[#表紙(img¥表紙.jpg)] 四十雀の恋もステキ 柴門ふみ 目 次  めざめよ、女力  不倫の条件  魔女と不倫  音羽騒動 〜隣りの主婦〜  上昇と安楽 〜香港キャリア・ウーマンに学ぶ〜  年下の男  四十にして始める商売  カメとケイタイ  不倫と動物園  エステ・マシン購入秘話  枯淡への遠い道のり  目指せ、解脱主婦 〜一生ダンナに添いとげますか〜  「若い女」の相対的[#「的」に傍点]理論?  夫婦も習慣?  正装でお越し下さい  ネタの宝庫同窓会  四十過ぎて欲しいもの  主婦のプロと水商売のプロ  子供の巣立ちと老人介護  のぞみ号傷害事件!?  四十からの恋はいばら  中年女性とロング・スカート  私のベリー・ファイン・ハウス  愛あればこそ   あとがき [#改ページ]   めざめよ、女力 [#挿絵(img¥P007.jpg、横193×縦168、下寄せ)]  業界でも評判の美人女性誌編集長Aさんと親しく話をする機会を持った。  今年四十歳になるという彼女は三十そこそこにしか見えず、内巻きにカールしたロングの髪《ヘア》(いわゆる女優巻き)といい、黒目がちの大きな瞳《ひとみ》といい、名にしおう�美人�であった。  私は来年から女編集長をヒロインにした漫画を連載する予定があり、そのため彼女に取材を申し込んだのだ。決して物見遊山で美人見学に出かけたのではない。  えーっと、女が仕事を続けていく上での一番の困難は何ですかあという私の質問に彼女はこう答えた。 「そうねえ、自分の中の女との闘いかしら。ウィークデイは男として仕事してますから、その分週末は目一杯自分の中の女を楽しみます」  自分の中の女。  そんなもの、私は何万年も前に置き忘れてきてしまったような気がする。もはや、化石の記憶でしかない。  二十年近く、仕事と母親業をどう折り合わせるか、そのことばかり考えて生きてきた。締切り。弁当作り。お迎え。締切り。明日までの雑巾《ぞうきん》縫い。病院の予約。締切り。どこに〈女〉が顔出す余地があろうか。レオナルド・ディカプリオあら素敵、と思うことはあるけれど、これは〈自分の中のミーハー〉が呼び起こされるだけであって、ディカプリオと、女としての私が今後どうなるものでもない。  でも、自分の中の女が楽しめない毎日がそんなに不幸かと問われれば、私の場合、そうでもない。第一、生涯において女を楽しんだことなんかあったっけ。  高校時代、私はクラス一のガリ勉少女であった。共学だったがもはやクラスの男子に敵はいなかった。けれど、学年トップはいつも理数選抜クラスの男子に奪われていた。 「悔やしい」  当時肩の先まで髪を伸ばしていた私は、風呂《ふろ》上がりの濡《ぬ》れた髪にドライヤーを当てながらつぶやいた。 「あたしがこうしてる間にも、男子は勉強しているのに。なんで女なんかに生まれたのだろう。ああ、時間がもったいない。髪を乾かす時間がもったいない」  もちろん、おしゃれのために髪を伸ばしていたわけではない。美容院に行く時間がもったいないので伸ばしっ放しにしていただけだ。このような青春を過ごしたわけであるから、私にとって女であることはただ面倒臭さを増やす厄介な要因でしかなかった。  朝起きてブラジャーをつけるのが面倒臭い(そのためしばらく就寝中もブラジャーをつけていた。今は肩が凝るのではずしている)。  旅行のたびに化粧品を小壜《こびん》に詰め替えるのが面倒臭い。  化粧直しも面倒臭い。  ムダ毛の手入れも面倒臭い。  女でさえなければ、これらの面倒臭さから全て解放されるのに。私はいつもそんな風に考えていた。  けれど、Aさんは言う。 「ウィークエンドは、自分の中の女をたっぷり味わい楽しむ時間」  おそらくAさんは、そのたわわな黒髪にカーラーを巻き、手足の爪一本一本にベースからトップコートまで塗り重ね、それらすべてが乾ききるまでゆっくりと時を待つのだろう。  私だって、マニキュアは塗る。けれど、大体右手の親指か人差し指の表面がよれている。乾く時間がじれったくてつい手を使ってしまうからだ。充分にマニキュアの乾かぬ指でペンを握り、缶のプルタブを引く。当然、よれる。  世の中には、自分の中の女を楽しめる女と、そうでない女がいる。つまりは、そういうことなのだ。そうして前者を女力《おんなりよく》の強い女と、私は名づけたい。女力とは、〈自分の中の女を楽しめる能力〉のことだ。Aさんの女力は、おそらく私の何百倍もの数値であろう。  さて、男性の多くは、オンナはオトコの目を引きたいがために女力を磨くと考えている。が、じつはそうではない。女は自分自身にウットリするために女力を磨くのだ。というか、自分が好きだからロングヘアをカールさせるのであって、男に媚《こび》を売るために毛先をクルクルさせてるわけではないのだ。  実際、男にモテようと思うならば、今の時代過剰な女らしさはマイナスポイントでしかない。若い男性の多くは広末涼子《ひろすえりようこ》をカワイイと言い(私に言わせると女力は低い)、完璧《かんぺき》なメイクの女よりも素顔っぽい女性の方が嫁にと求められやすい。  それでも、女力の強い女は、自分を止められない。きゃしゃなヒールや小ぶりのハンドバッグで身を飾ることが止められない。  女力と容姿も又、相関関係にはない。そんなに美人ではないけれど滅茶苦茶《めちやくちや》女力をアピールする女性もいる。私が通うエステの客の中に、時々いる。完璧な小物。完璧なメイク。でも、美人ではない。そういう女性も、結構いる。  さらに、女力イコール、色気というものでもない。ノーメイクにショートカット、服装もいつも黒っぽいパンツスタイルの四十代の女性。でも、色っぽい。こういう女性もいるのだ。オノ・ヨーコさんなどは女力は低いけど、色気は凄《すご》いと思う。逆に、女力というか少女力というか、五十過ぎてもメルヘンの世界を生きるソバージュおばさん群。彼女達は女力はあるが色気は感じられない。  私の行きつけのスーパーのレジにメルヘンおばさんがいる。彼女はおそらく、六十歳近い。顔に深く刻まれたシワが如実に彼女の年齢を語っている。けれど、IZAMヘア。なぜだか、おかっぱに切り揃えた髪でしかも頭のてっぺん両サイドをウサギの耳のようにゆわえている。そのゆわえているリボンが、よく菓子折りに添えられるナイロン地の、真ん中に金糸の入ったペランペランの赤リボンなのだ。  老婆顔に赤リボンをつけたIZAMヘア。そして、季節に応じてリボンが変化する。クリスマスが近づくとリボンの先にミニ・ツリーがぶら下がり、節句になるとミニ鯉《こい》のぼり(お菓子のおまけについてるやつ)までくっついていた。  でも、彼女の女力は、私より数段|勝《まさ》っている。自分の女を楽しむ能力に長《た》けているわけだ。  さて、〈四十からの恋〉がテーマのこのエッセイ。このように女力の乏しい四十過ぎの女に恋は可能なのか。  そんな想いを胸に抱えて、私は「J‐men's」の扉を押した。「ジェイメンズ」とは、知る人ぞ知る外国人男性ダンサーによるストリップショーパブである。半裸のダンサーのパンツに、客である女性がチップをはさむ光景が何度かマスコミに登場しているので、ご記憶の方もあろう。かつて西麻布《にしあざぶ》にあったその店は一度閉められ、九九年六月から半年間期間限定で溜池《ためいけ》にニューオープンしたのである。 「とにかく、すごいんです。それまで私が持っていた『外国人』『ストリップダンサー』に対する偏見が吹っ飛びました。す、す、すごいんです」  と、「J‐men's」を体験した私のアシスタントが興奮の口調でまくしたてるので、そんなにすごいんならよし一度見てみようじゃないかと、私も店に足を運ぶことにしたのだ。  そこで、私と黒人ダンサーTerryとの運命の出会いがあった。 「J‐men's」のダンサーは七名。うち、黒人二名で残りは白人。白人ダンサーは夢に出てきそうな美形ぞろい。ハンサムな外国人とはこういうものさ、というお手本のようなハンサム。彫りが深く、目はパッチリ、美しい歯並びでふりまく笑顔。身体はまるでギリシア彫刻のようで、その美しい裸体が切れ味鋭く、かつ、しなやかに舞い踊る。しかも私の目の前一メートル先で。  うーん。  私はまいった。ドリンク飲み放題のグラスを片手に、酒池肉林とはこのことかと、くらくらめまいがした。  と、いきなり白人ダンサーが私の膝《ひざ》にのっかった。というか、中腰で後ろ向きに私の前に立っただけ(決して体重をかけたりはしない)なのだが。そして、私の両手をとって、彼の裸の胸に押しつける。彼の手は私の両手を握ったまま、ゆっくりゆっくりと彼の胸を下りてゆく。私の指先は汗に濡れたダンサーの肌を這《は》う。これもショーの一環なのだ。ダンサー達は観客の女性達の膝にのっかったり、あるいは舞台にひきずり上げて、ショーの相手をさせる。ある者はチークダンスの相手をさせられ、ある者は舞台上のソファに横たえられてその上にダンサーがおおい被《かぶ》さる。  めくるめく幻惑の世界に私は圧倒されっ放しだった。美しい外国人ダンサーが、愛想のいい笑顔をふりまきながら、身体を押しつけてくるのだ。そのつど、ココナッツのような甘いコロンの香りが鼻にまとわりつく。  ショーも半ばに近づくとさすがに私も慣れ、ダンサー達の乱舞を楽しむ余裕も出てきた。  その中で、一人のダンサーから目が離せなくなった。黒人ダンサーのTerryである。ダンサー達の中で群を抜いたダンスのうまさにまず目を奪われたのだが、やがて、彼以外のダンサーが目に入らなくなった。  私が、恋に落ちた瞬間である。  ショーの後半はもう、Terryばかりを追っかけていた。一時間余りのショーが終わると、記念写真タイムとなる。お気に入りのダンサーと、千円でツーショットポラロイド撮影ができるのだ。私は、迷わずTerryを指名した。  ニコニコと人の好《よ》い笑顔でTerryが私に近づき、私の肩に腕を回す。思わず私は、 「アイ・ム・ゴーイング・トゥ・シー・ユー・アゲイン。アイ・プロミス・ユー」  と、まるでNOVA英会話のような拙《つた》ない英語でTerryの耳元に囁《ささや》いた。  一瞬、Terryは驚いたように私を見つめ、それから満面に笑みを浮かべて言った。 「OK。OK。ユー・プロミスト」  その後はよく聞きとれなかったが、多分、約束絶対だよと言ったはずだ。  ドント・フォアゲット・ミー。  私はTerryと固い抱擁《ほうよう》で別れた。この日から、Terryとの恋が始まったのだ。 [#改ページ]   不倫の条件 [#挿絵(img¥P015.jpg、横166×縦211、下寄せ)]  近頃、記憶力というものがとんと低下している。  特に、数字類がいけない。  最近、やたらと間違い電話やファックスをかけるようになっている。デザイン事務所にかけたはずなのに、 「はい、こちら専修《せんしゆう》大学庶務課です」  と、返ってきた。カツゼツのいい、テキパキした女性の声だった。専修大学の職員は優秀な人材だと思う。  送ったはずのファックスがまだ届きませんという連絡も何度も入る。誤まって送られた私の原稿はどこをさまよっているのだろう。  こうもたびたび番号違いを繰り返すので、登録されてない相手にかける時は特に慎重に、何度も何度も数字を確かめながらボタンを押すのだが、それでも間違える。  どうやら私は番号をメモした紙から一瞬目を離し、電話器のボタンに視線を落とすまでのその〇・〇何秒かのうちに記憶を失くすらしい。これは結構すごいことだ。  若い頃の私の記憶力はこうではなかった。寝る前にベッドで小説や漫画を読むと、その小説の活字や漫画のコマ絵が頭の中にそのまんま残像として残り、それが鮮明すぎて眠れなくなってしまう。目にするものすべて焼き付いてしまっていたのだ。  あの頃に、私の生涯の記憶力を使い果たしてしまったのね。  体力の限界で引退するスポーツ選手のように、記憶力の限界から恋愛界を引退することもあり得る、と、これが今回のテーマである。 「ドント・フォアゲット・ミー」  と、私は確かTerryの耳元に囁いたはずなのに、その私が一か月の内にTerryなんか忘れてしまった。あのワクワクした気分は二週間ももたなかったなあ。  恋愛の醍醐味《だいごみ》は、楽しかった思い出をひとつひとつ振り返る甘美な時間にあると思う。恋愛の真《ま》っ只中《ただなか》では、楽しいこととつらいことが半々くらいあって、二十四時間中幸せなんてことはあり得ない。その怒濤《どとう》のような時期が一息ついて、恋愛のつらい部分を抜き去り、楽しいことばかり抽出した思い出に浸る時、うっとりと幸福な時間が訪れるのだ。  ところが記憶力が低下すると、つらいことは元より、楽しかったこともすっぽり抜け落ちてしまっている。  何にも残っていない。  あら、本当に私はTerryに恋していたのかしら、でも思い出すのも面倒臭いし、もういいわ、と、こうなってしまう。  若い頃はこうではなかった。  楽しいこともつらいことも、恋愛に関するありとあらゆる事象が記憶に残り、身体の芯から湧き上がっては暴れ狂い収拾のつかない有り様だった。片想いだけで何年ももったりした。ひどく傷つき、その分喜びも大きかった。  そんな自分をいつ頃から失ってしまったのだろう。  おとなになって毎日生活を続けると、それだけでとんでもなくつらい事がやってくる。人間関係の軋轢《あつれき》、仕事上のトラブル、子供の失敗。病気。三十代はまさに、矢継ぎばやにそういった困難が襲ってくる時期なのだ。  同じ年頃の子供を持つ近所の主婦と道ですれ違って立ち話すると、必ず子供の悩みのグチになる。思春期の子供を二人以上持つ母親は、いずれも、子供の登校拒否か受験の失敗か高校中退のどれかを体験している。東京近郊の、平均的レベルの一般家庭で、そうなのである。 「子供が小さい頃の悩みなんて悩みのうちじゃなかったわねえ」  と、私達はグチる。  パンツ丸見えの短いスカートで夜の盛り場をうろつく娘を親は縄で縛っておくわけにもいかず、叱れば居直り猛獣のように牙《きば》をむく。おとなしくて手のかからないいい子だと思っていたら、ゲーム浸りのただの無気力な若者だったり。頼りのはずの父親は、 「子供のことは、きみに任せてある」  の一点張り。  他人の方が、まだ言うことを聞く。言っても言っても最後まで聞かないのが家族である。主婦は十数年かけて、この事実に気づくのだ。 「このままでは、いけない。やられてしまう」  主婦達は、蓄積されたストレスに危機感を抱く。そして、各々の方法でストレス回避を試みる。  犬を飼う。  子供に手がかからなくなったとたんに、犬を飼い始める主婦の何と多いことか。犬は子供と違って、グレない。ゲームおたくにもならない。夫と違って裏切らない。いつも、いつまでも尻尾《しつぽ》をふってまとわりついてくる。だから、犬に逃げる主婦が近頃やたらと多いのである。  スポーツクラブにはまる主婦もいる。私も時々、スポーツジムに行くのだが、無心で身体を動かし続けていると、ある時期から快楽が訪れるようになる。今まで運動嫌いだった私は、四十を過ぎてこの新しい発見をした。  犬やスポーツでは満たされない主婦は、不倫に走るのだろうか。が、不思議なことに、私の周りには一人も不倫をしている主婦がいない。マスコミでは連日、人妻不倫を報道しているが、私の友人、知人で浮気をしている人妻が一人もいない。私に知れるとエッセイネタにされるから、固く口をつぐんでいるだけなのだろうか。家庭内暴力、いじめ、非行はちゃんと私の目の届く範囲で行なわれているが、主婦の不倫だけは知らない。  地域差があるのだろうか。ある村か町に行けば、全員の主婦が不倫しているのかもしれない。そういえば、九州のある中学の女子生徒三十数名が援助交際で補導されたというニュースが流れた。地域差か、やっぱり。  専業主婦は、まず、自由になるお金がない。デートに着てゆく服もないのに、どうやって不倫するのだろう。犬を飼っていれば、夕方の散歩の時間までには家に戻らなければいけないし、早朝の散歩も欠かせないので夜遊びも無理だ。犬を飼ってる主婦は、だから不倫をしていないはずだ。  仕事を持つ主婦が不倫をしているのだろうか。それならあり得る。仕事を口実にPTAにも顔を出さないし、忙しいので道すがら専業主婦と立ち話する余裕もない。従って私の顔見知りにもならない。  本気で専門職に取り組んでいる子持ち主婦の口ぐせは、 「仕事と子育ては両立しない」  である。  近所に、大学職員と歯科医の専門職の主婦が二人いるが、いつも疲れ果てて眉間《みけん》にシワを寄せている。キャリアも家庭も両立させている素敵なミセスなんてマスコミのでっちあげている虚像よ、そんな女は日本に一人もいやしない、が、彼女達の言い分だ。それは私も賛同している。不倫に費やす時間と気力はどこにもない。  そう考えると、不倫に走る主婦は、限られてくる。犬を飼ってなくて小銭を持っていて、ハードな専門職に従事していないことである。  アパート暮しで昼間はパートに出ている主婦、かな。アパートでは犬を飼えない。眠られぬほどの仕事の重圧もない彼女達は、単調な仕事の繰り返しに、何か刺激も欲しくなるだろう。  では、パート勤めの主婦と関係を持つ男とはいかなる者か。  パート勤めの子持ち主婦に、キムタクが恋するであろうか、椎名桔平《しいなきつぺい》でも、無理だな。羽賀研二《はがけんじ》の遊び相手でも苦しい。  若く結婚して三十半ばでも中山美穂《なかやまみほ》のような美貌《びぼう》の人妻が、独身時代勤務していた設計事務所にパートで再就職したところ、同じ事務所の、佐藤浩市《さとうこういち》風建築家と不倫の恋に落ちるストーリー。絵的に美しいし、世間も納得する。納得はするが、共感はしない。読者の広大な支持は得られないなと、私の想像力はいつも職業意識に結びついてしまう。読者が求めるのは、くたびれた子持ちの主婦が、パート先で偶然キムタクと恋に落ちる話なのである。現実にはあり得ないが、ひょっとしたらあり得るかもしれないと読者に思わせることができたら、その作家は大ヒットメーカーになれることであろう。 『ぼくの美しい人だから』という小説は、中年の下品なおばさんに若くて美しいエリート青年が恋するストーリーだったが、中年のウェイトレスといえども、精神に毅然《きぜん》とした所があって、充分に年下の男を惹《ひ》きつける魅力があり、読者を納得させるだけの説得力があった。  時間と金と魅力がなければ、主婦は不倫できない。プラス、気力と記憶力。  傷ついても尚《なお》快楽を求める気力と、甘美な瞬間を思い出として心に刻み込める記憶力。  仕事場でいつものように原稿に向かう一時、あら、何となく今日は気分がいいわ。どうしてかしら。ええっと。思い出した。昨日、憧《あこが》れていた男性とお茶が飲めたからだわ。でも、彼と何の話をしたんだっけ。——思い出せない。  こんな私に、恋は無理だ。 〈追記〉くたびれた主婦でも、あやしげな色気があれば、不倫の可能性あり。相手はパート先の家庭持ちの上司。もつれると、刃傷沙汰《にんじようざた》になるケースが多い。 [#改ページ]   魔女と不倫 [#挿絵(img¥P023.jpg、横211×縦173、下寄せ)]  会う人毎に、 「お疲れですか?」  と、声をかけられる。    しのぶれど 色に出にけり 我が疲れ    かなりお疲れ? 人の問ふまで [#地付き]ふみ   色気も何もない日々である。相変わらず。  さて前回「私の周りに不倫してる主婦がいない」と発表したばかりであるが、先日ある女性誌の取材に応じたところ、編集部から、 「ウチの既婚読者の六割は不倫経験ありです。独身時代に、家庭持ち男性と関係をもったことのある人を加えると、読者の九割が不倫体験者です」  と、アンケート結果を教えられた。  今、この文章を読んでいる男性読者の方に警告します。あなたの奥さんが「××△△△△」の愛読者であるなら、高い確率で不倫してます。もしくは、あなたの会社の同僚に「××△△△△」の愛読者がいれば、人妻でも簡単に口説き落とせます。 「そんなに不倫してるのですか。でも、きっと天罰下りますよ」  と私が言ったところ、 「どうして天罰なんですかッ」  と、三十代とおぼしき女性副編集長にキッとにらまれた。「××△△△△」は、雑誌をあげて人妻の不倫を奨励しているのか。  三十代のキャリア・ウーマンに出会うと、彼女達の若さとエネルギーにやられてしまうのか、疲れを感じるようになっている。四十過ぎてからは、特に感じる。  疲れきった身体で、香港で著名な女流映画監督、メイベル・チャンに会いにゆく。彼女は「宋家の三姉妹」の監督として知られている。  この映画は、長女が中国一の大富家、次女が孫文《そんぶん》、三女が蒋介石《しようかいせき》と結婚したスケールのでかい姉妹の話である。百四十分の長編ながらも少しも見飽きず、娯楽大作としても一級品だった。  メイベルは年齢不詳のチャーミングな香港女性。肩まで下ろしたロングの髪に、ほとんどノーメイクの顔。日本の中年女性がこんなスタイルだと意固地なオバサンととらえられがちだが、メイベルはとても若々しく素敵である。おそらく四十代半ばだろうが、とてもそうは見えない。 「アグネス・チャンに似てますね」  と私が言ったところ、 「ええ、遠い親戚《しんせき》です」  と答えが返ってきた。  メイベルはアグネスをもう少し面長にして八重歯を抜いた感じである。  現在、香港女性と日本人男性との恋愛をテーマにした漫画を連載中の私は、去年から今年にかけて取材のため何十人もの香港人と会っている。  個人的に私は、YES、NOをはっきり口にする香港女性が好きだ。メイベルとも片言の英語でコミュニケーションを取り合ったのだが、すごく気が合った。映画の撮り方、漫画の発想方法などで盛り上がった。 「ひとつ、質問があります」  と、メイベルが切り出した。 「なぜ、日本の女性は不倫を許すのですか」  そうだそうだと、その場に同席した米国人男性も同意した。 「アメリカでは、離婚率五十パーセントです。それは、不倫がバレたら即離婚だからです。日本では不倫がバレても離婚をしないのはなぜですか」  なぜですか、どうしてですか、日本では不倫は大目に見てもらえるのですかと、香港人と米国人に詰問されて、私は窮してしまった。  でもクリントンだって不倫しても許されてるじゃないですかと反論しようと思ったが、いやあれは不倫ではなく「不適切な関係」に過ぎないのかと思い直し、いずれにせよこれらの高度な英作文は私には無理なので、黙ってしまった。 「ふみ、あなたの家庭はどうなのか」  とメイベルが聞くので、 「アイ・ドント・フォアギブ。バット、マイマリッジズ・コンティニゥーイング」  と答えた。メイベルはふぅーんという顔をして、香港に来たら是非ウチに遊びに来てね、香港人の俳優を紹介するわと言った。そして彼女のケイタイの番号を教えてくれ、 「シー・ユー・アゲイン」  と言って別れた。  シー・ユー・アゲインと言えば、Terry。片言の英語を喋《しやべ》るたびに私はTerryを思い出す。でもこの忙しさでは、とても会いにゆけない。  なぜこんなに忙しいのかと言うと、二十日間で漫画を三本描かなければならないのだ。締切りのダブルブッキングという信じられないミスのために、私は眠る時間も削って描き続けている。四十からの恋は、漫画家には無理なのか。  そのうちの一本で、どうしてもカルチャーセンターの取材が必要なので池袋の西武コミュニティカレッジへ出向く。 「魔女入門」。私が取材対象に選んだのがこの講座である。前もってアポイントメントを取ったところ広報担当者から、 「私共は取材は大歓迎なのですが、なんせこの講座は、『魔女』なもので、『魔女』の意見を聞かないことには何とも……」  と何とも不可思議な答えが返ってきた。  カメリア・マキ。全米魔女協会認定の日本で唯一人の魔女である。宝石チェーン店ではない。  魔女のご機嫌を損ねてしまったらどうしようと私はドキドキしたのだが、案外あっさりと取材許可が下りた。  池袋西武イルムス館の九階にスクールはある。生まれて初めてのカルチャーセンター体験なのだ。  カーペットを敷きつめた小部屋の中央に白テープで円陣が描かれ、その中央に魔女は座っていた。十数名の生徒さん達が円陣をぐるり取り巻いて腰を下ろしている。 「今日は、漫画家のサイモン先生の取材が入ってまぁーす。でも、生徒の皆さん、サインはあとでおねだりしてね」  と、えらく気さくな魔女であった。  カメリア・マキ魔女は外見|大信田礼子《おおしだれいこ》風美女。ナイスバディを黒タイツに包み、髪は腰の下まで垂れている。  さて、箒《ほうき》の乗り方を教えてくれるのかと私は期待したが、授業はいきなり地球天文学から始まった。核だのマグマだのプレートがどうしたこうしたのと高度な地学の授業が始まり、私は驚いてしまった。  どうやら魔術というものは、月や太陽の動きから発生する自然力学のようなものと鉱物と植物とを結びつけた古代人が、人間の治癒に役立つように体系づけた知識だと言いたいらしい。そのへんの大学の講義よりもずっときちんとプログラムされた授業である。そのあと、実技に移った。  私は一回だけの体験入学だったのだが、それでも水晶パワーとアロマテラピーの基礎を学ぶことができた。  六角水晶を床の上に置き、手をかざして水晶のパワーを感じとる実習が指導された。 「この水晶は特に強い波動を放出してます。こうやって手を近づけると……。痛いっ。強すぎるわっ。この石の力は」  と、魔女カメリアはおっしゃるのだが、私が同じ石の上に手をかざしても何にも感じられない。  私の隣に座っている生徒さんは、 「そういえば何となく手の平が暖かく感じられる」  と言い出すではないか。  うーん。私には魔女の資質もないらしい。ひと月続けると誰でも必ず、石のパワーが感じられるようになりますからと魔女に励まされた。石のパワーが感じられるようになると、その石を身体の患部に置くだけで、頭痛・肩凝り・婦人病も治るのだそうだ。すごいぞ、魔女学。  体験アロマテラピーでは、催淫《さいいん》作用があると言われる薬草の香りをみんなで嗅《か》いだ。  黒タイツ姿の魔女を円陣で取り囲んだ十数名の若い女性が催淫の香りを嗅ぐ。——気の弱い日本男児なら、その光景を見ただけで走り去ることであろう。  催淫。  これぞ魔女って感じがする。いいぞいいぞと思っていたらその日の授業は時間となってしまった。  