柴門ふみ 恋愛《ラブ》物語《ピーシイズ》 目 次  サイクリング・デイズ  届かぬコール  夏休みまで  ハウ・トゥ・フォール  お茶の水ラブストーリー  ある歯科医  スプリング・コート  八月の共犯者  ウォーター・ベッド  十月の天気予報  十一月のガーデン・パーティ   あとがき  サイクリング・デイズ  加那子《かなこ》と最初に会ったのはキャンパスだった。 「カワヅくん」  声をかけてきたのは加那子の方だ。その、一般教養の生物の教室が同じだというポニーテイルの女の子にぼくは見覚えがなかった。 「あなた、頭、悪い方?」 「はあ?」  これでぼくは彼女の第一関門に合格したのだった。その時ぼくはハチミツの入った壺《つぼ》を床に落としてしまったクマのプーさんと同じくらいの間抜けづらをしていたのだそうだ。のちに、そう加那子が語ってくれた。 「はーあ」  と、ぼくは嘆息とも驚きとも何ともつかぬ情けない声を発した。 「きっと回転は悪い方だと思うな」  そのようね、と、彼女は微笑《ほほえ》んで言った。そしてつけ加えた。 「一流企業の面接に向かうには大きな欠点だわね、その頭の巡りの悪さは。でも、あなたの美点は、その欠点すらも人に愛される要素を含んでいるというとこ」  情けなく途方に暮れる姿こそ、あなたの一番魅力的な姿よ。あなたが困れば困るほど人はあなたを愛するわ。そして、それがあなたを人生の勝利に導くの——これはのちに彼女が何度となく繰り返しぼくに語った言葉だ。 「あなた、実家は貧乏な方?」 「信州《しんしゆう》の方で小さな旅館やってるよ。兄貴と嫁さんが跡を継いでる」  ぼくはなんでこんな図々《ずうずう》しい女に誠実に答えているのだろう。 「正直さもまた、美点よね」  という彼女の言葉に、内心の腹立ちにもかかわらずぼくはあいまいな微笑みを浮かべる。「実は、全部、あたし知ってたのよ」  ぼくの頬《ほお》には、ぎこちない微笑みが張りついたままだ。 「あなたが合格確実だった東大をすべって、第二志望のこの大学にやってきたこと。もちろん成績は学科内でトップ。実家は代々の温泉旅館をお兄さんの代でペンションに変えてしまったこと。あなたが行き場のない二男坊だということも」  ぼくは微笑むのをやめた。 「ねえ、カワヅくん」  もはや加那子の独壇場だった。 「あたしたち結婚するのよ。ねえ、いい考えだと思わない?」  九月の初めのキャンパスに人影はまだまばらだった。学生たちの多くはまだ故郷なのだろう。初秋の光は少しの翳《かげ》りもなく中庭の芝生にさんさんと注がれていた。微笑みを失ったぼくにクルリと背を向け、加那子は一般教育棟のポーチの暗い闇《やみ》の中に消えていった。  地方の旅館の二男坊と、その男の間抜けづらを愛したポニーテイルの少女が恋に落ちるのに時間はかからなかった。  待ち合わせは郊外に向かう私鉄の駅。成城学園前《せいじようがくえんまえ》、久我山《くがやま》、下井草《しもいぐさ》、あるいは千石《せんごく》、ときにはお花茶屋《はなぢやや》、その駅前からぼくは加那子を自転車の荷台に乗っけて駅名のついた町内をぐるりとまわる。これがぼくらのデートだった。 「つつじケ丘よ」  地名を指定するのはいつも加那子だ。それに従ってぼくは約束の時刻に間に合うように中野《なかの》の下宿を自転車で出る。|向ヶ丘遊園《むこうがおかゆうえん》であろうと、東陽町《とうようちよう》であろうと、彼女の命令は絶対なのだ。  低い家並みの住宅街を、加那子の乳房と吐息のぬくもりを感じながらぼくはペダルを踏む。時折、加那子が口ずさむ鼻歌が背後から聞こえた。何かクラッシックのフレーズらしい。けれど坂道を一気に駆けおりると、ビュウビュウ鳴る風の音にぼくの耳は占領され、彼女の歌声は遠のいていった。  バイエルを繰り返す幼いピアニスト。スピッツのかん高い声。どこからか煙が漂い、明るく退屈な陽射《ひざ》しの中羽虫が飛びかう。油断すると羽虫が口に迷いこむ。だからぼくは笑わずしゃべらずペダルを踏み続ける。結んだ口の両端にあいまいな微笑を浮かべながら。そして他人が見たなら、それは間違いなく幸福の表情だっただろう。  幸福——。  ぼくは一生分の幸福をあの秋につぎこんでしまったのだろうか。  沈黙の自転車旅行が終わると、ぼくたちは駅前の喫茶店に入った。からからに渇いた喉《のど》を冷たい飲物で癒《いや》すためだ。 「それで、どう?」  袋から出したストローをグラスに突っこむや、加那子が質問をつきつけてくる。 「今日の久我山と、先週の大泉《おおいずみ》とではどこがどう違う?」  黙って自転車をこぐ間、ぼくには〈眼《め》〉になれと加那子は言った。——町を見るのよ、観察するの。町の色、樹《き》の茂り。ゆきかう人々、彼らの表情。男女の比率。老若の割合——。 「一戸一戸の庭の面積は随分と広いな。それに家も古い。家の傷みのひどさに反し、庭木はよく手入れされてる。つまり植木いじりに精を出す年金暮らしの年寄り夫婦の家が多いってことか」 「そして彼らの食卓にのぼるものは?」 「年寄りの食生活には興味ないよ」 「想像力を使いなさいよ。イマジネーションの強い人間が最後に勝てるのよ、どの世界でも。冷静な観察データを踏まえてのイマジネーション。人生の勝利者は皆これを駆使してるわ」  ——また人生の勝利者か、と思いつつも、ぼくは律義に加那子に応対する。それが人生での使命であるかのように。 「ひじき、さしみコンニャク、クラゲの酢の物」 「クラゲは駄目よ。五十歳以上の人間にクラゲは噛《か》み切れないわ」 「じゃ、クラゲの代わりにタコ酢」  ぼくは植木の手入れを終えた老夫婦のつつましやかな食卓を想像する。——やめた。タコは合わない。青柳《あおやぎ》のぬた、これもしっくりこないな。このしろの酢漬けに茗荷《みようが》添え。うんそうだ、これだ。 「もとい。タコ酢はやめて、このしろ茗荷」  ぼくの答えに加那子はゆっくり微笑む。おめでとう。正解よ。  電車に乗り込む加那子を見送り、ぼくはぼくの自転車に再びまたがる。中野の下宿を目指してペダルを踏み続ける。  下宿には先に加那子が着いていることもあった。三回に一回はそうだ。三回のうち二回は彼女は厳格な彼女の家に戻っていた。みっつにひとつの幸運な夜は、彼女はぼくをすっ裸にし、全身に口吻《こうふん》をくれた。そして交わった。  パパに会って、と言われたのは翌年の雪の降る日だった。後期試験が終われば最終学年である。 「大丈夫、きっとパパはあなたを気に入るわ」  一つ傘で肩を寄せ合い、彼女の家を目指してぼくたちは歩いた。都会の雪は待ちくたびれたシャーベットのように踏みしめる靴底で音をたてて崩れた。  浜田山《はまだやま》の高級住宅街に加那子の家はあった。坪数三百はあるだろう。その時初めてぼくは加那子の父が都内に十数軒のレストランをもつ実業家であることを聞かされる。  加那子の予言どおり、加那子の父はぼくを気に入ってくれた。なかんずく、イナカの二男坊であることが彼を喜ばせた。  ぼくは次第にわかってきた。回転の鈍いぼくの頭はこの時になってようやくそのことに気づいたのだ。 「パパはきっと結婚も許してくれるわ」  居間での父親との会見を終えたぼくたちは、二階つきあたりの加那子の部屋で、降りしきる雪を見ている。彼女の部屋の中央には巨大なグランドピアノが据えられ、それが部屋のほとんどを占めていた。 「つまり、そういうことか」 「なにが?」 「ムコ養子になってくれる地方出身の二男坊をリストアップして、それでぼくに目をつけたんだ。そうなんだろ?」 「だったらどうなの?」  加那子はじっとぼくの目を見つめる。どこまでが計画された加那子の策略だったのだろうか。 「だったらどうなの?」  加那子はもう一度繰り返す。 「あたしはあなたを愛しているわ。あなたも、でしょ?」  そうだ。そのとおりだ。 「あなたあたしと結婚するの。そうすればパパの財産はすべて一人娘の夫であるあなたのものよ。あなたは何もかも手に入れることができる」  加那子の目から視線をはずし、ぼくは窓の外の屋根に降りかかる雪を見つめる。背後から加那子の声が響いた。 「そうして、あたしは芸術に生きるの」  ぼくたちの結婚は人も羨《うらや》むものだった。都内の一流ホテルでの披露宴には政財界からも多数の出席者があった。信州から出てきたぼくの両親だけが不安そうな目をして新郎新婦を見つめていた。兄と兄嫁は彼らの経営するペンションの景気が上々だとぼくに告げた。つまり、おまえはもうウチのことを心配するな、その代わり俺《おれ》たちもおまえのことは気にかけない、ということなのだ。  新婚旅行を終えるとぼくは義父について経営者としての勉強を始めた。加那子は部屋にこもり、ピアノをたたき続けている。  義父の古くからの側近たちはぼくを胡散《うさん》臭そうに眺め、そしてぼくに恥をかかせるための基本的な質問を浴びせかける。 「営業回転率の経常利益における影響は?」 「その時の資産状況にもよると思うんですが」 「どういう状況?」 「……まだわかりません。勉強します」  ぼくは途方に暮れる。  加那子の予言はまたしても当たった。  ぼくが困難に遭えば遭うほど、ぼくが間抜けづらをすればするほど、人々はなぜかぼくを愛し始めた。ぼくがうなだれると、人々は慈愛に満ちた表情で心を溶かし始める。それがどういう理由かはわからないけれど。そうやってぼくは困難を一つ一つクリアしていった。 「なかなか好感のもてる青年ですね」  側近たちは義父に(おべんちゃらではなく)こう進言し、冷ややかな意地悪をぼくに向けることをやめた。  ぼくはぼくのまわりに好意の人々を集めることに成功し始めていた。一日のスケジュールをこなし、帰宅する。へとへとだ。好意を受け取る代わりに自分の魂を削って差し出しているのか。  妻は部屋にこもったまま、彼女の芸術に浸っている。モーツァルト。ショパン。ラベル。彼女の部屋をノックするのをやめ、ぼくはベッドにもぐりこむ。これがぼくたちの新婚生活だった。  義父が亡くなったのはぼくたちの結婚の二年後だった。ぼくには十数軒のレストランと三百坪の邸宅とジャガー、そして芸術家の妻が残された。  その三年後、レストラン数が二十軒を越えることになる。ぼくの実業家としての実績だ。好意を示す側近たちの情熱と、地域の人々のニーズに応《こた》えたレストラン企画が成功の秘訣《ひけつ》だった。  地域の人々のニーズ——それを探る方法論をぼくは加那子との自転車ハイクで学んでいた。町のたたずまいからそこに住む人々の暮らしをイメージし、そして、〈久我山の老夫婦には、このしろ茗荷〉といったふうにぼくの想像力は適確に情報データに対応することができたのだ。  加那子との自転車冒険は、もう一つの恵みをぼくに与えてくれていた。体力である。中野から千葉、埼玉まで駆け抜けた日々は、実業家としてのハードスケジュールに耐えられる肉体を築きあげてくれていたのだ。  すべて加那子の思惑どおりになったと言わざるを得ない。ぼくは加那子によって加那子の思い描くとおりの男に仕立てあげられ、加那子のビジョンを体現したのだった。  そしてぼくは三十三歳になった。現在のぼくだ。加那子とともに自転車を乗り回した日々から数えて十一回目の秋を迎えている。 「それがあなたと奥様の恋物語なんですね?」  ぼくの腕を枕《まくら》にした奈央《なお》が見あげるように頭を動かす。サイドテーブルに置かれたスタンドがオレンジ色の光をベッドにまで投げかけている。奈央の肩甲骨《けんこうこつ》の窪《くぼ》みにたまった灰色の影が彼女の動きに合わせて揺れて見える。 「恋物語、ねえ」  ぼくは左手で奈央の裸の肩を撫《な》でながらつぶやく。 「どうかなあ」 「わたしのために?」 「え?」 「わたしに気をつかって?」 「いや、……」 「わたしのためだ」  年若い愛人に気をつかって妻とのいきさつを〈恋物語〉と呼ぶことをためらっているというのか。 「だってそうでしょ?」 「どうして?」 「社長が語ってくれた奥様との話、じっと聞いてたけど、何かヘンだったもの」 「ヘン?」 「社長の奥様に対する感情がちっとも伝わってこなかったわ」 「そうかな?」 「わたしのために、『その時加那子を力いっぱい抱きしめたんだあ』とか、『あんちくしょーと思ったけどやっぱ惚《ほ》れてたんだよなあ』とか、そういうの省いてくれたんでしょ?」  そういうわけではない。(ではどういうわけだというのだ?) 「そういうのを男のズルさって言う娘もいるけど、わたしは優しさだと思うんです」  十一歳年下のぼくの愛人はしゃべり続ける。 「わたし、社長と初めて寝た時驚いちゃったんです。社長みたいな、何もかもそろってもってる人が、なんであたしみたいな地味な女の子選んだのかしらって」  確かに奈央は地味な女の子だ。顔立ちも平凡だし、二十二歳のOLのくせに地方の県立高校生の日曜日みたいなファッションである。ゆるやかにウェーブのかかったセミロングのヘアスタイルも、どこか一昔前の印象を与える。はやりの、ロングヘアで身にぴったりのドレスをまとった娘たちとは随分違う。  妻の亡父の遺産をほしいままにし、ジャガーを乗りまわす青年実業家。これが現在のぼくである。人々はまずぼくに対し、 「どんなに嫌な奴《やつ》だろう」  と先入観を抱く。当然だ。ぼくだってそう思う。年商九十億をあげる資産を娘ムコというだけで手に入れた三十三歳のセイネンジツギョーカ。どうにもこうにも鼻もちならない。そのとおりだ。おまけにうんと年下の愛人までいる。間違いなくとんでもない奴だ。  奈央との関係が始まったきっかけは何だったのだろう。ある日帰宅すると加那子が床にインク壜《びん》や壺《つぼ》や受話器を投げつけていた。 「芸術は、結局あたしを拒否したのよ」  なきはらした目で彼女は叫ぶ。 「あたしが近づこうとするとどんどん逃げてゆく。笑いながら。そう、あたしは笑いものよ」  多忙な夫の不在を埋め合わせるためにピアノに向かい続けていたとしたら、妻のヒステリックな変貌《へんぼう》の責任の一端はぼくにある。しかし、それは尊大すぎる考えだ。加那子はぼくのいない淋《さび》しさをピアノで紛らわせていたわけではない。彼女はぼくに〈人生での成功〉を与え、そのひきかえに彼女の〈芸術のためだけに生きる贅沢《ぜいたく》〉をぼくに認めさせた——それがぼくたちの結婚生活だったのではないか。  そういう歪《いびつ》な結婚生活がぼくに奈央を選ばせたのだ。おそらく。  社長のような人はきっとファッションモデルかキャンペーンガールのような人を選ぶのだろうと思ってましたと、奈央から言われたことがある。世間の多くの人もおそらくそう思っていることだろう。誰《だれ》も、ぼくが、芸術を愛しながらも芸術的センスをもち合わせていない妻を抱えた男だということを知らないのだから。  奈央と別れ、街に出る。夜の都会の公園に虫の音が響く。ついこの間までセミの声だったのに、夏はほんとうに、突然、秋に変わってしまうのだ。  遅く帰宅すると妻はキッチンで薄い水割りを飲んでいた。 「こんばんは」 「こんばんは」 「ヘンかな?」 「ヘンよね」 「夫婦でこんばんはって、やっぱりヘンか。なんでヘンなんだろ。夫婦でおはようっていうのはちっともヘンでもないのにね。ヘンだね」  妻はぼくの言うことなどちっとも耳に入ってないようすで水割りを飲み続ける。ぼくは、腰かけてる彼女の後ろにまわり、彼女の頭を撫で、肩を抱きしめる。彼女はふりむきもしない。 「おやすみ」 「おやすみなさい」  半年前に加那子はピアノを処分した。ぼくには結局モーツァルトとベートーヴェンの区別もつかないままだった。結婚して十年も彼女のピアノを聞き続けていたというのに。そして、ピアノを処分した日から加那子は酒を飲むようになった。  遅れて寝室に入ってきた妻がぼくの傍《かたわ》らにすべりこむ。ベッドのスプリングが大きく一度ぐわんと揺れ、ぼくは眠りからひき戻される。彼女の口から生温かいアルコールの匂《にお》いが漂う。 「起きてる? 起こした?」 「んん? ん——……」  まどろみのぬくもりがもう一度ぼくを眠りに連れ込もうとする。 「あたし思うんだけど」  夢うつつに妻の声が響く。 「あなた、愛人でもつくったら?」  それでもまだ眠りの吸引力の方が強い。驚愕《きようがく》も動揺も、覚醒《かくせい》している時ほど鮮明に感じられない。 「え? なんて? なんだって?」  奈央のことを薄々気づき始めているのだろうか。いやすでにわかってる? まさかそんなはずはない。鼓動の高まりとともに、ぼくは徐々に目が覚め始める。 「愛人、つくりなさいよ。外で他《ほか》の女抱いてくればいいのに」 「いきなり、驚いたね。きみがそんなことを言うなんて」 「あなた、怒ってるでしょう?」 「なにを?」 「あたしが子供を産まなかったことを」 「いいや」 「子供欲しいって言ってたわ」 「結婚してすぐの時に、だよね。もう忘れてた。いいんだよ。もう」 「あたし、たぶん、これからも子供産まないと思う」 「かまわないよ」 「欲しかったらヨソでつくってもいいのよ」  ぼくは完全に目が覚める。 「あのねえ、ぼくはかなしいよ。きみがそんなふうなこと考えるなんて。かなしいし、それに腹までたってきた」 「ほんと?」 「あたりまえだ。結婚してるんだぜ、ぼくらは。いったいぜんたい、なんでそんなこと思いついたんだ?」 「なら、いいの」  加那子はしゃべるのをやめ、ぼくの胴体に腕をまきつけてきた。やがて彼女の寝息が聞こえ始める。  その晩ぼくは泣いた。  ベッドからこっそり抜け出し、居間のソファで膝《ひざ》をかかえ、声を殺して泣いた。  翌朝、ぼくは納屋から古びた自転車をとり出した。チェーンに油を差し、タイヤに空気を詰める。長い間手入れされなかったせいなのか、鎖がどこかに擦《こす》れ合うらしく、ペダルを踏むたびにシャリリ、シャリリと音が響く。  シャリリ、シャリリとぼくは朝の大気の中に自転車をこぎ出す。  昔、ぼくは不器用で実直な少年だった。ぎこちない微笑みで、おそるおそる世界をのぞきこんでいた。ぼくを驚かす世界に間の抜けた顔でこたえる旅館の二男坊。精いっぱい一人の女を愛することだけが取り柄の男だった。女が望むなら、地の果てからでもペダルを踏んで彼女の許《もと》に馳《は》せ参じた。——それがぼくの愛だった。  