[#表紙(表紙1.jpg)] 四十七人の刺客(上) 池宮彰一郎 目 次  秋《あき》時雨《しぐれ》  雪 吊  春 雷  颶風《ぐふう》の城  旋 回  見《けん》 敵《てき》  卯《う》 波《なみ》  始 計  掩《えん》 撃《げき》  夏《げ》 解《あき》  謀計第二  |料 敵《てきをはかる》 [#改ページ]   秋《あき》時雨《しぐれ》      一  昼すぎ、大石|内蔵助《くらのすけ》の一行が、藤沢宿の外れ遊行寺《ゆぎようじ》の坂下にさしかかるころは、さわやかな日和だった。  元禄《げんろく》十五年(一七〇二)十月二十二日——。  この年は閏年《うるうどし》のため、八月が二度あった。それでも新暦では十二月初旬に当る。秋日和とはいうものの、風は初冬の冷たさを伝えていた。  東海道を江戸に下ると、道は遊行寺坂手前で左に曲る。直進すれば片瀬、江ノ島に向う。その曲り角の茶店で一行を待ちうけていた浪人|態《てい》の侍が、つと店を出て目礼すると、先に立って歩きだした。江戸組の富森助《とみのもりすけ》右衛門《えもん》であった。  遊行寺坂下の板橋を渡ると、一行は富森助右衛門に従って川沿いの小道に入った。片瀬川沿いに三、四町歩いて、鎌倉大仏道に入る。  一行は内蔵助のほか、吉田忠左衛門、小野寺十内、不破数《ふわかず》右衛門《えもん》、それに若手の吉田|沢《さわ》右衛門《えもん》、小野寺幸右衛門、足軽の寺坂|吉《きち》右衛門《えもん》の六名であった。沢右衛門は忠左衛門の伜《せがれ》、幸右衛門は十内の養子である。  道は刈田の中を通り過ぎ、大仏切通しまでの長い坂道にさしかかった。山ひだに沿った坂を登ると、前方から切出したばかりの大丸太を積んだ車と出合った。木の香生々しく、切り口は水を含んでいかにも重そうである。轣轆《れきろく》の音と挽子《ひきこ》の荒い掛け声が入り交る。  内蔵助は、一行に道をよけさせた。 「済みませんのう、ごめんなすって」  道端の草を踏んで立った内蔵助は、身近の小野寺十内に囁《ささや》きかけた。 「木を積める、くるまのきたれば、かた寄りて……通さしめつつ……山みちのぼる……とは、どうかな」  歌道に堪能《たんのう》な十内は、口のなかでくり返してみて、にこりと頷《うなず》いてみせた。 「ご家老は、かまえぬ時のほうがよい歌を詠まれますな」 「そうかも知れぬ」  道に戻りながら、内蔵助は微苦笑した。 「歌はつくるものではない、ふいと心に浮ぶものだというおぬしの持論が、この頃、ようやくわかりかけてきたようだ」  坂道に足を踏みだしながら、内蔵助は続けた。 「物事というのは、慣れて呼吸がわかる頃に終りを迎えるようだ。年内、あとふた月あまり、歌詠む余裕が何ほどあるか……ちと心許《こころもと》ないな」 「やはり……年内、とお考えですか」  十内は、うって変った緊張の色で囁いた。 「のう、十内よ。これは相手あっての企てだ。仕掛けるこちらも必死なら、防ぐむこうも必死……年が変れば状況が変る。この一年八ヶ月、はかりにはかった計略を戦さにもちこむのは年内が限度だ」  内蔵助は眉《まゆ》を上げて、流れる雲脚を眺めた。  晩秋の空はうつろい易い。  大仏切通しを下って、長谷《はせ》、小町を通り、雪ノ下の宿に着く頃は、陽は翳《かげ》っていた。  宿は、遊山《ゆさん》客相手の明石《あかし》茶屋という料理茶屋で、求めに応じて客を泊める。江戸の同志四名が、一行を出迎えた。奥田孫太夫、堀部|安兵衛《やすべえ》と、説明役を命ぜられた潮田|又之丞《またのじよう》、前原伊助である。  旅装を解いた一行は、茶を啜《すす》っただけでくつろぐ間もなく、広間に集った。  数日の滞在を予定したこの明石茶屋は、奥田孫太夫が用意した。借切ってほかに客はいない。店の者も身許確かな者に限り、一季半季の奉公人は休みをとらせた。  それでも用心のため、吉田沢右衛門・小野寺幸右衛門と、寺坂吉右衛門を、廊下と庭先の見張りに立たせた。 「……では、始めようか」  内蔵助の前に、たたみ一畳分に余る絵図面がひろげられた。もと絵図奉行だった潮田又之丞が、半月あまりかけて描いた図面である。  江戸組は、個々に実状を見分しているが、こうして全貌《ぜんぼう》の集約された図面を見るのははじめてであった。  上方《かみがた》組の者は言うまでもない。一同は身を乗り出して視線を集中した。  その誰もが、愕然《がくぜん》と色を失った。 「これが、これが吉良《きら》の新屋敷だと?」  一年八ヶ月の長きにわたって、虚々実々の謀攻をほどこし、いま漸《ようや》く討入の機を迎えようとしている宿敵吉良|上野介《こうずけのすけ》の屋敷の詳細な見取図が眼前にある。 「な、何だ、これは……」  小野寺十内が、呻《うめ》くように声を発した。 「これは、武家屋敷ではない」  吉田忠左衛門のその言葉に続いて、不破数右衛門が吐息をついた。 「さよう……そうと見せかけているが、これは合戦用の城砦《じようさい》ですぞ」  昨元禄十四年九月、江戸城|外郭《そとぐるわ》の内、呉服橋御門内より、大川をへだてた北本所|竪川《たてかわ》一ツ目之橋通り、無縁寺(回向院《えこういん》)裏(後の本所松坂町)に屋敷替を命じられた吉良上野介は、年内二ヶ月余をかけて前住者松平登之助の屋敷を改築した。  それが、年が明けるやいなやあらためて屋敷の新築を願い出て、改築したばかりの屋敷を跡形なく打ち毀《こわ》し、八ヶ月余をかけて大々的な新築普請を行った。  その資材は、すべて吉良の血縁の米沢《よねざわ》上杉家の国許で調えられ、大工・左官から人足、飯炊き女まで米沢者を雇い、江戸者は一人も採用しなかった。  徹底した機密保持の下で施工された吉良新屋敷の全貌が、いま、余すところなく図面に描かれている。  敵は、赤穂《あこう》勢の来襲を予測し、万全の備えを構築した、といえよう。  万全——。  その一語の持つ重さときびしさを、一同はあらためて思い知らされた。  肌に粟《あわ》を生ずる一同の中で、内蔵助は先を促した。 「詳細を聞こう」  潮田又之丞は、調べ書を取り出した。      吉良上野介新屋敷    敷地総坪数 二千五百五十坪(約八四六二平方米)  表門側(東) 延尺《のべしやく》三十四間二尺八寸余(約六二・七米)   外  五間道路(約九・一米)   向側 旗本牧野|長門守《ながとのかみ》屋敷  裏門側(西) 延尺三十四間四尺八寸(約六三・六米)   外  五間道路   向側 無縁寺|塔頭《たつちゆう》、大徳院  横手(南) 延尺七十三間三尺七寸(約一三四米)   外  七間道路(約一二・七米)   向側 町屋(本所|相生《あいおい》町二丁目)  横手(北) 延尺七十三間三尺七寸(約一三四米)    塀外隣家      旗本本多孫太郎屋敷      同 土屋|主税《ちから》屋敷  敷地の三方(東・西・南)は、表裏門とその門番小屋のほかは、すべて総二階の侍長屋が建てられてある。  侍長屋 総延尺 百三十三間余(約二四〇米)      総平坪 四百二十六坪(約一四一〇平方米)      総建坪 七百三十坪(約二四一三平方米)      戸数 およそ四十五戸、ほかに小屋敷五戸、馬屋  本屋敷(平屋建)      総建坪 三百九十坪(約一二九〇平方米)      部屋数 約七十      二 「待て」  吉田忠左衛門が潮田又之丞の説明を制した。 「まず敵の数を勘定しよう、上杉の手勢がいかほど駐留できる」  富森助右衛門が答えた。 「一戸あたり侍二名、身の廻《まわ》りの世話する小者は別として、ざっと九十から百名でしょう」 「それと、本屋敷に寝泊りする吉良の家来がざっと三十」  と、堀部安兵衛がつけ加えた。 「吉良の家来の半数は実戦に役立つまい、固いところ侍数は百十から十五」 「いや、はばかりながらこちらも齢《よわい》五十を越える者、はたちに満たぬ者が十人あまり……真に頼みとする戦い手は、三十三……ざっと三倍半の敵勢です」  奥田孫太夫の意見に頷《うなず》いた内蔵助は、先を促した。  潮田に替って、前原伊助が膝《ひざ》をすすめた。 「武家屋敷をよそおっているのは、表庭から玄関、控部屋、書院までで、その先の部屋部屋はそれぞれ砦《とりで》として使えるよう、備えております」  惣代《そうだい》物見(偵察長)の前原伊助は、金奉行十石三人|扶持《ぶち》の軽輩だったが、内蔵助の裁量で吉良屋敷横手の相生町二丁目の米屋を居抜きで買い受けた店を取り仕切っている。  吉良屋敷とは七間の道路をへだつのみである。発覚を当然の事と予測し、掘抜き井戸の櫓《やぐら》を立てて新築工事を俯瞰《ふかん》した。  その大胆不敵な行動力をかわれて、物見の惣代に推された。  前原が示す部屋部屋は、頑丈な板壁に囲われ、分厚い板戸の外廊下は角々に仕切り格子を設け、床に段差をつけて突進をさまたげる。 「お気付かと思いますが、この屋敷には上野介の住む奥座敷のほか奥向の住居が無い。奥が無ければ女は住めず、女の奉公人もおりません」  奥田孫太夫が、そう指摘した。 「すると、吉良殿の奥方は……?」  と、十内が問いかけた。 「お実家《さと》の上杉家中屋敷、白金台《しろかねだい》にとどまって、本所のこの屋敷に入る気配も示しません」 「さもあろう、この戦仕立では居るところがあるまい」  本屋敷は思いきって北隣の旗本屋敷に寄せて建てた。  広くとった庭が攻防の要《かなめ》となる。  見せかけの表庭を越えると、土塀が複雑に入り組んで、幅一間ほどの通路が迷路を作っている。  塀は要処に狭間《はざま》(矢を放つ穴)を作り、内側に踏み板を設け、攻め手を頭上から拳《こぶし》下りに突き伏せる。迷路の溜《たま》り場には底にそぎ竹を植えた落し穴、鹿砦《ろくさい》や木盾なども怠りなく配置している。  土塀を乗り越え乗り越え進むと、水濠《みずぼり》にぶつかる。水かさは胸まである。  向う岸は、高さ三間もあろうという木柵《もくさく》が立ちふさがっている。  裏門側も陣地はそう変らない。土塀が多少簡略化されているが、水濠が幅広い。  水濠は、屋敷のもっとも奥まったあたりの庭さきにある深い泉水池とつながっている。池の水はおそらく前住者が竪川から暗渠《あんきよ》で引込んだもの、その辺が吉良の住居と思われる。  さらに一同を呻《うめ》かせたのは、大屋根の備えであった。  屋根の各所に、風呂桶《ふろおけ》ほどの貯水槽がある。仕掛の綱を引くと湛《たた》えた水は一挙に落ちる。  攻め手に凍水を浴びせる備えか。  大屋根に丸太を積み上げ、木橇《きぞり》の橋を土塀の迷路の上に架けてある。  これも頭上から攻め手を叩《たた》き潰《つぶ》すため、と見えた。  そぎ竹を植えた盾、真竹を敷きつめて足を辷《すべ》らせる一部分の通路、獣狩りの罠《わな》、雑多な仕掛は数えるときりがない。 「屋敷の普請が終り近くなった八月末の頃でした」  前原の実見談に、一同は耳を傾けた。 「奥まった泉水のあたりに、連日かなりの量の新しい土が運び出されました」 「運び出す? 建物の中からか?」 「そうとしかみえませんでした。庭土とは違う褐色の土で……」 「褐色の土……?」  限られた敷地の中で、違う色の土がどこから出たか。  褐色の土に何の意味があるか。  不審はその点に集まった。  と——不破数右衛門が、ぽつりと一言|洩《も》らした。 「抜け穴……かも知れぬ」 「なに、抜け穴だと?」  一座が色めきたった。 「そうだ! 褐色の土は地面の深い底から出たのだ!」 「吉良め……最後の逃げ道を用意したのだ、どこへ抜ける」  先を争うように、数本の手指が奥庭のあたりを辿《たど》る。 「泉水の下は避けるだろう、するとこの方角か……」  屋敷の外までは掘り抜けまい。隣近所に憚《はばか》り多い。人目にも立つ。  屋敷の敷地内でも充分効果があった。一瞬にして攻防の位置が逆転する。  前原が、あッと声をあげた。 「そうだ、侍長屋のこのあたりに、新しい井戸があります。水脈に当らなんだとみえて、使われずにおります」  前原の指が、土塀通路と侍長屋の接する一点をさした。 「…………」  一同の視線が、その一点に集中した。  泥まみれの老人が、その井戸から這《は》い上がる姿が見えるように思えた。 (おのれ……吉良上野め) 「敵もよう考えるのう」  内蔵助は笑って言い放った。 「さすが不識庵《ふしきあん》謙信以来の武の名門だ。並の高家《こうけ》大名づれではこうまで出来まい。いやもう大した兵法ではないか」  不破が、応じた。 「さよう……敵もなかなかのもの、相手にとって不足はありませんな」  ——各々《おのおの》、いま咄嗟《とつさ》に浮ぶ考えもあろう、だがそれはまず腹の中におさめておけ、それより敵の備えをしっかと脳裏に刻みこむことが肝要である。眼を閉じてその様を心象で描けるよう、思いを凝らせ。論議はそのあとである。  内蔵助の説諭で、その日の会同はひとまず解かれた。      三  真新しい湯槽《ゆぶね》の檜《ひのき》の香は、頭の芯《しん》を酔わせるほどだった。  窓の油障子を開ける。  一瞬の冷気が立ちこめる湯気を吹き払った。  内蔵助は、残りの檜の香を楽しみながら、湯槽に身を沈め、ゆるゆると手足を伸ばした。 (ぜいたくなものだ……)  元禄という世相がそうさせるのか、鎌倉という片田舎で檜風呂に出合う、節倹を旨とした赤穂侍の思いの及ばぬ世界だった。  新湯が肌にしみわたる。思わず吐息が洩れた。  この月七日、京を発《た》って十五日の旅だった。  東下《あずまくだ》りを命じた畿内《きない》の同志のしんがりだけに、先発組の事故に備えてゆとりある旅程だったが、なぜか日毎に疲れが積った。  昨年の秋、亡君墓参のためと称し、二ヶ月余をかけて江戸に旅したが、そのころは江戸の同志との意思が疎通せず、討入の目途もたたなかったせいか、気が張りつめ、旅の疲労を覚えたことはなかった。 (体力は、年と共に確実におとろえる)  そのせいか、とも思う。  ある年齢に達すると、それを痛切に思い知るようになる。それと共に人生の終りがほの見えてくる。  ——いのちは、いつか終るのだ。  内蔵助は、そう自覚し、同志にもそう言い聞かせてきた。  だが……。  人はその確かな時を知り得ない。知らないから日々変りなく過す。今日あって明日なきいのち、泣けど喚《わめ》けど生きられぬと知ったら、おおかたの人は精神が萎《な》え、意力|沮喪《そそう》して気死するだろう。  その終りの時を、内蔵助はおのれの意志で決断する。  死を覚悟し、〈近いうち〉と予期している同志ですら、心の奥底に〈まだ生きられるかも……〉と淡く思うそのいのちの終る日を、内蔵助だけが知っている。  ——何月何日、討入る。各々敢死せよ。  それで終る。一人ではない。五十の味方、百の敵、それらが修羅《しゆら》の巷《ちまた》で惨死する。 (あの備えだ。おそらく凄絶《せいぜつ》な殺し合いになるだろう……)  いま、疲れを覚えるのは、そのいのちの重味かも知れない。 (おかしなものだ。わしの心の奥底に、そのような殊勝さがまだひそんでいようとは……な)  内蔵助は、苦笑の顔を、ざぶっと湯で洗った。  風が鳴った。  ほど近い源氏山か、扇《おうぎ》が谷《やつ》の木立であろう、木々の激しく揺れる音のなかに、驟雨《しゆうう》の清韻が奔《はし》る。 (時雨……か)  湯殿の木羽葺《こばぶき》の屋根に、雨脚が軽やかな音を立てて過ぎた。  木羽葺。俗にこっぱ葺ともこけら葺ともいう。槙《まき》・檜などの材木を、手斧《ちような》で薄く削り剥《は》いだ小片を、鱗《うろこ》状に板屋根に張る。  一見安ものに見えるがそうではない。材木の芯の赤身の部分でないと腐り易い。皮に近い白身の部分を捨てるから、檜皮葺《ひわだぶき》よりかえって高価なものになる。  木羽葺は雨声がいい。音が躍る。 (秋は深く、冬は間近い……)  この企てで、内蔵助は思うところあって、慎重に季節をはかっていた。 (討入は、厳寒の候でなければ決行できぬ)  内蔵助は、時雨の音に、その時機の切迫を感じていた。 「湯加減はいかがですか」  上がり場に手燭《てしよく》の灯が動いて、奥田孫太夫が顔を出した。 「うむ、いくらかぬるめだが、わしのような長湯好きには頃あいだ」  孫太夫が掛行燈《かけあんどん》に灯を入れる。 「忠左衛門どのや十内どのはどうしておる」 「ご老体は夕餉《ゆうげ》まで休む、と横になっておられます……歳は争えませんな」 「そうか……どうだおぬし、よければ一緒に入らぬか、ひとりでつかうには惜しい広さだ」 「では……お背中を流しましょうか」  奥田孫太夫、百五十石、馬廻《うままわり》・武具奉行。同志の中では小野寺十内に次ぐ年嵩《としかさ》だが、剣の道では江戸の名門堀内源左衛門道場で、堀部安兵衛と並ぶ逸材、四天王の一人に列している。その鍛えあげた体躯《たいく》は一廻り若い内蔵助と比べても、優るとも劣らぬ頑健さを誇っている。  国家老の頃から、内蔵助は孫太夫を二なきものと重用してきた。いや重宝してきたというべきだろう。剣はいうまでもないが、むしろ剣をきわめることで会得した思慮分別と眼力、胆力、それに剣名による人脈の広さ深さが貴重だった。馬廻という側近役に武具奉行を兼ねさせ、江戸詰ながら国許《くにもと》との連絡と情報の任に当てた。  その参謀としての任務は、ますます重要になっている。年齢を超越した頑健さで、江戸と京を何度も往復した。 「どうだな、先発の者たちは……無事落ちついたか」  内蔵助は、固く絞った手拭《てぬぐ》いで程よくこすり上げる孫太夫に背をまかせた。 「用意した借り家にそれぞれ……主税《ちから》様もどうやらお慣れなされたご様子です」 「面倒をかける、この先も心をくばってくれ、上方《かみがた》なまりは人目にたつ」  大まかに部下任せにみえて、内蔵助は細心だった。 「心得ております」  内蔵助の背に湯をかけながら、孫太夫は話題を移した。 「ところで、上杉の色部《いろべ》ですが……」  色部又四郎安長、羽州米沢十五万石上杉|弾正大弼《だんじようだいひつ》家江戸家老、当代切っての利《き》け者と世評が高い。  当時、侍社会の口伝えの噂や評判は意外に広く伝播《でんぱ》されていた。赤穂浪士の中で、高田馬場の果し合いで高名を馳《は》せた堀部安兵衛など、諸大名の江戸詰藩士はもとより、国許侍でも知らぬ者は無かったと伝えられている。外様《とざま》大名の雄、武の名門として鳴り響く上杉家の在府代表として、譜代大名家を凌《しの》ぐほど権門の信頼厚い色部又四郎の名は、錚々《そうそう》たるものであった。  その色部を、内蔵助は企ての敵として戦い続けてきた。 「色部が何とした」 「ご家老の事を、どう評しておるかご存知ですか」 「はて……どう申しておる」 「ようも次々と、かかる悪だくみを思いつく悪党、いまだかつて見たことがない、生きたまま肉をくらってもあきたらぬ、と洩《も》らしたそうで……」 「大層な憎まれようだの」  内蔵助は、おどけたように眼を剥《む》いてみせたが、くくく……と笑いだし、湯槽《ゆぶね》にざぶりと身をひたした。 「孫太夫よ、おぬしこういう古諺《こげん》を知っておるか。�公論ハ敵讐《テキシユウ》ヨリ出《イ》ズルニ如《シ》カズ�」  公平で妥当な人物評価は、相争う敵方が下すものがもっとも当を得ている、というのである。  たとえ、罵詈雑言《ばりぞうごん》であっても、その裏に適正な軽重の評価が定まっている。  冷えた躰《からだ》を湯槽にゆるゆると入れる孫太夫に、内蔵助は上気した赭《あか》い顔で、事もなげに言った。 「わしは悪人だ、真底そう思う。さすがに色部、よう見ておる」 「…………」  孫太夫は、内蔵助の言葉を俟《ま》った。 「赤穂開城の折、わしは一同に問いかけた。各々《おのおの》は侍として任じておる、そこでたずねる、侍とは何か……」  内蔵助は、湯を肌で味わうように、腕でかき寄せた。 「侍とは、身分だけのものではない、むしろ心栄《こころば》えのものではあるまいか。侍には侍の踏むべき道がある。為《な》さねばならぬ事と、為してはならぬ事がある。自らかえりみて道にそむいたと思うたときは、法を俟たず自裁して終る、それが侍の矜恃《きようじ》というものだ……」  孫太夫は深く頷《うなず》き、魅入られたように瞶《みつ》めた。 「しかるに……われらは不意に主家も領国も奪われた、子々孫々に伝うべき侍の身分を失い、喪家の狗《いぬ》の如く叩《たた》き出された。何のことわり[#「ことわり」に傍点]も示されず、ほしいままに、だ」  内蔵助は、固く絞った手拭いで、濡《ぬ》れた顔を強く拭《ふ》いた。 「これは、仕掛けられた理不尽だ、侍として為すべき事を為さねば道が立たぬ……だが……為すべき事とはなんだ、互いのいのちの取り合いではないか」  内蔵助は、湯音をたてて湯槽を出た。 「人のいのちは何ものにも替えがたく尊いという。相手方のいのちを奪い、味方を死に追いやる、それが悪というなら、わしは悪に甘んじ、悪に徹しよう、それがわしの侍たる道である」  ざっと躰をぬぐった内蔵助は、固く手拭いを絞った。 「世の善悪とは何であろう、何をもって善と悪とを定めるのだ。善の反対が悪ならば、悪の逆が善か、それは立場の違いだけではないか……世に絶対の善もなければ、絶対の悪というものもない。争う者のどちらの立場を認めるか……たとえいまの世に認められずとも、後世はどのように変るか……それにゆだねるしかないのだ」「ご家老……」 「待て、何ゆえそのような危うきことを、と問いたいのであろう、その答はひとつだ、人にはいのちより大切なものがある……」  あとは、独り言のようだった。 「人のいのちは、いつか終る、どれほど惜しんでも必ず終る。……終って後の世に残るものは何だ、金か、物か。そのようなものは、時の流れの中にはかなく消え失《う》せよう。百年、人が記憶し、語り継ぐのは、何をこころざし、惜しきいのちを費しして遂げんとしたか、その行跡しかないのだ」  ばさッ、と、手拭いの水を切った内蔵助は、孫太夫を見返って言った。 「わしは生ぬるく、のめのめと生きるのは好かぬ。激しく生きたいと思う。激しく生きてこそ、いのちの値打ちがある」  湯槽に突ッ立った孫太夫は、出て行く内蔵助の背を瞶めて動かなかった。  時雨はいつしか去って、残りの雨だれの音が跡絶《とだ》え勝ちに聞えていた。      四  明石茶屋は、以前、赤穂浅野家江戸藩邸で台所方だった森与助という者の若後家が営んでいる。  森与助は実直|一途《いちず》の働き者だったが、数年前、突然はらわたのよじれる病で急死した。残された若妻のきよ[#「きよ」に傍点]は、幼い娘を抱えて、藩邸から退転しなければならなくなった。  国許で、奥田孫太夫からその事を聞いた内蔵助は、ふと心を動かした。  内蔵助は嫁ぐ前のきよを記憶していた。  顔の小さい、可愛い娘だった。喋《しやべ》るとき口先が尖《とが》ってみえる、それが可憐《かれん》だった。  ——あの小娘が、若後家か、不憫《ふびん》な……。  十数年間藩財政を担当した内蔵助は、簿外金の一部を撫育金《ぶいくきん》として、物の用に役立つ藩士の補助金に当てていた。  ——これは�撫育�と違うが……。  内蔵助は、数十金を孫太夫に托《たく》して、きよの暮し向きの立つよう計らせた。  元禄年度の一両は百日の労銀に当る。数十金で孫太夫は鎌倉の明石茶屋を居抜きで買い、きよに与えた。  それが思いもかけず生きた。江戸組の秘密の会合や、京へ往復の旅の足場になった。 「そなたに金運があったのだな、なかなかの繁盛と聞いたが……」  翌日、きよは内蔵助の許《もと》へ昼餉《ひるげ》を運んできていた。  朝のうち寄り集ってまた絵図面を検討した一同は、思いを内にこめて、外出した。  若者は江ノ島弁財天に、老人は長谷観音など寺を廻《まわ》る。孫太夫と安兵衛は隠棲《いんせい》した剣客を訪ねるという。内蔵助だけが残った。 「はい、おかげさまで……お湯殿が間に合いました」 「あ……そうであったか、それは済まなんだ」  思いがけぬ事であった。内蔵助の風呂《ふろ》好きは知れ渡っているが、ただ一度の訪れに湯殿をつくるのは並大抵ではない。 「おもてなしできたのも、金運でしょうか」  たちこめた檜《ひのき》の香、木羽葺《こばぶき》の雨声、寄る辺なき女のひたむきな想いがあった。 「……私は、そう思いたくありません」  娘の頃、一、二度見かけただけの内蔵助が、思いもかけず倖《しあ》わせな暮しを与えてくれた。 「私……えにしだと思います、勝手にそう思っています」  内蔵助はあこがれの人だった。ない筈《はず》のえにしの糸が二人をつなげた。きよはその糸にすがりついている。 「そうかも知れぬ、わしもそう思う」 (この女あるじは企てを察知している……)  秘密などいつまでも保てるものではない、強いて隠そうとも思わない。  それより、小さなあどけなさの残る顔、しなやかそうな肢体に心が動いた。 「嬉《うれ》しゅうございます、私にはこのえにしが、たったひとつの生きがいなのです」  盃《さかずき》をおくなり内蔵助はきよの肩を掴《つか》んだ。 「あ……」  思わずあらがいかけて、きよは力を失いなすがままに抱き寄せられた。  内蔵助の脳裏に、一瞬、伏見で契りを重ねた夕霧の顔が、京でむつみあったかる[#「かる」に傍点]の面影がかすめた。 (年甲斐《としがい》もない、吾《われ》ながら好色な……)  そう思いながら、脂粉の香に酔った。  二日後、内蔵助と一同は、鎌倉を発《た》った。  一行は朝比奈《あさひな》峠を越え、金沢八景から神奈川に出て、川崎在の平間《ひらま》村に向った。  平間村の名主|軽部《かるべ》五兵衛は、代々江戸藩邸に出入りして縁深く、企てに協力を惜しまない。その軽部宅で討入の協議を予定した。  問題は、吉良新屋敷の防備をどう破るかである。  難問だった。  ——大石がいない!  京から江戸へ、変報が翔《か》けた。  江戸、外桜田、上杉家上屋敷は、その飛報に震撼《しんかん》した。  ——大石内蔵助は、この月上旬、伏見|撞木《しゆもく》町の遊興諸入費を皆済し、以降、姿を見せず。  異常を知らせたのは、吉良上野介の姻戚《いんせき》である伏見奉行、建部《たけべ》内匠頭政宇《たくみのかみまさのり》である。  遅れ馳《ば》せに、京の諜者《ちようじや》から、惶遽《こうきよ》の報告が入った。  ——京の大石、仮住居の客亭を引払い、姿を消す。吉田忠左衛門、小野寺十内ら腹心の者も行《ゆ》き方《かた》知れず。江戸下向の公算大。  この時期、大石を見失うとは、迂闊《うかつ》きわまる。色部は、呼び集めた藩士に、激しく下知した。 「諜者|細作《さいさく》に使える者を、有らん限り雇い集め、街道筋から千住、品川あたりに配り、大石の動静を突きとめ見張れ!」  藩士が倉皇《そうこう》と散ると、色部は勉《つと》めて興奮を鎮め、沈思した。  昨秋、おおっぴらに下向した大石が、今度は隠密《おんみつ》行動をとった。  日数からみて、もう江戸に入っているかも知れない。 (目と鼻の先に大石がいる?)  姿が見えない。  色部は吾にもあらず戦慄《せんりつ》した。 [#改ページ]   雪 吊      一  江戸、外桜田。  桜田御門を出て内堀の橋をわたると、正面が出羽米沢十五万石、上杉|弾正大弼《だんじようだいひつ》の上屋敷である。  その上杉屋敷には、早朝から大勢の植木職が入って、雪吊《ゆきづり》が始まっていた。  冬が迫っている。降雪に備えて庭木の枝を縄で吊る。幹の頂点から傘状に縄を張る。その雪折れを防ぐ仕掛けを雪吊という。  その頃の江戸は今よりかなり寒く、大雪はめずらしくなかった。そのため大名屋敷や神社仏閣の庭の雪吊は、欠かせぬ行事だった。  その日ばかりは職人の天下である。ふだん聞きなれない荒い職人言葉や掛け声が、屋敷内に飛び交う。  その喧噪《けんそう》が、容赦なく屋敷のなかへ流れこんでくる。 (少しは遠慮をわきまえんか、下司《げす》どもめ)  用部屋で、遅ればせに到着した京の諜者の知らせに眼を通しながら、色部又四郎は苛《いら》だちを抑えかねていた。  上杉家江戸家老、色部又四郎安長。小鬢《こびん》に若白髪が少しまじっているため、年はやや老けてみえるが、白皙《はくせき》の整った顔は美形といっていい。鋭く細い眼と、薄く引き緊《しま》った口許《くちもと》は冷たく、時に小憎らしくさえ見える。  祖は越後《えちご》の土豪であったという。長尾|政景《まさかげ》に仕え重臣となり、輝虎《てるとら》入道(謙信)が上杉家を相続してこの方、上杉家の重役に列し、景勝《かげかつ》以来、代々江戸家老職を歴任する家柄である。  京の知らせは、畿内《きない》の赤穂《あこう》浪人の件であった。  ——大石父子、不破|数《かず》右衛門《えもん》のほか、九月半ばより姿を消し、行き方知れずの赤穂浪人、左の如く……。 (在京)小野寺十内、同幸右衛門、早水《はやみ》藤左衛門、貝賀弥左衛門、近松勘六、武林唯七《たけばやしただしち》。 (在伏見)菅谷半之丞《すがやはんのじよう》。 (在大坂)原惣右衛門、千馬《ちば》三郎兵衛、矢頭《やとう》右衛門七《えもしち》、中村清右衛門。 (在加東)吉田忠左衛門、同|沢《さわ》右衛門《えもん》、間瀬《ませ》久太夫、同孫九郎、木村岡右衛門。 (在赤穂)間《はざま》喜兵衛、同十次郎、岡島|八十《やそ》右衛門《えもん》……。  色部は、中途で投げ出した。 (個々の姓名などに用はない……)  大石|内蔵助《くらのすけ》の行方を見失った諜者は、懸命に駈《か》けずり廻《まわ》って、わずかな日数のなかで京・大坂から赤穂まで調べ廻った。  急場のことだから、多少の落ちもあろう、大しくじりを少しでもつぐなおうというその気持ちは、わからぬでもない。  だが、色部はその見当外れが腹立たしいのである。赤穂浪人の一人一人に、どれほどの才覚、いかほどの武芸のたしなみがあろうとも、所詮《しよせん》は素浪人なのである。飛車角の働き、桂香の飛びようがあっても、将棋の駒は駒でしかない。  問題はその差し手なのだ。  大石は、緒戦で詰みかとみえた局面で、起死回生の妙手を放つと、五十を越える駒を掴《つか》んで勝負を挑んできた。その一手一手はおそろしく辛辣《しんらつ》だった。そして玉の吉良《きら》を追いつめにかかっている。  色部もまた、上杉十五万石と、天下を動かす柳沢|美濃守吉保《みののかみよしやす》(前年までは、出羽守《でわのかみ》保明と名乗る)を手駒に、縦横に奇手を発して、相手方を封じこめにかかった。  玉を取るか、差し切るか。  大石が動けば、局面が変る。眼を離すなとくどく命じておいたのが、肝心のそれを見失ってもう二十日余りになる。箱根以東の街道筋から江戸市中に、可能な限りの密偵・諜者を動員してさぐらせたが、一向に消息が掴めない。  上杉十五万石が、五、六十の素浪人徒党、殊にそれを統率する一人の智恵で、いいように弄《もてあそ》ばれている。色部はその敗北感と戦っていた。 「お待たせ致した」  表書院に迎えるほどの来客ではなかったので、色部は小書院で会った。  客は小林平八郎である。高家《こうけ》吉良|上野介《こうずけのすけ》の譜代の家老で、上野介|義央《よしなか》の名乗の一字を貰《もら》って央通《ひさみち》と名乗っている。三十歳を過ぎたばかりの若々しさで、身の丈並より高く筋骨たくましい、髭《ひげ》の剃《そ》り痕《あと》の青々とした面高の顔、顎《あご》をつき出すように話す。強い体臭の匂うような精悍《せいかん》な面構えである。  武張ったことを好み、それなりに刀槍《とうそう》の腕前もなかなかのものだという。  吉良屋敷の侍大将として頼むに足る、と吉良・上杉両家の評価が高い。  だが、色部は好きではない。 (高家、という家柄の家老職には、似つかわしくない男だ)  色部は見かけが凜《りん》として強そうな男を好まない。人の性根は見かけの顔立ちではない、整いすぎた顔は器量の小ささをあらわす。 (侍は、おのれの容貌《ようぼう》に責めを負わなければならない)  それが色部の信条だった。美醜は問わないが卑しさは救いがたい。男の容貌は精神の高さと意志のあらわれである。 「お申し越しの条々、たしかに承りました。本所のお屋敷は早速非常の備えに入っております」  ——京の大石、江戸に潜入の模様……。  色部は、諜者《ちようじや》の網を張りめぐらす一方、吉良の屋敷へ通報しておいた。 「非常の備え?」 「さよう、屋敷うちの侍衆を三ツ割にして、一手は常時そなえにつき、一手は控えとして詰めさせます。残る一手はお長屋で休みをとる、というわけで……」 「昼夜を問わず……?」 「もとより、二六時中それを続けます。外出《そとで》は昼の間、十人あて一人……二|時《とき》(約四時間)を限り、門限は暮六ツをきびしく守ります」 「ずい分ときびしいことですな」  色部は苦笑にまぎらわすほかなかった。警戒の呼びかけに反応が速いのは結構だが、鋭敏すぎるのは困る。刃物と同じで切れ過ぎるものは折れ易い。 「どうも当方の申し入れの趣旨をはき違えておいでのようだ。われらは機に臨み変に応ずるよう心構えをお持ちいただきたいと申し上げたまで。いくさ備えに入るのはまだ時機尚早と思われるが……」 「では……」  思わず勢いこんだ小林は、冷たく一瞥《いちべつ》した色部の眼にたじろいだ。 「何かな?」 「は……お言葉を返すご無礼の段は平《ひら》にお詫《わ》び申し上げまするが、赤穂の浪人どもが今日にも襲って来ぬと、ご確約願えましょうか」  小林平八郎は、反発心をむきだしにしてつめよった。 「いや……それは無理だ」 「色部どの」 「断言はできぬ、相手あっての事だからな」 「ならば……」 「まあ待たれい、これは口でときあかすことはむずかしいが……戦機というものがある」 「戦機?」 「大石という男、これまでに一年と八ヶ月の間、われらと駈け引いて機を窺《うかが》った。それがいま、京より江戸に出張って五日十日の間に事を起こすとは思えぬ……きゃつめ、慎重が上にも慎重にこちらの備えをさぐり、検討し、策を練り……その上で戦機をはかる」 「では、その戦機はまだ来ぬと……?」  色部は、頷《うなず》いてみせた。 (この程度の侍に、大事の備えを委《まか》さねばならんか……)  色部又四郎は、自分自身が二人欲しかった。      二 「少々お邪魔するがよろしいか」  小林平八郎が辞して帰ったあと、暫《しばら》くして用部屋に、御留守居《おるすい》役の浜岡庄太夫があらわれた。  御留守居役というのは、公儀や大名諸家との折衝や打合わせに当る交際役目であり、時には裏の工作を画策するため、特に練達の士を当てる。  浜岡は、三十年近く御留守居役をつとめている。身分は家老に次ぐ物頭《ものがしら》格だが、職歴では色部よりはるかに長い。 「いや、ご遠慮なく……で? 何か……」 「余の儀ではない、ご出府中の千坂《ちさか》様だが、明朝、ご帰国になられるとのことでござる」 「明朝?」  足許《あしもと》から鳥が飛びたつような話である。  千坂家は、上杉家累代の筆頭家老職で家禄《かろく》は一万石、大名並の家格を誇る。  国許にあって領国の治政に当る国家老が、江戸に出府することは一代に三、四度あるなしが通例である。  先代千坂|兵部《ひようぶ》高房は、元禄十三年、八十七歳の高齢で死去し、当代|高就《たかなり》は、還暦を過ぎて跡目を継いだ。尤《もつと》も三十歳台から父の補佐役を務めたから、名実ともに老巧の聞えが高い。  当代千坂兵部は昨年夏にふいに出府し、半月あまり滞在した。吉良が刃傷《にんじよう》に見舞われて四、五ヶ月の頃であった。色部は将軍家|御側用人《おそばようにん》の柳沢出羽守保明(年末、美濃守吉保と改名)と結んで、刃傷事件の事後処理に当っていた。  それを千坂兵部が知らぬ筈《はず》がない。当然報告を求め、意見をさしはさむだろうと思って心待ちにしていた。だが千坂は、出府早々に儀礼的な対面をしただけで、ひと言も事件に触れず、突然帰国してしまった。  あとでわかったことだが、千坂は江戸滞在中、柳沢保明や吉良上野介を訪れ、意見を交している。  無視された態《てい》の色部は失望と憤懣《ふんまん》を洩《も》らしたが、やがてそれは軽断とわかった。千坂は各方面に色部支持を明言し、支援を請願して廻っていた。  それから一年——。  還暦をとうに越えた老体が、山坂多い奥州《おうしゆう》道中百余里を踏み越えて、また出府してきたのである。  到着の日に挨拶《あいさつ》を交したが、別段用向きを告げず、旅疲れを忘れて翌日から留守居役の浜岡を相手に書類調べに没頭する傍ら、一、二度|音物《いんもつ》(贈物)を調え外出した風であったが、またしても突然帰国するという。 「いやはや、何とも急な事で驚くほかないが……千坂様は御帰国前に茶を馳走《ちそう》したいとのお言づけでござる、ご多忙とは思うがお暇を割いて貰えまいか」  奥庭の泉水近くに、雑木の木立を背にした茅葺《かやぶき》屋根の風雅な茶室がある。  炉の霰釜《あられがま》が、松籟《しようらい》の音を伝えている。さすがに千坂の手前運びはみごとなもので、鉄紺色の結城紬《ゆうきつむぎ》の着流しに薄茶の帯の色合いが、千坂の人柄の深さをあらわしていた。 「又四郎は確か大変の年の生れであったな」 「は、さようですが……」  上杉家にとって�大変の年�とは、三十八年前の寛文《かんぶん》四年(一六六四)をいう。  その年の五月、先代藩主綱勝が急逝した。  五月一日の夜、綱勝は妹富子の嫁ぎ先、高家《こうけ》吉良上野介義央の屋敷に招かれ、饗応《きようおう》をうけた。当時吉良義央は二十四歳、聞えた美男子で、一歳年上の富子も艶麗《えんれい》の年増《としま》ざかり、好一対のめおとぶりであった、と伝えられている。  三十万石の大大名の姫と、四千三百石の高家の縁組は、一見不釣合にみえるがなかなかそうでない。高家は〈太平記〉で知られた足利《あしかが》家の直系血族で、室町幕府の公方《くぼう》(将軍)の継嗣なきときは、そのあとをつぐことになっていた家柄である。  徳川幕府においては、元和《げんな》元年|家康《いえやす》が、石橋・吉良・品川の三家を式部の司《つかさ》として登用したのに始まり、元禄《げんろく》年間には三十数家が、高家に列した。吉良はその高家筆頭、然《しか》も京都朝廷にかかわる事務専任の、肝煎《きもいり》という役職を占める名家である。  高家の職事は、京都朝廷の応接・営中礼式の掌典などで、家禄は五千石以下だが、ほかに役料八百俵、職禄は千五百石、それに指導をうける大名から、附届として御役前と御役後に金馬代大判一枚ずつ(計二枚、二十両)を受取るのが例として認められていた。  平生《へいぜい》、高家は国持大名と懇親を結び、�昵懇衆《じつこんしゆう》�と称してその大名から節季毎に内証金を受取り、その代償として営中式事に参会するその大名を手助けした。そうした別収入のため、殊のほか裕福であった。  それに官位が高い。大名の雄の上杉家当主は従《じゆ》四位下侍従、並大名は従五位下だが、吉良は四位少将である。  加えて吉良義央には有力な血縁があった。  義央は十三歳の折、将軍家お目通りが許され、家督相続前の十七歳で役料千俵、親子共々高家の職をつとめた。それは、義央の実母が、時の大老酒井|讃岐守忠勝《さぬきのかみただかつ》の姪《めい》という縁引《えんびき》(縁故の引立)によるものであった。  幕閣枢機の任にある大老の血縁という事も、縁組に力をそえた。  異変は、その一夜の宴のあとに起こった。夜半帰邸した上杉家当主綱勝は、俄《にわ》かに吐血し、重態となった。すぐさま医薬の手を尽したが、容態は回復のきざしなく、数日後に世を去った。  綱勝はまだ子息に恵まれず、養子も定めていない。 �大名、嗣子なく死去の際は廃絶�とは、天下の定法である。  名門上杉家は、一挙に喪亡の危機に陥ることとなった。  上杉家の親類縁者と、先代千坂兵部ら上杉の重臣は、鳩首《きゆうしゆ》協議の末、亡き綱勝に最も近い血筋の吉良義央の嫡男三郎を迎えて養嗣子とし、幕府に家督相続の許可を願い出た。  だが、�末期《まつご》養子を認めず�も、定法である。死にぎわの養嗣子を認めると、廃絶の条文が死文化してしまう。  ——上杉家の養子相続は認めがたい。  その無理を承知で、必死の政治工作が続けられた。 「あのころは、毎日が針の山に攀《よ》じ登る心地であった……」  先代千坂が述懐したように、日々が哀訴|歎願《たんがん》に明け暮れた。  幕閣から御三家・親藩・譜代の有力者、大奥まで、金品が惜しげもなくばら撒《ま》かれた。  親類の大名旗本が駈《か》けずりまわる中で、ひときわめざましく働いたのは、養嗣子三郎の実父吉良義央であった。  かつて破格の縁引を惜しまなかった母方の大|伯父《おじ》、酒井忠勝は数年前に世を去っていたが、長年大老職にあって幅広く培《つちか》ったその人脈は若狭《わかさ》酒井家に伝わっていて、まだ枯れていない。  加えて、義央の長女は薩摩《さつま》島津家の嫡男に嫁ぎ、ゆくゆくは御前様(当主の正室)が約束されている。  義央自身、役目柄京都朝廷に親しく、また時の幕閣や有力大名に手づるも多い。  彼はそうしたつながりを存分に活用して、裏面の工作に奔走した。  ——戦国の世に、天下無敵の勇名を馳《は》せた不識庵《ふしきあん》上杉謙信公以来の武門が、ほろび絶えるのは如何《いか》にも忍びがたい。  吉良が掲げたその名分は、幕閣を動かした。  出羽米沢三十万石は、半知十五万石に減じて相続が認められた上、時の将軍家綱の尊名の一字が下賜《かし》され、綱憲《つなのり》の名乗が許された。 「吉良|有而《あつて》、上杉|有《あり》」  義央はそう揚言するが、過言ではなかった。      三 「吉良殿の働きは眼を見はるものがあった。父高房をはじめ重役一同も及ぶ限りの力を尽したが、奥羽の田舎侍の遠く及ぶものではなかった」 「…………」  色部は敬意を表情にあらわして頷《うなず》いたが、眼許《めもと》の冷やかさは隠しようがなかった。 (高家の伜《せがれ》が、由緒ある大大名に成り上がるのだ。その親が懸命に働くのは当然ではないか。そのようなむかし話に時を潰《つぶ》されてはかなわぬ……)  色部は、気もそぞろに、床の軸に眼を遣《や》った。  当時、世に数枚画き遺《のこ》したという宮本|武蔵《むさし》筆の枯木|鳴鵙《めいげき》図である。画中のもずが、色部の憂悶《ゆうもん》を、冷やかに瞶《みつ》めるかのようであった。  細口花瓶の、熟した烏瓜《からすうり》の実が、鮮紅の血のように見えた。 (大石が、いま……この江戸にいる)  まさか、五日や十日のうちに襲ってくることはない、そう確信してはいるが、眼に見えない敵、所在のわからない相手というのは、隙間風のようにうそ寒い。不安感は否めないのである。  そのため、市中に諜者《ちようじや》や細作《さいさく》が駈け廻っている。だが当時、人口五、六十万を越えるといわれた大江戸で、その消息を掴《つか》むのは至難のわざだった。 (時が大切なのだ)  打ちたい手、打たなければならない手は、まだ山ほどもある。 「又四郎」  千坂のおだやかな顔の表情は変らないが、その口調に凜《りん》としたものが感じられた。 「は……」  もともと小柄な千坂兵部であった。その福々しい顔の髷《まげ》は一髪の黒さをとどめず、長い眉毛《まゆげ》も白くたれ下がっている。その温厚そのものの容貌《ようぼう》のなかで、小さな眼許だけがきびしくひきしまっている。 「由なき老いのくり言、と思うであろうが、わしは多忙なおぬしを父の思い出話に呼んだのではない。いまのおぬしの難しい立場に気付かぬほど、おいぼれてはおらぬつもりだ」  千坂は、語調を落すと、自らに言い聞かせるような低い声になった。 「千坂の家は、代々|社稷《しやしよく》の臣をもって任じておる。このいのち、いつ果てようともその志は変らぬ。それが侍の本分である……」  社稷の臣。中国五経の一つ〈礼記〉に、国の安危・存亡を一身の任とする臣、とある。 「三十八年前、上杉の家中は国とお家の存亡にいのちを賭《か》けた。当時いろいろと論議はあったが、ご先代急死の因など構っておるゆとりはない。お血筋の近いのを唯一の頼みに、天下の法の隙をうかがうのに必死だった。そのためには重職にある者は残らず腹切って、御公儀と世人の情けにすがろうとさえ思ったのだ。おぬしの父、先代色部又四郎もその一人だった」 「…………」 「おぬしはその大変の年に生れ、事おさまってのちに育った。社稷の臣という言葉も、文字では知るがその重味を体得しておらぬ。だからおぬしは万全の策を構えて、赤穂浅野をほろびの淵《ふち》に投げこんだ。むかし米沢上杉は同じ淵から半身《はんみ》を捨てて浮んだが、赤穂浅野は石くれのように沈んだ、だが……おぬしは社稷が起こす水の波紋に考えが及ばなんだ。その波紋はとどめようもなく、上杉・吉良の両家に襲いかかってきた。社稷というのはかほど重いのだ」  千坂は霰釜《あられがま》に水を差《さ》して、耳ざわりになった松韻をとめた。 「お言葉を返し、ご免を蒙《こうむ》りますが、てまえは……」  千坂は、首を横に振った。 「昨年春以来のおぬしの仕様に難をとなえるつもりはない、いや、めざましい手際とほめておこう。だが……事に当って、武鑑ひとつ調べなかったのはどういうわけだ」  武鑑。諸大名の家系・紋所から本国・居城、知行高、重臣などを記した書物で、江戸の書肆《しよし》が売り出す。  諸藩の重役、殊に江戸詰の者は諸大名との交際や折衝上、ほとんど諳《そら》んじるほど眼を通す。赤穂浅野についても例外ではなかった筈《はず》である。 「大石内蔵助は代々筆頭家老でありながら、ここ十数年、城代(執政)を次席の大野|九郎兵衛《くろべえ》にゆだね、もっぱら勝手方、金銀算用にたずさわっておった……気付かなんだか」  耳が痛い。武鑑には明らかに〈城代・大野九郎兵衛〉とあった。 「赤穂の城明渡しの際、藩札は一万二千両ほど出ておった。世間並なら四分替五分替で済むものを、六分替七千二百両あまりで回収して、なお金蔵に一万六千両の納戸金《なんどきん》があったというぞ。それを悉皆《しつかい》家中の者に分ち与え、微禄軽輩まで三年五年は見苦しい暮しをさせぬよう計らった後、吉良、上杉を相手に駈引し、上杉十五万石を借財の山にしおった……」  色部は眼を伏せた。思い当ることは山ほどある。二度にわたる吉良屋敷の改築新築費、柳沢吉保へ度々の莫大《ばくだい》な附届、諜報費、吉良警護の侍の手当と諸経費……栓の抜けた樽《たる》のように流れ出て行った金、金、金。  もともと上杉家は富裕とは言いがたい。羽州米沢は寒冷であり、物産も豊かではない。それが当代綱憲相続の際、半知減領となった。  だが、武の名門上杉家は、一人も家臣を召放さなかった。国家老千坂兵部以下家禄を一部返上したが、それで足りる筈もなく、財政は傾いた。 「五、六十という侍を動かすには、相手も万を越える金を費《つか》っていよう。大石という男、五万三千石の身上でそれほどの算勘が立つとは羨《うらやま》しい侍よ。当節算勘の立たぬ侍は物の用に立たぬというがまことだな」  だが……と、色部は心の中で反発する。 (くどい……これは金銀算用の駈引ではない。武門の面目が立つか立たぬかの事だ、たとえ借財の山を築こうとも、赤穂の素浪人に武名を汚されてはならんのだ)  二人は口をつぐみ、沈黙の時が流れた。 「もうよい……わしはおぬしのした事に非を打つ気はない、非常の時に止むを得ざる仕儀であったと認めておる、だが……相手は狡猾《こうかつ》この上ない。おぬしはその一点で相手に劣る」  色部は大石ら赤穂の残党を、柳沢の権力と上杉の武力、それにおのれの智略で抑えこもうと、真正面から立向った。  大石は、これまで権力をさか手にとり、武力を避け、最も弱体の吉良にのみ策略を集中し、次第に窮地に追いこんだ。  ——まともに戦いすぎる、おぬしは、まだ若い……。  千坂が言いたかったのは、その点である。それが呑《の》みこめぬほどの色部ではない。 (おれが小林平八郎を見るほどにしか、千坂はおれを評価していない)  その思いが、若い色部の頭をたぎらせた。 「頂門の一針、ありがたく拝聴つかまつりました。では……」  色部は丁重に拝礼すると、にじり口にすさった。 「あ、待て」  色部は動きをとめた。 「わしにいささかの策がある、用いる用いぬはおぬしの心任せだが……明日までにとりまとめておこう」  ——話はそれだけだ。千坂は目顔でそう伝えた。      四  川崎在、平間村は、多摩川の西岸、大師河原弘法の道をさかのぼり、矢口の渡しを過ぎたあたりにある。  村は鎌倉時代から開けたゆたかな土地で、人の出入りが少なく、村民のつながりが深い。噂が洩《も》れにくいから密議に最適だった。  名主の軽部五兵衛宅は、苗字《みようじ》帯刀御免の家柄にふさわしい豪農で、川を背に斜面を利用した三層、三棟の家宅を持ち、内蔵助一行はその最上層の棟を借り切った。  同じ日、江戸から大石瀬左衛門、間瀬久太夫、片岡源五右衛門、堀部|弥兵衛《やへえ》、赤埴《あかはに》源蔵ら幹部が陸続と集い、一行と共に吉良屋敷攻略の作戦会議に入った。  協議は難航した。三倍を越える敵勢、難攻不落の備え、限られた時間、その悪条件を如何《いか》に打破するか。一同は吉良屋敷の絵図面を前に、ただ歎息《たんそく》を洩らすのみであった。  打開の目途もたたぬ間に、一日が過ぎ、二日目も終った。  協議は、十二畳間と八畳間の間の襖《ふすま》を取払った広間で行われている。内蔵助は初日、暫《しばら》くの間加わっていたが、奥の居室に閉じこもって姿を見せなくなった。これはいつものことで、議論が紛糾したり、逆に停頓《ていとん》したりすると、座を外す。まとまった意見が述べられるようになるまで、勝手に喋《しやべ》らせた方がいい、というのが持論である。  寒がりの内蔵助は、家人に頼んで行火《あんか》をしつらえて貰《もら》い、終日しがみつくように抱えて眠るともなくうつらうつらしている。そのさまはとても不惑を過ぎた年とは見えず、老人めいてうつった。  居眠りに飽きると、時折気の合った小野寺十内や不破数右衛門を呼ぶ。きまって囲碁の相手を言いつける。さすがに惣《そう》参謀の吉田忠左衛門だけは遠慮した。 「どうだ、何か面白い意見は出ぬか」  相手は、小野寺十内である。 「いや、一向に……思案投げ首という態《てい》たらくですな」 「無理もない、こちらも必死なら相手も必死、当代一の利《き》け者と評判の色部が脳漿《のうしよう》を絞っての防ぎの備えだ。われら田舎侍がよってたかっても、そうたやすく手だてが見つかるわけがない」  内蔵助は、十内の構えた布石に、素早く切りこんだ。 「その手はちと無謀ですな。こうかこまれたらどうします」  内蔵助の碁は、そううまくない。勝負事は人の性格をあらわすというが、この人が……と思うような無茶な手を打つ。とどのつまり、のたうち廻《まわ》って大きな石が死ぬ。  ——やあ、参った参った。そんな妙手があったか。負けた、負けた。  勝ち負けには淡泊なたちであった。だが、さすがに生き死にとなるとねばり腰が抜群だった。局面よりその方に執着が強い。 「まあ、あせることはない。まだ日は充分にある」  笊碁《ざるご》の常で、半時《はんとき》(約一時間)とたたぬ間に終って、また次の一局を始めた内蔵助は、そう言った。 「日をかければ解けましょうか、この難局」  十内が沈鬱《ちんうつ》な顔を向けると、内蔵助はにこやかな笑顔を見せた。 「解けるとも、人が作ったことがらに、解き方がない筈がない」  茶室で千坂と会った翌朝、色部は初霜を踏んで藩邸内の御客長屋を訪れた。  長屋というが、藩の重要な客の泊る屋敷である。築地塀《ついじべい》をめぐらせた堂々たる門構え、結構な庭もある建物で、色部が住む家老長屋(小屋敷)より数段まさる。累代の宿老千坂兵部は、出府の際、特命で使用が許されている。 「なに、もう発《た》たれたと?」  まだ六ツ半(午前七時頃)を過ぎたばかりである。  御客長屋では、千坂の滞在中身の廻りの世話に当った中小姓の脇田|主馬《しゆめ》が、中間《ちゆうげん》小者を使って後片付けをしていた。 「もう半時あまりになります。年寄は足が遅いゆえ早発ちすると仰せられて……」 (きのうの話は、何であったのか)  明日までに策を取りまとめておく、と言ったその今日である。忘れる筈がない。  踵《きびす》を返す色部の眼に、表庭の南天の実が、色あざやかに赤く映った。  色部は、思いあぐねて半日を過した。その昼下がり、勘定方から知らせが届いた。長年出入りの木場《きば》の材木問屋|岩代《いわしろ》屋から、三千両の金が届いた、という。 「ご家老の千坂様のお申し付けで、今日のうちに是非にも調達するようにとのことで……」  またしても借財に違いない。世に〈千両成金〉という。千両あれば金持といえる。それが三千両である。いったい何に使う金か。  程なく、御留守居役の浜岡庄太夫が、一通の封書を届けに来た。 「金子《きんす》が届いたら、そこもとに手渡せと千坂様のお言いつけでな」  封書の中味が、千坂の策であることに間違いない。色部はひとり心を静めて封を解いた。  なかは一行の文字であった。読むなり色部は激しい衝撃をうけた。 (これか、これが秘策か……)  三千両の金と一行の文字は、色部がこれまで構えた数々の智謀計略を根底からくつがえすものであった。 (これしかないか……)  凝然と動かぬ色部の脳裏に、一年有半の積る思いが、走馬燈のようにめぐった。 (あの時……ああするより手はなかったか……?) [#改ページ]   春 雷      一  元禄《げんろく》十四年(一七〇一)三月十四日。  朝から雲低く垂れこめ、不快な温気《うんき》に腋《わき》が汗ばむほどであった。  外桜田の上杉家上屋敷で、色部又四郎は、早目の中食《ちゆうじき》をとっていた。 「ご家老、一大事にございます」  用部屋に駈《か》けつけた馬廻《うままわり》の若侍が、急を告げた。 「つい今し方、御城中において、高家吉良《こうけきら》様が刃傷《にんじよう》をおうけなされた由にございます」 「なに! お怪我は?」 「それが、一向に……」 「相手は? 何者だ」 「それも未《いま》だ……」  ——物の用に立たん!  カラリ、箸《はし》を投げだした色部は、登城の支度を命じた。 「麻ではない、継上下《つぎかみしも》だぞ」  登城、といっても、江戸城は陪臣(大名の家来)の登城は許さない。従って最上の礼服である麻上下を着用しても、何の役にも立たない。  大名の登城の供も、大手御門の下馬札《げばふだ》で馬を下り、御門を入って下乗橋までである。橋の手前で駕籠《かご》乗物を下りた大名は、先箱一人、供頭《ともがしら》、傘持、草履取の一士三僕だけを従えて徒歩で橋を渡る。  供揃《ともぞろい》は、橋手前の広場で、下城の時まで待つ。  下乗橋を越えた大名は、三ノ御門、中ノ御門、御書院御門を経て、御玄関に達する。その道のりは数町(約四、五百米)に及ぶ。  御玄関前には、かねて差廻しておいた刀番の侍が、佩刀《はいとう》を受取り捧《ささ》げ持って、供頭以下と共に、下城の時まで立って待つ。  異変の知らせは、営中の騒ぎに供頭が御玄関先から馳《は》せ戻って、供揃に告げたに相違ない。だとすれば、供頭に代って御玄関までは行ける、と、色部は咄嗟《とつさ》に思案した。 (なに、遠侍《とおざむらい》(警衛の番士の控部屋)までは入ってみせる)  御玄関を上がると、遠侍がある。警衛の番士なら正確な消息がより早く入るに違いない。色部は混乱にまぎれて入りこむため、営中の番士の衣服である継上下を命じたのである。  事は四ツ半|刻《どき》(午前十一時頃)に起こった。  播州赤穂《ばんしゆうあこう》五万三千石の藩主浅野|内匠頭長矩《たくみのかみながのり》が、高家筆頭、四千三百石吉良|上野介義央《こうずけのすけよしなか》に、突然刃傷に及んだ。  場所は松ノ御廊下というのが定説になっているが、これは納得し難い。江戸城中は大名といえども勝手に歩き廻れるものではない。浅野内匠頭のような柳ノ間詰の大名は、お許しなりお呼び出しがあって、案内の者が付かなければ、松ノ御廊下を通ることはなかった。刃傷はその詰ノ間である柳ノ間の出来事だ、という説が最も当を得ている。またその模様も、内匠頭は逆上のあまり意味不明の言葉を吼《ほ》えるように叫んだ、とも言うし、あせってつんのめり、たたみにざっくり斬りこんだ、ともいう。  浅野内匠頭は三十五歳、吉良上野介は六十一歳、当時の平均寿命が四十歳程度であることからみれば、浅野は壮年である。その浅野が老年の吉良を討果せなかったのは、当日の礼服の違いにあった。浅野は大紋|長袴《ながばかま》、ぶかぶかの衣裳《いしよう》に長い袴を引きずっている。高家の吉良は狩衣指貫《かりぎぬさしぬき》袴で、身の自由が利く。浅野がつんのめったのは、両足それぞれ三尺余りも引きずっていた長袴のせいであろう。  それでも吉良は手疵《てきず》をうけた。眉間《みけん》と後肩《うしろがた》の二ヶ所、どちらも浅手で、後の討入のとき、赤穂浪士は疵改めをしたが、痕《あと》も残っていなかったという。  浅野は、居合わせた御台所《みだいどころ》御留守居役、梶川与惣兵衛《かじかわよそべえ》に羽交い締めにされ、あとは抵抗する様子を見せず、取り押えられた。  報告をうけた御側用人柳沢|出羽守《でわのかみ》保明は苦り切った。 (とほうもない厄介ごとが起こった……)  これは処理のむずかしい不祥事だった。  御側用人ではあるが、三年前〈老中の上位に列する〉との上意により、大老格の扱いをうけ、政治権力を一手に掌握した柳沢保明にとって、この降って湧いた不祥事の事後処理は、彼の手腕を試される最初の機会となる。  二十一年前、将軍職に就いた綱吉《つなよし》は、当初、越後高田《えちごたかだ》松平家のお家騒動を、自らの専断で断罪した気鋭はいつしか消え、齢《よわい》五十を過ぎる頃から煩瑣《はんさ》な政治に倦《う》み、迷信に傾き、女色に溺《おぼ》れ、政務は悉《ことごと》く寵臣《ちようしん》柳沢保明にゆだねてかえりみなくなっている。  この異変につき、柳沢保明から報告をうけた綱吉は、 「……そちに委《まか》す、よきように始末せい」  と、不機嫌をあらわにしたのみであった。  そうなると柳沢の責任は重い。万に一つの手落ちがあれば、その声望に傷がつく。  柳沢はとりあえず、当日の行事の処理を自ら指図して取りさばいた。  この日、勅使・院使が登城して、将軍に対面、その奉答をうける。年中行事のなかで最も重要な儀式である。年頭に京の主上に御祝儀を奏上した儀礼の最後の締めくくりであった。  浅野内匠頭は、その勅使、柳原|前権大納言資廉《さきのごんだいなごんすけかど》、高野前権中納言|保春《やすはる》の御馳走《ごちそう》役、院使である清閑寺前権大納言|熈定《ひろさだ》の御馳走役は伊達左京亮《だてさきようのすけ》、吉良上野介は両名の御取囃《おとりはや》し役(儀式典礼指導役)であった。  勅使御馳走役とその御取囃し役が、儀典の直前に不祥事を起こしたのだ。だが柳沢はひるむ色を見せなかった。  ——行事を他日に延期するか否かは、勅使の御意向次第……。  と、一応は下駄を預けておいて、同役、品川|豊前守《ぶぜんのかみ》を通じて�御清め�の金品を贈り、差支えなしの御|沙汰《さた》を頂く一方、御馳走役交替を下総《しもうさ》佐倉戸田|能登守忠真《のとのかみただざね》に命じ、儀式の場を御白書院から御黒書院に代えて、その日のうちに滞りなく済ます段取りをつけた。  儀式は一|時《とき》半(約三時間)遅れただけで進行した。その手際には、幕閣をはじめ参列の諸侯も驚嘆した。 「誰かある」  次々と指図を下す柳沢は、合間に表小姓を呼んだ。 「その方、外桜田の上杉屋敷に使いせい。家老の色部又四郎に、急ぎ吹上《ふきあげ》ノ御庭、寅《とら》ノ腰掛に参るよう……あ、いや、待て」  柳沢は、思いついて声をひそめた。 「あやつのことだ、この異変を聞いて屋敷にとどまってはおるまい。御玄関先か、事によれば遠侍にまで入りこんでおるやも知れぬ。見て参れ」  表小姓は、急いで立った。      二  八ツ刻《どき》(午後二時頃)すぎに、勅使・院使が登城し、御黒書院で将軍奉答の儀式が始まると、柳沢は本丸御殿裏の吹上ノ御庭に向った。  吹上ノ御庭は、いまの宮中吹上|御苑《ぎよえん》である。武蔵野《むさしの》の面影をそのままとどめた庭園には、梅、小松、楓《かえで》、山毛欅《ぶな》、楢《なら》、櫟《くぬぎ》などの疎林が散在し、えも言われぬ風情《ふぜい》である。  寅ノ腰掛は、御庭の北西端、楓の木立の外れにある黒鍬《くろくわ》ノ者(将軍出向の際の荷物運び役)の休小屋で、御成りの時以外は使われない。板敷の間に囲炉裏一つの簡素な造りだが、密議には格好の小屋であった。  小屋にはすでに色部又四郎が来ている。まんまと遠侍に入りこんだ色部は、柳沢の命をうけた表小姓と出合い、この寅ノ腰掛に案内された。待つ間もなく御目付の調べ書が届けられた。  浅野内匠頭の審問に当った御目付は、多門《おかど》伝八郎、近藤平八郎の両名。吉良上野介には大久保権左衛門、久留《くる》十左衛門。刃傷《にんじよう》をとどめた梶川与惣兵衛には、多門と大久保が当った。  儀式の手配りを済ますと、柳沢は寅ノ腰掛に足を運んだ。供は表小姓ひとりである。  小姓を小屋の外、やや離れたあたりに待たせて、柳沢が中に入ると、色部が平伏して迎えた。 「早速お呼び出しに与《あずか》り……」 「あ、いや」  柳沢は軽く手をあげて制した。 「要らざる辞儀はさておく、不測の事態と相成った。如何《いか》に処置致すか篤《とく》と勘考せい」 「かしこまりました、いま暫《しばら》くご猶予の程を……」  色部は小机に向き直ると、調べ書の読み直しにかかった。  柳沢は、悠然と色部のその様を見守った。  十五歳の折、館林《たてばやし》宰相だった綱吉にお目見得して、小姓組に登用されると早々に衆道の寵愛をうけて以来、綱吉の柳沢に対する惑溺《わくでき》ぶりは通常のものの域を越えた。柳沢が成年に達し衆道の行為がやんでからも、かえってその寵幸は増し、度を越え、肉親にも例をみない程になり、生涯変らず続いた。その采地《さいち》も延宝《えんぽう》三年家督を継いで五百三十石だったものが、天和《てんな》三年一千三十石、貞享《じようきよう》二年、従《じゆ》五位下出羽守に任官して二千三十石、元禄元年、御側用人に列し一万二千三十石の大名、翌々年には三万二千三十石、元禄五年、六万二千三十石、元禄七年、老中に准じ七万二千三十石、同十年九万二千三十石、元禄十一年|左近衛少将《さこんえのしようしよう》、大老に准じた最高位に昇りつめた。  四十四歳、さすがに艶麗《えんれい》な美童の面影はうすれたが、色白の豊頬《ほうきよう》、切長の眸《ひとみ》、ほのかに赤い唇、形よい眉《まゆ》、筋の通った鼻……天下を動かしたその美貌《びぼう》は、年輪を加えて今も保たれている。  だが、誇らしげなその容貌の裏に、感情に左右されぬ計算能力と非情な分析力、恩愛を切り捨ててかえりみない決断力のあることを、色部は身をもって知っている。  その柳沢が、色部に難問を投げかけた。  ——この事件の処理方法は如何《いかん》。  それはまことに難問だった。仕手の浅野、受け手の吉良を法によって裁くのはたやすいが、事の次第によっては、吉良血縁の上杉のみならず、御三家から将軍家の機嫌に及び、天下を動かす柳沢の権勢に翳《かげ》りを生ずるかも知れない。  そこに複雑な縁戚《えんせき》姻戚関係があるからである。  吉良の実子である上杉|弾正大弼《だんじようだいひつ》綱憲は、正室に御三家の一つ、紀州徳川大納言|光貞《みつさだ》の娘、為姫を迎えていた。  外様《とざま》十五万石の当主(実は高家《こうけ》四千三百石の実子である)と、御三家五十五万三千石の姫との婚姻は、かなりの無理であった。家格が違いすぎるのである。この破格の縁組を成立させたのは、綱憲の実父吉良上野介と、先代色部又四郎の卓抜の働きによる、といわれている。  吉良上野介にすれば、あれは高家の小伜《こせがれ》、と家中で囁《ささや》かれる蔭口《かげぐち》を封じこめ、ひとえに綱憲の身に重きを加えたかった。また先代色部又四郎は、半知減領となった名門上杉の威を再び世に示す唯一の手だてと考えた。  吉良は、懇親を結んだ京都朝廷の公家《くげ》衆に働きかけた。紀州徳川光貞の正室は安宮、四代家綱の御台所《みだいどころ》浅宮の姉である。その息女の縁談に、奥向の発言力は大きい。  色部は、時の老中幕閣を動かした。武の名門上杉家の衰退を救うのはこの縁組しかない、というのが名目であり、それは同情と共感をかち得た。  その結縁は、後に予想外の効果をもたらした。  将軍綱吉は、六十四年の生涯を通じ、女色に明け暮れたが、子をもうけたのは館林宰相の頃、側室於伝ノ方が産んだ一男一女だけであった。  最初の子は延宝五年の鶴姫、次は延宝七年の徳松である。  於伝ノ方(後に小谷の方と改名)は、黒鍬ノ者|小屋《こや》権兵衛の次女、食禄《しよくろく》五人|扶持《ぶち》の家の生れである。それだけに家柄に執着が強い。  ——徳松は六代将軍に、鶴姫は御三家の正室に。  というとほうもない望みを抱いた。黒鍬ノ者の出としてはとほうもないが、将軍のお胤《たね》となると可能性がないわけではない。  於伝ノ方は、館林の頃から綱吉子飼いの柳沢保明(当時、弥太郎)に仲立ちの工作を頼んだ。当時綱吉の寵愛《ちようあい》を受けてはいたものの柳沢は五百三十石の御小姓衆に過ぎなかった。 (これを、出世の緒《いとぐち》にしなければならぬ)  柳沢は慎重に御三家の内情を調べた。五歳になったばかりの鶴姫に適合する婚姻相手は、紀州家のほかになかった。当主光貞の嗣子|綱教《つなのり》である。だがそうなると於伝ノ方の素性が障りになる。綱教の母は皇族の安宮だ。黒鍬ノ者の子と皇族の子の婚姻は、天と地ほどかけはなれている。  柳沢は一計を案じ、色部又四郎を語らった。色部は先代が死去して家督を嗣《つ》いだばかりの若手家老であった。  ——上杉家御正室を動かし、紀州家奥向に工作してほしい。  上杉家当主綱憲の奥方は紀州家の為姫である。為姫は婚姻相手と目星をつけた紀州家世嗣綱教の姉にあたる。  ——新将軍の子女を世嗣の室に迎えれば、紀州家は尾張を抜き、御三家の中で最も将軍家に近い存在となる。しかも鶴姫の弟徳松君が次代(六代)将軍になれば、その義兄として天下に並ぶものなき家となろう。  色部は、江戸屋敷に住居する正室を動かし、柳沢と共に裏面工作を推進し、天和元年、五歳の鶴姫は紀州綱教の許《もと》に嫁いだ。  柳沢は、見込み通り出世の緒を掴《つか》んだ。天和三年、禄一千三十石。  その年、将軍綱吉の唯一の男児徳松君が、わずか五歳で夭折《ようせつ》した。  以来、綱吉に子は生れなかった。そうなると当然次代(六代)将軍の座が問題になる。候補は二人、綱吉の兄(甲府宰相綱重、暴死)の子綱豊と、紀州綱教である。  ——鶴姫は当代将軍家の唯一の血筋、その婿君綱教は、東照神君|家康《いえやす》公の曾孫、京の宮家が母君、これ以上の方は見当らず。  世人はこぞって綱教を次の六代将軍と目した。  おのれの権勢を長く次代に保ちたい柳沢としては、紀州綱教の実姉の舅《しゆうと》に当る吉良上野介の身に、罪咎《つみとが》の及ぶような処置は避けたかった。だが、天下の定法は無視できない。 (この処置は、どのみち迅速を要する)  瞬時にそう判断した柳沢は、おのれに代る智恵袋であり、因縁浅からぬ色部を呼び寄せ、対策を諮問したのである。      三  色部が書類をおき、思案する様子を見て、柳沢は声をかけた。 「どうだ……仔細《しさい》は判明したか」 「は……」  色部の返事ははかばかしくなかった。  刃傷《にんじよう》の原因がわからない。御目付の審問に浅野内匠頭は、激奮の態《てい》で、 「私の宿意《うらみごと》はございますが、今更言って詮《せん》なき事……ただ吉良を討ち洩《も》らしたるが残念……」  と、声を震わすのみであり、吉良もまた動転の態で、 「何のうらみも受くる覚えなし、全く浅野は乱心の態と見申した」  また、浅野を抱き止めた梶川は、 「二、三、言葉を交すうち、あッと驚きの声にふり向くと、もう浅野どのが間近で�この間の遺恨覚えたか!�と、斬りかかりました」  と、証言している。 「はて……うらみごとありと言い、覚えなしという。そのうらみごとは今更言うても仕方ないとは……」 「おおかた仕損じたがため、無念に胸ふたがれて、言葉を失っておるのでございましょう」  色部は冷静に分析している。 「うむ……調べに当った目付の多門伝八郎が、浅野の心静まるのを待って、再吟味したいと申し出ておるが……どう思う」 「さ、そのことにございます。かくのごとく事起こりしのち、まことの因を糾明して、何か得るところがございまするか?」 「…………」  柳沢と色部は瞶《みつ》め合った。 「お調べは、御目付のお役目……それを上杉の家の者をお呼び出しなされ、まことの因を詮索なされる。それにはそれなりのお含みあっての事と拝察致しますが……違いましょうか」  ずばり胸中を言い当てられた柳沢は、苦い笑みを浮べた。  ——この間の遺恨……。  と、浅野は言葉を発した、という。この間というから、当日|咄嗟《とつさ》の出来事ではない。といってそれ程ふるい事でもあるまい。五日か十日の間に、何か深いうらみごとが発生し、浅野は吉良を殺してもあきたりぬ、と思いつめた。  そうなると、刃傷は一方的な暴力ではない。一方が挑発し、暴力を触発させた。暴力も罪だが、殺意を抱かせるほどの挑発も罪なしとはいえない。 �喧嘩《けんか》は両成敗�、その発生の因を調べて、双方とも公平に罰するのが、鎌倉幕府以来の武家の鉄則である。斬りかかった浅野が重く罰せられるのは当然だが、理由の如何《いかん》によっては吉良も処罰を受けなければならない。  理由の如何。調べるか、調べて得があるか。 「色部」 「は……」 「そちの申す通りとしよう、真因を糾明しても得るものはない。かえって自縄自縛のおそれすらある」 「…………」  色部は、肯《うなず》いた。 「だが……」  柳沢の眼が、キラリと光った。 「真因を明らかにせず、この刃傷|沙汰《ざた》を始末する手だてがあるか、あると思うか」 「…………」  色部は、と胸をつかれた。  柳沢は、おのれにつきつけられた難題を、そのまま色部に押しつけた。 「吉良を無事に済ます策はあるかと訊《き》いておる」 「し、暫《しばら》く……」  色部の顔は真ッ赤になった。 「待て暫しはきかぬ。浅野は喋《しやべ》るぞ、噂も乱れ飛ぶ。今の一|時《とき》の分秒が、吉良を救い上杉を立て、世の静謐《せいひつ》を保つ事の成否を分けるのだ」  あたりが急に暗くなった。不意に稲妻が閃《ひらめ》き、雷鳴が響きわたった。  西の空に暗雲が垂れこめ、電光が走る。  沛然《はいぜん》と驟雨《しゆうう》が襲った。  雨は小半時(約三十分)で通り過ぎ、小降りになった。  色部の顔の紅潮は褪《あ》せ、かえって蒼《あお》ざめてみえた。 「策はございます」 「うむ……」  柳沢は、目顔で促した。 「お取上げになるか否かは別として、構えて他にお洩らしなきよう……」 「心得ておる、申してみよ」 「まず……浅野内匠頭、殿中刃傷重々|不届《ふとどき》のかどにより、明日を待たず今宵《こよい》のうちに切腹致させます」 「なに? 即日——?」  刃傷事件には先例がある。十七年前の貞享元年、大老堀田|筑前守正俊《ちくぜんのかみまさとし》が、若年寄稲葉|石見守正休《いわみのかみまさやす》に、琴棋書画《きんきしよが》の御入側《おいれ》というところで刺殺された。この時は、老中大久保加賀守|忠朝《ただとも》、戸田|山城守忠昌《やましろのかみただまさ》、阿部|豊後守《ぶんごのかみ》正武らが一斉に稲葉正休に斬りつけ、その場で仕とめた。  更に溯《さかのぼ》ると二十一年前の延宝八年、芝増上寺における前将軍家法要の席で、志摩鳥羽三万五千石内藤|和泉守忠勝《いずみのかみただかつ》が、丹後宮津七万三千六百石永井|信濃守尚長《しなののかみなおなが》に刃傷、討果して後、取押えられた。下手人内藤忠勝は約二十日間|詮議《せんぎ》の末、切腹を命ぜられ、家は断絶した。一方永井家も、当主尚長が斬殺《ざんさつ》された上に、�刃傷には故あり、喧嘩両成敗�と裁定が下され、廃絶となった。  殿中刃傷は重罪である。切腹は苛刑《かけい》ではない。だが大名の切腹には家の断絶と領地の没収が附加される。五万三千石の城地と共に、数百の藩士の身分・職・家禄《かろく》が一瞬に潰《つい》え去る。  審問を尽さず、刃傷の因も不明のままの処分というのは例をみない。 「即日……とはな」  さすがの柳沢も口が渇いた。 「浅野も、一夜を越せば思慮分別も戻りましょう、逆上のうちに処断する事が肝要と存じまする」  ——死人に口なし。  色部は、言外にそう伝えている。 「…………」  日は暮れかけている。即日処断となると手続きを急がなければならない。 「それと……念のため、遺言など残させぬよう、検使の御目付にきびしくお申しつけ願いまする」 「……それで?」  柳沢は、胸中で難題を克服したらしい、その顔にゆとりがうかがえた。 「刃傷をさえぎった梶川与惣兵衛の恩賞を手厚くすること……刃傷の違法を強く指弾し、素因の詮議など不要、と示します」  色部の処理案は、徹底的な強圧であった。  当事者の親戚《しんせき》縁者は言うに及ばず、この異変に出合った者、かかわった者——御目付から表御医師、同朋衆《どうぼうしゆう》、お坊主等々、すべてに厳重な箝口令《かんこうれい》を布《し》くこと。  ——大法、私議すべからず、無用の取沙汰を許さず、聞書・覚書を残さざる事。  更に、浅野の本家、芸州広島四十二万六千石浅野|安芸守《あきのかみ》綱長、および従兄弟《いとこ》の美濃大垣《みのおおがき》十万石戸田|采女正《うねめのしよう》氏定、正室の実家、備後三次《びんごみよし》五万石浅野土佐守長澄の三家には、赤穂の城地公収と藩士の早急離散の連帯責任を厳命する。      四 「なお……これは勝手なお願いにございますが、吉良様が安否、当分の間、伏せていただきとうござります」 「ふむ……」  柳沢は、その腹の中が読めた。浅野が断罪されると、世間の関心は吉良の安否に集まる。 (色部め、流説《るせつ》を操作することを考えおるに違いない)  ——老齢、養生|叶《かな》わず、他界。  ——重態、存命はかり難し。  老体のひ弱さを売れば、同情されて非難や悪評が消える。 「相わかった……それでよい」  小降りの雨は止みかけていた。夕闇の訪れかけた楓《かえで》の木立のあたりに、傘をさし、手燭《てしよく》を用意した二人の小姓が近付いて来るのが見えた。 「今宵のうちに、書面にしたためて屋敷に届けおくように致せ」  柳沢は、腰を上げた。 「恐れながら……」  色部は、その背に問いかけた。 「御上意、左様に下されましょうか」 「案ずるには及ばぬ……それより上杉殿や奥方に、よしなに……な、ついであらばお里へもお知らせするがよい」  たくみに恩を売ることを忘れない柳沢は、ずいと外に出る。傘さしかける小姓を従え、足早に去って行った。  色部は、そのまま動かずにいた。 (手落ちはないか)  懸命に考え、筋道を辿《たど》る。わずかでも瑕瑾《かきん》があれば、吉良と上杉の両家に中傷・讒謗《ざんぼう》がふりかかり、家名に傷がつく。 「ない……考えられるだけの手は打った。手落ちはない」  色部は、自身に言い聞かせるように独白した。 (……終った)  だが、肩の重荷を下ろした解放感はなく、悪夢のあとのように、口の中に苦い澱《おり》が残った。 (老先《おいさき》短い吉良など、死んでくれた方がよかったのだ……)  色部は、しみじみとそう思った。  同じ日、酉《とり》ノ刻(午後六時頃)、浅野内匠頭長矩がお預けとなっている芝|愛宕下《あたごした》、田村右京大夫|建顕《たけあき》の屋敷に、検使庄田|下総守《しもうさのかみ》安利(大目付)、多門伝八郎(御目付)、大久保権左衛門(御目付)と、介錯人《かいしやくにん》磯田武太夫以下、御徒《おかち》目付、御小人《おこびと》目付など十人が到着した。  折から田村家では、浅野内匠頭の懇望もだしがたく、口述の書き取りを始めたところであった。いくら身分が高くても罪人がおのれの意を文につづって他人に伝えるという行為は、官の許しがなくては叶《かな》わない。浅野内匠頭の願いはよほど切実であったのであろう。  ——かねて知らせおきたく存じながら、そのいとまなく、さだめて今日の事を聞かば、不審にも……、  そこまでで、ぷっつりと切れている。検使が差止めたに違いない。それが誰あてのものであったか、一切不明である。  後に、遺言として、遺骸《いがい》引取りの浅野家家臣に渡され、その時、田村の家臣から、しばし絶句され、そのあと言葉がございませんでした、と言い添えられたというが、どうも作りごとの匂いがする。  辞世と称する歌も、   風さそふ、花よりもなほ、われはまた、     春の名残を、如何《いか》にとかせん  とあるが、遺言と称せられる言葉と比べて、まるで実感がない。何者かの代作ではあるまいか。  浅野家の菩提寺泉岳寺《ぼだいじせんがくじ》には浅野内匠頭の墓があり、赤穂浪士が討入のあと引揚げて墓参した事から、百七、八十点の遺品が保存されている。その中に、浅野侯切腹の刀、もある。だが明らかに偽物だと言える。  切腹は、上級武士に対する死刑で、切腹と同時にうしろに控えた刑吏(介錯人)が首を打ち落す。実質的な斬首刑である。罪の自覚を示すため、自殺の形をとらせたものである。  切腹に用いる脇差《わきざし》、介錯に使う刀は、執行者(お預り屋敷の主)が用意するのが通常で、切腹人が特に願い出、検使が許可した場合に限り、介錯の刀は切腹人の佩刀《はいとう》を用いることがある。その場合、その刀は介錯人に贈与されるのが例である。  介錯に用いた刀は、悪をこらしめたものであるから、特に忌むべき理由はないが、罪を犯して自殺に用いる脇差は、不浄のものとして、提供した執行者が破毀《はき》し、取り捨てる。したがって遺族に引渡すこともなければ、後世に残ることもない。二年後、討入を果たし切腹した赤穂浪士の切腹に用いた脇差は、一振りも残っていない。  内匠頭の切腹は、作法を急ぎすぎたようである。介錯人が首を打つ寸前に突っ伏したため、一ノ太刀は肩胛骨《けんこうこつ》に斬りつけ、二ノ太刀で打ち落した、という。  遺骸は、その夜のうちに、浅野の家臣が引取り、芝|高輪《たかなわ》の泉岳寺に葬られた。  築地鉄砲洲《つきじてつぽうず》の浅野家上屋敷、赤坂南部の下屋敷は、お取上げになり、御後室となられた奥方阿久利ノ方は、髪をおろし寿昌院と名を改め、生家赤坂の浅野土佐守下屋敷に移った。後に浅野本家から、寿昌院の名は、将軍家御生母|桂昌院《けいしよういん》に対し、昌の字に差障りありとの指図で、瑤泉院《ようせんいん》と変えられた。  浅野屋敷の引移りは混乱を極めたらしい。一夜にして主家を失い、侍から中間《ちゆうげん》小者までが住居を失う。家財の運び出しだけでも大仕事である。さてどこへ引越すかというと、あてがない。  親戚の大名は、人数を貸したが、公儀をはばかって屋敷の荷物までは預らなかったらしい。止むを得ずお目こぼしを願って、本所屋敷を一時借用して運びこみ、後に親戚各家と計って処分した。その始末には、江戸家老の安井彦右衛門と、出府中の国家老藤井又左衛門が当った。  一方、吉良上野介の当座の処分は、きわめて曖昧《あいまい》であった。手疵《てきず》を受けた上野介義央は、城中で表医師天野了順の手当をうけたが、夕刻になっても何の御沙汰《おさた》も下らない。介添えに当った高家《こうけ》衆は、上野介の願い出として、 「天野了順は本道(内科)医のため、療治行届かず、御外科医栗崎道有の療治を受けたし」  と、届け出た。実は処分の内意をさぐるためのものだったらしい。  差許されて診察した栗崎道有が役向に報告した見立は、 「存外なる浅疵《あさで》、もとより命に別条なし」  との事であった。  この頃になると、柳沢保明の事件処理方針が、ようやく動き出した。吉良上野介に下された御沙汰は、殊の外|大袈裟《おおげさ》なものであった。 「上野介儀、御場所をわきまえ、手向い致さず神妙の至り、御医師吉田意安に服薬仰せ付けらる、外科は栗崎道有に仰せ付けらる。随分大切に保養致すべく候。右に付、高家同役差添い、勝手次第退出致すべし」  との事で、特に城中|駕籠《かご》乗物を許され、重病人の態《てい》で退出した。  十日後、自宅療養中の吉良上野介を訪れた高家同役の品川豊前守は、事件の当事者として、一応�御役辞退�を願い出て、当分登城を差控え、謹慎するようにとの柳沢の内意を伝えた。 「なに、これはほんの形式上の事でござるよ。程なく、その儀に及ばずとの御沙汰が下りましょう。くれぐれも御懸念《ごけねん》なきようにとの御内意でござった」  品川豊前守は、そう慰めた。  三月二十六日、吉良上野介は、その趣きをそのまま願い出たが、案に相違して�その儀に及ばず�の御沙汰はなかなか下りず、外出や来客をすべて断つ謹慎の暮しは長く続いた。  事件の翌日(十五日)から、柳沢の事件処理工作が次々と行われた。幕閣の説得、勅使・院使への説明、御三家・親藩等有力大名の了解取付け、公儀諸役に対する指示徹底などが、わずか数日の間に、いささかの手落ちなく行われた。  事件から五日後の三月十九日、梶川与惣兵衛に五百石加増の御沙汰が下った。それまでの家禄《かろく》七百石と併せて千二百石の大身となり、登城や外出に駕籠乗物が許される。  また、この日、芸州浅野本家と大垣戸田家から、�赤穂浅野の家中|慰撫《いぶ》のため�それぞれ重役を派遣した旨、公儀に届出があった。  殿中を騒がせた刃傷《にんじよう》の不祥事は、これでおさまるかにみえた。 [#改ページ]   颶風《ぐふう》の城      一  ——御家老の大石様というお方は、賢愚のほどがわからない。  赤穂《あこう》の藩中では、誰もがそう言った。  愚が賢を装うことは不可能に近いが、賢が愚を装うことはできる。だが長い歳月装い続けるというのは、よほどの達人でないと成し得ない。大石|内蔵助《くらのすけ》は後世に〈昼行燈《ひるあんどん》〉という仇名《あだな》を残した。日中につけてある行燈は油を無駄に費すだけで、何の用にもたたない、というのである。赤穂の藩中では、ごく一部の者をのぞいて、筆頭家老の内蔵助をそう評価した。驚くことには二男一女を産んだ妻女のりく[#「りく」に傍点]までが、半ば賢と信じ、半ば愚ではないかと疑っていた節がある。もしこの異変が起こらなかったら、内蔵助は生涯|韜晦《とうかい》し放しで終ったかも知れない。おそらく彼はそれを願っていただろう。  韜晦、というのは、二重人格的な楽しみがある。内蔵助という人物は、赤穂浅野家に伝わる山鹿素行《やまがそこう》の教えの忠実な信奉者であり、おのれの生れついた〈侍〉という身分については、ゆるぎない信念を固く保ち続ける一面、当世風に言えば〈自由〉を、乾いた土が水を欲するように渇望し続けた。  もちろん、韜晦するには、韜晦しなければならない状況と切実な理由があった。  内蔵助は、昨|元禄《げんろく》十三年から奇妙な感覚が身についていた。  夏の頃、浜方(塩田の管理)の小役人が次々と訪れ役替を歎願《たんがん》した。聞けば組頭《くみがしら》の糟屋《かすや》という老人が、近頃わずかな手落ちを口汚なく罵《ののし》って止まぬため、組内は雰囲気が悪くなり、仕事に耐えられないというのである。  気持はわかるが、手落ちがあったとすれば、叱り方が激しいというだけで、殊更取上げるのは如何《いかが》なものか。  内蔵助は、一人一人にこう説得した。  ——どうだ、耐え難いであろうが、もう三ヶ月の間辛抱してみぬか、事を荒立てずとも必ず状態は変る。三ヶ月を限りとして、わしにだまされてみよ。  別に何かの徴候や根拠があったわけではない。ただそれがふと確信となって口に出た。  それからふた月後、糟屋某は急に病に倒れ、みる間に衰弱して死んだ。  人の生死については、こういう話もある。  正月、年始の礼に訪れた親戚《しんせき》の娘に、初夢の夢占いを尋ねられた事がある。見知らぬ暗い部屋に、布に包まれた、えたいの知れぬ者と二人きりでいる夢であった、という。  聞くなり内蔵助は顔色を変えた。 「そなたの祖父は患っていたな」 「いえ、年の暮にはすき[#「すき」に傍点]と回復致しまして、快気祝を済ませたばかりでございます」 「ふむ……」  死ぬ、と感じた。別に夢がどうであったというのではない。ただそう感じとったというほかない。そのただならぬ顔色に娘はおびえた。 「ま、気をつけてあげなさい、年が年だ」  娘が帰ると、半時《はんとき》(約一時間)たたぬ間に知らせが届いた。その祖父が急逝したというのである。  内蔵助が気にかかるのは、昨年の秋、浜奉行が申し出た塩田の改修計画だった。塩田はここ十数年拡張を続けているが、古いものは次々と改修しなければ効率が落ち、減産を招く。毎年冬の間に行うのが例となっていた。  それを、今回は内蔵助の一存で見送った。  ——一年がほど、様子を見たい。多少の目減りは止むを得ない。  これも根拠のある決断ではなかった。ただ何となく、無駄な費《つい》えになりそうな気がしただけである。内蔵助が賢者と認められている人物なら異論百出したであろう。だが賢愚さだかならぬ内蔵助の意見だけに、藩内の反応はにぶかった。  ——あの御人の言うことだ、好きにさせておけ。  赤穂の藩には、特産の塩が多少減産しようと、さしてめげないだけのゆとりがあった。そのゆとりを作ったのは内蔵助だったが、それと意識する者は少なかった。金銭のゆとりというのは、窮迫した時は責任が云々《うんぬん》されるが、余裕があると関心が薄れるものだ。  藩では容認したが、内蔵助はこだわっていた。冬の間、何か塩田に異常な事が起こるかと思ったが、何も状況は変らない。春から夏、日照は長くなり気温が上がる、塩の生産は盛りを迎える。その春も終りにさしかかった。  三月十九日の夜。内蔵助は、寝間に持ちこんだ心覚えの帳面で、計算をくり返した。  妻のりく[#「りく」に傍点]は長年の習慣で、一間隔てた別間で早くから眠っていた。夫の内蔵助がどのようなことで夜更かしするか、まるで関心のないりくであった。 (ま、天候次第ではあるが、目減りは一割二分ほどで食いとめられよう……)  それが無駄になる努力とも知らず、内蔵助が眠りについたのは、夜半をとうに過ぎた頃であった。  その内蔵助の眠りは、一時(約二時間)ほどで破られた。 「旦那《だんな》さま、お城の宿直《とのい》、間瀬様から急なお知らせにございます」  武士のたしなみで、眼覚めは早い。 「なに、久太夫が?」  間瀬久太夫、大目付二百石、六十一歳の老人である。平生《へいぜい》から沈着な人柄で聞えている。役目柄、大概の事柄なら任せておいて間違いない。その間瀬久太夫が真夜中、筆頭家老の家に使いを馳《は》せて起床を要請するというのは只事《ただごと》ではない。 「はい、程なく江戸より早打が到着する旨、先触《さきぶ》れがあった由にございます」  早打、とは、早駕籠《はやかご》による使者をいう。  早駕籠には、先触れといって、まず空身《からみ》の人足が先の立場《たてば》(中継所)へ趨《はし》る。駕籠の担い手の交替要員を準備させるためである。先触れを受けた立場では、まず真ッ先に次の立場へ先触れを走らせる。道中最後の先触れは到着先へ早駕籠の予告をする。  睡魔を払った内蔵助は、素早く身支度を調えながら、江戸の出立時刻を暗算した。  赤穂浅野家が前回江戸より早打をうけたのは、八年前の元禄六年十二月、備中《びつちゆう》松山五万石|水谷《みずのや》家改易による松山城公収の下命を受けた時であった。  この年十月六日、松山五万石の当主水谷|出羽守勝美《でわのかみかつよし》が病歿《びようぼつ》し、その養子縁組願を上申中の弥七郎勝晴も翌十一月二十七日に急逝したため、跡目相続|叶《かな》わず、断絶と決定した。  大名の家の公収、居城受取の役目は、泰平の世にあっては、家累代の大事である。十二月二十二日突然下命をうけた赤穂浅野家では、江戸藩邸より早打を仕立てて、国許《くにもと》赤穂へ急報した。  その時の使者は、馬廻《うままわり》御使役二百石の富森《とみのもり》助右衛門である。江戸から赤穂までは百五十五里(約六百二十|粁《キロ》)、途中に定時でなければ開かぬ箱根・新居《あらい》の両関所、安倍《あべ》川・大井川などの人足による川越え、富士川・天竜《てんりゆう》川のような舟渡し、薩《さつ》|※[#「土+垂」、unicode57f5]《た》・小夜中山《さよのなかやま》等の峠の難所もあって、普通で十四、五日、早くて十二日はかかるのを、この時五日半で踏破した。それというのも赤穂浅野家では、先々代|内匠頭《たくみのかみ》長直の頃より、当時の筆頭国家老大石内蔵助|良欽《よしただ》の裁量で、年々江戸|伝馬町《てんまちよう》の問屋向に金員を下附するのを例としていたため、駕籠でも馬でも他に先んじて用意する。更に早使には常に懐中に金子《きんす》二十両を持たせ、随時に遣わせて便宜を計らせるのを例とした。  ——五日半……。  早打は、十四日の昼過ぎに江戸を出た、と、内蔵助は推測した。  十四日は、勅使登城の日である。勅使|御馳走《ごちそう》役の浅野内匠頭|長矩《ながのり》にとっては、晴れの舞台の当日だ。  ——何か、江戸城中で手違いを生じたか……。  内蔵助は、先ごろからの予感に、肌が粟立《あわだ》つのを抑えかねていた。      二  早打の使者は、馬廻百五十石、早水《はやみ》藤左衛門(三十八歳)と、副使の中小姓十二両三人|扶持《ぶち》、萱野《かやの》三平(二十七歳)の両名であった。  両名は、刃傷《にんじよう》事件の発生(午前十一時頃)より一|時《とき》(約二時間)を経て、築地鉄砲洲江戸藩邸に知らせが届いた直後、もと江戸|留守居《るすい》役、いまは隠居の堀部|弥兵衛《やへえ》の計らいで、使者の下命をうけた。  伝馬町の問屋から早駕籠の到着する間に、両名は富森助右衛門の指導で身支度を調えた。下着は平生の越中|褌《ふんどし》に代り、六尺褌を締め、晒布《さらしぬの》一反を胸から下腹にかけて強く巻き締める。駕籠の動揺による腹痛の予防である。別に半反ずつの晒布で、両|股《もも》を巻き、股擦《またず》れを防ぐ。その上へ道中着・袴《はかま》を着し、鉢巻・襷《たすき》がけ、手甲《てつこう》・脚絆《きやはん》、足袋《たび》、それに布緒の草鞋《わらじ》を着ける。 「よろしいか、駕籠の座布団に安座《あんざ》《あぐら》の形をとるが、臀《しり》を落してはなりませんぞ。片膝《かたひざ》から片尻《かたしり》に躰《からだ》の重味を掛け、駕籠の中に下がっている取り布にすがり、身を支える。取り布は手首に二重《ふたえ》ほど巻きつけておくとよろしい。さもないと長の道中、掌《てのひら》が擦り切れるおそれがある。片膝片尻が疲れ痺《しび》れたら、それまで休ませておいた片膝片尻に重味を替える。躰の力を抜かぬように……駕籠の揺れに躰を任せたら、一時とたたぬ間に酔った挙句、内臓が傷つき、血を吐く破目になります」  富森助右衛門の注意は懇切丁寧をきわめた。  早駕籠は、通常の道中駕籠と違い、装備を簡略化して堅牢《けんろう》と軽量を旨としている。座席左右の垂れはない。屋根は竹の皮一枚|葺《ぶ》きで、雨の時は渋紙一枚を掛ける。三寸角の担い棒の前後に横棒を取付け、左右からその横棒を担ぐ。前後左右で四人、更に担い棒の先端(棒鼻)に晒布の曳《ひ》き綱を結び付け、一人が遮二無二《しやにむに》曳く。担い棒の後端を押す者が棒頭といって駕籠の指揮をとり、掛け声で全員の調子を合わす。計六人を六枚肩といい、その形が羽をひろげた蜻蛉に似ることから、早駕籠を�とんぼ�と呼んだ。  記録的な速さの赤穂浅野家の早駕籠は、なんと十二枚肩の�とんぼ�であった。すなわち前後の横棒をもう一本ずつ加えて八人で担ぐ、棒鼻の曳き綱も二本、こうなると脚がからまぬよう幅をひろげるため、当時の狭い街道の道一杯になる。そのため人よけの人足が駕籠の前を走る。棒頭を加えて計十二人である。  飛ぶように速い、と言うが、それは修飾に過ぎない。何枚肩であろうと人が人と駕籠を担って走るのである。平地の最大時速は一里半(約六|粁《キロ》)が精一杯であった。それでも駕籠に乗る早使の早水・萱野の両名はまたたく間に疲労|困憊《こんぱい》した。駕籠人足の呼吸に合わせて躰で調子をとらないと、反動で駕籠から投げ出される。走り始めてから品川の立場までに二人は三度も駕籠から転落した。  早駕籠は、立場でも地面に下ろさないのが定めである。立場での駕籠人足の交替は、走りながら次の駕籠人足の肩へ渡す。乗り手は躰を休めるどころか、ひと息入れることも許されない。わずかにその寸暇を得るのは川越えの時だけである。  六郷の渡しは、夜舟が用意されていた。転げ込むように舟に乗った萱野三平は早くも音をあげた。 「これではおのれの足で走るほうがよほど楽です。馬に代えましょう。馬なら駕籠より速い」 「ならぬ」  年嵩《としかさ》の早水は、血の気の失《う》せた顔を横に振った。 「近間《ちかま》の走りならそれも叶うが、お国表までの長丁場、馬では体力の消耗が激しく、とても保《も》たぬと言われた富森どのの言葉を忘れたか。このお使いは着いてからの口上が大事、赤穂で状況を伝えるまでは、意識を確かに保たねばならぬ」  その疲労はまだ序の口であった。川崎の立場で夜食の握り飯が給されたが、口にする気力なく、夜明け方、平塚宿《ひらつかじゆく》で半粥《はんがゆ》一|椀《わん》を啜《すす》りこむと、間もなく激しい吐き気に見舞われ、残らず吐いた。その反吐《へど》の匂いが鼻をつくが、口を漱《すす》ぐことも許されない。大磯《おおいそ》の立場で得た柄杓《ひしやく》半分の水が、辛うじて咽喉《のど》を通っただけである。  