授業のあと、魔女カメリアにつっこんだ質問をしてみたのだが、年齢不詳、独身主義ということしかわからなかった。でも、どうやら大阪育ちらしい。  不思議なオーラを放つ気さくな魔女、カメリア・マキは普段はプロの占い師で、赤ちゃんの命名もしてくれるそうだ。  恋の占いもするのかしら。だったら私とTerryの恋の行方を占ってもらおうかなと、私はカメリア・マキの名刺を眺めながら考えている。  いっこうに進展しない私とTerryとの恋。この恋に暗雲が垂れこめるものの、今月の収穫は、 「香港の俳優を紹介してあげる」  というメイベルの言葉。レスリー・チャンとの恋が始まるのかしら。 [#改ページ]   音羽騒動   〜隣りの主婦〜 [#挿絵(img¥P032.jpg、横142×縦196、下寄せ)]  音羽《おとわ》で行方不明だった女の子が遺体で発見された上、容疑者が被害者の家庭と顔見知りの近所の主婦だという一報を聞いて、私がまず思ったのは、 「容疑者は、女の子の父親と不倫関係にあったに違いない」  である。  何年か前、不倫関係にあった男性の子供二人を愛人が焼き殺すという事件があった。不倫のあげく、男の家庭、家族を滅茶苦茶《めちやくちや》にする女は存在するのだ。  ところが音羽の事件の第二報が、 「女の子の母親と容疑者の間に、心のぶつかりあいがあった」  なのである。ああそうか、女の子の母親と容疑者はレズビアンだったのね、と、私は合点した。  漫画家の発想とは、このようなものなのだ。  事件の真相が、母親同士の人間関係のよじれによるものだと判明するとようやく、 「そうだ。主婦が近所のご主人と不倫することは、現実にはまずあり得ない」  と、私は最初の早トチリを反省した。  昔はよく、隣りのおばちゃんが向かいのおじちゃんと駆け落ちした、などという話を耳にしたものだ。特に田舎で。  けれど今、都会のマンションに暮すサラリーマンが、同じマンションの主婦と駆け落ちすることは、まず、ない。なぜなら、大体その主婦の夫もサラリーマンであり、サラリーマンの夫を捨てて別のサラリーマンと駆け落ちしたところで、結局サラリーマンの妻としての生活が再び始まるわけだ。主婦だって、そのくらいの予測は、つく。どうせ駆け落ちするなら、放浪の詩人や旅芸人の方がいいに決まっている。  サラリーマンだって、家に居る女房とさほど大差のない隣りの専業主婦と駆け落ちするよりは、せめて駅前のスナックのママさんや、弟の入院費を稼ぐため泣く泣く勤めを続ける風俗嬢(いるのか、今どき)と逃げる方が酔えるはずだ。  女は不思議なもので、結婚すると、隣りのダンナさんがハンサムだからという理由で隣りの奥さんを羨《うらや》んだりはしない。けれど隣りのダンナの収入がいいと、悔やしい。  これってつまり、隣りのダンナはもはや異性としての価値を持たないってことじゃないのかしら。隣りのダンナがどんなにフェロモンむんむんでも、羨ましくもなーんともないのだ、主婦にとって。  隣りのダンナがリッキー・マーティンだとしても。  隣りのダンナが キャンデロロ(注)だとしても。  要するに、幸福な家庭生活・結婚生活の重要なファクターは、小ぎれいなインテリア、充実した余暇、出来のいい子供に集約され、結局は〈金持ちな夫〉〈高学歴な夫〉が必要となる。  実際、子供が学校に通うようになると、威張っているのは成績の良い子を持った母親であり、決して顔の良い子の母ではない。  金持ちの夫と、成績の良い子を兼ね備えて持った主婦は無敵である。日本の多くの主婦は、この二つが欲しくて欲しくてたまらない。だから、たまたまこの二つを持ち合わす女が居れば、妬《ねた》む、ひがむ、そして呪う。  音羽の事件は当初、被害者の母親が容疑者につらく当たり、その仕返しの犯行説に傾いていた。幼い子の命を奪ったのは重罪であるのだけれど、女性週刊誌は、なぜか容疑者の方に同情的な記事を載せていた。それはその方が読者の共感を得やすいと考えていたからだ。夫が金持ちで子供が有名幼稚園に受かった女よりも、その両方を持っていない女の方が共感を呼ぶからだ。のちにこの事件は、容疑者の一方的な逆恨みとして、結審する。  主婦の欲しい物は、隣りのダンナの収入と、隣りの子供の成績に多く占められている。  お受験主婦にとっては、ハンサムな愛人と不倫するより、我が子が有名校に合格することの方が快感であり自慢であり喜びであると思う。第一、不倫は自慢できないし、万一自慢したとしても自慢とは受け取られない。 「あの人、一体どうしちゃったのかしら」  と、主婦達にゴミ収集所の陰でコソコソと囁《ささや》かれるのがオチである。  挙げ句、せっかく我が子が有名校に合格したとしても、試験官宛てに、 「〇〇ちゃんの母親は不倫してます」  などという怪文書を出されたら元も子もないではないか。  まあそんな理由で、〈お受験ママは不倫をしない〉を、今月のサイモンの定説として挙げよう。  それでは、非受験ママが不倫をするのかしら。確か先月号で、「××△△△△」の既婚読者の六割が主婦不倫してるって書いてあったわと思い当たった読者の方々へ。  じつは、先月号発売直後にその編集部から電話があり、六割と出たアンケートは実は少数の人間を対象としたアンケート結果であり、もっと大規模なアンケートでは三割でしかなかったと訂正が入った。  三割でも結構な人数ではないのか?  ところで、私は昨日、音羽へ出向き、被害者宅のマンションの前も通った。このエッセイを書くための現場取材というわけではなく、母校で非常勤講師として一日だけ講義をするためである。私の母校は、被害者の女の子が合格した幼稚園の母体である女子大なのだ。  ここ数週間のマスコミの大騒ぎが嘘のように、昔ながらの見慣れた茗荷谷《みようがだに》であり音羽であった。卒業して今年で丁度二十年になるのだが、私が学生時代のまんまのビルや商店(茗荷谷駅前の「後楽寿し」「東宝パーラー」)を横目で確めながら、跡見学園《あとみがくえん》脇の坂道を駆け上がるというかつてと同じ通学路をたどると、私はいつしかハタチの頃のワタシに戻っていた。  四国から出てきたばかりの田舎娘。目の前に広がる東京を前に、どきどきしながら立ちすくんでいた。  私は、基本的に講演を引き受けない。人前で話すのが苦手だからと、依頼を断わると、 「えーっ、とてもそうは見えない」  と、必ず驚かれる。堂々として物怖《ものお》じしないタイプと思われているらしい。エッセイでも好き勝手書いているので、おそらくお喋《しやべ》りも達者な方だと解釈されているようだ。  けれど、実際はむしろ視線恐怖症である。大勢の人にこちらを向かれると私は萎縮《いしゆく》して言葉を失ってしまう。 〈十八の頃の、何も持たず、何者でもなく、東京を前に縮こまっていた私〉  に戻ってしまうのだ。  東京暮しも二十五年過ぎ、すでに生まれ故郷で過ごした時間を追い越しているくせに、まだ時々、〈十八の頃の私〉が顔を出す。  特に、故郷に居た頃に憧《あこが》れていた人に出会った時は、気を失いそうになるくらい緊張する。  なぜか私は、某民放局の番組審議委員を引き受けている。この審議会のメンバーは、私以外、ソウソウたる面々でつい最近までは三浦朱門《みうらしゆもん》氏が審議委員長をつとめられていた。三浦朱門・曾野綾子《そのあやこ》夫妻と聞けば、私達の世代にとって拝みたくなるような超インテリご夫婦である。このお二人の書かれた文章の一言一句は、十代の私の心に強く滲《し》み込んでいる。  ところが、漫画の締切りを口実に私はこの審議会をサボりっぱなしで、サボればサボるほど行きづらくなっていたのだが、意を決して十一月の定例会に出席してみた。 「おーやおや、お久し振りですねえ」  と、何人もの委員方に声をかけられ、私は穴があったら入りたい状態で、とにかく会議が終わったらそそくさと退散しようと思っていた。出席率の悪さを責められないうちにとっとと帰ってしまおうと。  審議が終わり、さあ帰りましょうとしたその時、三浦朱門氏が私を呼び止めた。 「サイモンさん。こんな事を申し上げると失礼かもしれませんが……」  うわっ。叱られる。私は動転した。尊敬する三浦先生にサボリを叱られるのだと思ったとたん、私に意識障害が生じた。 「〇△◎※(パクパクパク)」  三浦氏が何を喋ってるのか聞きとれないのだ。 「えっ」  と、私は聞き返す。 「〇△◎※(パクパクパク)」  口の動きは確認できれど、音声が聞きとれない。人はパニックにおちいるとこうなるのか。失礼を承知で私は再度聞き直す。 「すみません。どういう意味なのでしょうか……」 「〇△◎※(パクパクパク)」  駄目だ。三回も同じ事を喋ってもらってるのにまだ聞き取れないと私の焦りが頂点に達した時、 「……ご主人の代表作は存じ上げてるのですが、サイモンさんを知るためには何という御本を読めばいいのかわからなくて……」  という三浦氏の声がようやく脳に届いた。  つまり、サイモンさん〈こんな事を申し上げると失礼かもしれませんが〉の後に続く言葉は〈あんまりにも会議サボりすぎですよ。他の委員も怒ってますよ〉ではなく、〈サイモンさんの代表作って何ですか〉だったのだ。  けれど、あの三浦先生に三度も聞き返してしまったことで、その日一日私は自分を恥じて落ち込んだ。  私は極度に緊張したり、大勢の人に見つめられたりするとパニックになり、記憶を喪失したり言葉を失くしたりするのだ。十八の頃の田舎娘に戻って。  だから講演はしない主義なのだが、今回は母校と恩師(土屋賢二《つちやけんじ》というフザけた哲学者)に頼まれ、断われなかったのだ。  講演中にパニックになったらどうしようかと不安で一杯だったのだが、いざ喋り出したらアレヨアレヨと波に乗り、九十分あっという間にたってしまった。  講義室に集まった二百名の女子大生の視線を感じ、十八の頃の私にやはり戻ってしまったのだが、よく考えると相手も十八の大学一年生。なあんだと思ったとたん、十八の女が十八の友達にお気楽に話す気分になり、思いもかけずうまくいったのだ。  十八の娘は、三浦朱門先生の前では上がるものの、同じ年の女の子の前では強気に出られるのである。  そして十八の娘に戻るたびに、私はまだ十八だから恋ができるわと思ってしまう。成長の無い私なのだ。  (注)長野オリンピックでフェロモンをふりまいたアイススケート選手 [#改ページ]   上昇と安楽   〜香港キャリア・ウーマンに学ぶ〜 [#挿絵(img¥P041.jpg、横164×縦190、下寄せ)]  毎年、新年になると二つの決心をする。 「今年こそ、ダイエットを成功させ、英会話を修得しよう」  本当に毎年、毎年、決心だけはするのだが、続かない。じつは十年くらい前まではこれにプラス、運転免許証とピアノ・レッスンが加わっていたのだが、もはや年も年なだけに、この二つは諦《あきら》めました。私は今後人生において、ポルシェのハンドルを握ることもショパンの別れの曲を奏《かな》でることもないであろう。  まあ車の運転に関しては、夫という名の運転手もいることだし、ショパンについてはCDをかければすむことだ。ダイエットにおいても、中年以降やせるとシワが目立つという点から、まあいいか太っててもという気運が高まりつつある。 〈シワのないデブか  シワのあるスリムか〉  四十歳以降の女性は、この二者択一を迫られる。やせててシワもないなんて、もうあり得ないのだ。シワとたるみを目立たせなくするためには皮下脂肪をパンパンに膨らませるしかない。 「ああまた太ってしまった」  と思うより、 「ああ皮下脂肪に張りが出てシワが浅くなったわ」  と思うことにしたのである。  そんなわけで、今年から新年のダイエットの誓いをやめることにした。  そうなると何がミレニアムだ、二〇〇〇年を区切りの一大決心なんて馬鹿馬鹿しいやという気分が進み、英会話もやめた、私は生涯ジャパニーズ・スピーキン・オンリーで生きてゆこうと考えた。  ところが新年早々、外国人との会食の機会が巡ってきた。去年から続けている仕事(香港漫画『九龍で会いましょう』)の関係で、香港要人と会わなければならなくなったのだ。  チュン・マン・イー。十三年間香港国営放送の頂点に立ち、その後転職して今年から香港の駐日大使のような職に就かれている。絵に描いたようなサクセス・キャリア・レディーなのだ。五十三歳にはとても見えない(十歳以上若く見える)美人。エンポリオ・アルマーニのスーツに身を包み、さっそうと彼女は現れた。場所は都内の某中華レストランである。  私以外にも、香港観光協会の男性が二名、それと私の担当編集者Tも同席していたのでこの会食において私は、 「アホな子」  のふりをして、英会話に耳を貸さず、ひたすら中華を食べまくってサッサと退散しようと心に決めていた。なにせ正月明けの五日である。休みボケの頭でキャリア・レディーと太刀打ちできるわけがない。 「可哀想なアホな子」  で、この場を乗り切ろうと私は画策したのだ。  私以外の日本人三名は英会話に堪能《たんのう》なので、彼らにチュンさんの接待を任せて、私は美食を堪能する——そのつもりだったのだが。 「サイモンサン、ハウ×××ドウユウ〇〇〇タイム?」  と、チュン・マン・イーは、私の目を見つめて私にばかり話しかける。中学生レベルの単語を聞き取れても、それより高度な部分は×××とか〇〇〇としかわからない。 「私はアホな子ですから、放っておいて下さい」  という意味を込めた無言の笑みで私は彼女に応《こた》えようとしたのだが、 「サイモンさん、彼女はこれこれこういう質問をしているんですよ」  と、男達が口々に通訳してくれる。  しぶしぶ私は、その質問に日本語で答える。  そういえばこんなこと、以前にもあったなと私は思い出す。  中学生時代、国語の授業は退屈なので、その時間は妄想タイムと決め、目を開けて教科書を読んでるふりをしつつ、頭の中は白昼夢を楽しむという荒技を繰り返していた。ところが、ある日を境に私にばかり指名が集中し始めた。授業に上の空な態度を教師に見破られたのだ。 「通知表1でもかまわないから、私のことは放っておいて下さい」  と、その時も私は考えていた。私は一度決めた決心を他人の力で翻させられるのが嫌いなのだ。  チュン・マン・イーに、香港ではどこに行った、香港のどこが好きか、香港はこれからどうなると思うかと矢継ぎばやに質問され、それに二言、三言で答える私。当然、会話が続かない。 「あ、これはヤバイ」  さすがに正月ボケの私も目が覚めてきた。ただで中華を食べさせてもらってそれでさよならという場ではないのだ、これはお仕事なのだと、背筋を伸ばした。  と、香港女性の代表でもあり、香港女性の目指すサクセス・ストーリーの実現者でもある彼女に、私はこの質問をぶつけてみた(もちろん日本語で)。 「香港女性は、なぜそうお金にこだわるのですか」  待ってましたとばかり、チュン女史は語り始めた。なぜ香港女性は自立を求めるのか。男性に依存しない人生は、自分の手でお金を稼ぐことにある。仕事をし、金を手に入れ、�インデペンデント�してのち、ようやく人生に愛を求め始める。経済的に自立してはじめて社会人として一人前、愛とか結婚はそれからの問題よ、もっとも仕事でキャリアを積めば積むほどさらに上を目指したくなるし、そんな自分に釣り合う男を見つけるのは至難の業ね、うっふっふと彼女は笑った。  チュン女史は、渡辺絵美《わたなべえみ》をぐっとスリムにして知性をふりかけさらに美人にした風貌《ふうぼう》である。彼女のために、自民党の森《もり》幹事長(当時)が皿の料理をサーバーしたという逸話を同席の男性が披露してくれた。それも納得の、迫力のある美女なのだ。彼女に釣り合う男性を見つけるのは、確かに至難の業かもしれない。  私も気合いを入れ直し、その結果、彼女の喋《しやべ》る英語が少しずつ聞きとれるようになった。もっとも、彼女はアホな子にもよくわかるようにハッキリと大きな声でゆっくりと喋り、私も全神経を集中して、単語一つ一つを翻訳して日本語に再構築したのであるが。 「つらい」  私は、仕事の場で、しばしばこういう状況に陥る。 「なんでこんなに頭を使わなきゃいけないのか。アホな子として生きてゆけば、人生こんなに楽なことはないのに」  上へ上へ、さらに上を目指すとは、私がかつて出会ったサクセス・レディー全員が発した言葉である。なのに私は、楽に楽に、さらに楽を目指そうといつも考えている。  私はキャリア・ウーマンにはなれない。  バリバリのキャリア・ウーマン達に出会うたびに私はそう感じる。生来のなまけぐせが大きな敗因だと思う。  ところで、同席の五十代の男性が、 「同窓会を開いたところ、五組もの小学校同級生同士の結婚があって驚いた」  と、話し出した。そんな手近な結婚ではロマンも何もないではないかと、ロマンチストらしい彼は不満をもらした。 「これが、日本人の結婚観なのです」  と、私はチュン女史に説明した。 「幼い頃からよく知っている気心の知れた相手との結婚。こんなに気楽なものはないからです。地域の小学校なら、育った環境も同じなわけだし、結婚後の〈育ちの違いからくるぶつかり合い〉も避けられる。合理的な結婚といえるでしょう」  なぜなら、日本人は結婚生活にcomfortableを求めるからと私が言ったところ、チュン女史は、それはconvenientだと言った。  居心地の良さではなく、利便性。  なるほどね、日本の夫婦の多くは利便性でくっついてるだけなのかもしれない。  でも、上へ上へと登りつめて、自分に似合う男性がいないとため息をつくよりも、便利なダンナがいる人生の方が私には向いている。  私のダンナは、車の運転ができる。  私のダンナは、私よりは英会話が達者だ。  この二点においてだけでも、ウチのダンナは便利だ。でも、何だか私の結婚生活におけるメリットはこの二点だけのような気もしてきた。  ウチはダンナが私より十歳年長で、しかも男女の平均寿命を考慮すると、私の後家生活は二十年くらいありそうだ。  私がもし再婚するなら、再婚相手の条件はただ一つ、 「プロのマッサージ師」  である。  毎晩、毎晩、風呂《ふろ》上がりに私の凝った肩を揉《も》みほぐしてくれる便利なダンナ。それこそが私が晩年求める理想の夫婦像なのだ。  と、ある人に語ったところ、 「プロのマッサージ師は、おそらく家じゃマッサージしませんよ」  と、冷たく言い放たれた。名料理人が毎日家庭でご馳走《ちそう》を作らないのと同じように。  なんだダメじゃんと、私はアッサリ自分の考えの甘さを認めた。  四十を過ぎて、向上心に燃えても恋は見つからない。  四十を過ぎて、便利さとお気楽さを追求すれば、さらに恋は見つからない。  今年も私は多難だ。 [#改ページ]   年下の男 [#挿絵(img¥P049.jpg、横126×縦226、下寄せ)] 「本の旅人」誌上での内田春菊《うちだしゆんぎく》さんの小説を読んで私が、 「羨《うらや》ましい」  と感じたのは、彼女にうんと年下の恋人が居るからではない。おかあさん、おかあさんと慕ってくれる幼い子が三人も居るということである。  私にもかつては、幼く可愛い我が子が二人居た。 「ねえねえ、おかあさん聞いて。あのね、学校でね」 「おかあさん、ぼくの話の方を聞いて。あのね、幼稚園でね」  と、二人が競い合って私に語りかけてくれる毎日だった。 ところが、高校三年と中学二年になった現在では、 「おかあさん」  の次に続くのは、 「〇〇買うから、お金ちょうだい」  である。  本当にそれしか言わない。学校で何があったのやら、友達が何人いるのやら、自分からも話さないし、こちらが聞いても、 「べつにィ」 「う〜〜〜ん」  としか答えない。でもまあ年賀状が何枚か来てたから、友達がいないわけでもない。  近頃、世間を騒がす事件の犯人には共通点がある。人づきあいに消極的・ゲーム好き・小さい頃はいい子だった。  ウチの息子は、まさにこの条件に当てはまるではないか。いや、日本中の中・高生のおとなしい男の子の大半はこの特徴を持っている。  その反対に、人なつっこくて、ゲームが苦手で、小さい頃はガキ大将だった男の子の大半はヤンキーであろう(ゲームが苦手は、記憶力が不可欠のロールプレイングが下手だという点で)。このテの男の子達は、世間を震撼《しんかん》させる大事件は起こさないものの、自転車泥や交通違反はしょっちゅうだと思う。  つまり、おとなしい子でもやんちゃな子でも、いつ犯罪の当事者になってもおかしくない、そんな状況なのだ、現代は。  思春期の男の子が家に居る。  それだけで、毎日が薄氷を踏む思いである。  中学に入ってから、息子は全く勉強しなくなった。将来は何になりたいの、これからどうする気、と尋ねても、 「うーん」  とか 「すーん」  とかしか答えない。そして、テレビ画面に現れる音符に合わせてコントローラーのボタンをたたき続けている。リズムが合うと音符が消滅するという音楽ソフトのコンピューターゲームなのだ。その激しい動きに暴力的なものを感じるのは親の取越苦労というものだろうか。  私は深いため息をつき、ベランダに出て夜空を見上げる。  私が電話をしていると必ず私の肩に顎《あご》をのせ、ねえねえ誰とお話ししてるのと問いかけてくる子供が、確かに我が家に居た。居間のこたつで私がうたた寝しているといつの間にか背中にぴったり張りついている子供が、かつては居たのだ。  今は、いない。  TSUNAMIのような侘《わ》びしさにウオウウオウ怯《おび》えてる(byサザンオールスターズ)。  もしも神様が一つ願いを叶《かな》えてくれるなら、可愛い、良い子を私に下さい。年下のかっこいい恋人よりもそれよりも、私は八歳以下の子供が欲しい。それはもうおそらく、私が生涯で二度と手に入れられないものだから。  生理の周期がどんどん早くなる。経験者に聞くと、どんどん早くなって、それがある時期から逆に段々間隔が広がり、なかなか来ないなあ、ああ来ない、終わったとなるそうだ。  もう終わったという、五十代前半の女性と出会った。 「医者にはっきり言われたの。もう上がってますって」  でもね、と彼女は言葉を続けた。 「今、うんと年下の男に口説かれてて。妊娠する心配もないし、いいかなっと思って」  独身である彼女に、何の躊躇《ちゆうちよ》の必要があろうか。十歳二十歳年下だろうが、どんどん恋を楽しめばいいじゃないですかと、私は彼女を激励した。  少し前の私なら、二十も年下の恋人なんて羨ましいわ悔しいわと地団駄踏んだかもしれない。  けれど現在、子離れブルーの真っ最中の私は、 「ふーん、年下の恋人かあ。そんな人生もあるんだなあ」  と、遠くの風景に目を細める心境である。  彼女以外にも、四十五歳で二十七歳の男とつきあっているだの、ご主人が十歳年下のカップルだの、年下男をパートナーにしている三、四十代の女性はかなりいる。  彼女達に共通して言えることは、 〈見かけは、年よりずっと若く見える〉  である。これでパートナーが年より少し老けて見える外見であれば、カップルとして違和感はないはずだ。  私も人から、実年齢より若くは見えると言われるのだが。だが、現在私の漫画担当である二十七歳の若者編集者の肌を見ると、気後れする。四十五で二十七の男かあ、と、私は前述の知人の女性を思い出す。  精神力、だな。  二十七の肌の張りを見ても動揺しない精神力を持っていないと。ちょっとでも弱気を見せたら、そこで恋は終わりのような気がする。 「あんたのたるんだ肌は、何なんだ」  と年下男に指摘されても微動だにせずゆっくり微笑み、 「女としての本当の魅力は、これからよ」  と胸を張る余裕がなければ。人間関係、最終的に、毅然《きぜん》としてる者が勝つ。自分が勝ってると思い込んでる方が、勝つ。精神力で、人は勝つ。  つまり、絶えず精神に緊張感をみなぎらせ、一瞬も気を抜かずに日々を全うする。これが十歳以上年下の男とつきあう秘訣《ひけつ》かもしれない。だとしたら、私は無理だな。それだけ努力しても、年下男に息子以上に愛されるとは思えないから。  私は、今度恋をするなら、息子以上に私を愛してくれる男じゃなきゃ嫌だ、と思っている。つまり、一日のでき事を細かく報告し、電話をする私にぴたりと張りつき、こたつの正方形の天板の同じ一辺に座って身体を寄せてくる男でなきゃ嫌なのだ。しかも美しくて賢くて……と条件を列挙してゆくうちに厚顔の私もさすがに不可能だと気づいた。  去年の暮れからミドリガメを飼っている。どのくらい脳ミソのある生物なのかは知らないが、私が水槽に顔を近づけると、ギョッとしてバタバタ暴れる。こちらとしては可愛いがってるつもりなのだが、むこうとしては強引に拉致《らち》されている状態なのだろう。それでも陽なたで手足をだらりと伸ばし目を細めて甲羅干しをしている姿は、愛《いと》おしい。  本当は犬を飼いたい、毛が短かい小型犬を我が子のように可愛いがりたい。おそらく愛犬だけが、息子以上に私を愛してなつく、美しく賢い地球上の生き物になるのではないか。  犬とともに年老いてゆきたいなと、ぼんやりそんなことを考えていたのだが、先日、友人である秋元康《あきもとやすし》氏監督の映画『川の流れのように』の試写会に出かけた。  出演していたのは、滝沢秀明《たきざわひであき》くんである。試写が終わった後のパーティに現れた滝沢くんを間近で見て驚いた。 「こんな美しい少年がこの世に存在するのか」  ぴかぴか、つるりのお肌には、シワ、シミはおろかニキビもヒゲ跡も毛穴すら見当たらなかった。まっ黒な瞳《ひとみ》に、紅をさしたような唇。会場には、滝沢くんの事務所の先輩である美少年タレント達が二十名近く居たのだが、そんな中で滝沢くんだけが身体に発光体を埋め込まれたがごとく、光輝いて見えた。華《はな》があるとは、こういう人のことを言うのだろう。広い会場で、彼を円の中心に半径二メートルがスポットライトに当たっているかのごとく、ひときわ明るかった。  私の中で眠っていた、永遠の眠りにつこうとしていた恋する女心が蠢《うごめ》き始めた。  眠っている場合じゃない。  彼が私を愛するかなどは、もはや問題ではない。 「一緒に写真撮って下さい」  私はタッキーに駆け寄り叫んでいた。この時ほど私は秋元さんの友人でよかったと思ったことはない。 「滝沢くん、この人サイモンさん」  と、秋元さんが私を紹介してくれた。  サイモンさん? と、タッキーはその美しい首をかしげ戸惑いの表情を見せた。いいのよどんなに冷たくあしらわれようと。そんなこと、この四十年の人生でゴマンと味わっている。