茶を啜《すす》った。 「胡桃《くるみ》ではないか、とお尋ねの方がございます。葉は似ておりますがそんな楽しみのある木ではございません。刺々《とげとげ》ばかりの憎い木でございますよ」  旅姿の吉右衛門を、身分卑しくない侍とみた老爺は、丁重な言葉遣いであった。  討入のその日まで、寺坂吉右衛門は足軽(準士)であった。郡奉行《こおりぶぎよう》吉田忠左衛門に重用され、年三両一人|扶持《ぶち》から五両二人扶持に昇進したが、士分の者とは画然と差があった。  それが、泉岳寺へ引揚げの途次、内蔵助の命を受けて一統から離脱した。内蔵助は取調べに当った大目付仙石|伯耆守《ほうきのかみ》久尚に、身分軽き者故、うろたえて脱落、と称し、詮議《せんぎ》無用を申立てた。伯耆守は言外の意を汲《く》んで、一統を四十六名と数えることで、吉右衛門の名を除いた。  その日から、寺坂吉右衛門の境遇は一変した。討入に加わった義士の一人と呼ぶ者もいれば、処刑を恐れての変節脱盟者と蔑《さげす》む者もいる。だが、連名から除かれたと言って、公儀が罪を問わないという保証はない。吉右衛門は一統四十七人中ただ一人、追われる者の心労辛苦を一身に背負った。  吉右衛門が与えられた使命は討入の実相を旧主家に伝えること、更には一統の死後、公儀や上杉家の誹謗《ひぼう》に対抗するため、長く証人として生き抜くことであった。  そこにも内蔵助の深慮遠謀があった。討入決戦の凄《すさ》まじさ、敵味方の敢闘をつぶさに見た者は吉右衛門をおいて外にない。また士分外という身分に、追及の手の緩むであろうことも計算にあった。  無事に旧主の後室(瑤泉院《ようせんいん》)と実弟(浅野大学)への報告を済ませた吉右衛門は、内蔵助をはじめ一統四十六名の遺族の許《もと》を歴訪し、討入の仔細《しさい》を告げると共に、後々の暮し向きの助力をして廻《まわ》った。その費えは討入の武器調達に力を貸した大坂|天満《てんま》の悉皆《しつかい》問屋天川屋に預けおいた資金の残りが使われた。  宝永二年(一七〇五)六月、五代将軍綱吉の生母|桂昌院《けいしよういん》が死去した。その半年後の宝永三年正月、吉右衛門は忽然《こつぜん》と江戸に現われ、大目付仙石伯耆守の許に自訴して出た。  かつては天下を騒がす不祥事として扱われた赤穂四十七士の討入は、その後、世上に義挙と謳《うた》われ、忠臣義士、士道の鑑《かがみ》と評判が高い。  その討入に加わりながら追捕《ついぶ》を逃れた寺坂吉右衛門をどう処分するか、公儀にとっては最大級の難問となった。  審議を続けること半年、公儀は桂昌院一周忌法要を機に八月大赦令を公布し、寺坂吉右衛門は御構いなし、大島配流中の遺児は赦免、流刑待ちの男子十五名は宥免《ゆうめん》の沙汰《さた》が下った。  以後、吉右衛門は、旧上司吉田忠左衛門の遺言により、大和|郡山《こおりやま》十一万石、本多|中務大輔《なかつかさたゆう》忠常に仕える忠左衛門の女婿《むすめむこ》伊藤十郎太夫の許に身を寄せ、十余年、侍の道の研鑽《けんさん》に励む。  大赦令を機に、一統の遺児に諸大名から召抱えの申入れが相次いだ。内蔵助の次男吉千代は遠島流罪を避けるため僧門に入ったが、長女くう共々早世した。妻りくは内蔵助と離別の際、身籠《みごも》っていた。その子が三男大三郎である。芸州広島浅野本家は早速に大三郎(外衛良恭《そとえよしやす》)を、内蔵助と同じ禄高《ろくだか》千五百石で召抱えた。また、離別の際、結盟に加わらなかった又従兄弟《またいとこ》進藤源四郎の養女とした次女ふう(後にるりと改名)も、浅野本家の一族浅野直高に嫁いだ。原|惣《そう》右衛門《えもん》の子十次郎(惣八郎辰正)も同じ浅野本家に召抱えられ、物頭役三百石となった。更に富森助右衛門の嫡子長太郎は、縁あって近江水口《おうみみなくち》二万五千石加藤佐渡守|明英《あきひで》の許に仕官している。  例を挙げれば切りがないが、当然寺坂吉右衛門にも、大和郡山の本多家をはじめ、数家から召抱えの申入れがあった。もちろん足軽ではない。歴とした士分である。その禄高も次第に吊《つ》り上がって、百石にまでなった。  吉右衛門は、固辞し続け、遂《つい》に受けなかった。旧上司の吉田忠左衛門の身内が説いても聞き入れず、その頑固さが災して、人附合《ひとづきあい》に罅《ひび》が入った。  伊藤家に寄食すること十年余り。五十の坂をとうに越えた吉右衛門が、再び流浪の旅に出たのも、その煩《わずら》わしさに耐えかねてのこともあった。  いま、はじめて通りかかった但馬出石で、かつて見た莢の樹に出合う。その胸中に言いしれぬ感慨があった。  ——おれの一生は、莢に似ている……。  莢は実を結ばない。種子は莢《さや》に入っているが、食用にはならない。頑固に捻れ曲った幹にも枝にも、無数の刺……。      三 「お武家さまは、どちらへお越しで……?」 「うむ、豊岡で知り人の墓参りを済ませてな。これから宮津を廻って京に上るつもりだ」 「それはまあ、ご苦労なことで……」 「いや、ありようは生涯に一度、天ノ橋立と若狭《わかさ》の海を見ておきたいと思っての寄り道だ。何せこの年だからな」  吉右衛門は、苦笑しながら半白となった鬢髪《びんぱつ》に手をやった。  大和郡山を出た吉右衛門は、内蔵助の遺族が住む芸州広島を訪れた。広島には内蔵助の内室りくが、三男大三郎と共に住む。また原惣右衛門の倅《せがれ》十次郎をはじめ、十数家の遺族が、浅野本家に養われている。  数ヶ月を過ごして、山陽道を赤穂へ向った。赤穂・相生《あいおい》・竜野《たつの》・姫路。播州にも遺族が数多く住む。ここの遺族は仕官する子弟を持たないため、何かと暮し向きの相談が多い。さすがに十五、六年という歳月は、人の幸不幸を際立たせる。相談事の始末に明け暮れて今年の秋を迎えた。  来年、享保四年二月四日は、内蔵助ら四十六士の十七回忌である。広島の浅野本家では法要を営むであろうし、墓所の江戸高輪泉岳寺でも、その催しのあるを聞いた。だが吉右衛門は、いずれの法要にも参列する気はなかった。  ——おれは、死に損《そこな》いの身。  という痛切な思いがある。晴れての法要の席に面《つら》をさらすのは堪え難い。  ——法要は、おのれ一人でひそと営みたい。  吉右衛門は、その法要を京の地で営もうと心に決めていた。京は内蔵助が故郷赤穂より愛し、離れ難い哀惜の思いを抱いた地であった。最後の東下《あずまくだ》りに供《とも》した吉右衛門は、その内蔵助の痛切を、眼で見、耳で聞いていた……。 「いまから半日で宮津はご無理でございますよ。きょうは出石にお泊りになって、明日|早発《はやだ》ちしたらいかがで……」 「なに、夜道になるのは覚悟の上だ。年はとってもまだ足は衰えぬ。勘定を頼む」  そう言いさして、腰を上げかけた吉右衛門は、折柄《おりから》寺の山門を出てくる人の姿に、何気なく眼を走らせた。 「…………」  思わず、息をとめた。年ばえ吉右衛門と同じか、町人姿のその男は、吉右衛門に気付かず茶店の前を通り過ぎて行く。  ——あれは……孫左衛門。瀬尾《せのお》孫左衛門ではないか。  瀬尾孫左衛門は、大石家代々の用人である。先々代、先代に続いて用人職とその名乗りを継いだのは、討入の時から数えて十二年前、確か彼が二十五歳の頃であった。  吉右衛門の旧上司吉田忠左衛門が内蔵助の無二の腹心であったと同様、吉右衛門と孫左衛門は、共に士分以下の身で親友の間柄であった。  孫左衛門は、実直そのものの性格であったが、吉右衛門と正反対に剣才乏しく、その半面計数に長《た》けているほか、書画|骨董《こつとう》に明るく、その眼力は玄人はだしと言われた。  その孫左衛門は、討入の企てに余人に先んじて加盟し、�その儀に及ばず�と内蔵助に諭されても聞かず、盟約の末尾に名を連ねた。  それが、討入前、最後の夜に脱盟した。  思い出す十二月十四日の朝、吉田忠左衛門の仮住居の後片付を済ませ、供して日本橋石町の大石宅を訪れた時、孫左衛門の姿は無く、内蔵助と倅の主税《ちから》が自ら身支度を調えていた。 「孫左め、昨夜のうちに逐電《ちくてん》したらしく、姿が見えませぬ」  主税は、唇を噛《か》んで忠左衛門に言う。  内蔵助は、温顔に笑みさえみせて、首を横に振ってみせた。 「あれは、又者《またもの》……大石家の家来を、赤穂浅野の侍の本義に使い捨てるいわれは無い……これでよいのだ」 「いかさま……」  忠左衛門が頷《うなず》くと、内蔵助は言葉を継いだ。 「あやつめ、家財の後始末だけはつけて行きおった。あとは伝馬町《てんまちよう》の問屋が引取りに来よう。出かけるぞ」  内蔵助は、討入の前進基地に移るべく、忠左衛門と連れ立って、家を出た。  主税に続いて供する吉右衛門は、思わぬ衝撃に打ちのめされていた。  ——孫左に限って、脱盟する筈《はず》がない。あの男に生き長らえてあと、何があるのだ。何が……。  若くして妻を失ない、子の無い孫左衛門は、大石という主家を失なえば、何一つ生き甲斐《がい》のない身である。 (だから死ぬ、大石家の家来の末まで、侍心のあったことを世に示す。それしかおれのいのちの使いどころはない)  一年十ヶ月の間、折にふれ言った孫左衛門の顔が、走馬燈のように浮んで消える。  ——その孫左が脱盟した……?  疑問が、後々まで残った。  吾《われ》に帰って茶店をとび出した吉右衛門が見る街道には、もう孫左衛門らしい町人の姿は無かった。      四  京から三里、若狭街道を北上すると、比叡山《ひえいざん》の西麓《せいろく》、高野川の渓谷に、八瀬《やせ》という鄙《ひな》びた在所がある。戸数は十指で数えるに足るが、京・山城より地名は古く、遠く古事記の頃に溯《さかのぼ》る。里人は八瀬童子と称し、天皇の御|柩《ひつぎ》を担ぐ古習があった。  八瀬のもう一つの特色は、古来から伝わる窯風呂《かまぶろ》である。炭焼の窯に似た素焼窯を周囲から薪《まき》の火で熱し、窯の中に浴衣《ゆかた》の客は塩水打った蓆《むしろ》にアオキ(和名)の葉を敷いて、横たわる。発汗で浴衣が充分に濡《ぬ》れると、別室の温湯に浸り、汚れをとる。傷痍《しようい》に特効あり、疲れを癒《いや》す。内臓の病にも効き、美容に著しい験《しるし》がある。京の貴顕歴々は消閑に訪れるのを習《ならわし》とした。  八瀬を通る若狭街道は、別名|鯖《さば》街道と呼ばれ、若狭の海で漁《と》れたての鯖を京へ、昼夜兼行で急送する道であった。鯖は生腐《いきぐされ》と言って足が早い。それが京に着く頃、程よく熟《な》れて食べ頃となる。その鯖の押鮨《おしずし》は絶妙の味で、交通至便となった現今も、祇園《ぎおん》の「いづう」などその味を承伝して、食通を甜美《てんび》させる。  旅の寺坂吉右衛門が、若狭から京へ、駄賃馬に揺られながら八瀬ノ里に差掛ったのは、釣瓶《つるべ》落しの秋の日が暮れて間もない頃合であった。  杣《そま》小屋の点々と建つ街道沿いに、窯風呂の茶屋があった。母屋のほかに浴客用の数軒の離れ家が渓流沿いに建てられ、窯屋から煙が靡《なび》く。富貴の客か表に篝火《かがりび》が燃え、離れ家の軒端に乗馬《のりうま》が一頭と駕籠《かご》が見えた。  今宵《こよい》は泊る旨を飛脚に言付けておいた。馬を下りた吉右衛門が駄賃を払っていると、京の方から三|梃《ちよう》の駕籠が着いた。  ——ほう、大層な繁昌だ。  何気なく見た吉右衛門の横顔を、篝火が照らす。 「吉《きち》右衛《え》……寺坂吉右衛門ではないか」  先頭の駕籠から下りた尊貴の大身とみえる白髪の老体が、仰天した声を掛けた。 「…………」  まじまじと瞶《みつ》めた吉右衛門の顔にも、驚動が走った。 「進藤さま……?」 「おぬし、息災であったか。赦免後京に戻らず、大和郡山に身を寄せたと風の便りに聞いたが、その旅姿は何とした事だ。何故京に訪ねて来ぬ」  進藤源四郎。もと赤穂浅野家足軽頭四百石、大石内蔵助の又従兄弟《またいとこ》に当る。  赤穂浅野家廃絶後、内蔵助は源四郎の大|伯父《おじ》進藤筑後守長富の後任として、関白近衛家の諸大夫《しよだいぶ》に望まれた。近衛家と言えば公家の首位、五摂家の筆頭であり、禄高《ろくだか》二千八百六十石余、朝権衰えたりと雖《いえど》その威勢は武家大名を凌《しの》ぐものがあった。  その家宰《かさい》(家老)に当る諸大夫は、内蔵助にとって浅野家筆頭国家老の旧職より格段の出世であることは言うまでもない。  だが、討入を志す内蔵助は固辞し続け、家宰を輔佐する用人に進藤源四郎を推挙すると共に、近衛家縁戚の日野大納言家の家司《かし》に、もと番頭《ばんがしら》千石の奥野|将監《しようげん》を、その用人に母方の叔父小山源五右衛門(足軽頭三百石)を就任させた。それら元重役・上士が、いずれも侍の意気地を貫く討入に不向きな人間であることを見取っての措置であった。  なかでも、進藤源四郎は武家の系統ではない。大伯父進藤長富の姻戚《いんせき》大石|頼母《たのも》の縁引で赤穂浅野に仕官した人間である。内蔵助が侍の生きようを貫こうと志すのと対照的に、おのれ自身に忠実に生きるのを本貫《ほんがん》としていた。  ある意味では、内蔵助と源四郎は会心の友であったと言えよう。内蔵助はおのれの本心を隠すことなく打明け、協力を頼んだ。 「わしは、企ての頭領であると共に、亡家の筆頭国家老として、なさねばならぬことがある。それは人の始末である。こたびの異変に際し、藩に籍をおく者すべての身の振り方をつけておかねばならぬ」  勇者であれ、怯者《きようしや》であれ、赤穂浅野の浪人から、貧ゆえの乞食《こつじき》、罪人、自殺者を出してはならぬ。それが人の上に立った者の務めである。  内蔵助は、説いた。 「おぬしはな、奥野将監どのや小山の叔父御の尻《しり》を叩《たた》き、勤めを望む旧藩士を一人でも多く、公家の家に再仕官させてくれい。この役目は進藤筑後守どのの血縁のおぬし以外に務まる者はない。頼むぞ」  内蔵助の深慮遠謀に、源四郎は能《あた》う限りの力を尽した。  ——あれは、公儀に自首する前……。  吉右衛門を自首させたのは、大伯父の家と職を継いだ旧名進藤源四郎、名を改めて当代進藤|播磨守長保《はりまのかみながやす》であった。進藤長保は寺坂吉右衛門の処置に公儀が困惑するのを見込んで、あるじ近衛家熙を動かし、将軍生母桂昌院一周忌法要を機に、大赦令宣布を慫慂《しようよう》し、配流中と流刑待ちの赤穂浪士遺児と吉右衛門を救った。  宥免後、吉右衛門は京の進藤長保の許に戻らず、大和郡山の伊藤家に身を寄せたため、再会は十三年ぶりであった。      