[#表紙(表紙2.jpg)] 四十七人の刺客(下) 池宮彰一郎 目 次  野《の》 分《わき》  凍《いて》 蝶《ちよう》  詭《き》 道《どう》  行《ゆく》 春《はる》  吾亦紅《われもこう》  呼子笛  目《もく》 睫《しよう》  分合為変《ぶんごういへん》  虎落笛《もがりぶえ》  風|蕭々《しようしよう》  寒《かん》 鳥《どり》 [#改ページ]   野《の》 分《わき》      一  大津を早発《はやだ》ちした奥田孫太夫は、逢坂山《おうさかやま》を越えると追分で東海道をそれて、山科《やましな》を南に下った。三宝院の門前を過ぎ、札の辻《つじ》で西へ向う。山科川沿いに小半道歩けば宇治川に出る。間もなく伏見の船着場である。  右手に見える伏見の廃れた町跡は、茫々《ぼうぼう》と枯草のなびく荒地となって、あわれというもおろかな眺めであった。  ——策略でもあろうが、大石どのが伏見に執着するのは、この廃れた町の眺めに赤穂《あこう》を失った淋《さび》しさを噛《か》みしめておられるのではなかろうか。  孫太夫は、言いしれぬ感慨に、ふとそう思った。 「浮さまはおみえであろうか、おみえなくばあずまの孫が誘いというて使いを出してくれ」  笹屋の門口でそう告げると、あるじの清八が急いで顔を出した。 「いえいえ、おみえになっておられますよ。両三日ほど隠れ遊びと仰せられて、居続けなされておられます」  清八は、先に立って案内した。 「孫さまには、ここ暫《しばら》くお見限りでございましたな」 「わしは飛脚稼業だ。忠《ちゆう》さまや十《とお》さまのように色ぼけしてはおられぬよ」  色里では隠し名をつかう。浮さまが内蔵助《くらのすけ》、忠さまは吉田忠左衛門、十さまが小野寺十内であり、孫太夫は孫さま、不破数《ふわかず》右衛門《えもん》は数《すう》さまと呼ばれていた。 「これは手きびしい、お年寄は残りのいのちを思い残すことなく燃やしておられます、色好みと言うてはお気の毒にございましょう」 「言うのう、笹屋、さすがに商売、うまいものだ」  孫太夫と笹屋清八は、ざれ言に興じながら廊下を歩いて行った。  遊び始めて三月《みつき》とたたぬうちに、内蔵助は伏見|撞木《しゆもく》町の人気をひとり占めにした。絶えず大勢を伴うから揚屋・置屋にとっては賑《にぎ》わいのもととなる。金嵩《かねがさ》も増す上に使いようが綺麗《きれい》だった。大尽風を吹かせてむだに撒《ま》くわけではないが、目に見えぬところに気配りを忘れない。その細かい心配りが人を惹《ひ》きつけた。  それに、相方の遊女がどれも内蔵助に眷恋《けんれん》した。内蔵助は浮気性で、行く先々に馴染《なじみ》を持った。升屋の夕霧、島原|桔梗《ききよう》屋の浮舟、仲之町一文字屋の浮橋などの名が残っている。それらが嫉妬《しつと》することなく内蔵助を慕ったのは、色恋というより、寄る辺なき身に安らぎを覚えたのであろう。小肥《こぶと》りで背が低く、田舎者じみた風貌《ふうぼう》の内蔵助が男女を問わず人心を掌握し得たのは、鋭利な冴《さ》えではなく、鈍重に見えて接する者の心に安らぎを与えるその人柄にあった。  笹屋清八をはじめ、伏見の色里の者はこぞって内蔵助とその一統を贔屓《ひいき》するようになっていた。そうでなければ会合の機密は必ず洩《も》れたに違いない。伏見を管轄する奉行|建部《たけべ》内匠頭《たくみのかみ》が、完璧《かんぺき》な瞽人聾耳《こじんろうじ》同様におかれたことがその機微を如実に物語っている。  笹屋の案内で、孫太夫は、奥庭の農家造りの離れ家に通った。土地が有り余る伏見の色里は、揚屋の敷地も広い。 「おお、孫どのか、ようみえた。疲れたであろ、これへ……」  上がりはなの囲炉裏端で、内蔵助は、町家の若女房風のキリリと身じまいした相方の夕霧の給仕で、茶漬飯を食っていた。 「どうかな、一|膳《ぜん》、相伴《しようばん》せぬか」 「いや、折角ですが、夕餉《ゆうげ》間近ゆえ平《ひら》に……」 「それもそうだ、わしは昔からこらえ性が無《の》うていかぬ」  内蔵助が中途で箸《はし》をおくと、夕霧が膳を下げ、持って出て行った。そのすらりとした立ち姿は、研ぎすました白磁の美貌と相まって、撞木町随一の名を得ていた。 「近頃、女子《おなご》の好みが一段と広うなられましたな」  夕霧の細目の長身を見送って、孫太夫は感に堪えぬように言う。元々内蔵助は、小造りの、美人というより可愛い女子が好みだった。 「考えねばならぬ事が山ほどもある……戦さというのは難しいものだ」  内蔵助は、返事を飛躍させた。 「相手方の事、味方の事、攻め手、そのための備え、情勢の変化、対応……読めば読むほど複雑にからみあい、考えが渦巻いてまとまらぬ。いっとき心をよそに移して勘どころを掴《つか》もうと、つい色事に手を出すのだが……わしは天性のなまけものでな」 「いや、決してそのような事は……」  若年の頃から、賢愚を使い分けて、理財に辣腕《らつわん》をふるった内蔵助が、なまけ者の筈《はず》がない。 「いやいや、そうでない。人は働くより怠けるのが好き。働き好きというのは怠けたい一心で、その暇と金を得るため先に働くのだ……それはよいが、一時心を移すだけの色事が、考える事の厭《いや》さ辛《つら》さの逃げ場になって、三日も四日もこの始末だ。さすがの忠どのも十どのも呆《あき》れ、逃げ帰ってしもうたわ……」  自嘲《じちよう》する内蔵助のうちしおれた姿は、孫太夫をはじめ、参謀格の数名しか知らぬ姿であった。  辞色をあらためた内蔵助は、問いかけた。 「早飛脚で知ったが、屋敷替えは本決まりとなったそうだな」 「まんまと策が当りました。ところも本所、申し分ありませぬ。楠《くすのき》・孔明もはだしの計略、これで吉良《きら》の首はとったも同然と、江戸組一同、勇み立っております」 「まだ早い……」  内蔵助は、苦い顔で言った。 「これまではほんの初手、戦さはこれからだ、まだまだ先は長い……」 「は……」  孫太夫は言いよどんだが、思い切って問いかけた。 「それで……結着はいつ頃になりましょうか」 「そうよなあ……」  内蔵助は、思案顔でゆっくりと答えた。 「考えてはいるのだ。早くて来年の冬か、いやもう一、二年かかるか……相手は十五万石の大大名、それに天下を動かすうしろ盾……加えて色部《いろべ》は名だたる智恵者だ」  内蔵助は、鋭い眼で孫太夫を見返った。 「奴め、頼む吉良の屋敷を奪われて、どのような対策を立てた」 「は……本所の屋敷、使い勝手が悪しきため少々手入れ致したしと届け出《い》で……普請作事の間、老齢の隠居夫婦は騒音堪えがたきためと唱え、上杉家|麻布《あざぶ》中屋敷に引取っております」 「そうか……」と、内蔵助は苦笑した。 「やりおるの、色部め……上杉家の羽交いの中に抱えこみ、時を稼いでこちらの出方をうかがうとみた。さてそうなると……」  内蔵助は、うって変ったきびしい顔で、呟《つぶや》いた。 「何か、手を打たずばなるまいな」      二  翌朝、山科から来た不破数右衛門を伴なった内蔵助は、京の同志への連絡を命じた奥田孫太夫を残し、船で大坂へ下った。  堂島川、天満橋《てんまばし》西詰に、悉皆《しつかい》問屋天川屋がある。あるじ儀兵衛とのつきあいは、二十年を越えた。 「侍衆には惜しい、あきんどにしたいお人や」  と、二十歳を越えたばかりの内蔵助を評価した儀兵衛は、共に組んで大坂の塩相場をあやつり、この頃、指折りの分限《ぶげん》といわれるようになっていた。 「伏見の派手な噂、大坂でも大層な評判になっております。どうやら図に当りましたな」  内蔵助は苦笑した。 「その噂、おぬしが振り撒いてくれているのであろう、度が過ぎぬよう頼むぞ」  おかしなことだが、内蔵助は、天川屋儀兵衛に、企ての一切を打明けていた。そればかりではない、固く信頼で結びついている吉田忠左衛門や小野寺十内にも洩らしたことのない心の迷いや、色好みの煩悩《ぼんのう》、企てに関するおのれの二重人格など、一切隠し立てしなかった。  それは、二十歳前後から始めた〈賢愚さだかならず〉の韜晦《とうかい》のすべてを、最初からあからさまにして二十余年の歳月を送ったつきあいの長さもある。また、当初、青二才に過ぎない内蔵助の隠れた才と、非凡な人間性に深い感銘と魅力を感じとった儀兵衛が、時には利害を越えて、血を分けた弟のように肩入れし続けて今日に至った実績もあった。  それ以上のものは、侍と商人という身分の違いが、逆作用となっていたに違いない。侍——それも家老職に生れついた内蔵助は、侍というものの規範を大きく拡大しながら、半面常に意識し、こだわり続け、おのれの属する侍社会の崩壊にあたり、大事を企てるに至った。それは、商人社会にとっては、まったく別の世界の意識・観念のものである。それゆえにこそ何のためらいもこだわりもなく、ただ一個の人間対人間の信頼感に依拠して、秘密を持たなかった。  また、天川屋儀兵衛にとっても、おのれの生存する〈商人社会〉の埒外《らちがい》にある〈侍社会〉で、胸のすく活躍をする弟に、精一杯の愛情と支援を与えることに、この上ない愉悦を覚えていたのであろう。 「それにつけても、不自由なおつきあいになりましたなあ。人目があるさかい、一緒の外出もつつしまんならん……実は南に、生きのよい魚食べて、べっぴん揃いの踊り子あげる隠れ遊びのとこ見つけましたが」 「これ、寝た子を起こすようなことを申すな」  内蔵助は、呵々《かか》と笑った。  天川屋の奥に、渡り廊下でつながる別棟の離れ家がある。天川屋が内蔵助の滞在用に建てたもので、異変前、大坂に出向した不破数右衛門も使った。六畳と四畳半のささやかな家だが、小さな台所に雪隠《せつちん》、それに五《ご》右衛門風呂《えもんぶろ》もあって、店の者の眼に触れず暮せる。  何よりの利点は、すぐ近くの通用口から出ると、塀ぞいの道に堀割の舟着場があり、堂島川に出れば水路は四通八達で、交通に至便なことであった。  内蔵助と数右衛門は、儀兵衛と共にその離れ家に移ると、早速用談に入った。 「さて天川屋どの、二十余年の厚誼《こうぎ》に甘え、是が非でもご助力を頼み入る。この世では返せぬ恩義となろうが、あえて大坂あきうどのおとこ気にすがりたい。どうであろうか」  内蔵助は、軽く頭を下げた。軽くではあったが、深い思いが伝わる。数右衛門もそれにならった。 「ようござりましたなあ、あなたさまが、いつ何かご無理を仰せつけになられるか、てまえのようなあきんど風情《ふぜい》が、この世を仰天させるお企てにお手助けできるか、それを楽しみにお待ち申しておりました。あなたさまのお人柄ゆえ、お企てのめどの立たぬうちは何も仰せつけにはならぬと存じ、ただただお待ちするだけでございました。ようございましたな、めどがお立ちになり……ほんま、ようございました」  五十五歳、年輪の皺《しわ》の目立つようになった儀兵衛は、眼をうるませながら、そう答えた。 「事をはかるは人にあり、事をなすは天にありと申すが……内蔵助、人と成ってそこもとにめぐり合い、好誼を結んだことは、まこと天運、天恵と思うておる……数右衛、お頼み申す事を、これへ」  数右衛門は、持参した荷包から一冊の帳簿をとり出し、儀兵衛にすすめた。 「そこもとに頼みたいのは、武具、防具、衣類、兵糧《ひようろう》、それに小物の調達と運搬だ。委細はそれにある」 「なるほど……いろいろございますな。まず名刀と……これはお言いつけ通り、前から心がけております」 「先に山科で刺客とわたり合うて、その値打ちをじかに確めた。一統のすべての者には無理であろうが、主だった者には使わせたい」  数右衛門の言葉には、実感がこもっていた。 「それはもう、充分に心得ております。いまのところ、三条|小鍛冶宗近《こかじむねちか》をはじめ、古備前物が三腰と一|振《ふり》、山城、備中《びつちゆう》など鎌倉御番鍛冶が五腰、長船住長光《おさふねじゆうながみつ》など室町《むろまち》初期が四腰二振、後期は味悪きゆえ避けまして、天文以降の新刀のよりすぐりが七腰四振……」 「大層な刀剣通になったの」  と、内蔵助が微笑した。 「はい……鍛肌《きたえはだ》、板目《いため》、柾目《まさめ》、杢目《もくめ》、梨子地《なしじ》、沸《にえ》と匂《におい》、直刃《すぐは》、乱刃《みだれは》、茎《なかご》、そり、|※[#「金+示+且」、unicode93ba]《はばき》……ところでその刀、どこで手に入れたと思われます」 「さ、見当もつかぬ、ただ……大枚の買値であったと思う。それがちと気がかりだ」 「ご心配なされますな。売手は中国筋から瀬戸内、筑紫路《つくしじ》にかけての神社仏閣で……昔の武者武将は、名刀を奉納して御加護を祈願致しました。それが泰平の世となりますと、神官住職が奉納者の名跡が絶えたのを幸い、こっそり宝物を売り払うといったわけで……」 「これは恐れ入った。その手には気付かなんだ」  内蔵助と数右衛門は、笑顔を見交した。 「薄鋼《うすはがね》の鉢金《はちがね》、籠手《こて》、臑当《すねあて》……これは古物《こぶつ》で無うて、誂《あつら》え物でございますな」 「次の鎖《くさり》帷子《かたびら》、鎖股引《くさりももひき》もな……刺客と剣をまじえて覚ったことが幾つかある。剣戟《けんげき》の要は勢いと共に、おびえ心を払いのけることにある。相手に打たれても斬られぬ、手疵《てきず》を負わぬということは、剣の巧拙を越える力を持つ」  内蔵助に続けて、数右衛門が言葉を副《そ》えた。 「ただし、重くては疲れ果てる。軽くて太刀打ちを凌《しの》げるものが欲しい、殊に鎖帷子はな……叶う限り細い鋼《はがね》を鎖に編むよう、よい細工人を選んでいただけぬか」 「なるほど……それが五十人前、お上《かみ》に知れぬよう調えるとなると……これは難しゅうございますな、とても二月《ふたつき》や三月《みつき》というのは無理やと思います……」 「うむ、だが長うは待てぬ、できれば半年、遅くも来年の夏のかかりまでには欲しい」  その言葉に、数右衛門も頷《うなず》いてみせた。  ——武器が揃っても、それを使っての訓練が要る。  二人の眼には、有無を言わせぬ気迫がこめられていた。      三  二間半|柄長槍《えながやり》    十八本(但し三段の継ぎ柄)  六尺柄短槍    三十本(投げ槍)  半弓    十五張(矢三百本)  ほかに、掛矢、鉄鏨《てつたがね》、鉞《まさかり》、鉈《なた》、鋸《のこぎり》、龕燈《がんどう》、三ツ道具(突く棒・袖搦《そでがらみ》・刺股《さすまた》)、竹|梯子《ばしご》、縄梯子、釘《くぎ》、滑車、麻縄、細引、鉤縄《かぎなわ》、鉄|※[#「金+累」、unicode6a0f]《かんじき》、吊燭、百目|蝋燭《ろうそく》、等々——何に使うか見当もつかぬ物まで、注文の武器はそれぞれが十数個(挺《ちよう》)から数十という、莫大《ばくだい》な数にのぼった。  衣服や下着、足袋《たび》草鞋《わらじ》は、着替えまで用意して百五十人分、ほかに白米、味噌醤油《みそしようゆ》、塩砂糖、梅干、濁酒までを注文していた。  天川屋儀兵衛は、ふとあることに気付いた。 「これに、真綿刺子の下着、股引が百五十人前とありますが、討入は真冬を考えておられますので?」  内蔵助は、頷いてみせた。 「これは、企てに加わる者にもまだ打明けられぬことだが、ありようはそうだ」 「ほう、それはいったい、どういうわけで……いや、お訊《き》きしては悪うございましたら、お許しを……」 「いや、かまわぬ、天川屋どのは鎖帷子を身につけたことがあるまい」 「はあ……」 「あれはな、暑いのだ、鎖の間に躰《からだ》の熱がこもり、信じられぬほど暑くなる。真冬でも日中身に着して歩けば、四|半時《はんとき》でこらえきれず脱ぎ捨てとうなる」 「ほう、さようで……」 「それゆえ、雪の降り積る最も寒い頃、夜半から明け方に事を行なう。それ以外にない」 「驚きましたな……いや、相手方の形勢より、鎖帷子にそれほど執着なされるとは……」 「のう、天川屋どのよ」  内蔵助は、わが身に言い聞かすように述懐した。 「この企ては、わし一人が思い立ち、わしの命《めい》で決行する……加わる者のいのちを使い捨てる、それゆえ加わる者に思う存分戦わせ、ひとりも欠けることなく勝ちどきの喜びを味わわせたいのだ。それがせめてものつぐないでもある……わかってくれようか」  儀兵衛は、頷き、眼を伏せた。 「たとえ、そのあと公儀から死を以《もつ》て報いられようと、一人たりと斬り死はさせぬ。そのため、日夜もだえ苦しんでおる……」  内蔵助が、儀兵衛のみに見せた苦衷であった。  儀兵衛は、言葉もなく、頭を下げた。  内蔵助は続けた。 「この後も、何かと頼み事が重なろう。その頼み、おぬししかないのだ。悪しき因縁と思うて頼む……頼み入る」  内蔵助の眼には、うっすらと涙があった。  翌朝、天満を早発《はやだ》ちした内蔵助と数右衛門は、舟で守口に至り、それより陸路、京へとって返した。山崎で道を西国街道にとり、桂《かつら》を経て嵐山《あらしやま》へ向う。費《つい》えをいとわず馬と駕籠《かご》を乗り継ぎ、夕暮近く虚空蔵《こくうぞう》に近い桂川畔の宿に着いた。  桐屋というその宿には、奥田孫太夫と、その連絡を受けた吉田忠左衛門、小野寺十内が待ちうけていた。  遅目の夕餉《ゆうげ》のあと、一同は奥まった座敷に会同した。 「まず念のため訊く、それぞれ尾《つ》けられなんだか」  一同に代って、吉田忠左衛門が答えた。 「その点は抜かりなく、何度も確めました。尚《なお》、ここと松尾の渡しに、近松勘六と武林|唯七《ただしち》が見張っております」  その頃の嵐山には、渡月橋のほかに橋は無い。 「この家は古い馴染《なじみ》で、人を避けるよう言いふくめてあります」  と、十内が言い添えた。 「では早速用談に入る、吉良屋敷の件、聞いたであろう。相手方は今度こそこちらの敵意を感じとったに相違ない。よって早急に次の手を打ちたい、どうだ」  内蔵助の鋭い語調を撥《は》ね返すように、忠左衛門が口を切った。 「さように急ぐ要がありましょうか。まだこちらの態勢は固まらず、人の数さえ定まりませぬ」 「尚早の攻め手は、かえって相手方の防ぎ備えを固めさせるだけと思いますが……」  十内が、憂慮を示した。 「いや、こうして敵意を示した以上、常に先手をとり続けることこそ肝要……相手は強力、こちらは弱体、敵に攻勢をとられてはひとたまりもない」  内蔵助は、一語一語に力をこめた。 「これは非常の企て、天下の耳目をくらましつつ、同志の心を見定め、戦支度を調え、戦略戦法を練るには半年一年では足りぬ。状勢によっては、二年三年を覚悟せねばならぬ。その間、相手はどうでも備えを固め、われらを俟《ま》つは必定……こちらは素浪人、相手は不識庵《ふしきあん》謙信以来、兵を養い続けておる。軍勢の動かしようでは相手が上だ」 「…………」  暗鬱《あんうつ》な不安の溜息《ためいき》が洩《も》れた。 「しかも、これは……例えば夕涼みの縁台将棋だ。相手の一瞬の隙に玉をかすめとっても、天下の見物衆は納得せず、こちらの勝ちを認めぬ。吉良の首は怪我負け、家は潰《つぶ》れぬ。われらは駒を縦横に駆使し、相手の駒組みを崩して敵陣になだれこみ、防ぎ駒を潰滅《かいめつ》して玉をとる。それ以外に勝ちようは無い」 「…………」  沈黙した一同の中で、辛うじて奥田孫太夫が口を開いた。 「そのようなこと、叶《かな》いましょうか」 「尋常ではかなうまい。だが相手も人……人の心の動揺を衝《つ》き、攪乱《かくらん》し、奔命に惑わせて勝機を掴《つか》む……いま相手は、思いもかけず堅固な城を突き崩され、応急に大わらわとなっておる……ここで先手を渡すと、必ずや凄《すさ》まじい反撃に転じよう。相手は色部、色部とはそういう男だ」  色部又四郎——、その名はとほうもなく重い。 「それで、どのような……?」  忠左衛門が、たずねた。 「まず、擬勢を示す……各々《おのおの》が、敵に身をおいて考えてみてくれ。さし当って討入の機をいつとみる」  一同は、思案にふけった。 「さよう……本所の新屋敷に入って、間《ま》をおかずでしょうか」と、数右衛門。 「それと……亡き殿の一周忌、三月十四日が至当と思います」  忠左衛門らしい推量である。  内蔵助は、莞爾《かんじ》と頷いた。 「時も頃合、その辺で色部の肝を煎《い》らせ、対応に奔命させよう。色部に討入間近と思いこませるのはどうだ」  事もなげな内蔵助に、孫太夫が反発した。 「言うは易し、ですが……相手は色部、どうやって擬勢を示しますか」 「それよ……」  内蔵助は、一同の反応を試すように、一拍の間をおいた。 「わしが江戸に下ってみようと思う。色部に討入の下見、江戸組との談合と見せかけるのだ」  一同は、あ、と虚をつかれた。思いも寄らなかったのである。 「事のついでに、会わずには済まされぬ江戸の者たちと、膝《ひざ》を交えて話してもみたい。どれほどの者が頼みになるか、しかと見定めておきたいのだ」 「なるほど……」と、忠左衛門が膝を叩《たた》いた。 「これは妙策ですな、さすがの神算鬼謀、恐れ入りました」 「これ、忠左どの、そう手放しの世辞は止めにせい。面映ゆうてかなわぬ」  内蔵助が、いつになく少年のように面を赤く染めた。それが一同の笑いを誘った。      四  内蔵助が、江戸に到着したのは、元禄《げんろく》十四年(一七〇一)十一月三日である。護衛を兼ねて不破数右衛門、奥田孫太夫が同行した。  内蔵助の慫慂《しようよう》で、別に奥野|将監《しようげん》が河村伝兵衛を伴い、岡本次郎左衛門(馬廻《うままわり》代官・二百石)、中村清右衛門(馬廻浜方・百石)を帯同して、江戸に入った。  内蔵助は、三田松本町の人入れ稼業前川忠太夫の家に旅装を解く。奥野らはその前川忠太夫の斡旋《あつせん》で、芝口三島町の油問屋、河内屋の離れを借受けた。  翌四日は一日旅の疲れを休めて、五日から諸方廻りを始めた。まず高輪泉岳寺《たかなわせんがくじ》に詣《もう》で、亡君浅野内匠頭の法要をいとなみ、墓参を済ます。その足で赤坂今井台(後世の氷川台《ひかわだい》)にある三次《みよし》浅野家下屋敷を訪れ、後室|瑤泉院《ようぜんいん》にお目通りを願った。  瑤泉院阿久利ノ方は、天和《てんな》三年(一六八三)、十一歳で内匠頭|長矩《ながのり》に嫁いだ。以来十七年、築地鉄砲洲《つきじてつぽうず》の藩邸で暮したが、その間、筆頭国家老の大石内蔵助と会ったことは、内蔵助出府の折の両三度に過ぎず、その折に交した言葉も二言か三言、時節の挨拶《あいさつ》を越えなかった。また同様に奥野将監はたった一度、他の国侍は初対面であった。  瑤泉院は、この年二十九歳、艶麗《えんれい》を噂された美貌《びぼう》も、春の兇変《きようへん》にやつれはて、化粧を断った顔には生気が失《う》せて、おどろくほど老けこんで見えた。 「ようたずねてくれました」  うち揃った顔に馴染は薄いが、最期《さいご》をみとることなく暴死した夫《せ》の君の旧臣たちである。異変以来絶えて訪れる者のない淋《さび》しい日々にはじめての訪問者であった。 「どうであろう、ご大変以来みなの者も様子変って、苦労致しておることと思う。達者で暮していようか」  おのれの身にひきくらべて、旧家臣の身を案じての言葉は、大名生れの大名育ち、三十歳に満たぬ女性《によしよう》としては、過ぎた言葉といえよう。  だが、返答の仕様がなかった。旧赤穂浅野の家臣は三百二十を越える、激変した三百二十の物語がある、顔を知らぬ者の事は話して甲斐《かい》なく、わずかに顔や名を知っていたとて語り尽せるものでもない。  内蔵助は、黙念と面《おもて》を伏せるばかりであった。代って奥野将監が、ぼそぼそと語った。 「さよう……国許《くにもと》にては、両刀を捨て、わずかな田畑を求めて帰農する者あり、伝手《つて》を頼りに仕官の途《みち》を求めて京大坂に移り住む者、親類縁者の引きで、中国筋の各藩に散った者、書の道で身を立てようと筆耕に励む者、町道場で剣を教える者……」  止《や》めろ、と、内蔵助はたしなめたかった。そんな事を話し伝えて何になろう、聞く瑤泉院に実感もなければ、また何ひとつ出来る事もない、ただ感傷の表面を撫《な》でさすっているだけの事だ。  ——来るのではなかった。  その感が深い。痛切にそう思った。たとえ淋しく望みを断たれた日々のたまゆらの慰めになったとしても、それは明日からの長い日々の活力にはなり得ない。辛《つら》くとも悲しくとも、浮世の思い出は忘却の彼方《かなた》へ押しやるしかないのである。 「かかる悲運のなかで、旧家臣一同の唯一の望みは、弟君大学様を推し立て、赤穂《あこう》浅野の御家を再興するにあり、と、御本家や御|親戚《しんせき》筋を通じて御公儀有力筋に働きかけ……日夜、苦心の日々を送っておりまする……」  それが、いかに望みないかは、前例が示す通りである。奥野自身ももう思い知っていて、ただ旧家臣の落ちこぼれを防ぐため、それを名目にかかげ、再就職の途に懸命になっているのだ。手柄顔に故主の未亡人に告げることではない。 「御家再興……それしかないと思います。私はこうした実家の寄《かか》り人《うど》の身、何の力添えも叶いませぬが、その望み、成就《じようじゆ》致しますよう祈っております……」  奥野将監がしたり顔で話す〈御家再興〉の話も、瑤泉院の希望の灯にはならない。大学長広が小大名(それは及びもつかないが)か旗本に取立てられたとしても、それは浅野大学の家のことで、亡家となった長矩の後室瑤泉院の身に変化はない。一生を実家の寄り人で過すしかないのである。  酒が出た。 「内蔵助どのは、何も話してくれませぬが……何ぞ気を悪うされたのでありましょうか」 「は……いえ……」  内蔵助は、急いで酒盃《しゆはい》を一気に干した。  熱感が咽喉《のど》から胃に下る。その短い時に内蔵助は、言うべき言葉を探した。 「御後室様に申し上げまする……」 「はい……」  瑤泉院は、故夫君、内匠頭長矩がひそかに信頼を寄せた元国家老の顔を瞶《みつ》めた。  ——あれは、国許で、賢愚さだかならずと言われておるが、予にもようわからぬ。だが、あれがおるだけで、家中の者が安らぎを覚え、何か明日を思いわずらうことを忘れる。あれは春の日のような男よ……。  その言葉が、しみじみと胸に迫る思いがあった。 「人の一生は、天運にある……と、心得ます。楽しかりし日々も天の恵み、人のなせる努力や才は微々たるものに過ぎませぬ。逆境もまた天運……昨年の今ごろ、今日の逆境は思いも寄らぬ事でありました。それと同様、来年の今ごろ、再来年の今ごろ、どのような天恵の日を迎えるかは、人のはかり知る事の叶《かな》わぬところと心得ます。なにとぞ……今日の逆境が未来|永劫《えいごう》に続くと思《おぼ》し召すな。たとえそのお身の上は変らずとも、周囲の眼が変ります。扱いようが変ります。御後室さまとして晴れがましゅう……思いのままに立居振舞いの叶う日も参りましょう。その天運天恵の日を楽しみに、お過しなされますよう……心よりお願い申し上げまする」  それが、内蔵助に言える精一杯の言葉であった。企んだ一儀について、内蔵助は一身一命を賭《と》して成就させる、という固い信念を抱いている。  ——相手にとって不足なし、おのが侍心を、天下に宣揚してみせる。  事、成就の暁、公儀がどう処断するかは計り知れない。恐らく威光を守るため、厳刑が下るであろう……だが、天下は違う。公儀の威光とかかわりなく、天下は瞠目《どうもく》するに違いない。侍の尊厳と生命より尊い志の昂揚《こうよう》を天下に示したとき、その故主の後室に対し、世人は必ずその扱いを変えよう。もし賞讃《しようさん》の栄光が与えられるとすれば、それは事を成した内蔵助とその一統ではなく、後に残るかかわりの人々にであろう。故主の後室こそ、その最たるものである……。  内蔵助が、咄嗟《とつさ》に考えたのは、その事であった。それを言辞の裏に秘めて告げた。  もとより、その意は瑤泉院の理解するところではなかった。ほとんどの言葉が不可解であったに相違ない。だが……小太りの田舎者じみた内蔵助の風貌と、そのしみいるような切々の言葉に、瑤泉院は言い知れぬ愉悦を感じていた。故夫君の残した感想の適切さが今更のようによみがえる。  ——あれは、春の日のような男よ……。  三次浅野家を辞して、夕暮の南部坂を下る内蔵助は、痛切な思いを抱いていた。  ——これが永別、もう二度と会わぬ。このような哀傷は、もう二度と味わいたくない。  翌元禄十五年十二月、吉良家討入までに大石内蔵助が瑤泉院を訪れる事は二度となかった。それは討入直後、足軽寺坂|吉《きち》右衛門《えもん》を脱盟させて関係者に報告を送り、連累の罪咎《つみとが》を避けるよう伝えさせた際、まず真ッ先に瑤泉院に派したことで事前の対面がなかったことが推測できる。内蔵助は事ほどさように用意周到であったし、討入後に関係者の証拠湮滅が完璧《かんぺき》に行われ、連帯責任制度の当時においてただの一件も連累の罪で摘発されなかったことで、〈寺坂吉右衛門急使説〉が裏付けられる。  三次浅野家も、その例を洩《も》れない。故主の後室でありながら摘発されずに済んだのは、討入直後の対処が早かったためである。ただし討入直前に内蔵助が〈企て〉を告げるような書類を渡すという不用意さは、到底考えられない。内蔵助ほど公儀の非情な処置と厳刑を予測したものはいなかった。  討入の事、成るまで、瑤泉院は亡夫浅野内匠頭の墓参まで遠慮を強いられ、ほとんど蟄居《ちつきよ》の状態であった。だが討入後の行動は一変した。亡夫と旧臣の法事法要を公然と行ない、泉岳寺に回向《えこう》のための額面を奉納している。  その額面の表に、詠歌が書かれている。  �なべて世を恵むひかりや照らすらむ     泉が岳の月のさやけさ� 〈なべて世を恵むひかり……〉とあるあたりに、瑤泉院が内蔵助に寄せる万感の思いがある。ちなみに裏面には回向文を記し、〈施主、瑤泉院尼〉とある。晴れがましくおのが名を署するとき、瑤泉院は天恵の時を感じとったに相違ない。      五  色部又四郎は、十余日、江戸上屋敷から外出の日々を送った。  京の諜者猿橋《ちようじやさばし》八右衛門から、 「大石内蔵助、旧藩士二名を供に江戸下向。別に旧重役、奥野将監ほか上士三名、前後して同行」  の知らせが入ったのが十月末で、色部は直ちに諜者・密偵を動員、警戒に入った。  十一月五日以降、大石と奥野らは、上杉家の看視下にあった。もっとも諜者・密偵のおおかたは人入れから雇った渡り中間《ちゆうげん》や小者の類で、藩の下士は赤穂開城の折に現地へ派遣された与板組の山添新八ほか数名に過ぎない。  多数の臨時雇を使うと、たちまち不便が生じた。大名屋敷は出入りが厳重である。一々門番の検問を受けて通るのが繁雑で、物の用に立たない。  色部は止むなく浜岡庄太夫に命じて、日本橋南、土橋に近い八官町の人入れ稼業、大黒屋佐平方を借受け、諜報寄場とした。  色部は、毎日、大黒屋方に出向き、内蔵助らの動静を聞く。三日五日と日が過ぎるうち内蔵助と奥野らは、別々に行動していることがわかった。  内蔵助は、公儀御目付荒木十左衛門、同じく榊原采女《さかきばらうねめ》方訪問。赤穂の受城目付である。開城の折の挨拶《あいさつ》を済ませた。  そして護持院|参詣《さんけい》。隆光大僧正に面会を求めたが、あいにく大奥参上中とあって果せず、塔頭《たつちゆう》の弁親に会って当用のみ言上、とある。大学長広の宥免歎願《ゆうめんたんがん》とみた。  続いて、本家浅野家、従兄弟《いとこ》戸田|采女正《うねめのしよう》、後室実家浅野|土佐守《とさのかみ》を訪問。それぞれの家老重職と懇談。  そうした挨拶廻りを済ますと、内蔵助は前川宅に引籠《ひきこも》って、たずねてくる旧江戸詰藩士と寄々話合い、時には夕餉《ゆうげ》を共にして、深更に及ぶこともある。ただし訪れる者の顔触れは限られていた。  堀部弥兵衛(隠居・元江戸留守居役・七十五歳)  堀部安兵衛(弥兵衛婿・馬廻二百石・三十二歳)  片岡源五右衛門(側用人《そばようにん》三百石・三十五歳)  富森助右衛門(馬廻御使役二百石・三十二歳)  それに京まで迎えに行ったと見られる奥田孫太夫のほかは滅多にあらわれず、たまさか訪れる軽輩の者は、儀礼の挨拶程度で早々に帰ってゆく。  奥野将監は、内蔵助とまったく別行動をとっていた。このほうは河村、岡本、中村がそれぞれ手分けして、旧江戸詰藩士の許《もと》を訪れ、あるいは茶屋に呼び出して、しきりと歓談を交す。奥野の許へも入れ代り立ち代り訪問者が跡を絶たない。旧藩士の上士がほとんどだが、中に供の家士を従えた大身《たいしん》の侍が散見する。 (やりおる。柳沢さまの説諭が利いて、親戚《しんせき》筋も懸命らしい……)  奥野を訪れる大身の侍は、本家浅野をはじめ、大垣《おおがき》の戸田家、三次浅野家などの重役たちとみえた。  そうした赤穂浅野の親戚筋に、最近柳沢保明から内意が伝えられた。 「赤穂浅野の旧臣、身の振り方もつかず、御府内や畿内《きない》など枢要の地に住居致し、懈怠《けだい》に暮す由、時節柄好ましからざるによって、然《しか》るべく取捌《とりさば》き、遺漏なきよう出精あるべし」  世上に吉良の賄賂《わいろ》説、赤穂浪人討入説が噂高い折柄、親戚筋諸家が恐惶《きようこう》したことは言うまでもない。穏便派の奥野が腹心を帯同しての出府と聞いて、大垣戸田家の家老戸田権左衛門をはじめ、各藩重役が慰撫《いぶ》方に日参した。  これは後日談になるが、さすがに奥野将監は、彼なりの働きを示した。内蔵助の計らいで公家《くげ》日野家の家司に再仕官の内定した彼は、腹心の河村伝兵衛をはじめ穏便派の上士を、日野家縁辺の公家へ斡旋《あつせん》することにつとめていたが、この江戸下りの際、親戚筋と交渉して、軽輩|微禄《びろく》の者を中国筋の中小大名家へ三人五人と割振り、再仕官させたという。もちろんそれを強要した柳沢の口添えや仲介もあったに違いない。  ——はて、大石は何を考えておるのか。  奥野の動きは読めても、動かぬ内蔵助の腹の内は読みようがない。  まさか捨身の暴挙を企《たくら》むとは思えないが、吉良屋敷の引移り、程なく三月の刃傷《にんじよう》一年目を控えているだけに、いかにも不気味である。  江戸下向の日々も二十日近くになったある日、その日も大黒屋方に詰めて動静を聴取した色部は、藩邸へ帰るさ、土橋(橋名)のかかりで、道をふさぐ浪人|態《てい》の男と出合った。 「色部どのとお見受けしたが、違いますか」  肩書もつけず、敬語も用いない。無礼とは思ったが、相手の風貌《ふうぼう》に咄嗟《とつさ》の怒りが湧かない。  筋骨たくましい初老の侍である。真ッ黒に日焼けした顔に、微笑みかける歯が白い。身なりは綿服だが、小ざっぱりと手入れが行届いていた。 「いかにも……色部又四郎でござる」 「これはご無礼つかまつった。奥田孫太夫と申す」  奥田? 聞いたような名だが、すぐには思い当らない。 「おみ足をとどめて恐れ入るが、小半時《こはんとき》ほどおつきあい願えませぬか。是非にも一度、面晤《めんご》の機を得たいと申す者がおります」 「はて、何のことだ」  色部は途惑った。 「生憎《あいにく》と繁忙の身、道を急ぐ」 「それは残念……その者、あれにおります」  橋の下の堀割を覗《のぞ》いた。堀割には寛文の頃に繁昌《はんじよう》し、天和の頃に一時すたれかけたが、近頃また流行《はや》りはじめた屋形船が一|艘《そう》もやってあり、その船着場に中年の侍が二人を見上げ、頭を下げて立礼した。 「旧赤穂浅野家筆頭国家老、大石内蔵助でござる」  その孫太夫の呟《つぶや》きは、雷の如く色部の耳に突進した。 「…………」  瞬時、ためらった色部は、きりッと顔を引締めると、橋際の石段を降りて行った。      六  後世の屋形船と違い、元禄期のものは造りも粗い。天和の改革で、大老堀田|正俊《まさとし》がきびしい規制を行なったため、著しい衰頽《すいたい》のなかにあった。その代り、後世障子を立て切ることを禁じ一部に簾《すだれ》を用いたが、この頃、それは無い。  内蔵助は、しつらえられた置炬燵《おきごたつ》を色部にすすめた。 「身どもは暖国に生れ育ったがためか、生来の寒がりでしてな。この江戸の冷えこみはがまんがなりかねます」  そう言いながら、傍らの盆を引き寄せ、その一盆を色部に、残る一盆を手前においた。  盆には大振りの銚子《ちようし》が二本と、小ぶりの湯呑《ゆのみ》に似た楽焼の酒盃がのっていた。 「手のさわれぬ熱さと注文したが、いささか冷め加減になり申した。寒さ凌《しの》ぎに気随におやり下され」  色部は無言でなみなみと酒を注ぐと、ひと息に呑んだ。 「御用件を承ろうか」 「いやいや……」  軽く首を振ってみせた内蔵助は、ずばりと核心を口にした。 「そこもとと身どもは敵味方……用件などあろう筈《はず》がござらぬ。ただ、お顔を見知っておきたかったがゆえにござる」 「さよう……」  色部は、吐息を洩《も》らした。 「それは当方も同じこと……いや、致し方のない事になった」  内蔵助が頷《うなず》く番である。 「駕籠《かご》に乗れば歩く者が邪魔になり、歩く身になれば駕籠が面憎《つらにく》い。町人ならば罵《ののし》り合うて事済むが、侍はそうは行かぬ。お互い不幸に生れ合わせました」  空腹に酒が廻《まわ》って、顔が火照《ほて》った。 「それにつけても、手痛いしっぺ返しでござったな」  色部は、態度をくつろげてみせた。それしか話の継穂がなかった。 「あれは身どもの智恵ではござらなんだ。まわりに智恵の長《た》けた者が数多くおりましてな……その辺では御苦労多いことと御推察申す」  内蔵助の言葉はおだやかだが、色部の肺腑《はいふ》を衝《つ》いた。  内蔵助の推量通り、色部は孤軍奮闘の感があった。上杉の家中では〈吉良|賄賂《わいろ》説〉以来、色部の対策に反対の声が多い。 「いかに藩主の実の親御とは申せ、世上の悪評、迷惑この上ない。元々上杉家の財政|逼迫《ひつぱく》は吉良の金せびりの所為《せい》、際限もなく甘やかさず、少しは放っておかれてはどうか」  色部は吉良に身贔屓《みびいき》しているわけではない。事の成行上、上杉家に火の粉がかかっている。それを払うのに必死なのだが、家中の者にはその辺の機微がわからない。  吉良も吉良である。高家《こうけ》とは言い条、侍社会のきびしさが感得できない。だから智恵も才覚もなく、ただ上杉に倚《よ》りかかりである。いのちは惜し、家名も家格も惜し、愚痴と小言に明け暮れている。  柳沢に至っては、権勢保持のための勝手使いに終始している。事もなげに屋敷替えを行ない、その責任はすべて上杉に押しかぶせる。保身と責任回避以外の何ものでもない。  ——頼りになる味方がいない……相談相手すらないのだ。  それを鋭く内蔵助は見抜いている……そのことに色部は慄然《りつぜん》たる思いだった。 「いや……元は三十万石の名家、それに天下を預るお方の御信頼を得る身では……苦労は致し方なきことでござる」  色部は、かえって昂然《こうぜん》と言い放った。  ——田舎の小大名づれにはわかるまい、これは名門の家の侍に課せられた宿命なのだ。  内蔵助は、ぴちりと盃《さかずき》を伏せた。 「お互い、立場も違えば生きようも違う……この上はただ、侍らしゅう……いさぎよくありたいと思うております」 「うむ、その言葉、しかと」  色部は座を立つ。内蔵助も送って立った。  船着場に片足を踏み出して、色部は言った。 「無事平穏の折に、お会いしとうござったな」 「いや、それは叶《かな》いますまい」  送る内蔵助は、他意ない笑顔で答えた。 「人は機によって変貌《へんぼう》します。この世で誰がどのような才と力を秘めているかは計り知れませぬ。それゆえにこそ、人の世は面白うござる」  翌朝、内蔵助は江戸を発《た》ち京へ向った。供するは不破数右衛門ひとり、見送ったのは奥田孫太夫ひとりであった。  ——あれは、野分であった……。  色部は、そう洩らしたという。野分とは秋の台風である。      七  相模路《さがみじ》を京に向う内蔵助は、ひどく浮かぬ顔であった。  今度の江戸下向は、心労多い旅であった事であろうと察しがつく。企てを着々と推進するのと違って、これは夾雑《きようざつ》の事の整理であった。その最大の眼目は、江戸組の脱盟者の選別であった。  ——さなきだに、人の別れはわびしいもの……まして盟約を反故《ほご》にする者への不満と哀惜が胸さいなむのであろう……。  同行する不破数右衛門は、つとめて心情に触れぬよう気を配っていた。  二日目、藤沢宿を発って馬入川を越え、大磯《おおいそ》で昼食をとる頃になって、ようやく内蔵助の眉間《みけん》の曇りが晴れてきた。 「済まなんだの、気を遣わせたようだ」  数右衛門の心配りを、とうから察知していた口ぶりであった。 「いや……人間万事、塞翁《さいおう》が馬のたとえもございます」 「ところがその馬、何の役にも立たず消え失せてしもうた」 「は?……何のことで?」 「なんだ、数右衛、知らずと喋《しやべ》っておったのか。きのう品川で孫太夫め、別れ際に痛い知らせを告げおってな」 「はあ」 「高田郡兵衛が、脱盟を申し出おった」 「…………」  数右衛門は、息を呑んだ。  高田郡兵衛。出自は旗本六百石、高田弥五兵衛の次弟である。江戸で知られた槍術《そうじゆつ》の使い手で、�剣の安兵衛��槍《やり》の郡兵衛�と言えば、侍社会で知らぬ者はない、という程の有名人であった。  その槍術を買われて、豊前《ぶぜん》小倉十五万石、小笠原右近将監忠雄家に召抱えられたが、武術|詮議《せんぎ》のことで重役と争いを起こし、退身することとなった。  それを知った朋友《ほうゆう》の堀部安兵衛は、内蔵助に訴願して、同じ赤穂浅野家に再仕官させた。 「安兵衛の友とあれば、差があっては気まずかろう」  内蔵助は、新知二百石という破格の禄高《ろくだか》で召抱えるよう計らった。  ——あれは、安兵衛と並べて御家の看板になる。  侍数が有り余る赤穂浅野家が、破格の扱いをしたのはそのせいであったし、また、内蔵助が一議もなく仕官を計らったのも、�非常の時に役立つ侍……�とその槍術に期待を寄せたためでもあった。  確かに槍術は、その名に恥じぬ腕前であった。それに気骨《きこつ》では、安兵衛を凌《しの》ぐものがあった。それだけに気性も激しく、人にゆずらぬ点が、難といえば難であった。  刃傷《にんじよう》事件以来、郡兵衛は安兵衛と行動を共にした。内蔵助の企ての盟約に加わる以前から、事件の真因をさぐるため、一心に働き、それなりの成果をあげた。  それが……盟約を結ぶ頃から、少しずつ様子が変った。知友の安兵衛や奥田孫太夫が参謀として枢機に参画することになったが、彼は謀攻謀略の密議には加えられなかった。  それが、彼の不満のもとであったらしい。  同じように、参謀に加えられるべくして、加えられなかった者がある。富森助右衛門がそれである。富森は二十七歳の郡兵衛と違い、安兵衛と同年輩の三十二歳。御使役をつとめる程の思慮分別を持ち合わせている。  その富森を参謀に加えなかったのは、郡兵衛と別種の理由による。