[#表紙(表紙.jpg)] 恋愛の法則36 柴門ふみ 目 次[#「目 次」はゴシック体] [#ここから改行天付き、折り返して4字下げ]  モテモテの法則[#「モテモテの法則」はゴシック体]  1 絶対、異性にモテる法則——同性に嫌われるタイプが異性に好かれる  2 男は、悲しい過去を語る女に弱く、女は、未来の夢を語る男に弱い  3 母は娘に理系男との縁談を勧める  4 不倫の法則——地味なOLのほうが派手なOLより不倫にはまる  5 浮気の証拠が上がったら、否定しても認めても女房は怒る  6 同じタイプの洋服ばかり買う女は、男に生まれ変わると浮気性になる  美人が教える女の法則[#「美人が教える女の法則」はゴシック体]  7 性格のいい美人は、醜男《しこお》の情熱に負ける  8 美人ほど早く老ける  9 成功する女の法則——気が強くて性格も悪い女が成功する  10 女は、自分が手に入れられなかった人生を生きる女に猛烈に嫉妬《しつと》する  11 悪女に美人はいない  母と子の愛の法則[#「母と子の愛の法則」はゴシック体]  12 母性とは、心配のあまり愛する我が子を憎む気持ちのことである  13 男の浮気心がペットブームをまき起こした  14 子育てを終えた主婦は、犬を飼う  15 母親が美人の男は、晩婚である  16 勉強しろと言われて勉強する子供はいない  おじさんとおばさんの法則[#「おじさんとおばさんの法則」はゴシック体]  17 世界中の男から教養を失くすと日本男性になる  18 おばさんは、必ず四人以上で群れる  19 おばさんは、横一列で道を歩く  20 声の大きい人間は自慢が多く、早口の人間はウンチクが多い  21 男は花の名前を覚えられない  占いにはまる法則[#「占いにはまる法則」はゴシック体]  22 人は都合のよいマグレを信じて、騙《だま》される  23 占いとは、人を外見で判断する職業である  外見で人を判断する、[#「外見で人を判断する、」はゴシック体]   あるいは、おしゃれの法則[#「あるいは、おしゃれの法則」はゴシック体]  24 人は年をとればとるほど外見と中身が一致する  25 女のPTA会長は、体型が四角い  26 学生時代のスターは、社会に出てから大成しない  27 太った女に極悪人はいない  28 コンプレックス隠しと結びついたファッションは、必ず流行る  29 男の長髪が流行ると女の髪は短くなる  30 見かけの若い人は、心も若い  しみじみ人生の法則[#「しみじみ人生の法則」はゴシック体]  31 人は年月をかけて身につけた役割から急には逃れられない  32 国立大出の人間は、私大出身者に負ける  33 女たらしはグルメではない、もしくは恋する女は眠らない  34 同窓会に出ると、友達はみんな出世している  35 人の職業を決定するのは、快楽である  36 「いいこと」が続けて起こる人とは「悪いこと」を忘れる人である [#ここで字下げ終わり]   あとがき [#改ページ]   モテモテの法則[#「モテモテの法則」はゴシック体] [#改ページ] 絶対、異性にモテる法則  ——同性に嫌われるタイプが異性に好かれる [#地付き][第1の法則]  世の中の大部分の人間は、異性にモテたいと思っている。  結婚してようが、ステキな恋人がいようが、 「もっともっとモテたい」  と、人間の欲望はとどまるところを知らない。  そこで、この法則では、これで必ず異性にモテる、という秘伝を公開しよう。これでモテなかったら、私は筆を折ってもいい(腕力は強いほうなので、三本の筆でもまとめて折ってみせる)。  とにかく、これで、明日から貴兄(女)はモテてモテてしようがなくなること間違いなし。私はこの案を特許申請しようかと思っているくらいだ。 〈同性に嫌われる奴ほど、異性に好かれる〉  これがまず、基本型である。  モテる男性に対する、男性間の評判の多くは、 「あんな口ばかりの奴に、なんで女は騙《だま》されるんだ」  というものである。  一方、モテる女性に対して女たちは、 「フン、なによ、あんな色気虫」  と、悪口をたたく。  口のうまい男と、色気を振りまく女が、異性にモテるのだ。  なぜならば、女は男に言葉で酔わせてもらいたいと願い、男は触らせてくれそうな女が好きだからだ。  私の知っているモテ男は、とにかくマメで会話がうまい。 「きみのような女性に、初めて出会った」 「どんなに忙しくても、きみが呼べば、ぼくは地球の果てからでも駆けつけるよ」 「きみがぼくの恋人だってことを、世界中に自慢して歩きたい」  普通の男なら、死んでも口にできないようなセリフを、いとも軽々と、女の目を見ながら語れる男。これが、女にモテる男なのだ。  言われた女は、なにさ口ばっかりと思いつつも、嬉《うれ》しい。頭では、こんな軽薄男と思いこもうとしても、身体の芯《しん》で喜んでいる。女とは、そういうものなのだ。他の女にも同じようなことを言ってるかもしれないけれど、でも、あたしにだけは心の底から本心でそう言っているのよ、と、解釈してしまう。女とは、そういうふうにできているのだ。  日本人の男性の多くは、 「口に出さなくても、わかるだろう」  と、なかなか甘い言葉をささやかない。照れとプライドもあるのだろう。だが、それではモテないのだ。  熱い言葉で、愛の告白をする女は、嫌われる。この女、ちょっと危ないんじゃないか、と、男は引いてしまうのだ。だから、男自身も女に愛の言葉をかけるのを躊躇《ちゆうちよ》する。けれど、女に熱い愛の言葉をささやく男を、女は決して危ない男とは、思わない。逆に、ウットリしてしまう。男と女の心理メカニズムの差だ。男が嫌だな、と思うことを、必ずしも女も嫌だなとは思わないのだ。  色気女に話を進めよう。  基本的に、男は女を触るのが好きだ。一方、女は、男に触られるのは嫌である。大好きな男性以外には、とにかく触られたくない、触りたくもない。電車の中の痴漢が一〇〇パーセント近く男であることからも、これは証明される。男は見ず知らずの相手でも、女なら触りたいのだ。  水商売の基本は、客の男の膝《ひざ》の上にホステスさんが手を置くことにある、と、聞いたことがある。  女を触ることが好きな男は、女に触られることも好きなのだ。  ホステスさんは、客に肩を抱かれても、足を撫《な》でられても、嫌がらない。商売だからだ。その代償に、男は膨大な金を払う。社員旅行で、記念写真を撮る時、部下の女の子の肩を抱いて、キッとにらまれたりするが、ホステスさんは、男の腕を拒否したりはしない。だから、男は、飲み屋に通うのだ。  商売でもないのに、男の身体にベタベタ触る女がいる。あの女、水っぽいわね、と、必ず周りの女からうとまれる。そうして、こういう女は、男にモテる。  色気女がなぜモテるのかといえば、男から見て、触らせてくれそう、触っても怒らなそう、触り心地がよさそう、という三要素を含んでいるからだ。だから、モテる。  女が、異性にモテたければ、男に身体を触らせればいい。そうして、自分からも触りまくるのだ。言葉なんかいらない。身をしならせて、寄りかかればいいのだ。  要するに、異性にモテる男女とは、普通の男女が、 「そんな真似、とてもできない」  と思うことを、堂々とやってのける人たちのことなのだ。 「そこまでして、モテたくはない」  と、大抵の人は思う。だから、大抵の人はモテないのである。 [#改ページ] 男は、悲しい過去を語る女に弱く、 女は、未来の夢を語る男に弱い [#地付き][第2の法則]  同性に嫌われる女性には共通の特性がある。自分が同性に嫌われているということに気づかない鈍感さである。彼女は、同性に嫌われても平気なのだ。その分、異性に好かれているから。そして男性が彼女をチヤホヤすればする分、女性はますます彼女が嫌いになってゆく。  学校で。あるいは職場で。同性にはことごとく嫌われる一方、異性にはやたら評判のいい女がいるものだ。  女性の中の一人が、男に忠告したとする。すると、 「彼女は本当はいい子なのだ。みんな誤解してるよ。僕には、彼女の良さがわかる」  と、間違いなくすべての男はこう答えるはずだ。  けれど、断言していい。  同性の多くに嫌われている女は、やはりそれだけの理由を持っている。  私は、高校のとき苦手な女の子がいた。見栄っぱりで嘘つき。強い者に媚《こ》び、弱い者を操る性格だったからだ。そんな私に、仲の良い男の子がこう言った。 「きみは、A子を嫌っている。確かに彼女には悪い評判がある(高校時代すでに何人もの男と同時につきあってるとの噂が流れていた)。でも、ぼくはA子を嫌いじゃない。A子の両親は離婚している。その淋《さび》しさがわからないかなあ」  淋しければ、嘘つき女になってもいいのかと、十代の青臭い女学生だった私は、当時この男の子の言葉に納得できなかった。私は、A子の嘘によって大恥をかかされたことを根に持っていたからだ。でもまあ、これは私個人の恨みによるもので、その男の子がそんなに弁護するのなら、A子もそんなに嫌な女でもないのかなあと、二十年以上思っていた。  ところが、つい先日、女ばかり四人で会食したところ、〈男を惑わす魔性の女〉の話になった。 「我が社の魔性の女のテクニックは、男性社員全員に私の秘密をあなたにだけ話すわと言って、幼い頃両親が離婚した話を打ち明けるわけ。これでもう、男はコロリなんだから」  と、ある女性が語った。  私は、膝《ひざ》をたたいた。  私の二十年以上の疑問が、ようやく解けたのである。私がA子に嫌な感じを抱いていたのは、A子が自分の不幸話を男に明かすことによって異性に媚び入るタイプの女だったからだ。  男はとかく、女の不幸話に弱い。さらに、あなたにだけ打ち明けるのよ、誰にも言わないでね、などと言われるとたまらないものらしい。  一方、女は、よっぽど母性本能が強い女性でなければ、男の不幸な打ち明け話にはのらない。不良で突っ張っている男がぽろっと悲しい過去をもらすと心が揺れることもあるが、今現在不幸な男がさらに不幸な過去の話を打ち明けても、「ゴメンナサイ私ニハ重スギル」と言って逃げ出すほうが多いだろう。不幸な男に頼られても、多くの女は困惑するばかりだ。  その代わり、女は男の夢に弱い。夢を語る男に、ぽおっとなってしまう。  定職に就かず、金にも時間にも女にもルーズな男に限って、夢だけは熱っぽく語るものだ。 「彼の、夢に賭けてみよう」  と、女はそんなチンピラに騙《だま》されてしまう。 「夢を語るときの、彼の瞳《ひとみ》が好き」  と女は言うが、彼は彼自身の膨らみすぎた妄想の中でトランス状態になっているに過ぎない。  おまけにこの男の〈夢〉というものがじつに抽象的で、 「お店を持ちたい」 「いつか有名になってやる」 「金持ちになるんだ」  といったようなものばかりである。 「来年までに係長になる。そのために、毎月百件の契約をとるんだ」  このような具体的かつ実現可能な夢を語るチンピラはいない。そんな将来を見据えた計画を立てられないから、そうかチンピラなのか。  このチンピラのような、具体性を持たぬ夢を語る男は、男たちの間では非常に評判が悪い。  生い立ちの不幸話を男にだけ打ち明ける女が、女たちの間で非常に評判が悪いのと同じように。  そうして、評判の悪い異性に騙された本人は、 「他の人たちは確かに騙されたけれど、私(僕)だけは、違う。私(僕)だけは本当のあの人を知っている。私(僕)だけは騙されていない。本当の愛だった」  と、必ず思うのだ。  タチの悪い魔性の女やチンピラに騙された人たちが、後々、彼らを決して悪く言わないのは、こういう理由からである。 [#改ページ] 母は娘に理系男との 縁談を勧める [#地付き][第3の法則]  知り合いの娘さんがお見合いをした。どんなお相手だったのと私が聞くと、 「一流企業にお勤めのエンジニア。いい人らしいんだけど、無口なので会話が続かない」  と、彼女は答えた。  理系の男は、無口であることが多い。とくに女の子を前にすると、ほとんど会話のできない理系大学生を私は過去数多く見てきた。  思うに、理系の人間は、合理性を追求するタイプであるから、意味のない会話は無駄としか思えないのであろう。  実際、おしゃべりな人の会話の内容に耳を傾けると、何の実もないたわ言をべらべらしゃべり続けている場合が多いものだ。今日は暑いですね。巨人また負けましたね。ところで奥さん元気ですか。  そんなことをいちいち口に出すのは、エネルギーの無駄だと、頭の中で計算して、理系の人は無口になってしまうのではないだろうか。  理系の人間は、あらゆる現象を数量化してしまうらしい。  先日、脚本家の三谷幸喜《みたにこうき》さんと対談した。三谷さんは脚本家としては珍しく、理系の人間だと言う。彼は、登場人物の感情の動きをグラフ化して、それをもとにストーリーを展開していくのだそうだ。 「柴門さんは、どのように漫画のストーリーをつくるんですか」  と、三谷さんに聞かれた。 「……適当です。ボーッとしてると、バババッと絵が浮かぶので大急ぎで紙に描き写します。だから、つじつまが合わないのなんてしょっちゅうですね。もちろん、表もグラフも使いません」  三谷さんは、『12人の優しい日本人』という裁判劇のシナリオを作る際、十二人の陪審員それぞれが、時間の経過とともに、今何パーセントくらい無罪に傾いているか、まだ有罪と思っているかの表を作成し、それを見ながら話を書いていったと言う。 「表の作成に時間とられちゃって」  それで、三谷脚本の上がりはいつも遅れるらしい。  高校二年で数学と物理、化学を捨ててしまった私には、何とも新鮮な話だった。  私は漫画家デビュー直後、夫から、 「きみの作品は、下手な葉書の文面みたいだ」  と、よく言われたものだ。  つまり、計画なく文章を書き始めるものだから、葉書の書き出しは大きな字でゆっくりと季節のあいさつなどを書き、終わりに近づくにつれスペースが小さくなり、細かい字で用件を書きつらねるはめになってしまうというのだ。  確かに、何の計画も立てずに描き始めたストーリーが、最初はゆっくりと、中盤で焦り始め、ラストはぎゅうぎゅう詰め、というのが、私の初期の漫画の特徴だった。細かな、同じ大きさの字がきっちりと並んだ葉書をもらうと、ああこの人は理系だなと思う。  計画を立てるとは、つまり、無駄を省くということ、余計な遠回りを回避しようとすることである。だから、計画作りの好きな人は合理的で、したがって無口でもある。  おしゃべりな男は、夢ばかり語って、具体的な計画を何も立てない奴が多い。結婚詐欺師も、このタイプである。べらべら、べらべら気持ちのよい夢物語を女に語って聞かせ、ウットリさせるのである。そういえば、無口な結婚詐欺師など聞いたこともない。すると理系の結婚詐欺師もいないことになる。 「理系の男は、無口でつまらない男かもしれないけれど、間違いは犯さないし、結婚するには一番向いてるタイプなのよ」  もう長い間、日本の母親は、適齢期の娘にこう繰り返し言い聞かせてきた。  合理性至上主義の理系人間にとって、不倫などという不合理きわまりない、何の実りもない、人生の無駄でしかない行為は、おそらく無縁であるはずだ。と、世の母親たちは見抜き、娘たちにこの真理を説いて語ってきたのだ。  私の友人は、やはり理系のエンジニアとお見合い結婚した。真面目そうな人物で、結婚後も、彼には浮いた話は一つも出なかった。それまで浮気男とつきあっては泣かされてばかりだった彼女に、私は言った。 「よかったじゃない。やっぱり、結婚相手は理系に限るわね」  すると、彼女は答えた。 「でもね、帰宅するなり、自分の部屋に閉じこもって、ずっとパソコンいじってるの。会話もないし。つまんないわ」  理系男を夫に持つ妻にとって、最大のライバルはコンピュータである。女よりもはるかに合理的な反応をするこの機械に、理系男は女以上の快感を覚えるのであろうか。 [#改ページ] 不倫の法則  ——地味なOLのほうが派手なOLより不倫にはまる [#地付き][第4の法則]  夕方の七時頃だったと思う。私は西麻布《にしあざぶ》の交差点のそばの喫茶店で時間をつぶしていた。広尾《ひろお》のレストランで会食だったのだが、予定より随分早く到着してしまったので、約束の時刻までそこで暇をつぶすことにしたのだ。  私の隣の席で、二十代半ばと思われる女性が、同じように時間を持て余していた。パラパラと女性向け情報誌をめくったり、冷めたコーヒーをすすったりしながら、時々入口のほうへ視線を向ける。どうやら、人と待ち合わせらしい。けれど彼女は、西麻布という場所にはおよそそぐわない、流行遅れのパステルカラーのスーツに、手入れの行き届いてないロングヘア、顔のつくりも地味そのもので、人を魅《ひ》きつけるオーラもインパクトも何もない若い女だな、と思って私は持ってきた文庫本に視線を落とした。  すると、女が何やら大慌てでカバンに雑誌を詰め込み、身仕度を始めた。  中年の男が彼女のテーブルに足早に近づき、そしてテーブルのうえのレシートを取ってレジに向かった。  冬の夕刻にもかかわらず男が手ブラのスーツ姿だったので、私は一瞬彼のことをお店の人かと思った。そのくらい素早く無駄のない動きだったのだ。  が、そのまま、中年男と地味女は、西麻布のネオン街に消えていった。 「ああ、不倫なんだ」  と、私はやっと気づいた。  男がコートも着ずの手ブラ姿だったのは、近くに車を停めてあったからだろう。そうして、多分路上駐車のため、足早に行動したのだ。あのあと地味女は中年男の車に乗り込み、六本木界わいのラブホテルへ行くのだろう。  私が意外だったのは、中年男が、オシャレでハンサムで感じのいい男だったという点である。  テレビドラマや映画で見る不倫は、金持ちのギラギラした中年男と、セクシーな若い女との組み合わせである。俳優が演じるからしようがないが、ドラマのなかでは愛人は必ず美人である。妻にはない魅力を備えてなければならない。  ところが、現実に起こる不倫は、 「ありゃ、りゃ」  と、腰が抜けるほどの地味でサエない若い女が起こしているケースが多い。一方、相手の家庭ある男は、中年にしては魅力的、若い頃はさぞかしモテたであろう伊達男《だておとこ》だったりする。  女は、同年代の華やかな女たちに比べて、ひっそりと地味な感じ。  おそらく、その中年男が若かった頃には見向きもしなかったであろうタイプ。それが、中年になって、若く魅力的な娘からは、 「おじさん」  としか扱われなくなったとき、若ければただもうそれだけで、ブスだろうが陰気だろうが、肌さえプリンプリンに張っていれば、くたびれた中年妻より数段輝いて見えるのだ。  テレビのワイドショーで芸能人の不倫騒動を見ても、不倫される妻は、大体元美人。不倫相手の愛人は若さぷるぷるで、第三者から見ても、深くシワの刻まれた元美人はかなわないなと、わかってしまう。  元美人妻は、夫に浮気される確率が高い。なぜなら、その夫は、美人が好きな性格なので、美人が齢をとって美を失ったら、もう好きでなくなるのだ。だから、女は、結婚するときに、年とともに磨かれてゆく美点を見そめられて結婚するほうが幸せになれる(たとえば性格とか、料理の腕とか)。  話を元に戻して、女性の側からしても、同年代の男にモテモテのチャーミングな若い女性は、妻子持ちの中年男の愛人になんかならない。若い娘は、今の自分の魅力に釣り合う上物《じようもの》の男と結婚することに目標を絞るからだ。  同年代の男に無視されがちな、地味で目立たない若い女が、ふと優しい言葉をかけてくれた中年男に、ホロリときてしまうのだ。  若くて将来性があってこれから楽しい家庭を築いてゆけそうな男からさんざん優しくしてもらっている美女と違い、孤独な女には、下心見え見えな中年男の優しさも、胸に沁《し》み入るのだ。  自分を高く売りたい若い未婚の女性にとって、中年家庭持ち男との情事は時間の無駄でしかない。  