キミのその美しい姿を私の瞳に焼きつけさせて下さい。  興奮冷めやらずに家に戻ると、ニキビ面の息子がこたつで口を開けて眠っていた。こたつの上に置かれた水槽の中でも、カメが手足を引っ込めて眠っていた。  明日になれば、彼らに普段以上に優しい私を、その理由がわからずいぶかしがることであろう。 [#改ページ]   四十にして始める商売 [#挿絵(img¥P057.jpg、横146×縦159、下寄せ)]  近所の主婦友達の一人が、駅前商店街でリサイクル・ショップを始めた。  ここ一、二年、ショッピングの女王の中村《なかむら》うさぎとまではゆかぬものの、中村ハムスターくらいは服を買い込んでいた私は、さっそく彼女の店に大量の服を卸《おろ》すことにした。  品物を卸すついでに、店番の手伝いも申し出てみたのだが、 「あなたには、客商売は絶対できないから」  と、女店主に冷たく言い放たれた。  そう。じつは私は、家族にあいさつすらロクすっぽできない人間なのだ。明け方戻ってきた夫に対しても無愛想に、 「戻ってたの」  と、ボソリとつぶやくことしかできない。  家族にオハヨウすら言えない人間が、なんで見知らぬ客に、イラッシャイマセ、アリガトウゴザイマスと声がかけられようか。  案の定、一見《いちげん》さんで訪れる客一人一人に明るく声をかける店主の脇で、私は言葉にならない言葉を口の中でもごもごさせていたのだった。  私には客商売は、できない。  けれど、客商売を観察することはできる。  このリサイクル・ショップは駅前商店街のはずれにあり、駅周辺の賑《にぎ》わいからは離れている。そのため、 「場所がねえ、お客さん入るかしらねえ」  と、オープン前から私は別の主婦仲間と噂していたのだった。  ところが、客は入るわ入るわ。  しかも、買う。  こっちが内心、お客さんそんなもの本気で買いなさるんかいと声をかけたくなるような品も、 「これ、いただくわ」  と買ってゆく。  二千円以内ならば、主婦は服を買う。多少気に入らなくても、主婦は買う。千二百円、千三百円なら、あなたには絶対似合わないよと声をあげたい品でも、買う。  近頃、買い物依存症という言葉がよく聞かれるが、都会に住む主婦の八割、九割は大なり小なり買い物依存症だと思う、買い物によって、ストレスを発散させるのだ。  おしゃべりと買い物。  女性にとってこの二つの強い欲望は、男性の性欲・出世欲に匹敵すると思う。  裸体で横たわる女体があれば手を出さずにはいられないのが男ならば、さあさあお安いよ買ってよとぶら下がっている洋服を見れば買わずにいられないのが女なのである。男がやってしまったあとに、その女との結婚なんか思いつかないのと同様、女も品物を買って帰ったとたん、あらら何でこんなもん買ってしまったのかしらと茫然《ぼうぜん》とすることが多い。  要するに、対象に向かう強い欲望が満たされる快感の一瞬がすべてなのだ。  リサイクル・ショップとはうまく言ったものだ。女が服に向かう欲望がリサイクルされるわけだから。  ショップでは、おしゃべりの欲望も満たされる。  店番を手伝っていると、用もなくブラリと訪れては店の人間相手にどうでもよいことをエンエンと喋《しやべ》り続ける女性客をよく見かける。  たとえば、店に置かれている手作りのバッグを手にとって、 「私もね、じつはバッグを手作りするの、先生に習いに行ってるんだけどね、その先生の実家が鹿児島で、……鹿児島と言えば……」  と、まるで、みのもんたの電話相談よろしく話がどんどん本筋から離れてゆく。 「ちょっと待ってね。ここでお知らせ入れますからね」  と、みのもんたのように話を切り上げることもできず、店の人間はじっとそのつまらないおしゃべりにつき合い続けるのだ。  やっぱり私には接客業は無理だ。しかし、現場は無理でもブレーンにはなれる。  千円、二千円の洋服は売れても、五千円以上の品はまず売れない。一万円以上だと、リサイクル・ショップの値段ではない。数日店番を手伝った私が、店主と出した結論である。 「だから、サイモンさんが出してくれた十数万のブランド・スーツも八千円くらいしか値がつけられないと思うの」  と、店主が申し訳なさそうに言うので、 「いや、待った。いい考えがある」  私はそう言って次の提案をした。  ブランド名(アルマーニ、シャネル等)を大きく書き、定価十三万の品、一万三千円と提示しよう。定価の十分の一なら、一万円以上でも、主婦は必ず買う。 「これで売れなかったら?」  と、彼女が言うので、 「捨てていいわよ。十年前の古い型だし。このお店なかったら本当に捨てようと思っていた物だし」  そう言って、私は店を出た。 「売れたのよ、売れたわ、その日のうちに三着とも」  と、その夜店主から興奮した声で電話が入った。私が出したブランド・スーツが三着とも即日完売したと言う。  そうでしょう。そうなると思ってた。  と、私は心の中でつぶやいた。声に出すと自慢気になるからだ。もっとも今文章で書いているのだから、大自慢もいいところだ。自慢ついでに書いちゃえば、 「私って、商売の才能あるかも」  と、心底思ったのである。  接客は、無理だ。しかし、それは従業員に任せればいい。私はブレーンとして、商才を発揮すればいいのだ。なにせ私の先祖は徳島でも老舗《しにせ》の呉服屋。商才のないはずがない。この際、漫画家なんかとっととやめて商売始めるか、と、妄想が暴走し始めた時、実家の商売が父の代で倒産したことを思い出した。暴走する妄想を生かした漫画家を続ける方がまだマシと言うものだ。  さて、その女店主は四十七歳である(見た目は年よりずっと若くてキレイ)。四十七歳の彼女から、 「あたし、お店始めるの。もう決めたの。来週からオープンするからよろしくね」  と、いきなり聞かされた時は、驚いた。習い事やスポーツに積極的で、でもご主人の仕事を手伝うものの基本的には専業主婦を二十年近くやってきた女性が、いきなりお店を開くその行動力と、思い切りの良さに私は感動した。  もう一人、仲の良い主婦で、四十五歳でいきなりお弁当屋さんを開いた女性がいる。もっとも、彼女は体力が続かないと言って早々に店を閉めてしまったのだが。  女達の、このパワーと行動力は一体何なのだろう。  昔は〈三十を前にしての女の選択〉という言葉があったが、今は〈五十を前にして〉の時代なのだろう。  四十のうちに行動を起こしておけば、五十からの人生がとても楽しくなる。と、よく言われている。生理も上がるし、子供も離れるし。思いっきり好きな事ができるというのだ。  そうだな。生理が重なると、旅行もスポーツも億劫《おつくう》だし。私が地元のスポーツクラブの会員になりながらも、二年間で三回しか通ってない原因はここにある、仕事が上がった、さあプールに泳ぎに行くかという日に限って生理中なのだ。二十八日周期として、ひと月のうち四分の一は生理なのだから、その確率が高いのは仕方ない。  さあ何かを始めようとして、四回に一回は生理と重なって断念することが多い。  さあダイエット体操を始めよう、でも今日は生理でお腹が張ってダメだわ。  さあエステに行って全身マッサージを受けようか、ダメだわ生理中だからパンツを脱げない。  私の人生では起きなかったが、素敵な男性に誘われても四回に一回は生理のためお断わりしなければならなかったはずだ。  そんなこんなも、あと十年以内でおさらばだと思えば、何だか前方が明るい。もっともその前に更年期があるらしい。いや、すでにらしい。目がかすむし、冷えとのぼせがひどい。ついに老眼鏡も買った。  我が家には、夫という名のさらなる年寄りがいて、こちらの老化もひどい。 「なんだっけ。あの、近頃若者が道で乗ってる……」  と、夫が話しかけるので、 「ああ、キックボードね」  こう私が答えると、 「キックボード? だっけ? ほら、陸《おか》サーファーの小型のようなやつ、何て言うんだっけ?」  と、質問を続ける。  陸サーファーという言葉自体、十年ぶりに耳にしたが、それより夫が何を言いたいのか全く要領を得なかった。聞き取る方も、理解力が相当鈍ってきているからだ。  彼がつまり、スケボーのことを言いたいのだなとわかったのは五分後のことだった。それにしても、陸サーファーの使い方、完全に間違っている。陸《りく》で遊ぶサーフィン型の乗り物ではなく、本当は乗れないくせにモテたいために街中でこれ見よがしにサーフボードを持ち歩く人間を陸サーファーと言うのだ。  それでも何とか夫の言わんとすることを理解できた私は、老人介護のエキスパートにもなれることであろう。  あ、介護が始まるから、五十歳からも結局遊べなくなるじゃない。  四十代で女が焦り、行動を始める理由はここにあったのか。 [#改ページ]   カメとケイタイ [#挿絵(img¥P066.jpg、横120×縦153、下寄せ)]  カメが死んだ。  近くのディスカウント・ショップで千九百八十円の「カメ・セット」を買ったその日にカメが死んだ。  去年の暮れから飼い始め、虫カゴに水を張っただけの仮の水槽では狭かろうと、それまでのより一・五倍はある水槽に白い小石、甲羅干し岩、水質保全薬までついてイチ・キュッパの「カメ・セット」を買って、私は意気揚々と帰宅したのに。  固く目を閉じたまま、カメはプカプカ水に浮いていた。そんな恰好《かつこう》のまま眠っている時もあったが、水槽をグラグラ揺すると必ず目を覚まして手足をバタバタさせたものだ。ところが、その日は様子が違った。眠っているカメは両手足を同じように甲羅からのぞかせるのだが、この時のカメは左前足だけをひっ込めていた。残り三本はだらりと投げ出されているのに、一本だけがひっ込められたそのアンバランスさに私は、 〈死〉  を直感した。カメはシンメトリーな生き物なのだ。アシンメトリーで固まっていれば、それはすなわち、死、である。  私に遅れて帰宅した娘に、 「カメが死んだ」  と教えると、 「やっぱり」  と、答えた。二、三日前から元気がなかったのだという。それでも一晩様子を見ようと言って、娘が添い寝をすることになった(ただ単に、娘のベッドの横に水槽を置いただけなのだが)。  カメは、蘇《よみがえ》らなかった。  翌日、郵便受けの脇の植え込みの下にカメは埋められた。  三か月間我が家の居間のこたつの上に置かれた水槽の中でバタバタ泳いでいたカメ。  オサムにしよう、いや、ビンセントがいいなどと名前を出し合ったものの、結局、 「カメ」  としか呼ばれなかったカメ。  無愛想で頭が悪くてそのくせけっこう手間のかかったカメ。  晩のおカズをスーパーで選びながら私は、 「そうだ、カメにもレバーを買わなきゃ」  と、一品余計にカゴに入れていた。飼い始めた初日、 「カメは、レバーを食べる」  という夫の一言で、まずレバーを与えたのだったが、それが間違いだった。レバー以外食べないカメになってしまったのだ。市販の〈カメのエサ〉など、見向きもしなくなった。  それでも、両前足でレバーを押さえ、瞬時にグワッシ、と喰《く》いちぎる様は、さすがガメラと縁続き(本当か?)と、感心したものだ。  けれど、この偏食がたたって、カメは死んだのだ。カルシウム不足から、甲羅がグニグニと柔らかくなっていた。  グニッと柔らかい甲羅。  それは、私には耐え難い感触だった。その柔らかい甲羅をつかんだ日以降、私はカメを手で触れなくなり、娘に世話係をバトン・タッチしたのだ。  それも又、大きな間違いだった。  高校を卒業した娘は、糸の切れたタコのように今日もどこまで行ったやらの午前様帰りが続き、カメの世話どころではない日々が続いていた。  母娘二人で、殺したのだ。  カメ。  不器量で馬鹿なカメだったが、そんなカメの喜ぶ顔が見たくて、〈カメ・セット〉を浮き浮きと購入した私は、やはりカメを家族の一員として愛していたのだ。  子育ても、カメの飼育も、同じ。  出来が悪くて愛敬《あいきよう》もなくて文句たれで要求の多いバカ子供でも、一緒に暮していると愛がわくのだ、母親は。バカ子供、バカガメの喜ぶ顔が見たくて尽くしてそれが嬉《うれ》しい私はバカ母なのだ。  娘と、久し振りに新宿に買い物に出かけた。新宿で半日かけて買い物するなんて、二十年ぶりぐらいだった。  丸井に入って店員さんに、 「インテリア館ってもうないんですか」  と尋ねたところ、 「イン・ザ・ルームは、渋谷店も閉めちゃったんですよ」  と、丁寧に答えてくれた。  丸井インテリア館新宿店。そんなものはもう何年も前に消滅していたのだった。  高野の一階が消えGUCCI路面店に。三越南館は大塚家具である。さらに、Flag's、サザンテラスと、聞き慣れないビルが建ち並ぶ。  二十年前と変わりないのは、紀伊國屋《きのくにや》書店と伊勢丹くらいなものであろうか。そう、紀伊國屋エスカレーター下は、私の青春の待ち合わせ場所だったのだ。  いろんな男とデートをしたが、新宿での待ち合わせは必ず紀伊國屋エスカレーターの上か下、だった。そしてその頃の私は、あまりに男から声をかけられすぎるので、新宿駅から紀伊國屋にたどり着くまで息を詰めて一気に駆けぬけねばならなかった。少しでも歩をゆるめると、ナンパ男に引き止められて、待ち合わせの時間に遅れるからだ。 「ねえ、彼女」  という声を振り切って、私はいつも新宿駅東口を息せき切って駆けていた。  今や、まったく声もかかりゃしない。  その代わり、私の三歩後ろを歩く娘に、声のかかること、かかること。ティッシュも山のように渡されている。  おかあさんもねえ、二十年前は新宿駅から紀伊國屋までたどり着けないくらい男にナンパされまくった伝説があるのよと、娘に言ったが、 「ボーッとしてて、物売りつけられそうな顔だからでしょ」  と、冷たく言い放たれた。  いや、二十年前はキャッチ・セールスなんて発明されてなかったのよ純粋なナンパなのよと説明しようとしたが、悪あがきなのでやめた。  男から声はかからなかったが、お店に入ると店員さんからはどんどん声がかかった。歩くおサイフ(=母親)とショッピング中の親子づれだと見抜かれたからだ。  この母娘はカモだ、と狙われたのだ。娘が喜ぶ顔を見るのが大好きなバカ母である私は、欲しい物は三万円以下なら何でも買ってあげようと思っていたのだが、 「う〜ん。やっぱり、今日は買わない」  と、娘は迷った挙句何も買わない。  さんざん見て歩いたものの、結局その日はさくらやでケイタイを二個買っただけだった。  じつはこれが私の生まれて初めてのケイタイである(もう一個は、夫用。彼も生まれて初めて)。  ケイタイもパソコンも無縁の生活を送っていたのだが、やはり時流に遅れてはいけないと、ようやく重い腰を上げたのだ。  嬉しくって着メロも入れたのだが、一回も鳴らない。そのはずだ。誰にも番号を教えていない。このケイタイは、私がメールで娘と連絡を取るため持ったものである。  かつて私はエッセイで、 「人妻が急にケイタイを持ったら、不倫を疑え」  と書いたことがあったが、家を出たきりどこをほっついているのか深夜まで戻らぬ娘を持った人妻は、不倫をしてなくてもケイタイを持つ。  さっそく娘にメールの打ち方を教えてもらったのだが、指先が思うように動かない。 〈電話待つ。母〉  と送るつもりが、ハハがどうしても打てなくて、エラーマークが点滅する。後で娘に聞いたのだが、同じ音《おん》は続けて打てなくてどーたらこーたらで(その説明もよく覚えてないので省略)。ともかくも、エラーの点滅に気が動転した私は指先が狂い、〈ハ〉と打つところを〈フ〉と打ち、さらにそれを漢字変換して〈臥〉となし、おまけに転送完了してしまった。 〈電話待つ。臥〉  娘はこのメールを友人と確認し、おかあさん又変なことしてる、でもこの〈臥〉って何て読むのと語り合ったという。 〈臥〉くらい読んでくれ。臥薪嘗胆《がしんしようたん》も知らないんだろうな、きっと。  さて、ケイタイだけでなく、Eメールも始めた私である。こちらの師匠《ししよう》は、息子である。ひと月二万円の電話代をたたき出すくらいインターネットにはまっている中三の息子にとって、Eメールなど朝飯前である。  が、ケイタイのメールすらおぼつかない私にとって、Eメールはどきどきの初体験だった。 「ねえ、電源切ってる間に向こうがメール送ってきたらどうなるの」  などという質問を息子にして、あきれられた。  それでも、糸井重里《いといしげさと》さんと北川悦吏子《きたがわえりこ》さんからのメールが届いた。嬉しい。が、すぐにお返事を打てないのが哀しい。息子がいないと、接続すらよくわからないのだ。  そんなある日、我が家のパソコンに、 〈O—tamio〉からメールが入っているのを私は発見した。  O—tamio、|O《オー》・タミオ、奥田民生《おくだたみお》? ウソ。マジ。と、いそいでメールを開けると、 「花見やるって、本当? たみお」  とあるではないか。  奥田民生から花見の打診? なぜ。なぜに私のアドレスを民生が知っているのか。それとも、間違いメールを民生が打ってしまったのか。でも、そんな凄《すご》い偶然なんてあるのかしら。  そうだ、北川さんが民生に私のアドレスを教えたのかもしれない。五年前、北川さんと一緒に境港《さかいみなと》まで奥田民生&スピッツ&ウルフルズのコンサートを観に行ったのである。それにしても北川さん、いつの間に抜けがけして、民生とお近づきになったの、やっぱりビューティフルライフ効果かしら、などとあれこれ考えていたところ、 「あ、これ、あたしの友達からだ」  と、娘が口を出した。  娘の友達の、オオタ[#「タ」に傍点]・ミオ[#「ミオ」に傍点]ちゃん。渾名《あだな》は〈たみお〉なんだって。これでO—tamioの謎が解けたのだった。  今年中には、子供たちの手を借りずに、メールの達人になりたいものだ。 〈追記〉イン・ザ・ルームは平成十六年、復活しています。本当に目まぐるしい浮き世だ。 [#改ページ]   不倫と動物園 [#挿絵(img¥P075.jpg、横153×縦154、下寄せ)]  私の周囲には不倫している主婦など一人もいないと公言したところ、 「じつは、私……」  と名乗り出た人間がいた。 「私のこと、書いてもいいのよ。漫画にしてもかまわないから」  と、彼女は言ってくれたが、やはりプライバシーもあるので詳しいことは書けない。けれど、彼女の告白で、もっとも面白いと思ったのは、 「彼の外見は、主人よりずっと劣る」  と言った点である。  背も低いし、ハゲてるし、不細工だし、とても貴女には見せられないわと、彼女は言った。  ふうん、そんなものなのかい。  私が不倫と縁遠いのは、やはりメンクイのせいなのか。いまだに、デパートのジーンズショップに行くと胸がドキドキする。ブラッド・ピットが、エドウィン503のポスターの中、 「ごーまる・しゃん」  と、私を見つめているからだ。 「ブラピなら、いいわ。倫理に背いても」  こんな傲慢《ごうまん》な私に不倫が訪れる訳がない。 「しょうがない、佐藤浩市でもよしとするか」  相変わらず、こんな馬鹿なことを夢想している。  やっぱり私は、メンクイだ。顔が良くてセクシーな男が、好き。  話が、突然変わる。  私は、一日郵便局長を体験した。地元の石神井《しやくじい》郵便局でのことだ。なぜか東京中の郵便局が、「ていしん記念日」の周辺で一日郵便局長の儀式を行なうことになっているらしい。  大体は地元にゆかりの人が務めるらしいのだが、隣町の大泉学園《おおいずみがくえん》では、「孫」の大ヒットで一躍有名になった歌手の大泉逸郎《おおいずみいつろう》氏が、同姓[#「同姓」に傍点]というただそれだけの理由で、大泉の一日郵便局長になっていた。  だったら、あだち充《みつる》は足立郵便局長か、神田川俊郎《かんだがわとしろう》は神田郵便局長かと突っ込もうと思った。  石神井の一日郵便局長は、私以前にちばてつや先生や杉浦日向子《すぎうらひなこ》さんも務めている。ちなみに去年は、「開運! なんでも鑑定団」の鑑定師の岩崎さんだった。  とにかく人前に出るのが億劫《おつくう》で、なるべく外出も避けようと今年の目標を立てたばかりだったので、この一日郵便局長の依頼を受けた時、私は即座に断わった。この話をアシスタントにしたところ、 「先生。面白いじゃないすか。制服着て、たすき掛けて、パンチラ写真撮られたりするんでしょう」  それではまるで鈴木あみの一日警察署長だ。  それでも、郵便局側は引き下がらなかった。地元[#「地元」に傍点]ですので、先生の女性読者が大勢いますので、と、一向にゆずらない。 「でも、制服着てパンチラ写真撮られるのは嫌です」 「いえ、制服は着ないんです。ただ、局内を巡回して、局員にあいさつしてもらえればいいんです」  なんだ、それならいいかと、結局気のいい私は引き受けてしまった。郵便局の裏側を見学させてもらえるというのも魅力だったのだ。  当日、制服こそ着用しなかったものの、私は〈一日郵便局長〉と大きく黒文字で書かれた白タスキを斜にかけ、〈一日郵便局長を託す〉という立派な証書を受け取った。  驚いたのは、局長室の立派さである。広い。部屋も、机も、全部広い。局長席の椅子も立派だ。男が出世をしたがる気持ちがほんの少しわかったような気がした。  局の幹部が一人一人あいさつに訪れ、記念撮影。私はただ、言われるがままにポーズを取り笑顔をつくる。  そのあと、自動郵便番号読み取り機の見学にゆく。それは、全長三十メートルはあろうか。運び込まれた郵便物が、猛烈なスピードでベルトコンベヤで運ばれ、機械によって番号を読み取られては、配達先のボックスに収められてゆく。  びゅん、びゅん、びゅんっと、私の目の前を郵便物が猛スピードで飛ばされてゆく。 「なるほど、今日出した郵便物が明日には必ず届くのは、こういう仕組なんですね」  と、私は感心した。そして、次からはちゃんと郵便番号を書こうと決心した。年賀状の返事を書く時、一番困るのは、郵便番号のしるされてない葉書の返事を書く時だ。もちろん、番号欄は白紙で出す。ところで、筆不精の私の机のひき出しには、郵便番号五ケタの封筒が、まだ、ワンサと残っている。年賀状も、大雑把《おおざつぱ》に購入するため毎年かなり余っている。さらに、多量の42円切手と62円切手は、何年前の料金制度に基づくものなのだろう。時々、 「葉書は一枚七円ね」  などと、昭和四十年代に記憶がトリップしたりする。  それでもまあ、つつがなく大任を果たし、私の一日局長は終了したのだった。けれど、私が局長の最中に強盗が押し入ったらどうなっていたのだろうか。鈴木あみが一日署長の所轄内で大事件が勃発《ぼつぱつ》したらどうなっていたのだろうか。  郵便局といえば、萩原朔太郎《はぎわらさくたろう》の、 〈郵便局といふものは、港や停車場やと同じく、人生の遠い旅情を思はすところの、悲しいのすたるぢや[#「のすたるぢや」に傍点]の存在である〉  という詩の一句を思い出す。  私が何故この詩を覚えているかと言えば、中学の教科書に載っていたからだ。故郷の両親へ便りを出す奉公娘。出かせぎ先から書留を差し出す男。そういった人生模様の交錯《こうさく》する郵便局の窓口を人生の停車場にたとえている。  私が中学の頃は、郵便局の窓口にはまだガラスペンとインク壺《つぼ》と吸い取り紙が置かれていた。 「郵便局はノスタルジアだ」  と、私は郵便局に行く度に朔太郎の詩を思い出していた。いつ、窓口からガラスペンが消えたのであろうか。  私が、郵便局同様にノスタルジアを感じていたのが、動物園である。  故郷の徳島では、市内の中心に市営の動物園があった。動物園と言っても、デパートの屋上のペット売り場規模であった。メインはゾウとキリンとライオン。それも各々一頭ずつという淋《さび》しさ。その他はサルと鳥類のヴァリエーションだった。 「何てさみしい動物園だ」  私は子供心に胸を痛めていた。  園を訪れる人間が、さらに少なかった。少ない動物よりさらに少ない数の来園者だった。自宅から自転車で十分程度の場所にあったので、私はしょっちゅうその動物園を訪れていたが、常に園内は、人影まばらだった。  上京して井の頭公園の脇の動物園を訪ねた時、 「徳島の動物園に似てる」  と私は思ったものだ。情けない話だが、徳島市の人口は吉祥寺《きちじようじ》の三分の一以下だ。井の頭公園レベルの動物園があったことは、むしろ上出来なのかもしれない。  夜になると風に乗って三キロ先の動物園から動物達の咆哮《ほうこう》が寝床の私の耳に届いたものだ。 「ウォーッ。ウォーン」  私はせつなさに胸が張り裂けそうになった。  さて。先日、徳島の中学時代の同窓会が東京で開かれた。その時、くだんのさみしい動物園に話題が及んだ。 「夜になると、獣達が鳴いて……」  と、かつて同級生だった元男の子(今おじさん)が話し出したので、 「そうなのよ、川向かいのウチの家まで聞こえてきて、せつなかったわ」  と、私が返すと、 「いや、獣達の鳴き声を聞きながら缶ケリをするのがスリルがあったんだよ」  と、言うではないか。  中学生の悪ガキ共は、夜家を抜け出して動物園に忍び込み、闇にまぎれて缶ケリをしていたと言うではないか。  まるで、短編小説のようだ。  私は、唸《うな》った。村上春樹の「パン屋再襲撃」アーヴィングの「熊を放つ」といった小説のタイトルが私の脳裏に浮かんだのだ。 「動物園の闇の中で」「檻《おり》の前の缶ケリ」私も何だか小説が書けそうだ。  彼らの夜の動物園内での缶ケリの話を聞いて、私は久々に少年[#「少年」に傍点]に嫉妬《しつと》した。私はなぜ少年でなかったのだろう。  思えば、私が漫画を描き出したきっかけは、少年になれなかった私の、少年への憧《あこが》れと讃美《さんび》をこめた『PS元気です、俊平』という作品なのだ。闇の動物園で缶を蹴《け》るエピソードは、確かに俊平にぴったりだ。つまり、俊平は、私の徳島の同級生の中にいたのだった。  二十数年ぶりの同窓会だったが、会の途中で愛人にケイタイで連絡を取る者、数名。  私が讃美した少年達の成れの果てである。 [#改ページ]   エステ・マシン購入秘話 [#挿絵(img¥P083.jpg、横166×縦154、下寄せ)]  自宅でできるエステ・マシンを購入した。超音波を顔に当てると、あーら不思議、シミもシワもタルミもとれてお肌がつるつる、ぴかぴかになるという魔法のマシンである。  さて、その効果はというと、私の場合、使い始めて一週間で目の下のクマとタルミが取れた。