羽虫の飛ぶ十月。煙の立ち昇る秋の庭先。子供たちの遠い歓声。空の雲。シャリリ、シャリリとペダルを踏みながら、ぼくは背中に加那子のぬくもりを思い出そうとする。  届かぬコール  奇妙な夢を見た。  私はメモを見ながら一所懸命電話のボタンをプッシュしている。  3、2、3の……。  けれど、何度かけても誤った場所にかかってしまう。 「323の4××0ですね?」 「いいえ。323の4××1です」  おかしい。私はメモを見ながら確かに4××0と押したはずなのに。眼《め》と脳と指先と、どこかの神経がうまくつながってないのだろうか。 「違います。323の×××4です」  冷たい拒否の言葉が受話器の向こうから響き続ける。私はだんだん苛立《いらだ》ってくる。何か時間がせまっているらしいのだ。どうしても時間内にうまく電話をつながなければいけない。焦りが不安に高まってくる。私は泣きながらボタンをプッシュし続ける。  この夢の話を薫子《かおるこ》にした時、彼女は目を丸くした。 「あたしもある、ある。電話が通じなくて泣き出しちゃう夢。だけど、その夢を見たのはうんと小さい頃《ころ》だったから、プッシュ式の電話じゃなくてあたしの場合、ダイヤルジーコジーコだったけど」  そう言って薫子は小さくウフフと笑った。  私と薫子は並んで歩いているとよく人から双生児に間違えられた。  背格好といい、顔の輪郭といい、なるほどよく似ている。初めて私たちが四谷《よつや》のキャンパスで出会った時は、二人とも新入生特有の紺のブレザーに真新しいショルダーバッグ姿だったので、一瞬、魂が浮遊してもう一人のあたしが出現したのかと思ったくらいだ。それは薫子も同じだったらしい。 「あたしも自分の魂が突然|脱《ぬ》け出して、肉体だけのあたしを見てるのかと思ったわ、江梨子《えりこ》に会った時は」  似ていたのは外見だけではない。物の考え方も、感じ方も、趣向さえも驚くほど酷似していた。  病院でとり違えられて別々に育った双子、という仮説を私たちは試みてみたが、北海道生まれの薫子と、山陰生まれの私との間にそれを立証する根拠はなかった。私は明らかに父の輪郭と母の目鼻立ちをゆずりうけており、薫子は顔の上半分が母で下半分が父に似てるのだという。  まったく奇妙な偶然の重なりで、私たちは〈もう一人の私〉である赤の他人に出会ったのだ。  お互い服のとり替えっこをして何人友人を騙《だま》せるか、とか、同じ服でたて続けに改札をくぐって駅員を驚かすとか、私たちは思いつく限りの悪戯《いたずら》を妄想して笑い転げた。 「親が子を殺したり、子が親を殺したりって聞くけど、双子が自分そっくりの片割れを殺したって話、聞かないよね」 「どうしてだろうね。自殺する人もいるのに、もう一人の自分だけは殺せないのかなあ」 私が死ぬ時、きっと江梨子は何かを感じるはずよ、と、薫子はよく言った。 「なにを?」  と、私は聞く。 「さあねえ。片ッ方を失った喪失感かなあ。逆に、滅びたあたしの肉体を脱け出したあたしの魂が、生きてる江梨子のからだにお邪魔させていただくその時の重みかもしれない」 じゃあ、その逆もあるってことね。私は、自分の魂が脱け出て薫子の肉体にもぐりこんでゆく感触を想像してみた。それは自分の最高傑作の悪戯となるであろう。けれど誰《だれ》にも自慢できない戸惑いとジレンマを、その時きっと私は味わうのだ。  好みの一致で問題となるのは、ボーイフレンドの件である。二人で一人の好みの男性を取り合うはめになる。  けれど、別々に育った十八年の間に私たちは互いにステディなボーイフレンドを見つけていたので、この点においても問題がなかった。  ただ、薫子のボーイフレンド遠矢《とおや》君が都内の大学に進学していたのに対し、私はボーイフレンドを山陰に残していた。  薫子に連れられて初めて広尾《ひろお》の喫茶店で遠矢君に会った時、案の定彼は目を丸くして茫然《ぼうぜん》と立ち尽くした。 「まいったね。僕の腕の下で愛《いとお》しくあえぐ恋人はどっちなんだ?」 「あたし、よ」  私と薫子は声をそろえて叫んだ。  三人で冗談を言い合っては声をたてて笑ったのは、物憂《ものう》げな午後の光がガラス越しにティールームに注ぎこまれる五月のことだった。  私は遠矢君に好感をもった。  最初のうち、キョロキョロと私と薫子の間をいったりきたりしていた彼の視線は、やがて薫子に焦点を合わせて落ち着いた。  私は、軽く失望に近い感覚を味わい、故郷のボーイフレンドの声が聞きたくなる。 「夜のうち、こっそり……」  と、遠矢君が言う。 「薫子がベッドから脱け出して、代わりに江梨子ちゃんがもぐり込んでいたら、俺《おれ》、見分けつくかなあ」  アハハハハと声をたてて薫子が笑う。  私と薫子は互いの性生活についても語り合っていた。性に関して私が比較的淡白なのに対し、薫子はむしろ貪欲《どんよく》であった。この点においてのみ、私たちは大きな相違点を見いだしたのだ。あんな楽しいこと、この世に他《ほか》にありゃしないとまで、薫子は言った。そうかなあ、と私はぎこちない微笑《ほほえ》みを返すしかなかった。そうだ、きっと、江梨子のボーイフレンド下手くそなのよ、と最後に薫子は断定した。 「見分けつかなかったら、俺、損したことになる」  え? と、私は遠矢君の顔を見る。 「この人は、ね」  代わって薫子が答える。 「死ぬまでに何人の女を抱けるかを人生の目標にしてるのよ」  見分けがつかなかったら、本来〈2〉である数字を〈1〉と認識したまま過ごすことになるから損だというのか。  私はあっけにとられて遠矢君の顔を見る。  彼は、なめまわすような視線を私の全身に投げてよこす。  思わず私は目をそらす。  これからバイトなんだといって遠矢君は先に席を立った。 「平気なの?」  私は、薫子に聞く。 「あんなことを言わせといて」 「あんなこと、って? あ、ああ、�見分けつかなかったら損だ�って言ったこと?」  薫子は視線を落とし、そしてフフンと鼻で笑った。 「うん。もう、慣れちゃったからね。浮気なんてしょっちゅうだし。それにそんなとこもふくめて彼のこと好きだから」  うそだ、と私は思った。  薫子が血のつながらないあたしの双子なら、そんなこと平気であるはずない、と。その後、二、三度私たち三人は、会っておしゃべりをした。薫子はいつも屈託なく、なんの翳《かげ》りも見せなかった。私も負けないくらい明るく冗談を言い合った。  突然、薫子が失踪《しつそう》したのは、私たち三人が喫茶店で会ってから六か月後のことだった。  奥多摩《おくたま》に秋を見にゆくと言って、それきり一週間も学校に顔を出さなくなった薫子を心配して、私は級友を連れて彼女の下宿を訪ねたのだ。  部屋はついさっきまで薫子が寝床にいたとしか思えない状態のままだった。  一週間が二週間、三週間となり、ついに彼女の両親が上京して、警察に捜索願いを出した。  私と級友たち、そしてもちろん遠矢君も警察で事情を聞かれた。家出する心当たりなんてまったくありません、と、私たちは口をそろえて答えた。山陰のボーイフレンドに私は電話した。私のもう一人の双子がいなくなっちゃったのよ、と。 「江梨子じゃなくてよかったよ、いなくなったのが」と、彼は言った。遠矢君なら絶対言わないセリフだろうな、となぜか私はその時思った。  薫子が消えて四か月が過ぎた。春の気分が街に漂い始めている。  ついに薫子の両親が彼女の下宿を引き払うと言い出した。奥多摩の山林も一応捜索されたが、何も出なかった。事件にまきこまれた可能性もないことはないが、家出の線も消えていない。私たちはまったくお手あげだった。このまま家賃を払い続けるのもなんだし、という両親の考えももっともなことである。 「会いたいんだけど」  遠矢君から突然私のところに電話が入った。 「できれば薫子の部屋で。いい?」  彼は薫子の部屋の合い鍵《かぎ》ももっていた。そして、両親が処分する前に、薫子の部屋で私と会いたいというのだ。一緒に警察に出向いて以来、五か月ぶりに彼に会うことになる。  私と遠矢君は、西陽《にしび》の射《さ》しこむ薫子の部屋に居た。小ぢんまりとしたワンルーム・マンション。薫子のベッド。薫子の机。薫子の本棚。 「ねえ、遠矢君。薫子はきっと生きてるわよ。あたし、以前、薫子と話し合ったの。お互い死ぬ時はきっと何か感じ合うはずだ、って。あたし、まだ何も感じてないの。だからきっと死んでないって」  私は西陽を背に、ベッドの上に腰かけている遠矢君に向かってしゃべり続ける。 「そのうち、ひょっこり現れるわよ。へへへーなんて舌出しながら。あ、それか、どっかで記憶喪失になってるのかもしれない。記憶喪失のままペンションの住込み従業員かなんかになってて……」 「そうしていると——」  遠矢君は寂しそうに微笑みながら私に告げる。 「——まんまだよ。薫子のまんま。この部屋で、腕を腰にあてて、顔を上気させてしゃべってる姿——」  私は、口をつぐんで視線を落とす。 「見間違うよ、誰だって。薫子の両親だって江梨子ちゃん見てびっくりしてたし」  遠矢君はそれからひと息ついて、言葉を続けた。 「か、お、る、こ」  私はぎょっとして顔を上げる。  目を細めて遠矢君がにっこり微笑んでいる。 「おうい、薫子、おまえ薫子だろ。俺にはわかってんだ。おい、こら、薫子」  私は言葉を失い、ただ彼を見つめ続ける。  突然、声をたてて遠矢君が笑い出す。 「ごめん、ごめん、江梨子ちゃん。江梨子ちゃんだ。大丈夫、わかってるから」  そして、部屋に沈黙が漂った。  遠矢君は薫子の本棚から本を引き抜いては差し戻している。私は、黙って立ち尽くしている。  遠矢君の手が止まり、その手が彼のズボンのポケットに突っこまれ、そして少し屈《かが》み込むような姿勢で彼は再び私を見つめ始める。  遠矢君の目。  私は、三人で喫茶店で会った時の彼の目を思い出す。私の全身を値踏みするかのような視線。同じ、あの目、だ。  遠矢君は私を見つめる。  私も見つめ返す。  沈黙。  沈黙。 「大丈夫だよ」  遠矢君が口を開く。 「指一本、触れやしないよ」 「指一本なら、触れてもいい」  思いもかけない言葉が私の口から出る。 「指一本で、私に触れて」  遠矢君が目を大きく見開く。  私は一歩、前に出て彼に近づく。  少しの間《ま》。  沈黙。  遠矢君が右手の人差し指を私の目の前につき立てる。  遠矢君の人差し指が私の眉毛《まゆげ》をなぞり、それから鼻梁《びりよう》をたどり、唇に触れる。指は喉《のど》に下り、肩甲骨を確かめ、乳房を押し返す。  遠矢君の右手の人差し指が、ブラジャーとブラウスと綿のカーディガン越しに、私の乳首を撫《な》でまわす。  私は口を結んで、壁にかかったリバー・フェニックスのポスターを見つめている。  遠矢君は腰を落とし、鳩尾《みぞおち》を下ってその指を私の陰部にまで走らせる。彼の指がゆっくりと旋回する。強く押した指がタイトスカートのサマーウールの生地の弾力に押し返される。それからスカート沿いに太腿《ふともも》をなぞり、膝頭《ひざがしら》を通過して、足首、爪先《つまさき》に落ちてゆく。  遠矢君は、まるで女王様に仕える下僕《しもべ》のような姿で頭《こうべ》を垂れ、私の足元にぬかずく。  私は遠矢君の前面にそびえる女王様の姿で硬直していた。少しの間があり、 「行こうか」  おもむろに遠矢君が立ちあがった。 「うん」  私は彼の背を見ながら部屋を後にする。  街はすっかり暮色に染まっていた。春の大きな夕陽《ゆうひ》が霞《かすみ》の向こうにぽっかり浮かび、高層ビルの窓がキラキラと夕陽を反射している。  ひっきりなしに行き交う車のクラクションやブレーキ音が黄昏《たそがれ》のせわしなさを一層盛りあげている。  私たちは黙って並んで歩いた。  並んで歩いていても、いつしか歩幅の大きな遠矢君に先を越されてしまう。  私は小走りに、彼に遅れまいと後をついてゆく。  往来沿いに私たちは歩き続けた。  やがて夕暮れの空が青い闇《やみ》に吸いこまれてゆく。自動車のテールランプが一段と輝きを増し、街はすっかり夜の顔になってしまった。  肩の上に、時折、遠矢君の横顔が見え隠れする。  遅れてついてくる相棒を気遣って後ろを確かめる仕草。薫子とつきあううちにいつしか身についた彼のクセだった。  私はいつも彼ら二人の姿を、少し離れて眺めていた。  小さく振り向く遠矢君。  少し首を持ちあげ、彼の目を確かめて微笑《ほほえ》む薫子。  私が覚えている、誰もその領域に入りこませない二人だけの風景だった。  私は小さく嫉妬《しつと》していた。——そう、羨《うらやま》しかった。いくら似ているといっても薫子は薫子であり、私は私であることを、その時思い知らされたのだった。  私は、おそらく、遠矢君に恋をしていたのだ。  遠矢君は微笑む時、必ず伏し目がちで恥ずかしそうに下を向く。だめよ、笑う時いつもそんなふうに目を伏せちゃ。あたしの顔が見えないでしょ。ちゃんと目をあけてあたしを見つめながら笑って、と薫子はしょっちゅう言っていた。  そのとおりよ、と私も心の中でつぶやいていた。私も遠矢君に私だけを見つめて微笑んでもらいたかったのだ。  あたしは遠矢君の足元にキャンキャンとまとわりつく仔犬《こいぬ》になりたいの、とも薫子は言った。  遠矢君の後を小走りに追っかける薫子は、そう、まさしく、彼の忠実な仔犬だった。  今、私は、遠矢君の後ろを追っかけている。今や、私だけが、遠矢君の忠実な仔犬になって彼の足元目がけて駆け出すことができるのだ。  私はいきなりダッシュする。  勢いをつけて彼の前面にまわり、そして、無邪気な笑顔を彼に向けようとした。  遠矢君は泣いていた。  口を結んで、まっすぐ前を向いたまま、涙を流し続けていた。 「こたえたよ、ホントにこたえてる」  涙をぬぐおうともせず、独り言のように遠矢君がつぶやく。 「——自分でもまさか、こんなにこたえるとは思わなかったよ」  私たちは再び黙り、そしてまた歩き始める。  私は、遠矢君の前では、決して二度と手に入らぬ薫子にしかなれないのだ。  薫子の魂が江梨子を追い出し、私のからだに宿る瞬間しか、遠矢君は私を愛してくれないのだと、私は気づいた。  私はなんとか江梨子の微笑みで遠矢君に笑いかけようとするのだが、それは決して彼の心を捉《とら》えることのできない微笑みなのだろう。  急に冷え込んだ夜風が頬《ほお》に触れる。  私たちはネオンの青や橙《だいだい》が交差する高速道路の高架の下にいた。 「さよなら」  と、彼が言う。 「さよなら」  と、私も答える。  たぶん、二度と私は彼に会うことはないだろう。  私は、薫子と遠矢君と、二人をともに失ってしまった。  ——もしもし、もしもし……。  夢の中で私は受話器を取りあげる。  ——あ、なんだあ、薫子? どこ行ってたの?  ——江梨子ぉ? ああ、よかった。何度も電話したんだけど、何度かけても間違い電話になっちゃって——おかしいね。指が覚えるほどかけなれた江梨子の番号なのに。  ねえ、どこ行ってたのよ、ともう一度問いかけようとする私の言葉が言葉にならない。口からは一言の声ももれず、ただ空気をぱくぱくと食べているだけ。  ——もしもし? 江梨子? 聞こえてる? おかしいわね。もしもし、もしもし……? なんとか薫子に答えようとするのだが、声が出ない。  ——もしもし、もしもし? 江梨子、江梨子ォ?  薫子の声が泣き声になってくる。  答えようとする私の頬にも涙がつたっている。  目が覚めてから、もう一ペん泣いた。  夏休みまで  一九七三年の五月、夏実《なつみ》は四国の進学校に通う高校三年生だった。感じすぎる未発達な精神と、頑丈な二本の足と、偏平な胸をかかえた少女だった。  今まで生きてきた十七年間で、色んな傷を受けて切子細工のガラス壜《びん》のようになってしまった彼女の心だが、たぶん、本人が思っているより根はずっと頑強なものであった。テーブルから床に落ちたくらいでは決して壊れはしない代物なのだが、それでも彼女は空の青さに泣き、樹々《きぎ》のそよぎに胸を痛める自分の神経を、何だかとてつもなく貴重で繊細な、この世では奇跡に近い記念物のように思っていた。 「あたしは一日ひゃっかいは皆な死んじゃえ、と感じて、そのあとひゃくいっかいは、こんな嫌なあたしは死んじゃえばいいんだと思うの」  と、親友のサクラに語りながら、心のどこかで(アナタタチニハゼッタイワカラナイデショウネ)とたかをくくっていた。  だから時々あきれ返ったサクラから、 「だったら、死ねば」  とつき放されると、ただオロオロするばかりなのである。 「夏実、あんたは自分で考えているほど嫌な奴《やつ》でも素晴らしい人間でもないよ。あんたはあんたで、それ以上でもそれ以下でもない」  サクラは常に学年トップの成績の女の子だった。そして学年で一番からだのでかい女だった。赤ら顔で髪をひっつめ、小さく吊《つ》った目が顔の中央で利口そうに光っている。  夏実はサクラと二人で立ち寄った中華料理屋の箸袋《はしぶくろ》に描かれた中国人の顔のイラストを見て、 「サクラに似てる」  と、内心思った。  二人とも決して美人ではなかった。夏実はよくクラスの女の子から、 「夏実が男の子ならぜったいあたしのボーイフレンドにしたい」  と言われた。夏実はそれを自分の太すぎる眉《まゆ》とエラの張った顎《あご》と偏平な胸のせいにした。  おかしいなおかしいなあたしくらい繊細な少女はいないはずなのにと夏実は思いながらも、思い切りよく解剖用の牛の目を切り刻んだり、雨ガッパの雫《しずく》を猛烈にまき散らしながら通学路を自転車で突進する自分の姿を発見すると、やっぱりあたしはガサツなオトコオンナなのかもしれないと思ったりした。  切子細工の切れ目に当たって光が様々な方向に反射するように、夏実の姿は時々様々な様相を表した。それはその年頃《としごろ》の女の子にはよくあることなのだが、例によって夏実はそれを何か特別なことであるかのように受け取っていた。 「夏実は、ジイシキカジョーなのよ」  と、サクラに再三指摘されても、まだその自意識過剰の意味をきちんと把握できない十七歳だった。  五月の席替えで夏実は外山克彦《とやまかつひこ》の隣になった。克彦とは中学からのなじみで、高校でも三年間同じクラスである。