柴田錬三郎 江戸八百八町物語 [#表紙(表紙.jpg、横140×縦140)] 目 次  その一 江戸っ子由来  その二 赤穂浪士異聞  その三 御落胤  その四 ゆすり旗本  その五 仇、討たれず記  その六 異変|護持院原《ごじいんがはら》  その七 有馬猫騒動  その八 女中・妾・女郎  その九 大奥女中  その十 五代将軍  その十一 武士というもの  その十二 賄賂  解説 稲垣史生 [#改ページ]   その一 江戸っ子由来  慶長八年、江戸城の大改築が成り、東南の海辺三十四町を埋めたてて新しい市街がつくられた時、徳川家康は、大久保彦左衛門を呼んで、 「屋敷をつかわそうと思うが、どのあたりが欲しいか、申せ」 と、云った。  彦左衛門は、即座に、 「大名衆の屋敷を、一望のもとに見下《みおろ》せる台地が欲しゅうござる」 と、こたえた。 「では、望みのままに、おのれでえらぶがよい」  家康は、微笑して、云った。  江戸は、つくられたばかりの城下町であった。欲しい土地を自由にえらぶことができた。  江戸を家康にくれたのは、豊臣秀吉であった。  天正十八年四月、日本全土の大軍をもって小田原北条氏を囲んだ折、一日、秀吉は、家康をともなって、石垣山の本営から、脚底の小田原城を見下し乍《なが》ら、 「北条が滅んだならば、あの城に、お許《こと》が移られたら、どうじゃ?」 と、すすめた。  家康は、つつましく、 「有難き幸せ——」 と、こたえた。  小田原城をくれる、ということは、関東八州を与える、という意味であった。 「では、ひとつ、小便など、あびせてやろうかの」  秀吉は、前をまくった。 「相伴《しょうばん》つかまつる」  家康も、前をまくった。  二条の液体は、小田原城にむかって、勢いよく落下した。  放出し終えた時、家康は、何気ない口ぶりで、 「関東を賜《たまわ》って、これを治めるには、この小田原は、ちと端《はし》寄りでは、ありますまいか」 と、云った。 「それも、そうだの」 「八州の中央ならば、この地より東に、およそ二十里へだてて、江戸城がござる。太田道灌が築いた城でござる。もう古びはてて居りますが、河を帯び丘を控えて、天然のまもりもよろしく、おゆるしあれば、改築いたして、すまいにいたしたく——」  秀吉は、その願いをゆるした。  並の頭脳の武将なら、天下に名をとどろかせた北条氏の居城を、大よろこびで、もらうところであった。あるいは、小田原が不服なら、嘗《かつ》て幕府の在った鎌倉を申出るところである。  家康は、あえて、江戸を所望した。  当時、江戸は、どう見ても、関八州の太守の住むところとは、考えられなかった。  城といっても、かたちばかりで、構えはきわめて小規模で、濠《ほり》もせまく、城壁すらもないと同様であった。町屋といえば茅葺《かやぶ》きの家が百ばかりならんでいるだけであった。  東方は、ここもかしこも、汐《しお》入りの芦原がつづき、侍屋敷|町屋《まちや》をものの十町と割りあてられそうもなかった。西南は、渺々《びょうびょう》たる武蔵野の原野で、何処《どこ》をしまりというべき様もなかった。  いわば、八方があけひろげられている地であった。  武将のすまいは、常に敵襲に備えて、地形がえらばれる。その常識からすれば、江戸は最も不適地であった。  家康が、居城に江戸をえらんだときいて、麾下《きか》の士らは、茫然としたことであった。  家康は、別に、家臣たちに、なぜ江戸をえらんだか、その理由を説明しようとはしなかった。  天正十八年八月朔日に、家康は、江戸城に入った。  まさしく、城といっても、ただの館《やかた》にも劣るものであった。さきの城主遠山右衛門が、永々の籠城《ろうじょう》のままに、うちすてておいたので、いたるところ破損していた。板葺きの屋根を、兵火からまもるために土を塗っていたので、雨もりによって、畳や敷きものは、ことごとく腐りはてていた。玄関の上り壇には、舟板の幅の広さを二段に重ねて敷いてあるほどの、そまつさであった。石垣などは、ひとつも築かれてなく、みな芝土手であった。  土手には、樹木や竹がしげって、けものがちらちらとかすめていた。  城からすぐ海つづきになり、木戸門を出ると、漁師の小屋がならんでいた。遠山家のさむらいたちは、気がるに城を出て、肴《さかな》を買いもとめていた模様である。  慶長見聞記によれば——。 「天正のおうち入りまでは、高き身分も卑しきも、みな、松の柱、竹の編戸、葎《むぐら》の庵、蓬《よもぎ》が宿、草葺《くさぶき》の小家がちなる軒のつまに、咲きかかりたる夕顔の白き花のみにて、蚊遣火《かやりび》のふすぶるも、哀れに見えて多かりし」  しかし、家康は、住むに堪えぬおんぼろ城に入った時、うしろにしたがっている本多佐渡守をふりかえって、 「できあがってしもうたものを貰うのは、誰にでもできる。何もないものを貰って、自分でつくりあげるのは、誰にでもできるわざではない。そうではないか。佐渡——」 と云って愉しげに笑ってみせた、という。  城の西北に、神田があった。  神田というのは、むかし、各国に一箇所ずつ、大神宮の御供米を植える田が指定されていた——それをいう。  神田の背後に、高峻な山がそびえていた。神田山と、地下人《じげびと》たちは、称《よ》んでいた。  家康は、諸侯に命じて、千石に付き一人の割で人夫を賦課して、この山を削らせて、城から東南のふかい入江を、埋めたてたのであった。(浜町、葭町《かすみちょう》、八丁堀、銀座、日比谷のあたりは、すなわち、神田山の土で作られたのである)  大久保彦左衛門は、仮宅である外桜田の松林の中の古寺へもどって来た。  この地域は、大名小路になるべく、いま、屋敷造りで、昼夜、騒音をきわめていた。旗本たちは、西北に宅地をもらって住んでいた。大番町といい、一番町から六番町にわかれていた。これは、賽《さい》の目に象《かたど》り、陰陽四方に擬し、六番までの号数にして、一番町の裏を六番町にし、二番町の隣りに五番町を置き、三番四番を並べてあった。  大久保彦左衛門は、しかし、番町に住むのをきらって、いまだに、古刹《こさつ》の庫裡《くり》に、起居しているのであった。  家臣は、ただ一人、影の喜兵衛という、隻眼《せきがん》で、跛《びっこ》の伊賀の忍び上りを使っているだけで、足軽も中間《ちゅうげん》も女中も置いていなかった。 「喜兵衛——」  居室で呼ぶと、廊下で、すぐ返辞があった。 「江戸の台地は、いくつある?」 「高輪台、白銀台、目白台、三河台、神田台、本郷台——まず、そのあたりでござる」 「もし、智能|秀《すぐ》れた武将が江戸城を攻めるとすれば、どの台地を占拠すると思うか?」 「本郷台かと存じます」 「なぜだな?」 「本郷台よりお城まで、さえぎるべき天然の要害はござらぬ」  当時、江戸川は、小石川の水と合して、飯田町附近をすぎて、一ツ橋、神田橋の城濠《じょうごう》に入って、下流は、日本橋川になっていたのである。  湯島吉祥寺前に、巨濠《きょごう》をうがって、これを神田川に疏《なが》せしめ、柳原筋に堤防を築く、という計画があったが、まだ手がつけられていなかった。 「よし。では、神田台を、すまいときめるぞ」  彦左衛門は、云った。  敵に本郷台を占領された場合、その台地の一部である神田台に旗本が住んで、これを防ぐ任務に就くのは、戦略上の当然のことであった。 「早速に——」  喜兵衛は、一礼して出て行こうとした。 「待て、喜兵衛」 呼びとめて、彦左衛門は、 「薬を塗ってくれ」 と、双肌《もろはだ》をぬいだ。  彦左衛門の全身には、無数の刀槍傷《かたなやりきず》があった。  五十の坂をこえてから、季節のかわりには、痛むようになった。喜兵衛のつくる忍者薬は、よく利いたのである。  彦左衛門は、喜兵衛に、塗らせ乍ら、ふと、めずらしく、感慨をもらした。 「十六歳で、わが君に召《めし》出されて、およそ三十年、戦《いく》さの場をかけめぐって、つくった刀傷槍傷だ。妻子を持たず、忠義一途にはげんでの。……その働きで、賜《たまわ》ったほうびが、武蔵埼玉郡の二千石。喜兵衛、どう思うぞ、この知行高を?」 「…………」  喜兵衛は、黙々として、塗りつづける。 「あまりに尠《すくな》いと思わぬか?」 「不平でござるか?」 「不平だ。三河譜代の旗本で、一万石を賜った者は一人も居らぬ。父を、兄弟を、子を討死させ、一族をあげて、奉公した者が、わずか千石か二千石の知行にあまんじなければならぬ。……それにひきかえ、昨日は東方へつき、今日は西方へ寝返って、狡猾《こうかつ》にたちまわった奴らが、十万石二十万石の国守になり居るのが、我慢ならぬわ。いいや、譜代のうちでも、口さきのうまい奴らは、いつの間にか、大名になり上り居って、行列をかざりたてることを、淫乱娘のように、よろこんで居る。そやつらの面《つら》を見るたびに、胸が、むかむかいたすのだ」 「…………」  喜兵衛は、なお、おのが意見を吐こうとはせぬ。 「喜兵衛、お前の考えを述べてみい」 「殿——」 「なんだ?」 「三十年のあいだに、殿は、無数のご朋輩の討死をごらんなされた」 「ああ、見とどけたぞ。惜しみてもあまりある若い逞《たくま》しい、忠義のさむらいたちが、つぎつぎと、この世を去って行ったぞ」 「討死なされたかたがたは、知行など一石も、賜っては居りますまい」 「あたりまえではないか。死人に何が貰えるぞ」 「殿は、さいわい、生きのびられたおかげで、たとえ不服であっても、二千石を賜って居ります。それで、よろしいのではござるまいか」 「さとりをひらいたようなことを申すな」 「殿——」  喜兵衛は、ちょっと、きびしい声音《こわね》を出した。 「なんだ?」 「生涯、出世の野心なく、まっしぐらに忠義の道をすすまれた殿は、わずかの知行にあまんじておいでのことは、かえって、お立場の強味になりはしませぬか?」 「どうしてだ?」 「これからは、誰人の前でも——左様、たとえご主君に対しても、云いたいことを、遠慮なく、申されませい。他の者なら、妻子を持ち、城を持ち、家来を持って居りますゆえ、云いたいことも口にできず、徳川家にひたすらにらまれないように、気をつかって居りましょうが、殿は、べつに、そのような心配をなさる必要はござらぬ。たかが二千石など、屁《へ》でもない筈でござる。誰人もまねのできぬわざは、云いたい放題に、うそぶく自由でござる」 「そうか。成程。喜兵衛、よく申した」  彦左衛門は、にやりとしたことであった。  元和二年四月十七日、家康は、七十五歳をもって、駿府城《すんぷじょう》に薨《こう》じた。  そこで、大御所附属の諸士はことごとく、駿府城をひきはらって、江戸へ移って来ることになった。  渠《かれ》らは、大半三千石以下の旗本たちであった。  希望の場所を、と求められるや、一人のこらず、 「大久保彦左衛門の住む神田台を——」 と、申出た。  この十年間、家康であろうが、秀忠であろうが、遠慮もなく、ずばずばと、肚裡《とり》にあるがままを口にして来た彦左衛門は、旗本たちの間に、非常な人気者になっていたのである。  神田台は、駿府《すんぷ》附きの諸士の邸宅が、ずらりと建ちならぶや、駿府台《するがだい》と称《よ》ばれるようになった。  彦左衛門は、そろそろ六十の坂にさしかかっていたが、あいかわらず、喜兵衛と二人ぐらしで、この世はまことにつまらぬといった顔つきで、登城していた。  そして、その口舌は、近年ますます、皮肉になっていた。  いくつかの逸事が、旗本たちに、快哉を叫ばせていた。  ある時、将軍秀忠から、鶴の吸物を賜った。  秀忠は、 「その方、鶴をくらったのは、久方ぶりであろう?」 と、問うた。  彦左衛門は、平然として、 「それがし方では、本日のごとき鶴は、常時くろうて居りまする。おん礼のために、あたらしい鶴めを、献上つかまつる」 と、こたえた。  その翌日、秀忠の前に、うやうやしくさし出されたは、青菜|一籠《ひとかご》であった。  この皮肉に、流石《さすが》の秀忠も、むっとなった。秀忠は、彦左衛門が下城して行くや、侍臣の一人に、 「じじいの屋敷へ行き、様子を見て参れ」 と、命じた。  侍臣が、ひそかに、屋敷内に忍び込んでみると、庭に、二羽の鶴が、悠々とあそんでいた。喜兵衛が、昨日のうちに捕獲して、飛べないように、羽根を切っておいたのである。  ある時——。  老中筆頭の土井利勝が、旗本たちを順《したが》わせるには、彦左衛門の意《こころ》をやわらげておかねばならぬ、と思いついて、招いて饗応した。  席上、四方山《よもやま》の話が出たあげく、利勝は、栗毛の太く逞しい馬を、庭さきに曳かせ来て、 「こやつは、大阪再度の御陣に、人間以上の働きをしてくれ、わしが宝のひとつじゃが、お主《ぬし》がのぞみならば、ゆずってもよい」 と、云った。  すると、彦左衛門は、大真面目な表情で、 「ほう、さては、土井殿が、あの合戦の際、後藤又兵衛の手勢に追われて、乗って逃げたは、この馬でござったか。成程、逃げ脚の早そうな馬ではある」 と云って、立って、縁側に行くと、 「これ、汝は、まことに主《ぬし》思いなやつよ。よくぞ主人を、乗せて逃げた。さり乍ら、それがしは、敵にうしろを見せるのは、首がちぎれても、真っ平な性分ゆえ、汝のような逃げ脚の早い馬は、無用じゃ。これからも、せいぜい、主人に忠勤をはげんで、いざ敵に追われたら、スタコラ逃げ出せい」 と、云って、高声に笑った。  幕政を左右にする権臣に対して、このような放言をする度胸をそなえているのは彦左衛門だけであった。  彦左衛門は、家康や秀忠の前に伽《とぎ》をしている場合でも、話がいくさのことにおよぶと、主君が機嫌のよい時は、味方の敗けいくさの話をもち出したし、機嫌のわるい時は、勝ちいくさについて語った、という。  ある年の正月——。  具足餅《ぐそくもち》の祝いの儀式に、彦左衛門は、同年の今村九郎兵衛と、つれ立って、早くから出仕して、所用あって、山吹の間《ま》にいた。  この頃、彦左衛門は槍奉行、九郎兵衛は旗奉行をつとめていた。  ところで、祝儀の本席では、控えの間に二人の姿がないので、遅参と早合点して、待たずに、祝いをはじめた。  やがて、目付の者が、山吹の間にいる二人を発見して、 「もはや、祝儀ははじまって居ります故、早々に着座なされるよう——」 と、促した。  きいた彦左衛門の面相が、みるみる憤怒《ふんぬ》の色をみなぎらせた。 「黙れ! それがしどもは、未明から登城して、ここに詰めて居る。それをさがして沙汰することを怠って、祝儀がはじまった、早々に着座せよとは何事か! 権現《ごんげん》様以来、旗と槍は、いかなる場所においても、まっさきに飾られることときまって居る。合戦がはじまった時、まっさきに出されるのが旗と槍とあれば、当然のならいじゃ。ましてや、具足餅の祝いとあれば、旗奉行と槍奉行が第一番に着座してはじめて、儀式ははじめられるべきもの。それを、ないがしろにして、はじめたから、やって来いとは、なんたる無礼か! さらば、下城して、自宅において、権現様おん位牌《いはい》の前にて、祝いをいたそうぞ!」 と、云いはなって、席を立った。  目付の者は、狼狽して、平あやまりにあやまっておいて、老中にまで、事の次第を告げに走った。  酒井忠勝が、重臣らをつれて、急いで入って来て、 「掛りの者の料簡ちがいで、お手前がたをさしおいて、祝儀をはじめたもの。他意があってのことではない故、気持を直されて、着座されたい」 と、なだめた。  彦左衛門と九郎兵衛は、頑として肯《うなず》き入れようとしなかった。  松平信綱が、あとから入って来て、 「事は過ちであればこそ、こうして、一同が謝罪いたして居る。そこを汲まれて、席に就かれては、いかがか」 と、すすめた。  すると、彦左衛門は、膝を立直して、からからとうち笑った。 「これは、したり! およそ、軍礼に、旗と槍を失念したのを過ちと申すのは、はじめて承り及んだ。それがし、六十年の生涯において権現様が、軍礼に、旗と槍をお忘れあそばされたのを、いまだ一度も、知り申さぬ。……もはや、一番座の終ったからには、それがしらは洗い膳で、くわされることになるのか。さても、九郎兵衛、世は末となったものではないか。長生きすると、珍しいことを聞かせられるわい」  信綱は、頑固な老人の態度に、肚《はら》を据えかねて、 「末世とは、言葉が過ぎはすまいか! 将軍家の台所に洗い膳など、あるべくもなし」 と、語気を荒げた。  彦左衛門は、にやりとして、 「智慧の伊豆守《いずのかみ》と云われるほどの御仁が、軍のことを知らぬとは笑止。およそ、武門において、二番座に直るのを、洗い膳と申し、剛勇の士の最も忌み嫌うところ。ましてや、武具の餅を開く正月祝いに旗と槍を失念するとは、末世の兆《きざし》でなくて、なんであろうか。われら、無数の合戦に参加つかまつったが、旗と槍を立てよとの上意が、まずはじめに下ったものじゃ。上様におかせられて、その命令を失念されたことが、ただの一度でも、おわそうか。また御料理を下されるに、いつとて、一番座を欠かれたおぼえはござらぬぞ!」 と、逆襲した。  側の九郎兵衛が、ききかねて袖をひいたが、彦左衛門は、ますます旋毛《つむじ》を曲げるばかりであった。  秀忠が侍臣を寄越して、なだめたので、ようやく、彦左衛門は祝儀の席に出たが、その座においては、終始、家康がいかに旗と槍を大切にしたかという例を、つぎつぎに、語りたてたものであった。  彦左衛門は、松平信綱のような、戦場の武勲に乏しい士が、君寵《くんちょう》を得て威権《いけん》をにぎっているのが、気に食わず、不快だったのである。  寛永十五年の島原役の後のことであった。  彦左衛門は、たまたま、松平信綱と二人きりで対坐する機会があると、 「伊豆守殿は、かねがね智慧のほまれが高うござるが、武功のことは不案内とみえ申すな」 と、云い出した。  信綱は、一揆を平定したので、いささか自負している時であったので、内心不快に思いつつ、 「何故でござろうか?」 と、訊ねた。 「御子息|甲斐守《かいのかみ》殿の儀でござる。このたびの戦さで、甲斐守は、一躍高名をば、いたされる筈であったが、父君たる御貴殿のなされようがまちがっていたばかりに、あたら目ざましい働きを無にされた」 「その理由をうかがおう」 「されば——。甲斐守殿は、島原において、抜駆《ぬけが》けの働きをなされた。働きによって、原城が陥落いたしたことは、それがしも、みとめ申す。しかし、抜駆けは、抜駆けでござる。すなわち、軍律を破った罪は、まぬがれ申さぬ。当然、軍代として、諸軍を監督する役目に在った御貴殿《ごきでん》は、その罪をとがめ、たとえわが子であろうとも、軍法を犯したのは、沙汰の限りとして、甲斐守殿を罰して、高野山にでも追い上げて、謹慎《きんしん》せしめるべきでござった。しかし、御貴殿は、甲斐守殿を、一言すらもとがめず、罰しなかった。落城ののち、軍功論議ということになれば、落城のきっかけをつくった甲斐守殿は、まっさきに、勲《いさお》を賞されて、上様から、高野山より召返しの上意があったは必定。甲斐守の名は天下にひろまり、父たる御貴殿もまた依怙贔屓《えこひいき》のない御仁として評判になり申したであろうに——。御貴殿が、抜駆けをとがめなかったばかりに、甲斐守は、諸将の反感を買い、武勲第一にされなんだ。御貴殿が、武功のことに不案内であるとは、これを申す」  信綱は、一言も、なかった。  元和|偃武《えんぶ》が、さらに寛永につづき、天下が完全な平和を迎えると、彦左衛門のような、功名|槍《やり》ひとすじに生きた戦場武者は、ますます余計者の存在になった。  見るもの、聞くものが、みな不平の種になった。老齢を加えるにつれて、その頑固さも極端になって来た。  彦左衛門の不幸は、戦雲あわただしい時勢から、吹く風が枝も鳴らさぬ泰平の時世にまで生きのびたことであった。  彦左衛門は、時おり、同じく老いた喜兵衛をつかまえて、愚痴をもらすようになった。 「わしは、この世で全くの無用者になったようじゃ。泰平になると、武勲の士はしだいに遠ざけられ、公儀に丈《たけ》た文飾の徒が優遇、登用される。槍は袋に入れられ、書籍が跋扈《ばっこ》いたす。公私ともに、儀礼ずくめに相成る。しかし、思うてみれば、さむらいの作法というやつは、われら武骨の、生命《いのち》知らずたちにとってこんなばかげたものはない。たとえば、切腹じゃ。切腹は、西を向いて正坐するというさだめになって居る。ばかばかしい作法ではないか。わしが見とどけた武田の武将|孕石主水《はらみいしもんど》の最期など見事なものであった」  天正九年三月、武田氏の遠江国高天神城が、家康の包囲を受けて、落城した。城に籠《こも》っていた孕石主水は、塞囲《かこみ》を衝《つ》いて出たが、ついに捕虜となった。  家康は、幼い頃、質子として今川氏のもとにあった頃、主水から侮辱されたおぼえがあったので、切腹を命じた。  彦左衛門が、これを検視した。  主水は、切腹の命令を受けると、悠然として、その座に就いた。  彦左衛門は、主水が南へ向って坐ったのを視て、 「孕石殿、お主ほどの者が、最期の作法を知らぬとは、訝《いぶか》しい。なぜ、西に向って、正坐されぬ?」 と問うた。  主水は、こたえて、 「お主こそ、経文をひらいたことはないのか。経文の中に、どこに、極楽は西にある、と記されてある。仏者十万仏土中旡二亦無三除仏方便説、と説いてあるではないか。西を向こうが、南を向こうが、おのれの勝手だ」  云いはなっておいて、目前に咲いた桃の花をめで乍ら、脇差を腹に突き立てたものであった。  喜兵衛は、主人の愚痴をきき乍ら、殆どいつも、黙って、膝へ目を落していた。  七十歳になっても、家督をゆずるべき息子を持たぬ彦左衛門は、隠居願いを出すわけにいかなかった。  古稀《こき》を迎えたからには、毎日登城するのも大儀であろう故、気ままにせよ、と下命があったが、彦左衛門は、きかなかった。  いや、かえって、風邪で熱を出していようと、神経痛を起して歩行がおぼつかなくなっていようと、毎日、城内へ姿を現した。  一万石以下は、駕籠《かご》で登城は罷《まか》りならぬ、という規則が設けられると、彦左衛門は、朱塗りの〈たらい〉を作らせて、それに乗って、登城して来た。  彦左衛門が、『三河物語』というものを記しはじめたのは、その頃からであった。わが大久保一族が、松平・徳川氏の譜代として、忠勤をはげんだ来歴及び見聞したくさぐさを記したものであった。  彦左衛門は、その中で、他人には語れぬおのが胸中を、ぶちこめていた。いかに自分が、徳川家譜代たる誇りを持っていたか、いかにめざましい武功をたてたか。そして、それに対する酬いられることの、いかに尠《すくな》かったか。高祿を食《は》んでいる外様新参の大名旗本どもを、自分がどれだけ悪《にく》んでいるか。徳川家が今日、このように隆昌《りゅうしょう》をきわめているのは、譜代諸士の臥薪嘗胆《がしんしょうたん》の結果ではないか。しかるに、幕府は、譜代衆に対して、報いるところのなんという尠さであろうか。  彦左衛門は、その物語の中で、おのれのことを、「拙者」とも「それがし」とも書かず、「三河之者大久保彦左衛門と申す者」と記して、その武功をつづっていた。  大坂夏の陣の時、彦左衛門は、槍奉行として、参加した。ところが、旗奉行となったのは、保坂金右衛門と庄田三太夫という「武辺《ぶへん》もなき、御譜代家にては、知る人もなき」者たちであった。それが、彦左衛門には、不満であった。  正月七日の天王寺合戦に、保坂と庄田が、うろうろしている隙《すき》に、彦左衛門は、まっしぐらに、敵陣に突入して、旗と槍とばらばらになって、闘った。  後日、家康は二条城に凱旋して、旗本諸士の功罪を糺明《きゅうめい》した席上、彦左衛門に、 「何処《どこ》にいたか?」 と、問うた。 「それがし、槍奉行なれば、旗奉行とともに居り申した」 「しかし、旗は何処にいたか。闘いの中に、旗は見当らなんだと、皆は申して居る」 「いや、旗は、立って居り申した」  彦左衛門は、主張した。  実際に、槍を失った旗は、退却し、倒れてしまったのである。 「誰も、旗が立っているのを見とどけて居らぬ以上、旗は倒れたのであろう」  家康は、みとめようとしなかった。二人の旗奉行は、退却にあたって、矢をあびて、討死してしまっていた。  彦左衛門は、おのが膝を、丁《ちょう》と打って、大音声をはりあげた。 「旗は立って居り申した! 光栄ある徳川家の旗が、何条もって崩れ申すべき。もし旗が倒れたりときこえ申さば、異国までの恥辱でござる。それがしの頭を刎《は》ねらるるとも、旗は立っていたと主張つかまつる」  家康は、苦笑して、みとめざるを得なかった。  いま、老いて、彦左衛門は、そうした壮烈な場面を想起し乍ら、筆を走らせている時が、唯一の愉しいひとときであった。  やがて、七十もなかばを越えると、さすがの彦左衛門も、登城が、億劫になって来て、庭の陽だまり場所に、むしろを敷いて、坐っている日が多くなった。  喜兵衛が、ある日、 「駿河から出て参った町人たちのうち、気っぷのよさそうな男をえらんで、お話|対手《あいて》に、つれて参りましょう」 と、云った。  彦左衛門は、退屈していたので、こばまなかった。  彦左衛門が、急に、若がえったように、元気づいて、能弁になったのは、それらの町人たちが現れるようになってからであった。  町人たちは、徳川家を唯一無二の信仰の対象にして、あがめていたし、彦左衛門のような、武骨な、頑固な武辺者《ぶへんもの》を、無条件に、尊敬していたのである。  彦左衛門は、入れかわり、現れる町人たちに対して、義のためには水火を厭《いと》わず、性情は竹を割ったごとく、すかっとしているのを男の中の男一匹だ、と教えた。  そして、その例を、おのが見聞した武辺者の行動の中からひろい出して、語った。  天正十五年二月、大和大納言《やまとだいなごん》秀長が、上方勢《かみがたぜい》六万余騎に中国勢三万余騎をくわえた大勢をもって、三原弾正のこもっている日向《ひゅうが》の高城を、襲った時のことである。  島津中務は、二万余の手勢をひきいて、数倍する上方勢に、逆襲をこころみた。その日、必死の島津勢は、五百名も、その場で、討死した。  上方勢をして感嘆せしめたのは、その討死した島津将士の腕には、ことごとく、 「今月今日討死、何の何某」 と、入墨《いれずみ》がしてあった、という。  こうした彦左衛門の話に、町人たちは、感動した。  一日、町人たちは、うちそろって、彦左衛門をおとずれて、 「わたくしどもは、駿河から、御旗本衆について、この江戸に出て参りましたからには、子々孫々まで、その御城下に住みつく覚悟で居ります。ついては、わたくしどもが、他国者たちとちがっている、いうならば、徳川様の譜代の町人だという誇りを持ちとうございます。ひとつ、その名をつけて、入墨したいと存じます。名をつけちゃ下さいますまいか」 と、願い出た。 「よかろう」  彦左衛門は、しばらく、目蓋《まぶた》をとじて、思案していたが、 「江戸っ子、というのはどうだ。江戸っ子八兵衛、江戸っ子熊五郎、というあんばいに、いれずみしてはどうだな」 と、云った。  一同は、歓声をあげた。  この腕に、「江戸っ子何某」と刺青して、得意になる風潮が駿河台一円にひろがったのは、半年と経たぬうちであった。  彦左衛門は、よもや自分の名づけた称が、三百年の後までも、江戸の者たちの誇りにされようとは、思いもせずに、寛永十六年に、枯木のようになって、逝った。八十歳であった。 [#改ページ]   その二 赤穂浪士異聞 〈すが〉が、物心ついて、はじめて、男を意識したのは、隣家の若い浪人者であった。  牛込の元天竜寺竹町の露店に生れた〈すが〉は、二歳の時に、生母に逃げられ、飲んだくれの父親と二人ぐらしであった。  父親は、天竜寺の庭男であった。酒代は、賽銭《さいせん》を盗んであてていた。飲んだくれであったが、〈すが〉には優しい父親であった。  酔うと、〈すが〉を膝に抱きあげて、 「おめえのお袋は、生れつきの色きちがいだった。おめえも、お袋の血をひいて、男好きかも知れねえ。いいか、男にだまされるな。どうせ、男がいなくちゃ生きていけねえのなら、だましてやれ。男と女は、一生だましあって、生きて行くものだからな」 と、云い乍ら、頬ずりをした。後年、〈すが〉は、男にだまされたり、だましたりする毎に、父親の無精髯《ぶしょうひげ》の痛さを思い出した。  隣家の若い浪人者は、中山新五郎といった。 〈すが〉が、いつ覗いても、新五郎は、キチンと正坐して、書見をしていた。その横顔を視ていると、〈すが〉は、胸が、どきどきして来た。  しかし、新五郎の態度は、幼女などを寄せつけないきびしさがあったので、〈すが〉は一度も口をきいたことがなかった。 〈すが〉が、はじめて口をきいたのは、新五郎の留守に、何処《どこ》からか中間《ちゅうげん》が手紙を届けに来て、当惑しているのをみて、預ったおかげであった。 「あたいが、わたしてあげる」 〈すが〉は、手をさし出した。  中間は、わずか五六歳の幼女に、手紙を托すのを、ためらったが、よほど急いでいるとみえて、いくども念を押して、預けて行った。  新五郎は、一刻ばかりして戻って来た。 〈すが〉は、口がきけるうれしさで、すぐに駆け込んで行き、手紙を渡した。  新五郎は、はじめて笑顔をみせて、〈すが〉のあたまを撫でた。  しかし、手紙を抜くや、たちまち、険《けわ》しい表情になり、〈すが〉を怯《おび》えさせた。  新五郎は、読み了えるや、硯《すずり》を引きよせて、達筆に、次の一文をしたためた。 拙者叔父、松平左京太夫様家臣菅野六郎左衛門事、仔細あって、今日、高田馬場に於て果合《はたしあい》いたし候につき、見届のために罷《まか》り越す。万一帰宅いたさざる節は、斬死《ざんし》いたしたるものとお心得下され度く、家具一切のしまつ御随意になし下さるべく候 〈すが〉は、新五郎が、それを粗壁《あらかべ》へ貼りつけるのを眺め乍ら、もうこの人は、この家に戻って来ない、と直感して、みるみる泪をあふらせた。  新五郎は、差料《さしりょう》を腰にして立った時、〈すが〉に気づいて、黙って、いくばくかの金子《きんす》を手に握らせた。 〈すが〉の予感は、あたった。  新五郎は、再び、その家には戻らなかった。  次の日、裏店《うらだな》中は、大さわぎになった。  高田の馬場の決闘は、中山新五郎という名を、一躍江戸中にひろめ、裏店の連中は、まるで自分の肉親のように、朝から夜まで、新五郎の噂ばかりしたものである。  新五郎は、裏店の連中のうち、親しく口をきいた者は、一人もいなかった。〈すが〉は、そのことを知っていた。〈すが〉は、幼な心に、新五郎が、笑顔をみせてくれたのは、自分一人だけであった、という誇りを、胸に抱いて、裏店の連中が、さも、新五郎と友達づきあいをしていたように喋りたてるのを、軽蔑した。  因縁であった。  それから十年後、〈すが〉は、ふたたび新五郎と隣りあわせてくらすことになった。 〈すが〉は、十五歳で、すでに、囲い者になり、本所松坂町の、吉良上野介邸にほど近い横町に、住んでいた。  ある日、隣家に引越しがあった。浪人者父子であった。  父親は古稀をこえて居り、息子は三十なかばであった。 〈すが〉は、その息子と、往来ですれちがいがけに、一瞥《いちべつ》した瞬間、はっとなった。 〈すが〉は記憶力のいい女であった。その横顔が、新五郎のものに、まぎれもないのを思い出したのである。  自分の方から挨拶に行き、十年前の隣家の幼女であったことを、打明けようと、いくどか衝動にかられたが、ついに、〈すが〉は、その勇気を持たなかった。妾になっているはずかしさが、〈すが〉の足をひきとめたのである。  もしかすれば、人ちがいかも知れぬ、といういちまつの不安もなくはなかった。  浪人父子は、「田所」と名のっていた。  