昼近く小田原宿を通って、箱根越えにかかる。昼なお暗い木立の中の急坂を登りに登る。早駕籠は更に曳き綱曳き手と担ぎ手の数を増して、道中最大の十六枚肩になった。こうなると駕籠は担ぎ登るというより、担ぎ上げるという態《てい》である。  箱根の関所は明け六ツ刻《どき》(午前六時頃)に開け、暮六ツ刻(午後六時頃)に閉じる。夜間の通行は公儀役向といえど許されない。赤穂浅野の早駕籠が関所の大門をくぐったのは門を閉じる寸前である。正使の早水藤左衛門が乗り打ちのまま口上を述べ、通り終ると門扉が閉じられた。  さすがの駕籠人足も、この時ばかりは駕籠を抛《ほう》り出すと、その場にへたりこんだ。 「どうした、おい、駕籠屋、肩を入れろ」  早水が、絞り出すような声をかけると、棒頭が息も絶え絶えにこたえた。 「箱根のお山が二つに裂けても、今日のうちにお関所を通れと先触《さきぶ》れの強《きつ》い達しでね、精限り根限り走ってのこの始末だ。ほんの少しの間、大目に見ておくんなさい」 「わかった、よし、息継ぎ代をとらす、取れ」  早水は腰の巾着《きんちやく》から小粒(一分金=一両の四分の一)をひと掴《つか》み出して、棒頭に手渡した。 「あッ、こりゃ……おい、みんな、大層なお酒手だ、あとは下り一筋二里二十八町、三島で呑《の》み放題抱き放題だ、さっさと肩を入れろい。足腰立たねえ奴は放って行くぜ」  まだ荒い息のおさまらぬ連中が気力を奮いたたせて駕籠にとりつく。  長い年月、伝馬町の問屋筋に金を撒《ま》いた効果と、道中金の用意が、こういう時に道中人足の死力を尽させた。  三島から沼津、原、吉原で真夜中である。富士川を用意の川舟で渡る。舟で給されたのは竹筒入りの重湯と一粒の梅干だった。早打は二日目から三日目が最も辛《つら》いという。早水・萱野の両名は、もう半死半生の態であった。  江尻《えじり》(清水)宿で夜が明けて、江尻を通り過ぎる際、萱野三平は少々血を吐いた。駿府《すんぷ》で待ちうけた町医が薬餌《やくじ》を服用させた。 「早駕籠は、三日目に死人《しびと》の出た例が数多い、大事をとって少々休まれたらいかが」 「お家の大事、斟酌《しんしやく》無用、このまま走る、肩を入れよ」  棒頭は、用意の晒布で両名を駕籠にくくりつけた。 「行くぜ」 「おう」  駕籠が上がった。安倍川の徒《かち》渡り、大井川の輦台《れんだい》越え、小夜中山、東海道は東半分に難所が多い。天竜川を船渡りした中ノ町は、江戸と京の中間点に当る。早駕籠が通り抜けたのは江戸藩邸を出て二日半、三月十六日|戌《いぬ》ノ上刻(午後七時頃)であった。  所要時間は遅れ気味であったが、この頃より体調の悪化は止った。疲労は積って忘我の状態だが、粥も咽喉を通り、もう嘔吐《おうと》することはない。激しい動揺にも慣れを生じたのであろう、途中わずかだが睡魔に身をゆだねることもあった。浜松を過ぎて舞坂から早舟で湖水を渡る。新居の関所では代って萱野三平が口上を述べた。吉田(豊橋)から御油《ごゆ》(豊川)、岡崎、宮(熱田《あつた》)への一本道は速さを増して、一時間当り二里を越えた。宮から七里の船渡しを避けて十里の陸路をとり、桑名、四日市を経て鈴鹿《すずか》峠を越える。坂は照る照る鈴鹿は曇る、間《あい》の土山雨が降るの唄《うた》通り、天候は崩れ、近江路《おうみじ》は雨続きとなった。草津を抜けて大津の立場《たてば》に、先触れをうけた京都留守居役の小野寺十内が駈《か》けつけていた。十内の指図で早駕籠は、山科《やましな》四ノ宮から東海道を外れ、山科街道を南下して宇治に出て、伏見京橋際の船着場に至る。半日前から待っていた八挺櫓《はつちようろ》の早舟が、早使両名を乗せ、淀《よど》の川瀬を漕《こ》ぎに漕ぎ下って大坂八軒屋に着く。江戸を出て四日半、三月十八日の夜半であった。  早舟|二時《ふたとき》(約四時間)の間睡眠をとって、わずかばかりだが気力回復した両名は、再び早駕籠で山陽道に向った。尼崎《あまがさき》、兵庫(神戸)を抜けて須磨《すま》ノ浦で日の出を仰ぎ、舞子、明石《あかし》の松林を西へ走る。加古川で昼、姫路を夕刻前に通って、竜野《たつの》が夜半、相生《あいおい》が丑満刻《うしみつどき》、国境《くにざかい》の鷹取《たかとり》峠を越えて赤穂城大手門に着いたのは五日半を一刻半越えた三月二十日(陰暦三月十九日、当時は夜明けが日変りである)の夜明け前、寅《とら》ノ下刻(午前五時頃)であった。      三  早水藤左衛門、萱野三平が持参した書状は、わずか一通であった。  内匠頭長矩の弟、浅野大学長広が、国許《くにもと》侍衆へ、とあてた走り書である。 「三月十四日、勅使御登城、勅答の御儀式に臨まれた内匠頭様は、城中において高家吉良《こうけきら》上野介《こうずけのすけ》殿に刃傷《にんじよう》に及ばれた由である。内匠頭様は別条なく城中にとどめおかれている。鉄砲洲御屋敷には御目付が出向かれ、静謐《せいひつ》を保つよう諭告あった。国許にも同様いたずらに立騒ぐことなきよう、つとめよ」  刃傷——。  その文字は、雷の如き衝撃を与えた。  刃傷事件の前例を知らぬ者は無い。芝増上寺の前将軍家法要の際、刃傷に及んだ内藤家は、浅野内匠頭長矩の父長友の奥方の生家、長矩にとっては母方の実家である。  内藤家が改易、断絶となって二十一年、赤穂浅野家には、婚姻の際に附人として内藤家から藩籍を変えた侍も、まだ現存している。  一大事、というもおろかである。一朝にして赤穂浅野家は破滅の危機に直面した。  冷静にうけとめたのは、内蔵助ただ一人だった、と言っていい。 (そうか、これが予感の正体か……)  その沈着な態度が、後に赤穂藩士の信望を集める基となった。 「ほかに? 藤井又左衛門や安井彦右衛門の書状はないのか」  藤井は江戸出向中の国家老、安井は江戸家老である。主君の弟の諭告《ゆこく》状があって、両名の報告の書状が無い。 「は、藤井様は御本家(芸州浅野家)へ出向かれ、安井様は御目付衆や御公儀御役向の応接にお忙しく、われらが出立の時までお顔を見せませぬ」  早水藤左衛門は、眩暈《めまい》をこらえながら懸命に答える。 「して、殿の刃傷は間違いないか」  代って萱野三平が答えた。 「まことにございます。手前その日御登城の御供|仕《つかまつ》り、下乗橋にて控えおりましたるところ、城中にてただならぬ騒ぎあり……御目付衆が杉板にその由したためたる物をかかげ……それと知り申しました」 「しかと、か……しかと殿に相違ないか」  信じ難い……と、顔面朱をそそいだのは、城代家老の大野|九郎兵衛《くろべえ》(六百五十石・六十四歳)である。それをきっかけに、番頭《ばんがしら》奥野|将監《しようげん》(千石・四十五歳)、物頭《ものがしら》近藤源八(千石・四十一歳)、物頭岡林|杢之助《もくのすけ》(八百石・五十一歳)、家老並物頭大木弥市右衛門(七百五十石・四十七歳)らが、口々に喚《わめ》きだした。 「吉良上野は仕とめたのか!」 「刃傷の起こりはなんだ!」 「殿の御様子に、それと気付かなんだか!」  喧噪《けんそう》の中で、ひとり声を発しなかったのは、郡《こおり》奉行の吉田忠左衛門(足軽頭兼任二百石・六十二歳)だけであった。忠左衛門はひそと眼を閉じ、心の動揺を抑えるようであった。 「各々《おのおの》方、お静まりめされ」  内蔵助は、見かねて声をかけた。 「早水藤左や萱野は、異変が生じて間をおかず江戸を発《た》っておる。詳しいいきさつなどわかろう筈《はず》がない……追っつけ第二、第三の早打《はや》が参ろう、それまで心静めて待たれる事だ」  一座は水を打ったように静まった。それぞれがわれに返って、底知れぬ深淵《しんえん》のふちに立ったわが身に気付いたのである。  第一の早打は、刃傷事件の発生を告げるにとどまり、詳細もその後の推移も一切不明である。江戸在府の家老は一片の書状すら托《たく》していない。当然第二の早打が予想された。  第二の早打は、十四日の夜出立するに違いない。遅くも半日遅れと思われた。  ——ひとまず休め。このあと休む暇は無くなる。  内蔵助の発議で、集った藩の主だった者は、暁闇《ぎようあん》の城からひとまず屋敷に戻った。  内蔵助の屋敷は、赤穂城|外郭《そとぐるわ》の内、大手門のすぐが江戸出向中の藤井又左衛門、その隣である。内蔵助が屋敷の長屋門を入ると、玄関先に、旅姿をととのえた侍が待っていた。打裂《ぶつさき》羽織に馬乗|袴《ばかま》、三年竹の節近鞭《ふしぢかむち》を手にしている。 「ご家老……」 「おう、数《かず》右衛門《えもん》か……」  内蔵助はこの朝、はじめて笑顔を見せた。  不破《ふわ》数右衛門、三十二歳、もと馬廻浜奉行・二百石の上士だったが、三年前に退身を願い出て浪人し、以来内蔵助の寄《かか》り人《うど》(食客)となり、屋敷内の道場小屋に寝泊りしている。元来がひどく寡黙《かもく》な男で、別段境遇の変化に動ずる様子もなく、もとの上司・同僚と出合っても以前と変らず目礼を交すのみで、�変り者�で通っていた。 「江戸の大変、耳に致しました。これより大坂へ急ぎます」  噂は驚くほど速く伝わった。不破は先触《さきぶ》れの人足を掴《つかま》えて、刃傷事件の発生を聞きだしたのだ。  ——さすがに数右衛、物の用に立つ。 「そうしてくれるか、いまの赤穂で身の自由がきくのはおぬししかない。相場はいま上げ調子だ、足許を見られて買い叩《たた》かれるなよ、売り惜しみするふりで、悉皆《しつかい》売っ払え」 「悉皆、ですな?」 「ああ、これで大坂の塩相場も終ったな。ずい分と辛《つら》い目、楽しい目を味わったが……」  内蔵助の胸中に、ふっといい知れぬ感懐がよぎった。 「では……天川屋と組んで御損のないよう始末致します、ごめん」  目礼すると不破は、二ノ丸御門外の厩《うまや》へ駈《か》けだそうとした。厩には内蔵助が常日頃連絡用に使う駿馬《しゆんめ》が用意してある。 「あ、数右衛」 「は……?」 「済まなんだな、おぬしを勝手使いにするため、無理に浪人させた。遅くも来年までには元の身分の上で帰参させるつもりであったが……」  不破は、日焼けが目立つ痩《や》せ顔に、白い歯を見せた。 「なんの……おかげで気ままな生きようを楽しみました。これが最後の御奉公、存分に腕をふるってごらんに入れます」  不破は駈け去った。 (まずはよし……一番気にかかることが片付いた)  内蔵助は、妻子が心配そうに待ちうける玄関へ向った。      四  戦国末期の武将で浅野|長政《ながまさ》という人物がある。後に天下統一を果した豊臣秀吉《とよとみひでよし》が、まだ木下藤吉郎《きのしたとうきちろう》といったころ娶《めと》った妻|寧々《ねね》の養家、浅野又右衛門の伜《せがれ》で弥兵衛といい、秀吉・寧々の義弟にあたる。  下賤《げせん》の生れの秀吉は、子飼いの家臣団をつくるため、親戚《しんせき》縁者を重用した。加藤清正・福島|正則《まさのり》らが後に大大名になったのはそれであり、次いで子飼いの加藤|嘉明《よしあき》、脇坂安治《わきさかやすはる》、堀尾|吉晴《よしはる》らが中堅大名になった。  そうした中で、群を抜いたのは、秀吉の異父弟木下小一郎と、義弟の浅野弥兵衛であった。小一郎は後に大和|大納言《だいなごん》秀長となり、弥兵衛は弾正少弼《だんじようしようひつ》長政となって紀州を領した。  関ヶ原合戦の際、浅野は東軍(家康)側に味方した。朝鮮ノ役に出陣した長政が石田|三成《みつなり》(西軍)と深い怨恨《えんこん》を持ったためでもあり、浅野にとっては最も縁の深い北ノ政所《まんどころ》、秀吉の未亡人寧々が、三成を含めて大坂の淀君《よどぎみ》・秀頼《ひでより》を嫌悪し、家康に助力したことにも因があった。  家康は、秀吉縁故の浅野家を殊の外大事に扱った。関ヶ原合戦後、長政の嫡子|但馬守《たじまのかみ》幸長を紀州三十七万四千石に封し、後に芸州広島の福島正則が改易されると、浅野家をそのあとに移し、四十二万六千石に加増した。  長政の三男に、采女正《うねめのしよう》長重という者がある。関ヶ原合戦の時から二代|秀忠《ひでただ》に仕え、翌年、野州|真岡《もおか》二万石を与えられたが、慶長十六年(一六一一)に父長政が江戸で卒去すると、その隠居料として領していた常陸《ひたち》真壁五万石と江州愛智川《ごうしゆうえちがわ》五千石の相続が許され、元和八年(一六二二)常陸笠間五万三千五百石に移封された。これが赤穂浅野の藩祖である。  幕府の厚遇とは言うものの、隠居料という封地が肥沃《ひよく》な筈《はず》がない。その上に当初領地が常陸と近江で飛地になっていたため、費用が嵩《かさ》んだ。隠居のうちは足らざる分を本家が貢《みつ》げという含みがあったが、正規の大名となるとそれは望むべくもない。かてて加えて長政が隠居したのが関ヶ原の直前であったため、家来がやたらと多かった。それと長重が真岡二万石当時の家臣団を加えると、おそろしいほどの数になった。  長重の子が、内匠頭長直(長矩の祖父)である。この頃の家臣は二百十数名であったという。これが馬一匹旗印一|棹《さお》の侍だから驚く。幕制で定めた軍役では、五万石七十騎だから三倍以上の兵力を持っていた。  当然のことだが、困窮した。扶持米《ふちまい》の二分借、三分借は当然の事とし、士分の家でも内職に励んだがとても足りない。新田開発には領地の真中に居すわる筑波《つくば》山系がはばんでいる。どうにも打開の方策が立たない。  内匠頭長直は筆頭国家老の大石内蔵助良欽と散々智恵を絞って、起死回生の手段を考えた。  ——国替を願おう。  容易な事ではない。目立つ功績でもあれば別だが、何もなくて内証ゆたかな領地に替えて貰《もら》おうというのは、かなり虫のいい願いである。当然ものをいうのは縁故か金品である。  大石良欽は非常の決意で金をかき集めた。知行は六分借から八分借と借上げ、米問屋から大名貸の質屋まで借財の山を築いて、事に当った。  天運があったというべきであろう。運動を始めた次の年、正保《しようほう》元年(一六四四)、播州《ばんしゆう》赤穂三万五千石の領主池田|輝興《てるおき》が乱心して改易となった。その年、幕政を統括していた大老土井|大炊頭利勝《おおいのかみとしかつ》が死病を患い、末期《まつご》の裁断で池田領の赤穂郡に加古郡、佐用《さよ》郡の内一万八千五百石を加えて、計五万三千五百石をもって浅野内匠頭長直に国替を許した。末期の土井利勝を動かすのにどれ程の歎願《たんがん》と裏面工作があったか、想像に難くない。  だが、公儀(幕府)も易々《やすやす》と転封を認めたわけではない。乱心除封された池田輝興の失政が長く続いたため、赤穂郡は荒廃して、表高三万五千石が、実収三万石に満たなかった。その上に公儀は領内|千種《ちくさ》川の架橋と、赤穂城の新規|城構《しろがまえ》を三年以内の期限を課して、転封の条件とした。  主家と家臣二百十数人、転封引移りの費用だけでも並たいていではない。幕閣のお礼廻りで納戸金《なんどきん》の底をはたいた。正保元年の大《おお》晦日《みそか》、藩主長直の手許《てもと》にあった金は、一分金一枚きりだったという。  そのすさまじい貧窮のどん底で、内匠頭長直と大石良欽は、土井家が推挙する近藤三郎左衛門という築城家を家臣として召抱え、後に重役に列した。近藤三郎左衛門は家康が重用した兵学者|小幡勘兵衛景憲《おばたかんべえかげのり》の高弟である。  小幡勘兵衛はもと武田の家臣で、甲州流軍学で聞えた兵学者である。徳川・豊臣最後の決戦となった大坂ノ戦役で、小幡は偽って大坂方に加わり、徳川方に内通してその勝利に貢献した。死に臨んだ土井大炊頭利勝が、その小幡の高弟を赤穂浅野家に強く推挙するには、何か隠された因縁があったのであろう。  小幡の高弟近藤三郎左衛門は、三年以内と限られた千種川の架橋と、赤穂城の城構を直ちに開始した。大石良欽は非常の措置として、新附の赤穂の町人にあらゆる名目の冥加金《みようがきん》を課し、農民にほとんど日替りに近い労役を命じたが、それでも足らず、藩士の子弟・家族から藩士自身まで、畚《もつこ》を担ぎ、鋤鍬《すきくわ》をふるい、飯汁の炊き出しを行った。  浅野内匠頭長直と大石内蔵助良欽の凄《すご》さはこの非常の時期にその真価が発揮された。  国替の翌年(正保二年)、赤穂築城と千種川架橋で藩内が沸き立つさなか、赤穂の浜に塩田開発が始まった。  ——国、百年の大計。  と、いう。  公儀が課した城構・架橋は金を産まない。完成すればそれで終りである。貧窮のどん底にある赤穂にとって、もっとも必要なのは金になる産業なのだ。  ——海には無尽蔵の塩がある。  長直と良欽は、その無尽蔵の産物を藩財政の基盤とするため、塩田は浜奉行以下下級士卒を当て、塩を専売とし、生産から販売までを藩の直轄《ちよつかつ》とした。  架橋は一年余で終り、城構の建造は三年を要した。天守は築かなかった。  赤穂城は、名実ともに赤穂藩士と領民の血と汗で築かれた。  息つく間もなく、新田開発が行われた。野や山に開墾の鋤鍬をふるう、それだけではない、灌漑《かんがい》用の水利工事も必要だった。道路もつけなければならない。街道の改修も行わなければならない。港も欲しい。交通は産業開発に必須《ひつす》の条件である。  労役は長く続いた。その間、五万三千五百石の物成り(米)は、山なす借財の利払いに当てられた。肥沃な播州路にあって考えられぬ事だが、労役に飢えた腹を満たすのに、粟稗《あわひえ》飯が常食で、白い飯は年に数回の祝い日に限られた。  浅野内匠頭長直の治政は、彼が中風で倒れ、半年余りで世を去る寛文十二年(一六七二)まで続いたが、その転封以来の成果は、相続のときにあらわれた。  長男采女正長友、五万石。次男長賢、三千五百石。三男長恒三千石。  次男の三千五百石は、本知五万三千五百石の端数《はすう》を分け与えたものだが、三男の三千石は新田の開発分である。橋を架け、城を築き、塩田を拵《こしら》え、街道を改修し、港を作った他に、三千石の新田を切り開き、実収を得た。しかも当時、塩田の収入は米に換算して優に五千石分を超えた。  赤穂浅野は小身だが富裕である、と人は羨《うらや》んだ。  その富裕は天与の物ではない。城の石垣の石一つにも、祖父や父の血が沁《し》みている。瓦《かわら》一枚にも祖母・母の炊き出しの汗がある。みのり豊かな田畑にも、白く輝き映える塩浜にも、食う物を節し、骨身を削って苦役に耐えたおのれの歴史がある。誰が作った物でもない、おれたちが作った、おれたちの物、という実感が心魂に徹している。並の大名家中にない感覚がある。  それは、柳沢保明や色部又四郎の思いも及ばぬ感覚であった。      五  大石内蔵助|良雄《よしお》(幼名竹太郎)が生れたのは、万治二年(一六五九)、浅野内匠頭長直が赤穂へ転封となって十五年目である。  その頃の大石家の暮し向きがどうであったか、山陽道から外れた一小藩の具体的な生活などさぐるすべはない。歴史も三百年以上を経ると、節目の年、赤穂藩でいえば浅野長直死去の時に、かなりの成果があった事実が伝わるのみである。その半ばの十五年目ごろは、まだ困苦欠乏が続いていた、とみるべきであろう。  それは幼な児の頃。物ごころつく六、七歳の頃には、赤穂に経済の立直りが顕著となっていた。筆頭国家老の嫡孫ともなれば、さして不自由なく幼少時代を過したであろうことは想像に難くない。  言うまでもなく、赤穂藩の苦難の日々についてのおとなの話は聞いた。話柄《わへい》の少ない田舎での話は、それに尽きると言っていい。人が最も楽しむ思い出は、人生の最も苦しく辛《つら》かった時の思い出である。戦争経験者は好んで戦場体験を語り、戦中派は食なき戦後の苛烈《かれつ》な生活をなつかしむ。  戦後生れは、その危機感も飢えも実感しない。ただ話として聞くだけである。大石竹太郎もそうだった。  彼が、その人生観に重大な影響を与えるほどの体験をするのは、赤穂浅野の藩主内匠頭長直が逝去した時の、数日間の出来事である。時に彼は十四歳であった。  藩は、挙げて哀悼のきわみにあった。  ——この君、おわさねば、われらの今日はあるまじ。  まさに国父の死であり、国柱倒れるの感があった。藩士は哀悼と痛恨の涙にくれた。  十四歳の少年であった大石竹太郎は、毎夜|回向《えこう》の読経《どきよう》に暗く沈むわが家に耐えかねて、一夜、喪中の城下町を歩き廻《まわ》った。  町家の五軒、十軒おきに、灯影《ほかげ》が洩《も》れ、人の集まりざわめく気配があった。江戸時代の元禄期には、灯油は米より高値《こうじき》で、夜、灯影が洩れるほど費《つか》う家は少なかった。殊に十年以上前の田舎町、赤穂では、年に数度の祭礼か盆暮正月に限られていた。  ——町人も、故主の逝去を悼み、回向をしておる……。  そう思った竹太郎は、その一軒にしのび寄り、覗《のぞ》き見た。  そのとたん、凄《すさ》まじい衝撃に襲われた。  寄り集まった近隣の者は、明るく談笑していた。各々《おのおの》の膝前《ひざまえ》には持ち寄った煮染《にしめ》や酒肴《しゆこう》が並び、食《くら》っているのは赤飯であった。  ——鬼が死んだ。  嬉《うれ》しそうに語り笑う酔顔が、眼に灼《や》きついた。  ——これで苛斂誅求《かれんちゆうきゆう》もおさまるであろ、めでたやな。  どの家のどの集まりも同じであった。殊に塩浜の祝い事は派手で、それも十日あまり連夜続いた。  少年竹太郎には、憤激の念より君臣の存念が打砕かれた衝撃のほうが大きかった。  赤穂の侍が、神とも仰ぐ故主の死を、領民は赤飯を炊き、酒を呑《の》んで祝いことほぐ。  少年に、それを咎《とが》める権限はない。なじることわりも持っていない。多感な少年は、侍と領民の思考の落差に、ただ途惑うばかりであった。  ——侍、とはなんだ。  士農工商、四民の上位にあって、租税を徴し、政治を司《つかさど》る侍が、その裏で怨嗟《えんさ》の的となり、軽侮されている。  ——なぜだ、何でだ。  大石竹太郎は、侍の家に生れ、育ち、侍の一生を約束されている。幼少の頃より学んだのは侍の尊厳の道である。  ——侍の尊厳とは何だ。  浅野長直と大石良欽の事績はもう一つある。  転封九年目に当る承応元年(一六五二)、彼らは藩士教育を思い立った。  ——労役に明け暮れ、貧困にあえぐ毎日を送っていると、侍は侍心を失う。赤穂藩百年の計に教育を加えねばならぬ。  彼らは、築城に当った近藤三郎左衛門のすすめで、同じ小幡門下の学者山鹿素行を招聘《しようへい》し、藩士教育を行わせた。  山鹿素行、名は甚五左衛門高祐、当時きわだって過激な実践的学問を鼓吹した。理財の鬼と目していい長直・良欽のコンビが、幕府の官学、すなわち林派の朱子学に弓ひく在野の学者を選んだのは興味深い。  山鹿素行は、藩士に兵学と儒学、神道《しんとう》を講義した。彼は従来の学説論議を悉《ことごと》く論破して、儒学を中心とした武士道精神を説き、儒学自身も日本的体系を確立すべきことを提唱した。  山鹿素行の赤穂滞在は九年に及んだ。その間に未だ生を受けぬ大石竹太郎は、まだその片鱗《へんりん》だに触れていない。  万治三年(一六六〇)、赤穂を辞して江戸に戻った山鹿素行は、〈聖教要録〉という著作を発表して、官学たる朱子学が、抽象理論にとどまって実践行動を起こさない事を鋭く批判した。そのため、幕府の忌諱《きき》にふれ、因縁浅からぬ赤穂藩にお預け、幽閉の身となった。今に残る赤穂城跡の二ノ丸・山鹿|謫居地《たつきよち》は、その住居跡である。  山鹿の世話は、隣に住居する大石|頼母《たのも》(良欽の弟・竹太郎の大|叔父《おじ》)の家人がみたらしい。大石頼母は江戸家老をつとめ不在であった。もちろん幽閉の身であるから講義は許されないが、心ある藩士や子弟はひそかに訪れて、その説くところを聞いた。大石竹太郎もその一人であり、山鹿が最も嘱望した少年であったと伝えられている。  その後、延宝三年(一六七五)、公儀は宥免《ゆうめん》の沙汰《さた》を下し、山鹿素行は江戸に帰府し、十年後の貞享《じようきよう》二年に死去する。享年《きようねん》六十四であった。  浅野長直の死は、山鹿素行が再び赤穂を去る三年前の事である。十四歳の大石竹太郎が衝撃をうけた領民の祝い事を、山鹿素行にうったえ、教示を仰いだであろうか。もし教えを乞《こ》われたとしたら、碩学《せきがく》山鹿素行はどう答えたであろうか、大いに興味をそそられるところだが、そのような史実はおろか、説話も巷説《こうせつ》も残っていない。恐らく——九分九厘——竹太郎はその事実を内に秘め、話さなかったに違いない。  山鹿素行は長直の死の翌年(延宝元年)、〈武家事紀〉を著している。山鹿素行にとって赤穂浅野長直は、その激しい学説の数少ない支持者であり、かつて九年間藩士の教育をゆだね、流謫《るたく》された後も厚遇した。その長直の死を祝う領民のある事を知ったら、彼の〈武家事紀〉にその影響があらわれないわけがない。  おそらく竹太郎はこの事を深く心にうけとめ、長く考え続けたに違いない。それは四年後、彼が家督を嗣《つ》いで国家老となっても暫《しばら》く続いた。彼がその結論を得るまでには、数ヶ年の国家老の経験が必要だった。      六  浅野内匠頭長直が死ぬと、その嫡子采女正長友が五万石を相続した。  長直は常陸笠間の頃を加えると三十年あまり藩主の座にあったが、その子は短命だった。采女正長友はわずか三年で逝去する。跡目はその子の長矩が嗣ぎ、内匠頭に任官する。年わずか九歳である。  浅野長直と大石良欽は、君臣一体ともいえる好一対であったが、その天寿と子供運が酷似している。大石良欽の嫡子良昭は、浅野長直が世を去った翌年(延宝元年)、三十四歳で病死し、大石家の相続人は嫡孫の竹太郎に変る。竹太郎は当時の慣習で祖父の養嗣子という続柄になる。  浅野内匠頭長矩が播州赤穂の領主になった年、大石良欽は病に臥《ふ》し、延宝四年、世を終る。君臣ともに長く藩改革に当り、前後して長逝し、次代の子が早く卒去する。ふしぎな暗合であった。竹太郎は筆頭家老の大石家を嗣ぎ、内蔵助良雄を名乗る。浅野長矩と大石良雄、赤穂浅野の最後の時代が始まった。  浅野長矩が、親戚《しんせき》の備後三次《びんごみよし》五万石浅野家の姫(幼名栗姫)と婚約したのは延宝六年(一六七八)、十二歳の長矩に対し、栗姫は六歳だった。栗姫は赤穂浅野の江戸藩邸に引取られ、天和《てんな》三年(一六八三)正式に婚姻の儀式をあげる。長矩十七歳、栗姫は阿久利ノ方と改名、十一歳。絵に見るような美少女であった、という。  これとは対照的に大石内蔵助の結婚はかなり遅い。二十八歳で但馬《たじま》豊岡京極家(三万三千石・甲斐守《かいのかみ》)の家老|石束《いしつか》源五兵衛|毎公《つねとも》の娘、理玖《りく》を娶《めと》った。貞享三年(一六八六)、理玖十七歳。ちなみに少年時代の大石内蔵助は、小柄だが色白丸顔の御所人形を見るような愛くるしい容貌《ようぼう》だった、と伝えられている。  十八歳で家督を嗣ぎ、国家老(千五百石)に列した内蔵助は、当分見習として政務を学ぶ身となった。物故した大石良欽に代って城代家老の職は、壮齢気鋭の大野九郎兵衛(次席家老・六百五十石)が継ぎ、三席の近藤源八(千石)、筆頭番頭の奥野|将監《しようげん》(千石)が輔佐《ほさ》した。近藤源八は赤穂築城に当った近藤三郎左衛門の子で、内蔵助の叔母を娶っているから義理の叔父に当る。奥野将監も親戚筋、ほかに進藤源四郎(足軽頭・四百石)、小山源五右衛門(足軽頭・三百石)等々、親戚がやたらと多い。  家老職見習というのは、担当政務がないから出勤は自由である。当座一年あまりは登城すると古書類あさりにふけっていた。長直・良欽の事績に興味を持ったようであった。  ふつう見習というのは、多忙な者を見かけると、手伝いを申し出て手助けする。指図されたり解説を聞かされ、時には叱言《こごと》を受けて実務を覚える。ところが内蔵助には一向その気がなかった。  ——可愛気のない若者だ。  そういう批判もないではなかったが、なにせ身分は筆頭国家老である。意見するのも憚《はばか》られるので、放っておかれた。  そうこうするうち、見廻り(視察)と称して、外出が多くなった。郷方(田舎)廻りを済ませると、塩浜へ毎日通う。そのため日焼けして色黒となり、小太りのずんぐりむっくりになった。愛らしかった容貌は丸々として細い眼の眼尻《めじり》が下がり、二十代とは見えず、よほど年嵩《としかさ》に間違われた。  内蔵助は、塩浜から時々姿を消すようになった。行先はわからない。時によると二日三日と帰らないことがある。さすがに心配になって調べると、浜方の小役人が、  ——舟を貸せ、と言われて、海へお出になりました。  と、いう。  ——わかった、室ノ津へ遊びに行ったに違いない。  そう言う者があり、現に室ノ津の遊女屋で遊興しているのを見かけた、という者もあらわれた。  室ノ津は、赤穂の東、海路三里ほどの港町で、万葉の昔から海上輸送路の要衝として栄え、その遊女町は瀬戸内随一と名高い。  ——はてさて、年頃は二十歳《はたち》過ぎの血気盛り、色の道ばかりは止めようがない。  親戚筋の重役たちは、苦笑するしかなかった。だが筆頭国家老がこの態《てい》たらくでは、藩内外の聞えもある。  ——勘定方輔佐、浜取締、金銀算用。  巧妙な弥縫策《びほうさく》といっていい。赤穂藩の収入は米と塩だが、藩内の余剰米は大坂の蔵屋敷で米問屋に売り、日常の諸費用に当てる。その収支は練達の勘定方役人が扱うから、重役は目を通し、花押《かおう》を捺《お》すだけである。塩は塩浜に商人が買付に集まり、現金決済で納戸金《なんどきん》として納め、藩財政の不足を補い、不時の用に当てる。  長直・良欽時代にその制度は確立され、ゆるぎなく運営されている。年々足らざることはない。重役は前例に違《たが》うかどうかを検分するだけで事足りる。  正規の担当を仰せつかった内蔵助は、早速大坂へ出向した。蔵屋敷の機能を調べるという。出向は月余に及び、その後も二度三度と続いた。役目熱心とみる者もあれば、遊び場所が大坂にひろがったとみる者もあった。  真偽のほどはさだかでなかった。  天和三年(一六八三)、公儀は襲封して九年目の浅野内匠頭長矩に、年頭勅使|御馳走《ごちそう》役を命じた。この年の勅使一行は、勅使・院使・新院使の三名で、勅使に浅野内匠頭、院使に伊勢|菰野《こもの》一万二千石|土方《ひじかた》丹後守市正、新院使に摂津麻田一万二千石青木甲斐守一政が当った。いずれも小大名だが、内証ゆたかとみての任命に違いない。  内匠頭長矩はこの年十七歳、少年の身に余る大役、というより難役である。  藩も難儀である。この年の春、内匠頭長矩は阿久利との婚儀を予定していた。その婚儀が終ると、六月、初の〈お国入り〉となる。いまの感覚では奇妙なことだが、大名の妻子は江戸住いが定法のため、内匠頭長矩は播州赤穂を知らず生れ育ち、家督を嗣いだ後も�若年のため�参覲《さんきん》交代を免ぜられ、〈お国入り〉を果していない。その初の〈お国入り〉には、かなりの出費が予定されていた。  婚儀とお国入りの費用は捻出《ねんしゆつ》してあったが、勅使|饗応《きようおう》の費用は予定外である。江戸家老大石頼母は聞えた名家老職であったが、さすがに慌てた。  ——諸費用概算、壱千両、急送されたい。  赤穂の勘定方に飛報が入った。  城代家老大野九郎兵衛以下は鳩首《きゆうしゆ》協議したが、方策が立たない。本家芸州浅野家に借用方を歎願《たんがん》してみようということになったが、一時に千両というのはいかにも無理である。  折から、大坂出向中の大石内蔵助が遅れて協議に加わり、事もなげに告げた。 「その手当は浜方で致しましょう」  聞けば、先月、大坂で塩の相場が値上がりしたため、思わぬ余剰金を生じたという。 (天与の助け)  大野九郎兵衛以下は、その好運にこおどりしたが、肝心の内蔵助は茫洋《ぼうよう》と変らぬ様子であった、という。  ——賢愚のほどがさだかでない。  という人物評が定着したのは、この頃からであった。      七  江戸家老大石頼母に届いた金は、要求通り金壱千両、ほかに〈随意おつかい料〉として三百両が添えられてあった。内蔵助のこころ配りである。  江戸家老の役を三十年以上もつとめ、長直・良欽時代の苦難の時代を過した大石頼母の力倆《りきりよう》は、この時発揮された。  勅使・院使・新院使三名饗応の御取囃《おとりはや》し役(指導役)は、高家《こうけ》大沢右京大夫|基恒《もとつね》である。  大石頼母は、格別の贈物を届け、 「あるじ年若にござりますれば、格別のお引廻《ひきまわ》しを……」  と、頼みこんだ。  大沢右京大夫はこころよく引受けてくれたが、例年にない三人の勅使に、不慣れな小大名が饗応役とあって、個々の指導に手が廻りかねる。  大石頼母は一計を案じ、京都事務専任である高家|肝煎《きもいり》の吉良上野介|義央《よしなか》に、更なる指導を頼みこんだ。  時に吉良義央四十三歳。不惑を越えて盛りの年齢である。 「心得申した。大沢右京に手落ちあれば、それはそのまま肝煎のそれがしの手落ち、式法指南は喜んでお引受けしよう」  吉良は自ら伝奏《てんそう》屋敷に出向いて、大沢右京大夫ともども典礼作法の指導に当った。十七歳の少年大名が初めての大役におびえすくむとき、手とり足とりして力強く教える壮齢の手のぬくもりが、どれほど嬉《うれ》しく頼もしかったであろう。 「そうだ、よう出来た、その心得忘れめさるなよ」  眸《ひとみ》をうるませ頷《うなず》く紅顔の内匠頭に、吉良義央はその手を強く握って励ましたことも二度や三度ではない。  天意・天運は人智をもって到底はかりがたい。後年、その二人が白刃で襲い襲われようとは知る由もなかった。  勅使饗応の役は無事に済み、婚礼とお国入りも滞りなく終った。その年、江戸家老大石頼母は突然の胸痛で卒去し、赤穂浅野は長直・良欽時代の最後の柱を失った。  国家老の列に加わった内蔵助は、まず長直・良欽の時代の記録を調べた。赤穂藩創業の歴史は言語に絶するすさまじさであった。 (これでは、領民が怨嗟《えんさ》し、侍を軽侮するのも無理はない……)  十四歳の頃の思い出が、痛烈によみがえる。 (素行先生に訴えたら、何と答えられたであろうか……)  山鹿素行は、侍の道をこう説いた。  ——侍は、民の師表であり、指針であらねばならない。日常身をつつしみ、廉恥を忘れず、いつ如何《いか》なる事があろうとも国の安泰を保ち、民の平安を守る。泰山|富嶽《ふがく》の重さと、北斗の星が示す確かな方向を民に感じさせてこそ、侍の尊厳は保たれる。  また、こうも言う。  ——侍は戦士である。侍は常に戦場に身を置く心構えと、常に異変に応ずる備えを持たなければならない。戦士は戦うことだけが本分ではない、戦いに勝つことが本分なのである。 (赤穂に、その心構えと備えはあるか)  無い。異変が起こればたちまちあわてふためき、早速にまた苛斂誅求《かれんちゆうきゆう》を行ない、挙句に惨敗崩壊するだろう。侍の尊厳など木《こ》ッ端《ぱ》みじんになる。  祖父は祖父なりの人生を築いた。倒壊しかけた国を、なりふり構わず建て直した。非難をうける点は多々あっても、それなりの業績を残した。 (おのれはどうだ)  蛙の子は蛙、国家老の孫は国家老として何が残せる。 (やってみるか)  多少の自信はある。民百姓を苦しめずに天災や飢饉《ききん》、戦乱、恐慌に応ずる備えをつくる。  ただし、一人でやらなければならない。  城代家老大野九郎兵衛以下、重役・藩士は、藩財政のゆとりに昨日を忘れ、日々安逸に身をゆだねている。非常の備えなど説いても鼻先であしらうのは目に見えている。 (愚を装って、韜晦《とうかい》するか)  それも面白かろう、内蔵助は賢愚の二重生活に心おどるものを感じていた。これは天性のものかも知れない。彼は山鹿素行のきびしい規範に心服する一面、放埒《ほうらつ》に快楽を追い求めたい願望を抑えかねていた。  先立つものは金である。新田開発の余地はないかと郷方(田舎)を廻ってみたが、もう残っていない。長直・良欽時代に開発し尽していた。  塩田も同じだった。良欽は当時画期的な入浜方式という製法を採り入れて、米五千石分の生産をあげた。二十歳前後の内蔵助の知識では改良の余地など及びもつかない。  自信がゆらいだ。塩浜に買付に来た商人が内蔵助を浜取締の家老と知って、顔つなぎに遊びに誘った。室ノ津の遊女買いである。たちまち病みつきになった。内蔵助は好色のおのれを知る。三里の海路は遠くなかった。  遊女町へ通ううち、内蔵助は思わぬ事に気付いた。塩浜で吝《しわ》い値を付ける塩商人が、室ノ津では景気よく遊ぶ。 (塩とは、そんなに儲《もう》かるものか)  大坂へ足を伸ばした。赤穂の浜で売った値の数倍で取引されていた。時代が元禄に近くなると、生産者より商人の方が肥えふとる、町人の世になりつつあった。  内蔵助は、直取引《じかとりひき》を目論《もくろ》んだ。船で塩を大坂へ運ぶ。初めの頃は一割か二割の量だったが、それでもかなりの差益金が出た。十七歳の内匠頭長矩の勅使饗応費を捻出《ねんしゆつ》したのはその頃である。  内匠頭長矩のお国入りの際、内蔵助の城代昇進が内示されたが、平《ひら》に御辞退申し上げた。城代という政務より、財務担当の方が性に合っている上に、本来の目的に叶《かな》っている。とうてい手放せるものではない。  ——勘定方、浜取締、金銀算用。  輔佐《ほさ》の二字が抜け、藩財政を統轄することになった。内蔵助は直取引の量を増やし、差益金を簿外金として貯《たくわ》え、藩財政の不足を補い、一部を撫育金《ぶいくきん》として、いざというとき役立つ藩士への補助金に当てた。  硬い面ばかりではない。室ノ津遊びも続いた。当時としては稀《まれ》にみる晩婚も、そのせいである。大坂での遊びもふえた。  ——勘定方御家老は、御不在勝ちで困る。  そういう苦情もあったが、必要な金はすぐ融通のつく勘定方は貴重だった。  七、八年前、大坂|住之江《すみのえ》の遊廓《ゆうかく》で、内蔵助は天川屋儀兵衛という悉皆《しつかい》問屋と知り合った。悉皆問屋というのは商売物を一種に限らず、何でも扱う問屋である。天川屋は祖父が長崎で唐物《からもの》商人(中国をはじめ外国渡来の品物を売買する商人)だったという豪快な男で、内蔵助を評して、 「侍衆には惜しい、あきんどにしたいお人や」  と、ぬけぬけと言う。その天川屋が、 「年に米五千石分の塩なら、相場が動きまっせ、付け値で売ることあらへん」  と、教えてくれた。  ——相場が動く。  安値の時は売り控え、高値の時に売りあびせる。そうなると、もう一人では手が足りない。  内蔵助は、浜奉行という役職をつくり、藩士の中から不破数右衛門を抜擢《ばつてき》して当て、腹心として使った。  不破は、月の半ば以上、大坂に出向いて相場を扱ったが、そのうち、ほとんど常駐するようになった。それが藩内で問題化し、遂《つい》に藩籍を抜いて内蔵助の寄《かか》り人《うど》となり、代理をつとめていた。 [#改ページ]   旋 回      一  居間で常服に着替える内蔵助《くらのすけ》に、りく[#「りく」に傍点]は何も問いかけなかった。  寄宿している不破|数《かず》右衛門《えもん》が行動を起こしたことからみて、大石家の家人が異変に気付かぬ筈《はず》はない。おそらく——殿様、刃傷《にんじよう》と聞き知って、藩の重役同様、困惑と昏迷《こんめい》の中で息をひそめ、あるじ内蔵助の挙動をうかがっているのであろう。 「朝餉《あさげ》は……? それとも、いま少しお休みになりますか?」  大柄なりくは、その平常と変らない様子が妙に頼もしくさえ見えた。 (落着きをよそおっているが、さぞかし心の中は千々に乱れていような)  内蔵助は、ふとあわれをもよおす。侍も侍の家の者も、こうした時、うろたえたり騒いだりしてはならぬものと仕付けられてきた。うろたえ騒いだらみっともない。侍はどのような時にも美しくあらねばならない。 「いや、朝餉はいつもの時刻でよい……しばらく一人でいたい」  りくは、乱れ箱を手に、退《さが》って行った。  陽がさしかけたが肌寒い。内蔵助は胴着の付け紐《ひも》を結びながら、庭へ下りた。  後に、天明の火災で焼け、いまは長屋門と遺愛の桜樹を残すのみとなったが、方一町の屋敷は一藩の筆頭家老にふさわしい堂々たるものであった。  庭木が多い。屋敷を作った祖父、内蔵助|良欽《よしただ》の好みで、ほとんど花樹である。  ——木の楽しみは毎年季節の移り変りに、花を賞《め》でることにある。果実《み》まで食《くら》おうなどと卑しい心を持つな。  それほどの廉潔心を持った良欽が、藩政ではなりふりかまわぬ苛烈《かれつ》を強行した。人は往々にして相矛盾する両面を持つ。それが人間らしいともいえる。  内蔵助は、その庭木を一本一本見て廻《まわ》った。先頃まで清冽《せいれつ》な芳香を放った辛夷《こぶし》の白い花は散り果て、連翹《れんぎよう》の鮮黄の花も葉ばかりとなった。いまは|※[#「木+(虍/且)」、unicode6a1d]子《しどみ》の黄赤い花がさかりである。  ——祖父《じい》さまも凝ったものだ。  延宝四年、世を去るまで一緒に暮した祖父は、怖いが先の御人であった。内蔵助の父権内良昭は、物心つく頃は京都|留守居《るすい》役を拝命し、妻子と別居の暮しを続け、延宝元年京都でわずらいつき、三十四歳で死んだ。竹太郎といった内蔵助良雄が、まだ十五歳。年に数度しか会うことのない父より、日夜小言と拳骨《げんこつ》で鍛える祖父の方がよほど思い出深い。  その祖父が、百年の後も子孫が楽しむであろうと丹精こめたこの庭も、木の花も、見るのは今限りであろう。来年の春は誰が住居し花の移ろいを眺めるか。思いがそれに至ると内蔵助は、暗くふたがれた胸の底から、熱くこみ上げる感傷を抑えかねた。  奥庭、泉水の畔《ほと》りに、遊息堂と祖父が名付けた離れ家座敷がある。内蔵助は泉水の小橋を渡って築山《つきやま》を廻り、菜園畑へ出た。みず菜、葱坊主《ねぎぼうず》の青々とした畝《うね》の端に、これは内蔵助が建てた小さな道場がある。頑丈|一途《いちず》の何の飾りもない十四畳の板の間に、三畳の台所と厠《かわや》がついている。  足を踏み入れると、片隅にきちんと積んだ夜具布団、白木《しらき》の文机《ふづくえ》と二つの柳行李《やなぎごうり》は不破数右衛門の物と見えた。簡略の上にも簡略化した生活ぶりに、その人柄がうかがえる。  内蔵助は、壁に掛けてある木刀の一本をとると、素振りをくれた。ともすれば萎《な》えがちになる気力をふるい起こそうと、何度も力をこめて振るった。 「ごめん」  声がして、戸が開いた。吉田忠左衛門の老いてますます鋭さを増した顔がそこにあった。 「お、ご家老……」 「忠左どのか、数右衛ならつい今しがた大坂へ発《た》った……まあ上がれ」  長年にわたる内蔵助の韜晦《とうかい》は、一部の藩士の知るところとなっていた。郡《こおり》奉行の吉田忠左衛門もその一人であり、ほかに不破数右衛門、京都留守居役小野寺十内(百五十石・五十九歳)、江戸詰|馬廻《うままわり》武具奉行奥田孫太夫(百五十石・五十五歳)などが、内蔵助の賢の部分の相談役や輔佐《ほさ》をつとめていた。 「ご家老……」  内蔵助の前に端座した忠左衛門は、深々と頭を下げた。 「……何とも言いようもなき……事になりましたな」 「うむ……」  木刀を手にしたまま、内蔵助も長歎《ちようたん》した。 「運だな、人には生れついての運がある。人は才能と努力というが、才を発揮する場にめぐり合えるも運、努力する機に出合うも運だ……だが、われらにこれほどの兇運《きよううん》がめぐって来ようとは、思いもかけなかった」 「では……やはり、いけませぬか?」  忠左衛門は、すがるように見上げた。 「甲斐《かい》なき望みは捨てたがよい。刃傷沙汰《にんじようざた》を起こして生き残った大名は一家もない」  内蔵助は未練を断ち切るように一振りすると、木刀を壁の刀架に戻した。 「そうなりますと、これまでの御苦労は水の泡となりますな」 「さ、水泡《みなわ》と消えればよしとしよう、だが……どうかな、御家も藩もほどなく終るが、その先に何が待ち構えているか、それがわからぬのが人の世だ」  内蔵助は、われとわが身を励ますように、窓外をきっと瞶《みつ》めた。 「わしもどうやら本来の姿に戻る時が来たようだ……のう、忠左どの」 「まことに……赤穂《あこう》浅野の最後を飾るにふさわしきお指図を、切に願い上げまする」  二人は、笑顔で瞶めあった。      二  江戸から第二の使者が到着したのは、その日の午後であった。三月十四日深更、江戸を発した早打は、最初と同様五日半を要した。使者は原惣右衛門(物頭三百石・五十五歳)、大石瀬左衛門(馬廻百五十石・二十六歳)。  原は江戸詰家臣団の中で、江戸家老に次ぐ者とみとめられている。 「もしや……御処分が決ったのではあるまいな」  激情の身に疲労と困憊《こんぱい》が重なって、あえぎ言葉をつまらせた両名へ、内蔵助は一喝した。 「年甲斐もない! 何たる態《てい》たらくだ! 早う返事せい!」  吾《われ》に返った原は、こみ上げる嗚咽《おえつ》を殺した。 「な、情けなや、……御切腹にござります」 「なに? その日、即日か」  さすがの内蔵助も声が詰った。大野|九郎兵衛《くろべえ》、奥野|将監《しようげん》、近藤源八以下の面々は、目もくらみ、わなわなと震えるのみであった。 「何故《なにゆえ》か御公儀の御憎しみ激しく……鉄砲洲《てつぽうず》上屋敷を始め赤坂下屋敷もお取上げにございます」 「奥方様は時をおかず髪をおろされ、お里、三次《みよし》浅野家お屋敷へ……まこと目もあてられぬ始末にございました」  交々《こもごも》言う両名を、内蔵助は制した。 「待て、先に書状を見たい」  原は、急いで状箱から出した五、六通を差出した。  内匠頭《たくみのかみ》舎弟浅野大学より、城代大野九郎兵衛宛の諭告状、一通。  芸州浅野本家より、家中一統への訓諭状、一通。  大垣《おおがき》戸田|采女正《うねめのしよう》より、同じく一通。  それらは大野、奥野、近藤らが回し読む。  内蔵助は、まず御仕置文の写しを手にした。  ——浅野内匠頭、其方儀《そのほうぎ》、吉良《きら》上野介《こうずけのすけ》へ意趣|有之由《これあるよし》にて、時節柄と申し、殿中を憚《はばか》らず、理不尽に刃傷に及び候段、重々|不届《ふとどき》に思召《おぼしめ》され、これに依《よ》って切腹仰せつけらるるものなり。  内蔵助には、何か引っかかるものが感じられた。  意趣有之由……由とは何だ、どのような意趣か、確めなかったのか。  理不尽……どうして道理を尽さなかったといえる。  刃傷の違反を強調しているが、粗笨《そほん》の感は否めない。 (何で、即日処分したのか)  胸中に湧いたその疑問と不満は、田村家から渡されたという遺言で、決定的なものとなった。  ……さだめて今日の事を聞かば、不審にも……その続きを知りたい。誰あての遺言だ。 (なぜだ、なぜ遺言を中途で差止めた)  回って来た大学長広や浅野の親戚《しんせき》の訓諭を読む。