二週間目から会う人毎に、 「顔が小さくなったんじゃない」 「目が大きくなった」  と、声をかけられる。  お肌のリフト・アップ効果は確かにあるらしい。使用後一か月たった今では、年々タレ目になっていた私の目元が、吊《つ》り目になっている。年齢とともに垂れ下がり弾力を失った顔面筋が蘇《よみがえ》ったのだ。すごい、すごすぎる。 「どうよ、どう」  と、私は毎日夫に顔を見せびらかす。 「うーん。言われると顔が締まったような気もするが。それより、きみ、俺が一週間前に散髪したこと気づかないじゃないか」  結婚生活二十年も過ぎると、配偶者の顔など、居間の家具の一部と同様なのだ。多少ほころびようとも久し振りにワックスがかけられようとも、 「ウチの居間のイスだ」  という認識しかない。壊れずに丈夫でありさえすればいいのだ。  私は若い頃、女性はなぜ年をとるほどに厚化粧になるのか不思議だった。ファンデーションが濃くなるのはわかるが、何もそんなに濃い色の口紅をつけなくとも、と思っていたのだ。  ところが、四十過ぎるとわかりましたね。シミ・クスミを隠すためにファンデーションを厚塗りする。すると、肌に比べ目や唇のパーツがぼやけてしまう。厚塗りファンデーションに対抗するためには濃い眉《まゆ》や赤い口紅が必要となるのだ。当然、目元に太いリキッドアイライン。  四十過ぎると、女性は二種類に分かれる。  シミ・ソバカスの浮き出たままの素肌をさらしたナチュラル派と、ファンデーション厚塗りプラス真っ赤な口紅のゴージャス派に。たまに、若い娘風のメイクにチャレンジしている人もいるが、似合う人は少ない。流行《はや》りのライトブルーシャドウにグロス・リップは、若い肌にのみ映《は》える。まだ真っ赤な口紅の方がマシだと、私は思う。  難しい。  ナチュラル派かゴージャス派かの二者択一に、四十過ぎた女は迷うのだ。  性格的にはナチュラル派だと思うが、素顔を人様にさらす勇気もない。と言って、ゴージャス派は、私の生活からかけ離れている。昨日もユニクロに行って千九百円のTシャツを三枚買った。私は、叶《かのう》姉妹になれない。  どういう服を着て、どんなメイクをすればいいの。  年齢とともに、この迷いが深くなる。面白いことに、中年女性のファッションに〈今年のトレンド〉は、ない。  若い女性だと、この春は全員がキャミソール・プラス・カーディガンに膝丈《ひざたけ》スカート、足元はミュールだった。間違いなく、誰もがこの恰好《かつこう》をしていた。  ところが、中年以降となると、ゴージャス派は毎年大きな花柄のブラウスを着てるし、ナチュラル派は草木染めのスモックをずっと着ている。去年と何の変わりも無い。おそらく五年前も同じ服を着ていたはずだ。  四十過ぎて、ある種のファッションを選ぶと、〈私はそのグループに属してます〉という意思表示となるのだ。  だからこそ、迷う。悩む。  イッセイ・ミヤケのプリーズを着れば、それだけで、 「あの人は、プリーズグループよ」  と、見なされる。芦田淳《あしだじゆん》を着れば、有名私立に子供を通わせるPTAのママだと思われる。ダナ・キャランはキャリア・ウーマンだし、アルマーニだと和田アキ子かと思われる。  私が服装に悩むのは、時として公式の会議に出なければならず、普段は漫画家で、休日は平凡な主婦だからだ。  主婦であり漫画家でたまには会議にも出る四十過ぎの女性らしく[#「らしく」に傍点]見える服って何よ、どうなのよ。漫画家は漫画家らしく、ベレー帽にスモック服で通そうか。子供の参観日にこの恰好で出席したら、間違いなく息子は非行に走ることであろう。  さて、冒頭に述べたように、私はエステ・マシンを買った。この機械が案外と複雑で、使いこなすためには講習を受けなければならない。当然私も、その〈サロン講習会〉に毎週のように通った。  そこには、何十人もの主婦がいた。エステ・マシンを購入するくらいだから、人一倍おしゃれとファッションに関心が高い主婦達だ。案の定、ナチュラル派は皆無だ。  都心のそのサロンに通うために、彼女達は精一杯着飾って来ていると思われる。レース服、多し。ロング・スカート率高し。そして、赤く濃い口紅。  そしてその講習会には、初心者から指導員さらにその上の幹部レベルの人間が集合する。で、一見してそれらの人達の位がわかる。幹部とヒラとでは顔が違うのだ。  ただ単に年配だから落ち着いて見えるというのではない。彼女達はオーラを発していたのだ。  美容器具を売り続けて十数年のベテラン幹部は、やはり顔付きが違う。彼女達の多くは、主婦からスタートしている。その中で勝ち残り、幹部の座を手にしたのだ。 「ワタシ、これでも五十七歳ですの」  彼女の一言に、おおおっと会場から感嘆の声がもれる。私から見ても四十代前半の肌だ。 「この美容器具を使い続けたおかげで、この若さを保てるんですの」  ならばワタシも、ワタシもと、講習会だけを見学に来た人間までもその機械を注文する。  でも、と私は思う。彼女の若さとオーラは機械だけのおかげではない。彼女の持って生まれた営業の才覚が、主婦の座を離れた場で目覚め開花し自信を得、講習会で衆目の視線を浴びたことによって肌が活性化し、ツヤヤカに輝きを増したのだ。  営業成績が上がったので人前で壇上に立つことができ、立ったことで人の視線を浴びるため肌が輝き、その肌を見てワタシも機械を買うわという注文が殺到し、ますます営業成績が上がるという、彼女はまことに幸福な循環の輪の中にいる。  人に見られることで肌は輝くという事実は、多くの芸能人で証明されている。  先日、北川悦吏子さんが向田邦子《むこうだくにこ》賞を受賞され、その祝賀パーティに私も出席した。北川さんはテレビドラマ「ビューティフルライフ」の脚本でこの賞を受賞したのだ。当然の如く、会場には芸能人も多数お祝いにかけつけていた。  やはり、肌が違う。間近で見る常盤貴子《ときわたかこ》さんや細川直美《ほそかわなおみ》さんの肌は、内から白く輝いている。同じ会場に居た業界の美人がくすんで見えた。女優とは、そういうものなのだ。 「おお、これが女優オーラというものか」  と、久々にナマ芸能人を見た私は改めて感動した。北川さんのお祝いに行ってるんだか、タダでナマ芸能人を鑑賞に行ってるんだか。  そんな中、芸能人と同じオーラを持つ人物が会場に現れた。  乙武洋匡《おとたけひろただ》クンである。  彼は、目鼻立ちも端正であるが、肌も白く輝いている。そう、まるで女優達と同じくらいに。男性の肌でこんなに驚いたのは、滝沢クン以来である。滝沢クンといい、乙武クンといい、クン[#「クン」に傍点]の似合う男の子の肌は、本当に美しい。松井秀喜《まついひでき》を松井クンとは言わない。  パーティ会場を後にし、旧知の編集者と今日見た有名人の感想を語り合った。 「常盤さんもキレイだったけど、乙武クンも美しかったわ。彼の肌は芸能人レベルね」  と私が言うと、 「乙武クンもきっと、いっぱい人の視線を浴びただろうからね」  と、彼は答えた。  乙武クンと私は、北川さんのパーティの前に、一度一緒に食事をしている。その時から何て頭が良くて顔の美しい男の子だろうと思っていた。おまけに乙武クンは、 「サイモンさんは、三十七、八歳にしか見えない」  と言ったのだ。彼は人を見る目も確かだ。  乙武クンと食事をしたのは、エステ・マシンを使い出してちょうど一週間目だった。さっそく効果が現れていたのだろうか。でも、六歳若く見えて、〈三十七歳〉なのか。〈三十七〉なんて〈二十三歳〉の乙武クンから見れば大オバサンじゃないか。私が二十三の頃は、三十七も四十三も同じに見えていた。なんだやっぱりエステ・マシン効果ないじゃん。  ところで、美容サロンの幹部の中に一人、七十一歳という女性がいた。肌の張りは五十代。頭の回転と口の達者さは四十代といったところか。 「彼女、十歳年下の男性と同棲《どうせい》してるんだって」  と、会場で私の隣席にいた女性が教えてくれた。ううむ、むべなるかな。  さらに私はその会場で、主婦達の驚くべき実態を耳にしたのであった。五十代で恋花盛り。不倫・浮気・夜遊びが大手を振ってまかり通っている。 「四十代は難しいわね。子供もまだ手がかかるし」  五十代の主婦オバサマ達は私に忠告してくれた。 「女は、五十代からよ。子供も独立してるし、生理も上がって妊娠の心配も無いからおおっぴらに恋愛を楽しめるの」  この連載、「四十雀《しじゆうから》の恋」ではなく「五十雀の恋」にすればよかった。 [#改ページ]   枯淡への遠い道のり [#挿絵(img¥P091.jpg、横140×縦200、下寄せ)]  近所のお寺に見事な曼陀羅絵《まんだらえ》があるというので、さっそく拝観にゆく。大学の先生もされているという住職の説明を聞き、そのあと奥様の手料理までいただいた。  この奥様が仏画の先生でもあり、その作品も見せていただく。なかなか立派なものだった。  広い庭には紫陽花《あじさい》が咲き乱れ、都内とは思えぬ静寂が広がっている。 「いいですねえ、お寺は。なんだか故郷を思い出します。日本人の心ですよ、やっぱり、お寺は」  と、私は出されたお茶をゆっくりとすすりながら奥様に話しかけた。すると、 「庭が広くてねぇ。首|吊《つ》りする奴もいるんだから」  奥様は江戸ッ子だね。話しっぷりのキレがいい。 「首吊りですか……」  私はあぜんとする。 「首吊りもあれば、高校生が授業抜け出してコトに及んでるんだから。墓地の中でね」 「……バチ当たりですねぇ」  せせこましい住居に暮している私らから見れば羨《うらや》ましい限りのお寺暮しだが、広ければ広いなりに苦労があるらしい。 「バチ当たりと言えば、ね」  と、住職の奥様が話を続ける。 「ご先祖様は供養しなきゃいけませんよ。いえね、うちの檀家《だんか》の人の話なんだけど」  そのお寺の檀家の一家が引越して庭の土を掘ったところ、地面からおじいさんの霊が飛び出し、その一家のおばあさんに恋をして乗り移っちゃったらしい。そして、おばあさんの口を借りておじいさん霊がこう語ったそうだ。 「ワシは何十年前に亡くなった〇〇左衛門。子孫が供養をしなくてケシカラン。だから、このおばあさんに乗り移った」  その家のおばあさんがいきなり男口調でこう喋《しやべ》り出したので家中でびっくりして、さっそく役所に行って調べたところ、確かにその土地にはかつて〇〇左衛門さんが住んでいて、養子を迎えたものの、その養子が女と駆け落ちして行方不明になっている。  これはどうしたものかと、そのお寺に相談を持ちかけたらしい。江戸、明治の時代ではない。現代の話である。奥様は言う。 「そのお宅、ウチの息子の同級生でね、環八工事で立ち退かなくちゃいけなくて、それでお化けの出る土地に引越したのよ。とんでもないとこに越しちゃったわね」  環八・カンパチ。こういう身近の具体的な名前があがると、とたんに信憑性《しんぴようせい》が加わる。 「そ、それで一体、どうなったんですっ」  私は思わず興奮して声を荒らげる。 「お祓《はら》いしたわよ。それもね、家具調度品にまで霊が乗り移っちゃったもんだから、ウチにカーテンやらテレビやら運び込んで、それら全部をお祓いしたの」  霊が乗り移ったカーテン、って何なのだろう。カーテンにいっぱい霊の顔が浮かび上がるのだろうか。 「そんな相談が、このお寺にはしょっちゅうあるんですか」  私はじつは心霊ミーハーでもあるのだ。私が追っかけるのは芸能人だけではない。超常現象、心霊怪奇現象にも心が騒ぎ追っかけずにはいられないのだ。私はワクワクし始めた。 「そうねえ、私がお嫁に来てからは三つだけよ、お祓いしたのは。呪いの鏡台は、うちの本堂の蔵にまだ納めてあるわ」  呪いの鏡って何ですか。  私の興奮は頂点に達した。心の迷いとざわめきを払拭《ふつしよく》するために静かな寺院を訪ねたはずだったのに。曼陀羅絵に煩悩《ぼんのう》を諫《いさ》めてもらおうとやって来たはずなのに。 「知りたいです。教えて下さい。その呪いの鏡って何なんですか?」  私は恐いもの見たさが抑え切れない俗物の固まりとなって奥様にくってかかった。 「それもね、檀家さんの話なんだけど。道に落ちてた鏡台を拾って部屋に置いておいたら夜中に、私の鏡を返してえっと、女の人の姿が映ったらしいの。それで気味悪がってウチに持ってきたのね」 「はいはい、それでお祓いしたんですね」 「そう。で、鏡台の下の部分は解体してゴミで出して、で、鏡の部分は捨てるわけにゆかないから裏を向けて本堂に納めたの」  なんと、私が座っているこの場の数メートル先の本堂に、その鏡が今もあるという。これには身が震い立った。  三つめのお祓いの話は忘れたが(大した話ではなかった)、おばあさんに恋したおじいさんの霊の話と、呪いの鏡の話は、今月の私の持ちネタとして会う人ごとに披露している。  でも、こういうことを持ちネタにすることからしてすでにバチ当たりなのかしら。ここのところずっと私は不運に見舞われている。先祖の供養も怠っているし、これ以上バチ当たりなことをしたらとんでもない不運がやって来そうだ。でも、そしたら墓地でコトに及んだ高校生達こそとんでもない災禍《さいか》に遭っているはずだ。まあとりあえず、お盆には墓参りに行こう。  四十を過ぎ、年ごとに、お寺や仏像に心|魅《ひ》かれる思いが深まっている。その分、心も枯れて穏やかになっているのかと言うと、とんでもない。むしろ強欲に近づいている。私は若い頃の方が無欲だったような気がする。 「きみは、ケチだ」  と、いつも私は夫から言われる。 「一度でも編集者におごったことがあるのか」 「ないです」  私は、きっぱりと言い放つ。 「あきれたもんだ。俺は、若い編集者と飲む時は必ず俺が払うことにしてる」  だって、北〇悦吏子さんだってそうなんだもん、と私は心の中でつぶやく。北〇さんと私は二人きりで食事をすることはまずない。必ずテレビ関係者か出版関係者を同席させる。私達二人のサイフの口が開くことは、まずない。  そうだ、この強欲さケチさが私の不運の原因なのかもしれない。しかし、北〇さんはどうなのだ。同じくらいケチなのに「ビューティフルライフ」大当たりではないか。いや、彼女はきっと私の知らない所で大盤振舞いしているに違いない。それより何より、「ビューティフルライフ」と名を出した段階で、北〇さんの〇部分バレバレではないか。  私のもう一人の友人、林真理子《はやしまりこ》さんはとても気前がいい。  先日も林さんとユーミンのコンサートに行った。折りしも東京大雷の日である。待ち合わせのアフタヌーンティーカフェにずぶ濡《ぬ》れで到着した私に、林さんはアフタヌーンティーのタオルを買って差し出してくれたばかりか、お茶代まで出してくれた。本当に気前がいい。聞くところによると、林さんはしょっちゅう編集者や知人におごっているらしい。彼女は自分のためにも大金を使うが、他人にもうんとお金を払っている。 「なんてケチなんだ」  という夫の言葉が再び蘇《よみがえ》ってきた。  お金にも人にも物にも執着せず、すべて気前よく放って、何にも囚《とら》われずに生きてゆきたいものだ。だってもう四十を過ぎてるんですもの。  私は、枯れたい。目はすでに仏像を求めている。視覚は枯淡の境地に近づきつつあるのに、それ以外の分野でまだ欲が強すぎる。とはいうものの、音楽趣味もロック系が苦手となり民族音楽やクラシックに浸ることの方が多い。着る物も、普段はユニクロと無印良品だ(これは枯れてるというより実用志向か)。食事も和食中心となっている。  毎日、米ト魚ト野菜ノ煮タノヲ食べ  ゆにくろ ト むじ ヲ衣服ト為シ  東ニ編集者居レバ 奢《おご》ッテヤリ  西ニ あしすたんと居レバ賞与ヲ弾ミ  皆ニ デブノホウ(デブの方)ト 呼バレ  サウイフ人ニ 私ハ成リタイ。  などと考えていたものの、今日久し振りに宅配ピザを取ったところ、あまりのおいしさにLサイズピザの半分六ピースを食べ尽くしてしまった。何が枯れたいだ。何が和食中心だ。  人生八十年として、四十歳が折り返し地点。これから徐々に枯らしてゆこうと思っていた折りも折り、前述のユーミンのコンサートでど肝を抜かれた。  四十六歳のユーミンが、黒い革パンに白タンクトップ姿で歌い、踊る。そのカッコ良さ、色っぽさ、オーラといったら、なのである。きっとユーミンは百歳まで生きるのだ。まだ折り返し地点までたどり着いていないのだ。 「ユーミンがいるから、あたしも頑張れるの」  と、林さんがポツリとつぶやいた。 [#改ページ]   目指せ、解脱主婦   〜一生ダンナに添いとげますか〜 [#挿絵(img¥P099.jpg、横140×縦193、下寄せ)]  ずっと半主婦・半漫画家生活を送っている私であるが、時たま専業主婦の中にとてつもない賢者を見つけてびっくりすることがある。  別の機会で出会う女性実業家や女性学者達は、それぞれの専門分野では確かに鋭いのだろうけれど、人生の知恵という点では専業主婦に負けてると思う。風潮としてマスコミ向けにはセンセーショナルな意見の方が取り上げられやすいので、知恵とは程遠い奇抜な発言を繰り返す文化人がもてはやされたりする。しかし、奇抜な意見は何の救いにも解決にもならない。救いは、賢い主婦の慰めの言葉にある。  ウチの子、学校やめちゃって。「いいのよ、いいのよ、他にやりたいこと見つければ」  ウチの子、成績悪いのよ。 「本人が本気を出す時期に気づけば、するようになるわよ」  〇〇さんたらどうのこうので、それに比べたらウチは……。 「人は人、自分は自分でいいじゃない」  かように、相田《あいだ》みつをのような慰め上手の主婦が巷《ちまた》には結構いるものなのだ。というか、相田みつをって主婦レベルなんじゃないの。  思うに、専業主婦は仕事を持ってない分、じっくり家族や近隣や人生について考えることができるのだ。仕事を持っていると、 「子供がグレはじめている。どうしよう。でも明日提出の企画を考えなきゃいけないから、ひとまず子供のことを考えるのはやめよう」  というふうになってしまう。  ところが専業主婦は仕事のない分、一日中グレはじめた子供のことを考えてしまう。  このような状態になった主婦に対し、人生相談の回答者の多くは、 「家の中に閉じこもりっ放しだから同じことをグルグル考えてしまうのです。外に出て気分転換しましょう」  と答える。  まあ実際、去年音羽で起こった幼女殺人事件を思い浮かべると、この回答に従った方がいい主婦もいる。  けれど、時たま主婦の中に、気分転換もせず、家庭の一つの問題をとことん悩み抜き考え尽くした挙句、�解脱《げだつ》�してしまった女性がいるのだ。  彼女らを�解脱主婦�と私は名づけよう。  解脱主婦は、欲も見栄も超越してある境地に達している。理性や努力ではどうしようもない人生のつらい出来事を身をもって知っている。そして、苦しみ抜いた果てに、ぱあっと霧の晴れた山頂にようやくたどり着いたのだ。眼下に下界が広がっている。悩みも苦しみもすべてそこに置き去ってきたのだ。  彼女達はとてつもなく母性的で、けれど、押しつけがましくなく、優しい。理屈ではなく、知恵を持っている。  私は、つらいことにブチ当たると、これら解脱主婦の元へ相談にゆく。彼女達は、一様に優しい。 「いいのよ、いいのよ」  と、慰めてくれる。世の中には、名もなき相田みつをがいっぱいいるのだ。  私は、子供の頃から解脱主婦の存在に気づいていた。 「あそこのおばちゃんは、妙に話がわかる。おばさんだけど、頭がいい」  と、感心していたものだ。  専業主婦になると、まず、諦《あきら》めなければならないことの多さに気づく。そこで諦めたくない女、諦めきれない女は、自力で仕事を探し始める。パワーのある女は、離婚に踏み切って、〈諦めない人生〉を再び選ぶ。  今現在私が連載している漫画『非婚家族』には人生諦めきれないで家を飛び出した主婦が登場する。このヒロインに対し、多くの女性が、 「その気持ち、よくわかる」  と賛同し、男の読者の多くは、 「まったく訳がわからない。ボクの妻がそうなったらどうしよう」  と、戸惑いを隠せない。  先日、解脱主婦に近づきつつある四十代の主婦と電話でよもやま話をしていた(解脱主婦は、四十代後半から五十代にかけて出現する)。  ダンナとの仲はどうなのと聞く私に、彼女は言った。 「だって私の人生にはダンナしかいないもの。こんな私と十何年も結婚生活続けてくれて。そりゃ多少腹立つこともあるけど、私の人生にもう他の男性は存在しない。だからできるだけ大切にしなくちゃ」  うーん、解脱してるなあと、私はうなった。  花田憲子《はなだのりこ》さんに聞かせてあげたい。 「五十二歳で恋しちゃいけませんか」  という見出しが女性週刊誌の表紙を飾ったのは、この七月のことだった。それまで賢夫人、名門藤島部屋を支えたおかみとして世に名を馳《は》せていた花田憲子さんが、十八歳年下の男を自宅に招き入れていた写真が週刊誌に掲載され、 「おかみ不倫」  と大々的に報道されたのである。  おかみ、きっと人生諦めたくなかったのだろう。それが、五十二歳での不倫スキャンダルの原因だろうと思う。  私の周りでも、四十代後半、五十代で不倫に走る人妻が多い。どうもこの年代、解脱主婦になるか欲に堕《お》ちてゆくかの境目であるらしい。  最後の恋、と思うのだろうか。人類滅亡の前夜の最後の晩餐《ばんさん》よろしく、若い男との恋の快楽に酔いしれたのだろうか。世の中には、二種類の人間がいる。最後の晩餐にとびきり贅沢《ぜいたく》な食事をとる人間と、普段と同じメニューの食事をとる人間が。きっと、おかみは前者なのだろうな。  世の主婦不倫を観察すると、 「ええっ、なんて羨《うらや》ましいの」  と声を上げたくなる愛人とつきあってるケースは、稀《まれ》である。私の見知ってる不倫ケースのお相手は、大体がダンナより格下のエロ中年かエロ老人である。あるいはオタク若者か、チンピラか。  人づてに、人妻に熱烈に恋した若者が彼女を離婚させて自分の妻にしたという話を聞いたことがあるが。  私の知る人妻不倫の多くは、 「えええ——っ……」  と声が低く下がってしまうお相手と恋に落ちている。恋の魔法の力は、エロおやじもチンピラも、〈素敵なカレ〉に変身させてしまうのだろう。  ひとつ、含蓄のあるエピソードを披露しよう。  ある四十代の主婦が、結婚して以来初めてと言ってよい程の激しい恋に落ちた。夫とは会話もなく、寂しい二十年の結婚生活だったが、その彼とは途切れることなく会話が続き趣味も一致し、相手もまんざらでもなさそうなので、彼女の想いは一気に高まった。  そこで彼女は長いラブレターをしたためた。二人きりで会いたいと。すると、彼から返事が届いた。ぼくも貴女《あなた》に好意は抱いていますが、ぼくは貴女のご主人もよく存じ上げています。そんな方の奥様と二人きりで会うことはできませんと、そこには書かれていた。  彼女はその手紙を読んで号泣し、フラれたことを知り、諦めきれないけれど諦めるしかなく、けれど一度火がついた恋心は止めることなどできはしない。  二十年間眠っていた彼女の恋心が目覚めてしまったのだ。  この行き場のない恋心をどうしようと思っていた時、たまたま旧知のエロ中年と再会した。そんなに好きでもないけど、恋心をぶつける相手は他にはいないし、まあいいや、と誘ったところ、男はまんまと乗ってきた。  そのエロ中年と彼女は今も交際を続けている。  エロ中年がどのくらいエロかと言うと、本妻以外に公認二十年愛人が一人、他につまみ食いは数知れずという絵に描いたようなエロなのだ。実業家らしくお金はあるということで、好き放題らしい。  そんな相手と、持て余した恋心の発散場所と割り切ってつき合い始めた彼女だが、やはり肌を重ねると情も移るらしい。 「私だけを、最後の女と言ってくれるの」  この話のポイントは、女は一度恋愛モードに入ると、それを受けとめてくれる男であればもう誰でもいいという生理機能があるということだ。そして十年、二十年眠っていようが、突然モードが切り替わってしまえば、ハタチの娘のように恋にはしゃいでしまう。  解脱への分かれ目のこの時期に、逆に奈落に堕ちてしまう人妻もいるのは、この女の生理機能によるものだ。  では、奈落に堕ちないためにはどのような心得が必要なのか。 「人妻に誘惑の声をかけてくるのはエロ男かチンピラ」  と、立ち止まって声に出してみることだ。エロ男と遊んでいるのだわという自覚があれば、奈落の底を見ながら堕ちずに済む。  二十代、三十代の若い内に、少し痛い目に遭っておけば、五十代で大失敗することは防げるだろう。五十代のおかみ不倫は、どう見ても、「アップダウンクイズ」で九問まで正解しながらも最後の一問で失敗してあと一歩でハワイ旅行だったのに一気に下まで落ちてしまったようなものだ。  まあ、それもまた人生で、そこからまた一問一問上って行くことも可能だし、二回バツ点までは退場しなくてすむ(二回バツ点から再浮上する強者も、たまにはあり)。  いずれにせよ、相当なパワーが必要だ。恋をするにも、不倫から立ち直るにも。  自分はパワーのない人間と自覚したならば、日々積み上げていって解脱を目指すしかないでしょう。解脱すれば、不要なストレスにさらされることもないので、パワーの無駄使いを避けられ、きっと長生きができる。 [#改ページ]   「若い女」の相対的[#「的」に傍点]理論? [#挿絵(img¥P108.jpg、横172×縦182、下寄せ)]  おかみさん不倫の話題が長引いている。  第一報で、五十二歳のおかみさんが三十四歳の医師と密会したと聞き、思わず私は、 「う、羨《うらや》ましいっ」  と叫んだものであった。もう二か月も前のことであろうか。  あれから話は二転、三転、おかみさんが雲隠れしてる間に昔のヌード写真が流出するわ、噂の医師がワイドショーで告白するわ、で、どうもおかみさん、人から羨まれる立場でなくなってきている。  その噂の医師が、 「おかみさん、五十ですよ。ぼくは彼女を女として見たことはありません」  などと、堂々とテレビで発言したため、彼の株は急落した。年上女を否定する男は全女性から嫌われる。ひいては、そんな男とスキャンダルを起こしたおかみさんも、減点となってしまった。  女が十歳以上年上カップルといえば、今話題の文学『朗読者』もそうである。あれは確か男十五歳、女三十六歳のカップルであった。  ちょっと前の『ぼくの美しい人だから』も、かなり年齢差のある年上女カップルだった。 