TITLE : 八月十五日の開戦 本作品の全部または一部を無断で複製、転載、配信、送信したり、 ホームページ上に転載することを禁止します。また、本作品の内容 を無断で改変、改ざん等を行うことも禁止します。 本作品購入時にご承諾いただいた規約により、有償・無償にかかわ らず本作品を第三者に譲渡することはできません。 八月十五日の開戦 昭和十四年九月十五日  原田達《たつ》也《や》は、ふと、東方を振り返った。大《だい》興《こう》安《あん》嶺《れい》山脈のひとつ、太平嶺が小さな黒い影となって、満天の星空に沈んでいた。あの大興安嶺の彼方《かなた》、二千キロ先に、自分の暮らしがあった。  ——臆《おく》したわけではない。  原田は、膝《ひざ》丈《たけ》まである枯れかかった「竜の鬚《ひげ》」や「蘿《がが》いも」を足で払いながら呟《つぶや》いた。二千キロという数字に、実感がなかっただけである。  原田は寒気を感じて、闇《やみ》の中を歩き出した。昼間の暑さとは裏腹に、夜気はすでに冷たく、この草原の短い夏が終わったことを告げていた。気温はすでに零度に近かった。時折、甘い香りが鼻をくすぐった。「スルボ」の香りだった。可《か》憐《れん》な淡紫色の花をつけているはずだった。  寒気の中で歩みを続けると、十五メートル程離れたところで、一条の弱々しい黄色い光が輝いた。それに促されたように、四方から数条の光が伸びる。それぞれの光は揺らめきながら、原田に向かって集まり始めた。最後に、泥だらけの中尉の九八軍衣と、ゴーグルの付いた戦車帽が浮かび上がった。 「聴け!」  原田の押し殺した声が夜気を破った。弧を描くように集まった六名の男たちに、緊張が走った。 「これより、我が戦車第五連隊は、連隊主力をもって敵外《がい》蒙《もう》軍騎兵陣の突破を図る。我が第一中隊は、先《せん》鋒《ぽう》中隊としてハルハ河東岸のこの地点を目指す。右翼には第三中隊、左翼には第二中隊、後続には連隊本部が付く。なお、突破に成功したら、この地点で連隊本部を中心に円周防御を行う。各小隊長には敵陣突破後、指揮下各車の掌握に努めること。何か質問は?」  光の中のノモンハンの地図を、原田は指し示した。彼の声は微《かす》かに震えていた。寒さのせいではなかった。恐怖心からでもない。連隊の攻撃が成功するか否かは、自分の指揮にかかわっているからである。  中隊長が戦死し、先任小隊長である彼が指揮を執ることになったのは四日前だった。したがって戦闘で中隊の指揮を執るのは初めてである。本来なら、中隊長を失った部隊を先鋒には使わない。だが、戦車第五連隊指揮下の各中隊の損害は深刻で、上級指揮官の多くを失っている。 「では作戦発起五分前とする。各車暖機運転、かかれ!」  まだ、その顔に幼ささえ残る中島少尉も、手の中の懐中電灯を消した。大学の研究室にでもいそうな、痩《や》せたおとなしい風《ふう》貌《ぼう》には、軍人らしさがない。  各小隊長、各車長が、一斉に自分の戦車に向かって走ったのを見て、中島も駆け足で自分の戦車に戻ろうとした。しかし、彼は酷《ひど》く緊張し、身体《からだ》に力が入らなかった。中島は少尉になって半年。初陣ではないが、戦闘経験は皆無に等しい。  九七式中戦車の砲塔は、中島の身の丈よりも遥《はる》かに高い。普段ならいとも簡単に攀《よじ》登《のぼ》るのだが、中島はいつになく苦労して車長用展望塔に潜り込んだ。  車内は、眼を保護する赤色灯が点《とも》り、人いきれで仄《ほの》かに蒸し暑かった。育ちの良さそうな端整な中島の青白い顔も、赤色灯に浮かび上がった。 「始動。暖機運転」  中島が微かに震える声で告げると、ジーゼル・エンジンがくぐもった音を上げて身震いをした。  ——さすがに綿《わた》貫《ぬき》はいい腕をしている。  重大な故障でもない限り、野戦での戦車整備は各車の搭乗員が行う。万が一、戦闘中に戦車が動かなくなったら、即、命にかかわるため、整備には神経を遣う。中島の戦車の操縦手、綿貫靖《やす》夫《お》曹長は、中隊きっての整備の名人だった。整備中隊でもわからない不調を言い当てた。そして言うが早いか、自分でエンジンをばらし、直してしまう。中島の戦車だけでなく、中隊の戦車の整備は、綿貫に負うところが大きい。  戦車帽の無線プラグを繋《つな》ぐと、中島は砲塔から半身を突き出した。周囲はやはり暗かった。この闇は、中島少尉にとって有り難い。少しでも敵兵からの発見が遅れれば、照準が遅れれば、それだけこちらに有利になる。淡い希望かもしれないが、経験の浅い中島少尉でも、敵陣に到達すれば、勝機があることはわかっていた。  そもそも、このノモンハン事変は、満州国と外《そと》蒙《もう》古《こ》(モンゴル人民共和国)の国境線が、以前から不確定であったことに原因がある。目標のない大草原で国境を確定するのは困難であった。特にホロンバイル地方は問題であった。日満側は、大興安嶺より西北へ流れボイル湖に至るハルハ河を国境線としていたのに対し、外蒙古はそのハルハ河東岸を主張していた。  昭和十四年に入ると小競合いが続き、五月十三日、第二三師団の東支隊が航空支援の下、ハルハ河東岸に進出した。これが国境紛争の切っかけとなった。紛争が本格化すると関東軍は、第二三師団全兵力に加え、歩兵第二六連隊、第一戦車団(戦車第三、第四連隊を基幹とする安《やす》岡《おか》支隊)を第二飛行集団の支援の下で増派した。歩兵十三個大隊、対戦車火器百十二門、トラック四百輛《りよう》、戦車七十輛、航空機百八十機の大兵力だった。  しかしこの時点で、敵はソヴィエト軍だけでも歩兵三個師団、二個戦車旅団、三個機械化旅団を投入していた。関東軍はソヴィエト・外蒙古連合軍の兵力判断に大きな誤りを犯していたことになる。また、ソヴィエト軍が投入した戦車、T26、BT5、BT7は、火力・装甲とも日本軍の八九式乙型中戦車、九五式軽戦車を凌《りよう》駕《が》していた。配備が始まったばかりの新鋭九七式中戦車ですら、太刀打ちができなかった。九七式中戦車の五十七ミリ砲でも、敵戦車の装甲を貫通することはできない。一方、九七式中戦車の装甲は、敵戦車の四十五ミリ砲によって、いとも簡単に撃ち抜かれてしまう。大口径榴《りゆう》弾《だん》の至近弾ですら、装甲を止めているボルトが緩んだり脱落する有様だった。  七月一日に始まった日本軍の攻勢は、三日には挫《ざ》折《せつ》した。安岡支隊は四十輛の戦車を失い後退、第二三師団も戦闘力を喪失した。逆に八月二十日には、ソヴィエト軍の大攻勢が始まった。一転して戦闘は日本軍の守勢と変わった。二十三日、ソヴィエト軍はハルハ河東岸の日本軍各陣地を包囲し、各個に殲《せん》滅《めつ》した。日本軍陣地を占領後、ソヴィエト軍は攻撃を続行しなかった。彼等が主張する国境線付近で、一方的に進撃を停止したのだった。  戦車第五連隊が、このノモンハンの戦場に到着したのはソヴィエト軍が停止した直後の九月初めだった。一見して双方とも大規模な攻勢をかける状況ではなかったが、停戦は成立していないため、ソヴィエト軍も日本軍も強行偵察でお互いの出方を探っている状況だった。  当然、新着の戦車第五連隊は、ソヴィエト軍の知るところとなり、ソヴィエト軍の来襲と後退が繰り返された。ソヴィエト軍の重砲と戦車の連携攻撃は効果的で、数次の攻撃により損害は日を追うごとに深刻になってきていた。 「各々、前進」  午前三時であった。原田中隊長も砲塔に半身を出し、呟くように無線に向かって下令した。第一中隊残余七輛の九七式中戦車は、左右十五メートルの間隔を置き、一斉に前進を開始した。中島の戦車も中隊長車の左三十メートルを進み出した。キャタピラが軋《きし》み、車体は、起伏に合わせて不規則に、時に激しく揺れる。左翼を進んでいるはずの第二中隊は、中島の眼には見えなかった。  突然、一発の砲声と共に上空に真っ白な明りがきらめいた。作戦発起点から七百メートル前進した地点だった。この二日、ソヴィエト軍の砲声を聞いていなかっただけに、中島は一瞬、我を忘れて照明弾に眼を奪われた。そこに機銃弾が襲ってきた。赤い曳《えい》光《こう》弾が数条の射線となって、地を這《は》うように流れた。随伴歩兵に対する射撃なのか、低めに撃った弾丸は、車体に当たって跳弾となる。一発が空を切り、幸運にも中島の耳を掠《かす》めた。中島は慌てて砲塔内に身を隠すと、重い鉄のハッチを左手で閉めた。 「機銃座はどっちですか?」  赤色灯の点った車内では、通信士兼機銃手の田所上等兵が待ち構えていて叫んだ。 「すまん、見えなかった」  中島は照明弾に眼を奪われたことを後悔した。機銃の発射炎を見なかっただけでなく、暗闇で明るい物を見ただけに、視力がしばらく戻らない。田所は舌打ちすると辺り構わず射撃を開始した。 「前方に敵陣が見えます!」  今度は操縦手の綿貫曹長が落ち着き払った声で告げた。考えてみると、現在ではこの男が中隊では最古参である。  中島も素早く車長窓を覗《のぞ》き込む。視力はまだ完全ではなかったが、次々と上げられる照明弾のせいで、周囲は月夜ほどに皎《こう》々《こう》と照らし出されていた。明りの中で右翼の中隊長車が増速している。 「綿貫。増速だ。前進全速! 前方、距離三百五十。水平。榴弾、用意!」  中島は砲手の両《もろ》角《ずみ》伍《ご》長《ちよう》を見やった。大きく揺れる砲塔で踏ん張っていた両角は、すでに弾架から五十七ミリ砲弾を引き抜くと装《そう》填《てん》しようとしていた。 「装填!」  その間、中隊長車が五十七ミリ砲を発射したのに続いて、中隊各車が射撃を開始した。中島も遅れじと叫んだ。 「発射!」  轟《ごう》然《ぜん》と五十七ミリ砲が砲口から火炎を噴き出し、駐退後座器が下がった。両角が素早く閉鎖器を開けると、空《から》薬《やつ》莢《きよう》と共に白い燃焼ガスが噴出する。鋭い刺激臭が喉《のど》と眼を襲った。涙で、視野が滲《にじ》んだ。  ゴーグルをすればよかったと再び後悔するが、もはや構ってはいられない。 「続けて榴弾、用意!」  この時、戦車第五連隊の正面に布陣していたのは、ソヴィエト軍第七自動車化狙《そ》撃《げき》兵旅団だった。戦車第五連隊が前線に到着した時点から、この攻撃は予想されていたことで、旅団はパック・フロント(野戦陣地帯)を構築しつつあった。もっとも、戦車壕《ごう》、有刺鉄線、歩兵陣地、対戦車砲陣地を重ねる予定であった陣地は、まだ完全ではなかった。七層の陣地は四層までしか構築できていなかった。しかも、かねてから請求していた対戦車地雷は、この陣地には到着していない。  ニコライ・レミゾフ中尉は、その最前列の三十七ミリ対戦車砲三門を指揮して、迫り来る敵戦車を待ち構えていた。指揮所の掩《えん》蔽《ぺい》壕に置かれた砲隊鏡で、日本軍戦車の進撃を見入っていた。  レミゾフは、このノモンハン戦が、初めての戦闘だった。もともと、面倒見のいい男で、豪胆な性格も相《あい》俟《ま》って、部下からは好かれていた。前線に出て三ヵ月しか経っていなかったが、戦闘は苛《か》烈《れつ》で、すでに野戦指揮官の風貌が整いつつあった。加えて徐々にではあるが、部下の信頼を勝ち得ていた。 「敵は歩兵を随伴せず。戦車のみ」  との監視哨《しよう》からの報告に、レミゾフはにやりと薄笑いを浮かべた。  日本軍の戦車は装甲が薄い。三十七ミリ砲でも充分に貫通できる。さらに、戦車はその構造から、車体前面と砲塔正面以外は死角になる。随伴歩兵を伴わない戦車だけの攻撃は無謀である。  しかも、我が旅団はこの攻撃を予測し、対応策を準備していた。敵がこの陣地に殺到すれば、左翼に一一快速戦車旅団の二個戦車大隊と、一個自動車化狙撃兵大隊が出撃を準備していた。彼等は敵戦車連隊の後方を遮断し孤立させるはずである。そして仕上げは、味方重砲による砲撃である。戦車は上部装甲が最も弱い。垂直に近い落下角を持つ重砲弾は、孤立し包囲され動きの止まった戦車にとって致命的である。  敵が四百メートルまで接近した時、後方の味方重砲陣地から照明弾が上がった。周囲は白く照らし出され、楔《くさび》形の陣形で向かって来る日本軍の七輛の戦車が浮き上がった。左右両翼の歩兵陣地は射撃を開始した。 「距離三百まで引きつけろ! 直接照準でいく。一番砲は正面、二番砲は右翼、三番砲は左翼を狙《ねら》え!」  レミゾフは偽装網を施された対戦車陣地に蹲《うずくま》り、先頭の戦車を見据えて叫んだ。  敵戦車は増速すると、戦車砲の射撃を開始する。レミゾフの陣地の前面にも二つの火球が上がり、大量の土砂が降り注いだ。 「距離三百五十!」  観測班から報告が届く。敵戦車は、戦車壕のないレミゾフの陣地に真っ直ぐ突進して来る。  ——なぜ日本軍は重砲の支援も随伴歩兵もなしに突撃するんだ!  敵の第二斉射はやや後方に着弾した。レミゾフは、再び大量の土砂を被《かぶ》りながら、敵に対して哀れすら感じていた。 「距離三百!」 「撃て!」  レミゾフの声は、瞬く間に対戦車砲の発射音で掻《か》き消された。  第三射の砲弾を装填しようとした時、それまで沈黙していた正面の陣地から、三つの火炎が上がった。 「対戦車砲だ!」  綿貫曹長が叫んだ。同時に巨大なハンマーで前面装甲を叩《たた》かれたような激しい衝撃が襲った。  ——やられた!  と、思ったのは中島の勘違いであった。敵弾は五メートル先に着弾しただけだった。大量の土砂と砲弾の破片が、九七式中戦車の装甲に当たって鈍い音を立てた。だが、この幸運は中島の戦車だけだった。中隊長車は、初弾を前面装甲にもろに受けた。貫通した弾丸は車内で爆発し、搭載していた弾薬が一呼吸置いて誘爆した。砲塔は五メートルも上空に跳ね上がり、車体は火《ひ》達《だる》磨《ま》となった。中隊長車のすぐ右翼にいた戦車は、右下部に着弾し、キャタピラが切れ、転輪を弾《はじ》き飛ばされ、動かなくなった。 「くそ! 両角。次発装填急げ。田所。中隊無線に繋《つな》げ」  田所は機銃の銃把を放り出し、無線機にしがみついた。 「どうぞ!」 「これより中隊の指揮は、中島少尉が執る。我に続け!」  それでいて中島は不思議と冷静な自分に気付いていた。これまでの着弾を考慮し、中島は火炎が上がった敵陣を慎重に両角に指示した。 「装填!」  両角は自ら叫ぶと素早くペダルを踏んだ。轟音と共に、砲尾が退《さ》がった。 「次発装填! 各個に撃て!」  レミゾフは双眼鏡で着弾を確かめながら下令した。射撃はレミゾフの陣地だけではなかった。第七自動車化狙撃兵旅団の右翼も左翼も射撃を始めていた。激しい射撃音は、敵の攻撃が連隊規模である証《あか》しだった。  ——敵は指揮車を失った!  レミゾフは初弾で二輛《りよう》擱《かく》坐《ざ》させたことにほくそ笑んだ。一輛の砲塔には、指揮車を示す国旗が立っていた。  指揮下の各砲が第二斉射を放つのと、敵の第三斉射が着弾するのは、ほぼ同時だった。敵の照準は甘く、残された五輛のうち、四輛の弾着は大きく逸《そ》れた。しかし、残る一輛の弾着は不幸にも正確だった。右翼を守る三番砲陣地に着弾した敵弾は、三百二十八キロもある対戦車砲を軽々と跳ね飛ばし、兵員を肉片として四散させた。 「命中!」  機銃射撃を続けていた田所上等兵が叫んだ。その時、操縦手の綿貫曹長が、突如として進路を大きく左に振った。 「なんだ!」  と、叫ぼうとした瞬間、音を超越した衝撃が車体を包んだ。砲塔右側面に敵弾が当たったのだ。敵弾は円形の砲塔に弾かれ、十五メートル後方まで飛翔して炸《さく》裂《れつ》した。気が遠くなるのを堪《こら》え、中島は車内を見回した。 「大丈夫か!」  怒鳴ってはみたが、中島自身、耳鳴りがして自分の声すら聞こえなかった。綿貫曹長は、発射炎を見て咄《とつ》嗟《さ》に進路を変えたのだ。さもなかったら、砲塔正面に着弾し、中隊長車の二の舞だったに違いない。 「綿貫! ジグザグだ。真っ直ぐ走るな! 両角。次発装填!」  依然、耳鳴りはしたが、今度は綿貫にも両角にも聞こえた。 「あっ!」  下令後、照準眼鏡を覗き込んだ両角が叫んだ。 「照準眼鏡がやられました!」 「綿貫。前方の窪《くぼ》地《ち》に入れろ。あそこに停車して撃つ。両角。砲身を覗いて照準する。次発装填を待て」  中島は気付かなかったが、敵の第二射でさらに、味方の九七式中戦車一輛が擱坐していた。  これで残るは四輛である。後方の対戦車砲陣地も射撃に加わり、レミゾフはすでに勝利を確信していた。 「右翼のあの戦車を狙え! 手前の窪地に入るぞ!」  直接指揮を執る一番砲の照準手の肩をこづいて叫んだ。辺り一面は照明弾に照らされ、窪地が墨色に沈んでいる。照準手は必死でハンドルを廻《まわ》す。だが、敵戦車は巧妙にも不規則にジグザグに進んで照準を決めさせない。ウクライナ出身の志願兵である准尉は、照準ハンドルを必死に回す。松明《たいまつ》のように燃える敵戦車が残影になるのか、時折、照準器に押しつけていた右眼を擦《こす》っている。 「照準よし!」 「撃て!」  轟《ごう》音《おん》と共にマズル・ブラストが砲口からオレンジ色の炎の塊となって噴き出した。  騎兵出身の戦車兵が多い中、綿貫曹長は生え抜きの「馬を知らない戦車兵」だった。最初に入営した戦車第三連隊と、現在の戦車第五連隊の編成地、久《く》留《る》米《め》に程近い大善寺の農家の小作人の出で、六人兄弟の四男である。当然のことながら暮らしは苦しく、麦飯がご馳《ち》走《そう》だった。粗食のお陰で身長は伸びず、鰓《えら》が張った四角い顔立ちになった。腹一杯飯を喰《く》ったことなどないそんな綿貫にとって、三食の麦飯をあてがってくれる軍隊は、幸福な場所だった。  当時、戦車という兵科はまだできて間もなく、実験的側面が強かった。軍中央でもその価値に疑問符を付けるものが多かった。高価な兵器を扱うことで、一般兵科から妬《ねた》みや反感を買っていた。必然的に戦車連隊内の結束が高まり、新兵に対するいびりやいじめも少なかった。さらに、自動車ですらまだ珍しかった時代に、装甲に覆われた戦車は綿貫の眼には驚きであった。走行時の姿は威風堂々として、何物も寄せ付けない威圧感があった。また、何にもまして嬉《うれ》しかったのは、自分の足で歩かなくていいということだった。戦車に魅了されてしまった綿貫は、その良好な勤務態度から操縦手に指名され、憧《あこが》れの八九式中戦車を操ることとなる。綿貫は、巨大な戦車を意のままに操る面白さから、戦車操縦にのめり込んだ。満期除隊が迫ると、迷うことなく兵役を延長し、職業軍人の道を歩み始めた。  昭和十二年に戦車第五連隊が編成を開始され、綿貫は戦車第三連隊から転属した。しかしそこも、戦車連隊としての気風は変わらなかった。その頃には、エンジンにも興味を持ち始めていた。整備中隊に戦車を引き渡しても、自分の愛車を離れず、一緒になって整備していた。「好きこそものの上手なれ」で、いつしか連隊内でも、五本の指に数えられる名操縦手、名整備手に育っていた。  また、両角も田所も、戦車好きの男たちで、勤務成績は優秀だった。それぞれに専門意識が強く、綿貫に引けを取らない優秀な下士官だった。  陸士を出たばかりの中島少尉に、本来、中隊長車の乗員であった最優秀の綿貫、両角、田所を指名したのは、このノモンハン戦の四日前の戦闘で戦死した、内田中隊長の計らいだった。 「いいか、よく聴け。戦車はこれから陸戦の中核になる。そのためには優秀な将校がたくさん必要になる。中島少尉は、陸士出たてのボンボンだ。お坊ちゃん育ちで、ひ弱で頼りなさそうに見えるが、見所がある奴《やつ》だ。なんとかお前らで鍛え上げてくれ」  と、内田大尉は、牡《ぼ》丹《たん》江《こう》の兵営で三人に密《ひそ》かに頼んでいた。命がかかっている軍隊で、経験の浅い将校のお守りをするのは、けして嬉しい役割ではない。しかし、部隊では父親にも等しい中隊長の頼みとなると、話は別である。内田の言葉は遺言となり、綿貫らには、この中島少尉だけは守らなくてはという強い思いが根づいた。 「中島少尉! 中隊の残余は?」  綿貫は叫んだ。 「四輛だ。敵陣まであと二百。敵対戦車砲は二門!」 「連隊本部に報告!」  戦闘に呑《の》まれている中島に、綿貫は意見具申した。窪地に入って停止するまで中島は手が空いている。 「よし! 田所上等兵、連隊本部だ!」  このやり取りの間も、綿貫は数を数えていた。訓練が行き届いている砲兵は、射撃時間に斑《むら》がない。均等な間隔で射撃を行う。敵陣の砲兵が優秀なら、第一斉射と第二斉射の間隔とほぼ同じ間隔を置いて第三斉射を放つに違いない。 「連隊本部! こちら、第一中隊、中島少尉!」  と、叫んだその時、綿貫は右の操縦桿《かん》を思い切り引いた。九七式中戦車は右の無限軌道がいきなり反転し、大量の土砂を巻き上げながら急旋回した。同時に敵陣に蜜《み》柑《かん》色の火球が二つ浮き上がったかと思うと、中島小隊長車の二メートル左前方で砲弾が炸裂した。  衝撃は綿貫の予想を遥《はる》かに超えたもので、十五トンある九七式中戦車は、一瞬、跳ね上がった。 「うまいぞ、曹長! 今のうちに窪地に向かえ!」  砲塔の装甲板に、したたか頭を打ち付けた中島だったが、声はしっかりしていた。  レミゾフも照準手も驚きで言葉もなかった。距離は二百を切っている。眼の前だ。しかも敵は、右側面を晒《さら》して直進していた。敵の機動を、完全に見切った積もりの偏差射撃だった。  ——あの一輛だけで負けるかもしれん!  没落した帝政ロシア貴族の息子であるレミゾフにとって、赤軍入隊は復権のための手段だった。ハルハ河の出動は降って湧《わ》いた好機であり、これまでのところ、そこそこの戦功も上げられた。ここで死ぬわけにいかない、と思った途端、レミゾフはこのハルハ河東岸に出て初めて恐怖を覚えた。 「装《そう》填《てん》急げ! 急げ! 急げ!」  照準手の准尉が叫んだその時、日本軍戦車の機銃弾が雷雨のように降り注いだ。レミゾフの傍らに据え付けられていた砲隊鏡にも、六発の七・七ミリ機銃弾が命中し、粉々に吹き飛んだ。掩《えん》体《たい》指揮所壕《ごう》に蹲《うずくま》ると、もはや頭を上げることはできなかった。一番砲の掩体砲座を振り返ると、照準手の准尉がスローモーションのように二回転して倒れた。「照準手、戦死!」の声が、背後で炸裂した砲弾の音で掻《か》き消された。  あの戦車が窪地に入ってしまうと、恐らく砲塔しか見えなくなるだろう。射撃目標が小さくなり、命中弾を得ることは困難になる。そこから冷静に射撃されたら、掩体壕だけでトーチカのないこの陣地は、格好の標的になる。レミゾフは、左翼の二番掩体砲座を見た。 「くそ!」  あそこからでは射角が足りない。しかも一番練度が低い。 「一番砲! 急げ!」  しかし、レミゾフの声は機銃の発射音と着弾音で届かなかった。一番掩体砲座の中は完全な混乱状態に陥っていた。敵の車載機銃は三方から集中し、対戦車砲に当たる機銃弾は、雷雨がトタン屋根を叩《たた》くような金属音を上げている。 「装填!」  一番砲の三番砲手が叫んだ。交替の照準手が照準を決めようとしたのは、敵の戦車が窪地に入るところだった。 「撃て!」  激しい発射音と衝撃波を残し、三十七ミリ対戦車徹甲弾は放たれた。徹甲弾は低伸して地を這《は》うように飛《ひ》翔《しよう》したが、行き着く先に戦車はなかった。途端に、両翼に展開する歩兵がひるんだのが、レミゾフにはわかった。損害に構わず百五十メートルまで迫った敵戦車三輛《りよう》と、窪地に入った一輛が、彼等の恐怖を誘ったのだった。  ——まずい! どうするニコライ……。  あそこから、射撃されたら、防御陣地は制圧されたも同然だ。「撤退か……」と、弱気が頭を掠《かす》めた。  ——いや! 退《ひ》けん。ここで退いたら、国家反逆罪で階級を剥《はく》奪《だつ》され銃殺だ。全滅しても俺《おれ》は退けん!  レミゾフは腰のホルスターから拳《けん》銃《じゆう》を引き抜くと、撃鉄を起こし、立ち上がった。 「逃げるな! 逃げる奴は撃ち殺すぞ!」  だが、レミゾフの予想に反し、歩兵の恐慌状態は深刻だった。もはや、指揮官の声など誰の耳にも届いていなかった。歩兵は掩体壕を乗り越えて、レミゾフの方へ低い姿勢で走ろうとしていた。  重苦しい機銃の発射音と砲弾の炸《さく》裂《れつ》する音に混じって、甲高い銃声が三発続いた。 「早く自分の持ち場に這って戻れ!」  レミゾフは三人の遺体の前に仁王立ちになった。  田所が銃眼から見渡すと、味方の戦車は横一線に、敵陣百五十メートル付近まで肉薄していた。 「ちょい右、ちょい右、よし!」  中島は開放した尾栓から砲身を覗《のぞ》き込んで両角に命じた。両角は弾架から五十七ミリ砲榴《りゆう》弾《だん》を引き抜くと装填した。 「撃て!」  心地好《よ》い衝撃と共に、駐退後座器が後退した。 「敵歩兵陣に命中!」  綿貫が叫んだ。中島の戦車からでも敵陣まで百六十メートル余り。燃える戦車で皎《こう》々《こう》と照らされた敵陣は、視野の狭い覗き窓からでもはっきり見渡せ、銃眼からは数名の兵士が弾《はじ》き飛ばされるのが見えた。 「少尉! 連隊本部です」  田所が我に返ったように振り向いた。 「よし」  と、応じてレシーバーを繋《つな》ぐと、間髪入れず怒鳴り声が耳を突いた。 「状況は?」  若宮連隊長だ。戦闘中のようである。 「敵陣まで百二十メートルまで肉薄しました。敵対戦車砲は現在二門。若干の歩兵が展開しています。我が方の損害、大破三、小破一。あと一押しです。増援をお願いします」 「右翼で敵が攻勢に転じた。連隊本部は現在右翼の支えにかかっている。増援は送れない。自力で突破しろ。繰り返す。自力で突破するんだ! 通信終わり」  連隊長の声は切迫していた。予想外の展開である。こちらが攻勢に出たのを機に、敵は北西方向から包囲殲《せん》滅《めつ》しようとしているらしい。中島は無線機を中隊周波数に切り替えた。 「各々! 増援はない。何としても敵陣を突破せよ!」  同時に中島は、両角に手信号で照準を調整させた。最後に両角は、砲弾を薬室に挿入した。 「撃て!」  敵が百メートルにまで迫った時、二番掩体砲座の放った徹甲弾が、一番左翼の戦車の前面装甲を打ち抜いた。勢い余った砲弾はさらに後部を突き抜け、戦車後方で炸裂した。撃ち抜かれた戦車はしばらくタイヤから空気が抜けるような音を立てたかと思うと、爆発四散した。  右翼の窪《くぼ》地《ち》に入った戦車はこちらの陣地を一つ一つ正確に狙《ねら》い撃ちしていたが、向かってくる戦車は二輛に減った。 「正面のやつを冷静に狙え!」  レミゾフは一番掩体砲座に向かって叫んだが、心中は穏やかではなかった。左翼第一一快速戦車旅団の二個戦車大隊が、一個自動車化狙《そ》撃《げき》兵大隊を随伴して後方を遮断すると聞いてはいるが、まだ、作戦成功を知らせる野戦電話は鳴らない。  だが、一番掩体砲座も歩兵も恐慌状態は脱した。このままなら、守り切れるか……と、思ったその時、例の窪地の戦車が撃った砲弾がレミゾフのすぐ後方で炸裂した。掩体指揮所壕と一番掩体砲座の距離をとらなかったのは、レミゾフが直接一番砲を指揮したかったからに他ならない。  百六十メートルの距離で放った榴弾は一番砲の砲架に命中した。掩体砲座内に積み上げた砲弾がほぼ同時に誘爆し、大音響と共に掩体ごと吹き飛ばした。レミゾフが幸運だったのは、掩体指揮所壕から半身を外へ出していたため、爆風による圧死を免れたことだった。しかし、レミゾフは歩兵掩体壕まで飛ばされ、頭を強打し意識を失った。 「命中!」  綿貫が叫んだ。 「あと、一門だ。行くぞ! 綿貫。前へ!」  中島は応じた。最右翼の敵の砲座を窪地から狙うには、射線に味方の戦車が入る恐れがあったからである。  綿貫は待ってましたとばかりに、操縦桿を前に倒した。九七式中戦車は、唸《うな》りを上げて前方の瘤《こぶ》を登り始めた。  田所は夢中になって、機銃を乱射している。味方の二輛は、すでに敵の歩兵陣に突入しようとしている。 「急げ! 急げ! 遅れるな!」  中島は叫んだ。九七式中戦車は瘤を乗り越えると、三十八キロの全速を出して敵陣に突き進んだ。 「味方、突破します!」  田所が叫んだその瞬間、巨大な手が九七式中戦車を持ち上げたような錯覚がした。中島は、誰かが「地雷だ!」と、叫んだような気がした。戦車はそのまま右側面を下にして横倒しとなった。砲塔内で振り回され、遠のく意識の中で、中島は「くそ!」と、叫んだ。  中島が激痛で意識を取り戻したのは、翌朝だった。激しく動揺する六輪自動荷車の荷台の上だった。どうやって、戦場から助け出されたのか、同乗していた綿貫たちはどうなったのか、まったくわからなかった。荷台には負傷した兵士が満載され、轍《わだち》に沿って北に向かっていた。中島は、動かすことのできる右手で、自分の身体《からだ》を確認した。頭部の痛みには包帯が巻かれ、血が滲《にじ》んでいた。左腕と左足は骨折しているのか、荷台が振動する度に、激痛が走った。  六輪自動荷車は、一《いつ》旦《たん》、包帯所に到着し、軍医の手で負傷者の選別が行われた。比較的軽傷と判断された中島は、手当てもされず、再び六輪自動荷車に乗せられ、チチハルの野戦病院に送られた。  着いたチチハルの野戦病院は、各方面からの負傷兵で騒然としていた。入り口にも廊下にも、負傷した者が寝かされている。たまたま空いた寝台があったのか、中島は、将校専用の大部屋に運ばれた。移動に丸三日かかっただけに、寝台で寝られることは幸運だった。だが、扱いは最低だった。なぜか医師も看護兵も、故意に負傷兵とは言葉を交わさないようにしていた。  将校用の大部屋には、二十人ほどが寝かされていた。中島の寝台は入り口に最も近かった。その大部屋も外の廊下も、呻《うめ》き声が絶えることはなかった。数日間は、自分自身の痛みもあって、とても眠れなかった。  担当は鳥山という軍医中尉で、中島より少し年上に見えた。滅多には来なかったが、ある時、中島が見回りの鳥山を掴《つか》まえて、痛みを訴えたことがある。 「軽傷者に痛み止めはやれん。重傷者が多いんだ。痛いのは生きてる証拠だ。有り難く思え」  と、あっさり突き放された。だが、それは真実だった。中島の連隊でどれ程のものが生き残ったのか、彼はまだ知らない。ほとんどの者が生き残れなかったはずである。生きて助け出されただけでも、幸運であった。 「無駄だよ、少尉」  声をかけたのは左の寝台の小太りの男だった。壁に掛けてある軍衣からすると、大佐である。両足を失ったようで、四六時中、呻き声を殺していた。入院以来、中島はあまりに気の毒で、彼の寝台を見ることもできなかった。 「ここには、モルヒネもない。ほかの医薬品も不足している。助けられる者がどんどん死んでいくんだ。それに、俺たちはソ連軍に敗けたことで、員数外になった。俺たちは軍の厄介者なんだ」  大佐は、力なく言った。中島はただ驚くばかりだった。大佐は気がふれたのかとさえ思った。しかし、大佐の言ったことは事実だった。聞けば野砲第一三連隊の連隊長だという。名前は高原三《さん》蔵《ぞう》。ソヴィエト機械化部隊に包囲され、武器弾薬を使い尽くし、抵抗空しく、最後には蹂《じゆう》躙《りん》された連隊のひとつだった。 「君は?」 「戦車第五連隊第一中隊、中島厚《あつし》少尉であります」  尋ねたくせに高原は「そうか」と答えたまま黙ってしまった。  その後、中島と高原に取り立てた会話もなく日が過ぎていった。そして、鳥山軍医から中島に、ハルピンの陸軍病院への転院の話が出たのは、十月五日だった。部下の両角伍《ご》長《ちよう》が、あの戦闘で戦死したのを聞かされたのもこの時だった。  その日は高原に客が訪れた。陸軍参謀本部の若い粕《かす》谷《や》均《ひとし》という中佐だった。長靴には土くれ一つ、塵《ちり》一つの汚れもなく、軍衣にはプレスの跡がしっかりあった。細身で長身の中佐は、神経質そうに、軍衣の埃《ほこり》をしきりと気にしていた。 「野砲第一三連隊長、高原三蔵大佐はあなたか?」  そこには上官に対する敬意はなかった。中島は驚きの眼差しで粕谷中佐の背中を見つめた。 「いかにも」 「連隊の状況はあらかた聴いた。なにか、付け加えて言うべきことはあるか?」  挨《あい》拶《さつ》もなく粕谷は慇《いん》懃《ぎん》に尋ねた。とは、いうものの、その言葉には、何も言わせぬ気迫が漲《みなぎ》っていた。 「いや、連隊からの報告書に付け加えることはない」  高原は、天井を見詰めたまま、力なく答えた。 「そうか……」  中佐は持参した書類鞄《かばん》を開くと、革製の九四式拳《けん》銃《じゆう》嚢《のう》を取り出した。驚く中島の視野の隅に、傷一つない、真新しい拳銃嚢が印象的に映った。 「大佐のために用意した。後は言わんでもわかっていると思う」  粕谷中佐は一《いち》瞥《べつ》もくれず、立ち上がると去って行った。 「なぜだ」という思いが中島を支配した。ノモンハンは明らかに関東軍の失策である。現場指揮官の責任ではない。責任を問うのなら、それは関東軍中央に問うべきである。若い下っぱの少尉でもわかった。この処置は明らかに不条理である。だが、中島は高原に声をかける勇気がなかった。  翌日、高原はたっての希望で、軍医の私室を借りた。衛生兵が三人がかりで連れて行く時、寝台の周囲の高原の私物は、きちんと整理されていた。 「高原大佐殿……」  中島は勇気を振り絞って声をかけた。 「何も言うな!」  振り返った高原は、激しい語気で一喝した。  三十分後、チチハルの野戦病院に一発の乾いた銃声が鳴り響いた。  後で衛生兵に聞いたところでは、高原の九四式拳銃には、弾は一発しかなかったらしい。  傷が癒《い》え、原隊に復帰した中島を驚くべき事実が待ち受けていた。ノモンハンでの損耗率は少ない部隊でも三割、酷《ひど》い部隊では五割を超えていた。そして初期から戦闘に参加した第二三師団では、三人の連隊長が自決を強要され、関係した多くの高級将校が予備役に編入されていた。  ノモンハンで戦った各部隊同様、戦車第五連隊でも、生き残った者には箝《かん》口《こう》令《れい》が敷かれ、内地への旅行は禁じられていた。 「今後は手紙も検閲の対象になる。内容には充分注意するように。なお、部外の者には、ノモンハンのことを話さぬように」  新しく赴任した中隊長は、密《ひそ》かに中島に告げた。  そして、中島は知る由もないことだったが、大東亜戦争が始まると、ノモンハンで戦った部隊は、苛《か》烈《れつ》な戦場にばかり転出していった。また、関東軍内部では、ノモンハン経験者が転属して来ると、部隊が南方の危険な戦場に出されるといって忌み嫌われた。中島は、軍という巨大組織の員数外として、日々を過ごすことになった。  それから四年後の昭和十八年、牡丹江は重苦しく寒い年の暮れを迎えようとしていた。気温は日中でも氷点下十五度を下回り、連日、強い北風による地吹雪が、人口十万人の街を吹き抜けていた。大東亜戦争の敗色は、戦場から遠く離れた満州の地にも聞こえていて、在留日本人の心をさらに凍えさせていた。  七星街の夜市が店を畳む早朝、綿貫は東四条街との交差点に、三式外《がい》套《とう》の襟を立て、凍えながら立っていた。襟には真新しい准尉の階級章が光っていた。待ち合わせのためか、しきりに時計を気にしている。 「すいません。お待たせして……」  東四条街の南の角を曲がって声をかけたのは、若い日本人の女だった。身長は低く、小柄で華《きや》奢《しや》な身体を、小倉のコートで隠している。薄いスカーフを寒さ凌《しの》ぎに巻いているため、顔立ちははっきりわからなかったが、声は澄んで綺《き》麗《れい》だった。 「おお、もう来《こ》んかと思って心配しておった……。荷物は?」  綿貫は振り返って白い歯を見せた。 「これだけ。身軽な身の上だから……」  小さな革製のトランクを持ち上げると、女も眼だけで笑った。 「よし、それは俺《おれ》が持とう。貸しなさい、蘭《らん》さん」 「もう蘭とは呼ばない約束よ」  綿貫は「そうだったな」と、照れながら呟《つぶや》くとトランクを受け取った。 「急ごう。満鉄の始発がもう出る」  女は綿貫に促されて、北へ向かって歩き出した。地吹雪は容赦なく二人の顔に打ち付け、二人は二キロの道程を歯を食いしばって寒さに耐えた。  牡丹江は、牡丹江省の省都として高《こう》粱《りやん》や大豆、牛や豚の集積地となっている。その中心は駅で、ハルピン方面へ輸送するため、積み替え作業が早朝から頻繁に行われる。綿貫たちが駅に着いた時、遠くの貨物ホームには苦力《クーリー》たちの活気があったが、改札の満鉄の駅員以外、待合室に人影はなかった。 「切符を買って来る。荷物を持って、ここで待っていなさい」  作り付けのベンチにトランクを置いたその時、綿貫は背後に人の気配を感じた。 「あきまへんがな。軍人さんがそないなことしては……」  どすの利いた関西弁だった。綿貫が振り返ると、中国服を着て、痩《や》せた狐顔の男が上半身を揺すりながら、野卑な笑いを浮かべている。 「貴様が高崎宗《そう》太《た》か?」 「ほおっ。あての名前をご存じでっか? なら話は早ようおます。まずは蘭を返してもらいまひょ。ご存じの通り蘭はわての色やってな……。あんさんの落とし前はそれからや」  細長く三白眼の瞳《ひとみ》がぎらりと光った。明らかに、場慣れした眼光だった。恐らく殺しの経験がある。 「返さん。貴様にだけは返すわけにはいかん」  綿貫は高崎との間合いを慎重に計った。 「困りまんな。それではあての立場がのうなる。蘭にはバンスもありますさかい……」  高崎の顔から笑いが消えた。 「金なら払う。バンスは俺が肩代わりする。それで手を打たんか」  空気は張り詰め、緊張は極限に達していた。十メートルほど離れた改札で、満鉄の駅員が息をひそめて見ている。 「わからんお人や。ほな、わかりやすくしまひょ」  高崎は懐から黒い塊を出すと、綿貫に向けた。モーゼル自動拳銃である。すでに撃鉄は起きていた。だが、高崎は脅しの積もりなのか、引き金に指をかけていない。  ——しめた!  綿貫は心の中で叫ぶと、反射的に腰の軍刀に触れた。  一《いつ》閃《せん》だった。瞬きの間に勝負はついた。綿貫が軍刀を振り下ろして、一呼吸後、高崎の右手から鮮血が噴き出した。モーゼル自動拳銃が大きな音を立てて、大理石の床に転がった。  中島が牡丹江の警察に着いたのは、午後三時頃だった。取調室で三十分ほど待たされた。薄汚れた取調室に飽きた頃、うなだれた綿貫が、年老いた柳《やな》井《い》という担当刑事に付き添われて入って来た。 「どうも、お手間をかけます」  と、中島は刑事をねぎらうと、直立する綿貫を見やった。 「准尉! 貴様という奴《やつ》は、なんてことをしでかしたんだ!」  まずは一喝した。元四国丸亀藩の下級武士であった家に生まれた中島は、人一倍責任感が強い。まして中尉に進級した彼は、綿貫のこの事件をひどく重大に受けとめていた。 「いやはや、綿貫准尉は見事な腕ですな。相手の高崎は、手首の腱《けん》を切られていました。居合いであれは相当なもんです」  老刑事は自分の煙草にマッチで火を点《とも》した。場を和ませるつもりなのか、声は明るい。  だが、その居合いを教えたのも中島であった。父祖の代よりの抜刀流であった。それを使われたことで、被害者だけでなく、先年亡くなった父に対しても申し訳なく感じていた。 「被害者は、どうしています?」  中島は深刻な表情を崩さず、柳井に向いた。柳井は粗末な丸椅《い》子《す》に腰かけていた。 「中尉さん。警察としては、あれは被害者とは考えていません。先に拳銃を突き付けたのを、満鉄職員も見ています。手当てを済ませ、留置所に放り込んでいます」  彫りの深い柳井の顔は、にやりと笑った。 「しかし、怪《け》我《が》を負わせたことは事実ですから……」  中島は申し訳なさそうに呟いた。 「確かに、あの男が堅気なら、問題がないわけではありません。私も憲兵隊に連絡します。綿貫准尉も軍法会議でしょう。憲兵隊に引き渡さず、先に連隊に電話したのは、あの高崎に問題があるからなんです。叩《たた》けば埃《ほこり》が出るようです。内地で何かやらかしたんですな。恐らく……」  内地で事件を起こしたやくざ者が、満州でほとぼりを冷ますのは珍しいことではない。柳井は、どうやらこの件を糸口に、何か考えているようだった。 「では、いかようにしたらよろしいのでしょうか?」  中島は、自分の座る丸椅子から身を乗り出して尋ねた。 「そうですな。万が一のこともありますから、示談の形式を取った方がいいと思います。病院の実費を払ってください。以後、手が不自由になる件は、私が因果を含めます」 「けっこうです。お支払いしましょう」 「問題は……」  柳井は言葉を濁した。 「何です。この際です。何でも言ってください」  中島は真剣に詰め寄った。 「いえ。大したことはないんです。ただ、これは本官の介入すべき問題ではないんですが、この綿貫准尉が連れ出そうとした女のことです。本名は大谷菊代と言います。川崎の出身だそうです。市内の『ライラック』というカフェの女給をしていました。高崎の言う通り、バンスがあるようですね。本来なら女の問題ですが、話を聞いてみると二人は惚《ほ》れ合っているようなんです……」  中島は考え込んだ。そもそも、昭和十五年に戦車第一一連隊の編成が始まり、中尉に進級した中島と、准尉に進級した綿貫は、転属となった。編成地は東安省斐徳だった。編成間もない頃は訓練に追われ、休む暇もなかったが、今年の初めから綿貫は外泊が多くなった。噂《うわさ》で牡丹江に女がいるとは聞いていた。しかし、それがやくざ絡みのバンスを抱えた女給となると、考えざるを得ない。 「あっ、いや。その大谷菊代は、いわゆる訳ありの女とは違うようなんです。内地で父親が病気になって、店に借金しようと思ったのですが保証人がいない。それを聞きつけた高崎が、勝手に保証人になったというわけで、大谷菊代も後でそのことを知ったというような事情らしい。高崎はそれをネタに、情婦になれと強要したようなんです」  柳井は慌てて説明した。なぜか夢中で説明し、手の煙草から灰がぽとりと落ちた。 「しかし、バンスはバンスです。店への借金ですから……。一体、幾らなんですか?」 「百円と聞いています」 「百円といったら、ほぼ自分の給料ですな……」  中島は再び思案した。金額の問題だけではない。その娘の先行きのこともある。柳井は好意的かもしれないが、それも鵜《う》呑《の》みにはできない。 「その金、自分が出します!」  初めて綿貫が顔を上げ、直立不動のまま口を開いた。 「馬鹿もん! その後のことはどうするんだ。娘をいまさら『ライラック』とかいうカフェの女給には戻せんだろう。どうやって方便《たつき》を立てるかも決まっていないんだぞ。お前に金を返す手段がない」 「いえ。返さなくてもいいんです。蘭……いえ、大谷菊代が、本心から自分の女房になると言っているんです。腹には自分の子もいます」  余りのことに中島は惚《ほう》けてしまった。開《あ》いた口が塞《ふさ》がらないとはこのことである。 「だから、言ったでしょう。二人は惚れ合っているって……」  柳井は大声で笑った。 「女に会わせてください。何としても本心が聴きたい。金のために無理矢理結婚させるわけにはいきません」  中島は喰《く》い下がった。金のことだけではない。綿貫はまだ知らないが、戦車第一一連隊には、近々、動員令が発せられることになっている。戦地に出るのである。いまの戦局なら、生きて帰ることは考え難い。  綿貫靖夫と大谷菊代の結婚式は、年が明けた一月七日に、部隊の駐屯地でもある東安省斐徳で行われた。  駅前の小さな中華料理屋「桃花林」を借り切った。媒酌人には戦車第一一連隊、連隊長の池島大佐夫妻が立った。綿貫は礼装が間に合わず、軍装だけで、菊代も打《うち》掛《かけ》がなく、普段着の着物姿だった。部隊にいた神主の息子に、俄《にわ》か神主をさせ、三三九度が執り行われた。当然、菊代の両親も綿貫の両親もいなかった。だが、宴は実に盛り上がった。牡丹江駅での大立回りと、菊代の腹の中の子。話題には事欠かなかった。  その中で中島は、瓜子児《クワズウ》を摘《つま》みながら一人塞ぎ込んでいた。一月一日、すでに連隊には動員の内示が下りていた。戦時編成後、二月十日を以て、移動を開始する。行く先はどうやら北千島らしい。ノモンハン以降、関係各部隊の将兵は、内地への旅行を禁止されていた。ノモンハン惨敗の事実が内地に漏れるのを防止するのが目的だった。詰まるところ、我々は軍にとって員数外と考えられている。当然、今回の出動は、捨て石の要素が強い。 「中島中尉さん。祝いの席だ。飲みましょう」  と、声をかけたのはあの柳井という刑事だった。柳井は今日まで、二人のためにいろいろと世話を焼いてきた。聞けば柳井にも娘がいたらしい。生きていれば菊代と同じ歳だという。子供の頃にジフテリアにかかって死んだそうである。 「あんたが、綿貫を生きて戦場から連れ戻してやればいいじゃないか」  柳井は拳《こぶし》で中島の胸を叩いた。「桃花林」の笑い声は、その日遅くまで続いた。中島の胸の痛みは、いつまでも鈍く残っていた。 昭和二十年六月二十一日  初夏とはいえ、モスクワでも六月の後半になると、気温は摂氏三十度を超える日が増える。街は乾燥して埃《ほこり》っぽく、風はあまり吹くことはない。黄砂のような土埃は、街路のそこかしこに積もっている。そんな日のモスクワ市民は、日中はあまり出歩かないが、子供は涼を求めて、下着姿で噴水や公園の池で水遊びに興じている。  川《かわ》西《にし》卓《たく》郎《ろう》は、しばらくソコーリニキ公園の噴水で遊ぶ子供たちを見詰めていた。子供たちの表情は明るく、屈託のない笑い声が昼近くの公園に響いている。  しかし、川西の表情は険しい。  ——鬱《うつ》陶《とう》しいものだ。  尾行がいるのである。それぞれは関係ない素振りをしているが、一人は十五メートル後方のベンチで新聞を読む振りをしている。もう一人は散歩の振りをして一《いつ》旦《たん》通り過ぎると、二十メートル先の立ち木の陰で様子を窺《うかが》っている。  ——うんざりだな……。  川西は、再び歩き始めて溜《た》め息をついた。尾行というよりはむしろ嫌がらせである。それは川西が、単に共同通信の現地駐在記者であるからではなく、情報機関員ではないかという疑惑を持たれているからである。  報道機関の現地駐在員が情報員であることは、世界的には決して珍しいことではない。報道関係者は一般人に比べて、旅行など行動の自由が広く認められる。しかも、疑惑を抱かれることなく、多角的な情報を探ることができるからだ。  したがって、川西は一年半前のモスクワ赴任時点から、国家保安人民委員部(NKGB)の監視を受けていた。川西には記者歴もそこそこあり、共同通信記者の定例交替であったため、電話の盗聴以外は時折さりげない尾行が付く程度だった。川西自身、海外勤務は三度目で、ある意味でそういった防《ぼう》諜《ちよう》機関の対応には慣れていた。  それが、四月五日のモロトフ外相と駐ソ大使佐《さ》田《た》尚《なお》武《たけ》の会談を契機に、がらりと変わった。  日ソ中立条約の廃棄を一方的に通告してきたのである。  それ以降、川西は、外務省をはじめとするあらゆる政府機関への取材活動と、ソヴィエト国内の旅行を厳しく制限された。加えて、常時、わざとらしく監視されるようになった。おそらく、NKGBは、川西をさほど重要ではないと判断した結果であろう。  川西にとって、NKGBのその判断は有り難いのだが、常時あからさまの尾行には困惑した。というのも、実のところを言えば、川西の所属は陸軍であったからである。しかも、ソヴィエトの非公式情報を収集する任務についていた。直属上官は大本営陸軍部第六部第五課の重《しげ》森《もり》中佐である。当面の任務は、日ソ中立条約の廃棄を表明したソヴィエト側の真意を探ることにあった。  条約の規定では、破棄後一年間は有効とされている。だが条約廃棄は、取りも直さずソヴィエトの準敵国化である。しかし、当時の日本政府ならびに大本営は、ソヴィエトの準敵国化を何としても阻止したかった。それどころか、大東亜戦争の終結工作を、ソヴィエトの仲介で行いたいという期待すら抱いていた。川西の情報収集は、この可能性を探るという重大任務を含んでいた。  ——さて、どうするかな……。  川西は思案した。このままでは郵便受けに近付くことができない。川西は拳《けん》銃《じゆう》を振り回すような諜報員ではない。そのような諜報員は小説や映画の世界だけである。川西の任務は、前任者が獲得した三名のソヴィエト政府の内部情報提供者を管理することにある。具体的には、通常の連絡や情報の提供、報酬の支払いである。川西はどのような場合でも情報提供者と会うことはない。いかに外国報道特派員といえども、特定の人物との接触は目立つ。しかも、防諜機関の中でも、NKGBは優秀と言える。古典的な方法であるが、川西と情報提供者の品物の受け渡しは、あらかじめ決められた場所を使うことになっている。ホテルのトイレの貯水槽や、図書館の決められた本の間、レストランの裏手のごみ置き場の陰などが利用された。そういった郵便受けに、何かが投函された場合、決められた所に小石を置いたり、チョークで印を付けたりして知らされる。一見して何処《どこ》にでもある子供の悪戯《いたずら》に見えるし、どちらかが逮捕され、郵便受けが知られた場合、もう一方が罠《わな》に嵌《は》まらないための予防措置でもある。  川西がシロコゴーロフ赤軍少佐と決めていた郵便受けは、ソコーリニキ公園の一本の立ち木にできた虫食いの窪《くぼ》みだった。ソコーリニキ公園の入り口の一つ、礎石の脇《わき》には小石が二つ並んで置かれていた。小石二つは緊急を示す。それだけに、ある程度危険を冒しても、何とか郵便受けに近付きたかった。  方法は二つある。一つはホテルかレストランに入り電話か警報器で消防車を呼ぶ。混乱に乗じて尾行を撒《ま》く手だった。尾行を撒く点ではかなり確実性が高いが、川西自身に疑惑が生じ、逮捕される危険が高い。もう一つは、トロリー・バスや地下鉄などの公共交通機関を、何回か乗り継いで尾行を撒く手だ。これは自然であるが、確実性が薄い。しかも、川西自身に疑惑がかからないようにするには、行く先が必要となる。  ——トルストイ博物館がいい。  トルストイ博物館は市の反対側だから好都合だし、いかにも新聞記者が立ち回りそうな場所である。  川西は電話を求めて、公園を出ると北西一キロほどのところにあるコスモス・ホテルに向かった。  ゲルツェン通りの日本大使館も、この四月からNKGBの厳しい監視下に置かれていた。大使館の機能を果たそうにも、電話は盗聴され、表口と裏口は向かいの家から二十四時間の監視を受け、路上にはNKGBの車輛が待機していた。ソヴィエト外務省とも最低限の業務以外の接触は拒絶され、情報の入手はもちろん、通常の交流業務も困難となっていた。機能を停止したような大使館の電話が鳴ったのは、大使が早めの昼食を終えた頃だった。  川西の電話は、佐田尚武駐ソ大使の部屋に直接繋《つな》げられた。大使館の電話が盗聴されていることは確実なため、川西は通常の会話に、あらかじめ決められた使い捨て暗号帳の符丁を取り混ぜて話した。電話が五分ほどで終わると、佐田はすぐに主だった大使館員を招集した。 「速やかに手空きの大使館員を総動員してもらいたい」  佐田は集まった大使館員に、手短な説明とともに簡潔な指示を与えた。 「川西君の情報が、重要度の高い情報だと有り難いのですが……。それにうちの人間でできるでしょうか?」  松本康隆一等書記官は心配顔だ。現状で大使館員が諜報活動容疑で逮捕されれば、その者の安全は保障できないほど、日ソ関係は冷え込んでいる。 「政府や大本営は、いまだソヴィエトの和平仲介に期待しています。国際社会の現状がいかに厳しいか、我々、在外公館筋が伝えても、耳を貸してはくれません。我々とすると可能な限り確度の高い情報を一つでも収集し、政府に状況認識を促すしかないのです。最《も》早《はや》、日本が立つか立たぬかの瀬戸際まできています。四の五の言う場合ではない」  駐在陸軍武官の森本孝《たか》則《のり》少将は冷徹に突き放した。 「この件がソ連側に露見すれば、最悪の場合、大使館の閉鎖さえ考えられます。万に一つもそのようなことになれば、日本は、連合国側唯一の在外公館を失うことになります。国家戦略的に見ても、危険を冒すことは得策ではないと思います」  慎重な根本直《なお》行《ゆき》二等書記官は、松本に同調した。 「大使館があれば、日本がどうなってもいいと言うのか、君は!」  森本に火がついた。情報収集が破《は》綻《たん》を始めた今年の四月から、文官・武官の間で、情報の収集とその取り扱いについては、対立が続いていた。 「たとえ、些細な情報であろうと、私がやると言った以上、やります! 議論は無用にしていただきたい。日本人大使館職員は速やかに準備にかかってください」  佐田はこの三ヵ月の不満を叩《たた》き付けるかのように、怒鳴りつけた。  約三十分後、大使館下級職員が十数名、二、三人の組になって三々五々外出して行った。川西が佐田大使に提案した作戦は至極単純で、それぞれの組は、適当な場所で一人ずつに分かれ、あらかじめ与えられた目的地に向かった。もちろん、川西の身代わりにトルストイ博物館で取材を行う者もその中に含まれていた。幸いなことに、ロシア人の眼には、東洋人の顔は判別し難いらしい。NKGBも、突然、十数組の尾行者を用意することは困難であると読んだのである。佐田はその作戦の単純さに惚《ほ》れ込んでいた。  ——あとは、川西君がさりげなく尾行を撒いてくれることを祈るだけだ。  ソヴィエトNKGBの本部は、クレムリンに程近い、ジェルジンスキー広場にある。荘厳な外見を持つ、ロココ様式の七階建ての建物の最上階に、フセボロド・ニコラエビッチ・メルクーロフのオフィスがあった。メルクーロフは、上部組織である内務省人民部長官、ラブレンチー・パブロビッチ・ベリアの腹心である。内務省人民部が警察行政、秘密警察、民事を担当するのに対し、NKGBは対情報工作、国境警備、矯正労働所管理、ゲリラ工作、対独地下活動の全責任を担っていた。  対独戦が終わったいま、メルクーロフの仕事は、順調ではあったが煩雑を極めていた。膨大なドイツ軍捕虜の管理という仕事と、対日参戦を前に、対満州工作という仕事が重くのしかかっていた。オーバー・ワークが続き、疲労は極限にあった。退庁時間が近付き、今週もあとは二日を残すばかりと、自分を励ましていた。  そのメルクーロフを激怒させたのは、アバクーモフだった。アバクーモフは、首都モスクワにおける防諜活動の責任者である。 「なぜだ!」  メルクーロフは執務室の扉越しに、廊下に聞こえるほどの声を張り上げた。 「十数名の大使館員が集中して十分から十五分の間に外出し、それぞれが八方に向かいました。監視要員からの報告で、急《きゆう》遽《きよ》、人員を派遣しましたが間に合わず……申し訳ありません」  アバクーモフの報告を聴くメルクーロフは、もはや怒りを収めていた。日本大使館が、珍しく情報工作を行おうとしていることは、最早疑いようはない。  ——こんな役立たずに怒っても始まらん!  メルクーロフは考えた。問題は身の保身である。このモスクワで最も重要なのは、出世よりも生き残ることである。その点で言うと、上司であるベリアは最悪の人物である。  ベリアは、悪名高きチェーカー(秘密警察)出身の生え抜きの諜報官僚で、スターリンのお気に入りでもあった。しかも、彼はそのコネを十二分に生かし、政界での権力をも徐々に掌握しつつあった。権力抗争に敗れ、メキシコに亡命したトロツキーを追跡し暗殺したのも彼だった。高名なベリアは管理に関しても冷酷・非情だった。一九三四年から三八年までの四年間に大粛清と称して虐殺した人間は一千万人と言われる。その多くが投獄され射殺された現場、ルビヤンカ刑務所は、内務省人民部とNKGBがある、このロココ様式の七階建ての建物の裏にある。  ——問題は日本大使館がどんな情報を手にするかだ。  メルクーロフはアバクーモフの存在など忘れて考え込んだ。 「内務省人民部に報告致しますか?」  アバクーモフはその場の雰囲気に負けて、恐ろしい失言を犯した。 「いや、いい。私もついかっとなっただけだ。気にすることはない。この件はわすれてかまわん」  メルクーロフはできるだけ優しい声で言って聞かせた。 「とにかく、君はよくやっている。今日はもう帰って構わん」  アバクーモフは愚かにも、理解ある上司ににこやかに挙手の礼をすると退室した。メルクーロフはその後ろ姿を見詰め、一つの結論に達した。  ——やはりあいつは排除しないと、私の身の潰《つい》えとなるな……。  川西が大使館に現れたのは、午後七時を回っていた。緯度の高いモスクワでは夕暮れが九時頃のため、周囲はまだ昼間の様相である。当然、記者である川西が、この時間に大使館を訪れても何の不思議もなかった。これまでにも何度か、もっと遅い時間に訪れたこともあった。ソヴィエト政府から取材ができない川西が、大使館にやって来るのも自然であった。  川西が持ち込んだシロコゴーロフ赤軍少佐からの情報は、完全な暗号メモとなっていた。その暗号解読は、情報源秘匿の意味で、川西自身が一時間かけて行った。暗号はブックという手法のもので、情報提供者と管理者が共通の本を持ち、提供者はどのページの何行目の左から何番目の単語かを連続した数字で記載する。この暗号方式は使用頻度の高い単語でも共通の数字にならないため、鍵《かぎ》となる共通の本がなければ解読できない。反面必要な言葉がなく、表現が遠回しになる欠点がある。シロコゴーロフの場合は、一九四二年発行のトゥルゲーネフの『貴族の巣』が用いられている。したがって、解読した文面はロシア語となり、翻訳が必要だった。案の定、今回も遠回しの表現が随所にあり、慎重に翻訳したこともあって、作業が終了したのは九時を回っていた。 「よわったな……」  川西と佐田大使、松本一等書記官、森本駐在陸軍武官、根本二等書記官が顔を揃《そろ》え、異口同音に溜《た》め息をついた。 「果たして、これを送って、東京は信じてくれますかね?」  根本が長い沈黙に終止符を打った。 「無理だな。少なくとも大本営は信じない。いや、信じたくない」  森本が弱々しく答えた。 「いや、何としても信じてもらわなくてはなりません。何か手はないですか?」  川西は懇願するような視線を佐田に向けた。しかし、佐田は口を噤《つぐ》んだままである。 「この情報の確度は?」  松本が尋ねた。川西は文面に視線を落とし、考え込みながら応じた。 「情報源は、赤軍参謀本部所属の、現政権に不満を持つ白系ユダヤ人です。前任者から引き継いだ情報源ですが、これまでの情報の重要性・的確性は、折り紙付きです」 「しかし、階級は少佐だろう? 情報の重要性からすると裏付けには階級が低すぎる。どうしてこんな重大情報に接することができたか、説明がつかない。ソヴィエト側の情報工作という疑惑は残る」  松本が身を乗り出し畳みかけた。 「ソヴィエト政府の反ユダヤ人政策をご存じないのですか? それに彼は参謀本部要員ですよ。さらに付け加えれば、八月開戦まで、あと一ヵ月半しかない。赤軍参謀本部では処理しなくてはならない問題が山ほどある。参謀本部の末端でも、今からでは時間が足りないくらいです」  川西は松本の楽観主義に苛《いら》立《だ》ちを露《あらわ》にした。 「何か手はないですか、大使?」 「松岡さん……」  虚《うつ》ろな瞳《ひとみ》の佐田の口から、小さな声が漏れた。一同は顔を見合わせる。 「松岡さんにもこれを送ってみるか……」 「松岡さんと言いますと?」  根本が怪《け》訝《げん》そうに尋ねた。 「松岡洋《よう》右《すけ》さんだ。あの人は当代きっての国際派だし、何と言っても日ソ中立条約の時の外務大臣だ。あの条約は、あの人一人でソヴィエト政府とかけ合ったようなものだ。政界でも、あの人以上のソヴィエト通はいない。これは周知の事実だ」  佐田は瞳に力を取り戻した。 