型通り穏便を旨とし、公儀に従えとあるだけで、刃傷の因も、その有様や経緯、相手方の安否にも一切触れていない。 (おかしい、何か作為がある)  そう感じたのは内蔵助一人だった。大野、奥野、近藤らは、予想を越える事態に打ちのめされ、呆然《ぼうぜん》自失の態だった。  内蔵助は、直ちに家中総登城を触れ出した。  郷方、山方、浜方の出役へ急使が飛ぶ。定めの時刻は戌《いぬ》ノ下刻(午後九時頃)。  その間、内蔵助は勘定方を動員して、御金蔵台帳をはじめ、蔵米出入帳、年貢収納帳、浜方御貸金控、藩札台帳等々、帳簿|尻《じり》を片端から締めさせた。 「もう新規の書入れはない。借方貸方の宛先とその残高を残らず書出せ」  と、命じた。  その一方、城下の各役所、会所、郷方の庄屋《しようや》宛、触れ書を発した。  藩札の金銀引替は三日以内に始める事。  未払い分の支払い、借上金の返済も同じ。  未納の年貢、貸付金は四月五日を限り取立の事、但し藩札額面にて納入も可、事由ある時は宥免《ゆうめん》あるべき事。  異変は時をおかず、城下から領内一円にひろまった。噂は噂を呼び、増幅されて恐慌を招く。内蔵助は先んじて手を打った。その冴《さ》えは水を得た魚の感があった。  第一回の総登城は、刃傷による赤穂藩廃絶を告げるに止《とど》まった。内蔵助は赤穂藩の後始末にいささかの手落ちなきよう、職務に精励する事を命じ、かねて百石以下の軽輩から七年越し借上げていた扶持米《ふちまい》一人宛七石三俵を、即刻支給する旨を告げた。その借上扶持米は、不時の異変に備えての強制天引貯蓄であった。  内蔵助は、藩士の勤めぶりを慎重に見守りながら、江戸からの続報を待ったが、第三の使者は来ない。勅使|饗応《きようおう》に要する用度金を持たせて江戸に差向けた藤井又左衛門も、江戸家老安井彦右衛門も、何の連絡も寄越《よこ》さず、帰国する様子もない。  その間、公儀は赤穂城の受城使に、   播州竜野《ばんしゆうたつの》五万三千石 脇坂|淡路守安照《あわじのかみやすてる》   備中足守《びつちゆうあしもり》二万五千石 木下肥後守|利庸《としつね》  受城目付に、   御使番 荒木十左衛門   御小姓組 榊原采女《さかきばらうねめ》  の両名を任命し、受城使脇坂・木下両家は武装をととのえ、赤穂領国境に進出、万一の動乱に備えさせ、受城目付両名は月末江戸を出立、四月半ばに城地接収の段取りを決めた。  内蔵助は、まず藩政の後始末に着手した。  領民にとって最大関心事である藩札の引替を開始する。引替率は六分替、通例は四分から五分替というのを、思い切って高率にした。  藩札の発行量は、銀九百貫目、当時の換算率で約一万二千両になる。六分替分七千二百両を用意した。  藩札は、各藩が領内を限って通用させる不換紙幣、とあるが、必ずしも当らない。天下通用の金銀銭貨のほかに、各藩が勝手に不換紙幣を発行流通させれば、金銀銭貨との間に差額を生じ、経済が混乱するばかりか、物価|昂騰《こうとう》を招き、破綻《はたん》を来《きた》すおそれがある。  藩札は、一種の債券である。治山治水、架橋、道路の改修などは、建前上は藩の全面負担だが、その費用の一部を受益者負担とするため、藩札で支払う。受益者は年貢その他を納める際、一定の率で藩札納入を認めて貰《もら》うほか、年賦《ねんぷ》で償還も受ける。但し財政|逼迫《ひつぱく》の年は償還が無いから、無期限不換紙幣と言われた。  異変の際、いつ償還されるかわからない受益者負担が、半分でも返して貰えれば上乗、というので、四分替五分替が通例であった。それを六分替とした上、未納の年貢や貸付金に、藩札額面で納入を認めるというのであるから、こんなうまい話はない。未納農村や貸付をうけた商家は、争って七分八分で買いあさる、引替会所は当分閑古鳥が鳴く有様となった。  領内|静謐《せいひつ》の足場がためをする一方、内蔵助は、情報|蒐集《しゆうしゆう》の手を打った。  広島浅野本家、三次浅野家、大垣戸田家へ、廃藩整理のためと称し、金銀借用のための使者を送った。進藤源四郎、小山源五右衛門、外村源左衛門(足軽頭・三百石)の三名である。言うまでもなく借金は口実で、親戚三家から刃傷《にんじよう》事件の真因と経緯、吉良の安否を聞きだすためであった。  また、月末江戸を発《た》つ受城目付には、浅野大学長広によるお家再興|歎願《たんがん》のため、多川九左衛門(物頭・五百石)、月岡治右衛門(小姓頭・三百石)を早使として急派し、同様に刃傷事件の真相をさぐらせた。  しかし、親戚三家への使者はまったく役立たずに終った。金は貸さない。情報もそれぞれの国許《くにもと》へは何一つ届いていない。もっとひどいのは江戸へ早使となった多川と月岡で、大垣戸田家を通じて受城目付に面会を求めたが、手続に手間どるうちに相手は江戸を発ち、両名は大垣戸田家に滞留を強いられ、赤穂に帰城したのは開城の前日であった。  日は容赦なく過ぎた。  月末近くになると、江戸詰の藩士が三人五人と帰国して来た。聞けば藤井・安井の両家老は、六十人を越える江戸詰の藩士にわずかばかりの涙金を配り、あとは国許での配当金を待てと告げ、赤穂浅野家の家財を処分した上で、本所下屋敷を公儀に返上、何方《いずかた》となく立去った、という。  江戸から帰国する藩士が、十人、二十人とふえると共に、城下に他国者の姿が散見するようになった。その大半は赤穂廃藩という異常事態に乗じて、武具・諸道具・書画|骨董《こつとう》から、あわよくば物産の取引権、商人株などを買いあさろうという上方《かみがた》商人や行商などだが、中にうろんな者もまじっている。当然公儀や隣接諸藩の諜者《ちようじや》が入りこむことは避けがたいことであった。  藩政整理は着々と進み、終結に近付いた。  藩士の中に、藩金の分配を求める声が出てきた。  その一方で、藩廃絶に対する首脳の方針を示せ、という要求が挙がった。      三  老中・若年寄の退出は、八ツ刻《どき》(午後二時頃)が定例だが、御側用人《おそばようにん》はその後も将軍の諮問《しもん》や諸雑事があって、七ツ六ツ刻になることも珍しくない。  柳沢保明が神田橋御門内の屋敷に戻ったのは、もう灯ともし頃であった。  小書院には、一|時《とき》(約二時間)あまり前から、色部又四郎が待っていた。 「どうだ、赤穂浅野の様子は……別段変りなく運んでおるか」  座に着いて挨拶《あいさつ》をうけると柳沢は、短兵急に切り出した。 「は……江戸表にては万事思いの通りに進みおりますが……」  色部は、ちょっと困ったふうに苦笑してみせた。 「まず、それを聞こう」 「江戸屋敷の藤井、安井の両家老は浅野本家が引取り、後々の身の振り方を請合ってとどめおくとのことにございます。また大垣戸田家も早使の両名の慰撫《いぶ》につとめておるとか……」 「で、残る定府《じようふ》の侍は如何《いかが》致しておる」 「赤穂国許へ立帰りました者二十余名、残りは町屋に住居を移し、ひたすら分配金のわたるのを待ちうけております」  柳沢は、満足気に頷《うなず》いた。 「で? その赤穂は」 「これが意外なことに江戸詰の藩士をのぞく三百余名、微禄《びろく》軽輩のわずかな落ちこぼれをのぞき、藩政の後始末に懸命とか……また領内も至って平穏、以前と変らぬ暮しようとのことで……」 「それはみごとだな。たしか八年前、備中松山|水谷《みずのや》出羽が改易の時は、舎弟を旗本に取立てたにもかかわらず、旬日を経ぬ間に家中の大半が離散し、後始末に難渋したと聞いたが……」  柳沢の記憶力は抜群である。元禄《げんろく》六年、備中松山五万石水谷出羽守|勝美《かつよし》が病歿《びようぼつ》、養子縁組願を上申中の弥七郎勝晴も急逝したため、廃絶となった時、受城使を仰《おお》せ付《つ》かったのが赤穂浅野家で、内蔵助はその接収と以後の管理に当った。その経験がいま生きている。  そのことは色部の知るところではなかった。 「その束ねは何者だ」 「筆頭家老の大石内蔵助とか申す者が、よろず取仕切っているやに聞きました」 「大石とな?……聞かぬ名だな」 「いや、人柄のせいではございますまい、赤穂では領民の手当を先にしたため、侍どもへの藩金分配が遅れ、それで足止めをくらっておるものとみえます。本家|親戚《しんせき》筋へもたびたび金子《きんす》借用を願っているとか……」 「それが怖いと申すのだ」  柳沢は、鋭く言った。 「そちはひと口に三百というが、城受取の脇坂淡路がくり出す手勢はせいぜい五、六十、木下肥後は二、三十だぞ、一藩火の玉となって刃向うたらどうなる」  色部はたじろぐ様子を見せなかった。 「そのために親戚三家がございます。連累が及ぶとあって彼らも必死……御上意にさからえば彼らが始末致しましょう。かえってその方が好都合、恨みの筋は根だやしになります」 「天下に刃向うすべはないと申すか」 「そこで世の無常を感じ、追い腹殉死などしてくれればなお結構……ま、当節の侍にそれほどの気骨《きこつ》はありますまい。残りの藩金を分けあえば、足許《あしもと》の明るいうちに離散するが落ち……御懸念《ごけねん》には及びませぬ」 「まあな……御当代に何十もの大名が潰《つぶ》れたが、刃向うた家中はひとつもない……」  それも道理、時は元禄、最も近い島原ノ乱から六十四年、大坂ノ陣から八十六年も経っている。世は泰平の真盛りなのだ。  ——何ほどの事やある。所詮《しよせん》は螳螂《とうろう》の斧《おの》。  柳沢は色部の進言に基き、浅野の親戚三家に最後の強圧を加えた。  ——四月十五日を切りに、旧赤穂浅野家中、恭順の意を示し、城地公収に応ずるよう、説諭につとめよ。遺漏あるときは咎《とが》あるべし。  浅野親戚三家は畏怖恐惶《いふきようこう》、直ちにそれぞれの重臣を赤穂へ差向けた。  浅野本家、側用人井上団右衛門(三千石)、旗奉行小山孫六(五百五十石、内蔵助|伯父《おじ》)。  大垣戸田家、家老戸田権左衛門(二千石)。  三次浅野家、持筒頭内田孫右衛門(千石)。  四名は相前後して赤穂に急行し、内蔵助に面談を申入れた。 (よう揃えたものよ、同じような人柄の者を)  内蔵助は苦笑せざるを得ない。こちらに頼み事があって面会を求めると、見識張って応対し、引受けるでもなく断るでもなく迂遠《うえん》な返事に終始する。それがおのれの都合で会いに来るときは、みょうに馴《な》れ馴れしく竹馬の友、肉親以上の親交を強調する。 「のう、内蔵助どの、何をそうすねてござるのだ、もそっと腹を割って心の内を話してくれい」 「おぬしとわしは年は違えど同じ学《まな》び舎《や》の出、古朋輩《ふるほうばい》の縁で言うが、かような時に大勢に逆らっては損、何事も長いものには巻かれることよ」 「仲裁は時の氏神というぞ、おぬしに何か不満があれば、あとでゆるりと聞こう。まずは穏便第一、何事も穏便にな、さもないとためにならぬ……」  言う事は大同小異だ、みな決って内蔵助の腹の内をさぐっている。三百の藩士を握って離さず、潰れた藩の始末を鮮やかにつけている男、その男がこの先、何を企《たくら》んでいるか、それをまず知りたいのだ。 「腹を割ってお話しにならぬのは、そちら様でございましょう。亡き殿がなんで高家の年寄に刃傷《にんじよう》なされたか、御本家四十二万石の御威勢をもってすれば、御公儀とて粗略には扱えぬ筈《はず》。委細をお聞き及びでござりましょうに、まずそれをお聞かせなされ」  内蔵助の冷然たるしっぺ返しに、大大名の側用人は、眼を丸くした。 「これは慮外《りよがい》な……刃傷なされたはそちらの殿、その家中が知らぬことをわれらが知る道理がない。無理なことを申されるな」  本当に知らぬのだ。本家ともあろう家の者が、何の意気地もなく、ただ言われるがままに出向いてきた。 「古朋輩の縁でおたずね致す。長いものに巻かれろと申された、その長いものとはいったいどこのどなたでござる。ご老中か、吉良殿の縁類か、まさか御側用人の柳沢様ではございますまいな」  名にしおう大垣の権左が慌てふためいた。 「何を言う、これはおらがの殿、采女正様が天下の安穏を願われてのおさとしなのだ、誰彼と人の名を挙げるのは過ぎた憶測ぞ」  その顔が、声が、言葉を裏切っている。 「時の氏神なら、相手方の委細もご存知の筈、相手吉良殿はご存命か、手疵《てきず》の模様はいかが、まずそれをうかがいましょう」  三次浅野に過ぎた者、が、しどろもどろの態《てい》たらくだった。 「ま、待て、噂は聞いた。だが、噂ではどうにもならぬ。まことの事は誰も知らぬ。知ってはならぬのだ。よいか、詮索はやめよ、それが身のためぞ」  内蔵助が知りたい刃傷の真因も、相手方吉良の安否も何一つわからない。が、わかったことが一つある。  ——何者か、この異変の裏で動く者がいる。その者は厳に私議を禁じ、真相を闇から闇に葬り去って、赤穂藩を無下《むげ》に消滅させることで、事態を収拾しようと策している。  相手方吉良に対して、何の処分も示されない。そればかりか、その安否もひた隠しにしているのだ。  その冷酷な手口は、悪意に満ちている。まさに敵、といっていい。  ——その敵は誰。何ものだ。  内蔵助は、�敵�の存在を、はっきり感じとっていた。      四  昼下がりの陽ざしがきつい。磯の香が強くただよう港近くの傾城《けいせい》町を、旅姿の老武士が歩いていた。  老人の名は小野寺十内。二十数年前物故した大石権内良昭(内蔵助の亡父)のあとを継いで京都|留守居《るすい》役をつとめた。役目柄風雅の心得深く、歌道に通ずる傍ら、国学兵学を究め、内蔵助の相談役として信頼が厚い。  来年還暦を迎える十内は、京都藩邸の後始末を終えたあと、大坂に下って蔵屋敷の処理に当った。それもようやく済んで海路をえらび、便船でこの室ノ津に今しがた着いた。  ——さすが、この日の本最古の遊女町、万葉の昔が偲《しの》ばるる……。  歌人らしい感慨で見て廻《まわ》る遊女屋は三十軒を越えよう。どの家も総二階、百年の歳月に耐えるその頑丈な木組は黒光りして、京大坂の名ある寺院にしか見られぬ総瓦葺《そうかわらぶき》の結構は、瀬戸内一の殷賑《いんしん》を誇る。  十内は、探しあてた〈淡海《たんかい》〉という遊女屋に足を踏み入れた。その二階の一間では吉田忠左衛門と間《はざま》喜兵衛(勝手方吟味役百石・六十七歳)が、内蔵助と酒を酌み交していた。  この時代、遊女遊びは昼のものとされていた。客は昼過ぎに来て夕刻に帰る。江戸の吉原でも夜に入っての遊興は宝暦(九代|家重《いえしげ》の世)以後で、それも町人に限られ、侍の夜遊びはない。港町の室ノ津は例外で、早くから夜の営業が行われたが、それでも船乗や回船業者に限られていた。 「おう、十内どの、ご苦労でござったな。まずはこれは、こちらへござれ」  と、忠左衛門が招き寄せる。 「ご家老、方々、お久しゅうござる。京大坂の始末とどこおりなく終え、只今《ただいま》立ち戻りました」  酒席のことゆえ、十内は軽く会釈して、くつろいだ。  十内は先月、異変が起こると直ちに赤穂へ駈《か》けつけたが、第二の使者のあとまた京に引返している。だが、その後の赤穂の成行は、内蔵助の度々の飛脚便や使いの知らせで熟知していた。 「御親戚《ごしんせき》の御使者はいかが致しました」 「御城下に宿をとって、坐《すわ》りこんでござるよ。それでこうしてお互い、忍び会うている始末だ」  忠左衛門の苦笑いに、間喜兵衛が続けた。 「再来々年は古稀《こき》の祝いをしようという身が、生れて初めて遊女買いを致そうとは、思いませなんだ」  年寄三人が、はしゃいで笑う。内蔵助も笑みを含んで盃《さかずき》を口に運んだ。 「それにしてもご家老、そろそろ潮どきでございますな」  真顔に戻った忠左衛門が、内蔵助に言った。 「さよう、てまえの組下でも、この先いかが致したらよいか、目途を示せとうるさく申しております」と、喜兵衛。 「うむ、せめて亡き殿刃傷の起こりなど、おぼろげにても相分ったら……と思うたが、どうやらその見込みも薄れたようだ」 「と、申されますと、何か……?」  十内が、膝《ひざ》を乗り出す。 「どうやら御親戚はおろか世上一般にまで、舌を縛り口を閉じさせるきびしい禁令が布《し》かれておるとみた」  内蔵助は、盃をおくと、三人の相談役を順々に見た。 「なるほど……」と、忠左衛門が合点のいった顔で腕を組む。 「それで読めました。道理で京大坂にても噂ひとつ出ぬ訳が……」  十内が唇を噛《か》む。 「それにしても江戸詰の者は何と心得ておるのだ。肝心な事に心を配らず、ビラシャラと……国許《くにもと》へ立帰るだけが能ではない筈だ」  喜兵衛は荒々しく盃を呑《の》み干した。 「まあ、御老体……かかる事もあろうかと、かねてから非常の時に備えた者に、指図の早便を送ってある」  内蔵助の言葉に、忠左衛門がピシャリと膝を打った。 「さすがにご家老、よう心付かれましたな」 「それがよくないのだ。その者たち、今日まで二十日余り、今日は立帰るか、明日は便りが来るかと待ちわびたが、今もって一向に知らせがない……」 「奥田孫太夫でござるな」 「そう言えば堀部|安兵衛《やすべえ》もまだ帰国せぬ、それと富森助《とみのもりすけ》右衛門《えもん》……」  老人たちが口々に言うのを聞き流して、内蔵助は言葉を続けた。 「いま暫《しばら》く時を稼ぐには、何か手を打たねばなるまい。人心を静めるため、藩金を分配しようと思うが、どうだ」 「人が散りますぞ」と、忠左衛門が答えた。 「赤穂に見切りをつけておる者が一斉に逃げ出します。いまのわれらは侍数の多さが力と存じますが」 「いや、もう役立たぬ人間は捨てる時機ではあるまいか、わしは逆に籠城《ろうじよう》合戦説を流して侍心を試してみたいと思うのだ。戦さを前に逃げ出す者に用はない」  内蔵助の強い語調に、ハタと膝を打ったのは間喜兵衛だった。 「それは妙、数は減っても相手方がおびえます。御親戚方は腰を抜かしますぞ」  一同が笑った。その笑声の中に賛同の意が含まれていた。  内蔵助が馴染《なじみ》の小若の部屋に戻ると、遊び女《め》の小若はひとり花活《はないけ》の木瓜《ぼけ》の花をまえに、鳥ノ子紙へ木炭で写生していた。 「あ、お帰りなさりませ」  木炭はさみをおくと、小若は内蔵助を迎えた。 「いや、構うな。続けてくれ」  内蔵助が覗《のぞ》きこむ。確かな素描であった。天性に修業のきびしさがうかがえた。  江戸時代、公娼《こうしよう》を遊女、私娼を淫売《いんばい》と呼ぶ。室ノ津は片田舎だが、伝統を誇るその格式は、江戸の吉原、京の島原、長崎の丸山に劣らぬ色町だった。その室ノ津で太夫《たゆう》格の遊女はただ単に性を売るものではない。茶伎《ちやぎ》、香合《こうあわせ》、立花《りつか》など諸芸をたしなみ、和歌、文章や手蹟《しゆせき》も能《よ》くして、客に接し、客はその交際のときを買って楽しむ。それは儒教のきびしい行儀作法のなかに暮す者にとって、男と女の固い壁をとり払った偸安《とうあん》のひとときであった。 「お年寄のみなさまは、もうお帰りになられましたか」  出自は宇佐|八幡宮《はちまんぐう》の神官の娘であるという。その父が落度あって職を追われ、少女の身が浮河竹《うきかわたけ》の身となった。その小若とはもう三年越しの馴染である。初会の折は二八の年がいまは十八、この頃では女の盛りとなっている。 (この女子との別れも、そう遠くない。あと一、二度の逢瀬《おうせ》があるかどうか)  内蔵助は甘酸い思いと感傷をふり払うように笑って答えた。 「野暮は言わぬことだ、それぞれ若い女子の部屋で夕刻まで休んでおる。ま、肩を揉《も》ますぐらいがせいぜいだろうが、それでも女子に触れるというのはよいものだ。精気がよみがえる」  内蔵助は、瓦燈口《かとうぐち》から寝間に入ると、ごろり横になった。  暫くして小若が覗くと、内蔵助は寝息をたてて眠っていた。その顔は赤穂の城で見せる奥深い精気が失《う》せて、げっそりやつれて見えた。  小若は、音を忍ばせて寝間に入ると、ゆっくりと帯を解き始めた。 [#改ページ]   見《けん》 敵《てき》      一  異変が起こってから二十日余り、固唾《かたず》を呑んで成行を見守っていた藩士たちは、間《はざま》喜兵衛が唱えはじめた籠城《ろうじよう》説に、溜《たま》った鬱積《うつせき》を一挙に沸騰《ふつとう》させた。  ——君|辱《はずか》しめらるれば臣死す。亡君意趣を晴らすことを得ず、いのちを断たれた。公儀は武士の真情を踏みにじり、恬《てん》としてかえりみることなし。われらその無法を天下に訴えるため、城受取の手勢を迎え討ち、赤穂《あこう》浅野の正義と武勇を示そうではないか。  言うことは勇ましい。絶望の時の勇壮な言葉というのは、人をかりたて悲壮美に酔わせる作用がある。 (坐《ざ》して餓えるより、起《た》って戦え)  後世、日本が抜きさしならない大陸戦争の泥沼化の中で、超大国の強圧をうけたとき、更なる大戦に突入させたのはその破滅的な過激論であった。  籠城抗戦論は、たちまち藩論を支配した。 「ばかを言わっしゃい。何の遺恨もない脇坂や木下の小大名と戦って、どうして天下が動く。妻子のみか領民を塗炭の苦しみに追いやり、御親戚《ごしんせき》に累《るい》を及ぼし、逆徒の汚名を着て空しく野辺の土となる。それが亡君に尽す侍の道か、さような愚挙には断じて加担できぬ」  城代家老大野|九郎兵衛《くろべえ》は、執政側の代表となって懸命に抗議し、穏便論を唱えた。  ——公儀に恭順の意を表し、慈悲を乞《こ》えば、いつか御家再興の芽が生れるやも知れぬ。  常識論である。常識というのは、昨日・今日・明日が変らず過ぎゆく時にこそ役立つ一般的な知識や判断力である。破滅的な事態に遭遇すると、何の説得力も持たない。  大野九郎兵衛が、後世に残した卑怯《ひきよう》未練の汚名は当らない。泰平の世が半世紀以上も続くと、侍は戦士の本分を失い、官僚に成り果てる。官僚の本分は大局を見通すことより、上の意に忠実に従い、瑕瑾《かきん》なく職務を果すことにある。英才である必要はない。凡庸な事なかれ主義が頭脳を占めている。  大野九郎兵衛は、官僚の通弊に陥っていた。年功序列に優《まさ》るものはないと信じ、藩論を主導できるのはおのれしかないと思いこんでいた。  九郎兵衛は、城中の論争に疲れ果てて、内蔵助《くらのすけ》の屋敷を訪れた。 「そこもとは筆頭国家老ではないか。かかる時、旗幟《きし》を明らかにして、わしの論を支えて貰《もら》わねば困る」  内蔵助は、冷やかだった。 「はて、旗幟鮮明と言われると、大野どのの恭順説に与《くみ》せよとの事でござるか」 「なんと、そこもと、わしの言い条に納得せぬとでも言われるのか」  九郎兵衛は、事の意外に気色ばんだ。 「されば、理に長じてはおりましょうが、義が通らぬかと思われる」 「な、何をもって、さような……」 「赤穂浅野は小藩ながら、三百余の士を養なうこと数十年……この潰滅《かいめつ》の機に何ら為《な》すところなく離散して、侍の名分が立ちますか」 「では……そこもとも籠城抗戦と言われるのか」 「それしか途《みち》はないか、と、思案しております。たとえば上士一同だけでも打揃って、本丸御門前で腹|掻《か》っ切り、御公儀に御家再興を訴えるとか……」 「ま、待たれい、大名家門の殉死は天下の法度《はつと》でござるぞ」 「それは主家と藩あってのさだめ……いまのわれらに、してはならぬ法は一つもない」 「…………」  九郎兵衛は絶句した。論に伏したわけではない。昼行燈《ひるあんどん》のかぼそい火と見て疑わなかったものが、実は烈々たる炬火《きよか》であった事に言葉を失ったのである。  ——わしの城代という役職は、かほど力のないものだったのか……。  六十路《むそじ》を越え、人生の成果を自覚する時機に自信を喪失することは、九郎兵衛にとって耐えがたいものであった。それは肩書を失った者すべてに共通する空しさと脱力感といえる。  籠城抗戦論と恭順開城論、それに殉死説が加わって、論争は一段と紛糾し、とどまるところを知らぬ状態が続いた。  藩士足止めの時間稼ぎにはなったが、内紛が昂《こう》ずると過激な行動を起こすおそれがある。内蔵助は慎重に成行を見ながら次の手を打った。  藩米・藩金の分配である。  内蔵助は二十数年にわたって藩財政を専断した。  徳川幕府の時代に確立した武士道には、金銭を卑しむ習性があった。誇りや名聞に身命を賭《か》ける武士にとって、贅《ぜい》や奢《おご》りのもととなり心を蕩《とろ》かす金銭という物質は忌むべきものであり、嫌悪して避け、精神の崇《たか》さを保とうとつとめた。  泰平の世が半世紀以上続いた元禄《げんろく》期、世は成熟して物流経済が盛んとなり、制度上は四民の上に位する武士が、生活経済では最下位の商人に屈する傾向をみせはじめたが、それに着目する武士は皆無に等しかった。  その時期、大石内蔵助は、自らすすんで藩の勘定方の統轄を引受け、二十数年|倦《う》むことなく執行した。当時の武士、殊に筆頭国家老としては稀有《けう》であったといえる。  内蔵助の財政運用がどのようなものであったか、確かな記録は無く、今となっては類推するしかない。三百余年という歳月は、末節の史実を消滅させる。殊にその中の百七十年、封建という理財軽視の世は、そうした史料を亡失させた。いま残るのは赤穂浅野の廃藩時にどれほどの藩米・藩金があり、どう処分されたかという数字と、内蔵助の変転した言動だけである。  藩米は赤穂の城と大坂の蔵屋敷に二万石余の量を貯《たくわ》えていた。もっとも貯蔵米は現物に限らない。過半は米問屋の米切手である。それにしても実収(五公五民制)二万五千石の赤穂藩が、昨年暮、藩士に年収の半分量を支給したあと、まだ二万石余の米を持っていたのは、驚異のほかない。  内蔵助は、取りあえず藩士の知行・扶持米《ふちまい》の未支給分、年収の半分量を支給した。  藩金は、異変直後、納戸金《なんどきん》(支払いに当てる現金)が、二万八千九百余両あった。これまた驚くべき金高である。  異変直後、赤穂浅野家から、御無心はじめの御無心じまいと、三千両の当座借りを申し込まれた芸州広島浅野本家は、四十二万六千石の所帯で、その金が即座に都合つかなかった。美濃大垣《みのおおがき》戸田家十万石も、二千両の申し入れを断っている。当時の大名は、千両単位の納戸金を持っていないのが通例だった。  それが、五万石の小大名が、突発的に起こった異変に、二万石を超える藩米と、三万両近い現金を所有していたというのは、まったく他に例を見ない富裕であったといえよう。      二  ——おれは悪人だ。  内蔵助がそう思ったのは、いつの頃からだろうか。  彼の藩財政の運用は最初、未知の商人社会への興味と、若者らしい功名心ではじまった。  赤穂特産の塩が、浜取引と大坂直販の差益を生んだ。当時瀬戸内海に接する諸藩の製塩は、藩内の需要を満たすにとどまり、市場に出す量は高が知れていた。藩の為政者の経済観念が、あくまで米の知行高にのみこだわり続けたためである。赤穂は長直・良欽《よしかね》の時代に苛烈《かれつ》な藩財政を救うため、大がかりな製塩事業に着手し、米五千石に匹敵する生産を挙げ、それを以《もつ》て財政の支えとした。  内蔵助は、生産より物流が利を生む元禄期に遭遇し、いち早くそれを知った。家老見習三年の頃から、物流に手を染めてほぼ六年、天和《てんな》三年(一六八三)には、勅使|饗応《きようおう》と新藩主の婚儀、初のお国入りをつつがなく行なうほどの利益を藩にもたらした。  彼はもうこの頃、賢愚のほどがわからない——という韜晦《とうかい》の策を採っていた。そのはじまりは仕事と遊びを両立させることにあった、とみていい。  室ノ津で遊女あそびにふけるかと思えば、いつの間にか大坂で塩取引に働く。それは尊貴であるべき侍が、卑しい金銭をあやつることの非難を避けるため、必要不可欠な韜晦であり、筆頭国家老が藩外で色遊びにうつつを抜かすための方便でもあった。  それが、勅使饗応と藩主の婚儀、初のお国入りを賄ってから、韜晦は一段と深刻になった。  藩が不時の出費に狼狽《ろうばい》しているとき、易々《やすやす》とそれを賄ったのは、若気の至りだった。  初のお国入りの翌年、城代の大野九郎兵衛は内蔵助に、参覲《さんきん》交代の費用の一部を塩の売上で負担して貰えぬか、と相談を持ちかけた。次いで普請《ふしん》方取締の近藤源八から、城の東、熊見川から船入一帯の川|浚《さら》えの費用を捻出《ねんしゆつ》できぬかと申入れてきた。そのほか各役向からの出費要求は十件を越えた。  内蔵助は大汗かいて弥縫策《びほうさく》につとめたが、それでも三年の塩の利益を一年で吐き出す始末となった。  以来、内蔵助は、賢愚さだかならず、の韜晦のほかに、——藩の財政は足らず勝ちだが、借財を残すほどでもない——という別種の韜晦を加えるようになった。  赤穂藩は、不時の出費の際は藩士の知行・扶持米を何分か借りる、時には郷方の年貢を先取りし、また町の富商から借財することもある。だがそうした借金は、定めた利息分を加えて期限までにはきちんと返す。どうやりくりをつけているのか、それは内蔵助の一存に任された。  ——金勘定は誰もが不得手、ならば昼行燈どのに任せておこう、悪事を働くほどの能もなさそうである。  足らぬ足らぬと言い続けながら、結構|帳尻《ちようじり》の合う財政が十数年続き、世間並以上の足りた暮しが続くうち、藩士のほとんどが財政に関心を失った。その間、藩米と藩金は増え続け、大坂で運用される金銀は量を増した。  そして異変の時を迎えた。  ——藩士を無為に離散させてはならない。  事態を的確に把握するまでは、力を保持しておかなければならない。この非常の時、ものをいうのは数である。侍の数が力なのだ。その侍をつなぎとめるため、内蔵助は藩米・藩金の在り高を曖昧《あいまい》にして、分配を引き延ばしたのである。  知行・扶持米の本年度分を支給し終っても、尚《なお》九千石を越える米切手が残った。  藩金の分配の前に、寺社の供養《くよう》・寄進金をのけ、次いで後室瑤泉院の化粧料(輿入《こしいれ》の際の持参金)三千両をのぞいた。  藩士の割当は「高知|減《へら》し・知行割」と定めた。その嵩《かさ》は「百石|当《あて》十八両、百石|増《まし》二両|減《へら》し」である。知行百石について十八両、百石から二百石までの分は、二両減しの十六両、二百石から三百石までの分は十四両、その割合で計算すると九百石以上は割当金がなくなる。合算額は三百石で四十八両、六百石で七十八両、九百石九十両止りである。  ——ま、このくらいが世間並か。  藩士に別段、失望の色はない。  実はこの計算には内蔵助の経験が生きている。元禄六年|備中《びつちゆう》松山五万石水谷家廃絶の折、赤穂浅野家は受城使を拝命、内蔵助は主君|内匠頭長矩《たくみのかみながのり》の代理として、接収と事後管理に当った。その際の松山水谷家の藩金分配法が、「百石当十五両、百石|増《まし》二両|減《へら》し」であった。  分配が終って、尚藩金の残高は一万六千両を余した。  数多い藩士の中には、 「まだ藩米が余っているように見受ける。藩金の残りはどれほどか」  と、執拗《しつよう》に問いかけてくる者がある。 「御米蔵の米は城付米(幕府が城に備えさせた米)でござる。藩金の残りは籠城《ろうじよう》の際の軍用金」  と答えるのが常だった。 (われながら、あくどい)  内蔵助は、そう感じていた。  考えてみると、家老職に就いてからこの方、内蔵助は藩士をあざむき通した。  ——侍は、常に万が一の時に備えなくてはならない。  という山鹿素行《やまがそこう》の説く武士道精神の実践と、  ——いざという時、物をいうのは金だ。  という即物的な商人かたぎを両立させるためには、権謀と詐術を駆使しなければならない。  悪人たるゆえんはそこにある。  異変が起こると、その権詐《けんさ》は一段と深味を増した。  いまや大石内蔵助は、特段の権詐で、一藩三百有余の藩士を自在にあやつっている感があった。  ——それもこれも、敵を見定めるため。  内蔵助は、そう割切って考えている。二十五年にわたる筆頭家老職で、権詐を貫き通したのは、生涯に一度、あるかないかわからぬ非常の異変に備えるためのものであった。  その非常の異変はいま不意に襲いかかり、見えざる敵は、父祖が血と汗をそそいだ城を、領地を奪い、赤穂浅野藩の潰滅《かいめつ》と、藩士の離散の方策を着々と進めている。  ——敵は誰、何者か。  彼は敵と戦っていた。否《いな》、敵と戦う前にまず味方と戦っていたと言っていい。その戦いはすでに二十五年前、彼の家老職就任の時から続いていたとも言える。  戦いに善悪はない。すべて悪である。善なる戦さなどあろう筈《はず》がない。  ——おれは悪人だ、戦さに勝つには悪鬼にさえなってみせる。  内蔵助は、不動の決意を抱いていた。      三  戦さ、という、兵力を駆使して敵を撃滅しようという行動は、きわめて常識的な条件——兵力の多寡《たか》・戦士の優劣・兵器の質と量・地形地物の有利不利等々によって形勢が左右されるが、最終の勝敗は指揮統率に当る者の特殊な能力によって決定される例が多い。  世に軍事の天才と称せられる者がいる。成吉思汗《ジンギスハン》やナポレオンのように、さしてきわだった軍事の専門学を修め通暁していたとも思えない人間が、一軍を指揮統率すると、智謀策略神の如く、俄然《がぜん》光彩を放って敵を打破り、歴史を一変させる。  わが国にもそうした例がいくつかある。源義経《みなもとのよしつね》は逆境に生をうけ、僧侶《そうりよ》となるのを嫌って奥州に奔《はし》り、弱冠二十二歳でわずか数騎を率いて兄|頼朝《よりとも》の軍に加わり、その代官として一軍を任されると、陸に海に平氏の大軍を殲滅《せんめつ》して世を変えた。  尾張半国の所領から天下統一の道を切り開いた織田信長《おだのぶなが》が三千の兵を率いて今川氏四万の軍と戦い、田楽狭間《でんがくはざま》の奇襲で勝利したとき、彼はまだ二十七歳の若者であり、明治維新のオルガナイザー高杉|晋作《しんさく》が奇兵隊を創始したのは、わずか二十五歳のときである。  こうした天才は、百年に一人出るかどうかであろう。日露戦争で天才児玉源太郎は日本の躍進の途《みち》を開いたが、以後大正・昭和と戦争に次ぐ戦争を重ねた日本には、第二次大戦における敗戦まで、遂《つい》に天才はあらわれなかった。  徳川幕府の時代もわからない。百年に一人の天才が、それを発揮する時期と境遇に生れ合わすかどうかはまったくの偶然で、泰平の世に庶民として生れ合わせれば、その能力は埋もれたまま世に出ずに終るだろう。  播州《ばんしゆう》赤穂という片田舎の藩の国家老だった大石内蔵助が、義経・信長らに匹敵する天才だったかどうかはわからない。だがこの時期、二十歳前後で理財に眼を開き、青年期から韜晦《とうかい》して昼行燈《ひるあんどん》と嘲《あざけ》られながら巨万の富を藩に貯《たくわ》え、決死の士数十人を統帥して破天荒な戦さをやってのけたのは、極めて特異な才能の持ち主だったといえる。  四月十三日、公儀受城目付一行が姫路に到着し、十八日赤穂領内に入る旨、知らせがあった。  籠城か開城か、城内での評議は一段と沸騰した。  論議は内蔵助に集中した。籠城か恭順か、両派は内蔵助に決断を迫った。嵐のような怒号に、内蔵助はただ耐えるほかなかった。この期《ご》に及んでも、江戸からの情報はない。 「各々方《おのおのがた》、あと二日……二日待っていただこう。四月十五日、その日をもって赤穂浅野家中の命運を終る。各々その覚悟をもって十五日|辰《たつ》ノ下刻(午前九時頃)、重職の者は御黒書院、そのほかは竹ノ広間に参集されたい」  内蔵助は、籠城・恭順のどちらに与《くみ》する言葉も避けたつもりだったが、「命運の終り」「覚悟」の二語は、恭順開城派に強い衝撃を与えたようである。  その夜、城代家老大野九郎兵衛が逐電《ちくてん》した。  岡島|八十《やそ》右衛門《えもん》、札座勘定方二十石五人|扶持《ぶち》、三十七歳、赤穂藩切っての算用名人である。十年この方内蔵助の勘定方下役として裏の運用に加担してきた。そして異変以来、間喜兵衛と共に、藩財政の後始末に忙殺されていた。  前夜、久方ぶりに下城した八十右衛門は、翌十四日の昼前、報告を兼ねて指示を仰ぐため、内蔵助の屋敷へ向う途中、その変事に気付いた。  赤穂城二ノ丸の西、塩屋門内の大野九郎兵衛の屋敷から、家財道具の梱包《こんぽう》が何十となく作られ、運び出されている。 「おぬしら、揖保《いぼ》屋の者ではないか、何を致しておる」  顔見知りの回船問屋の手代と人足たちだった。 「あ、岡島様。実は大野様のお言い付けで、暫《しばら》く家財をてまえどもがお預りすることに相成りました」  昨夜遅く、大野九郎兵衛が、伜《せがれ》郡右衛門夫婦と共に旅支度で訪れ、淡路の岩屋まで早舟を仕立てさせ、夜の明けるのを待たず、出立した、という。 「つきましては後日、入費を送るまで、お屋敷の家財を預るようにとの強《た》っての御依頼をうけまして……」  揖保屋にとってはかなり迷惑な頼み事であったが、藩の重職からとあれば断るわけにもゆかず、こうして荷物を引取りに来ているのであった。  急に思い立って、よほど慌てたのであろう、早舟に乗る際、郡右衛門の乳呑子《ちのみご》を抱えた乳母が乗り遅れ、いまも揖保屋で途方に暮れているという。  この危急の時に、城代家老の逐電というのは、前代未聞の醜聞といっていい。  内蔵助の屋敷に参集していた吉田忠左衛門は、さすがに色めいた。 「追手をかけますか」  だが、内蔵助は笑って首を横に振った。 「いや、騒げばかえって赤穂の恥を天下にさらす、捨てておけ……十内どの、おぬし後刻、揖保屋へ出向き、荷物に封印をほどこして、行方がわかり次第、船便で送り届けるよう手配してくれぬか」 「心得ました」と、十内は頭を下げる。 「それにしても、何をそう慌てふためいたのか……はてさて気の小さい御人だ」  内蔵助は、岡島八十右衛門を見返った。 「八十右衛門、大野どのに預けおいた金子《きんす》は如何《いか》ほどになる」 「合わせて千二百両……そのうち、御本家やご親戚《しんせき》へのご使者の旅費その他、もろもろの支出金が四百三十両あまり、差引七百六十余両がまだ決済未了となっております」 「金目当の逐電としたら、ひどく安売りしたことになる……まあよい、これで大野九郎兵衛という人は忘れよう、それよりこの噂を聞いて何人の侍が城に踏みとどまるか、だ」  内蔵助は、昨夜来、何度となく眼を通した藩士の分限帳をまたとりあげた。      四  城代家老大野九郎兵衛逐電の噂は、昼過ぎには赤穂城内外に悉《ことごと》くゆきわたった。  それがきっかけになった。  侍屋敷や徒士《かち》長屋に慌ただしい引越しが始まった。異変以来家士の退散はなかったわけではない。櫛《くし》の歯が欠けるように、二人三人と姿を消し、その数は五十を越えた。  その堰《せき》が一挙に崩れた。恭順を唱え、開城を主張した藩士の一派は、城代大野九郎兵衛の逐電をきっかけに、雪崩をうって離散し始めた。  ——もはやお家再興の望みなし。  ——このまま居坐《いすわ》っていて、戦さに駆り出されては元も子もない。命あっての物種。  そういう日和見《ひよりみ》的な考えの者が意外に多く、その大半は藩士の中核である百石取り以上の上士、三十代から四十代の年齢層であった。 「人は見かけによらぬ、とは、まさに至言だな」 「いや、もっと早い内に方針を定め、説得すれば、人の心はまだまだ変った、惜しい有能の士を失った」  間喜兵衛や小野寺十内は、そう言って惜しむことしきりだったが、内蔵助は笑って首を横に振った。 「止《とど》まって志を貫くのが人の仕合わせか、去って一生悔いを残すか、それは運だ、人の運は他人の口舌では変えられぬ。去るも運、止まるも運、人は運の岐路に立って道を選ぶ。その先にどのような運の転回があるか、人智の及ぶところではない」  翌十五日の最後の大評定を控え、藩士とその家族の退散は、夜になっても陸続と後を断たなかった。  禍福は糾《あざな》える縄の如し、という。赤穂の藩士の離散が続くその夜、待望久しかった江戸の情報が内蔵助の許《もと》に到来した。  日も暮れて、月のあがる六ツ半刻《はんどき》(午後七時頃)、旅塵《りよじん》にまみれ疲労の色濃い四人の侍が、内蔵助の屋敷の門を叩《たた》いた。  奥田孫太夫、馬廻《うままわり》武具奉行百五十石・五十五歳。  堀部安兵衛、馬廻二百石・三十二歳。  高田郡兵衛、馬廻二百石・二十七歳。  富森助右衛門、馬廻御使役二百石・三十二歳。  いずれも江戸詰で、かねてから内蔵助が眼をかけ、非常の時に備えておいた侍である。内蔵助は異変直後、早飛脚で秘命を授け、刃傷《にんじよう》事件の真相を調査させた。  彼らは江戸にとどまって幕閣や親藩有力大名の身辺をさぐり、家中の大評定に間に合わそうと、昼夜兼行で赤穂へ急行してきた。 「苦労であったな、間に合うてよかった」 「さぞ苦心したであろう、徒《あだ》には思わぬ」  吉田忠左衛門や小野寺十内、間喜兵衛が、四人を内蔵助の許へ案内した。 「大事の折である、早速に聞きたい、調べはついたか」  内蔵助は、単刀直入に尋ねた。 「は、おおよそは判明致しました」  奥田孫太夫が、代表して答えた。 「まず、結論を申します。殿刃傷の真因は、公儀要路の方々の何人《なにびと》も知らず、また、知ろうとする動きも一切無きまま捨ておかれました」 「なに、知ろうとする動きが無い……?」 「事はすべて、御側用人《おそばようにん》柳沢出羽の専断で処理され、老中方も口をさしはさむはおろか、詮索《せんさく》すらもきびしく制せられた……と、老中秋元|但馬《たじま》さまが、用人竹井武太夫どのに洩《も》らされたと聞き及びました」  御用人ながら大老格の柳沢保明の威勢は、内蔵助も聞き知っていた。  ——なんで、柳沢が処断を急いだばかりか、真因を隠蔽《いんぺい》しようとするのか……。  その疑問を解こうと、富森、高田、堀部の三名は、手蔓《てづる》を辿《たど》って奔走した。  富森助右衛門は、将軍|綱吉《つなよし》の甥《おい》に当る甲府宰相綱豊(後の六代将軍|家宣《いえのぶ》)家の奥向に有力な手蔓があり、それを頼って真相をさぐった。堀部安兵衛と奥田孫太夫は、堀内源左衛門道場の剣友や弟子筋の大名陪臣にさぐりの手を伸ばし、高田郡兵衛は実兄と伯父《おじ》が旗本の中の有力者である事から、城勤め諸役の旗本に実状を訊《き》いて廻った。  更に、老齢のためこの場に参着できなかった安兵衛の舅《しゆうと》、もと江戸留守居役の堀部弥兵衛が、各藩江戸留守居役からさぐり得た消息もある。  それらを綜合《そうごう》して、孫太夫がいう結論に到達した。  曰《いわ》く、事件の処理は柳沢の胸ひとつで行われた。その柳沢の蔭《かげ》に、事件処理の諮問に応じた者がいる。 「その扱いよう、始末のつけ方、ご処分まで、事細かに図を描いて柳沢に進言した者がおります。柳沢は、吉良の縁類から、御三家、将軍家御身辺までの、蜘蛛手《くもで》のようなかかわりあいをすべて勘考し、おのが保身のため、かかる不明朗な処置をとったものと推測致します」  その進言者は、唯《ただ》一人、当日柳沢の許に呼び出され、諮問をうけた。その後も度々柳沢屋敷に出向き、事の推移を注意深く見守っている……。 「何者だ、それは」  奥田孫太夫は、低く、力をこめて答えた。 「出羽米沢十五万石、上杉|弾正大弼《だんじようだいひつ》が家の、江戸家老、色部又四郎安長……そやつの仕業に相違ござりませぬ」 「なに? 色部——」  内蔵助は、さすがに色を変えた。  忠左衛門らは、衝撃に言葉を失った。  誰もが会った事はない、だが、その評判はこの播州の片田舎の小藩にも伝わっていた。  色部又四郎。当代切っての利《き》け者である。陪臣の身ながら御三家紀州家の縁談にかかわり、将軍家継嗣問題にまでつながりを持つという。大垣の権左あたりとは格が違う。 「あの、上杉の色部か……」  俄《にわ》かに前面を閉ざしていた暗霧が吹き払われて、一切の図式が見えた感があった。吉良と上杉の血のつながり、喧嘩《けんか》両成敗の定法無視、吉良の安否・容態の隠匿、箝口令《かんこうれい》、浅野の親類縁者の畏怖《いふ》……藩廃絶の渦中にあって、考慮の届かなかった一切のいきさつが瞭然《りようぜん》となった。  吉良上野介——上杉家家老色部又四郎——柳沢出羽守保明。そのつながりが、無残に浅野内匠頭長矩を切腹させ、遺恨を闇に葬り、赤穂浅野家を廃絶させ、藩士三百二十余名の前途を断ち切った。  ——だが、知ってどうなる。  その思いが、内蔵助をはじめ、忠左衛門ら三老人の胸を塞《ふさ》いだ。  吉良、色部、柳沢の背後には、武をもって鳴る上杉十五万石がある。御三家や薩摩《さつま》島津の縁類がある。更には天下を統べる将軍綱吉がある。  田舎の小藩、三百余の家臣に抵抗のすべがあるだろうか。  深い沈黙が、一座を領した。 [#改ページ]   卯《う》 波《なみ》      一  四月十五日、夜明け前に国境の鷹取《たかとり》峠を一気に駈《か》け登った不破|数《かず》右衛門《えもん》の乗馬は、千種《ちくさ》川の橋を越える頃、ようやく疲れを見せた。  橋を渡る。馬蹄《ばてい》の音が橋板にひびく。  ——この音、十年の間に何度聞いたか。  不破数右衛門は、赤穂《あこう》浅野の譜代の藩士ではない。父は遠州横須賀五万石、本多|越前守利長《えちぜんのかみとしなが》に仕え、三百石塩田奉行をつとめていたが、本多利長が天和《てんな》二年二月、家事不取締の咎《とが》をうけて、出羽村山一万石に貶黜《へんちゆつ》された際、召放ちとなり、二年後に病を得て死んだ。  元禄《げんろく》二年、数右衛門は、亡父の知友で広島浅野本家に勤める者の引合わせで、内蔵助《くらのすけ》と知り合った。内蔵助は、数右衛門が塩田についての知識が豊富なこと、計数に明るいことや、武芸に練達し、寡黙《かもく》・重厚な人柄であることから、赤穂浅野家に仕官するよう計らった。  百石、塩浜番に採用された数右衛門は、内蔵助の期待に背かぬ働きぶりを示し、三年後には浜奉行に昇進、知行も二百石に加増された。その頃から内蔵助の底知れぬ智謀と、山鹿《やまが》武士道と理財感覚との錯綜《さくそう》した生き方に惹《ひ》かれ、無二の腹心となった。  その後、内蔵助が大坂の悉皆《しつかい》問屋天川屋と結んで塩相場を動かし、藩の内証金に巨利をもたらすようになると、市場操作に専念するため、自らすすんで藩籍を離れた。  その度重なる大坂通いも、もう終りとなった。親なく妻子なく、生れ故郷に感慨を持たない天涯孤独の数右衛門は、もともと感傷に無縁な男の筈《はず》だった。その数右衛門にも十数年にわたって運営につとめた塩浜事業、そして侍暮しには想像も及ばなかった大坂の商取引の活気に満ちた面白さ、肩肘《かたひじ》張らぬ商人との機知に富んだやりとり、それがすべて終ったことに、かすかな寂寥感《せきりようかん》があった。  ——おれのような、土地に無縁の無骨者でも、一抹の思いがある。