[#表紙(表紙.jpg)] その日の吉良上野介 池宮彰一郎 目 次  千里の馬  剣士と槍仕《やりし》  その日の吉良上野介  十三日の大石内蔵助  下郎|奔《はし》る [#改ページ]   千里の馬      一  陰暦二月を〈きさらぎ〉と称し、衣更着、又は如月と書く。この月はなお寒く、着物を更に重ね着することから名付けられたともいう。  その異称のとおり、二月は寒い日が続いた。春の気配は一向に訪れず、殊にこの日、二十二日は終日身を切るような木枯が吹きすさんだ。  日の傾いた七ツ時(午後四時頃)、江戸城和田倉門外、竜《たつ》の口《くち》の伝奏《てんそう》屋敷で、早朝から働いていた赤穂《あこう》浅野家の家中の者は、ようやく築地鉄砲洲《つきじてつぽうず》の上屋敷への帰途についた。  徒士《かち》を前後に配し、諸役の者、近習《きんじゆう》を従えた乗馬の藩主浅野|内匠頭長矩《たくみのかみながのり》は、累積した疲労からくる偏頭痛に悩まされていた。  大名小路に諸家の屋敷が続く。肥後熊本細川|越中守《えつちゆうのかみ》、美濃《みの》大垣戸田|采女正《うねめのしよう》、豊前《ぶぜん》小倉|小笠原右近将監《おがさわらうこんしようげん》と過ぎて、左に折れ、呉服橋門にさしかかろうとすると、頭痛の種の役目、勅使|御馳走《ごちそう》役の指南に当る吉良《きら》上野介《こうずけのすけ》の屋敷が見えた。  高家《こうけ》四千三百石、小ぢんまりとした屋敷だが、西隣り上総飯野保科越前守《かずさいいのほしなえちぜんのかみ》、北隣り阿波《あわ》富田新田|蜂須賀飛騨守《はちすかひだのかみ》など小大名の造りと比べると、格段の輪奐《りんかん》を誇る。新築して三年、大屋根の真新しい三州|瓦《がわら》が夕陽に映えて輝いている。  ——血縁の出羽米沢《でわよねざわ》十五万石、上杉|弾正大弼《だんじようだいひつ》家から、格別の援助があったそうな……。  吉良上野介の内室《ないしつ》は、上杉家先代当主の妹である。その縁で上野介の嫡男は嗣子のなかった上杉家の養子となり、当主の座についた。吉良家の跡目は、その当主の子が養嗣子となっている。三重の血縁関係である。  その吉良上野介の屋敷は、固く門扉《もんぴ》が鎖《とざ》され、あるじの留守を物語っていた。  来月中旬に、柳営《りゆうえい》年中行事の勅使・院使(上皇の御使い)の下向《げこう》がある。年頭の将軍朝賀使による御祝詞奏上に答礼のための勅使・院使の差遣である。数ある行事のなかで最も重要な儀式とされていた。  浅野内匠頭は、その勅使御馳走役を拝命していた。相役の院使御馳走役は、伊予《いよ》吉田三万石|伊達左京亮宗春《だてさきようのすけむねはる》であった。  儀式典礼の指導に当る御取囃《おとりはや》し役は、高家|胆煎《きもいり》四千三百石、吉良上野介|義央《よしなか》である。上野介は将軍朝賀使兼務のため、正月十一日江戸を出立、京に赴き、未《いま》だ帰府していない。  御取囃し役の兼務による不在は、一見不都合にみえるが、例がないわけではない。過去四十年にわたって高家肝煎の職にある上野介は、御取囃し役をつとめること二十八度、朝賀使拝命は十五度におよび、両役兼務は六度目であった。  両役兼務のため、御馳走役の選定には慣例に習熟した者を選ぶ必要があった。だが、今年の候補に適当な者がない。老中から意見を求められた上野介は、勅使|饗応《きようおう》に浅野内匠頭、院使饗応に伊達左京亮を選んだ。  浅野内匠頭は十八年前、同じ勅使御馳走役をつとめたことがある。その折の御取囃し役は高家大沢右京大夫であったが、年歯十七の初役《しよやく》とあって浅野家江戸家老大石|頼母《たのも》は、 「あるじ年若にござりますれば、格別のお引廻《ひきまわ》しを……」  と、礼を尽して肝煎の上野介に指導を頼んだ。  壮年の上野介は快諾して、大沢右京大夫ともども、手をとって典礼作法を教え、無事に役目を果させた。  その後の交際は疎遠がちとなったが、上野介にとって内匠頭は、愛弟子《まなでし》のような思いがある。その折の準備万端は浅野家の記録に残っているはず。その指図に従い易いよう相役の院使饗応には、年若で初役の伊達左京亮を選んだ。  二月四日、勅使・院使御馳走役が正式に発令された。  翌五日から、浅野、伊達両家は竜の口の伝奏屋敷に通いつめ、接待準備に忙殺された。  ——月半ばには、御取囃し役の吉良上野介どのが帰府される。それまでの辛抱……。  再任とはいえ十八年の歳月は長い。当時少年だった内匠頭の手足となって働いた家臣は、大方は世を去り、また国許《くにもと》で隠居するかしている。そのためこれも隠居中の元留守居役|堀部弥兵衛《ほりべやへえ》まで、手助けに呼出す有様となった。  弥兵衛も、当時はまだ下役の身で、事に精通しているわけではない。そうなると記録が頼みだが、初役の事とて書き漏しが多々ある。内匠頭は記憶を辿《たど》り、直《じか》に指図に当らなければならなかった。  さなきだに心労の浅野家へ、万事に昧《くら》い相役の伊達家は、事ごとに指図を仰いでくる。その煩瑣《はんさ》も悩みの種であった。  浅野内匠頭の思惑は外れ、吉良上野介の帰府は大幅に遅れた。月半ばのはずが二十日を過ぎても帰着せず、知らせによれば京で十日ほどわずらいついたため、月末になるであろうとのことである。  接待準備の責任は、内匠頭の双肩にかかっていた。  ——疲れた。躬《み》も、家来どもも……。  列が呉服橋門を出て町なかに入ると、内匠頭は馬上にのびあがって、後に続く荷運びの列を見返った。  油単《ゆたん》を掛け覆った櫃《ひつ》や長持《ながもち》、諸道具類を運ぶ足軽や中間《ちゆうげん》小者の列が、足どり重く、遅れがちになっている。 「誰かある」  素早く馬廻《うままわり》の一人が寄る。見て内匠頭は覚えず眉《まゆ》をひそめた。 「三郎兵衛か」  生理的な嫌悪、というのであろう。内匠頭はその家臣、千馬《ちば》三郎兵衛が嫌いであった。日焼した顔形たくましく、鼻梁隆《びりようたか》く一文字の唇。髭《ひげ》の剃《そ》り痕《あと》が、濃い。 「何か……」 「見い。あの列の乱れようを……傍目《はため》もある。しゃきっとさせい」  思わず、言葉が荒くなった。 「……心得ました」  ——咎《とが》めるほどのことではない……が。  三郎兵衛はそう思ったが、主命は重い。荷運びの列に駈《か》け戻ろうとしたとき、その列の半ばに騒ぎが起こった。  騒ぎのもとは、単純なことだった。脇道から出てきた三人連れの身なり卑しからざる侍が、強引に列を割って押し通ろうとした。  侍たちは、したたかに酔っていた。そのため進退に途惑った荷運びの者ともつれあい、長持の柄が侍のひとりの面体《めんてい》に当った。 「ぶ、無礼者ッ」  額を打たれ、血を流した侍は、狂ったように白刃を抜いた。仰天した足軽や中間小者は慌てふためき逃げ惑う。抛《ほう》り出された諸道具が路上に散乱する。  連れの二人の侍は酔いも醒《さ》めて呆然《ぼうぜん》と見守るのみである。 「おのれ……営中行事に携わるものに慮外なッ……」  内匠頭は聞えた癇癪《かんしやく》持ちだった。激昂《げつこう》すると理非の見境がつかなくなる。 「き、斬れッ、三郎兵衛、斬って捨ていッ」 「ならんッ、抜いてはならんぞ、怪我のないよう取鎮めい」  間髪を入れず叫んだのは堀部弥兵衛だった。  ——相手は旗本。  と、見た。  幕府開府以来、旗本と外様《とざま》大名は事ごとに対立し、不祥事が相次いだ。旗本は将軍家直参を誇示し、大名は身分格式、封禄《ほうろく》の大をふりかざす。その度ごとに双方が傷つき、禍根を残した。  ——争いが表立てば、家が傷つく。  老練の弥兵衛は、それを懼《おそ》れた。  三郎兵衛は、弥兵衛に頷《うなず》いてみせ、騒ぎの中へ駈けこんだ。  侍が闇雲《やみくも》に振廻す白刃の下をかいくぐった三郎兵衛は、相手の胸もとにしっかと抱きつくと、暴れるままに身を任せた。 「は、離せ、離さんか。うぬッ」  白刃を頭上にかざした侍が、ふり離そうともがきにもがく。  と、一瞬、うッと呻《うめ》いた侍は、眼をうつろに、へなへなと崩れかけた。 「あ、どうなされた。ご気分でも損われたか」  そっと大地に下ろすと、駈け寄る連れの旗本に、 「ご無礼|仕《つかまつ》った。お連れの衆は悪酔いが過ぎてご喪心《そうしん》なされたご様子。お手当お急ぎ召されい」  連れの旗本が倉皇《そうこう》と抱き起こすのを尻目《しりめ》に、三郎兵衛は足軽中間に声を発した。 「何をうろたえておる。組頭《くみがしら》は後始末に三、四名ほど残せ、あとの者は匆々《そうそう》に帰邸せい」  三郎兵衛は、覚えず膝頭《ひざがしら》を撫《な》でた。当身で制するのは容易《たやす》いが、相手の躰《からだ》に痕が残ると難癖の種になる。膝で股間《こかん》を蹴《け》り上げて気を失わせた。そのおぞましい感触が何ともやりきれなかったのである。      二  尋常ならざる寒気が続いても、季節の移り変りは着実に訪れる。  同じ闇夜でも、冬の闇夜は墨を流したような暗さだが、春の闇夜はどこか柔かく、なまめかしい。  庭前の辛夷《こぶし》の白い花が放つ香気がただよっていた。  鉄砲洲上屋敷の小書院に、千馬三郎兵衛がむっつりと控えていた。 「どうだな、三郎兵衛」  内匠頭は、軽い口調で言ったが、その裏の嘲弄《ちようろう》の響きは隠せなかった。 「どうだ、と仰《おお》せられますと?」 「さだめし得意であろうと申すのだ」  内匠頭は、いらだちをこめて、ずばりと言い切った。 「何がでござりますか」  三郎兵衛は、にこりともせず反問した。  割って入るように、陪席の江戸家老安井|彦《ひこ》右衛門《えもん》が、急いで口をさしはさんだ。 「もと御留守居役、堀部弥兵衛が申立てに拠《よ》れば、今夕|伝奏《てんそう》屋敷の帰途、お旗本衆と悶着《もんちやく》ありし折、その方が機転の働きにより、事無きを得た、とある」 「忘れました」  三郎兵衛は、言下に言い切った。 「なに? いま一度申してみよ」  内匠頭は、意外な三郎兵衛の言葉に鋭く詰問した。 「てまえ近ごろ若惚《わかぼけ》が昂《こう》じ、物忘れがひどうなりまして、何のことやら一向に覚えがござりませぬ」  三郎兵衛は、憎体《にくてい》にそううそぶいた。  君臣の大義、という。  主君の性格や信条、情理に欠けるところがあっても、家臣たるものその意向に絶対従わなければならない、主君に身命を捧《ささ》げ尽す忠義が、武士にとって最高の道徳である。  徳川幕府二百六十五年の封建の世は、すべて忠義の道徳律で規制されていたかのように思われ勝ちだが、そんなことはない。幕政の初期の為政者は、儒教朱子学を基調とした忠義の道徳を鼓吹し、遵奉させることに努めた。  戦国の世の君臣関係は、武士は才智能力を提供することによって、主君から禄を得る純然たる雇傭《こよう》関係であった。たまさか主君に献身する者があっても、それは立身の機を得ようと努めたか、主君の野望に共鳴して青史に名をとどめようとする観念からのものが過半であったと思われる。主君の行状が意に合わなければ禄を弊履の如《ごと》く擲《なげう》って退身することに何の不思議はなかった。戦国の名武将といわれた後藤又兵衛や渡辺勘兵衛の出所進退がその好例である。  幕府が、封建体制の確立と維持のため、忠義の道徳律を積極的に推進するようになったのは、大御所(二代将軍)秀忠が逝去し、三十歳に満たぬ青年将軍家光が天下を担うこととなった寛永《かんえい》九年(一六三二)ごろからであり、当時外様大名と将軍直参の旗本との確執から、その収拾策として史上名高い伊賀上野鍵屋《いがうえのかぎや》の辻《つじ》の決闘が行われ、幕藩体制の保持に彫心鏤骨《ちようしんるこつ》した老中|土井利勝《どいとしかつ》の深慮によって発案され、次代の松平信綱によって定着したと伝えられている。  だが、道徳思想の徹底は一代で成し遂げられるものではない。二代三代と伝えて確立する。元禄《げんろく》十四年(一七〇一)は六十八年後に当るが、三百余の大名家に「君、君たらずとも、臣、臣たり」という絶対的な君臣の義が徹底したとは思えない。未だ数多くの小大名家に戦国期の雇傭関係が色濃く残っていても、ふしぎではなかった。  なかでも赤穂浅野家は、二代将軍秀忠の代に創藩された新興大名である。藩祖|長重《ながしげ》の次の代、内匠頭|長直《ながなお》の頃、藩財政の窮迫に国替を願って播州《ばんしゆう》赤穂に転封となり、爾来《じらい》三十年、長直と当時の国家老大石|内蔵助良欽《くらのすけよしただ》が、家臣一同と共に非常な困苦を重ね、五万三千石の小藩ながら稀《まれ》にみる富裕な藩に築きあげた。  ——城地も領国も、われらの血と汗の結晶。  という意識が、藩士の心魂に浸透している。  浅野長直と大石良欽は、藩財政の創建に非情とも言える苦役を家臣に強いる一面、野にある有能の士を次々と召抱えた。  ——藩の発展は人にある。有能な人材を登用することこそ国の支えである。  藩士の四分の一近くが、父子二代、または一代の新規召抱えの侍であった。これは後の話だが、この藩の名を不朽のものとした「忠臣蔵」事件の際、討入に参加した四十七士のうち、約半数の二十四名までが累代の家臣でなかったことが、それを物語る。  内匠頭が三郎兵衛に生理的嫌悪感を持つのと同様、三郎兵衛もまた、主君内匠頭に尊崇の念を持ち得なかった。  千馬三郎兵衛光忠。遠祖は桓武《かんむ》天皇より始まる平氏の傍流、千葉氏と言い伝えられている。  千葉氏は、源頼朝の旗あげに加わり、鎌倉時代には上総《かずさ》、下総《しもうさ》一円を所領として、大いに栄えた。だが室町時代、関東源氏の勢力が絶頂に達すると、千葉氏は急速に衰え、応仁の乱以後戦国時代には、ほとんど見る影もない有様となった。  そのため、子孫は東国のみにとどまらず、遠く近畿、西海道に流浪し、散った。その傍流は先祖の名を汚すことを慮《おもんぱか》って、姓を同音の千馬に改めたという。  戦国末期、千馬内蔵助という人物があらわれ、武将|仙石権兵衛秀久《せんごくごんべえひでひさ》に仕えた。仙石秀久は秀吉の麾下《きか》に加わり、勇猛の名を馳《は》せたが、島津征伐の折に戸次《へつぎ》川の合戦に大敗し、一時禄を失なった。その敗戦の際の退却に、千馬内蔵助の働きは眼を見張るものがあったと伝えられている。  仙石秀久は、小田原攻めに加わり、功あって禄を回復、信州|小諸《こもろ》五万石の領主となった。その子仙石|兵部大輔《ひようぶだゆう》忠政は徳川氏に臣属、大坂両度の陣で戦った。その戦闘で重臣に列していた千馬内蔵助は壮烈な戦死を遂げた。  千馬内蔵助の三男に求之助という者があった。分家した求之助は摂津|高槻《たかつき》三万六千石永井|日向守直種《ひゆうがのかみただたね》に仕えたが、後に浪人して帰農し、豪農として栄えた。  求之助の七男、忠之進が、後の三郎兵衛光忠である。忠之進は幼少の頃、播州赤穂浅野家に仕える同族の千馬三郎兵衛光親の養子となり、養父死去によって跡目を相続、その名を継いで三郎兵衛光忠と名乗った。  千馬三郎兵衛光忠は、戦国武士の祖父内蔵助の血を受けついだようである。性剛直、武士の一念を堅持してゆずらず、世辞、追従などまったくない一途《いちず》な性格であった。  その半面、父求之助の薫陶を得て、有職故実《ゆうそくこじつ》に通じ、武家の礼法や書法にも堪能《たんのう》である。まさに文武両道に通じた有能の士であったというべきであろう。  だが、時代が元禄にさしかかる時期、こうした侍が重用されたかというとそうでない。時は泰平、刀槍《とうそう》は鞘《さや》におさまり、舌先三寸の人づきあいや世渡りが幅を利かす。剛直一途の三郎兵衛は上司、同輩のみならず、数年後に藩主の座を継いだあるじ内匠頭長矩からも、忌み遠ざけられ、孤立の身となった。  寛文《かんぶん》十二年(一六七二)、赤穂藩創建の祖、浅野長直が卒中(脳溢血《のういつけつ》)で逝去し、嫡子|采女正《うねめのしよう》長友が相続したが、わずか三年で急逝し、その子長矩(内匠頭)が九歳で跡目を継いだ。  長矩は正室の子で、江戸藩邸で生れ、奥で育った。幼少のため君主の教育が不充分であった。さなきだに藩創建の苦役に堪えた家臣団と多くの新参藩士を抱えた家柄である。家臣は苦労知らずの藩主を適宜にあしらい、その意に背くこと多く、藩主は威光をふりかざしても通らぬことが間々《まま》ある。長矩の癇癖《かんぺき》はその辺に原因があったとも考えられる。  長矩が初のお国入りを済ませたのは、藩主の座に就いて八年目、十七歳の時であった。以来、三十五歳で死を迎えるまで、参覲《さんきん》交代で国許《くにもと》に在ったのは九回、九年に過ぎず、在所勤めの藩士や領国への思いが薄い。幼少の頃からの大名育ちで人見知りの激しかった長矩が、無骨な三郎兵衛に生理的な嫌悪感を抱いたのは、無理からぬことであったとも言えよう。  その三郎兵衛の資質に着目したのは、筆頭国家老の職を継いだ大石内蔵助良雄であった。  大石内蔵助は、馬廻百石の閑職にあった三郎兵衛を、宗門|改《あらため》に抜擢《ばつてき》、領内の社寺の取扱い、諸事処理、監督を一手に扱わせた。有職故実に明るい三郎兵衛にとってまさに適役であり、爾後《じご》二十余年、領内の神社寺院の紛争や不祥事は跡を絶ったと伝えられている。  元禄八年(一六九五)、三郎兵衛の妻みねが死去した。みねは同藩の納戸役刈部《なんどやくかるべ》喜左衛門の娘で、嫁して十四年、琴瑟《きんしつ》相和し、後の語り草になるほどの夫婦仲で、二年余|患《わずら》いついたみねの看護《みと》りに、三郎兵衛の献身は涙ぐましいものであった。  大石内蔵助は、傷心|癒《い》えぬ三郎兵衛を、元禄十年(一六九七)、参覲交代の列に加え、一年間の江戸詰を命じた。  ——江戸の繁華に身をおけば、少しは心の慰めとなろう……。  その心遣いは、かえって徒《あだ》となった。江戸到着後半年、三郎兵衛の身にあらぬ噂が流れ、それを耳にした内匠頭が咎《とが》めだてしたことから、君臣の間に口論が起こり、激怒した内匠頭は三郎兵衛を閉門に処し、禄を三十石に減らした。  翌年、国許に帰着した三郎兵衛から、大石内蔵助は委細を聴収した。  ——困ったことだ……。  世間知らず、と言うのは易い。世子と生れ育って大名屋敷の奥に育った君主というのは大方そういうものである。内匠頭長矩は九歳で君主の座に就いた。君主の持つ信賞必罰、極端に言えば生殺与奪の権は知るが、臣下への普遍的な慣例や、情理、恩情などの面で欠ける点のあったことは否めない。  ——それにしても、七割の減知とは……。  大名家に有勝ちな家督相続の争いでも、事が公《おおやけ》にならぬ限りにおいては、敗れた側の受ける処断は半知《はんち》減が限度である。たかが噂、それも真否をたださず七割減知とは苛酷《かこく》に過ぎよう。  内蔵助は、早速内匠頭に目通りを願って、告げた。 「江戸家老安井彦右衛門儀、役儀に欠くる廉《かど》あるによって、三十日の間、差控えをお命じ下さりますよう……」 「なに、彦右衛門に? 何の咎だ」  内匠頭にとって安井彦右衛門は、何事も意のままに計らい、背くことなき寵臣《ちようしん》である。 「家中の者のあらぬ噂に耳を傾けたるのみか、その真否も確めず、さりとて噂を打消す手だても取らず、ご主君の御名を傷つけましたること、まことに不届き至極……」 「なんだと? それは千馬三郎兵衛が事か」  思い当る内匠頭は、顔色を変えた。 「御意」  内蔵助は、平生の温和な表情であったが、一歩もひかぬ気勢を示した。 「そちは……三郎兵衛がみだらな噂の種となり、家名を辱《はずかし》めたことを存じおるのか、それを咎めたことが不当となじるのか」 「いや、そうは申しませぬ」  内蔵助は、おだやかに首を横に振った。 「なにびとにも、癇にふれること、腹立つ事は避けようがござりませぬ。お叱りになることにご遠慮は無用にございます。ただし……」  内蔵助は、温顔をあらため、炯《けい》と内匠頭を仰ぎ見た。 「赤穂浅野家を、ご一人のものと思召《おぼしめ》されるな。このお家、この城地は、先々君長直様、またそれがしの祖父良欽の代より、君臣相結んで築きあげました。なれど、大名家とは万代不易のものにあらず、領国にいつ何時《なんどき》天災地変が襲うやも量られず、また公儀は諸大名に監察の眼を絶やさず、わずかな瑕瑾《かきん》を咎め、減封、国替え、重ければ改易、遠流《おんる》。御当代将軍家の代の潰《つぶ》れ大名は、二十数家に及んでおりまする」 「…………」  内匠頭長矩とて痴呆者ではない。裕福と評判の五万三千石の所帯を守る筆頭国家老の苦心の心得を聞かされては、黙って聞くほかはなかった。 「侍というのは身分のものではない。心ばえのものであると、かつての山鹿素行《やまがそこう》先生の教えにござります。侍は常に家国の大変に備えるの心構えを持つことこそ肝要……天下は泰平とご油断めされますな。いざという時、頼みとするのは君主と家臣、互いに情理によって固く結び合い、厄難に立向わなければなりませぬ。その大切な人材を、軽々と一片の由なき噂で失うわけには参りませぬ」 「だがな、内蔵助、あまりといえばその噂が……」  内匠頭が、尚《なお》も言いつのろうとするのを、内蔵助は制した。 「噂の出どころ、真贋《しんがん》を、しかとお確めなされましたか」 「…………」  内匠頭は、たちまち詰った。 「噂というのは、元々妄想より発し、毒を撒《ま》き散らすもの、毒ゆえに聞く耳には面白うございますが、それに惑わされては大事を誤ります。聞けば相手方の女性すら事は偽りと申し、訴え出ようとは致さぬそうではございませぬか。そのような根もなき流言に惑わされ、禄《ろく》百石のうち七十石まで召し上げるとは、君主にあるまじき御振舞い……」 「内蔵助」  癇癖の内匠頭は、額に青筋を立てた。 「ま、お気を静めてお聞き下され、別段|急《せ》いてお叱り遊ばすことではござりませぬ。てまえのものの言い節悪《ふしあ》しければ、三郎兵衛同様、家禄千五百石のうち千石召し上げれば事済むことでござります」  内蔵助はたじろぐ気配も見せず、自若の態度で言葉を続けた。 「君、辱めらるれば臣死す、と申すことばがございます。臣は君主と生死|艱苦《かんく》を共にすべきもの、君たる者もまた臣下の体面を重んじ、一旦《いつたん》緩急あれば、そのいのちすら召し上げて事に応じなければなりませぬ。その臣下に対し、禄のうち十分の七まで召し上げるは、死にまさる恥辱と申すほかはありませぬ。さほどの重刑に処するくらいならば、何ゆえ永《なが》のお暇《いとま》をお与えなさいませぬか、その方がまだまだ救いようのあるご処分であったと存じます」  内蔵助は、咳一咳《がいいちがい》して、更に続けた。 「さて……千馬三郎兵衛儀は、先々君のお目に叶《かな》い、他日物の用に立つべき者と、同族千馬光親の養子縁組をお許しなされ、跡目相続をお認めなされました。その者を、片々たる噂と引替えに君臣の縁を断つ事は、とりも直さず先々君長直|君《ぎみ》のお目に狂いがあったと非を打つ事にほかなりませぬ。当赤穂藩の礎《いしずえ》を御築き遊ばされた先々君に、人を見る目がなかったと、ご明言遊ばされてお心に痛むことはござりませぬか、この儀、しかとお伺い申し上げまする」 「…………」  内匠頭の癇癪《かんしやく》は、水を浴びせられたように静まった。一代の名君と言われた先々代、浅野長直を持ち出されては、一言も返す言葉がなかったのである。 「では……内蔵助、どうせよと申すのだ」  内蔵助は、答えた。 「綸言汗《りんげんあせ》の如《ごと》しと申します。君たる者、一度仰せ出だされたご処分をお取消しになられますことは恥辱となること分明にございます。だが、三郎兵衛め、在府一年の間、由なき減禄の恥辱を忍び、お勤めを欠かさなんだこと殊勝の至り……依ってその功により、一年をさかのぼって七十石を加増、旧禄百石をお与え下さいますよう、あらためてお願い申し上げまする」  内蔵助は、胸のすく裁断をみせた。  以後二年余は事なく過ぎた。  旧臘《きゆうろう》、浅野内匠頭は、勅使|御馳走《ごちそう》役下命の内示を得た。当然人手不足である。国家老藤井又左衛門は所要の人数を整え、急ぎ出府することとなった。  江戸からの知らせのなかに、隠居の身で不時の御用をつとめることとなった堀部弥兵衛の手紙があった。 「此節《このせつ》物ノ用ニ立ツ輩《やから》少ナキ折柄、先般不祥ノ事有リト雖《いえど》モ、千馬三郎兵衛儀|実之節殊勝候之間《じつのせつしゆしようにそうろうのかん》、格別《かくべつの》以御詮議御捨《ごせんぎをもつておすて》無之様《これなきよう》ト存候」  有職故実《ゆうそくこじつ》、武家の礼法に精通した千馬三郎兵衛を加えぬわけにはいかなかった。  ——御家大事の折柄、再び争いが起らねばよいが……。  大石内蔵助は、ひそかにそれを案じていた。  白けきったまま、座は静まりかえっていた。  三郎兵衛を見つめる内匠頭の、白皙《はくせき》の額に青筋が立っているのが、はっきりと見えた。  陪席の安井彦右衛門に機転があったら、何とでも取成《とりな》し得たであろう。だが、先祖代々の高禄を食《は》み、前例に従うことのみを心掛ける官僚の彦右衛門にその才覚は無い。ただ当惑するのみであった。 「…………」  咳一咳した内匠頭は、努めて冷やかに言葉を発した。 「伝奏《てんそう》屋敷より戻る途次の出来ごと、すべて忘れたと申すのだな……それに相違ないな」  三郎兵衛も、冷やかに応じた。 「相違ござりませぬ」 「そうか、忘れたとあらば、強いて褒めることはあるまい。弥兵衛は三十石の加増をと願っておったが、取止めと致す。異存はないな」  三郎兵衛は、その内匠頭のものの言い節が気に入らない。わかりきったことを一々念を押す。押しつけがましいのである。  ——気の小さいお方だ。  それ以上に気に入らないのは、内匠頭の悋嗇《りんしよく》である。  赤穂浅野家は、勘定方専任、浜取締、金銀算用の筆頭国家老大石内蔵助の巧みな財政運用によって、富裕の聞えが高い。  にもかかわらず、内匠頭のつましさは度を越えていた。日常に用いる足袋も、破れたら繕いするうち、針の目が立たなくなるほどであったと伝えられている。  藩主の節倹は賞《ほ》むべきことであろうが、内匠頭は節倹を誇り顔にするばかりか、家臣にそれを強うるあたりに問題があった。  そのあらわれが、先年の千馬三郎兵衛の減禄である。あらぬ噂に聞き耳を立て、藩主自らが詮索《せんさく》に当り、はかばかしい応答がないのに苛立《いらだ》って、一挙に七十石もの禄をへずる。  それがいま、功あって加増となると、わずか三十石を惜しんで取止める。悋嗇と言われても致し方ない。  抑《そもそも》旗本との悶着《もんちやく》は、表沙汰《おもてざた》を避けるため三郎兵衛が機転でおさめた出来ごとである。加増なり褒賞なり与えるには、それなりの呼吸がある。 「その方の勤めぶり、みごとである」  その一言で、与えるものを与えればよい。殊更言い立てるあたりに器量がうかがえるのだ。 「謂《いわれ》なき御加増は、平に御免を仕《つかまつ》る。以後お忘れ願いとうござります」  三郎兵衛がきっぱりそう言い放つと、安井彦右衛門が狼狽《ろうばい》の色をあらわに咳払《せきばら》いした。  ——家中の者への聞えもございます。ご褒賞が無《の》うては叶いませぬ。  このまま三郎兵衛を退《さ》げては、内匠頭の悋嗇はますます家中の評判になろう……彦右衛門は、それを懼《おそ》れた。  彦右衛門の目配せに、内匠頭は苦り切った。  癇癖の内匠頭は、事の是非より、三郎兵衛の面憎《つらにく》さに腹が煎《い》れた。 「三郎兵衛、これをやろう、とれ」  脇差《わきざし》を腰から抜きとると、前に差出した。  当然、拝受すると思った三郎兵衛は、沈黙したなり、動こうとしなかった。  見かねて、安井彦右衛門が膝《ひざ》をすすめ、受取ると、三郎兵衛の前に運んだ。 「千馬三郎兵衛、殿の思召《おぼしめし》である。有難くお受け致せ」  三郎兵衛は、顔面朱をそそぎ、こうべを下げたが、手を出さない。  ふっと、内匠頭の脳裏に、魔が閃《ひらめ》いた。 「三郎兵衛、そちは後難を恐れて、相手の股間《こかん》を蹴《け》り上げたそうだな。先年の醜き噂と言い、どうやらそのあたりがその方の得意わざのようだ」  三年前のあらぬ噂は、三郎兵衛の女色にかかわるものであっただけに、その言葉の毒は三郎兵衛の顔色を失わせた。  この時、三郎兵衛は死を決した。 「切角ながら、いささか存念あり、拝領致しかねます」  断乎《だんこ》とした三郎兵衛の切口上に、内匠頭はかっとなった。 「何ゆえ予の授くるものを拒む。わけを申せ、わけを」 「恐れながら……侍があるじから賜わる御刀には、重き意がこめられております。その刀を持ってあるじのお命を守り、あるじこの世を去るときは追い腹仕る。その覚悟が無うてはお刀の拝受は致しかねるものと心得ます」  内匠頭は、みるみる顔色を失ない、眼が血走った。 「すると、その方は……予のために命を捨つる覚悟が定まらぬ、と申すのだな」 「御意」  主従は、裂帛《れつぱく》の気をこめて睨《にら》み合った。  安井彦右衛門は、あまりの事の成行に口が乾き、発しようとする言葉が出ない。  一瞬、内匠頭の脳裏に閃いたのは、先年の内蔵助の訓話であった。 「三郎兵衛、意に叶わぬによって永の暇をとらす。左様心得よ」  内匠頭は、すっくと座を立つと、足音荒く奥へ去った。  三郎兵衛は、平伏したなりで動かなかった。      三  夕闇が迫ると、鉄砲洲|界隈《かいわい》は、汐《しお》の音が強くなる。  海が近い。東の端には波除稲荷《なみよけいなり》がある。この地は明暦《めいれき》の大火後に、公儀普請方桑山伝兵衛が奉行となって築《つ》き出された。築地の名の由来である。  波除稲荷のある町を、南小田原町という。薪《まき》・炭・石材などの問屋が多い。  その一角に、小ぶりな料理茶屋があった。  名を�花葉《かよう》�という。謂《いわれ》は備前岡山の名園後楽園の池の名、とか。入れこみの部屋は客ごとに小屏風《こびようぶ》で仕切って四組、ほかに小部屋が三つ。小ぢんまりとまとまって簡素ながら雅致あって、武家ならば高禄《こうろく》の旗本、大名家の留守居役、商人は問屋筋の旦那《だんな》など、贔屓《ひいき》客も上乗である。  女あるじはりえという、年の頃三十前後の大年増だが、その美貌《びぼう》は尋常でない。細身のすらりとした姿形もさることながら、抜けるような柔肌《やわはだ》、細面《ほそおもて》、風にも耐えぬ優美の中に凜《りん》とした芯《しん》があって、それが魅力となっている。  料理は、弥平《やへい》という老人が板場を預っている。  土地柄、魚介は新しく、弥平の腕はなかなかのものである。ほかに小婢《こおんな》が二人。 �花葉�は、暮六ツ少し前に店をしまう。夜は稼業を営まない。  その日も夕暮どき、小婢の一人が暖簾《のれん》を外していると、足許《あしもと》に人影がさした。 「おあいにくでございました。板場は火を落しましたので、またの折にどうぞ……」  顔をあげて、見て微笑んだ。 「ま、千馬さま……」  三郎兵衛であった。日頃の固苦しい表情がゆるんで、楽しげな笑顔であった。 「りえどのはおられるであろうな。折入って話がしたい」 「は、はい、少々お待ちを……ま、お入りなさりませ」  小婢の行儀作法は行届いていた。  弥平は、落した火を焚《た》き、酒を温め、肴《さかな》を料《はか》り、小座敷へ運んだ。 「ご苦労でした。弥平、そなたもここにお坐《すわ》りなさい。一緒に三郎兵衛さまのお話を聞きましょう」 「は、はい……」  おずおずと坐る弥平に、りえは言葉を継いだ。 「三郎兵衛さまは、到頭浅野さまへの御奉公をお見限りになられたそうですよ」 「え、それは……」  弥平は、絶句した。侍が奉公を辞め浪人するというのは、町人が身代限りをするよりもっと大事《おおごと》であり、生活《たつき》の道を失うことは、侍の身の尊厳を失うことに通じている。 「そう揃《そろ》って暗い顔をするな。わしは好んで暇をいただいたのだ」  三郎兵衛は、快活にそう言った。 「ありようはな。養い親の三郎兵衛どのが身罷《みまか》り、家督を嗣《つ》いで十一年目に、わが殿が初のお国入りをなされ、はじめてお目通りした……その時に、仕舞《しも》うたと思ったのだ。養子になったのは一期《いちご》の不覚、取返しのつかぬことになった、とな……」 「取返しのつかぬこと、と仰《おつしや》りますと……」  と、弥平が口をはさんだ。 「何と言えばよいか……まったく性《しよう》の合わぬ御方であった。些事《さじ》のみをあげつらうご性格……事ごとの御癇癖……いや、それよりも常に青筋立ったお顔、ひ弱い肌、三白の御眼、甲高いお声……何もかもが厭《いや》だった」 「その時、お幾つでございました。あなた様は……」 「三十一歳。殿は確か十七歳であったと思う……侍はな、君に仕え、君命を奉じて死を厭《いと》わぬのが本分……それが肌の合わぬ御方とあっては、侍の道の立てようがない」  三郎兵衛は、苦笑を浮べた。 「みょうなものだ。わしが好かぬと思うたら、殿も同じだ。よほどわしを嫌いとみえて、事ごとに冷たくあしらわれた。余の者なら笑って済ます事柄でも、悪意としか思えぬ扱いをされた。これは互いの不幸、としか言いようがない」  りえは、深い溜息《ためいき》を洩《も》らした。 「それにしても、もう二十年近い長の年月……どこぞで折合いのつかなかったものか、と思います。さして好かぬ者同士でも、夫婦《みようと》となれば三年五年のうちに折合い、むつみ合うが世の常……」 「それは男と女の間柄、男のつきあいはそうゆかぬものだ」  三郎兵衛は、酒盃《しゆはい》を啜《すす》った。 「人は女子を悋気《りんき》の虫というが、まことは男の方が何層倍も嫉《ねた》み深い。猜疑《さいぎ》、反感、やっかみ、そねみ……一度憎しみを抱いたら、三年五年、十年前の事でも忘れぬ……」  りえの顔が、さっと翳《かげ》った。 「では、浅野様は、まだあの時のあらぬ噂を……」 「…………」  三郎兵衛は、一瞬、口をつぐんだが、あきらめたように口を切った。 「この度も口にされた……その口ぶりに卑しさがみえて、お暇をいただくきっかけとなった」 「…………」  こんどは、りえが口をつぐむ番だった。      四  りえの本姓は津川、備前岡山三十一万五千石池田侍従綱政の家臣、津川門兵衛の娘である。十八歳の折、丹波|園部《そのべ》二万六千石|小出信濃守英利《こいでしなののかみふさとし》の家臣で江戸屋敷|右筆《ゆうひつ》方の三谷平四郎という若侍の許に嫁いだ。  だが、その夫婦暮しは三年で終る。三谷平四郎は非番の日、悪所で遊んでの帰途、辻斬《つじぎり》に襲われ、抜き合わす暇なく斬られ死んだ。  園部藩は、その不覚を咎《とが》め、三谷の士籍を削ったため、若妻のりえは岡山の実父の許へ戻るしかない身となった。  文弱な夫に飽きたらぬりえであった。その上、不覚の汚名を蒙《こうむ》っての死とあっては、父の許に帰っての寄《かか》り人《うど》には堪え難い思いがあった。  園部藩からは、江戸家老の計らいで、りえに涙金が渡された。武家暮しを思い切ったりえは、その金で鉄砲洲に料理茶屋を購《あが》ない、店を開いた。嫁ぐ際、父の許から伴なった下僕の弥平が料理方を乞《こ》うてでた。茶屋の名をふるさとゆかりの�花葉�と名付けた。 �花葉�は、幸い客の評判を得て繁昌《はんじよう》した。  店を開いて四年目に、思いがけない客があらわれた。母方の縁者である千馬三郎兵衛が訪れたのである。  りえが幼ない頃、赤穂藩士となった三郎兵衛が二度ほど岡山の家を訪れたことがある。子供心に、凜々《りり》しい若侍の三郎兵衛がどれ程|眩《まぶ》しく見えたことか、その面影はりえの瞼《まぶた》に長く灼《や》きついていた。  千馬三郎兵衛は、妻を失った中年過ぎの侍となっていた。往年の匂うような若さは失せたが、精悍《せいかん》を内に秘めた渋い風貌《ふうぼう》に、昔の面影をとどめていた。  参覲《さんきん》交代の列に加えられて、はじめて江戸入りした三郎兵衛は、血縁の温かさに惹《ひ》かれて、度々�花葉�に通うようになった。  りえも生れ在所を離れての他国暮しが続いている。昔話をなつかしむ三郎兵衛を、商売気を離れて迎えるようになった。  突然、二人の間に、不幸な噂が立った。 (赤穂浅野家の侍が、評判の花葉の女あるじを手込めにしようとした)  夏の日の夕暮どき、俗にいう逢魔《おうま》が時《とき》の出来ごとであった。  浅野家とは堀ひとつへだてた丹後宮津九万石|奥平《おくだいら》家の家中の者二、三名が、花葉に立寄った。  あいにくと、その日、花葉は早仕舞《はやじまい》していた。板場を預る弥平が漬物|樽《だる》を片付けようとして腰を痛め、立居もままならぬ有様となったためである。  大兵《だいひよう》の弥平を介助するため、小婢が二人付き添って、十町ほど離れた木挽《こびき》町の接骨医の許へ診療に出向いた。店を閉じた花葉には、りえがひとり留守居をしていた。  奥平家の家中の者は、少し酔っていたようである。早仕舞の貼紙《はりがみ》にもめげず、内に入った。  すると、奥の小座敷から、女の切迫した呻《うめ》きまじりの声と、人と人が争うような物音が聞えた。 「あ、もう、おやめ下さりませ、も、もうこれ以上は……つ、痛《つ》う……辛《つろ》うございます」  たまりかねて一人が声を掛けた。 「おかみ、如何《いかが》致した、何か変事あったか」  声も呻きも、ぴたりと止み、物音が静まった。 「おかみ……」  再度声をかけると、小座敷の障子が開き、りえが姿をあらわした。 「あ、これは奥平様の……いえ、きょうは少々取込ごとがございまして、店は早仕舞させていただきました。どうぞ、またのお越しを……」  取繕っているが、りえの様子は只事《ただごと》ならず見えた。帯紐《おびひも》は緩み、衣紋《えもん》や裾前《すそまえ》の乱れようは隠しようもない。  それより普段は冷たくさえ見える端麗な顔《かん》ばせが上気して、鬢《びん》が解《ほつ》れている。  りえが、奥平家の客の前に立ちふさがり、押し出そうとしたそのとき、小座敷から佩刀《はいとう》を手に、三郎兵衛が出てきた。 「りえどの、そろそろ門限の時刻ゆえ、帰る……またな」  憎体《にくてい》に見える程、落着き払った物腰であったという。その三郎兵衛に一言も発せず、ただ頷いてみせただけのりえの一瞥《いちべつ》は、恨みをこめたような凄絶《せいぜつ》さをたたえていた……と、奥平家の家中の者は話し伝えた。  噂は、近隣にひろまった。なかにはりえに問い質《ただ》す者もあった。りえはその度ごとに眉《まゆ》をひそめ、 「根も葉もないことでございます。一向に覚えございませぬ」  と、にべもなく答えるだけであったし、三郎兵衛は相手を軽蔑《けいべつ》したように見返し、一言も発することはなかった。  その噂は、やがて三郎兵衛の主君である浅野内匠頭長矩の耳に入った。  内匠頭は、癇癖《かんぺき》と悋嗇《りんしよく》の上に、ひどい潔癖症であった。神経過敏症の者によくみられる性癖である。  三郎兵衛は、内匠頭の御前に呼び出され、詰問された。 「その方の身状《みじよう》について、世上によからぬ噂が流れおると聞き及んだが、覚えあるか」  三郎兵衛は、能面のような顔で、答えなかった。  ——何たる狭量。これが一藩を統《す》べる殿か。  たかが噂である。それも明らかに揣摩臆測《しまおくそく》から出た艶聞《えんぶん》めいた卑猥《ひわい》なものだ。君主が耳にすべきものではない。  それを更に詮索《せんさく》するに至っては、もはや論外というしかない。 「覚えはあるかと聞いておるのだ」  内匠頭は声高になった。 「答えい。主命であるぞ」  陪席の江戸家老安井彦右衛門が、畳を叩《たた》いた。これは小人《しようじん》である。小人窮すれば斯《ここ》に濫《らん》す。論語・衛霊公にある。 「てまえは、未《いま》だその噂を耳に致しておりませぬ。如何様《いかよう》な噂か、とくとお聞かせ願いとうござる」  三郎兵衛は逆襲した。  内匠頭と安井は、顔を見合わせた。それは情事も情事、口に出すことも憚《はばか》られる醜猥《しゆうわい》な噂である。 「おのれ……偽りを申すな、当のその方が知らぬ筈《はず》はあるまい」 「これはしたり。てまえは武士、侍身分をもってあるじにお仕え申しております。武士に二言なし。それをお疑いなさるとあれば、あるじとて容赦はなりかねまする。それを明らかにしていただきます」  まさに正面衝突である。内匠頭は癇癪《かんしやく》に顔を朱に染め、三郎兵衛を睨みつけたが、憤然と席を立つと、足音荒く立去った。 (主をないがしろに致す段、重々|不届《ふとどき》に依《よ》り三十日間閉門|被仰付《おおせつけらる》)  三十日後に下った処分は、禄《ろく》百石のうち七十石召上げ、御馬番という卑役づとめであった。  その処分は、次の年、参覲交代で赤穂に帰着するまで続いた。      五 「よほど根に持っておられたのであろう。それをまた仰せられた……先年は我慢したが、再度となると堪忍しかねた。それでこの始末よ」  三郎兵衛は、冷えた酒を啜《すす》った。 「あらぬ噂、とは申せ、わたくしのために、そのようなご迷惑をお掛けして……」  りえは、消え入りたいように、身をすくめ、うなだれた。 「まったく、なんてことだ……人一人のいのちにかかわることを、軽はずみに言いふらしやがって……」  弥平は、愚痴をこぼした。  噂は、誤解から生じた。  あの日、三郎兵衛が花葉を訪れたとき、りえは早仕舞した店のなかで、ひとり留守居していた。  三郎兵衛は訳を聞き、弥平を見舞おうと早々に店を出ようとした。見送りに立ったりえは、突然土間にかがみこみ、痛苦の呻き声を洩らした。  癪《しやく》であった。三郎兵衛は亡妻が度々起こす病歴があったので、その手当に慣れていた。  小座敷に抱え入れると、背をまるめて苦しむりえの背中の急所を指圧した。  りえの差込みは頑強で、生半可な指圧では悶《もだ》え苦しむばかりである。三郎兵衛は背中にのしかかるように、指先に体重をかけ、ひたすら押した。  りえの癪は次第におさまり、病痛より指圧の痛みを訴えかけたとき、店先に入ってきた奥平家の家中の者が声をかけた。  ありのままを告げるには、憚《はばか》る状況がそこにあった。急病といっても、女体に手当を施したことは紛れもない。鬢髪《びんぱつ》のほつれ、乱れた衣紋《えもん》と裾前《すそまえ》、上気した顔色……そして何よりも、屈強の男とか弱い女が、ほかに人のいない一ツ家に時を過したという事実……。  何事もなかったように振舞ったことが仇《あだ》となり、おかしげな噂が立った。 「なまじ弁解はせぬように……このような噂は、まことを話したとて誰も信じようとはせぬ、おのれの潔白を示すためには、毅然《きぜん》として話柄《わへい》をしりぞけることだ」  三郎兵衛の分別は、噂の鎮静に効あったというべきであろう。りえの周辺の噂は程なくおさまった。  だが、三郎兵衛の身には、思わぬ災厄がふりかかり、長く尾を引いた。 「こうなったのは噂の所為《せい》ではない。殿とわしの性格の歪《ゆが》みだ。気にせぬことだ」  三郎兵衛は、そう言って、明朝江戸を発《た》ち、国許《くにもと》赤穂へ帰る旨《むね》を告げた。 「わしは在所勤めの身、国許で手続きを済ませ、屋敷を返上して後、藩籍を抜ける。また縁あらば会うこともあろう。折角堅固に暮してくれい」  三郎兵衛は、さばさばとした様子で去って行った。  門口で見送ったりえは、部屋に戻りがてら弥平に言った。 「わたしは……どうしたらよい。そなた、どう思います」  事の真因はどうであれ、あらぬ噂から侍ひとりの士籍を失わせた。噂のもとはりえの身から生じた事だけに、自責の念は深い。りえの心は千々に砕けた。 「さ、それは……」  弥平は、あるじの心をさぐるように、ひたと見つめた。 「お覚悟次第でございましょう」 「覚悟、というと……」 「もはや、子供ではございませぬ。ご自身のお心をよくよく見定め、思うように振舞うこと……それしかないと存じます」  りえの幼少の頃から、その身近に仕えた老僕の真情が、その言葉にあふれていた。  千馬三郎兵衛は、ゆるゆると旅を楽しんだ。藩籍を抜ける身とあって、多少の荷がある。宿場の問屋場でその運び手を雇う。それがどの宿場、どの問屋場に立寄っても、赤穂浅野の名を出せば、駕籠《かご》でも馬でもたちどころに調え、宿の手配も充分行届く。  ——これが、昼行燈《ひるあんどん》の仇名《あだな》の謂《いわれ》か……。  筆頭国家老の大石内蔵助は、〈昼行燈〉と蔭口《かげぐち》を叩《たた》かれている。  昼間の行燈は、無用の物という意味ではない。日中に灯をとぼす行燈は、油を無駄に費すだけで、何の効用もない、というのである。  たとえば、内蔵助は、家老職を継いで二十余年、節季ごとに江戸|伝馬《てんま》町の問屋をはじめ、主な宿場の問屋場と宿役人に、付届《つけとどけ》を落ちなく配った。  その効用は、江戸から赤穂へ早打《はやうち》(早使)を立てたときにあらわれた。赤穂浅野の早打が百五十五里の行程を五日半で踏破したのに比べて、隣国備前岡山池田家の早打は十四日かかったという記録がある。  だが、その二十余年間、一刻を争う早使を立てたのは、わずか二度(程なく三度になるのだが)に過ぎない。あとは参覲交代の道中のほか、藩士が往《い》き来《き》の時、その余慶にあずかるだけである。もし一代の間に藩の危急にかかわる大異変が起こらなければ、それこそ昼間とぼす行燈の油のむだ費《づか》いと咲《わら》われるに違いない。  ——一藩を預る侍は、かくありたいものだ。  三郎兵衛は、三年前、禄を三十石に減らされて帰国した時、迎えた大石内蔵助の慈顔を思い出した。 「おぬしがよいの、殿が悪いの、というのではない。恨みに思わず励め」  と、禄を百石に戻すよう内匠頭に進言した後、 「殿が如何《いか》ように思召《おぼしめ》そうと、赤穂藩はおぬしを頼みとしておる」  とまで言い添えてくれた。  ——大石どのに、顔を合わせるのは辛い。  前の減禄と異なり、永の暇《いとま》の申渡しは取返しのつかぬ事柄である。筆頭国家老とはいえその上意をくつがえすことは、あるじの尊厳を踏みにじることに等しい。  六歳年下ながら内蔵助は、三郎兵衛にとっては重きが上の重き存在である。その人の辛い立場を思うと、消え入りたい心地がした。  途中、摂津|高槻《たかつき》に立寄り、帰農している老父求之助に、委細を告げ、妻みねが死去したあと、養育を頼んだ幼少の娘二人と会った。 「侍奉公には、間々《まま》そういうことがある。気性の合わぬあるじに仕えることほど辛いことはない。わしもそれで仕官を辞し、こうして百姓暮しの身となった」  齢《よわい》八十に近い父求之助は、殊の外理解が早かった。 「幸か不幸か、養家の千馬の家は身寄りがなく、家を潰《つぶ》しても苦情を言い立てる者はない。致仕したあとはこの家に戻り、わしの跡目を継げ。田畑八町歩あまり、あるじ無しの百姓暮しは気楽でよい」  これで、浪人後の生活《たつき》が立った。三郎兵衛は数日滞在後、赤穂への最後の旅を続けた。      六 「江戸の安井彦右衛門から、その旨の早飛脚が届いておる」  帰国した三郎兵衛が、その足で登城したのは三月十四日の昼下りであった。  この日、江戸では、赤穂浅野家にとって一大異変が起こっていた。  だが、それを知る由もない大石内蔵助と千馬三郎兵衛は、赤穂城内黒書院で対面した。 「致しようもない事となった。この数日、様々に勘考してみたが、永の暇と仰出《おおせい》だされては救いようがない。ひとまず藩籍を離れてくれ」  内蔵助に傷心の色はなかった。日常の用事を足すように、淡々と言葉を続ける。その温顔には微笑みさえ浮べていた。  ——大石どのの、大石どのたる所以《ゆえん》だ。  緊張の色のまだ失せぬ三郎兵衛は、舌を捲《ま》く思いだった。なまじ内蔵助が悲傷の色を見せれば、それは同情に似て、かえって三郎兵衛に居たたまれぬ思いを与える。 「では、まず勘定方の当用を済ますとしよう……おぬしの当家での御奉公は、切りよく明三月十五日としたい。異存はないか」 「は、よろしゅうにお頼み仕《つかまつ》ります」  それで、運命の日は決まった。 「勘定の事を申渡しておこう、禄百石、春の御切米は十二石五斗、御役料三十俵の四ツ割が七俵半、合せて十五石一斗、両に替えて十二両なにがし、明日勘定方より給する……よいな」 「恐れ入ります」 「知行|宛行状《あてがいじよう》は、その折に渡す」  知行宛行状とは、浪人後、前歴知行の証明となる書付をいう。  内蔵助は、手控えの手帖《てちよう》を閉じると、くだけた物腰で言った。 「おぬしは六年越しのやもめ暮し、家に帰っても夕餉《ゆうげ》がままなるまい。今宵《こよい》わしが家で飯食わぬか、どうだな」 「は、ありがたく……」  三郎兵衛は、深々と頭を下げた。  内蔵助の屋敷は、内山下《うちさんげ》と呼ばれる城内二ノ丸門外にある。屋敷の奥庭は、延宝《えんぽう》四年(一六七六)に世を去るまで、内蔵助と共に暮した祖父良欽が造り、遊息堂《ゆうそくどう》と名付けた離屋《はなれや》座敷があった。  内蔵助は、その夜、三郎兵衛と、遊息堂で夕餉を共にした。 「御雑作に与《あずか》りました」  あるじが客を招く酒席には、家の妻女、子女は給仕しないのが、武家の仕来《しきた》りである。内蔵助の用人|瀬尾《せのお》孫左衛門が膳《ぜん》を下げた。 「時に三郎兵衛」  火照《ほて》った顔の内蔵助は、茶を啜《すす》りながら言った。 「おぬし、養家の千馬の家を継いで何年になる」 「さよう……二十九年を過ぎました」  三郎兵衛は、陶然とした顔で答えた。 「ほぼ三十年か……人の一生の最もよき年代を費し、それが空《むな》しく終った……御|扶持《ふち》離れしたことに悔いはないか」  内蔵助の口調は、軽やかだった。 「御家老」  三郎兵衛も、浮々とした口調で答えた。 「楽あれば苦あり、苦あっての楽、と申します。てまえはいま、ようやく肩の荷を下ろし、桎梏《しつこく》から解き放たれた悦《よろこ》びに浸っております。これも長い責苦あってのものと思えば、さして悔いはございません」 「なるほど、物は考えようだ」  内蔵助は、苦笑した。 「わしの方は、悔いばかり残る。おぬしは赤穂藩にとって、残しておきたい者の一人であった」  内蔵助は、辞色をあらためて、言葉を続けた。 「そこで尋ねるが、この先の事に何か目算はあるか」 「さあ、それは……いや、思慮浅しと思われるかは存じませぬが、てまえ先々の事を考え功利を量ってのお暇乞《いとまご》いではござりませぬ。それゆえ、未だ……」  内蔵助は、頷《うなず》いてみせた。 「では、わしの考えを言おう。おぬしの行く道は三つある……一つはこの赤穂にとどまって、浜方塩取引の裏御用をつとめぬか、応分の蔭《かげ》扶持を給する上に、三年五年のうちに帰参を計ろうてやる」 「…………」  三郎兵衛は、微笑を浮べながら、次の言葉を待った。 「第二に……赤穂浅野家には二度と仕官せぬというなら、御|親戚《しんせき》筋への再仕官を計ろうてもよい。大垣の戸田、三次《みよし》浅野なら何とかなろう。広島の浅野御本家は憚りあるかも知れぬが……」 「それで、三ツ目はどのような……」 「どうやらおぬし、いま言うた二ツの道は気に染まぬようだな」  内蔵助は、あきらめたように言った。 「あとはおぬしの心任せだ。おぬしの一生はおぬしのもの、好きなように生き抜くことだ。あるいはそれが一番おぬしの気性に合っているのかも知れぬ。わしは先年、おぬしの減禄《げんろく》を償うよう殿にお願いしたが、あれは余計な事をしたようにも思うのだ」 「では……仰せの通り、気儘《きまま》に浪人させていただこうと存じます」  三郎兵衛は、深々と頭を下げた。 「先ほど、ほぼ三十年の御奉公が空しく終ったことに、悔いはないと申し上げましたが、別の悔いがあります。それはご家老と同じ代に御奉公致したことでござる」 「そうか、それほどまでに嫌われているとは思わなんだな」  内蔵助が、苦笑の態を示すと、三郎兵衛は渋面をつくり、独り言のように続けた。 「ご家老は、人たらしの名人でござる。馬廻《うままわり》役で五、六年、隔年ごとに殿の間近に御奉公するのが辛《つら》く、お暇《いとま》を願おうかと思案するうち、宗門|改《あらため》のお役にて郷方《さとかた》廻り、ついうかうかと月日を送りました。思えば憎いお方でござる」  頷いた内蔵助は、傍らの机に用意した袱紗《ふくさ》包を取って、三郎兵衛の前に置いた。 「では、その償いに、これをやろう」  袱紗の中身は重い。金包とみえた。 「わしはお家非常の時に備えて、ここ十余年、役立つ者に禄の外、撫育《ぶいく》の金を配ってきた。だが、おぬしは、思うところありと称《とな》えて受取らなんだ、その金が積り積ってここにある……取れ」 「いや、それは……」  三郎兵衛が拒む気配を示すと、内蔵助は、圧する語勢を示した。 「これは、わしが一存……わしが眼鏡で選んだ。中には役立たぬ者も出よう。また一代のうち、非常の時が到来せず終るやも知れぬ。それでよいのだ。すべてはわしが心の安らぎのため……そう思うておる。おぬしが拒むことはない。わが身についた金運と思え」 「…………」  三郎兵衛は、言葉なく、ふって湧いた当惑と闘っていた。 「人はな……努力、精進のものという……わしは怠けもので、そうばかりとは思わぬのだ。人の一生は天運にある……わしが家老の家に生れついたのも天運、おぬしが養家を継いだのも天運……おのれの努力、精進のせいではない。天から授かった運ではないか」 「…………」 「三十年前、今日のお扶持離れは思いも寄らぬ事であった。いや、昨年の今ごろ、かかる事になろうとは、われ他人《ひと》ともに思わなんだ……それと同様、来年の今ごろ、三年五年先に、おぬしもわしも、どのような日を迎えるか人のはかり知るところではない」  三郎兵衛は、頷いてみせた。 「それゆえわしは、日々を悔いなく送りたいと思い……頼みとする者へ撫育の金を与えた……そのなかに、おぬしを加えた。おぬしがこれを拒めば、わしが十余年の心の備えに、一点の瑕瑾《きず》が残る。是非にも受取れ。それで心置きなく、笑って別れようではないか」  三郎兵衛は、袱紗包に手をさしのべ、内蔵助の顔をふり仰いだ。内蔵助の慈顔がそこにあった。 「ありがたく……頂戴《ちようだい》仕る」  三郎兵衛の声は、うるんでいた。      七  三月十五日、千馬三郎兵衛は退身の経次をすべて終り、屋敷の返上を二十日と定めた。  家財の始末は、下僕と下婢《かひ》のほか、内蔵助の計らいで、浜方御用の回船問屋から手代、人足が来て、梱包《こんぽう》にかかった。それらはすべて船便で、摂津高槻の実家へ搬送する。  その間、三郎兵衛は、知己への別離|挨拶《あいさつ》に追われた。長年の宗門改の職務柄、領内の神社や寺々へも廻る。殊の外の繁忙であった。  十八日には、領内|佐用郡《さよごおり》に足を延ばしたため、帰宅は夜になった。  ようやく春の暖気が訪れていた。酔いの廻った頬に、夜風が心地よい。道傍の柳は芽から嫩葉《わかば》に変りはじめていた。  玄関に入った三郎兵衛は、家の中へ声をかけた。 「いま帰った」  声に応じて出てきた人影は、下婢ではなかった。 「お、そなたは……」  驚く三郎兵衛に、三ツ指ついた女性《によしよう》は、丁重に頭を下げた。 「お帰りなさりませ」  武家の妻女姿に身なりは変っていたが、紛《まご》うことなきりえであった。 「旦那《だんな》様、お洗足《すすぎ》を……」  洗足|桶《おけ》を運んで、弥平があらわれた。  三年前、あらぬことではあったが、おのれの身から立った噂は、千馬三郎兵衛の侍の境遇を断ち切った。  ——女の身として、償いの途《みち》はあろうか。  りえは、激しい自責の念にかられた。 「そなたの所為《せい》ではない。これは殿とわしとの悶着《もんちやく》」  と、三郎兵衛は言う。だが、それで済まされぬ思いがあった。 「御自身の心を、しかと見定めなされ」  と、長年仕える弥平が言う。それでりえの決心は定まった。  三郎兵衛が江戸を発《た》った日、�花葉�は店をたたんだ。家の始末を懇意な大店《おおだな》のあるじにゆだね、りえと弥平は三郎兵衛の後を追った。 「どうも、いささか早まったような気がするが……」  奥の居間で、りえと差し向いの三郎兵衛は、深い溜息《ためいき》を洩《も》らした。  互いの前に膳《ぜん》がある。膳といっても載っているのは剣先《けんさき》するめの裂いた小皿が一枚、小ぶりの湯呑茶碗《ゆのみぢやわん》が一つずつ、互いに咽喉《のど》が渇くたびに冷や酒を啜っている。 「早まった、と申しますと、三郎兵衛さまはご退身なされることを、はや御後悔なされますか」 「わしが事ではない。そなたの身状《みじよう》だ」  三郎兵衛は、舌打したい気だった。  ——物わかりのにぶい女子だ……。  宵の口から、話が遅々として進まない。  自らの方が不時に訪れたくせに、りえはしきりと三郎兵衛のその後を聞きたがった。摂津高槻の実家の暮し向きや、老父の意向、預けてある幼ない二人の子のこと……。  三郎兵衛は、問われるままに喋舌《しやべ》り続けた。りえは商売柄聞き上手だった。それ以上に、三郎兵衛は喋舌りたがった。喋舌っている方が気が楽だった。鉄砲洲の花葉では、店の客と女あるじという気のおけない間柄でもあり、強いて喋舌らなくても適当に間がもてた。だが、こうして男と女が、一ツ家のなかで、時を顧慮することなく向き合う。やもめと後家の身、すでに致仕した身だから誰|憚《はばか》ることはない。  だが、そうなると三郎兵衛は、りえの存在に圧倒された。  ——なんという美しさだ。  亡妻のみねは、気だて心延《こころば》え二人とない好ましい女だったが、美形ではなかった。言うなれば個性的な容貌《ようぼう》であり、添うて暫《しばら》くは淡々とした間柄だった。それが子を生み、親しみを増すにつれ、魅力が湧いた。  ——あのような女子は、ほかにない。  元来が人づきあいの苦手な男である。やがて五十を迎えようという生涯に女気は乏しかった。理屈好きでおのれを枉《ま》げることのない三郎兵衛は、女に好かれぬたちであることを、誰よりも深く自覚していた。  それだけに、前の艶聞《えんぶん》めいた噂は片腹痛く、それを詰問する内匠頭の狭量を、殊更に憎んだと言える。  ——せめて、弥平でも同座してくれたら……。  と、思う、が、その弥平は、老いの身に急ぎ旅はこたえた、とあって、早々に引こもった。今ごろは与えられた小間で高鼾《たかいびき》であろう……。  話は長々と続いた。赤穂帰着後の話、わけても国家老大石内蔵助とのいきさつには熱が入った。 「それで、これからどうなされるおつもりでしょうか」  りえの、キラキラ光る眸《め》に見つめられると、三郎兵衛は急に狼狽《ろうばい》した。 「どうすると言って、別しての思案はない……高槻の親父《おやじ》どのの許《もと》へ参り、百姓仕事の手伝いなどして、幼ない子を育てるつもりだ。いずれも女子、いずれは嫁に出す身、その辺は気楽なものだが……」 「では、再仕官のお望みは……いえ、お心次第で、岡山の実家《さと》の父にも力添えを頼んでみては、と存じますが」 「いやいや、それは止めていただこう。この年でまたの仕官は少々|辛《つら》い……」  三郎兵衛は、知らず知らずの間に呑んだ酒の酔いを感じた。  冴《さ》やけき眸《ひとみ》、丹花の唇、白妙《しろたえ》の肌……眼も昏《くら》む思いが、脳裏を攪乱《かくらん》する。  ——わが事ばかり話しておる。  問題は、りえが店をたたんで、遠い赤穂まで後を追って来た事にある。 「わしが事は、もう片がついた」  と、酒をひと口呑んで、りえの行動に話柄《わへい》を移した。 「ま、たたんだ店は、また開けばよい。早急に売れてしまうこともなかろう……」 「いえ、もう二度と再び、店を営むことはありませぬ。思いを断ちました」 「それでは、岡山の親御の許へ戻られるか」  りえは、首を横に振った。 「わたくしも、三郎兵衛さまと同様に、先の思案が立っておりませぬ。ただひとつ……」  りえは、言いよどんだ。 「ただ、ひとつ……と、言われると」 「あらぬ噂のために、三郎兵衛さまはご身分を失い、わたくしは生活《たつき》の店が無《の》うなりました。それが口惜しゅうございます」 「…………」  三郎兵衛は、りえの気魄《きはく》に気押《けお》され、見つめるばかりであった。 「先年、噂の立った折に、致しようを誤りました。打消すことの叶《かな》わぬ噂ならば、あらぬことを真にかえすのが道であった……と、思います」 「真にかえす、とは……」 「なろうことなら、わたくしを、三郎兵衛さまに貰《もろ》うていただく事でございます」  三郎兵衛は、仰天した。 「何と言われる。さような事が叶う筈《はず》がない。第一に、わしとそなたとは年が違いすぎる」 「年が何でありましょう」  りえは、必死懸命の面持ちであった。 「年が近くても、相容《あいい》れぬ者もあれば、祖父ほどに遠くとも、むつみ合う夫婦《みようと》もございます。心底好いて好かれれば、それでよろしいのではございませぬか……それとも」  りえは、思いをこめて、低く言った。 「わたくしが三郎兵衛さまに思いを寄せたのと同じく、三郎兵衛さまもわたくしを好いて下された、と思いましたのは、ひが目でございましたでしょうか」 「いや、それは……」  三郎兵衛は、混乱の極に達した。月とすっぽん、というも愚かである。思うてもみぬ果報である。 「もし……お心に添いませなんだら、手籠《てご》めにしていただきとうございます。そうで無うては、わたくしの女の一分が立ちませぬ。こうなりますのも、先ほどの大石様のお話にうかがいました天の運……何卒《なにとぞ》、お覚悟召して下さりませ」  どの道、この二人は、並の人間よりよほど変った性格、としか言いようがない。      八  暗い寝間のなかで、三郎兵衛は生涯はじめての興奮と至福の時を迎えた。  ——女体とは、かほど柔脆《じゆうぜい》で婀娜《あだ》なものか……。  それは、若い頃、小太刀を修練した亡妻の、鹿を思わせるしなやかさとまるで違う、触れれば痕《あと》の残るかと思うほどの薄い皮膚に包まれた、こわれ易く貴重この上ない嫩軟《どんなん》な肉置《ししおき》であった。  その肢体が熱く燃え、武骨な三郎兵衛の体躯《からだ》の下で悦《よろこ》びの声を洩《も》らす。その赤子のように頼りなげな様子に、三郎兵衛は魂を宙外に飛ばすほどの陶酔を覚えた。  ——人間五十年、侍の道に尽して過ぎた。余生はこの女性《によしよう》に尽して終る。悔いはない。  悦楽の時が過ぎたあと、三郎兵衛の胸中には、愛憐《あいれん》と恋情の思いがふつふつと湧きあがっていた。  翌朝、三郎兵衛は登城前の間《はざま》喜兵衛を訪ね、委細を打明けて媒妁《ばいしやく》を頼んだ。前夜、事の成行で勢いに任せ、図らずも契《ちぎ》りを交した三郎兵衛は、以後一夜たりと未婚のままに過ごせぬおのれを感得したためであった。  間喜兵衛、勝手方吟味役百石、六十八歳。頑固一徹、硬骨を以《も》って藩内に鳴り響いている。その喜兵衛は、直情径行の千馬三郎兵衛を好み、蔭《かげ》ながら贔屓《ひいき》し、おのれの後継者と目していた。 「藩内に優れた人士は数有るが、わが子十次郎、新六を托《たく》し、行末の頼みとするのは千馬三郎兵衛のみである」  それだけに、三郎兵衛の致仕には、わが事のように哀惜の念を抱いていた。  その喜兵衛も、降って湧いたような三郎兵衛の嫁とり話には驚いた。すでに十五日に三郎兵衛の士籍は抜けている。藩籍の縁が切れた侍の仲立ちというのは例がない。  喜兵衛は、諾否を保留して大石内蔵助に伺いをたてた。  仔細《しさい》を聴取した内蔵助は、喜兵衛に告げた。 「ご老体、思わぬ苦労とは思うが応じたら如何《いかが》。三郎兵衛という者、いずこの野末で朽ちようとも、息あるうちは眼の離せぬ侍、頼みとするに足りると存ずる」  内蔵助の計らいで、三郎兵衛と同輩の仲よき者は挙《こぞ》って屋敷に集い、その夜は婚礼の祝宴で賑《にぎ》わった。  雨とばかり降りそそぐ祝盃《しゆくはい》に、したたかに酔った三郎兵衛が寝床に倒れこんだのは夜半、子《ね》ノ刻《こく》(午前零時頃)下りであった。  そのまどかな夢は、半夜と続かなかった。  三月十九日の深夜、江戸から赤穂に向っている早打《はやうち》の先触れが、城に到着する。  続いて夜明け前の寅《とら》ノ下刻(午前五時頃)、早水《はやみ》藤左衛門、萱野《かやの》三平の第一の早打が、江戸からの兇報《きようほう》を伝えた。  浅野内匠頭の刃傷《にんじよう》である。  半刻《はんとき》(約一時間)を経て、日付は二十日に変った(当時、陰暦の日替りは卯ノ刻(午前六時頃)である。但し大晦日《おおみそか》だけは子《ね》ノ刻)。  第一の早打から三刻(約六時間)を経て、第二の早打、原|惣《そう》右衛門《えもん》と大石瀬左衛門が到着した。  内匠頭の即日切腹と、赤穂藩の廃絶、公収の決定である。  筆頭国家老の大石内蔵助は、家中総登城を触れ出した。  夕刻、藩士は陸続と城中竹ノ間に参集した。 「ご家老、千馬三郎兵衛が登城しておりますぞ」  そう伝えたのは、間喜兵衛である。 「…………」  内蔵助は、微笑した。 「あやつらしい……律気者め」 「如何致しますか」 「評定には、まだ少々間がある。これへ呼んで下され」  内蔵助の前に坐《すわ》った三郎兵衛は、悪びれた様子は皆目なかった。 「のう、三郎兵衛よ、おぬし何か勘違いしておらぬか」 「はて、何の事でございましょう」 「おぬしはすでに退身した身である。家中総登城に加わる謂《いわれ》はない」 「これはしたり。勘違いはご家老の方ではござりませぬか」 「何をいう。では改めて言うが、その方は一介の浪人、わしを家老と呼ばわるのは筋違いとは思わぬか」 「されば、にござる。てまえは確かに赤穂浅野家を退身|仕《つかまつ》りました。それは三月十五日を限りにござります。ところが聞くところに依りますと、三月十四日に殿は江戸城内に於《おい》て高家吉良上野介殿に刃傷に及び、その身は即日御切腹、赤穂浅野領はその日をもってお取上げ、藩は廃絶との事にございます。無《の》うなった藩が家臣に処分を申し渡す謂なし。てまえの致仕退身は無いものと心得ます」  三郎兵衛は、一歩も退かぬ気色をみせた。 「はてさて、困ったことを言う」  内蔵助は、苦笑した。 「おぬしの論理で言うと、われらは何だ。何とみる」 「赤穂浅野の旧臣、でござりましょう。てまえもその一人……この大変のあと、如何《いか》に身を処するか、てまえも評議に加わる資格あり、と心得ます」  内蔵助は、陪席の間喜兵衛を見返った。 「ご老体、お手前、どうみる」  喜兵衛は、愉快そうに破顔一笑した。 「これは、三郎兵衛の勝……てまえ御役についてこの方、ご家老が言い負かされるのを、はじめて見申した」  内蔵助は、からからと笑った。 「にくい臍《へそ》曲りめ、好きなようにせい。ただしこの先の評定がいかに方途を定めようと、それに従うか否《いな》かはおのれの勝手……おのれは自ら殿を見限り、願って浪人したことを忘れるな」  内蔵助が最後にみせた心遣いである。  だが、三郎兵衛は、それにも反発した。 「心得ております。だがご家老は、前《まえ》に人には天運があると仰《おお》せられた。十四日の藩廃絶と十五日の退身、ただ一日の違いが天運……てまえが赤穂浅野の旧臣として評定に加えていただくのは、殿のおんために非《あら》ず、てまえの侍心の一分を貫き通さんがためにござる。では御免」  三郎兵衛は、座を立ち、出て行った。  眼で追った内蔵助は、間喜兵衛を見返って言った。 「見られたか、ご老体」  喜兵衛は、感嘆の色で頷《うなず》いた。 「みごとな心底《しんてい》でござる。あれこそ頼み甲斐《がい》ある武士《もののふ》……」 「あれは名詮自性《みようせんじしよう》、千里の馬だ」  千里の駒、という。一日に千里を疾《はし》る馬、転じて才能の最もすぐれた者の意である。  内蔵助は大事の前に、最も頼みとなる駿馬《しゆんめ》を手に入れた。  公儀が刃傷の真因を糺《ただ》さず、内匠頭の即日切腹、赤穂藩の廃絶を決め、相手方吉良を咎めなかった不条理は、明々白々であった。  赤穂浅野三百有余の藩士は、激しく逆捩《ぎやくれい》し、抗戦|籠城《ろうじよう》、追腹殉死と恭順開城の論が紛糾した。  そのなかで大石内蔵助は想を練り、吉良邸の討入を策した。  だが、公儀|膝許《ひざもと》での一挙は、難中の難事である。藩廃絶後の寄せ集めの浪人集団で大事は図れない。  大石は、かかる非常の時に備えて、ひそかに撫育《ぶいく》の金を給与した者の中から、更に三十余名を選《よ》りすぐり、それを中核として志願の者をつのり、戦闘集団を結成した。  相手方吉良には、血縁の米沢十五万石上杉家が援護についた。謙信公以来武の名門として名ある上杉家の擁護を打破るのは容易でない。更にその背後には権勢並ぶ者なき大老格|御側用人《おそばようにん》柳沢|吉保《よしやす》がある。  その防衛を切崩すには、二年近い歳月と、巧智《こうち》を極めた数々の謀略謀攻が必要であった。  内蔵助が頼みとした中核のなかに、千馬三郎兵衛の名があった事は、言う迄《まで》もない。      九  赤穂城異変のさなかに、知らせを受けて駈《か》けつけた三郎兵衛の老父求之助と、りえの父津川門兵衛は、三郎兵衛とりえの婚儀に共々賛同し、開城の前々日、流散せず残った藩士を集めて本祝言を取り行なった。  武骨、古武士の風格を備えた三郎兵衛と、艶麗《えんれい》眼を奪うりえの婚礼に、非運の中に結束を誓う藩士たちは挙って参集し、鬱屈《うつくつ》の憂さを払う盛大な宴となった。  程なく赤穂を離れた新夫婦は、大坂郊外北野村に住居を定めた。  三郎兵衛は、赤穂在に住む同志と、京|山科《やましな》の内蔵助とのつなぎに当る一方、企てに支援を惜しまぬ大坂|天満《てんま》の悉皆《しつかい》問屋、天川屋儀兵衛《あまかわやぎへえ》の協力を得て、武器その他討入道具の調達に奔命した。  りえは、高槻の三郎兵衛の実家から、幼ない先妻の女児二人を手許に引取り、養育に励む傍ら、三郎兵衛を援《たす》けて、大坂在住の微禄《びろく》の者を尋ね歩き、その暮し向きの相談に与《あずか》った。  りえに、悔いはなかった。六、七年に及んだ築地鉄砲洲の町家暮しは、夢のようであった。川立《かわだち》は川で果てる、の譬《たとえ》もある。女の身で後生安楽を願わぬでもないが、武家育ちのりえにとって、侍が侍の一分を立てる企てには、心躍るものがあった。  ——これぞ、武士。  