五 「そうか、石束《いしづか》源五兵衛どのが身罷《みまか》られて、はや十二年にもなるか……」  進藤長保は、大石内蔵助の次女るり(旧名ふう)を養女に貰《もら》いうけたが、内蔵助の没後、りくの懇望で戻したこともあって、りくの父親石束源五兵衛には、格別の思い入れがあった。  寺坂吉右衛門が京への途次、但馬・若狭と遠道《とおみち》したのは、豊岡にある源五兵衛の墓に詣《もう》でるためであった。源五兵衛は、内蔵助が離別したりくと子どもらを送り届けた吉右衛門を、足軽身分を無視して手厚くもてなしてくれた。  大赦令で内蔵助の妻子が広島の浅野本家に引取られ、間もなく源五兵衛は世を去る。大石家の遺族は遠く離れて未《いま》だその墓参を果していない。吉右衛門は代ってその縁《ゆかり》の人の墓参を済ませてきたのであった。 「律義なものよの、さすが内蔵助どのが見込んだ男だけの事はある」  嘆声を洩《も》らした時、部屋の戸口に人影がさした。 「お先に御免を蒙《こうむ》ります」  別棟で浴衣姿となった進藤長保の連れ、老若二人の町人が声を掛けて窯屋の方へ行く。 「こちらも今すぐ参る」  答えた長保は、吉右衛門と共に着替えながら、説明した。 「あれはな、名うての呉服あきうど……と言うより、公儀|呉服所《ごふくどころ》の司《つかさ》の方がわかりが早かろ。茶屋四郎次郎どのと、そのあとつぎの息子だ」 「あの若者があきうどの倅《せがれ》ですか」  若者の方は、筋骨|逞《たくま》しく、凜《りん》とした顔に日焼が色濃く、相応の武芸者にすら見える。 「流石におぬし、眼力は年とらぬな」  長保は、苦笑して応じた。 「あれは先祖がえりしてか、武芸を好む。それに引替え親父どのは数寄《すき》好みで庭に凝っておる」  初代茶屋四郎次郎の出自は中世の名族小笠原氏の末裔《まつえい》で、父の中島|明延《あきのぶ》は信州|深志《ふかし》の豪族小笠原長時に仕えたが、戦傷のため致仕して京に移り呉服商いに励んだ。  時の将軍足利義輝に愛顧され、度々茶を供したことから「茶屋」の姓を賜ったという。家康が信長の客将であった頃から深く結ばれ、上方の情報|蒐集《しゆうしゆう》と朝廷工作を引受け、呉服商人の身で家康の天下取りに大いに貢献した。その功に依《よ》り江戸開府以来、公儀呉服所の司となった。  呉服所というのは、将軍家と大奥、公儀御用の呉服・太物を一手に調進する。その額も年々|莫大《ばくだい》だが、その信用で諸大名や政商の注文も多く、まずもって京随一の豪商、と言っても過言ではない。 「親父どのの終生の望みは修学院離宮の御庭拝観だとせがまれたが、かなりの無理であったな。なにせ徳川家《とくせんけ》に尽きぬお怨《うら》みを抱かれた後水尾上皇《ごみずのおじようこう》様が、御自ら御造営に当られた御庭なのだ」  東福門院和子の中宮|冊立《さくりつ》を始め、天皇御在位中に公儀と度々衝突を繰り返された後水尾天皇は、紫衣事件をきっかけに御譲位を強行され、後半生を修学院離宮御造営に過された。その庭園は結構雄大で天下一の名園とうたわれている。  だが、その拝観は、皇族と摂関、三位以上の公家に限られ、庶民はおろか武家大名でも果せぬ夢とされていた。 「それで……」 「いやさ、きびしい掟《おきて》ほど潜るに楽しみが多い。任官して十三年、折に触れて京の数寄者・好事家《こうずか》、工芸の司などを案内して見せておる……茶屋どのなどは、もう三度目だ」  名目は、営繕の下調べだという。公家筆頭近衛家の家宰は、京都朝廷の公家の免黜《めんちゆつ》まで意のままに操る。修学院離宮の掟など目ではなかろう。それにしてもおのれ自身に忠実な生きようを貫く進藤長保らしい奔放さではある。 「今宵は、その帰りの寄り道だ」  長保は、吉右衛門を促して、窯屋に足を運んだ。  窯屋の外で見返ると、別の離れ家の客が待たせていた駕籠《かご》に身を入れる姿がちらと見えた。優雅な身のこなしは、紛れもなく若い女性であった。  大方先に出たのであろう、乗馬の姿はない。  窯に入ると、むっとした熱気に包まれた。十畳間ほどの内部はアオキの葉が敷きつめられ、一穂の灯明が深沈とした闇の中に見えた。 「進藤さま、こちらでございますよ」  片肘《かたひじ》ついて横たわった茶屋四郎次郎の身体がかすかに見えた。 「はて……この香りは……?」  並んで横になりかけた長保は、たちこめたアオキの葉の匂いの中に、ほのかな香気と体臭が微妙にまじったのを嗅《か》ぎ分けた。 「伽羅《きやら》、でございますな」 「さよう……これは名ある香木を身につけての女子の体臭であろう。頃合この時刻、いずれの姫御料《ひめごりよう》であろうか」  長保は、嗅覚《きゆうかく》の冴《さ》えをみせた。 「倅めと同じことを仰せられますな」  茶屋四郎次郎は、苦笑を洩らした様子である。 「あやつめ、好事の心を抑えかねて、早速確めに参りました」  そう言えば跡継息子の姿がない。 「女嫌いで評判の息子どのにしては、珍らしいことがあるものだ」 「何が女嫌いなものですか。あれは武芸好きが昂じての侍好み……町家の娘御が物足らぬのでございます」  嘆息の気配があった。 「なろう事なら侍になりたかったものを……せめてもの望みに、武家の素養を身につけた名ある侍の娘御を嫁にと、駄々をこねまわし、二十半ばで未だに独り身……年老いた親は隠居も叶《かな》いませぬ……」 「それならそれで、ありそうなもの……名うての茶屋四郎次郎どのではないか」 「さ、その茶屋家の嫁というのが障りの種でございます。代々の家柄の手前、茶伎《ちやぎ》、香合《こうあわせ》、立花《りつか》、書の道、絵心《えごころ》、歌道、女ひと通りの素養を身につけた上の、気品と端麗な女子となると、そうあるものではございませぬ」 「そう、それに、できれば名ある大身の侍の出自となると、いささか注文が多い……」 「進藤さま」  冗談めかす長保とは逆に、茶屋四郎次郎は真剣そのものだった。 「ご無礼ながら、お人柄を見込んでお頼み申し上げます。倅めに手厳しく意見して下さりませぬか」      六  窯に隣合わせて湯浴《ゆあみ》の部屋がある。進藤長保と茶屋四郎次郎、寺坂吉右衛門が湯を浴びて汗を流していると、跡継息子の茶屋修一郎が入ってきた。 「惜しい……ひと足違いで確め損ねました」  修一郎は、顔を紅潮させて言う。 「顔《かんばせ》ひとつ拝めず終《じま》いか」  四郎次郎が、冷かすように促す。 「いえ、ほんのひと眼……ちらと見かけました。それが、高雅と可憐《かれん》をないまぜた譬《たと》えようのない美しい姫御料でした」 「いずれの姫かな」  と、長保が口をはさんだ。 「茶屋の者の話では、さる西国大名家の重きお役の方の姫御料とか……詳しい事は何もわかりませぬ。せめて先に出た供の老人にでも訊《たず》ねることができたら、住居や氏素性など聞き出せたものを……」  よほど未練があるのだろう、修一郎は唇を噛《か》んだ。 「残ったのは、香のかおりだけとはな、まるで雲を掴《つか》むような話だ」  長保の言葉に、吉右衛門は不得要領に頷《うなず》く。  ——まるで、縁のない話だ。  香の匂いであれ、姫御料の、嫁とりの話のと、縁もゆかりもない話が続いている。  それより、吉右衛門は、十三年ぶりに出会った進藤長保と、実《み》のある話をしたかった。  ——内蔵助をはじめ一統四十六名の十七回忌法要のこと、四十六士の遺族の暮し向、盟約に加わらなかった者、脱盟した者の消息、そして先日但馬|出石《いずし》で見掛けた大石家用人瀬尾孫左衛門のこと……。  話は山ほども有る。それがこうして頼み甲斐《がい》ある進藤長保にめぐり逢《あ》えて、もう一|時《とき》あまり、連れの客の茶屋四郎次郎|父子《おやこ》にかまけて、肝心の話は何一つできないでいる。  吉右衛門は、苛立《いらだ》つ胸を撫《な》で抑えていた。  ——討入の企ての時と違い、われらは時を限られた身ではない。共々京に赴けば、ゆるゆる話す折がいくらでもあるではないか。  そう強いて宥《なだ》める胸の底に、一点|疼《うず》いてやまぬ思いがあった。  ——瀬尾孫左衛門。時もあろうに討入の前夜、無二の友垣《ともがき》のわしを捨て、血盟を棄て、何のために、どこへ行った。わからない……。  もしや、企てに加わらなかった進藤源四郎が、その事情とその後の消息を知るのではないか、と、一縷《いちる》のかそけき望みが疼く。  ——どうして孫左のことがこう気にかかるのだ。  それは、共に死を決した身が、共々生き長らえて、十六年の歳月を経たためであろう。裏切の恨みはとうに消え果てた。生きている今を語り合いたい。それは身の上の酷似した者でなければ到底理解できぬ心情であった。  ——孫左……会いたい。  神ならぬ身の吉右衛門は知る由もなかった。灼《や》きつく思いの瀬尾孫左衛門が、街道小半里の先で、この地を離れようと焦っていることを。  馬で先行した孫左衛門は、八瀬に程近い西塔橋の畔《ほとり》で、供する姫御料の駕籠を待ちわびていた。  ——危ういところであった。あれは確かに進藤源四郎さま、それに寺坂吉右衛門……。吉右衛、のめのめと生きておったのか……。  つい今し方、その二人の姿を見掛けた時は、天地が晦冥《かいめい》となった程の衝撃を受けた。その衝撃は懐しさを吹き飛ばすほどの懸命な思いに変った。思い起こす元禄十五年十二月十三日の深更、死よりも辛《つら》い使命を帯びて内蔵助の仮住居から逐電して十六年。その風雪に堪えて身を尽した成果を、一片の感傷で失なうのを恐れたのである。  ——もしかすると、あの二人……手助けしてくれるかも知れぬ。  そう思っても、賭《か》ける気にはならなかった。  ——この使命、おのれ一人で成し遂げる。  その孫左衛門の横に追いついた駕籠の中から、声が掛けられた。 「孫左……どうしたというのですか、足許《あしもと》から鳥が飛び立つように……」 「いや、あす朝、京で果さねばならぬ約束事を忘れておりました。可音《かね》さまのご存知なきこと、ご迷惑は平にお詫《わ》び申し上げます」  駕籠《かご》の垂《たれ》を上げて見上げた姫御料は、茶屋修一郎の言葉通り、高雅と可憐をないまぜた譬えようのない美しさだった。 「さ、急ぎましょう」  駕籠と、供する孫左衛門の馬は、京に向って街道の闇の中へ消えて行った。 [#改ページ]  竹頭木屑《ちくとうぼくせつ》      一  大織冠《たいしよつかん》藤原|鎌足《かまたり》を家祖とする五摂家筆頭の近衛家は、江戸中期に家熙《いえひろ》という一級文化人を出した。  元禄《げんろく》期に青年の時を過し、享保《きようほう》期に大成する近衛家熙は、茶道、立花、香道、書道の奥儀を極め、更に「槐記《かいき》」という画期的な文化論を著し、当時|爛熟《らんじゆく》の頂点に達した諸芸の形式的な固定を痛烈に批判した。 「槐記」は、側近の山科《やましな》道安や、伊藤|東涯《とうがい》、寺田無禅、上田養安、稲生若水《いのうじやくすい》ら一流教養人を聚合《しゆうごう》して展開した江戸期無二の合理的文化論である。しかも家熙は学者たるに止《とど》まらず、京都賀茂のやすらい祭の詞章を作るなど、文学でも後世に残る事蹟《じせき》がある。  その家熙の壮年期から老年まで、物心両面を支えて扶《たす》けたのが、元赤穂藩士で大石内蔵助の又従兄弟《またいとこ》に当る進藤源四郎こと、近衛家家宰進藤|播磨守《はりまのかみ》長保であった。  元はと言えば近衛家|諸大夫《しよだいぶ》家宰の職は、前任の進藤|筑後守《ちくごのかみ》長富が、赤穂浅野家廃絶後の大石内蔵助を当てようと、望んで止《や》まなかった。だが、吉良家討入で赤穂侍の志を宣揚しようと企図した内蔵助は、固辞し続け、  ——筑後守長富どのの甥御《おいご》の倅《せがれ》、進藤源四郎こそ適任。  と、推挙すると共に、奥野将監ら討入に不適な重臣たちを、近衛家縁辺の公家衆の家司・用人に推輓《すいばん》し、赤穂浪人の再仕官の途を開いた。  進藤源四郎の学芸の資質を達見した内蔵助の計らいは、図らずもわが国の文化・学芸に、偉大な貢献を成し得たことになった。  近衛家の本邸は、京都御所の真裏手《まうらて》、今出川通りに面し、禁裏の四割近い敷地を持つ。折しも秋深く、茫々《ぼうぼう》の庭に紅葉色映え、落葉散敷いて深山を思わせる佇《たたず》まいは、えも言えぬ風情であった。  その庭の一角、室町期に建てられた風雅な離れ家に、寺坂吉右衛門を案内してきた播磨守長保は、無雑作に手にした対の陶枕《とうちん》の一つを渡した。 「ま、楽にせい。坐《すわ》って話すも気怠かろ。気随に横になろうではないか」  先に横になった長保は、陶枕を頭に当てた。 「どうも……今更ながら驚き入りました。さすがに近衛さまのお屋敷……この離れ家も、何か床しい由来がおありかと思いますが……?」  吉右衛門は、借りてきた猫のように落着かず、あたりを見廻した。 「さあて、何か縁《ゆかり》の名がついておるが、忘れた……なにせ広すぎるお屋敷でな、碌々《ろくろく》手入れもできず、庭とて荒れたまま、わしがこの離れ家に足を踏入れたのも五、六年ぶりだ」  当主家熙の、莫大《ばくだい》な学芸の費えを賄《まかな》う心労など気振《けぶ》りにも見せず、痴《しれ》と言ってのけるあたりに、長保の洒脱《しやだつ》さが窺《うかが》える。  六十路《むそじ》にさしかかって人柄の練れた長保は、往年賢愚の程が定かでないと言われた内蔵助を偲《しの》ばせるものがあった。 「さて、討入の一統の十七回忌だが……。実は当方にも法要の手筈《てはず》はある。と言って、おぬしのことだ。参加せぬとは思うが……」 「何ほどの人数がお集まりで……?」 「当近衛家をはじめ、日野、中御門、三条西……下冷泉、飛鳥井《あすかい》、高辻、舟橋など、十五、六家の公家に仕える赤穂侍は、ざっと六十を越えよう。いずれも微禄《びろく》だが、生計《たつき》に困らぬ暮しぶりだ」 「いや、それほどの人数とは思いも寄りませんでした。ひとえに進藤さまのご出精のお蔭《かげ》でございますな」  と、吉右衛門は感嘆した。 「いやいや、侍奉公を望まなんだ者は、ずんと多い。大坂から堺《さかい》、奈良近辺にかけて、剣術道場の代稽古《だいげいこ》やら読書《よみかき》指南、問屋筋や町会所の書役《かきやく》、商人《あきうど》から相場師など、百を優に越える者が、内蔵助どのに力添えした天川屋の面倒見で、暮しを立てておる……」 「あとは広島の浅野御本家や御|親戚《しんせき》筋でお召抱えになった者、赤穂・加東で帰農した者など、どうやら落《おち》なく安穏でございますな」 「…………」  歎息《たんそく》した長保は、感慨深く言葉を洩《も》らした。 