その年もおしつまった黄昏《たそがれ》どき——。 〈すが〉は、いつもひっそりとしている隣家に、つぎつぎと、人が参集する様子に、きき耳をたてた。  前日から、雪が降りつづいていた。  その雪を踏んで来る跫音《あしおと》が、絶え間なかった。  林町五丁目の僑居《きょうきょ》が、討入り当夜の集合本部であった。  大石内蔵助、吉田忠左衛門をはじめとして、四十七士が、悉く聚《つど》うたのである。  浪士らは、入って来るや、直ちに、携えて来た風呂敷包みを解いて、戎衣《じゅうい》を取出した。  若者らは、緋紗綾《ひさや》あるいは緋縮緬、老人たちは白紗綾の褌《したおび》をしめ、実戦の法にしたがって、その前下りに紐をつけ、伸縮自在にして、頭から吊った。  襯衣《したぎ》は、白無垢の羽二重で、綿を入れ、袖なしにして肌につけた。あるいは、繻子、繻珍、緞子《どんす》包みの衷甲《きごみ》を、その上に重ねた。鎖帷子《くさりかたびら》と、称《とな》えたのは、このことである。  その上に、紅色、桃色、または茶などの絹裏した定紋つき半胴の黒小袖をまとい、多くは、晒布《さらし》を上帯にし、三重四重にめぐらして、右の脇で結んだ。これを称して、鎖手拭いといった。  腰下には、羽二重その他の無地もしくは縞の〈ももひき〉をうがち、そのあいだにも、鎖を包み込んだ。  脚には、脚絆《きゃはん》、踏皮《たび》、草鞋。脛甲《すねあて》、膝甲《ひざあて》をした者も多く、これにも絹地に鎖を裏へ縫いくるんであった。  黒小袖の双の袖べりには、晒布《さらし》をもって、くるりと綴じめぐらし、これを当夜の袖|符《じるし》とした。その右の袖符の外側に、姓名をくろぐろと記して、討死した場合、何某なることを、一瞥で判るようにした。  なかには、幅一寸五分、長さ七寸ばかりの金の箔《すり》革に、姓名を自署して、後襟に綴じつけた者もあった。  前襟には、チャルメラの小笛を綴じつけ、いつでも、敵上野介発見の際、吹きならせるようにした。  たすきは、縮緬《ちりめん》、大真田など、まちまちであった。兜頭巾は、その名のごとく、鉢鉄《はちがね》をうちに縫いくるみ、一見火事頭巾に擬《ぎ》した。あるいは、板鍼《いたがね》を鎖つなぎにして、平頭巾にした者もあった。錣《しころ》は、鎖入りで、包んだ巾は、それぞれがえらんだ種々の品色であった。忍び緒は、緋縮緬、調べ革、または真田打など。それには、名香が薫《た》き込まれていた。  大刀と脇差は、ともに、木綿の平打緒に巻きかえて、巻切柄にしてあった。てのひらが滑らない用心の為であった。  夜は更けた。  寅の上刻——元祿十五年十二月十五日、午前四時になるや、四十七士は、一斉に、立った。  その物音に、牀《とこ》の中で、うとうとしていた〈すが〉は、はっと目をさました。  隣家から、ぞくぞくと、おもてへ出る様子に、夢中で、二階へかけあがって、雨戸を一枚、そっと、引いてみて、あっとなった。  物具に身がためした士らが、槍、薙刀《なぎなた》、弓、鉞《まさかり》、大槌《かけや》、竹梯子、大鋸、龕燈《がんとう》などを右手に、左手には、炎々と燃える玉火松明をかざして、出現したではないか。 〈すが〉は、浪人たちが、大泥棒の徒党を組んで、これから、江戸城を襲撃するような恐怖をおぼえたことであった。 〈すが〉は、浪士たちの姿が、雪の中へ消え去るのを見送ったのち、牀へもどったが、しばらくは、茫然として、悪夢でもみているような心地であった。 〈すが〉が、その浪士が赤穂旧藩士であり、吉良屋敷へ討入ったのである、と知ったのは、その日の午後であった。  十年前、高田の馬場で決闘した中山新五郎が、播州赤穂浅野藩の堀部弥兵衛の養子に入って、堀部安兵衛となり、当時の討入りには、めざましい働きをした、ときいたのは、それから、数日後であった。  赤穂浪士四十七名は、泉岳寺にあること終日、夜に入って、芝愛宕の下西久保に在る大目付仙石|伯耆守《ほうきのかみ》久尚邸に召喚された。  それから、諸目付立ちあいの上で、四大名へ、分散お預けの旨を申し渡された。  堀部安兵衛は、大石内蔵助、父弥兵衛とわかれ、大石主税ら九名とともに、伊予松山十五万石、松平|隠岐守《おきのかみ》定直邸へ、轎《かご》で送られた。  隠岐守本邸は、愛宕下二丁目にあった。  同家では、お預けの沙汰を蒙るや、邸内の長屋十戸をあけて、一人一人を、轎にのせたまま、一戸毎に舁《かつ》ぎ込んだ。  第一番の長屋に入れられたのは、安兵衛であった。身分からいえば、大石主税が入れられるべきであったが、安兵衛が、主税に代って、受取諸員と応待したので、そのあつかいをされた。  隠岐守は、その時、病気引きこもり中であったが、十名の轎《かご》が、仙石邸を出たという報告を受けるや、玄関まで出て来て、寒気中に立って、その到着を待ち、それぞれ長屋に入るまで見とどけておいて、家老遠山三郎右衛門、服部源左衛門に、ねんごろにねぎらうように命じた。  即夜、湯殿へ案内され、衣服をとりかえさせられ、二汁五菜の料理がすすめられた。その待遇は、大名が預けられた時とかわらぬ鄭重さであった。  翌十六日、火災などの懸念から、三田の中屋敷に移された。しばらくして、一戸に一人宛では、無聊《ぶりょう》であろうという心づかいから、御目付の名をもって、一党を二組にわかち、五人宛、二間に同居させるように、という達しがあった。安兵衛は、大石主税、中村勘助、貝賀弥左衛門、不破数右衛門らと、一番の長屋に、ともに住むことになった。  元旦を迎えると、隠岐守は、中屋敷へ出かけて来て、一党を延見し、ねぎらいの辞《ことば》とともに、新調の小袖を贈った。  公儀に於ては、一党処分の内議を決定したので、個々の親類書を呈出させた。  安兵衛のそれは、左の通りであった。  「養家方」 一、父方養祖父(名ならびに死去年月共に覚不申候) 一、同養祖母(誰娘ならびに死去年月共に覚不申候) 一、母方養祖父(右に同じく候) 一、同養祖母(右に同じく候) 一、養父(浅野内匠家来)堀部弥兵衛 一、養母(江戸両国橋近所米沢町大屋木村一兵衛店に罷在候)同人妻 一、妻(養母と一緒に差置候)堀部弥兵衛娘 一、伯母(駿府に罷在候)同人姉 一、伯母(紀州和歌山安藤采女殿家来青池与五兵衛方に罷在候)同人姉 一、従弟(細川越中守様に罷在候)堀部甚之丞 一、従弟(右に同じ)堀部庄兵衛 一、従弟(安藤采女殿に罷在候)青池与五兵衛 一、叔父(本多孫太郎様に罷在候)忠見扶右衛門  「実家方」 一、 父方祖父(溝口伯耆守様に罷在 死去仕候年数覚不申候)中山弥次右衛門 一、 同祖母(誰娘ならびに死去年月日覚不申)同人妻 一、 母方祖父(溝口信濃守様に罷在 十九年前死去仕候)溝口四郎兵衛 一、 同祖母(信濃守様御由緒之者に而先年死去仕候)同人妻 一、 父(溝口信濃守様に罷在 二十一年前に死去仕候)中山弥次右衛門 一、 母(三十四年前に死去仕候)溝口四郎兵衛娘 一、 姉(溝口摂津守様に罷在候)町田新五右衛門妻 一、 叔父(坂井九太夫方に罷在候)溝口祐弥 一、 叔父(溝口信濃守様御領内に罷在候)上田宗貫 一、 叔父(右に同じ)上田角右衛門 一、 従弟(右に同じ)坂井九太夫 二月三日——。  閣老から、切腹の儀が、通達された。  松平家では、直ちに、明日の手配をなし、晩餐には、殊に念入りの馳走をととのえた。  食後、藩の大目付なにがしは、長屋をおとずれて、 「先刻、御老中からのご内意として、明日公儀のお目付衆が、当邸へ臨まれ、御上意の趣き仰せ渡される旨、お沙汰に接してござる。あるいは、おめでたきお達しかと存じられます故、お耳にお入れつかまつる」 と、告げた。  安兵衛以下十名は、その言葉に対して、なんの感情もあらわさなかった。  しばらくして、安兵衛は、主税の代理として、本邸伺候を願い出た。  家老遠山三郎右衛門が、引見すると、安兵衛は、畳に両手をつき、 「さきほどは、公儀お達しの旨、ご伝達下され、有難く存じ上げまする。本日、夕刻より、お屋敷のご模様をうかがいまするに、にわかにご繁忙のご様子にて、あるいは、明日、われらのお仕置がなされる事と、一同覚悟|罷《まか》り在る次第にございます。久しきにわたり、お世話に相成り、なみなみならぬご厚情をたまわったことは、お礼のことばもございませぬ。泉下に参り、亡き主《あるじ》にも、このご厚情を伝えて、ともに感謝いたす所存にございます。ただただ、忝《かたじけ》のう存じ奉ります」 と、礼をのべた。  その言語、動作ともに、平常といささかもかわるところはなかった。  下って、廊下へ出た安兵衛を、ずっと一党の世話をして来た宿府の士が、長屋に送り乍ら、ふと思い出して、 「堀部殿には、〈すが〉と申す女性《にょしょう》をご記憶なされるか?」 と、問うた。  安兵衛宛に酒肴をしばしば届けて来ていた女であった。  外からの尉問《いもん》品は、一切、受けつけてはならぬ掟《おきて》であった。しかし、〈すが〉という女だけは、いくら断っても、届けて来ていたのである。  安兵衛は、ちょっと考えていたが、 「おぼえは、ござらぬ」 と、こたえた。 「どのような女性でござろうか?」 「町かた者にて、まだ十六七歳とみえ申すが、もはや娘ではござらぬ」 「?……」 「貴殿が中山新五郎と申された頃から、知って居る、と申して、ひと目会わせて頂けまいか、と熱心に訴え申したが、さだめならば、許すわけに参らなんだのでござる」 「左様ですか。なにかとご苦労を、おかけ申した」  安兵衛の脳裡には、ついに、〈すが〉という女の俤《おもかげ》はうかばなかった。  いつか——世は移って、数十年が過ぎていた。  赤穂浪士の義挙は、遠いむかしの物語となり、遠いむかしの物語になったために、かえって、そのいさおが、人々の胸で、ますますかがやかしいものになっていた。  浪士ら自身かかわり知らぬ言行が、日本全土でつくられ、いつしか、それが真実のものになっていた。浪士らの筆蹟は、千金の宝ものにされ、その親族たちまでも、周囲から尊敬された。  芸能の世界が、この義挙を見のがす筈はなかった。  浪士らが自決した日から八日目にあたる元祿十六年二月十六日には、はやくも、江戸堺町中村勘三郎座で、夜討の趣向を、曾我兄弟の仇討につくって、興行していた。これは、しかし、町奉行の下知で停止させられた。  次に、公儀|黙許《もっきょ》のもとに、二十四年目の宝永三年五月五日に、近松門左衛門の「碁盤太平記」が上演された。これは、竹本|筑後掾《ちくごのじょう》の操り芝居で、高野師直、大星由良之助、塩谷判官などの名まえが、はじめて、出た。  次いで、歌舞伎では、宝永七年、篠塚庄松座が、東三八作「大矢数四十七本」を出した。享保十八年には、並木宗輔、丈助作「忠臣金の短冊」が、豊竹前|大掾《だいじょう》座で興行された。いずれも、大当りであった。 「仮名手本忠臣蔵」が、竹本座で、はじめて興行されたのは、浪士|義挙《ぎきょ》から三十余年後の寛延元年八月十四日であった。  この狂言は、未曾有の大当りをとった。そのため、以後の芝居は、「忠臣蔵」だけとなった。  江戸の市民たちにとって、「忠臣蔵」は、なくてならぬものとなった。赤穂浪士に対する尊敬は、信仰に近いものとなった。  本所松坂町の吉良屋敷は、とりはらわれ、不浄地として、雑草離々たるままに放置されていた。 「堀部安兵衛の許嫁であった女が、いまだ生存して、尼になって、亀井戸に住んでいる」 という噂がひろまったのは、義士五十回忌が済み、木挽町の森田勘弥座で、「忠臣蔵」が興行されて、山本京四郎の扮する大石内蔵助が、大評判になっている頃であった。  その老尼は、妙海尼といった。  亀井戸の安場大杉明神の傍に小庵を寓して、一人ずまいをし、亡き人々のあとを弔うために、おりおり泉岳寺をおとずれて来る妙海尼は、俄然、江戸の市民たちから、あたたかい目を集中されることになった。  堀部安兵衛の許嫁のまま、安兵衛と別れて、再び他に縁づかず、終身処女の身を通し、貞節をまもって浅野主従の冥福を祈りつつ、尼となって殉ぜんとしている、ときけば、江戸の市民たちが、感動しない筈はなかった。  たちまち、寄附によって泉岳寺の門前に、一庵が建てられた。老の身で亀井戸から参詣するのは、さぞつらかろう、という同情によるものであった。  庵は、清浄庵と名づけられ、泉岳寺に参詣する人々は、必ず立ち寄って、老尼の話をきくようになった。そして、なにくれと布施されるようになったので、老尼は、いつか、裕福になった。浅野の縁故の大名の一人は、一代燈明料として、尼に年々、金子を給与したし、清浄庵に住むようになって、三年と経たぬうち、老尼の存在は、泉岳寺のかたわらになくてはならぬものとなった。  水戸権中納言治保が、召見して、そのむかし話をきくにいたって、老尼は、さながら、大奥の〈じょうろう〉ででもあったかのように、いよいよ、その態度を、威厳のあるものに示しはじめた。  訪れる者のうち、士大夫か大きな町人でなければ、直接の談話を交さぬようになり、堀部家の祀《まつり》を絶やさぬために迎えた養子を通じて、布施を受けとった。養子には、堀部弥惣次と名のらせた。  老尼の語るところは、次のようなものであった。 「わたくしは、俗名を順と申し、寅の歳に生れました。母は家つきの娘で、父弥兵衛は養子でございました。母は、わたくしが幼い頃に逝き、祖母正伝院の手で育てられ、七歳の時から、正伝院にしたがって、浅野家の奥にて人となり、十六歳の時に、主家の凶変に遭うたのでございます。祖母正伝院につれられて、大石内蔵助殿の内室とともに、赤穂の城をのがれ出て、網干《あぼし》と申す土地に仮住いし、翌年、山科に出て、大石殿の閑居でくらして居りました。御一党が討入りの際には、老父の許に居りました。  その夜、父が、槍を杖ついて、立ち出でんとされるのを見て、わたくしは、 『門より内は刀の業《わざ》、門より外は槍とうけたまわりまする。お父上の槍は、チト長すぎはしませぬか?』 と、注意いたしました。  父は、大層よろこび、 『左様なことを、誰からききおぼえたか。よくぞ申した』 と、槍の柄を、畳の尺にて五寸ばかり切り縮めて、出向うたことにございます。  吉良邸にはかねて、同士の妻女、娘が七人、間者となって入りこみ、そのうちには忠義のために、操をすてて上野介殿の妾となっている者もございました。その女子たちの手引きによって、ご一党は、討入りすることができたのでございます。七人の女子衆は、かねてより、大石殿から、一党討入りの際には、みな、吉良家のために働け、と申し含められて居りましたので、けなげにも、薙刀《なぎなた》とって、味方にたち向い、わが父、わが良人の手で、仆《たお》れたのでございます。  大石殿には、七人の首級を揚げられて、泉岳寺に引揚げの際、いちいちこれを収《おさ》めて、冷光院様のお墓のもとに埋めさせられたのでございます。  わたくし順は、やがて、仏門に帰依いたしたく、はるばる肥前長崎の泰禅寺におもむき、伯父の和尚をたずねて、志をのべましたところ、さばかりの妙齢で、出家得度は思いもよらぬ、まことその志があるならば、修業の道をふめ、と云われ、三箇年間一室にとじこもって苦行を重ねたことでございました。髪を落して法体《ほったい》となったのは、ちょうど十九歳の時でございました。名も妙海と改めて、これより、廻国して、あまねく六十余州の霊刹《れいさつ》を順礼したのち、江戸へもどって参りました。  わたくしの志は大石殿御内室のいまわの際《きわ》のお申置きにしたがって、主家を再興することでございました。それのみ、昼夜心がけ、御老中のご通行めがけて、駕籠訴《かごそ》三たびにも及びました。はじめ、二度までは、おとがめもございませんでしたが、三度目には、これ以上強訴するにおいては、捕えて遠島を申しつける、と厳しいお申渡しでございましたので、とうとう、思いとどまるよりほかはなかったのでございます。その後は、諸大名方の奥向きに召されて、罷り出るたびに、奥方様におすがり申して、ひたすら、殿へのおとりつぎを哀訴した次第でございます。したれども、尼一人の力では、主家を再興することなど、及びもつかぬ儀にて、老いて、せめて、御主君やご一党のお霊に、ただ、お経をあげるよりほかに、すべはないことでございます」  語り乍ら、老尼は、しばしば、泪にむせんで、きく人の胸を打った。  丹波笹山の藩士佐治数馬為綱は、一度、老尼を訪れて、話をきくや、この上もなく感動し、その後しばしばおとずれて、その言葉を記録した。  老尼の話は、しかし、相手によって、すこしずつ、ちがっていた。  ある時は、 「わたしも、吉良家へ間者として入った女子衆七人の一人でございました。その後、大石殿のお申しつけで、六人を自害させ、その首級を収めて、泉岳寺へ引揚げて、冷光院様のお墓の下に埋めたのでございます。わたくし一人が生きのこったのは、大石殿のご命令で、尼となって、みなみな様のご冥福を祈るためでございました」 と、語っている。  また、他の時には、 「わたくしが、山科にて、大石殿の御内室とともに、在りました時、ある日、大石殿が、わたくしをお呼びになり、われらが吉良邸に討入って、万一本望をとげ得なかった際、その場で一同腹をかっさばいて、相果てる所存ゆえ、そなたは女乍ら、行末たのもしく存ずれば、たとえ、天を翔《か》け地をくぐっても、吉良邸へ忍び入り、上野介殿の首級を刎《は》ねてもらいたい、と吩吋《もうしつ》けられました」 と、語っている。  また、許嫁の安兵衛については、 「あれは、討入りの一月ばかり前のことでございました。安兵衛殿には、永《なが》の暇乞《いとまご》いのつもりでありましたか、江戸から上方へのぼって参り、祖母正伝院とわたくしの住む山科の家をおとずれたのでございます。祖母は、そのだしぬけの訪れに、大層立腹し、仇討の志を忘れ、許嫁の順に会いに参るなど、なんというめめしさか、ときびしく対面をこばんだのでございました。安兵衛殿は、毛頭左様な量見で参ったのではない、と誓紙に血判までして、さし出したのでございました。祖母は、それでようやく、お会いなされましたが、決して、わたくしに会わそうとはなさいませんでした。わたくしは、終始襖のかげにかくれて、安兵衛殿の声だけをきいて居りました。ついに、一言も交さずして、永き別れと相成りました。祖母は、それでも安兵衛殿に、襯衣《はだぎ》二枚をとり出して、贈られたのでございました」 と、まことしやかに語っている。  訪れる人、またこれを伝えきいた人で、老尼が、まっ赤なにせものであることを疑う者はいなかった。  堀部安兵衛が、切腹にあたって、公儀にさし出した親類書を見れば、老尼がいかに出鱈目《でたらめ》を語っているか、即座に判然とする筈であったが、親類書は、江戸城内にふかくしまわれて、何人の被見をも許されぬことであった。当時は、民間著作の義士伝すら、刊行を許されていなかったのである。老尼をにせものと断定する文献が、なかったのである。  すでに、半世紀の年月が経っていた。仇討当時の人々は、概ね世を去っていた。安兵衛の妻女も、すでに鬼籍に入っていた。老尼を、にせものと断定して、これをきめつける安兵衛縁故の人物が、いなかったのである。  それよりも——。  世上一般は、赤穂浪士に対しては、無条件で、非常な同情と尊敬の念を抱いていた。その縁故の人に対しても、敬意をはらうのを吝《おし》まなかったのである。  赤穂浪士中で最も有名な堀部安兵衛の、まだ妻にもならなかった乙女が、五十年間、孤節を全うして、君父をはじめ一党の冥福を祈りつづける姿を、世人は、すこしも疑う気にはなれなかったのである。 〈すが〉が、あの討入りの日から、どのような経緯を辿って、尼僧になったか、ついに、判らない。おそらくは、好色の徒の手を転々としたに相違ない。あるいは、遊里の泥水をくぐったとも想像される。  そのはてに、法体《ほったい》となって、堀部安兵衛の許嫁になり了《おお》せたとは、これも、一種の因縁であったろう。〈すが〉は、初恋の男によって、その晩年をすくわれたからである。  妙海尼は、安永七年二月二十五日、泉岳寺門前の清浄庵で、やすらかに、寂滅した。  人々は、その遺骸を、四十七士の兆域の入口、石段前の右側に葬った。そして、やがて、そこに一基の碑が、建てられた。  四十七士の墓前とともに、碑の前も、二百余年間、香華は、絶えることがなかった。 [#改ページ]   その三 御落胤  徳川吉宗は、江戸城二の丸の奥の居室で、書道の稽古をしていた。  一月というのに、二十畳敷きに、小さな火鉢がひとつ、置かれているきりであった。  まとっているものも、大|布《ぬの》の衣、棧留《さんどめ》の袴《はかま》であった。この姿で、平気で、老中以下諸吏に謁して、政《まつりごと》を聴くのであった。  徳川家はじまって以来の質素なくらしをしている将軍であった。  日夕の食膳も、蔬菜《そさい》のみで、肉類を用いることはまれであった。前代まで使った華美奢侈《かびしゃし》の物は悉《ことごと》くしりぞけていた。城中の四足門及び芝口の門は廢《すた》れたのを打毀《うちこわ》して、修復しようとはしなかったし、別段に寝殿も作らず、書屋と寝所を兼ねて、起臥《きが》すること十二年におよんでいた。  猟に出かけるのが唯一の趣味であったが、木綿の羽織に股引、草鞋《わらじ》といういでたちであった。  将軍になった時、吹上御苑中に、華美な茶亭があまた建っていて、それらで、毎日のように、奥女中たちが、宴会を催しているのをきくと、小さな一亭だけのこして、ことごとく毀《こぼ》たしめたくらいであった。  某日——、側衆の北条対馬守が出仕して、吉宗の前に出ると、将軍は常になく眸子《ひとみ》を据えて、口をきかなかった。ただ、凝《じ》っと、対馬守を瞶《みつ》めているばかりであった。対馬守は、怯えて匆々《そうそう》に次の間へ引下った。  同僚にむかって、 「それがしに、何か不覚の事があって、御気色に障った模様だが、各々方《おのおのがた》に、思い当るふしがあれば、承《うけたまわ》り度《た》い」 と、云った。  すると、小笠原肥前守が、 「お上が、口をきかれなんだは、お手前の衣服が綸子《りんず》の故であろうか、と思う。お上が、美麗な衣服を好まれないのはご存じの筈であろうが、殊に綸子のごとき、女子《おなご》のまとう地ものは、甚しく嫌いたまう。……こころみに、明日からは、着替えて出られい」 と、忠告した。  翌日対馬守が普通の衣服にあらためて伺候すると、吉宗の気色は、常の通り穏かであった。  将軍として、さらに、最もおのれにきびしかったのは、側妾を一人も置かなかったことである。  また、大奥女中に、美女をえらぶのは、とかく騒動の原因になる、と云って、自ら吟味して、城から下げたのも、これまでの将軍とちがっていた。  吉宗は、廊下に両手をついた数寄屋坊主《すきやぼうず》から、松平伊豆守が、火急の用で、お目通りしたい、と取次がれて、筆を置いた。  入って来た伊豆守|信祝《のぶとき》(信綱の曾孫に当る)は、挨拶してから、すぐ、きり出した。 「このたび、天一坊と申す二十歳ばかりの者、上様の御落胤《ごらくいん》と称し、供揃いなし、飴色網代《あめいろあじろ》の駕籠にて、出府つかまつりました。……上様、紀州御在城のみぎり、そのような御覚えが御座りましょうや、おうかがいつかまつります」  吉宗は、ちょっと考えていたが、 「おぼえがなくはない。沢の井、と申したな」 とこたえた。 「天一坊なる者、その沢の井なる女性《にょしょう》の子と、申立てて居りまする」  吉宗は、伊豆守を正視すると、 「わしが将軍ゆえ、落胤と称する者も、仰々しくさわぎたてるのであろう。処置は、そちにまかせよう。念のために申して置く。将軍は、天下万民の規範でなければならぬ」 と、云った。 「かしこまりました」  伊豆守は、下ると、まっすぐに、便室に行った。  便室とは、老中が、親しい者を呼んで話を交す小部屋を云う。  そこには、南町奉行の大岡越前守忠相が、待っていた。  伊豆守は、対坐すると、 「お上は、おぼえがある、と申された」 と、云った。 「だが、また、将軍は、天下万民の規範でなければならぬ、とも申された」  越前守は、そう云う伊豆守を、正視して、 「たとい、本物であっても、贋者《にせもの》として処断せよ、と仰せられますか?」 と、問うた。 「まず……」  伊豆守は、きびしい表情になった。 「俗に申す、氏より育ち。よし本物であっても、下賤に育った者なれば、その性根も歪《ゆが》んで居ろう。また、その周囲には、不逞《ふてい》の浪人共がつき添うて居るとなれば、そのまま、城中に入れるわけには参るまい。大奥、諸侯、旗本ら、一人として賛成はいたすまい。将来のわざわいとなる者は、芽のうちにつみとってしまわねばならぬ。その方策によって、調査し、処断してくれぬか!」  しかし、越前守は、直ちに、応諾をしなかった。  事を処すに、この上もなく慎重な人物であった。  次のような逸話がある。  野田文蔵という郷士がいて、算術の天才の名が高かった。幕府では、勘定方に召抱えるべく、まず、越前守に、試験を命じた。  越前守は、野田文蔵にむかって、 「百を二分いたせば、いくらになる?」 と、訊ねた。  文蔵は、かたえの包みから、算盤をとり出して、ていねいに珠をはじいて、 「二一天作の五——五十に御座います」 と、こたえた。  越前守は、微笑して、 「その心掛けで御奉公せい」 と、文蔵を、支配勘定役に推挙した。  以後、公儀勘定所は、一文の狂いもなくなった、という。  越前守が伊豆守に、天一坊を処断せよ、と命じられても、即座に、承諾しなかったのは、当然であった。  十日後、伊豆守は、再び便室で、越前守と対坐した。  締戸《しめと》という公儀隠密を使って、天一坊を調査していた。  紀州藩には薬組《くすりぐみ》と称する隠密がいた。吉宗は、将軍となる際、これらの士をつれて来て、締戸番という職を命じていた。昼は奥に詰め、夜になれば天守台の下に宿直《とのい》し、時に、将軍家からじきじきに密旨《みっし》を受けて、諸国をめぐって、民情風俗を観《み》、藩主の賢愚を察したのである。  紀州へおもむいた締戸番の報告によれば、天一坊はどうやら疑いもない御落胤の模様であった。  伊豆守は越前守の方も、下役を遣《つかわ》して調査し、真正の御落胤であることをつきとめたに相違ない、と思い、今日の対坐は、気が重かった。 「越前、いかがであった?」  伊豆守は、自分の方でも調査したとは、おくびにも出さずに、問うた。  越前守は、静かな面持で、 「まさしく、御落胤に相違ありませぬ」 と、こたえた。 「信じがたいの」 「いえ——御墨附《おすみつき》、短刀ともに、正真で御座いまするし、沢の井と申される女性が、生み落された男子を、感応院に預けた事実も、村役人らの証言にて、疑いを入れず。その宝沢と申す小僧が生長して、天一坊と相成った、と考えられまする」 「越前、先日も申したぞ。たとえ本物であろうとも、司政の役に就く者としては、得体の知れぬ浪人どもをひきつれた、怪しい若者を、たとえ正真の証拠の品を持って居ろうとも……」 「御老中! まつりごとの第一義は、物を正すことに御座いまする」  越前守は、厳然として云った。 「法と申すものは、正しきをみとめ、曲《まが》れるものを罰することに御座います。正しき証拠の品を持ち、どのような調査をされてもいとわず、と申出ている者を、司政の都合で、法を枉《ま》げて、罪に落すことは、叶いませぬ。もし、司政者が法を枉げて、天一坊を罰したとなれば、人民が公儀に対する信頼は、地に落ちましょう。それがしは、奉行でありますれば、自らが法を乱すようなことは、断じて為し得ませぬ」 「判って居る。されば、方便と申すものがあろう。天一坊を処分する手段《てだて》について、考えてもらえぬか」 「それは、越前の良心が許しませぬ。罪なき者を罰するのは、とりもなおさず、奉行として、その資格を喪《うしな》うことで御座いましょう」 「天一坊を、上様に対面させよ、と申すのか!」  伊豆守は、越前守を、睨《にら》みつけた。 「いえ、そうは申して居りませぬ。この越前守は、法に照して処断できるように、おとりはからいたまわり度く存じます」 「……」 「沢の井殿が、生み、感応院に預けた宝沢なる小僧は、まぎれもない、御落胤でございました。そして、いま天一坊が所持いたして居る証拠の品も、正真のものに相違御座いませぬ。……ただ、問題は、宝沢と天一坊が、同一人であるか、どうか——その儀に御座います」 「よし、判った!」  伊豆守は、大声で、合点してみせた。  紀州家附家老安藤|帯刀《たてわき》が、老中松平伊豆守信祝から呼ばれたのは、その翌日の夕刻であった。  二人は、旧知の親しい間柄であった。  しばらく、健康のことなど語ってから、伊豆守は何気ない口調で、 「お手前もきき及んで居ろう、天一坊の件じゃが……」 「ほんものという噂でござるの」 「まぎれもない。しかし、城中に入れるわけには参らぬ」 「当然のことでござろうな」 「ところが、越前守は、法を枉げずに処断させよ、と申す」 「ほほう……成程。忠相らしい申し分でござる」 「そこで、お手前の手をお借りしたい」 「なんなりと——」 「宝沢と申した小僧が、天一坊と同一人でない証拠をつくりたいと存ずる」 「ふむ」 「その証拠をつくって置いて、越前守から遣された役人が紀州に現れたならば、渡してもらいたいのじゃが——」 「成程——」 「つまり、宝沢は、何者かに殺されて、御落胤の証拠品を奪われた——ことにいたす」 「これは、いい智慧でござるな」 「郡奉行に言い含めて、再調査をしたふりをさせ、宝沢が殺されたという事実を作る。それから、感応院の者や村の者で、宝沢をおぼえている者を、江戸へつれて参って、天一坊に会わせ、宝沢とは似ても似つかぬ他人と、証言させる」 「ふむ! 万事お引受けつかまつる。早馬を、即刻、出発いたさせ申そう」  大岡越前守より遣された同心平田三五郎が、紀州平沢村へ到着したのは、それから十五日も経ってからであった。  その時、郡奉行は、交替していた。  三五郎を迎えた新しい郡奉行は、 「お許しをたまわらねばならぬ儀が出来《しゅったい》いたしました」 と、謝罪した。  三五郎は、この前の調査をもやった同心であったので、眉宇《びう》をひそめて、その理由を問うた。  郡奉行は、沈痛な面持で、 「拙者、当地へ赴任つかまり、このたびの天一坊の件につき、不審をおぼえて、あらためて詮議いたせしところ、御落胤に相違なき宝沢と申される御仁《おひと》は、すでに、半年前、この村から去る三里あまりの、四方形峠《よもがたとうげ》の辻堂で、何者かの為に、殺害されている事実、判明つかまつりました」 「証拠がござるか?」 「その日、辻堂の前を通りかかった山賤《やまがつ》が、血汐のついた菅笠《すげがさ》をひろって、感応院に届けて置いたのを、土蔵より発見つかまつりました」 「拝見いたす」  郡奉行は、下役を呼んで、それを持参させた。  古びた菅笠には、宝沢同行二人、と記されてあり、刀で切ったらしい裂け目がついていた。  ひろった山賤は、宝沢が感応院の小僧であったことを知っていて、届けたのであった。 「辻堂のまわりを、探索されたか?」 「屍体は、埋めたものか、見当り申さず、ただ、堂の横手に、数珠が落ちて居りました」  三五郎は、その数珠が、庄屋から宝沢に贈られた品であるという聴取書《ききとりがき》をとった。 「宝沢の貌《かお》を、一瞥で、判る者をさがして頂けまいか」  三五郎の要求に対して、すぐに、感応院で長年下僕をつとめていた老爺《ろうや》が、つれて来られた。  三五郎は、菅笠と数珠と老爺をともなって、江戸へ引返した。  天一坊が、いよいよ、将軍家御対面のはこびになった、という噂が、江戸市中にひろまったのは、三五郎が帰着して、程なくであった。  品川の木戸前の旅籠《はたご》を借りきって、紫地、花葵の定紋幕をひきめぐらしている天一坊側には、しかし、その正式通達は、なかった。  