富森には盟約を離脱するに充分な理由があった。内蔵助は、それを慮《おもんぱか》ったのである。  郡兵衛については、人間の評価の違いであった。内蔵助が破格の扱いで召抱え方に尽力したのは、飽くまでもその槍術の腕と、その剣(槍)名であった。内蔵助の言う御家の�看板�とは、平時における赤穂浅野家の名物的存在価値と、非常の時に相手方を威圧する効果という意味があった。  ありようは、それに尽きる。二十七歳の若さで有名すぎる名を持ち、仕官先の重役と衝突して再仕官をはかる。斡旋《あつせん》した朋友と同じ禄高を易々と受けるのも、何か気になった。  しかし、——あれは突進隊の一番手、という期待は重かったし、相手方への威圧感は捨て難いものがあった。  ——それだけに狙ったに相違ない、色部め……。  内蔵助は、数日前、土橋の屋形船で顔を合わせた折の色部の白皙《はくせき》の顔を思い浮べた。  仔細《しさい》は、このようである。  郡兵衛の実兄、高田弥五兵衛の姻戚《いんせき》に、内田三郎右衛門という千石取りの旗本がいる。弥五兵衛・郡兵衛の兄弟は、神楽坂《かぐらざか》の伯父《おじ》と呼んでいるが、それほど近しい血縁ではない。  内田三郎右衛門は、十余年にわたって、小普請《こぶしん》非役であった。役料が入らぬばかりか、毎年小普請金を徴収される。千石という高禄だから生活に困るわけではないが、為《な》すこと無き暮しというのはやりきれない思いがあった。だが、有力な手蔓《てづる》を持たない三郎右衛門には、役職を得る手だてがなかった。  その三郎右衛門が、突然、何の縁故もない柳沢家の用人から呼出しをうけた。鞠躬如《きつきゆうじよ》として出向いてみると、根津という用人は意外な話を持ち出した。 「内田どのには長い間の非役でお気の毒に存じております。何せご案内の通り、一つの役職に五人十人と就きたいものがひしめき合っておる有様、そのうち何ぞよきお役目をお取持ち致します程に、それまでご辛抱願いたい」  今をときめく柳沢保明の用人が、辞を低くしてそう述べるのである。狐につままれた思いの三郎右衛門に、根津は言葉を継いでこう尋ねた。 「確か、内田どのには後継ぎの御子息がおありでないと仄聞《そくぶん》致したが、さようで?」 「は、残念ながら娘ひとり……どこぞよき若者がおりましたら婿養子に迎えたいと、年来心掛けておりますが、なかなか思うように見当らず……」 「これはしたり。得難い者が身近におられるではござらぬか。それとも更なる高望みでもされてか」 「は……?」 「お隠しあるな、世上に名の高い槍の郡兵衛とか申す手だれの侍が、お身内と聞いております。それも目下浪々の身とか……」 「は……いや高田郡兵衛が事でござるか。あの者は倖《しあ》わせ薄く、昨年主家の浅野家がお取潰《とりつぶ》しになったため、扶持《ふち》離れ致しております」 「それは、かえって好都合……いや、実は役方(文官)には空きが無いが、番方(武官)には名誉の新御番に空席を生じております。番衆は職禄二百五十石、割合わぬとお思いか知れませぬが、三、四年辛抱なされば御小姓組、書院番などに栄転の道が開けます。その組頭、番頭《ばんがしら》ともなれば、布衣千石から諸大夫四千石、五千石、栄達思いのままですぞ」 「では、高田郡兵衛をわが家の養子に、と……?」 「そうなされませ。当節役方望みがはやりとは申すが、やはり侍は番方勤めのほうが出世が早い……まして槍の郡兵衛ともなれば、御養父に抜きんでること、手前のあるじが請合うてもよい」  降って湧いた幸運である。礼を述べるのも早々に帰りかけた内田三郎右衛門に、根津は更なる追い打ちをかけた。 「あ、高田弥五兵衛どのにもよしなにお伝え下され。この御縁首尾よくまとまれば、弟御にひけをとらぬ御役目を御用意致しますぞ」  これで、高田郡兵衛は崩れた。兄弟の情、義理の伯父の恩義に惹《ひ》かれたと見るのは正しくない。まして高田弥五兵衛や内田三郎右衛門が、内蔵助の企てを密告すると脅して従わせたというのは、郡兵衛の弁解に過ぎない。要は利に惹かれたのである。  若者ほど純真|一途《いちず》に義に赴く、というのは、性善説で道を説くえせ道学者のたわ言である。若者ほど目先の利に奔《はし》り易い者はない。若者には先に長い人生がある、利を得て先々の贅《ぜい》を求めたいのは人間当然の欲である。内蔵助の報いなき企てに、多くの老人が血を沸きたたせたのは、人生の残り少なきを覚った者の、この世に爪跡をとどめたいという切なる思いであったと言えよう。  内蔵助が郡兵衛の脱盟を惜しみ、打撃を受けたのは、槍術と、その剣(槍)名という物理的なもので、人間そのものではなかった。郡兵衛もまた人間としての信義や侍としての志より、おのれの物理的な価値に賭《か》けた。  それが如何《いか》に空しかったかは、元禄十六年以降の旗本武鑑に、内田郡兵衛の役名は無い。討入によって、脱盟者の彼の剣名は泥土《でいど》にまみれ、登用の途《みち》はふさがれたとみていい。  刃傷の年元禄十四年はようやく暮れた。 [#改ページ]   凍《いて》 蝶《ちよう》      一  年明けて、元禄《げんろく》十五年。  柳沢家上屋敷の門前は、例年にも増して年賀の客が殺到した。相次ぐ諸大名、旗本、要職が詰めかけ、門前に馬も人も近付けぬほどの混雑で、髷《まげ》は崩れ上下《かみしも》は千切れ、履物を失って足袋《たび》裸足《はだし》で帰る者数知れず、夜に入っても門前にその草履がびっしりと残り、敷物を敷きつめたようだった。  この頃の柳沢は、生涯の絶頂に登りつめた感があった。館林《たてばやし》宰相|綱吉《つなよし》の侍童として登用された柳沢|主税《ちから》房安は、延宝元年(一六七三)近習となり、柳沢弥太郎住忠と名を改め、翌々延宝三年、父安忠が致仕すると保明と名を改め、家禄《かろく》五百三十石を継承した。以来二十七年、五代将軍綱吉の側近として仕え、昨元禄十四年十二月、松平の姓と将軍家の偏諱《へんき》を下賜《かし》され、美濃守吉保《みののかみよしやす》と名乗を改め、その子安暉も伊豆守吉里と改名した。  徳川幕府二百六十五年の歴史において、御三家、庶流、越前家をのぞき、松平の称姓を許されたのは加賀前田、奥州|伊達《だて》、因州・備前の両池田、芸州浅野、筑前《ちくぜん》黒田、肥前|鍋島《なべしま》、薩摩《さつま》島津など、国持の大大名に過ぎず、それも数回、将軍家息女を娶《めと》るなど、濃い血縁を結んでの後であった。  将軍家|側用人《そばようにん》として、老中の上に位するという待遇を与えられたとはいえ、武州川越九万二千三十石の小大名である。将軍家とは何の血縁も持たぬ柳沢吉保(保明)の松平の賜姓は空前絶後の名誉である。その祝賀の客は先を争って賀詞を述べ、祝賀の音物《いんもつ》を持参し、雑踏を極めた。年賀の客はそれに倍する賑《にぎ》わいであった。  早朝からの年賀客の応対に、控え目の屠蘇《とそ》酒が過ぎた柳沢吉保は、酔いをさまそうと冬日の庭に足を運んだ。年の暮から晴天続きで師走《しわす》半ばに降った雪もほとんど融《と》け去って、築地《ついじ》塀の蔭《かげ》にわずかな名残りをとどめている。  初雀のさえずりをこころよく聞きながら、築山《つきやま》を廻《まわ》ると、白丸木造り檜皮葺《ひわだぶ》きの四阿《あずまや》がある。その四阿の前に麻上下の侍が平伏していた。 「おお、そちか」  色部《いろべ》又四郎であった。 「そちらしい読みだな、長く待ったか」 「いえ、少々……」  そんなわけがない。年賀の酒の酔いざましを読んで、用人根津文左衛門に頼み、夜明け前から四阿で待ちうけた。この年始、人気絶頂の柳沢に会うには、それくらいの策と忍耐がなくては叶《かな》わない。 「まあ坐《すわ》れ。極り口上の賀詞は聞き飽いた。用向きを聞こう、今度の無理は何だ」  柳沢と色部、双方ともに名うての智恵者である。限られた寸刻、無駄な片言|隻句《せつく》も動作もない。時は千金に値いした。 「恐れながら、吉良《きら》様の本所屋敷、新築をお許し願わしゅう……」 「はて、吉良どのの屋敷は昨年末、ふた月あまりをかけての改修が終った筈《はず》だが……」  柳沢の記憶と注意力は抜群である。それが今日をあらしめたといえよう。 「それが、かようなむさい屋敷には住めぬ、と、ご隠居がむずかりまして……困《こう》じ果てました」  昨年十二月十二日、吉良の本所屋敷はつつがなく改修工事を終えたが、吉良|上野介《こうずけのすけ》は上杉の麻布中屋敷に居坐ったまま移り住もうとはせず、そのまま新年を迎えた。  それが、噂にのぼる赤穂《あこう》浪人の討入を用心しての配慮であることは言うまでもない。  それをどう言い繕うか。理屈はどうにでもつく。だが、改修の終った屋敷に一日も住まず、あらためて新築を願い出たことは、意表を衝《つ》いた。  しかも、色部は�隠居のむずかり�のひと言で、さらりと言ってのけた。  さすがの柳沢も、苦笑するほかない。 「上杉も物入りなことよの、よう耐えおる」  三年前、呉服橋の屋敷の新築には、これが最後の無心とあって、二万三千両の出費を負担させられた。昨秋の改修工事にも八千両に近い出費を強いられたと噂されている。それを悉皆《しつかい》捨て去っての新築は、上杉家の藩財政に重大な影響を与えるに違いない。 「何せ、親、子、孫とつながる三代の血縁、致し方なき事と覚悟しております」  色部は、二重の血のつながりを強調することを忘れない。  ——吉良と上杉は一体、謙信公以来の武名と十五万石を賭《か》けて、家は潰《つぶ》させぬ。  色部は、言外にその意をこめた。 「…………」  柳沢は、その上杉の過大な自信に、何かひと言、警策をもって報いようと言葉を探しかけたが、面倒になった。  ——ま、勝手にやらせておくか、こちらの腹が痛むことではない。  火照《ほて》る頬を刺す寒風が、柳沢を思い止《とど》まらせた。 「……吉良ありて上杉ありと言われたご老体だ、せいぜいつとめることだな」  色部の願いに頷《うなず》いてみせ、柳沢は母屋へ踵《きびす》を返した。  立礼で見送った色部は、ほっとして肩の力を抜いた。  ——これでようやく失地を回復した。見ておれ大石……もう好きにはさせぬ。  外桜田の上杉屋敷に戻った色部は、夜を徹して長い書状を書きしたためた。  翌朝、用部屋に出仕した色部は、留守居《るすい》添役の小長谷|織部《おりべ》を呼び出した。小長谷織部は五十騎組の名門で、先祖は長尾輝虎(謙信)の幕下にあって戦功をたてた。織部は年三十五歳、気鋭の士で、今少し交際術に練れたら留守居の大役を浜岡庄太夫から引継ぐであろうと見られていた。  頭は切れるが幅がない。それが色部には食い足らぬが、これから申付ける役目にはよく適した者といえる。 「年明け早々御苦労だが、国許《くにもと》まで使いしてくれぬか」 「は……お急ぎでしょうか」 「急ぐに違いないが、二日や三日はよい。年を祝うてから発《た》て」  色部は、ふと語調を柔らげた。 「白河を越えると雪が深かろう。気を急《せ》いて怪我すな、心くばりをつしやか[#「つしやか」に傍点](慎重)にな」 「御深慮かたじけなく……往きも帰りも心いましめて参ります」 「あ、いや、待て」  色部は、制した。 「往きは真冬だが、戻りは春先になろう。暫《しばら》く米沢の御城に足をとめ、使いの趣きを果して貰《もら》わねばならぬ」  色部は用意した分厚い簿冊数冊と、今朝方書き上げた長文の書状を前に置いた。 「おぬしの役目の詳細は、これに書き上げてある。読めばわかるがざっと言えば、屋敷造りの職人、人足を国許で選び、素材を調え、江戸に送ることだ」 「屋敷造りというと、吉良さまの……?」  色部は、重く頷いた。 「普請にかかるまでは他聞を憚《はばか》るが、そういう事だ」  色部は、書状を掌にした。 「国許では、万事を千坂どのに頼め、これに委細をしたため、力添えを願っておいた。あのお方の老巧な御宰領を得れば、さして難しい役目ではない」      二 �さして難しい役目ではない�  色部がそう言ったのは、小長谷織部に限ってのことであった。  羽州|米沢《よねざわ》城の用部屋、雪除《ゆきよ》けの庇《ひさし》に陽を遮られて、昼でも薄暗い小部屋で、その書状を開いた千坂|兵部《ひようぶ》は、事の難しさに歎息《たんそく》を禁じ得なかった。  ふと眼を上げると、前に畏《かしこま》った小長谷織部が、凜凜《りんりん》と肌を噛《か》む寒気を懸命にこらえていた。千坂は城勤めの藩士に範を示すかのように、日中は火鉢、手あぶりなどを部屋に置かせない。暖かな江戸育ちの小長谷織部にとって、それは責め苦に等しい辛《つら》さなのであろう。千坂と合わす眼が尖《とが》って見えた。 (誰のためでもない、江戸藩邸で湯水のように費す用度のため、国許では炭の一片の入費も惜しんでいるのだ)  千坂は、肌の粒立つ織部の顔に、ふと色部を見るような心地がした。  ——あれは、才では天下一の男だが、惜しいことに他への思いやりと、世俗の難しさを知らぬ。  それは、言い得て、妙、であろう。色部は才気にまかせて他への思いやりに欠け、このような事態を招いた。相手方の大石|内蔵助《くらのすけ》は世俗の心理を巧みに利して、噂を得物に頽勢《たいせい》を挽回《ばんかい》した。  色部は、長々しい書状で、吉良が屋敷替えに至った委細と、計らずも対面した大石内蔵助が、つとめて意図を隠してはいたものの、討入の機をうかがっているのを察知した旨を、むしろ誇らしげに述べていた。  ——大石が求めて対面したのは、不断の緊張を強いるためだ。それが読めておらぬ……。  千坂の渋面をよそに、色部の書状は、彼の智恵を絞った秘策が縷々《るる》と述べてあった。  その通念をはるかに越えた奇想に、さすがの千坂も仰天した。まさに奇想天外より来たるの感があった。  ——これぞ、天下一の才。  それは、世俗の難しさを知らぬがゆえの発想といえる。それだけに〈難しい事ではない〉どころか、困難は眼に余るものがある。  ——これは屋敷造りではない。築城とまでは言えないが、敵地に突出した出丸(橋頭堡《きようとうほ》)の造営だ。  色部は、その造営に、国許から大量の職人・人夫の投入を策した。造営内容の機密を守るため、必要不可欠の条件だが、この時期、それは至難の業《わざ》といえた。  戦闘目的の築営は、並の職人ではつとまらない。城大工が求められるが、米沢の築城はもう百年を閲《けみ》している。いま辛うじて現存するのは営繕の職人(大工・左官等)しか無い。それも米沢のような田舎では、半農半工が常である。冬の農閑期はいいが、普請が半年以上に及ぶと、暮しに差支えが生ずる。  ——強権を発動するよりないだろうな。  それが、人夫・人足までとなると、手当だけでも頭が痛い。  それに、資材調達の問題があった。造営の規模や内容を秘し隠すためには、すべて国許で調達の要があった。時は厳寒、加えて丈余の積雪である。原木の伐採、山出し、製材、江戸への搬送と、障害は山積している。 「織部、一緒に来ぬか」  千坂は、先に立って用部屋を出た。織部が続く。二人は暗い古色|蒼然《そうぜん》の廊下を通って、本丸天守の階段を登った。寒気は一段と増して、足袋底《たびぞこ》は氷を踏むようだった。  天守の格子窓から、米沢盆地の山河が一望の下に開けていた。見はるかす野辺も山々も白皚々《はくがいがい》の一色であった。人影ひとつ見えず、上杉の領国は死んだように眠っていた。  ——最大の障壁は、資金だ。  千坂は、痛切にそう思った。十五万石の本城とはいえ、いまこの城で即座の用に立つ納戸金《なんどきん》は、千両有る無しである。  そういうと嘘のようだが、元禄期の諸大名の内証は皆そうであった。加賀百万石前田家といえば天下随一の大大名だが、買物の代金をいつになっても払わぬため、江戸の三文字屋という商家が潰《つぶ》れたという記録がある。また神道家《しんとうか》として有名な吉川|惟足《これたる》の前身は、大名家相手の肴《さかな》御用商だったが、売掛金が回収できず、身代限りとなって神《かん》ながらの道へ走ったという。肴の代金まで滞らせるのが大名家の常であった。  ——赤穂の大石は、不時のお家断絶に、納戸金は三万両ほどあったという……なんと、羨《うらやま》しい限りではないか。  千坂は、雪の山河を見ながら、赤穂を想った。  赤穂は城構《しろがまえ》六十年に満たぬ小城だが、城郭から見る領国の山河は、冬でも木々は常緑をとどめ、波騒が陽光を散乱させる海が見えるであろう。青松白砂の浜辺には塩浜が展《ひら》け、無限の富を約束している。野辺に働く農民、町に行き交う町人、白く埃《ほこり》立つ街道、青い空……相手は冬知らずのその領国から、得貯《えたくわ》えた豊富な資金で、われらを相手どり、家潰し、国潰しを企てている。  ——容易ならぬ難敵だ。  だが、負ける事は許されない。その敵を作ったのは、刃傷《にんじよう》直後のわずか数刻の間に、吉良と上杉両家の安泰の策を求めた色部の非情の案にあった。その案は一見神算鬼謀に見えて、実は完璧《かんぺき》ではなかった。だが千坂にそれを責める倨傲《きよごう》さはない。  ——あれはあれ、致し方なかった……。  それだけに痛切の思いは深い。  身を刺す寒風が、見る眼を現実に戻す。雪と氷の山河が、八寒地獄を思わせる。 「のう、織部よ」  千坂は、窓外に眼を向けたまま、背後で小きざみに震えている小長谷織部に声をかけた。 「は……」 「わしらが身命を費すのは何のためであろうか」 「…………」 「寄る年波のせいか、わしはこう妄想することがある。いつか……百年後か……三百年後か……お家も、国も、もとよりこのお城も無《の》うなって、あるじの子孫が家来の子孫とこの城跡に集い、むつみ慰《なご》め合う日があるのではないか、とな」 「…………」  小長谷織部には、夢想につきあう余裕はなかった。ただ熱い火を求めていた。 「それを思うと、この苦患《くげん》は何のためかと思うのだ」  だが、家臣のつとめとして、はたまた国政を預る身として、逃避は許されなかった。最善を尽すよりない。  千坂兵部は、家中の誰一人にもその空しき思いを覚られることなく、黙々と令を発し、自ら赴いて督励し、色部の要求を満たすべく老躯《ろうく》に鞭打《むちう》った。      三  江戸では、色部が吉良新屋敷の普請の下準備に着手していた。  一月半ばに呈出した新築願いは、日ならずして認可された。色部は手早く人夫・人足を集めると、屋敷の取壊しを始めた。  昨秋以来二ヶ月余をかけて、大々的な改修を行なった屋敷を、一日も住まず取壊すとあって、侍社会にうとい町人たちの間にも、その評判は燎原《りようげん》の火の如くひろまった。  江戸組を統括する堀部|弥兵衛《やへえ》は、昨年暮から、毎日、最近移り住んだ日本橋矢ノ倉米沢町の仮住居を出て、市中に点在する同志宅を歴訪して歩いた。 「ごめん、新五右衛門どの、おられるかや」  木の香も新しい小ざっぱりとしたしもた屋である。隣室で騒ぐ大勢の子供の声に負けじと声を張り上げると、騒ぎはぴたりと止った。 「おう、堀部のご隠居ではないか、ようわせられた、さ、おあがりめされ」  顔を出したのは、旧家中の松本新五右衛門(馬廻《うままわり》供目付百石・四十五歳)であった。松本新五右衛門は藩廃絶後、配分された藩金を投じて寺子屋を開き、傍ら商家の使用人相手の書道教習、文書代筆と手をひろげたのが当って、なかなかの繁昌《はんじよう》だという。 「お邪魔ではないかな」 「いや、もう帰すところで、さ、ご遠慮なく」  艶《つや》やかな総髪の小鬢《こびん》に白いものがまじって、なかなかの貫禄《かんろく》である。身なりも利休茶のやわらかもので、藩士の頃の実直さが一変していた。  潮の退《ひ》くように静まった教場奥の小間で、弥兵衛と新五右衛門は長火鉢をはさんで坐《すわ》った。 「……大石どの下向の際は、生憎《あいにく》と所用でお目にかかれず、ご無礼した……」  そう畏《かしこ》まる新五右衛門に、弥兵衛は磊落《らいらく》に手を振って打ち消した。 「いやいや、無沙汰《ぶさた》はお互い。それよりご繁昌で結構……人はわからんものだな、鉄砲洲《てつぽうず》御屋敷の頃は、おぬしにこのような世渡りの才があろうとは、思いも寄らなんだ」 「ご過褒《かほう》はかえって痛み入る。大事を控えての身すぎ世すぎ、これも相手方や世間の眼をあざむく方便で……」 「実は、その大事のことでおたずね致したのだが……」  弥兵衛は、懐から取出した袱紗包《ふくさづつみ》を開けた。中から杉原紙《すぎはらがみ》の束が覗《のぞ》く。かつて内蔵助あてに差出した誓紙であった。 「…………」  恐縮を装いながら、自慢気を隠せなかった新五右衛門の顔に、急に不安が走った。 「江戸下向の折、大石どのも何を考えてか、大事の下準備に、元の重役とはいえ奥野|将監《しようげん》のようなお人を同伴されたのが間違いの因《もと》……奥野どのはな、御家再興のためには旧家中の結束が大事と、表向きは大石どのに同調しておるように見せかけてはおるが、腹の中はまったくの別々でな」 「あのお方は、元はといえば大野|九郎兵衛《くろべえ》らと同じ穏便恭順派なのだ」  新五右衛門は、噛《か》んで吐き出すように言う。 「われらのように一死|以《もつ》て侍の本分を貫こうという者とは違う。御家再興の、再仕官のと、いのち長らえたいが本心で、そのためにはわれらのような志堅固な者は、迷惑なのだ」 「さすが……よう見ておられる。実はわれら江戸組は知らぬことであったが、京では両者が主導を争い、裏では激しい綱引きをしておったらしい……」 「あり得る事だ。なにせ御家断絶で頭に血が上っていた頃と違い、人の考えも変って来よう……」 「おぬしの言われる通りだ。京でもそうらしいが、江戸組でも奥野どのの意見に服する者が多く、大石どのに身命、進退をゆだねる者は寥々《りようりよう》たる有様で……」 「要は負けた、ということでござるか、奥野どのの穏便論に」  新五右衛門は、真ッ赤な顔で怒鳴った。 「ま、早く言えばそういうことになる。大事を企てるには数が足りぬ、二、三年のうちには再起を目ざすが、この際はひとまず誓紙をお返しして盟約を解くと言われて……お、あった、これでござるな」  誓紙の束から新五右衛門の一枚をとり出すのを、引ったくるように取った新五右衛門は、構わず袂《たもと》へ突っ込んだ。 「怪《け》しからぬ! 何たる事だ! 人にかような物まで求めておきながら、内なる者の意見に負けて、薄志弱行も甚だしい……大石どのにお伝え願いたい。新五右衛門、見損ないましたとな」 「かしこまった。どうも年甲斐《としがい》もない使いで申しわけござらぬ」  匆々《そうそう》に家を出た弥兵衛は、鳥越の通りに出ると、駒形《こまがた》の渡しに向った。  ——ああいうのが、いちばん手間がかかる。  新五右衛門の怒りが虚勢であることはひと眼でわかる。実直|一途《いちず》だった男も、生活が変り、多少金廻りがよくなると、その安逸が無限に続くように思えてくる。そのくせ義心とか節操の看板も捨てきれず、表づらを取繕うことに汲々《きゆうきゆう》としているのだ。だから話の持ちかけようが難しい。  中には話が簡単に済む者もあった。 「大石どのに進退をゆだねると申しても、それは成功の目途が立っての話、脱盟の者が数を増したとあれば、早目に思い切ることこそ肝要……俗に千丈の堤も蟻の一穴からとのたとえもある」 「盟約の話なら実は当方より申し出ねばと思っておった。申しにくいが拙者、近々西国の某藩に再仕官の話がござってな」 「人の心というは移ろい易いというのはまことだな。そう言うてまえも町屋住いに慣れてみると、肩肘《かたひじ》張った侍暮しがばかばかしく思えてならぬ。そういうお話はかえってありがたい」  そう言う者が過半であったが、中には倉橋伝助(中小姓二十石五人|扶持《ぶち》・三十三歳)のように、 「ご老体、おたわむれはお止めなされ、さようなざれ言に手前が乗るとお思いか、冗談が過ぎますぞ」  という実直型から、茅野《かやの》和助(徒横目《かちよこめ》五両三人扶持・三十六歳)のように、 「ご隠居は長の江戸暮し、今少しうまい芝居をなさると思ったが、案外でござったな。大丈夫、拙者の志は鉄石でござる。ご安心召され」  という風に、きっぱりと誓紙返却を拒否する者もいた。  ——さすがに内蔵助どの、よう人を観ておられる。  弥兵衛は、そう感嘆せざるを得なかった。�試せ�といわれた江戸組の中の三十数名中、誓紙返却をてん[#「てん」に傍点]と拒否して受付けなかったのは、前記の倉橋・茅野のほか、わずか十数名で、脱落者は半数を越えた。      四  大川を飆々《ひようひよう》と吹き抜ける寒風に首をすくめながら、駒形の渡し船の弥兵衛は、江戸下向の折に会った内蔵助の、一歩も退かぬ容儀を思い浮べていた。 (江戸組盟約者のうち、これらの者の決意の程を、今一度確めてくれい)  内蔵助は、そう告げて、より抜いた誓紙の束を渡した。  江戸組を統率する弥兵衛は、当然のように反対した。  ——武士たる者の義心を、大事の上にも大事な誓紙を道具に使って試すなど言語道断。  そもそも、奥野|輩《ばら》に跳梁《ちようりよう》させて、同志を惑わせることも気に入らない。  討入という戦闘行動に、数——兵力は、絶対的な価値を持つ。多少ひ弱な兵であっても、勢いが加わればかなりの力となろう。かつて江戸組の誓紙を集め、大石の許《もと》に送る際、弥兵衛が附した意見書の下書が今に残っている。   前方同志|無[#レ]之族《これなきやから》ナリ共、此節急急発気セシムル輩|於[#レ]在[#レ]之者《これあるにおいては》、実之節殊勝候之間《じつのせつしゆしようにそうろうのかん》、荒増御吟味之上御捨《あらましおぎんみのうえおすて》|無[#レ]之様《これなきよう》ト存候《ぞんじそうろう》。  終りの一節、�あらましお吟味の上、お捨てこれなきようと存じ候�(だいたい調べた上で、なるべくお捨てにならず拾ってくれ)というあたりに、弥兵衛の考え方がうかがえる。 �あらまし�という言葉の当て字に�荒増�と書く、弥兵衛の一人娘(安兵衛の妻)の名が〈幸〉というのは後世の俗説で、本当の名は〈おほり〉であった。お[#「お」に傍点]は敬称だから、正しくは〈ほり〉である。堀部の娘が〈ほり〉というのは、細事にこだわらない弥兵衛らしい名付けである。  内蔵助は、そうした弥兵衛の豪快な性格を愛しながら、人選の点では頑としてゆずらなかった。 「ご老体よ、これは並の合戦とは違うのだ。おぬしには事の難しさがまだわかっておらぬ」 「どう違うと言われる。合戦は勝つこと第一、それを専一に考えればよろしかろ」 「そうはいかぬのだ。この合戦はな、勝ってもこの世の果報は得られぬ……それゆえ、この世に少しでも執着を持つ者は加えられぬ。それになあ、弥兵衛どの」  内蔵助は、笑顔を消さず淡々と続けた。 「当夜の有様を瞼《まぶた》に描いたことがあるか。相手も必死、こちらも決死、おそらく血みどろの殺し合いになろう……その地獄のすさまじさに、攻め手の一人でもおぞけをふるい、逃げ隠れする者があったら世の笑い者、それ一人で侍の志も魂も泥土にうもれ、無に帰すのだ……それゆえか弱い者は、一人たりと連れて行けぬ」  その言葉に、弥兵衛は返す言葉がなかったのである……。  本所の外れ、旧浅野家下屋敷の近くに住む梶《かじ》半左衛門という元|御徒士《おかち》が、誓紙返却の最後となった。  ——これで済んだ。  弥兵衛は、重荷を下した思いだった。それは内蔵助のいう企ての骨幹をなす三十三人のうち、いま江戸に在住する者で脱落した者は一人もなかった……という安堵感《あんどかん》でもあった。  それと、もう一つ……こうして廻《まわ》って歩いてみて、暮しに差こそあれ、旧藩士のなかで貧に落ちぶれ果てた食いつめ者は見当らなかった。それだけ内蔵助の多年にわたる働きと、行き届いた配慮が生きていた、といえよう。  帰り道、弥兵衛は本所|竪川《たてかわ》一ツ目へ廻ってみた。内蔵助の言う屍山《しざん》血河となるであろう戦場予定地を、ひと目見ておきたかったのである。  一ツ目の橋を渡り、相生《あいおい》町の町屋の角を廻れば、吉良の新屋敷である。弥兵衛は愕然《がくぜん》と眼を見張った。  そこには何も無かった。何も無い……昨秋改修普請の終った本屋敷の建物も、敷地を囲む侍長屋や家老・用人の小屋敷、そして塀も表門、裏門までも、悉《ことごと》く消え失せていた。いや、そればかりか、庭も、泉水も、築山《つきやま》も跡形なく取り払われて、一草だにとどめぬ二千五百五十坪の更地《さらち》が、冬日の下にただ空しくひろがっていた。  色部の策は、この徹底的な更地の造成から始まっていたのである。  誓紙返却の試みは、上方でも行われた。赤穂在住の者たちには、間《はざま》喜兵衛が、大坂・奈良は小野寺十内、京の同志には吉田忠左衛門が、ひとりひとり丹念に廻って歩いた。その行脚《あんぎや》は二月半ば過ぎまで続いた。  一日、山科《やましな》を出た内蔵助は、三条|烏丸《からすま》六角堂に程近い業平庵《なりひらあん》という料理茶屋に足を運んだ。  玄関で案内を乞《こ》うと、店の者より先に進藤源四郎が出てきた。 「お、ご家老、お待ち申しておりました。さ、どうぞ」  廊下を奥へ通る途中、帳場らしい部屋から華やいだ女の笑い声がひとしきりして、 「進藤のおじさま?」  と、少女らしい張りのある声がした。 「おう、暫《しばら》く遊んでおるがよい」  進藤は、そう声をかけて、内蔵助に苦笑の顔を向けた。 「てまえの連れです。四条の通りでひょいと出合うたら、そのままついて参りましてな」 「しろうとの女子《おなご》か?」 「二条寺町の筆墨師一文字屋の娘で、可留《かる》と申します……てまえ近頃|近衛《このえ》家で歌集の編纂《へんさん》を頼まれ、その筆耕を手伝うて貰《もら》っております」  通された奥の端の部屋は、天井に野太い孟宗竹《もうそうちく》を通したほかは、天井も壁も塗りごめの、凝った造りの座敷であった。 「ふむ、これは用心がよさそうだな」 「出入りも表口を通さずとも、その庭の木戸から路地に抜けると、高倉、東洞院《ひがしのとういん》、どちらの筋へも出られます。いかがでしょうか」 「気に入った。おとなの隠れん坊には結構すぎる。世話であったな」 「この屋には、二十日ほどの滞在と申しておきました……それにしてもいま頃、何のためのお泊りで?」 「なに、正真正銘|只《ただ》のいたずらよ。忠左どのや十内どのもそれぞれに所在をくらます。山科におらず、伏見にも姿を見せずとなったら、伏見奉行から吉良・上杉まで、さぞかし肝をひやすと思うが、どうだ」  内蔵助の笑いを怪訝《けげん》そうに見ていた進藤は、あ、と思い当った。 「では、三月十四日の……」 「そうだ、亡き殿の一周忌、討入るかと待ちおる相手に、何か仕かけねば相済まぬと思うてな。考えついた苦肉の策だ」 「したり! なされますなあ」  進藤は、感嘆の声を放った。 「色部め、あれやこれやと肝を煎《い》るであろ。ところで腹空いた、飯にせぬか。よければおぬしの連れも一緒にどうだな」 「それは喜びましょう、では早速……」  進藤がそそくさと出て行くと、内蔵助は腰の煙草《たばこ》入れを取り、一服つけた。  ——姿隠すも策のうち、これから幾日か、無為に過すか……。  異変以来、わずかに得た偸安《とうあん》の時である。何やら心ときめくのを感じながら、内蔵助は紫煙の行方を眼で追った。 「こちらでしょうか? お昼餉《ひるげ》」  町家の娘らしい物おじせぬ声をかけて、膳《ぜん》を捧《ささ》げたうら若い娘が入ってきた。先程帳場から障子越しに声をかけた娘に違いない。色白の小さな顔につぼみのような丹花《たんか》の唇、匂うような愛らしさ……一文字屋のおかる[#「かる」に傍点]、であった。 [#改ページ]   詭《き》 道《どう》      一  猿橋《さばし》八右衛門は、走っていた。  朝、新町通|中立売《なかだちうり》の住居を出ると、御所に沿って烏丸《からすま》今出川にのぼる。進藤源四郎宅を覗《のぞ》くとたしかに在宅している。  ——ここは、異常なし。  次は河原町に出て、更に北に走る。寺の多い加茂街道|出雲路《いずもじ》の小野寺十内宅を窺《うかが》う。老妻の丹《たん》の姿は見えたが、十内はない。先月はじめから大坂へ下っていると聞いたが、まだ帰洛《きらく》していないらしい。  今出川橋に戻って、百万遍《ひやくまんべん》に出る。茶店に、遊び人二人が待っていた。手子《てこ》ノ衆、富田屋の口利きで雇った見張り役である。浄土寺近くの奥野|将監《しようげん》、詩仙堂《しせんどう》門前の小山源五右衛門は、いずれも在宅という。  河端道《かわばたみち》を四条に下る。祇園《ぎおん》社石段下の茶店に諜報《ちようほう》が届いていた。旧知の仏光寺|塔頭《たつちゆう》に寄宿している吉田忠左衛門が、五日ほど前から外出したなり帰らないことと、下河原道の雲母《きらら》茶屋に依然大石が訪れた様子はないという。  ——大石は、どこへ行った。  大石|内蔵助《くらのすけ》の所在を見失ったのは、七日前であった。山科稲荷山《やましないなりやま》の諜者によると、その日大石は昼前にふらりと家を出た。別に普段と変らぬ様子で、家人も見送らなかったところを見ると、いつもの伏見通いと思われた。  ただ気になる事といえば、大石の家に寄宿している不破|数《かず》右衛門《えもん》が、その三日前、旅に出たことである。行先は江戸らしい。江戸との連絡は間々《まま》あることで、肝心の大石の動きさえ抑えておけば大事ないと思っていた。  その大石が、伏見に来ていない。それがわかるのに五日かかった。伏見|撞木《しゆもく》町の色町は、大石の事となるとおそろしく口が固かった。いるいないを確めるだけに、伏見奉行の下役の手をわずらわせなければならなかった。  ——大石がいない、まさかとは思うが、いない。  江戸へ早飛脚を立てた。それから走り始めた。京から山科、大津、草津まで足を伸ばし、とって返して宇治、伏見、桂《かつら》、長岡、洛中から近郊をくまなく廻《まわ》る。見失った責任上、どうあっても京の地で見つけたい。いてくれ、頼むから京にいてくれ、と願いながら、猿橋は走った。  その内蔵助は、高倉三条上ルの業平庵《なりひらあん》で、ゆうべ届いた盟約者名簿をひもといていた。届けた吉田忠左衛門と小野寺十内、それに赤穂《あこう》から入洛した間《はざま》喜兵衛の三人は、嵐山虚空蔵《あらしやまこくうぞう》近くの旅宿、桐屋にひそんでいる。江戸組の名簿も今朝方早飛脚で届いた。  名簿には、脱盟者の名が並んでいた。  奥野将監(千石)は予定通りである。  進藤源四郎(四百石)は盟約者以上に働き、役立っている。  河村伝兵衛(四百石)は、奥野将監に従った。  三百石以上の物頭番頭格の上級諸士では、長沢六郎右衛門(三百五十石)、小山源五右衛門(三百石)、大石孫四郎(同)、佐藤伊右衛門(同)が、誓紙の返却に易々と応じた。  二百石以上では、渡辺角兵衛(二百五十石)、糟谷《かすや》勘左衛門(同)、井口忠兵衛(同)、稲川十郎右衛門(二百二十二石)、多芸《たき》太郎左衛門(二百石)、山上安左衛門(同)、平野半平(同)、井口半蔵(同)、佐々小左衛門(同)、高田郡兵衛(同)。  百五十石組では上島弥助、灰方《はいかた》藤兵衛、田中権右衛門、幸田与三右衛門、里村津右衛門、高久《たかく》長右衛門、木村孫右衛門、塩谷武右衛門、前野新蔵、酒寄《さかより》作右衛門、嶺《みね》善左衛門。  百石組は、田中代右衛門ほか十名が脱盟。  百石以上のいわゆる上士は、全滅に近い。もっとも三百二十余名の藩士の中の四十七士は、一割五分に満たないから、当然とも言えるが、盟約に加わった百二十五名の中で、上士が八割以上も脱落したのは、どういう訳であろうか。  それは、生活程度が高いほど、失うものが多い、という一般論も当然該当しよう。だが内蔵助は、そう見ていない。  ——やはり、事に臨んで募った者では、かほどの大事は成し得ない。  義に応じて参加する者を拒むわけではないが、それはあくまでも補助である。武士の武士たる志の具現には、十年二十年の長きにわたって非常に備え、その才幹を育成した者でなければ成功を期し難い。  その証左は、この脱盟者の名簿に明らかである。内蔵助の撫育金《ぶいくきん》の支給は、奥田孫太夫、堀部安兵衛、富森助右衛門、近松勘六ら一部の高禄《こうろく》取りをのぞくほかは、二十石、十五石、五人|扶持《ぶち》、三人扶持の微禄軽輩がほとんどであった。  食人之食者死人事。 〈人ノ食ヲ食セシ者ハ、人ノ事ニ死ス〉  その掟《おきて》は、今も厳然と生きていた。  だが……それでも、内蔵助には苦い思いが残った。高禄微禄を問わず、その志操と才幹を見込んで撫育した者のなかで、今度もまた何人かが脱け落ちた。高田郡兵衛、近藤新吾、梶半左衛門、土田三郎右衛門の高禄・軽輩、いずれも赤穂開城の際、身命を捧《ささ》げると誓った者が、わずか一年足らずで変心した。  ——これは、止むを得ぬ歩留《ぶど》まり。  そう割り切っても、心寒々とした思いがあった。十年二十年、その者との歳月を埋めたもろもろの瑣事《さじ》、心を許してむつみ合った思い出は、一朝一夕に消えるものではない。  だが、詮《せん》ない繰り言は、気力を萎《な》えさせる因《もと》である。  内蔵助は、つとめて心冷やかに数を数えた。残りの人員は次の通りだった。   上方《かみがた》組 三十三名  江戸組 二十八名  計 六十一名  盟約者百二十五名は、半数以下に減った。  赤穂浅野の藩士三百二十余名中、内蔵助が掌握し得た頼みの人数は、二割に満たなかった。  ——まだ減るだろう、あと十や十五は……。  決行は厳寒時でなければならない、春から夏、秋、そして冬……まで最低十ヶ月の月日が必要である。内蔵助の冷たく澄んだ思念はそう判断していた。 「大石さま、おいでどすか」  華やいだ若い娘の声は、先日、進藤源四郎が引合わせた二条寺町一文字屋の娘、かるに違いない。 「おう、おるぞ」  内蔵助は、名簿を手箱に片付けると、入っていた炬燵《こたつ》の弁柄蒲団《べんがらぶとん》に顎《あご》を埋めた。  襖《ふすま》が開くと、やはりかるであった。 「まあ、おかぜでも引きはりましたんどすか」  かるは目を丸くした。 「うむ?…‥わしは生れつきの寒がりでな」 「あかん、こないな日和にお部屋にとじこもっていはったら、お躰《からだ》に悪うおす。どこぞ行きまひょ」 「いやいや、勘忍せい、わしはこうして炬燵にいるが極楽だ」 「あきまへん、そや、南禅寺におまいりして、熱い熱いお豆腐食べやしたら、もう寒いことおへん。さ、行きまひょ、早う、早う」  年が倍以上も違う若い女子の柔らかな掌で引かれる感触は、何とも心ときめくものであった。 (年だな、わしもそういう年になったか)  内蔵助の年齢では、少し早すぎる。そうではない、もう間もなくいのち尽きる、その潜在意識が懸命に若さに触れることを求めている、それを内蔵助はまだ気付いていない。  ——ままよ、気晴らしに少し歩いてみるか。  内蔵助は、わが身にそう納得させて、腰を上げた。      二 �大石の所在不明、ほかに腹心の吉田、小野寺の両名も数日来帰宅せず�  京から届いた急報は、江戸の上杉屋敷を一挙に緊張させた。  時が時である。無念の死を遂げた赤穂浅野の当主|内匠頭長矩《たくみのかみながのり》の一周忌、三月十四日は目前に迫っている。もし赤穂の浪人が故主への忠節心から、その恨みを晴らそうと意図するならば、まさに最も意義深い期日といえよう。 (大石の率いる赤穂浪人は、十中八九、この時期に襲う)  吉良《きら》家では、隠居の上野介義央《こうずけのすけよしなか》、新当主|左兵衛義周《さひようえよしちか》を始め、家老小林平八郎、同斎藤|宮内《くない》、用人鳥居利右衛門、同|左右田《そうだ》孫兵衛、中小姓清水一学、山吉新八郎、新貝《しんかい》弥七郎等が一致して、上杉家へ警固の強化を申し入れた。  色部の考えは複雑に働いた。  大石の意図するのが、単なる忠節と復讐《ふくしゆう》なら、殊更に敵意を示す必要はない。恭順を装って油断を見すまし、吉良の外出時に路上で襲えば、容易に目的を達するであろう。  また、体制に対する反逆とも思えない。もしも故主に対する不当な処罰に反抗するなら、吉良・上杉に敵意を示すような迂遠《うえん》な策をとるより、為政者——柳沢や幕閣に対して過激な行動をとるほうが早道であろう。  ——大石は、もっと何か……大きな目的意識をもって、われら上杉・吉良に戦いを挑んでいる。  戦いである以上、敵が予期し、待ちうける時を避けるのが兵法の常識である。三月十四日、故主の一周忌という時期は動くまい。京で大石らが所在をくらましたのは、単なる陽動作戦に過ぎない。  色部は、慧眼《けいがん》よく内蔵助の策を見抜いたが、戦々恐々たる吉良を説得する迫力に欠けた。  ——相手は大石、どのような奇策を弄《ろう》するかはかりがたい、裏の裏という手もある。  経験豊富な千坂|兵部《ひようぶ》なら泰然自若と動かなかったであろう。だが色部は、才あって思いやりに欠ける憾《うら》みがあった。彼は外桜田上屋敷詰の藩士を動員して、吉良が寄寓《きぐう》する麻布中屋敷に送りこみ、警衛に当らせた。  天意は上杉に苛酷《かこく》であった。三月に入って江戸は春とは名のみの寒気に襲われ、十日ごろから不順な天候となった。  追善供養は忌日に行うとは限らない。忌日前でも名目は立つ、とあって、上杉家麻布中屋敷は連日、具足に身を固め、刀槍《とうそう》で武装した藩士が屋外で配備についた。夜は篝火《かがりび》を焚《た》き、徹宵《てつしよう》警戒に当る。その侍たちに、骨まで凍るみぞれまじりの雨が容赦なく降りそそいだ。殊に十四日当日は、夕刻近く雨は止んだが寒風吹きつのり、濡《ぬ》れそぼつ身に耐えがたい苦痛を与えた。  十五日朝、皮肉にも数日ぶりに陽光がさした。麻布を引揚げ外桜田に帰着した藩士たちは、門前に立つ色部を横目に見ながら、怨嗟《えんさ》のつぶやきを洩《も》らさずにはいられなかった。  色部は、いささかも動揺を示さなかった。能面のような無表情で、惨めな藩士の隊列を冷やかに瞥見《べつけん》していた。  ——泰平の世に無為に養われる侍に、わずか数日数夜の苦行……何ほどの事やある。  色部の心は、京でぬくぬくと憩う大石の面憎《つらにく》い笑顔を思い浮べ、歯噛《はが》みしていた。  ——なんたる外道《げどう》……殺してもあきたらぬ。  色部は、憎悪の言葉を探した。だが侍言葉に適合するものは思い当らない。江戸生れ江戸育ちの彼は、下賤《げせん》な言葉が思わず口をついた。 「くそったれめ」  十五日江戸に射した陽光は、京では一日早い十四日に、春の暖気を伴っていた。  内蔵助は、かると共に鞍馬詣《くらまもう》でに足を伸ばしていた。  早朝、駕籠《かご》で業平庵を発《た》って、下鴨《しもがも》から鞍馬街道を北上した。深泥池《みどろがいけ》の畔《ほとり》を抜けて二軒茶屋から山道を辿《たど》り、夜泣峠の山裾《やますそ》を廻って鞍馬川沿いの道を登ると、貴船川の合流点を過ぎれば間もなく鞍馬寺の山門に達する。  