だから、世の不倫の多くは、もう若くはないということを認めたくない中年男と、同年代の若い男に軽視されている淋《さび》しい若い女の間で起こっているのだ。 [#改ページ] 浮気の証拠が上がったら、 否定しても認めても女房は怒る [#地付き][第5の法則]  菅《かん》民主党代表(注・連載当時)が不倫疑惑に、 「一切、男女の関係は無い」  と答えて、日本中の主婦の反感を買った。 「じゃあ、あのとき菅さんはどう答えればよかったんですか。不倫を認めれば認めたで女は怒るでしょう」  と、ある男性が私に尋ねた。 「もちろんです。ホテルの部屋に一晩中一緒にいた証拠があるんですからね。あの場合、菅さんには二つの逃げ道があったのに、どうしてそれを使わなかったんでしょうねえ」  と、私は答えた。 「一つ、ボクはホモですと弁明する。二つ、ボクはインポですと公言する。この二つなら、女と一晩ホテルで過ごしても言い訳が立つでしょう」  そう。もし女房から浮気の証拠を突きつけられたなら、男は同性愛か性的不能に逃げるしかないのだ。  夫の浮気を知ると、妻は大抵怒る。息子がガールフレンドと性的交渉を持っても怒りはしないが、亭主の浮気には激怒する。普段、夫にそんなに愛情を感じていない妻でも、浮気を知るや、猛烈に腹を立てる。初めての浮気でなく二回目三回目となっても、怒りに慣れることはなく、そのたびに新たな怒りがこみあげてくる。妻とはそういったものなのである。  では、なぜそんなに怒るのか。妻の言い分を挙げてみよう。  浮気するヒマがあったらもっと私にかまってよ。忙しい忙しいと言う割に、浮気するヒマはあるのね。——これは、本来私をチヤホヤするのに使われるべき男の時間とエネルギーが他の女に奪われたという怒りである。要するに女はケチでどん欲なのだ。自分が当然手に入れられるはずの権利を他の女に取られたことに対する怒りなのだ。  肉体関係がなくても、精神的に夫が他の女に優しくすると、それだけで怒り出す妻もいる。これは妻でなくとも、恋人関係にある女性にもよく見られる傾向である。あなたは私にだけ優しくすればいいのよ、他の女に優しくするのは裏切りよ、とこの手の女は考えるからだ。男が女に対して、 「君を愛しているよ」  と言った限りは、他の女には一切優しくしませんと言ったも同然と女は解釈するのだ。 「あなたは私を愛していると言ったくせに、別の女に優しくした。嘘つき」  と、これが女の論理である。  女とは本当に欲が深い。一人の男に底知れぬ愛と奉仕を要求する。それが得られないと逆上する。女の愛は、もっともっと深く、なのである。  それに対し、男の愛は、もっともっと広くなのだ。  私を愛していると言ったくせにどうして浮気をするのと責める妻に、夫は、 「他の女と寝たからといって、君への愛が冷めたわけじゃない」  と、弁解する。愛と精力と金に余力のある(それを甲斐性《かいしよう》があると表現する者もいる)男は、どんどん手を広げたっていいじゃないかと考えるのだ。男の論理である。  妻と夫の間でケンカが絶えないのは、このような二者の決定的な考え方の違いがあるからだ。  少女漫画は、少年漫画と違って、単行本何十巻もの大長篇がほとんどない。スポーツや格闘技をテーマとする少年漫画は、さらに強い敵を出現させることで、話はいくらでも続けることができる。ところが、恋愛をテーマとすることが多い少女漫画では、恋する二人が結ばれてしまったら、それで話はオシマイ、なのである。なぜなら、結ばれた後、女は男にもっともっと深く愛してくれと要求し、男はそんなこと無理だと拒絶し、もっと別の女はいないかと探し始める——破局である。  女のテーマは、もっともっと強い敵ではなく、もっともっと深い愛なのだ。女がこの要求を押しつけ始めたら、恋愛は終わりなのだ。けれど、漫画は夢を売るのが商売だから、そんな苛酷《かこく》な現実は描写できない。そのため、二人は結ばれましたという幸福の絶頂でストーリーを終えるしかなく、したがって長篇少女漫画が生まれにくいのだ。  ところで、結婚生活は恋愛ほど簡単にオシマイにはできない。財産、家族、社会といろんな縛りが加わってくるからだ。  だから疑似破局としての浮気に男は逃げ道を見出すのであろう。 [#改ページ] 同じタイプの洋服ばかり買う女は、 男に生まれ変わると浮気性になる [#地付き][第6の法則]  春と秋に、「季節の収納便」という宅配サービスを利用している。衣替えのシーズンに、不用の衣類を倉庫に預かってもらうシステムだ。  それほどまでに、私の衣服の量はすさまじい。オフシーズンの衣類をタンス二棹《ふたさお》分預けたとしても、我が家の収納はもう満杯である。子供の分は、各々の部屋に据え付けのタンスで間に合い、夫の衣類はすべて彼の仕事場に押しやっている。となると、四畳半のウォーク・イン・クローゼット、寝室に据え付けのタンス、さらに桐《きり》ダンス、白木ダンスに私の衣服だけが何十着としまわれているのだ(何百かもしれない)。 「もう、洋服を買うのは、よそう」  そう、何度決意したことか。  それでも、デパートに足を運ぶたびに、新しい服を買ってしまう。それも一枚五、六千円のブラウス程度だ。そんなに高い服は買わない。 「買い物依存症」かもしれないと思ったが、この症状の人は買ってしまった後に深い後悔にさいなまれるとあるが、私は後悔も反省も全く無い。だから、依存症では無さそうだ。  秋の流行色は、グレーだそうだ。グレーの服なら山ほど持っている。いくら店頭にグレーの服が並んでいようと、この秋は一枚も買うまい。私は心に誓った。  ところが、ショップに飾られているグレーのセーターを見るや、欲望が止まらなくなる。 「確かに、私の持っているグレーのセーターとほとんど変わりは無い。けれど、微妙に衿《えり》ぐりが違う。その衿ぐりこそ、私が求めていたラインなのよ。そう、あのセーターは、私に着られるためにこの世に存在している」  そう考えるや、買わずにはいられない。そうして買って帰ったセーターも、二、三回着ては飽きてしまい、また新しいセーターを探し始めるのだ。  これって、クリントンの浮気に似てないか。  唐突だが、私は、この二つを結びつけることにした。  ビル・クリントン。言わずと知れたアメリカ合衆国大統領(注・連載当時)。ヒラリーという、才色兼備この上ない妻がいながら、不倫の噂が絶えない。  かつて週刊誌上で、クリントンの浮気相手と噂された女性数名の顔写真が載っていた。解説に、 「彼の好みは大柄なグラマーで、かみつきそうな立派な歯並びの女性」  とあった。確かに、似たようなタイプの女性の写真が並んでいた。メリル・ストリープやミア・ファローは、好みではないだろうと思われるラインナップである。  これってつまり、色の中ではグレーが好きで、グレーの服はいっぱい持っているが、でも新しいグレーを見ると、どうしても手に入れたくなる心境と同じなのではないか。  浮気性の男を観察すると、大体、同じタイプの女ばかり取っ替え引っ替えしている。  若いのが好きな男は、年増の女には目もくれないし、水商売系色気女が好きな男は、お嬢さんタイプを疎《うと》んじる。  若い女なんて、どれも似たようなものなんだから、若い女で失敗した男は、次の若い女でもまた失敗することがわかっていそうなものなのに、何度でも同じ間違いを繰り返す。  何度も若い愛人とつきあっては別れることを繰り返している常習的不倫男に、私は質問をしたことがある。 「若い女は、必ず結婚を求めるから、あなたのように、絶対離婚しないで愛人と不倫を楽しむタイプは必ず女に去られるわけでしょう」  と。 「そのとおり」  と、男は答えた。 「それがわかっていて、でもまた、何度も不倫を繰り返すの?」 「そこに、女がいるから」  私はずっと彼の言葉がわからなかったのだが、グレーのセーターを目の前にして、やっとわかった。 「そこにグレーのセーターがあるから」  私は、買ってしまうのだ。  目の前に、女がいる。俺の好みだ。けど、今まで似たようなタイプの女と何度も失敗してきた。やめておこうか。が、待てよ。今までとは、どこか何かが違うような気もする。そうだ、この女は俺のものになるためにこの世に生まれてきたんだ。  そのように、その不倫男は考えるに違いない。そして多分、ビル・クリントンも。  こういう男たちは、女のいない世界に暮らすしかない。あるいは老婆ばかり、または貧相な身体つきの女ばかりの国に移住するか。私も、洋服を売っていない国を目指すことにしよう。 [#改ページ]   美人が教える女の法則[#「美人が教える女の法則」はゴシック体] [#改ページ] 性格のいい美人は、 醜男《しこお》の情熱に負ける [#地付き][第7の法則]  邱永漢《きゆうえいかん》氏の名エッセイの中に、 「美人と結婚するのは、財界の二世か醜男にきまっている」  という文を見つけた。  私もじつは、ずっと以前からこれに似た法則に気づいていた。  世の中、意外と美男美女のカップルがいないものである。  映画やテレビドラマの中では、美男美女の恋愛が盛んに見受けられるが、俳優とはそもそも美男美女がなるものであるのだから、それはいたしかたないのだ。  美男は、放っておいても女にモテる。だから、自分から努力をして女を口説いたり繋《つな》ぎとめたりはしない。  だから、たまたま美男美女同士のカップルができたところで、そのあとのフォローが弱い。美女のほうも、チヤホヤされるのには慣れていても、自分が下手に回って男を持ち上げるなんてことは、まずしない。したがって、美男と美女は、たとえ交際してもそう長くは続かないのだ。  芸能人がいともあっさりと離婚してしまうのも、ここに大きな要因がある。 「私は美男(女)だから、次がすぐ見つかるさ」  と、ものすごい自信を持っているのだ(と、思う)。それに比べ、一般ピープルは、 「これを逃すと、もう後がないかもしれない」  と、つつましやかな純情(あるいはセコい打算)のため、なかなか離婚に踏み切れない。  美男美女カップルが長続きしないのは、双方が異性に甘やかされ続けて生きてきたため、男女間の努力、妥協というものを持ち合わせていないからである。  美男に比べ、醜男の努力・精進たるや、雲泥の差といえよう。美女を手に入れるために、あらゆる努力を惜しまない。  呼ばれれば真夜中でも駆けつけるし、彼女の誕生日には百本のバラも贈る。それだけではない。醜男の最終目的は、〈美人を妻に持つ〉であるのだから、彼女がプロポーズを受けてくれるためなら、どんな約束でもしてしまう。  家事もしなくていい。仕事も続けていい。キミの両親と暮らしたっていいんだ、と、ほとんど無条件降伏である。  性格のいい美人は、ここで折れる。  ディズニー映画『美女と野獣』でもそうだが、醜男でも誠意を尽くしてくれれば、人情としてホロリとくるものだ。  ただし、性格の悪い美人は、ダメである。人情よりも欲望が強いので、〈財界二世の醜男〉以外の〈醜男〉に対しては、ノーと、はっきり口にする。  そうやって、努力の醜男は、念願の性格のいい美人と結婚できるのだ。  私は、そんな事例の結婚を三組は知っている。三組揃えば法則化できるという持論の私は、だから堂々とこれをサイモンの法則に加える。  このような結婚式では、新郎はデレデレにとろけっぱなしであり、一方、新婦は、 「あたしって、本当にこれでよかったのかしら」  という戸惑いの表情で一歩引いていることが多い。  私の知っている三例は、今のところ幸せそうであるが、美人が子供を産んでブクブク太り始めたりすると、状況が変わってくる。 「家事をしなくてもいい、と、確かに結婚前にボクは言ったかもしれないけど、しかし、限度というものがあるんじゃないか」  などと、ネチネチ責め始める。 「仕事は家庭をないがしろにしない程度に続けてもいいと言ったんだ、キミは仕事とボクのどっちが一体大切なんだ」  と、チクリチクリと釘《くぎ》を刺し出す。  醜男と美女が末永く幸せに暮らすためには、美女は自分の美貌《びぼう》を衰えさせてはならない。そうでなくても、そんなに好きではない醜男の、情熱ただ一点にほだされて結婚したのだから、この二者のキズナは、浅い。結婚生活|破綻《はたん》の確率は、高いのだ。 「えっ、こんな美人が離婚するの」  というケースも、意外と多い。醜女《しこめ》よりも、美人のほうが離婚しやすいのかもしれない。それは、男の情熱に押し切られ、その男の本質をつかみきれぬまま結婚生活をスタートしてしまうからに違いない。醜男だって、美人の美の部分しか見ていないわけだから、彼女の本質なんて何もわかってはいない。  つまり、醜男と美人は離婚する確率が高い、ということを、この法則につけ加えておこうか。 [#改ページ] 美人ほど早く老ける [#地付き][第8の法則]  大女優Yに、三十年以上恋い焦がれていた私の夫が、とある場所でYを見かけたと言う。 「いやー、老けてたよ、驚いた。同じ年頃の女性と比べてもやっぱり老けてるほうだな。若い頃はあんなに可愛かったのに。どうしてだろう」  テレビを見ていても、女優さんて一般人より老けが早い気がする。なかでも、育児や出産で数年のブランクがあった後、画面に再登場した元美人女優を見ると、 「老けたなー」  と、思わず声を上げてしまうことがある。  一方、個性派と呼ばれるタレントさんは、老けが遅い気がする。いやむしろ、年とともに洗練されて美しくなった気さえする。  それは思うに、美というものが、一瞬のバランスの内に存在するからではないか。  完璧《かんぺき》な美人は、目尻《めじり》が三ミリ垂れただけで、 「崩れた」  という印象を人に与える。  元々垂れ目のオカメ顔の女性は、年をとってさらに垂れようとも、顔の印象は変わらない。  だから、〈美人は老けやすい〉ではなくて〈美人は美を失いやすい〉と言ったほうが正解かもしれない。 「あれっ。この人は以前ほど美人じゃなくなったぞ」  と感じた人は、その原因を探ろうとする。 「そうか、この二重|顎《あご》と額のシワが、彼女から美を失わせたのか」  と、気づかなくてもよい彼女の老化に注意を払うようになってしまうのだ。  垂れ目で下ぶくれの女性の額にシワが何本増えようとも、 「ああこの人は、いつものオカメ顔のままだ」  と人は認識し、シワ[#「シワ」に傍点]まで目が届かなくなる。だから人は、垂れ目とか歯が出過ぎているとか小鼻が張っているとか、印象深い(個性的な)パーツを持っていれば持っているほど、老化を気づかれずにすむのだ。 「顔」というものの本質を、「他人と識別すべき目印」とするなら、美人は「できの悪い顔」と言うべきである。  私には、どうしても顔を覚えられない美人の知人がいる。いわゆる美人顔なので、逆に特徴が無く、覚えづらい。何年かおきに会うたびに、 「どなたでしたっけ」  と、私は尋ねてしまう。識別できないのだ。レースクイーンのグラビアを見ても、どれが誰だかさっぱり、である。  ブスの中に美人が一人いれば目立つが、美人ばかりいる中で一人の美人を見つけるのは、かなり困難である。  けれど、ブスばっかりの中でたとえば一番顎の長いブスを探すのは簡単である。ブスは顔のどこかのバランスが崩れている。そしてそのアンバランスの具合は、百人いれば百通りなのだ。だから、識別可能なのだ。  別に彼女たちのことをブスと言っているのではないが、研ナオコさんはここ二十年間研ナオコさんであるし、和田アキ子さんは和田アキ子さんである。老けたなあとか、変わったなあとは、ほとんどの人が思わないはずだ。  大女優Yに限らず、離婚して女優カムバックしたNとか、かつてトレンディ女優と呼ばれたAとかが、 「どうして、そんなに老けちゃったのお」  と驚かれるのに対し、やはり個性派は強いのだ。  なかには、若い頃のまんま妖怪《ようかい》のように老けない女優さんもいるが、そういう人は美容整形を疑ったほうがいい。  鈴木その子さんや野村沙知代さんくらいになると、あまりにも強烈な個性ゆえに、実年齢より老けているのか若いのか、あるいは美人なのかそうでないのかもわからなくなってしまっている。個性は、年齢や美醜すらも超越してしまうのだ。  さて、では美男子は醜男より老けやすいのだろうか。  男性の場合、女性と違って、老いが頭部に現われる。一般に、「ハゲはシワが少ない」と言われるのは(言っているのは私だけか?)、ハゲに出会うと人はまずその頭部に目が行ってしまい、顔のシワにまで目が届かないからだけかもしれない。ところが、髪がフサフサしていると、人の視線は顔面に集中し、 「髪に比べ、なんと顔が老けているのか。つまり、シワが多いってことだ」  と、ハゲに比べ頭部の豊かな人のほうがシワが多いと思い込んでしまうのだ。  郷ひろみさんが年齢の割にシワが深すぎると言われるのも、彼が髪の豊かな二枚目だからだろう。彼がシワを気にしているならば、いっそ、丸坊主になればいいのだ。 [#改ページ] 成功する女の法則  ——気が強くて性格も悪い女が成功する [#地付き][第9の法則]  ここ何年か、パーティーや会議、対談で〈成功した女〉と知り合うことができた。一方、きれいで頭も良くて性格も善良なのに、なぜか運の悪い女性というのにも数多く出会った。  運をつかむ女と、運を逃《のが》す女。  世の中にはこの二種類がある、と、私ははっきり悟ったのだ。もっとも成功にも種類があり、オリンピックで優勝するのも、玉の輿《こし》に乗るのも、ささやかで平凡な家庭を築くのも成功ではあるが、ここではあえて、仕事で成功した女に限らせてもらう。  一目で、成功する女を見抜く方法がある。  目である。  やはり、目の輝きが違うのだ。小さかろうが細かろうが、抜け目のない女の目の光は、それとなくわかる。後でも触れるが、彼女たちの目は、一瞬の好機も逃すまいと、絶えず全方向に注意を払っている。獲物を狙う狩人《かりゆうど》の目と言おうか。ぼんやりとかうっかりといった隙は決して持たない。さらに、心を開放して朗らかに笑っているふうにしていても、どこか冷めて周囲を観察している。  これは、成功した男性にも言える。企業の役員クラスは、くだらない駄ジャレを飛ばしながらも、目が冷え冷えとしていることが多い。獲物を狙いながらなおかつ、自分より強い敵には絶対弱みを見せまいと気を張っているのだ。  ぎらぎらして同時に冷めた目を持つ女は、高い確率で成功する。なぜなら、こんな目の女には、周囲は一目を置かざるを得ないからだ。犬のケンカではないが、目を逸《そら》したほうが負け、というのは人間社会にも通じる。気の弱い女は、この段階で、強気な瞳《ひとみ》の女に負けるのだ。  ただし、単に目をぎらつかせただけの実績のない若い女は、早い時期に別の女たちにつぶされることも多い。 〈上昇志向の強い女〉とレッテルを貼られ、ことあるごとに足を引っ張られるのだ。本当に成功したいならば、若い時期に先を急ぐのは禁物である。少なくとも二十代は、野心を隠しておくべきだ。その賢明さを持ち得た女だけが生き残れる。  次に、成功する女は、人に媚《こ》びない。  女の武器に〈媚び〉がある。媚びる対象があるうちはこの方法は成功するが、後《うし》ろ楯《だて》をなくしたとたんに失墜するのがこのタイプの女たちだ。一度落ちるや、それまで苦々しく思っていた女たちに完膚なきまでにたたきのめされるので、再浮上するのは難しい。  媚びない女は、どんなに強い相手だろうが、 「それは、できない」 「それは、嫌いだ」  と、はっきり言う。  じつは、日本の女性は、この手の受け答えが苦手である。優秀な女性でも、気をつかいすぎて、つい言葉をごまかしてしまうことが多い。あんなに頭も性格もいいのに仕事がうまくいかないのね、と言われる女性に多いのがこのタイプ。性格の良さが、仕事ではマイナスとなるのだ。  となると、気が強くて性格も悪い女が成功するのか。そのとおりである。加えて、美人でないことも成功の秘訣《ひけつ》である。  気が強くて性格の悪い美人は、二十代のうちにつぶされる。なぜなら、数で言えば、美人でないほうが美人より圧倒的に数が多いからだ。