すでに、一月以上も、公儀から、なんの音沙汰もなく、そのまま黙視されている天一坊側としては、薄気味のわるい話であった。  天一坊につき添っている浪人衆の筆頭、山内伊賀亮は、  ——大岡越前守が、どう出るか?  それによって、成否はきまると考えていたので、こちらに有利な噂など、他の者のように、すぐに悦ばなかった。  伊賀亮は、当然、越前守が、取調べにやって来るであろう、と考えて、それに対する応答を、用意していた。  ところが、越前守は、ついに、姿を現さなかった。  越前守の名判官ぶりは、天下にきこえたところであり、完全な調査をすまさぬうちは、たとえ老中の命令であろうとも、こちらを贋者として捕えはせぬ、と伊賀亮は、見通していた。  こちらには、正しい証拠の品があるのである。  将軍家御対面にこぎつければ、吉宗と天一坊が、似ていることを、幕閣の面々に、みとめさせられるのである。  越前守がなぜ取調べにやって来ないのか?  伊賀亮にとって、それが大きな不安であった。  越前守は、どんなつまらない事件でも、綿密な調査をする奉行であった。  柳原の旅籠で、貧しい薬売りが殺された事件があった。小金を持っているとみて、盗賊が、襲い、死体を渋紙に包んで、路傍の沢にすてたのである。越前守は、死体を包んでいた渋紙を水に浸して、ていねいに一枚ずつ、剥《は》がせてみた。すると、往復の消息やら、諸般の書付やら、幾枚となくあらわれた。その中に記された郷国人名が、三十人ばかりあった。越前守は、その一人一人を、さがしあてて、吟味して、ついに下手人を捕えたものであった。  それほど、調査は、綿密であった。  将軍家御落胤ともなれば、いかに、越前守が、熟考深慮して、調査しているか、想像にあまりある。  なぜ、この宿舎に、やって来ないのか?  伊賀亮は、噂とは反対に、越前守の肚が、だんだん読めるような気がした。  その矢先であった。 「御落胤様、御対面の儀につき、御心得置き頂きたき条々申上げ度く——」 という招聘状《しょうへいじょう》が、届いた。  一読して、伊賀亮は、  ——万事休す! と、観念した。  しかし、天一坊以下、赤川大膳や常楽院や浪人衆は、小躍りした。  そのさまを眺めて、伊賀亮は、越前守の計略を口にする気にはなれなかった。ただ、自分だけは、のこのこと出向くのは御免だ、と思った。  江戸の庶民たちの好奇と羨望の視線を集めて、しずしずと、行列を、南町奉行所へ進めた天一坊とそのつき添い連中は、まさに、得意の絶頂にあった。  南町奉行所でも、数寄屋橋前から、左右にずらりと出迎えの士が、居並んで、頭を下げた。飴色網代の駕籠の窓から、眺め乍ら、天一坊は、夢でもみているように、ふわふわとした気分になっていた。腹痛を起したと云って、ついて来なかった伊賀亮を、ばかだと思った。  駕籠が停められ、促されて、大玄関前の玉砂利に立った瞬間、多勢の人々が平伏しているのを視て、天一坊は、あまりの興奮で、思わず、尿を少々漏らした。  だが、その得意と満足も、大玄関を上るまでであった。  檜戸《ひのきど》が開かれ、一人の人物が現れた。  ——大岡越前守だな。 と、さとって、微笑しようとしたとたん、 「天一坊! 御落胤を詐称《さしょう》する大かたり者め!」  凄じい一喝《いっかつ》がとんで来た。  いきなり冷水を、頭からあびせられたような驚愕と恐怖で、天一坊は、棒立ったなり、ただ、目や口や手や脚を、わななかせるばかりであった。 「か、かたり者とは!」  赤川大膳が、憤然となって、呶鳴《どな》りかえしたが、 「下種者《げすもの》っ! 下《さが》れい!」 と、越前守にひと睨みされ、たちまち、五六人の役人に、とりおさえられてしまった。  天一坊は、うしろから、繩をかけられようとした刹那、意味をなさぬ喚き声を発して、抵抗しようとした。 「将軍家の御落胤をかたるほどの者が、見苦しいぞ! 神妙にせぬか!」  越前守に、どんと胸を突かれて、天一坊は、 「わ、わしは、かたりではない! 御墨附きと、短刀を、持っているぞ!」 と、絶叫した。 「宝沢を殺して、盗んだであろうが!」 「ち、ちがうっ! わしが宝沢じゃぞ! わしが、わしを、殺すか!」 「たわけ者! 天下を狙う悪党なら、悪党らしく、いさぎよく観念せい!」 「ちがうっ! ちがうっ! ちがうっ! わしは、宝沢じゃ! わしの母は、公方の情けを受けた沢の井じゃ……まことの将軍家落胤のわしを、繩目にかけて——それで、奉行かっ!」  天一坊は、死にもの狂いに、あばれた挙句、高手小手に縛りあげられた。  式台にひき据えられて、なお、絶叫をつづける天一坊を、冷やかに見下した越前守は、 「その方が、まことの宝沢ではない、とあかす証人を、つれて参って居るぞ!」 と、云った。 「だ、だれだっ?」 「感応院で、三十余年のあいだ庭を掃いていた僕《しもべ》の茂兵衛と申す者だ」 「おっ! 茂兵衛じいか。茂兵衛じいなら、わしが、宝沢であることを、見まちがえる筈はないぞ! ど、どこにいるんだ?」  天一坊は、きょろきょろと、見まわした。  役人の一人が、曲り腰の老爺をともなって、大玄関前へ来た。  天一坊は、一瞥するや、 「茂兵衛じい! わしじゃ! 宝沢じゃ! わしが、宝沢じゃということを、あかしてくれっ!」 と、叫びたて乍ら、式台から、いざり降りようとした。しかし、老爺は、越前守から、 「どうじゃ? こやつは、宝沢とは似もつかぬ贋者であろう?」 と、云われると、無言で、大きく頷いた。  その表情には、ただ、怯懦《きょうだ》の色があふれているばかりであった。 「茂兵衛じい! な、なぜ、嘘をつくのじゃ!」  天一坊は、血をしぼるように、喚《わめ》いた。  役人にたすけ起されて、つれ去られる老爺の後姿へ、罵倒をあびせ乍ら、天一坊は、ようやく、大岡越前守の狡猾《こうかつ》な罠に、はまった絶望をおぼえていた。  江戸城内の老中溜りの間《ま》にいた松平伊豆守が、天一坊、常楽院、赤川大膳以下を、南町奉行所役宅で召捕《めしと》った旨を報告されたのは、それから半刻のちであった。 「山内伊賀亮と申す軍師役は、いかがいたした?」  伊豆守は、御使番に訊ねた。 「品川の旅宿にて、ただ一人、切腹いたして居りました」 「天一坊の処分は、五手がかりにいたす、と越前守に伝えい」  五手がかりとは、南北町奉行、寺社奉行、お目付、若年寄、老中総立合いの裁判を意味した。  御使番が下ると、伊豆守は、火鉢に両手を出し乍ら、目蓋を閉じて、微笑した。  ——越前守め、うまうまと、わしの計略にかかり居った。  安藤帯刀に、郡奉行を交替させ、新しい郡奉行に命じて、感応院の土蔵の中にのこっていた宝沢の笠に、犬の血をつけ、刀の切り目をつくって、贋者の証拠品をつくったのである。  ——越前守は、法は枉《ま》げられぬ、と申して居ったが、法もまた活きもの、時と場合とでは、臨機応変に、枉げてもよかろう。それが、徳川家のため、公儀の尊厳のためならば、やむを得ぬこと。越前守も、やがて、政治と申すものがわかって来れば、わしの計略が、尤もであったと、納得いたすであろう。  大岡越前守が、城中で、安藤帯刀に出会って、ひととき、対坐したのは、天一坊の処刑が済んで、間もなくの頃であった。  四方山の話のすえ、帯刀は、ふと思い出したような様子で、 「天一坊と申した者を、そこ許《もと》は、いまでも贋者と断定されて居るかな?」 と、問うた。  すると、越前守は、 「贋者であったか、本物であったか——そのことを、いまだに疑うのは、おろかなことに心得ますゆえ、もはや、あの一件は、忘れて居ります。……おたずねならば、おこたえ申上げますが、証拠の品を所持していたから、本物であった、と断定いたすわけにも参らず、さりとて、笠ひとつだけを証拠に、贋者といたすのも、心苦しきことでありました。かりに、後日、あの菅笠が、何人かの指図によって、つくられたものであった、と判明いたしたにせよ、公儀奉行所としては、いったん、証拠の品とみとめて、天一坊を処断いたした上からは、あくまでも、正しき裁きをしたという人民の信頼を裏切るようなうろたえは、見せられませぬ……ただ肝要なのは、奉行所が、天一坊を贋者と断定するまでに、いかに正しく調査いたし、人民が納得する理由をあきらかにしたか——そのことを、天下に知ってもらうことでありました」 「ふむ!」  帯刀は、うなるようにして、頷いた。それから、苦笑し乍ら、 「あの菅笠の細工は、へたであったかな?」 と、越前守を眺めた。 「殺されたという証拠をつくるには、もっとほかの品をえらぶべきでありましたろう」  越前守は、そうこたえて、また、静かな微笑をうかべたことであった。[#改ページ]   その四 ゆすり旗本  江戸末期の悪党、河内山宗俊は、河竹黙阿弥によって、一躍有名にされたようである。  明治七年に、「雲上野三衣策前《くものうえのさんえのさくまえ》」という外題《げだい》で書きおろされて、河原崎座で上演され、好評をよび、さらに増補されて、明治十四年春に、「天衣紛上野初花《くもいにまごううえののはつはな》」という外題で、新富座にかけられ、九代目団十郎が扮してから、河内山は、芝居にはなくてはならぬ重要人物になった。  宗俊は、宗春が本名で、祖父は宗久、父は宗築、代々大奥|紅葉山《もみじやま》お時計の間《ま》のお数寄屋坊主であった。  幼名藤太郎といい、天性俊敏で、事に処して頭脳が鋭く切れ、胆《きも》がふとかった。ただ、万事狡猾だった。  十歳頃、隣家の御家人から、 「大きゅうなったら、何になりたい?」 と、訊ねられて、 「べつに、なりてえものはねえが、世の中がもういっぺん、ひっくりけえったら、いいと思う」 と、こたえた。 「どうひっくりかえったらいいのだ?」 「太閤秀吉が、織田信長の草履《ぞうり》とりだった頃に、ひっくりけえってもらいてえや。そうしたら、おいら、天下を取ってみせてやらぁ」  うそぶいて、けろりとしていた、という。  十五歳頃から、悪事を働きはじめたが、小気味のいい手口は、騙された方を感服させたくらいであった。  例えば——。  浅草雷門をくぐろうとした河内山は、ふと、そこに坐って鉦《かね》をたたいて念仏をとなえている乞食婆を見かけると、一計を案じた。 「ばあさん、わたしにも、生きていれば、お前さんぐらいのお袋がいた。孝行をしたい時には、親はなし。恰度《ちょうど》いい、お前さんをお袋にみたてて、二三日、親孝行のまねがしてみてえ。ひとつ、たのまれてくれないか」  そうくどいて半信半疑の老婆をつれて、坂本町の破落戸《ごろつき》の家へつれ込んだ。  翌日、河内山につれられて、その家を出た時、老婆は、旗本大身の御隠居さまのいでたちになっていた。  河内山が、ともなったのは、松坂屋であった。  緞子《どんす》や羽二重など数十反、金子にして百両以上も買ってから、番頭に、 「屋敷へもどって、主人に、これらの品を見せて、許しを得なければなりませぬ」 と云い、老婆を人質にのこした。  松坂屋側では、老婆が、金子の入った袱紗《ふくさ》包みを所持しているので、別に疑わなかった。  ところが、日が昏《く》れても、品物を持ち去った坊主が、姿を現さないので、ひとまず、老婆から、金子を受けとることにした。ところが、袱紗の中から現れたのは、きたない鉦《かね》と撞木《しゅもく》であった。  番頭は、仰天して、老婆を小突きまわして、責めてみたが、一向に要領を得なかった。ようやく、判ってみると、浅草雷門の地べたに坐っている乞食であった。  ざっと、そういうあんばいであった。 「天衣紛上野初花《くもいにまごううえののはつはな》」の見せ場は、雲州松平出羽守邸の玄関さきである。  下谷お成新道の素封家池田屋喜左衛門の娘菊野(芝居では浪路)が、松平家の上屋敷に、腰元に上っているあいだに、藩主の小姓をつとめている須崎要と、人目を忍ぶ仲になった。大名屋敷の表御殿と奥向きの境は、御錠口という。小姓が、殿様を、侍女に渡すところである。須藤要と菊野は、そこで、毎日顔を見合せるうちに、慕心をかよい合せるようになったのである。  出羽守は、菊野に手をつけようとして、こばまれていたので、二人の不義をかぎつけると、烈火のごとく憤って、手討ちにすることにした。  池田屋へ、用人と目付の連署で、その旨したためた手紙を遣《つかわ》し、明朝菊野の死骸を、不浄門より下げ渡す、と通達した。  池田屋は、動転して、懇意の河内山へ相談に行った。  河内山は、えたりとばかり、引受けて、謝礼金として五百両を受けとると、その日のうちに、御家人、破落戸《ごろつき》ら十数人をかきあつめた。  そして、自身は、上野東叡山凌雲院大僧正の袈裟《けさ》法衣を、借り出した。凌雲院は、輪王寺宮の執事役である。  翌朝、白綾の小袖、二十四|襞《ひだ》の緋の法衣に金襴《きんらん》の袈裟をかけ、水晶の数珠をもった河内山は、飴色網代の切棒駕籠に納まって、寺侍や中間《ちゅうげん》に化けた鶏鳴狗盗《けいめいくとう》をひきつれて、堂々と、雲州邸へ乗り込み、菊野を受けとり、斎料《ときりょう》として百両せしめて、いざ引上げようとしたやさきを、かねて顔見知りの供頭《ともがしら》遠藤作十郎に正体を発見された。さらばとばかり、玄関さきで、けつをまくって、 「……抜き差しならねえ高頬の〈ほくろ〉、星を指されて、見現わされちゃあ、そっちがけえれと云おうとも、こっちが、このまま、けえれねぇ」 と、啖呵《たんか》をきった。——ことになっている。 『大日本人名辞書』にも、「人のために嘱せられて、上野輪王寺の使僧に擬し、某侯の邸に至り、騙《かたり》を用う。為に僣偽《せんぎ》の罪を以て捕えらる」とある。  また『百科大辞典』にも、対手をちゃんと松平出羽守と明記して、これを騙《かた》り、罪囚中に獄死したが、判決文には、「存命ならば死罪」と書きとめてあった、と記してある。  しかし、雲州邸の大芝居は、事実無根で、どうやら、河竹黙阿弥の創作である。  雲州松平家は、藩祖《はんそ》直政から七代の治郷《はるさと》すなわち、不昧公《ふまいこう》は、文化十五年に六十八歳で歿し、八代斉恒は文政五年に、九代斉貴は文久三年に四十九歳で逝去しているのである。すなわち、河内山が、江戸市中を大手をふって歩いている頃は、八代斉恒が歿して、九代を継いだ斉貴は、まだ七八歳の幼少であった。腰元を手討ちにできる道理がない。  河竹黙阿弥は、幕末三蔵の一人と称された近藤重蔵の行状をつぶさに知っていたので、それを、河内山にすりかえて、書いたと思われる。  近藤重蔵は、北門開発の功労者として、小身の与力から、破格の抜擢を受け、書物奉行に任じて、吹上紅葉山の書庫を管理していたが、老中水野出羽守忠成と衝突して、文政二年に大坂弓奉行に貶《へん》ぜられた。  老中であろうが、若年寄であろうが、一切容赦をせずに、言いたいことを云い、おのが行動に遅疑《ちぎ》しないのが、近藤重蔵の長所であり短所であった。  公儀の役に就いている身としては、自恣放縦《じしほうじゅう》は許されないことであった。大坂城においてもまた、周囲から白眼視され、やがて、勤め方不相応という廉《かど》で、役儀取上げの上、小普請《こぶしん》入りを命じられた。  江戸に帰って、お咎《とが》め小普請になるや、ますます横紙破りになった。  将軍家のお鷹というものは、大層な威光で、鷹匠が、こぶしにのせて、「お鷹、お鷹——」と呼んで行くや、通行人はみな、道を空けて、頭を下げなければならなかった。  しかし、重蔵は、それを見かけるや、 「お人、お人——」 と、どなり乍ら、悠々とその前を通り抜けて行った。  もとより、金つかいは荒く、貧乏はひどいもので、使用人は、つぎつぎと逃げ出し、屋敷は荒れ放題であった。  商人たちには、借り重ねて、もう融通してくれるところは一軒もなくなった。  そこで、重蔵は、上野凌雲院から、借りることにした。  当時の狂歌に、  貧乏をしても下谷の長者町   上野のかねの唸《うな》るのを聞く というのがある。  上野黒門内は、莫大な小判が蓄えてあった。  文化六年から、執当御救済という名目で、大名に対して、金の貸しつけをはじめていた。五分の利息で、大町人から預って、一割で、大名旗本に貸しつけたのである。いわば、銀行業務をつかさどったわけである。  大名旗本の内証の窮迫《きゅうはく》ぶりは、目もあてられぬ程の徳川末期であった。麹町十三丁目には、大名専門の質屋があったくらいである。  東叡山御府庫金貸付は、大名旗本にとって、何より有難かった。  上野山内には、各大名の宿坊があった。  将軍家|廟参《びょうさん》の時に、随従して来て、休息し衣服を改めるための寺院であった。大名たちは、この宿坊の連印で、財務管理の凌雲院から、金を借りていた。  その期限が来て、もし利息が滞《とどこお》ると、連印した宿坊は、閉門を命じられる。そうなると、大名は、将軍家の供をして、上野へやって来ても、休息し衣服を改める場所がない。やむなく、苦心して、本金を持参して、利息だけを支払い、すぐまた借りて行く。  返金の時期は、毎年十二月一日より十日までであったので、この期間には、大|油単《ゆたん》をかけた千両箱積みの吊台が、ひっきりなしに、黒門から搬入されて、谷中門《やなかもん》へ抜けて、一大壮観であった。大名は、その日一日だけ、大町人から、見せ金の千両箱を借りて、上野へはこび、また持ち帰ったのである。  重蔵は、凌雲院から、二百両借りた。  節季になったが、当然、返済はできなかった。  この程度の金子は、べつに、本金を用意していかなくても、利息だけ持参すれば、寺側で、巧みな方策を講じてくれた。  暮になると、凌雲院の僧正は、手ずから出入りの帳簿を調べて、帳尻と在金との高を合せて、御門主の内覧に供するさだめであった。それは、もちろん形式に過ぎなかった。  僧正は、延期を乞う者には、あらかじめ銅脈の小判包みをこしらえて、数をそろえておいたのである。これは、多年のしきたりであり、公然の秘密として、だれもあやしまなかった。  重蔵は、しかし、利息さえも持参できなかったので、僧正が、はたして、承知するかどうか、多少の不安を持って、出かけて行った。  僧正は、かねてから、重蔵の気っぷを好んでいたので、こころよく頷いて、銅脈の贋《にせ》百両包みを二つ、持って来て、 「では、これで、帳尻を合せ申そう」 と、云ってくれた。  瞬間——重蔵は、つと猿臂《えんぴ》をのばして、銅脈包みの一個をつかんで、 「封を切って、あらため申す」 と、云った。 「なんということを!」  僧正は、あきれて、 「これは、お手前のお頼みによって用意した二百両の形代《かたしろ》ではござらぬか。封を切ったところで、銅にきまって居る」 「その儀です。贋金をつくった者は、死罪となるのが天下の定法。東叡山《とうえいざん》におかせられては、贋金をつくって、融通いたして居ると判れば、公儀に於て、すててはおきますまい。それがしも、それを知りつつ、見のがしたとあっては、同罪をまぬがれ申さぬ。それがし、これから、ただちに、寺社奉行へ訴人いたす」  席にいる者は、みな、色を失った。  銅の贋金包みを用意しているのは、借用人の便宜の為である。借用人は、この為に、どんなにたすかるか知れない。  借用人の方から、居直って、贋金をあばいて、公儀に訴えるというのは、正気の沙汰ではない。  しかし、いかにしきたりであり、公然の秘密であっても、表沙汰になれば、ただではすまぬ。  重蔵は、包みを懐中にして、 「御免——」 と、座を立とうとした。  僧正は、ただ一人、微笑し乍ら、重蔵の振舞いを見まもっていたが、 「近藤殿は、左程《さほど》までに、窮迫されたかな」 と、云った。  重蔵は、にやりとして、 「庭の燈籠も松も売りはらい、池の鯉はいっぴきのこらず、それがしの胃袋におさまり申した」 と、こたえた。  僧正は、微笑をつづけて、 「二百両を棒引きにせよとの謎でござろうが、なかなかの度胸、見上げましたぞ」 と云い、帳簿づけの納所に、重蔵の箇処を消すように命じた。  やがて、黒門を出て来た重蔵の懐中には、なにがしかの新しく借りた金子が、あった。  爾来《じらい》、凌雲院と重蔵との仲が、さらに親しいものになったのは、皮肉である。  近藤重蔵は、いかに貧乏しても、その所蔵の書籍だけは売らなかった。  大学頭林述斎はじめ、市川寛斎、亀田鵬斎、太田南畝などの先輩として、学者としての誇りは失わなかった。滝野川の洞窟に、甲冑の石像を据え、その前に滝野川文庫を設け、夥《おびただ》しい珍書異籍を収めて、学問の好きな若い士たちに、無料で自由に閲覧させていた。  某日、一人の若い藩士が、蒼白な面持で、滝野川文庫をおとずれた。  史書の好きな細川越中守の家臣柳川新八という青年であった。  重蔵の前に坐ると、 「それがし、仔細あって、切腹いたし度く、何卒|介錯《かいしゃく》の儀、お願いつかまつる」 と、両手をついた。  重蔵は、かねてから、自分に似て、一途な性情の持主であることを知っていて、目をかけていたので、 「生命は、ひとつしかないものだぞ。どんな事情があろうとも、まず、生きのびることを考えねばならん」 「それがし、昨日、やみ難き憤りのため、上役と争論いたし、ついに、刀を抜いてしまいました」 「討ちはたしたか?」 「腕前未熟にて、ただ、傷つけたにすぎませぬ。即刻、屋敷を退散いたしましたが、詮議《せんぎ》がきびしく、親戚知己の家には、悉《ことごと》く手配がしてあり、身の置きどころがありませぬ。ここへも、おっつけ、討手が参ると存じますれば、先生に、ご迷惑をおかけいたしては、申訳なく……、いっそ、切腹いたそうと決意いたしました」 「ははは……、対手が生きて居るのに、お主が、痛いおもいをすることはない」 「し、しかし——」 「まあ、わしに、まかせておいてもらおう」  重蔵は、こともなげに、云った。  次の日の朝、肥後熊本藩主細川越中守の上屋敷へ、飴色網代の切棒駕籠が、先供《さきども》、青侍、長柄傘《ながえがさ》、鋏箱《はさみばこ》、草履取り、合羽籠など、供揃い十数人をしたがえて、乗り込んで来た。  東叡山凌雲院使者というふれ込みであった。  近藤重蔵は、堂々たる恰幅の、魁偉《かいい》の風貌の持主であったので、対手がたを威圧するに足りた。  書院で、重役と対坐するや、 「御当家に、柳川新八と申す若ざむらいが居りますな?」 「その者は、一昨日、上の者を手負わせて、逐電いたし、目下捜索中にござる。……柳川新八が、いかがいたしましたか?」 「凌雲院にて、かくまい居り申す」 「それは、ご迷惑をおかけつかまつる。早速に、目付を遣《つかわ》し、お引渡し願うことにいたします」 「待たっしゃい」  重蔵は、対手を、じっと見据えて、 「柳川新八の話を、きき申したところ、御当家重役の中には、理不尽な心得の御仁が、すくなからず、若い士らの正しい意見に、一向に耳をかたむけようとせぬばかりか、はては、不埒者《ふらちもの》よばわりをして、閉門をも命じかねまじい増上慢をみせ申すそうな。左様でござろうか?」 「いや、そのような儀はさらに、それは、柳川めが、苦しまぎれの、云いのがれに、ありもせぬことを、喋々《ちょうちょう》して、御当院を誑《たぶら》かそうと……」 「黙らっしゃい! 御当家は、大大名中でも、最も内証が苦しく、世間では、細川侯は、参覲交替《さんきんこうたい》の道中、本陣の支払いさえも、ようせぬ、と噂いたして居るありさまでござる。これは、ひとえに、尊公ら重役連の無能のなせること。わが凌雲院から借りられた金子も、すでに、十余年来、一度も本金返済はなく、迷惑至極ゆえ、御門主におかせられては、今年度は、どうあっても、細川家からは、返済させるようにとの御内命でござる」  重蔵は、搦《からめ》め手から、じわじわと、重役の頸《くび》を締めあげた。  当惑した重役は、ついに、 「柳川新八の身柄処置について、御門主の御内意を、うけたまわりますれば、当家にも、思慮つかまつる余地がござる」 と、云った。 「御門主には、格別の御詮議をもって、当人の罪をさしゆるし、永《なが》の暇《いとま》を遣わされるように、重役方ではかって欲しい、と仰せられて居り申す」  重役は、奥に入って、他の重役たちと鳩首《きゅうしゅ》協議していたが、出て来て、承知した旨を応えた。  重蔵は、永の暇をたまわる上からは、浪人しても、細川家の旧臣の面目を失わぬ暮しをさせてやるのが慈悲でござろう、と云って、百両出させて、悠々と、玄関さきへ出た。  その時、目付の一人が、偶然、外出から帰って来て、重蔵を見て、愕《おどろ》いた。  近藤重蔵が、どうして、東叡山の使者になっているのか、解《げ》せなかった。 「贋使者であろう!」 と、目付が迫るや、重蔵は、落着きはらって、 「疑念をはらうためには、直ちに、凌雲院へ、早馬を出されるがよい」 と、云いすてて、書院へ戻って、居据った。  早馬は、出させた。  凌雲院の僧正は、実は、重蔵から何の依頼も受けていなかったが、いきさつをきくと、 「いかにも、当方からの使者に相違ない」 と、こたえた。  僧正が、そうこたえてくれるもの、と安心していた重蔵は、重役たちの謝罪に対して、ひらきなおった。 「贋使者よばわりをされた恥辱を、このまま、胸に持って、帰るわけには参らぬ」  細川家では、さらに、百両を包まねばならなかった。  河竹黙阿弥は、近藤重蔵のこの大芝居を、河内山の行状にして、「雲上野三衣策前《くものうえのさんえのさくまえ》」を書きおろしたのであった。  河内山も重蔵も、期せずして、その最期は、同じく非業であった。  河内山は、悪事は重ねても、巧妙な手口で証拠をのこさなかったので、よもや捕えられるとは、思っていなかった。  ところが、たったひとつだけ、河内山の失敗があった。  大奥お時計の間に附属している純金の瓶子《へいし》を、かねてから、河内山は欲しいと思っていた。自宅の近所の錺《かざり》屋の長次という名人に、そっくり同じかたちの錫《すず》台の金|鍍金《メッキ》の贋物を作らせて、河内山は、お時計の本物とすりかえて、してやったり、と北叟《ほくそ》笑んだ。  ところが、長次の方が河内山よりも上手で、贋物を二つ作っておいて、河内山が盗んで来た本物を、こんどは、自分がこっそりすりかえておいたのである。  それから程なく賭場の手入れから、長次は引致《いんち》されて、家宅捜索された。すると、三つ葵の御紋のついた純金の瓶子が発見されて、大騒ぎになった。長次は、やむなく、悪事を白状してしまい、ついに、河内山も運がつきた。  町奉行所では、河内山がお時計の間に納めた贋物の瓶子をとり寄せ、長次宅から引上げた本物とくらべてみた。  すると、意外にも、長次宅から引上げた方が贋物であった。本物は、いつの間にか、お時計の間に、返されていたのである。  これは、河内山のすばやく打った手妻であった。  身の危険をおぼえた河内山は、かねて目をかけてもらっていた中野碩翁のところへ奔《はし》って、たのんだのである。中野碩翁は、大御所家斉の愛妾おふみの養父で、大奥において、隠然たる勢力を張っている人物であった。  碩翁は、係奉行へ書面で、長次から押収した瓶子を拝見したいと申込み、それを河内山の手許にある贋物とすりかえて、返却したのである。本物は、その夜のうちに、河内山の手で、お時計の間へ返させたのであった。  碩翁は、おのが権勢を過信していた。  しかし、すでに、大御所家斉は老衰し、第十二代家慶の力が、水野越前守忠邦の智慧をかりて、本丸、西丸を支配していた。  老中牧野出羽守忠雅が、将軍家の内命をもって、中野碩翁を、向島寮に訪い、それとなく自裁をすすめて、帰った。  閨縁《けいえん》の威《い》が地に堕ちたと知った碩翁は、流石は、大悪党らしく、その夜いさぎよく、切腹して果てた。  河内山も、もはや逃れぬところと観念して、お坊主頭・沢左近将監同道で、南町奉行所に出頭し、奉行榊原主計頭のとり調べを受けたのち、伝馬町の牢屋敷へ入れられた。  数ヵ月にわたって、厳重な吟味を受けたが、河内山は、二十八ヵ条の罪状を、ことごとく申開きを立てた。  評定所では、これ以上取調べをすすめると、意外な上層方面へ飛火しそうなので、やむなく、河内山に一服盛ることになった。  河内山は、それと知りつつ、平然として、服毒して、四十二歳の生涯を閉じた。  近藤重蔵は、河内山が獄中で果てる七年前、やはり、罪を問われて、江州大溝藩に預けられたまま、その謫所《たくしょ》で、五十九歳で逝《い》っている。  重蔵は、目黒の別荘で、土地の強欲な庄屋を、百姓たちのために、斬ってすてたのであった。 [#改ページ]   その五 仇、討たれず記 「不倶戴天の讐《あだ》」という言葉がある。 「礼記曲礼」の中に、「父の讐は、与《とも》に共に天を戴《いただ》かず、兄弟の讐は共に反《かえ》らず、交遊の讐は国を同じゅうせず」とある。  中国では、古来から、復讐をむしろ奨励しているおもむきがある。 「礼記檀弓」の中で——。  孔子十哲の一人子夏が、師に問うている。 「父母の仇に居る時は如何?」  孔子は、こたえて、 「苫《とま》に寝《い》ね、干《たて》を枕にし、仕えず、天下を与《とも》にせざるなり、これに市朝に遇えば、共に反らずして闘う」  この言葉は、日本にあっては、永い時代にわたって、金科玉条にされて来た。  中国に於いては、その時代によって、復讐に対する支配者の態度が、ちがっている。父の讐を復《う》って、死刑にされた者もあり、また、賞美された者もある。  唐代では——。  殿中侍御史提汪、字は万頃《まんけい》という者が、張|審素《しんそ》という者を、悪《にく》んで殺した。審素には、二子があった。|※[#「王+皇」、unicode745d]《こう》と|※[#「王+炎」、unicode7430]《たん》といった。  二子は、父の敵提汪をつけ狙って、ついに殺した。そして、朝廷へ、名のり出た。  朝廷では、二子を許すか、罰するか、二派にわかれて、議論ふっとうした。許そうと主張したのは、張九齢であった。罰せよと主張したのは、李林甫であった。  皇帝は、ついに、後者の主張を採った。  その判決は、左の様なものであった。 「国家が、法を設けるのは、殺を止めるのを期するからである。父の敵を討つのは、子たるの志を展《の》ぶるにあり、と云うが、誰か孝に詢《とな》うるの人でないものがあろう。孝の名のもとに、展転、たがいに相讐《あいあだ》し合っていたならば、どこまで行っても、キリがあるまい。見せしめのために、|※[#「王+皇」、unicode745d]《こう》と|※[#「王+炎」、unicode7430]《たん》を、河南府に付して、杖殺《じょうさつ》するものである」  同じく、唐代にあって、父の敵を討った除慶元という者が、その旨を官に申し出て、殺人犯として処刑された。  これが問題となり、柳宗元が、「復讐を駁《ばく》する議」を上《たてまつ》った。すなわち、 「讐《あだ》を忘れぬは孝である。死を恐れざるは義である。除慶元は、孝に服して義に死するもの、勿論王法に叛《そむ》くものではない」 と、主張した。  宋代になると、朝廷の態度が、ちがって来た。  靖楽年間に、侯官県の士人で、董昌、字《あざな》は文福という者があった。美貌の評判高い希光という娘を娶《めと》った。ところが、土地の富豪で、破落戸《ごろつき》の方一六《ほういちろく》なる男が、かねて目をつけていた希光を、董昌に取られたので、海賊に賄賂《わいろ》をつかって、陰険な手段を弄した。すなわち、 「董昌は、海賊に款《かん》を通じ、宋朝を覆《くつがえ》そうと企てている謀叛人《むほんにん》であります」 と、官へ訴え出たのであった。  董昌は、捕えられて、斬罪に処せられてしまった。  方一六は、甘言をもって、希光をわがものにしようと、計った。しかし、そのために、かえって、希光に、良人を殺したのは方一六であると看破《かんぱ》された。  