[#表紙(表紙.jpg)] 柴田よしき 紫のアリス 目 次  第一章 三月ウサギ  第二章 奇妙な帽子屋  第三章 お茶会の午後  第四章 悲 劇  第五章 白い薔薇・赤い薔薇  第六章 思い出の隙間  第七章 鏡の中へ  第八章 紫のアリス  エピローグ 鏡の国のアリスへ    あとがき [#改ページ]   第一章 三月ウサギ      1  気がつくと、桜の木があった。  その桜は早咲きで三月に咲くので弥生《やよい》桜と呼ばれているのだと、誰かに聞いた憶えがある。  だが今年の桜はとても早くて、ソメイヨシノでさえが満開に近く開いている。三月もあと数日で終わり。弥生桜は、名残だった。  紗季《さき》は弥生桜の横のベンチに、思わず腰をおろした。そこで座って見上げると、街灯に照らされた夜の公園の静寂の中に、ちらちらと散る花弁がまるで何かの舞台の演出のように、冴《さ》え冴えと美しい。  疲労感が足元から上へと少しずつせりあがって来る。  紗季は抱いていたはずの紙袋を探した。見当たらない。  ゆっくりと視線を周囲に向けて、ようやく桜の木のすぐそばに落ちているのに気付いた。いつの間に落としたんだろう?  億劫《おつくう》だったが仕方なくまた立ち上がり、紗季は紙袋を拾い上げた。幸い、汚れていなかった。  のろのろとまたベンチに戻ると、紗季は袋を開けて、中から数枚の書類を取り出した。退職金の計算書と、厚生年金の証書。失業保険の手続の説明が印刷された『退職される方の手引き』。  これで取りあえず、何もかも終わった。  だが、本当にこれで済んだとは思えない。  しかし考えるのが面倒だった。考えても仕方ないのだ。もう、取り返しはつかないのだから。  なるようになれ。  紗季は溜息をひとつついて、また桜の花びらを眺めた。  都内とはいえ、この辺りは団地が多く、夜になるとめっきり人通りがなくなる。この児童公園も、昼間なら公園ママと小さな子供達でけっこう賑わっているのだろうが、今はまったく人の気配がない。  だが恐怖は感じなかった。痴漢が出没するらしいという噂もあったが、今の紗季にとっては痴漢など、どうでもいい存在だ。出るなら出たらいい。犯されるならそれも仕方ない。そのくらい、紗季の心は気力を失い、投げやりだった。  いっそ。  いっそ、死んじゃおうか。  紗季は暗闇の向こう側に行儀良く並んだ団地の窓を見つめた。白く四角い光が、何列も並んで暗い空に向かって連なっている。あの窓二つにひとつずつの家庭。何人かずつの人間。  多すぎる。  紗季は唾を吐いた。  人間が多すぎるのだ。だからあんな小さな場所に押し込められて生活しないとならない。あんな生活が楽しいわけがない。  あの四角い窓が全部、今、たとえば空から降って来た巨大な隕石《いんせき》にでも押しつぶされてしまったら。  きっと、すごく愉快に違いない。  紗季は鼻歌を歌った。歌というのは、陽気な時じゃなくても歌いたくなるもんなんだな、と歌いながら思った。  春の夜風はけっこう冷たい。  背中が冷えて自然と震えが来る。紗季はそれでも歌い続けながら、軽く足踏みして寒さを堪えた。どうしてそんなところでいつまでも座っていないとならないのか自分でも理解出来ないまま。  そうだ……あたし、何でここにいるんだろう?  紗季はもう一度袋に目を落とした。それは今日の夕方、本社の総務から貰って来た袋に間違いない。  紗季は、腕時計を見た。  八時……三十二分?  不意に、視界の中にぼんやりとした明かりが灯った気がした。それがなぜなのか、紗季は目をこらして見つめた。  そして、仰天した。  勿論目の錯覚だ。それ以外には考えられない!  そこだけ闇が照らされたように感じたのは、それが白い色をしていたからだったが、その白い色は、何とも奇妙な形をしていた。  長い二つの耳を頭上に生やした、それでも二本足で歩いている生き物。  その生き物は、紗季から五十メートルは離れたところに立って、紗季を見つめていた。大きさは大人の人間より少し小さいくらいだろうか。何かを手に下げている。その下げたものは、風もないのにぶらぶらと揺れていた。  紗季は笑い出した。  幻覚が現れたんだ、とうとう。  あたし、頭がおかしくなっちゃった!  だがおかしいのはもう何年も前からだったのだから、今更驚いたって仕方ない。  紗季はその生き物を楽しんで眺めることにした。  もしかしたらあれはウサギかな? そうだ、あんなに長い耳をした生き物なんて他にいないものね。  そうか! だとしたらあれはきっと、アリスのウサギだ。不思議の国のアリスで最初に出て来る、時計をぶら下げたウサギ。  そう言えば、あたしはあの物語が大好きだった。とても好きで、絵本を何度も何度も読み返した憶えがある。だけど中学生になった時、オリジナルの翻訳を読んで、絵本の世界とは少し違う、何とも表現のしにくい摩訶不思議な感触に驚いた。  どうして今、あのウサギがあたしの前に現れたのだろう。  あたしにいったい、どうしろって言ってるんだろう?  紗季は遠い昔に読んだ物語を思い出そうとした。そう、確か始まりはこうだ……お姉さんに本を読んで貰っていたアリスは、眠くなってしまった。するとその目の前に、時計をぶら下げたおかしなウサギが現れた。そしてそのウサギは、何かの時間に遅刻するとぶつぶつ言いながら穴に飛び込むのだ。アリスもウサギの後を追ってその穴に……  紗季はベンチから立ち上がり、ウサギの方へと走った。急がないと、ウサギはきっと穴に飛び込んでしまうだろう。  案の定、ウサギは紗季が近づこうとしているのを察してか後ろを向いて走り出した。 「待って、ねえ待ってよ!」  紗季は幻覚に向かって呼びかけた。 「あたしに何か用があるんでしょう? 用があるからあたしの前に現れたんでしょう、あなた!」  だがウサギは無言だった。無言で走り去ろうとしている。しかし奇妙なことに、ウサギの走る速度はとても遅かった。紗季は学生の頃テニスをしていたこともあって、短い距離ならそこそこ速く走れる自信がある。  紗季は速度をあげた。もう少しで追いつく。手を伸ばす。  ああっ。  紗季は何かにつまずいて、思いきり前方へ弾《はじ》き飛ばされた。顔を庇《かば》ってついた手に激しい痛みが走る。  顔を上げると、ウサギの姿はもうなかった。  紗季はのろのろとからだを起こした。  膝をしたたか地面にぶつけたので、痺《しび》れていて力が入らない。だが、骨に異常があるような感触ではない。  ゆっくり足を曲げて座り込むと、自分がつまずいたものが背後の闇の中に黒く横たわっているのに気付いた。  人だ。  人が倒れている。  紗季はじっとその横たわる人間のからだを見つめた。      2 「まあまあ、ご丁寧に」  応対に出たのは白髪が美しい老婦人だった。紗季は老人に知り合いがほとんどいないので、その婦人の年齢の見当がつかない。だが、七十代ぐらいではないかと漠然と思った。 「どうぞ、そんなところでは何ですから、中へ」 「いえ」  紗季は慌てて一歩下がった。 「ここでほんとに結構です。今日はご挨拶に伺っただけですから」 「まあ、そう」  一瞬、老婦人の顔にはっきりと失望が現れた。  年寄りのひとり暮らしでは客人も少なく、話し相手が欲しかったのだ、と紗季はその表情の変化を読んだ。そんな話、よく聞くじゃない?  だが引っ越しの挨拶に回った先でいちいち引き留められて茶飲み話に付き合っていたのでは、日が暮れてしまう。  紗季はもう一度頭を下げると、よろしくお願いします、と言って玄関から廊下へとからだを逃がした。 「いつでも遊びに来てくださいね」  しまりかけたドアの内側で、白髪の老婦人が哀願するように言った。  紗季はふうっと息をはくと、廊下を見つめた。挨拶は両隣と上下の四軒ぐらいでいいと、管理人さんが教えてくれた。もともと、そんなに住民同士が親密に付き合っているというマンションでもないらしい。築二十五年、そろそろ建て替えの話も出ている分譲マンションだった。間取りも最近では流行らない、2DK。今はリビングのないマンションなど欲しがる人はいない。このマンションも、改築を前提として買う人以外には見向きもされないような物件だ。それだけに、世田谷としては破格に近い安値だった。  紗季は、階段をおりて老婦人の部屋の真下にある自分の部屋に戻った。  ほとんど家具らしい家具もない部屋。古いものは総て処分してしまった。ともかく、布団だけは買いに行かないと。  別に気に入ったから購入したわけではない。ただ、手頃な値段でうるさい管理組合もなく、管理人は外部委託された通いで住民の生活に口出しもしない、そう不動産屋が保証してくれたから決めただけのこと。賃貸で探してもよかったのだが……  紗季は簡単にマジックでメモ書きされたダンボール数個を眺めて、雑貨、と書かれた箱のガムテープを剥《は》がした。中から筆記具とメモ帳を取り出す。まず、布団一式。それと最低限の食器。今夜はそれだけでいいだろう。明日はエアコンの取り付けを頼もう。後は思いついたものから揃えればいい。電話は必要ないな。携帯はあるし。  どうせ……多分……ここにも長くはいられない。  床に置きっぱなしにしてあったショルダーバッグの中で、携帯電話が鳴っている。紗季はのろのろと手を伸ばしてバッグを開けた。 「もしもし、紗季?」 「あ……ミコ」 「もう引っ越し、終わった」 「うん」 「今夜はどうするの?」 「どうって……」 「何も予定ないなら、夕飯奢るよ。引っ越し祝い。ちょっと残業ありそうだから八時くらいになっちゃうけど、それでもいい?」 「うん」 「じゃ、いつものとこで八時にね」  美代子からの電話はそれだけで切れた。仕事中の私用電話だろう。  紗季の脳裏に一瞬、あのオフィスが浮かんだ。十年働いた経理課の、殺風景だが窓だけは大きくて奇妙に明るかった、あの部屋。  美代子は今でもあそこに座っているのだ。そして、あたしはもうあの部屋に戻ることはない。  さて、買い物だ。  紗季は腰を上げると、管理人がくれたマンション周辺の略図を眺めた。スーパーとコンビニ、それに郵便局と銀行の位置を書き込んだ手書きの地図をコピーしたものだ。新規入居者の便宜をはかるために、管理人が自分で考えついたものなのだろう。だが不動産屋の言葉の端々から、このマンションの新規入居者がここしばらくいないということは察しがついていた。  マンションの外に出ると、陽射しが眩《まぶ》しかった。四月も半ば、既に風は初夏の熱を含んでいる。  この町に土地勘はないが、管理人のくれた地図は見やすくて、おおよその見当はすぐについた。  スーパーはあまり大きなものではなかったが、幸い、食料品の他にも日用雑貨を少しはおいていた。思いつくままに、生活に必要なものをカゴに入れる。だが布団はない。  レジで金を払う時、紗季は店員に訊《き》いてみた。 「あの、この近くでお布団が買えるお店ってあるかしら」 「布団屋さんですか」  店員は小首を傾《かし》げた。 「さあ……駅の向こう側まで行かないとないんじゃないかしら」  駅前に行けば確かに、大手のスーパーがある。しかし歩いてたっぷり二十分はかかる距離だ。配達は頼めるだろうが、今から買って今夜までに配達して貰うのは無理かも知れない。  仕方ないな。  紗季は、今夜は布団なしで眠る覚悟を決めた。だいたい、引っ越しする時に布団をどうするかはいちばん先に考えるべきことだったのだ。だが前に住んでいた会社の社員寮ではベッドも布団も備え付けだったので、今日引っ越し業者が帰ってしまうまでは、そのことに気がまわらなかった。  紗季はひとりで笑った。けっこう動揺してるんだわ、あたし。すっかり大丈夫だって思い込もうとしてたけど。  紗季はスーパーの袋を下げてマンションへ戻る道をゆっくりと歩いた。  平凡な町だった。表通りに面して昔ながらの商店が点々と並び、裏手は住宅地になっていて、スーパーのある一角には小さな商店街が出来ている。その周辺に郵便局と信用金庫。住宅地の中には小学校がひとつ。  平日の午後。歩いているのは主婦ばかりだ。それと商店主らしい男性。授業に出ないで昼まで寝ていた学生。  こんな、平日の午後の町と縁がなくなって何年経つだろう。夏休みが三日しかなくなったのは二十歳の時からだ。それからずっとあの窓ばかり大きな経理課の部屋で、来る日も来る日も電卓を叩き、伝票に判を押し続けて生きていた。天気の良い午後、紗季はよく、窓から会社の外の通りを見下ろしながら、主婦になってこんな天気のいいおだやかな町をスーパーの袋を下げて歩く自分を想像した。夕飯には何を作ろうか、一カ月の食費の残金と相談しながら、夫の好物を思い出しながら歩く自分。それが、理想の自分の姿だったのだ。いつかは結婚してこの会社を辞める。紗季はその日を楽しみにしていた。送別会で、幸せになってね、とみなに言われながら花束を貰う自分。この十年の間に、何人の同僚をそうやって送り出しただろう。そのたびに、次は自分の番ならいいな、と思い続けた。  そして。  あたしの送別会では花束も、幸せになってね、の言葉もなかった。  だって送別会そのものがなかったのだから。  それは紗季が意図的にしたことだった。連休の時を利用して、こっそりと退職する。同じ経理課の同僚は紗季が辞めることを知っていたが、決算期と重なって送別会の準備をする余裕が誰にもないことを、紗季は計算していた。  結婚退職以外で花束を貰ったってしょうがないもの。紗季は、そう思っていた。  夢は叶わなかったのだ、とうとう。 「あの」  背後から声を掛けられて紗季は振り向いた。 「先程はどうもご丁寧に。あの、池内さんでしたわよね」  紗季の部屋の真上に住む老婦人が、にこやかな笑みを浮かべて立っていた。 「あ、はい」 「今ね、わたし、あなたのすぐ後ろに並んでいたんですよ、レジ」  老婦人は小首を傾げるような仕草をした。 「それは……気が付かなくて」 「いいえ。それでね、あの、差し出がましいとは思ったんですけど、お布団屋さんを探しておられると」 「ええ……あの、引っ越しの時古いのを処分してきたものですから……」 「やっぱりそうですか。そうじゃないかなと思ったの。布団って大きな荷物になるから、引っ越し先で新しいのを買えばいいや、と処分する人って多いですものね。でもね、この辺りにはお布団屋さんってないんですよ」 「そうらしいですね。商店街があるんで、と思ったんですけど」 「ええ、二年ほど前まではあったんです。でも駅前に大きなスーパーが出来てしまったでしょ、あそこではしょっちゅう安売りしてるんですもの、勝負にならないわよね。あの、これから駅前に行かれるのかしら」 「ああ、いいえ。今夜はもう、適当に寝てしまおうかなって」  紗季は、いくら独身のひとり暮らしとはいっても随分無計画でだらしない女だと思われたかも、と少し恥ずかしくなった。だが老婦人は穏やかに微笑んだまま言った。 「まだ夜は冷えますよ、お布団がなくちゃ無理よ。あのね、それでね、もし良かったら、なんですけど、わたしのところに、使っていない布団が一組、あるんですの。ほら、通信販売で安かったので二組セットで購入したんですけど、わたしもひとり暮らしで一組しか使わないでしょう? いつかお友達でも泊まりに来たら、と思っていたんですけどねぇ……いつまでも押入れのこやしにしておいても仕方ないし。あの、勿論柄がね、こんなおばあさんの趣味だからお若い方にはお気に召さないと思うんですけど、気に入らなくても新しいお布団が来るまでの間だけでも、どうかしら、と思って。いえ、そのままずっと使っていただいてもかまわないですし、ともかく一度、見にいらっしゃらない?」  本心を言えば、少し鬱陶《うつとう》しかった。布団が余っているのは本当のことだとしても、その老婦人が話し相手を欲して紗季に親切にしてくれているというのは想像がつく。  紗季は数秒迷ってから、結局老婦人の厚意を受けることにした。断って今夜一晩は床にゴロ寝してでも面倒な人間関係を作らない方がいい、と囁《ささや》く内心の声を、近隣の住民にあの女は変わり者だ、などと噂を立てられてはかえって良くない、という計算が上回ったのだ。何しろ、老婦人というのは噂好きに違いないのだから。 「本当にご厚意に甘えてもよろしいんでしょうか」  紗季がおずおずと言うと、老婦人はパッと顔を輝かせた。 「ええ、ええ、勿論よ! それじゃどうしましょう、今から取りに見える? ああそう、何でしたらお夕食もどうかしら、今夜はいつもより少し若向きのメニューを考えていたのでちょうどいいわ、あなた、豚肉は大丈夫?」 「あ、いえ、今夜は友達と約束が入ってしまっていて」  紗季の言葉に、老婦人は微かな失望を瞳に宿したが、すぐに気を取り直して頷いた。 「あらそう、そうよね、若い人はいろいろ忙しいわね。それじゃ、今からお部屋に戻ってしたくしておきますから、いつでも都合のいい時間に取りにいらして」  老婦人はにこやかに言うと、老人にしては驚くほど軽やかな足取りで去って行った。  実際、その老婦人の身のこなしは随分と軽かった。若い頃に何かスポーツでもして鍛えていたのかも知れない。しゃんと伸びた背筋は紗季自身の背中より若々しいぐらいだ。  紗季はスーパーの袋を下げてぶらぶらとマンションへの道を戻った。  考えていたよりは整然とした町並みだった。不動産屋の話では、下町のような雰囲気のなじみ易い町だということだったが、バブル期に地上げされて小さな商店や古い木造住宅などがだいぶ姿を消し、後に点々と歯が抜けたように小さな駐車場が残るという、典型的な形になっている。そしてその駐車場にもようやく、新しい家や小さな独身者用住宅の建築予定を示す白い立て札が立っていた。  紗季はほとんど無意識に、そんな立て札が立てられた空き地の前に立ち止まった。  十五坪ほどの、小さな空き地だった。こうして何もない地面で見ていると、本当に狭い。こんな狭いところに人の住む家が建てられることが不思議なくらいだ。だが建ってみればその十五坪が、たとえば一家四人の生活の場として充分に機能する広さを持っているとわかるのだ。そう……あの家のように。  大村の妻が、玄関先のパンジーの鉢植えに水をかけていた光景が紗季の脳裏に甦《よみがえ》った。  小型の乗用車がようやっと入るくらいのスペースしかない駐車場が階下についた、細長い三階建てのあの家。パンジーの寄せ植えがひと鉢しか置けない半間の玄関と、そこに吊るされていた、あの貧弱なオリヅルラン。そして、化粧っけのない顔と寝癖が少しついたままの切りっぱなしの髪が、くたびれたエプロンと妙に調和していたあの女の姿。あれが、大村が必死で守ろうとしていたものの総てなのだ。六年もの間紗季を騙《だま》し続けた男の、宝物なのだ。  紗季は、こみ上げてきたおかしさに、押し殺した笑い声を上げながら空き地の前を離れた。  その時、紗季の視界の隅で何かが紗季と一緒に動いたような気がした。紗季は振り返った。夕暮れの住宅地の、人通りのない空き地の前。どこにも身を隠すところなどあるとは思えない。だが、誰もいない。 「だれ?」  紗季は声に出してみた。ひとの気配のないがらんとした空き地からは勿論、何の返事もない。そしてその空き地を囲むように建っている家々の窓も、閉まったままだった。  紗季は頭を一度振ると、また歩き出した。だが十メートルも行かない内に、やはり自分の歩調に合わせるようについて来る誰かの気配を感じた。  ふと、あの晩の「ウサギ」を思い出した。  奇妙なウサギと、そこに転がっていた死体……  紗季は走り出した。その「何かの気配」も一緒に走っているように感じたが、それでも紗季は構わず走り続け、住宅地から国道沿いの歩道へと走り出た。そこまで来れば、歩道を大勢の人間が歩いている。  車の騒音と排気ガスの匂いに、紗季はホッとして立ち止まった。耳を澄ましてみたが、ごく当たり前の騒音の他には何も聞こえない。  紗季は歩道橋に向かって歩き出した。そこを渡ると、マンションまではもう二百メートルほどだ。  だが、紗季の足はその場で止まった。  歩道橋の上に、おかしな帽子を被《かぶ》った男が立って、紗季に向かって手を振っている。紗季は瞬きすることが出来なかった。  古めかしいタキシードに大袈裟な山高帽を被ったその男は、幼い頃に絵本で見たことのある、あの、「アリスの帽子屋」の挿し絵にそっくりだった。      3  冷たい水で何度か顔をこすって、紗季はようやく気持ちを落ち着けた。  勿論、あれは錯覚だ。見知らぬ男が紗季の後ろを歩いていた誰かに手を振っていたのを見間違えたのだ。だが、そう思おうとすればするほど、あの夜に見た「ウサギ」の姿と帽子屋とが重なって、不気味な笑顔で紗季に語りかけて来る。  やっぱり、働かないと。  紗季は鏡の中の自分の顔にタオルを押しつけて呟《つぶや》いた。 「働かないでこんなとこにひとりでじっとしてたら、段々頭が変になっちゃう」  紗季は化粧をし直し、ついでに服も着替えてから部屋を出た。  真上の部屋に住む老婦人は畑山という名前らしい。紗季は表札を確認してから、ベルを鳴らした。即座に返答があった。部屋の中で紗季がベルを鳴らすのをじっと待っていた老婦人の姿が想像出来た。 「すみません、お言葉に甘えてお布団を貸していただきに参りました」  紗季が言うより早く、老婦人は紗季の腕を掴《つか》んで部屋の中へと引き入れた。 「久しぶりに押入れの整理をしてみたら、もう大変なのよ。使っていないお布団がこんなにたくさん出て来ちゃって、シーツも枕も、見てちょうだい、こんなに!」  畑山婦人に引っ張られて入った六畳の和室は確かに大変なことになっていた。ところ狭しと布団やその他の寝具、座布団カバーに炬燵《こたつ》カバーまでが並べられている。 「いったいいつの間にこんなに溜まっちゃったのかしらねぇ。いつも同じ布団しか使っていなかったでしょ、こんなにあるなんて思ってみなかったわ。だけどそうねえ」  畑山婦人は布団の山の中から、防虫加工した布団袋に入れられているひとつを引っぱり出した。 「他人の寝たお布団なんてお嫌でしょうから、新品のがいいわね。これなんか、どう? セットで買った羽根布団なのよ。ほら、よくあるじゃないの、年寄りに羽根布団を売りつける詐欺みたいな商売。笑ってしまうでしょう、二年前にあれにまんまと騙されちゃって、デパートで買うより三倍も高い値段で買わされちゃったのよ。でもまあ幸い、品物はそんなに悪いものじゃなかったんだけど、それにしてもねぇ、なんだってあたしらみたいな年寄りを虐《いじ》めて金儲けしようなんて考えるんだか。騙される方が悪いって言われたって、まさかそんな悪人ばかりこの世にいるなんて思ってやしないものねぇ」  畑山婦人が紗季に手渡した布団袋は、掛け・敷き布団に枕までついたセットになっているのに、驚くほど軽かった。平凡な花柄というのも、神経に障らなくて良さそうだ。 「本当にお借りしてよろしいんですか、こんないいものを」 「いいのよ、いいの。あたしはこれ見ると騙されたこと思い出してムカムカしちゃうから、使わないままだったのよ。どうぞ持って行って下さいよ、いえ、返すなんて言わないでよ。これはあなたに差し上げるわ」 「そんなこと……」 「お願いよ、貰ってやって下さいな。今時あなた、布団をゴミに出そうとしたってお金とられてしまうのよ。それにねぇ、あたしらの世代はどうも貧乏じみた考えが染みついちゃってて、こんな新品を捨てるなんてどうしたって出来ないじゃないの。町内の保育園がやってるバザーにでも出そうかと思っていたんだけど、町のはずれにあるからあそこまでこれを抱えて持って行くのも大変だし、どうしたもんかしらと思いながらほったらかしにしていたものなのよ。シーツとカバーは、予備にと思ってバーゲンの時に買っておいたものがあるから、これも付けてあげるわね。さあ遠慮しないで」  紗季は布団袋を抱えたまま、畑山婦人に頭を下げた。 「それじゃありがたくちょうだいいたします。でもあの、シーツとカバーのお代だけは払わせて下さい」 「あらいいのよ、さっきのスーパーで時々やってる千円セールで買ったものなんだから。その代わりほら、安物よ」 「いいえ、でも、せめてこのお金だけは。後で持って来ます」 「あらそう」  後で持って来る、という言葉に反応して、畑山婦人は目を細めた。 「それじゃそうさせて貰いましょうか。でもいつでもいいのよ、お暇な時にお茶にでも寄って下さいな。その時にでも」  紗季はもう一度礼を言って布団を抱えて階下の自分の部屋へと戻った。だがシーツ代は封筒にでも入れて、郵便受けに差し込んでおけばいいだろうと思った。畑山婦人は悪い人間ではないのだろうが、それでなくても神経が過敏になっているこんな時に、年寄りの世間話の相手など出来るもんじゃない。  羽根布団はなかなか良い品物のようだった。畑山婦人は詐欺だと言っているが、この品物だと警察に訴えても詐欺罪が適用されるには難しいところだろう。確かに定価の三倍は異様な高値だが、不当価格と認定されるには十倍くらいの値段になっている必要があるのではないか。法律には詳しくはなかったが、老人を狙った羽根布団の押し売り販売というのは、なかなか巧妙な手口だと感心した。  一度も使われていない羽根布団に、これも新品のパリッとしたカバーをかけ、シーツを敷くと、そのまま潜り込んで眠ってしまいたい誘惑にかられる。  だが美代子との約束がある。紗季は時計を見た。駅前のブティックは九時頃まで開いているだろう。  部屋には、美代子と街に出て食事するのに使えるような服が一枚もない。これまで持っていた洋服は、ジーンズ二本とトレーナー数枚にジャケット一枚を除いて総て処分してしまった。そのトレーナーもジャケットも、新しい服を買い次第捨ててしまうつもりでいる。それらはみなこの六年間に買ったものばかりで、大村の目に触れた可能性のある服だった。紗季は二度と大村と逢いたいとは思っていない。そして万に一つ偶然どこかで大村と出逢っても、大村の知らない別の紗季でいようと決心していた。  外に出ると、日はすっかり落ちて、マンションの前は人の顔の判別がやっとつく程度の明るさだった。  その暗がりの中に、男が二人、立っていた。  紗季は男達を無視して通り過ぎようとした。だか男達の方が紗季の行く手を塞《ふさ》ぐように移動した。 「池内紗季さんですか」  コーデュロイのパンツにハーフジャケットを羽織った男がそう言って、胸元から手帳を出して開いて見せた。 「わたしは警視庁の高村と言います。連れは同じく井田」  隣にいる革のジャケットを着た、高村と名乗った刑事よりは幾分若い方の男が軽く頭を下げた。 「大村孝之さんをご存じでいらっしゃいますね?」  紗季は、そっと唾を呑み込んでから頷《うなず》いた。 「実は、悲しいお知らせなんですが」  井田が言った。 「大村さんが先程、遺体で発見されまして」  紗季は、言葉が出ずに口だけ開けて二人の男の顔を見た。 「ど……どうして……」 「死因は解剖所見が出ないとはっきりしないのですが、多分、墜落死だと思われます」 「墜落……」 「丸の内に谷山ビルというオフィスビルがあるんですが、その横手の椿の植え込みの中に大村さんの遺体があるのを、植え込みの手入れをしていた造園業者の作業員が発見したんです。遺体は半分ほど白骨化していたのですが、着衣はそのままで、ズボンのポケットに定期入れや財布があったので大村さんと判明したわけです。これはまだ推定の段階なんですが、大村さんは谷山ビルの屋上か上層階から転落して、この植え込みの中に落ちて亡くなられた。だがビルの横手の植え込みの中だったので誰も気付かないまま今まで発見されなかったのではないかと、我々は考えています」 「それじゃ……あの人……大村さんは随分前に……?」 「検死官の話では、少なくとも三カ月は経っているだろうと……大都会の真ん中で、毎日何百人もの人間が通り過ぎていたところにいたのに三カ月も死んでいるのが発見されなかったなんて、お気の毒な話です」  紗季の膝から、力が抜けて行った。紗季はその場にしゃがみ込み、顔を覆った。 「大丈夫ですか、池内さん」  コーデュロイのパンツを穿いた刑事が紗季のからだを支えて引っ張り起こした。 「何でしたら、お部屋の方で話しませんか」 「あ……でも」  紗季は刑事の腕の中で頭を振った。 「あたし……約束があって……」 「そうですか。いえ、ほんの少しでいいのでお話が伺えたらと思って来たんですが」  レザージャケットの方の刑事は、同情の感じられない冷たい声で言った。 「駅まで出られるのでしたら車でお送りしますよ。車内で、少し質問させていただけませんかね」  拒否したかったが、刑事の声には有無を言わせぬ静かな脅しが感じられた。紗季はいくぶん態度の柔らかな刑事に抱きかかえられたまま、紺色のセダンの後部座席に座らされた。  赤色灯は出さずに走ってくれたので、紗季はいくらかホッとした。だが紗季の隣に座ったのはあの、冷たい声を出す刑事の方だった。 「状況からまず考えられるのは、大村さんが自殺されたのではないかということでして」  刑事は紗季の頭をシートに預けるとすぐに切り出した。 「大村さんの奥さんに事情を伺う内に、池内さんのお名前が奥さんの口から出たわけです。大変|不躾《ぶしつけ》な聞き方になってしまうのですが、奥さんの話では、あなたと大村さんとは俗に言う不倫関係にあったということですが、その点は事実ですか?」 「……はい」紗季は素直に頷いた。「でも……もう半年以上前にお別れしています」 「大村さんの奥さんがあなたに精神的苦痛に対する慰謝料を請求する裁判を起こされ、話し合いで示談になった、そういう経過だったそうですね」 「その通りです」 「あなたは大村さんと結婚の約束をなされていた?」 「ええ……わたしはそのつもりでおりました」 「だが結局、大村さんはあなたと別れ、奥さんのところへ戻った。慰謝料はどうなったんです?」 「弁護士の勧めで、奥さんの請求された額と同額の慰謝料の請求を彼に対して起こしたんです。婚約不履行ということで……彼にはいくらかお金も貸していましたから」 「それで、最終的には相殺ということになったわけですね」 「はい」 「あなたとのお付き合いとその結末が、大村さんの自殺の動機になったとは考えられませんか」 「いいえ」  紗季はきっぱりと言って、刑事を睨み付けた。 「なんであの人がそのことで自殺なんかしなくちゃならないんですか? あの人は嘘ばかりついていました。奥さんと仲が悪いとか奥さんもよそに男がいるとか、離婚の話し合いをしている最中だとか……嘘ばっかり。あたしはずっと騙されていたんです。自殺したいと思ったのは……あたしの方だわ」  紗季の剣幕に、刑事は数秒間黙っていた。が、やがて妙に優しい声で言った。 「そうですか……いや、それは失礼なことを言ってしまって申し訳ない。しかし我々は大村さんの奥さんの言葉だけを聞いてここに来たわけなので」 「奥さんが何て言ったんですか?」 「いえ……ただ、大村さんは家族を残して自殺してしまうような無責任な男ではない。自殺だとすれば……あなたに追いつめられたせいだと」  紗季は笑い出した。  大村が|無責任な男ではない《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、だって?  だったらあたしに対しての責任はどうなったのよ、いったい!  刑事は、そんな光景は見慣れているのか、紗季の笑いが収まるのをじっと待っていた。 「ともかく、そんなわけで取りあえずお知らせしようとお寄りしたわけです。ですがあなたがお引っ越しされていたので探し当てるのに少し手間どってしまいました。出来れば今後は、どこかへ長期にお出掛けになられるご予定など入りましたら、わたしの方へご連絡いただきたいんですがね」 「質問がそれだけでしたら、ここで降ろして下さい。買い物をしたいの」  刑事は引き留めなかった。紗季は、紺色のセダンから転がるように降りると小走りにブティックの店内へ飛び込んだ。      *  八時十分前に店に入ったのに、美代子はもうカクテルグラスの前に座っていた。 「あら、紗季、その服似合うよ」  まずめざとく買ったばかりのグレイのワンピースを褒《ほ》めてから、美代子は紗季の全身をチェックした。美代子の悪い癖だ。 「すごーい」美代子は肩を竦《すく》めた。「上から下までぜーんぶ、おニューなんだー。退職金でマンション買っちゃう人は違うなぁ、やっぱり」 「中古だよ。それも、ボロボロ。資産価値は期待出来ないって不動産屋が太鼓判押したもの」 「それだってリッチだよぉ。あたしなんて未だに、ワンルーム暮らしだよ」 「通勤に便利だし、いいじゃない」 「もう飽き飽きしてるわよ、五年も住むとさ。だけど引っ越し費用ってすごくかかるんだもの、面倒だし。でも引っ越さないとならなくなりそうなんだけどね」 「どうして?」 「うん……なんかね……気のせいかも知れないんだけど、この頃誰かにつけられてるような感じがしてさ」 「尾行されてるってこと?」 「そう」 「私立探偵か何か?」 「違うと思う。そんなんじゃなくて……ほら、ストーカーってやつ」  美代子は眉を寄せてグラスを睨んだ。 「ちょっと帰りが遅くなって駅から歩く時なんか、足音が聞こえるのよ、後ろから。でも立ち止まって耳を澄ますとシーンとしてるの。怖いから最近、バスに間に合わない時はタクシー使ってるんだ。それにね、留守の時でも誰かがドアを開けようとした形跡とか、あるのよ。ドアノブが土で汚れてたりして……気持ち悪いでしょ。いちおう大家さんに話して鍵は付け替えさせて貰ったんだけど。タクシー代だの鍵代だのってお金もかかるし、ほんとイヤになっちゃう」 「大丈夫なの? 警察に相談した方が良くない?」 「うん……それも考えてる。でもねぇ、向こうが何もあたしに危害を加えてない内は、警察だって動いてくれないでしょう? 週刊誌で読んだんだけど、あとをつけるだけでは犯罪にはならないらしいじゃない。無言電話とかかけると犯罪になるんだって」 「かかってくるの?」 「ううん」  美代子は首を横に振ってから、ちょっと小首を傾げた。 「でももしかしたら、盗聴はされてるかも」 「ほんと?」 「確かじゃないけどね。あたしの電話ってコードレスだから盗聴防止装置付きなのよね。それが最近、通話中にピーッて音が鳴ったりするのよ」 「やっぱり話した方がいいよ、警察に」  紗季は言ったが、美代子は困ったような苦笑いを浮かべた。 「そうなんだけどさぁ……あたし警察って苦手なんだもの。紗季は?」 「あたしだってそりゃ、苦手だけど」  紗季は呟いた。美代子はふふっと笑いながらカクテルを啜《すす》った。 「ま、ともかく引っ越しは考えてる。でも痛いよなぁ、引っ越し費用。なんだかんだで百万はかかるよね。だけどどうしてなのかねぇ、紗季とあたし、お給料おんなじくらいなのにさ、紗季はなんで貯金なんか出来たわけ?」 「ミコ、無駄遣いばっかりしてるじゃない。あたし、ミコみたいにクラブ通いなんかしないもん」 「はいはい、わかりましたよ、優等生」  美代子は紗季がフローズン・ダイキリを注文したのに合わせて自分もマンハッタンをお代わりした。 「でもさ、どうすんの、再就職。まさか一生遊んで暮らせるぐらい退職金が出たわけじゃないんでしょ」 「まさかぁ、共済の分だけしか出なかったわよ」 「ほんと? 会社からはまったく、無し?」 「計算書によると、五万円だけ出てる」 「やっだー」美代子は大袈裟に万歳した。 「だからいやなんだよねー、組合のない弱小企業ってさぁ。共済なんてあたしらの給料から掛け金払ってんだから、退職金ったって別に嬉しくないじゃないの、ねぇ。こーんなに毎日一所懸命働いてさあ、五万円ぽっちなわけ、会社がくれるのって? それって悲しいよなぁ」 「そうだね」  紗季はフローズン・ダイキリに唇をつけた。 「悲しいね、ほんと。でももういいよ、あたしは関係ないもん。けど、再就職はしないとな」 「もう職安とか行った?」 「まだ。明日にでも行ってみる」 「先月辞めた洋子先輩の話だとね、すっごく感じ悪いんだって、勧められたとこの面接断ると。でも今、求人なんか全然ないじゃない、たまに紹介して貰っても配達とかレジ係とか、肉体労働ばっかだってさ」 「洋子先輩、まだ仕事決まってないの」 「決まるわけないじゃない、あの人、再就職する気なんてないんだから。ただ失業保険貰いたいから職安に通ってるだけなんだよ。だって来年はご結婚だもんねー」 「不安じゃないのかしら」  紗季は凍ったカクテルをショリショリと噛んだ。 「一年も前に退職して花嫁修業だなんて……結婚が壊れちゃったら、どうしようもないわよ」 「お相手のご希望らしいから、大丈夫じゃない? それで万一結婚が壊れたら、慰謝料がっぽり貰えばいいのよ。でもさ、今時古風だよね、花嫁学校に通えだなんて。なんか旧家らしいから、洋子先輩、苦労するかもね。それでもいっか、あんだけチョー金持ちと結婚出来れば」 「あたしはイヤだな。そういう家っていくらお金があったって、きっと自由に遣わせて貰えないもの」 「そうかなぁ。だけど洋子先輩の婚約者って自分専用のベンツに乗ってるんだよ」 「奥さんにお小遣い渡すのと自分専用のベンツを買うのとは問題が別よ、男にとってはね。あたしはそんな結婚なんてしたくない……もっと……お金を自由に遣えなくちゃ、イヤ」 「ま、そりゃそうだ」  美代子はマンハッタンをくいっと飲み干した。 「遣えないお金じゃ子供銀行のお金と一緒だもんね。それよりさ、夕方のテレビ、見た?」 「テレビって何?」 「六時のニュース。あたし会社で残業しながら見たんだけど、ほら、東洋産業の大村さんって営業マン、憶えてない?」 「大村、さん……?」  紗季は動揺を悟られないようグラスを見つめたまま答えた。 「ああ……いたわね、そういう名前の人」 「去年まで時々会社に来てたけど、ちょっとイイ男なんであたしなんか、目をつけてたんだよぉ。それがさあ」 「どうしたの?」 「死んでたんだってー。丸の内の植え込みの中で! 飛び降り自殺したらしいんだけど、かっわいそうだよねぇ、何カ月も見つからないで骨になってたらしいよ」 「ほんと? 自殺しちゃったの……」 「そんな風には見えなかったけどねぇ。明るくて話し好きで、時々お菓子なんか差し入れてくれたじゃない。あたし一度アタックしてみようかなぁなんて考えたんだけど、結婚指輪してるんでやめたのよ」 「なんだミコ、妻帯者はダメ?」 「当然よぉ、不倫なんて面倒だもの。でも良かった、不倫した上に男に自殺されたりしたら、もう目も当てられないもんね。人間ってわかんないよね、ほんと。あんな人でも自殺なんかするんだもの……」  相槌を打ちながら美代子の視線をかわして、紗季はカクテルの味を楽しんでいる振りをし続けた。だが今夜は舌が麻痺してしまったようで、何の味も感じない。好物のフローズン・ダイキリが、ただの霜にしか思えない。  大村は死んだ。いや、|死んでいた《ヽヽヽヽヽ》。  この三カ月ずっと、死んだままでいたのだ。  紗季はほとんど無意識にバッグを開け、中からプラスチックのピルケースを取り出した。蓋を開《あ》け、白い錠剤をつまむと口に入れてもう一度ダイキリを啜る。 「何、風邪薬?」  美代子の問いかけに紗季は、ようやく自分が薬を飲んだことに気付いた。 「あの……頭痛薬」  紗季は咄嗟《とつさ》に嘘をついた。 「ダメだよ、紗季」  美代子は母親のような顔になった。 「頭痛薬ってのはお酒と一緒に飲んだら危険なんだよ」 「そうなの?」 「そうなのって、いやだ、そんなことも知らないわけ? でも紗季もやっぱり偏頭痛があるんだ。あたしも実はあるのよ、あれって始まるとすっごく痛いんだよね……あ、三月ウサギだ!」  美代子の声に、紗季は心臓が停まるほど驚いて振り向いた。  店の入口に、灰色の、あのウサギが立っていた。 [#改ページ]   第二章 奇妙な帽子屋      1  紗季の指が震え出し、グラスがカタカタと鳴った。だが美代子は紗季のおびえには気付かずに笑い出した。 「うわぁ、可愛い! あれ、昨日は会社の近くのハンバーガーショップにいたのよ」 「ハンバーガーショップって……」紗季は驚いて訊いた。「ミコ、あのウサギいったい、何なの?」 「知らないけど、何かの宣伝じゃない? ほら、何か配ってるわよ」  ウサギは美代子の言うとおり、手に提げた籐の籠から何かを取り出して店の入口付近の席に座っていた女性客に手渡している。 「いいなぁ、あれ、薔薇じゃない?」  それは確かに、小さな黄色い花をつけた薔薇の茎だった。一本ずつラッピングして、しゃれたベージュ色のリボンが結んである。 「あたしも欲しいなあ、こっちに来ないかしら」  美代子はウサギに向かって手招きした。その仕草に反応したのか、ウサギはゆっくりと店内を横切って近づいて来た。  近くで見れば、それが着ぐるみだということは一目でわかった。中に入っている人間は紗季より少しだけ背が高いくらいの、小柄な人のようだ。女性かも知れない。ウサギは美代子と紗季に一本ずつ黄色の薔薇を手渡すと、ちょこんと首を傾げてポーズを作ってからまた別の客のところへと歩いて行った。  紗季は、あの晩に見たウサギもやはり同じ様な着ぐるみだったのだと、ようやく納得した。  そうだ。考えたら当たり前じゃないか。あの夜の公園で見たウサギの中にはちゃんと人が入っていたのだ。つまり……  誰かがウサギの扮装をしてあの人を…… 「あら、何よこれ、レディスローン・アリスって……やだ、サラ金じゃない」  美代子は笑いながら、薔薇の花についていた小さなカードをひらひらさせた。 「最近は随分|凝《こ》ったことするのねぇ。銀行は貸し渋りしてるって新聞とかで盛んに書いてあるけど、サラ金はやっぱりどんどん貸したがってるんだね」 「だけどそんなに簡単に借りられるのかしら」 「OLだと簡単よ」 「ミコ、借りたことあるの?」  美代子は何でもないような顔で頷いた。 「去年の夏休みにグァム行った時さ、カードで決済したもんでつい調子にのって買い物し過ぎちゃって、翌月の支払いに困っちゃったのよ。それで二十万ばかり借りたわ」 「ちゃんと返せたの?」 「あったり前じゃない」  美代子は笑い出した。 