山門前の茶店で昼食をしたためた二人は、八丁七曲りの九十九折《つづらおり》参道を踏みしめて、多宝塔を廻り、本殿金堂に登った。  さすがに鞍馬は、京より一段と冷えまさっていた。一歩、一歩、急坂を登る。汗ばむ筈《はず》が一向に躰《からだ》があたたまらない。武術で鍛えた内蔵助も、長い坂道に息がはずみ、膝《ひざ》が鳴った。  ——これはいけない、一年の浪人暮しで躰が思いのほかなまっている。  内蔵助ばかりではあるまい。同志の過半が鍛練不足になっている。討入決行前に鍛え直さないと、屍山《しざん》血河の決戦に思わぬ不覚をとる……。  足を止め、息を継いだ内蔵助は、その想念をふり払うように首を振って、かるを見返った。 「そなた、こうして毎日のように相手してくれるのは嬉《うれ》しいが、家の方は大事ないのか」  若さゆえであろう、かるは達者な足どりでついて来るが、白い頬が紅色に染まって、匂うような風情《ふぜい》であった。 「大事おへん、関白さまのお屋敷へ通うてることになってます。進藤の小父《おじ》さまがお手間を払うてくれはりますよって……」  かるは、屈托《くつたく》なく笑ってみせた。 「そうか、では源四郎めの言いつけか」  苦笑する内蔵助に、かるは真顔で顔を横に振った。 「いえ、うちが無理にお頼みしたんどす。たまさかのお休みどっしゃろ、いつまでおつきあい願えるかわからしまへんけど、一生の思い出にご一緒したい思うて……」  つぶらな瞳《ひとみ》が、懸命な思いをこめて、ひたと瞶《みつ》めていた。 「そなたも物好きな女子《おなご》よの、このような年寄につき合わずとも、若い男が大勢寄ってくるであろうに」 「…………」  かるは、また首を横に振った。 「それとも……何か、訳あってのことか?」  かるは、こっくりと頷《うなず》くと、先に立って登り始めた。  長い長い坂道を、休み休み登るうち、かるは問わず語りに身の上を話した。      三  かるの家、二条寺町の一文字屋は、室町の頃から続く老舗《しにせ》で、代々関白|近衛《このえ》家を始め五摂家、九清華に筆墨を納める。当代は次郎左衛門を名乗るのが定めであった。  かるの父は若狭《わかさ》の貧乏大工の小伜《こせがれ》で、子供の頃から一文字屋に奉公し、丁稚《でつち》・手代・番頭と勤め上げ、その実直な働きぶりを見込まれて、家付き娘の入婿《いりむこ》となり、一文字屋と次郎左衛門の名を相続した。  夫婦仲は、二男二女をもうけ、はた目にはよかった。だが内実は気位高い家付き妻が、奉公人上がりの亭主に細事|瑣事《さじ》まで干渉して倦《う》む事を知らなかった。それは嫉妬《しつと》ではない、嫉妬するほどの愛情はない。支配欲というべきであろう。女というものの業《ごう》の深さ、女自身もほとんど気付かぬさが[#「さが」に傍点]である。男なら百人千人、あるいは万人にひとりが持つ独占的な支配欲、おのが周辺の者、殊に連れ合いや家族の者の言動に掣肘《せいちゆう》を加えずには止まぬ欲望が、女には例外なくある。それは男と違って自覚がないだけに、余計に罪深い本能といえよう。  当代次郎左衛門は、終生、妻の支配欲に悩まされ続けた。無間《むげん》の苦しみといってもいい。その次郎左衛門が壮年の頃、奉公人の下婢《かひ》に手をつけ、子を生《な》した。その子がかるであった。  それを知った次郎左衛門の妻女は、少しも騒ぎたてる事なく、生さぬ仲のかるを引取っておのが娘として籍を入れ、かるの母に手切れ金を渡して縁を切らせた。  世間では、話のわかる才女と見えたであろう、だが当事者にとっては残酷な処置であった。生木を裂かれたかるの母は、いとし児を奪われ、失意のうちに病を得、日ならずして身罷《みまか》った。義理の母と異母|兄姉《きようだい》のなかに育てられたかるが、どれほど白眼|蔑視《べつし》の日々を送ったか、想像に余りある。ただひとり血のつながる父親も、家付き妻をはばかって、かばいだてはおろか、いたわりの言葉を掛けることすら叶《かな》わなかった。  表向きは、明るく物おじせぬ溌溂《はつらつ》さを装うかるが、父親ほどの年の内蔵助に魅せられたのは、そうした境遇のせいだったに違いない。  話は鞍馬寺の奥の院で尽きず、木ノ根道を一気に下って、貴船《きぶね》まで続いた。  貴船川の畔《ほとり》に、白鳳《はくほう》時代天武天皇の六年(六七七)創建と伝えられる貴船の社がある。延喜式の簡素な造りの社殿の鳥居横に、名物の川魚料理を供する料理茶屋があった。 「鞍馬詣でのお帰りどすか、きつうおつかれどっしゃろ、さ、お上がりやしてゆるゆるお休みやす、据え風呂《ぶろ》もほどよう沸いておすえ」  仲居に案内されて、内蔵助とかるは、奥まった座敷に落着いた。 「お料理は暫《しばら》く時がかかります。先にお風呂をお召しやしたらどうどすえ」  そう言われて、内蔵助は、 「では、そうするか、わしが先に使うがよいな」  と、気軽に座を立った。  奥廊下の突き当りから渡り廊下に下りると檜皮葺《ひわだぶき》の湯小屋がある。少し熱めの五《ご》右衛門《えもん》風呂につかると、山歩きの一日の疲れが一時に抜けるこころよさに陶然となった。貴船川のせせらぎが耳をくすぐるようである。  覚えず長湯して上がると、衣類はいつか持ち去られて、代りに浴衣《ゆかた》と丹前がおかれてあった。  ——山家《やまが》に似合わず、行き届いたものよ。  内蔵助が母屋へ戻ろうとすると、渡り廊下にかるが佇《たたず》んでいた。 「お、待たせたな、許せ」  軽く声をかけてすれ違ったが、なぜかかるは顔を俯《うつむ》けて、答えず湯小屋へ入って行った。その顔が蒼《あお》ざめて見えたのは気のせいであっただろうか。  座敷に戻ると、軽く呑《の》んだ銚子《ちようし》や盃《さかずき》、木の芽漬の小鉢は片付けられて、内蔵助の衣類も見当らない。  ——はて……。  隣座敷の瓦燈口《かとうぐち》が、少し開いていた。内蔵助がずいと入ると、行燈《あんどん》の灯に部屋一杯の華やかな色彩が眼にとびこんだ。二つ枕の寝具が敷かれてある。  あ、と思った。思い当ることがある。京住いの日の浅い内蔵助は知らぬことだったが、京の北に通人が素人女と隠れ遊ぶ里がある、という。それが貴船であったのだ。  内蔵助が湯浴みに立ったあと、ひとり座敷に残ったかるは、この隠し寝間に気付いたに違いない。あるいは仲居がそれと告げたかも知れぬ。まだ十代の乙女の身、どれほど衝撃をうけ、当惑したことか。湯小屋の渡り廊下で佇む間、色蒼ざめたのも当然といえよう。  ——知らぬこととはいえ、気の毒した。  急いで着替えようと、寝間の枕許《まくらもと》に畳んで置いてある衣類を取上げかけて、気配に見返った。  瓦燈口に、かるが立っていた。思いつめた瞳が、湯上がりのしっとりと潤った顔にキラッと光って見えた。 「おかる……」  言いかけた内蔵助に、かるは倒れかかるように身を寄せた。思わず抱き止める。重い熱い躰《からだ》が内蔵助の手の中に崩れた。 「支えておくれやす、旦那さま……」  ひと時は、夢うつつの間に過ぎた。十七歳の無垢《むく》なかるが、四十四歳を迎えた内蔵助の躰の内にかきたてた物狂おしい興奮と情欲は、かつてない異様で激しいものだった。  だが、渇望のひと時が過ぎたいま、内蔵助の心に湧き上がる愛憐《あいれん》と恋情の思いは、それ以上のものがあった。  かるはすがりつくように内蔵助の裸の胸に顔を伏せたまま、生れて初めて感じた大いなる安らぎに身も心も任せていた。そして内蔵助は、柔らかく張りつめたかるの躰を抱いたまま、更なる陶酔の高まりを待っていた。その期待と欲望の時の流れのなかで、内蔵助ははっきりと自覚していた。  ——これは生涯で最高の時……。  これからの残り少ない生涯で、どのような事が起ころうとも、どのような事を体験しようとも、今のこれよりすばらしいものは絶対にない。これからは日一日、凋落《ちようらく》の思いがつきまとうに違いない。  ——おれは悪党だ。  敵味方、多くの人のいのちを奪い、無垢の乙女におのがいのちのあかしを求める。いかに志のためとはいえ、非情というもおろかである。  ——いいや、侍には侍の一分がある、天下に示す志がある。  内蔵助は、強くかるを抱き締めると、丹花《たんか》の唇に口を寄せた。      四  内蔵助は、山科《やましな》の家の居間で、机にもたれ春日の庭に見入っていた。  家の裏庭から、戛々《かつかつ》の音が響いてくる。分秒の狂いなく続くその冴《さ》えた音は、不破|数《かず》右衛門《えもん》の薪割《まきわ》りに違いない。  机上には、その数右衛門がしたためたこの三日間の会議記録がのっている。  ——いまさら読み直しても、どうなるものでもないが……。  内蔵助は、怠け心を抑えかねていた。  眼を移す東山は、眼にあざやかな緑だった。春の遅い京の山々も、葉桜が過ぎると若葉の季節となり、風のそよぎも柔らかに肌に触れる。  内蔵助は、この季節が嫌いだった。  ——おれは、天性の怠け者。  そう自認する内蔵助だったが、怠惰にすごすひとときが、それと自覚なしにうつつに流れるのを嫌った。  働くにも、怠けるにも、寒さ暑さのきびしい中がいい。過ぎて再び取り返すことの出来ぬ時というものの貴重さ、有難味というのを自覚できるからだ。怠惰に身を任せながら、時の空費を惜しむ……そこに奇妙な愉悦感があった。  ——昨年の今頃、赤穂の海は卯波《うなみ》で荒れていたな……。  海ばかりではない、藩が、廃絶の嵐の中にあった。その荒波の中で、内蔵助はとほうもない〈企て〉をたくらんだ。  ——あの頃は、まだ考えがあまかったな。  その企てには、少なくとも二、三年の時がかかり、またそのくらいの時の余裕はある、とみた。だが実際にとりかかってみると、そんな生易しいものではない事を痛烈に思い知らされた。  相手は色部、評判通りの強敵だった。謀攻一年、常に守勢にあって着々と対応の手を打ち、待つあるを恃《たの》むの気概を示している。  すでに結盟の者は六十一と減った。このままに推移すれば、来春には更に半減しよう。その半面、吉良屋敷の備えは鉄壁と化すに違いない。  この三日の間、内蔵助は江戸から帰着した不破数右衛門と、その不破に同行して来た奥田孫太夫、富森|助《すけ》右衛門《えもん》を迎えて、伏見|撞木《しゆもく》町笹屋方で参謀会議を持った。参会する上方《かみがた》組は吉田忠左、小野寺十内、それに在所赤穂から馳《は》せ参じた間《はざま》喜兵衛。  江戸からもたらされた情勢報告と、その分析結果は次のようなものであった。  三月十四日を機に仕掛けた陽動策は、かなりの成果をおさめ、上杉侍を翻弄《ほんろう》した。  だが一面、色部は着々と赤穂旧藩士を切り崩し、結盟者は半減した。そのため、江戸組、上方組に不安・動揺の色あることは否めない。  欲目に見れば、謀攻は多少優勢か、と見えるが、上杉十五万石の兵力、色部の権謀術策、背後の柳沢の権力等々を加味すれば、形勢は五分に満たぬ。この際、更に先手をとり、謀略を施し、敵を惑乱し、奔命に罷《つか》れさせる要あり。  結論は、次なる謀攻を求めた。だがその謀略の具体的な発想に至らなかった。  ——これが、わが方の弱点だ。  惣《そう》参謀の吉田忠左衛門以下の面々は、思慮分別に長《た》け、老練熟達の士であることは言を俟《ま》たない。その情勢分析の能力は抜群の優秀さを誇る。  だが、侍は、戦陣にあっては常に大将の指揮を受ける。戦術を議することがあっても進言するにとどまり、発想を転換して局面を一新する決断はない。まして戦略を案ずることは遠く及ばない。  その侍が、戦士から官僚に転じて久しい。官僚にあるのは法制の運用能力であって、法秩序の枠を越える発想など、望むべくもない。  内蔵助の悩みはその点にあった。  ——優秀な人材だが、機略のひらめきがない。  これは戦さである。戦さの謀計に善悪良否は問わない。敵を凌《しの》ぐ策が求められるのだが、参謀たちにその発想がない。  その負担は、すべて内蔵助ひとりにかかっていた。 (仕方がない、とっておきの手を使うか)  内蔵助は、そう決意を固めた。 「折入って話すことがある。家事を済ませて待つように」  内蔵助からそう言われたのは、昼過ぎ間もなくだった。妻のりく[#「りく」に傍点]は勝手脇の化粧部屋に使っている小部屋で、内蔵助を待った。  内蔵助が招いたのは未《ひつじ》ノ下刻(午後三時頃)であった。用人の瀬尾《せのお》孫左衛門はりくを奥庭の茶室に案内すると、匆々《そうそう》に退《さが》った。  炉の釜《かま》が、爽《さわ》やかな音を立てていた。内蔵助はりくが座に着くと、ゆるゆる茶を点《た》てた。  りくは、内蔵助のその手前を瞬《まばた》きもせず瞶《みつ》めていた。  内蔵助は、りくに振舞うと、自らも一服点てて喫した。 「りく……どうやら別れの時が来たようだ」 「はい……」  りくは、かねて覚悟を決めていたようである。顔色ひとつ動かさず、平静に答えた。 「そなたには、殊更何も言わずと来たが、大方は察していよう、いまわれらは侍の一分を賭《か》けた企てにいのちを尽しておる」 「吉良さまに戦さを仕掛けることにございますか」  やはりりくは知っていた。隠すというほうが無理であろう。一つ家に暮し、寝食を共にしているのである。内蔵助は打明けて相談することはなかったが、姑息《こそく》な隠し立てをしようという気もなかった。  内蔵助は、大きく頷《うなず》いてみせた。 「この泰平の世に、争乱を起こせば、勝っても負けても公儀はきびしい罪科を以《もつ》て罰するであろう。その罪科は、われら一身にとどまらず、妻子|眷族《けんぞく》に及ぶ。それが天下御法の定むるところだ」 「…………」  りくは、覚悟の態《てい》で頷いた。 「われらは思い立った時より捨てたいのち、いかなる処分も覚悟の上だが……妻子に累を及ぼすことは本意ではない。むしろ無事に世を送って、われらの為《な》した企てが、後の世にいかなる評価を得るか……賞讃《しようさん》か誹譏《ひき》か、いずれにせよ、それを身を以て受けて欲しいのだ」 「…………」  りくは、蒼《あお》ざめた顔でおし黙った。 「どうも、この期《ご》に及んで未練かも知れぬが……」  内蔵助は、苦く自嘲《じちよう》の笑みを浮べた。 「浮世の煩悩《ぼんのう》は捨て難い。どうだ、残る子をそなた守り育ててくれぬか」 「残る子、と言われますと……主税《ちから》は?」 「あれはわしが連れて行く。この企ての中には親子兄弟が揃って加わる者も数多い。采配《さいはい》をとる身として外されぬ」  親子共々の参加は、堀部|弥兵衛《やへえ》・安兵衛(婿養子)、吉田忠左衛門・沢右衛門、小野寺十内・幸右衛門(養子)、奥田孫太夫・貞右衛門(養子)、間喜兵衛・十次郎・新六(十次郎弟)、間瀬《ませ》久太夫・孫九郎、村松喜兵衛・三太夫、それに中途死亡の岡野金右衛門・九十郎(亡父の名と役職名襲名)、矢頭《やとう》長助・右衛門七《えもしち》、加えて大石内蔵助・主税の以上十家二十一名、兄弟は二組、また隠居一名(堀部弥兵衛)、部屋住七名(岡野九十郎を除く)である。  討入参加者中、これだけの血縁者と、正規の藩士でない隠居・部屋住を加えたあたりに、内蔵助の苦心がうかがえる。 「致し方、ございませぬ……」  りくは、言葉を返すことなく、主税を思い切った。それは侍の妻、筆頭国家老の家の者として、反対は叶《かな》わぬことであった。 「そなたは、吉千代と、くう[#「くう」に傍点]を連れて、里へ帰ってくれ、それに腹の稚児《ややこ》もな、頼む……」  吉千代は次男で十二歳、くうは長女で十三歳、さらに今、りくは、身籠《みごも》っていた。もう四ヶ月の身重である。その子はその年の七月末に、但馬《たじま》豊岡の実家で出産する。大三郎と名付けられた。 「お言葉でございますが、ふう[#「ふう」に傍点](次女・四歳)はいかが致します?」  ふうは、一緒に暮しているが、りくの実の子ではなかった。進藤源四郎の遠縁に当る娘が、備中《びつちゆう》松山池田家の家中に嫁ぎ、不縁となって進藤を頼り、赤穂に身を寄せたのを、内蔵助が面倒を見ているうち、手がついて子を生《な》した。その際、産後の肥立ちが悪く身まかったため、りくがその女児を引取って実子同様に育てている。 「ふうか……そなたにこれ以上の苦労はかけられぬ。また実家《さと》の父上にも相済まぬによって、あの子は源四郎へ養女につかわそうと思う。幸いあの子も源四郎を慕っておるし、子のない源四郎も是非にと望んでおるのだ……」 「さようなれば、お心のままに遊ばしませ」  りくは、そのことにも反論しようとはしなかった。  この年(元禄十五年)、内蔵助は四十四歳、りくは三十三歳、貞享《じようきよう》三年(一六八六)に夫婦となって、足かけ十七年を閲《けみ》している。その夫婦が、一生の別れとなる離縁話を、ひと言の言い争いもなく、淡々と運んでいる。  ——得難い妻、わしにとってはこれ以上の妻は望むべくもなかった……。  好色を自認し、触れ合う女にそれぞれ愛情をそそいだ内蔵助だが、妻というものの重さを、この時ほど痛切に感じたことはなかった。      五  りくは、但馬豊岡三万三千石、京極|甲斐守《かいのかみ》高住の国家老、石束《いしつか》源五兵衛|毎公《つねとも》の長女として生れ育った。  石束源五兵衛は、若年の頃、江戸詰藩士として、赤穂浅野家江戸家老、大石|頼母《たのも》の知遇を得、私淑した。その縁で頼母の甥《おい》の子、内蔵助と知り合い、その人柄に魅せられて、娘りくを嫁がせた。  ——この婿どのは、他日大事を成す人物。  そう予感したという。  りくは、侍の名家に生れ育ち、世俗に染まなかったため、物事に疑いを持たず、有るが儘《まま》に受入れる鷹揚《おうよう》な性格であった。彼女が嫁いだ頃の内蔵助はすでに二十八歳、賢愚定かならずと韜晦《とうかい》の人生を送っていたさなかである。藩士たちの蔭口《かげぐち》とはまったく別の内蔵助と接したりくは、  ——一藩を統べる筆頭国家老というのは、こうした二重の面を持たなければならぬものか。  と、素直に信じた。  自分が生れ育った但馬豊岡三万三千石の藩から見ると、赤穂浅野は格段の差、別世界とも思えるほどの豊かさである。個人の生活だけの事ではない、藩政にその豊かさが浸透して、行政一般に、施策が思うように実施される。その裏面で〈昼行燈《ひるあんどん》〉と仇名《あだな》され、茫洋《ぼうよう》として掴《つか》みどころなく、〈常に居所不明〉と苦情の絶えぬ内蔵助が、実は赤穂と大坂の間を東奔西走し、屋敷内にあっては昼夜を分かたず藩財政の運用に没頭する姿を見聞きして、畏敬《いけい》の念を抱いた。  実家の父、石束源五兵衛の実直一点張りの暮し方から見ると、別世界の人のように思えた。  唯一の欠点は、好色にあった。だが内蔵助は単なる女色|漁《あさ》りではなかった。りくに向ける性の欲求も人並以上であった。それゆえ十五年も過ぎた今、りくは新たな子を身籠っている。それに大事を控えていながら、りくの日常に寄せる気遣い、心遣いは並外れたものがあった。  ——わが夫ながら、これは異常・異能の人。  その思いが、りくの執着心を断ち切らせていた。 「承知してくれるか」  内蔵助は、限りなく優しかった。 「はい……でも、実家《さと》の父には、何と……?」 「隠すことはない。わしも手紙にしたためておくが、有りのままを申し上げてくれい。内蔵助は大志大望を抱き、後の連累を避けんがための離縁である、とな」 「それで大事ありませぬか」 「なんの、相手はとうに覚っておる」  内蔵助は、呵々《かか》と笑った。 「こうした企てはな、隠して隠しおおせるものではないのだ。やるからは堂々と旗幟《きし》を押し立て、戦鼓《せんこ》を鳴らして立向う、それでなくば侍の一分は立たぬ、侍の道とはそういうものなのだ」  りくはただ頷くだけであった。  内蔵助の妻子離別の報は、まず上方《かみがた》と江戸の同志に伝えられた。  脱盟者相次ぐなかで、不安、動揺の色を見せた同志は、粛然とその報を聞いた。  ——大石どのは、不退転の意を明らかにされた。大義親を滅す、われら奔騰一路、目的に驀進《ばくしん》あるのみ。  同志は内蔵助にならって、身辺整理に意を注いだ。  一方——その報は、江戸の吉良・上杉を直撃した。 (京の大石、妻子を離別、但馬豊岡の実家へ送った)  続いての猿橋八右衛門の飛報は急を告げた。 (大石、山科の居宅を売り払う。買主は京室町丸太町の油問屋三原徳右衛門)  ——すわ! 大石が襲うぞ! もう間なしとみた!  上杉は再び厳戒態勢に入った。上杉家麻布中屋敷に詰めた江戸在府の藩士は、三月十四日前後の配備警衛を強いられた。当の吉良上野介はその屋敷の奥に逼塞《ひつそく》し、吉良邸の養子左兵衛義周の外出には、供揃いを倍増して、不時の襲撃に備えた。  ——ばかな!……度の過ぎた警戒は不要、大石は不用意に動く筈《はず》がない。  そうたしなめる色部の言葉は、衆論に圧《お》しきられた。  十日が過ぎ、二十日が流れたが、襲撃はおろか、何の異常な徴候もない。  江戸から続報を求める矢の催促に、京の猿橋は漸《ようや》く諜報《ちようほう》を送ってきた。 (大石、京を動かず)  続いて、詳報が送られてきた。 (独り身となった大石は、誰|憚《はばか》ることなく伏見撞木町に入りびたり、遊蕩《ゆうとう》に明け暮れている。妻子離別はそのためならんか。尚《なお》、大石の相方は、撞木町升屋の夕霧、年十八歳、嬋娟《せんけん》の美女)  吉良も上杉も唖然《あぜん》となった。  ——大石の真意はなんだ!  猿橋は、続報を寄せた。 (山科の居宅を去った大石は、祇園下河原の雲母《きらら》茶屋に仮住居している。仄聞《そくぶん》するところに依《よ》れば、かねて執心と噂ありし町人娘を側妾《そくしよう》に囲った由……娘は、二条寺町筆墨商、一文字屋次郎左衛門の庶出の娘、可留《かる》、十七歳、妾宅は三条高倉の茶屋、業平庵)  吉良・上杉の怒りが爆発した。  ——ばかにするな! 大石め、いったい何を考えておるのだ!  やり切れない憤怒が渦巻く。�本当にやる気があるのか?�  極度の緊張は一気に惰した。厳戒態勢は有耶無耶《うやむや》に終熄《しゆうそく》した。  ——一度生じた惰気や疑念は、容易に元に戻らない……。  色部は、歯噛《はが》みする思いだった。  ——やりおるな、大石め……矢継早の何たる汚なさ!  そう悪罵《あくば》してみても、痛手を負った身を自認せざるを得なかった。  江戸の春はたけなわ、吉良屋敷の敷地に、雑草が芽吹き始めていた。 [#改ページ]   行《ゆく》 春《はる》      一  一月下旬、吉良《きら》屋敷の新築認可を得た色部は、昨秋改修を終えたばかりの建物を惜しげもなく打壊し、敷地を悉《ことごと》く更地《さらち》にする工事を二月半ばまでに終えた。  その後、工事は鳴りをひそめた。十日、二十日を過ぎても、普請を始める気配をみせない。  当然、江戸中の噂の種になった。  当時の江戸は、まだ拡張整備の段階を終えていない。関八州の一角、一漁村に過ぎなかった江戸村は、家康《いえやす》が居城を築き、天下の覇権を握って以来、政治と経済の中心地として膨脹し続けた。その勢いは侍文化から町人文化に移りつつある元禄期に至っても、おとろえるどころか更に加速しつつあった。  この頃の江戸の経済の重点は、依然として普請・作事の建設事業にあった。公儀は幕威を示すため、盛んに神社仏閣の建立《こんりゆう》をすすめ、諸大名は恭順の意を表するため、江戸城内外の整備に万金を供した。材木商や石材商は繁昌《はんじよう》を極め、町人の半ばを占める職人階層では、大工・左官等が幅を利かせ、人足・人夫の人入れ稼業が勢力を張った。  そういう江戸で、吉良屋敷の新築は関心を集めた。四年前、鍛冶橋《かじばし》屋敷から移るため、呉服橋屋敷を新築した時の贅《ぜい》を凝らした普請は話題の的となった。上杉家の醵出金《きよしゆつきん》二万三千両、吉良自身の支出を加えれば三万両近い建築費は、並の水準をはるかに越え、——さすが十五万石のうしろ盾——と、世間を瞠目《どうもく》させた。  その吉良が屋敷替えを命ぜられ、昨秋八千余両を投じて改築した本所|竪川《たてかわ》一ツ目屋敷が気に入らず、また新たな建築にかかる。  ——こんどは三万両ではおさまらぬ建築費であろう。五万両はかかるとみた。  三万両五万両の建築費の波及効果は、大いに江戸市民の懐をうるおすに違いない。庶民にとっては期待の的であった。 「それが、どうも……奇妙としか言いようがありません」  三田松本町に住む前川忠太夫は、訪れた堀部|弥兵衛《やへえ》にそう告げた。  前川忠太夫は人入れ稼業を営む、元|播州竜野《ばんしゆうたつの》の浪人で、二十年前にこの稼業を始めた時から、内蔵助の援助をうけ、今日の大をなした。その縁でこんどの企てに肩入れを惜しまない。諸大名・旗本筋からの秘事漏聞、市中への蜚語《ひご》の流布《るふ》、その他物品の調達輸送、住居の斡旋《あつせん》等々、侍階層では手の及ばぬことに、八面|六臂《ろつぴ》の働きを続けている。  こうして内蔵助の企てを辿《たど》ってみると、赤穂《あこう》の侍の結束もさることながら、周辺の町人階層の協力助力の並々ならぬことに驚く。〈侍の一分〉と、その志をうたいあげる内蔵助が、天川屋儀兵衛を始め多くの町人の義心をしっかと握り、存分に使ったあたりに、智者として名高かった上杉の色部が一籌《いつちゆう》を輸《ゆ》した因がある。 (侍にしておくには、惜しい)  天川屋がいみじくも評したその言葉に、千鈞《せんきん》の重味があった。 「奇妙、というのはどういうことだな」  前川宅の奥座敷で、茶を啜《すす》りながら弥兵衛がたずねた。 「三万両とも五万両とも言われる大普請に、いまもって柱一本、塀一尺の仕事を請負った大工左官の棟梁《とうりよう》がおりません。そればかりじゃない、あきんどの方も、木舞《こまい》一枚、土台石ひとつも注文を受けた店が無い……」 「で? おぬしらの稼業もか?」  弥兵衛の問いかけに、鋭い気配がうかがえた。 「そうなんで……土運び、材木担ぎの人足ひとりの注文も入っておりません」 「…………」  弥兵衛は吐息した。そんな筈《はず》はない、公儀の許しを得た以上、建築普請に遅滞は許されない。春三月の声を聞いたいま、工事にかからぬ訳はないのだ。 「色部め、何を企《たくら》んだか……」  思わず呟《つぶや》く弥兵衛の言葉を、前川忠太夫が引取った。 「なにせ名だたる智恵者、ご用心の上のご用心が肝要でございましょう」  長年の町人暮しでも、つい昔の侍言葉に戻る前川忠太夫は、傍らの手箱から書付の束を出して、選びはじめた。 「ご依頼の本所竪川一ツ目あたりの売り家探しですが……ようやくひとつ見つけました」  二人は、ひろげた切絵図に額を集めた。 「相生《あいおい》町二丁目の……このあたりになります」  弥兵衛は呻《うめ》いた。 「これは……吉良の新屋敷の真横ではないか」 「はい。七間道路をへだてて、敷地に向い合っております」 「ふうむ……」  昨年秋、江戸下向した内蔵助は、江戸組統率の弥兵衛に吉良新屋敷対策を指令した。  一、殊更に江戸組同志の本所移転を図らぬこと。  一、討入の基地は、吉良新屋敷と同じ竪川沿いの東十一町以内、大横川までの間に設けること。  同じ竪川沿いに基地を設定したのは、武器・防具その他戦闘用物資を集積し、更に討入の際の搬送は、すべて舟運することを計画したためである。  この件は、昨年暮に解決していた。弥兵衛の娘婿堀部|安兵衛《やすべえ》が、堀内源左衛門道場の門下生である御家人、杉原与之助という者の斡旋で、竪川南岸の林町五丁目(一ツ目之橋より八町東)にある空道場を一年の年限で借受け、長江《ながえ》長左衛門という偽名で、堀内流道場を開いた。建物は古いが道場だけに手広く、物資の隠匿《いんとく》には都合よく、また同志の来訪、会合にも怪しまれず、すこぶる便利であった。  更に、年明けて早々、道場より一町東の徳右衛門町一丁目に空店《あきだな》が生じたのを幸い、薪炭《しんたん》商に偽装した杉野十平次(中小姓七両三人|扶持《ぶち》・二十七歳)が借受け、日本橋通油町の本店の物置代りという触込みで、梱包《こんぽう》を運びこみ保管に当った。  一、その基地とは別に、吉良新屋敷の普請の物見(偵察)の足場となる家を設けること。  これは難題であった。離れた家では役に立たず、近ければ不審を抱かれ、発覚すれば暗殺・襲撃の恐れを生ずる。その兼合いをどうするかが悩みの種であった。 「目と鼻の先というもおろかなこと、この店屋では吉良屋敷を囲む侍長屋と二六時中向き合っております。ただ……捨て難いのはこの店屋の裏店も都合よく空いておりまして、竪川に面しておりますゆえ、二軒を一緒に手に入れれば、竪川からじかに舟で出入りが叶《かな》いますが……」 「よし、その二軒、買い取ろう」  弥兵衛は、断乎《だんこ》と決断を下した。 「買いとる……?」 「なまじ賃借りなどすれば、大家・差配が何かと干渉する恐れがある。これは決死の物見場所、機に応じ様々に手を加えて備えを作らねばなるまい。居抜きのまま、そっくり買いとってしまうのだ」  弥兵衛の脳裏には、すでに人選が決っていた。前原伊助(金奉行十石三人扶持・三十九歳)、神崎《かんざき》与五郎(徒横目《かちよこめ》五両三人扶持・三十七歳)、共に江戸詰の微禄《びろく》軽輩だが、長年内蔵助の撫育《ぶいく》をうけ、この企てに一議もなく参加し、物の用に立ちたいと再三弥兵衛に歎願《たんがん》し続けている。軽輩ゆえ町人になりすますこともさして難儀ではない。  ——かねてその資質を見込み、養いおいた者でなければ、大事の頼みとはならぬ。  内蔵助の周到な用意が、いま生きる時であった。  吉良屋敷の横手と向き合う表店は、小売りの米と雑穀の店であった。前原伊助は美作《みまさか》屋五兵衛と名乗り、吉良屋敷の普請前に店を開いた。裏店は木綿古手(働き着の古着)の店で、神崎与五郎が丁子《ちようじ》屋善兵衛と偽名した。      二  両国橋を東に渡ると、回向院《えこういん》の大伽藍《だいがらん》に直面する。四十五年前に当る明暦三年(一六五七)江戸本郷本妙寺に起こった大火は、三日にわたって江戸市街の大部を焼払い、江戸城本丸・二ノ丸までが焼失した。以来江戸城に本丸・天守は再建されなかった。焼失町数八百町、死者十万八千人、未曾有《みぞう》の災害であった。公儀は無縁仏となったその大半の死者を東両国に葬り、国豊山無縁寺を建立、供養した。それが回向院である。  回向院の南側が塔頭《たつちゆう》大徳院で、その裏手が五間道路をへだてた吉良屋敷の敷地であった。  四月初旬が間もなく過ぎようとする頃、その大徳院の境内におびただしい仮小屋が建てられた。  数日後、永代橋《えいたいばし》の船溜《ふなだま》りに、米沢上杉家の桐の紋所を掲げた藩用船が着き、荷足船《にたりぶね》に移乗した人と資材が陸続と大川を溯《さかのぼ》り、両国橋畔の竪川に入って一ツ目之橋で荷揚げし、人は大徳院の仮小屋へ、資材は吉良新屋敷の敷地へ搬入された。  吉良新屋敷の普請・作事が始まった。人は大工・左官を始め、土運びの人夫・人足、飯炊き女まで、すべて米沢で募り集め、江戸者は一人の日傭《ひよう》取りも雇わない。また、資材は材木、石材、瓦《かわら》から釘《くぎ》一本、漆喰《しつくい》一片まで、すべて米沢で調え、職人や人足の米・塩・味噌《みそ》から干魚、野菜までを船で搬入するという徹底ぶりであった。  その職人・人足群の指揮と監視、警戒も、すべて船で送りこまれた米沢の国侍が当った。すべてが荒々しく、物々しい態勢がしかれた。 (さすがに、色部……)  弥兵衛をはじめ、安兵衛、富森|助《すけ》右衛門《えもん》、奥田孫太夫、片岡源五右衛門など、江戸組首脳は、この様態《ようたい》に圧倒された感があった。  これまでの謀攻・謀略は、あからさまに敵意を見せつけてはいたが、直接行動を避けて、暗に相手の機鋒《きほう》を挫《くじ》く策に終始してきた。  ——相手の疑心暗鬼を誘え、相手を惑わせ、倦《う》み疲れさせ、気力を萎《な》えさせることにつとめよ。直接的な接触は飽くまでも避けよ。  その大方針に従った行動が、ここに至って一大障壁に突き当った。  ——吉良の新屋敷の備えをどうさぐるか。隠密裡《おんみつり》に行えばその実体の把握は至難のわざとなろう。さりとて強行すれば衝突は避け難い……。  弥兵衛は、内蔵助の許《もと》へ安兵衛、奥田孫太夫、富森助右衛門の三名を急派して、その指令を仰ぐことにした。 「急げ、普請の始まったいま、一日一刻が千金の値いとなる。道中|費《つい》えを惜しむな。急ぎ走って大石どのにこの実状を告げてくれい」  弥兵衛は、切羽つまった思いを三名に托《たく》して、せきたてた。  日付はさだかでないが、この頃、伏見奉行所の見廻《みまわり》同心、高木又兵衛という者が、建部《たけべ》内匠頭政宇《たくみのかみまさのり》に、内蔵助の動静について報告した際のいきさつが記録に残っている。  伏見京橋の大坂通い船の船着場を見廻った高木又兵衛が、帰途|撞木《しゆもく》町の色町を通ると、かねてから手下にしていた大門の番太が、その日の昼下がり、旅の侍三名が揚屋笹屋方に登楼したという。 「それがどう見ても昼遊びするような人相|風態《ふうてい》やおまへん。身なりは埃《ほこり》まみれのぐずぐず、髷《まげ》はそそけ立って無精髭《ぶしようひげ》、眼ェが血走って足許《あしもと》ふらふらという有様どす。ありゃよほどの急ぎ旅どっせ」  気になった高木は、笹屋方を訪れ、訊《たず》ねてみたが、口の固いが色町の常で、別段怪しい客ではなかった、という。 「へえ、お三人とも西国のさるご家中どしてな、ふた月か三月ごとにようお通いなされますお馴染《なじみ》はんどす。多分お泊りや思います」  高木の頭に閃《ひらめ》いたのは、三日にあげず人を集めてだだら遊びを続ける大石のことであった。  ——もしかすると、大石を訪れた旧赤穂浅野の家中やも知れぬ。長旅というからは江戸からの使いか。  日暮までには奉行所に戻らねばならぬ高木は、不得要領のまま、建部内匠頭に復命した。 「相わかった。それ以上の探索には及ばぬ」  建部は、意外に素気なく、関心を示さなかった。 「では、このまま捨ておいて構わぬと仰せで……?」 「あの放蕩者《ほうとうもの》め、世間で仇討《あだうち》の、討入のと噂されてはおるが、一向に何をしたという実証が無いではないか。江戸の吉良どのも上杉家も、当方の知らせを受くるのみで、何も言って来ぬ。そのうち、遊蕩の金が尽きれば何か動きを示すやも知れぬが、それまでは放っておけ。もう飽いた」  このあたりに、世俗の情にうとい色部又四郎の性格があらわれている。親戚《しんせき》筋の建部に、大石の動静調べを頼んでおきながら、江戸での情勢について何も知らせていない。建部の言葉の終りの一語、「もう飽いた」と言わしめるところに重大な意味が含まれていた、といえよう。  その伏見撞木町の笹屋、農家風の離れ家に、堀部・奥田・富森を迎えた内蔵助は、吉田忠左衛門、小野寺十内、不破|数《かず》右衛門《えもん》を至急招き寄せて、鳩首《きゆうしゆ》協議を行なっていた。 「色部め、ようも企《たくら》みましたな。人も物も国許から一切送りこむとは……」  江戸の三名が、こもごも語る吉良新屋敷普請開始の報告に、吉田忠左衛門は歎息《たんそく》を洩《も》らした。 「いかさま、堀部のご老体が当惑なされたのも頷《うなず》けます。これは難題……はて、いかが致せばよいか……」  と、小野寺十内も沈痛の色を隠せなかった。  江戸組の三名は、ただ内蔵助の顔色をうかがうだけであった。 「これは少々思惑がそれたな。かかる手を考えないでもなかったが、色部には打てまいと思ったのが早計であった」  苦笑まじりの内蔵助に、すばやく反応したのは不破数右衛門だった。 「色部の背後にいま一人、強敵のおるのを見逃しておりました」 「それよ、国家老、千坂|兵部《ひようぶ》」  内蔵助のひそかな期待は、上杉家内部の確執激化であった。刃傷《にんじよう》以来、色部は才を誇り、独断専行を続けている。事がみごと処理できても、とかくの批判はまぬかれない。それが一年を閲《けみ》しても片付かず、味方不利に追いこまれつつある現状では、家中の意思統一は到底見込めない。  ——小才子め、何をうろたえくさっておるのだ。  という単純な嘲罵《ちようば》から、  ——潰《つぶ》れた小藩の浪人づれに、何でそうむだ金を費《つか》う。  そういう藩財政への憂慮。  ——これは吉良家の問題、いかに藩主の御実家とはいえ、肩入れが過ぎる。  という筋論などが必然的に湧き起こり、渦巻く。 (家中の意思統一というのは、至難のわざなのだ)  明日なき藩となった上に、二十年来備え来《きた》った軍資金を握って、〈侍の一分の顕現〉という明快な指針を示した内蔵助でさえ、この一年の内部崩壊には、敵に対する智謀以上に悩み続けた。  ——上杉だけが、例外であろう筈がない。  それが、いま、上杉は江戸と国許が一体となって事に対処するみごとな意思統一を見せつけてきた。それは単なる吉良邸新築の機密保持のためのものではない。名門上杉の実力をわれのみにあらず、天下に誇示したといっていい。  ——これは、色部ひとりの小細工ではない。家中に渦巻く反論を押えきった宿老、千坂兵部の勢威である。  その心理的な重圧感はすさまじい勢いで内蔵助以下の一同にのしかかった。寄る辺なき素浪人の心細さが思考をうちひしぐ。具体的な対応策より先に、——勝てるか、勝ち目があるか、という心理的|葛藤《かつとう》とまず闘わなければならなかった。 「まあよい。今宵《こよい》はその辺で止《や》めておけ。くよくよするだけ相手の術中にはまる。まずは遊びにとち狂って、暫《しばら》く離れてみることだ」  そう言って座を離れた内蔵助は、表土間に足を運んで店の女を呼んだ。      三  三日の間、内蔵助と六名の遊興が続いた。と言って、昼夜酒と女に明け暮れたわけではない。昼は駕籠《かご》を連ねて名所見物に出かける。初日は宇治。黄檗山《おうばくさん》万福寺で中国文化にひたり、宇治橋に源平の合戦を偲《しの》び、平等院に平安の世の栄華を眼《ま》のあたりして、栄枯盛衰のことわりを思う。春日遅々、一行はしばし己が境涯を忘れ、世俗の外に身をおいた。  二日目は、それぞれ相方の遊女を伴って伏見|稲荷《いなり》に詣《もう》で、七面山に行楽の弁当を開き、野外の遊びに興じた。深草・墨染の野山に風|薫《かお》り、浮世の法楽を存分に楽しんだ。  夕景、撞木町に戻って酒宴を開く。早目に切り上げて、それぞれが巫山《ふざん》の夢にふけった。  明けて三日目、後朝《きぬぎぬ》の別れを惜しんだ内蔵助ら七人は、船を仕立てて宇治川を下り、淀《よど》川に出て石清水八幡宮《いわしみずはちまんぐう》に詣でた。見はるかす山城平野、淀、天王山の絶景を賞し、名物の孟宗竹《もうそうちく》の筍《たけのこ》料理に舌つづみを打つ。駕籠を雇って西国街道を北へ、長岡天神、桂《かつら》ノ宮《みや》を経て、嵐山《あらしやま》に向う。伏見から尾《つ》いて離れなかった奉行所手先の者も、もう後を追わなかった。  かねて馴染《なじみ》の虚空蔵《こくうぞう》近くの旅宿、桐屋の奥座敷に落着いた頃は、日永もようやく暮れて、夕闇が迫っていた。  夕餉《ゆうげ》が終って、茶を啜《すす》りながら、内蔵助は一同に言った。 「どうだ、疲れたか。遊びというのもなかなか骨の折れるものでな、仕事をするほうがよほど楽、と思うことがある」 「恐れ入りました」  と、安兵衛が笑った。 「ご苦労の段、痛み入ります……それにしてもいささか驚きました。この三日、肝心のこと、ひと言も口にされませんでしたな」 「安兵衛よ」  吉田忠左衛門が声をかける。 「大石どのが、離れろ、と言われたのはそのことだ。思案は思いの外に身をおくことで、存外道が開けるものなのだ」 「まだ……われらは修行が足りませぬな。この三日、ああだこうだと思い迷うばかりで、景色も眼に残らず、酒の味すら水のような心地でした」  と、富森助右衛門が述懐した。 「わしは、これを生涯のいましめとしておる……それは、困らぬこと、困ったと思わぬこと。人は困った事に出くわすと、困ったと思うことで胸ふたがれて、思案も浮ばずにただ困った困ったと思うだけになる……困らぬこと、人が仕出かした困った事は、人の智恵で解けぬ筈《はず》がないのだ」  内蔵助の言葉に、一同はそれぞれに頭を下げた。 「さて、千坂のうしろ盾を頼んで色部が策した吉良屋敷の普請だが……市中の評判はどうだ」 「それは、申すまでもなく悪評|嘖々《さくさく》でございます。江戸職人は奥羽《おうう》の山国職人に見かえられたと腹を立て、商人どもは数万両の金が一文も江戸市中に落ちぬとあって、賄賂《わいろ》とりの吝《しわ》ン坊め、天下様のお膝許《ひざもと》で人もなげな振舞い、と、罵《ののし》り止まざる有様で……」  奥田孫太夫の言葉に、大石は事もなげに断を下した。 「そのあたりだな、色部の策の隙間は」  内蔵助の言葉に、一同は注目した。 「色部め、世間のそしりもかえりみず、それほど思いきった手を打つからは、われらの攻めに応ずるよほどの備えを作るに相違ない。その備え是非にも知らねばならぬ……よいか、それを知らねば討入の策は立たぬ、どうあっても調べ抜くのだ」  言うは易い。だが、機密保全に徹したその普請・作事を、どう調べるか……。 「色部はまだ青い。奴め、上杉の武威をふりかざして公然と秘密主義をとるなら、われらはそれを逆手《さかて》にとって、公然と調べ抜く。公儀の法、府内の条令に背かぬ限りにおいて、堂々と隠し立てせず調べて廻《まわ》れ」  江戸には、市中の暮しに馴染み、精通した堀部弥兵衛・安兵衛以下の面々がいる。それに前川忠太夫、川崎|平間《ひらま》村の軽部《かるべ》五兵衛をはじめ、旧|鉄砲洲《てつぽうず》藩邸出入りの商人・職人等、旧知の町人が数多い。それらに金銀を惜しまず撒《ま》いて、十二分に活用しろ、というのである。 「吉良・上杉の人気は、この普請・作事のやり方で、いま最悪とみた……その虚に乗じ、義に訴え、情で説き、更に利をもって誘えば、江戸の町人から町方役人まで、誰もが味方するだろう。それらを手助けに頼んで調べ抜くのだ」  一同の顔に血色が戻り、昂奮《こうふん》のきざしがほのかに見えた。だが、まだふっ切れぬ翳《かげ》が残る。 「では……相手方に、探索を覚られてもかまわぬ、と仰せられるので……?」  富森助右衛門が、重く口を切る。 「どうで覚るわさ。諺《ことわざ》にいうであろう、隠すより顕《あら》わるるはなし……敵も味方も同じ事、これだけの攻め防ぎを隠しおおせるものではない」  ただし……と、内蔵助は、言葉を継いだ。 「相手方の屋敷内に、一歩たりと足を踏み入れてはならぬ。たとえ夜の闇にまぎれ、風雨に乗ずる時があっても、潜入は一切まかりならぬ、固く禁ずる」  どうしてか? 当然の疑問を江戸組の三人は抱いた。相手方に覚られるのを覚悟の上での探査・探索ではないか。 