希光は、そ知らぬふりで、婚姻を承知して、当夜、閨房に入るや、かくし持った短刀で方一六を刺殺した。のみならず、方一六の妾二人とその子ら、一家中を殺戮《さつりく》した。  希光は、一六の首級を嚢《ふくろ》に入れて、良人の墓前へ赴き、供えたのち、縊死《いし》した。朝廷では、これをきいて、希光のなきがらを良人の墓側に葬ってやり、封じて侠烈夫人となし、廟を建てて、祭った、という。時代が下るにつれて、復讐は美徳とされるようになったのである。  日本に於いては、儒学思想のひろがるにつれ、「不倶戴天の讐《あだ》」は、絶対のものとなった。親兄弟を討たれて、仇《かたき》を討つことの出来ぬものは、人外人、人並外れとみなされ、交際さえも断たれるようになってしまった。  徳川時代に入って、この考えが甚しいものになったのは、始祖家康の考えが明白であったからであろう。  家康は、復讐讃美者であった。  某日、家康、駿府に隠居してから、はじめて、江戸へ出て来て、旗本の若い子弟たちを引見した。  その時、若者たちにむかって、云った。 「若武者らに申しきかす儀がある。その方たちが、もし父や兄を討たれた場合、名聞などをかまっては居らず、たとえ婦女子を頼んでも、是が非でも、讐を復《かえ》さねばならぬ。……向坂六郎五郎、その方の父は、兄の敵を持って居った」  家康は、御目見得《おめみえ》の一人の若者を指さして、 「その方の父向坂十郎兵衛は、兄の敵を討つべく、数年も探しまわっていたが、討てずにいた。ところで、十郎兵衛は、若道《じゃくどう》のよしみを結んだ者があって、ひそかに兄弟の契りを交していた。ある日、その者が、十郎兵衛にむかって、お主は敵を探している模様だが、さいわいに、それがしが心あたりがあるゆえ、討つ時は、それがしに助太刀させい、と申し出た。すると、十郎兵衛は、憤然となって、お主と義兄弟の約をむすんだのは、助太刀をたのむためではなかった、このようなことで恩を着せられるのは、武士としてうべない難《がた》い、とその日から義絶してしまった。そのために、対手は、敵の在り処《か》を教えずに、はなれ去ってしまった。十郎兵衛が、ようやく、敵をさがしあてた時には、恰度、病死した直後であった。十郎兵衛は、無念のため、おのれも、切腹して果てた。その方六郎五郎は、その時まだ当歳であったが、よう育った」 と感慨ふかげに、いくども頷《うなず》いてから、 「よいな、一同、六郎五郎の父は、自身で討とう、討とうと思ううちに、ついに、時節におくれて、討ち損じたのであった。君父の敵は、一刀討っても、手柄というものである。また人に頼んで、助太刀してもらっても、決して、臆病と申すものではない。なにがなんであろうと、無二無三《むにむざん》に、はやく討ってしまうのが、肝要なのである。ここをよく合点せねばならぬ。判ったであろうな」  この説教が、徳川時代の敵討《あだうち》思想を決定づけたのである。  仇討が美徳となった以上、父や兄を殺された者は、おのが一生を費しても、復讐しなければならなかった。  たとえ、十年、十五年かかっても、首尾よく、敵の首級がとれれば、苦労の甲斐があったというものであるが、必ずしも、めでたしとばかりはいかなかった。  討つ方が、討たれる方よりも強いとは、きまっていなかった。また、討たれる者が、いつも赤っ面の悪党であった次第でもない。返り討ちもまた、定法によって、ゆるされていたからである。  武士道の吟味に則《のっと》り、その強烈な意気地によって、討たれる者、討つ者が、必死になって、闘い、ついに、討たれず、討てなかった実録がある。  寛永十年五月、加藤式部少輔明成は、一片の意気地から、奥州会津四十五万石を還納《かんのう》して、家中《かちゅう》一同を離散させた。  主君の思いがけない、封土と意気地の交換は、家臣らに議論百出させた。  馬廻り役六百石、高倉長右衛門は、気骨をもってきこえた士で、主君の処置を是として、狼狽する朋輩らを、見苦しいと、にがにがしく思った。  同じ馬廻り役八百石、東郷茂兵衛は、沈着な人物で、あまり多くの口数を持たずに、一座の議論をきいていたが、やがて、主君の振舞いは軽率であったように考えられる、と云った。茂兵衛は、多くの人から尊敬されていたので、その言葉は、重いひびきをもって、一座をおさえた。  高倉長右衛門は、茂兵衛と親しかっただけに、かえって、その言葉を許し難かった。  長右衛門は、茂兵衛を、鋭く見据えて、 「お主《ぬし》の意見には、承服し難い。存念がある故、後刻——」 と、云った。すると、茂兵衛も、 「承知した」 と、合点した。  高倉長右兵衛は、帰宅するや、家僕を呼んで、 「東郷茂兵衛が参ったならば、すぐに、書院へ通せ」 と、命じておいた。  茂兵衛が、おとずれたのは、夜半になってからであった。  穏かな態度で、長右衛門と対坐すると、 「家の中の反古《ほご》類など、片づけて居ったので、おそくなって相済まぬ」 と、云いわけした。  茂兵衛は、長右衛門が、果し合いを挑んだのを読みとって、もし万一自分が敗れた場合のことを考え、死後のための用意をして来たのであった。 「そうか。それは、それがしも、気がつかなんだ。お主、しばらく、門外で待っていてくれい」  長右衛門は、遺書だけをしたためて、茂兵衛を待っていたのである。  茂兵衛を、門外で待たせておいて、長右衛門は、屋内を整然と片づけた。長右衛門は、両親も兄弟もなく、まだ独身であったので、別離を告げる者も持たず、気楽であった。  半刻ばかり経って、家を出て来た長右衛門は、 「待たせた。……参ろうか」  夜釣りにでも行くような口調で、云った。  二人がえらんだ決闘場所は、近くの古刹《こさつ》の境内であった。  初夏の十六夜で、境内の地面は、霜が降りたようにあかるく、二間をへだてても、互いの顔がかなりはっきりと見分けられるくらいであった。  作法正しく、抜きあわせた長右衛門と茂兵衛は、互いに、腕前が互角であることを知っていて、容易に、撃ち込まなかった。  四半刻も、固着の対峙《たいじ》をつづけた後、孰《いず》れからともなく、気合をほとばしらせて、斬り合った。  もはや、静止はなく、渾身の力をほとばしらせて、双方、疵《きず》つけつ、疵つけられた果てに、長右衛門の横|薙《な》ぎの一閃《いっせん》が、茂兵衛の太股を、深く割った。  どうと倒れた茂兵衛は、さらに、肩へ一撃を受けて、ついに、呻きを発した。  長右衛門は、喘《あえ》ぎ乍ら、 「茂兵衛、立てぬか?」 と、問うた。  茂兵衛は、最後の力をふりしぼって、上半身を起すと、 「介錯《かいしゃく》たのむ」 と、云った。 「承知した」  長右衛門は、刀の血糊をぬぐってから、茂兵衛の背後へまわった。  茂兵衛には、脇差を腹へ突き立てる力も、のこっていなかった。  かたちだけ、脇差を腹にあてた瞬間、長右衛門は、茂兵衛の首を、打ち落した。  そして、その首を、茂兵衛の着物の片袖を破りとって、包み、よろめく足をふみこたえ乍ら、かねて懇意の納戸役金子助十郎の家へおもむいた。  深夜の訪問に、何事であろうと訝《いぶか》りつつ、玄関へ出て来た助十郎は、総身血まみれの長右衛門の姿に、愕然《がくぜん》となった。  長右衛門は、茂兵衛の首を、式台に置くと、 「武辺の片意地から、東郷茂兵衛と果し合いをした。この首を、茂兵衛の家へ、届けてくれい」 と、たのんだ。 「お主は、どうする?」 「おれは、勝ったのだから、死なぬ。これから、退散して、どこかで、手傷の療治をする。江戸へ出るつもりだから、茂兵衛の弟たちには、そう伝えておいてもらいたい」  長右衛門は、そう云いのこした。  東郷茂兵衛には、妻はなかったが、母〈りく〉と、権左衛門、又八郎の弟二人がいた。権左衛門は、胸を患って、数年来|臥床《がしょう》していた。  茂兵衛は、長右衛門と決闘するにあたって、母〈りく〉にだけは、その旨を云い置いて、おのが身のまわりは取片付けて、家を出たのであった。  夜明けて、金子助十郎が、茂兵衛の首を持参すると、母〈りく〉は、すこしもとり乱さず、作法通りに受けとって、三男の又八郎を呼んだ。  又八郎は、兄たちと性格がちがって、どちらかといえば、矯激派《きょうげきは》であった。  首を視《み》せられ、果し合いの理由をきくや、即座に、 「母上、ただちに、高倉長右衛門を追跡つかまつる」 と、叫んだ。すると、母〈りく〉は、かぶりを振って、 「なりますまい。これは、尋常の立合にて、遺恨をのこす争《いさか》いではありませぬ」 「いいや! 兄を討たれて、弟たる者、黙って居ることはなり申さぬ。世間から、卑怯よばわりされるのは、我慢がならぬ。断じて、高倉を討ちとりますぞ!」 「茂兵衛は、高倉殿に介錯をたのんで、切腹した由。これは、茂兵衛が、そなたに敵討をさせまいための、配慮であったと存じます」 「母上! 世間は、そのような弁解を肯《うなず》きませんぞ! この又八郎に、怯懦《きょうだ》の汚名をかぶせられるな!」  又八郎は、どうしても、仇を討つと云いつのった。  やむなく、親族一同を招いて、協議したが、又八郎の意志のままにまかせよう、という結論に達した。  しかし、すでに主家を喪い、扶持《ふち》をはなれた浪人であった。公許を受けるわけにはいかなかった。  敵討に公許を必要としたのは、徳川氏以前から、さだめられていた模様である。  徳川幕府になって、掟《おきて》はきびしくなった。  敵は、殆どの場合、他領へ出奔している。江戸市中は勿論、公領、私領の区別なく、出会えば、ただちに闘わなければならなかった。しかし、そのために、その土地に騒動を起してはならなかった。  江戸市中においては、敵討があると、奉行所に届け出る。奉行所は、与力、同心らを検使として遣し、事の趣を糺問《きゅうもん》した上、一応役宅へともない、町奉行が出座の上で、取調べる。すべて願いの通りであれば、別条ない。そこで、本藩へ引渡すことになる。  地方ならば、その土地の役人が出張して、取調べる。その手続きを履行した書付を示し、また幕府の帳面に登録済が判明になれば、そのまま事は済む。  しかし、その手続きをせずに、敵討をすれば、違法である。無届の敵討は、一時|揚《あが》り屋《や》入りを命じられ、きびしい吟味を受けねばならぬ。私闘による殺害とみなされれば、死罪であった。ただの喧嘩沙汰で殺人を犯し乍ら、敵討と云いつくろって、死罪をのがれようとする例がすくなくなかったのである。  現代に於いても、殺害者の自白の裏付け調査は、容易ではない。まして、科学も交通も未発達の封建時代であった。証拠を確認するのは困難をきわめたのである。  東郷又八郎の場合、主君に願い出て、幕府へ届け出るわけには、いかない以上、私闘になるのであった。  公儀御帳に登録してもらえないからであった。 「果し合い、という名目で、仇を討って参る」  又八郎は、一同へ、そう云いのこして、会津を出発し江戸へ向った。  又八郎が、探しまわって、ようやく、高倉長右衛門が、加藤家の元宿坊であった上野東叡山寛永寺の某院に住んでいるのをつきとめたのは、一年後であった。  上野山内で、刃傷沙汰《にんじょうざた》は、許されなかった。  又八郎は、広小路の旅籠に逗留して、長右衛門が山内から降りて来るのを、昼夜見張っていた。  機会は、年が明けてからおとずれた。  正月二日、長右衛門は、懇意の家へ、年頭の祝儀に行くべく、正装して、編笠でおもてをかくして、黒門を出て来た。  ひそかに、——正月こそは、と期待して、旅籠の二階の窓から、見張りつづけていた又八郎が、この姿を見のがす筈はなかった。すばやく身仕度して、裏口からとび出し、本町通りで、先廻りした。 「高倉長右衛門! 東郷又八郎が、兄の無念をはらすぞ!」  叫びざま、抜討ちに斬りつけた。  編笠を割りつけられつつ、跳び退《しさ》った長右衛門は、 「場所を変えい、又八郎! 世人の迷惑になる」 と云った。しかし、目を剥《む》き、歯を剥いた又八郎に、別の場所まで行く余裕などあるべくもなかった。遮二無二《しゃにむに》討ち取ろうと、白刃を、振り下し、横|薙《な》ぎ、はね上げて来た。  やむなく抜き合せた長右衛門は、暮から風邪で、ずうっと熱を出していたため、力に乏しく、防ぐのがようやくであった。  もし、又八郎が、もうすこし、冷静であったならば、長右衛門を討ち取るのは、さして困難ではなかったろう。又八郎は、長右衛門のからだの隙を看《み》てとって、斬り込むおちつきを持たなかった。  あきらかに、自分の方が、たちまさっていることが判るだけに、又八郎は、かえって、あせったのである。  そのおかげで、長右衛門は、薄傷を蒙《こうむ》りつつも、又八郎の切先をのがれることができた。  しだいに、場所を移行しつつ、蝟集《いしゅう》した野次馬の騒ぎたてるなかで、又八郎は、長右衛門の右手の指三本を斬り落した。もはや、刀の柄を握っていられなくなった長右衛門は、咄嗟の機転で、 「着込みを着たとみえるぞ! 足を払えっ!」 と、叫んだ。  つまり、又八郎の背後に、助太刀の者が出現したと思わせたのである。  又八郎が、はっとなって、横へすべって、体をひらいた——その隙をねらって、長右衛門は、左手掴みの横薙ぎを、くれた。  又八郎は、したたか、脛《すね》を斬られて、よろめいた。  ……長右衛門も、地べたへ臀《しり》をつき、又八郎も、その場へ、へたばって、互いに、〈ふいご〉のようにせわしく、ぜいぜいと喘《あえ》ぎ乍ら、睨《にら》み合うばかりであった。  そこへ、町方与力同心が、かけつけて来て、二人を扶《たす》け起して、奉行所へ、ともなった。  町奉行は、仔細をきいて、この私闘に対して、寛大な処置をとった。すなわち、 「お互いに手足も利かぬほどの創《そう》を受けては、向後尋常の勝負は叶わず、遺恨をすてて、おのおの、身すぎの道をえらぶことを誓約する」 という一書を交換させたのである。  もとより、東郷又八郎に、仇討をあきらめる意志など、毛頭みじんもなかった。  駕籠で、箱根の温泉へおもむき、創の療治につとめ乍ら、寛永寺某院の長右衛門の許へ、決闘の日時と場所を、念を押しつづけた。  しかし、長右衛門の方は、日光山中へ、療養に行ってしまっていて、返辞をして来なかった。  歩行の自由をとりもどした又八郎は、いったん、故郷へ帰って、全快するまで、時節を待つことにした。  母〈りく〉は、二年ぶりに眺めるわが子の面貌が、人三化七にちかい刀痕《とうこん》だらけになっているのに、息をのんだ。 「母上! 高倉は、もはや、逃げかくれはいたしません。それがしの身が、本復次第、出府し、こんどこそ、見事に討ち果して、ごらんに入れます」  又八郎は、昂然として、云いはなった。  しかし、〈りく〉は、その表情が、なぜか狂気じみているのを、ひそかに、おそれた。  又八郎が、目がかすんで来て、次第に視力を喪《うしな》いはじめたのは、すでに、その時からであった。  二月後には、又八郎は、右眼は完全に失明し、左眼も殆んど視えなくなっていた。ただ、その不運を母にも黙っていた。  勿論、母〈りく〉が、気がつかぬ筈はなかった。〈りく〉は、ただ、気づかぬふりをしていただけである。  ある朝、〈りく〉は、又八郎が、庭の松の樹枝からぶら下っている無慚《むざん》な姿を、発見しなければならなかった。 〈りく〉は、はじめて、わが子のなきがらを抱いて、慟哭《どうこく》した。この二月間の、又八郎の名状しがたい苦悶地獄をあらためて想いやったのである。  一方、高倉長右衛門は、又八郎と反対に、面部手足に、再度の闘いで、数十ヵ所の刀痕をのこしたことが、意気地ある武士の証拠として、もてはやされ、町奉行神尾備前守に厚遇され、その取持ちで、松平大和守直矩に召抱えられた。五百石、足軽二十人を預けられた。  長右衛門は、その悦びを、永らく世話になった寛永寺某院の住職に告げるために、馬で、上野へむかった。  その途中、雨後の泥濘《でいねい》に、馬脚をとられて、長右衛門は、地上へ、もんどり打った。そのために、かねての傷で不自由な右手を打ち、疵口が破れて、夥《おびただ》しく出血した。  すぐに、外科医のところへおもむいて、療治した結果、挫《くじ》いた腕の骨が直ったばかりか、不自由な手が、自由をとりもどす奇現象に会うた。  まことに、冥加《みょうが》に叶った武士というべきであった。 [#改ページ]   その六 異変|護持院原《ごじいんがはら》  神田護持院原(現在の一橋附近)は、その名のごとく、五代将軍綱吉の時に——元禄元年に、大m正隆光の発願によって、建立した護持院という大|伽藍《がらん》の跡であった。  隆光は、綱吉の生母桂昌院と密通していた破戒坊主であった。  桂昌院自身も、成上り者であった。京都堀川通西藪屋町の八百屋の娘であった。  十歳の頃、西山|三鈷《さんこ》寺の僧が、その顔を視て、 「大層な出世をする相をして居る。もしかすれば、天下|人《びと》を生むかも知れぬ」と予言した。  はたして、十二歳の時、路上で遊んでいるのを、上洛中の春日|局《つぼね》が見かけて、顔だちが気に入って、江戸城へ連れて来た。  十七歳で、春日局によって、将軍家光の側妾にされ、綱吉を生んだ。  綱吉は、館林二十五万石の城主にされていたが、兄家綱が死んだので、五代を継いだ。生母のお玉は、桂昌院と仰がれる身になり、三鈷寺の僧の予言が的中した。その予言を思い出して、桂昌院は、京都所司代に命じて、さがさせたが、件《くだん》の僧は、すでに逝っていた。そこで、桂昌院は弟子の隆光を呼んで、湯島の知足院を与えた。好言の才智をそなえていた隆光は、一日、桂昌院を、知足院に迎えるや、たちまち、後家|身《み》をわがものにしてしまった。  それから、間もなく、桂昌院の口添えで、元祿山護持院を建立し、隆光は大僧正となった。  やがて、隆光は失脚し、護持院も、享保二年に、炎上したので、寺は音羽の護国寺に移され、跡はそのまま、火除地《ひよけち》とされたので、護持院原と称《よ》ばれるようになったのである。  代々将軍が小鷹狩を催したくらい敷地は広く、林泉はそのままのこっていた。  江戸のちょうどまん中に、こうしたもの淋しい原がのこされると、当然、仇討場にえらばれたり、辻斬り場所になった。  天保改革の際、閣老水野越前守の下にいた鳥居甲斐守|忠耀《ただてる》の走狗《そうく》となり、庶民をおどしていた本荘茂平次が、弘化三年夏に、闇討ちにした御徒士《おかち》井上伝兵衛の甥《おい》熊倉伝十郎に討たれたのも、ここであった。尤も、この敵討《あだうち》は、あまりかんばしい評判を生まなかった。  本荘茂平次は、主人の鳥居甲斐守の失脚とともに、捕えられて、一年ばかり牢獄に在り、ようやく吟味落着して、中追放処分にされて、出て来たところを、討たれたのである。  討手の熊倉伝十郎の方には、小松典膳という助太刀もあった。  茂平次は、永《なが》々の牢舎で、瘡疾《そうしつ》にかかり、歩行もおぼつかないほどであった。  中追放の籠輿《とうまるかご》で、一橋門外の護持院原にさしかかったところを、伝十郎、典膳に、躍り出られたが、刀を抜きあわせるはおろか、立つこともできなかった。  草の上へ、匐《は》い出た茂平次は、罪人が打首にされるようなあんばいに、討たれてしまった。  嘉永に入って、黒船がやって来、安政に入って、未曾有《みぞう》の大地震が起り、府内の人心がすさんでしまうや、護持院原には、夜な夜な、辻斬りが出現するようになった。  播州姫路藩主、酒井|雅楽頭《うたのかみ》の茶頭に、茨木春斎という者がいた。  辻斬りの取沙汰がさかんになった頃、やむを得ぬ主家の急用で、陽が落ちてから、護持院原を通りかかると、はたして、行手を、宗十郎頭巾に着流しの、浪人ていの者がふさいだ。 「茶坊主、合力《ごうりょく》いたす」  云いざま、抜刀《ばっとう》して、ふりかぶった。 「ま、まった!」  春斎は、もとより無腰で、刀を握ったこともなかったが、一風変った気象の持主であった。  両手を挙げて、制しておいて、 「べつに、妻子があるわけではなく、生命は惜しゅうない。惜しゅうはないが、いまは、主用をはたしに行く途中でござる。この生命は、わが身のものであって、わが身のものではござらぬわい。帰りも、必ず、ここを通り申すゆえ、それまで、お待ち願えまいか」 「あてになろうか。討たれる約束をした敵ででもあるならば、いざ知らず、合力する奴に、わざわざ斬られに戻って来る阿呆があるものか」 「余人は知らず、この茨木春斎は、物心ついて以来四十年、いったん約束したことを、破ったおぼえは一度もござらぬ、……もとより、もどって参った時には、腰にも一振り帯びて居り申すわい」 「腕におぼえがあるというのか?」 「左様——。尋常の勝負をつかまつろうて」 「よし、それでは、待っていてやろう」  辻斬りの浪人者も、変った性格を持っていたとみえた。  春斎は、その場を遁《のが》れると、まっすぐに、お玉ヶ池の千葉周作の道場へ、駆け込んだ。 「酒井雅楽頭よりの使者にござれば、早々に、先生にお取次たまわりたい」  春斎は、千葉周作が、再起おぼつかぬ病牀に臥しているという噂をきいていたので、そう口上を述べた。  周作も、姫路藩主の使者ときいて、やむなく、春斎を書院に通しておいて、紋服をつけて、現れた。  春斎は、すぐに、畳に両手をついて、主名を詐称したことを謝罪した。  しかし、酒井藩の家中であることは相違なく、必死のお願いをつかまつる、と云った。 「申されい」  周作も、やむなく、促した。 「それがしは、ごらんの通りの茶坊主にて、いまだ、大小を腰に佩《お》びたこともありませぬ。ところが、仔細あって、このたび、真剣の果し合いをいたさざるを得なくなりました。もとより、勝とうなどとは、毛頭みじん思うては居りませぬ。ただ、一合とっても家臣は家臣、一応は、主家の名誉を考えなければなりませぬ。見苦しい死にざまを世間にさらしては、永年お目をかけて頂いた主君に申しわけなく存じますれば、いかにせば、見苦しからざる負けかたをして、死ぬことができるか——何卒、ご教示たまわり度く、罷《まか》り越した次第にございます」  周作は、これをきいて、微笑した。 「しかと生命は、惜しゅうは、ござらぬか?」 「ございませぬ」 「対手の腕前は、どれほどと、きかれて居る?」 「噂によれば、相当のもの、と申します」 「では、こうされい。対手が、いかなる構えをとろうとも、かまわず、お手前は、大上段に振りかぶって、目蓋をしずかに閉じることだ。そして……、五感に何かがふれた刹那に、ぱっと振り下す。相討ちになることは、うけあい申す。……よろしいな。犬でも猫でも、打たれようとした瞬間に、跳び遁《に》げる本能がある。まして、人間に、これがないわけはない。その本能を働かせるために、目蓋を閉じる。敵が撃ってくる——それを直感することにだけ、心気をあつめ、そして、瞬息に発して、こちらも斬り下す。相討ちを覚悟すれば、いかなる強敵も、みじんもおそるるには足らぬ」  周作は、そう教えて、高弟の一人を呼び、春斎を道場へつれて行かせ、数度試みさせた。  たちまち極意を悟る——というわけにはいかなかったが、春斎は、  ——これでよし! と、おのれに頷くと、礼をのべて、道場を辞し、近くの古道具屋から、大刀を一本買いもとめて、護持院原へ、ひきかえした。  辻斬りの浪人者は、捨石に腰かけて、待っていた。こちらが、市中見廻りの役人をつれて来るかも知れない、などとは一向に考えもしなかったらしい。 「では、尋常の勝負、と参ろうか」 「いざ——」  春斎は、すぐに、刀を抜きはなって、大上段にふりかぶった。 「お坊主、懐中には、いくら所持する?」 「十二、三両はござるわい」 「それは、斬り甲斐がある」  浪人者は、青眼にとった。  月光があったので、さぐり撃ちの必要はなかった。間合をはかることもできた。  対峙して、数秒すぎると、浪人者が、 「できる!」 と、呻くように云った。  大上段に構えて、目蓋を閉じた春斎には、みじんの隙もなかった。自らの五体を防ごうとせぬのであるから、隙が生じるわけがなかった。  目蓋を閉じて、対手を視ないのであるから、心気はしずまり、澄んでいる。もとより、それだけの度胸がそなわっている故でもあったが……。  千葉周作の北辰一刀流は、下段、青眼を定式とする。春斎に、大上段を教えたのは、剣術を知らぬ者には、振り下す一手しかなかったからである。  手練者《てだれ》が使う無想剣には、これがある。  辻斬りの浪人者が、もし、春斎にとって、これは生れてはじめての勝負と知って居れば、わざと斬り込むとみせて、太刀を振り下させ、そのあとで、斬り仆《たお》したに相違ない。  浪人者は、隙のないのを見て、「できる」と思い込んでしまったのである。  隙のない修練の者へ、撃ち込むわけにはいかなかった。  およそ三十秒も経過したろうか。  浪人者は、ぱっと跳び退《さが》った。 「謝った! お坊主、お手前の手並、見とどけた。おれは、にげるぞ」  跫音《あしおと》が遠ざかってから、春斎は、大上段にふりかぶった太刀をおろそうとしたが、どうしたのか、両腕が鋼鉄と化したように、コチコチになって、自由を失ってしまっていた。おろそうとしても、おりないのであった。  やむなく、そのままの恰好で、二、三歩あるいたとたんに、腰が抜けて、へたへたと、地べたに坐り込んでしまった。  夜が明けてから、通りかかった駕籠を呼びとめて、駿府台の行先へはしらせ、一夜おくれた事情を釈明した。  まるっきり剣法を知らない茶頭が、腕の立つ辻斬り浪人を逃げさせた、という噂は、一時にひろがり、その当座は、春斎は、会う人毎に、その夜の光景の説明をもとめられて、閉口したものであった。  その翌年——安政三年の初春、二月二十一日、未下刻《やつさがり》(午後三時頃)護持院原で、また一人、辻斬りに遭った。  これは、大層な美人で、麹町飯田町の大きな質屋、播磨屋金兵衛方の嫁、峰であった。  峰の里方は、姫路藩の家中であったので、大手下馬さきの上屋敷へ、所用で父をたずねて行ったその帰途であった。丁稚《でっち》を一人、供につれていた。  遁げ戻って来た丁稚の報告によれば——  護持院原の林泉わきを近道しようとした折、不意に、深編笠に着流しの浪人ていの男が、行手をふさいだ。  武家出の峰は、気丈夫でもあったし、ただ金欲しさの辻斬りと看て、おちついて、 「些少の所持にて、おもとめの額にかなうとは存じませぬが——」 と、云い乍ら、〈ふくさ〉に包んだ財布をさし出した。  対手は、無言で、立っているばかりであった。 「四両と少々でございます」  峰は、手渡そうと、自分の方から近づこうとした。  瞬間、浪人者の右袖がおどり、腰から、白刃が噴いて出た。  おそろしい迅業《はやわざ》であった。  絶鳴と血飛沫《ちしぶき》の下に、峰は左の肩から乳房まで、袈裟がけに斬り下げされて、斃《たお》れた。  浪人者は、片手討ちに、一太刀で即死させたのであった。  それが、鮮やかな居合抜きであったことは、小僧の、〈ろれつ〉の廻らぬ喘《あえ》ぎ喘ぎの言葉でも、はっきりと受けとれた。  浪人者は、峰の小袖の袂《たもと》で、血糊を拭いて、悠々と立ち去った、という。  おおむね、辻斬りは、金銭を掠奪するのを目的としている。ただ新刀を試したくて辻斬りをやるなどということは、寛永時代の話であった。  その浪人者は、峰を斬っただけで、その手にあった財布には目をくれずに立ち去っている。  腕試しの狂的な剣客ならば、当然、対手に武士をえらんだ筈である。  なぜ、白昼、町家の若女房を襲って、一太刀に仕止めて消え去ったのか、解らぬことだった。  峰の父田宮三右衛門は、酒井藩の定府で、お納戸方下役を勤めている微祿者《びろくもの》であった。娘の非業の死を報《し》らされると、武士らしからぬ烈しい狼狽の色を示した。  しかし、動転していた峰の亭主金之助は、三右衛門の狼狽ぶりを、ただの驚愕と受けとっただけであった。  三右衛門は、永いあいだ俯向《うつむ》いていてから、 「白昼とはいえ、近頃辻斬りの取沙汰のある護持院原を近道しようとした峰のうかつが、この奇禍《きか》をまねき申した。やむを得ぬ仕儀とあきらめねばなるまい」 と、独語するように、云った。  峰が、人から意趣を受けるような女ではないことは、皆のみとめるところであった。  世情騒然たる折柄、むやみに人を斬りたがる剣術使いの出現するのもやむを得ぬ、と考えられ、そういう狂人に出会うたのが不運であった、という父親の言葉も尤もにきこえた。  然し、店へ戻って、金之助が父親の金兵衛に、話すと、 「はての?」 と、金兵衛は、首をかしげた。 「実の娘を、何者とも知れぬ無頼の浪人者に斬られた、ときけば、烈火のような憤りをみせるのが、親の情愛というものじゃが……」  金兵衛は、無一文からたたき上げた商人だけに、鋭い才覚をそなえていた。三右衛門の態度に、不審をおぼえずにはいられなかった。  金兵衛は、腰を上げると、金之助には、どこへ行くとも告げずに、出て行った。  おとずれたのは、清蔵という神田三河町の御用聞きであった。  清蔵は、峰の検視にも、役人の供をしていて、その最期のさまを見とどけていた。  金兵衛は、三右衛門の態度については何も云わず、 「親分、わたしは、これは、意趣ばらしだと思うが、どうだろう?」 と、云った。 「と云っても、峰がわたしの店へ嫁に来てから、意趣を受けるようなことは、ひとつもしでかしてはいない。……里にいた頃、なにかあったのではなかろうかな」 「里の親御様の方は、なんと仰有《おっしゃ》っています?」 「お前さんが出かけて行って、たずねても、たぶん、心あたりはない、と云われるであろうな」  清蔵は、腕ききの岡っ引であった。  腕を拱《こま》ねて、しばらく考えていたが、 「旦那、十日ばかり猶予を下さいましょうか」 「下手人をつきとめて頂けるか?」 「やれるものかどうか、ひとつ、努めてみましょう」  それから、数日後。  清蔵が、ひょっこりと姿をみせたのは、酒井家の上屋敷内にある茶頭茨木春斎の役宅であった。  春斎は、五十すぎた今日まで独身を通して、のんきな日を送っていた。 「お願いがございます」  かなりむかしからの顔馴染である清蔵は、気がるな口調で、きり出した。 「去年、護持院原でおみせになったお腕前を、もう一度、役立てては下さいますまいか?」 「あれは、一度こっきりのことだよ、親分」 「それが、どうしても、貴方様にお願いしなけりゃならねえことになりましてね」 「どうしてだな?」 「こちらの御家中の田宮三右衛門様のお娘御が、護持院原で、辻斬りにお遭いなさいましたことは、おきき及びでございましょう?」 「ああ、きいて居る。峰さんが、出府して来た時、江戸言葉を教えたのは、このわしでな」  峰は、母親と幼い頃死別したので、但馬|出石《いずし》にある母方の里で、成長して、十八になってから、父親の許へ帰って来たのであった。 「その仇討をやりたいと存じましてね」 「下手人の心あたりがあるのか?」 「たぶん、まちがいない、と見当をつけましたが、なにぶんにも証拠がありません。そこで、おびき出して、とっ捕《つかま》えるよりほかにすべがございません」 「どうやって、おびき出す?」 「その役割を、貴方様に、つとめて頂きたいのでございます」  清蔵のしらべたところによると——。  田宮三右衛門の妻の里の親戚に、千田兵助という若い浪人者がいた。直真影流を習得して、異常なまでの手練者《てだれ》であった。  二年前に出府して来たが、町道場を転々と居候する気ままぐらしをつづけている模様である。  峰が、母の里で育った頃、兵助も、山ひとつへだてた隣村に住んでいて、いわゆる筒井筒《つついづつ》、振分髪《ふりわけがみ》の幼馴染の間柄であった。  いつとなく、周囲は、ちょうど三つちがいのこの男女は、夫婦になるものと、きめていた。  ところが、峰が十八歳になると、父親の三右衛門がやって来て、むりやりに、江戸へつれ帰ってしまったのであった。  