「おぬしは知るまい、天川屋の面倒見の世話役は誰だと思う」 「さあ……」 「赤穂開城の折、真先に逐電した城代家老の大野九郎兵衛よ。淡路の岩屋という処で逼塞《ひつそく》しておったのを、内蔵助どのの命を受けた天川屋が招いたとの事だ。竹頭木屑《ちくとうぼくせつ》という言葉がある。世に無用な竹の先や木屑《きくず》ですら、捨てず後日に役立てた晋《しん》の故事を言う……」 「…………」 「まこと、大石内蔵助どのは、常人では量り知れぬお人であった。一世を震駭《しんがい》させる一挙を成し遂げる一方で、企てに加わらぬ三百の藩士の行末を案じ、深く計ろうてゆかれた……その情の深さは……いま思うても涙がこぼれて止まらぬ……」  その人は、逝きて再び相見《あいまみ》えることはない。いのち、その果かなさをしみじみ噛《か》みしめる二人であった。      二  近くに、もう一人、おのれを竹頭木屑の人間と思っている者がいる。  御所の西、烏丸《からすま》の通りから一筋へだてた堀川二条に宏壮な屋敷を構える京随一の呉服商人、茶屋四郎次郎宅の客間に、その男は坐っていた。  瀬尾孫左衛門。  赤穂浅野家筆頭国家老の大石家に代々雇われ、用人を務めた。  元禄十四年(一七〇一)、浅野内匠頭の刃傷《にんじよう》に依って、赤穂藩は廃絶となった。孫左衛門の主《あるじ》、大石内蔵助が侍の本義を貫くため、討入を企てたとき、孫左衛門は藩士に先駆けて加盟を申し出た。 「そちは、浅野の家人《けにん》ではない。大石家の郎党だ。赤穂浅野が無法に潰《つぶ》されたと言っても、又者《またもの》がいのちを捨て、義を立てることはない」  その内蔵助の説諭に肯《がえん》ぜず、孫左衛門は一年十ヶ月の間、心労辛苦を重ねて、討入の時を待った。  待望の討入の前夜、故あって孫左衛門は脱盟し、逐電した。その訳は彼の胸三寸に秘められ、知る者はない。  ——故、があったのだ。仰いで天に愧《は》じず、俯《ふ》して地に|※[#「りっしんべん+乍」、unicode600d]《は》ずる事はない。  身を隠しての十六年間、その誇りを支えに生き抜いてきた。  その孫左衛門に衝撃が襲った。八瀬《やせ》ノ里でかつての友、寺坂吉右衛門を見かけた時、闇雲に逃げだしたほど動転した。  ——吉右衛……のめのめと生きておった……。  孫左衛門が衝撃を受けたのは、心友の吉右衛門が生存していた、というだけではない。きびしい詮議《せんぎ》を受けて当然の身が、京の近辺をのうのうと歩いている事の不可解にあった。  ——あやつ、変節したのか……?  孫左衛門は、十二年前に公布された大赦令によって、吉良邸討入事件に関わる赤穂浅野家のすべての者が、一切恩赦を受けた事を知らずに過した。  それを知る境遇になかった。かすかに洩れ聞いた噂では、切腹の処断を受けた浪士は四十六人という。  その四十六士の中に寺坂吉右衛門の名は無い。  ——あやつ、討死したか……それとも逃亡?  討入は済ませたと思う。逃亡したとすればいずこへ逃竄《とうざん》したのか。  以来十六年、消息は耳に入らなかった。筑紫の孤島か、雪深い北国の山中で、朽ち果てたのであろうと思うしかなかった。  仕合わせ薄い吉右衛門を傷む思いは一入《ひとしお》だった。  ——吉右衛よ、冥土《めいど》で待て、おれも遠からず行く。  その吉右衛門が、公儀の追捕《ついぶ》を恐れず、安閑と旅をしている。  ——やはり、変節……。  天地が晦冥となるほどの衝撃であった。  衝撃の中に、言い知れぬ深い悲しみがあった。  赤穂の頃から、吉右衛門と孫左衛門は心を許す友であった。それが共に盟約に加わってから、一段と深くなった。 「お互い、生れ合わせに恵まれず、士分以下の身で随分と辛《つら》い目に遭うてきた。共に目覚しく働いて、われらの意気地を見せてやろうではないか」 「それよ。充分な働きで、来世は士分に生れよう」  それが、四十六士は士分の切腹を遂げ、士分以下の二人は共に生き残っている……。 「お待たせしました。刈屋《かりや》さん」  今は刈屋孫兵衛と名を変えている孫左衛門は、袱紗《ふくさ》包を持って入ってきた四郎次郎に、居住居《いずまい》を正した。 「この、お持ちになった青磁鉢《せいじばち》……実にいい。お見立通り南宋《なんそう》の砧《きぬた》ですな。天竜寺物と違って暗さがないのが気に入りました」  四郎次郎は、前に置いてある古い桐の箱から青磁鉢を取出し、ためつすがめつした。 「竜泉窯《りゆうせんがま》、と見ました。これならおすすめ出来ます」  と孫左衛門は、自信に満ちた顔で言う。 「頂きましょう。それで、いかほど?」 「それが、今度のこの品は少々値が張りまして……申し上げにくいのですが……」 「どうぞ、遠慮なくおっしゃって下さい。いつもの事だが、刈屋さんのお持ちになる品には惚《ほ》れる……いや、私だけではない。灰屋どの、池坊《いけのぼう》、今日庵《こんにちあん》、みんなそう言っておる。年に一度か二度だが、刈屋さんの品は逸品揃い、どこでどうして掘出して来られるのか、大したものだ、と……」 「お褒めいただいて恐れ入りますが、この品、仕入値が五十両を越えました。それに路銀と少々の儲《もう》けをみまして、八十金ではいかがでしょうか」 「安い……何と正直なお人だ、はははは」  四郎次郎は、笑った。 「これは、二百金と言っても通りますよ。本当にそれでよろしいか」 「冥利《みようり》に尽きます」 「では……八十両、失礼だが祝儀として五両加えさせていただきますよ」  四郎次郎は袱紗の金を数えて渡すと、早速に青磁鉢を手許に引寄せた。 「ご主人は……進藤さまとご昵懇《じつこん》で?」  金を納めながら孫左衛門は、さり気なく問いかける。だが、動悸《どうき》が早くなった。 「播磨守さまですか? 近衛さま御家宰の……ええ、近頃格別におつきあい願っておりますよ。あれは大したお方だ」 「さようで……」 「格式張らず、洒脱《しやだつ》なお人柄だが、それでいて学問諸芸にご造詣《ぞうけい》深く、町の者にもご理解が行届いておられる。近衛さまご当主のご事蹟は、半ば以上あのお方のお力だと評判ですよ」 「…………」  むかしの進藤源四郎が、近衛家に仕官していることは知っていたが、その先、寺坂吉右衛門に話を進展させるには、言葉の継穂がない。孫左衛門は口をつぐむ外なかった。 「そうそう、刈屋さんは方々旅をして、旧家や御大身のお方にお顔が広い……実はうちの倅《せがれ》の嫁探しだが、どこぞに掘出もののお娘御はおられませんかな、是非にもお世話願いたいのだが……」  話がそれた。失望した孫左衛門はそのあとのくだくだしい四郎次郎の話を、空耳で聞いた。      三 「瀬尾孫左衛門か」  ようやく吉右衛門が問い質《ただ》した進藤長保の返答は、取付く島のないものだった。 「なつかしい名だが、行方はとんとわからぬ。京に戻ったとも聞いた事がない」 「やはり、そうでございましたか」  落胆の色を隠せぬ吉右衛門に、長保は慰め顔で言葉を継いだ。 「孫左は実直|一途《いちず》な男であった。取乱し逃げての後、面目なさに首でも括《くく》ったやも知れぬ。それとも知らぬ他国でひそと暮しておるかだ」  どうも納得できかねる吉右衛門であった。  二日の滞在で、近衛家御屋敷を辞した吉右衛門は、大坂天満の天川屋を訪れることにした。討入の際、武器武具、兵糧、小物に至るまで、一手で調達し、その後も旧藩士の面倒見を続ける天川屋に会って、大坂|界隈《かいわい》に住む者の消息を確めようと思った。  だが、一時にせよ京を離れることに、何故かためらいがあった。  ——孫左は京にいる。  確たる証《あか》しがあっての事ではない。ただそう感じているというだけである。それは灼《や》けつくような渇望のせいかも知れなかった。  吉右衛門は、一日三条辺に宿をとり、人の出盛る名所を歩いてみることにした。  一日は徒労に終った。更に一日、歩き廻った。疲れ果てて清水寺の門前に足を休めていると、腹が立ってやり切れなくなった。  ——もう、諦《あきら》めよう。  茶店は、五条坂と三年坂の分れ道にある。ゆく秋の風情を楽しむ行楽の客が、引きも切らず行き来する。供を連れた武家や町人、老いたる者、若き男女、人、人、人……。  眺めるともなく、うつつに見ている吉右衛門に、異様な感覚が走った。  それは、匂《にお》いだった。微妙な香りが嗅覚《きゆうかく》をかすめて、消えた。  脳裏に、閃《ひらめ》くものがあった。  ——伽羅《きやら》?  数日前、八瀬の窯風呂《かまぶろ》で、進藤長保と茶屋四郎次郎が、その香りの名を嗅《か》ぎ分けた。  茶店の前を通り過ぎた人影を見確めようと、吉右衛門が飛出してみると、五条坂を下る被衣《かずき》の姫御料の楚々《そそ》たる姿は、かなり遠ざかっていた。  ——おれとしたことが、何のかかわりがある。  苦く、そう思いながら、まだ眼は追っていた。  坂の半ばに、駕籠《かご》と供の者が待っていた。  姫御料が身を入れると、駕籠は軽快な歩みで五条坂を下って行く。と、供の町人が何気なく振向いた。  ——あ、孫左。  紛れもなく、出石《いずし》城下昌念寺の山門で見かけた鬢髪《びんぱつ》半白の老町人だった。 「ま、待て……」  茶代を床几《しようぎ》に投げだして、吉右衛門が追ったが、生憎《あいにく》と立込んだそぞろ歩きの行楽の群れに妨げられて、思うに任せない。  達者な駕籠|舁《かき》は下り坂の利もあって、みるみる坂の人ごみの中に消えて行く。  ——追いつけるか?  焦る吉右衛門の足腰に、二日の疲れが重く溜《たま》っている。この時ほどわが身の老いが悔まれたことはなかった。  日の暮れ方、洛西の大枝《おい》中山で、朝方わざわざ丹波|亀山《かめやま》(今の亀岡)から呼んだ駕籠を帰した孫左衛門と姫御料は、生茂る竹藪《たけやぶ》の小道へ入って行った。  このあたりから大原野《おおはらの》にかけて、京名物の筍《たけのこ》の産地で、幾千か幾万か鬱蒼《うつそう》と竹林が続く。その間の小道を辿《たど》ると、今は無住となった尼庵《にあん》に行着く。その裏手に孫左衛門が建てた小ぶりの家があった。  簡素な造りだが、凝った木口と念の入った普請作事で、孫左衛門の性格がうかがえる。  孫左衛門は、主《あるじ》に仕える恭敬さで、姫御料の濯《すすぎ》をとり、足指の一本一本を拭《ぬぐ》った。甲高の細足は愛らしく、指爪《しそう》は薄桃色の小さな桜貝を思わせる可憐《かれん》さであった。 「疲れました……孫左」  抜けるような色白の顔に、ほのかな血色が浮ぶ。 「さようでございましょう。久方ぶりの遠道……でも、これにて可音《かね》さまの歌舞音曲、芸事の結願《けちがん》が済みました。あとは歌道と画法……遠出せずと学べます」  つぶらな瞳《ひとみ》で頷《うなず》く姫——可音に、孫左衛門は促した。 「まずは、ご帰宅のご挨拶《あいさつ》を」 「そうでした、孫左も来てたもれ」  座を立つ可音の身から、伽羅と体臭の入交った香りが流れた。  奥の三畳間は、仏間であった。  仏壇の観音開きの扉を開ける。黒漆に、燦《さん》と金泥で書かれた位牌《いはい》が光った。   忠誠院刄空浄劔居士  それは知る人ぞ知る、赤穂四十七士の頭領大石内蔵助良雄の戒名であった。      四  寺坂吉右衛門は、再び今出川の近衛邸を訪れた。この数日、剃《そ》るを怠った半白の鬢髯《びんぜん》はまばらに伸び、憔悴《しようすい》の色が濃い。 「どうした、おぬし。大坂へは行かなんだというではないか」  書院造りの私邸の内玄関に立った進藤長保は、ふっと辞色を和げて、笑顔になった。 「まあ上れ。おぬしが出向く筈の当の相手が、ここに来ておる」  古びた長保の書斎で、机脇に積まれた書物を物珍らしそうに見ていた商人風の老人が、ふり向いて満面に笑みをたたえた。 「これは寺坂さま……。絶えてお久しゅうなりましたな。ご息災、おめでとうさんでござります」  大坂天満の悉皆《しつかい》問屋、天川屋儀兵衛である。  天川屋は、若年で国家老の職に就き、勘定方浜支配となった大石内蔵助と知合い、赤穂特産の塩で大坂の塩相場を動かし、巨利を得る途《みち》を教えた。 「侍衆には惜しい、あきんどにしたいお人や」  そう言われた内蔵助は、その金を簿外金として、ひそかに選びぬいた藩士に撫育《ぶいく》の金を支給し、非常の時に備えた。  赤穂浅野の家と藩は、当主内匠頭の刃傷《にんじよう》に依《よ》って、廃絶の悲運に見舞われた。内蔵助は撫育の藩士を中核とした一統を率い、討入を敢行して士道を貫いた。  天川屋は、その企てに協力し、内蔵助ら一統が切腹し果てた後も、その遺志を継いで旧藩士百余名の暮しの面倒見を続けている。 「寺坂さまは御公儀より大赦御|宥免《ゆうめん》を受けて以来今日まで、手前どもへ終《つい》ぞお姿を見せませんでしたな」 「あれから十年余り、大和郡山に隠棲《いんせい》しておった……今年の初めからまた旅に出たが、先々のおぬしの出店出店に昔に変らず金子の用意があった。長の年月変ることなきおぬしの真情……有難い事であった」  吉右衛門は、深々と頭を下げた。 「待て待て。積る話より吉右衛の昨日今日を先に聞こう。おぬしそのように疲れ果てて、この二、三日何を致しておったのだ」  問われるままに吉右衛門は、這般《しやはん》の事情を物語った。行方知れずの瀬尾孫左衛門を見掛け、二日の間、京の町を彷徨《ほうこう》したこと。探しあぐねての末、清水の五条坂で八瀬の窯風呂の姫御料らしき女性《によしよう》を見掛けたこと。その姫御料の供をしていたのが、紛れもなき孫左衛門であったこと……。 「夢中で駕籠の後を追いましたが、どうしても追いつけず、七条堀川の辺りまでは通行の者に問いかけ問いかけ参りましたものの、その後は見掛けた者も絶え……たずねあぐみました」 「それで?」と、長保。 「残る手掛りは駕宿《かごやど》、と思い、三日をかけて東寺から上鳥羽……。とって返して丹波口から壬生《みぶ》辺まで尋ね歩きましたが、姫御料を乗せた駕籠は見当らず……」 「なんと、驚き入った次第だな」  長保は、深々と腕を組み、慨嘆した。 「はあ、何とも不様な始末、申し訳ございませぬ」  吉右衛門は、身をすくめる態であった。 「なに、おぬしが事ではない。瀬尾孫左よ。大石家|累代《るいだい》の用人が討入直前に逐電したばかりか、われらの眼をくらまし、十六年もの間、この京の近在に住み、大身の武家に奉公してぬけぬけと暮しておったとは……」 「いや、奉公先の都合で、近年舞い戻ったかも知れまへん……。それにしても分りまへんな、どないな了簡やろか……」  天川屋も、首をかしげた。  