克彦はしょっちゅう教科書を忘れたといっては机を夏実の机にくっつけ、夏実の教科書の左半分を彼の右肘《ひじ》の下に置く。そして、身を傾け授業の間中夏実に話しかける。 「……でさあ、幼稚園の劇で俺《おれ》役もらったんだけど、その時のセリフがたった一つ『おやあ、見つけた』という奴《やつ》なんだ。幼稚園だろ、生まれて初めての舞台だろ、俺、舞いあがっちゃって、思わず突拍子《とつぴようし》もなくでかい声で『おやあ、見つけた』をやっちゃって、会場大笑いよ。それ以来、お袋と姉貴が朝俺を起こす時きまって俺のふとんはぐっては、『おやあ、見つけた』と叫ぶわけ。とんでもない家族と思わない?」  夏実は顔を真っ赤にして笑いをこらえる。それでも時たま教師に見つかっては、 「外山と河合《かわい》は静かにしろ」  と叱《しか》られた。  そうすると克彦はチェッと舌打ちをして、「そうだ俺、小説を書こう」と小声で宣言をする。彼は地学のノートの第一|頁《ページ》めから大河小説に挑戦し始める。毎度のことだ。夏実は彼の未完の大河小説を何本も目にした。大学ノートの細い罫線《けいせん》に細かい字でびっしりと序章が書き込まれている。 〈その年のよく肥えたウクライナの土壌は神の恵みともとれ、季節の風の変わる頃には金色の豊穣《ほうじよう》をもたらした……〉  なんで四国の高校生がロシアを舞台の大河小説を書くのかは夏実にはよくわからなかった。そして克彦のノートは数頁にわたり、エンエンとロシアの風土の情景描写に費やされ、そして登場人物が一人も出ないままに途切れていた。 「だって、芸術文学っていうのはそういうものだろ」  これが克彦の言い分である。  確かに夏実が父の書棚から抜き取ったロシア文学全集の冒頭はそのようなものだった。主人公の身体的特徴だけで数頁を割く芸術文学に、彼女も数頁で放《ほう》り投げていた。  大河小説に疲れ果てると克彦はきまって突っ伏して眠り始める。  夏実は彼の丸くなった背中越しに、窓の外の校庭を眺める。三角州を埋め立てて造ったグラウンドは、粒の粗い砂地でできていた。風が吹くたびにその砂が舞いあがる。五月の光が人気のない校庭に惜しみなく降り注ぎ、校舎や体育館の影をつくる。風の止《や》んだ光景は、エドワード・ホッパーの油彩のような静けさと孤独と明暗に満ちていた。 「進路、どうするの」  校舎の前庭を鞄《かばん》をかかえて並んで歩きながら、サクラが夏実に話しかける。長く伸びた校舎の影が自転車置き場にまで伸びている。 「うん、そうなんだよね」  高校三年の五月である。そろそろ進路の最終決定をせまられている。夏実が口を濁してる間に、 「あたしは、米屋の三女で貧乏だから国立にしか行けない」  と、サクラから切り出してきた。 「国立って……」 「うん。教師は地元国立の医学部に行けっていうんだけどね」  田舎《いなか》の人間というものは当時、世の中の成績のいい高校生は皆医学部に進むものだと思い込んでいたのだ。教師も親も、町の八百屋《やおや》もお巡りさんも。 「あたしはブンガクをやりたいから京大に行く」  いつも細く吊りあがったサクラの目がその一瞬だけ大きく見開かれたように夏実は感じた。  京大、すごいよねー、でもサクラなら受かるよ、と答えながら夏実は、彼女も医学部を勧められていることを告白した。 「でも、あたしもね……」  本当は東京に出てイラストレーターになりたいんだと、初めて本心をサクラに打ち明けた。  サクラは夏実の告白にちょっと驚いた表情をみせて言った。 「あたしは絵のことはよくわからないから……」  絶対なれるよ、夏実ならイラストレーターに、とはサクラは言わなかった。  きっとサクラはあたしの絵を下手だと思ってるんだと夏実は感じとった。 「あっ、見てごらん」  サクラが指示する方向を夏実が見ると、克彦が二年生のテニス部の女の子と並んで歩いている。 「外山の新しい彼女だよ」  サクラの言葉に、思わず夏実は、彼女じゃないんじゃない、だってほら、外山くんてああいう性格だから別に彼女じゃなくてもよく女の子と並んで歩くじゃない、と反論しそうになったが、口をつぐんだ。そうするとまるで自分が嫉妬《しつと》してるようにとられそうだったからだ。 「夏実と外山くんはほんとうに仲いいね」  と、クラスの女の子たちからよく声をかけられていた。 「ねえ、二人、できてるの?」  まさか、と夏実はいつも答えた。そりゃあ席が隣で授業中もよくしゃべるけど、でも好きとかそういうんじゃなくて。…………。  夏実は実は、外山の親友で、隣の高校へ進んだ中学時代の同級生、竹井《たけい》に恋をしていた。片思いだった。でも恋だった。外山の口から竹井の近況を聞くのだけが夏実の生き甲斐《がい》だった。 「ところで最近、竹井の奴……」  と、克彦が口にすると、夏実の体中の血が逆流した。克彦の一言も聞きもらすまいとして全身耳になった。  そして、竹井がまた新しい女とつきあい出したという話になると、夏実の切子細工にまた新しい傷が刻まれてゆくのだった。  六月になってクラスの座席は成績順になった。サクラが南側前列の先頭に坐《すわ》り、夏実はその列の後方。克彦はずっと北側の、つまりクラスでビリに近い席に移動になった。それでも変わらず休み時間になると彼は夏実の傍《そば》にやってきて、ウチの姉貴が猫を風呂《ふろ》に落としただの、カミュの不条理性がどうしたのと夏実に話しかけた。 「あ、あの外山くんて、竹井くんと仲いいよね」  まるで大切に暖めてきた卵を羽を広げて初めて人様にお見せする親鳥のような心境で、夏実は克彦に話を切り出した。 「六月二十日って、竹井くんの誕生日だよね。あ、あ——、その……、プレゼント渡すことってできるかなあ」  克彦は最初、それを聞きとれぬ外国語を耳にした時のような表情をしたが、次の瞬間、 「あっ、そう。そういうこと。そうだったのかあ」  と、驚きの声をあげた。  芸術文学を理解しても、女の子の気持ちなんかまったくわからないんだから、と、夏実は腹がたった。 「わかった、わかった。それじゃ俺、あいつに言っといてやるよ」  言ってしまった後、夏実は言ってしまったことを後悔した。言ってしまったこの舌が憎いので、そうだあたしは舌|噛《か》んで死んじゃおうと、何度も奥歯で舌を噛みしめた。これは夏実の癖である。そういった自虐行為はその世代特有の甘ったれた逃避行動でしかないのだが、彼女はまだそれを繊細な少女にだけ許されたロマンチックな特権行為だと信じていた。 「いつも口をモグモグして変な子ねえ」  と、親戚《しんせき》のおばさんから指摘されて赤面し、こんな恥ずかしいあたしはやっぱり死んじゃおうとさらに口を動かし、あ、いけないあたしはいったいまったく何をやってんだろうとますます混乱をきたし、そして疲れ果てた。  校舎の中庭の新しい緑におおわれた樹の下のベンチに腰かけ、夏実はコンクリートの地面に落ちる木もれ陽《び》を見ていた。風に揺れる樹々の動きにつれて、明るい光の点々も揺れる。光の部分は黄色味を帯びた白っぽい灰色。葉陰の部分はそれより少し濃い灰色。陰でも明るいんだ、と夏実は初めてそのことに気づいた。 「なに、ボーッとしてるの」  背後からサクラの声がした。サクラは両手にぶ厚い参考書を数冊抱えている。 「昼休みなのに……?」 「そうよ、これから図書館で勉強する。夏実も本気でイラストレーターになりたいんなら、ボーッとしてる間に絵の二、三枚も描《か》いたらどうなの?」  あんなにガリガリ勉強ばかりするからますますサクラの目が吊《つ》りあがるんだ、と夏実はその時心の中で反駁《はんばく》した。  数日前のホームルームで、秋の文化祭についての話し合いが行なわれた。通常、三年生は受験勉強に専念するためにクラス催しには参加しないものなのだが、クラスから、「受験勉強ばかりの青春はおかしい。ぼくたちの若いエネルギーで祭りを盛りあげよう」という意見が出たのだ。受験に縛られず若さをぶつけよう、というのが、一九七三年当時の若者にとって最も格好いいスローガンだったのだ。ラブアンドピース。体制に負けるな。資本主義反対。受験勉強フンサイ。  この体裁のいい提案にクラスは賛同した。地元のパチンコ屋の娘までが資本主義反対を口にしていた時代である。受験勉強フンサイと、塾経営者の息子《むすこ》だって叫んでいたに違いない。 「私は、参加はやめた方がいいと思う」  と、突然サクラが起立して発言した。 「そんなことしたら、誰《だれ》も大学に受からない」  クラスはざわついた。それは一九七三年当時、やっぱり資本主義は人類がたどりついた最良の政策であると発言するのと同じくらいの大胆な意見だった。  サクラの言ってることの方が正しい——と、夏実は思った。親や教師にイラストレーター志望を言い出せないまま、夏実は希望調査票に阪大文学部と書いていた。国立文系を受験するには、現国、古文、漢文、数㈵、数㈼B、地理、日本史、化学、英語をマスターしなくてはいけない。夏以降はそれ以外のことに頭を使ってはいけないのだ。秋の文化祭の準備なんてとんでもない話である。けれど、夏実には手を挙げてサクラに賛同する勇気がなかった。それは若者としてすごく格好悪いことなのだから。 「じゃあ、勉強したい人は勉強して、それ以外の有志だけで催し物やればいいじゃない」という意見を発表したのは克彦だった。  結局、サクラともう一人、地元国立大医学部志望の男子一人だけが不参加を表明し、残り全員で秋の文化祭に演劇を発表することになった。夏実は、背景の絵を描く役割を振り当てられた。  この一件でサクラには点取り虫のガリ勉亡者という評価が下った。  ボーッとしてないで絵を描けばいいじゃない、というサクラの非難の言葉に、夏実はあんたは恋したことのないガリ勉亡者だから、と心の中で吐いた。こんなふうに樹の下でせつない想《おも》いに胸痛めることなんかないんだ、と。  サクラにいったいどんな男が好きなんだと、夏実は尋ねたことがある。 「ボンさんみたいな人」  と、サクラは答えた。ボンさんとは、坊主のことである。坊主のように私利私欲が無く心もからだも頭も清潔な人、とサクラは言った。彼女らしいな、と夏実は思ったが、とても理解できる趣味ではなかった。  夏実の恋する竹井は、反体制で長髪でロック好きで地元有力者のせがれだった。大地主の一族のくせに、もちろん資本主義反対論者だった。つまりそれが当時として最も格好いい若者だったのだ。  中学三年の終わりに夏実は竹井に恋心を抱いたが、言い出せないまま卒業し、別々の高校に進学してしまった。時折、駅前のバス乗り場で彼の姿を見かけるたびに、夏実の恋心は一層ふくらんだ。滅多に会えない、というのが恋の思いに火をつける。彼女のイメージの中で竹井はますます美化され、長髪を風になびかせる革命の闘士として映っていた。  頭の中で、夏実はすでに何度も何度も竹井とデートを重ねていた。城山《しろやま》公園の樹の陰であわや口づけのシーンまで夢想した。それはいつしか夏実の日課になっていた。夜、自室のベッドに横たわり、目を閉じ、竹井の姿を夢想する。城山のお堀端の記念碑の陰。竹井は夏実に顔を近づける。やっぱりダメよダメ。夏実の拒否に竹井は少し傷ついた表情になる。この傷ついた表情がポイントだ、と夏実は思った。それこそが十七歳の少女にとって最大の官能シーンなのだ。そのダメよダメよのシーンを三晩続けて夢想したのち四晩目、キスくらいなら許してやるかと夢想を変更させたが、キスの経験のない夏実にとって、それを具体的にイメージするのは不可能なことだった。  六月二十日。克彦を通じて竹井が指定したのは、駅前のジャズ喫茶だった。暗い店内で、高校生が煙草を吸っているような店に足を踏み入れたのは夏実にとって初めてのことだった。夏実は小さなデミタスカップの入った小箱を膝《ひざ》の上に置いていた。いったい十七歳の男の子が誕生日にもらって嬉《うれ》しいものは何だろうと考え抜いた未、ごく平凡な品に落ち着いたのだ。カップに添えて夏実自筆のイラスト入りバースデイカードも入っている。そこには�好きです�と夏実の字で小さく書かれていた。  十五分遅れで竹井は到着した。Gジャンの肩の上で長髪が揺れている。彼はサングラスをかけたまま夏実の前に坐った。こんな暗い店内であんな真っ黒なサングラスをかけて大丈夫なのかしらと夏実は訝《いぶか》った。竹井は黙って煙草をとり出し、火をつける。それを夏実は黙って見つめる。ライターの炎が近づく一瞬、サングラスの奥の竹井の目が透けて見えた気がしたが、ほんとうにそれは一瞬だった。気まずい沈黙が続いたのち、 「これ……」  と、ついに口を開いて夏実は小箱を放り投げるように机の上に置いた。そしてそのままズズッとテーブルの上を竹井の前まですべらせた。照れと緊張のあまりつい動作が投げやりになってしまうのは、このあたしのB型の血液型のせいだと夏実は思っていた。 「なんだ、その態度は」  思いもかけぬムッとした声が竹井から返ってきた。それは夏実の夢想の中に繰り返し現れた少し傷ついた竹井少年とはまったく別のものだった。夏実は真っ赤になってうつむき、視線を落としたまま、 「お誕生日おめでとうございます」  と、小声で言った。 「サンキュー」  表情のないぶっきらぼうな答えが竹井から戻ってきたのでひょっと夏実が顔を上げると、竹井はすでに腰を浮かし、小箱をわしづかみにして帰る態勢である。 「あ、……」  と、夏実は言葉をのむ。そんな彼女を気にかけるふうもなく、竹井は出口の扉の方へ歩いて行き、そして夏実の視界から消えた。  その年は雨らしい雨も降らないまま梅雨《つゆ》が終わろうとしていたが、七月に入って夕刻になると雷を伴う豪雨が時折この地方を襲ってきた。それは夏の到来を告げる地方行事のようなものである。  樋《とい》からあふれ出た雨水が滝のように教室の窓の向こう側に落ちてゆく。クラスのみんなはこの夕立ちにあう前にとっくに帰宅していたのだが、文化祭の劇の背景のコンテを描くため夏実一人だけ教室に残っていた。  何度描いてもうまくゆかない。徹底的にあたしは絵の才能がないんだ。何度もしくじり、描いては破り、そしていつしか夏実は涙をこぼしていた。  竹井くん、今度は同じクラスの学年のマドンナとつきあい出したんだって、という噂《うわさ》が夏実の中学時代の同級生の女の子から伝わってきていた。——なんでも彼の誕生日に、ぼくはきみからのプレゼントが欲しいと自分から催促したのがきっかけなんだって——。  ほんとうの絶望とはこういうことを示すのだろう、と夏実は思った。もはや舌を噛《か》む真似《まね》も、死んじゃえとつぶやく余裕すらも失っていた。  困ったことに、今回の件でますます夏実は竹井に恋心を募らせていた。間近に見たサングラスの奥の竹井の瞳《ひとみ》が夏実の胸をつらぬいたのだ。  樋から洪水のようにこぼれ落ちる雨水を見て、夏実はあれは私の心だ、と思った。  突然ガラリと教室の扉が開いた。 「あ〜〜辞書、辞書、忘れた忘れた〜〜」  と叫びながら克彦が入ってくる。 「辞書、辞書、辞書くーん、あー、あったあった。やっぱりこんなところに隠れていたのね」  自分の机をガサゴソかき回しながら、克彦はしゃべり続ける。と、夏実の方へ向き、 「あれ、なんだ、おまえいたの?」  とっくに目に入ってるくせに何を言うの、と夏実は克彦の言葉に腹をたてる。さっきまで泣いていた腫《は》れた目を隠すため夏実は窓の方へ顔をそむける。 「だけど、ひどい雨だよな——。おまえも帰りそびれちゃったの」  克彦は返事をしない夏実にはおかまいなしに語りかける。 「俺《おれ》、傘もってるよ。貸してやろうか」 「…………」 「あ、おまえ自転車、ね。じゃ、いいや。小降りになったら相合傘して送ってってやるよ。どうせおまえんち、俺んちの帰り道だから」 「いいよ」 「どうして」 「人が見たらヘンに思う」 「ヘンて何がヘン? そこがおまえ、自意識過剰っつうの。だから、竹井にもフラれんだよ」  次の瞬間、夏実は克彦に向かって辞書を投げつけて教室の外に飛び出していた。  人気のない薄暗い廊下を足音をたてて夏実は駆け抜けた。上履きのゴムが床に擦れて熱を発する。廊下の突き当たりは図書室だ。五時半の閉館時間スレスレなのにまだ誰か人がいるようだ。  サクラだった。  夏実と彼女との間は、文化祭参加派と不参加派に分かれて以来ギクシャクしたものがあった。 「夏実、慌《あわ》ててどうしたの」  サクラが顔を上げる。彼女は家は狭くてうるさいからといつも図書室に残って勉強をしているのだ。 「うん……雨で帰りそびれた」 「だったら一緒に英語の勉強でもしよう」とサクラは声をかける。夏実はサクラの横に腰かけ、副読本の頁《ページ》をめくる。サクラの参考書は書き込みで真っ黒だ。その書き込みのいくつかは黒くこすれてその上に訂正が載っている。消しゴム使う時間がもったいないから、とサクラは言う。間違った個所《かしよ》を指でこすって彼女はその上に正解を書き込むのだ。  その真っ黒なこすれ文字を見ていると、夏実はサクラに相談をもちかけてみたくなった。 「ねえ、サクラ……」  夏実は彼女と竹井のいきさつを洗いざらいサクラに語った。長いこと想いを募らせていた男の子に思いきって告白のカードを添えたプレゼントを渡したが、相手の態度は素っ気なく返事もなく、そしてその直後別の女の子とつきあい出したということを。 「そうかあ」  と、サクラは珍しく夏実に同情を示した。 「そりゃ、つらいことだよね。でもひどい奴《やつ》じゃない。そんな男、もう大っ嫌いになったでしょ」  ううん、と夏実は答える。 「ますます、もっともっと、好きになった」  その夏実の言葉にサクラは驚いて目を見開く。 「つらくてつらくて大っ嫌いだけど、大好き。ものすごくひどい目にあわされたと思うけど、でも、好き。好きで好きでもうどうしようもないよ。駆け出したいよ。のたうちまわるよ。もうこんな感情捨てて逃げ出したいよ。でも、好き」  一気に言葉を吐き出す夏実をサクラは黙って見ていた。それからこう言った。 「夏実はあたしが思ってたより、なんだ、ずっといい女じゃない」  夏実はキョトンとしてサクラを見つめ返す。サクラはもうその視線を参考書の上に戻していた。サクラの言葉の意味が夏実にはのみこめなかった。  