「やめてよ、あたしサラ金から借りたお金も返せないほど無計画じゃないわよ。暮れのボーナスで一括返済したわよ」 「ふうん」  紗季は溶けてしまったフローズン・ダイキリを啜った。 「ミコでも借金って、したことあったんだ……」 「そりゃ紗季は貯金の天才だから借金とは縁がないだろうけどさ、このお金のかかる時代に、東京でひとり暮らししてて一度も借金の経験のない人間なんて、あんまりいないんじゃないの?」  紗季は、三月ウサギが手渡した黄色い薔薇の花を見つめた。 『あなたの素晴らしい人生の為にお役に立てたら幸せに思います。0 3─××××─××××女性専用 レディスローン・アリス』 「だけど……利息とか何も書いてないのね」 「電話すれば教えてくれるわよ。まあかなり高いのは覚悟しないとならないけどね」 「そんなに高いの?」 「そりゃ、社内貸し付けみたいなわけには行かないわよ。安いとこでも二十五パーセント以上はとられるんじゃない? それでもカードローンだと三十五パーセントぐらいだから、まだサラ金の方が少し安いのかな。いずれにしても、ちょっとだけ借りて次のボーナスで全額返す、そうじゃなけりゃ手は出せないわね。でもうまく使えば便利よ。社内貸し付けなんか申請したら総務にいろいろ聞かれて面倒だし、借金したことがすぐに広まっちゃうじゃない……でも紗季、いやに熱心ね。まさかお金に困ってたりはしないんでしょう?」 「困ってるってことはないわ」 「そりゃそうよね」  美代子は陽気に笑って三杯目のカクテルを注文した。 「分譲マンション買っちゃうような人だもんねえ」 「ミコ、今日はピッチ早いよ、少し。そろそろ出てご飯食べない?」 「あら、今頼んだばっかりなのに」  美代子はバーテンダーがカウンターの上においたカクテルのグラスを手に取った。 「もったいないから、あのウサギさんにあげちゃおうか」  三月ウサギはちょうど薔薇の花を配り終えて、店の支配人らしい男に頭を下げて出て行こうとしていた。 「ねぇ、ちょっとアリスのウサギさん!」  美代子の呼び声にウサギが振り向いた。 「お仕事終わったんなら、これ一杯どう?」  三月ウサギは頭を下げるとまた二人のそばに戻って来た。 「あたし達はもう出るけど、これ、よかったら飲んで」  美代子はウサギの手にグラスを持たせるとスツールを降りた。紗季も後に従って行こうとした。 「このあいだはどうも」  紗季は三月ウサギを見た。  空耳……?  ウサギは着ぐるみの頭をずらした。中から出て来たのは、若い男の顔だった。男は、にっこり笑って美代子にグラスを上げて見せると、カクテルを一気に飲み干した。  紗季は男を見つめ続けていた。男は紗季の視線に気付いた。 「あの、僕の顔に何か?」 「あ、いいえ」紗季は頭を振った。「ごめんなさい、何かあたしに言われたのかと思ったものだから」 「いや、僕は何も言いませんでしたけど」 「そう……そうですよね、ごめんなさい」  紗季は頭を下げた。 「ご馳走さま、おいしかったです」  男はまたウサギの頭を被ると、店を出ようとしていた美代子を追い越してドアの外に消えた。 「わ、あっという間に飲んじゃった。よっぽど喉が乾いてたんだ。やっぱあの格好じゃ暑いよねぇ」 「……学生かな。若かった」 「バイトだもん、そうじゃない? 何よ紗季、興味あるわけ、あのウサギに!」 「ちがうったら」  紗季は美代子の背中を叩いた。 「ただあんなバイト、結構大変そうなのによくやるなぁって思っただけ」 「時給がいいのかもね。でも確かに重労働だわ、あれじゃ」 「……三月ウサギじゃなくてマッドハッターならもう少し楽なのにね」 「マッドハッターって、何?」 「帽子屋よ、不思議の国のアリスに出て来るの」 「そんなの出て来たっけ?」 「ウサギやアリスとお茶会するのよ。あたし……中学の時にね、ESSで英語劇やったことがあるの」 「ESS? やだ、紗季ったらすっごい真面目少女だったんだ!」 「違うわよ。別に英語が好きでESSに入ってたわけじゃないもん……仲の良かった友達が入ってたから……」  その記憶は不意に甦った。もう何年も忘れていた少女の顔が、異様なほど鮮明に紗季に微笑みかけた。  江崎|知美《ともみ》。紗季の中学のクラスメートで家も近所だった。長い髪をお下げにして、あずき色の縁の眼鏡をかけ、鼻のまわりにソバカスが散っていた色白の知美は、ころころとよく笑う陽気な少女だった。紗季とは小学校の頃からの親友で、中学に進んでからは特に仲良くなり、いつも一緒に行動していた。どちらかと言えば内気で消極的だった紗季は、あの当時、明るくて周囲の同級生達からも好かれていた知美のすることをそのまま真似て自分もやっていたような気がする。クラブ活動にESSを選んだのも、勿論知美が入ると言ったからだった。  毎年の学校祭でESSは英語劇を発表するのが慣わしだった。一年の時は大道具作りやパンフレット作りしかしなかった紗季と知美も、二年では役者をすることになった。そして、知美は英語力とよく通る声、それに天性の華やかさで文句なく主役のアリスに選ばれた。紗季は白いバラを赤く塗り替えるトランプの兵隊の役で、セリフと言えばトランプの兵隊役の三人で一緒に短い歌を歌うだけだったが、その代わり、比較的正確なリーディング力を買われてプロンプターを任された。もともと表に出るよりは裏方で何かしている方が気楽で好きだった紗季は、役者の生徒達がつまった時に小声でセリフを教えるというその役がとても気に入り、練習には欠かさず出て自分の仕事をこなしていた。  だが、学校祭の本番当日、異変が起こった。  劇が始まる五分前になっても知美が姿を現さなかったのだ。朝はちゃんと登校しているのを何人もの生徒が見ていたのに、いつの間にか姿を消してしまった。いつもなら知美とほとんど離れたことのない紗季だったが、その日は劇のリハーサルもあって朝から忙しく、知美がどこにいるのか気にしている余裕がなかった。  ESSはもともとさほど人数の多いクラブではなく、英語歴半年あまりの一年生以外はほぼ全員が何らかの役についていた。そしてまた、主役であるアリスのセリフまで総て憶えている者はいなかった……プロンプターとして全員のセリフを何百回も読んでいた紗季を除けば。  紗季は顧問の教師に自信がないとべそをかきながら訴えたが、他にアリスを出来る者はいなかったので結局は引き受けざるを得なかった。開演を十五分遅らせて、劇は始まった。紗季は知美が着るはずだった水色のスカートと白いエプロンをつけ、金髪の長い髪の鬘《かつら》をつけて舞台の中央にいた。  知美は最後まで戻って来なかった。  そして学校祭が終わり来客の父兄達がほとんど帰ってしまった午後三時半過ぎ、防火用水として水が張られたまま施錠されていたプールの底に、沈んでいる知美の姿が発見された。  事故だったのかそれとも何かの事件に巻き込まれたのか、真相はとうとう判らなかった。九月の末に閉められて以来誰も入っていなかったプールサイドに通じる鉄柵には、ちゃんと錠がおりたままで、知美はプールサイドに張られた金網を登って中に入ったとしか考えられない。そのプールのかなり汚れた水面には、その日アリスの役が髪にとめるはずだった薄紫色のリボンが浮かんでいた。事故だと考えれば、知美が風で飛ばされたリボンを取ろうとしてプールに落ちたという仮説は成り立つ。結局警察もその説をとったようで、捜査は半月ほどで打ち切られた。  知美の死は、紗季にとって大きな打撃となった。紗季はESSをやめ、学校から帰ると部屋に閉じこもって過ごすようになった。高校に入って新しい友達が出来るまで、紗季はそうしてひとりぼっちで、知美の死を悼《いた》みながら生きていたのだ。  だが、高校、そして短大と時が経つにつれて知美の思い出は薄められ、美化されて少しずつ記憶の棚にしまわれた。  そして今ではもう、知美のことを思い出すこともほとんどなくなった。特にここ数年は、紗季の頭は自分のことでいっぱいだった。中学時代に不慮の事故で夭折《ようせつ》した親友のことなど思い出して感傷にひたるような精神的なゆとりはなかったのだ。 「……お墓参り、行ってなかった」 「え?」美代子が不思議そうに紗季を見た。「誰のお墓参り?」 「ううん……昔のね、友達。いつから行くの忘れちゃったんだろう……短大に入るまでは、命日には行ってたんだけどな」 「そんな昔の友達なの」 「中学のクラスメートよ。事故で死んだの。アリスの劇で主役やるはずだった子なのよ。だから思い出したの」 「不思議の国のアリスかぁ……あれってさ、ちょっと不気味な感じの話よね」  美代子は肩を竦めた。 「なんでもさ……作者のルイス・キャロルってロリコンだったとか。それにもともと、あれって童話じゃないんでしょう」 「そうね……童話としても読めるけど……風刺とか皮肉とか、言葉遊びがたくさん入ってるから大人の為の物語だったのかもね。英語もけっこう難しいのよ、中学生には」  紗季の耳に、劇の練習で、知美が流暢《りゆうちよう》な英語を張りのある声で発していた声が聞こえて来た。十年以上も前に聞いた声なのに、それは今でもはっきりと知美の個性を思い起こさせる力強さを持っていた。  今度の日曜に墓参りに行こう。  紗季は決心して、まだ耳に響いている知美の声に心の中で呼びかけた。  長いこと、逢いに行かなくてごめんね。 「さあてと、遅くなっちゃったけど、どこでご飯食べる? 紗季、リクエストある?」 「特にないけど」 「それじゃさ、新しいとこ行ってみない? あたしね、一度入ってみたいと思って目をつけてたお店があるのよ。和食なんだけど、紗季、好きでしょ? 決算で忙しくて紗季の送別会もしてなかったしさ、今夜あたし、奢るから」 「え、いいわよ、ミコ。あたしこそ、いちばん忙しい時に辞めちゃって迷惑かけたんだもの、あたしに出させて」 「ダメだって、今失業中でしょ、紗季。いいから気にしないで。そんなに高そうなお店でもないのよ、表にメニュー出てたし」  美代子に引っ張られて、紗季は明治通りから裏手の町中へと入った。  紗季の勤めていた会社は原宿のはずれにある。代々木から原宿へと抜ける明治通り沿いは、美代子と会社帰りにぶらぶらするなじみの場所だった。だがいつもは原宿までずっと表通りを歩いていたので、そうやって通りから離れるのは初めてだった。  表通りに面した喧騒や都会特有の華やかさとは一転して、一歩内側に入るとそこには古くからの住宅地がある。木造二階建てのアパートという今では懐かしささえ感じる建物や、最近になって越して来たらしい人々が建て替えたのか異様に西洋風にデザインされた家々が渾然となって、さらには普通の民家を買い取って改造したブティックが点々と織り込まれた何とも不思議な町並みだった。 「こっちの方って来たことなかった」  紗季は物珍しさに左右を見ながら言った。 「十年も働いてたのにね」 「世間ではさ、会社が原宿にあるなんて言うとすごく羨ましがられるけど、実際は残業ばっかで遊ぶ時間なんかないもんね。お昼だって面倒だからコンビニでおにぎり、なんて日が多いし。お洒落なレストランのランチメニューを毎日食べ歩く余裕なんか、家賃払ってるひとり暮らしのOLにはないよねぇ」 「あたし……損した」  紗季は靴の踵で歩道を一度蹴った。 「十年もこんな街で働いてたのに……面白いものがもっとたくさんあったのにね」 「いいじゃない。しばらくはプーするんでしょ? いくらでもこれから好きなとこ行けば」 「そうだけど」 「やだな、紗季。何だか元気ないよ。まさか会社辞めたの後悔してるなんて言うんじゃないでしょ? 紗季はさ、あたし達居残り組の希望の星なんだから、もっと溌剌としててくれないとね」 「希望の星って何よ」 「だってそうでしょ。うちの会社って女は結婚退職するのがいちばんの花道みたいに言われてる、今時化石みたいな会社よ。そんなとこでさ、ちゃんと貯金して分譲マンションなんか買って、自分を見つめ直したいから辞めます、なんてすごくかっこいいじゃないの」 「自分を見つめ直したいなんて言わなかったわよ。辞表には一身上の都合って書いたのよ」 「でも課長は褒《ほ》めてたわよぉ。結婚に逃げないで自分の人生をちゃんと考えてる人だって」 「課長にはうるさく聞かれたから、何か資格でもとってひとりでも食べて行かれるようにしたいって答えたのよ。そうでも言わないと、何かあったのか、困ってるなら相談にのるぞってしつこいんだもの」 「だけど紗季」  美代子は足を止め、横を向いて紗季を見た。 「それならどうして会社辞めたの?」  紗季は美代子の視線をそらすように下を向き、それから微笑んで美代子を見返した。 「別に理由なんてないのよ……しいてあげれば、飽きちゃったのかな。毎日同じこと繰り返して、同じ様につまらないなぁって思いながら眠るのに」 「それだけ?」  美代子の声には苛立ちのようなものが含まれていた。 「ほんとにそんなことで、会社辞めちゃったの? この不景気に?」 「……甘いってことはわかってるけど……」 「そうかなぁ」美代子は頭を振った。「わかってるのかなぁ、紗季。新聞読んでるでしょ、今日本の失業率ってとんでもない数字なんだよ。家のローンとかあって育ち盛りの子供が二人もあるようないいお父さんがみーんな失業しちゃって、明日からどうやって生きて行こうかって途方に暮れてるんだよ。それなのに……飽きちゃっただなんて」 「ごめん」 「あたしに謝らなくてもいいけどさ、どっちみち紗季の人生なんだから。でもさぁ……ちゃんと考えた方がいいよ。課長に言った通り、この際だから何か資格でもとったら?」 「そうね。それは考えてる」 「あのさぁ、紗季」  美代子は少し言い難そうに言葉を濁し、立ち止まった。 「いい機会だから言っちゃうけど」 「……なに?」 「紗季、もしかしたら体調悪いんじゃない?」 「……どうして?」 「うん……ここ半年くらいかなぁ、紗季、少し変だったから」  紗季は、美代子に気付かれないように唾を呑み込んだ。 「変って、どういうこと?」 「あのね……気が付いてたのあたしだけじゃなくて、会社でもみんな時々言ってたんだけど。紗季、物忘れ、ひどくなってるんじゃない?」  紗季はどう言い逃れようかと言葉を探した。だが下手な言い訳するよりは、認めてしまった方がいいと思った。 「ごめん……会社のみんなに迷惑、かけてた?」 「迷惑っていうことはなかったと思う。紗季、仕事はきちんとしてたから。でも話がたまに噛み合わなくなるって、言ってる人はいたよ」 「薬の副作用らしいの」  紗季は諦めて打ち明けてしまうことにした。 「さっき飲んだでしょ。あれ精神安定剤なんだけど……あたし半年くらい前から眠れなかったり、心臓がドクンドクンすることがあって病院に通ってるの。神経科。そこで気分が落ち着かなくなったら飲みなさいって言われてあの薬貰うんだけど、体質によって物忘れする副作用があるらしいのよ」 「紗季……何かあったの? 精神安定剤だなんて……」  大村とは別れていた。だから大村が消えても関係ないはずだった。だが大村が失踪したと知ってから、紗季は眠れない夜を過ごすようになっていた。  大村は逃げたのだ。あたしに何もかも押しつけて、逃げた。  そう思っていた。なのに…… 「特に何もないけど、あたし達くらいの年齢では理由のはっきりしない鬱状態とか、不眠とかはけっこうあるんですって」  紗季は精いっぱい明るい声を出した。 「でも環境を変えるといいかも知れないってお医者様に言われたのよ。だから仕事も思い切って辞めたの」 「なんだ、そうだったんだ」  美代子は納得したように頷いた。 「それで辞めたわけか。うん、確かにそれなら、新しい仕事をしてみるのっていいかも知れないね。ま、そういうことなら、と」  美代子が前方のベージュ色の提灯を指さした。 「ほら、あれがお目当ての店。ともかく今夜は紗季の前途を祝して、おいしいもの食べよ」  二人はその五十メートルほど離れた店目指してまた歩き出した。狭い路地裏のような通りだったが、原宿の駅からさほど遠くない場所柄、レストランや喫茶店、ブティックなどが民家に混じってかなりあり、人通りもまだ多い。二人の後ろから、自転車のベルがチリンチリンと聞こえた。紗季は自転車を先に行かせようと美代子から離れて少し端に寄った。その時、それまでまったく聞こえていなかったバイクのエンジン音が紗季の耳に飛び込んで来た。 「紗季っ、危ないっ!」  美代子が紗季の脇腹を突き飛ばした。紗季はそのまま横に弾かれて、ブティックのワゴンの上に倒れ込んだ。  ガツン、と鈍い音がした。紗季の倒れたワゴンの端にバイクの前部がぶつかり、ワゴンにつけられていたプラスチックの板が割れて四方に飛び散り、ワゴンが大きな音をたてて倒れた。  通行人が悲鳴を上げた。バイクはそのまま、猛烈なスピードで走り去った。      2 「大丈夫ですかっ!」  ブティックの店員が駆け出して来て、横倒しになったワゴンの下敷きになっていた紗季を引っ張り出した。 「何て運転だ! おい、一一〇番しろっ」 「紗季!」  美代子が立ち上がった紗季に抱きついた。 「良かったぁ。どこも怪我ない?」 「ミコ、ありがとう」  紗季は震えて止まらない手を美代子の首に回した。 「あたし……轢《ひ》かれるとこだった……」 「変質者よっ」美代子が叫んだ。「あいつ絶対おかしかったわよ、だってわざと紗季の方に向かって突っ込んで来たのよ! あたし見たのよ、あいつのバイク、その角から飛び出して来て、斜めに紗季めがけて……」 「今一一〇番しましたからね」  ブティックの背の高い店員が、路上に落ちていた紗季のハンドバッグを拾い上げて手渡した。 「畜生、ナンバー見るの忘れたな」 「少しなら憶えてるわ」美代子が言った。「警察に訴えましょう」 「店のもの壊されましたからね、もちろん」 「警察なんて……大袈裟じゃ……」 「何言ってるのよ、紗季! いくら相手はバイクだって、はねられて打ち所でも悪かったら死んじゃうのよ」  美代子の強い口調に、紗季はそれ以上反対出来ず黙った。 「ともかく、よろしかったら店の中へどうぞ。お茶でも入れますから」  店員が誘うと、美代子は嬉しそうに頷いた。 「すみません、ご迷惑でなければ」  二人は店員に案内されて、店の奥の小さな部屋に通された。店員達の休息室なのか、フローリングの床に小さなクッションがいくつか無造作に置かれ、真ん中に折り畳み式のテーブルが出してある。 「紅茶がいいですね、熱い方が気持ちが落ち着くかな」  背の高い青年が部屋の隅の流し台に立った。 「ごめんなさい、ほんとに。ご迷惑おかけします」 「気にしないで下さい、お互い被害者なんだから。あなた達が一緒に証言してくれれば、こちらとしても都合がいいですからね。こっちの話だけじゃ、うちのワゴンが通りにはみ出して置いてあったからぶつかったんだ、なんて開き直られるかも知れない」 「でも、捕まるかしら。あたしが憶えてるのはナンバーの半分くらいだし……」 「僕はバイクの車種と色を証言出来ます。それだけ揃えば、何とか見つけだしてくれるでしょう。日本の警察はその点優秀だから。それにしても腹が立つな。あのワゴンは特注品で、先月購入したばかりなんですよ。あんなものでも結構高いんです……いや、もちろんあなた方が無事だったんだから、壊れたのがワゴンで幸運でしたけどね」 「店長、外の片づけ終わりましたけど、壊れたワゴンどうします?」  ドアが開いて髪に赤色を染め込んだ痩せた女性が顔を出した。 「警察が来たら証拠物件になるんだろうから、ビニールでもかけて店の横に置いておいて」  店員だと思っていた男は、このブティックの店長だったらしい。紗季は意外に思ったが、美代子も驚いた声で言った。 「店長さんだったんですか……まだお若いのに」 「いや、雇われですよ」  男はティーバッグを沈めた紅茶茶碗をテーブルの上に置き、オリーヴ色のシャツの胸ポケットから名刺入れを取り出して一枚ずつ二人の前に名刺を並べた。 「株式会社ランナウエイ販売部販売三課課長新田拓郎……ランナウエイってあの、テレビでよく宣伝してる……」 「ええ、アパレルメーカーです。このブティックもうちの会社の販売部の一事業なんですよ。販売もやってますが、主にアンテナショップとして、新デザインや新企画の先行販売をするんです。全国に七店舗同様の店があります」 「いいですね、活気のあるお仕事で」 「見た目は楽しそうでも、物を売るっていうのはこれでなかなか大変なんですよ。僕ももともとはサラリーマンですからね、この仕事に就いてしばらくはお客を相手にするのに慣れなくて、苦労しました。失礼ですけど、あなた方もお勤めですか?」 「ええ。あたしはこの近くの医薬品の卸し会社の経理で電卓叩いてます。で、こちらの彼女は、目下失業中。先月会社辞めたばかりなんですよ」  美代子は新田拓郎が気に入ったのか、ひとりで積極的に喋っていた。 「この近くの医薬品の卸しというと、鈴谷薬品かな?」 「あったりー。うちの会社のことなんかよくご存じですね」 「僕、あの前を通ってここまで出勤してるんですよ。自宅が代々木にあるもんだから。そうですか、経理課の人ですか。なら計算は得意でしょうね」 「全然。計算は電卓がしてくれますもの」  新田は笑った。 「その電卓を間違えないように叩くってのも才能です。僕はほんとにその点がダメなんだなあ。で、あの、お名前は……」 「あらごめんなさい、あたしは志野田美代子。こっちの失業中のお嬢さんが池内紗季。共に二十代後半、独身」  紗季は美代子があまり積極的なのに驚いて、思わず美代子に目配せした。だが美代子はなだめるように紗季の腕を叩くと、新田と話し込む為に座っていた位置をずらしてしまった。  紗季は仕方なく、黙って二人の会話を聞いていた。  確かに、新田拓郎はなかなか魅力のある男だった。ブティックに勤めているのだから当然なのかも知れないが、オリーヴ色のシャツに黒いタックズボン、それに芥子《けし》色のズボン吊りが心憎いほど洒落た雰囲気に収まっていて、着こなしのランクの違いを感じさせる。身長もあるし顔の雰囲気も悪くない。しかも大手アパレルメーカーの社員なのだから、美代子が積極的になるのも無理はないのかも知れない。  だが紗季は新田拓郎にさほど興味は感じなかった。そんなことよりも、美代子の言うとおり本当にあのバイクは自分を狙ったのだろうか、そのことを考えるとまたからだが震え出しそうになる。  パトカーのサイレンの音が聞こえて来た。紗季は紅茶をぐっと飲んで、気持ちを落ちつけようとした。  入って来たのが刑事ではなく制服の警察官だったことで、紗季はいくらかホッとした。管轄が違うのだからそんなはずはないとは思っても、大村のことで自分を訪ねて来たあの二人組がまた紗季の前に現れるような気がしていた。  事情聴取は簡単に済んだ。美代子と新田はバイクのナンバーや車種について細々と警官に説明していたが、紗季にはほとんど話すことがなかった。だが美代子と新田の話を書き付けていた警官は最後に紗季の前に立つとこう訊いた。 「で、あなたはどうですか? そのバイクがあなたを襲ったことについて、何か心当たりはありませんか?」  紗季は唾を呑み込み、それから黙って首を横に振った。 「それでは、バイクについてはただちに手配しますが、志野田さんと池内さん、あなた方には申し訳ないが署の方までご足労願うことになります」  制服の警官は事務的にそう言うと、まるで犯人を連行するかのような厳しい顔で二人について来るよう合図した。 「やだー、まだ夕御飯食べてないのに」  美代子が囁《ささや》いた。だが紗季はにこりとする余裕もなかった。全身から冷や汗が噴き出して、呼吸が荒くなった。      *  マンションの玄関で何気なく腕時計を見た。午前零時半。  原宿警察署で出されたサンドイッチは近くの喫茶店から出前させたものらしく、見た目はまあまあのものだった。だが紗季は、一切れようやく喉に押し込んだだけで後はすべて美代子にあげてしまった。食欲の問題ではなく、緊張のせいか舌や口の感覚がおかしくなったようで、味がまったくわからなかったのだ。ようやく自分のマンションまでたどり着いて、紗季は強い空腹感をおぼえていた。  コンビニに行って何か食べ物を買おうか。一瞬また玄関を出ようとして、紗季は引き返し建物の中に入った。理由はないが、表に出るとまた後ろからバイクに襲われそうな嫌な気分がした。  冷蔵庫の中にはもちろん、食べ物はない。それどころか、冷蔵庫に通電もしていなかったことを思い出した。  紗季は溜息をつくと、重い足取りで階段を上った。  部屋の前に、人がいた。こんな時間に、と紗季は驚いたが、その人物の顔を確認してホッとした。 「畑山さん」  紗季の声に、畑山婦人は横を向き、嬉しそうな顔になった。 「ごめんなさい、出掛けていたもので。あの、何か?」 「いえいえ、あのね」  畑山婦人は照れたように笑いながら、両手の上に載せた、白い布のかかった盆を差し出した。 「これね、お夕飯の時にこしらえたんですけどね……うっかりして作り過ぎちゃって。お夜食にでもどうかしらと思って……でもこんな時間から若いお嬢さんが何か食べたりはしないわね。ごめんなさい……キッシュなのよ」  紗季は白い布を見つめた。微かにだが、卵とチーズの焼けた香ばしい匂いが漂って来る。腹部が鳴り出しそうだった。 「あの……図々しいみたいなんですけど」紗季は小声で言った。「いただきます……実はちょっといろいろあって、お夕飯食べてなくて」  畑山婦人は少し驚いた顔になり、それからこれ以上ないほどの笑顔になった。 「それは大変! さぞお腹空いたでしょう! もし良かったらあたしのところにいらっしゃいな。じゃがいもとリーキのスープもあるのよ、それに、焼きプリンも作ったの。他に趣味がないものだからお料理だけはまめにするんだけど、なにしろひとりでしょう、食べてくれる人もいなくて、いつも作り過ぎてご近所に配って歩いてしまうの。だってねぇ、お料理ってたくさん作らないとおいしくならないんですもの」  紗季は自分の部屋の鍵穴に鍵を差し込む暇もなく、畑山婦人に連れられて階段を上っていた。  ベーコンのたっぷり入ったキッシュは最高の味だった。だが畑山婦人の年齢が好むにしては、かなりボリュームがある。紗季は、それが初めから紗季の為に作られたことを感じた。夕飯は外で食べると言って出掛けた紗季の為に夜食を作って待っていたのだ。じゃがいものスープもとてもおいしかったが、どこかなじみの薄い味がした。本格的なフランス風の作り方なのだろう。畑山婦人の料理の腕前は相当なもので、しかもかなり凝ったことをする料理人のようだ。焼きプリンはよくある一人前ずつの小さなものではなくて、陶器の平たい容器にたっぷり作られたものを好きなだけ皿に取り分けて食べるものだった。なるほどこうした方が味はよく仕上がるに違いないが、それにしても老齢のひとり暮らしの身には随分と贅沢な道楽だ。畑山婦人の生活は、紗季が想像していたよりずっと裕福なものなのかも知れない。  紗季が食べるのを見ながら、畑山婦人はかいがいしくそばについて紗季の世話をした。茶を入れ替えたり皿を下げたり、そうしているのが楽しくて仕方ないといった風に。  紗季は、料理の味と畑山婦人の親切に心をゆるめた。そして、原宿の裏通りでバイクにはねられそうになったことを話した。畑山婦人はショックを受けたように口を覆った。 「なんてことを……あなた、本当に心当たりってないの?」 「わたし……人に恨まれるようなことは……」 「そうじゃなくてよ!」畑山婦人は紗季の腕を掴んだ。「その逆よ。ほら、最近テレビとかでよくやってるじゃないの、好きな相手の後をつけて嫌がらせしたりする、あの……」 「ストーカー?」 「そうそう、それ! どこかにあなたのこと片思いしてる男がいて、ずっと後をつけてたけど、あなたが全然振り向かないんでそれで……」  紗季は短く笑った。 「あたしみたいな女のことつけ回す男なんているとは思えないわ……あたし、もう若くもないし」 「とんでもない! あなたなら充分綺麗よ。ね、よく考えてみて。最近いたずら電話とか無言電話なんかかかったこと、なかった? 意味のわからない手紙が来たことは?」  畑山婦人の勢いに押されて、紗季は本気になって自分がストーカーに狙われていた可能性を考えてみた。たまたま美代子から同じ様な話を聞いたばかりだったこともあり、あながち畑山婦人の言葉も見当はずれではないのかも知れない。確かに今はそうした変態的な行動が流行してしまっているのだろう。だが無言電話を受けた憶えはないし、誰かにつけ回されたという自覚もない。 「特に心当たりはないみたいです」 「そう」  畑山婦人は眉を寄せて首を傾げた。 「スープのお代わりあるけど、もう少しいかが?」 「あ、いえ……もう夜も遅いですから」 「あらあら、そうね。こんな真夜中に食べ過ぎたら寝苦しいわよね」 「でも本当においしかったです。お腹が減ってどうしようかと思っていたところでした。ありがとうございました。また後であらためて御礼に……」 「ちょっと、よしてちょうだい。御礼なんていいのよ、好きで料理作って近所に配ってるんだから。だけどこのマンションにはあたしみたいな年寄りのひとり暮らしが多くて、たくさんは食べてくれないでしょう? それにあっさりした和食は人気があるけど、こういうのは苦手って人が多くて」 「このマンション……お年寄りが多いんですか」 「ええ。不動産屋さんから聞かなかった? ここ、古くてあと十年もしたら建て替えを考えないといけないでしょ、でももともと管理費も安いし積み立ても少ないから、いざ建て替えるとなったら個人負担が大きくなると思うの。いくら値段が安いとは言ったって、建て替えに別な費用がかかるんならよそを買った方がいいって思う人は多いわよね。だけどほら、あたしら年寄りはねぇ、先のことはあんまり考えないでいいから」 「そんな」紗季はどういって返せばいいかわからずに困って下を向いた。「畑山さんはまだまだお若いですし……」 「ほらほら、いいのよ」畑山婦人は快活に笑った。「年寄りが寿命の話をしたらね、そんなに真面目に受け答えしないで一緒に笑ってちょうだいな。あなたみたいに若い人には理解出来ないと思うけど、年寄りは毎日死ぬことと向き合って生活してるんだから、今更おたおたはしないものよ。したってしょうがないものね、人間、いつかは死ぬんだし。あたしももう、七十四になるの。からだはどこといって悪くはないけど、八十まで生きられるかどうかはわからないもの。だからマンションの建て替え費用のことなんて気にしないで楽しく暮らしていられるわけ。その意味では、この歳になってようやく、幸せなのかなって思えるようになったわね。これまでの人生は大していいこともなくて、自分は運が悪いんだって思っていたもんだけどさ」  畑山婦人は、伸びをするように背筋を起こした。 「いろいろあったのよ、こんなおばあちゃんの人生にも。一時はほんとに死んでしまった方が楽だなんて思ったこともね。でも死ねないままこの歳まで生きて来るとね、後は幕引きだけって感じで、もうじたばたしないで出来るだけあっさりと、綺麗に逝《い》きたいってそればっかり思うわ」  紗季は畑山婦人の、淋しげだがどこかいさぎよさのある横顔を見ている内に、心につっかえていたことを話してしまいたい衝動に駆られた。 「あたし、あの」  紗季はそれでもまだ迷いながら畑山婦人を見た。婦人は何かを期待して待つ鳩のような仕草で首を傾げながら、紗季の次の言葉を待っている。 「ひとつだけ……心当たりが」 「……まあ」  畑山婦人は座りなおして紗季の顔を覗き込んだ。 「何か、困ったことみたいね……よかったら話してみて。もちろん、誰にも言ったりしないから」  紗季は頷き、下を向いたまま小声で言った。 「あたし……少し前に、死体を見たんです」 「……死体?」  畑山婦人の声は驚きの為か掠《かす》れていた。 「それはいったい、どういう意味かしら」 「ここに越して来る二日ほど前の晩だったんですけど……前に住んでいたところの近くの公園で……ウサギの格好をした男を見たんです。夜の八時か九時ぐらいで、暗くてよくわからなかったんですけど……確かに、ウサギの姿をしていました。それも変なタキシードを着て時計をぶら下げている……」 「何となくだけど想像がつくわ……それってもしかしたら、このウサギじゃない?」  畑山婦人は立ち上がり、リビングの壁にかけられた小さな額をはずして持って来た。 『アリスのお茶会』の絵!  大きなテーブルの上に茶器が並べられ、山高帽を被った帽子屋と三月ウサギ、その横にアリスが並んでいる。背景の木立の葉の中には笑った猫の顔もあった。 「……そうです」  紗季は頷いた。 「このウサギの格好でした」 「それならわかったわ……サラ金の宣伝マンね」 「畑山さん、レディスローン・アリスのこと知ってらっしゃったんですか」 「お昼のワイドショーでやってたのよ、少し前に。不思議の国のアリスの登場人物の扮装した宣伝マンが、花を配って歩いてるんでしょう? 繁華街では話題になってるらしいわよ」 「わたしも昨日、原宿で見ました。学生さんのアルバイトみたいですね」 「そうなんでしょうね。あなたが公園で見たウサギも、きっとその宣伝マンだわ。で、そのウサギを見てからどうしたの?」 「あたし……その時ちょっと精神的に不安定だったと言うか……そのウサギのこと、幻覚かも知れないと思って……近寄ろうとしたんです。するとウサギが逃げ出してそれで……そのウサギがいた場所に、人が倒れていました。頭から血がたくさん流れていて……死んでいました」 「確認したの?」 「いいえ」  紗季は頭を横に振った。 「でも……あんなに血が流れていたんでは……」 「それで、警察には?」  紗季はまた頭を横に振った。 「……通報しないといけないとは思ったんですけど……あたしほんとに少し精神状態がおかしくなっていて、この死体だってきっと幻覚なんだ、幻なんだって思い込もうとしたんだと思います。それに……とても怖くて」 「じゃ、警察には通報しないままにしたのね。だけど……おかしいわね。あなたが前に住んでいらしたのって、どのあたり?」 「日暮里の近くです。女子社員寮にいました」 「そのあたりの公園で死体が発見されたなんて話、最近あったかしら? あたしね、暇なものだから新聞は隅々まで読むし、昼間はずっとテレビをつけてニュースだのワイドショーだの見ているのよ。だから三面記事に載るような事件なら大抵は知ってるはずなんだけど。公園に死体なんて話、なかったと思うわ、最近」 「あたしも……あれから気になって注意していたんですけど」 「ないでしょう? うーん」  畑山婦人は首をまた傾げた。 「いろいろ考えられるわね。たとえば死体だと思っていたけどその人はまだ生きていて、あなたがいなくなってから自力で立ち上がってどこかに消えた。それとも……あなたが見たというウサギ男が引き返して来て、死体を運び去った。だとしたら……死体を目撃したあなたのことを……」  畑山婦人は大きく手を打った。 「それかも知れないわ! 池内さん、あなた、もしかしたらその男に狙われたのかも知れないわね。ね、そのこと、警察には話した?」 「いいえ……まだ」 「そう」  畑山婦人は一度目を閉じ、それからまた開けた。 「あなたの気持ちはわかるけど……でももしそのことが今日バイクではねられそうになったこととほんとに関係あるんなら、警察にちゃんと言った方がいいわね」 「わかってます」紗季はふうっと息を吐いた。「畑山さんに聞いて貰って覚悟が出来ました」 「そうだわ」  畑山婦人は紗季の手を握った。 「もし良かったら、あたしも一緒に警察に行ってあげましょう。ひとりじゃ心細いでしょう?」  本当なら、鬱陶しい申し出だと思うところだった。だが、畑山婦人の握った手の温もりを感じている内に、紗季はいつのまにか頷いていた。  畑山婦人の部屋を引き上げたのは午前二時近くになってからだった。  紗季はゆっくりと階段を降りて真下の自分の部屋へと向かっていた。だが、階段を降りきって廊下へと足を踏み入れた瞬間、恐怖で凍り付いた。  紗季の部屋の前に、異様な姿の男が立っていた。  山高帽にタキシードを着込んだ、白い手袋をした男。  その男は、紗季に向かって帽子をとり、会釈した。そして、驚いて声も出ないでいる紗季のそばをゆっくりと通り過ぎ、階段へと消えた。だが通り過ぎる瞬間に、男は紗季の耳に囁いた。 「明日の三時にお茶会が開かれます。またお誘いにあがります」 [#改ページ]   第三章 お茶会の午後      1  紗季はその場に膝をついて座り込んだ。  言い様のない恐怖で足の力が抜けてしまったようで、立ち上がってドアを開ける気力が再び湧くまでじっとそのままでいた。  いったい、何がどうなっているのか。  あの公園で目撃した三月ウサギが畑山婦人の言った通りにサラ金のアリスの宣伝マンだったとしても、その後なぜ、彼等はこれほど執拗にアリスの物語の扮装のままで自分をつけ回すのだろう。  スーパーからの帰り道で歩道橋の上にいた帽子屋、そして原宿のバーで黄色の薔薇を配っていたあの三月ウサギだって、偶然とは思えない。あの時、あの男は確かに「このあいだはどうも」と言った。男が否定したのであの時は空耳だと思ったが、今こうして奇妙な帽子屋がマンションまで現れた以上、空耳なんかじゃない!  だが死体を見たことであたしを狙うというのなら、なぜこんな手の込んだことをするのだろう?  混乱した頭のまま、紗季は部屋に入り、服を脱ぎ散らかすと畑山婦人から貰った布団に潜り込んだ。未使用の布団には独特のよそよそしい匂いがある。一度洗って糊を落としていない新品のシーツも固い肌触りで落ち着かない。だがそんなことよりも、紗季の頭は異様に冴え、眠気は一向に訪れてくれなかった。  三時のお茶会。  どういう意味?  本当にあの帽子屋があたしを誘いにやって来るの?  窓の外が明るくなるまで眠れずにいて、ようやくうとうとしたのは通りに騒々しいゴミ収集車の音が聞こえて来る頃だった。  ゴミ!  そうだ、ゴミだ。  紗季は半分眠りかけていた意識を無理に起こすと、引っ越し荷物のダンボールの中から目指す箱を見つけ出し、ガムテープを剥《は》がして蓋を開けた。中には東京都の指定する半透明なゴミ袋に入れられた茶色の紙包みが入っている。紗季はそれを掴み出した。袋は四枚も重ねてあるので破れる心配はまずない。  紗季は袋を片手に下げて部屋を飛び出した。  一階まで駆け下りて通りに飛び出すと、マンションの前の歩道に山積みにされたゴミ袋が目に入った。  良かった、間にあった。音がしていたのは別の路地を通り過ぎた収集車らしい。マンションの前の路地には、まだ点々とゴミ袋の山が残っていた。紗季は茶色の紙包みが入ったゴミ袋を、山のてっぺんに載せると部屋へ引き返し、空になったダンボールを押入れに突っ込んだ。  社員寮のゴミ置き場に捨てる勇気はなかったが、知らない街でならそれが出来るような気がしてここまで運んで来たのだ。  紗季はそれでも、もう一度ゴミ収集車の音がするまで、部屋の真ん中に座ってじっとしていた。十五分ほど遅れて、今度はさっきよりずっと大きくはっきりと収集車の騒音が聞こえて来た。マンションの前のゴミ置き場には大量のゴミ袋が捨てられているので、収集車も長く停まっている。紗季は息を止めてその音を聞いていた。やがて収集車がまた走り出す音がした。  紗季は、大きく肩でひとつ息をした。  もう証拠はない。  だけど……何の……証拠?  紗季は押入れの扉を見つめた。  あのゴミ袋の中には、何が入っていたんだっけ?  紗季はしばらくそのままじっと座り込んでいたが、やがて立ち上がって洗面所に行き、冷たい水でバシャバシャと顔を洗った。  思い出せなかった。  袋の中に何を詰めたのか思い出せない。だが、どうしてもそれを捨てなければならない、ということだけははっきりとわかっていた。  もう、いいや。ともかくちゃんと捨てたんだから。  そう思うと、ここ数週間感じていた胸が潰れるような圧迫感が少しだけ消えたような気がした。  安心が少しずつ紗季の心を支配する。  もしかしたらあのことだって……このまま発覚せずに一生安泰で暮らせるのかも、という淡い期待も頭をもたげて来る。だが紗季は、自分で自分の頬を叩いてそうした考えを頭から追い出した。甘い考えに溺れると、覚悟が薄らぐ。覚悟が薄らげば、希望が打ち砕かれた時に自分を見失う。  自分を見失う?  紗季は自身の思考に湧いた言葉がおかしくて、ひとりで笑い出した。気付くのが遅すぎたのだ。まさに「自分を見失って」いたあの頃、それに気付いていれば……  チャイムが鳴った。玄関ドアの覗き窓の向こう側には、畑山婦人の人なつこい笑顔があった。 「ごめんなさい、少し早かったかしら。でもさっきゴミを捨てにいらしたのが窓から見えたもので、もう起きてらっしゃるのね、と思って」  畑山婦人は手にした盆を突き出した。 「ゆうべご飯が遅かったからまだ食欲は湧かないと思うけど、これ、果物のサラダなの。このくらいだったら一口でも食べられるんじゃないかしら。あ、いいのよ、あたしはここで失礼して上で待っていますから、ゆっくり食べて仕度が出来たら声を掛けて下されば」 「あ、あの」  紗季は面食らった。だが畑山婦人は悪気のまったくない穏やかな顔で言った。 「警察に話しに行くなら、午前中の方がいいでしょう?」      * 「お話はだいたいわかりました」  越智《おち》、と名乗った刑事は腕組みをほどいて紗季の顔を見た。その目には特に軽蔑の色はなかった。少なくとも、紗季を頭のおかしい女だとは思っていないようだ。 「まず公園に倒れていた人が本当に死んでいたのかどうかが問題ですな。少なくとも、あなたがその人を目撃したと言われる日以降、あの公園で死体が発見されたという事実はありません。もう一度お聞きしますが、あなたはその人が死んでいることを確認されたわけではないんですね?」  紗季は頷いた。 「ということは、あなたが思われたほどには怪我の度合いがひどくはなくて、ただ少し失神していただけという可能性もあるわけですね」 「でも……血が……」 「池内さん、あなたはその血がどこから流れていたのか傷口を見ました?」 「あ……頭の下に血溜まりがありました」 「でも傷口は見ていない?」  紗季はまた頷いた。