三人は、暫《しば》し、黙りこくった。 「進藤さま」  沈黙を破ったのは、天川屋であった。 「突飛な事を申し上げます。よろしいか」 「うむ、言うてみい」 「その女子……もしや、可留《かる》さまと違いますかな」  可留。討入前、京にあった内蔵助が最後の愛を傾けた想い女《め》である。  一瞬、と胸を突かれた態であった長保は、乾いた笑い声をたてた。 「何を軽忽《きようこつ》な。はははは、可留どのが今|在《おわ》せば年頃三十を越える。見紛う筈があろうか」  長保は、魅入られるように、問わず語りの言葉を続けた。 「可留どのか……あれはふしぎな女性《によしよう》ではあった。京に討入の知らせが伝わったのは元禄十六年(一七〇三)の年初……早々に長岡天神の家を尋ねたが、一足違いで家を売払い、姿を消しての後であった。二条寺町の実家、一文字屋に問い合わせたが、何も知らぬとけんもほろろの挨拶……あれの父親は家つき娘の入婿で、それが端女《はしため》に手を付けての子が可留どのだ。頼み難いとみて行方をくらましたのであろうが、はていずこの地でどのような行末を辿られたか、いま思うても胸が痛む……」  十七歳であった可留を、内蔵助に引合わせたのは、他ならぬ長保、往年の進藤源四郎であった。それだけに格別の思いがある。 「あの頃は、みな連累の罪の及ぶのを恐れましたからなあ……」  吉右衛門が嘆ずる。 「さようですとも、そのいい例《ため》しがこの手前で……寺坂さまがいのちを張った自訴で、大赦のお布令《ふれ》を引出すまで、度々|入牢《じゆろう》やら手鎖を繰り返し、えらい目に遭いました」  天川屋は、討入の武器調達が発覚し、咎《とが》めを受けた。 「さて、のう……」  長保は、話柄《わへい》を元に戻した。 「何かこう、喉元《のどもと》に考えが閊《つか》えておるのだ。それが頭に届かず、言葉にならぬ……今少し時を貸してくれい」      五  その夜、吉右衛門と天川屋を祇園《ぎおん》に伴ない、遊興の一夜を過した進藤長保は、翌日も帰邸の気振りを見せず、相方の遊女を伴なって、嵐山に舟遊びを楽しんだ。  秋、深まりて、嵐峡《らんきよう》の錦繍一際《きんしゆうひときわ》色映え、京の絶佳ここに極まるの感があった。 「見るは法楽……生きてこの世にある甲斐《かい》がありました」  無骨な吉右衛門も、感嘆の声を放った。  だが長保は、舟べりから手を川水に差しのべ、その感触にひたる態を示すのみである。 「進藤さまも、段々に大石さまに似て参られましたな……」  天川屋が、吉右衛門にそっと囁《ささや》く。 「はあ?」 「いえ、大石さまはなあ、思案は思いの外に身をおくことで、存外道が開けるものだと言わはりまして、よう遊びにふけっておられました……」 「そのこそこそ話は、わしへの悪態か」  長保が声をかけた。うって変って晴々の顔であった。 「それは当て推量というものでございますよ、何かよき思案でも浮びましたか」 「わしは内蔵助どのと違う。思案ほどには頭が廻《まわ》らぬ。忘れておった事を思い出すのが精一杯だ」  長保は、酌《しやく》を受けた盃《さかずき》を呑《の》み干した。 「あれは、討入の年の夏だ……可留どのが体調をそこねてな、食が通らずひどく痩《や》せたので、暑さ凌《しの》ぎに有馬の湯へ伴のうたことがある」 「はあ……それが?」 「思いの外、元気を取戻した。さすがに験《げん》あらたかなもの、と思うたが……あれはもしや……と、思い当ることがある」 「…………」  吉右衛門は一向に合点が行かなかったが、天川屋は先を読んだ。 「つわり……どすな」 「それよ、もしも……もしも身籠《みごも》っての吐き気であったら、翌年の春頃、ややこを生んだ筈《はず》……八瀬で茶屋家の跡継息子が見、五条坂で吉右衛が尾《つ》けた姫御料と、年延《としばえ》が符合するではないか」 「…………」  さすがに、内蔵助が後事を托《たく》した進藤長保である。この時、正に意表を衝《つ》く啓示を口にした。 「では……大石さまにいま一人、御子があったと言わはりますので……」 「それよ……」  長保は、深く吐息を洩らした。 「それしか、あの瀬尾孫左衛門が逐電する理由は無い。討入の前夜だぞ、あの孫左が心変りする筈がないのだ。あの孫左が……」  長保は、傷ましげに眉《まゆ》を寄せ、思いを馳《は》せた。 「考えてみい、討入の盟約に加わらなんだ三百近い藩士の一人一人に、五年、十年……その行末を深く思いやり、日夜企てに奔命する間を割いて落《おち》なき手配りをされた内蔵助どのだ。その内蔵助どのが、最後の最後に心に掛けられたのは、何であったか……それを思うのだ……」  胸迫るものがあったのであろう、長保は懐紙の端を目頭に当てた。  ——そうか、孫左……そうであったか……。  吉右衛門は、思う。あれは霏々《ひひ》と雪の舞う一際寒い夜であった。  瀬尾孫左衛門が、内蔵助にどのように説かれ頼まれたか、吉右衛門には知る由もない。だが……想像するのは思いの儘《まま》である。  その日、結盟の同志の中から、脱盟者が相次いだ。毛利小平太、田中貞四郎、小山田庄左衛門等々、その数は七名に及んだ。中でも中田理平次、鈴田重八という頼みの腕利きまでもが逐電し、裏門一番隊の補填《ほてん》に苦慮する始末となった。  その得難い戦力の中から、内蔵助は瀬尾孫左衛門の脱盟を、事も無げに是認した。 「あれは又者《またもの》。大石家の家来を赤穂浅野の侍の本義に使い捨てるいわれはない」  討入の朝、そう言い捨てた内蔵助の温顔が、今もありありと思い浮ぶ……。  だが、この世に残す最後の想い女のために、瀬尾孫左衛門を説く内蔵助の切なき心情を思い、あえて脱盟の汚名を着て、人としての一生を使い捨てようと決意した孫左衛門を推し量ると、頬《ほお》に伝う涙を止めようもない吉右衛門であった。 「これは……手を尽して、瀬尾さまを探さんとあきまへんな」  天川屋が、ぽつりと言う。 「そうだ。あらん限りの手を尽す……。吉右衛も力添えを頼むぞ」  見返る長保の眼が燃えていた。      六 「刈屋《かりや》さん」  来訪の刈屋孫兵衛こと瀬尾孫左衛門を、奥庭の四阿《あずまや》へ誘った茶屋四郎次郎は、見返って呼びかけた。 「先日の青磁鉢《せいじばち》を取戻そうというお話なら御免を蒙《こうむ》りますよ。諺《ことわざ》にあります。一度落ちた花は二度と枝に戻らない。はははは」 「いえ、そのような不躾《ぶしつけ》なことは致しません。いつもの事ですが、お気が変られたかどうか確めに参りましただけで……」  畏《かしこ》まる孫左衛門を、四郎次郎は感嘆の眼で見やった。 「相も変らず律義なことだ。その伝でどうか倅《せがれ》の嫁のお取持を願いますよ。どうです、この隠居名……」  四阿には、�宗古《そうこ》堂�と書かれた小さな木札が掲げられてある。 「婚礼の日から倅に四郎次郎の名をゆずって私は茶屋宗古……いつになりますか、早うそうなりたいものだが……」  四郎次郎は、老いの疲れを露《あらわ》に、溜息を洩らした。 「ご主人……手前はしがない古器|古董《ことう》商い……こちら様のような御大家の御縁談のお取持など、分に過ぎます」  江戸中期まで、身分ある侍や裕福な町人の家の婚礼に、見合という習慣は無かった。見合が公然となったのは、天保以後と言われている。  それまでは、双方が示し合わせて物見|遊山《ゆさん》などで出合い、相手の娘や息子をそれとなく見るということはあったが、それすらも享保期頃は端《はした》ないこととされ、由緒ある家では一切なかった。まして好き合い恋するなどということはまったく有り得なかった。  縁談は仲立ちする者の信用に委《まか》され、筋目素性を聞き質《ただ》すのが精々で、相手の為人《ひととなり》や容色は婚礼の時まで確めようがなかった。  一見乱暴のように思われるが、それだけに仲立ちする者の責任は容易ではない。嫁婿双方は勿論《もちろん》、周辺の有縁無縁すべての者が納得し、行末面倒の起らぬだけの相手を撰択し、取持たなければならない。俗に仲人は草鞋《わらじ》千足というが、それくらい手間暇もかかり、重荷でもあったが、それだけに尊敬も贏得《かちえ》た。  茶屋四郎次郎が八方頼み廻って思うに任せず、また孫左衛門がしきりと固辞したのも、そのためであった。 「何と仰《おつしや》る。あなたがこの家に出入りされてもう十年の余になる。その間、只《ただ》の一度も擬《まが》い物、まやかし物が無い。また利を貪《むさぼ》ったこともない。そのお人柄を見込んでお頼み致しました。座興話なんぞと思っていただいては困ります」 「どうも……恐れ入ります」  孫左衛門は、額に冷汗を覚える態だった。 「それで、お心当りはありましょうか」 「さて……」  孫左衛門は、思いをめぐらせた。四郎次郎が前に言った通り、この十年余、西国筋を廻り歩いた。扱うものが古器古董だけに、由緒ある武家とも何人か知合っている。 (年頃の娘御を持つ上士といえば、周防《すおう》毛利の御家中、斎藤さまか、備中松山板倉の御家中、成瀬さま……作州松平の御家中、天堂さまは少し格落《かくおち》か……はてさて、帯に短かし、襷《たすき》に長し、身分が高ければ如何《いか》に由緒あっても商家に嫁入は無理……)  ふっと、孫左衛門の胸中に、きざすものがあった。  ——いま一人いる……。  孫左衛門の顔から、血の気が退《ひ》くのを、四郎次郎は見逃さなかった。 「どうされました。お顔の色が……」 「いや、別に……」  孫左衛門は、さり気なく取繕ったが、胸中に渦巻く千々の思いを抑えるのに必死であった。 「いささか、心当りが無いでもございません、恐れ入りますが、暫《しばら》くご猶予を……」  孫左衛門は、蒼惶《そうこう》と席を立った。  四郎次郎は、瞬時に様相の変った孫左衛門を、呆気《あつけ》にとられたように見送った。  日の暮れ方、孫左衛門は洛西《らくさい》への道をひとり辿っていた。  茜《あかね》さす日に影は長く尾をひき、初冬の風は刺すように冷やかであった。だが孫左衛門は、それが意識になく、ほとんど惑乱の態であった。  ——何だ、この胸しめつけられる思いは……。  茶屋の家で、ふっときざした思いが、惑乱の元であった。  ——忘れろ。そんな思いは捨て去れば済む。いつもの自分に戻れ。  そう自制すればする程、思いはつのる。  十余年、夢寐《むび》にも思ったことのない感傷が襲った。  ——ば、ばかな、十六年前、いのちと共に俗念をうち捨てた身ではないか。  枯れ果てた身、老いの皺《しわ》深く刻まれた孫左衛門の頬に、知らず涙が伝っていた。  大枝《おい》の山中の庵《いおり》に、可音がひとり待っていた。 [#改ページ]  浮生《ふせい》若夢《ゆめのごとし》      一  洛陽七口の一、丹波口は桂《かつら》ノ里から小半里、樫原《かたぎはら》を過ぎるともう山城から丹波ノ国に入り、凡《およ》そ一里の上り坂となる。登り詰めた峠が大枝《おい》ノ坂である。天正の昔、軍勢を率いた明智光秀は、この峠で去就に迷った。右に下れば備中路、左すれば京に至る。その本能寺の変を詠んだ頼山陽の詩には、音を採って�老《おい》ノ坂�とある。�おい�は�おうえ�の訛《なまり》で、往古は�おほえ�と呼んだ。いまは名も無き山だが、平安の昔の大江山である。源頼光が勅命を奉じ、鬼形を真似て都を荒す盗賊|酒顛《しゆてん》童子を退治したのは、この大江山であり、丹後の大江山は後世の伝説との説がある。峠にはその酒顛童子の首塚《くびづか》が現存する。  その坂の下、大枝《おい》中山の奥にある住居の庭で、孫左衛門はきょうも焚火《たきび》を続けていた。  人の丈ほど深く掘った穴に、散り尽した樹々《きぎ》の落葉を掻《か》き集め焚く。その火に家から持ち出した不用の物を燃やすのである。  不用の品は雑多であった。家財は殖やさぬようにつとめても、十余年の間に思いの外となった。着古した衣類布切、書散らした帳面書付、役立たずの家具や身辺雑具、捨てるに惜しい思い出はあるが、その思いを断って整理の日々が続いている。  濃く、時には燃え盛って淡く立上る煙は、初冬の裸木の間に立籠《たちこ》め、なびき、隣する無住の庵室《あんしつ》を霞《かすみ》と包む。  ——移り住んだ頃は、亡《な》き庵主さまにいろいろと世話をかけた。その老尼《ろうに》も逝《い》ってはや三年余り……。  焚火の温みに、まだ疼痛《とうつう》の残る二の腕を揉《も》みながら、孫左衛門はその面影《おもかげ》を思い浮べていた。  ——幼な児《ご》を男手で育てるのに、あの庵主さまのお力を借りなければ、到底果せなかったであろう……。  出自は、畏《かしこ》き辺の庶出と洩《も》れ聞いたことがある。約《つま》しが上の約《つま》しやかな暮しだったが、意外な面で羽利《はき》きであった。生涯|不犯《ふぼん》の老尼は、生まれ落つる時から面倒をみた可音を、血を分けた子のように愛《め》で、その養育に奔命し、物心ついてより茶伎《ちやぎ》、香合、立花《りつか》、書の道、絵心、歌の道、礼法から武芸まで、京の名ある師をひそかに桂ノ里に呼び、可音に躾《しつけ》てくれた。それなくしては今日の可音の素養は有り得なかったであろう。  ——あれは、故主さまが口癖に言われた�天運�というものであった。  その言葉は、今も記憶の底に灼《や》きついている。 (天運というものが、人の世に形となってあらわれるのは、人との出合と、つながりである)  思いを過去に馳《は》せていた孫左衛門は、ふと身近に流れ来た香りと体臭に、吾《われ》に返った。 「あ、可音さま」 「孫左、まだ痛みますか」  手習の反故《ほご》の束を抱えて出てきた可音は、孫左衛門が擦《さす》る二の腕を、傷ましげに見た。 「いえ、もう……」 「手加減を忘れました。許してたもれ」  幼ない頃に始まる可音の稽古事《けいこごと》に、孫左衛門は共に習い、自習の相手を務めた。それが年を重ねると可音の上達が早く、孫左衛門は追付かねるようになった。今朝方も小太刀《こだち》の相手して、したたかに打たれた孫左衛門であった。 「ご上達なされましたな。孫左めにとっては嬉《うれ》しい痛さでございます」  孫左衛門は、微笑んでみせた。 「あとで手当致しましょう。それにしても……どうして焼くのですか。過ぎた日々が灰になる……悲しく思います」  反故を火に投じながら、可音は小さな溜息《ためいき》を洩らした。 「可音さま、武家の娘は生れ育った家に未練を残さぬが習《ならわし》にございます」  孫左衛門は、諭すように言葉を続けた。 「可音さまももうお年頃……いつ何時《なんどき》嫁がれるやも知れませぬ。嫁しては夫に従えと、三従の教えにあります。