そう、いつだって——と、夏実は心の中で思う——サクラはあたしより半歩おとななんだから。  梅雨が上がり、街は夏に入った。やさし気だった木もれ陽は、うっそうと生い茂った夏の樹の根元の黒い闇《やみ》に変わっている。  夏実はフェリー乗り場に一人立っている。港の上に大きな白い入道雲が浮かんでいる。その空の向こうに京阪神の山がかすんでぼうっと見える。夏休みを利用して、大阪の美術予備校に通うことにしたのだ。  ボンポンポンと音をたてて曳航船《えいこうせん》が水面をよぎる。それに従って波がキラキラと動く。  今頃サクラは夏休みで人気のない校舎の教室で、一人参考書を広げているはずだ。彼女は、家にいるとなまけるから夏休み中も一人制服を着て登校し、教室で勉強すると言っていた。赤い顔で目を吊《つ》りあげて、きっとサクラは指で鉛筆の跡をこすっているのだ。  もう昼近いけれど克彦はまだベッドの中かもしれない。ゆうべ遅くまで書いていた大河小説がきっとその傍にあるはずだ。  ——あんな、顔だけきれいで頭ふったらカラカラ音がするようなマドンナより、夏実の方が絶対いいぞ——と、竹井に向かって克彦が怒ったという話が夏実の耳に届いてきた。  ——夏実みたいなおもしろい女いないぞ——と。  それがほめ言葉なんだかどうだか夏実にはわからなかったが、克彦に向かって辞書を投げつけたことだけは今度会ったらあやまろうと思った。  夏休みに入ってしまったから、今度彼らに会うのは九月だ。一夏のうちにサクラは「七三年度版入試問題実例集」を仕あげられるだろうか。一夏のうちに克彦は大河小説を書きあげるだろうか。  そして、一夏のうちに竹井は気を変えて、夏実に交際を申し込んでくれるだろうか。  フェリーが岸に横づけられ、夏実はスケッチブックを片手にタラップを駆けのぼる。  ハウ・トゥ・フォール  少しずつ気圧が下がってくる。 〈ベルトをお締めください〉のサインが乗客に提示される。  私は、少し汗ばむ。何度乗ってもどうしても下降する飛行機には慣れない。雑誌に目を落として気を紛らわせようとするのだが、活字は少しも脳に届かず、全身のすべての感覚は落下の徴候を捉《とら》えることに集中している。  小さな耳鳴り。足元の無重力感。かすかなエンジンの臭《にお》い。  飛ぶ前に落ち方を学んでおけ——これは、昔聞いたロックの歌詞の一節だけれど、私はいつも降下する機中の座席でこれを口ずさむ。  Learn how to fall before flying. 「ハウ・トゥ・フォール」  小声で口ずさむ私に気づいて、隣席のタカオが声をかけてくる。 「なに、それ」 「古い歌。落ち方を学びなさいって意味」 「この飛行機が落ちた時の受け身の型を研究しとけって歌? ええっ? そんな説明ぼくは聞いてないよ。スチュワーデスのお姉さんたちは例によって緑のおばさんが旗振るように右と左の非常口を指示して、それから救命器具のチューブの先をくわえる真似《まね》はしてくれたけど。……ねえ、あのチューブをくわえる仕草ってひわいだと思わない? まるでこれからダッチワイフにこのチューブで空気を送りこみますって感じだもの」  私は歌うのをやめ、小さく笑う。一瞬、落下の恐怖から逃れることができる。 「じゃあさ、飛行機墜落の際は、柔道で受け身習ってた奴《やつ》の方が生存率は高いってわけ?」  タカオはかまわずしゃべり続ける。 「うん。そしたらね、日本選抜柔道選手御一行様の貸し切りチャーター便は墜落しても全員奇跡の生存てなるよね」  彼は自分の論理を一方的に推し進める。万事がそうだ。無茶苦茶な考えだ。第一、大前提自体に大きな間違いがある。と途中で気づいても、もう最初には引き返してもらえない勢いの良さが彼にはあった。  ——ケッコンシヨウ  と、タカオが私に告げた時も、「そんな無茶苦茶な」と、私は答えた。「私は一生、結婚はしないの」  すると、 「うんわかった。でも、そんなこと大した問題じゃないよ。だから結婚しよう」  と、タカオは真顔で言った。 「あーっ、だったら、俺《おれ》、柔道習っとくんだったな」  タカオはまだ例の持論にこだわっている。 「ずるい。一人だけ助かろうとしてる」  私は少し気を取り直し、軽く彼に応酬する。 「違うよ。キミを抱っこしたまま受け身の姿勢で、俺は砕けた機体とキミの間のクッションになってやろうと言ってるの」  私はタカオの手を握りしめる。それにしても窮屈なベルトだ。まるで乗客たちはケースの中にスキなく押し込まれた色鉛筆のようだ。ぎっしりと、ほんの少しの微動も許されなく。  突然、ガタンと機体が下がる。  私は青ざめるが、私以外の乗客はそんなことおくびにも出さずに平静を保っている。たかだか小さなエアポケットに入ったくらいで騒ぐ人間はそもそも飛行機に乗る資格が無いんだ、と言わんばかりに。  脂汗を滲《にじ》ませる私に気づいて、タカオが耳元で囁《ささや》く。 「大丈夫だよ、大丈夫。ねえ、窓の外見てごらん。僕たちは雲の上だ。太陽の光を反射して雲が虹色に輝いている。あれは神の祝福のサインだと思わない?」  カミ。神。神様。  神なんて我々が苦悩を量るための尺度でしかない、と言ったのは確かジョン・レノンだった。  ああ、神様——夫が航空機事故で亡くなった前後は、絶えず私はこの言葉を口の中で繰り返していたものだ。ああ神様、ねえ神様、とまるで老婆が唯一の心の慰みであるペット犬に一日中呼びかけるように、私は神サマ神サマと語りかけ続けていた。神様。なぜこのような不条理な苦しみを突然私にお与えになったのか、と。  タカオと知り合ったのは、夫の死後二年たった春のことだった。秘書として勤めることになった外資系企業のオフィスビルの二十八階から下りエレベーターに乗ろうかどうしようかと躊躇《ちゆうちよ》している私に、タカオが声をかけてきた。 「乗るんですか、乗らないんですか」 「落ちる感覚は苦手なの」  と、答えにもならない答えを私はタカオに返した。すると、 「大丈夫。自分の乗ってるエレベーターの箱が落っこってると思うから恐怖心が湧《わ》くんです。このエレベーターの箱は静止していて、周りを取り囲むビルの壁面の方がどんどん空めがけて伸びていってると考えればいいんです」  と、タカオが言った。そして「さあ」と差し出した彼の手を握って、私はエレベーターの箱に入ったのだ。初対面の男と手を握ったまま私は二十八階を落下した。  奇妙な出会いから数週間後、私はタカオからデートを申し込まれた。彼は私を都内の遊園地に誘った。 「きみは�喪服のくちなしの花�と噂《うわさ》されてるのを知ってる?」  と、タカオは入場券を買うための長い列に加わりながら私に言った。 「そんなにあたしって暗く見えるの」  と、私はため息をついた。 「もう二年もたってるのに、そんなにご主人は素敵な人だったの?」  と、問いかけるタカオに私は曖昧《あいまい》な笑顔を返した。  その日のデートの最後に、彼はあれに乗ろうと指さした。それは、小型飛行機が数機鉄の鎖で中央の鉄柱につながれている遊戯機だった。回転しながら鉄柱もろとも上昇し、そして再び落下する仕組らしい。  私は顔色を失い、膝《ひざ》を震わせ始めた。 「大丈夫。飛行機が落下するんじゃなくて、まわりの景色が上昇すると思えばいいんだ」 と、タカオはエレベーターの時と同じ論理で私を説得した。  まるでガリバーに出てくる小人国の複葉機のような小型飛行機に、身を寄せ合うようにタカオと私は乗り込んだ。出発の合図とともに機体は上昇する。ぐるぐると園内の風景が回転しながら下がってゆく。そして機体が急に下降を始めたとたん、私は大声でとり乱し始めた。 「こわい。こわいの。やめて。下ろして。ちがう。こわいのは主人よ。主人の方がこわがりだったの。ほんとうに臆病《おくびよう》だったの。だから私はいつも笑ってたの。だって時速八十キロ以上の車もこわいって言い出すし、下りエスカレーターの最初の一歩を踏み出すまでに全身の勇気をふり絞らなければいけないほどだったのよ。それを私はいつも笑ってた。そんな主人が乗ってる飛行機が、落ちて亡くなったのよ。あんなこわがりだった主人が、どんなにこわがったか、それを思うと、思うと……」  遊戯機が停止するまで私は喚《わめ》き続けていた。タカオはそんな私をなだめるように抱きかかえてタラップを下りて言った。 「ケッコンシヨウ」  と。 「あたしはもう一生結婚しないと思うの」  小刻みの震えを残しながら、私は彼に言った。すると彼は、言葉を返した。 「ソンナコトタイシタモンダイデハナイ」  と。 「ぼくたちの結婚式はとても良いものだったね」  軽く私の手を握ったままタカオが私に話しかける。 「新婚さんですか?」  と、通路をはさんで向こう側の乗客が私たちに話しかけてくる。私はコクンと頷《うなず》く。 「ハネムーンなんですよ」  と、タカオが声を大きくして答える。  窓の下にホノルル空港が見えてくる。すでに雲は切れている。  私はタカオの大きな手のぬくもりを感じながら、久し振りに神様に語りかける。  お茶の水ラブストーリー  地下鉄というからには地面の下を走っているものだとばかり思っていたら、後楽園《こうらくえん》ではいきなり高架を走り、お茶《ちや》の水《みず》では橋の下をくぐり抜ける。まるでジェットコースターのようだ、と、鈴子《すずこ》は思った。  鈴子はイラストレーターを志望して、九州から三年前に上京した。お茶の水方面にある出版社に原稿を届ける時は、いつも池袋《いけぶくろ》から地下鉄|丸《まる》ノ|内《うち》線を利用する。赤い車体の脇《わき》に銀色の波線がデザインされたこの丸ノ内線の車両を、鈴子はとても気に入っていた。遊園地の脇をすり抜けるにはとてもふさわしい、おとぎの国の御用列車とでも呼びたくなるようなレトロな雰囲気がこの路線にはあった。赤と銀の配色が王様の赤いマントに銀の冠を思い出させるからだろうか。  その日鈴子が喫茶店で待ち合わせていたのは、育児雑誌の編集者だった。  添木《そえぎ》と最初に出会ったのは、鈴子のデザイン学校の先輩が開いた個展の会場だった。 「そうですか、あなたもイラスト描《か》くんですか。ぼくはこういうものですけど……」  と、添木は背広の胸ポケットから名刺を差し出しながら言った。地味だが堅実な育児の本を出版している会社名が、彼の名の右上にあった。 「ぜひ、絵を見せてくださいよ。そうだな、人物の描かれてるものがいいな」  そう言って、添木は鈴子に笑いかけた。  ちょっと眉間《みけん》にしわを寄せながらも、人なつっこい笑顔をする男であった。 「やあ、どうも、どうも」  と、額の汗をぬぐいながら、十分遅れで添木が到着した。十一月なのに汗をハンカチで拭《ふ》く人がいるのか、と鈴子は少し驚いた。 「ああ、ちょっと、まいっちゃったなあ」  何がまいったのか。遅れたことでまいるのは、こちらではないか。 「ぼくね、きのう、親父《おやじ》に会っちゃった」  いきなり! あいさつもわび言もなく、いきなり、添木はしゃべり出した。 「いやあ、まいっちゃったなあ。親父とは十年振りだったんだもん。で、もっとまいっちゃったのは、別れ際、親父が握手しようと差し出した手を無視してそのまま出てきちゃったこと。出てきちゃったって、つまり、その、十年振りに一緒に食事したレストランを、なんだけど」  鈴子は、ただ目を丸くして添木を見つめる。 「親父は、十年前に母と別れて別の女と再婚してるんです」  一気にまくしたてた添木の語調が少しにぶり、テンポが落ちるとともに言葉遣いにも冷静さと丁寧さが備わり出す。 「それで遅刻した、というわけですか」  ようやく、鈴子が口をはさむ。 「いやあ……」  と、添木はコップの水を一口ふくみながら答える。 「それが格別遅刻の原因てわけでもないですけど」  だったら何を延々とあなたの家庭の事情を私が聞かされなきゃいけないの、と、鈴子は腹立たしく思う。 「親父と別れたのが、昨日の午後十一時。それからずっと新宿《しんじゆく》の深夜喫茶で朝まで過ごして、そのあと、始発から今まで山手《やまのて》線に乗ってました」 「始発から今まで、って……今、午後一時よ。あ、正確には一時十五分」 「だから」 「だから?」 「親父と別れてから人と話すのはあなたが最初なんです。下宿先の大家さんでも、勤務先の女の子でもなく」  鈴子は、唖然《あぜん》として添木を見つめ返す。年は二十五、六だろうか。短く刈った髪にウインドブレーカー、赤と紺の縞《しま》のラグジャー、それにジーンズ姿。体育会系学生の日曜日といったスタイルだ。 「口の端、ヨダレの跡」  えっ、と言って添木は口元を手で押さえる。 「山手線で眠りこけてたんでしょう」  眉根《まゆね》を寄せて仏頂面で指摘する鈴子に、添木は声をたてて笑って返す。 「すっごい、無礼。自分の決めた時間に遅刻して、それもヨダレの跡つけて遅刻して……」  鈴子は糾弾を続ける。 「そうでなかったら、あたしの好みの容姿してるくせに」  今度は添木が目を丸くする。 「ねえ、イラストを見て」  鈴子は持参したスケッチブックを開いて彼に向けて広げた。雑誌に採用するかどうか、とりあえず今まで描いた作品を持参して見てもらうのが、そもそも今日の目的だったのだ。  鈴子の開いたスケッチブックの三枚目は、短い髪にウインドブレーカー、ジーンズの少年の後ろ姿のイラストだった。 「それで?」  と、礼二《れいじ》が鈴子に訊《き》く。礼二は彼女の婚約者だ。鈴子とは高校時代からのつきあいで、大学からすでに上京していた礼二は、東京の銀行に就職していた。実は、鈴子は彼を追って東京に来たのである。 「で、その無礼者が、『この男の子後ろ向きで顔がないね。いったいどんな顔?』って訊くもんだから……」  鈴子はいつも、礼二の部屋のソファはクッションが深すぎると思う。知らぬ間に腰が沈み、胸の高さより上に膝《ひざ》がきている。そのたびに坐《すわ》り直さなければならない。両足ではずみをつけ、姿勢を正し、鈴子は言葉を続ける。 「……だから、あたし正面向きの男の子の顔を描いてやったの。正面向きの短い髪にウインドブレーカー、ジーンズ姿の、からだの上にドラエモンの顔!」 「……ドラエモン!」 「得意なのよ、あたし。弟、小さいでしょ。いつも似顔絵描いてやってるの」  ふうん、と、礼二は銀ブチ眼鏡《めがね》の奥の一重|瞼《まぶた》の目をしばたたかせる。鈴子は何度となく銀ブチはやめてせめてボストン型《タイプ》にすればと忠告したが、いやこれが銀行員には合ってるんだといって、礼二は一向に変えようとしなかった。だったら、九州の高校生時分からすでに詰め襟姿の銀行員だったのか。 「じゃあ、その出版社の仕事はもらえそうもないんだね」 「わからない」 「えっ?」 「とにかく預かるって、そのスケッチブックもっていかれた」  礼二はもう一度まばたきをする。そのような無礼な応酬をした二人の間にビジネスが成り立つとはとても信じられないといった表情で。 「とにかく」  礼二は鈴子に告げる。 「そんな奴《やつ》とはあまり関《かか》わりにならない方がいいね」  その時鈴子は礼二がさっきから一度も笑みを浮かべていないことに気がついた。  スケッチブックは預かられたまま、三週間が過ぎた。添木から鈴子には何の連絡もなかった。  新宿に画材を買いに行った帰り道、礼二に連絡を入れようと入った電話ボックスで鈴子は突然自分の絵と再会した。 〈るんるん、あなたのお電話、待ってます〉  名刺大のカード型のテレクラ広告チラシのキャッチコピーの脇に、鈴子のイラストがそのまんま使用されていた。  ぎょっとし、それから怒りで顔を真っ赤にし、チラシを剥《は》ぎ取り、鈴子は電話ボックスから飛び出した。  鈴子の足は丸ノ内線に向かい、お茶の水を目指した。途中、新宿からならばJRの中央《ちゆうおう》 線快速の方がずっと早く着けることに気がついたが、気がついたのが赤坂見附《あかさかみつけ》で、もうどうすることもできず、ただますます腹立たしさと苛立《いらだ》ちをふくらますだけであった。  鈴子のスケッチブックを預かった出版社の受付係は、「添木なら三週間前にやめました」と、彼女に告げた。  え、じゃあ、あたしのスケッチブックはどうなるのと血相を変える鈴子の前に、添木の後任の編集者が現れた。 「これですよね」  彼は鈴子にそれを手渡した。  鈴子は急いで頁《ページ》を繰る。やはり、あの後ろ向きの少年の絵だけが破り取られている。 「添木は……」  と、後任者が口をはさむ。 「編集の仕事はやめて、何か接客業をやるというふうなことを言ってましたけど」  接客業、とつぶやいて鈴子はバッグの中に丸めこまれたテレクラチラシを思い出す。 「母一人子一人で、田舎《いなか》のお母さんの援助でやっと東京の一流大学出してもらったのに……水商売でも始めるのかなあ」  ボク、親父ニ、会ッチャッタア、という添木の言葉を鈴子は思い出した。 「あのう、添木さんはあたしの絵のこと何か言ってました?」  後任者はしばらく黙り、それからためらいがちに口を開いた。 「お嬢さんか若奥様のお遊びイラストって程度だねえ、って……」  鈴子は一瞬青ざめ、それから人の良さそうなあの添木の笑顔に対して憎しみがこみあげてきた。後任者は淡々と言葉をつなげる。 「若奥様——そう、銀行員の若奥様って感じだよね、って彼は言ってましたっけ」  銀行員、の。  鈴子の脳裏に礼二の銀ブチ眼鏡が浮かびあがり、そしてなんで添木にそんなことがわかるのか、と背筋が砕け散るような感触に襲われた。 「でも、ボク、この絵は好きだからと言って……」  後任者はスケッチブックの切り取られた頁を指さして言った。頁綴《と》じの丸いコイルに切り取られ損なった紙片が二、三ひっかかったままだ。 「なんだか嬉《うれ》しそうにそれを抱えて社をやめていきました。あ、ごめんなさいね。大切な預かり物なのに。添木捜して連絡取りましょうか」  いえ、結構ですと言って鈴子は出版社を後にした。  師走《しわす》のお茶の水の町は、スキー用品のバーゲン広告に彩られている。聖橋《ひじりばし》を渡って、鈴子は丸ノ内線の乗場を目指す。医科歯科《いかしか》大の手前の横断歩道は渡らずに、そのまま池袋方面乗場へ階段を下りてゆく。  お茶の水では地下なのに、二駅先の後楽園ではもう高架になって、眼下に車道を見下ろしている。丸ノ内線に遊園地のジェットコースターが近づき、そして離れてゆく。