越智は特別苛立った風でもなく、ただ淡々と言った。 「たとえば、鼻血。あれは場合によっては大量に出血しているように見えることがありますね。他にも、顔や頭皮の怪我というのは、その重大度に比べて出血量が多く感じられるものです。他の皮膚に比べて毛細血管がたくさん集まっているらしいですよ。ましてや酒を飲んでいたり運動の直後だったりすると、怪我した本人が驚くほど大量の血が出たように感じられます。それから、出血が怪我によるものではなくてからだの内部から出ていた場合、つまり吐血した場合ですね。胃潰瘍などでも場合によっては洗面器に溜まるほどの血が出ることがありますし、静脈瘤が破裂した場合などは出血で死亡するほどです。他にも、結核などで肺から出血することもありますし、喉や食道の病気でも吐血するそうですな。いずれにしても、そこに意識のない人間がいてその頭の下に血溜まりがあったというだけでは、その人間が死亡していたと断定することは出来ないわけです。あなたが目撃されたその人も、何らかの事情で出血はしていたものの死んではおらず、あなたが現場を立ち去ってから自力、或いは他人の手によってでもいいが、病院なり自宅なりに向かったと考えることは出来ます」  紗季は越智の言葉を聞きながら、もう一度あの夜の光景を思い出していた。だがいくら理路整然と説明されても、紗季にはあの倒れていた人間は死んでいた、という強い確信があった。  その確信の理由は言葉では説明出来ない。だが、紗季は死んだ人間がそこにいる時にだけ漂う、あの独特の「死の気配」を知っていた。 「いずれにしても、まずはその倒れていた人、というのを突き止めてみるしかないでしょうね。病気などで吐血した場合なら救急車が呼ばれていたと思うので、その辺からあたってみましょう。それとレディスローン・アリス、でしたか、そこにも事情は訊《き》いてみます。しかし、原宿でオートバイにはねられそうになったという件ですが、そちらの方は管轄も違いますし、原宿の捜査の結果を待たないとなりません。池内さんが本日こちらにいらしたということは原宿へは連絡しておきますが、向こうの捜査に関連して事情を聴かれるかも知れません。その場合はお手数ですが、もう一度原宿の方へ行かれて、今わたしに話していただいたことをお話しいただかなくてはならないと思います。同じ話を何度もさせて申し訳ないんですが」 「それはわかっております。ただ……刑事さん、結局今のわたしの話で、警察は何らかの捜査をしてくれるということなんでしょうか」 「刑事事件になる可能性があるかどうかの捜査はいたします。何しろ、池内さんのおっしゃる通りだとすれば殺人事件の可能性もないとは言えないわけですから。しかしおわかりいただきたいのですが、池内さんが目撃されたという公園に倒れていた人物が実在したという証拠が出ない限り、それ以上のことは我々には出来ません。もし池内さんが今後も原宿で経験されたような危険に遭遇されることがあれば、また話は変わって来ますが……」  越智は不穏当な発言をしたことに気付いて咳払いした。 「ともかく、そういうことでこの件についてはわたしが責任を持って対処いたします。もし今後池内さんの方で何か気付かれたこと、気掛かりなことなどありましたら、わたしに連絡して下さい」  越智は名刺を出した。捜査一課係長の肩書きと、越智|一徳《かずとく》の名。 「あらまあ!」  紗季の隣に座っていた畑山婦人が突然大声を出した。 「じゃ、やっぱりそうだ! 顔を見た時にね、どこかで逢ったことがあるような気がしていたのよ。もしかしたらと思ったんだけど名字が違ってるしって。でも名前は一緒だものね、あなた、斎藤さんとこのかずちゃんでしょう!」  越智はきょとんとした顔でしばらく畑山婦人を見つめていたが、やがて大きく口を開けた。 「おばさん……? あの、政孝くんの……?」 「そうよぉ」畑山婦人はいきなり越智の手を掴むと上下に振った。「なんとまあまあ、こんなに大きくなって! いやだわ、三十年も経ってるんだから当たり前だわねぇ、だけどまあ……ほんとにあのかずちゃんだなんて、信じられない! 警察官になったなんて、想像も出来ないわ! 毎日政孝と一緒にいたずらばかりして、いっつも二人して立たされていたあのかずちゃんが刑事さんだなんて!」  越智は決まり悪そうに赤くなった耳たぶを引っ張りながら、興奮して腰を浮かしている畑山婦人をなだめるように腕を叩いた。 「おばさん、本当にお久しぶりです。お元気そうですね」 「まあ何とかこんな歳になるまで生きて来ちゃったわよ……でも長生きして良かったわ、あのかずちゃんが刑事さんになってるのが見られるなんてね。でもかずちゃん、名前が越智さんっていうのは……ご養子さんに行ったの?」 「いや……母が離婚したんです。僕が中学の時に」 「あらまあ」畑山婦人はようやく落ち着いてもう一度座り直した。「それはごめんなさい。ちっとも知らなくて。ほら、おばさんはねぇ、あのことがあってからすぐ引っ越ししちゃったもんだから」  不意に、畑山婦人と越智の間に、何か共通の沈痛な思い出でも甦ったかのような沈黙が流れた。紗季は事情がわからずに黙ったままその沈黙をやり過ごした。やがて、畑山婦人が先に笑顔になった。 「かずちゃん、もし良かったらまた遊びに来てちょうだいな。こんなおばあちゃんのとこに来たってちっとも面白くはないでしょうけど、ほら、かずちゃんが大好きだったチョコレートケーキ、あれね、今でも時々作るのよ」 「ほんとですか」越智は顔を輝かせた。「懐かしいなぁ……おばさんのチョコレートケーキはもう最高でしたからね。僕はあれを食べて甘党になっちゃったんだから。でも今に至るまで、店で売ってるチョコレートケーキを食べても全然満足出来ないんですよ」 「小さい頃においしいと思ったものって特別に感じるものなのよ。それにあの当時はチョコレート自体がけっこうお高いものだったでしょ、だからなおさら有難味があっておいしく感じたんだわ」 「そんなことないですよ。おばさんのはほんとに最高でした」 「そう言って貰えて嬉しいわ。ね、かずちゃん、遊びに来てちょうだいね。電話してくれたらチョコレートケーキ、必ず作って待ってるから」 「息子も連れて行っていいですか」 「息子さんがいるの!」 「五歳になります」 「あらあらあら」  畑山婦人は微笑みながら深く息を吐いた。 「ほんとにね……年月が経つのって早いのね……あのかずちゃんが、五歳の子の父親になってるだなんて。小学校に入ったばかりで真新しいランドセルしょっていた時の姿、今でも思い出せるのに……紗季さん」  畑山婦人は紗季の顔を見た。穏やかだったが、なぜかひどく淋しそうな顔だった。 「この人はね、あたしの息子の同級生だったの。小学校一年生の時。家がすぐ近所で、毎日のように遊びに来ていたのよ。二人ともやんちゃで、学校ではいつも怒られてばかり。でもとってもいい子だった……明るくて元気で」  またやるせない沈黙が流れ出した。紗季はようやく、畑山婦人にも子供がいたこと、そしてどうやらその子の身に何か起こったらしいということを察した。だが紗季は黙ったまま、畑山婦人が気を取り直すのを待った。 「ごめんなさいね、かずちゃん。あんまり長居したらお仕事の邪魔だわね」  畑山婦人は立ち上がった。 「ともかく、この池内紗季さんはわたしの大切なお友達なの。どうか紗季さんの言葉を信じて、ちゃんと調べてあげて下さいな」 「承知しました」越智はようやく刑事の顔に戻った。「犯罪の可能性があるかどうか慎重に調査して、出来るだけ早くご報告いたします」 「よろしくお願いいたします」  紗季は越智に向かって頭を下げたが、越智は畑山婦人の方を見て言った。 「じゃ、おばさん、今度必ずチョコレートケーキご馳走になりに行きますから」      2 「息子はね、雪に埋まって死んでしまったの」  紗季が何も訊かない内に、畑山婦人は語り始めた。 「東京に大雪が降った三月だったわ……いつもならかずちゃんと遊んでいたんだけと、あの日は確か、かずちゃんがひどい風邪をひいて家で寝ていたのね。大雪で学校はお休みになって、息子は近所の子供達と雪だるまを作るんだと言ってひとりで出掛けたの。それで多分、いつもかずちゃんと遊んでいた公園に行ったんだと思うわ。でもたまたま、その日に限って近所の子供達は別の遊び場に集合していたらしいの。あの時代には東京にもけっこう空き地があってね、近所の子供達は雪合戦をする為にその空き地に行っていたのね。息子もきっと、誰も遊びに来ないので空き地かも知れないと思い直して空き地に向かったんでしょうね……公園からその空き地までは子供の足で十五分ほどだった。でも……息子は空き地には現れなかった。そしてそのまま、二度と戻って来なかった……息子が見つかったのはそれから丸一日経ってからだったわ。人通りの少ない裏道の廃屋の軒先で、雪に埋まっていたの。状況から、廃屋の屋根に積もっていた雪が滑り落ちて、たまたま下を通りかかった息子を埋めてしまったんだろうと……もうすぐ二年生になる、春だった」  畑山婦人は淡々と話しながらも、三十年前のその日を思い出したのか、微かに唇を震わせた。 「……運が悪かったのよね……それ以外には言いようがないわ。もし誰か他の子と一緒だったら、雪に埋まっても助けを呼んで貰えたのに。だけどそれも……あの子の寿命だったんだから。交通事故に遭ったのと一緒よね……いくら考えても悔やんでも、あの子は三十年前に死んでしまったんだから。ごめんなさいね、紗季さん。つまらない話を聞かせてしまって。でもああやって立派に成長したかずちゃんを見ちゃうと、何だかね……死んだ子の歳を数えたって仕方ないんだけど」 「当然だと、思います……親であれば」 「そうね」畑山婦人は頭を軽く振った。「親なら当然よね。いつまでも死んだ子のこと考えるのは、当然。あなたのようにまだお子さんもいない人にそう言って貰えると、気持ちが軽くなるわ。この歳になってまだ三十年前のことをくよくよ考えてるなんて、客観的に見たら随分としつこい、恨みがましい人間なんでしょうけど。まあいいわね、もう息子の話は。ね、それより池内さん、かずちゃんはああ言ってくれたけど、あまりあてに出来ないかも知れないわね、あの口振りだと」 「ええ。あの時公園に倒れていた人が見つからなければ、結局事件にはならないんですね」 「矛盾してるわ」畑山婦人は唇を尖らせた。「つまり池内さんが見たのが本物の死体でも、殺した犯人が上手に死体を隠してしまっていたのなら事件にはならないってことでしょう? もう一度池内さんが襲われれば話は別だ、なんて、そんなことで市民を守る警察として恥ずかしくないのかしら」 「でも……あの刑事さんのおっしゃったように、あの人は生きていて自分で病院に行ったのかも知れませんし」 「そんな風に見えた?」  畑山婦人は紗季の顔を覗き込んだ。 「あなたには、死体に見えたんでしょう!」  紗季は躊躇《ためら》いながらも頷いた。 「……思い出してみると、あの人が死んでいると一目で思ったのには理由があったような気がするんです。あの人の頭が……変な方向に捻《ねじ》れていたような気が……」 「つまり、首の骨が折れていたってことね」 「そこまではわかりません。でも……でも……あの人はうつ伏せに倒れていたのに、顔がはっきりと見えたんです。首が反対に捻れていたのでなければ、あんな風にうつ伏せの人の顔が上を向いているなんてこと……」 「ね」  畑山婦人は地下鉄の駅に降りる階段に足をかけた紗季の腕を掴んだ。 「行ってみない?」 「……どこへですか?」 「その公園よ。あなた、その死体を見た日から後でその現場に行ってみた?」  紗季は否定した。 「だったら行ってみましょうよ。現場に立ってみれば何か新しい発見があるかもわからないわよ。ええっと……こっちね」  畑山婦人は地下鉄に降りずに国道沿いを歩き出した。紗季も小走りでその後を追った。畑山婦人は七十四歳という年齢が嘘のように思えるほどきびきびと早足で歩いた。その颯爽《さつそう》とした背中に、紗季は、婦人が紗季の目撃した死体消滅をこうして探ってみることに、興奮を感じていることを見て取った。  公園は、あの夜とはだいぶ感じが変わっていた。その違いは単に夜と昼との差ではない。紗季はしばらく公園を見渡して、それから気付いた。  桜のせいだ。  彼岸桜がすっかり散った代わりに、一面にソメイヨシノが花開いて風に花びらが舞っている。もう満開は過ぎ、あと数日で葉桜だ。  紗季は自分があの夜腰を下ろしたベンチを探した。それは公園の中に一本だけある街灯の真下に置かれていた。 「あそこに座っていたんです」  紗季が指さすと、畑山婦人は頷いてベンチに近づき、座った。 「なるほどね。ここからだと公園の中がぐるっと見渡せるのね」  小さな公園だが、遊具の数は多い。すべり台、鉄棒、ジャングルジム、ブランコ……だがあの夜は、それらがみな夜の闇の中に沈んでいて、見えていたのは街灯の明かりが届く範囲だけだった。 「で、そのウサギはどの辺りにいたの?」  紗季は自分もベンチに座りながら、あの夜見た光景を思い出そうと神経を集中させた。 「あの辺り……だったと思います。方向は」  紗季が指さした方角には、小さな建物が建っていた。あの夜はまるで気付かなかったが、公衆トイレらしい。だが暗闇の中にウサギが見えたにしては街灯から距離があるように感じる。どうしてあの時、ウサギの姿があんなにはっきりと見えたのだろう?  畑山婦人は立ち上がると、公衆トイレのそばに近寄った。 「嫌だわ」  畑山婦人は鼻にハンカチを当てた。 「どうして公衆トイレってどこでもこんなにひどい匂いなのかしら。みんな、自分の家のトイレならこんなに汚さないでしょうにねぇ」  畑山婦人は腰を屈めて地面を見ていた。 「あの、何か落とされたんですか」  紗季が近寄ると、畑山婦人は笑いながらウインクした。 「あら、だって、何か遺留品が落ちてるかも知れないじゃないの。血のあとだって残っているかもわからないし」  畑山婦人はどうやら、老婦人探偵を気取るつもりらしい。  だが地面には血痕らしいものは何も見当たらなかった。 「三月の終わりだって言ってたものねぇ……あれからけっこう、雨が降ってるから血のあとなんか流れて消えてしまってるわね……あら、これは何かしら」  畑山婦人は、土に半分めり込んでいる赤っぽく光るものを拾い上げた。 「メダル……? それにしては薄っぺらね」  それは、長い方の直径が二センチほどの楕円形の金属プレートだった。確かに、表面に刻印があってメダルに似ているが、メダルにしてはぺらっとしていて安っぽい。赤銅色で、新品の十円玉と同じような色だった。 「文字と絵が彫ってあるわ。あらどうしましょう、眼鏡を忘れて来てしまった」  畑山婦人はそのプレートを紗季に渡した。紗季は表面についた土を払い、刻印を見た。 「畑山さん」  紗季は震え出した指先でプレートの表面を畑山婦人の方へ突きだした。 「これ……これ、アリスだわ」 「アリス?」 「ええ。不思議の国のアリスよ。アリスの絵だわ。フリルのついたエプロンをつけた昔風の女の子……畑山さんのお部屋にあったお茶会のものと同じ絵よ。待って、文字が……WELCOME TO THE ALICE HOME。アリスホームへようこそ……?」 「アリスホーム……アリスホーム……」  畑山婦人はその言葉を二度三度口の中で繰り返してから、両手をパチンと打ち合わせた。 「思い出した! 国造さんだ! そのホームの話なら国造さんから聞いたんだわ! 池内さん、それね、ホスピスよ、ホスピスの名前」 「ホスピスって、あの、末期癌とかでもう助からない人達が入院する?」 「そう。国造さんっていうのはほら、あのマンションの二階に住んでる人なんだけどね。癌ノイローゼとでもいうのかしら、ちょっと具合が悪くなると癌じゃないかって医者に検査して貰うのを趣味みたいにしてる人なのよ。でね、国造さんが二カ月くらい前だったかしら、癌センターの待合い室で知り合った人からアリスホームの噂を聞いたんですって。何でも私立のホームで、それこそ天国みたいに綺麗なところらしいのよ。それに職員も親切で食事もおいしくて、やりたいことは何でもさせてくれるとか。でもね、とても小さな施設なんで入所希望者がいっぱいで、なかなか入れないんですって。もっとも治癒の見込みのない末期癌の患者さんしか入れてくれないわけだから、まあ入れ替わりは激しいでしょうけど。国造さんたら、癌だって宣告されたらともかくそこに申し込みだけしておくんだなんて言ってたわ。嫌ねえ、癌なんて最近じゃ、けっこう治る病気らしいじゃないのねぇ」 「だけど」  紗季は掌の上に載せたプレートを見つめた。 「どうしてそのホスピスのプレートがこんなところに?」 「それが謎ね」  畑山婦人は瞳を輝かせた。 「だけどこの小さなメダルが、あなたが死体をここで見たことと無関係じゃないことは確かだわ。だってそうでしょう。あなたの見たのは三月ウサギだった。不思議の国のアリスの重要な登場人物よ。そしてこのメダルにはアリスの絵。ね、これは大変な手がかりよ。早速国造さんに聞いてそのアリスホームとやらに行ってみない?」 「行くんですか、アリスホームに? でも……あたし……」 「そうね……あなたは三月ウサギの格好した奴に顔を見られているのよね……もし原宿であなたを襲ったのがその男で、その男がアリスホームと何らかの関係があったとしたら、あなたの顔を見て自分の正体がばれてしまうのを恐れて、またあなたを襲うってことも考えられるわけよね……いいわ、あたし行って来てあげましょう」  畑山婦人はおかしそうに笑った。 「国造さんに連れて行って貰えばいいわ。年寄りが二人でホスピス見学だなんて、ちょっと気の利いた冗談だわよね。末期癌じゃなくたって明日の朝までしか寿命がないかもわからないんだから」  紗季はまた言葉に困って黙ったままでいた。畑山婦人は、そうやって自分の死期についての冗談を放つのを楽しんでいるのかも知れない、と紗季は思った。それを聞いて戸惑う紗季の顔を見るのが面白くてたまらないのだろう。  彼女は退屈している。老齢に入って、これといってすることもなく悩みもなく、人生に退屈してしまっているのだ。今度のアリス騒動は、彼女にとってはふって湧いた幸運だった。まるでアガサ・クリスティが創り出した老婦人探偵のミス・マープルのように、おせっかいに事件に首を突っ込み、自分の頭の回転が悪くなってはいないことを他人に見せることに無上の悦びを感じているのだ、きっと。  だが、彼女がそうしたいのならば探偵ごっこをさせておいてあげた方がいいと、紗季は考えていた。畑山婦人の存在そのものは、まだ幾分か鬱陶しさを感じさせるが、それでも、彼女が親切心の塊で、本気で自分を助けてやろうとしていることは間違いない。  何がどうなっているのかさっぱりわからないが、ともかく味方が必要だった。紗季には予感があった。自分は確かに、誰かの悪意の標的にされている…… 「畑山さん」  紗季は決心して言った。 「実は、ゆうべもうひとつ変なことがあったんです」 「ゆうべって、あなたが部屋に戻ってから? だってもう午前二時は過ぎていたでしょう?」 「ええ。あんな時間に……見たことのない男が部屋の前に立っていたんです。とても変な格好をして……ほら、畑山さんのお宅にあったアリスのお茶会の絵に出て来る、奇妙な帽子屋そっくりの……」 「まあ!」  畑山婦人は驚いて両手で口を覆った。 「それで池内さん、あなた、大丈夫だったの? 何もされなかった?」 「危害は加えられてません。その人、あたしを見るとドアから離れて階段を降りて行ってしまいました……でもその時に、あたしにこう言ったんです。明日の三時にお茶会の誘いに来ますって」 「明日の三時ってそれ、つまり今日の三時ってこと? あらいやだ、あなたどうしてそのことかずちゃんに言わなかったのよ!」 「言おうかとも思ったんですけど……なんだかあまりにも現実離れしているというか、作り話めいていて、とても信じて貰えないような気がして。あたしの頭がおかしいなんて思われたら、今度のことを真剣に調べて貰えなくなるんじゃないかって……」  畑山婦人は少しの間黙ったまま腕組みするように両腕をからだに回して紗季を見ていたが、やがて言った。 「そうね。かずちゃんに言わなかったのは結局正解だったかも知れないわ。ウサギの格好した男と消えた死体っていうだけでも奇妙な話なのに、その上マッドハッターではねぇ。だけどどうするの? 三時にその男、本当にまた来るのかしら。ねえ、もし何だったら午後はずっと部屋に戻らないでわたしのところにいたら?」 「……逃げ回っていてもらちが明かないと思うんです」  紗季は自分に言い聞かせるように呟いた。 「あたしに危害を加えるつもりでいるなら、わざわざ出直さなくたってゆうべどうにかしてしまうことは出来たはずだわ。あの男……いえ、今度のことをやってる人達があたしに何を言いたいのか、どうしろと言うのか、いっそのこと直接訊いてみた方がいいのかもしれない。もしあの帽子屋が今日の三時にやって来たら、あたし、訊いてみるつもりでいます」 「でもひとりじゃ危ないわよ! わたし、必ず三時にはあなたのお部屋に行くようにするわ。丁度いいから、国造さんをお茶に誘うっていうのはどうかしら。あの人もけっこう暇を持て余してるから、女のお喋りにも付き合ってくれるのよ。関係のない老人二人がいれば、向こうだってそう簡単に手出しは出来ないはずだもの。それにあなたが言うように、どうもその男には何か目的があるわね……オートバイであなたを襲った奴とは違う仲間なのかも知れないわ。だって、わざわざ今日の三時にまた来るなんて言い残したら、あなたが応援を頼むくらいのことは想像がつくはずですもの。いいわ、国造さんの他にもお茶菓子があるわよって言えば来てくれる人は何人か心当たりがあるのよ。大勢で待ちかまえていましょうよ。その奇妙な帽子屋さんをね」  畑山婦人は嬉しそうに笑いながら、まるでスキップでもしているような足取りで歩き始めた。  畑山婦人と外で昼食を済ませ、マンションに戻ると午後二時を過ぎていた。畑山婦人は階段を二階まで上がると紗季に別れを告げ、いそいそと加藤国造の部屋へ向かって廊下を歩いて行った。紗季はそのまま自室へ戻った。  時計を見るのが怖かった。三時が刻々と近づいて来る。  紗季は部屋の中を歩きまわり、何度も冷蔵庫を開けてミネラルウォーターを取り出しては飲んだ。飲んでも飲んでも、喉が乾く。  だが二時二十分になってドアチャイムが鳴った時、紗季はホッとしてドアに飛びついた。それが畑山婦人とその友達数名であることはドア越しに聞こえて来るガヤガヤと賑やかな話し声ですぐにわかったのだ。 「お待たせ」  入って来た畑山婦人は、いつもと同じに、大きな盆を抱えていた。 「ご紹介するわね、この人が国造さん。それからこちらが村田キヌさんで、こっちが山本良江さん。みんなこのマンションの住人なのよ」  紗季は、畑山婦人の後ろから次々と現れる顔に圧倒されながら、一団をリビングへと通した。  なんてことだろう、このマンションはまるで老人ホームだ…… 「すみません、引っ越ししたばかりで何もなくて」  紗季は小さなフロアクッションをいくつかダンボールの箱から取り出して和室の襖《ふすま》を開けた。 「お座布団も買い揃えてなくて……」 「いいのよ、気にしないでちょうだい。あたしら、そんな上等なものじゃないんだからさ」  村田キヌが笑いながら紗季の肩を叩き、和室に座り込んだ。山本良江と国造もそれにならった。 「さあ、それじゃお茶にしましょうか。ねえ紗季さん、お台所ちょっと借りたいんだけど」  畑山婦人が紗季に目配せした。紗季は畑山婦人をキッチンへと案内した。もっとも、畑山婦人の部屋も紗季の部屋も、キッチンの配置はまったく同じなので迷う心配はない。 「細かいことは何も言ってないのよ」  畑山婦人は、盆の上の緑色のシフォンケーキに包丁を入れながら囁《ささや》いた。 「年寄りは地声も大きいし噂が好きだから、秘密を守れって言っても無理なのよ。だからただ、今日はここでお茶にしましょうよって誘っただけなの。あなたのことは、最近仲良くなった人とだけ説明してあるわ」 「すみません、お気遣いいただいて」 「ともかくこれだけ人数がいれば、その変な男だって迂闊なことは出来ないでしょう? で、その男が来たらあなた、どうするつもり? 何でもいいからとにかく一度部屋の中に入れて、彼女達に顔を見させることね。そうすればその男も無茶は出来なくなるから」 「そうします……でも、いろいろなことを訊く時には……」 「大丈夫、まかせておいてちょうだい。あなたはその男とリビングで話をすればいいのよ、和室の襖は閉めるから。そう思って、少し耳の遠い人ばかり連れて来たのよ。襖を閉めてしまえば、よほど大声で話さない限り聞こえないはずよ。だけどちょっとでも危険があると思ったらすぐに大声を出してね」  畑山婦人は紗季の部屋に客用の茶道具が揃っていないことを見越していたらしく、人数分の揃いの湯呑みに急須と茶筒まで盆の上に載せて来ていた。  緑色のシフォンケーキはあずきの粒が入った抹茶ケーキだった。三人の老人達は口々に畑山婦人の料理の腕を褒めそやしながらあっという間にケーキを平らげた。そして何杯もお代わりして茶を飲み、とりとめもなく喋り続けた。年金のこと、死んだ夫や妻のこと、旅行のこと、息子や娘のこと、孫のこと…… 「そうだ国造さん、アリスホームの話だけどさ」  畑山婦人が言い出して、紗季はそれまで聞き流していた会話に耳をそばだてた。 「ああ、あれか」国造は頭を振った。「あれは駄目だった、俺には申し込み資格がないんだ」 「当たり前じゃないの、いやだよ、このひとは。あんたはまだ癌でもないしピンピンしてるんだから、今申し込んだって入れてくれるわけないでしょうが」 「違う違う、そんなんじゃないんだ。たとえ俺の寿命があと半月ってわかっていても、あそこには入れない。実はな、あそこに入所出来るのは、子供がいない人間だけなんだ」 「あらま、どうしてなのかしらね。経営者が子供嫌いなんだろか」 「さあなあ。きっと子供がいないと最期が淋しいからってことじゃないのかな。俺にはいちおう娘も息子もおるからなぁ……ここには寄りつかないから淋しいのは一緒なんだが」  国造は自嘲するように苦笑いした。 「ま、自業自得だから仕方ないがな。かあちゃんが死ぬまで、子供らにろくにかまってやったこともなかったし」 「だけどそれなら」畑山婦人は笑顔で言った。「わたしには資格があるわね。今度見学に行ってみようかしら。どこにあるの、アリスホームって」 「なんでも丹沢の方とか」 「そんなとこ、嫌だね」  村田キヌが頭を振った。 「冬がものすごく寒そうじゃないの。あたしは死ぬ時ぐらい、どこか南の島の椰子《やし》の木の下にでもいたいわよ。青森で生まれて嫁いだのが新潟、二十年前にようやっと東京に出て来るまで、五十年以上も寒いとこで暮らしていたんだからね、もう雪はうんざり!」 「俺は寒くてもいいから、もう死ぬとわかったらあそこに入りたかったんだがなぁ」 「そんなにいいところなの?」 「らしいなぁ。なんでも経営者は大金持ちの女で、採算は度外視して自分の金をアリスホームにつぎ込んでるんだと。だから費用は格安で、施設は最高なんだそうだ。医者もいいのが揃っていて、末期癌の痛みも綺麗にとってくれるんだ。癌ってのは最期がものすごく痛むそうだから、痛みをとってくれるとこじゃないとどこにいたって地獄の苦しみになるからなぁ」 「まったくもう、国造さんはそんな話ばっかりするんだから。こういう人に限ってピンピンして長生きするんだよ。それでさんざ縁起でもない話を聞かされ続けたあたしらの方が先に逝《い》っちゃうんだからさ!」  年寄り達の笑い声を聞き流しながら、紗季は三時を待った。  待っていると時間の経つのは遅い。もうケーキもなくなり沸かした湯も底をついたのに、まだ十分前だ。  紗季は立ち上がり、新しい湯を沸かす為にキッチンへ立った。その時、ポケットに入れていた携帯電話が鳴り出した。 「もしもし、紗季?」 「ミコ! どうしたの、今、仕事中でしょ?」 「うん、まだ会社。あのね、今夜、逢える? どこかで晩御飯」 「晩御飯って、それはいいけど……」 「あたしこれから課長のお遣いで外に出るんだけど、半端になるからそのまま直帰していいってお許し出たのよ。それでね、実はさ」  美代子は受話器の向こうでクスクス笑った。 「抜け駆けしたなんて後で恨まれたらいやだから話しておくわね。あの人から電話、あったのよ」 「……あの人って?」 「イヤだ、ほんとに興味なかったのね、あんなハイグレードな男なのに。新田拓郎さんよ、ほら。原宿のブティックの」 「ああ……」紗季はその名前でようやく新田のことを思い出した。「あの人」 「ほんとに気がないって感じね、安心した! でもさ、新田さんの方はまだあたしと紗季のどっちが本命なのか微妙なとこなのよねぇ」 「だって、ミコに電話して来たんでしょ」 「それはそうだけど、お誘いはあたし達二人とも、なんだもの。あたしのとこに電話して来たのは単純に、名刺渡してあったからだわよ。どっちみち、紗季も来てくれないと」 「いいわよ、あたし。ミコひとりで彼に逢って、アタックしてみれば?」 「そういう問題じゃないのよ。新田さんはね、昨日の事故のことで話があるって言って来ただけなの。だから二人で会わないとならないわけ。ね、協力してよ、紗季。彼に興味ないならいいでしょう? こういうことは時間を空けたら駄目なのよ、だから今日がいいの。ね、どうせ何もしてないんでしょう、まだ」  美代子の厚かましさには少し腹立たしさをおぼえたが、紗季は結局夕方に美代子と落ち合うことを約束した。もともと話好きの美代子の電話は長くなることが多い。オフィスにたまたま他の社員がいないのだろう、今日も、美代子は取り留めもなく話題を引き延ばしてなかなか電話を切ろうとしなかった。  ようやく通話を切って腕時計を見ると、三時十分を過ぎている。  紗季は急に緊張して、沸き出した湯をポットに移すと和室に戻った。  和室では相変わらず老人達のお喋りが続いている。だが畑山婦人は、紗季が小さく首を横に振って見せるとがっかりした表情になった。タキシードを着込んだ男が現れて事態が急展開することを想像してさぞやわくわくしていたのだろう。  紗季はポットを置くと、念のためリビングから小さなベランダへと出てみた。だが何の異常も見つからない。  三時のお茶会の誘いなんて……もしかしたらあたし、からかわれてる?  紗季は不意に無性に腹が立ち、リビングの床に座り込んで未整理のダンボール箱をかき回し、編みかけのレースを取り出した。イライラしたり腹が立った時には無心になってレースを編むのがいちばん効果的なのだ。  だが数目編み込んだところで、紗季はふと玄関のドアを見つめた。  ただの予感だった。だが、紗季は立ち上がると吸い寄せられるようにドアに近づき、鍵をあけてドアを開いた。  紗季は悲鳴を上げた。  ドアの前の廊下に、シルクハットを被った人間の首が置かれていた。 [#改ページ]   第四章 悲 劇      1  紗季は目を開けた。自分の名前を必死に呼んでいる声が聞こえる。  目の前に、畑山婦人の顔があった。  紗季は跳ね起きると婦人の腕にしがみつき、胸に顔を埋めて叫んだ。 「首がっ……人の、首がぁっ!」 「首ってのはこのことかな」  横から国造の声がして、紗季の顔の横に黒い物が突き出された。紗季は息を呑んで顔を背けた。 「大丈夫よ、池内さん、大丈夫。これは首なんかじゃないわ、ただの帽子よ」 「ただの……帽子?」  紗季は目を見開いてその黒い物を見つめた。それは確かに、ごく普通のシルクハットだった。 「でも」紗季は掠れてしまう声を必死に絞り出した。「確かにさっきは、それを人の首が被《かぶ》っていて……」 「あたしら、あなたのものすごい声で慌てて飛び出したのよ」  村田キヌが紗季の顔を覗き込んだ。 「だけど廊下にこれが一個置いてあっただけだったよ」  錯覚? さっき見た生首はただの錯覚……?  紗季は混乱した頭で、助けを求めるように畑山婦人の顔を見上げた。畑山婦人は母親のように紗季の頭を撫でた。 「とにかく、失神しただけでほんとに良かった。熱い紅茶にブランデーを少したらして飲むといいわ。皆さんもお茶をもう少しいかが?」 「それにしても、懐かしいシルクハットだな」  国造は黒い帽子をしげしげと見ていた。 「今はこんな帽子、手品師でもなけりゃ被らないだろう」 「だけど何だって廊下にそんなもの置いてあったのかね」 「落とし物かも知れないわね」  老人達は口々に言いながら山高帽をいじり回している。  紗季は、畑山婦人がいれてくれたブランデー入りの紅茶を啜り、ようやく気分を少し良くした。  どう考えても、さっき廊下で見た光景が錯覚だったとは思えなかった。確かに見たのだ、帽子の下の顔を。それは目を開けていたが無表情で、生気がなかった。顔色もひどく悪く白っぽかった。だがゆうべ部屋の前に立っていた男だったのは間違いない。錯覚ではないとしたら、あの男も殺されて首を斬り落とされたことになる!  もう耐えられない!  紗季は頭を強く振った。 「畑山さん」紗季は紅茶茶碗を置くと、小声で、だが強く言った。「あたし……アリスに行ってみます」 「……アリスって、アリスホーム?」 「いいえ。レディスローンのアリスです」 「およしなさいよ!」村田キヌが大声を出した。「レディスローンって、それ、サラ金でしょう。ちょっとあなた、お節介かも知れないけどね、あんなとこでお金を借りちゃいけませんよ。何か困ってるの? お金が必要なの? あたしには年金しかないからどうにもならないけど、それでも少しぐらいなら……」 「けどキヌさん、ちゃんとしたとこで借りれば大丈夫なんじゃないの?」 「そうじゃないのよ、良江さん。あたしはね、安易にサラ金でお金を借りる習慣なんかつけちゃったらその内深みにはまってどうにもならなくなるって言ってるのよ。ほら前に話したでしょう、あたしの姉さんの娘さ、子供の塾代にって亭主に内緒で少し借りたのが癖になって、ちょっと家計が苦しいと借りるようになっちゃって、気が付いた時には借金が四百万にもなってて大騒ぎしたって話、あんなふうになるのよ、一度変な癖つけちゃうと。レディスローンだなんて女の味方みたいにうたってる店ほど危ないのよ、女の客に親切だからついつい借りるようになるんだから。それだけじゃないのよ、死んだ亭主の兄さんに絶対大丈夫だから保証人になってくれって拝み倒されてハンコ押したら、あっさり倒産で自己破産よ、あれだって元はと言えば商売の金を融通するのに簡単に高利貸しから借りたりするから……」  畑山婦人が紗季に目配せした。紗季は頷いて、紅茶茶碗を片づける振りをしてキッチンに入った。  和室からは村田キヌの大声が絶え間なく聞こえて来る。 「悪い人じゃないんだけどもね、キヌさん」  畑山婦人は肩を竦《すく》める仕草をした。 「まああんなに大きな声で喋らなくてもねぇ。耳が遠いんでしょうがないけど。それで……池内さん、レディスローン・アリスへ行ってみるって?」 「今度のことはやっぱり、あのサラ金と関係があると思うんです。だって今、街の真ん中で不思議の国のアリスの登場人物の格好なんかしていて変に思われないとしたら、あのサラ金の宣伝マン達ぐらいでしょう?」 「便乗してるってこともあるわよ」 「ただの便乗だったら、もっとこっそりすると思うんです。歩道橋の上に立っていたり、マンションの中まで入り込んだり、あんなことしていたら、絶対誰かに咎《とが》められるか、おまわりさんに職務質問されると思うわ。だけど本物の宣伝マンなら咎められても言い訳がきくじゃないですか。それに昨日原宿のバーで黄色の薔薇を配っていた人は本物のレディスローン・アリスのアルバイトだったけど、彼があたしにはっきり言ったのよ……このあいだはどうも、って。あれは空耳なんかじゃない……」  紗季は訴えるように畑山婦人を見つめた。あの時の声が空耳で、そしてさっきの生首も錯覚だとしたら……あたしはおかしくなっているのかも知れない……いや、おかしくなんてない! あたしはまともだ。ちゃんとしている。そのことを、畑山婦人に信じて貰えるだろうか……信じて…… 「それじゃ、行ってみましょうか」  畑山婦人はにっこり微笑んだ。  紗季はその笑顔に、思わず涙をこぼした。 「あらあら、どうしたの、池内さん」 「……信じて貰えないんじゃないかって……」 「いやあね、あなたの言葉が信じられないなら、最初からお手伝いなんかしようと思わないわ。ただね、ひとつだけ確認しておきましょう。さっきあなたが廊下で見たもの、それはいったい、何だったの? 正確に話してちょうだい」  紗季は唾を呑み込んでから言った。 「人の首です……多分、死んだ人の。色が抜けた白い顔で、目は開いていたけれど何も見ていない目でした」 「それは、ゆうべあなたに、三時に迎えに来ると言った帽子屋さん?」 「だと思います」 「だけどその言葉を信じるとしたら……それは大変なことよ。前の公園の死体の話は、もしかしたら死体じゃなかったという可能性があった。でも首だけとなると……どう考えても、それは死体。それも……殺人」 「もう一度警察に話した方がいいですね」 「そうね」  畑山婦人は小さく頷いた。 「かずちゃんに連絡しましょう」 「でも、あの刑事さんに信じて貰えるでしょうか」 「さあ、それはわからない……けれどどっちみち警察に言わないとならないなら、かずちゃんに話しましょう。こういうことは早い方がいいし、早速電話するわ。ね、池内さん、いったい何が始まったのかまだ見当もつかないけど、信じてちょうだい、わたしはあなたの味方よ」 「畑山さん……」 「あのね、ひとつだけお願い聞いてくれる? わたし、名前を菊子と言います。古めかしい名前だけど菊の花が好きなので、そう呼ばれると嬉しいの。良かったら、菊子と呼んでちょうだいな。さ、それじゃそろそろ、あのひと達に引き上げて貰わないと。それからかずちゃんに電話して出来るだけ早く会う約束をして、レディスローン・アリスとやらに乗り込むわよ」      *  レディスローン・アリスは短期間に支店を激増させたローン会社らしく、菊子の持っていた電話帳にはひとつも名前がなかったのに、番号案内で訊いてみるとマンションの近くの駅前にちゃんと支店があった。だが紗季はどうせ乗り込むなら、あのバーで言葉を交わしたアルバイトがいるだろう原宿近くの支店を選ぶことにした。  その支店は代々木駅の近くにあった。JR代々木駅に着いた時、時刻はもう午後五時二十分前だった。二人は駆け足で支店を探した。そして、すぐに見つけた。  雑居ビルの二階部分の窓いっぱいに取り付けられた、大きなアリスの絵。  ビル自体が古いのか、エレベーターはとても小さく、ひどく大きな音をたてた。紗季は高鳴る心臓を押さえつけて開いたドアから二階のフロアに出た。  エレベーターのほぼ正面に、レディスローン・アリスはあった。  自動ドアを入ると、一斉に女性の声が「いらっしゃいませ」と挨拶する。だが妙にはりきり過ぎた甲高い声でもなく、かといって慇懃《いんぎん》無礼な冷たい声でもない、なかなか感じの良い声だ。従業員はとてもよく訓練されているらしい。カウンターの前には二人の女性が座っていた。二人とも、胸にアリスの絵のついたバッジを付けている。 「ご融資のお申し込みでいらっしゃいますか?」  二人の内のひとりが訊いた。紗季は頷いた。 「それでしたら、どうぞお座り下さい」  紗季が座ろうとすると、菊子がそれを制して自分が椅子に座った。 「年金生活者でも融資ってして貰えるのかしら」 「はい、ご相談承ります。本日は年金手帳をお持ちいただいてますでしょうか」  菊子はいつも外出の時には下げているらしい、紫色のビーズのバッグから手帳を取り出した。 「遺族年金ですけど」  受付の女性は手帳を開き、丹念に見てから上品に閉じて菊子に返した。 「ありがとうございました。それで、御必要な金額はいかほどをお考えでいらっしゃいますか」 「五万円もあれば足りるのよ。孫がね、今度入学したんで何かお祝いを送ってやりたいんだけど、たまたま今月は知り合いの娘さんが結婚したもので、お祝い金を出しちゃったもんだから余裕がなくって。積み立て定期を崩すのももったいないでしょう、都合して貰えたら助かるわ」 「わかりました。それでは五万円をお借り入れいただいた場合の返済のご計画をお出ししますので、しばらくお待ち下さいませ」  女性は何か書き込んだ紙を後ろの机の女性に渡した。渡された女性はコンピュータのキーを軽やかに叩き始めた。  紗季は、菊子の名演技にすっかり感心した。大した度胸だ、こうもすらすらと口から出任せが言えるのだから。  二分ほどで後ろの席の女性がプリントアウトした紙を前に回した。 「ご返済は、五万円ですと一回、三回、六回、十二回までご利用いただけます。それぞれの月々のご返済額はこちらの表のようになっております」 「ええっと」菊子は眼鏡を取り出した。「どれどれ……あらまあ、十二回で借りると毎月たったの五千円ちょっとじゃないの。サラ金って利息がすごく高いんだと思っていたけど、案外そうでもないのねぇ」  受付の女性は黙ったまま微笑んでいた。毎月五千円強で十二回だと総返済額は六万円以上にもなり、それだけでも年間二割以上の利息だ。決して安くはない。ましてや月々返済しているのにそれだけ返すことになるということは、利息は三十パーセントを超えている。  しかしそれでも、もしかしたら世間のサラ金の相場よりは安いのかも知れない。  菊子は勿論、そんなことは充分わかっているのだろう。だがあまり頭のいい客ではないと思わせる方が話が聞き出し易いと踏んでいるに違いない。 「それでもし借りると言ったら、すぐに現金が貰えますの?」 「はい、ご用立ていたします」 「あらそう……便利な世の中ねぇ、あたしみたいにクレジットカードを持ってないような年寄りでも、こんなに簡単にお金が借りられるなんてねぇ」 「どういたしますか、ご用立ていたしましょうか」 「そうねぇ」  菊子はいかにも迷っている、という顔になった。 「だけどまさかこんなに簡単だとは思わなかったんで、ちゃんといくら必要なのか計算して来なかったわ。