恰度その時、兵助の方は、九州の方へ、兵法修業に出かけていたのである。  兵助が、江戸へ出て来たのは、それから三年後であった。峰が、播磨屋へ嫁いで半年ばかり過ぎた頃であった。  御用聞き清蔵は、田宮家の親戚に、こういう兵法者がいることをさぐりあてて、  ——こいつに相違ない! と、確信を持ったのである。  清蔵の話をきいた春斎は、 「で——わたしに、どうしろ、というのだな?」 「この酒井様の御家中にむかって、田宮の娘の敵《あだ》を討ってやりたいと念願をたてた、これからは、毎月その命日に、護持院原へ出かけて行き、斬られた時刻、その場所で待ち設ける、と云いふらして頂きたいのでございます。その噂は、すぐに、千田兵助の耳にも入ると存じます」 「成程——。うまいテを思いついたものだ。で——、千田兵助が出現したら、わたしが、一騎討ちをするということに相成るのだな」 「貴方様の度胸をおたのみ申したいのでございますよ」 「よかろう。もういっぺん、大上段にふりかぶって、まなこを閉じて居ればよいことだ」  春斎は、あっさり承諾した。  春斎が、待ち設ける護持院原の林泉の畔《あぜ》に、深編笠の浪人姿が、出現したのは、五月二十一日であった。  三月二十一日、四月二十一日の峰の命日には、春斎は、酒井藩家中に高言した通りに、その場へ出かけて行って、一刻をすごしたが、ついに、敵は現れなかったのである。  ——どうやら、清蔵の名案にも、敵はひっかかりそうもないて。  なかばあきらめ乍ら、この月も、春斎は、出かけたのである。  節句の祝いもおわり、町々の若衆が、大川筋に、梵天《ぼんてん》をかかげた大伝馬船をこぎ出して、水垢離《みずごり》をとる季節になっていた。  林の中を吹きぬける初夏の風のすずしさに、春斎は、捨石に腰を下ろして、つい、うとうととなった。  そこへ、ぬっと出現した浪人者が、 「おい!」 と、声をかけた。  はっと、目をさました春斎は、しかし、剣法を身につけた者と見せかけるために、わざと、生あくびして、やおら顔を擡《もた》げて、対手を仰ぎ、 「千田兵助殿じゃな」 と、云った。  浪人者は、自分の姓名をすでに知られているのに、ぎょっとなる様子を示した。  春斎は、それをじろじろと視やってから、 「よく参られた。……この坊主に、敵討をさせてくれようとは、忝《かた》じけない。ほとけもうかばれ申そう」 と、云った。 「たわけ! 返り討ちにいたしてくれるために参ったのだ」 「なかなか——」  春斎は、かぶりを振って、立つと、 「では、尋常の勝負をつかまつる」 と、突いていた竹杖から、仕込み刀を、抜きはなった。 「貴様は、以前に、この原で、辻斬りを追いはらったそうだが、おれは、ちがうぞ!」  云いざま、浪人者は、一足退って、抜く手もみせぬ迅《はや》さで、ぴたっと、切《き》っ尖《さき》あがりの青眼につけた。  春斎は、勿論、一手しか知らぬ。細身の白刃を、大上段にふりかぶって、目蓋を閉じた。 「坊主、高言いたすだけあって、できるな」 「……」 「その捨身の構えを、誰から伝授された?」 「千葉周作先生じゃ」 「なに? 北辰一刀流は、下段、青眼を定法とするぞ」 「かかって参れ!」  春斎は、すでに経験のある不敵さで、すっと、一歩すべり出て、勇ましく叫んだ。  千田兵助は、しばらく、春斎の姿へ、冷たい視線を送っていたが、突如、 「えいっ!」  懸声もろとも、一剣を、水平に、さっと突きくれた。  同時に、春斎は、渾身の力をこめて、仕込み刀を、振り下した。剣法を知らぬ者の悲しさで、兵助の一撃がさそいであることが判らなかったのである。  空を搏《う》ったむなしさに、春斎が、はっと両眼をひらいた——瞬間。  兵助は、充分のゆとりをもって、 「莫迦めっ!」  斜横の一閃裡《いっせんり》に、春斎の肩から胸まで、割りつけた。  血けむりあげて、のけぞった春斎は、はたして、その一瞬、どんな想念を脳裡に掠《かす》めさせたであろう。 「御用っ!」  樹蔭にひそんでいた清蔵以下、五、六人の捕方が、とび出したが、兵助は、にやりと薄ら笑う余裕をみせて、奔《はし》り出していた。足の早い捕方が一人、追いついたが、これも一太刀で斬りすてられた。  清蔵は、自分たちが躍り出るのがおそかったのを、歯がみして惜しがったが、もはや、後の祭りであった。  千田兵助が、捕縛されたのは、それから十年後であった。  新徴組と称して、夜毎に押込強盗を働いている浪人団に交っていた。  千田兵助は、薩摩藩にやとわれた刺客として、すでに公儀に知られていたので、生捕った与力は、高手小手に縛り上げただけでは不安で、足くびに、鉄板をはめて、歩行不可能にした。  吟味を受けて、罪状ことごとく認めた兵助は、奉行から、 「いくたびかの立合いに、恐怖をおぼえたことはあるか?」 と問われると、 「尋常の試合に敗れたのはただ一度、北辰一刀流の井上八郎。また、捨身の構えに、おどかされたのは、護持院原で勝負した酒井邸のお茶道でした」 と、こたえた。  慶応四年二月二十日、千住小塚原で、斬罪に処せられた。峰の十三回忌の逮夜《たいや》にあたっていた。  明治に入って、護持院原には、学習院はじめ、各学校が建てられ、辻斬りの出没したあたりには、高等商業すなわち後の東京商大、今日の一橋大学が、創設された。 [#改ページ]   その七 有馬猫騒動  さる五月、B出版社の講演旅行で、八日間ばかり、横山隆一、有馬頼義両氏と、昼夜を倶《とも》にした。  旅館内の無駄な時間に、横山隆一氏が、奇怪な学説をたてた。 「人間は、うまいものをたらふく喰べつづけていると、三代目、四代目あたりから、鼻梁が高くなり、だんだん、垂れ下って来る。すなわち、有馬君の鼻など、先祖がうまいものをたらふく食った典型だ。柴錬の鼻などは、うまいものを食ったかと思うと、またまずいものを食ったりしたやつだ」  御当人のダンゴ鼻についても、小声で何やらブツブツ呟《つぶや》いたが、ききもらした。隆一新学説によれば、先祖がまずいものばかり食っていた人は、鼻の孔が天井を向いているそうである。豚と同じである。  そう云われたおかげで、私は、有馬頼義の鼻を、毎日眺めているうちに、だんだん劣等感が起って来た。  そして、劣等感が起るにつけて、有馬頼義の言動から、持物にいたるまで、すべて、殿様の汪洋《おうよう》たるものに見えて来た。  例えば、有馬頼義は、おそろしく、古ぼけた鞄を携《さ》げていた。きくと、戦前に、王子製紙が試作した紙鞄ということであった。それを、二十年間も持ちあるいて、平然としている。ケチなのではない。そんなことに、無頓着なのである。われわれ平民は、とても、二十年前の古ものを携げる度胸はない。  有馬頼義がケチでない証拠は、「東京セネタース」なる野球団をつくって、年間百五十万円もムダ使いをして、平然たるものである。家来を擁して、扶持《ふち》を呉れるのは、殿様として、あたり前のことであろう。 「柴田さん、奥女中を腰巻ひとつにして、池へとび込ませ、鯉掴みをやらせたのは、どうやら、僕の先祖らしいですよ」  何気なく、そんなことを云う有馬頼義は、まさに殿様であった。われわれが、そんなことを云ったら、鼻もちならないだろうが、彼が云うと——そして、彼の鼻を眺めていると、  ——成程。そうか。 と、合点したくなる。 「君、どうだい、ひとつ、有馬猫騒動を書かないか」  私が、そそのかすと、有馬は、 「出鱈目《でたらめ》なことを書けるわけがない」 と、かぶりを振った。  そこで、代って、私が書いてやる気になった。尤も、有馬の猫騒動などというのは、事実無根の阿呆らしい講談である。  しかし、有馬の殿様の系図を調べていると、猫騒動が起ってもいい程、面白い殿様がそろっている。  猫騒動が起ったのは、九代|頼貴《よりたか》の時であるが、その前後には、奇矯の殿様が出そろっている。  七代|則維《のりつな》は、参覲《さんきん》交替の行列に、牽馬《けんば》のほかに、おそろしく巨きな白犬を、十匹も曳かせていた。これは、五代将軍綱吉によって、准国主であった有馬家が、格式一等ひきあげられ、国主にされたその寵恩を忘れないためであった。お犬将軍であった綱吉から拝領した白犬の子孫を絶やさぬように心がけて、行列に、曳《ひ》きつれたのである。そして、この曳犬は、幕末まで、つづけられた。  七代則維は、大層型破りの殿様で、享保十四年五十七歳で隠居し、高輪の下屋敷に移ると、周囲がハラハラするような勝手気儘なくらしを送った模様である。二間四方の備前|摺鉢《すりばち》をつくってみたり、夏には、緋縮緬の褌《ふんどし》ひとつで昼も夜もすごし、また侍女は、肌がぜんぶ透けて見えるように絽《ろ》の一重帷子《ひとえかたびら》をきせた。のみならず、肌襦袢も腰巻もまとうことを許さなかったので、侍女は、乳房も恥毛もかくすことができなかった。  八代|頼※[#「彳+童」、unicode5fb8]《よりゆき》もまた、方途《ほうず》もない殿様であった。相続するや、直ちに、 「大名と申すものは、借金では家はつぶれはせぬが、嗣子《しし》がないと、断絶いたす」 と、云って、一挙に、二十五人の美しい妾を集めた。そのくせ、男子一人女子一人つくっただけで、あとは、妾等が妊娠すると、おろさせてしまった。そして、借金は、やれるだけやってしまい、しばしば、首がまわらなくなった。  有馬家の借金を、黙って片づけてくれたのは、奇妙なことに、公儀であった。  方途のないところが、よほど気に入られたとみえて、|頼※[#「彳+童」、unicode5fb8]《よりゆき》は、将軍家から、国鶴《くにづる》を、三度まで下賜されている。  国鶴というのは——。  将軍家が、自らの拳《こぶし》に据えた鷹で獲った鶴の肉を、参覲交替で国許へ帰還する大名へ頒《わか》つことであった。  大名にとって、最も光栄とするのが、国鶴をたまわることで、一代に一度でも貰えるとなれば家譜にのせて、後世に伝えたのである。ただの一度も貰えない大名が多かった。  ところが、|頼※[#「彳+童」、unicode5fb8]《よりゆき》は、三度も貰っている。借金は片づけてもらうし、よほど、気に入られていたに相違ない。  九代頼貴もまた、奇矯豪宕《ききょうごうとう》な仁《ひと》で、奥女中を腰巻ひとつで、泉水へとび込ませ、鯉掴みをやらせたのは、どうやら、この殿様らしい。女色にかけては相当なものであったが、同時に、武技と角力を好み、名力士小野川喜三郎をかかえていた。有馬頼義のスポーツ好きは、このあたりから、血を引いているらしい。  さらに十代頼徳になると、おのが邸内に水天宮をつくって、江戸中の善男善女から御賽銭《おさいせん》を聚《あつ》めて、にやにやし乍ら、かぞえた、という。いずれにしても、猫騒動ぐらい起っても、ふしぎはない大名である。  怪猫は、九代頼貴の夫人が、その生家である雲州松江十八万石、松平出羽守邸から、輿《こし》入れの時に、つれて来た。  猫の係りは、関屋という腰元であった。  某日——。  午《ひる》の祝宴に、一匹の狂犬が、庭内にまぎれ込み、猫を見つけて追っかけて来て、殿様の御座所まで駆け入った。  頼貴が、盃を投げて追いはらおうとすると、狂犬は、凄《すさま》じく吠えて、噛みつこうとした。  腰元関屋は、咄嗟に、手水鉢《ちょうずばち》の鉄|柄杓《ひしゃく》をつかんで、狂犬へ走り寄り、一打ちに、打ち殺した。  まだ、わずか、十六歳の少女の働きに、頼貴は、大いに感じ入って、 「のぞみのものを、とらせよう」 と、云った。  すると、関屋は、 「ご無礼を働きました。猫を、おゆるし下さいますよう——」 と、助命を乞うた。  頼貴は、ますます感じ入った。関屋が、美しい眉目をもっていたためでもある。  間もなく、関屋は、側室の一人に加えられて、お滝の方となった。  関屋は、夫人の生家からつれられて来た腰元であるために、有馬家の大奥の女たちから、冷たくあしらわれていた。  お滝の方となって、殿様の寵愛を受けるようになるや、凄じい嫉妬を買うことになった。殊に、老女の岩波という女から、陰に陽に苛《いじ》めつけられた。  お滝の方は、ついに、神経衰弱にかかり、一夜、発作的に自害して果てた。  お滝の方には、お仲という腰元がつけられていた。お仲は、武家出で、腕におぼえがあり、気丈夫な女であった。  ——あるじ様の讎《あだ》を復《う》とう! と、決意して、ある宵、老女岩波の居室に、ふみ込んだ。  岩波の方にも、油断はなかった。  薙刀《なぎなた》にかけては名手である岩波に、それを撃ち込まれて、お仲は、あやうくかえり討ちに遭おうとした。  瞬間——一匹の黒猫が、飛び込んで来て、岩波の咽喉笛《のどぶえ》へ喰いついた。  岩波は、双の目玉をとび出させ、口から血泡を噴いて、悶死《もんし》した。お仲も、深傷で、二日後に、逝った。  有馬家では、一時、上を下への大騒動になったが、重役たちの必死の働きで、どうやら、市中への伝播をくいとめた。  ここらあたりまでは、美談だが、一度人間の血を吸った猫は、次第に妖怪と化して来る〈しくみ〉になっている。  お滝の方の実弟に与吉という者がいた。姉が死んだという悲しみに心ふさがれて、ずうっと放心気味ですごしていたが、一夕、上屋敷に伺候して、慰めの金子二百両を頂戴した。裏門を出がけに、うっかりおとし、二、三歩行ってから気がついて、あわてて、ひろい上げて行った。  これを、鳴沢某という足軽が見ていて、悪心を起し、与吉を尾《つ》けて行き、その家へ忍び入るや、与吉母子を殺害して、二百両うばった。  そ知らぬ顔をして、有馬邸へもどって来て、お長屋へ入ろうとしたところを、屋根に蹲《うずくま》っていた黒猫が、飛鳥のごとく、跳びかかって、その咽喉笛を食いちぎった。  その頃から、黒猫は、夜な夜な、火の見|櫓《やぐら》に出現して、陰惨きわまる鳴き声を立てるようになった。  そして、それまでは、忠義の振舞いだったのが、狂気と化して、見さかいなく、藩中の人々を襲うようになった。  やがて、頼貴の慈愛する側室の一人おとよの方が、懐妊するや、これを襲い、侍女なにがしも食い殺し、つづいて、藩士山村典膳という者の老婆をも、その病牀に襲って殺害し、いつの間にか、その老婆に化けてしまった。  山村典膳は、一刀流の手練者《てだれ》であった。  主君の身辺を昼夜守って、殆どわが家に戻らずにいた。  初夏の宵、はたして巨大な黒猫が出現して、主君を狙うのを、〈つくばい〉の蔭に発見して、典膳は、鯉口《こいぐち》を切って、気配もなく忍び寄り、満身からの気合もろとも、斬りつけた。  ぎゃっ、と怪声を宵闇に撒《ま》いて、黒猫は、高い樹木にかけあがって、姿をくらました。  典膳は、どうやらしばらくの間は、化猫は出現しないと思って、久し振りに、帰宅した。  ふと、気がつくと、老母の眉間《みけん》に、金創《きんそう》があった。貌かたちに、べつに変ったところはなかったが、典膳が後姿をみせると、遽《にわ》かに、殺気に似たものを背中へ後射して来た。  ——はてな? と、疑った典膳は、その時は、何気なく、いったん居間を去り、日が昏れてから、裏庭を忍んで行き、丸窓の隙から、そっと窺《うかが》ってみた。  すると、闇の中に、老婆の双眸《そうぼう》が、燐光のごとく、光っている。 「おのれ!」  典膳は、丸窓をはね開けて、躍り込みざま、一太刀くれた。  その時|迅《はや》く、老婆は、牀を蹴って、天井へ跳び、天井板を破って、何処かへ遁《のが》れ去ってしまった。  怪猫を退治したのは、有馬家を不首尾になっていた抱力士《かかえりきし》小野川喜三郎であった。  寛政四年三月二十一日、回向院に於いて、将軍家上覧相撲が、とり行われた。東の関脇小野川喜三郎と、西の関脇雷電為右衛門との勝負は、世人の最も騒いだところであった。  その前夜、有馬頼貴は、小野川を召して、 「明日の勝負は、もとより、期すべからざるところだが、もしお前が、雷電に敗れたならば、再び余の前に出ることは許さぬ」 と、苛酷な申渡しをした。  頼貴とすれば、小野川に背水の覚悟をさせるために、やや誇張した表現の励《はげま》しかたをしたのである。  しかし、小野川としては、死んでも雷電に勝たねばならぬ、と必死になった。しかし、力量では、到底雷電の敵ではなかった。そこで、小野川は、會《かつ》て、術をもって谷風を破ったごとく、雷電をも術で下そうとした。  その決意もむなしく、晴れの上覧相撲で、小野川は、敗北した。殆ど同体をもって倒れたが、軍配は、雷電に上ってしまったのである。  小野川の母親は、わが子の不首尾をなげいて、大川へ身を投じて、果てた。  小野川は、無念やるかたなく、雷電を、暗夜に襲うて、意趣をはらさんとした。  双方、刀を抜き合せたところへ、有馬家の柔術師犬山軍兵衛が、やって来て、ひきわけ、ようやく納得させた。  このために、小野川は、主君の勘気にふれて、出入り差止めをくっていたのである。  なんとかして、お詫びのために、手柄をたてたいと考えていた小野川は、怪猫の噂をきくや、典膳に協力を申し出た。  その夜、典膳は、怪猫を、邸内の庭に発見して、火の見櫓へ、追いあげた。  櫓上には、小野川が、手ぐすねひいて、待ちかまえていて、怪猫を、むんずと掴むや、首を胴からひきちぎってしまった。  と——以上、有馬猫騒動のお粗末である。  うまく出来た講談だが、ぜんぶ出鱈目である。  有馬猫騒動には、種本がある。 『想山著聞奇集』の中に、猫が人の母に化けて現れる話が出ている。  上野の国なにがしなる村に、屋根|葺《ふ》きを渡世とする男があった。この男は、生来律義で、一人の老母に対して、大変な孝行者であった。  貧民のことなので、老母を家に残しておいて、日々職に励み、そこかしこと稼ぎ歩いていた。  老母は、かなり酒好きであったので、男は、帰りには酒を二合ばかり、必ず土産にした。  ところが、この孝行息子に対して、老母は、齢を重ねるにつれて、根性がいやしくなり、ひどくあしざまに罵《ののし》りわめくようになった。男は、しかし、一言も口をかえさず、常に、穏かな態度を保って、いかに口ぎたなく罵られても、二合の酒の土産を絶やすようなことはなかった。  ある時、何かの事があって、屋根葺き仲間が、この家に集まって、酒盛りする約束になった。そこで、男は、昼すぎから仕事を休んで、酒肴をととのえて、わが家へ戻って来た。  ところが、さる大名屋敷にいそぎの用事ができ、仲間全部がそっちへ行ってしまい、酒盛りはお流れになった。  手当てした酒も肴も、そっくりのこってしまったが、男は、かえって、それを悦び、平常貧しさゆえに、母に充分酒を飲ませることができなかったが、さいわい、今日は、思うさますすめることができると、いそいそとすすめた。  老母は、大悦びで、酒も肴もあまさずに、くらって、心地よげに、臥牀《ふしど》に入った。  男も、いささかの酒で、睡魔にさそわれ、あと片づけもそのままに、臥した。  そのうちに、老母の呻《うめ》く声に、男は、目をさました。  年寄りがあまり度をすごしたので、苦しがりはじめたのであろう、と心配して、戸ごしに声をかけたが、返辞はなく、呻き声だけがつづいた。  ——さては、毒に中《あた》ったか! と、男は、不安のつのるままに、夜は、絶対に開けてはならぬと禁じられている戸を開いてみることにした。  老婆は、近年、明りをきらっていて、寝所はしんの暗闇であった。  手さぐりでは何事も行きとどくまい、と思って、燭台をかかげて、戸を開いた。  愕然《がくぜん》となった。  牀《とこ》に臥していたのは、母ではなく、怪しく巨大な黒猫だった。深酒に酔い痴《し》れて、熟睡し、不覚にも正体をあらわして、高鼾《たかいびき》をたてていたのである。  〈きも〉をつぶした男は、しかし、元来沈着分別のある人間なので、胸をしずめるや、そっと、繩をもって来て、怪猫の四肢をしばりあげた。  それから、近隣の人々を呼び起して、集めると、事情を説明して、老母の行方をさがしてもらった。  老母は、怪猫に食われて、骨となって、囲炉裏の下の床下にころがっていた。  男は、代官所へ訴え出て、怪猫の処置をうかがったところ、心まかせにすべしと下知があったので、小刀で、こなごなに斬りきざんで、村の入口、道の分れ角に|※[#「病だれ<夾/土」、unicode761e]《う》め、猫俣城という石碑を建てた、という。  これが種本となって、有馬猫騒動は、でっちあげられたものらしい。  桃川如燕の得意の読みもの「百猫伝」に、入れられ、やがて、歌舞伎に脚色された。  明治十三年、猿若座五月興行に、河竹黙阿弥作、「有松染相撲浴衣《ありまつぞめすもうゆかた》」という外題で、上演され、大評判をとった。  有馬猫騒動は、佐賀の夜桜、鍋島の猫騒動とともに、三大|化猫譚《ばけねこたん》であり、読売の浮説伝播から、講釈師の読物になり、芝居にうけつがれて、しだいに、誇張され、怪奇化してしまったのである。  有馬家には、猫の現れる怪しい史実は、何ものこってはいない。  ただ——。  寛政十年に著された『黒|甜《てん》瑣語』に、次のような記事がみえる。 「厭勝の法は、唐の史堂にはじまる。鍋島侯は、夜々大般若を読誦して妖を除く。有馬侯にては、宿直《とのい》する犬あり。その妖、目に遮るものにあらず。犬あればさわりなし。故に太府の臥《ふ》し給う外《そと》に、二頭の犬を置く。犬もなれて、暁まで眠らず。斯《かく》の如し。佐竹藩の仙北は、よき犬を産すとて、懇望あり。贈られしも久しき事ならず」  なにやら知れぬが、有馬の殿様の寝所に、怪しい事が起った。そこで、要心のために、二頭の犬を宿直《とのい》させた。さらに、良犬が欲しい、という要求から、秋田の佐竹家では、秋田犬のすごい奴を贈った、というわけである。  けだし、奇矯の殿様なので、不眠症にかかって、悪夢にうなされたに相違ない。  ところで——。  わが親友有馬頼義は、天下一の不眠症である。旅行八日間、私は、彼の極度の不眠症をつぶさに見とどけた。  むかしなら、さしずめ、怪しき〈ものの化《け》〉に、有馬頼義は、うなされるところであろう。作家有馬頼義は、隣室にあって、〈うん〉とも〈すん〉とも云わずに、終始ひっそりとしていた。  いたずらに、きこえたのは、反対の隣室からひびく横山隆一の高鼾ばかりであった。 [#改ページ]   その八 女中・妾・女郎  女中・妾・女郎——と来ると、いやしめられ、はずかしめられた伝統を有し、悲劇以外には、あまりいい話はないようである。世の奥さんがたを、なやましたり、苦しめたりした罰であろう。尤も、当節は、女中はお手伝いさんになり、血眼《ちまなこ》になってさがしても容易に見つからず、やっと見つけても、ちょっと叱るとすぐ逃亡しようとし、三拝九拝ということになっている。妾は、本当の奥様に気がね遠慮することはなくなったし、女郎は、形式が変っただけで、赤坂あたりに出没する手輩《てはい》は、アパートを経営していたり、海のむこうの国では、陸軍大臣の運命を変えさせたりする。  封建の時代には、いずれも、おのが運命にあまんじ、つつましく、あわれに生き、死んでいった模様である。  で——今回は、甚だ倫理的、道徳的な物語を書いておく。べつに、当節のお手伝いさん・愛人・コールガールに反省をもとめる次第ではない。  そろそろ五十に近くなってくると、道徳的な物語を書きたくなるから、奇妙である。 女中  幕府の医官に須原通玄という人物がいた。  夏が来て、書屋の板壁を斫《き》って、小窓をひとつ、つくることにした。出入りの大工を呼んで、それを命じた。  大工は、鼻唄をうたい乍ら、板壁をひっぺがしていた。すると、内板の一枚に、黝《くろ》いものが、へばりついている。  顔を寄せてみると、いっぴきの守宮《やもり》であった。  同じ場所をくるくると旋回するばかりで、遁《に》げようとしない。よく視ると、小釘を打たれて、板に縫いつけられているのである。 「ふうん、こいつは、奇態だ」  大工は、首をひねった。  恰度《ちょうど》、そこへ、あるじの通玄が入って来たので、大工は、 「先生、ごらんなさいまし。三年前に、お屋敷を建てる時に、うちの若いやつが、この板張りをやって、ほれ、この守宮を、打ちつけちまったんですがね、急所こそはずれて居りやすが、守宮ってやつは、飲まず食わずで、三年間も、生きて居るものでござんしょうかね」 「ふむ。これは、ふしぎだの。いかに、守宮でも、三年ものあいだ、なにも喰べずには、いられまい」  通玄も、首をかしげた。  その折、上の方から、もういっぴき、同じくらいの守宮が、ちょろちょろと走り降りて来た。  蜘蛛を啄《つい》ばんでいる。  通玄と大工と、ちょうど中|憩《やす》みのお茶をはこんで来た女中のキヨが、眺めていると、その守宮は、釘に刺された守宮のそばへ寄って来て、蜘蛛を喰べさせると、またいそいで、上の方へ、走り去った。 「なあるほど、これァ生きているわけだ。先生、釘をくらってやがる方が、てっきり、雄でござんすね。雌が、動けなくなった亭主に、えさをはこんでやっているんでさあ。感心なものじゃござんせんか」 「十日や二十日、えさはこびをしてやる、というのなら、大したこともあるまいが、三年間も、はこびつづけるとはの。まことに、えらいものだ。留五郎、にがしてやれ」 「へい」  大工は、釘を抜いて、守宮を放った。守宮はよたよたし乍ら、雌のいる上の方へ、のぼって行った。  この時、背後で、女中のキヨが、不意に泣き声たてて、畳へ坐り込んでしまった。 「どうした、キヨ? 守宮の貞節に感動したからと申して、泣かんでもよかろう」  通玄が、あやしむと、キヨは、畳へ両手をつかえて、 「旦那様、どうぞ、今日限り、おひまを下さいまし」 と、申し出た。  通玄は、何か仔細《しさい》があるな、と察して、大工を遠ざけると、その理由を訊ねた。  キヨは、泪をぬぐって、 「わたくしは、独身《ひとりみ》だと申し上げていたのは、嘘でございました。わたくしには亭主がございます。錺《かざり》師をやっていて、いい腕だと、お旗本衆からごひいきにして頂いて居りましたところ、血筋がわるく、癩《らい》病が出まして、指が曲ってしまったのでございます。わたくしは、癩病筋であったのを、かくされていたことに、一途に腹をたてて、媒人《なこうど》のところへ、参って、離縁をたのんだのでございます。媒人は、お前さんが世話をしてくれなければ、誰が世話をする、と説きましたが、わたくしは、もう業病がいやでいやで、亭主の許へ帰ることは、金輪際できぬ、と拒みつづけたのでございます。それよりも、いっそ、どこかのお屋敷へ女中奉公をしたい、とたのんで、ご当家様へ、上らせて頂いたのでございます。……ただいま、守宮のけなげなふるまいを見せられて、わたくしは、はずかしさに、穴があれば入りたい思いがいたしました。小さな虫でも、夫婦の道がこのように重いことを知っている。人間のわたくしが、知らなんだ。いまさら、亭主をすてたことが、空恐ろしゅうてなりませぬ。これより、すぐ家へもどって、亭主を養ってやりとう存じます」 「そうか。守宮に教えられて、夫婦の道をさとったとは、うるわしい」  通玄は、むこう一年間の給金をつけて、キヨに、いとまをくれてやった。  キヨは、媒人《なこうど》をたずねて行き、翻心を打明けて、良人の多吉の許へ同道してもらった。  多吉は、もう、顔も崩れ、立居振舞いも不自由になっていたが、キヨの詫びをきくと、 「よくわかった。キヨ、お前が、あの時、いつまでも辛抱して、世話をする、と云ってくれたのであったら、おれは、すぐに、離縁してやったのだ。お前が、ただもう、おそれて、厭《いと》うから、おれも、意地を張って、首をたてには振らなかったのだ。いま、お前が後悔しているときいて、おれの心も解けた。……ちゃんと、離縁状は用意してあるのだ。持って行ってくれ」 と、云った。  キヨは、復縁して欲しくてもどって来たのであって、離縁状をもらいに来たのではない、とひたすら詫び乞うた。  媒人は、多吉とキヨが抱き合って泣くのを眺めて、そっと立ち去った。  多gは、それから一年後に、キヨに感謝しつつ、逝った。  キヨは、野辺のおくりをすませて、通玄邸へもどり、六十すぎまで、女中として忠実に、勤めあげた、という。 妾  大石良雄の妾の、義に即《つ》いておのが身をしまつした話が、古本に出ている。  古本自体が怪しげなので、あまり信用できぬが、紹介しておく。  赤穂城主浅野氏が亡ぶと、藩老大石良雄は、郷を出て、跡を山科|邑《むら》に晦《くら》ました。  妻子たちをその実家へ送りかえして、長子主税と、侘《わ》びずまいをつづけていた。  酒色に沈湎《ちんめん》して、敵を欺《あざむ》こうとした、というのが後代の筋書きだが、祇園|一力《いちりき》で莫迦さわぎをした事実はない。  時おりは、ふらりと、京の街へ出て、茶屋へ上った程度であろう。  妻〈りく〉は、叔父の小山良師に手紙をやって、 「良人の身のまわりを世話する女子を、さがして、あてごうて下さいますよう」 と、たのんだ。このあたり、武士の妻で、当節の奥様族とは料簡がちがう。  小山良師は、二条橋の西|袂《たもと》に住む刀屋に、良人に若死されて出戻っている、才色そなわった可留《かる》という女がいることを、知っていた。  可留は、良師に説かれて、山科へ、妾として来た。  やがて、復讐の議がさだまって、内蔵之助は、いよいよ江戸へ赴くことになった。  一夕、内蔵之助は、酒膳を下げさせてから可留女にむかい、 「坐して喰えば、山も空《むな》し、と申すが、わしも、久しく浪々の身となって、いささか、懐中が心細くなった。二君に事《つか》えずとは申せ、脊に腹は易《か》えられぬゆえ、明朝、出府して、生活《たつき》の道を講じようと思う。志を得るまで、この家で、待っていてもらおうか。あるいは、志を得ずして、舞い戻るかも知れぬ。……当座の費用は、その厨子棚《ずしだな》の手文庫に入れてある」 と、告げた。  可留女は、俯向《うつむ》いて、 「貴方様に、義を忘れ、利を求むるお心がおありとは、露思いませぬが……」 と、云った。  内蔵之助は、笑って、 「武士とはつらいものでのう。いかに近い者に対しても、申しきかせる言葉を、使いわけねばならぬ。……ひとつ、別れに琴でもきかせてもらおう」 と、所望した。  可留女は、問答を切られて、しかたなく、筑紫琴を操《と》って、弾いた。  緩絃急調、寒泉|咽《むせ》び、松風吟ず、という処であったろう。  その夜、内蔵之助は、可留女を、寝室に呼ばなかった。  夜明け前に、内蔵之助は、下僕寺坂吉右衛門を呼んで、旅装を整えた。  可留女は、なぜか、出て来なかった。 「かるを見て参れ」  内蔵之助は、吉右衛門に、命じた。  吉右衛門は、もどって来ると、顔を伏せて、 「二階の一室にて、縊死なされて居りまする」 と、告げた。  内蔵之助が上ってみると、遺骸は、吉右衛門によっておろされて、褥《しとね》に仰臥させられていた。  遺書は、実父宛に一通だけあった。  内蔵之助は、使いをはしらせて、実父を招いた。  実父もまた、よくできた人物であった。  悲嘆の色をかくして、遺書を受けとった。遺書のおもてには、 『だんな様が江戸より吉報おつかわし下されしあとに、お披《ひら》き下され度くそろ』 と、したためてあった。  実父は、内蔵之助を、じっと瞶《みつ》めて、 「むすめは、おのが星のはかなさを悲しんで果てたのではございますまい」 と、云った。  内蔵之助は、黙って、かぶりを振っただけであった。  可留女、二十三歳。実在ならば、墓があるであろうが、どこにもない。  映画や舞台では、もっぱら、「由良さんこちら、手の鳴る方へ——」と元祿花見踊りで、景気をつけるが、ひとつぐらい、こういう、しんみりした山科閑居の場があってもよかろう。 女郎  女郎となると、吉原だが、吉原の花魁《おいらん》は、映画スターや銀座の一流ホステスなどとは比べもならぬ教養があったから、いろいろと佳話をのこしている。  