「でも、あの人は確か病が元で引退同然だと聞いていますが……」  川西は不安を示した。 「それは私も聞きました。確か肺病か何かだったと思います。そんな人に何ができます?」  松本が尋ねた。 「わからん。しかし、松岡さんにできないことが、他の者にできるとは思えん。事態は急を要します。すぐに暗号課の職員を集めてください」  佐田は急《せ》かすように言った。  ——国家が崩壊する……。  額には冷たい汗が止めどもなく噴き出し、心の中では、その言葉が何度も繰り返し響いていた。 昭和二十年七月一日  沼津の駅頭に、『沼津軒』という食堂がある。開戦前は、駅弁の製造元も兼ね繁盛したが、食糧の配給制が始まると駅弁の営業は中止となり、食材の入手も困難になった。外食券食堂としても、精々二品しか用意できず、しかも、店の男手は次々と召集された。主は店を閉めることさえ考えた。だが、沼津は皇室の御用邸をはじめ、明治の元勲や政府要人の別荘もあり、その関係での特配があったため、細々と営業を続けていた。  その店に長身の男が入って来たのは、夕刻だった。入《いり》相《あい》の鐘が遠くに響き、あちこちがひび割れた傍らの擦りガラスの窓からは、茜《あかね》色の力を失った光が差していた。 「久し振りだな」  煤《すす》けて薄汚れた沼津軒の隅のテーブルで、小一時間前から座っていた人待ち風の男が声をかけた。鉈《なた》で荒々しく刻んだような彫りの深い顔と、射るような眼光からは、強い意志が感じられた。大柄でがっちりとしているが、顔色は悪く、疲れを滲ませていた。黙って座り続けていたため、店の主は些《いささ》か恐れを抱いていた。 「ほんとうにお久し振りです」 「変わりないか?」  大柄の男は、相手が向かい合わせの席に着くと眼光鋭く尋ねた。明らかに寸法の合わない皺の寄った国民服を着て、少し窮屈そうに身《み》動《じろ》いでいる。二人の周囲には、えもいわれぬ緊張感が漂っていた。 「いろいろありましたが、まあうまくいっています」  長身の男の顔からは、すでに笑顔が消えていた。洒《しや》落《れ》者《もの》なのか仕立てのいい黒の背広に灰色のシャツ、薄墨色のネクタイをしたその男は言葉を選ぶように答えた。 「しかし、内地は随分やられましたな……」  黒い背広の男は声を潜めた。 「ああ、この沼津も街半分が大空襲でやられ、残った三分の一も艦砲射撃で焼かれた」  国民服の男は沈《ちん》鬱《うつ》そうに言った。事実、駅頭に立つと、焼《しよう》夷《い》弾で焼かれた瓦《が》礫《れき》の隙《すき》間《ま》を道が縦横に走り、沼津を知っている者には、これ程街が広かったかと驚かされる。 「何になさいます?」  年老いた店の主が、黒い背広の男にやっと気付いて声をかけた。 「檜《ひ》山《やま》さん、あなたは何を……」 「これか。代用珈琲《コーヒー》だ」 「私も同じものを。代用珈琲だ」  檜山と呼ばれた国民服の男は、気の毒そうに黒い背広の男を見詰めた。よく見ると檜山は、その代用珈琲に手を付けていない。人影を意識したのか、代用珈琲を待つ間、二人は無言で時を過ごしていた。 「お待ちどうさま。生《あい》憎《にく》、砂糖とミルクを切らしていまして……」  店主は済まなそうに黒い液体の入ったカップを置くと、再び店の奥に消えた。黒い背広の男は渇していたのか、不安げに口を付けた。 「あっ」  黒い背広の男が上げた声に、檜山は大声で笑った。破顔すると子供のような表情だった。 「代用珈琲は初めてか?」 「こいつは驚いた。一体何です、この液体は……?」  檜山は少し肉の付いた腹を捩《ねじ》って、笑い続けた。 「でもな、安岡。この代用珈琲でもあるだけましさ。ここは沼津だからだ。俺《おれ》のいる札《さつ》幌《ぽろ》では、代用珈琲ですらお目にかかったことはない」  その時、表に車の止まる音がした。しばらくすると、沼津軒の引き戸を引いて、二人にとって懐かしい顔が入って来た。  松岡洋右の別荘は、沼津駅から南に三キロほど行った、御用邸側の島郷にある。駿《する》河《が》湾に突き出した西に牛《うし》臥《ぶせ》山のある小さな半島は、古くからの景勝地である。 「お連れしました」  迎えに来た松岡洋右の私設秘書、市川進一の案内で、檜山と安岡は、平屋建ての別荘の奥の客間に通された。 「おお、檜山君に安岡君か。まあ、入ってくれ」  松岡洋右はガウン姿で長椅《い》子《す》に寝そべったまま、懐かしそうに言葉で招き入れた。檜山と安岡が客間に入ると、そこには二人の先客があった。一人は檜山や安岡と同年輩の六十がらみ、一人は少し年配の七十がらみである。見知ってはいないが、その服装や身のこなしから察すると、紳士である。外相を退いた後、肺病を患っているとは聞いていたが、長椅子の松岡は痩せ細り、その顔色からもあまり加減がよくないように見受けられた。外相の頃の面影はない。 「まずは紹介しよう。こちらは枢密顧問官の池田成《なり》彬《あきら》さん。こちらは交易営団総裁の石田礼助さんだ。御二方とも三井財閥に関係が深い」  それぞれの男は会釈して応じた。檜山と安岡は、唯《ただ》々《ただ》困惑するしかなかった。 「こちらがさっき話した第五方面軍司令官の檜山季《き》一《いち》郎《ろう》中将。こちらが外務省の嘱託で奉天機関長の安岡仙《せん》弘《こう》君だ」  松岡は少し咳《せ》き込みながら紹介した。秘書の市川はその間に、池田と石田にはコニャックを、檜山にはスコッチを、安岡には紹《しよう》興《こう》酒を配った。 「遠方より急ぎ来ていただいて申し訳ないのだが、実は身体《からだ》の具合が余りよくない。長く話していると咳き込んでしまう。早速、要件に入りたい。簡潔に話すから、どうぞ楽にして聴いてもらいたい」  松岡は市川が止めるのも聞かず、身体を起こそうとした。長椅子の肘《ひじ》掛《か》けに身体を預けると、不思議なことに眼光に生気が宿った。痩せ青む顔にも、ほのかに赤味が差した。 「先月二十一日、モスクワのソヴィエト駐在大使館が、ある情報を入手した。入手先は赤軍参謀本部だ。内容が余りに重大情報であったので、私が以前から持っている個人的な縁故から、ソヴィエト政府の内部情報を取り、確認するのに少し時間がかかった」  松岡は大きく咳き込んだ。市川が水差しから汲《く》んだ水を差し出すと、一口飲んで呼吸を整えた。 「ソヴィエト政府は米英と合意の上、独逸《ドイツ》敗北の三ヵ月後、すなわち八月七日以降のできるだけ早い時期に、対日参戦することを決定した」  檜山は千《ち》島《しま》樺《から》太《ふと》を含む北部戦域を担当している関係から、ソヴィエト軍の増強は知っていた。安岡は以前から情報畑にいて、奉天に拠点を持っている関係上、その情報には何度となく接していた。が、確たる情報として松岡が告げる以上、誰もが声もない。 「それだけではない。ソヴィエトの対日参戦がなくとも、この戦争は早晩敗けるだろう。最《も》早《はや》日本の国力は、腐りかかった巨木だ。放っといても倒れる。敢《あ》えてこの時期に、ソ連が参戦するのは、戦後、満州、朝鮮、千島、樺太、対馬《つしま》を勢力圏に納め、日本を連合国で分割統治しようとしているからだ」  安岡は唖《あ》然《ぜん》とし、さすがの檜山もこれには呻《うめ》いた。確かに満州、朝鮮は、日本固有の領土ではないが、千島と南樺太、対馬はれっきとした固有の領土である。しかも、本土の分割統治とは、実質、日本という国家の解体である。 「改めて申し上げるが、この情報の確度は高い。これに疑問を挟むのは止めてもらいたい。いまは時間が惜しい」  松岡は敢えて釘《くぎ》を刺した。 「忙しい檜山君を呼んだのは、他でもない。君の担当方面で敗退すると、南樺太、千島列島、北海道がソヴィエトの統治下になる。このことを知っておいてもらいたいからだ。また、安岡君には別のお願いがある。君は大連特務機関時代、ハルピン特務機関にいた檜山君と共にユダヤ人を保護し、現在生活の面倒を見ている。なんとか満州から脱出させてほしい。ユダヤ人は、ソヴィエトを嫌って満州に逃げて来ただけに、ソヴィエト占領下ではまた迫害を受ける。ユダヤ人は欧米に多くの同胞を持ち、金融界に隠然たる力を持っている。この戦争で日本は国際社会で孤立した。今後、日本を守り、国際社会で再出発するには、彼等、在満ユダヤ人の影響力に期待する以外、日本外交に切り札はない。どちらも、困難な任務だが、日本が立つか立たぬかの瀬戸際だ」  松岡は再び大きく咳き込んだ。今度は市川が差し出す水に、手を出すこともできない。口元にあてた純白のハンカチは、見る見る鮮やかな朱色に染まった。傍らに隠し置かれた酸素吸入器のマスクをあてると、松岡の咳《せき》の音も徐々に静まっていった。  昭和十二年、独逸では、以前から根強くあったユダヤ人の迫害が表面化した。多くの難民が生まれ、ポーランド、ソヴィエトを経由してソ満国境のオトポールに押し寄せた。その数二万。彼等の受け入れにあたったのが、当時ハルピン特務機関長だった檜山少将と、その下部組織である大連特務機関長の安岡大佐であった。 「池田さん、石田さん、何とか彼等の任務に資金面での協力をして欲しい。お願いできんか?」  松岡はまだ少し苦しそうに言った。 「わかりました。大方、資金的なご相談ではないかと考え、今日までに三井から外貨機密費を用意しておきました。私と石田君で日銀を動かし、あそこの機密費も出させましょう。だが、檜山さんの方は、純粋な軍事作戦ですから、資金面で援助しても、効果ないのではないですか?」  池田は丸眼鏡を持ち上げて言った。 「檜山君がいかに名将だとしても、彼の持っている戦力からすると、全面的にソヴィエト軍の侵攻を阻むことは不可能でしょう。北海道占領も時間の問題です。彼が戦っている間に、何とか他の連合国を動かさなくてはなりません。とにかく局地的に勝利を得ることが重要でしょう。ソ連の戦意を殺《そ》ぎ、思いとどまらせるしかありません。そして最後は、武力ではなく交渉で収める。そのためには、やはり安岡君が救出する在満ユダヤ人しかないのです」  松岡の咳がまた始まった。市川は隣室に飛んで行くと、医師らしい人物を連れて来た。 「これ以上はいけません。お休みにならないと……」  医師は簡単な診察の後、半ば強引に松岡に告げた。 「市川君、これからは君が調整してくれ。在満ユダヤ人評議会のカウフマン博士の親書と近衛《このえ》さんの親書はここにある。この件、任せたぞ」  松岡は咳が出ないように静かな声で言うと、医師に手を引かれて退室した。 「かなり悪いようだな、松岡さんは……」  石田は呟《つぶや》くように言った。 「少し栄養が足りないのです。思うように栄養価の高い食糧が手に入らなくて……」  市川は残念そうに言った。市川は松岡が満鉄総裁時代からの私設秘書で、父のように慕っていた。檜山や安岡は、ユダヤ人保護にあたって松岡の思想的、資金的援助を受けた。その橋渡しをしたのが市川で、若いながらも勤勉な仕事振りは知り抜いていた。 「しかし八月か……」  池田が天を仰いだ。『敗戦』の二文字が、突然、具体的な形となって池田の前に突き付けられた感じがした。余りのことに、身体の力が抜け、コニャックのグラスを落としそうになった。 「では、各論に入りましょう。時間がありません。これからお互い忙しくなります。遅くとも明日一番には、沼津を立たないと」  安岡が発案した。  翌早朝、徹夜明けで眼を腫《は》らした市川を伴い檜山と安岡は沼津の駅頭に立っていた。檜山は上りの一番列車を、安岡と市川は下りの一番列車を待っていた。 「沼津軒を叩《たた》き起こして、お茶でも飲みますか?」  市川は尋ねた。駅員の話だと横浜と浜松で昨夜空襲があり、列車が遅れているという。 「あの代用珈琲か?」  檜山は眉《まゆ》をしかめた。 「あれは勘弁だな。あれだったら泥水を飲んだほうが諦《あきら》めがつく」  安岡もうむと同意した。 「途中まで手を染めて心残りなのだが、今度ばかりは協力できんようだ。ユダヤ人のこと、くれぐれも頼んだぞ」  檜山は安岡に手を差し伸べた。 「檜山さん。今だから言うが、ハルピン時代のあなたは実に頑固で嫌な上官だった。俺は志だけであなたに付いていった。だが、あなたは正しかった。今度は市川君もいることだし、最後は任せてください。それよりも、北海道は頼みましたよ」 「例の親書はなくさないように。日本の切り札ですから」  市川が付け加えた。彼方《かなた》から列車の汽笛が響いてきた。どうやら下りが来たようだ。薄暗い駅舎で、安岡は檜山の手を握った。 昭和二十年七月二日  ゲオルギィ・ジャコフは、昼過ぎにもかかわらず疲れていた。第二極東方面軍の作戦会議はすでに三十時間を超えていた。ただでさえ、湿地帯とアムール川に囲まれたハバロフスクの夏は、蒸し暑い。倉庫を改装した部屋は、貧相で、狭く、換気が悪いため酷《ひど》く暑かった。澱《よど》んだ空気に煙草の煙が充満し、容赦なく疲れ切った瞳《ひとみ》と喉《のど》を痛め付けた。  ——これではラーゲリ(強制収容所)ではないか。  と、一《いつ》旦《たん》は思いを巡らしたが、すぐに打ち消した。  ——ラーゲリでは煙草は吸えんか……。  ジャコフは、指先に挟まれて無意味に燃える煙草に視線を向けて、苦笑した。会議は立案された作戦案の詳細と、問題点の検討会として始められ、サハリン方面から始まった。ジャコフの担当する戦域に議題が進んだのは、この日の未明だった。 「アメリカ軍に協力を依頼するわけにはいかない。これは政治的判断で最終決定である。よいな? グネチコ」  極東軍総司令官ワシレフスキー元帥は、大きな身体を揺するようにして言い放った。カムチャツカ地区守備隊司令官のグネチコ少将は、緊張の面持ちで同意した。  そもそも、ソヴィエト軍の建軍は、一九一八年であった。帝政ロシア軍の残余から出発したため、帝政ロシア軍の伝統的な欠陥を受け継いでしまった。一九二〇年代から一九三〇年代、他国駐在武官から二流の烙《らく》印《いん》を押されるまでに至る。一方、最高指導部では、一九二〇年代後半からスターリンの独裁体制が確立した。独裁は恐怖の抑圧として現れ、一九三〇年代には、軍でも『血の粛清』が始まり、経験豊かな軍の指導者のほとんどが失われた。  こうした背景に加え、ソヴィエトは大陸の大国のため、海軍の発展は、陸軍に比べ大幅に遅れた。当然のことながら、大規模な上陸作戦に関する経験が乏しい。  ——我々がその肉体と血をもって経験するしかないのか……。  ジャコフは密《ひそ》かに溜《た》め息をついた。連合国として、共に第二次世界大戦を戦ってきたアメリカ、イギリスは、多くの大規模な上陸作戦を経験してきた。ソヴィエト軍としても、主だった上陸作戦には観戦武官を送り、報告させた。しかし、同盟国の観戦武官といっても、機密には触れられず、戦場のすべてを観戦することもできない。報告はほとんど報道の域を出なかった。  ジャコフ自身、あらゆる上陸作戦の観戦武官報告書に眼を通した。しかしそこには、上陸作戦の経験のないジャコフが想像する状況を超えるものはなかった。シュムシュ島(占《しむ》守《しゆ》島《とう》)上陸作戦司令官に指名された、グネチコ少将の不安もそこにある。 「ジャコフ少将。君の師団が上陸するのだ。君の意見を聞こう。この作戦に不安があるかね?」 「いえ、まったくありません」  ジャコフは用意していた答えを素早く、慎重に述べた。赤軍将校にとって最も大切なことは、独創性ではなく生き残ることである。すなわち共産党に対する忠誠であり、いかに共産党の意向を具現化するかである。そして党の意向とは、上官であるワシレフスキー元帥の言葉である。 「ユマシエフ大将。君の率いる太平洋艦隊はどうかね?」 「日本海軍は壊滅しました。航空兵力も消耗しています。日本海軍の積極的妨害は考えられません。問題はないと考えます」  占守島上陸作戦に失敗は許されない。赤軍の伝統が、それを許さないだけではない。対日参戦は、満州進攻作戦、サハリン進攻作戦、クリル諸島(千島列島)進攻作戦で構成されている。個々の作戦はすべて連携する。満州進攻作戦は、最終的に朝鮮進攻作戦、対馬攻略作戦と発展する。サハリン進攻作戦とクリル諸島進攻作戦は、北海道進攻作戦へと発展する。すべてが外交上のタイム・スケジュールと連動し、どれか一つが頓《とん》挫《ざ》しても、どれか一つが遅滞しても、最終目標である対馬と北海道は、外交上占領できなくなることも考えられる。南下政策と不凍港の確保、太平洋への出口を確保することは、我がソヴィエトの悲願である。 「よろしい。残る問題は、日本の降伏のタイミングと海上輸送力の確保だな……」  ワシレフスキー元帥は、しばらく虚空を見詰めた。現代の軍事行動は、補給が要となる。補給のない軍が勝利することは有り得ない。 「諸君。我々はアメリカが外交で反撃する前に、分割占領を既成事実としなくてはならない。日本が降伏すれば、我々に残された時間はさらに短くなるだろう。だが、今の日本は朽ちかけた納屋のようなものだ。扉は一《ひと》蹴《け》りで開く。諸君は、激しく、素早く、蹴らねばならない。党は期待している」  ワシレフスキー元帥は、快活に応じた。恐らく彼は、我々より疲労困《こん》憊《ぱい》しているはずである。この不毛の会議に臨むにあたって、彼はモスクワで、四日間、最高戦争指導会議に出席していた。急ぎハバロフスクに戻ったはずなのに、彼の軍装は、つい今し方着替えたように皺《しわ》一つできていない。貴族の出でもないのに、端整な顔立ちは涼しげで、ブロンドの髪は美しい程に整えられている。六十を過ぎたこの男の何処《どこ》に、これだけの余裕と体力が潜むのか疑問だった。  ——少なくとも、あの余裕と体力が、彼の地位を約束していることは事実だろう。  ジャコフは、会議の終了を告げるワシレフスキー元帥の訓示を心から歓迎した。同時に、宿舎に指定された、アムール川河畔のスプートニク・ホテルのベッドを思い描いていた。  北大大講堂は、窓から差し込む陽射しだけで、薄暗かった。檜山は、講堂中央の作戦図を見下ろす演壇に座り、彫りの深い顔は沈鬱な表情に沈んで、ブロンズ像のようだった。 「ご覧の通り、暫時、後退戦術を実施した場合、占《しむ》守《しゆ》、幌《ほろ》筵《むしろ》は、十五日間の保持が可能と判断できます」  直立した桜木義《よし》実《み》参謀長は、図上演習を締めくくって発言した。急《きゆう》遽《きよ》命じられた作戦立案のために、額にはうっすら汗が浮かび、眼の下の窪んだ隈はくっきりと黒ずんでいた。 「我が方は、その戦力のほとんどを失いますが、敵ソヴィエト軍に対して与える損害も甚大であります。方面軍参謀としては、一致した見解として、この戦略的持久が、もっとも確実性が高いと判断します」  作戦幕僚が付け加えた。 「なるほど……」  檜山はおもむろに立ち上がると、ポケットに手を突っ込んで歩き始めた。あたかも壁に掛けられた時計の秒針のような靴音だった。静まり返った大講堂に、数分の間、その靴音は響いていた。 「これが陸大の試験で、私が教官なら、君等には満点を与えるだろう」  檜山は立ち止まると軍靴の先を見下ろし、呟いた。同時に、方面軍参謀たちの間で、安堵の吐息が漏れた。 「だが、いまの私には、大いに不満である……」  檜山は表情も変えずに告げた。居並ぶ参謀は一瞬にして顔色を失った。 「諸君たちは、事態の重要性を理解していないようだ」 「どうしてでありますか?」  先ほどの作戦参謀が、檜山の言葉に怪《け》訝《げん》そうに尋ねた。 「私は、侵攻を思いとどまらせるほどの損害を敵に与える、決定的な勝利を望んでいる」 「結果的に敵に大量の出血を強います。図上演習でもおわかりの通り、少なくとも九一師と同等以上の損害を敵に与えることができます」  桜木が弁護した。 「確かにな。だが、それは南方の島でもそうだった。米国に対し、同様の損害を与えた。そこで尋ねるが、米国は戦意を喪失したか?」  途端、大講堂を沈黙が支配した。檜山は占守、幌筵の作戦図に向き直り、じっとそれを見詰めた。 「これは未曾有の非常事態である。非常の時に平凡な作戦では話にならん。おそらくソヴィエト軍は、このような作戦に対する対応策を立案しているだろう。そうした装備、兵力の充実している敵に勝てるか? しかも、私が求めているのは明確な勝利である。仮に、一ヵ月の戦闘で一万の損害を与えても意味がない。動員兵力にゆとりのあるソヴィエト軍は、多少の時間があれば兵力を補充してしまう。となれば、ソヴィエトは交渉のテーブルにつくまい。いま最も重要なのは、三日で三千の損害を強いることである。誰が見ても日本軍が勝ったとわかる、勝利の戦術だ。もう一度言う。非常の時、非常の作戦が必要なんだ」  幕僚は一斉に息を呑んだ。そんな策などあるはずがない。誰もがそう思った。 「では、私が考える作戦構想を言う。敵軍上陸後、二十四時間以内に敵に甚大な損害を与える。そのためには七三旅で戦線を支え、独立戦車一一連隊を用いて、敵主力を一気に叩く。できれば水際に追い落とす。そのために生じる損害は厭わない。それが基本方針だ」  檜山は幕僚たちの顔を見渡した。誰もが驚き慌てている。 「しかし、それは賭《かけ》です。失敗したら七三旅も大きな損害を被ります。後がなく戦線は雪崩《なだれ》をうって崩壊し、最悪の場合、四日で両島は占領されます」  桜木が慌てて発言した。これは奇道である。軍の作戦に奇道を用いるべきではない。 「その通りだ。だが、敵の戦意を殺ぐには、それに賭けるしかない。この方針を基に細部を詰めて欲しい。これは、方面軍司令官の決定である。やる、やらないの議論は無用だ。実施のための議論に終始したまえ」  檜山は沈黙に沈む大講堂を後にしようとした。慌てた桜木が後を追うと、話しかけた。 「失敗したら兵が無駄死にします。この方面の戦略も崩れます」 「そうだ。その通りだ。だが、敗戦後の日本が国家として存続するためには、強い意志を示さなくてはならん。ソヴィエト軍には、北海道に上がったらどんなことになるか、思い知らせる必要があるのだ。したがってこれは、決して負けてはならない賭なのだ。一部の将兵の犠牲もやむをえん」  檜山はきっぱり言い切ると、振り向きもせず立ち去った。  カムチャツカ半島南西海岸のオパラは、忘れ去られた町である。町とはいえ、家は木組みしただけの簡素なものが十数軒有るだけだ。数少ない住民は、少数の先住民族だけで、明らかに人種も言葉も異なる。貨幣経済からも取り残され、いまだに物々交換社会である。農耕はなく、狩猟か漁業が生業らしい。半島の東岸にはペトロパブロフスクカムチャツキーという州都がある。カムチャツカ地区守備隊司令部もあり、東方および南方防衛の拠点として、周辺に師団規模の部隊を展開させている。オパラはこのペトロパブロフスクカムチャツキーからも遠く離れ、細い未舗装の道が一本あるだけである。昨日深夜、ニコライ・レミゾフ少佐が先遣大隊を率いて、ペトロパブロフスクカムチャツキーからやって来たのは、まさにこの道であった。 「聞きしに勝る酷いところだ」  レミゾフは狭い海岸に立ち、何度目かの独り言を呟いた。レミゾフが受けた命令は至極単純だった。『貴官は麾《き》下《か》大隊を率い、オパラに進出。旅団宿営地の整備を行うこと。整備完了後は、必要とされる訓練を実施すること』である。  ——訓練する暇はないかもしれん。  レミゾフは暗《あん》澹《たん》たる気持ちで周囲を見回した。予想以上に海岸線は狭く、赤松の原生林が村の間近まで迫っている。師団宿営地を造成するため、レミゾフの大隊は赤松の伐採作業を行っているが、器材が不足し人力に頼っている。一個旅団となると人員は八千名を超え、資材もかなりの量になる。来週には重機が到着する予定だが、旅団規模の広大な野戦駐屯地を整備するには、かなりの時間が必要だろう。  ——訓練したくてもこの海岸では無理だな……。  レミゾフは、無数のゾウアザラシの群れが昼寝をする、平穏な海岸線を眺めながら考えていた。しかも、訓練に必要な上陸用舟艇の到着日は、まだ決まっていない。  レミゾフはノモンハンの後、第一〇一狙《そ》撃《げき》師団に転属した。モスクワ防衛戦では火消し役として投入され、初めての対独戦を経験した。その後、第一〇一狙撃師団は、第一ロシア方面軍に配属。クルスク攻防戦、白ロシアの戦い、ベルリン攻防戦と戦い抜き、そして生き残った。大隊は四分の三までが戦死傷で入れ替わったが、戦闘は素人ではない。自信も自負もあるし、部下も信頼できる。それ故、上陸第一波に指名された。  だが、肝心の上陸作戦は初めてである。作戦開始までに、充分な訓練が必要なことは明白だ。  ——どうする……。  思案は堂々巡りを始めていた。できることから片付けていくしかないのは、わかっていた。しかし、それは森林の伐採作業を指している。レミゾフは大隊副官の若い大尉に気付かれないよう溜め息をついた。 昭和二十年七月八日  オホーツク海の寒流と、太平洋を巡る黒潮暖流が衝突する北千島周辺の海域は、頻繁に濃霧が発生する。霧の発生と流れる方向は予測が困難で、航空機の操縦士には厳しい航路である。陸軍の一〇〇式輸送機は、途中の天候不良のため、予定より大幅に遅れた。迂《う》回《かい》航路を採り、午後四時になってようやく、千島列島最北端の占守島上空に差しかかった。 「占守島は、少し霧が薄いようです。これから着陸を試みます」  操縦士の若い中尉は、客室最前列に座る檜山に告げた。夜が近い。すでに、燃料は底をつき、出発地の根室へも、中継地の中千島、松《まつ》輪《わ》島にも戻れない。無理でも着陸せざるを得ない。 「大丈夫か? 脚でも折ったら、帰れなくなるぞ」  檜山の隣に腰かけていた、北部方面担当で檜山の部下の第五方面軍参謀長、桜木少将は不安げに尋ねた。 「上空から見る限り、滑走路は夜設がされているようです。大丈夫だと思います」  中尉はそう言い残すと、副操縦士の待つ操縦室に消えた。 「余計なことをしおって」  檜山は呟《つぶや》いた。第五方面軍司令官が、幕僚を伴って、突然、視察に来るというので、夜設の篝《かがり》火《び》を焚《た》いたのだろう。篝火は味方にも目印だが、敵にも格好の目標となる。アリューシャン方面からの米軍の空襲は近頃ないと聞いているが、危険であることに変わりはない。  そうこう考えるうち、機体は大きく右に旋回しながら高度を急激に下げ始めた。操縦士の中尉は、過去何度か占守島と北海道を往復した経験があると聞いている。とはいえ、視界の不充分な着陸は気分のいいものではない。機首を持ち上げるような挙動を示したかと思うと、一〇〇式輸送機は二回ほど跳ね上がって滑走路に滑り込んだ。  檜山は、飛行場から車に乗り換え、島の中央部にある、三好野の歩兵第七三旅団司令部に到着した。昨日の『第五方面軍司令官視察』の報を受け、旅団司令部には幌《ほろ》筵《むしろ》島《とう》(パラムシル島)の師団司令部から、第九一師団長以下幕僚が急《きゆう》遽《きよ》移動し、作戦室で檜山の到着を待っていた。挙手の礼で迎える司令部幕僚を尻《しり》目《め》に、檜山は案内も待たず作戦室にどかどかと入って行った。 「現在の当該地区防備状況について直ちに聞きたい」  形式的な挨《あい》拶《さつ》をする第九一師団長永原中将には一《いち》瞥《べつ》もくれず、檜山は作戦図に向かうと厳しい口調で命じた。 「現在、占守、幌筵の両島には、第九一師団を基幹とする、陸海軍総兵力三万二千名が守備に付いています。火砲は二百門、戦車八十五輛《りよう》が配備に就いています。幌筵島は柏原に司令部を始め師団主力を配備しています。アリューシャン列島西端のアッツ島や、カムチャツカ半島南端のロパトカ岬と対《たい》峙《じ》するこの占守島には、杉原巌《いわお》少将指揮下の第七三旅団を配備しています」  異例の第五方面軍司令官視察に、師団参謀長を務める柳島少将は、緊張の面持ちで応じた。  この第九一師団は、装備充足率の低下に直面している日本陸軍にあって、例外ともいえる兵員装備を誇っていた。全体の偉容は、師団というよりも、軍団といえる。守備軍の兵員も、キスカを撤退した部隊を基幹に、日本初の機動軍として編成された小笠原兵団、関東軍から転用された池島戦車連隊、ガダルカナルから撤退した部隊など、歴戦の部隊で構成されている。  柳島少将の説明は防衛計画に始まり、兵員の状況、食糧、弾薬、燃料の備蓄状況、各大隊単位の配置、陣地構築にまで至った。 「アリューシャンの場合、米本土から遠いアッツに先に上陸したように、米軍は必ずしも北端の占守島に、最初に上陸するとは限りません。しかし、この北方攻略作戦を行う場合、占守、幌筵両島を攻略するものと思われます。第九一師団としては、両島をもって徹底抗戦と戦略的持久の態勢で臨みます」  柳島は大きく息をついて締め括《くく》った。戦略的持久は、これまで玉砕したあらゆる島で行われてきた戦術で、本土決戦のための時間稼ぎを目的としていた。第五方面軍自体、占守、幌筵両島に対しては、当初からこの戦術を託していた。兵力が増強されているのも、ひとえに時間稼ぎを目的としている。  ただ、問題は地下陣地構築の遅れであった。軟弱な地層と、資材、特にコンクリートの不足が原因である。永原師団長は檜山方面軍司令官から、この問題を指摘されるだろうと覚悟していた。  しかし、檜山は作戦図を見詰めて、じっと考え込んでいた。すでに会議は三時間を過ぎていた。室内は蒸し暑く、幕僚の吸う煙草の煙が滞留し、息苦しかった。静まり返った室内では、壁に掛けられた大日本時計だけが、時間の経過を告げていた。 「機動戦術に方針の転換はできんかな?」  旅団司令部付き従兵が、旅団長専用の葉で入れたお茶を配り終わると、それを待っていたかのように檜山はぽつりと言った。第九一師団、第七三旅団の司令部幕僚は驚きの余り声もなかった。 「占守島、幌筵島、どちらに敵軍が上陸しても兵力の機動運用を図れないかな。場合によっては敵軍上陸後、逆上陸軍を編成し挟撃をしたい」  檜山は静かに言った。 「決戦に出るとおっしゃるのですか?」  永原の言葉には、明らかな否定の意がこめられていた。 「これまで方面軍は局地的勝利は無意味だと、言い続けていたのではないのですか?」 「そうだ。その通りだ。だから戦術の方針転換と言っているのだ」  檜山はやっと顔を上げると永原を見詰めた。 「申し訳ありませんがおっしゃる意味がわかりません。これまでの戦訓でも明らかなように、米軍は圧倒的兵力、火力をもって上陸するでしょう。上陸第一波や第二波を撃退したとして、いったいどのような意味があるのですか?」  柳島が永原に代わって尋ねた。 「上陸時ではなく内陸部まで誘い込んで、こちらが戦力を整えたところで一気に叩《たた》きたい。師団の戦力をまとめて一度にぶつけたい。どうやら我々の相手はソヴィエト軍になりそうなのだ」 「なんと……」  永原が思わず声を上げた。幕僚にもどよめきが起こった。 「しかし、日ソ中立条約が……」  幕僚の中から声が上がる。 「連合国での合意があったらしい。独逸の敗戦から三ヵ月後の八月七日以降、早い時期にソヴィエトは参戦する公算が大である」  檜山は、一《いつ》旦《たん》言葉を区切るとポケットから『敷島』を出して火を点《つ》けた。深く煙を吸い込むと、ゆっくり紫煙を吐き出した。煙が滲《しみ》るのか眼を細めた。 「その情報の確度は高いのでありますか?」  柳島は懐疑的な表情を崩していなかった。 「高い。疑問の余地はない」 「機動戦術を採ると、一旦は勝利したとしても、戦力を消耗し、持久できませんが……」  幕僚の中から声が上がった。 「かまわん。戦略的持久は捨てる」  檜山は決然と言い放った。 「なぜ方面軍はここで決戦を考えたのかお聞かせ願えますか?」  永原は、事態の急変に明らかに混乱している様子だった。 「満州における戦場は広大で、関東軍の戦力は危機的なまでに低下している。樺《から》太《ふと》には第八八師団が展開しているが、国境線を接しているため、地形的防衛計画が困難で、ソヴィエト軍側は無制限に兵力を投入できる。しかも住民も多く、本格的戦闘には躊躇《ためら》いがある。ここは幌筵に若干の民間人が居るが、占守島には住民もいない。兵力も一地域での兵力としては方面軍最大である。ソヴィエトを思い止まらせるには、ここしかない」  作戦室は沈黙していた。換気の悪い室内は、悪化する空気と共に、重苦しい感情が充満している。 「機動に関する問題はなんだ?」  幕僚は顔を見合わせた。視線は自然と兵《へい》站《たん》参謀に集まった。 「大発が不足しています。そのような作戦は想定していなかったので、訓練もしていません。時間が許す限り訓練の必要があります。そのためにも、大発、戦車、車輛に必要な燃料が心配です」 「作戦参謀?」 「弾薬が足りません。現在、一門あたり一会戦分しかありません。大口径砲、対戦車砲も不足しています」 「わかった。何とかしよう。可能な限り、具体的数量を算出したまえ。なんとか、東部北海道から抽出できるだろう」  瞬時に第五方面軍参謀長の桜木少将が顔色を変えた。 「いいんだ。北海道で戦うようなことがあるとすれば、どの道、ソヴィエトの北海道占領は時間の問題だ。方面軍はこの作戦に賭《か》けるしかない」  檜山は煙草を床に捨てると苦々しそうに踏みつぶした。  翌朝、檜山は、桜木義実第五方面軍参謀長、永原政友師団長、柳島泰次郎師団参謀長、杉原巌第七三旅団長、佐賀武雄第七四旅団長の五名を伴って出かけた。一式装軌式兵員輸送車の荷台に机を据え付け、逐一状況を確認した。  一式装軌式兵員輸送車は、いわゆるハーフ・トラックで、けして乗り心地のいい車ではない。まして占守には舗装道路がなく、車体は激しく上下した。 「九七式小型自動車の方が、まだましなのですが……」  済まなそうに杉原巌少将は何度も言ったが、檜山は一向に意に介する様子もない。両足を踏ん張って、荷台の最前部に立つと、時折、双眼鏡を使う以外、盛んに周囲を観察している。大柄の身体《からだ》に、学者風の神経質そうな風《ふう》貌《ぼう》は、どこか均整が取れていない。その男が踏ん張って立っていると、学者が探検にでも来たようにさえ見える。 「あそこが国端崎です。村尾大隊の一個小隊が警戒のため、布陣しております。敵軍が上陸を開始した場合、暫時後退し、四嶺山陣地に移動する予定でした」  一式装軌式兵員輸送車が停車すると、永原中将は、愛用の乗馬鞭《むち》を指揮棒替わりに指し示した。 「小《こ》泊《どまり》崎と同じだな」  檜山は念を押した。 「占守も幌筵も、航空兵力が少なく、制空権の確保は困難です。陸上兵力を移動させるのは、敵の航空攻撃により徒《いたずら》に兵力を失うことになります。与えられた条件から考えると、各陣地を死守する戦略的持久の方が、理に適《かな》っていると考えます」  柳島少将は、師団参謀長らしく、冷静に言った。 「いま、走って来たこの台地は『訓練台』と言ったな?」  檜山は周囲をもう一度眺めて尋ねた。 「はい。七三旅の訓練地になっています」  杉原は檜山の考えが読めず、怪《け》訝《げん》な表情で応じた。 「しょんべんだ。皆、付き合え!」  檜山はさっさと一式装軌式兵員輸送車の荷台から飛び下りた。他の幕僚も一瞬顔を見合わせたが、それに従った。  檜山には意図があった。これから話すことは、一式装軌式兵員輸送車の運転手には聞かせたくなかった。 「ここでやろう」  野原に向かった一列の放尿が始まると、檜山は小さな声で呟《つぶや》いた。 「何をですか?」  永原は虚《うつ》ろに尋ねた。 「上陸第一日目に、ここで敵を殲《せん》滅《めつ》する。包囲殲滅だ。一個旅団と戦車第一一連隊、航空戦力のすべてを投入する」  驚いた永原は振り向こうとした。 「おい、こっちに向くな。しょんべんがかかる」  檜山は大《おお》真《ま》面《じ》目《め》に言った。 「しかし、それは賭《かけ》です。固定陣地は、国端崎、小泊崎、四嶺山しかありません。負ければ師団戦力の三分の一を失います」  佐賀少将が慌てて意見を述べた。 「昨日も言ったが、どうしても勝たねばならぬ理由がある。しかも、限定された時間の中でだ。七十二時間、できれば四十八時間のうちにだ」  檜山は放尿を終えても、国端崎を眺めながら動かなかった。 「どうしてですか? よろしければ、その理由をお聞かせください」  柳島は詰め寄った。 「君らも薄々は感じているだろうが、日本はもういかん。政府はひた隠しに隠しているが、実は本土決戦を前に、飢餓で滅びる可能性すらある。中央では、敗戦の研究に入っている」  一瞬にして五人の顔が青ざめた。 「軍司令官ともあろう方が、何てことをおっしゃるのですか!」  激情に身を委《ゆだ》ねたのは、佐賀だった。佐賀は掴《つか》みかからん勢いである。杉原が間に入ってようやく落ち着かせることができた。 「気持ちはわかる。だがな、佐賀君。国家も軍隊も、国民があってのものなのだ。そして事実は曲げられん。我らが別方面を担当していたのなら、悲嘆に暮れようが、激怒しようが構わん。私も文句は言わん。だが、そうはいかんのだ」 「どういうことですか。敗戦となったらそれでお終《しま》いでしょう」  淡々と告げる檜山に、永原は不思議そうに尋ねた。 「国際法に従えばそうなのだ。だが、どうやらそれでは終わらんらしい。ソヴィエト軍は、北海道の分割占領を企図している」 「まさか……」  誰もが異口同音に叫んだ。 「残念ながら、この情報はかなりの信《しん》憑《ぴよう》性《せい》がある。ソヴィエト軍は日本が降伏した後も、戦闘を継続するだろう。無抵抗であっても攻撃は続く。当然、他の連合国はソヴィエト軍を非難するだろうが、それには時間がかかる。さらに、付け加えて言えば、損害が予想を上回るか、計画に破《は》綻《たん》が生じない以上、ソヴィエト軍は米英らの非難に負けることはないだろう。第五方面軍の樺太には居留民もいるし、地形的にも決戦には不向きだ。兵力も足りない。局地的に勝利を収められるのは、この占守しかない」  檜山は北の空を見上げた。 「仮に、この占守で勝ったとしましょう。しかし、米英が動かなかったら、どうなります?我々は戦力の三分の一、特に攻撃兵力を失っています。持久するにも戦力が稀《き》薄《はく》になってしまいます」  柳島は必死に詰め寄った。 「手は考えている。米英を動かす手をな。だが正直なところ、確証はない。上陸開始後七十二時間経って、戦闘を継続せねばならん状況に立ち至った場合は、諸君たち現場指揮官の判断を優先しようと思う」 「それはまたなぜですか?」  冷静さを取り戻した佐賀が尋ねた。 「おまえたちの部隊は、どれも地獄の戦場からの生還者だ。終戦となって、いま一度、闘ってくれと言うこと自体、命ずるにしのびない。だが、私の手《て》駒《ごま》は他にない。伏して頼むしかない。せめて七十二時間だけ俺にくれ」  檜山は声を詰まらせた。 「考えさせて下さい。作戦を否定するつもりはありませんが、正直なところ現戦力で可能であると確約できません。部下とも検討しないとなりません。そこでお尋ねしますが、このことは、どの程度まで部下に伝えてよろしいですか?」  永原は暫時黙考した後、檜山を見やって尋ねた。 「任せる。ただ、末端に動揺は起こしたくない。また、終戦となった時、ソヴィエト軍が侵攻しないこともあり得る。万が一、ソヴィエト軍が考え直した場合、停戦のための軍使を攻撃すれば、事は逆に進む恐れもある。他の連合国もソヴィエトを支持するだろう。したがって、取り敢《あ》えずは各級指揮官までに止《とど》めて欲しい。混乱の中での暴発だけは願い下げだ」  檜山は札幌に司令部を置く身が辛《つら》かった。できれば、この占守で、指揮を執りたかった。しかし、第五方面軍の担当地域には、樺太も北海道も含まれる。  ——なんで彼等ばかりが……。  檜山は北の空を睨《にら》むと大きく嘆息した。  大尉に昇進した中島厚は、独立戦車第一一連隊の派遣将校として、第九一師団司令部付となり、幌筵の作戦室にいた。いまは、人影のない部屋で、驚愕に打ちのめされていた。足が震え、床が揺れているように感じた。  ——なぜなんだ……。  中島の理解の限界を超えていた。作戦の全貌を知ったのは二時間程前だった。どう考えても、第九一師団は戦闘開始から六日目には完全に戦力を失う。しかも、一回の勝利のため、古巣の独立戦車第一一連隊は、擂《す》り潰される。彼等のほとんどが、ノモンハン、中国、ビルマで戦った男たちである。戦闘経験のない者は、ほとんどが学徒出身である。誰もが過酷な運命の帰結として、敗戦を隠すために、軍上層部によってこの占守島に送られて来た。確かに我々の多くは、少なくとも一度、苦難の末に負け戦を体験した者たちである。国民に知られたくない事実の目撃者かもしれない。軍中央から員数外と考えられても、仕方のない経歴を持っている。米軍が上陸した暁には、見事玉砕する覚悟もできていた。だが、日本は敗戦となる。これは決定的事実だ。敗戦だというのに、その彼等に死ねと言わねばならないのである。  ——これが作戦というものなのだろうか……。  たった五日間、戦線を保持することに、何の意味があるのか。まったく理解の外だった。中島は粗末な木製の椅子に倒れるように座り込むと、嘆息した。  ——ならば俺にできることは一つしかない……。  中島は漠然と一つの結論に行き着いた。それは、下級とはいえ武士の家に生まれた誇りが行き着く結論であった。 昭和二十年七月九日  レミゾフは、周囲のざわめきを感じて目覚めた。時刻は早朝の四時過ぎだった。「少し早いが……」と、思いながら身を起こした。白夜の季節、テントの中は、薄明りで満たされている。彼はいつものように、野戦ベッドの傍らに跪《ひざまず》いた。脆いた先には小机ほどの道具箱があって、その上には手札サイズの傷だらけのイコンが置かれていた。 「世は去り世は来る、地は永久に長存なり……」  と、レミゾフは小さく呟いた。旧約聖書コヘレト(伝道之書)の一節である。母が毎朝祈りを唱えていたのが、コヘレトであった。レミゾフは前日の行動が母に恥じることがなかった時、この祈りを捧《ささ》げることにしていた。  彼はペテルブルグの貴族の家に一人息子として生まれた。貴族としての誇りと財産を失った父は、失意のうちに一九二二年他界した。レミゾフが二歳の時である。それから訪れるスターリンの恐怖政治を見ずに死んだのは、ある意味で幸福だったのかもしれない。遠祖の代よりのロシア正教徒だったレミゾフ家では、敬《けい》虔《けん》な信者であった母が、彼を愛情豊かに一人で育てることとなった。苦難の時代、母は、当時すでに弾圧の対象となっていたロシア正教に対する信仰心と、貴族の誇りを教えた。  だが、帝国主義の遺物である元貴族にとって、新しい政府や社会は冷たかった。そしてソヴィエトでは、共産党員でなくては職業すら満足に得られない世の中になっていた。元貴族の子弟にとって、共産党員になる唯一の道は、軍に入ることであった。レミゾフは母とレミゾフ家のため、迷うことなくこの道を選択したが、母は反対した。なんとか説き伏せると、入隊する時、母は自分のイコンを手渡してくれた。そのイコンがいま眼の前にある。ノモンハンからドイツとの大祖国戦争を戦って、イコンは傷だらけになり、汚れ切った。それは同時にレミゾフの誇りでもあった。  伐採と整地作業は大方終わり、オパラの宿営地と資材置き場は整いつつあった。が、依然として訓練を行えるような場所は整っていなかった。後続の二個大隊と連隊本部は到着したが、宿営地はまだ閑散としていた。  ——旅団主力が到着すれば、ここも手狭になるだろう。  レミゾフは経験から感じていた。どんなに広い場所を与えても、玩具《おもちや》箱《ばこ》をひっくり返したようになる。軍隊とはそういうものだ。 「少佐。……レミゾフ少佐」  従兵のバロージャ軍曹の声だった。テントの外から控え目に声をかけていた。 「起きていらっしゃいますか、少佐?」 「ああ、起きている。どうした?」 「船団が入港するようです。岬の監視哨《しよう》から報告がありました」 「来たか……」  と、呟くと、レミゾフは左手で軍服を取り、右手でテントを捲《まく》った。 「投《とう》錨《びよう》!」  アレクサンドロビッチ・チトーフ船長の号令でブレーキ・ハンドルが外され、轟《ごう》音《おん》と共に走る錨《びよう》鎖《さ》がホースパイプで火花を散らした。  第二極東方面軍司令官プルカエフ陸軍上級大将と、上陸作戦司令官グネチコ陸軍少将は、ブリッジに並んで立ち、同時に溜《た》め息をついた。 「海岸まで距離はどのくらいだ、船長?」  プルカエフは憮《ぶ》然《ぜん》と尋ねた。 「八百です」 「もし、あの仮設の桟橋を延長したら、横付けできるかな?」 「無理です! ここまで桟橋を延長するのなら話も別ですが、そんなもの、仮設ではできないでしょう。この港は水深が浅過ぎるのです。本船の貨物はそれ程重くないので、普段より喫水は浅くはなっていますが、この湾内ではこれ以上陸に接近すると確実に坐《ざ》礁《しよう》します」  チトーフは即座に否定した。 「軽い? 一個連隊分の重火器と弾薬、それに第二極東方面軍司令部の器材を積んでいるのに?」  グネチコは驚いて言った。 「ええ。本船は老朽船ですが、それでも総トン数は約九千五百トンです。普段積載して運んでいる物資は、重量にすると、ざっとこの三倍はあると思います。軍の兵器や弾薬は、かさ張りますが重量は余りありません」  チトーフは、乗組員の錨泊作業を双眼鏡で監督しながら、静かに言った。グネチコとプルカエフは思わず顔を見合わせた。ベルリンへの道程を経験した二人にとって、軍の装備が軽いと言われたのは初めての経験だった。特に春の雪解けの頃は、軍の装備は泥沼に沈み、運搬に困窮した。 「しかし、困ったな。先遣大隊の報告で聞いてはいたが、これだけ海岸線が狭いとは思わなかった」  プルカエフは嘆息した。 「これでは中隊単位でも、上陸演習はできませんね……」  グネチコも応じた。 「第一〇一狙《そ》撃《げき》師団の師団本部は知っているのか?」 「先遣大隊の報告は、師団本部経由でしたから、知っているとは思いますが……これほどとは」  グネチコは改めて双眼鏡で海岸線を観察した。オパラの港の両翼からは岩場が張り出していて、これが天然の防波堤を形成している。上陸作戦に適当な砂浜は狭く、間近まで原生林が迫っている。 「これでは、野戦演習も難しいと思いませんか? 演習を兼ねて、海軍の艦砲射撃で焼き払えば別ですが……」  プルカエフも双眼鏡を取ると、周辺を観察し始めた。 「それはできん。第一、焼夷弾は少ない。極東の弾薬補給船は、日本海軍を警戒する艦隊にすべて随伴することになっている。海軍の最も近い弾薬貯蔵施設は、ウラジオストクだ。時間も船もない」 「陸軍も海軍も、弾薬に関しては厳しいということですね」  グネチコは眉《み》間《けん》に皺《しわ》を寄せていた。陸軍も海軍も、弾薬はウラジオストクにあるのだ。問題は、極東に船が足りないということだけなのである。  ソヴィエト軍参謀本部は、第一極東方面軍が担当するサハリンを主方面と考えていた。我々、第二極東方面軍担当のクリル諸島は、それぞれの島の面積も小さく、配備されている敵部隊もさほどの戦力はないと判断されていた。我々が上陸を予定しているシュムシュ島とパラムシル島は、あわせて一個師団が駐屯しているというが、いまの日本軍は、負け戦が続き、士気が低下していると聞く。補給にも事欠き、弾薬、食糧も不足しているに違いない。それほどの抵抗は予想できない。最終的には北海道での戦闘が、最も熾《し》烈《れつ》となるだろう。それだけに、この上陸作戦は素早く終えたいし、終わるであろうと予測された。 「錨泊完了です。艀《はしけ》を下ろしますが、お乗りになりますか?」  チトーフは考え込む二人に話しかけた。 「もちろんです。二人とも最初の便で上陸します。都合してください」  プルカエフは即答した。  レミゾフは驚きの余り、眼を見張った。  予定では、船団は我々が伐採した木材で工作した仮設桟橋に到着するはずだった。だが、船団の先頭を切って入港してきた黒い船体の古めかしい貨物船は、沖合で止まるといきなり錨《いかり》を降ろしてしまった。 「いったい、どうするつもりなんだ……?」  レミゾフはバロージャに向かって尋ねた。バロージャに答えを求めているわけではないことぐらい、彼自身わかっていた。が、返答に窮しているうちに、その貨物船が後部のデリックを操作し、艀を降ろし始めた。 「誰か来るようです」  バロージャは取り繕うように言った。 「当たり前だ。あれは、観光船ではないんだぞ!」  思わずレミゾフは声を荒げた。言ったそばから後悔が押し寄せる。冷静さは指揮官の要諦である。ましてバロージャは優秀な下士官だ。部下たちの信頼は彼に負うところが大きい。 「俺《おれ》は連隊本部に行く。貴様は大隊の兵員を集合させておけ」  レミゾフは声を落ち着かせて告げると、踵《きびす》を返した。  船団の到着は昼頃と聞いていただけに、連隊本部は蜂の巣を突っついたような騒ぎになっていた。連隊長ヴィシネーフスキイ大佐は、叩《たた》き起こされて明らかに不機嫌な様子だった。 「お早うございます。貨物船三隻は、沖合に錨を降ろしました」  レミゾフは挙手の礼と共に告げた。 「そんなことはどうだっていい。それより、君は自分の第一大隊を整列させろ。大方、司令官の査閲がある。万が一のないようにしろ!」  レミゾフは、ヴィシネーフスキイが動転していることに気付いた。確か彼には実戦経験がない。形式が優先される事務畑出身らしい命令である。 「すでに自分の大隊には、集合を命じておきました」 「よろしい。では査閲は君の大隊からだ。問題がないように自分の大隊に戻って、準備を整えろ!」  答礼もそこそこに連隊本部テントを出ると、レミゾフは「さてさて、どうしたものか……」と思案にかられた。沖合に停泊したのは、恐らく水深が足りないのだろう。半分予想していたことではあるが、これでは訓練ができない。本番さながらに、上陸用舟艇で陸揚げすることは可能だが、何せ海岸線が狭い。火砲だけでも数門ずつ陸揚げしていたら、時間がかかってしようがない。  ——かといって、初めての上陸作戦をぶっつけ本番ではやりたくない。  考えが頭を駆け巡るうちに、大隊の宿営地に到着した。 「第一大隊、集合しました。総員異状なし」  先任中隊長のカラトーゾフ大尉が駆け寄って報告した。残る二人の各中隊長も駆け足で集まった。 「服装、装備を点検してくれ。査閲があるそうだ……」 「いいんですか、そんなことをしていて?」  カラトーゾフは心配顔で尋ねた。 「すぐに演習計画の再検討でしょう。我々は陸揚げ準備ではないのですか?」 「連隊長はそうは思っていないようだ」  レミゾフは諦《あきら》め顔で応じた。 「桜木参謀長はここか?」  檜山は札幌第五方面軍作戦室の扉を開くなり、大声で尋ねた。 「はい。ここです」 「参謀長、ちょっと相談があるんだが……」  檜山は眉を掻きながら、小声になった。 「なんでしょう……。私の部屋に行きますか?」  桜木は怪訝そうに檜山を参謀長公室に招いた。従兵を人払いすると、粗末な応接の長椅子を勧めた。 「伺いましょう」  桜木は緊張して尋ねた。 「方面軍の高級将校、少なくとも中佐以上で、英語を使える交渉術に長《た》けた者はいるかな?」  檜山は困惑の表情であった。 「英語が話せる者はいますが、交渉術に長けているとなると……問題ですな。交渉の内容にもよりますが……」 「例の件だ」  檜山は言葉を濁して言った。 「あの件は、外務省関係から出るのではないのですか?」  驚きの余り桜木は膝を乗り出した。 「私もそう考えていたのだが、先程、松岡さんから電話があった。この交渉には軍事的な側面が大きく絡む。軍人の方がいいと言うのだ」 「なるほど……」  応じてはみたものの、桜木は、一瞬、言葉を失った。これは重要な人選である。 「一人思い当たる者がいますが、少し考えさせてください」  桜木はテーブルの一点を見詰め、呟いた。 「その者は?」 「兵器部の上《かみ》出《で》という大佐です……。ですが、もう少し時間をください。何人か候補を出して検討してみます」  檜山は、思い当たる人物がいることに安堵した。兵器部なら引き抜くのには好都合だ。 「わかった。だができるだけ早く頼む。何時、始まるかわからん」  檜山は立ち上がると言った。 「わかりました。急いで人選します」  逆に桜木は沈《ちん》鬱《うつ》な表情に沈んだ。 昭和二十年七月十一日  占《しむ》守《しゆ》島《とう》千《ち》歳《とせ》台《だい》は、また霧に包まれていた。 「これは珍しい!」  綿貫准尉は戦車の下から這《は》い出すと、グリースだらけの右手を腰で拭《ふ》いて差し出した。 「どうしたんだ?」  中島大尉は苦笑してその手を握った。 「師団司令部付きになって、綺《き》麗《れい》好きになられましたね」  綿貫は悪戯《いたずら》っぽく笑った。 「昨日、エンジン調整で試運転していたら、鉄条網の古い奴《やつ》が絡まりましてね、それを取っていたんです」  綿貫は九七式中戦車改のキャタピラを手で叩いた。 「戦車の稼働率はどうだ?」 「まあまあです。ご存じの通り、近頃の女子学生が作る部品は、捩《ね》子《じ》山《やま》の不良や、五角形のボルトなんかざらですがね。……どうしたんです?」  中島の質問に、怪《け》訝《げん》そうな顔をして綿貫は応じた。 「うむ……」  中島は困惑した。確かにいまは師団司令部付きだが、元をただせば、この戦車第一一連隊所属である。綿貫たちとは、ノモンハン以来の苦楽を共にした戦友だし、彼は直属の部下でもあった。ノモンハンでの負け戦は、内地に知られぬように、箝《かん》口《こう》令《れい》が敷かれた。中島や綿貫は、一度も内地の土を踏むことなく、昭和十九年の二月に、この北の僻《へき》地《ち》占守島に転出になった仲間である。  ——話そうか……。  一瞬、迷いが生じたが、すぐに打ち消した。 「師団からの連絡で来たんだ。連隊本部で打ち合わせたら、また幌《ほろ》筵《むしろ》に帰らなきゃならん」 「なんだ、今夜は久々に大尉と飲めるかと思ったのに……」  綿貫は心底残念そうに言った。綿貫は酒を飲み出すと底なしで、満州時代はパイカルを一晩飲んでいたほどの酒豪だった。綿貫の結婚式の晩も、中島は朝までつきあわされて閉口したものだった。中島も弱い方ではないが、綿貫が相手だと、命がいくつあっても足りない。 「悪いな。だが、土産は持って来た。仲間とやってくれ」  中島は肩からかけた雑《ざつ》嚢《のう》から、ウィスキー瓶を覗《のぞ》かせた。中には二本の角瓶が見えた。 「どうしたんですか? 寿屋の角瓶じゃないですか! 本物ですか?」 「この間、方面軍司令官が来たろ。あの時、師団長に持って来たのをくすねた。飲みてぇだろう?」  今度は中島が悪戯っぽく笑った。言葉とは裏腹に相変わらず育ちの良さが薫る、あっさりとして整った顔立ちが破顔した。 「もちろん、飲みてぇ」  燥《はしや》いでいた綿貫は、言った途端、顔色が変わった。 「大尉。やっぱり何かあったね? 水臭い。教えてください!」  綿貫は周囲を見回し、人気がないことを確認すると、戦車の陰に中島を引っ張って行って小声で「教えてください」と懇願した。どうも綿貫には弱い。 「そうか、ばれたか……。だが、まだ誰にも言うなよ。その約束ができるか?」 「もちろん。口が堅いのはお互い様ではないですか?」 「お前の戦車の搭乗員にもだぞ!」 「わかりました」 「実は、戦闘になるらしい……」  中島は苦《く》悶《もん》の表情を浮かべて告げた。 「いよいよですか、やっぱり……」  綿貫は胸ポケットから煙草を出すと、中島にも進めた。中島は一本抜いて二人顔寄せ合って、一本のマッチで火を点《つ》けた。手元が明るく光って、薄暗い霧の中、二人の顔が照らされた。 「方面軍司令官が視察に来た時、きな臭いとは思ったんです。もしかしたらって、噂《うわさ》にはなっていたんですよ」 「確かに、あれは不自然だったな」  中島も認めた。檜山中将は悪天候を押してやって来て、視察と会議が終わると、そそくさと帰って行った。あまりに不自然だった。 「決四号作戦ですか」  准士官の綿貫は訳知り顔で尋ねた。決号作戦とは、米軍の本土上陸を想定した作戦で、一号から四号まで準備されていた。占守島での戦闘は、北海道に米軍が上陸する作戦の前《ぜん》哨《しよう》戦《せん》として考えられ、決四号作戦の中に占守島防衛計画が組み込まれていた。 「いや、相手はアメリカではない」 「えっ」  綿貫は驚いて銜《くわ》えていた煙草を地面に落とした。 「俺たちにとっては仇《きゆう》敵《てき》だよ」 「しかし、中立条約が……」  綿貫は驚きの余りに反問した。 「条約違反をするらしい。他の連合国とは話ができている。八月が危ない」  今度は綿貫に言葉はなかった。 「実は司令部の連絡は口実で、池島連隊長に俺を呼び戻してもらうようお願いするつもりなんだ」  中島は彼方を見詰めて言った。 「だから角瓶は二本見えただろうが、お前には一本だけだ」  綿貫はわざと複雑な顔をした。 「大尉が戻ってくるのは嬉《うれ》しいが、角瓶は惜しいな……」 「俺より角瓶か、お前は!」  やはり綿貫は、どんな時でも変わらない。話したことを後悔しないで済んだことが嬉しかった。 「確かにお前には戻ってもらいたい。その希望は自分にもある」  池島大佐は、中島の話を聴いて即座に言った。連隊本部は千歳台の防御陣地の一番深い位置にある。コンクリートで守られた連隊本部の掩《えん》蔽《ぺい》壕《ごう》の、さらに一番奥に三畳ほどの小部屋がある。それが池島連隊長の部屋だった。 「正直なところ、貴様に中隊を任せたい」  池島は一言一言、言葉を吟味するように応じた。その言葉は一つ一つコンクリートに反響していた。 「連隊長、この際、お世辞は結構であります。自分を原隊に復帰させていただければそれでいいのであります。処遇など、この際問題ではありません」 「お世辞ではない。連隊が全滅するかもしれん。死ぬかもしれん。そんな時に、信頼できる人間はそうたくさんいるものではない」  池島は粗末な連隊長室の薄明りの中、これもまた粗末な木机に身を乗り出した。 「だからこそ、ご一緒させてください」 「気持ちはわかる。だがな、中島大尉。近代戦車戦は戦車だけで戦うものではない。随伴歩兵と火力支援、航空支援が必要だ。貴様を師団司令部から引き抜くのは願ったり適《かな》ったりなのだが、問題は、誰がいまの貴様の代わりをやるかだ」  池島は椅《い》子《す》に座り直すと、腕組みをして考え込んだ。時間は容赦なく流れ、黴《かび》臭《くさ》い空気はなお一層重く垂れ込めた。 「貴様は、ノモンハンで、実際にソヴィエト軍と戦って生き残った数少ない将校だ。違うか?」 「そうであります」 「理論や理屈が、戦場では役に立たないことも知っているな」 「その通りであります」 「俺に命令する奴は、俺と同等、またはそれ以上の人間でないと困る。貴様も知っての通り、今度の作戦はかなりの困難が予想される。特に我が部隊にとっては厳しい。生還は期し難い。だからこそ、師団司令部の参謀たちの言うことだけ、はいはいと聞いて部下を死なせたくない。さらに言えば、部下が死ぬだけならまだいい。北海道に敵を上陸させることになったらそれこそ俺たちは犬死にになる」  池島は立ち上がると、机を回り込んで歩み寄って来た。 「俺たちがやろうとしているのは、指し直しの利かない将棋なのだ。我が戦車第一一連隊はその駒《こま》に過ぎん。指し手は師団長だ。師団長の側で、作戦にけちをつけてくれ。これは死地に赴くより厳しい任務となるだろう。貴様にしか頼めん」  裸電球の下、池島の顔が苦悶に歪《ゆが》むのがわかった。 昭和二十年七月十三日  市ヶ谷の大本営陸軍部の建物は、激しい雨に煙っていた。梅木参謀総長の部屋には、河本参謀次長と第六部長有吉中将、対ソヴィエト情報担当の重森中佐が詰めていた。  梅木は後ろ手で窓外を向き、降りしきる雨に見入っていた。細い背中が今日は一層小さく見える。 