腑甲斐《ふがい》なく一生を終えた前の夫にはない風格が、三郎兵衛には備わっていた。りえは三郎兵衛の武骨な腕《かいな》に抱かれるたび、安堵《あんど》に似た満足を覚えた。  だが、日々刻々過ぎゆく生活《たつき》の中に、峻厳《しゆんげん》極まりなき思いのあることは否めなかった。  ——この暮しは限りあるもの。  その行末に待つものは冷厳な生別即死別である。  りえは、懸命にその思いに堪え、努めて表面《おもて》に出さなかった。  その年の夏、りえは身体の不調を訴えた。土地が変っての水当りかも知れぬ、しきりと嘔吐《おうと》を催し、気分がすぐれない。三郎兵衛が一方ならず案ずるうち、嘔吐が止った。 「おまえさま、申し上げたいことがございます」 「何だな、申してみい」  律気で頑固一徹な三郎兵衛も、二十歳若い妻には無類に優しい。 「わたくし……ややこが出来たらしゅうございます」 「何だと」  三郎兵衛の驚愕《きようがく》の顔に、歓喜の色が走った。 「まことか、それは……間違いないか」 「は、はい……それで、如何《いかが》致したらよいかと……」  りえの顔には、一抹《いちまつ》の憂いがあった。三郎兵衛は大事を企てる身である。生きてこの世にある日には限りがある。 「如何とは何だ。生め、生んでくれい、なろう事なら男の子をな」  三郎兵衛の脳裏には、それしかなかった。女児はいずれ他家へ嫁がせる身、おのれの血を継ぎ、代々世に伝えるのは男しかない。 「大事ありませぬか、男子《おのこ》を残して……」  頭領大石内蔵助が、最も憂慮したのはその事だった。天下の大法を犯す者には連座の罪が附加される。その罪は男子に及ぶ。 「……かまわぬ。御公儀がそれまでするなら、それを天下に示せ。士道と法のいずれが大事か、後世の判断を待つばかりだ」  三郎兵衛の烈々たる志に、ゆるぎはなかった。  その年の暮つ方、りえは子を生んだ。三郎兵衛の望み通り、それは男の子であった。  大石の謀攻は着々と進んだ。攻略不可能と思われた江戸城|外郭《そとぐるわ》、呉服橋門内の吉良屋敷は本所一ツ目に移った。  危機を感じとった吉良、上杉は、新屋敷の構築に、防衛の万全を期した。新屋敷二千五百五十坪は砦《とりで》、水濠《みずぼり》、木柵《もくさく》を設け、ひそかに国許で募った家臣の次男坊、三男坊、総勢百余名の上杉侍が常駐して、戦機を待った。  内蔵助は、同志を数組に分け、京の東山《ひがしやま》山中に集めて、火の出るような戦闘訓練を実施した。頃は盛夏、討入は厳寒を予定していた。  二十日余りの猛訓練を終えて、千馬三郎兵衛が大坂北野の住居に戻ったのは、八月の末であった。  りえは、留守中のくさぐさの事を話した。  話し終えると、三郎兵衛はさり気なく告げた。 「りえよ……どうやら別れの時が訪れたようだ」 「…………」  りえは、はっとして、居ずまいを正した。  もとより覚悟はしていた。いずれは別れの時がくる。動じてはならぬ、と心に深く刻んではいたが、やはり血の気の失《う》せるのを覚えた。 「わしらは、程なく江戸へ赴く、最後の準備と支度に、ふた月み月はかかろう。そのあと、戦《いくさ》に入る」 「では……せめて、江戸へなりと、お供は叶《かな》いませぬか」 「それは、未練というものだ」  三郎兵衛は、思いを断ち切るように、強く言った。 「ひと月、半月、いや三日、四日でも別れの時を惜しみたい。それが人の情ではある……だが、それを惜しんで何になる。惜しい思いを振り捨てる。それが武士ではないか」 「は、はい……」 「大石どのは言われた。武士はいさぎよくありたい、とな……りえ、思いは尽きぬが、いさぎよく、別れようではないか」 「承知致しました。わたくしが浅慮でございました」  りえは遂《つい》に、涙一滴こぼさず、深々と頭を下げた。 「思えば長の年月、ご迷惑をかけ……一方ならずお世話になりました……」  その背中が、泣いていた。 「うむ、子を頼むぞ」  三郎兵衛は、いたたまれず、座を立った。  やはり、三郎兵衛の方が弱かったようである。      十  元禄十五年(一七〇二)十二月十四日深更、本所《ほんじよ》一ツ目吉良屋敷の横手、七間道路をへだてた相生《あいおい》町二丁目前原伊助宅に集結した赤穂浪士四十七名は、前夜来降り積った雪を蹴立《けた》てて、吉良邸に殺到した。  迎え撃つ吉良、上杉勢は百余名、不意を衝《つ》かれたとはいえ、数は圧倒的にまさる。たちまち吉良邸は屍山《しざん》血河の戦場と化した。  千馬三郎兵衛光忠は、裏門の半弓組に属した。かねてから弓術を得意とし、表門の神崎《かんざき》与五郎と並び称せられる達人である。  抜刀隊と踵《きびす》を接して突入した三郎兵衛は、裏庭に設けられた防ぎの築地塀《ついじべい》に攀《よじのぼ》り、庭木の枝に足を掛けて、侍長屋から駈け出る上杉侍に、矢継早やに矢を射かけた。  三人、五人、通路を母屋へ走る寝巻姿の上杉侍は、鏃《やじり》鋭く射抜かれて、白雪を鮮血に染め斃《たお》れる。 「狙わずともよい、射すくめることを心掛けよ。要は敵の進退をさまたげることにある。矢数を多く放て」  主将大石内蔵助の命令である。三郎兵衛は不満だった。表門神崎与五郎は速射にまさり、三郎兵衛は一射必中にすぐれている。  ——おれは所詮《しよせん》、狩りの勢子《せこ》か。  三郎兵衛は若年の頃から、心貫流益永軍兵衛の高弟|都築《つづき》新五左衛門に学び、免許の腕前であったが、藩内に同流の者がなかったため、その名は知れ渡らなかった。  ——同じ働くなら、剣で敵と渡り合いたい。  その三郎兵衛の願いは、程なく実現する。  裏門は、兵数不足に悩んだ。  突進隊は、一番隊に豪勇堀部安兵衛を得たが、表門に比し、一組(四番隊)三名を欠き、伝令も欠けた。  堀部、横川勘平、近松勘六の一番隊は、阿修羅《あしゆら》の如《ごと》く荒れ狂い、二番隊勝田新左衛門、三番隊武林|唯七《ただしち》らも勇戦奮闘したが、裏門は奥向に近いため、防ぎの吉良、上杉侍がいち早く集中したため、たちまち苦戦に陥った。  戦況進展せずとみた副将吉田忠左衛門は、半弓組の集中射を中止させ、原惣右衛門、岡嶋|八十《やそ》右衛門《えもん》と千馬三郎兵衛の三名を、庭の土塀通路の制圧に向けた。  時こそござんなれ、と、三郎兵衛が奮起したことは言うまでもない。  三郎兵衛は、愛刀|長船住長光《おさふねじゆうながみつ》の豪刀を抜き放ち、土塀通路の戦いに加わった。折しも天候は激しく変り、霙《みぞれ》まじりの雪しぐれが顔面を叩《たた》く。原、岡嶋、千馬の三名は、当面の敵を押しまくった。  何人斬ったか、覚えはない。 「相手を斬っても、止《とど》めをさすな、戦闘力を奪えば事足りる。無益な殺生を避けよ」  内蔵助の厳命である。刃向う敵に一太刀浴びせ、次の敵を迎えた。だが武名を誇る上杉侍は、傷ついても屈せず、立向う者が多い。止むを得ず二太刀三太刀を見舞う。  相手は圧倒的に数が多い。一人を斬る隙に、こちらも斬られる。三郎兵衛が大坂で、念入りに作らせた鉄の籠手《こて》、脛当《すねあて》、鎖《くさり》帷子《かたびら》が功を奏し、刃が肌まで通らない。だがその打撃は相当なもので、疼痛《とうつう》は四肢を痺《しび》れさせた。  それを凌《しの》ぐのは、気力しかなかった。  三郎兵衛は、萎《な》えかける気力をふるい立たせた。  ——おれのこの戦いは、亡《な》き殿へのためではない。おれひとり、おのれの侍心を世に示さんがためのものだ。  その孤独な思いが、辛うじて気力を保たせた。 「急ぎ侍長屋を制圧し、表門裏門両勢の打通《うちとおし》をはかれ」  内蔵助の伝令寺坂吉右衛門が、その意を伝えた。 「承知」  三郎兵衛は、侍長屋へ走った。と、築地塀の角で、出合った敵がある。 「吉良家用人、鳥居利右衛門、参る」  高家吉良家の家臣が、揃《そろ》って懦弱《だじやく》であったという説は当らない。吉良は金に飽かせて名ある剣客を集め、武門の上杉家でも一目おく家老小林平八郎、用人鳥居利右衛門、左兵衛用人須藤与一右衛門、中小姓清水逸学、新貝弥七郎《しんかいやしちろう》、上杉家付人山吉新八郎、大須賀治郎右衛門等々、江戸の剣術道場で名ある者が多かった。  その鳥居利右衛門である。  ——……りえ、もん……か。  三郎兵衛は、一瞬たじろぎをみせた。すかさず利右衛門が豪剣を見舞う。受けとめた三郎兵衛の長光の刃金が鳴り、鎬《しのぎ》を削った刀身から、キナ臭い匂いが鼻をついた。  懸命の鍔《つば》ぜり合いになった。悪鬼のように赤熱した利右衛門の顔が迫る。  ——南無三《なむさん》……。  膂力《りよりよく》では及ばず、と覚った一瞬、三郎兵衛の得意技が無意識に働いた。  三郎兵衛の膝《ひざ》が、利右衛門の股間《こかん》を蹴り上げたのである。うッ、と呻《うめ》いた利右衛門の横鬢《よこびん》を、引外した三郎兵衛の長光が襲った。  ばずッ、と、異様な斬撃《ざんげき》音がした。頭蓋《ずがい》を二ツに断ち割られて、利右衛門はたまらずのけぞった。 「お手柄! しかと見届けたぞ!」  駈けつけた組頭、原惣右衛門が声をかける。  それをよそに、三郎兵衛は、更なる敵を求めて疾《はし》った。  戦いは、暁《あかつき》の紅が東の空をさし染める夜明けの寸前に終った。  怨敵《おんてき》吉良上野介討取りを告げる呼子笛の音が、長く尾を引いた。  続いて、冴《さ》えた退《ひ》き鉦《がね》が、ゆるやかに鳴り渡る。 「勝った!」  庭前に、奥座敷に、侍長屋の一角に、激しく敵と渡り合う赤穂侍は、相手を無視して躍り上がり、雄叫《おたけ》びをあげて、狂喜乱舞した。  上杉勢は、呆然《ぼうぜん》と見守った。一人、二人と崩れるようにへたりこむ。歔欷《きよき》が号泣に変る。  やがて、副将吉田忠左衛門が、参謀小野寺十内を伴なって、各戦場を廻り歩いた。 「大川端の物見の知らせによれば、程なく竪川堀《たてかわぼり》に貴藩の荷足船《にたりぶね》が着く由にござる。後々の事もござれば、戦場掃除をお急ぎ召されい」  上杉家としては、公儀の検使到着前に、藩士の死者、負傷者を始末する必要があった。外様大名の騒動への介入は、家名に傷がつく。  そのための配慮であった。  忠左衛門は、赤穂侍に退去を促がすと、去って行った。それが勝者の敗者に対するせめてもの思いやりであった。  浅野家|菩提所泉岳寺《ぼだいしよせんがくじ》へ引揚げた一党四十六名(寺坂吉右衛門をのぞく)は、大目付|仙石伯耆守久尚《せんごくほうきのかみひさなお》の許へ出頭を命ぜられ、肥後熊本五十四万石細川|越中守《えつちゆうのかみ》綱利家へ十七名、伊予松山十五万石松平(久松)隠岐守《おきのかみ》定直家へ十名、長門《ながと》長府五万石毛利|甲斐守《かいのかみ》綱元家へ十名、三州岡崎五万石水野|監物忠之《けんもつただゆき》家へ九名、と、分たれてお預けとなった。  千馬三郎兵衛は、大石|主税《ちから》、大高源五、貝賀弥左衛門、堀部安兵衛、不破数右衛門らと共に松平家にお預けの身となった。  世に落首が残っている。   細川や 水野流れは 清けれど     ただ大甲斐の 隠岐ぞ濁れる  細川家、水野家の厚遇に比し、松平家、毛利家が冷遇したことを、今に伝えるが、それ程差があったかどうかは、俄《にわ》かに信じ難い。厚遇の細川家ですら約五十日のお預け期間中、庭先で日を浴びることなく、松平家では座敷を牢格子《ろうごうし》で囲ったというが、所詮《しよせん》は天下の大法を犯した罪囚であることに、変りはなかった。  翌元禄十六年二月四日、幕府の裁判が下り、赤穂浪士四十六名は全員切腹の処断を受けた。  千馬三郎兵衛も、みごと腹|掻《か》っ切って死んだ、と書きたいが、その実はひどく粗雑に扱われたようである。今に残る松平家の記録によれば、検使の目付到着が未《ひつじ》ノ刻《こく》(午後二時頃)、切腹の終ったのが申《さる》ノ刻過ぎとある。その所要時間はわずか一刻(約二時間)、一人|宛《あて》、単純平均で十二分しかかかっていない。  これでは順次に切腹の座に着き、申渡しを受けてから作法に従って腹を切り、次の者が呼び出しを受ける時間の余裕がない。ありようは、切腹の座に着き、三方《さんぼう》の脇差《わきざし》の抜身に手を伸ばすと同時に、首を打つという、斬首《ざんしゆ》と同様の切腹であった。  罪科は、浪士の断罪にとどまらなかった。浪士の子弟に連座の刑が附加された。  すなわち、浪士の子について、十五歳以上の男子は遠島流罪《えんとうるざい》、十五歳に満たぬ男子は親戚《しんせき》預けとし、十五歳に達した年に、遠島に処す旨《むね》、申渡された。  即時遠島に該当したのは、次の四名である。   吉田伝内(二十五歳、忠左衛門次男)   村松政右衛門(二十三歳、喜兵衛次男)   間瀬佐太八(二十歳、久太夫次男)   中村忠三郎(十五歳、勘助長男)  以上の者は、元禄十六年四月、伊豆《いず》大島へ流罪となり、その際の携行許可は金子二十両、米二十俵と定められたが、あまりに執行を急いだため、金品の調達が間に合わず、金子は十両に満たず、米は二俵余りしか携行できなかった、という。  大島での流人暮しは、かなり苛酷《かこく》なものであったらしい。二十歳で流罪となった間瀬佐太八は、三年後の宝永《ほうえい》二年、宥免《ゆうめん》の沙汰《さた》なきまま、大島の地で死去した。その翌年、幕府は吉田伝内ら三名を赦免したが、その際、佐太八の墓すらなく、遺骸《いがい》も分らず終《じま》いとなった。  流罪の処分待ちの遺児は、左の十五名である。 [#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]   大石吉千代(十三歳、内蔵助次男、討入決行前に仏門に入ったため、処分保留)   同 大三郎(二歳、内蔵助三男)   片岡新六(十二歳、源五右衛門長男)   同 六之助(九歳、源五右衛門次男)   原 重次郎(五歳、惣右衛門長男)   矢田作十郎(九歳、五郎右衛門長男)   富森長太郎(二歳、助右衛門長男)   不破大五郎(六歳、数右衛門長男)   中村勘次(五歳、勘助次男)   木村惣十郎(九歳、岡右衛門長男)   大岡次郎四郎(八歳、木村岡右衛門の次男、大岡藤左衛門の養子となり改姓)   茅野猪之助(四歳、和助長男)   奥田清十郎(二歳、貞右衛門長男)   岡嶋藤松(十歳、八十右衛門長男)   同 五之助(七歳、八十右衛門次男) [#ここで字下げ終わり]  仔細《しさい》に見ると、気付くことが一つある。  千馬三郎兵衛の男の子の名が無い。  大石内蔵助は、ひとり、連座の罪が遺児に及ぶことを予期したようである。  討入の年の春、妻りくを但馬豊岡の実家、石束《いしづか》源五兵衛の許《もと》へ帰す時、離縁状を渡した。更にりくに命じて、次男吉千代を僧籍に入れるよう配慮した。そのため吉千代は内蔵助切腹の翌々年、十五歳に達したが、幕府は処置に困って、処分保留のまま一年を過した。  内蔵助ほどの男である。当然同志の者に警告したに違いない。にも拘《かかわ》らず、十五名も流罪待ちの遺児が出たのは、侍の宿命的な性《さが》であろう。侍は家を尊び、存続を第一の使命とする。家を代々伝えるためには、男の子を残さなければならない。連座の罪を危惧《きぐ》しつつ男子をそのまま残した。  千馬三郎兵衛に男の子があったことは、まぎれもない。 「池田家履歴略記」という史料によれば、備前岡山三十一万五千石池田侍従綱政の家臣、津川門兵衛の娘であった千馬三郎兵衛の妻(後妻)は、毎年正月を迎えて息子が年をとるごとに、遠島となる日が近付くとあって、涙を流すばかりであった、とある。  幕府の流罪覚書や、室鳩巣《むろきゆうそう》の「赤穂義人録」にある流罪待ちの遺児名簿と、「池田家履歴略記」の差異の謎は、断罪を待つ千馬三郎兵衛が提出した親類書《しんるいがき》によって生れた。  幕府は、四大名家の預りとした浪士四十六名に、親類書の提出を求め、一同は洩れなく親類の者の名を列記した。内蔵助ほどの人間でも、故意の書き落しや誤記はない。  そのなかで、千馬三郎兵衛だけは、一年前に生れた嫡男の名を書かなかった。  ——世の中は、そうあまくない。  そう思ったに違いない。当然連座の罪科が下されることを予期した。  ただ、その事を、岡山の実家に身を寄せている妻のりえに、知らせる手だてがなかった。  手紙は、検閲される。伝言しようにも信に足る者がいない。  ——いずれ、わかる。  それを頼みに、千馬三郎兵衛は、切腹して果てた。  りえは、幼な児の嫡男が、流罪待ちの人数に加えられているとばかり思った。  ——これは、三郎兵衛どのの忘れ形見。  いや増す愛情に、めでたき正月の訪れさえ涙の種となったのである。  赤穂浪士の遺児流罪は、四年後の宝永《ほうえい》三年(一七〇六)、解消された。この年八月、将軍生母|桂昌院《けいしよういん》一周忌法要を機に、大赦令が公布され、伊豆大島に流罪中の吉田伝内、村松政右衛門、中村忠三郎の三名は赦免、流罪待ちの遺児十五名には宥免《ゆうめん》の沙汰が下された。  りえの嘆きの種は、一つ減ったことになる。  浪士四十六名が切腹して以来、彼らは常に忠臣義士として称讃《しようさん》された。  だが、その中にあって、義士ではあるが忠臣ではないと自認した千馬三郎兵衛を知る者は少ない。  千馬三郎兵衛光忠の墓は、岡山市田町二丁目十二番地十六号の浄土宗報身山正覚寺にある。  墓は夫妻の合葬墓で、石碑右面に、   享保《きようほう》十六年四月    一子、千馬藤之丞建立  と、刻まれている。 [#改ページ]   剣士と槍仕《やりし》      一 「怖いッ……」  痩《や》せた黒犬が、牙《きば》を剥《む》き出して唸《うな》った。真ッ赤な口腔《こうこう》と黄色の歯牙《しが》が、いまにも噛《か》みつきそうに迫る。  神田連雀町《かんだれんじやくちよう》へ用足しに行っての帰り道だった。たよ[#「たよ」に傍点]は筑土八幡《つくどはちまん》の手前で、近道しようと小屋敷の続く狭い道へ入った、それが間違いの因《もと》だった。  犬は塀の崩れかけた空屋敷の角で、ガツガツと食いものを噛み砕いていた。鯖《さば》か鰤《ぶり》のあら煮らしい。生臭い匂いが草いきれの中にたちこめていた。よほど腹を空《す》かせていたものか、邪魔したたよにあからさまな敵意を燃やして向ってきた。  たよは、汗ばんだ肌が一時に冷えるのを感じた。  ——噛み殺される……。  餓狼《がろう》のような犬の様子にそれがうかがえた。犬が人を襲っても何の咎《とが》もない。人が犬を殺せば死罪か軽くて流刑。生類憐《しようるいあわれ》みの令にあまやかされた犬は、横暴に生きることに馴《な》れていた。  たよは、仕立屋から受取ってきた伯父《おじ》の衣服の包みを胸許《むなもと》に固く抱いて、あとしざりするしかなかった。身を翻せば飛びかかってくるのが目に見えている。頭の中が真っ白になって、気が遠くなりかけた。 「お女中」  声がかかると同時に、人影がたよの顔前にずいと出た。 「お退《の》きなさい。拙者が代ろう」  筋骨|逞《たくま》しい侍が、たよを背後に庇《かば》って犬と向き合った。 「あ、あ……」  ありがとうございます、という言葉が、咽喉《のど》につかえて出ない。侍は構わず足を軽く八の字に開き、両腕を下げたまま、犬を見据えた。  斬ってはならない。貞享《じようきよう》二年(一六八五)頃に公布された生類憐みの令は、魚鳥を食料として飼養することを禁じ、畜類、特に犬の愛護を命じ、殺傷する者をきびしく断罪する。この十年あまりの間、毎年数十人の侍が切腹、死罪に処せられ、流罪となった。農・工・商の庶民に至っては、死骸《しがい》が打棄《うちす》てられた者は数百人にのぼると言われる。  侍は、年の頃三十前後に見えた。浅黒いその顔はととのっているとは言い難いが、威ありて猛《たけ》からず、親しみ易くさえうかがえた。  犬は、新たな相手の出現に、一層たけりたった。唸り声は一段と殺気を増し、いまにも飛びかかろうとする気配になった。  侍は、顔を引締め、無声の気合を発《はな》った。その眸《ひとみ》は深淵《しんえん》を思わせるように澄み、犬の眼と視線を合わせて動かない。  犬は——たじろいだ。唸り声は見る間に低くなり、やがて途切れた。尻尾《しつぽ》は垂れ下がり、後しざりする。次の瞬間、甲高く一声|吠《ほ》えると横ッ飛びに飛び、一目散に逃げ去った。  たよは、茫然《ぼうぜん》自失の態《てい》で立ちつくした。 「お女中、もう済んだ、お行きなさい」  侍は、にっこり笑いかけると、目礼してたよが来た方へ足を運ぶ。 「あ……あの、もし」  たよは、あわてて声を掛けた。まだ礼を言っていない。それに相手の名も知らない。  見返った侍は、軽く首を横に振ってみせ、 「先を急ぐ、ごめん」  そのまま、去って行った。  白日夢に似た一場の出来事であったが、たよの胸中にその侍の人なつっこい笑顔が灼《や》きついた。 「よいか、安兵衛。相手はこの立合《たちあい》に仕官の道を賭けておる。死に物狂いだぞ、そのつもりでかかれ」  道場でも藩でも先達《せんだつ》の奥田孫太夫が、立合前にそう囁《ささや》いた。その言葉が耳について離れない。  筑土八幡にほど近い小石川|立慶橋《りゆうけいばし》の橋詰にある堀内源左衛門の剣術道場である。  元禄《げんろく》年間に、江戸随一の剣とうたわれた堀内源左衛門はふしぎな人物で、出自も経歴もついぞ人に語ることはなかった。延宝《えんぽう》年間(一六七三〜八一)のなかごろ、江戸にあらわれ、剣術道場を開いた。以来、別段大試合をした事もなく、権門の引立てもあった訳ではない。それでいて数年を経ずして一流の名を得た。  源左衛門は、およそ剣で身を立てる人とは見えず、温厚篤実、商家の隠居のような風貌《ふうぼう》であった、と伝えられている。また細事にこだわらず、人が訛《なま》って源太左衛門と呼び、そう伝わると、一時期自らそう名乗った事もあった。  その源左衛門が、武術好きの旗本内田三郎右衛門や、ほかに二、三の見知らぬ客と共に、見所《けんしよ》で立合を見守っている。  実はその日の立合は、内田三郎右衛門の口利きで行われる事になっている。  安兵衛が立合を望まれた相手は、高田郡兵衛という旗本の部屋|住《ずみ》の若者で、年の頃二十三、四歳か、鎌槍院《かまやりいん》流という珍らしい槍術をよく使う。  当時の侍の家では、嫡男は家禄《かろく》や時には役職も嗣《つ》げるが、部屋住の次男、三男は、一生長男の下で冷飯食いに甘んじ、正式に妻を娶《めと》ることもできない。一家を立てるには、家禄のある家に養子にゆくか、何かの技倆《ぎりよう》によって仕官するしかない。  郡兵衛の兄、高田弥五兵衛は、家禄百五十石と納戸衆《なんどしゆう》という役職を相続したが、ただ一人の弟郡兵衛の行末を案じ、武芸の修得を強くすすめた。  高田家の近く、浅草|鳥越《とりごえ》に今泉為貞《いまいずみためさだ》という槍術の達人がいる。郡兵衛は幼少の頃から門弟となり、鎌槍院流槍術を学んだ。よほど天分があったとみえて、二十歳前後には免許を得、数度の試合で優秀な成績をおさめ、若手の逸材として錚々《そうそう》たる評判を得るようになった。  高田家の遠い姻戚《いんせき》に、内田三郎右衛門という初老の旗本がいる。内田三郎右衛門は千石取りだが時運に恵まれず、長く小普請《むやく》のままであった。いまでも役向に金品を贈り、運動を続けているが一向に効果がない。  内田の不満の慰めは武芸であった。ただし自らが修行するのではない。名ある道場に出入りして、見所《みどころ》ありとみた才幹に若干《そこばく》の金員を貢ぐ。それで顔をつくっていた。  内田が、高田郡兵衛に目を掛けたのは言うまでもない。金員の援助にとどまらず、仕官の際の身許引受人にもなろうと、伯父、甥《おい》の義を結んだ。以来郡兵衛は内田の屋敷の所在地をとって、神楽坂《かぐらざか》の伯父と言い慣わしている。  一カ月ほど前、今泉道場に来客があった。豊前《ぶぜん》小倉十五万石、小笠原右近将監《おがさわらうこんしようげん》忠雄家の江戸留守居役、渋田見靭負《しぶたみゆきえ》という者で、若年の頃、京の槍術道場で暫《しばら》くの間、今泉為貞と共に槍術を学んだことがあるという。  久闊《きゆうかつ》を叙したあと、昔話に花が咲いた。 「あの頃は、まだ戦国の余映が残っていたためか、お互いに必死懸命に励んだものだ、それが近頃のように泰平がうち続き軟弱な世になると、手挟《たばさ》む腰の刀までが細身のものが流行《はや》るようになる……まして槍術となると、碌《ろく》な若者はおるまい」  渋田見の昂然《こうぜん》たる言いように、今泉は苦笑するほかはない。 「さよう、百人近い門弟の中で、見所ありとみたのは、まず一人……」 「ほう、どのような男だ」 「高田郡兵衛という、近頃江戸では出色、と名を得ておるが、気の毒に部屋住の身でな……どうだ、おぬしの藩で召抱《めしかか》えぬか、腕前の方はわしが保証するが」  そう言われると、後には退《ひ》きにくい。 「それには、わしが直々《じきじき》腕を試してみたい」  折柄、稽古《けいこ》に来ていた郡兵衛と立合ったが、渋田見の錆《さび》ついた槍術では敵《かな》う訳もなく、散々に負けた。  それで仕官できるかと言うと、そうではない。時は元禄期、将軍|綱吉《つなよし》は大名|潰《つぶ》しの名人と言われ、改易や減知、減領された大名は四十数家、公収された禄高は百数十万に及んで、世に浪人は溢《あふ》れる有様である。よほど富裕な藩でないと、新知お召抱えはむずかしい。  渋田見は、面目上、懸命となった。重職に列する江戸留守居役の推挙とあっては、藩としても無下《むげ》に退けられない。 「どうであろう。世上に名ある者と立合って、勝ちをおさめれば、それを名分に取り立ててもよいが……」と、言う。  これは難題であった。世評がどうであれ所詮《しよせん》は無名の若者である。世上に名ある者が得にもならぬ立合に応ずるわけがない。  それと聞いて、内田三郎右衛門が乗り出した。義理ではあるが伯父、甥の仲である。  内田は、話を堀内源左衛門道場へ持ちこんだ。目当は堀部安兵衛である。安兵衛は先年、高田馬場《たかだばば》の果し合いで高名を馳《は》せ、赤穂《あこう》浅野家の江戸留守居役堀部弥兵衛の婿《むこ》養子に迎えられ、二百石|馬廻《うままわり》の士に列している。 「内田どの、それは無理だ」  さすが温厚の堀内源左衛門も渋った。 「剣と槍の立合は、二、三段の開きがあって槍が有利とされている。当人に何の得もない立合を奨《すす》めるわけにはゆかぬ」  内田は、兄弟子である奥田孫太夫に斡旋《あつせん》を頼んだ。奥田は多年の交際で、酒食の饗応《きようおう》にもあずかり、節季の進物を受け、また堀内道場運営で贈与を受けたことも一再ではない。そうした恵贈は、その都度《つど》義理を返したつもりだが、さて先方からの強《た》っての頼みごととなると、一概に断るすべがない。  奥田は困《こう》じ果てた。 「何か、断るに恰好《かつこう》の口実はないか」  安兵衛は首をかしげていたが、いともあっさりと答えた。 「いっそ立合いましょう。面倒がなくて済む」  それで、その日の立合となった。      二  安兵衛は木刀に素振りをくれ、郡兵衛はりゅうりゅうとたんぽ槍《やり》をしごいた。  二人は対峙《たいじ》した。安兵衛は正眼に構えて動かず、郡兵衛は小刻みに槍を繰り出し繰り出し、隙をうかがった。  ——久しぶりだ。  と、安兵衛は一種の郷愁めいたものを感じた。剣の相手は常に剣である。異なる武器と立合うことは一生に何度もない。元禄七年、高田馬場で、中津川祐見と斬り合って以来のことだった。それも真剣、祐見の得物《えもの》は江戸期に入ってからは珍らしくなった薙刀《なぎなた》だった。  ——あの時の技倆は、明らかに相手が上だった……。  だが、安兵衛にはそれを省みる余裕すらなかった。義理の叔父菅野六郎左衛門はすでに数創を受けて地に腰を落し、若党佐次兵衛は阿修羅《あしゆら》の如《ごと》く、数人の敵の剣を防いでいた。  遅れて駈《か》けつけた安兵衛は、喚《わめ》いて敵の注目を集め、まず主敵村上庄左衛門の弟、三郎右衛門に斬りかかり、三合と渡り合わず袈裟掛《けさが》けに仆《たお》し、返す刀で敵の助勢の若党を斬り捨てた。  その時、前に立ち塞《ふさ》がったのが、村上兄弟に助太刀《すけだち》する中津川祐見と、その薙刀であった。わが身に迫る祐見の構えを見た瞬間、江戸に出府して以来、門弟として日夜|鞭撻《べんたつ》してくれた堀内源左衛門の教導が、空《むな》しく消滅するのをありありと自覚した。  江戸で達人の名を恣《ほしいまま》にする中津川祐見の技倆は、安兵衛の及ばぬ域にあった。加えて六尺有余の薙刀の利は、三尺の剣を凌《しの》いで余りある。  安兵衛は一瞬のうちに敗死を覚悟した。こうなれば、義理ある菅野六郎左衛門に一歩でも近くに寄って、斬られ死ぬしかない。安兵衛は祐見が薙刀を振るう転瞬に、その防ぎを放棄して大きく踏みこみ、胴を横薙《な》いだ。  祐見は、当然安兵衛が受太刀するものとみて、踏込みを浅くした。その寸秒のあまさが遅れをとった。したたかに斬られた祐見は血《ち》飛沫《しぶき》あげてのけぞり、安兵衛は主敵村上庄左衛門に殺到した。  それで勝敗は決した。主敵を倒すと他の助勢は逃げ散り、安兵衛は菅野六郎左衛門を扶《たす》けて引揚げたが、途中六郎左衛門は息を引取り、あとに安兵衛は義侠《ぎきよう》の誉《ほまれ》と剣の高名を得た。  感慨のうちに攻勢をとらぬ安兵衛に、郡兵衛は頻《しき》りと仕掛けた。飜転する郡兵衛の鮮やかな槍捌《やりさば》きに、以前の安兵衛なら幻惑されたであろう。だが、いまの安兵衛にはそれが術技にのみとらわれた児戯に等しいものに見えた。それは死と生の切所《せつしよ》を越えた者のみが体得する冷やかな眼識であったに違いない。  木剣と槍の柄が打ち合う冴《さ》えた音が、道場に響きわたった。郡兵衛が上下左右に繰り出す槍は、悉《ことごと》く安兵衛の剣に打ち払われた。  安兵衛は、その間に郡兵衛の顔を鋭く視《み》た。汗みどろの郡兵衛の眼は血走り、髭《ひげ》の剃《そ》り痕《あと》の青々と見える面高の顔は、ひしひしと感ずる敗北感に、今にも泣き出しそうに歪《ゆが》んでいる……。  ——昔のおれと、よう似ておる……。  年少の頃より、まったく孤独で育った安兵衛は、故郷|越後新発田《えちごしばた》に容《い》れられず、十四歳の頃から流落して、艱難《かんなん》辛苦の末に江戸へ出て、剣一筋で身を立てようと刻苦勉励した。その間、何度となく試合し、敗北の苦渋を味わった。いまの郡兵衛の絶望感は、痛い程わかる安兵衛であった。  郡兵衛は、最後の望みを賭けて、乾坤一擲《けんこんいつてき》の槍を繰り出した。剣と槍が激しくからみ合い、槍の鎌《かま》と刀身がねじれた。次の瞬間、たんぽ槍は乾いた音を立てて床に転がり、安兵衛は木剣を手に飛び退った。 「勝負あった」  堀内源左衛門が声を掛けると、間髪を入れず安兵衛が言った。 「てまえの負けです。軽いが脇腹を突かれました」  些《いささ》かの動揺の色なく言う安兵衛の顔を瞶《みつ》めた源左衛門は、一拍の間をおいて、頷いてみせた。  見所の小笠原家江戸家老進藤主馬と渋田見靭負は頷きあい、内田三郎右衛門は喜色満面となった。  仕官の途を開き得た高田郡兵衛は、端座して汗を拭《ぬぐ》った。郡兵衛は向い合った安兵衛の顔を、殊更に見ようとしなかった。  それから半年たった。  江戸は、この冬二度目の降雪があった。夜明け前から降り始め、昼過ぎには止《や》んだが、気温は一向に上がらず凍《い》てついて、歩くのにひどく難渋した。  たよは、用足しの帰るさその難儀も厭《いと》わず、筑土八幡を抜ける近道をとった。  それが半年前からの習慣になっていた。  ——もう一度、会ってみたい。  犬に襲われかけた時、助けてくれた侍の面影が灼《や》きついていた。殺生禁断の犬をみごとに取捌《とりさば》いたその挙止《きよし》、事が済んだあとの優しい笑顔、どうしてももう一度会いたかった。  武家育ちの娘としては、慎み深く世を送るべきであろう。だがたよはそうした自制のない女であった。思いつのれば行う。邪気も算当もない。それゆえに、人は——蓮葉《はすつぱ》な——と思いつつ許した。  人の寛容には、容貌《ようぼう》が作用する。たよは小柄で色白、丹花の唇に清《さや》けき瞳、典雅と可憐《かれん》を併せ持つ娘であった。  たよは、雪に足をとられつつ、あたりを見廻し、歎息《たんそく》を洩《も》らした。  ——きょうも、お会いできなかった……。  踏み出す高足駄の歯のはざまに雪が詰って、足許《あしもと》がぐれた。ぷつんと鼻緒が切れる。 「あ……」  転びかかるのを、背後から支えた腕があった。 「お女中、危ない」  なつかしい声であった。  ——あのときの、お侍さま。  見返ろうとしたとき、泥雪に踏み込んだ足袋跣《たびはだし》の足首から疼痛《とうつう》が走り、たよは侍の腕にすがった。 「足首をひねられたな。こうござれ」  侍は、たよの腰に手を廻し、軽々と抱えて間近の掛茶屋へ運んだ。 「亭主、見ての始末だ、奥を貸してくれぬか」  店を閉めかけていた老爺《ろうや》は、当惑顔で応《こた》えた。 「そりゃもう……お使いになるのは一向に構いませんが、店は五ツ限りときついお達しで……」  気の毒に思った老爺は、奥の囲炉裡《いろり》に燠火《おきび》を残しておくから、帰る時、火の始末をして帰ってくれと言う。  侍が渡す心付けを有難そうに受取って老爺が帰ったあと、侍は奥の囲炉裡端で、てきぱきと事を運んだ。  緒の切れた高足駄を拾ってきて洗う。汚れた足袋を濯《すす》いで、共に燠火に干す。それから痛む足首の手当にかかった。  素足をゆだねたたよは、足首を揉《も》み、曲げる痛感に堪えながら、羞《はじ》らいと共に望みの叶《かな》った欣《よろこ》びに、気も遠くなる思いであった。 「あの、もう……充分でございます。もうお止め下さりませ」 「いや、もう少々……こうした捻挫《ねんざ》は充分に手当をしておかぬと、あとで痛みがぶり返す、道場では初中後《しよつちゆう》のことだ……」  侍は、さらりと続けた。 「男の足は揉み甲斐《がい》があるが、そなたの足は名人の人形細工のようで些か怖い。何やら貴い物に触れているようで、背筋がむず痒《がゆ》くなる……」  足、というのは奇妙な作用をもたらすもののようである。たよも……いささか大袈裟《おおげさ》な言い様ではあるが、裸身に触れられたような羞恥《しゆうち》と共に、狎《な》れうちとけた感情を抑えかねた。 「一度ならず二度まで……お世話をお掛け致しました……」 「それよ。いずれも奇態な場で出合う。どういう訳かな」  たよは、ひたむきな思いに駆られて言った。 「私……縁《えにし》だと思います。勝手にそう思っています」 「…………」  侍は、沈黙した。 「私……もう一度お会いできると思って、折ある毎《ごと》にここへ通っておりました。あの道を通って……」  侍は、高足駄をとって、手拭《てぬぐ》いを裂き、緒をすげ始めながら、言った。 「そうだな、縁かも知れぬ。わしも惹《ひ》かれるものがあって、時折ここへ来た、道場の往《い》きか帰りに……」 「では……」  たよが言いかけるのを無視するように、侍は続けた。 「だが、わしはそれ以上のことは考えておらぬ。ただ……そなたの達者な姿を見たかった。