新吉原の山本の花魁|秋篠《あきざさ》は、眼識があった。一夕、登楼した若い浪人者が、尋常の嫖客《ひょうかく》ではない、と看破した。はたして、敵をさがしもとめる身であった。  二年後、町道場の主人の敵娼《あいかた》になった秋篠は、それが、あの若い浪人者のさがし求めている若い浪人者の敵であることを、知った。  秋篠は、差出人の名を記さずに、手紙を送って、敵の在所を知らせてやった。  翌日、若い浪人者が、登楼して来て、 「敵の在処が知れた。今夜、行って、讐《あだ》を復《かえ》す。その別れに来た。もし、返り討ちになったならば、一遍の回向《えこう》をたのむ」 と、云った。  すると、秋篠は、つめたく笑った。 「不吉なことを申されるものではありいせん。わちきは、毎日つぎつぎと見知らぬ客を迎えて、からだを与えて居りまする。そのお客が、亡くなったからといって、いちいち、回向をしていたならば、酒をいただく日は一日とてもなくなりましょう。銭があればお客、銭が無くなって、来なくなれば路傍の人。お前様の生死など、わちきのかかり知るところでは、ありいせん」  若い浪人者は、つッぱなされて、蒼白になり乍ら、楼を出て行った。  やがて、月の昇った頃あい、総泉寺の松林の中で、凄惨な決闘が演じられた。  どちらも、大して腕の立つ方ではなかったから、互いに浅傷を負わせつつ、目くらんだり、息切れしたりして、たたかった。  そのうちに、敵の方が気力がまさったか、討手は仰《あお》のけに倒れたところを、 「くたばれ!」 と、一刀のもとに突き刺されようとした。  すると、木立の中から、頭巾をかぶった少年のいでたちをした者が、小刀をかざして、とび出して来て、 「ご加勢!」 と、叫びざま、敵の脾腹《ひばら》をえぐった。  少年に化けていたのは、秋篠であった。  のちに、国に帰参する若い浪人者の妻になれば、目出度しだが、当時の掟で、女郎の助太刀など許されていなかったので、秋篠は、ついに、このことを口につぐんで、人に語らなかった。若い浪人者も、女郎にたすけられたのでは、不面目なので、黙っていたろう。秋篠は、ただの花魁として、おわっている。  女郎の哀しい話は、いくらでもある。  喜遊という女郎がいた。医師の女《むすめ》であったが、父母ともに疾《やまい》に臥し、貧窮したので、やむなく、吉原の甲子楼に身を鬻《ひさ》いで、家の急を救った。まだ、十六であった。  せっかく救ったのに、父母は、あいついで死んでしまった。  二十歳になって、横浜の岩亀楼の方へ、移された。  横浜の青楼には、外人客が多かった。しかし、外人客の敵娼になる女郎は、きめられていて、いやしくもお職は、枕のちりをはらわなかった。  喜遊は、横浜に移される時に、このことは、かたく条件のうちに入れておいた。 「もし、異人にはべらせるのでありいしたら、わちきは、死にます」 と云っておいたので、岩亀楼側でも承知していた。  喜遊の嬌名は、たちまち、横浜にひびきわたった。  アメリカ商人イールスは、一日登楼して、廊下で喜遊とすれちがうや、一瞥で、惚れ込んだ。  どうしても喜遊を買いたい、金は惜しまぬ、とたのんだが、楼主は、喜遊との約束をまもって、肯《うなず》かなかった。  イールスは、異様な執念で、岩亀楼が、かなりの借財をせおっているのをさぐるや、高利貸から肩代りして、その証文をつきつけて来た。  これには、楼主も当惑して、ついに、喜遊の前に、両手をつくことになった。  事情を打ちあけ、 「なにも、お前さんを妾にしようと云うのではないのじゃ。イールスは、来年はアメリカへ帰ると云っている。それまで、目をつむってくれれば、お前を自由の身にするし、一生こまらぬだけの金をのこす、と云っている。……この楼を倒すも倒さんも、お前の胸三寸にある。この道理をよくわきまえて、たのまれてくれないか」 と、額が畳につくほど、頭を下げた。  喜遊は、しばらく、沈思していたが、ややあって、 「しかたがありません。おことばにしたがいます」 と、こたえた。  楼主は、生きかえった悦びで、 「有難い。お前は、わが家の福の神じゃ。この通りじゃ」 と、合掌した。  岩亀楼から、すぐに、使いが、イールスの許へはしらされた。  イールスは、さっそく、その宵、登楼して来た。  岩亀楼を買いきって、豪遊をすることにし、千両箱を持参して来た。  しかし、どうしたのか、喜遊は、いつまで経っても、座敷へ現れなかった。  楼主が、怪しんで、花魁部屋へ行ってみると、線香のにおいがただよっている。  障子をひらいてみて、仰天した。  畳を血の海にして、喜遊は、俯伏《ふふく》していた。  遺書が、几上に置いてあった。  おそろしと思ふ慾の夢さめよかしと誠の道を急ぎ候まま、無念の歯がみを露《あら》はせし私がなきがらを今宵の客におん見せ下され、かかる卑しき浮かれ女《め》さへ日の本の志はかくぞと知らしめ給はるべく候  露をだに厭ふ大和の女郎花《おみなえし》   ふるあめりかに靡《なび》けとは何ぞ  名花|終《つい》に西風に靡かず、茫然たる楼主、憮然たるイールス、相対して言葉もなかったそうな。  喜遊の和歌は、当時海内に伝唱されて、児童|走卒《そうそつ》といえども、これを諳《そら》んじた。  賤婦の中に、亦《ま》た士道の存するのを見るべきであったが、百年後の今日、日本のキーラー嬢に云わせれば、 「ちゃんちゃら可笑しい」 と、云うべきであろう。 「だってさ、あたまのセット代だけでも、月に二万もかかるのよ。まじめにさ、酒場《バア》へつとめて、頭が痛くなるくらい、アイソ笑いしたってさ、アノ方をしなかったら、三万円ちょっとよ。くらせるわけないじゃないの。それが、大使館、商社ルートだと、一晩五万は軽いもんね。東南アジアの賠償使節団の人だけど、たった一晩で、十万円くれたわよ。……そうね、やっぱり、処女《ヴァージン》というふれ込みが、うんとカセギになるわね。どうやって、ごまかすかって? ふふ……、メンスの日に、明礬《みょうばん》を使うのよ。ベッドへ入る前に、バスへ入って、ジャンジャン明礬水をかけちゃうの。すると、血が一時とまってさ、アソコも締るのよ。あとは、演技。処女をすてた日を思い出し乍ら、思いきり痛がってさ、コトが済むと、ちゃんと、処女が破られた現象が起っているの。わかった? ……万事、世の中は、お金よ。そうじゃない?」 [#改ページ]   その九 大奥女中  江戸城大奥の制度をつくったのは、春日局《かすがのつぼね》であった。その大奥に、厳しい行儀作法を躾《しつ》けたのは、於万《おまん》の方であった。そして、その大奥を、虚栄の世界にしたてあげたのは、矢島局であった。  春日局は、三代将軍家光の乳人《めのと》として、文字通り飛ぶ鳥を落す権勢をわがものとしたが、その衣服調度または食膳の類は、きわめて質素であった。  衣服は、常に〈べにがら〉染めまたは茜《あかね》染めの木綿ものをつけ、冬に皮足袋に綿帽子をかぶっていた。のみならず、その木綿着物は、自分の部屋で、召使いたちに縫わせていた。  正式の儀礼の席のほかは、決して紗綾《さや》などのぜいたくな衣裳をまとわず、将軍家の前にも、木綿もので出た。食事もきわめて倹約で、黒米飯に、ぬかみそ汁Aそのほかは、二日に一度、赤|鰯《いわし》などを添えさせた。飯と汁は、量だけはたくさん仕立てさせ、あまりを、下男下女たちに、つかわした。おかげでそれらの身分のひくい人々は、食費がたすかり、有難がった。  尤も——。  寛永時は、上下一般が大変倹素であった。  旗本の邸宅は、四方に土手を築き、その上に、柴または竹の垣根をめぐらすならいであった。御書院番士、河手某は、四谷にあらたに屋敷地を賜ったが、ここは、石の産出所であったので、石垣をめぐらした。  将軍家光は、鷹野の途次、その立派な石垣に目をとめて、不快げに眉宇をひそめ、 「たかが、千石程度の士が、ぜいたくきわまる!」 と、早々に毀《こぼ》つように命じたものであった。  天下さだまって、徳川家の威光をいやが上にも輝かさんとする時代であったから、諸事万端に、きびしい目が向けられたのであった。  したがって、諸有司はもとよりのことであるが、とりわけて、国持大名は、幕府の目に心をつかわなければならなかった。  加能越百二十万石を領した加賀家では、その領土を安泰にするために、大層な気のくばり様であった。  中納言利常は、二代将軍秀忠の聟《むこ》であったが、前田家が、織田・豊臣以来旧勲の家柄である故、いつ幕府から難癖をつけられ、改易《かいえき》にされるか知れぬ、という懸念を持った挙句、ついに、鼻毛を抜かずに、延びるままにまかせる苦肉の策をえらんだ。  鼻毛が延びたときは、いかにも、どこか神経が抜けているように見えるものである。  これが、世間にも取沙汰されるようになったので、家臣たちは、不面目を慙《は》じて、某日、一同うちそろって、 「何卒、鼻毛をお抜き下さいますよう——」 と願い出た。  利常は、笑って、 「そちたちまでが、世間の取沙汰に、あわてるようになったのは、安堵じゃ。この鼻毛で、百万石をつなぎとめたの」 と、云った。  また——。  伊達中納言政宗は、諸大名中随一の宿将で、仙台六十万石の大祿を領していたため、大いに幕府をはばかって、くらさなければならなかった。  政宗は、いつとなく、大角|鍔《つば》の長脇差を佩《お》びて登城するようになり、ややともすれば、鞘《さや》当て咎めをして、小大名や茶坊主をふるえあがらせた。  家光の耳にも、このことがとどいた。そこで、家光は、ある時、政宗を奥の御座の間へ召して、大盃の酒をすすめた。  政宗は、すこしも辞退せずに、十杯ものみほして、大いに酩酊して、次の間へさがると、大いびきをかきはじめた。  家光は、小姓に命じて、その長脇差を持って来させて、見た。ところが、柄も鞘も、成程いかめしく作ってあるが、中身は木刀であった。  このように、縁辺である前田利常も、千軍万馬を物ともせずに生きぬいた伊達政宗も、泰平の悲しさに、思い思いに、心をつくして、韜晦《とうかい》せざるを得なかった。  春日局が逝ったのち、大奥支配の実権は、於万の方の手に移った。  於万の方は、素姓が六条家の姫君で、行儀|躾《しつけ》方を勤めていた。  春日局の時代には、古参の女流たちは、あまり行儀作法に心をつかわぬ振舞いが多かった。しかし、制度がさだまれば、おのずと、形式が尊ばれはじめるのは、いつの世も、変りはない。  敗戦直後は、礼儀も〈くそ〉もなく、みんな一様に、乞食に毛のはえたような恰好をしていて、むしろ、きちんとネクタイをむすんだり、和服をしゃなりと着流していると、奇異に感じられたものだが、十年十五年を経ると、戦前以上にエチケットがうるさくなり、パーティの招待状に、タキシードをお召し下さい、と但し書きがされるようになった。  礼節は、進退の儀容にあり、進退の儀容は、その身分地位の尊厳にかかわる、という次第である。  昨日までは、武辺者《ぶへんもの》とか荒武者《あらむしゃ》とか称《い》われて、もてはやされ、当人も肩肘を張って往来するのを、もののふの姿と心得ていて、行儀作法なんぞ、一向に心に掛けていなかったのが、急に、進退の儀容こそ第一のたしなみとなってしまい、大いに戸惑わざるを得なかった。  といっても、行儀作法など、一朝一夕で、仕込めるものではなかった。諸大名は、あわてて、京の堂上公卿《とうしょうくげ》と縁をむすんで、それを大急ぎでとり入れようとしたことであった。  於万の方の権勢が、ますます増強した所以である。  行儀作法がやかましくなれば、自然に、さまざまの儀式には、それに応じて、さまざまの衣服、調度を必要とするようになる。ぜいたくにならざるを得なかった。  久世《くぜ》大和守広之が、御側《おそば》出頭人(御側御用人)になったのは、そうした折柄であった。  久世広之は、その任に就いてみて、於万の方の権勢が、春日局以上に凄じいものであることを、はじめて知った。  ——これは、いかぬ。於万の方に、政務の事にまで、口をさしはさませてはならぬ。  そう肚《はら》をきめた。  某日——。  御座の間に伺候した久世大和守は、将軍家のそばに、数人の女中がひかえているのを視て、 「重要なる用向きの奏上ゆえ、こなたたちは、しばらく御次へ退かれたい」 と、命じた。  大和守が、そうしておいて、将軍家のそばまで、進んで来た時、於万の方が、何気なく、御座の間の二の間へ、姿を現した。  於万の方は、これまで、何人が将軍家へ伺候していようとも、平気で、入って来ていたので、この時も、裳裾《もすそ》を鳴らして、入って来ようとした。  とたんに、大和守は、 「御用の席なり。しっ! しっ!」 と、制した。  於万の方は、きこえぬふりで、なおも、二足三足進んで来た。  将軍家は、思わず、 「万、遠慮せい」 と、命じた。  大和守が、よほどの重大事を奏上するものと、思ったのである。  それは、べつだんの用向きではなかった。  やがて、大和守は、御座の間を退いて、御|入側《いりがわ》に出ると、於万の方を呼び出して、いんぎんな態度で、 「さきほどは、重大な御用の儀にて、おん直《じき》に、御沙汰を伺って居り申し、この御用については、御年寄衆(老中)もまだうけたまわって居らざる儀なれば、至極隠密の席であり申した故、形のごとく、貴女様を制止つかまつった次第でござる。向後《こうご》も、それがしが、罷り出たみぎりは、隠密の儀なれば、何卒御遠慮下さいますよう——」 と、云った。  於万の方も、不承不承に、頷かざるを得なかった。  それからは、久世広之が伺候すると、於万の方もそばへ寄るのを遠慮し、女中たちも遠慮して退った。  このようにして、久世広之は、礼儀作法を逆に利用して、於万の方の権勢を、政治向きにまで及ぼさないように、努めた。  家光が逝去すると、於万の方は落髪して常光院と号し、権勢の地位から、しりぞいた。代って、四代将軍家綱の乳人矢島局が、その地位に就いた。家綱は、まだ十一歳であった。  矢島局は、目はしのきく、頭脳の廻転の早い女性であった。  寛永十八年、家綱誕生の時、春日局の差図で、筋目のよい乳人を召抱える旨、諸家へ申し触れられた。  牧野内匠頭信成の家中に、矢島治太夫という百石の士がいて、その妻が、才色兼備で、恰度出産したばかりであったので、候補者にえらばれた。  老中松平信綱は、矢島の妻を引見して、これに、決めた。  その時、信綱は、 「その方の良人は、主人方にては、禄高何ほど申し受けているか?」 と、訊ねた。  矢島の妻は、即座に、 「三百石を頂き、馬廻り役をつとめて居りまする」 と、こたえた。  矢島の妻は、帰宅すると、良人治太夫に、本日の模様をくわしく語り、自分が乳人にえらばれたと告げてから、 「しかし乍ら、わたくしは、御老中様に、とんでもない嘘を申してしまいました。祿高をきかれて、つい、三百石とおこたえしてしまったのでございます。もし、この嘘が露見した際には、乳人はとり消されるばかりか、お咎めをうけ、主家にまでご迷惑をおかけすることに相成りまする」 と、打明けた。  これをきいて、治太夫は、顔色を失った。  このままには、うちすておけぬ、と急いで、江戸家老の許へおもむいた。  治太夫に、そのことをきかされた江戸家老は、あきれたが、家中から乳人がえらばれた栄誉を無にするわけには参るまい、と早速に、主人牧野信成の前に伺候して、 「矢島の妻儀、このたび、乳人に決定つかまつりましたれば、百石の家祿はいかにも軽く、世間へのきこえもありますれば、二百石の加増を申しつけられますれば、と存じます」 と、すすめた。  信成に、異存はなかった。  矢島の妻は、実は、こうなることを見通して、わざと老中に、三百石と答えたのであった。生み落したばかりの子をすてて、一生奉公に上るからには、これくらいのことは、してもらってもいい、と良人に贈りものをしたわけであった。  十一年が過ぎて、育てあげた家綱が、いよいよ将軍職に就くや、矢島局の権勢もゆるぎないものになった。矢島局の伜《せがれ》は、旗本に加えられ、越前守と称して、五百石をもらっていた。  尤も、政務はすべて、保科正之、井伊直孝、酒井忠勝、松平忠次らの協議裁決によったし、大奥は、例の謹厳な久世大和守広之の監督下にあったので、諸侯と大奥女中がむすびついて、陰険な工作がなされるようなことはなかった。  そのかわりに、諸事万端、大奥生活は、派手になり、催し物がつぎつぎとくりひろげられることになった。  幼い将軍家をなぐさめる、という名目で、能楽狂言尽しなどは、やたらに催されたので、やがては、能役者の詰所まで設けられた。そして〈ちゅうろう〉のうちには、能役者と、ひそかに密通する者も出た。  矢島局の考えで、家綱に、美術の観察眼を与えねばならぬと、席画《せきが》の催しも、たびたび行われるようになった。このために、毎日二人ずつ登城することになった狩野家は、にわかに、格式ぶって来て、諸大名が、これにならって、席画を所望すると、大層な礼金を要求するようになった。  家綱は、しかし、少年だから、能狂言や席画などよりも、飼鳥の方を好んだ。御苑中に飼いならしていた丹頂の鶴の一番《ひとつが》いを、特に愛していたが、どうしたのか、ある朝、雄雌ともに斃《たお》れてしまった。  家綱は、悲嘆して、食事も摂らなくなったので、早々に代りの鶴をつれて来なければならなくなったが、あいにく、夏のことで、捕獲に困難であった。やむなく、公儀では、蝦夷《えぞ》の松前志摩守公広に、火急の用命を下した。  松前家では、大急ぎで、蝦夷東端の荒蕪《こうぶ》地帯へ家臣を趨《はし》らせて、丹頂の鶴を捕獲し、尾羽を損じないように、巨大な竹籠をつくって、この中に、家臣二人が鶴とともに入り、世話係りになった。  蝦夷から江戸までの、海上、街道は、大変な騒ぎで、二頭の伝馬をならべて、その上に巨大な竹籠を据えて、運ぶ苦心は大変なものであった。  江戸に到着した時、世話係りのうち、一人は疲労で斃れ、一人は、鶴のくちばしで目を突かれて、盲になってしまっていた。  将軍家の命令ともなれば、諸藩は、このように必死な奉仕をせざるを得なくなっていたのである。  家綱が、妻を娶ったのは、十七歳になってからであった。えらばれたのは、伏見兵部卿貞清親王の姫宮浅宮であった。  この婚約が成ると、京都から女院御所つきの右衛門佐局《うえもんのすけのつぼね》という女性が、江戸城の女中たちに作法を指南すべく、先発して、乗り込んで来た。  当然、勝気な関東育ちの大奥女中たちは、御所の〈じょうろう〉に笑われてはならぬと、緊張した。さいわい、右衛門佐局は、よく出来た女性で、さし出がましい批評などは加えずに、やさしく応対動作の指導をし、衣服調度の注文をしたので、なごやかに、御台所受け入れの準備はすすんだ。  大奥の衣服調度類が、京の御所風になり、使番以下の平女中までが、櫛笥《くしげ》、鏡台などに、蒔絵を用いるようになったのは、この時からであった。  浅宮が下向して来て、江戸城へ入るや、大奥の権勢は、矢島局から、介添としてついて来た飛鳥井《あすかい》、姉小路の二〈じょうろう〉の手へ、すこしずつ、移って行った。  尤も、飛鳥井、姉小路ともに、優劣のない賢婦であったので、表面では、矢島局をたてて、何事も相談するようにしたので、目に見えた風波は立たなかった。ただ、巧妙に、大奥のすべてを、京の御所風に変化させはじめたので、矢島局も、次第に、口をつぐむようになったのである。  やがて、姉小路は、部屋子の於国という美少女を、将軍家綱の閨《ねや》へ送り込んだし、また、飛鳥井も負けずに、御台所の姉で安宮という姫宮がまだ独身でいるのをさいわい、右衛門佐局に手をまわして斡旋させて、紀伊大納言光貞へ嫁がせ、御三家の一をバックに、おのが勢力の伸張に成功した。  三年も経たぬうちに、大奥は、飛鳥井、姉小路二〈じょうろう〉の掌中に握られてしまった。  それでも、久世広之が大奥を監督しているあいだは、両者に政治向きに干渉させることは許さなかったが、広之が隠退するや、それも破られた。広之に代った御側御用人は、ただ、大奥女中の機嫌をとる幇間《ほうかん》に堕ちた。  御台所は、ただ、京の御所で身につけた躾けをかたく守るだけの、喜怒哀楽の表現に乏しい、冷たい女性であった。将軍家綱よりも、五つも年上であったし、また多病でもあったので、良人とのあいだは、円満にはいかなかった。  御台所が、生活の面白くなさもあって、しだいにからだが衰弱するのを観て、典薬衆は心配したが、あいにく、京の御所のしきたりによって、〈じか〉に診察が許されないのに、困惑した。  すなわち、診察は、糸脈といって、手くびの脈のところに長い糸をくくりつけ、二間もはなれた下座から、その端を把《と》って、うかがうのであったから、到底、脈のよしわるしが判るわけがなかった。  典薬の一人が、思い切って、 「糸脈にては、御様子一円を相うかがいかねまする故、何卒、おん手にふれさせて頂きとう存じまする」 と、願い出た。  すると、御台所は、能面のように冷たい表情で、 「わらわは、伏見家の女《むすめ》、将軍家の御台なれば、下じもの者に、手などふれさせることは許せませぬ。糸脈にて様子知れずとあれば、是非に及ばず」 と、しりぞけてしまった。  延宝四年夏にいたって、御台所は、乳房に腫物ができて、様子がただならぬことになった。典薬衆は、かわるがわる、拝診の儀を願い出た。しかし、手くびにもふれさせぬものが、乳房にふれさせる道理がなかった。  典薬衆は、いまは隠居している名医井上玄徹に、相談におもむいた。  井上玄徹は、一向宗延立寺の出身で、青年におよんで、京に上って、日本随一と称せられた李・朱医学の泰斗|曲直瀬《まなせ》玄朔について学び、正保四年、将軍家光の侍医となった。慶安四年、家光が躁鬱病にかかるや、冷水療法でなおした。寛文四年に、会津中将保科正之が、喀血して重態に陥った時も、特にたのまれて、絶対安静療法で快方にむかわせた。万治三年に、嫡子《ちゃくし》玄快に職を嗣がしめて、悠々自適の生活に入った。  隠居してからも、京に上って、天皇や東福門院を診察することがあり、老いてますます矍鑠《かくしゃく》としていた。貴戚侯伯は、疾があると、あらそって、玄徹の指図を仰ぎ、薬をもとめた。  典薬衆から相談をうけた玄徹は、その症状をきくと即座に、 「それは乳癌じゃな」 と、断定した。 「えぐり取らねば、治癒せぬが、御台様には、ご承知あるまい」  典薬衆は、すぐに帰城して、御台所に、玄徹の診察を受けるように悃願《こんがん》した。  しかし、御台所は、頑として、おのが肌を見せることを拒み、 「乳癌は、不治の症ときくゆえ、たとえ日本一の名医に診せたところで、治るものでもあるまい。もし治る病いならば、自然に治るものであろう」 と云って、ついに、その年八月に、薨去《こうきょ》した。  ところで、御台所が、降嫁のために下向して来た明暦三年の正月十八日には、江戸は大火に襲われて、その五分の三が、烏有《うゆう》に帰している。  火元は、本郷丸山の本妙寺で、俗に「振袖火事」と称《よ》ばれた。  一種の因果物語から、火が発したことになっている。  本郷のさる大店に、本郷小町とよばれる美しい娘がいて、降るような縁談の中から、ある若者が聟にえらばれた。  その婚礼にあたって、娘は、はおる打掛に、特別の好みを出した。いずれの呉服屋に尋ねても、気に入る品が見当らず、そのために、婚礼の日がのばされた。  ようやく、京の古着屋で、娘の欲する打掛が発見されて、法外な値段で買い求められた。  ところが、娘は、不幸にして、その時、喀血してしまい、縁談はこわれてしまった。  娘は、そのまま、牀から起き上ることが叶わなかった。その葬式にあたり、婚礼の晴衣になるべきであった打掛で、棺を掩《おお》うて、菩提寺の本妙寺へ送られた。  本妙寺の住職は、相当欲深い坊主であったので、その打掛があまりに見事なのを眺めて、遺骸とともに土中にしてしまうのが惜しく、ひそかに剥《は》いで、古着屋へ売ってしまった。  ところが、その後間もなく、檀家の娘が病死して、葬式が本妙寺でいとなまれたが、偶然にも、棺を蔽うているのは、例の打掛であった。  住職は、再び、それを盗んで、別の古着屋へ売り渡した。  すると、それから一月あまり後、ある商家の若い内儀の棺が、送られて来たが、住職は、一瞥して、戦慄した。  その打掛が、かけてあったのである。  住職も、ここではじめて、本郷小町の執念を思いやって、打掛を、本堂裏の空地で、回向《えこう》の上、焼きすてようとした。  と——その時、にわかに、凄じい旋風が吹きつけて来て、燃える振袖は、宙《そら》高く舞いあがり、本堂内へとび込み、たちまち、堂宇を火焔《かえん》に包み、それが、飛火に飛火して、江戸中を、紅蓮台《ぐれんだい》の巷《ちまた》にしてしまったのである。  火は、翌日まで燃えつづけ、ついに、江戸城廓内へ及んで、天守閣、本丸、二の丸をひと舐《な》めにした。  三日二夜の火がおさまると、こんどは、はげしい吹雪が江戸を銀世界にし、避難した人々の多くを、寒さと空腹で、斃《たお》した。  火と雪で仆《たお》れた死骸は、五日間もかかって、本所の一地所へ運ばれて、埋められたが、その数は十万八千も、かぞえられた、という。  江戸城では、天守閣炎上にあたって、大奥女中たちを、西の丸に避難させたが、表向きの道筋に不案内な女中たちは、右往左往するばかりで、大混乱を呈した。  松平信綱は、咄嗟の機転で、畳を、一帖ずつ裏返しにして、逃路をあきらかにして、全員無事に、避難させた。これによっても、いかに、御殿が宏壮であったかが、判る。  西の丸の台所方では、大急ぎで、炊き出しをしたが、膳具が揃わず、やむなく、大|半切《はんぎり》に、炊きたての飯を山盛りにし、数十本の杓子を添えて、さし出した。  大奥女中たちは、さすがに、手を出しかねて、互いに顔を見合せるばかりであった。  やがて、〈じょうろう〉頭の近江局が、懐紙をとり出して、飯を受けて、つまみ食いをはじめたので、一同もそれにならった。  この大火でトクをしたのは、本丸台所の賄方《まかないかた》平賀半左衛門という男であった。  平賀は、将軍家綱が西の丸へ移ったときくや、家綱の膳具一切を大風呂敷きに包んで、背負うて、西の丸へ奔《はし》った。  家綱は、おかげで、いつもの膳具で食事を摂ることができた。  平賀は、この功により、神妙の至りとして、即座に千石の加増にありついた。  この大火の被害のあまりの甚だしさに、松平信綱は、 「向後、失火した者は、最も苛酷な仕置を加えるがよろしかろう」 と、提案し、評議一決した。  たまたま、隠居した井伊直孝が登城して来て、これをきいて、その不可なる所以《しょい》を説いた。 「凡そ天下の事には、大事とみえてその実、大事ではないものがあり、これに反して、一見小事のごとくみえて、その実、きわめて大事なるものがある。出火というものは、出したくて出したものではなく、不測の災厄なので、御三家、御連枝の方々にしても、いつ、お屋敷から火を出されるか知れ申さぬ。その時、御三家、御連枝だからと申して、出火を不問にふし、下々の者どもが出火したのだけを咎めたならば、天下の政道は、立ち申すまい」  これには、松平信綱も、その理に服した。 [#改ページ]   その十 五代将軍  五代将軍綱吉といえば、すぐに、「お犬様」を思い浮べるのが相場である。人間よりも犬の方を偉いものにしてしまった男である。そういう出鱈目な命令を下すことになったのも、大奥という存在のためであった。  当時——。  明暦三年炎上の後、造営して、そのまま、長いあいだ手をつけられずにいた江戸城内には、狐狸《こり》、兎、雉子《きじ》などが、年々ふえていた。  場所柄のこととて、誰も捕えたり、殺したりしなかったので、けものたちは、人をおそれなくなり、就中《なかんずく》狐狸の類は、表御殿の大料理の間から、大奥向き、殊に長局《ながつぼね》辺の縁の下などに、隠れ棲んでいて、食物をねらって、出没した。夜はもとより、白昼でも、廊下や座敷を、悠々と歩きまわるしまつであった。  これには、女中たちも、悲鳴をあげてしまった。一同連署して、大奥支配の右衛門佐局へ訴え出たが、局も、どうして追いはらうすべも思いつかなかった。  京の御所へ、手紙を遣《や》って、相談したところ、虎は百獣の王として諸獣が怖れるゆえ、皮であっても、狐狸を遠ざける効果があるのではあるまいか、という返辞が来た。  右衛門佐局は、すこしばかげている、と思ったが、こころみることにした。  といっても、虎の皮の用意が充分あるわけではなかった。広大な大奥向き一般に用いることは不可能だが、せめて大切なお座敷にだけでも敷いてみようと考え、上意として、小納戸方《おなんどかた》へ仰せつけた。  小納戸方では、急いで、貯えている虎の皮をことごとく差上げたが、まだ足らぬので、長崎奉行の許へ、今年唐船が持ち渡って来る虎の皮の儀、悉皆《しっかい》御用に相成るにつき、到着次第に追々差出すように、と通達した。  で——御座の間に近い座敷から、順々に、虎の皮は、敷かれて行った。  しかし、ほんものの虎と、虎の皮では、狐狸に対する威嚇が、まるでちがう。  狐や狸は、虎の皮を、平気で、踏ンづけて、横行した。  そのうちに、白昼と雖《いえど》も、群をなして、遊び狂い、長局などの食物の被害は甚大になって来た。  右衛門佐局は、養子にしている桃井内蔵助を呼び、何かいいてだてはないか、と相談した。  内蔵助は、しばらく考えていたが、 「諸侯の邸内で、狐狸の被害があるとは、きいて居りませぬが、これは、番犬を飼っているためではありますまいか」 と、こたえた。 「おお、それじゃ! なぜ、犬を飼うことを思いつかなんだか——」  右衛門佐局は、膝を打った。  さっそくに、乳人岡山、河内、年寄格小山局などを呼んで、この由を伝えた。  局らは、顔を見合わせて、 「部屋部屋に、一疋ずつ犬を飼い置くことは、容易ではありませぬが、ともかく、こころみましょう」 と、とりきめた。  大奥から、諸侯へ、良犬一疋ずつ提供して欲しい、と依頼があるや、すぐに、続々と、白いのや赤いのや、大小さまざまなのが、ひきつれて来られた。  退屈な日々を送っている女中たちにとって、夥《おびただ》しい犬の到来は、もの珍しく、わが部屋に飼うのはどれがいいか、えらぶのに血眼になり、はては、つかみあいの争いまで起したくらいであった。  縁の下の狐狸どもが、仰天して、森の中へ逃げ去ったことは、云うまでもない。  しかし、御殿の食物あさりに味をしめた狐狸たちは、こんどは、将軍家生母桂昌院の住んでいる三の丸、小谷の方の住んでいる二の丸の別殿を襲うようになった。  で——三の丸、二の丸別殿でも、犬を飼うことになった。  そうした頃、一日、護持院隆光が、三の丸へ、御加持のために出仕して来た。  やたらに、犬がいるのに、おどろいた様子であったが、加持が畢《おわ》って、座談になった時、犬が飼われる理由をきくと、この狡猾な坊主は、即座に、大きく合点して、 「おそれ乍ら、御城内に犬をお飼い置きなさいますのは、これは、全く御仏《みほとけ》のおん計いかと存じまする。仔細は、上様には、戌《いぬ》の年のご誕生にていらせられ候えば、犬こそおいつくしみ遊ばされますのは、当然の仕儀かと存じまする。……ただいまは、御子孫ご繁栄をご祈願のおん事なれば、別して犬をおんあわれみあらせられて然るべきに、私儀も、そこまでは心付き申さず候て、言上に及ばざりしに、狐狸のためにご城内にあまた犬を召し置かせられますのは、凡慮の及ばざるところを、御仏の計いたもうたことと、感涙に堪えませず、有難く存じたてまつります」 と、まことしやかに言上した。  桂昌院は、生来無智な女性であった。加えて、大層迷信深かった。  これに対して、護持院隆光は、頭脳抜群の奸僧《かんそう》であった。