まるで、信号待ちのタクシーが、自分の車の隣に同業者が停車した時軽く手を挙げて合図するように、ジェットコースターは丸ノ内線に「やあ」と手を振り、そして行き過ぎて行ったような気がした。  新宿からお茶の水まで丸ノ内線をつかい、そして今またお茶の水から池袋を目指して乗っている。馬鹿みたいに丸ノ内線を一周していることになる。  親父に会って、それから始発から一時まで山手線に乗り続けていたという添木のことを再び鈴子は思い出した。  親父と十年振りに食事をしたって言ったって、あんな派手な紺と赤のストライプのラグジャーにジーンズで入れるレストランなんてあるのかしら、と、鈴子は不思議に思う。  あんな派手な紺と赤。  今もあんな派手なラグジャーでテレクラの仕事をやってるのかしら。  父親に手を差し出されただけで顔を真っ赤にしそうな、あんな少年のような男にそんな大層な仕事ができるのかしら。  まぶしそうに目を細めた添木の笑顔を思い出した。  そして、鈴子は気づいた。  銀ブチの眼鏡などちっとも好きではなく、彼女の好みは赤と紺のラグジャーである、ということを。  ——ボク、この絵は好きだから——  バッグの中からもう一度チラシを取り出し、シワをのばして見つめ直す。ウインドブレーカーの裾《すそ》からのぞいた赤と紺。  電車は茗荷谷《みようがだに》を過ぎ、新大塚《しんおおつか》の深い闇《やみ》の中に吸い込まれてゆく。  ある歯科医  歯科医の待ち合いの廊下に置かれた黒いビニール貼《ば》りのソファの上に由加《ゆか》は腰かけている。  仕切りの薄い壁を通して由加の耳に、歯を削る金属音が届く。それが彼女の奥歯の穴にまで突き刺さる。  痛みから気を紛らわせようと雑誌に目を落とすが、少しも内容が脳に届かない。色とりどりの流行の服と微笑《ほほえ》むモデルの顔が、色盲検査票の無意味な色の点在くらいにしか思えない。  ゆうべ、キャンディーの粘体が由加の奥歯にかぶせてあった金属を剥《は》ぎ取ったのである。その結果、覆い隠されていた古い傷跡が再びむき出しになってしまい、水を飲んでも、果実をかじっても、飛びあがるほどの痛みに襲われ続けている。 「松本《まつもと》さん」  由加の名前がようやく呼ばれ、彼女は診察室内に足を踏み入れる。  清潔で明るい室内には患者を落ち着かせるためだろうか、イージー・リスニングのBGMが流れている。けれど、その無表情なストリングスが逆に診察台の脇《わき》に並べられた鉤《かぎ》状の金属器具の不気味さを増大させているように由加には思えた。 「どうしました?」  歯科医は二十代後半の男性だった。マスクをしているので顔の半分はよくわからない。 「奥歯のかぶせものがとれてしまって」 「どうぞ、診察台に」  薄いベージュ色をした革張りの診察台は、まるで快適なリクライニング・チェアのようだった。ぴったりと、柔らかく由加の身体《からだ》を包み、そして静に後方へ倒れてゆく。  患部をのぞきこもうと、歯科医が由加の顔の上に身体をかがめる。その直後、とんでもないことが起こった。  歯科医の診察ミラーが由加の傷跡に触れた瞬間、ぎゃあっと由加は叫び、全身を痙攣《けいれん》させた。そしてそのはずみに歯科医の指を噛《か》んでしまったのだ。  由加は顔を真っ赤にしてうつむく。とても歯科医の顔を見る気になれない。 「今までに……」 「えっ?」 「ぼく以外の歯医者の指を噛んだことは……?」  由加は驚いて顔を上げる。 「歯医者は、……いないわ」 「ボーイフレンドは? きみに触れようとしたボーイフレンド……」 「歯では噛んでないわ。ひっぱたいたことは二、三度あるけど」  その由加の言葉に、たぶん歯科医は微笑んだ。微笑んだはずだ。マスクに覆われた彼の口元は目で確かめられないが……。 「なんで、ぼく、歯医者になったと思います?」 「えっ?」  由加は歯科医を見つめ返す。 「ぼく、すごく歯並び悪いんですよ。そこで、口元を隠す職業はないかと探したところ……」 「歯医者に、……なったわけ?」  今度は由加が微笑み返す。なんだか、少し、歯の痛みが和らいだ気がする。 「ま、衛生局の職員でも、食物検査技師でもよかったんですけど」  由加も頭の中でマスクをつけた職業人を探し始める。なぜか突然、初詣《はつもうで》客の賽銭《さいせん》を勘定する神社の職員がマスクをかけていたことを思い出し、ククッと口の端から笑みがこぼれた。 「なにか?」 「あ、いえ、ちょっと……」  この歯科医が賽銭勘定してる姿を想像したのである。 「よかった」 「えっ?」 「リラックスしたでしょう?」 「…………」 「そうやって、身体の緊張を解いて。そう、楽に、楽に……ちっとも痛くないでしょう?」 「私の緊張をほぐすためにマスクの話を……」 「また指を噛まれでもしたら、たまったもんじゃないですから」  ふうん、いい医者なんだ、と、由加は感心する。大病院の忙しさに苛立《いらだ》った医師とは随分違う。  彼は、その腕もまた確かだった。確実に、迅速に、適切な処置を施す。 「今日はこれで痛みが止まるはずですから」  治療を終えて手を洗いながら、歯科医が由加に告げる。 「明後日《あさつて》、もう一度来てください」 「えっ?」 「明後日、もう一度来てください」  マスクの留めひもを左耳にだけ残してはずし、口元を由加に見せながら、彼は同じ言葉を繰り返した。  その日の真夜中、由加の部屋の電話が鳴った。 「あのう……今日、昼間、あなたの歯を見た歯医者なんですけど」 「えっ……あ、ああ、マスクの歯医者さんね」  半分眠ったままの頭で由加は答える。 「ごめんなさい。ぼく、間違ってしまって」 「ええ?」 「間違えたんです。間違って……」  由加は舌の先で奥歯をまさぐる。何かガム状の物が詰まっている。これが間違えた詰め物だというのか。 「これから——」 「えっ?」 「これからあなたの部屋に伺って、訂正していいでしょうか」 「はあ?」  由加は枕元《まくらもと》の時計を見る。二時三十八分。とんでもない夜更けである。この男、何を言ってるのかしら。酔っ払い? それとも……。  だんだん由加の頭が冴《さ》えてくる。 「どういうつもりか、わかったわ!」 「えっ?」  男を怒鳴りつけてから由加は電話機のプラグを引っこ抜き、それから入口のドアのチェーンを確かめる。玄関|脇《わき》の姿見に映った自分の顔に由加は気づき、薄暗い光の中でそれをじっと見つめる。  ——つけいれられるような顔をしていたのかしら——  歯科医に対しほんの少しは好意を抱いていた自分の浅薄さに涙がわいてきた。  二日後の治療など受けられるはずもなかった。  中途半端な処置のままの奥歯をかかえて、由加は別の歯医者に飛び込んだ。急に痛んだ歯を旅行先で応急処置してもらったという口実で——。 「きれいな応急処置ですね」  新しい歯科医は由加の奥歯をのぞきこんで言った。老人と呼べるほどの年齢である。 「あのう……」  由加は老医師に声をかける。 「何か間違った物、詰まってません?」 「いいえ。とても正しい治療です」  やっぱりね、と、由加は思う。間違った詰め物をしたなんて、夜中に押しかける口実に違いなかったんだ。  再び、言いようのない侮しさに由加は襲われる。  それでも気になって、由加は帰りがけにあの若い医師のいた医院の前を通ってみた。  ——都合により、閉院します——  看板が目に入った。  ニセ医者だったらしい、という噂《うわさ》が由加の耳に入ってきたのは、それから一週間後のことだった。 「すごく上手な歯医者さんだったけど、資格はもってなかったんですって」  由加の部屋の大家さんが彼女に耳打ちした。  歯が痛むなら、あの表通りの歯医者さんがいいわよ、と、由加に推薦してくれたのもこの大家のおばさんだったのだ。 「まっさか、ねえ……。ごめんね、へんなとこ紹介してしまって」  と、大家は由加に頭を下げた。 「いったい、いつ、そのことが……」 「確か由加ちゃんが歯医者に行った、その次の朝」  あんな親切で上手な先生がニセ医者だったとはね、と、その界隈《かいわい》ではひとしきり話題となった。警察が足を踏み入れる気配を察して夜のうちにどこかに姿をくらましたらしい、ということまで由加の耳に伝わってきた。  夜のうち。  それは、「あのう……ぼく、間違って……」と由加に電話をかけてきた夜のことだ。  彼は何を間違ったと言いたかったのだろう。  ぼくは間違って、医者のフリをしてたんです、ということなのか。  あるいは明後日いらしてくださいと言ったことは間違いだったということなのか。  由加にとって唯一確信をもって言えることは、彼がすごくキレイな口元をした歯科医だったということだ。  スプリング・コート  トレンチ仕立ての一重《ひとえ》のスプリング・コートは、今年は短い丈がはやりらしい。三月の声を聞いてさっそく多恵子《たえこ》は真っ白な新品を購入した。  多恵子は新しいコートを買うたびに、同じ失敗を何度も繰り返していた。ウエスト絞りのベルトの片端をいつの間にかタグから落っことし、それを雑踏の中で踏みつけられてしまうのだ。  そういう自分の習性を心得ていれば、決して純白のコートなど選ばなかったはずなのだが、今年はもうそんな馬鹿な癖は卒業してるはずだと、多恵子は白いコートを一年ぶりに羽織ったのだった。タカをくくっていたのだ。  風から身を守るためにキチンと前でベルトを縛る冬のコートならともかく、どうしたって春のコートは前を開けて着たい。その結果、不用で厄介なベルトは地面に落っこちて、泥の足形をつけられる羽目になるのだ。  夕暮れの信号待ちの交差点で、多恵子はウエストあたりに圧迫を感じ、振り返った。誰かが彼女をひもで引きずり寄せようとしている。まるで、カウボーイが投げ縄で獲物を吊《つ》りあげようとするように。思わず、 「えっ!?」  と、多恵子は声をあげて、周囲を確かめる。  地面に落ちた多恵子の視線は、コートのベルトの右端が真後ろに立つ男の黒い革靴の下に踏みつけられていることを確認した。 「あ——っ」 「ごめんなさい!」  それが、多恵子とその男との出会いだった。 「ちょっと待ってください。ぼく、すぐそこの水道で水洗いしてきますから」  と言って、男は多恵子のベルトを抜き取り、近くのガソリン・スタンドに飛び込んだ。  汚れたベルトを抜き取られ、交差点に一人立ち尽くすと、多恵子はなんだか凌辱《りようじよく》された後、素っ裸で放置されたみたいに思えてきた。  ——普段、不用で邪魔っけなもののくせに。  と、多恵子は思う。  ——汚されたり、抜き取られたりすると、なんで恥ずかしいんだろう。 「まいっちゃったなあ」  男はポタポタと水滴を落としながら、ベルトを両手に握りしめて戻ってきた。 「どうも油性の泥がこびりついちゃったみたいで……。洗面所の石けんでも落ちないんです」 「…………」 「クリーニング代、弁償しますから」 「……いいんです。ベルト落っことした私にも責任があるんだし……」 「そういうのって……」  男は困ったような笑顔を浮かべる。 「え?」 「男に押し倒された娘が、私に性的魅力がありすぎたから、っていう弁明みたいで、つらいな」  男の言葉に一瞬ポカンと口をあけ、それから、 「だったら……」  と今度は多恵子が男に切り返す。 「クリーニング代を払うってのは、押し倒したあとの娘に、キミも商売なんだろって言うのと同じじゃない!」  多恵子の逆襲に男は声をたてて笑って、次のように提案した。 「じゃあ、こうしましょう。クリーニング代に見合う程度の食事をぼくにおごらせてください。これで双方、納得がいくでしょう」  なにがどうして納得がいくのか多恵子には合点がいかなかったが、男に従うことにした。  それは彼女の悪い癖だ。あるところまで男に論理的に対抗できても、突然ある瞬間、すべてが面倒臭くなって投げ出してしまうのだ。男は、それを彼の論理の勝利と受けとって機嫌が良くなる。女にとっては「どうでもいいや」と放り投げてしまう問題でも、男はあくまで決着をつけたがるものらしい。  自分の意見が通ったことで、思ったとおり、男の気前は良くなっていた。 「こんな御馳走《ごちそう》……スプリング・コート十着以上のクリーニング代よ」  高級イタリア料理のテーブルで多恵子は困惑した。 「じゃあ、これから十回、きみのコートのベルトを踏んづけてしまうウッカリ者の分も前払いということで」  男はウエイターを呼んで、何やらワインの銘柄について話し込む。  多恵子は改めて男を見つめる。  年は三十前後。並みのサラリーマンよりは高価そうなスーツを身につけている。さきほど多恵子のベルトから足をどける際にちらっとのぞいたソックスは、薄手の趣味のいいものだった。付け焼き刃ではないセンスの良さをもっている男らしい。たぶん多恵子は、その趣味の良さを信じて、見ず知らずの男とテーブルで向かい合って食事をすることにしたのだろう。  多恵子は、靴下の趣味のいい男にひどい奴《やつ》はいないと思い込んでいる節がある。 「スプリング・コートにベルトなんかいらないんですよね」  多恵子は運ばれてきたワインを一口すすって男に話しかける。 「前を留めないで羽織るからスプリング・コートなのに」 「いらないけど、でも、なくなったら何かヘン、てものかな」  男は多恵子に答える。あ、この人、私と同じ感覚の人間なんだ、と、多恵子は嬉《うれ》しくなる。 「そういうのって、あるよね。万年筆のキャップについたポケット留め」 「いない、いない。ポケットに万年筆を差し込んでる人なんて、今時」  多恵子は声をはずませて男に同意する。 「七十|頁《ページ》しかない小説本のしおり」 「女性用のトイレの小のレバー」 「カレンダーの表紙」 「プッシュホンの印」 「エンピツのお尻の消しゴム」  それまで笑い声をあげていた多恵子が、ふと息をのんだ。 「あっ、それ。私、つかう」 「え?」 「エンピツのお尻の消しゴムつかって、字を消すの、私」  男は口元に微笑《ほほえ》みを残したまま、少し声のトーンを落とす。 「そっかあ。人によって不用だったり必要だったりするんだね。ある事柄が人によって些細《ささい》なことだったり、重要だったり……」  少しの沈黙のあと、男は言葉を続けた。 「男と女のセックスみたいに」  多恵子はギョッとして男を見返す。誘惑されているのだろうか。 「きみって……」  男も多恵子の顔を見つめ返す。微笑みは消えているが、穏やかな物腰は変わらない。 「ぼくとは、初対面ですよね」  多恵子は頷《うなず》く。 「ぼくの妻のことも、知らないですよね」  ますます目を丸くしながら、多恵子はやはり頷いた。 「……だったら、ぼくたちにアドバイスをしてほしい」 「えっ」  多恵子が聞き返すと、男は言葉を続けた。 「ぼくの知り合いはぼく寄りの忠告をするし、妻の知人は妻の弁護にまわるから。だから、まったく先入観の無い他人から公平な意見を聞きたいんです」  多恵子は男に従った。さきほど男についてレストランに入った時と同様に、多恵子はあらがうことを放棄したのだ。  ——彼を気持ちよく勝者に導いてあげよう。それがここでの私の役割なのだから。  多恵子は椅子《いす》の背にもたれ、生徒の宿題の日記を採点する小学校の教師の態度をとろうとした。  ——批判しても否定してもいけない。ほんの少し冷静な意見をまぜて、あとはほめあげること。 「ぼくは、実業家の父の跡を継いで、事業をやっています。いわゆる二代目ってやつで。だから、金には不自由していません。世田谷《せたがや》に八十坪の家もあります。車はジャガーとアウディ。アウディは妻のものです。妻とは学生時代、パーティで知り合いました。彼女は有名なお嬢さん学校出身で……。でも、きらびやかというよりは、質素で控え目なタイプです。二十六と二十四で結婚して、子供が二人産まれました。子供ができてからは、理想的な母親になってくれたと思います。ユーモアを理解し、健康的で、品がよくて気さくだし、ぼくとしては申し分ない妻だと思っています。もちろん愛しています」  男の女房自慢が続くうちに、多恵子は苛立《いらだ》ってきた。苛立つうちに、これは最初から仕組まれたワナだったのか、という考えに襲われた。ワナ? 何のための? わざと踏んづけて? レストランにまで……。何のため? でも、やっぱり駄目。面倒臭い。放棄しよう。そう思ったとたん、多恵子は苛立ちから解放され、再び男の告白に素直につきあう覚悟を決めた。 「完璧《かんぺき》な奥さんなのね」  冷静に多恵子は言い放つ。 「そう、完璧なんです。あ、ちょっと欠点としては……」 「欠点?」 「ぼくはそうは思わないけど、本人は自分のことを不器用だと思い込んでいます」 「は……?」 「まあ、美人じゃないことは確かです。目も小さいし、鼻も低くて。でも、ぼくは全然気にしてないけど」  男は、派手ではないが整った顔立ちをしていた。クラスに一人はいる�あ、あの男の子ちょっとかっこいいね�といわれるレベルのハンサムであった。しばらく口の中で言葉を探し、それから多恵子はおもむろに切り出した。 「あなたのお友だちが、どれどれ奥さん見せてよ、って、家に上がって奥さんの顔を見たとたん、彼らが戸惑いの表情を見せることが、新婚当時なかった?」  彼女の言葉に、男はギョッとして目を丸くした。 「どうしてわかるんですか?」  多恵子自身、自分より顔のレベルが数段高いハンサム男とつきあったことがあるからだった。  ——アキオ。  多恵子は昔の恋人のことを想《おも》った。アキオがその整った顔で優しくしてくれればくれるほど、多恵子はいたたまれない気持ちになったものだ。そして、多恵子の方から別れを切り出した。 「その奥さんと……。完璧だし愛している奥さんと、いったい何が問題になっているの?」 「妻は、売春をしています」  恵まれた家庭。心優しい夫。かわいい二人の子供。その家の器量の悪い妻が売春をしているという。妻の客がたまたま男の知人で、彼に密告したらしい。妻自身はそのことにまだ気づいていない。 「あなたが、与えてないんじゃないの?」  多恵子は詰問する。 「いえ、充分に与えています」 「今も? 昔と変わりなく?」 「今も。結婚当初と変わらない態度で妻もこたえます」  多恵子と男は黙り込む。 