束になってかかったブスの憎悪が、少数の上昇志向の強い美人をつぶすのだ。一匹の猫も、一万匹のネズミには負けてしまうように。  気が強くて性格の良い美人は、今一歩のところで運を逃すことが多い。おっとりしすぎているからだ。運を逃しても、 「まっ、いいか」  と思ってしまう。仕事で失敗しても、優しく支えてくれる男性が周囲に大勢いる。ところが、ブスは、いつも、 「私の人生、後はない」  という危機感を抱いている。だからこそ、一瞬のチャンスも逃さずにつかみ取ろうとするのだ。  私が実際に出会った成功した女性は、一見、 「へえ、あんな気の良さそうなオバサンが」  といったタイプが多い。  美人じゃないから、相手に警戒心を抱かせない。その一方で、鋭い光の目を絶え間なく張り巡らせ、忌憚《きたん》なく、 「あなた、それ間違っているわよ」  と、意見を発する。おのずから、周囲には彼女に敬意を払わずにはいられない存在感が漂うのだ。  けれど、多くの女は畏敬《いけい》の念を抱くものの、 「無理にあそこまでなりたくないわ」  と、思う。だから、成功した女は孤独でもある。 [#改ページ] 女は、自分が手に入れられなかった 人生を生きる女に猛烈に嫉妬《しつと》する [#地付き][第10の法則]  先日、四十代の二人の女性と会食する機会があった。二人とも現在独身であり、華々しいキャリアを持つ美人で、今も男性にモテモテらしく私なんぞ羨《うらや》ましい限りなのである。  お二方とも過去に結婚の経験はあるが、子供は持ったことがないそうだ。  私たちの共通の知人の一人が最近出産したことに話題が及んだところ、 「でも、彼女には子供の写真入りの年賀状なんか送ってほしくないわねぇ」  と、美人Aが発言した。 「そうよ、年賀状に子供の写真を送る人間って、あれ、どういう神経なの」  と、美人Bが声高に同調した。  十数年前、我が子の写真を年賀状にしたことのある私は黙ってうつむいた。 「子供が可愛いのって親だけなのよ、親バカなのよ、どうしてそんなことがわかんないのかしら」  美人ABは、子供の写真を見せびらかす母親に対して容赦ない攻撃を開始した。 「あのー、でも、私は親子の写真見て、ここが似てるな似てないななんて観察できて、漫画家として面白いこともあるんだけどな」  と、私はソフトに言葉をはさんでみた。 「おとなはいいのよ、自分の写真を年賀状で送ったって。許せないのは、可愛くもない見も知らない子供の写真を送ってくる人間なのよ」  じつは、私は美人Bから、彼女の着飾った写真年賀状をもらったことがある。このことを美人Aには内緒にしておくことにした。 「でも、犬はいいわね」 「あっ、そうよ。犬はいいわ」 「犬の写真は見せっこするの」 「あら、それって、とてもいい」  美人ABは、ここで犬の写真に話を移し出した。  近頃、確かに子供の写真に交じって自分のペットの写真を年賀状に使う人が増えてきている。 「犬の写真の年賀状って心がなごんでいいわよねぇ」  と、ABは大きくうなずきあったが、私はペットの写真年賀状くらい自己満足のきわみはないと思っていたので、再び黙ってうつむいた。遺伝子の不思議も何も教えてくれないペット写真は、親子写真以下だと思うのだが。  私のように子供を産んでる女は、子供を産まずに中年期を迎えた女性の前では、ひたすら大人しく自己主張せずうつむいていなくてはならないのだ。  たとえどんなに教養を積んだ知的な女性でも、〈出産の有無〉の一点において逆上することがよくある。私は人生で何度もそういう目に遭った。触らぬ神に祟《たた》りなし。そういう女性の前では子供について一切語ってはならない。  不倫している独身女性の前で、家庭生活の楽しさについて語ってもならない。同じ理由で。  逆に、専業主婦の前で、だから主婦はダメなのよなどと口をすべらせると、一生の恨みを買うことになる。  現在、女たちの間には小さな対立がいくつも存在する。子を持つ女VS.持たない女。結婚してる女VS.してない女。職業を持つ女VS.専業主婦。犬を飼う女VS.飼わない女。エトセトラ。これらの対立の共通項は、自分の属さないグループのほうの女に対して激しい攻撃を加えるという点である。コソボの民族紛争と同じくらい激しい憎悪がそこにある。そして民族対立と同じくらい正解がなく、根が深い。  この対立は一元的ではなく、さらに複雑に組み合わさっているので厄介なのだ。たとえば、子持ちの専業主婦は、子持ちの職業婦人に、 「仕事を持ってると子供の面倒見ないで出歩いてばかりだからあそこの子はグレてる」  と、攻撃をしかけてくるのだ。  ま、要するに女にとって自分の持っていないものを持っている女がすべて敵となるのだ。専業主婦内でも子の有る無しで分かれ、あそこは子供がいなくてお金も時間も自由に使えていいわねぇ、となる。  男には、こんな対立はないと思う。子供を持つ同僚に嫉妬する子供のいないサラリーマンなど、まずいない。男が唯一嫉妬するのは、出世した奴に対してだけなのだが、この組み合わせ、どう見ても対立する以前に勝負がついている。が、子供を産んだ女と産まない女は、どっちが勝ちとは決して言えないので、それゆえ対立は深まるばかりなのだ。  男たちは、〈仕事ができるかできないか〉という統一価値観の中で生きている。だから、それ以外の対立図式は生まれない。  けれど、女は、〈仕事がいくらできたって結婚もしてなければ子供もいないじゃない〉の一言で、積み上げたキャリアが一瞬に打ち砕かれたりするのだ。人生の選択の数が増えれば増えるほど、欲張りになるのが女なのだ。 [#改ページ] 悪女に美人はいない [#地付き][第11の法則]  テレビのサスペンスドラマを見ていて、 「あれ?」  と、思うことがある。  犯人の悪女役に美人女優さんが扮《ふん》している時だ。  昨今、信じられないような凶悪な犯罪が女性によって引き起こされている。金がらみ、欲がらみの殺人事件を起こすこれらの女性犯罪者は、マスコミによって「悪女」と呼ばれる。  その代表的女性犯罪者として思い浮かぶのが次の三人である。整形手術までして逃亡を続け時効直前に捕まった福田和子。息子に保険金をかけて殺害した山口礼子。そして、林真須美。  この三人の中に、美人は一人もいない。けれど、三人とも男性関係が派手なので、モテないわけではないらしい。でも、美貌《びぼう》の持ち主ではない。  テレビドラマの中の悪女は、冷たい笑みを口の端に浮かべながら一人バーでカクテルを飲んでいる。  ところが現実の悪女たちは、場末の酒場で気さくにオジサンたちとお酌をかわすオバサンたちらしいのだ。  思うに、なぜ女が犯罪に走るかといえば、そこに満たされない欲望があるからだ。女の犯罪者たちは、まず金を欲しがり、金を得るや次に見栄のために使いまくる。金持ちになりたい。着飾りたい。注目されたい。チヤホヤされたい。これらは、欲、欲、欲、欲である。  ところが美人は、美人であるがために、生まれながらにその欲がある程度満たされているケースが多い。  美人だから、おのずと人に注目されチヤホヤされる。おそらく就職も有利だろうし、黙っていても金品をプレゼントされるはずだ。したがって、ガツガツしない。それほどお金、お金と目の色を変えない。お金のために人を殺すなんて思いもつかない。そんなことしなくても人並み以上に富を手に入れられる(はずだ)からだ。  自己顕示欲が強く、幼い頃に金銭コンプレックスを抱き、美人じゃないけれど男好きする女。——これが前出三大女性犯罪者の共通点のような気がする。それプラス、平然と嘘をつける演技性の高い性格。  日本犯罪史上で、美人が引き起こした重大犯罪がはたしてあっただろうか。  悪女の犯罪といえば引き合いに出されるのが「阿部定《あべさだ》事件」であるが、あれは情愛のもつれの末の変態的殺人であり、金のために容赦なく人の命を奪ったものではない。  悪い男に騙《だま》されて銀行の大金を使い込んだ美人もいたが、保険金殺人に比べれば、大したものではない。  美人は、犯罪を起こすよりも、犯罪に巻き込まれる確率のほうが高い。事件の被害者には美人女子大生、美人ママ、美人OLが多いからだ。しかし、被害者に美人と非美人の格付けがあるというのも、どうも納得できない。  男性の被害者・加害者に美男・非美男の肩書きはつかない。その代わり、エリート・非エリートの格付けがある。 〈エリート転落の末の犯罪〉  このような見出しがあっても、 〈二枚目、謎の犯罪〉  という見出しは無い。被害者は近所でも評判のハンサムだったという記事も、もちろん無い。女の美人[#「美人」に傍点]に対応するのは男のエリート[#「エリート」に傍点]なのだ。  美人は大きな犯罪を犯さないのに対し、エリートは満たされているはずなのに事件を起こす。政治家や企業のトップが平然と法を犯して逮捕されるのだ。  幼い頃からある程度欲が満たされている〈美人〉は大罪を犯さないという私の法則は、幼い頃から恵まれていたエリートでも犯罪に手を染めてしまう男たちには当てはまらないようだ。  男のエリートが犯罪を犯すのは、自分は選ばれた人間だから何をやっても許されるという思い上がりが根底にあると思う。政治家や実業家の馬鹿息子が、クスリや暴行事件といったつまらない犯罪事件を多々起こすのは、生まれたときからチヤホヤされて思い上がっていたからだろう。  一方、美人は、チヤホヤされてもつまらない事件は起こさない。男にチヤホヤされる分、女にひどい目に遭わされているからだ。女の嫉妬《しつと》と意地悪をかわすのが精一杯で、思い上がる余裕もないのが美人というものなのだ。  こう考えると、美人はいい人が多いということになる。それに、人間の性格はやはり顔に出るものであるから、悪い性格だと人を魅《ひ》きつける美人にはなれないはずだ。 「ああ、あの人キレイな人ね」  と、女性が素直に認める美人に、悪女はいない。重大な犯罪者もいないはずだ。 [#改ページ]   母と子の愛の法則[#「母と子の愛の法則」はゴシック体] [#改ページ] 母性とは、心配のあまり 愛する我が子を憎む 気持ちのことである [#地付き][第12の法則]  アシスタントの一人が子猫を飼い始めた。生後二カ月で親から離された小さな赤ちゃん猫である。一人暮らしのアシスタント嬢は、仕事の間中彼女のアパートでひとりぼっちでお留守番する子猫が気がかりでならない様子だ。 「今頃、あたしを探してミャーミャー鳴いてるに違いないわ。お風呂《ふろ》場で浴槽に落っこちちゃったらどうしよう。ふとんの上にそそうはしてないかしら」  てんで、仕事に身が入らないのである。 「昨夜《ゆうべ》も一晩中あたしの耳元で鳴いて、おかげで寝不足なの。あんまりうるさいのでちょっとかまってやったら大はしゃぎして、そのうちあたしの指をチュウチュウしゃぶりながら子猫は眠っちゃって。でも、あたしはへとへと。腹が立つけど、でも、可愛い。それで今は家に残したあの子が心配でたまらない」  腹が立つけど、可愛くて、心配でたまらない。  じつは、これぞ、母性本能なのである。  若い母親が、幼い子を家の中や車に置き去りにして死なせる、というニュースが後を絶たない。これは母性本能の三大条件〈憎い、可愛い、心配〉のうち心配[#「心配」に傍点]が全く欠如した母親だったからだろう。  マスコミ報道では、こういった母親を、 「母性本能の全く欠けた女性」  と非難するが、母性には必ず子供を憎いと思う部分も含まれるのだ。母性を偉大な善として崇《あが》めようとするのは、日本男性の誤った解釈にすぎない。おそらく、マスコミ記者の大半は男性だからそのような報道が大半を占めるのだろう。  子供を愛すれば愛するほど、憎しみもまた増大する。恋愛もそうだが、母子だってそうである。 「おかあさんがこんなに心配してるのがどうしてわからないのっ」  と、夜遅く帰宅する子供を母が叱咤《しつた》する。 「おかあさんが勝手に心配してるだけでしょ。あたし、心配してくれなんて頼んでないもん」  年頃になって口も達者になれば、女の子はこう言って反発する。  確かに、娘の論理のほうが筋が通っている。冷静に眺めれば、である。けれど、母は冷静さを欠いてるもんね。  私は何度、娘と帰宅時間についてケンカしたことか。午後九時。塾が終わって、そろそろ娘の帰る時間だ。九時半。まだ、戻らない。塾で居残りさせられたのかな。九時四十五分。電車が遅れているのかしら。九時五十五分。途中でコンビニに寄っているのだ。あんなに寄り道をするなと言っておいたのに。十時。駅で転んでホームに落ちたんじゃないかしら。十時十五分。暴漢に襲われてひん死の状態かもしれない。あるいは、自転車ごとトラックにはねとばされたんだ。十時二十分。ら致されて暗黒の世界に連れ去られたに違いない。どうしよう。警察に連絡しようかしら。  その時、予定より一時間半も遅く娘が戻ってくる。 「友達としゃべってたら、遅くなっちゃった」  母たるもの、激怒せずにおられようか。 「サイモンさんて、色気も女らしさも無いけど、母性は強いもんね」  と、娘の帰宅の遅れが心配でたまらない話をしたところ、最近子供を産んだばかりの若い友人から言われた。 「それまでもサイモンさんの育児エッセイを読んで、母性の強い人だなあと思っていたけど、でも、私も子供を産んでみて、その気持ちわかるようになったわ」  そうなのだ。私だけが異常な心配性かと思い、友人の何人かに聞いてみたところ、子供の帰りが遅いと、五分毎にベランダに出て姿を探すと、みんな答えてくれた。けれど、私にはさらに、それに漫画家の空想力がプラスされるのだ。悪い事態が次から次へとイメージとして浮かび、リアルな絵となって、私を苦しめる。  去年中学に上がって電車通学を始めた息子に対する心配も加わり、私は、二人の子の帰りを心配するだけで毎日ヘトヘトになっている。こんなに心配して苦しいのなら、いっそ子供なんか産まなきゃよかった、とまで考える。子供たちも成長した分〈可愛い〉と思う気持ちは減ったが、〈心配させられて憎い〉の部分が増えている。  もう心配するのはやめなさいと、人から忠告されもし、頭では充分わかっているのだが、心が勝手に心配するのでどうしようもない。救いもない。  孟母三遷《もうぼさんせん》とは子供の教育のために引っ越した母の話であるが、私は子供の帰り道の心配をしなくてすむように子供の学校のまん前に引っ越そうかと、本気で考えたこともある。子供にとっては嫌な母親だろうなあ。 [#改ページ] 男の浮気心が ペットブームをまき起こした [#地付き][第13の法則]  松方弘樹《まつかたひろき》さんが離婚記者会見で、 「男は二人の女性を同時に愛せる」  と発言したことで、女性コメンテーターから猛烈な批判を浴びていた。  松方さんは「サイモンの第5の法則」を読まなかったのだろうか。まあ、多分読まないだろう。読んでおけばよかったのに。そうすれば、 「愛人に使う愛も私にちょうだい。妻は当然それを受ける権利があるの」  という女の論理を逆撫《さかな》ですることが避けられたであろうに。  たとえば、イチロー選手が、 「ぼくは野球がうまいけど、同時にサッカーも上手なんですよ」  と言ったとしよう。 「そりゃ、サッカーも上手だろうけど、とりあえず今はサッカーに使うエネルギーも全部野球に注ぎなさい。野球選手なんだから」  と、球団関係者は言うだろう。  それと同じことなのだ。 「愛人に注げる愛のエネルギーがあるのだろうけども、とりあえず結婚してるのだから、そのエネルギーも妻のほうに注ぎなさい」  これが、妻の論理である。 「男は二人の女性を同時に愛せる」  という仮説が正しいとしよう。 〈二人以上の女性を同時に愛せる男〉  と、 〈男の愛を一人占めしたいどん欲な女〉  は、決して妥協点を見出せない。これでは世の中の夫婦は、みな離婚してしまうことになる。  しかし、うまくできているもので、夫婦の間には高い確率で息子がいる。この息子が、男でありながら、 〈母以外の女性は絶対愛さない〉  存在なのである(限定、十歳未満)。  母の姿が見えないと泣き叫び、トイレの中までくっついてきて、片時も離れない。他の女なんて、もちろん眼中に無い。見つめるのは、ただ母一人のみである。もちろん隣の家のお母さんに浮気したりしない。  男の子を産んだ母親の多くは、 「私は人生においてこれほどまで男から求められ、愛されたことはない」  と、公言している。  私の体験で言えば、私の夫が少しでも私の肩に触れようものなら、 「ぼくの大切なお母さんになにをするんだ、この助平オヤジ。エイッ」  えいっ、えいっ、えいっと、父を殴りながらこう叫ぶのである。  また、ある時など、夫が私に向かって、 「きみは顔が丸いし、鼻も団子鼻だ」  と、言った。娘も私に向かって、 「お母さん、顔がまん丸で、変」  と、ひどいことを言う。 「ええ、ええ、どうせお母さんはまん丸顔で、鼻もまん丸ですよ、グスン、グスン」  と私はスネてウソ泣きをしてみせたところ、 「馬鹿だなあ、そこが可愛いんじゃないか」  と、七歳の息子が三十六歳の私の肩をポンポンとたたいてくれたのだった。  これ以上の口説き文句を、私は生涯で聞いたことがない。 〈男は、二人の女性を同時に愛せる〉  という仮説は、少なくとも十歳未満の男においては成立しない。  なぜ、母親は息子に執着するのか。  なぜ、母親は息子をマザコンに仕立てあげるのか。  それは、息子[#「息子」に傍点]が、女が求める理想の愛を、惜しみなく母に与えてくれるからだ。  松方さんの別れた奥さんも、これからは息子と二人暮らしをするらしい(注・連載当時)。なんだ、これって女の理想ではないか。  だから、息子を持った母親は、離婚しても再婚しない確率が高いはずだ。一度でも、〈究極の愛〉を味わってしまった女は、それ以下の愛では満足しなくなるからだ。息子以上に一途に、浮気せず愛してくれる男など、まずいないだろう。  ところが。  困ったことに、十歳を過ぎ、思春期を迎えると、息子は母をふる。うっせえ、ババアなどと悪態をつくようになるのだ。  時々、こういった母離れの儀式を通過できない息子がいる。時々というか、近頃は巷《ちまた》に随分増えてきているようだが。でも、まだ大多数の若者は、十代半ばで母から離れていってしまう。  すると、母は、〈二人の女を平気で愛せる〉夫の元に、シブシブ戻るのであろうか。  否。息子よりもさらに一途な愛情を注いでくれる〈愛犬〉に心が向かってゆくのだ。  昨今の〈愛犬〉ブームは、このようなカラクリによってまき起こったのである。 [#改ページ] 子育てを終えた主婦は、 犬を飼う [#地付き][第14の法則]  私の家の近所に、通称「猫通り」がある。静かな住宅街の中を、南から北へまっすぐな道が百メートルほど続いている。陽当たりがいいので、いつも何匹もの猫が、塀やアスファルトの上で昼寝をしていた。で、そこを通学路にする小学生たちが「猫通り」と名づけたのだ。  けれど、その通りに面したある一軒が、巨大なピレネー犬を飼い始めた。すると、その犬の犬友達が毎朝毎夕訪ねてくるようになり、アッという間に「猫通り」から猫がいなくなってしまった。  私が幼い頃は、犬といえば柴犬か秋田犬。洋モノではせいぜいスピッツどまりだった。それが近頃では、巨大な白クマもどきやら、毛糸玉のような小っちゃいのやら、何種類もの舶来犬が町のあちこちを散歩している。 「猫通り」のピレネー犬の小屋の周りには、まるで万国犬博覧会のように、さまざまな種類の犬が、飼い主に連れられて集まってくる。  多いときには十頭ぐらいが、通りを占領している。そこは私の通勤路でもあるのだが、道に寝そべる犬を避《よ》けて自転車をこがなければならない。 「邪魔だ」  私は、腹の底で吐く。けれど、飼い主たちは犬をどけようともせず、おしゃべりに夢中だ。飼い主は全員主婦だからだ。スーパーの生鮮食品売り場の前であろうと、ゴミ収集場の脇であろうと、主婦同士でおしゃべりを始めると、テコでも動かない。