父祖の代から城や橋を築いた赤穂の侍の思いはさぞかしだろう。  数右衛門は、そう思った。それは内蔵助らの胸底に流れる意識を的確にとらえていた。  大石内蔵助が最後の大評定に臨むため、大手門際の屋敷を出たのは辰《たつ》ノ上刻(午前八時頃)であった。  隣家の柳が芽をふいて、風に千糸の緑がなびく、その屋敷の主《あるじ》は遂《つい》に赤穂に帰らなかった。江戸へ出向した家老藤井又左衛門である。留守を預った妻女をはじめ三人の子女と従士は、異変以来、身をかがめ人眼を避けてひそと暮していたが、十日ほど前、長くつきあった家中の誰にも挨拶《あいさつ》ひとつ残さず、真夜中に人知れず姿を消した。立退き先はわからない、家財は翌日、城下の材木屋旭屋が引取った。  通称�内山下《うちさんげ》�と呼ばれるこの二ノ丸には、内蔵助をはじめ藩の重職や由緒ある家柄の者の屋敷が塀を接している。その屋敷町にも櫛《くし》の歯が欠けたように空屋敷が目立つようになった。藤井や大野|九郎兵衛《くろべえ》のほかに、小松又右衛門、岡林杢之助、坂田左近右衛門、大木弥市右衛門、佐々木平作らが、こっそりと立退いた。 (なんで挨拶ひとつせず立退くのか)  異変、藩の消滅という非常事態に直面したとき、人はそれぞれ身のふり方を考える。その考え方に相違のあるのは当然だろう。藩の大勢がおのれの考えと異なるときは、おのれの身のふり方生きようを堂々と申し立て、それが容《い》れられないとき、白昼誰|憚《はばか》ることなく立退けばいい。いやしくも父祖の代から士として四民の上に立った侍が、夜逃げ同様に姿を消す。数十年来の同僚に別れの言葉も残さず去る。それが侍の生きようかと、内蔵助は言いたかった。 「ご家老」  二ノ丸門にさしかかると、横手の厩《うまや》から出てきた不破数右衛門が声をかけた。 「おう、数右衛か」  思わず内蔵助の顔がほころんだ。相談役と頼む吉田忠左衛門らにも洩《も》らすことのなかった期待が、数右衛門の帰着にかけられていた。 「どうだ、済んだか」 「お申し付け通り、悉皆《しつかい》手仕舞致しました。大坂商人め、早速に足元を見て買い叩《たた》きに廻《まわ》りましたが、こちらの手の打ちようが早かったため、さしたる損にならず相済みました。あと半日遅れたら、手のつけようもないところでした」  二十五日ぶりに見る数右衛門の顔は満足気に輝いて見えたが、その憔悴《しようすい》の色は覆うべくもなかった。 「詳しい話は帰ってから聞く。ひとまず屋敷へ戻って休め」  内蔵助はまずいたわりの言葉をかけた。 「は、忝《かたじ》けなく……」  目礼した数右衛門は、声をひそめた。 「とりあえず、帳簿|尻《じり》のみ申し上げます。残高、しめて二万三千両を余りました」 「…………」  内蔵助は、大きく頷《うなず》くと、深い吐息を洩らし、踵《きびす》をめぐらせ二ノ丸門に向った。  ——二万三千両……余りに望外な……。  大坂で運用していた簿外金の精算高である。  もう内蔵助の胸中に去った者への離恨の残渣《ざんさ》は消え失せていた。異変以来はじめて見せる強い足どりであった。  赤穂城内竹ノ広間において、最後の大評定が開かれた。十三日の評定からわずか二日の間に離散した藩士の数は百名を越えた。江戸にまだ残って赤穂本藩の決定を見守る六十余名の在府藩士をのぞいた赤穂の侍は、この日百八十名を割った。藩米・藩金の分配と、藩の廃絶と藩士の覚悟を促す言葉が、物の用に立たぬ三分の一の侍をふるい落した。  ——今日こそは大石どのの決断を。  異変|勃発《ぼつぱつ》以来、藩の結束を固めながら、終始方針を明らかにしない内蔵助に、�昼行燈《ひるあんどん》�の認識を改めながらも鬱積《うつせき》した不満をくすぶらせていた藩士は、気負いたっていた。  評定は定刻より一|時《とき》(約二時間)あまり遅れた。その間、家老用部屋に引籠《ひきこも》った内蔵助は、吉田忠左衛門、小野寺十内、間《はざま》喜兵衛の三長老を呼び寄せ、半時あまり密談を交した。  その後、三長老は、評定を待つ藩士の中に入りまじって、それぞれ三、四の士と私語を交し、何事か命じながら、内蔵助の出を待った。  巳《み》ノ下刻(午前十一時頃)、内蔵助が竹ノ広間に隣りする黒書院に入り、境の襖《ふすま》を取り払わせた。一同の視線を集めた内蔵助は、二日前の思案に迷う優柔な表情は跡形なく払拭《ふつしよく》されて、厳とした威に満ちていた。それは、賢愚さだかでない、と内蔵助を見続けていた大半の藩士たちが、はじめて見る内蔵助の正真の姿であった。  寂《せき》として静まる一同を前に、内蔵助は口を切った。 「かかる折である、余分な措辞はおく。さきに申し伝えたが、今日をもって赤穂浅野家とその家中の命運を終る。各々方《おのおのがた》は藩士の身分を失い、浪人となった。今日よりは一介の素浪人である。各々方に覚悟をうながしたのはそのことだ」  一同は、肌に粟《あわ》の生ずる心地で、その言葉に聞き入った。      二  内蔵助は、言葉を続けた。 「各々方は、懸案の籠城《ろうじよう》抗戦か恭順開城か、はたまた殉死|歎願《たんがん》か、この内蔵助の了簡《りようけん》を聞くことをお望みであろう。だがその前に、今日限りとなった家老職上席としての仕事納め、指図納めに果さねばならぬ事がいくつかある。先《ま》ずはそれを聞かれい」  静まる一同を見廻《みまわ》して、内蔵助は告げた。 「不破数右衛門正種、故あって三年前、お召放ちとなって藩籍をのぞいたが、実は裏御用をつとめるためであった。依《よ》ってこの度の大変を機にお召戻され、旧知二百石、馬廻御浜奉行の身分に戻る。ご一同、さよう心得られたい」  竹ノ広間に、一同と同様、麻上下《あさかみしも》に身を正した不破数右衛門が小腰をかがめて入り、端に加わった。 「次に、藩米、藩金の始末について委細を明らかにしたい。籠城、恭順、あるいは殉死と各論が錯綜している今日、それぞれの論に応ずる備えがなくてはかなわぬ。そのため藩米、藩金の一部を残しおいた。その高は藩米九千八百石、藩金一万六千三百両余りである」  どよめきが広間に満ちた。籠城に軍資金が必要であることすら気付かなかった者が、圧倒的なその金額物量に惑乱したのである。  内蔵助の凜《りん》たる声が、そのどよめきを貫いた。 「その米と金子《きんす》は、父祖の代より非常の時の備えに、苦難の中でたくわえたもの、いわれなく公儀に収奪される覚えはない。依ってここに残った赤穂浅野の家の者に、平等頭割りに分かち与える。その兵糧《ひようろう》軍資金を籠城抗戦に費すのも随意、大義に殉じて腹かっ切り、残る妻子の糊口《ここう》の資とするのも勝手、すべては各々方の心次第だ」  内蔵助が言葉を切ると、一座は喧噪《けんそう》につつまれた。  ——やりおる、大した御人だ。  内蔵助の意中をおおよそ知る吉田忠左衛門や小野寺十内、間喜兵衛は舌を捲《ま》いた。  昨夜、江戸から駈けつけた奥田、堀部、高田、富森の報告で、赤穂浅野を無残に踏み潰《つぶ》した敵の存在を知った。  敵の意図がわかれば、籠城抗戦は論外だった。敵は赤穂浅野を根だやしにするため、それを望んでいよう。百や二百の藩士が戦っても、敵は痛痒《つうよう》も感じない。  殉死も血迷った愚行として処理される。いま残された道は、一旦《いつたん》は退き、城を明渡《あけわた》して他日報復の機をうかがうしかない。  内蔵助は、実状をさぐり知る時間稼ぎに、数日前、物の役に立たぬ恭順開城派を切り捨て離散させた。いまこの場に残る百八十の藩士は、その過半が身分と禄《ろく》を失ったことに絶望し、憤激し、鬱憤を晴らすための行動を起こそうという過激派である。今となって最高指導者が無血開城を提議すれば、火に油をそそぐ結果を招く。  内蔵助は、その激昂《げつこう》を静めるため、最後の切り札を投げ出した。兵糧軍資金の再分配である。その高はこれまでの分配高を遥《はる》かに越え、頭割りにして一人|宛《あて》米五十五石、金はざっと九十両である。高禄の者でも三年、微禄軽輩の者は五年七年の生活を優に支え得る。  絶望の者は光明を見る思いがあった。憤激は思わぬ恩恵に吾《われ》に返った。鬱憤は一挙に晴れた。そのため、彼らはかえって惑乱の淵《ふち》に投げこまれた感があった。  ——しかし……。  と、忠左衛門や十内、喜兵衛は、合点がゆかぬ心地だった。  ——その藩米、藩金の残りは、他日報復の事を起こすための大切な軍資金ではないか。  さすがの忠左衛門ら老巧の士も、内蔵助の二段三段の構えは読めなかった。  頃合をみて、内蔵助は台所方に用意させておいた昼食を一同に供した。塩むすびと熱い味噌汁《みそしる》、漬物だけの粗食だったが、昂奮した一同はむさぼるように食った。  腹がふくれると気がゆるむ。渋茶を啜《すす》る頃になると昂奮は嘘のように静まり、ひそやかな私語が囁《ささや》かれるようになった。  それを見届けて、内蔵助は再び口を切った。 「さて、各々方に申し上げる。この赤穂の城の事はさほど面倒な問題ではない。籠城するか開城するかの二つに一つ……籠城すれば公儀の手勢が押し寄せて、われらが残らず討死して事は終る。だが神妙に城を明渡すとなると、われら家中の者はどうなるか……どう名聞を立て、どう侍らしゅう一分《いちぶん》を貫くか、それがむつかしい……」 「それよ、そのことよ、大石どの」  口をはさんだのは重役の一人、先手弓頭の佐藤伊右衛門である。伊右衛門はさして有能の士ではないが、兵学の師範を兼ねている物堅い侍として聞えている。 「亡き殿が、罪を得て切腹なされ、御家は廃絶となり、われらは城と領地を失った。それも天下の御法とあれば背くすべはないが、この赤穂の城地はわれらが父祖が血と汗をそそいで築いたもの、ただ空しく失っては三代相恩の君に報い得ず、父祖の霊に合わす顔もない。この無念をどう晴らすか、その存念をお聞かせ願いたい、いや是非ともご教示願いたいのだ」  それは藩士のほとんどが思い迷ったことに違いない。 「相わかった」  内蔵助は口を開いた。 「いかにもこの内蔵助には存念がある。だがその存念を明かす前に各々方に求めたいことが一つある……間どの、用意の物をこれへ」  声に応じて入ってきた間喜兵衛は、杉原紙《すぎはらがみ》の束を内蔵助の前に置いた。 「この先、この内蔵助が為《な》そうと思うことは、世間の評価では善とも悪とも定めがたい。それだけに無縁の者に知られては妨げを生じよう。善にせよ、悪にせよ、生死進退すべて内蔵助にお任せ願えるかどうか、ここで誓紙血判を募る。同意の方々は明十六日|辰《たつ》ノ刻、城下遠林寺まで誓紙ご持参の上、お集まり願いたい」  さらにひと息入れて、内蔵助は言葉を続けた。 「ただこれだけは申し上げておく、われらは侍、侍は名聞を尊び、大義名分を命かけて守る。易きを捨てて難きに就き、選んで険阻の道を歩みたい。その志ある者と共に侍の本道を貫きたいと思う」  一同は、寂として声もなかった。      三  城中の大評定のあと、家々に帰る藩士の中から、二人、三人と内蔵助の屋敷の裏木戸をくぐる侍の姿が続いた。  屋敷の客間に詰めていた吉田忠左衛門、小野寺十内、間喜兵衛の三老人が、不破数右衛門の案内で、庭伝いに裏手の道場へ足を運んだ。 「明日、遠林寺にどれほどの人数が集まりますかな」  京都住いの長い小野寺十内は、藩内の動向にやや暗い面がある。 「まず百二十かな」  間喜兵衛が、屈托《くつたく》のない笑顔で応じた。 「大野九郎兵衛ら弱腰の者をふるい落して残った百八十名だ。籠城とりやめとなっても百をくだるまい」 「さあ、それはどうでしょうか」  先に立って離れ家の遊息堂にさしかかった不破数右衛門が、苦笑して見返った。 「ご家老は、そう多くは望んでおられますまい。このさき長い年月、人の心をつなぎとめるには骨が折れましょう……それに金もかかります」 「数右衛門、よう見ておる」  吉田忠左衛門が真顔で言った。 「わしはな、こたびの異変で侍の数の減るのをひどくおそれた。数は力だ、数さえ握っておればわれらが無下に潰《つぶ》されることはない。何か……侍として為すべき事ができる……とな」  忠左衛門は足を止めた。十内、喜兵衛もそれにならって、耳を傾けた。 「それが、この月に入ると、大石どのは人を散らそうとなされた。今日残ったのは籠城抗戦を唱える決死の士、百八十……それをまだ散らそうとなされる。わしは不満だった。天下に赤穂の侍の志を示すには、数が多くなければかなわぬと思うていたのだ」 「それは……」  どういう行動を起こすつもりでいたか、と十内が問いかけた。 「わからぬ。いまのわれらがどのような事を為したら、天下に赤穂の士道を示せるだろうか、恥かしい話だが見当もつかなくなった」 「おぬし、わかるか」  十内の問いかけに、数右衛門は首を横に振った。 「わかりませぬ。ですが……あのお方は、われらの考えも及ばぬとほうもないことを考えておられる……そう思っております」 「…………」  四人は黙念と、野菜畑の小道を辿《たど》った。  裏手の小道場は、外まで履物があふれていた。  黒光りする板敷にびっしり詰めた十人ほどの侍が、堀部|安兵衛《やすべえ》と富森|助《すけ》右衛門《えもん》の話に聞き入っていた。  座を外して、戸口で吉田、不破らを迎えた奥田孫太夫が、小声で知らせた。 「只今《ただいま》、江戸での探索を申し聞かせております」  頷《うなず》いた忠左衛門は、 「ご家老は、程なく……」と見返って、 「お、見えられた」  母屋の方から、ゆったりと歩いてくる内蔵助の姿が見えた。  雲雀《ひばり》の鳴声が聞えた。道場の軒近くに群れ生えた梔子《くちなし》の匂いが、緘黙《かんもく》の一座の間にただよっている。  内蔵助は、膝《ひざ》を接するように坐《すわ》って、おのれに注目している一同の顔を、一人一人|瞶《みつ》めていった。  吉田、小野寺、間の三長老、不破数右衛門と、奥田、堀部、高田、富森の江戸組四人のほかに、二十代から四十代までの青壮年が八人、合わせて十六人が集っていた。新たに加わった八人は、二人の上士と、六人の軽輩|微禄《びろく》の者であった。  上士では、異変の早使をつとめた早水《はやみ》藤左衛門と、菅谷半之丞《すがやはんのじよう》(馬廻代官百石・四十二歳)。軽輩は、神崎《かんざき》与五郎(徒横目《かちよこめ》五両三人|扶持《ぶち》・三十六歳)、勝田新左衛門(札座横目十五石三人扶持・二十二歳)、武林|唯七《ただしち》(中小姓十両三人扶持・三十歳)、杉野十平次(中小姓七両三人扶持・二十六歳)、大高源五(腰物方二十石五人扶持・三十歳)、茅野《かやの》和助(徒横目五両三人扶持・三十五歳)の六名である。  内蔵助は、精悍《せいかん》な面構えのそれらを見渡して、おもむろに話し始めた。 「各々《おのおの》は本日の評定で、わしと生死を共にして何事か為す同志をつのったことを耳にした筈《はず》だ。明日、はたして何人《なんびと》が志を共にするか、期待する心があろう。だが、その思いはこの場限りで捨てて貰《もら》う。わしはその者を頼みにするつもりはない」  内蔵助は、きっぱりと言い放った。  一同は、一瞬顔|蒼《あお》ざめた。意外というもおろかである。誓紙血判を求めながら、それを頼みにしないとは、どういうことであろうか。 「おぬしたちはいま、江戸から遅れて立戻った奥田、堀部、高田、富森らから、こたびの異変の裏に、米沢上杉家、別して江戸家老色部又四郎の権謀術策があったことを聞き知った。きやつめは亡き殿と吉良《きら》上野《こうずけ》の間に起きた刃傷沙汰《にんじようざた》で、吉良と上杉、その縁類に及ぶ災厄をのがれるため、亡き殿とこの赤穂浅野を踏みつけ、葬り去った。亡き殿刃傷の真因を闇に湮滅《いんめつ》し、藩を廃絶し、われらを流浪《るろう》の身とした。その処置処断に一片の情なく、武士が武士に対する礼節もない。塵芥《ちりあくた》の如く踏みにじったのだ」  内蔵助は、一同の昂奮《こうふん》の色に、かえって語調を静めた。 「これは、不当に仕掛けられた戦さである。敵は不意に乗じ、緒戦でわが将の首を取《と》り、領国を奪い取った。われら敗残の戦士は為すところなく刀槍《とうそう》を捨てて、ひたすら命を全うするため流散《るさん》するか、あるいは野に伏し山に寝て捲土重来《けんどちようらい》を期し、敵に一矢を報いるか、その二筋の道の瀬戸際にある」  内蔵助は、吉田忠左衛門ら三人の相談役を見返った。 「昨夜、奥田、堀部、高田、富森の四名が江戸での探索を持ち来《きた》ってわれらの敵を知ったとき、真先に考えたことは、その敵に勝てるかの一点であった。敵は武をもって鳴る上杉十五万石、実力は三十万石とみてよい。御三家紀州をはじめ薩摩《さつま》島津等の有力な親戚《しんせき》縁者を持つ吉良上野をひっ抱え、天下を掌握する柳沢出羽を動かす、まさにこの上ない大敵である。この大敵を相手に、われら流氓《りゆうぼう》の侍が戦って勝てるか、勝つ手だてがあるか。それを問う前にまずおのれが侍であることを考えよ。侍の使命は危急存亡の折に、身命を捨てて戦うだけではない。侍は勝たねばならぬ、勝つことが侍の本分なのだ」  内蔵助は息を継いだ。 「そこで言う、われらに、勝つ手だてはある」  一同は、固唾《かたず》を呑《の》んで瞶めた。 「敵は、われらの不意を衝《つ》き、一旦《いつたん》は勝利をおさめた。だが、われらを根絶やしには出来ぬ。われらは時を利し、敵の強きを逆手《さかて》にとり、弱きに乗じ、謀略を用い、窮地に追いつめ、討つ……いまここで詳しい手だては明かせぬが、目当てだけは言うておく。敵が赤穂浅野に無法を仕掛けたのは、吉良の安泰のためである。それによって上杉は家門の面目を保ち、柳沢出羽は吉良と上杉、その縁類に恩を売った。依《よ》ってわれらは吉良上野介を討ち、その家を潰す……」      四 「ただし、吉良上野介を討ちとれば、それで事が成るわけではない」  内蔵助は、更に言葉を続けた。 「相手が世間体をとりつくろえぬよう、堂々と屋敷に討入り、合戦してその首を取り、天下にその事を知らしめる。上杉の武名を地に落し、柳沢出羽の面目を叩《たた》き潰す、そこではじめて報復は成る」  一同の沈黙は更に深くなった。 「そこで話を戻す。これほどの大事を企てるのに、事新しく人をつのり、予想だにつかぬ者を頼みとするようなぶざまな真似はせぬ。誓紙血判を求めたのは、赤穂の侍の総意に依るという大義名分を立てるためのもの、大事はかねてから備えおいた者で行なう。おぬしら、これを覚えておるか」  内蔵助は、二ツ折の懐紙を取り出すと、中に書いてある一行の文字を、開き見せた。   食人之食者死人事  古代中国、宋の時代の俚言《りげん》と伝えられている。〈人ノ食ヲ食セシ者ハ、人ノ事ニ死ス〉と、読む。  食を分け与えられた者は、その人のために死すべきものである、という意味である。  内蔵助は、藩士の中から選んだ人材に、撫育《ぶいく》の金を分かち与える時、最初にこの古諺《こげん》を示して覚悟を求めた。  この場に集まった者すべてが、その撫育の恩恵にあずかっていたのである。 「おぬしらに、かかるものを示す時が無くて終るよう念じていたが、その願いは空しくなった」  内蔵助は、述懐し終ると、気迫をこめた。 「今となっては、否やはきかぬ、おぬしらのいのちはこの大事のために使い捨てる……よいな」  一同は、誰もが息をつめた。そして誰かが呻《うめ》くように声を発した。 「応!」  次々と、その声は続いた。 「応!」 「おう!」 「おう!」  内蔵助は、忠左衛門らを見返った。忠左衛門は強く頷《うなず》いた。十内、喜兵衛、数右衛門も頷いてみせた。江戸組の四名も頷く。郡兵衛は頬を濡《ぬ》らしていた。  内蔵助は、更に一同に告げた。 「では、早速、最初の指図を申し渡す。まず参謀相談役を定める。惣《そう》参謀は忠左衛門、次席は十内、参謀は不破数右衛門、国許《くにもと》組の束ねは間喜兵衛、江戸組の束ねは、ここにはおらぬが堀部|弥兵衛《やへえ》、江戸組参謀に安兵衛、それと連絡係参謀に奥田孫太夫……。以上の者をのぞき、ここにおる残り十名は、これぞと思う者を二人ずつ選び、この事を語らえ……人はひとりでは世を渡れぬもの、まして大事を企て、死ぬるを覚悟で働くには、腹を打明け助け合う者が無くては叶《かな》わぬ。各々よく思案し、相手の心栄《こころば》えを見定めて、参謀相談役に申し出よ。参謀相談役は各人の人選びの重複を避け、篤《とく》と談合し、遺漏なきよう計らう……よいな」 「心得ました」  忠左衛門が、力強く答えた。 「十名が二人ずつ選んでの三十名、それとおぬしら参謀相談役に惣束ね役が七名、それに今ひとり、お城に残って最後の勘定方をつとめておる岡島八十右衛門、合わせて三十八名がこの企ての中核だ」 「早速の相談事ですが……少し人数が心許なくはありませぬか」  と、十内が口を挟《はさ》んだ。 「いや、後日、日をあらためて更に十名を選び集め、その者たちに二名ずつを選ばせる、その三十名を外核として加える。計六十八名……これを突進隊として、まっしぐらに吉良屋敷に討入り、本懐を遂げる」 「六十八名……やれますな」  間喜兵衛が感嘆の声を放った。  新たに呼び集めた八名の者を帰したあと、内蔵助は忠左衛門、十内、喜兵衛、数右衛門、それに明朝江戸へ発《た》つ奥田、堀部、高田、富森の合わせて八名を、遊息堂に集めて、夕餉《ゆうげ》を共にした。 「時に、ご家老」  喜兵衛が問いかけた。 「十名の者に二人ずつ選ばせるその二十名ですが……何でこちらが選ばぬのですか」  内蔵助は、首をかしげてみせた。 「いや……人の心、というのは、上からではわからぬものだ」  内蔵助は、傍らの机から一冊の簿冊を取上げ、忠左衛門に渡した。 「これは今まで、誰にも見せたことのない撫育金の明細だ。ここ十余年、ここにおる者を含めて、数多くの者に撫育金を配り、今日の非常に備えた。これに名を連ねた者が選ばれれば、わしの苦心も甲斐《かい》あったことになる……これを相談の参考に預けておく」  忠左衛門が納めるのを見ながら、内蔵助は苦い笑みを浮べた。 「合わせて七十三名おる……その中の十八名が、大野九郎兵衛らの恭順開城派に与《くみ》し、すでに十五名が赤穂から退散して行った」 「十五名も……いや残る三名も言語道断、不埒《ふらち》きわまる奴……」  高田郡兵衛が息まいた。 「わしは、少ないほうだと思っておる」  内蔵助は、茶を啜《すす》りながら、しみじみと言った。 「参謀や江戸組、それに今日集めた八名……わしの眼ではそれしか選べなんだ。それでいっそ、仲間同士で選んでみてはどうか、と思ったのだ」 「それも一策でしょう。人は平生《へいぜい》の暮し、仲間内のつきあいの中で、本性をあらわすものです」  富森助右衛門が、物静かな口調でそう言った。 「事を企てるにはまず人、といいますが、まこと人選びほどむずかしく、人の心ほどはかりがたいものはありませぬな」  忠左衛門が、歎声《たんせい》に近い声で言う。 「ご家老が今日まで、度々人を散らそうとなされた本旨が、ようやくわかる心地が致します」 「それでいったい……最後の日には、何人ぐらいが戦いに加わりましょうか」  と、堀部安兵衛が言う。 「そうさな、われらの目で選んだ中にも、こぼれ落ちて行く者があろう。まず五十から六十足らず、四十を欠けると事は成らぬ」 「これはきびしい数ですな。選ばれずとも加わる者もおりましょう。手前は七、八十は確かと思いますが」 「十内よ、それはあまい」  内蔵助は真顔でたしなめた。 「最初は訳もわからず付いて来る者がいよう……そのうち、事態が切迫するにつれ、恐れを生じて次々とこぼれ落ちる。それに選んだ者までが釣られるのだ。わしは五十から五十五、そのあたりで食いとめたいと思っておる」      五 「ご雑作に与《あずか》りました」  内蔵助の用人、瀬尾《せのお》孫左衛門が指図して膳《ぜん》が下げられたあと、吉田忠左衛門が内蔵助にそう挨拶《あいさつ》し、一同が頭を下げた。 「わけても赤穂|鯛《だい》は格別でござった。この年になると失う禄《ろく》はさして惜しゅう思わんが、瀬戸内の魚と別れるのは辛《つろ》うござる」  間喜兵衛が言う言葉に妙な実感がこもっていて、一同の笑みをさそった。 「それと、この波音、ですな」  不破数右衛門が、ぽつりと言った。  赤穂の浜に打寄せる濤声《とうせい》が、夜のしじまを破ってかすかに聞えていた。  一同は、はじめて気付いたように耳を澄ました。  |※[#「革+堂」、unicode97ba]鞳《とうとう》と、海潮音が続く。 「卯波《うなみ》ですな」  春帆《しゆんぱん》、という俳名を持って、俳諧《はいかい》をよくする富森助右衛門が呟《つぶや》いた。  卯波……、陰暦四月頃に季節風で起こる波浪をいう。赤穂は千種《ちくさ》川の河口の向きと、取揚島で波浪がさえぎられ、波の静かなことで有名だが、この卯波の季節は赤穂御崎に砕ける海潮音が高い。  その濤声も聞きおさめである。 「さて……」  内蔵助は、一同に声をかけた。 「明早朝、江戸組は帰府に旅立つ。その前に一つ決めておかねばならぬことがある。それは吉良屋敷に討入り、上野介を討取る名目だ、何を名分に立てて討つ」  柳沢、上杉、吉良という敵の中で、もっとも弱点と見た吉良に狙いを定めた。  だが、吉良を討つ大義名分はない。刃傷《にんじよう》に及んだのは浅野の方で、吉良は一方的な被害者である。  刃傷には、それなりの理由、動機があったに違いない。だがそれは、返り傷をおそれた色部の巧妙な策で闇に葬られ、永久に知るすべはなくなった。  赤穂浅野の廃絶は、公儀の決定である。吉良の仕業ではない。 「これは難問ですな」  忠左衛門が顔をしかめた。 「だが、これがわれらと敵の戦さのはじまりだ。ここから捲《ま》き返さねば戦さにならぬ」  さすがに色部である。咄嗟《とつさ》の異変にこの上ない有効な手を打っていた。  ——しかし、策は巧妙なほど、どこかに隙が生じる。  内蔵助は、垂直な思考を水平に変えた。 「よいか、刃傷の真因が誰にもわからぬということは、どのようにもつくり出せるということではないか」  一同は、あっと思った。  刃傷の因をつくる。嘘でいい、吉良や上杉が一挙に窮地におちいるような因を言いひろめる。隠すことに奔命した吉良・上杉が、否定すればするほど、本当にみえてくる。 「よいか、長々しい因縁話は噂になりにくい。ひと言で納得するものが欲しい。それも悪に徹したもの……上は将軍家、幕閣から、下は市井の人夫人足まで、世間が未来|永劫《えいごう》さげすみ、憎むものは何だ」  一同は沈黙し、思案にふけった。 「ばかなことを申し上げてよろしいか」  間喜兵衛が口を切った。 「うむ、言うてみられい」 「御後室様はあの通りの美色御麗質……吉良が横恋慕した、というのはいかが」  思わず一同の中から失笑が洩《も》れた。内蔵助もこらえるのに骨が折れた。 「御老体、それは如何《いか》になんでもつくり過ぎだ」 「ですが……」  笑いをおさめた十内が言った。 「ひと言、というのはむずかしすぎますな」 「いや、何かある筈《はず》だ。これが勝負の分れ目となるやも知れぬ、時をかけて、考えてみてくれ」  一同は、脳漿《のうしよう》を絞った。  耐えきれず、障子を開け、庭に出る者もあり、ぶつぶつと呟き続ける者もある。  理由はそれぞれに幾つか浮ぶが、現実感がなく、現実感のあるものは迫力に欠けた。  時は空しく過ぎた。人は倦《う》み、疲れ、茫然《ぼうぜん》となった。  長い長い沈黙が一座を領した。  内蔵助は、その無為の時に耐えた。内蔵助の特質は、時の流れに耐えることにあったとも言える。彼はどのような逆境にあっても、いつか打開の途《みち》のひらけるのを信じて疑わなかった。その点では執拗《しつよう》きわまりなかった。  一座は乱れきった。壁に凭《もたれ》る者もあれば、膝《ひざ》を抱えこむ者、身をかがめ突っ伏す者、喜兵衛老人のように肘枕《ひじまくら》で寝そべる者まであった。  不意に、不破数右衛門が、ポツリと呟いた。 「賄賂《わいろ》……」  高家《こうけ》筆頭の吉良は、内証裕福で聞えている。血縁に上杉十五万石を持ち、島津、紀州と縁者に有力大藩が控えている。  その領地は気候温暖な三州吉良郷、豊かな知行四千三百石のほかに、量は少ないが赤穂より良質な塩を産する。金の余る吉良上野介は、治水に惜しげもなく私財を投じたとも言われている。  礼法指南の謝礼も入る。それは、慣習で金二枚(二十両・事前に一枚、事後一枚)と定められている。  賄賂をむさぼる筈がない。  だから誰もが考えつかなかった。数右衛門自身、いくたびか思いついては否定し、長い堂々めぐりの末、これしかないと思案を定めた。 「賄賂か……」  呻《うめ》くように内蔵助は言った。  一人、二人と居ずまいを正す者が続いた。みな眼がさめたように、賄賂の一語を反芻《はんすう》した。 「数右衛、よう考えた。賄賂だ。賄賂にまさる悪はない。そのひと言で、吉良は極悪非道の扱いを受けるであろう」  吉良は賄賂をむさぼった。清廉潔白な浅野は贈賄をこばみ、事毎《ことごと》に苛《いじ》めぬかれた。勅使|饗応《きようおう》の当日、罵詈雑言《ばりぞうごん》を浴びて、遂《つい》に堪《こら》えかね刃傷に及び、切腹の極刑をうけた。  赤穂の遺臣は、主君の意趣遺恨の晴らされなかったことに思いを致し、君恩に報いるため、身を捨てて吉良に報復を決意した……。 「で、どうやってその名目を表立てますか」 「これは侍同士が言いたてても効は無い。俗世間で噂をひろめるのだ。その辺は江戸組の者に任す。長年江戸|留守居《るすい》役であった堀部弥兵衛どのには格別の考えや手だてがあろう、御老体の指図を仰げ」  奥田、堀部、高田、富森の四名は頷《うなず》いた。 「よいか、市井から噂をひろめるには金を惜しまず撒《ま》くことだ。湯屋、茶店、芝居小屋、見世物小屋、特に色里《いろざと》に銭を惜しむな。商人職人に噂が立てば、侍仲間に飛火する……数右衛、おぬし骨折りだが大坂まで同行し、金を渡してやれ」 「は……いかほど」 「さしあたって一人二百五十両、合わせて千両も使えば効があろう、よいな」  なみいる参謀は瞠目《どうもく》し、声を呑《の》んだ。藩米藩金を残らず分与して、千金をひと言の噂に投げ出す、その度量と底知れぬ財力に圧倒されたのである。      六  四月十六日、辰《たつ》ノ刻(午前八時頃)、城下遠林寺に誓紙を持参して集合した藩士の数は六十一名にとどまった。  話は前後するが、このうち最後の討入に加わったのは、内蔵助以下二十六名である。半数を越える三十五名が中途脱盟した。なお内蔵助嫡男|主税《ちから》や、江戸在府の者も、この会同以降に加盟した。また部屋住の者や隠居、地方《じかた》勤めの者も同様で、以降の加盟者は翌年春までに六十四名にのぼった。そのうち二十一名が討入に加わり、四十三名が脱盟した。歩《ぶ》どまりは三分の一であった。ただし脱盟者の中に二、三の死亡者がある。岡野九十郎の父金右衛門(九十郎が父名を継ぐ)や、矢頭《やとう》右衛門七《えもしち》の父長助などがそれであり、脱盟者全員が変心者というわけではない。  ともあれ、六十一名という数は、吉田忠左衛門らの期待を大きく裏切ったことは否めない。それにひきかえ内蔵助は、気にかける様子を微塵《みじん》も見せなかった。 「ま、預っておくように……いずれは返してやらねばならぬことになろうよ」  誓紙を一括して忠左衛門に渡し、見直そうともしなかった。  会同は小半時《こはんとき》足らずで終った。寄り集う面々が最後の会合とあって一様に悲壮感をただよわせているにもかかわらず、内蔵助は淡々と次の三ヵ条を申し渡して散会を命じた。  第一に赤穂開城は十九日に行われるに付、物頭《ものがしら》組頭をのぞく一同は、十八日暮六ツ刻《どき》までに家屋敷を明渡し、城下を離れること、なお開城まで城に残る物頭組頭も、家屋敷は同前。  第二に御公儀御政道に関し、是非の論議は屹度《きつと》つつしみ、かりそめにも批判がましき言葉を口にせぬこと。  第三に結盟諸士の進退は、すべて内蔵助の一存に任すこと。そのため連絡を密にとり、常に居場所を明らかにしおくこと、相談事あるときは、吉田忠左衛門、小野寺十内、間喜兵衛の三長老に届出すべきこと。  会同の終った一同は、藩米(米切手)・藩金の分与をうけるため、城へ向った。たった今、内蔵助に誓紙を出した者同士が、同じ道を歩みながら誰も話し合おうとせず、黙々と行く姿は一種異様だった。誰もが明日からのおのれの行く道が展望できず、その不安に胸が閉ざされているためと思われた。  内蔵助と忠左衛門らは、遠林寺の庫裡《くり》で、住職から茶菓の接待をうけていた。  住職の隆雪|和尚《おしよう》は、一昨日浅野家の名儀で届いた寄進の米と金子《きんす》の礼を丁重に述べた。 「この寺も、長直様が御領内|普請《ふしん》作事のお見廻りの際、御休息所に当てられたが御縁で、代々寺領を賜りました。その御縁がこれで尽きるかと思うと、諸行無常を眼《ま》のあたりに見るようで、わびしさ一杯でございます」 「いや、どのような御領主が新たに参ろうとも、お寺様を大切になされるのが領民|安堵《あんど》の第一歩、まためでたき御|沙汰《さた》もありましょう。行末永き仕合わせを祈っております」  内蔵助は、故主浅野|内匠頭《たくみのかみ》の忌日が、五七忌(三十五日忌)に当る十九日までは法会《ほうえ》を城中で催すが、以降の供養を寺々で行って欲しい旨を頼みおいた。  隆雪和尚が座を退《さが》ると、内蔵助は忠左衛門ら参謀に、くつろいだ様子で語りかけた。 「さて……このひと月の間、あれやこれやと取りまぎれて、わが身の始末がついておらぬ。どこへ移り住んだものかと途方にくれる」 「それはまたご用意の悪い……」  忠左衛門が笑った。 「てまえなどは郡代をつとめました加東在に、ささやかな家を求め、すでに家の者を移らせました」 「てまえは京に戻ります。家内がよきように計ろうている筈《はず》」  と十内が続いた。 「わしは二人の伜《せがれ》が、城下外れに貸家を探し、引移りを始めておりますぞ」  喜兵衛は、おどけておどすように言った。 「だが……ご家老の家探しは工夫が要りますな。当然われらも家の者と離れ、近くに暮すことにもなろうし、また江戸在府の者たちとの往き来もある……」  忠左衛門が、小首をかしげた。 「とりあえずは大坂……天川屋の世話になるつもりだが、早急に居場所を定め、家の普請をしたい。どうせ相手方には知れる事、定住すると見せねばならぬ」 「同志の者が赤穂、京大坂に散りましょう。その便利さ、江戸との連絡を考えますと、やはり大坂近辺でしょうか」  上方《かみがた》事情に詳しい十内は、そう提案した。 「大坂もよいが、人の往き来が激しくて、いささか無用心ではある……わしの好みもあるが、京ではどうかな」  内蔵助が、そう問いかけると、十内はむずかしい表情になった。 「京には少々障りがございます、と申すのは出入りの一方の口を押える伏見奉行を、吉良上野のごく近しい姻戚《いんせき》、建部《たけべ》内匠頭が勤めております」  建部内匠頭|政宇《まさのり》、播州《ばんしゆう》林田一万石、譜代の小大名だが、柳沢|出羽守《でわのかみ》保明とは格別|昵懇《じつこん》の間柄で、その口利きで吉良上野介の三女を娶《めと》り、近い将来、寺社奉行栄進が約束されているという。 「それはいかん、敵の思うつぼにはまる」  言下にそう断言したのは喜兵衛である。 「いや、まて……それは面白いかも知れぬ」  内蔵助は思いついて顔を輝かせた。 「伏見か……では山科《やましな》あたりの閑静なところがよい。急ぎ探してくれぬか」 「は……?」  けげんな顔の十内は、はっと思い当った。 「なるほど、相手の腹中に住みつく策ですな、それは名案……」 「それは思いつきませなんだ、いや恐れ入りました」  と、忠左衛門が呵々《かか》と笑った。 「な、なんでだ、何をおぬしら、独り合点をしおって……」  訳の呑みこめぬ喜兵衛は、うろたえ気味になった。 「ご老体、京の伏見には撞木《しゆもく》町という聞えた色里がある、ありようは存分に遊んでみたいのだ」  内蔵助は、笑いながらそうなだめた。  四月十九日、赤穂城収公。  城付諸道具の整備|整頓《せいとん》、城内外と侍の家屋敷の清掃、以《もつ》て範とするに足るみごとさであった。  郷帳、塩田絵図、年貢《ねんぐ》台帳等々の諸帳簿に添えて、内蔵助は一冊の連名簿を、受城目付荒木十左衛門に呈出した。 「主人内匠頭儀、不調法に依《よ》って城地お召上げの御沙汰、謹んでお承《う》け仕《つかまつ》りますが、藩祖|采女正《うねめのしよう》の勲功、以後代々の忠誠、いささかなりとお汲《く》みとり願って、内匠頭が弟、大学長広に御|寛恕《かんじよ》の一片を御垂徳下しおかれますよう、家臣一統ひたすらに願い上げ奉りまする」  大学長広を、たとえ一、二万石の小大名にでもいい、取り立ててくれ、という歎願《たんがん》である。  収公廃絶される大名家では、例といっていい程、そうした歎願を行う。また受城目付は一応老中に取次ぐが、さして効はない。ただ聞きおくのにとどまるのも例となっている。  だが、赤穂浅野の収公に当った旗本荒木十左衛門は、通り一遍の挨拶《あいさつ》で済まされぬ圧迫感を持った。  城明渡しに当る大石内蔵助の態度に悲壮感がなく、また衰残や哀愍《あいびん》の情感がいささかも見えなかったことに依る。  荒木十左衛門自身、刃傷《にんじよう》事件の処理に納得しかねるものを感じていた、それが多少の引け目になっていた。現に荒木十左衛門と共に受城目付を拝命した使番、日下部《くさかべ》三十郎は、浅野処分に異を唱え、御役辞退を願って榊原《さかきばら》采女と交替している。  十九日昼下がり、故主浅野内匠頭五七忌のささやかな供養法会を済ませた内蔵助は、城を出るとその足で千種川の船着場に至り、待たせてあった便船で赤穂を離れた。  何の感慨もない。強いて持つまいとつとめた内蔵助であった。  ——未練はない、おれの旅路の通りすがりに過ぎぬ。  その旅路の終着点をしっかと心に定めた内蔵助は、遠ざかってゆく赤穂の城のたたずまいを、乾いた眼で瞶《みつ》めていた。  海は、今日も卯波で荒れていた。 [#改ページ]   始 計      一  色部《いろべ》又四郎の許《もと》へ、赤穂《あこう》に潜入した徒横目《かちよこめ》の山添新八から、次々と諜報《ちようほう》が届いた。  ——赤穂藩士は、ひたすら江戸からの詳報を待っている。城代大野|九郎兵衛《くろべえ》、番頭《ばんがしら》奥野|将監《しようげん》らは人心鎮静に奔走中。  三月下旬に入って間もなくの報告である。続いての知らせは、その月末頃の様子を伝えた。  ——赤穂は藩政の後始末に懸命である。すでに藩札の引替えは六分替で行われ、領民の静謐《せいひつ》は保たれている。次いで藩士の知行・扶持《ふち》の未支給分を分配した。藩士は目下藩金の分配を待ちわび、そのためか、藩論の主導は、勘定方、浜取締の筆頭家老大石|内蔵助《くらのすけ》に移っている。内蔵助は賢愚さだかならずとの評あり、所存は明らかでない。  四月はじめ、色部が柳沢保明の許へ伺候し、情勢分析を行なったあと、赤穂の状況は急激に変化した。  ——勝手方吟味役、間《はざま》喜兵衛なる者、籠城《ろうじよう》抗戦を唱え、藩論一挙に激発、恭順開城の方針を堅持する大野九郎兵衛ほか重職は懸命に慰撫《いぶ》につとめるも非勢、あるいは合戦に及ぶやも知れず。  それも色部の読みの内にある。ただ読めないのは、異変以来突然浮上した国家老、大石内蔵助という男の腹だ。 (どれ程の奴だ)  会った事も聞いた事もない、姿が掴《つか》めない相手に色部は不気味さを感じた。  続いての山添新八の諜報は、色部の予想を越えた。  ——大石内蔵助は、殉死論を提唱、有志の大量自決に依《よ》って浅野家再興の歎願を天下に訴えようと説き、藩金の分与を行う。百石|当《あて》十八両、高知|減《へら》し百石毎に二両。  百石|当《あて》十八両というのが高額なのか世間並なのか、財政にあまり明るくない色部には判断がつかない。ただ殉死論を以て籠城論と対抗するあたり、そう恐るる策士でもなさそうだ。  戦いか、自決か、暗黒の赤穂から次の知らせが届いた。  ——大野九郎兵衛|逃竄《とうざん》、藩士相次いで離散、残る藩士は百八十。  これも色部の読みに入っている。こうなると、残る藩士百八十に退嬰《たいえい》的な殉死論は通るまい。籠城論が圧倒するだろうと思われた。  だが、その予想はみごとに裏切られた。  ——大石、残る藩士に藩米・藩金を再分与、その高、米九千余石、金子一万六千余両、藩論一挙に鎮静、恭順開城に決す。大石は受城目付に浅野家再興を歎願、自ら赤穂を退去。  やはり恭順開城だった。籠城、殉死、開城と、巨額の藩米と藩金をたくみに駆使して、三百余の藩士を自在にあやつった大石の手綱さばきはみごとというほかないが、所詮《しよせん》は片田舎の小藩、天下に刃向う気骨も機略もなかった。 (これで終った)  色部は、刃傷事件以来、はじめて安らぎを得た。  ところが、その安らぎは、長く続かなかった。小さな異状が、彼の並はずれた警戒心を呼びさました。  事の起こりは、江戸留学を終えて帰国する若い藩士が、挨拶《あいさつ》に出頭した際、額の生え際に小さな手疵《てきず》を負っていたのがきっかけだった。  米沢上杉の国許では、藩士の子弟を幼い頃から藩黌《はんこう》に通わせ、学術武芸を教えこむ。二十歳前後に達した者は、考試に合格すると三年ないし五年の江戸留学の恩典に浴する。 「このたび、お国詰給費生森脇参之丞、同じく向山幸之進|伜《せがれ》直人、同じく増田助六、三年の修業つつがなく終り、明日帰国致させます」  留守居《るすい》役の浜岡庄太夫が付添って、色部の前に三人の若者を並ばせた。 「これ、ご挨拶申し上げぬか」 「御老体、もうよろしかろう」  色部は、苦笑した。 「わしにもおぼえがあるが、この年頃で、かしこまって口上をのべるというのはかなわぬものだ」  浜岡もくだけた顔になって笑った。 「おそれ入る。こやつら三年もの間なにを学んだのか、しゃべるのは江戸女の品さだめか酒のよしあしだけで、肝心の礼式など何一つ出来ん……」 「ま、世慣れるのも学問のうち、雪深い国許で一生過しては、世間のせまい侍ばかりになる。それを配慮しての江戸留学ではある。どうだ、江戸での暮し、存分に楽しめたか」  そう話しかけた色部は、ふと末席の増田助六という若者の小鬢《こびん》の疵に眼をとめた。 「どうした、その疵……打身疵のようだが」 「あ、いえ、これはもう……」  増田ばかりか、他の二人にも狼狽《ろうばい》の色が走った。 「これ、隠しだてするな、喧嘩《けんか》でも致したか。相手は家中か、よそ者か」  浜岡が居丈高に詰問するのを、色部は眼顔で制した。 「よいよい、咎《とが》めだてするつもりはない。ただ後々の障りがあろうかと訊《き》いておるのだ。気楽に話してくれ」 「お、恐れ入ります」  帰国を控えた三人は、江戸の名残りに飲み食いしようと、両国あたりの料理屋に出向いたらしい。入れこみの広間で楽しんでいると、小衝立《こついたて》を境に隣合わせた職人|態《てい》の四、五人が、酔って口々に言う噂話が耳に入った。 「とるに足らぬ下賤《げせん》の話とは存じましたが、何分お家のご親戚《しんせき》にかかわる悪口雑言ゆえ、つい聞き捨てなりがたく……」 「まて、ご親戚だと?」  一瞬、色部は不吉な予感を覚えた。 「は……ご高家《こうけ》、吉良《きら》様にございます」 「その吉良様を、何と噂しておったのだ、早う言わぬか」  浜岡も顔色を変えた。 「それが……殿中の礼儀作法を伝授される大名方より事ごとに賄賂《わいろ》をせびり……それに応じなかった浅野|内匠頭《たくみのかみ》どのは連日手違いを生じ……遂《つい》にがまんなりがたく、刃傷《にんじよう》に及んだと……」 「ば、ばかな! 吉良様に限ってそのような事がある筈《はず》がない! 吉良様はご主君の実のお父君ぞ、それをのめのめと聞いておるとは……なんたるうつけ者だ!」  浜岡は、烈火の如くがなりたてた。 「め、滅相もございませぬ。それゆえ言いあい、叱りとばす末に喧嘩となりまして……」  腕に多少覚えのある三人は、職人たちを撲《なぐ》りつけた。相手は逃げ際に有合う器物を投げつけ、それで増田が疵を負ったという。  浜岡が三人を叱りとばして連れ去ったあと、色部は暗い顔で考えこんでいた。  ——なんで、そんな噂が立ったのか……。  江戸城中での出来事は、侍とはいっても陪臣である色部にすらわからぬことが多い。まして今度の刃傷事件は、色部が提案してきびしい箝口令《かんこうれい》がしかれた。その色部自身も刃傷事件の真因は知らぬのだ。  それが市井で噂されている。もちろん根も葉もない噂話だ。吉良は権勢好きの老人だが、金銭欲の亡者《もうじや》ではない。上杉家には事あるごとに無心を重ね、色部を悩ますが、元はといえば上杉家当主の実父という権勢をふりかざしたいからだ、と、色部は見ている。三万石五万石の小大名から賄賂をせびらなくても、紀州や島津から営中式事の取扱いに遺漏なきよう依頼をうけて、充分な附届を貰《もら》っている。直接式事礼法の教えを乞《こ》う小大名には、贈与される品物にも潔癖なところを見せて、高潔の誇りを売りたい老人なのだ。  ——むしろ吉良は、見栄《みえ》っぱりの浪費家といっていい……。  あまりにも見当違いの噂に、色部は合点がゆかなかった。      二  どの藩でもそうだが、江戸詰の藩士は、非番の折に身体を休めてばかりはいない。武芸好きの者は選んだ町道場で稽古《けいこ》に励み、学問好みは学塾に出入りする。中には歌詠み俳諧《はいかい》、書画、謡曲能舞いに師を求め通う。  米沢上杉家江戸屋敷もその例に洩《も》れなかった。それが最近、外出届がめっきり減りはじめた。 「どういう訳か」  色部が、横目(監察方)に調べさせたところ、やはり吉良の噂話だという。 「いやもう人の出盛るところ、吉良様の悪口雑言で持ちきりだそうで……そう申すと憚《はばか》り多いことではございますが、近頃、これほど人の噂の種になったものはないと、皆が面白おかしゅう言い囃《はや》しております」  吉良と上杉の血縁関係というのは、さほど庶民に知れ渡っていない。そのため上杉藩士の前でも、平然と吉良を悪しざまに罵《ののし》る。  聞けば聞いたで、只《ただ》は済まされぬ、争いを避けようと外出を控えるようになった、というのである。  刃傷事件をおのれの才智で処理したとひそかに自負する色部は、おのれの耳でその信じがたい噂をたしかめようと思い立った。  色部はまず評判の歌舞伎芝居の小屋からはじめた。堺《さかい》町の中村座、葺屋《ふきや》町の市村座、木挽《こびき》町の森田座の三座から、これも木挽町五丁目の山村座と廻《まわ》り、人の噂に聞き耳を立てた。  たしかに噂はさかんだった。 「欲深だそうですな、吉良|上野介《こうずけのすけ》」 「大っぴらに賄賂をむさぼったといいます。