「ひとつには、相手方に口実を与えぬためである。法を破れば相手は上《かみ》役人を頼みわれらを取締るだろう。だが違法の行為をせぬ限り、上役人といえどもわれらを取締る口実がない」  もう一つは、心理作戦にあった。大っぴらに調べ廻るのは、討入の準備であろうか、それとも市中の悪評に乗じての厭《いや》がらせであろうか、相手方は必ず迷う、と、いうのである。  あてつけがましくすればするほど、相手は迷い……苛立《いらだ》つ、うんざりする、怒気の発散のしようがない、家名があるから喧嘩《けんか》もできない、これは見えすいた挑戦だと見て、あきらめるよりない。当然惰気が生じ、警戒心がうすれ、機密保持は投げやりになる。 「それにつけこめ、と申すのだ。よいか、この一年、われらは相手方に緊張を強い、その反動で惰気を誘った。われらと上杉の対立は単なる意地の張り合いではない、これは家名と領国を賭《か》けた戦さなのだ。その戦さはもう一年続いている、この探査・探索は平時の諜報隠密《ちようほうおんみつ》ではない、最後の合戦のための物見なのだ。敵が押せばこちらは退《ひ》く、相手が退けば味方は押す、その駈引《かけひき》の阿吽《あうん》の呼吸に戦さの要諦《ようたい》がある」  いま敵は、こちらが本当に討入るか、それとも焦《じ》らし苛立たせて自壊を誘っているのかと、半信半疑で迷っている。色部又四郎はいざ知らず、泰平の世に慣れた侍どもは迷わずにはいられない。 「それゆえ、敵の屋敷内に踏みこんではならぬ。たとえそれが見破られず、うまうまと功をおさめても、敵は一挙に緊張する。こちらに襲う意ありとみて覚悟を固める」  それが、この一年の謀計謀略の成果を水泡に帰させるのだ……と、内蔵助は強調した。 「忠左どのはご苦労だが、この三名と共に江戸へ出向き、弥兵衛どのと共に探査・探索の指揮をとって貰《もら》おう。数右衛は明日にも大坂へ下り、天川屋を頼んで船で江戸へ向え。江戸の回船問屋に手を廻し、船手船方の力添えで上杉の藩船が運ぶ資材一切の種類と量を調べるのだ。それで普請・作事のおおよそが掴《つか》めよう。すべて計算で割り出してくれ」  内蔵助は、残る小野寺十内を見返った。 「十内どの、これは金がかかる。その方の手配りを頼む」  あざやかな采配《さいはい》であった。 [#改ページ]   吾亦紅《われもこう》      一  ——江戸は、凄《すご》いところだ。  左馬之助は驚嘆した。国許米沢《くにもとよねざわ》とは人心がまるで違う。礼節が無い。米沢では士農工商の差は厳と守られている。道の七分は侍が歩き、残り三分を農民職人あきんどがゆずり合って通る。それが江戸では肩がふれ合いそうになっても、町人は道をゆずろうとしない。口先では一応へり下ってみせるが、主張は対等である。これが荷を担ぎ、車を曳《ひ》くと相手が侍でも容赦なく怒鳴りつける。 「どいたどいた、あぶねえぞ、べら棒め」  あわててとびのくと、見た者が咲《わら》うのだ。 「よいか、江戸での第一の心得は、御府内で争いを起こさぬことにある。公儀諸役人、旗本御家人、他藩の侍は申すに及ばず、町人どもに対してもだ。喧嘩《けんか》口論の果てに刀を抜くような仕儀に至れば、累は御家にも及ぶぞ」  到着早々に聞かされた江戸留守居役、浜岡庄太夫の訓話である。 「町人に対しても、ですか」  思わず反問した左馬之助は、じろり睨《にら》まれた。 「江戸の四民は大名家の領民ではない、将軍家の士庶である。その辺をとくと心得ておくように……分けてもそこもと、ご家老のお孫であることを、忘れぬように」  左馬之助の祖父は、筆頭国家老千坂|兵部高就《ひようぶたかなり》(高房の子)である。  千坂家は、子運が乏しかった。当代の兵部高就の嫡男、一人子の紀市郎高順は、家督を継ぐ前、三十歳で夭折《ようせつ》し、嫁のたに[#「たに」に傍点](加賀前田家国家老前田|美濃《みの》三女)が後家を守って、幹一郎と左馬之助の兄弟を育てた。  この年一月末、千坂兵部は色部又四郎の要請によって強権を発動し、領内の城大工・左官等の職人をはじめ、大量の人夫・人足を徴用した。労賃は一律一人一日米六合と、棟梁《とうりよう》・親方格に銭六百文、小頭格に四百五十文、並職人に三百文、人夫・人足は米六合のほかに、親方五百五十文、差配役に四百文、並人足二百文である。  千坂兵部は、領民の一部を動員すると共に、藩士の子弟の徴募を行なった。条件は藩士とその家嗣をのぞく部屋住の次男三男以下に限り、武芸は切紙(最初の免許)以上、勤めは江戸本所|吉良《きら》屋敷普請の労役指図、取締り、及び屋敷地警護、期間は約一ヶ年、手当は一律一人一日米六合と雑用金五百文、就役後に郷方諸役に登用の途《みち》を開く、とある。  米沢上杉家には、藩黌《はんこう》考試合格者に、江戸留学給費生の制度がある。だがその恩典に浴するのは、有力者の子弟をのぞくと針孔《はりあな》を通るほどの至難さがあった。そのため、江戸行きと登用の機を得るとあって、志願者は続出し、人選は厳重を極めた。  左馬之助は、千坂家の次男であり、採用条件に適合していたが、二、三年後の江戸留学給費生が約束されており、こうした上士下士の区別を越えた徴募に応ずる必要はなかった。それより左馬之助の兄幹一郎忠成が、夭折した父高順に似て多病の身であり、千坂家にとっては補綴《ほてつ》の身として大事な存在であった。  だが、十八歳を迎えたばかりの左馬之助は、藩黌の仲間が次々と志願するのを見て、たまらず祖父、兵部高就に願い出た。兵部は、と胸を衝《つ》かれたように暫《しば》し返事をためらっていたが、やがて思い切ったようにこれを許した。  そういうわけで、千坂左馬之助は、晴れて江戸の吉良屋敷普請の人数に加わり、出府した。百聞は一見にしかず、という。若い左馬之助は初めて見る江戸の繁昌《はんじよう》に驚嘆すると共に、将軍家お膝許《ひざもと》の人気《じんき》の荒さに瞠目《どうもく》した。  吉良屋敷の普請は、まず土掘りから始まった。屋敷の三方、道に面する辺は、すべて総二階の侍長屋が建てられ、残る一方、旗本屋敷(土屋|主税《ちから》、本多孫太郎)を背に、建坪三百九十坪の本屋敷が造られる。その土台築造と共に、千五百坪を越える庭敷地に、深さ六尺、幅二間余の濠《ほり》が縦横に掘られ、杭《くい》と矢板で両岸の土崩れを止める。それに丈余の木柵《もくさく》、築地塀《ついじべい》等々、まず土工仕事が着手された。  その間、藩の用船は陸続と永代橋《えいたいばし》の船溜《ふなだま》りに入った。米沢から陸路相馬領に運ばれた資材は、松川浦で船積みされ、永代に入ると荷足船《にたりぶね》に積みかえられ、大川を溯《さかのぼ》って竪川《たてかわ》に入り、一ツ目之橋際の船着場で揚陸され、工事場に運ばれる。それらの作業にたずさわる船方・沖仕・人足らは、徴募の侍が指図と取締りに当った。  五日十日は事なく過ぎた。場末の屋敷敷地に市民の関心は薄く、本所一ツ目一帯は威勢よく立働く米沢者に占められた感があった。 「邪魔だ、のけのけ、この道を通ってはならん」 「この先、立入りはならん、廻《まわ》り道せい。言う通りにせんと怪我するぞ」  たまさか通りかかる者に罵声《ばせい》がとぶ。色部又四郎が考えに考えた機密保全の普請作事は何の障害もなく進むかに見えた。  だが、二十日あまり過ぎて、土工作業がようやく形が見えるようになった頃から、急に様子が変った。  竪川一ツ目之橋の資材の陸揚げを、対岸から見守る浪人・町人の姿があった。荷足船が着くごとに二人三人と姿をあらわすその者は、互いに囁《ささや》き合い、帳面を取出し、覚えを書きとめている。睨みつけ、咎《とが》める気配を見せても平然と無視してやめようとしない。 (明らかに赤穂《あこう》侍だ)  そう感じとっても、——御府内で争いを起こすな、の禁令を聞かされている米沢侍は、手を出すことがためらわれた。  それを見越したように、吉良屋敷の横手、相生《あいおい》町の町家との間の七間道路に、普請見物の人の動きが増えた。ゆっくりと見て通る者はまだましなほうで、立止ってしげしげと普請を観察し、連れの者と私語を交して小半時《こはんとき》以上も動かぬ者、克明に覚え書をとる者、略図を画くため歩測までする者があらわれた。  家格から、米沢侍の統率役に推された千坂左馬之助は、その人もなげな振舞いを見過しかねた。 「こら、何を致しておる。うろんな真似は許さんぞ、さっさと通れ、見世物ではない」  咎められたのは、二人連れの浪人者である。髭《ひげ》の剃《そ》り痕《あと》の青々とした三十がらみの精悍《せいかん》な浪人が、薄笑いを浮べて応じた。 「お若いの、ここは天下の往来、お大名旗本も通れば物売り乞食《こじき》も通る。何を眺めようとこちらの勝手、田舎臭いよそ者の指図は受けん。見られて都合の悪い普請なら、草深い国許でなされたらどうだ」 「ぶ、無礼な、われらを上杉家の者と知っての雑言か、捨ておかんぞ」 「おぬし、ちと分別が足らんな」  連れの白髪まじり、初老の屈強な浪人が、たしなめた。 「われらには、憚《はばか》る国なしあるじなし、喧嘩口論は身の勝手だが、おぬしは違うだろう。みだりにあるじの名を口にして、後悔しても追いつかんぞ」 「どうなされた、路上での口論はおだやかでないが」  声をかけて歩み寄った廻り方の町方同心が、浪人連れを見て、破顔一笑した。 「これはこれは……絶えて久しくお目にかかりませなんだが、息災でござりましたか」 「いや、ご挨拶《あいさつ》痛み入る。浪人を致すと世間が狭くなり申してな、足を止め、立ち話をしただけでも咎められ、難くせをつけられて難渋しおります」  白髪まじりの浪人に頷《うなず》いた町方同心は、左馬之助に向き直った。 「お手前、吉良様ゆかりの御家中とお見受け致すが、このお二人、うろんな者ではない。先年高田馬場で高名致し、江戸で知らぬ者ない堀部|安兵衛《やすべえ》どのと、同じ堀内道場で竜虎《りゆうこ》と呼び名高い奥田孫太夫どの、共に赤穂のご浪人です」  左馬之助は顔色を変えた。相手方を赤穂浪人と名指された衝撃の上に、国許でも噂された高田馬場の果し合いで有名な堀部安兵衛と聞かされて、思わずたじろいだ。 「念のため申し上げるが、お大名、高家《こうけ》、旗本衆の屋敷はそれぞれの武家支配、大徳院境内は寺社方、町家と往来は町方が取締ります。お屋敷敷地|内《うち》はお手前方の随意だが、そのほかは勝手な口出しはつつしんでいただく。さようお心得ありたい」  町方同心は、堀部と奥田を見返って、親しげに笑いかけ、共に肩を並べて歩き去って行った。  取りつくしまなく、左馬之助は呆然《ぼうぜん》と見送るよりなかった。      二  色部又四郎は、浜岡庄太夫から、吉良屋敷の普請の状況を聞いた。 「赤穂浪人め、目に余る振舞いにて、国許から呼び寄せた侍ども切歯|扼腕《やくわん》致しておりまする」  早速検分に赴いた色部は、おのれの策がみごとに裏をかかれたのを知った。  赤穂浪人の跳梁《ちようりよう》は、予想をはるかに越えた。浪人者が江戸者の大工・左官の棟梁を伴い、その眼利きや見立てを聞取りながら、普請場を見て廻《まわ》る。中には材木屋の番頭や土工の人夫頭などを連れて詳細な聞取書を作り、見取図を書かせている者もある。そうした町人・職人は吉良・上杉への反感や、赤穂浪人への判官|贔屓《びいき》からか、連れの浪人者より熱心に助言し、質問に答えている。  ——金、金、何もかも金のせいだ……。  上杉が江戸という土地に落さなかった金、それとは逆に赤穂侍が秘事探索に撒《ま》く金、その差がはっきりとあらわれていた。  図に乗った行為は、吉良屋敷の横手、七間道路をへだてた相生町二丁目の米と雑穀の店、美作《みまさか》屋だった。真裏の木綿古手屋|丁子《ちようじ》屋と共同で井戸掘りの櫓《やぐら》を建てたが、どうやら見物料をとって赤穂浪人やその供の町人を登らせ、普請場を覗《のぞ》かせているのだ。  ——これでは、屋敷内の備えは筒抜けではないか!  浜岡は、公儀の然《しか》るべき筋に抗議してみてはどうか、と言う。 「無駄だ、捨ておくしかあるまい」  色部は、そう退けるよりなかった。法令の無い以上、町方の下役が動く筈《はず》がない。それでなくとも吉良・上杉の人気は最悪なのだ。 (大石め、かかる手だてを取ろうとは……)  色部は、更なる策に頭を悩まさなければならないことを覚った。  この年、奥羽一円に凶饉《きようきん》の兆しがあった。  常になく春の訪れが早かった。それが代掻《しろか》きの頃から冷雨が降り始め、田植過ぎても続いて、梅雨時に炬燵《こたつ》が欠かせぬほど冷えこんだ。  ——冷害、必至。  春先からそう予知した千坂兵部は、植付の早稲《わせ》・中稲《なかて》をすべて晩稲《おくて》に切替えさせ、端境《はざかい》期の飯米を西国から買付けるなど、能《あた》う限りの手を打ったが、それでも元禄《げんろく》八年以来の凶荒が予想された。  米沢城本丸で開かれた執政(家老・中老)会議は、陰鬱《いんうつ》な雰囲気に包まれていた。  ——凶事は重なるというが、どれほど艱苦《かんく》は続くのか。  さなきだに辛《つら》い藩であった。  戦国の世に百二十万石の威勢を誇った上杉家は、関ヶ原の一戦で三十万石に減封され、更に当代綱憲襲封の際、十五万石に減知となった。だが、名門上杉家は代々の家臣を一人も召放すことなく、その不運に耐えた。  幕制の定める軍役は、五万石七十騎である。  当時、上杉家の家禄《かろく》は実収十二万七千石に対し、侍数は六千人という莫大《ばくだい》な数であった。家臣はこぞって半知を返上したが、それで足りる筈がなく、藩財政は窮迫した。それを辛うじて支えたのは、藩祖以来の節倹であった。国許米沢では重臣といえど三度の食事に白米を食うことを禁じ、粟《あわ》・稗《ひえ》の混合食を常食とし、余剰米を江戸で売って財政を補った。  その中から、度重なる吉良家への醵出金《きよしゆつきん》が捻出《ねんしゆつ》され、いまも屋敷普請に莫大な支出が続いている。  ——いま少し、節して貰《もら》えぬものか。  それは執政一同の切なる願いであった。金銭もさることながら、過ぐる冬、厳寒のさなか、建築用材の調達のため、藩士にまで夫役《ぶやく》が課せられ、両刀をたばさむ身が山に入って木を伐《き》り、橇《そり》を曳《ひ》き、石を担いで運んだ。  その家臣への報いは、禄米・扶持《ふち》米の借上げであった。半知となった家禄は更に六分・七分と天引で借上げられ、二百石三百石の上士の家でも、内職をしなければ暮しに差支える有様となり、消費の窮乏は、城下一円の深刻な不況を招いていた。 「吉良様の御難儀は、吉良様御自身がおまねきなされたこと。それを上杉家がすべて負担せねばならぬ道理はない。屋敷普請は御自身の才覚に任せてはどうか」  それが圧倒的な意見であった。  だが、千坂は肯《がえ》んじなかった。 「理屈はどうあろうと、御隠居の裁量では赤穂浪人の襲撃は防げぬ。それでは見殺しも同然である」  吉良|有而《あつて》、上杉|有《あり》……三十八年前(寛文四年)、上杉家存亡の危機にめざましく働いた少壮吉良の姿が、今も脳裏に灼《や》きついている。  ——どれほどの苦患《くげん》があろうと、吉良有っていまの上杉が有るのだ……。  初老の次席家老、松木彦左衛門が、面《おもて》を冒《おか》して千坂に詰め寄った。 「お言葉を返して恐れ入るが、吉良様にこれ以上の肩入れは、両家の共倒れを招きかねませぬ。事態はそこまで参っております。今が決断の時かと……」 「どう決断せいと言うのだ」 「されば……まず、在府家老色部又四郎に差控えを命じます。代りに国家老一名を差向け、吉良様御屋敷普請を手軽くまとめるか、それとも吉良様御負担を大幅に殖やしていただくか……」  色部、罷免の提議に、三席家老の春日右衛門が同調した。 「かかる憂き目となったのは、すべてあやつの小才覚のせいでござる。又四郎め、才におごり、いらざる画策をめぐらせ、不相応に吉良様をかばいだて……」 「言うな、右衛門」  制した千坂の言葉はきびしかったが、顔にはかえって悲しみの色さえうかがえた。 「あれはあれなりに、御家のことを慮《おもんぱか》っておるのだ」  千坂は、孫に説き聞かすように続けた。 「わしは、色部の才を過大視するのではない。また……吉良様のおいのちを惜しいとも思っておらぬ。惜しいのは上杉という武門のほまれである」  一同は、居ずまいを正し、千坂を瞶《みつ》めた。 「過ぐる大変の折、御家はかのお人に厚恩を蒙《こうむ》った。そのお人は上杉家のあるじ、殿の御実父にあらせられる。また殿の御子の御養父でもある。そのおいのちを見捨て、御養家を潰《つぶ》し、殿の御子を生涯|陽《ひ》の当らぬ境遇に追いやって、武門上杉の面目がどう保てるか、それをまず考えるのだ」  もしも赤穂浪人の暴挙に、吉良の家が為《な》すところなく潰れたら、世間はどう見るか。侍社会はどう酷評するであろうか。暮し向大事。家来がいのち惜しさに、藩主の親も子も見殺しにした。それが当節の侍の道か、上杉の士道は算盤《そろばん》第一かと、あざけりそしるに違いない。 「しかし、色部の方策で相手に勝てる、防ぎきれるという保証は……」  春日右衛門の精一杯の反論を、千坂は言下に断ち切った。 「そのような保証はない。これは戦い、勝敗は時の運である」  だが、勝つために能力の限りを尽す。そして勝敗にいのちを賭《か》ける。それが上杉の士道である。 「かつて藩祖|景勝《かげかつ》公は、関ヶ原の一戦に御家の存亡を賭け、敗れた。だがその敗戦で上杉の面目はいささかも損《そこな》われず、かえって武名を天下に轟《とどろ》かされた。こたびの事、相手が亡国の浪人ゆえ勝っても誇りにはならぬが、それだけに敗《ま》ければ上杉の武名は地に堕《お》ちよう。借財は十年二十年の辛酸で償えるが、失った武名と誇りは終世|蘇《よみがえ》らぬ」 (上杉の武門の面目)  その言葉の重さに、誰もが抗するすべを失った。  長い時の流れの末に、千坂兵部はひと言告げた。 「吉良様のこと、又四郎の思うがままにさせい、それより道はない」  それは、決断というにはあまりに悲痛な言葉であった。      三  この年四月五日、柳沢|吉保《よしやす》は神田橋御門内の上屋敷に火を発し、全焼した。その際、諸大名からの火事見舞は門前市をなし、�美濃の焼け太り�と噂された。  柳沢と関わりの深い上杉家が、早速|莫大《ばくだい》な見舞の金品を贈ったことはいうまでもない。  その火災から二ヶ月近く過ぎた五月末、色部の許に柳沢家の使番が訪れた。内々伝えたき儀|有之《これある》に依《よ》って、霊岸島下屋敷に出向かれ度《たく》、との意であった。  取る物も取りあえず、色部は出向いた。柳沢はその色部を小書院に迎えた。  火事見舞の口上が済んだ後、柳沢はくつろいだ様子で問いかけた。 「吉良どのの本所屋敷、普請にかかったそうだな。大層凝った造りようとか評判を聞いた」  柳沢一流の皮肉が含まれている。その意をはね返すように、色部は言下に応じた。 「何分、御公儀の格別の御配慮で賜りました屋敷地、いささかの粗漏あっても御隠居ばかりでなく、尊き御血筋の御養子の身にかかわります。念が上の念を入れての普請、何とぞ格別の御|扶援《ふえん》の程、願い上げ奉ります」  皮肉を返すに、重ねての皮肉である。柳沢も苦笑のほか無い。 「心得ておこう、さて肝心の用件だが……赤穂浅野の厄介者の処分、ようやく結着致したぞ」  浅野の厄介者とは、切腹した内匠頭長矩《たくみのかみながのり》の弟、大学長広のことである。長矩が存命中は、赤穂五万三千石の内、三千石を分知されて悠々の暮しであったが、兄の罪に連帯の責めを負って、木挽《こびき》町の屋敷で閉門|蟄居《ちつきよ》の身となって、正式処分の決定を待っている。  当の本人内匠頭長矩は切腹して果て、赤穂の藩は廃絶、家臣は離散流亡した。大学長広の処分は一年余も待つ理由はない。当然昨年中に決定する筈であった。もちろん浅野家再興など夢の夢、いささかの可能性もない。 「当人は、芸州広島浅野本家へ永のお預け、播州《ばんしゆう》赤穂へは野州|烏山《からすやま》三万三千石永井|伊賀守直敬《いがのかみなおたか》が転封となる。これでこの一件はすべて落着と相成った」  予想通りの結着である。いささか遅延のうらみはあるが、事件後に吉良の悪評が流布《るふ》され、遂《つい》には屋敷替えに追いこまれるなど、思わぬ余波があったため、人心の鎮静を待ったことが原因となった。 「どうだ、異存はあるまいの」  ——万事、その方が引いた絵図の通りになったのだ。  言外にその意を含めた柳沢の、皮肉の返しである。 (どうも、この男との会話は、皮肉の応酬になる)  扱う所帯の大きさの違いこそあれ、当代切っての才子同士である。それだけに柳沢は、その冷笑・皮肉な会話を楽しんでいる風情《ふぜい》があった。 「…………」  言下に応ずるだろうと思われた色部は、意外にも言葉に苦しみ、色蒼《いろあお》ざめた。 「恐れながら……」 「なんだ、申してみよ」 「その御|沙汰《さた》、もはや変換《へんが》えは叶《かな》いませぬか」 「何と申す、変換えだと?」 「甚だの勝手、申すも恐れながら……なろうことなら浅野大学儀、たとえ小身の御旗本なりと、お取立て願う訳には参りませぬか」 「…………」  柳沢は、絶句し、まじまじと色部を瞶めた。  ——この男、初めて弱気を見せおった……。  その色部の意図はわかる。形だけでも赤穂浅野の家名が残れば、赤穂浅野の旧家臣は勝利を天下に示し、面目が立つ。だが……。 「ならんな」  柳沢は、強く言い放った。色部は強気が魅力の男である。弱い色部に三文の値打もない。 「ではござりましょうが、しかし……」 「昨年の刃傷《にんじよう》沙汰に御公儀は断乎《だんこ》たる処分を行った。吉良のいのちが大事であったためではない、城中で恣意《しい》に刃傷する、天下の御威光を傷つけたがためだ。浅野は切腹、家名断絶、藩は改易……それで万事が終る筈であった。それが降って湧いたように吉良の賄賂《わいろ》の悪評が流れ……今もまだ尾を引いておる」 「…………」 「ここで当の浅野に憐憫《れんびん》の沙汰など下しおかれたら、その吉良の悪評を是認することになり、天下の御政道が世評に負け、誤りを認めたとのそしりを受けよう。それはならぬ、この柳沢吉保が預る天下、それは断じてならぬのだ」  激した柳沢は、おのが預る天下と広言した。それは、かつて見ない柳沢の怒りであった。  色部は沈黙した。  ——致しようのない事になった……。  過日、大石と面晤《めんご》した寸刻が思い出された。駕籠《かご》に乗る者には歩く者が邪魔に思われ、歩く者には駕籠に乗る者が面憎《つらにく》い……歩く者を突きのけた色部に後悔はない。咄嗟《とつさ》の急、致し方なかったと思う、だが……。  ——今更、情けの入る余地は無いのだ。  色部は黙然と、口をつぐんだままだった。 「どうだ、色部」  昂奮《こうふん》が醒《さ》めた柳沢は、さすがにうしろめたさを感じた。 「大学長広の処分変換えは無理だが……御沙汰を下す期日はその方の都合で多少日延べしてよい。と言って半年以上はならぬが……」  それが、柳沢の精一杯の妥協であった。  色部は、脳裏でせわしく計算した。  ——大石は必ず非常手段をとる。それに備える本所屋敷の普請はどう急いでも九月半ばまでかかる。 「では……七月半ば過ぎに願えましょうか」  ——大石が、浅野家再興を断念し、江戸に下って事を起こすには、二月三月《ふたつきみつき》はかかるであろう、となると十月以降か。  色部は、大石との決戦を鮮明に覚悟した。  霊岸島の柳沢家下屋敷を辞したのは、戌《いぬ》ノ下刻(午後九時頃)を廻っていた。昼すぎにはこぼれ陽《び》のあった空はいつしか雲に閉ざされ、あやめも分かぬ五月闇《さつきやみ》となっていた。  ——何という暗さだ。  乗物に揺られる色部は、供廻りさえ定かに見えぬ黒い闇に、胸の苛立《いらだ》ちを抑えかねていた。  五月闇、それはそのまま色部の心であった。      四  浅野大学長広の処分決定、不日《ふじつ》布告。  その秘事は、江戸の片岡源五右衛門の早飛脚によって、京の内蔵助《くらのすけ》の許《もと》にもたらされた。  ——やれやれ、咽喉《のど》に刺さった魚の小骨がとれた心地がする。  内蔵助は、安堵《あんど》の笑顔を小野寺十内に見せた。  大学長広は、まったく役立たずの人であった。兄内匠頭長矩の刃傷に、ただうろたえ、ひたすら領内家臣の静謐《せいひつ》を言いたてるのみで、事件の真因をさぐるでもなく、片落の処分に憤りも示さない。もちろん侍の志、とか、赤穂の士道のありようなどにまったく関心なく、旧家臣への連絡も断ったままである。  ——いかに弟君とはいえ、この人を仰いで御家再興など、思いも寄らず。  それが、内蔵助をはじめ、企てに加わる者の一致した意見であった。  ただ……�御家再興運動�の名目は、企てをすすめる都合上、是非にも必要だった。その名目がないと、旧藩士が寄り寄り会同し、協議し、連絡をとり合うのが憚《はばか》られた。  それが、謀攻の一の矢�吉良賄賂説�が予想を越える効果をもたらすと、俄然《がぜん》世間が吉良を極悪と見、赤穂浪人に同情が集まりだし、浅野家再興が論議の的となった。  ——まさか、実現する筈がない。  内蔵助は、そう見ていた。いかに注目を集め、関心を抱こうとも、そこまで世評に媚《こ》びては公儀の威信にかかわる。  そう思いつつも、大学長広の処分が決定し、最終の結着を見るまでは、討入の挙に出ることは憚られた。  ——片手で浅野家再興運動を行い、もう片手で吉良家潰しの非常手段を強行することは、侍の美に反する……。  内蔵助は、大学長広の処分決定を、一日千秋の思いで待ちわびた。だが、遅くも昨年中に結着するものと思われたそれは、世評を考慮してか延引に次ぐ延引であった。  その桎梏《しつこく》から、ようやく解き放たれたのである。浅野大学長広、分知三千石召上げ、本家芸州浅野家へ永のお預け、赤穂領に永井伊賀守直敬転封。片岡源五右衛門は幕閣筋からその決定をさぐって、知らせて来た。 「どうやら、二年を待たず、事が決行できよう。今より準備にかかる。いささかの手落ちもなきよう、心して励んでくれ」  内蔵助は、はればれと言い渡した。  侍は、藩づとめに武芸の練磨が義務づけられているが、泰平の世にはつとめに追われてつい怠り勝ちになり易い。まして浪人暮しが一年余も続くと、身体のなまるのは避けがたい。内蔵助が行動を起こすのに先立って、まず思い立った準備は、同志の鍛練であった。  非常に備えて撫育《ぶいく》した三十三人の精鋭が、合戦(討入)の中核になる、何をさておいてもその者たちの持久力を養わなくてはならない。あとは六十歳を越えた老人と、二十歳に満たぬ若輩で、それらは後詰《ごづめ》(予備戦力)である。 「江戸の吉良屋敷の物見は、後詰の者に任せて、中核の者は三班から五班に分れ、目立たぬように京へのぼれ、参謀も同じ」  江戸組に緊急の指令が飛んだ。出府中の吉田忠左衛門や不破|数《かず》右衛門《えもん》は、指令に基き班分けの手配を済ませて、同志を率い上洛《じようらく》して来た。  赤穂と郷方、大坂、奈良、京在住の同志もそれぞれに口実をもうけ、家を離れて参集する。  それらの者は、東山清水寺の裏山、稚児《ちご》ノ池に設けた仮小屋に収容され、早速きびしい鍛練に入った。  早朝、食事前に四貫目(十五|瓩《キロ》)の砂嚢《さのう》を負い、東山の山なみを駈《か》け登り駈け降りる。足腰の鍛練である。昼前は各々《おのおの》得意技の刀、槍《やり》、弓矢、薙刀《なぎなた》の練磨につとめる。 「よいか、道場剣法|槍術《そうじゆつ》とは違うぞ。小わざは無用、真剣は一撃が勝負だ。放胆に間合の中に踏んごみ、一瞬の太刀行きで相手より早く斃《たお》す。相手を人と思うな、据物斬《すえものぎ》りのつもりでかかれ」  実戦の経験者堀部安兵衛の至言である。  相手との間合を見切る、宮本|武蔵《むさし》の剣はそれに尽きる。剣は瞬息、太刀行きの速さだと幕末の剣聖千葉周作は喝破《かつぱ》した。武芸の道は、達するところみな同じだと言えよう。  昼過ぎから、鉤縄《かぎなわ》を使っての崖《がけ》登り、梯子《はしご》の昇降、谷渡り、投げ縄、短槍投げ、石つぶて、目潰《めつぶ》し玉等々の扱い方、体術の訓練を行なった。  殊に意を注いだのは、三人一組の協力戦技の習熟であった。 「いかに腕の上下があっても、三人がかりで力を合わせれば、相手にまず勝目はない。互いに力を合わせ、ひるむことなくかかれ。人は二人までは相手できるが、左右と前の敵を同時には防げぬものだ」  戦技の鍛練は次第に激しさを増し、時には夜を徹し、風雨の日も休まず続けられるようになった。その鍛練は七、八月の両月にわたり、中途に用務で交替する者もあったが、一人当り延べ四十日以上に及んだ。その間、矢田五郎右衛門(馬廻《うままわり》百五十石・二十九歳)、武林|唯七《ただしち》(中小姓十両三人|扶持《ぶち》・三十一歳)の両名が肩、腕を骨折したほか、打身、捻挫《ねんざ》や踏み抜き、裂き傷など、やや重い負傷者九名、軽い打ち傷、かすり傷はほとんど全員が負った。  その間、吉田忠左、小野寺十内、間《はざま》喜兵衛など老人参謀は繁忙を極めた。同志各人の家々を廻って、家族の身の振り方を相談し、人によっては家を売り、貸借の清算に与《あずか》り、後々の生活の資を渡す。 (企てのあと、同志の家族が暮しに困り、汚名を残すことの無きよう、万全を期せ)  内蔵助がこの企てで、最も心を砕いたのはその事であった。  一方、不破数右衛門は、堀部、奥田ら戦闘参謀らと日夜協議を重ね、武器防具、その他の戦闘用具から衣類小物の点検を行ない、その都度、大坂の天川屋に通い、再注文や改造、調達数の増減など、綿密な再調整に追われた。天川屋は点検済みのそれらを次々と江戸へ搬送したが、最終搬送後、天川屋には、注文外れとなった武具防具類が三分の一近くも残っていたため、後に大坂町奉行所の摘発を受けた。不要と決まった物は早目に処分すべきであったが、天川屋は形見に等しいそれらを棄《す》て去るに忍びなかったと述懐している。  七、八月の炎暑のさなかに行われた鍛練に不参の者は六名にのぼった。在京の小幡《おばた》弥右衛門、三輪喜兵衛と、伜《せがれ》の弥九郎、在赤穂の生瀬一左衛門、各務《かがみ》八右衛門、在加東郡の山城金兵衛、いずれも人知れず家をたたんで立退き、行方知れずとなった。  残る結盟者は、五十五名。      五  閏《うるう》八月末から、九月初旬にかけて、鍛練の終った江戸組は、三人五人と分れて江戸に戻って行った。  赤穂・畿内《きない》の者の江戸下りは、九月半ばから、これも目立たぬよう分散して行われる。その先陣を切って、大石|主税《ちから》が用人の瀬尾《せのお》孫左衛門、足軽の矢野伊助を従え、近松勘六、貝賀弥左衛門ら五名の者と共に京を発《た》った。しんがりは内蔵助と吉田忠左衛門、小野寺十内、不破数右衛門ら七名。この七名は、月を越えて十月初めの下向が予定された。  炎暑の七、八月は、目まぐるしい繁忙の中で夢と過ぎた。  ——ことしの夏は、暑さ知らずであったな。  業平庵《なりひらあん》の奥庭に建てさせた離れ家が、内蔵助の仮住居であり、年若い愛人かる[#「かる」に傍点]と共に暮す隠れ家ともいえる。その居室で、内蔵助はひとり身の廻りの整理を続けながら、ふと思った。  涼風に、庭の竹藪《たけやぶ》がさやかに鳴る。秋はもう確かにそこにあった。身を灼《や》く暑熱はない。  ——もう、わが身には永久に来ないのだ、再び味わうことはない。  寂寥《せきりよう》の思いがあった。それは孤独がそうさせるのかも知れない。半年前に妻子が去り、残る伜《せがれ》も江戸へ発ち、内蔵助はいま、最後の旅に出ようと、身辺の整理をしている。  手紙や覚え書などの束を持って、内蔵助は庭の焚火《たきび》に寄り、残り火にくべた。  ——京も、これが最後か。  昨年四月、卯波《うなみ》の赤穂を去るとき、再びふるさとを見ることはないだろう、と、予感した。その予感は当り、内蔵助は二度と赤穂の土を踏むことなく終ろうとしている。それから一年半、思い出の積る京洛の地もいままた離れ、再びまみえることなきを期さなければならない。  書類や手紙が、めらめらと炎を立てて燃える。その火を瞶《みつ》めていると、表の方で賑《にぎ》やかな女の声が聞え、近付いてきた。  内蔵助が、かがんでいた腰を上げると、母屋の廊下から渡り廊下へ、旅姿のかるが姿をあらわした。 「おお、かる……戻ったか」 「旦《だん》さん、おいでどしたなあ、よかった……」  かるは、七月末頃から体調をそこね、食欲がないばかりか、食べた物を吐く癖がついて、ひどく痩《や》せてきたので、暑さ凌《しの》ぎに大|伯父《おじ》の筑後守《ちくごのかみ》長富と共に有馬の湯へ行く進藤源四郎に頼み、湯治に同行させていた。 「無事で何より……疲れたであろう、くつろいで茶なりと飲め」  内蔵助は、かると共に、居室に入った。 「ほんまに、居《い》やはりましたんどすなあ……うち、もう会えへんような気ィして、気が気ではおへんどしたえ」  かるは、横坐《よこずわ》りにくつろぐと、袂《たもと》で風を送った。気のせいか顔色が少し蒼《あお》ざめてみえた。 「何で会えぬと思うたのだ。ここはわしの住居、居《お》るのが当然ではないか」  茶を淹《い》れながら、内蔵助は笑ってみせた。 「ううん」  かるは、子供っぽく首を振った。 「旦さんは、京にいつまでもお居《い》やすお人と違います。いつか……遠くへ行ってしまうお人どす。そやさかい……まだ居てはるやろか、もうこれきり会えへんと違うやろかと……有馬におる間、毎日毎日、そう思うてました」  年の倍以上も違う内蔵助と結ばれたかるは、寄る辺の乏しい身の安泰を願ってのことではなかった。かえって行末のはかない縁と覚っていた。そのはかなく終るであろう一瞬のえにし[#「えにし」に傍点]に、生涯の倖《しあ》わせを燃やし尽そうと思ったのである。その一途《いちず》な女心は、内蔵助の知らぬ世界のものであった。 (おれは、好色……)  そう自覚する内蔵助は、機会あるごとに女を抱いた。美男ではない、すぐれた体躯《たいく》を持っているわけでもない内蔵助が、数多い機会に恵まれたのは、無類の優しさ、人の好さ、心の安らぎを与えるその物腰と共に、——このいのち、いつかはかなく終ると、常に覚悟した侍心のいさぎよさが、女を魅了するのであろうか。そうして数多い情事を重ねた内蔵助も、女心の機微についてはまだ一点知らずにいた。  武家の女は、運命的に男に従い、おのれの心を抑え続けることを美徳とした。色里の女はその世界の倫理としておのれの心を語らず、男に満足を与えることのみに尽す。どちらの女も口は固い。たまさかに、袖《そで》ふれ合う縁で結ばれた後家や年増《としま》女は、一夜の縁と割り切って、あとに思いを残さぬよう、心の機微は口にしなかった。 �町家の女子は、口さがない�という。ましてかるは年若、二九(十八歳)に満たぬ乙女である。結ばれた内蔵助に心の機微を忌憚《きたん》なく話す。それは女の遍歴を重ねた内蔵助にとって、初めて知る眼も彩《あや》な世界であった。  ——色恋の世界というのは、かほどに身を灼く世界であったか……。  それは、生涯を�志�に生き、そして死ぬ侍の世界とは、まったく別種の世界であった。もし内蔵助が年若の頃にそれを知ったら、どちらの世界に身を置くか迷ったかも知れない。あるいは一世の遊蕩児《ゆうとうじ》の道に没入したともいえる。それほどいまの内蔵助にとっては甘美な世界に思えた。  だが、人には歴史がある。内蔵助にもある。山鹿《やまが》武士道の薫陶《くんとう》、亡き祖父|良欽《よしただ》の赤穂創建の苦闘、そして二十余年の韜晦《とうかい》の裏で築いた赤穂侍の�志�、それを崩壊させるには、もう年をとり過ぎていた。  ——人は運、人の一生は運の流れに泳ぐしかない。人はその流れの中で、いかに美しく泳ぎ、いかに美しく沈み消え去るか、である。  夕餉《ゆうげ》の折に、かるは有馬に逗留《とうりゆう》した間の出来事を、楽しげに語り続けた。  程よく相槌《あいづち》を打ちながら、内蔵助は可憐《かれん》な小鳥の囀《さえず》りを聴く思いで耳を傾けていた。  夕餉のあとのひととき、土産の茶菓子をつまみながら、内蔵助はさり気なく問いかけた。 「どうやら、身体の調子はようなったとみえるの」 「はい……」  かるは、どきりとしたように、酔いにほのかに赤い頬を押えた。 「あの……」  何か言いかけたかるの言葉が、内蔵助の言葉と重なった。 「帰る早々、気忙《きぜわ》しいであろうが……明日から家移りの支度にかかって貰《もら》わねばならぬ」 「どこぞに移りはるのどすか」 「実は長岡天神の近くに、そなたが住むに手頃《てごろ》な家を見つけ、買い求めた……京の町中《まちなか》暮しに馴《な》れたそなたには、草深い田舎で便利が悪かろうとは思ったが、世間の噂かまびすしい町中より、いっそ落着けようと思うてな」 「ま、うれしゅうおす」  かるは、眼を輝かせた。ここ業平庵の離れ家住いは、いかにも仮住居、仮の暮しである。家を構えることは、それだけ内蔵助の心を掴《つか》み得たと感じたのであろう。 「古家《ふるや》ではあるが、建ててまだ一、二年と聞いた。さして大きくないがなかなか凝った造りだ。明日にでも十内どののご妻女が案内してくれる。ただ……わしは家移りに立合えぬ。あさって頃から伏見で仲間内の会合があってな。四、五日は向うで寝泊りする。家移りの手伝いや家財の調達は、この業平庵の家の者が総出で手伝ってくれる、そう話しておいた」  ひとつひとつ頷《うなず》いていたかるは、ふとたずねた。 「では……伏見のあとは、ずっとその家に……」 「それがなかなか……そうはいかぬのだ」  内蔵助は、快活に笑ってみせた。 「伏見の相談事がまとまったら、一度江戸へ行かねばならぬ。いやもう気疎《けうと》いことだが、昔|禄《ろく》を食《は》んだ身は、することだけは済まさねばならぬ」 「…………」  かるは、華やいだ気色が失《う》せて、思いつめたように内蔵助を瞶《みつ》めていた。 「それで、いつ頃……」 「そうさな、往きが半月、帰りが半月、向うでの滞在がひと月余り……帰るのは年の暮になろう」  あくまでも快活に答えた。 「京へ……お戻りなされますな、きっと……」 「何を言う、こんどの家がわが家だ、帰らいでどうする」 「はい……」 「今度で万事は用済みだ、帰ったらもうどこへも行かぬ、その家で一生を終るつもりだ。それでよかろう、いらぬ心配はするな」 「きっと……きっと帰ってきておくれやす。うちは……ややこを産みますさかい」 「なに?」  内蔵助は、どきりとした。 「有馬へ行く前、暑さ当りと思うたのが違いましたんえ、ややこが出来てのつわりどした……」 「…………」  内蔵助は、重く頷いた。  但馬《たじま》豊岡へ帰した妻のりくも身ごもっていた。そしてかるも……。  ——何たる運命の皮肉か。  未練の煩悩《ぼんのう》は渦巻く。だが、その山坂を乗り越えなければならぬ。侍の道、侍の志の辛《つら》さ、重さを内蔵助はしみじみと思った。 「めでたい、そうと聞いては呑《の》まずにおれぬ」  内蔵助は立って、障子を開けると、母屋へ掌《て》を打って人を呼んだ。 「なんでそれを真ッ先に言わぬ」  かるを見返る、満面の笑みだった。  かるは、嬉《うれ》しそうに頷く。  内蔵助は、数多い女との別れに嘘を言ったことはない。嬉しがらせて別れたことはない。これが生涯の嘘のつき始め、つき納めであった。      六  伏見での会同は、四、五日で終らず、十日あまりに及んだ。集う者、吉田忠左衛門、小野寺十内、不破数右衛門、それに吉田沢右衛門と小野寺幸右衛門、足軽寺坂|吉《きち》右衛門《えもん》、内蔵助と共に江戸下向する畿内同志の最後の組である。  内蔵助と吉田、小野寺、不破が十日あまり検討したのは、最後の後始末であった。万全を期してもなお、手落ちがある。同志家族の身のふり方に、し残したことがある。吉田忠左や小野寺十内は、伏見を足場に、東奔西走した。  それと、討入支度の詰めがあった。大坂|天満《てんま》から天川屋が馳《は》せ参じた。  悉《ことごと》く終ったのは、月を越えた十月六日であった。もうそれぞれが家へ帰る時の余裕は無い、江戸の同志は一日千秋の思いで首脳の下向を待ちわびている。 「済まなんだ、他人の身の始末に追われて、お互いわが身の始末に行き届かぬこととなった」  内蔵助は、参謀たちに頭を下げた。 「いや、こうなるのが人を指図する身のさだめでござる」  吉田忠左衛門は、そうきっぱりと言う。 「忠左どのも、わしも、親子連れ、さして未練はござらぬが、内蔵助どのはなあ……せめて一夜なりと、長岡天神に帰してあげとうござった」  事情を知る十内は、歎息《たんそく》したが、内蔵助は微笑で首を横に振るだけであった。 「では、明朝、ご出立で……?」  そうあらためてたずねる天川屋に、内蔵助は頷いてみせ、訊《き》いた。 「ところで、残る金子《きんす》はいかほどになった。いや、ざっとでよい。詳しい書出しは江戸で見せて貰《もら》う」 「こちらの手元に、ざっと千三百両……あと江戸の出店に四百両あまり、合わせて千七、八百両ほどで」 「よかろう。その手元の千三百両は、永代《えいたい》おぬしに預けておく、せいぜい利殖理財に励んでくれ。ただし、おぬしが都合で流用するのは勝手だが、われらが亡き後、入用の事ある時は、使いの者が貰いに行く。その者と相談の上で払い出すように……頼んでおく」 「使いの者、と、言わはりますと……?」 「それはまだ、決めておらぬ。よくよく考えた末に、そういう者を置くやも知れぬ、ということだ」  内蔵助は、そう言って破顔一笑した。  翌十月七日、内蔵助は同行六名と共に伏見を発《た》った。見送る者は天川屋儀兵衛一人であった。  道を東へ、桃山から六地蔵を経て醍醐《だいご》へ辿《たど》る。思い出の山科《やましな》を抜けて、四ノ宮から追分で東海道に出て、逢坂山《おうさかやま》の山道を登る。 「これで、京の見おさめですな」  十内が、西の方を見返って言う。  東山の連峯《れんぽう》は、秋空にくっきりと浮び上がって見えた。  内蔵助は、ふと足許《あしもと》の可憐《かれん》な暗紅色の花を摘んだ。 「吾亦紅《われもこう》、ですな」  数右衛門が呟《つぶや》く。  吾亦紅、われもこうありたいとはかない思いをこめて名付けられたという小花である。  内蔵助は、その花に、かるを見た。 [#改ページ]   呼子笛      一  武州平間村。  多摩川、矢口の渡しの上手に当る。その川の崖上《がけうえ》の名主|軽部《かるべ》五兵衛の家は、土塀をめぐらせ納屋《なや》門を構えた三層の家で、その最上層の棟に、江戸入りを前にした内蔵助《くらのすけ》の一行が、迎えの江戸組幹部と共に宿泊している。  八畳間と十二畳間の境の襖《ふすま》を取払った広間では、討入に備えて作成した吉良《きら》屋敷の絵図面と、その細目表を前に、連日協議が続いていた。  