ねえ、紗季さん」  菊子は後ろを振り返った。 「あの子に買ってやろうと思ったあの机、あれいくらだったかしらねぇ」 「あ、あの……五万円か六万円……」 「そのくらいだったわね。そうだわ、これからあのお店に寄って確認してみましょう。それで明日の朝ここに来て借りればいいわ。ねぇ、あなた」  菊子はまた前を向いた。 「明日もここ、やってるわよね?」 「はい、午前九時より営業いたしております」 「それじゃ明日の朝、また来るわ。その紙、いただいて行ってもいいかしら」  菊子は分割の返済表がプリントされた紙を手にした。どこまでも芸が細かい。 「年金手帳だけ持ってくればいいのね?」 「出来ましたら、ご印鑑もお願いいたします」 「はいはい、わかりました。それじゃよろしく」  菊子は立ち上がり、立ったままでいた紗季の腕を取ってドアへ向かった。だが突然立ち止まって振り返った。 「あ、そうそう。昨日、ここの宣伝をしていたあの可愛いウサギさん、あれは今どこに行っているの?」 「街頭で薔薇の花を配っておりますウサギですか? あれでしたら毎週水曜日と金曜日だけさせていただいている宣伝活動ですので、本日は休んでおりますが」 「あらそう、残念だわ。実は昨日ね、原宿のバーにお友達といた時にあのウサギさんが来て薔薇をくれたのよ。それでここを訪ねてみる気になったの。だから御礼が言いたくて。これで孫に入学祝いが堂々と送れるんですものね。ね、あのウサギさん、アルバイトさんでしょう? まだ学生さんかしら」 「さあ」応対していた女性は首を傾げた。「実はあの宣伝活動は本部の方で担当しておりまして、支店の方ではわかりかねるんですが」 「あらそれは残念だわ。学生さんなら、孫の家庭教師を頼んでもいいかしらと思っていたのよ。ああいう大変なアルバイトをちゃんとやってる子なら信用出来ますものねぇ」 「もし『幸福のアリス』キャンペーンについて詳しくお知りになりたければ……」 「幸福のアリス?」 「ええ、あの宣伝活動をそう呼んでいるんです。本部には担当者がいますから、こちらに電話してみて下さい」  女性はパンフレットのようなものを取り出し、裏に印刷されたおびただしい数の電話番号のひとつを赤いサインペンで線引きして菊子に渡した。 「まあ、何から何まで、ご親切に」  菊子は丁寧に頭を下げてまたドアに向き直った。紗季もそれにならった。 「取りあえず、成功ってとこかしら」  エレベーターの中で菊子は嬉しそうに笑った。 「菊子さん、本当に勇気があるんですね」 「勇気というよりは芝居っけ、でしょ。わたしねぇ、憧れていたのよ、誰かの前で違う自分になるのって。短い時間だけどほんとに気分のいいものねぇ……孫の入学祝い、なーんて、まるで本当にあたしにも孫がいるような気分になれるじゃない?」      2  だが勢い込んでレディスローン・アリスの本部に公衆電話から電話した菊子は、受話器を持ったまま憮然とした表情になった。 「何てナマケモノ揃いなのかしらね」  菊子はボックスのドアを開けて出て来ると大声で言った。 「営業時間が五時までですって! だけどまだ、五時三分過ぎよ、五分の残業もしないのかしら!」 「五時になると自動的に外部からの電話にテープが応答するようにセットされてるんです。わたしが前に勤めていた会社もそうでしたから」 「あらだけど、それじゃあ不便じゃないの? 残業はしてるんでしょう? なのに電話が使えないなんて」 「回線がいくつかあるんです。各部署の直通電話とか、社員専用の番号にかけるとちゃんと繋がります」 「その番号がわからないんじゃどうしようもないわね」菊子は肩を竦めた。「仕方ないわ、せっかくいいところまで行ったけど、今日はここまで、かしら」 「そうですね……あの、刑事さんの方は?」  菊子は首を振った。 「だめ。まだ戻ってないわ。今日は戻らないかも知れないんですって。ああ、こんなことならかずちゃんの自宅の電話番号も訊いておけばよかった。だけどかずちゃん以外の刑事にはまだ話さない方がいいから、明日の朝もう一度連絡してみましょう」  その時になって紗季はようやく、美代子と約束していたのを思い出した。五時半に新宿の喫茶店。ここからならまだ、間に合う。  だが美代子の弾んだ声を思い出すと、わざわざ急いで新宿まで行く気持ちが失せた。どうせ美代子にとってはあたしは刺身のツマなのだ。美代子の目的は新田にアタックすることで、あたしがいない方が本当は都合がいいはずだ。  紗季は、美代子との約束をすっぽかすことにした。後で電話でも入れておけばそれでいいだろう。新田が事件のことで何か相談があるのだとしても、美代子に電話したということは、美代子がいれば事は足りる、ということかも知れないし。 「菊子さん、ちょっと早いけどどこかでうんとおいしい晩御飯、食べましょうよ」  紗季は菊子の手を取った。 「あたし、奢ります」 「まあ、何を言ってるの、池内さん。今はお仕事もしてないのに、そんな無駄遣いは……」 「無駄遣いなんかじゃないわ。あたし、御礼がしたいんです。親切にしていただいた御礼。あたし……東京に出て来て、こんなに親切にして貰ったのって多分、初めてだと思うんです」 「紗季さん、あなた、どこのご出身?」 「小田原です」 「そう……で、いつ東京へ?」 「短大に入学した時に」 「それで卒業してそのまま、お勤めに出たわけね。何年、勤められたの?」 「十年目でした、今年で……もうすぐあたし、三十になります。こんな歳になったのに……ほんとにこれまで、あたし、誰かにこんなに信じて貰って、助けて貰ったことってなかった。嬉しいんです……だから、お願い、菊子さん。ご馳走させて。そんなことじゃ御礼にならないけど、でも」  菊子はじっと紗季を見ていた。  紗季も今初めて、菊子の顔を正面からじっくりと見た。  小振りで整った鼻と小さな口元、皺《しわ》に隠れてはいるがくっきりとした二重瞼の切れ長な目。若い頃はさぞかし美人だったろう。  ふと、紗季は、その顔をずっと昔から知っていたような気になった。勿論、畑山菊子と以前にどこかで会っていたはずはない。だがとても懐かしい。母に似ているわけでもないのに。 「ありがたく、ご馳走になります」  菊子はゆったりと微笑んだ。  その微笑みも懐かしい。 「あらいけない!」  菊子は急に叫んだ。 「あたし、マンションに戻らないと! 何て間が悪いのかしらねえ、今朝お布団を干したままで来ちゃったわ!」 「だったら、わたしも一緒に戻ります」 「あら、いいのよ、いいの」  菊子は手を振った。 「あなたはせっかく外に出てきたんだから、買い物でもしたら? わたしはちょっと戻ってお布団を取り込んで、それからまた出て来ることにするわ。えっと、今は五時過ぎだから、そうね……七時にどこかで待ち合わせましょうよ。どこかお店の見当はあるのかしら」  菊子が好むのは歳に似合わず洋食だろうということは見当がついた。紗季は自分の知っているさほど数は多くないレストランの知識を総動員して、菊子を満足させられそうな店を思い出そうとした。だが菊子の料理の腕前を知っているだけに、どの店も物足りなく思えてしまう。  それでも、銀座のはずれに一軒、一度だけ行ったことのある店を思い出した。小さなドイツ料理店で、ドイツ人の女主人がシェフを兼ねている店だった。 「あの、銀座はどうかなと」 「銀座?」菊子は嬉しそうに手を打ち合わせた。「まあ、すてき! 銀座なんてもうずいぶん行っていないわ」 「それじゃ、和光の前に七時ぐらいで」 「そうね、じゃわたし、すぐに家まで戻るわね」  菊子は善は急げ、という感じで紗季に手を振ると、紗季を残して早足で駅に向かって去って行った。  紗季はおかしくなった。菊子はまるで、子供のように無邪気だ。どうせ渋谷までは一緒なんだから駅まで二人で行っても良かったのに。  紗季はゆっくりと菊子の後を駅に向かった。  紗季が切符を買って自動改札を通った時、ホームへの階段を駆け上がって行く菊子の姿がちらっと見えた。      *  階段を上る途中で、紗季は気が付いた。  あたしはどこへ行こうとしているんだろう……そうだ、和光の前だ。待ち合わせは和光の前だった。  紗季はこめかみをコツコツと叩いた。どうやらまたぼんやりしていたらしい。それでも間違いなく地下鉄に乗ってここまで来れたのだから、不思議なものだ。  でももしかしたら遅刻?  腕時計を見た。七時二十分過ぎ!  紗季は走って階段を駆け上がった。  和光の前の人だかりのしている歩道に、菊子が立っているのが見えた。 「ごめんなさい!」  紗季が駆け寄ると、菊子はにっこりと笑った。 「良かったわぁ、紗季さん、怒って帰ってしまったのかと思った」 「……え?」 「キヌさんのせいなのよ」  菊子は頬をふくらませた。 「お布団取り込んでさあ出掛けましょう、と思ったところにあの人が来てね、いつもの調子で愚痴をこぼすもんだから。後にしてって言えばいいんでしょうけど、何だかあの人も気の毒で言えないのよねぇ。ほんと、ごめんなさいね、遅刻しちゃって」  紗季はホッとした。 「あの、それじゃ行きましょうか」  紗季が言うと、菊子は嬉しくてたまらない、というような笑顔で頷いた。  その店は、大村との思い出の店だった。  紗季の二十五歳の誕生日に、その店で食事をしながら大村が初めてくれたプレゼントは、クリスタルのペンダントヘッド。小さなイルカの形をしていた。それは、二人で新宿のデパートを歩いていた時、紗季が見つけて、次のボーナスが出たら必ず買いたい、と言ってはしゃいだイルカだった。その言葉を憶えていてくれた大村。そして紗季の誕生日にそのイルカをプレゼントしてくれた、優しい大村……  人の心は変わる。  大村も変わった。だがあたしも変わってしまった。  あのイルカは今、どこにあるのだろう。いつの間にあたし、あれをなくしてしまったのだろう?  あまり久しぶりだったので店がどこにあるかわからず、菊子を連れたまましばらく迷ってから、紗季はようやくその店を見つけ出した。幸い、客は少なく予約していなくてもすぐに席に着くことが出来た。 「ごめんなさい菊子さん、こんなに歩かせてしまって。疲れちゃったでしょう?」  菊子は迷ったせいでしばらく歩かされたのに上機嫌だった。 「全然。たまには歩かないとね、年寄りはすぐ足腰が弱るから」 「今日、久しぶりに買い物したんです。そしたらつい時間を忘れてしまって」 「それが楽しいのよ、買い物って。時間を忘れられるからいいんじゃないの。で、何を買ったの?」  紗季は小さな紙包みを取り出して開けた。 「まあきれいなハート。ペンダントね。クリスタル?」 「ええ……何となく衝動買いしちゃったんです。でも本当は別の形がほしかったの。このお店、昔はイルカをデザインしたものがあったはずなんですけど、もう作っていないって言われてしまって。大切にしていたのになくしてしまったものだから」 「イルカの形ってわたしも好きよ。海を思い出せて気分がスカッとするものね」  菊子は笑顔でメニューに目を落とした。 「あらステキ!」  菊子が目を輝かせる。 「ちゃんとじゃがいものパンケーキにアップルソースが付くのね! それにマッシュルームのスープ細切りパンケーキ入りなんて、これ、とってもおいしいのよ。ソーセージの種類もたくさんあるわ。紗季さん、とってもいいお店を知ってるのね」 「菊子さんこそ、ドイツ料理にもお詳しいんですね。洋風のお料理がすごくお好きなんですね」 「ええ。わたしね、和風のお料理も嫌いじゃないんだけど、何となく物足りないのよ」  菊子はメニューを閉じ、慣れた手つきでウエイトレスを呼ぶ仕草をした。 「わたし、このCコースにしていいかしら、紗季さん」 「ええ、どうぞ」 「じゃ、Cコース。スープはマッシュルームの方にして下さいな。紗季さんはどうするの?」 「わたし……血入りのソーセージは苦手なんで、Bにします」  ウエイトレスが去ると、菊子はふうっと溜息を吐いた。 「実を言うとね、わたしも十五年くらい前までは和食一辺倒で洋食は作るのも食べるのも駄目だったのよ」 「そうなんですか? でも……」 「六十近くなってから洋食のファンになるなんておかしいでしょう? でもそれにはちょっとした理由があってね……実はねわたし」菊子は急に声を潜め、心持ち紗季の方へ身を乗りだした。「恋をしたの」  菊子はいたずらを打ち明ける子供のような目で紗季を見ていた。 「嫌らしいでしょう、ねぇ……六十に手が届く歳になって……」 「嫌らしくなんて、ないわ」紗季は首を振り、懸命に言った。 「そんなことちっとも、ないです。素敵です」 「ありがと、若い人にそう言って貰えるとホッとする。だけどね、自分でも年甲斐もなく何をやってるんだろうなぁって思ったんだけど……でも恋っていうのは、頭でわかっていても一度感じ始めるとやめられるものじゃないのよね。ただ、そりゃ若い人の恋愛とは違って、ただその人と一緒にいれば幸せっていう感じだったの。そしてね、その人は元イタリア料理のシェフだったのよ。あの頃はもう引退して、息子さんが彼の店を嗣《つ》いでたけど。でもわたしが遊びに行くと、開店前の店の厨房に入ってわたしの為だけに料理を作ってくれたのよ。それまでイタリア料理なんて見るのもイヤだったのに、ゲンキンなものよね。だけどおいしかった……ランチタイムが終わって夜の営業が始まるまでの、ほんの短い時間だったけど、わたしとあの人二人だけの、秘密のディナー。それでわたし、洋食アレルギーが直っちゃったのね。それからはお料理の本なんて買っては自分でもいろいろ作るようになって。でも……二年と少しで終わっちゃったわ」  紗季は黙ったまま瞬きした。菊子は微笑んだ。 「年寄りの恋にはつきものの、お別れ。脳溢血よ。わたしより十歳ほど年上だったから、あの頃七十くらいね。健康には注意してるって言ってたのに……きっと精神的ショックのせいだわ」 「……あの、ショックって……」 「お孫さんがいたのよ。当時中学生のお嬢さん。……事故で亡くなったの。あの人、お孫さんのこと本当に可愛がっていたから……自分が代わってやりたいってお葬式の時もお棺にすがって泣いて……わたしも逆縁の経験があるでしょう、世の中にあんな悲しいことってないものね。あのあとすぐだった……あの人が死んでしまったのは」  スープが運ばれて来るまで、菊子は黙ったまま遠い日の面影に心をはせるように、宙を見つめたままだった。  紗季も掛ける言葉が見つからずに、下を向いていた。  スープが目の前に置かれてようやく菊子は我に返った。 「あら嫌だ、ごめんなさい! ひとりで思い出なんかにひたっちゃって、年寄りってどうしようもないわねぇ。気にしないで、さ、食べましょう。ほんとにおいしそうね、このいい匂い!」  それからの菊子は快活で、よく食べよく喋った。  だが紗季は、その十五年前の失恋で受けた痛手が今でも菊子の心に影を落としていることに気付いていた。菊子は陽気にはしゃぎながらも、時折ふっと遠い目をして紗季の肩越しに、そこにはない何かを見つめていた。  コース料理が終わり、菊子のリクエストでドイツ風りんごの焼き菓子を追加注文した。菊子と紗季は口紅を直しに順番にトイレに立った。紗季は店のトイレの中で携帯電話を取り出し、美代子の携帯にかけてみた。だが電源は入れられていなかった。  新田拓郎には特別何の興味もなかったが、美代子が自分の不幸を利用して男にアタックしていると思うと、やっぱり不愉快だった。  しかし、それも仕方ないのかも知れない。美代子も紗季とおない歳、そろそろいろいろな意味で焦っているのだ。美代子にしたところでこの十年の間には何度か恋愛もしただろうし、結婚を考えた相手もいただろう。だが結局、彼女もまだひとりだ。会社ではベテラン社員として男性社員からも信頼され頼られてはいるが、同時に煙たがられていることも事実だった。紗季は美代子が、ただ何となく退職してしまったと打ち明けた時に見せた苛立ちを思い出した。あれは紗季に対して向けられた苛立ちというよりは、美代子自身に向けられた苛立ち、憤りだったのかも知れない。  席に戻ると、りんごの焼き菓子が並べられていた。菊子がリクエストしただけあって、コースの最後についていた申し訳程度のデザートとは風格が違っていた。  紗季は素晴らしい香りのりんごにしばらく夢中になった。そのせいで、背後に人が立ったことに気付くのが遅れた。菊子が怪訝《けげん》な顔で見ているのに気付いて、ようやく紗季は振り返った。 「まあ!」  紗季は驚いてフォークを取り落としそうになった。 「新田……さん?」 「やっぱり池内さんでしたか。いや、多分そうじゃないかなと思ったんだけど、ここ少し暗いでしょう、自信がなくて声をかけそびれていたんです。昨日はどうも、失礼しました。おからだの方は大丈夫ですか?」 「え、ええ……怪我はしてませんでしたから」 「でもあれだけ激しく倒れたら、きっとどこか打ち身をつくっているはずですよ。打ち身は数日してから痛み出すこともあるから気を付けて下さい」 「あ、あの、美代子、いえ、志野田さんとご一緒じゃ……」 「ええ」新田は少し困ったように首を傾げた。「約束はしたんです。夕方五時半に新宿で待ち合わせたんですよ。それで待っていたんだけど……どうやらすっぽかされてしまって」 「行かなかったんですか、美代子」 「ええ。それとも僕、待ち合わせの場所を勘違いしていたのかも知れません。デパートの中の喫茶室ってけっこうわかり難いんですよね。そうだとしたら申し訳ないことしてしまった……実は僕、池内さんにお会いしたくて志野田さんに電話したもので、池内さんだけでも来て下さるんじゃないかと六時半まで待っていたんですけれどね。待ち合わせ、小田急の二階の喫茶店じゃなかったでしたっけ?」  新田は照れたように頭をかいた。 「あ……」紗季は座ったまま頭を下げた。「ごめんなさい、あたし、あたし、急用で……それで美代子の携帯には電話したんですけど、出なくて」 「そうでしたか。でも良かった、ここでお会いできて」  新田が笑顔のまま、菊子の方に視線を向けた。紗季は慌てて立ち上がった。 「こちら、畑山菊子さんです。あの、わたしと同じマンションに住んでいらして、あの、お友達なんです。いろいろと相談にのっていただいていて。菊子さん、この方が昨日、親切にして下さった新田さんです。ブティックの店長の」 「あら」菊子は座ったままで上品に頭を下げた。「まあそうでしたの。昨日はわたしの大切なお友達の紗季さんを助けて下さって、わたしからも御礼を言わせていただきますわ。もしよろしかったら、ここにお座りになりません? わたし達、もう食事が済んでしまったんですけれど」 「あ、じゃお言葉に甘えて。僕もさっきまでここで食事していたんです。ひとりなんでいつもカウンターに座るものだから、紗季さんに気付くのが遅れてしまって」 「このお店はよくいらっしゃるの?」 「ええ、好きでよく来ます。月に二回か三回くらいかな。値段の割に本格的なドイツ料理が堪能出来るし、ひとりでも食事出来る気さくな雰囲気もいいですよね」 「おひとりでお食事なさることも多いのね」 「ええ、気ままな独身ですから、どうしても外食ばかりになっちゃいます」 「あらま、独身でいらっしゃるのね。そんなにハンサムで独身じゃ、女の人がうるさくて大変ね」  菊子は初対面なのが嘘のように、新田と打ち解けて話し出した。菊子の詮索好きはこの年齢の老婦人にはありがちな癖なのかも知れないが、話術が巧みで笑い声に屈託がないので嫌な感じは受けない。紗季は菊子が若い頃どんな生活をしていたのか興味を抱き始めた。レディスローン・アリスでの演技力や咄嗟に様々な言い訳を思いつく頭の回転の速さ、動作の意外なまでの機敏さなどが、菊子がただの主婦として人生の大半を過ごしていたのではないという印象を紗季に与える。 「ところで池内さん」  突然新田に声を掛けられて、紗季はドキッとして菊子から視線を新田にずらした。 「今日志野田さんにご連絡差し上げたのは、実は池内さんにお会いしたかったからだとさっき、言いましたよね」 「え? ええ」 「実はですね」  新田は胸のポケットから写真のようなものを取り出した。 「池内さん、この男をご存じじゃありませんか?」  紗季は差し出された写真を眺めた。それは、夜間にフラッシュ撮影した人物の横顔だった。奇妙なことに昔風のセピアカラー仕上げだったが、人物の顔ははっきり写っている。  途端に、背筋に戦慄が走った。 「この人!」 「ご存じですか」 「いえ、知っているというほどのものではないんですけど、昨日、あのことがある直前にあの近くのバーにいて……そこに入って来た三月ウサギが」 「三月、何ですって?」 「ウサギです、ウサギ……あ、すみません。あの、ウサギの着ぐるみの中に入ってサラ金の宣伝をしていた人なんです。志野田さんがカクテルを一杯ご馳走してあげたんで、着ぐるみの頭をはずして……その時の男だと思います」 「間違いありませんか」  紗季は頷いた。 「そうですか……じゃやっぱり、池内さんと志野田さんの顔を知っていたわけだ、この男」 「あの、この人が何か?」 「いや、あまり確実な話じゃなかったんでまだ警察には連絡してないんですけどね……こうなったら連絡しておいた方がいいだろうな。実はこの男、ゆうべ夜遅くに店の前の路上で何か探していたみたいなんですよ。たまたまゆうべはウインドウ・ディスプレイを交換する日でしてね、十時に閉店してから担当の男性社員が店に残って作業をしていたんです。で、十二時近くになって店の前をこの男が行ったり来たりしてるのに気付いて、何をしてるのかと観察してみたんだそうです。するとこの男、あのワゴンが置かれていた辺りで屈み込んで地面を見ていたらしくて。つまり何か落とした物を探していたんじゃないかってことなんですよね。で、その社員はなかなか勘のいい奴で、もしかしたらバイクの轢き逃げ騒ぎと何か関係があるんじゃないかと思って、いつも持ち歩いていた使い捨てカメラで何枚かそいつを写したわけです。ウインドウ・ディスプレイの照明の中から撮影したんで、フラッシュをたいても気付かれなかったみたいですね」新田はおかしそうに笑った。「だけどほら、だからこれ、セピアプリントでしょ。この使い捨てカメラってけっこう流行ってるそうですね。そいつもいつもこれを持ち歩いていて、犬だとか電柱だとかごみ箱だとか、変なものばかり写してるんですよ。でもこの仕上げでプリントすると、そんなものがけっこういい味の写真になるみたいですよ」  紗季はもう一度写真を見つめた。その茶色と白の小さな世界は、たとえば菊子の若い頃の姿が写されていたりすればとてもよく似合っただろう。しかしそこに今写っているのは、あの時の若者だ。それがひどく奇妙で、そしてどこか空恐ろしかった。 「それにしても……いったい何を探していたのかしら」 「さあ。こいつが立ち去った後でその社員も路上を確認したらしいんですが、何も落ちていなかったんだそうです。もしかしたら警察の人が何か知ってるかも知れませんね。ほら、あの後現場を随分丁寧に検証していたでしょう、あの時何か見つけたかも知れない。ただ……」  新田は一度言葉を切り、紗季の顔を見た。それから菊子に視線を移した。菊子はそれまで黙って二人の会話を聞いていたが、新田の視線を感じて無意識なのか微笑んだ。新田はまるで菊子の微笑みに勇気づけられたかのように、また紗季を見て口を開いた。 「これはご本人に確認するのがいちばんなんでしょうが……どうも僕から言うのは……実はですね、僕、あの時志野田さんが倒れた池内さんを起こそうとした時に、何か拾ってポケットに入れたのを見ていたんです」  紗季は驚いて目を見開いた。 「いや、その時は僕、池内さんか志野田さんが落としたものを拾ったのだと思ったものですから全然不思議には思いませんでした。ほら、女性はよくイヤリングとか落とすでしょう? だから多分、池内さんの耳からはずれたイヤリングか何かを拾ったのだと考えたわけです。だけどもしかしたら……」 「ねえ、紗季さん。その志野田さんというお友達、連絡がつかないって言っていなかった?」  菊子の言葉に、紗季は思わず携帯電話を取り出した。 「ずっと、電源が切られたままなんです」  紗季はそこがレストランの中だということも忘れて、思わず美代子の携帯の短縮を押した。だが相変わらず電源は入っていないとメッセージが耳に流れる。  背中の中心を、冷たい汗が流れた。  紗季はまたマナー違反も忘れて会社の経理課の直通番号を夢中で押した。 「もしもし、もしもし……」 「はい、鈴谷薬品経理課です」  聞き覚えのある社員の声がした。 「あの、志野田美代子さんは?」 「志野田ですか? 志野田はもう退社いたしましたが」 「何時頃会社を出られました? あたし、志野田さんとお約束していた者なんですが」 「えっと、少々お待ち下さい」  保留ボタンも押さずに受話器が机の上に置かれる音がする。紗季もよく知っている、社員の行動予定が書き込んであるホワイトボードを見る為に席を離れたのだろう。 「……お待たせしました。志野田は三時半に社用で外出しまして、そのまま直帰となっています」 「あ……ありがとうございました」  紗季は通話を切った。唇が震え出した。 「あたし」  紗季は立ち上がった。 「美代子のところに行ってみます!」  今や、不吉な予感は押さえきれないほど膨れ上がり、眩暈《めまい》がしそうだった。マンションの廊下に置かれていた男の首の幻影が目の前にちらつく。 「僕も行きましょう」  新田が立ち上がった。  三人は走り出すようにして店を出ると、通りがかったタクシーに飛び乗った。      *  下北沢の駅から徒歩十五分ほどのところに、美代子が暮らしている小さなハイツが建っていた。マンションの多い町並みにマッチするようにとの配慮なのか、それぞれの部屋の窓にはプランターボックスが取り付けられていて、大家が管理しているのだろうサフィニアの濃いピンクの花が白く塗られた外壁に映えて、夜の街灯の明かりの中でも美しい。  だが紗季は、何度か訪れたことのあるその建物を今、恐怖の目で見上げた。外階段を上がる一歩一歩が重く、辛かった。  美代子らしくない。何もかも、らしくなさ過ぎる。  あれほど新田に興味を示していたのに約束をすっぽかすなんて。その上に、あんなにお喋り好きなのにいつまでも携帯電話をオフにしたままだなんて!  考えられることはもはや、ひとつだ。美代子は、携帯の電源をオンにすることが出来ない状態でいる……  ベルを鳴らしたが返事はない。ノックをして、名前も呼んだ。だが応答は一切、なかった。  紗季はドアと並んで廊下に面している小さな窓の下に移動した。その窓はユニットバスの洗面スペースに設けられた換気窓で、レバーで開閉出来る。幸い、中から鍵はかけられていず少し開いたままだ。 「ここから……入れると思います。あたしなら」  紗季は新田を見た。 「前に美代子が酔っぱらって部屋の鍵をどこかに落としたまま帰宅した時、ここから入ったって言ってました。いっぱいに開いて足から入れば……あたしの方が美代子より痩せてますから」 「危なくない?」菊子が心配そうに窓を見た。「ガラスが割れたら大変よ」 「大丈夫だと思います……何か踏み台になるものがあれば……」 「僕が支えます。だけど池内さん、中に入ったら何もせず、まず玄関のドアを開けて下さい。いいですか、何もせず、すぐにですよ」  新田も、部屋の中にどんな状況が待ちかまえているか予測しているように険しい顔をしていた。紗季は頷いた。  新田が紗季を抱き上げ、紗季の背中を肩に載せるようにしながら腰を屈めた。紗季の足先が窓枠にかかった。そのまま新田がゆっくり立ち上がる。紗季は、ガラスを足で押すようにして内側に跳ね上げた。そのまま新田が紗季のからだを差し込むように前にずらす。ぎりぎりで胸を少し圧迫されたが、紗季のからだは窓の中にうまく入り込んだ。  紗季は勘だけで足を下ろす部分を探した。何かが足に当たって下に落ちる音がした。化粧品の類だろう。やがて紗季の足先は洗面台の上に降りた。そのまま苦労してからだを引き寄せると、紗季の頭も窓の内側に滑り込んだ。  正面に、バスタブがある。シャワーカーテンがひかれていた。薄い水色のシャワーカーテン。  紗季の呼吸が一瞬、停まった。  水色のはずのシャワーカーテンが……赤い。  紗季は目を閉じた。何も見ていない。あたしは、何も!  新田に約束したのだ、何もしない、何もしないで早く、早く玄関のドアを開けなくては……  紗季はバスルームを飛び出し、玄関ドアに飛びついて鍵を開けた。だが走り込んで来る新田の肩にからだをぶつけてよろめくと、そのまま失神した。 [#改ページ]   第五章 白い薔薇・赤い薔薇      1 「良かったわね」  菊子が手を握ってくれていた。 「何でもないんですって。休んで気分が良くなったら帰ってもいいそうよ」  紗季は頭を動かした。眩暈が残っているような気がしたが、吐き気は起こらなかった。 「……美代子は?」  紗季は小声で訊《き》いた。菊子は答えずに、そっと首を横に振った。  突然、強烈な悲しみがこみ上げて来て、紗季は声にならない声で泣き出した。  菊子は紗季の手を握ったまま、空《あ》いた手で紗季の腹の上を優しく叩いた。そのトントン、トントンというリズムが紗季の心を不思議に落ち着かせた。 「……ずっと、ずっと友達だった……みんな結婚して会社辞めちゃって、あたしとミコだけ残って……あたし、ミコだけには……ほんとのこと言おうと思っていたのに……とうとう言えなくて……ひとりで辞めて……ごめんねミコ、ごめんね……」  紗季は啜り泣きながら、自然と口に浮かぶ言葉を誰に聞かせるともなく喋り続けた。  ノックの音がした。菊子が返事をするよりも前にドアが開いて、新田が顔を出した。 「刑事さん達、帰りましたよ」  新田は囁《ささや》いた。 「帰宅してもいいそうですけど、後で呼び出しがあるかも知れないそうです」 「わざわざこんなとこまで来れやしないわよ、ねぇ」  菊子は頭を振った。 「用事があるなら警察が来たらいいのよ。あたし達は発見者だっていうだけで犯人じゃないんですからね」 「紗季さん、目が覚めたんですか」  新田がベッドのそばに寄った。 「良かった、顔色はそんなに悪くない。僕、お二人をお宅まで送ります。タクシーを呼びましょう」  新田が部屋を出て行くと入れ替わりに別の男が入って来た。 「かずちゃん!」  菊子は越智に駆け寄った。 「大変なことになっちゃったわ! これはもう、事件かどうかわからないなんて言ってる場合じゃないわよ! 殺人事件よ、殺人事件!」 「おばさん、わかりました」越智は興奮してまくしたてる菊子をなだめるように言った。「わかりましたよ、確かに今度のことは大変な事件のようです。さっき、昼間池内さんからしていただいた話はかいつまんで所轄の捜査員に話しておきました」 「それじゃ、ちゃんと警察が捜査してくれるってことなのね、紗季さんをつけ回してる変な格好の人達のことも!」 「そのことでしたら、実は昼間池内さんからお話を伺ってから、ちょっと調べたこともあります。まずレディスローン・アリスの本部宣伝課に問い合わせてみたんですが」  越智は手帳を取り出した。 「あの一連の宣伝活動は『幸福のアリス』と呼ばれてるんだそうですが、着ぐるみは中身の人間毎レンタルしてるんだそうです」 「レンタル?」 「ええ、ああした着ぐるみの中に人が入って動くパフォーマンスを専門に扱ってる会社があるんですよ。ちなみに、レディスローン・アリスが契約しているのは田沢芸能社という会社です。ここには着ぐるみを着た状態でのダンスやスポーツのプロが二十名ほど登録しており、他に学生アルバイトを常時十人前後は雇っているそうです。幸福のアリスの仕事は大して技術もいらないので、アルバイトを派遣したそうですよ。アリスのキャラクターの着ぐるみについては、元々遊園地でのパフォーマンス用に田沢芸能社が持っていたものを使っているそうです。アリス、ウサギ、帽子屋の三名一組で三チームが、三月十日から五月十日までの間、毎週水曜日と金曜日の午後五時から九時まで、都内の繁華街を中心にまわり、バー、レストランなどの協力を得て店内の女性にキャンペーン用の薔薇の花とパンフレットを……」 「ちょっとかずちゃん、キャンペーンのことなんてどうでもいいわよ、それでそのアルバイトは全員名前とか住所、わかってるのね?」 「田沢芸能社の話では、採用の時に履歴書を提出させているということですから、当然名前も住所もわかっているでしょう」 「でしょう、なんて頼りないこと言ってないで、すぐに調べてちょうだい! あ、新田さん、ちょうどいいわ」  菊子は部屋に戻って来た新田拓郎を手招きした。 「あの写真、この刑事さんに貸してあげて欲しいの」 「写真って、落とし物を探していた男のですか」  新田は写真を取り出して越智に差し出した。 「この男よ、この男がきっと犯人よ!」  菊子は勢い込んで写真を指さした。 「この男が池内さんのことバイクではねようとして何か落とした。それを志野田さんが拾って、この男はそれを取り返そうとして志野田さんを殺した。ね、何もかもぴったりはまるわ」 「ちょっとおばさん、いったい何のことなんだか」  越智は困った顔で助けを求めるように新田を見た。  新田は写真について説明を始めた。 「しかしその落とし物ってのがいったい何なのか」  越智はまだおさまらない啜り泣きを必死で堪えようとしていた紗季の顔を覗き込んだ。 「池内さん、まったく見当がつきませんかね?」  紗季は頭を振った。 「あ、あたし……何も、落としてないんです。だからやっぱり……バイクの男が落としたものだと……」 「わかりました。捜査員にも伝えて、志野田さんの部屋を捜索して貰います」 「いやね、かずちゃん」菊子が越智の腕を叩いた。「わざわざ志野田さんを殺してまで取り返そうとしていたものなのよ、絶対取り返して持って行ったに決まってるじゃないの」 「はいはい、おばさん」  越智は腹も立てずに、菊子を優しくあしらった。 「わかりました、そうですね。でもね、おばさん、志野田さんがそれをうまくどこかに隠したとすれば、探したけど見つからなくて諦めたということもあり得るでしょう? ともかく、捜査のことはいちおう僕に任せて貰えませんか。絶対、ちゃんとやりますから」 「刑事さん……あの」  紗季はベッドから半身を起こすと、小さく深呼吸した。 「……美代子は……いつ頃……?」  越智は菊子と目配せを交わしたが、静かに言った。 「発見された時は死亡していたようです。死亡推定時刻は、午後六時過ぎだろうということですが、詳しくは司法解剖の結果を待たなくてはなりません。殺害方法は……刺殺です。服を着たまま後ろ手に縛られ、バスタブの中に入れられて心臓をひと突きされています。シャワーカーテンの内側におびただしい血痕が残されていることや、カーテンそのものにも刃物で突き通したと見られる穴が空いていることから、犯人は志野田さんをバスタブの中に立たせてカーテンの外側から刺殺したのではないかと……そうすれば、返り血を浴びないで済むわけです」  紗季は唇をきつく噛んだ。  なんと冷静で、そして残酷な犯行だろう。  その時の美代子の恐怖を想像すると、全身が小刻みに震え出す。刃物で脅され、縛られ、バスタブの中に立たされた時……そして目の前であの空色のカーテンがシャッと音を立てて閉まった瞬間!  紗季はまた気が遠くなって、上半身をふらつかせた。  新田が紗季の背中を支えるように腕を差し入れた。 「大丈夫ですか? やっぱり今夜部屋に戻るのは無理じゃないかな。入院させて貰えないかどうか病院と交渉してみましょう」 「平気……です」  紗季はまだ震えている唇を必死で動かした。 「部屋に……戻りたいの。帰りたい」 「帰りましょう」菊子がまた紗季の手を握った。「ね、お部屋に戻りましょう。大丈夫よ、わたしも一緒なんだから。帰ったら、何か温かい飲み物でも作りましょうね」  紗季は菊子に支えられながらそろそろとベッドを降りた。両脚を床につけると、やっと人心地がついて意識がはっきりして来た。  新田と越智に送られる形で、菊子と紗季はマンションに戻った。  菊子は紗季をひとりにしたくない様子で、飲み物を作るからと部屋に入ろうとしたが、紗季は大丈夫だと繰り返し言って何とかひとりになった。  ドアを閉め、夕方菊子や国造達が騒々しく喋っていた和室に座り込むと、あらためて美代子を失った悲しみが湧き起こって来た。  美代子とは入社以来、ずっと同じ経理課にいた。もともと女子社員の人事異動があまりない会社だった上に、経理課に配属されると会社が費用を出してくれて簿記の夜間講座に通わされる。そこで資格を取ると、後は退社まで経理課勤めになるのが普通だった。毎日毎日、数字だけを見つめ、電卓とオフコンの端末キーを打ち続け、伝票を書き続けて十年。楽しみと言えば、会社の後で美代子と食事に出掛けたり、バーでカクテルを飲むくらいのことだけ。後から入社した女子社員がみな結婚退社して行くのを二人で眺め、送別会の二次会は二人だけで愚痴を言い合いながら痛飲する習慣も、いつの間にか出来た。  紗季にとって、美代子は親友であり、理解者であり、鏡だった。その前に自分の総てをさらけ出せる鏡。  だが、たったひとつのことだけを紗季はその鏡の前で黙っていた。  大村との関係。  紗季は後悔していた。初めから美代子に相談してしまっていれば、何もかももっとうまく行ったのかも知れないのに。  なぜ親友の美代子にも大村とのことを話せなかったのだろうか。  不倫だったから。  それもある……だけど……  紗季は泣きながら溜息をついた。  結局、あたしは美代子の前でも、かっこつけたかったんだ。いつか理想の男性を射止めて華やかに結婚退職するという密かな夢を、大村との現実で色あせさせたくなかったのかも知れない。  大村はあまりにも、紗季が日頃口にしていた理想とはかけ離れた男だった。  スケールが大きくて世界を視野に入れてものごとを考えられるようなひと。包容力があって、責任感の強いひと。会社人間なんかじゃないひと……  美代子も同じ様な男が理想だと言っていた。だから、大村と付き合い始めたことを言い出せなくて……それでも、大村は優しかったのだ……ひとりぼっちだったあたしにとって、他の誰よりも優しい男だった。  どうしてそのことを美代子に言わなかったのだろう。美代子なら、きっとわかってくれたはずなのに。美代子に話していれば……  もう遅い。  美代子はもういない。そして大村も。      2  夢の中でチャイムが鳴っていた。そう意識した途端に、紗季は見ていた夢の内容を忘れた。だがどうやら悪夢だったらしい。全身にびっしょりと汗をかき、からだ全体がこわばって痛かった。  それでも、いつ寝ついたのかも憶えていなかった。  紗季は乱れて寝癖で跳ねてしまった髪を手で撫で付けると玄関に急いだ。 「お早う、紗季さん」  菊子がまた盆を持って立っていた。だが紗季の姿を一目見るなり、気の毒に、という顔になった。 「着替えもしないでいたのね」  菊子は朝食の盆をキッチンの調理台の上に置いた。 「イングリッシュマフィンを焼いたのよ、紅茶を入れて、マーマレードをたっぷりのせて食べましょうよ。このマーマレードもね、友達の家の庭にある夏みかんを貰って作ったお手製。オレンジは農薬が怖くて皮を煮たり出来ないものねぇ。さ、ともかく、少し熱めのシャワーを浴びるといいわ。そして着替えれば、ちょっとは気分が良くなるんじゃないかしら。仕度はしておきますから、ね」  菊子の助言通りにいつもより少し熱めの湯をたっぷり浴びると、頭がいくらか冴えて来た。  それにしても、菊子の親切はありがたいが、この先も毎朝毎朝、朝食の盆を持って起こしに来るつもりなのだとしたら、少し鬱陶しい。子供も孫もいないひとり暮らしの老女なのだから誰かの世話を焼きたい、誰かと話をしたいという気持ちはわかるんだけど。  悪気があるわけではないのだろうが、何となく、菊子は今度の事件を楽しんでいるような気がする。  勿論、親友を失った紗季に対する同情は本物だと思うし、殺人事件そのものを喜んでいるわけではないだろう。だが、これまでの単調な生活の中に突然起こったこのハプニングが、菊子に活力を与えたことは確かだ。  それはそれでいい。菊子がはりきる気持ちはわかるし、それで随分助かったことも事実なのだ。  だけど……このままどんどん、あたしの生活の中に入って来られたら?  バスルームのドアを開けるともう、紅茶の香りが部屋中に満ちていた。 「紗季さん、お嫌いじゃないといいんだけど」  菊子は、自分の部屋から持って来た紅茶茶碗を紗季の前においた。青い花模様の、とても薄い磁器の茶碗だ。かなり高価なものに違いない。 「アールグレイなのよ。癖が強いから駄目って人もいるのよね。あたしは好きなんだけど。アイスティにするとこの独特の匂いが柔らかくなってちょうどいいんだけど、熱いとかなり感じるでしょう、匂い」  紗季は湯気のたつ茶碗を片手に持つとそっと鼻の近くまで持ち上げてみた。確かに、普通の紅茶とはどこか違う独特の香りがするとは思うが、癖が強い、と言うほどのものとも思えない。  だが、一口啜ってみて、ハッとした。  口に含まれた途端、その「香り」は鼻腔いっぱいに広がって、はっきりとその個性を現した。渋いような甘いような、紅茶の香りというよりは何かの香木のような……  突然、紗季の記憶が何かを訴え始めた。  その香り……アールグレイの香りが何か、とても大切なことを紗季に告げようとしている。  だがそれは、白い靄《もや》の中に咲く白百合の花を眺めているように頼りなく曖昧で、懸命に意識を集中してもはっきりとした形を持とうとしない。 「紗季さん、どうかした?」  紗季は心配そうに顔を見ている菊子の眼差しにようやく気付いた。 「やっぱりお口に合わないのね。いいのよ、無理して飲まなくて。ダージリンも持って来ているからすぐにいれ直しましょうね」 「いいえ!」  紗季は慌てて茶碗を握りしめた。 「これでいいです、これで……ごめんなさい、これ、好きです」 「そう、それなら良かったけど」  菊子はまだ少し不安そうに紗季を見ていたが、やがて微笑んでマフィンを二つに割った。 