生き生きとした姿を、眼で愛《め》でるだけでよいと思ったのだ……」  侍は、高足駄を揃《そろ》えて土間に置くと、立ち上がった。 「わしは、養子の身だ。四年連れ添った妻がおる。忘れてくれい」  出て行きかける侍のうしろ姿へ、たよの懸命な声が追った。 「せめて、お名前を……」  侍は、ためらう様子だったが、笑顔を向けると、さわやかに言った。 「堀部安兵衛」  そして、戸外に消えた。      三  御屋敷玄関先で、内田三郎右衛門を見送った奥田孫太夫は、廊下で堀部安兵衛と出合った。 「おう、戻ったか」 「は……尾張様への御機嫌伺いの儀、滞りなく相済ませ、昨夕帰邸致しました」  旧臘《きゆうろう》、尾張家の旧主、故光友公の簾中《れんちゆう》千代姫が逝去した。その弔問の使者を命ぜられた安兵衛は、尾張藩邸へ赴いていた。 「それは骨折りだったな。どうだ、茶でも飲もうか。わしも厄介な来客で疲れた」  孫太夫と安兵衛は、台所の小部屋へ足を運んで、台所方の者に熱い茶を頼んだ。 「いつぞや、おぬしに面倒かけた高田郡兵衛という男だが……年明け早々、江戸に立ち戻っておるそうだ」 「ほう……あれは確か、お国詰になったと聞きましたが」 「それがな、先ほど見えた例の旗本の内田どのが話では、藩の重役と流儀の事から論争となり、恥辱を受けたと怒って自ら退身を申し出たとの事だ」 「それは、惜しいことを……」  安兵衛は、思わず嘆息した。  堀部弥兵衛の婿養子におさまるまで、安兵衛の苦労は並大抵ではなかった。奥田孫太夫や、旗本|菱沼《ひしぬま》式兵衛、塩入主膳とならんで、名門堀内道場の四天王という剣名を得ても、仕官の道は狭くきびしかった。  堀内道場には、免許とか切紙とかいう弟子の格付はない。それが煩《わざわ》いしたとも言える。数少ない仕官の機会もそれで破談になった。�世上名のある者との立合�を望まれた高田郡兵衛の苦衷は痛いほどわかる。言わば郡兵衛の仕官は、当人と、身許引受人となった内田なにがし、それに安兵衛の三人掛りの成果であった。 「若い、というのは、致し方ないものだ」  と、奥田が言う。 「いや、苦労を積み重ねてのおとなです。当人にはよい薬になったでしょう」 「そうかも知れぬが……それで厄介なことになった」  奥田は、苦渋の顔になった。 「実は内田どのは奥御用人の奥村どのと昵懇《じつこん》の仲でな、それで今度は郡兵衛の再仕官話を、ご当家に持ちこんだのだ」  奥村忠右衛門は、禄高《ろくだか》三百石、奥田や安兵衛と異なり累代の浅野家家臣で、江戸藩邸の奥向の一切を取仕切り、主君|内匠頭《たくみのかみ》のお覚えも上乗、と言われている。  奥田や安兵衛は、あまり好きではない。奥村忠右衛門は、毒にも薬にもならぬ男だが、君側に仕えるだけに始末が悪かった。主君内匠頭|長矩《ながのり》は生来|癇癖《かんぺき》甚だしく、苦労知らずの上に、ものの考えが一方的で、他を省みない癖がある。  奥村は、その機嫌とりに汲々《きゆうきゆう》とする。白と伝える事を黒とすることも度々で、そのため内匠頭からひどく叱りつけられた者の事例は、数えればきりがない。  奥田や安兵衛は、表仕えだけに、じかにかかわりはないが、そうした事例を聞くたびに、不快を覚えたことも事実である。 「それで……?」 「意外なことだが、殿が大層な乗り気である、と、奥村どのが言っておられる」  有り得る事だ、と、安兵衛は思った。大名にとって、世上に評判の家来を持つ事は、自慢の種である。剣の安兵衛の名は高田馬場の果し合いで名高い。それに槍術《そうじゆつ》で安兵衛を破った郡兵衛が加われば、赤穂浅野家の表看板として立派に通用する。  ——おれの値打は勤めぶりではなくて、仕官前の虚名か。  その思いが安兵衛にある。だがそれを表に出さないのがおとなの処世でもある。 「それは結構な事でしょう。ともあれ有為の者が禄を得る。別に厄介な事ではありますまい」 「いや、厄介な事というのは、これから話すことだ。奥村どのはな、高田郡兵衛をおぬしが推挙せよと言われる」 「私が推挙……?」  さすがに安兵衛は顔色を変えた。  ——甘えにも程がある。  それ程の義理は無いのだ。義理どころか、半年前の立合後、挨拶《あいさつ》ひとつ無いままに過ぎている。勝者が敗者に礼を尽す必要はない、と言えばそれまでだが、実はその勝敗には……。  奥田が、それをずばり口にした。 「それで、改めて聞きたい。おぬし、あの立合で、離れ際《ぎわ》に軽くはあったが脇腹を突かれた、と言ったが、わしの眼にはそう見えなかった。あれはまことか」  安兵衛は、苦い微笑みを浮べて答えた。 「侍が一旦《いつたん》口にした事、まことと思っていただきます。師匠もそうお認めになりました」 「ふむ……」  師匠堀内源左衛門は、些事《さじ》にこだわらない、融通無碍《ゆうずうむげ》に事を処する。それでいて誤りないことで弟子の信望を得ていた。  それだけに、あの判定は微妙であった。 「よろしい。私|如《ごと》きで用に立つなら推挙しましょう」  安兵衛は、明るい笑顔で言った。その顔に迷いの色はなかった。  高田郡兵衛の登用は決った。禄高二百石、馬廻役である。  早春の一日、郡兵衛は報礼と挨拶を兼ねて神楽坂の内田三郎右衛門を訪問した。  色代《しきたい》を済ませたあと、内田は庭の散策に誘った。 「二百石か……立合でみごと打ち負かした堀部安兵衛と同じ禄高とは、ちと不足とは思うが、相手は世に聞えた高名人、仕方あるまい」  内田は上機嫌だった。おのれが目をかけ、引き立てて、その甲斐があった。  ——おれが眼力も、捨てたものではない。  その自負が、驕《おご》りの言葉となっていた。 「堀部どのには、推挙を給《たま》わった恩義があります。それを上廻る禄高など、受けるわけには参りませぬ」  郡兵衛は、かつての勝負の綾《あや》については一切口にしない。勝と言われて、勝かなと思った。道場武芸の弊である。だがそれらしい手応えがなかったのが、心の奥底に澱《おり》となって残っていた。  それを頬被りしてしまうのが若者の欲だった。利を得て先々の贅《ぜい》を求めたい。あとさきの理よりも目先の利が眼を晦《くら》ませる。それが一生の生きようを変えてしまうのだ。 「謙譲は大いに結構だが、役目に就いたら遠慮は無用ぞ。際立つように働き、先達を追い越せ、ただ短気を起こすな、一文の得にもならぬ槍術|詮議《せんぎ》で禄を捨てるなど、愚の骨頂だぞ」  と、内田は訓戒を忘れない。 「ご教示、ありがたく承りました」  郡兵衛は、ひたすら恭謙だった。  高禄の旗本屋敷は、さすがに宏大《こうだい》である。二人が造庭を通り抜けて裏手の弓庭にさしかかると、年若の武家娘に出合った。 「お、たよか、これへ参れ」  内田は娘を呼び寄せ、何か指図を与える様子だった。  郡兵衛は、そのたよに茫然《ぼうぜん》と見惚《みほ》れていた。気品あって愛らしいたよは、下級旗本の家に生れ、槍術鍛練に明け暮れていた郡兵衛には、及びもつかぬ存在であり、夢に見る憧憬《どうけい》の女人であった。 「郡兵衛」  内田の呼びかけに、郡兵衛は吾《われ》に返った。 「兄の家の厄介者であった頃は、身分違いゆえ引き合わさなんだが、今は歴《れき》とした藩士、家人を見知っておくがよい。これは姪《めい》でな、弟の末子《すえこ》を貰《もら》いうけて近頃養女にした。行く行くは然《しか》るべき家の者を婿《むこ》にとり、この家を継がせる……たよ、いつか話した事があろう、高田郡兵衛だ」 「たよ、と申します」 「高田、郡兵衛でござる」  たよは、髭《ひげ》の剃《そ》り痕《あと》青く、強い体臭の匂うような精悍《せいかん》の郡兵衛に、何の関心も持たなかった。所詮は無縁の人、と思った。  それを裏付けるように、内田の声が追いかけた。 「これもそろそろ年頃……虫のつかぬうちに婿を探さんといかん。どこぞに歴とした家柄の家の若者はおらんか、なるべくは直参が望ましいが……」  郡兵衛は、うつつにそれを聞いていた。      四  勤めについてみると、外からは見えない藩の内情が次第にわかってきた。  藩政は、国許《くにもと》ががっしり押えていた。江戸で処理する諸問題は、一々国許へ伺いを立て、その指図を仰ぐ。文書や口頭で処理するには不充分、と思う案件には、国家老が出府する。大概の場合、藤井又左衛門という世慣れた人物が、国家老の代表として江戸へ出向いてきた。 「これではお国詰か在府かわからぬ。いっそ江戸詰に変えて貰いたいものだ」  洒脱《しやだつ》な藤井は、そう言って笑うが、本人は結構そうした往復を楽しんでいるらしい。 「あれは、国許に帰ると、大野|九郎兵衛《くろべえ》どのや大石|内蔵助《くらのすけ》どの、奥野|将監《しようげん》どのなどに頭を抑えられ、窮屈な日々を送っておるのさ。出府の役目は当人が買って出るらしい」  奥用人の奥村忠右衛門は、うがった観測を郡兵衛に洩《も》らした。 「頭を抑えられているのは、江戸藩邸の者だけではない。申すも憚《はばか》りあることだが、殿とてなかなか意のようにならぬ。殿の御|癇癖《かんぺき》にはそうしたことにも因がある」  内匠頭長矩は、気性が激しく、ものの考えが片寄った扱いにくい人物だが、そう言われると納得できる。  大名には、奉書火消という課役がある。火災の多発する江戸の町で、消火に当る任を選ばれた大名家に課す。もちろん永代の役目でなく数年で交替するのが例だが、中には加賀前田家のように火消しが特技のようになって、代々つとめる家もある。世に加賀鳶《かがとび》という名を残した。  赤穂浅野家も、数年前、奉書火消を拝命した。内匠頭は燃えさかる火災を相手に、おのれの采配《さいはい》で家来どもが立向うことに異常な快感を持ち、熱中した。  もとが一方向きの性格である。そうなると火災があろうと無かろうと血が騒ぐ。月に三度も五度も藩邸全員に呼集をかけ、演習する。 「よいか、たかが火消しと思うな、これは戦さだ。侍たる者、勇戦して当面の敵を打ち破る。その気概を持て、主将の指図に従い、機敏に動くのだ。戦陣で臆《おく》する者あれば厳しく罰するぞ」  昼間であろうと、深夜であろうと構わず呼集が掛り、一刻《いつとき》(約二時間)余り想定した火災の消火に奔命する。呼集に遅れた者、手順を違《たが》えた者、指図に背《そむ》いた者など、謹慎を命ぜられた者は一再にとどまらない。  その甲斐あって、赤穂浅野家は、火消し上手の異名を得た。町家でも大名家でも内匠頭が消火に出動したと聞くと、一様に安堵《あんど》したという伝説を残した。  国許は、内匠頭の熱意にこたえて、充分な費用を送った。大小の玄蕃桶《げんばおけ》から火事装束まで、小藩としては他に例を見ないほど消火用具が完備していた。  一事が万事、赤穂浅野家の江戸費用は潤沢であった。もちろん国許は経費節減をたびたび要求し、出費に関しては細目にわたって監査したが、江戸藩邸という典礼と外交が主要業務である出先機関に対しては、その特殊性を認め、必要経費を惜しまなかった。 「国許が事毎《ことごと》にがみがみと文句をつけるのは、あれは次席家老の大野九郎兵衛どのの腹の小ささによるものだ。内情は裕福とみてよい」  これも、奥村忠右衛門の説である。  そうした国許の重臣の圧力に、あるじである内匠頭が反応しない筈《はず》がない。元々が江戸生れの江戸育ち、国許の藩政に暗い内匠頭は、実務について容喙《ようかい》するすべを持たなかった。また容喙しようにも藩政はゆるぎない財政に支えられて、文句のつけようがなかったといえる。  内匠頭の対抗手段は、極端な倹約となってあらわれている。自ら範を示すとあって、足袋に継ぎを当て、襤褸《ぼろ》となるまで捨てるを許さなかった。また、常服の裾《すそ》や袖口《そでぐち》がほつれたのを、つくろいつくろいして用いたとある。  その倹約は、当然藩士にもきびしく要求した。だが、内匠頭が藩主の座を嗣《つ》いで二十余年、家臣はその偏屈に馴《な》れている。表面《おもてづら》は節倹でとりつくろい、藩主の目の届かぬ消費面ではゆとりある日々を過していた。  そうした二面性の使い分けが罷《まか》り通る世界では、逸材という人物は出にくい。江戸藩邸の首脳はなべて凡庸であった。藩邸を統括する江戸家老安井彦右衛門は、小心翼々の上に凡愚と言っていい程、才気乏しく、慣例を唯々遵守し、片寄った主君に迎合するだけの男であった。 「江戸藩邸にも、目ざましい日々があったのだ。先々代様(長直、当代長矩の祖父)からご当代初期にかけての江戸家老大石|頼母《たのも》どのはな、足らず勝ちの諸経費を切り盛りしながら、まだお若かった殿を引っ抱えて、八面六臂《はちめんろつぴ》の働きを示された。それが経費が潤沢になると人は平々凡々となる。世の中というのは二つ揃《そろ》うという事はないのだな」  おのれの凡庸を棚に上げて、奥村忠右衛門はそう述懐した。  郡兵衛は勤めに馴れると、平々凡々に堕した。平凡に暮せば居心地はそう悪くない。以前の小笠原家のようにかたくなな槍術詮議はない。  ただ月に三、四度、浅草|鳥越《とりごえ》の今泉道場へ通って、稽古《けいこ》するだけで事足りた。  それで剣の安兵衛、槍の郡兵衛という藩の表看板が通用するから世の中はあまいと思う。  その間に一度だけ、国許から出府した筆頭国家老の大石内蔵助という人物に会った。  筆頭でありながら、城代という首相の地位を次席の大野九郎兵衛に委《まか》せ、勘定方・浜取締という蔵相の地位に安んじている内蔵助は、一面ゆるぎなき財政を掌握しながら、一面無類の遊び好きという。 「大石どのは、賢愚のほどが定かでない」  藩内でそう定評される人物は、会ってみると、これまた平々凡々の田舎じみた容貌《ようぼう》であった。 「高田郡兵衛か……どうだ、勤めは。辛《つら》いことはないか」 「いえ、一向に……お蔭様《かげさま》にて、大過なく勤めおります」 「禄、二百石で足りるかな」  財政家らしい質問だった。 「は……多からず少なからずと申しましょうか。欲はつつしんでおります」  内蔵助の表情が、少し動いたかに見えた。 (推挙して貰った高名人と同じ禄高を得て、多からずというのは思い上がりである。あれは当節風の軽薄な男だ)  内蔵助は内々腹心の吉田忠左衛門にそう洩らしたというが、郡兵衛の耳には入っていない。 「安兵衛とは、仲よくつきあう事だな」  それで面接は終った。  だが、何かしら内蔵助の言葉は、郡兵衛に影響を与えたようである。  それからの郡兵衛は、安兵衛に努めて親しげに話しかけるようになった。安兵衛は屈託なくそれに応じていたが、どうもそれ以上に親しくつきあうに至らない。性格が合わなかったようである。 「高田郡兵衛が、おぬしとは刎頸《ふんけい》の交わりだと言いふらしておるらしい」  奥田孫太夫に言われて、安兵衛は苦笑する外なかった。  なるほど剣士と槍仕《やりし》、当代一流とあって好一対である。郡兵衛の言い触らしは定着して、二人は親友であったという評判を残した。  旗本、内田三郎右衛門の多年にわたる猟官運動は、功を奏さなかった。  世は、大老格御側御用人柳沢|保明《やすあき》(後に吉保《よしやす》)の独裁にゆだねられている。千石高という限られた役職は、よほど有力な手蔓《てづる》を持たないと、まず無理とされていた。  内田は、養女たよの婿探しに奔命した。婿の実家の縁引きで、役職を得ようという魂胆であった。  だが、これも無理筋だった。家柄がよく、現政権に顔の利く家では、たとえ次男・三男であっても婿養子の口に事欠かない。十数年|小普請《むやく》の境涯に甘んじている家の養子口に応ずる者は見当らなかった。  内田三郎右衛門にとっては、空《むな》しい歳月が流れた。      五  時に、異変が起こった。元禄十四年三月十四日、江戸城中松ノ廊下に於《お》いて、赤穂浅野家の当主内匠頭長矩は、高家吉良《こうけきら》上野介義央《こうずけのすけよしなか》へ刃傷《にんじよう》に及び、即日切腹を命ぜられ、城地没収、藩も家も廃絶となった。  一方、吉良上野介は致し方神妙に依《よ》り、お構いなしとある。  明らかに片落ちの処分と言える。これは喧嘩《けんか》である。喧嘩両成敗は鎌倉時代からの武家の定法である。それを柳沢政権は、喧嘩の因をただす事なく、一方のみを処断した。情実による沙汰《さた》、と見えた。  一時に主家と禄《ろく》を失なった赤穂浅野の家臣は惑乱した。  明日からは寄る辺なき浪人の身に成り下がる。藩金の分配を受けて生活《たつき》の途《みち》を探し、家族ともども安泰の暮しを続けようという者と、武士として不当の扱いを受けたことに、一矢を報いようという者とが言い争った。  江戸家老安井彦右衛門や出向家老の藤井又左衛門らは、逸早《いちはや》く藩邸を去った。一説によると赤穂浅野家の親戚《しんせき》筋の各家が、不穏の動きを抑えるため、高禄の者を抱えこんだと言われている。  報復派は、元江戸留守居役の堀部弥兵衛が取りまとめた。側用人片岡源五右衛門、足軽頭原惣右衛門ら二十数名が参画した。安兵衛が加わったことは言うまでもない。その安兵衛と双璧《そうへき》と言われた高田郡兵衛も参加した。仕官に苦辛を重ねた郡兵衛は、浪人暮しで他人に見下げられることには堪えられない。槍の郡兵衛と畏敬《いけい》された誇りを全うしようと思った。  一方、国許では、城代大野九郎兵衛が、不穏の動きに動転して逐電《ちくてん》したあと、代って藩士を統《す》べる大石内蔵助は、韜晦《とうかい》の仮面をぬぎ捨てて、藩廃絶の後始末に辣腕《らつわん》を振るった。  内蔵助には、ひそかに期するところがあった。武士の身は何時異変が起こり、非常の事態に遭遇するやも計り知れない。内蔵助はそれに備えて資金を貯《たくわ》え、非常の時に役立つ侍に撫育《ぶいく》の金を与えて育成した。  つらつら思うに、この非常の事態は、独裁政権の下で情実によってもたらされた災厄である。武士たるもの、その不当な扱いに対し、死をいとわず報復しなければ、百年養った士道の誇りは泥土に落ちる。  報復の方途は何か。喧嘩相手の吉良を、赤穂浅野と同様、屋敷を乱離骨灰《らりこつぱい》に叩《たた》き潰《つぶ》し、当主の首をとって復仇《ふつきゆう》し、支援する縁類の家の士道を叩き潰す。更には独裁の柳沢政権の法秩序に打撃を与えようというのである。  だが、その大事は一朝一夕には成らない。周到な調査と準備に、かなりの年月を要する。  内蔵助は、国許《くにもと》の同志と共に江戸の報復派をも糾合し、相手方に巧妙極まる謀略を次々に仕掛けた。  真因が解明されなかった刃傷に、吉良が賄賂《わいろ》を貪《むさぼ》り、潔白の内匠頭を加虐したためと、世上に噂を流し、討入するぞと恫喝《どうかつ》して、その屋敷を本所に移させるなど、着々と相手方吉良と、支援の上杉家を窮地に追いこんだ。  吉良方は、血縁の羽州米沢の上杉家を頼み、上杉家は当代切っての利け者と言われた江戸家老|色部又四郎《いろべまたしろう》の統率の下、必死懸命の防衛策に狂奔した。  色部は、結盟の赤穂浪人の切り崩しにかかった。餌は再仕官である。何人かは釣り上げたが、いずれも小物である。相手方大石の打撃は少ない。  色部は高田郡兵衛に狙いをつけた。  郡兵衛は、不満をつのらせていた。大石の許で盟約が結ばれたとき、参謀その他の役が選ばれた。惣《そう》参謀に吉田忠左衛門、参謀に小野寺十内、不破《ふわ》数右衛門。国許組の束ねは間《はざま》喜兵衛。  江戸組の束ねは堀部弥兵衛である。安兵衛は当然参謀に選ばれた。だが郡兵衛にその沙汰はなかった。代りに選ばれたのは奥田孫太夫である。  ——何で、おれが選ばれなかった……。  結盟後、独り身の郡兵衛は、安兵衛の許に寄宿するつもりでいた。だが参謀に洩れた郡兵衛と同居することは、機密保持に障《さわ》りがある。  独り居の郡兵衛は、無為に明け暮れた。自負心が強く、圭角《けいかく》のある郡兵衛には、友はおろか、近付く者もなかった。  その郡兵衛の許に、旗本内田三郎右衛門から、来邸を促す使いが来た。  話は前後するが、数日前、内田三郎右衛門は、突然柳沢家の用人根津文左衛門から呼び出しをうけた。 「内田どのには、長い間の非役でお気の毒に存じます」  目下は役職不足、人員過剰で困っている、今|暫《しばら》く辛抱するように、と懇篤《こんとく》な挨拶《あいさつ》である。縁故のない内田は狐につままれた思いであった。  世間話に移った根津は、内田に後継ぎの子息がないと知ると、膝《ひざ》を乗り出した。 「身近に得難い者がおられるではござらぬか。世上に名の高い高田郡兵衛、あれを養子に迎えては如何《いかが》」  実は、役方(文官)には志望者がひしめいているが、番方(武官)には空きがある、新御番から大御番、栄達は思いのままである。  ただし、柳沢の引きがあれば……という。  更に、根津はもう一押しした。 「そうなれば、郡兵衛どのの御実兄、高田弥五兵衛どのにも、必ずや陽が当りますぞ」  内田は、手もなく術中に陥《お》ちた。  内田の屋敷に出向いた郡兵衛は、いままでにない歓待をうけた。その挙句、思ってもみなかった申し出があった。 「そちにたよを妻合《めあ》わせ、一千石の内田家の養嗣子としたい」  と、いうのである。  生活《たつき》に苦しい浪人暮し、いのちを捨てる盟約者の身が一変した。千石という途方もない高禄と、典雅、可憐《かれん》の美女が一時に手に入る話である。  それで、高田郡兵衛は崩れた。兄弟の情、義理の伯父の恩情に惹《ひ》かれたとは、後で作った弁解である。要は欲に眼がくらんだのである。 「ご家老は、よく人を見ておられた」  と、堀部弥兵衛は言う。 「気にするな、抛《ほう》っておけと返事が来た。ご家老が郡兵衛を珍重したのは、人《にん》ではない、槍のなにがしという名だ、その槍名が相手方を威圧できたら……と、思っただけだとな」  舅《しゆうと》から懇々と言いふくめられたが、安兵衛の胸中には、ふつふつと湧く怒りがあった。  ——ここまでおれに面倒をかけながら……。  武士の面目にかかわる立合の勝をゆずった。主家へも推挙した。それは仕官の途に困じ果てている者への憐憫《れんびん》と、他日役立つ槍術の腕を見込んでの事だった。  それも、当初から盟約に加わらなかったらまだ許せた。いったん約束しておきながら、好餌《こうじ》に釣られての脱盟は、武士の一分にかかわる。  許せぬ、と思った。      六  郡兵衛は、養父の許しを得て送って出たたよと、筑土八幡の境内にさしかかった。  ——この道を通らなくなって、どのくらい過ぎただろう……。  雪の日から三月半年、たよは暇ある限り筑土八幡へ通った。だが、あの侍と会うことはなかった。いつか足は遠のき、この一年あまりは来ることもなく過ぎた。  だが、慕情は、消えぬ燠《おき》となって、まだ燻《くゆ》っている。  それにひきかえ、いま共に歩く高田郡兵衛には、何の熱情も持たなかった。その冷静な心の中が、たよの懊悩《おうのう》の救いとなっていた。  ——所詮《しよせん》、人の生きる道程とは、このようなものか。  と、思う。  たよは、おのれの身についた運を、それほどに評価しない。運はよくも悪くもない。というのがたよの諦観《ていかん》だった。よくも悪くもなければ、郡兵衛は程々の夫となるであろう。  ——でも、会いたい。せめてもう一度……。  その願いは、突然|叶《かな》えられた。 「高田郡兵衛、待っていた」  二人が振り向くと、社殿の角から槍を手にした安兵衛が歩み寄ってきた。 「ほ、堀部か」  郡兵衛は、蒼白《そうはく》な顔で刀の柄《つか》に手をかけた。 「き、斬《き》ろうというのか。おのれは」  安兵衛は、苦い微笑みを浮べた。 「まあ早まるな」  安兵衛は、平常の肩肘《かたひじ》張らぬ様で、淡々と言った。 「いまさら言うまでもあるまい。おぬしは士道の義、武士の本分をないがしろにした。ご家老は塵芥《ちりあくた》に等しい者ゆえ、捨ておけと言われる」 「…………」  郡兵衛は、聞くなり肩を落とした。ありありと緊張感の抜け落ちるのがうかがえた。 「だが……おれはこのまま見過しにはできぬ。おぬしには、果して貰《もら》わなければならぬ事がある」 「や、安兵衛、赤穂浅野に推挙して貰った恩義は忘れてはおらぬ。その義理は形を変えて何か他の物で償おう。金か、物か、望みのものを言え」 「そのようなものは欲しくはない。果して貰いたいのは過日の立合の決着だ」  あ……と、郡兵衛は、みるみる血の気を失った。 「で、では、あの時……」 「そうだ、おれはおぬしの槍を巻き落した。おぬしが無双と誇る槍をだ。あの時、おぬしの槍先は、おれが躰《からだ》に寸分も触れておらぬ」 「…………」 「だが、おぬしも槍の郡兵衛と名を得た男、納得はすまい。それでもう一度立合って貰う。今度は紛れなきよう、真槍と真剣でな」  安兵衛が抛《ほう》りよこす槍を、郡兵衛は受止めた。はずみで鞘《さや》が飛び、穂先が光った。 「お女中……いや、お旗本内田三郎右衛門どのご息女だそうだな、聞いての通りの始末だ。そなたとの縁《えにし》は無かったようだ。残念に思う」  無言で立ちつくすたよに目礼して、安兵衛は白刃を抜いた。  郡兵衛はすかさず、突いて出た。  斬り払う安兵衛の白刃が閃《ひらめ》いた。  一合、二合して、対峙《たいじ》した。  安兵衛は、郡兵衛の顔を凝視した。郡兵衛は真《ま》っ蒼《さお》な顔で、敗北感がありありと見えた。  安兵衛は、ふと、郡兵衛の身におのれを置きかえた。  ——おれだったら、どうだろう。  安兵衛は、辛酸の果に剣技を磨き、死生の間に天運を得て今日を得た。郡兵衛は切所に身をおく事はなかったが、天運も得なかった。  ——その差は、一髪ではないか……。  瞬間、郡兵衛は回天を期して突いた。安兵衛は飛び違った。  一人は佇立《ちよりつ》し、一人は折り崩れた。郡兵衛だった。右腕から鮮血が滴《したた》り落ちた。 「いのちに別条はあるまい」  安兵衛は、刀を拭《ぬぐ》いおさめた。 「手当してやりなさい」  と、歩み始めた。 「あ、お待ち下さりませ」  追おうとしたたよへ、安兵衛はふり向いた。  たまらない魅力の笑顔だった。悲しく見えた。 「追うな、わしには今生での運はもう無い」  再び歩き始める。  ——運。おれにはないが、おまえらにはまだある。  肩をそびやかしたその後姿は、そう言っているようだった。  風に、わくら葉が舞った。  面を避けたたよが見直したときは、安兵衛の姿は消えていた。 [#改ページ]   その日の吉良上野介  朝から低く垂れこめた雲は、昼下がりに崩れて白い雪片が舞い降りてきた。  雪は見る間に乱舞の量を増し、庭木を白く覆ってゆく。  ——大雪になるかも知れん。  中小姓《ちゆうごしよう》の新貝弥七郎《しんかいやしちろう》は、外廊下に立って、板張りから足袋底に染み透る冷気を堪《こら》えながら、雪をかぶった南天の赤い実の鮮やかな色に眼をとめていた。 「新貝様」  ふり向くと、奥から来た小坊主の牧野春斉が立っていた。 「おう、何だな」 「ご隠居様が、お茶室でお呼びにございます」 「よし、すぐ行く」  弥七郎は、奥へ足を運んだ。  ——荒《あら》けない屋敷だ。  つくづくとそう思う。木の香はまだ新しいが、大小の節目を構わず使った図抜けて太い柱……木目を斟酌《しんしやく》せず張った厚板の床……仕上げ塗の手を抜いた粗壁……歩く廊下のごつごつとした感触が苦々しい。  ——これが、営中儀式典礼を司《つかさ》どる高家《こうけ》筆頭の屋敷か。  弥七郎は、たまさか訪れる上杉家江戸家老|色部又四郎《いろべまたしろう》の、白皙《はくせき》冷徹な顔を、小面《こづら》憎く思い浮べていた。 「世上、赤穂《あこう》浪人討入の噂は絶えず、またその徴候、無きにしも非《あら》ずと愚考|仕《つかまつ》ります。御大切の御身、要慎《ようじん》に若《し》くはなしと心得ます」  昨年九月、ここ本所《ほんじよ》一ツ目の旧松平|登之助《のぼりのすけ》邸に屋敷替えを命ぜられ、急遽《きゆうきよ》改築して移り住んだのが十二月、それが今年二月にはすべて取払い、三月から新築にかかって半歳余を経て落成したのが、この屋敷である。  普請、作事は、すべて色部又四郎の采配《さいはい》で行われた。費用の殆《ほと》んどは、上杉家の負担であったため、吉良家の言い分は悉《ことごと》く無視された。  ——御隠居様は、以前の呉服橋のお屋敷がおなつかしいであろうな……。  職分柄、吉良家は代々江戸城の外郭《そとぐるわ》、大名小路に屋敷を構えていた。元禄《げんろく》十一年までは鍛冶橋《かじばし》御門内であったが、敷地が手狭な上に建物があまりに古びたため、屋敷替えを願い、呉服橋御門内の大身旗本|米倉長門守《よねくらながとのかみ》が廃絶後の屋敷跡地を得て、新築にかかった。  その折も、上杉家から格別の援助があった。  上杉家と吉良家は三重の血縁で結ばれている。上野介の妻富子は上杉家先代当主綱勝の実妹で、綱勝が寛文《かんぶん》四年に急死し、嗣子なきため廃絶の危機に陥った際、上野介嫡男三郎を末期《まつご》養子として、半知減領で存続することを得た。当代藩主|綱憲《つなのり》である。  嗣子を養子に出した吉良家へは、その綱憲の子、次男の喜平次が養子に入った。昨年上野介の退隠後、当主となった左兵衛|義周《よしちか》である。  新貝弥七郎安村は、上杉藩士の家に生れ、元禄《げんろく》三年、当時八歳の喜平次の小姓となり、喜平次が吉良家養子となった際、附人として籍を移した。  呉服橋の屋敷は、上野介の好みに委《まか》せた雅致あふれる結構だった。  ——老後、唯一の楽しみ。  と、労をいとわず奔命した上野介の念願が、遺憾なく尽されていた。  その惜しみても余りある屋敷が、築後わずか三年で失われた。  昨元禄十四年、上野介は城中で不測の刃傷《にんじよう》を受けた。仕手の赤穂藩主浅野|内匠頭《たくみのかみ》は即日切腹、藩は廃絶となった。上野介は咎《とが》めを免れたが、その後、刃傷の因《もと》は吉良が賄賂《わいろ》を貪《むさぼ》ったためとのあらぬ噂が流布され、隠居の身に追いこまれた。噂はそれのみに止《とど》まらず、赤穂浪人の討入が喧伝《けんでん》され、公儀は近隣の諸家の苦情に、吉良の屋敷替えの沙汰《さた》を下すに至った……。  ——晩年運の無いお方だ……。  弥七郎は、そう思うしかなかった。日常接する上野介は学識、教養ゆたかな老人で、家臣にいつくしみを忘れず、知行地の領民の評判も極めてよい。  職分上、高家と大名・旗本の確執は間々《まま》ある。だが大名・旗本がつとめる役目は一代に一、二度有るか無しだから、刃傷という非常手段にまで増幅された例はない。  さりとて吉良と浅野の間に私交はない。深刻な遺恨などあろう筈《はず》はなかった。  ——いったい、何がまことの因か。  仕手の浅野はそれを申し立てずに死んだ。上野介は覚えなしという。刃傷の真因は今日まで、解明されずに過ぎている。 「御免を蒙《こうむ》ります」  弥七郎が入った茶室は、炉に炭火が燃え、むっとするほどの暖気が満ちていた。 「お、呼びたてて済まぬ。何か用事中ではなかったかな」  茶道具の桐《きり》の小箱を数沢山、取り散らした中で上野介は笑顔を向けた。  弥七郎は、養子の当主左兵衛義周の側近である。子飼いでない。上野介は気遣いを示した。 「いえ、御家老の小林様から、夕刻まで好きに過ごせとお言葉をいただいております」  小林平八郎は、知行地三州吉良郷の出。上野介が壮年の頃に登用した。屋敷の警衛を任せている。 「そうか、切角の骨休めを費して気の毒だが、暫《しばら》く手伝うてくれぬか、先ほどまで茶坊主の鈴木松竹を使うていたが、貴重な品を扱うには心許《こころもと》ない」 「かしこまりました。では手前が一つずつ箱から取出し、また箱に納めます。その間ご存分にお改め下さい」  弥七郎は、その場の状況を見てとって、てきぱきと告げた。 「御道具選びのお手伝いは馴《な》れております」  上野介は相好を崩した。 「弥七郎、よう判《わか》っておるな」 「たわいのない事でございます。今日は十三日……明十二月十四日は二度目のお別れ茶会をお催しになられます」  上野介は、一、二度|頷《うなず》いてみせた。  ——お別れか。  浅野の刃傷沙汰以来、上野介は目まぐるしい身の変転に見舞われた。四十年にわたる瑕瑾《かきん》なき高家筆頭の役職からの隠居。次いで築後三年の贅《ぜい》を尽した屋敷からの移転。古びた旗本屋敷の改築、更にそれを取払っての荒けない屋敷の新築……。  それらはすべて、切腹して果てた浅野内匠頭の旧臣の所為《せい》だ、という。彼らは主君を失い藩地を奪われた恨みを、上野介一身で晴らそうと企《たくら》んでいる……上杉家の色部はそう言い続けた。  そして先月の終り近く、色部はこう告げた。 「万端、手を尽しましたが、万全は期し難いと存じます。依《よ》って御公儀に願い、御隠居様を国許《くにもと》、出羽米沢《でわよねざわ》にお引取り仕ることと致しました。上様の御|允許《いんきよ》は年明け早々に下しおかれます。左様御心得下さいますよう……」  上野介は、くたびれ果てていた。一年と十カ月の変転の日々、内に日夜を分たぬ警備と外出の警戒。女気を断った荒けなき屋敷の暮し……。  それが終る。米沢でもどこでもよい。いぶせきあばら屋もいとわぬ。ゆるゆると安気に過す日が欲しかった。  上野介は肯《がえ》んじた。 「わしも年だ、年とった……この一年あまり逼塞《ひつそく》の暮しを続けると、御城で口やかましく世話を焼いておったおのれが嘘のように思える……つくづくと老先短いことを思い知るようになった」  そして、最後の願いを口にした。 「江戸を去る名残りに、知己知友を招いて別れの宴《うたげ》を催したいが……」  色部はそれを、にべもなく拒んだ。 「宴がいかぬとあらば、せめて茶会なりと催したい」  上野介は執拗《しつよう》に頼んだ。 「別れも告げず、百里外の米沢へ移り去ったとあらば、典礼を司どる高家、それも筆頭の名折れである。家を嗣《つ》いだわが孫、左兵衛義周どのの面目にもかかわろう」  上野介が執拗となった理由は、まだほかにあった。  上野介は職分柄、茶道に精進した。茶の道は極めるに奥深く、扱う名器逸品の美の深遠は量り知れなかった。懐ゆたかな上野介は多年にわたって名品を蒐《あつ》めた。  年老いて、雪深い山国に退隠するに当って、それらを知己知友に披露することに、上野介は灼《や》くような渇望を禁じ得なかったのである。  色部もそれまでは拒みきれなかった。  茶会は年内に三日催すこととなった。一日に二度、正午《ひる》の茶会と夜咄《よばなし》茶会、それぞれに五人ずつ。一日に十人、三日で三十人。  茶会は、二時《ふたとき》を出ないのが定めであった。茶事のあと、簡略だが趣向を凝らした懐石料理を供する。期日は師走《しわす》五日と十四日、二十二日と定められた。  五日の茶会に、色部は抜かりなく万全の警戒態勢を執った。折悪しくみぞれまじりの雨が降る寒夜に、徹宵《てつしよう》の警戒が行われたが、赤穂浪人が襲う気配は微塵《みじん》もなく、事なく終った。  そして明日は十四日、二度目の茶会である。  ——あと二日の茶会、それで江戸との別れである。恐らく二度と帰る日はあるまい……。  上野介は、眼が熱くうるむのを感じていた。人は年老ゆると涙もろく、耐《こら》え性がなくなる。首を振って感傷を振り払うと、弥七郎が差し出す品を手にした。 「花入か……はて、この薄端末広《うすばたすえひろ》はどういうものか、夢窓国師の墨蹟《ぼくせき》には華やか過ぎよう……それ、その鶴首《つるくび》古銅を開けてみよ。