嫁がれるまでは大身の侍のご息女としての素養は身につけねばなりませぬが、嫁がれましたら先様の御身分格式、御家風に従い、その家の者となる事こそ大事……」 「私は……見も知らぬ家へなど嫁ぎとうはない。今の暮しで満足です」  可音は、可憐《かれん》に首を横に振った。 「滅法界《めつぽうかい》もない事を仰《おつしや》られますな」  孫左衛門は、声を励ました。 「それでは、可音さまがお生れなされる前に亡くなられたお父君……乳離《ちばな》れなされて間もなく世を去られたお母君から、手をとってのお頼みを受けたこの孫左めの、侍の一分《いちぶ》が立ちませぬ。必ずや可音さまを名ある家に嫁ぎ参らせようと、心に定めております」 「それで、孫左は満足ですか、淋《さび》しゅうはありませぬか」  可音は、つぶらな眸《ひとみ》で孫左衛門を瞶《みつ》めた。ひたむきな思いの籠《こも》る表情であった。 「…………」 「そなたは、三代相恩の家士であると言います。私はそなたと二人だけの暮し、主と家来のありようも知らぬ。ただそなたと離れとうない……」 「勿体《もつたい》ない……そのお言葉ありがたく承ります。どうか、この先は孫左めにお任せ下され、屹度《きつと》お幸わせになられますよう、身命を賭《と》して裁量|仕《つかまつ》ります……」  孫左衛門は、眼をうるませ、頭を下げた。      二 「ほう……みごとな砧《きぬた》青磁だな」  進藤長保は、訪れた茶屋四郎次郎が披露《ひろう》した青磁鉢をためつすがめつして、感嘆の声を放った。 「売手は竜泉窯《りゆうせんがま》と見立てております。いまどき、これ程の逸品が手に入ろうとは、思うてもみませなんだ」  四郎次郎は、得意気に鼻をうごめかす。 「これはどのように胸を反らされても一言もない。恐れ入った……どうだ、おぬしたちも眼福に与《あずか》らぬか」  長保とは気のおけぬ四郎次郎とのつきあいとあって、同座した天川屋儀兵衛と寺坂吉右衛門に誘いを掛けた。  古董に趣味を持たない吉右衛門は、会釈するのみであったが、天川屋は興味津々の態で進み出た。 「ほほう、正《まさ》しく名品でございますな、この明るくてそのくせ深い青色が何とも言えませぬ……」  言いさして、天川屋は小首を傾げた。 「昔……どこぞで見たような気ィが致します。いずれからお求めにならはりました?」 「もう十年の余も出入りしている刈屋という古器古董商いの者がおりましてな。その者は年に数度、西国筋を旅廻りして、名門旧家の蔵に埋れているのを掘出してくるようで……」 「刈屋?」と、長保が口をさしはさんだ。 「はい、刈屋孫兵衛と申します。実直|一途《いちず》な男で……」 �孫兵衛�という名に顔色を変えた吉右衛門が、何か言いたげになるのを、長保は眼顔で制した。 「……眼利きも確かなら、利も貪《むさぼ》らず……手前どもは倅の嫁探しを頼むほど信用しております」 「それは結構。わしにも一度引合せて欲しいものだな。と言って貧が通り相場の公家、とても手が届かぬ高嶺《たかね》の花だが……」  長保は、呵々《かか》と笑った。  これから洛北の本阿弥《ほんなみ》家へ自慢に行くと言って四郎次郎が辞したあと、長保と天川屋、吉右衛門は、顔を見合わせ思いをこらした。 「あの青磁鉢……確かあの折、丹後か但馬《たじま》の古寺で見たように思います。八十過ぎて足腰も覚束《おぼつか》ない住職が、自慢の奉納品とか言うてはりました……」  天川屋の言葉に続いて、吉右衛門が言う。 「但馬|出石《いずし》の昌念寺と違いましょうか、あの時見掛けたのは、確かに孫左……」  長保は、からからと笑った。 「天川屋、抜かったのう。おぬしの上前を撥《は》ねる者がおったわけだ」 「これは恐れ入りました。大坂商人をまんまと出し抜くとは、油断も隙もなりまへん。それが人もあろうに、あのお人とは……」  天川屋は頭を掻く。長保は苦笑した。 「刈屋、は赤穂の別名、孫左衛門が孫兵衛か。いかにもあやつらしい変名だ」  往年、討入を企てた際、大石内蔵助は天川屋に武器の調達を依頼した。その中に、合戦の折に同志の腕利きに使わせる名刀古刀を、数多く集めよとの一条があった。  これは難題であった。名ある刀は一腰一振で何百金もする。一計を案じた天川屋は、中国四国の神社仏閣を廻り、戦国の世この方奉納された刀を安く買い叩《たた》いた。寺宝も代が替れば価値は有って無きが如く、当代の宮司住職は天川屋が呈示する小判に手もなく転んだ。  孫左衛門はそれを直に見聞きしていた。寺宝は刀に限らない。古器古董も埋れているとみて買い歩き、京の好事家《こうずか》に売って暮しを立てていたのである。 「だが……店を持たず、ただ洛西あたりというのでは、住居を探すのに一苦労だな」  真顔に戻った長保が言う。 「いや、雲を掴《つか》むような行方に、確かな手掛りを得ました。この上は足に任せ根限り、嵐山、松尾から桂、長岡天神、山崎まで、探して探し抜きます。それで無《の》うても人眼に立つ孫左と姫御料……それを手掛りに探し当てられぬ道理がありませぬ」  吉右衛門は奮い立つように、はや腰を浮かせた。 「あ、待て、吉右衛」  長保が、声を掛けた。 「は……何ごとで?」 「念を入れるまでもない、と思うが、姫御料が可留《かる》どのの娘というのは、まったくの当推量《あてずいりよう》……いま奉公するあるじの娘御かも知れぬ。孫左と出会うても、事情を聞くまでは逸《はや》るなよ、激《げき》するなよ、あやつは故なく故主を裏切る男ではない。屹度《きつと》故があったのだ」 「は……」  吉右衛門もそう思う。そうであって欲しいと思う。だが討入の朝、逐電と聞いたときの眼もくらむ衝撃と悲痛は、十六年を経た今も、生々しく胸の中に疼《うず》く。 「まず、話を聞け。赤穂では無二の友垣《ともがき》であったおぬしと孫左だ。打明けぬ筈《はず》はあるまい。どのような故があったのか、相手の立場に身をおいて聞くのだ。くれぐれも早まった振舞いをするでない」  天川屋が、言葉を副《そ》えた。 「大石さまは、御一統に加わらなんだ人、中途脱盟なされたお方にも、暮しの立つよう心を配り続けられました。どうか、その深いお心尽しをお忘れなされぬよう……よろしゅうにお頼み申しますよ」  吉右衛門は、深く深く頷《うなず》いた。      三  竹林が風にざわめく。日暮れて小半時、あたりは頻闇《しきやみ》に閉ざされようとしている。  ——お、雨。  時雨《しぐれ》が襲った。黄ばんだ竹の葉末や落葉に雨声が躍った。  住居の囲炉裡端《いろりばた》。雑炊|鍋《なべ》に薪《まき》をくべながら、そぞろに花洛名所記《からくめいしよき》の写本を拾い読みしていた可音は、まだ帰らぬ孫左衛門を案じた。  ——濡《ぬ》れていよう。風邪でも引かねばよいが……。  その思いが届いたように、表戸が開いて旅姿の孫左衛門が駆けこんだ。 「遅くなりました」 「案じておりました」 「知らず年をとりますと、山路は思わぬ時がかかります」  孫左衛門は、手早く濡れた手甲|脚絆《きやはん》をとって囲炉裡端に坐ると、鍋の蓋《ふた》を取って見た。 「お手数を煩《わずら》わせました。早速に頂戴《ちようだい》仕る」  きりッと一礼して、木椀《もくわん》に雑炊をよそい、啜《すす》りはじめた。 「何で京へ参らず、亀山まで出向いたのです」  京で買い調える品を亀山で注文する。余分な費えは言うまでもない。 「京でまとまった買物や、荷運びの人足集めはあらぬ噂の種になります」 「どうしてそう人眼を避けねばなりませぬ」 「無用のことかも知れませぬ。しかし……長の年月、その用心あってきょうの日がある、とも言えます。手間暇惜しまず致すつもりでおります」  可音は、溜息ついて、黙った。 「お気に障られたらお詫《わ》び致します。近頃|思煩《おもいわずら》うこと多く、気が昂《たかぶ》っております」 「いえ、もうよい。そなたの苦労、徒《あだ》には思いませぬ」  可音は、労《いたわ》るように孫左衛門を見た。 「のう、孫左」 「はい」  可音は、優しく微笑んでいた。 「お願いがあります。亡きお父上のことは折にふれお話して貰《もら》いました。でも母様のことは、まだほんの少ししか聞いておりませぬ。この折に話してはくれませぬか」  可音の母、可留《かる》。京二条寺町筆墨商一文字屋次郎左衛門の庶出の娘、十七の年に進藤源四郎(長保)の引合わせで内蔵助と知合い、年の差を越えて結ばれた。  内蔵助が討入決行のため江戸に下る頃、可留は身籠《みごも》っているとわかった。内蔵助は買い与えた長岡天神の家に可留を残し、断腸《だんちよう》の思いで去った。  討入前夜、内蔵助の許《もと》を逐電した瀬尾孫左衛門は、討入後に連累の罪の及ぶことを恐れ、可留を大枝中山の山中に設けた住居に移し、出産の時を迎えた。  それから三年近く、可留は破傷風で急死し、孫左衛門はその子可音を男手で育てて今日に至った。 「可留さまは、それはお美しい……汚《けが》れを知らぬ童女のようなお方でありました。いつぞやお話致しましたように、お実家《さと》での暮しに幸わせ薄かった所為《せい》か、旦那《だんな》様をお慕いすること一方ならず……見るも羨《うらやま》しいほど、仲むつまじい日々をお過ごしになられました……」  孫左衛門は、追憶の感慨に眼をうるませながら、ぽつりぽつりと語っていた。 「親子ほども年が違うて、お父上と母様は本当に慕い合うておられたのでしょうか」 「年の差が何でありましょう、男と女子の思慕の情に、定まる形はありませぬ。可留さまは父と想い人をないまぜたようにお慕いし、旦那様は、身近に日夜|愛《いと》しと見るのが何よりの悦《よろこ》びとされておりました。だからと言って、それも恋慕……孫左めはそう思います」  暫《しば》し無言で噛《か》みしめる態であった可音は、眼をあげ、促す素振りをみせた。 「旦那様が江戸へ御出立になり……討入の噂が届き……切腹なされたと知れた後も、可留さまは、旦那様のお帰りを待ち続けました。旦那様は帰る。この家がわが家だ、今度帰ったらもうどこへも行かぬ、可留と一生を終る、と……仰せられた。旦那様は嘘を仰《おつしや》るお人ではない。そう仰せられて……毎日、毎日……朝餉《あさげ》、夕餉をお支度なされて……到頭|果《は》かなくなられました、御年わずか二十、花の盛りでございました……」  孫左衛門は、滂沱《ぼうだ》の涙をぬぐおうともしなかった。 「その可留さまが、今際《いまわ》の際に、この孫左めの手をとられて……可音のこと頼みます、と仰せられたあと……旦那様には申し訳ないが、可音はなろう事なら町家に嫁がせたい……心にかけてたもれ、と、言い残されました……いえ、侍の家がお嫌いではない、侍をお恨みなされたわけではない、ただ……ただ、切ない一心で、そう申されたのであろうと、お察し申しておりまする……」  言葉が絶え、深い沈黙が領した。  雨声は絶え、外の頻闇《しきやみ》に竹の葉音の風鳴《ふうめい》がひとしきりした。      四  享保《きようほう》四年(一七一九)の年あけ早々、進藤|播磨守《はりまのかみ》長保は、元赤穂藩士で今は公家日野大納言家の納戸役を務める河村伝兵衛を伴ない、大坂へ赴いた。  京・伏見を朝発《あさだ》ちした乗合船は、小春日和の淀川《よどがわ》を下る。里程九里、夕刻大坂天満橋に程近い八軒屋に着く。船着場には天川屋差し廻しの小舟が二人を待っていた。  悉皆《しつかい》問屋天川屋儀兵衛の店は、天満橋の北岸。店の横手の堀割に入ると、通用口に着く。奥庭に母屋と渡り廊下でつながる離れ家がある。赤穂浅野家健在の頃、藩財政を補うため塩相場に奔命した大石内蔵助や、その命を受けて働いた不破数右衛門が使った。今は儀兵衛の隠居所になっている。  二人を迎えた天川屋儀兵衛は、同座していた多川九左衛門を引合わせた。多川九左衛門は元赤穂藩|物頭《ものがしら》五百石、重役の末席に連なり、赤穂開城の際は恭順開城派の城代家老大野九郎兵衛に与《くみ》し、藩論決着に先んじて退散した。その後は天川屋の面倒見を受け、土佐堀で両替商を営む大野九郎兵衛の許《もと》で番頭《ばんとう》役を務めている。 「奥野将監どのや小山源五右衛門は、おみえにならんのか」  多川は、不満気にそう呟《つぶや》く。  奥野将監は、かつての赤穂浅野家で番頭《ばんがしら》千石、家老並の重役で、また小山源五右衛門は内蔵助の母方の叔父に当る足軽頭三百石、河村共々討入の盟約に加わった。だが、中途その資質を見て取った内蔵助の計らいで、近衛家ゆかりの公家日野大納言家に再仕官し、奥野は家司(家老)、小山は用人、河村は納戸役を務め、旧赤穂藩士の就職に奔走した。 「年頭、公家衆は行事山積し、どうあっても手が抜けぬ。それで拙者が罷《まか》り越した」 「進藤さま、どうも困りました。大坂住いのお人たちの意見が、ようまとまりまへん」  と、天川屋が割って入った。 「まとまらぬと言うのは、討入の一統の十七回忌法要に、賛同せぬ者が多いということか」  河村の口調は、切口上《きりこうじよう》になった。 「いや、赤穂浅野の面目を立てた一統、分けても大石どのには格別の思い入れがある……だが、京在住の面々と顔つき合わすのは御免を蒙《こうむ》りたいと申す者が一再ならずおってな」  と、多川はやり返す。 「何と、異《い》な事を承る。何で京在住の者を左様な僻目《ひがめ》で見られるのか、訳が知りたい。教えていただこう」 「これはしたり。今更訳を聞かれる謂《いわれ》はない。お手前方、胸に手を当てて考えればお分りの筈だ」 「まあまあ、その辺で茶でも飲んだらどうだ。お互い顔を合わす早々から、親の仇《かたき》でもあるまいに、いがみ合うのは大概にせい」  進藤長保が、苦笑してたしなめた。  長保は、公家の陪臣《ばいしん》とはいえ、故主より上位の官位を持つ。旧赤穂浅野の家臣の出世頭である。洒脱《しやだつ》な物腰だが威は争えない。河村も多川も黙るほかなかった。 「旧来、京組と大坂組には面白からぬ気味合《きみあい》あり、交りも絶え勝ちと聞いた。昔は同じ釜《かま》の飯を食い、今は同じ境遇に懸命に生きる身が、何でそう角目《つのめ》突合わすのか、この際腹蔵なく話してみたらどうだ」  河村も多川も、暫しためらう風だったが、多川が先に口を割った。 「われら大坂組の殆《ほとん》どは、過ぐる大変の際、それぞれに仔細《しさい》あって大石どののお指図に従わず、士分を捨て町家暮しの身となりました。それに引替え京組の方々は、一度盟約に加わりながら中途で脱盟し、公家奉公で二君に仕えておられる……その京組の方々が、われらは士分、大坂組はいのち惜しさに大石どのの腹の中も確めず、侍を捨てたと蔑《さげす》まれる。