「お行儀が悪いけど、イングリッシュマフィンは包丁やナイフで切ってはだめなのよ。こうやって指で二つにするの。そうすると表面がでこぼこになって、バターやマーマレードがたっぷりのるようになるでしょ。ほんとは軽くトーストすると香ばしいんだけど……」 「あ、ごめんなさい。まだオーブントースターを買ってなくて」 「そう、それならこのままでも大丈夫よ、これ、焼き立てですからね。紅茶にミルク、入れる?」  紗季は首を横に振って、またストレートのアールグレイを一口啜った。  確かにこの香りだ。  だけど、いったいどこで味わったのだろう……この香りは口に含まなければ体験出来ない種類のもの。だとしたらどこかで飲んだはずなんだけど……喫茶店かどこか?  いや……違う。この香りは何か、あたしにとってとても重要な思い出と結びついている。  思い出……あ?  知美!  紗季の脳裏に、一枚の絵のような光景が浮かんで来た。  アリスの衣装をつけた江崎知美が、舞台の上で紅茶の茶碗を手にしている。その横で帽子屋の服装をした上級生の田上章二が知美の耳に何か囁いている。知美はにっこり微笑み、田上章二の手はそっと知美の肩に置かれた……  あの時の紅茶。  本番を明日に控えた最後の舞台稽古で、知美が自宅から持って来た紅茶を小道具のポットでいれたのだ。そして、二カ月近くもプロンプターの役目をし続けてすっかり喉が枯れてしまったあたしに、知美は稽古の合間を見つけてその紅茶を茶碗に注いでくれた。あの時、あたしは舞台の上で、知美と一緒にあの紅茶を飲んでいた……  おかしな味。あたしはそう思った。あの香りは初めてだった。  でも泣き出してしまうほど不味かったわけじゃなかった。不意に湧いて来た涙で目の前が曇り、茶碗をおいて舞台を駆け下りたのは紅茶のせいじゃない……紅茶のせいじゃなかった…… 「菊子さん」  紗季は茶碗をおいた。 「あたし今日……出掛けたいんです」 「あら、でもかずちゃんから連絡があるかも知れないわよ」 「ええ。だからお願いがあるんですけど、刑事さんから連絡があったら、菊子さん代わりに話を聞いておいていただけませんか」 「それは構わないけど。でもどこに行くの? ひとりで大丈夫? 何だったらわたしも」 「あの、お墓参りなんです」  紗季は、菊子が自分とは無関係な墓参りにまでついて来ると言い出さないことを祈りながら言った。 「昔の友達の」 「まあ。今日がご命日?」 「いいえ、そうじゃないんですけど……もう随分お墓参りに行ってなかったなって、ふと思い出したものですから」 「そう……だけど昨日の今日でしょう、ご命日でもないならまた別の日にした方が良くはない? 美代子さんがあんなことになって……紗季さんだって、安全とはとても言えない状況なんだし」 「でも」  紗季はマーマレードがたっぷりのったマフィンに手を伸ばした。 「何だか気持ちが落ち着かなくて。こんな時だから、少しでも気掛かりなことは済ませてしまいたいんです。そうじゃないと参ってしまいそうで」  菊子はようやく納得したように頷いたが、まだ何か言いたそうだった。紗季は菊子の不安を解消する為にと、無理してマフィンを二つ食べた。素晴らしく美味しいマフィンとマーマレードだったが、食欲はまだ、少しも戻っていない。それでもたっぷり朝食をとったせいか、外出する気力は湧いて来た。  菊子が自分の部屋に戻った後、紗季は簡単に着替えてマンションを出た。  なぜ今、知美の墓に参ろうとしているのか。  紗季は墓地まで一時間以上の道のりの間、ゆっくりと考えた。  知美があたしに逢いたがっている。そんな気がする。  大村との関係が始まった頃から知美の墓参りを忘れていたことを、知美が怒っているのかも知れない。  知美の墓は調布市の寺にあった。紗季は、調布駅の近くで花を買い、寺に向かった。  いつ来てもそうだったように、知美の墓はよく手入れされ、雑草の一本も生えていなかった。今でも知美の両親は月命日の度に墓参りをしているのだろう。供えてあった花もまだ新しい。どうも、ここ数日以内にまた墓参りに来たらしい。  紗季は買って来た花束を墓の前にそっとおくと、腰を落として墓石に向かって手を合わせ、目を閉じた。  知美。長いこと来なくてごめんね。  あたしもいろいろ、あったの。恋もしたの。だけど駄目だった……幸せにはなれなかった。  もう一度全部やり直しよ。  短い報告を終えて、また来るね、と口の中で呟いて立ち上がった時、立派な墓石の脇に立てられた石の墓標が目に入った。そこには、その墓に入れられている故人の名前と没年月日が刻まれている。気のせいか、前に見た時よりも記された名前が多いようだ……  紗季の知らない、恐らくは知美の曾祖父、曾祖母、そして祖母の名前の後に、知美の名前。そしてその横には知美の祖父の名が刻まれている。そこまでは記憶にある。だがその隣にもう二人。  知美の、両親?  江崎洋平享年五十七歳、恵子享年五十四歳。  年齢から考えてまず間違いない。しかも、二人とも同じ日、去年の十月二十日に亡くなっている。  十月二十日。知美の命日……  まさか……自殺?  偶然知美の命日に、何かの事故に巻き込まれて二人とも亡くなってしまった可能性だってないとは言えない。だがそれよりもやはり、知美の命日に夫婦で心中してしまったと考えた方が…… 「池内さん!」  太い声が背後から紗季を呼んだ。紗季は我に返って振り向いた。そして、驚きで開いてしまった口を無意識に手で覆った。  そこには、大村の死について捜査しているはずの、警視庁の刑事が二人、立っていた。      3 「しかし驚きましたね」  高村という名の年上の刑事が、名刺を紗季の前に差し出して言った。 「まさかあなたが、江崎家と知り合いだったとは」  高村は抜け目なく紗季を観察していた。紗季は、高村の視線を避けて喫茶店のテーブルの上を見つめていた。 「で、要するに江崎さんの十五年前に亡くなられたお嬢さんと同級生だった、それだけということですか。しかし今日はお嬢さんの命日というわけでもないのに、またどうして?」 「……ふと、思い出したものですから。もう長いことお墓参りしてなくて」 「最後に来られたのはいつです?」  紗季は、尋問そのものといった感じの刑事の言葉に苛立ちを感じたが、堪えて言った。 「五年くらい前の十月だったと思います。いつも命日か、その前後にお墓参りさせて貰っていましたから」 「亡くなられてからずっと?」  紗季は頷いた。 「……親友だったんです。中学でいちばん仲が良くて」 「それが五年前からお参りをしなくなったのには、何かわけでも?」 「特に、わけというものはありません。ただ何となく、自分の身の回りのことで追われて……」 「丁度その頃からですね、あなたが大村さんと不倫関係になられたのは」  紗季は応えなかった。わかっていることをなぜ、わざとあたしに言わせるのよ! 「何と言えばいいのか、これも因縁というやつなんでしょうなぁ」  高村は独り言のように言った。 「偶然とは恐ろしいものだ」 「あの、刑事さん、刑事さん達はなぜ江崎さんご夫妻をご存じだったんですか」 「そのことですよ」高村は苦笑いのような表情になった。「池内さんは、ほんとに何もご存じなかったんですか? 大村から聞いていませんでした?」 「何のことだか、さっぱり」 「大村に殺されたんですよ、あの夫婦は」  若い方の、井田という刑事が吐き捨てるように言った。 「あなたも知ってたでしょう、大村が会社の金を流用して先物取引やって大損したことは。その穴を埋める為に、大村は知り合いに率のいい融資話があると持ちかけては金を巻き上げていた。二、三回は利息を払っていたようだが、それも他のところから借り出した金を回していただけで、大村には最初から金を返す気などなかったんだ。生きていればとっくに詐欺で逮捕してましたよ。江崎さんの奥さんは大村とは遠い親戚にあたるんです。そしてどうやら、大村にまんまと騙されて二千万近い金を巻き上げられていたようです。昨年のお嬢さんの命日に、奥さんはご主人に黙って大村に金を渡していたことを苦にして、首吊り自殺しました。遺書を残して。ところがそれを最初に発見したのがご主人で……警察が現場検証をしていた最中に、ご主人は発作的にマンションのベランダから飛び降りてしまったんです。十二階ですからね……即死でした。後追い心中ということです。その事件がきっかけで、大村の詐欺について本庁の二課が捜査を始めました。ところが内偵を進めている最中に大村は失踪してしまった。そして一昨日お話ししたように、丸の内の花壇の中から見つかったわけです……ほとんど骨だけになってね」 「池内さん、あなたは大村さんが会社の金に手をつけて先物をやっていたことは知っていたんでしょう?」  紗季は、下を向いたままで頷いた。 「それじゃ、その穴埋めの為に詐欺を始めたことは?」 「知りませんでした!」  紗季は激しく首を振った。 「ほんとに、知らなかったんです。刑事さん達もご存じのはずです、あたしと大村とは、昨年の九月にきちんと別れました。でもそのずっと前から、あたし達は終わっていました。多分一年くらい前から、あたし達、顔を合わせるたびに喧嘩するようになっていて」 「それは、いつまでたっても離婚してあなたと再婚する約束を、大村さんが果たそうとしなかったからですね」 「それも……あります。でもそれ以上に、あたし……疲れてしまっていました。あの人に」 「大村が詐欺を始めたのは我々が知る限りでは昨年の六月頃からです。つまりあなたとぎくしゃくし出してからだ。その頃から大村は金にひどく困り出していた。だが大村が会社の金を流用し出したのは三、四年は前からです。大村はコンピュータおたくで、営業マンでありながら会社の経理課のコンピュータに不正アクセスして、自分が用意した口座に経費名目で毎月二〜三百万が振り込まれるよう登録していた。そうやって、少なくとも一億を超える金をかすめ取っていたんだ。だがどうやって工面したものか、一年ほど前まではその金が数カ月遅れで何とか穴埋めされていた。結局、大村が死んでから発覚したこの不正流出で会社が被った損害は、大村の死亡時保険金でまかなえる範囲に収まっていた。だから大村に対しては会社も被害届を出さずにいるわけです。しかしね、大村がその金を穴埋め出来なくなってから何人もの人間を騙して損をさせ、その為に善良な夫婦が死ぬことになったのは間違いのない事実だ。大村の会社が被害届を出さなくとも、そして大村自身がよしんば……自殺したのだとしても、赦《ゆる》されるものではない。池内さん、厳しい言い方をすれば、大村が会社の金に手をつけていると知っていて大村と交際を続けていたあなたにだって、いくらかの責任はあるんですよ」  紗季は黙ったまま唇を噛んでいた。  付き合い始めた当初から大村がそんなことをしているなどとは、勿論紗季も知らなかった。そしてそれを知ってしまった時、紗季は大村の言葉を信じたのだ……ちゃんと取引で成功して金は会社に返すから、絶対に大丈夫だよ…… 「まあ」  高村が少しやわらかな声を出した。 「男と女のことだから、何もかも理性で割り切るというわけにも行かないでしょう。それに大村はある意味で天才的だった。彼の本業の営業成績は抜群です。つまり大村は、人を信用させ人に好感を抱かせることにかけては恐ろしいほどの才能を発揮する男だった。あなたも、そして江崎さんの奥さんも、そんな大村にいいように言いくるめられてしまったんでしょうね。ただあなたももう気付いておられるでしょうから正直に言うが、我々は捜査一課です、つまり大村の詐欺事件に関心があるのではなく、大村の死そのものを捜査している。大村は確かに丸の内のビルから落ちて墜落死した。捜査の結果、去年の十二月初旬に、大村が落ちていた花壇に隣接した森脇ビルの十階の、空室になっているオフィスの窓の内側に大村のものと見られる上着が置いてあり、窓が開いていたのを警備員が確認していたことが判明しています。警備員はいちおう窓の下も確認したと言っているが、花壇の中までは注意して見なかったんでしょう。窓を閉め、上着は忘れ物としてビルの管理会社に届けていたわけです。だがその上着には遺書もなかったし、上着は脱いだのに靴は履いたまま飛び降りるというのも何か不自然だ。警察としては、まだ大村の死を自殺と断定はしていません。そして勿論、事故ではない。誰も使っていないビルの空き部屋から過って転落するなどというのは辻褄が合いませんからね。自殺でなかったとすれば大村は……誰かに殺されたと考えるしかないわけです」  紗季は、ごくっと唾を呑み込んだ。 「そして大村を殺す動機のある者を調べる為に、我々は江崎家の墓のあるこの寺の住職を訪ね、墓参りによく来ている人物について情報を貰ったところで、あなたを見つけた」 「たまたま我々は今朝、ちょっと面白い情報を得たところでした」  若い方の刑事が紗季の顔を覗き込むように言った。 「いや、面白いという言い方はあなたに対して失礼でした。しかし、あなたが一昨日原宿でオートバイで轢かれそうになり、そして昨夜、あなたのご親友が不幸な形で亡くなったというのは、どうも単なる偶然だとは思えないわけですよ」 「それは……それはいったいどういう意味なんでしょうか」 「今の段階でははっきりしたことは何も申し上げられませんが、仮に大村が誰かに殺されたとして、その犯人が江崎さんご夫妻の恨みを晴らそうとしているのだとしたらですね、大村と不倫関係にあったあなたに対しても何らかの敵意を抱く可能性はある、まあ簡単に言うとそうも考えられるわけです。我々の調べで、大村は会社からだまし取った金をほとんど先物で失ってしまっていることがわかっている。つまりあなたは少なくとも、大村の汚い金の恩恵は受けていなかった。だが世間はどう見るかわかりません。あなたは退職と同時に分譲マンションを購入されていますが、それだって誤解しようと思えば、あなたが大村の金を受け取って貯めていたものだと解釈することは出来るわけです。逆恨みの対象になったとしても不自然ではない」  紗季は、自分の頬がひきつるのを感じた。 「いずれにしても、あなたのご親友の事件は我々の管轄ではないし、あなた自身が襲われたこともまだ、大村の件と結びついているという確証は何もない。従って我々が直接あなたの護衛をすることは出来ません」  年上の刑事は、テーブルの上に出したままになっている名刺をあらためて紗季の方へと押し出した。 「ですが、よく聞いて下さいよ、池内さん。何かあったら、或いは何か気付いたら、すぐにここに電話して下さい。この番号、わたしの携帯電話に、です。人の逆恨みほどやっかいなものはないんです。逆恨みしている人間というのは、論理的な思考が出来なくなっています。いくら説明しても一度思い込んでしまったら、自分の思い込みが間違っていると認めることが出来ないんです。だからあなたを狙っている者が誰なのかわかっても、決して自分で説得しようなどとは思わないで下さい。我々に任せるんです。いいですね」  紗季は、名刺を手に取り、頷いた。刑事達は立ち上がり、紗季の分のコーヒー代も含めて伝票を持ってレジへ向かった。  だが紗季は、刑事達が消えてもしばらくの間そのまま座っていた。  逆恨み。  冗談じゃないわ……冗談じゃ。  大村からあたしがいったい、何を貰ったって言うの? お金なんてただの一円だって貰ってやしない。デートだってそんなに贅沢なことをして貰ったことはない。食事も居酒屋ばかりだったし、セックスはいつも、決まったラブホテルで二時間の休憩。家庭持ちのサラリーマンにお金を遣わせようとは思わなかったし、先物取引で失敗したことがわかってからは、コーヒー代だってあたしが払っていた。それなのに。  すっかり冷めてしまったコーヒーを無理に啜って、紗季は言い様のないむなしさと戦った。  自分が大村に対してしていたことは、結局、総て無駄だったのだ。愛したことも、赦したことも、助けたことも。  そしてそれは、大村との日々の総てもまた無駄だったことを意味している。紗季の人生の中の、二十四歳から二十八歳までの日々の総てが。  紗季はのろのろと立ち上がり、店を出た。  四月中旬とは思えない、初夏を思わせる陽気だった。昨夜の悪夢などその明るい光の中では、テレビの推理ドラマの一コマのように何でもないことにすら思えて来る。  だが、美代子はもういない。携帯電話に記録された美代子の携帯番号をプッシュしても、もうあの声を聞くことは出来ない。  人の死は、時間をおいて、新たな悲しみと、深い喪失感を残された者の心に生み出す。  知美を失った後数年間そうだったように、この先の長い時間、美代子がいない現実の痛さに耐えなくてはならないのだ。  涙で、道が滲んで見えた。 「池内さん」  男の声で、紗季は立ち止まった。 「良かった、行き違いにならなくて」  目の前に、新田拓郎が立っていた。 「今朝、畑山さんにお電話したらあなたが外出されたと知ったもんですから、心配になってしまって」 「新田さん……」  紗季は、思わずこぼれた涙を指で拭った。 「池内さん、どうされたんです?」  新田が紗季に手を伸ばした。紗季はなぜか自分でもわからない突然の衝動に駆られて、新田の腕の中に飛び込んで、泣いた。 「……池内さん」  新田の腕が紗季の背中を抱きしめ、なだめるようにそっと上下した。 「お辛いでしょう」 「あたし……美代子がいなくてこの先、どうやって生きて行けばいいのか……わかりません。友達だったのに……たったひとりの、友達……」  泣き続ける紗季の背中を、新田の手が優しく撫でていた。紗季は、悲しみの発作の中でその手の動きの心地良さにうっとりしている自分に気付いていた。  新田の声には、どこか、とても懐かしい響きがある。まるで幼い頃から知っていたような。  紗季は小さな溜息とともに新田の腕を離れた。 「ごめんなさい」  紗季が囁くと、新田は無言のまま、紗季の肩を抱き寄せた。 「心配しないで。帰って眠るといい」  紗季は頷いて歩き出した。 「いい香りだな」  紗季の肩を支えるように抱いたまま、新田が呟いた。 「薔薇の香りかな?」  紗季は顔を上げた。確かに、薔薇の匂いがした。陽気に誘われて四季咲きの薔薇が咲いてしまったのだろう。そっと見回すと、一軒の家の玄関横に置かれたいくつもの薔薇の鉢が目に入った。ピンクの大輪を咲かせた鉢と、小枝にまで花をつけた房咲きの白薔薇の鉢。 「あら?」  紗季は、その房咲きの白薔薇を見つめた。ひとつの木なのに、白薔薇に混じって何輪か、赤い花が見える。 「接ぎ木したのかしら」  紗季は吸い寄せられるようにその薔薇に近づいた。  息が止まった。そして、細い悲鳴が紗季の喉から漏れた。  白い花が赤く塗られている。  十五年前に覚えた歌が紗季の頭の中に鳴り響く。本当は舞台で紗季が歌うはずだった、トランプの兵士の歌。ESSの顧問だった英語教師が作詞して、それに曲をつけたのは……田上先輩……  それは英語の歌のはずだった。それなのになぜか、今はその歌詞の「意味」だけがはっきりと形をなしてくるくる紗季の耳の中を回る。 [#ここから1字下げ] 女王さまの命令で、赤い薔薇をと言われていたのに 間違えた、間違えた。 間違えて白薔薇を植えてしまった。 さあ大変だ、塗り替えなくては 女王さまに見つかる前に。 白い薔薇を赤く、赤く、赤く。 女王さまに見つかったら、 僕等は首をはねられる! [#ここで字下げ終わり] [#改ページ]   第六章 思い出の隙間      1 「ひどいイタズラだな」  新田が顔をしかめながら、赤く塗られた薔薇の花びらにそっと触れた。  新田は指先を少し嗅いでみて、それから紗季を安心させるように微笑んだ。 「大丈夫、ただの絵の具ですよ。それも水性みたいだから、洗い流せば花も枯れずに済むんじゃないかな。それにしても誰がこんなことしたんだろうな。小学生かな?」 「新田さん……ご存じありませんか?」  紗季は蒼い顔のまま囁いた。 「『不思議の国のアリス』です……あの物語の最後の方に出て来るんです。トランプの兵士が花園で白い薔薇を赤く塗っているのでどうしたのかとアリスが訊《たず》ねると、女王に赤い薔薇を植えるよう言われたのに間違えたから慌てて塗っていると……女王に見つかると……首をはねられてしまうから、と」  新田は目を見開き、瞬きした。そして赤く塗られた白薔薇を数秒間見つめていた。 「池内さん」  新田はやがて、また微笑んだ。 「なるほど、これは偶然ではないでしょう。あなたが警察にお話しになったことと合わせて考えるに、誰かが意図的に『不思議の国のアリス』の物語を使ってあなたにメッセージを送っていることは間違いない」 「……メッセージ?」 「そうです、これはメッセージですよ。少なくともこのしつこいイタズラをやっている犯人は、あなたを襲うつもりはないらしい。もしそのつもりがあるのなら、今日は何度もそのチャンスがあったはずです。あなたはひとりで行動していらしたし、調布駅からあの寺までは人通りの少ない住宅地の中を通らなくてはならない。あなたを襲うことが目的なら、このチャンスを逃さなかったでしょう」 「でも……原宿でのことは?」 「そのことなんですがね……僕、考えていたんですが、あのバイクの男は本当に、あなたを狙ったのだろうか、と。あの時のことをもう一度思い出せますか? 僕はあの時、店の奥にいたのであの事故は見ていなかったんですが」 「……あたし達、あたしと美代子は、美代子が行きたいと言っていた和食の店を目指して歩いていました。あたしは何となく考え事をしていたんだと思います。だからバイクのエンジンの音とかに全然気がつかなくて」 「先に気付いたのは志野田さんの方だったんですね」 「ええ。美代子が何か叫んで……危ない、とかそういうことだったと思うんですけど、それであたしのことを新田さんのお店の方へ突き飛ばしてくれたんです。だからあたし、バイクには直接当たらないで済みました」 「あなたと美代子さんとの距離は?」 「さあ……正確にはわかりませんけど、ほとんど並んでいたと思います」  新田は頷いた。 「それなら僕の仮説が正しい可能性はありますね。そのバイクはあなたではなく、志野田さんの方を狙っていたのかも知れない。しかし志野田さんがいち早く危険に気付いてあなたを突き飛ばし、恐らく自分は反対側に飛び退いた。目標が急に分裂して飛び散った形になっちゃって、バイクの男は志野田さんが逃げた方向に焦ってハンドルを切ろうとした。だがバイクというのは急ハンドルを切ると転倒し易い。そのバイクも転倒しながら滑ってワゴンに衝突した」 「それじゃ」  紗季は新田を見ながら首を振った。 「でも! でも、美代子が狙われるなんてこと、そんなこと……彼女は人に恨まれるようなひとじゃなかった。そんなひとじゃなかったわ!」  そう言いながら紗季はふと、美代子が話していたストーカーのことを思い出した。美代子の後をつけていた謎の男……だがだからと言って、殺人までは…… 「でもね、池内さん。いくら親友だったと言っても、あなたは彼女について総てを知っていたわけではないでしょう? 共に大人でしかもひとり暮らしの社会人同士、個人的な事柄まで総て打ち明け合っている方がかえって不自然なくらいですよ。あなたにだってきっと、志野田さんに話していない事柄はあったはずです。それと同様に、志野田さんの生活の中にあなたの知らない別の部分があったとしても、不思議はない。彼女に悪気があったかどうかは別としても、知らずに誰かに恨まれてしまったということだって、考えられますよ。今度の一連の事件は、性質の違う二つの事件がたまたま同時に起こっていると考えると、いろんなことがすっきり説明出来る気がするんです。ひとつは、何者かがあなたに対して、『不思議の国のアリス』を使ってメッセージを発している事件だ。そしてもうひとつは、あなたではなく志野田さんに恨みを持っていた者が彼女を狙い、ついには目的を遂げてしまった事件。そう分けて考えれば、事件の性質の違いがはっきりします」  新田は赤く塗られた薔薇の花を指さした。 「あれは、メッセージだ。あなたに対して、何かを示そうとしている。僕にはそう感じられます」 「喋るな、という意味なんでしょうか……喋ったら首をはねるぞ、という」 「あなたが目撃したという、公園の死体のことですか。しかし、ただの口封じにしては手が込み過ぎていますよね。第一その死体というのはまだどこからも発見されていないわけでしょう?」 「でも他には思い当たることがないんです」 「よく考えてみて下さい。本当に、何も思い出せませんか? あなたと『不思議の国のアリス』との関わりから思い返してみてごらんなさい」  紗季は不思議な気持ちで新田を見つめた。新田はなぜ、こんなに熱心なのだろう?  紗季の視線を感じてか、新田は軽く咳払いした。 「いや、ごめんなさい池内さん。僕はちょっとおせっかいが過ぎるかな。ですが、志野田さんがあんなことになったのにはもしかしたら僕にも責任があるんじゃないかと思ったものですから。昨日、彼女を誘い出したのは僕ですからね」 「でも美代子は、新田さんとの待ち合わせ場所には行かなかったんでしょう?」 「ええ、来ませんでした」 「それじゃ、新田さんには何の責任もないわ」 「理屈ではそうでしょうが」  新田は少し悲しげに眉を寄せた。 「自分と会う予定でいた人が殺されたというのは、何とも割り切れない気分なんですよ。ともかく、僕にとっても乗りかかった船です、真相をきちんと知りたい」 「新田さん……ひとつだけ、あたしと『不思議の国のアリス』とを結びつける思い出があります」 「ほんとですか、池内さん」 「ええ……でも……今度の事件と何か関係があるかどうかは……もう随分昔のことです。中学生の時のことなんです」  紗季は、歩き始めながら江崎知美のことを新田に話した。新田は紗季と並んで歩き、静かに紗季の話を聞いていた。 「……元気になるまでに、随分かかりました」  紗季は、呟くようにつけ加えた。 「知美の存在があたしの中でどれほど大きなものだったか、失ってしまってわかったんです。それなのにまた今度、美代子を失って……」  新田は黙ったまま、紗季の肩を抱き寄せた。 「でも……知美のことはそれで全部なんです。今になって誰かがあたしに知美の事件のことでメッセージを出しているとは考えられないわ」 「ですが、その知美さんの死の真相は、明かされないままなんですよね」 「真相と言っても、結局は事故だったんだと思います。プールには錠がかかっていたんですけど、知美は金網の柵を乗り越えて中に入ったようなんです。知美が足をかけたらしい部分の金網がへこんでいたという話を、後になって聞きました」 「だけどどうしてプールなんかに?」 「わかりません……ただ、知美がアリスの衣装と一緒に使うはずだったリボンが、プールに落ちていたんです。知美は風で飛ばされたリボンを拾おうとしてプールサイドに入り、手を伸ばして取ろうとしたはずみに過って落ちてしまったんです、きっと」 「そのリボンというのは、劇にどうしても必要なものだったんですね」 「いいえ……別になくても構わなかったんです」  紗季は唇を噛んだ。 「ただ知美は髪が長くて、腰ぐらいまであって、いつも三つ編みにしていました。でもあの有名な挿し絵のアリスってそんなに長い髪じゃないでしょう? それで知美は、イメージが違ってしまうといけないからって、三つ編みはやめて代わりにリボンを使うことにしたんです。それで、自分でリボンを用意していました。薄紫色のとても綺麗なリボンで……端のところに、紫のビーズで知美のイニシャルが縫いつけてありました……不思議だわ……そんなこと、ずっと忘れていたのに」  紗季は、遠い記憶の中で見た美しいビーズのイニシャルに向かって微笑んだ。 「とても綺麗だったわ……知美はお裁縫も得意で、編み物も出来たから」 「可愛らしい少女だったんでしょうね」 「ええ……可愛いひとでした。ちょっとおてんばでしたけど、陽気で活動的で、誰からも好かれるような子だったんです」 「ボーイフレンドとかも、いたのかな」  紗季は、胸の奥の小さな痛みを押し隠して言った。 「いたと思います……おなじESSの一年先輩の男の子と交際していたはずです」 「しかし、その話だけでは、今頃になってこんな手の込んだことをあなたに対してする理由がわかりませんね」 「ええ、だからやっぱり、知美のこととは関係がないんじゃないかと……あの、でも」 「でも?」 「知美のご両親が去年の秋に亡くなられているそうなんです。それで」  紗季は言い澱んで横目で新田を見た。大村のことまで打ち明けてしまう勇気が湧かない。 「それで……何でも、知美のお母さまが誰かに騙されてお金を巻き上げられたことが原因だとかで」 「自殺ですか! ご両親共に?」 「そうらしいです」 「そうなると……かなりややこしい話ではあるな。ともかく、このことはあの、畑山さんの知り合いの刑事に言っておいた方がいいでしょうね。何がどう関連しているのか、まださっぱりわからないけれど。ただひとつ、さっきも言いましたが、このアリスのいたずらをやってる連中があなたに危害を加えるつもりがあるなら、とっくに加えていただろうと思います。つまり池内さん、あなたはそんなに心配されなくてもいいんじゃないかと思うんですよ。それより、なぜこんなに執拗にあなたにアリスを見せたがっているのか、いったいあなたに何をさせようとしているのか、それをもう一度考えてみてくれませんか」  新田の腕に力がこもった。 「それが、この事件の総ての謎を解く鍵ですよ、きっと」      *  マンションに戻って菊子に薔薇の花のことを話すと、菊子は紗季が無事で良かったと何度も繰り返しながら紗季の手をさすった。その仕草はまるで、子供の心配をする母親のようだった。  菊子が用意したサンドイッチで遅い昼食をとっていた時、越智がやって来た。 「新田さんからお預かりした写真の男なんですがね、どうも田沢芸能社のアルバイトに該当する人物はいないようなんです」 「そんなはずないでしょう!」菊子が叱責するような調子で言った。「ちょっとかずちゃん、ちゃんと調べたの?」 「調べましたよ、おばさん。少しは警察を信用して下さい。でも田沢芸能社の誰に聞いても、この男には見覚えがないって言うんです。ほんとなんですよ」 「でも、あの日バーに入って来たウサギは、確かにこの男だったんです」  紗季はもう一度、越智の手からセピア色の写真を受け取って見つめた。 「間違いないです……この男でした」 「ほらご覧なさい、かずちゃん。アリスのウサギの着ぐるみなんて、そんなに簡単に手に入るものじゃないでしょう。しかもこの男はちゃんと、レディスローン・アリスの宣伝ビラと黄色の薔薇まで配っていたそうじゃないの。関係ない人間がそんなことすると思う?」 「しかしですね……」 「刑事さん、素人の意見で申し訳ないんですが」  新田が考え考え言った。 「田沢芸能社のアルバイトというのは、大学生が多いんでしょうね」 「そうですね、フリーターとか呼ばれる無職の青年と大学生の男女だと言ってましたね」 「そうするとたとえば、何かの都合で急にバイトに出られなくなった時なんかに、同級生を身代わりに立てるなんてことも考えられるんじゃないですか。一度着ぐるみに入ってしまえば中の人間の顔は見えないわけだし、契約時間が終了する前にまた入れ替わって、正式なバイトが着ぐるみを会社に戻せば、誰にも咎められることはないですよね」 「それだわ! それよ、かずちゃん!」  菊子は興奮して越智の肩を叩いた。 「きっとそれよ! この写真をバイトの子全員に見せれば、きっとこいつの正体がわかるわ!」  越智が何か言いかけた時、越智の胸ポケットで携帯電話のベルが鳴った。 「……うん、うん……なに? 本当か? そうか……よしわかった、すぐ連れて行って確認して貰う」  越智が立ち上がって紗季を見た。 「池内さん、申し訳ないが今からわたしと来て貰えませんか」 「あの、どこへ?」 「青梅《おうめ》署までですが、わたしが車で送ります。実は、青梅の山林の中から身元不明の死体が発見されたそうなんですが、その死体の後頭部が鈍器のようなもので殴られて潰されているらしいんですよ。検死では死後一カ月前後ということで、どうも、池内さんがおっしゃっていた公園の死体と一致する可能性がありそうなんです」      2 「……確かかどうか」  紗季は、ハンカチで口を押さえて吐き気をこらえた。 「あの時は暗くて……」 「しかし、似ていると思われますね?」  紗季が頷くと、青梅署の刑事は目を輝かせて越智と頷き合った。 「ビニールシートにくるまれて土に埋められていたらしいんですが、先日の大雨で土砂崩れがあって出て来たわけですな。今日、山林の持ち主が崩れた場所を見回っていて、ビニールシートからはみ出している手を見つけて通報して来たんです。肝を潰したでしょうなあ、人間の手が地面から生えてたんですから。正式には司法解剖の結果を待たないとなりませんが、推定死亡日時は先月の二十日前後ということですから、池内さんが西綾瀬公園で後頭部から出血している死体らしいものを見た日時とほぼ一致します。いや、幸運でした、池内さんが目撃者になって下さってなければ、殺害日時の特定だけでも大変な時間がかかるところでしたよ。それで、よろしければもう少し詳しくその時のことをお話し願いたいんですが」 「ちょっとすみせん」  紗季に付き添っていた菊子が険のある声を出した。 「少し休ませてあげて貰えません? このひとが蒼い顔してるの、おわかりになるでしょう? 我々一般市民はあなた方みたいに、死んでから一カ月もほったらかしにされた死体を見るのに慣れてないんですからね」  菊子の剣幕に押されて、青梅署の刑事達は紗季を小さな会議室のような部屋へ案内した。婦人警官が持って来て二人の前においた茶を一口啜った菊子は、「安物ね」と一言言ってしかめ面をした。 「税金で高いお茶なんか飲むわけにも行かないんでしょうけど」  吐き気は、数分も経つと収まった。  菊子が掌に白い錠剤を一粒のせて紗季に差し出した。 「良かったら飲んでみてご覧なさい。わたしが時々飲む精神安定剤よ。市販のものだからそんなに強くないわ」 「あ、いえ」  紗季は小さく手を振ると、自分のバッグを開けてピルケースを取り出した。 「紗季さん……あなた、それは?」 「これも安定剤なんです……眠れないことが多いもので、お医者様にいただいているんです」  紗季は錠剤を口に含んだ。越智が湯呑み茶碗に、部屋の隅に用意してあるポットから白湯《さゆ》を注いでくれた。 「申し訳なかったです、いきなりあんなものを見せてしまうことになって」 「ほんとだわよ、かずちゃん。もう少し思いやりを持って貰わないと、警察官だって」 「すみません、おばさん。ただ殺人事件の場合、確認出来ることは出来るだけ早く確認しておく必要があるんですよ。我々の感覚では、一日経てばそれだけ犯人から遠ざかってしまうんです。他の犯罪と違って、犯人も必死ですからね」 「でもねぇ……もう一カ月も経つんじゃ……」 「ええ、犯人が国外に逃亡してしまっている可能性もありますし、なかなか難しいです。ですが池内さんのおかげで、殺害された場所と日時はほぼ特定出来た。これは大きな成果ですよ」 「それに犯人がウサギの着ぐるみを着ていたこともあるわよ」 「そのことなんですが」  越智は声を潜めた。 「実は被害者の上着のポケットから、面白いものが見つかっているんです。被害者のポケットは上着もズボンもほぼ空で、煙草の屑だとか小さなゴミしか入っていませんでした。恐らくは犯人が被害者の所持品を総て持ち去ったのではないかと思われるんですが、そのポケットの中にですね、ガムの噛みカスが残っていたんですよ、紙にくるまれて。被害者本人が噛んだものかどうかは血液鑑定ではっきりすると思いますが、まず常識的に考えて他人のガムの噛みカスなんか自分のポケットに入れる奴はいませんからね」 「ガムのカスなんかから、何かわかるの?」 「いえ、カスそのものからは大したことはわかりません。血液型と糖尿の有無とか、まあその程度でしょう。問題はそのカスがくるんであった紙なんです。その紙はね、領収証の書き損じたものだったんですよ。全部じゃなくて、ちぎって使ったみたいですが、その領収証を発行するはずだった団体名はちゃんと読みとれました。丹沢にある私立の医療法人施設アリスホームと印刷されていたんです」  紗季は思わず菊子の腕を掴《つか》んだ。そして、菊子の手に提げていたビーズの巾着を見た。菊子は瞬きし、それから巾着の口をゆるめると、中から綺麗な銅色の、薄い楕円形のメダルを取り出し、越智に差し出した。 「なんです、これ……あっ」  越智はメダルの絵柄と彫られた文字に目を丸くした。 「これ、どこにあったんです、おばさん!」 「拾ったのよ」  菊子は何でもないことのように言った。 「拾ったって、いったいどこで!」 「だから……あの公園で」 「あの公園でって」 「あらだって、警察はちゃんと調べてくれるのかどうかあやしかったじゃないの。刑事事件じゃないとだめ、みたいな感じで。だからわたしと池内さんは、あの公園に行ってみたのよ。池内さんが見た死体がそこにあった証拠でも探そうかなぁと思って」 「だったらすぐ僕に見せてくれないと」 「拾ったものをいちいち全部警察に届けないといけないの? こんなものでも? そんなこと言ってたら、交番はゴミ置き場になっちゃうわよ」  越智は、菊子にそれ以上言っても無駄だと思ったのか、小さな溜息と共にそのメダルをハンカチの間に挟んでポケットにしまった。 「とにかくこれ、預かりますよ、おばさん」 「それはいいけどかずちゃん、これからアリスホームに行くのならあたし達も連れて行ってちょうだいな」 「だめですよ……捜査に民間人を意味なく同行させるわけには行かないんです」 「あら、意味ならあるじゃないの! 池内さんは目撃者なのよ」 「目撃者であっても一緒です。とにかくね、おばさん、マンションまで青梅署の人間に頼んで送って貰いますから、事情聴取が終わったら真っ直ぐマンションに戻って下さいよ。お願いだから、捜査の真似事なんてしないで」  越智は立ち上がると、丁度入って来た青梅署の刑事と挨拶を交わして出て行った。 「失礼しちゃうわね、かずちゃんたら。ひとを邪魔者扱いして。あああ、昔のあの子はあんな人間じゃなかったのにねぇ。思いやりがあって優しくて、賢い子だったのに」  菊子は越智の背中に向かってぶつぶつ文句を言っていたが、青梅署の刑事が紗季の前に座ると、自分が質問に答えようと待ちかまえた。だが青梅署の刑事は越智ほど親切ではなく、菊子を無視して紗季にだけ質問した。 「……つまり、あなたはそのウサギの格好をした人物を追いかけた。ふん、どうして追いかけようと思ったんです?」  紗季は、刑事が内心、紗季の目撃談の総てを信じていないことを感じた。 「わかりません……反射的に追いかけてしまいました」 「以前にもウサギをたびたび見かけた、ということは? ウサギの他にも、変なものを見たことがあるとか」 「ありません」紗季は刑事を睨み付けた。「あたし……幻覚を見ていたわけではありません。病気でもありません」  刑事は機嫌をとるように笑った。 「いや、そういう意味じゃないんですよ。ただね、そのウサギの姿をした男が犯人だったとしてですよ、どうしてそんな変な格好をしていたのかな、と。確かに着ぐるみに入っていれば顔はわからないが、それ以上に目立ち過ぎるでしょう? 人を殺す時の服装としては、出来るだけ目立たないものを選ぶのが普通じゃないですか」 「でも、確かにあたしは見たんです……どうしてあんな姿だったのかあたしに聞かれてもわかりません」 「まあそれはそうです。えっと、で、あなたはそのことをすぐに通報はしなかった。それはまたなぜです?」 「信じて貰えないかも知れないと思いました。でももし、次の日の新聞にでも何か出ていれば警察に行こうとは思っていました。けど、何も出ないままだったので……」  紗季はうんざりした。  男が殺されたことなど、本当はどうでもいいのだ。紗季が知りたいのは、なぜ「彼等」は自分の前に、不思議の国のアリスの扮装をして現れるのか、ということだけだ。  青梅署の刑事の質問がだらだらと続き、紗季は次第に面倒になりながらそれに答えた。だが答えながら、紗季は新田から言われたことだけを考えていた。  アリスの扮装は、何かのメッセージ。 「彼等」はあたしに、それを見せることで何かを伝えようとしている。  だがそれはいったい、何だ?  ふっと、それまで感じたことのない奇妙な不安が紗季の胸に湧いた。  それはまるで……旅行に出る汽車に乗ってしまってから、部屋の戸締まりをしたかどうか不安になるのに似ている……何かを忘れているような感覚。自分が何をしたのか、或いはしなかったのか、それを思い出せない……  あの朝。  紗季はいつもより三十分早く学校に着いた。学校祭の日で、授業はなかった。紗季はぼろぼろになるまで読み込んだ台本を持って、昨日の内に置かれた舞台の上の大きな木の後ろに座った。そこが第一幕のプロンプター席だ。発音やイントネーションをびっしり赤字で書き込んだ台本を広げて、紗季はひとり、アリスのセリフを読み上げていた。  そこに、二人が入って来た。紗季は黙って、二人の会話を聞いた……  動悸が激しくなって、紗季は胸を押さえた。  恐ろしいほどの悲しみと、そして怒りが胸をきつく締め付ける。もう、十五年も忘れていたその激しい憎悪を持て余して、紗季は顔を覆って泣き出した。 「池内さん」刑事の慌てた声が聞こえる。「池内さん、どうされたんですか?」 「紗季さん!」  菊子が紗季の手を握った。 「しっかりして! 大丈夫、大丈夫なのよ、あたしがそばにいるわ! 刑事さん、やっぱり無理ですよ、あんなひどいもの見せられてすぐですもの、まともな人間なら参ってしまうわ」  紗季は菊子の肩に頭をもたせかけ、自分を押し潰してしまいそうな感情の高まりにじっと耐えた。  何てこと……ああ、何てことなんだ!  十五年間忘れていたこと。思い出の隙間にぽっかりと空いた暗い穴。  だけど信じられない……信じられない……  あたしが、あんなにも、知美を憎んでいたなんて。      