「以上の理由から、シベリア鉄道の輸送は完了したと見るのが妥当と判断致します」  応接の長椅子に座った三人の中で、最も若い重森中佐は、報告書に眼を落としたまま、言葉を結んだ。テーブルには冷えた麦茶が並んでいたが、誰も手を付けていなかったし、手を付けようとする者もいなかった。 「それは例の川西情報かね?」  河本参謀次長は静かに尋ねた。 「川西情報を元に、ウラジオの情報筋で確認を取りました。確度は高いと信じます」  重森中佐は緊張して、銀縁眼鏡と姿勢を正した。 「私はね、重森君」  梅木は雨を見詰めたまま口を開いた。声はあくまでも静かで、抑揚を失っていた。 「ソヴィエトが君や外務省の言うように、簡単に参戦するとは考え難《にく》いのだよ」 「おっしゃる意味は理解しております。しかし、動員下令は事実であります」  重森の言葉に梅木は振り向いた。声とは裏腹に表情は険しく、怒気を含んでいることが一目でわかった。河本参謀次長も有吉中将も一瞬にして緊張した。 「仮にだよ、これはあくまでも仮定論だが、この動員下令が、米英に対する素振りだったらどうかね? 精々演習を目的とするものだったら、どうかな?」 「はあ……」  重森は完全に威圧され、返答に窮した。 「我々が動員下令に敏感に反応したらどうなる? 日ソ間の緊張状態が高まるとは思わんか?」  有吉中将は、話の流れが逸《そ》れ始めたのに気付いていた。対外情報を統括する第六部では、多方面から入ってくる情報で、ソヴィエト参戦はもはや時間の問題と解釈していた。 「では、参謀総長は、対応を行わない方針なのでありますか?」  有吉は冷静さを保ち、言葉を選んだ。 「有吉君、いいかね。君は知らないだろうが、いま日本はソヴィエト政府を通じて和平の仲介を行おうとしている。ここで動員下令に対応して、こちらが戦備を整えているという情報が流れたらどうなる。和平の機会は永遠に失われるかもしれないのだよ。東郷外相の外交交渉が破《は》綻《たん》するとは思わんか」  梅木は少しずつ語気を強めた。参謀総長室は、益《ます》々《ます》鋭い空気に包まれた。 「いまは、和平のために我慢すべき時ではないかね……。異論があれば聴こう」  梅木は決然と言った。  有吉の心に、ノモンハンの記憶が過《よ》ぎった。事変の勃《ぼつ》発《ぱつ》当初から、参謀本部や関東軍幹部は、ソヴィエト軍の兵力と意図を読み違えた。よくある国境紛争の限定作戦と考えて、日本軍は兵力の逐次投入を行い、いたずらに損害を拡大した。当時、関東軍の一連隊長であった有吉は、ノモンハンの作戦指導に直接かかわっていた訳ではない。だが、出動した同僚の連隊長の、悲惨な結末を目の当たりにする結果となった。  ——ソヴィエトの本格的南下政策でなければよいのだが……。  有吉は不安を拭《ぬぐ》い去ることができなかった。 昭和二十年七月十七日  早朝だった。第八八師団情報参謀は、粗末な寝台で、深い眠りに入ったばかりだった。それでも、くぐもった電話のベルは、眠りを覚ますに充分だった。 「はい。宮《みや》越《こし》中佐」 「作戦室です。〇《マル》四《ヨン》一《ヒト》二《フタ》時、第二六監視哨《しよう》より報告。『ソ連軍の機甲部隊、国境に向かい南下中』であります」  靄《もや》の張り詰めた宮越の思考は、俄《にわ》かにはその言葉の意味を理解し難かった。連日、情報整理で残業していた宮越は、今日も三時半まで執務し、疲れ切っていた。数秒を経て、言葉の意味を噛《か》み締めた宮越は、驚きのあまりに跳ね起きた。 「いま何時だ?」 「〇《マル》四《ヨン》一《ヒト》五《ゴー》時であります」 「その情報の確認は取ったか?」 「はい」 「他の監視哨は?」 「第一四、第三二、第三五監視哨から同様の報告が入っています。それぞれ確認済みです。いま第八監視哨からも報告が入ってきました」  当直将校の若い中尉は、緊張のあまり声を震わせていた。 「師団長には?」  宮越は寝台から足を下ろし、座り直しながら尋ねた。 「お伝えしました。即時、幹部の作戦室集合を下令されました」 「よし、すぐ行く。それまでに第五方面軍司令部に報告しろ。必ず確認を取れ。いいな!」 「はい。確認、取ります!」  宮越は電話を切る時、初めて手が震えているのを知った。深夜の作業の疲れから、幸運にも短《たん》袴《こ》とシャツを着たままだった。おぼつかない手で長靴を履くと、投げ捨ててあった三式軍衣と略帽、軍刀を引っ掴《つか》み、自室を飛び出した。  宮越の所属する第八八師団は、司令部を南樺《から》太《ふと》の豊《とよ》原《はら》に置いている。日露戦争終結の講和条約(ポーツマス条約)で、北緯五十度線以南の領有が決まって以来、国境防備部隊の司令部は豊原に置かれていた。国境線から南に約二百キロ。王子製紙の工場がある敷《しす》香《か》の南百五十キロに位置し、小さな平野部の北側に位置している。極寒の地だけに、冬場は雪に閉ざされることが多く、風が吹けばブリザードになる。夏は藪《やぶ》蚊《か》が多く、住み易い所ではない。  宿舎を飛び出すと、宮越は作戦室のある隣の建物に飛び込んだ。驚いたことに、『昼《ひる》行《あん》灯《どん》』と渾《あだ》名《な》されるほど、おっとりした性格の参謀長、須《す》崎《ざき》大佐がすでに待ち構えていた。 「ご苦労。すでに国境線のほとんどの監視哨でソ連軍南下を捕らえている。かなりの大部隊だ。オノールからも狙《そ》撃《げき》部隊が南下を始めたらしい。現在、国境まで五キロだ」  須崎大佐は静かに告げた。興奮の極にある作戦室にあって、須崎だけが冷静さを保っているように見え、宮越は驚きと共に安《あん》堵《ど》感を覚えた。不測の国境紛争は、興奮から生まれる。 「各部隊への警報は?」  奥の師団長室から現れた、険しい表情の峰《みね》岸《ぎし》中将が尋ねた。 「〇《マル》四《ヨン》一《ヒト》五《ゴー》時、師団全部隊に対し、非常呼集を発令しました」  須崎大佐は振り向きざまに敬礼し、穏やかに報告した。 「宮越中佐。意見を聞きたい」  峰岸は軍装の乱れを正しながら尋ねた。 「これは演習と思われます。指揮下の各部隊に暴発に対する警告が必要と考えます」 「なるほど。その根拠は?」  峰岸は略帽を正した。 「本格的侵攻作戦なら、最初に空爆、続いて砲撃があると思われます。これは本格的侵攻を意図した準備演習か、我が軍に対する挑発行動と思われます」  宮越が答える間に、通信兵が直立不動で待っていた。峰岸は頷《うなず》いて通信文を手にすると、 「ご苦労」  と、兵を労《ねぎら》った。 「諸君。第五方面軍からの命令だ。『第八八師団は、警戒体制を維持し、待機せよ。くれぐれもソ連軍への挑発行動は避けること。防衛戦闘に限り、この限りではない』である」 「慎重に対処しろということですな」  須崎大佐は苦《く》悶《もん》の表情で呟《つぶや》いた。第五方面軍とすれば、これ以外の命令を下すことはできない。しかし、この命令では現場指揮官の判断が優先される。些《さ》細《さい》なことで脅威を感じてしまえば、紛争は勃発する。 「これでは、万が一、敵が国境を突破した場合、我々は後《ご》手《て》に回ることになる。国境から五十キロの地点には、民間人が多数居住する敷香がある。どうしたらいいかな」  峰岸は明らかに焦りの色を濃くしていた。 「第一二監視哨より報告! 『ソ連軍、国境線まで三キロの地点に到達』」  右往左往する司令部要員が告げた。 「ここは慎重に……」  須崎大佐は戦況盤を見入りながら、言葉を選んだ。宮越も息を呑《の》んだ。第八八師団は防衛態勢が整っていない。敵の進撃を遅らせるための防御支援砲撃を開始するのなら、いましかない。 「関東軍から何か情報は?」 「第五方面軍が転電を怠っていない限り、いまのところなにも……」  峰岸はすでに緊張の極にあった。ソヴィエトと日本との戦端は彼の手中にある。その声は微《かす》かに震えている。 「命令! 『第八八師団指揮下全部隊に告ぐ。別命あるまで攻撃を禁ず。歩兵第三〇六連隊、山砲および輜《し》重《ちよう》兵第八八連隊は速やかに豊原駐屯地を進発。上敷香に進出し、別命を待て』。各部隊、命令伝達後、確認を取れ!」  国境という緊張地帯では、たった一発の銃弾で戦争が勃発する。しかも、第五方面軍の檜山司令官は、早晩戦争は起こると言った。  ——が、いまは駄目だ。  北緯五十度の国境線以南は防御の拠点とする地形が少ない。ソヴィエト軍から見れば敷香平野は末広がりで、攻撃にはうってつけの地形なのである。  峰岸には悲痛な思いがあった。指揮下、第八八師団の防御陣地構築、弾薬食糧等の備蓄が、予定より大幅に遅れているからである。特に陣地構築資材、中でもコンクリートの不足は問題だった。陣地は防御の要であり、攻撃時には起点となる。穴を掘っただけの塹《ざん》壕《ごう》や蛸《たこ》壺《つぼ》陣地は、敵の砲爆撃には耐えられない。コンクリート製の掩《えん》蔽《ぺい》壕が不可欠である。だが、コンクリートを始めとするあらゆる物資は、本土決戦準備のための陣地構築に廻《まわ》された。現在、防御陣地の構築は予定数の二割に満たない。  ——暴発せんでくれ……。 『暴発』とは組織的なものではなく、まさに一発の銃弾の暴発である。峰岸だけでなく、師団司令部幕僚の思いはそこに至っていた。『時として兵士は銃の一部になる』と言われるからである。  軍では兵士に対し、武器の取り扱いに関しては徹底的な訓練を行う。あらゆる状況下で作戦を遂行でき、なおかつ事故を防止するのが目的である。しかし、極度の緊張状態が長時間に及んだ場合、訓練された兵士ほど、本人の意思とは関係なく、引き金を引いてしまう事故が発生する。  国境の監視哨は友軍の兵営から遠く、隔絶している。しかもそれぞれの監視哨は二キロから四キロの間隔があり、一つの監視哨には分隊単位の兵が三交替勤務に就いているだけである。ソヴィエト軍が南下を開始すれば、抗する術《すべ》はない。全滅あるのみだ。  ——その緊張感が事故を生んだら……。  宮越も心中、祈るような気持ちだった。 「第八監視哨より報告であります! 『ソ連軍、停止しました。繰り返します。ソ連軍先《せん》鋒《ぽう》、国境線まで二キロの地点で停止』」 「なに!」  衆人の視線は報告文を読み上げた軍曹に集まった。 「第二二監視哨から報告。『ソ連軍停止。地点、国境の北二キロ』」  堰《せき》を切ったように、報告が雪崩《なだ》れ込む。宮越は、師団幹部に張り詰めていた緊張が、一気に解けるのを肌で感じた。 「各監視哨に伝達せよ。『なお、警戒を厳にせよ』」  峰岸は、傍らに置かれていた粗末な木製の椅《い》子《す》に、崩れるように座り込んで、憔《しよう》悴《すい》した顔を右手で覆った。訓練には目的がある。これは侵攻を意味している。  ——いずれ来る。これで疑いは現実のものとなった。  峰岸は軍人を志して以来、戦うことを恐れたことはなかった。戦争は勝つ時もあれば負ける時もある。そして作戦という観点では、負け戦が必要な時もある。それが我が身に降りかかったとしても、すべては祖国のためである。それがご奉公と考えていた。  だが、この樺太で間もなく起こる戦いは、綺《き》麗《れい》事《ごと》では済まない。南樺太は日露戦争以来四十年間、日本が領有している。林業、水産業、製紙業などの企業が進出して来た。入植者も多く、広大な南樺太に点在している。戦闘が始まれば、南樺太全域が戦場になることは間違いない。だが居留民の避難を行うには、内地に運ぶ船がない。居留民を保護するための、食糧、医薬品などの物資もない。ソヴィエト軍が侵攻するとの情報が漏れただけで、居留民は避難のため混乱する。防衛計画に支障を来すことは間違いない。したがって、第八八師団は、戦うために国民を犠牲にしなくてはならない。 「この戦いだけはしたくない……」  疲労と苦渋と困惑に満ちた表情で、峰岸は声にならない言葉を呟いた。 昭和二十年七月二十日  占《しむ》守《しゆ》島《とう》のまだ明け切らない朝《あさ》靄《もや》の中、片岡の飛行場では、懐中電灯の明りが交錯していた。広漠たる周囲の風景も、広大な飛行場も、白いベールのような朝靄に隠されていた。北部太平洋の防衛拠点として整備された片岡基地飛行場は、大型爆撃機も展開できる規模を誇っていた。 「今日はいい天気になりそうですね」  と、欠伸《あくび》の果てに指揮所前で声をかけたのは、海軍北東航空隊北千島派遣隊の、吉井基《もと》行《ゆき》少尉だった。 「気象班の報告では、久々に晴れるそうです。北北西の風、風力三だそうです。飛べるならまさに飛行日和《びより》ですな」  陸軍飛行第五四戦隊の中尉、成《なる》瀬《せ》勝は笑顔で答えた。片岡基地は当初より陸海軍が共同使用し、北東航空隊北千島派遣隊と飛行第五四戦隊は、共に第九一師団指揮下にあった。 「飛びたいですね」  一見、草原のように見える飛行場の雑草を蹴《け》り飛ばして、思わず吉井が呟いた。十日前より飛行禁止命令が出され、陸海軍問わず航空兵は、地上待機が続いていたのである。これ程長い地上待機が続いたのは、吉井も成瀬も初めてであった。六日前には敵潜水艦出現の報が届いたが、不思議なことにかたくなにこの命令は守られた。『九七式艦上攻撃機』を使う吉井にとっては、地団太を踏む結果となった。 「そうだな。これでは身体《からだ》が鈍《なま》ってしまう。訓練できなければ腕も錆《さ》びる」  成瀬もぼやくしかなかった。成瀬の飛行第五四戦隊には、別の憂いがあったからだ。アッツ島の失墜以来、米軍は同島に飛行場を建設。B‐24、B‐25を中核とする第一一航空軍の二個飛行隊二十四機の爆撃機を進出させ、占守島への圧力を加えていた。昨年八月には中隊単位での爆撃が行われ、すでに時代後れとなった『隼《はやぶさ》三型甲』を装備する飛行第五四戦隊は、苦しい防空戦を展開した。  ——また、爆撃が再開されたら……。  成瀬にはその思いが強かった。米軍のB‐24、B‐25は堅《けん》牢《ろう》な構造の上、防弾が完全であった。十二・七ミリ機銃を二門しか持たない『隼三型甲』の一撃では、何の効果もなかった。しかも、B‐24、B‐25は重武装爆撃機であった。B‐24は一機あたり十二・七ミリ機銃を十門、B‐25は一機あたり十二・七ミリ機銃を十二門装備している。九機編成の中隊が密集編隊を組むと、九十門以上の機銃が周囲に弾幕を張ることになる。うっかり接近すると、防弾装備のない『隼三型甲』の方が返り討ちに遭うのである。九月十二日の戦闘では、味方の一機が敵の一機に体当たりを敢行し、編隊を崩すことに成功。結果的にB‐24二機とB‐25七機を撃墜した。以降、米軍は恐れをなしたのか、爆撃には現れなくなった。  ——あの時は幸運だっただけだ。  成瀬は、朝靄の彼方《かなた》に記憶を辿《たど》っていた。次に米軍が来る時は、何があっても決して編隊を崩さないだろう。しかも、防弾が完全に施された機体に対し、当たっても炸《さく》裂《れつ》しない十二・七ミリ機銃の機銃弾は、豆鉄砲にも等しい。弾幕を掻《か》い潜って、一撃で操縦系統を破壊しない限り、迎撃は不可能である。それには卓越した操縦技術が求められる。 「飛ばなければ駄目だと言いたげだな」  飛行第五四戦隊の中隊長、板倉和《かず》平《ひら》大尉が指揮所から声をかけた。 「当然であります」  きっぱりと言い放つ成瀬は、憮《ぶ》然《ぜん》とした表情だった。 「全機、暖機運転、かかれ!」  背後で飛行場大隊の曹長が号令をかけた。九七式艦上攻撃機四機、隼三型甲四機、計八機の発動機が一斉に回り始めた。それが飛行第五四戦隊と北東航空隊北千島派遣隊の全機であり、千島の空を守る戦力のすべてである。 「暖機運転ばかりで、もう十日も愛機に乗っていません。試験飛行すらしていません。お願いします。今日こそは飛ばしてください」  成瀬は指揮所の一段高くなったテラスに立つ板倉に懇願した。 「だめだな。お前の飛びたい気持ちはよくわかる。だが、飛行を禁じているのは方面軍だ。俺《おれ》や戦隊長ではどうにもならん」  板倉は大きな身体の肩を落とし、済まなそうに言った。指揮所前には操縦士のほか、九七式艦上攻撃機の偵察員と電信員を務める者たちも、成瀬の声を聞きつけ三々五々集まり始めていた。  六日前の敵潜水艦出現以来、陸海軍の両部隊に、不満の声が高まっているのを板倉は承知していた。緊急発進に備えた待機ばかりで、何もすることはないのである。逸《はや》る気持ちを抑えるには、彼等は若すぎる。だが方面軍、師団司令部とも、来るべき戦闘に関し、箝《かん》口《こう》令《れい》を敷いていた。彼等にとって、我慢には理由が必要である。  ——そろそろ限度か……。  と、板倉は思いが至った。このままでは士気に影響する。 「皆も聞いてくれ」  板倉は大きな声で叫んだ。 「方面軍は近々、この北千島方面で敵の大規模な作戦が予定されていると考えている。我が飛行第五四戦隊と、北東航空隊北千島派遣隊は、この敵作戦に備えて機体の整備と休養に努めよとの命令である。いまは、いまこそは、飛びたい気持ちを堪《こら》えて欲しい」  途端に、指揮所前の飛行服を身に付けた十六名は騒然となった。 「それは、空襲ですか? 艦砲ですか? 上陸ですか?」  誰もが口々に叫んだ。あまりに騒然となったため、飛行第五四戦隊長と北東航空隊北千島派遣隊長も指揮所の中から出て来た。 「静かにしろ! 板倉大尉、私が代わろう」  飛行第五四戦隊長で実質両飛行隊の指揮を執る陸軍の井《い》崗《おか》大佐が指揮所前に進んだ。井崗は立派なカイゼル髭《ひげ》を蓄え、頬《ほお》に縦五センチほどの縫い傷があった。ビルマ戦線の戦傷らしい。その面容には誰もが、威圧感を感じていた。 「もう少し集まってくれ。これから話すことは軍機に属する」  さすがの若い搭乗員もこの一言に沈黙した。 「確度の高い情報によると、近々、敵の攻勢が予想される。詳細はいまのところ不明である。我が飛行第五四戦隊と北東航空隊北千島派遣隊は、戦力としては八機しかない。敵の攻勢が開始された場合、我々は先陣を切って敵を撃退するため出撃せねばならん。一機の地上待機機も出してはならん。飛行禁止はそのための措置である」  井崗は腹から絞るような声で言った。 「質問があります」  突然、海軍の若い一飛曹が手を挙げた。 「我々北千島派遣隊には、航空魚雷がありません。万一、敵が艦隊の場合、どのようにすればいいのですか?」  井崗はこの若い搭乗員のことはよく知らなかった。少し考えて、確か電信員のはずであることを思い出した。 「近々とはいつ頃ですか?」 「燃料弾薬の備蓄は充分なのですか?」 「敵艦隊なら先制攻撃を……」  一飛曹につられて、全員が口々に声を上げた。 「ああ、待て待て」  北千島派遣隊の隊長、宮松勇《ゆう》汰《た》少佐が止めに入った。井崗に比べ、現役の操縦員なだけに、宮松は小柄で痩《や》せていた。空母加賀の生き残りであり、搭乗員の信望も厚い。 「まず始めに言っておかなくてはならないことがある。本当に敵の来攻があるかどうかはまだわからん。そのような情報があるだけだ。話だけで軽挙妄動は慎んでもらいたい」  宮松は敢《あ》えて指揮所の階段上に立ったまま、高みから見据えていた。 「敵勢力も現時点では不明である。弾薬だが、名和一飛曹の言うように航空魚雷はない。実は対艦船用徹甲爆弾もない。九七式に搭載できるのは、陸用爆弾しかない。数日前の輸送船団で補給を受ける予定だったが、三隻の輸送船のうち二隻を失い、燃料以外適《かな》わぬこととなった。当分の間、内地からの補給はない」  宮松の視線は、一人ひとりを射抜いたので、ざわめくことはなかった。だが、宮松の眼にも、不安感が広がっているのが見て取れる。 「戦艦や巡洋艦のような厚い装甲は貫けない。確かに航空魚雷や対艦船爆弾を装備すれば、敵艦を撃沈できるかもしれない。しかし、陸用爆弾でも敵艦船に損害を与えないわけではない。上部構造は損傷を受ける。損傷すればその敵艦船は戦列を長期間離れることになる。これが重要なのだ。いまの日本は、そしていまの我々は、手段を選んでいられないのだ。万一、戦いになった場合、それは国土そのものの防衛となる。恐らく激しい戦闘となるだろう。激しいが短時間の戦いになるだろう」  滑走路の周辺に分散配置され、掩《えん》蔽《ぺい》壕《ごう》に隠された隼や九七艦攻のエンジンが、次々と運転を停止した。暖機運転が終了したのだろう。  出撃となれば、この多くの搭乗員が帰って来ないことを、井崗は体験的に知っていた。練度甲と言われる熟練操縦員など、この陸海軍合同隊にはいない。宮松ですら飛行時間は八百時間を少し超えた程度である。開戦当初のように、劣勢を練度で補って戦うことなど、夢のまた夢である。しかも、彼等の乗る隼三型甲や九七艦攻は世界のレベルから見ればすでに二流以下の性能になっていた。「戦え」と言うことはすなわち「死んでくれ」と言うことを意味していた。両飛行隊を預かる井崗にとって血を吐く思いがそこにあった。したがって恰《かつ》幅《ぷく》がよく、豪胆で知られる井崗も、この数日、言葉が少なく塞《ふさ》ぎがちだった。 「短時間の戦いとはどういう意味でしょう?」  名和一飛曹が尋ねた。 「北海道からは、その防衛のため、また、輸送手段の問題で、ここに兵力を増派することができない。敵が上陸したとしても、戦略的持久はじり貧でしかない。方面軍も九一師も、いまは占守の戦いを短期決戦と考えている。短時間に戦力を集中し、敵に甚大な損害を与えるのが目的である。それを理解してくれ」  宮松は静かに言葉を結んだ。旧式戦闘機四機と旧式攻撃機四機で、どうすればそれが可能なのだ、という疑問が声を細らせた。 「諸君に敢えて言う……」  そこで井崗が割って入った。 「攻撃の妙は、反復にある。我々の場合、その短期決戦中に、延べで何機の兵力を投入できるかが問題だ。搭乗員だけでなく飛行場大隊も含め各員、いかにして航空機の反復攻撃の回数を増やし、地上での時間を短縮できるか研究してもらいたい。英雄的攻撃が行えたとしても、愛機が次回の攻撃に参加できない機体となれば、それは論外である。作戦実施中の体当たりは禁ずる。持てる兵力が少ないのだ。許可なく戦死は認めない。いいな!」  井崗の声は、晴れつつある飛行場に凜《りん》と響いた。 「問題は……」  柳島参謀長は言葉の途中で逡《しゆん》巡《じゆん》した。杉原、佐賀両旅団長の視線が、一瞬にして集まるのを両頬で感じた。永原師団長は、柳島の傍らで、相変わらず腕を組み、眼を閉じたまま微動だにしない。柳島は間を取るために机の上の湯飲みに手を伸ばし、冷めた番茶を一口啜《すす》った。 「問題は、敵兵力が依然判明しないことにあります。敵が占《しむ》守《しゆ》、幌《ほろ》筵《むしろ》の両島に同時上陸を敢行した場合、幌筵が手薄になることです」 「第五方面軍からその後、敵兵力に関する情報は届いていないのかね?」  幌筵の防衛を担当する、第七四旅団の佐賀少将が尋ねた。 「まだ、来ていません。問い合わせてもみましたが、その情報は入っていないとのことです」  久方振りに晴れ渡ったため、師団長室の窓からは眩《まぶ》しすぎるほどの太陽が見えていた。しかし、それに反して、室内には重苦しい沈黙が支配していた。 「どう考えても、両島同時上陸となると苦しいな。果たして、敵の侵攻兵力に打撃を与えるまでいきますか……」  佐賀が呟《つぶや》くと、さらに空気は重くなった。 「問題は砲兵の展開ですな……。我々に与えられた航空兵力は第五四戦隊と北千島派遣隊だけですからな。火力の点で……」  杉原が追従した。火力は野戦の勝敗を左右する。ソヴィエト陸軍は日露戦争敗戦の教訓を踏まえ、火力の充実に力を入れて発展してきた。ノモンハン事変や対独戦争を経て、その火力の充実度は、眼を見張るものがある。しかも、上陸作戦を敢行する以上、海軍の護衛艦艇が随伴することは間違いなく、この艦艇の火力も計算に入れなくてはならない。反面、第九一師団は、二つの島に砲兵を分散配置しなくてはならない。砲兵の支援なしに陣地を死守するなど、絵に描いた餅《もち》にすぎない。 「極東方面のソヴィエトの海運に関する情報は分析したかね?」  永原は眠りから覚めたように大きく伸びをして立ち上がった。柏原の師団司令部は幌筵島の北東に位置する。なだらかな丘の東南麓《ろく》に位置し、師団長室の窓は東、西、南に向いている。景色はよいが、緯度が高い幌筵では太陽は天空を低く移動する。西に傾きつつある太陽は大きく眩しかった。 「第五方面軍も、我々九一師でも分析はしてみました。しかし、樺《から》太《ふと》での戦闘が先になるのか、それとも千島での戦闘が先になるのか、それとも同時多発侵攻作戦を採るのかによって、敵の船舶の使い方が変わります。同時に侵攻作戦が開始される場合は、千島には回せる船舶量が大幅に制限されますから、恐らく一個旅団強。樺太が先に侵攻される場合は大目に見積もって、二個機械化師団が限界かと考えます。千島への侵攻が先になった場合、船舶にかなりの余裕が出ますので、三ないし四個機械化師団の輸送が可能になります」  柳島は資料を繰りながら、俯《うつむ》き加減で答えた。上陸作戦は上陸軍の輸送船舶以外に、弾薬、食糧などの物資や補充兵員を乗せた後続の船舶が必要になる。作戦がどの順番で行われるかによって、船舶の輸送量は変わってくる。自ずと兵力も増減するのである。 「四個機械化師団となると、砂浜が多く上陸が容易な占守に三個師団。浜の少ない幌筵に一個師。これが妥当なところでしょう。占守を先に片付けるのが定石かと考えます」  杉原が自身のことだけに、暗い表情で所見を述べた。 「ふむ。ソヴィエト軍の一個機械化師団は、火力の点で言ったら我が軍の一個師一個旅に匹敵すると見なくてはならん。幌筵としても、そう長く維持できるわけではないし、占守に増派できる余裕はないでしょうな」  それが現実なのだ。そう思った佐賀は、淡々と応じるしかなかった。 「では、もう一度、諸君の意見を確認しておきたいのだが……」  永原は向き直って机の上の作戦図を遠目に見詰めた。 「樺太が先……。または、樺太と千島の同時侵攻作戦が行われた場合、我が守備範囲では、敵上陸は占守島と判断している……。これに異存はないな?」  三名ともゆっくり頷《うなず》いた。 「第五方面軍司令官の発案通り、機動作戦は可能なのだな?」 「可能です。しかし、訓練するほど燃料に余裕がないため、どれほど短時間に戦車および火砲を移動できるかわかりません。もっとも、敵海軍によって速やかに海上封鎖が実施されれば、輸送は不可能ですが……」  柳島は事務的に応じた。 「両島同時侵攻となった時は、機動作戦を捨てねばならん。方面軍の指導ではあるが、我らは持久に持ち込み、できるだけ多く敵の出血を強いるしかない。そのためには戦車第一一連隊に戦車壕の強化を命じてくれ。それから、海軍も含め後方の各部隊に、歩兵戦闘の教練を強化するよう指示してくれ」  永原は付け焼き刃の訓練で、何程のことができるかとは思ったが、それしか言えることはなかった。いまとなっては、日本民族が分割されるか否か、その命運を自分が背負っていることに苦《く》悶《もん》するしかなかった。 昭和二十年八月八日  佐田尚武は、約束の時間に遅れそうなことを気にしながら、ずっと車外の風景を見ていた。ソヴィエト外務省からの電話がきたのは、三十分前だった。余りに突然の呼び出しで驚くと同時に、不吉な予感が脳裏を過《よ》ぎった。  ——ついに来たか……。  車がグム百貨店を過ぎ、赤の広場に出た途端、クレムリンが浮き上がり、佐田は伸しかかるような威圧感に圧倒されそうになった。  ——あの建物はいつ見ても好きになれんな……。  城壁に守られ、回教寺院のような塔を持つ様式は、ロシア人の思考と同じく理解の限界を超えていた。佐田は、大使として日ソ中立条約と和平交渉仲介の問題に従事してきたこの四ヵ月で、ロシア人の考え方が理解できなくなっていた。同時に、外交官としてこれまで持っていた自信も尊厳も、打ち砕かれた。  ——予想していることならば……。  クレムリンの門でタマン親衛隊の将校に身分を改められる間、ぼんやり外を眺めながら佐田は心中呟いた。私にこの務めは荷が重すぎたのかもしれない。それもこれで解放される、と考えると、どこか気分が楽になるような気がした。  帝政時代、武器庫として使われていた建物の前に車が滑り込むと、大理石造りの玄関前で警備兵が素早く車の扉を開けた。 「外務大臣がお待ちです。ご案内致します。どうぞ」  警備将校が慇《いん》懃《ぎん》に告げた。「スパシーバ」と佐田が応じたが、その将校は何も応《こた》えず先立った。  建物の中は微《かす》かな黴《かび》の匂《にお》いが漂っており、華美ともいえる装飾と、あちこちに置かれた古めかしい美術品の威圧感もあって、息が詰まるようだった。  ——人民の政府の中枢、政治局と閣僚室があるというのに、誰もこの矛盾を感じないのだろうか?  駐ソ大使着任の挨《あい》拶《さつ》で初めてこの建物に入った時、確か、そのようなことを考えた記憶がある。あの時は自分でも自信に満ちていた。 「こちらで大臣がお待ちです。どうぞ」  警備将校は三階の南側、観音開きの扉の片側を開き、手で示した。中は二十畳ほどの大臣秘書官室で、その左手の扉の前に秘書が立っていた。 「大臣はこちらです。お入りください」  秘書は、普段のように時候の挨拶もなく、態度もいつになく事務的である。室内に入ると執務机に向かうモロトフに素早く挨拶した佐田だったが、これも見事に無視された。 「そちらにおかけください、大使」  モロトフは、一《いち》瞥《べつ》もくれず書類に眼を落としたままだった。佐田は通訳を左に従えて、モロトフの正面に置かれた椅《い》子《す》に浅く腰かけた。  ——もはや、用件はわかった。だからいいだろう。帰らせてくれ。  佐田の心は叫び続けていた。破局のための時限爆弾はもう見えていた。しかし、モロトフはなかなか顔を上げない。もったいぶっているのが、佐田にはすでにわかっていた。モロトフはそういう男だ。 「さて……大使」  たっぷり五分は間を取ったモロトフが、ゆっくりと顔を持ち上げた。銀縁の眼鏡の端が、微かにスタンドの柔らかな光を反射した。 「我がソヴィエト連邦政府は、貴国政府に対し、残念なことをお伝えしなくてはなりません」  モロトフは一点の曇りもないその眼鏡を外すと、傍らのフェルトで擦《こす》り始めた。本当にこの男はもったいぶる男である。佐田はいつになく冷静な自分に気付き、驚きながらも彼を観察していた。 「遺憾ながら我が国は人民の名において貴国政府との国交を断絶する旨、お伝えしなくてはなりません」  左脇《わき》の椅子に腰かけた大使館の通訳が、一瞬の絶句の後、震える声でモロトフの言葉を翻訳した。しかし、この時も佐田は冷静だった。「やっぱり」という想《おも》いしか胸にはなかった。 「加えて……」  モロトフは眼鏡をかけ直しながら、自分の言葉が最大の効果を示すための間を取った。 「ソヴィエト連邦政府は貴国に対し、宣戦を布告することをお伝え致します。詳細はこの覚書きに記されています。なお、同文のものは、我が国の駐日大使ヤコブ・マリクを通して、貴国外務大臣に渡すよう、先程訓令を発しました。なお、貴国大使館は本日深夜十二時をもって閉鎖致します。ご了解ください」  モロトフは佐田に、冷たい視線を鋭く投げかけた。通訳は余りの内容に、緊張の極に至ったのかしばらく言葉もなかった。震える言葉が終わるのを辛抱強く聞き入っていた佐田は、改めてその小柄な身体《からだ》を硬直させた。  ——できることなら、この場に居合わせる人物は、私以外の者であって欲しかった。  最初に浮かんだ言葉はそれだった。すると、どこからともなく不思議な感覚が身を包んだ。気付くとそれは微笑《ほほえ》みとなってモロトフを見詰めることになった。当然のこととしてモロトフは驚きの表情を浮かべた。 「いかがしました? 大使」 「いえ。大したことではありません。シェークスピアの言葉を思い出しただけです」 「良ければお聞かせ願いませんか、その言葉を……」 「ええ、構いませんよ。『誠実でない友があるより、むしろ敵があれ』という言葉です」  さすがのモロトフも自身の通訳を通して聞いた瞬間、顔色が一瞬にして変わった。白人種は肌の色が白いだけに、佐田には滑《こつ》《けい》に見えた。 「なるほど。心情はお察し致します」  モロトフは長い沈黙の後に言った。 「貴国政府の通告を東京に打電する外交官特権は認めていただけるのですか?」 「もちろん差支えはない。大使は平文でも暗号でも打電する自由を持っている。もっともこの宣戦布告文は、マリク駐日大使からも日本政府に伝達されることになってはいるが……」  モロトフは即座に答えた。 「では、三年間の厚遇を謝して、握手をして別れましょう。恐らく、最後の握手だろう」  佐田は最後に立ち上がると手を差し出した。 「ではさようなら。戦争は早急に終わるであろうが……」  モロトフはその手を握ると、一瞬の油断から失言した。佐田の眼がきらりと光った。 昭和二十年八月十一日 「なぜだ?」と、しか言いようがなかった。この二日、檜山はその言葉ばかりを呟《つぶや》いていた。八月九日未明、日ソ国交断絶と、ソヴィエトの宣戦布告の報に触れ、覚悟していたことが現実になったことを実感した。それに続いて「ソヴィエト軍、満州国境を突破」の報が届いた。案の定、関東軍は為《な》す術《すべ》もなく、各所で敗退し、潰《かい》走《そう》していることも知った。心臓を誰かに掴《つか》まれたような不安感と、両足に鉛のようにぶら下がった重苦しい緊張感が、振り払っても振り払っても拭《ぬぐ》えなかった。ところが、肝心の樺太からも千島からも何の報告もない。こちらからの問い合わせに対する回答は「異状なし」ばかりである。  第五方面軍幕僚の中には、ソヴィエト軍の千島、樺太の侵攻作戦は中止になったのではないかと考える者さえ出始めた。  ——作戦の統一性を欠くというのはげせん。  と、檜山も考えた。また、動員が行われたことは確実で、動員を下令した軍隊が作戦を中止した例はこの世にない。  ——ワシレフスキーは、一体、何を考えているんだ。  檜山は第五方面軍が接収した北大の本部校舎の元学長室で、眠れぬ夜を過ごしながら考え込んでいた。 「失礼します」  扉を開けたのは桜木参謀長だった。 「お部屋に明りが点《つ》いていたので……」  と、言い訳をしながら、桜木は勝手に椅子を執務机に引き寄せた。 「関東軍からの情報です」  一枚の通信文を差し出した。そこには通信不能に陥った各部隊の部隊名が記載されていた。このような通信は従兵にでも届けさせればよいのだが、自身で持ってくるということは、彼も眠れないのだろう。 「東寧が落ちたらしい。酷《ひど》いものだ。関東軍は昔日の面影もない。これでは開拓民は悲惨なことになっているだろう……」  一瞬、檜山の脳裏に沼津で別れた安岡の顔が過《よ》ぎった。奴《やつ》は無事に任務を果たしているだろうか。 「残念ながら、奉天からも上海からも連絡は届いていません。そのことをお伝えしておこうと思いまして」  桜木は見透かしたように言った。 「ああ、ありがとう。だが、こちらはそれどころではない。樺太が始まれば、満州と同じ悲劇が起きる」 「確かに」 「ところで時間は?」 「もうすぐ五時です」 「夜が明けるな……」  檜山は呟いた。樺太の侵攻作戦が始まるとすれば、開始は早朝と読んでいた。  ——あと二時間……。  檜山は思った。あと二時間無事なら、今日も平穏に過ぎるだろう。神にも祈りたい。遠くで、払暁の警戒配置に就く人のざわめきが聞こえる。 「何とか、このまま無事に過ぎてはもらえないものですかね?」  桜木も思いを吐露した。 「そうもいくまい。千島は上陸作戦だけに大潮の満潮を待っているのだろうが、樺太はそろそろの気がする」 「何か、前兆でもありますか?」 「ない。ないが……」 「ないが?」  言い澱《よど》んだ檜山を桜木は見逃さなかった。遠くを見詰める檜山の顔に何かある。 「どうも俺《おれ》は戦が近いと髪の毛が逆立つ癖があってな……」 「髪の毛?」  桜木は小首を傾げた。 「そうだ。髪の毛だ」  戦場経験のない桜木はその感覚を知らない。この参謀長、利発で、立案する作戦は狡《こう》猾《かつ》だが、惜しむらくは実戦経験のなさが玉に瑕《きず》である。こういう話になると桜木は沈黙するしかない。 「その後、大本営は何か言ってきたか?」 「いえ、公式には何も……。満州で手一杯の様子です。一部には、ソ連が仕掛けたのだから、こちらも樺太で戦端を開くべきだと息巻いている血の気の多い参謀もいるようですが……。ともかく、関東軍が防衛拠点を固める間もなく潰走しているため、情報が錯綜し、参謀本部は状況把握ができず、苦慮しているようです。関東軍は新京、大連間に兵力の集結を試みるようです」  大東亜戦争勃《ぼつ》発《ぱつ》以降、関東軍の精鋭部隊は南方へ相次いで抽出された。最強と言われた関東軍も面影なしとは思っていたが、こうあっさりと敗走すると誰が予想しただろうか。いよいよもって日本の終末が、足音を立てて近付いて来た。大本営とすると混乱して当たり前だ。 「稚《わつか》内《ない》への物資輸送は?」  檜山は樺太からの避難民を収容するため、物資の集積を命じていた。 「どうにか完了しました。しかし、道内の物資の欠乏は危機的です。いいんですか?」  桜木は不安をさらけ出した。道内駐留の各部隊は、陣地の構築で精一杯である。この上、道内で治安が悪化したら打つ手がない。 「構わん。物不足も本土に比べたらましな方だ。道民には秋までの少しの間、辛抱してもらうしかない」 「ですが、今回の物資徴発は、方面軍の備蓄まで吐き出しています。万一、北海道に敵が来攻したら……」  桜木は最大の不安を吐露した。 「その時はどの道お終《しま》いさ。ここが戦場になったら、第五方面軍が完全状態でも守り切れん。北海道は広いからな。戦場になったらそれこそ道民は塗炭の苦しみだよ。私はここでは戦う積もりはない。第五方面軍はソヴィエトに対する抑止力になればいい」 「はてさて……」と、桜木は思った。この話を檜山から聞くのは初めてではない。方面軍作戦会議で何度も話していることである。  ——だが、本当に北海道防衛はこれでいいのか?  桜木には納得できないものがあった。方面軍直轄下の各部隊では、食糧や医薬品の欠乏は危険な状況にまで立ち至っている。万が一に備え、各部隊では水《みず》粥《がゆ》を啜《すす》って陣地構築に励んでいるのが現状である。弾薬も多くは第九一師団の補充に廻《まわ》した。そのため北海道の山砲、野砲は、各砲に付き一会戦分千発の定数を割っている。千発といえば訓練された砲兵なら三時間以内に撃ち尽くす量である。  桜木がそのところを問い質《ただ》そうとしたその時、激しく扉を叩《たた》く者があった。檜山の「入れ」の声に転がるように駆け込んで来たのは、週番将校の中尉だった。顔面蒼《そう》白《はく》で唇が震えている。 「報告します。第八八師団より報告。『今朝〇《マル》五《ゴー》〇《マル》〇《マル》時、ソヴィエト軍は砲撃開始。北緯五十度線国境を突破の模様。半田陣地に敵軍接触。戦闘状態に入れり』であります!」 「よし。桜木参謀長、始まったぞ! 作戦室だ!」  檜山は言うが早いか、司令官居室を飛び出すと、階下の講堂を利用した作戦室に向かった。呆《あつ》気《け》にとられた桜木は後を追うのに必死となった。 「半田陣地、奥泉小隊より報告。『敵兵力は戦車五、火砲五を含む中隊規模。〇《マル》五《ゴー》〇《マル》五《ゴー》』であります」  作戦室には檜山と桜木を追うように幕僚が続々と詰めかけて来た。混乱の中で報告が飛ぶ。 「尖《せん》兵《ぺい》だな……」  半田付近の地図を見ながら、桜木が呟いた。檜山もこの意見には同意だった。本格的攻撃を前に、こちらの出方を探ろうというのである。 「半田陣地の兵力は?」 「二個小隊です。第一二五連隊の奥泉小隊と国友小隊であります」  素早く誰かが答えた。七月のソヴィエト軍の演習以降、第八八師団は配置転換を行った。各部隊は前線に近い構築陣地に展開していた。気屯にいた第一二五連隊も移動し、半田の後方八キロの八方山とその後方五キロの古屯の陣地に展開を終えていた。 「よろしい。速やかに第一二五連隊に命令せよ。『現守備陣地を死守せよ。但し、国境を挟んでの戦闘を禁ず』である。急げ!」  檜山は叫んだ。通信参謀が急いで電文を書き留め、電話員に渡した。 「本格的侵攻なのか? それとも強行偵察なのか? 一体どっちなんだ!」  いよいよもって作戦室は騒然となった。情報不足から来る焦りは、頂点に達しようとしている。 「皆、聞け!」  檜山の叫び声は、一瞬にして静寂を作るに充分だった。 「各自、落ち着いてよく聞け。国境の向こうには一個機械化旅団と二個戦車大隊がいる。兵員だけでも二万人だ。本格侵攻なら各監視哨《しよう》から何らかの報告があるはずだ。したがって、これは強行偵察である」  作戦室に束の間の安《あん》堵《ど》の吐息が溢《あふ》れた。 「皆も知っての通り、この手の強行偵察は、本格侵攻の事前兆候である。四十八時間以内に始まる。半田陣地付近の防備状況は?」 「国境地帯では最も手薄です。そもそもこの辺りはツンドラ地帯で一年の大部分が堅氷に閉ざされている荒地です。夏には表土が解けますが、蘚《せん》苔《たい》類や地《ち》衣《い》類の下は永久凍土のため、ほとんど陣地構築が不能な地形です」  桜木参謀長は後ろ手を組み、天を仰いで嘆息した。 「ここから始まると見て間違いないな……。ところで、半田陣地はこの尖兵攻撃を凌《しの》げるか?」 「厳しいでしょう。敵兵力は戦車五、火砲五を含む中隊規模に対し、我が方は奥泉小隊と国友小隊の二個小隊です。戦車はなく、速射砲が三門しかありません。両小隊は、主に小銃と擲《てき》弾《だん》筒《とう》、それに破甲爆雷で戦うしかありません」  第一二五連隊連絡将校が、苦《く》悶《もん》の表情で応じた。 「速射砲では敵のT34中戦車には効果ないだろう……」  幕僚の一人が追い討ちをかけるように呟《つぶや》いた。事実、一九四〇年に生産を開始したソヴィエト軍のT34中戦車は、五年間の対独戦で発展を続けた。現行のT34/85は主砲が七十五ミリから八十五ミリに、最大装甲厚は四十五ミリから九十ミリに発展した。日本陸軍は、口径三十七ミリか、四十七ミリの対戦車砲しか持たない。これらでもT34/85を阻止するのは困難であると思われる。が、半田陣地には装甲貫通能力の乏しい速射砲しかない。 「半田陣地の後方は八方山の山砲陣地まで何もないのか?」  檜山は、知らず知らずのうちに、腕組みをして仁王立ちになっていた。 「残念ながら……」 「加えて、半田陣地と八方山は八キロあります。したがって、半田陣地は八方山の山砲の射程に入っていません」  一同、わかっていることであるが、唸《うな》り声を上げるしかなかった。現在、半田陣地は孤立無援の戦いを続けている訳である。強行偵察で半田陣地を奪われることになれば、ソヴィエト軍は、戦線中央部に橋《きよう》頭《とう》堡《ほ》を得ることになる。本格侵攻が始まったら、ここを起点にいかようにも作戦を展開できる。恐らく日本軍の戦線は雪崩を打って崩壊し、敗走することになる。檜山や桜木の考える遅滞行動の基本方針が、音をたてて崩れる。  ——凌いでくれ……。  檜山は、祈る気持ちで作戦図を見詰めていた。  半田陣地は、国境から四キロ南の、遮《しや》蔽《へい》物《ぶつ》のない平原に突き出た小さな二つの丘にあった。右翼前方のそれを国友小隊が、左翼後方のそれを奥泉小隊が陣地としている。どちらの陣地も、孤立することを考慮し、円周防御陣地を構築していた。三門の速射砲は、その兵器の性格から、前方に位置する国友小隊に配属され、主に前面を指向していた。  砲撃が始まった時、舞い上がる土砂と薄明りで、周辺の状況は把握が困難だった。砲撃は間断なく約一時間続き、夜明けと共に終わった。代わって大地を揺るがす戦車のエンジン音を合図に戦闘が始まった。  半田陣地の将兵は、奥泉少尉と国友少尉の働きで、ことごとく自分たちの務めを理解していた。 「一歩も退《ひ》くな!」  との奥泉少尉と国友少尉の命令は、そのまま合い言葉となり、二個小隊は戦車や自走砲の砲撃を掻《か》い潜りながら、戦闘を開始した。  ソヴィエト軍は、教本通り戦車を先頭に随伴歩兵を伴っていた。悔ったのか、攻撃を陣地正面に集中し、蹂《じゆう》躙《りん》攻撃を目指していることは、明白だった。  最初に火《ひ》蓋《ぶた》を切ったのは国友小隊だった。速射砲から始まり、擲弾筒、機銃、小銃の順に射撃が始まった。随伴歩兵は、戦車の後方に隠れて応戦した。  垂直に近い落下角度を持つ擲弾筒は効果的で、戦車の陰に隠れる歩兵を次々と薙《な》ぎ倒した。敵歩兵は、身を守るために伏せるしかなく、次々と戦車から後落した。陣地まで百メートルに接近した時には、五台の戦車は、それを守るはずの歩兵を欠いていた。 「俺に続け!」  と、数名の部下を引き連れた国友は、指揮官自ら戦車に肉薄すると、手にした九九式破甲爆雷を、左翼一番端に位置するT34/85の下方側面に張り付けた。装《そう》填《てん》された六百八十グラムのTNT火薬の破壊力は凄《すさ》まじく、爆発は、大量の土砂と煙を巻き上げ、耳を聾《ろう》するものだった。  だが、それらが収まってみると、T34/85の側面装甲は、驚くことにペンキが剥《は》がれただけであった。ただ、車体から突き出した転輪の二つと、無限軌道を繋《つな》ぐ鋼鉄製のリング数個を吹き飛ばした。  突然、走行不能に陥った戦車の乗員は、周章狼《ろう》狽《ばい》し、ハッチを開いて脱出する。国友少尉はそれを尻《しり》目《め》に戦車に攀《よじ》登《のぼ》ると、開け放たれたハッチから手《しゆ》榴《りゆう》弾《だん》を投げ込み、T34/85を三十二トンのスクラップにした。  多くの日本兵が国友の成功に習い、我もとばかりに残る四台のT34/85に殺到した。  一方、ソヴィエト軍兵士もそれを黙って見ているわけがなかった。T34/85の車載機銃はもちろん、後方で取り残されたソヴィエト軍歩兵も、狂ったように戦車の周囲に弾幕を張った。  このようにして半田の戦いは、まさに『死闘』の様相を呈した。しかし、歩兵と戦車の連携を欠き、しかも正面に固執する余り、側面からの肉薄攻撃を容易にしてしまったソヴィエト軍は、三輛《りよう》の戦車の残《ざん》骸《がい》と多数の戦死者を残して、敗退せざるを得なかった。  最後の銃声が止んだのは、攻撃開始から四時間たった午前九時過ぎだった。半田陣地の人的損害は思いの外軽微で、戦死八名、行方不明二名に止《とど》まった。しかし、頼みの綱の速射砲は二門が破壊されていた。 「すぐに敵は押し戻して来る! 急いで速射砲の位置変換を行え。各分隊長は各自の弾薬を調べ、補充せい! いまのうちに負傷者の手当ても済ませておけ!」  いまだ鼻を突く硝煙が漂い、方々で何かが燻《くすぶ》る陣地に立ち、自身も右腕に深い傷を受け、出血している国友が叫んだ。  国友少尉の予想は不幸にも的中していた。この強行偵察を行ったのは、北樺《から》太《ふと》に派遣されたソヴィエト軍第一六軍主力、第五六狙《そ》撃《げき》軍団第一一六狙撃連隊第二大隊の、尖兵中隊であった。  軍司令官チェレミソフ少将は、第一一六狙撃連隊指揮所で、作戦図を前にして攻撃の推移に見入っていた。 「なぜだ!」  尖兵中隊の退却を知ったチェレミソフは、傲《ごう》然《ぜん》と立ち上がると、第一一六狙撃連隊長シーロフ大佐を突き飛ばした。育ちの良さには似つかわしくない言葉を羅列し、衆人の前で罵《ば》倒《とう》した。 「一個中隊だぞ! しかも機械化中隊だ! たかが二個小隊の歩兵陣地に喰い止められるとは何ごとだ!」  チェレミソフの白い肌は上気し、彫りの深い桃色の顔面の奥に眼光が厳しかった。 「部隊の再編にどれぐらいかかる?」 「二時間ください」 「なに?」 「一時間で再編します」  萎《い》縮《しゆく》したシーロフは、震えを抑えることができなかった。赤軍に失敗は許されない。これは血の鉄則である。 「よろしい。一時間で再編し、その中隊も含む大隊で攻撃を再興しろ。今度は失敗や泣き言は許さん! 貴様が自ら前線に出て指揮するんだ。突破するまでここに戻って来るな。いいな!」  シーロフは敬礼するが早いか、指揮所のテントを飛び出して行った。  ——あやつだけでは済まん!  チェレミソフはその姿を冷然と見つつ、心の中で呟いた。攻撃の失敗は指揮官の責任とされ、国家反逆罪に問われることもある。しかも、昨日二十二時に受領した命令は明白だった。『第一六軍は、八月十一日一〇〇〇時を期して、樺太国境を突破、太平洋艦隊と協力し、八月二十五日までに全樺太を占領せよ』である。半田とその先に控える八方山は攻撃の拠点として、本来、全軍総攻撃前に攻略しなくてはならない場所である。お陰で全軍の総攻撃を遅らせなくてはならん。  ——シーロフには、後でこの失敗を償ってもらわなくてはならんな……。  チェレミソフは大きな身体《からだ》を揺すって、作戦室を所在なげに歩き始めた。歩みは攻撃が成功する十二日午後まで続くことになる。 昭和二十年八月十五日  この日も占《しむ》守《しゆ》島《とう》は、平穏な空気に包まれていた。  ソヴィエト軍が日ソ中立条約の規定を無視し、一方的に日本と戦端を開いたことは、将兵を問わず全員に深刻に受け止められていた。刻一刻と悪化する満州や樺太の戦況は、方面軍の転電があり、通信兵の口から断片的に漏れ聞こえていた。いざ戦闘になれば、この占守島や幌《ほろ》筵《むしろ》島《とう》には、玉砕しか残されていないという緊張感はあったが、敵の侵攻を予見させる空爆や艦砲射撃がないことが平穏な空気の理由であった。 「大隊長は放送の内容をご存じなのですか?」  と、尋ねたのは向かい側に座って一緒に飯を喰っていた大隊副官の、今村大尉だった。『明十五日正午、重大放送がある。将兵全員、ことごとくこの放送を聞くように』との通達が、昨日午後、大観台の旅団司令部からあったのである。 「知らん!」  大隊長村尾少佐は、飯のアルマイト食器に味《み》噌《そ》汁《しる》をかけ、猫《ねこ》飯《めし》にすると一気に掻き込んだ。村尾の大隊は、占守島北端の国端崎から東岸に広がる竹田浜一体が守備範囲である。ソヴィエト参戦の報を受け、ソヴィエト軍上陸の可能性が最も高い場所となった。心中穏やかならぬ日々が続いていた。機嫌が芳《かんば》しくないのは当たり前と、今村も諦《あきら》めていた。 「俺《おれ》の通達は各員に届いているか?」 「はい。桜堤、山中両中尉、川岸曹長には正午までに四嶺山藤巻部隊に集合するよう伝えました。他の幹部は警備隊本部の通信室で聞くように言いました」  村尾は、最後に残った古漬け沢《たく》庵《あん》をすばやく箸《はし》で摘《つま》むと、口の中に放り込んだ。音をたてて噛《か》みながら、実はすでに今後のことを考えていた。  四嶺山は島の北西、村上崎を見下ろす位置にある。四つの峰があり、その名の由来となった。その峰の一つに、堅い岩盤をくりぬいて構築された通信及び電探基地がある。これを藤巻部隊とも電探部隊とも呼んでいた。 「おい。いつまで食ってるんだ。放送が始まるぞ」  村尾はさっさと食事を済ませると、軍帽を被《かぶ》り、出かける用意を始めた。今村も最後の飯を掻き込むと味噌汁で流し込み、村尾の後を子犬のように追いかけた。  村尾らが到着した時、四嶺山地下通信所には、四十名ほどの将兵が詰めていた。ざわめきは構内に充満し、逃げ場を失って反響していた。そんな中で通信班長は、NHKからのラジオ放送で流れる大本営からの『重大放送』を鮮明に聞くため、大汗を掻きながらダイヤルと格闘していた。悪いことにこのNHKの電波には、近い周波数でアメリカ軍の謀略放送がある。そちらの方が強力な電波を使用しているため、どうしても鮮明に入らない。 「なんとかしろ!」  と、誰彼となく立ち騒いでいたが、何せ送ってくる電波の出力が小さいため、班長は泣き出しそうになっていた。ようやく激しい雑音の中に小さな音でNHKのアナウンサーの声を拾ったのは正午を一分過ぎたところだった。 「これより天皇陛下のお言葉であります。緊張してお聴きください……」  と、通信機が告げた瞬間、通信室は水を打った静けさを取り戻した。 「朕想うに世界の大勢と皇国の現状とに鑑《かんが》み……」  誰もが初めて聞く天皇陛下の声だった。その声が始まると、受信状態はなお一層悪化した。とぎれとぎれに入る言葉は、そこに集う者たちが予想したものとは大きく異なった。 「何だって……」  一人が口を開くと、数人がつられたように同じ言葉を繰り返す。 「以《もつ》て時局を収拾せんと欲す……」  その言葉と共に、わっと火がついたように泣き出す者がいた。放送はしばらく続き、岩をくりぬいただけの通信室には、嗚《お》咽《えつ》が反響して響いていた。 「内容ははっきりとは掴《つか》めなかったが、どうやら、戦争が終わったことだけは確かなようだな……」  陛下の言葉が終わると同時に、村尾も呟《つぶや》いた。しかし、兵の中には「そんな馬鹿な!」とか「なぜなんだ!」と、呟く声も少なくなかった。 「今村大尉。君は急ぎ大隊本部に戻り、本部将兵を集合させてくれ。大隊の下士官以上も、集めてくれ。彼等とは訓示後、話をしたい。俺は旅団長命令があるだろうからそれを受けたら、すぐに戻る」  来るものが来たというのが、村尾の正直な実感だった。現状から見て、日本は一億玉砕か降伏かの瀬戸際にある。一億玉砕とは、聞こえはいいが、現実的ではないというのが、村尾の胸に秘めた意見だった。  ——立てん……。  立ち上がろうとした村尾は膝《ひざ》に力が入らないのを知って我がことながら驚いた。予想される結末だったことは事実だが、身体から血液が一気に抜けていくような、脱力感と悪寒に襲われていた。  大隊本部は東海岸の振武台にある。本部前広場には、大隊幹部を含めた本部将兵全員が整列して村尾を待っていた。放送の内容を理解した全員の表情は暗く、無駄口を叩《たた》くものはなかった。側車で到着した村尾は軍服の埃《ほこり》も構わず、赤松の砲弾箱を積んだ台に上がった。快晴の空は午後の陽射しで眩《まぶ》しかった。恨めしいほどの晴天である。なんでこんな時に晴れているんだと、村尾は思った。 「先程、四嶺山の藤巻部隊において天皇陛下直々のお声に接した。帝国は、矢尽き、刀折れ、ついに連合国に降伏することとなった」  村尾は普段の声で話し始めた。それでも静まり返った広場には充分だった。時折、吹き抜ける海風もさほど気にはならない。 「思えば我が国、二千六百年有余、かつてこのような恥辱に遭遇したことはない。子祖に対してどのようにお詫《わ》びすべきか……、いま本職はその術《すべ》を知らない。痛恨の極みである……」  そこまで言い終えて、初めて村尾は五十名ほどの将兵を見渡した。うなだれる者、天を仰ぐ者、目を押さえる者、様々だが、一様に村尾の言葉を受け止めようと必死だった。そもそも村尾の大隊は、ガダルカナルの攻略部隊だった第二師団の生き残りである。一度は自らも玉砕を覚悟し、海軍の必死の働きで救出された者たちである。戦友のほとんどをガダルカナルで失い、その遺骨はもちろん、遺髪すら持って帰ることができなかった者たちである。忸《じく》怩《じ》たる思いは人一倍ある。 「なお、我が大隊の今後の行動についてだが、杉原旅団長閣下から、現状維持のまま待機せよとのことである。師団長閣下から追って命令があるまで、待機することになるが、諸君は帝国軍人として、今までと変わることなく、責任を全うして欲しい。以上である。なお下士官以上の者は、大隊長室に集まってくれ」  容赦ない陽射しが解散する兵たちを照り付けていた。敗戦と生き残ったことに対する彼等の虚脱感は、村尾の比ではないことを示していた。  ——何とかせねば……。  村尾は、ソヴィエト軍参戦から密《ひそ》かにそう考えていた。方面軍情報では、これで済まないはずである。この虚脱感が続けば大隊は悲惨な結末を迎える。いま、危機は現実のものとなりつつある。そんなことを考えながら村尾は、半地下兵舎に降りて行くと、端の大隊長室に戻った。  数個の裸電球の照明の下、広い大隊長室には、将校、下士官たちがすでに集合していた。 「皆、胡坐《あぐら》をかいて座らんか? 遠慮するな。楽にしろ」  さっきまでの不機嫌さや沈《ちん》鬱《うつ》な表情は消し飛んで、村尾は部屋に入るなり明るい表情を取り戻し、気安く声をかけた。大隊長室には一部に畳が敷かれていた。この時ほど、内地から無理して畳を取り寄せたことがよかったと思ったことはない。 「みんな、本当にいままで苦労をかけたな……。本職は心から礼を言う。ありがとう」  村尾も畳の端にどっかと座ると、軍刀を傍らに置き、軍帽を脱いで話し始めた。 「さて、これからのことだが……」  村尾は少し話し難そうだった。方面軍情報はいまだに軍機であるため、伝えるわけにいかない。ソヴィエト軍が侵攻するか否かはまだわからないのだ。かといって、このまま、虚脱状態でたがを外したままではいかん。どうする……。 「どのような部隊行動を取るのか、命令があるまで何とも言えん。だが、各自の担当業務はなるべく早く整理しておいてくれ。それから、武装解除が行われると思われるから、各自、担当兵器の整備は万全を期してくれ。帝国陸軍に、作動しない兵器があったり、錆《さび》が浮いていたでは、物笑いの種だからな。多分武装解除後は……、復員して内地に帰ることになると思うが……」  村尾はやや自信なげに言った。しかし、将校、下士官には『内地に帰る』という言葉が、甘美な響きとなった。大方がこの三年、口に封印をしていた言葉である。遠からず玉砕の日が来ると覚悟していたのである。当然と言えば、余りに当然である。薄暗い大隊長室の向こうに内地が見えたのである。 「中田中尉、糧《りよう》秣《まつ》だが、当面節約する必要がなくなった。炊事班長に言いつけて、今日から最高の給与にしてやるんだな。飯もじゃんじゃん炊け。酒保も開いてやれ。汁粉でも饅《まん》頭《じゆう》でも大福でも、砂糖をいいだけ使ってへどが出るほど食わしてやれ。いいな」 「はあ、へどが出るほどですか……」  中田は困惑して応じたが、その姿が一同の笑いを誘った。  永原は、幌筵の師団司令部で、所定の命令を出し終えると、師団長室に引き籠《こも》って悩んでいた。第五方面軍からの命令はまだ届いていない。恐らく、大本営は混乱の極にあるため、各方面軍に命令がないのだろう。  ——だが、いま、この隙を衝いて敵が占守島に来攻したら……。  事実、樺太では、十三日未明から古屯における第八八師団の防衛戦闘が続いている。ソヴィエト軍は、停戦どころか攻撃の手を緩めてはいない。第八八師団は、民間人の避難の時間を稼ぐため、一センチの土地を守ろうと出血を強いられている。しかも、防御に徹する余り、その出血が多くなっているのも事実である。  ——何も助けてやれんのか……。  きっと檜山さんは断腸の思いだろうと、永原は思った。稚内から見れば、樺太は見える距離だというのに……。  同日、沼津の別荘では、松岡が病床に臥《ふ》せっていた。この日は吐血量も多く、医者が付きっきりだった。余りの吐血量に、食欲はなく、昼食を摂《と》らずにラジオに耳を傾けた。 「俺のせいだ……」  玉音放送を聴き終えた松岡が、最初に口にしたのはその言葉だった。女中の手を借り、無理に身体《からだ》を起こしていた松岡は、図らずも落涙した。  ——この腹、かっ捌《さば》いて済むのなら……。  正直な心境だった。だが、そうはいかぬ。いま、多くの人が、明日のため、日本を守ろうとしている。それが片付くまでは、死んではならぬと、彼は自分に言い聞かせていた。  一方、檜山は、北海道の北大で、怒りの頂点にあった。余りの激《げつ》昂《こう》振りに、従兵も恐れをなして近付かなかった。  怒りの元は、大本営から連絡がないことである。こちらから連絡を取っても、代理の者が出て、「後ほど連絡する」の一点張りである。 