それが口惜しいのでござる」 「いいや、われらは大坂組を蔑んだ覚えはない。それは負い目の邪推と申すもの……だがこれだけは申しおく。われらは大石どののお眼鏡に依《よ》り、討入には不向であると公家奉公をすすめられ、そのお言葉に従ったのだ。最初からいのちを惜しんだわけではない」 「それが蔑みと申すのだ。いのちを惜しまれなかったと言われるなら、何で強《た》って盟約を守られなかった。侍は守れぬ約定は結ばぬものだ」 「何だと、侍を捨てた者から、そのような講釈は片腹痛い。聞く耳持たぬ」 「まあ待て、双方とも逆上《のぼせ》るが過ぎる。頭《つむり》を冷やしてわしの言い条を聞け」  長保は、越し方に思いを馳《は》せるように、歎息《たんそく》を交えて、ゆっくりと話し始めた。 「思えば、この十六年……われらにとっても辛《つら》い、長の年月であった。大石どの一統の討入が、年毎に評判高くなるにつれ、生残ったわれらは肩身狭く世を送らねばならなくなり……名を変え素性を隠す者も多くでた……」  河村も多川も沈黙するしかなかった。 「大石どのの憂慮はその事であった。赤穂浅野家累代の筆頭家老として、侍の志を世に示さねばならぬ。だが一方で生残る藩士の行末をどう守るか、その矛盾に悩み抜かれた……」  長保は、冷えた茶を啜《すす》った。 「それで今の始末となった。町家暮しの者へは元手の面倒をみ続ける。士分望みには微禄《びろく》だが公家奉公の途《みち》を開く……大石どのは最後にこう言い残された。暮しの方途は立てたが心の苦艱《くかん》には手が及ばぬ。これも天運と思い互いに助け合うて生き抜いてくれ。それも侍に生れついた因果だとな」  言葉を続ける長保の頬に、一筋光るものがあった。 「これほどのお人がどこにある。未《いま》だかつて有った例《ため》しがあろうか。われらは天運に恵まれたと言うべきである。その大石どのの手厚い配慮の下に生きて、尚《なお》いがみ合う……おぬしらは何たる人でなしだ。この上何ぞ言い分があるなら申してみい。事と次第に依ってはこの長保、捨ておかんぞ」  河村も多川も、天川屋までもが面を伏せたままであった。その静寂の中に、滴る涙が畳を打った。      五  小春日和に誘われて、茶屋四郎次郎と修一郎の父子《おやこ》は、嵐山に程近い小督塚《こごうづか》を訪れた。  小督局《こごうのつぼね》は源平の昔、禁中一の美女とうたわれた高倉帝の御愛妃。平相国《へいそうこく》清盛を恐れて嵯峨野《さがの》に隠れ、この地で果かなくなられた。主上の勅を蒙って源仲国が尋ねめぐった折、琴の音を頼りに探しあてる件《くだ》りは、平家物語の一章を飾る。  足を伸ばして嵐山|渡月橋《とげつきよう》を渡る。桂川は後年の名称、当時は大堰《おおい》川、往古この地を賜った渡来人|秦《はた》氏が、川に堰《せき》を設けたからに因《よ》る。渡月橋は平安時代に架橋されたと伝えられ、古くは法輪寺橋と言ったが、亀山上皇が渡御された時、くまなき月の渡るに似るとて、渡月橋と名付けられた。往時は一町ばかり上流にあったが、慶長年間、角倉《すみのくら》了以が現在の場所に架け替えた。  渡月橋の南、智福山法輪寺は、天平時代に創建された京随一の古刹《こさつ》で、秦氏出身の道昌僧都《どうしようそうず》の開基になる。道昌一百日の参籠《さんろう》に生身《しようじん》の虚空蔵菩薩《こくうぞうぼさつ》の尊影を見、その像を刻んで本尊とした。現在は寺名より虚空蔵の名で知られている。  茶屋父子は、寺宝参観に一時余りを費した。  山門を出ると、門前の茶店に待っていた男が迎えた。 「これは刈屋さん……どうしてここに……?」  四郎次郎は相手を屋号で呼んだ。 「お屋敷に伺いました処、こちらとの事で、失礼をも省みず、お待ち致しておりました」  刈屋孫兵衛こと孫左衛門は、思いつめた顔であった。 「それはご面倒をおかけしましたな。どのようなご用向か伺いましょう」 「ここは端近《はしぢか》……奥の小部屋を借り受けておきました。まずはお通り願えませぬか」  大堰川の川原に面した小部屋に通った茶屋父子は、渋茶で咽喉《のど》を潤しながら、孫左衛門の言葉を待った。 「余の儀ではございません。先日御子息さまの嫁御寮のお取持をお頼みなされました。くどいようですが、いま一度念を押させていただきます。手前のようなしがない者の仲立《なかだち》で、不足はございませぬな」  平生の刈屋孫兵衛からは想像もつかぬ程の真剣な顔に、茶屋父子は思わず眼を見交した。 「それはもう……先《せん》に言った通りですよ。茶屋四郎次郎、家の名にかけて偽りは申しません」  孫左衛門は、修一郎に向き直った。 「恐れ入りますが、御子息さまからもひと言頂きとうございます。手前のお見立て申した嫁御寮で、ご異存ございませぬな」  微塵《みじん》も曖昧《あいまい》さを許さぬ気魄《きはく》がこもっていた。 「では、私から申し上げます。刈屋さんが一身に賭《か》けて責めを負うて下さると仰《おつしや》るなら、私は否《いな》やを申しません」  修一郎は、きっぱりと答えた。 「したが刈屋さん、こちらも念を押します。茶屋の家にふさわしい素養と見苦しからぬ器量、それになろう事なら名ある家の出……それを踏んまえての御仲立をお願い申します」  修一郎は若者らしく、歯に衣《きぬ》を着せぬ物言いであった。 「心得ております」  孫左衛門は、この日出会うて以来、初めて笑顔を見せた。それは会心、とも見える笑みであった。 「今が今まで内分に致しておりましたが、手前は又者《またもの》ながら侍の出、侍の一分に賭けての事にございます。相手方の為人《ひととなり》や容色を内々申し上げるのが至当と存じますが、それでは仲人の本分に外れ、先様への面目が立ちませぬ。先様の御意向次第で御婚礼の前日、結納の品を頂きに参ります。いつ何どきになるやも知れませぬ故、あらかじめ御用意願います」  孫左衛門は、丁重に頭を下げた。  茶屋父子は、呑《の》まれたように言葉なく礼を返した。  座を退きかけた孫左衛門は、思いついたように懐から小さな奉書紙の包を出すと、修一郎の前に置いた。 「これは、或《ある》いはお心当りがあるやも知れぬと思い、持参致しました。御子息さまへの贈物にございます。あとでお改め下さいますよう……」  座をすさって、孫左衛門は部屋を出た。  修一郎は、吾《われ》に返って奉書紙の包を開いた。幾重にも包んだその中に、香木の薄片が入っていた。 「…………」  伽羅《きやら》の香りが馥郁《ふくいく》と立籠《たちこ》めた。      六  冬の京の町は、比叡下《ひえいおろ》しで冷え切る、という語呂合《ごろあわせ》の俗言通り、深々と寒さが身にしむ日であった。  寺坂吉右衛門は、洛西を探しあぐね、ついうかうかと御室《おむろ》から北野のあたりを彷徨《さまよ》い歩いていた。  老いの身に寒さは一入応《ひとしおこた》えた。昼食《ちゆうじき》を採りそこねた空き腹が堪《こら》え性《しよう》を無くしていた。  ——どこぞ、休む所はないか。  疲れた足を曳《ひ》く道の傍《はた》に、石屋の職人がかじかむ手を焚火《たきび》で温める姿が眼に映った。 「済まぬ。少々当らせてくれぬか」  欲も得もなく摩《す》り寄った。 「へえ、どうぞ気随にお当りやす」 「冷えるのう、今まで気付かなんだが、石工とは冬に辛い仕事だな」 「ほんまどす。何せ相手が大けな冷え物やさかいなあ……」  見るとはなしに、石工が彫っている墓碑に眼を移した。「清誉貞林|法尼《ほうに》」とある。  ——ほ、尼どのの墓か。  焚火に当る身体の向を変えながら、碑の横面の細字を読んだ。 (二条寺町一文字屋可留、久右衛門|妾也《しようなり》)  更に一行。 (為十三回忌供養、女《むすめ》可音|建之《これをたつ》)  一瞬、そそけ立つ衝撃が襲った。  山科の隠宅を引払った内蔵助は、一時期三条高倉の茶屋|業平庵《なりひらあん》の離れに移り住み、可留と暮した。その頃は池田久右衛門という名を使った。因《ちなみ》に当時は妾というのは賤称《せんしよう》ではない。身分格式ある者は武家町人を問わず、妾・側室を持つのは常識の範疇《はんちゆう》であった。家系の絶えるのを避けるためである。 「…………」 「もし、お気分が悪いのと違いまっか」  石工が、血の気の失《う》せた吉右衛門の顔を覗《のぞ》きこんだ。 「いや、この墓だ、注文主は誰か教えてくれぬか」 「へえ、これはお寺はんのお取次どす」 「その寺はどこだ。いや、済まぬ、実はその墓の主を長年探しておったのだ」 「それは奇縁どしたなあ……今出川千本《いまでがわせんぼん》の上善《じようぜん》寺はん言いましてな。この道を東へ向うて十二、三町ほど……」  今出川通千本西入ル、浄土宗|千松山《せんしようざん》上善寺。寺で訊《き》くと施主はすぐ分った。洛西|大枝《おい》中山の外れ、一切庵《いつさいあん》という尼僧庵の離れ家に住む。使いの者は初老の者で、刈屋孫兵衛と名乗った。  ——大枝ノ坂の山中か……。  時刻が遅いのも忘れた。ただ一途《いちず》に孫左に会いたかった。吉右衛門は蒼惶《そうこう》と洛西に向った。  大枝の山に、日暮が迫っていた。  いや増す寒さの中で、孫左衛門と可音は囲炉裡端で黙然と火を瞶《みつ》めていた。 「明日……桂ノ里人が茶屋家《ちややけ》に出向き、結納の品々を受取って参ります」 「それで、明後日……」 「婚礼となります。その日を以《も》って可音さまは茶屋家の嫁御寮……行末めでたき御身とならせられます」 「…………」  可音は、そっと小さな溜息《ためいき》を洩《も》らした。 「どうなされました、可音さま……まだお気がすすまれませぬか」 「いえ、女子はいずれ、このようにして嫁ぐが身の定め……孫左が選んでくれた縁《えにし》に不足はありませぬ。まして八瀬《やせ》でひと目見た殿御は、好ましいお人柄であった……」  可音は、思いつめたように、孫左衛門を見た。 「でも……この晴れやらぬ切ない思いは何であろう、孫左……」 「さあ……」  孫左衛門は、言葉に詰った。 「これは、そなたの所為《せい》……可音はそう思います。何でこの長い年月、共に暮してきたそなたと別れねばならぬ。そなたも寄る年波、その強情の角《つの》を折って、可音と共々茶屋の家に入ってたもれ。茶屋の家とて無礙《むげ》に拒みはすまい。屹度《きつと》喜んで迎えてくれましょう。そうしてたも。可音が一生の願いです」 「可音さま……」  孫左衛門は、血涙を呑む様子であった。 「折角の思《おぼ》し召し……孫左めもそう致しとうはございますが、まだ一つ……お役目を仕残しております」 「それは……いえ、いつも言いやるように、男子《おのこ》の大事、強いて聞こうとは思いませぬ。ならばひと言、約束してくれますか、そのお役目果した暁は、屹度《きつと》可音の許《もと》に戻ってくれますね。屹度……」 「…………」  頷《うなず》きかけた孫左衛門は、外の気配に振向いた。可音も見た。  表戸が、がらりと開いた。  吐く息荒く、寺坂吉右衛門が立っていた。 [#改ページ]  事《ことに》有終始《しゆうしあり》      一  囲炉裡端に突立った孫左衛門と、戸口に立った吉右衛門は、暫《しば》し睨《にら》み合った。 「吉右衛……吉右衛門か」  孫左衛門は、信じ難い思いで呟《つぶや》いた。 「孫左……」  吉右衛門は、感動をこめて呼びかけた。 「絶えて久しいのう、おぬし……息災で何よりだ、随分と探したぞ」  一歩、また一歩と、歩み寄った。 「ま、待て、吉右衛、寄るな、寄ってはならん」  孫左衛門は、狼狽《ろうばい》して、咄嗟《とつさ》に傍の道中差を掴《つか》んだ。 「何だ、孫左、何をうろたえくさる。こちら可音さまであろ、御意を得たい」 「ならぬ、吉右衛、お、おれはいい、おれはおぬしに危害を加える心算《つもり》はない、だが……おぬしがこれ以上差出た振舞いをすると、只《ただ》は済まされぬ、せ、瀬尾孫左衛門、十六年前のおのれに立返って、おぬしを斬《き》らねばならぬ」  孫左衛門は、しどろもどろだった。 「何を言う、何でわしがおぬしに刃を向けられねばならん……わ、訳を言え、訳を」 「き、吉右衛、ここでは憚《はばか》りがある、外へ出ろ……外へ」 「な、何でだ、何でこの場で言えぬ」 「ええ分らぬか、ここにおわす可音さまは内蔵助さまの御子ぞ、事と次第に依《よ》ってはお聞かせできぬ訳もあろう。おぬしの言い条、おれが先《ま》ず聞く。外へ出い。ともあれ出いと申すのだ」  孫左衛門は吉右衛門の前に立塞《たちふさ》がると、道中差を横ざまに押し立てた。  ——吉右衛め、内証で会いにくる事か、おおびらに面《つら》を顕《あら》わされては、莫逆《ばくげき》の友であれ庇立《かばいだ》てはできぬ。屹度糺明せねばおれの侍が立たぬではないか……。  三日の月が山の端にかかっていた。星月夜の下、ぞくぞくと迫る寒気も忘れて、孫左衛門と吉右衛門は対峙《たいじ》した。孫左衛門の手に抜身の白刃が光芒《こうぼう》を放ち、吉右衛門もまた大刀の柄頭《つかがしら》に手がかかっていた。 「いま一度念を押すぞ、おぬしが討入後、一統から抜けたのは、内蔵助さまのお指図によると申すのだな」 「それで無《の》うて、何でわし一人が抜けられよう……討入の事済ませ泉岳寺へ引揚げと決ったのは五ツ(午前八時頃)近く……それが両国橋で遮ぎられ、永代橋に廻る頃から御公儀手の者のきびしい眼がついた。大石さまの周到な手配りがなくては、土地不案内のわしが無事江戸を抜け出せる訳がない」 「…………」  孫左衛門は昏迷《こんめい》に堪え、ともすれば萎《な》え勝ちの手足を辛うじて支えていた。 「赤穂浅野の廃絶以来、御公儀の仕様は苛酷《かこく》の一語に尽きる……その御公儀が討入の始末にどのような讒謗《ざんぼう》を世に流すやも計り知れぬ。それを封ずる手は、世に生き証人を残すしかない。一統が処断された後もその方一人は生きて生き抜け、それが大事の役目である……」  吉右衛門は、迫る感慨に堪えて声を励ました。 「吉右衛よ、そちの盟約は解かぬ。何年何十年生き延びようと、その方は四十七士の一名である……それが大石さまの最後のお言葉であった……」 「…………」 「寺坂吉右衛門」  凜《りん》、とした声がかかった。いつ出てきたか可音が雑木林の外れに立っていた。 「そなたの節義、確かにこの可音が見届けました。長の年月、辛苦さぞかしと察し入ります。亡き父に代って礼を申します。この上ともに身をいとうてくりゃれ」 「は、ありがたきお言葉……」  思わず吉右衛門は膝《ひざ》を折り下座した。 