あれは死に欲ですかな」 「年寄の底意地悪さで、いじめ抜いたらしい……金の怨《うら》みは怖い」  まだ、この辺は序の口であった。 「賄賂の金で、大層な贅沢《ぜいたく》暮しだそうで」 「度外れた色好みで、若い妾《めかけ》を三人五人と抱えて、日夜酒池肉林の有様らしい」 「色と金か、名家の年寄というのは、いやらしいものですな」  人の蔭口《かげぐち》、悪口というのは、伝わるごとに悪意が加わり、増幅される。  それに、町人の小才が加わった。 「賄賂の少なかった時のいじめ方というのは、堂に入ってるぜ、お勅使が参詣《さんけい》遊ばす芝の増上寺でよ、諸事節約の時節柄畳替えはいらねえって事にして、相役のお大名には持ち分の寺の畳をすっかり新しいのに替えさせやがった。前の晩になってそれに気が付いた浅野はよ、家来衆が町中|駈《か》けずり廻って畳屋集めだ、いやもう大変な騒ぎで、とうとう八百畳を一晩で仕上げたっていうぜ」 「それよ、それ、おれも畳職の端くれでね、ほら、知ってるだろ、高田馬場の仇討《あだうち》で有名な堀部|安兵衛《やすべえ》、あれと呑《の》み友達なんで頼まれちまってよ、弱え者を助けるのが江戸ッ子だってんで、一晩夜明かしして頑張ったぜ、いや嘘じゃねえ、嘘じゃ……」  嘘に決っている。十八年前に同じ役目をつとめた赤穂浅野が、慣例に気付かなかった筈がない。  噂は、次から次と流布《るふ》されていた。伝奏《てんそう》屋敷の玄関の衝立が墨絵であるとだまされて恥をかかされた話、勅使|饗応《きようおう》の料理が精進料理とあざむかれた話、なかでも凝った作り話は、城中での衣裳《いしよう》違いである。式事の際の礼服は、官位によって定めがある。従《じゆ》五位下|諸大夫《しよだいぶ》の浅野は大紋、四位少将の吉良は狩衣《かりぎぬ》、だまされて取違える筈がない。  悪意に満ちた作り話は、面白|可笑《おか》しく、上野・両国・浅草の見世物小屋や茶店、湯屋や髪結床を通じ、燎原《りようげん》の火のようにひろがり、煽《あお》りたててとどまるところを知らなかった。  吉良は強欲非道。  浅野は清廉潔白、純真|一途《いちず》。  そうした図式が、定説となって流布され、定着しつつある。 「けしからん、御公儀に頼んで取締って貰えませぬか」  浜岡は気色ばむが、色部は首を横に振るほかなかった。 「人の口に戸は立てられぬのたとえもある。下賤の噂というのは、権勢権力の及ぶものではない」 「なれど、あまりといえば度の過ぎた嘘話……有り得る事かどうか、考えればわかる筈……」 「ご老体よ、年甲斐《としがい》もない事を言われるな。噂というのは、嘘であろうと作りものであろうと問題ではない。面白可笑しいが上に、それを喋《しやべ》ることで鬱憤《うつぷん》晴らしになる。それが噂をどこまでもはびこらせるのだ」 「はて、鬱憤晴らしといわれると……」 「これは、この場限りで忘れて貰わねば困る……ありようは今の御公儀御政道が、町人の怨嗟《えんさ》の的になっていることのあらわれである」 「ご家老……」 「生類憐《しようるいあわ》れみの令、元字《げんじ》小判の改鋳による物価の騰貴、公儀役向と結托《けつたく》した豪商の贅沢|三昧《ざんまい》……今の世は権力と金力の天下、下々からは次々と新たな税を取り立てるばかりで、町人のための政策など、有って無きが如しである……」 「……そう言えば、昨年定められた江戸の大八車、借|駕籠《かご》の新税も、大層不評だそうですな」 「民は、必ずしも乏しきを憂うるものではない。等しからざるを憤るのだ……だが、それを言い立てるにすべ[#「すべ」に傍点]なく、上《かみ》に聞く耳もない。それであらぬ噂話が横行するのだ、見えすいた嘘であろうと、作り話であろうと構わぬのだ。古語に言うではないか、『上ハ以テ下ヲ風化シ、下ハ以テ上ヲ風刺ス、コレヲ言ウモノ罪ナクシテ、コレヲ聞クモノ以テ戒《イマシ》ムルニ足ル……』、噂は風刺だ、上に立つ者が賄賂を貪《むさぼ》る話以上に町人の憎しみをそそるものはない、考えてみれば賄賂を贈ろうと取ろうとおのれの懐に一文の損得もない。それでいて賄賂は、盗み、人殺しより憎まれる……それは声高に罵《ののし》ることで、御政道に対する鬱憤晴らしになるからだ……」  色部は、何かが脳裏をかすめた風で、ふっと口をつぐんだ。 「なるほど……いや、聞けば聞く程、奥深いものでござるな……」  相槌《あいづち》を打った浜岡は、色部の蒼《あお》ざめた様子に気付いた。 「ご家老、いかが致しました」 「うむ……よもや、と思うが……」 「は……?」 「もしも、だ……もしも誰かが、われらと同様、噂の効用を読みに読んだ上、吉良様をおとしいれんと計ったとしたら何とする」 「まさか……」  浜岡は、血の気の失《う》せるのを感じた。 「そうだ、そのまさかだ、赤穂浅野……」  と言いかけて、色部は激しく打ち消した。 「そのような筈《はず》がない。たかが播州《ばんしゆう》の片田舎の小藩に、それほど悪智恵|長《た》けた者があろう筈はない……」  そう打ち消したものの、色部はおのれの自負と自信が、音をたてて崩れるような予感に襲われていた。      三  梅雨の中休みのぎらつく陽ざしは、目前に迫った盛夏のきびしい暑さを思わせた。  汗ばむ額をぬぐいながら、奥田孫太夫は、旅衣の胸もとをくつろげ、家の軒下や立木の蔭《かげ》を拾って歩いていた。  川崎の宿を早発《はやだ》ちして、大師道を北上し、矢口の渡しをわたる。池上本門寺の門前を曲って目黒に向う。麻布《あざぶ》から飯倉《いいくら》、愛宕《あたご》下から虎《とら》ノ御門《ごもん》外を新橋、八官町、京橋を渡ると右に折れ、弾正橋《だんじようばし》を渡ると長沢町は目前だった。  その長沢町の裏通り、二筋目の袋小路《ふくろこうじ》の突当りが、江戸組を束ねる堀部|弥兵衛《やへえ》の寓居《ぐうきよ》であった。 「ごめん、おられますか、孫太夫でござる」  門口で声をかけると、返事を待たず、手前勝手に庭木戸を開け、旅埃《たびぼこり》を払いながら小庭伝いに裏手へ廻ると、背戸《せど》に安兵衛の妻ほり[#「ほり」に傍点]が、手拭《てぬぐい》を持って出てきた。 「安兵衛どのはお出かけか」  軽く会釈してそう尋ねると、ほりは、 「はい、父の使いで三田へ出向いております」 「さようか、では先にご隠居とお話し致しますか」  孫太夫は井戸端で手甲脚絆《てつこうきやはん》を外し、顔と手足をざぶざぶと洗った。  背戸の青桐の若葉が、眼を洗うようだった。汗のひいた頸筋《くびすじ》に、濡《ぬ》れた手拭の冷やかさが心地よかった。  弥兵衛は、居間で老妻のわか[#「わか」に傍点]に茶を淹《い》れさせて、待っていた。 「おう、ご苦労であったな。ふた月半でふた往復とは、その年で恐れ入る」  弥兵衛は笑って大げさに頭を下げた。奥田孫太夫は五十五歳、当時ではとうに楽隠居の年齢である。だが、江戸の名門堀内源左衛門道場で、三十二歳の堀部安兵衛と並んで今も竜虎《りゆうこ》と呼ばれる頑健な躰《からだ》は、いささかのおとろえも見せない。 「年のことは口にされぬがお為でしょう。ご隠居は三十年前に死んだてまえの父より、二年お年上ですぞ」  奥田はそう冷やかした。  堀部弥兵衛金丸、この年七十五歳、この企ての最年長である。内蔵助は亡き大|叔父《おじ》大石頼母によく似た性情の弥兵衛を、殊の外信頼し、参謀として江戸組の総指図役を委嘱している。  弥兵衛は、赤穂浅野家の譜代の家臣ではない。五十年程前は、肥前島原六万五千九百石、松平|主殿頭《とのものかみ》忠房の家臣で、上司と争って浪人した。このあたり、硬骨ぶりがうかがえる。  その後、伝手《つて》あって赤穂浅野に仕官を申し出た。得手《えて》は能筆というので祐筆《ゆうひつ》に取立てられたが、それほど手蹟《しゆせき》が優れていたわけではない。切腹覚悟で家臣の列に加わりたかったと申し立てた。それを聞いて江戸家老大石頼母が、その気骨を膝下《しつか》で役立ててみたいと主君長直に乞《こ》い、微役から使って遂《つい》に江戸留守居役という外交方の重役に引立てた。性は豪放|磊落《らいらく》で洒脱《しやだつ》、機智に富み、下世話《げせわ》に通じた名外交役で、今は亡き大石頼母の再来を思わせると、内蔵助は述懐している。  弥兵衛の娘婿、安兵衛も元は越後浪人で、義理の叔父|菅野《すがの》六郎左衛門の果し合いの場に駈《か》けつけ、助太刀して相手方、村上兄弟と助勢の中津川|祐見《ゆうけん》ほかを討った。その後、縁あって弥兵衛の娘婿となり浅野家に仕えた。舅《しゆうと》婿揃っての新参だった。  奇妙な暗合は、奥田孫太夫もまた新参者である。延宝八年、芝増上寺において前将軍家綱の法事が行われた際、志摩鳥羽の城主内藤|和泉守忠勝《いずみのかみただかつ》が、丹後宮津の城主永井|信濃守尚長《しなののかみなおなが》に刃傷《にんじよう》、永井尚長は斬殺《ざんさつ》され、内藤忠勝は切腹、双方とも家は断絶となった。  その内藤忠勝の娘が、赤穂浅野の当時の当主、浅野|采女正《うねめのしよう》長友(内匠頭長矩の父)に嫁いでいる。奥田孫太夫は内藤家の家臣で、その婚姻の際、長友夫人の附人として浅野家に入った。だが、内藤家ではその才幹を惜しみ、数年後に、浅野家に請うて召し返した。それが逆運となって、内藤家断絶の際に浪人となったのを、これも内蔵助の大叔父大石頼母の推挙で、浅野家が新規に召抱え、江戸詰とした。  堀部安兵衛は一生に二度、敵《かたき》を討ったことで有名だが、孫太夫は一代に二度持った主君が、二度とも刃傷して藩が廃絶となった。主人|潰《つぶ》れの稀有《けう》な運の持ち主だといえる。  新参者といえば、他にもまだ何人かいる。  刃傷事件の発生後、第二の使者として江戸から赤穂へ走った原惣右衛門は、江戸詰藩士の重鎮で、内蔵助は早打が惣右衛門と聞いただけで、絶望的な推移を覚ったという程の人材だった。  その原惣右衛門は、なんと元は、米沢上杉の藩士の子であった。  米沢上杉家の家臣には三手の区分があった。一番が馬廻組《うままわりぐみ》。上杉管領家以来の筋目に当り、最も大切な家臣である。二番が五十騎組。長尾政景が率いた家臣で、謙信が上杉を相続したため上杉籍に編入された。謙信から言えば家附の家来である。三番目が与板組。上杉景勝が関ヶ原合戦の折、家康に敵対して家禄《かろく》を没収されたので、家老の直江《なおえ》山城守|兼続《かねつぐ》が、おのれの家禄米沢三十万石を上杉家に献上して、上杉の家名を存続させた。その直江兼続の家来が上杉家へ組替えとなったのが、与板組である。  原惣右衛門の家は、その第一、馬廻組で、惣右衛門の父七郎右衛門が、上杉綱勝(吉良夫人富子の実兄)の代、綱勝の腹違いの姉徳姫が、加賀百万石の支藩、大聖寺七万石の当主、前田|飛騨守利治《ひだのかみとしはる》に嫁ぐ際、附人として派遣された。その七郎右衛門が、大聖寺前田の家臣と争いを起こして浪人した。  惣右衛門は長じて後、算数勘定に才あって浅野采女正長友の代に召抱えられ、郡代から江戸詰|足軽頭《あしがるがしら》三百石に昇進するまでになった。これも一代の新参者である。  間喜兵衛も、新参者のひとりだ。その父左兵衛が、故主のところで朋輩《ほうばい》と争い事あってその者を斬り、内匠頭長直(長矩の祖父)の許《もと》に駈込んで匿《かく》まわれ、家来となった。故主の名はわからない。  村松喜兵衛(扶持《ふち》奉行二十石五人扶持・六十歳)の父九太夫は、下総《しもうさ》佐倉十二万石、堀田上野介正信の家臣で、佐倉堀田家が万治三年に取潰されて浪人し、浅野長直に召抱えられた。これも勘定方の腕利きである。  内蔵助の腹心の一人で、藩米・藩金の分与を取仕切った岡島八十右衛門も、養祖父の代に、主家|讃州《さんしゆう》高松十七万石、生駒壱岐守《いこまいきのかみ》高俊が改易となり、その後、養父善右衛門が浅野家に仕官して、八十右衛門の代に至った。  神崎《かんざき》与五郎(徒横目《かちよこめ》五両三人扶持役料五石・三十六歳)、前原伊助(金奉行十石三人扶持・三十八歳)は共に作州津山十八万六千石森|伯耆守《ほうきのかみ》長武の軽輩だったが、森家に不幸が続き、遂に備中《びつちゆう》西江原二万石にまで減知されたため、前原の父が赤穂浅野の軽輩だったことから、その縁で召抱えられた。  調べればまだまだあるが、内蔵助は、このたびの企てに浅野家譜代の家臣の自発的参加を当てにせず、新参者であっても役立つ侍を日頃から撫育《ぶいく》して、組織を組立てていた。  その顔ぶれに、郡代とその経験者、勘定吟味役、金奉行、札座横目等々、勘定方にかかわった者が多い。内蔵助が多年、藩財政を運営しながら、人を選んだ結果であった。      四  弥兵衛と孫太夫が、他愛《たわい》のない世間話に興じているところへ、安兵衛が戻ってきた。  安兵衛は孫太夫とは長年の剣友だけに、目礼を交しただけで、座に加わった。 「大石どのは、もう京に住居を移されたかな」  弥兵衛が肝心な話に触れた。 「山科稲荷山《やましないなりやま》に、大坂のあきんどが隠居所に建てた古家がありましてな、少々手入れを致し、六月には引移られると聞きました」  孫太夫は、思いついて続けた。 「京大坂へ往復致しておりますと、大石どのの配慮の探さに驚嘆します。どの宿場、どの問屋場に立寄っても、赤穂浅野の名を出せば、昔も今も変りなく、駕籠《かご》でも馬でも立ち所に調えてくれます。伝馬町の問屋向から街道の人足まで、むだなく金を配り恩を売っておられる」  弥兵衛が、孫太夫、安兵衛に言って聞かせた。 「まだ浅野家が健在の頃だ、お家のご親戚《しんせき》にかかわる変事があって、御側役《おそばやく》の礒貝《いそがい》十郎左衛門が赤穂へ早使《はやづかい》したことがあった。百五十五里を七日で着いた」 「一日、ほぼ二十二里……それは速い」  安兵衛がすばやく暗算して言った。 「元禄《げんろく》六年、備中松山の城受取りの御下命があった時、富森|助《すけ》右衛門《えもん》が早使した時は五日半、今度の異変の早打も五日半……備前岡山の池田様が、早打を立てて十四日かかったという。赤穂浅野は抜群の速さだ」  弥兵衛は続けた。 「大石殿が家老職を継がれて二十余年、その間に一日を争う早使を立てたのはわずか数度……あとはおぬしらが往き来の時、その余慶にあずかるだけだ。その三度の用に立てんがため、長の年月金を費《つか》い、備えられた。もしも一生の間に今度のような異変が起こらなければ、それこそ昼間とぼす行燈《あんどん》の油のむだ費いと、末代までの笑いものとなったであろうな」 「それを覚悟で、平然とあざけりを聞き流してこられた。その肝の太さは人とは思えません」 「安兵衛よ、剣は一人前だが人を見る眼はまだまだだな。あの御仁《ごじん》は人一倍|煩悩《ぼんのう》の人だ。おのれの生き方を貫くため人の眼をくらまし、おれは悪人、と割切ろうとしておられるが、その実、心の憂さに耐えかねて、放蕩《ほうとう》にうつつを抜かす、そういうお人だからこそ、吉良が賄賂《わいろ》好みなどと、人の肺腑《はいふ》をえぐるような策をとられたのだ」  孫太夫が、ハタと膝《ひざ》を打った。 「いや、今だから申しますが、不破|数《かず》右衛門《えもん》が口火を切った吉良の賄賂説……あれは大石殿がとうから思いつかれておって、誰かが言い出すのを待っておられたのかも知れませんな」 「そうだ、そうに違いない」  安兵衛は孫太夫の言葉に大きく頷《うなず》いた。 「賢愚さだかならず、善悪もさだめがたし……それが大石内蔵助というお人なのだな」  三人は、暫《しばら》く黙りこんだ。 「安兵衛、どうであった、三田の模様は」  弥兵衛の問いかけに、安兵衛は明るく笑った。 「調子は上々ですぞ。遊んで喋《しやべ》って日銭《ひぜに》が稼げる。このようなうまい仕事はまたとない」 「それはいいが、要慎《ようじん》が肝要だぞ。渡り者は口が軽い、噂の出どころをさぐられては面倒な事になりかねん。相手は名うての色部だ」 「その辺は前川忠太夫もよく心得ております。性根のすわった者を選んだ上に、世話役、小頭、下役と、指図を伝えるのに人の階段を設けて、さぐりのきかぬように心配りを致しております」  前川忠太夫は、三田松本町に住居する人入れ稼業で、諸大名・旗本屋敷へ、渡り中間《ちゆうげん》や小者、日雇人足を斡旋《あつせん》していた。  もとは播州竜野の前の領主、本多家に仕えた侍だったが、主家が亡んで浪人となり、知人の引合わせで内蔵助と知り合った。武家奉公の望みを捨てた忠太夫に、内蔵助は資金を貸し与えて江戸で人入れ宿を営ませ、浅野家江戸屋敷に出入りさせた。今は十数家の出入り屋敷を持つ忠太夫は、以前の恩義を忘れず、赤穂浅野の大変に際し、内蔵助の意を体した堀部弥兵衛に協力を申し出ている。  吉良が賄賂をむさぼり、浅野はその犠牲になった、という噂は、前川忠太夫の手で江戸市中にバラ撒《ま》かれた。弥兵衛は内蔵助から届けられた金をふんだんに費った。遊んで喋って日銭が稼げる、噂の撒き手はいくらでもいた。 「帰り路《みち》、愛宕下の篠崎治左衛門道場へ立寄ってみましたが、門弟の間にも噂が伝わっているとみえて、話をせがまれました。そろそろ色部が慌てだす頃です」 「こうなると、奴め、亡き殿|刃傷《にんじよう》の起こりを探っておけばよかったと、後悔する事だろうて、策士策に溺《おぼ》れおった」  弥兵衛と安兵衛は、呵々《かか》と笑った。  わかとほりの母娘《おやこ》が、夕餉《ゆうげ》の膳《ぜん》を運んできた。  堀部の家を辞した孫太夫が、深川黒江町のわが家に向う頃には、日はとっぷりと暮れた。  永代橋《えいたいばし》にさしかかると、佃島《つくだじま》の沖にいさり火が点々と見えた。ほろ酔いの頬を撫《な》でる海風が快い。  黒江町の家には、吉田忠左衛門の仲立ちで、三年前に縁組した夫婦養子の貞右衛門(加東勘定方九石三人扶持・二十四歳)夫婦が共に暮している。貞右衛門は近松勘六の弟、目立たぬ人柄で、武芸熱心の上に、算盤《そろばん》も立ち、志操堅固な好青年だが、孫太夫とはまったく血のつながりがないため、どこか遠慮深い。  堀部の家も娘婿なのだが、娘との血のつながりがあたたかい。その点が孫太夫は羨《うらや》ましかった。  ——妻のたよ[#「たよ」に傍点]が生きていたら……。  と、思う日もある。たよは、孫太夫が浪人暮しに入って間もなく病歿《びようぼつ》した。  浪人の暮しというのは、主家を持つ身にはわからぬ辛《つら》さがある。節季が来ても一文の収入も無い。借金をしようにも返すあてがない。一日一日が持ち金を食い潰《つぶ》すだけの不安と絶望の日々になる。地獄は節季のたびに来るのではなく、寝ても覚めても地獄なのだ。  はじめて経験した浪人暮しに、たよは見る間に打ちのめされ、半年余りの間にわずらいつき、ろうそくの灯が尽きるように死んだ。  それから一年半後、孫太夫は大石頼母の尽力で、浅野家に仕官がかなった。  ——浪人暮しだけは二度とせぬ。  そう心に決めた身が、また浪人の身となった。しかし、今度の浪人暮しには、生きて死ぬ目途を示す大石内蔵助という人がいた。 「侍らしくあれ、侍は美しく生き、美しく死ぬもの、侍の美を貫くことこそ、価値ある一生である」  内蔵助が示したその考えに、孫太夫は心を躍らせた。そして毎日を送っている。  ——だが、おれの一生は、どこか寒々としている。  橋を渡ると、富岡八幡宮《とみおかはちまんぐう》の門前の町家から洩《も》れる灯が続いている。孫太夫はその灯に背を向けて、ひと月ぶりのわが家への道を黙々と辿《たど》った。 [#改ページ]   掩《えん》 撃《げき》      一  猿橋八右衛門という軽輩の士がいた。  さるはし、というと芝居の役名のような作り名に聞えるが、実は〈さばし〉と読む。歴とした実在の苗字《みようじ》である。  米沢上杉家の三手(馬廻組《うままわりぐみ》・五十騎組・与板組)のうち、与板組に属している。  与板組の元のあるじ直江兼続《なおえかねつぐ》は、容貌《ようぼう》は魁偉《かいい》、性勇猛果敢、謀才ならびなき戦国の武将である半面、文才に秀で、風流清雅を好み、伎芸《ぎげい》遊楽を愛した。  猿橋は士分だが、侍奉公ではない。伎芸をもって召抱えられた、金剛流の能役者の家柄である。そうした能楽の者を単に贔屓《ひいき》するにとどまらず、代々の家臣にしてしまうあたりに、直江兼続の不羈磊落《ふきらいらく》な性格がうかがえるが、それはともかく猿橋の家では、一代に一度は能芸修業のため、京の金剛流家元の許《もと》に弟子入りするのがしきたりとなっていた。猿橋八右衛門は若年の頃、三年間京住いしてその伎芸を認められ、家元の高弟に列して、その後も長く京都在住を続けていた。  色部又四郎は、赤穂《あこう》での隠密《おんみつ》役に江戸詰の徒横目《かちよこめ》、山添新八を送ったが、内蔵助が京|山科《やましな》に居を構えると知ると、代って京住いの猿橋八右衛門を起用して、赤穂浅野の旧家臣の動静を監視するよう命じた。  諜者《ちようじや》というのは、使う身になると、そう容易に適任の者が見当らない。素性の確かな者でないと裏切るかも知れない。手を抜いた報告、偽りの報告をされても確認の方法がむずかしい。  もちろん、見る眼、嗅《か》ぐ鼻の達者なものでなければならない。機敏で、目はしが利いて、一を聞いて十を知る智才と、危機に応じての剣才も要る。  そうした数々の条件の中で、最も大事なのは土地の事情に通じていることである。特に京都は千年王城の地で、よそ者に対する排他意識が強い。赤穂開城の折のような人心が激動している時と違って、平穏な京の地でよそ者が胡乱《うろん》な動きをすると、すぐに目立つ。色部が人選に頭を悩ましたのは、その点だった。  江戸時代、幕府は諸藩が京都朝廷に接近するのを嫌ったため、どの藩も京都に藩邸と呼べるほどの屋敷を設けなかった。例外的に薩摩《さつま》島津、長州毛利、土佐山内の三家だけは数十人の藩士を泊める屋敷を持っていたが、他の西国諸藩は大概普通のしもた屋風の家で、たとえば佐賀|鍋島《なべしま》三十五万七千石の京都藩邸も、京都留守居役のほか、二、三の藩士が常駐する寮のような建物で、鉄鋲《てつびよう》を打った門扉《もんぴ》などはなく、堀川誓願寺通に面したその家は、いきなり格子戸を開けて玄関に入る構えであったという。  それでも西国大名は、参覲《さんきん》交代で京を経由するため留守居役をおいたが、東国の大名にはそれすらもなかった。幕末、京都守護職を命じられた会津松平家は、黒谷の浄土宗別格本山、金戒光明寺を藩邸代りの本陣とした。  もちろん、米沢上杉家には、京都藩邸も京都留守居役もない。  ——猿橋を使うしかあるまい。  幸いに、猿橋八右衛門は譜代の家臣で、土地|馴《な》れている上に小才が利く。身分は十石三人|扶持《ぶち》と軽いが、用度金を送れば入用は補えよう。  ——それに、頼みは伏見奉行に吉良《きら》の姻戚《いんせき》建部|内匠頭《たくみのかみ》が控えていることだ。  伏見奉行の管轄は、伏見から宇治、そして山科の過半と、京都の東南一帯を占めている。内蔵助が居宅を構えた稲荷山《いなりやま》から西野山は、その端にあたる。その配下の与力十騎、同心五十人がいつでも利用できる。  ——大石も不用意な……。  色部はそう思った。浪人となった身がどこに居宅を構えようと自由である。勝手知った赤穂で隠遁《いんとん》の暮しを営んでもよい。大坂という縁故の商人の多い町に住めば便宜もよかろう。また赤穂開城の折に唱えたように、浅野家再興の運動を起こすなら、江戸が最も便利である。それが迂遠《うえん》な京都、しかも伏見奉行の管轄内に身をおくとは……。 (案外、大石は、このまま事なく終るのではないか)  色部にその願いが強い。刃傷《にんじよう》事件からすでに三ヶ月近い。赤穂城地の公収で処理は終ったかに見えたが、間もなく江戸で広まった噂は執拗《しつよう》に続き、吉良・上杉両家を煩労させている。それが赤穂浅野の最初の仕返しなら、それを最後のものとして事件を終熄《しゆうそく》させたかった。赤穂浅野の心情はわからないでもないが、所詮《しよせん》は無駄なあがきである。大石が唱えているという浅野家再興の運動も、刃傷の加害者側が宥免《ゆうめん》された前例はまったくないのだ。彼らのとり得る唯一の方策は、おのおのが身の振り方をつけること、それに専念するしかない。  そうした色部の考えを裏付けるように、京の猿橋八右衛門から、動静の知らせが入った。 「京、山科の大石の居宅改修は着々と進んでいる。六月半ばには、大坂の商家天川屋の寮より引移る模様」 「大石は山科の普請場《ふしんば》見廻りに度々|上洛《じようらく》し、両三度、関白|近衛《このえ》家に立寄っている。噂によれば近衛家では、近々隠居する諸大夫進藤|筑後守《ちくごのかみ》の後任に、大石を召抱えたき由」  進藤筑後守長富は、内蔵助の大|叔父《おじ》大石頼母の姻戚に当り、その甥《おい》の子進藤源四郎(足軽頭四百石・四十七歳)は、誓紙血判を差出し、内蔵助の企てに加わっている。進藤長富は五摂家の筆頭近衛家の家司として従《じゆ》四位下、筑後守の官位を有し、京都宮廷の月卿《げつけい》雲客を切廻す重任を長年つとめてきたが、齢八十路《よわいやそじ》に近く、ここ数年、後継の任に当る者の人選に悩んでいる。  諸大夫というのは公家《くげ》の家老職に匹敵し、禄《ろく》は少ないが、進藤長富にみる通り官位は大名の上位に当り、小藩赤穂浅野家家老の内蔵助が仕官すれば、正に栄転というべきであろう。  ——そうか、大石の京住いには、その含みあってのことか。  色部は、ほっと安堵《あんど》の息を洩《も》らした。      二  東海道の西の起点、京の三条大橋から東に向うと、粟田口《あわたぐち》から長い登り坂にさしかかる。蹴上《けあげ》の清水が湧き出るところに小間の座敷を幾つか持つ茶店があって、京よりの見送り人の別れ場所となっていた。  猿橋八右衛門は、江戸へ帰る山添新八を送って、その茶店の小間で早目の中食を共にしていた。  六月七日に始まった祇園《ぎおん》祭は、十四日の山鉾《やまぼこ》巡行で山場を越えた。町々に夜ごと鳴り続いた囃子《はやし》の鉦《かね》の音が止むと、京の町は梅雨明けの油照りで蒸れかえる。 「暑い……山にさしかかっても一向に涼風が立たん、京の夏は地獄だな」  山添新八は襟もとをくつろげ、汗を拭《ふ》きながら冷酒を啜《すす》った。  ひととき途絶えたかとみえた蝉吟《せんぎん》が一段と激しくなる。 「夏の暑い分、冬の寒さが格別でしてな、雪深い米沢育ちのわれらでさえ、身ぶるいの止まらぬほど冷えこみます」  八右衛門は如才なく酒を酌《つ》いで笑った。 「これは三方を山に囲われた土地柄と湿気のせいでしょうな。この京の地は大昔、湖の底であったといいます。いまもその名残りが洛北の深泥池《みどろがいけ》と、町なかの神泉の御池《おいけ》、それと伏見の南の巨椋池《おぐらのいけ》とか……」 「おぬし、物知りだのう、恐れ入った」  新八は感に堪えた顔でまじまじと見た。 「わしのようなにわか仕立の隠密より、おぬしの方が諜者向きのようだ……いや、赤穂では苦労した。ひとつ宿に三日と居坐《いすわ》れぬ、伝手《つて》も知り人もないから思うように話を聞き出せぬ、そのうち色部さまからお叱りの飛脚便が届いてな……」  八右衛門は、同感と同情をこめて頷《うなず》いた。 「私めも、京でこのような御用を承るとは思いませなんだ。どうも世の中には思いもかけぬことが起こります。このたびの刃傷などはこちらも相手方も降って湧いた災難で……」  新八が盃《さかずき》を干して膳《ぜん》にぴちッと伏せるのを見て、八右衛門は飯の催促の掌を叩《たた》いた。 「……ま、それでも私の御用の方がよほどましかと思います。山添さまは相手をさぐる隠密御用、私めは動きを見張れと諜者の役……」  小女が飯櫃《めしびつ》を運んできたのを見て、八右衛門は口をつぐんだ。新八は取りつくろうようにその小女に問いかけた。 「奥の客はたいそう声高だが、あれは江戸の侍かえ」  つい今しがた、奥の小間に入った数人の旅侍が喋《しやべ》る声が切れ切れに聞えた。 「へえ」  小女は飯をよそう手を止めて、くりッとした眼で奥をうかがった。 「江戸の、剣術使いのご浪人はんや思います。えろう頑丈そうなお人たちで……」  毎日が旅人相手の商売である。小女でもその見立ては確かだった。 「剣術修業か、当節めずらしいな。上方《かみがた》まで足をのばすというのは……」  元禄《げんろく》期になると、武芸はめっきりおとろえをみせた。その傾向は町人の町大坂と、公家の京では殊に顕著だった。剣は侍の町江戸が本場といわれていた。 「あの連中、この時刻だと京を素通りして、伏見から夜船で下る気かな」  ひとり言のような八右衛門の呟《つぶや》きに、小女は小首をかしげた。 「さあ、京で御用と違いますやろか。しきりと伏見や深草、稲荷山あたりの道筋を訊《き》いておいでどしたえ」 「稲荷山?」  新八は、おどけたように笑って言った。 「おいおい、早速におぬしの出番だぞ」  八右衛門は真顔で頷いた。 「江戸住いの赤穂浪人かも知れませんな、剣術達者なものが多いと聞いております」 「そうか……そろそろ大石の意向うかがいに来る頃あいではあるな……おい、湯をくれ」  新八は飯を湯漬けにして八右衛門に告げた。 「わしはこのまま発《た》つ、あとはよろしく頼んだぞ」  耳鳴りに似た蝉の鳴き声にせきたてられて、新八は湯漬けを掻《か》っ込んだ。  その新八が発ったあと、小半時《こはんとき》して奥の小間の浪人連れが、酔いに顔を赤黒く火照《ほて》らせて茶店を出た。  ——これは、赤穂浪人ではないな。  ゆっくりと後を尾《つ》けながら、八右衛門は苦笑した。物事はそう調子よく運ぶものではない。放縦な話しぶり、傍若無人な高笑い、横着な歩きよう、昨日今日の浪人暮しとは見えないのだ。 (とんだ無駄足であったわい)  浪人たちが、五条東橋詰の旅籠《はたご》に入るのを見届けて、八右衛門は新町通|中立売《なかだちうり》の住居へ戻った。  それきり忘れた。  猿橋八右衛門が諜者役に慣れていたら、念を入れてその旅籠に雇い者を張りつけ、その挙動をさぐらせたであろう。人手が足りなかったわけではない。八右衛門は色部の命をうけると、金剛流家元に出入りの手子《てこ》ノ衆、富田屋清兵衛という者を頼んで小才の利いた遊び人を雇い、山科の大石宅を始め、東山浄土寺南田町の奥野将監宅、烏丸《からすま》今出川の進藤源四郎宅、加茂街道|出雲路《いずもじ》の小野寺十内宅などに見張りをつけた。  手子ノ衆というのは、後に仕事師と呼ばれる。普請作事の雑役、鳶《とび》の者を扱うのが本業だが、興行や祭礼の裏方も請負い、御法の裏をくぐって博打場《ばくちば》も開く、いわば顔役である。  八右衛門は、色部から届いた用度金を撒《ま》いて、赤穂浪人の主立った者に見張りをつけたが、長い期間四六時中というわけにはいかない。網の目からこぼれるように見逃し、後追いすることは度々だった。それでも大方の動静は掴《つか》めた。だから不審な浪人者に見張りをつけなかったことは、あながち咎《とが》める筋合のものではないかも知れない。しかし諜者《ちようじや》という仕事で最も肝要なのは、ふと感じた不審の念に対する勘働きである。その点で猿橋八右衛門は、まだ素人の域を脱していない。  五条東橋詰の旅籠に泊った五人連れの浪人は、翌日から七条|智積院《ちしやくいん》南の日吉道から山科街道|滑石《すべりいし》越えを丹念に歩き廻《まわ》り、三日をかけて山科稲荷山麓の大石宅附近を調べ廻った。  四日目早朝、旅籠の勘定を済ませたその一行は、大坂へ下ると称して出立したが、伏見には現われず、深草から道を東に通って醍醐《だいご》に近い勧修寺《かじゆうじ》に足を伸ばし、門前の茶店の小間を借りて時を過した。  勧修寺は醍醐天皇創建の真言宗|山階《やましな》派の大本山、江戸初期の典型的な造りの書院と、藤原時代の様式をとどめる庭園で名高い仏閣である。だが浪人たちはそれらに片々の関心も示さなかった。ここより北西十町(約一|粁《キロ》)足らず、目と鼻の先といっていい稲荷山の山裾《やますそ》に大石内蔵助の住居がある。      三  朝から内蔵助の許《もと》へ、洛北《らくほく》の小野寺十内が訪れていた。  大坂の天川屋の寮から引移って、七日目である。商家の隠居所に建てられた家は、何かと使い勝手が悪く、大工・左官を入れて改築させていたが、ひと月余りかけても次々と注文が出て、まだ片付かず、一日おき二日おきに職人が通ってくる。  昼前に打合わせの終った十内が、日盛りに帰るというと、内蔵助の妻女のりく[#「りく」に傍点]が引きとめた。赤穂から届いた名産の揖保素麺《いぼそうめん》を振舞うという。暑さ凌《しの》ぎに格好だと、内蔵助は納屋を作り変えて住む不破|数《かず》右衛門《えもん》を呼んだ。  内蔵助と十内、数右衛門が、冷素麺を啜《すす》っていると、ふと思い付いたように数右衛門が言い出した。 「いかがでしょうか、大坂から運ぶ家財の残りが、船の都合で二、三日遅れます。その間、奥様や御子たちは嵐山《あらしやま》か高雄に出向かれて、日中は川辺の宿で涼をとられ、朝夕に嵯峨野《さがの》から花園、御室《おむろ》、北野と洛北洛西を見物なされては……」 「おう、それは名案。折角京住いとなられて名所一つご存知なくては、女子衆や御子は楽しみが薄かろ、いつでもご案内致しますぞ」  十内は乗気になってそう応じたが、内蔵助は曖昧《あいまい》な笑顔で答えなかった。 (なんで、いま、急に……)  内蔵助は、数右衛門の顔に、かすかな緊張の色があるのを見逃さなかった。 「格好な思い付きだが……今すぐというのはどうかな、片付けものもあり、家中留守にはできぬ」 「もとより、男どもまでは無理、女子衆に骨休めしていただきます。落着きますと、この先当分は、在京・在坂の者の出入りも多く、また赤穂から忠左衛門どの、喜兵衛どのも泊りがけで出て参りましょう、なかなかお暇がとれぬと思いますが……」  数右衛門は、更にそう主張した。その強い気配に、十内は頷《うなず》いてみせた。 「たしかにそうだな、洛東・洛南は日帰りできるが、洛西・洛北に泊りがけとなると、いまのうちがよい折かも知れぬ……」  内蔵助は、膳《ぜん》を下げに入ってきたりくを見返った。 「どうだ、りく。思い立ったが吉日というが……今から支度できるか」 「はあ? 何のことでございましょう」  武家の妻女は、主人と来客の話を聞かぬのがたしなみとされている。だが家半分がまだ仕上がっていない手狭なこの家では、声高な数右衛門の声は、いやでも耳に入っていたはずだ。 「大坂では、慣れぬ町家の寮住いで、気骨が折れたことであろう、二日三日、気散じに行って参れ」  あるじの意向に柔順なことも、武家の妻女の心得である。りくは肯《うなず》いたが、その顔の喜色は隠せなかった。 「孫左をつけてやろう。荷物運びに八介も連れて行け。たみとすえにも暇をやれ、この家はわしと主税《ちから》、それに数右衛だけでよい」 「ま、それではあまりに……」 「まあよい。主税にやもめ暮しの心得などとっくり教えよう。これは宮仕えの身では味わえぬ気晴らしだ、固く考えるな」  内蔵助は、用人の瀬尾孫左衛門に滑石越えを走らせて、七条智積院門前の駕籠《かご》宿で三|挺《ちよう》仕立てさせた。その間にりくは、次男の吉千代(十一歳)、長女の空《くう》(十二歳)、次女の風《ふう》(三歳)と、わが身の支度で一|時《とき》半(約三時間)あまり、大わらわとなった。  八ツ下がり(午後二時半頃)、りくと子供たち、それに十内を乗せた駕籠に、瀬尾孫左衛門が従い、下僕の八介が挟み箱を肩に運ぶ。下女のたみとすえは二日の暇を貰《もら》って八瀬の里方に戻るため、途中まで同行した。  足許から鳥が飛びたつように、一行が出て行くと、家は今しがたの騒々しさが嘘のように、閑、と静まりかえった。  内蔵助が居間で冷えた茶を啜《すす》っていると、一行を送って出ていた主税と数右衛門が戻ってきた。 「さて、数右衛……何があったのだ」 「三日ほど前から、素性の知れぬ浪人が四、五人、このあたりをうろつき廻《まわ》っております。村人の話では言葉は関東、口のききよう立居振舞い荒々しく、ただ者とは思えぬ節があると申しております」 「で? 見たか」 「遠眼で三人ほど……かしら分の男は年の頃四十がらみ、ほかは三十歳前後、風態《ふうてい》から見て食いつめ浪人ですが、いずれも屈強、かなりすすどい者と思われます」 「ふむ……刺客か」 「おそらく……今宵《こよい》か、明晩」 「誰ぞ呼びますか」  十四歳の嫡男主税は、もう昂奮《こうふん》の色を浮べた。 「近くでは七条下|珠数屋《じゆずや》町に近松勘六どの、東九条に大高源五どのがおられます」 「いや……それはせぬ、この企てを思い立ったときから、いつかこういうこともあろうかと、覚悟はしておった。公儀や上杉の手の者ならいざ知らず、金で雇われたやせ浪人の三人や五人に助けを呼んだとあっては、後々の統制の障りとなる」  内蔵助は、いささかも動ずる色なく、笑みを浮べた。 「わしの東軍流免許は只《ただ》の道場剣術ではない。今でこそいうが、若い頃、大坂で相場師にひどく憎まれてな、無頼や食いつめ浪人に襲われたことが何度かある。これでも血を見ておるのだ」  数右衛門も経験があるのであろう、自信の頷きを返した。 「ご家老と手前はよいとしても……主税どのはお避けになられてはいかが。用心に越したことはない、と存じますが」  内蔵助は、首を横に振った。 「企てに、多くの者が親子で加わっておる……忠左衛門、十内、喜兵衛、孫太夫、間瀬久太夫、矢頭長助と右衛門七……堀部弥兵衛と安兵衛もだ。それらを使い捨てにする身が、わが伜だけ別扱いにはできぬ」  内蔵助は、主税を見返った。 「よいか、人の一生には幾つか越えなければならぬ切所《せつしよ》というものがある……そこで潰《つい》えればそれまでの運、越えれば別の運が開けよう。父は手助け出来ぬ。出来てもせぬ。おまえの一生はおまえのもの、おまえ自身で切り開くほかないのだ」 「はい、父上」  主税は、顔を真ッ赤に染め、力をこめて答えた。 「人と人がいのちをぶつけあう。武器は刀と思うな、いのちそのものだ。いのち盛んなれば相手を凌《しの》ぐ。だがそのいのち、惜しめばかえって重荷になる。武器にするか、重荷となるか、それは覚悟次第だ」  主税は、全身を耳にした心地で、内蔵助の言葉に聞き入っていた。      四  勧修寺の茶店に、夕闇が迫っていた。  暮六ツの鐘が鳴ると、茶店の老夫婦は店を閉じ、小間の浪人客に後の戸締りを頼んで、醍醐三宝院裏の百姓家に戻って行った。  小間の五人の浪人客は、暑さ凌ぎに夜道をかけて奈良街道を下る、それまで休ませてくれといって、心づけをはずみ、部屋でごろ寝をしていた。  五人は、江戸の本郷、根津八重垣町で中条流の町道場を営む佐塚角左衛門と、門弟たちであった。佐塚は聞えた使い手だが、粗暴で身状悪く、道場は流行《はや》っていない。むしろ裏仕事のゆすり・おどしの片棒担ぎや、用心棒仕事、闇討ちの助《す》け手などで稼ぎ、妾《めかけ》を二人も囲うほどの悪であった。その門弟と称している市木新蔵、前川小四郎、光岡藤兵衛、各務《かがみ》兵助の四人は、剣術|稽古《けいこ》より悪事の配下でいずれも名を売っていた。 「おい、呑《の》むのはいいが程々にしろ、勘働きがにぶるぞ」  若手の各務兵助が、片口から口呑みで酒をあおるのを、佐塚が尖《とが》った口調で咎《とが》めた。 「放っておきなさい、こいつは多少酔ったほうが動きがいい」  配下の中では年嵩《としかさ》の市木新蔵が取なし顔で口をはさんだ。 「それより佐塚先生、いつになくいらだって見えるが……どうされた」  茶店のあるじが、晩飯においていった握り飯と野菜の煮しめ、漬物を、卑しくつまみ食いしていた前川小四郎と光岡藤兵衛が、同じことを考えていたらしく、上眼づかいで佐塚の様子を見た。  佐塚は、虚をつかれてわれにもあらず狼狽《ろうばい》した。 「いや、この、暑さのせいだ。日暮になるときまって風が落ちる。このかまぶろのような蒸し暑さがどうにもならん」 「それならよろしいが……はじめての土地で、手違いなど起きたら取り返しがつきませんからな」 「手違いなどあろう筈《はず》がない」  佐塚は苦り切って言った。 「たかの知れた播州《ばんしゆう》の田舎侍……それも元家老とかいう世間見ずの井戸蛙を一匹斬ればよいのだ。おまえらは取り巻きを斬っ払え、目当てのそやつはわしが始末する。済んだら夜の明けぬうちに山科|四宮《しのみや》へ走り、追分から大津に抜ける」  佐塚は、兵助の前の片口をわし掴《づか》みにすると、酒で咽喉《のど》をうるおした。 「それだけのことよ」  五ツ刻《どき》を過ぎると、片割れ月は稲荷山にさしかかった。澄んだ月光は墨絵のように庭木の翳《かげ》を落す。  数右衛門は、その翳を踏んで家の周囲を廻り、戸締りを念入りに確めた。外目にはわからないが、雨戸板戸は内からさるを落し、支え木を打って、容易に破れぬよう工作した。  居間に戻ると、内蔵助と主税が身支度をととのえていた。かつて高田馬場の果し合いで高名をはせた堀部安兵衛が、その体験を語ったことがある。 「なによりも心すべきは着衣の裾《すそ》でござる。剣戟《けんげき》のさなか、着物や下着の裾が足に絡み、思わぬ難渋致すもの、構えて裾短かな衣類を着用し、裁着袴《たつつけばかま》か軽衫《かるさん》を穿《は》くが利と心得ます……」  その貴重な助言で、内蔵助は軽衫、主税と数右衛門は裁着袴を穿いた。 「どうだな、気配は」  内蔵助の問いかけに、数右衛門は軽く首を横に振った。 「もう、程なく……相手方が闇討ちを仕掛けるには、夜明け方までによほど遠くに立退きませんと、足がつき追手がかかります。襲うのは夜半前でしょう」  内蔵助は頷《うなず》いた。 「相手方は、戸締りのゆるやかなこの居間から押しこむ筈、てまえはここで迎え撃ちます。ご家老は風呂場《ふろば》の焚《た》き口から外に出ていただきます。主税どのはあくまで家の中、暗がりに身を寄せ太刀打ち願います。決して月あかりに身をさらさぬよう……相手は勝手がわからず、足許《あしもと》が見定められぬ分、大いに利となります」  主税も強く頷いた。 「では……暗がりに馴《な》れるよう、早目に灯を消します」 「あ、待て、数右衛」  内蔵助は、納戸《なんど》の刀箪笥《かたなだんす》から持参した一腰の刀を、無雑作にすすめた。 「おぬしの刀が気になる、これを使え」 「は? しかし……」 「使い慣れていると言うのであろうが、その相州ものは地肌が粗い、いかにも業物《わざもの》めいて骨まで断ちそうだが、激しく打ち合うと鍔元《つばもと》から折れるおそれがある」 「さようでしょうか」  数右衛門は、おのれの差料を抜いてみた。幅広の厚金、反《そ》りは浅く、武骨で、いかにも切れ味がよさそうにみえる。  だが、内蔵助が与えた刀を抜いて比べると、品位が格段に違う。やや細身だが刃文《はもん》の焼幅が広く、小豆《あずき》粒ほどの小乱れが沸《に》えたつように続き、地金が吸いこむように青い。 「無銘だが、古備前、正恒《まさつね》の折紙付だ。遠慮はいらぬ、実戦に名刀がどれほど役立つか、それが見たい」  数右衛門は、その刀を握り、軽く素振りをくれた。 「さすがですな、てのひらに吸いつくようで重さに過不足がない。これは使えそうです」 「そうだろう。いつか非常の時に役立つであろうと、この十年の間、折あるたびに買い集めておいた。存分に使え」  数右衛門は、刀身を鞘《さや》におさめると、軽くおしいただいて、脇においた。  灯《あか》りを消して、小半時《こはんとき》が過ぎた。  数右衛門は、居間の敷居際に、雨戸に直面して、端座し、身じろぎもせず、ひたすら心気を研ぎ澄ませていた。  内蔵助も、主税も、奥へ入ったまま姿を見せない、おそらくそれぞれに待機しているのであろう。  暗黒の家の中が、闇に慣れた眼には、うっすらと物のあやめが見えるようになってきた。  ふっと、数右衛門は異常を感じとった。意識がそれをたしかめる。五感に触れるものはない。 (なんだ?……)  森《しん》、と静まりかえった寂々の中に、それがあった。小一町ほど離れた水田と田川からかすかに聞えていた蛙鳴《あめい》が、いつの間にか途絶えていた。  そそけ立つのを感じた一瞬、雨戸を蹴破《けやぶ》って躍りこむ男の黒い影が、数右衛門の眼前に襲いかかった。と同時に、数右衛門の古備前正恒が鞘走った。  ばずんッ! 杉の雨戸が斜一文字に斬り裂かれると共に、各務兵助はしたたかに必殺の一撃をうけて、鮮血を噴きあげ庭に叩きつけられた。 (斬れる、さすがに古備前……)  かるい手ごたえが、切れ味のすばらしさを掌《てのひら》に伝える。重さのつりあいが絶妙で、流れる太刀ゆきに何の抵抗感もない。  数右衛門は、一躍して、裂けた雨戸を飛び越え、庭に下りた。 「行け! 抜かるな!」  かしら分の男が、配下の三人を叱咤《しつた》した。三人は数右衛門を囲み、白刃を連ねた。 (できる……かなりの腕だ)  数右衛門は、備前正恒を八双に構え、最も強敵と目した市木と正対した。八双の構えは右後方斜上に白刃を振りかざし、正対する市木に躰《からだ》の左側をそのまま曝《さら》す、一見無防備に見えて一瞬の変化が速い。市木は数右衛門の自信に溢《あふ》れた大胆さに圧倒された。  数右衛門の横手に向った光岡は、突きつけられた白刃に眩惑《げんわく》された。主導権はあくまで市木にある。うかつに動いては市木の行動をさまたげる。 「行け! 小四郎、家の中の大石を討て!」  光岡は、数右衛門を最大の難敵と見て、前川小四郎を叱咤した。 (田舎家老の脆弱《ぜいじやく》な剣など、ひとりで足りる……)  前川は、数右衛門を捨てて、家の中へ突進した。月光のさしこむ居間から一歩奥へ踏みこむと、暗がりから白刃が唸《うな》りを立てて襲った。危うく躱《かわ》した前川は肝を潰《つぶ》す思いで闇をすかした。黒い影が右に左に動き、二ノ太刀の隙を窺《うかが》う。月あかりに馴れた眼には、その姿がさだかにつかめない。 「お、大石か! 見参!」  呼ばわって誘ったが、相手は無言、二ノ太刀の鋭い太刀風が眼前をかすめ、頬から肩先に灼《や》きつくような痛覚が走った。 (き、斬られた……)  前川は、無我夢中で黒い影に剣をふるったが、踏みこみが浅く届かない。逆にみる間に斬りたてられ、躱し避けるのに精一杯となった。優位に立った主税は、さしこむ月光の下に誘おうとする前川の手に乗らず、暗がりから白刃を閃《ひらめ》かせて、次々と浅傷《あさで》を負わせた。その沈着さは大柄な体格とはいえ十四歳の若者とは思えぬものがあった。  数右衛門と市木・光岡の対峙《たいじ》は暫《しばら》く続いた。技倆《ぎりよう》では二人より一段まさる数右衛門も、剣客相手の真剣勝負では経験で一籌《いつちゆう》を輸《ゆ》する。そのためか、攻勢に出るきっかけがつかめず、相手の出方をうかがうことに終始している。  ——なるほど……侍同士の真剣勝負とはこういうものか。  裏手から庭を廻った内蔵助は、一瞬の間に数右衛門と市木らの対峙を見てとった。