「どうなってるんだ!」  檜山は司令官室で吐き捨てるように言うと、熊のように室内を歩き回った。  ——こっちの戦争は、終わってはいないんだぞ!  予想された事態ではあるが、軍中央は自分のことで手一杯なのである。部下には、徹底抗戦を叫ぶ者もあるというのに、何の指示も、命令もない。  ——だったら、俺の考えで戦ってみせる!  檜山は意を決すると、司令官室を飛び出した。  同じ頃、ハバロフスクの体育館のような兵舎には、ソヴィエト極東軍総司令官ワシレフスキー元帥が、指揮棒を持って作戦図の前に立っていた。表情は穏やかで、その瞳《ひとみ》には生気が漲《みなぎ》っていた。 「諸君!」  ワシレフスキーは指揮棒で自分の太《ふと》腿《もも》を叩いた。鋭く甲高い音が広い部屋に谺《こだま》した。 「かねてより準備していた北海道進攻作戦を実施する。その第一段階として、クリル諸島進攻作戦が発令となった!」  言葉は指揮棒と同じように谺した。 「第二極東方面軍ならびに太平洋艦隊は、十八日未明の上陸開始を前提に、速やかに行動に就いてもらいたい。最初の目標はシュムシュ島である。上陸作戦司令官には、カムチャツカ地区守備隊司令官、グネチコ陸軍少将を、上陸指揮官にはペドロパウロフスク海軍根拠地指揮官、ポノマレフ海軍大佐を、上陸軍の戦闘指揮には、第一〇一狙《そ》撃《げき》師団長ジャコフ少将を、それぞれ任命する」  誰もが改めて息を呑《の》んだ。理由は二つある。その一つは、明確な国際法違反である。無条件降伏した国家を攻撃するなど、過去にも例がない。二つ目はサハリンである。担当の第一六軍は、日本軍の反攻で計画の半分も前進していない。日本軍に満足な対戦車火器がないとか、重砲が不足しているという情報は正しかったが、それにもかかわらず手を焼いているのである。 「かねての計画通り実施してもらいたい。私はここに準備命令を下す。何か質問は?」  一同は顔を見合わせた。誰もが思う疑問がある。  ——はたして、うまくいくのだろうか?  太平洋艦隊司令長官ユマシエフ海軍大将の胸中にも、第二極東方面軍司令官プルカエフ陸軍上級大将の胸中にも、一抹の不安が取り付いて離れない。皆がそう思うだけにその眼は、誰か向う見ずで無鉄砲な者の登場を期待していた。 「私はこの作戦に絶対の自信を持っている。また、諸君に全幅の信頼を寄せている。なぜなら、いまここに集う諸君は、ことごとくベルリンを目指した者だからである。諸君が私の信頼に応《こた》えてくれることは疑う余地がない。したがって、速やかに、かつ、激しい攻撃を実施せよ。さらにシュムシュ島における損害は、最小限に止《とど》めよ。クリル諸島は、北海道進攻作戦の前《ぜん》哨《しよう》戦《せん》に過ぎない!」  ワシレフスキーは金色の美しい髪を靡《なび》かせ、厚い胸板を突き出すように言った。 「詳細は諸君で検討してくれたまえ」  作戦図に指揮棒を放り出すと、ワシレフスキーは大《おお》股《また》で部屋を出て行ってしまった。しかし、それが彼一流のポーズであることは誰もが熟知していた。彼の耳は千里先でも聞こえるのである。軍情報部の手で、すでにこの部屋には、盗聴器が仕掛けられているのは疑う余地がない。作戦に対し疑念や不安を口にすれば、即時解任が待っている。  当然、部屋の中には有毒ガスのような重い気体が充満した。グネチコ陸軍少将は余りの息苦しさに、このまま窒息したいとさえ考えた。 「さて、気象班は十八日の予報を何と言っている?」  プルカエフ陸軍上級大将は芝居がかった口調で始めた。いや、むしろ芝居にしたかったのかもしれない。 「十七日夜半には、弱い低気圧が前線を伴ってクリル諸島北方を通過します。したがって十八日午前中、クリル諸島北方の天気は概《おおむ》ね、霧または小雨となるでしょう。ただし、当日の昼までには回復の見込みです」  太平洋艦隊の気象幕僚が答えた。 「波はどうかね?」 「穏やかでしょう。大潮と重なるため早朝の上陸には最適と思われます」  若い中尉が不用意に言った。一同の鋭い視線が集まる。天候で順延されればそれに越したことはない。次の大潮まで待つと九月になり、作戦を根本から組み直す必要に迫られる。うまくいけばと、誰もが思っていたのだ。 「艦隊および船団の集結は?」 「弾薬輸送船、タンカーも含め、四十隻がオパラに集結を完了しました。問題ありません」  ユマシエフ海軍大将が明解に答えた。 「後は実施を待つばかりか……。大丈夫だ。きっとうまくいく。グネチコ少将、君の師団は優秀だよ」  プルカエフ陸軍上級大将は、慰めるように言った。 「一つお聞きしてよろしいですか?」  グネチコ陸軍少将は意を決して尋ねた。 「日本は無条件降伏しました。万が一、日本軍が白旗を揚げて、降伏の軍使を寄越した場合、いかように処置したらよろしいですか?」  最悪の場合、国際法上の問題が生じるだけに、これは重要ではある。しかし、作戦を否定するわけではない。この質問なら問題なかろうと、グネチコ陸軍少将は考えていた。 「ああ、それか……。恐らく日本軍は降伏せんよ。そんなことは有り得ない」  プルカエフ陸軍上級大将はぴしゃりと言ってのけた。もしかすると自分も虎の尾を踏んだのだろうかと、グネチコ陸軍少将は想像し、背中に大粒の汗を一筋流した。 昭和二十年八月十六日  ——あれは一体何日前だったろうか?  檜山は作戦室にいて、ふとそんな思いに捕らわれた。樺《から》太《ふと》戦が始まって何日が経つのだろう。思い出そうとしても思い出せないくらい遠い昔のような気がしていた。この前食事を摂《と》ったことさえ思い出せない。  すでに彼の軍装は汗染みで汚れ、髭《ひげ》は伸び放題だった。髪の毛は額に張り付き、身体からは悪臭が漂っている。  ——作戦だ。作戦に集中しよう。  と考えると、再び頭は晴れ渡り、表情も生き生きとした。  第八八師団はよく善戦している。火力優勢な敵第一六軍を相手に、一歩も退《ひ》かない構えである。  ——これは感状ものだな……。  だが、終戦で申請すらしてやれない。何と無力なんだ、と叫びたかった。 「軍司令官! 来ました!」  と、叫んで駆け込んで来たのは桜木参謀長だった。 「大本営からの大陸命です」  階下の通信室から駆け上がって来たため、呼吸は荒く、声は掠《かす》れていた。手にした通信綴《つづ》りは、汗が滲《にじ》んでいる。 『……即時戦闘行為ヲ停止スベシ。但シ停戦交渉成立ニ至ル間、敵ノ来攻ニ方《アタ》リテハ、止ムヲ得ザル自衛ノ為ノ戦闘行動ハ之《コレ》ヲ妨ゲズ……』  檜山は文面の言葉の空虚さに呆《あき》れ果てるしかなかった。 「一体、『自衛ノ為』とは、誰の判断を指しているのでしょうか?」  桜木は率直に尋ねた。 「ことなかれ主義の極致だな」  どうとでも取れる命令に意味はない。檜山は吐き捨てるように言うと、桜木参謀長に向き直った。 「すまんが、もう一度、通信室に行って、これを指揮下各部隊に転電してくれ。大陸命である以上、とにかく確実を期したい。君が立ち会って、受信確認が取れるまで見届けて欲しい。急ぐ」  檜山の言葉が終わらぬうちに、桜木は走り出していた。  ——とにかく作戦に集中しよう。それしか術《すべ》はない。  檜山は決意を新たにした。とにかく誰も頼る者はいないということだ。 昭和二十年八月十七日  遠くで風の音を聞きながら、中島は半地下に設置された第九一師団司令部で、当直に就いていた。あと十五分で当直は交替する。深夜十二時までだ。  ——少し荒れるのかな……。  天気予報では低気圧が通過するらしい。弱い低気圧だからひどくは荒れないと聞いていたが、風は少し増してきた気がする。  ——このまま荒れてくれればいいのだが……。  密《ひそ》かに彼は念じていた。今日と明日、無事に過ぎれば、ソヴィエト軍の来攻は潮汐の関係でしばらくない。基本的に日本軍の場合、波高が三メートルを超えると上陸作戦は困難とされている。  ——ソヴィエト軍はどうなんだろう?  持て余した時間を潰《つぶ》すために、中島はつらつらと考えていた。 「当直を交替します」  作戦室に入るなり、声をかけて来たのは、気象幕僚の高橋和也少尉だった。 「おう! もうそんな時間か?」  中島は口で強がって見せた。この三年、苦楽を共にした同僚だけに、気安い口も叩《たた》けるが、来攻情報はこと軍機に属することだけに、中島は慎重だった。 「外の天気はどうだ?」 「大したことはなさそうです。少し霧と風が出てきた程度です。思いの外、崩れないかもしれません。気圧計は余り下がっていません」  高橋は、眼鏡を手《て》拭《ぬぐ》いで拭《ふ》きながら、その意味するところも知らず、さりげなく言った。 「それより、十二時だというのに、師団長室も師団参謀室も、明りが点《つ》いていましたがいったいなぜですか?」  高橋はゆっくりと眼鏡をかけ直すと静かに尋ねた。中島にはすぐに思い当たった。恐らく、師団長や参謀長も思いは同じなのだろう。眠れぬ夜になっているに違いない。自分もこの分だと朝まで眠れないに決まっている。 「はて、何だろう。偉いさんの考えることはようわからん」  中島がおどけてみせたその時、国端崎監視哨専用の電話が鳴った。受話器に飛び付いたのは高橋が早かった。 「師団司令部」  長い沈黙の後、高橋の顔から、血の気が失《う》せた。 「了解。引き続き監視を続行されたし」  電話を切った高橋は、一呼吸ほど我を忘れているようだった。 「どうした?」 「国端崎で多数の船舶の音を確認しました。錨《いかり》を入れるような音も。すぐに師団長に知らせて来ます。後を頼みます」  高橋は作戦室を飛び出して行った。向かいに座る当直下士官は、意味もわからずぽかんと口を開いていた。  ——始まったか……。  暗然とした気持ちで、中島は立ち上がった。それでも高橋は、まだ事態を呑《の》み込んではいないだろう。彼は降伏と武装解除のための連合軍が船で来たぐらいのことを考えているに違いない。  ——今度ばかりは生き残れんかもしれん……。  中島は胃袋が飛び出すのではないかと思うような強い吐き気に襲われた。あの時と一緒だ。ノモンハンの時と……。  遠くから誰かの駆ける靴音が近付いて来る。その靴音も徐々に増え、作戦室の扉が開け放たれた。 昭和二十年八月十八日  深夜〇時の竹田浜は、静まり返っていた。波の打ち寄せる微《かす》かなざわめきの向こうで、時折、金属的な音が聞こえたが、それが何なのかはわからなかった。あるいは単なる幻聴なのかもしれない。誰もがそう思いたかった。大隊の各小隊は、すでに配置に就いて息を殺していた。『艦船の機関音らしき音源、多数接近。霧深く、視程百。視界に認めず』という国端崎監視哨《しよう》からの報は十五分前に入っていた。  第一報を受けた時、村尾少佐は起きていた。眠れなかった。体毛が逆立ち、肌が粟《あわ》立《だ》つものを感じていたのだ。  ——あの時と、同じだ……。  あの時とは、第二師団直率捜索大隊第二中隊長として、ガダルカナルに上陸した時である。生まれて初めて敵と対《たい》峙《じ》した村尾は、体毛が逆立ち、肌が粟立つものを感じた。恐怖のためではない。戦機を感じる時は必ずそうなるのである。  しかも、村尾は当惑していた。所属第七三旅団司令部からは、相反する二つの命令を受けていたからである。敵が、恐らくソヴィエト軍が、降伏勧告と武装解除を行うために接触してきた場合は粛々としてそれに従う。しかし、降伏の交渉を経ずして戦端が開かれた場合、これを迎撃するというものである。対上陸作戦の場合、初動の方針を誤ると、作戦全体を崩壊させる危険がある。かといって、敵より先に発砲を行えば、国際法違反であるばかりでなく、命令に対する反抗、すなわち抗命であり、それによって失った両軍の生命はひとえに第一線指揮官の村尾少佐の責任となる。  ——負けるとは、勝つことより難しいのかもしれんな……。  村尾は、粗末な木の椅《い》子《す》の背《せ》凭《もたれ》に身体《からだ》を預けていた。  そこへ週番上等兵が飛び込んできた。船舶接近中の報である。状況は判然としていなかった。村尾少佐は、取り敢《あ》えず指揮下の大隊に非常呼集と戦闘配備を命じた。また、同時に各陣地指揮官を大隊本部に召集し、訓示を行った。 「時間がないので手短に言う。竹田浜正面に国籍および種別不明の艦船が接近中である。帝国の無条件降伏を受けた連合国の軍隊と思われる。降伏勧告と武装解除を行うためである。接触があった場合、発砲せず、丁重に扱うこと。いいな、くれぐれも発砲してはならん。万が一、接近中の艦船並びに上陸軍が、何の交渉もなく攻撃してきた場合のみ、戦闘を許可するが、その場合でも大隊長の許可なく発砲してはならん。以上である。各員配置に戻り連絡を絶やさぬこと」  村尾の声は遠く霧の中に消えていく。  ——戦争は終わったんだ。これ以上は戦いたくない。  そんな思いが微かに心を過《よ》ぎっていく。日本が負けた以上、部下は一人も欠くことなく内地に復員させたい。  だが、運命というものがあるとすれば、それは村尾にとって非情だった。霧に閉ざされた深い闇《やみ》を引き裂き、遠雷のような音が響いた。 「いかん! 各員、持ち場に急げ! 別命あるまで発砲はするなよ!」  着弾音が、遥《はる》か波打ち際の方向で大地を揺らした。各級指揮官は、自分の車輛や側車を目指して駆け出した。 「当番! 急ぎ、通信室に行け! 旅団司令部、師団司令部と各守備陣地に繋《つな》ぐんだ」  村尾は駆け出す上等兵を見送って、天を仰いだ。二発目の雷鳴が轟《とどろ》くと共に、空気を切り裂く甲高い音が聞こえた。 「試射だ! 修正が終わったら一斉に始まるぞ。あいつらは本気だ!」  村尾は、最《も》早《はや》、躊躇《ためら》ってはいなかった。背後の着弾点の方向が、夕陽のように照らされている。何かが燃え出したらしい。もうすぐ占《しむ》守《しゆ》島《とう》が赤く燃え始める。  ——やはり、国土を守る戦いが始まったんだ。  不法な戦闘に対し、不思議と怒りはなかった。戦争なんてそんなものだ、という思いしかなかった。ただ、『一歩も退《ひ》いてはならん』という決意だけがあった。  大型貨客船シェレホワの混み合ったブリッジでは、船長のアレクサンドロビッチ・チトーフが興味深げに霧の向こうを双眼鏡で見詰めていた。すでに護衛艦隊の艦砲射撃は全力射撃に変わっていた。殷《いん》々《いん》と響く砲声は耳を聾《ろう》し、ふとすると呼吸が苦しくなる程の衝撃波を間断なく伝えた。 「恐らく定点です!」  航海長が声を限りに海図台から叫ぶ。 「両《りよう》舷《げん》停止! 面《おも》舵《かじ》一杯!」 「了解。両舷停止。面舵一杯」  操《そう》舵《だ》手がテレ・モータを操作し、舵輪を一杯の力で回転させる。シェレホワは大きく左に傾いて行き足を落とす。 「司令官。完全に停船したら、予定通り上陸用舟艇を下ろして構いませんか?」  チトーフは振り向きざまグネチコ少将に尋ねた。グネチコはあたかも何の感慨もないような表情に浸っている。 「結構です。甲板員に移乗用のネットを頼んでください。それから、お手数ですが、第一波上陸予定部隊に甲板の左舷に集合するよう伝えてください」 「かしこまりました」と応じて部下に指示を出している間に、シェレホワは完全に行き足を止めた。 「投《とう》錨《びよう》!」  チトーフは船長としての最後の命令を下すと、改めてそこに揃《そろ》った上陸軍の指揮官たちの顔を見回した。そこには、今まで見たことのない緊張に満たされた、ブロンズ像のような表情が並んでいる。グネチコですら、しきりに赤い星のついたヘルメットの顎《あご》紐《ひも》を気にしていて、その緊張の大きさを伝えている。  ——しかし、軍人たちはヘルメットを被《かぶ》っているが、なぜ我々の分はないんだろう……。  チトーフはふと、そんなつまらないことに気が付いた。上陸予定のない上陸指揮官のポノマレフ海軍大佐も、ヘルメットの顎紐をしっかり締めている。  ——日本軍が撃ち返してこないからいいが……。  チトーフは再び双眼鏡を手に取った。今度は遠くを眺めるためでなく、甲板上の作業の進行状態を把握するためだった。左舷甲板上には甲板員が溢《あふ》れ、懐中電灯が交錯していた。真新しい麻で作られた大きなネットと格闘しているのだ。前甲板に眼を転じると、防水布を外された上陸用舟艇がデリックに吊《つ》り下げられて大きく動揺している。 「司令官もこの上陸第一波と御一緒するのですか?」  チトーフはふとした悪戯《いたずら》心《ごころ》から尋ねた。 「いや、指揮所ができるまで、この船を使わせてもらいますよ。何でですか?」  グネチコは無理に威厳を作り、さも当たり前であるかのように応じた。 「いえ、大したことではありません。ご朝食の用意をいかがしようかと思ったからです」  と、言いながら心中、舌打ちをした。現在、シェレホワはシュムシュ島の北東海岸、日本が竹田浜と呼んでいる海岸から五千メートルの沖合にいる。おそらく、日本軍の海岸陣地にある野砲の射程圏内であると考えられる。上陸作戦指揮官を下ろしたら、取り敢えず安全圏に退避できるかと期待していた。グネチコ少将が座乗中は、ここを離れることはないだろう。  ——俺《おれ》の関心事は船の安全だけだ。  チトーフはオパラ出港以来、とにかくそのことばかりを考えていたのだった。俺もそろそろ五十五になる。いまさら、人の船でこき使われたくはない。階級のないソヴィエト社会では、船長の椅子など保証されるものではない。船を失えば、単なる船員と成り下がることなどよくある話だった。 「第一三四連隊第一大隊、上陸準備、完了しました。第一中隊は舟艇に移乗させたいと思います」  レミゾフ少佐が、第一中隊長のアンドレイ・レースガフト大尉を伴って、ブリッジに現れた。灯火管制中のブリッジで、夜目にもはっきりとわかるほど、レースガフトは血の気を失っていた。 「よろしい。大隊長、中隊長、二人とも来てくれ」  グネチコは二人を海図台の傍らに置かれた大きな机に促した。そこは海図台同様暗幕に仕切られ、中には小さな明りが点《とも》っていた。 「諸君も知っての通り、この北東海岸は砂浜が狭い。大潮を待っていたのはこの砂浜を最大限有効に使うためだ。その奥は二十メートルほどの高さの段丘になっている。第一大隊の主任務はこの浜辺を確保すると共に、この段丘を一気に駆け上がり、橋《きよう》頭《とう》堡《ほ》の安全を確保することにある」  グネチコは机上の地図を離れ、壁面に虫ピンで止められた一枚の写真を指した。 「不鮮明ではあるが、米軍から提供を受けた航空写真によると、ここと、ここと、ここに守備陣地が見える。写真ではコンクリート製のトーチカなどは見当たらない。守備陣地もコンクリート製の恒久陣地ではなく、蛸《たこ》壺《つぼ》陣地とそれを繋ぐ連絡壕《ごう》、弾薬庫と思われる掩《えん》蔽《ぺい》壕程度である」  グネチコは、振り向いた。レースガフトの強張った顔が幽霊のように裸電球の明りに浮かんでいる。 「しかも、日本軍は連合国に無条件降伏し、士気は低い」  レースガフトはそれでも唇を堅く結んだままだった。  ——芳《かんば》しい状態ではないな……。  レミゾフは彼を見つめて思った。戦闘に赴く兵士は、皆、緊張する。命がかかっているのだ。当然と言えばあまりに当然である。私だって緊張している。経験から言っても、戦闘時に緊張は必要だ。緊張がうまく働いた時、人は恐怖に打ち勝てる。しかし、その緊張も度が過ぎると危険である。 「心配するな、レースガフト。巡洋艦二隻、駆逐艦六隻の我が艦隊が、背後から君を全力で支援する。それにいま日本は、朽ち果てた家のようなものだ。玄関を一《ひと》蹴《け》りすれば、ドアは開く。君の部隊が一蹴りするのだ。そして我が師団の進撃路を開く。君は祖国の英雄となり、勲章と共に帰国する」  グネチコは、不規則に揺れる甲板を踏み締めて、にこやかな表情を保ちつつレースガフトの肩を叩《たた》いた。 「レミゾフ少佐、始めよう。君は確か上陸第三波だったな?」 「はい! しかし、できればレースガフトの部隊と同行させていただきたいのですが……?」  グネチコは途端に不機嫌な表情を露《あらわ》にした。指揮棒を片手で弄《もてあそ》び、沈黙が効果的になる頃合を計っているようだった。 「その要求は断固拒否する。以前も言ったはずだ。君は大隊長としての自覚を持て!」  オパラを出港するとまもなく、レミゾフは上陸第一波に同行したいという申請を繰り返した。グネチコはその度に却下していた。 「話は以上だ。レースガフト大尉、早く部隊を移乗させたまえ」  レースガフトは、弾《はじ》かれたようにブリッジを後にした。レミゾフはそれを横目にヘルメットを被り直す。 「いいか、レミゾフ少佐。この作戦は、何としても成功させねばならん。私は波打ち際に一個中隊以上使いたくない。君の大隊の二個中隊は、この一一八高地攻略のための主力である。そうしないと橋頭堡が、敵の射程圏に入る。私は君の大隊に期待しているのだ。上陸だけに捕らわれるな」  グネチコは指揮棒で地図を指し、改めて穏やかに念を押した。 「かしこまりました。必ずやご期待に応えます」  レミゾフは隔壁に肘《ひじ》をぶつけながら敬礼すると、第一中隊の移乗に立ち会うべく、ブリッジを離れた。  札幌の元北大総長室で、第五方面軍司令官檜山季一郎中将は、身支度を整えていた。十一日に始まった樺《から》太《ふと》の戦いは、第八八師団の奮闘で、膠《こう》着《ちやく》状態に入りつつあった。檜山は、深夜十一時を少し回った頃、久方振りに自室に引き取った。不思議と大した疲労感は感じていなかった。ただ着替えをし、当番兵に湯をもらい、伸び切った髭《ひげ》を剃《そ》った。さすがにこの七日間で頬《ほお》の肉は殺げ落ちた感があった。三日間着続けた略装を脱ぎ、新しいワイシャツに手を通すと、それまで沈滞していた気持ちが、期待以上に晴れやかになった。 「珈琲《コーヒー》をお持ちしました」 「頼んではおらんが?」  無味乾燥な室内に、香ばしく甘い香りが広がるのを檜山は感じた。驚いたことに本物の香りだ。 「桜木参謀長殿がお持ちするようにと……」  当番兵の伍《ご》長《ちよう》はお盆を机の上に慎重に置き、カップを差し出した。 「参謀長は、どこからこんなものを見つけてきたんだ?」 「さあ……」  伍長の悪戯っぽい眼が光った。「さては……」と、思ったが問いただすのは止めた。恐らくこの伍長を闇《やみ》屋《や》に行かせたに違いない。司令部の下士官、兵の間では彼が調達屋と呼ばれていることを、檜山は知っていた。 「しかし、俺一人がもらうのも気が引けるな……」 「いえ、ご心配なく。作戦室にも出しましたし、皆もご相伴に預かりました。参謀長殿のご配慮であります」  伍長はにこやかに退室して行った。  ——奴《やつ》め……。  と、思って笑みがこぼれた。気の利いたことをする。現在の樺太の戦況は煮詰まっている。長い緊張感が続くと、人は集中力を欠き、思わぬ間違いをしでかす。桜木はそれを心配したに違いない。明日未明には、北海道駐屯の第七師団から、樺太の戦線を支えるために増援部隊を送る計画になっている。困難が予想される作戦である。  ——ここは、気分転換の必要があると考えたのは、俺だけではなかったのか……。  その時、机上の野戦仮設電話のくぐもった呼び出し音が響いた。素早く受話器を取るとその先に当の桜木参謀長がいた。 「始まりました。占守島です。国端崎から第一報が人りました。『数隻以上の艦船の機関音を聴く』です」  桜木は、興奮している様子で、普段はかなり低い声が甲高く聞こえた。 「幌《ほろ》筵《むしろ》は?」  檜山は机に肘を突いて愛飲の煙草『敷島』に手を伸ばした。 「今のところ静かな様子です」 「上陸予想地点は?」 「まだなんとも……。第一報の段階です。如何《いかが》しますか?」  桜木は息せき切って尋ねた。 「まだ、慌てんでいい。敵正面が不明では何もできん。第二報を待とう」  檜山は受話器を置くと、『敷島』に火を点《つ》け、ゆっくりと煙を吸い込んだ。  ——あの時から運命は変えようがなかったのか……。  あの時とは、沼津の松岡別邸のことであった。ゆっくりと紫煙を吐き、珈琲に口を付ける。檜山はブラックが好きだった。口の中に芳しい香りと程良い苦味、そしてほのかな甘味が広がった。  ——取り敢えず、打つ手は打ってある。  檜山はもう一度、占守島の作戦を反《はん》芻《すう》した。満足ではないが、いまできるすべてのことはやった。困難ではあるが、九一師が勝ってくれなくてはこちらが動けん。  ——あいつらなら何とかやってくれるだろう。  檜山はそう思い込もうとする自分が悲しかった。第九一師団は、ノモンハンとガダルカナルの敗残兵の混成である。日本陸軍は、負け戦を隠すため、彼等を北辺に追いやった。米軍が侵攻した時には、見殺しにする捨て石部隊としてである。そんな彼等に、日本の運命がかかっている。なんと、運命は皮肉なのだ。  占守島の千歳台はすでに、九七式中戦車改のジーゼル・エンジン音で包まれていた。暗夜の中、池島大佐は、整備の行き届いた戦車群を見渡し、満足げにカイゼル髭を捻《ひね》った。七月八日以来、部品の供給は思いの外順調で、完全な整備が行えた。燃料も充分な量の良質な軽油が手に入ったため、エンジンのかかりはすこぶるよい。戦車が戦闘前に、これ程満足な状態になったのは、日本では初めてだろう。 「エンジンは充分に暖めろよ! 暖め終わったら、補給廠《しよう》で弾薬を受け取れ!」  池島は一台一台確認するように、戦車の間を縫って叫んだ。 「おい、油温と油圧は?」  第二中隊第二小隊長車の綿貫准尉は、自身の戦車の砲塔に潜り込むと、真っ先に尋ねた。 「油圧異状なし。油温は後少しであります」  操縦席の宇佐美上等兵はやや緊張の面持ちで答えた。宇佐美をはじめ、砲手の乾《いぬい》伍長、通信士兼機銃手の箱田一等兵とも、中国戦線からの転属組で、綿貫と同様に実戦経験がある。 「他はどうだ?」 「異状なし」  乾も箱田も呟《つぶや》くように答えた。 「なんだ、なんだ。元気がねえな! なにをぶるってるんだ。しっかりしろ!」  いつにない緊張感に一計を案じた綿貫は、狭い車内で背中を小《こ》衝《づ》いて回った。 「いえ、ぶるっているんではありません。ただ、先程の連隊長の……」  最後に小衝かれた箱田一等兵が煮え切らないことを言った。 「なんだ、連隊長の訓示か? 訓示がどうした?」 「北海道にソヴィエトが攻めてくるというのは本当でありますか?」  綿貫はやっと気がついた。三人とも北海道出身の兵である。北海道と聞いて家族が心配になったらしい。綿貫は、素早く自分の送話器を隊内無線に切り替えた。 「だから、俺たちが戦うんじゃねえか。いいか、俺たちがここで負けたら、後がねえ。北海道まで将棋倒しだ。しかも、俺たちは戦車戦の神様、池島大佐殿が率いる『花の戦車一一連隊』じゃねえか。てめえらも中国で噂《うわさ》ぐらいは聞いただろ? 日本はポツダムだかなんだかを呑《の》んだかしらねえが、別に俺たちが負けたわけじゃねえ。露《ろ》助《すけ》に嘗《な》められるんじゃねえぞ!」  あちこちの戦車で、思わず車内に笑いがこぼれた。  事実、池島の名は陸軍で知れわたっていた。機動戦理論を確立した人物である。マレー電撃戦の骨格にも、この理論があった。 「油温上がりました。いつでもどうぞ!」  宇佐美が今度は快活に告げた。 「よし、補給廠に向かえ。変なとこにぶつけるな」  今度は送話器を車内に切り替え、綿貫が命じた。戦車は鮮やかに隊列を離れると、一段掘り下げた溝に滑り込んだ。そこは弾薬を集積し、素早く補給するために作られた溝だった。戦車の高い位置にある砲塔に、弾薬を手渡しするためである。補給廠の兵員はすでに数《すう》輛《りよう》の戦車に補給を終え、諸《もろ》肌《はだ》に玉の汗をかいている。懐中電灯の交錯する中、喘《あえ》ぐ兵隊を叱《しつ》咤《た》しているのは、綿貫と仲のいい米川曹長だった。 「これはこれは、綿貫小隊長殿ではありませんか! おめかしして、こんな遅くにいったいどちらにお出かけで?」 「いやいや、米川曹長! ノモンハンの忘れ物を、わざわざ露助が届けに来てくれたんで、花火を持ってお出迎えに」  綿貫は砲塔を這《は》い出すとにやりと笑った。米川もノモンハンの生き残りである。そう言っている間に補給は始まった。 「それはそれは。だったら私からもよろしく言ってください」  兵員はバケツ・リレーの要領で、四十七ミリ砲弾を箱田一等兵に手渡している。箱田もその砲弾を慎重に砲塔から中の乾に手渡す。乾も慎重に弾架に砲弾を差し込むと、その都度止め金をかけていく。 「ところで……」  米川は戦車に擦り寄り小声になった。 「勝てそうか?」 「正直、わからん。しかし、親《おや》父《じ》はやる気らしい。『陸軍最後の戦いは負け戦にせん』と息巻いていた」  綿貫も米川ににじり寄ると、小声になった。 「そこで頼みがある。四十七ミリを三発と機銃弾を二箱余分にくれんか?」  米川は顔をしかめた。弾架に収めない砲弾は、危険である。信管がついているから、振動で車内のどこかにぶつかったら、それでお終《しま》いである。 「あかん。それは規則違反や。ばれたらあんたも、わいも、営倉行きやし、うっかりしたら、戦う前にいてまうで!」  米川は思わず大阪生まれが口に出た。 「そこをなんとか頼む。煙草六箱貸しがあるだろう」 「しゃあないな。榴《りゆう》弾《だん》か徹甲弾か?」 「有り難い。恩に着る。榴弾を頼む」  米川は振り向くと側の兵隊に指示を出した。 「しかし、煙草六箱ではあかんで。こないだ角瓶持っとったやろ。あれ全部とは言わん。半分よこし。そうすりゃ、補給のたんびにいいだけ弾薬廻《まわ》したる」  米川は懐中電灯の光の中でにやりと笑った。 「ありがたい。さすが米川、太っ腹だな」  補給が終わったのを見計らって、砲塔に戻りながら綿貫が言った。 「だから生きて戻んなはれ! 死んで貸し倒れはあきまへんで! あの世まで取り立てに行くのはかないまへん!」  米川の声に手を振り、綿貫は戦車を発進させた。 「中隊集合地点に向かえ」  綿貫は打って変わって凜《りん》と言った。 「いいんですか、あんな約束して?」  思わず操縦席の宇佐美が振り返った。角瓶は中島大尉からもらった日に、搭乗員だけで飲んでしまっていた。 「どちらにします? 瞬発信管ですか? 遅延信管ですか?」  海軍北東航空隊北千島分遣隊の整備長、森山上等兵曹が苛《いら》立《だ》ちながら尋ねた。『艦砲射撃始まる』の報が入ってすでに三十分がたっていたが、占《しむ》守《しゆ》島《とう》片岡飛行場の指揮所は、まだ混乱と喧《けん》騒《そう》の中にあった。 「待て待て。まだ天気がどうなるかわからんのだ。発進時刻によって、攻撃目標が変わる。いまは霧がいつ晴れるかわからんのだ。とにかく、いまは鎮まれ」  陸軍の井崗大佐は、指揮所に集まる搭乗員や陸軍の整備長に聞かせるため、あらん限りの声を張り上げた。  ソヴィエト参戦以来、占守島の天候判断は困難を極めていた。ソヴィエトの気象通報が入らなくなったためである。現在、立ち込めている霧が、いつ晴れるのか、まったく予想がつかない。離陸できたとしても目標は見えないだろうし、帰還しても着陸が困難である。搭乗員や整備員が苛立つのも無理はない。  さらに爆弾の種別という問題がある。敵の爆撃を受けた時のために、弾薬庫や航空機は飛行場からやや離れたところに、隠《いん》蔽《ぺい》され分散配置されている。発進可能といった段階で弾薬庫に爆弾を取りにいっても、機体に装備するのに小一時間はかかる。しかも、瞬発信管と遅延信管では用途が違うのである。瞬発信管は対地攻撃用で、艦船を攻撃しても損傷は余り与えられない。遅延信管は艦船の装甲を突き抜けて艦内で爆発するから艦船攻撃には適しているが、対地攻撃では地面に突き刺さってしまい、さほど効果がない。かといって、あらかじめ機体の側に様々な爆弾を置いておけば、万が一、敵の攻撃を受けた時はひとたまりもない。敵は航空機だけではない。艦砲を食らうこともあるのだ。 「いいか。現在、霧が深く、上陸予想地点の竹田浜は視界百である。幌筵方面に敵がいるかもわからん。竹田浜からの情報も正確さに欠けるし、師団司令部からも情報はない。したがって、陸軍飛行第五四戦隊と海軍北東航空隊北千島分遣隊は、発進を見合わせる。状況が好転し次第、出撃となる。とにかく、それまで地上待機してくれ」  井崗の言葉が若い搭乗員や整備長たちに火をつけた。 「こっちも、艦砲を食らうことはないんですか?」 「飛行場がこのまま使用不能だった場合、我々は陸戦隊に編入されるんですか?」 「せめて、燃料だけでも補給してはならないんですか?」  口々に質問が飛んだ。この混乱は、終戦に起因するところが大きい。 「いい加減にしろ! 貴様ら帝国軍人だろう。うろたえるな!」  陸軍の板倉大尉が叫ぶと、さすがにその場は静まった。 「いいか、この戦いは北海道を占領しようと企てるソヴィエト軍の違法行為だ。過去の例でもわかる通り、一《いつ》旦《たん》占領された国土を取り返すのは、およそ不可能に近い。私は国土が切り刻まれることは許せない。諸君も同じ気持ちだと思う。だが、ソヴィエト軍は強力だ。なにせ独逸《ドイツ》を破ったのだからな。しかも、大東亜戦争を見る限り、上陸する敵を迎え撃つのは困難である。上陸する敵は準備を整えてくるからだ。諸君は困難な敵に直面したのだ。いまうろたえたら、一押しで我々は潰《つぶ》れてしまうぞ」  板倉の言葉は、冷水を浴びせるより効果があった。搭乗員や整備長は息を呑《の》んだ。 「俺《おれ》は貴様らに言う。この戦いは、是が非でも勝たねばならん。勝つためには手段は選ばん。俺は貴様らの命も擂《す》り潰す。しかし、無駄死にはさせん。爆弾がなくなっても飛んでもらう。手榴弾や石を積んで、敵兵の上で落とさせる。その覚悟がない者は、防空壕《ごう》にでも入っとれ!」  板倉はぷいとそっぽを向くと自室に消えた。井崗も指揮所を出て行った。残された搭乗員や整備長は呆《あつ》気《け》にとられたまま、しばらくその場を動かなかった。  占守島の竹田浜は、間断なく火柱を立てていた。国端崎の小高い丘の頂上、守備陣地から見下ろすと、あたかも砂浜が真っ赤に燃えているように見えた。 「まるで、隅田川の仕掛け花火だな……」  掩《えん》蔽《ぺい》壕の明り取りの窓から、外の様子を窺《うかが》っていた島崎少尉が呟《つぶや》いた。国端崎陣地の指揮官である。ここは一個小隊に、野砲一門と速射砲一門が増強され、北端の守りに付いている。陣地はすべて竹田浜に向き、小泊崎方面の陣地と共に、上陸する敵に対し十字砲火となるよう配置されている。しかも、陣地はコンクリートで充分に防御された永久防御陣地であり、巧妙に偽装されている。  村尾大隊は第二師団の生き残りだから、水《み》戸《と》の出身者が多い。そんな中、島崎は部隊では珍しく東京出身であった。予備役上がりの元下士官で、中国戦線からの古参であった。したがって、三十五を遥《はる》かに過ぎた『やっとこ少尉』の口である。しかしその経験豊かな島崎ですら、現状に困惑していた。  ——霧が深くて浜が見渡せん。  長尺の野砲と速射砲は、敵上陸用舟艇を想定して配置されているのに、これでは使い物にならない。水際の戦闘は、小銃と擲《てき》弾《だん》筒《とう》を主兵器とする近接戦闘になるだろう。熾《し》烈《れつ》な戦いになる。  ——もっとも、この霧のおかげでこの陣地が目標にならずにすんでいるのだが……。  島崎はこれまで艦砲射撃を受けたことはなかった。大口径の艦砲は、万一、直撃があればコンクリート陣地もただではすまない。  突然砲撃が止んだ。ちらりと腕時計に視線を走らせる。棚引く硝煙で眼が痛い。  〇時五十五分。いよいよ、敵の上陸だ。 「命令あるまで発砲するな! 砲兵陣地にも伝えろ」  突然の静寂の中で、殺した声が少し高く響いた。緊張感で全身の肌が刺すように痛い。島崎は昭和十三年式軍刀を、革の巻かれた鞘《さや》からゆっくりと抜いた。数メートル離れた土《ど》嚢《のう》の陰で、第一分隊の本城軍曹も、それに倣って九五式軍刀の鞘を払った。  小さな上陸用舟艇は、その形状通り、波にはまったく弱かった。前後左右、上下にも振り回される。レースガフト大尉は、長方形の上陸用舟艇の先端で、波除けのコーミングにしがみつき、ようやく道板の前に立っていた。周囲を見渡すと、各艇の操艇員は自らの艇を決められた位置に保持しようと必死になっている。しかし、その努力も空しかった。濃霧の中で、一旦離れると、もはや、隊列に復帰するのは至難の業《わざ》だった。  ——乗艇が少し早すぎたんだ!  怒りとも嘆きともつかない感情が込み上げてきた。そして、その感情と共に、吐き気も突き上げた。緊張からなのか、船酔いなのか、吐き気はひどくなる一方だった。懐中電灯を手に振り返ると、やはり、何人かは舟艇の床に蹲《うずくま》っている。  ——俺は指揮官だ!  と、堪《こら》えた瞬間、腹に響いていた砲声が止んだ。少し楽になり腕時計を見ると、夜光塗料の針は予定時刻の五分前、〇時五十五分である。レースガフトは震える手で胸を探った。ホイッスルを探しているのである。濃霧の暗夜で、指揮を執るのはこれしかない。ようやく探り当て、口にくわえると、大きく長くそれを吹いた。舟艇のエンジン音は甲高くなり、前進を始めた。針路が一定になったことで左右の動揺は少なくなったが、波を乗り越える度に、ピッチングが激しくなった。  見返ると、左右二艇ずつの舟艇も、どうにか追随していた。残りがついて来ているかは判然としない。  ——無線が使えれば……。  日本軍の傍受を恐れ、使用は禁止されている。まあいい。はぐれた艇も浜を目指しているはずだ。レースガフトは、冷たい鋼板の道板に凭《もた》れ嘆息した。もうすぐ、日本軍が撃ってくる……。  しかし、日本軍の発砲は皆無だった。やがて、レースガフトの舟艇は艇底を何かにぶつけて、行き足を止めた。道板が音をたてて倒れ、突然、前方視界が開かれた。  情報は明確だった。幌筵の師団司令部で、高橋和也少尉は通信室に入ってくる報告を取りまとめ、作戦室に中継する作業をしていた。その彼にも、ソヴィエト軍が竹田浜に上陸することは明白に見えた。  事実、占守島、幌筵島、両島の電探基地は、竹田浜沖に集結する船団しか捕らえていない。師団司令部の作戦方針も、三十分前には竹田浜の単独作戦に切り替えられた。緊張からか、幕僚たちはしきりに麦茶を口にしていた。 「ところで……」  ざわめく地下作戦室の中央で、永原師団長は呟いた。 「方面軍司令部は何と言ってきた?」 「まだなにも……」  柳島参謀長は戸惑いを見せていた。 「督促しろ。攻撃の機会を逸するぞ!」  永原が叫ぶと、柳島は高橋に向かって顎《あご》をしゃくった。高橋は転がるように駆け出して行く。入れ替わりに伝令が一人駆け込んで来る。 「竹田浜より報告。『〇《マル》〇《マル》五《ゴー》五《ゴー》、砲声止む。村上大隊、損害軽微』であります」 「意外とソヴィエト軍はせっかちだな。いきなり上陸を始める気かな……」  幕僚の一人が応じた。大東亜戦争中の米軍の上陸作戦は、艦砲射撃や爆撃を徹底的に行った。数日間は砲爆撃のみだった。 「いや、濃霧で目標が掴《つか》めんから中止したんだろう。村上大隊に休むよう言ったほうがいいのではないか」  別の幕僚が口を挟んだ。 「いや、だめだ。村上大隊には即応態勢を維持させる。ソヴィエト軍は、奇襲を企図しているはずだ。すぐに上陸を始めるに違いない」  永原は作戦図をしっかりと見詰めて断じた。間違いない。敵は焦っている。ここを早く片付けないと北海道に行けない。  中島大尉も同じことを考えていた。中島がノモンハンで相手にしたソヴィエト軍の印象は強烈だった。作戦は荒削りで、もっぱら火力で押しまくる。恐らく今回も、力攻めをするに違いない。 「片岡の準備は?」  永原は振り返った。視線の先には中島がいる。 「はい。現在、片岡の陸海軍航空機は、燃料を満載完了。爆装の種別を確認してきています」 「よろしい。すべて瞬発信管にしよう。爆撃回数を増やすため、小さいものをたくさん付けるように下令してくれ。……天候が回復したら、速やかに離陸させろ」  永原は、依然として考え込むように、作戦図を見詰め続けていた。 「竹田浜ですか……」  柳島が声をかけた。竹田浜の状況が芳しくない。ソヴィエト軍が砲撃できないように、こちらも砲兵による火力支援ができない。村尾大隊は、裸で戦わなくてはならない。竹田浜に敵が上陸した場合の師団の作戦想定は、四嶺山から大観台にかけての内陸部決戦である。大観台はなだらかな丘陵で樹木がなく、戦車が自由に使える地形であるのが主な理由である。しかも、片岡の飛行場からは適度に離れ、敵砲兵の射程に入らない。さらに、大観台は占守島守備軍である第七三旅団の演習地で、部隊がその地形を熟知しているという利点がある。陣地もその状況を想定して、構築していた。  大観台決戦のためには、第七三旅団主力が現地に到着するまでの間、村尾大隊がソヴィエト軍を食い止めていなくてはならない。 「参謀長殿、いまよろしいですか?」  突然、中島大尉が柳島に近付いた。 「なんだ?」 「村尾大隊から、将校斥候を出したらいかがでしょう?」 「夜間に? いつ、敵の砲撃が再開されるかわからんのにか?」 [はい。私が見る限り、村尾大隊は優秀です。実戦経験も豊富です。しかも、占守島に配属になって以来約一年半、竹田浜の守備に就いています。地形には精通しています」  柳島は、「ううむ」と低い唸《うな》り声を上げた。 「村尾大隊長に無線を繋《つな》いでくれ」  二人の会話を聴いていた永原は、即座に言った。部下の意見に耳を貸し、素早く決断できるところが、永原師団長の特筆すべき利点のひとつかもしれない。  その頃、第七三旅団長杉原巌少将は、一式装軌式兵員輸送車の上にいた。一式装軌式兵員輸送車はその名の通り、キャタピラで走行する兵員輸送車であった。機械化が遅れていた日本陸軍にあって、この兵員輸送車が貴重な器材であることは言うまでもない。本土以外で配備されていたのは、フィリピン戦線だけだった。第五方面軍司令官、檜山季一郎は、北海道に展開中の第七師団からこの車輛を抽出し、第九一師団に緊急に配備したものだった。  杉原旅団長を乗せた兵員輸送車は、暗夜の道を時速三十五キロで戦場を目指していた。たった一輛《りよう》で駆けているのには訳があった。この濃霧で、戦況が判然としないのである。司令部を四嶺山に移動させたかった。 「もっと早く走れんのか?」  艦砲射撃が止むと、杉原は旅団司令部から数名の幕僚を引き連れて、兵員輸送車に飛び乗った。その杉原は後部荷台の最前部に立ち、上下左右に振り廻《まわ》される中、その薄い装甲板にしがみついたまま叫んだ。鬼《おに》瓦《がわら》のような容《よう》貌《ぼう》に加え、長身で厚い胸板の杉原は、まるで阿《あ》修《しゆ》羅《ら》のようであった。旅団司令部から四嶺山までは概《おおむ》ね上り坂で、一式装軌式兵員輸送車の最高速は四十二キロから三十五キロに落ちていた。 「いっぱいです」  運転手も悲鳴を上げた。  杉原は馬があればと悔やまれた。占守島に馬は配備されていない。 「各大隊の移動は始まったか?」  背後には野戦無線機に取り付く通信兵がいる。杉原が旅団司令部を出る時、すでに村尾大隊を除く指揮下三個大隊に出動命令を出していた。 「各大隊とも陣地を進発。大観台を目指し移動中であります。また、池島戦車連隊も現在移動中であります」  通信兵に代わって作戦参謀が答えた。  ——艦砲射撃が一時間で終わるとは……。  杉原は唇を噛《か》んだ。どんなに早くとも艦砲は夜明けまで続くと思った。その間に部隊の移動を終えて、決戦に備えたいと考えていたのだ。すべてはこの濃霧のせいだ。お陰で作戦は、後手に回る危険が生じた。焦る気持ちは必然的に兵員輸送車の運転手に向けられた。  道板が倒れた時、レースガフト大尉は言い知れぬ恐怖を感じた。静かなのである。上陸用舟艇は、波打ち際から二十五メートルの地点だった。だのに、日本軍からは一発の砲弾も、一発の銃弾も、飛んでこなかった。  ——グネチコ司令官の言うように、日本軍は戦意を喪失してしまったのか?  ふと楽観論が胸に打ち寄せた。それに抗するためには、全身の力をもって言い聞かせる必要があった。  道板から飛び下りると、長身のレースガフトでも胸まで水深はあった。小銃を濡《ぬ》らさないように頭上に差し上げ、潮の流れに抵抗して、一歩ずつ波打ち際を目指して歩いた。装備は重い。四十キロはある。当然、波打ち際に辿《たど》り着くと、息は切れ、緊張と相《あい》俟《ま》って眩暈《めまい》がした。  周囲を見渡すと、兵員もことごとく憔《しよう》悴《すい》しきって肩で息をしている。上陸用舟艇は後進し、次の中隊を迎えに行こうとしている。我に返り、レースガフトは通信兵を手招きした。通信兵は這《は》いつくばったままレースガフトの右脇《わき》に近付くと、無言で送話器を手渡した。 「第一中隊より、司令部。第一中隊より司令部」  レースガフトは声を殺した。 「司令部より第一中隊」  微《かす》かな空電に混じって、声が届いた。 「波打ち際を確保。日本軍の抵抗はなし。繰り返す。波打ち際を確保。日本軍の攻撃はありません」  しばしの沈黙があった。その間にもレースガフトの部下は、徐々に集結を始めていた。 「レースガフト大尉。敵の抵抗がないのなら、なぜ前進を開始しない! 敵の抵抗線と接触するまで前進せよ! 繰り返す。前進を開始せよ!」  グネチコの声だった。同時に遠方で小さな破裂音がした。空気を切り裂く甲高い音が空から近付いて来た。 「迫撃砲!」  誰かが叫んだ。レースガフトも反射的にヘルメットを片手で押さえると、砂浜に顔を埋《うず》めた。途端、右前方三メートルで小規模な爆発が起きた。小規模と言っても、そこにいた屈強な兵士は、いとも簡単に弾《はじ》き飛ばされ、レースガフトの顔前に叩《たた》き付けられた。屈強な若者は首を失い、肩から噴水のように血が噴出していた。 「迫撃砲です。迫撃砲の攻撃を受けています」  レースガフトは、送話器に向かって怒鳴った。怒鳴っている間にも、左右と正面から破裂音が立て続けに起こった。続いて機関銃の射撃が始まった。曳《えい》光《こう》弾を混ぜているらしく、無数の流れ星のような赤い光が、水平に伸びて来る。レースガフトの背《はい》嚢《のう》にも二発敵弾があたった。周囲に何発も迫撃砲弾が着弾して、土砂と共に兵士を放り出した。レースガフトは砂浜に顔を押しつけたまま、まったく動けなくなった。 「日本軍は待ち構えていました! 我々は敵十字砲火の真《ま》っ直《ただ》中《なか》にいます!」  無線の向こうでグネチコが叫んでいたが、砲火と銃声でまったく聞こえなかった。  村尾大隊国端崎陣地では、将校斥候の島崎少尉が戻ってきたことで、事態が判明した。しかも、本城軍曹以下の分隊を野戦電話と共に浜辺に残したため、弾着観測が行えるようになった。  しかし、島崎は野砲と速射砲の射撃を控えた。浜辺に残した本城分隊と、ソヴィエト軍の距離が近すぎることが理由だった。村尾大隊長もこれに同意し、各陣地に下達した。火力が低下することは痛手だが、止むを得ない判断だった。  したがって、主攻撃兵器はやはり、擲《てき》弾《だん》筒《とう》と機銃となった。擲弾筒は簡単に言えば小型迫撃砲で、大きな山なりの弾道を描くため、陣地からの攻撃には最適な兵器である。しかも、全長が約六十センチ、重量が四・七キロしかなく、それでいて射程は六百メートルもある。八八式榴《りゆう》弾《だん》を使用した場合、殺傷範囲が十メートルと、通常の手榴弾の二倍の威力を持っていた。専用の弾がなくなれば、手榴弾も発射できた。照準器は付いていないが、村尾大隊のように熟練した兵隊が扱えば、かなりの命中精度が得られる。  本城分隊からの弾着観測を受け、次々と発射される擲弾筒はソヴィエト軍を波打ち際に釘《くぎ》付《づ》けにし、遮《しや》蔽《へい》物《ぶつ》のない浜辺で伏せるソヴィエト軍兵士の死傷者は、時間の経過と共に増加しているようだった。  一方、機銃は十一年式軽機と三年式重機が多数配備されていた。弾薬は十五発に一発の割合で曳光弾が入れられていたため、本城分隊の弾着観測で、かなり効果的な射撃が行われていた。  問題は小銃であった。小銃は曳光弾がなく、単発で狙《ねら》いを付ける。うっかりすると本城分隊に被害が出る。ために各分隊には、砲兵同様、射撃命令が出ていなかった。 「重機も軽機も銃身に注意しろ。焼けたら厄介だぞ!」  島崎は本城分隊の報告に気をよくし、各陣地を廻って、機銃手に声をかけた。各陣地とも兵員の士気は高く、元の指揮所に戻って来た時は、生まれて初めての勝ち戦の様相で、満足感に浸っていた。 「小隊長。大隊本部から電話です」  野戦電話を通信兵が差し出した。 「島崎少尉であります」 「師団司令部からの情報では、日の出以降、霧が晴れるらしい。本城分隊に注意しろ。孤立する恐れがある」  村尾大隊長だった。村尾の声はやや緊張している。 「了解しました。日の出ですね」 「そうだ。日の出だ。ところで弾薬は足りてるか?」 「足りています。現状、後送する負傷兵もおりません」  島崎の声には自信が漲《みなぎ》っていた。 「そこで頼みがあるのだが、増援が遅れそうだ。戦車部隊は問題ないのだが、随伴の歩兵が遅れている。いつまでだったら陣地は保持できるか?」  村尾は苦《く》悶《もん》の声を絞った。 「現状では、何とも言えません。敵もまだ、第一波ですし……。逆にいつまで保持したらよろしいですか?」 「昼まで何とかならんか。俺《おれ》も旅団司令部にかけ合う」 「わかりました。ほかに作戦変更はありますか?」  島崎は不安げに尋ねた。 「ない。依然、君の小隊は大隊の作戦の要である」  島崎は、少し唇を噛んで、霧の向こうを見やった。戦闘は見えない。浜の方角に断続的な炸《さく》裂《れつ》音《おん》が続いている。 「了解しました」  暗《くら》闇《やみ》の中で溜《た》め息と共に野戦電話を切った島崎は、機銃音の中で言葉を継いだ。 「おい。本城分隊に繋《つな》げ」  グネチコ少将は、怒りに任せて作戦室の大机を蹴《け》飛《と》ばした。シェレホワの船客用のダイニング・ルームを利用した作戦室は、ただただ沈黙するしかなかった。集合している幕僚も顔色はなかった。 「ゲオルギィ・ジャコフ! 一体どうなっている!」 「現在、海岸との連絡が途絶えています。状況はまったく不明です」  グネチコが同僚や幕僚を呼び捨てにしたのは初めてだった。しかも、同じ階級のジャコフを人前で呼び捨てにしたことが、幕僚の恐怖を募らせた。 「上陸第二波はどうなった?」 「本船の上甲板で待機中です」  ジャコフは即答した。 「すぐにレミゾフ少佐をここに呼べ」  グネチコは溜め息とともに告げた。シェレホワは、その間も大きく揺れていた。太平洋から打ち寄せる波は、依然として波高三メートルを超えている。グネチコは従兵の差し出した紅茶を少し口に含んだ。 「ポノマレフ大佐。天候は今後どうなる?」 「間もなく高気圧の圏内に入る見込みです。恐らく夜明け過ぎと思われます。回復傾向にあると言っていいでしょう。ただ、問題の霧ですが、残念ながら予報は困難です。現在、霧の範囲は、オホーツク海中部からカムチャツカ半島にまで及び、半島をそっくり包んでいる模様です。晴れるとすればオホーツク海方面から晴れてくると思われますが予測は困難です」  その時、グネチコの左に位置する扉が開いた。 「レミゾフ少佐、命令により出頭しました」  レミゾフはヘルメットを脇に抱え、救命胴衣で着《き》脹《ぶく》れした姿で、直立不動の姿勢を取った。 「おお、レミゾフ少佐。待っていたぞ。こっちへ来てくれ」  グネチコはその表情を穏やかに変え、手招きした。レミゾフは瞬間的に悪寒が背筋を走った。上官が機嫌よく手招きをした時には、必ず後から困難な命令が付いてくる。彼の長い軍隊経験と戦闘経験がそれを語っていた。 「じつは、上陸第一波と連絡が取れなくなっている。日本軍の配置がわからず、艦砲の支援も行えない」  グネチコは、レミゾフの肩を引き寄せると、それを抱くようにして淡々と状況説明を行った。レミゾフは思わず溜め息を小さくついた。やはり、日本軍は待ち構えていた。 「第二波投入ですか?」  レミゾフは素早く応じた。 「そうだ。君にやってもらいたい。第二波上陸後、すぐに第三波も投入したい。君には第二波と第三波に第一波の残余を加えた大隊主力で、この一〇四高地を攻略する」  グネチコは大机のシュムシュ島全図に向かい、日本側が国端崎側の第五一高地と呼んでいる地点を鉛筆で指した。 「火力の支援はしていただけるのでしょうか?」 「もちろんだ。連絡を絶やさず、弾着観測してくれれば、必要なだけ支援しよう。ほかには?」  グネチコは、にこやかな表情に感情を隠して答えた。 「医療班はどうしますか?」 「第二波に同行させよう。第一波に負傷者が出ているだろう……。第三波の舟艇で後送すればいい」  グネチコは快活に同意した。 「わかりました。すぐにかかります」  レミゾフは、どこまでが掛け値のないところか推し量りながら答えた。 「持久戦なら文句はないのだが……」  永原師団長は、幌《ほろ》筵《むしろ》の師団司令部地下作戦室の椅《い》子《す》に腰かけ、腕組みして呟《つぶや》いた。無意識に湯飲みを取ったが、そこにあった麦茶はなく、湯飲みは乾いていた。 「従兵。済まんがあのお茶をくれ。濃い奴《やつ》だ」  言葉は、思わず口を突いて出た。便所に行くのを避けるため、水分は避けていた。しかし、口の中が砂鉄を含んだようになって、喉《のど》は渇ききっていた。 「柳島君。四嶺山電探基地から、その後報告はないか……?」  この時、師団参謀長の柳島少将は、部屋の片隅で、気象担当幕僚の高橋少尉と何やら話し込んでいた。声をかけられるまで、視線は真っ暗な窓外に向いていた。 「〇二〇〇時の報告では、竹田浜沖の船団以外に探知目標はありません。船団は動きが止まっています。恐らく投《とう》錨《びよう》しているものと判断します。通信も上陸直後から始まりましたが、予想を遥《はる》かに下回る量です」  柳島は向き直って机の通信綴《つづ》りを手に取り、確認した。 「第二八二大隊の村尾少佐からは?」 「敵第一波を砂浜で制圧しているとの報告以降、何もありません」 「そろそろ増援を出すか……」  永原は両手で顔を洗うように擦《こす》った。 「師団長、お言葉ですがそれは時期尚早かと考えます」  柳島は決然と反対意見を述べた。 「敵が上陸したと言っても、まだ中隊規模です。占守が主目標とは限りません」 「第一波が上陸したのに、後続がまだ上がってきません。少なくとも陽動作戦の可能性があります」 「日の出にはもう少し状況がはっきりすると思います。日の出まで後一時間半。もう少し待たれては……」  ほとんどの幕僚も、口々に同様の反対意見を述べた。永原は黙って腕組みのまま耳を傾けていたが、あらかたの意見が出尽くしたのを見計らって立ち上がった。 「諸君の意見はもっともだが、戦には戦機というものがある。逐次投入は何としても避けたい。いまが増援を出す時だろう。守口、川田の両大隊長に移動命令を出せ。第七三旅団の指揮下に入れる」  永原の決意は固かった。幕僚が沈黙する中、永原は座り直すと、従兵が入れた緑茶を啜《すす》った。その緑茶は永原が馴《な》染《じ》んだ宇治の粉茶で、喉越しの仄《ほの》かな甘さが嬉《うれ》しかった。風流人の永原としては、欲を言えば抹茶のほうが好みではあった。柳島は師団長が何かに願を懸けお茶断ちをしていたことを知っていただけに、すぐに作戦命令の起草にかかった。  レースガフト大尉は、まだ竹田浜で生きていた。半身を波打つ浜に置き、すでに一時間半がたっていた。一歩も前に進めないのである。指揮下の中隊のすでに三分の二が、日本軍の迫撃砲と機銃で、戦死するか負傷していた。彼自身、肩を撃たれて負傷していたが、血管を外れているのか、さほど出血していなかった。だが、焼けるような激痛は、間断なく続いている。  広い浜に散ってしまった中隊は、どこも同じ状況であった。そして、レースガフトが直接掌握できる部下は、十名にも満たなかった。さらに不運なことは、中隊に三台しかない通信機のうち、レースガフトに随伴していた通信兵のものが破壊されたことであった。残りの二台はどこにあるのか、まったくわからなかった。  これにより、船団との連絡は途絶え、艦砲の支援を受けることはもちろん、指揮下の部隊を掌握することさえできない。  敵の陣地は、主に竹田浜の北側と南側の高地にあり、迫撃砲と機銃はそこから撃ち下ろす形になっていた。 「せめて敵が対戦車障害物を置いていれば……」  それは、この浜に上がって何十回となく呟いた愚痴だった。しかし、日本軍はなぜか対戦車障害物を一つも設置していなかった。おかげで浜は何の遮蔽物もない。本来は不正確なはずの迫撃砲が、なぜか正確な着弾を示している。屍《し》体《たい》の数だけが増えるばかりである。その浜で生き残っていられるのは、機銃掃射の狙《ねら》いが定まっていないせいだった。両高地の陣地からでは、霧で狙いがつけられないのだろう。 「大尉殿! 大尉殿! なんとかなりませんか!」  間断なく降り注ぐ迫撃砲弾の中で、左約十メートルの位置で伏せるタートリン上等兵が叫んでいる。下半身を失った戦友の屍体に隠れて、声を張り上げていたが、その声も嗄《か》れてきている。 「もう少しだ。すぐ第二波が上陸して来る。頑張れ!」  レースガフトはヘルメットで掘った穴に、頭を突っ込んだまま叫んだ。その声もすでに嗄れていた。予定なら第一波上陸後、二時間以内に大隊の上陸は完了することになっている。とっくに第二波が上陸していなくてはならない。  ——なぜだ!  心の中の叫びは、怒りへと変わっていた。とはいえ、その理由も理解できた。おそらく司令部は、我々上陸第一波からの連絡が途絶えたために、作戦を躊《ちゆう》躇《ちよ》しているのだろう。  ——だが、俺たちは生きているんだ!  そう叫びたい気持ちを抑えているのは、将校としての誇りと威厳だけだった。 「第九一師団は、占《しむ》守《しゆ》島《とう》への増援を決定しました!」  札幌の第五方面軍司令部作戦室に、桜木参謀長が駆け込んで来たのは、午前二時十五分過ぎだった。やや太り過ぎの肉体には、階下の通信室から駆け上がることは、かなり苦しそうだった。それでも顔は綻《ほころ》び、安《あん》堵《ど》の様子が窺《うかが》えた。しかし、第五方面軍司令官、檜山中将は、作戦図を前に仁王立ちのまま、表情を変えない。 「増援の内訳は?」 「二個大隊……。守口大隊と川田大隊です」  檜山の表情は、即座に桜木参謀長に伝染した。声は落ち着きを取り戻していた。 「足らん!」  檜山は吐き捨てた。  ——永原には、あれ程言っておいたのだが……。  不快感が胃を突き上げた。敵の上陸第一波が中隊規模で、後続がないから躊躇しているのだろう。だが敵は、占守島攻略に全力を挙げるはずである。その理由は簡単なことだ。占守には片岡の航空基地があるからである。空母を持たないソヴィエト軍にとって、ここを取れば千島列島の制空権は確保できる。反面、ここが取れなければ、千島攻略のソヴィエト船団は、航空攻撃に晒《さら》される危険がいつまでも残る。  ——戦略的に考えれば、わかりそうなものだが……。  檜山は思わず舌打ちをした。現場指揮官はその能力の優劣にかかわらず、大局観を見失うことがある。 「第九一師団に督促しますか?」  まだ息の荒い桜木は、掠《かす》れた声で尋ねた。 「そうだな……。督促か……」  檜山は人差し指で机を叩《たた》いて考え込んだ。彼が考え込む時は、いつもそうだった。 「いや、止めておこう。九一師の判断に任せるんだ」  檜山は第九一師団に依存心が生まれることを嫌った。上部組織が判断に介入すると知れば、自ずと独自の判断に自信が持てず、頼りたくなるものである。だが、札幌は戦場から余りに遠すぎる。