「そのひと言にてこの吉右衛、惜しからぬいのちを長らえた甲斐《かい》がございました。何ともありがたく……」  大地に支《つか》えるその手に、飛付く孫左衛門だった。 「吉右衛……」 「孫左よ、おぬしもようやった……近衛家の進藤さまが大方を察しておられた。おぬしは大石さまに頼まれて、可留さまの面倒見に京へ立戻ったのであろう。その忘れ形見の可音さまをこうして拝み見る……ようやったのう……ようやった……」  半白初老の二人は、幼な児のように手をとり合って歔欷《きよき》した。  利鎌《とがま》のような寒月は、動かぬ三人の主従に冴《さ》えた光を投げかけていた。      二  夜が深々と更けわたるのをよそに、可音と孫左衛門、吉右衛門の三人は、囲炉裡端に坐《すわ》っていた。  焚木《たきぎ》が尽きかけると、孫左衛門は昨年の暮に切倒した庭木の焚木を投じた。庭木は十六年前、長岡天神の家を売払い、この地に移った際に苗木を植えた牡丹《ぼたん》であった。  その花が咲くのを待たず、可留は薄命の一生を終えた。翌年か細い枝に花をつけたその牡丹は、可音と共に育ち、年々|馥郁《ふくいく》の香を伝えた。  昨冬、孫左衛門はその樹を切った。  ——これが最後、可音さまの武家女《ぶけむすめ》の生涯は終る。  断ち難い思いを断ち切る伐樹であった。その牡丹の焚木は、花の色をそのままに、くれないの色の光を放って燃えた。 「あの夜も寒さつのる夜だった……」  孫左衛門は、思い出を辿《たど》った。それは元禄十五年(一七〇二)十二月十三日、討入の前夜だった。  仮住居の後始末に忙殺されている孫左衛門に、内蔵助は茶を振舞った。  瀬尾孫左衛門は、大石家代々の用人であった。当代孫左衛門はその血を継いで実直そのものの性格だったが、剣才に乏しく、その半面計数に長《た》け、古器|古董《ことう》の道に達人の定評があった。  孫左衛門は、�その儀に及ばず�と内蔵助に説得されたにもかかわらず、敢然と盟約の末尾に名を連ねた。彼は内蔵助の蔭《かげ》に生き蔭に死することに何の疑念も持たなかった。  折柄《おりから》、討入前夜、悽愴《せいそう》の気みなぎる中に脱盟逃亡者が相次いだ。その数七名。為《ため》に戦闘の中核となる突進隊を、表門裏門各一組を欠く有様となった。  その最中《さなか》、内蔵助は忠誠を尽す瀬尾孫左衛門に脱盟を慫慂《しようよう》した。 「そちは又者《またもの》、赤穂浅野の侍の義を尽すより、大石の家士として、わしというあるじの煩悩のため、そのいのちを使ってくれぬか」  内蔵助は、討入に備え、妻りくを離別したあと、進藤源四郎に引合わされた十七歳の女《むすめ》、可留と結ばれた。その可留は、内蔵助が京を去るとき、身籠《みごも》っていた。  京の二条寺町、筆墨師一文字屋次郎左衛門が、下婢《かひ》に手をつけて生ませた娘の可留は、婿養子の父と家付娘の義母、異母兄姉の白眼|蔑視《べつし》の中に育った幸わせ薄い女子であった。 「りくとその子には、但馬《たじま》豊岡に歴とした親がおる。家がある。だが、可留にはそれがない。二九《にく》(十八歳)に満たぬ若い身空でわしの子を生んで、行先どう育てどう暮すか……それが心残りである」  内蔵助は、辛《つら》い心情を吐露した。 「悪いあるじを持った、と思うてくれ。盟約を捨てれば一生心が痛み、世に汚名が残るやも知れぬ。だが、余人には頼めぬことをそちに頼みたいのだ。可留とその子をみとってくれ、同志四十六名と相手方百三十を死に追いやる今の今、わしにこの世の未練を残させんでくれぬか」  頼む……と、深々と頭を下げる内蔵助の姿に、孫左衛門はおのれの命運の定まるところを覚《さと》った。  京に馳《は》せ戻った孫左衛門は、可留とその子に討入の連累の罪の及ぶのを避けなければならなかった。内蔵助が買い与えた長岡天神の可留の家を売り払い、大枝《おい》の山中、尼庵《にあん》の畔《ほと》りに隠れ家を建て、移り住んだ。 「可留さまはなあ……一統切腹の噂が伝わっても、それをお信じなさろうとはせず、日夜|蔭膳《かげぜん》を供えられ、内蔵助さまのお帰りを待たれた……貯《たくわ》えの中から春着、夏着、そして冬着と、内蔵助さまの四季の着物を仕立てられ……今日か、明日かと、待ち続けられ……それが今、可音さまが婿どのの引出物となった……」  大石内蔵助ら四十七士の偉業も世人の賞讃《しようさん》も、知ることなく世を去った可留であった。享年二十、花の盛りであった。  大赦の布令《ふれ》というのは、世人の末端に伝播《でんぱ》するものではなかった。そのため孫左衛門の世を忍ぶ生きようは、その後も続き、今に至った。  その不自由な生きようの中で、孫左衛門は精一杯の苦闘を続けた。襁褓《むつき》の中から幼な児《ご》の可音を育て、貯えが尽きると西国の神社仏閣を廻り、寄進の古器古董を買い漁《あさ》って京の名家に売り、暮しを支えた。  可音の養育は、身を寄せた尼庵の老尼が吾子《わがこ》のように愛《め》で慈しみ、力を貸してくれた。その老尼の献身なくしては、今日の可音は有り得なかったであろう……。 「それにつけても、思うのだ。返らぬ繰り言だが、せめてひと眼……あすの可音さまの晴れ姿を、可留さまにお見せしたかった……なろうことなら町家に嫁がせたいと、今際《いまわ》の際に言い残された可留さまになあ……」  牡丹の焚木が音立てて弾《はじ》けた。  紅の炎が、果かない可留の一生を物語るかのように、美しく輝いていた。  可音が寝所に去ったあと、吉右衛門と孫左衛門は黙然と囲炉裡端に向き合っていた。  孫左衛門の顔は、暗く沈んでいた。先ほどまで見せていた友垣《ともがき》との再会の喜びの色は消え失《う》せていた。 「辛かろう。長の年月手塩にかけた可音様を嫁がせるというのは……」  吉右衛門は、察していた。  花嫁の父、という言葉がある。婚礼間近の娘を持つ父親の感傷は、耐え難いものだという。  まして孫左衛門の可音養育の苦労は、並大抵ではなかった。世の父親の比ではない。 「ようやったぞ、孫左……おぬしの艱難《かんなん》辛苦、赤穂四十六人の同志に比べて優《まさ》るとも劣るものではない……おぬしは討入に加わらんでも、赤穂浪士の立派な一人だ」  吉右衛門は声を励まして言った。ほかにどのような慰めの言葉があろう、精一杯の言葉だった。  だが、孫左衛門の顔に喜色は浮ばなかった。彼は顔を上げると吉右衛門を見詰め、ゆっくりと首を横に振った。 「…………」 「聞いてくれるか、吉右衛……」 「…………?」 「おぬしだけには言える。言わずば耐えられぬ気がするのだ」 「……よし、聞こう。言うてみい」  吉右衛門は、居ずまいを正した。 「おれは……」  孫左衛門は、苦悩に満ちた呟きを口にした。 「おれの心には……魔が住んでいた」 「…………」  吉右衛門は、愕然《がくぜん》言葉を失なった。 「おれの一生は……魔との戦いであった……それも程なく終る……それがまた、耐え難いのだ」  吉右衛門は知った。孫左衛門が内に秘めて、決して外に出すことのなかった情熱を。  それは、禁断の恋情であった。 「…………」  二人の老体は、それきり言葉を失って、凝然と動かなかった。  囲炉裡の牡丹の焚木は燃えつきて、白い灰となっていた。      三  京、堀川通|鞍馬《くらま》口下ル、臨済宗|紫雲山瑞光院《しうんざんずいこういん》。  播州赤穂浅野家京都|菩提寺《ぼだいじ》である。元禄十四年八月十四日、大石内蔵助は亡主内匠頭長矩の形見代りの衣冠束帯を埋め、供養墓を建立した。  因《ちなみ》に、瑞光院は昭和三十七年、山科安朱堂ノ後町に移転し、旧地には「瑞光院跡」の碑を残すのみである。  享保四年二月四日、赤穂四十六士十七回忌に当り、京大坂在住の旧赤穂藩士百余名が集い、法要が営まれ、境内に供養墓が建立された。施主は関白近衛家家宰、諸大夫進藤播磨守長保、旧藩士進藤源四郎であった。  法要は昼下り、九ツ半(午後一時頃)に始まり、七ツ刻(午後四時頃)まで続いた。噂を聞いて物見高く集まった町家の者多く、近来|稀《まれ》にみる盛大な催しであった、と物の本に伝えられている。  法要が済むと、所用あって退座する者もあって、斎《とき》の膳が振舞われた際の参会者は百を欠ける人数であった。  頃おい寒の季節である。きびしい寒さに堪えていた参会者は、般若湯《はんにやとう》にひと息ついた。酔いが腹中を温めると自然に口もほごれ、久闊《きゆうかつ》を叙す言葉がそこここに湧《わ》いた。  ——どうやらこれで、わだかまりも少しは消えるであろう。  進藤長保は、冷酒《ひやざけ》を口に運びながら、心なごやかに一座を見渡していた。  ——これも、内蔵助どのの人徳か。  その思いが強い。五代将軍綱吉公の治世以来、除封廃絶となった大名家は四十を越えるが旧家臣が集いを持った家は一家もない。いずれもが流亡落魂《るぼうらくはく》し、悲惨の一語に尽きる有様である。それが赤穂浅野に限り多少の貧富の差こそあれ、その日の暮しに事欠く者の皆無は、正に稀有《けう》と言っていい。しかもそれが藩廃絶後、高家討入という未曾有《みぞう》の大事を惹起した藩である……。  ——その遺徳を、この者たちは感じているのだろうか。  それが、どうも心許《こころもと》ないのである。神妙に法要の座に着いてはいたが、面倒見に与《あずか》った義理ずく、という感は否めない。それが証拠に、酒が廻《まわ》ると浮々と話が弾む。声高になる……。  ——いや、そう推量しては悪い。内蔵助どのは徳を施そうなどという気は微塵《みじん》もなかった。こうしたたまさかのなごやかさを望んでおられたのだ。  吾《われ》、かの人に遂《つい》に及ばず……長保がそう自省した折であった。賑《にぎ》わう座が一角から不意に静まり、波のように一座を領した。 「寺坂だ」 「寺坂吉右衛門」 「足軽の吉右衛ではないか」  吉右衛門の名が、旧藩士の中で話題となって久しい。討入後の脱盟は様々な論議の種となった。討入後の事ゆえ一統の中に加えるべきであるという論と、公儀の処断を恐れての逃亡ゆえ、脱盟者と見做《みな》す論が渦巻き、いまだに決着をみない。  その話題の主、寺坂吉右衛門が、法要の終って後に姿を現わした。血の気の失せた顔、血走った眼が、異様に映った。  吉右衛門が昨夜、大枝の山中に時を過し、一睡もしなかった事は、誰一人知る由もなかった。  小半時《こはんとき》(約三十分)余り前、着附と化粧のため大坂から呼び寄せた女たちは、法外かとも思う祝儀の金を押し頂いて去った。  大枝中山の家に在るのは、可音と孫左衛門のみであった。二人は奥の三畳の仏間に坐り、仏壇に向い、長い間祈念にふけっていた。   忠誠院刄空浄劔居士  その内蔵助の位牌《いはい》の横に、側室は家来分に当るとあって飾れぬ可留の位牌、   清誉貞林法尼  が、この日は並べて立てられていた。 「孫左」  合掌を解いた可音が呼びかけた。 「思いは尽きませぬが、そろそろ時刻……参りましょう」 「畏《かしこま》りました」  未練を断ち切る強い動作で片膝立てた孫左衛門は、座を立つ可音に手を助《す》けた。  白無垢《しろむく》、綿帽子の可音が、静々と家を出る。表口にはこの日のために孫左衛門が、かねてからしつらえておいた女乗物が、晴れと磨き飾られ、大枝ノ坂を越えた篠村《しのむら》の里人四人が担ぎ手として待っていた。  女乗物は、竹藪《たけやぶ》の小道を抜ける。邪魔な竹はあらかじめ払っておいた。  程なく山陰道に出る。孫左衛門はかねて用意の松明《たいまつ》に火を点《とも》し、左右に打振った。  日の暮迫る長い坂道に、一|時《とき》(約二時間)余り待機していた荷運びの行列は、孫左衛門の合図に応じて、一斉《いつせい》に松明の火を点じた。長持だけでも三十|棹《さお》を越える。人足総勢三百人に達する前代未聞の大行列であった。  その盛昌《せいしよう》に、瀬尾孫左衛門の畢生《ひつせい》が籠められていた。  行列は粛々と坂路を下る。樫原《かたぎはら》から桂《かつら》ノ里へ、小半里で最初の休息をとった。  人足たちに湯茶と軽い食物が振舞われる。その合間に孫左衛門は、乗物の可音の許へ伺候《しこう》した。 「ご気分は悪《あ》しゅうなられませぬか」  白湯《さゆ》を啜《すす》っていた可音は、孫左衛門につぶらな眸《ひとみ》を向けた。 「いいえ、斟酌《しんしやく》には及びませぬ、それより……」 「は?」 「孫左は人を驚かせます。これほどの行列とは思いも及びませんでした」  可音は、端麗な顔に微笑みを浮べた。ふるいつきたいほどの笑顔であった。 「恐れ……入りまする」  孫左衛門は、膝の震えるのを止《とど》め得なかった。  日はとっぷりと暮れた。行列が丹波口《たんばぐち》へ入り、七条堀川に差しかかったのは、凡《およ》そ酉《とり》ノ下刻(午後七時頃)であった。      四  数ある都大路の中で、京の街衢《がいく》の真中を南北に貫通する堀川通は、西陣の友禅染を晒《さら》す豊かな流水を道筋に並列させることで、他に類例を見ない。  酉ノ下刻、孫左衛門の宰領する嫁入行列は、南の端近い七条堀川に入り、ゆるゆると北上した。  物静かな行列であった。三十棹を越える長持と、それに見合う諸道具荷物、それらを担う三百近い人足は、黙々と歩いた。掛声ひとつ掛ける者なく、私語を洩《も》らす者もなかった。  更に、その行列には、寿《ことほ》ぎ祝う身内縁者もなく、賑やかしの客もない。いかにも異様であった。  ——せめて、埒外《らちがい》の客を作っておくべきだった。  孫左衛門は悔いた。嫁入先で可音が負い目引け目になりはせぬかと、ただそれのみを恐れた。 「可音さま」  孫左衛門は、乗物脇に寄って、声を掛けた。 「心寂《うらさび》しゅうございましょう。行き届かぬことにございました」 「何の寂しいことがありましょう、孫左がついてくれますものを」  乗物の窓の簾《すだれ》越しに、白い可音の顔が、微笑む気配があった。 「恐れ……入ります」  つ、つと退《さが》って列外に出た孫左衛門は、初老の人足頭に顎《あご》で促した。  丹波|亀山《かめやま》(今の亀岡)の人足頭は、寂《さ》びた低い声で木遣《きや》り歌を唄《うた》った。後世めでたき行事の祝歌《ほぎうた》となった木遣りは、元々重き荷を運ぶ音頭《おんど》であった。  同郷の人足たちは、寂声《さびごえ》に和して歩並の調子を整え、足を運んだ。歌声は暗い街並に流れて消えてゆく。  暗い、あたりは漆黒の闇であった。普段は一点の星影をも映す堀川の川波も、黒い闇の中で、ただたゆとうばかりであった。  ——説話に聞く、無明長夜の闇とは、このような様か。  その黒闇々の中に、ぽつりと黄の一点があった。