予想をはるかに越える難攻不落の備えであった。敷地二千五百五十坪は針ねずみの如く武備をととのえ、必殺の要塞《ようさい》と化している。加えて敵の総数は概算百十五、味方は老人と年少を加えて約五十、戦闘要員は三十三という寡勢《かせい》である。戦闘許容時間はわずか半夜。  戦議は白熱し紛糾を重ねるが、作戦計画は一向に進展をみない。一日、二日と空しく過ぎ、三日目になると一同はさすがに倦《う》み疲れ、論議は途絶え勝ちになった。  その間、内蔵助は奥の居室に引籠《ひきこも》って、ひとり過した。例によって協議の際、結論に近付くまでは遠慮なく意見を戦わせるためであった。  内蔵助は、その三日の間、碁盤を前に烏鷺《うろ》を戦わせて過した。相手は小野寺十内と不破|数《かず》右衛門《えもん》が代る代るつとめたが、勝っても負けても飽くことを知らぬ内蔵助に閉口して、寄りつかなくなった。  三日目から、この家のあるじ、軽部五兵衛が相手となった。五兵衛は苗字《みようじ》帯刀御免の名主で、この平間村一円の年貢の管理、農作の指導、人事の支配を司《つかさど》っている。  軽部五兵衛は、内蔵助の大|叔父《おじ》大石|頼母《たのも》が江戸家老に就任した折、旧知の関東郡代、伊奈半左衛門の引合わせで知り合い、親交を結んだ。その縁で、軽部五兵衛は赤穂《あこう》浅野家の鉄砲洲《てつぽうず》上屋敷に一手に野菜を納入するほか、さまざまな雑用雑事の処理に手助けを惜しまず、浅野屋敷にとっては無くてはならぬ頼みの人と言われた。  二十数年前、筆頭国家老の職を継いだ内蔵助は、当時健在だった大叔父頼母の引合わせで、五兵衛と知り合った。五兵衛は二十歳以上も年下の内蔵助に、大器の資質ありと感じて、すすんで親交を求め、断金の交わりを結んだ。  刃傷《にんじよう》の異変に臨んだ内蔵助は、奥田孫太夫、更には堀部|弥兵衛《やへえ》を派し、企ての一切を包まず打明け、助力を頼んだ。以来一年有半、軽部五兵衛はその持てる力を惜しげもなく使って、江戸組同志の行動を支援し、またその財力を費してその入費を賄《まかな》い、生活を助けた。  内蔵助は、企てを実施するに当り、侍仲間には容易に意図や方策手段を打明けなかった半面、天川屋儀兵衛や前川忠太夫、軽部五兵衛ら町人農民の中で、これぞと見込んだ者に助力を求めた。元禄《げんろく》期、侍の志操がようやく崩れをみせつつあるとき、町人階層に信を托《たく》したあたりに、内蔵助の時世に対する感覚がうかがえる。  内蔵助と五兵衛の棋力は、笊碁《ざるご》の域を出ない。小半時もたたず一局が終り、また新たな烏鷺の戦いが始まる。内蔵助は負けに負けた。 「どうなされました。暫《しばら》くお手合わせせぬ間に、ひどく手が落ちましたな。心ここにないような打ちようで……」 「わかるか、五兵衛どの」  内蔵助は、苦笑して盤面を崩した。 「やはり、気になりますかな、あちらの様子が……」  五兵衛は、ちらと、協議の続く広間の方へ眼をやった。 「忘れよう、離れようと思うのだが、なかなかそうゆかぬ」 「忘れる? とおっしゃいますと……?」 「さすがに上杉は武の名門、よう考えた砦《とりで》だ、あの難問は容易には解けぬ」 「ご家老さまのお智恵をもってしても、勝目は見出《みいだ》せませぬか」 「買いかぶっては困る。わしはそれほどの智恵者ではない」  内蔵助は苦笑して、煙草《たばこ》を吸いつけた。 「だが、今更あとへは退《ひ》けぬ、何としても勝目を見出さなければならんのだ」  内蔵助は、紫煙の行方を眼で追った。 「孫子という兵書に、兵は詭道《きどう》なり、とある。兵はいつわりの道と読むことから、古来論議の的になってな、仁義に欠ける、奇にすぎると論難する者もあれば、詭も一つの道、いつわりの中にも道があると弁ずる者もある」 「はあ……」 「わしは、そうは読まぬ。物事には正と詭がある。当り前の事を考えるな、戦いに臨めば相手も必死、当り前のことでは勝てぬ、勝っても味方を損ずること甚だしい、戦いは常に相手の意表を衝《つ》け、常識を越えろ、そこに死中の活がある、それが孫子の言う詭道だ」 「なるほど……」 「そうは思ってもなあ、いま眼の前に堅固きわまりない陣地を見ると、その防備に眼を奪われ、気力が萎《な》えて、ただ困った困ったと考えるばかりだ。これでは難問を解くどころか、智恵のかけらも出ぬ……」 「わかります、皆さまのご心中……」  内蔵助は、きせるを置くと、手をのばし、外障子を開けた。  外は、見はるかす一面の田地であった。多摩川を背にした軽部の家は広大な田地に囲まれていた。刈り入れの終ったその茫々《ぼうぼう》たる地に人影はなく、初冬の日に蕭条《しようじよう》と静まっていた。  人眼を避けるに絶好の家であった。  もずが一声、鋭く空に鳴いた。 「智恵というのは、考え抜いて出るものではない。究極の智恵は一瞬の�閃《ひらめ》き�だ。命題に面とぶつかったとき、何十年かの勉学、研鑽《けんさん》、体験の上に、おのれの持つ物の見方、思いつき、組み立ての力、それをおしひろめる力、それらが一瞬の間に凝縮されて、打開の方策を見出す……その玄妙な作用だ。孫子の言う�微なるかな、微なるかな、無形に至る、神なるかな、神なるかな、無声に至る�の境地は、それにあると思うのだ」  内蔵助は、五兵衛に説明するのではなく、おのれ自身に言い聞かせるように、言葉を続けた。  五兵衛は、ただ見守るほかはなかった。 「一瞬の閃きを得るためには、おのれの心が何にも囚《とら》われず、命題に無心に接しなければならぬ。いま、命題の吉良屋敷の図面には、われらの思いが積み重なっておる。吉良・上杉への怨《うら》み、一年余の惨憺《さんたん》たる日々、企てへの期待、不安、絶望……それらをすべて忘れ離れようと、こうしてへたな囲碁にうつつを抜かしておるのだが……」  内蔵助は、碁盤に向き直ると、一石をつまみ、案じた。 「はて……言うは易く、行なうは難《かた》し。いま一局参ろうか」  冴《さ》えた音と共に、打ちおろした。      二  三日目の深更、広間の一同に夜食の握飯と味噌汁《みそしる》が振舞われた。  一同が汁椀《しるわん》を手にしたとき、内蔵助が入ってきて、座に加わった。 「どうかな、ご一同。何かよい思案が浮んだか」  内蔵助は、返事を待たず、図面を膝許《ひざもと》へ引き寄せた。その屈托のない様子を、一同は奇異の視線で見守った。 「凝っては思案に能《あた》わず、と言うが、けだし至言だな」  物事、熱中しすぎると、判断がつかなくなる、という意味である。 「はあ? どういうことでしょうか」  片岡源五右衛門が、心外な、という顔で反問した。 「いやさ、おぬしたちのことではない、相手方のことよ」  内蔵助は、こう解説した。色部又四郎の短所は策を練り過ぎ、完璧《かんぺき》を期するが余り、大局観に欠ける憾《うら》みがある、というのである。 「わしなら、こうまではせぬ。われらが動かせる侍数は、欲目に見てもまず五、六十、それに対して倍を越える侍数を持てば、なまなかの策など構える要はない。堂々と正面から戦いを挑んで、数で圧倒する」  大兵に奇なし、という。  それを、防衛の仕掛に策を凝らした。十の備えがあれば、侍数は十に分散せねばならぬ。攻め手はその一つに錐《きり》を揉《も》みこむように集中すればいい。一つを奪ったらまた一つ、次々と戦果を拡大する。各個撃破である。 「敵の仕掛を恐れるな。仕掛は予期せぬ時には奇効をおさめるが、あらかじめ熟知しておればさほど恐るるに足りぬ。一つ一つそれなりの対策を講ずればいい。土塀は掛矢で叩《たた》き倒せ。落し穴は木盾を用意してふさげ。大屋根には長梯子《ながばしご》を用意して、落下物を先取りせい。後から登る相手には水を浴びせよ。水濠《みずぼり》には梯子で橋を架け、長柄《ながえ》の槍《やり》で突きまくれ」  一同は、流れるような内蔵助の言葉に聞き惚《ほ》れた。 「よいか、物は考えようだ。敵は屋敷でただ待つのみ。動くのはわれら、戦いの主導はわれにある。厳寒の夜、不意を衝《つ》き、先手を取れば利はわれにある」  一同は、眼を輝かせ、拳《こぶし》を握りしめた。豁然《かつぜん》と前途が開けたのである。 「先手を取り続けよ。攻める側には恐怖が少ない。戦いは気力の勝負だ。後手に廻《まわ》ると恐れが先立ち、精神が萎《な》え、ついには気死する。味方は敵の力が計算できるが、敵はこちらの戦力がわからぬ。その差に乗ずるのだ。こちらの実体を掴《つか》ませるな。一人が三人分五人分も働け、走り廻れ、雄叫《おたけ》びを挙げよ」  兵法の真髄は、常に精神を優位に、優位にと取ってゆくところにある。恐怖の量が敵より少なければ、数の劣勢は容易に補える。一旦《いつたん》優位に立ったら、あとは速さの勝負だ。敵を落着かせるな、息もつかせず攻撃を続行せよ。矢継早に新たな攻撃の手を打て……。 「その攻め手の段取りを組立てるのがおぬしらの仕事だ、早速それに取りかかってくれい」  内蔵助のそのおさめの言葉に、参謀たちはせきを一気に切り落したように、活気に満ちた提議提案が噴出した。 「そうだ、長梯子と共に短梯子《みじかばしご》も用意しよう、土塀や木柵《もくさく》の攻め手に使える」 「鉤縄《かぎなわ》はすべての者に持たせよう、登り降りに役立つ、得物にもなる」 「屋根|瓦《がわら》の滑り止めに荒筵《あらむしろ》を用意するのだ。当夜雪が屋根に凍りついておるやも知れぬ、鉄爪の付いたかんじきを二組六名分用意しよう」 「待て待て、思う存分働くには、わが身の守りが第一、鎖《くさり》帷子《かたびら》はすべての者に揃っておるか、鉢金、鉄の籠手臑当《こてすねあて》はどうだ」  協議は俄然《がぜん》白熱化した。覚え書を書き取る吉田沢右衛門、小野寺幸右衛門は、筆が間に合わぬことしばしばだった。  ——どうやら、出来た。  内蔵助は、莞爾《かんじ》とそのさまを見守った。  戦いは勢いである。孫子|曰《いわ》く、激水の疾《はや》き、石を漂《ただよわ》すに至るは勢なり、という。怯《きよう》は勇に生じ、弱は強に生ず、勇怯は勢いであり、強弱を左右するのは、撃破力のいかんである。  相手方上杉が、吉良屋敷の防備に智略を尽すのは、防衛そのもののほかに、攻め手の意気を阻喪《そそう》させ、防ぎ手の士気を昂揚《こうよう》させることにある。  攻め手も、また同じである。攻めの作戦を練る参謀が意気阻喪するようでは、最初から勝目は無い。参謀が必勝を期し、精密|巧緻《こうち》を極めた攻略法を作案し、攻めれば必ず取る戦法を展開すれば、攻め手は獅子《しし》奮迅すること火を見るより明らかである。  ——これで勝てる。  内蔵助は、そう確信し、安堵《あんど》の吐息を人知れず洩《も》らした。  それから三日の間、軽部宅の参謀たちは繁忙を極めた。  攻城用具を至急調えよ。  戦闘要員の幹部は、交替で平間村軽部宅に参集し、戦闘計略を聴取し、残る全員に伝えよ。  使いは、江戸市中に散在する同志の許《もと》に馳《は》せ、それを受けた同志は、陸続と平間村へ急行した。それらの者は人眼を避けるため、東海道、中原街道矢口の渡しを避け、大山街道を多摩川丸子の渡しに至り、軽部五兵衛が手配した田舟《たぶね》で平間村に往復した。  そのたまさかのひととき、吉田忠左衛門は内蔵助の姿を探し求めた。  内蔵助がいない。作戦計画の策定を参謀に任せ、居室に引籠《ひきこも》っていた筈《はず》の内蔵助は、いつの間にか姿が見えなくなっていた。  三層目の客用の棟から、二層目の居宅へ降りてみたが、姿はない。一層目の名主業務と農事の棟に足を運んだが、ここにもいない。 「お客さまは、大旦那《おおだんな》さまのご案内で、成川《なるかわ》さまのお宅へお出かけになりました、へえ」  成川というのは、同じ平間村の豪農で、軽部家に近い。  当時、農工商の者に苗字《みようじ》が許されるのは名誉とされ、資格として扱われたが、私称は半ば公然と行われていた。例えば医師がそうであった。  同じ地域に代々住む農民は、私称であれ苗字がなくては家の区別がつかず、不便きわまりない。そのため地形地物、家近くの小川の名や立木の名を使ったものが多い。  平間村は、鎌倉期から名のある村落で、数軒の豪農は由緒ある苗字を私称していた。成川家もその一つであった。  成川源右衛門の家は、軽部家に匹敵する豪農で、分家の源八の家との間に竹藪《たけやぶ》の丘があり、成川家伝来の持仏堂があった。後にこの堂宇は寺となって、処《ところ》をあらため現存する。  その竹藪で、分家の成川源八が細身の淡竹《はちく》を刈り取り、五兵衛が寸断し、内蔵助がそれを細工していた。  成川源八は、明るく闊達《かつたつ》な若者で義侠《ぎきよう》に富み、気風《きつぷ》のよさと度胸のよさで近隣の者に愛されていた。その気性を見込んで軽部五兵衛は特に頼みにすることが多かった。 「何をなされておいでですかな」  やって来た忠左衛門が声をかけると、内蔵助は、いたずらを見つけられた子供のように破顔一笑した。 「忠左どの、上手の手から水が洩るというがまことだな。あれほど念を入れたのに、肝心の一品を忘れておったぞ」 「はあ?」 「これよ」  内蔵助は、作ったばかりの竹の小節を口にくわえ、吹いた。  呼子笛であった。もずの鳴音に似た冴《さ》えた鋭い音色が冷気をつんざいた。 「あ……なるほど」  通信用具である。吉良屋敷は二千五百五十坪、剣戟《けんげき》の間、個々の指令指示は伝令が走って伝えるしかない。だが夜のしじまを裂く竹笛の音に、幾つかの符丁を定めておけば、瞬時に意を伝えることができる。 「これは恐れ入りました」  忠左衛門は、感嘆した。小さなことだがこういう際に、その些事《さじ》に気付くというのは並大抵ではない。 「この竹は平間の名物だそうな。見た眼すがすがしく軽やかで保《も》ちがいい……われらが使ったとなると、後々の語り草になるやも知れぬな」  内蔵助は、忠左衛門の褒めように照れて、話柄《わへい》をそらせた。  その内蔵助の言葉は、言う通りにならなかった。いま泉岳寺《せんがくじ》の遺品の中に内蔵助と早水《はやみ》藤左衛門、岡島八十右衛門が使ったと称する呼子笛が残っているが、いずれも漆細工である。実用を第一とした笛を高価な漆で塗り固めるほど凝る必要はない。泉岳寺の遺品は明らかな偽物である。だが俗世間はそれに惑わされて、平間村の竹の呼子笛は伝わらず、いまわずかにその地の口碑にとどまるのみとなった。      三  その朝、柳沢|吉保《よしやす》は家臣に登城の支度を急がせていた。  この年(元禄《げんろく》十五年)、奥羽は冷夏に見舞われ、米の収穫高は七割に満たず、仙台|伊達《だて》藩、盛岡南部藩、弘前《ひろさき》津軽藩、秋田佐竹藩等に餓死者が続出、公儀に救援の要請が相次いだ。  公儀はお救い米十余万石を送って急場を凌《しの》ぐ一方、全国の酒造米高を緊急調査、酒造量を制限して米価騰貴の防止策をとった。  その日も、凶饉《きようきん》対策のため、対策会議が予定されていた。幕政を左右する柳沢吉保としては、会同に先立ち、幕閣を始め諸役向に施策の根回しをしておかなければならない。そのため早朝に登城が必要だったのである。  身支度を調えていた柳沢吉保の許へ、用人根津文左衛門が、慌ただしく出頭した。 「なに、上杉の色部が?」  色部又四郎が、緊急の目通りを願って来邸したというのである。繁忙の日々を送る柳沢吉保に面会を乞《こ》うのに、あらかじめ内意を得ない法はない。また、その礼を知らぬ色部ではない筈である。 「はて……」  柳沢吉保は、その違例を咎《とが》めるより、あえてその行動をとった色部又四郎に興味を持った。 「米沢上杉も、凶饉救援を願っておるのかな」 「いえ……幸い米沢は、国家老千坂|兵部《ひようぶ》の年初よりの対策が当を得て、飢饉は八分作にとどまり、西国での米買付けに依《よ》り、領内は静謐《せいひつ》を保っておると聞き及んでおりまする」 「と、すると、例の赤穂浅野の浪人が事か」  赤穂浅野の元家老、大石内蔵助らが京伏見から姿を消し、行方が掴《つか》めぬという知らせは、柳沢吉保の許にも入っていた。伏見奉行、建部|内匠頭《たくみのかみ》が通報してきたのである。 「十日や二十日、行方が知れぬというだけで何をうろたえておる。昨年の例もあるではないか」  初冬、大石内蔵助は飄然《ひようぜん》と江戸に下向し、二十日ほど主家の親戚《しんせき》を廻《まわ》り、旧家中の者と面談し、何ら目立った動きもなく京へ舞戻った。今年はそうでないという徴候は何も無い。 「それに、色部め、半年あまりもかけて吉良の新屋敷を普請したばかりではないか。それ相応の備えもあろう、その上に何を予に求めるのだ」  柳沢吉保はそう言い捨てると、根津文左衛門に冷たく告げた。 「ともあれ、本日は御用繁多である、目通りは叶《かな》わぬ、別の日にせいと追い返せ」 「は……それが……」  根津文左衛門は、なぜかためらった。 「まだ何かあるのか」  柳沢は苛立《いらだ》ちの色で、見返った。 「はい、いつになくこたびは、じかに手みやげを持ち込んでおります。長持一荷……」  柳沢に贈物をする者は跡を絶たない。だが、それをじかに持ちこんで面会を求めるのは極めて非礼とされている。贈物はあらかじめ用人の許に持参し、面晤《めんご》の期日を願うのが例とされている。色部はそうした礼式を悉《ことごと》く破っている。 「長持は、名物米沢織|袴地《はかまじ》三反に、御仕立料金三千両が副《そ》えてございます」 「ふむ……」  三千両の金額に、柳沢が心|惹《ひ》かれたわけではなかった。望めば数万両も訳なく手に入る柳沢の権勢であった。  だが、この年、奥羽冷害に苦しむ大名にとって、三千両という大金は、旱天《かんてん》に慈雨ほどの貴重な財貨である。その金を正面から持ちこんでの目通り願いは、のっぴきならぬ気迫をうかがわせるに充分であった。そう感じさせるのが、千坂と色部の窮余の策であった、ともいえよう。 「辞儀はさておく、用向きのみ申せ」  書院に待たせた色部の前にあらわれた柳沢吉保は、登城の身なりのまま、気忙《きぜわ》しく告げた。  色部も、その辺の事情は充分に心得ていた。 「恐れながら……これが最後の御願い、是非にもお聞きとどけ願わしゅう……」  色部の顔に、必死の気迫がこもっていた。 「何だ、申してみよ」 「されば……吉良の御隠居を、国許《くにもと》米沢に引取りたく、伏して御認可の程、御願い申し上げ奉りまする」  柳沢は、事の意外に顔色を変えた。 「何と申す、新屋敷の木の香も失《う》せぬ今が今か?」  唖然《あぜん》と問い返す柳沢を、色部は気力をこめて瞶《みつ》め返した。  梃子《てこ》でも動かぬ気色であった。 「…………」  色部の脳裏には、上杉屋敷のほの暗い茶室のたたずまいが蘇《よみがえ》っていた。  老いのいや増す千坂兵部の厳顔。  社稷《しやしよく》の臣、と説くその言《こと》の葉。  そして、朝まだき、千坂の去ったお客長屋の門前に、空しく映った南天の実。  用部屋に届いた三千両の金と、浜岡庄太夫が届けた紙片。  紙片には、千坂兵部が脳漿《のうしよう》を絞った畢生《ひつせい》の秘策がしたためてあった。 (春を待たず、御隠居、米沢御退隠の事)  もう、それしかない。最後の策はそれしかなかった。  その色部を瞶めて、柳沢は冷やかに分析した。  ——上杉・吉良は、そこまで追いつめられたか……。  赤穂浪人が江戸に入った。その行方が掴めない。それだけでこの気力の阻喪ぶりはどうだ。  ——一年有余、備えに力を尽してなお、不時の来襲に勝算なしとみたか……。  ここまで庇《かば》いぬいた吉良老人を、雪深い奥羽の山国へ遁《に》がしたら、世間は冷罵《れいば》を浴びせるだろう。見栄《みえ》も外聞もふり捨てて、治外法権を頼みに存命をはかる。  ——美しくない、侍の美に反する振舞いだが……。  泰平の世に生れ、威容の城中に一生を過す柳沢には、屍山《しざん》血河の戦場への去就を云々《うんぬん》することに忌憚《きたん》の念があった。  ——致し方ないか……。  柳沢は、褪《さ》めた顔色で言った。 「相わかった……だが、年内、こう日が押詰まっては無理であろう。年明け早々に上様の御|允許《いんきよ》をいただく、それでよいな」  上意を自在に扱う威勢を見せつけた柳沢は、控ノ間に飾り置かれた音物《いんもつ》の品にちらと眼を動かした。  奉書に包んだ三反の袴地と、黒漆塗の金箱が、進物台に重ねられてあった。 「折角の心遣い。名物の米沢織は厚くおさめおく。仕立の金子《きんす》はそのまま国家老、千坂兵部への見舞としよう。本年、奥羽は夏の頃より殊の外の時候不順と聞く。老体、滋養の足しになりと致し、くれぐれも身をいとうよう、伝えてくれ」  さすがに柳沢である。鮮やかな決断の上に胸のすく計らいを見せた。  色部は無言で平伏した。使命を果した安堵《あんど》感より、痛恨胸を裂く無念の思いに、唇を噛《か》みしめていた。      四  その日の昼過ぎ、色部又四郎は本所竪川一ツ目の吉良新屋敷を訪れた。  八月末、隠居の吉良|上野介義央《こうずけのすけよしなか》と、新当主の左兵衛義周は、普請のまだ終らぬうちに、新屋敷に引移った。義央の老妻富子は、新屋敷に奥構え(婦女子の住居)が欠けているため、仮住居している上杉家麻布中屋敷に、引続き滞留している。  新屋敷の普請は予定より遅れ、九月末に竣工《しゆんこう》した。米沢から呼び寄せた大工・左官・人足等は、十月初め藩用船で帰国したが、徴募の米沢侍(藩士の子弟)は、新屋敷の侍長屋に住み、警護の任に当っていた。  以来、二ヶ月、新屋敷の内は整理に手間どり、師走《しわす》間近の昨今に至っても、雑然として落着かなかった。  上野介義央は、来訪の色部又四郎を、居間に近い小書院に迎えた。隠居の身ではあるが、年若の当主左兵衛義周は万事に不慣れで、上野介義央は依然吉良家を取仕切っている。  色部は、年明け早々に義央を国許米沢に引取るため、一切の手筈《てはず》を終えた旨を伝えた。 「雪深い片田舎ゆえ、よろず御不自由とは存じまするが、長うはござりませぬ。三、四年もすれば世間の人気《じんき》もおさまり、いまは舞い上がっておる赤穂浪人も頭《つむり》が冷え、おのおの生活《たつき》の道に専心致すこととなりましょう。無事安穏を確めました上は、江戸にお戻りなされ、高家《こうけ》お仲間衆と旧交を温められ、茶の湯・俳諧《はいかい》に余生をお過ごしなされますことも、お心のままにございます」  色部は、諄々《じゆんじゆん》と説きながら、老人の気色をうかがった。そもそも事の起こりはこの老人と浅野|長矩《ながのり》の確執である。それがこじれて刃傷沙汰《にんじようざた》となり、浅野長矩はいのちと家名と、領国を失った。吉良義央も無事には済まなかった。思いもかけぬ大石内蔵助の謀計で、高家筆頭・肝煎《きもいり》の役職を失い、隠居の身に追いこまれ、終生の住居と贅《ぜい》を尽した屋敷まで奪われて、場末のこの荒々しい住居に逼塞《ひつそく》を強いられた。その上の米沢転居である。さぞ憤懣《ふんまん》やる方ないものと思われた。  だが、意外に吉良義央は、喜色を浮べてその話に聞き入った。あの強情我慢、一徹な振舞いで諸大名を畏怖《いふ》させた老人が、である。 「さようか、そちを始め、上杉家の数々の心入れ、徒《あだ》やおろそかには思わぬ。大儀であった、厚く礼を申すぞ」 「恐れ入ります」  色部は、ほっとした。老人らしい一徹で抵抗するだろう、それを説き伏せねばならぬ、と気負ったのが嘘のように消え失せて、拍子抜けの感は否めなかった。 「さてのう……そうと決まると、この一年九ヶ月の心労は何であったか……そう思わずにはおれぬ……」  吉良は、しみじみと述懐した。 「わしはな、今もってわからぬのだ。どう考えてもわからぬ」 「何が、でございますか」 「浅野が刃傷に及んだ因よ」 「それは……ご隠居さまがあの折、梶川与惣兵衛《かじかわよそべえ》どのと話されたのを、小耳にはさみ……」 「いや、浅野が腹立てるような事は話しておらぬ。その日の桂昌院《けいしよういん》様の御機嫌をうかがっておっただけだ」 「…………」 「それに、浅野は、この間の遺恨、覚えたか、と申した。この間というからは、二、三日か四、五日前のことであろう。だが、人を斬り、おのれも腹切るほどの遺恨など、一向に思い当らぬのだ」 「…………」  色部は、返事のしようがなかった。吉良は今が今まで隠し通しているが、何か深刻な遺恨を持たれたに違いない、そう思っていたのである。それだけに、覚えなしと言われてはとまどうばかりである。 「わしも年だ、年とった……この一年あまり逼塞の暮しを続けると、御城で口やかましく世話を焼いておったおのれが嘘のように思えてな……つくづくと老先短いことを思い知るようになった」  老人にとっては、仕事がいのち、という。仕事を通じて社会とつながりを持つ。仕事によって社会にその存在を認められる。その存在感が気力を保たせ、奮い立たせる。仕事を失い、存在の意義を認められなくなった老人は、穴のあいた風船と同様、気力が失《う》せ、萎《しな》びきって世を空しく過すしかない。  いまの吉良義央が、そうであった。 「年はとりたくないものよ。老いぼれるといのちを賭《か》けたその源《もと》すら忘れ呆《ほう》けてしまう……その癖、ふだんはやたらと気むずかしゅうなってな、気に入らぬことへの耐《こら》え性がなくなる。つい声を荒らげて責める。相手の体面や自尊心にかまっていられなくなる。ずけずけと口汚く罵《ののし》る……」  そうだ、と、色部は思う。若者は老人ほど弁口が達者ではない。屁理屈《へりくつ》を並べたら年の功が物を言う。言い負かされて黙るしかない。ところが老人は、恨みがましく黙りこむのが余計に腹が立つのだ。反抗心で口利かぬと思うから、ますます言いつのり、罵詈讒謗《ばりざんぼう》を浴びせかける。それが語彙《ごい》豊富だからたまったものではない。 「いや、罵ったとて、腹に含むところはないのだ。言うだけ言ってしまえば後はない。言葉のはしばしなど覚えておらぬ。三日も経てば事のいきさつまで忘れてしまう、さっぱりしたものだ」  老人はそう言うが、相手は忘れないのだ。言い負かされた憤り、言葉が尽せぬ無念、人前で恥かかされた恨み、言いつのられる憎しみ、それらは胸中に渦巻き、脳裏に灼《や》きついて離れない。  ——当人が思い出せぬというから、些細《ささい》なことであったに相違ない。  色部はそう思った。些細であるか重要であるかは、置かれた立場によって異なる。たとえば老中からの言づけ一つでも、取次いだ者にとっては一場の些事だが、受ける者にとっては三十年、五十年の瑕疵《かし》なき経歴を汚すことがある。  取次ぐ者の言葉の聞き違いか、日時などの錯覚は有り勝ちのことである。だが、責任者の吉良は許せなかった。罵られた浅野は些事をあげつらう老人を意地悪しと深い恨みを残した。些細な間違いゆえ吉良は忘れたが、武士の面目を傷付けられた若い浅野は、刃傷で報いたのである。      五 「あの、浅野がのう……」  吉良は、そう呟《つぶや》いて、歎息《たんそく》した。  吉良の脳裏には、十九年前(天和《てんな》三年)の、十七歳の少年大名、浅野長矩の面影があった。  赤穂浅野家江戸家老大石頼母は、初の勅使|御馳走《ごちそう》役を拝命した浅野長矩のため、高家筆頭の吉良義央に、その蔭《かげ》ながらの指導を頼んだ。 「あるじ年若にござりますれば、格別のお引廻《ひきまわ》しを……」  時に吉良義央は四十三歳、盛りの年齢であった。彼は指導に当る高家大沢右京大夫ともども、手とり足とりして典礼作法を教えた。 「そうだ、よう出来た、その心得忘れめさるなよ」  眸《ひとみ》をうるませ頷《うなず》く紅顔の浅野長矩に、吉良義央はその手を強く握って励ましたものである。その感触は今も掌に残る。 「あの浅野が、何でこのわしにあれほどの憎しみを抱いたのか……」  それは、老人の甘えである、と、色部は思う。  人生の途次、施す恩は心の記念碑である。こころよい思い出は、誇りとなって忘れることはない。だが、施された恩は一過性のものである。年月と共に記憶は薄れ、その感動はよみがえることがない。  その観念の相違が確執を助長した。吉良には手塩にかけて典礼作法を伝授した浅野は、多少度を越えた叱責《しつせき》でも堪えるであろうという狎《な》れがあった。  だが、そういう観念は浅野にはなかった。無我夢中で背伸びした少年の頃の思い出は、夢と過ぎ去り、今は押しも押されもせぬ壮年の大名である、万石以下の高家|風情《ふぜい》に辱《はずかし》めを受けることは面目にかかわると思った。  すべては些細な行違いから始まった。老齢と壮年の感情の起伏、些細な間違いに対する責任感の軽重《けいちよう》、過去の恩義に関する観念の相違、それらが確執を生み、増幅され、遂《つい》に決定的な破局に至った。 「片落ちの御裁きだと? 何で覚えなく斬りかかられたわしまでが罰を受けねばならんのだ、それこそ偏頗《へんぱ》の沙汰ではないか!」  そういう吉良の主張は、赤穂浅野の家来どもには通らなかった。  あるじの刃《やいば》を避けたら、次は家来どもがいのちを狙うこととなった。  この一年九ヶ月、悪意に満ちた風評に隠忍自重した。その悪評に惑わされた公儀の不当な扱いにも堪えた。外出も儘《まま》ならず、逼塞の暗い年月を送った。老後に楽しみを求めるための大切な金も使った。上杉も負担が重かったであろうが、吉良の出銭も決して軽くなかった。  その無駄な費《つい》えの果てが、今のこの住居である。頑丈そのものではあるが、節々だらけの柱や板壁、殺伐とした戦国|砦《とりで》さながらの庭、その家を訪れる者もない寒々《さむざむ》の日々……。  吉良は、呻《うめ》くように声を洩《も》らした。 「なろう事なら……三州吉良に戻りたいわ」  三州吉良郷、気候温暖、地味よく肥え、彼を名君と慕う領民がいる。  だが、俗に�ふるさとへ廻る六部は気の弱り�という。強情我慢の吉良が余生の安楽を思うこの時点で、すでに彼は敗れ、生ける屍《しかばね》と化していた、といえよう。  ——何で刃傷《にんじよう》の折に死んでくれなかった。  色部は、しばし言葉を失った。 「どうであろうか……」  吉良は、ためらい勝ちに言葉を継いだ。 「江戸を去る名残りに、知己知友を招いて別れの宴《うたげ》を催したいが……」 「あ、いや、それはなりますまい」  色部は、言下に反対した。大石らが同じ江戸の市中にひそみ、機を窺《うかが》っている。そのような浮華は許されない。  だが、吉良は執拗《しつよう》にせがんだ。礼法指南の身が百里の外に移り住むに、別離の挨拶《あいさつ》を欠くは非礼である。 「いや、わが身の体面のみにこだわるのではないのだ。足利《あしかが》将軍以来の由緒ある吉良の家を嗣《つ》いだわが孫、左兵衛義周の行末も考えての事だ。あれが後指をさされるようなことになったら、わが子上杉綱憲どのに申し訳が立たぬ……」  吉良は色部の痛いところを衝《つ》いた。主君の名を掲げられては、無下《むげ》に拒むことは許されない。  吉良は言う。宴がだめならせめて茶会なりと催したい。懐石を供し、茶ノ湯で終る。一|時《とき》半で散会する……。  営中式事の掌典、京都事務の専任という役目柄、吉良は茶道に精通し、研鑽《けんさん》を重ねた。茶の道は、極めるほどに奥深く、扱う名器の美の深遠は、量り知れないものがあった。  多年の精進の間に、蒐《あつ》めた逸品は数々ある。年老いた身が、いま、雪深い百里外の山国に退隠するに当って、それらを知己交友に披露《ひろう》することに、吉良は、身を灼くような渇望を禁じ得なかった。  ——茶道の至芸と名品の美は、いのちに代え難い。  荒けない新屋敷で、吉良が唯一の心の拠《よ》り処《どころ》は、寂庵と名付けた茶室であった。その趣き深い茶室に知友を招き、茶の手前を披露し、愛蔵の品を使う……。  牧谿《もつけい》筆の芦雁《ろがん》図、あるいは夢窓国師の墨蹟《ぼくせき》。鶴頸《つるくび》古銅の花入。高麗《こうらい》青磁の水指《みずさし》、梅松|文霰芦屋釜《もんあられあしやがま》の真形《しんなり》。祥瑞《しよんずい》の香合。漢作唐物の茶入。そして灰被《はいかつぎ》天目|茶碗《ぢやわん》と利休所持の茶杓《ちやしやく》……。  門外不出の絶品に、客の嘆賞の吐息と、愛惜の声が、潮ざいのように聞える心地がする。 「その方が強《た》ってならぬと言い張るなら、わしは直々太守どのに願ってみる。よもや綱憲どのは、実の親が最後の頼みに、そうすげなくはなされまいと思うが……」 「…………」  返答に窮した色部は、暫《しば》しの猶予を願って退《ひ》き下がるよりなかった。  吉良屋敷を辞した色部は、両国橋を渡り、浜町河岸を下りかけると、駕籠《かご》を止めた。 「その方ども、暫《しばら》く待っておれ」  供侍や中間《ちゆうげん》小者を待たせた色部は、ひとり大川端に歩み寄り、佇《たたず》んだ。  新暦なら師走も年の暮にさしかかった頃合の季節である。漫々の大川を吹きわたる北東の寒風は、凜冽《りんれつ》肌を裂くかのようである。色部は波頭の飛沫《しぶ》く川面《かわも》を瞶《みつ》めて立ち尽した。  ——無類の寒がりと言っておった大石めは、この寒風をどう感じているだろうか。  色部は、この江戸に潜伏している内蔵助の風貌《ふうぼう》を、しきりと思い出そうとしていた。  ——おれと大石の立場は、似て、非なるものだ。  似ているのは、浅野と吉良の身の処し方である。浅野は武門の意地を立て、刃傷の末にいのちを捨て、領国と家臣をほろぼした。吉良もいま、高家としての礼法に固執し、血縁につながる上杉の侍を、まったくかえりみようとしない。  非なる点は、家臣の士道のありようである。赤穂侍は相手方吉良を討ち、家と領国をほろぼすことで、侍の道、侍の誇りを全うしようと、命を捨てて機をうかがっている。米沢侍は吉良を討たせぬことで、武門の面目を立てようと、命懸けで備えている。赤穂侍は攻め勝つことに賭《か》け、米沢侍は守りきることを目的としているのである。  ——われらの第一義は攻防の戦いではない、相手の攻勢を制圧することにある。  戦わずして、相手を制圧し得れば、これに越したことはない……それゆえ、吉良新屋敷の防塞《ぼうさい》工事も、相手方赤穂侍の度外れた偵察監視の下で強行した。十二分の備えを見せつけることで、あるいは威圧できるか、の期待もあった。  だが、そうした高等戦略は、相手方に一向通じなかった。動ずる色もなく謀攻を仕掛けて止まない。  ——田舎者特有の鈍さと図々《ずうずう》しさだ。  色部はそう唾棄《だき》するが、謀攻では赤穂方が一枚上だった事は否めない。それに戦さを仕掛ける側と、戦さを回避しようとする側では、勢いに格段の差があった。遂には肝心の玉(吉良)を引っ抱えて、盤外へ遁走《とんそう》するしかない程、追いつめられた。  その瀬戸際になって、肝心の玉が高家の意地と、道楽にこだわりだしたのである。  ——おれは累代の家老職、平《ひら》藩士の一人たりとそのいのち、徒《あだ》に捨てさせぬ……。  それが色部の意地であった。  色部の脳裏に想念が渦巻く間に、時は容赦なく過ぎて行った。暮れなずむ空の下、何艘《なんそう》もの荷足船《にたりぶね》が下って行く、その胴の間からほのかな灯影《ほかげ》が洩れて見えた。  佇む色部は、寒さを一向に覚えなかった。むしろ火照《ほて》る頬に、切れるような寒風が程々の心地よさだった。  ——内外の非勢、軽はずみに対処すれば乱離骨灰《らりこつぱい》だ。回天の妙手はないか……。  色部は、戦わずして相手を制圧する不戦の戦略を脳裏から一掃することにつとめた。それには並大抵でない自制が必要だった。  ——茶会だ、茶会さえ無ければ、万事が思い通りに……いや、まて、その茶会は利用できるやも知れぬ。  また下って来た荷足船が、ひらめきとなった。  ——そうだ、誘いの手だ。  茶会を催す、正午の茶会と、日没の夜咄《よばなし》茶会、それぞれ二時《ふたとき》を出ないのが定めである。夜の茶会は、暮六ツ(午後六時頃)から五ツ半(午後九時頃)まで。主人役の吉良は当然屋敷泊りである。  客を集める以上、その日程は当然赤穂浪人の耳に入る。奴らは懸命に動静をさぐっている筈《はず》だ。  茶会の客の数は限られている。一度の茶会にまず五人。それで三日催す。師走五日と十四日、二十二日……五日が最も危険な夜となろう。相手は逸《はや》りに逸っている。決行は早いに越したことはない。二回目、三回目は、日が変るおそれがある。  当夜、茶会は吉良家臣に任せて、百余の米沢侍は徹夜の臨戦態勢を執《と》る。防塞に就き、来襲を待つ。  その吉良邸に呼応して、外桜田の上杉屋敷では、江戸詰藩士を動員し、大型の荷足船数艘に分乗、大川を溯《さかのぼ》り、竪川堀口に近い本所百本杭附近に仮泊、待機する。敵来襲と同時に屋敷では火箭《ひや》で急を知らせ、船手勢は増援に駈《か》けつけ、敵を前うしろからはさみ撃ちに殲滅《せんめつ》する……。 「吉良様お屋敷へ引返す、急げ」  道端にかがみこんで待っていた供侍や中間小者がよろめき立ち上がるのを尻目《しりめ》に、色部は踵《きびす》を返すや否や、足早に駕籠に引返した。 [#改ページ]   目《もく》 睫《しよう》      一  話は多少前後する。  武州平間村、軽部五兵衛宅で戦議を行った内蔵助《くらのすけ》ら一行は、十一月五日出立、大山街道、鶴巻《つるまき》道、更に北上して甲州街道と分散して江戸に入った。  畿内《きない》から下向した者が、宿屋泊りすることは固く禁じられた。銭金を惜しまず家を借りよ、という方針に基いて、江戸組は手を尽して借家を用意した。  内蔵助は、先行した主税《ちから》が、用人|瀬尾《せのお》孫左衛門と共に住む日本橋石町、小山弥兵衛の持ち家に移り、池田久右衛門と名乗った。  吉田忠左衛門は、先頃|吉良《きら》屋敷普請の偵察の折に借りた新|麹町《こうじまち》六丁目に、嫡男|沢《さわ》右衛門《えもん》と共に住みついた。変名は田口一真、軍学者と称し、訪れる同志は門弟と偽装した。  同じ新麹町六丁目に住んだのは、原惣右衛門、不破|数《かず》右衛門《えもん》。足軽の寺坂|吉《きち》右衛門《えもん》は不破数右衛門と同居し、同志の連絡係をつとめた。  新麹町の四丁目には、小野寺十内と養子幸右衛門、間瀬久太夫と孫九郎の父子、岡島八十右衛門、岡野金右衛門、中村勘助、更に間《はざま》喜兵衛と十次郎、新六の父子三人、千馬《ちば》三郎兵衛、五丁目に富森《とみのもり》助右衛門、と、この一帯に同志の約三分の一が集まっている。  本所吉良邸から最も遠い芝口、源助町に礒貝《いそがい》十郎左衛門と茅野《かやの》和助、浜松町に矢田五郎右衛門と赤埴《あかはに》源蔵、この四名は、企てに助力する三田松本町の人入れ稼業、前川忠太夫との連絡と、その協力のために配された。  日本橋の南、八丁堀岡崎町に村松三太夫、同|茅場《かやば》町に片岡源五右衛門、矢頭《やとう》右衛門七《えもしち》、この三名は、町方同心の動静を見張る。東湊町一丁目二丁目に貝賀弥左衛門と大高源五、田中貞四郎、毛利小平太の四名、これらは船手掛として、天川屋が手配した猪牙船《ちよきぶね》、荷足船《にたりぶね》の運航管理を司《つかさど》る。  麹町や芝口の者は、湊町の船溜《ふなだま》りに出向き、天川屋が上方《かみがた》から搬入した武器武具、兵糧《ひようろう》、小物を船に積んで大川を溯り、上杉家の監視きびしい竪川《たてかわ》を避けて、下流の小名木川から東の菊川を迂回《うかい》して、本所竪川三ツ目之橋の小荷駄《こにだ》基地へ運びこむ。  竪川三ツ目之橋の本所林町五丁目には、流行《はや》らない剣術道場を開く長江《ながえ》長左衛門こと堀部|安兵衛《やすべえ》と木村岡右衛門、横川勘平が、道場の板敷を小荷駄基地に使い、整理に当る。その林町五丁目の裏店《うらだな》には小山田庄左衛門が、帳面方として荷の管理を司った。  林町五丁目の東隣り、徳右衛門町一丁目には薪炭《しんたん》商を装った杉野十平次と足軽矢野伊助が、薪炭置場として物置小屋を借受け、安兵衛道場の補助基地をつとめた。  その両基地の荷扱い要員として、竪川対岸の本所緑町四丁目に空店《あきだな》を借受けて、中田理平次、中村清右衛門、鈴田重八の三名が住んだ。  両基地の物資は、必要に応じて更に前線基地へひそかに搬送する。前線基地は相生《あいおい》町二丁目、吉良屋敷の横手と向き合った美作《みまさか》屋五兵衛こと前原伊助(米・雑穀商)と、その裏店|丁子《ちようじ》屋善兵衛こと神崎与五郎(古着商)である。  それら搬送の指揮・連絡に当る奥田孫太夫と養子貞右衛門は、深川黒江町の住居から毎日、これらの基地に通った。  討入の準備というのは、想像を越える仕事の山積であった。浪士は繁忙に明け暮れた。兵站《へいたん》というのはそういうものである。現代においても軍隊は、戦闘要員に倍する兵站要員を必要とする。  内蔵助は、容赦なく同志を追い使った。 「戦さ支度というのは、仕尽したと思っても仕残したことがあるものだ。合戦となってから悔やんでも後の祭り、一瞬も気をゆるめず、精魂尽くるまで働け」  内蔵助は、各人がわが身、わが一生をかえりみることを恐れた。討入れば成否にかかわらず、公儀のきびしい裁きを受ける。恐らくいのち終るであろう。この瀬戸際でわが身辺に思いをめぐらせば未練や怯懦《きようだ》の念が湧かないとも限らない。それを許せば戦闘態勢は崩壊の危機に見舞われよう。もうこの時期でそれは許されない。結盟以来一年九ヶ月余、考える時間は充分に与えてある。いまはただ非情に徹し、一路|噴騰《ふんとう》あるのみである。  同志は、考える暇なく働いた。それでもなお、一年九ヶ月のきびしい歳月に耐えた者の中から、七名(内蔵助家士、瀬尾孫左衛門をのぞく)の脱落者が出た。  師走《しわす》に入って間もなく、毛利小平太(二十石三人|扶持《ぶち》)が行方をくらました。新麹町の小野寺十内から用度金二百両を預って、東湊町の天川屋の出店へ届ける途中、姿を消したという。仮住居の身の廻《まわ》りの品は、置き捨てたままであった。  二、三日あと、それに誘われるように、同じ船手掛の田中貞四郎(百五十石)が、夜逃げした。このほうは綿々と繰り言を書き連ねた書置があった。それによると、とうに縁を切った筈《はず》の許嫁《いいなずけ》の娘が病におかされ、明日をも知れぬ容態なので死に水をとってやりたい、三、四日のうちに必ず復帰して詫《わ》びを入れるが、万一討入に間に合わなかった時は、いさぎよく切腹して節義に殉ずるとあった。もちろん復帰せず、切腹した事実もない。許嫁があったとも聞いた者はなかった。  この両名は、前々からとかくの噂もあったので、ある程度止むを得ないと思われたが、時機が切迫して十四日の討入を控えた前日の十三日、それも昼過ぎから夜半にかけて、大量五人もの脱走者があらわれた。しかも戦闘の中核のなかから選び抜いて、吉良邸間近の基地に配置した精鋭であった。  まず、林町と徳右衛門町の両基地の管理に当る小山田庄左衛門(百石)が、昼過ぎ、ふいと姿を消した。徳右衛門町の薪炭物置小屋につとめる矢野伊助(足軽)が探し廻ったが見つからない。  