かくいう私も、スーパーの精肉ショーケースの前で三十分立ち話をしたことがあるが。  主婦友達は、環境が変わると友達でなくなるケースが多い。子供が同じ小学校、同じ中学校に通っていれば、その学校の話題でおしゃべりはもつ。けれど、全然別の高校に行くと、そのとたん共通の話題がなくなり、疎遠になってしまうのだ。  その点、犬を介した主婦友達は、その仲がエンエンと続くのだ。なにせ、犬には進学も就職もないのだから。自分の犬が友人の犬より偏差値の低い高校に進んで気まずい思いをすることもないし。  それにしても、犬のいったい何についてそんなにしゃべることがあるのだろう。  私は時々、好奇心から、犬を連れた主婦グループの会話に耳を傾けるのだが、 「ウチのチャッピーたら、お腹こわしてね……」  などと、やはり犬のことについて話している。  自分ちの猫やら犬やらについて、鼻の穴を膨らませてしゃべる人たちがいる。  私だって自分ちの息子や娘について、鼻息荒くしゃべることもあるから、まあ、似たようなものであろう。  子供の幼稚園クラスで知り合った主婦の何人かが、一斉に犬を飼い始めたことがあった。  末っ子が小学校へ入学したときである。  つまり、子供に手がかからなくなったとたん、手のかかるペットが欲しくなったのだ。  思うに、母性本能とは、開発されるものである。娘時代には、心の奥底に眠っていた母性というものが、妊娠、出産をきっかけに、女の身体の中に目覚める。  そうして、育児を通して、母性はますます拡大していく。  私自身、一人目より二人目のほうが、より母性が強くなったと感じている。末っ子を母親が可愛がるのは、母性がどんどん膨らんでいった結果である。  母性とは、より幼きもの、よりか弱きものに向かう降り注ぐ日光のような愛情である。  街角で、おばさんたちが、若い母親に抱かれた赤ん坊に向かって、 「あら、可愛いわねー、可愛いわねー」  を連発するのは、何人か子供を育て上げたのちも、母性が開きっ放しの状態であるからなのだ。  私自身、そうである。町で可愛い赤ん坊を見つけると、さらってきて頬ずりしたくなる。  それは、私が犬を飼っていないせいかもしれない。  多くの母親は、末っ子が成長したあとの母性の持って行き場に困り、犬に走るのだ。  私の住む地区は一戸建てが多く、飼う条件に恵まれているせいかもしれないが、とにかくやたら、主婦が犬を連れて散歩している。  では、なぜ猫ではなく犬なのか。  犬は、ご主人様に仕えるのが至上の喜びであり、ご主人様の命令なら、何一つ疑うことなく従う。  もはや親の言うことなど、何一つ聞かなくなった我が子の代わりは、やはり、気まぐれな猫ではなく、忠実な犬であらねばならない。 [#改ページ] 母親が美人の男は、 晩婚である [#地付き][第15の法則]  一人の男性の女性観を決定するのは、彼の母親である。なにせ、生まれてから十数年間、これほどまで彼の間近で彼に影響を与え続ける女性はいないのであるから(稀《まれ》に、坊ちゃんと乳母のような関係もあるが)。  幼い少年にとって、女性イコール母親である。よって、そののち女性について何か評価を下す時、それは母親との比較によって行なわれる。 「馬鹿な女は嫌いだ」  と言う男性の多くは、高学歴の母親に育てられている。  一方、掃除嫌いのだらしない母親に育てられた男は、かなり汚れた部屋でも平気である。だから、掃除が苦手な女性はこういう男性と結婚すると楽である。  また、料理が目茶苦茶うまい母親に育てられた男性に嫁ぐのは、苦労である。かなり上手にオカズをこしらえたところで、 「なんだ、この程度の味?」  と言われるからだ。  それと同様、美人の母親に育てられた男性は、相当な美人でないと満足しない。十人並では、女の顔として認められないのだ。ところが、美人の母の息子は必ずしもハンサムではない。パパが不細工で、パパ似であれば、彼もまた不細工である。不細工な男のくせに、とびきりの美人でなきゃ嫌だなどと言うものだから、そうそう結婚相手など見つかるものではない。だから、美人の母を持つ不細工男は、たいてい晩婚である。  いい加減、齢をとったところで、 「お願い。誰とでもいいから身を固めてちょうだい」  と、母親から懇願されて、ようやく釣り合った相手と見合い結婚するのだ。 「あの程度の器量の男のくせに、なんであんなに面クイなんだ」  と、思われる男の何割かは母親が美人であるケースだ(もっとも、単純に醜男《しこお》の美人好きというのも多いが)。  一方、母親が美人ではないのに、息子がハンサムという場合もある(隔世遺伝とかいろいろ)。  え、あんなハンサムなのにあの程度の女とくっつくわけ? というカップルをよく観察すると、彼の母親が不美人であることが多いのだ。  こういう男にとって、世の中の女性の大方は、美人である。並程度の女でも、 「なんてキレイな人なんだ」  と、感激したりする。女にとっては好人物である。  かように、母親の存在は、息子にとって大きいものである。  気の強い母親に育てられた男は、やはり気の強い女にしか魅力を感じないという。おとなしい女性は物足りないというのだ。  ただし、今まで述べたケースはすべて、母親と息子がよい関係であった場合に限られている。  母を憎む息子は、母と正反対のタイプの女性を好むであろう。  父を嫌う娘が、父と正反対のタイプの男性と結婚するように。  けれど、母系社会である日本において、母を嫌う息子より、母を慕う息子のほうが圧倒的に多い。だから、女性をいつも母親との比較で評価してしまうのだ。  母親に厳しく育てられた息子は、四十になっても五十になっても、 「母親がこわい」  と言う。  だから、大きな悪事を働けない。母親が宗教のようになってしまっているからだ。それは、幼い頃から身体に染み込んでおり、一生逃れられない。  母親が甘やかしたり放任したりで大きくなった男は、叱ってくれる人がいないので、不安を抱えながらも悪事を働いたりする。  ところで、母親から逃れられないのは、何も息子ばかりではない。娘も充分、マザーコンプレックスになり得るのだ。  お母さんが大好きな娘は、お母さんが反対するボーイフレンドとは絶対つき合わない。こういう娘は、大抵母親お気に入りの気の優しい男の子と結婚し、結婚後も母親と同居し(夫はマスオさん状態)、いつまでたっても母親と手をつないで買い物に出かけたりする。  こういう家の娘と、男は恋愛しようとしても不可能である。家から逃れられない人間には、恋愛は無理なのだ。  そうすると、恋愛は、相手の育ってきた家庭(母親)との闘いとなる。  女性が、恋愛相手の母親と自分が似ていると感じたなら、それはもう不戦勝である。自分とは、似ても似つかぬ美人であったなら、かなり苦戦を覚悟しなければならない。長期戦にもつれこめば、齢をとってからやっと勝利をつかめることだろう。 [#改ページ] 勉強しろと言われて 勉強する子供はいない [#地付き][第16の法則] 『ドラえもん』ののび太は、いつもママから、 「勉強しなさいっ」  と叱られる。  そのシーンを見ながら子供たちはゲラゲラ笑うが、その子たちもまた数十分後にのび太と同じ目に遭うのだ。 「テレビの漫画ばかり見てないで勉強しなさいっ」  そこで子供たちはしぶしぶ自分の部屋に引きあげるが、本気で勉強する子なんて一人もいない。計算ドリルをおざなりに何問か解くが、間違いだらけ。あるいは、漢字の練習をするものの、ただ書きなぞっているだけなので覚えやしない。それでも親は子供が机に向かっていると、 「勉強してるな、よしよし」  と、満足するものなのだ。  こんな子供がテストでいい点を取れる訳が無い。案の定、悪い点を取ってくるものだから、母親は、 「あれほどママが勉強しなさいって言ったのに、テレビばかり見て。もう『ドラえもん』は見せません」  と激怒してしまう。大好きな漫画を取り上げられて、子供は益々《ますます》勉強嫌いになってしまう。  とまあ、これが現代日本の典型的母子関係である。  勉強する子は、親に言われる前に勉強している。  勉強しない子は、親に言われても、勉強しない。  こんな自明の理が、世の母親はどうしてわからないのだろう。  じつは、私もわからないのだ。昨夜《ゆうべ》もまた私は中一の息子に向かって、 「ゲームボーイするヒマがあったら勉強しなさいっ」  と怒鳴りつけたのだった。  母親というものは、勉強しない子供に対して激怒するように本能がセットされているに違いない。それ以外に、理解しようがない。  頭ではこんなに冷静に勉強の強制の無意味さを理解していながら、身体が勝手に怒り出しちゃうのだ。  一般に、父親よりも母親のほうが子供に口うるさく〈勉強しなさい〉と言う。となると、そこには母性本能に基づく何かがあるんじゃないか。子供の生存問題に関わる重大な鍵《かぎ》が隠されているのではないか。金持ちも貧乏人も教養のアリもナシも美人もブスも、ことごとく母親になったとたん、 「勉強しなさい」  と口にするのは、やはり神様がそうせざるを得ないように仕向けているとしか思えないのだ。  そこで、私は仮説を立ててみた。母親がしつこく子供に対して〈勉強しなさい〉と言うのは、  ㈰人生とは絶えず誰かにガミガミ言われ続けるものだということを子供に教えるため。ガミガミに対する忍耐力をつけさせるための訓練である。  ㈪子供のうちに〈勉強しなさい〉の無意味さを刷り込んでおけば、おとなになった時に勉強していない人々に対して差別的な気持ちを抱かなくなるため。  ㈫誰かにガミガミ言っても、決してその人は動かせないということを学ばせるため。  この㈫に関しては信憑性《しんぴようせい》がありそうだ。  町中でよく見かけるポスターに、有名人による青少年への呼びかけがある。けれど、巨人軍の松井選手(注・連載当時)に、 〈覚醒剤《かくせいざい》はダメッ〉  と叱られたところで、覚醒剤をやめる不良がどこにいるだろうか。これはおそらく、母親に〈勉強しなさい〉と言われて素直にハイと言うことを聞き、一流大学を卒業して役人になった珍しい子供[#「珍しい子供」に傍点]が考えた案に違いあるまい。こういうお役所仕事は、大多数の〈のび太〉には効果がないということを知らないのだ。  そして第㈬の仮説。  ㈬母親にガミガミ言われることによって、母親をうざい[#「うざい」に傍点]存在だと認識するようになり、親子離れが促進される。  母親の物わかりがよすぎると、子供はいつまでたってもおかあさん大好きで、親離れができなくなってしまう。すると、日本中マザコンだらけで結婚率が低下し、出生率も下がる。国が亡《ほろ》びる。——このことを回避するために、種の保存のために、母親は子供が思春期にさしかかると口うるさくなり、子供に嫌われるよう遺伝子にインプットされているのだ。  女の子より男の子に対してのほうが、より口うるさく〈勉強しなさい〉と言うのは、男の子のマザコンのほうが問題となるからだ。  いくら言っても聞かない子供に母親のほうもやがて諦《あきら》め、子離れを悟るようになる。だから、母親の〈勉強しなさい〉は、母子離れの儀式なのである。 [#改ページ]   おじさんとおばさんの法則[#「おじさんとおばさんの法則」はゴシック体] [#改ページ] 世界中の男から教養を失くすと 日本男性になる [#地付き][第17の法則]  漫画の取材で、若い香港女性何人かと話をした。私としては、香港女性と日本の若者のラブ・ストーリーを創るつもりだったのだが、彼女たちの誰もが、 「香港女性と日本男性の恋愛は、九九パーセントあり得ない」  と、口を揃えた。  私が会った女性たちは皆日本に語学留学に来ているくらいだから親日家であるはずだ。それでも、 「日本男性は、私たちの恋愛対象にはならない」  ときっぱり言い放つのだ。  その理由はと聞くと、㈰マナーが悪い㈪会話下手㈫無神経㈬ケチ、だそうだ。香港人は、アジアに居ながらイギリス流作法で育てられている。だから、生まれながらにレディ・ファーストが身についている。女性より先にエレベーターを降りる日本男性はそれだけで〈無教養なマナー知らず〉なのだそうだ。  さらに、女性に常に強いアテンションを払い、今日もきれいだ、化粧を変えたね、その服似合うよなどと、絶えず話しかけなければいけない。でないと、〈ノートークの無気味な男〉となるらしい。しかも男女平等なので、女子社員は絶対お茶をくまないし、食事でも大皿から小皿に取り分けるのは男の役目だという。 「うわあっ羨《うらや》ましい。いいな。女性にとっては香港は天国ですね」  と、私が感嘆の声を上げると、取材に同行していた日本人男性編集者は下を向いてもじもじし始めた。が、 「日本男性は香港女性に嫌われているけど、日本女性は香港男性の憧《あこが》れのマトです。この組み合わせのカップルはいっぱいいます」  と、香港女性が言葉をつないだので、私はえっ、と驚いた。  というと結局、西洋風のマナーと男女同権を仕込まれた香港男性も、本音のところでは、お茶を淹《い》れてくれて、パンツ一丁で寝っ転がっていてもマナー知らずと目くじらを立てない女性のほうが好きなんだということではないか。  また、ある学者は、アメリカで同性愛や幼児虐待が多いのは、社会では紳士を要求され、家庭でも男女平等で皿洗いまでさせられる男性のストレスが溜《た》まって、弱い者への暴力として、あるいは女嫌いとして、男の本音が歪《ゆが》んで発散されているからなのではないかと言う。それは極論だとしても、男は教育しないと、心から進んで女性を大切に扱ったり尊敬したりできない生き物ではないのかと、私は思い至った。  会社でいくら高い地位についていたとしても、家ではステテコ姿で女房・娘の前で平気でオナラをする。これってつまり、女房・娘を敬意を払うべき人格として認めていないことではないか。でも、それを許してやらないと、ホモに走ったり暴力亭主になったりするのか。だとすると、日本の安全は、日本女性の寛大な心にのみゆだねられていると言っていいのではないか。  また、別の機会に香港の男性と結婚して十五年間香港暮らしをしていたという日本女性の話も聞くことができた。  彼女も香港女性とほぼ同じ意見だった。 「香港男性のほうが日本男性より好色度は低い。また、食事の席では酒が出ないから酔っ払いもいない。痴漢もいない。女に手を上げると夫婦間でも逮捕されるから、絶対に手を上げない」  痴漢に遭っても、酔っ払いにからまれても、セクハラを受けようとも、夫に殴られようとも、ただじっと耐えるのが日本女性の大半である。こうやって考えると、日本て、大甘な母親と躾《しつけ》のできてない息子の関係で成り立っているみたいだ。  けど、その香港在住十五年の女性は、言う。 「でも、男も女もお互いズタズタになるまで我をゆずらず言い争う香港人には、私はついてゆけないの。やっぱり、日本人がいいわ」  外国人から見た日本人のここが変、みたいな書物が日本人にウケたりする。で、結局、 「外国人が何だかんだ言っても、でもやっぱり日本人でいいわ」  と、読み終えた日本人は感じるのだ。  高い教育を受けた日本女性の中にも、男の人に尽くすのが私の心からの喜び、などと本心から語る人もいることだし。  私としては、一回くらいは香港人と結婚したいものだと、今回の取材を通じて思った。でも、そうすると私も自宅の居間でこたつで寝っ転がって(下着姿ではないにしても)、ヨダレ垂らして昼寝なんてできなさそうだし。それを考えると、夫のパンツ一丁、オナラ姿を我慢して、日本で生涯を終えるしかないかな、とも思う。 [#改ページ] おばさんは、 必ず四人以上で群れる [#地付き][第18の法則]  仕事で、年何回か京都を訪れている。日本女性にとって京都は憧《あこが》れの土地らしく、どの観光名所に行っても女性の姿が目を引く。  まあ京都に限らないのだが、旅先ではOLは二人連れ、おばさんはグループ・団体であることが圧倒的に多い。  おばさん二人旅、というのは滅多に見られない。それはつまり、一対一で何日も向かい合って旅行する気力が、おばさんにはもう無いからだ。話題が途切れた時の気マズイ間をどう取り繕えばいいのか。ケンカしてしまった時はどう仲直りすればいいのか。そんなこと考えるだけでああ面倒臭いわ、となってしまうのだ。  その点、三人以上だと、適当に人間関係を休めることができる。 「他の二人がしゃべっている間は一人で風景を楽しめるわ、楽チン」  というわけだ。  けれど、三人だと難点もある。二対一に意見が分かれた場合、のけ者になってしまう可能性があるからだ。  そこで、最低でも「四」という数字が出るのだ。二人がケンカしても、残りの二人で間を取りもてばいい。おしゃべりが得意でない女性は、四回に一回しゃべればいいのだから、気も楽だ。いや、旅行中一回もしゃべらなくてもかまやしない。頭数さえそろっていればいいのだ。おばさんはグループに属することで、より一層の安心感を抱くのだから。  京都の観光地を巡るおじさんグループというものを私は知らない。  観光地で見かけるおじさんは、夫婦で団体ツアーに参加している人か、社員旅行の一員かである。気の合った友人四人で大原を訪ねるおじさんなんてこの世にいるのだろうか。  おじさん二人連れとなると、同性愛かと疑われる。  釣りとかゴルフとかでおじさんがグループで旅行することは多いが、 「何となく気の合った仲間で、だらだらと京都にでも行きましょう」  というグループは、まず無いと思う。  どうもこの辺り、おじさんとおばさんの旅に対する意識に大きな隔たりがあるような気がする。おじさんの一人旅はよく耳にするが、おばさんの一人旅は、全く耳にしない。そういえば、男は旅人、という言葉があるが、グループ旅行では旅人という言葉の持つ孤独感が全く失《う》せてしまう。旅人という言葉には、日常から切り離された浮遊感もつきまとう。  一方、旅人になれない女は、グループ旅行で、旅というもののさわりに触れてみるだけなのかもしれない。  近所の顔見知りの、あるいは旧知の馴《な》れ合ったメンバーでグループ旅行に出かけるのがおばさんである。旅先が京都であれハワイであれ、しゃべくる相手はよく見知った人たちである。これではせっかくの旅なのに、日常をそのまま引きずって移動しているだけではないか。  旅は非日常、新しい自分の発見とよく言われるが、おばさんグループに関しては当てはまらない。日常が横に平行移動するだけなのだから。  要するにおばさんは、 「食事の支度やお風呂《ふろ》の準備を気にせずに、思いっきりおしゃべりをしたいわ」  という理由だけでグループ旅行に出るのだ。  こういった女の楽しみを、男は一生理解することができないと思う。  女同士の旅は、土産物を買う時間が長いという点も、男の旅とは異なる。  私の夫は二週間の海外旅行から戻っても、 「えっ、これだけ」  というくらいしか土産を買ってこない。  私は、たとえ一泊二日の京都旅行でも山ほど土産を買って帰る。女同士で旅に出ると、体力が続く限り土産を求めて街を走り回る。 「旅に出たからといって、何で土産を買わなきゃいけないんだ。日本各地の名産は、東京のデパートで手に入る」  というのが、夫の持論なのだ。  理屈は、そうである。でも、買っちゃうのだ。取材旅行で同行した女性編集者も、 「サイモンさんと旅行すると、お土産を買う時間が楽しめて嬉しい。男の作家さんだと、土産なんか買う時間は無いとせっつかれて」  と言っていた。  お土産好きは、OLもおばさんも同じらしい。  だから、観光地もおばさんグループは大歓迎なのである。おばさんは、一人が買うと、 「あっ、それ、私も」  と、必ず二人三人同じものを買ってくれるから。こうして、おばさんグループと観光地は仲良く栄え続けるのである。 [#改ページ] おばさんは、横一列で道を歩く [#地付き][第19の法則]  おばさんの集団は、道幅いっぱい横一列になって歩く。かなり古いが、『Gメン75』というテレビドラマのオープニングで、Gメンたちが横一列になって歩いていた。