「ぼくが家に戻ると……」  男が昔を懐かしむ老人のように目を細めて語り始める。 「子供二人が転がるように家の奥から出てきて、子犬のようにじゃれつきます。その後ろから妻がニコニコとエプロンで手をふきながら現れます。テーブルには完璧な夕食が用意されていて、みんなで笑いながら今日一日あったことを報告しながら食事をします。まるでカレールウのテレビCMのような、完璧な家庭の夕食風景が……。今も……」  男はそこで一息ついた。 「……で?」 「そういう場にいると、なんだか、妻が売春してることなんて、実は大したことじゃないんじゃないかって、そんな気が……」 「その証拠はあるの?」 「知人に写真を見せられました。ポラロイドの……」 「それで?」 「その場で取り乱したぼくは、それを引き裂いて燃やしました。写真を見て、それを消滅させるまで……三十五秒くらいかな」  ウエイターがデザートの飲物を聞きにくる。お開きの時間が迫っていた。 「だから、今は証拠が無い状況です」  コーヒーを頼んだあと、男はそう言って、目を伏せた。 「大したことじゃ、ないのかな?」  男は自分に言い聞かせるように、少し笑みを浮かべながら、つぶやく。 「……いや、たいへんなことなんだ、実は。それを大したことじゃないと思おうとしてるぼくがおかしいのか……」  男は多恵子に聞く。 「教えて、ほしい」 「私……。奥さんの気持ち、何となく、わかる」  男が多恵子を見つめる。 「奥さん、あなたのこと、すごく愛してるわ」  そう言って、多恵子は腰を上げた。 「コート十着のクリーニング分の御馳走《ごちそう》、ありがとう」  多恵子は、ショルダーバッグを肩にかけ、椅子をテーブルの中に戻そうとする。その瞬間、ショルダーの紐《ひも》が肩からずり落ちる。 「あなたの奥さんも……」  多恵子は立ったまま、男に言う。 「しょっちゅうショルダーバッグの肩紐《かたひも》をずり落としたり、コートのベルトを地面に引きずってたりしてない?」  ナプキンをたたむ手を止めて、男が多恵子を見あげる。 「どうして、わかるの?」 「だったら、バッグはボストンにするとか、ベルト付きのコートは着ないとかすればいいのに……。しないのよね」  そういう癖を持つ不器用な女たち。それは、他人から見れば愚かとしか思えない方法でしか男を愛せない女たちなのだ。  もう一度別れた恋人、アキオの顔が頭によぎるのを振り切るように、多恵子はショルダーを引きあげ、ベルトの両端を脇《わき》のポケットにねじ込んで店を後にする。  八月の共犯者  男と女に友情があるとすれば、私とシゲオの関係こそ、そう呼んでいいのではないかと思う。  シゲオは私の夫、高木《たかぎ》の親友だった。  そしてシゲオと高木と私は高校の同級生だった。  瀬戸内海《せとないかい》に面した小さな町の高校を卒業したのち、私と高木は東京の大学に進学した。シゲオはそのまま地元の国立大に残った。  大学二年の夏、私と高木はまだ高校の同窓生のままだった。女子大に通う私と工業大学に通う高木は、申し合わせて互いの友人を誘い何度か合コンを催した。けれど、いつも互いのグループの相性が悪いのか、ただの一組もカップルが成立しなかった。  今思うと、私が気に入った高木の男友達に高木がブレーキをかけ、高木の好みのタイプの私の女友達がいると私が足を引っ張っていたのだ。もちろんそれは無意識のことであり、不器用なハタチの男女が牽制球《けんせいきゆう》を投げ合い、多くの時間を無駄に費やしていたとしか思えない。  それはすごくたわいないことで、今振り返ると、幅五十センチの小川《クリーク》を飛び越える勇気さえあれば解決した問題であった。しかし当時は、思い切って踏み切った瞬間、小川が急に幅を広げ身体《からだ》が水に埋没するかもしれないと思い込んでいたのだ。私は何度も助走をつけて飛び越えようとしたが、そのたびに川岸で急に足を止め、立ち尽くしてしまっていた。私は、いつも助走ばかり練習していたのだ。  高木の誕生日のために用意した花束を後ろ手にもちながら、高木が女友達にもらったという高価な万年筆のプレゼントを目にするや、そのまま退散してしまった十八の春。  おまえんちの下宿のすぐそばまで来てるんだけど、という電話をもらいながら、前の日美容院で下手に切られた髪形を苦にして、今日は会いたくないのと冷たく受話器を置いた数か月後、その日高木が一人で十三回遊園地のジェットコースターに乗ったと聞かされた十九の冬。  なんで飛び越えないの、という悔しさと苛立《いらだ》ちと情けなさと悲しみのなかで二十歳《はたち》を迎えた私は、高木がその夏アメリカに長期ホームステイするという話を聞かされた。  この夏こそ勝負だと勝手に思い込んでいた私は、半分落胆し半分|安堵《あんど》し、そして恒例の帰省をとりやめ、一夏東京で過ごすことにした。  親元には、卒論の準備のための勉強があるからと告げた。ほんとうの理由は、たった一人で自分をいじめてみたかったのだ。  空気の淀《よど》んだ、東京のもったりとした暑さの中で自分をいじめてみたかった。  夕暮れの瀬戸を渡る風や、蝉《せみ》の響く森の静寂を想《おも》いながら、西陽《にしび》に照り返された東京のアパートでMJQを聞きながら淀みきってやろう、と計画したのだ。  そうすると何かがわかるかもしれないと、ハタチの私は考えた。あるいは何かが変わるかもしれないと。  ハタチ、だったのだ。   ☆     ☆  汗だくで何度もレコード盤をひっくり返しながら、オートマチックのプレーヤーが欲しいなと思っていた私のところに、シゲオから連絡が入ったのは七月の最後の週だった。  ——東京の私大で催されるロシア語の夏期講習会に一夏通うことになったから、高木の下宿を一か月借りることにしたんだ。ちょうどあいつアメリカに行ってていないしね。東京は不案内だから、ねえ石井さん、案内してよ——。  というシゲオの頼みを受け入れ、私は彼を東京駅まで迎えに行った。  シゲオと会うのは高校を卒業して以来二年ぶりだった。私は高木に恋していたが、高木の親友に興味は無かった。 「石井さん、変わってないね」 「…………」  私は、シゲオが二年の間に変わったか変わらなかったか判断できるほど、高校時代、彼に注目していなかった。 「石井さん、なんでお化粧しないの?」 「え?」 「東京行ったらみんなびっくりするほど女のコってキレイになる、っていうけど……」 「……お化粧、してるの、これでも」 「あっ……」  なるべく色目の目立たないようにと選んだオレンジのルージュを少し後悔した。  私はその時、シゲオの落胆を高木の落胆のように受け取ったのだ。  私たちは地図を片手に高木の下宿を尋ね歩いた。小平《こだいら》に下宿していた私にとって、高木のアパートのある目黒《めぐろ》は、瀬戸内《せとうち》から出てきたばかりのシゲオと同じくらい不案内な場所だった。  私鉄の小さな駅に下りたったシゲオと私は、大岡山《おおおかやま》三丁目の番地を探す。 「あっ」  と、シゲオが声をあげる。 「あったの?」 「スーパー」  シゲオが踏切|脇《わき》の店を指さす。 「食料買ってこう」 「ええ?」  シゲオは私に今夜の夕食を作らせる気らしい。  好意は寄せてるが、まだ恋人とは呼べない男の友達でしかないシゲオ——つまり私にとっては赤の他人の通行人と同列である男——のために夕食を、この私が。 「豚はヒレとモモどっち?」  スーパーの精肉コーナーの前でシゲオがニコニコ笑って立っている。私は黙って豚モモ肉のトレイをカゴに投げ入れる。 「こういうのって——」  シゲオは笑顔のまま独り言のように言う。 「新婚夫婦みたいだね」  私はギョッとして、シゲオを見つめる。 「石井さん、『小さな恋のメロディ』って見た?」 「ませた子供同士が結婚する話でしょ」 「ユメがないなあ、石井さんの話し方って」 「どうせ、恐竜に追っかけられる夢くらいしか見ない人間ですから」 「女のコなのに?」 「スーパーマンのタイツ着て、空飛んだりとか」 「ホント?」 「繁尾《しげお》くん(つまりシゲオとは、名字なのだ)は、どんな夢見るの?」 「きんぽうげのお花畑を愛する人とトロッコに乗って走ってゆく——」  私はポカンと口を開けて絶句した。その間にシゲオはレジで会計をすませた。  高木の下宿は、木造アパートの一階で、八畳に四畳半の台所、トイレ、風呂、そして前庭付きという当時の学生下宿にしては随分と豪華なものだった。 「高木んちは金持ちだからな。仕送りもいいんじゃない?」  シゲオはそう言って、庭に面したガラス戸を開けた。芝の剥《は》げたあちこちに黒い土がめくれあがり、そこに雑草が伸びている。 「庭があるんだったら、花火買ってくればよかった」  そう言って、シゲオは私の顔を見る。 「新婚夫婦みたいに? 私と夕食後、この庭で?」  私が切り返す。シゲオはただニコニコしている。 「——どっちが夫か妻かわかんないわね、きっと、私たち」 「スーパーマンときんぽうげのお花畑じゃね」  高木の部屋は私の思っていたとおりの部屋だった。ハタチの工業大生の男の子の部屋だった。 「高木は——」  台所で豚モモ肉に卵の衣をつけている私にシゲオが奥から声をかける。 「�おまえたち、二人とも信用してるから、どのひきだし開けて、何を見ようとかまやしない�って言ってた」  おまえたち——? 「高木がさ——あ、高木から聞いてなかった? �俺《おれ》ん部屋使うんなら、石井に案内してもらって飯作ってもらえよ�って——」  高木が? 私に? シゲオを? 案内して夕食を?  恋人になりそうでなれない状況にあった私と高木の関係を、高木がまず第一歩踏み越えた予感がして、私は嬉《うれ》しくなった。 「ひきだし開けていいって?」  私は卵のついた指をふきんでぬぐいながら、奥の八畳に駆け込む。 「見ようか、そこまで言われたんなら」 「…………」 「だって、どうぞ見ろよ、って言われたのと同じじゃない」 「……よくないよ」 「いいって、言われたんでしょ、シゲオくん」 「……石井さん、やっぱりそういうとこ女だなあ」  きんぽうげのお花畑を飛び越して、一気に中年女の図々《ずうずう》しい好奇心が頭をもたげてきたのだ。  理科系の男の子の机らしく、高木のひきだしにはオーディオの説明書やアマチュア無線の参加申し込み用紙が無雑作に投げ込まれていた。そして、電気料金の請求書や使い捨てライターといったありふれた日用品——。  がっかりしたような安心したようなそんな気持ちで二段目のひきだしに移ったところ、 「あっ」  と二人とも声をあげた。  避妊具のケースが製図用カラス口の下に置かれていたのだ。  シゲオと私は声を出して笑った。  なぜだかしらないけれど私たちは笑い転げたのだ。だって、その避妊具は封が切られてなかったから。  ハタチの男の子の部屋で発見された避妊具の意味は、封が切られてるか切られてないかで、大きく違ってくる。真新しい避妊具を前にして私たちは安心して笑い合った。私たちは共犯者のように心を許して笑い合ったのだ。  私の手料理の豚肉のピカタを前にして、私たちは安物のワインで乾杯した。 「高木の奴、どんな顔して薬局で買ったのかなあ」  シゲオがそう言ったとたん、私はまた笑いが止まらなくなってしまった。そして笑いすぎたあまりスープをひっくり返し、それが宙を飛び、高木のベッドのカバーを汚した。  いけない、と言って急いでカバーをひきはがしたとたん、ベッドの枕元《まくらもと》に積みあげてあった本が二、三冊バラバラと床に落ち、その本にはさみこまれていた便箋《びんせん》が私たちの目にさらされた。  ——高木くんに抱かれたこと    私はちっとも後悔してませんから——  その見知らぬ筆跡の女文字が目に飛び込んできた瞬間、私は頭のてっぺんが冷たくなるのがわかった。大慌てで本を元の位置に戻すことでその場を繕おうとしたが、 「なんだ、これー?」  そういって、シゲオがするりと紙を抜き取った。  シゲオは黙って紙を眺めていた。そしてそれをどう取り扱っていいのか躊躇《ためら》っているようだった。 「石井、見る?」  私は首を振る。私はシゲオの目を見るのが恐《こわ》かった。シゲオは、�部屋には石井に案内してもらえよ�と高木に言われた段階で薄々私たちの関係に気を回していたはずだ。ここでシゲオに同情の目で見つめられでもしたら——。  私は、見事に川を飛び損ねてズブ濡《ぬ》れになってしまった仔犬《こいぬ》のような気分だった。  夕闇《ゆうやみ》が迫っていることにようやく気づいて、シゲオが部屋の明かりをつける。白熱灯の明かりの下に白々しく豚肉のピカタが並んでいる。  ——封が切られてない避妊具は二箱めのケースだったのか。  ——高木くんに抱かれて後悔してない私って誰なのか? そしてそのあとにどういう文が続いていたのか。  私は豚モモの味もわからず、ただ機械的に箸《はし》を口に運び、機械的に肉を噛《か》みしめていた。 「風呂、入ったら?」  と、突然シゲオが私に声をかける。 「えっ?」 「今日、暑かったし。汗かいてない?」 「ええっ、ここの風呂使えってこと?」 「せっかくだもの。石井んちの下宿、フロ無いんじゃない?」  そのとおり。いつも銭湯通いである。 「だったら入ったら?」 「やだ」 「俺がのぞくとでも?」 「そうしないっていう保証ないもの」 「手足、縛ってもいいぜ」 「這《は》うかもしれない」 「ミミズみたいに? 脱衣所まで?」  シゲオが高い笑い声をあげた。  結局、私は明かりを消した真っ暗闇《くらやみ》の中で風呂に入ることにした。真っ暗なら、たとえのぞかれても何も見えやしないという結論に二人は達したのだ。  暗闇の風呂、それは奇妙な感じだった。  得体の知れない軟体動物に身体をぴたりと密着させられたような気になった。ぶよぶよした水をうなじに感じながら私は泣いていた。  なんで十八の春、高木に後ろ手にした花束を渡さなかったのか。  なんで十九の冬、刈りあげられた後頭部のまま高木とジェットコースターに乗らなかったのか。  なんで、たったひとっ飛びの勇気が出なかったのか——。  目が闇に慣れると水面に小さなさざ波が確認できるようになった。小さな明かり取りの窓から射《さ》す外の淡い光を反射しているらしい。それがおもしろくて、私はぴちゃぴちゃと小さな波を立てることに熱中し始めた。  ぴちゃぴちゃ。  まるで細流《せせらぎ》のようでもあり、誰かのせせら笑いのようでもあり。  ぴちゃぴちゃ。  私は黒い波を揺する。  と、ぴちゃぴちゃの音の向こうからぱちんぱちんという破裂音が聞こえた。  ぱちんぱちん。  シゲオかな? なんだ、こっそり花火買ってたんじゃない。私が風呂に入ってる間に一人で花火を楽しんでるわけ?  私は闇の湯舟の中で二つの音を味わっていた。  ぴちゃぴちゃ。  ぱちんぱちん。  湯上がりの私を小平まで送っていくというシゲオを制して、さきほど豚モモ肉を買ったスーパーの前で別れることにした。 「あ、ちょっと待って」  シゲオがスーパーの右隣の薬局に駆け込む。  そして、包装紙にくるまれた一本の瓶を私に差し出す。 「養命酒《ようめいしゆ》」  私が下宿に戻り包みを開けると、やっぱりそれは養命酒だった。豚肉ピカタのお礼のつもりなのかしら。それにしてもハタチの女のコに養命酒を贈るなんて、どういう神経なのかしら、シゲオって。  きんぽうげ畑を夢見る養命酒愛好者。その結果導き出されたのは、 「シゲオって変な奴《やつ》」  という答えだった。  結局、それから色々すったもんだの挙句、私と高木は婚約し、そして大学卒業と同時に結婚した。  私たちの結婚式には、もちろんシゲオも喜んで駆けつけてくれた。  長女を出産した時も、長男の入園式にも、なにかとかこつけてはシゲオは私たちの家庭を訪れた。実はあの夏の夜以来、私とシゲオは親友になっていたのだ。   ☆     ☆  今日ももうすぐシゲオがやって来る。娘の十歳の誕生祝いに駆けつけてくれるのだ。  三年前、夫の高木が若年進行性の癌《がん》のため発病してわずか半年で急逝してしまった時も、周囲は独身を通すシゲオと私が再婚することを勧めてくれた。それほど私とシゲオは傍目《はため》にも信頼し合った親友同士であったのだ。  けれど、私たちは友情でしか結ばれ合っていない。  あの晩、風呂の明かり取りの小窓からのぞいた私の目に入ったのは、前庭で避妊具を風船のようにふくらましては、一個一個ぱちんぱちんと割っていたシゲオの姿だった。  だから、私と高木の婚約を報告した時、シゲオに、 「実はぼくは同性愛者なんだ」  と告白されたが、私は冷静に、 「わかっているわよ」  と答えることができたのだ。  五月生まれの娘のためにシゲオはきっと抱えきれぬくらいのバラのブーケを用意してくれることだろう。  そして私はこう言うのだ。 「あら、きんぽうげじゃないの?」  ウォーター・ベッド  人には決して話したことがないのだが、たつ子はいくつかの恐怖を身体《からだ》の内に抱えていた。  下りエスカレーターの最初の一歩が踏み出せない。足元から規則的に生み出されていく階段が眼下に滝のように落ちてゆき、しかしその先は水をたたえた滝壺《たきつぼ》ではなく、一階下のロビーのスリットにすっと吸い込まれてゆく光景が、何とも言えない恐怖心をたつ子に抱かせるのだ。  黙って生み出され、黙って消えてゆく。規則正しく。文句も言わずに。そんなエスカレーターの下り階段を見るたびに、思わず身がすくんでしまうのだった。  それならば、デパート勤めなど選ばなければよかったのだ。  たつ子が配属された家具売場は七階にある。普段は従業員用のエレベーターを使うのだが、急用でやむを得ず一刻をあらそって階下に行かなければならない時、たつ子は意を決して下りエスカレーターに足を踏み出す。赤い手すりベルトにしっかり手を乗せ、重心がぐらつかないよう気を配る。それでも、降りる瞬間が近づくと、いつも身をこわばらせてしまう。そうでもしないと、自分も金属製の階段と同じようにきっちり折り曲げられてスリットに吸い込まれてしまうのではないかと不安になるのだ。  同じように、雨の日の水たまりも苦手だった。  アスファルトの表面の、膜のような水たまりでさえ、もしかしたらうんと深い底無し沼なのかもしれないと勘ぐってしまうのだ。  これは、幼い頃読んだ絵本の影響かもしれない。  