その方が雅致あってよい」  五日の茶会に使った茶道具は、残りの茶会には使わないと心に決めていた。米沢へ去ったあと、客同士が語り合う思い出に、嘆賞の吐息と愛惜の言葉が交されるであろう。それが老人の見栄《みえ》でもあった。 「これは香合でございますな」  弥七郎から渡された小さな形物《かたもの》を手にした上野介は、ふと眉《まゆ》を寄せ、溜息《ためいき》を洩《も》らした。 「お気に召しませぬか」 「うむ……これは祥瑞《しよんずい》の鳥差瓢箪《とりさしひようたん》……なかなかの物だが、はて、古越磁《こえつじ》の香炉に対していかがなものか、少々見劣りするように思うのだが……」 「では、ほかに……」 「いや、無い。呉洲《ごす》の木瓜《もつこう》は五日に使うた。染附《そめつけ》の水牛は二十二日に使うときめておる。ほかに名品は無い……」  上野介は、ふと手を止めると、何かを思うように宙を見つめた。 「ご隠居さま……」 「あれか……あれが手に入っておればな、いや、惜しいことをした……」 「何でございます」 「交趾《こうち》の大亀《おおかめ》よ、天下に聞えた逸品……名物帳のかしらに位置する品だ。それをこの手にしながら、むざとわが物に仕損《しそこの》うた……」  上野介の顔に、痛惜の色がありありと見えた。 「いったい……どうなされたのでございますか」 「あ、いや、まて、少々考えをまとめたい。あれは……はて、どう行き違ったのか……」 「…………」  弥七郎は、懸命に記憶を辿《たど》る上野介の顔を見つめて待った。 「年はとりたくないものよ。老いぼれるといのちを懸けた事の成行までも忘れほうけてしまう……」  上野介は、自嘲《じちよう》の笑みを洩らして、弥七郎を見た。 「話せば記憶がよみがえるかも知れぬ、それとその時には気付かなんだわが心と、相手方への推量も思い浮ぶであろう……これは今のわが身、延《ひ》いてはそちたちの身にもかかわりあること、少々長話になるが聞いてくれるか」 「承りまする。是非……」  弥七郎は、居ずまいを正した。 「あれは、昨年の年頭のことだ……」  上野介は、自ら汲《く》んだ白湯《さゆ》を啜《すす》ると、ゆるやかに話し始めた。  正月、京におわす天皇《すめらみこと》に年始の賀使を送るのは、幕府の欠かせぬ行事である。朝廷からは答礼の勅使(天皇の使者)・院使(上皇の使者)が、二月から三月にかけて、江戸に下向《げこう》する。  昨元禄十四年は、吉良上野介義央が朝賀使を拝命した。生涯を通じて十五度目の御役目であった。  上野介の江戸出立は、正月の十一日であった。出立に先立ち、老中からその年の勅使・院使の御馳走《ごちそう》役に誰を下命するか、内々の相談があった。  大名に申付ける御役目は、藩財政の豊かな者を選ぶ。役目の遂行に要する一切の費用はすべて自弁である。  上野介は、候補の名簿から浅野内匠頭と伊達左京亮《だてさきようのすけ》を選んだ。浅野は十八年前、内匠頭が十七歳の折に勅使御馳走役を務めている。その折の御取囃《おとりはや》し役(指導役)は高家大沢右京大夫であったが、名家老職と聞えの高い浅野家江戸家老大石|頼母《たのも》(内蔵助良雄の叔父)は、 「あるじ年若《としわか》にござりますれば、格別のお引廻《ひきまわ》しを……」  と、法外な金品を贈って上野介に指導を頼んだ。  不惑を越えたばかりの上野介は、自ら伝奏《てんそう》屋敷に出向き、大沢右京大夫ともども懇切丁寧に典礼作法を仕込み、無事にお役目を果した。  詮《せん》じつめれば、浅野内匠頭は上野介の愛弟子《まなでし》である。その折の準備万端は、浅野家の記録に残っている筈で、年若で初役《しよやく》の伊達左京亮を指導するには打ってつけと思われた。  それは上野介自身、この年の朝賀使と、両御馳走役の御取囃し役を兼ねることが決っていたためであった。  ——道を急いでも京までは十四、五日。帰府は二月半ばとなろう。万一、不測のことでもあって帰府が遅れれば、浅野に準備をゆだねるしかない。 「ほう……確か昨年、江戸へお戻りなされたのは……」  弥七郎が記憶を辿るのに先んじて、上野介は言葉を続けた。 「万一、と思うた不測の事が起こったのだ」  正月三十日、参内して畏《かしこ》きあたりに年賀の御挨拶《ごあいさつ》を奏上したあと、旧知の内大臣|九条輔実《くじようすけざね》に招かれ、饗応《きようおう》に与《あずか》った。それがあだ[#「あだ」に傍点]となった。何が悪かったかわからないが、ひどい食|中毒《あたり》を起こして、十日近く寝込む始末となった。 「そのため京を出立するのが遅れに遅れてのう。如月《きさらぎ》(二月)半ば近くとなった」  その間、二月四日に朝廷新年祝賀使饗応役が、正式に発令された。   第百十三代、東山《ひがしやま》天皇    勅使(正使)     正《しよう》二位柳原|前権大納言資廉《さきのごんのだいなごんすけかど》    同(副使)     従《じゆ》二位高野前権中納言|保春《やすはる》   仙洞《せんとう》御所(霊元《れいげん》上皇)    院使     従二位清閑寺前権大納言|熙定《ひろさだ》    勅使御馳走役   播磨《はりま》国赤穂城主五万石     浅野内匠頭長矩    院使御馳走役   伊予《いよ》国吉田領主三万石     伊達左京亮宗春    肝煎《きもいり》   高家筆頭四千三百石     吉良上野介義央 「わしの江戸帰着は遅れに遅れ、二月も押しつまった二十九日、登城して上様への御報告は三月一日であった」  四十日に近い旅の疲れに、思わぬ病の疲れが重なった。上野介は齢《よわい》六十一歳、老いの身とあって回復が遅い。日一日と荏苒《じんぜん》時を過すうち、三月も六日となった。 「その日、知らせがあって、勅使、院使の御到着、御宿泊所伝奏屋敷お成りは三月十一日となった。前日の十日には品川《しながわ》宿に御一泊なされる。それまでに伝奏屋敷の支度は万端ととのっておらねばならぬ……」  弥七郎は、ようやく本題に入った物語に、身を乗り出した。 「七日の日よ、疲れの癒《い》えぬ身で伝奏屋敷の検分に参ったのは……」  一見すれば、何の手落ちもなく、準備は滞りなく調っているかに見えた。  浅野内匠頭は、会心の笑みをたたえていた。  だが——上野介は、あっと息を呑《の》んだ。  ——何かが足りぬ、また、何かが多い。  例えば……勅使の伝奏屋敷入りの際、茶の馳走をすることになっている。その際の茶碗《ちやわん》はそのまま勅使への進上品となるため、価《あたい》数十金程度の古陶を用意せねばならぬ。  それが欠けている。供する御菓子の手配もない。 「…………」  指摘しようとした上野介は、出かかった苦情を呑みこんだ。  勅使到着の際の、茶の接待は確か七、八年前、その折の勅使の求めに始まり、茶碗進上が例となった。  十八年前に御馳走役を勤めた浅野内匠頭が知る訳がない。  例はまだある。勅使が芝|増上寺参詣《ぞうじようじさんけい》の日に限って、その夜、ささやかな夜食を供するようになったのは、いつの年からであったか。  また、十八年前には行われていた旗本古老の者の夜咄《よばなし》は、変り栄えせぬとあって五年前に廃止となり、その折の進上品も不用となった。  貴人に情《じよう》なし、という。公家《くげ》というのは我儘《わがまま》なもので、時折の勅使が慣例を変える。その変えられた慣例が例となって引継がれてゆく。  慣例変更は些事《さじ》だが、年が重なるとかなりのものとなる。献上品、進上品の増減も数多い。  上野介は、十八年という年のへだたりを嘆ぜずにはいられなかった。  準備の手違いは、浅野の不行届ではない。重なる年月の所為《せい》であった。御取囃し役の上野介が咎《とが》める筋合ではない。  ——今少し、早く帰着しておれば……。  上野介は、そればかりを悔いた。  ——悔ゆとも詮なし。  翌八日から、上野介の大車輪の働きが始まった。  人は老ゆると気が短かくなる。一々慣例の変更を説明している心のゆとりがない。その相違点を指摘して改めさせる。時日が切迫しているので、つい言葉荒くせきたてる。 「それが、事毎《ことごと》に浅野には辛《つら》かったのだな、わしが帰府するまで、年若の伊達にしたり顔で指図した。それを面と向って違いを指摘し、言葉荒く叱る。初役の伊達はうろたえまくり、恨みがましく浅野を見る。浅野にしてみれば居た堪《たま》らぬ思いであったろう。今にして思うと気の毒なことをした……」  弥七郎は、頷《うなず》くばかりであった。  ——どちらも悪くはなかったのだ……。 「事の起こったあと、人はわしを悋嗇《りんしよく》と罵《ののし》った。そのようなことはない。悋嗇どころか浅野や伊達が調達できぬ献上品や進上品は、わが家の逸品を持ち出してそれに充てた。なかには数十金、数百金の物もあった。わしは……年月の所為で起こった手違いを、自費で償ったのだ。断じて悋嗇ではない」  上野介は、喋舌《しやべ》るうち感情が激したのであろう。声高となり、一気にまくしたてた。  見兼ねて、弥七郎が口をさしはさんだ。 「お気を高ぶらせますと、お躰《からだ》に障《さわ》ります。茶など召してお静まりなされてはいかが」 「うむ……」  上野介は、吾《われ》に返って苦笑を浮べた。 「いかにも弥七郎の言う通りだ。繰り言で気を高ぶらせても今更どうにもならぬ……そちも相伴せい」  取散らした諸道具の箱を片寄せ、上野介は茶事に専念した。  茶事にそう明るくない弥七郎が見ても、みごとな手前であった。  ——年老ゆるというのは、つらいものだな。  弥七郎はそう思う。これほどの教養があっても、人は生を貪《むさぼ》る。突然の刃傷《にんじよう》という悪運に見舞われ、悋嗇よ、賄賂《わいろ》を強要したなどと悪罵《あくば》された末、百里をへだてた山国で隠遁《いんとん》の暮しを強いられる。その行末にどのような楽しみ、倖《しあ》わせがあるのであろうか。  茶を喫し終った弥七郎は、ふっと念押しの言葉を口にした。 「では、賄賂などというのは、根も葉もないことでございまするか」 「賄賂……」  反射的にそう呟《つぶや》いて、上野介は作法の手を止めた。 「待て……賄賂か……」  何か考える風であった。そしてポツリと言った。 「あれを根に持ったのかも知れぬ、賄賂はあったのだ……」  弥七郎は、と胸を衝《つ》かれた。 「あった、と申しますると」 「あれは勅使御到着の当日、十一日の朝であった。伝奏屋敷に詰めていると、浅野が控部屋へ来た……」  人眼を忍ぶ様子であった、という。見ると顔に憔悴《しようすい》の色がありありと見え、眼が血走り、よほど思いつめた様子に見えた。 「吉良どの、折入ってお願いしたき儀がござる」  と、言う。 「はて、何ごとでござるかな」 「実は……茶事にご堪能《たんのう》なそこもと様に、目利き願いたい品を持参致しております。別室まで御足労願えますまいか」  ——この大事の折に……。  と、思った。だが、趣味が昂《こう》じて道楽の域に達した上野介は、茶事と聞くと、心が動いた。  浅野が案内したのは、奥まった三ノ間という空部屋であった。 「そちは知るまいが、伝奏屋敷というのは殊の外広い。使わぬ部屋がいくつかある。なかでも三ノ間というのは、むかし不祥の事があったとかで、開かずの間と言われておる……」  その黴《かび》の匂いのする部屋に上野介を招じ入れた浅野は、床ノ間脇の天袋から、古びた小箱を取出し、上野介の前に置いた。 「そう……小さな木箱だ。煙草入れほどの……大方、家来どもにも気付かれぬよう、懐か袂《たもと》にでも忍ばせて来たのであろう……」  上野介は、古びて黒ずんだ小箱を手にとった。 「拝見致そう」  紐《ひも》を解《ほど》いて、なかにあった香合を取出した。 「それが、なんと大亀であったのだ。交趾の……天下にまたとない逸品、価は五、六百金……いや、欲しいとあれば千金でも高いとはいえぬ、そのみごとさ……今もこの眼の底に灼《や》きついて離れぬ……」 「それで」  と、弥七郎は促がした。  上野介が嘆賞していると、浅野はその態《てい》を見すまして、思いもかけぬことを口にした、という。 「お気に召しましたならば、その品、そこもと様に差上げたいと思います」 「これを?」  思わず、上野介は聞き返した。  浅野の言うところによると、内匠頭の曾祖父采女正長重《そうそふうねめのしようながしげ》が、二代将軍秀忠の側近として仕えていた頃、人に知れぬ功あって、日常お手許《てもと》に使っておられた香合を下賜されたものだ、との事である。 「それほどの逸品とは知らず、日頃使っておりましたが、由緒からみてそう安からぬ品と思い持参致しました。これは家臣どもも知らぬこと、このままお納め願えませぬか」 「いや、そのお志はありがたいが、これほどの品、頂戴致す謂《いわれ》がござらぬ」 「謂などと、大形《おおぎよう》なことを……何卒《なにとぞ》、お納め願って、このお役目、お手柔かに願いとうござる。平に……平に、お願い申す」  上野介は、あっと思った。  ——これは、誤解だ。  浅野は、三月七日以来の上野介の所業を、おのれへの苛《いじ》め、甚振《いたぶ》りととったに違いない。  たしかに、そうとられても致し方ない、と思った。毎日が浅野に恥かかすことの連続であった。  毎日が針のむしろに坐《すわ》る心地の浅野は、煩悶《はんもん》の余り、賄賂に逸品贈与を思い立った。  ——それは違う。違うのだ。  上野介は、声高に叫びたかった。浅野も必死であっただろうが、上野介はもっと必死だった。勅使馳走の手違いは、浅野は一時の辛抱で済む。しかし儀式典礼を以て家を保ち、禄《ろく》に与《あずか》る吉良家にとっては、家の存亡にかかわる大事なのだ。 「そこもと……」  上野介は、嗄《しやが》れる声を咳払《せきばら》いして続けた。 「何か思い違いしておられる。重ねて申す。そのような品、頂く謂は無い……」  上野介は、咽喉《のど》から手が出るほど欲しかった。この先、二度と手にすることはあるまいと思う……。  だが、それを受取れば、連日の慣例違いの是正はすべて苛めとなり、賄賂の強要とされても言い訳が立たない。  上野介の灼けつくような欲望を抑えたのは、一生を懸けた職務職分の誇りであった。  折柄、遠く、番士の呼ばわる声が聞えた。 「御高家吉良様……浅野様……お時刻にござります、お出まし願いまする……」 「では……」  浅野は、鋭い眼で上野介を瞶《みつ》めた。 「どうあっても、お納め願えませぬか」 「…………」  上野介は、首を横に振るしかなかった。説明している暇はない。  ためらった後、浅野は香合を納めた小箱を持って、天袋に歩み寄った。 「こう致しましょう。この品、ここへ納めておきます。お気が変られましたら、人知れずお持ち帰り願います」  その声を背に、上野介は三ノ間を出た。  炉の炭火は、半ば白く灰となっていた。  長い沈黙の末、弥七郎が口を切った。 「なるほど……それで合点がゆきました。それが刃傷のきっかけでございますか」  上野介は微笑んで、首を横に振った。 「なかなか……そちはまだ青い。そのような鬱積《うつせき》は、刃傷の遠因にはなっても、きっかけにはならぬ、刃傷というのは大変な事なのだ」  三月十四日、この日勅使・院使は登城して、勅答の儀式が白書院で行われる。  御三家諸大名諸役向は、帝鑑《ていかん》ノ間に列座して、式次第を拝観する。  御馳走役《ごちそうやく》と御取囃《おとりはや》し役は、勅使・院使をお玄関に出迎え、御案内をつとめるのが役目であった。  時刻は刻々に過ぎた。上野介は打合せることがあって、浅野を探したが見当らない。  お坊主に尋ねると、つい半刻前、浅野は思い立って伝奏屋敷へ出向いたという。  ——時刻が迫るというに、何を悠長な……。  舌打して上野介は、玄関に急いだ。  玄関に出てみると、これはしたり、警衛の番士が玄関先に居並ぶなか、浅野と伊達は式台に端座して、勅使・院使の入りを待っている。 「あ、それは違う」  確か七、八年前までは、それが正しかった。  だが、ある年、お玄関を上がる際、勅使の御沓《おくつ》が脱げて、それを並べ直すのに御馳走役の長袴《ながばかま》がさばききれず、見苦しい様となったことがあった。以来、御馳走役は式台の下の床に坐るのが例となった。 「浅野どの、伊達どの、下の床に下りられよ。それ、その辺だ」  上野介は、手にした中啓《ちゆうけい》(頭部が半開きとなった扇)で、位置を指した。  間の悪いことに、はっとして腰を浮かせた浅野の烏帽子《えぼし》が、その中啓に触れ、曲った。 「あ、ごめんあれ……お坊主、遠侍《とおざむらい》(番士の控部屋)で烏帽子をお直し申せ」  浅野は、恥かしさに顔面真ッ赤となり、逃げるように玄関脇の遠侍に走りこんだ。  ——あとで、詫《わ》び言を言わねばならぬ……。  そう思ったが、今は暇《いとま》がない。上野介は伊達に位置を懇切に教えたあと、殿中に引返した。  遠侍の角を曲りかけた時、忙がしく行き来する番士の私語が聞えた。 「……浅野がまたしても手違いを起こし、吉良に頭《つむり》を打たれたそうだ……」  上野介は暗い予感が走った。  ——それも違う。浅野の耳にその声が入らなければよいが……。  瞬間、そう思ったが、心|急《せ》くままにそれも忘れた。  ——今年の行事は、手違いが多い。  老中に告げることがあって、松ノ御廊下に近い柳ノ間の角まで来ると、御台所《みだいどころ》(将軍夫人)御留守居役|梶川与惣兵衛《かじかわよそべえ》に呼び止められた。 「何ごとでござる」 「実は御勅使より御台所様並びに桂昌院《けいしよういん》様に下しおかれます御恩賜に、大奥より御礼申し上ぐる儀につきまして……」  と、言いかけた梶川は、上野介の背後を見て、あっと声を挙げた。  ——何事。  と、振り返った上野介の眼に、形相|凄《すさ》まじく殺到する浅野の姿が映った。 「この間の遺恨、覚えたか」  浅野は絶叫し、脇差を抜いて斬りかかった。  一太刀浴びた上野介は、柳ノ間に逃げこんだ。追った浅野は更に一太刀浅く斬りこんだが、それ迄《まで》であった。浅野は梶川に取押えられ、刃傷は終った。 「いかさま……さようでございましたか」  弥七郎は、深い吐息のあとで、そう言った。 「まこと、わからぬものよの、人の運というものは……」  上野介は溜息《ためいき》をついた。出るものは溜息ばかり……というのが、上野介の心境であった。 「わしは悪くない。天地神明に誓って悪意はなかった。浅野も……悪意はなかったと思う。すべては行き違いから始まった。十八年の時の長さと、わずか四日しか余裕のなかった時の短かさ……それがすべてなのだ、その、時の長短が確執を生み、増幅され、遂《つい》には刃傷という破局に至ったのだ……」  上野介の言葉は、はじめ声高だったのが次第に低くなり……遂には呟《つぶや》きとなって、消えた。  運命は苛酷《かこく》だった。あるじの刃《やいば》を避けたら、次はその家来どもがいのちを狙うこととなった。 「あの刃傷の折、斬られて死ぬべきであったかも知れぬ……」  その通りである、と弥七郎は思った。だがそれを言葉にするに忍びず、別のことを口にした。 「すると、香合……交趾の大亀は、今も伝奏《てんそう》屋敷の三ノ間に……」 「そうだ、天袋に置いたままになっておるだろう……」  言いさして、上野介は、愕然《がくぜん》となった。 「そうだ、刃傷の当日、浅野が伝奏屋敷に出向いたのは、わしが香合を受取ったかどうか、見確めるためであったに違いない」  恐らく、賄賂が拒まれたと知ったとき、浅野の絶望は頂点に達したと思われる。重なる手違いに恥を掻《か》き通した上に、賄賂まで使って拒まれた身の恥辱……。  浅野の死に至る心境をはじめて知り得た上野介と新貝弥七郎は、言葉もなく思いにふけった。  やがて、上野介は、呟くように言った。 「弥七郎、このこと、人には言うなよ。人の理解を得るには、まだ暫《しばら》く時がかかる」  その時は、永遠に訪れなかった。  翌十二月十四日、赤穂浪士四十七士は吉良屋敷に討入った。  新貝弥七郎は急を知って駈《か》けつけた玄関で、十文字|槍《やり》で腹を突き抜かれ、折れた穂先をとどめたまま絶命したと伝えられている。  江戸城内、竜の口の伝奏屋敷は、七十三年後の安永《あんえい》四年(一七七五)、老中田沼|意次《おきつぐ》の提言により、新たに建て直された。 [#改ページ]   十三日の大石内蔵助      一  空が暗い。  雪|催《もよ》いの厚い雲が、低く垂れ籠《こ》めていた。  二、三日前から続いている底冷えは、一段ときびしくなった。  十一月五日に江戸へ入って以来、一カ月余りが過ぎ、討入《うちいり》は目睫《もくしよう》の間に迫っていた。  討入、という言葉の響きには、戦国の世の城攻めに似た華やかさがある。だが、泰平の世に、数十の侍が徒党を組んで法に背き、事をなすには、一年十カ月(元禄《げんろく》十五年は閏《うるう》年で、八月が二度あった)の歳月と、その間の言い知れぬ心労と苦難があった。  その労苦は、今も続いていた。一統は仇敵吉良《きゆうてききら》上野介《こうずけのすけ》の身辺の動静を探ることと、直前に切迫した討入に備えて、武器武具諸道具を前線基地へひそかに搬送することに奔命している。  現に今日も、同居の倅《せがれ》主税《ちから》は、用人の瀬尾《せのお》孫左衛門を伴って、永代《えいたい》橋に近い湊《みなと》町の船泊りへ赴き、同志の者たちと梱包《こんぽう》の搬送に当っている。  ——さぞ寒かろう。  朝からぬくぬくと、行火《あんか》に掛けた布団《ふとん》に埋もれた大石|内蔵助《くらのすけ》は、うつつにそう考えていた。 「くれぐれも申し上げておきます。御家老は構えてわれらの働き場に姿を見せられぬように……」  惣《そう》参謀吉田忠左衛門に続いて、京|山科《やましな》で内蔵助の護衛役をつとめた不破《ふわ》数右衛門が言った。 「御家老を、赤穂《あこう》や山科、伏見|撞木《しゆもく》町などで見覚えた隠密《おんみつ》、諜者《ちようじや》、細作《さいさく》が江戸に集められ、必死懸命にお姿を探し求めております。万が一にも御家老の一挙一動から、討入発起の時を察知されれば、二年近い苦労も水の泡……どうかくれぐれも御自重下さるよう……」  ——自重、か。  うまい言葉だと思う。  自らの行いを慎んで軽々しく振舞わないこと。そう考えなくても行火にしがみつき、布団を肩まで引き上げた躰《からだ》は、身じろぎも億劫《おつくう》なほど重く、怠惰に身を任せることがたまらなく心地よい。  だが、躰は安楽を貪《むさぼ》っているものの、気持は重く沈んでいた。  ——待つ身は辛《つら》い……早う明日が来ぬか。  昼前、慌しく訪れた吉田忠左衛門は、同志のひとり小山田庄左衛門(百石)が、突然行方知れずになったことを告げた。  江戸入りした時、五十五を数えた同志の数は、昨日までに二名の脱盟者を出していた。  師走《しわす》に入ってから日ならずして、毛利《もうり》小平太(十石三人|扶持《ぶち》)が、行方をくらました。参謀のひとり小野寺十内から用度金二百両を預り、東湊《ひがしみなと》町の天川屋《あまかわや》の出店へ届ける途中、持ち逃げしたという。  毛利小平太は、江戸|定府《じようふ》、若年ながら計数に長《た》け、勘定方をつとめていた。性格は明るく、顔容も整っていたので、同志のなかでも人に愛される質《たち》であった。  彼はそのおとなしやかな容貌《ようぼう》に似ず、内に激しい性格を秘めていたようである。討入の盟約者のなかにあって常に急進論を唱え、江戸組の纏《まと》め役堀部弥兵衛老人の手を焼かせること度々であったという。  それが、悲願の討入を目前に控えて、突然軍資金の一部を持ち逃げする裏には、どのような事情があったのであろうか。仮住居の長屋には、朝方洗濯した肌着が干したなりであり、出掛けに買った野菜の束と、洗い桶《おけ》に蜆貝《しじみ》が水に浸してあったと伝えられている。  二、三日あと、船手|掛《がかり》の指図を任されていた田中貞四郎(百五十石)が夜逃げした。  この方には、綿々と事情を書き連ねた書き置きが残された。その文面によると赤穂浅野家廃絶の折に、縁を解《ほど》いた許嫁《いいなずけ》の娘から知らせがあり、明日をも知れぬ大病なので死に水をとってやりたい。三、四日のうちには必ず復帰し詫《わ》びを入れるつもりだが、万一討入に間に合わぬときは潔く切腹して、節義に殉ずる、とあった。後の話だがそれなり復帰せず、後に至るも切腹した事実もない。同輩の話では許嫁があったとも、聞いた者はなかった。  その両名の脱盟には、前々からとかくの噂が無いでもなかったが、討入を控えた前日の小山田庄左衛門の逐電《ちくてん》には、衝撃を受けた。それは小山田が同志の中で信頼が厚く、またその信頼の厚さに足る才腕の持ち主であったからである。  討入の前線基地は、吉良屋敷の横手七間道路を隔てた町家、相生《あいおい》町二丁目に雑穀商|美作屋《みまさかや》五兵衛を名乗る前原伊助の店と、その裏店《うらだな》で古着を商う丁子《ちようじ》屋善兵衛こと神崎与五郎の家である。  前線基地があまりにも吉良邸に近いため、討入の諸道具や兵糧《ひようろう》、小物の荷を搬入するのは、期日ぎりぎりの時刻まで待たなければならない。そのため永代橋畔の湊町|船溜《ふなだま》りから運ぶ荷は、小荷駄基地である本所林町五丁目の剣術道場、長江長左衛門こと堀部安兵衛の許《もと》へ運ばれた。また、その補助基地として林町五丁目の東隣り、徳《とく》右衛門《えもん》町一丁目に、日本橋の薪炭《しんたん》商を装った杉野十平次と足軽矢野伊助が物置小屋を借受けた。  その荷扱いとして、両基地と竪川《たてかわ》堀を隔てた対岸の緑町四丁目に、中田理平次、中村清右衛門、鈴田重八の三名が空店《あきだな》を借受け住んだ。  その人員と荷の整理仕分けを任されたのが小山田庄左衛門であった。  ——あの男が、まさか……。  小山田庄左衛門の失踪《しつそう》原因はまったくの謎である。温厚篤実、思慮深い小山田が、討入の前日になんで姿を消したか、これもいまもって分らず終《じま》いである。 「あるいは、顔見知りの刺客に襲われ、死骸《しがい》は大川へ投げ捨てられた、とも考えられます。御家老のご身辺には、くれぐれも御要慎《ごようじん》を……」  吉田忠左衛門は、念のため護衛に不破数右衛門を割こうと言ったが、内蔵助は固く辞した。 「それで無《の》うても足らぬ勝ちの人数。わしのために割くには及ばぬ。わが身ひとつの護《まも》りはわしひとりで十分……」  内蔵助は、剣を讃岐《さぬき》高松の奥村無我に学び、免許を受けている。腕には覚えがあった。  それより、刃傷事件以来、その動静が噂の種となっている赤穂浪人の頭領、大石内蔵助を江戸御府内で殺《あや》めるほどの度胸が、相手方にあるかどうか、その方が問題であった。  ——それ程の決断力は、吉良にも、その後盾の上杉家にもあるまい。  内蔵助は、そう思っている。相手方が得ようと必死になっているのは、赤穂浪人が非常手段に踏み切るかどうか、その情報である。  ——あと一日……一日を無事に越せれば討入に踏み切れる……。  行火の温《ぬく》もりにしがみついて、怠惰に身を任せている内蔵助に、しきりと雑念が去来していた。  ——手落ちはないか。討入支度に手落ちは……。  そう焦る気持の底に、不安が渦巻く。  ——小山田庄左衛門が落ちた。まだ出る。脱盟者が……。  残るは五十二名。もう一人も欠くことは出来ない。ぎりぎりの人数だった。  ふと、表口に通じる路地に跫音《あしおと》がした。  内蔵助は、江戸に潜入する際、仮住居を借りるに条件をつけた。 (借家は、京橋から日本橋あたりの裏店。袋小路の奥)  袋小路は出入りに不便だが、無用の者が入って来ない。人眼を避けて住まうに絶好である。  苦労して探したのが、日本橋|石町《こくちよう》の小山弥兵衛の持ち家であった。  その袋小路に入ってくる忍びやかな跫音がある。  内蔵助は息を詰め、耳を澄ました。  強いて覗《のぞ》き見しようとは思わない。それより一瞬の変に備える心構えだった。  跫音は、門口あたりで止まり、暫《しば》し佇《たたず》む気配だった。やがて入ってきた時と同様、音を殺して去って行った。  吉良・上杉の手の者か。それとも路《みち》に迷った者か、わからない。  内蔵助は、胸中に湧く焦慮と不安を振り払うように起《た》ち上がった。  ——これは愚《おろか》だ。一統の頭領たる者が今更迷って何になる。  まず、事態を醒《さ》めた眼で客観視することが大事である。切迫から離れ、自意識を没却することが肝要だった。  内蔵助は、手早く外出の身支度を始めた。      二  梵語《ぼんご》に、比丘《びく》という言葉がある。食を乞《こ》う者の意で、仏門に帰依《きえ》し、具足戒《ぐそくかい》を受けた修行僧を言う。  比丘尼《びくに》とは、その尼僧である。  それが鎌倉・室町期以降、尼の姿をして諸方を遊行《ゆぎよう》した女芸人の称となった。戦国末期に京の四条河原で人気を得た出雲阿国《いずものおくに》の念仏踊が、後の歌舞伎《かぶき》踊に発展する。  熊野《くまの》比丘尼、歌比丘尼などの芸能比丘尼は、幕政の中心地となった江戸に移り住んで、江戸初期の芸能として栄えるようになった。  それにつれ、比丘尼を真似た私娼《ししよう》があらわれた。尼姿に倒錯的な興味があってか意外に繁昌《はんじよう》し、比丘尼宿が四谷《よつや》、深川、根津、赤坂等に、それぞれ十数軒が集い、生業《なりわい》としていた。  内蔵助が足を運んだのは、赤坂の裏伝馬町にある山城屋という比丘尼宿であった。  もちろん、はじめてではない。  江戸に潜入して早々に、三田松本町で人入れ稼業を営む前川忠太夫が、 「大石様は人並外れた遊び好き、と承知致しておりますが、今度ばかりは人目に立つ花の吉原へご案内する訳にも参りません。実は赤坂辺に変った隠れ遊びをする家を見つけましたが……」  と、言って、連れて行ってくれた。  前川忠太夫は、播州竜野《ばんしゆうたつの》の前の領主、本多家に仕えた侍だったが、主家が滅んで浪人となった。かねてから面識のあった内蔵助はその人柄を惜しみ、武家奉公の望みを捨てた忠太夫に資金を貸し与え、江戸で人入れ稼業を営ませ、大名屋敷への出入りを斡旋《あつせん》した。その後忠太夫は旗本大名十数家の出入り屋敷を持つ程に盛業となったが、内蔵助の恩義を終生忘れず、赤穂浅野家の大変に際し、討入の企てに協力を続けていた。  前年、内蔵助が東下《あずまくだ》りをした際も、忠太夫は吉原に案内して旅情を慰めた。内蔵助が若年の頃より女色を好み、それを一向に隠す様子のないのを熟知していたからである。 「どうも弁解染みてわれながら汗顔の至りだが、わしは思案に暮れると無性に色欲が昂《こう》じてな。どうにも耐《こら》え性が無くなる……ええ儘《まま》よと遊び、色情を遂げると不思議とよい思案が浮ぶのだ。これはわしの持って生れた業《ごう》、かも知れぬ」  そう嘆ずる内蔵助の言葉の裏に、筆頭国家老の家に生れつき、泰平に馴《な》れ安逸に日を送る家中をよそに、一藩の危急に備える心労を重ねた苦衷がうかがえた。  不幸にも、赤穂浅野家は廃絶の悲運に見舞われた。だが旧家臣の有志は内蔵助の非常の備えによって、侍の義を貫く義挙に邁進《まいしん》する。  しかし、義挙は成否を問わず全員が死を迎える。忠太夫は内蔵助の苦衷を慰めようと、最後の餞《はなむけ》に、女遊びに誘った。  今回忠太夫が案内した赤坂裏伝馬町の比丘尼宿は、私娼ながら幽雅な構えで、趣きも深く、女子《おなご》も粒|揃《ぞろ》いであった。 「これは風変りな……」  内蔵助は満足気だったが、選んだ女子が意表外であった。  入りがけに見掛けた帳場に、叱られでもしたのか眼を泣き腫《は》らし、しょんぼりとうなだれている儚《はかな》げな少女を、 「あれを……」  と、忠太夫に頼んだ。  帳場へ交渉に行った忠太夫は、内蔵助に結果を告げた。 「あれはお止めになったほうがよろしいかと思います。この度だけはお眼鏡違いだったようで……」 「なにか病持ちか」 「いえ、そうではございませんが……」  当人は気立てもよく、こうした生業《なりわい》を納得してつとめるが、肝心の行為にかかるとひどく苦痛を訴え、どうもうまく事が運ばない。客は様々に工夫をこらすが次第に興醒《きようざ》めして、帳場に苦情を言ってくる。 「年は幾つかな」 「十六、と聞きました。生来の晩生《おくて》とは存じますが、二八《にはち》にもなって女子の勤めに事欠くというのは、発育不全としか思えません。この家の女将《おかみ》も貧乏くじを引当てたと、こぼしておりました」 「面白い」  内蔵助は、かえって興を覚えた笑顔で、忠太夫に言った。 「その女子を呼んで貰《もら》おう。いや、構えて苦情は言わぬ。是非にと頼んでみてくれ」 「さようでございますか、それにしても驚きましたな。妙なお好みで……」 「おぬしに隠し立てしても始まらぬが……ありようは、少々色事に飽いた所為《せい》かも知れぬ。何やら未熟な女子をいつくしみとうなったのだ」  それは、京に残したかる[#「かる」に傍点]への堪え難い想いが、胸の底にくすぼっていたためかも知れなかった。  かるは十七歳、京の二条寺町、筆墨《ひつぼく》師一文字屋の妾《めかけ》の子として生れた。妾と言っても養って愛《め》でた女ではない、奉公人の下婢《かひ》に手をつけて孕《はら》ませた。  正妻は家付き娘で嫉妬《しつと》深かった。番頭上がりの一文字屋次郎左衛門は妻に頭が上がらず、生れた赤児を産褥《さんじよく》から引取って、妻の子として籍に入れ、下婢に手切れ金を渡して縁を切った。  生木《なまき》を裂かれた下婢——かるの母は、失意のうちに病の身となり、日ならずして身罷《みまか》った。  義理の母と異母兄姉、血のつながる父親までがかるを白眼視するなかで、かるは育った。  かるは、関白|近衛《このえ》家に仕える内蔵助の又《また》従兄弟《いとこ》進藤源四郎の引合わせで内蔵助と知合うと、父親ほどの年の内蔵助に魅せられ、鞍馬詣《くらまもう》での帰りに結ばれた。  後世、無類の女好きであったと伝えられる内蔵助だが、十七歳の無垢《むく》の乙女と結ばれたのは、かるのほかにない。  断ち難い恋情に、内蔵助は、かるを一文字屋から貰い受け、側妾《そばめ》とした。  その縁《えにし》も長くは続かなかった。わずか半年、内蔵助は悲願の討入決行のため、かるを京に残し、江戸へ下った。 「年の暮には帰る」  その言葉にすがりつくように、かるは言った。 「お戻りなされますな、きっと……」 「何を言う。わが家に帰らいでどうする」  内蔵助は、言葉を継いだ。 「今度で万事は用済みとなる。帰ったらもうどこへも行かぬ、そなたと共に暮し、一生を終るつもりだ」 「きっと……きっと帰ってきておくれやす。うちは……ややこを生みますさかい」  内蔵助は、一瞬、血の気の引くのを感じた。 「うち……暑さ当りと思うたのが違いましたんえ、ややこが出来てのつわりどした……」  ——何たる運命の皮肉か。  未練の煩悩《ぼんのう》は胸をさいなんだ。だが、その山坂を乗り越えなければならぬ内蔵助であった。侍の道の辛《つら》さ、侍の志の重さがしみじみと思い知らされた。  内蔵助は、生涯に数多い女との出会い、別れに嘘を言ったことはない。