3  菊子がくれた布団の中で、紗季はうっすらと姿を現した失われた過去と向かい合っていた。  あの後、紗季は二人が去ってから舞台を降り、部室へ行った。部室には、数時間後の出番を待っている衣装が吊るしてあった。淡い水色のワンピースに白いエプロンのアリスの衣装。  紗季は、机の上に出しっぱなしになっていた、小さな紙工作用のハサミを手にした。そして、水色のワンピースの裾を切り裂いた。紙工作用のハサミでは布はなかなか切れず、紗季はイライラしてべそをかきながらハサミを動かした。  右手の親指の付け根が痛くなった。その痛みで、紗季は我に返った。無惨に裾が切り取られたワンピースを見た。  怖くなった。  紗季はハンガーから衣装をはずすと、切り取った裾も一緒にまとめて小さく丸め、廊下に出てダストシュートにその塊を放り込んだ。  それから深呼吸して、舞台のある講堂へと戻った。  どうして忘れていたんだろう……忘れてしまえるようなことじゃなかったのに。  そうだ……  あれは夢だったのだ。  なぜなら、それから数時間後、知美の姿が現れないことで大騒ぎになって……いよいよ紗季自身がアリスを演じることになった時、舞台の袖に運ばれていた衣装の中に、あの水色のワンピースがちゃんとあったのだ!  だから紗季は、自分がしたと思っていたことは総て夢だったのだと思った。  そしてそのすぐ後で知美の死という衝撃が紗季を襲い、紗季は、自分が見たあまりにもリアルな白昼夢のことは、すっかり忘れてしまった。  だけど……あれは本当に夢だったんだろうか。  紗季は枕元の目覚まし時計を見た。  もう、九時か。警察から戻って、菊子が作ってくれたチーズトーストを少しかじってから、また精神安定剤を一錠飲んだ。四時間近くぐっすり眠って、いくらか気分がましになっていた。  紗季は起き上がり、顔を洗いに洗面所に立った。そして、髪の毛をまとめようと頭に手をあてた。  これ……なに?  指がすべすべとした布に触った。紗季は顔を上げ、鏡を見た。  薄紫色の、リボン。  紫のビーズでイニシャルが……  いやぁぁあああっ!  紗季はリボンを掴《つか》み、髪からひき剥《は》がした。リボンは真新しい布で出来ていて、イニシャルはS・Iだった……T・Eではなく。  紗季は、震えながらリボンを屑籠に投げ入れた。  誰かが、部屋の中にまで入って来たんだ、そしてあたしが眠っている間に、こんなことを!  次の瞬間、紗季はもっと大きな衝撃に襲われた。  キッチンに……誰かいる!  人の気配がする。誰かがひそひそと……  紗季はバスルームから飛び出すと、キッチンへ通じる引き戸を開けた。  流し台の前に置いた小さなテーブルに向かって、三月ウサギとあの帽子屋が腰掛けていた。 「やあ、遅かったねアリス」  ウサギが言った。 「先に始めていたよ、お茶会を。さあ早く席について」  紗季は引き戸を叩き付けて閉めると、叫びながら部屋を飛び出した。  廊下を駆け抜けて階段に辿りつき、上ろうとして上を向いた時、上の階から降りて来る銀髪の女王と目が合った。 「おまえはトランプの兵士を助けたね」  女王は言った。 「兵士の代わりに、おまえの首をはねてやる!」  紗季は目を見開いたまま後ずさりした。そして、逃げようと振り返った時、背後にいた帽子屋が会釈した。 「お茶会はまだ始まったばかり。お茶も飲まないで帰るのは失礼ですよ、アリス」 「なんて躾《しつけ》の悪いアリスなんだ」  三月ウサギが時計を振り回し、ダミ声のような大きな声を張り上げた。 「時間もろくに守れない」 「首をはねるぞ!」  女王が言った。  紗季は走った。そして、次第に白く濁っていく意識の中で必死に自分の部屋のドアを探した。  夢だ、夢だ、夢だ!  みんな、夢だ!  ドアの中に飛び込み、布団を敷いてある和室の襖を開ける。  だがそこには布団はなかった。  代わりに、水色のワンピースを着て白いエプロンをつけた、紫色の髪をした少女が座っていた。 「アリスは、あたしの役なのよ。あなたなんかに渡さないわ」  少女は静かに言った。      *  コーヒーの香りがした。  紗季は目を開けた。  鼻歌が聞こえて来る……菊子の声だ。  紗季はじっと、その歌を聞いていた。どこかで聞いたことのある歌だと思ったが、思い出せなかった。  紗季は起きあがってキッチンまで歩いた。 「あら、お早う、紗季さん」  菊子は陽気に言って、小さなテーブルを指さした。 「朝御飯の仕度は出来てるけど、ここじゃ狭いわね、お布団畳んで和室で食べましょうか」 「あの、あたし……」 「でもちょっと不用心ね、紗季さん。玄関のドア、鍵がかかってなかったわよ」  紗季は、おそるおそるバスルームのドアを開け、洗面台の横においてあった屑籠を覗き込んだ。  中には、紗季がいつも顔を洗う時に使っている茶色のヘアバンドが落ちていた。  和室に戻ると、菊子が布団を畳んでいた。 「あたし、します」 「いいのよ、いいのよ、あなたはまだ、あまりからだを使わない方がいいわ。わたしだってまだ、布団の上げ下ろしくらいは何でもないのよ。昔からよく言うでしょう、布団の上げ下ろしが自分で出来ないようになったらおしまいだって」  紗季は和室を見回した。  そして、こみ上げて来た意味のない笑いを堪えた。  幻覚を見たのだ。これではっきりした。  そうなのだ……とうとうあたしは、幻覚を見るようになってしまった。いつもの医者がそんなことも言っていたんじゃない?  池内さん、薬にばかり頼っていると症状が重くなってしまいますよ。もっと前向きに生きなくては。  前向きに。  ああ!  あの刑事の軽蔑は正しかったのだ。公園のウサギも、真夜中の帽子屋も、みんな幻覚だ。  だが、それならあの死体は?  廊下においてあったシルクハットは?  微かに携帯電話が鳴る音がした。紗季はバッグの中に電話を入れたままだったことを思い出した。 「携帯だけだと不便じゃない? 早く電話をひいた方がよくってよ」  菊子が和室の隅に置いてあったバッグを手渡してくれた。呼び出し音が止まる前に、通話ボタンが押せた。 「池内さんですか」  越智の声だった。 「被害者の身元、わかりました。それと志野田さんの事件についても、新しい事実が出たんです。誠に申し訳ないんですが、また池内さんに確認していただかないとなりません。これからお迎えにあがりたいんですが、よろしいでしょうか」 [#改ページ]   第七章 鏡の中へ      1 「この男なんですが」  越智は、正面を向いた男の顔写真を一枚、先に手渡した。 「あなたと志野田さんが原宿のバーで見た、ウサギの扮装をしていた男に間違いないでしょうか」 「……間違いないと思います」  それは確かに、あの時の男だった。そして新田の店の店員が撮ったセピア色の写真に写っていた男でもある。 「こいつの名前は向井勝、二十四歳のフリーターです。昨年まではW大に通っていたみたいなんですが、今年に入って中退してます。で、こいつの同級生だった矢島健二という学生が田沢芸能社でバイトしてるんですが、新田さんの推理が当たりましたよ、その矢島が向井に、一昨日の夜レディスローン・アリスの宣伝の仕事を一晩だけ譲ったらしいんです。あのバイトは一晩一万円になるらしくて、しかも頼むと日払いしてくれるんだそうです。向井はどうしても至急金が欲しいのでと矢島に頼み込んで、あの晩ウサギの中に入ったんですな。しかし面白いのはですね、そのバイトを譲る話というのが、どうも突然向井の口から出たらしいんですよ。あの夕方、矢島は向井と偶然新宿の書店で出逢って喫茶店に入ったんだそうです。そして何気なくこれからバイトで、原宿でウサギの着ぐるみに入って薔薇を配るんだと話した。すると向井が突然、そのバイトを今夜だけ譲って欲しいと言い出した。つまりですね、向井はあなた方があの晩原宿のバーで待ち合わせしていることをあらかじめ知っていて、たまたま矢島の口からバイトのことを聞き、急に思いついてウサギに入ってあなた方に接近した。向井の目的があなたと志野田さんのどちらにあったのかはわかりませんが、どちらにしてもあなたと志野田さんがバーで待ち合わせしていた事実を奴が知っていたとしたら、奴があなたか志野田さんの私生活についてかなり綿密に調べ上げていたということになります。或いはもっと単純に、あなた方のどちらかが奴と親密な関係であったか、二人の内どちらかの部屋もしくは電話での会話を盗聴していたか」 「あたしは、ほんとにこの男のことを何も知りません」 「だとすると、志野田さんがこいつのことを知っていたかどうかが問題ですね」 「でも、美代子は知らなかったと思います」 「なぜそう思うんです?」 「あの時美代子は、ウサギにカクテルを奢ってあげたんです。でも、かぶりものをはずして素顔が出て来た時、美代子は少しも驚いていませんでした。もし知った顔だったらびっくりするか、少なくとも何かそれらしい会話をしたはずです」 「そうなるとやはり、盗聴の線が濃厚ですね。あの晩、あなたと志野田さんがバーで会う約束をしたのは電話でですね?」 「あたしの携帯に、美代子から電話がありました。美代子は会社の電話からかけているような感じでした」 「それはいつのことでした?」 「当日の午後です。確か……四時前くらいだったと思います。残業があるので遅くなるけれど一緒に夕飯を食べようと誘われて、八時に待ち合わせたんです。あの、越智さん、その向井という人はもう捕まったんですか?」 「まだ連絡が取れていないんです。向井のアパートに電話しましたが留守電で、さきほど直接捜査員が行ったのですが、今日の分の新聞が朝刊も夕刊も郵便受けに入ったままだそうです。まだ逮捕状はとっていません。ウサギの着ぐるみに入っていて、ブティックの前で落とし物を探していたというだけでは逮捕出来ませんからね。しかし池内さん、心配はいりませんよ。この向井という男にはどうやらマエがあるようなんです」 「マエ?」 「あ、失礼、前科のことです。向井の場合は不起訴処分になっているので前科とは言いませんがね。この男、一年くらい前にストーカー行為をやりましてね、その時追い回していた女の子の留守宅に侵入しようとして捕まったんですよ。未遂だった上に標的にされていた女性が告訴を拒んだもんですから不起訴になったんですが、いざとなったらその女性に頼んで、一時的であれ告訴して貰います。そうすれば逮捕状が取れるし、奴のアパートも捜索出来ますからね」 「やっぱり、この人が美代子を殺した犯人なんでしょうか」  越智は紗季の問いに答えようかどうしようか迷った表情を見せてから、頷いた。 「わたしの勘では、そうです」 「それじゃ……この男が狙っていたのは」 「多分、志野田さんの方でしょう。いずれにしてももう少し証拠が揃わないと何とも言えませんが、今日明日中には事件の決着がつくんじゃないかと我々は考えています。で、次に、昨日遺体が発見された方の男なんですが」  越智はまた、一枚の写真を紗季の前に置いた。 「この男には見覚えがありませんか?」  今度は見た覚えのない男だと思った。紗季は首を横に振った。 「名前は佐賀承平、年齢三十二歳、丹沢の医療法人施設アリスホームの事務課長です。先月の十六日、つまりあなたが公園で死体を見た数日前から行方不明で、家族から捜索願が出されていました。昨日、おばさんからあのメダルを見せて貰って、あれからすぐに丹沢まで行ったんです。あのメダルはアリスホームの玄関にある機械で作るもので、アメリカの観光地によくあるものらしいですね。一セント玉を潰して記念メダルにしてしまうんだそうで、日本でなら法律違反ですな。アリスホームの創設者がアメリカからその機械を持ち帰って、一セント玉と同じ大きさの銅板を来訪者に渡してメダルをプレゼントしているんだそうですよ。で、佐賀なんですが、実はアリスホーム側がこの男を告発する準備をしていたことがわかっています」 「何か悪いことを?」 「横領です」  紗季は緊張した。 「被害金額はホーム側がこれまでに把握出来ただけで既に八千万円以上だそうです。ホームの運営は、経費の半分を患者負担、残り半分はアリス基金という基金から支出される金で賄っています。そのアリス基金は、創設者の私財に合わせて、各方面からの寄付金で維持されているわけです。佐賀はその寄付金の出納をごまかしていくらかを自分のものにしてしまっていたんですな。で、肝心の昨日の死体との関係なんですが、歯型、血液型、骨格の特徴その他から、佐賀本人に間違いないと結論されました。さらにひとつ面白いことがわかっています。この佐賀が失踪した三月十六日の朝、佐賀が住んでいたアリスホームの従業員寮の近くのガソリンスタンドで、佐賀が給油しているんですが、その時、これから東京に行くと言っていたそうなんです。普段は二十リッターずつしかガソリンを入れない佐賀がその日に限って満タンにしたんで、スタンドの従業員がどこかにお出かけですか、と訊いたんですな。このことから、佐賀は三月二十日には東京方面にいたと考えていいと思います。やはり佐賀は三月二十日にあの公園で殺害されたのではないか、という線が濃厚ですね。そうなると俄然、あなたが目撃したというウサギ男の存在が重要になって来ますね」  紗季は越智に打ち明けてしまおうかどうしようか、迷った。  ゆうべのこと、そして十五年前のこと。自分が幻覚を見る体質であることを。  確かに死体は本物だった。佐賀という男はあの晩殺されていた。だが、ウサギ男が現実にいたのかどうか、もはや紗季には確信が持てなかった。  単なる偶然だったのかも知れない。たまたまあの晩に見た幻覚、そしてその後自分をつけ回しているように思えたあのウサギの幻覚と、向井が着ぐるみに入って美代子に接近したこととは、もともと何の関係もなかったのかも。  だが、だとしたら、あの帽子屋は? 帽子屋も幻覚だったとしたら……廊下に残されていたシルクハットは……?  何がなんだかわからない。まるで……まるで自分が「不思議の国」に迷い込んでしまったみたいだ。現実と幻影との間に境目のない世界。アリスの世界。 「いずれにしても池内さんのお陰で、こちらの事件も大きく進展しそうです。殺害場所が特定出来れば聞き込みの範囲が絞れますからね。だが念のため、向井が捕まって事情がはっきりするまでは、用心した方がいいかも知れませんね。殺人を目撃された犯人が口封じの為にあなたを狙ったという可能性もまったくなくなったわけではないですから。当面は遠出は避けて、外出される場合には僕に連絡して下さい。お願いします」  紗季は言い出そうとしかけた言葉を呑み込んで頷いた。  幻覚だったのかどうかは二つの殺人の犯人が捕まればはっきりすることだ。そしてもし幻覚だったとわかったら……わかったら……どうするの? 紗季。  わからなかった。どうしたらいいのか、わからない。だが自分の精神が崩壊しかけているのだということは認めないとならないだろう。  大村の顔が脳裏に浮かんだ。  ひとりぼっちで花壇の中で死んでいた大村。  ひとりぼっちで……      *  駅を降りてマンションの方角に歩き始めた時、前方を歩いている二人連れの老婦人に気付いた。村田キヌと山本良江だった。二人は「本日大安売り」の幟《のぼり》がいくつも立ったスーパーに入って行く。  そうだ、あたしも何か、菊子に買って行こう。  ここ数日、食事の仕度は総て菊子がしてくれている。だが菊子はいくら紗季が払いたいと言っても材料費を受け取ってくれないのだ。それならいっそ、材料を買い込んで帰って菊子に渡してしまえばいい。菊子のことだからどんなものを買って帰っても、それなりに調理してしまうだろう。  特売日だけあって、スーパーは混雑していた。紗季は店内をまわり、野菜や魚、肉などを籠に入れた。特に何が食べたいというわけではなかったので、鮮度だけに注意して後は適当に選んだ。そろそろ籠が重く感じられたのでこのくらいにしておこう、とレジへ歩きかけた時、また村田キヌと山本良江を見つけた。二人はシャンプーの棚の前で楽しそうに笑い合っている。良江が手にしているのは、老人用の白髪染めの箱だった。  そう言えば良江は見事な銀髪だ。菊子もほとんど白髪だったが、良江に比べるとずっと自然だ。良江は、髪を白銀色に染めているのだろう。紗季は良江の美しい髪を見つめた。  ふと、奇妙な感覚が紗季の胸を走った。  だがその感覚は瞬きする間に消えてしまった。紗季は軽く頭を振り、スーパーを出た。村田キヌと山本良江に声はかけなかった。今は何となく、彼女達の賑やかな喋り声を聞きたくない。  スーパーの籠に入っていた時よりも、ビニールの袋に入れて手から下げた荷物は、重く感じられた。  これまであまり不便とも思わないでいたが、やはり、エレベーターのないマンションはこんな時辛い。紗季は、ゆっくりと階段を上りながら考えた。  いくら安いからって、菊子にしても村田キヌや山本良江にしても、よくこんなマンションを買う気になったものだ。毎日の階段の上り降りが辛くはないのだろうか。確かに彼女達は同年齢のほとんどの老人よりも元気なのだろうが……  ようやく自分の部屋の前に辿りついて鍵をポケットから取り出そうと荷物を下におろした瞬間、紗季の口を誰かの手が塞いだ。  うっ、ううっ…… 「騒ぐなよっ」  耳元で押し殺した男の声がした。 「頼むから騒がないでくれ。何もしない、ただ俺の話を聞いて貰えればそれでいいんだ」  紗季は口を塞がれたままで頷いた。 「早くドアを開けろっ」  紗季は手を伸ばし、からだをはがい絞めにされた不自然な体勢で必死に鍵を差し込んだ。  ドアが開くと、男は紗季のからだを中に引きずり込み、ドアを閉めて鍵をかけた。  男が手を放した。紗季は転がりながら和室へと逃げた。 「来ないでっ」  紗季はクッションを掴んで男に投げつけた。 「そばに来ないでぇっ」 「何もしないよ」  男は膝を畳につけ、四つん這《ば》いで紗季のそばににじり寄った。 「何もしないから、話を聞け、聞いてくれっ! 俺は、俺はあの女を殺してない。あの志野田美代子って女を殺してなんかいないんだっ!」 「だ、だったら」紗季は恐怖で溢れて来た涙を頭を振って振り飛ばしながら言った。「あなた、やっぱりあたしに……?」  その男……向井勝は、紗季の前に座り込んだ。 「あの女をつけ回したことは認めるよ」  向井は小声で、独り言のように呟いた。 「最初に会ったのは地下鉄の中だった。俺はアルバイトに行く途中で、彼女は書類封筒を抱えていた。……一目で、好きになった。彼女もあの時、俺を見ていたんだ。きっと俺のこと、意識していたんだと思う。だから俺、何とか友達になれないかと思って彼女をつけた。彼女は表参道で降りて会社に戻った。それからずっと、彼女と話をするチャンスが来ないかと、彼女の後をつけていた。何度も何度も目が合って、その度に彼女は微笑んでくれた。本当だ、嘘じゃない! 彼女は俺に好意を持っていてくれたんだ。ある時は、彼女が落としたハンカチを拾ってやった。彼女はありがとうございます、と言って頭を下げてくれて……手が触れたんだ。俺と、彼女の手が触れあった。それでわかった。彼女は俺のことが好きなんだって」  紗季はひとりで喋り続ける向井の顔を見た。恐怖はまだあったが、憎悪はわかなかった。それよりも強い哀れみを感じた。多分美代子は、たまたま落としたハンカチを拾ってくれただけのこの男の顔など、憶えてもいなかっただろう。 「彼女はとても内気で、そのことを俺に言えない。だから俺の方から言わないといけないんじゃないかと思った。でも俺も言えないんだ、そういうこと。彼女の顔を見ると言えなくなってしまう。それで顔を隠していれば言えるかも知れないと思って、ウサギになってあのバーに行った」 「どうして知ってたの? どうして美代子とあたしがあそこで待ち合わせしてること、知ってたのよ」 「それは秘密だ」  向井は不思議な笑い方をした。 「教えてあげてもいいけど、今は駄目だ。警察にわかると俺が彼女を殺した証拠にされるからな。だけど俺は、彼女のことなら何だって知ってる。だからあんたと待ち合わせたことも、その場所も時間もちゃんと知っていた。ラッキーだった……たまたま矢島に会えて。俺はウサギになって彼女に薔薇を渡した。そして自分から声をかけた。この前はどうも、って」  紗季は無言のままで瞬きした。  やっぱりあれは、幻聴なんかじゃなかったんだ。ただ、自分に向けられた言葉でもなかった。  なんてことだ、あの時三月ウサギが話しかけた相手は、あたしじゃなくて、美代子だったんだ!  向井は紗季の表情が緩んだのにつられて自分も笑顔になった。 「思い切って声をかけて良かったよ。彼女はやっぱり俺のことが好きだったんだな。だから、自分が飲みかけのカクテルを俺にくれたんだ。ものすごく嬉しかったなぁ。彼女がそんなことしてくれるなんて、思ってもみなかったから」  あのマンハッタンは飲みかけじゃなかった。美代子は一口もつけてはいなかった。紗季はそう叫びたいのを堪えた。  何もかも、あんたの思い込みなのよ!  美代子はあんたのことなんて、憶えてもいなかったのよ! 「俺が彼女を殺すはず、ないじゃないか」  向井は同意を求めるように紗季の顔を覗き込んだ。 「だってそうだろう? 彼女は俺の、恋人だったんだぜ。俺の大切な、たったひとりの恋人だったんだ!」  向井の手が紗季の方へのびた。紗季は悲鳴をあげた。 「俺じゃないんだ!」  向井は紗季の両手を掴んで叫んだ。 「俺は知らない! あんたがそれを証明してくれ。あんたなら証明出来るだろう?」 「ど、どうして、どうしてあたしが……」  紗季は泣きながら首を振った。 「あたしには関係ない、関係ないわ!」 「だって俺、あんたに会ってるんだぜ! 俺はあの日、彼女の部屋の近くに行ったんだ。いつものように、彼女のこと守ってやるつもりだった」 「守るって……」 「いつもそうだったんだよ! 俺は彼女のこと守ってやってたんだ。そうしないときっと彼女は変な男に襲われるから。でも彼女はまだ部屋に戻ってなかったんだ。それで俺は駅まで戻った。その途中で、あんたと彼女を見かけた」 「そんな!」  紗季は激しく頭を振った。 「あたしじゃないわよっ、あたしは銀座にいたのよ……」 「でも、あんただった。通りの反対側にいた。彼女と並んで」 「それじゃ……顔はわからなかったんでしょう?」 「顔なんてわからなくてもあんただってわかったよ。だってあんたがいつも着てるのとおんなじコートだったもんな。だから警察に証言してくれ、俺じゃないって。俺が彼女を殺したんじゃないんだ」 「あたし」  紗季は頭を振り続けた。 「あたし……知らない……ほんとに知らない。あたし……」  うっ。  紗季は、首に向井の手がかかったのを感じて目を見開いた。 「嘘をつくな」  向井は口の端に泡を浮かべている。 「頼むから、嘘をつかないでくれっ! どうして知らないなんて言うんだ、あんたが証言してくれないと、俺は殺人犯にされてしまうんだ。ほんとのことを言ってくれ、警察で、ほんとのことを……頼むから……」  向井の手に次第に力が入って行く。紗季は今度こそ激しい恐怖で言葉を発することも出来なくなった。  殺される。  徐々に首を圧迫されて、紗季は向井の狂気が殺意に変わるのを感じていた。  助けて……誰か、誰か……  だが玄関のドアは向井が鍵をかけてしまっている。  紗季は苦しさで目を閉じた。  向井は自分が何をしているのか自分でもわかっていないのだ。紗季を殺そうとしていること自体に気付いていないに違いない。きっと美代子の時も……  意識が白くなり始める。苦痛が次第に薄れて、抵抗する力も消えて行く。  紗季は死を覚悟した。 「やめろっ!」  大声が耳に聞こえた。 「向井、その手を放すんだ!」  首の圧迫がふっとなくなる。紗季は反射的にせき込んで、苦しさで畳に伏した。  すぐそばで、格闘が始まった。菊子の甲高い悲鳴も混じっている。紗季はせき込みながら必死に目を開けた。  新田の横顔が見えた。新田と向井とが、とっ組み合って畳を転がっている。やがて、向井が新田を弾き飛ばすと和室からベランダの方へと駆け出した。その後ろを新田が追った。  菊子のひときわ大きな悲鳴が聞こえた。  紗季は耳を塞いで、ただ啜り泣いていた。      2 「妄想ですよ」  新田が、紗季の手を握って囁いた。 「あいつの妄想です。志野田さんが自分に惚れていると思い込んでいたんだ。多分、こっそり後をつけるだけでは物足りなくなって、直接志野田さんのところに乗り込んだ。ところが志野田さんから冷たくあしらわれてカッとなって……」  越智が険しい顔で歩いて来た。 「今、病院から連絡が入りました。向井は死んだそうです」  新田が苦痛で顔を歪《ゆが》めた。  紗季はただ、からだを固くしていた。 「三階とは言っても下はアスファルトですからね、背骨と頭蓋骨を損傷していて、既に意識はなかったそうです」 「すみません」  新田が深く頭を下げた。 「まさか飛び降りるなんて思っていなくて」 「向井自身もわけがわからずに飛び降りてしまったんでしょう。誰のせいでもありません。強いて言うなら、自業自得です。しかし本人の供述がとれなくなったのは残念ですね。それにしてもいきなり池内さんを襲うとは、予想外でした」 「菊子さんが気付いたんですよ」  新田が優しく言った。 「あなたの部屋のドアの前にスーパーの袋が置いてあって、その中には冷凍食品も入っていた。冷凍食品を買っておきながら帰宅してすぐ冷凍庫に入れずに玄関の前に放っておくというのはおかしいと、菊子さんは呼び鈴を鳴らした。だが返事はなく、ドアに耳をつけてみると微かに悲鳴が聞こえた。それで管理人のところへ行って中を調べてくれと頼んでいたところに、丁度僕が行き合わせたんです。僕はともかく管理人から鍵を借り、あなたの部屋に入った。ほんとに、良かったです。あと数分遅かったら間に合わなかったかも知れない」 「ありがとうございました」  紗季は新田の腕の中で頭を下げた。 「僕ではなく、菊子さんのお手柄ですよ。彼女はほんとにあなたのことが心配みたいですね。まるで娘さんみたいに思っているようだ」 「向井が死んでしまったのは残念ですが、これで志野田美代子さんの事件は解決ですな。まったく、ストーカーというのは怖い存在です。志野田さんは向井につけ回されていることに気付いていなかったんでしょうかね。そうそう、池内さん、さっき捜査本部からも連絡が入りました。確かに向井らしい男が志野田さんのアパートの近くにいたのを目撃していた人がいたそうです。それとあなたが帰られてから志野田さんがお勤めの会社に連絡して、NTTの点検員に調べて貰ったんですが、やはり電話盗聴装置が仕掛けられていたようですよ。何と、建物の中にあった回線盤に取り付けられていたんだそうです。あの向井という男、家宅侵入の常習犯でもあったわけですよ」  越智は励ますように紗季の肩を叩いた。 「ともかくご親友の無念が晴らせて良かったですね。後は、佐賀の事件ですが、こちらは向井とは関係がないと思われます。しかし志野田さんを襲ったのが向井なら、少なくともあなたは狙われていたわけではない。ひとまず安心していいんじゃないでしょうか」  紗季は頷いた。だがまだ頭がボーッとしていた。  美代子はあの向井という男に殺されたのだ。美代子の恐れていた通りだった。もう少し早く美代子が警察に相談していれば、或いは……  なぜ美代子は、警察を嫌ったんだろう?  もうひとつ、わからないことがある。  向井はなぜ、あたしが美代子と一緒に歩いていたなどと言ったのだろう? 勿論、あの日あたしは代々木から銀座に行って菊子と銀座で食事をした。美代子の部屋になど行っていない。だがあたしの着ていたのと同じコートを着た|誰か《ヽヽ》が、美代子と一緒だった。いや……それも向井の妄想なのか?      *  警察から戻ると、菊子のメモがドアに貼ってあった。 『お夕飯の仕度をしておきますから、わたしのお部屋へどうぞ。材料は使わせていただきました』  紗季は思わず微笑んでメモをはずした。菊子には、紗季の考えていることが何でもわかるらしい。  菊子はダイニングテーブルに乗り切らないほどの料理を作っていた。 「だってね、冷凍のエビとかお肉とか、みんな溶けてしまっていたんですもの。料理してしまわないと持たないでしょう?」 「でも」紗季は並んだ料理を眺めた。「食べきれないですよ、こんなに」 「食べ手ならいくらでもいるわよ。もう呼んでおいたから心配しないで。どうせなら今夜はお祝いにしましょう」 「お祝い?」 「そうよ」菊子はにっこりした。 「あなたが無事だったお祝い」  その言葉と同時に呼び鈴が鳴った。菊子がドアを開けると、入って来たのは村田キヌと山本良江、それに国造だった。 「うわ、これはすごいご馳走だ」  国造はテーブルを見て歓声をあげた。 「年寄りにはこんな贅沢な食べ物は毒だね」 「この年になっちゃ、毒だろうと何だろうと怖くはないけどさ」  村田キヌがだみ声で笑った。 「どうせいつお迎えが来たっていいんだからね。それにしても菊子さん、ちょっとこのメニューはコレステロールが多そうだねえ」 「主賓は若い人なんだからこれでいいのよ」  菊子がキヌの前からローストビーフの皿を取り上げ、紗季の前に置いた。 「あなた達はサラダでも召し上がれ」 「わしは食べるぞ」国造が腕捲くりした。「コレステロールなんかどうでもいいよ、まずいもん食って長生きしたって面白くないからな。コレステロールで癌にはならんだろう」 「あら、でも」  山本良江が笑いながらサラダにドレッシングをかけた。 「動物性脂肪を多く摂取すると乳癌になるんですってよ」  村田キヌが大声で笑った。 「乳癌ってのは良かったね、国造さん、いくらあんたでもそればっかりは願い下げだろ」  老人達は、紗季の存在などあまり気にしていなかった。勝手にグラスやビールを取り出して乾杯を始めた。菊子はその様子を笑いながら見ていたが、やがて紗季の手にもグラスを握らせた。 「さ、なかなかそんな気分にもなれないだろうけど、ともかく乾杯しましょ。あなたが無事で、ほんとに良かった」  紗季は菊子とグラスを軽く打ち合わせ、一口ビールを啜った。  おいしい、と思った。冷え方も丁度いい。  なんだか、本当にこれでここ数日のおかしな騒動が終わるのかも知れない、という気分になった。少なくとも、もう命に危険を感じなくてもいいのだ。  菊子が勧める二杯目もほとんど一気に飲み干して、紗季は目の前の宴を眺めた。七十を超えた女が三人と男が一人、軽口を叩き合いながら次々とテーブルの上の食べ物を平らげて行く。驚くほどの勢いで。  そこには、紗季が老人に対して抱いていたイメージを覆す何かがある。底知れぬ、力のようなもの。 「年寄りだって、ハメをはずしたいことがあるんだよ」  村田キヌはまるで紗季の心を読んだかのように、紗季を見つめながら言った。 「いくら先が短くたって、嫌なことは嫌だし辛いことは辛いのさ。町を歩いていてさ、早く死ね、なんでいつまで生きてやがんだって顔で若い連中に見られるたびに思うんだ。おまえ達だっていずれはこうなるんだよ。よく見ときな、ってね」  キヌは豪快に笑って紗季のグラスにビールをつぎ足した。 「まったくね、この国じゃ長生きしたってひとっつもいいことなんかないよね。あたしらなんか、まるっきり無価値なんだ、もう」 「そうでもないわよ」  山本良江が上品に笑った。 「あらあ、菊子さん、このエビフライとってもおいしいわぁ。まあ生きていたっていいことがないっていう点はその通りだけど、あたし達だって無価値ってものでもないわよ。こんなひからびた命にだって値段はついてるんだから」  国造が指でローストビーフをつまむと口に放り込んだ。もう一切れ、と手を伸ばしたところで、キヌがその手の甲をピシャッと叩く。 「なんてまあ、躾の悪い爺さんだろうね」  キヌはだみ声で笑った。 「あたしの亭主だったら夕飯抜きにしてやるとこだよ」  紗季は、キヌの顔を見た。  キヌは紗季に見つめられていることに気付かず、まだ笑い続けている。特徴のあるしわがれた声で。 「入れ歯の具合が良くなったんでお肉が食べたいのよね、国造さん。新しく駅前に出来た歯医者は腕がいいわねぇ、噂通りに。おやどうしたの、紗季さん」  菊子が紗季の顔を覗き込んだ。 「また気分でも悪くなった?」 「あの、あたし」  紗季はまだキヌから目を離せないまま呟いた。 「もうお腹がいっぱいで……それに何だかとても疲れていて、お先に失礼させていただこうかと」  紗季は立ち上がると、菊子が心配してかけた声に適当に答えて逃げるように自分の部屋へと戻った。      *  だけど。  そんなことってあるんだろうか? そんなことって。  第一、そんなことして何の得になる?  もちろん、ただの退屈しのぎということだって考えられる。そうだ、退屈でしょうがなくて、たまたま手近にいた小娘を脅かして遊んだだけ。  だが……  何もかも、いちばん最初から……?  だけど最初って、いつ?  紫色の髪をしたアリスの顔が目の前に甦った。  どうしてあのアリスは紫色の髪をしていたのだ? あれが幻覚だったとしたら……あたしが演じたアリスだったとしたら金髪の髪をつけていたはずなのに。だってあたしはあの頃短い髪をしていたから、だから……そしてあれがあたしではなくて知美だったとしたら……知美は自分の栗色の髪のままで演じる予定だったのに!  紗季は畳から起きあがった。様々な想像が一度にわき起こって頭が痛む。それでも、腕時計を見てまだ八時を少し過ぎたところだとわかると、紗季は出掛ける決心をした。  ともかくはっきりさせないと。だけど、何から始めよう?  そうだ、まずはこの部屋だ。  紗季は殺風景なマンションの部屋を見回した。  もしあたしの想像が当たっているとしたら……あたしが今|ここ《ヽヽ》にいることだって、偶然なんかじゃないはず。  紗季はまず、マンションを紗季に紹介した不動産屋に行ってみることにした。  あの社員寮のあった町の商店街の中の小さな不動産屋。そこで紗季は、あの物件を勧められたのだ。古いが安く、管理人もまったくうるさくなくていいと。      *  地下鉄を乗り継いでようやく辿り着いてみると、その店は閉まっていた。  紗季はそれでも、構わずに店のガラス戸を叩いた。五分近く叩き続けていると、ようやくドアの向こうに人の気配がした。 「もう閉店してるんですよ」  男の声が不機嫌に言った。 「明日また来て貰えないですかね」 「急ぐんです」  紗季は不動産屋の腕を掴んだ。不動産屋は驚いて叫ぶように言った。 「いったい、何なんだ、あんた!」 「あたしのこと憶えてませんか?」  紗季は不動産屋の腕を揺すぶった。 「先月、ここでマンションを紹介して貰ったんです」 「ああ?」不動産屋は怪訝な顔で紗季を見ていたが、やがて頷いた。「ああ、あんたですか。その節はどうも。しかしいったいなんだってこんな時間にいらしたんです? 物件に対する苦情でしたら営業時間内にして貰えませんかね……」 「苦情じゃないわ。でも、教えて欲しいのよ」 「教えるって、何を?」 「どうしてあたしにあのマンションを勧めたのか、その理由を」  不動産屋は唖然とした顔で紗季を見ていた。だがその呆れたような表情が、何か心にやましいことがあるのを押し隠そうとして現れたものなのか、それとも本当に紗季の質問に呆れているだけなのか、読み取ることが出来ない。 「今すぐ教えて!」  紗季は語気を強め、不動産屋の腕をゆすった。 「教えてくれないなら、警察に言うわよ! あなたに騙されてとんでもない欠陥マンション売りつけられたって、訴えてやる!」  不動産屋の目におびえが走った。 「だから」  不動産屋はごくっと音をたてて唾を呑み込んだ。 「だから気乗りがしなかったんだ。なんかやばいことなんじゃないのかって気はしてたんだよ……」 「やっぱり」紗季は呟いた。「やっぱり、裏があったのね」  不動産屋は頷いた。 「でも、欠陥だなんてそんなことはないはずだ。あの物件はちゃんと調べて、ちょっと古いけど普通に生活は出来るとわかってた」 「詳しく話してちょうだい」  不動産屋は紗季を店の中に入れ、電灯をつけた。紗季は、客との商談用のソファに腰掛けた。 「あの物件は半年くらい前によその広告に出たもんなんです。だけどなにせ古いし、五階建てなのにエレベーターはついてないし、その割に駅から二十分は歩くでしょ。買い手がつかないままだったんですよ。そのうちに広告が出なくなったんで、売り主が諦めたのかなって思っていたら突然電話がかかって来てね。今度はうちに直で預けたいって言うんだ。価格も広告に出ていたものより七百万も下げて」 「それって、いつ頃でした?」 「先月かな。だけどその売り主が変な条件をつけて来たんで、初めは断ろうかと思ったんだ。その条件ってのがあんた、つまり、池内紗季って若い女がもうじき物件を探しに来るだろうから、そしたら何とかしてそのマンションを売りつけてくれってものだった。うまく成功したら、売買手数料の他に五百万出すって……うさん臭い話だとは思ったが、池内紗季が他の物件を買ってしまった時には諦める、後は好きに売ってくれていいと言うもんで、駄目もとだと思って引き受けた。それに、いくら古くたって五十二平米もあるマンションがたったの千八百万だからね、騙すわけじゃないし、いいかと……勿論うちが預かった段階で部屋は調べたよ。ひどい欠陥はなかったし、どこといって問題になるようなところもなかった。第一、池内紗季って女が本当に来るのかどうか半信半疑だった。ところがあんたはほんとにやって来た。そして、特に熱心に勧めたつもりもないのにあのマンションを買ってしまった。売り主は約束通り五百万、別に払ってくれた。それからしばらくは何かあるんじゃないかとびくびくしていたけど、あんたの引っ越しも終わったって聞いて、まあ何事もなかったんだからいいじゃないか、と思っていたとこだったんだ」 「でも」  紗季はからからに乾いてしまった喉でひきつった声を絞り出した。 「あのマンションを買う時、あの物件は自社物件だって言ってましたよね、あなた。だから前の持ち主の名前は教えて貰えなかった」 「そう言ってくれと頼まれてたんだ」 「誰に?」  不動産屋は首を振った。 「それは言わないって約束したから」 「だけどこの売買は、法律違反よ!」  紗季は声を荒らげた。 「売り主を偽るなんてしてはいけないはず。さっきも言ったでしょう、あたし、警察に行く覚悟があるんです。だから教えて、あの部屋は誰のものだったの? いったい誰があたしに、あの部屋を買うように仕向けたのよ!」  不動産屋はそれでもしばらく、口を結んだままでいた。紗季は瞬きもせずにその顔を睨み続けた。  やがて、不動産屋は立ち上がると、キャビネットの引き出しを開けて中から一枚の書類を取り出した。  不動産売買契約覚書。  取引記録だ。  三月二十七日成約  世田谷区××町二丁目七の二  フラワーマンション三〇三号室  成約価格 一千八百万円  売り主 田上章二  買い主 池内紗季  田上章二……章二! [#改ページ]   第八章 紫のアリス      1  章二。  どうしてそんなことが?  田上章二とは、章二達の学年が卒業して以来会っていない。というよりも、知美が死んでからは紗季自身、クラブも辞めてしまって田上と一緒に過ごす機会はなくなっていた。記憶にある限り、田上章二と個人的に口をきいたのはあの学校祭の舞台が最後だ。  紗季は、混乱した頭のまま不動産屋を出た。田上章二の現住所は台東区浅草になっている。ともかく、本人に事情を聞いてみるしかない。  通りかかったタクシーを反射的に拾って、紗季は田上章二の家に向かった。  田上章二の現在の住まいは浅草のマンションの一室だった。突然の訪問には遅い時間だが、紗季は事の真相を一刻も早く知りたい気持ちを押さえることが出来なかった。  呼び鈴を押すと部屋の中から女性の声がした。紗季は心臓が破裂するかと思うほどドクドク打つのを感じながら、ドアが開くのを待った。 「どちら様でしょうか」  チェーンをかけたままドアを十センチほど開いて、中から紗季と同じくらいの年頃の女性が訊いた。 「あの」紗季は唇を舐めた。「池内紗季と申します。夜分突然にお邪魔して申し訳ありません。こちらに田上章二さんがいらっしゃいますね?」 「田上でしたら宅の主人ですが」  章二の妻はまだ用心深くチェーンをかけたまま答えた。 「どんなご用件でしょうか」 「あの実は、わたし、世田谷のマンションを田上さんから買わせていただいた者なんですが」 「世田谷のマンション?」  章二の妻は怪訝な顔で眉を寄せた。 「主人がお宅様にマンションを売ったんですか? そんなことは……何かの間違いじゃないかしら」 「でも、不動産屋さんから聞いて来たんです。確かに売り主は台東区浅草の田上章二さんだと」  章二の妻は困ったように奇妙な笑い顔になり、そっと頭を振った。 「そうなんですか? でもねぇ……そんなことは不可能だと思いますよ。主人は昨年の夏から入院しておりますのよ。とても不動産の売買が出来るような容態ではないんです」 「ご病気ですか」 「事故に遭ったんです。交通事故です。何でしたら病院の方に行かれてお確かめになって下さい。東京中央病院です。あらかじめ申し上げておきますけれど、病院の方にいらしても主人とはお話しになれないと思います。脳の方を損傷いたしまして、意識はありますけど言葉は出せません。そんな状態ですから、不動産の売買契約など結べたはずがないんです。第一主人はマンションなど所有していたことはないと思います。同姓同名の他の方とお間違えなんだと思いますけど、何でしたら詳しいお話は主人の兄にしていただけませんか? わたしでは不動産のことなんてわかりませんから。ちょっとお待ちになって」  章二の妻はチェーンをかけたままで一度部屋の奥に引っ込むと、名刺を一枚持って戻って来た。 「これが主人の兄の連絡先です。養子に出たので姓が違うんですけど」  紗季は章二の妻が差し出した名刺を受け取った。 「それじゃ、そういうことでよろしいですわね」  章二の妻は、紗季を押し売りか何かを追い払うような目で見てから軽く頭を下げてドアを閉めてしまった。  紗季は閉まったドアを数秒間見つめていてから、受け取った名刺に目をやった。  