おつかい帰りの少女が、水たまりで靴が濡《ぬ》れるのが嫌で、買物カゴのフランスパンを水たまりに浮かべ、それを踏みつけて渡ろうとした瞬間、少女はフランスパンもろとも水底に沈められてしまうという童話。  少女はそこで石に変えられ、恨めしそうに頭上はるかかなたの水面を仰ぎ続けるのだ。  たつ子はこの話を読んだ時、少女の感じる水の冷たさを自分の肌にも感じた。そして慌てて両腕をさすり、自分の身体がまだ石に変えられていないことを確かめたものだ。  このような、恐怖心のいくつかは、我ながら馬鹿げているとたつ子自身も感じていたので、二十四歳の今日まで誰にも話したことがなかった。  その男との関係は、デパートの客と売子としての出会いから始まった。  うんと寝心地のいい最高級のベッドが欲しい、と、男はたつ子に言った。三十前後で、ラフだがセンスの行き届いた身なりをしていた。 「ウォーター・ベッドはいかがでございましょうか」  今期のフロアの方針の一つに、ウォーター・ベッドの市場開拓があったのだ。 「ウォーター・ベッド? 中に水が入ってるってやつ? 聞いたことはあるけど……。漏れない?」 「大丈夫でございます。そのようなことは決して……」 「自宅寝室で溺死《できし》だなんて……。新聞の死亡欄に載ったって、皆な冗談だと思って誰一人葬儀に参列してくれないよ」 「大丈夫です」 「ホントに?」 「私、一人だけでも参列しますから」  たつ子の返事に、男は声をたてて笑った。 「女と二人で寝室で溺死、となると、心中かと騒がれるかな。……これは、太宰《だざい》の時代には考えもつかなかった入水《じゆすい》心中のスタイルだよね」  ニコニコと楽しそうな表情で男は言葉を続ける。  ニコニコと、ニヤニヤと、二つの笑いが男にはある、と、たつ子は常日頃考えていた。ニヤニヤが下心をふくんだ下衆《げす》な中年男の笑みであり、ニコニコは真っ正直な少年の笑いだ、と。  少女のような童顔と、それに釣り合わない大きく盛りあがった豊かなバストと、フランス貴族のようなほっそりした脚をもつたつ子は、たえず男たちのニヤニヤの視線にさらされていた。  初対面の客と売子の関係を逸脱しかねない図々《ずうずう》しい会話でありながらも、たつ子はその男のニコニコした顔に不思議な清潔さを感じていた。 「ちょっと、横になってもいい?」  ウォーター・ベッドを指さしながら、男はたつ子に質問する。 「どうぞ。……あ、靴はお脱ぎになってくださいね」 「ズボンは脱がなくてもいいの?」  すまして男が聞く。 「大丈夫でございます」 「大丈夫? 何が?」 「だって、お客様のおズボン、商品を汚すほどひどいお召し物ではございませんもの」 「きみって、……」 「は?」 「ものすごく気のきいた娘なのか、それとも、まったく逆の、ものすごくとんちんかんな娘なのかよくわからない、そう人から言われない?」  確かにたつ子は表情を変えずに冗談を口にするので、周りの者はそれを冗談ととらないことがよくある。けれど、それは計算し尽くしてそうしているのでもなかった。だから、男の疑問はどちらもハズレだったのだ。 「まあ、いいや」  別に回答を真剣に期待していたわけでもないのだよと言いたげに、男は投げやりにウォーター・ベッドに身を横たえた。もちろん、ズボンは身につけたまま。  男は、ウォーター・ベッドの中央に仰臥《ぎようが》する。両目を閉じ、手を胸の上に組んで。まるで柩《ひつぎ》に納められた屍体《したい》のように。  まばたきもせず、たつ子はその姿を見つめ続ける。  平日の午前中の家具売場は客もまばらだ。梅雨《つゆ》時の霧をふくんだ小雨がより一層、今日の人出を拒んだようだ。冷たすぎるほどのエアコンがフロアに満ち、明るい照明器具の下、両手を胸の上に組んで男がたつ子の眼下に横たわっている。  おうい、  と、たつ子は心の中で叫んでみる。  おうい、大丈夫ですかあ。  そう心で呼びかけながらも、たつ子は相変わらずまばたきもしない。そうしているうちに、彼女は、あることに気がついた。  私の無表情さは、私が自分の内の恐怖心と闘い続けることにエネルギーを使い果たしてしまっているからだ。笑顔も泣き顔もつくる余裕などもうこれっぽっちも残されていないほどに。  無防備に横たわる男を見つめ続けているうちに、なぜだか、たつ子は常日頃恐怖心でがんじがらめになっている頑《かたくな》な心があたたかく溶けてゆくのを感じた。 「不思議だね」  目を閉じたまま、男がたつ子に声をかける。 「ぼくは、こうやって七階の宙に横になって浮いているんだ」 「えっ?」  と、たつ子は聞き返す。 「このビルがすべて透明なアクリル樹脂製だったと考えてごらん?」  男は目を開け、けれど横になったままたつ子に話しかける。 「そうすればきみの足元は、地上二十メートルくらいのところに浮いているのがわかるはずだ。高層ビルの階上で働く人々には、自分たちの足がその階のフロアについているものだから、地面に立っているものだと錯覚しているけど、ほんとうは地上何十メートルかの宙に浮いてるんだよ」  たつ子の足元が急に透明に透け、そのはるか眼下に、傘をさして濡れた歩道を足早に急ぐ人々の小さな姿が見えた。ちょうど、水たまりの底から頭上はるかかなたの人々を見あげる石になった少女と逆の位置に今、彼女は、あった。  たつ子は汗ばみ、恐怖心がこみあげてくる。 「みんな、よく、恐《こわ》くないな」  ウォーター・ベッドに横たわった男が独り言のようにつぶやく。 「私は、……恐い」  たつ子が答える。顔はすでに青ざめている。 「私は、恐い。恐いわ。ねえ、お客様、あなたは?」 「ぼくも、恐い」 「でも、平気な顔、してる。どうして?」 「訓練したから」  男はすでに上体を起こし、まっすぐにたつ子の目を見ている。 「教えてほしい? その訓練のこと」  と、男がたつ子に言う。 「うん。教えてほしい」 「おいで」  男はたつ子の前に腕を差し出す。  靴を脱いで、たつ子は男の隣に身を横たえる。  ウォーター・ベッドは、さきほどまで男が体温で温めていたせいなのか、あるいは自動制御の内部ヒーターによるものなのか、ちょうどいい温度でたつ子の身体を包み込む。身体の一点に気を集中すると、そこだけ重みを増して沈みこんでしまうので、うまく全身の力を抜いてバランスをとらなければならない。初めて海に連れてこられた子が、水面に浮く術《すべ》を教えてもらうように、たつ子は男に従う。知らぬ間に、男の腕を枕《まくら》にと求め、代わりにたつ子の腕は男の腰に巻きついてゆく。  神様は、大地に二本足で立つ生物として人間を造りあげたのだ。それなのに、無理矢理大地から引き離されてしまったのが、近代の空中に生活の場を置いてしまった都会人たちなのだ。人間本来の遺伝子に逆らう暮らしを送っているのは現代人の方である。  上司が、客と体をからめて横たわる部下をどやしつけようと走り寄ってきたら、あなたたちの方が変なのよ、と、逆に言い返そうと、たつ子は考えていた。  上司の取り乱した足音を耳にする前に、男は身を起こし、ベッドから腰を上げた。  つられてたつ子も、大急ぎで身を起こす。人気の無い家具売場の、おまけに死角ともいえる一角にベッドは置かれていた。売子と客が仲良く横たわっていたことに気づいた者は一人もいなかったようだ。 「気に入った。もらおうか」  男は上衣《うわぎ》のシワをのばしながら、たつ子に告げる。 「では、伝票に配送先のご住所をお書きください」 「きみの、住所は?」 「え?」 「このウォーター・ベッドをきみにプレゼントするよ、だから、きみの住所と電話番号を伝票に書いて」 「その番号を見て、これから毎晩私の部屋に電話をかけてくるつもり?」 「嫌?」 「嫌じゃないわ」  カウンターの上に置かれた伝票を前に、男とたつ子は見つめ合っていた。一ブロック先からたつ子の上司が、ようやく姿を現し、二人を怪訝《けげん》そうに眺めた。  十月の天気予報  雨の多い秋だった。  里美《さとみ》は街灯に照らし出される夜の雨を玄関のガラス扉《ど》越しに見つめている。霧のように細かな雨である。  郊外の私鉄駅前にある学習塾が里美の勤め先だ。彼女は受付けの席で、電話の応対や成績表の配付という仕事をこなしていた。  このあたりは教育熱心な家庭が多いらしく、小学部ではお弁当持参の子供たちが深夜まで勉強している。  里美の胸にも届かない背丈の子供たちが教材の詰まったデイパックを背負って闇《やみ》に消えてゆく。その光景は、この仕事について半年たった今も里美に違和感を抱かせる。 「SFみたいよ。ミニチュア化されたサイボーグが夜の国に吸いこまれてゆくみたい」  と、里美は彼女の同居人、久夫に語った。 「ミニチュアの眼鏡《めがね》をかけた、ミニチュアのサイボーグが、ミニチュアの自転車に乗って、走り去ってゆくの」 「ふうん」  と、久夫は気の無い返事をする。  久夫の司法試験は六度目も失敗だった。  合格したら結婚しようという約束で、里美が久夫と暮らし始めたのは三年前のことだった。  小学部の子供たちは、中学入試を終えると受験勉強から解放される。  けれど、里美と久夫が解放される日はなかなか来そうもなかった。今二十六歳の里美が解き放たれるのが二十八なのか三十なのか、それは誰にもわからないことだった。  学習塾の勤務時間は午後三時から午後十一時までである。午前中は通ってくる子供は一人もいないから。  だから、平日の午下《ひるさ》がり時の商店街で、塾生の子供を見つけた里美は思わず声をあげた。 「進藤まちこちゃん! 小学部五年生クラスのまちこちゃんじゃないの!」  長く続いた雨もようやく一息ついて秋の青空が広がる日だった。  進藤まちこはギョッとしたように目を見開いて立ち止まった。  塾用のデイパックも登校用のランドセルも背負わず、まちこは手ぶらだった。パーカーのフードが秋の風に揺れている。 「今日は? 学校は、お休み?」 「……運動会の代休」 「一人? おかあさんは一緒じゃないの?」 「…………」  うるさいなあといった顔でまちこは里美をにらみつける。 「お祭り」 「え?」 「お祭りがあるから、行くの。一人で」  そう言ってまちこは里美を振り切り、走り去った。  昼の食事の材料を買いそろえて里美はアパートに帰宅した。  久夫はいない。日中は司法試験専門の予備校に通っているのだ。  久し振りの晴天なので思いきり風を入れようと窓を開けたとたん、久夫の机の上の紙が散らばった。それらを拾い集め、元に戻そうと久夫のデスクの引き出しを開けた里美は、予備校の退校通知と、未払いの月謝の請求書を見つけた。  進藤まちこの母親が、学習塾を訪ねてきたのは、次の日の夕刻だった。塾長がまちこの母の相手をしている。 「……登校拒否なんです。……この一週間どうしても、……学校は嫌だと……でも、塾は好きで……ええ、ですから……」  途切れ途切れに母親の言葉が里美の耳に届く。  お祭りに行くの、と言ったまちこの昨日の顔が里美の脳裏をよぎった。  母親との話を終えた塾長が里美を呼んだ。 「木暮さん、悪いけど、明日から午前九時から午後五時までの勤務時間に替えてくれない?」  登校拒否のまちこを午前中から塾で預かるというのだ。 「でも、……私、勉強、教えられません」 「教えなくていいんだ。一人で塾の部屋に居たいとまちこちゃんが言ってるらしい」 「…………」 「頼むよ。五時以降の事務は、山崎さんに頼むから」  山崎さんとは、里美の同僚の二十歳《はたち》の女の子である。  進藤まちこは、小学部期待の優秀児であった。彼女をこの塾から一流校へ進学させれば、塾のいい宣伝になる。どうしても手放したくない塾生らしい。 「ずっと、じゃない。この秋の間だけでも……ってことだから、……いいね?」  塾長とまちこの母親に頼まれて、里美はまちこのお守りを引き受けてしまった。 「私、明日から勤務時間が変わったの」  帰宅した里美は久夫に告げた。  一瞬、え、という表情を見せたが、 「塾で登校拒否児を預かることになって、……午前中から夕方までの勤務になっちゃった」  という里美の言葉に、久夫はほっとした表情を見せた。  なあんだ俺《おれ》のこととは関係ないのかという久夫の安堵《あんど》の表情に、里美は久夫の引き出しの中身を思い出した。  久夫は、確実に、里美を欺いている。そして、そのことを隠している。  けれど、里美はその問題を問い詰めようとはしなかった。  まちこと里美の、二人だけの塾の毎日が始まった。  晴天もつかの間、再び細かい雨の降り続く日が続いている。  里美は塾の玄関の鍵《かぎ》をあけ、薄暗い教室に電灯をともして、まちこを待つ。  レインコートの雨を払ってまちこが部屋に入ってくる。夕方までは一人で教室で過ごし、五時からは他の塾生とともに授業を受け、そして帰ってゆく。  日中、まちこが教室に居る時間、里美は玄関|脇《わき》の受付けで郵便物の整理をしながら過ごす。  月例テストの偏差値のおしらせ。  冬期講習会の受付け開始のビラ。  各クラス講師の報告書。  それらの紙片を折りたたんで封筒に入れ、保護者の住所と名前を書き入れる。  作業の手を止め、時折、ボンヤリと里美はガラス越しに雨を眺める。  ——久夫は、いったい——  もう何日も里美は繰り返し考えていた。 「おねえさん!」  突然、まちこが里美の目の前に現れた。 「は、はい、何か用ですか?」  仕事をサボっているのを見とがめられた気分で里美はまちこを見あげる。 「おねえさん、ちっとも見にこないのね」 「え?」 「あたしが教室で一人で何してるか気にならないの?」 「…………」  学校でも家でもほとんど口を開かなくなってしまって——というまちこの母の言葉を思い出した。なんだ、話が少し違うではないか、と里美は訝《いぶか》る。 「あたしのこと、学校の勉強が嫌いで、塾の受験勉強の方が好きで、だから、学校サボって受験勉強ばかりしてる子だと思ってるでしょ」 「塾長先生たちはそう思ってるらしいわ」  と、里美が答えると、まちこはフフンと鼻で笑った。 「違うのよね。受験勉強なんて、六年の二学期からやれば充分間に合うわよ。二、三か月やれば、一流校のどんな問題だって、あたし、解けるもん」  まちこが75という驚異の偏差値をとる生徒であることを里美は思い出した。  模試を重ねるたびに当塾始まって以来の天才少女だと、塾長が興奮の声をあげていた。  改めて里美はまちこを眺める。  平均よりかなり身長は大きい方であろう。  胸も少しふくらみ始めているが、中学部の生徒に比べるとまだ随分幼い。  利発そうな瞳《ひとみ》をしていたが、平板で特徴の無い顔立ちだった。 「四年生、五年生の頃から中学入試の準備をするなんて、トロい連中よね。あたしだったらそこまでしなくたって一流校に入れるもんね」  まちこの挑発は続く。 「おねえさん、学校はどこ出てるの?」 「田舎《いなか》の学校よ。名前言ったって、あなた知らないと思う」  腹立ちを押さえながら里美は冷静さを装ってまちこの相手をする。  こんな生意気な子だから、きっとクラスで仲間はずれにされて登校拒否になってしまったのだろう、と里美は思った。 「こんな仕事、おもしろい?」  まちこは里美の手元に積み重ねられた封書の束を指さして言う。 「毎日毎日、封書の宛《あ》て名書きと電話番だけの仕事なんて、あたしだったら耐えられないな」 「くそくらえ、よ」 「でしょ、くそくらえみたいな仕事、でしょ」 「くそくらえ、は、あんたよっ! 進藤まちこっ!」  ついに里美の怒りは爆発し、まちこに向かって大声を浴びせかけた。  里美に怒鳴られて一瞬|呆《ほう》けた顔をしたまちこだったが、次の瞬間、顔を真っ赤にして玄関を飛び出していってしまった。雨の中。傘もささず。  ついてないな、なんでこんな職場を選んだのだろうと、里美はため息をつく。  それに、もっとついてないな。  ——なんであんな男を選んだのだろう。  翌日、首を覚悟で里美は塾へ出勤した。けれど予想に反して、まちこはいつもどおり何食わぬ顔で塾にやって来た。今日は塾の前まで母親が車で送ってきている。まちこの母が里美に軽く会釈する。里美もぎこちなくそれに応える。  受付けの脇を通り抜ける際、まちこは里美に一枚の紙を渡した。思わず里美はまちこを見たが、まちこは里美から視線をはずしていた。口元に薄い笑みを浮かべてまちこは教室に消えた。  その紙片には、難問中の難問と思われる中学入試の算数の問題が書かれていた。その下に、 「退屈な、くそくらえの仕事のヒマつぶしに解いてみたらいかが?」  と、子供らしい丸文字で書き添えられていた。  その十分後、里美は教室に乗りこみ完璧《かんぺき》な解答を書いた用紙をまちこにつきつける。 「……解けたの?」  虚をつかれたようにまちこはポカンと口を開けて里美を見つめた。さきほどまでの傲慢《ごうまん》な表情は消え失《う》せている。  一昨年、司法試験とともに公務員試験の準備をしていた久夫は、一般数学の問題集もそろえていた。その中のこみいった算数の問題を里美も一緒に解いていたのだった。  ともかく、里美はまちこに一矢を報いることができた。  まちこが問題を出して、里美が解くという二人のこの小さな戦争は、そうやって二週間続いた。その間も雨は降り続け、久夫も予備校へ行くと偽り続けていた。  二週間ぶりに青空が広がった。  無言に近い戦いを続けていた里美とまちこだったが、ついに里美から休戦を申し出た。 「いい天気だから、外に行こ!」  二人はパン屋でサンドイッチと飲み物を買って公園に出かけた。  池のまわりを囲むベンチの一つに腰をかけ、パン屋の包みを開いた。 「五勝六敗かあ……」  サンドイッチを頬《ほお》ばりながら里美がまちこに話しかける。 「確か、そうだよね。まちこちゃんに出された問題、五問は解けたけど、六問は間違えた」 「……おとなにしてはいい方だよ。ウチのお母さんなら一問も解けないよ」  バナナジュースを口にふくみながらまちこが答える。 「自分じゃ一問も解けないのに、子供に勉強しろと口やかましいおかあさん、なのかと思ったんだ。つまり、まちこちゃんのおかあさんが、ね」  まちこは息を詰めて里美を見つめる。 「ところが、全然。いいおかあさんじゃない。