まさに同じ光景である。道いっぱいに同じ速度で、ザッザ・ザッザ歩かれるので、この一団の後ろにつこうものなら、一向に前に進めない。おばさんたちは壁となって、行く手をふさぐ。  なぜ横一列かといえば、おばさんたちには序列がなく、横ひとならびの集団だからだ。  夜の繁華街に見られるおじさんたちの酔っ払い集団に、横一列の並びは見られない。上司、部下、先輩、後輩の集団では、おのずと人の配置が決まってくる。先頭を切るのは若手だ。次の店が満員か空席かを走って確かめてくる役目があるからだ。  おばさんたちに、この配慮はない。  横並びに歩いてたどりついたレストランの扉を開けて、 「あら、満員だわ。どうするー」 「どうするー」  と口々に、どうする、どうするとわめくのだが、結局何も決めずに再び別の店を目指して横一列で歩いてゆく。リーダーもなければ、パシリもなし。  これが、横並びおばさん集団である。とにかく、〈みんなと同じ〉が唯一のルールである。突出してはいけない。引っ込みすぎてもいけない。誰か一人が買ったものを、必ず他のメンバーも買う。ワタシだけは買わない、行かない、参加しないは許されない。そうしたが最後、この集団からははずされる。  おばさん集団と書いたが、何も中年女性だけの話ではない。若い母親集団、OL集団、女子高生集団にも同じことが当てはまる。  女数名のグループを観察すると、その集団内での服装、持ち物、髪型がすごく似かよっていることに気づく。  全員がヴィトンのバッグを持った若奥様グループ。全員がプラダのリュックをしょった女子大生グループ。全員ガングロの女子高生グループ。全員スモーク・サングラスのおばさまグループ。  ヴィトンのバッグ持ち女性と、布製民族バッグを持った女性は、決して同じグループに属さない。布製民族バッグ女性は、作務衣《さむえ》を着たグループに入るのだ。  現在、横一列で道を歩くおばさんたちは、おそらく若い頃はヴィトンをさげたOLだったはずだ。その前は、おそろいのソックスで安心する女子高生——。つまり、いつも、 〈みんなと同じ〉  が、価値基準だったのだ。  しかし、どの年代でも、グループに属さない女がいる。 「なんで、みんなと同じでなきゃいけないの」  と、我が道を行くタイプである。  彼女たちは、年を経て、どうなったのであろうか。どこに行くにも、何をするにも一人で決断し、行動しているのだろうか。  近年、私は美術展巡りを趣味の一つにしている。大規模な展覧会には、それこそ横並びのおばさんが、ワイワイとひしめいている。そんな中、中高年の夫婦連れの姿が目につくようになってきた。  十数年前には、ほとんど見られなかった。  それが、ここ数年、夫婦で絵画を指差し、何やら語り合う姿が、ぐんと目につくようになったのである。  みんなと同じであることを拒否した女性のたどりついた姿なのだと思う。  みんなと同じであることが大好きなグループは、みんなが選ぶであろうような、仕事一筋でハズレのない人生を歩みそうな男性と結婚する。ところが、結婚しても仕事ばかりで会話も無い夫といても退屈なので、同じような奥さん仲間とグループを作って出歩く。年を重ねるにつれ、夫との距離は開くばかり。だから、おばさんになっても相変わらず同じおばさん仲間としか外出しない。  けれど、我が道を行く生き方を選んだ女性は、結婚相手も世間一般の価値基準では選ばない。収入は少ないけれど、豊かな人生の意味を知ってるような希少な男性を選ぶことができる。だから、中年以降も夫婦で行動できるのだ。  さて、現代は競争社会だとよく叫ばれるが、ことおばさん界においては、競争は無い。横ならびで同じ歩みで満足なのだから。OLや女子高生集団では、まだ、よりよい結婚相手に向けての競争が起きそうだが、既婚のおばさんには、もう何も起きないのだ。そうして、ぬるま湯のような人間関係が、二十年三十年と平気で維持される。  女性の平均寿命が伸びるはずだ。横一列で歩ける人間に、ストレスは溜まらない。 [#改ページ] 声の大きい人間は自慢が多く、 早口の人間はウンチクが多い [#地付き][第20の法則]  選挙ということで、各候補者がテレビに出て喋《しやべ》りまくっていた。政策を語ってくれるのかと思うと、そのほとんどが自分の自慢話で、中には八割自慢話で時間を終えた候補もいた。そして、彼らは例外なく声が大きい。  政治家でなくとも、自慢話を始めると、おのずと人の声はでかくなる。 「もっと私の自慢を聞けよ」  という心の本音が音量調節という理性のタガをはずしてしまうのか。  小学校に上がると、まず子供たちは、 「大きな声で喋りましょう」  と教えられる。けれど、人間の声の大きさは生まれつきで、それも性格に因《よ》るところが大きいと私は思う。  声の大きな人間は、人の注目を集めたい、自己顕示欲の強い性格が多い。声の大きい引っ込み思案の人間というものに、私はいまだかつて出会ったことがない。  人間は、大きな音に注意を払う。とりあえず人の注目を集めたければ、大きな声で喋るに限る。美男美女は声を発しなくても人の注目が自然と集まるので、美男美女にバカでかい声の持ち主というのはいない。第一、大声で喋っているといくら目鼻が整っていても人は彼女を美人とは認めないものだ。  自己顕示欲の強い人間はまず大きな声で、 「私に注目しなさい」  と合図を出したあと、 「もっと私に感心しなさい」  と、エンエンと自慢話を続ける。それを遮る人が側にいないとなると、自慢話に尾ヒレがついて創作の領域に入り、誇大妄想狂としか思えないホラ話にまで発展する。それでもまだ傍らに注意してやる人間がいないとなると、彼(彼女)は、宗教の教祖になる。あるいは、政治家か。  教祖・政治家に学歴詐称、経歴詐称が多いのも、人にもっと感心されたい、そのためにはホラでも何でも吹くという性格が多いからだ。  声の大きな人間は、大勢の聴衆を前に喋り続ける舞台人である。たとえ、ゴミ収集場の前の平坦な道の上であれ、近所の主婦たちを集めて大声で喋り続けるオバさんがいれば、彼女は立派な舞台女優なのだ。  テレビのおかげで本当の女優がいなくなったといわれるのも、そのせいであろう。カメラ相手にチマチマした演技をするものは、真の女優ではない。壇上に立ち、人の目をそらさないパワーを持ったものだけが大女優なのだ。  一方、声の音量はさほど大きくないのだけれど、立て板に水のスピードで喋りまくる人間がいる。いわゆるオタク人間に、この手の人たちが多い。  以前、電車に乗っていたとき、二人の若者の一方が他方に、どのコンピュータ・ソフトがよいかという話をエンエン二十分以上早口でまくしたてている光景を目にした。抑揚のない分スピードアップしましたという語り口調で。いわゆるウンチク型というやつだ。知識をひけらかすことで相手に感心を強要するという点では、これも自慢話と言えないこともない。ただこちらのほうは誇大妄想は影をひそめ、その代わり一見客観的と思える膨大なデータを駆使し、相手に言葉をはさませない。一見[#「一見」に傍点]客観的と言ったのは、その実、自分に都合のいいデータしか引っ張り出さないことが多いからだ。とにかく短い時間にできるだけ多く知識をひけらかそうとするため、早口になるのだろう。  はっきり言おう。  声の大きすぎる男も、早口のウンチク男も、女にはモテない。なぜなら、両者とも相手の言い分を聞こうとしないからだ。  会話とは、そもそも双方のキャッチボールによって成り立つものだ。相手の意見を聞いて、 「ほほーう」  と、しばらくその言葉の意味を考え、沈黙し、また語り始めるということ無しに、互いを理解し合うことなど不可能なのだ。  一方的に喋る人間は、ちょっと見は社交的な人間に見えるが、じつは他人と深く交流できない孤独な人々なのだ。  私自身年齢を重ねたせいか、かつては会話の量こそ人間関係の基本と思っていたが、今はむしろ少ない会話で長時間一緒に過ごせることが信頼できる人間関係だと思えるようになった。  小津安二郎の映画ではないが、語らず、互いの手を握りしめるだけで多くを分かち合える夫婦というものに憧れを抱き始めている。  第一、人間の喋る量は限られているものだ。その間《ま》が恐くてべらべら喋るとなると、勢い話題が自分の自慢話か他人の噂話になってしまうというものだ。  話題が豊富で楽しい人というのは若い頃はチヤホヤされるが、年をとるにつれ、逆に疎まれ始める。周囲の人間も目が肥えてくるからだ。お喋りな人から自慢話、噂話、ウンチク話を取り除けば、きっと無口な人になるはずだ。 [#改ページ] 男は花の名前を覚えられない [#地付き][第21の法則]  向田邦子さんの短編小説『花の名前』には、仕事関係以外の知識、つまり花や魚や山菜の名前を何にも知らない中年男が出てくる。唯一知っている花の名前は、桜。桃も梅も区別はつかない。猫もどれがシャムかペルシャなんだか。  じつはこれ、日本の男性、特にビジネスマンには多いタイプなのではないか。いや、大人の男に限らず、男は子供の頃から、花の名前、木の名前が苦手らしい。ということを、私は小学六年生の息子を見て思った。  いくら教えても、アブラナの花びらの数を覚えられないのだ。マツヨイグサやツユムラサキなど、もうお手上げ。そのくせ、ポケモンなら百匹でも言える。  男と女は、そもそも脳の構造が違うのではないか。フェミニズムの人たちには叱られそうだが、私はずっと昔からそう考えてきた。  女には方向音痴が多い。  先日、テレビ番組でこの謎を解明していた。右脳と左脳を連動させるブリッジが女のほうが太く、そのため言語と知覚がごっちゃになりやすいのだそうだ。男のほうはブリッジが狭いので、一知覚に一言語が対応し、論理をきっちり組み上げてゆく。たとえば、あの郵便局を左折して三本目の筋を曲がると目的地、のように。一方、女は、 「春風もさわやかだし、何となくあっちのほうに行けばいいかな」  などと目茶苦茶に歩いてゆく。  おそらく、まだ解明されていない脳の仕組みの中に、男性の脳から花の名前を締め出してしまう何らかのメカニズムがひそんでいるに違いない。花の家元はどうなるのかと尋ねられれば、女にだって方向感覚がいいのもいると答えておこう。何も答えにはなっていないが。  私の脳には、ポケベルの機能の名前を締め出すメカニズムが備わっているらしい。説明書を読みながら、娘にメッセージを入れるのだが、うまくいったためしがない。 〈TELしなさい。ママ。〉  この一文すら入れられないのだ。それでも折り返し、ちゃんと娘からTELが入る。 「ベルがエラー表示したから、絶対おかあさんからだと思った」  PHSも持っているが、音量調整も着信音変更も、娘にやってもらっている。高校一年の娘は、いとも器用にそれをやってのける。ということは、メカ音痴は女特有のものではなく、ある程度年齢のいった女性《おばさん》に多く見られる脳の仕組みなのだろう。  脳のシステムは、年齢とともにも変化するようだ。  私は、若い頃あんなに避けていた寺巡りや山歩きを楽しむようになっている。三十五歳を過ぎた頃からボチボチ兆しが現われ、四十歳を過ぎた今や、 「余生は仏像巡りしかない」  とまで思っている。  では、若い頃仕事一筋だった男性も野山の花々に心を奪われるようになるのだろうか。あいにく私のまわりには、まだ、山歩きを愉しむ初老の男性はいない。  亡くなった父は、山歩きが好きだったが、いつも遠くの峰を見つめて、足元など気にも留めなかったように思う。花の名前に一生無縁な男も多いのだろう。  さて、向田さんの『花の名前』にはオチがある。無骨な夫に花の名前を教えることで、うまく調教していたつもりの妻が、ある日夫に愛人がいることを知る。しかも、名前がつわ子。つわぶきからとったと思われる名だ。妻は考える。夫は愛人に向かって、 「つわぶきのつわ子か」  と言ったはずだ。でも夫にそのつわぶきを教えたのは、私。私に仕込まれた男の愛人なのよあんたは、と妻は愛人に対して優越感を抱こうとする。所詮《しよせん》、愛人は妻には勝てないの。毎日寝食を共にして影響を与え合った夫婦に愛人なんか——。  ところが、夫はつわ子に向かって、 「つわりのつわ子か」  と言ったという。  教えたつもりが、何にも身についていなかったのである。——花の名前。  大体が、一般常識のため、人前で恥をかかないために、無理矢理覚えた知識など身につくものではない。  だから私は、息子に花の名前を教えるのをやめた。ポケモンを好きなだけ覚えればいいさ。 [#改ページ]   占いにはまる法則[#「占いにはまる法則」はゴシック体] [#改ページ] 人は都合のよいマグレを 信じて、騙《だま》される [#地付き][第22の法則]  あやしげな救世主に、お布施という名目で大金を巻き上げられる事件が後を絶たない。  もう何年も前から、 「高額なお布施を要求する新興宗教は、あやしい」  と、マスコミが警鐘を鳴らしているにも拘《かか》わらず、やはり騙される人は騙されるのだ。  けれど、それはやむを得ないことなのだ、と私は思う。  宗教や占いに頼ろうとする時、その人はすでにもうかなり精神的に弱っている状態なのだ。現実生活でにっちもさっちもゆかず、ワラにもすがる気持ちで門をたたく。  ある女性誌の編集者が、次の号で占い特集を組むというので、占い師を訪ねた。せっかくだからあなたの悩みを占ってあげると言われたものの、その編集者は現実の問題を自力で解決するタイプなので、 「悩みは、ない」  と、きっぱり言ったそうだ。 「でも、何かあるでしょう」  と、占い師。 「いや、本当に何もないです」 「サービスです。タダで占ってあげるから何かおっしゃって下さい」  それでも彼は、答えなかった。こういう人間は、絶対あやしい宗教にもひっかからないのだ。  ところで、私もある時、とある占い師を訪ねた。その時、私の心は弱っていた。父の死と息子の交通事故が続けざまに起こり、私は相当参っていたのだ。  普段なら前述の編集者のように、 「悩みなど、ない。あっても自分で解決する」  と、きっぱり言い切るタイプなのだが、やはり、身内の災禍《さいか》は身にこたえるのだ。まんまと占い師の思うツボにはまった。 「あなたのお住まいのそばには旧街道があり、お地蔵様がありますよね」  という彼の言葉に、 「そ、その通りなのです。どうしてわかるんですかっ」  と、私は仰天した。私の自宅は富士街道沿いにあり、道のあちこちに祠《ほこら》があってお地蔵様が祭られている。 「昔からその周辺は交通量が多く、馬にはねられて亡くなったお子さんもたくさんいるのです。その供養のための地蔵ですね。息子さんが交通事故に遭われたのは、その亡くなった子供たちの霊の仕業です」  はっはーっと、私は深く納得した。  納得したばかりか、この人についてゆこうとまで思った。  ついで、父のことを聞くと、 「お父様は幼い頃から貧しく、苦労されましたが、自分で学費を稼いで学校を出、立派に事業を成功されました」  と、答えるではないか。  あれ? 私の父は確か地主の息子で、乳母日傘《おんばひがさ》で育ったと聞かされていたけど。でも、そうだ。あれは父の私への見栄だったに違いない。本当は貧しく苦労したくせに隠していたんだわ、とすでに洗脳されていた私は、父の言葉より占い師の言葉のほうを信じたのである。  結論。占いに騙される人間は心が弱っていて、占い師が喋《しやべ》った十のうち、七間違いでも三当たっていれば、〈彼の言うことはすべて当たっている〉と思い込み、間違った七は聞かなかったことにする。これが、騙される人間の心理なのだ。  ギャンブル狂の人間も同じだ。ギャンブルに熱中する人間は、過去自分が負けた勝負のことは忘れ、勝った時のことだけを覚えているため、負けても負けてもギャンブル場に通うのだ。  入試も同じである。過去三回模試を受けて、一回いい点を取り、二回ひどい点だった場合、ひどい点を忘れていい点を基準に志望校を選び、そして失敗する。  一回のいい点はマグレである。万馬券を当てたのもマグレである。そして、占い師が当てた〈三〉もマグレなのだ。  よくよく考えると、東京都内に住んでいれば、必ず〈街道〉と名のつく道が家のそばを通っているはずだ。そして〈街道〉にはお地蔵様はつきものである。だから、これはマグレと言うよりもっと当たる確率の高い〈定理〉のようなものである。  父が貧しかった話も、私の父が生まれた昭和初期は、日本の九割は貧しかったと思う。大学へは男の一割も進学できなかっただろう。それでも、私の父が大卒という肩書きと知って、占い師は苦労話をでっち上げたのだろう。  しかし、父の五人の兄弟は全員大学出だから、父が金持ちの地主の息子だったというほうが真実なのだろうと、今の私ならわかる。  けれど、心が弱っていると、それすらも見抜けないのだ。  あやしい宗教に大金を払う人たちを、だから私は笑うことはできない。 [#改ページ] 占いとは、人を外見で 判断する職業である [#地付き][第23の法則]  香港に占いの取材に行った。むこうは、風水に従ってビルを建てるくらい占い好きである。いや、好きとか嫌いの問題ではなく、すでに生活に浸透していると言ってよいだろう。  なかでも、黄大仙《ウオンタイシン》のおみくじ占いは有名で、人生の岐路をこのくじに託す人々も多いらしい。お寺内のおみくじと言っても、いささか日本とは趣が違う。豚や鶏肉を神様に捧げたのち、筒の中に入った割りバシのような札を一本だけ振り出すのだ。ハシ立てに百本の割りバシが立っていると考えればいい。そのハシ立てを上下に揺さぶると、不思議と一本だけがこぼれ落ちる。その一本には番号が書かれており、対応したおみくじを渡されるのだが、おみくじの文面がまた日本とは異なる。大吉、末吉、待ち人来らずといったわかりやすいものではなく、抽象的な漢詩が詠まれていて、現地の人にも何のことやらよくわからぬものらしい(おそらく七の月に空から大魔王が降ってくるといった類のものなのだろう)。  そこで登場するのが、占い師である。彼らは、お寺の境内に店を並べ、相談者の悩みに沿っておみくじを解釈してくれる。 「何が一番聞きたい?」  と、私はその占い師に尋ねられた。 「家族が仲良く暮らせるかどうか」  私は答えた。 「うーん」  と、占い師はおみくじを眺め、 「ダンナの女性関係に気をつけろ」  と言った。以上、鑑定料三百円。  同行の男性編集者二名もおみくじを診てもらった。一人は二十代半ばのなかなかの二枚目。恋愛運を尋ねたところ、 「悪い女に気をつけろ」  と言われた。  もう一人は三十代後半で、最近編集部を移ったばかりなので仕事運を聞いた。すると、 「はやく、転職しろ」  だったという。  でも、そんなのなら私にだってできる、と思った。家族に悩みがあると言えば、夫婦仲に決まってる。相談者である私はどう見ても情夫がいるタイプではない。すると、ダンナか。よって「ダンナの女性関係に気をつけろ」になる。  若くてハンサムな男→モテるにきまってる→でも悩んでる→「悪い女に気をつけろ」  仕事に迷ってる四十前の男→人生やり直すのなら今がラストチャンス→「転職しろ」  要するに、相談者の悩みと相談者の風ボウからおのずと答えは導かれるのだ。  占いというよりは、人生相談である。  でも、それで良いのだ。  悩みを言語化して口に出すだけで、人は随分と救われるのだから。しかも、 「面倒くせーな、そんなつまんないことぐだぐだ言うんじゃねえ」  と乱暴に拒絶されるのではなく、じっと目を見つめて話を聞いてくれるのだ。  さて、その日の夜、私たちは次に街頭の手相占いに挑戦した。手相と顔相で占ってくれるのだ。が、おみくじよりかなり割高で五千円払った。 「あまり、顔相は良くないね」  と、いきなり言われる。 「結婚は、日本では無理だ。外国に行きなさい。外国にはあなたに合った恋人が見つかる」  どうやらこの占い師は私を独身と思ったらしい。