即応という観点から、戦闘指揮は不可能だ。しかも占守の闘いは後がない。この一戦に敗れれば、ソヴィエト軍の北海道侵攻を妨げるものは皆無なのだ。 「それよりも、大本営陸軍部は、その後何か言って来たか?」 「いえ。まったく何も……。梅本参謀総長は依然としてお出かけのご様子です。掴《つか》まっていません。河本次長と有吉第六部長は大陸命に従うよう閣下にお伝えせよと……」 「くそ!」  事情はよくわかる。何せ日本が初めて経験する敗戦である。混乱して当然かもしれない。とはいえ、この危急存亡の秋《とき》、肝心要の大本営が機能しないとは……。河本や有吉は、北千島のちっぽけな島より、満州の方に眼がいっているのだろう。だが、北千島は日本の領土である。満州とは性格が違う。それにこの背景には、日本本土の分割統治があるというのがまだわからんのか。 「参謀長。あの者を呼んでくれぬか」  檜山は思案顔でぽつんと言った。 「あの者、と言いますと……?」 「例の人選の男だ。君が選んだ三人の中の一押しの人物だ」 「ああ、兵器部にいる者のことですね。先だって資料をお持ちしたイギリス駐在経験のある大佐ですか」  桜木はしどろもどろになった。 「すぐに司令官室に呼んでくれ。それと足の長い航空機を一機確保するんだ。一番腕のいい操縦士と一緒にな。それから、大本営に連合国との連絡業務に使う航空機の識別標識を聞いてくれ。急ぐ。頼んだぞ!」  檜山はそう言うと作戦室を出ていってしまった。後に残された桜木参謀長の周囲は、幕僚の怪《け》訝《げん》な表情で埋まっていた。 「誰か兵器部の上出大佐を呼んで来い!」  幕僚たちはそれでも固まっていた。 「俺に聞くな!」  桜木はついに《かん》癪《しやく》を起こした。 「いいからすぐに陣地に戻れ!」  掩《えん》蔽《ぺい》壕《ごう》の中の島崎少尉は、野戦電話の電話口に向かって叫んだ。普段温厚で、声を荒げることなどない島崎にとって、それはひどく珍しいことだった。機銃音と擲弾筒の発射音、そして棚引く硝煙が陣地を包んでいた。 「沖合より発動艇の音が接近中です。我が分隊からだと、波打ち際まで見渡せます。ここから迎撃すれば、効果的であります」  電話の向こうの本城軍曹の意見具申は、執《しつ》拗《よう》に続いた。 「霧は晴れかかっている。まもなく晴れるだろう。砂浜から段丘の上まで十五メートルはある。いま退《ひ》かないと、いざ撤収する時には、敵から丸見えになる。それに霧が晴れれば、双方の砲撃も始まる。全滅するぞ。わかっているのか?」 「充分わかっております。しかし、まもなく第二波が上がってきます。このままなら第二波も叩けるでしょう。お願いします。もう少し、ここに止まらせてください」  島崎には本城軍曹の考えていることはよくわかっていた。本城は中国戦線で四年以上も戦った歴戦の下士官である。よほどの自信がなくては無理をしない。その彼が大丈夫だと主張するには、よほど地形的に有利な場所を陣取ったと見える。そこを『大坂冬の陣』の『真田丸』にしようというのであろう。敵地中央部に突出した陣地は、確かに効果的な場合がある。島崎は本城の言い分を慎重に考慮していた。 「よし、わかった。重機をそちらに差し向ける。弾薬も補充しよう」 「重機はお断りします。これ以上の分隊の増強は、退《ひ》く時に足手まといになります」  本城はそう言いながらも、忙しそうに自分の分隊の射撃目標を指示していた。 「よし。弾薬だけ送ろう。だが、くれぐれも無理はするなよ」  島崎は暗《くら》闇《やみ》の中で、躊躇しながらも決断した。  レミゾフは上陸用舟艇の最後尾、一段高い操《そう》舵《だ》手《しゆ》席の傍らにいた。浜の方角では盛んに銃声と炸《さく》裂《れつ》音が響いている。操舵手の話では第一波の時より、波はおさまってきているというが、艇は激しくピッチングとローリングを繰り返していた。不格好に両足を広げ踏ん張っていないと、たちまち黒い海に投げ出される。そのレミゾフの眼前に、竹田浜の波打ち際が突然現れた。周囲を見渡すと他の上陸用舟艇二十艇も、ほぼレミゾフの上陸用舟艇に並んで進んでいる。 「さあ、行くぞ! 準備しろ!」  レミゾフのメガホンを使った声には、緊張感が漲《みなぎ》っていた。 「浜辺を一気に駆け上がれよ! 銃は濡《ぬ》らすな!」  先任将校である中尉が輸送甲板で叫んだ。そのレミゾフの上陸用舟艇は、数秒後に船底を砂浜に擦《こす》りつけ、衝撃とともに艇首を持ち上げて行き足を止めた。二十名ほど乗っていた大隊本部の将兵は、激しい動揺でドミノのように前倒しになる。それと同時に、艇首の道板が倒された。  レミゾフが息を呑《の》んだのは、その瞬間だった。空気を切り裂く連続した飛《ひ》翔《しよう》音とともに、艇首にいた五名の兵士が、短い呻《うめ》き声をあげて弾《はじ》かれるように倒れた。 「海へ飛び込め! 海だ!」  レミゾフの声に、一部の部下たちは、身の丈ほどもある上陸用舟艇の舷《げん》側《そく》を越えようと、必死に攀《よじ》登《のぼ》った。半数ぐらいの者たちは、正面の道板の先を目指す。しかし、上陸用舟艇と言っても、道板の先は波打ち際まで届いていない。艇底が乗り上げてしまったら上陸用舟艇はそれ以上先には進めない。レミゾフの上陸用舟艇は、道板の先から波打ち際まで三十メートルはあった。道板から飛び込んだとしても、水深は腰より高かっただろう。だが、道板の先を目指した者たちは、海に辿《たど》り着くことはなかった。次の連射が襲った。  驚いたのは、レミゾフやその部下だけではなかった。レミゾフの上陸用舟艇の操艇員たちは、二度目の機銃掃射で完全に度を失った。間髪入れず全速後進をかけた。 「待て!」  と、叫んだがもはやレミゾフの声など、誰の耳にも届いていない。  ——くそ!  心の中で吐き捨てると、レミゾフは意を決して海中に飛び込んだ。それが運命をわける決断になるとは、彼自身も予期していなかった。レミゾフが海面に届いた瞬間、その上陸用舟艇に敵の砲弾が炸裂した。一瞬にして上陸用舟艇は火《ひ》達《だる》磨《ま》となり動きを止め、輸送甲板に残っていた者と、操艇員は肉片となって吹き飛ばされた。  一方、レミゾフは石ころのように水深三メートルの海底に沈んだ。すでに何人かの部下が海底に沈んでいる。レミゾフは驚き慌てて海面を目指した。しかし、もがいてももがいてもどうにもならない。息が続かなくなって、装備が重いことに気付いた。慌てて小銃を捨て、雑《ざつ》嚢《のう》や弾薬ベルトを外すと、浮力が戻ったのか、ゆっくりと海面に向かって浮き上がり始めた。必死で手を掻《か》き、足をばたつかせたが、それでもその動きは緩慢で、息が続かず何度も海水を飲んだ。もう駄目かと思ったが、最後の一掻きでやっと海面に到達した。  海面に頭を突き出すと、そこには敵弾が横殴りの嵐《あらし》のように、空気を切り裂き降り注いでいた。  ——これはいかん!  と、慌ててまた潜るが、海中にも弾丸が気泡の尾を引いて突き刺さって来る。事実、直前を泳いでいた兵士が、数条の気泡に捕らえられ、海水を真紅に染めながら沈んで行った。  ——早く揚がらなくては……。  レミゾフは焦るが、水を含んだ軍装は重く、鎧《よろい》を着て泳いでいるようだった。レミゾフは息が続かず、部下の血液で赤く染まる海水を、再び飲んだ。  夜明けが近付いている。東の稜《りよう》線《せん》上は、仄《ほの》かに紫紺に染まりつつある。依然、周囲は霧に包まれていたが、その霧も薄れ始めていた。そして、独立戦車第一一連隊の九七式中戦車改数十輛《りよう》は、無灯火のまま、演習地に向かう未舗装の道路を、一列縦隊になって進んでいた。 「第二中隊、まもなく円周防御!」  綿貫准尉の戦車帽に取り付けられたレシーバーが告げた。砲塔のハッチから半身を出して周囲に注意を払っていた綿貫は、双眼鏡を手に前方を凝視した。激しく動揺する砲塔から眺めると、稜線の向こうに時折、白い光が瞬いている。  緊張するなと言い続けていた綿貫だが、やはり、緊張感は容赦なく彼の五臓六腑を掴んで、きりきりと締め付けていた。  ——戦闘では、初めての車長で、初めての小隊長だからな……。  綿貫は慰めるように自分に言い聞かせた。そのうち第一中隊が道を外れ、演習地のいつもの集合点に円陣を組み始めた。 「宇佐美。円周防御だ。道を外れるぞ」  歌が好きで、いつもは鼻歌交じりの宇佐美も「了解」とだけしか応答しない。 「なんだ、元気だせや! お前、初めてこの九七式中戦車改に乗った時、こんな戦車で戦いたかったと言ったろ?」  そんな綿貫の言葉にも、宇佐美の反応は鈍かった。そうこうするうち、綿貫の九七式中戦車改も道を外れ、円周防御のための定位置に停止した。 「各小隊長は、連隊本部に集合!」  休む暇なく、隊内無線はきびきびと命令を伝えて来た。 「よし。俺《おれ》は連隊長のところに行って来る。各部の点検を済ませておけ。電線の点検を忘れるな」  綿貫はレシーバーのコードを外すと、慣れた様子で砲塔を抜け出した。  第七三旅団旅団長、杉原巌少将は、午前二時四十分、四嶺山の電探通信部隊、藤巻部隊司令部に到着した。間断なく遠雷のような砲声が響き、その度に霧が白く光っている。すでに村尾大隊の大隊副官、今村大尉が待っていて、臨時の作戦室に案内した。 「状況を聴こう!」  上気した杉原は、幕僚が地図を広げるのを待たず、今村大尉に命じた。 「ソヴィエト軍は〇《マル》二《ニー》二《ニー》〇《マル》時、第二波の上陸を敢行しました。兵力は第一波同様、中隊規模。若干の増強があるかもしれません。戦闘は継続中で、現在、大隊指揮下の各陣地は保持しています」  小柄で小太りの今村は、直立不動で答えた。 「敵の艦砲は?」 「前回の第一波とは異なり、艦砲の支援を受けています。カムチャツカ南端のロパトカ岬砲台の長距離砲も射撃を開始しました。砲撃は主に国端崎第五一高地と、小泊崎第六四高地に指向しています」  今村は前線を回ったのか泥だらけの顔を硬直させ、苦《く》悶《もん》の表情だった。 「支え切れそうか?」  杉原は日本陸軍には珍しい合理主義で通っている。したがって質問も単刀直入である。回りくどい報告を聞くのは好まず、正確で要点を得ない報告は逆《げき》鱗《りん》に触れる。今村はそのことをよく知っていた。とにかく旅団長は、村尾大隊の状況を早く知りたいのである。 「第二波投入で、敵は本腰を入れるようです。第一波は水際で食い止めましたが、第二波は正直なところ際どいとお伝えするよう、大隊長から言われました。第三波が上がって来るようなら、困難かと思います」 「大隊長の意見は?」 「火力の支援を受けた増援部隊か、戦車部隊を投入すれば、いまなら水際で敵を殲《せん》滅《めつ》することが可能です」  今村は眩暈《めまい》がしそうな緊張感の下で、それでも踏ん張って姿勢を崩さなかった。 「それは認められんな……」  杉原は、幕僚が広げ終わった占守島の地図に視線を移し、略帽を脱ぐと胡《ご》麻《ま》塩《しお》頭を掻いた。 「霧が晴れつつある。夜も明けかかっている。いま、兵力を投入すると、艦砲やロパトカ岬の長距離砲に食われる……」  杉原は姿勢を正し、淡々と説明した。いま、一個中隊や二個中隊潰《つぶ》したとしても、兵力に余裕のあるソヴィエト軍にとって痛くも痒《かゆ》くもないはずである。そのために味方の貴重な戦力は消耗したくない。とはいえ、村尾の第二八二大隊には頑張ってもらわなくてはならない。内陸部の決戦のため、二八三、二八八、二八九、二九三の歩兵四個大隊と、独立戦車第一一連隊が戦場に向かっている。占守島最南端の、歩兵第二八四大隊と中部の歩兵第二八六大隊を除く、旅団のほぼ全力である。戦場に到着する時間を稼いでもらわなくてはならない。 「旅団長。士魂部隊(独立戦車第一一連隊)から報告。『北鎮橋南岸の第一集合点に到着。指示を待つ』であります」  作戦室に伝令が駆け込んで来た。今村はその伝令を垂《すい》涎《ぜん》のまなざしで見詰めた。 「せめて砲兵の支援をお願いできませんか?」  今村は一歩前に進むと詰め寄った。 「砲兵は難しい……。夜が明けてもう少し霧が晴れれば、航空支援はできる。とにかく昼まで頑張れと大隊長に伝えてくれ。以上だ」  杉原は強引に会話を終了した。第五方面軍司令官檜山中将から与えられた命令は、至極単純だった。『とにかく、一回勝つこと』それだけである。  ——だが、それが難しい。  守るは攻めるより難しいのである。しかも、内地からの増援は航空機一機すらない。独力で戦わなくてはならない。反面、ソヴィエト軍はこちらの兵力に勝る兵力を投入しているだろう。加えて無限と言えるほど増援を頼める。『短期決戦』という言葉が杉原の頭を駆け回った。  ——兵力、火力は一点に集中しなくてはならない!  杉原は豁《かつ》然《ぜん》と眼を見開いた。 「通信参謀! 移動命令を出した各大隊の位置を確認しろ。遅れている大隊は急がせるんだ。かかれ!」  本城分隊は敵の支援砲撃の真《ま》っ直《ただ》中《なか》にあった。急造の蛸《たこ》壺《つぼ》陣地に潜る彼等は、次々と炸《さく》裂《れつ》する大口径の砲弾のために、大地ごと揺さぶられ、土砂を激しく被《かぶ》っていた。その大音響のお陰で、声での命令は満足に届かず、うっかり口を開けると、砂を食うことになる。  にもかかわらず、軽機の傍らで射撃を指揮する本城軍曹は、大いに満足していた。本城分隊が陣取った場所は段丘の真下、砂浜の一番奥に位置し、海風のために大きく窪《くぼ》んだ場所にある。砂浜の北側半分が射程に入り、障害物はない。霧は晴れてきたし、夜明け前の薄明りで、敵兵の動きは完全に把握できる。思った通り、ソヴィエト軍第二波を迎え撃つには、最適の場所と言える。しかも島崎小隊から届けられた弾薬は充分であった。  だが、問題は意外なところに発生した。 「軍曹! 雑《ぞう》巾《きん》が!」  軽機関銃射手の守谷上等兵が叫んだ。機銃は、連続発射を続けると銃身が熱を持ち、最後には焼けてくる。焼けてしまったら発射不能になるだけでなく、発射した弾が詰まって筒内爆発の恐れがある。これを防ぐため守谷は濡《ぬ》れ雑巾を銃身にかけていた。それに火がついたのである。  本城は咄《とつ》嗟《さ》にその雑巾を払いのけたが、困惑するしかなかった。雑巾を濡らすために全員の水筒の水を使い切っていたのである。もはや銃身を冷やす術《すべ》がない。  ——くそ! 百五十メートル先には水があるのだが……。  六年も軍隊生活を続ける本城だが、これ程軽機を撃たせたことはない。  ——こんなことなら交換用銃身を持ってくるのだった。後はどれだけこの九九式軽機がもってくれるかだ。  残る分隊の兵器は擲《てき》弾《だん》筒《とう》一門と、小銃、手《しゆ》榴《りゆう》弾《だん》となる。だが、そうなると敵との距離が縮まり、十五メートルの高さの段丘を越えて撤退することが不可能になる。 「おい! 守谷! 短く撃つんだ。できるだけ銃身を持たせる。いいな!」  本城はちらりと野戦電話に眼をやった。状況を小隊長に報告すべきか躊《ちゆう》躇《ちよ》したのである。  ——いや、だめだ。  本城は思い直した。島崎小隊長はこのことを聞いたら銃身を誰かに持たせるだろう。しかし、ソヴィエト軍の反撃は激しさを増している。銃身だけのために、兵に危険を冒させるわけにはいかない。野戦電話はここを退く時だけだ。 「少佐! レミゾフ少佐!」  叫んでいるのは、砂浜で這《は》いつくばっている第二中隊、中隊長、カラトーゾフ大尉だった。  レミゾフは、あの後、手近に浮かんでいた味方の兵士の屍《し》体《たい》を盾に、やっとの思いで波打ち際に辿《たど》り着いたところだった。波打ち際の海水は多くの兵士の血で赤く染まり、千切れた腕や足、肉片や内臓が散乱していた。レミゾフの抱えた屍体も腹を裂かれ、内臓がこぼれていた。白い内臓は不思議と現実感を失わせた。ただ、屍体が発する悪臭は頭痛を起こさせた。 「レミゾフ少佐! これでは、まったく進めません!」  カラトーゾフ大尉は、怒りとも恐怖ともつかぬ表情で怒鳴り捲《まく》っていた。 「待て。そっちに行く!」  とは言ってみたものの、レミゾフが匍《ほ》匐《ふく》前進で進もうとする砂浜には、敵の弾が砂煙を上げて着弾している。まるでレミゾフだけを狙《ねら》っているような錯覚さえ感じる。レミゾフは、先程の兵士の屍体を自分の頭の前に押し出すと、何とか人心地がついた。 「カラトーゾフ大尉! そこに無線機はあるか?」 「あります!」 「敵の火点は見えるか?」 「左右の高地と、右正面に一つ。左右の高地の方が、火点としては強力ですが、我々の前進を阻んでいるのは、右正面の小さな火点です」  カラトーゾフ大尉は左手でヘルメットを押さえ、砂浜に頬《ほお》を押しつけて叫んだ。 「司令部を呼び出して、艦砲の支援を求めるんだ。火力支援があれば上がれる!」  レミゾフは屍体を力一杯押して、前進を開始した。途端、左斜め後ろ五メートルほどのところに、敵の砲弾が着弾した。レミゾフは反射的に伏せたが、それでもヘルメットを飛ばされた。同時に周囲の音が消え、沈黙の世界が広がった。  ——耳をやられた!  一瞬にしてレミゾフは恐慌をきたした。耳が聞こえなくなったのは、初めての経験だった。カラトーゾフが叫んでいるのも、魚が呼吸しているようにしか見えない。  せめて武器だけでも手に入れようと、周囲に手を伸ばした。遺棄された小銃に手が触れた。それを引き寄せていると、突然、聴力が回復した。 「少佐! ここには観測兵がいません! 地図も失いました!」  カラトーゾフの声がやっと届いた。 「いいから試射させろ! 弾着を見て修正するんだ。これでは死ぬのを待っているようなものだ! 止まっていたら中隊は全滅するぞ!」  レミゾフは叫んだ。この際、味方の砲撃で多少の損害が出ても止むを得ない。それが野戦の常識なのだ。 「上陸第二波より司令部! 上陸第二波より司令部! 火力支援要請。繰り返す。火力支援を要請!」  カラトーゾフは、突っ伏したまま無線機にしがみついて叫んだ。 「試射を求む! 試射を求む!」  明け方の薄明りの中で、冷静さを取り戻しつつあるレミゾフは、ようやく周囲の状況が把握できるようになってきた。どうやら味方の火力支援は、国端崎の一〇四高地に集中しているようだった。だが、それも弾着観測を行っていないため、効果は期待できない。  ——弾着観測兵はいったい何処《どこ》に行ったんだ!  レミゾフは吐き捨てた。そして気を取り直し、砲声に包まれた海岸で、屍体を使った匍匐前進を再開した。 「問題は七三旅の展開だな」  第九一師団、永原師団長は作戦図の傍らに立ち、独りごちた。  ——人間、偉くなるのも考えものだ……。  心の中ではその考えが支配していた。戦況報告を無線で聴き、作戦図を眺めているだけだと、靴の上から足を掻《か》いているようなものだった。  ——第一線の指揮官の方が、遥《はる》かに気が楽かもしれん。  事実、師団司令部の作戦室地下壕《ごう》では、勇気も努力も無縁だった。ただただ冷静さだけが求められる。そもそも作戦とは、当初の計画からずれて行くものだ。無限に存在する不確定要素を呑《の》み込み、その都度、修正を加え、当初の作戦に近いものにする。その修正の決断を下すのが指揮官の仕事だ。無限とも言える不測の事態に対処しようと判断しているうちに、必ずと言っていいほど、誤判断が発生する。その誤判断が少ない方が戦闘に勝つと言っても過言ではない。したがって、作戦の指揮を執る師団司令部では、個人の勇気や無理をともなう努力は危険なのである。 「杉原旅団長とは連絡が回復したか?」  永原は無表情に尋ねた。 「先程、四嶺山司令部に入ったとの報告がありました」  柳島参謀長が、書類から眼を離して答えた。 「七三旅の展開状況は?」 「移動命令を受けた大隊で、一番南に駐屯していた第二九三大隊が、若干、遅れているようです。七三旅司令部から督促が出ています。こちらからも督促しますか」  作戦幕僚の神崎中佐が速やかに応じた。この神崎は、事務能力には優れた才があるが、杓《しやく》子《し》定規でいけない。常々、永原はそう見ていた。彼のような士官はあまり出世して欲しくないものだ。経験上、彼のような者の部下になった兵隊は、過酷な運命に立たされる。永原は彼の言葉を無視して歩き出した。 「参謀長。守口大隊、川田大隊は移動を開始したかね?」 「守口大隊は師団司令部下の浜に集結中です。川田大隊は烏川の浜に移動中です」 「師団司令部から誰か付けたいのだが、どうだろう?」 「はあ、七三旅とは連絡が回復していますが……?」  柳島は理解し難く、惚《ほう》けたように尋ねた。 「頃合を見て、ソヴィエト軍に軍使を送りたい。停戦交渉のためだ。この交渉、頃合が難しい。ここからでは遠すぎて、頃合を逃す恐れがある。できれば七三旅司令部に置いて待機させたい」  永原は虚空を見詰めて言った。 「では、ロシア語のできる士官でないと、いけませんな……」  柳島は少し考えこんだ。一人ではだめだ。せめて二人。だが、陸軍にはロシア語のできる士官は少なく、師団司令部にもほとんどいない。 「中島大尉と高橋少尉しかいませんな……。しかし、中島大尉は戦車戦の専門家ですし、高橋少尉は気象班の班長です」  柳島は躊躇して答えた。参謀長とすると、どちらも手放したくない部下である。 「この戦、我々の戦力と作戦では、二日が限度である。それ以上延びれば、我々の負けは見えている。停戦交渉の方が重要だ。それに、気象は予報通りなら明日も晴れだろう。気象班の仕事はもう終わった。また、中島大尉は師団司令部に置くより、七三旅に置いた方が戦車の支援作戦は立てやすいだろう。その分野に関しては七三旅の指導に任す。それで行こう。彼等に一個小隊を付けろ」  永原は、作戦図の脇《わき》に置かれた自身の乗馬鞭《むち》を手にすると、一振り自分のズボンを叩《はた》いた。戦は『勝つことよりも、止め時が難しい』とは、彼の信条であった。鞭は、騎兵出身の永原が、大きな決断をする時の癖である。 「優秀な小隊を付けろよ!」  緯度が高い占《しむ》守《しゆ》島《とう》の朝は早い。特に夏のこの時期、夜は数時間しかない。午前三時ともなると夜明けと言っても言い過ぎではない。霧もだいぶ晴れて来た。島崎少尉は、速射砲陣地に移動して、砲隊鏡で戦況を食い入るように見詰めていた。砲隊鏡は砲兵の照準観測、弾着観測に使う物で、陣地から双眼を突き出す形で使う。倍率も高く、竹田浜は完全に見下ろせる。そして島崎の焦点は、本城分隊にあった。  ——いかんな、押されてる……。  島崎は、対眼レンズに瞳《ひとみ》を押しつけるかのように注目していた。 「小隊長。ここは危険であります! 掩《えん》蔽《ぺい》壕《ごう》の中にお入りください」  速射砲分隊の分隊長、野田道生曹長が堪《たま》り兼ねて叫んだ。ロパトカ岬の長距離砲が、息つく暇なく、周囲に炸《さく》裂《れつ》している。この砲弾は、長距離砲だけあって、口径も大きく、少なくとも二十四センチはあった。威力も凄《すさ》まじく、着弾点には、半径十メートルほどの大穴があく。恐らく砲弾の大きさも二百キロを超えるだろう。破片が当たっただけでも、人間など消し飛んでしまう。野田曹長の心配も当然である。 「いや、待て。掩蔽壕に入っても、あれが直撃した時は、どの道お陀仏だ。それに、まだ敵はこの陣地を捕らえていない。大丈夫だ。そんなことより本城分隊の様子が変だ。野戦電話を繋《つな》いでみろ」  島崎はすでに本城分隊の異変に気付いていた。軽機が射撃していないのである。発射炎が見えないのかとも思ったが、どうもそうではないらしい。  ——だとしたら、さげるしかあるまい。  だが、島崎の傍らに置かれた野戦電話は、いつまでたっても沈黙していた。 「だめです。繋がりません。断線した模様です」  野田曹長は、敵の砲撃の間《かん》隙《げき》を縫って、掩蔽壕から這《は》うように戻って来た。砲弾の巻き上げる土砂は、投げ付けるように、横殴りに降り注いでいた。 「なに!」 「伝令なら……」  野田は、自らの白く塗られた鉄帽を片手で押さえている。北方作戦用の迷彩のまま塗り直していないのは、指揮官識別のためだった。野田は掩蔽壕を目指そうとした。 「待て!」  島崎の制止は遅かった。貨物列車が間近を通過するような、凄まじい飛《ひ》翔《しよう》音《おん》と共に、巨大な砲弾が掩蔽壕に落下した。島崎は眼前が真っ赤になり、爆風で身体《からだ》が持って行かれるのを感じた。意識は遠のき、甘美な世界に導かれた。  長身の上出大佐は、初年兵のように踵《かかと》を揃《そろ》えて直立すると、きちっとした敬礼を行った。第五方面軍司令官居室は、微《かす》かにインクの匂《にお》いが立ち込めていた。 「上出直樹大佐、命令により出頭致しました」 「ご苦労。楽にして少し待ってくれ。そこの長椅《い》子《す》にでも腰かけていたまえ」  檜山中将は額に汗を浮かせて、懸命に何かを書き付けていた。桜木方面軍参謀長は上出を促し、自分も長椅子に腰かけた。長椅子は布張りで、思いの外座り心地が悪い物だと上出大佐は思った。 「その後、作戦の進展は?」  檜山は顔も上げず尋ねた。 「第二八二大隊は、現在、敵を竹田浜に釘《くぎ》付《づ》けにしています。第七三旅団は、依然、移動中です。現地では夜明けが近く、霧も晴れつつあります」  桜木は、従兵が持って来た本物の珈琲《コーヒー》を手に答えた。甘く香ばしい香りは室内を満たし、上出も失われていた英国の記憶を呼び起こした。 「航空機の手配はついたか?」 「はい。千歳に一〇〇式司令部偵察機を用意しています。三沢を経由し、給油も行います。現在、対連合国連絡機用の識別塗装を施しているところです」 「一〇〇式司偵か。あいつは速いからな……。操縦士は?」 「熟練者を確保しました。飛行時間千二百時間の者です」  そして桜木は、何かを問いたげな表情を見せた。檜山は知ってか知らずか、顔も上げなかった。 「明日早朝迄に間に合うか?」 「問題ありません。一《ヒト》四《ヨン》〇《マル》〇《マル》時までに離陸すれば、本日中に羽田に着けるよう、三沢にも補給の言質を取ってあります」  檜山は満足そうに頷《うなず》いた。 「さて、待たせたな……」  檜山は、机の書類を手に立ち上がった。その手は、疲れた目頭を押さえていた。ゆっくりと応接の長椅子に向かうと、二人の前の椅子に腰を落とした。 「君が上出大佐だな?」 「はい。兵器部勤務であります」 「身上調書によると、英国駐在武官補佐だったそうだが?」  檜山は、胸ポケットからゆっくり『敷島』を取り出すと、軽くテーブルで一方を叩いて、口に銜《くわ》えた。 「戦前、ロンドンに二年間駐在していました。十六年一月、帰国を命ぜられ、その後は参謀本部勤務でした。傷病後、本年七月より、現在の勤務に就いております」  上出は堅い表情で答えた。上官が、しかも将官が身上調書を前に経歴を尋ねるのは、よからぬ場合が多い。この前は、傷病後、第五方面軍へ配転を言い渡された時だった。しかし、今回は、それ以上に言い知れぬ不安感と冷たい汗が背筋を伝った。 「英語は達者か?」 「現地では訛《なまり》があると言われましたが、どうにか……」 「よろしい。では、ただいまより、大佐、君の兵器部の任を解く。速やかに特殊任務に就いてもらいたい」  上出は、先程の檜山司令官と桜木参謀長の会話が、自分に関連していることを察した。察した途端、激しい緊張感のため右下腹部に痛みを感じた。 「明十九日、早朝、木《き》更《さら》津《づ》から二機の政府連絡機が飛ぶ。連合国と、降伏受諾のための、交渉を行う使節団の専用機だ。全権は、陸軍の河辺虎四郎中将と、海軍の横山一郎少将だそうだ。使節団は伊江島の米軍基地に着陸し、飛行機を乗り換え、マニラに向かう予定である。貴官は、これに同行してもらいたい」  上出も桜木も、ほぼ同時に息を呑《の》んだ。檜山は構わず話を続けた。 「使節団はマニラに到着したら、マッカーサーの司令部で交渉に入る。貴官はこの交渉に参加する必要はない。貴官の任務はマッカーサーか、その幕僚と別件で会談することにある。内容は、ポツダム宣言受諾後も、ソヴィエト軍から攻撃を受けている現状を、正確に伝えること。さらに、ソヴィエト軍との停戦のための仲介を依頼することである」 「私が、でありますか……」  上出は色を失った。しかし、肝心の檜山は、平然とテーブルの上の冷めかかった珈琲を手にした。そしてうまそうに一口、ぐいと飲んだ。 「そうだ、上出大佐。貴官しかおらん。身上調書、考課評定によると、貴官は弁が立つ。正義感も人一倍強い。私は適任だと考える」 「しかし、彼一人では……」  桜木は懐疑的な表情で身を乗り出した。 「うむ。そのことは考えた。だが、こういうことは頭数だけ揃えても仕方がない。使節団の人数の問題もある。ただ、使節団には、外務省から職員が二名派遣されることになっている。東郷外相と松岡さんの命を受け、全力で補佐すると言ってくれている」  檜山はしばし沈黙した。腕を組み窓外に視線を置き、動かなかった。外はまだ闇《やみ》に沈んでいる。 「上出大佐。貴官には済まぬが、この任務、是が非でも受けてもらわねばならぬ。兵器部幕僚として作戦室で戦況を見ていたと思うが、現在、我が第五方面軍は、第八八師団が樺《から》太《ふと》で、第九一師団が占守島で戦闘中である。第八八師団は、戦力の不足と避難民の保全のため、撤退戦を展開中である。第九一師団はただ一回の勝利のために、短期決戦を企図している。八八師、九一師とも、もって五日。特に九一師は、弾薬保有量から考えたら、攻勢に出られるのは、せいぜい三日が妥当なところだろう。時間がない。最悪でも五日、できれば今日を含め三日以内に米国の仲介が必要なのだ……」  檜山は視線を窓外に置いたまま、話し続けた。 「五日を過ぎたら方面軍の戦線は崩壊する。ソヴィエト軍は雪崩を打って北海道に上陸するだろう。日本軍に後はない。方面軍は抗する術《すべ》がないのだ。そして日本は独逸《ドイツ》のように分割占領されるだろう。それは取りも直さず独逸のように国家の分裂、民族の分割である」 「しかし、司令官。それは外交官の……」  上出は思わず口を挟んだ。 「外交筋だと、中立国のスペインのマドリードか、スイスのベルンの大使館、公使館を通すことになる。だが、どちらも敗戦で力を失っている上、混乱の極にある。さらに、この交渉は、軍事上の戦術、戦略が交渉の要になる。軍人が軍人を説得することが肝要だと思う。方面軍に貴官がいたのは天の救いであったと、私は思う。貴官には別の戦場で、八八師や九一師の将兵と共に戦ってもらいたい。君ならできると考える。どうだ、大佐?」  檜山は苦《く》悶《もん》の表情を浮かべながらも言い切った。事実、檜山は追い詰められていた。勝敗は時の運である。交渉に成功し米国が仲介しても、戦闘で負ければソヴィエト軍は侵攻を止めないだろう。戦闘に一《いつ》旦《たん》勝利しても、交渉が不調なら、九一師は、じり貧である。 「軍人として、よき働き場所だと考えます。死力を尽くします」  上出は、司令官の言葉一つ一つに頷いていた。静かに立ち上がると、慎重に踵を合わせ、挙手の礼で応《こた》えた。 「関係書類はいま準備させている。マッカーサーに宛《あ》てた書面はここにある。戦闘の経過は、大本営第六部を経由して、逐一、貴官の手元に届くよう手配する」  檜山は立ち上がると、彼もまた初年兵のような挙手の礼で応じた。 「弾がありません!」  半身を隠すことのできる塹《ざん》壕《ごう》で、村越一等兵が叫んだ。  ——これで三人!  本城は指揮下の分隊を見回した。すでに擲《てき》弾《だん》筒《とう》は撃ち尽くし、九九式軽機関銃は、ついに銃身が曲がって発射不能である。軽機の弾を弾倉から抜いて使っていたが、これも尽きてきた。分隊十名中、すでに二人が戦死し、一人が重傷だった。  ——退《ひ》き時なのだが……。  本城分隊は完全に孤立していた。電話線の断線で、後方との連絡は絶たれたままだった。伝令を出す員数の余裕はなく、また、村尾大隊の守備陣地まで辿《たど》り着く可能性もなかった。  ——発煙弾を持って来るべきだった……。  村尾大隊と連絡がつかなくては、野砲による煙幕の展張を依頼できない。せめて擲弾筒の発煙弾があれば、濃密でないにしても、煙幕が展張できる。煙幕なしでは、遮《しや》蔽《へい》物《ぶつ》のないあの坂を登って、撤退することは不可能だ。  ——なんとかせねば……。  しかし、代替案は浮かばない。 「右翼!」  機銃手だった守谷上等兵が叫んだ。ソヴィエト軍兵士三名が砂浜を駆け上がって来る。距離は二十五メートル。 「手《しゆ》榴《りゆう》弾《だん》!」  本城の声に、右翼の吉井二等兵が、最後の手榴弾を投擲した。白煙を引いた手榴弾は放物線を描き、ソヴィエト兵の前方二メートルに落ちて炸《さく》裂《れつ》した。先頭のソヴィエト兵は爆風で飛ばされ、その後ろを走っていた兵も、仰向けに押し倒された。三人目の兵は、前の二人が遮蔽となったのか、そのまま爆煙の中を駆け抜け、手近の砲弾で穿《うが》たれた穴に飛び込んだ。  この瞬間、作裂する砲弾、飛《ひ》翔《しよう》する小銃弾の中で本城は最期を覚悟した。最《も》早《はや》、これは近接戦闘だ。近接戦闘は兵力の差で決まる。僅《わず》か七名で、殺到する敵二個中隊は支え切れない。  第二波上陸後、上陸用舟艇はシェレホワ号に戻り、第三波となる第三中隊を乗せ、浜を目指した。霧が晴れてくるにしたがって、日本軍の攻撃は、正確さと量を増していた。  反面、ソヴィエト軍も、日本軍守備隊の火点が確認でき、効果的な反撃を行えるようになった。レミゾフ少佐としても、第三波が上陸してからは、少しゆとりができた。相変わらず砂浜にへばりつく状況は変わらないが、匍《ほ》匐《ふく》で移動できるようになった。  これにより、無線兵を捜すことができ、シェレホワ号の上陸司令部との連絡が復活した。また、浜に散らばった指揮下の部隊を掌握することができた。  第一波の第一中隊の損害は予想以上に酷《ひど》く、中隊の四分の三を失っていた。指揮官のレースガフト中隊長も、各小隊長も戦死。将校で生き残っている者は一人もなかった。  また、直接指揮していた第二中隊も兵員の半分を失っていた。レミゾフは第三中隊に前進を命じ、第一中隊を第二中隊に編入し、部隊の再編を図っていた。 「大隊長! 司令部です。グネチコ司令官殿です」  無線兵は、躍起となって命令を下すレミゾフの肩を叩《たた》いた。 「レミゾフ少佐です」  ハンド・セットをひったくるように受け取ったレミゾフは、砲弾の炸裂に負けないように叫んだ。 「報告は聴いた。第四波以降の上陸は可能な状況か?」 「現在、浜の七十パーセントから八十パーセントを制圧しました。敵の火点は三ヵ所で、うち一つは浜の右翼奥にあります。現在、この火点を潰《つぶ》しにかかっています。両翼の丘陵を利用した火点は支援の砲撃以外、手付かずのままです。第四波以降の上陸を要請します。加えて、医療班の上陸も要請します」  レミゾフは間近で炸裂した砲弾で、ヘルメットを飛ばされそうになった。ハンド・セットを耳に付けるため、ずらしていたのが原因だった。慌てて左手でヘルメットを押さえると、首を竦《すく》めた。 「第二波で、医療班は上陸したのではないのか? 彼等はどうした?」  グネチコ少将は、珍しく冷静に質問した。 「被害甚大です。医療班の三分の二は医薬品と共にやられました。上陸用舟艇に敵の迫撃砲弾が命中したのです。負傷者の数に対して、人手も医薬品も不足しています」  レミゾフは激しく撃ち込まれる砲弾に、表情を強《こわ》張《ば》らせた。 「わかった。第四波で医療班を追加しよう。他には?」 「航空支援はまだですか? ロパトカ岬砲台からも、支援の海軍からも射角が悪く、一〇四ならびに一〇六高地に対する砲撃は、効果がありません」 「霧はまだ局地的に濃い。君のいる浜は視界がよくなってきたが、カムチャツカの航空基地は霧の中だ。航空支援をあてにせず、攻撃を続行せよ。繰り返す。部隊の再編を行い、攻撃を続行せよ。以上」  無線は一方的に切れた。空しい空電の雑音が耳に残った。レミゾフは腹立たしげにハンド・セットを無線兵に押しつけた。が、無線兵はそれを受け取らない。軍服の肩を掴《つか》んで揺すると、無線兵は人形のように力なく転がった。 「くそ! まただ。バロージャ軍曹。無線機を頼む。ここはまずい。あの窪《くぼ》みに行こう」  数メートル先の窪みを指差し、レミゾフは吐き捨てるように言った。これで無線機の主は四人目である。どうやら日本軍守備隊には、狙《そ》撃《げき》兵がいるらしい。砂浜に伏せていたのでは、いつかはやられる。レミゾフが駆け出した。数名の大隊本部付将兵もそれに従った。そして、飛び込んだ窪みにはカラトーゾフ大尉が待っていた。 「司令部は何と?」  カラトーゾフ大尉が尋ねた。レミゾフが無線を使っているのを見ていたらしい。 「再編し、攻撃を続行しろだ」  レミゾフは窪みの中で体勢を直し、カラトーゾフの方に向き直って言った。 「航空支援は?」  カラトーゾフは驚いたように言った。 「ない。まもなく第四波の上陸が始まるが、我々は部隊を再編し、自力で攻撃を続行する」 「部隊を再編とおっしゃいますが、集成第二中隊は、攻撃を再開するほど兵力が残っていません!」  カラトーゾフは不満を全身で表した。 「そんなことはわかってる。だが、やるしかないんだ。それに第四波のために、この浜を空けてやらなくてはならない。兵力が密集するとやられるぞ」  レミゾフは、カラトーゾフの不満を無視するしかなかった。レミゾフ自身、航空支援に関しては大いに不満だった。だが、軍隊は文句が通用する組織ではない。レミゾフは「地図をよこせ」と、傍らのバロージャ軍曹に告げた。まもなく、レミゾフとカラトーゾフの身体《からだ》の隙《すき》間《ま》に、地図は広げられた。 「いいか大尉。一〇六高地はロパトカ岬砲台の射程外になる。右翼の一〇四高地をやろう。こっちならロパトカ岬からの支援も、海軍の支援も受けられる。正面は第三中隊で攻撃を続行する。一〇六高地は後続の部隊に任せよう」  レミゾフは可能な限り、冷静さを保って見せた。いま必要なのは、指揮官の冷静さだとレミゾフは考えていた。直属の部下の半分を失って、冷静でいる方が異常である。しかし、戦闘は続く。部下の眼は指揮官の言動に集中する。混乱を見せた途端、部隊は統制を失い、敗走する。レミゾフは経験からそれを学んでいた。 「わかりました。やりましょう。負傷者はどうなりますか?」  カラトーゾフも冷静さを取り戻したのか、素直に応じた。 「負傷者は浜に残す。後続の第四波に医療班を要請したから、もう少しまともな手当てができるだろう」  レミゾフは背後を振り返った。まだ、沖合の船団が見えるほど、霧は晴れていない。 「五分後に砲撃を要請する。煙幕も展張する。一〇四高地を占領しないと、重火器や戦車の揚陸ができない。頼むぞ、カラトーゾフ」  レミゾフは、もう一度双眼鏡で一〇四高地を見詰めた。十五度ほどの傾斜が続いている。樹木はない。  ——第二中隊はこの攻撃で再編不能になるだろう。  しかたがない。これが戦争なのだと、レミゾフは自分に言い聞かせた。 「村尾大隊五一高地との連絡が途絶えました!」  四嶺山電探通信基地の指揮官藤巻大尉は、地下作戦室に飛び込んで来て告げた。第七三旅団臨時作戦室になっているそこは、旅団幕僚で立錐の余地がなく、皆、額に玉の汗を浮かべていた。 「五一高地とは島崎小隊か?」  藤巻大尉の報告に、一瞬、生じた沈黙の中で、杉原巌旅団長は呟《つぶや》いた。 「まさか、全滅したわけではないでしょう。電話線の断線ではありませんか?」  作戦幕僚の一人が、皆の気持ちを代弁して言った。 「確か五一高地は、恒久陣地だから電話線は地下に埋設したはずだな?」  杉原は藤巻大尉に質問した。 「はい。五センチの鋼管で地下五十センチに埋設しました」 「無線で呼び出してみろ」 「呼び出しましたが応答がありません」  藤巻は顔面蒼《そう》白《はく》で答えた。  ——全滅したか……。  幕僚の誰もがそう考えた。 「村尾大隊司令部を呼び出せ。斥候を出させるんだ。何としても五一高地と連絡をつけなくてはならん」  杉原は眉《み》間《けん》に皺《しわ》を寄せていた。五一高地を取られると厄介である。敵軍の上陸を阻むことができなくなる。せめて旅団主力が展開を終えるまで、頑張ってもらわなくてはならない。敵軍はここを越えるとなだらかな台地を進撃することになる。いま進撃されれば、不完全な第七三旅団防衛線は、いとも簡単に突破されるだろう。 「片岡飛行場はどうなった?」  杉原は、思考を切り替えた。彼は頭の切り替えも早い軍人である。したがって大局観を見失うことは少ない。第五方面軍が彼の旅団長就任を強く要望したのは、その点にあった。 「まだ霧が深く、出撃できません。滑走路の半分も見えないそうです」  先任作戦幕僚の田所大佐が答えた。  ——くそ! やはり、戦車しかないか……。  杉原は唇を噛《か》んだ。独立戦車第一一連隊は、集中して使いたいと、考えていた。だが、防衛線を突破されては、意味がない。戦車は孤立すると歩兵にだってやられてしまう。 「独立戦車第一一連隊の現在地は?」 「豊城川の手前、一キロの地点です」  杉原は地図を凝視した。 「よし、独立戦車第一一連隊に連絡だ。豊城川の橋を渡ったら中央の縦断道路を外れ、豊城川沿いに北上。島の北岸伝いに五一高地へ向かえ」  最悪の場合、独立戦車第一一連隊で敵の左翼を圧迫し、時間を稼ぐ。それしかない。  第六四高地は、奇妙な静けさに包まれていた。第六四高地陣地は、正確に言うと、小泊崎と第六四高地の中間にあった。第六四高地は岩の塊で、陣地構築には不向きなため、小泊崎に続く稜《りよう》線《せん》沿いに二つの陣地を構築していた。山中速男中尉を長とする、一個小隊が守備に付き、火砲は二式迫撃砲が三門しかなかった。だが、この二式迫撃砲は、口径が百二十ミリの強力な支援火器だった。最大射程が四千二百メートルもある。二キロしかない竹田浜は充分にその射程に収めることができた。命中率が低いことと、曲射となり直接照準ができないこと、砲弾が充分でないことが問題であった。  とはいえ、敵軍上陸から連続射撃を続け、威力を発揮していた。それがいま沈黙していた。 「島崎小隊との連絡はまだつかないか?」  堪《たま》り兼ねて山中は、電話員の本村三郎曹長に噛み付いた。 「駄目であります。まったく応答ありません」  状況は芳しくなかった。風向きが悪かったのである。北から南に微風が吹いている。竹田浜では霧が晴れつつあるらしいが、その霧は竹田浜の硝煙や爆煙を伴い、風に乗って小泊崎に漂ってきていた。視界は竹田浜の南側三百メートル程度だった。迫撃砲は命中率が低く、砲弾が不足しているため、弾着観測がないと効果的な射撃ができない。  ——斥候を出すか……?  山中は悩んでいた。いずれこの陣地にも敵兵が押し寄せる。いまは一人でも兵力を割きたくない。 「大隊長です。状況を知らせろと、言ってきています」  本村曹長は受話器を差し出した。 「竹田浜はどうなっている?」  村尾少佐は山中が応答するのももどかしく、いつになく詰問口調だった。 「視界不良のため状況は不明であります。敵軍は北方の島崎陣地に攻撃の主力を置いているようで、盛んに砲声と銃声は聞こえますが、こちらからは見通せません」  山中は困惑して答えた。 「君の陣地からは、どこら辺まで見通せるのか?」  村尾は畳みかけた。 「精々三百メートルであります」 「重ねて訊《き》くが、味方の発砲音が聞こえるのだな?」 「はい。味方の野砲や速射砲、それに軽機の音が聞こえます」  山中は鉄帽をあみだにすると、額の汗を腕で拭《ぬぐ》った。 「我が小隊からも斥候を出しましょうか?」  山中の意見具申に、電話の向こうで村尾は沈黙した。その数秒間が一時間ほどに感じられた。 「いや、こちらから斥候を出す」  村尾の声は、突然、落ち着いて静かな物言いになった。 「現在、弾着観測ができず、迫撃砲は射撃を中止しています」 「わかっている。すべてこちらでなんとかする。貴様はその陣地の保持に全力を尽くせ、いいな!」  村尾は国民学校の教諭が教え子に諭すように告げると、電話を切った。  島崎少尉が意識を回復したのは、砲弾の炸《さく》裂《れつ》から数分後だった。しばらくは、身体の自由が利かず、起き上がることすらできなかった。眼の前には、野田分隊長が倒れている。一見、島崎同様、意識を失っているように見える。 「大丈夫でありますか?」  大隊砲分隊所属の衛生兵が飛んで来て、島崎を覗《のぞ》き込んで尋ねた。衛生兵は島崎の答えを待たず、頭の傷から手当てを始めた。 「大丈夫だ。それより立たせてくれ」  島崎はそう言いながらも、必死で立ち上がろうと右膝《ひざ》に力を入れた。 「駄目です。少尉殿は右足の大《だい》腿《たい》骨《こつ》を骨折しています。複雑骨折であります。骨が飛び出しています。頭も深く切って出血しています。動いたらいけません。人を呼びますから、包帯所まで下がってください」  熟練しているのか、その衛生兵は、巻きにくい頭部の怪《け》我《が》に、手早く包帯を巻き付けていく。 「いかん。俺《おれ》は小隊の指揮を執る。野戦電話を探してくれ。その掩《えん》蔽《ぺい》壕《ごう》から持って出たんだ!」  島崎は左足だけで、強引に立ち上がった。必然のように、激痛が大腿部から全身に駆け巡った。砲弾が近くで爆発したが、そんなことが取るに足らないほどの酷《ひど》い痛みだった。 「掩蔽壕は潰《つぶ》れています。敵弾が命中したんです。野戦電話も……」  衛生兵は、折れた砲隊鏡の傍らで、壊れてばらばらになった野戦電話を拾い上げて言った。 「とにかく、包帯所まで下がってください。ここでは包帯を巻くことしかできません」  衛生兵は懇願するように言った。 「だめだ。まず貴様は、自分の分隊に戻って、分隊長に煙幕弾を撃つように伝えろ。浜に取り残された分隊と、ソ連兵との間に撃ち込むんだ。伝えたら戻って来て、俺をなんとか歩けるようにだけしてくれ。そして小隊指揮所まで俺を連れていくんだ。これは命令だ」  島崎は苦痛に耐え兼ねて、崩れるように座り込んだ。 「いいな。俺の命令通りにするんだ。行け!」  最後の言葉は敵の砲声に掻《か》き消された。それでも、衛生兵は塹壕線を前《まえ》屈《かが》みに駆けて行った。  ——露助の手《しゆ》榴《りゆう》弾《だん》はでかいな……。  本城軍曹は窪《くぼ》みに伏せて、爆風に耐えながら思った。その後、重傷だった者も含め、四名が戦死した。残ったのは、本城軍曹、守谷上等兵、村越一等兵、吾《あ》妻《ずま》一等兵だけだった。一人として負傷していない者はいなかった。各自の小銃の弾倉には、数発ずつしか弾がない。 「吾妻! お前の所からあの窪みは狙《ねら》えないか?」  守谷は降り注ぐ土砂の中で叫んだ。すでにソヴィエト兵は二十メートルまで迫っていた。敵の慎重さが、彼等四人を生き長らえさせていることは間違いなかった。 「だめだ! 見えません!」  吾妻一等兵は左肩を撃ち抜かれていた。無論、手当てする余裕などない。左腕は痺《しび》れて動かすことができなかった。 「村越! そっちはどうだ?」 「こっちもだめです!」  村越一等兵は右膝を撃たれていた。尋ねた守谷も脇《わき》腹《ばら》に、本城は右腕に貫通銃創がある。  ——万策尽きた!  守谷が言う窪みは、浜でもやや高い位置にある。そこからは、こちらが見渡せるはずである。あそこを取られて助かる見込みはない。  と、考えた瞬間、野砲弾の一発がその窪みの外縁に命中した。新たな窪みからは白煙が噴き出した。本城は、一瞬、目頭が熱くなるのを感じた。 「煙幕だ! 味方の煙幕射撃だ!」  誰もが口々に叫んだ。砲撃は迫撃砲も混じり、かなり正確にソヴィエト兵の展開する周辺に着弾した。発煙弾は二十発ほど続き、濃密な白煙が重なり、重苦しく棚引き始めた。 「皆聞け! これより脱出する。まず、俺の合図で一斉射撃だ。全弾撃ち尽くせ! その後、吾妻は村越を、俺は守谷を引っ担いで後ろの坂を駆け上がる。武器は捨てていけ。空身で走るんだ。いいな!」 「ここは少しきついと思っていましたよ!」  守谷は、苦痛で顔を歪《ゆが》めながらも小さく笑った。他の者もつられて歯を見せた。本城は、各自が小銃を構えるのを確認した。 「用意……。各個に撃ち方……はじめ!」  各自の九九式小銃は火を噴いた。ボルト・アクションなので、一々、ボルトハンドルを引かないと排《はい》莢《きよう》されない。連射とはいかないが、左肩を負傷している吾妻でも、あっという間に弾丸を撃ち尽くした。小銃を放り出すと、村越に駆け寄り、彼を引き起こした。  有無を言わさず、本城は守谷を一気に背負うと、西の急傾斜を駆け上がろうとした。ソヴィエト軍は、こちらの射撃に触発されたのか、あらゆる携帯火器で射撃を開始した。敵からは見通せないため、あたかも弾幕射撃の様相を呈している。  ——意外に当たらんものだな……。  急な斜面の半分も登ると、本城はほくそ笑んだ。しかし、その直後、背後で叫び声が上がった。 「ぐわ!」  頭だけ振ると、視野の隅に斜面を転げ落ちる吾妻と村越が見えた。同時に、その無理な動作で本城の足も絡まった。  そこにソヴィエト軍の機銃掃射が斜面を嘗《な》めた。本城と守谷は、壊れた人形のように斜面を滑り落ちた。  時計の針は、ようやく四時三十分を指した。片岡の飛行場は、久方振りに活気に包まれていた。  指揮所の井崗陸軍大佐の前には、海軍北東航空隊北千島派遣隊の六名の搭乗員が整列していた。 「状況はいま説明した通りである。竹田浜の霧は薄れているが、海上はまだ霧が深いらしい。目標を発見できないかもしれないが、諸君たち海軍の搭乗員は航法ができる。なんとか敵の上空に達し、さらに詳しい状況把握に努めて欲しい。何か質問は?」 「敵艦を黙視で確認した場合、攻撃してよろしいですか?」  一同を代表して、海軍側の指揮官でもある宮松勇汰海軍少佐が質問した。 「まずは報告に努めて欲しい。諸君らを先に出すのは航法ができることもあるが、信頼できる無線を搭載していることもある。報告後の攻撃は許可する。ただし、艦艇よりも輸送船の方が重要度が高い。また、敵戦闘機には充分留意すること。カムチャツカより飛来している公算大である。他に?」  命令が明白なこともあり、質問は出なかった。とにかく敵情を把握することが目的である。次に輸送船攻撃である。霧の晴れるまでは、敵味方の識別が困難であるため、対地攻撃は禁止だった。 「では、発進、かかれ!」  海軍の搭乗員は、指揮所前で暖機運転中の九七式艦上攻撃機に向かって駆け出した。開戦当初、低翼単葉単発で引き込み脚を採用した九七艦攻は、画期的な艦上攻撃機だった。真珠湾攻撃で一躍勇名を馳《は》せた。しかし、その後の航空機や対空砲の進歩は著しく、低速の九七艦攻は、第一線を退かざるを得なかった。その九七艦攻が、第五方面軍主力攻撃機である。  だが、偵察席に着いた宮松少佐にとって、ほとんど不安はなかった。この戦いは、対艦攻撃、対地攻撃が主で、高度千メートル以上に上ることはない。低高度を維持した場合、敵戦闘機にとって上方からの攻撃は困難となる。擦れ違い後、引き起こしが間に合わないからである。敵戦闘機がこちらを攻撃するためには、後方から接敵するしかない。旧式機とはいえ、九七艦攻は運動性能がよい。易《やす》々《やす》と後方を取られることはない。  ——問題は敵艦船の対空砲火だな……。  宮松少佐機の操縦士、久保田中尉は、計器の点検を進めながら呟《つぶや》いた。愛機は古い機体だが、よく整備され油温、油圧も正常だった。 「発進用意よし」  久保田は伝声管で宮松に報告した。宮松は二番機の西岡中尉機を見やった。偵察席の西岡が手を挙げる。 「発進!」  久保田の手信号で車輪止めが外される。久保田はブレーキを解除すると、ゆっくりとスロットルを開いた。二機の機体は、重そうに翼を振るわせると、滑走路の草地へ出て行った。飛行場の関係者は、指揮所前に整列し、一斉に略帽を振った。滑走路端に並んだ二機は、エンジン音を一気に高く響かせて、二機編隊のまま霧の中に消えて行った。  グネチコ少将は、不機嫌そうに作戦室を歩き回っていた。彼の手では、強い香りのロシア煙草がじりじりと燃えていた。作戦室はその煙が充満して息苦しかった。 「第五波。上陸を完了。損害なし」  通信兵が電文を持って作戦室に入って来て、一瞬、ほっとした空気が漂った。だが、グネチコの表情は変わらなかった。 「ジャコフ師団長!」  グネチコはジャコフ少将を部屋の隅に呼び付けると、小声で話しかけた。 「一〇四、一〇六高地の攻略はどうなった?」 「…………」  ジャコフは沈黙するしかなかった。戦況は膠《こう》着《ちやく》しているのである。一〇四高地は、第一三四連隊第一大隊の第二中隊で、総攻撃を実施した。しかし、一〇四高地は急斜面で遮蔽物がなく、日本軍守備隊陣地は堅牢で、甚大な損害を被《こうむ》って敗退した。一〇六高地は二つの陣地が相互に死角をカバーするように展開している。一〇六高地自体を奪取することは容易に見えるが、そこまでの接近が困難である。事実、第四波で上陸した第二大隊第一中隊は、いとも簡単に撃退された。 「両翼の高地が取れなくては、いつまでたっても、重火器の陸揚げができんではないか!」  グネチコは、高地奪取の失敗理由を知っていた。火力の不足である。カムチャツカの長距離砲も、艦隊の艦砲も射線に稜《りよう》線《せん》がかかり、効果的な砲撃ができないのである。 「火力支援を要請します。火力支援さえあれば、必ず、攻略してみせます。ポノマレフ大佐に、駆逐艦をもっと海岸まで接近させるよう要請してください」  ジャコフは縋るように懇願した。当初の作戦では、陸海空の三《さん》位《み》一体で、進攻することになっていた。しかし、天候不良で航空機の支援は得られていない。海軍の艦艇は日本軍の反撃を恐れ、敵射程外からの遠距離砲撃を行っている。浜で戦闘しているジャコフの部下は効果的な支援なしに、孤立無援の戦いを続けている。  グネチコは、海軍側の指揮官、ポノマレフ海軍大佐の視線を背中に感じながら、しばらく考え込んだ。  極東ソヴィエト海軍は、艦艇が決定的に不足していた。革命以降ソヴィエトでは、海軍に割り当てられる予算が激減し、近代化が大きく立ち遅れた。しかもその予算の多くはヨーロッパ正面を睨《にら》む北海艦隊、バルト艦隊、黒海艦隊に廻《まわ》され、極東には、大型艦を建造したり修理するドックもない。極東艦隊の主力艦は少数の軽巡洋艦である。しかも、それらは樺《から》太《ふと》作戦を実施中である。シュムシュ島攻略作戦に割り当てられた極東艦隊は、駆逐艦六隻しかない。  ——ポノマレフは納得せんだろう……。  ポノマレフ海軍大佐の任務は、シュムシュ島攻略作戦だけではない。クリル諸島進攻作戦である。この間、指揮下の駆逐艦は一隻たりとも失ってはならないと、ユマシエフ太平洋艦隊司令長官から厳命されている。 「ジャコフ少将。部隊を再編し、攻撃主力を一〇四高地に向けよう。第一大隊は正面警戒とし、第一三四連隊の残る二個大隊で攻撃する。それから、君の第一三四連隊司令部と師団司令部を上陸させたらどうかな?」  ジャコフはグネチコの言葉に驚《きよう》愕《がく》した。第四波以降、上陸は順調に進んでいるが、依然、波打ち際まで敵の砲弾は届いている。 「しかし……」 「君の部下は、次々と砂浜で死んでいっている。予定の高地奪取が遅れているからだ。指揮官の君が現場で指揮を執らないと、損害は増えるばかりだ。直ちに上陸し、攻撃の指揮を執りたまえ」  グネチコの言葉には、一分の隙《すき》もなかった。ジャコフの不服そうな表情を黙殺すると、グネチコは振り向いて叫んだ。 「これより駆逐艦二隻をジャコフ少将の指揮下に入れる。海岸から三千メートルまで接近し、一○四、一〇六高地攻略の火力支援を行え。船団護衛は残りの四隻で行う。ポノマレフ大佐、直ちに取りかかれ」  幕僚の視線は、一斉にポノマレフ大佐に集まった。どこの国でも陸軍と海軍は仲が悪い。共同作戦は主導権争いの火種になる。特にソヴィエト軍の場合、冷や飯ばかり喰わされた海軍は、陸軍に対する反感が強い。グネチコは攻略軍の編成に当たって、海軍に対し異常な程、気を遣っていた。  ——こちらも師団長を戦場に出すんだ。文句は言えまい。  というのが、グネチコの考えだった。案の定、ポノマレフは憮《ぶ》然《ぜん》とした態度で、書類挟みを机に放り出すと、作戦室を出て行った。  ——この作戦には俺の未来がかかっているんだ!  グネチコは心中で吐き捨てた。成功しなければ、俺はこれからも、カムチャツカ地区守備隊司令官のままだ。退役するまで辺境の司令官はやりたくない。恐らく早期退役も、救いにはならんだろう。それがソヴィエトだ。我が祖国だ。  ——乾パンと砂糖湯は妙に合うな……。  綿貫准尉は新しい発見をして嬉《うれ》しかった。  戦車第一一連隊の車列は停止し、命令を待っていた。豊城川の縦貫道にかかる小さな橋の袂《たもと》だった。一《いつ》旦《たん》は豊城川の北上を開始したが、旅団司令部より中止命令が出た。「橋まで戻り待機せよ」との命令を受けたのである。  連隊長はこの間を利用して戦闘配食を命じた。烹《ほう》炊《すい》車は連隊本部に随伴していた。だが、移動命令がいつ出るかわからない状況のため、湯しか沸かせなかった。 「中隊長殿はまだか?」  戦車の脇《わき》で車座になっていた中の一人、早見少尉が尋ねた。早見は第三小隊長である。学徒出身の予備士官であった。連隊配属の時は、地図の読み方もおぼつかなかった。九八式軍衣もまるで七五三だった。池島連隊長はそんな学徒出身の予備士官を特に可愛《かわい》がり、眼をかけていた。早見もその一人だった。もちろん戦闘経験はない。したがって、痩《や》せて頬《ほお》のこけた顔は蒼《そう》白《はく》。所在なげだった。 「少尉、少し喰っといた方がいいですぞ。次はいつ喰えるかわからんですから」  小さな声で、他の者に聞かれないように気遣いながら、綿貫はできるだけさりげなく、声をかけてみた。 「いや、乾パンは苦手なんです。口がぱさついて……。それよりも移動命令はまだでしょうか?」  鶏のように視線が落ち着かない早見は、夏期用の戦車帽を脱ぐと、頭を掻《か》いた。竹田浜方面からは、砲声がしきりと聞こえてくる。  ——それは確かに気になるだろうな。  綿貫にも初陣はあった。自分にも思い当たることが過去にあっただけに、可哀《かわい》そうだった。池島連隊長が普段から言うように、平時ならのんびりと学業に勤《いそ》しんでいられたはずが、俄《にわ》か将校に仕立てられ、戦地に放り出された。しかも終戦で一度は命長らえたのに、事ここに至って死地に赴く。  ——辛《つら》いだろうが……。  綿貫は思った。しかし、戦いは避けられない。彼等、初陣の者たちには、踏ん張ってもらわなくてはならない。 「なんだ、どうした?」  第二中隊長、根本大尉が背後から声をかけた。薄明りの中で根本の厳《いか》つい顔は、黒い影となって、その古傷を隠した。ノモンハンで綿貫たちが戦った戦闘の傷だった。根本の戦車は炎上し、顔面に火傷《やけど》の痕《あと》を作ったのだ。大した傷ではないが、凄《すご》味《み》だけは充分にあった。 「移動ですか?」  誰とはなく声が上がる。 「ああ。移動する。匂橋を通過し天神山山《さん》麓《ろく》に至る。そこで第四中隊と合流する。六時までに移動を完了しろとの命令だ。さあ、尻《しり》を上げろ。時間がない。出かけるぞ!」  根本は訓練に出かけるような、気安い口調で命令を下した。面体とは裏腹の陽気な性格は変わらない。頼もしい限りだ。  島崎少尉は大《だい》腿《たい》骨《こつ》に添え木を当て、国端崎陣地の小隊指揮掩《えん》蔽《ぺい》壕《ごう》にいた。敵の第二波総攻撃を撃退したばかりで、まだ、壕の中は硝煙臭く、眼が痛かった。 「小隊の損害は三割を超えました。部隊の再編が必要です」  先任の相馬隆男准尉が、壕内に置かれた粗末な木製の机で、各分隊長からの損害報告を聞き取っていた。 