剣技にまさる数右衛門も、心得ある二人を相手にすると容易に勝機が掴めない。 「赤穂の大石内蔵助と見受けた、参る」  庭木を背に、配下の働きを見守っていた佐塚角左衛門が、内蔵助を認めると、ずいと進み出て、一刀を抜き放った。 「いかにも、大石内蔵助である。おのれら、よもや公儀の手の者ではあるまい。誰に雇われての闇討ちか、企《たくら》んだ者の名を言え」  内蔵助はゆっくりと抜き合わせた。 「どうなりと推量して貰《もら》おう……参る」  間合を詰めた佐塚は、ハタと動きを止めた。  一見、何の作為もなく構えた内蔵助の姿は、正に鉄壁だった。冴《さ》えない中年男の小太りの短躯《たんく》は、二倍にも三倍にも大きくみえ、威圧するように迫った。 (これは……)  その圧迫を避けようと動きかけるのを、内蔵助は剣尖《けんさき》をもって抑えこむ。右に左に剣尖に追われて佐塚は色を失い、守勢一方となった。  数右衛門は焦《あせ》った。内蔵助の身辺護衛の任に当る自分は、刺客二名にかかずりあい、肝心の内蔵助は相手方の首領と剣を交えている。屋内で戦う主税の安否も心許《こころもと》ない。 (しまった、後手をとった)  剣の技倆では引けをとらぬとみた相手である。立向った時に遮二無二《しやにむに》斬りたてれば倒せた筈《はず》である。それを、相手が複数とみて守勢をとったのが誤りだった。守勢にまわると人は様々な配慮が先に立つ。こうすれば危ない、ああすれば不利を招くと、余分な配慮で自らの行動が、がんじがらめになる。数右衛門は自縄自縛の態《てい》で身動きが出来なくなっていた。  その窮地を打開したのは、思いもかけぬ名刀の威力であった。  左に市木、右に光岡をおいて、隙をうかがい廻りこむうち、数右衛門の八双にふりかざした白刃は、その重味で少しずつ位置を下げた。月光の映えをうけた刀身は青白色に反射して、えも言えぬ精妙の美を描いた。 (お、これはみごとな……)  眼前にその白刃を見る光岡藤兵衛は、思わず幻惑された。  刀身のそりの曲線美、鋒《きつさき》から腰に不規則にうねり続く白い乱れ刃文、青藍《せいらん》が凝って漆黒かとみえる鍛肌《きたえはだ》の柾目《まさめ》の整然たるうねりの内に、銀砂子を散らしたような沸出来《にえでき》の燦《さん》たる美……。  それは、魅入られたとしか言いようのない不可思議な作用だった。間合を忘れた光岡は、吸いこまれるように備前正恒に身を寄せた。  一瞬、その眩暈《げんうん》は破れ、白刃は宙に躍った。頸筋《くびすじ》をしたたかに斬り裂かれた光岡は、血《ち》飛沫《しぶき》と共にのけぞった。 「鋭ッ!」  はじめて発した数右衛門の気合と共に、一閃《いつせん》した白刃は、たじろぐ市木の横面を襲った。  ばりーんッ! 思わず受けとめた市木の剣は、|※[#「金+示+且」、unicode93ba]《はばき》から三寸ほどのあたりで折れ、数右衛門の白刃は頭骨を真二ツに斬り割いた。正に水もたまらぬ切れ味だった。 (や、やられた)  一瞬、眸子《ひとみ》の隅でそれを感じとった佐塚に恐怖の戦慄《せんりつ》が走った。それが最期だった。ずしんッ、と重味のある内蔵助の太刀筋が伸び、佐塚は何の抵抗も示さず、据物《すえもの》斬りさながらに斬り倒された。 「ご、ご家老!」 「数右衛、無事か」 「は……主税どのは」  数右衛門が屋内を見返ると同時に、倒れた雨戸を踏み鳴らして主税が姿をあらわした。 「ち、父上! 斬りました! か、勝ちましたぞ!」  歓喜に絶叫する主税に、内蔵助は安堵《あんど》の笑顔で大きく頷《うなず》いてみせた。 (どうやら、この伜《せがれ》も使いものになりそうな……)  見返った内蔵助に、数右衛門も頷いた。  その二人の耳に、いつはじまったのか、遠い蛙声が、はっきりと聞えていた。 [#改ページ]   夏《げ》 解《あき》      一  かねてから内謁を願い出ていた色部又四郎に、柳沢保明の用人根津文左衛門から、ようやく内意が伝えられた。  ——明後日夕刻、柳沢家霊岸島下屋敷に内々御越しあれ。  将軍家|側用人《そばようにん》としての柳沢保明の職務に、日時の規定はなかったと伝えられている。将軍の起床時から始まり、時には就床後も、眠りに就くまでお側近くに仕える。特に将軍から許しが出ぬ限り、毎日勤めている。屋敷へ戻るのも、十日のうち三日か四日といわれていた。  公私ともに面会を許すのは、柳沢の恣意《しい》のままであった。おのれの都合次第で誰でも呼びつけるが、求められても容易に許さない。大大名はおろか老中幕閣でも例外でなかった。まして外様《とざま》大名の陪臣である色部又四郎が特に内謁を求めるのは、例外中の例外と言っていい。  当日、色部は上杉家|国許《くにもと》の名産、米沢織|袴地《はかまじ》五反を音物《いんもつ》に持参して、柳沢家霊岸島下屋敷を訪れた。米沢織は名品だが、諸大名が争って柳沢保明に贈る音物としては粗品に類する。が、仕掛はその添え物にあった。  袴地には、〈御仕立用〉として鋏《はさみ》、針、縫糸の束を納めた裁縫|籠《かご》が添えられてあった。その籠は黄金の延べ紐《ひも》で編まれてあり、その中に、二分金が盛られてあった。  霊岸島は、大川の河口近くに架けられた永代橋《えいたいばし》の袂《たもと》にある。元は葦《あし》の茂る中洲《なかす》であったが、埋立がすすみ、日本橋川・亀島《かめじま》川に囲まれた方形の土地に変った。現在は町名も新川となり、わずかに霊岸橋という橋名に名残りをとどめるのみとなったが、元禄《げんろく》当時は埋立に力を尽した松平|兵部大輔《ひようぶたゆう》の屋敷をはじめ、一、二の武家屋敷のほかは、江戸の豪商の別墅《べつしよ》・隠宅があるだけの閑静な土地で、大川と江戸湾の境にあって船番所が設置され、海風を存分にうけることから避暑に絶好の地とされていた。  大名家の上屋敷は公邸であり、中屋敷は奥方・子女・子弟の住居するところ、下屋敷はいまで言う別荘に近い。権勢を誇る柳沢保明は、府内にいくつかの下屋敷を有していたが、夏期に使用する霊岸島下屋敷は、風雅を凝らした閑静な造りで自慢の種であった。  ——ここは金殿玉楼にまさる佳宅だ。さすが当代随一の権力者……。  あるじの出を待つ間、色部は海から吹き渡る清涼の風を楽しんだ。暗い海面に一際黒い影を落すのは、後年石川島と呼ばれる旗本石川又四郎の屋敷であろうか、その近く、点々と見える漁火《いさりび》がはかなげに揺れ動いていた。 「暫《しばら》く会わなんだの、息災か」  座に着いた柳沢保明は、鷹揚《おうよう》な笑顔で色部の拝礼を受けた。 「御多端のみぎり、拝眉《はいび》を賜りまことに有難く……」 「辞儀には及ばぬ、ありようはな、当方にも折入って談合したき儀があるのだ」 「は……?」 「いや……あるいはそちの用向きと、ひとつ事かも知れぬ」  柳沢は、にがく笑ってみせた。 「……と、申しますと?」 「相も変らぬ吉良《きら》どのがことよ。赤穂《あこう》浅野の取潰《とりつぶ》しで始末がついたと思っておったが、まだ尾を引いておる。厄介なことだ」  柳沢は、閾《しきい》際に控えた用人の根津文左衛門を促した。 「酒《ささ》を持て」 「あ、なにとぞお構いなく……」 「まあよい、ゆるゆると話そう。おおかたそちの用向きもそのことであろう、どうだ」 「は……恐れ入ります」  刃傷《にんじよう》事件の後、三月二十六日に、吉良|上野介《こうずけのすけ》は不祥事の当事者として、一応御役辞退を願い出た。  吉良が御役辞退を願い出たのは、肝煎《きもいり》の役職を退き、表|高家《こうけ》に列する意味であった。しかし、吉良も上杉家も、その願いが素直に受理されるとは思ってもみなかった。事件直後公儀は、将軍家内意として侍医栗崎道有を差遣し、養生につとめるよう懇篤な配慮をみせた。当然「その儀に及ばず……」との御沙汰《おさた》が下されるものと予想した。  それが、五ヶ月近く経ても、その願い出はそのままに捨ておかれた。そのため吉良上野介は登城もかなわず、無為に屋敷に引きこもるほかなくなっている。さすがに焦《じ》れてのことだろう、吉良家家老の小林平八郎がたびたび色部を訪れて、宥免《ゆうめん》の沙汰の下りるよう督促を重ねている。色部が柳沢に内謁を願い出たのは、そのことに外ならなかった。  色部がそれを口にしようとした矢先、小姓が酒肴《しゆこう》の膳《ぜん》を運んで入った。  酒杯を手に、柳沢は色部にくだけた口ぶりで言った。 「たまさかの休みを洩《も》れ聞いたとみえて、摂津|尼崎《あまがさき》の桜井|遠江《とおとうみ》(松平桜井家・遠江守|忠喬《ただたか》・摂津尼崎四万石)が、早速に土地の名酒、池田満願寺を送り届けて寄越《よこ》した。よほど大坂城代のお役目が欲しいとみえて、努めおる事よ……どうだな、さして悪うない味と思うが」 「は……まことに結構な風味、堪能《たんのう》仕りました」 「よければ存分に過せ……さて、吉良どのが事だが、どう致したものかな」  柳沢の言葉に、色部は疑念の湧くのを感じた。 「上野介儀、手疵《てきず》もほぼ本復致し、日々の用に差支えないと申し越しておりますが……」 「さ、それよ、不自由な躰《からだ》であればまだしもの事、本復した身が小普請《こぶしん》入りなどしては面目を失い、世間体もいかがなものかと苦慮しておるのだが……」 「…………」  色部は、愕然《がくぜん》として色を失った。  小普請というのは、元来、旗本、御家人の非役の称である。家禄《かろく》の外に職禄はない。そもそも小普請とは屋根や垣根の修理のような補修工事の意味で、実際に侍が従事するわけではなく、小普請金を供出させて代人を雇う、職禄がない上に、供出金を課せられる最も損な役割である。  小普請は原則的に二千九百石以下で、三千石以上は寄合といい、小普請金が免ぜられるほか、大名の参覲《さんきん》交代に準じて隔年ごとに領地に帰ることが出来る。それが寄合に入れず、小普請入りとなるのは、縮尻《しくじり》小普請と言って不名誉極まりない。  柳沢が吉良を小普請入りと言うのは、高家肝煎の辞退を拡大解釈して、一挙に貶《おとし》めることに外ならなかった。  ——なんで吉良の処遇がこうも急変したか。  色部又四郎は、暗澹《あんたん》たる思いの中で、必死にそれを模索しなければならなかった。      二 「恐れながら、いかなればとて小普請入りなどと、さようなきびしいご沙汰を……」 「言うまでもない、例の噂よ。あの噂が営中の諸役人から大名どもにまでひろまり、とどまるところを知らぬ有様となった……」  噂……。  赤穂浅野|内匠頭《たくみのかみ》が刃傷に及んだ真因は、吉良上野介が賄賂《わいろ》を貪《むさぼ》り、贈賄をこばんだ浅野を事ごとにはずかしめたがため、堪忍《かんにん》なりかねた浅野は遂《つい》に刃傷に至ったという……。  色部は、ほぞを噛《か》む思いだった。 (あの噂は、何としても消しとめねばならなかった……)  強烈な毒を含んだ噂は、江戸市民の間に野火の如く燃えひろがった。 「実はな、先月末、老中秋元|但馬守《たじまのかみ》、阿部|豊後守《ぶんごのかみ》が所用あって大奥に罷《まか》り越した折、上様御母君、桂昌院《けいしよういん》様がくさぐさのお話の中で、吉良どのが事にお触れになり、汚き賄賂を貪り、小大名をいじめ殺したおいぼれの、欲深顔《よくふかがお》など二度と見とうない、とのお言葉を洩《も》れ承ったと申すのだ」 「…………」  色部は、蒼白《そうはく》な顔を伏せるほかなかった。 「こうなると、刃傷の真因を解明せず葬ったわれらとしては、今更何とも弁明のしようがない、上手の手から水が洩ったのだ。抜かったの、色部」 「は……まことに、申し訳ござりませぬ」  色部は、そういうより仕方がなかった。何か……智恵の限りを尽しても、世人が納得できる刃傷の因を作っておくべきであった。事件直後の混乱のさなか、それに思いが至らなかったのは、色部の思慮の限界であったと言えよう。 「まあよい、それを取り上げたわしも同罪だ……それにしても、よう企んだ噂よの、吉良どのばかりか、わしの痛いところを、容赦なくえぐりおった」  柳沢は、呵々《かか》と笑ってみせた。権力者がみせる余裕の高笑いであった。 「神は根津(根津権現)、仏は薬師(薬師如来)、人は美濃(この年十二月、柳沢は将軍綱吉の偏諱《へんき》を賜り美濃守|吉保《よしやす》と名を改める)」と謳《うた》われ、「一に柳沢、二に公方《くぼう》」とさえ言われた。  その柳沢に、諸大名・旗本・御用商人から贈られる到来物は、いちじるしい数にのぼった。柳沢家は山のような進物を納めるため、三度も建物を増築し、その整理の係を六人も常置したといわれている。  この頃、吉良の賄賂説に影響されたせいか、柳沢は門前市をなすといわれた贈品を一切謝絶した。その際、肥後熊本五十四万石、細川越中守|綱利《つなとし》の用人吉村伊兵衛は、営中|宿直《とのい》の柳沢に夜食を贈ることを思いつき、その権利を独占して大いに名を挙げ、それを羨《うらや》んだ諸大名は、夜食用の干鯛《ひだい》の籠に黄金を敷きつめ、争って贈ったとある。  刃傷の次の年、元禄十五年四月五日、柳沢家上屋敷が火災で焼失した際、奥州《おうしゆう》仙台五十九万五千石、伊達陸奥守《だてむつのかみ》が柳沢に贈った火事見舞は、食一千人前、塩引鮭《しおびきざけ》百本、白絹二百|疋《ぴき》、縞絹《しまぎぬ》二百疋、紋付|袷《あわせ》五十着、下着|白小袖《しろこそで》五十着、大工五十人、板一万枚という。伊達家のほか、将軍家、御三家、諸大名、大奥の見舞品は数知れず、「美濃の焼け太り」と噂された。  その柳沢に対し、吉良の賄賂説は、庶民の痛烈な風刺といえる。大石の深慮遠謀はその辺にも働いていたのではあるまいか。 「……大石とかいう田舎家老め、よう悪智恵の働くことだ……」  柳沢がふと洩らしたその呟《つぶや》きを、色部は聞き逃さなかった。 「大石、とのご推量でござりまするか、その噂のもとは……」 「その方、聞いておらぬのか?」  柳沢は、意外そうに問い返した。 「先月末のことだ。そちの家のおとな[#「おとな」に傍点](家老)千坂兵部に意見を求めた際、そう申しておった。こたびの噂は市井の者の根も葉もなき当て推量にあらず、考え仕組んだもの、それも大枚の金子《きんす》を撒《ま》いて広めておる、いま時そうしたことの出来るのは、赤穂の大石のほかあるまいとな……」  色部は、駭然《がいぜん》となった。  先月半ば、上杉家筆頭国家老の千坂兵部が、何の予告もなく、突然|国許《くにもと》から出府して来た。当然三月の刃傷事件について、何か話合いがあるだろうと思っていたが、千坂は到着早々に儀礼の挨拶《あいさつ》を交したのみで、一切触れようとせず、十日あまりの滞在の間、毎日外出を続けた挙句、突然帰国し去った。  考えようでは、江戸藩邸は国家老の管轄外である。越権を避けたのであろうと思われた。  ——いかにも、藩の元老らしい振舞い……。  そう思っていたが、その千坂兵部が、時の権力者柳沢保明と直々対面していたとは予想外のことであった。  色部は、その場を取繕うのに苦辛した。 「申すも憚《はばか》りますが、家中筆頭の者とはいえ、何分にも草深い奥州の山国暮し、それに年が年にござりますれば、何かとご無礼を重ねたことと存じます、平《ひら》に御容赦のほどを……」 「いやいや、そうでない。戦国の世から武の名門と由緒ある上杉家を、代々支えた千坂兵部とは、かくも老巧なものかと感服したわ」  柳沢は、率直に千坂を褒めた。 「実を申すと、千坂はわしが屋敷に呼び寄せたのだ。あの老人、出府早々に公儀評定所へ、赤穂浅野が廃絶の際差出した書類帳簿を閲覧したいと願い出おってな。そも何のためか問いただそうと思っての事だ」  千坂は、幕府諸役人が見過しにした帳簿の無味乾燥の数字から、赤穂浅野の財政をさぐった。奥州の山国藩からみれば、想像を絶する大枚の金子が動いていた。藩士に洩れなく分配された藩米・藩金は、優に三年、五年の生活を支え得る。  ——その上で、家老の大石は、浅野家再興の運動を起こすと宣言した……。  その運動が実際のものか見せかけのものかは不明だが、帳簿上の金を残らず分配する以上、同等の資金を隠し持っているに違いない。  ——その額は、万を越える、おそらく、二万前後……。  浅野と吉良、加害者と被害者の立場を逆転させる噂の流布《るふ》に、千、二千の金子を撒くことは、当然であろう……。  千坂は、噂は大石の謀計、と断じた。 (やはり、大石か……)  色部は、思い当るだけに悔やまれた。 「恐れながら……」 「何だ、申してみよ」 「この噂の始末、御公儀の手の者にて剔抉《てつけつ》し、根を断つこと叶《かな》いませぬか」  一大名家の上杉では、手の及ばぬことであった。色部は柳沢の権勢に望みを托《たく》すしかない。 「それはならんな」  柳沢の返事は冷やかだった。 「赤穂の城明渡しまでは、公儀の取扱いゆえ、隠密《おんみつ》として黒鍬《くろくわ》ノ者など使った。だが、赤穂浅野の家臣は恭順の意を示し、城地の収公も無事終った。そのあとのことは公儀の与《あずか》り知らぬことだ、予も同様だ」  ——あとは、吉良なり上杉なりと、赤穂浪人の私闘である。始末はそれぞれの仕事ではないか。  そう突っ放されて、色部は唇を噛《か》んだ。      三 「お帰りの前に、折入ってお話しいたしたき儀がござる」  柳沢の用人、根津文左衛門の言づけである。  色部は、若侍に案内されて、屋敷の庭に出た。暗い小道を辿《たど》ると庭園の端近くに白木の亭《ちん》があった。卓上に手燭《てしよく》が一基、あたりをほのかに照らす。その腰掛に、ひとり根津文左衛門が待っていた。  夜は二更(午後九時から十一時)も半ばとなると、潮の強い香を含んだ風は肌に冷やかさを伝え、沖の漁火《いさりび》も残りわずかとなっている。潮騒《しおさい》の音が強くなった。 「何ごとでございましょうか」  色部は手燭の向うに影のように見える文左衛門と向き合うと、早速に切りだした。 「されば……これは殿より申し上げるが筋、とは存じますが、角が立ってはいかがかと存じ、てまえより申し上げます」 「は……」 「ご存知のように、御公儀におかれましては三年前、京に伏見奉行の役職を設け、伏見・宇治・山科《やましな》など近郊の取締りに当らせております。奉行、建部内匠頭|政宇《まさのり》どのは、てまえどもの殿を始め幕閣の方々にもお覚えめでたく、数年の後にはお寺社奉行に目されておられるとか……」 「建部様なれば、吉良様の近い御|姻戚《いんせき》に当り、上杉の御家とも格別御|昵懇《じつこん》の間柄にございます。それが何か……?」 「実は、一昨日、その建部どのより内々の知らせが届きましてな、近頃山科在に移り住んだ赤穂浅野の元家老、大石|内蔵助《くらのすけ》なる者の住居に夜盗の群れが押し入り、剣戟沙汰《けんげきざた》があったとのことにございます。幸い、夜盗四、五名は残らず討ち果した由……色部どのは、まだご存知ありませぬか」 「いや、一向に……」  はじめて聞く衝撃が色部を見舞った。 「お気を悪くなされませぬように……まさか、と存じます。そのようなことはあろう筈《はず》がない。ではございますが相手が相手、お取潰《とりつぶ》しになった赤穂浅野の元家老が、いのち狙われたとなると、世間がまたどのように噂致しますか……なまじ吉良どの御姻戚だけに、伏見奉行の立場が苦しゅうなると……建部どのが窮状を縷々《るる》申し述べて参っております」 「…………」  初めて耳にする重ねての打撃に、色部は言葉を失った。 「それでなくても近頃、あらぬ噂にホトホト難渋致しております。赤穂浅野の断絶は片落《かたおち》だの、やれ依怙《えこ》の沙汰、身贔屓《みびいき》が過ぎるのと……てまえあるじも、心の休まる暇がござりませぬ」  その言葉をよそに、色部は勃然《ぼつぜん》と湧く怒りに震えていた。 (伏見奉行が姻戚であることを、みごとさか手にとりおって……何たる悪智恵だ……)  胸中に、憤怒が渦巻く。色部は奥歯をギリッと噛みしめて、それを懸命にこらえなければならなかった。 「今宵《こよい》……数々の不首尾を耳にされ、さぞ不本意なことと、重々お察し致します。実を申せば、てまえあるじも、吉良どののことにつきましては小石の中に掌を詰めた如く……身動き叶わぬ有様となっております。ついては吉良どの御役御免の儀、この際、止むを得ざることと御納得願いまする……」 「…………」  色部は、言葉なく頭を下げるほかなかった。  翌朝。  色部に呼びつけられた吉良家家老、小林平八郎は、上杉家上屋敷小書院で対面した。  小林が色代《しきたい》を終えると、色部はのっけから高圧的に言い放った。 「そこもとか、浪人どもを雇ったのは」 「は?……」 「京の大石の許《もと》に遣わした素浪人よ。素性を聞かせていただこう、何者だ」  小林は、平然と合点を打った。 「あれは、根津八重垣町で道場を営む石州浪人、佐塚角左衛門と申す者と、その門弟どもが四名……」 「何を考えておられる。相手はやせても枯れても五万三千石の元国家老だ。たかの知れた町道場の浪人づれに討てると思われたのか」 「浪人ならば、仕損じてもお家の名が出ずに済みます、しくじって元々……」 「それがあさはかと申すのだ」  色部は、小林のしゃっ面《つら》をひん剥《む》いてやりたい思いを抑えて、冷たく言い放った。  暗殺、という非常行動は、失敗が許されない。仕損じると、世間の非難が集中するばかりか、相手が警戒心を抱き、対策を構えるから、より困難になる。  色部とて、暗殺を考えたことは一再にとどまらない。だがその機が難しかった。 (機会はいくらでもある。必勝必殺の機はおのれで選ぶ)  その深慮は水泡に帰した。姻戚の建部内匠頭を窮地におとしいれたとなると、京での暗殺行動は望みを断たれたと言える。  ——なんたる無思慮、無分別……。  色部は、言葉の選択に迷った。 「ともあれ、吉良さまが御身大切と思われるなら、この先過激な行動をつつしまれることだ、お手前方は、いまの御公儀の変りようが分っておられぬ」 「変りようとは、どういう事ですかな」 「三月半ば、挙げて吉良さまをかばい通した御公儀ではない。あらぬ噂に毒され……加えての暗殺騒ぎに、浅野はあわれ、吉良憎しの風潮は覆うべくもない。この際、吉良さまの小普請入りすら論議されておる」 「こ、小普請入りですと?」  小林は色を失ったが、その顔が見る間に昂奮《こうふん》で真ッ赤に染った。 「な、なんたる事を……わがあるじにいかなる罪咎《つみとが》があると言われる、む、無法な……」 「それは言わぬことだ」  色部は、小林の激昂|狼狽《ろうばい》に、かえって落着きを取り戻した。 「法、というのは、どう完璧《かんぺき》を期しても、幾分の疎漏はまぬがれぬ。先の刃傷《にんじよう》の際、吉良さまは、その法の穴をくぐられて無事を得られた。いま情勢が変って御公儀は、御役辞退という形だけの法の穴から、吉良さまをおとしめようとなさる。それを無法というなら、先の無事も無法、あらためて喧嘩《けんか》両成敗という天下の大法を取り行なえというに等しいのだ……」 「…………」  小林は沈黙した。  小林平八郎、腕は立つ、性は非情。物の用に充分使える人材と思っていたが、いまひとつ思慮が足らない。 「よろしいか、これは降って湧いた難題だ。かつて赤穂浅野は同じような難題に、手もなく屈して家が潰れ、家中離散の憂き目に遭《あ》った。その轍《てつ》を踏んではならぬ、何としてもこの急場を切り抜けてお家の安泰を維持せねばならぬ、それがわれらに課せられた使命なのだ」 「は……」  小林は、諾するよりなかった。 「依《よ》ってこの後、相談なき行動はつつしんでいただく、さよう心得られたい」  色部は、きびしく釘《くぎ》を打った。      四  世上の噂は、上杉家にも伝わっていた。  人は真相を求める。おのれに何ら利害損得をもたらさない事柄でも、真相というものに異常な関心を持つ。大石内蔵助は、その心理を鋭く衝《つ》いた、と言える。  賄賂に関する異常な憎悪も同じである。元禄期に贈収賄《ぞうしゆうわい》は日常茶飯事であった。いまの世にも接待や贈物は公然の事実である。汚職の報道は跡を絶たない。だから道徳心が麻痺《まひ》しているかというと、そうではない。あばかれた賄賂《わいろ》については限りなく憎悪し糾弾する。  その異常心理は、身内に対しても変らない。上杉家にあっても、吉良糾弾の声があがった。  藩主綱憲は、たとえ吉良の血筋であっても、公式的には不識庵《ふしきあん》謙信公以来の名家、上杉家の正統継承者である。悪評渦巻く実家にかかずりあって、武門の名流に傷をつけてはならない。 「この際、吉良をかばうべからず」  そういう声が澎湃《ほうはい》と起こった。 「そのようなことは、言われんでもわかっておる!」  家中の批判を取次いだ留守居役、浜岡庄太夫に、色部は思わず声を荒げた。  かつて一度も冷静さを失ったことのない色部の、思いもかけぬ激しさに、浜岡は雷に打たれたように口を閉ざした。 「いや、ご無礼した。気になされぬよう……」  色部は、一瞬のうちに、その態度の非を覚って、頭を下げた。 「これはそれがしの手落ちでござった。まさかこのような事になろうとは、思いもかけなんだ」 「いやいや、臣下の身として、殿のお血筋……それも実の父君をかばい、御身の御安泰をはかるのは、当然のつとめ……ようなされたと思うております」  浜岡は、誠心を面《おもて》にあらわし、そう慰めた。 「それだけに……ここまでかかずり合うてはもう後に引けぬ……それで頭を痛めておる」  色部は、そう述懐した。 「いま手を引けば、吉良どのは縮尻《しくじり》小普請、誰もかばい手が無《の》うなって、遂《つい》には赤穂浅野の浪人どもに、いいように料理されよう。そうなれば、当上杉家は恥の上ぬり……」 「さよう、かえって上杉の家門に傷が付きましょう。ここはどうでも事態の回復を計らねばなりますまい……ご家老、一層のご奮発が肝要でございますぞ」 「さよう……策がいる……策が無うては敵《かな》わぬことになり申した……」  色部の顔に、苦渋の色が濃かった。  五代将軍綱吉は、偏執的な性格の独裁者であった。もっとも独裁者というのは、ほとんどが偏執的な性格を持つが、迷信深く、生類憐《しようるいあわ》れみの令などという、前代未聞の禁令を発するのもその一例であり、柳沢保明への愛寵《あいちよう》もそのあらわれといえる。  中でも、生母桂昌院に対する度を過ぎた敬愛にもそれがある。出自は京の八百屋の娘と噂される桂昌院に、ほとんど痴愚に等しい愛情を持つ綱吉は、その意を迎えることに何の顧慮も払わない。従って桂昌院の気まぐれともいえる吉良嫌いに、上野介の運命は決した感があった。  その絶望的な状況の中で、色部の苦慮が続いた。  ——何か策はないか、策がなくては敵わんのだ……。  その苦慮は、一片の書状で呆気《あつけ》なく解けた。  国許《くにもと》米沢から早飛脚で届いた千坂兵部の書状であった。 「書翰《しよかん》を以《もつ》て啓上|仕候《つかまつりそうろう》、陳者《のぶれば》このたび御上意左の如く達せられ候に依《よ》り、御公儀に御届御裁可を得申すよう、御出精の程相成るべく候と心得おり候……」  味も素気《そつけ》もない文字の中に、元老千坂兵部のゆるがぬ意志がこめられていた。  藩主上杉|弾正大弼《だんじようだいひつ》綱憲の上意とは、次男喜平次をもって、吉良上野介|義央《よしなか》の養嗣子に定める、というものであった。  ——千坂兵部というお人は……。  傲岸不遜《ごうがんふそん》といえる色部も、この一片の書状には頭を下げざるを得なかった。  吉良上野介が御役御免の上、小普請《こぶしん》入りを命ぜられ、幕府職制から抹殺されることは、すでに決定事項とされて、発令の日を待つのみとなっていた。  そうした折に、上杉弾正大弼綱憲と吉良上野介義央連名の願い書が、公儀に呈出された。  老中御用部屋から廻付《かいふ》されたその願い書を一見して、柳沢保明は驚嘆した。上杉綱憲の次男をもって吉良義央の養嗣子とする。上杉と吉良は、二重の血縁関係を結ぶというのである。  ——吉良を除こうとしても、そうはさせぬ……。  上杉と吉良は一心同体である。吉良をないがしろにすることは、外様《とざま》大名の雄である上杉家に対するあなどりである。  ——無視できるか。  そういう自負の誇示が、連名の願い書にこめられている。  その願い書には、念を押すように、日付のない吉良上野介義央の隠居願いが添えられていた。  吉良が先手をとって隠居すれば、職制からのぞく論拠は消滅する。家を継承する上杉家次男、喜平次には、何の過失もない。  ——ようも、考えたものだ……。  柳沢は舌を捲《ま》いた。上杉家当主の実子を吉良家の養嗣子とすることは、江戸家老の色部又四郎の力が及ぶことではない。  ——千坂兵部の智恵か……。  柳沢は、先日対面した千坂の、人をそらさぬ老獪《ろうかい》な風貌《ふうぼう》を思い浮べた。  ——隠居願いは、おそらく色部の智恵であろう……。  老巧と俊鋭、名門上杉を背負う双璧《そうへき》のみごとな組合わせである。  ——この両名が健在ならば、よもや負けることはあるまい。  京・山科にあって、虎視眈々《こしたんたん》と、吉良・上杉・柳沢の連合を窺《うかが》う赤穂の大石内蔵助の顔貌が、眼《ま》のあたり見ゆる心地がする。  智略を尽す謀攻は、形勢まさに、五分と五分といえよう。  ——次なる策は何か。  柳沢は、吾《われ》にもあらず、胸ときめく思いに駆られた。  元禄十四年八月二十六日、吉良上野介義央儀、隠居差許さる。代って養嗣子喜平次家名相続、左兵衛義周《さひようえよしちか》と改名、表高家に列す。 [#改ページ]   謀計第二      一  陰暦の九月は、いまの十月に当る。仲秋の季節である。昼は天高く、馬肥え、暑熱去って爽冷《そうれい》の風が吹く。夜は玲瓏《れいろう》の月光の下、虫の音がかまびすしく、長夜続く。  京にも秋が訪れていた。  その一日、大石|内蔵助《くらのすけ》は、山科《やましな》の仮宅から、京の町へ出た。  先日の剣戟沙汰《けんげきざた》で、改築のほぼ終った家は、踏み荒され血で汚れた。内蔵助はそれを忌み嫌って、敷地内の畑地を潰《つぶ》し、新たな建物を新築すると言いだした。 「生涯を過す家、悔いの残らぬよう念を入れたい」  内蔵助は、普請好みを発揮して、木口を凝り、職人の手間をふんだんにかけた。  その間、妻子は改築の旧宅で過す、内蔵助はそれを仮宅であると強調した。  この所業は、伏見奉行建部|内匠頭《たくみのかみ》の耳に入り、江戸に届く、それを計算しての事だった。  内蔵助は、祇園《ぎおん》八坂の社の南楼門から高台寺に下る下河原道の、雲母《きらら》茶屋を訪れた。雲母茶屋は酒食を供し、求めに応じて宿もする店である。表口は一間半ほどの格子戸で、両側の家の外破目板にはさまれた通路を抜けると、凝った植込を前にした玄関があり、掛行燈《かけあんどん》に、〈御料理 きらら〉としるしてある。  家の中は、予想以上に広い。階下は住居と板場、ゆったりとした風呂場《ふろば》があり、表階段を登ると二間|巾《はば》の板廊下の周囲に、四部屋の客室がある。いずれも四畳半の控部屋を持つ十二畳から十六畳ほどの広さである。  その奥まった部屋に落着いた内蔵助は、来会する者を待った。まず小半時《こはんとき》ほどしてから惣《そう》参謀の吉田忠左衛門と次席参謀の小野寺十内が参会した。吉田忠左衛門は半月ほど前に播州《ばんしゆう》加東郡の家に老妻を残し、嫡男の沢右衛門と共に嵐山天竜寺《あらしやまてんりゆうじ》の近くに仮住居している。  待つ間ほどなく、元重役の奥野|将監《しようげん》をはじめ、進藤源四郎、小山源五右衛門、河村伝兵衛の四名が参会した。いずれも赤穂《あこう》浅野にあっては上位の侍である。  奥野将監はもと番頭《ばんがしら》一千石、内蔵助に次ぐ高禄《こうろく》であった。異変以来、城代大野|九郎兵衛《くろべえ》と共に恭順説を唱え続けたが、大野九郎兵衛|逐電《ちくてん》のあとは、内蔵助につき随《したが》い、進退をゆだねた。  進藤源四郎(足軽頭・四百石)は内蔵助の又従兄弟《またいとこ》、小山源五右衛門(足軽頭・三百石)は母方の叔父《おじ》、共に穏健な性格で下士に慕われていた。異変後も表立って意見を主張せず、内蔵助に従って今日に至った。  河村伝兵衛(徒士頭《かちがしら》・四百石)は、長年奥野将監の配下として働き、今も腹心として秘書役をつとめている。  内蔵助ら七人は、酒食を共にし、歓談のひとときを過した。 「いかがかな、大石どの。まだ以前の御説……侍の一分にこだわっておいでか」  奥野は、にこやかに問いかけた。 「さよう……」  内蔵助は、苦笑にまぎらわすよりなかった。 「結盟の者の中には、わしよりもっと過激な論を持つ者がおる……それらを見捨てるわけにも参らぬでな」 「過激というと……?」  河村伝兵衛が訊《たず》ねた。 「御舎弟大学様がお取立てになり、赤穂浅野家が再び世に出ても、藩を無下《むげ》に取潰された不面目は消え去るものではない。御家再興の運動など捨ておいて、吉良・上杉に一泡《ひとあわ》吹かすべきだ……と、申してな」  吉田忠左衛門が、内蔵助に代って答えた。 「それでは、われら赤穂浅野の旧家臣は、残らず自裁して果てろと言いたてると同じではないか」  奥野は、吐き出すように言う。 「さような自暴自棄に等しい論議は、捨ておかれたらどうかな、触らぬ神にたたりなしということもある」 「そうもなるまい。その者たちの言い分にも、一理ある……どのような論議であろうとも、無下に切り捨てぬのが上に立つ者のつとめだ」  内蔵助は、おだやかな口調でそう答え、酒杯を口に運んだ。  過ぐる赤穂開城の折、内蔵助に進退をゆだねる旨の誓紙を差出した者は、六十一名であった。その後、江戸詰や地方勤めの者、部屋住、隠居の者などが次々と加わって、この時期、加盟の者は百名を越えた。(最終の時期、翌年三月までの加盟者は百二十五名にのぼった)  それらがすべて企てに加わる意志を持ったわけではない。内蔵助が表向き唱えた〈御家再興〉に期待を寄せた者が過半であった。  そうした日和見《ひよりみ》の者は、日を経るにつれ、奥野や進藤・小山に意を通じ、その指図を仰いだ。異変以来〈昼行燈〉から一変して、近寄りがたい威を示す内蔵助を敬遠して、穏健な彼らにすり寄った。  それも内蔵助の計算の内だった。  内蔵助は、人の考えの違いに憎しみや悪感情を持たない。人は生れ育ちが異なり、顔形が違うように、物の考え方、人生観、社会観がくい違う。それは言葉で説得できるものではない。言葉というのはそれほど便利でもないし、万能でもない。不完全で不自由なものなのだ。  内蔵助が頼みとするのは、三十三名の戦闘要員と数名の参謀だけである。だが、いかにも数が足りない。  ——せめて、五十名は欲しい。  だが、誰が確かな覚悟を持ち、最後まで挫《くじ》けず初志を貫き得るか、それを見極めるのは難しい。  内蔵助は、時をかけた。選に洩《も》れた者を積極的に誘う気はないが、すすんで武士の一分に命を賭《か》けようという者を拒む気もない。  ——人の本性というのは、見かけではわからぬものだ。  いい例が、この奥野将監である。藩の重役だった頃から武を好み、格式を重んじた。赤穂開城後、素浪人の身を嫌う妻を離別して、京に移り住んだ。かつての千石取りにふさわしく、若党を四、五人雇い、床の間に鎧《よろい》を飾り、厩《うまや》に馬をおき、厳格そのものの暮しを続けている。  それが、異変に対する考え方は、穏健恭順というより退嬰《たいえい》的であり、小心翼々の事なかれ主義に終始している。  ——だが、悪い人間ではない。  内蔵助は、企てに参加しない者の身の振り方について、奥野や進藤・小山らに尽力を頼んでいた。 「どうかな、各々方《おのおのがた》に身の進退をゆだね、行末の安泰を願っている者は何人ほどおるかな」  内蔵助の問いかけに、河村は首をかしげ、暗算した。 「約半数……五十を越えましょう。ほかに意向は明らかではありませんが、穏当な意見を持つ者は二十人余りと思います」 「残りはざっと三十人か……」  内蔵助は、すばやく計算した。江戸詰の藩士の中から、堀部・奥田・高田・富森らが選んで、まだ加盟の手続きをとっていない者が十数人いる。国許《くにもと》や畿内の未加盟の者で役立つ者を加えれば、六十に近い数は見込めるであろう。 「のう、大石どの、旧家中の身のふり方も大事であろうが、そこもと御自身のことも考えたらどうかな。近衛《このえ》家諸大夫(家宰)の話、あまりと言えば勿体《もつたい》ない」  内蔵助は、進藤源四郎の大|伯父《おじ》、進藤|筑後守《ちくごのかみ》長富の後任として、関白近衛家の諸大夫に望まれている。内蔵助はそれを固辞すると共に、用人として進藤源四郎を推挙し、事のついでに近衛家|縁戚《えんせき》に当る公家《くげ》、日野|大納言《だいなごん》家の家司に奥野将監を、その用人に小山源五右衛門を就任させようと尽力している。  ——関白近衛家とその縁戚に、赤穂浅野の重職を再仕官させれば、浪人となった旧藩士の就職の途《みち》が開けよう……。  そういう狙いがあった。 「いや、わしは宮仕えが本来苦手でな、赤穂浅野でも気随|気儘《きまま》な勤め方しか出来なんだ。ここは将監どのや各々方に任せて、旧家臣の面々のため、ご奮発願いたい。よろしくお頼み申す」  内蔵助は、そう言って軽く頭を下げた。      二  八ツ半刻《はんどき》(午後三時頃)、酒食を終えた奥野将監と河村伝兵衛、小山源五右衛門が、内蔵助らに別れを告げ、立去った。  吉田忠左衛門と小野寺十内は、所用で大津に出向くため、まだ日の高い七ツ刻(午後四時頃)、揃って茶屋を後にした。  内蔵助は、残った進藤源四郎と打ちとけて話し合った。  進藤源四郎は、内蔵助と正反対の生き方をとっている。内蔵助が侍の生きよう——美しく生き、美しく死ぬるという姿勢を貫こうとしているのと対照的に、美しく見えずともよい、おのれ自身に忠実な生きようを貫こうとしている。  彼は元々武家の系統ではない。大伯父進藤筑後守長富は、関白近衛家の諸大夫として、大名の上位に位する従《じゆ》四位の下、京都朝廷の公家の免黜《めんちゆつ》を意のままに司《つかさど》る。その進藤長富は姻戚大石頼母の縁引で、源四郎を赤穂浅野に仕官させた。そしていま、進藤源四郎は、赤穂浅野の廃絶により、関白近衛家の公家侍に復帰しようとしている。  進藤の資質を知る内蔵助は、企てに彼を誘わなかった。誘われなくても進藤は内蔵助の決意を覚っている。覚られていることを知りながら、内蔵助は参加を求めなかった。  ——あの男には、あの男なりの生き方を貫かせるべきだ……。 「吉良、上杉を相手に、一戦をまじえようというのは、いかにも勇ましい。侍はまことさようでありたいと羨《うらやま》しく思います」  進藤は、先ほどの会話を思い出して、しみじみと言った。 「おぬしには無理だ」  内蔵助は、他意なく笑ってみせた。 「娑婆気《しやばけ》がありすぎる、根からの風流人だからな」 「とんでもない、私はただの懦夫《だふ》にすぎません」  進藤は、案外の真顔で答えた。 「いやいや、人の勇強と怯弱《きようじやく》はそれ自体が誇ることでもなければ恥じることでもない。それに徹し得ないのが恥なのだ。その点、おぬしの生き方は羨しくさえ思う……」  人は勇を装い怯を糊塗《こと》する。そのため内蔵助は人選びに難渋している。 「そのお考えからでしょうか、内蔵助どのの行き届いた御配慮……ご一統に洩《も》れた方々にまでお気を遣われるご苦労は、大変でございましょうな」 「それをわかってくれるのは、おぬしだけかも知れぬ」  内蔵助は、赤穂浅野の廃絶に、人知れぬ苦労を重ねた。それは人の始末である。企てに加わった者だけの身の振り方を考えたわけではない。異変の起きたとき、藩に籍をおく者すべてに配慮しなければならなかった。  ——勇者であれ、怯者であれ、赤穂浅野の浪人から、三年五年の間に、貧ゆえの物乞《ものご》い、罪人、自裁の者を出してはならぬ。  そのため、廃絶前、藩論決定前に藩米・藩金を分配し、籠城《ろうじよう》論に反対の藩士の離散を促した。離散者の筆頭は城代家老、大野九郎兵衛であった。 「近ごろ大野九郎兵衛が事、聞いてはおらぬか」 「大坂に住居しておるとか、耳にしておりますが……」 「赤穂から持ち出した金銀で、金貸しを営んでおるそうな……その大野を頼って、微禄《びろく》軽輩の者が、商いの元手を借りに、引きも切らずとか……」 「あれは目下《めした》の面倒見のよい男でございますからな」  内蔵助は、微笑して頷《うなず》いた。 「あれはみながののしりそしるほどの悪人ではない。人なみの欲を持ち、人なみにいのちを惜しみ、人なみに暮しを守ろうと懸命につとめたまでのこと、人なみの慈悲も情けも持っておる。その点では人の生きよう、死にようを、きびしく追い求めるわしの方が悪人やも知れぬ」 「ご家老得意の悪人説が出ましたな」  二人は、声を揃えて笑った。 「それで、私のような侍らしからぬ者に、何かお役に立てることがありましょうか」 「おぬしにはな、奥野将監どのや小山の叔父御の尻《しり》を叩《たた》き、御家再興にはかない望みを抱く者たちの面倒見をさせること、それを頼みたい」  開城直前、四月十五日の時点で藩にとどまっていた藩士百八十余名に、内蔵助は籠城資金を分配して生活の資とした。百を越える人数の団結を誇示して、相手方——柳沢・上杉・吉良に圧力をかけた。  だが、日を経れば人は昂奮《こうふん》が醒《さ》め、わが身の行末を考える。すべての者が内蔵助の企てにいのちを捨てる筈《はず》がない。過半が御家再興というはかない願いに望みを托《たく》すであろう。  内蔵助は、落ちこぼれて行くであろうそれらの者の拠《よ》りどころに、奥野将監・小山源五右衛門ら元重役を予定していた。 「私につとまりますかな、その役目」 「奥野らの再仕官は、おぬしの大伯父進藤筑後どのの縁引あればこそのものだ。それを盾にとれば否応《いやおう》あるまい。この役目、おぬしでなければつとまらぬ」 「なるほど……その含みあっての近衛家諸大夫職御辞退でしたか、これは悪人らしい深慮遠謀だ」  二人は、また笑った。 「それにつけても……御家再興はまったく見込みありませぬか」 「おぬしらしくもないことを言う……幕政はじまって以来、刃傷沙汰《にんじようざた》を引起こして、家名再興の成ったためしがあろうか。御先代奥方様の御実家、内藤家の例でもわかるではないか」  問題は、いつそれが決定的となるか、その期日にあった。  浅野大学長広は、赤穂浅野の唯一の血脈である。兄|長矩《ながのり》の刃傷で閉門|蟄居《ちつきよ》の彼に、いつ決定的な処分が下されるか、それがわかるまで、〈御家再興〉を藩士結束の名目に掲げた者たちは、いかなる企ても発起を控えなければならない。  ——三月先か、半年か、いまは待つしかない。  そのあたりに、企ての難しさがあった。      三  進藤源四郎が辞して去ったあと、今宵《こよい》は雲母茶屋泊りと定めた内蔵助は、就寝前のひととき、吉田忠左衛門が播州加東の在所から持参した旧藩士動静の調べ書に眼《め》を通した。  ——人はさまざまだな。  その思いは痛烈だった。赤穂浅野が平穏な頃、志操堅固と見込んだ屈強の侍が、わずか半年足らずの浪人暮しで打ちひしがれ、再仕官に眼の色を変えている。そうした例は一再にとどまらない。  ——この元禄《げんろく》の世に、侍の志を終生変えぬ者を何人掌握できるか。  この時期、内蔵助は最も悩み深い立場に身をおいていたといえよう。次々と節を変える者にほどこすすべはない。藩というきずなが断ち切られた以上、人はそれぞれに生きようを選ぶ。その選び方に口をさしはさむ余地はないのである。  階段を登る気配があって、声がかけられた。 「もう、おやすみどすか」  おかみのこま[#「こま」に傍点]であった。こまは燗酒《かんざけ》を二本と、つまみの小皿を盆にのせて、持ってきた。 「よろしゅうおすか」 「願ってもないことだ、いただこう」  この茶屋に泊るたび、寝しなに酒を持参して、ひととき四方山話《よもやまばなし》を交すのが、こまと内蔵助の例となっていた。  こまは三十路《みそじ》にさしかかったばかり、肌理《きめ》こまやかで浅黒く、上方《かみがた》女には珍しい小股《こまた》の切れ上がった気風《きつぷ》のいい女である。生れは若狭《わかさ》の小浜、望まれて京の化粧問屋のあととりに嫁いだが、十年ほどして亭主が店の売子女に手をつけ、妾《めかけ》に囲ったのを機に茶屋をあがなわせ、別居しておかみにおさまっている。 「これは京の味だな。色が濃くていかにも塩辛そうだが、奥深いなかにほのかな甘みがあって、とろけそうな感触が後をひく。魔性のものと言ってよい」 「何のお話どす?」 「いやさ、この酒の肴《さかな》よ。おかみが肌のことではない」  吟味した古沢庵《ふるたくあん》を漬物と同様輪切りにして水煮する。何度も水変えして塩出しすると、沢庵はまったく味のない生大根に戻る。それを昆布と鰹《かつお》の削り節の出し汁に濃口の生醤油《きじようゆ》、唐辛子を多目に入れて、とろ火で気長に煮つめたあと、充分に冷やす。ちょっと見は、ありふれた大根の煮付に見えるが、古沢庵がかもしだす隠し味は絶妙で、知る人ぞ知る京ならではの凝った料理である。  こまは、大げさに睨《にら》んで言った。 「ま、冗談《てんごう》言わんとおくれやす。うちはこの十年、味見されたことおへんえ」  身持ちの固いのは評判であった。十余年連れ添った亭主の浮気に、男不信が一途《いちず》となって、女の生き方をひどくかたくななものにしている。 (人の生きる楽しみは、生きている間の煩悩《ぼんのう》にある)  おのれと、おのれに進退をゆだねる多くの者の生死を預る内蔵助は、生きている間の煩悩を貪欲《どんよく》に求めている。恋も性も生きている間だけのものだ。やがて人は死ぬ。死ななければならぬ。  こまは、内蔵助に好意を越えたものを感じている。だが人の世の規範を踏み外さぬことを心の支えとするこまにとっては、深夜わずか、一、二本の酒を酌み交し語るだけの事が精一杯の秘めごとであり、それを知る内蔵助は、際どい会話を楽しみながら、一歩を踏み外さぬよう心を配っていた。  ——若い頃は、一途に女の躰《からだ》を求めたが……いつか危うい会話の方が楽しくなった。年をとるとはこういうものか……。  異変以来、生と死を実感するようになった内蔵助は、虚無という心の敵と常に対決するようになっていた。 「明晩もお泊りどすか」 「いや、あすは伏見へ参る。多分そちらで夜を過ごすことになろう」 「へ、伏見? まさか……」 「おかみに隠し立てしてもはじまらぬ、まさかの口だ」  内蔵助は、快活に笑ってみせた。  伏見は大坂へ下る夜船が出るので、場末とは思えぬ賑《にぎ》わいがある。また四季折々の眺めも格別で、祇園・島原とは別の趣きありと言われ、色町の撞木《しゆもく》町へは京ばかりでなく大坂からも遊客が訪れた、という。  