夕刻、緑町の空店に住む中田理平次(百石)、鈴田重八(三百石)、中村清右衛門(百石)の許《もと》へ、杉野十平次が訪れると、三名は衝撃に顔|蒼《あお》ざめてものも言わず、思い思いに坐《すわ》り、寝転んでいた。聞けば一|時《とき》半ほど前、探しに来た矢野伊助の口から小山田|失踪《しつそう》の事を知ったという。  杉野が訪れた理由は、その探し廻っていた矢野が帰らないためであった。中田ら三名以上に衝撃をうけた矢野は、臆病《おくびよう》風に誘われて、夕刻近く逐電《ちくてん》したらしい。  それから二時《ふたとき》(約四時間)、中田理平次・鈴田重八・中村清右衛門の三名が、どう過したか一切わからない。夜半近く杉野が再び訪れてみると、三名は揃って姿を消していた。  中田理平次・鈴田重八は、同志の中で堀部安兵衛・奥田孫太夫に次ぐ腕利きで、共に裏門突進隊の一番手に予定されていた。また中村清右衛門も、高田郡兵衛なきあと、槍術《そうじゆつ》では一、二の使い手であった。  三名が姿を消したあとの空店には、火の気のない火鉢や、飯食ったあとのない空鍋空釜が、寒気に凍りついていた。折からの雪模様に寒さいや増す空店で、三人が何を語り、何がきっかけで勇から怯へ急転回したのであろうか。敵勢百数十がひしめく吉良屋敷を目前にした前線基地の緊張は、凄《すさ》まじいものがあったと伝えられるだけに、気力を消耗し尽した三名の、戦いの前夜、逃亡に転ずる凄愴《せいそう》の姿は、想像するだに胸迫るものがあった。  霜月(十一月)から師走《しわす》にかけて、吉良|上野介《こうずけのすけ》はしきりの外出をした。行先は八月まで滞留した上杉家麻布中屋敷である。そこには今も老妻の富子が止《とど》まっていて、訪れた吉良は三日四日と逗留《とうりゆう》するのが常であった。  もちろん赤穂の大石以下が、江戸に潜入しているという噂は耳に入っている。危険を避けたいという考えもあったであろう。また贅好《ぜいごの》みの老人が、殺伐とした新屋敷を忌避したい思いもあったに違いない。  そうした予期できぬ吉良の変幻の動きは、内蔵助をひどく苦しめた。智略を尽した謀攻は、いま大詰めを迎えようとしている。こういう時こそ緻密《ちみつ》な手を打たなければならない。  こうした状況は、将棋の終盤にたとえられよう。詰手一手の違いが局面を一転し、一挙に破局に至る例は間々《まま》ある。  碁将棋の高段者は、一瞬に数百手の変化を読む。それでいて一手に数十分・数時間を費消するのは、手を読むより、どの手が最善かという判断に迷い、冷静・客観視して大局観を掴《つか》もうと、混迷と戦っているのである。  内蔵助も、まったく同じだった。まず事態から離れ、醒《さ》めた眼で大局を見る。切迫から離れること、自意識を没却することが肝要だった。  だが、言うは易く、行うは難《かた》い。人は智略を尽す程に視野が狭窄《きようさく》し、客観性を失う。忘と離、その手段が問題だった。  内蔵助の手段は女色一筋だった。困難な事態、客観性を最も必要とする時、彼は女色に走り、愉悦に溺《おぼ》れ、醒めて判断を下した。  内蔵助は、妻のりく[#「りく」に傍点]と別れて、年若のかる[#「かる」に傍点]に溺れ、かると別離した後、鎌倉の明石《あかし》茶屋の女あるじきよ[#「きよ」に傍点]に手をつけた。  ——われながら、好色……。  と、自嘲《じちよう》しながらも、止められぬ。女色への逃避は必死懸命のわざであったといえよう。  最終決戦を目睫《もくしよう》に控え、同志が準備に奔命しているこの時期、内蔵助は旧赤穂浅野の家中ゆかりの者の引合わせで、赤坂裏伝馬町の比丘尼《びくに》、山城屋一学という娼婦《しようふ》と馴染《なじみ》を重ね、また、当時流行のきざしをみせた踊り子(後の芸者)綾丸という若衆姿の女子と契りを重ねた。  それも、二人の女子との最後の逢瀬《おうせ》は、十四日の討入の前夜、十三日の夜であった。矯風《きようふう》を主張する向きには大いに顰蹙《ひんしゆく》を買う史実ではあろうが、そうした好色ぶりに、最後の最後まで使命達成に懸命だった内蔵助の、溺るるものの藁《わら》にも似た耽溺《たんでき》ぶりがうかがえる。  ちなみに、年二八(十六歳)と伝えられる山城屋一学と綾丸が、わずか数度の逢瀬に内蔵助に眷恋《けんれん》傾倒すること甚だしく、ためにこの事実が記録に残った。      二  吉良上野介の米沢|引籠《ひきこも》りの報は、間もなく内蔵助の許《もと》に伝わった。誰彼の得た秘密の事柄というのではない、各方面から伝えられるのである。一人が得た秘報で一喜一憂しては大事は行えない。 (年明け早々、允許《いんきよ》が下しおかれる見込み)  と、ある。討入は年内決行が迫られた。  程なく、別れの茶会の催しが伝わった。五日、十四日、二十二日が期日、とわかった。  茶会は、吉良在邸の絶好の機である。吉田忠左衛門以下の参謀は、五日決行を提議した——�兵は拙速を聞くも、いまだ巧の久しきを睹《み》ず�。早いに越したことはない。機会は二度あるとは限らない。士気盛んなるうち決行すべし。  だが、内蔵助は、あえて見送りを命じた。 「色部が考えそうな罠《わな》ではないか」  誘いの隙を見せる。引っかかったら藩士多数をもって取りこめ、一挙に殲滅《せんめつ》してしまう……。 「よいか、これは主導権の争いだ。相手が仕掛けた手には、たとえ有利と見えても乗るな。戦さはこちらが選んだ日、選んだ時に始める。先手をとれ、とったら放すな、それが戦いの要諦《ようたい》だ」  五日、厳寒の屋外で夜を徹した上杉の侍どもは、空しく引揚げるだろう。その怨嗟《えんさ》の視線を浴びながら、色部は考えるだろう。襲撃は次の十四日か、それとも最後の二十二日か……頭脳|明晰《めいせき》な色部は、そこで選択肢のあまりに多いことに気付く。謀才の長《た》けた大石が茶会のような罠にはまるであろうか。かえって裏をかき、茶会以外の日を選ぶかも知れない。そうなると確実に在邸する年末年始の式日が危ない。大晦日《おおみそか》か、元旦《がんたん》の夜か……。  いや、障りの多い江戸を避け、米沢への道中を襲う手もある。百里の道中、険阻《けんそ》な山坂もあれば、厄介な川越えもある。さびれた宿場を占拠して待ち受ける策もあろう。本所屋敷のような防塞《ぼうさい》がなく、道中の人数が限られているだけに、剣戟《けんげき》決戦には利がある……。  そう考えが次々と飛躍し、拡大すると、罠を仕掛けた茶会の当日が、ひどく空しく思えてくる。 「一度目の五日は肩すかしを食った。二度目の十四日も空振りとなると、藩内で孤立している色部の威令はあやしくなる。二度の徹夜に不平不満の藩士は、三度目には動かなくなる恐れがある……そうなると、色部めは考える。十四日の警戒をわざと見送って、二十二日に再び大動員をかける……」 「すると……十四日ですか、決行は」  吉田忠左衛門が、力をこめた。 「あ、いや、十四日は月こそ違え亡き殿の御命日ですぞ、それを敵が考えに入れたら……」 「十内よ……それを考えたから、三月十四日の祥月命日は、何事も仕掛けず見送ったのだ……われらはそうした日にちの符合にこだわらぬと見せかけるためにな」  内蔵助は、笑ってみせた。  内蔵助と参謀は、人員の編制に専念した。  戦闘は、すべて三人一組で当る。組の長《おさ》(組頭《くみがしら》)は身分の上下を問わず選び、組の者は組頭の指図に従い、いかなる場合も個々に敵と対せず、三人協力して敵を一人一人|斃《たお》す。 (主将・副将・組頭の命令は絶対である。異議・不服従を許さず、命令の下、甘んじていのちを捨てよ)  その厳命を施行するだけに、組の編制には苦心した。最終の編制は、次のようになった。    表 門(東、五間道路)  主将 大石内蔵助良雄  副将 小野寺十内秀和   抜刀突進隊   一番隊    組頭 富森助右衛門正因       間 十次郎光興       間 新六光風   二番隊    組頭 大高源五忠雄       前原伊助宗房       中村勘助正辰   三番隊    組頭 赤埴源蔵重賢       奥田貞右衛門行高       小野寺幸右衛門秀富   四番隊    組頭 大石瀬左衛門信清       早水藤左衛門満尭       木村岡右衛門貞行   二間半|長柄槍《ながえやり》組    組頭 片岡源五右衛門高房       礒貝十郎左衛門正久       潮田又之丞高教   半弓組    組頭 神崎与五郎則休       村松三太夫高直       茅野和助常成   後 詰 間 喜兵衛光延       村松喜兵衛秀直       三村次郎左衛門包常   伝 令 寺坂吉右衛門信行       (以上、二十四名)    裏 門(西、五間道路)  主将 大石主税良金  副将 吉田忠左衛門兼亮   抜刀突進隊   一番隊    組頭 堀部安兵衛武庸       近松勘六行重       横川勘平宗利   二番隊    組頭 勝田新左衛門武尭       岡野金右衛門包秀       倉橋伝助武幸   三番隊    組頭 武林唯七隆重       間瀬孫九郎正辰       吉田沢右衛門兼貞   二間半長柄槍組    組頭 菅谷半之丞政利       貝賀弥左衛門友信       矢田五郎右衛門助武   半弓組    組頭 原 惣右衛門元辰       岡島八十右衛門常樹       千馬三郎兵衛光忠   後 詰 堀部弥兵衛金丸       間瀬久太夫正明       矢頭右衛門七教兼       (以上、二十名)    奇襲組(南横手、侍長屋乗り越え)   遊撃隊 不破数右衛門正種       奥田孫太夫重盛       杉野十平次次房       (以上、三名)      計 四十七名  この編制表は討入直前の脱落者続出によって、その都度組替えが行われた結果である。結盟者が五十五名と減少した最終時期に、七名(最後に内蔵助の用人瀬尾孫左衛門が脱けたため、八名となった)もの数を失ったことは図らざる痛恨事であった。そのため戦闘の中核となる抜刀突進隊を、表門裏門各一組減らさざるを得なかったばかりでなく、中田理平次・鈴田重八という頼みの腕利きを失ったため、内蔵助が最も頼みとした遊撃隊から堀部安兵衛を抜き、裏門一番隊の組頭に移さなければならなかった。安兵衛の穴は槍術の名手杉野十平次を当てたが、裏門組は伝令の足軽矢野伊助を欠いたままの有様で、攻撃力の減退は覆うべくもなかった。      三  十三日の深更、日本橋石町の家で、内蔵助は寝もやらず編制替えに腐心していた。  ——随分と減ったものだ。  その感が深い。戦闘中、随時支援に当る奇襲遊撃隊は、当初堀部安兵衛、不破数右衛門、奥田孫太夫、高田郡兵衛、富森助右衛門の五名を予定していたが、高田郡兵衛は脱落し、堀部・富森の両名は抜刀突進隊へ移したため戦闘力は半減した。  ——これで、勝てるか。  内蔵助は、その難問に苦しんだ。最後の同志四十七名、単純に年齢別に分類すると、七十歳台一名、六十歳台五名、五十歳台四名、四十歳台六名、三十歳台十六名、二十歳台十三名、十歳台二名である。最も働く二十代、三十代が二十九名、六割そこそこである。また部屋住といって、藩士の子弟だが、禄《ろく》を貰《もら》っていない者が、大石主税ほか九名、中途で親が死んで結盟を継いだ岡野金右衛門を加えると、十一名が禄を受けていない。  しかも、それが亡国の侍である。戦って何の報いもない。相手は十五万石の威勢を誇る血気盛んな侍百余名、順当なら勝ち目は皆無に等しい。  ——だが、勝たねばならぬ、勝たねば侍の侍たる名聞が立たぬ。  誰のためでもない。故主浅野|内匠頭《たくみのかみ》の菩提《ぼだい》のためでもなければ、吉良上野介への復讐《ふくしゆう》とも言えぬ。公儀の政道への反抗でもない。破邪顕正を身をもって行うつもりもない。すべてはおのれ、侍たるおのれの志に殉ずるに尽きる。  ——侍が侍たることは難いものだ。  内蔵助は、歎息《たんそく》する。白い息が行燈《あんどん》の灯に流れた。  小用に立った内蔵助は、小窓から外の闇を見た。霏々《ひひ》と白い雪が舞っている。深々と寒さが身に沁《し》みた。 「雪か……」  待望の厳寒である。身を震わせたのは寒さだけではなかった。内蔵助はその肌で天運を感じた。  ——この雪、この寒さこそ、最大の味方。  暗く閉ざされかけた無明の闇の彼方《かなた》に、かすかな希望の灯を見た気がした。  足の裏に冷気が沁み通る廊下を戻ってくると、玄関脇の小部屋から灯《あか》りが洩《も》れていた。用人の瀬尾孫左衛門がまだ寝もやらず、何か動き廻《まわ》っている様子がうかがえた。 「孫よ、まだ起きておるのか」  障子を開けて入ると、火の気のない部屋で孫左衛門は、肌着や小物の洗濯物、読み捨ての双紙、読み本などを行李《こうり》にまとめ、荷造っていた。 「お耳ざわりでございましたか。申し訳ございませぬ」 「なんの、そのような無用の物、手数をかけずとも、打ち捨てればよいではないか」 「ではございますが、人によってはまだ役立つ物もあり……」  律儀《りちぎ》な孫左衛門である。内蔵助は苦笑した。 「おぬしらしいことを言う。まあよい、茶など淹《い》れてやろう、部屋に参れ」  と、促して、踵《きびす》を返した。  瀬尾孫左衛門、大石家代々の用人である。先々代孫左衛門は常州|笠間《かさま》の頃から内蔵助の祖父|良欽《よしただ》に仕え、先代孫左衛門は京都留守居役だった内蔵助の父権内良昭に奉公した。良昭は国家老職を継ぐ前に早逝したため、内蔵助が若年で祖父良欽の後を襲い筆頭国家老に就任した頃、先代孫左衛門は大石家の家政を取仕切り、家を支えた。  いまの孫左衛門が、先代孫左衛門の死去に伴い、用人職を継いだのは、十二年前、彼が二十五歳の時であった。その折、縁あって妻帯したが、その若妻は三年足らずで急逝し、以来、独り身を通している。  孫左衛門は代々の血を継いで実直そのものの性格だったが、剣才に乏しく、武芸の面ではほとんど役立たずであった。その半面、計数に長《た》けているほかに、書画|骨董《こつとう》に明るく、その眼利きでは達人の定評があった。  だが、その美術眼はいま何の役にも立たない。棒ふり剣術に等しい腕の方が、まだ数の内に入るだけまし[#「まし」に傍点]と評価された。  それでも孫左衛門は、脱盟などまるで考えなかった。加盟の時も�その儀に及ばず�と内蔵助に拒まれたにもかかわらず、最後までねばり抜いて、盟約の末尾に連なった。  彼は、内蔵助の蔭《かげ》に生き、蔭に死ぬことに何の疑念もさしはさまず、当然の事と考えていた。  孫左衛門は、内蔵助が淹れた熱い煎茶《せんちや》を押しいただいて啜《すす》った。 「まこと……はらわたに沁む心地が致しまする……」 「それは重畳《ちようじよう》……よければいま一服、淹れてとらそう」  内蔵助は、再び茶を淹れながら、さり気なく言った。 「今宵《こよい》、小山田庄左や中田理平次ら四人が行方をくらました、毛利、田中を加えて六人、それに、足軽の矢野伊助もな」 「それは……いや、驚きました。この期《ご》に及んで、まだ……」 「計り難きは人の心よ、代々|禄《ろく》を食《は》んでも、落つる者は落つる……」 「まことに……むずかしいものでございます」 「そこで訊《き》くが、そちはどうだ」 「は?……」 「孫よ、そちはな、結盟の者の中で、ひとり浅野の家人《けにん》ではない。わしが家の者だ。赤穂《あこう》の国が潰《つぶ》れ浅野の家が失《う》せても、そちがいのちを捨てて義を立てることはないのだ」 「お待ち下さりませ、旦那《だんな》さまはこう申されました。この企ては亡き殿様の菩提や、相手方への讐《あだ》をうつことではない。国を守り君を守るを本分とする侍の志を立てることだ、と……」 「そう……その通りだ」 「ならば同じでございます。先ごろの異変のため、大石のお家、職分が失せ、旦那さまは侍の一分を立てるため、おいのちをお捨てになります。ならば代々、大石のお家に仕える私めが、いのちを捨てて旦那さまのお供をすることが、私の侍の一分、侍の志と思いますが違いましょうか」 「そうか……いや、参った。そちがそれまで考えておれば、何も言うことはない、あやまる、この通りだ」  内蔵助は、笑顔で大仰に頭を下げてみせた。      四  内蔵助と孫左衛門は、暫《しば》し無言で茶を啜り、対座を続けていた。 「侍の道、というのは……見栄《みえ》だ。人の眼に美しく生き、美しく世を終ろうというのは、所詮《しよせん》、見栄ではないか、と、町人は咲《わら》う……」  内蔵助は、ぽつり、ぽつりと話しだした。 「だがな、見栄でよいではないか、と、わしは思うのだ。人間五十年、下天《げてん》のうちを比ぶれば、夢まぼろしの如くなり……と、幸若《こうわか》の文句にある。一日ひと月一年の長きを願い、倖《しあ》わせを追い続けても、所詮は夢まぼろしと終るのだ。どうせ終るしかない一生なら、見栄を張り続けての一生も、それなりに意味がある。美しく生き死ぬことは、人の世を美しくする……それが、人の規範となる侍の道だ……」  孫左衛門は聞き入っていた。もう何度聞いたことか、内蔵助のその考えは聞き飽いた筈《はず》である。だが、討入という生涯の終結点を目睫《もくしよう》にして、その話はふだんと違い、新鮮な感動を誘った。一語一語が身体に沁み通る感があった。 「それでいま、わしはわしが身と、おぬしの身を考える。わしが侍の道を貫くため、奉公人の身まで使い捨てることが美しいか。ありのままを言う。戦いにさして役立たぬおぬしを戦場の地獄に連れて行くより、生かして使う道はないか……と、な」 「私めが代々、大石の家に仕えましたのは、ふだんのつとめのほかに、一朝事あるとき、いのちを捨ててお役に立つ……それ以外にありませぬ」  孫左衛門は、熱誠を面にあらわして言った。 「なにとぞ……お役に立てさせて下さりますよう……」 「うむ、よう言ってくれた。それでおぬしに事を分けての頼みがある。又者《またもの》(陪臣)のおぬしが赤穂浅野の意地を貫くためにいのちを尽すより、わしというあるじがこの世に残す未練のために、そのいのちを使ってはくれぬか」 「と、申されますと……?」 「この世の終りに、あえて恥を言おう。おぬしは知らぬ事だが……かる[#「かる」に傍点]にややこ[#「ややこ」に傍点]が出来た……」 「それは……」  孫左衛門は、と胸を衝かれたように絶句した。 「りく[#「りく」に傍点]に三人の子を托《たく》したが……あれには但馬《たじま》豊岡に親がいる。親の家がある。また芸州広島にわしの親戚《しんせき》もいる……だが……かる[#「かる」に傍点]にはそれがない。頼りにならぬ父親と、かるを忌み嫌う継母《ままはは》しかない……十七歳の身空でわしの子を産んで、この先どうやって暮すか……今が今、未練に思うことはそれだけだ」 「…………」  一旦《いつたん》、紅潮した孫左衛門の顔が、見る間に蒼《あお》ざめた。 「悪いあるじを持った、と思うてくれ。いまおぬしが盟約を捨てれば、世に汚名が残るやも知れぬ。それを承知であえて言う。この場から京へ戻り、かるの一生をみとってくれぬか……それが、わしのかるへのいつくしみ、ひいてはおぬしのいのちをいとおしむ心なのだ。勝手なあるじ、身勝手な男と咲《わろ》うてくれてよい。わしの生きよう、わしの見栄を貫かせてくれ、頼む……」  膝《ひざ》に手を置いた内蔵助は、深々と頭を下げた。 「ま、まず……お手をお上げ下さりませ……」  孫左衛門は、そう両手を支《つか》え、内蔵助を仰ぎ見た。その眼から滂沱《ぼうだ》と涙が溢《あふ》れていた。  生れ落つるその時から、孫左衛門は大石の家の子郎党だった。育って三十七年、あるじと仰いだ内蔵助とは血縁以上に心の通じあう間柄だった。  ——わが子主税をあえて死地に伴っても、孫左衛門を死なせとうない。それは侍の筋目ではない。筋目の違ういのちは生かして別の一生を送らせたい。 (この人は、いのちを一挙に使い果す非情の心と、生きとし生けるいのちを限りなくいとおしむ心を、併せ持っている……)  矛盾、と、人は言うだろう。その矛盾こそが大石内蔵助の真骨頂なのだ、と、孫左衛門は、はっきりと思い知った。  夜明け前、瀬尾孫左衛門は、与えられた三百両の金を懐に、逐電《ちくてん》した。それは同じ家に寝ていた主税《ちから》良金も知らぬことだった。  明けて十二月十四日、昼前から、日本橋、新麹町、芝口、八丁堀に散在する同志は、三々五々家を離れ、湊町|船溜《ふなだま》りに至った。船手掛の貝賀弥左衛門、大高源五らは、同志を次々と猪牙船《ちよきぶね》に乗せ、小名木川経由で竪川三ツ目之橋の安兵衛道場、杉野の薪炭《しんたん》物置小屋に運び、それらの基地で身支度を調えさせ、更に日の暮れるのを待って、相生町二丁目の前原・神崎の家に、舟で移らせた。  当時の江戸、本所・深川の新埋立地は、堀割が四通八達し、陸を往くより舟運が便であった。赤穂という海辺の藩で生れ育った内蔵助らは、最初から舟運の発想があった。  山国と海辺、その領国の違いが両者の運を分けた、といっても過言ではない。  暮六ツになると、江戸の町々の木戸は閉ざされ、通行の者は一々番屋に声をかけ、木戸を通らなければならない。一揆《いつき》を企てる者が隊伍《たいご》を組んでの通行など出来るものではない。早朝から万々一に備えて町々の人の動きを見張った上杉家の諜者細作《ちようじやさいさく》は、日暮に及んで異状なしと見て引揚げた。吉良の運命はこの時に決したといえよう。  一方、赤穂勢は、基地で着々と支度を調えた。  この日、昨夜来の降雪は昼過ぎにようやく霽《あが》ったが、北東の風が吹きつのり、雲足|疾《はや》く、時折小雪がしぐれた。寒気は日暮と共に一段ときびしく、積雪は凍りついて氷状を呈した。  身支度は入念に行われた。同士討を避けるため、揃いの衣裳《いしよう》が用意された。綿入れの肌着・股引《ももひき》の上に、精巧な鎖《くさり》帷子《かたびら》・鎖股引をまとう。それに黒木綿・裾短《すそみじ》かの衣服、袖口《そでぐち》には暗闇での識別用に幅広の白地が縫付けてある。襟首には革の小片に姓名と行年が記してあった。鉄の鉢金の錣《しころ》は鎖網が用いられた。肘《ひじ》までの長籠手《ながごて》、膝《ひざ》までの長臑当《ながすねあて》、頭から頸《くび》まで覆う真綿|頭巾《ずきん》、草鞋《わらじ》までが藁造《わらづく》りでなく、布製の物であった。防寒と防衛に万全の備えであった。  亥《い》ノ刻(午後十時頃)、四十七名は悉《ことごと》く相生町二丁目、前原伊助の店に集結した。  前原の店では、大がかりな炊事が行われていた。平間村の軽部五兵衛が頼んで差し向けた成川源八ら若者七名、三田松本町の前川忠太夫の手の者八名が忙しく働いていた。そしてその中に華やかな彩《いろど》りがあった。鎌倉明石茶屋の女あるじきよ[#「きよ」に傍点]が、自ら召使いの女三人を連れて加わっていた。  きよは、一行の最後に到着した内蔵助を見ると、眼許《めもと》にかすかな笑みを見せて、目礼した。  内蔵助は会釈して、付き従う奥田孫太夫を見返った。孫太夫は詫《わ》びるように頷《うなず》いてみせた。内蔵助は苦笑のほかなかった。  外の寒気とは別世界のように、家の中は熱気があふれていた。その店の片隅で、遅れて握り飯を食う武士の一群があった。内蔵助の親類で本所津軽家の家臣、大石郷右衛門と大石三平、堀部安兵衛の従兄弟《いとこ》、佐藤条右衛門、弥兵衛金丸の甥《おい》、堀部九十郎たちである。  機密は厳に秘しても、わずかずつ洩《も》れる。これらの者は討入を知り、参加を願ったが、内蔵助は固辞し、代りに両国橋周辺の見張りを頼んだ。その出動前の腹ごしらえであった。  時刻は刻々と過ぎた。  子《ね》ノ刻(午前零時頃)は間近となった。  店から奥へ、ぎっしりと詰めた四十六人は、固唾《かたず》を呑《の》んで内蔵助の挙動を瞶《みつ》めていた。  内蔵助は、右手を前方に振り、出撃を令した。 [#改ページ]   分合為変《ぶんごういへん》      一  本所|相生《あいおい》町二丁目の七間道路に奔出した赤穂《あこう》勢四十七名は、東表門に二十四名、西裏門へ二十名と分れ、駛走《しそう》した。  残る三名、遊撃隊の不破|数《かず》右衛門《えもん》、奥田孫太夫、杉野十平次は、三間半の継梯子《つぎばしご》を掛けて、吉良《きら》新屋敷の境界に立塞《たちふさ》がる侍屋敷の屋根を乗越え、本屋敷の大屋根に馳《は》せた。戦闘発起に先立って、屋根や土塀通路の上に仕掛けてある用水|桶《おけ》や木橇《きぞり》の丸太積みを使用不能にするためである。  表門・裏門の赤穂勢は、内蔵助《くらのすけ》の下知を待った。内蔵助は慎重に時機をはかっていた。赤穂勢の最大の狙いは奇襲にあった。大屋根の工作は必要不可欠だが、荏苒《じんぜん》と待っては奇襲の利を失う。三手に分れた手勢をいつ発起させるか、それが緒戦を決する。  孫子は、その七�軍争�(戦闘)の中で、次の如く説いている。 『故兵以詐立、以利動、以分合為変者也』 (ユエニ兵ハ詐《サ》ヲ以《モツ》テ立チ、利ヲ以テ動キ、分合ヲ以テ変ヲ為《ナ》スモノナリ)  戦術のおおもとは、敵をあざむくことにある。戦闘発起の時機は敵をあざむくことによって、有利な状況を作り出すことにある。そしてその行動は、兵力の分散と集中を巧みに行なう変幻自在のものでなければならない。  分合為変、その至難な戦術に、内蔵助は緒戦の成否を賭《か》けた。  風が夜空に鳴った。  雲が疾《はし》り、月がみる間に翳《かげ》る。と、間をおかず横なぐりの雪しぐれが襲った。頭巾《ずきん》で覆いきれぬ顔が強《こわ》ばって疼痛《とうつう》が走った。  裏門、侍長屋の外破目に沿って横たえた長梯子の脇に、発起の合図を待つ突進隊の中で、一番隊の横川勘平は、顎《あご》の骨が浮き、歯が激しく鳴り続くのを抑えかねた。  ——歯の根が合わぬ、とはこの事か。  勘平は、組頭《くみがしら》の堀部|安兵衛《やすべえ》の許《もと》に這《は》い寄った。 「ほ、ほりべさま」 「どうした勘平」  と、安兵衛が見返った。  横川勘平は、赤穂城外の脇山にある煙硝庫(火薬庫)の番人だった。自称十人力という剛力で、また古流の天真正伝|神道《しんとう》流を研鑽《けんさん》し、据物斬《すえものぎ》りの名手と言われたが、身分は金五両三人|扶持《ぶち》という石取《こくと》り以下の微禄《びろく》で、故主浅野|内匠頭《たくみのかみ》には目通りも叶《かな》わぬ軽輩だった。侍の身分差というのは絶対的なもので、当人が生涯努力を続けても、とうていその壁は越えられない。そうした勘平の身上と資質を見込んだ内蔵助は、十数年の間|撫育金《ぶいくきん》を与えて、その生計を助け、武術鍛練に励ませた。勘平にとっては国家老のめがねに適《かな》い、ひそかに選ばれたことが一生の誇りであった。それゆえにこそ内蔵助の企てに加盟を命ぜられると欣然《きんぜん》と受け、志を変えず、今に至った。 「ほ、堀部さまは、確か……こうした斬り合いに臨むのは、二度目と聞き及びましたが……」  ふしぎと、歯鳴りは喋《しやべ》っている間だけは止む。切なくなって息を継ごうとすると、また鳴り出す。 「おう、高田馬場の事か、それが何だ」 「い、いえ、どうすればそう度胸が定まるかと……」 「ばかなことを訊《き》くな!」  安兵衛は勘平の頬を鉄籠手《てつごて》で力任せに撲《なぐ》りつけた。口腔《こうこう》が切れ、塩辛い血が溢《あふ》れると、その味で歯鳴りの痙攣《けいれん》が止った。 「ほ、堀部さま」 「一度目も二度目もない、怖いのは同じだ。いや、うぬよりおれの方がもっと怖い」 「ま、まさか……」 「おれの剣の師、堀内源左衛門先生はこう教えてくれた。人は生れ落ちる時、定まった量の運と勇気を授かる。その運も勇気も使うごとに減る。無駄に使うな、大切にせい、とな」 「そ、それはまことか、安兵衛」  と、同じ一番隊の近松勘六がすり寄った。彼は安兵衛と同年の馬廻《うままわり》二百五十石、家格は少々上だが、常に安兵衛に兄事している。 「まことだ。だから平生些細《へいぜいささい》な事で運を頼りにせず、危うきを避けることだ。だがそれでも確実に運は減り、人は臆病《おくびよう》になる。おれのように世間の耳目に触れる大事を経験した人間には、それがひしひしとわかるのだ。この討入でおれの武運は尽きるやも知れぬ、なぜならおれの勇気はもう尽きかけておる。それが証拠に高田馬場の折には、生を視ること死の如しであったものが、いまこうしておる間、震えが止らんのだ」  安兵衛は、鉄籠手の手をぐいと前に突き出した。その拳《こぶし》に横川勘平も近松勘六も、そして二番隊の勝田新左衛門らも、三番隊も視線を集中した。  その時、雲が切れて月光が射した。夜目にくっきりと拳は浮き上がって見えた。その拳は震えていた。  それを眼にした者は、すべて歯鳴りが止った。安兵衛にして然《しか》り、われら何の臆することあらむ。一同の胸に沸々と湧くものがあった。  それは、�勇気�であった。  風は依然として強く渦巻き、寒気は一段ときびしくなった。その凍《い》てついた風に乗ってかすかな呼子笛の音が切れ切れに流れた。  本屋敷の大屋根に侵攻した遊撃隊の合図だった。防衛の仕掛けを使用不能にする工作に着手するという合図である。 「ご家老」  呼びかけた小野寺十内に、内蔵助は低い声で命じた。 「裏門に知らせい」  十内は、寺坂|吉《きち》右衛門《えもん》が運んできた戦陣太鼓の撥《ばち》を取ると、鼕《とう》……鼕、と打った。  耳を澄ますと、遠く裏門の方から、かすかに応ずる鼓声が切れ切れに流れた。 「裏門、応じました!」 「ようし、行け!」  十内は、表門脇に待機した弓組、槍組《やりぐみ》の者たちに手を振って合図した。  弓・槍を後詰組に預けた面々は、門脇の屋根に長梯子を差しかけ、よどみなく駈《か》け登り門内に消えた。討入に先立ち、門番を制圧するためである。その素早い動きに盛夏の暑熱に耐え、激しい訓練に励んだ成果がうかがえた。  待つ間、突進一番隊の富森|助《すけ》右衛門《えもん》は、抜刀して刀身を調べ、目釘《めくぎ》をたしかめた。内蔵助から与えられた菊一文字|則宗《のりむね》の古刀である。鎌倉期の名工則宗は、後鳥羽《ごとば》上皇の御番鍛冶《ごばんかじ》の一員に選ばれ、菊の御紋を銘に刻むを許された。後世菊一文字と呼ばれたその名刀は、師走《しわす》の凄《すさ》まじい寒月の光に映え、刃文《はもん》の小乱れが燦《さん》と輝き、地肌の深邃《しんすい》な蒼色が六塵《ろくじん》を奪うかのようであった。      二  富森助右衛門、江戸詰馬廻御使役二百石、三十三歳。剣は堀部安兵衛、奥田孫太夫、高田郡兵衛に一籌《いつちゆう》を輸《ゆ》すも、深慮遠謀は奥田、不破数右衛門と肩を並べ、文芸の道では短歌をよくする小野寺十内や、俳号|子葉《しよう》で知られる大高源五と共に、俳詣《はいかい》で名を得ていた。春帆《しゆんぱん》と号した。  富森助右衛門ほど、この討入の企てに、不参加の条件を備えている者はなかった。その理由はこうである。  京の五条|鞘《さや》町に、医者で手習師匠を兼ねている松井文治という者がいた。元は加賀浪人で佐藤治部右衛門と称《とな》えていたというが、真偽のほどは定かでなく、出自は不明である。  松井文治は、御所の下仕《しもづか》えの女と夫婦《みようと》になり、貞享《じようきよう》二年(一六八五)女児をもうけ、喜世と名付けた。  その後、妻に先立たれた松井文治は、娘喜世を連れて江戸に移り住み、町医勝田玄哲と名を変えた。医師の免許制度の無い時代、見知らぬ土地での医者稼業はなかなか信用が得られず、困窮したらしい。少女は苦しい家計を助けるため、元禄十年(喜世十三歳)頃から、京舞の踊り子として、小つまと名乗り、大名家の奥向に芸事で奉公した。出入りした奉公先は、出羽|新庄《しんじよう》六万石戸沢|上総介《かずさのすけ》、但馬《たじま》豊岡三万三千石京極|甲斐守《かいのかみ》、播州《ばんしゆう》赤穂五万三千石浅野|内匠頭《たくみのかみ》の名が残っている。  富森助右衛門は、喜世が浅野家奉公の折に、勝田玄哲と知合い、親交を結んだ。玄哲は年頃の娘に成長した喜世の行末を案じ、助右衛門に行儀見習奉公の斡旋《あつせん》を頼んだ。  助右衛門は、かねて交誼《こうぎ》のあった旗本矢島治太夫(四代将軍家綱の乳母矢島ノ局《つぼね》の実子)を通じて、甲府|中納言《ちゆうなごん》綱豊|卿《きよう》の奥向に、行儀見習奉公に上げた。甲府綱豊は当代将軍|綱吉《つなよし》の甥《おい》で、六代将軍の座を紀州綱教と競う名門である。出自の怪しい町医の娘では素性に難があるため、助右衛門はおのれの妹として奉公証文をととのえた。  その喜世は、甲府中納言綱豊の愛寵《あいちよう》をうけ、お手付き中臈《ちゆうろう》となった。これは後の話だが綱豊の嗣子|家継《いえつぐ》を産む。綱豊は紀州綱教の急死により西ノ丸に入り、家宣《いえのぶ》と名を改め、間もなく六代将軍に就任する。次いで嗣子家継は七代将軍となったため、月光院と名を改めた喜世は、将軍生母ノ方として、大奥に君臨することとなる。  赤穂浅野家の断絶という事態に、甲府綱豊は早速富森助右衛門に目を付けた。愛寵極まりない喜世ノ方の兄であり、御使役を勤める才腕の上に武芸の達人の聞えも高い。将軍に擬せられる身でありながら、新知の甲府家には役立つ侍が寥々《りようりよう》であった。浪々の身となった助右衛門には新知四百石を以《もつ》て召抱えの内示が下された。  赤穂の旧藩士の中で、これほど出世の途《みち》が開けた者はほかにない。四百石の禄は赤穂浅野家当時の倍である。更に綱豊が六代将軍の座を占めれば、どれほどの出世が見込めるかはかり知れない。これも後の話だが、勝田玄哲が矢島治太夫に頼まれ、養子とした太郎兵衛という小普請《こぶしん》手代の軽輩者は、三千石の旗本に登用されたという事実がある。もし富森助右衛門が甲府家に再仕官したら、将軍生母ノ方の兄分というだけで、大身《たいしん》の旗本に取立てられたであろう。働きぶり次第で万石の大名に列した例も少なくない。  だが、富森助右衛門は、敢然とその内示を謝絶し、内蔵助の企てに加わった。士道の重さに深く期するものあり、閨閥《けいばつ》による栄達に忸怩《じくじ》たるものがあったのであろう。また、十年の間、内蔵助の撫育《ぶいく》に与《あずか》った身の冥加《みようが》に報ゆる志もあったに違いない。  いま、彼が手にするのは皎々《こうこう》たる名刀、心に抱くのは耿々《こうこう》たる一片の志である。  ——まだか……遅い。  表門制圧を待つ時間はひどく長く感じられた。助右衛門はおのれの一番隊を見返る。間《はざま》十次郎と新六の兄弟が、固唾《かたず》を呑《の》んで助右衛門を瞶《みつ》めていた。その切迫した眼と、動いて止まぬ身の震えに、ふっと先刻の様子が脳裏をよぎった。  つい今しがた、前原伊助の店で発起を待ったとき、助右衛門は握り飯を頬張りながら、間父子三人の語らいを見るともなしに見ていた。  間喜兵衛は参謀の一人、国許《くにもと》赤穂在住の同志の指揮と暮し向の相談に当っていた。彼はその子を二人とも結盟に加えていた。 「よいか、十次郎、新六……同志の中に親子兄弟は数多いが、三人ともに加わったのはわれら間《はざま》の家の者以外にない。しかもわしはご家老の帷幕《いばく》に加わって同志の指図に当っておる。われら親子は万人の注目するところ、それゆえご家老に願い、おまえら二人を一番隊に加えていただいた。おまえらは同志に先立って働き、率先して死ね。わしも続く。それが間《はざま》の家の士道である……わかったな」  間十次郎、二十五歳、間新六、二十三歳。若い兄弟は必死の思いをあらわに頷《うなず》いていた。  その兄弟がいま、助右衛門の背後で、突入の時を俟《ま》つ。その純真のまなざしに助右衛門は固く心に期するものがあった。 (このふたり、死なぬ、死なせてはならぬ。先々はどうなろうとも……)  門扉《もんぴ》が開いた。 「行け! 遅れをとるな!」  突進隊が躍進した。  門番詰所を制圧した槍・弓組は、用意の龕燈《がんどう》、百目蝋燭《ひやくめろうそく》に灯を点《とも》し、突進隊に手渡す。  一番隊は、黒々と構える表玄関の板戸を体当りに倒し、暗黒の屋内に突入した。玄関から表書院へ走る。 「な、何事だ!」  控部屋で仮眠していた吉良侍が飛び出す。  その姿を間新六の龕燈が照射する。一瞬、富森助右衛門の菊一文字が流星の如く閃《ひらめ》き、斬り倒した。 「これは播州赤穂浅野家が旧臣、士道を立て、侍の意気地を貫かんがため推参致した。吾《われ》と思わん者は出合い候《そうら》え」  言いも終らず、奥から、控部屋から駈け出てくる吉良侍を、助右衛門は一人、また一人と斬る。間十次郎は素早く百目蝋燭を鴨居《かもい》に打ちつけ、新六と共に吉良侍に立向った。 「散るな! 寄れ! 近寄れ!」  助右衛門は、三人一組で敵に当る鉄則をきびしく指示した。敵は五人、助右衛門らは部屋の隅に押しつけられて、たちまち不利な状勢となった。  恐怖、この交刃の場を支配しているのは深淵《しんえん》を覗《のぞ》くに似た恐怖であった。灯影《ほかげ》に閃く二尺有余の白刃は、触れれば皮膚を裂き、肉を斬り、骨を断つ。その戦慄《せんりつ》は身を慴怖《しようふ》におののかせ、筋はこわばり、関節は脱力する。 「間合《まあい》を! 間合をつめろ! 刃で斬るな! 鍔《つば》で斬れ!」  たった今、出合頭《であいがしら》に人を斬った助右衛門だけが多少の落着きを取り戻していた。敵との間合が開きすぎる。盛んにや声[#「や声」に傍点]をあげて斬りかかるが切尖《きつさき》が届かない。危懼《きく》が錯覚させるのだ。  助右衛門は、うむと踏張《ふんば》った。刀身を構える。菊一文字の光芒《こうぼう》が眼前にあった。刃文の小乱れが眼を吸い寄せた。刃文の沸《にえ》の銀砂子を散らしたような粒子の輝きが、夜空の銀河の世界に意識を誘った。 (斬れる!)  助右衛門は、躍るように踏込んで、相手の頭蓋《ずがい》の横を斬撃《ざんげき》した。骨を断ち割る感触が柄《つか》から掌《てのひら》に、鮮やかに伝わった。  絶叫と共に、鮮血が驚くほど飛沫《しぶ》いた。鼻から上の手傷は、想像を越える程の出血を伴なう。  その返り血を浴びた間兄弟は、瞬間、奮激した。 「いえーッ!」 「うおーッ!」  獣の吠《ほ》えるに似たや声[#「や声」に傍点]をあげて斬り込む。斬るというより撲《なぐ》りつける激しさだった。ばずッ、ばずん! と、相手を叩《たた》き斬った。  だ、だ、だ、と、残る二人の敵は、たたらを踏んで飛退《とびすさ》った。とみる間に、身を翻《ひるがえ》して奥へ駈け込んだ。 「追うな! 止れ! 仕掛けがあるぞ!」  言いもあえず、奥に通ずる暗い廊下に激しい音と共に、分厚い杉の板戸が落下した。  通路はふさがれた。  それは計算済みであった。七十を数える本屋敷の部屋部屋を、一部屋ごとに攻略するには人数も足らず、時間的な余裕もない。 「外へ! 庭へ出ろ!」  雨戸を蹴倒《けたお》して、雪の庭へ躍り出た。      三  吉良・上杉方は、まったく不意を衝《つ》かれた。色部又四郎は熟慮の末、この日、十二月十四日の警戒を解いていたのである。  ——年内、数ある日のなかで、浅野内匠頭の命日に当る十四日に討入はない。  そう読みに読んだ防衛策は、みごとに裏を掻《か》かれた。用心に用心を重ね配置した両国・永代《えいたい》の両橋畔の監視哨《かんししよう》は日暮に引揚げ、何の役にも立たなかった。茶会が終った亥《い》ノ上刻(午後九時頃)、屋敷内の侍には酒が振舞われ、亥ノ下刻(午後十一時頃)前に悉《ことごと》く就寝した。討入開始の子《ね》ノ刻(午前零時頃)は、まさに寝入り端《ばな》であった。  突如起こった叫喚と破壊音に眼覚めた侍長屋の上杉侍は、身なりを調える暇なく、寝巻のまま庭へ飛び出し、本屋敷へ駈《か》けつけようとした。  三人、五人、侍長屋を駈け出た上杉侍に、鏃《やじり》鋭い矢が襲った。寝巻一枚、防ぐ物とてない上杉の若侍は、無惨に射抜かれて血潮を噴出した。  表門組、裏門組の弓組六名は、庭の築地塀《ついじべい》に攀《よ》じ登り、庭木の枝に跨《またが》って、矢継早に射続けた。 「一々狙いを定めるな、当らずともよい、射すくめることを心掛けよ。要は敵をおびえさせることにある。矢数を多く放て」  表門組弓組の長は神崎《かんざき》与五郎である。弓は達人といわれ、特に速射は得意であった。  神崎与五郎は、終始不遇の人であった。親の代から作州津山、十八万六千六百石の森|美作守《みまさかのかみ》忠継に仕え、弓組|組頭《くみがしら》を勤め、八十石を得ていたが、主君忠継が延宝二年早逝し、その嗣子が幼少であったため、弟|伯耆守《ほうきのかみ》長武が仮相続をして後を継ぎ、忠継の嗣子美作守長成が成人するを待って家督をゆずった。そうした厄介な相続を認めた代償に、公儀は生類憐《しようるいあわ》れみの令による中野の犬小屋手伝普請を命じ、莫大《ばくだい》な藩費を費消させた。ところがその心労がたたって藩主長成は、嗣子をもうけることなく、元禄《げんろく》十年急逝し、森家は取潰《とりつぶ》しとなった。だが、さすがに公儀も事情を憐れみ、先に隠居した先代長武に、備中《びつちゆう》西江原二万石を与え、森家を再興させた。  忠継、弟長武、忠継の子長成、再び長武と入組んだ相続のために費消した運動費は、莫大な額にのぼる。その上に中野お犬小屋普請が加わって、藩の疲弊はどん底に達した。神崎与五郎の家禄《かろく》も、三分借、五分借、八分借と藩に借上げられて、実質十石にも満たぬ有様となった。  ——いかに泰平の世とはいえ、藩随一の弓取りが、なんたる冷遇か。  不満をつのらせる矢先、森家は断絶、辛うじて御家再興の途《みち》が開けたものの、旧知十八万六千余石のほぼ十分の一、二万石となった。  当然、家臣の禄は大削減の憂き目を見た。与五郎に示された内意は五石三人|扶持《ぶち》普請方という軽輩微禄であった。  没落の森家としては、止むを得ぬ仕儀であったに違いない。だが与五郎としては、禄高そのもの以上に、家中の者への体面があった。  ——これでは、侍として人交わりが出来ぬ。  何のために長い年月、侍の表芸に励み、家中随一の名を得たか、その苦辛の弓の練磨がまったく役立たなくなることに、我慢がなりかねた。  ——同じ微禄に身を落すなら、いっそ他家に移りたい。  与五郎は、旧知の前原伊助を頼んで、赤穂浅野家へ仕官を願い出た。 「おれが家も、代々の微禄……思うような世話もしかねるが……」  前原伊助の引合わせで面接の機を得た赤穂の国家老大石内蔵助は、その弓術を認めて、次のような条件を告げた。 「赤穂浅野家の藩士の数は、幕制軍役(五万石七十騎)の三倍を越える。ために当分は徒士《かち》勤めしか採用の途がない。当分の間辛抱すれば途も開けよう。その間、足らぬ収入は別途に撫育金《ぶいくきん》を与えよう。弓術鍛練に励んで機会を待て」  役職は徒横目《かちよこめ》(監察)、五両三人扶持であった。  