眼の星かと見る間に、点は二ツ三ツと増して、道の辺に続く。それは提灯《ちようちん》の灯《あかし》であった。  提灯を手にした者が、点々と、数知れず続いていた。その最初の人影は、白髪の小さな茶筅髷《ちやせんまげ》を結った紋付羽織袴《もんつきはおりはかま》の町人であった。 「恐れながら……大石内蔵助どの御息女のお行列とお見受け仕る」  姿に似ぬ侍言葉であった。 「承《うけたまわ》る」  すかさず進み出た孫左衛門が応じた。 「手前、元赤穂浅野家家中、小姓頭、月岡治右衛門と申す者にござる」  赤穂浅野家廃絶に際し、内蔵助は多川九左衛門(物頭五百石)と月岡治右衛門(小姓頭三百石)を江戸に急派し、刃傷《にんじよう》事件の真因と諸般の事情を探らせた。だが両名とも浅野家|親戚《しんせき》筋の大垣戸田家に籠絡《ろうらく》されて役目を果せぬのみか、帰城後は恭順開城派に与《くみ》し、大野九郎兵衛らと早々に退散した。 「累代の侍の身が、侍を捨てる……それがどれほど厳しい道か、われらの思いの及ばぬことにございました。半年一年と経るうち、馴《な》れぬ町家の暮しに失敗《しくじり》続き、たちまち貯《たくわ》えも尽き果て、その日を凌《しの》ぐ糧《かて》もなく、一家心中を決意するに立至りました」  その月岡の横へ、たまりかねたように次々と町人態の者が並んだ。 「手前は元鉄砲組、金森左兵衛と申します。手前も同様の仕儀……」 「手前は元銀座横目、陰山惣兵衛にござる」 「拙者、作事方、脇屋三左衛門……」  月岡が制して、言葉を続けた。 「そうした元藩士の窮状に、大石どのは、討入の企てにいのちを削《けず》る傍らで、われら……志の違う者たちへも、あれも元家中、長の年月苦労を共にした者たちと、お心配りをいただき、大坂天満の天川屋どののお手配にて、急場を凌ぐことを得ました」 「われらも同様……その後もお見捨てなく、御面倒見に与り、こうして今日を暮させて頂いております」 「われら今日あるは、亡き大石さまの並々ならぬ御配慮の賜物《たまもの》……」 「御恩の程、寝た間も忘れた事はありませぬ」  更に、それに加わる者が続いた。月岡はそれを見確めるように見渡すと、孫左衛門に向直った。 「今宵《こよい》、大石どの御息女の晴れの御婚儀と承り……御恩報じの万分の一にもと、御供|仕《つかまつ》りたく、斯《か》くはお待ち申し上げました。何卒《なにとぞ》、お許し下されたく……」  孫左衛門が見返る女乗物の戸が開いた。綿帽子の下に可音の白い顔が浮びあがった。 「皆さまのお心遣い、嬉《うれ》しゅう思います。目見《まみ》えることの叶《かな》わぬ父に代り、御礼申し上げます」  可音が丁重に座礼するのを見て、孫左衛門はがくっと地に膝《ひざ》をついた。      五 「手前は、元物頭、多芸《たき》太郎左衛門と申す者」 「拙者、元馬廻役、塩谷武右衛門と申します」 「元郡奉行下役、杉野順左衛門にござる」  大坂町家住いの者の挨拶《あいさつ》が相次いだ。万感をこめて立礼だけで済ます者もあれば、詳しく事情を申し述べ、内蔵助の恩情の忝《かたじ》けなさを吐露する者もある。中には感に堪えかね、地にひれ伏して号泣する者さえあった。  十人、二十人、三十人、行列に加わる者は数を増し、心寂《うらさび》しかった一行は、一変して華やかなものになりつつあった。  宰領する孫左衛門は、止《とど》め得ぬ涙に頬を濡《ぬ》らしながら、道を辿《たど》った。  感動の中で、悔いと反省しきりであった。この十六年、世を忍び隠れ住むことを専一に過した。天下を統べる公儀が討入の一統の血縁に、連累の罪を及ぼすであろうことを予期しての、万止むを得ざる仕儀であったが、あまりにも人を信用せず、了簡《りようけん》が狭かった。  ——大石さまは、そうではなかった。  世に響き、青史に残る一挙を企てながら、内蔵助は、企てに洩れた三百近い旧藩士への配慮を忘れなかった。為に、幕府開府以来百に近い廃絶藩の中で、赤穂浅野に限っては物乞《ものご》いや餓死者を出した記録が無い。押借り強盗に堕《お》ちた例も皆無であった。  その恩恵を受けた旧藩士の感謝報恩の一念は、今も絶ゆることなく、伝え聞いた庶出の遺児の婚儀に、如月《きさらぎ》の寒夜を厭《いと》わず、知命《ちめい》(五十歳の称)・耳順《じじゆん》(六十歳の称)の身を以って路傍に立って行列を迎え、労を惜しまず付き随《したが》う。  ——何で……何でこの人たちを頼まなんだ。  おのれ一人の義を立てることに汲々《きゆうきゆう》として、可音の青春の寂しさに思いが至らなかった。この人々と交わりを結んでいたら、可音はもっと楽しく、華やかな日々を送ったであろう。人一代に一度の華燭《かしよく》の典に、参列の者なく、寿ぎ祝う者無きを当然としていた。  ——何たる狭量、何たる浅慮。  悔やみても足らぬ孫左衛門であった。 「手前は小幡弥右衛門」 「三輪喜兵衛でござる。これなるは倅《せがれ》弥九郎」 「生瀬《いくせ》一左衛門と申す」 「山城金兵衛にござります」  大坂在住の者が尽きると、在京の者に移った。孫左衛門が忘れ難い顔が並ぶ。小幡らは討入前の鍛練時に、脱盟した者たちである。  内蔵助の命を受けた進藤長保は、その者たちへも救いの手を差伸べ、公家出入りの小商いを営ませた。 「灰方《はいかた》藤兵衛にござる」 「長沢六郎左衛門と申す」 「岡本次郎左衛門」 「小山源五右衛門にござる」  灰方と小山は、内蔵助の親戚に当る。これらの者は、内蔵助が京山科にある頃、同志の中で重きをなしたが、討入に不向《ふむき》と見た内蔵助は、進藤長保や奥野将監を関白近衛家と日野家の家宰家司に推挙した際、公家侍として再仕官させるよう取計らわせた。  公家奉公した旧藩士は、雑掌や小者を合せて六十余名。うち堀川通に参集して可音の行列を迎えたのはその半数を越えた。  堀川通を南から北へ、五条あたりから始まった出迎えの旧藩士は、四条・三条と数を増し、二条堀川の茶屋四郎次郎屋敷の門前までに、その数八十名に達した。  茶屋家屋敷表には、昼をあざむく篝火《かがりび》があかあかと燃えていた。婚礼当夜を迎えた茶屋家では、夕刻より物見の者を丹波口に派し、嫁入行列の模様を探らせた。その行列が長持だけで三十荷を越えるとあって、茶屋家では篝火の数を増やし、婚儀の規模を拡大して、万端疎漏なき華燭《かしよく》の宴に備えた。  嫁入行列は、荷物が先行した。旧藩士の挨拶を受ける可音がやや遅れたためである。宰領の孫左衛門が屋敷表に到着したとき、まず出迎えたのは、寺坂吉右衛門であった。 「孫左、苦労であったのう、ようやったぞ」 「吉右衛、おぬしであろ、可音さまお出迎えの人数は……おぬしの計らいとみた」  孫左衛門は、吉右衛門の手をとると、押し頂いた。疲労の色濃いその顔は、とめどのない涙で濡れていた。 「有難や、おぬしのお蔭《かげ》で救われた。わしの浅慮を今ほど思い知った事はない。おぬしこそ掛け替えのない友垣だ」 「まあ待て、孫左、すべてがわしの計らいではないのだ。真のご配慮はこのお方だ、進藤播磨守さまである」  吉右衛門は、傍の進藤長保に引合わせた。 「おお、進藤さま」 「一別以来、久しいのう、孫左……そちの長年の苦労、徒《あだ》には思わぬぞ」  二人が万感の思いで瞶《みつ》め合ったとき、八十余名の参列者を従えた可音の女乗物が到着した。  門前の人だかりの中から、恰幅《かつぷく》のいい老人が進み出た。老人は地に下りた乗物に向って深々と頭を下げた。 「大石どのの格別なお計らいにて、日野大納言家に仕え、家司を務めおります奥野将監にござる。大石どのには言葉に尽せぬ御厚恩を受け、余生を赤穂旧藩士の世話に捧《ささ》げおります。本日はまことにめでたき御婚儀、一同と共に心より御祝い申し上げる」  奥野将監、元|番頭《ばんがしら》一千石、内蔵助に次ぐ重役であった。古武士を思わせる風格に、同志の信望を得たが、内蔵助は討入という非常の企てに不向とみて、公家日野家家司に推挙し、企てに洩れた旧藩士の救済に当るよう慫慂《しようよう》した。  奥野にとっては、その内蔵助のすすめは正に神の声であった。格式にこだわり、法制に背く事に逡巡《しゆんじゆん》の思いを捨てきれぬ奥野は、内蔵助の言葉に従い、公家奉公する事に生甲斐《いきがい》を見つけたのである。  ——人に死ぬことの意義を与えた大石どのは、一面人に生きる道を与える達人でもあった。  乗物の引戸を開け、礼を返す可音の可憐《かれん》な姿に、いま一人の老人が歩み寄った。杖《つえ》つくその町人態の老人の姿は、痛々しく見えた。  老人は、可音に丁重に一礼して、咳《しわぶ》きをまじえ、とぎれ勝ちに口上を述べた。 「てまえ……元、赤穂浅野家、城代家老……大野九郎兵衛でござる……」  絶えて久しきその名を、今聞く。卑怯《ひきよう》、未練、貪官《どんかん》汚吏の悪名のみ世に喧伝《けんでん》され、誤って伝えられた例を他に見ない。  性は善良であった。但し治世の良吏と言える。確立した制度の下、法条令を守って誤りなかった。その点、賢愚定かならずと韜晦《とうかい》して、非常の時に備える大金を貯えた内蔵助の方が悪人と言える。  大野は官僚組織の申し子であった。治世に強いが乱世に弱い。内蔵助と対立して恭順開城論を唱え、大勢非に傾くといち早く退散した。  だが内蔵助は大野を見捨てなかった。恭順開城論に与《くみ》した二百名近い藩士は、その殆《ほと》んどが侍を捨て町家暮しに生計《たつき》の道を求めた。それらの指導と救済を大野にゆだね、豊富な資金を提供したのである。  大野もまた奥野と同様、旧藩士の救済に生きる道を得た。以来十六年、内蔵助の遺命を奉じて余生を送った。 「内蔵助どのは……われらの遠く及ばぬ才略と、それを越える人の情《なさけ》を持ち合わせておられた。それを思うと……われらは……侍とは言い条……無為徒食の輩《やから》も同然であった……」  大野九郎兵衛は、可音の乗物の前に崩れるように坐《ざ》すと、耐《たま》らず嗚咽《おえつ》、絶句した。  八文字に開いた茶屋家の門からこの日、当主を継いだ当代茶屋四郎次郎と、隠居の身となった茶屋宗古が、揃って出て、嫁御寮を迎えに立った。  乗物を出た白の打掛、綿帽子の可音が、進藤長保の手を借りて進んだ。馥郁《ふくいく》の伽羅《きやら》と体臭の入り交った香りが、あたりを包んだ。      六  華燭の宴は、さしも宏壮の茶屋屋敷も溢《あふ》れんばかりの盛況を呈した。  過ぐる元禄十五年十二月十四日の赤穂浪士の壮挙は、年と共に評判は高まり、世上知らぬ者は無いと言われた。  その頭領であり、元赤穂浅野家筆頭国家老大石内蔵助庶出の女《むすめ》、とあって、可音を迎えた茶屋家の喜びは並々ならぬものがあった。それにも増して、八瀬《やせ》で瞥見《べつけん》し、忘れかねる思いを抱いた佳人を得た修一郎こと当代四郎次郎の満悦は、言語に絶したと言えよう。  婚儀の仲立ちは、瀬尾孫左衛門に代って、関白近衛家の家宰、進藤播磨守長保が相務めた。これまた茶屋の家にとっては、満足この上ないものであった。  宴は、夜が更けるにつれて、より盛んになり、いつ果てるともなく続いた。  その最中、寺坂吉右衛門は、いつともなく瀬尾孫左衛門が姿を消したことに気付いた。  ——心労に疲れ果て、屋敷の片隅ででも憩うておるのか。  そう思って、家人に尋ね、探し廻《まわ》ったが、姿を見掛けた者が無い。  途方に暮れて足を止めた吉右衛門は、ふいに胸にこみ上げた熱感に、吾《われ》にも非《あら》ず狼狽《ろうばい》した。訳がわからない。夢中で呑《の》み下し、撫《な》で擦《さす》るうち、涙が溢れ出た。  吉右衛門は、憑《つ》かれたもののように屋敷を出ると、道を辿った。歩きながら胸せき上げ、溢れる涙を止めあえず、赤子のように歔欷《きよき》し続けた。  どこをどう歩くという意識のないままに、道は今出川千本から北野、御室《おむろ》と、つい二日前、洛西|大枝《おい》中山へ辿った道をそのままに、無我夢中で歩き続けた。  ——孫左よ、なぜに声を掛けなんだ。おぬしの心情を誰よりも知るこのおれに、何故ひと言、声を掛けぬ。あまりにも素気《すげ》ない振舞いと思わぬか。  吉右衛門は、胸のうちで懸命に、そう呼びかけ続けていた。  ふと吾に返ると、竹林の小道に立っていた。大枝中山の山中、無住の庵室一切庵の裏手である。いつしか夜は明け染めて、濃い朝靄《あさもや》がたちこめていた。  眼前に、孫左衛門の住居があった。横手の井戸端に、人が水浴びした跡がしとどに濡れ残っていた。  ——孫左。  声にならず、急いで裏戸を押し開け、中へ踏み込んだ。  香の匂いが鼻をかすめた。開け放した板戸の向うは三畳の仏間である。仏壇の前の経机に、黒漆金泥の大石内蔵助の位牌《いはい》と、小ぶりの可留の位牌が並び、香が手向けられていた。  かそけく立上る香煙を前に、孫左衛門が端座していた。禊《みそぎ》して着したのであろう、黒の麻裃《あさかみしも》姿であった。討入の前夜、脱盟するとき与えられた形見の品と見えた。大石家の家紋二ツ巴《どもえ》が白く映えていた。  孫左衛門は、生あるものに呼びかけるように、低く呟《つぶや》いていた。 「さても大事の折……われも御供仕るべき身が、大事の御用仰せつけられ……その甲斐もなく、先に可留さまをお見送り致し……今宵|漸《ようや》くに御子、可音さまの御|輿入《こしいれ》を相済ませ……奉《たてまつ》る。仰せ聞けられましたる用事、先《ま》ずはこれにて相済ませましたる上は、今は早や別段の事これ無き身……遅れ馳《ば》せながら三世《さんぜ》の縁《えにし》、輪廻《りんね》の果てに御供仕る……」  孫左衛門は、肩衣《かたぎぬ》を撥《は》ね、膝に折敷き、|※[#「ころもへん+身」、unicode88d1]《みごろ》をくつろげ、脇差を抜いて刀身を奉書できりりと巻いた。 「ま、孫左……」 「吉右衛、わしがお役目は終った。おぬしのお役目はまだまだ長い。達者でな」  言いもあえず、孫左衛門は脇差の切先を脇腹に突立て、みごとに引き廻した。 「孫左」  一歩踏込む吉右衛門に、孫左衛門の最後の言葉が掛った。 「介錯《かいしやく》、無用」  腹かっさばいたその切先で、耳の下の頸動脈《けいどうみやく》を断ち切った。  鮮血が飛沫《しぶ》いた。その血を浴びて二つの位牌が真赤に濡れた。壮絶な最期であった。  ——これが、最後の……赤穂侍か……。  吉右衛門は、折から射しこむ朝の陽に、凝然と立ち尽していた。 この作品は平成九年九月、新潮文庫として刊行された『四十七人目の浪士』を改題したものです。 角川文庫『最後の忠臣蔵』平成16年10月25日初版発行