大和添下郡二条村の貧しい農夫の倅で、同国招提寺へ、小坊主に売られたが、たちまち、その秀才ぶりを発揮し、二十歳にならぬうちに、長谷寺|塔頭《たっちゅう》慈心院の住持になった。  貞享三年、知足院住持恵賢が逝くや、護国寺住持亮賢の推薦によって、そのあとを継いだ。  江戸城へ伺候した隆光は、将軍綱吉及び生母桂昌院の前で、般若心経の色即是空空即是色の文を講義したが、その雄弁は、たちまち、将軍母子を魅了して、権僧正《ごんのそうじょう》に任じられた。  当時、将軍綱吉は、若君を早逝させ、まだあとの出生をみなかったので、あせっていた。桂昌院も、それを心配して、継嗣《けいし》誕生を神仏に祈りつづけていた。  当然、隆光にも、子孫繁栄の祈祷に丹誠を凝らしてくれるように、と下命があった。  隆光は、すかさず、祈祷所として、一宇建立あるべきものと、願い出た。  御側衆大久保佐渡守忠高が、然るべき地所を見立てる役を申しつけられ、隆光を招いて、相談した。  隆光は、心得て、 「かかる法壇は、御城の鎮護なるをもって、鬼門と申す丑寅《うしとら》の方角にあたって建立あるべきと存じます。さり乍ら、すでに、鬼門には、上野寛永寺が、その地を占めて居りますれば、恰度その反対の方角にあたる神田橋御門外なる御用地が、御城に近く、しかも北方に当って居りますれば、よろしかろうかと存じます。地鎮の修法をもって、一宇の威光をつくりましょう」 と、こたえた。  その寺院が、完成したのは、元禄元年七月であった。  綱吉は、早速、参詣にやって来たが、本坊の普請が、他の諸堂に比して、木材も粗末で、総じて出来栄えが見劣っているのに、たちまち不興になった。  綱吉は、すぐに、総奉行である大久保忠高を召出して、叱咤した。色を失った忠高は、生れてはじめて寺院普請の支配をつとめたので、万事不案内で、普請奉行堀田甚右衛門、大工棟梁小沢筑後にまかせきりにした不始末を、告白した。  この結果、大久保忠高は役を免じられ、堀田甚右衛門と小沢筑後、および木材方山角権兵衛は、三宅島へ遠島申しつけられた。  この事件でトクをしたのは、住持隆光であった。将軍家が、いかに、この新しい寺を重んじたか、という印象を、人々に与えたからである。  寺は、関東新義真言の大本山に定められ、護持院と号した。  爾来《じらい》、隆光の権勢は、日々に増大して行ったのである。  生母桂昌院から、犬憐みの儀をたのまれた将軍綱吉は、孝心の上に経学を好み、殊に最近周易を講じて、もっぱら気数循環の理を研究していたので、たちまち、それを実行に移すことにした。  犬の事、これまでの如く、無慈悲なる取扱いをすべからず、万一|違背《いはい》の者は屹度《きっと》厳科に申し付くべし、と触れ出させ、武家町家とも、犬を飼っている者は、牝牡《めすおす》毛色、年のほどまで委細書きしるして届け出させることになった。  護持院隆光は、この触れ書を見て、飼い主のない野良犬については、何人も憐みをかけずに、これまで通り放置されるのは、いかがなものであろうか、と桂昌院に言上した。桂昌院は、すぐに、綱吉に、そのことを伝えた。  綱吉は、老中たちを呼んで、一喝した。  こうなると、常人の神経ではないので、老中方も、あたらずさわらずに、事態を眺めているよりほかはなかった。 犬の毛色牝牡年齢等届出の儀最前は飼犬と申触れ候えども右は年寄共(老中の事)御旨意を伺い誤り候にて飼犬は申すに及ばずたとい主《ぬし》なき犬に候えどもその町その村に居付候は元より他所より紛れ来り候犬にてもその町その村に於て大切に飼い立て置き諸事飼犬同様相心得申すべき事  そんな触れ渡しが、日本全土へなされたので、思いもかけぬ騒動が、いたるところで起った。  野良犬など、元来が放浪癖があるから、どこへ消えるか、わからなかった。そのたびに、訴え出なければならぬ手数は、想像にあまりあった。そこで、手心で、犬の総計を合せておいた。  ところが、はやくも、このインチキを隆光が看破して、桂昌院をそそのかしたので、将軍は、またもや、老中を呶鳴《どな》りつける仕儀になった。 犬見えざる時は何方《いずかた》よりか他の犬つれ来り数を合せ置候由きこえ候右にては生類御憐みの御旨意に相背き不埓《ふらち》の至りに候|向後《こうご》犬見えざる時は早々訴え出成べく尋ね求め候様致すべく候若相知れざるに於ては其趣訴え出申べく万一|等閑《なおざり》に相心得候ものこれあるに於ては屹度曲事に申付べき事 市中にて荷車大八車牛車等にて犬をひき傷つけ候ものこれある由|兼《かね》て仰出され候御旨意に相背き不埓の至りに候向後必ず宰領一人相添右様の儀これなき様堅く相守り申すべき事  まことに、ばかばかしいことであったが、日本中の人々は、犬のために、日夜オチオチできなくなった。  滑稽な話であるが——。  大名が改易《かいえき》になるや、領知目録に添えて、城附武器類など、全部の品を記した道具目録を、受けとり方へ提出するのが制規であったが、その中に、犬何疋但何毛何歳の牝何疋牡何疋を記すことになった。  元祿十四年四月十九日、浅野内匠頭長矩が、切腹して、領地播州赤穂城を没収される際、家老大石内蔵助良雄は、この犬のことに心をつかった、という。  城内二の丸の明地に、方十間ほど区画して、犬置場をつくった。ここへ、飼い置いた犬五疋を、毛色年齢、病気の有無まで委細帳面に書いて、これを引合せて、城番である脇坂家の人へ引渡した。  城受取りのために赴いた目付荒木十右衛門、榊原采女は、大石の措置に、感服したことだった。城主を喪い、家中離散するにあたって、犬どもにまでこまかく神経を配るのは、よほど人間ができている証拠である。  ——大石は、必ず、主君の恨みをはらすであろう。  荒木と榊原は、期せずして、そう考えた、という。  さて、脇坂家では、大石から受けとった犬のうち、赤|斑《ぶち》一疋をにがしてしまった。犬は、かねて世話をしてくれていた若党を慕って、かこみを破って、奔《はし》ったのである。  脇坂家では、あわてて、所々方々を捜索したが、見当らず、当惑した。  折柄、赤穂城は、永井伊賀守直敬に与えられ、信州飯山より入部ある由沙汰があった。脇坂家では、いよいよ困って、一同相談した結果、ほかにすべもないので、死亡したことにしようとした。そこへ、普請方の小吏某が、心利いた者で、逃げた犬と全く同じ犬を、どこからか見つけて、つれて来たので、一同は、ほっと安堵したことであった。  大名の城地に於てすら、そのようなありさまであったのだから、江戸市中の迷惑など、大変なものであった。  あまりの不当さに、市井の無頼者たちが、憤怒して、夜陰に乗じて、犬を、片っぱしから、棒で擲《なぐ》り殺しはじめた。徒党十一人は、やがて、捕えられ、二人は死罪、九人は遠島を申しつけられた。  生母桂昌院は、犬のために死罪になった者がある、ときいても、平然としていた。よほど、無神経な迷信の権化であったのだろう。  生家は、二条関白光平の家臣本荘太郎兵衛正宗ということにされていたが、実は、京の八百屋の娘であった。本荘家は、名目上の養家であった。義弟宮内少輔道芳は、旗本にとりたてられて一万石をもらい、その次の平四郎も、次郎左衛門宗資と更《あらた》めて、綱吉が将軍になるや、叙爵を仰付けられ因幡守となり、七万石の大名になった。  次郎左衛門宗資は、にわか大名に似ず、ひかえめな人物で、いささかもおごらなかった。加恩官途または賜物がある時は、手を合せて、もったいない事である、冥加につくべき仕儀である、罰を蒙《こうむ》らねばよいが、と呟《つぶや》いた。  こうした人柄なので、しぜんに人気があつまり、諸大名は、しばしば国産の献上物を、宗資へも頒《わか》った。老中、若年寄なども、よく贈りものをして来た。  将軍、桂昌院が、宗資の屋敷へやって来る時などは、諸大名はわれもわれもと、宗資のご機嫌をとって、勝手に詰《つ》めんことをたのんだ。  勝手に詰める、というのは、その屋敷の勝手方に詰めている大名は、還御の際に召し出されて、将軍家からじきじきに、「世話がたご苦労であった」とねぎらわれるからであった。大名たちは、これを栄誉として、勝手詰を望んだのである。  宗資は、そうした場合、公平に、くじびきをしてもらって、勝手詰をえらんだ。  勝手詰をつとめた大名は、使者に、豪華な品を持たせて、遣して来た。宗資は、いちいち、それらの使者に対面して、両手をついて、厚く礼を述べた、という。この態度は、一生かわらなかった。  また、宗資は、居間の床の間に、三本入れの扇箱を置き、それに、銭二百文を入れておいて、毎日三度ずつおし頂いていた。  懇意の人が、 「何事のまじないでござろうか?」 と、訊ねた。  宗資は、この習慣を、数年間も、つづけていたのである。  宗資は、こたえて、 「これは、子々孫々にいたるまで、上様の御恩のほどを忘却させまいため、ひとつには、われら冥加に尽きざるようにと、おのれをいましめるためでござる。ご存じの通り、それがしは、京都にまかり在った頃は、平四郎と申し、まことに微弱の凡夫でござった。それが、桂昌院様を名目上の姉と仰いだおかげで、上様御爪の端にまかりなり候とて、江戸へ召出されました。このご下命を受けた際、それがしは、お礼のために、京都所司代衆に罷《まかり》出る際の贈品として、扇箱を持参いたそうと存じましたれど、何程の物がしかるべくか存ぜず、人々にきき合せたところ、三本入りがよろしからんと云われ、価は二百文ぐらいときかされ申した。ところが、貧乏ゆえ、その二百文さえも手元になかったのでござる。方々に才覚つかまつり、ようやく半分ととのえて、扇箱商人の許に参り、委細を申して、借り受けることにいたしましたところ、すでに、亭主は、それがしが、江戸へ召されたことを耳にいたして居り、このたびは目出度いことにございまする、とていねいに祝うてくれ、扇箱を所望いたすと、最高の品を出してくれたのでござる。それがしは、おどろいて、懐中の鳥目は百文にも足らぬと正直に打明けたところ、これは、お祝いにさしあげまする、と申し、さんざんの追従に、当方はただ肝《きも》を消すばかりでござった。それにつけても、関東のご威勢の程は、恐れ入ったもの、とつくづく感じた次第でござる。……やがて、だんだんに御高恩をもって、位がのぼり、大名衆に加えられ申したものの、これは、それがしの器量によるものでは、何ひとつなく、すべて、運だけでござれば、むかしの二百文の鳥目と三本入りの扇箱さえととのえかねたわが身を忘れず、子孫までも申しつたえようと、斯様《かよう》のまねをしているわけでござる」 と、語った。  犬に関する被害は、やがて、若年寄、御側御用人にまで、及んだ。  某日、桐之間番を勤める永井主殿という旗本が、下城の途次、数疋の野良犬に吠えかけられた。主殿は、生来大の犬ぎらいであったので、かえって、犬どもに、それを感づかれたらしい。  いくら追っても追っても、つきまとわれたので、主殿は、かっとなって、抜き討ちに、一疋を斬り殺してしまった。  法禁を犯してしまった以上、覚悟した主殿は、直ちに、桐之間番頭、内藤主膳信幸の許にいたって、委細を訴えておいて、帰宅謹慎して、沙汰を待った。  内藤主膳は、その夜のうちに、若年寄の御側御用人、南部遠江守直政を、訪ねて行き、評定方を願った。  南部直政は、かねてから、「お犬様」のことに就いて、にがにがしく思っていたので、 「この事を、正直に、評議にかければ、おそらく、永井主殿は、切腹を仰付けられるであろう。わざと殺したのではなく、狂犬が襲って来たので、やむなく、わが身を守るために処置したことにいたそうではないか。たかが、犬一疋や二疋のために、あたら、旗本の一人が、生命を喪うなど、莫迦莫迦しさも程がすぎる」 と、云った。  ところが、翌日の評定間においては、内藤主膳が、南部直政の知恵通りに、狂犬にして説明したものの、かねてから直政と不和であった喜多見若狭守重政が、 「天下の掟《おきて》は掟でござる。掟においては、人類、畜類の差別あるべからず。もし、このたびのことが許されるならば、処々方々において、このような例が起り、御制禁も相立ち申さずと存ずる。掟にしたがって、永井主殿を処罰いたさねばならぬ」 と、主張した。南部直政は、もとより、屈せずに、忠誠の士を喪うことの方が、いかに、世間に対する影響が大きいかを、説いた。  双方とも、断乎として、ゆずらないので、老中牧野備後守成貞は、やむなく、このことをそのまま、将軍綱吉に、奏上した。すると、綱吉は、みるみる不興になり、 「対手が狂気の士ならば、斬っても申訳が立とうが、犬の事なれば、いたし様もあろうに、斬りすてるとは、この綱吉の下した法令に対する反逆と思えるの」 と、云った。  将軍の口から、反逆と云われては、万事休すであった。  永井主殿は、切腹を申しつけられるところであったが、日頃将軍家身近に奉公していた士ゆえ、死罪を免じて、遠島を申しつけられた。送られたさきは、八丈島であった。  この評定以来、南部直政は、快々として愉しまなかった。  将軍綱吉の方も、直政には、声をかけなくなった。  直政は、その翌年、病気と称して、御役御免を願い出て、即日、願い通りにゆるされた。「お犬様」に対する世間の憤懣《ふんまん》が、ようやくつのって来たのは、その頃からであった。 [#改ページ]   その十一 武士というもの  一人の将軍が逝去して、次の将軍がその職を襲うや、幕府内の様相は、まるで、黒が白に変るほどの、烈しさでひっくりかえってしまう。  五代将軍綱吉が逝去し、家宣が六代を継ぐや、飛ぶ鳥を落した権臣柳沢吉保は、たった一言のもとに役を免じられた。つづいて、松平輝貞、黒田直邦、松平忠周など、いずれも、クビになってしまった。それまで、柳沢一派に白眼視されていた人々は、「ざまをみろ!」と悦んだが、前代の時、首尾のよかった人々は、薄氷を踏む心地で、安眠できなくなった。  和州柳本一万石、織田監物秀親は、信長の末裔という立派な家柄をもっていたが、ひどい貧乏で、賄賂横行の時世では、いかんともなし難く、柳沢一派から見すてられて、奥詰衆の地位を守るのが、やっとであった。  同じく奥詰衆に加えられた前田采女利昌は、越中富山城主前田飛騨守利直の舎弟であり、その宗家は、加賀百万石、前田宰相であったので、大いに裕福で、せっせと賄賂にはげんだおかげで、次第に柳沢一派の中に食い込んだ。  織田秀親が、ついに奥詰衆を免じられた時、前田利昌は、逆に叙爵され、采女正とあらためていた。  秀親は、利昌を憎悪すること、甚《はなはだ》しかった。しかし柳沢吉保が、権勢の座にある限り、無念の日々を送るよりほかはなかった。  やがて、好機がめぐって来た。  宝永六年正月、将軍綱吉が、逝去したのである。  たちまち、日頃ときめいた人々は、ことごとく斥《しりぞ》けられ、奥詰衆なども残らず御免となった。  織田秀親は、快哉を叫んだ。  二月——。  葬儀《とむらい》の勅使、院使、宣命使が下向するにあたって、右の御馳走役が、諸大名に仰《おおせ》付けられた。  中宮使中山参議兼親卿の御馳走役は、前田采女正利昌に、大准后使町尻三位兼量卿の御馳走役は織田監物秀親に、仰付けられた。  ——よし、復讐する秋《とき》は、いまだ!  織田秀親は、前田采女正に大恥をかかせてやるぞ、と武者ぶるいした。  秀親の宗家織田能登守信門は、高家である。そのおかげで、秀親は、これまで、御馳走役を勤めたことがある。秀親は、なおも、あらためて、宗家へおもむいて、委細を聞き習って、諸事の手配を怠りないものにした。  前田采女正は、御馳走役は、はじめてであったし、織田秀親がそれほどまでに自分を憎悪していようとは夢にも知らなかったので、何事も双方申し合せて、その都度、高家衆に問い合せ、指南を受ければ、万事|滞《とどこお》りなく役がつとまるものと、かんたんに考えていた。  そこで、前田采女正は、高家|肝煎《きもいり》品川豊前守伴氏、畠山下総守義寧に、諸事よろしく頼み入る旨を申入れ、また織田秀親へは、万事お打合せ申し度し、と一通りの挨拶だけしておいた。  やがて、勅使、院使らが到着するや、織田家では、かねて手配ずみであり、なんの遺漏もなく行きとどいたもてなしをした。それにひきかえて、前田家では、事毎に、織田家と打合せをするものと思っていたし、また、自分の方は中宮使の御馳走役であり、織田家は、中宮使より身分の下の大准后役の御馳走役なので、当然、織田家の方から連絡相談があるものと信じていたので、なんの手配もしなかった。  ところが、織田家からは、なんの音沙汰もなかった。気づいてみれば、織田家では、さっさと、もてなしをすすめてしまっていた。  高家衆が、見廻って来て、 「織田家では、すでに、手配ずみであるのに、御当家では、なぜ、何もして居られぬ?」 と、咎《とが》めるのに会って、前田采女正は、狼狽しなければならなかった。  ある時は、けんめいに接待をつとめていると、かえって、高家衆から眉宇《びう》をひそめられる結果となった。 「御当家は、中宮使の御馳走役ではござらぬか。このように結構に念を入れられては、勅使、院使のおん方々をもてなすのより優《まさ》ってしまう。これは、けしからぬ仕儀である。これからは、勅使、院使の御馳走役に問い合せて、それより一段軽い支度をなされたい。また、中宮使、大准后使のもてなしは、なるべく同様にされ度い。たとえば、墨絵、金屏風を用いられる時は、双方とも同様にされ、そのほか、畳、障子、襖類の手入れも、相談あって、決して一方だけがなさらぬように——」  そんな指南をされて、前田家は、手筈《てはず》ちがいで面目を失う場合が、すくなくなかった。  案内と不案内の相違は、日を重ねるにつれて、はなはだしくなり、ようやく、前田采女正は、織田秀親の底意地の悪い、憎悪の仕打ちに、気がついて、無念の〈ほぞ〉を噛んだ。  しかし、大切の御用を仰付けられている最中なので、憤怒を忍んで、前田家の方から、織田家へ、辞をひくくして、聞き合せをした。  秀親は、待っていたぞ、とばかり、 「その儀は、こちらから、伺うべきと存じて居り申した。お手前様は、中宮使御馳走役、それがしの方は大准后使御馳走役、したがって、お手前様の方を見習って相勤めるのがならわしと心得て居り申す故、何卒《なにとぞ》、左様おとりはからい下され度い」 と、返辞した。  前田采女正としては、そんな悪意に満ちたつっぱねかたをされると、途方にくれるよりほかはなかった。  また、ある時は——。  織田秀親の方から、 「この儀は、お手前様方では、如何なされるか、お伺いつかまつる」 と、問い合せて来た。  前田家では、 「その儀は、まだ心得ませぬ故、早々に高家衆にうけたまわって、ご返答つかまつる」 と、挨拶した。  そして、采女正が、高家衆の許へ、斯様《かよう》の儀は如何|仕《つかまつ》るべきや、と、指南を仰ぎに行っているあいだに、織田家では、すでに手配を調え終っている、といったあんばいであった。それと知らずに、采女正が、高家衆の指南は、斯様であったと、報せに行ってみると、いつ間にやら、ちゃんとすべてが調え終った光景が、そこにある。  ——おのれ、監物《けんもつ》め!  采女正は、はらわたがにえくりかえる思いをしなければならなかった。  二月十五日、いよいよ御法会、明日|結願《けちがん》を迎えた。そこで、当日朝、勅使、院使以下の公卿方は、寛永寺に参堂し、各御所からの御供えの御経を霊前へ呈して、焼香の儀式が催されることになった。  御馳走役は、御使いの公卿に附添って行き、諸事を取扱わねばならぬ。高家衆から、御堂で着座した時から、取扱うべき次第が、指南され、それぞれ習礼があった。  織田秀親は、すでに、この日の行事の取扱いについては、宗家の能登守から、くわしく教えてもらっていたので、万事心得ていた。前田采女正は、全くはじめての役であったので、当惑することが多かった。のみならず、中宮使の御馳走役なので、まず大准后使よりさきに、それらの取扱いをしなければならないために、どうしても、秀親に相談することになった。  そのたびに、秀親は、 「左様の儀は、すでに心得られて居ろう」 とか、 「適宜におやりなさるがよろしかろう」 とか、 「さあ、どういたすのでござろうか」 などと、空とぼけてみせたり、ひとつとして、親切にこたえなかった。  堪え難い無念を忍ぶために、采女正には、一日が一年にも感じられた。それでもようやく、所役を済ませた。  翌十六日は結願の儀式で、将軍家も参堂する。  采女正は、将軍家がお成りの際は、どのあたりでお迎えすべきか、判らず、やむなく、 「明朝はどこに控えていればよろしいか」 と、秀親に問うた。  秀親は、冷然として、 「それがしは、お手前に、指南せよ、と仰付けられて居り申さぬ」 と、つっぱねた。  屋敷へ帰って来て、一室にとじこもった采女正は、沈思二刻ののち、ついに、秀親を討つ〈ほぞ〉をきめた。  明日、上様御前の晴れの席で、秀親から、どんな恥辱を与えられるかも知れぬ。満座の中で嘲弄《ちょうろう》されては、おのれ一人の上ならず、一門の恥辱である。一身の浮沈など、もはや、どうでもよい。武士として、これほど愚弄されては、もはや我慢ならぬ。  采女正は、憤怒のために、ほかのことは何も考えられなくなった。  夜が明けそめた頃、采女正は、上野の宿坊吉祥院へ出仕した。  すると、すでに、秀親は、出仕して、燭台の前に坐して、何か書きものをしている。  采女正は、つかつかと、近づき、 「監物!」 と、呼んだ。  振りかえった秀親の面ていへ、 「おぼえたか!」  怒号しざま、抜き討ちの一撃を、あびせた。  のけぞるのへ、馬乗りにのしかかって、胸いたを、つらぬいた。  先年、浅野内匠頭が殿中松の廊下で、吉良上野へ刃傷におよんだ際、浅傷《あさで》を負わせたにとどまった例があるので、采女正は、秀親に、とどめを刺すことを忘れなかった。  事切れた、とたしかめておいて、さっと、宿坊を出て、下馬所にいたり、供のさむらいを呼び、 「にわかに腹痛をもよおしたゆえ、いったん、帰宅いたすぞ」 と、告げた。  その顔面が蒼白になり、ただならぬ様子なので、家臣たちはおどろき周章《あわ》てて、駕籠にのせた。  屋敷にもどるや、家老を呼んで、刃傷のことを打ちあけ、 「急いで、月番へ届け出よ」 と、命じた。  屋敷内は騒然となった。  もとより、その頃は、吉祥院でも、上を下への大騒ぎになっていた。  これによって、中宮使御馳走役は増山対馬守正任に、大准后使御馳走役は本多若狭守助芳に、代りを仰付けられ、両家は急遽入れ替るなど、大変な混雑をひき起した。  そのために、勅使以下公卿の参堂も、将軍家のお成りも、刻限よりはるかにのびてしまった。  刃傷のことは、前田家から届出がある前に、上野詰合の目付衆から、急使をもって、月番老中大久保加賀守の許へ注進があった。そこで、大目付松平壱岐守が、目付久留十左衛門以下従目付らをひきつれて、前田家へおもむき、沙汰中は石川主殿頭へお預けの儀を申し渡した。  やがて、石川家より、物頭一人、侍十人、徒士二十人、足軽三十人の行列で、乗物の迎えが来た。  采女正は、平常の衣服で、すこしもわるびれない態度で、乗物に乗った。いまだ妻子を持たず、家臣らとの別離も、淡々としたものであった、という。  前田采女正の処置については、幕府評定所で、種々の意見が交されたし、また宗家の加賀藩からも、慈悲乞いがあった。  将軍家宣も、先代綱吉があまりに苛察濫刑《かさつらんけい》を用いていたので、その反対に非常な大赦を行う方針をたてていたので、采女正の処置については、かなり思案の様子であった。  十八日、家宣は、老中方を召出して、 「前田利昌儀は、なろうことならば、助命いたしてやり度く思うが、死罪をゆるせば、何の刑を申し付けるべきか、一同の意見をきこう」 と、云った。  すると、小笠原長重が、こたえた。 「上意のおもむき、まことにお慈悲ふかきおん事にて、有難き仕合せに存じます。さり乍ら、このたびは、やはり、采女正にご規定の通り切腹を仰付けられますよう、願い上げまする。と申しますのも、先年、浅野|内匠《たくみ》儀、吉良上野に刃傷《にんじょう》に及び、上野に浅傷を負わせたるのみで、その夜切腹を仰《おおせ》付けられましたること、世間では、無慈悲のお沙汰と申し、浅野内匠に同情つかまつりました。家臣大石良雄が、上野を討ちとったために、さらに、内匠への同情は、深まさって居り、今日でも、噂は絶えませぬ。されば、もし、このたびの刃傷で、法を曲げて、前田采女正をお許しになれば、お沙汰の不公平を、世間は兎《と》や角《かく》申したてるに相違ございませぬ。公儀が定められたる武家諸法度が、威厳なきもの、とまで取沙汰されるやも知れず、斯様《かよう》の仕儀は、断じて避けねば、御政道上にも影響が及ぶこととなりますれば、何卒おん私情をお抑えたまわりまするよう——」  家宣も、そう云われれば、尤《もっと》もと頷くよりほかはなかった。  同日夕刻、大目付横田備中守由松、目付伊勢貞教、牧野伝蔵を検使として、石川家へ遣わされ、采女正に切腹申しつけられた。  小笠原長重は、この直言によって、公儀規定を正しくしたものの、そのために、大奥から、ひどく憎まれて、その職に長くいることができない結果をまねいた。采女正の姉は、老中松平紀伊守信庸の内室であり、大奥の〈ちゅうろう〉たちと親しかったからである。  権勢の交替は、普通の武士たちにも、大きな影響をもたらした。  内藤|縫殿《ぬい》忠毘《ただあつ》という、千二百石取りの旗本がいた。  はじめ、御書院番士であった。生来朴実の人柄で、常々精勤を励み、相番の人々にも、また新参の輩にも、親切で、いろいろ世話を惜しまなかった。しぜんに、人望がたかくなり、御書院番頭に挙げられ、布衣《ほい》(六位)の身にもなった。  ところが、元祿七年秋、家僕が、雀を捕ったことが、露見し、生類憐みの法令を犯した罪で召捕《めしと》られ、主人の縫殿も、役を免じられて、小普請組に入れられてしまった。  律義者であるだけに、このことを恥辱と思って、その後は、屋敷内にひきこもって、人々に滅多に会わぬようになった。  相番の人々は、気の毒に思って、かわりがわり、訪れては、一旦のお咎めはあっても、たかが雀一匹を中間がつかまえただけのこと故、罪を犯したというにも足らず、やがては、許されて、御書院番士にもどれるに相違ない、となぐさめていた。  その頃は、何事も賄賂次第であったが、縫殿には、柳沢一派に取り入る才覚もなく、べつにとりなしてくれる人もなかったので、次第に見すてられ、忘れられて、いつの間にか、十五年経ってしまった。  孤坐しているうちには、いかに律義者と雖《いえ》ども、次第に、世をのろい、権勢家をのろうようになる。縫殿は、柳沢吉保を、蛇蝎《だかつ》のごとく悪《にく》むようになっていた。  やがて、五代将軍が逝去し、生類憐れみの禁が解かれて、柳沢一派がたちまち失脚するや、内藤縫殿は、小躍りした。  ——近いうちには、屹度《きっと》お咎めが解かれて、もとの職にもどることができる。  かたく信じた。  しかし、葬送が済んでも、内藤家には、なんの沙汰もなかった。  十五年も引籠っているうちに、縫殿は、完全に忘れられてしまっていたのである。  そのうちに、柳沢吉保は、滞《とどこお》りなく隠居して、嗣子《しし》が家督を相違なく受け継ぐ由が、伝えられた。  これをきいて、縫殿は、ついに精神錯乱してしまった。  それほど暴政を行った柳沢が、なんの罰も受けぬ、ということが、堪え難く、憤怒がついに心を狂わせてしまったのである。  ある日、縫殿は、玄関に立つと、 「馬を引け!」 と、叫んだ。 「ただいまより、柳沢美濃守切腹の検使として、罷り出るぞ」  そのまま、はだしで、門外へ走り出た。  家人たちは、あわをくらって、追いかけて、つれもどしたが、縫殿の形相は、完全に狂人のそれであった。  別の日には、不意に、 「わしは、柳沢美濃守の甲府城を召上げられるべき上使を仰付けられたぞ。これより、甲府へ参る。早々に仕度せい」 と、喚《わめ》きたてた。  もはや、手のつけられぬありさまになったので、親類中が打寄って、相談し、千葉の奥にある知行所の別邸へ送ることにした。  縫殿には、甲府への上使として行くのだ、といつわった。  田舎の空気は、やがて、縫殿を正気に復さしめた。  人々も、もう大丈夫であろう、と平常あつかいをすることにした。  縫殿は、江戸へ帰って来たものの、狂気の最中の自分の行状が気になって、まわりの者にたずねた。  一人の侍女が、正直に、ありのままをこたえた。  縫殿にとって、これは大変なショックであった。その後は、家人に顔を合せるのも、避けるようにして、くらしていたが、某夜、発作的に、切腹してしまった。  縫殿には、嫡子を先年亡くし、わずか十一歳の次男利一郎がいたばかりであった。  いったん恢復したものの、自殺したとなれば、乱心とみなされても、しかたがない。これが、公の沙汰になれば、忽ち領地は召上げられてしまう。慈悲をねがって、家名を立ててもらっても、半地か三分の一の高に減じられるであろう。長々の年月、小普請組に貶《おと》された上に、いまこうした不慮の事になるとは、なんという不運であろう。せめて、祿高だけでも、利一郎に継がせたい。と、親類一同は、連署して、支配頭へ願い出た。  しかし、支配頭は、融通のきかぬ人物で、老中へ、内藤縫殿乱心自殺の次第を報告して、検視を願い出てしまった。検使は、視れば、まぎれもなく乱心自殺に相違ないので、そのまま、帰って言上した。  内藤縫殿家は、とりつぶしになり、次男利一郎は、行方知れずになってしまった。 [#改ページ]   その十二 賄賂  六代将軍徳川家宣は、べつだん名君というわけでもなかったが、前代綱吉があまりに突飛な言動をやりすぎたので、それに比べられて、かなりトクをした模様である。  まず、生類《しょうるい》憐みの禁令を解き、その罪に服していた多くの人々に大赦を行った。次に、旗本の士の嫡子で、十五歳以上の者を召出して、御番入りを申しつけた。  前代にあっては、権臣《けんしん》柳沢吉保に取り入った旗本の子息だけが、召出されて御番入りすることができていたのである。  旗本八万騎は、すでに、内証困窮していた。子息が、御番入りすることは、廩米《くらまい》を賜わることであったので、みな、切に望んでいたのである。  その高は、最高五百俵、少額は小十人組で百俵、その家々の祿高の多少によって定められていた。しかし、前代にあっては、柳沢吉保に取り入らない人々の子息は、その部屋住み料が得られなかったのである。  六代将軍によって、部屋住み料を賜った総数七百三十人であった。中には、十三四歳のせがれを、十六歳、あるいは十七歳といつわって、御番入りに成功した輩も多かった。  老中方で、この不正を知って、将軍家へ奏上したが、家宣は、笑って、 「親心と申すものであろう。見のがすがよい」 と、辛い吟味をさしとめた。  ところで、旗本の子息に賜わる部屋住み料としての廩米《くらまい》石代のことであるが、これは、知行所(領地)を持たぬ士らと同じで、米ではなく、金子で支給された。春秋二度にわけられた。  支給に当っては、勘定所において、その年の上中下三等の米の相場をみて、これを平均して、百俵(当時一俵は三斗五升であった)につき何十両と定めて、これを書付にして、旗本の士の登城退出に出入りする中の口という昇降口の壁に、貼り出した。  一瞥して、自分は、今期は、何十両与えられる、と判る。  これを、御貼紙と称《よ》び、この石代相場を貼紙相場といった。  この元締をなす勘定奉行は、前代の頃から、荻原近江守重秀がつとめていた。  荻原近江守重秀は、私欲を営《いとな》む質であった。  柳沢吉保にすすめて、ひそかに、蔵前《くらまえ》の札差に計って、かなり大幅なピンはねをやっていた。  すなわち。  