それどころか、勉強なんかしなくていい、中学も受験しなくていい、子供らしくのびのびしてくれればってヒトなんだよね」  まちこは黙ったまま里美がしゃべるにまかせている。 「それじゃあ、学校の方に問題があるのかと思って、調べたんだ。すると、驚くほどいい子なのよね、まちこちゃんて。クラス一友だちが多くて人気者でお勉強ができて、でも、決してそのことを威張ったりはしなくて、……あ、体育だけはちょっと苦手なのかな?」 「…………」 「みんな、心配してたよ、まちこちゃんのクラスの子たち。どうして学校に来ないのかなあ、って」  公園の池の表面にさざ波を立てながら秋の風が渡ってゆく。十月の陽差《ひざ》しにはまだ夏の名残りの熱がこもっているようだ。ひなたで暖められた二人の肌を、ひんやりとした風が撫《な》でてゆく。 「あのさあ、夏の試験でたった一回偏差値45とったことなんて、人生じゃ大した問題じゃないんだよ」  里美がまちこに話しかける。まちこはハッとして里美を見つめ直す。 「おねえさんは、そのせいであたしが登校拒否してると思ってるの?」 「ま、それだけじゃないだろうけど」 「…………」  たぶん、それだけじゃない。それよりもっと大きな問題は、まちこの細すぎる目や低すぎる鼻や、どうしても飛べない八段の跳び箱の方に隠されているのだろう。  まちこにつきあいながら、里美は自分の小学生時代を振り返っていた。  十歳の頃。  クラスには、とび抜けておとなっぽい女の子やら格別に乱暴な男の子やら様々な個性がひしめいていた。  それでも教師たちは五年生のクラスという大雑把な扱いしかしなかった。  子供たちは平均値からはずれた資質はごまかし、おおい隠し続けなくてはいけなかった。  人より優れていてもダメ。  人より劣っていてもダメ。  それがバレてはのけ者にされてしまう。  子供たちが教室で何より神経をつかうのはその一点だけであった。  まちこは、自分の優秀さを隠すことには人一倍長《た》けていた。けれど、自分の欠点を隠すことには慣れていなかったに違いない。  初めてとった悪い点。  初めて気づいた悪い器量。  長所を隠すことは得意でも、短所をごまかすことについては、どうしていいかわからず、精神が混乱し始めたのだ。  そのバランスの崩れが登校拒否というかたちで表れたのだろうと、里美は分析していた。  けれど、それを口にはしなかった。  女の子は十歳までは、自分の器量の偏差値に気づかないのだ。  まちこが日中一人で塾の教室に通い始めた最初の頃、里美は彼女が部屋で一人何をしているのかこっそりとのぞいたことがある。  デイパックから出した小さな手鏡をじっとのぞきこむまちこの姿がそこにあった。  しばらくの間、二人は黙って、ただ食事を続けていた。  バナナジュースの空パックをくしゃくしゃと丸めてまちこはポイッとそれをゴミ箱に投げ入れた。 「おねえさんにあやまろうと思ってたことあるんだ」 「なに?」 「学校サボってること、おねえさんが家に告げ口したと思ったから、それで憎たらしくしてたの」  午下《ひるさ》がりの商店街でバッタリ出会った時のことを言ってるらしい。 「子供なんだ、あたし。親に内緒でハンコ盗んで欠席届け出したことを先生が見破って家に連絡をとったなんて知らなくて、てっきりおねえさんが……」  こんな仕事、よく耐えられるわね、と憎まれ口をたたいたまちこの姿を里美は思い出した。  吸いこまれそうな青空が二人の頭上に広がっている。休戦のつもりがどうやら停戦を迎えそうだった。 「まちこちゃん、学校、行く?」 「……まだ、わかんない」 「あのさ、おねえさん今一緒に住んでる男の人いるんだけど、その人六回も司法試験落っこってるんだ」 「司法試験って……。あの難しいの?」 「六回よ、六回。それに比べたらまちこちゃんなんて、たった一回、悪い偏差値とっただけじゃない」  けれど、その久夫も登校拒否に近い状況だということをまちこには言えなかった。 「一緒に住んでるって、……恋人?」 「うん、まあ、そんなところかなあ……」  ヒューヒューと、まちこが里美をはやし立てる。 「羨《うらやま》しいな」 「まちこちゃんが羨しがるようなカッコいい人じゃないの」 「恋人、いるだけで、羨しいよ」 「まちこちゃんももうすぐできるよ」 「できないよ、あたしは」 「そんなことないって」 「あたし、おねえさんみたいにキレイじゃないもん」 「キレイになるよきっと。まちこちゃん、今だってカワイイよ、けっこう」  確かに切れ長の目をした平板な顔の少女だったが、化粧映えするのは逆にこういう顔立ちである。だから、里美の言葉はまんざらお世辞だけでもなかった。  里美の言葉に、まちこは不愉快そうに顔をそむけた。そうやってこぼれ落ちる涙を里美に悟られまいとしたのだった。  十代の頃。——里美は思い出していた。  樹々《きぎ》の風に枝を震わせるのを見るだけで泣けてきた。  空が青いと、それだけで胸がしめつけられた。  おとなになるのは、気が遠くなるほど遠い未来のことだと思っていた。  そんな思春期の様々な思いを、人より早熟なまちこの心は十歳の秋にすでに感じ始めていたのだろう。 「ホントに、そう思う?」  と、涙の少し入り混じった声でまちこが里美に問いかける。 「え?」 「ホントに、おねえさん、まちこにも恋人できると思う?」 「できるわよ」  里美はニッコリ微笑《ほほえ》んでまちこに答える。姉が妹を諭すように。自信たっぷりと。愛情をこめて。 「あたし、恋人ができたなら——」  まちこが声をあげる。 「ありがたくって、感謝しちゃって、毎日手を合わせちゃうな、その人に」  二人は顔を見合わせ、声をたてて笑った。  いい考えだな、と里美は思った。——今夜、家に帰ったら久夫に手を合わせてみようか——。  明日からまちこが登校するかどうかは、わからない。  今夜久夫が彼の秘密を里美に打ち明けるかどうかもわからない。  それでもいいや、と、里美は思った。  秋の陽が少し黄色味を帯びて傾きかけている。  明日からまた雨かもしれないけど、今日はこんなにいいお天気なのだから。  十一月のガーデン・パーティ  ガーデン・パーティを思いついたのは、麻実だった。十一月のよく晴れた日曜日、祖母の広大な屋敷の庭にテーブルを置き、白いクロスを張り、ティーカップとクッキーを並べよう、と。  名目は、祖母の七十歳の誕生祝いということにしよう。  この提案を最初に聞かされたのは、麻実の婚約者の茂だった。 「でも、きみのおばあちゃんて、確か、八月生まれじゃなかったっけ」 「いいのよ。だって、真夏にガーデン・パーティなんかやったら年寄りはぶっ倒れちゃうじゃない」 「十一月にガーデン・パーティやったら、年寄りは関節炎起こしちゃうよ」  だから、麻実は祖母用のデッキチェアと暖かなウールの膝《ひざ》かけを用意した。  その、十一月の日曜日は、朝からどんよりした重苦しい曇り空だった。  祖母の屋敷は東京の郊外、五百坪の敷地の中にあった。代々の地主であり、屋敷以外にもそのへん一帯の土地をかなり所有しており、隣接している幼稚園もその一部を切り売りしたものである。  庭だけで、三百坪はあった。芝生が敷きつめられ、一隅に池と植木がほどよく配置されていた。パターゴルフのコースぐらいならゆうにとれる芝の広がりだった。  そこに、せっせと茂がテーブルと椅子《いす》を運ぶ。手伝っているのは麻実の従兄弟《いとこ》たち。高校生や大学生の従兄弟たちに交って、小学生のチビがパイプ椅子をひきずっている。  女たちは、台所でクッキーを焼いていた。洋館風のその屋敷の厨房《ちゆうぼう》には、旧式の大きなオーブンがしつらえてあった。  昨夜のうちに寝かせておいた生地を、女たちは思い思いのクッキー型で抜く。女たちの手仕事は、にぎやかなおしゃべりとともに進行する。  ゆで卵だけで一週間に三キロもやせたわ、とか、染めるよりメッシュがはやりよ、とか言っては、大声で笑いさざめいている。たわいのない軽口に、大げさなほどの笑い声で応《こた》えるのが中年の女たちの特徴だ。  中年の、子育ても終わりに近づいた主婦たちは、もはや何も生み出さず、何も獲得できない残りの人生を、それなら笑って生きるが勝ち、と、ひらき直っているのだろうか。  その女たちの亭主、つまり、麻実の父を含む中年の男たちは、テラスですでにビールを飲み始めている。話題は、ゴルフと政治と、来シーズンのプロ野球。男たちはゲームにしか興味が無い。もう若くはないが、彼等はまだ人生というゲームに参加している。九回裏まで勝敗のわからないゲーム。一番年長である麻実の父の長兄は、八回表までの試合を終えていた。不動産業を営む彼は、得点も多いが失点も多い。27対25レベルの試合をやっていた。  麻実の父の末弟は、地方の役所勤めであり、彼にとって人生は、六回表まで0対0の静かな、盛りあがりのないゲームだったに違いない。  男たちは試合に興じ、女たちは観客席で笑い合う。それが今日集まった何組かの夫婦のスタイルだった。  麻実は、白いシフォンのドレスでホステス役を引き受けた。 「麻実ちゃん、寒くないの? 半袖《はんそで》じゃない」  白く透けるシフォンのワンピースは、シェイクスピアの芝居に登場する妖精《ようせい》の衣裳《いしよう》のようだった。 「平気。若いもん」 「麻実ちゃん、いくつになったっけ」 「二十四」  厨房の女たちは、一瞬、黙り、互いに見詰め合う。が、それも、 「わーっ、麻実お姉ちゃんきれーい」  という、麻実の姪《めい》たちの歓声に打ち消された。 「お嫁さんみたーい」 「まだ、まだ。麻実お姉ちゃんの本番はこれからなのよ」  幼い姪たちの母親、つまり、麻実の兄嫁がたしなめる。 「麻実ちゃん、茂クンとの式はいつなのよ」 「うふふ、それは、ナイショ」  麻実は兄嫁に目くばせして厨房を出る。さすがに戸外の空気はひんやりと肌に冷たい。  白いドレスのすそを風にふくらませて麻美は庭を駆け抜ける。 「いい、いいよ。このテーブルの配置。あ、おばあさまのデッキチェアは中央に、ね」  ホステスであり、なおかつ本日のパーティのプロデューサーでありディレクターでもある麻実は、細かく指示を下す。 「ちぇっ、今日、ホントはサッカーの試合だったんだけどな」  と舌打ちする高校生の従兄弟を、大学生の兄が肘《ひじ》でこづく。  それを見つけた麻実は、 「サッカーの試合は年に何回もあるけど、おばあさまの誕生日は年に一回だけなのよ」  と、明るく声をかける。  その日、麻実は朝から笑顔を絶やさなかった。それは十一月の寒空に、無理矢理来シーズンの春の服を着せられこわばって微笑《ほほえ》むファッション雑誌のモデルとは違い、心からの笑顔だった。  こんな麻実の笑顔は初めてだ、と、茂は思った。が、そんな、感傷的になりがちな思いを打ち消すように、彼は黙々と椅子を運び続けた。  完璧《かんぺき》に配置されたテーブルの上に白いリネンのテーブルクロスが広げられる。  女たちが香《こう》ばしいクッキーの皿をもって厨房から出てくる。  男たちはほろ酔いの赤い顔をして芝生に足を踏み出す。  本日の最年少者、麻実の姪たちが主賓の祖母を迎えに家の奥に消える。 「まあ、まあ、どうしましょう」  見事にセッティングされたテーブルに、祖母が感嘆の声をあげる。 「なんて素晴らしい誕生日のパーティでしょ。ありがとう、麻実ちゃん」  そして、祖母は、麻実が小さい頃からそうしてきたように、彼女の頭を軽く引き寄せ頬《ほお》ずりをした。それから、一堂に会した一族の顔をゆっくり見回した。  失敗した者。成功した者。まだ途中の者。恋に泣いた者。恋も知らない者。 「驚くのは、これからよ、おばあさま」  本日の趣向として、 〈おばあさまを驚かせるプレゼント〉  を、各々用意するよう麻実は指示していたのだ。 「はい、大おばあちゃま!」  小さな姪たちは文字どおり、かわいらしいお手製のびっくり箱を手渡した。  バネ仕掛けの紙人形が飛び出す小箱に、祖母はやさしい笑顔で応える。  女たちは過剰なまでに反応して大声で笑う。  男たちはクッキーを紅茶でのどの奥に流しこみながら、飲み残したビールのことを考えている。  伊豆の温泉巡りのクーポン券。  全身マッサージ器。  本物そっくりの泣き声をあげる猫のぬいぐるみ。  各々が思いをこらしたプレゼントを祖母に手渡す。  その一つ一つに祖母は慈しみの微笑でこたえ、女たちは笑い転げ、男たちは紅茶ぶくれになった腹を揺する。すでに飽き始めた小さな子供たちは芝生の上でぴょんぴょん跳《は》ね始める。 「それでは」  ひととおりプレゼントが終わったことを見届けて、麻実が声をあげる。 「最後に私たち——私と茂サンからおばあさまにプレゼントです」  麻実が茂に目くばせする。  玄関の方へ走り去ったと思うと、茂は長身の若い男を連れて駆け戻ってきた。  茂の友人の中で、最も背が高く最もハンサムな高木くんを呼んできたのだ。彼は朝からずっと茂のライトバンの中で出番を待っていた。 「ねえ。おばあさま、彼って、亡くなったおじいさまに似てない?」  二十年前に亡くなった麻実の祖父は、長身で美男でダンスが上手で、ずっと祖母の自慢だったのだ。 「一曲、踊っていただけませんか」  高木くんは練習させられたとおりのセリフで祖母に話しかける。  用意されたカセットが、ショパンのワルツをかなで始める。 「あら、まあ、どうしましょう」  ドウシマショウが口グセの祖母は、戸惑いながらも頬を上気させている。 「麻実ちゃん、驚いたわ。麻実ちゃんのプレゼントが一番。驚いちゃったわ」 「どうぞ、お手を」  高木くんはこの日のためにダンスを特訓してきたのである。 「ホント、おじいさんの若い頃そっくりよ。ありがとう、ありがとうね、麻実ちゃん」  男も女も子供たちも、このハンサムな若者と七十歳の老母の成行をじっと窺《うかが》っている。 「だけどね、ダンスはもう無理。この年だもの。この年で、こんなキレイな男の人と踊ったりしたら、このオンボロな心臓は破裂しちゃうわ。カンベンね。ホントに心から嬉《うれ》しいの。でも、ダンスは、ダメ」  高木くんと麻実と茂は顔を見合わす。カセットは相変わらずショパンのワルツをかなでている。エンドレスのテープに編集してきたのだ。 「麻実、じゃ、おまえ、高木と踊れ」  茂が麻実に向かって突然声をかけた。  一瞬、全員が息をのむ。  茂は麻実より背が低く、おまけに小太りでぶ厚いレンズのメガネをかけていた。モデルの経験もある麻実には明らかに不釣り合いだと、彼らを見た人間は誰しもそんな第一印象を抱いた。 「高木、踊ってやって。せっかくテープも用意したんだし。パーティにはダンスが無くっちゃ、ね」  言葉を失ったまま高木くんは立ち尽くしている。  と、麻実は茂の手をとった。 「やっぱりダンスは婚約者とでなくちゃ」  と茂を芝生の中央まで引っ張り出し、ステップを踏み始めた。  麻実の白いドレスがくるくるまわる。  つま先立ちのパンプスが軽やかに芝の上を舞う。  照れながらも茂の腕はしっかり麻実の身体《からだ》を支えている。  祖母が立ちあがり、二人に拍手を送る。  男も女も、笑顔で手をたたき出す。  子供たちも、おとなたちの真似《まね》をして力いっぱい手をたたき鳴らす。  けれど、みんな知っていた。麻実が不治の病でもう余命いくばくもないことを。おそらく、七十歳の彼女の祖母よりも早くこの世からいなくなってしまうだろうことを。そして、婚約者のままで茂とお別れしようとしていることを。  今日のガーデン・パーティは、麻実からみんなへのさよならの挨拶《あいさつ》だということを、ほんとうはみんなわかっていたのだ。  退屈な主婦の昼下がりのおしゃべりも、ゲームに疲れて帰宅する男を癒《いや》す灯《あか》りを居間にともす幸福《しあわせ》も知らずに、麻実は——。  晩秋の風がテーブルの上を撫《な》でて通り過ぎる。 「あっ雪だ」  子供の声に、全員、空を見あげる。  早すぎる十一月の雪が、天からふわふわ舞い落ちてくる。  それにも気づかず麻実と茂はくるくるといつまでも踊り続けていた。  あとがき  文庫化ということで、数年ぶりで、私の書いた小説、というものを読み返してみた。  私は、本業である漫画ですら、読み返すということをほとんどしない。読み返す時間が無いくらい忙しいというのが第一の理由で、あまりにも下手な絵を見返したくないというのが、第二の理由である。小説の場合は、絵を文体と置き換えればよい。  さて、「恋愛物語」は、私が初めて出版した短篇小説集である。  短篇漫画ならば、それこそ百本に近い数をこなしていた私だが、人から 「小説を書いてみたら」  と、勧められても、さて、どうやって書いてよいものやら、見当もつかなかった。 「エッセイも書くじゃありませんか。エッセイの�私�を、第三者の名前にすればいいんですよ」  とも、助言をいただいた。  ただ、私の中で、漫画で描けるものを、わざわざ小説で書く必要は無いという思いがあり、どうせ書くのなら、今まで漫画で描かなかった(描けなかった)ことを、という変な気負いもあり、そのため、「野性時代」連載時には、締切りギリギリまで間に合わず、担当編集者の方に随分迷惑をかけた思い出がある。  だから、柴門ふみの漫画に親しんできた人には、ちょっと異質な感じのするストーリーになっている。「東京ラブストーリー」や「同・級・生」の活字版を期待されても、ちょっと違う、と感じられるだろう。  ただ、改めて読み返してみて、私の漫画作品の内、ごく初期の短篇や「女ともだち」の何本かに通じるところがある、と発見した。  全般的に、若いな、と、今の私は感じる。でも、それはそれでそう悪くはないな、とも思う。今ならもっと深く書けるような気がする。  作品自体、青くて、ポツン、ポツン、と切れ切れのイメージが強く、情感が追っついてない所も多々あるが、それはそのままの私の初期漫画作品の持ち味でもあった。  あと何年かたったら、もっと情感に満ちた長篇の小説が書けるかもしれない。今は、一本も小説というものを書いていない状況だけれど、久し振りに又書いてみたいな、という気分に襲われた。  たまには読み返すのも、いいことだ。 一九九三年三月二十日に角川書店より単行本てして刊行 角川文庫『恋愛物語』平成9年1月25日初版発行           平成12年5月25日6版発行