なにせ、香港観光協会のスタッフやら通訳やらぞろぞろ引き連れて、色気のないモノトーンのお仕事ルックである。おそらく、ハイミスの日本人キャリアウーマンと思ったに違いない。  占いとは、人を外見で判断する職業なのだな、と私は改めて思った。  編集者たちは手相は高額なので診てもらわなかった。サイモンさん、どうでしたかと聞かれたので、 「外国に恋人がいると言われた」  と答えると、それなら昼間のおみくじのほうがまだ信憑性《しんぴようせい》があるねえと笑われた。  それが七月のことで、そんなことはすっかり忘れていたのだが、八月に入ってJ−men'sという外国人ダンサーによる男性ストリップ・ショーを見に行った。  間近に見る外国人男性の裸体に、私のそれまでの人生で築いた価値観は崩れ去った。 「やっぱ、男は肉体だわ。しかも、黒人。黒人ダンサーのあのしなやかな肉体。あれこそ私が求めていた『美』かもしれない」  気がつくと私は嬌声《きようせい》を上げてダンサーに手を振り続けていた。  ショーが終わり、お気に入りの黒人ダンサーにチップを握らせながら、私は彼の耳元に拙《つた》ない英語で囁いた。 「シーユー・アゲイン、アイ・プロミス・ユー」  ひょっとして、外国にいる恋人ってこの人のことなのだろうか。 [#改ページ]   外見で人を判断する、[#「外見で人を判断する、」はゴシック体]   あるいは、[#「あるいは、」はゴシック体]   おしゃれの法則[#「おしゃれの法則」はゴシック体] [#改ページ] 人は年をとればとるほど 外見と中身が一致する [#地付き][第24の法則]  子供のPTAで、母親たちが集まった。  東京のはずれの、のんびりとした公立小学校なので、母親たちもおっとりした地味な人が多いなあ、と、滅多にPTAに顔を出さない私は物珍し顔で母親たちを観察していた。  すると突然、にぎやかな声をたてながら遅れて部屋に入ってきた女性がいた。  ロングソバージュに紫のアイシャドー、紫の口紅、黒いミニスカートに網タイツというその格好は、明らかに他の母親たちと一線を画していた。 〈こういう人って、外向的で声が大きく、人の話を聞かないタイプだ〉  と、私は直感した。  案の定、彼女は、他の母親の「一」の質問に「百」くらいの量で答え、おまけにその話がどんどん脇道にそれていって、収拾がつかなくなってしまった。  悪い人では、無い。場を活性化するためにはこういう人材は必要である。ただし、場が読めないし、筋道立った要領のいい話は苦手なのだ。  それにしても、期待を見事に裏切らない、外見と内面の一致する人だった。  おばさんで、目に太いアイラインを入れていれば、外向的でおしゃべりだと思って間違いない。  おばさんで、ミニのタイトスカートに網タイツを好む人は、スナックのカラオケが大好きなはずだ。  おばさんになると、外見から連想されるイメージと、内面が一致するようになるのだ。  ところが、若い女性は違う。  髪を金髪に染め、顔中にピアスをつけているような娘が、じつは内向的な恥ずかしがり屋さんだったりする。  おばさんの場合、髪が金髪だと、十中八、九、酒と煙草でつぶれたしゃがれ声の持ち主である。  私自身、娘時代を振り返ってみても、メガネをかけた秀才タイプの三ツ編みの女の子が、じつはひょうきんだったり、ダサくて流行遅れの服しか着ない娘が大金持ちの娘だったりした。  しかしまあ、それもよく考えてみれば当たり前のことだ。  娘時代は、とかく流行にまどわされたり、友人に流されたりする。あるいは、親の意見に服従させられるかだ。  だから、本人自身と外見が一致しないのはしようがないのだ。  けれど、おばさんになると、もはや流行を追っかけたりはしない。自分の確立した個性を何十年も死守するのだ。美空ひばりが生前固執した眉毛《まゆげ》とアイラインの描き方を真似し続けたりするのだ。  もちろん、友人に流されもしない。 「あの奥さんの服、ヘン」  と、それぞれが心の中で思っている。  ましてや、親も夫も子供も、おばさんの服装をチェックして批評を加えたりはしない。そのため、おばさんの外見は、時として個性爆発のまま暴走し続けることがある。  他人に惑わされず、したがって、おばさんになるにつれて、外見はおばさんの内面や人生、生き方そのものの反映となる。  なかには、流行に敏感なおばさんもいる。けれどそういう人たちは、〈流行に敏感なおばさんグループ〉として分類される。  おじさんたちも、多分、おばさんたちと同じだと思う。年をとればとるほど、外見は内面の映し鏡になるのだ。  白髪頭を変にウェーブのきいた長髪にしているおじさんは、インテリ気取りが多い。そしてこのインテリ気取りは一方で、駄ジャレを好む。そしてインテリ気取りは決して大声でまくしたてたりはしない。あくまでソフトに、ゆっくりと、声を低く響かせる。  短髪でヤクザっぽい服装を好むおじさんは、気が短い。気が短いから、しょっちゅう床屋に行っていないと気がすまないのだろうと思う。  一方、学者のおじさんに、べったりした長髪が多いのは、おそらく根気強い性格のためだろう。どんなに髪が伸びてうっとうしくなっても、根気強く床屋に行くのを我慢するのだ。  このように、おじさんになると、より外見・内面・職業が直結するのだ。  私のように漫画を職業とする人間にとって、外見と内面の一致する人間は、じつは、つまらないのだ。一度会って、こちらが想像したとおりの人間だとしたら、こんな面白くないことはない。 「あんな人かと思っていたら、じつはこんな人だった。驚き」  というのが、漫画家のイマジネーションを刺激する人物なのだ。  だから、私にとっておとなはもはやあまり面白くない。子供や若者には、まだ驚かされ、この人間を描いてみたいという創作欲をかきたてられるのだが。  どこかに面白いおとなはいないだろうか。 [#改ページ] 女のPTA会長は、 体型が四角い [#地付き][第25の法則]  ずうっと不思議に思っていることがある。男はなぜ、接待が好きなのだろう、ということだ。  近頃新聞を賑《にぎ》わすのは、官僚が業者に接待された回数と金額の数字である。官僚は、ともかく高級料亭が好きらしい。官僚になると、人はかくも和食通になるものか、と、私は思っていた。たまには下町のおいしいお惣菜《そうざい》屋さんでもいいと思うのだが。私は、味では絶対高級料亭に負けないお惣菜屋さんをいくつか知っている。  私も時々、高級料亭で接待される。確かに美味だが、私はおいしいタイ料理店に連れて行ってもらった時のほうをもっと有難がる。私はココナッツ入りグリーンカレーがこの世で一番おいしい食べ物だと思っているからだ。だから、もし、私が官僚になれば、私のご機嫌をとるために業者は連日のようにタイ料理店で接待してくれるものだと思っていた。  ところが、どうも違うらしい。  官僚は、高級料亭の和食が好きなのではなく、「高級料亭で接待される俺」が好きなのである。  官僚に限らず、男の多くは「銀座のクラブで飲む俺」や「黒塗りハイヤーで送り迎えしてもらう俺」も好きである。つまりは、「出世した俺」が大好きなのだ。高級料亭も銀座のクラブも黒塗りハイヤーもすべては、出世に附随してくるおまけにすぎない。多分、月刊「文藝春秋」の「同級生交歓」グラビアに出ることも、彼らにとってウットリするほどステキなことなのだろう。  私は女なので、そのへんの感覚がまったく理解できない。女性官僚の中には、接待されてウットリしている人もいるのかもしれないが。 「官僚的」という言葉から、人はどうしても男性を想像する。私なんかその最たるものだが、官僚といえば背広を着た四角い顔のおじさんしか思い浮かべられない。権力とか権威とか時代がかったとか、何かそのようなイメージを抱いてしまう。実際、私がお目にかかったお役人の中には、今風の若者もいたのだが、「官僚」という言葉はどうにも四角ばってて重たい。その角ばった感じが、男性的印象を強めるのだろうか。  と思っていたら、私は主婦の中にも官僚的な人物を見つけた。  PTA会長である。  大体は地元の名士の男性が務めるものだが、時々、推せんを受けて生徒の母親である主婦がなることもある。  彼女たちが例外なく四角いのだ。顔ではない。体型が。そのため、おばさんなのだがおじさんと見間違いかねない。  中年になると女の多くは太るものである。よく言われるのがナス型で、上半身はしなびているのに下半身がでっぷり太っているタイプ。お尻《しり》回りがまん丸になって、下っ腹もスイカのように膨れ上がる。  ところが、PTA会長タイプの女は、四角く太るのである。ぶよぶよとではなくがっしりと骨太という感じなのだ。土井たか子さんを思い浮かべて欲しい。PTA会長、そして女校長は、圧倒的にあの体型なのだ。  私は、仮説を立てた。  官僚とか組織のトップに立つとかは、そもそもは女性に向かない職種なのだ。生物学的に、丸く生命をはぐくむ性である女は、角ばった政治的世界には向かない。けれど、現実には、そういった場で活躍する女性も少なからずいるわけで、そのような女性は経験を積むうちに男性ホルモンが増えて四角ばった身体になるのだ。  職種が男性ホルモンを活性化させるのか、あるいは、男性ホルモン過多な女性がそのような職種につくのかは、わからない。  まん丸く太った下町のおかみさん風PTA会長は、いない。町の酒場のママ風の色っぽいPTA会長も、いない。みんな四角いのだ。  中年男の中にも、おばさん化している人がいる。なで肩で妙に腰のあたりに肉がつき、おしゃべりで、声がカン高い。体毛も薄そうである。そのくせ髪が多くてうねってたりする。いるでしょう、そういうおばさんぽいおじさんが。  けれど、官僚や政治家の中には、そういったおばさん化したおじさんは見られない。  おばさん的おじさんは、絶対官僚になれない。その男性的システムに、彼らの女性ホルモンが順応できないからだ。だから、官僚の周辺でキャンキャン吠《ほ》えたてるのだ。評論家やキャスターに、おばさん的おじさんが多いのは、こういう理由からだと思う。     〈追記〉  宮澤さんておばあさん化したおじいさん? 鈴木宗男もキャンキャンと声がカン高い政治家でした。 [#改ページ] 学生時代のスターは、 社会に出てから大成しない [#地付き][第26の法則]  何十年ぶりかで同窓会に出席して気づいたことがある。学生時代、あんなに華やかで女にもモテたスターが、社会に出たあと、それほど目立たないのだ。  一方、教室の片隅で、人知れず本を読んでいたような目立たない男が、大学の教授になっていたり、ベンチャー企業の社長になっていたり、高名な画家になっていたりして、驚いた。  学生時代に目立つ男というのは、背が高くスポーツマンで勉強もでき顔立ちもまあまあというタイプである。クラスの八割くらいの女の子は、こういったスター的クラスメイトに恋をするのだ。  だから、中学一年でモテる男の子は、高校三年までずっとモテるのだ。  そして、モテる男は、さらにモテようとして、モテるための条件を整える。女の子にモテそうな授業課目、クラブ活動を選択するのだ。  その結果、どの学校でもスター男子生徒は、国立理系志望クラスでサッカー部を選ぶ。間違っても私立芸術系クラスや書道部を選んだりはしない。  そこに、彼らが将来大成しない一因があるのだ。  本当は、書の達人かもしれない。けれど、女にモテたい見栄のためだけで、サッカー部に入る。本当は商売の才に長《た》けているかもしれないのに、一流企業就職率の高い大学や学部を選んでしまうのだ。  その結果、彼らは一様に、そこそこの一流大学のさわやかな学生になり、そこそこ一流の商社や銀行に就職する。  私は、世で一流といわれる企業の若手サラリーマンに何人か出会ったことがあるが、 「さぞかし学生時代はモテただろうな」  という印象を受けた。しかし、それ以上のインパクトは無い。それとは別に、単独自分の身一つで何かを成した人には、それ相応の迫力が備わっていた。  学生時代のスターの多くは、順調に一流企業のサラリーマンになる。が、その一流企業には、似たようなさわやかなスターがゴロゴロしているのだ。そこで抜きん出るには、何かが足りない。というわけで、本人が思うほど出世していないのだ。  一方、学生時代、スターらしい華やかさを何一つ持ち合わせていなかった男の子は、失うものは何も無いので、女の子の目も気にせず、自分の好きなことだけに邁進《まいしん》できる。  私の中学時代の同級生で、アマチュア無線部に属し、休み時間はアインシュタインの本を読んでいた男の子は、現在国立大学の数学科の教授である。  高校時代、特別に目立った存在ではなかったものの、文化祭で弾くピアノが上手だなあと思っていた同級生が、今は東京芸術大学の助教授らしい。  学生時代、流行や女の子の目を気にせず、本当に自分の好きなことにオタク的に没頭した人間だけが、その道の一流となれるのだと思う。  そうして、私はある男性から聞いたのだが、若い頃モテなかった男のコンプレックスというのが、ここぞという時の大きな踏ん張りになるのだと言う。  かつては、家が貧しかった、あるいは学歴が低いというコンプレックスが男の出世のバネになったらしいが、今は背が低くて女にモテなかったコンプレックスこそが、仕事のバネになると、その男性は私に言った。 「えっ、背の高さですか」  と、私は驚いた。 「そう、男は顔の目鼻立ちではなく、身長なんです」  と、彼は言い切る。 「AもBもCも、今仕事で頑張っている連中は、みんな若い頃背が低くてモテなかったコンプレックスをバネに働いている」  と、彼は私も知っている三人の名前を挙げた。 「俺は背も高いし、女にモテないわけでもなかった」  と、その男が言うので、 「でも、あなたも仕事頑張って、一流の業績を残しているではないですか」  と、私が質問したところ、彼は答えた。 「俺は、俺をフッた女を見返してやりたくて、それだけで仕事を頑張っている」  なんだ、似たようなものではないか。  学生時代ずっとスターで、女にモテ続けた男は、一度大きな失恋をするしかない。そうすれば、彼のように大成する可能性も残るというわけだ。  私が学生時代にずっと学園のスターだった男性に十数年ぶりに再会した。彼は国立大学医学部に進んだのち、医者になった。彼が私に言った。 「今は、フランス文学や演劇を趣味で鑑賞している。本当は、理系でなく文系の人間だったんだ。人生三十代半ば過ぎてようやく本当の自分に気づいたよ」  なまじモテるというのが、曲者《くせもの》なのだ。 [#改ページ] 太った女に極悪人はいない [#地付き][第27の法則]  テレビで肥満女性のダイエット挑戦番組を放映していた。  体重百二十キログラムの女性が、医師の管理のもと、食餌《しよくじ》療法でせめて半分の六十キログラム台にやせようというのだ。  彼女の通常の食事量は力士並みである。一日五食に加え、絶え間ない間食。しかも動かない。これでは太って当たり前である。 「これではいけないと思って、番組に応募しました」  という彼女に、しかし悲壮感はない。まん丸に膨れ上がった顔のなかで、小さな目がニコニコ笑っている。  彼女の半分以下の体重しかないであろう彼女のご主人も、妻の肥満ぶりに激怒しているようには思えない。夫婦の生活を映し出した部分では、なかなかお似合いの仲のいい夫婦である。  さて、彼女のダイエット作戦が始まった。最初の一カ月は、医師に指示されたとおりに規則正しい低カロリー食を実行し、十キログラム程度体重を落とすことに成功した。  ところが二カ月目に入って、それまでの反動か、彼女は医師の忠告を無視して、再び高カロリーの食生活に戻ってしまったのだ。自宅に設置されたカメラは、彼女が一日中食べまくる姿を映し続ける。 「どうしたんですか、いったい」  と問うテレビ局のマイクに、 「やっぱり食べちゃいましたー。エッヘッヘッヘー」  と、彼女はくったくない。  根っから食べることが好きなのだろう。大きな身体を揺すりながら、コマメに台所に立ち、肉をゆで、肉を焼き、肉を揚げる(ほんとうに肉が好きらしい)。  そんな彼女の姿を見て、 「なんだか憎めない人だなあ」  と、私は思った。  結局、ダイエットに失敗する女性は、意志が弱く、目の前のご馳走《ちそう》に走ってしまうタイプなのだ。  強い意志とか、執念といった言葉とは無縁の人生を送ってきたに違いない。  一方、拒食症の女性たちはその対極にある。彼女たちは意志の力で食物を拒否し、やせることに執念を燃やす。  どちらが幸せかといえば、やはり、好きなだけ食べて太っているほうが幸せであろう。  どちらかを友達に選べ、といわれたら、私は迷うことなく太った女のほうを選ぶ。太った女は意志が弱いので、恨みとか憎しみも持続できない。その結果、憎めない人柄の人が多い。ちょっとだらしないけど、まだ可愛げがあるのだ。  先に紹介した肥満女性の家には、夫が彼女のダイエットのために購入したエアロバイクが埃《ほこり》をかぶったまま放置されている。 「一回やっただけで疲れちゃったから二度とやらない」  と言う彼女に、困ったなという顔をしつつも、夫はそれ以上無理強いはしない。太っている点を除けば、せっせと料理を作るし子供の世話も焼く、まあいい女房なのだ。  やせて、執念を腹に秘め、細かいことまで徹底的に管理する妻よりは、よほど居心地のいい妻なのではないだろうか。  主婦向け雑誌の読者アンケート調査で、 「最近夫から言われて、いちばん傷ついた言葉は?」  という質問の答えの断トツは、 「おまえ、太ったなあ」  であるという結果が出ていた。  傷つけられたにせよ、その主婦たちが一念発起してダイエットをしたとは思えない。相変わらず太ったままだろう。  一方、夫も、長年連れ添った妻に、 「太った」  と言いつつも、まさかそれを理由に離婚しようとまでは考えていないはずだ。  だらしないけど、そこに可愛げと安堵《あんど》感も感じているはずだ。と考えるのは、私自身太った妻であるからだろうか。  ワイドショーで離婚騒動を起こす芸能人の妻たちは、皆一様にやせてて、顔に深いシワを刻み、鬼の形相で亭主をなじっているように思える。  ちょっと小太りで愛嬌《あいきよう》があって、多少ルーズだけど憎めない妻を、夫は捨てたりはしないのではないだろうか。  夫婦円満の秘訣《ひけつ》は、太った妻にある。かなり太っても、最小限の家事さえしておけば、許してもらえる。  妻が冷たいからと浮気する夫の話はよく聞くが、妻が太ったからと浮気する夫の話はまだ聞いたことがない。そういう夫がいたら、私のところまで名乗り出てほしい。   〈追記〉  この法則発見の後に、林真須美が逮捕された。彼女のあの体型を「小太り」とするか「肥満」とみなすかによって、この法則の成否が決定する。 [#改ページ] コンプレックス隠しと 結びついたファッションは、 必ず流行る [#地付き][第28の法則]  女子高生のルーズ・ソックスが巷にあふれ出してもう五、六年もたつというのに一向に廃れる様子が無い。流行とは普通、一、二年で廃れるものなのだが。この疑問を、私のアシスタント中一番若い二十六歳の女性に投げかけたところ、 「ルーズは廃れませんよ。あれは、足首の太さ隠しですから」  と、答えが返ってきた。  そういえば、ここ数年、ぽっくりのように底の厚いサンダルを履いた若い女の子が目につく。最初の年は、これがこの夏のファッションかと思っていたが、二年も三年も廃れない。ついには冬場にぽっくり底のブーツまで出現した。そうして、そういった厚底靴を履いている女の子は、背が低いことが多い。身長一六五センチ以上の女の子は、滅多に厚底靴を履いていない。厚底サンダルは、チビ短足隠しなのだ。だから、廃れない。  このように意地悪い目で若い子のファッションを観察すると、いわゆる顔黒《がんぐろ》・茶髪《ちやぱつ》の女の子に外国人的彫りの深い顔の子はほとんどいない。地味で平板な顔の子がほとんどだ。