「その内訳は?」 「前《ぜん》哨《しよう》陣地の第四分隊が最も酷《ひど》く、長坂良雄上等兵を除く全員が、戦死または負傷です。その次が第一分隊で残余は三名です。前哨陣地は破壊が著しく、放棄すべきでしょう」 「よし、わかった。第一線を下げる。再編を急いでくれ」  島崎は苦痛に表情を歪《ゆが》めていた。添え木は当てたが、それはあくまでも応急処置で、痛みを止める薬品もなかった。額からの出血もまだ止まっていない。止血のために巻いた包帯も、大きな赤黒い染みを作っていた。 「通信兵。大隊本部に繋《つな》いでくれ」  島崎は上体だけ振り向いて、若い二等兵に声をかけた。電話員だった河本曹長が、野戦電話と共に砲弾で吹き飛ばされた後、若い吉岡二等兵がその後を引き継いでいた。にきび面の吉岡は、先の伝令が届けた二式野戦電話で大隊本部を呼び出した。 「せめて、負傷兵を後方に下げたいのですが、人手がありません。そちらでなんとかなりませんか?」  状況報告の後、島崎は電話口に出ている村尾少佐に告げた。 「残念だが、その要求には応《こた》えられそうもない。敵は内陸部に侵攻を開始した。君の陣地の後方は遮断されている」  村尾少佐は、済まなそうに応答した。事実、ソヴィエト軍は竹田浜の正面から、内陸部への侵攻を開始していた。その先《せん》鋒《ぽう》は一キロ進んでいる。村尾大隊は、指揮下の各陣地が孤立しつつあった。 「弾薬は?」  今度は村尾が尋ねた。 「小隊は備蓄の三割を使いました。野砲と速射砲は約一会戦分を消費しています」  一会戦分とは各砲につき千発である。当初から籠《ろう》城《じよう》戦を企図していた国端崎陣地と小泊崎陣地は、二会戦分を備蓄していた。 「率直に訊《き》く。まだ、戦えそうか?」  その言葉には村尾の期待感が込められていた。その微妙な声の調子を、島崎は聞き逃さなかった。 「一日二日は耐えてみせます。任せてください」 「そうか。頼むぞ。国端崎陣地と小泊崎陣地が頑張ってくれて初めて、師団の作戦が展開できるのだ」  二つの陣地の守備兵は、貧乏くじである。それはよくわかっていた。敵は重火器を上陸させるために、必死になってこの二つの高地陣地を攻略しようとする。後退させず頑張らせることで、ソヴィエト軍は戦力を削がれるし、我が軍からすると反撃時の攻撃の起点となる。彼等の出血は、是が非でも必要なのである。村尾は、彼等の踏ん張りを期待するしかなかった。  ——地上はどうか知らないが……。  宮松海軍少佐は、九七艦攻の偵察席で呟《つぶや》いた。高度を二百に降下させたが、海面はおろか地上の丘すら確認できなかった。べったりと雲が張り付いているのである。これ以上高度を落とすことはできない。四嶺山は標高百七十メートルである。  航法ではそろそろ竹田浜上空のはずである。それを裏付けるように、盛んに火砲の発射炎が光っていた。 「石川。西岡機は付いて来ているか?」  下方に神経を集中しているため、西岡機まで気を遣っていられない。宮松は後席の電信員、石川一飛曹に伝声管で尋ねた。 「付いて来ています」  石川は、忙しそうに七・七ミリ機銃を振り回しながら、対空警戒に努めていた。 「よし、久保田。一《いつ》旦《たん》高度を上げて、雲の切れ間を探そう。安全を確認しないと、高度も下げられん」  今度は操縦士の久保田中尉に伝声管で下令した。 「了解。高度を上げます」  久保田はミッドウェイ作戦の生き残りで、熟練した操縦士である。したがって彼にとって、悪天候下での編隊飛行は初めてではない。もっと酷い天候で戦闘行動を取ったこともある。こんな時は、急激な機動は厳禁だった。久保田は西岡機が見落とさないように、ゆっくりと機首を持ち上げた。 「石川、対空警戒を厳にせよ」  宮松は注意を促した。九七艦攻は足が極めて遅い。敵戦闘機に狙《ねら》われたら逃れる術《すべ》はないのである。雲の上に出たら、こちらも雲の切れ間や敵艦隊を発見しやすいが、敵戦闘機が、それを待ち構えている危険は高い。  雲の上に出るには、もどかしい時間を必要とした。そしてその瞬間は、突然訪れた。周囲を包み込む白い布が一気に取り払われたように、視界は開けた。空は蒼《あお》く、吸い込まれるような美しさがあった。宮松は縛帯を素早く外し、身体《からだ》の自由を確保すると、身を乗り出して雲の切れ間を探した。 「久保田。少しバンクしろ」  偵察席からは主翼や胴体が死角を作る。いま下では、味方が死闘を演じている。悠長に探す暇はない。宮松は焦っていた。 「石川。敵機はいないか?」 「いません! 露助のやろう、俺たちを嘗《な》めてやがる!」  石川一飛曹は、小さな身体を利し、狭い電信席で独楽《こま》鼠《ねずみ》のように動いて、全周囲を確認した。さすがの宮松も、敵戦闘機がいないのには驚いた。素早く自分の肉眼でも確認するが、どうやら石川の言うことは正しいようだった。 「ようし、久保田。始めようか。八時の方向に雲の切れ間が見える。突入するぞ。今度は対空砲火が相手だ!」  宮松は身体を熱い物が駆け巡るのを感じながら叫んだ。二番機の西岡中尉も気付いたのか、何度も手信号で雲の切れ間を伝えようとしている。雲の切れ間から突入すれば、地上衝突の心配はない。恐らく敵艦隊はすぐに見つかるだろう。その時は敵の弾幕の中を飛ぶことになる。久保田の腕が試される。  宮松は機体が滑るのを感じながら、座り直した。まずは報告である。  ——敵機がいないということは……。  と、考えて文案を思い巡らした。  井崗陸軍大佐は、片岡の指揮所で通信室にいた。時折、時計に眼を走らせ、じりじりと時の過ぎるのを待っていた。直掩の戦闘機もなく、九七艦攻二機だけで出したのだ。すでに敵戦闘機に喰われたかもしれない。無電を打つ間もなく、撃墜されることもある。あらかたの空中勤務者も同じ思いで通信室にいた。  そして通信機の唸《うな》りの中で、受信を受け持つ二人の通信士の表情が変わった。一瞬、二人は、怪《け》訝《げん》な表情で顔を見合わせた。 「来ました。宮松少佐機です。連送三回、『トラ、トラ、トラ』です」  期せずして通信室にどよめきが起こった。宮松少佐の電文は、すべてを物語っていた。連送三回、『トラ、トラ、トラ』は、真珠湾攻撃の第一次攻撃隊が打電した電文で、『我、奇襲に成功せり』を意味している。  ——やってくれるわい!  と、思うと自然と笑みがこぼれた。 「よし。第二波攻撃隊の編成を行う。搭乗員は指揮所前に集合せよ」  井崗は皆と共に勇躍、通信室を出ると安《あん》堵《ど》の溜め息を漏らした。  驚いたのはグネチコ少将だった。シェレホワ号に、短くけたたましいサイレンが鳴り響いた。 「なんだ。一体何事だ?」  グネチコは中腰になると、作戦室の机の向かいに座るポノマレフ海軍大佐に詰問した。 「さあ、何でしょうか……」 「『さあ、何でしょうか』ではない! 空襲警報だろう、あれは!」  狼《ろう》狽《ばい》するポノマレフを叱《しつ》責《せき》すると、グネチコは作戦室を飛び出した。背後でガラス製の紅茶カップが割れる音がしたが、委細は構っていられなかった。ラッタルを駆け上がり、ブリッジへ躍り込むのに一分という貴重な時間を費やした。躍り込んだ瞬間、フラッシュを焚《た》かれたような閃《せん》光《こう》と、大音響がグネチコを襲った。続いて、開け放たれたブリッジの右《う》舷《げん》の出入り口から、激しい爆風がそこにいる者を襲った。  グネチコは長い軍隊生活で培った条件反射で床に伏せたが、事態を正確には掴《つか》んでいなかった。  ——この船か!  と思ったがその割りには衝撃が少ない。ゆっくりと身を起こし、右舷を見やると驚《きよう》愕《がく》の風景があった。 「ニコライ・セローフ号です!」  誰かが叫んだ。しかし、グネチコの眼にはスクラップになって燃える鉄《てつ》屑《くず》にしか見えなかった。 「シュクシーン号も被弾しました!」  見張り員が叫んだ。グネチコはその見張り員を押し退けると、右舷ブリッジの張出しに出た。 「なぜだ!」  叫びはニコライ・セローフ号の連続爆発に掻《か》き消された。 「日本軍機の空襲です! 突然、突っ込んできました」  アレクサンドロビッチ・チトーフ船長は、グネチコの背後から告げた。 「あそこです! 敵機はあそこです!」  見張り員は北の空を指差している。遅れ馳《ば》せながら、護衛の駆逐艦が対空砲火の火《ひ》蓋《ぶた》を切った。 「くそ! 射程外ではないか!」  グネチコは吐き捨てると、大《おお》股《また》でブリッジに戻った。 「ポノマレフ! 貴様の艦隊は一体何処《どこ》に眼を付けているんだ!」  怒髪天を衝くとはまさにグネチコのことだった。怒りは頂点に達し、掴みかからんばかりの勢いである。 「敵機、戻ってきます!」  見張り員は絶叫した。 「チトーフ! 船を出せ、船を!」  グネチコは矛先を船長に向けたが、これは意味を成さなかった。 「だめです。蒸気を上げて、錨《いかり》を揚げなくては!」  チトーフは、ブリッジの前縁で、身を屈《かが》めながら応じた。シェレホワ号は、旧式の機関である。即応はできない。対空射撃の音は激しさを増し、敵機が反復攻撃に入ったことを示していた。 「閣下! 伏せてください!」  幕僚の一人が悲鳴のように叫んだが、誰かはわからなかった。グネチコは床に伏せたポノマレフを軽《けい》蔑《べつ》のまなざしで見据えると、再び右舷の張出しへ大股で向かった。出るまでもなく、敵の単発航空機は二機編隊で、まっしぐらに向かってくるのが確認できた。敵機は対空砲火の少ない、陸側から突っ込んで来る。 「やるな!」  思わずグネチコも感嘆した。そして自らの腰のホルスターからトカレフを引き抜くと、片手で構えて撃ち始めた。効果があるなどとは思っていなかった。ただ、この作戦の指揮官としての強い意志を示したかっただけだった。 「グネチコ少将! 危険です。指揮官が負傷したらどうするのですか!」  チトーフが匍《ほ》匐《ふく》前進で進んで来ると、ブリッジの出入り口から叫んだ。  空冷の丸い機首がどんどんと大きくなって、機体の下に取り付けられた黒い爆弾も、はっきり視認できる。グネチコは弾倉の弾を撃ち尽くすと、片手で弾倉を床に落とし、新たな弾倉を慣れた手つきで装《そう》填《てん》した。その三発目を撃った時、二機の編隊はシェレホワ号の船尾を掠《かす》めた。上部構造物の陰に消えた瞬間、九八四〇トンの船体が大きく振動し、火柱が三本立ち上がった。  四嶺山の旅団司令部は情報の統制が整いつつあった。村尾大隊の国端崎陣地とも連絡が再開し、移動中の指揮下各大隊の現状も刻々と作戦図に書き込まれていた。 「これはなんだ?」  通信文を握って杉原旅団長は尋ねた。 「たったいま、受信しました。海軍北東航空隊北千島分遣隊の隊長機です」  通信参謀は頭を掻いて答えた。 「こいつは驚いた。ソヴィエト軍機は出ていないのか?」  先任作戦幕僚の田所大佐も、驚いて電文綴《つづ》りを覗《のぞ》き込んだ。 「さて、なぜでしょう……。天候かもしれませんな。しかし、海軍さんもやってくれますな……」  田所は首を傾げるばかりだった。カムチャツカの天候は、ソヴィエト参戦後、まったく入ってこない。予報を立てるにも、周囲がほとんど敵地であるため、天気概況がなく、術がない。 「敵が航空機を出せないということは、大いなる朗報だ!」  杉原は感嘆の声を上げた。制空権のない戦闘は悲惨である。日本陸軍は大東亜戦争で自らの出血をもって学んだことである。 「しかし、我が方も戦闘機四、艦攻四ですから……。それに敵の航空基地の天候が理由なら、いずれ回復の可能性もあります」  田所は杉原に水を差した。制空権を取るほどの戦力ではないのである。対地支援としても大きな戦果は期待できない。 「わかってる。わかってる。皆まで言うな。だが、独立戦車第一一連隊が戦場に届くまで制空権が取れれば、いまはそれで充分だ。池島大佐に知らせてやれ」 「わかりました」  通信参謀が通信室を離れようとすると、杉原の言葉が追いかけた。 「師団司令部、方面軍司令部にも転電しろ。各陣地、各部隊の航空管制官にもだ。これは必要だ。急げ!」  一方、グネチコはブリッジの張出しに立ち尽くしていた。怒りは収まる気配がなかった。  視線は、周囲で燃える二隻の船に注がれていた。すでにニコライ・セローフ号はその姿を船首を下に没していた。揚陸のため船倉ハッチが開けられたところに敵の爆弾が落下し、弾薬が誘爆したのだった。残る二隻は爆弾が小さかったこともあり沈没してはいなかったが、シュクシーン号の被害は大きく、船体の五ヵ所から火の手が上がっていた。駆逐艦が側に寄り添って消火を手伝っているが、望みは薄かった。もう一隻の輸送船グラズノーフは間もなく鎮火するだろう。幕僚は腫《は》れ物に触るように遠巻きにして様子を窺《うかが》っていた。 「カムチャツカは何と言っている!」  通信参謀が電文を手にやって来たのを、気配で感じたグネチコは、すかさず詰問した。 「申し訳ありません。天候は依然回復していません」 「で?」 「離陸できないと……」  通信参謀の言葉が終わらぬうちに、グネチコはゆっくり振り向いた。顔面は鮮やかに赤く変わり、眉《み》間《けん》の血管が浮き出ていた。 「ふざけるな! 誰に向かって言っているんだ! なぜ、すぐに飛べと言わん!」  グネチコは叫んだ。向きを変えると、視線はトラフテンベールク少将を捕らえた。 「参謀長! 損害の集計はまだか?」 「各輸送船の鎮火を待たないと、正確な数字は申し上げられません。ただ、消火に海水を使っているので、通信機器および車輛にかなりの被害があるかと考えます」  大柄の割に普段から影の薄いトラフテンベールク少将は、冷静に事実を告げた。 「概算でいいから誰かを各輸送船にやって集計させろ。急ぐ」  突然、グネチコは穏やかな表情を見せると、トラフテンベールクの肩に手をやった。 「参謀長。現状をどう見る? 遠慮なく言ってくれ」  グネチコは、トラフテンベールクの背中を押すように、ブリッジに促した。トラフテンベールクはグネチコの真意を慎重に測り、言葉を選んだ。二人は階下に降りると司令官休憩室にあてられている、船長室のマホガニーの扉を潜った。 「事前の赤軍参謀本部情報では、日本軍は武器、弾薬及び食糧が不足し、敗戦で将兵の士気も低下しているとのことでした。また、日本軍の島での防衛戦術は、これまで主に持久戦でした。しかし、いま、我々が直面している日本軍は、我々の知る日本軍とは異なります。まったく別の戦い方をしています。残念ながら我が軍は、その術中に嵌《は》まっています」  二人は申し合わせたように、室内中央の古びがきている布張りの応接セットに、どっかと腰を降ろした。 「同感だ、トラフテンベールク。だったら我々はどうしたらいい? 沈着冷静な参謀長の意見が欲しい。五分以内に考えてくれ」  そう告げるとグネチコは作り付けの戸棚から、ストリッチナヤの瓶を一本取り出した。「冷えていれば文句はないのだが」と、呟《つぶや》きながら二つのコップになみなみと注いで、一つをトラフテンベールクに差し出した。 「一つ疑問なのは、なぜに日本軍はこれ程、積極的なのかということです。シュムシュ島は、現在、パラムシル島以外との連絡が途絶しているはずです。補給も七月に一回受けただけで、それも定量の三分の一です。加えて、本土からの増援の見込みもありません。積極的な戦闘を行ったら、恐らく四日。我が参謀本部の情報が正しければ、二日で戦闘不能になるはずです。確かに我が軍は予想外の日本軍の抵抗に遭い、混乱しています。が、この日本軍の行動は、自滅に向かって突き進んでいます」  トラフテンベールクは、ストリッチナヤに口をつけた。ただでさえ、船の舷窓は小さく換気が悪いのに、それは閉ざされ、厚手のカーテンが引かれていた。ストリッチナヤは生暖かく、独特の強い芳香と共に喉《のど》を焦がした。 「もっともな意見だ。私も日本軍は自滅しつつあると考える。だが、なぜだ? そんなことがわからんはずはないだろう」  グネチコはソファーで、やや疲れた表情を見せた。軍装の襟元を寛《くつろ》げ、ヘルメットを椅《い》子《す》の上に無造作に置くと、目頭を押さえた。 「わかりません。勝算があるのか……、それとも何かほかの目《もく》論《ろ》見《み》があるのか……。ただ、時間が経過すれば、自ずと事態ははっきりすると思います」 「だが、我々にはその時間がない。ワシレフスキー元帥がシュムシュ島攻略に与えた時間は五日間だ。日本軍が自滅するのを待つわけにはいかん。何か打つ手がなくてはならん。我々は、プロフェッショナルだし、それだけの経験がある」 「その通りです。我々は大祖国戦争を戦い抜きました」  トラフテンベールクは率直に同意した。グネチコは、モスクワの凍て付く寒さの中で戦った、あの絶望的な戦闘を思い出していた。押し寄せるドイツ軍はモスクワに六十五キロまで迫っていた。補給に困窮するドイツ軍の弾薬を浪費させるためだけに、戦線に送り込まれる新兵を次々と突撃させた。成算はまったくなかった。回収もできない屍《し》体《たい》が折り重なり、凍結して輝いていた。連隊長だったグネチコとトラフテンベールクは、深夜、凍て付く塹《ざん》壕《ごう》の中で、身体《からだ》を暖めるためにウォトカを呷《あお》っていた。 「考えてくれ。何か手があるはずだ」 「はい。ないわけではありません。しかし、思い切った手になります」  トラフテンベールクはコップに残る透明な液体を飲み干した。ストリッチナヤの辛さが口の中にいつまでも残った。 「師団長、お申し付けの封筒をお持ちしました。これでよろしいでありますか?」  従兵は直立不動で、分厚い封筒を差し出した。永原師団長は作戦室の上座にいて、椅子の肘《ひじ》掛《か》けに頬《ほお》杖《づえ》を付いていた。 「おう。それだ。ご苦労」  永原は封筒を受け取ると、しげしげとあらためた。 「何ですかそれは?」  傍らで幕僚と打ち合わせをしていた柳島参謀長が覗き込んだ。 「檜山司令官がな」 「ああ、あの時の……」  柳島が言ったのは、檜山が先月視察にやって来た時のことである。檜山は占《しむ》守《しゆ》島《とう》、幌《ほろ》筵《むしろ》島《とう》の防備状況を丹念に見て廻《まわ》り、その後、作戦の検討会を行った。会議終了後、檜山は厳重に封印された封筒を永原にそっと差し出した。「万が一、始まったらこれを開封せよ。幸いにして事が起きなかったら、開封せず、機密文書と共に焼却すべし」と、檜山は言い置いて占守を去った。  永原は文具に凝る癖があった。独逸《ドイツ》駐在武官に頼んで送らせた、馬を象《かたど》った凝った作りのぺーパーナイフを大切にしていた。そのペーパーナイフで慎重に封を切った。  几帳面な檜山の性格を示すかのように、中に幾つもの封筒が収められ、それぞれには第九一師団の各級指揮官を示す宛《あて》名《な》が大書されていた。永原は柳島に当人宛ての封筒を手渡すと、自分宛ての物を開封し、中の文書をあらためた。 「なんと!」  と、声を上げたのは、柳島の方が若干早かった。 「これは第五方面軍、正規の命令書ではありませんか!」 「確かに……」  永原は言葉を失った。この戦闘はポツダム宣言受諾後のものであるだけに、国土防衛とはいえ、責任問題が発生する恐れがあった。日本軍が先に発砲したので止むなく戦闘に突入したと、ソヴィエト軍が主張することもある。真実が必ずしも正義として通るとは限らない。それは歴史が証明している。もちろん永原も柳島も、この件については何度か話し合っていた。だが、この命令書は、この問題に対する一つの答えを指し示していた。 「これによると檜山中将が正式に戦闘を許可したとあります。檜山司令官が全責任を負うということですか?」  柳島は驚きの表情を禁じ得なかった。 「そういうことになるな。どうやら、檜山さんに美味《おい》しいところを持ってかれた」  永原は嘆息すると共に微《かす》かに微笑《ほほえ》んだ。 「この命令書はいかがしますか?」 「戦闘中だ。司令部金庫に保管し、戦闘終了後、各指揮官に配布しよう。ただし、口頭では伝達しよう」 「わかりました。そのように手配します」  柳島は永原から封筒を受け取ると、従兵に渡し、幾つかの指示を付け加えた。 「さて、敵もそろそろ、戦い方を変えてくる頃だろう。ソヴィエト軍も、馬鹿ではないからな。どうだ参謀長?」  永原は真顔に戻って、身を乗り出した。視線の先には、刻一刻と変化する戦況が書き込まれている作戦図があった。 「同感です。私がソヴィエト軍司令官なら、国端崎陣地と小泊崎陣地の攻略は取り敢《あ》えず保留とします。迂《う》回《かい》し、包囲することで孤立化を図り、自滅を誘います。本隊は内陸部への侵攻に本腰を入れます。そのためには、そろそろ海軍特殊作戦部隊を投入してくるでしょう。ただ、このままでは、重火器が揚陸できません。何としても砲座だけは破壊したい。駆逐艦を竹田浜に接近させ砲撃するのと同時に、航空機も投入してくる頃合です」  柳島は作戦図を指揮棒で指し示した。 「妥当だな」  永原は即答した。思っていた答えだった。永原は少し考え込んでみた。 「では、対抗策を聴こう」 「国端崎陣地と小泊崎陣地は、孤立することを想定し、包囲にも耐えるよう全周囲防御陣地となっています。これに関して一日、二日は持ち堪《こた》えることができると考えます。問題ありません。ただ、艦砲や航空攻撃を受ければ、砲座が破壊される可能性は高いと考えます。我が軍の航空部隊の戦力では、これを阻止するのは困難です。現状として、二つの陣地に打つべき手はありません。持久命令を出します」 「ふむ」と、永原は声を上げた。 「では、内陸部への侵攻は、いかに対処するのか?」 「それに関しては、当初の計画で充分だと考えます。頃合を見て士魂部隊を投入します。できれば数キロ侵攻したところで一気に集中起用したいと考えています。ただ、あまり遅くなると、航空攻撃に晒《さら》される恐れが高いので、頃合が難しいでしょう。その点、第七三旅団には中島大尉を派遣しましたが、注意を促すべきだと考えます」  士魂部隊とは、戦車第一一連隊のことである。戦車は上部装甲が薄いため、直上からの攻撃に脆《ぜい》弱《じやく》である。砲撃や爆撃に脆《もろ》いのである。戦車の投入には制空権の確保が望ましく、占守島の状況ではその判断が難しかった。  ——さて、ソヴィエト軍は、どうでてくるか……。  永原はすっくと立ち上がった。不測の事態の発生要因は無限にある。だが、指揮官は決断を求められる。躊《ちゆう》躇《ちよ》は、部下の不安を招き、指揮官への信頼が損なわれる。士気は低下し、作戦は崩壊する。 「第七三旅団杉原旅団長に伝えてくれ。頃合をうまく掴《つか》むようにと……。この戦いの要は微妙だ。くれぐれも見落とさぬようにとな」  片岡の指揮所前に、一台の九四式六輪自動貨車が滑り込んで来た。その露天荷台から、六名が降りた。全員、その顔には満面の笑みがこぼれていた。 「宮松海軍少佐機、西岡海軍中尉機、ただいま帰投しました。竹田浜東方沖、五千メートル付近に敵輸送船十五隻、駆逐艦六隻を発見。ただちにこれに攻撃を実施。輸送船一隻大破。二隻小破。第二次攻撃の要ありと認めます。なお味方の損害は若干の被弾のみです」  宮松は三式飛行帽を被《かぶ》ったまま、挙手の礼で、出迎えた井崗陸軍大佐に報告した。海軍の挙手の礼は、陸軍と異なり脇《わき》を締めるので、井崗にとって二人の敬礼には、違和感があった。 「負傷はしなかったようだな。よかった。機体の損傷は?」 「大したことはありません。破片を数ヵ所に喰っただけで、すべて飛行には差支えありません」  大きな戦果ではなかったが、久方振りの飛行で、久方振りの凱《がい》歌《か》だけに、宮松は心底嬉《うれ》しかった。 「敵戦闘機は、いなかったんだな」  井崗は敢《あ》えて抑揚のない声で尋ねた。 「帰投する時、何度も確認しましたが、見当たりませんでした」 「天候は?」 「千五百メートルに薄い雲の層が残っていますが、回復傾向にあるようです。二、三時間で晴れるかと思います。切れ間があり、それを利用して突入しました」 「よろしい。ご苦労」  やっと井崗も破顔した。指揮所内に全員を促し、宮松を呼び止めた。 「第二次攻撃は、現在待機中である」  井崗は威圧感のあるその面容とは裏腹に、遠慮がちに語りかけた。 「なぜですか? すぐに全機爆装の攻撃が可能のはずです。我々の機も、燃料補給と爆装が終われば、第三次攻撃隊として発進できます。攻撃は反復しなくてはなりません。いまなら敵戦闘機がいないんですよ」  井崗は、戦闘帽を脱ぐと頭を掻《か》いた。 「師団命令が出た。航空隊を集中起用したいらしい。ソヴィエト軍は航空基地から戦場まで距離がある。時間もかかるし燃料も使う。ソヴィエト軍機は航続距離が短い。高度を上げれば強い西からの気流に逆らうしな。したがって、上空制圧ができる時間が限られる。常時、上空直掩を張り付けるためには機体数が限られる。そこに付け込もうと、師団司令部は考えているんだ」  井崗は大ヤカンから麦茶を注ぐと、宮松に差し出した。宮松は開戦時、空母加賀に乗り組み艦攻隊に所属していた。ハワイ真珠湾作戦、インド洋作戦、ミッドウェイ作戦と転戦した。  ミッドウェイでは、第二次攻撃隊として出撃に備え、士官室で待機していた。そこを敵急降下爆撃機の二百五十キロ爆弾四発が襲った。爆弾は飛行甲板を貫き艦内で爆発、激しい衝撃と共に加賀の艦内で火災が発生した。  宮松は停電した艦内を駆け回り、消火作業を手伝った。しかし、その努力も空しく、加賀は艦内の弾薬が誘爆を続け、大爆発を最後に沈没した。宮松は半身に大火傷《やけど》を負い、救出された。一年以上の監禁にも近い療養生活の後、占守にやって来た。  そんな経歴のため、井崗も宮松には一目置いていた。まして宮松は鮮やかな理論家であった。彼の意見に異を唱えるには、多くの物証を用意しなくてはならないのが常だった。  だが、宮松は意外な反応を示した。 「恐らく、海戦と陸戦の違いですな。私にはわからん」  宮松は湯飲みを飲み干すと、自らヤカンを手に取った。 「ここは我慢してくれ。一息ついたら搭乗員に状況説明を頼む」  井崗は宮松の肩を叩《たた》くと、自室に引き上げた。整備長、森山上等兵曹が、指揮所の硝子《ガラス》戸《ど》を開けて入って来たのはその時だった。 「あっ、宮松少佐。ちょうどよかった。機体のことについてちょっとお話が……」  整備長は息を切らしていた。滑走路周辺に分散配置されている航空機掩《えん》蔽《ぺい》壕《ごう》から、急いでやって来たらしい。銀縁眼鏡もずり下がっている。 「実は機体に問題が生じまして……」  森山は言い難《にく》そうに話し始めた。 「先程帰投した機体の投弾装置が壊れていまして……」  宮松は新しい湯飲みに麦茶を注ぐと、それを差し出しながら、ぎょっとした表情を見せた。 「どちらの機の、どの投弾装置だ?」 「少佐の機です。一番の前です」  胴体直下の主投弾装置である。 「八百キロが使えんではないか。直らんのか?」  主投弾装置は八百キロの他、航空魚雷も搭載する装置だが、片岡の基地に航空魚雷は一本もない。補給を依頼したが、輸送船が沈んで未着になっていた。 「いえ。修理は可能なのですが、少々時間がかかるかと思います」  森山は湯飲みに眼を落としたまま、済まなそうに答えた。 「どれぐらいかかる」 「実は主投弾装置の交換部品はこの基地にはありません。間違えて『天山』の投弾装置がきていました。工作して取り付けようと思います。やってみないとどれぐらいかかるかわかりません」 「くそ。お役人のやる仕事はいつもこれだ。他の機体の整備は?」 「九七艦攻も、隼《はやぶさ》三型甲も、古い機体です。しかもどれも、ここの冬を越しています。痛みが激しく、一回の作戦行動ごとに点検が必要です」  それは宮松もよく知っていたことだった。占守島の冬は長く寒い。氷点下二十度、三十度はざらである。潤滑油やバッテリー液も凍る。ゴム製品は硬化し、金属は収縮する。部品の疲労は激しい。 「最善を尽くしてくれ。今度は負けられんのだ」  宮松は、心底、そう思っていた。彼は小樽出身だった。思い入れは強い。加えて、開戦当初の作戦に参加した大東亜戦争は、日本を焦土と化し敗戦した。宮松は国家という漠然としたものに対する痛烈な責任感を感じていた。「ミッドウェイ」という言葉が、胸に突き刺さっていた。  ——負けられん!  宮松はこの言葉を小さく繰り返した。  レミゾフは、段丘を越え、五百メートル内陸部に入った所にある、野戦師団司令部にいた。指揮下の大隊は第一線を離れ、師団司令部の付近に集結していた。そして、招集した部下の各中隊長から報告を聴き終わると、大きな溜《た》め息をついた。 「深刻だな……。日本軍が、これ程頑強とは思わなかった……」 「まさに」  第二中隊長カラトーゾフ大尉は同意した。レミゾフの大隊は、すでにその戦力の三分の二を失っていた。全滅と言ってもいい。中隊長も生き残ったのはカラトーゾフのみであった。第三中隊は生き残りの少尉が指揮を執っていた。第一中隊は将校すべてが倒れたため、大隊本部から派遣された将校が指揮を執っていた。 「再編しても一個中隊にしかならん」  レミゾフは、司令部テントの粗末な机に向かい、損害報告書を穴の開くほど見詰めた。五時間余りで、千名以上の将兵を失ったことになる。短時間の戦闘で、これ程の将兵を失ったのは初めてである。 「逸失兵器も忘れてはいけません。武器、弾薬を補充しなければ、前線に復帰させるのは不可能です」  カラトーゾフは深刻に告げた。いま、師団は続々と主力の上陸作業中であった。消耗した部隊の物資補充を行う余裕はない。 「どのみち兵は疲労し切っている。食事と休息が必要だ」  レミゾフが顔を上げるのと同時に、従兵のバロージャ軍曹がテントに入って来た。どこから調達してきたのか、ポットと二つのカップを持参していた。華やかな香りがテントを満たし、そのポットの中身が紅茶であることを教えた。 「食料も手に入れようと思ったのですが、烹《ほう》炊《すい》班がまだ上陸していないので……」  バロージャは申し訳なさそうに言った。 「兵たちはどうしている?」  レミゾフはさりげなく尋ねた。 「負傷兵の搬送がやっと終わりました。へたりこんでいます」  バロージャは、テーブルの上の地図や部隊の編成表を片付け、カップになみなみと紅茶を注いだ。 「大隊は戦力を喪失した。残る兵は疲れ切っている。喰う物もない。武器、弾薬の補充の目途も立たん。いま、紅茶を飲んだら、少しは状況が変わるかな?」  レミゾフは自身に皮肉を言った。しかし、バロージャは真顔になって、その皮肉を受け止めていた。 「きっと、少しは変わります。いま、休まねばならないのは少佐殿です。休めば何かいい知らせが届くでしょう」  慰めるような声だった。バロージャはモスクワ攻防戦以来、レミゾフの従兵を務めていた。ハバロフスク近くの炭坑の出身で、肩幅は広いが背は低かった。柔和な顔立ちは性格を現していた。  レミゾフはバロージャの注いだホーロー引きのカップを手に取った。手に温《ぬく》もりが染みてきて、身体《からだ》が冷えきっているのに気付かされた。口に含むと、華の香りが口の中に広がり、生気が蘇《よみがえ》る気がした。 「いや。そうはいかん。まもなく連隊本部から命令があるだろう。カラトーゾフ大尉。部隊の再編だ。中隊の指揮は君が執る。武器と弾薬の確認もしてくれ。不足する武器は、また、浜を捜索させるしかないな」  いまも、駆逐艦が一〇四、一〇六高地の砲台に砲撃を加えている。だが、どちらの砲台も巧妙に構築されているのか、まだ、沈黙していない。したがって、浜の安全は確保されていない。浜に散逸する武器を回収するには、当然、危険が伴う。しかし、部隊を戦力化するためには、選択の余地はない。 「わかりました。ところで、正面の敵はどんな様子なんですか?」 「うむ。それだ。それがどうもわからん」  レミゾフは傍らに畳まれた地図を取ると、再び机に広げた。 「一〇四高地と一〇六高地の間、この正面には中隊規模の敵がいた。ところがこの敵は、抵抗は軽微で、暫時、後退を続けているそうだ。我が第一三四連隊は順調に進攻しているそうだ」  レミゾフが話す間、カラトーゾフも、紅茶に口をつけていた。余程、喉《のど》が渇いていたのか、一口飲むと、そのまま喉を鳴らして飲み干した。 「結構なことではないですか。なにが気になっているんですか?」  カラトーゾフはカップを置くと尋ねた。 「赤軍情報部は、日本軍は士気が低下し、武器、弾薬、食糧が、不足していると言っていた」 「その通りです。情報通りではないですか。なにが?」 「さあそこだ。筋が通らん。一〇四高地と一〇六高地の抵抗を見ろ。あの戦い方と正面の敵は、同一の軍隊とは思えない」  これにはカラトーゾフも、考えさせられた。ついさっきまで戦っていた日本軍には、一歩も退《ひ》かない決意が漲《みなぎ》っていた。 「一〇四や一〇六の戦い方は、私がノモンハンで戦った日本軍に似ている。いや、それ以上かもしれない。ところが、正面は後退を続けている」 「罠《わな》?」  カラトーゾフは驚き慌てて立ち上がった。木製の折り畳み椅《い》子《す》が音を立てて倒れた。 「まあ、落ち着け。確証はないのだ。ただ、その恐れは充分ある。司令部がどこまでそれを見込んでいるかだな」  レミゾフは嘆息した。見込んではいないだろう。軍において慎重意見は、消極的と判断され圧殺される。悪くすれば『反革命的』と決め付けられ、軍籍剥《はく》奪《だつ》、逮捕となる。 「もっと情報が必要だ。俺《おれ》は師団司令部に行って来る。どの道、報告に行かなければならないからな。戻るまでに、中隊の再編を終えていて欲しい。頼まれてくれるか?」 「わかりました」  カラトーゾフは不安そうに敬礼した。レミゾフがテントを出ると、陽光で眼が眩《くら》んだ。すでに周囲の霧は晴れ、代わって硝煙が棚引いている。激しい銃声と砲声は変わらない。上空を直掩の戦闘機、ヤコブレフYak‐9が三機編隊で通過した。 同日午前六時  札幌郊外、千《ち》歳《とせ》の草原に一機の白く塗られた双発機が止まっていた。側に近付くと、慌てて塗られたのか所々斑《むら》が目立った。胴体と主翼の日の丸も消され、緑十字が描かれていた。尾翼に書かれた『鏑《かぶら》1934221』の文字だけが、唯一、日本陸軍飛行第三四戦隊第二中隊を示していた。飛行第三四戦隊は戦略偵察専門の独立飛行隊で、一〇〇式三型甲司令部偵察機、二個中隊二十四機を保有し、第五方面軍の直轄下にあった。司令部はこの千歳飛行場にある。方面軍命令で八月十五日以降、飛行が禁止されていた。久方振りに滑走路に引き出されたのが、この白い一〇〇式三型甲司令部偵察機だった。 「哀れだな……」  朝日に輝く愛機を見ながら、工藤中佐が呟《つぶや》いた。 「いや。そうでもないぞ、中佐。この任務は極めて重要だ」  桜木第五方面軍参謀長は、『敷《しき》島《しま》』を差し出した。 「羽田まで行くことがですか?」  工藤は煙草を一本引き抜くと、当然のように火まで点《つ》けてもらった。彼は多くの飛行士がそうであるように小柄であった。身体が小さければ小さいほど、重量が軽く、有利であったからである。したがって、工藤が桜木を見る時はやや上目遣いとなる。そのことを差し引いても、彼の瞳《ひとみ》には懐疑的な色が浮かんでいた。 「そうだ。あの上出大佐を乗せて行くことがな」  桜木は顎《あご》をしゃくった。 「どうしても、任務の内容は教えていただけないようですね」  工藤は不機嫌そうに呟いた。飛ぶことには何の不満もない。むしろ、空を飛ぶことは大好きであった。特に愛機の一〇〇式三型甲司令部偵察機は気に入っていた。最大速力六百三十キロ。増槽を付ければ航続距離は四千キロに及ぶ。高速を利して敵地深く侵入し、敵情を偵察し、写真に収め帰投する、世界初の戦略偵察機だった。その代わり自らを守る武装はまったくない。高速とはいえ、敵戦闘機に、待ち伏せされ、捕《ほ》捉《そく》されれば、ひとたまりもない。その潔さが彼の性格に合っていた。  しかし、彼の愛機には日の丸もない。従来の青灰色の塗装でもない。  ——敗戦国とはいえ、俺が負けたわけではない。  こんな塗装と標識で飛ぶことは自尊心が許さなかった。  さらに、日本はポツダム宣言を受諾し、全軍に停戦が下令されている。だが、第五方面軍は樺《から》太《ふと》と北千島で戦闘が継続中だと聞く。いまも友軍は必死に戦っているのだ。だとしたら、一〇〇式三型甲司令部偵察機が必要なのは北方であって、羽田ではないはずだ。 「まあいいでしょう。上出大佐殿の準備はいいですか?」  とは、言ったものの、工藤は返事も待たず、機体に手をかけた。  桜木の背後では上出が、股《また》の間にぶら下がった落下傘にてこずっていた。極端に歩き難いのである。あひるのように不様であった。 「大丈夫か?」  息を切らした上出に、桜木は眉《み》間《けん》に皺《しわ》を寄せて声をかけた。 「思ったより、重い物ですね。指揮所から歩くだけで汗だくです」  上出は率直に感想を漏らした。航空頭《ず》巾《きん》から汗が滴《したた》っている。 「くれぐれも言っておく。時間がない。今日を入れて五日。できれば三日のうちに停戦を決めてくれ。でないと我々は負ける。日本は分割占領され、国家は解体する。時間が勝負だ。貴様の任務は重大である。いいな?」 「承知しております」 「貴様に渡した例の文書はどこにある?」 「防水し、身に付けています」  上出は胸を探った。 「それが貴様の切り札だ。なくすなよ! うまく使ってくれ。貴様を選んだのは、その卓越した交渉術を見込んだからだ。期待しているぞ!」  桜木は発動機の音に負けぬしっかりした声で言った。 「準備できました。いつでも発進できます」  整備員が声をかけた。その声に工藤の怒鳴り声が被《かぶ》さった。 「早くしてください! 発動機が焼き付きます!」  上出は整備員の助けを借りて左翼に登ると偵察員のための後席に潜り込んだ。整備員は黙々と上出の座席の縛帯を締めていた。 「工藤君。必ず無事に羽田に届けてくれ。頼んだぞ!」  桜木は叫んだ。交渉役に代わりはいるかもしれんが、上出の持つ文書に代わりはない。国内には、まだ徹底抗戦を主張し、停戦に応じない部隊もある。海軍厚木航空隊のように、航空隊で戦闘を継続しようとしている部隊もある。万が一が起きる要因は多い。祈るような気持ちで桜木は機体から離れた。  整備員が機体から降りると、車輪止めが外された。白い一〇〇式三型甲司令部偵察機は、唸《うな》りを上げて草原の滑走路に出ると、一《いつ》旦《たん》停止した。  ——故障か……?  不安が桜木の心を過《よ》ぎった瞬間、機体はつんのめるように震え、甲高い爆音を上げて動き始めた。加速は見事で、桜木や基地関係者が帽子を振る前を、あっという間に通過するといきなり機首を急角度で持ち上げた。  ——まだ早い……。  と、思ったがそれは杞《き》憂《ゆう》であった。一〇〇式三型甲司令部偵察機は、その上昇角を維持しつつ、ぐんぐん昇って空の明るさに消えて行った。 「そうとう機嫌が悪いな、工藤中佐は。あれでは後席はたまらんぞ……」  飛行隊司令が傍らで呟いた。  占《しむ》守《しゆ》島《とう》長崎の浜は、増援の守口、川田、両大隊で混み合っていた。中島大尉と高橋少尉が、二つの大隊から少し離れた場所を探していると、一人のがっちりとした体格の軍曹に声をかけられた。 「稲《いな》垣《がき》軍曹か?」 「はい。稲垣博司軍曹であります。独立第二八四大隊第三中隊第二小隊所属第一分隊長であります。お迎えに参りました」  二八四大隊第三中隊とは、大隊長は野田少佐、中隊長は内山大尉の部隊である。占守島南東部の蔭ノ澗に駐屯し、現在、第七三旅団の戦術予備として御園生ヶ原に配備転換を行っているはずである。 「ご苦労。部下は何処《どこ》かな?」 「あちらの丘で待機しております」  行って見ると、そこには兵が整列していた。  ——おやおや……。  と、中島もただただ驚くばかりだった。 「師団長も気張りましたな」  高橋も感心して言った。二人を守るのに二十名も兵を出してくれたのだ。 「第二分隊長、石井伍《ご》長《ちよう》であります」  歩み寄って来た男は、稲垣とは正反対に小柄で痩《や》せていた。 「申告致します。第七三旅団独立第二八四大隊第三中隊第二小隊所属第一分隊、第二分隊、計二十名は中島大尉殿の指揮下に入るよう命令を受けました」  稲垣が代表して挙手の礼のまま、申告を述べた。 「よろしい、軍曹。任務のことは聴いているか?」  中島と高橋は、敬礼する稲垣軍曹、石井伍長に答礼した。 「概《おおむ》ね聴いております。軍使として敵軍陣地まで護衛するよう命令されております」  中島は「うむ」と頷《うなず》くと、図《ず》嚢《のう》から地図を取り出した。 「あの一式装軌は使えるのか?」  中島は延々と続く草原を見渡し、二台並んで止まる一式装軌式兵員輸送車を指差した。一式装軌式兵員輸送車は前輪がタイヤ、後半部が無限軌道の兵員輸送車である。欧米で言う『ハーフ・トラック』で、日本軍が遅ればせながら、部隊の機械化を図るため開発した車輛である。昨年、試作に成功し、配備が始まったばかりの最新鋭であった。最高速は五十キロ。一回の補給で三百キロの走行が可能である。側面及び運転席、発動機部は装甲されているが、上部は何も覆いがない。戦車連隊出身の中島も、占守に配属されて初めて見た車輛である。 「はい。二台とも使用可能です。整備は士魂部隊整備中隊にお願いして万全です。燃料も満載してあります」  今度は石井伍長が応じた。よほど自信があるのだろう。胸を張り、自慢げであった。 「各自の装備は?」  と、尋ねた高橋少尉は、反対に不安げだった。実戦は初めてである。単にロシア語が話せるだけで選ばれたのだ。元来の仕事が気象幕僚では、よく堪えている方かもしれんと、中島は思った。 「九九式小銃を携帯しています。弾薬は各自六十発を前《ぜん》盒《ごう》に、手《しゆ》榴《りゆう》弾《だん》十発を雑嚢に収めています」 「まあ、戦闘に行くのではないからな。そんなもので充分だろう」  中島は呟《つぶや》いた。確かに全員、背嚢はなく、軽装である。戦闘するなら軽機の一丁も欲しいところである。 「あとで編成を少しいじりたい。直援と支援に分けるのだ。考えておいてくれ」 「わかりました。すぐにできると思います。ほかには何か?」  熟練の下士官らしく、稲垣は即答した。 「いまはそれだけだ。四嶺山までおよそ三十キロ。先ずは、しゃにむに走って、七三旅本部まで行く。よろしく頼む」  全員に聞こえるように、中島は声を張り上げた。 「ようし! 第一分隊は一号車。第二分隊は二号車。乗車! 急げ!」  稲垣が下令した。中島は改めて空を見上げた。上空には断雲だけの青空が広がり、敵の航空機も味方の航空機も見当たらなかった。  ——師団長は約束通り飛行を停止してくれたようだな。  中島は師団司令部を出発する時、航空作戦に対する意見具申を行っていた。集中起用である。中島は満足して一号車に手をかけた。これで電撃作戦が展開できる。 「マレー以来だな……」  思わず口から言葉が漏れた。 「これでは歳をとる……」  相馬隆男は、国端崎陣地の小隊指揮所掩《えん》蔽《ぺい》壕《ごう》で、身を屈《かが》めて呟いた。敵の艦砲は激しく周辺に着弾し、爆発の度に覗《のぞ》き窓や出入り口から土砂が吹き込んでいた。口を開けると土が入るが、吐き出す唾《つば》もなくなっていた。水筒の水はあったが、手は付けていなかった。それがどれ程貴重かを、相馬はガダルカナルで身をもって知っていた。多くの戦友が泥水を飲んで下痢をし、それが治らず衰弱して、最期は自決を選んだのだ。 「敵兵力はどの程度だ?」  掩蔽壕の一番奥で土嚢の上に座った島崎少尉は、苦痛に歪《ゆが》んだ顔で尋ねた。出血量が多く、貧血状態にあったが、島崎は依然として小隊の指揮を執り続けていた。 「少なくとも二個大隊。海兵のようです」  敵が国端崎陣地の背後、北方海岸に上陸したとの一報が入ったのである。これで完全に国端崎陣地は、友軍から切り離され孤立したことになる。  ——何か手はないか……。  島崎は考えてみた。しかし、そんな手があるはずもなかった。島崎小隊が無事であっても、敵は六倍の兵力である。しかも、島崎小隊はすでに全兵力の三分の一を失っている。積極攻勢に出ても、四嶺山との交通連絡線を奪回することはとても不可能だった。  もっとも、それは見込みの内であった。国端崎陣地、小泊崎陣地を攻略できなければ、敵がこれを迂《う》回《かい》し包囲を行うのは自明の理であった。しかも、両陣地は孤立を前提に、構築されている。二つある小泊崎陣地の一方は、全周囲陣地。一方は上陸不可能な岬方面を背に、百二十度の射角を持つ恒久陣地。この国端崎陣地も、北方の上陸不可能な岬を背に、百八十度の恒久陣地を構築している。 「よし。大隊本部、山中小隊及び、指揮下各分隊に連絡。『我が島崎小隊は戦略持久に入る』だ。上陸を敢行した敵海兵隊の正確な兵力を忘れるな」  島崎は、少し躊《ちゆう》躇《ちよ》してから下令した。戦略持久は、ガダルカナルで経験したからである。あの時、島崎は准尉で、作戦全体を知る立場ではなかったし、小隊長という部下に責任を持つ立場でもなかった。反面、戦略持久がどれ程過酷な命令であるかは、知り過ぎるほど知った。武器、弾薬、食糧、医薬品が欠乏する。戦闘がなくとも、飢餓と病気で将兵が倒れていく。助ける者はいない。助ければ自分が倒れるからである。追い詰められて、心理的に弱い者は、精神に異常を来たす。自分の傷に湧《わ》く、うじを喰う者までいた。  ——そんな戦場から生還し、日本が敗けて戦が終わったはずなのに、今度は、俺自身がその命令を出すのか!  忸《じく》怩《じ》たる思いが心の叫びを生んだ。唯一の心の支えは、第五方面軍檜山中将が作戦の全《ぜん》貌《ぼう》を説明し、直々にこの方針を伝えてくれたことである。そして、持久は五日間だけと確約したことだけだった。いまは、それを信じるしかない。 「小隊長、野砲陣地が!」  掩蔽壕の入り口に陣取っていた電話員の野田道生二等兵が、野戦電話の一つを手に絶叫した。  村尾少佐が四嶺山に到着したのは、六時を少し回った頃だった。指揮下の大隊は、予定通り四嶺山防備陣地に、暫時、展開中だった。予定外だったのは、ソヴィエト軍の追撃が厳しく、後退に時間がかかってしまったことだった。 「ご苦労、少佐」  第七三旅団司令部で、真っ先に声をかけたのは、杉原旅団長だった。 「早速で済まんが、状況を聞かせてくれ」 「間もなくソヴィエト軍歩兵部隊先《せん》鋒《ぽう》が、この四嶺山東峰、男体山に到達します。兵力は一個中隊。航空機の支援を受け、自動小銃と短機関銃を装備しています。我が二八二大隊は、もう少しで展開を終わると思います」  村尾は肩で息を継ぎながら応じた。 「航空機の機種はわかるか?」 「戦闘機が、約一個中隊。爆撃機も、恐らくこれも一個中隊と思われます。問題はペトリヤコフで、急降下爆撃をやってます。主に国端崎陣地、小泊崎陣地方面で行動しているようです」 「やはりな……」  杉原は、しばらくの間、言い澱《よど》んだ。村尾の顔に不安が過《よ》ぎり、背筋を冷たい汗が一筋、流れた。 「悪い知らせだ。国端崎陣地、小泊崎陣地の火砲がやられた」 「全部ですか?」  村尾は、俄《にわ》かに信じられないという表情だった。 「ああ。小泊崎の北陣地も全滅した」  杉原は、かなり無理をして、無表情を装った。 「いけませんな……」  村尾は一瞬にして顔色を変えた。 「そうだ。『瓶の蓋《ふた》』が締まらない」  先任作戦幕僚の田所大佐も額を掻《か》き毟《むし》りながら同意した。 「すべてペトリヤコフにやられた!」  田所は吐き捨てた。ペトリヤコフPe‐2は、ソヴィエト軍の主力対地支援爆撃機である。双発で、最大速力は五百四十キロ。急降下爆撃が可能なだけでなく、世界的に見ても最高水準の性能を持っていた。爆弾搭載量は百キロとさほど多くないが、ロケット弾を搭載することも可能だった。日本軍側から見ると、ペトリヤコフPe‐2が戦線に参加したことは、最悪の籤《くじ》を引いたことになる。 「師団司令部は……」  困惑した村尾は、思わず余計なことを口にした。明らかな越権行為であった。当然のように杉原も田所も一《いつ》旦《たん》沈黙した。気まずい雰囲気の中で、司令部要員の一人が田所に一枚の書き付けを渡した。 「士魂部隊か……。いま何処《どこ》にいる?」  すかさず杉原が尋ねた。 「沓形台に到着しました。どうしますか?」 「各大隊は予定の移動を終了したか?」  杉原は作戦図に向き直った。すでに各部隊を示す駒《こま》の移動は終わっていた。一旦、北岸を目指し、時間を食った戦車第一一連隊の駒だけが、作戦図の上で移動を示していた。 「ほぼ、終わっています。問題ありません。始められます」 「よし。では、予定通りだ。いつもの訓練に従って行動させろ。攻撃開始は〇《マル》七《ナナ》〇《マル》〇《マル》時。敵航空機の情報を片岡と士魂、一一八高地に伝達せよ」  一一八高地には、連隊砲中隊が展開していた。命令により秘匿され、まだ一発も撃っていない。八九式十五センチ加農砲が、一門展開していた。 「来ました! 旅団命令です」  いつになく興奮した従兵は、井崗大佐の司令室にノックも忘れ飛び込んだ。 「どれ……」  井崗は机の上の書類仕事を中断すると、向き直って電文を受け取った。 「搭乗員集合だ。宮松海軍少佐をここに呼んでくれ。整備長もだ」  井崗は別段、興奮する様子も見せず、淡々と告げた。しかし、その眼には異様な光が漲《みなぎ》っていた。従兵が駆け出して行く後ろ姿を眺め、井崗は軍装を脱ぎ捨てる。傍らのテーブルには、古びて油染みのある航空衣《い》袴《こ》が、きちんと畳まれていた。  ジャコフ師団長は、満足そうに幕僚を見渡した。彼が上陸してから、作戦は嘘《うそ》のように順調に進展し始めていた。 「グネチコ少将は、何と言っている?」 「第二梯団と共に上陸すると言っています。師団司令部を奥地に移動させ、上陸軍司令部を収容できるように、大幅に拡充せよとのことです」  師団参謀長のザーイツェフ大佐が、折り畳み椅《い》子《す》に寄りかかり、にこやかに答えた。 「さて、どこまで進めるかだな。提案はあるか?」 「海軍コマンドも指揮下に入っているので、両軍を指揮できる所がいいでしょう。一〇八高地はいかがですか?」  ソヴィエト軍が一〇八高地と呼ぶのは、四嶺山東方の一・五キロの最前線だった。すでに北岸に上陸を敢行した海軍コマンド連隊は、ソヴィエト軍が一一五高地と呼ぶ四嶺山の東方を圧迫していた。北側面を支援するため、ジャコフ少将指揮下の第一〇一狙《そ》撃《げき》師団第一三八連隊が急行中だった。 「もっともな意見だな。この一一五高地の奪取が勝敗の分水嶺だからな」  ジャコフは破顔しながら言った。ここを攻略すれば、自ずと一〇四、一〇六高地も落ちる。唯一の縦貫道路にも出ることができる。南進を開始できるのだ。 「重器材の揚陸はどうなった?」 「輸送船の被弾で遅れています。重器材の多くは被弾した船に積載していました。沈没を免れた船も、デリックを破壊されたので、荷降ろしに困窮しているようです」  そう言いながらもザーイツェフの言葉には余裕が感じられた。積載物の揚陸は重量物ほど遅れる見通しだった。戦車やブルドーザーなどが遅れる。だが、最新の情報では、まもなく対戦車砲が揚げられるらしい。日本軍の戦車は装甲が薄く、対戦車用というよりも、歩兵支援兵器の色合いが強いらしい。仮に敵が戦車を投入したとしても、対戦車砲があれば撃退できるはずである。それに航空機の支援もある。何の不安も感じていなかった。 「まあ、止むを得ないな。精々、急がせてくれ。烹《ほう》炊《すい》車が揚がらないと、暖かい食事が摂《と》れん」  ジャコフも、大きな不安は感じていない様子だった。レミゾフ少佐の視線を感じてはいたが、敢《あ》えてこれを無視した。レミゾフの言う日本軍の反撃よりも、いまはグネチコ司令官の方が、ジャコフには危険だった。 「烹炊車で思い出しましたが、食事はいかが致しますか?」 「烹炊車を待とう。携帯戦闘食は、まずくていかん。とにかく、司令部の移動準備を始めてくれ」  そこにはもう、あのぴんと張り詰めた戦場の匂《にお》いが、顕著に漂っていた。誰が名付けたのか匂橋を渡った途端、それを裏付けるように、砲声も銃声も響き始め、鼻を突く微《かす》かな硝煙さえも漂っていた。  匂橋を渡ると、道は二《ふた》股《また》に分かれる。右に行けば国端崎陣地である。独立戦車第一一連隊は、一旦戦場とは離れる左に道を取り、約七百メートル進んだ。道の右手には四嶺山の西方に広がる緩やかな裾《すそ》野《の》の傾斜地がある。訓練台と呼ばれる演習地で訓練を行う時は、必ず集合点になる場所だった。  連隊がその裾野に到着すると、各車《しや》輛《りよう》は順次、整備中隊からの燃料補給を行った。燃料を満載した戦車は所定の位置に移動し、整備中隊や段列の一式装軌式兵員輸送車を守るように、円周防御陣を形成した。陣は道路を背に、約三百度を警戒していた。  綿貫准尉は、部下の二台が到着するのを見て、ほっと胸を撫《な》で下ろした。  ——ここまでは無事に来れたな……。  戦場から離れていても、移動する部隊は敵の航空攻撃に晒《さら》される恐れが高い。大東亜戦争の戦訓である。 「綿貫准尉」  連隊本部の連絡係を務める古川中尉が、綿貫の九七式中戦車改の右側から、砲塔を見上げていた。 「おう」 「集合だ」  綿貫はレシーバーとマイクのコンセントを引き抜くと振り返った。すでに三々五々、将兵が集まり始めている。綿貫も自分の部下に声をかけ、円周防御の中心に向かった。  連隊将兵は整列せず、一台の一式装軌式兵員輸送車を取り囲むように円になっていた。堅苦しいのが大嫌いな池島連隊長は、話をする時はいつもこうであった。その池島大佐が兵員輸送車の荷台に立った。 「ご苦労」  池島は、戦車帽を脱ぐと小さく発語した。池島は、戦車という兵科の草分けの将校で、日本の戦車戦の理論を構築した人物である。教育畑が長く、戦車兵に教え子は多い。池島を語らずして戦車は語れぬとまで言われた人物である。ざわついていた三百七十五名が、水を打ったように静まり返った。 「状況は皆も知っての通りである。優勢なるソヴィエト軍が、戦闘を開始した。敵は独逸《ドイツ》陸軍を破った最精鋭部隊である」  池島の声が突然大きく野太く響いた。 「本来、八月十五日をもって我が帝国陸軍は、停戦するはずだった。ほとんどの者が、故郷に思いを馳《は》せていたと思う。『これで帰れる』と思ったであろう。いま、この局面に立ち至り、戦いたくないと思う者がいたら、遠慮なく言って欲しい。それを私は卑《ひ》怯《きよう》と呼ばない。諸君は、ノモンハンで、中国戦線で、ビルマ戦線で、地獄を見て来た者ばかりだ。充分、義務は果たしている。私に従う義務はない。その証拠に、除隊証明書を用意した」  綿貫は息を呑《の》んだ。池島は図《ず》嚢《のう》から紙の束を引き出した。沈黙が続いた。だが、三百七十五名は身《み》動《じろ》ぎもしない。 「ソ連軍は北海道以北の日本を分割統治しようと企《たくら》んでこの暴挙に出た。これから始まる戦は、占守島の戦いではない。我らが負ければ、北海道はソ連のものになる。まさに民族の危機である。そしてこれは国土防衛戦なのである」  言葉に一瞬間があいた。将兵に動揺が広がるのが肌でわかった。 「我が独立戦車第一一連隊は、北海道や千島に縁がない。ご当地連隊ではない。日本各地から選ばれた将兵が、いまここにいる。俺《おれ》は北の地に縁がない、と考える者も少なくないだろう。しかし、それは私は間違いだと考える。民族の意思によらず、その分断が行われるということは、日本民族に等しく降りかかる恥辱である。したがって私は、祖国の敗戦という事態にもかかわらず、立つ決意をした。私の考えに同調できる者がいたら、命をくれ」  鬨《とき》の声が響き渡った。異を唱える者は、一人としてなかった。 「よろしい。これで諸君は、生きて帰れたならば、孫に語れる話ができたな。但し、孫は膝《ひざ》の上で退屈するだろう」  どっと笑いが起こった。 「では、作戦を説明する」  連隊副官の織《お》田《だ》大尉が池島の傍らに三脚で携帯黒板を掲げた。 「〇《マル》七《ナナ》〇《マル》〇《マル》時をもって我が軍は、一斉に反攻に出る。我が連隊は、〇《マル》六《ロク》五《ゴー》〇《マル》出発。四嶺山女体山山頂近くの敵陣を突破する。現在のところ敵陣に、戦車、対戦車砲は確認されていない。対歩兵戦闘となる見込みであるが、油断は禁物である。歩兵といえども携帯対戦車兵器を持っている可能性がある。戦車や対戦車砲は秘匿されているという可能性も、否定できない。敵陣を突破後はその時の状況で変わるから、各車、無線は受信状態にしておくこと。ここまでで何か質問は?」  池島は少し出かかった腹を叩《たた》いた。そろそろ五十に手が届く彼は、それを大いに気にしていた。 「一つ、質問があります。敵味方の航空攻撃はあるのでありますか?」  綿貫が手を挙げた。 「五時頃から敵の航空機が、対地支援を行っている。戦闘機も出張っている。我が軍は今回の総攻撃に呼応して、陸軍の隼が四機と海軍の九七艦攻四機が飛来する。残念ながら航空戦も劣勢だ。とにかく直線での機動は避けること。航空支援が必要な場合は、第三周波数で航空隊と通話ができる。覚えておくように。他には?」  各自はメモを取っていた。挙がる手はなく、そこには緊張が漲っていた。  ——戦車と対戦車砲と航空機か……。  ソヴィエト軍の強さには、独逸との戦いで磨きがかけられている。あの独逸重戦車を撃ち抜く砲の威力。独逸にも勝る電撃戦。そしてT34/85に代表される戦車である。特にT34/85は前面装甲だけで九十ミリもあるらしい。連隊が装備する九七式中戦車、九七式中戦車改は二十五ミリ。新鋭の一式中戦車でも五十ミリしかない。主砲でもT34/85が八十五ミリなのに対し、九七式中戦車改、一式中戦車は四十七ミリ。九七式中戦車は五十七ミリである。もっとも、対戦車戦における砲は、その口径よりも、弾の初速が重要で、九七式中戦車の五十七ミリよりも九七式中戦車改や一式中戦車の四十七ミリの方が装甲貫通能力は高い。だが、独逸のタイガー戦車やパンツァー戦車を撃破したT34/85の八十五ミリは、脅威である。 「突撃陣形で行く。右翼は二中、四中。左翼は三中。攻撃開始まで後五分。各車準備しろ。車長は時計を合わせて行け」  一斉に輪が崩れた。綿貫ももどかしそうに、連隊本部の時計に自分の腕時計を合わせると、自身の小隊長車に駆け出した。  一〇八高地にテントは林立していた。レミゾフは自分の部隊の移動を終え、新しい自分のテントに向かって歩いていた。 「レミゾフ少佐」  自分のテントに入ろうとしたレミゾフを呼び止めたのは、グネチコ少将の従兵を務めるガマレーヤ曹長だった。 「なんだ?」 「司令官がお呼びです。司令部テントまでおいでください」  と、その曹長は、言葉遣いこそ丁寧だが、野卑な笑いを口元に湛《たた》えて言った。バロージャの話では、この曹長はグネチコの威光をかさに、傍若無人に振る舞っているらしい。 「いまか?」 「はい。いますぐです」  レミゾフは、舌打ちをして上陸作戦司令部テントに向かった。司令部テントにはグネチコの他、ジャコフ少将も待っていた。 「おうおう、レミゾフ君。待っていた」  グネチコは快活に招き入れた。 「上陸第一波から第三波まで、ご苦労だった。怪《け》我《が》がないかと心配していたんだ」  グネチコは猫《ねこ》撫《な》で声になっていた。  ——危険だ……。  瞬間的に感じた。こういう時によからぬことがある。 「丁度、いま、君の話をしていたところだ。ジャコフ君の話だと、君は日本軍の後退には意図があると考えているそうだな?」 「いえ、意図があるとまでは言っておりません。