これが生涯の嘘のつき始め、つき納めとなった。      三  やがて……。  寝床の横に、身をすくめ坐《すわ》った少女を見て、内蔵助は、異様な感覚をおぼえた。  ——これは……。  かるとは似ても似つかぬ少女であった。  かるは、色白のふくよかな顔、その小さな顔につぼみのような丹花の唇、町家の娘らしい匂うような愛らしさであった。 「そなた、名は何と言う」 「山城屋の、一学《いちがく》、と申します」  一学には、侍(おそらく浪人であろうが)の家の者らしい、きりりとした物腰があった。  顔は……骨張った肉薄の男形に類する。小鹿のようななめらかな皮膚と、しなやかな四肢……一文字に結んだ薄い唇と柔らかな低い声。  それは、京のかると対照的な魅力があった。 「あの……私……」 「よい、聞いておる。そなたに辛い思いを強いるつもりはない。ただいっとき、そなたの躯《からだ》を愛《め》でるだけでよいのだ」 「では……」  すがるような眼で、一学は内蔵助を見た。 「その頭巾《ずきん》をとってくれぬか。いやならその儘《まま》でもよいが……」  一学は、素直に尼頭巾をぬいだ。  坊主頭と予想したのが外れた。一学は切禿《きりかむろ》(今でいう御《お》河童《かつぱ》髪)であった。 「ほう……よう似合う」  内蔵助は、感に堪えぬ声を洩《も》らした。 「女将《おかみ》さまが、せめてもの事に、引込禿《ひつこみかぶろ》に使うてやる、と仰《おつ》しゃいまして……」  吉原の遊廓《ゆうかく》には、禿《かぶろ》という少女がある。太夫《たゆう》、天神など上級の遊女に使われる十歳前後の見習いの少女を言う。その禿が十四、五歳になると、内所(主人の部屋)へ引っ込ませて日常の用に使い、新造または部屋持以上の遊女になる準備をさせる。それを引込禿というのである。 「それは趣向だな」  私娼が官許の吉原遊廓を真似る。娼家《しようか》には娼家の世界があった。 「禿に伽《とぎ》をさせて悪いが、これはわしの我儘《わがまま》だ、ただ添い寝をしてくれるだけでよい。いっとき付き合うてくれい」  内蔵助が横になると、一学は墨染の衣を脱ぎ、掛衾《かけぶすま》の中へするりと入った。  内蔵助は、暫《しばら》くの間、下着の一学を撫《な》で摩《さす》るだけだった。  その間、身を固くしていた一学の躯は、いつしか緊張がほぐれ、内蔵助の肌に身を寄せ、吐息を洩らすようになった。  一学の、得も言われぬ肌の香気が、せまい部屋の中に立ち籠《こ》めた。  掛衾の中で、内蔵助は一学の下着の帯を解き、自らも下着を脱いで、裸身を寄せ合った。  内蔵助は激しく立ち起こる色情を抑え、愛撫《あいぶ》することに終始した。  いっときの間は、瞬くうちに過ぎた。  ——これで、よし。  いつか、身もだえはじめた一学の身から、そっとわが身を離すと、内蔵助は優しく言った。 「疲れたであろ。ここでゆっくりと休め、内所には休み代を払っておく」  内蔵助は、手早く身支度を調え、起き上がろうとする一学を制して、部屋を出た。  それが、この前の出合いであった。それから二十日余りも経《た》っている。 「さあ、当人が何と申しますか……」  今度も渋る女将に、内蔵助は笑顔で言った。 「聞くだけ聞いてくれぬか。厭《いや》ならそれでよい、無理は言わぬ。黙って引下ろう」  内蔵助は、きょうも一学を所望した。  程なく、女将が切禿の一学を伴なって座敷に現われた。 「珍らしいこと、この前のお客さまなら是非……と、この妓《こ》が申しましてねえ……」  と、恥らいの色を見せる一学を、押し出すようにした。 「たびたび我儘を言って済まぬ。きょうはゆっくりとしたい。これで足りようか」  内蔵助は、懐紙《かいし》に小判を数枚並べた。 「まあ、このような大枚を……足りるどころではございません。お楽しみのあとで夕餉《ゆうげ》でもご用意致しますほどに、お申し付け下さいまし」  女将が引下がると、内蔵助は一学に優しく告げた。 「では……よいな」  こっくりと頷《うなず》いた一学は、思い切ったように帯を解くと、下着まで脱ぎ捨て、内蔵助の肌に身を寄せた。  内蔵助の分厚い掌《て》が、一学のか細い裸身を撫で摩る。  胸の肉置《ししお》きも薄く、腰も細い、だがその肌触りは格別だった。張りつめた鹿皮を思わせる肌であった。  その冷やかな肌は、見る間に鮮紅色に染まり、一学は時折り戦慄《せんりつ》し、身もだえる。  好ましい肌の匂いが色濃く部屋に立ち籠《こも》る。 「どうかな」 「よい心地……うれしゅうございます」 「え?」 「どうぞ、なされて下しゃりませ」 「…………」  内蔵助は、肌身をさぐった。しとどに濡《ぬ》れていた。 「構わぬか」 「あい……」  内蔵助は、一学の裸身を抱き寄せた。  事を始めると、一学の躯にいささかの抵抗があった。一学は迎え入れようと躯をうねらせた。 「痛むか」 「え……いいえ、強く押して……」  濡れたのが幸いして、ようやく納まった。  ——なんと……。  その窮屈さは、さすがの内蔵助を戦慄させるほどであった。  ——名器、とはこの事か。  一学のそれは、後ろの方に折れ曲っている。いわゆる後屈であった。  その曲りが、内蔵助の物を締めつける。  これは、当人が情欲に燃え、濡れに濡れなければ到底行為に及べない。  一学の情欲は、内蔵助への奉仕の念から苦痛を快楽に変化させた。 「あ、たまりませぬ。私はもう……」  一学の眼尻《めじり》から、こめかみに伝う光るものがあった。 「うむ……」  内蔵助は、恍惚《こうこつ》のうちに果てた。  吾に返った一学が、身仕舞を直そうとするのを、内蔵助が止めた。 「よい、そのまま、暫く休め」 「よいのでございますか」 「少し話そう、楽にしておるがよい」  内蔵助は、一学に添うように躯を横たえると、ゆるゆると問いかけた。 「お前の父親《てておや》は、浪人であろう。郷里《くに》はどこかな」  一学は、甘えるように身を寄せ、答えた。 「志摩《しま》……鳥羽《とば》、と聞いております」 「志摩、鳥羽?……内藤家か?」  内蔵助は、ぎくッとなった。 「さあ……私の生れる前のことで、よく存じませぬ」  内蔵助は知っていた。延宝《えんぽう》八年(一六八〇)芝|増上寺《ぞうじようじ》で前将軍(四代)家綱《いえつな》公の法事が行われた際、志摩鳥羽の領主内藤|和泉守《いずみのかみ》忠勝が、丹後宮津の領主永井|信濃守《しなののかみ》尚長に刃傷《にんじよう》し、永井尚長は絶命、仕手の内藤忠勝は二十日後に切腹、両家とも断絶となった。  その内藤忠勝の娘が、赤穂浅野の前藩主|采女正《うねめのしよう》長友(内匠頭長矩《たくみのかみながのり》の父)に嫁いでいた。内藤家は赤穂浅野家にとって、極く近い姻戚《いんせき》なのである。  ——そうか、内藤家の家中が離散して二十二年になる……一つの藩が潰《つぶ》れれば、こうした悲惨は後々まで続くのだ……。  内蔵助は、討入の企てに身命を費す以上に、扶持《ふち》を離れた赤穂家中の者の暮し向きに力を注いだ。再仕官を望む者は関白近衛家を通じて公家侍に斡旋《あつせん》し、その数は六十人を越えた。また武家奉公を見限った者は、多年親交のある大坂|天満《てんま》の悉皆《しつかい》問屋、天川屋儀兵衛《あまかわやぎへえ》の尽力で、商家の帳付けや書役、小商人《こあきんど》に至るまで面倒を見続けさせている。それらの外に家中の者には、三年五年の暮しの立つだけの簿外金を配ったのだ。  ——一人の乞食《こつじき》、盗人《ぬすびと》や、飢えの心中者をも出さぬ。  それが、国家老としての内蔵助の信念であった。  それは、幕藩体制二百六十五年間に、ただ一つの廃絶藩記録であった。赤穂浅野の旧家中に限って飢え死に者も、盗みかたりを働いた者もない。士農工商に分れても立派に暮し向きを立て、世を送った。  だが、その幕政下に取潰された藩は枚挙に遑《いとま》がない。現将軍(五代)綱吉《つなよし》の施政三十余年間でも二十数家が潰れ、藩士は浪人の身となった。  一学は、その浪人の子であった。 「それで……その父御《ててご》は健在か」 「いえ、五年前に身罷《みまか》りました」 「母御は?」 「おととし……一年余りの長煩《ながわず》らいの末、到頭……」 「そうか、それで身を売ったのだな」  世に浪人は数十万も溢《あふ》れていた。浪人が侍の身分を保ち、両刀をたばさんで生きようとすれば、日傭取《ひようと》り人足や仲仕《なかし》、渡り中間《ちゆうげん》に身を落す事は許されない。そのきびしい掟《おきて》の下で、妻や娘の離籍身売りは珍らしくなかった。 「お前に言うておく事がある」  内蔵助は、ポツリと言った。 「わしは道学者のような考えは好かぬ。身寄り頼りのない女子が、持って生れた躯《からだ》で身過ぎ世過ぎするのを、卑しいとは思わぬ。人間は高みに暮すも一生なら、低きに暮すも人の一生……生きように貴賤《きせん》はない」  一学は、内蔵助を瞶《みつ》め、貪《むさぼ》るように聞き入った。言葉は理解を越えたが、その内容は肌から直《じか》に身に沁《し》み透るようであった。 「そこで言う。お前の躯は百千人にひとりの上品《じようぼん》だが、娼妓《しようぎ》には向かぬ……躯が未熟、と人は言うかも知れぬが、そうではない。絶品がゆえにお前自身が結ばれたい契《ちぎ》りたいと燃えねば喜びを覚えず、用にも立たんのだ」  それは、一学にも呑《の》みこめた。現に内蔵助との交わりがそうであった。 「わしがそのひとりであったのは嬉《うれ》しいことだが……わしは明日、江戸を離れ、遠い旅に出る。惜しいと思うがきょうが最後の別れだ。お前は明日から身を売るのをやめて、ほかに生業《なりわい》を探せ、そのための金子《きんす》と手蔓《てづる》は、わしが調えてやろう」  金は持ち合わせの三、四十両で足りるとみた。あとの生業の手引はこの家に馴染の前川忠太夫に頼む目算を立てた。 「…………」  ひたと見つめて動かぬ一学の眼から頬へ、一筋光るものが伝わり流れた。 「どうした。節介が過ぎるか」 「いえ、あまりに嬉しゅうて……」 「そうか、それはよかった」  内蔵助は、にっこり笑った。 「気にせずともよい。お前は知らぬ事だが……わしが昔、お仕え申した殿様のお家と縁がつながっておる。面倒見がひとりふえただけのことだ」  一学は、訳は分らなかったが、誘われるように微笑んでいた。      四  見送るな、と、固く言いおいて、寒さよけの頭巾をかぶり、門口を出た内蔵助は、肌を刺す寒さに足を止めた。  ——京へ戻りたい。  ふと痛切な思いが胸裏を横切った。気沮《きそ》ではない。自ら選んだ死所を目前にした者が、尚《なお》もおのれの生を省みる岐路に亡羊の嘆《たん》をかこつ思いであった。  ——わしには、まだ人の為《ため》になさねばならぬことがある。  救いを待つ者は数知れずある。それを見捨てる憂節《うきふし》に胸ふたがれた。  路地の角を曲ると、凍えた手足をほぐそうと、気忙《きぜわ》しく足踏みし、手を振っていた遊び人|態《てい》の中年男と、ばったり顔を合わせた。 「…………」  姿形はその時々で変っていたが、炯眼《けいがん》の内蔵助は見忘れなかった。赤穂と山科《やましな》、京の町々と伏見……。  ——こやつ、上杉の隠密《おんみつ》……。  日本橋で見掛け、赤坂まで尾行し、寒空の下、二刻《ふたとき》近く張り込んだ山添新八《やまぞえしんぱち》は、あまりの寒さと時の長さに、つい不覚をとった。 (これは比丘尼《びくに》宿、相も変らず好色な……)  仮住居をつきとめようと、辛抱し続けたが、厭気《いやけ》がさした。  ——伏見の頃と同様、居続けになるやも知れぬ。どこぞで寒さ凌《しの》ぎの酒でも呑んで、出直すか。  そう思った矢先であった。  ——おのれ、大石め……。  思わず、形相が変った。  その時、声がかかった。 「や、池田さま……」  内蔵助は、今度の江戸入りに、池田久右衛門と名乗っている。 「お、忠太夫どのと天川屋どのか」  路地に入ってきた二人連れに、山添新八は身を翻すと路地の奥へ走りこんだ。 「どうなさいました」  忠太夫が尋ねる。 「何者ですか、あの男……」と、天川屋。 「さあな……何やら怪しい影が身につきまとい始めた。相手もこなたも互いに苦労なことだ」  内蔵助は、苦笑に紛らわして、逆に問いかえした。 「絶えて久しいのう、天川屋どの……どうしてこれへ……?」 「へえ……」  旅姿の天川屋儀兵衛は、小ざっぱりとした身なりの前川忠太夫と顔を見合わせ、にやりと微笑んだ。 「今朝ほど永代に着いた便で、お約束の船荷は悉皆《しつかい》済ませたことになります。それを見届け旁々《かたがた》、御家老はんのお顔を拝見しておきたい思いましてな」 「天川屋さんの出店でばったり顔を合わせたのが運の尽き、ご家老さまの許《もと》へ案内頼むとせがまれましてな。日本橋石町へ案内したら生憎《あいにく》のお留守……もしやと思ってここへ立寄りました勘がみごと当りました」  天川屋は、忠太夫の話の終るのを待ちかねたように、大袈裟《おおげさ》に身震いした。 「おおさぶ……話は後にして、早うあがろうやおまへんか。こう冷えてはかなわん……」 「どう致します。いま一度引返されますか、それとも別な遊びにご案内致しましょうか」  前川忠太夫の問いかけに、内蔵助は鳥渡《ちよつと》思案した。  一瞬の出来事に、内蔵助の煩悩《ぼんのう》は、霧が風に吹き払われたように消え去った。 「気儘を言って相済まぬが、……どこぞ別のところにして貰《もら》おうか」 「はい、それでは表通りに駕《かご》宿がございます。早速参りましょう」  忠太夫は、先に立って路地を引返した。  忠太夫が案内したのは、四谷見付《よつやみつけ》外の風雅な料理茶屋である。  忠太夫は、三|挺《ちよう》の駕が調う間に、使いを走らせて料理茶屋へ遊びの予約を入れた。段取りのよさが身上の人入れ稼業、手馴れたものであった。  料理茶屋の名は�田子の浦�。近くの東海道�吉原《よしわら》宿�に懸けて、官許の�吉原�に近いという裏の意をこめていた。  遊びの趣向が始まる前、内蔵助は忠太夫に山城屋一学の面倒見を頼んだ。 「なるほど……こうした折に浅野様御親戚筋の侍の子と出合うのも、何かの因縁でございますな」 「そうと聞いては捨ててもおけぬ気がしてな……重ね重ねの迷惑だが、わしの気随気儘と思うて頼む」 「承知致しました」  と、忠太夫は感に堪えぬふうで言った。 「これもお人柄、とは言い条……気遣いの多い事でございますな、感心致しました」  天川屋が、口をはさんだ。 「おちおち遊んでもおられまへんな。さぞ辛気《しんき》臭い事でおますやろ」  冷かし半分に笑いかける天川屋に、内蔵助は案外の真顔で言った。 「どうもわしの一生は、隙間なくこうした事が詰めかけているような気がする……これも持って生れた運、と云えばそれまでだが、われのみならず人のいのちを使い捨てにすることの因縁でもあろうか……」 「十八番《おはこ》の悪人説が出ましたな」  忠太夫は、笑って言った。 「では、その憂さを払って差し上げましょう」  と、手を叩《たた》いて合図した。  隣の控部屋から三味・笛・太鼓の音曲が始まり、間《あい》の襖《ふすま》が開いた。裾《すそ》短かのきらびやかな若衆|衣裳《いしよう》の三人が、作り物の毛槍《けやり》を手に、踊る。 「これが近頃|流行《はや》りの踊り子でございます」  忠太夫は、内蔵助と天川屋に披露した。  踊り子は、後年の�芸妓�に転化する。元は三味線|浄瑠璃《じようるり》の舞いの芸をもって、大名家や大身旗本の奥向に雇われ、女衆の慰みや宴席の余興に侍《はべ》るのがその発生だが、その源は源平の頃の白拍子に始まる。  内蔵助は見惚《みほ》れるうち、ふっと同志のひとり富森助右衛門の身に、思いが馳《は》せた。  赤穂浅野家が無事の頃、町医者勝田玄哲という者の娘が、踊り子として江戸屋敷の奥向に奉公したことがあった。  使番であった富森助右衛門は、屋敷に出入りする玄哲と親交を結んだ。元々は助右衛門の老母が急な病で倒れた時、来合わせた玄哲の薬が効を奏したためらしい。  玄哲は、娘が芸能での雇いより、生涯奉公の奥仕えを願い、これも親交のあった旗本矢島治太夫の斡旋《あつせん》で、次期将軍の候補の一人である甲府宰相家への奉公替えに成功した。  その折、町医者の娘では素性に難があるため、助右衛門はおのれの妹分として、奉公証文を整えてやった。  その娘の名は喜世《きよ》、やがて甲府宰相|綱豊《つなとよ》の眼に止まり、お手付|中臈《ちゆうろう》となって一子を生む。  赤穂浅野家が廃絶になった時、甲府家は早速助右衛門に再仕官を勧めた。綱豊が寵愛《ちようあい》するお喜世の方の兄分であり、使番を勤める練達の士である。新知|封禄《ほうろく》三十五万石の甲府家には役立つ侍が少なかった。助右衛門の内示は、旧禄に倍する四百石であった。  赤穂の旧家中で、これ程めぐまれた再仕官の口はない。 (企てのみが、侍の道にあらず)  と、内蔵助は、熱心に甲府家への再仕官を奨《すす》めた。 「おぬしが甲府家で重用されれば、赤穂浅野家にも名ある侍があった、と賞《ほ》めたたえられよう。それも武士たる者の本分を立てる道である」  もしも、富森助右衛門が内蔵助の奨めに従っておれば、後の出世は量《はか》り知れぬものがあった。八年後に甲府綱豊は五代綱吉の後をうけて、六代将軍家宣となる。  喜世が生んだ子は世子となった。七代将軍家継である。喜世は将軍生母の方�月光院�となって、大奥に君臨した。  そうなると、�月光院�兄分の出世は当然の帰結である。よほどの愚人でも七、八千石の大身旗本は固い。万石大名として幕閣に参与するのも夢ではない。現に権勢並ぶ者なしと言われた柳沢|吉保《よしやす》も、五代綱吉が館林《たてばやし》宰相であった頃は五百二十石の小姓番であった。  だが、助右衛門は、敢然とその内示を謝絶し、内蔵助の企てに加わった。内蔵助の包蔵する士道の美とその重さに傾倒したためでもあり、また閨閥《けいばつ》による栄達に忸怩《じくじ》たる思いがあったのであろう。それ以上に、十余年の間、�これは役立つ侍……�とみた内蔵助が、ひそかに与え続けた簿外の撫育金《ぶいくきん》に与《あずか》った身の冥加《みようが》に報ゆる志があったに違いない。  若衆踊は佳境にすすんだ。裾に鉛玉でも絎《く》けこんだか、はね上がる裾から見えるしなやかな脚には、極薄《ごくうす》の紅色紗《べにいろしや》づくりの股引《ももひき》が纏《まと》われていて、透徹《すきとお》る太股の肉付《ししつき》が客の眼を奪った。  内蔵助は、それをよそに、思いにふけっていた。  ——助右衛門に与えた撫育の金子《きんす》は、あやつに思わぬ非運を招いたようだ……。  江戸屋敷で見掛けた喜世という女の、美少女であった面影を思い浮べる。  ——人の運は量り知れぬものだ、あの喜世もひとつ間違えば、こうした踊り子に堕《お》ちたやも知れぬ……。  ふと、右端の年若な美少女に眼が止まった。  ——かる……?  内蔵助の背に、ぞくっとした戦慄《せんりつ》が走った。  ——違う。かるではない。……かるに思いを残しているが故の錯覚だ。 「……あの女子《おなご》……」  うつつの内蔵助は、思わず呟《つぶや》いたらしい。  忠太夫が、顔を寄せた。 「え? どの子でございます? 御所望の女子は……」 「いや……」  内蔵助は、咄嗟《とつさ》にその踊り子を眼顔で示した。 「あの女子よ……一段とそそられた」  艶《つや》やかな若衆|髷《まげ》が重げに見えるその美少女は、美貌《びぼう》の上に典雅さで群を抜いて見えた。 「や、しもうた」  天川屋が、頓狂《とんきよう》な声をあげた。 「あれは、宮家の姫君というてもよいほどの雅《みやび》やかさや、声を掛け損じてご家老に先手をとられてしもうた」 「これ、天川屋どの」  忠太夫が、笑いながらたしなめた。 「今宵《こよい》はご家老様が主客じゃ、こらえなされ」  忠太夫は、その美少女を招いた。 「綾丸《あやまる》……ご案内してくれ」  綾丸は、内蔵助の前に手をつかえた。 「八汐《やしお》組の綾丸と申します。なにとぞよろしゅうに……」 「うむ……」  座を立った内蔵助は、座敷の出かけに、忠太夫と天川屋を見返った。 「馳走《ちそう》、ありがたく思う……ご両人の厚志、忘れぬ」  寝間に別れれば、あとは散り散りに帰る。生別は即死別につながる。内蔵助の慈顔が、万感を伝えていた。  ふり仰いだ忠太夫と天川屋は、無言で頷《うなず》いてみせた。 「お駕は、門口に用意しておきます。これをもってお別れ仕《つかまつ》ります」  忠太夫が、昔に戻っての侍言葉に、天川屋が続いた。 「わては明日朝、船で大坂に戻ります。お申し付けのご家中の面倒見、しっかりやらせて貰います、どうぞご安心を……」  両人の胸中に、熱湯の如《ごと》く込み上げてくるものがあった。  懸命に堪える二人の眼に、内蔵助の姿が去って消えた。      五  紅灯が、寝間の小座敷を領していた。 「どうぞ、お過ごしなされませ……」  つつましやかな綾丸の酌をうけた内蔵助は、盃《さかずき》を口に運んだ。  綾丸は、瓶子《へいし》を置いて居ずまいを正した。 「お馴染《なじみ》の忠さまから、お心遣いを賜りました。ご恩は一生忘れませぬ」 「はて、何のことかな」  内蔵助は、匂うような細っそりとした頸筋《くびすじ》から、襟もとに覗《のぞ》くふくよかな胸に眼を移しながら尋ねた。 「忠さまが仰《おつ》しゃるには、お客さまの最後の女子を、この先身を売らせることは忍び難い。今宵を限りに身請《みうけ》して、好きな生きようをさせたい、との事で、先ほど内所(主人)とお話を済ませたと伺いました」 「…………」  ——あやつめ……。  内蔵助は苦笑した。  山城屋一学の面倒見を頼んだことで、忠太夫は、気を廻したに違いない。  ——ええ、儘《まま》よ、この女子に運があったのだ。  尽しても尽し足りぬ、と思ったのであろう、前川忠太夫の長年の厚情が嬉《うれ》しかった。 (ご家老様……好きな色ごとも今宵限りでございますぞ、あとに思いを残さぬよう、存分にお楽しみなされ)  そういう忠太夫の言葉が聞ゆる心地がした。 「そなた幾つになる」 「十六……でございます」  勃然《ぼつぜん》と起こる色情があった。 「これ……」  と、抱き寄せる。 「あい……」  崩れる綾丸の襟もとを押しひらくと、意外なほど豊かな胸乳《むなぢ》があふれかけた。 「そなた、京の生れか」  綾丸の言葉の抑揚に、京なまりがある。 「お恥かしゅうございます」 「いや、出自などどうでもよいのだ。わしは訳あって遠い旅に出る身、そなたとはこれきりの縁《えにし》だ、もう二度と会うことはない」 「いえ……」  綾丸は、顔をふり仰いだ。その典雅な顔に思いつめた気配がうかがえた。 「今宵限りの縁に、ご念を晴らして下さいませ。わたくしの素性を申し上げとうございます」  綾丸は、問わず語りに話した。  天川屋の直感は当っていた。  綾丸は、末の末に位する宮家の隠し子であった。年老いた宮が雑仕女《ぞうしめ》に手をつけての子である。  江戸期、京都御所の衰微は言うまでもない。その末の宮家の、それも隠し子とあっては、粗雑の暮しであったようだ。物心つく頃より、東山《ひがしやま》小松谷の別墅《べつしよ》に、雇われ乳母と暮した。召使いは下僕一人の淋《さび》しい暮しであった。  行末は、辺陬《へんすう》の田舎大名の側室なら上乗。悪くすれば人買いに売られるやも知れぬとは、雇われ乳母の当て推量である。  そうなら、いっそ……と、十四歳の春に出奔を企てた。そそのかしたのは、別墅の修繕に来た手子《てこ》ノ衆の小頭《こがしら》である。 「京の手子ノ衆か……富田屋かな」  手子ノ衆というのは、後の仕事師である。普請作事の雑役、人足、鳶《とび》の者を扱うのが本業だが、興行や祭礼の裏方も請負い、裏で貸金の取立てや、博打《ばくち》場も開く、いわゆる�顔役�である。 「ご存じでしょうか」 「いや……」  内蔵助は苦笑した。  ——悪い因縁だ。  京の手子ノ衆、富田屋清兵衛は悪辣《あくらつ》な男で、上杉家の京都|諜者《ちようじや》、猿橋《さばし》八郎右衛門に雇われて、京住いの赤穂浪士の監視|旁々《かたがた》、様々な厭《いや》がらせで内蔵助を悩ませた。 「それで……?」  言葉巧みに誘い出した小頭は、手籠《てご》めにした挙句、親分清兵衛への貢ぎものにした。  清兵衛は容赦なく弄《もてあそ》んだ挙句、人買いに売り渡した。  江戸へ連れ戻った人買いは、多少舞いの心得のある綾丸を、踊り子の元締《もとじめ》に売ったという……。  内蔵助の巧みな愛撫をうけて、綾丸は息をつめていた。 「のう、綾丸よ……」 「あい……」 「わしは凡夫でな……こらえて帰るには煩悩《ぼんのう》が激しすぎる……まして今日から明日……煩悩を晴らしてくれるか……」 「もったいないことでございます。どうぞ、ご存分に……」 「済まぬな……」  ——われながら、好色……。  と、思う。  だが、人は智略を尽す程に視野が狭窄《きようさく》し、客観性を失なって大局観を見誤る。忘と離。内蔵助は、その手段を女色に求めた。愉悦に溺《おぼ》れこみ、醒《さ》めて冷静さを取戻す。  内蔵助にとって、女色への逃避は必死懸命のわざであった、といえよう。 「それに……蔑《さげす》んで貰《もら》った方がよい。そなたの生きようが楽になる……」  豊熟の胸乳をまさぐる、白妙《しろたえ》の肌が匂いたつ、得もいえぬ香気に酔う。 「ほう……おなごが、褌《ふどし》を締めるか……」 「お願い、灯りを……」  暗闇が、あたりを領した。      六  内蔵助が、日本橋石町の仮住居に戻ったのは、その夜の深更であった。 「お帰りなされませ」  大石家累代の用人である瀬尾孫左衛門が、出迎えた。 「うむ……主税《ちから》はどうした」 「お帰りなされまして、暫《しばら》くお待ちでしたが、一|時《とき》ほど前にお休みなされました。かなりお疲れのご様子で……」  耳を澄ますと、その健康な寝息が聞える心地がした。 「そちも馴《な》れぬ力仕事に疲れたであろう、わしの世話はよい。早う休め」  内蔵助は、居間に入った。  火鉢に、炭火が燃えていた。  内蔵助は、机の上に置いてあった書状をとり上げ、開いた。 (取急ぎ、一筆お知らせ申し候)  惣《そう》参謀吉田忠左衛門の筆跡であった。よほど動転したらしく、筆が乱れていた。 (本日夕刻より宵にかけて、本所緑町四丁目源兵衛|店《だな》に住居する荷扱い掛《がかり》、中田理平次、鈴田重八、中村清右衛門の三名、逐電《ちくてん》仕り候。  この急場において三名の武芸達者を欠くこと、まことに痛憤堪え難く、言葉に苦しみ居り候。  又、同じく徳右衛門町|薪炭《しんたん》物置小屋に荷物番を勤める足軽矢野伊助も行方知れずと相成り候。  討入突進隊の一組分三名、伝令役一名を欠くは洵《まこと》に申し訳なき儀に御座候えども、火急の間、今一度組編制を組替え願い度……)  あとは、逐電後の模様などが、乱れた文言でつづってあった。  先般の、毛利小平太、田中貞四郎の相次ぐ脱落には、それぞれに衝撃をうけ、脱力感に悩んだ内蔵助であったが、この四名の脱盟には、ふしぎと衝撃はなかった。  ——やはり、落ちたか……。  そういう諦観《ていかん》すらあった。  四十八名、いやもう一名脱盟するであろう……四十七名と、相手方おそらく百名を越える侍が明日を限りに、凄惨《せいさん》な殺戮《さつりく》の戦場にいのちを捨てる。  誰の意志でもない。大石内蔵助の発企である。  武士の本分、その一点に多くのいのちを懸けて内蔵助は踏み切った。  ——おれは、悪人だ。  そう考えなければ、人のいのちは奪えない。  内蔵助は、人命の尊重より、討入の成否に意思を集中した。それだけでも背負いきれぬ悩みごとが山積した。  ——困るな。困ってはならぬ。困ったと思えば胸ふたがれて、困った困ったとのみ思うようになる。事態を冷やかに見つめよ。その因《もと》をさぐれ。人が作り出した困難は、人の智恵で解きほごせぬ筈《はず》がない……。  その不動の冷静を保とうと、内蔵助は女色に耽溺《たんでき》した。  今日の日、最後の関頭に立った内蔵助は、どのような変事の衝撃にも堪えねばならぬおのれを思った。  すでに、隠れ家の周辺に、上杉・吉良の隠密《おんみつ》の眼が光る。おのれの一挙止一動作は、一年十カ月の苦闘を水泡に帰させる。  ——儘よ、思うだけ恥|掻《か》き、色欲に溺れて来よう……。  その効果は、今のこの時、この難場で顕著にあらわれた。  ふしぎと動揺はない。  ——おれがぬくぬくと、女体を弄んでいる最中に、武で鍛えた三名もの侍が変心した。  無理ない、と思った。  誰しもいのちは惜しい。浮世の未練は山ほどもある。  それを捨て、骨まで凍る厳寒に、馴れぬ荷運び、力仕事に死力を尽す。  疲労の積み重なる身に、生命の危機は刻々と迫る。  ——誰しも、逃げたくなったであろうな。  きょう一日一晩のおのれの所業をかえりみて、内蔵助はそう思った。  怒りはない。憤懣《ふんまん》もなかった。  内蔵助は、筆をとって書き始めた。   表門    主将 大石内蔵助良雄    副将 小野寺十内秀和    抜刀突進隊     一番隊組頭 富森助右衛門正因   …………………………………  筆の運びに遅滞はなかった。  内蔵助は、黙々と組編成の組替えに意思を集中した。  夜明けが近い。  小用に立った内蔵助は、小窓から外の闇を見た。  雪が霏々《ひひ》と降り、積っていた。深《しん》と寒気が身に沁《し》みた。 「雪か……」  足袋裏に凍気が伝わる廊下を戻ると、玄関脇の小部屋に灯りが洩《も》れていた。  徹宵《てつしよう》、瀬尾孫左衛門は、引移りの荷造りにかかっていた。 「孫左よ、起きておるか」  声をかけながら、内蔵助は仕残した最後の事を成し遂げようと思った。  ——その一つの事が、最後の仕上げだ……。  孫左衛門は、内蔵助を迎え入れた。 「孫左よ」  内蔵助は、熱い煎茶《せんちや》を淹《い》れながら、話しかけた。 「昼頃より、宵にかけて、小山田庄左や中田理平次、鈴田重八、中村清右衛門の四人が姿をくらました。それに足軽の矢野伊助もな」  茶を啜《すす》りかけた孫左衛門は、思わず手を止めた。 「それは……驚きました。この期《ご》に及んで、また……」 「人の心は計り難いものよ。落つる者は落つる……」 「まことに……」 「そこで聞くが、そちはどうだ」 「は?……」 「孫よ、そちは一統の中で、唯一《ゆいいつ》浅野の家来ではない。大石が家の者だ。赤穂浅野が潰《つぶ》れても、そちがいのちを捨てて義を立てることはない」 「お待ち下さりませ、旦那《だんな》さまはこう申されました。この企ては亡《な》き殿様の御無念を晴らすことでもなければ、相手方への仕返しでもない。国が亡《ほろ》びた時の侍の志を、天下に示すことだ、と……」 「うむ……」 「ならば同じでございます。旦那さまが侍の一分を貫くためおいのちを捨てるならば、代々大石のお家に仕えた私めが、旦那さまのお供をしていのちを捧《ささ》げる……それが私めの侍の一分ではござりませぬか」 「さ、そこだ、難しいのは……」  内蔵助は、微笑んでみせた。 「使われる身はそうであろ、だが使う身には考えねばならぬことがある。わしが侍の義を貫くため、奉公人のいのちまで使い捨てることが人の道として美しいか、生かして使う道はほかにないか……と、な」 「それは……」 「まあ聞け、侍の道は所詮見栄《しよせんみえ》ではないか、と、町人は咲《わら》う……義とは名詮自性《みようせんじしよう》、我を美しく、と書く、はたの見た眼に美しくあれ、というのは……見栄だ」  内蔵助は、続けた。 「だが、見栄でよいではないか、と、わしは思うのだ、人間五十年、下天のうちを較《くら》ぶれば、夢まぼろしの如《ごと》くなり……と、幸若《こうわか》の文句にある。一生を費し、倖《しあ》わせを追い求めても、所詮は夢まぼろしと終るのだ。どうせ終る一生なら、せめて美しくありたい。見栄の美しさでも、それだけの値打はある。美しく生き、美しく死ぬことは、人の世を美しくする……」 「それは、私めにどうせよ、ということでございますか」 「わしが、美しく、悔いなく一生を終るために、そちのいのちを使いたい……むごいと思うであろう、無慈悲なあるじと恨むやも知れぬ。だが、わしがこの期に及んで頼めるのは、そちしか無い。そちの侍心を頼んであえて無理難題を言う。あるじのわしがために、そのいのちを使わせて貰えぬか」 「仰《おお》せられませ、このいのち、如何《いか》ようにお使いなされても、私めは本望にございます」 「では、この世の終りにあえて恥を言う。おぬしは知らぬ事だが、京のかる[#「かる」に傍点]にややこ[#「ややこ」に傍点]ができておる……」 「え、それは……」  孫左衛門は、絶句した。 「りく[#「りく」に傍点]には、三人の子を托《たく》したが……あれには但馬豊岡《たじまとよおか》に実家がある、親がいる……だが、かるにはそれがない。かるを見捨てた父親と、かるを忌み嫌う継母しかない……十七歳の年若の身空で、わしの子を生んで、この先どうやって暮すか……」 「…………」 「わしは、きのうまで、かるを見捨てておこうと思っていた。侍が義を立て、貫くのに、万全は期し難い、どこぞ瑕瑾《かきん》が残る……女子ひとりの生《い》け贄《にえ》は、止むを得ぬ事ではないか、とな……だが、今宵《こよい》、ふたりの女子と出合い、別れて、その愚かさを思い知った。人の見た眼の美しさは、貫き通さねばならぬ、侍も人なら女子も人……生け贄を作って何が義か、悔いなき一生は、瑕瑾なく終ることにある……」 「…………」  孫左衛門は、鼻水を啜《すす》り上げた。溢れる涙は止め処《ど》がなかった。 「悪いあるじを持った、と思うてくれ。いまが今、おぬしが脱盟すれば世に汚名が残るやも知れぬ。それを承知でおぬしの侍心に頼みたいのだ。この場から京へ戻り、かるの一生をみとってくれぬか。それがわしのかるへのいつくしみ、ひいてはおぬしのいのちをいとおしむ心なのだ。わしの生きよう、わしの見栄を貫き通させてくれ、頼む……」  内蔵助は、深々と頭を下げた。 「ま、まず、お手をお上げ下さりませ……」  孫左衛門は、滂沱《ぼうだ》として流れる涙をそのままに、内蔵助を仰ぎ見た。  生れ育って三十七年、あるじと仰いだ内蔵助とは、血縁以上に心の通じ合う間柄だった。  ——孫左は又者《またもの》(陪臣・又家来)である。あるじと生死をともにしたい心ばえはわかるが、それは侍の筋目ではない。筋目の違う者のいのちは、生かして一生を送らせたい。  内蔵助は、義のため多勢のいのちを一挙に使い果す非情の心と、生きとし生けるいのちを、限りなくいとおしむ心を、併せ持っていた。  それを矛盾、と人は言うであろう。その矛盾こそが大石内蔵助の真骨頂であった。  明けて十二月十四日の早朝。  吉田忠左衛門は、足軽寺坂吉右衛門を伴って、大石内蔵助の仮住居の門口に立った。  これより同志と共に支度をととのえ、今宵吉良屋敷に討入る。  往《い》きて、帰ることなき門出であった。 「孫左め、夜明け方に逐電したらしく、姿が見えぬわ」  主税を伴って出た内蔵助は、温顔に笑みさえ浮べていた。 「あれは、又者……大石の家来を、赤穂浅野の侍の本義に使い捨てるいわれはない……これでよいのだ」 「いかさま……左様でござる」  忠左衛門は、内蔵助の温顔から何かを読みとったらしく、頷《うなず》いてみせた。  