与五郎は、内々で支給される撫育金に、内蔵助の信頼を感じとった。  ——ご家老は、おれの侍としての表芸を、人並以上に認めて下されている。  その誇りが、彼の唯一の支えであった。  だが、悲運はまだ止まなかった。赤穂浅野家は一朝にして断絶した。  浪々の身となった与五郎を憐《あわ》れんで、旧主家森家から誘いの口がかかった。 「実は近々、森家は赤穂に転封となることが予定されている(実際に五年後、転封となった。但し禄高は変らず、二万石であった)、土地柄に詳しいその知識を生かすため、赤穂浅野と同じ俸禄で働いてみぬか」  与五郎にとって、それは恩恵ではなく、屈辱に等しかった。しかも同じ赤穂の勤めとは何たる皮肉であろうか。  与五郎は、侍社会の中で、唯一彼の技倆《ぎりよう》を認めてくれた内蔵助に殉ずる覚悟を決めた。企ての進行中に、最も危険とされた相生町二丁目の前線基地に、旧知の前原伊助と共に住み、物見(偵察)に挺身《ていしん》したあたりに、与五郎の鉄石心がうかがえる。いや、それは志というよりも、年々重なった悲運に対する怨念《おんねん》とでもいうべきか。彼は同志の中でただ一人、内蔵助の禁を破って、�赤穂盟伝�と題する記録を書き残した。その内容は脱盟した者への憤論であった。その筆誅《ひつちゆう》は個々の事情にうとかったため、一部的外れもあるが、凄《すさ》まじい筆致に彼の悲しい心情がうかがえる。  たとえば、奥野|将監《しようげん》のくだりにこうある。 「将監、はじめ義を逞《たくま》しくし、祖の武功を貴《とうと》ぶ。しかもその鉄心たちまち鎔《とろ》け、而《しこう》してむなしく不義泥水に入る者|也《なり》」  また、こういう記述もある。 「小山源五右衛門、ともに忠義を抱き、金石の如し、然《しか》るに節にのぞみ、これを忘る、あたかも雪霜の旭光《きよつこう》に向うが如し、蜉蝣《かげろう》薄暮を恐るるのたぐい也」  神崎与五郎の引絞る弓弦《ゆみづる》は、ついに報われることのなかった練磨の神髄の発露であり、その鋭い鳴音は、彼の啾々《しゆうしゆう》たる哭声《こくせい》であった。  襲いかかる矢衾《やぶすま》をくぐって、米沢侍は庭の防塞《ぼうさい》へ、本屋敷へ走った。      四  戦いは、中庭の土塀通路で始まった。  屋敷の前庭から中庭にかけて、土塀が縦横に幾重にも築かれていた。土塀の間の通路はほぼ二間(約三・六メートル)、複雑に曲って迷路状になっている。  表門組は、二番隊三番隊を躍進させた。それに表書院を制圧した一番隊が加わり、三組九名が戦闘を開始した。  応戦の構えがととのっていたら、当然防衛方が有利であった。通路の侍溜《さむらいだま》りを一つ一つ制圧するのに、かなりの時を要する。砦《とりで》には地に陷穽《かんせい》、上に原木、石材、用水の落下物が用意されていた。加えて数倍の兵勢である。  だが、戦闘は不時に起こった。砦に入る人数を調える暇がない。次々と駈《か》けつける侍たちは、兵法の最も戒める逐次投入の形となって、通路途中に出没する遊撃隊に襲われ、各個に撃破される者が続出した。  不足の人数で防ごうとした砦の侍は、突進隊の猛攻にさらされた。防備の秘策を熟知している赤穂勢は、通路を順序に攻めず、土塀を乗り越え、乗り越え、まったく予想もしなかったところから攻め入った。陷穽は投げ入れる木盾でふさがれ、落下物は止め綱を切断しても微動だにしない。時には土塀上の橇道《そりみち》を飛鳥のように駈けつける遊撃隊によって、防衛陣の上から切って落され、思わぬ被害を与えた。  表門三番隊の組頭|赤埴《あかはに》源蔵は、堀部安兵衛と同様、婿養子である。赤穂浅野の君恩は薄い。 (赤埴の姓は、俗書ではアカガキと誤り伝えられた。埴の字を垣と誤記したためである)  赤埴源蔵の実家は、播州|竜野《たつの》五万三千石。脇坂淡路守安照の家中で、三百五十石留守居添役をつとめる塩山伊左衛門で、実兄に当る。  脇坂家は戦国大名の末裔《まつえい》で、藩祖脇坂安治は信長の美濃《みの》稲葉山城攻めの際、木下藤吉郎《きのしたとうきちろう》と称した秀吉に見出《みいだ》され、道案内をつとめた。家譜には近江《おうみ》浪人脇坂甚助安明の子とあり、甚助安明は侍奉公が叶《かな》わず、猟師をしていたらしい。以来、賤《しず》ヶ岳《たけ》七本|槍《やり》で勇名を馳《は》せ、大名に累進した。それだけに代々武芸熱心で聞え、家中の士はそれぞれの武芸に励んだ。  源蔵の兄塩山伊左衛門は江戸詰で、源蔵は国許《くにもと》竜野でその留守宅を守り、部屋住ながら家中屈指の使い手といわれたが、登用はもとより養子の口にも恵まれなかった。それには重い理由がある。  家中で催された武芸試合の折、源蔵は立合中に誤って相手の木刀の刀身を掴《つか》み防いだことから、卑怯《ひきよう》な振舞いと断定され、臆病《おくびよう》者とそしられた。  元々、源蔵にはその悪癖があった。相手を打つより打たれまいとする意識が先に立つ。そのため、まず防ぎにまわり、攻めが遅い。それは生来の性格で、それを臆病とそしられては、源蔵には立つ瀬がなかった。  その源蔵に幸運が舞いこんだ。兄伊左衛門の所用で出府した際、赤穂浅野家の江戸留守居役堀部|弥兵衛《やへえ》と知り合い、その婿の安兵衛に招かれ、堀内源左衛門道場で数番の稽古《けいこ》試合を行なった。  その折にも、例の悪癖が出た。相手奥田孫太夫の鋭い出籠手《でこて》を手首で払って抜き胴を決めた。判定規準では孫太夫の先勝だが、孫太夫も安兵衛もそうとらなかった。 「おもしろい、吾《わ》が身を斬らせて敵を斬る。これは勇気のあらわれ、実戦向きの剣だ」  源蔵は、堀部弥兵衛の仲立ちで、嗣子のなかった赤埴十左衛門(後に一閑と号す)の婿養子となり、馬廻《うままわり》二百石の家を継いだ。  赤穂断絶後、源蔵は実家に戻るよう慫慂《しようよう》されたが、敢然と内蔵助の企てに加わった。  ——竜野に戻れば臆病者とそしられ、赤穂の家中では勇気ある者と称揚される。士はおのれを知る者のために死するしかない。  内蔵助は、安兵衛・孫太夫の推挙を容《い》れて源蔵を三番隊|組頭《くみがしら》とした。  中庭土塀通路の乱戦で、源蔵の動きは他の者より遅れ勝ちとなった。ひるんだ訳ではない。生来の慎重さが働いたといえよう。源蔵はその遅れを取戻すため、先廻りしようと次なる土塀をひとり乗り越えたが、積雪に足をとられ、尻餅《しりもち》をついた。  一瞬、土塀の角を曲って走ってくる上杉侍がいた。中小姓|新貝《しんかい》弥七郎、選ばれて主君の子|左兵衛義周《さひようえよしちか》の附人として派遣された名うての使い手である。  見るなり白刃を八双に構えた新貝弥七郎は絶叫し、突進した。 「やあーッ!」  弥七郎の刀は、新刀ながら無類の斬れ味を誇る三条|小鍛冶《こかじ》助広である。その閃《ひらめ》く刀身が唸《うな》りをたてて源蔵の左横面を襲った。  右片手の太刀では防ぐすべがない。打ち合わせても撥《はじ》き飛ばされる。瞬間、源蔵に悪癖のかばい手が出た。源蔵は左籠手で横面をかばった。  凄《すさ》まじい金属音が立った。と、同時に冴《さ》えた響きと共に助広の名刀は鍔元《つばもと》から折れ、宙に飛んだ。月光に舞うその刀身は氷片の舞の如く見えた。  咄嗟《とつさ》の間《かん》に、間合をとる暇のない太刀を手放した源蔵は、脇差《わきざし》を抜き打ちざまに、弥七郎の空いた脇腹を斬り払った。  一瞬、時が止った感があった。声もなく弥七郎は凝結した。と、見る間に鮮血が噴出し、その躰《からだ》が源蔵に覆いかぶさった。  重い。懸命にはね起きようともがく源蔵に手を助《す》けたのは、組下の奥田貞右衛門と小野寺幸右衛門だった。 「おう、おみごと! ようなされた!」  血振いして身を起こした源蔵は、まだ打撲痛の残る鉄籠手をあらためた。鋼鉄の籠手には夜目にもくっきりと、弥七郎の太刀|痕《あと》が刻まれていた。  ——見ろ! 備えさえあればおれの剣法は実戦でりっぱに役立つ!  源蔵は、胸中に沸騰する思いに、涙が溢《あふ》れ止らなかった。 「行くぞ!」  源蔵は叱咤《しつた》し、突進を再開した。  中庭土塀通路の戦いは、内蔵助の深慮遠謀が図に当った。正に戦いは勢いであった。激水の疾《はや》きに似て突進する赤穂勢は、驚き慌てて駈けつける上杉勢を文字通り蹴散《けち》らし、悪鬼の如く荒れ狂った。勇猛を誇る上杉侍も為《な》すすべなく、通路の砦(侍溜り)は次々と乗っ取られ、態勢を立直すため退却に退却を重ねる有様となった。  だが、戦況の形勢を以《もつ》て上杉侍の勇怯《ゆうきよう》をはかるのは酷である。かつて戦国の昔、川中島の苦戦に耐えた謙信公以来の伝統は脈々と生きていた。悪化する形勢の中で気力を奮い立たせ、敢闘し続けた。表門三組、裏門二組、合わせて十五名の突進隊に立向った上杉勢はおおよそ五十ないし六十と推定される。不意を衝《つ》かれたとはいえ、数に優る上杉勢は後半ほぼ互角に戦った。晴れては降る横なぐりの雪やみぞれに血潮が飛沫《しぶ》き、真紅の鮮血が白雪を染め、怒号と叫喚、刃金が打ち合い鎬《しのぎ》を削る音が耳をつんざいた。  内蔵助は、中庭土塀通路の決戦がたけなわになると、待機中の兵力を動員して、侍長屋の制圧を命じた。中庭決戦に敵味方の耳目が集中している間に、占領地を拡大して、ほとんど手付かずの本屋敷に対抗しようという作戦であった。  表門組から、今まで髀肉《ひにく》の嘆をかこっていた大石瀬左衛門の四番隊と、弓を置き、抜刀した弓組が、侍長屋へ走った。一戸ごとに人の有無をたしかめ、窓、雨戸、表戸を鎹止《かすがいど》めにする。  ほとんどの家が無人だった。不意を衝かれて本屋敷や中庭へ駈け出したその跡が生々しい。 「おるぞ!」  数軒先の家で、かすかな物音と気配がした。通常の時なら気付かず行動したであろう。だが、人と人が刃《やいば》をまじえ、いのちを削る修羅場に身をおく者は、けだものに似た直感と予知能力が研ぎすまされる。  息をひそめ忍び寄ると、玄関のあたりに四、五人の上杉侍が、満を持して待ち構えているのがうかがえた。  大石瀬左衛門は、早水《はやみ》藤左衛門、木村岡右衛門を見返った。早水、木村の両名は、瀬左衛門の指図を待った。  瀬左衛門の脳裏に、内蔵助の臨戦訓話がひらめいた。 「先手を取り続けよ、戦いは気力の勝負だ。後手に廻《まわ》ると恐れが先立ち、精神が萎《な》え、ついには気死する。こちらの実体を掴《つか》ませるな、一人が三人分五人分も働け、走り廻れ、雄叫《おたけ》びを挙げよ」  大石瀬左衛門は、目立たぬ侍であった。剣は赤穂浅野の藩中では珍しい中条流を研鑽《けんさん》し、かなりの使い手と噂されているが、実際に見た者はほとんど無い。彼は人前でそれを見せた事もないばかりか、人に先立って意見を述べることもない。引込み思案といえばそれまでだが、人交わりをするよりひとり読書するか、芝露月町にある小さな町道場で黙々と剣の研鑽に工夫をこらすことを好むようであった。武具役馬廻百五十石、江戸詰の藩士の中では中の上位にありながら、人の上に立ったことはない。  だが、見る者は見ていた、というべきであろう。刃傷《にんじよう》事件の際、内匠頭切腹と藩廃絶を告げる最も大切な第二の早打には、老巧の原惣右衛門と共に、国許赤穂へ走った。家中離散の後、ひとり奈良に住いした瀬左衛門に、内蔵助は連絡をとり続け、討入に際しては重要な四番隊をゆだねた。  瀬左衛門が真価を発揮するのは、この時をおいてほかにない。口数少ない瀬左衛門を見る組下の早水藤左衛門、木村岡右衛門に、彼は形相一変、怒号した。 「行け、行けーィ! 死ねや、死ねーェ!」  その絶叫で血が沸騰した。恐怖は飛び去って闘争心が炎上する。表戸を体当りで倒すと屋内に突入した。  剣戟《けんげき》が起こった。五対三の数の差は気力が埋めた。木村岡右衛門が素早く打ちつけた百目蝋燭《ひやくめろうそく》のか細い灯影《ほかげ》の下に、白刃が閃《ひらめ》き、肉を斬り骨を断つ凄まじい斬撃《ざんげき》戦が展開し、血潮が飛んだ。打つも必死、防ぐも必死、いのちを一毛の差に賭《か》けて霜刃をふるった。  勝負の分岐は攻撃力より防禦《ぼうぎよ》の備えにあった。瀬左衛門は肩先を打たれ、早水藤左衛門は腰、木村岡右衛門は背と脇腹に刃を受けた。だが、精巧な鎖《くさり》帷子《かたびら》はその悉《ことごと》くを撥《は》ね返し、打撃を受けるのみで傷を与えなかった。  それに引きかえ、上杉方は惨たる有様だった。三尺の秋水《しゆうすい》は触れれば皮肉を裂き、血潮がほとばしった。凜冽《りんれつ》たる寒気が疼痛《とうつう》を倍増させ、激しく流出する鮮血が意気を阻喪させた。相手方が一向に傷付かず、息もつかず攻勢を続けることが、決定的な差となった。  上杉侍を斬り倒した瀬左衛門ら四番隊は、新たな敵を求めて去った。あとを悲痛な苦鳴と断末魔の息づかいが領した。      五  裏門組は、兵力不足に悩み続けた。  突進隊は、一番隊に堀部安兵衛を得たが、一組(四番隊)を欠いたことは手痛い打撃であった。  裏門は奇襲で突破したが、突進隊は屋敷の台所口に到達する前、板塀の木戸で前進をはばまれた。  丈余の板塀には忍び返しが付けられ、木戸を押し破るほか突破の手だてがない。木戸の内側では駈《か》けつけた吉良侍が懸命に押え守る。 「力攻めぞ! 押し破れ!」  堀部安兵衛の令一下、突進隊三組九名は木戸に取り付いた。 「押せーィ! ここが一期《いちご》ぞ! 押しまくれーェ!」  死力を尽して押す、押し返す。樫木の頑丈な木戸が大揺れに揺れる。 「ええい! 死ね死ね! 赤穂侍の死にざまを見せい!」  安兵衛は叱咤《しつた》怒号した。近松勘六、横川勘平も、勝田新左衛門、武林|唯七《ただしち》も必死に押す。槍組弓組、後詰の者も加わった。  さしも頑丈な木戸の板が音立てて裂け、貫木《ぬきぎ》がたわみ折れた。木戸は八文字に押し開けられた。 「行け! 突っこめ——ィ!」  安兵衛の一番隊は台所口へ、勝田新左衛門の二番隊、武林唯七の三番隊は、土塀の連なる中庭へ突進した。  百数十人の食事を賄う台所は、二十坪を越える土間と三十畳ほどの板ノ間に、かまど、水桶《みずおけ》、流し、板場、配膳台《はいぜんだい》が整然と配置され、米、味噌《みそ》・醤油《しようゆ》・酒樽《さかだる》や、膳・食器が山と積み重なっている。突入した一番隊の安兵衛ら三名を迎えて、十数人の吉良・上杉侍がひしめき合っていた。 「赤穂浅野の旧臣、堀部安兵衛|武庸《たけつね》、参る!」  安兵衛は威圧した。吉良・上杉侍は危慄《きりつ》した。すかさず構え進んだ安兵衛は大音声でや声[#「や声」に傍点]を発し、豪剣をふるった。据物斬《すえものぎ》りさながらに斬られ、相手は血煙りをあげた。  横川勘平・近松勘六は向う見ずな胆勇の持ち主だった。相手に斬られることなど毛頭も懸念《けねん》せず、放胆に斬りまくった。一番隊の真価はそのひたむきな攻撃力にあり、それは遺憾《いかん》なく発揮された。台所口の戦闘は安兵衛ら三名の縦横な剣戟《けんげき》で、たじろぐ吉良・上杉方の侍を圧倒した。  だが、裏手中庭の土塀通路の戦況は、思いのほか遅滞した。裏門は屋敷の奥向に近いため、吉良・上杉の防ぎの侍がいち早く集中したことと、裏木戸の突破に時がかかりすぎたため、内蔵助のいう先手必勝の優位が保てなかったことによる。加えて土塀通路に投入した侍数が、二組六名というのは如何《いか》にも寡勢《かせい》であった。  戦況好転せずとみて、裏門副将吉田忠左衛門は、堀部弥兵衛を相談役に招き、後詰の一人間瀬久太夫を台所口の一番隊に加勢させ、同じく矢頭右衛門七を伝令に起用して、弓組の侍長屋への集中射を中止させ、土塀通路の二番・三番隊の応援に急派した。その後詰組の消滅を埋めるため、槍組三名をくり出し、突進隊の背後を固めさせた。  その折も折、表門から伝令の寺坂吉右衛門が内蔵助の指令を伝えた。 (急ぎ侍長屋を制庄し、表門裏門両勢の打通をはかれ)  戦況は辛うじて均衡を保っているが、その兵勢は一髪《いつぱつ》の差も許されない。この接戦で侍長屋へ兵力を抽出するのは至難のわざであった。  吉田忠左衛門と堀部弥兵衛は苦悩した。 「表門主将の命令は絶対でござる。弓組を抜きましょう」  弥兵衛は、そう決断した。後詰兼任の槍組はこのあとの水濠《みずぼり》戦に絶対必要である。抽出するとなると弓組をおいて無い。  矢頭右衛門七の伝令をうけて、弓組原惣右衛門は組下に令した。 「侍長屋へ! 行くぞ!」  千馬三郎兵衛、岡島八十右衛門が当面の敵を押しまくって、さっと退《ひ》いた。すかさず槍組貝賀弥左衛門、菅谷半之丞、矢田五郎右衛門が急進し、そのあとを埋めた。  原惣右衛門は、侍長屋へ走った。と、無人と見えた侍長屋の一軒から、五、六人の配下の侍を従えた若侍が姿をあらわし、迎撃の態勢をととのえて抜刀した。  ——はて、見覚えのある相手!  惣右衛門は、その夜目にも著しい白皙《はくせき》の面貌《めんぼう》に、一瞬、既視感が横切《よぎ》った。 「千坂どの! 御要心を!」  若年ながら、上杉家派遣の侍の統率に当る千坂左馬之助であった。  原惣右衛門は、唯一敵方に知遇を持つ、上杉家ゆかりの侍であった。  惣右衛門の父七郎右衛門は、上杉家馬廻組の家臣で、先代藩主綱勝の姉徳姫が、加賀大聖寺藩主、前田|飛騨守利治《ひだのかみとしはる》に嫁ぐ際、選ばれて附人《つけびと》となり、同藩籍に変った。  七郎右衛門は故あって大聖寺藩士と争いを起こし、浪人した。それを知った先代千坂|兵部《ひようぶ》高房は、 「事の理非を争うと、前田・上杉両家に確執を生じよう。代々の君恩に報ゆるため、こらえてくれ」  と、わずかではあったが蔭扶持《かげぶち》を送り続けてくれた。  七郎右衛門の歿後《ぼつご》、惣右衛門は赤穂浅野に召抱えられ、上杉の旧禄《きゆうろく》に三倍する三百石を得ることとなった。  惣右衛門は浅野家出仕に暫《しば》しの猶予を願って、百里余の山坂を遠しとせず、羽州米沢に赴き、千坂兵部高房をたずね、旧来の恩誼《おんぎ》を謝した。  千坂は惣右衛門の律儀《りちぎ》を喜び、格別の計らいで城の天守閣から領内の山河を眺めることを許した。 「よう見ておけ、おぬしが父祖の地だ。身を播州においてもおぬしの五体には上杉の血が流れておる。その名を辱めぬよう、赤穂浅野のためにいのちを尽せ……」  千坂兵部は原惣右衛門にそう訓諭したあと、供した孫の紀市郎高順を示し、言った。 「これは、行末に望みをかけたわしの孫だ。この先、縁あらば、何かと力になってやってくれ」  その千坂の慈顔と、繊弱な紀市郎の顔が、記憶の底に蘇《よみがえ》った。  ——千坂紀市郎?……いや、年延《としばえ》その子か!  左馬之助は、眼を吊上げ、白刃を構えて眼前に突進してくる。  ——南無三《なむさん》ッ。  惣右衛門は視界が真ッ白になり、無我夢中で剣をふるった。その無意識の中で日頃の鍛練が生きる。  左馬之助の白刃は、惣右衛門の鉢金を激しく打った。ほとんど相討ちに惣右衛門の名刀古備前|包平《かねひら》は、左馬之助の胸から腹をしたたかに斬り裂いた。  鮮血が噴出した。  思わずたじろぐ上杉侍に、千馬三郎兵衛、岡島八十右衛門が、無二無三に斬りこんだ。  ——ご、御免|候《そうら》え。  惣右衛門は、白雪を染めて突っ伏した左馬之助の屍《しかばね》に、目を閉じ念仏を誦《ず》した。討つ者も討たるる者も同じ国の侍であった。この乱戦のさなか、惣右衛門と左馬之助が剣をまじえるとは、何たる天運の皮肉であったろうか。  その天運は、左馬之助の死によって、赤穂側に傾いた。屋敷裏手の上杉勢はかけがえのない現国老の孫を失って急速に戦意おとろえ、戦況は赤穂勢有利に転回した。      六  上杉勢の敢闘は、予想を越えた。斬っても斬っても新手《あらて》が現われる。勢いに乗る赤穂勢も、無限とも思える新手の出現に、さすがに疲労した。  剣戟、と、ひと口に言うが、昨今の映像の分野に見るそれではない。互いにいのちを賭《か》け、幼少の頃から練磨の剣をふるって立向う。一刀の攻防に秘術を尽し、気力をふるう。髪は逆立ち、肌は粟立《あわだ》つ。腕だけが戦うのではない、全身が相手を斃《たお》そうと立向うのである。一人を斃すのも容易ではないのだ。  土塀通路をようやく制した表門突進隊は、水濠に突き当った。深さ四、五尺、幅二間、凜冽《りんれつ》たる寒気に薄氷の張った水が、満々とたたえられている。  その岸で、押され退く上杉勢に斬りこむ突進隊は、斬り結んだまま水に飛びこみ、必死に渡り合った。  槍組《やりぐみ》が突進した。岸から突きまくる二間半の長柄《ながえ》の槍は、顕著な効果を挙げた。夜目に黒々と見える水濠は、鮮血にまだらに染まり、屍体《したい》が浮沈した。  だが、前進はそこで停止した。対岸は丈余の木柵《もくさく》が林立し、その柵の隙間から上杉勢が短槍をくり出し、水濠から這《は》い上がろうとする赤穂勢を突きまくる。たちまち赤穂勢は苦戦に陥った。  内蔵助は、突進隊二番隊大高源五、前原伊助、中村勘助の三名と、片岡源五右衛門ら三名の槍組、神崎与五郎ら三名の弓組を水濠の岸に残し、攻撃の続行を命ずる一方、突進隊一番・三番・四番隊を侍長屋に投入、裏門との打通に当らせた。  間もなく、裏門組も水濠に突き当った。寺坂吉右衛門の伝令で指令をうけた吉田忠左衛門は、台所口の杉板戸で前進を遮られた一番隊と、勝田新左衛門の二番隊を侍長屋の制圧にふり向けた。  侍長屋の打通作戦は順調に推移した。中庭の土塀通路の戦闘が赤穂勢の有利に傾くと、本屋敷との連絡を断たれた侍長屋残留の上杉侍は戦意を失い、横手七間道路に面した武者窓を破って、逃亡をはかる者まで出た。  史書記録では連累を避けるため書き残されなかったが、赤穂勢の支援に駈けつけた内蔵助や安兵衛縁類の者、大石郷右衛門・三平、佐藤条右衛門、堀部九十郎、それに杉野十平次と槍術《そうじゆつ》の友であった俵星|玄蕃《げんば》などによって斬り伏せられ、刺殺された吉良・上杉侍は一再にとどまらない。今はただ村山甚五左衛門、大河内六郎左衛門ほか数名、路上にて討死とのみ書きしるされてある。  侍長屋の打通が完了する頃、戦闘は休熄《きゆうそく》状態に入った。最も合理的科学的に行われる近代戦においても、銃砲撃戦が長く続くと、何の命令もないのに敵味方とも間遠くなり、示し合わせたように休止してしまう。疲労が重なると機械的な行動に飽きがくるせいであろうか、水濠をはさんでの攻撃|防禦《ぼうぎよ》が停滞したためとも考えられる。  内蔵助は、戦闘の休熄をいち早く見てとると、打通した侍長屋の一部の外壁を打ちこわすよう命じた。  この機を利して、相生町二丁目、前原伊助宅からの補給路を開削するためである。  時に時刻は丑《うし》ノ下刻(午前三時頃)に近く、討入開始以来一|時《とき》半(約三時間)を閲《けみ》したが、赤穂勢と上杉勢は共にゆずらず、戦いの帰趨《きすう》はまったく不明であった。 [#改ページ]   虎落笛《もがりぶえ》      一  丑《うし》ノ下刻(午前三時頃)、本所|竪川《たてかわ》一ツ目無縁寺(回向院《えこういん》)裏通り吉良《きら》上野介《こうずけのすけ》屋敷を脱出した中間《ちゆうげん》の一人が、外桜田の上杉家上屋敷に辿《たど》りついた。  本所両国橋近くから桜田門外まで、道筋を辿れば二里(約八|粁《キロ》)近い。足の速い者が走れば小半時《こはんとき》(約三十分)で達するであろう。だが脱出に時がかかった。十名近い者が屋敷を抜け出ようとしたが、表門裏門共に赤穂《あこう》勢に押えられて果せず、辛うじて隣家の旗本、本多孫太郎屋敷の塀を乗り越え、同家の混乱にまぎれて北通りに抜けたが、両国橋へ走った者は前述の大石、堀部縁辺の者に遮られた。ただ一人、東へ大迂回《だいうかい》して本所から深川、永代橋《えいたいばし》を経て霊岸島から日本橋、日比谷、外桜田に至った者が急を知らせた。 (今宵子《こよいね》ノ刻、赤穂浪人およそ七、八十人が吉良様本所屋敷に討入、目下応戦中)  素破《すわ》! 藩邸は上を下への大混乱となった。  家老長屋の色部《いろべ》又四郎の許《もと》へ急報が飛んだ。 「なに? 討入だと?」  衾《ふすま》を刎《は》ねて起き直った色部は、凝然と動かず、心気を澄まそうと懸命に呼吸をととのえた。  ——大石め、みごとに裏をかきおった!  その悔いても悔い止まぬ想念が渦巻く。だが、それは要らざる想念である。すでに一|時《とき》半、過ぎ去った時はどうあっても逆に戻らない。  ——無念!  舌を噛《か》み切りたいほどの暗い思いを必死になだめた。刃傷《にんじよう》事件の処理から関わりあった身は、そのような我儘《わがまま》勝手が許される筈《はず》もなかった。  惨! その一字を苦く呑《の》みこまなければならなかった。  上屋敷は、刀槍《とうそう》を持った侍たちがひしめき合った。 「おのれ、赤穂の素浪人どもめ、何ほどの事やある」 「上杉の武名をあなずりおって、目に物見せてくれる」 「いち人たりとも生かして帰さぬ、斬りきざんで思い知らせよう」  怒号と叫喚が渦巻いた。 「ご家老!」  浜岡庄太夫が上擦《うわず》った声をあげた。  身仕度を調えた色部又四郎が、苦り切って立っていた。 「た、大変なことに……ど、どう致しますか、お指図を!」 「うろたえるな! 年甲斐《としがい》もない!」  色部は、冷たく言い放った。 「し、しかし、本所のお屋敷が……」 「もう間に合わん!」  そのひと言は、固唾《かたず》を呑んで見守った一同を、手ひどく打ちのめした。  間に合わぬ。助勢の藩士を急派するには、人を選び、隊を組織し、武器を揃え、作戦を打合わせ、一糸乱れぬ統率の下に行動を起こさなければならない。ここ江戸、幕政の本拠地、みだりな行動は藩の命運にかかわる。しかも時はすでに二時《ふたとき》(約四時間)を過ぎ、二千五百五十坪の戦場は、程なく勝敗が決すること火を見るよりも明らかである。 「ご、ご家老……」  浜岡は絶句した。 「是非もない……」  色部は、その一言に万感の思いをこめた。 「もはや残るは後始末のみ……外様《とざま》の家来が高家《こうけ》と素浪人の争いに加わったことは、形だけでも取繕わねばならぬ。すぐさま船手方に申し付け、荷足船《にたりぶね》をあるだけ本所屋敷へ廻《まわ》すよう手配せい」  色部は、吐息を洩《も》らすと、言葉を継いだ。 「なお……定番《じようばん》の者二十名を限り、夜明けを待って本所屋敷に赴く。両刀をたばさむほかは、槍《やり》、弓、薙刀《なぎなた》の装備を固く禁ずる、よいな」  色部は踵《きびす》を返すと、家老用部屋へ消えた。  それからの用部屋は、かそけき灯影《ほかげ》が洩れるのみで、人の動く気配はまったく無かった。  同じ頃、神田橋御門内の柳沢家上屋敷にも、本所吉良屋敷討入の知らせが入った。異変を急報したのはこの年八月、本所見廻り方に就任した蜂屋新五左衛門という旗本であった。本所見廻り方は明暦の大火後急速に開けた本所地区の治安を守るため新設された役職で、本所在住の旗本の中で、千石以上の高禄《こうろく》の者が任ぜられる。蜂屋新五左衛門は父の代から小普請《こぶしん》続きで、役職を得るため十数年運動を続け、ようやく柳沢|吉保《よしやす》の知遇を得て役職に就いた。  その恩誼《おんぎ》に報ゆるため、深夜にかかわらず柳沢邸に急報した。  柳沢のうけた衝撃は、色部のそれと似て非なるものがあった。  ——色部め、仕損じたか!  期待を裏切られた失望感が先だった。次いで事後処理の対策が、胸を衝いた。  ——もはや色部は役に立たぬ。  役に立たぬどころか、重荷になる恐れすらあった。いま柳沢は、六代将軍の座をめぐる紀州綱教と甲府綱豊の政争に関わり、前者を推して暗躍している最中《さなか》である。  そして彼自身は、生涯を通じて栄達の頂点にさしかかっていた。  ——いまが大事、いまこの異変の措置を過《あやま》てば、生涯|賭《か》けて築き上げたおのれの権力は砂上の楼閣と化し、崩壊して跡形も無くなるであろう。  権力者が恐れる夢魔は、それであった。権力の甘美はこの世のあらゆる欲望——財・色・飲食・名・睡眠の欲にまさるという。だがそれを一旦《いつたん》得た者は、失うをおそれて日夜|疑懼《ぎく》し、片時も心休まる暇はない。 「誰かある!」  柳沢は、声に応じて駈《か》けつけた家臣に、口早に命じた。 「月番大目付、仙石|伯耆守《ほうきのかみ》に使いを走らせい。即刻|御先手《おさきて》組を率いて本所に出張り、吉良屋敷の騒乱を取鎮めて他に累を及ぼさぬよう計らえとな。よいか、構えて御府内の静謐《せいひつ》を専一に守れと伝えるのだ、急げ」  家臣が急ぎ去ったあと、柳沢はせわしく身支度を調えながら、渦巻く想念の分析に没頭した。  ——今日は、長い一日となろう。  柳沢の脳裏に渦巻くものは、将軍綱吉の反応であり、幕閣、御三家、有力大名、そして大奥の動きであった。その中には、もう色部・千坂への酌量もなければ、赤穂浅野の処断の自省もない。まして今が今、吉良屋敷でくりひろげられているいのちの攻防の結果など、片鱗《へんりん》も浮ばなかった。      二  相生《あいおい》町二丁目、前原伊助が営む米・雑穀の店の中は、繁忙を極めていた。粥《かゆ》を炊く、干魚を焼く、樽《たる》の梅干を器に移す、どぶろくを温め竹筒に注ぐ、これらは夜食用である。飯を炊き、握り飯を作る、味噌汁《みそしる》を煮る、戦後の朝食も用意された。  一方で、梱包《こんぽう》を解き、着替えの衣類が一人分ずつ用意される。真綿の下着、小袖《こそで》、足袋《たび》、腹巻、武器の梱包を開く。差替えの刀、槍、弓、短槍、鉄籠手《てつごて》、臑当《すねあて》、鎖《くさり》帷子《かたびら》の替え……。  湯気と炊煙が濛々《もうもう》とたちこめる店の中で、支援の人々——武州平間村の成川源八や若者、前川忠太夫の手の者、鎌倉明石茶屋の女たちは、憑《つ》かれたもののように懸命に働いていた。  時折、七間道路をへだてた吉良屋敷から、叫喚と破壊音がとぎれとぎれに流れ聞えた。  だが、誰一人、それに耳を傾け手を休める者はなかった。異様な戦場心理が一同を領していた。彼らもまた戦っていた。薪《まき》が、湯が、梱包の筵《むしろ》が、縄が敵であった。杓子《しやくし》や包丁、小刀が得物だった。  突然、店の大戸のくぐりを抜けて、寺坂|吉《きち》右衛門《えもん》が飛びこんできた。 「道が! 道が開きましたぞ! 方々! お運び願います!」  大戸が開け放たれた。凜冽《りんれつ》の寒気が押し寄せ、濛気を一時に払った。  白雪の街路の真向い、黒々と圧する吉良邸侍長屋の外壁に、六尺四方の穴が毀《こぼ》たれ、赤穂侍の一人二人が差しまねいていた。  成川源八たちは色めき立った。一抱えもある粥鍋《かゆなべ》が、汁鍋が搬送される。梅干、沢庵《たくあん》、干魚の諸箱が担ぎ出される。衣類の箱が、武器類が、先を争ってその穴に突進した。  内蔵助は、前線の交替を命じた。水濠《みずぼり》戦の槍組と突進隊が、後詰や弓組と替る。接近戦でなければ戦闘力の低下は敵に見破られないと見てとった。  最も苛烈《かれつ》に戦った遊撃隊と、表・裏の一、二番隊から、補給と身辺整備が始まった。  熱いどぶろくを竹筒から啜《すす》る、食道から胃袋へ熱感が流れ落ちる。その熱は凍えきった四肢の隅々まで伝わって、安堵《あんど》の温かさが五体の緊張をゆるめる。 「うまい! 生涯またとない味だぞ!」  安兵衛《やすべえ》が感嘆の声を放った。  木椀《もくわん》に注いだ熱い粥を啜る。今が今まで少しも感じなかった飢餓感が蘇《よみがえ》り、夢中で飲み下す、みる間に腹から四肢に力がよみがえる。  干魚をむしる、沢庵を噛《か》む、その塩味が一層食欲をそそる。  食い、飲みながら、急いで鉄籠手、臑当を外し、衣服を解く。雪に、寒水、血に濡《ぬ》れた衣類や下着を脱ぎ捨て、乾いた新しいものをまとう。 「ふう……生き返った心地だ」  横川勘平が歎息《たんそく》した。 「刀を替えよ、名刀たりとも未練を持つな、刃こぼれ、血脂《ちあぶら》でもう役立たぬ。鎖帷子、籠手、臑当も、破れた物は捨てよ、紐《ひも》一本、小指ほどのほつれも大事を招く。下着、足袋、草鞋《わらじ》も古きは捨て、新しき物を着けよ」  吉田忠左衛門が、小野寺十内が、口やかましく世話して廻る。 「よし! 出来た! 交替しますぞ!」  日頃から手早い富森|助《すけ》右衛門《えもん》は、新しく身に着けた物の着心地を試すように、力足を踏み、身体を屈伸してみせた。 「まだならぬ、交替は小半時《こはんとき》(約三十分)が定めだ。手足を揉《も》みほごして、後の戦いに備えろ」  手にした火縄で時を計る間《はざま》喜兵衛が、きびしくたしなめた。  それにひきかえ、上杉勢は悲惨というほかはなかった。手傷は衣服を裂いて捲《ま》くしかない、口にするのは冷えた水のみで、呑《の》めば一層身体が凍えた。疼痛《とうつう》と空腹感に気力がおとろえる。 「加勢はまだか!」 「桜田のお屋敷へ知らせは届かんのか!」 「公儀は何をしておる! われらを見殺しにする気か!」  前線から控えに回った者が口にするのは、呪咀《じゆそ》と怨嗟《えんさ》の言葉のみであった。 「寒い! 火を焚《た》け! 火を!」 「火はならん!」  家老の小林平八郎は、苦り切って叱咤《しつた》した。 「明暦の大火以来、御府内の自火にはきびしい掟《おきて》がある! 自らの屋敷で火事を起こせば御家が潰《つぶ》れるぞ! 火を焚いてはならん!」  控えの侍は、有合う布きれや蒲団をまとい、ひととき寒気を凌《しの》ぐしかなかった。 (この休止は、およそ半時〈約一時間〉)  そう想定した内蔵助《くらのすけ》は、ひとり戦場跡に足を運んだ。  風は依然として強い。千切れ雲が満月近い月面をかすめる。寒気は一段と増して、骨まで凍るかのようである。  ——この月あかりと、寒気は、最大の味方だ。  鎖帷子の暑さを訴える者は出ない。防寒の衣類は予想以上の効果を挙げた。土塀の通路に倒れ伏す上杉侍は、寝巻一枚、裸足《はだし》である。数の不利を備えで補う策はみごとに当った。  ——だが、これは……。  白雪に血痕《けつこん》が飛沫《しぶ》き、屍《しかばね》は青黒く変色していた。斬り割られた傷は肉を露出し、死顔は形相|凄《すさ》まじい。  ——この者たち一人一人に、親があり兄弟があり、恋する女がある。一人一人にかけがえのない人生があったのだ。  無慙《むざん》、というほかない。人と人とが殺し合う。斬る者、斬られる者、それぞれの人生がここで終る。嘆き悲しむとも、もう元には戻らない。  ——おれは、悪人だ。  この無慙な殺し合いを起こしたのは、内蔵助の意志であった。内蔵助が発起しなければ、百数十のいのちは、この世に永らえ、喜びの日々を迎え、楽しみにひたることもあったであろう。それをおのれの意志ひとつで断ち切った。  ——だが……これが、悪であろうか。  無惨、とか、残虐とか人は言う。だが、原始以来、人は常に競い合い、凌《しの》ぎ合い、いのちを賭《か》けて戦った。その闘争本能と生存本能のせめぎ合いの中で、人は智能を磨き、力を養い、鍛え、一面で道徳律を築き上げた。その結果、文明が築かれ、文化が作られた。  人のいのちは何ものより尊い。なぜならかけがえがないからだ。だが、人は死ぬ、いつかは必ず死ぬ、永遠の生命はない。永遠に続くのはこの社会、この文化だけである。限りあるいのちを使うのは、この社会の維持向上をおいてほかにない。  ——人には、いのちより大切なものがある。  それを、内蔵助は、志と思い定めた。侍は侍らしく、侍の道徳律にいのちを燃やし尽す。それが後世に伝える侍の志である。  ——この死屍《しし》累々たる上杉侍にも、上杉の侍の志があったのだ。  侍は、世に美しく生き、美しく死なねばならない。いのち尊しと願ってもいつかは尽くるいのちなら、死所を得ることこそ侍の本望である。  ——よし! おれは悪でよい、悪に徹しよう。  |※[#「ぎょうにんべん+低のつくり」、unicode5f7d]徊《ていかい》の足をとどめた内蔵助に、声がかけられた。 「ご家老」  ふり向くと、伝令の矢頭右衛門七であった。  矢頭右衛門七、年十七歳、佳麗な美貌《びぼう》であった。討入後の泉岳寺《せんがくじ》で寺僧が、赤穂浪士の中にみめよき女子がいると噂した。男子の真の美貌は、女子のそれに優《まさ》るという。右衛門七の美しさはたとえようがなかった。  右衛門七の父、矢頭長助は、徒《かち》目付二十石五人|扶持《ぶち》の軽輩であったが、内蔵助の恩顧を受け、撫育金《ぶいくきん》を与えられていた。内蔵助の企てには一議もなく加盟し、在所赤穂で機を待つうち、不幸にも病死した。右衛門七はその遺志を継ぎ、年少の身をもって討入に参加した。同じ例に、岡野金右衛門がある。岡野金右衛門、物頭《ものがしら》二百石もまた中途病死し、伜《せがれ》九十郎がその名を継ぎ、亡父の遺志を全うした。 「右衛門七か、何だな」 「吉田様が仰せられております、ころあい寅《とら》ノ上刻(午前四時頃)を過ぎた模様、夜明けまでにはもう一|時《とき》(約二時間)足らず、急がれては、と……」  気付けば、月は西に傾いて見えた。 「よし、始めるか」  内蔵助は、踵《きびす》を返した。      三  戦闘は再開した。  突進隊は、せっかく着替えた衣類も構わず、水濠《みずぼり》に躍りこみ、胸まで凍水につかって対岸の木柵《もくさく》に取付き、鋸《のこぎり》・斧《おの》を使って木柵の切り倒しにかかった。そうはさせじと上杉勢は、木柵越しに刀をふるい、槍《やり》で突いてかかる。その防ぎ手を狙って弓組は、矢を射まくった。攻めるも必死、守るも必死、怒号と叫喚の修羅場が展開した。  表門側は、力攻めの末、漸《ようや》く第一の水濠を突破したが、続いて第二の水濠に突当った。第二の水濠もまた対岸に木柵を構え、上杉勢がひしめき合っている。  裏門側は、最初の水濠がどうしても抜けない。  水濠戦で鎖《くさり》帷子《かたびら》を破られ、重傷を負った近松勘六が、仮本陣の表門の門番小屋に担ぎこまれてきた。 「ご家老、水濠突破にはまだよほど時がかかります」  裏門側の指図を堀部|弥兵衛《やへえ》にゆだねて、内蔵助の許《もと》に合流した吉田忠左衛門が、内蔵助に進言した。 「水濠を越えて奥庭に入っても、まだ屋敷内にほとんど手が付いておりませぬ、屋内戦を加えると、あと一|時《とき》半から二時《ふたとき》はかかりましょう」  予想はしていたが、上杉侍の勇戦奮闘はその予想を遥《はる》かに越えた。戦局が非勢に傾くと、兵勢は一挙に崩れるのが兵家の常である。だが足軽小者を加えず、侍を選りすぐった上杉勢は、頽勢《たいせい》に陥っても崩れず、一人一人が倒れるまで戦った。謙信以来の尚武の魂は脈々と生きていた。 「そろそろ夜が明けますぞ」  小屋の外からの小野寺十内の声に、内蔵助は、出て夜空を仰いだ。  気のせいか、暗い夜空の東の端に、かすかな明るさが一筋見えるようである。その空に明けの明星が、一段と輝きを増している。 「…………」  内蔵助は、心悸《しんき》を鎮めた。  ——時が足りぬ。  吉良上野介の白髪首を、取る取らぬは問題ではない。要は敵の城を攻め落せるか否かにあった。攻め落せば吉良の家は潰《つい》え、上杉は敗北に甘んじなければならない。だが、攻略出来なければ、赤穂勢は公儀手の者の縄目にかかり、不覚者の汚名を千載《せんざい》に残す。吉良の首は攻略の象徴に過ぎない。  時間の不足は、決定的であった。  赤穂勢の中に、吉良・上杉方の侍大将、小林平八郎の叱咤《しつた》の声を聞いた者がいる。 「退《ひ》くな! あと一|時《とき》の辛抱ぞ! 夜が明ければ上杉の救援が駈《か》けつけ、御公儀お役向も出張って戦さは終る! 退かば地獄! 支えきれば味方の勝ちぞ!」  上杉勢は、徹底持久の策を採った。隙を見せても突出を避けた。つけ入ることが出来ない。  策をどう立てるか。  ——離れよ、この窮状を忘れ、平常心で対処せよ。  内蔵助は、茫《ぼう》、と立っていた。  寒風をつんざいて、ひと声、甲高い音が宙に尾を引いた。  ——笛の音?  見返ると、傍の篠竹《しのだけ》の垣根が破れ、風が吹き抜けて音を発していた。  ——虎落笛《もがりぶえ》か。  冬の激しい風が、柵や竹垣に吹きつけて発する笛のような音を、虎落笛という。  笛という言葉が連想を誘った。武州平間村で呼子笛の竹を刈った、その日、初冬の田の面《も》の空高く、もずが鳴いた。  もず、形はつぐみより小さく、茶褐色《ちやかつしよく》、嘴《くちばし》は鉤形《かぎがた》で鋭く、飛翔《ひしよう》力強く、性は勇猛、蛙など小動物を捕食、秋、鋭い声で鳴く。  ——もずの如くあれ。  不意に閃《ひらめ》くものがあった。 「吉右衛、右衛門七、急ぎ参謀を集めい……急げ」  吉田忠左衛門、小野寺十内、間喜兵衛、不破数右衛門、堀部弥兵衛、堀部安兵衛、奥田孫太夫、富森助右衛門らが、門番小屋にひしめき合った。 「局面打開は焦眉《しようび》の急となった。そこで方策を申し渡す。あらかじめ断っておくが、もはや論議の暇《いとま》はない、異論は許さぬ、よいな」  一同は、それぞれに期待をこめて頷《うなず》いた。 「まず、組の編制を一部解き、最後、最強の突撃隊を組む。堀部安兵衛、奥田孫太夫、不破数右衛門、富森助右衛門、それに赤埴《あかはに》源蔵、勝田新左衛門、杉野十平次、横川勘平の以上八名を以《もつ》て、敵の中枢に斬り込む」  全員異論はなかった。作戦の硬直は兵書の最も戒むるところ、戦況に応じての柔軟な変化を誰しもが望んでいた。 「次に、挺身隊《ていしんたい》を組む。機に臨み変に応じて敵中に挺身し、敵将吉良上野を討つ。大高源五、前原伊助、武林唯七、間十次郎の四名」  内蔵助は、一同を見渡した。 「残りの者は隊を組まず、全員が一丸となって当面の敵を攻める。敵に突撃隊を気付かせぬよう、火の玉のように攻めまくるのだ」 「委細承知致しました、それで……」  吉田忠左衛門が、一同に代って答えた。 「突撃隊はどう攻めますか、敵の中枢」 「空《そら》だ」  内蔵助は、会心の笑みで天を指した。 「え? 空——?」 「屋敷の大屋根は、仕掛けを打ち壊して以来手つかずとなっておる。突撃隊は一挙に大屋根を制圧し、目指す吉良の奥向あたりの屋根に穴をうがち、躍りこんで敵の中枢に斬り込む」  一同は、あッと声をあげた。屋根から屋内への突入は、全員の盲点となって洩《も》れていた。  内蔵助は、吉良屋敷の図面をひろげた。 「挺身隊は、このあたりの土塀の上、橇道《そりみち》に待機させよ。吉良上野の動きを見て行動を起こせ」  これが最後の策——誰もがそう覚悟した。もうこれ以外に攻め手はない。  一同が小屋を出る。東の空に暁の紅《くれない》がうっすらと見えた。 [#改ページ]   風|蕭々《しようしよう》      一  中庭の水濠戦は、夜明け前の凍《い》てつく寒気の中で壮絶に展開した。  刺突しても斬り叩《たた》いても、赤穂《あこう》勢は水中に転落するのみで、打撲のほかに傷付いた様子もなく、執拗《しつよう》に木柵《もくさく》の根方に取付く。