ただ、一〇四、一〇六高地で見せた日本軍の抵抗に比べ、正面の日本軍の抵抗は余りに弱かったと言っただけです」  レミゾフは慎重に言葉を選んだ。将軍の前で作戦を口にすること自体、弾の入った拳《けん》銃《じゆう》を玩具《おもちや》にするようなものである。一つ間違えば、自分の足を撃ち抜きかねない。 「何か確証とか、情報を持っているのかね? 例えば捕虜が自白したとか……」  グネチコは執《しつ》拗《よう》だった。 「いえ。何もありません。いまのところ捕虜もいません」 「そうか。わかった。その意見は私の幕僚で検討することとしよう。ところで、君の大隊の損害報告書に眼を通したのだが、だいぶ、酷《ひど》い損害を被《こうむ》ったようだな?」  レミゾフは、はっとした。グネチコが何を言おうとしているかがわかったからである。すでに弾の入った拳銃の引き金を引いてしまっていたのだ。 「凡《およ》そ、三分の二を失いました。再編しましたが、実質戦力は、一個中隊にしかなりません」  レミゾフは結末を知っている探偵小説を読むように、ゆっくりと自分の運命を進めていった。 「そうか。一個中隊か。そこで提案なのだが、君の大隊以外にも、損害を受けている部隊が数多くいる。かといって、攻撃の手を緩めるつもりはない。そこで君の持っている大隊を中隊として他の大隊の再編に使いたい。構わんだろう?」  いよいよグネチコが牙《きば》を剥《む》いた。この男は体《てい》よく俺から大隊を取り上げるつもりなのだ。俺を実戦指揮官から外そうというのだ。 「将校もですか?」 「もちろんだ。君を除く全員だ。ああ、従兵は別だがな……」  ——くそ!  と、心の中で吐き捨てた。魔女の大《おお》鍋《なべ》のような上陸戦の後がこれとは……。 「君もずいぶん疲れているようだし、司令部としても、人手が欲しい。君を司令部付きにしたい。どうかな?」  言葉こそ意見を聞く内容だが、そこには有無を言わせない強い意志があった。 「わかりました。カラトーゾフ大尉を連隊本部に出頭させます」  レミゾフは力なく答えた。  井崗大佐の航空衣《い》袴《こ》は、驚きをもって搭乗員に迎えられた。井崗はにやりと笑って指揮所前の台の上に乗った。 「なんだ。そんなに驚くことでもあるまい。俺だってビルマを飛んだんだ。文句はあるまい?」 「飛ぶんですか?」  陸軍の操縦士の中では、一番元気な前沢中尉が怪《け》訝《げん》そうに尋ねた。 「安心しろ。俺は交替要員だ。それにお前の愛機は変な癖がついているから、頼まれたって乗らん」  前沢は屈託のない笑いを浮かべた。とはいえ、井崗は飛ぶ決意をしていた。今後、飛ぶ機会があるとは思えない。最後に思い切り敵と空中戦をするつもりだった。 「作戦を説明する。敵は上陸に成功し、四嶺山の最高峰、女体山の攻略にかかっている。上空には敵機が飛来している。ヤコブレフYak‐9戦闘機が一個中隊と、急降下爆撃機ペトリヤコフPe‐2急降下爆撃機が一個中隊だ。隼《はやぶさ》はこれらの駆逐に専念する。したがって、爆装は外させた。撃墜しなくても追い回すだけで効果はある。敵は航続距離が短い。航空基地は遠く、燃料は少ない。手柄を立てようと無理をして落とされるより、無事に戻り、反復攻撃しなくてはならん。それがこの作戦の要点である。九七艦攻は低高度による精密爆撃を行ってもらいたい。地上は敵味方が入り乱れる恐れがある。友軍は緑の信号弾を上げる。なお、対空射撃には充分注意してもらいたい。また、地上軍からの支援要請が入るから、可能な限り助けてやって欲しい。搭乗は〇《マル》六《ロク》四《ヨン》〇《マル》。始動、〇《マル》六《ロク》四《ヨン》五《ゴー》。離陸〇《マル》六《ロク》五《ゴー》〇《マル》とする。何か質問は?」  質問は出なかった。搭乗員は皆、無線室にいて敵情を聴いていた。 「高度は隼が四千五百。九七艦攻が千五百だ。編隊を組み次第、四嶺山を目指す。わかれ!」  搭乗員は自分の機体が分散配備されている滑走路外の掩《えん》蔽《ぺい》壕《ごう》に向かうため、思い思いの車輛に乗り込んで消えて行った。  ——何機戻って来られるか……。  井崗は漠然と考えていた。質、量、共に不利な状況である。ヤコブレフYak‐9は最大速力六百二キロ。ペトリヤコフPe‐2でも五百四十キロである。かたや、我々の隼三型甲は五百五十五キロである。九七艦攻に至っては三百五十キロそこそこ。部下にはもっといい機体を与えてやりたかった。  第七三旅団司令部の作戦室にも、銃声が届くようになっていた。激しい短機関銃の連射の合間に、時折、手《しゆ》榴《りゆう》弾《だん》の炸《さく》裂《れつ》音が混じっていた。お陰で、司令部付きの兵の中には、血の気を失っている者もいた。 「村尾大隊も頑張っているな……」  杉原旅団長は呟《つぶや》いた。 「頑張ってもらわんことには、村尾大隊には第一線だけで、後退陣地がありません。破られたら、我々はロシア語で挨《あい》拶《さつ》するしかありません」  田所先任作戦参謀は真顔で言った。余りにその表情がおかしかったのか、杉原は腹を抱えて笑った。 「冗談ではありません。第一線陣地を下げ過ぎなのです。もっと前に出すべきでした」  田所は真剣に抗議した。先月の檜山第五方面軍司令官との作戦会議で、この作戦を提案した時は、第一線陣地はもっと前にあった。陣地の後退を提案したのは杉原だった。 「いいかね、田所参謀。我々の後退戦術は、敵を罠《わな》に嵌《は》めるためではなかったか?」  今度は杉原が真顔になっていた。表情には一分の隙《すき》もない。 「そうです。その通りです」 「つまり、この後退劇は、いわば、『いんちき』だ。『いんちき』だとわかっていて、それに嵌まる奴《やつ》がいると思うか? 『いんちき』こそ、真《ま》面《じ》目《め》に、迫真の演技力をもってやらなくてはならん。こっちが必死になって防戦しているから、敵はあと少しで落ちると思って攻めてくれるんだ」  田所は言葉に詰まった。言っていることは一々理に適《かな》っている。 「ですが、一言、言わせてもらってよろしいですか?」 「ああ、構わんよ。どうせ打つ手は、すべて打ったんだ。いまはすることがない」 「四嶺山は餌《えさ》だとおっしゃりたいのでしょうが、何も、その餌に旅団司令部を置くことはないと考えますが?」  田所は詰め寄った。指揮官を失ったら、旅団は混乱に陥る。指揮官が危険を冒すべきではないと考えていた。 「さあ、そこだ。だがな、田所参謀。餌は上等な方がよく釣れるものだよ。それに占守でここは一番眺めがいいんだよ。洞《どう》窟《くつ》陣地だが、ちょっとそこの出入り口まで行けば、景色がよく見える」  憮《ぶ》然《ぜん》とする田所に、杉原は子供のような笑顔で答えた。  ——旅団長の信頼に、各部隊は応《こた》えてくれるだろうか……。  田所は声にならない声で呟いた。  上出大佐は搭乗前、操縦には関係ない、最低限の装備の扱い方を、整備員に教わっていた。高度が高いのか、機内の空気は冷え込んでいる。酸素マスクに吹き込む酸索も冷たく、皮膚がぴりぴりと痛んだ。当然、電熱服の電源は入れたが、上出は寒さに身震いをした。 「工藤中佐。いま話しかけて構わないか?」  上出は伝声管に話しかけた。 「敵機ですか?」  その声には緊張感が満ちていた。 「いや。そうではないんだが」 「驚かさないでください」  工藤は憮然としていた。 「高度はどれぐらいなんだ?」 「九千です」 「そろそろ八《はちの》戸《へ》ではないか?」 「五分ほど前に通過したと思います」  工藤は抑揚のない声で告げた。 「いや、ちょっと待ってくれ。八戸に降りる予定だったろう?」  上出は思わず後下方に顔を向けた。そこには雲海しかなく、地上は見えなかった。 「そうです」  工藤は依然ぶっきらぼうだった。 「なぜ降りないんだ!」  さすがに上出も声を荒げた。反射的に前席の方に身を乗り出そうとしたが、縛帯がそれを邪魔した。 「八戸から通報が入ったんです。米軍のB‐29が、高度三千メートルで侵入中です」 「しかし、命令では……」 「命令は単純です。自分は羽田まで上出大佐を無事に送り届けるように厳命されています。恐らくB‐29は、日本の停戦状態を監視するのが目的です。本来、爆撃機ですから、直接脅威にはなりません。ですが、彼等の眼にこの機がどう映るか考えてみてください。日本の空は、いま、全域で飛行禁止です。我々は連合国連絡機の標識を付けていますが、確実に視認してくれる保証はありません。B‐29が通報し、戦闘機が飛来した場合、厄介なことになります」  なるほどと、上出も納得した。上出の飛行帽の無線が切られているため、まったく知らないことだった。 「よくわかった。だが、燃料は補給しなくて大丈夫なのか?」 「大丈夫です。無着陸で行けます。問題は、帝都上空の状況です。帝都周辺には徹底抗戦を続ける部隊が幾つかあると聞いています。この一〇〇式司偵を発見した時、連中がどう出てくるかです。襲撃される恐れもあります。自分には、今回の飛行の目的が知らされていませんから、どうすればいいか、判断に迷うところです」  工藤は憤然と応じた。 「君は、目的を知れば、突発事態にも対処できるか?」 「上出大佐。自分は、第五方面軍で最も信頼されたから、大佐をお乗せしてこの操縦桿《かん》を握っているんです。その戦歴は昭和十五年からです。昨日今日、操縦桿を握った見習い士官と一緒にしないでください。お疑いならいつでも千歳に戻りますが!」  よく怒る奴だと上出は感心した。同時に、彼の言い分もよくわかった。思案すること数分、機上を沈黙が支配した。 「わかった。では話そう。だが、これから話すことは軍機に属する。他言は無用だ。墓穴に持って行く自信はあるか?」 「わかりました。覚悟してお聴きします」  工藤の言葉に、初めて抑揚が感じられた。 「話すのはいいが、中佐。この寒さはなんとかならんか?」 「なりません!」  工藤はきっぱりと言い放った。  第五方面軍司令官、檜山中将は静かに桜木参謀長の言葉に聴き入っていた。司令官室は朝日が差し込んで眩《まぶ》しかった。 「では、天候に問題はなかったんだな?」  檜山は机に両肘《ひじ》を突き、気《け》怠《だる》そうに尋ねた。 「はい。天候は曇っていただけで、問題はなかったかと思います」 「一〇〇式司偵の故障か?」  檜山は眉《み》間《けん》に皺《しわ》を寄せた。 「墜落ならば、それしか考えられません。八戸に着陸するのだったら、三十分前に降りているはずです。ただ、整備は万全だったということです。他の機体から、部品取りまでしたそうですから……」 「それ以外の可能性は?」  檜山はおもむろに立ち上がると、ポケットから『敷島』を取り出した。 「予定時刻の二十分前、米軍のB‐29が侵入中との通報がありました。それを聞いて迂《う》回《かい》航路を採ったか、上空待機しているのか、それとも八戸を通過したか……」  桜木は自分の胡《ご》麻《ま》塩《しお》頭を撫《な》で付けた。 「何とも困ったもんだ。無線封止を命じたことが裏目に出たな。直接、東京に向かったのだとすれば、燃料で問題が起きかねん。それに海軍航空隊厚木基地の反乱は、まだ鎮圧されていないのだろう?」  檜山は、壁面に貼《は》られた日本地図に見入った。厚木は帝都防空の要として整備された部隊で、精鋭を誇っていた。ポツダム宣言受諾に反対する彼等が、連合国連絡機の標識を付けた一〇〇式司偵を攻撃することは充分考えられる。いかに高速な一〇〇式司偵でも、戦闘機に追尾されたら、逃げるのは容易ではない。その時、燃料に余裕がなかったら、危険は増大する。 「真《ま》っ直《す》ぐ羽田に向かったと仮定したら、到着時刻は何時になる?」  檜山は向き直って桜木を見詰めた。工藤中佐機の行方不明が、余程、桜木には気になっているのか、顔色が優れない。 「早ければ、〇《マル》七《ナナ》三《サン》〇《マル》時には到着すると思います。ただし、その場合、最大速力で飛行しなくてはなりません。巡航速度の三倍ぐらい燃料を喰います。燃料がぎりぎりだと思います。巡航速度なら二時間から二時間半というのが妥当なところかと……」  その言葉には桜木の祈りが籠《こも》っていた。彼等が無事に到着しなくては、占守の戦いが水泡に帰する。 「わかった。この件は三時間を経過したら、もう一度考えよう。それよりも、いまは占守だ。そろそろ総攻撃が始まるはずだ。作戦室に行こう」  檜山は桜木の肩をぽんと叩《たた》いた。  ——所詮、軍司令官なぞ、靴の上から足を掻《か》くような仕事さ。  檜山は自分の心に言い聞かせた。  池島連隊長は、一式中戦車の砲塔から半身を出し、周囲を慎重に見回した。指揮下の連隊の約半数とはいえ、一式中戦車十七輛《りよう》、九七式中戦車改十輛、九七式中戦車九輛がジーゼルをふかすと、かなりの騒音だった。  池島が右手を振り下ろすと、一斉に各車は前進を開始した。十四、五トンもある鉄牛、三十六輛は、見慣れた池島の眼にも壮観だった。  第二中隊第二小隊長の綿貫は、自分の九七式中戦車改が動き出すと、一《いつ》旦《たん》、砲塔の中に潜り込んで、乗員の一人ひとりを見回した。砲手の乾伍《ご》長《ちよう》と、通信士兼機銃手箱田一等兵は、黙々と自分の担当する装置の手入れを行っていた。操縦手の宇佐美上等兵は、背中しか見えないが、誰もがいつになく落ち着いているのに、ほっと胸をさすった。  ——訓練の方がよっぽど緊張していたな……。  と、思う反面、綿貫は自分自身が緊張していることに気付いた。再び砲塔から半身を出すのに、三回も装甲に頭を打ち付けた。  連隊は道から大きく外れ、女体山山頂に向かって一直線に登って行く。荒れた大地で、車体は大きく前後左右に揺れていた。  ——ノモンハンの時、中島大尉もこんな気持ちだったのか……。  いまになって思うと、中島さんは度胸が据わっていたものだと、改めて感心した。その中島大尉は師団司令部にいる。一抹の寂しさが脳裏を過ぎる。他方で、ノモンハンでの内田連隊長の遺言を考えると、気が楽でもあった。 「宇佐美。車列を崩すなよ」  綿貫は何か言いたくて、車内通話で声をかけた。これだけの騒音だと、車内通話の方が確実に伝わる。 「わかっていますよ。大丈夫です」  宇佐美は、車体の上部ハッチから顔を出して、常に左右の様子を窺《うかが》っている。さすが、中国戦線出身の古株だけに、安心していられる。  ——そうだ。ノモンハンの時は中島大尉も新任少尉だったし、自分も含め、乗員すべてが初陣だった。  綿貫は中島大尉に、ただただ感心するばかりだった。  そうこうするうち、楔《くさび》形の横隊車列は、きつい上り坂に差しかかった。連隊は三種類の戦車で構成されているため、普通なら車列が崩れるはずである。訓練でも未整地の草原を走るだけで、車列は乱れるものだが、今日に限って、連隊は定規で引いたように二つの直線上にきちっと隊形を作ったまま崩れない。  その時、戦車帽の隙《すき》間《ま》から、甲高いエンジン音が聞こえた。反射的に空を見上げると、上空に数機の飛行機が乱舞している。「空襲警報」と、言いかけてよく見ると、それは明らかに空中戦を行っている。頑張れと、叫びたくなった。  最初に敵機を発見したのは、先頭を行く編隊長の板倉和平大尉だった。機種ははっきり確認できないが、単発低翼機、ヤコブレフYak‐9である。板倉は素早く全周囲に視線を走らせ警戒した。左後方に付く二番機、鳴瀬中尉も、敵を発見したのか盛んにバンクを繰り返している。周囲には機影はない。敵機は気付かないのか、高度三千ぐらいを悠々と東から西に移動している。 「行くぞ!」  板倉は自分に掛け声をかけてスロットルを開けた。愛機、隼三型甲は、ぐんと加速して編隊の前に出た。ゆっくりと操縦桿《かん》を倒し左にロールしながら敵編隊の先頭を眼の隅に捕らえる。  ——まだ気付かない!  意外な程に、敵の上空警戒は甘い。板倉は、一撃離脱で奇襲することに決めた。隼三型甲の四機編隊は、打ち合わせ通り二つの二機編隊で突っ込んで行く。敵の左斜め上方から突入する形になった。  接近するにしたがって、敵の機影は大きくなり、流線形の三式戦『飛燕』のような形状が電映照準器からこぼれる。板倉がスロットルの射撃把に指をかけた瞬間、気付いたのか敵の編隊が崩れた。 「いまさら遅い!」  板倉は巧みに機位を修正しつつ、見越し角を付け、先頭の編隊長機に向かって射撃把を引いた。胴体部の十二・七ミリ機銃二門が激しい震動と共に唸《うな》った。十発に一発含まれている赤い曳《えい》光《こう》弾が、棒状になって敵ヤコブレフYak‐9の両翼に当たるのがはっきり確認できる。  敵編隊長機は、必死になって逃れようと、機首を持ち上げた。これが、彼の敗因だった。板倉の機銃弾は、機首のエンジン部に吸い込まれた。同時に両機は擦れ違う。一呼吸間を取って、板倉が操縦桿を引き起こすと、視野の隅に錐《きり》揉《も》みになるヤコブレフYak‐9が見えた。 「撃墜です!」  飛行帽のレシーバーには、激しい雑音の中に鳴瀬の絶叫が届いた。 「次、行くぞ! 付いて来い!」  見上げると四嶺山上空は、複雑に飛行機雲が絡み合っていた。  異変の兆候は、日本軍の砲撃だった。司令部のある一〇八高地に、十五センチはあろうかという砲弾が、蒸気機関車のような音を立てて落下し始めた。 「退避!」  誰かが叫んだのを合図に、グネチコ司令官もトラフテンベールク参謀長も、テントを飛び出した。初弾の着弾は思ったよりも近かった。二人が地面にダイビングした瞬間、十五メートル先の烹《ほう》炊《すい》車に命中した。烹炊車は優に十メートルは空中に持ち上げられ、地面に叩き付けられた時には、原形を止めない程、押し潰《つぶ》されていた。 「いかん! ここにいたらまずい」  グネチコはトラフテンベールクに怒鳴ると、塹《ざん》壕《ごう》に向かって駆け出した。太った体型とは思えない程、素早く走っていたが、七メートル先の塹壕に飛び込むまでに、あと三発の着弾があった。 「くそ! 軍帽を亡くした!」  グネチコは吐き捨てた。そこにトラフテンベールクが飛び込んで来る。 「一体、どこから撃って来るんだ?」  グネチコがトラフテンベールクに詰問したが、トラフテンベールクはすぐに答えることはできなかった。 「わかりません。遠距離から撃っているようですが……」  その瞬間にも、司令部テント付近に一発の着弾があった。多量の土砂が塹壕に降り注いだ。グネチコもトラフテンベールクも身を竦めたが、土砂は容赦なかった。蛸《たこ》壺《つぼ》陣地を広げ周囲に土《ど》嚢《のう》を積んだだけの、簡単な作りの塹壕だけに、けして安全とは言えない。 「どこかに、まともな壕はないのか?」  グネチコは堪《たま》らず訴えた。 「進出したばかりで、この付近にはありません。それよりもヘルメットです。ヘルメットを探させましょう」  トラフテンベールクは周囲の兵を捜した。生《あい》憎《にく》、付近には兵がいなかった。恐る恐る、塹壕を出ると、匍《ほ》匐《ふく》で捜しに行った。するとそこに、ジャコフ師団長が駆け込んで来た。 「一一五高地北側の第一三八連隊も砲撃を受けています。巨大な砲弾だと、報告して来ました。少なくとも、四十センチクラスだそうです」 「何だって! 四十センチ。そんなことは有り得ない! 四十センチといえば、戦艦の艦砲か、巨大な要《よう》塞《さい》砲しか考えられん。そんなもの、持っているわけないだろう。何かの間違いだ!」  グネチコは砲撃の土砂を避けながら、がなり立てた。しかし、その報告は事実だった。損害の報告がそれを証明していた。一撃で散開する一個小隊が全滅したとある。  グネチコは俄《にわ》かに信じ難いという表情で、呆《ぼう》然《ぜん》とした。 「日本軍は何処《どこ》にそんな巨大な砲を隠しているんだ!」  うろたえたグネチコは、ヘルメットを手に戻って来たトラフテンベールクの、その襟首を掴《つか》んで怒鳴った。 「空軍に連絡して、砲撃陣地を爆撃するように伝えるんだ」 「だめです。空軍は日本軍機と交戦中です。捜索する余裕はありません!」  トラフテンベールクも怒鳴り返した。すでにその顔は泥だらけで、傷があるのか頬《ほお》に一筋の血が流れていた。  独立戦車第一一連隊は、女体山中腹、標高百メートル付近に進出していた。敵の前《ぜん》哨《しよう》線《せん》を真っ先に発見したのは、池島連隊長自身だった。池島が首に下げていた双眼鏡で確認したところでは、敵は山頂間近から裾《すそ》野《の》にかけて横一線に展開していた。明らかに歩兵部隊だけで、戦車の出現に驚き慌てているのが見て取れた。 「各々、警戒。三時の方向に敵歩兵。距離二百。銃撃に注意し、各個に砲撃、始め!」  池島の声は、無線封止で沈黙するレシーバーに突如響いた。 「乾! 榴《りゆう》弾《だん》だ」  綿貫は下令すると、砲塔の中に潜り込んでハッチを閉鎖した。 「宇佐美! ハッチを閉めろ。連隊長車に注意!」  綿貫の命令は、矢継ぎ早に飛んだ。 「榴弾、装《そう》填《てん》よし」  砲手の乾伍長が報告した時には、綿貫も車長席に座り、車長用ペリスコープに眼を当てていた。彼方《かなた》には、ソヴィエト軍兵士が、すでに浮き足立っているのが見えた。乾は榴弾だけに、照準もそこそこに発射ペダルを踏む。轟《ごう》音《おん》と共に、駐退後座器で衝撃を緩和された砲身が後退し、空《から》薬《やつ》莢《きよう》と一塊の硝煙を吐き出した。 「命中!」  車体左寄りに設置された、七・七ミリ車載機銃に取り付き、射撃を開始した箱田が叫んだ。綿貫も敵前哨線で火球が上がり、多量の土砂と共に数名の兵士が跳ね飛ばされるのを視認した。敵前哨線では、他にも数ヵ所で爆発が見て取れた。 「続けて榴弾! 急げ!」  乾は待ち構えていた。両腕で四十七ミリ榴弾を赤ん坊のように抱いていた。前後左右はもちろん、上下にも不規則に激しく動揺する車内で、信管の付いた弾薬を持ち、直立するのは至難の業《わざ》だった。しかし、乾は停止しているかのように、薬室に砲弾の先端をあてがい、拳《こぶし》で薬莢のお尻《しり》を押し込んだ。手を開いたまま押し込もうとすると、自動的に閉鎖される尾栓に指を挟まれ、切り落とされてしまうからである。弾架から砲弾を引き抜き装填する作業は、熟練が求められる。 「よし!」  綿貫は操作レバーを激しく操作した。油圧旋回砲塔は滑らかに右旋回を始める。綿貫は百五十メートル先で散開する敵を物色した。敵からも反撃のための射撃が始まり、あちこちで小銃、機関銃の発射炎が視認できる。綿貫の戦車も、夏の夕立のような金属音に包まれた。  ——あそこだ!  乾も目標を認め、兵の密集する場所に、照準線を合わせると、再び発射ペダルを踏んだ。軽機関銃を中心に展開していた七名ほどのソヴィエト軍兵士の真ん中に、爆発は起こった。一瞬にして、火の球と白煙が彼等を包み、それが消滅した時には、大地の窪《くぼ》みしか残っていなかった。  池島大佐は攻撃の推移を、満足感をもって観察していた。連隊は敵陣を三時の方向に捕らえ、戦いながら前進を続けた。戦場を斜めに横切る形だった。第三中隊だけが射線に味方が入るため、戦闘に参加していない。敵兵力は、ほぼ一個大隊。だが、数に勝るはずの敵は、敗走を始めた。 「各々、これより、敵右翼を突破し敵を蹂《じゆう》躙《りん》する。小隊指揮官、中隊指揮官は、敵陣突破後、指揮下の掌握に努めよ。各中隊段列は下車し、敗走する敵を掃討せよ。側面からの接敵に警戒せよ」  池島の声は冷静だった。この第一線は、四嶺山を包囲するために送り込まれた尖《せん》兵《ぺい》に違いない。いまのところ敵は対戦車兵器を持っていない。だが、敵主力は、まだこの先だ。  ——戦いはこれからだ!  池島は自分を戒めた。  村尾少佐は、四嶺山北側にいた。双眼鏡で敵軍を見詰めていた。ソヴィエト軍は少なくとも四嶺山北側に、陸軍一個連隊と海兵一個大隊を配置し、包囲と山頂攻略を目指していた。 「教科書通りだな……」  恐らく指揮官からは、損害に構わず前進せよと、言われているのだろう。雲《うん》霞《か》の如《ごと》く、押し寄せて来る。四嶺山は禿《はげ》山《やま》なので、遮《しや》蔽《へい》物《ぶつ》はなく、機銃掃射が効果的だった。  ——しかも、我らには『試製四式四十センチ噴進砲』がある。  村尾は笑みがこぼれるのを抑え切れなかった。『試製四式四十センチ噴進砲』とは、簡単に言えばロケット弾である。射程は四千メートルと短いが、特徴は砲身を持たないことと、四十センチという巨大な口径にある。ロケット弾だから、簡単な木製の台から発射でき、移動が簡単である。しかも口径四十センチは、日本陸軍の持つ大砲の中で二番目に大きく、まさに戦艦の主砲に匹敵する威力がある。密集している所に命中すれば、一個中隊を全滅させる威力を持つ。  欠点もないわけではない。ロケット弾は、その性格上、弾着にばらつきが多い。加えて、破壊力が凄《すさ》まじいだけに、彼《ひ》我《が》の距離が詰まったところでは使えない。  着弾点を越えた敵には、重機関銃の列線が待っている。 「檜山さんも偉い物を送ってくれたな!」  まさに、感嘆するしかなかった。『試製四式四十センチ噴進砲』は、昭和十九年に試作されると、早速、ルソン島、硫《い》黄《おう》島、沖縄本島に送られた。実戦使用試験を行うためだった。各地の戦闘でその威力は絶大であることが報告されると、本土決戦師団に配備するため多数製造された。  檜山は第九一師団の火力を増強するため、北海道に配備された『試製四式四十センチ噴進砲』を全弾掻《か》き集め、占《しむ》守《しゆ》島《とう》に送っていた。永原師団長は、第七三旅団長と検討の上、四嶺山西南の二九三大隊陣地に三分の一を配備した。また、弾着観測のため各陣地に有線電話が引かれた。  それがいま、牙《きば》を剥《む》いたのである。正確な弾着観測のために、連続発射は禁止されているが、威力がそれを補って余りがあった。歩兵ばかりのソヴィエト軍は、身を隠す場所もなく、徒《いたずら》に損害ばかりを増やしている。  ——いけるかもしれないぞ!  村尾少佐は呟《つぶや》いた。勝てそうな予感を肌で感じていた。  高度千五百で巡航して来た宮松以下、四機の九七艦攻は、北鎮橋上空で高度を一気に下げた。沓形台上空に達した時には、高度は三百メートルにまで降下していた。  指揮官の宮松海軍少佐は、高度を下げ始めた時から、上空ばかりを気にしていた。陸軍の隼三型甲が、予定では二十分前に戦場に到着し、上空制圧を行っていることになっていた。  ——どうやら敵戦闘機がいたんだな……。  戦闘機同士の空中戦は、お互いに優位な位置を占有しようとする戦いでもある。立体的な三次元の機動を行っていると、往々にして思わぬ方向に移動してしまう。ヤコブレフYak‐9に隼三型甲では、苦戦しているだろう。  ——だが、お陰で戦場の上空に敵機は見えない。 「どうだ。敵影はあるか?」  宮松は背後の電信員、石川一飛曹に尋ねた。 「ありません」  宮松はもう一度指揮下の各機を見やった。各機は、翼が触れんばかりの密集編隊を組んでいる。 「各機、対空警戒を厳にせよ!」  手信号で注意を促すと、宮松は初めて地上に眼を転じた。地上戦闘の対地支援は余り経験がなく、実際にこうして見るまでは、敵味方の識別には自信がなかった。しかし、この付近は海抜が百メートル以上ある。高度三百メートルということは、対地高度は百数十メートルしかなく、戦闘の状況が手に取るようにわかった。 「参ったな……」  宮松の口からは愚痴が漏れた。上空から見る限り、反攻作戦の主力部隊、独立戦車第一一連隊の攻撃はうまく行っている。すでに連隊は、敵の前線を突破している。 「西岡中尉、聞こえるか?」  宮松は無線で二番機を呼んでみた。 「どうにか……」 「地上を確認できるか?」 「はい。確認できます。混戦ですね」  西岡も偵察席から身を乗り出して地上を確認していた。 「あれでは、敵味方の距離が詰まり過ぎていないか?」  それは事実だった。急降下爆撃機ならば、一点を目標に爆撃できるが、九七艦攻は水平爆撃しかできない。水平爆撃は面制圧を目的とした攻撃手段で、地上攻撃の場合は、飛行場や陣地などの固定目標には効果的だが、敵味方入り乱れている戦場では、味方に損害を与えてしまう。 「いけませんね。どうしますか?」  西岡も困惑した。出撃前の予想では、敵の前線には少なくとも対戦車砲があると考えられていた。そのソヴィエト軍の対戦車砲が発砲すれば、独立戦車第一一連隊の攻撃は停滞を余儀なくされる。そこを水平爆撃で叩《たた》けば、敵前線に穴を開けられると考えていた。 「よし、後方を叩こう。もう一度、輸送船団を攻撃する」  宮松は意を決した。今度は強襲となるだけに対空砲火も予想される。  ——隼が敵戦闘機を引き付けている間に、攻撃を完了しよう。  宮松は、編隊高度を上げつつ竹田浜沖に急いだ。  四嶺山の第七三旅団司令部は、各部隊の戦況報告で騒然となっていた。張り詰めた空気の中、杉原旅団長は作戦室の地図に視線を奪われていた。 「やはり、対戦車砲は見当たりません」  田所先任作戦参謀は、メモの束を捲《めく》りながら告げた。 「なぜなんだ。占守島には戦車はないと思っていたのか?」  戸惑いの表情で、杉原は時計を見上げた。攻撃開始から一時間。作戦は順調に進《しん》捗《ちよく》している。 「そんなことはないと思います。早朝の我が方の空爆で、戦車や対戦車砲の陸揚げに、問題が生じたとしか考えられません」  田所は、軍装の裾《すそ》で手の汗を拭《ぬぐ》いながら、眉《まゆ》を顰《しか》めて答えた。自信がないのである。 「これでは、当方にとって都合がよすぎる……。何か変だ!」 「では旅団長は、我々がやったように、敵も何か策略があると、お考えですか?」  田所は腕を組みながら尋ねた。 「そうとまでは言わん。いまは確証がない。ただ、ソヴィエト軍は強いはずだと思っていたのだが……」 「何か手を打ちますか?」  田所はそう言いながらも、手のないことを知っていた。考えられるのは、攻撃の中断しかない。 「いや。しばらく様子を見よう。どんな手を打っても我が方に不利になるだけだからな」  杉原は椅《い》子《す》にどっかと腰を下ろすと、腕組みして眼を瞑《つむ》った。  レミゾフ少佐が日本軍の総攻撃を聞いたのは、竹田浜近くの第一〇一狙《そ》撃《げき》師団司令部跡だった。自分の大隊を取り上げられた彼は、上陸作戦司令部の揚陸を監督させられていた。ソヴィエト軍始まって以来の本格的な上陸作戦で、揚陸作業は混乱の極にあった。悪いことに、沖合には後詰めの部隊として準備されていた、第二梯団、第一四五狙撃師団を乗せた船団が到着した。船団の輸送船はこれで四十二隻となり、輸送船と浜を結ぶ上陸用舟艇は右往左往するばかりだった。 「海軍は、なぜ、投《とう》錨《びよう》を監督しないんだ!」  と、司令部要員が不満を露《あらわ》にしているテントに、通信兵が飛んで来た。 「戦車警報!」 「なに?」  レミゾフは驚きの余り、テーブルの上の紅茶をひっくり返した。 「どういうことだ?」 「日本軍の総攻撃です。上陸作戦司令部との連絡が途絶えました! 第一〇一狙撃師団も『戦車と戦闘中』を最後に連絡が途絶えました」  通信兵は肩で息をつきながら、悲痛な表情で告げた。 「くそ!」  レミゾフは吐き捨てた。 「あれ程、言ったのに……」  レミゾフは周囲を見回した。この揚陸本部のテントに将校は少なく、彼が最先任将校だった。 「誰か上陸用舟艇指揮官を探して来い。見つけたら最優先で対戦車砲の陸揚げをさせるんだ。一門でも二門でもいい。残りの者は周辺の部隊に行って状況を説明し、防御を固めさせろ。それから、揚陸本部の兵で捜索小隊を編成する。コックも事務屋も、全員に武器を持たせて、ここに集合させろ!」  矢継ぎ早に命令を下すと、下級将校たちは青い顔のまま飛び出して行った。 「やはり、始まりましたね……」  バロージャ軍曹は、慌てふためく兵たちを尻《しり》目《め》に、自分の装備を身に付けながら言った。 「ああ、最悪だ」  思わずレミゾフも心境を吐露した。 「自分は、少佐の武器と携帯通信機を調達してきます」  頼むという言葉も待たず、バロージャはテントを飛び出した。  ——全軍の次席指揮官は一体誰だ……?  狼《ろう》狽《ばい》する揚陸本部要員を見詰めて、レミゾフは大きく溜《た》め息をついた。 「各々、男体山山頂に集合。目印は砲塔の日章旗!」  綿貫准尉は無線の池島の声に、はっと我に返った。ソヴィエト軍将兵の群れの中で、夢中になって戦闘していた。 「おい、集合だ!」  綿貫は旋回砲塔から半身を出したまま、叫んだ。主砲が意味を成さない程の、近距離の対歩兵戦の真《ま》っ直《ただ》中《なか》だった。対戦車兵器を持たないソヴィエト兵は、果敢にも戦車のハッチから手《しゆ》榴《りゆう》弾《だん》を投げ込もうと、車体に飛び乗ろうとする。綿貫も砲塔から半身を出して、戦車に群がるソヴィエト兵を一〇〇式短機関銃で薙《な》ぎ倒していた。 「各小隊長、状況を知らせ」  今度は根本第二中隊長の声が、レシーバーに飛び込んで来た。 「第二小隊、損害なし!」  綿貫は素早く部下の戦車を黙視で確認して応答した。 「行けそうですね、准尉」  砲手の乾伍《ご》長《ちよう》は、砲撃する機会を失い、砲塔後部の七・七ミリ機銃に付いていた。 「おう、まだまだ行ける」  綿貫も素直に応じた。そんな会話の最中、宇佐美上等兵は、二百メートル先の男体山山頂に進路を向けた。日本軍の戦車が戦闘を中断すると、ソヴィエト軍は思い思いに敗走を始めた。  九七式中戦車改は、倒れたソヴィエト軍兵士を踏み付けながら、山頂に向かって緩やかな坂を登って行く。 「乾。弾薬を調べろ」  ふと、綿貫は補給が気になった。連隊の弾薬補給所は、作戦発起点の四嶺山南西麓《ろく》にある。 「榴弾十五発、機銃弾三箱使いました」  乾は弾架を確認して答えた。 「まだ、大丈夫そうだな……」  山頂には、砲塔に日章旗を立てた、連隊長の一式中戦車が停車していた。砲塔の上では池島大佐が仁王立ちになって、敵情を双眼鏡で観察している。すでに二十輛《りよう》近い戦車も停車していた。綿貫は宇佐美に陣形の所定位置に付くよう命じると、腰の手拭いで顔を拭《ふ》いた。手拭いは一拭きで真っ黒になった。  戦線を突破し敵を蹂躙した。指揮下に損害はない。満足すべき状況である。  ——だが、待てよ……。  冷静さを取り戻すにしたがって、一抹の不安が過《よ》ぎった。ノモンハンの時のソヴィエト軍はもっと強かった。戦線を突破されても、粘りのある戦闘を展開した。これでいいのかという疑問が膨らんでいく。  一方、各中隊長は池島連隊長の所に集合していた。各自の報告を聴き、池島は考えていた。  一式装軌式兵員輸送車を使う各中隊の段列は、下車して掃討戦を展開中だった。段列の到着を待つか、このまま戦車だけで戦闘を継続するか、迷っていたのである。段列を待てば、対歩兵戦は有利である。だが、中隊長たちの報告では、三十六輛中、損害は僅《わず》かに九七式中戦車二輛に止まっている。敵は敗走中。段列を待てば、ソヴィエト軍に立ち直りの余裕を与えるかもしれない。  基本作戦は決まっていた。問題は二つ。部下にその意思があるかということと、実施命令が下りるかということである。 「各中隊長の意見は?」  と、尋ねると返って来た意見は積極案ばかりであった。 「いままでは、奇襲であったから、損害も軽微だったが、これから先はかなりきついと思う。大丈夫か?」  池島は呟《つぶや》くように言った。しかし、三人の中隊長の闘志に変わりはない。 「連隊長、旅団司令部より連絡。『作戦の第二段階を開始せよ』です。どういたしますか?」  通信兵が息を切らして告げに来た。池島はしばし黙考した。ここが決断の時である。実施すれば、この者たちの多くは生きて帰れない。しかし、命令に対し意見具申をして、それが認められれば作戦は崩壊する。 「よし。この機を逃さず突撃しよう。目標は竹田浜。一気にソヴィエト軍を波打ち際から追い落とす! 各車相互に、側面を警戒させろ。わかれ!」  池島は、もう一度黒煙の上がる戦場を見渡した。  井崗大佐は指揮所前に飛び出した。白い煙を吐きながら、一機の隼が最後の旋回を終え、着陸態勢に入っている。 「誰の機だ?」  丸太で簡単に組まれた管制塔を見上げると、大声で尋ねた。 「花輪曹長です!」  管制塔の見張り員は、十五倍双眼鏡を見ながら叫んだ。機体は大きく左右に揺れながらも、どうにか主脚を揃《そろ》えて接地した。二度大きく跳ねたが、滑走路を西に向かって滑り始めると速度を徐々に落とした。指揮所前に停まっていた数台の車輛が一斉に隼を追う。  ——無事では済まんと思っていたが……。  井崗は嘆息した。残りの三機はどうしたんだ……。不安は募るばかりだった。やはり隼三型甲では、ヤコブレフYak‐9と戦うのは無理なのか……。  しばらくして、戦隊副官の広瀬少佐が、側車で戻って来た。 「大丈夫です。花輪は怪《け》我《が》していますが、軽傷です。タンクに被弾して、燃料が漏ったので戻って来たようです」  広瀬は笑顔で報告した。 「他は?」 「四嶺山上空で制圧中です。ヤコブレフは、我が方の奇襲で、戦意を喪失し、逃亡したそうです」  しかし、井崗は反射的に、そうではないなと感じた。恐らく、燃料の問題だろう。ソヴィエト軍航空隊の基地はペトロパブロフスクカムチャツキーにある。片道二百キロを超える。往復で四百キロ以上となる。ヤコブレフYak‐9は航続距離が千四百キロだから、占守島に張り付ける時間には制限がある。 「ペトリヤコフはどうだ?」 「上空にはいなかったようです。攻撃を終えて帰投したと考えられます」  広瀬は実に嬉《うれ》しそうだった。すでに地上軍の反撃も刻々と状況が入っている。勝てるかもしれない。そんな思いが膨らんでいた。 「よし。整備長に言って花輪機のタンクの穴を塞《ふさ》がせろ。俺《おれ》が飛ぶ!」  井崗は決然と言った。  地上軍の反攻がうまく運んでいることは、中島大尉の耳にも届いていた。一式装軌式兵員輸送車の無線機から入ってくる状況は、その度ごとに護衛分隊の兵士を沸かせた。 「この調子だと、意外に早く片が付きそうですね?」  高橋少尉も上機嫌で言った。 「そうだといいが……」  しかし、中島は不安げな表情だった。 「どうしたんですか?」  中島は沈黙していた。彼の不安は軍使拝命の時から変わらなかった。ソヴィエト軍は粘着力があるというのが、彼の持論だった。これで終わるわけがないといった思いが、漠然と心を支配しているのだ。 「匂橋です。間もなく四嶺山です」  運転手が振り返って告げた。  ——士魂部隊はどこで戦っているのだろう……。  中島は荷台で立ち上がった。砲声は稜《りよう》線《せん》の向こうだった。戦車第一一連隊の整備中隊だけがそこには展開していた。二輛の一式装軌式兵員輸送車は、四嶺山の北側斜面を目指し登って行った。  工藤中佐の予測は的中した。彼の一〇〇式司令部偵察機が帝都上空に侵入した時、西方にきらりと光る点を視認した。工藤は何も告げず、反射的に機体を翻し、急降下に移った。 「どうしたんだ?」  上出大佐は驚いて叫んだ。 「戦闘機です。敵味方は不明です。しゃべらんでください。舌を噛《か》みます」  反対に工藤は冷静だった。帝都上空は晴れていて、断雲がいくつか高度四千に浮かんでいた。あれを利用する気だな、と上出も気付いたが、降下角はどんどん増して行った。 「くそ!」  工藤は吐き捨てた。上出はそれを伝声管で聞いた。 「えっ」 「見つかった。向かって来ます。少々荒っぽいが振り切ってみます」  工藤の一〇〇式司令部偵察機は、急降下で断雲の一つを突き抜けた。突き抜けた途端、操縦桿《かん》を、力一杯、引き起こそうとした。主翼が細かく振動し、翼端のジュラルミンに皺《しわ》が寄るのが見えた。機体は分解寸前である。眼の前には奥多摩の山が迫って来る。後席の上出は余りの荷重に顔を引きつらせ、胃袋の物を吐《と》瀉《しや》した。  工藤機は高度三百で水平を取り戻すと、今度は全速力で上昇に移った。最《も》早《はや》、上出には周囲を確認する余裕はなかった。機体は再び断雲に突っ込むと初めて水平を取り戻した。 「大丈夫ですか?」  工藤はここで初めて声をかけた。上出は失神寸前で「ああ」としか答えられない。 「雲を伝って羽田に接近します」  言葉通り、工藤は比較的大きい断雲から断雲に、飛び石伝いの針路を取った。  しかし、数個目の断雲を飛び出した時、異変が起きた。直上から無数の赤いアイスキャンディーのような物と一緒にずんぐりとした胴体の単発機が降って来た。赤いアイスキャンディーは上出の後方の胴体に一発当たると炎を上げて炸《さく》裂《れつ》した。爆発の衝撃で振り返った上出の眼に、握り拳《こぶし》二つ分ぐらいはあろうかという大穴が見えた。 「『雷電』か!」  工藤は機体を捻《ひね》り、躱《かわ》した積もりだった。命中したのは恐らく二十ミリ機銃弾だと想像した。  ——もう一発喰らったら、おだぶつだ!  工藤は焦った。しかし、その先に断雲はなかった。左右に機体を滑らせて、背後を警戒してみると、すでに背後には『雷電』が高度を回復して追尾の態勢に入った。見る見るうちに追い縋って来る。上出の眼に『雷電』の操縦者の顔が識別できた。  その瞬間だった。後ろを見ていた上出が激しくつんのめった。一〇〇式司令部偵察機は機首を持ち上げ、急速に速度を落とした。操縦桿を引き、フラップと車輪を降ろしたのだ。機体は浮力を失い、錐《きり》揉《も》みに入った。しかし、『雷電』はこの動きに付いて行けず、あっという間に追い越して行く。  墜落すると、思った。もうだめかと、諦《あきら》めたが、それは上出の杞憂だった。工藤は低高度で機体を立て直すと、そのまま地面すれすれに水平飛行を開始した。高度は二十メートル。焼け跡の東京が足下で飛んで行く。 「どうだ。ついて来れまい!」  勝ち誇ったように工藤が叫んだ。『雷電』はしばらく上空を旋回していたが、諦めたのか翼を翻し西の空に消えて行った。 「突撃は成功です。独立戦車第一一連隊は、海岸まで、一キロの地点まで進出しました!」  田所大佐は通信文を握り締め、作戦室に飛び込んで来た。 「通信文を読んでくれ」  ところが、杉原旅団長は、まだ、腕組みをして眼を瞑っている。 「『〇《マル》八《ハチ》三《サン》〇《マル》。五八高地に到着。抵抗軽微。前進を続ける』です。この先は海岸線まで下り坂です」  田所の興奮は頂点に達していた。眼には涙さえ浮かべている。 「そうか……」  その瞬間、杉原は両眼をかっと見開き、立ち上がった。両腕を作戦図に突くと、状況を一《いち》瞥《べつ》した。 「そろそろ、始まるぞ」  杉原の声は小さかったが、田所の耳にも届いた。意味がわからずぽかんとしていると、杉原は言葉を継いだ。 「独立戦車第一一連隊の残りの三個中隊に移動命令を出せ。予定の場所に速やかに展開させるんだ。それから、師団本部の中島大尉をここに呼べ」  田所は驚きの余り、身体《からだ》が硬直した。ソヴィエト軍を追い落とすには、絶好の好機と思っていたからである。敵を排除するには、戦車だけでは駄目である。歩兵の前進があって初めて、前線を押し戻せる。最後に戦場を制圧するのはいつも歩兵である。田所は、この機に乗じて、各陣地に展開中の歩兵大隊を、前進させるものと考えていた。 「聞こえなかったか?」  杉原の言葉に、田所は慌てて敬礼すると、作戦室を飛び出して行った。実は杉原も田所と同じことを考えていた。だが、「それは欲でしかない」と、自分を納得させようと努力していた。  まもなく、中島大尉が高橋少尉を伴って、作戦室に入って来た。二人は、きちんとした挙手の礼を行うと、緊張の面持ちで不動の姿勢を取った。 「よく来たな」  杉原は微笑《ほほえ》みを浮かべた。杉原は、師団司令部との作戦調整で、中島とは顔見知りだった。経験豊かで聡明な男という印象を持っていた。 「さて、早速だが、敵軍との交渉に行ってもらいたい」  杉原は簡潔に告げた。 「まもなく、独立戦車第一一連隊は、敵の強力な抵抗に遭遇する。燃料、弾薬のこともあるから後退するだろう。そうなれば、一《いつ》旦《たん》、双方手詰まりになる。それを利用して敵の司令部に向かって欲しい」  杉原はいとも簡単に言ってのけた。唖《あ》然《ぜん》としたのは中島と高橋だった。旅団司令部にいると、断片的ながら戦況は耳に入る。  ——ついに杉原旅団長は、占いでも始めたか……。  少なくとも高橋はそう思った。戦況の予測の根拠が見えなかった。 「永原師団長からも聞いているだろうが、ソヴィエト軍は二つ返事で停戦を拒絶する。最も重要なのは、日本軍の停戦交渉の軍使が行ったということなのだ。しかし、だからといって『はい、そうですか』と、引き下がらんでくれ。粘って粘って、交渉をするんだ。ただ、条件を出されたら一《いつ》蹴《しゆう》しろ。条件交渉はしてはならん。何か質問はあるか?」  杉原は平然と言い切った。確かに中島は永原から概略は聞いていた。しかし、拒絶されることが確実な軍使の派遣に何の意味があるのか、理解の外だった。しかも、軍使は戦闘中の戦場を行かなくてはならない。自分ばかりでなく部下の命も危険に晒《さら》される。中島は動揺を隠せなかった。 「ひとつ、お訊きしてもよろしいですか?」 「ああ、構わん。何でも訊きたまえ」 「自分は何のための軍使なのでありますか?」 「確かに当然の疑問ではあるな……」  杉原は鼻を鳴らした。 「この国際法を無視した攻勢は、ソ連の南下政策の一端であることは知っているな?」 「はい」 「ソ連という国は、まだ若い。しかも革命後、急速な近代化を迫られている。だが、不幸にも国土のすべてが冬は極寒に閉ざされる。凍らない港もない」  地政学の問題である。中島は士官学校でそれを学んでいた。 「ソ連が国土を南に求めるのは、国家の悲願である。日本の敗戦は彼等にとって最大の機会を得たことになる。この戦闘は偶発的な問題でなく、確信犯なのだ。したがって、日本側が直接交渉を望んでも、それに応じるわけがない。まして日本の中央政府はその機能を失っている。我ら現地部隊が、交渉せざるを得ないのだが、当然、押しは弱い。そこまではわかるか?」 「はい。理解しています」  中島は杉原の従兵が差し出したお茶に口を付けた。それは、一見、麦茶のように見えたが、石川県地方でよく飲まれている『棒茶』と言われる物だった。香ばしい芳香が鼻を突く。 「そこで方面軍の檜山司令官は、第三国に介入を依頼する腹づもりだ。その時、現地、すなわち我々が停戦の意思を持ち、交渉に努めているという既成事実が必要になる。それがあって初めて、第三国も対ソ交渉に臨んでくれるのだ。我が軍は現在優勢であるが、これは一時のものだ。三日後には、戦線は崩壊する。そうなれば北海道が危ない。時間がないのだ。けして、貴様の交渉は無駄ではない。むしろ大変重要なのだ」  杉原はあえて第三国をアメリカと名指しすることを避けた。十五日まで敵対していた、しかも、鬼畜とまで呼んだアメリカである。アメリカに対する反感は強い。杉原も棒茶をぐいと飲み干した。一方、中島はしばし黙考した。檜山司令官の第三国に対する交渉が成功する保証はまったくない。 「わかりました。それで独立戦車第一一連隊が後退するのは何時頃ですか?」  中島は決断し尋ねた。自分の原隊である独立戦車第一一連隊の状況も大いに気にはなっていたが、いまはそれどころではない。杉原は作戦室の壁掛け時計を見上げて、小さく唸《うな》った。時計の針は九時を廻《まわ》っていた。 「後退が完了するのは一《ヒト》三《サン》〇《マル》〇《マル》だろう。その時点で両軍は戦線の整理にかかるだろうから、出発は早くとも一《ヒト》五《ゴー》〇《マル》〇《マル》ぐらいだろう」 「敵の司令部はどの辺りですか?」 「今朝の段階では四嶺山東方の第六九高地だった。後退した可能性はあるが、まず、六九高地に行って見てくれ」  杉原は作戦図を指差した。中島が思っていたより、距離はない。 「私が思うに国端街道を進むのがいいと思うが、行動に関して制約はない。出発も君の判断で構わない。君らが出発したことは各陣地に伝達し、必要なら援助を行えるようにしておく。何か質問は?」 「別にありません」 「食料と水は充分持って行ってくれ。最低、二日分はいるだろう。とにかく注意して接近してくれ。それから、後退が始まったら私は忙しくなる。何かあったら田所先任作戦参謀に言ってくれ」  中島は素早く敬礼した。高橋も、狐に摘《つま》まれたような表情ではあったが、中島に従った。  レミゾフ少佐はやっとの思いで、捜索に差し向ける中隊を見つけた。上陸作戦司令部の捜索と、連絡の回復を厳命すると、今度は橋《きよう》頭《とう》堡《ほ》の防備にかかった。幸か不幸か、対戦車砲は揚陸するため、上陸用舟艇に搭載が終わっていた。当座、浜に揚げられたのは六門だけだったが、これの展開配備を急がせた。配置はノモンハンでの経験が役に立った。もう一つ助かったのは、対戦車砲が五十七ミリだったことだ。砲兵の話だと、距離五百で百四十ミリの装甲を撃ち抜ける。 「戦車があれば……」  配置を指示しながら、ぼやきが思わず口を突いた。対戦車砲は機動力に劣る。待ち伏せにはいいが、追撃となると難しい。 「戦車警報! 距離一〇〇〇。敵戦車三十三輛《りよう》。接近中!」  高台に配置した砲隊鏡から野戦電話で報告があった時、レミゾフは最後の対戦車砲のカモフラージュを監督していた。 「対戦車ライフルは配置したか?」  レミゾフは、従兵のバロージャ軍曹に尋ねた。レミゾフは、シモノフPTRS1941対戦車ライフルを装備する二個分隊も、独断で自分の指揮下に編入していた。シモノフは口径十四・五ミリ。五百メートルで二十五ミリの装甲を貫通できる。 「二丁ずつ、左右に配置しました。例の日本軍の陣地を利用しました」  バロージャはレミゾフにヘルメットを差し出して答えた。レミゾフはそのヘルメットを被《かぶ》ると、首に下げていた双眼鏡で前方を確認した。  ——陣形は乱れているな……。  さもありなん。敵は我が軍の部隊を蹂《じゆう》躙《りん》してきたのである。我が軍はすべてが歩兵。八方に逃げる者を追い廻せば、陣形は乱れて当然である。対戦車砲にとっては、陣形が乱れていた方が迎撃しやすいが、艦砲に支援を仰ぐ場合、効果が分散してよくない。 「ちゃちな戦車だな!」  レミゾフのいる陣地の、対戦車砲兵の一人が叫んだ。確かにこの間まで戦っていたドイツ軍の戦車から比べれば、玩具のように見えた。しかし、ノモンハンで戦ったレミゾフは侮らなかった。 「距離八〇〇」  砲隊鏡の電話が告げた。 「まだだぞ。引きつけろ!」  レミゾフは静かに言った。レミゾフの陣地の対戦車砲は、旋回砲塔に日本の国旗を立てた戦車に照準を付けた。 「距離六〇〇!」  砲隊鏡の報告は切羽詰まった声に変わった。日本軍の戦車は機銃で味方の兵士を追い回している。 「五〇〇!」 「撃て!」  レミゾフが叫ぶと、五十七ミリ対戦車砲が一斉に火を吹いた。レミゾフの陣地の砲は、うまく初弾で敵を捕らえた。  いつかは遭遇すると思っていたが、砲撃されるまで、独立戦車第一一連隊は対戦車砲に気付かなかった。巧妙に偽装されていたのだ。 「あと少しだ。竹田浜は眼の前だぞ! 各車、対戦車砲に注意しろ!」  池島は隊内無線で注意を促した。しかし、その対戦車砲の直撃を最初に受けたのは、不幸にも池島連隊長車だった。池島の乗る一式中戦車は、これまでの九七式中戦車や九七式中戦車改と比べて、前面装甲が倍の五十ミリになっていた。しかも、それまでのボルト止めではなく、溶接装甲だったため、格段に防御力は高まったと言われていた。しかし、ソヴィエト軍の対戦車砲はそれ以上に強力だった。ソヴィエト軍の放った五十七ミリ対戦車徹甲弾は、池島の一式中戦車の前面ほぼ中央、機銃の横に着弾した。砲弾はボール紙を突き抜けるように、前面装甲を溶解し、ほぼ真円の穴を穿《うが》つと、車内に飛び込んだ。それでも砲弾は爆発せず、車室後部の装甲を突き抜け、ジーゼル・エンジンに当たって爆発した。爆発による破壊力は凄《すさ》まじく、エンジンを粉砕すると同時に、後方の破口から燃焼ガスを噴き出した。高温の燃焼ガスは、弾架に収められた砲弾の装薬に引火した。一瞬にして池島大佐以下、乗員四名は粉砕された。爆発力は密閉された車室の弱い部分に集中し、砲塔を空中に放り出した。 「あっ!」  視野に連隊長車を捕らえていた者は、誰もが声を上げた。綿貫准尉も息を呑《の》んだ。まだ、耳には直前に入った連隊長の「相互に連携し、蹂躙せよ」と言った言葉が残っていた。 「何処《どこ》だ! 対戦車砲は!」  綿貫は連隊長車を視野に置いていたため、発射炎を確認していなかった。 「右! 二時三十分! 対戦車砲!」  操縦士の宇佐美上等兵が叫んだ。綿貫は素早く車長用ペリスコープに付くと砲塔を向けた。 「くそ! うまいところに隠しやがったな!」  綿貫は叫んだ。岩の陰の偽装網から砲口だけが突き出している。 「榴《りゆう》弾《だん》! 距離五〇! 撃て!」  轟《ごう》音《おん》と共に四十七ミリ戦車砲が火を吹いた。しかし、放った榴弾は前方の岩に命中して炸《さく》裂《れつ》し白い煙を上げただけだった。 「だめだ! もう一発! 榴弾! 撃て!」  だが、その榴弾も空しく岩を削っただけだった。その間、その対戦車砲は、味方の三輛の九七式中戦車改を葬っていた。 「宇佐美。右だ! 進路右九十度! 全速!」  綿貫は叫んだ。射角が悪くこの位置からでは、岩陰の対戦車砲は狙《ねら》えないのである。だが、射撃位置を換えるためには、車体の側面を敵に晒《さら》すことになる。敵にとって射撃目標は、倍の面積となる。 「箱田! 航空支援要請! 急げ!」  綿貫の言葉が終わらぬうちに、車体に金属音が響いた。敵の対戦車ライフルだった。いとも簡単に、弾丸は装甲板を貫通し、車内を跳ね回った。その一発が綿貫の左腕を貫通した。 「うっ!」  くぐもった叫びと共に、肉片と鮮血が迸《ほとばし》った。 「大丈夫ですか!」  咄《とつ》嗟《さ》に箱田が振り返った。 「まだまだ! 乾。偏差射撃だ。任せたぞ!」  綿貫は素早く三《さん》角《かく》巾《きん》で腕を縛った。 「左九〇。距離四〇。発射!」  乾は全速走行で激しく揺れ、照準器の中で上下する目標を慎重に狙った。次の瞬間、激しい炸裂音と共に四十七ミリが火を吹いた。砲弾は地を這《は》うように低伸し、敵の対戦車砲の左側方五十センチのところで炸裂した。 「命中!」  それが乾の最後の言葉だった。再び対戦車ライフル弾が、装甲を貫いた。声もなく乾は、その場に突っ伏した。慌てて綿貫が乾を抱き起こそうとした時、続いて敵の五十七ミリ対戦車徹甲弾が砲塔に着弾した。鈍い音と共に、砲弾は前面装甲を貫いたが、幸運にも後方の装甲も貫いた。衝撃波で、耳鳴りがする。 「くそ! 宇佐美。もっと右だ! 右に回せ! 急げ! 急げ! 急げ!」  九七式中戦車改のジーゼルが悲鳴を上げた。  九七艦攻は四機とも帰投したが、どの機も被弾していた。片岡の基地では、着陸した機体を掩《えん》蔽《ぺい》壕《ごう》に入れさせなかった。指揮所前に誘導された九七艦攻は、その場で燃料の補給と爆装の作業を受けていた。 「六隻に命中弾を与えました。しかし、船団は四十隻以上に増えています」  宮松海軍少佐は、広瀬陸軍少佐に報告した。 「輸送船の増強は、四嶺山の電探でも確認している。済まんがすぐ、第三次攻撃に行ってくれ。今度は二百五十キロをつけてもらう」  広瀬は切迫した表情で言った。 「戦隊司令は?」 「出撃した」  広瀬は宮松を指揮所内に促すと、地図を指して説明を始めた。 「いま、独立戦車第一一連隊が竹田浜に迫っている。敵は対戦車砲を揚げたらしい。目下、苦戦中だ。独立戦車第一一連隊には、後退命令が出た。対地支援をお願いしたいところだが、また、近距離戦になっている。支援は不可能だろう。むしろ、我々としたら、これ以上、敵の対戦車砲や戦車の揚陸は避けたい。船団攻撃に徹してもらう。いいな」  広瀬は、おおよその前線を、指で弧を描いて示した。 「隼はどうなりました?」 「君たちと入れ違いに、発進した。上空の制圧を図っているはずだ」  広瀬は腰に両手を置き、鼻息を漏らした。 「攻撃を反復するしかない。あと三回は飛んでもらうことになるだろう。よろしく頼む」  広瀬は大きく溜《た》め息をついた。九七艦攻各機の被弾を見れば、あと三回の出撃が、どれ程過酷か、よくわかっていた。自分は構わないが、部下に命じるのは辛《つら》い。 「後退命令は出しましたが、独立戦車第一一連隊は、一部が対戦車砲列を突破し、橋頭堡を蹂躙しています。池島大佐は戦死の模様。部隊の指揮は根本第二中隊長が執っています」  田所大佐は、引きつった表情で杉原旅団長に報告した。 「一部とはどの程度だ?」  杉原は涼しい顔のままである。 「第二中隊を主力に十二輛です」 「よろしい」  ——池島でなければ、ああは行かなかったな……。  杉原は内心そう思った。三個中隊で、ほぼ一個旅団を蹂躙したのだ。本来なら驚くべき戦果である。単なる戦闘ならここで増援を投入し、一気に敵を駆逐するところだ。だが、いずれ始まる停戦交渉のために、積極戦闘には制約がある。池島戦車隊は充分敵の心胆を寒からしめた。いまは、それで充分なのだ。 「後退を支援するため、独立戦車第一一連隊段列を出したらいかがでしょう?」  田所は深刻な表情で具申した。 「それはいかん。戦車第一一連隊の段列は女体山に展開させる」  杉原は漲《みなぎ》る気迫を放ちながら、冷然と言い放った。 「しかし、それでは独立戦車第一一連隊の半分を竹田浜で失います」  田所は必死に食い下がった。叱《しつ》責《せき》は覚悟の上だった。 「それが檜山さんの勘所なんだよ……」  杉原は思いの外冷静に言った。 「檜山さんが言ったのを忘れたか? 『戦争は始めることは簡単だ。やるのは大変だ。止めるのは難しい』とね。今回、我々に止める主導権はない。主導権はソヴィエト軍にあるんだ。こちらは、止めさせる動機を与えるしかない。うまくいくとは限らんが……」  杉原は悲しそうに見えた。 「いいか。押し戻された時、一兵でも多い方がいい。私情で無駄に兵力を減少してはならん。各陣地にも厳命しろ。現時点を維持し、死守せよとな。いいな!」  杉原は威圧感のある野太い声で言った。作戦室は、一瞬、静まり返った。  レミゾフ少佐は、戦場に散らばる鋼鉄の残《ざん》骸《がい》を見据えていた。二十輛以上の日本軍の戦車が擱《かく》坐《ざ》している。五十七ミリ対戦車砲の威力が、遺憾なく発揮されたと言って良かった。日本軍はよく似た形状ではあるが、三種類の戦車を投入していた。どのタイプも、装甲に対し直角に着弾した場合、砲弾は綺《き》麗《れい》な円形の破口を空けて、貫通している。斜めに着弾した場合でも、効果はさほど変わらなかった。跳弾になる弾は少なく、ほぼ、貫通した。  しかし、戦闘は予想外の展開だった。意外だったのは、小振りの戦車である。一番大きいタイプは、ほぼ一撃で撃破できた。しかし、小振りの二つのタイプは、被弾しても戦闘を継続した。エンジンやキャタピラ、転輪などの駆動系を破壊しない限り、突っ込んで来る。お陰で、左翼の五十七ミリ対戦車砲二門は、敵戦車の体当たりで破壊された。右翼の一門も敵戦車砲の直撃を受け、完全に破壊された。レミゾフ自身、その被弾で弾《はじ》き飛ばされ、左腕を負傷していた。  被弾しても戦闘を続けられたのは、簡単な理由だった。五十七ミリでは貫通力が高すぎて、車体を突き抜けていたのだ。残骸を調べてみると、一輛《りよう》を潰《つぶ》すのに二十数発を費やしているものもあった。  ——被弾しても突っ込んで来るこの戦車兵の闘志は、一体どこから生まれるのだろう……。  ソヴィエト軍では普通、被弾したら後退する。動かなかったら戦車は放棄する。レミゾフは改めて背筋を寒くした。ノモンハンの日本軍と同じだ。俺《おれ》は、とんでもない連中を相手に戦っている。 「少佐。上陸作戦司令部です。グネチコ少将です」  バロージャ軍曹が携帯無線機を持って駆け寄って来た。 「レミゾフ少佐か?」  