内蔵助はその言葉をよそに、仮住居に向き直って、そのたたずまいを眺めた。 「人は死が間近に迫っていると感じたとき、おのが一生を走馬灯のように思いうかべるというが……あれは嘘だな」 「…………」 「わしには、りくの顔がうかぶだけだ」  りくは、内蔵助の好色に恨み言ひとつ洩らさず、すべてを内蔵助の思うに委《まか》せ、言われるがままに実家に去ってくれた。  ——許せ、りく……。  内蔵助は踵《きびす》をめぐらせ、 「これで、四十七名となったな……では、出かけよう」  四人は、昨夜来の積雪を踏みしめながら、路地を歩み去って行った。 [#改ページ]   下郎|奔《はし》る      一  近くで、錚然《そうぜん》と刃金《はがね》の打合う音、刀身と刀身が擦り合い軋《きし》む歯の根が浮くような音が、続けざまに起こり、寒夜の大気を擘《つんざ》き走った。  野獣の吼《ほ》えるに似た雄叫《おたけ》びと罵声《ばせい》、気合と悲鳴、怒号と叫声が入りまじる。  ——あの音と声の下で、人が斬られ死ぬ。  背筋に水を浴びせられたように歯が鳴り、肌が総毛立つ。表門脇の中間《ちゆうげん》部屋では、十二、三人の渡り中間が、寒さと恐ろしさに震えていた。  表戸を蹴倒《けたお》す勢いで開けた侍がある。  黒木綿、裾《すそ》短かの衣服、袖口《そでぐち》に夜目に白い幅広の白布が縫付けてある。鎖《くさり》帷子《かたびら》、鉄の鉢金《はちがね》、長籠手《ながこて》、長臑当《ながすねあて》、草鞋履《わらじばき》の戦《いくさ》支度がいかめしい。  土間に踏込んだ侍は、隅に寄集っている中間・小者を見渡すと、きびしい口調で告げた。 「われらは播州赤穂《ばんしゆうあこう》、浅野家の旧臣である。士道を貫き、武士の意気地を立てんがため、吉良《きら》上野介《こうずけのすけ》殿の御首頂戴《みしるしちようだい》せんものと斯《か》くは推参した。われと思わん侍共とは立合うが、中間・小者を相手とするものではない。戦の仕舞うまではここを動くな。うろたえ騒ぐ者は容赦なく斬り捨てるぞ、よいな」  戸外を通る侍があった。 「藤左、中庭の戦に加わるぞ。来い」 「おう、岡右衛門か、心得た」  勢いこんだ侍は、身を翻して外に出ると、表戸を手荒く締めて走り去って行った。  中間たちは、おし黙ったまま、誰一人動こうとしなかった。  ——やった。やりやがった。噂に聞いた赤穂浪人の討入《うちいり》だ。  そう覚《さと》っても、好奇心など微塵《みじん》も湧かない。それよりわが身が大切だった。  ——侍たちめ、とほうもねえことをしやがる。そば杖《づえ》食って怪我でもしたら大変だ。勝ち負けなんざどうでもいい。早く済んでくれりゃいいが……。  誰しもが、そう念じていた。  中間というのは、侍と小者との間に位する召使で、身分は極く低い。  士分の最下層は足軽で、准士《じゆんし》として扱われ、平の足軽は年三両二分一人|扶持《ぶち》、小頭《こがしら》でも五両二分二人扶持がせいぜいである。それでも大概本国領分から採用され、三年を一期として奉公するが、再役、再々役と勤続し、代々主家につとめる。日常は羽織を着し、大小を帯するから、まず外見は侍である。  その下の中間となると、紺看板に梵天《ぼんてん》帯、木刀一本という拵《こしら》えで、まったく侍として扱われない。更にその下の雑役労務の小者と同様、一期(一年)、半期(半年)を限りに奉公し、主家を転々と変える。だから忠誠心は求められず、武芸をたしなむ必要はない。  だからと言って、まったく武家奉公の素養が無くていいわけではない。槍《やり》や馬印を持ち、草履とり、行列の荷運びなど、作法一通りの心得がなくてはならない。  その点では、一種の技芸職人に類する。本国領分から徴募しても、簡単につとまる役ではない。泰平の世となると、無駄な費えを節するため、口入屋から専門の者を雇う、いわゆる渡り者である。  この一年あまり、吉良家では渡り者を雇う際、身許《みもと》調べが殊の外きびしかった。素性の曖昧《あいまい》な者は言うまでもなく、確かな身許引受人のない者は雇わなかった。屋敷内の様子や士分の者の数、配置などについて、厳重な箝口令《かんこうれい》が徹底された。そのため——吉良家では、赤穂浪人の討入に備えている——と噂され、また事実その通りであったようである。  それが、現実のものとなった。 「おい、どうした。どこへ行く」  小頭の作右衛門が、きびしい口調で咎《とが》めた。  中間部屋は、灯ひとつ点《とも》さぬままだったが、昨夜来の降り積った雪あかりが窓や戸障子をほのかに照らすため、まったくの暗がりというわけではなく、人の動きはかすかにわかる。  中間たちのなかから、ごそごそと土間に這《は》いだす影があった。 「へ、へい……小用で……もうがまんができません」 「だったら隅の方で垂れ流せ、外へ出ちゃならねえぞ。ほかの者の迷惑を考えろ」  誰かが、大きな溜息《ためいき》を洩《も》らすのがはっきりと聞えた。  やや遠くなったが、さかんなや声[#「や声」に傍点]や剣戟《けんげき》の金属音がひとしきり響く。  ——やれやれ、形勢はまだ五分五分か、もう何か言ってくる筈《はず》だが……。  無気力におびえる一方の中間たちの中で、新参者のしん平は、ひたすら待ちに待ち続けていた。      二  しん平は、先月の末、吉良家に雇われた。  ほかの中間は、多年吉良家出入りの口入屋、芝|愛宕下《あたごした》の広海《ひろみ》屋治兵衛か、羽州|米沢《よねざわ》上杉家出入りの京橋|佐貫《さぬき》屋徳右衛門から雇入れられたが、しん平は、そうした口入れ稼業を通していない。  吉良家の当主、左兵衛義周《さひようえよしちか》の中小姓、新貝弥七郎安村《しんかいやしちろうやすむら》の推挙による不時の雇入れであった。  新貝弥七郎の出自は、羽州米沢である。上杉|弾正大弼綱憲《だんじようだいひつつなのり》の家臣、新貝喜兵衛|安親《やすちか》の次男に生れた。  吉良家と上杉家は、三重の血縁関係で結ばれている。  吉良上野介|義央《よしなか》の妻富子は、上杉家先代当主|綱勝《つなかつ》の妹である。  綱勝は、寛文《かんぶん》四年(一六六四)、吉良上野介の屋敷に招かれ、饗応《きようおう》をうけたあと、帰邸して間もなく、吐血して倒れ、数日後に世を去った。大方食当りであろうと言われている。  綱勝は嗣子なく、養子も定めていなかったため、家名断絶の危機に見舞われた。上杉家の家臣と親類縁者は、急遽《きゆうきよ》協議して最も血縁の濃い吉良上野介の嫡男三郎を養嗣子とし、幕府に家督相続を願い出た。 �末期《まつご》養子を認めず�は天下の定法であったが、懸命の運動工作の結果、�不識庵謙信以来の武門の名家が滅びるのは忍び難い�との名分で、羽州米沢三十万石を半知十五万石に減じ、吉良三郎改め上杉綱憲に相続が許された。  ところが、吉良上野介の方に、その後、男子に恵まれず、相続者に事欠くことになった。そのため綱憲の次男喜平次を、吉良家の養子とし、名を左兵衛義周と改めた。  新貝弥七郎は、元禄《げんろく》三年、その喜平次五歳の折に小姓に登用され、あるじの養子縁組とともに吉良家に籍を移し、今に至っている。ことに近年——吉良上野介が江戸城中において、播州赤穂の領主浅野|内匠頭長矩《たくみのかみながのり》の刃傷《にんじよう》を受けた後、家督を左兵衛義周にゆずって隠居となってからは、その覚えめでたく、無二の優寵《ゆうちよう》を受けるようになった。  もともと、侍の家の次男、三男は冷飯食いである。長男が家督を嗣《つ》ぐと、厄介|叔父《おじ》と言われ、生涯徒食の身となり、妻を娶《めと》ることなく、子を生《な》すこともできない。  それが、小姓に登用され、当主のみならず、家政の実権を握る隠居に寵せられるようになった弥七郎は、その君恩に報いようと深く思うに至った。  先月の半ば、新貝弥七郎は、隠居吉良上野介の命をうけて、牛込筑土八幡《うしごめつくどはちまん》の久宝山万昌院に使いした。万昌院は吉良家累代の菩提寺《ぼだいじ》で、歴代の墓がある。当代の住職|亮湛《りようたん》和尚は上野介と格別|昵懇《じつこん》の間柄であったが、近頃、上野介の身辺に事多く、無沙汰《ぶさた》勝ちとなっているので、その詫《わ》び旁々《かたがた》、進物の品を届けに行ったのである。  その帰り道、小日向《こびなた》水道町|服部《はつとり》坂のあたりに差しかかった時、弥七郎は坂上から暴れ馬の疾走してくるのに出喰《でくわ》した。  はっとして見ると、坂の中途に子供の手を引いた見すぼらしい身なりの女親がうろたえ、懸命に走り逃げようとする姿がうつった。  ——あぶない。  だが、弥七郎が駈《か》けても到底間に合いそうもない。と見たとき、横手の道から飛び出した浪人|態《てい》の男が親子を背にかばい、大手をひろげて暴れ馬の前に立ちはだかった。  馬は一瞬、竿立《さおだ》ちになる。浪人はすかさず口輪をとって馬を引き廻し、みごとに取り静めた。  馬を、追ってきた馬方に引渡し、おろおろと礼を述べる女親をいたわって、立去ろうとする浪人に、弥七郎は思わず声をかけた。 「おみごとでござったな。感服致しました」  見返った浪人は、苦笑して答えた。 「いやいや、誰もがすることをしたまででござる。御|過褒《かほう》痛み入る」  その謙譲ぶりに、弥七郎はますます感に打たれた。 「あの手綱|捌《さば》きは並々ならぬものとお見受けした。馬術は何流をおたしなみか」 「大坪流を少々……それももう十年ほど前のことでござる。近頃はとんと縁遠くなりました」  浪人は、尾羽打枯した身なりを恥じてか、軽く頭を下げ、歩きだした。  その方向が、弥七郎の道順と同じだったため、二人は前後して歩くようになった。  暫《しばら》く二人は、無言で道を辿《たど》った。道は神田《かんだ》上水沿いに続く。上水は現今の後楽園、当時の水戸《みと》家上屋敷に流れ込み、その先は水道橋を渡って神田一円を潤す。  水戸家に上水が入る手前にあるのが、牛天神・竜門寺で、北野天神とも言い、江戸城よりはるかに古い。その昔、天神が源頼朝の夢枕《ゆめまくら》に立った奇瑞の報恩に元暦《げんりやく》元年(一一八四)に勧請《かんじよう》したという謂《いわれ》がある。  牛天神門前町に隣する諏訪《すわ》町にさしかかったとき、弥七郎は再び浪人に声をかけた。 「甚だ不躾《ぶしつけ》だが……お差支《さしつか》えなければ御姓名をお伺いできぬか、それがしは高家吉良家家来、新貝弥七郎と申す者……」 「吉良家……?」  足を止めた浪人は、珍らしいものを見るように、しげしげと見た。 「それが、何か……?」  弥七郎の声が尖《とが》った。 「いや、これはご無礼を……てまえは備中《びつちゆう》の浪人で、木幡《こばた》信兵衛と申します」 「いや、詫びるには及ばぬ、昨今吉良家の評判は殊の外悪い……強欲の、意地汚なしのとあらぬ噂が蔓延《まんえん》しておる」 「あ、いや、さようなことでは……」 「お気になされるな、それがしは吉良家の御|世継《よつぎ》、左兵衛様が羽州米沢上杉家より御養子となられた際、お供を仰付《おおせつ》かって吉良家に移った身……世上の噂とは、とんと無縁にござる」 「さようか……」  木幡信兵衛は、安堵《あんど》の色を浮べた。 「てまえも、その争い事にかかわりなき身でござるが、ただ……むかしの顔見知りが、妙に気になりましてな」 「ほう、顔見知りの方が、かかわっておられる……どちらの方かな、どのようなかかわりで……」  二人は、また歩きだしていた。 「それが、赤穂浪人の束ね、と噂されておる元国家老の大石|内蔵助《くらのすけ》どのでござる」  今度は、弥七郎が足を止めた。 「大石……」  弥七郎は、せわしく訊《き》いた。 「そこもと、大石内蔵助をご存知か、顔見知りと言われたが」  信兵衛は、迷惑そうに掌《て》を小さく振って否定した。 「いや、昔の事でござるよ。もう十年近くになろうか、国許《くにもと》でお見かけしたことがござってな。その顔形が忘れられず……」  信兵衛は、苦笑した。 「と、言っても、先方はとうにお見忘れであろう、由なき事を申した」  信兵衛は、あたりを見廻すと、諏訪町の一角を示した。 「てまえは、そこの店屋に所用あって参ります、ごめん」  信兵衛は、鳴海屋《なるみや》と看板の出ている商家へ入って行った。  さして大きくはないが、店の者が忙がしく働く蝋燭《ろうそく》問屋である。 「あ、おいでなさいまし、木幡先生」 「いらっしゃいまし、先生」  店で働く番頭や丁稚《でつち》が声を掛ける。  取残された弥七郎は、凝然とその姿を見送った。      三 「大石内蔵助の面体《めんてい》を見知っておる者だと?」  吉良家の家老、小林平八郎は、帰邸した新貝弥七郎から報告を聞くと、強い関心を示した。  昨年三月の江戸城中における刃傷沙汰、四月の播州赤穂城開城以来、吉良家は江戸市中にはびこった噂——吉良は強欲非道、浅野は清廉潔白——に悩まされた挙句、この一年がほどは、赤穂浪人の襲撃討入の風聞に翻弄《ほんろう》され続けてきた。  抑《そもそも》、高家の職分は、営中の儀式・典礼を司《つかさ》どる。大名でもなければ旗本扱いでもない。今日でいう式部官のようなもので、戦場での役は無く、その備えも不要とされていた。  その高家が、潰《つぶ》れたとはいえ大名家の家臣団に狙われた。吉良家は三重の血縁につながる武門の上杉家を頼みとした。  対応策は、すべて上杉家江戸家老|色部又四郎《いろべまたしろう》が取り仕切った。そのことに不服はないが、色部は独断専行、吉良家に相談なく事をすすめた。  そのため、情報が一切伝わらない。 「狙われておるのは吉良家ですぞ。せめて相手方の情報だけでもお伝え願いたい」  家老の小林平八郎が、度々色部に申入れするが、色部は徹底的に無視した。 「なまなかなお手を出されぬように……事を誤れば、吉良家のみならず、当上杉十五万石の御家に傷がつきます。生兵法《なまびようほう》は大怪我の因《もと》だ」  屋敷の防衛策から警護の態勢その他、一切吉良家の容喙《ようかい》を許さない。  最も困惑したのは、相手方への諜報《ちようほう》活動を禁じられたことであった。動静がわからぬばかりか、統領と目される大石内蔵助の風態、容貌《ようぼう》まで誰一人見知る者がない。  ——こんなばかげたことで戦えるか。  小林平八郎の焦慮は、極限に達していた。 「浪人と言ったな、その者……どうあっても欲しい人材だが、その前に身状《みじよう》が気がかりである。氏素性、大石とのつながり等々、詳しく調べてくれい」  小林は、弥七郎に若干《そこばく》の調査金を預け、せきたてた。  木幡信兵衛の住居を知らぬ弥七郎は、まず小石川諏訪町の鳴海屋をたずねた。  鳴海屋は中ぐらいの店構えだが、なかに入ってみるとかなり裕福だとわかる。先代から続けて勤めている老番頭の嘉平《かへい》の話では、二、三の大名屋敷と十数家の旗本屋敷を出入先に持ち、堅い商いで稼業しているという。  あるじは若後家だった。亭主は五年前、三十三歳の若い身空で、流行《はや》り病にかかり急死した。先代夫婦はその前に世を去っている。  ——三十前の若後家では、稼業を継ぐことは無理だ。  という親戚《しんせき》一同の意見で、店を手放すことをすすめられたが、残された二十四歳の若後家は、店を続けたいと言い張って聞かず、親戚もその意志の固さに負けて、委《まか》せることにした。  それが当ったようである。若後家の懸命な働きに、店の者は協力を惜しまず、それに老番頭嘉平の才量も当を得て、まずまず堅実な営みが続いている。 「後家の踏んばりと申しますか、お若いお内儀《かみ》さまにこれほどの商才がおありとは、思いも寄りませんでした。ただ早くからお連れ合いに死に別れなさいましたのが、まことにお気の毒で……」  と、嘉平は、余分な事にまで話が横|辷《すべ》りした。  その女あるじが、出てきた。色白で中高の瓜実《うりざね》顔、黒い眸《ひとみ》が濡《ぬ》れるようで、紅《あか》い小さな唇が可憐《かれん》である。 「当家のあるじ、美保《みほ》と申します。うちへお出でになる木幡さまの事でおたずねとか……」  木幡信兵衛は、神田上白壁町の裏長屋に住んでいる。手内職の筆作りで近くの筆墨師の許へ通ってくるうち、書道と計数に長《た》けていると聞いて、頼んで手代や丁稚《でつち》に習字、算盤《そろばん》を教えに来て貰《もら》っているという。 「月のうち、一の日、四の日、七の日にはおいで願っております」  と、言う嘉平の言葉に続いて、美保が気遣わしげに尋ねた。 「何か、ご不審のことでも……それとも、御仕官のお話でもおありなのでしょうか」 「まだそこまで話が進んでおるわけではないが……」  弥七郎は、言葉をにごした。 「あの御仁の人柄を見込んでな。場合によってはお力になれるのではないか、と思っておる」 「お侍さまの事ですから、ご仕官なされるとなると否応《いやおう》はございませんが……うちの店にとってはかけがえのないお方でございましてな」  嘉平の言葉に継いで、美保がきっぱりと言った。 「木幡さまは、店にとって大恩人なのでございます」 「ほほう、それはどういう謂《いわれ》あっての事かな」  弥七郎の問いかけに、嘉平が話し始めた。  半年あまり前のことである。  店へ、鳥見役《とりみやく》の者と称する二人の侍が押しかけてきた。組の用に足すため買い求めた蝋燭が、会合の際、箱から出してみると、殆《ほと》んどが折れていて使い物にならず、大恥をかいたというのである。 「組頭をはじめ、組の者たちまでが、大方|屑物《くずもの》を安く買い叩《たた》いたのであろうと、咲《わら》いものにしおった。どう償ってくれる」  鳥見役というのは、御|鷹匠《たかじよう》についている者で、八十俵高、野扶持五人、御伝馬金十八両。御狩場を見廻って歩くお役目で、年に数度あるか無いかの御鷹狩に備えて、年中ぶらぶらと野良《のら》を歩く。至って軽禄軽輩の上に暇が多く、よからぬ事を働く者が多い。役人の中では鼻つまみである。  その鳥見役に目をつけられたとあって、店の者は蒼《あお》くなった。  仕方なく、嘉平が補償の金を出した。小判五枚を差出すと、とたんに狂暴な形相《ぎようそう》となった。 「おのれら、御公儀の役向を愚弄する気か、あるじを出せ、あるじを……御鷹匠さまの前に引立て、きびしく吟味してくれる」  あるじが女と知っての無理難題である。  店先は、黒山の人だかりである。その人の輪を掻《か》き分けて、木幡信兵衛が来て、口を利いてくれた。 「いきさつは表で聞いたが、何も大声でわめき散らすほどの事ではあるまい、穏便に話されてはどうかな」  相手が浪人と見てとって、鳥見役は居丈高になった。 「無礼な、素浪人風情が余計な差出口をすると只《ただ》では済まさんぞ、引っこんでおれ」 「その素浪人ゆえ申し上げるのだ、御公儀御役向が御府内で、かような振舞いは、お身分に障るとは思われぬか、おつつしみなされ」 「なんだと、重ね重ねの雑言、許さんぞ、それへ直れ、叩っ斬ってくれる」  二人が太刀の柄《つか》に手をかけた。瞬間、信兵衛は刀の柄で一人の肘《ひじ》を制し、片手の掌でもう一人の柄頭を押えた。 「抜くな、抜いてはならぬ、白昼町屋で剣戟《けんげき》沙汰に及べば無事では済みませんぞ、軽くて御役御免か蟄居《ちつきよ》閉門……浪人づれと喧嘩《けんか》して、手傷でも負えば家禄《かろく》召上げ……浪人暮しの切なさをご存知ないか」 「お、おのれ……」  二人は、身をもがくが、ぴたりと押えこんだ信兵衛は、ひくりとも動かさせない。  みるみる二人は、真《ま》ッ蒼《さお》になった。 「さ、折角の詫《わ》びのしるし。それを受取ってお引取りなされ。断っておくがこれでおしまいにしていただく。今度来たら強請《ゆす》りとみなして、それがしがお相手する」  二人は、出された五両を懐にねじこむと、ほうほうの態《てい》で去った。 「さすがはお武家さま、みごとなお取捌《とりさば》きでございました。町人ではとてもあのような度胸はございません」  嘉平の言葉に、眼許を赤らめた美保が頷《うなず》いた。  弥七郎は、まぶしい眼で、その様子を見守った。      四  内神田は町屋が多い。横丁が入組んでいる上に掘割が数多く、道が錯綜《さくそう》していて、町名を探し当てるのに一苦労だった。  新貝弥七郎は、聞き聞き上白壁町の裏長屋を探し当てるに一|刻《とき》(約二時間)余りかかった。  木幡信兵衛の住居は、作右衛門|店《だな》という裏長屋にあった。 「ほら聞えるでしょう。餓鬼たちが騒いでる声……あの家ですよ」  水道|溜《だめ》のまわりでお喋《しやべ》りしているかみさん連中の一人が、弥七郎に教えてくれた。  信兵衛の住居は、長屋の端の小ぶりな家だった。それでも猫の額ほどの庭がある。夏ごろには幾らか花の咲いたであろう草が、いまは枯れ果てて、見る影もない。  信兵衛は、裏店《うらだな》の鼻たれどもを集めて、手習いをさせていた。  筆作りの仕事場に使っている四畳半の部屋の隣、六畳間に、六、七人の子供たちが集って、信兵衛が与えた手習草紙とちびた筆で文字を習う。十日に一度の無料奉仕である。  案内を乞《こ》うた弥七郎に、信兵衛は、子供たちを追い立て帰して、仕事部屋へ通した。 「ご迷惑をおかけしたようだが……」  恐縮する弥七郎に、信兵衛は他意なく笑ってみせた。 「お気遣いは無用でござる。あの者たちには別の日を当てます」  信兵衛は、続けて気になることを問いかけた。 「して、ご用の趣きは、どのような事でござるか」  弥七郎は、言い難そうに答えた。 「それがしが吉良家家臣ゆえ、あるいはお答え難いとは存ずるが……赤穂浅野の大石内蔵助と、顔見知りの仲とお聞きしたが……」  信兵衛は、破顔一笑した。 「それは言葉が足らず、申し訳ない。いや、顔見知りと申しても、言葉を交したことは二度か三度……あとは遠目に見掛けただけの事で、それももう十年ほど前の事でござる」 「…………」  合点のゆかぬ態の弥七郎に、信兵衛はその訳を話した。  信兵衛は、正確には九年前までは、歴《れき》とした大名家の家臣、藩士であった。  元禄六年(一六九三)、備中松山五万石|水谷出羽守勝美《みずのやでわのかみかつよし》が十月六日に病歿《びようぼつ》し、その養嗣子縁組願いが出ていた弥七郎|勝晴《かつはる》が、翌十一月七日に急死した。そのため幕府は〈大名嗣子なく死去するときは、廃絶〉という定法に基き、十二月二十二日、改易の令を下した。  木幡信兵衛は、そのときまで、百二十石|厩《うまや》支配の職にあった。 「てまえは若年の頃より一廉《ひとかど》の武士を志し、剣を修行し、十八歳のみぎり江戸留学を許され、三年の間、松田新陰流|幕屋《まくや》弥次右衛門先生の門に学び、目録の認可を受けるに至りました」 「なるほど……」  弥七郎は、頷いた。 「長じて亡父の後を継ぎ、厩支配を命ぜられてからは、大坪流馬術を、また書道、算法などを学び、いつかお家のために力を尽したいと思ったのも水の泡となり……お家は断絶、藩は廃絶の憂き目と相なりました」  翌元禄七年(一六九四)二月、備中松山に城地受取の手勢が入った。  台命を受けたのは、播州赤穂五万三千石浅野内匠頭長矩である。  同月二十三日、公収完了。以後六カ月にわたり、赤穂浅野家が領地を預り、在番の役を果した。 「では、そのときに大石と……?」 「さよう。浅野内匠頭どのの名代として、大石内蔵助どのが一切を取り仕切りました」  厩支配として、職務引継ぎの際に会ったのが初対面で、その後一度、諮問の事あって話し合った。  じかに言葉を交したのは、それだけである。その後、何かの事で話したことがあるような気がするが、記憶は定かでない。 「で……どのような人態《じんてい》でござった」  弥七郎の問いかけに、信兵衛は困ったような笑みを浮べた。 「曰《いわ》く、言い難し、という外ありませぬな。外見は小太りで茫洋《ぼうよう》。至って風采《ふうさい》の上らぬ御仁でしたが、親しみ易く、奥深く、思慮に長《た》け、人の心を惹《ひ》きつける……いや、なかなかの人物でござった」 「ふむ……」 「当時それがしは、士道の研鑽《けんさん》を一途《いちず》に励んでおった身が、一朝にして主家を失い、呆然《ぼうぜん》自失の態でおりました。それはそれがしのみにとどまらず、旧松山水谷家家臣の殆《ほと》んどが、そのようであったと思います。そうした折に大石内蔵助どのは、旧家臣の集まりに足を運ばれ、説諭されたことを今もありありと思い出します」 「して、どのような説諭を……?」 「てまえは口下手《くちべた》、それに記憶の薄れたことでもあり、筋道立ててはよう話せませぬが、大方は、このような趣旨でござった」  大石は、このような事を述べたという。  今日のそこもとたちの悲運は、慰めようもない。関白秀吉の代に家を興した水谷家は、嗣子なきを以《も》って断絶した。これは誰の過《あやまち》でもなければ、誰の悪業に依《よ》るものでもない。天運、天命としか言いようがない。  人の一生は、天運にあると思う。前途に洋々たる望みを抱いて送った日々は、天の恵みであった。そして逆境もまた天運である。今日の悲運は思いも寄らぬ事であった。  諸士の行末に、どのような天恵があるかもまた量られぬことである。今日の逆境が未来|永劫《えいごう》続くと思うな。昨年の今頃、今日の逆境が思いも寄らぬ事であったと同様に、来年の今頃、三年後、五年後の今頃、諸士にどのような天恵の日があるやも知れぬのだ……。  その天恵の日にめぐり合ったときの心得を一つだけ言っておきたい。それは�囚《とら》われるな�の一語である。過去の研鑽と実績、身分、格式、体面を捨てよ。新たな生きようを選べ。さすればその天恵は諸士の掌中の物となろう……。 「ま、ざっとこのようなことでござった」  信兵衛は、白湯《さゆ》を啜《すす》り、小首をかしげて述懐した。 「あれから八年半……たしかに大石どのの言われる通り、天運は激しくめぐり、人は変転致しました。われらにそう訓戒した大石どのは、われらと同様主家を失い、浪人の身となり果てました。その渦中で大石どのとその一統は、そこもとの主家吉良家に復仇《ふつきゆう》の機を狙う……なるほど、大石どのの言われる通り、それも天運と言えましょう……」 「いや、それは……」  言いかける弥七郎を制した信兵衛は、言葉を続けた。 「一方それがしには、一向に天運がめぐって来ませぬ。相も変らぬ浪人暮し……今日明日の生活《たつき》の道は立っても、半年一年後の生きる道も立たねば、浪人暮しを抜け出る方策も立ちませぬ。あと一年半……大石どのの言われた天恵は、果してめぐり来るものか……それも怪しくなり申した」  信兵衛は、淋《さび》しく笑った。 「…………」  黙したまま、信兵衛を瞶《みつ》めた弥七郎の脳裏に突然|閃《ひらめ》くものがあった。 「木幡|氏《うじ》」 「何でござる」 「その天運、有るか無いか、試してみる気はござらぬか」 「試す……?」 「さよう。そこもとが大石内蔵助の面体《めんてい》を見知っておられる事が、あるいは御運の開けるきっかけになるやも知れぬ……これより、吉良家へ同道なされ、それがし力を尽してお助け申す」  昂奮《こうふん》に顔面を紅潮させた弥七郎を見て、信兵衛の心は激しく動いた。  ——吉良家に加わる。大石どのを敵に廻《まわ》す……これが天運か? 浪人木幡信兵衛の……。      五  本所《ほんじよ》、一ツ目橋北、吉良屋敷の用部屋では、家老の小林平八郎が、中小姓新貝弥七郎が伴なった木幡信兵衛を前に、思案をめぐらす風であった。 「ところで……木幡信兵衛どのと言われる」 「はあ……」  新貝弥七郎が自分とのかかわりを、逐一話すのを聞いていた信兵衛は、気の抜けたような調子で応じた。 「しかと、大石の面体を覚えておられるのだな。万が一にも間違いないと……」 「多少は変っておりましょう。だが見誤るほど変貌《へんぼう》したとは思えませぬ。たかが十年足らずの歳月です」  ——これが、家老か……。  信兵衛は、小林平八郎の観察を続けながら、軽い失望を覚えていた。  小林平八郎|央通《ひさみち》。主君である上野介義央の諱《いみな》の一字を拝領している。譜代の家臣である。  身の丈高く、筋骨|逞《たくま》しい。髭《ひげ》の剃《そ》り痕《あと》の青々とした面高の顔、容貌そのままに剣の腕も相当なものだという。  それにひきかえ、木幡信兵衛の顔は、平々凡々である。馬をよく乗りこなし、剣も修行を積んだ侍とは到底思えない。商家の帳場に坐《すわ》らせておくと似合う容貌である。  信兵衛は、小林平八郎の整った顔を信用しなかった。人の性格は見かけの顔立ちでは量れない。整った顔は器量の小ささをあらわす。 「それで……大石に恩怨《おんえん》は一切ないという話だが……」  小林は、執拗《しつよう》なもの言いを続けた。 「ありませんな。相手は城受取りの軍勢を率いた者、当方は城明け渡しの旧家臣の一人というだけで、人と人のつながりは皆無でした。抑《そもそも》、水谷家の廃絶は天下の御定法によるもの、それに恩怨をからめてみても益はありませんからな」  信兵衛は、少々向っ腹を立てて、乱暴に言い放ったが、小林の受とり方は違っていた。 「それは、いまの当家の考え方と同じだが……とかく人というのは悲運に遭遇すると、柄の無いところに柄をすげて、八ツ当りしたがるものでな……」  小林は、話が筋違いであることに気付いたらしい。 「いや、これは当家と赤穂浅野の確執で、おてまえのことをとやかく言うのではない」  そう弁解染みたことを言って、言葉を続けた。 「では……仮にだ。お手前と大石が剣を交えるようなことになったとして、相手を斬り捨てることにためらいはない……」  小林は、念を押すように、信兵衛の心の動きを窺《うかが》った。 「さあ、それはどうでしょうか」  信兵衛は、憮然《ぶぜん》とした表情で答えた。 「恩怨がないということと、相手と立向って斬るということとは、結びつかぬと思います。武士と言えば剣、とお思いの向きがよく有りますが、人を斬るというのは人のいのちを断つこと……そう易々と思い切れるとは思いませんが」 「木幡|氏《うじ》」  新貝弥七郎が、割って入った。若い——まだ三十歳に満たぬ弥七郎は、小林と信兵衛の対話が思わぬ方へずれてゆくのに、ひとり気を揉《も》んでいた。 「ご家老は、そこもとが吉良家にお味方をされるかどうかを確めたい、とのご意向なのだ」  小林は、その言葉に大きく頷いてみせた。 「そこもとは、当家に仕官を望んでおられると思うが……」 「さよう。叶《かな》うことならば……と、思っております。ですが……」 「?……」 「ありようは、いささか迷いおります」  信兵衛は、微笑を浮べたまま、ずばりと言った。 「ほう、これは意外なことをうかがった。では、気がすすまぬ、と言われるのか」  小林は、気色ばんだ口調になった。 「ま、お聞き下され。てまえの浪人暮しは八年を越えております」  信兵衛は、淡々と話し始めた。 「浪人暮しというのは、主家を持つ方々には思いも及ばぬ辛《つら》さがあります。節季が来ても一文の収入《みいり》もない。収入のあてもない。借財をしようにも返す目処《めど》がない。一日一日が持ち金を食い潰《つぶ》すだけ、病に倒れたらと思う不安と絶望の日々が続きます。節季ごとの責苦ではない。寝ても覚めても地獄です……」 「…………」  小林も、弥七郎も、はじめて聞く話の中身に、聞き入った。 「頼みの家内は、子なきを幸い、去り状もとらず備後《びんご》福山の実家に戻りました。以来六年、一度の便りもありませぬ」  信兵衛は、息を継いだ。 「そのような浪人暮しで、仕官を望まぬ者がありましょうか。降って湧いた仕官話に、望みを抱くのは、われのみならず誰しものことと存じます」 「……では、何故《なにゆえ》……」  小林が、ぽつりと言った。 「さ、それがてまえの……てまえに限った困る性格かも知れませぬ」  信兵衛は、努めて明るく言う。 「仕官、と言えば、禄《ろく》を得て役目に励む、与えられた職務に出精する。……泰平に狎《な》れた侍と謗《そし》りを受けましょうが、ありようはそうであると存じます。しかし……」  信兵衛は、言葉を切り、更に続けた。 「ご当家は違う。当面に敵を控えておられる。その敵は今にも襲いかかってくるやも知れぬ。その敵を斬らねばならぬ。殺さねば侍の名分が立たぬ。殺す……さてそうなると、心に迷いが生じます」  信兵衛は、語調を柔げた。 「仕官は、敵を作ることに通じます。なまなかの敵ではない。殺し合う敵です。その敵が……顔見知りの、いささか尊敬の念を禁じ得ない御人となると……咽喉《のど》から手が出るほどの仕官でも、少なからずためらいの念を禁じ得ませぬ。てまえの申し分、無理でしょうか」 「ふむ……」  小林は、混迷の抜けやらぬ顔で言った。 「話をうかがえば、そこもとの申し条にも理がある、と思う……だが、当家は、そこもとの言われる敵を目前に控えて、存亡の危機に直面しておる……」  小林は、歎息《たんそく》を洩《も》らした。よほど困惑している態《てい》に見えた。 「これは打明けた話だが、いま当家の防ぎの策は、御当主左兵衛様のご実家、米沢上杉家が采配《さいはい》を振るっておられる。見られる通り、手勢も大方は上杉家の者だ……その中で、当家が敵でもなく味方でもない侍を一人でも召抱えることは、上杉家に対し憚《はばか》りがある。上杉家も許さんであろう……」 「ですが、ご家老……」  弥七郎が、口をはさんだ。弥七郎に懸命の顔色がうかがえた。 「当面の敵、大石内蔵助の面体を見知っておる者が、当家には皆無ですぞ。上杉家も上杉家ですが、これでは当家は戦えません。その点で木幡氏は、貴重この上ない。それをみすみす……」 「まて、新貝」  小林は制した。 「いかにも木幡どのは貴重である。だからこそ脳漿《のうしよう》を絞っておるのだ。何か便法はないか、とな……」  小林平八郎は、木幡信兵衛に向いて言った。 「いかがであろう。このところは当家の者だけで談合したい。いささか勝手だが、暫《しばら》くこの新貝の長屋でお待ち願えぬか。明日とは言わず今日のうちに、この話の決着をつけたいと思うが……」  信兵衛は、頷《うなず》くよりなかった。  純朴な新貝弥七郎の人柄に魅《ひ》かれて足を運んだものの、信兵衛は吉良家への仕官話にひとつ乗りきれぬものを感じていた。  だが話が一方的に進むと、無下《むげ》に振りきれない。  ——殺風景な長屋だ。  信兵衛は、家具ひとつない六畳間で、小さな箱火鉢にしがみつくように暖をとりながら、家の造りに眼を走らせた。  節だらけの柱、板壁には、ろくに鉋《かんな》もかけてない。坊主畳だけは際立《きわだ》って青々しいが、襖《ふすま》は白いがまま、彩色はほどこされていない。ただ頑丈なだけの造作である。  ——これほど、戦支度《いくさじたく》に奔命しておるのか。  いまさらに、吉良家の緊張ぶりが肌に迫る思いであった。  ——さて、この話、どう転ぶか……。  信兵衛は、もう仕官話をあきらめていた。  八年半続いている浪人暮しは、木幡信兵衛の侍心を少なからず変えていた。  小林平八郎に、浪人暮しの辛さを強調したが、浪人暮しの気楽さには触れなかった。  信兵衛は、ぞくぞくと身に迫る寒気に堪えながら、いま住む神田の裏長屋を思った。  寒ければ、火鉢に炭火を好きなだけ盛り上げる。