『朗読者』と『ぼくの美しい人だから』は、ともに翻訳小説である。そして、ともに年上女が無教養で性欲の強い女なのだ。一方、男はインテリ・エリート。『朗読者』のヒロインは年増だけど一応美人となっているものの、『ぼくの美しい人だから』の方は、ブスで下品で悪趣味ときている。  いいのか、それで。  いいのだ、それで。バカボンのパパでなくとも、恋する年下男は、それでいいのだ。 『朗読者』『ぼくの美しい人だから』に比べれば、おかみさんは数百倍もステキだ(と、私は思う)。  なのに、おかみさん不倫は文学になり得ない。年下医師がひどすぎるからだ。  ううむ、現実はキビシイ。リアリティバイツ。 『朗読者』を読んだ私のアシスタントは、 「これはもう、三十過ぎの女にはたまらない妄想の世界ですね」  と、うなった。そうだ。私だって、いきなり町でゲロ吐く若い男と恋に落ちてみたいものだ。黄疸《おうだん》で倒れた少年を偶然介抱することによって、そこから恋が始まるなんて。『朗読者』のこの冒頭のシーンには驚かされた。が、この嘘くささが逆に、物語に寓話《ぐうわ》性をもたせ、性愛の生臭さをロマンチックに昇華させているともいえる。  少年は決して、 「彼女は、三十過ぎですよ。彼女を女として見たことはありません」  などと、言わないし。  ただ、物語のラストで、おばあさんになってしまった彼女と再会し、 「おばあさんだな」  と、落胆する主人公に、私は少しがっかりした。  三十、四十の年上の女をかろうじて女と認めても、五十、六十は男にとって、 「おばあさん」  なのだろうか。そしたら、あの医師と変わらないではないか。  四十からの恋は、五十までで終わってしまうのか。現実においても、文学においても。  と思っていたら、俳優の佐野浅夫《さのあさお》氏が再婚発表をした。七十五歳の彼が選んだのは、二十一歳年下の五十四歳の料亭のおかみだった。五十代でも恋は成就するのね。けれど彼女の魅力は? と、レポーターに聞かれて、 「若い[#「若い」に傍点]とこかなあ」  と、佐野氏は答えた。  二十代の男には女扱いされない五十女も、七十男から見れば〈若い女〉なのだ。五十過ぎたら、女はもう年上男しか狙っちゃいけないのか。  そう言えば、映画『恋愛小説家』のヒロイン、三十四歳バツイチ・子持ち女性の恋のお相手は六十歳のジャック・ニコルソンだった。映画では、 「ぼくの自慢は、世界中の誰も気づかないきみの長所を、ぼくだけが知っているということさ」  などと、泣かせるセリフで恋を成就させるニコルソンであるが、じつはその長所が〈若さ〉だったりして。それでは、佐野氏と同じだ。  どこかに、四十以上の女性と二十代三十代のハンサム・インテリ・エリート男性とのカップルはいないものか。  いた。  叶姉妹の姉と、デヴィ夫人。 〈叶姉妹・姉〉は、三十代だけど、貫ロクは四十女のそれだから、範疇《はんちゆう》に入れちゃいましょう。  この御両人は、ともに年下の白人ハンサム君を従えている。でも、白人というのが怪しい。金で雇った外タレでないかと勘ぐりたくなってしまう。「あなた外タレですか?」という日本語もわからなさそうだし。  外国人は、反則と見なす。  外国人は、三十の日本人女性を見ても、 「十七歳?」  と聞いたりする。あんな人を見る目のない連中は、論外とすることにしよう。  年下との恋は、不可能。  おじいさんとの恋は、なんかちょっとなあ。  では、四十からの恋はどこに向かうのか。  同年代の男がいるではないか。  私の同年代の男で、今一番輝いてるのは、サザンオールスターズの桑田佳祐《くわたけいすけ》であろう。  というわけで、八月二十日、私は|茅ヶ崎《ちがさき》までサザンのライブを観に行ってきました。  夕方の五時から九時まで四時間ぶっ通しのライブ。四十代の輝ける星だわ、やっぱり、桑田佳祐。  演奏された三十数曲のほとんどが知ってる曲だというのも凄《すご》い。  とてつもなく暑い今年の夏だったが、その日の茅ヶ崎は浜から吹く風も心地よく、野外のステージがだんだんに夕暮れ色に染まってゆくなか、私達はライブを堪能《たんのう》した。杓子《しやくし》定規な係員のお兄さんの警備を除けば。  このお兄さん、私が一口ペットボトルのお茶を口に含もうとした瞬間、走り寄ってきて、 「水以外の飲料水は、飲まないで下さい」  と、ぴしゃりと制止した。  私は外野の芝生席だった。芝生はグランドに向けて斜めに傾いている。芝生にスカート姿の女性がしゃがみこむと彼は、 「パンツ、見えますよ」  と、猛スピードで駆け寄って注意する。  なぜそこまで杓子定規なのだ、茅ヶ崎のお兄ちゃん。  人間のためのルールでないルールは破ってよい。——by J・アーヴィング。  映画『サイダーハウス・ルール』を、茅ヶ崎のお兄ちゃんは、ぜひ観るべきだ。  サイダーハウスのルールは、 「屋根の上で寝てはいけない  屋根の上でタバコを吸ってはいけない  屋根の上で………いけない」  というようなものばかりだった。そのサイダーハウス(りんご園の小屋)のルールが書かれた紙切れを主人公は破り捨てる。下らないルール(慣習上の倫理や道徳といった)は破ってもよい。それより大切なことは、今生きてる人間のその場での最良の選択である。——といったことを『サイダーハウス・ルール』は教えてくれる。  今年の夏は猛暑ということもあって、私はずっと家で映画ばかり観て過ごした。ビデオやDVDも利用したが、私はもっぱらCSデジタルの映画チャンネルである。 『シックス・センス』『フォー・ウェディング』『御法度』『軽蔑《けいべつ》』『世界中がアイラブユー』『誘惑のアフロディテ』『フェイス/オフ』『レザボア・ドッグス』『恋する惑星』『天使の涙』『ユー・ガッタ・メール』『太陽の帝国』『ゴジラ』。以上が、私が八月に観た映画である。  中でも私はゴダールとウディ・アレンが特に好きである。 『世界中がアイラブユー』『誘惑のアフロディテ』、そして以前観た『地球は女で回っている』と、最近のウディ・アレンは冴《さ》えている。神経症的なコメディという点では、『アニー・ホール』の頃とそう違いはないのだが、それにプラス、人生に対する暖かさ優しさに満ちているのだ。  中年を過ぎ、初老の域に達しても、まだ少年のように恋をするウディ・アレン。  ウディ・アレンなら私はOKである。多分六十は過ぎているであろうけど、彼は年とってからすごく良くなった。あんなおじいさんなら、ノー・プロブレムである。  ここでふと気づいたのだが、五十歳のおかみさんを女と認めない発言をした医師を私は責めたが、七十五歳の佐野浅夫さんを、 「恋の相手としてはちょっとなあ」  と言ってしまった私は、その医師とあまり変わらないのではないか。  みんな自分はさておき、恋人の条件には貪欲《どんよく》なのだから。 [#改ページ]   夫婦も習慣? [#挿絵(img¥P116.jpg、横170×縦177、下寄せ)]  仕事場までは、自転車で通う。  ある朝一斉に、町のあちこちから金木犀《きんもくせい》の匂いが香り立つ。本当にある朝突然、なのだ。まるで申し合わせたように、いっせいのせ、で、花が開くのだ。家々の庭の塀越しに香りを振りまきながら、金木犀は花開く。  金木犀が花をつけたというのに、まだエアコンは冷房モードである。地球温暖化は確実に進行している。十月で半袖《はんそで》は当たり前、ここは香港か? というくらい秋でも夏服化が進んでいる。 〈九月いっぱいは、夏〉  ここ数年、東京ではこれが常識となっている。こんなこと、二十年前には思いつきもしなかった。  最近、二十年前には想像もつかなかったことが、当たり前のように起こっている。  一流企業、銀行、証券会社、生保がばんばん倒産。  日本中の火山が噴火。  若者の三人に一人がフリーター。  二千円札の発行。  おかみさんの不倫。……etc。  世間的にもそうであるが、我が身にも、二十年前には思いもしなかった変化が現れている。  料理が好きになった。  いや、厳密に言えば、苦でなくなった、である。  二十年前、結婚したての頃の私は料理が嫌いで嫌いで、毎日のおさんどんに、私はなんでこんなつらい目に遭わなきゃいけないのかと台所の片隅で涙ぐんだりしたものだ。というのはウソで、あの頃はアシスタントに料理を作らせていた。でもまあ人任せにしていたくらいだから、料理が嫌いだったことは間違いない。  私の料理嫌いに拍車がかかったのは、子供が生まれてからである。離乳食に始まり、幼稚園のお弁当と、それまで、 「夫と二人なら、何でもいいや」  と、本当に人には言えないようなものを作り食べてきた私も、人の子の親になってようやく栄養とか食品添加物とか考えるようになったのだ。  しかし、料理嫌いの私が突然、うまいものを作れるはずがない。思いつきでトウフのハンバーグを作ったりするのだが、 「こんなの食べられない」 「おいしくないね」  と言う娘と夫に対し、 「なにをっ。忙しいこのお母さんがあんたたちのためにわざわざ作った料理がマズいというのか。それならいいよっ。もう食べるなっ」  と私は怒鳴り散らし、その形相に驚いた娘がオエオエ戻しそうになりながらトウフバーグを口に押し込む。目に涙を浮かべながら。 「や、やっぱりちょっと、水が多いよ」  と、夫も私の顔色をうかがいながらおずおずと申し出る。 「そんな馬鹿なっ。おいしいじゃないか」  と、引くに引けない私は、水切り大失敗のトウフの油まみれドロドロバーグを口に運ぶのであった。  レシピ通り作っても、マズい。失敗する。これほどの料理下手はちょっと珍しいと思う。  さらに私は、徳島の実家の母から、 「食べ物は、多少腐ってても平気」  と教えられて育ったので、私の子供達にも同じように教えていた。  息子が小学校低学年の時のことである。ふだんは給食なのだが、運動会の時はお弁当となる。昔と違って今の公立小学校の運動会は、父母と子供達は別の場所でお弁当を食べる。運動会を参観に来れない家庭への配慮らしいのだが、こうやって日本の伝統文化は失われてゆくのだ。まあそれはさておき、子供達は教室から校庭に運び出した自分の椅子に弁当と水筒をひっかけて午前中を過ごす。十月と言えども、日中の陽差しはかなりのものである。その陽の光をエンエンと校庭で浴び続ければどうなるであろうか。  運動会だからと奮発して入れた〈松茸《まつたけ》御飯〉は、見事に発酵していた。 「おかあさん、お弁当変な味がして、きのこから糸が出ててねちゃねちゃしていたよ」  帰宅後息子からこの報告を聞いて初めて、私は松茸は菌だということを思い出したのだった。 「そ、それで、どうしたの」  私は食中毒で苦しむ息子を思い浮かべる。 「うん、でも全部食べたよ」  お弁当は残さず食べましょうと、常日頃私は子供に言い聞かせているのだ。  それでも腹痛も中毒も起こさず、事なきを得た。が、中学三年になった今でも息子は、 「お弁当に松茸御飯だけはやめてね」  と言う。  前置きが長くなった。  つまり、そのくらい料理の才能がなく、かつ料理嫌いの私が、この秋から婦人雑誌で料理の連載ページを持つようになったのである。  なぜ、このような大きな転換を迎えたのか。  これはひとえに、年月である。  歳月。  これは、偉大だ。 「ああ、嫌だ、嫌だ」  と思いながらも、二十年毎日台所に立って料理を作り続けると、ある日、 「あら、料理がそんなに嫌じゃないわ」  という心境に達するのである。  相変わらず、料理が好きでたまらない、というのではない。  嫌だとか面倒臭いとか、そういうことを考える暇なく身体が動いてしまうのだ。  何も考えずに冷蔵庫の野菜室を開き、人参と大根と里芋を取り出す。頭は空白のまま、両手はこれらの根菜の皮をむき、薄く切り、下ゆでをし、水を切る。で、次に私の意識が戻った時には鍋《なべ》にけんちん汁ができている。  何も考えずに風呂《ふろ》のドアを開けただけなのに、風呂のドアを閉める時にはシャンプーも歯みがきも全て終わってるということが、誰だってあるでしょう。  習慣化してしまったので、身体がもう覚えてしまっているのだ。  そう、私の料理人生もついにこの域に達したのだ。  料理がつらいとか楽しいとか、もうそんなこと考えている次元ではない。台所に立つと身体が動く。しかも、調理をしながらどんどん汚れ物も片付けてゆくので、料理ができあがる頃には、流しも片付いている。  つまり、立ち止まってはいけないのだ。力みすぎず、急がず、淡々と黙々と動き続けること。そして一回でも、 「嫌だな。面倒だな」  と思い浮かべたりはしないこと。  これが、料理を習慣化するコツなのだ。  テレビのドキュメンタリー番組で時々職人さんの仕事場が映し出される。  桶《おけ》作り五十年とか、筆作り六十年の名人職人さんが登場するたびに、 「何十年も桶や筆を作り続けて、飽きないのかなあ」  と、感心したことがある。  でも、あれももう身体が覚えてしまったことなのだ。つらいとか嬉《うれ》しいとか、そんなこともうとっくに通り抜けているのだ。  手作りギョーザの店の従業員も同じことか。一日中カウンターの奥でギョーザの皮に肉を詰め続ける親父さんを見て、 「ああ私は、手作りギョーザの店の娘にだけは生まれたくない」  と思ったものだが、それは間違いだった。  力みすぎず、急ぎすぎず、淡々と黙々とこなしてゆけば、私は手作りギョーザの店の娘にだってなれる。  そして又、夫婦関係というものも然《しか》り、なのではないか。  二十年も夫婦やってるともう、大好きだとか大嫌いだとか、そういうのはもう失われて、 「ああ、そこに居るな」  という存在となってしまう。  居なくても寂しくないし、居てもうっとうしくもない。夫婦であることが習慣化しているからだ。  私の周辺で不倫していた主婦たちも、気づくと夫のもとに戻っていた。二十年かけて築いた習慣を、そうたやすく断ち切ることはできないのだ。 「やっぱり、何だかんだあっても、夫にもいいところあるわけだし」  と、不倫妻たちは自己弁明する。  彼女たちの面白いところは、愛人の欠点がひとつ目につくと、とたんに恋心がサーッと冷めてゆくのに対し、夫の欠点はもう諦《あきら》めていてその代わり夫の長所を再評価する点である。  これもまた、歳月のなせる業であろうか。  さて、先日テレビで「モリー先生との火曜日」という海外ドラマが放映されていた。  数年前、全米ベストセラーとなり日本でも翻訳出版された本のテレビドラマ版である。  ドラマがなかなか面白かったので、さっそく原作本を手に入れて読んでみた。不治の病で余命いくばくもない恩師のもとへ、かつての教え子がインタビューに行くという内容だ。  その中で、結婚に関する章がある。人生において結婚は必要か、と問う教え子にモリー先生は、こう答える。 「……たしかに友だちっていうのはすばらしいものだ。だけどね、咳《せ》きこんで眠れないとき、誰かが夜中じゅうそばにいて、慰め、助けてくれなければならないとき、友だちはその場にいないんだよ」(『モリー先生との火曜日』ミッチ・アルボム著 別宮貞徳訳)  二人は一つのチームのようなもので、互いにちらと見るだけで相手が何を考えているかわかる。  でもこれって、夫は死を目前にしてしか妻の意味がわからず、しかも、夫が妻より先に病に倒れるってことが前提となっていないか。  男がいつも若い女を求めるのは、若くて体力のある介護者を求めてなのだろうか。 [#改ページ]   正装でお越し下さい [#挿絵(img¥P125.jpg、横118×縦234、下寄せ)]  ユーミンから招待状が届いた。  友人・知人のみを招いてのワンナイト・コンサートを開くから来てくれ、だって。  もちろん大喜びで私は出席の返事を出した。場所は有楽町《ゆうらくちよう》の国際フォーラムで、仲良しの林真理子さんと北川悦吏子さんも招待されているので一緒に行くことにした。  ただ、ひとつ難問にぶつかった。 〈正装でお越し下さい〉  とある。  セイソウ。正装ねえ。  うーん。と私は唸《うな》った。  パーティ用にと、去年香港でオーダーメイドした白絹のロングチャイナドレスがある。ノースリーブで脇のスリットが太股まで割れているやつだ。  国際フォーラムの中はよいだろうが、それでも。  出勤前のホステスさんを装って銀座の町を歩くこともできるだろう。  ただ問題は、西武線だ。池袋の乗り換えだ。十月半ば過ぎに、ノースリーブのロングチャイナドレスで、地方名産品展が常設されている池袋地下道を横切る勇気は、私には無い。 「車で、行けよ」  という夫に、 「夕方の混雑時に石神井から有楽町まで車でどのくらいかかると思うの。絶対、電車の方が速いから」  と、私は答える。  最近、益々外に出るのが億劫《おつくう》になっている。都心に出るまで、最低片道一時間。その前に外出用の服に着替えて化粧を整えるのに一時間。帰るのに一時間。帰って化粧を落として風呂《ふろ》に入るのに一時間。つまり、本題である、〈都心での用事〉以外に、計四時間も無駄な時間を費やすことになるのだ。  四時間あるなら、眠る。  最近、私はずっと睡眠不足が続いている。  というのは、私が早く休むとそれをいいことに子供達がリビングを占領し、パソコンとTVゲームで夜中まで遊ぶからだ。 「何時だと思ってる。もう、やめなさい」  もうやめなさい、やめなさいと、五回くらい忠告をして、ようやく息子はパソコンの電源を切る。  娘も、 「いい加減、自分の部屋に戻りなさい」  と、三回くらい怒鳴らないと、朝まで居間のこたつで眠っている。  最近、有名女優の息子が自宅の地下室で覚醒剤《かくせいざい》パーティをやって捕まったという事件が世の中を騒がせた。近頃の若いモンはちょっと目を離すととんでもないことをやらかすのだ。  というわけで、私は連日夜中まで子供達の行動をチェックし、小言を繰り返す。  子供らの監視にエネルギーを使い果たしてしまうので、都心でどんなに楽しいことが起こっていようと、中々出掛ける気が起きない。  でも、ユーミンは、別。  二か月も前から私はそのコンサートを心待ちにしていた。  当日は、生憎《あいにく》の雨だった。雨が降ると私のくせっ毛はちりちりととんでもない方向に捩《よじ》れて頭は爆発状態になる。前日の天気予報で多分明日は雨と聞いた時から、私はドレスアップを諦めた。  黒いパンツにライトグリーンのブラウス。さらに黒いコートの上に白いパシュミナを羽織り、傘をさして、私は西武線・有楽町線を乗り継いで国際フォーラムに着いた。  地下鉄有楽町駅は、国際フォーラムの真下にある。なんだ、石神井から国際フォーラムまでは一本なんじゃない(四十五分はかかるけど)、だったらチャイナドレスにすればよかった。  案内に従って、私はCホールを目指す。 〈松任谷由実《まつとうやゆみ》コンサート会場〉  の表示。間違いない、ここだ。会場入口にはワイドショーと思われるカメラの放列。その前に敷かれた赤|絨毯《じゆうたん》。  すごいわ、まるでカンヌ映画祭みたい。と、私が赤絨毯に足を踏み入れようとした瞬間、 「ファンの方はあちらに並んで下さい」  と、係員に制された。  はーい、ファンクラブの人はこちらですよおと、別の係員がホールの片隅で声を上げる。見ると、ユーミン・ファンクラブ会員とおぼしき善男善女が張られたロープの中で行儀正しく整列している。この日はファンクラブからも選ばれた人たちがコンサートに招待されていたのだ。 「もちろん私はユーミンのファンですが」  と言って、私はバッグから招待状を差し出した。 「あ、これは失礼しました」  と、係の人は会釈をして、言葉を続けた。 「じゃあ、今、赤絨毯を歩いてる人の後ろにくっついてそのまま上に行って下さい」  見ると、見たことはないが美人であることは間違いのない和服の女性が係の人に案内されてエスカレーターを昇ってゆく。コートの裾《すそ》と白いパシュミナを翻し、おまけに雨に濡《ぬ》れた傘のしずくを撒《ま》き散らしながら、私はエスカレーターに飛び乗った。どう見ても、松任谷由実ファンクラブ練馬支部長だな。  エスカレーターを昇りきったところに受付と待ち合いのホールがあった。 「か、傘とコートを預けたいのですが」  とりあえず荷物を何とかせねばと思い、私はおずおず受付の人に尋ねた。 「クロークはこのホールのぐるっとまわって向こうです」  と、彼は彼方を指さした。  はいはいと、クロークに向かって歩き出した私に、 「あーら、サイモンさん」  と、声をかけてくれる女性がいた。版画家の山本容子《やまもとようこ》さんだ。彼女とは毎年一回、とある広告賞の審査員の席で顔を合わす仲だ。 「サイモンさんも大変だったでしょう。赤絨毯の上を歩かされて」 「え?」 「車寄せから降りた瞬間から、赤絨毯で」 「はあ?」 「車、来たでしょ、迎えのハイヤー」  いいえ、と私は叫んだ。  それでわかった。私以外の招待客がなぜみんな傘を持っていないのか。コートも羽織っていないのか。ファンクラブ会員に間違えられないのか。  そこへ、林さんも到着した。 「階段から来ようと思ったら、ファンクラブの人に間違えられちゃってさあ」  私以外にも、居たのね。林さん、私もそうよと言いかけたら、 「車は不要ですって言って仕事先から歩いて来たら、ホールでファンクラブの人達の輪に混じっちゃってぇ」  と、林さんは嬉《うれ》しそうにしゃべる。  私は思わず彼女に問い質す。 「林さん……車、迎えの車まわしてくれるって連絡あったの?」 「うん」 「私は……なかった」  林さんと山本さんは、気の毒そうに顔を見合わせた。  その時、北川さんも到着した。 「北川さん、迎えの車で来たよね、もちろん」  と、私が聞くと、 「うん、もちろん」  と、ノースリーブのイブニングドレス姿の北川さんは頷《うなず》いた。  迎えの車さえあれば、私だって、私だってチャイナドレスと歯ぎしりしたのだが、それは間違った考えであることが、のちに判明する。  会場には、背中の大きく開いたロングドレス、肩むきだしの夜会服の女性も確かにいっぱい、いた。ただし、全員美女。プロポーションも抜群だ。 「ああ良かった。地味めな服にしておいて」  と、私は安堵《あんど》の胸をなで下ろす。  美女ったって、並の美女ではない。  モデルの長谷川理恵《はせがわりえ》、女優の天海祐希《あまみゆうき》、松嶋菜々子《まつしまななこ》に木村佳乃《きむらよしの》。  その他名前を知らない美人がいっぱいいたが、どうやら有名人夫人らしい。おそらくモデル出身か何かなのだろう。入口付近で見かけた和服美人もその一人なのだろう。  その前の週、私は近所の友人とお茶しながら、 〈結局、美人は得か損か〉  というテーマで語らっていた。 「美人はやっぱり売り[#「売り」に傍点]は美貌《びぼう》なのよ。最終的にそこで勝負に出るわけ。だから死ぬほどの努力はしない。当然、仕事で大成はしない。おまけにいつでも結婚できると余裕に構えてて、結局婚期を逃す」  と、彼女は言った。 「そう言えば」  私は、膝《ひざ》を打った。 「私の知っている美人で、ハンサムと結婚した女は一人もいない」  けれど、それは偏った見解であった。  私達は本当の美人、美人オブ美人を知らなかったに過ぎなかったのだ。  国際フォーラムで見かけた美人の前では、 〈美人は得か損か〉  なんて命題はふっ飛んでしまった。  美人として存在する。それだけで価値がある。  そんな美人ているんだ、やっぱり。  さらに、今をトキメク旬の女優さんにオーラが備わっていた。——松嶋菜々子と木村佳乃である。——無名の〇〇夫人美女が太刀打ちできない迫力の美しさがあった。  さて、コンサートである。  小ホールのコンサートということで、私はこれまでに無い至近距離でステージ上のユーミンを見ることができた。  しかし私の周囲の美女群に心を奪われ、せっかくのコンサートも上の空になってしまった。ま、いいか。テレビで放映するらしいし。 [#改ページ]   ネタの宝庫同窓会 [#挿絵(img¥P135.jpg、横139×縦153、下寄せ)]  徳島でサイン会があり、久し振りに里帰りとなった。  中・高時代の同級生達が同窓会を開いてくれ、二十年ぶりに再会した顔もあり、思い出話や近況報告に花が咲いた。  離婚、多し。  または、家庭内別居。  高校時代にあんなにべたべたしてその延長で結婚したカップルだったのに。という夫婦があっけなく離婚していたりする。  思うに、大恋愛カップルほど離婚する。  というのも、恋愛とは互いの男部分・女部分に引かれるもの。つまり、べたべたカップルほどオス・メスレベルの引き合い[#「引き合い」に傍点]が高いわけだ。  同志愛的結婚・友達延長結婚に比べると、フェロモン結婚はオス・メス牽引《けんいん》度合いが高いと思われる。  だから、メス《オス》としての彼女(彼)の魅力が薄れたら、その結婚は終わりとなってしまう。  刺激するフェロモンが消えてしまったら、この二人に分かち合うものなど何にもない。  だって私が通りすがりのスペイン人と激しい恋に落ちたところで、恋が終わった時点で何が残る? スペイン料理も知らなければ、スペインのことわざも国王の名も知らない。  でも、そのスペイン人が私好みのルックスで、私にウインクのひとつもしようものなら、私は簡単に恋に落ちることであろう。  たとえるなら、高校時代の恋愛って、スペイン人との恋愛みたいなものじゃないのかな。好みのルックスの男の子に優しくされただけで、たやすく恋に落ちてた高校時代のワタシ。  その頃と比較すると、ワタシって随分おとなになったものだと思っていたら、先日、ユーミンのコンサートで石田純一《いしだじゆんいち》さんに会った。彼とは十数年前に面識がある。その石田さんが、コンサート会場では私の真後ろの座席だった。彼が背後から私の肩をたたき、 「ねえねえ、サイモンさん。サイモンさんはステージに立って歌ったりしないの」  と、ささやくように優しく声をかけてくれた。それだけでワタシは、 「世間では色々たたかれているけど、石田純一さんて根はいい人なのよね」  と、ぽーっとしてしまった。  怪しいスペイン人だろうが、すぐ恋に落ちるね、まだワタシ。  私は美人じゃなかったので、私の人生で私に優しく声をかけるフェロモン男はそうたくさんいなかった。よかった。私が美人だったら、何度も何度も男にダマされていたに違いない。  さて、同窓会である。  