もっとも、伏見撞木町が繁昌《はんじよう》したのは元禄七年頃からで、寛政年度(一七〇〇年代末)にはもう寂れはて、見る影もないような有様となった。その繁栄はわずか百年の間しか続かなかった。  ともあれ、元禄十四年の伏見撞木町は、祇園・島原と並ぶ京の代表的な色町であった。 「伏見のお茶屋はんにお引合わせしたのはどなたはんどす」 「昼から夕景までいた客、わしの又従兄弟《またいとこ》でな、元々が大層な遊び人で、祇園・島原・伏見では顔利きなのだ」  京の色町、水商売では一見《いちげん》の客を避ける。千年王城の地での勢力の変転は激しくはかり知れない。昨日の貴顕・分限者《ぶげんしや》は明日の微賤《びせん》・乞食《こじき》が世の常であり、思わぬ損失を招く。そのため、身許《みもと》たしかな紹介者がなければ、一夜の遊興もままならない。  播州《ばんしゆう》の片田舎、それも廃絶の小大名の家臣である大石内蔵助が、京で遊興にふけるにはそれなりの紹介者が必要だった。その点で関白近衛家の諸大夫、進藤筑後守の名は絶対であった。 「好かんこと……ま、せいぜいお気張りやす」  こまは不機嫌な顔になって、座を立った。おのれが好意を抱く者は、おのれと同じように潔癖でなければ気に入らないらしい。気の強い女にあり勝ちのわがままといえる。 (女心というものは、男にはわからぬ微妙なものだな)  内蔵助は、人の心の複雑さに深い興味を抱きながら、冷えた酒を啜《すす》った。      四  翌日、ほどほどに目覚めた内蔵助は、こまが調えた朝粥《あさがゆ》を食したあと、駕籠《かご》を雇って伏見へ下った。  慶長のころ、城下町として殷賑《いんしん》を極めた伏見の町は、大坂落城で戦乱が治まると急速に衰微の一途を辿《たど》り、元禄期には荒廃の極に達していた。京への街道筋には旅人相手の小商いの見世がちらほら点在していたが、昔の町屋はすべて立ち腐れ、売ろうにも買手がなく、菜の花畑に貧民の小屋が軒の傾くに任せ、野犬がうろつく廃墟《はいきよ》となっていた。  その町跡の西側、伏見城の外濠《そとぼり》だった堀川は、中書島《ちゆうしよじま》まで下ると宇治川に合流する。その一筋西を南北に流れる高瀬川にはさまれた一角が、元は夷《えびす》川と呼ばれた伏見撞木町の傾城《けいせい》町で、淀《よど》川下りの船着場のある京橋に程近く、ここだけが昔を凌《しの》ぐ繁昌ぶりだった。  明暦の頃までは鑓屋《やりや》町から入る東門があったが、町屋の衰頽《すいたい》から閉ざされ、元禄期には京橋の船着場に近い両替町から入る南門だけが開いていた。撞木町は娼家《しようか》が七軒、揚屋が五軒という小ぢんまりしたもので、なかで奥から二軒目の〈笹屋〉という揚屋が、格式第一とされていた。  廃墟さながらの伏見の町跡を抜けた内蔵助の駕籠は、昼近く笹屋の門口に着いた。 「これはようおいでなされました。てまえがあるじの清八にございます。大石さまがお招きのお客様方はとうにお着きになり、早速に宴《うたげ》を開いていはります」  関白近衛家諸大夫、進藤筑後守の引立て、大坂|悉皆《しつかい》問屋天川屋儀兵衛のうしろ盾という、この上ない紹介者を得た内蔵助は、播州の片田舎の小大名家家老という格から一段と抜け出た、最上級の扱いを受けた。  ——ここでの遊びは、早々に伏見奉行建部内匠頭の耳に入る。  その動静は、間をおかず吉良・上杉の耳に逐一届くことは間違いない。それを承知で今から内蔵助の遊興が始まろうとしていた。  笹屋の表二階には、広間を四つぶち抜いて二十人に余る客が内蔵助を待って、酒宴を開いていた。江戸・京・大坂、そして赤穂から呼び集めた元藩士——企ての骨幹となる面々の代表者たちであった。  大石内蔵助の伏見での遊興は、すべて白昼であった。もっとも、居続けして泊りこむのはこの限りではない。だがその時も歌舞音曲は日暮までで停止《ちようじ》となり、居続け客はひそひそと酒を呑《の》み、寝るだけであった。  芝居や講談、小説や映画での豪奢《ごうしや》な内蔵助の夜宴は、まったくの虚構である。またその内蔵助の衣裳《いしよう》が贅《ぜい》を尽したように描かれるが、これは史書の偽りに依《よ》る。   『(前略)……内蔵助、萬人の目に立てんとおもひしかば、譬《たと》へば白島(縞)の下着を着たる時は鼠小紋の上着に同じ鼠小紋の五所紋、もとより遊女の紋なり。白|紗綾小袖《さやこそで》は上下とも皆白裏なり、大小ともに白|柄糸《つかいと》にて、白|羽二重《はぶたえ》の鼻緒付けたる草履にて、深編笠《ふかあみがさ》、白練の丸紐《まるひも》付けたるをたつぷりと結び、又|或時《あるとき》は、鬱金色《うこんいろ》の下着のときは鬱金小紋の五所紋、羽織も樺色《かばいろ》の小紋に、小袖裏は上下同じ鬱金色なり。大小鬱金糸の柄なり、又黒装束の時は黒の下着、同色の五所紋、黒裏、黒羽織、大小もとより黒柄にて真黒なり、紫の色を揃へしときは皆紫、甚《はなは》だ珍らしく萬人の目に立ちて、京中はもとより、大坂までもかくれなく……云々《うんぬん》』  と、ある。  これは、肥後堀部家伝来の〈誠忠武鑑〉からの引用だが、元禄期という時代相も、京伏見という傾城町の様子も知らぬ筑紫《つくし》の果ての侍が、一知半解で曲筆した�忠臣蔵�である。  元禄期は、江戸文化の爛熟《らんじゆく》期といわれているが、まだまだ文化は初期の域を脱せず、後世の享保《きようほう》、更には文化・文政、天保期にみるような贅は見られなかった。例えば芸者・幇間《ほうかん》のたぐいはまだ現われず、天ぷら・うなぎの蒲焼《かばやき》などは民衆の口に入ることなく、小料理屋の店もない。この時代、漸《ようや》くうどん屋が開かれたがそば屋は屋台店以外にない。享保(八代|吉宗《よしむね》の治世)の半ば頃までは、丸ノ内から浅草の観音まで行く間に、昼飯を食う店が無かった。  元禄期には居酒屋もない。およそ食物屋という店屋が、ほとんど見られない時代であった。  伏見撞木町は、京では祇園・島原と共に名があがる色町だが、格ではかなりの差があった。それは江戸での吉原と、品川の差とみていいだろう。  吉原は公許の遊廓《ゆうかく》で、遊女は花魁《おいらん》と呼ばれ、太夫《たゆう》、格子《こうし》、散茶《さんちや》、うめ茶、局《つぼね》という階級があり、太夫の一夜の揚代は銀七十五匁(金一両と一分)を要した。品川は宿場女郎で飯盛女と呼ばれ、黙許されてはいたが、位はない。  京の島原も公許で、太夫、天神の位があり、内蔵助が遊んだ仲之町一文字屋の浮橋という女は、太夫の次の天神で、揚代は銀三十匁(金一両の半額)だったという。従って、内蔵助にうき[#「うき」に傍点]大臣という呼名があったというのも誤りである。太夫と遊ぶ客でなければ大臣とはいわない。  伏見の女は〈鹿恋《かこい》〉といって、最上の女が銀十八匁、それを半夜といって売り分けるので、一晩の揚代は九匁、銭に直せば六百文である。内蔵助は、山科街道|滑石《すべりいし》越えで京の七条大仏前に出て、伏見まで駕籠に乗る。駕籠代が片道五匁二分かかる。九匁の女を買うのに往復十匁四分の駕籠代がかかった。それで白魚大臣と冷かされた。白魚という魚は竹籠《たけかご》に笹を敷き、一匹ならべに盛るので魚代より籠代の方が高くつく。駕籠代と籠代の洒落《しやれ》であった。  その安い色町で、白、鬱金、黒、紫と、下着から小袖、大小の柄糸、草履まで色を統一した身なりで練り歩くなど、常軌を逸した沙汰《さた》である。  肥後堀部家伝来の〈誠忠武鑑〉に類した作り話は枚挙に暇《いとま》がない。たとえば現在、高輪泉岳寺《たかなわせんがくじ》にある〈烈士村上喜剣の碑〉などもいい見本である。薩摩《さつま》藩士村上喜剣は、伏見で遊興にふける大石内蔵助を見かけ、不忠不義と面罵《めんば》して足蹴《あしげ》にしたが、後に討入の義挙を知って慚愧《ざんき》に堪えず、切腹して果てたという。だが当時の藩主島津綱貴の奥方は、吉良|上野介義央《こうずけのすけよしなか》の長女だから、内蔵助を面罵する筋がない。      五  伏見撞木町の笹屋につどう二十余人の元赤穂藩士が、遠く江戸から旅して来た者をはじめ、京都、大坂、それに赤穂周辺に在住する同志——内蔵助の企ての骨幹をなす面々の代表者たちであることは、前に述べた。  畿内《きない》の者は、求めればいつでも内蔵助に会うことができる。だが百数十里をへだてる江戸にとどまっている者は、こうした機でないとじかに謦咳《けいがい》に接することが少ない。必然的に江戸者が多く、ほぼ三分の一を占めている。  江戸組の総帥の堀部|弥兵衛《やへえ》は高齢のため不参だったが、参謀の安兵衛《やすべえ》が上洛《じようらく》した。それに内蔵助が最も信頼をおく奥田孫太夫、江戸組の高格者片岡源五右衛門、重厚な人柄で諸士の信頼が厚い富森|助《すけ》右衛門《えもん》、実力派の杉野十平次、前原伊助、京在住では潮田又之丞、大高源五、武林|唯七《ただしち》、大坂からは原惣右衛門、奈良からは大石瀬左衛門、赤穂とその周辺からは岡島八十右衛門、間瀬久太夫、岡野金右衛門、勝田新左衛門、それに惣参謀の吉田忠左衛門、参謀の小野寺十内、間《はざま》喜兵衛、不破|数《かず》右衛門《えもん》らが席を連ねた。  これだけの人数となると、相手する女の数も要る。撞木町一の娼家、升屋の遊女が総揚げとなった。その数は十一人。それでも足らず、二番目の一文字屋の遊女が応援に加わった。もっとも枕をともにするとは限らない、赤穂という田舎の侍は物堅いのが通り相場で、遊女買いなどは真ッ平というのがほとんどであった。 「敵をあざむくため、などと姑息《こそく》なことは言わぬが、いまを生きているあかしに女子と遊んでみようと思う者があれば、何も卑下することはない、心残りなく遊べ」  内蔵助は、吉田忠左衛門を通じて一同に申し伝えておいたが、案外青壮年の者は酒宴を楽しむだけの者が多く、初老・老年の者に女色を望む者が出た。  酒宴には遊女と取巻きの新造、禿《かむろ》、それに揚屋の仲居が加わる。後世では芸妓《げいぎ》・末社《まつしや》が歌舞音曲を受持ったが、この頃にそういう者はない。仲居の芸達者が座を賑《にぎ》わして、面白おかしく客を楽しませる。客はそうした唄《うた》を聴き、剽《ひよう》げた踊りを見、囃《はや》す。興に乗っておのれの芸を披露《ひろう》する者もある。  この会合がはじめとなって、内蔵助の伏見の遊興は一年近く続いた。その内蔵助に、並外れた豪遊の評判が残った。よろず安値が看板の伏見撞木町で、後世に残る豪遊の評判を残したのは、むだな贅を尽したからではない。島原でも次位の天神と遊ぶ内蔵助に、豪奢の趣味はなかった。豪遊の評判をとったのは、費消した金が並外れていたからであった。  その額は銀六十貫を越えた。元禄期に千両(銀六十貫)の財を持てば金持と言われ、万両(銀六百貫)なら分限《ぶげん》と呼ばれた。その金持の財を、一年足らずで費消したことが豪遊の名を残した。  なぜそれ程費用がかかったか、それは内蔵助ひとりの入費ではない。内蔵助が登楼するときはいつも三人五人の随行者を伴っていた。それが吉田、小野寺、不破など参謀たちであったことは言うまでもない。吉良・上杉に対する謀略の討議、江戸から情報をもたらす奥田孫太夫からの聴取と指図、公儀の政策を探って分析結果を報告に上洛する富森や片岡との応対、京・大坂・赤穂在住の同志の来訪、それらの暮し向の相談や援助、最終作戦である討入の戦闘計画と、天川屋儀兵衛をまじえての武器や防具の工夫、その調達……密議しなければならないことは山ほどもあり、五人、十人、時には同志を集めての説明会で、初回と同様二十人に達することも間々《まま》あった。  内蔵助は、その会同に山科の自宅を用いることを一切避けた。吉良・上杉、そして伏見奉行建部内匠頭の諜者《ちようじや》が絶えず眼を光らせていることは当然予想された。また先日のように、刺客の襲撃があった際、妻子や使用人の安全もはかり難い。それに、機密は必ず内の使用人から洩《も》れる例もある……内蔵助は、伏見奉行の膝許《ひざもと》でその治安維持に身をゆだね、〈主家再興運動〉を名目に公然と旧藩士と会同し、口の固い水商売の者に金轡《かなぐつわ》をはめて機密の漏洩《ろうえい》を防いだ。正に敵の腹中に身を置く策であった。  いま、その最初の会同が着々と進行しつつあった。  八ツ下がりになると宴はいささか倦《う》み飽いてきた。座を立つ者が三人五人と数を増した。その空いた席に新たな客が加わった。大坂から天川屋が伴って来た番頭手代と遊び仲間であった。遊び慣れた上方商人だけあって座興がうまい。それに、遅れて来た進藤源四郎も加わって、宴は新たな趣向に沸いた。  宴席を天川屋の町人たちに委《まか》せて、座を外した者たちは、奥まった別間で不破数右衛門の経過報告と状況説明を聞いた。簡潔で要を得たその話が終るころ、内蔵助が座に姿を見せた。  一同の目礼に応《こた》えた内蔵助は、話し終えた不破に促されて、口を開いた。 「さて、各々《おのおの》……」  一同は、餌をせがむ雛鳥《ひなどり》のように、内蔵助の言葉を待った。 「去る四月、赤穂の御城開城の折、大義名分を立てんがため策を構えた。亡き殿刃傷の因は吉良どの賄賂《わいろ》を貪《むさぼ》りしがため、という噂をひろめたのだ。その窮余の策は思わぬ効を奏し、わが敵吉良上野介は御役御免、家督を養子|左兵衛義周《さひようえよしちか》にゆずって隠居の身に追いこまれた」  一同は眼を輝かせて内蔵助を仰いだ。赤穂開城・藩士離散以来わずか半年に満たぬ間に、こうした快報を耳にし、前途に活路が開けようとは、思ってもみなかったのである。 「これは、不破数右衛門が卓越した謀才、それに堀部弥兵衛どのが統率する江戸組同志の並々ならぬ働きに依る謀略の一勝である」  内蔵助は、思わず異議を唱えようとした不破や堀部らを眼顔で制した。 「だが、赤穂離散の折に申し渡した通り、これは単なる面当《つらあ》て、しっぺ返しの企てでもなければ、亡き殿の恨みを報ゆる仇討《あだうち》でもない。これは合戦だ」  内蔵助は、一段と声を励ました。 「われらは緒戦で城と領地を奪われ、敗残流亡の身となった。相手方吉良上野介の白髪首一つ取ってよしとするものではない。首ひとつなら五人七人の同志が腹を合わせ、半年一年つけ狙えば必ずその目的を果せよう。それでは吉良は病死と届出て、家名は安泰、うしろ盾の上杉も面目を損なわず、ぬくぬくと世を過ごすであろう。それでは足りぬ。合戦は相手方のいのちを奪い、家を叩《たた》き潰《つぶ》し、領地を無きものにする。そしてうしろ盾となり謀略を構えた武門、上杉の面目を泥土に押しつけ、踏みにじる。わずかな一勝で奢《おご》ってはならぬ、戦いの一勝はたやすいが、勝ちを勝ち抜くのは至難のわざであることを銘記せねばならぬ。われも相手もむごいことだが、戦さ合戦とはそういうものなのだ」  内蔵助はひと息入れて、一同の反応を見渡した。  ——大丈夫、士気は充分揚がっている。  緒戦の勝利の大事さはそこにあった。戦いは勢いである。勢いは戦力の差をも凌《しの》ぐ。いま大切なことはその勢いを持続させ、次なる攻勢につなげることにある。更なる謀攻は敵のみならず味方の予想も越える奇策を、一刻も早くほどこさねばならない。  事は急がれた。 「依って次なる攻勢を採る。孫子|曰《いわ》く『兵は拙速を聞くも、いまだ巧の久しきを睹《み》ず』、また言う『攻めて必ず取る者は、その守らざる所を攻むればなり』と。然《しか》るをもって速かに敵の中枢本拠を衝《つ》き、これを崩す」 「して、いかなることを……?」  年嵩《としかさ》の間瀬久太夫(大目付二百石・六十一歳)が、ようやく口を切った。 「されば……われらの終《つい》の目当ては吉良家に推参して防ぎ手を悉《ことごと》く覆滅し、吉良上野介を討ちとることにある。だが吉良の屋敷は江戸城|外郭《そとぐるわ》の内、諸大名の屋敷が建ち並ぶ呉服橋御門内にある。われらが数十の手勢をもってしても、公儀、諸大名の繰り出す警衛の戦力を退けることは不可能に等しい。依って策を用い、吉良の屋敷をほかに移す」 「えッ、敵の屋敷を……?」  片岡源五右衛門が、思わず声を発した。いま敵対するその相手の本拠を、攻め難いからよそに移転させるという。それこそ不可能というもおろかではないか……。  濃い疑惑に包まれた一同を見やって、内蔵助は莞爾《かんじ》と微笑んだ。 「策はある。およそ人の作ったもので、人の智恵で動かせぬものはない。策が無《の》うてはかなわぬのだ」  内蔵助は余裕のある笑顔で惣参謀の吉田忠左衛門を見返った。 「その策は吉田忠左からとくと聞け。くどいようだが、各々に今一度わしの思うところを言うておく。よいか、人という生きものは稲や麦、鶏や魚、この世に生きるもののいのちを食い散らかして生きておる。人がけだものと異なる唯《ただ》一つのものは、生きることそれ自体より、〈よく生きる〉そのことに意義を見出《みいだ》さずにはおれぬことにある。関ヶ原から大坂ノ陣で戦国の世が終って百年に近く、弓は袋、刀は鞘《さや》におさまり、世はあげていのち大事、人は一日でも長く生きることが至上とされるようになった。だがいのちが長ければよいか、いのちを尊ぶことのみで、魂は死んでよいのか、いのちより尊ぶもの、いのちより値打ちあるものを持たずして何の侍か。いまこそわれらはいのちより尊く重いもののあることを世に示す。それが侍として生れ、侍として生きたわれらの値打ちである」  一座は、水を打ったように静まりかえった。やや遠い宴席の絃歌《げんか》の音、天川屋の町人たちの笑い興ずる声が空しいもののように流れ消えた。 「各人の生きようは、各人の気儘《きまま》気随である。わしの趣旨に賛同の者はとどまれ、生きようの異なる者は去るがよい。この先一年二年、本懐を遂げる日まで、わしは何度もおぬしらの覚悟を確めよう。その最後の時までとどまるもはたまた去るも、侍らしゅういさぎよくあれと望んでおく」  内蔵助の長い話は終った。第二の謀攻が始まった。 [#改ページ]   |料 敵《てきをはかる》      一  カラン、と、あたりの音が吸いこまれるような紺青色《こんじよういろ》の秋の空だった。本郷通り湯島聖堂角への坂道を登る草鞋履《わらじばき》の足もとに、白い土埃《つちぼこり》が立つ。鍛えた脚だがさすがに疲れは隠せない。京から江戸へ百二十六里、十六日の旅だった。  ——もう今年も秋になった。陽ざしは夏と同様に強いが汗はかかない。  安兵衛《やすべえ》は、ふと去年の秋をふりかえってみた。いまごろはどういう日を送っていただろうか。そう思うと自嘲《じちよう》の笑みが浮んだ。去年もおととしも、その前の年も何も変りはなかった。鉄砲洲《てつぽうず》の藩邸で本家芸州浅野家をはじめ親戚《しんせき》筋、柳ノ間詰の同格諸大名家、それから幕閣諸侯と、煩瑣《はんさ》で礼式のきびしい、愚にもつかない挨拶《あいさつ》や式礼、交際、応接に明け暮れていた。 (舅《しゆうと》どのはえらい)  たった今、長沢町の寓居《ぐうきよ》の玄関先で、帰着の挨拶だけを済ませた舅の弥兵衛《やへえ》を思い浮べた。  弥兵衛金丸は、四十数年江戸|留守居《るすい》役をつとめあげ、名留守居役の名をほしいままにした。七年前、高田馬場の果し合いで高名を得た越後|新発田《しばた》浪人中山安兵衛を婿に迎えると、何の未練もなく隠居して、馬廻《うままわり》使番に取立てられた安兵衛の後見役となり、せっせと留守居役実務を教え続けた。あと三年もすれば、弥兵衛隠居以来空席のままになっている留守居役に、安兵衛が就こうという矢先、今度の異変が起こった。  豪放|磊落《らいらく》な弥兵衛は、江戸家老安井彦右衛門や出向家老藤井又左衛門がいち早く逐電《ちくてん》すると、当然のように江戸在府の総指図役に推され、内蔵助《くらのすけ》と気脈を通じて参謀となり、一糸乱れず統率を行なっている。愚痴るでもなく誇るでもない、感慨ひとつ洩《も》らさず当然のことのように変身している。その変り身のみごとさは、生れてから二十数年浪人暮しだった安兵衛でも、及びもつかぬものであった。 「何をにやついておる。堀部、伏見の女でも思い出したか、女房どのに済まぬと思わぬか」  安兵衛も、連れの奥田孫太夫も、伏見|撞木《しゆもく》町で遊女と遊んでいる。やもめ暮しの孫太夫と違って、安兵衛には七年連れ添った妻女がある。弥兵衛の一人娘おほり[#「おほり」に傍点]である。 「なんの、江戸を発《た》つ折、舅どのが京女《きようおんな》を味おうて来いと、女房の前で小遣いをくれました。あれは誰|憚《はばか》ることない遊女買いでござるよ」  安兵衛は豪快に笑いとばした。 「それにしても、やもめとは申せお仲人《なこうど》もお達者でしたな、年寄の冷水と違いますか」 「そのお仲人と言うのはよせ、顔が熱うなるわ」  奥田孫太夫は、小石川の堀内源左衛門道場で、安兵衛と並ぶ高弟であるよしみで、安兵衛の婿入りに奔走した。二人は京から帰府したその足で、その堀内道場に赴く途中である。 「いや、ここ限りの話だが、ああいう里の女子と比べると、武家の女というのは味気ないものだな、おぬしも眼からうろこが落ちたであろう」 「これは恐れ入った、お仲人からそういう御卓見を承ると返事の致しように困ります」  安兵衛は笑いが止らない、孫太夫も大笑いとなった。  道はお茶の水を下り、水道橋から外濠《そとぼり》沿いに牛込御門に向う。そのあと江戸川沿いに北へ進むと、堀内道場の在る立慶《りゆうけい》橋である。 「ところでおぬし、どう思う、大石どののお考えを」  孫太夫がそう問いかけると、安兵衛は無言で頷《うなず》いてみせた。 「実は先ほどから、それを考えておりました」 「うむ?……」  孫太夫は促した。 「手前は、高田馬場で思いもかけぬ功名を得ました」  父の代に浪々の身となった安兵衛は、諸方を放浪しながら好む剣の道の研鑽《けんさん》に励んだ。そうした中で知り合った、菅野《すがの》六郎左衛門兼清という、伊予四万石、松平左京大夫家家中の老人の庇護《ひご》を受けるようになり、盃《さかずき》を交して義理の叔父甥《おじおい》の縁を結んだ。  菅野の計らいで江戸随一の名門堀内源左衛門道場に入門した安兵衛は、忽《たちま》ち頭角をあらわし、門下の竜虎《りゆうこ》、四天王に名を連ねるようになった。  元禄《げんろく》七年二月十一日、安兵衛が大恩うけた菅野六郎左衛門は、同じ家中の村上庄左衛門・三郎右衛門の兄弟と争いを起こし、戸塚《とつか》の高田馬場で果し合った。念の為に書くが、高田の馬場というのは明治以降の訛《なまり》で、高田馬場が正しい地名である。  村上方には、義弟の高名な武芸者中津川|祐見《ゆうけん》と、二人の家来が助太刀したため五名、菅野方は安兵衛と、中年の家来大場一平が助太刀した。五対三の果し合いであった。  剣戟《けんげき》は半時《はんとき》(約一時間)ほど続いた。安兵衛は難敵中津川祐見を斬り、菅野を相手に戦う村上兄弟の兄庄左衛門を斬って捨て、重傷を負った菅野を援《たす》けて弟三郎右衛門を斃《たお》した。  大場一平は村上の家来二名を相手に戦い、これを斃した。  重傷の菅野は安兵衛が援けて近くの林光寺に運んだが、出血ひどく間もなく絶命した。世にいう高田馬場の果し合いで、獅子《しし》奮迅の働きをした安兵衛の名は、世に喧伝《けんでん》された。 「そのお蔭《かげ》をもって堀部が家にも迎えられ、侍奉公もかなう身にもなりました。それから七年……思ってもみなかった勤めお役目に明け暮れ……それがこの先の長い一生、続くものと疑わなかったのです」  それが、突然断ち切られた。繁雑極まりない仕事も、その仕事の成果も、すべて空しく消滅した。  それは、何のためであっただろう。わが身にとって、奉公先の家にとって、はたまた世の中にとって、何の役に立っただろう。  何もなかった、ただ生きた、それだけであった。  人の世の仕事というのは、大方そのようなものである。何千万、何千億という人がただ営々と働くことで世は支えられ、少しずつ進んでゆくが、人は一生を費して、足跡はおろか爪跡も残さず消え去り、忘れ去られる。 「高田馬場で高名を得たとき、人はあれが高田馬場の安兵衛よとほめたたえ、私も生涯の頂点を極めたと思いました。その後の七年は余禄《よろく》に過ぎなかった、だが……それがすべて無に帰したいま、ふり向いてみれば色あせた一介の果し合いが堀部安兵衛の生涯のすべてであってはかなしすぎる。もっと高い、もっと意義あるいのちのあかしを残したい、いずれは消えるこのいのちを尽して、何か足跡を刻みたいと思うのです」 「…………」  孫太夫は、歎息《たんそく》を洩《も》らして、言った。 「おぬしは立派だ」 「奥田どのは、どう思われますか」  安兵衛は追求した。 「是非……お聞かせ下さい」 「さよう、大石どのには大石どのなりのお考えがある。それはよい……が、わしは少々違うようだ」  孫太夫は、苦く微笑んだ。 「どのように違うのですか」 「わしは二十年前……元の主家内藤のお家がお取潰《とりつぶ》しになって、浪人した頃を痛切に思い出すのだ。この泰平の世、扶持《ふち》なき浪人暮しの辛《つら》さと不安は、侍を捨てかねるわれらにとって、この世ながらの地獄であった」  孫太夫は、安兵衛を見返った。 「この年で、あの地獄はもうつとまらぬ。また、あの折浅野家に奉公が叶《かな》ったような倖《しあ》わせは、もう二度と訪れまい。ならばいずれは消えるこのいのち、思う存分華やかに燃え尽きたい。何ぞ一つ、どうで捨てるこのいのちに、さむらい奥田孫太夫の意地をみせたい、ただそれだけよ」  二人は、それなり黙りこんで、足を運び続けた。      二  元禄年間に、江戸随一の剣名をはせた堀内源左衛門は、ふしぎなことに素性も経歴も明らかでない。二十余年前に江戸に流れつき、小石川立慶橋の東詰に道場を開くと、数年を経ずして名流の名を得た。別段大試合をした事もなく、権力の引立ても得ず、顕示欲があった訳でもない。  源左衛門は温厚そのもので、仏像の慈顔に似た顔容は、とても武芸者に見えなかったと伝えられている。およそ細事にこだわらず、その名が一時、源太左衛門と誤って伝えられると、それを知って一時期そう名乗ったこともあった。  源左衛門は、免許とか切紙(最初の免許)とかいう弟子の格付けに無関心であった。だが衆望はいつしかその中に格をつくる。堀内道場の竜虎とか四天王というのがそれで、竜虎は孫太夫と安兵衛、それに旗本|菱沼《ひしぬま》式兵衛と、塩入主膳《しおいりしゆぜん》を加えたのが四天王と呼ばれた。 「おう、ご両名、無事に帰られたか」  弟子にも丁寧に物言う源左衛門は、京から立戻ったその足で道場を訪れた孫太夫と安兵衛を笑顔で迎えた。  源左衛門は、菱沼・塩入を加えて、道場奥のささやかな居室で、夕餉《ゆうげ》を共にした。干鰯《ほしか》に小芋の煮付、菜の浸しに味噌汁《みそしる》、漬物という粗食だったが、五人は談論風発、大いに濁酒を飲み、麦飯を食らった。 「ところで、どうであったな、京の様子は」  源左衛門のさりげない問いかけに、菱沼・塩入の両名は耳をそばだてた。  吉良《きら》が賄賂《わいろ》を貪《むさぼ》ったという噂話は、尾ひれがついてもてはやされ、一向に止む気配がない。それでなくても高弟二人が旧|赤穂《あこう》浅野の家中とあって、堀内道場ではその成行が関心の的となっていた。また源左衛門は、孫太夫・安兵衛から聞き知って、大石内蔵助という人物に特別の関心を抱いていた。平素の人柄からみて、珍しいことであった。  孫太夫は、チラと安兵衛と眼を見交すと、急に浮かぬ顔になった。 「実はそのことですが……困った事態になりました」 「ほう、どのような……」 「ご家老の大石どのが、相も変らず御家再興にこだわり続け、関白|近衛《このえ》家に働きかけるなど煮え切らぬ様子に、畿内《きない》から国許《くにもと》赤穂の者がひどく苛立《いらだ》ちまして……」 「馴《な》れぬ浪人暮しの辛さ、無理からぬこととは存じますが……」  と、安兵衛が口を添える。 「血気にはやる者たちが、御家再興などは手ぬるし、年寄が畳の上で往生せぬうちに、吉良屋敷に遮二無二《しやにむに》押し入り、怨敵《おんてき》上野介のみしるしを取ろうと唱える者が続出し、上方《かみがた》ではそれをなだめるのに大わらわとなっております」 「それで、江戸在府の者の動向は?」  若い塩入主膳が膝《ひざ》を乗り出す。安兵衛は困《こう》じ果てた顔を向けた。 「とかく、過激な論というのは飛び火し易く、一時に燃え立つもの。大石どのの手許には頻々と蹶起《けつき》書が届いているとかで……われら両名、急ぎ立帰り、慰撫《いぶ》につとめるようにと命ぜられ、こうして戻った参ったような次第で……」 「いや、気の重いことでござるよ」  孫太夫は、安兵衛の言葉を継いで、歎息してみせた。 「説得と申しても所詮《しよせん》は言葉の上のこと……頭に血がのぼればひとたまりもない、まさに百日の説法|屁《へ》一つのたとえもある」 「しかし……そうなると、事だな」  菱沼と塩入は顔を見合わせた。 「吉良屋敷は呉服橋御門の内……御城外郭の内で争乱が起こる……」  旗本としては、治安の面が気がかりであった。 「なるほどなあ……それは大石どのとやらも気がかりであろう」  そう言った堀内源左衛門の声が、意外に明るく平静に聞えたので、孫太夫と安兵衛はきっとなって見返った。  源左衛門は、きりッと顔を引緊《ひきし》めてみせた。 「これは旧赤穂家中の事、われらは何の手助けも出来ぬが……門下の者の捲《ま》き添えだけは防ぎたい。誰か近くの屋敷の者がおるかな」 「は……吉良家西隣、保科《ほしな》越前家の者二名、そのまた隣、松平土佐家家来が三名、一筋おいた旗本山口、林、大久保家から各一名……それに別して、北隣の阿波富田新田、蜂須賀飛騨守《はちすかひだのかみ》様は武芸殊の外御熱心で、御家中の者二十名近くが入れ代り通って来られます」  道場実務の菱沼は、あらかじめ調べてあったとみえて、たちどころに答えた。 「蜂須賀様か、御側用人《おそばようにん》の鹿島善左衛門どのは格別|昵懇《じつこん》に願っておる。わしからお耳に入れておこう、おぬしらはそのほかの家の者にそれとなく留意するよう話して貰《もら》いたい」  菱沼と塩入がきびしい顔で頷《うなず》くと、源左衛門は孫太夫と安兵衛に温顔を向けた。 「それでよいかな」 「は……お手数をわずらわせ、申し訳次第もございませぬ」 「これは旧赤穂家中の不始末、くれぐれも御内証にお計らい下さいますよう……お願い申す」  孫太夫と安兵衛が頭を下げるのを見やった源左衛門は、他意ない笑顔で頷いてみせた。 「それにしても、大石どのの御苦心、さぞやと察し入る……おぬしら、それを肝に銘じて折角立働くことだな」  源左衛門の言葉には、秘めた意味を思わせる千鈞《せんきん》の重味があった。  頭を下げたままの孫太夫と安兵衛は、それを痛く感じていた。      三  月余が過ぎて、秋の盛りを迎えたある日。  色部又四郎は、久方ぶりで柳沢出羽守保明の呼び出しをうけ、神田橋御門内の柳沢家上屋敷に出向いた。  いつもの事だが今度も待たされた。だが、今度の待たされようは度を越えていた。柳沢家上屋敷に入ったのは未《ひつじ》ノ下刻(午後三時頃)、まだ陽の傾きかけたころだった。一|時《とき》余りで陽は落ち、宵闇は迫り、夜のとばりに閉ざされた。  柳沢屋敷の小書院で、色部は坐《すわ》り続けた。武家の慣習で客に敷物はない。もちろんあるじも褥《しとね》を用いることはない。客間に脇息《きようそく》や手あぶりなど以《もつ》ての外であった。来訪者は畳に正座して、秋の夜寒に耐えながら、ただひたすら待ち続けるしかなかった。  側用人の職務に、執務時間の定めはない。厳密に言えば、将軍家が起床したときから就寝時まで続く。しかしそれでは私用の時間がまったく無くなるから、その日その日の様子によって随時退出する。灯火の不自由な当時のことだから、遅くも戌《いぬ》ノ上刻(午後七時頃)を過ぎることは無かった。  だが、その夜は違った。戌ノ刻が過ぎ、亥《い》ノ刻(午後九時から十一時)が経過しても、柳沢保明は帰邸しなかった。  色部は端然と姿勢をとり続けた。生れ落ちてこのかた侍として鍛え上げた礼式作法が、いかなるときも崩れた姿勢をとることを許さなかった。脚はしびれ、膝から下の感覚がなくなり、腰は凝り痛んだが、色部は顔色ひとつ変えず、ただ耐えに耐えた。そして遂《つい》に耐えるという意識もうすれ、凝然と凍りついたように端座していた。  屋敷に賑《にぎ》やかな声が起こったのは、夜明けも近いと思われる寅《とら》ノ上刻(午前四時頃)過ぎであった。いままで死に絶えたように静まり返っていた屋敷内に、活気に満ちた声と足音が交錯したと思うと、小書院の襖《ふすま》が開き、柳沢保明が闊達《かつたつ》な足どりで入ってきた。 「待たせたの」  呼びつけて、十二時間も坐らせ続けたことに、別段何の呵責《かしやく》も感じていない、そんな軽い口調だった。  色部は無言で平伏した。 「あいにくだが、一、二|時《とき》休んだら登城せねばならぬ。明朝、上様にはわしの染井の屋敷へ菊見に御成りになる」  おおかた、きのうの昼過ぎか夕方、不意に仰せ出《いだ》されたのであろう。それで柳沢は、急遽《きゆうきよ》染井の下屋敷へ赴き、明日のお成りの準備に忙殺されていたに違いない。  それにしても、柳沢の活力は眼を見張るものがあった。夜を徹し、もう夜明け間近というのに、顔容も立居振舞いも生き生きと、いささかの疲れもうかがえない。  柳沢には休日の定めも無い。連日、早朝から夜半まで将軍綱吉に侍し、その機嫌をうかがいながら政務に眼を通し、裁断を行なう。  ——些事《さじ》をおろそかにしてはならぬ、些事こそ権勢の崩れのもととなる。  そう口にし、自らをいましめている柳沢の細かい神経の使いようは並大抵でなかった。そうした毎日の上に、この日のような不時の事が出来《しゆつたい》する。  元禄四年、破格の御|沙汰《さた》により屋敷に将軍家御成りを仰いで以来、少ない年で二回、普段の年は四回五回の御成りが年中行事となっている。当初は屋敷内に新御殿を四棟も建て、四人の奉行を命じ、老中・若年寄以下百数十名を招待し、講学、演能のあと、御内証御慰事と称する催しがあり、その接待に万金が投じられたが、度重なること十年に及べばそれほどの事はない。  それでも不時の御成りに備えて、常に新たな趣向を考え、準備しておくほか、時によっては一夜にして数百畳の畳替えや造作の作り替え、通路の白砂玉砂利の敷き替えなど、徹夜の作事を指図する。  いまもこれから風呂《ふろ》を使い、夜食をとれば、まどろむ寸暇もおぼつかない。そして夜が明ければ、将軍に扈従《こじゆう》しての一日が始まるのである。 「見ての通りの繁忙で、詳しゅう申しておる暇がない。当用のみ伝えておこう。近日、吉良に屋敷替えの御沙汰が下る」  色部の脳裏に衝撃が襲った。人の日常には〈意外〉という事が起こる。だが予知力や推理力に長じた人間は、まさか有り得ぬ事、予想を越えた事に対しては、一応は思い浮べた上で常識や推理で排除する。だからまったくの〈意外〉という事は、まず起こらないものなのである。  だが、吉良の屋敷替えという事態は、予想を越えた。色部は片鱗《へんりん》だに思い浮べなかった。なぜならば、  ——柳沢はわが味方、公儀はうしろ盾。  という図式を信じて疑わなかったからである。  吉良の屋敷は呉服橋御門の内、江戸城|外郭《そとぐるわ》の一角である。大名・旗本屋敷が櫛比《しつぴ》している上に、御門は柳ノ間詰大名が交替で藩士を派し、日夜警備し続けている。素浪人づれが大挙して入りこめる場所ではない。  吉良家は幕府創業以来、代々外郭大名|小路《こうじ》に屋敷を構えていた。元禄十一年までは鍛冶橋《かじばし》御門の内だったが、屋敷が手狭な上にあまりに古びたため、柳沢に金品を贈って屋敷替えを願い、折柄《おりから》呉服橋御門内に住む三河以来の大身《たいしん》旗本、米倉|長門守《ながとのかみ》が廃絶となった屋敷跡地を得た。同地は吉良の職務にかかわる伝奏《てんそう》屋敷に程近く、評定所も間近とあって、至便この上ない。  屋敷の新築に、上杉家は大枚の出費を強いられた。老齢の藩主実父から——老後、唯一の楽しみとせがまれては、出費を惜しむことはかなわなかった。  ——ま、これが吉良家に貢ぐ最後の金。  三年前には、それは無理からぬ状況であったのである。その金額は柳沢に対する運動費を含めて、二万三千両にのぼった。  その、贅《ぜい》を凝らした新築間もない屋敷を、一片の御沙汰で失う。色部の脳裏に吉良邸の有様が明滅する。表門の如鱗木《じよりんもく》の一枚板から書院の長押《なげし》の象嵌釘隠《ぞうがんくぎかく》しまで、出羽米沢の藩士の汗の結晶であった。痛恨極まりない思いが胸を灼《や》く。 「して、御屋敷替えの先は、いずれに……」  さすがに色部であった。未練がましい申し立も、哀惜もふり捨てて、要《かなめ》の一点を口にした。 「うむ……根津が心当りをあたっておる、根津と篤《とく》と談合せい」  柳沢としても、言い辛《づら》い思いがあったのであろう、気ぜわしく座を立った。  部屋を出る柳沢は、手をつかえ頭を下げた色部を見返って、言葉をさがした。 「赤穂浅野は一夜にして鉄砲洲を失ったのだ、辛抱することだな」  言い残して、柳沢は去った。それがせめてもの柳沢の弁解であった。そのひと言は色部の肺腑《はいふ》を衝《つ》いた。その通りだった。赤穂浅野は鉄砲洲の藩邸を失ったその日その時、藩は潰滅《かいめつ》して敗残流亡の身となった。  吉良の屋敷替えも、それに劣らぬ打撃であった。世上で赤穂浪人の復讐《ふくしゆう》が取沙汰《とりざた》されているが、それは不可能に近い……と、色部はみていた。将軍家の名実ともにお膝許《ひざもと》、江戸城外郭の内で討入など出来る筈《はず》もなく、成功の可能性は一厘一毛もない。もし事を起こすとすれば、外出の途中を襲う以外にない。老齢の吉良|上野介《こうずけのすけ》が江戸市中に出ることは、式事以外はまず稀《まれ》で、式事の途中を襲うことは公儀に対する純然たる反逆である。私事で赴くのは上杉家訪問以外にないが、その経路は外郭の大名小路を通れば事済む。  悲情、をもって聞えた色部は、暗殺なら止むなしと割切っている。もちろん警護に手は尽すが、万々一不意を衝かれて殺害されても、急病死と届出れば吉良の家は残る。上杉家の武名も傷付かず済む。上杉家当主綱憲も、その子吉良|左兵衛義周《さひようえよしちか》も安泰である。  ——老ぼれの上野介|義央《よしなか》、いっそ刃傷《にんじよう》で死んでくれたほうが、始末がよかった。  そういう思いすらあった。  それでも、�安泰�という絶対的な安心感があった。  ——討入だけはない、なぜなら、不可能だからだ。  その安心感は、今宵《こよい》、一挙に崩れた。江戸城外郭から追い出されるとなると、討入の危機は現実のものとなる。  ——なぜだ、なんでこういう破目になった。  胸を灼く焦慮があった。これまで打った手にぬかりはなかった筈である。  色部はそう自負する。それだけに今宵の悲運は不可解の一語に尽きた。  柳沢が去ったあと、色部は小半時ほどその場を動かず、坐り続けていた。      四  外桜田、上杉家上屋敷内の家老長屋(屋敷)に、色部又四郎は客を迎えた。客は柳沢出羽守保明の用人根津文左衛門である。  色部又四郎は、三十九歳の若さでもう七年もやもめ暮しを続けている。十年連れ添った妻女は、奥州《おうしゆう》仙台五十九万五千石|伊達《だて》家の筆頭家老茂庭|周防《すおう》の孫娘であったが、二十八歳の若さで腹中に腫物《はれもの》をわずらい、半年ほど病みついた末に世を去った。その間、日夜を分かたぬ色部の看病ぶりは、後の語り草になったほどだが、やもめとなったあと、人柄に変った様子を見せなかったあたりに、色部のきびしい性格がうかがえる。子は無かった。  その後、再三にわたって後添の話が持ちこまれたが、まとまらず、今日に至った。  色部の長屋に、藩邸の膳部《ぜんぶ》方と中小姓が出向いて、料理や接待万端をつとめた。  鱸《すずき》の洗い、落鮎《おちあゆ》の甘露煮、鶉《うずら》の叩《たた》き、柿膾《かきなます》、鯊《はぜ》の空揚《からあげ》、仏手柑《ぶしゆかん》の砂糖煮、菊酒に栗飯という格式を無視した季節の味に、贅《ぜい》に慣れた根津は舌つづみを打った。  一|時《とき》を費した昼餉《ひるげ》が終ると、二人は香りたかい煎茶《せんちや》を啜《すす》りながら、用談に入った。 「殿が大老格におなり遊ばしてここ三年、かほどの難題を持ちかけられたのは初めてでござりましてな」  柳沢家用人として、長年その輔佐《ほさ》をつとめる根津文左衛門が、かつて他人に聞かせたことのない弱音を吐いた。 「先の吉良どの賄賂《わいろ》の噂話にも手を焼き申したが、こたびの流説《るせつ》は数段もたちが悪い……」  その流説は、江戸の剣術道場から始まった。最初の出所は、名門堀内源左衛門道場からという。 「赤穂浅野家再興の運動にあきたらぬ赤穂浪人が、国許や畿内《きない》で激発し、吉良家屋敷に討入って怨念《おんねん》を晴らそうと、三人五人と分れ江戸に下向、在府の旧藩士と呼応して挙に及ぼうと暗躍している。旧家老の大石は、元の重臣上士に命じて慰撫《いぶ》鎮圧に奔走しているが、その効果の程は計りがたい。蹶起《けつき》が予想される浪人の数は百余名」  有り得ないことではなかった。約三十年前の寛文十二年、野州宇都宮奥平家の一門、奥平|内蔵允《くらのすけ》と奥平|隼人《はやと》のそれぞれの一族が私闘を重ねた末、江戸市谷|浄瑠璃坂《じようるりざか》に邸《やしき》を構えた内蔵允に隼人の一族四十数名が討入り、六十数名と斬合って、内蔵允側に死者十三名、重傷四名、討入った隼人側も討死六名、手負が五、六名という大争乱があった。世にいう浄瑠璃坂の仇討である。  吉良家の隣家、阿波富田新田五万石、蜂須賀飛騨守上屋敷には、堀内源左衛門が訪れ、旧知の側用人《そばようにん》、鹿島善左衛門に警告したという。蜂須賀家は、本家阿波徳島二十五万七千石、蜂須賀侍従家から数年前に分家した新大名で、当主隆重は本家当主|綱矩《つなのり》の叔父《おじ》に当る。中年過ぎで大名に列した隆重は、若年冷飯食いの頃から武張ったことを好み、江戸詰藩士十数名を堀内道場に通わせていた。本家蜂須賀家当主綱矩と一字違いの名乗であった浅野|内匠頭長矩《たくみのかみながのり》を贔屓《ひいき》していた事もあり、赤穂浪人の討入話に殊の外乗気となった。 「主家の讐《あだ》を討つは侍の本分、必ずや赤穂浪人の討入あるべし。隣家の争乱に備えず、不覚あらば蜂須賀の名折れである。昼夜を分たず厳重に備えよ」と、家臣に厳命を下し、昼夜三交替制を布《し》いて警戒態勢に入った。  噂は堀内道場から江戸中の武術道場にひろまり、吉良・上杉家はもとより、大名家中や旗本で知らぬ者はない有様となった。  呉服橋御門内の大名小路に門を構える大名・旗本で、蜂須賀家の物々しい警戒ぶりに気付かぬ家は無かった。噂に聞いた赤穂浪人の討入が間近に迫っている。そうなると蜂須賀家の例にならわなければ、万一の場合お咎《とが》めを受けるは必定……と、あって、各屋敷とも昼夜兼行の非常の警備に就いた。呉服橋御門警備の柳ノ間詰大名も例外ではない、人数を大幅にふやし、万一に備えた。  夜を日に継ぐ警備も、三日や五日は辛抱できた。十日、十五日続くと倦《う》み飽いた。月を越えると苦痛は堪えがたいものとなった。入費も家計を圧迫した。日に五回を越える給食と、侍から中間《ちゆうげん》、小者の手当、燈明《とうみよう》費、刀槍《とうそう》から具足の修繕、薪《まき》代、草鞋《わらじ》代、筆墨費、数限りない諸経費に勘定方が悲鳴をあげた。  それもいつまでと限ったことではなかった。三月先か半年先か、三年続くか五年続くか、見当もつかない。藩士の体力と藩邸の財力には限りがあった。  呉服橋御門内に屋敷を構える諸大名・旗本は、申し合わせたように次々と、屋敷替願いを呈出、その認可を乞《こ》うた。 〈世上の噂、殊の外物騒にて、然《しか》るべく備え致しおり候が、その負担かさみて堪えがたく……云々《うんぬん》〉  それが二家や三家ではない、その数は十数家に達した。 「いちどきに十数家の屋敷替えなど、替地のあろう筈《はず》がなく、この上は吉良どの一家を屋敷替えするほかなし、という論に立ち至りましたが……さて、そこでまたまた難題に逢着《ほうちやく》致しました」  根津文左衛門が言う次なる難題は、吉良家の屋敷替え先であった。  替地はある。だが再び同様の騒ぎが起きては迷惑この上ない。近隣の大名・旗本に内々意向を問うた。ところが、いずれの替地も近隣からの反対が渦巻いた。 〈吉良殿が移り住むなど以《もつ》ての外、ならばわれらに屋敷替地を賜りたし〉という強硬な申し入れが相次いだ。 「愛宕《あたご》下から高輪《たかなわ》、青山、小石川、本郷と、いずれも不調の有様で……ようやく本所|回向《えこう》院裏に、以前旗本松平登之助が住みし空屋敷を見つけましてな。川向うとは申せ両国橋とは目と鼻の先の至便、敷地は広し、建物はいまだ三年を経たのみの新しき造り、まずこれならば、我慢の範疇《はんちゆう》を出《い》でざる地であろうということになりました……」  とはいえ、当時の本所は新開地の名にふさわしい場末で、吉良が与えられる本所|竪川《たてかわ》一ツ目あたりは、七、八年以前は、空地であった淋《さび》しい土地である。  ——やられた……。  根津文左衛門から事情を聴く色部は、臍《ほぞ》を噛《か》む思いであった。  一方で、討入の噂を誇張して触れ廻《まわ》る赤穂浪人の姿がある。他方では、存じ寄りの大名・旗本の侍臣に、吉良排斥をしたり顔で説いて歩く赤穂浪人の姿がちらつく。  ——計りおった、まんまと……なんたる悪辣《あくらつ》。  大石内蔵助が二度も仕組んだ謀計は、根も葉もなき作り話で、人心の軽佻《けいちよう》浮薄を利用し、天下をあやつる柳沢保明を手玉にとった。  それゆえに、みごとの一語に尽きる謀略であった。一兵も動かさず、一遍も剣尖《けんさき》を交えず、相手方の堅陣を奪い去った。  御役御免  隠居 養嗣子相続  屋敷替え  それらの条々は、止むを得ざる事由によって、次々と行われた。  だが……吉良上野介が次第に窮地におちいって行ったことは歴然である。  色部は、足許の大地のゆらぐのを感じた。  ——恐るべき相手の智略《ちりやく》。  中国の古書〈呉子〉の一項に、�料敵�というのがある。敵を料《はか》る、と読む。敵情を敵以上に知ることを言う。  相手は、柳沢を、上杉を、吉良を、色部以上に料《はか》った。料った上の謀略であった。  色部は、敵を料《はか》りそこねた。色部は無念の思いを抑えて、それを認めようとした。  ——なんの……。  と、思う。  ——負けるかよ、天下の色部又四郎だ、まだ策はある。  色部はつとめて傲岸《ごうがん》に、肩を聳《そび》やかしていた。 [#地付き](下巻へつづく)  角川文庫『四十七人の刺客(上)』平成16年4月25日初版発行