貼紙を掲示する前に、米穀の時相場を、札差たちに書き上げさせるのであったが、百俵の平均(上中下)値段を、時の相場よりも、およそ十両ほどもひくく書き上げさせて、その相場で、貼紙をし、廩米を金に換算して、旗本たちに支給していたのである。  百俵につき十両も安い値段で、札差たちに渡して、これを時の相場で売り捌《さば》かしめれば、利潤は、莫大となる。  重秀は、この利潤を三分にして、柳沢吉保と自分と札差たちに配ったのである。  この不正は、長いあいだ、秘密の上にも秘密にして来たので、一度も表沙汰にならなかった。  武士というものは、金子のことを口にするのを恥とする風潮であったし、また算盤玉をはじくのに疎《うと》かった。上米の相場はいかほど、下米は何程、これを平均すれば、これくらいになる、などという勘定をする者はいなかった。  あるいは、一人や二人いたかも知れぬが、もし、他人に申し合せて、この不正を、勘定所へ、申し立てれば、徒党|嗷訴《ごうそ》の罪に問われるおそれがあった。  また、ただ一人で訴え出れば、大勢の人はなんの不服も申し立てないのに、一人だけ強訴するとは不届きである、と咎《とが》められるのは目に見えていたので、拠《よんどころ》なく泣寝入りに、黙っていたのである。  五代から六代にかわるや、この御貼紙の不正も、やがて、あばかれることと、期待していた者も、幾人かいたであろう。  将軍家寵妾左京の方の実弟太田内記政資は、もとは町医者であった。召出された頃は、万事殿中のことには、不案内であったが、その賜わる廩米の石代が、いかにも、世間の相場よりも安いのに、不満を抱かずにはいられなかった。  そこで、ひそかに調べてみると、勘定奉行のピンはね、と判った。  貼紙相場を、世間なみの高にさせてやろう、と肚をきめた太田政資は、江戸市中をはじめ、大坂、仙台などの米価をききあわせ、これを平均し、計算したところが、十両以上の高価になった。これを、大奥の姉の手をかりて、将軍家の耳目《じもく》に入れようと、ひそかに、書面にしたためた。  やがて、将軍家宣は、左京の方から、これを渡されて、一見して、その不正におどろいたが、かるがるしく事を荒だてるべきことではないので、機会をみていた。  宝永七年の春、そろそろ貼紙相場を出す時が来た。  将軍家宣は、ひそかに、新井白石に命じて、米穀時の相場を調査させ、これを平均した書付を手もとに置いておいた。  勘定奉行荻原重秀は、例によって、百俵十両安の貼紙相場を、老中方へ、提出した。  家宣は、この書面を一瞥するや、 「これは、書き損じであろう。百俵二十七両とは、不審である。これは、下米の相場であろうか」 と、問うた。  老中たちは、将軍家が意外にも、米相場について知識を持っているのに、おどろいた。  退出した老中方は、すぐに、荻原重秀を呼び出し、この不審は上意である、と伝えた。  機敏な重秀は、  ——しまった! と、内心狼狽したが、おもてへはみじんもあらわさず、 「これは、たしかに、書き損じつかまつった。三十七両のまちがいでござる。早速に、訂正つかまつる」 と、詫びた。  老中方は、さもあろう、と頷き、この由を、家宣に言上した。  家宣は、表沙汰にせずに、勘定奉行をたしなめたのを、内心得意に思い乍ら、 「近年は、旗本たちの内証も苦しい、ときいて居る。一両を増して、三十八両の割で支給してつかわせ」 と、命じた。  重秀は、老中方から、この達しを受けて、  ——なんというたわけ沙汰か! と、むかついた。  三十八両の相場にすれば、自分や札差の利潤は皆無になるばかりか、逆に、公儀御勝手は赤字となる。  重秀は、思案の挙句、大胆にも、三を二に改め、二十八両としたためて、中の口に貼り出した。  この中の口は、旗本たちが出入するだけで、老中方には、俗に老中口という別の中の口があった。したがって、老中方は、貼紙を視る機会がなかった。そこが、重秀のつけ目であった。  ところで、勘定奉行の不正をあばいた太田政資は、今期こそは、正しい貼紙が掲示されるであろう、と愉しみにしていた。  ところが、いよいよ貼り出されたのを眺めて、眉宇をひそめた。たった一両だけ増してあるにすぎないではないか。  ——こんなばかげた話はない。  政資は、憤りのままに、その夜のうちに、書面にしたため、妻を使いにして、左京の方の許まで、さし出した。  当夜、左京の方の部屋に現われた家宣は、この書面を視せられて、 「これは、何事だ!」 と、立腹した。  翌朝、老中方を召出した家宣は、 「先日、貼紙相場の儀は、三十七両の申出を、諸人救いのため一両増して、三十八両と定めるよう、申し渡しておいた。そちらは、その儀を、しかと、勘定奉行へ申し渡したか?」 と、尋ねた。  老中方は、家宣の険しい気色をうたがい乍ら、上意の通り申し渡して居ります、とこたえた。  家宣は、不快げに、 「貼紙には、二十八両としたためてあるぞ!」 と、叱咤した。 「左様なことは——」  一人が、信じられぬ、と弁明しかけたとき、茶坊主が、貼紙を中の口から剥いで、持参して来た。  家宣は、それを把《と》るや、老中方の前へ、抛《ほう》った。 「これを、視よ!」  老中方が覗いてみると、たしかに、二十八両としたためてある。  唖然として、老中方は、言葉もなかった。  やがて、重秀は、評定の間へ呼び出されて、 「そこもとは、たしかに、三十八両としたためて、貼り出したか?」 と、詰問された。 「相違ありませぬ」  重秀は、胸中ぎくっとし乍ら、しゃあしゃあ、とこたえた。  重秀の膝の前へ、貼紙が置かれた。  重秀は、仰天した面持で、 「これは、なんという不届きでござろうか! 下役共の書き損じでござる。もとより、ひとえに、それがしの不念のいたり、申しわけありませぬ」 と、謝罪した。  追っての沙汰を待つべし、と申し渡されて退出した重秀は、すでに、罪に問われた時の申しひらきを用意しているとみえて、すこしも動じていなかった。  重秀は、しかし、弁明は許されず、役儀に念を入れざる段|不束《ふつつか》なれば永久|逼塞《ひっそく》、という咎めを申し渡されて、勘定奉行職を免じられた。  家宣が、あらたに将軍として、意を傾けたのは、礼節儀容のことであった。  家宣の妻|※[#「冫+熙」、unicode51de]子《ひろこ》の父は太閤近衛|基※[#「冫+熙」、unicode51de]《もとひろ》であった。当時、堂上第一の学匠有識の達人であった。  宝永七年正月に、近衛太閤は、多くの公卿をひきつれて、江戸へ下向して来た。  その年頭の儀式に、公卿と諸大名旗本の進退があまりにもへだたりがあるのに、家宣は、ひどくはずかしい思いをしたのである。  家宣は、新井白石を呼んで、近衛太閤に、しばらく江戸へとどまってもらって、礼節儀容についての教授方を乞え、と命じた。  将軍家にとって、佳節の儀式とか、神廟や寺院への参詣は、最も重大な行事であった。  その時の服装が、まだはっきりと定められていなかった。  たとえば——。  三代家光の時から、夏に大成殿(湯島聖堂)へ詣でるならわしがあったが、その儀式は、その時々で一様ではなかった。  家宣は、まず、その儀式から定めたいと思って、新井白石を遣《つかわ》して、近衛太閤に、問わせた。  近衛太閤は、 「京の都には、大成殿が存在いたさぬゆえ、予らも参拝の事がなく、別に申しようもないが、あえて申せば、往古に、釈奠《せきてん》の儀があれば、これを本にして、斟酌《しんしゃく》いたせば、いかがであろうか」 と、考えてくれた。  釈奠の儀において、最も大切なのは、衣服である。まず、これから、定めなければならぬ。  これまで、将軍家が、大成殿への参詣にあたっては、束帯であったり、裃《かみしも》であったりした。しかし、元来裃などは、粗野の服で、礼にはずれている。束帯は、殿上の正服であるから、礼においてはもとよりわるくはないが、束帯に着する袍《ほう》は円領《えんれい》であり、これは胡服の制であり、古く朝廷釈奠には束帯を用いなかったものである。  そこで、まず、いちばんよろしいのは、直垂《ひたたれ》であろう。これは、直領で、濶袖《ひろそで》である。いかにも、大成殿に詣でるにふさわしい。冠は、烏帽子《えぼし》がよろしかろう。しかし、烏帽子には、立烏帽子と風折烏帽子のふた様がある。直垂には、近世風折を用いるが、風折はもともと路上でかぶるものであるゆえ、立烏帽子の方がよろしかろう。  こういうあんばいに、徳川家の儀容は、近衛太閤によって、定められていった。  大奥の方もまた、近衛太閤の女《むすめ》である御台所|※[#「冫+熙」、unicode51de]子《ひろこ》によって、生活全般にわたって、京風にあらためられていった。  大奥の女中たちにとって、徒然《つれづれ》のなぐさみの催しは、必要であった。御台所は、その催しのひとつに、京の御所の舞楽をのぞみ、父太閤へ、京から左方、右方の楽人に、舞いに達した女《むすめ》を、下向させて欲しい、と所望した。  間もなく、それらの人々は、江戸へ下って来た。  〈じょうろう〉〈ちゅうろう〉お年寄などの許で召仕えている部屋子たちに舞いの指南、御台所の方は左方、側妾の方を右方として、日々稽古にはげみ、やがて、それぞれに、習いおぼえた。  舞楽の催しは、以来、月に一度か二度、必ずひらかれ、はじめは、御台所のなぐさみであったが、後には、将軍家も見物するようになった。  当然——。  大奥に於ては、舞楽のための舞台が欲しい、という話がもちあがって来た。  さきに、廩米《くらまい》相場不正のために、勘定奉行職を追われた荻原近江守重秀は、この噂を耳にするや、おのれが、再びひと花咲かせる機会が到来した、と北叟笑《ほくそえ》んだ。  その頃、将軍家嗣子鍋松が、病弱で、よく臥牀していた。  さきに、家千代、大五郎の二子を早世させた家宣は、鍋松の病弱を、心配していた。  鍋松が、急性肺炎にかかって、生死の境をさまよいはじめるや、家宣は、殿中の典薬たちが調進する薬を、効験なし、とみて、鍋松の生母左京の方の実弟太田政資に、 「市井から、小児の病いにかけての上手をさがして、つれて参れ」 と、命じた。  太田政資は、元町医であった。  政資は、ただちに、町医の中から村上養順をつれて来て、表医師の奥山交竹院に協力させることにした。  奥山交竹院は、表医師から奥医師に転じ、村上養順とともに、鍋松の治療にあたった。さいわいに、鍋松は、快方にむかった。  奥山交竹院は、二百俵加増、村上養順は、時服五重、白銀五十枚を賜った。  荻原近江守重秀は、この奥山交竹院と、懇意の間柄であった。  重秀は、まず、鍋松が全快するや、奥山交竹院に、夥しい金銀を贈った。  交竹院が答礼のために、荻原邸をおとずれるや、この日を待っていた重秀は、四方山話の後、長嘆息して、 「武士というものは、辛いものでござる。……私をすてて、公儀のおん為と思ってなしたことが、仇となって、いまは薄氷を踏む身と相成り申した」 と、云った。  交竹院は、その仔細を問うた。  重秀は、侘しげな微笑をつくり乍ら、 「世間では、それがしが、貼紙相場で、私腹をこやした、とそしって居り申すそうな。とんでもない誤解でござる。……御先代の頃から、公儀御勝手向きは、非常に差迫って居り申した。その上に、たびたびの地震、富士山焼けのための砂降りなどで、御料所の収納は莫大の減少、つづいて、御先代及び御台所《みだいどころ》の薨去《こうきょ》、上様本丸お移りのための御殿向きお手入れ、模様替えなど、まことに、おそるべき費用のかさみかたでござった。しかし、それがしは、おのが一人の計《はから》いで、何ひとつ御間《おんま》を欠いたこともなく、万事|滞《とどこお》りなく相済ませて来申した。この功は、たとい御賞はなくとも、すこしは、上様には思召し汲ませたもうかと存じて居ったところ、世上の噂をおん耳にされて、かえって、それがしをお悪《にく》みあそばされ、かくのていたらくとなり申した。それがしが、貼紙相場を、世間相場より幾両か安くいたしたのも、公儀御勝手向きのための、やむなき手段《てだて》でござった。何者かの讒言《ざんげん》によって、私腹をこやしたことにされ申したが、おぼえもなき仕儀でござる。……貴所は、折おりは御前へ罷り出られるゆえ、おついでの節、それがしが決して不正を働いたのではないことを、よしなにおとりなし下さることはできますまいか」 と、たのみ入った。  交竹院は、途方もないくらいの金銀を贈られていたので、大いに頷いて、必ず上様のおん耳にとどくようにはからおう、と約束した。  奥山交竹院は、鍋松の急患を癒《いや》したので、生母左京の方から、大層な信頼をもらっていた。  交竹院は、しかし、荻原重秀のことを、左京の方へ、じかに伝えずに、左京の方付きの絵島という女中にたのんだ。絵島の生家とは、きわめて懇意の間柄だったからである。  交竹院は、重秀に、身が潔白であることを、箇条書きさせて、それを絵島に渡した。  重秀からは、絵島の生家へ、夥しい金銀が、贈られた。  この賄賂は、たちまち、功を奏した。  絵島から、左京の方へ、重秀が意外にも公儀のために努力した忠臣である旨が告げられた。  重秀が失脚したのは、左京の方が実弟太田政資の訴えをきいたためであった。  左京の方は、すこしばかり頭脳の弱い、単純な女性であった。  左京の方は、交竹院を呼んで、重秀の人柄をきき、当代稀にみる誠実の士である、というこたえに、  ——申しわけないことをした。 という気持になった。  この間にも、荻原重秀は、腕を拱《こま》ねて、待ってはいなかった。  左京の方の老父太田宗円が重病ときくや、これ幸いと、人参十斤に鮮鯛一折、黄金百枚を贈っている。  太田家では、こんな仰山な贈りものに、きもをつぶした。  重秀は、さらに、左京の方が、大奥に上るにあたって、養家とした勝田帯刀家へも、住居修繕の作事落成ときいて、その祝いにと、鯉一桶に、牧谿《もっけい》の山水の掛物(時価三百両)を添えて、贈った。  勝田家でも、あまりの大変な品に、おどろいた。しかし、これも、次代の将軍家となられる若君の御生母を出した家に対する礼儀であり、畢竟《ひっきょう》は、お上の御威光に依るものであり、上を敬う志なれば受けねばなるまい、と勝手な道理をつけて、受納してしまった。  一度、賄賂をとってしまうと、とった方は弱くなる。  太田家からも、勝田家からも、左京の方に対して、荻原重秀が、身におぼえのない罪のために逼塞《ひっそく》している故、どうか上様へとりなすように、とたのみがあった。  重秀を失脚させた張本人の太田政資も、しだいに、  ——わしのまちがいであったかも知れぬ。 と、思うようになった。  荻原近江守重秀が、勘定奉行に復職したのは、それから半年後であった。  荻原重秀が、復職して、まず最初にやった仕事は、大奥の広庭に、舞楽の御殿を建築したことであった。  こんどは、重秀は、事をなすのに慎重であった。  朝鮮使節が出府して来る時をねらい、近衛太閤をうごかして、老中方に、舞楽御覧所の造営を許可させたのであった。  近衛太閤は、もとより、どれぐらい莫大な費用を要するか知らずに、見事な御殿を設計してやった。  それによって、重秀は、全国から秀れた御殿大工を集めて、思いきりの仕事をさせた。  奇木良材は、おしみなく、あつめられ、すてられ、えらびのこされた。御座所の床柱などは、沈香木が用いられた。これは、三代家光の時、家光像を彫らせるために、特に、長崎奉行牛込忠左衛門に命じて、清国商人からもとめた二本のうちの一本であった。一本は、木像にされたが、あとの一本は、糒蔵《ほしいぐら》の中に貯蔵してあったのである。  舞楽の御殿は、こうして費用七十五万両をかけて、完成した。  重秀は、この建築で、三万両を私腹に入れた。  大奥の女中たちは、こぞって、重秀の功を賞美した。  将軍家宣も、数百人の女から賞美された男を、すてておくわけにもいかず、五百石を、加増した。  重秀は、この仕事によって、おのれを、公儀随一の辣腕《らつわん》と自惚《うぬぼ》れるようになった。  重秀は、舞楽御覧所の普譜と、朝鮮使節来朝などの臨時出費で、御勝手向きにかなりのさしさわりができたゆえ、それを埋めるための手段として、金銀貨幣の改鋳《かいちゅう》を申し出た。  老中方では、これをしりぞける理由がなかった。  一人、反対したのは、新井白石であった。  悪貨幣の濫造《らんぞう》が、いかに国を衰弱させるか——古代からの例をひいて、将軍家を諫《いさ》めた。しかし、家宣は、いつの間にか、白石よりも、重秀の方を、信任するようになっていた。  白石が、咎めを覚悟で、再度いさめると、家宣は、 「才徳を兼備した人物は、世になかなかあるものではない。近江には、たしかに徳はない。しかし、その才は、国家の用に立つものであり、斥《しりぞ》け難い」 と、こたえた。  こう云われては、白石も、しりぞかざるを得なかった。  家宣は、白石をしりぞけたものの、内心いささか不安になり、ひそかに、目付方に命じて、金禄の品位を改めさせ、しかる上で鋳造する様にさせることにした。  老中方では評議の結果、大目付横田備中守由松、御目付長崎半左衛門、永井三郎右衛門の三人をえらんで、金銀品位改め役にした。しかし、三人とも、貨幣改鋳には不案内の人物たちで、重秀の巧妙な弁舌に、まるめこまれてしまって、その不正をあばくことは、できなかった。  重秀が、やがて、破滅したのは、皮肉にも、あれほどおのれを賞美させた大奥女中たちの手によってであった。  荻原重秀を蛇蠍視《だかつし》したのは、新井白石のほかに、あらたに老中になった大久保加賀守忠増であった。  加賀守忠増は、賄賂行為を最もきらった。  月番になるや、大奥に対して、出入商人がさまざまの贈りものをするならわしを、一切禁じてしまった。女中たちは、忠増を、憎んだ。  忠増は、女中たちにむかって、 「石塊同様の小判をもらって、なにがうれしかろうか」 と、高言した。  荻原重秀が、粗悪きわまる金銀貨幣を濫造するのを、罵倒したのである。  小判は、銀と銅の%が多すぎ、質が硬くなった上に、肉が薄くなったので、取り扱ううちに、裂け損ずるものまで、出て来ていたのである。  重秀は、大奥へ差上げたり、女中輩の手に入る給金などの小判には、金座銀座で念を入れた品をえらんでいたので、ボロを出さなかった。  したがって、御台所はじめ、女中たちは、世間が非難するほど、貨幣が粗悪であるとは、思っていなかった。  そのうちに、女中の一人が、下男に、近頃の金銀は裂けたり折れたりするときくが、本当であろうか、と訊ねた。  下男は、すぐに、その通りでございます、とこたえて、二つに折れた一分銀をさし出した。  大奥というところは、退屈な世界である。ちょっと珍しい事が起ると、大さわぎになる。  たちまち、女中たちは、下男や陸尺《ろくしゃく》から、折れたり裂けたりした貨幣をさし出させた。それは、夥《おびただ》しい数になった。  御台所にも、このことがきこえた。  御台所は、それらのこわれ貨幣を、引き換えてやり、ある宵、家宣が入って来ると、念のため御覧下さいますように、とさし出した。  家宣は、あまりの粗悪な品に、唖然となった。  翌日、家宣は、新井白石を召して、黙って、まっ二つに折れた小判をさし示し、 「そちの言葉が、正しかったようじゃ」 と、云った。  白石は、おのが懐中からも、粗悪の見本になる貨幣をとり出してみせ、 「上様が、いつお気づきあそばされるか、首を長うして、お待ち申上げて居りました」 と、こたえた。  その日のうち、老中方の面前へ、重秀は、据えられた。  重秀は、しかし、いささかも動ぜず、答弁した。 「金銀改鋳の儀は、すでに御先代のおん時に、仰せを蒙《こうむ》って、取り計ったる次第にて、このたび、将軍宣下にひきつづき、琉球朝鮮の来聘《らいへい》など御大礼うちつづき、巨多の御入用を要する上、諸事改正のため、別して御費用多端につき、御勝手さしつまり、結局は、改鋳して、当座をしのぐよりほかに、すべなく、お許しを蒙りて、粗悪の金銀を世上に通用させる儀は、まことに、よんどころなき儀にござる」  これをきくや、大久保忠増は、すぐに、目付を呼び、 「勘定奉行邸、ならびに金座より、公儀許可の品質を記載した帳簿と、実際に改鋳いたして居る金銀銅の割合についての、職人どもの聞き書きをとって参るように——」 と、命じた。  それから、懐中から、二枚の小判をとり出して、ならべた。 「近江守、こちの方は、お手前が、前年、かくの通り鋳造つかまつると申して、さし出した雛形《ひながた》である。こちらは、先日改鋳した品じゃ。……見くらべるがよい。素人目にも、あきらかな相違がある。後者の方は、縁まわりのところだけ厚くして、中の部分は、殊のほか薄く、これで、裂けなければ、ふしぎと申すもの。……お手前の屋敷には、けずり取った金が、山と積んであるのであろう。そろそろ、このあたりで、観念しては、いかがじゃな。わが世の春も、おわりと相成ったとみえ申すぞ」 と、きめつけた。  やがて、帳簿と、職人の聞き書きがてらしあわされ、その不正は、かくしようもなくなった。  即日、重秀は、勘定奉行職を免じられ、加増によって所有した三千七百石のうち、三千石を召上げられ、逼塞を仰付《おおせつ》けられた。  重秀は、はじめ四百石であったが、柳沢吉保と棒組になり、金銀改鋳の功によって、しだいに加増されて、三千七百石にまでなっていたのである。  重秀は、逼塞中、毒を仰いで、死んだ。  その後、帳簿が、くわしく調査された結果、金銀貨の改鋳によって、重秀が私した金高は二十六万両と判明した。その家来の長井半六という者ですら、六万七千三百両をへそくったことが露顕した。  重秀は死んだし、半六も逃亡して行方不明になっていたので、積悪《せきあく》の咎めは、表沙汰にはならなかった。 [#改ページ]  解説 稲垣史生 江戸の武家と町人について  本書は柴田さんの江戸随筆とでもいおうか、珍らしいノンフィクション・フィクションである。江戸っ子あり、敵討《あだうち》あり、お家騒動あり、遊女も出れば大奥女中も出てバラエティに富む。小説の種本を渉猟《しょうりょう》ちゅう、おもしろいものを読み物にまとめたのであろう。さすがに器用である。  とだけでは解説にも書評にもならない。そこでバラエティある各章に共通の、江戸生活の基本事項をのべて、通読するのにより興味を呼びたいと考えた。  江戸はいろんな分野で研究書が少なからずある。風俗的・情緒的分野、あるいは経済史的・社会学的な分野もひらかれてきた。が、すべての分野の根底にあるのは、封建制のバックボーンたる士農工商の身分である。この基礎観念なしには、江戸に関して何ひとつ理解できないといっても過言ではあるまい。  江戸は中期以後、百十万の人口を擁する世界一の大都会である。ロンドンの五十万、パリの五十四万をはるかに抜いていた。  が、その百十万は今日と違い、画然《かくぜん》と武士および町人に分れ、武家は武家地に、町人は町地に住んで混淆《こんこう》することがなかった。その都市計画は大火毎に強行されたもので、軍事上・経済上、ほぼ理想の城下町を形づくっていた。  江戸城の正面、常盤橋から丸の内へかけての内郭は、幕府重役および譜代大名邸で固め、その外に桜田から愛宕山下まで、要注意人物の外様の大大名屋敷をおいていた。要所を外し、監視に便利なように……。  一方、城の北方番町から、飯田町・小川町・駿河台にかけては、びっしり旗本屋敷を配して搦手《からめて》を守った。兵卒たる御家人はその外まわりや、川向う発展策のため、本所・深川の組屋敷に住まわせた。  町地は城の前面、日本橋を中心に商店街ができ、呉服の越後屋、たばこの磯屋、菓子屋の風月堂など大店《おおだな》がならんだ。この辺り、城の前だから〈江戸前〉という。  その表通りから、ひと曲りの横丁や新道には、荒物屋や酒屋・乾物屋など小体《こてい》な店があり、大工の棟梁や鳶《とび》の頭が住んでいたりもする。大工といえばほかに左官や畳職など、職人はたいてい同業寄り合って神田一帯に住んだ。紺屋職人もそうで、染物を干竿《ほしざお》たかくひるがえすのも、神田独特の風情であった。  番町・駿河台が武蔵野なごりの台地であり、いわゆる江戸前はもと入江の埋立地であった。よって前者を「山の手」、後者を「下町」と称したが、それは高所の住人たる武家が、下方《かほう》の町人を見下《みくだ》す、階級的姿勢をも象徴していた。  武家は幕臣の旗本・御家人と、諸藩の江戸勤番侍に分れる。 〈旗本八万騎〉というが実は五千三百人、御家人(二百石以下)は一万七千二百人で、計二万二千五百人であった。一家五人家族とし十一万二千五百人、その家来や家来の家族、および中間《ちゅうげん》・小者など奉公人が十万として、合計二十一万二千五百人となる。  大名は幕末で二百七十家、平均して一藩の江戸勤番が二百人で、その半数が家族持ちだとすると十六万二千人、ほかに奉公人を十万とすれば二十六万二千人である。  したがって幕臣および藩臣、それに浪人を入れて江戸在住の武士はざっと五十万となる。  これに対して町人は、享保十八年(一七三三)で五十三万六千、安政二年(一八五五)で五十七万三千人であった。こっちの方は人別帳による集計だから確かである。以上、武士と町人を合せ、江戸の人口は百万から百十万となる。  ところで、江戸の総面積は幕末で千七百五十万坪、そのうち武家は約六〇パーセント、さらに寺社地が二〇パーセントあって、五十万人の町人は残りの二〇パーセントの三百五十万坪に押しこめられていた。  武士は支配者であり、町人は被支配階級である。侍は斬り捨てご免で罷《まか》り通り、刑法も庶民を対象として武士に及ばない。武士が罪を犯せば自ら恥じ、自決するのが建前であった。江戸は江戸城に象徴されるとおり、あくまで武家の町であった。 驕《おご》る者・札差と材木問屋  ところで、この百十万市民が食い、日々消費する生活必需品は何処から、どんな方法で入ったか? 米だけでも一人一日五合として五千五百石、年間百九十八万石となる。当時日本の米の生産高は三千八百万石だから、ざっと二十分の一を江戸だけで喰いつぶした。  旗本はだいたい年貢を金納させたが、知行地が近いから自家用米だけは馬で江戸へ陸送させた。小旗本と一万七千の御家人は、すべてサラリーとして三度に分けて幕府から現物の米で給与された。これは勘定奉行発行のチケットで、浅草にある幕府の米蔵から受け取るシステムであった。その米蔵へは関東の幕領からは陸送で、遠隔の直轄地なら船で江戸へ送られ、隅田川に臨む米蔵へ運び入れられた。舟便のあるところは遠国でも船である。出羽国村山郡の幕領米など、東廻りは海の難所があるため、はるばる下関まわりで運ばれて来たのである。  諸藩の江戸藩邸消費分も、近くは陸路、遠国のばあいは舟便によったが、計算ずくでそっちが得なら、市中の米を買うこともあった。  町人の食い分は諸藩の余剰米を、主として大阪商人の手を経《へ》て搬入されて来る。商都の大阪に各藩とも、蔵屋敷なる出張所があって自国の産米を各地の商人に売りさばいた。そのうち肥後米・筑前米など、慶応元年(一八六五)には七万一千俵も江戸へ運ばれている。  ではこの町人消費分は、どこの米蔵へ入るかといえば、隅田川左岸の深川佐賀町あたり、いわゆる「江戸湊」に建ちならぶ米問屋の倉庫へ運ばれた。ここは右岸の幕府米蔵と共に、江戸の消費米の一大貯蔵庫ということができる。すなわち百十万市民の食う日々の米は、隅田川の両岸に貯えられていたのである。  米だけではない。大麦・小麦・大豆・胡麻、酒・味噌・塩や油、薪炭《れんたん》・木綿や綿まで日々欠かせぬ品々が、同じく大阪商人の手を経て運びこまれ、厖大なストックとしてここに眠っていた。明暦大火(一六五七)の折り救恤《きゅうじゅつ》用に出庫した分だけでも、米十万七千俵、大豆一万八千俵、酒四万七千樽に上った。恐らく幕末には、この数倍の量があったに違いない。  元禄(一六八八〜一七〇三)にはじまるインフレは、どんどん物価を釣りあげた。深川の倉庫に唸る必需品は、置いとくだけで数倍に値上りした。その筆頭は材木で、木場の掘割に浮んでいるだけで、大火がある度に十数倍にはね上った。災害につけこむ〈あこぎ〉な商法で、笑いのとまらぬほど儲けたのが木材問屋の紀の国屋文左衛門・奈良屋茂左衛門である。紀文は吉原の遊女を総揚げし、大門を三度まで閉めさせたし、奈良茂は深川黒江町の目算《もくさん》御殿で、連日、酒池肉林の狂宴に明け暮れるの驕《おご》りをつくした。  その点、ひけを取らぬのは蔵前の札差であった。旗本・御家人は年に三度、給米を浅草の米蔵へ取りに来る。一万七、八千人がいちどに来ては混雑するので、蔵前の茶店へ米切手をあずけて引取り方を頼んだ。頼まれた茶店の亭主は取って来た米俵に、誰それの分と、俵に名札を差しておいたので「札差」の名が生れた。  はじめ百俵につき金一分の手数料だったが、インフレのため武家が窮乏すると、給米を担保に札差から金を借りるようになった。札差は武士の弱味につけこみ、法定利率を無視して年二割で貸した。ほかに手数料だの、保証の「奥印金」などと色んな名目で取れるだけ取った。自分の金でありながら他人の金だといい、紹介料や成功謝金を取るひどい奴もいる。算勘にうといのが武士の誇りだから、借りた金の四割も天引きされているのに、よしよしと澄している借り手だから札差は笑いが止まらない。  もし、期限が来ても返さなければ、吊り眼におはぐろのやり手婆みたいのを武家の玄関に坐りこませた。 「さあ返せ。返すまで動くもんか」  としゃがれ声で叫ばせる。押しのけて登城しようものなら、どこまでも駕籠や乗馬にまつわりついて来て、結局、体面負けで家宝など売って返済することになる。明和(一七六四〜七一)の吉原で「福の神」といわれた大通《たいつう》の大口屋暁雨も、この札差という名の高利貸であった。  木場に近い本所には、食うや食わずの安御家人がいる。札差にほとんどの幕臣は頭が上らない。こうなると身分が上の武士はぺちゃんこで、悪徳商人の方がてんで凄まじい勢いである。文化・文政(一八〇四〜二九)からだいぶ世の中がおかしくなって来た。 武家・町人のあべこべ現象  幕臣でも非役の旗本・御家人は、勤務手当がないので特に苦しかった。そこで始めたのが傘張り・竹細工・木版彫りなどの内職だが、凝《こ》りすぎてその道の名人になった者さえいる。また仲買と交渉するため、いつか物腰や言葉つきが町人同様になった。武芸の腕はとっくに怪しくなり、御家人の佐々木市五郎は、夜中、近所の酒屋へ酒を買いにゆき、遅いからと断られたため斬りつけたが、かえって番頭にたたきのめされて帰った。酔って町人にからみ、掘割へ投げこまれた情けない旗本もいる。  何よりもいかんのは拝領の武家地を、内緒で貸して闇地代を取ったこと。警察官の町方同心さえ、宅地の一部を貸して役得にした。さすがに気が引けて町人には貸さず、儒者と医者にだけこっそり貸した。八丁堀の七不思議、 「儒者・医者・犬の糞」 は、目立って多いものをあげたのだ。  これとは逆に町人は意気|軒昂《けんこう》、金銭のもめごとで武士が暴れても、たいてい算盤《そろばん》を武器に相手になった。或るとき斬りこまれて算盤がなかったので、左手で刀を受け、右手で侍をとり押えたという。まさに武士と町人が逆転した。腕立てだけではなく、身なりも何となく侍臭くなり、鮫《さめ》ざやの脇差をさし、足を八文字に開いて歩くふうを生じた。  あげくの果て始まったのが、旗本株・御家人株の売買である。植木屋じゃあるまいし、株というのも変なものだが、株はすなわち身分のこと。封建制の要《かなめ》どころだから、もちろん非合法で見つかれば切腹ものである。そこで町人を養子にし、同時に自分は隠居することで形だけととのえた。養子が莫大な持参金づきであることは言うまでもない。  身分制が崩れては、もう幕府の命数も知れたものだ。維新の動乱が二十年後に迫っていた。