二十年ぶりの同窓会で気づいたのだが、容姿は変わってもキャラクターは変わらない、いい奴はずっといい奴、面白い奴はずっと面白い奴、ということだ。  ギャグがつまんなかった奴が、二十年後、見ちがえる程面白い男になってたなあんてことは、まずない。ただ、美少年が色あせたただの中年になっていたりはする。  結婚相手は、容姿ではなくキャラクターで選ぼう。  古くから年寄り達が言ってきたことは正解だった。私はこの目でそれを確かめた。この真実を、娘にも伝えねば。もちろん息子にも。 「美人は三年で老けるけど、ギャグを言う娘はいくつになってもギャグで笑わせてくれる。さあ、どっちを選ぶ」と。  飽きてもいいから美人の方がいいと言われれば、それまでだが。  徳島の同窓会をきっかけに、同窓生達と頻繁にメールをやりとりするようになった。二十年という歳月、東京・徳島という距離を飛び越えるメールの威力を私は知った。  徳島の友人とやりとりするときは、私も徳島弁になってしまう。 「〜〜ええんとちゃう」みたいな。  メールが、電話と手紙の中間の手段だということが、よくわかる。自分の書き文字だと何か照れ臭いことも、整ったゴシック体でディスプレイされると生々しさが薄れて具合いがよくなる。  ネット不倫という言葉を耳にするが、程良い嘘っぽさが不倫をロマンチックなものにしてくれるからかな。  ゴシック体での事務的内容のメールは、心にも留まらないが、自分の文体を持っている人物からの語りかけには、確かに心が揺れる。  ウインドウにディスプレイされた活字が、音のある声として脳に響いてくることがある。でも、これはかなりの文章の達人か、逆にあまりに稚拙《ちせつ》な文章の書き手か、のどちらかに限られる。  文章の達人から恋のメールが送られてくれば、それはもうコロリでしょう。  そうやって思い出されるのが平安時代。  文のやりとりだけで恋を成立させ、あとは一気に夜這《よば》いの世界である。  メール不倫を数回繰り返したあと、オフ会でいきなりホテルへ、という現代と相通じるところがあるのではないか。  ていうか、日本人には恋文・夜這いの精神が遺伝子としてインプットされているのだ。だから、今後、間違いなくネット不倫は、はやる。柴門ふみ二十一世紀への提言である。  ネット不倫がはやるもう一つの確証は、今回同窓会で再会した女達がこぞって、夫への不満・悪口をまくし立てたということだ。  離婚、家庭内別居までは至ってないものの、今の夫婦の状況に満足しているのなんて一人もいなかった。  ダンナが浮気性なのも悩みの種なら、ダンナが女房一筋なのも重苦しくてうっとおしい。要するに結婚二十年近い四十代の主婦は、結婚生活にウンザリしているのだ。 「でも、あそこは夫婦仲いいわよ」  と、A子がB子の家庭を名指して言った。 「え、どうして」 「だってダンナが、風呂《ふろ》から上がっても必ずパジャマをちゃんと着てから家族の前に出てくるし、料理の時間が遅れてもニコニコして待っててくれるから」  B子の家庭はだからうまくいってるのよ、とA子は言った。私も大きく頷《うなず》いた。  A子も、そしてもちろん私の家もそうだが、日本の男はなぜ、風呂を出ると裸かパンツ一丁で家の中をぶらぶら歩くのだろう。  そして、それが離婚の第一歩になることにどうして気づかないのだろう。  子供のために我慢している夫婦。  すでに別居を選択している夫婦。  四十にして早くも未亡人という境遇の女性も居た。  四十過ぎの同窓会は面白い。いや、面白いといっては不謹慎かもしれないが、親・兄弟の不幸は誰もが一つ二つ味わっていた。  そうやって人生の深みを味わってゆくのだ。  キリコという、中学時代の習い事友達だった女性と再会した。昔からショートカットの似合うキュートな女の子だった。 「主人があなたのファンだったから、サインして」  と、二十数年ぶりに再会したキリコは、古ぼけた私のコミックスを差し出した。 「三年前に亡くなったの」  ジェット・スキーの事故だったよな、と、事情を知る仲間の一人が声をかけた。うん、と彼女は小さく頷いた。 「主人は、サイモンさんの本が好きで全部持ってたのよ」  そのご主人の名前に私は記憶があった。中学の二年先輩で、スポーツ万能、成績優秀の人気者だった。 「サイン……誰の名前を為書《ためがき》に入れればいい?」  私は胸を詰まらせながらキリコに聞いた。 「主人の名でお願い」 「えっ、でも」 「これは、主人の本だから」  キリコの瞳《ひとみ》から大きな涙がこぼれ落ちた。  私は黄ばんだ『女ともだち』に死者の名を書き著《しる》した。  そのあと座の話題は、この夏徳島で起きた海難事故の話に移った。  波の荒れる鳴門《なると》海峡にヨットを漕《こ》ぎ出したカップルが居た。高波にヨットはあえなく転プクし、同乗の女性が水死した。彼女が彼の奥さんではなく、飲食店勤務の女性だったため大問題になっているという。  けど、あそこの嫁さん家事全然せんかったしなあ、と、男達は渦中の男性に同情的だった。  いやー、人生色々ありますもんだ。  久し振りの帰郷で、私は多くを学ぶことができた。  徳島という狭い地域ならではの密なコミュニティ。若い頃、私はそれが嫌でしょうがなかった。  けれど、東京では聞くことのできない人間ドラマを詳細に知ることができたのは、閉鎖された土地だからこそだ。  東京は、他人に無関心。ほんと、つくづくそう感じる。だから、東京を舞台にした人間ドラマのストーリーを作るのは難しい。密な人間関係があってこそ、ドラマが生まれるのだ。  私がなぜこのように人間関係と感情を基軸にしたストーリーばかり作るかといえば、十八歳まで限られた地域で限られた人間の息づまるゴタゴタを見てきたからに違いない。  そんなことまでふと、気づいた。  人間関係は息がつまるが、ラッシュも渋滞も無い徳島の暮しは、東京よりずっと人間らしさに満ちている。  東京へ戻る日、空港まで見送りに来てくれた友人は二人ともUターン組だ。学生時代は東京で過ごしている。  徳島の方がいい。いや、やっぱり東京だと二人の意見は分かれた。  ふだんは東京で仕事をして、週末は徳島にネタ仕入れに戻るのがいいな、と、私は思った。ネタ宝庫、ドラマの宝庫。徳島が私の創作の原点であるのは間違いない。 [#改ページ]   四十過ぎて欲しいもの [#挿絵(img¥P144.jpg、横144×縦156、下寄せ)]  一九七〇年代初頭、私は中学生で徳島で暮していた。  その夏、流星群がやって来るというので庭に下りて夜空を見上げた。古い木造平屋建ての我が家の屋根の上には巨大な宇宙が広がっていた。 「もうすぐ二十一世紀かあ」  私は、広大な宇宙と時の流れについて思いを馳《は》せた。 「二十一世紀には私は四十を過ぎてる。ヤだな。おばさんだな」  そして、今年二十一世紀。  思った通りにおばさんになり、 「四十四歳かあ。やっぱりヤだな」  と、ぶつくさ言っている。  それにしても、一瞬のまばたきの間に三十年たってしまったような気分だ。ついこの間まで素足にサンダルをひっかけて徳島の夏の庭に立っていたと思ったのに。  今年の正月は、去年のミレニアム騒ぎ程のことはなかった。不況のせいなのか、去年はしゃぎすぎてしまったからなのか、意外とひっそりした世紀越えであった。  我が家も家族四人で、ちんまりと年を越した。娘が浪人だからだ。何となく重苦しい。何ひとつ未来の計画が立てられない。 「温泉行きたいね」 「いつ?」  あんたが大学に受かったら、とは絶対言ってはいけないのだ(浪人娘を持つ親の鉄則その1)。 「ぼくは、外国に行きたいな。いつ連れてってくれる?」  お姉ちゃんの行く大学が決まったらね、とも決して口にしてもいけない(鉄則その2)。  この一年、浪人娘がこんなに扱いにくいものかと、つくづく骨身に滲《し》みた。 「来年はきっと受かるよ」  と、励ますと、 「それがあたしのプレッシャーになるのがどうしてわからない」  と、逆ギレするし、 「第一志望は難しいねぇ」  と、冷静な意見を口にすると、 「なんで自分の子供の可能性を摘《つ》むようなことを言うの」  と、怒り出す。  励ましても、諭しても、ダメ。何を言ってもダメ。腫物《はれもの》に触るようなとは、まさにこのことだ。  それでも、 「湯島天神《ゆしまてんじん》に合格祈願の初詣《はつもう》でにゆくか」  という父の一言には、 「うん」  と、珍しく素直に娘は答えた。  正月二日というのに、湯島の境内は人でごった返していた。参拝した後、お約束通りに絵馬を買い、まずは、他人の絵馬を見学する。 『志望大学に絶体[#「体」に傍点]合格』  と書かれた絵馬を見て、 「こいつは絶対[#「対」に傍点]、大学には受からん」  と、夫は言う。  その時、 「しまった。『大学合格[#「格」に傍点]』を『合校[#「校」に傍点]』と書いてしまった」  と、娘が声を上げる。あんたの娘も、アブナイよ。  私は、おみくじを引く。なんと、大吉であった。    縁談 男はひくてあまた       迷うべからず  はて。この男[#「男」に傍点]は主語なわけ? おみくじを引いた人物が男ならば〈貴男《あなた》はひくてあまた〉という意味なのか。もしくは、おみくじを引いた貴女《あなた》にとって今年は〈男がひくてあまた〉という意味なのだろうか。いずれにしろ、ひくてあまたなら迷うじゃん、と、一人で突っ込んでみる。  神社の前の屋台で、タコヤキと焼トウモロコシを買う。冷え切った身体に温かな旨《うま》みが滲み渡る。  家族で初詣でに来ることなんか多分もうこの先ないだろうな、と私は考えている。  今年大学が決まれば家を出て一人暮しをすると娘は言っているし、今年もダメなら尚更つらすぎて来年は初詣でどころではないだろう。 「失ってゆくことに慣れなければならない」  これが、私の今後の人生の課題である。  子供が成長してゆくということは、親にとっては子供を徐々に失ってゆくということなのだ。  子供だけでは、ない。  この数年、私は多くのものを失い始めていることを知らされた。  肌のハリ。ツヤ。黒髪。記憶力。視力。集中力。体力。そして、気力。  三十年前、徳島の夏の庭に立っていた私には、思いも及ばないことであった。〈オバサン、ヤダナ〉とは考えても、かつて手に入れていたものを徐々に失ってゆくことを受け入れなければならない心境など、想像もつかなかった。  しかし、逆発想をすれば、〈衰え、失いつつある中年女の心境〉を新たに獲得したということになる。若い時には手に入れられなかったものを、手に入れたのだ。  そう、失った分、増やしてゆけばいいのだ。  肌のハリとツヤを失った分、若い頃は似合わなかった仕立てのいい服を着こなせる貫禄が身についている。  記憶を失った分、これからあちこち出かけて新しい思い出(=記憶)を補充し続けてゆけばいい。  初詣でのあと、都心にあるホテルの天プラ屋へゆく。この店のカウンターで揚げたての天プラを食べるのが、毎年の我が家の慣習なのだ。  常連、という訳ではない。なにせ、年に一回しか顔を出さないのだから。 「あのおばあさん、今年もいるかしらねえ」 「ああ、あの金持ち風のおばあさんね」  私達が正月にその店に行くと、必ずゴージャスな身なりの老婦人がカウンターの右端の席に座しているのだ。 「ちょっと、こんなのいただけないわ、もっとおいしいもの出してちょうだい」  と、板前さん相手に横柄《おうへい》な口をきく。それでも板さんは、はいはいマダムにはかなわないなあと笑顔で受け流す。  ある時など、クラムチャウダーを給仕に注文した。高給天プラ屋のカウンターで、である。程なく、銀器によそわれたクラムチャウダーが運ばれてきた。 ううむ。本当の金持ちとはこういうものなのかと、田舎育ちの私達夫婦は目を見張ったものである。  案の定、今年もマダムは居た。  カウンターの右端の席。期待を裏切らない人だ。  その日は混んでいて、私達家族を含め、カウンター席は満席だった。  マダムの横には、元モデル風の中年美女と、その娘とおぼしき若い女が二人座っていた。この母娘も服装はシンプルなカシミヤ・ニットだが、手首に金・銀・プラチナのアクセサリーをじゃらじゃら巻きつけているところをみると、かなりの金持ちのようだ。  この母親が、社交的で話好きなタイプらしく、初対面のマダムにいきなり話しかけた。 「まあっ。奥様、すてきな指輪」  あら、そう、といってマダムが上げた指を、私はカウンター越しにのぞいた。生前鈴木その子さんが、 「二千万くらいかしらねえ」  と見せびらかしていたダイヤと同じ輝き、同じ重量感を持つリングがそこにあった。 「アクセサリーだけじゃなく、お洋服も、ステキ」 「これはねえ、バレンチノよ」 「このお時計は……?」 「時計は……」ジュ・ジュ・ジューッ。  時折、会話が天プラの弾《はじ》ける音にかき消される。しかし、内容は推して知るべし。  中年美人ママは、太鼓《たいこ》持ちかいっというくらいの誉《ほ》め上手である。はー。へー。ほー。と大ゲサに合いの手を入れては、気持ちよく相手の話を聞き出してゆく。 「……だから主人が……の特許をとって……」 「まあっ。奥様。その特許って日本中で知らない人はいませんでしょう」 「若い人は知らないわよ」 「そんなことは。教科書にだって載ってますわ」 「アメリカにあたしが主人とインビテーションされた時にね……」  私が耳をこらして盗み聞きした内容をまとめると、このマダムのご主人が何かを発明してその特許で大儲《おおもう》けをし、アメリカの大学にも招かれた名士で、主人亡き後は息子が跡を継いでいるということだった。  息子がいるのよ、と、確かに彼女は言った。  だけど私は、毎年正月の夕べをホテルの天プラ屋のカウンターで過ごし、愛想笑いの給仕を顎《あご》でつかい、他人と会話すれば自慢話しか話題のないような人生だけは送りたくないと、その時はっきり思った。他人を威嚇《いかく》するような大きさのダイヤのリングは決して身につけるまいと思った(どうせ手に入れることもできないけど)。  そして、そんなのちっとも羨《うらや》ましくないやと正直思った。  着飾れば着飾るほど、我がままに振舞えば振舞うほど、正月にカウンターに一人で座るマダムの孤独が私の胸に痛かった。  私が羨ましいものは、他にある。  正月の三日目は、一昨年子供が生まれたばかりの担当編集者の家へお年賀に行った。よちよち歩きの女の子の何とまあ可愛いことか。私の目をじっと見つめては、彼女のお気に入りのぬいぐるみをひとつひとつ私に手渡してくれる。それら全部を私が受け取ると、ニッと笑って嬉《うれ》しそうに手をたたく。あまりの愛らしい仕草に、私は思わず幼女を抱き上げる。ずしりと温かい重みが腕に懐かしい。十数年前まで、私は毎日この重みを楽しんでいたのだ。 「〇〇ちゃん可愛いから、おばちゃんちの子にならない? このまま連れて帰っちゃおうかなー」  と、私は彼女を抱っこしてゆすりながら話しかける。四十になってようやく一児の父になれた親バカ編集者の目に殺意が浮かんだので、その考えは断念した。  私が羨ましいもの、私が今一番欲しいものは十歳未満の子供なのだ。私が失ってしまったもの。そしてもう永遠に手に入らないであろうもの。二千万のダイヤよりも、私はそれを求めている。  いや、待てよ。孫があるではないか。  〇〇ちゃん、可愛い、可愛いと、編集者宅へ同行させた私の娘も幼女を可愛がっていた。 「早く、あんたも赤ちゃん産んでね」  帰路、私は娘に声をかけた。 「うん!」  と、勢いのいい返事が返ってきた。早く大学に入ってねと言うとあんなにつべこべ文句言ってたくせに。  私の余生の楽しみは孫! [#改ページ]   主婦のプロと水商売のプロ [#挿絵(img¥P154.jpg、横178×縦178、下寄せ)]  同世代の友人に会うと、話題は必ず、 〈身体の変調〉と、 〈親の面倒〉になる。  私も右肩が上がらなくなってしまった。いわゆる五十肩というものか。四十肩と言いたいところだが、医学的に〈四十肩〉という言葉はないのだそうだ。中年以降の肩の痛みはすべからく〈五十肩〉。まあ、私も四十四歳だし、五十肩と名のってもそう悔しくもない。  肩が上がらないだけでなく、例年になく寒さの厳しい今年の冬である。持病の冷え症のため椅子に座っての仕事がつらくてたまらない。手足が氷のように冷え切って作業がはかどらないのだ。  そんな私に救世主が現れた。 〈くつ下用貼るカイロ〉  である。足型に切り取られたこの使い捨てカイロは、薄さといい熱さといい、ちょうどいい按配《あんばい》なのである。  まず、厚手のタイツをはく。80デニール以上のやつね。タイツをはいた足の裏に、くつ下用カイロを貼る。そしてさらに、厚手のソックスをはく。ソックスとタイツにはさまれて、カイロもズレない。さらに、コーデュロイのあたたかズボンをはき、その上にユニクロのフリース膝《ひざ》かけ(千円)を巻く。これで私の下半身冷え症対策はバッチリである。  上半身は、着ぶくれすると仕事がしづらいのでなるべく薄着を心掛ける。防寒肌着を色々試したところ、私にとってはウイングのフィット肌着が、温かさといい動きやすさといいベストであった。防寒肌着の中には、身体に密着し過ぎて拷問《ごうもん》器具のような息苦しいものもある。気をつけなければならない。  防寒肌着の上に、衣類に貼る使い捨てカイロを貼る。その日の体調によって、腹部、腰、肩と、貼る場所を変える。腹と肩に二枚貼る日もある。  カイロだけでなく、私の身体中のツボにはエレキバンが貼られている。  さらに、先日「思いっきりテレビ」を見ていたら、顔のツボ四か所にバンドエイドを貼るだけで顔のたるみがとれるとやっていたので、それも実行している。  つまり、足用カイロに、上半身用カイロ、エレキバン、たるみ用バンドエイドと、身体中にベタベタと色んなものを貼りつけて、ようやく生命活動を維持している冬の日の私なのである。  これから死ぬまでずっと、冬はこうして過ごさなければならないのか。  これから死ぬまでのある時に、突然恋に落ちてしかもそれが冬で、恋人の前で裸にならなければいけなくなった時、大量の〈はるオンパックス〉とエレキバンを、どこにどう始末すればよいのか。しかも、コトの済んだあと、再びくつ下用カイロをソックスに貼りつけるところを見せなければならないのか。  死んだ方がマシだと思った。そんな姿見せるくらいなら。  若い頃は、今日は見せる下着じゃないからと、恋人からの夜の誘いを断るという話題で盛り上がったりもしたが。〈はるオンパックス〉貼った時点で、恋はあきらめるべきだ。  おまけに、皮膚の乾燥による痒《かゆ》みを防ぐために、全身にクリームを塗りまくる。踵《かかと》のカサカサを治すため、踵カサカサ用パックを貼り、その上に〈はいて眠るだけで踵カサカサが治るソックス〉を、はく。  ベッドの中で、下着は脱げても〈踵カサカサ用ソックス〉だけは、脱げない。  恋はもうあきらめなさい、と、神様が言っている。  そうだ、南の島だ。ハワイにでも行けば、恋に出会ってもOKかもしれない。あるいは、タヒチか。  とにかく、〈はるオンパックス〉のお世話にならなくても生きてゆける土地に行きたい。  寒いからと、ありとあらゆる誘いを断っている。元々の出不精に拍車がかかっている。あんなに大好きなバーゲンも、この冬は一回しか行かなかった。それも防寒用にロングのダウンジャケットがどうしても必要で、渋々買いに出かけたのだ。 「そんなんじゃダメよ。あなた若いんだから、もっと外に出なきゃ」  と、私より七つ年上の友人マキコが誘いの声をかけてくれた。  冬眠から抜け出してふもとの村へエサを求めて下りる熊のように、のっそりと私は街へ繰り出した。  新宿のホテルのティールームでケーキ・バイキングを楽しんだ後、中央公園を散歩した。空は青く青く澄み渡り、陽差しはおそらく暖かいのだろうが、それを味わう余裕すら与えてくれない北風が容赦なく頬に手に足にぶつかってくる。〈はるオンパックス〉のおかげで、身体の芯《しん》のぬくもりだけは維持している私。  寒さを逃れて、再びコーヒー・ショップに私達は腰を下ろした。 「もう、バーゲンに行く気力もないのよ」  と私が告白すると、 「わかるわあ、バーゲン熱って、ある日ピタリと止まるのよ。あんなに大好きだったお洋服がちっとも欲しいと思わなくなるの」  と、マキコも答える。  不思議だわ、不思議よねと、四十代と五十代の女が二人で首をひねる。  中年以降、女は自分の心と身体の不思議を突然体験することがある。 「あたしね、それってやっぱり一種の更年期障害だと思うの」  マキコがきっぱりと言い切った。 「バーゲン欲を失くすってのは、やる気を失くすってことでしょう。このケンタイが、更年期の特徴よね」  そ、そうだったのか。  私は、ぴしゃりと膝《ひざ》を打った。  この異様なまでの冷え症と肩凝りと五十肩と出不精は、すべて更年期障害のせいだったんだ。  そう言えば近頃、訳もなく家族に当たり散らすことが多い。私はゆえなく、ただ単にイライラするから当たり散らすのだが、家族は各々に思い当たるフシがあるらしく、私が不機嫌に振る舞うと、申し訳ありませんと素直に言いなりになる。よっぽど陰に隠れて悪いことをやっているのだろう。  眠かったり、お腹がすいたりすると、それだけで不機嫌になる。あ、でもこれはただ子供っぽいだけで、更年期とは関係ないか。 「そのうち、寝汗かくわよ、身体中ほてって大変なことになるから」  と、人生の先輩マキコは私に忠告をくれた。  最近、何かの本で、女は四十四歳から四十七歳までが一番つらいと読んだ。うわあ、今からまっ暗なトンネルに下りてゆくのか。こりゃえらいことだ。うつうつとした気分は、寒さのせいばかりじゃなかったんだ。  身体の不調についてひとしきり語ったのち、今度は家族のグチに話題が移った。  マキコは昔|気質《かたぎ》で頑固なご主人に三十年間仕えてきている。私のグチなんかグチのうちに入らぬほどの苦労と忍耐の結婚生活を送っているのだ。  主人はね、機嫌が悪いと女房でも子供でもすぐ殴《なぐ》る人なの。だから子供が殴られそうになるとね、あたしが必死でご機嫌とるのよ、こんな風にねと言って、マキコは私の目の前で姿態をくねらせた。 「ダメ、ダメえん。怒っちゃあ。こんなに愛しているのにぃ。あたしがあなたの帰りが遅くてこんなにこんなに心配してるのにィ。ちっともわかってくれないん」  と、甘ったるい声を出して身体をクネクネさせたのだ。 「えらいわっ。マキコさん」  私は、驚きの声を上げた。 「ご主人、機嫌直るでしょう、そんな風に甘えると」 「もちろん、デレデレよ」  と、マキコは得意気に鼻を膨らませる。 「それで、子供達にも主人の前で言ってきかせるの。あなた達が雨つゆしのげて、学校にも行かせてもらって、ご飯が食べられるのは毎日お父さんが会社で働いてくれてるからなのよ、って」  はーあ、と私は嘆息した。 「マキコさんて、妻のカガミねえ。そんな風にご主人たてるなんて」  すると、マキコはケラケラと、声をたてて笑った。 「本心ではちーっともそんなこと思ってないわよ。そりゃ私は主婦でお金稼いでないけど、じゃああの気難しい義父母に仕えて家を守り、近所づきあいもこなして旧家のメンツ保てる女があたし以外にいるんなら連れて来てよ、って言いたいわ。あたしの方がずうっと偉いと腹の底では思ってるわよ。子供達にもね、あとでこっそりと、お父さんのおかげと言っとかなきゃ面倒でしょと耳打ちするのよ。愛してる? 愛してるわけないでしょ。言葉なんてなんとでも言えるわよ」  マキコさん、あなたこそ専業主婦のプロだ。  私は腹の底で唸《うな》った。  プロの主婦とは、料理がうまいとか、掃除が完璧《かんぺき》だとか、そういう問題ではない。いかに言葉で夫を気持ち良くさせて、夫に外で金を稼いで来させるか、なのである。  そのためには心にもない、 「愛してるん」  を連発するのだ。  専業主婦のプロって、水商売のプロに似てるな、と、私はこの時気づいた。水商売の女主人を「ママ」と呼ぶのも、合点がいった。男は妻に、飲み屋の「ママ」がしてくれる接待を本来求めているのだ。ところが現実においては不可能なので、お店の偽「ママ[#「ママ」に傍点]」にいこいを求めてしまうのだ。本末転倒だったのだ。  明治時代の政治家や軍人が、芸者さんを本妻に迎えるケースが多く、それに関しては私はずっと美人だから水商売上がりでも本妻になったんだと思っていたが、じつは違った。要するに、男を気持ち良くさせるプロだったわけだ。彼女達は。  なぜ私が水商売に向かないのか。なぜ私が女のプロになれないのかも、よおくわかった。  愛してるん。あなたのおかげでいい暮しができるのん。だからお金稼いでね。  などとは、口が裂けても言えぬ。  そんな魂を売るようなマネは、死んでもできない。  愛してない男には絶対、愛してるんなどとは、言えない。  愛してる男には、恥ずかしくてとてもそんなこと言えない。  だから私は死ぬまでそんなこと、言えない。 [#改ページ]   子供の巣立ちと老人介護 [#挿絵(img¥P163.jpg、横157×縦190、下寄せ)]  地下の食品売り場に行こうとスーパーのエスカレーターに足を載せた。  すると、後方からバタバタと小学校高学年らしき男の子が二人、私にぶつかりながら駆け下り、一人はエスカレーターの手すり部分に飛び乗ってコアラが木に抱きつくように手すりに腹ばいになった。 「こらっ。やめなさい」  私は怒鳴った。  注意された少年達は一瞬驚き、それから威嚇《いかく》するような目で私をにらんだ。  中学生以上なら恐いが、小学生までなら私はまだ平気だ。少年達よりさらににらみをきかせ、 「エレベーター[#「エレベーター」に傍点]でフザけてたら危ないでしょっ」  と、怒鳴った。 「……エスカレーター[#「エスカレーター」に傍点]…」  と、少年の一人が小さくつぶやいたのを、聞こえなかったフリをして私はその場を足早に立ち去った。  物忘れをする、言い間違いが多い。近頃の私の脳は急速に老化している。加えて、怒りっぽく疲れ易い。これは更年期障害のせいであろうか。  パート急募の求人票を見ても、 「四十五歳まで」  とある。 「再就職するにももう限界ギリギリかあ」  と、四十四歳の私は愕然《がくぜん》とする。学校を卒業していきなり漫画家になり、生涯一度も会社に就職したこともないくせに、再就職も何もないのだが。  湯島天神に初詣でした御利益《ごりやく》か、娘が何とか大学に合格した。