グネチコはいつになく快活な甲高い声だった。 「はい」 「状況は聞いた。よくやった。実によくやった。君は全軍の危機を救ったのだ。私からも礼を言う。早速、レーニン勲章を申請しよう。とにかく、司令部に来てくれ」  と、言うと、通信は一方的に切れた。レーニン勲章は、ソヴィエト最高の国家勲章である。だが、浮かれる気にはなれなかった。レミゾフは憮《ぶ》然《ぜん》として無線機をバロージャに返した。 「どうしたんですか?」 「司令部に出頭だ。先月、党費を収めるのを忘れたのかな……」  バロージャは吹き出したが、レミゾフは微笑みもしなかった。 「宇佐美。左だ。左に行け」  綿貫准尉は掠《かす》れた声で言った。連隊集合地点まであと五百メートルだった。  砲手の乾伍《ご》長《ちよう》は、前のめりになったまま、動かなかった。通信士兼機銃手の箱田一等兵は砲弾が腹を貫通して上半身と下半身の泣き別れだった。車室には、少なくとも六ヵ所に貫通口が空き、主砲も砲身に被弾して発射不能だった。対戦車小銃弾の穴は数える気にもならなかった。綿貫自身、頭部の出血が酷《ひど》く、ときおり意識が薄れるのを自覚していた。  彼の第二中隊で何輛生き残ったのか、彼は知らなかった。 「准尉。戦車を遺棄しましょう。エンジンがもう駄目です」  宇佐美は懇願した。エンジンがいかれているのは事実だった。異常な振動と共に、甲高い金属の擦《こす》れる音が続いている。速度も上がらない。九七式中戦車改は時速二キロも出ていない。その九七式中戦車改を救うために、騙《だま》し騙し走行していると、綿貫の命にかかわった。 「駄目だ。絶対に駄目だ。整備に渡せば、修理して誰かが乗れる。こいつはまだ直せる。いまは一輛でも貴重なんだ」  綿貫は砲塔の内壁に身を委《ゆだ》ね、途切れ途切れに言った。仮にこの戦車が整備中隊の手に渡っても、すぐに修理はできるはずもなかった。だが、それを知ってか知らずか、綿貫は頑として譲らない。やっぱり綿貫は、戦車が好きだった。 「いいか、宇佐美。新しい車長には、あまり愚痴るなよ……」  エンジンの騒音で、綿貫の声は、宇佐美には聞こえなかった。  経度から考えると占《しむ》守《しゆ》島《とう》の夜は早い。三時には日没になる。しかし、緯度も高い。この季節は白夜である。仄かに赤く空が燃えていた。  中島大尉は、匂橋から国端崎に至る、通称『国端街道』にいた。『街道』と言っても、それは獣道でしかない。旅団司令部を出る時、戦闘は膠《こう》着《ちやく》状態に陥ったと聞いていた。ソヴィエト軍が前進を図ると、日本軍は砲撃で叩《たた》く。一方、日本軍は陣地の持久に作戦を転換した。双方睨《にら》み合いが続いている。 「稲垣軍曹」  中島は護衛小隊の先任下士官を呼んだ。 「はい、稲垣であります」 「ここが味方の最前線だ。ここから先は敵地になる。人選はできているか?」  小隊を直援と支援に分ける話であった。稲垣は反対していたが、中島大尉はそれを押し通した。  理由は二つだった。前線を突破するのに、金魚の糞《ふん》みたいにぞろぞろ歩くのは嫌だということ、万が一の時、全員戦死させたくはないということだった。  ——なにせ、こいつらは餓島(ガダルカナル)の生き残りだからな。  中島は彼等の苦労話を一式装軌式兵員輸送車の荷台で聞いた。笑い話で話すそれは、飢餓と病魔との戦いの連続だった。 「宝来伍長、上田上等兵、伊原上等兵、鍋《なべ》島《しま》上等兵、それに、田辺、駒《こま》井《い》、山本の三人の一等兵、そして私が直援分隊です。残りは石井伍長が支援分隊を指揮します」 「よろしい。では、支援分隊は散開しろ。我々は街道上を歩く。白旗を貸してくれ」  中島は高橋少尉に白旗を持たせた。  ——無線機が欲しかったな……。  無線機はあらぬ疑いをかけられないために持参しなかった。しかし、独立戦車第一一連隊がどうなったのか、中島は気にかかって仕方がなかった。特に綿貫たちのことが……。  ——胸騒ぎがする……。  だが、いまはそれに構っていられない。思いを断ち切るように、立ち上がると前進を開始した。  戦闘は膠着状態とはいえ、双方とも砲撃も銃撃も行っている。いつ、撃たれても不思議はなかったし、撃たれることが当然だとも言えた。  それを証明するかのように、前線を百メートルも進むと、早速、機銃掃射が頭上を嘗《な》めた。全員、伏せたが、掃射は止まない。周囲に着弾するので、まったく身動きができなくなった。白旗にさえ弾《だん》痕《こん》が穿《うが》たれた。 「白旗が見えんのか!」  高橋が叫んだ。しかし、敵の銃撃はその声に向かって集中する。 「どこから撃っている?」  中島は伏せたまま顔だけ向けて、稲垣に聞いた。 「三方から撃たれています。いま動いたらやられます」  稲垣は絶望的な助言をした。 「これでは、敵の司令部に行くのに相当時間がかかるぞ」  中島が呟《つぶや》くと高橋も同意した。 「こんなことをやっていたら、老け込むな」  上出大佐は、羽田に到着して、改めて事の重大さに驚いた。羽田海軍航空隊基地は、完全に閉鎖されていた。外部との連絡は一切遮断され、操縦士の工藤中佐ですら禁足された。  出迎えたのは、外務大臣東郷茂徳の秘書官、加賀俊一であった。小柄で痩《や》せていていかにも文官らしい神経質な顔立ちである。  宿舎に案内された上出は、早速、加賀から質問攻めにあった。ソヴィエト軍の戦闘に至る経緯、戦闘の状況、第五方面軍の実力、戦闘の見通し、民間人の被害と質問は多岐に亘《わた》り、上出には答えられないこともあった。 「では、最新の情報を君に伝える」  加賀は書類鞄《かばん》から数枚の便《びん》箋《せん》を取り出した。どれも、青インクでびっしりと書き込みがされている。落ち着きなく机の端を指で叩いている。 「まず第一に、在外公館情報だ。独逸《ドイツ》の分割占領では、早くも米ソ対立の構造が生まれている。アイゼンハワー将軍は、調整に躍起となっているらしい。だが、ワシントンは反ソに傾きつつある。次に松岡さんの指摘した件についての情報だ。アメリカ国内では、次期大統領候補にアイゼンハワー将軍を望む世論が高まっている。特に南部政界の支持が強いようだ。焦点のマッカーサー将軍は、マスコミを集めて、盛んにこれを牽制しようとしている。アイゼンハワーの独逸占領政策がソ連寄りだ、との批判さえ行っている。松岡さんの指摘通り、マッカーサー将軍は政界入り、つまりは次期大統領の椅《い》子《す》を狙《ねら》っているな」  そこで加賀は顔を上げた。 「マッカーサーの弱点は、国内の支持基盤がアイゼンハワー将軍と同じ南部諸州だということだ。彼は選挙資金集めに苦しむだろう。東部は依然トルーマンの再選支持だしな」 「なるほど……。では、例のカードが使えそうですね」  上出は安《あん》堵《ど》の吐息を漏らした。 「残る問題は二つ。一つは君が交渉に臨む前に、占守の我が軍が敗北しないかということだ。これは、最大の問題である」  加賀はあくまでもこの点について懐疑的だった。なにせ昭和十八年から、日本は負け続けている。 「その点は第五方面軍が保証しています。私も作戦の現場にいて状況を知っているつもりですが、大丈夫かと考えます」  上出はさらりと嘘《うそ》をついた。そんな確証など何処《どこ》にもない。 「まあいい。次の問題点はマッカーサー将軍が一介の陸軍大佐に会ってくれるかということだ」  加賀は冷ややかな眼で上出を見詰めた。外交交渉を軍人がすること自体に懐疑的なのだ。 「例の手は打っていただけましたか?」 「もちろんだ。松岡さんの指示通り、上海からベルン公使館を経由し、米国に書簡は送った。先方に届いたかはいまのところわからん。確認の術《すべ》がないのでな……。とにかく、外務省の袴《はかま》田《だ》という者が同行する。彼が全面的に協力するので、なんとかやってみてほしい」  加賀はいかにもうさん臭そうに言った。こんな手を外交に利用することは、邪道だと言いたげであった。  加賀から解放されて、時計を見ると六時間が過ぎていた。上出は激しい疲労感に襲われたが、入れ替わるように大本営の堀内中佐が尋ねて来た。 「ひどい目に遭われたようですね」  堀内は型通りの挨《あい》拶《さつ》を済ませると、気安く話しかけた。 「『雷電』か。それとも、加賀さんか?」  上出は防暑衣の茶のネクタイを緩めると、不服そうに言った。 「さっき、一〇〇式司偵を見て来ました。よくあれで、ご無事でしたね」  堀内はそれでも笑顔で言った。一〇〇式司令部偵察機は、機体の三ヵ所に大穴があき、右側の水平尾翼も三分の一が飛ばされていた。よく飛べたものだと上出も驚いていた。 「冗談じゃない。戦争は終わったというのに、危うく撃ち落とされそうになったんだ。それも味方の戦闘機にだ! 一体どうなってるんだ、中央は?」  階級が上なのをいいことに、上出は堀内に噛《か》み付いた。 「まだ、終戦を認めない反乱部隊があります。襲撃してきた『雷電』は、恐らく厚木基地所属のものでしょう……。局地戦闘機で良かった。燃料の関係もあって、見逃してくれたのでしょう。あれが零戦だったら危なかったですね」  堀内は当然の如《ごと》くさらりと言ってのけた。 「大本営はどうなったんだ?」 「事ここに至って、押さえが利きません。しかも、阿南陸相、大西海軍軍令部次長が自決を図りました。大本営、陸軍省、海軍省、いずれも混乱の極みにあります。それだけじゃない。八月十四日から十五日にかけては、反乱軍が宮城を占拠する騒ぎがあった程です。皇軍初の敗戦で、政府も軍も完全に統制を失っています」  上出に返す言葉はなかった。事態は北海道で考えるより遥《はる》かに深刻である。 「明日も安全な飛行というわけにはいかないかもしれません。一応、反乱軍の眼を欺くために、囮《おとり》を九州に飛ばします。使節団の専用機は、木更津、鳥島を経由して伊江島に向かいます。伊江島で米軍機に乗り換え、明日中にマニラ着となるでしょう」 「中央から私への指示は?」 「基本的にはありません。この件に関して、気にかけているのは、東郷外相ぐらいです。明日の専用機には、外務省の職員が二名同乗します。このうち、袴田という者が、大佐の交渉を助けることになっているのはお聞きになられていることと思います。それ以上のことは中央ではできません。陸軍省、海軍省、大本営はこの件まで手が回らないのです」  堀内はきっぱりと言った。 「停戦交渉は明後日からになります。停戦交渉が始まるとマッカーサーの側も、その件で手一杯になるでしょうから、ソヴィエト軍の件は到着直後に交渉すべきです。私から申し上げられるのはそれぐらいです」  上出の胸中には、何で俺なんだという思いが込み上げていた。加賀が思っている通り、これは外交官の仕事のはずだ。  レミゾフ少佐が上陸作戦司令部に到着したのは、午後七時を回っていた。司令部は掩《えん》蔽《ぺい》壕《ごう》になり、砲爆撃の直撃でもなければ耐えられるようになっていた。掩蔽壕の入り口に近付くと、中からは、異様な雰囲気が伝わって来た。 「レミゾフ少佐。命令により出頭しました」  意を決して入ると、グネチコ司令官、トラフテンベールク参謀長、ジャコフ師団長が、沈《ちん》鬱《うつ》な表情で出迎えた。 「レミゾフ君か。ご苦労だった」  グネチコが言った。しかし、心がそこにないことは明らかだった。 「八隻沈没。二隻大破。四隻中破か……」  トラフテンベールクの一言に、レミゾフはその空気の意味がすべて理解できた。今日の輸送船の損害である。 「何で戦車を分散して積載しなかったんだ」  ジャコフは呟いた。輸送船の積載は、海軍の監督だった。 「私は、明日、早朝から攻勢をかけたい。何か方法はないか。トラフテンベールク」  グネチコは穏やかな口調ではあったが、トラフテンベールクに即答を強要していた。 「問題は火力です。我が軍は、戦車のすべてを、野戦重砲の三分の二を、輸送船と共に失いました。航空機は、爆撃機であるペトリヤコフPe‐2の四割が撃墜されました。強行偵察の結果、敵は新たな戦車中隊を三個、前線に配備したことが判明しました。新たな火力支援の手立てがない限り、攻撃はうまくいかないでしょう」 「海軍は駄目か?」 「駄目ですね」  と、言ったのは、ジャコフだった。 「地上軍の支援には、精密さが求められます。今日の駆逐艦の艦砲射撃を見る限り、直接照準でも正確さに欠けます。まして明日の戦闘では間接照準になる以上、精度は大幅に低下するでしょう。艦砲を使う場合、大幅に前線を後退させるか、味方の損害を覚悟しなくてはなりません」 「せめて、あの四十センチロケット弾を叩《たた》ければいいのだが……」  トラフテンベールクはこぼした。部隊が前線に接近すると、あれが降って来る。しかも、発射点をこまめに変更しているのか、空中偵察でも掴《つか》めていない。あれは対歩兵には絶大な威力がある。 「航空部隊の再編には、どの程度時間がかかる?」  グネチコは、すでに結論を見出だしていた。 「増援が必要です。急がせて、明日一杯。明後日には攻撃を再開できます」 「よし、わかった。止むを得ないが、明日は敵の出方を見ることにしよう。全軍に、防備体制を強化するよう下令してくれ。第二梯団の上陸も、今夜中に完了させろ。今日のようなことは二度と御免だ。今後、戦線を突破されて、司令部が包囲されるなど、あってはならん。総攻撃は明後日、〇三〇〇時とする。但し、明後日中に防衛線を突破する。失敗は許さない。トラフテンベールク参謀長は、明日中に作戦の検討を終えておくように」  グネチコは苦渋の中の選択をした。期限の五日間の一日目が終わろうとしていた。  中島大尉は二キロ進むのに五時間を要した。血迷っているのか、それとも白旗の意味を知らないのか、旗を上げる度に、機銃の十字砲火を受けた。支援分隊に何名かの負傷者がでたようだが、まだ、直援分隊に損害はなかった。 「中島大尉。あの稜《りよう》線《せん》のソヴィエト軍は、何でしょう?」  声をかけたのは鍋島上等兵だった。双眼鏡で見詰めたが、暗くてはっきりしたことはわからない。だが、確かに前線部隊とは様子が違う。 「ふむ。確かに様子が違うな。敵の前衛陣地も通過したし、もしかすると、前線司令部かもしれん」  高橋少尉が声を殺して言った。 「待ってください。十一時の方向、二百メートルに機関銃座があります。ここは避けて、裏から行った方が無難じゃないですか?」  稲垣軍曹が、闇《やみ》の中を指差した。確かに機関銃座である。だが、前線司令部に機関銃座があるのは何の不思議もない。前線司令部なら、白旗の意味ぐらいわかってしかるべきである。  中島大尉は自分の腕時計を見詰めた。大日本時計の文字盤は、夜光塗料で何とか読めた。  ——八時半か……。  恐らく旅団司令部、師団司令部では事情がわからず焦っているはずである。 「よし。物は試しだ。やってみよう。全員散開しろ。高橋、白旗を振って声をかけるんだ」  中島大尉は決断した。大方は、誤りでなかった。その場所は上陸作戦司令部ではなかったが、四嶺山方面の正面を警戒するソヴィエト軍第一〇一狙《そ》撃《げき》師団第一三六連隊本部だった。  全員の散開が終わったことを確認してから、中島大尉は高橋に旗を振るように合図した。五時間の匍《ほ》匐《ふく》前進で、旗は汚れていたが、暗夜にも白旗であることははっきり見て取れた。 「シュトー!」と誰《すい》何《か》され、高橋は慌ててロシア語で捲《まく》し立てた。相手のロシア人も盛んに怒鳴っている。当然の如く、周囲は騒然とした。 「全員、武器を置いて立てと言っています」  高橋は叫んだ。 「その前に、全員が十名であることを伝えろ。全員が、立ち上がるから、撃つなと……」  中島は慎重の上にも慎重を期した。 「大丈夫です。向こうは了解しました」  高橋は叫んだ。 「ようし。全員、指示に従って武器を置き、ゆっくり立て。慌てるなよ。急に立つなよ!」  まず、中島が両手を上げて、ゆっくりと立ち上がった。他の者もそれに従い、ゆっくりと立ち上がった。ソヴィエト軍兵士が二人、坂を駆け降りて来て、端から身体検査を始めた。  不測の事態が起きたのはその時だった。陣地のロシア人の誰かが、何かを蹴《け》飛《と》ばした。恐らく、昼間の戦闘で遺棄された砲弾か不発弾だったと思われる。小さな爆発が起こった。 「伏せろ!」  反射的に中島は叫んだが遅かった。十一時の方向の機関銃座が火を吹いた。高橋の頭部を火線が嘗《な》めた。西瓜が割れるような音と共に彼の頭が弾けた。ソヴィエト軍兵士の銃撃が始まり、宝来伍《ご》長《ちよう》と上田上等兵にも銃弾が降り注いだ。中島大尉は伏せたまま、何度も両拳《こぶし》を地面に打ち付けた。 「一体何ごとなんだ!」  グネチコは、怒りを露《あらわ》に司令部掩蔽壕に入って来た。居合わせたトラフテンベールク参謀長も、報告に現れた一三六連隊長、プドーフキン大佐も極度の緊張を強いられた。 「お休みのところを申し訳ありません……」  すかさずプドーフキン大佐は謝罪した。彼の父は党の地方幹部ということで、若くして大佐に昇進した男だった。 「そんなことはどうでもいい。何ごとが起きたのか、速やかに説明したまえ!」  どうでもいいことではなかった。グネチコは疲労の限界を感じ、つい三十分前、自分の掩蔽壕に引き取ったばかりだった。彼は軍装を解き、長靴を脱いだばかりだった。急な呼び出しに、まだ軍装の前ボタンは全部止まっていない。 「先程、私の一三六連隊本部陣地に、十名の日本兵が白旗を掲げて接近して来ました。誰何したところ、軍使だと名乗ったのですが、多少の行き違いで、一名を射殺。他二名を負傷させてしまいました」 「それは正規の軍使なのか?」 「はい。間違いありません。敵司令官からの正式な書簡を携えていました。文面はロシア語です」  プドーフキン大佐は、書簡を差し出した。童顔が引きつり、瞳《ひとみ》には恐怖が宿っていた。グネチコは、黙って書簡を手に取ると、文面に眼を走らせながらトラフテンベールクに歩み寄った。 「参謀長。敵の軍使が来た場合、威嚇して追い払えと命じたはずだが、全軍に伝わっていないのか?」 「いえ。通達済みです」  トラフテンベールクも緊張して応じた。 「さて、どうしたものか?」  グネチコは溜《た》め息をついた。受け入れてしまった以上、いまさら追い返すわけにもいかん。 「書簡では何と言っていますか?」  トラフテンベールクは慎重に尋ねた。 「ああ、書簡か……。不当な戦闘行為を中止するなら、ポツダム宣言に従って武装解除を行う用意がある……云《うん》々《ぬん》だ」 「弱りましたな」  トラフテンベールクは腕組みをして考えた。ポツダム宣言に従った場合、ソヴィエト軍の単独判断で占領することはできない。日本軍は国際法を盾に、あくまで正論で押して来ている。予想され得ることだけに、軍使は受け入れたくなかった。加えて、無抵抗の軍使に発砲したのはまずかった。ジュネーブ条約違反である。本来ならプドーフキンは厳罰に処される。 「しかたがありませんな。戦闘捕虜として、逮捕勾留しましょう。それ以外に手はありません」  トラフテンベールクは恨めしそうにプドーフキン大佐を睨《ね》め付けた。 「誰に身柄を預ける?」  グネチコは、後々のことを考えていた。ことが発覚した場合、自分は責任を取りたくない。 「レミゾフがいいでしょう。奴《やつ》はいろいろと知っていますから」  トラフテンベールクは作戦の不手際に関し、不安を抱いていた。レーニン勲章だけでは、奴が黙る保証はない。視線は再びプドーフキンに注がれた。プドーフキンは、意味もわからず口を開けたままだった。 「そうだな。それがいい。レミゾフに言って捕虜の負傷者の手当てもさせよう」  グネチコは言い捨てると、憮《ぶ》然《ぜん》としてテントを出て行った。  中島大尉は、司令部テントから五十メートルほど離れた掩《えん》蔽《ぺい》壕《ごう》にいた。部下たちとは引き離され、一人で監禁されていた。後ろ手に縛られ、眼の前には二名の監視兵が短機関銃を構えて立っていた。 「捕虜はここか?」  レミゾフは腰を屈《かが》めて、掩蔽壕に入って来た。 「ふざけるな! 何が捕虜だ。私は日本軍司令官の命を受け、正式に派遣された軍使だぞ。この扱いはいったい何だ!」  中島大尉の激しい抗議でレミゾフは唖《あ》然《ぜん》とした。捕虜を管理しろとしか告げられていなかったのだ。 「軍使だと?」 「そうだ。私は停戦交渉に来た軍使だ!」  中島の怒りは収まらなかった。 「軍使ならなぜそう言わん? それに軍使だったら、司令官からの書簡を預かっているだろう?」  レミゾフは念を押して訊《き》いた。 「最初からそう言っている。書簡も持って来た。誰かが持っていったんだ」  レミゾフにはおおよその事態が飲み込めてきた。レミゾフは警備兵に掩蔽壕の外に立つように命じると、中島を縛っていた紐《ひも》を解いてやった。 「わかった。わかった。だから、おとなしくしろ。喚《わめ》くんじゃない。詳しい事情を説明してくれ」  レミゾフは側の椅《い》子《す》を勧めると、自分も机の向かい側の椅子に腰を下ろした。 「いいかね。我々日本軍はポツダム宣言は受諾したんだ。戦闘の意思はない。君たちが攻撃したからやむなく反撃しているんだ。これは、明らかな国際法違反だ」  中島は諭すように言った。 「だったら、日本軍はどのような条件でなら戦闘を中止するんだ」  レミゾフは膝を乗り出し、真顔で尋ねた。 「停戦が発効した時点で、現在の戦線で戦闘を中止する」 「武装解除は?」  レミゾフは畳みかけた。 「できるわけがないだろう。ソヴィエト軍が戦闘を仕掛ける恐れがある。だが、第三国が介入すれば、ポツダム宣言に従って武装は解除する」  中島は呆れ顔で言った。しかし、レミゾフはそれを真剣に受け止めた。妥当な条件と考えたからである。 「なるほど……。もっともな意見だ」 「そう思うなら、指揮官に伝えてくれ。両軍とも、これ以上、無益な血は流すべきではない。戦争はもう終わっているんだ」  レミゾフは頷くと席を立った。 「待っていてくれ。司令官と話して来る」  しかし、翌朝、戻って来たレミゾフは、落胆の表情を湛え、中島に「すまん」と一言告げただけであった。 昭和二十年八月十九日  早朝より、雨が降り始めた。時折、横殴りとなり、疲れ切った前線の兵を、容赦なく打ち付けた。塹壕はぬかるみ、所によっては膝《ひざ》まで漬かる水溜まりとなった。  大局的に見れば、この雨は日本軍に不利だった。ソヴィエト軍に航空機を飛ばす予定はなかったが、航空攻撃を企図していた日本軍も出撃できなかった。もっとも、片岡の航空隊に残された機体は、隼三型甲が三機と九七艦攻が一機だけだった。  また、この雨は後方からの補給や増援を困難なものにしていた。道がぬかるんでいるため、九四式六輪自動貨車が使い物にならなくなった。すべての移動は、一式装軌式兵員輸送車に頼ることとなった。当然、車輛の不足は否めなかった。  加えて、第九一師団司令部は、昨日、ソヴィエト軍に送った軍使のこともあり、積極戦闘を躊《ちゆう》躇《ちよ》した。これにより、双方、それなりの事情で、奇妙な静寂の中で一日が始まった。 「皆、ご苦労である」  柳島師団参謀長が声をかけ、四嶺山の第七三旅団司令部に入ったのは、午前十一時を回っていた。柳島は案内を断り、一人で作戦室に向かった。杉原旅団長は、指揮下、各大隊の損害報告に眼を通しているところだった。 「これは、柳島参謀長」  何の前触れもなかっただけに、杉原は驚きの表情を見せた。その表情には明らかに疲労の色も浮き出ていた。 「状況は?」  柳島は九八式雨衣を脱ぐと、傍らの椅子に投げ出し、作戦図を覗《のぞ》き込んだ。 「定時報告の通り、ソヴィエト軍の動きが止まりました。斥候らしき者以外、まったく接触がありません」  杉原は椅子に腰かけたまま、身《み》動《じろ》ぎもせず答えた。 「斥候を確認したのはどの地点かな?」 「東部の九一高地付近です」 「やはりな……」  柳島は納得の表情を浮かべた。 「そこは独立二八三大隊、二九三大隊の陣地だろう」 「そうです」  杉原は気になることがあるのか、何か考え込んでいる様子だった。 「敵は戦闘再開と同時に、南進を図っているんだ」  柳島はつまらなそうに鼻を鳴らした。 「それよりも私は、四嶺山南麓《ろく》の方が気になります。守口大隊と川田大隊の守備陣地が、南に寄り過ぎている気がします。独立戦車第一一連隊の残余と連携するなら、もっと北に寄せた方がいいのでは……」  杉原は匂橋の南を指差した。 「そこか……」  柳島は少し考えた。 「杉原さん。古今東西の名城には、必ずと言ってよいが防備の手薄なところがあるのは知っているよな」 「ええ」 「城は堅固なだけでは守り切れん。守るは攻めるより難しいからな」  柳島はにやりと笑った。杉原もそれでわかれという暗示だと判断した。 「ところで、どうしたんですか? こんなところまで来て……」  杉原は改めて向き直って柳島を見た。 「うむ。実は永原さんに言われてね、ソヴィエト軍司令官の顔を、拝みに来たのさ」  柳島は陽気に言った。 「停戦交渉ですか?」 「昨日、中島大尉を派遣したが、返事もなければ、帰っても来ない。護衛の分隊の話では小競り合いはあったものの、敵の司令部らしきところに行ったそうじゃないか」 「それは間違いありません」 「今度は俺《おれ》が行くから、下準備の軍使を出してくれんか?」  柳島は『敷島』を一本口に銜《くわ》えると、杉原にも勧めた。杉原はそれに火を点《つ》け、うまそうに煙を吐き出した。 「いいでしょう。緒長大尉を出しましょう。あの者は確か片言ですがロシア語ができた。会見場所はどこにします?」 「竹田浜にしよう。ソヴィエト軍の揚陸も見てみたいし、船団も見たい。それから、通訳には先に送った軍使を同席させるように伝えてくれ」  柳島は煙を玩具《おもちや》にしながら言った。 「時間は?」 「あちらに任せよう」  それから三時間後、雨の中を一台の一式装軌式兵員輸送車が、唸《うな》りを上げて竹田浜に向かった。ソヴィエト軍司令官グネチコ少将が会見に応じたのだった。  通過する戦場は、両軍、まだ多数の屍《し》体《たい》が野《の》晒《ざら》しになっていた。一式装軌式兵員輸送車には、第九一師団の柳島参謀長、須賀作戦参謀、緒長大尉が乗車していた。ソヴィエト側の提案に従って、一五〇〇時、竹田浜に到着した。会見場所のテントは古く、時折、雨漏りがする代物だった。  ——わざとだな。  柳島は思った。しかも待たされる。古い手だと思いながら柳島はグネチコを待った。ロシア人は待たせることで威厳を示す傾向がある。交渉を有利にするための術だと考えている節がある。  三十分後、従兵にテントの裾を巻き上げさせ、中島大尉とジャコフ師団長を伴ったグネチコが入って来た。慇《いん》懃《ぎん》だが態度は横柄である。 「さて、日本軍の諸君」  紹介が終わるとグネチコは口火を切った。 「ソヴィエト軍代表として通告する。我々は不当な攻撃を受けたため、自衛戦闘を行っている。即時停戦し、武装を解除するよう要求する」  中島の通訳を介して、それを聞いた柳島は、『ほう』と感嘆の声を上げた。 「我が軍は、ポツダム宣言受諾後の停戦に応じる用意はある。だが、昨日からの戦闘はこちらが戦端を開いたわけではない。この占《しむ》守《しゆ》島《とう》は貴国の領土でも、貴国の占領地でもない。我々の方こそ、違法な攻撃を受けた以上、武装解除には応じかねる」  グネチコはジャコフと小声で話した。二言三言の会話の後、薄笑いを浮かべた。 「占領すれば武装解除に応じるということか?」  明らかに決裂の意図があると柳島は判断した。 「いかにも」  柳島も突っ張った。 「占領できるのなら、なさったらいい。我が軍は、最後の一兵まで戦ってお目にかける」  柳島はすっくと立ち上がった。  会談はこれだけだった。駆け引きとはいえ、双方とも決裂の意思を持って会談するとは、奇妙なものだと、柳島は思った。  停戦交渉使節団の白く塗られた海軍一式陸上攻撃機の二機編隊は、早朝に羽田を出発。木更津を経由して鳥島に針路を取った。当初の予定通り、厚木を避ける航路設定だった。鳥島通過後、針路は西に変わり、伊江島を目指した。  途中、気が付くと、使節団専用機の周囲を、米軍のグラマンF6F戦闘機六機が、取り囲んでいた。昨日の記憶が蘇《よみがえ》り、上出大佐は口から心臓を吐き出しそうになった。  伊江島には、米軍のりっぱな航空基地が完成していた。使節団はここで米軍のDC3輸送機に乗り換えた。  マニラ到着は夕刻、太陽はすでに落ちていた。米軍のDC3輸送機は、名残りの薄明りを頼りに、滑走路に滑り込んだ。  宿舎は予想通り、マッカーサーの司令部が置かれたマニラ・ホテルであった。宿舎といっても、各自の部屋の外にはMPが立ち、厳重な監視下に置かれた。  上出の部屋はホテルの三階北側、一番小さなシングル・ルームだった。長時間の飛行機の旅に、上出は全身の倦《けん》怠《たい》を感じていた。椅《い》子《す》に凭《もた》れているうちに、知らず知らず眠っていた。外務省の袴田が、その上出の部屋をノックしたのは、八時を回った頃だった。 「さすが外務の松岡洋右ですな……。手品は成功です」  MPに伴われた袴田が、転がるように部屋に入ってくるなり、感嘆の叫びを上げた。  ——この男、外交官にしては、少々感情が顔に出過ぎる。  上出は袴田を冷ややかな眼で見詰め、溜《た》め息をついた。もっとも、歳の頃は三十四、五。今回の任務にはいささか若過ぎる。しかも、小柄で童顔、頼りなく見える。 「とにかく、どうなったのか説明してください」  上出は、眠気を覚ますため、煙草を銜えた。 「話の筋書きはこうです。米国の富豪カーネギーから、マッカーサー将軍宛《あ》ての親展電報が、つい今し方、届いたそうです。内容は『松岡元外相の密使と面会されたし』とのことでした。私は、いま、民生局のホイットニー大佐に呼び出されて、話をしてきたところです。マッカーサー元帥と会える可能性はあるそうです」  上出は「ふむ」と、鼻を鳴らした。紫煙の塊が狭い部屋の中をゆっくりと漂う。  そもそも、上出は檜山司令官からしか話を聞いていない。その話だと、マッカーサーは名誉欲と金銭欲の強い人物だという。だが、こうも簡単に策略に乗って面会を認めるとは、正直なところ思ってもいなかった。 「それで面会の日時なんですが、早くとも明後日以降、ポツダム宣言受諾に関する交渉の後ならば、と言われたのですが……」  袴田は、恐る恐る尋ねた。 「袴田さん。失礼だがあなたは現状を理解しているんですか? こうしている間にも、戦闘は行われているんですよ。満州や樺《から》太《ふと》では民間人を巻き込んでいる。占守では明日には弾薬が尽きるかもしれない」  上出は憤然と食ってかかった。小兵の袴田は肩を竦《すく》めて立ち上がる。薄暗い照明の中でもそれとわかるほど顔色が変わっていた。 「わかりました。すぐにホイットニー大佐にその旨伝えます」 「袴田さん。ちょっと待ってくれ」  上出は少し躊《ちゆう》躇《ちよ》してから、呼び止めた。 「ホイットニーとかいう大佐がごねるようだったら、これを渡してください」  上出は立ち上がると、クローゼットに歩み寄り、かけられた上着の懐を探った。二つある封筒の一方から、一本のフィルムを取り出した。 「現像してから考えろ、と言ってください」  袴田はあたふたと部屋を出て行った。だが、正直なところ上出は不安でいっぱいだった。そのフィルムの価値を上出は知らない。  そもそも、檜山から説明された状況は、至極単純だった。米軍がフィリピンを奪回したのは、戦前、マッカーサーがこの地に広大なプランテーションを持ち、大きな利権に浴していたためだという。このマニラ・ホテルですら、彼の経営だったらしい。マッカーサーは、自分の利権のために、国家の運命を左右する軍事作戦を曲げてしまうほどの男である。  対日戦の終わりが見えるにしたがって、次期大統領を目指す行動が顕著になった。だが、彼にはアイゼンハワー欧州軍総司令官というライバルがいる。独逸《ドイツ》を降伏に追い込んだアイゼンハワーは、一躍、時代の寵《ちよう》児《じ》となった。運命というものがあるとすれば、それはマッカーサーにとって皮肉なものであった。アイゼンハワーは、戦前、フィリピン軍事顧問団団長をしていたマッカーサーの副官だった。したがって、大統領を目指す戦いはマッカーサーにとって負けられぬ意地の張り合いとなっている。だが、マッカーサーには、米国内に確たる支持母体が少ない。人気も薄い。人気が薄ければ、選挙資金は集まらない。そこが松岡洋右の策略の要点なのだろう。  ——だが、本当にそうなのだろうか……?  しかも、こちら側の切り札は二枚しかない。上出が英国で慣れ親しんだスタッフォード・ポーカーで言えば、ワンペアでしかない。ワンペアをいかにしてフルハウスに見せるか……。  柳島参謀長は停戦交渉の決裂後、思いついたように中島大尉の残置を提案した。軍使として双方が妥協点を探すための予備交渉役である。中島はこれで解放されると思っていただけに呆気にとられた。 「なにせ、戦場のことだから、不慮の事故はあるやも知れぬが、結構でしょう」  グネチコは快諾した。日本軍の作戦や、停戦交渉の経緯に、なみなみならぬ強い意志を感じ、その理由を探りたかったためである。  しかし、時は空しく過ぎていた。中島は怒りの中に身を置いていた。レミゾフが現れてから、中島の待遇はよくなった。しかし、ソヴィエト軍は、一向に停戦予備交渉に応じなかったのである。レミゾフに詰問しても「聞いていない」の一点張りで埒が明かない。  中島は、油の塊の浮いたスープを口に含んで、顔を引きつらせた。向かいに座ったレミゾフは、実にうまそうに飲んでいる。  中島は気を取り直して黒パンに手を出すが、これはまるで乾いた焼《やき》麩《ふ》のような食感と味覚だった。噛《か》めば噛むほど口の中の水分を奪う。 「なぜ、日本軍は敗戦したのに、これ程までに士気が高いんだ?」  レミゾフはスープに黒パンを浸しながら、さりげなく尋ねた。 「火事場泥棒とは違う!」  中島は紅茶で口の中のパンのかけらを飲み込むと、吐き捨てるように言った。いかに待遇を改善したからといっても、中島はロシア人を容認する気にはならなかった。 「それは違う。これは日露戦争で失ったものを取り戻す戦いだ」  レミゾフはスプーンを置くと真顔になって捲《まく》し立てた。 「泥棒にも三分の理だな! あれは両国合意の上での条約だぞ」  北千島は、日露戦争の結果、日本が領有した。帝政ロシア政府は、ポーツマス条約で南樺太と北千島の割譲を認めたのである。したがって、後世のロシア人にとっては、領土を取られたという意識が強い。 「負傷した私の部下はどうなったんだ?」  中島は、話の矛先を敢《あ》えて変えた。『北海道』と言ったなら、このレミゾフとかいう少佐は、どんな顔をするのか見てみたかった。これは失った領土を取り戻す戦いなどではない。恐らく、この少佐もそのことは知っているはずである。だが、少佐をやり込めるために、日本軍の手の内を見せるわけにはいかない。 「君の部下は丁重に扱われている。負傷した者は野戦病院に収容し、手厚い看護を受けている」  レミゾフは表情を和らげて告げた。  ——どうだか……。  中島は懐疑的だった。レミゾフが来るまでの扱いを考えれば疑いたくもなる。 「一体いつになったら司令官と次の会見ができるんだ?」 「君の任務は、承知している。もう少し待つんだな」  レミゾフは中島から視線を逸《そ》らして言った。グネチコが中島と会うことはない。だが、この中島という男、容易に日本軍の手の内を話すとは思えない。意志は強く、実に論理的である。彼から訊き出せと命じられたが、どうもうまくいくとは思えない。暗然とした気持ちでレミゾフは中島を見つめた。 「上出大佐。ホイットニー大佐が会うそうです」  三時間後、戻って来た袴田はそう告げると、上出を急《せ》かせた。  ホイットニーの執務室は、マニラ湾に向いた四階のスイート・ルームである。執務机に向かうホイットニーは、尖《とが》った顎《あご》と金縁の眼鏡、それに綺《き》麗《れい》に撫《な》で付けられたブロンドの髪が印象的だった。あたかもロンドンのシティーの弁護士か、証券会社の有能な社員といった風《ふう》貌《ぼう》である。 「あなたが上出大佐か?」  立ち上がったホイットニーは思いの外小兵だった。油断なく上出を嘗《な》めるように熟視すると、部屋の中央の机に招いた。 「写真は現像した。まだ、目次と前文しか翻訳は終わっていない」  ホイットニーはポットのコーヒーを自ら注ぐと、上出と袴田にカップを差し出した。 「あのドキュメントのオリジナルはどこにあるのか?」  ホイットニーは意識的に自らのカップに視線を落としていた。 「オリジナルは元外務大臣、松岡洋右が保管しています。写真の文書は、第五方面軍司令官、檜山季一郎中将が保管しているコピーです」  上出は慎重に応じた。 「あれはどのようにして作られたのか教えてもらいたい」  ホイットニーはカップにたっぷりとクリームを注ぐと上出に進めた。 「欧州でユダヤ人迫害が激しさを増した頃、松岡洋右は南満州鉄道総裁、檜山季一郎はハルピン特務機関長に任じていました。ご存じの通り、その当時、ユダヤ人難民を受け入れていたのは日本だけです。そして、実質的にユダヤ人を受け入れていたのは満州です。ユダヤ人受け入れ後、松岡と檜山は、満鉄調査部とハルピン特務機関の共同で、亡命ユダヤ人の聞き取り調査を行いました。あれはその時作成された、『米英ユダヤ人対応概要』です」  一瞬、ホイットニーの瞳《ひとみ》が泳いだ。上出も袴田もそれを見逃さなかった。 「しかし、あの文書が偽書でないという保証は存在していますか? 例えば裏付け証拠とか……」 「もちろんあります。オリジナルには証言者の宣誓書が添付され、証言者のほとんどが、生存しています。また、彼等の主だった者は、現在、上海に移動し、中国国民党政権の保護下にあります」 「開戦前のハンブルグ号事件などの記録が……」  袴田が会話に割って入ろうとした。だが、ホイットニーはそれを手で制した。 「知っている。私も文字は読める」  静かだが強い意志が感じられた。ハンブルグ号事件とは、独逸のユダヤ人難民三千名が保護を求めて客船『ハンブルグ号』で独逸を出発した件である。ニューヨーク港に到着するも、上陸は拒否され、迫害の待つ独逸に追い返された。当時、米英は、一部の特例を除き、ユダヤ人の入国を拒否していたのである。米国史の汚点であることは間違いがない。 「で、松岡氏はこの文書をいかにしようという考えなのか?」  ホイットニーは、コーヒーを静かに口にした。 「場合によっては、マッカーサー将軍にお預けするのも吝《やぶさ》かではないと申しています」  上出もコーヒーに口を付けた。香《こうば》しい芳香と程よき苦み。瞬時に豆はハワイ・コナだと気付いた。上出は実は無類のコーヒー好きだった。戦前、英国駐在中にも拘《かかわ》らず、日に八杯はコーヒーを飲んでいた。ブラックで少し熱めが好きだった。その点でいえば、いささかぬるくて不満だが、何年振りかの本物に幸せを感じていた。 「すると、場合によっては、その文書を渡していただけないことも有り得ると……」  ホイットニーは上出を凝視した。その文書が何らかの方法で公表された場合、米国はもちろん英国でも政界・官界に与えるダメージは計り知れない。外交通の松岡であれば、発表する方法は幾らでもある。反面、その文書を手にすれば、マッカーサーにとって有利であることは言うまでもない。今度は上出が視線を外した。 「わかった。面会の手はずを調えよう。十五分待っていなさい」  ホイットニーはそそくさと部屋を出て行った。入れ替わりにMPが出入り口を固めた。  当初は、第七三旅団長、杉原少将も、先任作戦参謀の田所大佐も、事態を深刻には受け止めていなかった。 「恐らく、強行偵察だろう。押し返せば引き揚げる」  第二八三大隊の機関銃陣地にソヴィエト軍が接触した時、杉原は断言してしまった。雨で視界が悪かったこともあるが、敵の戦力を中隊規模と報告してきたのが誤算の切っかけだった。第二次攻撃を受けた時、第二八三大隊は「敵は連隊規模。火力支援を伴う」と報告を修正した。四嶺山司令部は途端に色めき立った。  第二八三大隊の機関銃陣地は小泊崎から西に伸びる丘陵地帯の中ほどにある。七三旅の馬《ば》蹄《てい》形に展開する陣地の右翼になり、後方に後退陣地はない。万が一、ここを突破されたら、敵軍は一気に南下し、戦線は崩壊する。我が旅団の第二線は十五キロも南方の御園生ヶ原である。 「二八三大隊が押されています。敵は野砲、速射砲を動員しています」  田所は顔色を変えて報告した。 「他の陣地はどうなんだ?」 「敵の接触は、まったくありません」  田所は困惑していた。 「二八三は神崎少佐だな。ここの電話に繋《つな》げ」  杉原は野戦電話を叩《たた》き、部下に督促した。通信隊の数名が慌てて配線を操作する。 「神崎少佐です!」  受話器を渡されると、電話の向こうは激しい炸《さく》裂《れつ》音に満たされていた。 「杉原だ! 聞こえるか?」  神崎は、丁度、矢継ぎ早に命令を下している最中だった。 「状況を知らせろ」 「第一線陣地を突破されました。戦闘の焦点はこの大隊本部陣地です。増援を要請します。繰り返します。増援を要請!」 「了解した。増援を送る。なんとかその線で踏みとどまれ。頑張るんだ。通信終了」 「了解」の声を聞かず、杉原は電話を戻した。 「両翼の陣地に救援させますか?」  混乱した田所はうわずった声で尋ねた。 「だめだ。両翼からの兵力抽出は、敵の思う壺《つぼ》だ。恐らく敵は、両翼が手薄になったらそこを攻める。戦線が穴だらけになる。旅団予備の川田大隊を出そう。噴進砲と連隊砲に全力で火力支援するように下令しろ」 「しかし、神崎大隊と敵は近接戦闘中です。いま、砲撃すれば味方にも損害が出ます」  田所は口角泡を飛ばし訴えた。 「馬鹿もん! それが近接戦闘だ。いま、あの一角が崩れたら、戦線を突破した敵軍は、後方に回り込み、旅団の半分が包囲される。何としても支えるんだ」  杉原は声を荒げて叫んだ。外は夕《ゆう》闇《やみ》が迫っている。砲撃で多くの味方が倒れるだろう。増援の川田大隊も敵味方の識別は困難だ。だが、一個大隊千数百名のために、旅団一万名を、いや北海道を危険に晒《さら》すわけにはいかない。  ——あと三日……。  約束の三日は長かった。弾薬の備蓄は充分だったが、それも激しい戦闘で、すでに半分を消費している。ここで砲撃する決断は、弾薬の問題からも痛手である。  宮松海軍少佐は、分散配置された掩《えん》蔽《ぺい》壕《ごう》で、愛機を見詰めて、大きな溜《た》め息をついた。 「どうしても直らんか?」 「直らんとは言いませんが、部品が足りません。発電機に喰らった一発が問題です。発電機の換えがないんです」  カウリングを外し、梯《はし》子《ご》に登っていた森山整備長は、下を向いて言った。 「予備はあったろ?」 「昨日の戦闘で、西岡機と吉井機の発電機を交換しました」  森山は梯子を降りると、肩を竦《すく》めた。 「しかし、これでよく戻れましたね。恐らくバッテリーだけで戻ったんでしょうが……」  発電機が動かなければ、プラグに電気が行かなくなる。エンジンは止まる。 「最後は滑空さ。それよりも、陸軍の発電機は使えんか?」 「電圧が違います。何とかほかのもので代用が利かないか、部下に捜しに行かせているんですが……」  いかにも森山の顔は、望みがないと言いたげだった。 「隼の方はどうなんだ?」 「三機が帰還しましたが、うち一機は修理できません」  森山の顔は暗かった。陸海軍あわせて八機のうち、明日の戦闘に参加できるのは、いまのままだと陸軍二機だけである。しかも、井崗大佐は昨日の戦闘で帰らなかった。 「とにかく、何とかしてくれ。何としても飛びたい」  宮松は森山の肩を叩くと、指揮所に向かって、歩き出した。  MPの先導で案内されたのは、七階建ての最上階だった。昨年までこのホテルには、日本軍の司令部が置かれていたが、こうして歩き回ってもその面影はもはやどこにも見当たらなかった。  警備のMPが観音開きの扉を開けると、そこは、息を呑《の》む豪華な作りだった。絨《じゆう》毯《たん》は足が沈むほどで、黒と茶を基調とした部屋は、植民地時代のフィリピンを彷《ほう》彿《ふつ》とさせた。  ——これがマッカーサーの部屋か……。  と、眼を奪われていると、ホイットニー大佐が手招きした。 「入れ!」  袴田に促されて、上出も応接室に入る。大きなマホガニーの机には、マッカーサーが向かっていた。傍らには明らかに日系人の大尉が、通訳のためなのか護衛のためなのか、両腕を後ろに組み威儀を正していた。  ——あれがマッカーサーか……。  写真では何度も見たが、実物はもっと陰湿そうだった。改めて敵将を眼の前にすると、血が逆流するのを感じた。  ——いまなら殺れるかもしれない……。  上出は、必死で自分の心を抑え込もうとした。しかし、感情は大きく膨らむばかりである。せめて軍刀さえあれば……。 「東郷外相の親書は拝読した。ソヴィエト軍の侵略が問題だとか……」  ホイットニーに促されて、袴田と上出は着席した。 「イエス」  上出は渋々応じた。 「米国に、停戦の仲介を依頼したいというのかね?」 「イエス」 「ホイットニー大佐。二人に何か飲み物を与えて、ちゃんと事情を説明してやりたまえ」  今度はマッカーサーが言った。ホイットニーはカウンター・バーに向かうと、ウィスキーをグラスに注いで配り始めた。 「アメリカにおける我々、軍人の立場は、明確です。文民統制下にあるのです。たとえ軍事行動を必要とする場合でも、文官の、即ち大統領の命令が必要です。我々から外交に口出しすることは不可能です」  ホイットニーの話を聞く間、上出は喉《のど》の渇きからグラスに口を付けた。最高級のスコッチであることは間違いないが、久方振りなので、喉から胃にかけて、燃えるような衝撃があった。 「なるほど」  袴田は合いの手を入れた。 「話の趣旨は理解しました。ワシントンに報告しましょう。いま約束できることは、そこまでですな」  マッカーサーは言い放った。 「私は軍人です。政治家でも外交官でもありません。したがって、回りくどい話はできません」  上出は一呼吸置いた。両手を机の上で組み、視線をマッカーサーに定めた。表情は意識的に穏やかさを保つように努めた。 「単刀直入に申し上げます。てっきり将軍は、政界入りを目指しておられると考えていました」  マッカーサーの左の眉《まゆ》毛《げ》がぴくりと動いた。しかし、彼は何も言わない。 「『米英ユダヤ人対応概要』がどのように発表されようと構わぬとは、お考えにならないと思っていました。はっきり申し上げて、あなた方、米英は、ヒトラーのユダヤ人撲滅計画に荷担した」 「ちょっと待て!」  マッカーサーは激しく立ち上がった。日焼けしたその顔が、瞬時に真っ赤に変色した。 「その言葉、聞き捨てならん! 我々があのヒトラーに荷担しただと!」  上出は「しめた」と心の中で呟《つぶや》いた。 「違うとおっしゃるのですか? この『米英ユダヤ人対応概要』をお読みになって、『ハンブルグ号事件』はなかったと主張されるお積もりか?」  語気こそ穏やかだが、上出は攻撃の手を緩める気はなかった。傍らの袴田がうろたえるのを尻《しり》目《め》に、話を続けた。 「聞いたことがないな。それは何なのかね」 「『米英ユダヤ人対応概要』を読んだ、東部イスタブリシュメントの政治圧力団体は、どう考えるでしょうか。イスタブリシュメントには、ユダヤ系財界人と関係の深い人々が多い」  米国の政界は、東部イスタブリシュメントと南部石油資本の上に立っている。少なくとも片方を敵に回せば、政権の維持はおぼつかない。ユダヤ・マネーは巨大なのである。加えて、ユダヤ人問題は政界・官界のスキャンダルに繋がる。さらに、戦後世界の覇権を狙《ねら》うアメリカにとって、これが打撃にならない訳がない。 「独逸《ドイツ》の戦後処理にも影を落としますな」  上出はゆっくりと発音した。独逸ではユダヤ人迫害問題で戦犯追及が始まっている。 「それが私にとって何だというのかね?」  マッカーサーは、無関心を装っていた。 「ノルマンディー上陸に成功した将軍の、政界における進撃を喰い止める地雷原にもなるということです」 「くそったれめ!」  マッカーサーは激怒して、激しく椅《い》子《す》を蹴《け》り倒した。どうやら、直情径行型という檜山の分析は当たっている。しかも人種差別的傾向も強い。黄色人種にやり込められることがどうにも我慢できないのだろう。 「もちろん、ただで助けてもらおうとは思っていません。上海のユダヤ人は、日本に、松岡と檜山に感謝しています。この急場を救っていただけたら松岡と檜山は、あなたに感謝するでしょう。親展電報を打電したカーネギー氏をはじめ東部イスタブリシュメントの人々も、あなたに好意を持つ……。結果的に将軍は、共産主義から東アジアを防衛したと評価される」  マッカーサーは険しい表情で向き直った。 「その保証は?」  上出は胸ポケットから、一通の封筒を差し出した。 「帝国陸軍第五方面軍司令官、檜山季一郎中将から、お預かりしてきました」  ホイットニーは怪《け》訝《げん》そうに封筒を預かると、マッカーサーに渡した。マッカーサーは中の便箋を開くと、スタンドの明りを頼りに眼を走らせた。  変化は一目瞭《りよう》然《ぜん》だった。手が震え、顔色は一気に青ざめた。 「信じられん」  ぽつんと呟きが漏れた。手紙はホイットニーの手に移った。 「お疑いなら、中国国民党政府に、照会してください。手紙の主、ユダヤ人評議会議長カウフマン博士は、いま上海にいます。決して、損にならない話だと考えますが……」  上出は畳みかけた。手紙を読み終えたホイットニーも驚きの表情を隠さなかった。 「ユダヤ人民は、貴殿の努力に感謝し、今後、協力を惜しまないだろう……」  ホイットニーは手紙の最後を声にした。 「もちろん、中国国民党政府に照会する。今夜中に回答があるだろう。事実なら、明日一杯までにソヴィエト政府を説き伏せてみせよう。明日一日時間をくれ。だが、これが、何の裏付けもないものだった時は、覚悟してもらおうか」  マッカーサーは身を乗り出して言った。 「いえ、昼まで。正午を過ぎてはなりません」  上出も立ち上がると冷たく言い放った。  袴田と部屋に帰った上出は、全身に汗を掻《か》いている自分に初めて気付いた。 「驚きました。上出さんがあんなに交渉がうまいとは知りませんでした……」  袴田は感嘆して水差しを取った。 「冗談ではない。まだ震えてる」  上出はベッドに腰かけると、全身の震えを押さえようとして蹲《うずくま》った。 昭和二十年八月二十日  中島が監禁を解かれたのは、翌日の夕刻だった。グネチコは、驚くほど低姿勢で、交渉に応じると告げた。中島は知らなかったが、日本軍の軍使を残置しながら、ソヴィエト側が交渉に応じなかったことを、米国外交筋が強く批難したのである。  交渉のテーブルには、グネチコの他、トラフテンベールク参謀長、レミゾフ少佐が同席していた。  また、日本側からは、柳島参謀長が再び出席した。 「したがって、現時点で戦闘を停止するならば、戦線は双方侵さない。武装解除は米国介入の下で行う。以上が、我が日本側の最終条件です。いかがですか」  中島は柳島の言葉を慎重に訳した。 「いいでしょう。我がソヴィエト軍、ならびにソヴィエト政府もその条件に同意する」  グネチコではなく、トラフテンベールクが苦々しそうに応じた。 「では、停戦文書に調印したい。ご用意願えますか?」  中島が告げるとレミゾフが鞄から書類を取り出した。  この瞬間、日本軍将兵八百余名とソヴィエト軍将兵三千余名を失った占守の戦いは、終わりを告げた。 昭和二十三年五月八日  灰色の雲が重く垂れ込め、日本海も鉛色に澱んでいた。しかし風は暖かくそよいでいる。二羽の燕が何かに急かされたかのように、目前を飛び去った。その向こうで一隻の薄汚れた貨客船が、ゆっくりと舞鶴の桟橋に接岸しようとしていた。船首に描かれた『白山丸』の文字が辛うじて読める。  船がタグ・ボートに押されて桟橋に近付くにつれ、その上甲板には、船客が鈴《すず》生《な》りになって歓喜の声を上げているのが見えた。八百七名の定員を遥《はる》かに超える千五百名が乗船していたが、ほぼ全員が上甲板にいる。しかもその船客は、誰もが同じカーキ色の服を身にまとい、同色の帽子、同色のリュックサックを背負っていた。 「日本だ! 帰って来たんだ!」  誰もが異口同音に叫んでいた。誰もが目に涙を浮かべ、声を詰まらせながら叫んでいた。古びた舞鶴の街の背後で、若葉が萌《も》えていた。確かに日本の山だった。誰もが数年ぶりに見る日本であった。しかも、その最後の二年九ヵ月は、言い表すことのできないシベリアでの過酷な重労働の日々だった。  桟橋の向こうには、「お帰りなさい。シベリア抑留、お疲れ様でした。厚生省引揚援護局」の看板が見える。中島元大尉は、それを見て、得も言われぬ空虚な思いに沈んでいた。  むしろ、生きて還らなかった方が、潔かったのかもしれないと、中島は思いを巡らしていた。終戦後、我々は何のために銃を取り戦ったのか。多くの仲間を失ったのは何のためなのか。中島はその答えを見つけられず、戸感いの中にいた。北海道を守るという大義はあったのだが……。  白山丸は最後に汽笛をあげて停止した。舫《もや》いが打たれ、舷《げん》梯《てい》が降ろされると、上甲板の人々は、我先にそこへ殺到した。中島も人波に押されるように舷梯に向かい、躓《つまず》きそうになりながら桟橋へ降りた。  桟橋そばのバラックでは、簡単な検疫が行われていた。これを済ますと、厚生省の役人が名簿で確認の上、引揚者手帳と軍人恩給の金、それに国鉄の片道無賃乗車券を渡した。  ——あっけないものだ……。  中島は密《ひそ》かに呟くと、九年間の代償をポケットに入れてバラックを出た。 「中島大尉さん?」  背後から澄んだ女の声が追って来た。振り返るとそこには、女の子の手を引いた三十搦《がら》みの女が立っていた。 「私です、菊代です。綿貫の……」  女は双《そう》眸《ぼう》に涙を溜《た》めて、か細い声で名乗った。 「奥さん……」  中島も絶句した。傍らの女の子は「このおじちゃん、だれ?」と、盛んに尋ねている。菊代はしゃがみ込むとその子の耳元で囁《ささや》いた。 「おとうさんとおかあさんが、とてもお世話になった人ですよ。ご挨《あい》拶《さつ》しなさい」  女の子は素直に「こんにちは」と言った。 「奥さん。綿貫准尉は、ご主人は……」  シベリアの強制収容所で、中島は綿貫の戦車の操縦手、宇佐美悦史と再会した。綿貫の戦死の模様を聞いて、自分が連隊に戻っていればと、何度後悔したか知れなかった。その宇佐美も去年の冬、劣悪な環境下で病を得、看病の甲《か》斐《い》なく帰らぬ人となった。中島は復員後、菊代を訪ねて、心底、詫《わ》びるつもりだった。自分が彼を連れて帰れなかったことを……。しかし、この不意の再会で感極まった。頬《ほお》に一筋、熱いものが伝った。胸には、いつぞやの鈍い痛みが甦った。 「存じています。戦死したことは」 「では、なぜここに?」  中島は驚き尋ねた。 「せめて一言、あの時のお礼が言いたくて。結婚式の後、皆さんはすぐ戦地に移動されて、中島さんとはお会いできませんでしたから……」  菊代は切々と語った。中島は五《ご》臓《ぞう》六《ろつ》腑《ぷ》が捩《ね》じ切れるほど辛《つら》かった。 「こうなると、わかっていたら……」  中島の言葉は途切れがちだった。 「いいえ。お陰であの人の忘れ形見のこの子を授かりました。もし、あのままなら、生むことさえ適《かな》わなかったのです。中島大尉さんには、この世で返せぬご恩があります」  菊代は初めて微笑《ほほえ》んだ。その時、豁《かつ》然《ぜん》と何かが見えた。  ——そうか、俺は、綿貫を連れて帰れなかったのではない。綿貫の死があって帰れたのか……。綿貫だけではない、大勢の死者が俺を日本に連れ帰ってくれたのだ……。  中島はなぜ今まで気づかなかったのか不思議だった。  ——そうか、彼等が俺の帰る場所のために死んでくれたのか。  そう思い至った途端、涙は止めどもなく頬を伝った。  ——これからの俺は、奴等のように生きられるか……。  同時に中島は自問した。  ——俺は、奴等が命を賭けたように、この戦後の日本で生きられるだろうか……。いや、生きねばならぬ。それが残された者の務めであるはずだ。  生気の蘇った中島の瞳は小さな女の子に向けられた。 「名前は?」 「千代子と言います」 「そうか、千代子ちゃんか……。可愛《かわい》い子だ」  中島は屈むと千代子の頭を撫《な》でた。  ——千代に八千代にの「千代子」か。綿貫の奴《やつ》、自分の娘に「千代子」と名付けるとは……。 「どこかでお話しましょう。綿貫准尉のことを……」  中島は菊代を見ずに言った。千代子は、不思議そうに中島の顔を見上げていた。 *  戦後、松岡洋右はA級戦犯として逮捕され、まもなく東京巣《す》鴨《がも》の獄中で病死した。檜山季一郎は、隠者のように自宅に引きこもり、五年後、枯れ木のように他界した。中島がソヴィエト軍に逮捕されたことが、米ソの外交交渉でどのように利用されたか、ついに誰も語るものはいなかった。 あとがき  一九四五年八月十五日。三年八ヵ月余り続いた太平洋戦争は、ポツダム宣言を受諾し終結した。敗戦である。  その三日後。十八日未明、北千島最北端の占守島は、何の警告もなくソヴィエト軍の艦砲射撃を受けた。ソヴィエト軍は、約一時間にわたる艦砲射撃の後、上陸作戦を敢行した。  占守島に展開していた第九一師団第七三旅団と独立戦車第一一連隊を基幹とする守備隊は、否応なく戦闘にまきこまれることとなった。  そしてこれは、日本陸軍最後の戦車戦であった。  本書はこの戦史をもとにしたフィクションである。したがって、ソヴィエト側の多くの登場人物には実名を、日本側の多くの登場人物には仮名を、意図的に使用したことをおことわりしたい。  また、本書執筆にあたっては、多くの方のご助力を賜った。元陸軍大尉で占守島の戦闘に参加された長島厚氏には、戦闘の概要をご説明いただいた上、貴重な資料を提供していただいた。氏のご協力なくして本書の執筆は適わなかったであろう。その長島大尉をご紹介いただいた戦史研究者の土門周平氏にも、貴重な時間と知識を提供していただいた。また、昭和館図書情報部長の戸高一成氏からは多くの重要な指摘をいただいた。この助言も大いなる助けとなった。さらに、安江弘夫氏にも助力を受けた。この場を借りて深い感謝の意を述べたい。  占守島の戦いは、日本側八百余名、ソヴィエト側三千余名の貴い人命を失って、八月二十日に停戦した。戦後、生き残った日本軍将兵は、シベリアに抑留され、十人に一人が死亡するという過酷な運命を辿った。  最後ではあるが、この戦いにかかわり、亡くなられた多くの方々に対し、心よりご冥福を祈る。   平成十二年四月 池上 司  池上 司(いけがみ つかさ) 昭和34年、東京生まれ。 明治大学文学部を卒業後、広告代理店にコピーライターとして勤務。 その後、作家を志して独立。 処女作『雷撃深度一九・五』(新潮社刊)で注目される。 八《はち》月《がつ》十《じゆう》五《ご》日《にち》の開《かい》戦《せん》 池《いけ》上《がみ》 司《つかさ》 ------------------------------------------------------------------------------- 平成13年8月10日 発行 発行者  角川歴彦 発行所  株式会社 角川書店 〒102-8177 東京都千代田区富士見2-13-3 shoseki@kadokawa.co.jp Tsukasa IKEGAMI 2001 本電子書籍は下記にもとづいて制作しました 角川文庫『八月十五日の開戦』平成12年5月25日初版刊行 平成12年10月25日3版発行