そして、無言のままその名刺を見つめた。  株式会社ランナウエイ販売部販売三課  課長 新田拓郎      *  自分が落ちている罠の正体が、少しずつ見えて来た気がする。  少なくとも、これらのことが総て偶然だということだけは、ない。  だが、なぜ彼等《ヽヽ》はあたしを罠にはめたのだろう?  彼等はいったい、あたしに何をさせようとしているのだろう?  新田の言葉が紗季の耳に甦った。  よく考えてみて下さい。本当に、何も思い出せませんか? あなたと『不思議の国のアリス』との関わりから思い返してみてごらんなさい……  そうか!  彼等はあたしに、何かを思い出させようとしているのだ!  この手の込んだイタズラの総てが、あたしに何かを思い出させる為に仕組まれたものだとしたら。  だがいったい、何を思い出せというの?  知美。そう、それは知美についての何かだ。  それも、あの日のこと。あの学校祭の日の、知美についていったいあたしは|何を忘れているんだろう《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》?  十五年前の記憶。  紗季は歩きながら、自分の拳で額を何度か叩いた。  何か忘れているような気もする。だが思い出せない……第一あの日、あたしは幻覚を見ている。確かにハサミで切り裂いてダストシュートに捨てたと思っていたアリスの衣装は、ちゃんと綺麗なままあった。ハサミで切り裂いたことも捨てたことも、みんな幻覚だったのだ。知美に対する激しい憎悪が創り出した白昼夢。  あたしはまともじゃなかった。あの日、おかしくなっていた。  そんな状態で何を見たとしても、それが幻覚ではないと言い切る自信なんてない。  だけどもし、あたしが本当に、何かとても大切なことを忘れているのだとしたら……  紗季はいつの間にか橋の上に立って隅田川の暗い水面を見つめていた。高速道路のランプと広告塔の明かりが水面に反射して、まるで真昼のように明るい。その揺れ動く輝きの中に、ふと、知美の顔が見えた気がした。  微笑んでいる知美。  何かあたしに話しかけている知美。  黙っていてごめんね、紗季。  紗季の気持ちもわかっていたんだけど、これだけはどうにもならないの。  だけど仕方ないよね、彼が選んだのはあたしなんだもの。  あなたじゃなくて、あたしなんだものね。  紗季は思わず、水面に向かって拳を振り上げた。何かを|投げつけたくて《ヽヽヽヽヽヽヽ》。  その途端、背中に電気が流れた気がした。  何かを……あたしは何かを|投げた《ヽヽヽ》んだ……だけどいったい、何を、どこへ?  答えは……答えは……  紗季は、自分が今どこにいるのか確かめる為に、両岸の景色を見回した。そして自分の立っている橋が言問《こととい》橋だとわかると、街灯で腕時計を照らした。まだ最終には間に合う。  行ってみよう。行って、確かめなくては。  もう何年も帰ったことのない故郷。知美と一緒に真新しいセーラー服を着て桜吹雪の中をくぐった、あの中学校の正門。  あの町に、きっと総ての答えがあるはずだ。  紗季は小走りに浅草の方向へと戻り、タクシーの空車の文字に向かって手を上げた。 「東京駅」  紗季は告げて、目を閉じた。  狭いタクシーの後部座席に滑り込んで閉まったドアから外を眺めた時、ようやくほっとした。  ひとりになりたい。  自分を取りまいている「罠」から逃れて、ひとりに。      2  新幹線が小田原の駅にすべり込んだ時、紗季の腕時計は既《すで》に午後十一時をさしていた。もう、紗季が生まれ育ったあの町まで行くバスはない。  紗季は駅前から続く道を海の方へ向かって歩き出した。  その町までは五キロほどの道のりだった。駅を離れるにつれて次第に強くなって来る潮の香りを嗅ぎながら、紗季はゆっくりと夜の道を歩いた。  鼻につく海の香りが記憶を呼び覚ますことを期待して、紗季は十五年前のあの日に心の焦点を合わせた。だが、手が届くようで届かないもどかしさだけが紗季の気持ちを焦らせる。  紗季は気付いた。紗季自身の心が、|それ《ヽヽ》を思い出すことを拒んでいるのだ。だが、「それ」とはいったい、何なのだろう……彼等が紗季に思い出させようとしていること。  夜の闇に沈んでいても、やがて周囲の光景が紗季に懐かしさを感じさせ始めた。  あの町に入ったのだ。  高校を卒業するまで住んでいた町。故郷。  紗季の実家は今でもこの町にある。だが、両親はもういない。今ではあの家は、兄一家のものになっている。兄と兄嫁と二人の子供。こんな夜中に突然訪ねて行って泊めてくれと言ったら、さぞや迷惑がられるだろうな……  だが他にあてはなかった。紗季は実家を目指して国道から離れた。  チリンチリンチリン、と自転車のベルが背後で鳴った。 「紗季?」  闇の中から声がした。 「池内紗季さんじゃない?」  紗季は振り向き、無灯火の自転車に乗った人物を見つめた。 「……薫子《かおるこ》さん?」 「そうよ! やっぱり紗季なんだ! どうしたの、紗季もこっちに戻って来たの?」  中学時代、ESSで一年先輩だった前川薫子は、当時とあまり変わらない活発な笑顔で自転車を降りた。 「東京で働いているって聞いてたけど」 「はい……今でも東京にいます」 「ふうん、じゃなに、今夜は里帰り?」 「そのつもりだったんですけど……近くに用事があって遅くなったんで泊まろうと思ってるんですけど、連絡もしないで来ちゃったから」 「あ、そうか」薫子は頷いた。「紗季んとこ、お兄さん達が住んでるんだっけね、今。ちょっと気まずいよね、兄嫁さんがいると」 「気まずいってこともないんだけど、小さい子が二人いるんで……」 「うちにおいでよ」  薫子は自転車の向きを変え、紗季の袖を引っ張った。 「ね、おいで! あたし今、ひとりなのよ。あたしさあ、バツイチになっちゃって出戻ったのよね、去年。でも実家にはやっぱり兄貴と兄貴のお嫁さんがいるし、なーんか居心地悪くてさ。兄貴が家賃援助してくれるって言うんで、この春からアパート借りてひとりで暮らしてるんだ。だから遠慮いらないわよ、ね、おいで! 後ろ、乗ってよ。この辺りも最近、痴漢が出るって噂あるのよ、歩きは危ないから」  薫子はサドルに跨《またが》ると、後ろの荷台を叩いて座るよう紗季を促した。紗季は断る暇もなく、薫子の勢いにつられて荷台に横座りした。  懐かしかった。中学時代が一瞬に紗季の目の前に戻って来て、自転車が切る夜風と共に後方へと流れて行く。  自転車通学は表向き禁止されていたが、学区のはずれに住んでいた知美と紗季は、よく二人乗りして通学した。いつも漕ぐのは知美で、紗季は後ろの荷台に横座りしていた。荷台には、知美が手作りした小さな座布団がくくりつけてあった。  親友だったのだ。あの日までは確かに。  いや……あの日だって、やっぱり知美はあたしの親友だった。彼女の言葉を素直に受け取ることの出来なかったあたしの僻《ひが》みが、総てを壊してしまったのだ。  総てを壊して……でも……どうやって壊したの? 「ここ」  自転車は、木造の古いアパートの前で停まっていた。 「汚いでしょう。でも家賃を兄貴に出して貰ってるから文句は言えないのよ。それに中はけっこう、まともなのよ」  紗季は薫子に連れられてアパートの外階段を上った。  薫子の言う通り、外観に比べると部屋の中は明るくて綺麗だった。小さな台所に六畳くらいの和室が二つついて、バスルームもあるようだ。 「適当に座って。お茶よりビールにしようよ、久しぶりだしね。ほんと、紗季と逢うの、何年振りかな」 「五年くらいだと思います。先輩がまだ東京にいらした時、銀座で逢いましたよね」 「そうそう、そうだった!」  薫子は小さな座卓の上に缶ビールを並べた。 「あの後結婚したのよ、あたし。職場結婚。で専業主婦やってたんだけど、亭主が浮気してね。それがさ、相手が同じ職場で後輩だった女なもんだからあたしもカッと来ちゃってね……どうしても許せなくて。顔も知らない女なら、一度の浮気ぐらい許せたかも知れないんだけど、変なものよね。なんだかんだ揉《も》めたけど結局離婚。で、実家に舞い戻って、親父のコネで小田原の駅前の観光物産店に職を見つけたの。今は毎日、アジの開きを焼いて実演販売。小田原名産のアジの開きでぇーす、おいしいですよぉ、どうぞお試しくださぁい、って。大学の英文科出たってそんなもんよ、人生なんて。でもさ、時たま外国人の観光客とか来るのよね、そうするとちょっと喋ってみたくなるんだなぁ、英語。紗季はどう? ESSの頃のこと、懐かしくなったりしない?」 「あたし、途中でやめちゃいましたから」  紗季は缶ビールに口をつけてから呟いた。  薫子の表情が曇った。 「そうだね……そうだった。ともちゃんのことがあったんだっけ。だけど……今考えるとあのアリスの劇って、何かに呪われていたような気がするな」  紗季は薫子の顔を凝視した。  薫子は独り言のように続けた。 「ほーんと、呪われてたよ、あの劇。主役だったともちゃんはあんなことになっちゃうし……紗季、知ってる? マッドハッター役やった田上くん、去年交通事故に遭ってほとんど植物人間なんだよ、今。あたしね、彼とは同じクラスだったでしょ、事故の少し前にたまたまクラス会があって田上くんと会ってたのよ。彼、お酒が入ってちょっと正直になってたのかな、こぼしてたの。奥さんとうまく行ってないんだって」  紗季は、目の前でドアを閉めた章二の妻の冷ややかな顔を思い出した。 「もともとお見合い結婚で、熱烈に惚れ合って一緒になったわけでもないらしいんだけど、それでも彼は奥さんのこと大事にしたつもりだったんだって。でも、奥さんには自分の心の底が見えてるのかも知れないって言ってたな」 「……心の……底?」 「うん」  薫子はぐっとビールを飲み、頷いた。 「結局田上くん、ずっとともちゃんのこと、忘れられないままだったのよ、多分。もしともちゃんがあんなことにならなくて元気なまま大人になっていたとしたら、とっくに二人の恋愛なんて終わっちゃって、田上くんも綺麗に忘れていたかも知れないんだけどねぇ……中学生の恋なんて、普通はそんなもんだもんね。だけど死んじゃうとさ……死んだひとには絶対勝てないってよく言うよね。田上くんの心の中ではともちゃんの思い出が永遠なのよ。田上くん、忘れられないまま大人になって、結婚しても心のいちばん底でともちゃんのこと、愛したままだった。だから何となく奥さんともしっくり行かなくなっちゃったんじゃないかな……」  薫子は空き缶を部屋の隅のごみ箱に放り投げ、台所から二本目を持って来てあけた。 「だけどともちゃんのご両親はほんとにお気の毒よね。ともちゃんがあんなことになって……それでほら、今度はご両親が……」  紗季は無言で頷いた。 「紗季も知ってるんだ、やっぱり……奥さんがお金を騙し取られて自殺して、旦那さんが発作的に後追い心中ですってね。ともちゃんの事件のあと、お父さんがやっていたお店、東京に移ったでしょ。あたし何度か行ったことあるのよ。とってもおいしいお店だった。ともちゃんのお祖父さんって、静岡のグランドホテルのコック長したこともある、すごい料理人だったんですってね」  紗季は思い出した。恰幅のいいごま塩頭の知美の祖父。遊びに行くといつも、とびきりおいしいケーキやプリンをご馳走してくれた。おじいちゃんはすごいコックさんだったのよ、と知美がいつも自慢していた……!  わかった。  紗季は思い出した。  知美の家の明るい居間で、知美の祖父と向かい合って座っていた上品な五十年配の女性。  あの時はその女性が知美の祖母だと思っていた。だが知美から、おばあちゃんは小さい時に死んだ、と聞かされて不思議に思ったことがあった。  あの女性。優雅な物腰で紅茶茶碗を手にしていた、あの物静かな……菊子さん…… 「あの店も小田原ではいちばんって評判だったもんね。でもそのお祖父さんもともちゃんのことがあってすぐに亡くなって……あたしね……紗季に謝らないといけないことがあるのよ」  紗季は十五年前の菊子の面影の記憶から我に返った。 「先輩があたしに?」 「うん。あの劇のこと思い出すたびに、紗季に謝ろうと思うんだけど、何だか機会がなかったから。まあ結果としては紗季がアリスをすることになったんだから、それで良かったと言えば良かったんだけど」  紗季は、薫子が何を言おうとしているのか慎重に耳をすませた。 「実はね、学校祭の二週間ぐらい前だったかな……顧問の武田先生が、アリス役を紗季に交代しようかって相談して来たの。あたし達、三年に」  紗季は瞬きした。そんなことは初耳だった。 「ほら、紗季はずっとプロンプターやってくれてたでしょ。それで紗季の発音があんまり綺麗なんで、武田先生がプロンプターじゃもったいないって言い出したの。ともちゃんは積極的な子で演技とかは巧かったけど、発音に変な癖があったのよ。自分は英語が上手いって錯覚してる子にはよくあるパターンなんだけど、思い込みで間違った発音してるのに、直そうとしないのね。武田先生が何度かともちゃんに注意したんだけど。それで先生は、いっそのことアリスは紗季にして、ともちゃんには女王役にまわって貰おうかって言い出したの。あたしはそれでもいいかなって思ったのよ。実際、あの時セリフがいちばん綺麗に言えてたのは紗季だったし。だけど……三年はみんな、田上くんとともちゃんとのこと、知ってたでしょ。田上くんにとっては最後の舞台だし、二人のメモリアルにしてあげたいって気持ち、あたし達何となく持ってたから……結局、三年がみんな反対して、武田先生も諦めたの。それがねぇ……あたし、今でもふと思うのよね。あの時三年が賛成して紗季がアリスしてたら、もしかしたらともちゃんはあんなことにならないで済んだんじゃないかって。アリスにいちばんふさわしかったのは紗季だったのに、それをともちゃんが無理にやろうとしたから……ばかみたいなことだけど、そんな風に思えて仕方ないの、今でも」  薫子は立ち上がり、窓を開けた。  潮の香りがさっと部屋に流れ込んで来る。 「先輩」  紗季は窓枠に座って缶ビールを飲んでいる薫子に訊いた。 「田上先輩にお兄さんがいたこと、ご存じでした?」 「田上くんのお兄さん?」  薫子は頷いた。 「知ってたわよ。あたしが一年の時三年だったのよ……えっと、拓郎さん、だったかな? だけど高校卒業した時に親戚の家に養子に行ったって聞いたけど」  紗季は空になった缶ビールをそっと座卓の上に置いた。  この町で知りたかったことは、これで全部知ってしまった。  後は、思い出すだけだ。  あたしが忘れている、何かを。  その途端、紗季の思いに呼応したかのように、ジャケットのポケットの中で携帯電話が鳴り出した。  紗季はポケットから電話を取り出したが、通話ボタンを押さずに少しの間電話機を見つめていた。 「もしもし、池内さん?」  かかって来るような気がしていた。多分、かかってくると。  彼等《ヽヽ》はあたしを見張っていたはずだ。マンションを出るところからずっと。  やはり、新田拓郎の声だった。  総ては、知美の意思なのだ、と感じた。  知美があの世から何もかも仕組んだのだ。 「弟の家に行ったそうだね」  新田の声は、優しいと言えるほど穏やかだった。 「僕の正体、わかってしまったみたいだね」 「あたし」  紗季は囁いた。 「何を思い出せばいいんでしょうか」 「まだ思い出せないの……そう。それじゃ仕方ないね。お茶会の準備、出来たんだけど、来ますか?」 「どこへ行けばいいんですか」 「中学校ですよ……あの日の舞台に、来て下さい。みんな待っていますから」  それだけで、電話は切れた。  紗季は怪訝な顔で自分を見ている薫子のそばに寄った。開け放した窓の向こうに、中学校の校舎が見えていた。  明かりが大方消えた町に、その白っぽいコンクリートの建物がぼんやりと浮かび上がっている。 「行かなくちゃ」 「行くって、どこへ?」 「お茶会」  紗季は呟いて、小さな溜息をついた。 「先輩、お願いがあるんですけど」  紗季はジャケットから財布を取り出し、札入れに挟んであった名刺を探した。 「一時間待ってもあたしが戻って来なかったら、この人に電話して来て貰って下さい」  薫子は名刺をつまんだ。 「これって……警察? ちょっと紗季、いったい何がどうなってるのよ」 「あたしにもまだ、全部はわかっていないんです。でもあたしが行かないと、お茶会が始まらないの……だって、あたしがアリスなんだもの」 「何の話? いったい、何を言ってるの? 行くって、どこに行くのよ!」  紗季は薫子の顔を見ないまま部屋の玄関に向かった。そして振り返らずに言った。 「あたし達が卒業したあの中学校へ行きます。あの日の舞台へ」      3  卒業式の日以来くぐっていなかったその門を、紗季はそっと通り過ぎた。暗い校舎の中に入ると、そこに流れている空気の匂いには確かに憶えがあった。十代の若者達特有の、汗と埃《ほこり》と熱気の匂い。  むせかえるようなその匂いに混じって微かに紗季の鼻腔を刺激するのは、ふくよかな紅茶の香りだ。  迷いはしなかった。建物は建て替えられていないので、どこに何があるかは総て憶えている。  講堂兼体育館の建物は玄関の右手にあった。舞台裏の用具室に通じるドアは、半開きになっていた。  入ると、狭い用具室から舞台に通じる階段が見える。舞台にはライトが灯されているらしく、階段から漏れた明かりで用具室中が照らされていた。  紗季はゆっくりと階段を上った。  お茶会のテーブルには、三月ウサギと帽子屋が座って湯気の立つ紅茶茶碗を手にしていた。  紗季は、黙ったまま、帽子屋の隣の空《あ》いている椅子に腰を下ろした。三月ウサギが空《から》の茶碗にたっぷりと茶を注いでくれた。素晴らしいアールグレイの香りが紗季の鼻腔を満たした。  紗季は静かに紅茶を啜った。 「来てくれて嬉しいよ、アリス」  帽子屋が言った。 「お招きありがとう……新田さん。だけど信じて。あたし、本当に思い出せないの。嘘じゃないのよ。ねぇ、教えて、どうしてなの? なぜこんな、こんな馬鹿げたことをしてまで、あたしを罠にはめたの?」 「罠にはめたわけじゃない」  帽子屋は自分も紅茶を啜った。 「ただどうしても君に思い出して貰わないとならなかったんだ。知美さんの死の、真相をね。君も知ってるように、知美さんが死んでから今年で十五年が経つ。この十月で丸十五年、つまり、殺人事件の時効が成立してしまうんだよ。僕達は待っていた。いつか君が思い出してくれるだろうと。でももう待てないんだ。なぜなら……君は近い内に警察に逮捕されてしまう。君が刑務所に入ってしまったら、君に思い出して貰うことも出来なくなる」  舞台の右袖から、白いローブをかけた銀髪の女王が現れた。  その後ろには、トランプの兵士がひとりつき従っている。  紗季は二人が紗季の前の椅子に腰を下ろすのをじっと見守った。 「良江さんと国造さん、それに」  紗季は三月ウサギを見た。 「キヌさん……菊子さんがいないわ。菊子さんは、どこ?」  その問いに答えるように、もうひとりが舞台に上がって来た。  水色の美しいワンピースに純白のエプロンをつけた、紫色の髪のアリス。 「どうして紫なのかな、って考えていたの」  紗季は、菊子をじっと見つめた。 「教えて、菊子さん。どうして紫の髪にしたの?」  菊子は微笑んだ。 「キヌさんが勧めてくれたのよ」 「金色は売ってなかったのさ、スーパーに」  三月ウサギはだみ声で言った。 「白髪を染めるのは黒か銀色か、紫って決まってるんだって言われたよ、店員に。だけど黒じゃ、どうしたって色が残るからねぇ」 「しかし楽しかったな」  トランプの兵士、国造が笑った。 「こんなかっこう、生まれて初めてしたからね」 「ゆうべは帽子屋だったんだよ、この人」 「知っていたわ」  紗季も微笑んだ。 「どうしてわかったのさ。夢だとは思わなかったのかい?」 「思ったけど、でも」紗季はキヌの方に顔を向けた。「声で気がついたのよ。キヌさん言ったでしょ、何て躾の悪いアリスなんだって。それに、女王様の見事な銀髪」 「緊張しちゃったわよ」良江が上品に笑った。「お芝居するのなんてほんとに、何十年振り、だったもの」 「菊子さん……そのワンピース、あの時の……?」  アリスが頷いた。 「わたしが縫ったのよ、これ」  菊子はエプロンのフリルを愛《いと》おしむように撫でた。 「知美ちゃんが劇で使う衣装なら、ぜひわたしに縫わせてちょうだいってあの人に我儘を言って。知美ちゃんのお母さんはあんまりお裁縫が得意じゃないってあの人から聞いたもんだから。でもね……知美ちゃんにいらないって断られてしまったの。今考えたら気持ちはわかるわよね。年寄りの恋愛なんて、十代の女の子にとっては気持ちの悪いものにしか思えなかったんだろうって。結局知美ちゃんは、売っていたワンピースとエプロンで衣装を作って持って行ったわ。だけどあの日、突然知美ちゃんから電話がかかって来たのよ。衣装がなくなってしまっていくら探しても見つからない、もう時間がないからあの、わたしが作ったワンピースを貸して欲しいって。泣き声だったわ。朝から学校中を探したのにどこにもないって。わたし、大慌てでここに駆けつけたの。でも肝心の知美ちゃんがどこにもいなくて、誰に訊いても知らない、見かけなかったって。仕方なく、わたしはこの衣装を、他のと一緒にそこの用具室に吊るしておいたの。そして劇が始まるのを楽しみに待った。だけど舞台の上で、この、わたしが縫った衣装を着ていたのは、あの子じゃなかった」  紗季は、深く息を吐いた。  総ては幻覚でも妄想でもなかったのだ。紗季は知美が用意していたアリスの衣装を切り裂いていた。確かに。 「わたしはびっくりして劇の途中で外に飛び出した。どうして知美ちゃんが出ていないんだろう、どうして? そしてあの人とふたりで学校の中を探して歩いたの。わたしは腹が立って仕方なかった。だってそうでしょう、知美ちゃんがいなくなってしまったのに、何事もなかったみたいに劇は行われ、知らない女の子がアリスをやってるなんて! 知美ちゃんはどこにもいなかった。どこにも……」  菊子は顔を覆って啜り泣きを始めた。 「……知美ちゃんが変わり果てた姿で見つかった時にプールの水面にあのリボンが浮かんでいたと、後で聞いて、変だと思ったのよ。あのリボンも勿論わたしが作ったものだったけれど、あれだけはなぜか知美ちゃんも気に入ってくれていて、最初から受け取ってくれたものだったの。だから初めになくなった衣装と一緒においてあったはず。それなのに、どうしてリボンだけあの子のそばにあったんだろう?」  紗季は、菊子がいつも持っていた紫色のビーズの巾着を思い出した。あの薄紫色の美しいリボンに刺繍されていたイニシャルは、同じビーズで刺されたものだった…… 「警察には話したのよ、そのこと、何度も。でも警察は、きっとリボンだけ別に持っていたんだろうって簡単に片づけてしまった」 「池内さんは知らなかっただろうけど」  新田が口を開いた。 「知美さんのあの事件はね、最初、殺人事件の可能性があると警察も色めき立っていたんだ。というのはね、知美さんは当時、ある男につきまとわれていたんだよ。シンナー中毒の青年で、名前を佐賀承平といった。高校を中退してぶらぶらしていた男だった」  佐賀承平……殺された、アリスホームの職員! 「佐賀は知美さんに一目惚れしたとかでずっとつきまとっていたんだけど、僕の弟と交際していると知ってからは、しつこく知美さんの家の前で待ち伏せして絡んだり、僕の家に来て玄関で喚《わめ》き散らしたりしていた。あの日は学校祭で、外部の人間が校内に自由に入れただろう? だから警察も、佐賀の犯行じゃないかと一時は疑ったんだ。だが校内で佐賀を見かけたという証人はとうとう見つからず、佐賀の両親が、息子はずっと家にいて一歩も外出していないと言い張ってね……肉親のアリバイ証言は法的には無効だけど、佐賀が校内にいたってことが証明出来なければどうしようもない。それに知美さんの死因は溺死だった。そして水面に浮かんでいたリボンと、知美さん自身の履いていた学生靴の爪先に一致する、金網のへこみ。結局、知美さんは事故死したと警察は結論してしまった。弟も、割り切れない思いを抱いてはいただろうが、事故だったということで納得せざるを得なかった。そして弟は知美さんのことを忘れられないまま成長し、見合いで結婚した。ところが運命の皮肉で、弟は去年、偶然佐賀承平と出逢ってしまったんだ……丹沢の医療施設アリスホームで。弟と菊子さんは、事件の後、知美さんの七回忌で知り合って以来、手紙のやり取りをしていたんだそうだ。だが菊子さんは佐賀のことを知らなかった」 「わたしは、あくまで部外者でしたからね」  菊子が淡々と言った。 「警察も、それに知美さんのご両親も……あの人も、そうした話はしてくれなかったのよ」 「佐賀はシンナー中毒からは立ち直っていたが、ホームの金を横領しているのがばれそうになって、帳簿を穴埋めする金を必要としていたんだ。佐賀は弟にある情報を買ってくれないかと持ちかけて来た。知美さんの死の真相を自分は知っていると言っていたらしい。僕はその話を弟から聞いた時、何となく不安になって佐賀との取引は止めた方がいいと忠告したんだ。だが弟は金を用意して佐賀と会った……その晩弟は轢き逃げされ、脳挫傷で意識不明の重体になり、今では瞼を動かすことしか出来ないからだでベッドに寝たままになっている。弟を車でひいた犯人は捕まっていない。それが佐賀だという証拠もない。そして、弟が用意していたはずの金、五百万は、どこかに消えてしまった」  紗季は、話し続ける新田の横顔に囁いた。 「だから……佐賀を……?」 「自業自得よ」  菊子が静かに言った。 「あの男は、拓郎さんも殺そうとしたのよ。こうやって、拓郎さんの首を絞めて」  菊子は両手を前に突きだし、指を開いてぐっと絞める真似をした。 「あのままだと拓郎さんは殺されてた。だから……」 「だから殴ってやったんだ」  トランプの兵士が、得意げに言った。 「ステッキでな。握りのとこに大理石をはめ込んだ特注品だよ。わしが学生の頃、英国に留学して買ったもんなんだ。長いこと、重いだけで実用的じゃないなんて悪口言われ続けたやつだが、どうして役に立ったよ」  国造は高らかに笑った。 「だけど新田さんは安全だ。何たって、新田さんにはアリバイがある。三月二十日の夜のアリバイが!」 「会社の出張で神戸にいたんだものねぇ」  菊子が朗らかに言った。 「あなたの証言のおかげよ、紗季さん」  紗季は、黙ったまま菊子を見つめ続けた。 「そんな悲しそうな顔をしないで、紗季さん。悪いのはあの男、佐賀なのよ。あなたをアリバイ証言の為に使ったのは申し訳なかったけれど」 「あの死体はちょっとよく出来てただろ」  キヌが自慢げに顎を突き出した。 「あたしだって伊達《だて》に三十年も、マネキン作りやってたわけじゃないからね」 「だけどあの生首はよくなかったよ」  国造が笑いながら言った。 「ちっとも新田さんに似てなかったじゃないかい」 「あたしらはさ」  キヌはひとしきり笑うと、不思議な表情になった。 「もう長くはないよ。いつお迎えが来たっておかしくない歳さ。だから菊子さんから気の毒な娘さんの話を聞いて、そしてその娘さんが愛していた男が轢き逃げされたことと、あの佐賀のことも聞かされた時にね、手伝う気になったんだよ。佐賀を殺しちゃってから、あんたをアリバイ工作に利用することにして準備した。あたしらのことはどうでもいいが、新田さんには殺人犯になって貰いたくなかったからね」 「でも……どうして、あたしを?」 「どのみち、あんたには思い出して貰わないとならなかったからさ。その為にあんたを脅かす計画は立ててあったから、ついでに佐賀が殺されたのが二十日だと証言する役もやって貰うことにしたんだ」 「いったい!」  紗季は叫んだ。 「いったいあたしに、何を思い出せって言うのよっ! あたしは何を忘れているの? あたしは……あたしは、何をしたのよっ! あなた達知ってるなら教えて、教えてよっ!」 「佐賀はあの日、知美さんに会いたくて学校に行った」  新田の声が紗季の耳に響いた。 「そこで見たんだそうだ……プールの方から泣きながら駆けて来る、君を」  紗季は呆然として、目の前の紅茶茶碗を見つめた。 「だがそのことを話せば佐賀自身が犯人にされてしまうかも知れないと、佐賀は黙っていた。佐賀は君を知っていたんだよ。いつも知美さんと一緒にいたんだろうから当然だけどね。弟が轢き逃げされたことで佐賀を問いつめた時、佐賀は、自分は知美さんを殺した犯人じゃない、犯人は君だ、と言ったんだ。勿論、僕は佐賀の言葉を総て信じたわけじゃない。君がプールから駆け出して来たことが本当のことだとしても、その後佐賀がプールに行かなかったという証拠にはならないからね。佐賀が弟を殺そうとしたのも、きっと、弟がそのことを疑ったからだろうと思う。どっちみち、真相は君の言葉を待たないとわからないんだ。僕は君のことを調べた。すると不思議なことがわかった。君は、数年前まで毎年、知美さんの命日に近くなると墓参りしてくれていただろう? 寺の住職さんが君のことを教えてくれたんだよ。知美さんを殺しておいて、何食わぬ顔で毎年墓参り出来るほど君が冷酷な人間だとは、僕には思えなかった。僕はもしかしたら、君がその時の記憶をなくしているんじゃないかと考えた。それで、たまたまテレビで見たサラ金の宣伝から思いついて、君を驚かしてみることにしたんだ」 「チャンスをうかがうのに苦労したよ」  国造が自分でポットの紅茶を茶碗に注ぎ、啜った。 「あんたのことを三日も見張って、ようやくひとりっきりで公園に座り込んだんで、慌ててキヌさんを呼んであのマネキンを持って来て貰ったんだ。あんた気付いていたかい、あれ、上半身しかないんだよ。下半身はズボンと靴を並べておいてあっただけなのさ。あんたがマネキンに触ろうとしたらまたウサギのかっこうで飛び出して脅かしてやるつもりでいたんだが、あんたはこっちの思い通り、血糊に驚いて走って逃げた。そこまでは良かったんだがね」 「紗季さんが警察に何も言わないでいるなんて、思わなかったのよ」  菊子は紗季の茶碗に紅茶を注いだ。 「すぐ警察に訴えていてくれたら、手間が省けたんだけど」 「君が警察に訴えなかったんで、僕は君がやっぱり知美さんを殺したという自覚を持っているのか、それとも別のことで警察に行きたくない事情があるのか、それを調べようと考えた。すると君は十年も勤めていた会社を突然辞めることにして、引っ越し先を探しているとわかった。それでフラワーマンションに君が越して来るように細工した。たまたま長いこと売れ残っていた空室があったんでそれを章二の名前で買い取って、それから君が必ず行きそうな、君の住んでいた社員寮の近くの不動産屋に持ち込んだんだ」 「提案したのは、わたしなのよ」  菊子は紗季の手をとり、いつもしているように優しくさすった。 「あなたが嘘吐きの人殺しなのか、それとも本当に知美さんの事件について記憶を欠いているのか、そばで暮らしてみれば必ずわかるはずだと思ったから」 「……わかりました?」  紗季は、そっと手を引っ込めて訊いた。菊子はにっこりした。 「ええ、わかりましたよ。だからどうしてもあなたに思い出して貰わないとならないと思ったのよ……だって、わたし達にも、そしてあなたにも、もう時間がないんですもの」 「まさか君が大村の愛人だったなんて」  新田はふふ、と笑った。 「何もかも、みんな知美さんと、哀れな章二の執念の仕業だったのかな」 「あのひとを」  紗季は、喉からようやく言葉を絞り出した。 「大村を突き落としたのも、あなた達なんですか?」 「誰がやったんだと思う?」  新田は、不思議な表情をしていた。 「美代子さんなのよ」  菊子の声が、何か重大な判決でも下したように、シンとした舞台に響き渡った。      4 「あなたと美代子さんは、よく似ていたのね」  菊子は、紗季の手をもう一度とった。 「あなたが彼女に秘密を抱いていたように、彼女もあなたに秘密を抱いていた。彼女はあなたの犯した犯罪に気付いていた。同じ経理課にいたんですもの、あなたの手口くらい彼女には想像がついたでしょう。でも彼女は黙っていた。なぜだと思う? あなたが大村に貢いでいたお金を吸い上げていたのは、美代子さんだったからよ……まだ気付かない? 大村はもともと美代子さんの愛人だったの。大村にあなたを誘惑させて、会社の金を横領させることを思いついたのは、多分美代子さんよ」  足元がぐらぐらと揺れた気がした。  回り舞台でもないのに、お茶会の席をのせたまま舞台が動いている。  くるくると、紗季の記憶の中を美代子の顔が回り出した。  笑っている美代子。同情してくれた美代子。一緒に飲み明かした美代子。  いつも一緒だった、美代子。  紗季の頬を、涙が伝った。  悔しさや悲しさとは違う、もっと空虚な思いが紗季を包み込み、消えてしまいたいほどの淋しさが紗季を塗り潰した。 「彼女のことだけは、許せなかった」  新田の声は、しゃがれて聞き取れないほど小さかった。 「彼女はその手を汚そうとしない。君が大村から逃げてしまって、彼女は別の金蔓を必要としたんだ。そして大村に詐欺をやらせた。知美さんのご両親の命と引き替えに手に入れた金を、彼女が何に遣っていたか知っているかい? ボーイズクラブとかいう十代の男の子がホストをしてる店に通いつめて、そのホスト達に車や服を買ってやることに遣ってしまっていたんだよ! それでも僕は、彼女にせめて一片でも後悔があり、良心の痛みがあれば、そう考えていた。だが彼女は、警察が大村を調べ始めたとわかった途端、大村を殺してしまったんだ。そのことがわかった時僕は……彼女は、生きていても仕方がない人なんじゃないか、そんな風に思った」 「そんなこと、どうしてあなたに決められるのよ!」  紗季は思わず叫んでいた。 「あなたに美代子の心の中がわかるとでも言うの? あなたに美代子を裁く権利なんて、あるの!」 「そんな権利はないよ」  新田は、微かに微笑んだ。 「どんな人間にだってそんな権利はない。でも僕はそうしないではいられなかった。だからこれは、僕の身勝手な復讐だ。別に僕のしたことが正義だなんて思ってやしない」 「美代子はあの日、あなたと会うのを楽しみにしていたのよ」  紗季はなぜ今になっても自分が美代子を庇《かば》いたいと思うのかわからないまま、言った。 「おかしいと思った……美代子が殺されたのが六時過ぎで、会社を出たのが三時半。あなたに会うために家まで着替えに戻っていたのだとしても、遅すぎるわ。あなた……あの日、美代子に会ったんでしょう? そして……彼女の部屋まで一緒に行ったのね。あなた達……残酷だわ。あたしに美代子の死体を見つけさせる為にわざわざ……菊子さん、あたし……あの夜、ほんとに嬉しかったのに。親切にして貰って嬉しかったから……」  紗季は唇を噛みしめた。その途端、痛みと共にまた新しい記憶の断片が紗季の脳裏を走った。  美代子が座っている。喫茶店に。そこに男達が現れる。そして話しかける……  紗季は頭を振った。なぜか、そこから先を思い浮かべてはいけない、という気がした。 「この国は、被害者に冷た過ぎるんだ」  国造が呟いた。 「詐欺にあったって、騙される方が悪いって言われておしまいだ。わしも何年か前に虎の子の貯金をやられたが、年寄りのくせに欲を出すからそんな目に遭うんだって言われたよ。誰かが復讐しなくちゃ浮かばれないよ、死んだ者が、さ」 「紗季さん」  菊子は、まだ紗季の手を握ったままだった。 「あたし達ね、鬼になったの。わかる? ひとり息子が雪に埋もれて死んだ時も、みんな言うだけだった……運が悪かったねって。雪下ろしもしないまま家をほったらかした者は罰せられず、知らずにその下を歩いた息子は、ただ運が悪かったで片づけられてしまったのよ。知美さんの時も、そう。リボンを取りに勝手にプールに入り込んで落ちて溺れた、運の悪い子。それでおしまいよ。知美さんがいなくなっていたのに、あなた達の考えていたことは、劇をどうやって上演するかということだけ。もしもっと早くみんなで学校中を探してくれていたら、溺れている知美さんを助けることだって出来たかも知れないのに。そして知美さんのご両親は、儲け話に目がくらんで騙された世間知らずの妻と、その妻の後を発作的に追ってしまった弱虫のご亭主、そうやってまた片づけられてしまった。もう、うんざりなのよ。誰かを死に追いやったら自分も死ななければならない、そう考えることは、そんなにいけないことかしら」 「それが、法的に赦されないことだということは、わかっているんです」  新田が言って、もう一度ポットの茶を、キヌと良江、それに国造、そして菊子、最後に自分の茶碗へと注いだ。 「だから正当化するつもりはない。僕達はもう人殺しだ。そして、僕が今知りたいのは、君もそうなのかどうか、そのことだけです。君はあの日のことを思い出したくないと思っている。だから思い出せないでいるんだ。でも思い出して欲しい。無理にでも、思い出すんだ……君は、泣きながらプールから駆けて来た。プールで何を見た? なぜ君は泣いていた?」 「思い出して!」  菊子が紗季の手を、きつく握った。 「あのリボンはあなたが持っていたものなんでしょう? あなたは自分がアリスを演じたかった。知美さんに嫉妬していた。それで、本番寸前にアリスの衣装をどこかに隠した。その時リボンもあなたが盗んだ!」 「違う!」  紗季は首を振った。 「違うの、違う……あたし、そんなことで嫉妬していたんじゃない。アリスの役なんてしたくなかったわ、ほんとよ! だけど……だけど……」 「だけど、なに?」 「田上先輩のことが……好きだったの。知美と付き合っていることは知っていたから、忘れよう、諦めようって必死で気持ちを押さえていたの。なのにあの日……あたしがいるって知らないで、知美は田上先輩に言ったのよ。紗季もあなたのこと好きなのよ、知っていた? って。どうしてそんなこと、先輩に言ったの? そんな権利がどうして知美にあるの? 田上先輩は笑ったわ……困ったみたいに、笑った。ひどい知美! 思いやりがなさ過ぎるわ! 親友だって思っていたのに! 悔しくて、悲しくて、あたし……気がついたらハサミで……衣装を切り裂いて、ダストシュートに……」 「でもリボンはあなたが持ったままだったのね」 「わからない」  紗季は、頭を押さえてまた激しく首を振った。 「憶えてない! 憶えてない……だけど……だけど……」  投げた。  そうだ……投げたんだ、あたし。  遂に記憶が甦り、紗季の目の前に知美が現れた。 「あなたでしょう、あたしの衣装、隠したの」  知美は言って、それから笑った。 「いいわよ、赦してあげる。紗季が何を怒ってるのかあたし、わかってるから。さっきのことでしょう? 紗季、やっぱり舞台にいたのね。ガタンって音がしたから、誰かいたんじゃないかと思っていたんだけど。ごめんね、ついうっかり、田上先輩に紗季のこと、言っちゃって。でも大丈夫よ、先輩何も気にしてないから。仕方ないよね、彼が選んだのはあたしなんだものね。こればっかりは、いくら親友でもどうしようもないよ。先輩、忘れてくれるよ、きっと。だから気にしないで。あのね紗季、リボンだけでも返してくれない? 衣装の方は何とかなったんだけど、リボンがないとあたしの髪、長過ぎておかしいでしょう? 紗季の意地悪のことは誰にも言わないし、忘れてあげるから、リボンを返して。早くしないと劇、始まっちゃうでしょ。プロンプターはいなくても何とかなるけど、アリスがいなくちゃ、劇にならないもんね」  紗季は黙って、ポケットに丸めて突っ込んであったリボンを掴み出し、そのままプールに向かって投げた。  風が吹いて、リボンはプールの中へと落ちた。 「何するのよっ!」  知美が叫んだ。 「信じらんない! なんてひねくれてるの、紗季って。そんなんだから、誰にも相手にされないのよ!」  紗季はそれ以上、知美の罵倒を聞いていることが出来なかった。そして、知美をその場に残して駆け出した……泣きながら……  それで総てだった。  事故だったんだ。  やっぱり……事故だった。だけどもしあたしがリボンを投げていなければ起こらなかった、事故。  用具室に駆け戻ると、切り裂いたはずの衣装が吊るしてあるのが目に入った。  その途端、何もかもが幻だったのだと、あの時のあたしには|わかった《ヽヽヽヽ》。 「あたしのせいだわ」  紗季は、頷いた。 「あたしが投げたのよ、リボンを。知美に言われたの。田上先輩は、あたしが先輩のこと好きだって事実を、すぐに忘れてくれるから心配ないって。すぐに忘れてくれる……そんな言い方って、ないと思った。それにプロンプターはいなくても舞台は出来るとも言ったの、知美。あの時わかったのよ。ああ、あたしはずっとずっと、知美の引き立て役だったんだって。知美はあたしが自分より劣った子だったからいつもそばに連れていたんだって。あたし、悔しくて。ポケットにあのリボンが入っているのに気付いたのはその時だった。なんでリボンだけ持っていたのか今でもわからないけど……多分、あんまり綺麗だったから捨てられなかったんだと思う。それであたし、ほんとに何も考えないで、ただカッとして、そのリボンを放り投げたの。そしたら風に飛ばされてそれがプールに落ちた。そのせいで知美は……知美は……」 「それだけ、なのね」  菊子の声が紗季の耳元でした。 「リボンをプールに投げ入れただけ、ね?」  紗季は頷いた。  沈黙がおりて、数分の間、舞台には息づかいだけが微かに流れた。やがて、菊子が言った。 「確かに……あの子はちょっぴり、傲慢なところがあった。綺麗な子だったし成績も良くて、女王様みたいな気持ちでいたのかも知れないわね。でもほんとはとっても明るくて優しい子だったのよ。あなたのことだって、そりゃ少しは引き立て役にしていたかも知れないけど、でも、あの子はあの子なりに親友だと思っていたんじゃないかしら」 「わかっています」  紗季は啜り泣いた。 「知美がいなくなってしまって、あたし、そのことが本当にわかったの。知美のいない生活はあんまり淋しくて、つまらなくて……」 「君は、毎年花をたむけてくれていた」  新田の声が静かに舞台に響いた。 