学校が八王子の先にあり、ウチからはとても通えないので下宿することになった。 「えっ。娘を下宿させちゃうの? さみしくならない」  と、友人知人から私は声をかけられたが、私は思ったほどさみしくない。  浪人中も毎夜帰宅は十時過ぎで、朝も七時には家を出てゆくという、家庭を顧みないサラリーマンのような生活を娘は送っていたので、その頃からすでに私は娘を手離していたといってよい。一日二十分くらいしか顔を合わさなかったし。  それに、娘は音楽の趣味も洋服の趣味も私にそっくりで、まるで私がもう一人家の中にいるようなものなのだ。一軒の家に「私」は二人はいらぬというわけで、今回の娘の独立は双方にとって、まことに喜ばしいことなのだ。  子育てという大事業を親が何とかやり遂げられるのは、子供というものが一年一年変化(成長)し、飽きないからだと思う。  三歳の子と五歳の子は、明らかに違う。  中学二年と高校二年では、全く違う。  だからこそ、ハラハラドキドキしながらもいつも新鮮で、飽きずに子育てをできたのだと思う。  ところが、ハタチを過ぎると人間はそう変化しない。変化のないオトナと一緒に暮すと、やがて飽きてくる。夫婦に飽きがくるように、親子にも飽きはくる。確実に。  変化の止まったハタチ前後に、親子の別れがやってくるのは、だから、自然摂理にかなっているのだ。  この三か月間、私はホームヘルパーの資格を取るための学校に通っていた。  作品の取材のためというのが第一義であるが、四十代半ばにして自分の一番苦手なことに挑戦してみようと思ったのも動機の一つである。〈老人介護〉。私が最も目をそむけたいジャンルであったことは間違いない。他人の世話をする。それも若くて美しい男の子なんかじゃない。寝たきりや痴呆《ちほう》の人の相手もしなくてはいけない。無理だ。私には、無理だ。でも、だからこそ興味がある。嫌なことほど見てみたい作家魂というものが私にはあるのだ。  最初の二か月は、週一回の割で教室での講習に通った。週一回とはいえ、朝九時から夕方五時までみっちりと講習を受けるのだ。  さらに自宅で、通信教育用の教材で学習してレポート問題を解答、提出して、合格点を取らなければならない。  と、考えただけでもウンザリなのだが、考えずに行動すると意外と楽しい受講生生活であった。二十年ぶりに学生気分が味わえて実に新鮮だったのだ。  私は正体を隠して練馬の主婦で押し通し、クラスの人達とも打ち解けた。誰も私を柴門ふみとして扱わない——これもまたとても気安く開放感にあふれた時間だったのだ。  あらら、こんなに楽しくていいのかしらと言ってるうちに講習は終わり、ついに現場での実地体験となった。  実際の施設での体験実習を経なければ資格を取れないのだ。路上教習を受けなければ運転免許が取得できないように。  教習所内と路上が明らかに違うように、教室内で受けた講習と本物の老人相手の介護は予想以上に異なるものだった。 「陰部洗浄お願いします」  インブ・センジョー。教科書でそのやり方の図解イラストは見たが、授業でも言葉で説明も受けたが、一日体験実習で私が訪れたとある老人病院の研修係の女性にいきなりこう言われ、私はうろたえた。  全職員の出席する朝礼に顔を出した後、 「これから朝のオムツ交換です」  と、研修係は私に言った。  その病院には介護認定を受けた老人が二十数名入院中で、そのほとんどが一人で歩くことも起き上がることもできない。だからオムツとなるのだ。  講習会ではシーツ交換の仕方や車椅子の操作方法ばかり学んでいた。講師の先生が恥ずかしかったのか、オムツ交換と陰部洗浄はサラッと流されてしまっていたのだった。  早春のよく晴れた日、明るい光に心まで浮き立ちそうなその日の朝一番に、見知らぬ寝たきり老人のオムツ交換をすることになった私は、甘い気持ちでヘルパーの資格を取ろうとした自分を初めて後悔した。  その時、談話室でテレビをじいっと見ている老人数名の姿が私の目に入った。談話室は、病室棟の手前にある。  おじいさん一人に、おばあさんが三、四名。全員が車椅子に座っている。新入りの私が珍しいのか、彼らは私に視線を向けた。 「こんにちは。初めまして。今日一日だけお手伝いにきました。どうぞよろしく」  と私は、多分耳が遠いであろう彼らに大声であいさつをした。  大きな声で話しかけたにもかかわらず、彼らはキョトンとしたままだ。 「ほとんど何にもわかってないんですよ」  研修係の言葉に、ああ痴呆なんだと私はようやく気づいた。気づいたと同時に、あ、これなら私にもやれると妙に自信がわいた。  車椅子の痴呆老人達はおとなしく、小さく、愛らしい小動物のように私には思えたからだ。  そしてこの研修の一日が終わる夕方には、私のその直感は確信に変わるのだが、呆けた老人は邪気の抜けた分、赤子に近い純真な魂になっている。  人は老い、身体の自由も奪われ、脳の活動も鈍り、食べることも排泄《はいせつ》することも一人ではできなくなった時、逆に、恨みも妬《ねた》みも欲もすべて超越して、魂が浄化されたような瞳《ひとみ》を得ることができるのだ。  痴呆老人達の瞳は、赤ん坊の瞳と同じだった。  赤ん坊と同じ。——その思いはオムツ交換に入った病室で、さらに強まった。  大便や尿にまみれたオムツの臭いに、 「ああこの臭いは、確かに昔ウチにもあった」  と、記憶が蘇《よみがえ》ってきたのである。  ウチの子は二人とも三歳までオムツをしていて、しかも布製貸オムツを利用していたので、オムツ業者が取りに来るまで汚れたオムツがビニール袋に詰められたままベランダに放置され、臭いがずっと漂っていたのである。 「ウチの子のオムツと同じ臭いだ」  と思ったとたん、老人達のオムツ臭も気にはならなくなった。  オムツをはずし、剥《む》き出しになった下半身を洗浄剤で洗う作業を、研修係の女性が私の目の前で淡々と行なう。  この研修係は、まだ二十代後半の若い女性だ。髪を茶色く染め、耳にはピアス。元ヤンキーである事は、多分間違いない。しかし、仕事は有能である。老人達の扱いも的確だし、足手まといな実習生である私にも根気よく丁寧に指導してくれる。  老人達のうち、男性は堂々としたもので、 「大便しちゃってるよ」  と、自分から申告したりする。陰部を洗われてる時もあっけらかんと世間話をかわす。もっとも痴呆が入っているので、とんちんかんな会話であるのだが。  一方、女性はオムツ交換を嫌がる人が多い。かなり痴呆が進んでいると思われる人でも恥ずかしがったり、オムツをはずそうとするこちらの手を払いのけたりする。それが哀しい。 「じゃあ、ヒロカネさんやってみて」  と、研修係のお姉さんに言われ、私は彼女の手順の見よう見マネで何とかオムツ交換をこなした。  オムツの臭いは慣れた臭いだったが、肉が落ち、痩《や》せ衰えた老人達の肉体は、それまで私が目にしたことがないくらい痛々しいものだった。 「この痛々しい人達の下半身をさっぱり清潔にしてあげて、少しでも気持ちよくさせてあげたい」  という感情が、私の心から素直にわき出してきた。これには、自分でも驚いた。 「陰部洗浄お願いします」  と言われたとたん、今日一日私はもたないと目の前がまっ暗になったのだが、意外にもやればでき、しかも達成感と充実感が私の身体中の細胞を駆け巡ったのである。 「どうもありがとうね」  と、身動きもできぬ老人達が小さな声で、私に感謝の言葉をかけてくれた時、喜びが私の全身を駆け巡ったのである。  しかし、喜びと相殺するくらいの苛酷《かこく》な試練も又、同じ日に私を襲ったのである。ある老人から、 「二度と来るな。出てけ」  と罵声《ばせい》を浴びせられただけでなく、思いっきり爪でつねられてしまったのだ。  老人介護はやはりとてもつらいよ。 [#改ページ]   のぞみ号傷害事件!? [#挿絵(img¥P172.jpg、横172×縦129、下寄せ)]  ホームヘルパー二級の資格を取るために老人施設に研修に出かけた私であったが、そのために腰と肩をひどく痛めてしまった。  体重五十キロも六十キロもある人を、車椅子に乗せたりベッドの端に移動させたりするのだから、肩と腰に負担がかかるのは当然なのだ。  そうでなくても昨年末から肩凝りが悪化し、ぶらんと腕を垂らして立っているだけで肩が抜けそうに痛む。夜、寝ていても、 「痛いよう 痛いよう」  と、泣きながら目を覚ます。そんな状態がもう三か月も続いている。 「それは、あなた、五十肩よ」  と、近所の主婦が私を諭した。彼女も全く同じ症状に二年間悩まされたというのだ。 「どうやったら、治るの」  私は彼女に聞いた。すると、 「治んないわよ」  と、ケンもほろろの答えが返ってきた。 「整形外科の病院に行って、こんなふっとい注射打ったわよ。痛いの、なんの、って。でも、治んないわよ」 「で、今はどうなの」 「今は、治った」 「ウソ。さっきまで治んないわよと言ってたじゃない」 「医者もハリも効かなかったけど、二年目のある日突然、治ったのよ」  あなたも二年苦しめば治るわよ、と、そう言って彼女は立ち去った。  うわあ二年かあと暗い気持ちで沈んでいたら、アシスタントの一人が仕事中に更年期で苦しむ親戚《しんせき》のおばさんの話を始めた。 「誰かが私を殺しに来るってわめき出したり、あと、スピードの出る乗り物が恐くて自動車にも電車にも乗れなくなったんですよ」  それって更年期じゃなくて、別の病気なんじゃないの、と私が切り返すと、 「いいえ、更年期です。医者もそう言いました」  と、きっぱり答えた。  ああ、人間、この不可思議なもの。  年老いて可愛い痴呆《ちほう》老人になるお婆ちゃんも居れば、獣のように凶暴な痴呆のおじいちゃんも居る。更年期障害(ホルモンバランスの変調)で、幻覚やパニック障害を引き起こす中年女性も居る。  若い頃は気にも留めなかった心身の、 〈健康〉  が、何よりの関心事になりつつある今日この頃の私である。素敵な異性やおシャレな洋服よりも、何よりも〈健康〉。  特に肩の痛みがひどくなり始めた去年の暮れから、私は、 「この肩の痛みさえなくしてくれるなら、私はもう高級ブランド服も買いません。若くて、美しい男優さんを追っかけるのもやめます。だから何とかして下さい」  と、神様にお祈りしていたのだ。  あらゆる湿布剤を貼り、磁石も貼り、カイロも貼り、それでも駄目。  そんな私に、仕事は容赦なく押し寄せる。 「サイモンさん、来週はいよいよ奈良ですから」  某誌の編集者から確認の電話が入った。多忙と健康上の理由から先延ばしにしていた仏像に関する連載の仕事が、ついにタイム・リミットに入ったのだ。 「来週、奈良の仏像を取材旅行して、さ来週にはそれを原稿にして下さい」  この肩で。仏様にお祈りすれば少しは良くなるのかしら。  こんな時、私は頭をからっぽにすることにしている。考えたって、悩んだって始まるものでもない。  新庄も、アメリカでインタビューにこう答えていた。  新庄「何が困るって、英語がわかんないことだよね」  記者「それで、少しは勉強してるんですか」  新庄「勉強は、しない」  記者「えっ!?」  新庄「今大切なのは、頭をからっぽにすることだから」  私も、新庄と同じ考えだ。今大切なのは、頭をからっぽにすること。そう、これこそが私の今年のモットーなのだ。  悩んだり、クヨクヨしたりするからストレスがたまって、ひいては病気まで引き起こすのだ。頭をからっぽにして、シンジョーのように生きてゆこうではないか。 「サイモンさん、少しは仏像の勉強しましたか」  と、京都に向かう新幹線の中で私は担当編集者に聞かれた。 「いいえ、全然」 「えっ!?」 「今大切なのは、頭をからっぽにすることだと思うんですよ」  新庄のインタビューを知らないこの編集者は、何の先入観も持たずに仏像と対峙《たいじ》するためにあえて資料に目を通さなかった私を信念の人として畏敬《いけい》したに違いない。 「ところで、東大寺って誰が建てたんでしたっけ」  と、道すがら私は編集者X氏に尋ねた。今回の旅の同行者は、大手出版社社員のX氏とY氏である。X氏は東大卒である。当然答えが戻ってくると思ったら、 「ぼく、入試で日本史とらなかったんですよ」  と、X氏。もう一方のY氏は、 「ぼくは大学の附属だったから、入試経験してないんです」  結局、東大寺を誰が建てたのかわからぬままの三人が奈良の仏像を訪ねたのであった(正解は聖武天皇。でも焼けた後復興したのが源頼朝とは意外でしょ)。 「こんなに無知な三人でいいんでしょうか」  と不安がる私に、 「でも、仏像に対する愛では誰にも負けませんから」  と、Y氏が答えた。  この三人の愛に仏様が応《こた》えてくださったとしか思えない事件は、帰りの「のぞみ号」で起きたのだった。  二泊三日の奈良、仏像巡りを終えた私達一行は、京都発最終の上り「のぞみ号」で帰路についた。  列車が京都駅を発車して間もなく、車掌が切符を拝見に来たかと思ったら、猛スピードで私の横の通路を駆け抜けた。と、思う間もなく再び猛スピードで戻って来て前方の車両に消えた。すると今度は別の車掌を引き連れて、何やら小声でかわしながら、再び私の脇をすり抜けて行った。 「……参ったなあ」 「……出血が止まらないんですよ」  週刊誌の〈飯島直子《いいじまなおこ》離婚の真相〉記事を読みながらも、私の耳は確かに二人の車掌の会話を聞きとった。  すると突然、車内アナウンスが流れた。 「七号車で傷害事件が発生致しました。おけがをされたお客様がいます。どなたかお医者様、いらっしゃいませんか」  ああ、本当にこんな事アナウンスするんだ。私はまるで自分が映画の一シーンにまぎれこんだエキストラの気分になった。 「しょ、傷害事件ですって。何でしょう。あなたマスコミの人間でしょ。見て来てよ」  と、私は隣席のY氏を促した。が、 「いや、でもボクは小説誌だし……、その前もスポーツ・グラビアで畑が違うから」  と何とも頼りない。  X氏は何事も知らぬ様にスヤスヤと眠っている。 「どうせ、酔っ払い同士のケンカでしょ」 「でも、殴り合って出血が止まらない、なんてある? やっぱり何か刃物よ」  私はどきどきした。私の妄想は駆け巡る。おそらく、京都駅で乗り込んできた犯人が、ある人物の脇腹をナイフで刺し、何くわぬ顔で発車間際にホームに降りたのだ。完全犯罪。そうよ、京都駅を発車して間もなく周囲の人間が血まみれの乗客に気づくが、犯人はすでに京都で下車しているのだ。「のぞみ号」は名古屋まで止まれない。犯人は、のうのうと祗園《ぎおん》で酒でも飲んでいるのだ。すごいわ、このトリック。私、推理小説書けるかも。 「じゃ、ちょっと見て来ますか」  と、Y氏がトイレに行くふりして七号車を見てくるとようやく重い腰を上げた。  しばらくすると、青い顔してY氏が戻ってきた。 「血、血まみれのシートっすよぉ。しかも七号車と八号車のデッキが血まみれ。乗客の人に聞いたら『刺したんです』だって」  ああ、やはり私の妄想は当たっていたのだ。そうだ、私が京都駅から列車に乗り込もうとした時、サングラス姿の怪しい男が八号車から降りて来た。あの男が犯人に違いない。私は、新幹線の八、九号車のサングラス人間を必ずチェックするクセがある。それは、芸能人である確率が高いからだ。その時、サングラス男とすれ違った私は、 「あら、北野誠《きたのまこと》だわ」  と、チェックを入れた。えっ。北野誠が犯人?  列車が東京駅に入ると、どこで聞きつけたのか、すでにテレビ局のカメラクルーが待ち構えていた。フジ、TBS、日テレと、私はクルーの腕章を確かめる。 「民放全局来てるわ、すごいわ、大事件なのね」 「いや、でも、刺されたのがサイモンさんでなくて良かった。これも仏様の御加護でしょう。ところで、サイモンさん、肩、治ったんですか」  旅の間ずっと、肩が痛いとブーブー文句たれ通しの私だったのだ。 「あら、そう言えば」  すっかり肩の痛みを忘れていた。興奮のあまり噴出したある種のホルモンが、鎮痛剤の役割を果たしたのだろうか。  とにかく命は無事で、肩の痛みも忘れ、メデタシメデタシであった。  さて事件であるが、翌日の朝刊に二段くらいの小さな記事で載っていた。  ——乗客同士のケンカで一人怪我——。  なんでも、女性客が通路を歩いていたところ男性客に腰を触られたと逆上して、カッターでその男性の後頭部を切りつけ、男性は全治十日間の怪我を負ったとのこと。しかし、男性はその女性を触った覚えがなく、いきなり切りつけられ訳がわからないと語っている。  京都駅下車完全犯罪とは少し内容は違ったが、私の妄想以上に不可思議な事件であった。  人間は不可思議だ。そして、人生何が起こるか、何に巻き込まれるか予測できない。それなら、頭からっぽで生きてくのがやっぱ最良なのではないか。 [#改ページ]   四十からの恋はいばら [#挿絵(img¥P181.jpg、横144×縦220、下寄せ)]  いっとき、〈恋多き女〉とは女性への讃辞《さんじ》であり、いい女と呼ばれるには、必ずこのことが条件であった。  ところが、最近ではとみに科学が進み、恋愛とは脳内の快楽物質によって引き起こされる一種の麻痺《まひ》状態であると解明された。  よって、〈恋多き女〉とは、脳内の恋愛快楽物質の誘惑に負けてしまう〈恋愛依存症の女〉と同義語になってしまうのだ。  だから、今の時代、 「あなたは〈恋多き女〉ね」  と言われたら、ちょっとたじろぐ。 「あなたは〈恋愛依存症〉で、快楽物質の誘惑に弱い、だらしない人間なのよ」  と、見透かされた感がするから。  さて、この連載のテーマである、 〈四十代で恋してる女性〉  を、私は探している。探しているが、見当たらない。というか、一様に否定する。  それもそのはずだ。十代、二十代ならともかく、四十代にもなると、恋愛は明らかに脳内物質の化学変化に過ぎず、理想の異性との心ときめくロマンスなど幻想に過ぎないことに気づいている人間の方が多いからだ。  ときめきは、ある。  でも、そんなこと正直に告白すれば、いい年してまだ快楽物質に依存してるの、と言われそうで言い出せない。  これが平成ニッポン、四十代の女性を取り巻く現実なのである。  知り合いの知り合いというツテを頼って、四十代で恋してる女性をリサーチすると、お相手は、  ㈰うんと年上。  ㈪うんと年下。  ㈫外国人。  の、この三つがまず挙がった。  四十代で恋人をつくろうとして、最も手っ取り早いのが、㈰のうんと年上である。相手が七十代であれば、四十代は三十歳も年下ということで、大喜びされる。  先日、高知県の役場で七十代の元助役が村の予算何億かを使い込む事件があった。この元助役、横領した金を女にもかなりつぎこんでいたのだが、その金を貢いだ愛人が、五十代から六十代の水商売の女性数名だというから驚いた。六十代になっても、もっと年上の男からなら貢いでもらえるのだ。  次に、㈪のうんと年下である。  これで思い出されるのが、五十代の相撲部屋のおかみと、三十代の医師との不倫騒動。できればこの恋、成就していただきたいと、四十代の女達はワクワクしたものだが、その後の展開がどうもパッとしない。  それ以外でも、うんと年下の恋人を持つ四十、五十代の女性は、一様に金か地位を持っている。貧しく清らかで美しい四十代の女性に、美しい二十代の青年が恋しているとは、あまり聞かない。  といって、金と権力で男の肉体を手に入れているといった下品な話でもない。つまり、金なり地位なりを手に入れる女性は、それなりのパワーを持っている。そしてそのパワーは、充分に気の弱い異性を魅《ひ》きつける力を発揮するということなのだ。  だから、パワーのある熟女は、ちょっと気の弱そうな年下の(でもハンサム)恋人を持つことがある。年下のダンス講師と噂になった熟女タレントなど、このパターンではないかと思われる。  さて、㈫の外国人であるが、これは㈪のうんと年下と組み合わさっているケースが多い。日本女性が年齢より若く見えるという特徴もあるのだろうが、デヴィ夫人も叶姉妹の姉も秋吉久美子も、みんな恋人は年下の外国人である。  なぜ、外国人なのか。  恋愛が、脳内物質による錯覚作用であるならば、言葉の通じない外国人は存在そのものが錯覚であるとも言える。  誤解(=錯覚)から、ミステリアスな魅力が生じ、ロマンスも生まれやすいのではなかろうか。 「お互いを知って愛が終わる」  とは、長渕剛《ながぶちつよし》の名文句である(巡恋歌)。  お互いを知り尽くすのは、到底無理である外国人との愛は、だから成立するのかもしれない。  更に、㈰㈪㈫以外に、第㈬の恋愛パターンが、四十代女性にはあった。  同級生不倫である。  同窓会で再会した昔の同級生と、双方家庭のある身ながら燃えちゃった、というやつである。  これは、かなり耳にする。  けれど、㈰㈪㈫がドラマチックな関係であるのに対し、㈬は日常過ぎてつまらなくはないか。  いやしかし、だからこそ落とし穴なのだ。  つまり、四十代の人間にとっては、誕生日にはバラを贈るだの、クリスマス・イブには二人でシャンパンを開けるだのといったイベントは、じつは恋愛とは何の関係もないことであり、互いによく知っている異性と見栄張ることなくねんごろになることこそ、愛の喜びであるということが、すでに、わかっているからだ。  この同級生不倫は、派手さはないが、深い。その分、踏み込むと厄介である。  さらに、四十代主婦の不倫としては、子供の担任とか、子供の習い事の先生といった子供がらみの知り合いと恋に落ちるケースがある。  が、私の身近にはこのケースは一人もなく、知り合いの知り合いの噂話程度なので、どういったタイプの女性が何がきっかけで、子供を介した恋愛に入り込んでゆくのか、まだよくわからない。  ダンナがひどすぎたのか、奥様が魅力的すぎたのか、あるいはその両方なのか。  私の知人に、離婚した奥さんがその後子供の担任と再婚したという男性がいる。別に暴力を振るうタイプには見えなかったし、貧乏でもなさそうだった。ニコニコと人の好《よ》さそうな笑顔で挨拶《あいさつ》されたので、とても奥さんの件を聞くことはできなかった。  PTAで、教師と噂になるタイプは、いかにもといった髪を染めた派手なタイプであるが、噂は噂だし、これも真偽を確かめようがない。  四十代女にとって、理想の恋とはどんなものでしょう。シミュレーションをしてみましょう。  私[#「私」に傍点]が独身の場合なら、それで問題はないが、私[#「私」に傍点]が既婚の場合、夫は冬山に登ったきり行方不明。連絡を絶ってもう五年。周囲も、もう諦《あきら》めなさいと言ってくれている。  そんな時出会った彼。同年代だが、十年前に妻が男と駆け落ちして、離婚。以後、仕事に追われて独身を通している。——が、この彼、再婚するなら若い女と思っているから、恋には発展しない。  次の彼は、三十代半ばの腕のいいドクター。しょっちゅう急患に呼び出されるので、デートもままならずこの年まで独身である。甘ったれでお守の必要な若い娘は苦手で、むしろ年上で自立した女性を求めている。まあ、私[#「私」に傍点]にはぴったりではないかと思うのだが。——が、彼はじつはマザコンだった。  道傍で外国人と知り合うが、彼はイスラム教徒で、故郷《クニ》にはすでに三人の妻がいた。  インターネットで知り合った年下の男は、二十代と偽った高校生で、ストーカーになる恐れがあったので、アドレスを急きょ変更する。  同窓会で久々に再会した彼。けれど彼の妻は、やはり元同級生のA子。昔からキレると恐いA子なので、この恋もパス。  出会いを求めて結婚紹介所に登録するが、紹介される相手は六十過ぎの再婚希望者ばかり。  妙に馴《な》れ馴れしく近付いてくる男がいたが、ハンサムなのでふと気を許したら、ハンドバッグを引ったくられた。  四十代の恋は、危険すぎる。  シミュレーションしてみただけなのに、惨憺《さんたん》たる結末しか予測できない。  そのうち、行方不明だった夫が山から下りてくるのだ。多分。  そんなこんなで、悲観的思いに囚《とら》われていた私なのだが、機会があって藤堂志津子《とうどうしづこ》さんの新作小説『アカシア香る』を読んだ。  四十五歳の女性の、正直な、しかしすがすがしい恋愛が描かれていて、私は胸を打たれた。  さすが、プロの小説家である。  小説の中の恋愛は、こうでなくちゃあね。  数か月に一度、恋人と淡々とした愛を交える。それは、四十代にしかできない恋。二十代、三十代では性急すぎて想いが強すぎてとても耐えられない関係も、四十代にはそれを味わうゆとりすら生まれている。 「もう、大きな刺激も変化も私は求めない」  と、女主人公は恋人に向かってこう言う。  なんだか、わかる気がする。気がすると言ったのは、そのような心境の四十代の恋というものを私は体験してないからだ。  でもきっと、これが理想の四十代の恋ではないのかしら。  私、願わくは、佐藤浩市さんとこんな恋をしてみたいわ(でも、佐藤浩市さんが相手だと、数か月に一度なんかじゃ我慢できなくなるか)。 [#改ページ]   中年女性とロング・スカート [#挿絵(img¥P190.jpg、横146×縦194、下寄せ)]  歌舞伎座へ「源氏物語」を観に行く。  開演より随分早く到着したので、劇場のすぐ隣のカフェで時間をつぶすことにした。通りに面した窓際の席に案内されたので、そこからは歌舞伎座へ大挙して向かう女性達がつぶさに観察できた。  昼の部ということもあり、主役の光源氏役が若手のホープ市川新之助《いちかわしんのすけ》(現・海老蔵)ということもあり、客のほとんどが主婦とおぼしき中年女性であった。  で、銀座の歌舞伎座ということで、みんな目一杯おしゃれをしてくる。そこで、私は気づいた。ロング・スカート率が異常に高いのである。  ミニ・スカートは無理だとしても、膝丈《ひざたけ》ぐらいでも良さそうなものを、なぜかほとんどの女性が、ふくらはぎ中間から踝《くるぶし》までのロング丈のスカートなのだ。  どうして女性は中年になるとロング・スカートをはくのだろうか。  ヒントは〈目の錯覚利用〉にあると、私は踏んだ。  中年になると、どうしても横幅が広がってしまう。ミニ・スカートなど下手したら、横幅の方が丈より長くなってしまうだろう。少しでも横幅を目立たせなくするには、丈をどんどん伸ばしてゆくしかない。ミニより膝丈。膝丈より踝といった具合に。  若い娘の厚底がどんどん厚くなっていったのに対し、オバサン達のスカート丈はどんどん長くなっていったのだ。  