平板で平凡な日本人顔の女の子が、別のジブンになりたくて、無国籍な色黒さとカラーコンタクトに走るのだろう。  おとなから見てぎょっとするような、美のかけらも感じられないファッションを若い女の子がまとっていたら、それは彼女らのコンプレックスの裏返しと考えればいい。  なかには単純に、 「みんながしてるからー」  というだけの理由の子もいるだろうが、その言葉の側面を意識・無意識のコンプレックスが支えている。  まあ若い娘がどんな格好をしようがかまわないと、私は基本的に思っている。私だって若い頃は信じられない服装をしていた。ヒッピーのような民族衣裳を着たこともあれば、今の女子高生並みのミニスカートをはいたこともある。若いときとは、そうしたものであろう。  では、齢《とし》を重ねれば重ねる程、人は洗練された服装になるのだろうか。  答えは、残念ながら〈否〉である。  お齢を召して、品のある洗練されたおしゃれをしている人の数は、少ない。〈お齢を召す〉までにはゆかない中年期において、女性は徐々におしゃれから脱落してゆく。  おしゃれサングラス、おしゃれハットと、中年女性が気張ってしゃれこもうとして、これら〈おしゃれ〉と名のつく小物を身につけ始める段階で、もはや〈洗練〉〈美〉からかけ離れていってしまうのだ。  今日はお出かけだわという日には、ありったけのアクセサリーを身にまとう。おしゃれサングラスに、イヤリング、ネックレス、ブローチ、そして大きな宝石のついた指輪。確かにゴージャス感は漂うが、だが、しかし。  そんなおばさんファッションに否定的な私に、今年六十七歳になる私の母は言う。 「おばあさんの貧相な顔を目立たせないように、服に大きなブローチをつけて、人の目をそっちにそらすのよ」  と。  結局、女子高生のルーズ・ソックスと同じなのだ。年をとった女は、衰えた顔に視線を集めないように、派手なブローチやスカーフ、鮮やかな花柄のブラウスなどで他人の目を眩惑《げんわく》させる。女のファッションは、やはりコンプレックスと深く結びつくものらしい。  まったくいくつになっても女性は自分が着るもの、身につけるものに関して悩み続けなければならないのだろうか。  時折、私は和服を着た年配の女性の美しさに、敬服することがある。特に真夏に白い絽の着物に黒い帯をきりっとしめて日傘を差して歩くおばあさんを見かけると、 「何と美しいのか」  と、感心する。  結婚式の披露宴で、親戚《しんせき》席に渋いグレイの色|留袖《とめそで》を着て座っているおばあさんを見ても、ああ素敵だな、と思う。  じつは和服こそ、日本人のコンプレックスを隠し、日本人の美を最大に際立たせてくれる衣服なのだ。胴長も短足も、切れ長の細い目も、年とってひからびた二の腕も、和服ならOKなのである。ブローチをつけなくたって、絹の織物の光沢は、ダイヤ以上に豪華に輝く。  そうだ、私もこれからは和服を着よう、と思うのだが、和装の面倒臭さにいつも気力が失せてしまう。一体何本のひもが必要なのだろうか。それすらもわからない。  粋に和服を着こなしているおばあさんになりたい。これが私の今後の目標である。   〈追記〉  ヤマンバになるともう、コンプレックス隠しどころか、より強い毒で毒を制すという域になっている。   〈さらなる追記〉  ヤマンバはあっという間に消えた。さすがにやり過ぎであったらしい。 [#改ページ] 男の長髪が流行ると 女の髪は短くなる [#地付き][第29の法則]  サザンオールスターズの名曲『C調言葉に御用心』の中に、次のような一節がある。  ——恋をすればするだけ女の泣いた顔に醒《さ》めてく    髪の長さや色気じゃ酔えない——  けだし名言であると思うのは、恋の経験値を上げた男は、ロングヘアの色気女にはもう惑わされない、という部分である。  最近、世間を賑《にぎ》わせた二大「略奪愛」の、略奪した女は二人ともロングヘアだった。そして男は二人とも、ボンボン育ち。つまり、まだ髪の長さに幻想を抱いているタイプなのだ。  不況になると女の髪が短くなるとも言われている。  確かにバブル期には、ワンレンと呼ばれる長い髪をかきあげるボディコンシャスなワンピース姿の女性が多く見られたものだ。  ところが、今や、女性の多くは、長くて肩の先程度。カッティングの決まったショートもじつに多い。必死で仕事をしていないとすぐクビになるこの御時勢では、うっとうしい長い髪を払いながらの悠長な仕事ぶりでは許されない。  けれど私は、好不況よりももっと、女性の髪の長さを決定する外因があると思う。  男の髪の長さ、である。  たとえば、女性にショートが流行り始めたのは、キムタクの長髪(ロン毛)が話題となった時期と重なるように思うのだが。  キムタクに憧《あこが》れる若い男性を中心に、日本中にアッという間に男の長髪が広まった。そして自分で髪を伸ばしてみると、 「なんだ、ロングヘアってこんなもんだったのか」  と、ずっと抱いていた女性のロングヘア幻想が崩れ出したと思われる。  自分は長髪にはしないものの、友人の男がつややかな長い髪を風になびかせているのを間近に目にし、 「今まで憧れていたロングヘアって何だったんだろう」  と、その男性も気づくはずだ。  髪[#「髪」に傍点]の[#「の」に傍点]長[#「長」に傍点]さ[#「さ」に傍点]じ[#「じ」に傍点]ゃ[#「ゃ」に傍点]酔[#「酔」に傍点]え[#「え」に傍点]な[#「な」に傍点]い[#「い」に傍点]男性が、こうして急増していったものと思われる。  すると、女性側も髪が長いだけじゃモテないと気づき、それなら手入れの簡単なショートにしましょうと、どんどん髪を切り始めたのだ。  一昔前の長髪は反体制のシンボルということで、ただ伸ばしっ放しの不潔きわまりないものだったが、今のそれは思想とは全く関係のないオシャレであるのだから、手入れに怠りがない。清潔でツヤもある長い髪の男を見ると、女ながらもついウットリしてしまう。  美しい長髪を手に入れた男は、もはやロングヘアの女性にロマンを抱かなくなるのだ。  男と女は、それぞれの性が持ってない異性の部[#「部」に傍点]分[#「分」に傍点]にロマンを託すものである。  男のスーツ姿に男らしさを感じた時代もあっただろうが、女でもパンツスーツで仕事に出かけるようになってからは、魅力が失せたような気がする。  男でも赤や黄や花模様のシャツを着るようになると、女はモノトーンを好むようになった。  多分、ミニスカートにルーズソックスがいまだに人気なのは、これだけは、どうしても男が真似したり身につけたりできない分野であるからだろう。  全日本サッカーチームの全員が、ルーズソックスで試合に出ていたならば、日本中の女子高生のルーズソックス熱は冷めたはずだ。  年とともに頭髪の薄くなった男性は、再び髪の長い女に魅《ひ》かれるようになるのだろうか。 〈髪の長さや色気じゃ酔えない〉  という悟りに至ったものの、それ以上に、本能として、滅びゆくものの生への渇望として、女の豊かな黒髪にこだわるようになるのだろうか。  さて、とはいうものの、映画『仮面の男』の予告編を見て、ルイ十四世の見事なロングヘアに驚いた。仕える四銃士たちも、ロン毛のおじさんたちだ。当然、あの時代だから女性も長髪である。ハンパでなく、長い。  私の、サイモンの法則は、日本にしか通じない法則なのである。  西洋の、しかもルイ十四世の時代など、こちらのあずかり知らぬところである。  特に今回の法則は、第二次世界大戦後のニッポンにおいてしか通用しない。これはどうも苦しい。  そこで、大予言。現在、若い男の子の間で丸刈りが流行りつつある。それに対応して、女の子の間に再びロングヘアのブームが来るはずである。それも割と黒くてまっすぐの。この予想が外れたならば、この法則は削除します。   〈追記〉  平成十五年現在、憧れの女優さん柴咲コウ、仲間由紀恵はセンターパーツのロングヘア。一方、男の丸刈り率は上がっている。この法則はイキてます。 [#改ページ] 見かけの若い人は、心も若い [#地付き][第30の法則]  城南電機《じようなんでんき》の宮路《みやじ》社長が亡くなったニュースを見ていて、一番驚いたのは、社長がまだ六十九歳だったということだ。外見から推測して七十代後半、あるいは八十過ぎかと私は思っていたのだ。  中年以降、人間の齢《とし》のとり方は一定ではない。  私は、前から薄々と気づいていた。同じ五十歳でも、四十に見える人もいれば、六十過ぎに見える人もいる。六十になるとさらに、ハツラツとした人とヨボヨボの人に分かれる。  これが二十歳だと、人はそんなに差が無い。ヨボヨボのハタチなど、まずいない。差が顕著になるのは四十過ぎ、四十五歳くらいからであろうか。  一気に老《ふ》けこむ人と、若さを保ち続ける人がいる。  そうして面白いことに、見かけの老け具合と、その人の内面の老化が一致する場合が多い。  見かけの老けてる人のほうが、同じ年齢で見かけの若い人より寿命が短い。これは、顔色の悪い人はどこか身体が悪いというのと同じくらい一致する。  私の父は六十七歳で心臓病で亡くなったが、晩年は、傍目《はため》にもはっきりわかるほど急速に老けこんだ。 「なんだか、どんどん白くなる」  私は、父のことをそう感じていた。頭も顔色も、どんどん白くなっていくように思えたのだ。  だから、六十代で亡くなった時、周囲から早すぎる死のように言われたが、私は天寿を全《まつと》うしたと思った。  父の葬儀で久し振りに顔を見た伯父は、父より五つは年上であるはずなのに、髪はまだ黒く、顔色もツヤがあり、歯切れよくしゃべる姿は、父よりずっと若く見えた。聞くと、毎日、自宅の畑を耕し、そこで採れた新鮮な野菜を食べているとのこと。仕事を引退したのちは、家でボンヤリと本を読んで過ごすことの多かった父とは、対照的な生活である。  老けこんだ生活を送ると、人は一気に老けこみ、寿命がアッという間に訪れるのだ。  本人さえその気でいれば、人はいつまでも若いままでいられる。  先日、画家の金子國義《かねこくによし》さんと食事をした。お会いするのは三度目くらいだが、その若々しさにいつも感動する。多分私より二十歳くらい年上だと思うのだが、髪はカールされた金色で、まっ赤なセーターに白いズボンがとてもよく似合う。お肌だってツヤツヤのピカピカだし、何より少年のような瞳《ひとみ》がキラキラ光っている。  私が金子さんにお目にかかるのは、いつも彼の個展の会場でなのだが、 「この絵の、ここが、こうで、こういいですね」  と、私が話しかけると、目をキラキラ輝かせて、 「そうでしょ、そうでしょ、ここがこう工夫したところなの」  と、勢いよく答えが返ってくる。その話しぶりが、今日学校であったことの報告をする私の中一の息子と同じなのだ。  私は金子さんくらい、心が少年の男性に会ったことがない。  さて、タイ料理店で金子さんと私は、気のあった仲間四、五人を交じえ、ビールやワインを飲みながら、絵や芝居やダンスの話で大いに盛り上がっていた。  幼い頃からお稽古事《けいこごと》の一通りを習っていた金子さんは、食事をしながらも、日本舞踊の手の動きを披露し、古い日本の礼法を教えてくれたりしたかと思ったら、レストラン内のBGMに合わせていきなりイスから立ち上がってマンボを踊り始めたのだ(デパートの上の階にあるタイ料理店である)。  ああ、なんて若々しい人なのだろう。  私は、感嘆した。  人生の楽しみ方を本当に知っている人なのだ。おそらく、自分の楽しいことだけして生きてきた人なのだろう。そうして、結果として、そういう人のほうが勝ち、なのだ。  あまりに楽しい食事会だったので、ふだんあまりお酒を飲まない私も、酒が進み、すっかり酔っ払ってしまった。そろそろ締めのメン類でもとろうかと思い、私はメニューを手に取り、その中から汁ビーフンとタイ風ラーメンを選んだ。金子さんにどちらのほうがいいかと聞いても、周りが騒がしいし、テーブルを囲んでいる人間も皆酔っ払っていて、話が中々通じない。私は、彼のほうにキッと向き直り、 「タイ風ラーメンで、いいわねッ」  と、叫んだ。  すると、 「ハイッ」  と、中一の息子がいつも私にするような素直な少年の返事が、金子さんの口から返ってきた。  心が少年の男性に対して、いつもお母さん口調になってしまう私なのだ。たとえ相手がどんな大家であろうとも。 [#改ページ]   しみじみ人生の法則[#「しみじみ人生の法則」はゴシック体] [#改ページ] 人は年月をかけて身につけた 役割から急には逃れられない [#地付き][第31の法則]  映画『L・A・コンフィデンシャル』を見ていたら、顔を美人女優そっくりに整形して客を取る高級|娼婦《しようふ》組織というものが登場した。  しかし。と、私は思った。  二十五歳で藤原紀香そっくりに整形してもらったところで、二十五年間地味で不細工な女の人生を送ってきた女がいきなり美女らしく振る舞えるだろうか。  目鼻立ちの整っているだけでは、女は美人になれない。幼い頃から他人から〈美人〉という目で見られ続け、その期待に応えるべく、立ち居振る舞い、仕草、表情すべてに〈美人らしさ〉を身につけてしまっている女性だけが、〈美人〉なのだ。  どんなに整った顔立ちでも、オドオドといつも人の顔色を窺ったり、男の口説き文句に、 「ギョエ〜」  などと、大声上げて取り乱すような女は、美人ではないのだ。  だから、並みの顔の女がある日突然藤原紀香になったところで、明日から美人になれるかと言えば、無理だとしか言えない。人間は、十年、二十年、身に染《し》みついた立ち居振る舞いをそうは変えられないのである。  逆に、目鼻立ちが多少アンバランスでも、男の口説きをサラリとかわし、おキレイですねという誉《ほ》め言葉をさり気なく受け取ることができれば、その人は間違いなく〈美人〉である。  これは、男性に関しても言えることで、ある女性脚本家から聞いた話なのだが、当代きってのイイ男と言われる男優と一緒に仕事をした時のことだという。見ると、確かに長身で愁《うれ》いを含んだ美男子であるのだが、何かが欠けていると、彼女は感じたそうだ。モテる男のオーラというか、女に対する時に美男子が発するある種の傲慢《ごうまん》さというか、何かそういったものに欠けていると。  しかしある時、写真週刊誌に彼の子供時代の写真が掲載され、それで彼女は気づいたと言う。高校生まで、彼は肥満児だったのである。  二十年近く、太った男として劣等感を抱いて育った男は、三十過ぎてカッコ良くなって女からチヤホヤされても、十代の時からモテまくった真のハンサムが持つオーラだけは手に入れられなかったのだ。  人は知らぬうちに、他人の目に映る〈自分〉の役を演じ続けているのだろう。美人としての自分。肥満児としての自分。嫌だ、そうじゃないとあらがったところで、世間は許してくれない。 「だって、オマエ、そうじゃん」  と、あからさまに口にするまでもなく、態度で示してくるのだ。  これは何も容姿に限ったことだけではない。十年、二十年、社長を続けていると、人は〈社長〉としてしか接してくれないわけで、すると本人も〈社長〉を演じ続けなければならない。やがて、その演じ続けた役割が、その人本来の性格とすり替わってしまう。  だから、いきなり老けてしまった美人や、いきなり解任されてしまった社長は、困難にぶつかってしまう。  老美人はシワ取り手術をすれば多少なりとも復活できるが、不祥事でいきなりクビになってしまった社長は、もう取り戻しようがない。  近頃、仕事に行き詰まった五十代男性の自殺が多く報道されているが、社会に出て二十年、三十年かけて築きあげた〈自分〉が突然失われてしまうのだから、そのショックの大きさは女には計り知れないものだろう。  仕事の責任を取って自殺する中年男は多いが、仕事の責任で自殺した女と、若い男はいない。  若い男は、まだ仕事上での役割としての〈自分〉が確立していないし、女に至っては責任ある仕事なんか受け持たされていないからだ。  十年、二十年演じ続けてきた役をいきなり降ろされたら、明日からどうしていいかわからなくなるのは、当然のことである。  女性に関していえば、子供たちが独立したあとの虚無感がそれに当たるだろう。二十年も〈母〉を演じてきた、そのお役が御免となるのだから。  人は、現在自分の置かれている役割が未来|永劫《えいごう》に続くものではないということを肝に銘ずる必要がある。そうでないと、いきなり役割を剥奪《はくだつ》された時に、立ち直ることができない。十年かけて身につけた役割は、十年かけて徐々に降りてゆくしか方法は無い。  そういう点でいえば、定年五年前に窓際に飛ばされるのは、これからの退職後の人生の予行演習を行なえるわけだから、ラッキーと言えなくもない。 [#改ページ] 国立大出の人間は、 私大出身者に負ける [#地付き][第32の法則]  私の漫画を原作としてテレビドラマ化してくれたプロデューサーにK氏がいる。彼は、関西の一流国立大卒である。  番組が好評のうちに終了し、その打ち上げの席に私も招かれた。その席で、K氏がまだ私の原作本をパラパラめくっているのだ。 「きみは、片時もこの原作本を離さず、本当によく読みこんでいたよね」  と、K氏の上司にあたる部長が彼に声をかけた。すると、 「国立大受験経験者ですから。全教科、スキマなく勉強しておかないと、こわくて試験が受けられないタイプなんです。そのクセが抜けなくて」  と、K氏が答えた。  この気持ち、私もよくわかる。私も国立大受験経験者であるから。  今の受験のシステムはよくわからないが、私が受験生の頃、高校のクラスは国立系と私立系に分けられていた。国立文系クラスは数㈵・数㈼B・英語・国語・社会二教科・理科一教科を受験教科として勉強しなければならない(国立理系になると数㈽、理科二教科となる)。一方、私立文系は英語・国語・社会一教科だけでいいのだ。  大学進学希望者の大部分は、まず教科の多さで国立大をあきらめる。ところが、今の三十五歳以上が受験生だった時代は、国立大のほうが私大より偉いと考えられていた。偏差値という言葉もまだ一般的ではなかった。ちなみに私の故郷徳島では、 「徳島大のほうが、早稲田・慶応より偉い」  と、信じられていたのだ。  そこで、地元の人々に偉いと思われたいために、若者は国立大を希望し、泣く泣く多くの教科を勉強した。 「オレ、化学なんか勉強したくないから、国立受験するのやーめた」  と、早々に私大へ希望を変更する生徒を、内心|羨《うらや》み、内心小馬鹿にしながら、残った国立大志望者はコツコツと勉強を積み重ねるのであった。  しかし、社会に出てみると、 「面倒なことは、やーめた」  と言い放った私大出身者のほうが、出世が早かったり、大きな仕事を成し遂げていたりする。  なぜか。  社会に出て仕事に就くと、バクチ的な決断をしょっちゅう下さなくてはならない。この場合、私大出身者のほうが迷いが少ないと思われる。国立大出身者だと、すべてのデータを検討し尽くしてからでないと、安心して決断が下せないため、時間がかかる。ちょうど、試験前夜、英数国理社すべての教科を勉強し尽くしたように。 「向いてないことは、やらない」  これが、私大系の人間である。一方、 「向いてないことも、一応努力する」  これが、国立大系の人間なのだ(東大の上位成績者となると、「向いてないことは、何もない」と豪語するので、彼らはこの法則から除外する)。  要するに、国立大系人間は、心配性で用心深く、大きなバクチに出られない。けれど、不得手なことにも頑張って取り組む努力家である、といえる。  私大系人間は、飽きっぽく、好きなことしかせず、バクチに出るので当たりハズレが多い。けれど、次はハズレないよう努力するかといえば、しない。同じ間違いを何度も繰り返すが、一生それを直さないタイプなのだ。  人間的にどちらが魅力的かといえば、圧倒的に後者である。そのため、よく企業で、私大系バクチ的親分タイプに、国立大系小心男の腰巾着《こしぎんちやく》がくっついているケースが見受けられる。  