「そのことを弟に代わって礼を言います。天国の知美さんもきっと、君を赦していると思う。僕達もこれで、すっきりしました。こんな形で君に無理なことを仕掛けて、本当にすみませんでした」 「あたしのこと……信じてくれるんですか?」  新田は優しい微笑みを浮かべた。 「僕達は最初から信じたいと思っていた。知美さんの命日を十年間も忘れないで墓参りに通ってくれた君が、知美さんを殺した犯人などではあり得ないと。でも君は……君の思い出には亀裂が入っている。時効が成立してしまう前に君の記憶の谷に何が落ちているのか確かめないと、僕も諦めることが出来なかった。君には迷惑をかけました。赦して下さい」 「これで総て解決ね。それじゃ、お茶にしましょう」  唐突に菊子の声が響いた。  キヌが笑った。良江が頷いた。国造が茶碗を片手でひょいと上げて見せた。  新田も、それに応えるように茶碗を持ち上げた。  そしてみな、一斉に飲んだ。  紗季も茶碗を手にとった。だが、紗季のカップの中には新しい紅茶が注がれていなかった。  紗季は見ていた。  目の前で、良江の形のいい唇の間から血が滴り、国造が頭をテーブルに投げ出して崩れるのを。キヌが胸元をかきむしりながら、それでもほとんど無言で椅子から離れ、舞台に座り込むのを。  それから紗季の横で、新田が椅子から転げ落ちる音がした。  そして最後に、ずっと紗季の手を握ったままだった菊子の細い骨ばった指が、するすると流れるように紗季のからだから離れて、お茶会のテーブルの上に落ちた。 [#改ページ]   エピローグ 鏡の国のアリスへ      1 「新田拓郎は、昨年春に会社に休職願いを出して受理され、アリスホームに入所しました。会社に提出した書類には、胃潰瘍の治療の為入院予定、となっていたようですが、その時点で既に医師からは、末期癌の宣告を受けていたようですね」  越智は言って、溜息をひとつついた。 「弟の田上章二さんが佐賀と出会ってしまったのも、お兄さんの見舞いに行った時だったんでしょう。佐賀は事務の仕事をしていたようですが、入所者の新田拓郎とは顔を合わせていなかった。だが田上さんとは運悪く鉢合わせした。佐賀はその時点でホームの金を使い込んだことが発覚しそうになっており、金が必要だった。それで田上さんと接触したわけです。もしそうでなければ、自分が殺人犯として疑われるかも知れないのに、わざわざあの日にあなたと校庭で出逢ったなどと口にすることは、絶対になかったでしょうからね。ところがいざ田上さんに会ってみると、田上さんは佐賀の言葉を信用せず、佐賀自身が知美さんを殺したのではないかと佐賀を責めた。その時佐賀と田上さんの間に何があったのかは、今となっては正確に知ることは難しいでしょうが、まあ予想はつきます。佐賀は田上さんの剣幕に不安を抱き、このままでは犯人として警察に突き出されてしまうのではないかと思った。その上田上さんは、佐賀の言うとおり金を用意していた。佐賀にしてみれば、その金を取りはぐれてしまうことも怖かった。それで、事故を装って田上さんの口を封じてしまおうとした」 「でも田上さんは佐賀と会うことをお兄さんに相談していたんですね」 「そうです。新田拓郎は心配していた通りに弟さんがあんなことになってしまい、真相究明を決意したんでしょう。アリスホームを退所して、また職場に復帰したのが昨年の九月です。ところがその直後に江崎さんご夫婦が亡くなられた。その江崎さんの奥さんを騙して金を奪い取った大村とあなたとが関係を持っていると知って、新田が運命のようなものを感じたというのは想像出来ます。余命一年と診断されていた新田にとっては、江崎知美さんの死の真相を突き止め、弟の復讐を果たし、さらには江崎さんご夫婦を死に追いやった者を罰することが天から与えられた使命だったわけですね」  越智は、瞬きもせずに座っている紗季の顔に向かって微笑みかけた。 「新田の執念の調査によって、江崎さんご夫妻を死に追いやった大村には、あなたの他にもうひとり別の女がいることがわかった。その女が志野田美代子さんだった。ところが肝心の大村は突然失踪してしまい、一方志野田さんはまるで動じる風もなく過ごしている。新田と、そして菊子おばさんは、志野田さんが大村の失踪について何か知っていると考えた。まず新田は自分から志願して、志野田さんの勤める会社のある原宿の店舗に勤務するようになった。そして志野田さんのことを調べ上げた。すると、今年になって志野田さんをしつこくつけまわしている向井の存在に気付いた。新田は多分、志野田さんこそが江崎さんご夫妻を死に追いやった元凶だと考えた。そしていつかは向井を利用することを考えていたと思います。そんな最中にとうとう大村の死体が発見された。大村を殺したのは志野田さんだと新田は思い込んだ」 「……本当に、美代子が大村を殺してしまったんでしょうか……」 「それはわかりません。確かに不審な点がないとは言えないが、大村が自殺したのではない、と積極的に証明する証拠がありませんからね。だが大村が失踪してもまるで気にしていないようだった志野田さんの態度を考えると、可能性はかなり高いと」  越智の言葉に、紗季は目を閉じた。  しかし美代子が大村を突き落とす光景など、いくら考えても紗季の想像には浮かばなかった。  不思議なことに今となっては、大村も美代子も、紗季に対してはいつも微笑みかけていたように思えてしまう。思い出の中の二人はいつも優しく笑っている。 「新田は向井を利用して志野田さんを殺害する計画を実行に移します。つまり志野田さんを監視して機会を狙ったわけです。志野田さんの家の電話に盗聴器を仕掛けたのはおそらく新田でしょう。会社の経理の電話に盗聴器を仕込んだのも」 「でもあれは、向井の仕業なんじゃ……」 「向井は確かに志野田さんの電話を盗聴していましたが、あいつの遣り口は無線機のような受信機を使ってコードレスホンや携帯電話を盗聴するというものだったんですよ。新田はあの晩志野田さんが、誰かと原宿のバーで逢う約束をしたのを盗聴し、チャンス到来と考えて加藤国造に連絡します。加藤国造はあの歳ですが普段からオートバイに乗っていたんです。国造の役割は、志野田さんを轢く真似をすることで、向井に殺意があったという既成事実を作ることでした。あの時、オートバイのナンバーについては志野田さんと新田の二人が証言したわけですが、志野田さんの憶えていた番号部分は加藤の持っていた二百五十ccと同じなんですが、新田が証言した部分がことごとく違っています。勿論、警察が国造を割り出さないよう、嘘の証言をしたわけです。国造は志野田さんとあなたの後をつけた。彼等にとって都合のいいことに、あなた方二人は新田の店の前の通りを歩き始めた。これ以上の機会はありません。国造は、うまく新田の店の前で騒ぎが起こるよう、志野田さんを襲った。そして新田は、あのセピア色の写真をでっちあげます。あの写真を撮ったという店員に詳しく聞いてみたところ、写真を撮ったのは実は新田だったそうなんです。カメラを貸してくれというので渡すと、変な奴が店の前にいたから写しておいたと言って、現像も新田が出したそうですよ。使い捨てカメラなんて同じものを手に入れるのは簡単ですからね、別のカメラで向井を撮影してすり替えればいいわけだ。さらに彼等にとってあまりにも幸運だったことに、同じ日に向井は、突然の思いつきから志野田さんに接近していました。志野田さんがあなたとあのバーで待ち合わせしていることをつき止め、矢島のバイトをゆずってもらってウサギになったわけです。志野田さんの携帯電話を盗聴して、志野田さんが誰かに、夜の待ち合わせのことをしゃべったのを聞いたのかもしれない。ともかくそれによって、向井が志野田さんを殺したと後になって証拠づける状況は充分に出来上がった。新田は志野田さんに誘いの電話をかけます。あなたも一緒に、と言ったのは志野田さんを警戒させない為でしょう。しかし菊子さんがあなたを引き留める役に回り、あなたは待ち合わせの場所には行かなかった。新田は待ち合わせの場所で志野田さんを誘い、彼女のアパートに行き、そこで志野田さんを殺害した。そして菊子さんからの連絡をどこかで待った。菊子さんがあなたと銀座の店にいると連絡を受けて、新田はあなた達の前に姿を現す。そして何食わぬ顔で志野田さんの部屋に行き、遺体を発見する役目を果たした」  紗季は、越智の言葉に頷きながら様々なことを一度に思い浮かべていた。  あたしが菊子の部屋を出て自分の部屋の前に戻った時、まさに丁度のタイミングで廊下に立っていた帽子屋。  代々木の駅であたしを置き去りに電車に乗ってしまった菊子。そして、その夜あのドイツ料理の店で、トイレに立った菊子……そのあとすぐに現れた、新田。 「わたしも信じられない気持ちだが」  越智は、声を低めた。 「菊子おばさんは考えたら、とっても気の毒な人だった。あんな事故で大切な息子さんを亡くし、中年を過ぎてから芽生えた恋もまた、理不尽な事件で終わってしまった。気丈に生きているようでも、心の中は積もり積もった淋しさでいっぱいだったんだろう……そんな時に新田が余命いくばくもないと知って、しかも知美さんのご両親の仇討ちをしようと考えていることを聞かされた。それで新田の為に……」  紗季は菊子の顔を思い浮かべた。  十五年前の恋愛について、恥じらいながらも生き生きと語った菊子。 「菊子さんのご遺体は、どなたが?」 「亡くなられたご主人の弟さんという方が引き取ったようです。おばさんの方はもう親戚といっても遠い関係ばかりだったみたいで……でもよかった、ともかくご主人と同じお墓に入ることが出来て」 「もしわたしが」  紗季は、あの最後のお茶会で、さあお茶にしましょう、と言った瞬間の菊子の声を思い出しながら呟いた。 「ただリボンを投げただけじゃなくて、知美を殺したことを思い出していたとしたら……あのお茶をわたしにも飲ませるつもりだったのかしら」 「多分、そうなんでしょうね」  越智は、紗季の肩を軽く叩いた。 「しかしもう、そのことは考えない方がいい。あなたが十五年前したことは、罪と呼べるようなものではなかった。リボンをプールに投げ入れただけですよ、ただそれだけです。結果として悲劇が起こったのだとしても、それはあなたのせいではない。江崎知美さんの人生の運がそこで尽きていたんです。忘れろと言っても無理かも知れないが、あなたはもっと前を向いて進むべきです。いつまでもアリスの幻影に囚われたりしないように」  紗季は小さく頷いて、ベッドに起こしていた半身をまた毛布の中に埋め込んだ。  ノックの音が聞こえた。  紗季の返事を待たずにドアは開いた。  本庁捜査一課の二人の刑事と、それに、見知らぬ男がさらに二人、入って来た。  紗季は、横になったまま大きく溜息を漏らした。  とうとう、この日が来たのだ。 「池内紗季」  見知らぬ男の内ひとりが、紗季の目の前に一枚の紙を広げた。 「有印私文書偽造、横領、詐欺その他二件の容疑に関して逮捕状が出ています。こんな状態の時で申し訳ないが、あなたを逮捕します」  紗季は横になったままで頷いた。  越智は、口を半開きにしたまま紗季を見つめていた。紗季は越智に向かって微笑んだ。 「菊子さんは知ってたわ……何もかも。知っていたから、もう時間がないと思ったのよ。あたしが逮捕されて刑務所に入ってしまえば、知美の死の真相がわからないまま時効が成立してしまうから」 「だが……横領というのは……」 「夢が見たかったの」  紗季は、仰向けになって天井を見つめた。病院の白い天井には、紗季の描いた夢のひとかけらもありはしないのに、紗季はなぜかその天井にじっと目をこらした。 「大村の言葉が嘘だってこと、あたしにだってわかっていた。だけど、信じてみたかったのよ。大村はいつか大きく儲けたらこれまでの穴を全部埋めて、それからあたしとニューヨークで暮らそうって言った。世の中にはほんとにニューヨークで暮らしてるカップルだっていっぱいいるでしょう? だったらあたしだって、信じてみたいじゃない。二人で素敵なアパートメントに住んで、セントラルパークを散歩するの。そんな夢を少しのあいだだけ見ていよう、そう思ったのよ……いつかこんな日が来るってことはちゃんとわかっていたんだけど。不思議ね……あたし……おかしくなっていたのよね。おかしく……」  紗季は、天井を透かして広がっているだろう青空の下を、大村と手を繋いで歩いている光景をそこに見ていた。  白い幻の中で、隣を歩く大村が微笑んでいる気がした。      2  紗季はじっと墓石を見つめた。  いったい誰が花をたむけたのだろう?  知美の命日。  獄中にいた四年の間、その日が来るたびに、知美が呼んでいるような気がして落ち着かなかった。だがこうやって目の前にある菊の花を見つめていると、自分以外にもその日を憶えている者がいたのだという事実が、かえって淋しい。考えてみれば、知美やその両親の命日に花をたむける者が自分の他にいても、当然のことなのだが。  紗季は抱えていた白百合の花束をそっと墓石の前に置いた。 「池内さん」  声に振り返ると、中年の男が立っていた。紗季はその顔を数秒間見つめた。なかなか思い出せない。だが確かに知った顔だ。  紗季の記憶は四年の獄中生活の間にますます断片化を進めていた。時にはほんの数時間前のことが思い出せないこともある。  紗季はじっと立ったまま、必死で考えた。それからやっと、ぼんやりとした記憶の奥からその名前を引き出した。 「越智……さん?」  越智は頷いて紗季の隣に立った。 「お久しぶりです。……いつ?」 「先週です」  紗季は囁いた。 「お陰様で」 「ご苦労様でした」  越智は前を向いたまま、軽く頭を下げた。  奇妙な会話だと思った。刑期を終えて出所した元犯罪者と刑事が交わすものにしては。紗季はおかしくなって、ひとり笑いを堪えた。 「お住居《すまい》の方は?」 「まだ決めていないんです。今は、ウィークリーマンションにおります」 「あのマンションは……」 「弁護士さんに頼んで売却して貰いました。会社への弁済金に充当しないとなりませんでしたし」 「……そうでしたか。いえ、あそこが建て替えられるという噂を聞いたものですから」  越智は不思議な微笑みを浮かべて紗季の横に立った。 「何というか、うまく言えないんですがね……あのマンションが総ての原因のような気がしていたんですよ、あの事件の。だからおかしな気分です」 「建物のせいじゃないわ。中に住んでいた人間が引き起こしたことでしょう、総て」 「そうなんですけどね……あれからいろんなことがわかって来ましたから。山本良江さんの娘さんが嫁いだ先の会社は倒産寸前だったのに、良江さんの死亡保険金が娘さんに入ったおかげで倒産を免れたこととか、加藤国造さんが本人が再三言っていた通り、実は末期の肝臓癌だったこととか。ああそれから、村田キヌさんは甥にあたる人の借金の保証人になっていて、その甥というのはあの事件の少し前に自己破産の申請を行っていたそうですよ。破産が認められれば、借金の返済義務は村田さんに被さって来る。そうなればあのマンションの部屋も売却せざるを得なかったでしょうし」 「たまたま、生きていることに嫌気がさしていたお年寄りがあそこに集まって住んでいた、と?」 「そうです。そんな偶然さえなければ……」 「それは違うと思うわ、刑事さん」  紗季はふふ、と笑った。 「これからの世の中って、みんなそんな風なんじゃない? ある程度長生きすると、みんな生きていることに嫌気がさしてしまうのよ、これからは。あの人達は、楽しんでいた。最期にあんな芝居が出来てとても楽しそうだったわ。きっとこの東京には、あのマンションみたいな場所がたくさんあるのよ。生きていることに嫌気がさして、死ぬ前に何か楽しいことをやってみたいと思ってる人達が集まっている場所。三月ウサギが飛び降りたような穴が、この空の下にはたくさんあいていて、その穴の下には彼等が住んでいるんだわ……帽子屋やアリスが」 「また『不思議の国のアリス』ですか。あの事件の後、わたしも読んでみましたよ。いや、子供の頃に絵本で読んだのとはだいぶ印象が違いましたね。何となく怖いような感じのする話だったな。続編もあったんですね、わたしは知りませんでしたが。あっちも不思議な話でしたね。さて、わたしもお参りさせて貰います」  紗季と越智は並んだまま、しばらく無言で江崎家の墓に手を合わせた。  やがて、紗季は目を開けて呟いた。 「でも……あたし、まだひとつだけわからないことがあるの」 「わからない、こと?」 「ええ……この四年間、刑務所の中でずっと考えていたんです。どうしてあの人達は、あんなに簡単に死んでしまったんだろうって」 「しかしそれは、彼等が元々死を覚悟していたからでしょう?」 「それはそうだと思います。確かに、新田さんと国造さんは余命が短く、良江さんは自分が死ねば娘さんが助かると思っていた。そして菊子さんとキヌさんは、もう生きていることが嫌になっていた。でもね、だったらどうして彼等は、アリバイ工作なんてしたの? 彼等があたしをアリスの扮装で驚かしたのには理由があった。あたしに、十五年前のことを思い出させたいという目的が。でも、どっちみち死ぬことを覚悟していたんなら、向井を利用してまで美代子を殺したことを隠そうとする必要なんかなかったはず。それだけじゃない、そもそもいちばん最初の佐賀のことだって、まだ死体が見つかってもいない時にあんな不自然なことまでしてアリバイ工作した意味がまるでわからない。それも、そんな手間をかけて確保出来るのは新田さんのアリバイだけだったのよ。新田さんは事件の首謀者で、死を覚悟していたという点では他の誰よりもはっきりとそうだったはず。その新田さんのアリバイを守ることがそんなに必要だったのかしら? あたし……何だか納得が行かないんです。あの小田原でのお茶会は初めから彼等の計算の内だったことは間違いない。彼等はいずれあたしが事件の真相に気付いて小田原に出掛けることを予想していた。あの夜も、彼等の内の誰かがマンションを出て行くあたしの後をつけていて、あたしが小田原に向かったことが彼等に知らされて、いよいよ最後の幕を上げることが決まったんだわ。彼等は舞台の上で死ぬことを初めから覚悟していた。それなのに……なぜアリバイ工作にあんなに手間暇かけたのか……」  紗季は、目の前の花挿しに活けられた白い菊の花を見つめた。 「それともうひとつ、どうしてもわからないことがあるんです」 「……と言うと?」 「あの向井という男があたしに言ったこと……あの日、あたしと同じ服を着た誰かが美代子と一緒に歩いていたと……」 「向井の妄想ですよ」  越智は頭を振った。 「向井という男は、美代子さんのことに関しては自分の頭で空想したことと現実との区別がつかなくなっていた」  紗季は、越智の言葉に頷きながら、頭の隅に何かひっかかるものを感じた。  だがそれが何なのか考えようとした途端、頭痛が起こって小さな眩暈《めまい》がした。  紗季はゆっくりと頭を振った。 「越智さん。菊子さんのお墓がどこにあるかご存じですか?」 「ええ、知ってます。ご主人のご実家の墓ですよ。参られるおつもりなら、わたしも一緒に行きましょうか。実を言うとおばさんの墓参りに一度は行きたいと思いながら、つい一度も行かないままだったんです」  紗季は頷き、越智と連れだって知美の墓前を離れた。 「ひとつ教えて欲しいことがあるんですけど」  紗季は越智と並んで歩きながら訊《き》いた。 「佐賀の死亡推定日時は結局、確定されたんですか」 「はっきりとは確定されていなかったと思います。彼等があの中学校の舞台であなたに犯行を打ち明けたことから、佐賀を殺したのは加藤国造であり、菊子おばさんと新田、村田キヌは少なくともその場にいて犯行を幇助したとされました。ですがそれがいつのことだったかはとうとう、割り出せていません。ただ、あなたを利用してアリバイ工作をしたのが三月二十日だったということから、それ以前であることは間違いないと思われますが。また発見された遺体の司法解剖結果からは死亡推定日時は三月二十日プラスマイナス数日ではないか、とされています。それらのことから、実際の犯行は三月十六日から十九日くらいの間だったとしてもいいでしょうね」 「それじゃ、法医学で犯行はこの日、と断定されてはいないんですね」 「そういった意味では断定されていませんが、しかし……」  紗季は、その先の越智の言葉を聞いていなかった。  四年間考え続けて、紗季はひとつの結論に達していた。そしてその結論は、今の越智の言葉で裏付けられたのだ。 「越智さん……佐賀が殺されたのは、やっぱりあの三月二十日、あの公園でだったんだと思います」  紗季が言うと、越智は驚いて足を停めた。 「池内さん、だってあなたは供述したじゃないか! 確かに舞台の上で、彼等があれはアリバイ工作だったと告白したと!」 「そのことは嘘じゃありません。国造さんは確かに自分のステッキで殴り殺したと言ったんです。そして菊子さんが、そのアリバイ作りにあたしを利用することを思いついたと。でも……越智さん、お願いがあります。村田キヌさんが生前、マネキンの制作の仕事に関わっていたことがあるかどうか、調べることって出来ますか?」 「それは出来ると思うが。だが池内さん、説明して下さい、それを調べていったい何がわかると言うんです?」 「あたし、今でもまだ信じられないんです」 「何がですか?」 「あたしが公園で見たあの死体が、キヌさんが用意した人形だったということが、です。あれは人形なんかじゃなかった……間違いなく死体でした」 「しかし……公園は暗かったんでしょう? 暗いところに置いてあればマネキン人形というのはものすごくリアルに見えるものですよ。地方の国道などではよく、警察官の制服を着せたマネキンを道路の脇に立たせてありますがね、あんなものでも夜に見るとわたしでさえ本物の警官かと思ったりしますから。彼等があなたにアリバイを証言させる為にあの公園に血まみれのマネキンを横たえ、その上であなたの注意をひくようにアリスのウサギの格好を見せたというのは、確かに突飛ではあるがそれなりに筋は通っています。もしあなたの見たものが本物の佐賀の死体だったとしたら、なぜ彼等が死ぬ間際にあれがアリバイ工作だったなどと嘘をつかなければならないのか、その理由がまるでわからないじゃないですか」 「ええ」  紗季はまた歩き出した。 「理由は見当もつきません。でも……あたし、思い出したんです」 「何を?」 「匂い、です」  紗季は、あの夜の公園の空気が自分のまわりに今でもあるかのように、無意識に鼻をうごめかした。 「血の匂いがしていたんです、確かに。とても強く、はっきりと匂っていました。ウサギが現れる前からその匂いはしていたんです。あたし……桜の花を見ていました。三月に咲く赤味の強い花色の桜です。その花を眺めている間中、あたしの鼻にその匂いが感じられました。でもその時はあたし、他のことを考えていたんです。丁度会社を退職した日で、退職手続の書類を持っていました。あのこと……横領のことが近い内に発覚してしまうのはわかっていました。退職すれば後任者があたしの作った偽の発注書や領収書を見る機会が出来るわけですから、七千万円もの横領がばれないはずはありません。あたしの頭はそのことでいっぱいで、とても投げやりな気持ちで……だから忘れていたんです。でもこの四年間刑務所の中にいたせいで、ゆっくりとあの夜のことを考える時間が持てました。それではっきりと思い出したんです。あの時、確かにとても強い血の匂いがしていました。人形を横たえておくのに本物の血を使う必要なんか、ないでしょう?」 「記憶というのはとても曖昧なものなんですよ」  越智は紗季を説得するように言った。 「思い込みが入り込むと、事実ではないことでも事実として記憶とすり替えてしまったりするんです、無意識に。その血の匂いのことも、あなたが記憶に追加してしまった偽の情報なんじゃないかな」  紗季は首を横に振った。 「違います……確かにしていたんです……血の匂いが」  突然、紗季の目の前に奇妙な光景が現れた。  見下ろした腹部が血に染まっている!  紗季は瞬きした。  幻影は消え、紗季の目の前にはアスファルトの路地があった。  今のはいったい、何だったんだろう?  あれも何かの、記憶?  だけどあれは、あたしの視点だった。あたしが自分のお腹を見ていたんだ。じゃ、あの赤い血は……  紗季はしゃがみ込んだ。  何かがわかった気がした。  だがそれは、今掴んだと思った蝶がどこかに飛んで行き、掌を開けるとそこには何もない、そんな感覚だった。 「大丈夫ですか、池内さん」  越智が紗季の肩に手をかけた。 「あたし」  紗季はしゃがんだままで越智を見上げた。 「何かを捨てたの」  越智が怪訝な顔で紗季を見ている。 「捨てたのよ……ゴミの日に。引っ越しの寸前にそれをどうしようか迷って、結局あの公園の近くでは処分出来ないと思ったから、だから……」 「池内さん、いったい何を言っているんですか? 捨てたって、何を捨てたんです?」 「わからないのよ」  紗季は首を振った。 「思い出せない。でもそれをビニール袋か紙袋に包んであのマンションまで持って来たことは憶えてる。そしてそれを、ゴミの日に捨てた……あれはいったい、何だったんだろう? どうしても捨てないとならない、それを捨てたらもう証拠はない、そう思っていた……」  越智がそっと、紗季の手をとった。 「もしかしたら……あなたがしてしまった過《あやま》ち……あの横領に関する書類の類じゃないですか」 「……そうかも……知れません」  越智は優しく微笑んだ。 「だったら、もう忘れなさい。あなたの事件に関しては当局の調査でほぼ全容が解明され、あなたは判決を受けて服役した。弁済に関しても、この先長い時間かけて行っていくことになっているんでしょう? ともかく行きませんか。どうしてもあなたが割り切れないのであれば、菊子おばさんの墓参りを済ませたら、池内さん、一度記憶に関する専門医を受診されたらどうでしょう? あの事件は既に決着がついてしまったが、それでもあなたが何か大切なことを思い出す可能性があるのなら、わたしも協力しますから」  紗季は頷いて立ち上がり、また歩き出した。  だが、何かが違う、という気がした。  あの日ゴミとして捨ててしまったもの、それは、横領に関する書類なんかじゃなかった……ような気が……      *  畑山家の墓のある寺は、江崎家の墓のある寺から電車を乗り継いで二時間近く離れた郊外にあった。  墓地は広く、畑山家の墓がどこにあるのか適当に探していたのでは見つかりそうにない。越智は、寺の住職に案内を頼んだ。  だが見事に剃り上げた頭をした住職は、紗季の顔を見ると驚いて叫んだ。 「あなたはもしや、池内紗季さん、ではないですか?」  紗季は頷いた。 「良かった、やっと頼まれていたものをお渡し出来ます」 「頼まれていたもの?」 「ええ。畑山菊子さんからお預かりしていたんですよ。自分が成仏した後に池内紗季、という名の若い女性が墓参りに来たら渡して欲しいと」  紗季は越智と顔を見合わせた。 「あなたの写真も預かっておりました。しかし畑山さんが亡くなられてもいっこうにあなたがおいでにならないので、どうしたものかと困っていたところだったんです」  住職は一度奥に引っ込み、茶色の包みを持って戻って来た。 「ともかくお墓にご案内いたします。お参りを済ませられてからお渡ししましょう」  住職に案内されて畑山家の墓に参り、途中で買った花をたむけ終わると、住職は包みを紗季に手渡した。 「風変わりな依頼だったのでどうしようかと思ったんですが、菊子さんからどうしても、と頼まれましてね。しかしあの時はまさかそのすぐ後で菊子さんが亡くなられるなどとは思ってもおりませんでしたが」 「その依頼というのはいつ?」  越智の問いに、住職は小首を傾げて考えてから言った。 「亡くなられるひと月ほど前だったように思います。三月の、確か二十日過ぎです」 「そんなこと」  紗季は呟いた。 「だってその時にはまだあたし、菊子さんのこと知らなかったのに……」 「でも彼等はその時は既にあなたを罠にはめる計画を立てていたわけですから」  越智が小声で囁いた。 「ともかくそれを開けてご覧なさい」  紗季は震え出した指先で包みを開けた。  死者からの贈り物は、紫色の風呂敷に包まれていた。紫色。あのビーズの色。そしてあの時のアリスの、髪の色。  紗季は風呂敷をひらいた。そしてそこに隠されていたものを見た。  きらきらと、それは日の光を浴びて輝いた。  クリスタルのイルカの、ペンダント。  どこかでなくしてしまったあの、大村からのプレゼント。  紗季は、震える指先でそれを摘みあげた。  そのクリスタルのイルカは、濁った茶色に汚れていた。 「どうかしたんですか」  越智が紗季の手元を覗き込んだ。紗季は、黙ってイルカを越智の掌に落とした。  そして、失神した。      3 「いったい、何がどうなっていたんだか」  越智は、高村に向かって首を振った。 「キツネにつままれるってのはこんな感じですかね」 「あのクリスタルのペンダント自体は、新宿のデパートに入っているアクセサリー店のオリジナル商品で、八年前にデザインが変わってしまったんだそうだ」 「てことは、少なくともあれは八年前のものですか。しかしあの茶色の染みが血液だったというのは本当ですか」 「うん、確かに血液だった。しかしいったい誰の血なんだか……血液型はAB型だそうだが、菊子もそして池内紗季もABじゃない」 「その血も古いものだったんですか」 「いや、血液は比較的新しいらしいよ。いちおう調べさせたが、四、五年前のものだそうだ」 「四、五年前……あの事件の頃ですね」 「ああ……あの女、池内紗季は、あのペンダントは自分のものだと言ってるよ」 「そんなことはあり得ないんですがね……池内紗季が菊子のマンションに越したのはあの年の四月ですよ。だが住職の話では、菊子があれを預けたのは三月だ」 「ふん」  高村は顎を擦った。 「いちおう、あの時の事件の関係者でAB型の血液型の者がいないか確かめてみよう。それで、池内紗季の容態はどうなんだ?」 「悪いです」  越智は、溜息をついて首を振った。 「医者の話だともう完全におかしくなってるようですよ。妄想がこうじて、何もかも自分がやったんだ、と口走っているようです」 「何もかもと言うと?」 「佐賀を殺したのも美代子を殺したのも、みんな自分だと」  高村は暫くまた顎をさすって考えていた。 「越智くん」  数分経って高村はようやく口を開いた。 「もう事件は決着したんで俺も忘れていたんだが」 「何ですか」 「志野田美代子の事件なんだがね……矛盾点がひとつだけ、あったんだ。所轄の一課の者から聞いたんだが、美代子の住んでいたあのハイツの鍵、三つとも部屋の中にあったんだそうだよ。マスターキーと、コピー二つと」  越智は高村の言葉の意味を考えるように首を傾げていたが、苦笑いした。 「コピーなんていくつでも作れるじゃないですか。美代子を殺したのは新田です。美代子は最初から新田に気があったんだ。だからあの日、自分で新田を部屋の中に入れた。新田は美代子を殺した後、部屋の中にあった鍵のコピーをひとつ盗んで部屋を出て、外から鍵をかけた」 「うん……まあそれで間違ってはいないと思うんだ、俺も。ただ捜査員が気にしていたのは、あの部屋の鍵はね、事件のあった一週間ほど前に付け替えられたものだった。多分美代子は、向井がストーカー行為をしているのに薄々感づいていたんだな。それで用心の為に、鍵を付け替えたらしい。その時美代子は、大家にちゃんと許可を得て、大家が指定する業者に頼んで工事をした。そしてマスターの他にコピーを二つ作った。つまり鍵は全部で三つだ。そして美代子が殺された時、部屋の中にその鍵が三つともあったんだよ。マスターとコピーひとつは美代子の貴重品を入れていたケースの中に、もうひとつのコピーはハンドバッグの中に、だ」 「鍵のコピーなんて数分で出来るんですよ。美代子は新田を誘惑する為に、あの日急いでもうひとつコピーを作って、それを新田に渡したのかも」 「まあそんなとこなんだろうな」  高村は笑顔になって頭を掻いた。 「そうじゃなければ辻褄が合わないものな。池内紗季も新田も菊子も、あの時美代子の部屋の鍵はかかっていたと証言した。新田と菊子は共犯だったとしても、その点でことさら嘘をつく必要はないはずだ。池内紗季もそれを証言しているわけだし。だとしたら、美代子を殺した犯人は内側から鍵をかけてから外に出たことになる。そんなことは不可能だものな」      *  何もない白い壁に、汚れた手形がついている。  紗季は、その手形にそっと自分の掌をあててみた。少し大きい。  手形の持ち主は今、どこでどうしているのだろう。この部屋から出て、どこへ行ったのだろう……  なぜ誰もあたしの言葉を信じてくれないのか。  紗季にはそれがどうしても理解出来なかった。  あたしは、告白したのに。  何もかも……思い出したのに。  知美が死んでから、あたしは段々、あたしじゃなくなる時間が増えていた。思い出せない白い時間があたしの記憶の中に挟まっていた、時々。  あの日もそうだった。  退職の書類を本社から貰って、あたしは寮のあったあの町を歩いていた。これでもう、何もかも終わりなのだ、そう思いながら。会社を辞めてしまえばいずれ横領のことが発覚する。大村は行方不明のまま連絡もくれない。あたしは、裏切られたのだ。きっと大村は自分だけ国外に逃亡してしまったのだろう。そう思っていた。まさか大村が、あんなに淋しいところでひとりぼっちで横たわっていたなんて……  公園の前まで来た時、あいつが立っていた。にやにや笑いながら。見知らぬ男。名前も名乗らない。  あんたが殺したんだ。あの男はそう言った。江崎知美を殺したのはあんただ。俺は知っている。  時効まであと半年だ。黙っていてやってもいい。たった半年俺が黙っていれば、もうあんたは安全だ。  やばいことになってるんだ。外国へ逃げる金が欲しいんだ。一千万もあれば、いいんだ。頼む。あんたは貯金してるって噂だ、そのくらい持ってるだろう?  あたしを裏切ってどこかに消えてしまった大村と、あの男の顔とが重なって見えた。  あの男はあたしの腕を掴んだ。  あたしは……突き飛ばした。男は転げて、近くにあったシーソーの鉄の握りに頭をぶつけた。男は頭の後ろを手で覆いながら膝をついた。あたしは……石で殴った。足元にあった、野球のボールより少し大きな石。男は叫びながら四つん這いで逃げようとした。あたしは追いかけた。追いかけて、殴り続けた。  男は動かなくなった。  あたしの胸も、お腹も、血に染まっていた。  気が付くと、桜の木があった。  その桜は早咲きで三月に咲くので弥生桜と呼ばれているのだと、誰かに聞いた憶えがあった。  白い部屋には鏡が一枚だけかかっている。  多分、マジックミラーなんだろう。この向こう側に医者がいて、時々あたしのことを観察しているのだ。  紗季は鏡を覗き込んだ。  紗季の背中に、三月ウサギが立っていた。 「あなた……新田さん?」  ウサギは頭を横に振った。 「それじゃ、キヌさんね!」  ウサギは頷いた。 「どうしてあたしのこと、助けようとしたの? アリバイ工作したなんて嘘言って。その嘘こそが、あたしの為のアリバイ工作だった……そうよね? あなた達はあたしが佐賀を殺すのを見ていた。あたしにアリスのウサギを見せて知美のことを思い出させようとしたあの時、あなた達の目の前であたしが佐賀を殺してしまった。あなた達は黙って佐賀の死体を始末してくれた。それなのにあたしは自分から菊子さんにその話をしてしまった。それであなた達は、万一佐賀の死体が見つかった時には自分達で殺したことにしようと相談した。だけど、なぜ? なぜあたしのことを庇《かば》ったの?」  紗季は鏡に向かって憑《つ》かれたように喋り続けた。 「美代子のこともそうよ! あの日、代々木で菊子さんと別れてからあたし、美代子との約束にまだ間に合うと思った。それで新宿に駆けつけたの。喫茶店に入ったら美代子が座っている背中が見えた。でもそのそばに……刑事が立っていた。あたし、こっそり聞いちゃったのよ。刑事は美代子に……大村との仲を問いただしていたっ!」  紗季は鏡を拳で殴った。 「許せない、許せない……許せっこない……」  紗季は、鏡に額を押し当てて泣いた。 「……刑事が去ってからあたし、美代子のそばに行って、嘘をついたの。新田さんから電話があって、仕事が長引きそうで何時になるかわからない。また後で連絡するって言われたって、ね。美代子が、どうやって時間潰そうかって聞くから、美代子の部屋に行こうって誘ったのよ。そこで新田さんからの電話を待とうって。あたし……確かめたかった。美代子を問いつめて、大村とのこと全部白状させてやろうと……だけど美代子はのらりくらり言い逃ればかりして……悔しかった。悔しくて……絶対、許せないと思った! それで……包丁で脅してガムテープで縛って、バスルームへ……そして……そして……」  三月ウサギは黙ったまま何も言わなかった。 「洗面所の窓から廊下に出られることわかっていたから……鍵をかけて出たの」  紗季は鏡を掌で撫でながら、鏡の奥にいるウサギを見つめた。 「なぜあたしを助けたの? なぜ? なぜみんなで……」  あたしのこと、忘れないでいてくれたからよ。  ウサギは消え、そこにはアリスがいた。薄紫のリボンを髪に結んだ、知美。  毎年お墓参りに来てくれたのって、紗季だけだったもの。  だから淋しかった。大村さんと付き合い始めてから、あたしのこと忘れちゃったんだもの、紗季。  忘れてない。忘れたんじゃないのよ。  ただ大村とのことがあんまりしんどくて……他のことが考えられなくなって……  紗季さんは、あたしの代わりにやってくれたんだもの。  知美のアリスは、菊子に変わっていた。  みんなで相談したのよ。ほんとはあたし達で佐賀も美代子も殺すつもりだった。それをやってくれたんだから、あたしらがやったってことにしましょうよって、ね。だってねぇ、紗季さん、どっちみちあなたは近い内に刑務所に入ってしまう。そして多分、あなたの病気はどんどん重くなって、刑務所を出たら今度は病院に閉じこめられるようになる。それなら何も、人殺しの罰まで受けなくたっていいものねぇ。可哀想だわ、あなた。  可哀想だわ。可哀想。  かわいそう。かわいそう。かわいそう……  紗季は鏡に向かってひとりで呟き続けていた。  自分の他には誰も映っていない鏡に向かって。      * 「見事なもんだ」  紗季の顔を正面から見ながら、医師は呟いた。 「完璧に論理的な妄想を組み立てているよ」 「妄想なんですか」  越智は、不安げな表情で医師に訊いた。 「彼女の言葉が真実であるなんてことは?」  医師は笑った。 「彼女はああやって毎日、この鏡の中のアリスと会話しているんですよ。どこにもいはしない、幻のアリスとね」  越智は、鏡の中で啜り泣きながら呟き続ける紗季の顔を見つめた。  それから、ポケットに入れてあった手紙を取り出した。それは、越智がゴミ処理業者に宛てて出した手紙の返事だった。紗季の持ち物は、本人の希望で、マンションを売却した際に引っ越しゴミとして処分されていた。その処分を請け負った業者に、どんなものがあったか問い合わせてみたのだ。ありふれた家具の類とそれに、少し立派な羽毛布団の他には大したものはなかったらしい。それ以外には、押入れの中に、底が茶色く汚れた空のダンボールがひとつあったと書いていた。  茶色く汚れたダンボール。その中にいったい、何が入れてあったのだろう。  紗季は、何を捨てたのだろう……  たとえば……血に汚れた衣類とか……?  血。  AB型の血液の持ち主が、あの時の事件関係者の中にたったひとりだけ、いた。佐賀承平。  だが特定することはもはや、不可能だ。  紗季が微笑んだ。  鏡の中のアリスと、楽しかった中学時代の思い出話を始めた紗季が。  越智は、手紙をそっと破ると、ひねって上着のポケットにねじ込み、鏡の中の紗季に背を向けた。  誰が本当のアリスだったんだろう。  何が真実だったんだろう……  だがもう、自分にはどうでもいいことのように、越智には思えた。自分にとって最後に残された謎はひとつだけ。そして自分が本当に知りたいと思っていることも、そのひとつだけだ。  畑山菊子はなぜ、絶望したのだろうか。  新田拓郎にも村田キヌにも、山本良江にも加藤国造にも、死を覚悟する理由はあった。だが菊子が彼等と共に死を選んだ理由だけは、いまだにわからない。  ひとり暮らしの年寄りの淋しさ。そんな風に片づけてしまっては決してわかることの出来ない、何か深くて大きい、だがむしろさばさばとして明るい「思い」が、多分そこにはある。  いつかは自分にも、それがわかる時が来るのだ、きっと。いつか……自分が菊子の歳になった頃。  越智は最後にもう一度だけ振り向いた。  鏡の国に住む、哀れなアリスを。 [#改ページ]   あ と が き  新しいジャンルの小説に挑戦する時はいつでも、今までわたしの作品を好きだと言って下さっていた読者の皆様に嫌われてしまわないかな、と不安になります。それでも、これまで書いたことのないものを書いてみたいという欲求がとても強いわたしは、それを許して下さる出版社さんや編集者さんと出逢うと、自分を押さえられずにまた新しいものに挑戦してしまいます。  この作品も、そうして生まれました。  読み終えた時読者の皆様に、遊園地の迷路から出られなくなった子供のような気持ち、を体験していただけたら、と思っております。書いているわたし自身も、書きながら迷路をさまよっている気分でおりました。そして書き終えた今でも、まだ迷路の中にいる自分に気付いています。  いつもながら、今回も担当編集者さんにはいろいろとご迷惑をかけ通しでした。この場をお借りしまして、廣済堂出版・伊藤秋夫氏に厚く御礼申し上げます。    一九九八年六月 [#地付き]柴田よしき   単行本 一九九八年七月 廣済堂出版刊 〈底 本〉文春文庫 平成十二年十一月十日刊