歌舞伎座で気づいて以来、私は外に出るたびにオバサンのスカート丈を観察することにした。  すると、二十代後半から、主婦と思われる女性のちょっとオシャレ着は、みなロング・スカートなのだ。  そんな太っておらず、まだ若いと思える女性でも、スカートはロング丈。となると、〈目の錯覚で横幅を目立たせなくする作戦〉だけでは、ロング・スカートを語り尽くせなくなる。  私の自宅の近くに幼稚園があり、若いお母さん達が毎朝子供達の手を引いて通園してくる。ここでは、パンツ姿が圧倒的である。自転車の後ろに子供を乗せてくる人も多く、となるとやっぱりパンツである。  パンツの次に、自転車向きの下半身は、ロング・スカートなのだ。そういうことなのだ。多少お行儀悪くても、ムダ毛の処理をしてなくても、ロング・スカートならOKなのである。  だから主婦がお出かけする時、 「いつものパンツ姿ってのも味気ないわね。たまにはスカートでもはこうかしら」  と思うのだが、肉体がパンツ仕様になってしまっていて、ガサツな動きしかできない。短いスカートで緊張感を長時間保ち続けることなど、もはや不可能である。  主婦が若くてもロング・スカートを選ぶ理由のひとつは、ここにあると私は思う。  加えて、「もはや、男に媚《こ》びなくてもいい」というのも大きな理由であろう。  男って、いつまでたっても(バブルがはじけてボディコン娘なんてもはやいないのに)、タイト・ミニ・スカートが好きである。それは、キャバクラ嬢の服装を見れば一目|瞭然《りようぜん》である。あんた、こんな服どこで買うの、と問い詰めてみたいタイト・ミニ・スーツ姿なのだ。私がどうしてこんなにキャバクラ嬢の服装に詳しいかというと、漫画の資料用としてキャバクラ情報誌が手元にあるからだ。すごい。今でも静香ヘアにミニ・スーツである。  たまに女性週刊誌の裏表紙広告で、この手のスーツの通販を見かけて、一体どこの誰がこんな服を買うのかと思っていたが、そうか、おミズの人達か。  お勤めの女性も今はパンツ・スーツが主流のこの時代、それでも男達はまだタイト・ミニを追っかけているのだ。  主婦はもう、男を獲得するための努力をしなくていいから、タイト・ミニなんかはかないのである。  先日、夕方のニュースの特報で「売春クラブ摘発! 仰天! 主婦らが次々と……」というドキュメントを放映していた。  東京近郊の私鉄駅前のマンションの一室で、白昼堂々と売春が行われ、踏み込んだ捜査官によって接客していた主婦十二人が検挙された一部始終を隠しカメラが追っていたのだが、私が一番驚いたのは主婦が売春することでなく、売春する主婦の服装であった。  フツーのパンツ姿だったのだ。ユニクロで千九百円で売ってるストレッチパンツみたいなやつ。その上にTシャツとカーディガンをはおって、駅前のダイエーでお買い物、というスタイルに近い。せめて、ロング・スカートくらいはけば、と、私は哀しくなった。  その売春クラブは、去年の十一月にオープンして、今年の五月に摘発されたという。押収された書類から、半年の間に客十四名をとっていたことが判明した。  女が十二名で、客が十四名か。  パンツ姿の主婦じゃあね。家に居る自分の奥さんと同じじゃない。男はタイト・ミニにロマンを求めるんだからと、私が捜査官であったら、経営者にこのように諭したことであろう。  いやしかし、マンション内では営業用のコスチュームに着替えて待機していたのだろうか。売春クラブの情報誌が手元にないので、わからない。  けれど今や堅気の職業で、タイト・ミニ・スーツ姿の女性など皆無といっていいのではないか。  確か五、六年前『お仕事です!』という漫画を描いていた頃、私は登場人物にタイト・ミニ・スーツを着せていた。  若い女性向けファッション誌を見ながら私は描くので、その頃まではまだ「有り」だったのだ。が、やがてそのコンサバ系ファッション誌もモード系ファッション誌に誌面刷新した。時を同じくして、街からタイト・ミニ・スーツのOLさんも消えた(制服は省く)。  だから、今、タイト・ミニ・スーツ姿の素人の女性を見ると、どうかしてるんじゃないの、と、つい、思ってしまう。色気過多と思えてしまうのだ。彼女達はただ単に、流行後れの服を着続けているのに過ぎないのだろうに。  話を、歌舞伎座観客の中年女性達に戻す。ロング・スカートのおばさま達は、そこそこにおしゃれだった。センスも、そう悪くはない。色あいもシックだし、これ見よがしな巨大アクセサリーもつけてない。都会の垢《あか》抜けたおばさま達だ。  ただし、問題は靴だ。十年間履き続けた太かかとのローヒール靴なのだ。  洋服には精一杯気を遣っても、靴は平気で十年前のスタイルのものを履くようになれば、貴女《あなた》は間違いなく、オバサンである。  私達が若い頃は、靴にまで気を遣うのは一部の飛び抜けてオシャレな人達だった。ところが今の若者は、普通レベルで、服よりも靴に気を遣うのである。  服は千九百円のユニクロでも、靴は三万円のスニーカーだったりする。  娘と買い物に出かけても、その大部分の時間が靴選びに費やされる。服は千円単位のポロシャツに七分丈ストレッチパンツ、カバンは西友のアジアンフェアで買った千円の籐バッグのくせに、靴だけは何万円もするのを欲しがる。 「足元がオシャレな人こそ、本当のオシャレさん」  と、昔から言われ続けてきた。  すると、今の若者は、本物のオシャレさんに日本人がようやくたどりついた証《あかし》なのだろうか。  昔は、全身で人を評価することなんかなかった。まず、顔。それからせいぜい上半身。というのも、日本は畳文化で、よそんちに招かれたら正座《せいざ》して相手と対面するだけなので、それで充分だったのだ。着物はとくにデザインが統一規格なので、全身のバランスを考慮する必要もなかった。せいぜい衿《えり》をどのくらい抜くか、帯をどの位置で締めるか、程度である。  その着物文化の民族遺伝子が、今の四十代までは残っているのだと思う。  住まいから和室が消え、街のカフェやレストランやコンビニの店の前で他人と接する機会の増えた今の若者は、何より全身のバランスを考えるようになった。  で、コンビニの店の前でしゃがんでる若者は、いきおい仲間の靴が気になる。しゃがんで目線が下がった分、地面に近い部分が目につくのだ。  若者の、靴にこだわる文化は、彼らのしゃがみ込み文化と対応しているのだろうか。  一方、上半身文化で育った熟年以上は、上半身を飾るペンダント、ネックレス、ブローチにこだわる。帽子をかぶり、メガネに鎖をつける(帽子の代わりにターバンという文化もある)。そのくせ靴は、くたびれきった十年前モデルだったりするのだ。  中年以上が太ヒール愛用なのは、年とって足元がおぼつかなくなっているせいもあるのだが。  じつは私、五月の頭に足がもつれて道で転倒し、一か月を過ぎた今でも正座ができない。足首を思いっきりひねって転んだのである。太ヒール以前の、ニューバランスのウォーキングシューズで、足がもつれて転倒したのである。  私の場合、足元のオシャレ以前に、歩き方を学ぶべきであろう。 [#改ページ]   私のベリー・ファイン・ハウス [#挿絵(img¥P198.jpg、横190×縦194、下寄せ)]  テレビのワイドショーを見ていたら、俳優と離婚したばかりの元妻が、 「結婚当初は主人と週四回ゴルフをしていたのに、仕事が忙しくなって遊んでくれなくなりました。まるで詐欺だわ」  と、夫への不満を記者会見で語っていた。  この言葉に、なんと甘ったれでワガママな女なんだとワイドショーのレポーターやらコメンテーターやらが憤慨した。  が、じつは私は、この元妻と同じ考えを持っていたのだ。  私が夫と知り合った頃、夫は仕事のない新人漫画家で、三か月に一本くらいしか漫画を描いていなかった。そこで彼は、当時大学生で暇だった私をしょっちゅう呼び出しては、ドライブや映画に連れ回していたのだ。 「この人と結婚すれば、こんなふうにずっと遊んで一生過ごせるんだ」  ハタチの私は、本気でそう考えた。仕事人間の父への反発もあり、結婚相手は一緒に遊んでくれる人、と、私は心に決めていたのだ。  結婚してからもしばらくは暇な時期があり、二人|麻雀《マージヤン》をしたりパチンコに行ったりの気ままな暮しだった。結婚した時私は二十三歳だった。生活の不安やお金の心配を一切持ってなかった。今思い返しても、なぜ私がそれほどまで世間知らずだったのか不思議だ。 「夫が私の食いブチくらいは何とかしてくれるだろう」  と、漠然と考えていたのだ。女房と一日麻雀するような男でも、そのくらいの甲斐性《かいしよう》はあるはず。あたしは贅沢《ぜいたく》は言わないから、ゴハンさえ食べさせてもらえればいいから、それより二人で一緒に遊んで生きていきましょう、と、本気で思っていたのだ。  ところが、結婚半年後くらいから夫は猛烈に忙しくなり、以来二十一年間、休日を二人で遊んで過ごした日は一日もない。 「話が、違う」  と、私は心の中で叫んだ。岡〇美里のように。が、口には出さなかった。二人で一生遊んで暮そうとは夫は一言も発してなかったからだ。今思うに、あの頃は仕事の無い不安を若い女と麻雀することによって紛らわしていただけだったのかもしれない。  現に夫はその日、 「岡〇美里の会見、見たか。とんでもない女だよなあ」  と、帰宅するなり私に言った。いえ、じつは私も同じ考えで、と言葉を返すと、 「えっ」  と、夫は絶句した。  岡〇美里と私には、もう一つ共通点がある。 「生牡蠣《なまがき》百個とかさつま揚げ五十個とか贈られてきて、食べきれなくて困りました」  という彼女の発言は贈った人の気持ちを踏みにじるものだと、批難ゴーゴーだったが、私は、 「よくぞ言ってくれた」  と、心の中で拍手を送った。私も同意する。  ウチにも、カマボコ三十個送られてくるのである。桃三箱とか。善意で贈られてくるだけに、この怒りの持って行き場がなくて困っていた。さつま揚げ五十個のくだりは、何度もテレビのワイドショーで流れたので、 「今年はさすがにウチにもカマボコ三十個贈れないわよね」  と夫と話していたら、やっぱり三十個届いた。  ただでさえ、家中モノであふれ返っているのに、お中元お歳暮の時期になると、開封するヒマもなく箱がどんどん積み上げられてゆく。私は虚礼廃止主義者なのだが、夫は日本伝統の風習だといって人に贈り続ける。おかげでお返しが届き続ける。届いた箱の整理は私の役目だ。なんで私がこんな役目を、と、私は岡〇美里と同じ思いを強くする。  今年の春に、私は|八ヶ岳《やつがたけ》に家を建てた。業者に勧められるままに土地を買い、業者に勧められるままに家を建てたのだ。  ところで、設計士さんに図面を引いてもらい、イチから家を作るという作業は、私にとって生まれて初めてのものだった。自宅はミサワホームだし、仕事場はマンションである。何度かリフォームはしたが、すべてこちらの希望通りの家というのは、初めての体験だった。  家具もカーテンも照明も、もちろん全部私の第一希望の品である。キッチンの戸棚の色も、トイレのペーパーホルダーも、和室の床の間の壁紙も、全部私が決めた。何ひとつ妥協していない。私の好みでないものは何ひとつないのだ。  その空間の気持ち良さったら。  リビングの窓からは森の木立と、遠く南アルプスの山々しか目に入らない。建築中の高層ビルの赤茶けた鉄骨や、レイクの看板や、靴流通卸しセンターのネオンサインは、一切、存在しない。  窓から見える風景までも、全方向、私好みなのである。  私はこの二十年間の結婚生活で、何と多くの我慢を重ねてきたことかと、山の家で改めて気づいた。  自宅の電気ポットは、しょっちゅう壊れる。お茶を大量に飲む私は、二十四時間ポットの電源を入れっ放しにするため、すぐ傷むのだ。 「オレがコジマ電気で買ってきてやるよ」  と、夫が買ってくる電気ポットを私は気に入ったためしがない。どこかが微妙に気に入らないのだ。デザインだったり、容量だったり。けれどせっかく買ってきてくれたのだから、壊れるまで数年間それを毎日使い続けなくてはならない。 「なんか嫌だ、なんか気に入らない」  とぶつぶつ呟《つぶや》きながら、私は毎朝ポットで湯を注ぐ。  ポットだけではない。息子が居間のテレビに接続したゲーム機の類《たぐい》や、夫が棚に置いた飲み残しのブランデーの壜《びん》、そして何より積み上げられたお中元の箱が、なにか私の気に障るのだ。  ところが、八ヶ岳の私の家にはこういった煩《わずら》わしさが、一切ない。キッチンには、すべてのお中元の箱がしまえる収納庫をつくったのだが、よく考えると、そんなもの一個も来やしないのである。  Our house is very very very fine house.  と、クロスビー、スティルス、ナッシュ&ヤングの「OUR HOUSE」の一節を、思わず口ずさんでしまう。まこと、ベリー・ベリー・ベリー・ファイン・ハウスなのだ。  そう、私は八ヶ岳の家に恋してしまった。  仕事と子供の学校のため、完成してからまだ二度しか行ってない。今もこうして遠く、あのベリー・ファイン・ハウスを思い描くだけで陶酔する。早くもう一度訪れたい。あの家を思い出すだけで胸が一杯になるのだ。  リビングには、イタリア製の白い布張りソファを置いた。漆喰《しつくい》の白い壁に合わせたのだ。その代わりにところどころ、ポイントとなるようにクリーム色やグレイの小物を配した。ただし、原色は一切置かない。  一方、和室の壁は赤である。床の間だけダーク・グリーンの壁紙。ふすまは赤と銀の市松模様(桂離宮の真似をした)。和室全体は円堂となっており、中央に四角く琉球畳を敷きつめてある。  完璧《かんぺき》に、私好み。私にとってのあの八ヶ岳の家は、ガウディにとってのサグラダ・ファミリア、ルートヴィヒ二世にとってのノイシュヴァンシュタイン城に匹敵するのだ。  家に恋したって、いいじゃない。  でも、近頃、家や部屋に恋してる女性が増えてきている気がする。主婦向けの情報番組では、〈お部屋改造〉コーナーがどんどん拡張されているのだ。グルメ情報、スターに変身メイクコーナーよりハバを利かせているといっても過言ではない。  昔っから女は巣作りが好きなのである。男は船のように漂流するのが好きだが、女は定着して腰を落ちつけたがるのだ。腰を下ろしたからには、巣作りに精を出す。  きっと、岡〇美里さんは、自分の思い通りの巣が作れなかったから家を出ちゃったのね。  家に恋したり、息子に恋したり、ペットに恋したり、といった四十代の女性は私の周りに結構いるが、ステキな男性に恋してるの、という人間が見当たらない。  ステキな男性って、一体、どこにいるの。と思っていたら、たまたま『君について行こう』という本を読んだ。宇宙飛行士・向井千秋《むかいちあき》さんのダンナさんの万起男《まきお》さんの書いた本である。このマキオちゃんが、なかなかナイスな男性なのだ。  そもそもチアキちゃんという女性が、とてつもないパワーの持ち主なのだ。住む所、着る物、持ち物に欲と執着を一切持たず、その代わり食欲は旺盛で、夢を追いかける力は並はずれている。その下地となる知力・体力・精神力も舌を巻くものなのだが。  そんな超俗の妻チアキちゃんに対し、夫マキオちゃんの方がずっと普通の日本のオトコである。風貌《ふうぼう》からして、マキオちゃんは妻以上に超俗のように見えるが、文章を通して識《し》る向井万起男はユーモアがわかり情にも厚い謙虚な江戸っ子である。私は時々、理系でものすごく頭が良くなおかつ人間性にも秀でてる人に出会うが、まさにそのタイプである。  化粧もせず、同じブラウスを着たきりの妻に対する世間の風評を、夫マキオちゃんはヤキモキする。オレがブラウスを買ってやるよと妻をデパートに連れて行くも、ブラウスより地下の食品売り場の方がいいと言う妻。  時々、こういうカップルがいる。  妻があまりに純粋で、世間に対して無防備すぎるために、オレが守ってやらなきゃあと夫が奮闘するカップルである。  なんかいいなあ、こういう二人、と私はしみじみとした思いに浸るのであった。  チアキちゃんは、私や岡〇美里と違って家にも何の執着も持っていない。チアキちゃんのような超俗の人になりたいと願いつつも、やっぱり私には無理だと観念する。 [#改ページ]   愛あればこそ [#挿絵(img¥P206.jpg、横133×縦208、下寄せ)]  東京宝塚劇場に「ベルサイユのばら2001」を観に行く。今まで二、三度宝塚を観に行ったことはあるが、劇場が新しくなってからは初めてである。  感動した。  前から四列目という座席の良さもあってか、「ベルばら」という宝塚十八番の出し物のせいか、はたまた和央《わおう》ようかと花總《はなぶさ》まりというトップスターの輝やきのせいか、私はすっかり洗脳されてしまった。 「ああ 愛あればこそ 生きる喜び  ああ 愛あればこそ 世界はひとつ  愛ゆえに 人は美し」  きらびやかな衣裳《いしよう》をまとった美しい娘たちに、 「あい——あい——あい——」  と連呼されれば、私のようなすさみきった四十女でも、 「あら、ひょっとして、愛って素晴らしいのかしら」  なんて気にさせられてしまう。  宝塚は宗教である。光と音楽とダンスによって五感に官能を送り、 「愛は 素晴らしい  愛あればこそ 愛 愛 愛」  と、愛のメッセージを吹き込むのだ。  信者である女性はもうウットリ、である。そして、劇場を出る頃には全員、 「あい——あい——あい——」  と、口ずさんでいる。  去年から続けている仏像巡りの旅。  きらびやかな厨子《ずし》に、金ぴかの観音様を見るたびに、 「娯楽の少ない奈良・平安時代の人々にとって、お寺はたまらなく魅力的な場所だったんだろうなあ」  と、私は感じていた。  妙に色っぽい観音、やたらハンサムな釈迦《しやか》を私は数多く見てきた。強いかおりのお香。ハーラーミッターナンジャラカンジャラと、単調なようで結構リズムのある読経《どきよう》。時々シャーンと鐘の音が響き、金色《こんじき》の観音様は半裸で腰をひねり、衆生《しゆじよう》に向かって微笑む。  奈良・平安時代の民《たみ》が洗脳されても仕方あるまい。  五感を刺激されうっとり官能の気分に浸りきっている時にメッセージを送られると、人はたやすく洗脳される。  仏教しかり。宝塚しかり。  キリスト教だって、美しいマリア像の下で讃美歌《さんびか》流されたら、たまらないでしょう。  勉強ぎらいの私の息子にこの方法が何とか応用できないか。宝塚に連れてゆき、 「勉強——予習——復習——  ああ 学ぶからこそ 人は美し——」  という歌で洗脳してもらえないだろうか。  宝塚じゃなくてもいいや。B'zの稲葉さん、 「ベンキョウッ! ソウルッ!」  と、シャウトしてくれないだろうか。  夏休みだけれど、子供達は毎日遊び歩いていて、家には誰もいない。毎年「としまえん」のプールに二人の子を連れて行った日々が懐かしい。  本当に子供なんてあっという間にいなくなってしまうのだ。この春、娘が下宿生活を始めたため、一人分の食事の仕度が減った。  一人でも減ると、随分と家事負担が軽くなるものだ。  週末自宅に戻る予定だった娘から、やっぱり用事ができて帰れないというドタキャンが入る。 「なんだ、まりこは戻らないのか」  と、夫は落胆するが、私は用事が減ったと内心喜ぶ。  子供がいない寂しさよりも、解放された喜びの方が今の私には大きい。五つ六つの子供が突然いなくなれば、その喪失感は耐え難いものだろうが、高校生大学生の子供はもうとっとと出てってくれという気分になる。早くワタシを解放してよ、と。母親業は十数年が我慢の限度であろう。 「今、二十七歳のバイオリン教師に恋してるの」  と、久し振りに会ったユカリは私に言った。彼女は私と同じ四十五歳だ。息子達は各々、大学生と高校生に成長している。 「この年になってどうしてもバイオリンが習いたくなって、インターネットで個人教授してくれる人を探したの。そしたら、たまたま、ウチの近くに見つかって」  訪ねてみたら、とっても若くてハンサムな先生だったんですって。  ユカリはまだまだ若くて美しく、今より十歳老けた中山美穂という感じ。この恋、発展しそうだ。でも、「四十雀の恋」は今月で終了する。インターネットで知り合った年下のバイオリン個人教師。——美しい小説のような発端ではないか。経過がご報告できなくて残念である。 「四十代の君達でも、ぼくには充分恋愛対象だ」  と言ったのは、同窓会の二次会場で酔っ払ったB君である。久し振りでもないが、中学時代の同級生が集まった。四十歳を過ぎてから半年に一度のハイペースで、私達徳島の中学校仲間は集まりを持っている。  その日の会は、仲間うちで一人、とてつもない金持ちになった男がいて(どのくらい金持ちかというと、代官山に三階建ての一戸建てを持ち、一階はフェラーリを始めとする外車四台の駐車スペース、二階のリビングの脇には室内プールとジャクジー、三階にはベルサイユ宮殿のようなゲストルームが三室)、彼の家で二次会を開いたのだ。豪邸には使用人らしき初老の夫婦がいて、私達のためにおつまみや飲み物を用意してくれた。  わあ、プールがあるとはしゃぐ私達に、 「泳いだら」  と、彼は言った。 「でも、水着もってないし」 「水着なら、あるよ」  何でも時々モデルの女の子を呼んで泳がせるための水着を常備してるとか。  でも男って、何で金持ちになったら、外車と豪邸と若くてキレイなお姉ちゃんが欲しくなるのだろう。  逆を返せば、外車と豪邸と若いモデル風愛人は、金で買えるということ。  そしてその豪邸の主人は、金で買えないモノをすごく欲しがってるように私には見えた。彼は、少しも鼻もちならない奴ではなかったからだ。旧友一人一人に慇懃《いんぎん》に接し、成功話のひとつも口にするでなく、それでは今日はお先に失礼しますという使用人にどうもどうもご苦労様と腰を低くしてあいさつをしていた。  ウーロン茶が欲しいと私が喚《わめ》き始めると、あ、ウーロン茶ねちょっと待ってねはいはいはいと、使用人が帰ってしまったキッチンで、ご主人がバタンバタンと冷蔵庫のドアを開けたり閉めたりする。ふんぞりかえった奴ではなかったのだ。  これで、私達昔の仲間が帰ったあと彼が一人豪邸でピストル自殺をすれば、見事な短編小説になるのだけれど。いけませんね、旧友を殺してしまったら。  けれど、 「四十代の君達でも、恋愛対象だ」  と言ったB君の気持ちを、豪邸の主人は理解できなかっただろうと思う。  私は次の日に漫画の締切りがあったのでその場を早々に切り上げたのだが、残った四人の四十五歳の女性達は、モデル仕様の水着を借りて、プールで泳いだのだそうだ。 「もうこの年齢になると、恐いモノも恥ずかしいコトも抑制する何かも、なくなるわね」  とはハイレグビキニを借用した彼女の言い分である。  四十代でも君達はステキだと言う男もいれば、恥ずかしいことなんか何にもないわと深夜水着姿になる女もいて。  ただひとつ、みんなが頷《うなず》いたことがある。 「中学の頃は、四十歳がこんなものだとは想像もできなかった」  と、C君が言った一言である。  四十代はもっと大人でもっと分別があるものだと思っていた。世の中のシビアな面を少しは味わったけど、それで大人になれたかと聞かれれば、あやしい。  きっとユカリも二十七歳の彼と同年代の気分で恋してるのだろうし。  私だって宝塚を観終わると、恋を信ずる乙女に戻っているし。  とっくに厄《やく》は終わったと思っていたら、先月訪ねた奈良の厄除け寺の住職に、 「四十五歳は女の小厄」  と、教えられた。  だからなのか。この肩の痛み。目のかすみ。意欲の低下。私はさっそくその寺で厄除けのお守りを買った。  厄を払って、純真な愛に生きるのよ、女四十五歳。四十六からは厄も晴れてバラ色の日々と思っていたら、 「六十五歳まで数年おきに小厄が来るから」  と、住職にダメ押しされた。  六十五歳以降、体力整えて、恋に備えます。 [#改ページ]   あとがき  私は再びJ‐men'sを訪れた。  あまりに私がTerry、Terryと騒ぐもので、コミックの担当編集者のKがどんなものか見てみたいと言い出し、連れ立って来たのである。  二度目ということもあり、ハナからお目当てはTerryオンリーということもあり、私は終始ノリノリでラブラブ光線をTerryに投げかけ続けたのである。  そして、いつものポラロイド記念写真タイムとなった。もちろん私はTerryを指名する。 「ドゥ・ユー・リメンバー・ミー?」  私は、Terryに囁《ささや》く。 「アイ・プロミスト・アイル・シーユー・アゲイン。ア・フューマンス・アゴー」  すると、Terryは目を大きく見開き、 「イエース、イエース、アイ・リメンバー・ユー」  と言って腕を大きく広げ、そして私を抱き締めてくれたのだった。  ウソつけ。この商売人が。と、私は直感した。けれど、おとなの恋は、ウソをウソと知っておきつつ、ウソを楽しむことから始まるのよ。  出来上がったばかりのTerryとのツーショット写真を編集者Kに見せながら事の次第を語った。 「ま、私とTerryの恋はこれからってとこよ。ねぇ、何とか店外デートにこぎつけられないものかしら」  すると、Kは答えた。 「僕も編集者のハシクレです。Terryを呼び出して、サイモンさんとお食事のセッティングぐらいまではできると思います。でも、サイモンさん、それから彼とどうするつもりなんですか」  私は、返答に困った。  そこから先の事なんか何にも考えてなかったからだ。おまけに、私の英語は、アメリカの幼稚園児レベルである。  そこから先なんて考えてたら、恋なんかできないのよ。  だから私は、恋なんかできないのよ。  そののち、テレビの深夜バラエティでTerryの姿を何度か見かけた。エステティックサロンの脱毛キャンペーンのバックダンサーとしてCMにも出演していた。 「ああ、Terry……」  と、そのたび私は仕事の手を休め、画面をくいいるように見つめた。  そんな折、J‐men'sが閉店したという情報が私の耳に届いた。  私のTerryはどこに行ったのだろうか。  この文章がTerryの目に届いたなら、いつでも角川書店気付でご連絡下さい。   二〇〇一年十月 [#地付き]柴 門 ふ み   角川文庫『四十雀の恋もステキ』平成16年12月25日初版発行                平成17年5月30日再版発行