鋸《のこぎり》のひと引き、斧《おの》のひと打に全身全霊をこめているとしか思えなかった。  その抜刀隊を援護する槍組《やりぐみ》は、水中にあって長柄の槍で木柵越しに防ぎ手を突きまくる。上杉勢の死傷者は数を増した。  火の出るような猛攻が続いた。  ——ここを破られたら、敵は奥庭に雪崩《なだ》れこむ。  水濠は、三筋しかない、その中の二筋は攻め落された。残る一筋の先は奥庭である。  奥庭は、老齢の吉良《きら》が、日々わずかに心慰める庭園である。数奇《すき》をこらした泉水と築山《つきやま》、名木と名石が配され、防戦の備えはない。あとは上野介《こうずけのすけ》の住む奥座敷あるのみである。  危機感を肌に感じて、上杉勢は死に物狂いだった。死者は四十を越え、二十数名の重傷者をのぞくほかは、軽傷者までが血止めの仮手当のまま、戦闘に加わった。  戦闘は終始、本屋敷の南面で展開した。本屋敷が北側の旗本屋敷の塀に接して建てられてあるためであった。 (北面を衝《つ》け)  新編制の突撃隊は、玄関脇から大屋根に攀《よ》じ登ると、北面の屋根を潜行した。北面は積雪が堆《うずたか》い。足に結んだかんじき[#「かんじき」に傍点]の鉄爪が凍った雪に喰《く》いこむ。  上杉方も抜かりはなかった。奥座敷近くの大屋根に、十数人の見張りを配して、警戒に当らせていた。  だが、手抜かりが一つだけあった。激しい戦闘に交替の者を送ることを怠った。半夜、寒空の下、吹きさらしの大屋根に配された侍は、耐えきれぬ寒さに凍えた。  戦闘は、次第に奥へ移行した。寒さをまぎらわすため、見張りの侍は眼下に展開する激闘を俯瞰《ふかん》することに心を奪われた。  その見張りの侍に、突撃隊が襲いかかった。たちまち激闘が始まった。見張りの侍は叫び喚《わめ》いたが、地上の戦闘に必死の上杉方は、気が付く余裕がなかった。  見張り侍を斃《たお》して、血振《ちぶる》いした突撃隊は、図面を頼りに大屋根の瓦《かわら》を剥《は》がし、掛矢・鉄鏨《てつたがね》・斧をふるって、屋根板や垂木《たるき》を壊し、大穴をうがった。 「行け! おくれをとるな!」  突撃隊の面々は、先を争って屋内に飛びこんだ。吉良の居間から十余室をへだてた空座敷に飛び降りた突撃隊は、駈《か》けつけた上杉勢と凄《すさ》まじい斬り合いになった。  一流の使い手揃いの突撃隊は、狼狽《ろうばい》して駈けこむ上杉侍を遮二無二斬りたてた。 「しまった!」  奥庭の泉水の畔《ほとり》で防戦の指揮に当っていた小林平八郎は、思わぬ事態の急変に周章狼狽した。 「ご隠居様が危ない! 退《ひ》け退け! お座敷に入ってご隠居様をお守りせい!」  奥庭から水濠木柵陣地にかけての上杉勢は、一斉に退却を開始した。  敵の崩れに乗じた赤穂勢は、見る間に最後の水濠を突破し、奥庭になだれこんだ。次いで戦闘は奥座敷に移った。  奥座敷は修羅の巷《ちまた》と化した。 「戦さは奥座敷に移りました! お味方優勢!」  矢頭右衛門七の伝令をうけた内蔵助《くらのすけ》は、即座に令した。 「挺身隊《ていしんたい》に、侍長屋の空井戸へ急行せよと伝えい、井戸は莢《さいかち》の木の根元だ」  内蔵助の脳裏には、鎌倉明石茶屋で聞いた前原伊助の実見談が、鮮明によみがえっていた。  ………………… 「奥庭の泉水あたりに、連日屋敷からかなりの量の新しい土が運び出されました」 「抜け穴……かも知れませぬ」 「そうだ、侍長屋のこのあたりに、新しい空井戸があります」  ………………… (戦況の急迫に、上杉勢は吉良の身の保全に専心するだろう)  戦いは勢い、という内蔵助の信念は、正に的中した。精神が優位に立てば、判断は神の如く冴《さ》える。奥座敷から抜け穴をくぐり、中庭の地下を通って逃れる吉良を護《まも》って、泥まみれの小林平八郎と六、七人の上杉侍が、侍長屋の一角にある空井戸から現われたのは、程なき頃であった。  その一群に、餓豹《がひよう》の如く大高源五らの挺身隊が襲いかかった。不意を討たれて吉良を護る上杉侍は、態勢をととのえる暇《いとま》なく、防禦《ぼうぎよ》に翻転した。斬る、突く、撲《なぐ》る、薙《な》ぎ倒す、挺身隊は悪鬼の如く荒れ狂った。  吉良を追尾して、堀部|安兵衛《やすべえ》、奥田孫太夫、不破|数《かず》右衛門《えもん》の三名が、抜け穴をくぐって斬り合いに加わると、防ぐ上杉侍の非勢は頓《とみ》に顕著になった。 「ご、ご隠居様、ここは危のうござる! ひとまず、中へ……」  侍長屋の一軒の戸口を破った上杉侍が、吉良を屋内へ押しこんだ。 「あッ、そこはならん! 死地だ!」  気付いて駈けつける小林平八郎を、安兵衛の白刃が遮った。 「堀部安兵衛|武庸《たけつね》、お相手|仕《つかまつ》る」  一合、二合、白刃は火花を散らし、鎬《しのぎ》を削った。 「奥田孫太夫重盛、参る」  孫太夫の剣が横合いから襲った、辛うじて受けとめたものの、正面から真向|微塵《みじん》の安兵衛の白刃に、防ぐすべはなかった。 「む、無念……」  小林は、顔面を断ち割られて、絶命した。  屋内は暗い、が、雨戸の隙間から朝の陽が洩《も》れる。  吉良は、恐る恐る部屋の中へ足を運んだ。その蹌踉《そうろう》の足どりが、ぎくっと止った。部屋に黒い人影が立っていた。 「な、何者だ!」 「恐れながら、吉良少将様とお見受け仕る。これは、播州《ばんしゆう》赤穂、浅野家国家老、大石内蔵助にござる」 「…………」  吉良は、何か言おうとしたが、言葉にならなかった。もう気死も同然だった。 「こたびの事、皆が皆御尊台様の責めとは申しがたく……おいのち申し受くるは忍び難けれど、これは侍の一分、心栄《こころば》えの事にござる。止むを得ざるの儀、お覚悟願わしゅう……」  その言葉の終らぬうちに、吉良は突然|怪鳥《けちよう》のような絶叫と共に、手にした佩刀《はいとう》を抜き放つや否や、内蔵助に斬りかかった。  転瞬、身を沈めた内蔵助は、白刃を抜き打ちに吉良の頸筋《くびすじ》を刺し貫いた。吉良がよろめく、と、戸口から飛び込んだ間《はざま》十次郎が、白刃を横ざまに胸許《むなもと》を刺し、続く武林|唯七《ただしち》が据物斬《すえものぎ》りに、したたかに斬った。  吉良は、壁にぶち当り、必死に身を支えようとした。 「し、知らぬ……わ、わしは……討たるる覚えは、ない……」  ずる、ずるずると辷《すべ》って、尻餅《しりもち》をつき、坐《すわ》ったままガクッと息絶えた。  それが最期《さいご》だった。  奥庭と奥座敷に、まだ乱戦は続いていた。  その最中《さなか》、冴えた鉦《かね》の音が聞えた。一つ……また一つ……ゆるやかな調子だった。 「退《ひ》き鉦だ!」  敵も味方も、等しく動きを止めた。  続いて呼子笛の音が、長く、長く、尾を引いた。 「勝った!」  もう敵は眼中になかった。赤穂勢は躍り上がり、雄叫《おたけ》びあげて、刀を突き上げた。歓喜に肩を叩きあい、足踏みして、抱き合った。  上杉勢は、無言で見守った。一人、また一人と、萎《な》えたように膝《ひざ》を突く。尻餅をつくように坐りこむ。歔欷《きよき》が洩れる。そして号泣した。  そのなかに、吉田忠左衛門がやって来て、おだやかに告げた。 「物見の知らせによれば、程なく竪川堀《たてかわぼり》に貴藩の荷足船《にたりぶね》が着く由にござる。後々の事もござれば戦場の掃除、お急ぎ召されい」  余の事は何も言わなかった。それが武人の情けであった。  吉田忠左衛門は、赤穂の侍たちを促すと、踵《きびす》を返して去って行った。      二  白雪に朝日射す街路を、色部と上杉藩士の一行は、足早に歩を運んだ。  卯《う》ノ上刻(午前六時頃)を過ぎたばかりの町は、まだ人通りもなく、凍った雪を踏む足音と感触が、寝不足の頭に響いた。  先頭を往く色部又四郎は、背後の冷たい視線にひたすら耐えていた。 (一年余、備えに備えてこのざまは何だ)  常日頃から用意しても、深夜の応急派兵に混乱はまぬがれない。それが昨日まで吉良屋敷に上杉侍を配備する事すら非難|囂々《ごうごう》だった。 (強欲の噂高い吉良のために、何で上杉侍がいのちを賭《か》けるか) (吉良は吉良、他家の争い事に介入する必要はない。火中の栗ではないか)  ばかな! と言いたい。藩主の実父実子を見殺しにして、武門の面目が立つか、と怒鳴りたかった。  それが、昨夜、討入の知らせをうけると、藩士の態度が一変した。 (殺《や》れ! 赤穂如き小藩の浪人づれにあなずられて、見過しに出来るか!)  戦さというのは、そういうものだった。  戦さを対岸で見ているときは、平和論が圧倒的である。だが、わが身や血縁に恥辱や害が及ぶと、勃然《ぼつぜん》と血が沸き、あたりへの配慮も、後々の障りも考えなくなる。  それは理屈ではない。一片の恥辱、あなどり、侵害ある時は、髪はそそけ立ち、肌が粟立《あわだ》ち、全身が燃え立つ。それは闘争・生存本能の為《な》せるわざなのだ。  しかし、事態に直面してからでは遅過ぎる。  平和主義の難しさは、その辺にある。どこまで人は尊厳を捨て、名誉と誇りを捨て、権利の侵害に耐えられるか。確たる一線を引いておかねばならない。平和主義だから戦さを考えない、戦さを考えるのは平和の敵だという考えは、人格を放棄した奴隷《どれい》に等しい。  ——上杉の士道は、地に堕《お》ちた。  色部は、もう吉良屋敷の上杉侍の健闘に期待するほかなかった。  勝て、勝ってくれ……と、思う。勝てないまでも武門上杉の名に恥じぬ働きを示してくれ……そう願わずにはいられなかった。  道が両国橋に差しかかると、堰《せき》を切ったように駈《か》けだす者がいた。三人、五人と続いた。止める間がなかった。  と、橋向うに、びっしり詰めた武装の一団が、道を遮っていた。手槍《てやり》が朝日に光る。いかめしい火事装束に身を固めた公儀|御先手《おさきて》組の集団であった。  その中から、馬上の大身《たいしん》の侍が馬の歩を進めた。漆塗りの陣笠《じんがさ》の裏金《うらきん》が陽に映えて眩《まぶ》しく輝いている。  公儀大目付、旗本千八百石、仙石|伯耆守《ほうきのかみ》久尚であった。 「上杉家、家中の者と見受ける。これは大目付仙石伯耆である。役儀に依《よ》り道をふさぐ。誰ぞ頭分《かしらぶん》の者はおるか」  色部は、昂然《こうぜん》と進み出た。 「上杉|弾正大弼《だんじようだいひつ》が家の者、江戸家老色部又四郎にござる。昨夜大変の吉良少将様がお屋敷へ、後片付けに参る。曲げてお通し願いたい」 「うむ、血縁の家の者とあれば差し許すほかないが、いま暫《しばら》くは差し障りがある。控えて待て」  馬首を廻《めぐ》らせた仙石伯耆は、腰の采《さい》を取ると、颯《さ》ッと振った。  見るなり色部は、御先手組の手勢の中に割って入った。その勢いのすさまじさに、誰も止める者は無かった。  回向院《えこういん》横の七間道路に、隊列を組んだまま、指図を待っていた赤穂侍は、大石内蔵助の合図で横に折れ、竪川一ツ目之橋を渡り南下して行く。 「…………」  色部は、爛々《らんらん》と瞶《みつ》め、立ちつくした。  再度着替えたのであろう、隊列の者の真新しい衣類に乱れはなかった。だが、その武装の凄《すさ》まじさ、みごとさは、見る者の眼を奪った。  寂《せき》、として声なき御先手組の前に立った色部は、無念と感嘆に息を呑《の》んだ。  ——この武装、戦いの後に衣類から草鞋《わらじ》まで替えるその備え、これぞ戦士。  今が今、引率した藩士の冷侮に耐えてきた色部には、眼に痛かった。  ——重傷は、わずか一名……。  戸板に乗せられたのは、近松勘六ただ一人であった。あとは歩行に障りは見受けられない。  隊列が通過すると、内蔵助は向き直って、仙石伯耆守に一礼し、踵を廻らそうとした。  色部又四郎と、顔が合った。  一拍の間、瞶め合った大石は、目礼して隊列の後を追った。  色部は、目礼すら返さなかった。  ——この屈辱に耐えられるか。  孤影がそう告げていた。  隊列は竪川一ツ目之橋から御船蔵裏通りを過ぎ、深川猟師町を経て永代橋《えいたいばし》を渡り、築地鉄砲洲《つきじてつぽうず》の元浅野家上屋敷前で小休止をとった。  その小休止の間に、内蔵助は寺坂|吉《きち》右衛門《えもん》を呼び出し、結盟を抜け使者に発《た》つよう命じた。赤坂今井台、三次《みよし》浅野家下屋敷に寡婦《かふ》の暮しを続ける瑤泉院《ようぜんいん》を始め、芸州浅野本家お預けの大学長広、大垣《おおがき》戸田家など故主の縁辺、それに内蔵助の妻子が住む但馬《たじま》豊岡の石束家、吉田、小野寺など主立った同志の遺族に、討入の顛末《てんまつ》を仔細《しさい》に申し伝えるためであった。  ——討入を果すまでは、どうでもよい事のように思ったが、仕遂げてみると欲が出る。  だが、使者の口から伝えられた討入の仔細は、決して口外してはならぬことであった。公儀は必ず、都合の悪い事実は隠蔽《いんぺい》する。厳重な箝口令《かんこうれい》を布《し》く。違反すれば——たとえ事実であっても、きびしい処罰があることは必定であった。口づてに伝えるその事実は、聞いた者一代で消滅する。それでも尚《なお》、伝えたいのが人のはかない欲望であった。  だが、内蔵助の配慮は、それだけではなかった。 「百石、二百石の上士はよい。十石二十石、五両十両の微禄《びろく》の遺族が、この後どう暮しを立てるか、それが気がかりでならぬ。当座三年五年の費《つい》えの金は渡したが、それで足りぬ者、思わぬ出費で暮しの立たぬ者がいたなら、その面倒を見てくれい。費用は大坂|天満《てんま》の天川屋に預けておいた。あるじと相談の上、然《しか》るべく頼んだぞ」  それも欲、と、言えるであろう。  同じような事を、同志の者も口にしていた。 「どうなりましょうか、この始末」  矢頭右衛門七が、昂奮の醒《さ》めやらぬ顔で訊《たず》ねた。 「どうなるものか、われらは揃って死罪か切腹、死人に口無しだ。あとは公儀が八方口封じして、御政道に刃向う不逞《ふてい》の徒か、忠義のための仇討《あだうち》か、その時々の風潮に任せて、都合よき話を作り上げる。ま、差し当って昨夜の合戦など、夢のまた夢よ」  堀部安兵衛が苦々しげにそう自嘲《じちよう》した。 「では……われらの働きは、何も残りませぬな」  今度は代って富森|助《すけ》右衛門《えもん》が答える。 「いや、吉良の家を乱離骨灰《らりこつぱい》に潰《つぶ》したことだけは残る。まぎれもない事だ。それでよいではないか」  不破数右衛門が、内蔵助に笑いかけた。 「後世……われら一人一人に、どのような話が作られ、伝わるか……考えると空恐ろしいような、こそばゆいような気がしますな」  内蔵助は、淡々と笑って言った。 「生きにくい世を、かなり無理して生きたのだ。死んだあとの事まで気にかけるな。侍に生れついたがわれらの天運、侍というのはこういう生き方、こういう死にようしかない。それが侍というものだ」  内蔵助は采配《さいはい》を振って、出発を令した。  隊伍《たいご》は粛々《しゆくしゆく》と泉岳寺へ向った。  あとにした浅野家上屋敷は、いまも空屋敷であった。  何の感慨もない、見返る者はひとりも無かった。 [#改ページ]   寒《かん》 鳥《どり》      一  泉岳寺《せんがくじ》に引揚げた大石|内蔵助《くらのすけ》ら四十六名は、終日、大目付仙石|伯耆守《ほうきのかみ》の下知を待った。  申《さる》ノ上刻(午後四時頃)御徒《おかち》目付石川弥一右衛門ら三名が泉岳寺に至り、愛宕下《あたごした》神谷町の仙石伯耆守屋敷に出頭すべき旨を伝えた。  夕暮から雨になった。そぼ降る雨に濡《ぬ》れて四十六人は高輪《たかなわ》泉岳寺から三田、赤羽橋を渡って増上寺を迂回《うかい》し、西ノ久保から仙石屋敷まで一|時《とき》(約二時間)余り歩いた。泉岳寺でなまじ休んだせいか、雨中の行軍はひどくこたえた。  仙石屋敷では、伯耆守ほか御目付鈴木源五右衛門、御徒目付、御小人《おこびと》目付列座の上、詳細な取調べが行われた。  その間、浪士お預けを命ぜられた大名、肥後熊本五十四万石、細川越中守|綱利《つなとし》、伊予松山十五万石、松平(久松)隠岐守《おきのかみ》定直、長門《ながと》府中五万石、毛利|甲斐守《かいのかみ》綱元、三州岡崎五万石、水野|監物忠之《けんもつただゆき》の四家の引取り家臣の隊列が、雨中濡れたまま、門前に待機した。  雨は深更になるとますます激しさを加えた。  亥《い》ノ下刻(午後十一時頃)、ようやく訊問《じんもん》が終って、四十六名は、四家に引渡された。  細川家へ、大石内蔵助、吉田忠左衛門、小野寺十内、原惣右衛門、片岡源五右衛門、奥田孫太夫、堀部弥兵衛、礒貝《いそがい》十郎左衛門、潮田又之丞、大石瀬左衛門、富森助右衛門、間瀬久太夫、赤埴源蔵、間喜兵衛、矢田五郎右衛門、早水藤左衛門、近松勘六の十七名。  松平家へ、大石|主税《ちから》、堀部安兵衛、不破数右衛門、大高源五ら十名。  毛利家へ、岡島八十右衛門、武林唯七、杉野十平次、前原伊助ら十名。  水野家へ、間十次郎、矢頭右衛門七、神崎与五郎ら九名。  深夜、罪囚用の茣蓙《ござ》打ちという粗笨《そほん》な乗物であったが、駕籠《かご》を持って迎えたのは、細川家だけであった。  あとの三家お預けの二十九名は、雨具もないまま雨中徒歩で護送された。  お預り四家が競って厚遇した、というのは、後世の作り話である。御府内|剣戟沙汰《けんげきざた》に及び、高家《こうけ》を殺害した徒党、とあって、処遇はまったく罪囚なみであった。   細川や 水野流れは 清けれど     ただ大甲斐の 隠岐ぞ濁れる  という狂歌は、細川・水野家の厚遇に対し、松平・毛利が冷遇したことを伝える。だが、細川家ですらお預け四十日間、庭先なりと屋外へ出る事を禁じた。松平家に至っては、座敷を牢格子《ろうごうし》で囲った。  討入のあと、検視の前に、色部又四郎は藩士を督励し、上杉家の藩籍ある死者・怪我人を、悉《ことごと》く荷足船《にたりぶね》に搬出し、吉良《きら》屋敷には吉良家の死者十五名(翌朝、重傷者一名死亡により、十六名となる)の遺体を座敷に並べ残した。(一説によれば、左兵衛義周の上杉家附人二名が、その中に加えられていたともいう)  吉良籍の負傷者は、中間《ちゆうげん》四名を含め二十四名。うち、重傷者は十六名、残り八名はかすり傷であった。 「少なすぎませんか、しかばねが……」  上杉藩士から、そういう異論が出た。  死者と重傷合わせて三十一名、赤穂勢四十七名が数刻の間、必死必殺で戦ったにしては数が少なすぎる。死者の中には十四歳の小坊主(鈴木松竹)まで加えられていた。 「ばかを申せ、これでよいのだ」  色部は、苦り切って、言い捨てた。  上杉籍の屍《しかばね》を残せば、吉良に加担し御府内で剣戟沙汰に及んだ罪で、上杉は公儀の咎《とが》めを受ける。  残さず回収すると、討入自体が子供だましに見える。 (損害が少なすぎる、上杉が屍や重傷者を隠匿したに違いない)  そう疑って貰《もら》わないと、上杉の武名が地に堕《お》ちる。色部はわざと疑いを抱かれるよう、後者の策を採った。  その策は、みごと図に当った。藩主の実父が闘死したにもかかわらず、上杉の士道を云々《うんぬん》する者は無かった。  四大名家に留置された四十六名は、年末年始の間、処断の論議すら無かった。年末年始は諸行事が山積し、厄介な問題は先送りされるのが例である。  討入直後に、柳沢|吉保《よしやす》は普請方と黒鍬《くろくわ》ノ者に命じて、吉良屋敷を打毀《うちこわ》させた。年末余日も少ないなかで、敷地二千五百五十坪、本屋敷三百九十坪、侍長屋平坪四百二十六坪、表庭、中庭|防塞《ぼうさい》施設、奥庭泉水|築山《つきやま》を跡形もなく撤去し、大晦日《おおみそか》には平坦《へいたん》な更地に戻した。  それは、物見高い侍や町人によって、吉良・上杉の度外れた防塞と、その惨敗を噂されるのを嫌ったためである。そのいち早い手配りに、柳沢吉保の凄《すさ》まじい権力がうかがえる。  柳沢は赤穂浪士の処断の終った翌年二月、早くも屋敷跡地を分断し、本所芝田町(数年後に本所松坂町と改称)と名付け、町家として払い下げた。それは一日も早く世人の記憶から、討入の不祥事を消すのが狙いであった。  年始は、月半ばまで諸行事が次々と控え、政治はその間休止状態となる。赤穂《あこう》浪士討入に関する裁決は、早くて春以降になるものと思われた。先年の芝増上寺の刃傷《にんじよう》事件は、事理まことに明白であったが、裁決に半年を要した。吉良屋敷の討入は、事の起こりの刃傷事件の真因が今|以《もつ》て不明である。一、二年延引しても当然、と思われた。      二 �二十日正月�という慣習がある。陰暦正月二十日、正月行事の祝い納めとして仕事を休む。  その二十日の夜、柳沢吉保は上屋敷小書院で、お抱学者|荻生徂徠《おぎゆうそらい》を引見していた。  荻生徂徠、字《あざな》は茂卿《しげのり》、号は|※[#「くさかんむり/(言+爰)」、unicode8610]園《けんえん》、本姓|物部《もののべ》氏。若年の頃から儒学に傾倒し一流の名を得たが、学問上唐土に憧《あこが》れること甚だしく、自らを唐人に模して、�東夷《とうい》の物徂徠�と称した。  その徂徠は、柳沢から渡された数冊の書きものを熟読していた。柳沢はそのさまを見守りながら、ひそかに人物を分析していた。  ——この男は、頭脳明敏、当代五指に数えられる切れ者だが、惜しいことに大局観がない、それがわしの御用学者としての利用価値ではあるのだが……。  若年の頃、惣右衛門と名乗っていた徂徠は、御典医だった父の死後、儒学|研鑽《けんさん》に傾注してひどく困窮し、食事にも事欠いて行商の豆腐屋から豆腐を借りて飢えを凌《しの》いだという。  元禄《げんろく》九年、三十一歳の折、柳沢吉保(当時保明)に見出《みいだ》されて仕え、御用学者として禄《ろく》を得た。  徂徠が読み終って、書きものの冊子を整えるのを見て、柳沢は声をかけた。 「どうだな、何と見る」  書きものは、いずれも赤穂浪士の討入に関する処分意見であった。官学(朱子学派)の林|信篤《のぶあつ》、室鳩巣《むろきゆうそう》等々、在野の古文辞学派で徂徠の門下ともいえる太宰春台《だざいしゆんだい》、服部南郭《はつとりなんかく》等が意見を寄せている。 「恐れ入りました。この年末年始の御多忙の中で、ようもこれまで意見を集められましたな。さすがの御威勢には敬服致すばかりでございます」 「世辞はおけ。それより意見がこうも異なるものかと、いささか呆《あき》れておる。同じ官学でも赤穂浪人の志を賞揚する林信篤、室鳩巣もあれば、佐藤|直方《なおかた》は御法破り許し難しという。そちの唱える古学派も、太宰春台は許さぬ方、三宅尚斎《みやけしようさい》、浅見|絅斎《けいさい》は忠義であること紛れもないと主張しておる」 「…………」  徂徠は、軽く頷《うなず》いてみせた。 「御用始早々に、赤穂浪人の処分が論議されよう。それがこう意見が分れては困る……それでそちの意見を聞きたい、どう思うか申せ」 「…………」  徂徠は、薄く苦笑の色を浮べた。 「赤穂の浪人ども、きびしく罰すべきか、それとも寛恕《かんじよ》して大事ないか、その辺を篤《とく》と勘考してみい、どうだ」  白皙《はくせき》の額のあたりに苛立《いらだ》ちの色を見せた柳沢に、徂徠は冷たく言い放った。 「これは異なことを承ります。それをお決めなされるのは殿御一人……余の意見など求める必要がございましょうか」 「…………」  今度は、柳沢が口をつぐむ番であった。 「手前、お召抱えになりまして七年……事あるごとに意見を求められましたが、一度としてその意見通りに御処置なされたことはございませなんだ……つまり、お扶持《ふち》をいただく学者のつとめは、事の理非曲直を明らかにする事にあらず、あるじの考え、為《な》した事を理屈づけ、論理《すじ》を打立てて他の批判や論難を封殺することにある……そう思って御奉公|仕《つかまつ》っております」  御用学者の御用学者たる所以《ゆえん》である。それには、徂徠の精一杯の暗諷《あんふう》が含まれていた。 「…………」  顔色一つ動かさず瞶《みつ》めていた柳沢は、ややあって微苦笑を浮べ、それが含み笑いに変った。 「ふ、ふふ……いかにもそうだ。この天下、犬儒《けんじゆ》づれの狭い了簡で易々《やすやす》と動くものではない。御政道というものはもそっと複雑で……怪奇なものだ」  ずばり歯に衣《きぬ》着せず、言い切るあたりが柳沢の真骨頂である。 「まず……この処分は急ぎに急がねばならぬ。さもないと論議は、事の起こり……刃傷の処分の是非に及び、その真因の詮議《せんぎ》に至る。それはどうあっても避けねばならぬ」  刃傷事件の裁断は、政治的に行われた。それを追及されると、上杉の姻戚《いんせき》関係から、次代将軍の継嗣問題にまで発展する恐れがある。 「そうしたとかくの論議は、一切封じなければならぬ。それには討入の赤穂浪人の宥免《ゆうめん》は害あって益なし、悉《ことごと》くいのち断って世に御法の峻厳《しゆんげん》を示し、いらざる論説を封殺する……それしかないのだ」 「それも一理……よろしゅうございましょう」  徂徠は冷然と言った。 「だが……問題は一つ残る。われも人、百の年寿は保てぬ……」  徂徠は、はっとした。この柳沢が寿命を口にする。初めての事である。  ——これは、終りの予兆か。  その予感が当っていたことは、後でわかった。柳沢の天下はあと六年で尽きる。 「これほどの大事件、後の世にどう論議されるかは計りがたい。あるいは尚早、あるいは苛酷《かこく》の論難を受けるやも知れぬ。それを避ける方策を立てねばならぬ。所存があれば是非にも聞きたい、申してみい」 「されば……」  打てば響く、その頭脳の冴《さ》えを徂徠は示した。 「まず、早急に赤穂浪人に死を申し渡します。但し、罪科を以《もつ》てする死罪打首でなく、武士の礼遇を以てする切腹と致させます。つまりは、咎《とが》めと礼遇の二筋道をかけておく……」  柳沢は、頷いて先を促した。 「てまえは、�擬律《ぎりつ》�を書きます、事の起こりは浅野が殿中を憚《はばか》らず吉良を斬った事にある。吉良が手向いしなかったから、これは喧嘩《けんか》ではない、喧嘩両成敗は当らぬ理屈である。それゆえ浅野は御法で切腹、吉良はお咎めなしであった。その吉良を仇として騒ぎを起こした以上、御条目の定めにより死を賜る。さすれば御法にも背かず、また、切腹の礼遇によって忠義も認めた事で、大方の納得を得られましょう……」 「……それで?」 「さ、これからが肝要にございます。まず……この意見書の中で、最も強硬に赤穂浪人を賞揚しておる室鳩巣……奴めに赤穂の義人録を書かせます。それに浅見絅斎の忠義の論説もなかなかのもの、これらに各々《おのおの》の持論を書かせ、御公儀において預りおきます。五年十年、あるいは三十年五十年、この討入の事がまだ論議されるようであったら、てまえの�擬律�と共に、これらの論説を随時世に出して、討入当時にかかる論が流布《るふ》されて、裁断は苦衷のうちに決定された、と唱えれば、後世柳沢様の御処分に非を打つ者は無かろうかと考えます、これでいかが」  いかにも事理明白である。柳沢は莞爾《かんじ》と頷いた。      三  裁決は長引くであろうという予想はみごとに外れた。公儀は議すること十日余り、元禄十六年二月三日に、赤穂の浪士に全員切腹の苛烈な処断を下した。それが柳沢吉保の強引とも思われる説得に依《よ》るものであったことは言うまでもない。  但し、今回は吉良家も取潰《とりつぶ》しとなった。吉良|上野介義央《こうずけのすけよしなか》の養嗣子左兵衛義周、父を討たれながらその時の仕方、甚だ以て不届千万とあって、家名断絶、その身は信州高島三万石、諏訪安芸守《すわあきのかみ》忠虎の在所に蟄居《ちつきよ》、永のお預けとなった。ちなみに左兵衛義周は遂《つい》に宥免の沙汰《さた》を受けることなく、数年後に謫地《たくち》で病歿《びようぼつ》した。  赤穂浪士の断罪については、その過早な裁決からみて、同情論などの出る暇はなかったと見てよい。この事件は、治安の攪乱《かくらん》、政道|誹謗《ひぼう》、公儀威光の無視という反乱的要素を含んでいる。当時の強権下にあっては、同情論など口にすることも憚《はばか》られたのではあるまいか。  後年流布された巷説《こうせつ》では、将軍|綱吉《つなよし》をはじめ、幕閣や有力大名、日光御門跡までがこぞって赤穂浪士の忠節義心を賞揚し、宥免の方途を模索して憂悩したとあるが、事実は裁断を下すまでのあまりの短さが、そのすべてを物語っている。  また、御三家紀州家では、当主綱教が、柳沢吉保に対し、またその御主殿《ごしゆでん》鶴姫(将軍綱吉の娘)は将軍生母である桂昌院《けいしよういん》に対し、赤穂浪士の宥免は上杉綱憲の面目立たざるゆえ、その身柄を上杉家に引渡すようにとの申入れがあったが、これも無視された。  この申入れの無視といい、吉良家断絶といい、柳沢吉保がこれを機に、上杉・紀州家から急速に離れ、次代将軍に甲府綱豊を推すようになったことを示している。  赤穂浪士の処断に、一片の温情仁慈もなかったことは、その裁決に連累の刑が付加されたことでもわかる。すなわち赤穂浪士の子について、十五歳以上の男子は遠島流罪、十五歳未満は保護者預け、十五歳に達すると遠島に処す旨、申し渡された。  該当したのは、吉田忠左衛門の伜《せがれ》、伝内(二十五歳)、村松喜兵衛の伜、政右衛門(三十三歳)、間瀬久太夫の伜、貞八(二十歳)、中村勘助の伜、忠三郎(十五歳)の四名で、伊豆大島に流罪となり、内、間瀬貞八は三年後(宝永二年)、宥免の沙汰なきまま、島で死去した。  その翌年、公儀は桂昌院一周忌法要を機に吉田伝内ら三名を赦免し、流刑待ちの男子十五名に宥免の沙汰を下した。  当時、連座の刑は当然であったとはいえ、不名誉刑と等しく赤穂浪士の子が流罪に処せられたのは、いかにも痛ましい。それを将軍が助命の方途を苦慮したの、切腹を名誉刑であるのという説は、首を傾げざるを得ない。  柳沢吉保と、荻生徂徠の読みは、まんまと図に当ったのである。  公儀の仮借ない取扱いは、大名四家にお預け中の赤穂浪士の待遇に影響を与えない筈《はず》はなかった。今に伝わる四家の厚遇や、その時の逸話は、後世の作り話ではないかと思われる。後世忠臣蔵が人気の的となり、忠烈無双、武士道の鑑《かがみ》、と賞揚されるようになると、かかわりのあった大名家や縁類の者は、競って偽記録を作り、わが家の栄誉とばかり世に広めて喧伝《けんでん》した。中には先読みの智恵者がいて、後世の評価を慮《おもんぱか》り、当時から厚遇の話や浪士の逸話を偽造し、ひそかに伝えておいたものもあったようである。それらは、公表の頃になると、関係者が悉く死絶えていたので、偽作が発覚する恐れがなかった。大名や関係者の�何某覚書�と題する史書のたぐいの殆《ほと》んどが、信をおくに足りない。  その歴然たる証拠は、赤穂浪士の切腹後、四十六人の身柄を預った大名四家は、四十六人が残した遺品遺物をはじめ、お預り中に与えた物品、使用した日常品の一切——夜具|蒲団《ふとん》から茶碗《ちやわん》、湯呑《ゆのみ》等の食器、煙草盆《たばこぼん》から紙屑籠《かみくずかご》、火鉢、手箱等の家具類まで、扱いように困惑し、悉く墓所の泉岳寺に持ちこみ、処分を押しつけたという事実がある。  天下御法によって切腹した罪囚の品物とあって、四十六士を葬った墓所の泉岳寺が困りはてたことは言うまでもない。だが、禍福は糾《あざ》なえる縄、のたとえで、年を経るごとに忠臣蔵の人気が高まると、好事家《こうずか》が訪れて一品二品と買い求めて行くようになった。時の住職、酬山《しゆうざん》という和尚《おしよう》が、抜け目なく売って売りまくり、遂には夜具蒲団まで売り尽してしまったという。  その後、年回忌に訪れた大石家と堀部家の遺族が、天下を憚る罪囚のため遺品遺物が無く、いかにも心残りである、形見に何か一品譲り受けたいと申入れたが、その頃はもう売り尽して何一つなく、手に入らず終《じま》いであったという。  それが寛政八年(十一代|家斉《いえなり》)泉岳寺で、義士の百年忌、大開帳の際、遺品、遺墨の類が五十二点飾られた。現在の宝物館には、四十六士ゆかりの品が百七、八十点も並べられている。どこから買い集めた物か、一切が不明である。  四家が厚遇したなら、たとえ公儀の眼を盗んでも、遺品遺物を大切に保存したであろう。�覚書�を書いた附人も同断である。罪囚の物だから、寺に押しつけ捨て去ったのである。それは�堀内伝右衛門覚書�という麗々しい美談の偽書を世に広めた細川家も同じだった。堀内伝右衛門は主命によって、夜具蒲団を引担ぎ、泉岳寺へ走った一人である。  その罪囚扱いは、浪士の最期《さいご》、切腹の折にも如実にあらわれた。  扱いようが、ひどく粗雑で軽々だった。切腹とは言い条、死罪(打首)同様に扱われた。  武林唯七、杉野十平次、前原伊助ら十名を預る麻布長坂の毛利甲斐守綱元の屋敷では、切腹に際し、扇子を十本、紙に包んで用意した。扇子腹と言って、脇差《わきざし》の代りに扇子を腹に当てるのを合図に介錯《かいしやく》し、首を打落してしまう。心根の定まらぬ卑しい侍の切腹作法であるため、不名誉きわまりない。  さすがに、検使の御目付、鈴木次郎右衛門が見兼ね、物惜しみが度を越す、と叱《しか》って、小脇差を用意させ、三方《さんぼう》に載せて差出させたとある。  ここで切腹した十名の内、五番目に切腹の座に着いた村松喜兵衛は年六十歳、作法通り介錯人の名を尋ねたあと、 「お手を汚させてまことに申し訳ない。老人のことゆえ不手際もあろうが、何分よろしくお頼み申す」  と、丁重に挨拶《あいさつ》し、肌を脱いだ。そのいさぎよさに鈴木次郎右衛門は、切腹前でありながら、 「おみごとでござる」  と、賞賛の声をかけた。  検使が切腹人に声をかける、賞賛するなど、幕府三百年の間に例を見ない。村松喜兵衛の名誉もさることながら、扇子腹の用意をした毛利家の冷酷きわまる扱いに、鈴木次郎右衛門の憤怒が爆発したと見ていい。  また、間新六の切腹は、上下《かみしも》を外す前、三方をおしいただくと同時に首を打落してしまった。検使の鈴木は、腹を切ったか、切らずに介錯したかと異議を差しはさみ、医師を呼んで検死させたという。記録ではわずかに腹を切っていたと済ましたが、そのような手品が出来るわけがない。鈴木はよほど腹に据えかねたのであろう。  扇子を脇差に替えても同じ事であった。腹を切る前にバサバサと首を打落したらしい。十人切腹するのに、一|時《とき》(約二時間)しかかからなかった。  一人ずつ呼び出して、作法通り腹を切らせる、屍《しかばね》を棺に納め、切腹の座のパンヤの蒲団を替え、白布を巻く、三方と脇差を替え、介錯人が交替する。それが一人|宛《あて》、わずか十二分しかかかっていない。  それは、他の松平隠岐家、水野監物家も同様で、だいたい一人宛十分から十五分、切腹の座に着くが早いか首を打落した。�水野流れは清い�筈《はず》の水野家では、三方をいただくと同時に首を打落し、作法通り腹を切った者は一人もないと、家の記録は伝えている。  細川家は、十七人という多人数のため、他家より余計に時間がかかった。それでも二|時《とき》(約四時間)あまりと伝えられる。  その伝えによると、内蔵助は、 「自分が声を掛けてから介錯するように」  と、特に念を押したという。  内蔵助のあと、吉田忠左衛門、原惣右衛門、小野寺十内までは、作法通り切腹させたが、その後はやはり、他家並に脇差に手を伸ばすと首を打ったとある。  四家とも、手軽く済ますのを専一に、急ぎに急いだためと、介錯人を粗雑に選んだため、四十六名のうち六名まで斬りそこね、二ノ太刀、三ノ太刀で斬り、無慙《むざん》きわまりない死なせ方をした。  細川家にお預けとなった奥田孫太夫は、切腹直前のある日、附人の堀内伝右衛門に話しかけた。 「てまえは切腹の仕様を存ぜぬ。御伝授願いたいが」  侍は、物心つくと例外なく、まず切腹の作法を習う。伝右衛門は、 「幼少の頃の記憶ゆえ、不確かな上に、試した事もござらぬによって、あるいは誤りもあろうかと存ずるが……」  と、さして不思議とも思わず、肩衣《かたぎぬ》の外し方、肌のくつろげ様、脇差の突立て方などを実演してみせた。  すると、居合わせた富森助右衛門が、 「お止めなされ、その場になればただ首打たれるまでの事、それでよいではないか」  と止めた、と�堀内伝右衛門覚書�にある。  堀内伝右衛門は得意顔でそれを書き、そのため、奥田孫太夫の切腹|稽古《げいこ》は現代まで伝わり、小説の種となっているが、意味を取違えているようである。  奥田孫太夫は、武具奉行|馬廻《うままわり》百五十石、つとに才腕を認められ、堀内源左衛門道場の竜虎《りゆうこ》と呼ばれた一流の剣客である。赤穂浪士の使った夜具蒲団を担いで、細川屋敷から泉岳寺へ走り廻る武士とは出来が違う。間違っても武士の嗜《たしな》みである切腹作法を尋ねる訳がない。  細川家の、表面《おもてづら》だけ取繕う待遇に、面白からぬものを覚えていた孫太夫は、細川家が切腹の際に万事を手軽に済ます方針を洩《も》れ聞いた。腹に据えかねた孫太夫は、 (作法通り、切腹させていただけますか?)  と、謎をかけ、皮肉った。  半可通の伝右衛門は、それをまともにとって、さかしら顔で作法を教え始めた。そのにぶさに見兼ねた富森助右衛門は、 (話にならぬ、ばかばかしいから止めろ)  と、止めたのであろう。  間喜兵衛は、もっと痛烈である。 「てまえは身体が大柄、死にざまがまこと見苦しいかと存ずる。切腹したら大風呂敷《おおぶろしき》を掛け、そのまま包んで貰えまいか」  見苦しくなきよう切腹させるのが、預りの家の責務であり、作法でもある。それを諷刺《ふうし》されて気付かぬ堀内伝右衛門も、その覚書を得々と披露《ひろう》する細川家も、度しがたい鈍さというほかない。      四  偽書偽説の氾濫《はんらん》は、諸大名家や関係者の人気便乗だけのものではない。  公儀自体、いや、将軍自らが史料史書の改変を行った。  五代将軍の座は、本来綱吉の兄、甲府綱重が占める筈であったが、綱重が不時に暴死したため、綱吉が継いだ。その綱吉に嗣子なきため、亡兄綱重の子綱豊が六代将軍の座に就くのが当然と思われた。だが綱吉はこれを嫌い、娘婿の紀州綱教を当てようとした。結局紀州綱教が流行《はやり》病で急逝したため、綱豊が六代将軍の座に就き、家宣《いえのぶ》と改名した。  こうした経緯で家宣は、綱吉の施政を嫌悪した。生類憐《しようるいあわ》れみの令や金銀改鋳など暴政が多かったせいでもある。綱吉の事蹟《じせき》はいうまでもなく、史料史書、あるいは日常記録の類まで、綱吉流の評価を廃し、独自の儒教的評価に改めた。そのため、事実までが曲げて記載された例も一再に止《とど》まらない。  そうした改竄《かいざん》は、独裁政治ではそう珍しくないかも知れない。しかし同族政権が三百年も続いた徳川幕政下で、将軍交代毎に大なり小なりそうした事が行われたため、史料史書、記録の類に依《よ》る歴史の真実が、かなり歪《ゆが》められたことは否定できない。  特に、忠臣蔵は、六代家宣の時期と、紀州から入って八代将軍に就いた吉宗の時期に、時流に合わせてその評価が変り、史料史書や公的記録までが改竄され、その風潮に便乗した偽書偽説が世上に流布《るふ》された。公的なものでは幕府御用学者室鳩巣が、直後の元禄十六年に書いたという〈赤穂義人録〉ですら、その発表年の遅れと共に、内容にも信じ難い点が、随所にある。  公儀(幕府)は、ともすれば体制|誹謗《ひぼう》につながり易い忠臣蔵の巷間流布に、異常なほど神経を尖《とが》らせた。その顕著な例は、討入直後に曾我《そが》兄弟の仇討《あだうち》に仮托《かたく》して上演された芝居を、わずか七日で禁止し、その後、長く演劇化の禁止を続けたことでもわかる。�忠臣蔵�が、大衆の前で上演されたのは、将軍の代の替ること四たび、九代|家重《いえしげ》の治世寛延元年(一七四八)八月、実に討入から四十六年後の事である。それも大坂の人形芝居であった。  大坂竹本座で初演された人形|浄瑠璃《じようるり》〈仮名手本忠臣蔵〉は、時代を足利《あしかが》幕府の世に移し、内容も塩谷判官|高貞《たかさだ》(浅野|内匠頭《たくみのかみ》)の妻、顔世《かおよ》御前(瑤泉院)に懸想《けそう》した高師直《こうのもろなお》(吉良上野介)の悪計に依って、塩谷判官が刃傷《にんじよう》に及び、忠臣大星|由良之助《ゆらのすけ》(大石内蔵助)がその仇討のため討入るという、荒唐|無稽《むけい》の物語に脚色されたが、巷間語り伝えられたこの事件に寄せる大衆の人気は一向におとろえることなく、空前の大当りとなった。  公儀はその脚本が、真相とほど遠く、君臣の忠義と人情の世話物語に終始していることに安堵《あんど》し、悪影響の恐れなしとみて、同年十一月、同一脚本に依る歌舞伎芝居の上演を、ようやく許した。  人は死ぬ。  死ねば、物語は終る。  この物語も、四十六士の切腹を以《もつ》て終った。あとは余話でしかない。  余話の二、三を書いて、物語を閉じよう。  上杉家は、討入後、何ら公儀の咎《とが》めを受けなかった。また、武名に侮りを受けることもなく、長く続いた。  吉良屋敷の討入では、無残な敗北を喫したが、その点ではあるいは彼らも勝利者に列するとみてよい。ただ、実父の横死、実子の流罪、実家の断絶という三重苦の綱憲の心情は、如何《いか》ばかりであったか、察するに余りある。  悲運の綱憲は赤穂浪士切腹の年、元禄十六年に早逝した。  その年、千坂|兵部高就《ひようぶたかなり》も忽然《こつぜん》と世を去った。死因は不明である。一夜何の予兆もなく就眠して、翌朝息絶えていた、という。あるいは刃傷以来の心労が、さなきだに残り少ない余命を消耗し尽したのかもしれない。  だが、ひとり色部又四郎は長らえた。六年後の柳沢吉保の失脚、その五年後の死去の後も、変ることなく家老職をつとめ、八十余歳の長寿を全うした。  切腹に臨んで、大石|主税《ちから》は激しく泣き、その流涕《りゆうてい》はなかなか止まらなかった。  世に伝えられる説話では、 (武士の作法で切腹仰せ付けられた事、面目の至りである)  と、感涙に咽《むせ》んだとあるが、信じ難い。  どういう心情で、どうして流涕したか、今となっては永遠の謎である。  主税の父、大石内蔵助が、討入後に詠んだ歌が残っている。   あらたのし 思ひは晴るる 身は捨つる     憂世の月に かかる雲なし  これも明らかに、後世の偽作であろう。内蔵助が、そのような浅薄な心情で、最期《さいご》に臨んだだろうか。  切腹の際に、いま一人、富森助右衛門も激しく歔欷《きよき》し、涙を流した。これも説話では、君恩の忝《かたじ》けなさに、感涙が溢《あふ》れたとあるが、そんなことの有る筈がない。  富森助右衛門が、討入直後に吟じた一句は、   寒鳥《かんどり》の身はむしらるる行衛《ゆくへ》かな  であった。 角川文庫『四十七人の刺客(下)』平成16年4月25日初版発行