炭の値は懐にこたえるが、侍長屋のように主家の支給品でないだけに、誰にも気兼ねは要らない。  布団《ふとん》に泥行火《どろあんか》を入れて、寝転がるのも気儘《きまま》である。炭火稼ぎに内職仕事に精を出そうと思ったら、寝布団を引被《ひつかぶ》る不行儀も、誰に気兼ねすることもない。  信兵衛は、思いを鳴海屋に馳《は》せた。  ——あの家は、冬の寒さ知らずだ。  商家、それも商い盛んな家となると、侍の及びもつかぬ贅沢《ぜいたく》な暮しようである。外廻《そとまわ》りの寒い仕事はすべて奉公人が片付ける。茶を命じれば菓子がついてくる。飯の菜も、思いつくままに注文すれば、台所の老婢《ろうひ》と女中が膳《ぜん》を運んでくる。ほかほかと温い炬燵《こたつ》。褞袍《どてら》……給金で人を使う気楽さ、気儘さ……。  八年ぶりで侍屋敷に入ってみると、町屋の暮しの安楽に、眼のさめる思いがあった。  ——ばかな考えは捨てるのだ。木幡信兵衛、六歳から剣を修め、十七歳から馬術を学び、その暇々に書と計算の修得に励んだのは、何のためだ。士道一筋に生きるためではなかったのか……。  信兵衛は、背筋に這《は》い上がる寒気に堪えて、うむと姿勢を正した。 「木幡氏、どうやら望みが達せられそうですぞ」  新貝弥七郎が勢い込んで戻ってくると、信兵衛に告げた。 「これはまだ秘中の秘ですが、年明け早々に御隠居様は米沢にご退隠されます。そうなれば上杉家から出向いておる附人《つけびと》は引払うこととなります。それを機に、木幡どのを吉良家がお召抱えになり、それがしともども、米沢へ、道中警護にお供します。それを無事に済ませたあと、江戸に戻って、用人格で御当主様の身辺警護に当っていただく。禄高《ろくだか》は百石……いかがですか」 「それは、思いがけぬ……」  そう言う信兵衛に、弥七郎が予想したような喜悦の色はなかった。  ——やはりおれの天運は、侍奉公に一生を費すことにあったのか……。  信兵衛は、気の滅入《めい》るのを抑えられなかった。 「何か、ご不満でも……」 「いや、不満などありよう訳はござらぬ。お骨折り忝《かたじ》けない」  信兵衛は、強いて笑顔を作ってみせた。それが弥七郎の次の言葉を誘ったようである。 「実は、それについて……申し上げ難いことがひとつござる」 「はて、どのような……」 「そこもとの仕官については、当吉良家として、貴殿に並々ならぬ期待あってのことにござる。その期待に応《こた》えていただくわけには参るまいか」 「てまえへの期待?……大石内蔵助の面体を見知っておることでござるか」 「さよう。近頃大石をはじめ赤穂浪人の動きが只《ただ》ならぬ……と、ご家老が申しております。万が一、討入があった折は、相手方の統領の顔もわからんでは戦にならぬ。そのためにもご隠居様が米沢へご出立になるまで、是非にも当屋敷におとどまり願いたい……」 「しかし、それは……」  信兵衛は、言下に言った。 「上杉家のご家中が承知なさるまい。そのようなことをご家老がおっしゃっておいでだ」 「さ、それでござる」  弥七郎は、ますます言い難そうに続けた。 「そこもとを屋敷にとどめおくには憚《はばか》りあり……と、なれば、便法を用いる外はありませぬ。甚だ申し兼ねるが、ここはひとつ、枉《ま》げてご承知願いたい……と、申しております」 「便法、と言われると、どのような……」 「侍身分の者は、何かとうるそうござるが、中間《ちゆうげん》・小者の類《たぐ》いは、確かな口入屋を通せばそううるさい詮議《せんぎ》はありませぬ。如何《いかが》でしょうか、これはほんの一時|凌《しの》ぎ、年内ひと月ほどのご辛抱でござる。それがしの雇い中間ということで……」 「ふむ……」  信兵衛は、ただ唸《うな》るのみであった。  三日の間の猶予を申し出て、信兵衛は神田上白壁町の裏長屋に戻った。  信兵衛は、さまざまに思いをめぐらせ、日を過した。      六  剣戟《けんげき》の音と叫びは、次第に遠ざかるようであった。  ——どうやら戦は、中庭あたりに移ったらしい……。  中間部屋に閉じこめられた者は、それぞれに戦場《いくさば》に思いを馳せた。  ——勝て、勝ってくれ……。  この頃になると、誰しもがそう念じた。勝てばよし、負ければ明日から給金をくれる家が滅びるのである。  そうした思いを断ち切るように、戦支度の敵が、時折見廻ってくる。板壁の節穴からそっと覗《のぞ》き見すると、先ほどの壮年の侍ではなくて、鉢金の下にこぼれる髪の毛が白い。心なしか背から腰が少々曲がっているように見える。  ——年寄もまじっているのだ……。  その老人も、気力は充実しているようである。鋭い眼を八方に配って、いささかも油断は見えない。  ——これが、赤穂浅野の一統か。  数少ない節穴へかわるがわるに覗き見にくる中間たちとは別に、信兵衛は、土間の隅の掃き出し口をひとり占めにして、外の様子を見続けていた。 「しん平、ほかの者にも見させてやったらどうだ」  小頭の作右衛門は一、二度声をかけたが、しん平と呼ばれた信兵衛は、返事もしなかった。  作右衛門は、それ以上言葉を掛けない。中間姿はしているものの、信兵衛が侍の出であることを敏感に覚《さと》っていた。  ——何か訳ありの侍だ。触らぬ神にたたりなしだ。  中小姓新貝弥七郎付きの中間、というが、この屋敷に住みこんで以来、仕事らしい仕事をするのを見たことがない。それどころか吉良家の侍は、何か憚りでもあるのか、顔を合わせることも具合悪そうに避けて通る。  家老の小林平八郎までもが、出合うと愛想笑いを浮べる始末である。  上杉侍は、只の中間と思ってか仕事を言いつけ、時には小言の一つも言う。しん平は仏頂面《ぶつちようづら》で聞き流し、更に咎《とが》めだてされると、きびしい顔で睨《にら》み返す。若侍だけで組まれている上杉侍は、その気勢に押されて二の句がつげなくなってしまう。 「江戸の奉公人というのは、みんなあのようか。お国表では考えられん気性の荒さだな」  吉良家に詰めている上杉侍は、国許《くにもと》で徴募された部屋住の次男三男である。初めて見る江戸の賑《にぎ》わいと、江戸者の気風に圧倒されていた感がある。  信兵衛は、それで押し通した。  神田上白壁町の長屋で過した三日間は、憂悶《ゆうもん》と懊悩《おうのう》に明け暮れた。  再仕官、禄《ろく》百石というのは、長年の浪人暮しの身にとって、甘美な誘惑だった。  ——生涯に、二度とこのような機会はあるまい。  江戸で数多くの浪人仲間と知り合ったが、誰一人このような高禄にありついた者はない。  だが、百石取りの侍に復帰しても、浪人暮しの最後にこびりつく汚辱は消えない。禄欲しさに渡り中間に身を落す、侍にあるまじき浅ましさである。事情を知る者は一時の便法と見逃しても、おのれの心の底に残る卑しさは、生涯忘れることはないだろう。  二日目になると、別の考えにとらわれた。  八年余の浪人暮しに耐えたのは、赤穂浅野藩の家老、大石内蔵助の説諭だった。  ——天運は、必ずめぐり来る。  信じたかった。信じようと努めた。信ずることが生き甲斐《がい》だった。  なんたる皮肉な成行きか、天運は大石ら赤穂浅野藩に、信兵衛ら松山藩と同様の逆運を見舞った。  だが、その後の経緯は、天と地ほども異った。  旧松山藩は、何ら為《な》すところなく離散し、旧藩士は日々の糧にも窮し、細民に入り雑《まじ》っての生活《くらし》に甘んじている。  聞くならく、赤穂浅野の家中は、国家老大石内蔵助の深甚なる配慮により、五年、七年の生活を支えるに足る分配金を給され、侍奉公を望む者には微禄ながら仕官先を斡旋《あつせん》し、町屋暮しを願う者には問屋筋の者を教導に当て、一人も餓えたる者なきを期したとか。  更に——主家再興の望み絶たるるに及んで、同志を募り、藩廃絶の因《もと》となった怨敵《おんてき》吉良家の喪亡を期して、討入の機を覘《うかが》っているとの事である。  大石内蔵助は、主家滅亡を逆運ととらなかった。  ——これぞ、赤穂士道を天下に示す千載一遇の天恵。  と、とらえたようである。  大石は、国家老の職にあること十余年。生涯に一度あるかなきかの逆運のときに備えて、資金を備蓄し、ものの用に立つ侍を撫育《ぶいく》した。更に藩廃絶に際しては、籠城《ろうじよう》説、殉死説、主家再興説と、あらゆる術策を用いて人を選び、一年余の月日をかけて上杉・吉良両家を惑乱させ、翻弄《ほんろう》し、今に至っている。そのみごとさは言うまでもない。  翻って、旧松山水谷家はどうか。  ——逆運を天恵に変える奇想には遠く及ばぬとしても、主家滅亡を避ける方策はなかったか……。  信兵衛は、忸怩《じくじ》たる思いで回顧した。  無いわけではなかった。松山水谷家は愚劣極まる行ないを重ねた末に、廃絶の憂き目をみたのである。  先代水谷|勝宗《かつむね》は名君として知られ、玉島港の整備、高梁《たかはし》川の改修、千屋《ちや》鉄山の開発などを行ない藩政の充実にみるべきものがあった。  勝宗は、二十五年間藩主の座にあった。だが寄る年波で齢《よわい》還暦を越え、老衰甚しく政務に堪えざる状態となった。  元禄二年(一六八九)、家督を嫡子勝美が嗣《つ》いだ。だが、勝美は蒲柳《ほりゆう》の質で近年病勝ちである。三十歳近くになって嗣子がない。 「一日も早く御養子を定めて、万一に備えなければならぬ」  水谷家の重臣が協議を重ねているうち、水谷家の親類になる長老格の水谷太郎左衛門という老臣が、途方もない事を言い出した。同じ水谷家の縁類に当る水谷|信濃守《しなののかみ》という者の子の弥七郎勝晴を御養子に推戴《すいたい》しようと言うのである。  実は病床の当主勝美には、勝時という実弟がある。旗本三上家へ養子に行っているが、これを離縁し、養子とすればよい。  藩の大勢は、勝時養子説であった。  だが、長老水谷太郎左衛門の弥七郎勝晴養子説には甘い毒があった。  実は水谷弥七郎勝晴は年齢十三歳。言語も通じない愚鈍白痴の少年である。 「白痴の殿をいただけば、松山五万石は重役や上士の思いのままにあやつれる」  その誘惑に、重臣どもが転んだ。中士・下士は長老の水谷太郎左衛門の権勢に畏服《いふく》した。  水谷太郎左衛門は、御側《おそば》御用人柳沢|保明《やすあき》をはじめ幕閣に莫大《ばくだい》な金を撒《ま》き運動した。  その最中、当主の勝美が、元禄六年十月六日病重り、死去した。 「いや、案ずるには及ばぬ。弥七郎君御養子の件は程なく御裁可になる」  太郎左衛門がそう明言しているうちに、肝心の弥七郎勝晴が、翌十一月七日に頓死《とんし》したのである。  家中の狼狽《ろうばい》は極に達した。慌てて亡主の実弟勝時を養子にと願い出たが、もはや手遅れである。 「なんたる醜態。定法通り家名断絶、改易」  との処断が下った。  ——これは、天が授けた逆運ではない。旧松山藩士すべてが招いた悪運だ。  藩士として、なすべきことはなかったか。士道を立てて後の世に名を残す道はなかっただろうか。  あった、と信兵衛は思った。事の誤りは長老水谷太郎左衛門と重役、上士たちの藩政を専横しようという妄想である。  長老・重役・上士が、妄想に駆り立てられたのは名君と言われた先代藩主勝宗の藩政充実に、家臣一同が辛酸|艱苦《かんく》を嘗《な》め続けたことにある。それが二十五年も続いた。  ——藩財政は安定した。この辺で少し楽をしたい。  その誘惑が大勢を占めた。  士道にとって許されることではなかった。  ——誰かひとり、士道の義を唱える者がおれば大勢は覆ったかも知れぬ。死を決して長老水谷太郎左衛門と暗愚の弥七郎勝晴を斃《たお》せば、主家と数百の藩士は安泰であっただろう。  ——誰一人、それを為そうという者は無かった。  三日目を迎えて、信兵衛の考えは更に変った。  おのれの身分、体面に執着する愚に気付いた。  ——おれは亡家の臣、士道の義を顕現する唯一の機を失った。  悔ゆるとも詮《せん》なきことである。侍が侍の一分を立て貫くことは、一代に有るか無しである。一度失った機はもう二度とあるまい。  信兵衛は、せめてものことに、天運・天恵を手中におさめて、一路|奔騰《ほんとう》する大石の姿を見たいと思った。  ——もう大石どのは、われらの顔を見忘れていよう……言葉を交せずともよい。天恵を得た侍の晴れの姿を、侍|冥利《みようり》にひと眼見たい。  信兵衛が吉良家にとどまったのは、その灼《や》くような思いを抱いたからであった。  元禄十五年十二月十四日の夜は、深々と更けて行った。  時は、容赦なく流れてゆく。  だが、中間姿の信兵衛が待ちわびる新貝弥七郎の姿は、一向に中間部屋に現われない。 「討入が起こりました際は、真っ先にそこもとのところへ駈《か》けつけます。あとはわれらとともに動いていただく。討入の人数のなかに大石を見かけたら、それと名指して貰《もら》います。それを目当てに手勢を集中し、まず大石を討ち取ります」  総大将を討ち取れば、あとは烏合《うごう》の衆だと言うのである。  ——もし、そういう破目になったら、おれは大石を名指しするだろうか。  その点は、心許《こころもと》ない信兵衛である。名指すか素知らぬふりをするかは、その場の成行次第だと思っている。  しかし、会いたい、ひと眼見たい、その思いが胸を灼く信兵衛であった。  ——それが、もう一刻《いつとき》あまり経つ……。  新貝弥七郎は、姿を現わさない。戦《いくさ》の叫喚は、一段と遠ざかるようである。  信兵衛は、遂《つい》に堪え切れなくなった。  土間から這《は》い上がると、押入に首を突っ込み、おのれの私物の行李《こうり》から、がさごそと刀を取り出した。 「しん平」  小頭《こがしら》作右衛門の、尖《とが》った声が飛んだ。  信兵衛は、無言で身支度をととのえ、刀を腰に差した。 「しん平、何をする気だ」  作右衛門と、その取巻きの連中が腰を浮かせた。 「ここを出る」 「ならねえ。うぬはどういう料簡《りようけん》か知らねえが、そんな事をして中間部屋の一同が一方へ味方したと思われたら、こちとらはいのちにかかわるんだ。出ちゃならねえぞ」 「うるさい」  低いが、よく透る声で信兵衛は一喝した。 「うぬらが臆病《おくびよう》風に吹かれるのは勝手だが、おれはもう中間ではない。浪人木幡信兵衛、邪魔立てするとうぬらとて容赦はせんぞ……斬る」  じろり、居すくんだ中間どもを見渡して、土間に下りると、表戸を開け、出て行った。      七  表門の内、玄関先には人影がなかった。  表門には閂《かんぬき》が通され、その閂には夥《おびただ》しい鎹《かすがい》が打ちこまれ、門扉《もんぴ》を厳重に封じてあった。  玄関の正面に青竹が一本打ち立てられ、その裂いた先に封書がはさんである。夜目にも著《しる》く、表書が読めた。〈浅野内匠頭家来口上〉とあった。  信兵衛は、開け放たれたままの玄関へ足を踏込んで、むっと立ちこめた血の匂《にお》いに、部屋を見廻した。  玄関脇に、尻餅《しりもち》を突いた態《てい》で、壁に倚《よ》り、絶命した死骸《しがい》があった。横面を断ち割った刀傷から噴出した鮮血が、顔の過半を染めている。投げ出された形の脚の太腿《ふともも》がざっくり斬られて、白い骨が覗いていた。  何より無惨なのは、背後から突かれた槍《やり》の穂先が貫通し、腹部から突き出たまま放置されていることだった。 「…………?」  信兵衛は、はっとした。寝巻姿のその屍《しかばね》に見覚えがある気がした。  予感に、信兵衛は、傾いたなりの死首を、外の雪明りの方へねじ曲げて見た。紛《まご》う方なき新貝弥七郎であった。  ——討入と知って、無二無三に中間部屋へ走り、ここで敵と出合ったに相違ない。  吉良家への仕官を斡旋《あつせん》してくれた新貝弥七郎を、士道を欠く者と内心|貶《さげす》んだことがある信兵衛は、自責の念に胸さいなまれた。  ——たとえ敵を一人も斃《たお》さなくとも、これぞ武士……侍らしい最期だ。  ふと、やや遠くから人の話声がして、次第に近付く雪の軋《きし》み音がした。  ——敵。  咄嗟《とつさ》に刀の柄《つか》に手をかけた信兵衛は、次の瞬間、自省した。  ——吉良家は、おれを中間にしか遇さなかった。中間奉公に忠に殉ずる義はない。  身を翻した信兵衛は、乱戦の物音と叫喚が遠く聞える奥へ駈けこんだ。  どこをどう駈け抜けたか、まったく記憶がない。ただ一筋に信兵衛は奥を目指した。  ——新貝弥七郎どのは、先駈けて玄関先で斬り死にした。吉良家の者に知らせなければ信義にもとる。  だが中間奉公の信兵衛は、邸内の地理に明るくない。総坪数二千五百五十坪。本屋敷建坪三百九十坪、部屋数およそ七十。その屋内は複雑多岐にわたり、廊下は部屋|毎《ごと》に折れ曲って、さながら迷路の態をなしている。その廊下の一部は床が外され、部屋の板戸は頑丈に閉されて、畳を防壁代りに立てれば、さながら砦《とりで》の様相を呈する。  信兵衛は、雪明りのさしこむのを頼りに走ったが、いつか迷い、乱戦のなかに飛込んだことも四、五度にとどまらなかった。  止むなく抜刀した。身に振りかかる火の粉は払わねばならない。浪士と斬り結んだ。  驚いたことには、斬りこんでも相手はかすり傷ひとつ負わぬことだった。精巧な鎖《くさり》帷子《かたびら》、鎖|股引《ももひき》、鉄の長籠手《ながこて》、長臑当《ながすねあて》が白刃を挑《は》ね返すのだ。  ——これが大石の戦法か、凄《すご》い。  とまどう信兵衛に、相手方の赤穂浪士は、信兵衛の身なりを見確かめると、必ずと言っていい程、声を掛けてきた。 「中間、小者の類《たぐ》いは相手にせぬ。刀を退《ひ》け」 「下郎、行ってよいぞ」 「殊勝であった。褒めてやる。怪我のないうちに逃げろ」  これには参った。中間姿であったため、侍の情けで見逃して貰い逃げたとあっては、信兵衛の義がすたる。  かと言って、赤穂浪人と命のやりとりをする気はない。 「ごめん」  信兵衛は、相手方が気勢をそがれたのを幸い、乱戦の場から素早く抜け出た。  辿《たど》り辿った廊下は、いつしか奥座敷の領域に入っていた。  常夜灯のほのかに照らす廊下には、まだ赤穂浅野勢は到達していない。かと言って、詰めかけている筈《はず》の吉良、上杉勢の人影もない。雨戸の外、やや遠くから盛んなや声[#「や声」に傍点]と、刃金《はがね》の打ち合う金属音、叫声が聞えるだけで、屋内は森閑と静まりかえっている。  廊下の角には仕掛けた角材の防ぎ戸。踏めば動く床板の仕掛けなどに、備えの侍の影すら無いのだ。  ——庭の合戦は、よほど急を告げているらしい……。  信兵衛が、次の廊下を曲ると、次の大部屋は吉良方の本陣だった。隣部屋をぶち抜いて、手傷を負った者が枕を並べて横たえられ、応急の手当をうけている。  大部屋の上段の間に、伝令が忙がしく往き来する。そこにはまだ顔を見た事のない屈強の武士数人と、吉良家の家老や用人が、嗄《しやが》れ声をふり絞ってせわしく意見をたたかわせていた。  その中の一人が、振り向く。小林平八郎だった。 「おう、しん平か」  小林は、中間姿の信兵衛に、この半月ほどの間使い慣れた名前を口にした。 「ご家老、木幡信兵衛でござる」 「うむ、そうであったな。弥七郎めはどうした。無事か」  小林は、血が頭に上りつめているらしい。そう口にしたものの、心ここにあらぬ様子である。 「残念ながら新貝どのは、玄関先で斬り死に致しました」 「死んだ? そうか、死んだか。止むを得ぬ。相手の勢いが強すぎる。まったく防ぎがつかんのだ」  横あいから、上杉侍が声をかけた。 「小林|氏《うじ》、裏手の手勢が足りぬ。加勢を差し向けて下され」 「う、裏手か、木幡氏、そこもと行ってくれぬか、頼む」 「いいや、それはならぬかと存じます」  信兵衛は、うろたえまくる小林に、冷たく言った。 「てまえは未《ま》だ中間でござる。中間は戦に加わらぬが定法……相手方も、物の数には入れません」 「そ、そうか、そうであったな……」  小林は、虚をつかれて、黙りこんだが、思いつくと眼を輝かせた。 「そうだ。使いならよかろう、外桜田の上杉家へ知らせに走ってくれ。速かに加勢を送ってくれいとな」 「使い……ですか」  信兵衛は、とまどった。 「中間でも使いには使える。実は先程から四人も走らせておるが、一向に音沙汰《おとさた》がない……おぬしは、元は侍。戦の見たままをそのまま伝えて、一刻も早い加勢を頼んでくれい」  小林は、そう告げながら座敷から庭の方へ走りだし、またふり向いて声をかけた。 「頼む……頼んだぞ。木幡氏。一期《いちご》の頼みだ」  言い残されて、信兵衛は呆然《ぼうぜん》と立ち尽した。  肝心の大石の面体を見確める件は、両者とももう頭の中に無かった。      八  ぎゃーっと、すさまじい絶叫と悲鳴が聞えた。  回向院《えこういん》の山門脇の築地塀《ついじべい》を乗り越えかけた信兵衛は、肝も凍るその声に、思わず身をすくませた。  吉良邸を抜け出るのが一苦労だった。裏門は掛矢で門扉が叩《たた》きこわされていたが、その門内に、裏門組大石|主税《ちから》と副将吉田忠左衛門以下の老人たちが、手槍《てやり》をひっ下げ警戒に当っている。  吉良邸は北隣りの旗本土屋主税、本多内蔵助の屋敷境をのぞくほかは、侍長屋に囲まれ、抜け出る隙がない。両旗本は討入が始まると庭に高張|提灯《ぢようちん》を立て、境を乗り越える者を討ち取ろうと、家中の者を動員して警戒に当っている。  信兵衛は塀の上に身を乗せて、土屋家の見廻りの中間を呼んだ。十日ほど前から顔見知りとなっていたその中間は、血まみれ雪まみれの信兵衛にひどく同情した。 「ひでえ目に遭《あ》ったな、おい。奉公先を間違えたようだな」 「そうらしい。頼む、逃がしてくれ」 「いいとも。お互いに一季半季の渡り奉公だ。いのちがけになることはねえ。そっと降りて来い」  土屋家の中間は、信兵衛を五間道路をへだてた回向院の塀際へ連れて行ってくれた。 「坊主どもは、この騒ぎでぶるってしまって、納所《なつしよ》にとじこもってるらしい。境内を突っ切りゃ両国橋は目と鼻の先だ」  言われた通り、境内を突っ切った。山門脇の塀を乗り越えようとしたとき、両国橋の袂《たもと》で絶叫と悲鳴があがった。  信兵衛が雪明りで透かし見ると、鉢巻|襷《たすき》、袴《はかま》の股立《ももだ》ちをとった侍が二人。一人は槍、一人は白刃を抜き放って、倒れ突っ伏した寝巻姿の者の屍を検分している。  その二人の侍の許《もと》へ、相生《あいおい》町の通りの方から、更に同様の身支度の者が歩み寄ってくる。  四人は何か語らい合っている様子だが、声が低く聞きとれない。  ——案の定だ。赤穂浪人はここにも備えている。  信兵衛はそう感じとったが、実はこの四人、赤穂浪人ではない。大石内蔵助の親類で、奥州|津軽《つがる》家の江戸詰家臣、大石郷右衛門と大石三平、堀部安兵衛の従兄弟《いとこ》、佐藤条右衛門、堀部弥兵衛の甥《おい》、堀部九十郎で、討入を知り、参加を願ったが、大石内蔵助は固辞し、そのかわりに両国橋周辺の見張りを頼んだ。  因《ちな》みに、記録によれば、当夜吉良屋敷から脱出、逃走を図った足軽一名が路上で斬り死にし、足軽一名、中間三名が手負となって、翌朝収容されたとある。  ——両国橋は渡れぬ。  本所の不便さは、隅田川を越える橋の少なさにあった。両国橋のほかは、元禄六年(一六九三)架橋の新大橋、元禄十一年架橋の永代《えいたい》橋しかない。  信兵衛は、本所から深川へ、川ぞいに下ることにした。だが、吉良屋敷にほど近い竪《たて》川の一ツ目橋には、相手方の監視が予想されるので渡れない。  信兵衛は、意を決して、竪川を泳ぎ渡ろうと、水に躰《からだ》を沈めた。当夜十二月十四日は、陽暦一月三十日に当る。年間を通じて最も寒気きびしい頃である。さすが武芸で鍛えた信兵衛も、身がこごえ、胸痛甚だしく、息が止まるかと思うほどであった。  一ツ目橋から掘割伝いに、八幡宮|御旅所《おたびしよ》のあたりで陸《おか》に上る。御舟蔵を右手に見て一散走りして躰をあたためるしかない。  新大橋の袂に、天の助けか一|艘《そう》の猪牙《ちよき》舟がもやってあるのを見つけた。  櫓《ろ》の焼印に、�御|籾蔵《もみぐら》御用�とある。役所用である。無断で借用し、大川へ漕《こ》ぎだした。不慣れな信兵衛は、思うように舟が進まず、だいぶ流されたようである。ようやく隅田川を突っ切って、三叉《みつまた》あたりに辿りついた。  陸に上れば、本所・深川の新開地と異なり、江戸の町々には木戸があって、暮六ツ(午後六時頃)から明け六ツ(午前六時頃)までは、通るたびに一々自身番に届出しなくてはならない。その面倒を避けようと、信兵衛は舟を掘割へ漕ぎ入れた。  思いつきはよかったが、四通八達の掘割は意外に入組み、複雑に折れ曲っていて、方向が狂う。江戸の水路に慣れない信兵衛は、たちまち迷って、鉄砲洲《てつぽうず》から築地《つきじ》のあたりで同じところをぐるぐる廻る失敗を演じた。  汐留《しおどめ》橋を見つけて、ようやく地理が呑《の》みこめた。芝口橋、土橋とくぐって幸《さいわい》橋御門の橋下へ来た。だが、そこから望む外桜田一帯の掘割は、石垣の上に築地塀が廻《めぐ》らせてあり、陸に上ることが出来ない。かと言って芝口側に上ると幸橋御門、虎之《とらの》御門が通れない。進退に窮した信兵衛は、赤坂|溜池《ためいけ》で陸に上ろうと舟を進めた。  すると、虎之御門の手前に、新しい橋があった。新《あたら》シ橋(現在の新橋)である。これ幸いと舟を着け、陸に上って橋を渡る。虎之御門に来ると道は一筋、桜田御門に通じている。外桜田一円は大名屋敷が立ち並んでいるから木戸はない。信兵衛は走って走って、桜田御門に向き合う上杉家上屋敷に辿りついた。      九 「なに、赤穂浪人が吉良様屋敷に討入っただと?」  上杉藩邸は上を下への騒動となった。  家老屋敷の色部又四郎安長の許へ知らせが走った。  上屋敷内は、おっ取り刀の侍と、槍《やり》、弓を持ちだす侍がひしめき合った。 「おのれ、赤穂の素浪人め。何たる無法」 「武門上杉の名にかけて、目に物見せてくれる」 「おう、一人たりと生かしておかぬ。皆殺しぞ」  怒声と喚声が飛び交う。 「あ、ご家老」  家老屋敷から来た色部又四郎が、苦い顔で廊下にあらわれた。 「ご家老、一大事|出来《しゆつたい》との事にございます。早速、お指図を」  留守居役浜岡庄太夫が、おろおろと取りすがる。 「うろたえるな。見苦しい」  色部は、冷たく一喝した。 「た、直《ただ》ちに手勢を繰り出し、本所のお屋敷へ……」 「もう間に合わん」  そのひと言が、立騒ぐ藩士に冷水を浴びせた形となった。  救援の藩士を急派するには、人を選び戦闘の組をつくり、統率者を任じ、作戦を打合わせて、一糸乱れぬ行動をとらねばならぬ。  しかも将軍家お膝許《ひざもと》の江戸府内で行動するには、公儀に届出て、その認可を得ぬと、騒擾《そうじよう》反乱と見做《みな》される恐れがある。大名と雖《いえど》も自儘《じまま》な軍事行動は厳にいましめられている。  しかも、時はすでに二刻《ふたとき》(約四時間)を過ぎ、本所二千五百五十坪の戦場は、どうみても勝敗が決していることは火を見るより明らかである。 「ご、ご家老……」  藩士の中に、声をふり絞る者があった。 「是非もない……」  色部は、その一言に万感の思いを伝えた。 「最早《もはや》残るは後始末のみ……夜明けを待って公儀に届出、藩士を本所に送る。その支度をせい」  言い捨てた色部は、足を止めて尋ねた。 「本所から駈《か》けつけた下郎とやらは、いずれにある」 「は……」  浜岡は、即座に答えた。 「御用部屋お庭先に控えさせております。早速御引見を……」 「うむ……」  用部屋へ急ぐ色部の後を、浜岡が付き従った。  色部は用部屋に入ると、障子を開け放って内庭に控えている中間姿の信兵衛を見下ろした。 「その方か、吉良屋敷から馳《は》せ来たり、急を告げたという下郎は」  信兵衛は、一瞬、怒りを感じた。  ——下郎か……どこまでも下郎扱いか。  無言で頷《うなず》く信兵衛を見つめた色部は、ふっと顔色を柔げ、言った。 「どうだ、当屋敷に参って、手厚くもてなして貰《もろ》うたか」  浜岡が、口を差しはさんだ。 「酒を与え、夜食を給し……濡《ぬ》れねずみのため、当家の中間|衣裳《いしよう》と着替えさせました」 「まだ、足らざる物があれば、遠慮なく申せ」 「いや……」  信兵衛は、仏頂面《ぶつちようづら》で言った。 「強いて言えば、当り前の侍の衣類を頂戴《ちようだい》致しとうござる……今宵《こよい》をもって吉良家は潰《つぶ》れましょう。もう二度と中間など務めることはない、と存じます」 「…………」  色部は、暫《しばら》く信兵衛の観察を続けるふうであった。 「そうだ、この月のはじめ、吉良家の小林平八郎から相談があった。赤穂浅野の大石の面体を見知る浪人者がある故、召抱えたい。後々役立つ侍と見た、と言うてな」 「ほう、そのような事がござりましたか」  浜岡は色部を見、信兵衛を見た。 「では、この者が……」 「さ、それは知らぬ。わしはこの際、大石の面体を確め得たとて何の役に立つかと言うて、その者の仕官を阻絶した。吉良家の守りは上杉が引受けておる。たとえ一人たりとも浪人づれをまじえることは、上杉家の面目が立たぬ……」  色部は、苦い笑みを浮べた。 「だが、わしより小林の方が眼が高かったようだ。恐らく吉良は人を選《え》りすぐり、当家に加勢を求めるため、度々使いを走らせたであろう。相手もまた、それに備えて手配りしたに相違ない。加えて夜中通行の儘《まま》ならぬ江戸の町々を抜けての走り使い……今もってこの者以外に当屋敷に辿り着いた者はない」  浜岡も、同感の意をこめて、深く頷いた。 「しかし……それが、かえって当上杉家に幸いしたと言える」  信兵衛は、思いもかけぬ色部の言葉に、顔色を変えた。 「それは……」 「当家の加勢が間に合う時刻に、使いが届いては困るのだ。ご当主の実父吉良様の大変と聞けば、ご公儀への憚《はばか》りがあろうと加勢を走らせねば上杉家の面目が立たぬ、だが江戸府内で騒擾《そうじよう》を起こせば、外様《とざま》大名に咎《とが》めあるは必定……軽くて減知、重ければ僻地《へきち》への国替は免れぬ」 「…………」  信兵衛も浜岡も、言葉を失って黙りこんだ。 「のう、下郎……家老職とは、かかる折に、かかることまで考えねば務まらぬ。まこと侍というのは、割りの合わぬ……そういうものなのだ」  色部は、用部屋の手文庫から小判を数枚取り出し、無雑作に袱紗《ふくさ》に包んで、庭の信兵衛に投げ与えた。 「名は聞くまい。下郎……その方は下郎としてここは振舞うてくれい。下郎が深夜、当家に駈け込み、訳のわからぬ事を喚《わめ》き散らしたが、真偽のほど定かならず、放逐した……」 「なるほど、夜が明けて後、身許確かな者の知らせを受けて、後始末に赴いた……と、なさるので……」  浜岡が、補足した。  信兵衛は、無言で袱紗包をとり、懐《ふところ》にねじこむと、軽く頭を下げ、立ち上がった。  色部と浜岡は、部屋に入ると障子を閉じた。それで信兵衛の関わりは終ったことになる。      十  信兵衛が上杉屋敷の通用門を出ると、まだ夜は黒々と続いていたが、東の空にうっすらと暁の色がただよっていた。  歩きはじめた信兵衛は、暗澹《あんたん》とした思いに閉されていた。  ——遂《つい》に、下郎で終った……。  吉良家もそうであったが、上杉家も、信兵衛を人扱いしようとしなかった。吉良家への奉公にはあえて望みをかけまいとした信兵衛であったが、それでもかすかな無念の思いがあった。  ——万が一、おれの急報で事態が急転回したら……。  そのようなばかげた夢がなかったら、あの苛烈《かれつ》な走りには到底堪えられなかったであろう。  ——それも、遂に空《むな》しく終った。  様々に乱れる想念の中でも、信兵衛は道を取り違えなかった。  信兵衛の住居、内神田は、江戸城をはさんだ真向うにある。道を東にとると日比谷《ひびや》御門があって、明け六ツまでは通行出来ない。  道を北にとった。お堀端の道はなだらかな登り坂である。サイカチ河岸と呼ばれる坂を登りつめると、江戸城半蔵門を右手に見るあたりから、道はほぼ平らになる。  長い登り坂が、胸を切なくさせた気味があったようだ。道が平らになると、信兵衛の胸中に、他を顧みるゆとりが生じた。  侍奉公の難しさ、辛《つら》さを思った。下郎は下郎並の、家老は家老並の辛苦があるものだ、と思う。  ふと、大石の事を思い浮べた。  ——とうとう、大石には会えなかった……。  大石が言う�囚《とら》われるな�の一言を思った。  吉良家も、上杉家も、体面と面目に囚われ続けていた。その囚われた念が、遂に高家四千三百石を潰《つい》えさせ、それを空しく見過す結果を招いた。  ——大石自身は、どうであろう……。  大石は、士道に囚われたために、前途に死が待つしかない暴挙に出た、という見方がある。  だが、信兵衛は、そう取らなかった。  ——大石は、主家を失った侍の行きつく道、浪人暮しの悲惨で望みのない日々を、よく知っていたのだ。  それが前提となった。歴とした侍の生活《くらし》に思いを断った大石は、一度しかない人の一生を、美しく終るという道を選んだに違いない。  過去の安泰な生活への未練を捨て、大義名分のためにいのちを捨てる……華麗な一生を思った。  それには、大石が掴《つか》みとった�天運�、�天恵�があった。公儀の非情な処断に対する復仇《ふつきゆう》、あえて赤穂浅野をおとしめた吉良、上杉への仕返し……その名分があった。  ——おれたちには、その深慮がなかった。  無いからこそ、浪人暮しにあえいだ末が、遂に�下郎�というさげすみの中に、身を置く結果となった……。  道は、九段坂の上にさしかかった。  ふと信兵衛は、上杉家で侍の身なりを貰うことを失念していたことに気付いた。  ——ままよ。もう身なりにこだわってもはじまらぬ。  と、思う。それに上杉家の中間|衣裳《いしよう》だから、辻《つじ》番所で見咎《みとが》められずに、ここまで辿りつけたのだ……。  九段坂で、夜が明けた。見はるかす神田一円の家並は、積雪に陽が映えて、みごとな景色であった。  ——そうだ。おれも囚われることをやめよう。  と、豁然《かつぜん》と胸中に思いが湧いた。  信兵衛が囚われ続けたものは、侍暮しへの未練であった。侍たる名分もなく、ただ恋々と四民の上に位する身分へのこだわりである。 「五年、十年のうちに、必ず天恵の日がくる。その天恵の日にめぐり合ったとき、過去に囚われるな。過去に囚われず新たな生きようを選べ」  信兵衛は、雪の降り積った坂道を、一歩一歩踏みしめ降りながら、その大石の言葉を反芻《はんすう》した。  道は真っ直ぐ、内神田——信兵衛の住む内神田に通じている。  だが、信兵衛は、道を左へ曲った。その道は牛込御門に通じている。牛込御門のその先は、小日向諏訪町が目と鼻の先である。  ——鳴海屋は、もう起きていようか。  信兵衛は、おのれの�天恵�を、はっきり意識していた。  記録によれば、討入当夜、吉良家の大変を上杉家に注進した者は、吉良屋敷近所に住居する豆腐屋と、吉良家足軽丸山清右衛門の両名で、いずれも明け六ツ後、両名ほとんど同時の到着であったという。 本書は一九九八年十二月、新潮文庫より刊行されました。 角川文庫『その日の吉良上野介』平成16年6月25日初版発行