偏差値的には、圧倒的に国立大系が高くても、私大系バクチ的親分タイプに、ぺこぺこ引っついているのだ。それは、 「高校時代、オレには捨てられなかった数学と理科を思い切って捨ててしまった大胆な男。その勇気にはかなわない」  という、受験期のコンプレックスをずっと引きずり続けているからかもしれない。  ところで、私は国立大受験経験者であるが、私の受験したお茶の水女子大学は当時、英数国の三教科が受験科目だったのだ。  だから、国立大系のようであり、じつは、私大系であったのだ。それでも高三の夏までは、多教科受験コースで勉強したので、人間的には国立大系タイプである。それを、受験の直前に、 「もう、ダメだ。化学が解けないっ」  と日和《ひよ》って、変則的受験科目を選択したのであった。  そうして、〈直前で日和る〉。私は、この行動を、そののち何度も繰り返すこととなる。  受験の際にとった態度は、のちのその人の人生を示唆するものである。 [#改ページ] 女たらしはグルメではない、 もしくは恋する女は眠らない [#地付き][第33の法則]  女たらしは、グルメではない。  これは私の臨床観察に基づくデータである。飲んべえの女たらしはいるが、美食家の女たらしはいない。そうして、真の美食家は、決して酒に溺《おぼ》れない。  美食家の、食に対する執拗《しつよう》な追究は、町の自称グルメ[#「自称グルメ」に傍点]とは、明らかに一線を画《かく》する。  自称グルメは、ガイドブックで調べたお店に彼女を連れて行き、料理のウンチクを述べながら、彼女の尊敬を勝ちとろうとする。  ところが美食家は、まず、女とレストランに行かない。大体は一人で、あるいは、同じ味覚レベルだと認め合う男性と二人連れで、真剣に食に向かうのだ。そうして、一口口に運んではウームと唸《うな》り、二口食べてはメモをとったりする。  こんな男と一緒に食事してもつまらないので、美食家は女にモテない。モテなくても美食家は一向に構わない。彼は、女よりも美味のほうを愛しているのだから。  思うに、性欲と食欲は両立しないのだ。一方の欲が肥大すると、もう一方は影をひそめる。  おいしい味にうっとりしている最中に、同席の女から、 「ねえねえ聞いてよ、ウチの課長ったらねぇ」  などと話しかけられると、美食家は不機嫌になる。そうして、こんな馬鹿女とは二度と一緒に食事したくないと思うのだ。  女たらしは、食べることに本当はそんなに興味はない。ただ、女の歓心を買うためだけに、一流レストランに予約を入れる。だから、彼は、平気でそのレストランの料理を残したりする。私の知っている二人の女たらしは、共に青魚が苦手だった。そのくせ、一流懐石料理店でコースを注文したりする。女たらしは、食事の好き嫌いが激しい。食わず嫌いの食品もあるのだろう。それはまさに、彼の食に対する無頓着《むとんちやく》の表われである。グルメは、好きだろうが嫌いだろうが、とにかく口に入れる。食に対する飽くことなき好奇心のせいだ。  どっちが偉い、というのでもない。大体の人は、ほどほどに助平で、ほどほどにグルメである。そうやって欲望のバランスをとっているのだ。  ところが、人間の生存に関わる三大欲(性欲・食欲・睡眠欲)のうち、一つが突出した人間は、必ず残りの二つの欲望が薄れるものらしい。 「恋する女は、眠らないよ」  と、私に教えてくれたのは、秋元康《あきもとやすし》さん。  眠る時間を削ってでも、愛しい男に逢いに行くのが、恋する女だと秋元さんは言う。  そういえば、美食家の編集者と、仕事で香港に行った時のことである。彼は、香港の名店といわれる中華のお店にことごとく予約を入れ、そして出された一品一品、ハシをつける前に必ず写真に収めるのだ。  レストランで食事を終えたあと、夜も遅いので早くホテルに帰ろうとする私ともう一人の編集者を残して、 「ぼくは、もう一軒ラーメンのお店に行きます」  と言って店を出た。  翌朝、彼にラーメンはどうだったと聞くと、彼はその段階ですでに電車に乗って朝粥《あさがゆ》を食べに行っていたのだ。  美食家の男もまた、眠らないのだ。  そうして、私は、異様に眠ることに執着するタイプの人間なのだ。人生最大の快楽は、眠りに落ちる瞬間にあると思っている。一日の終わりにベッドに横たわり、気を失うように意識が遠のいてゆく気持ちよさ。朝早い時間に目を覚まし、眠い頭でぼんやりともう一度眠りに戻ってゆく快感。眠りこそ我が人生の目標といってもよい。  だから、私の眠りを妨げる者は、夫であろうが、愛する息子であろうが、許さない。イビキのうるさい夫の顔を、何度枕で殴ったことか。せっかくの日曜日、早起きして騒ぐ息子を怒鳴りつけることもしょっちゅうである。  休みの日は、十二時間も十三時間も眠り続けるものだから、もちろんお腹もすく。けれど、起きない。私は、睡眠欲のお化けとなってしまっているのだ。  秋元康さん説によると、人間の三大欲は、同じ人でも年齢によってその比重が変化するという。 「大体は、若いときは性欲が強くて、それから美食家になって、最後は、くつろぐのが一番だなんて、温泉につかったりするんじゃないの」  なるほど。そうすると、私は、すでに老境にまで達しているのか。  あるいは、未だ赤ん坊並みの睡眠を欲している幼稚な人間なのかもしれない。 [#改ページ] 同窓会に出ると、 友達はみんな出世している [#地付き][第34の法則]  中学時代の同窓会があった。卒業以来二十八年、およそ三十年ぶりである。四国の中学を卒業した者のうち、現在関東近辺に住んでいる者を中心に東京に集まった。  男二十名、女十名、計三十名ほどが集合したのだが、男の子は皆出世をし、女の子は皆昔と変わらず若々しくキレイだった。家族の話になると、子供が一様に一流校に進学していた。  私は、ふと、 「友がみな われよりえらく見ゆる日よ——」  という啄木の歌を思い出した。 「みんな、すごーい」  と、私は心の底で感嘆した。  女で四十三歳というと立派なオバサンである。けれど、同窓会に出席した私の同級生の中にはオバサン・ファッションは一人もおらず、かといって気張った成金ファッションも見られず、そこそこセンスの良い都会派カジュアルを着こなして、三十代半ばくらいにしか見えない。中年太りも一人もいない。  近所の、あるいはPTA仲間の同年代の主婦に比べ、同窓会に出席した私の古い友人たちのほうがずっと若々しかった。  が、その会で手渡された資料を見て私は納得した。出席者は、案内葉書を出した人数の四分の一以下だったのだ。  三十年ぶりに会う旧友を落胆させないだけの若々しさを保っている女しか出席しない。それが同窓会というものなのだ。  そして男も、旧友に自慢できる地位・職業に就いている者しか出席しない。  じつは、男子二十名のうち六名が医者だった。そんなに医者になった同窓生が多かったのかと驚いたのだが、医者になった者の同窓会出席率が高かっただけで、卒業生全体から見て医者になった確率はそんなに高くない。  同様に、各自の子供がみんな一流校に進学したわけではなく、一流校に進学した子を持つ人間だけが、進学先を自慢しただけであり、そうでない者は口をつぐんでいただけなのである。  同窓会とは不思議な場所だ。  気の合った旧友とは卒業後も声をかけ合って時々会ったりして、縁が途切れない。ところが同窓会とは、気が合わなかった人間とも何十年ぶりかで顔を合わす場所なのだ。  会いたくない奴が多い人間ほど、同窓会出席率が悪くなる。そうやって結局、ひんぱんに同窓会を開いても、出席する顔ぶれが定まってきて、仲良し会と変わらなくなってしまう。  それよりも、同窓会をより同窓会らしく新鮮さを保つためにも、十年に一度、卒業生一同を母校に集め、その日出席しなければ卒業を取り消すといった制度にすればどうだろう。運転免許の更新のように。そうすれば、出席率一〇〇パーセントの、真の同窓会となるだろう。  私がなぜ、全員出席の同窓会にこだわるかといえば、漫画家として年月が人の顔をどのように変化させるか観察したいがためだけなのである。そしてできるなら、卒業後の人生の変遷を個別に全員、聞き取り調査をしてみたい、という欲望もある。もっとも、いくら話を聞き出そうとしても、自慢になるようなことしかしゃべってもらえないのだろうが。  人はなぜ、旧友の前では見栄を張りたがるのだろう。昔を知ってる人間の前でカッコつけてもしようがないだろうと思うのだが。いや、昔のショボい自分を知られているだけに、今は立派だと見返してやりたいのか。  そして、昔立派だった人間も、今がショボいと思われまいと見栄を張る。  同窓会が見栄張り合戦になってしまうのは、このような訳だからだ。  男女共学の同窓会は、さらに微妙な空気が流れる。昔フッた、フラれた、取られた、といった生々しい感情が蘇《よみがえ》ってきたりする。それがうっとうしくもあり、楽しみであったりもする。  大学が女子大であった私のクラスは、自慢じゃないが、卒業後一回も同窓会が開かれていない。同窓会をやろうと私が声をかけても、 「あの子が来るなら、私は出ない。私は出るけど、この子は呼ぶな」  と、各々が文句をつける。見栄を張る・張らない以前に、女同士の生理的確執が二十年近く衰えることなくずっと続いているからなのだ。  ましてや、ときめきも何も起こらない女同士の集まりに、わざわざ時間を作って出てゆく気にもならない。 〈立派になった男の子がいる〉 〈昔と変わらず若々しい女の子がいる〉  同窓会が続くには、この二点が絶対必要である。 [#改ページ] 人の職業を決定するのは、 快楽である [#地付き][第35の法則]  テレビで、かつての名子役が、人気を失ってからも栄光の日々が忘れられず、今も芸能界復帰を目指しているというドキュメント番組を放映していた。  子役からおとなの俳優にうまく脱皮できなかった彼は、SMショーの役者やキャバレーの店長、不動産業などを転々とし、四十になる今は地道な職業に就いている。結婚して子供もできた。 「でも、一度舞台でスポットライトを浴びた人間は、あの気持ちよさが忘れられないんですよ。もう一度、あの快感を味わいたい」  と、彼は言う。  同じ時期に、「再起に賭《か》ける芸能人」というバラエティ番組に出ていた元アイドルの女性も同じようなことを言っていた。 「ステージに立ったときの気持ちよさが忘れられない」  と。  しかし、私は、違う。  私は依頼を受けて何度か舞台に立ち、審査発表とか講演などを行なったことがある。何百人もの聴衆の前で、スポットライトを浴びたのだ。 「もう嫌だ。二度とするもんか」  私にとって、衆人の目にさらされることは苦痛以外の何物でもなかった。  だから、すべての人間が一度舞台でスポットライトを浴びるや、一生その快感が忘れられないというものではない。  スポットライトが気持ちいい人間と、そうでない人間がいるのだ。前者は芸能人になり、後者はそれ以外の職に就く。  ある教育学の研究者が語ってくれたことがある。 「先生っていうのは、そもそも自分でしゃべるのが好きな人間がなるもの。そんな人は人の話を聞かない。生徒の話なんか聞かないんだよ。校長なんて、壇上でしゃべるのが大好きでしょう」  そういえば、校長の話は、なぜいつでもどこでも必ず長いのかずっと不思議だったのだが、そうか、しゃべることが快楽な人間が校長になるのか。  看護婦さんになりたい、スチュワーデスさんになりたいという友人がいて、人の世話が苦手な私は、なんでそんなものになりたいのか疑問だったが、そういう人たちは、人のお世話をすることが快感につながるのだろう。  このように、人は自分に強烈な快感を与えてくれる職業を選ぼうとするのだ。  しかし、世の中ままならないのは、その人が快感を受ける職業と、その人の才能が一致しない場合が多々あるということだ。  あなた演技下手じゃない。でも、スポットライトが好きなんです、というケースなどは典型であろう。 〈天職〉という言葉は、ある職業にその人が快感を覚え、なおかつ才能もあった場合にのみ授けられるのだ。  ものすごい美人で、女優かモデルにでもなったらいいと思われる女性でも、 「目立つことが大嫌い」  と言って、田舎でひっそり暮らしている人がいる。才能があって快楽の無いケースだ。  そう考えてみると、私はじつは将棋の天才なのだけど、将棋が好きではないので、プロの女流名人になっていないだけかもしれない。まあそれは多分無いだろうけど、人は快・不快に振り回される生き物なので、自分の奥に眠る才能に気づかずに一生を終える人も大勢いることだろう。けれど、自分の気持ちいい分野に、まったく才能が無いことに気づかず、しがみつき、一生を棒に振るよりはマシだ。  髪を切ってもらっていて、へえ、漫画家さんですか、すごいですねえと美容師さんに話しかけられたことがある。 「だって、一日中|坐《すわ》って絵を描き続けられるんでしょう。すごいなあ」 「私からすれば、一日中立って髪を切り続けられる美容師さんのほうがすごいと思いますよ」  と、私は返した。私は一時間立ちっ放しだとそれだけで足がパンパンに膨れ上がる。 「立ってるほうが楽なんです。たまに坐って伝票を書こうとすると、頭痛がします」  この美容師さんは、天職に就いたのだ。  才能ある漫画家だったけれど、途中で筆を折った青年がいた。漫画を描くのが嫌で嫌でたまらなくなり、原稿の上に吐き、便所の窓から忍び出て、バイクに乗って逃げたという。コミック編集者間で語り継がれている伝説だ。  大金を稼いでさっさと漫画家をやめてしまう人もいる。そういう人は、漫画を描く行為と快楽が直結しなかった人なのだろう。お金よりも職業が強い快感を持っているかどうかは、その人の引退時期を見れば、大体わかるというものだ。  オリンピックのメダリストでありながらもさっさと引退してタレントになる人間は、スポーツにさほど快感を感じないのに、運動神経だけはズバ抜けていた人たちなのである。 [#改ページ] 「いいこと」が続けて起こる人とは 「悪いこと」を忘れる人である [#地付き][第36の法則]  人間には平等にチャンスが与えられていると思う。同時に、平等に災難も降ってくるものだ。  けれど、いつも「いいこと」が起こってるふうに見える人と、いつも「悪いこと」が起こってるふうに見える人が居るのもまた事実である。  それは、何故か。  答えは簡単である。前向きな人間は「悪いこと」を、「いいこと」が起こるための転機のきっかけととらえるからだ。  突然病気に襲われる。それを不運と考えるのではなく、それまでの生活習慣を見直すためのきっかけととらえる。より長生きするための転機を神様が与えてくれたと感謝するのだ。  あるいは離婚をする。けれどそれは、さらに良き再婚をするためのチャンスだったのだと考えるのである。再婚を望まないのならば、仕事に没頭するための環境整備だったのだと。  手前ミソだが、私は『非婚家族』という作品の中で次のようなセリフを主人公に語らせている。 「未来が幸せならば、過去の選択はすべて正しかったことになる」  人間万事|塞翁《さいおう》が馬。禍《わざわい》転じて福となす。  未来を幸せと信じている人は、今の不幸も不幸とは感じないのである。だから、自分のまわりにはいつも「いいこと」が起こっているように感じられる。  未来を幸せと信じる力とは、すなわち「希望」である。希望を失わない人は、必ずいつか「いいこと」に巡り合うのだ。  一方、未来に明るい希望を抱けない人の心に巣くうのは「絶望」である。絶望に占領されている人間は表情も暗く、会って話しても楽しくもない。だから、段々と人は遠ざかってゆく。そんな人のまわりに「いいこと」なんか起こりようもない。必然的に「悪いこと」ばかり増えてくる。  いつも「いいこと」が起こってるふうに見える人は、「悪いこと」を忘れてしまえる気持ちの切り替えの速い人でもある。過去にはこだわらないので、一度ケンカ別れした人も又再び戻ってきたりする。だから、人望もある。そういう人の評判は益々《ますます》上がり、「いいこと」はさらに増えるのだ。  このように、「いいこと」の起こりやすい人間について、その原則を頭の中ではよおく理解しているものの、私がそれを実践しているかと言えば、そういうものでもない。  悪いことが起こればふてくされ、自分の運命を呪《のろ》い、すんでしまったことをネチネチ責めていたりする。こんなことをしていてはさらに「悪いこと」を招き寄せることがわかっていても、そこから抜け出せない。  やはり人間、誰かのせいにしてグチグチ言っている方が楽だからなのである。それも同類のグチっぽい人間ばかりで集まって、うまく成功した人間の悪口を言い合うことが、一番簡単で楽チンだ。  けれどそんな時、そのグチ人間の輪の中に、たった一人でも、 「他人は、他人。自分は、自分。ヒトのことはどうだっていいじゃない」  と言ってくれる人物がいてくれると、残りの人間もハッと我に返るのである。  グチ人間にも良心があり、心のどこかでこんなにグチグチしててはいけないと気づいているので、こういった正論をまっ正面から投げつけてくれる人に、時として救われるのである。 「いいこと」を身の回りで増やすコツは、「悪いこと」を忘れてしまうもの忘れの良さと、「悪い感情」に心を占められそうになった時、他人は他人、自分は自分とハッパをかけてくれる友人を一人身近に持つことであると私は思っている。 [#ここで字下げ終わり] [#改ページ]  あとがき  なぜ、36の法則かと言えば、このエッセイは「ほんとうの時代」(PHP研究所発行)誌上で三年間連載したものをまとめたからである。一か月に一本、かける十二か月、かける三年で、三十六なのだ。  毎月、毎月、私が人間について気づいたことを短いエッセイにしたもので、法則と言っても何の学術的根拠も無い。科学的に立証されてもいない。  もっともそれは、現世平成ニッポン社会におけることで、サイモン界では、これは立派な〈法則〉なんです。  これはもう、三百億年前、私がサイババの隣りの家の人間であった頃から、〈法則〉なんですよ。  いかなる苦情、反論も、それはあなた方が現世ニッポン人の意識で考えるからであって、サイモン界では通じません。  それが、〈サイモンの法則〉なんですよ。  以上が、〈サイモンの弁明㈪〉である。  では、〈サイモンの弁明㈰〉が何であるかと言えば、かつて「東京ラブストーリー」という漫画を描いていた時、インターンが病院に宿直するエピソードに対して、インターン医に宿直制度は無いという指摘を読者からお葉書でいただいた。その指摘に対し私は、「『東京ラブストーリー』は、一見現代日本を舞台にしているように思われますが、じつは、現代日本に酷似したとある惑星でのでき事なのです。その星では、すべてが日本と同じなのですが、唯一、インターン医の宿直制度だけ違っているのです」  と、お断りの返事を出した。  これが有名な〈サイモンの弁明㈰〉であり、サイモン界では、ソクラテスの弁明に匹敵する名弁明として語り継がれている。  とまあこんなわけで、こんな人間の発見した〈サイモンの法則〉なので、信憑性《しんぴようせい》も推《お》して識《し》るべしかな。クスリにはならないが、毒にもならないでしょう。死んだ人間を蘇らせる方法は、本著には書かれてはいません。けれど、本著を読んで笑いながら、 「思い当たるな」  と思っていただければ、あなたも立派なサイモン界の人間です。 「ほんとうの時代」連載中は、安藤編集長から、ぼくもこれと同じことを経験したという励ましのファックスをたくさんいただきました。安藤編集長もまた、サイモン界に近い人物なのでしょう。  また、一冊の本にまとめるにあたって、PHP出版部の中さんには大変お世話になりました。  その他、法則の実例となって私を発見に導いてくれた大勢の方々に感謝します。   二〇〇〇年 五月 [#地付き]柴 門 ふ み   角川文庫『恋愛の法則36』平成15年7月25日初版発行