[#表紙(表紙.jpg)] 好 き よ 柴田よしき 目 次  光  影  過去  核  果てにあるもの  終章 [#改ページ]   好 き よ 愛果《あいか》が死んだ朝は、珍しく雪が降っていた。 自殺だとはっきり、電話口で真希《まき》は告げた。 遺書があったんですって。風で飛ばされないようブロックを重しにして置いてあったんですって。靴がきちんとそろえられていたんですって。 雪が積もっていても助からないもんなんだね。 無理もないよね、十二階だものね。東京の雪じゃ、せいぜい十センチもないもんね。 頭蓋骨が割れてね、中身が出ちゃってたらしいの。 雪が血に染まって真っ赤だったんだって。 でもね、顔はとっても綺麗だったらしいよ。 それでね、その遺書なんだけど。一言だけ、書いてあったんだって。 好きよ。 って。 [#改ページ]   光     1  そのままでいれば良かった。そのまま、そこに座って待っていれば。でも不安だった。時間とか日にちとか、間違えたのかも知れないと思いながらずっと待っているのは不安でたまらなかった。  二人の間の空気が重苦しく変わり始めているのには気づいていた。恋愛の終わりはきっといつも、誰の場合でも、こんなふうなんだろう。それがわかっていたのに、望みは繋《つな》いでいたかった。  好きだったから。まだ、勝昂《かつたか》のことが本当に好きだった。それなのにぎくしゃくし始めたということは、勝昂の方があたしのことを嫌いになりつつあるんだろう。  董子《とうこ》はコーヒーのカップに指をかけたまま、灰色の街を眺めた。  さっきから、細かな雪がさらさらと落ちている。だがアスファルトに降りたせっかくの雪は、瞬く間に溶けてしまっていた。もう、この季節の雪は、東京では滅多に積もらない。  かといって、春はまだ遠い。  三月の声を聞いても風はいつまでも冷たかった。  勝昂との交際は二年になる。たった二年。クリスマスも互いの誕生日も二度ずつ祝って、それでおしまいになるのだろうか。  コーヒーショップは二階にあったので、大きな窓から通りを行き過ぎる人々の姿がよく見えた。小さな子供を間に挟んだ若い夫婦が、楽しそうに通り過ぎて行った。  結婚したい、と思ったことはまだ一度もない。二十八という年齢は、そう結婚を急ぐ歳でもないように思っていた。周囲の同僚たちも、董子と同い歳で独身はたくさんいる。この二年間勝昂とつきあっていても、結婚までは考えたことがない。  だが結局、結婚という形の上でのゴールにたどり着かない限り、恋愛はいつか終わってしまうものなのだ、と董子は思い始めていた。通俗でも平凡でも、結婚という形式の中に逃げ込めば、恋愛の終わりをごまかしてしまうことは出来るのだ。たぶん、結婚しても恋愛はそのうち終わり、互いに対してときめきも感じなくなってしまうのだろうが、形式が周囲を固めている以上、ただ一言のさよならだけで別れることは出来なくなる。  今、勝昂と結婚することが出来るならしたい。董子は切実にそう思った。別れたくない。たった一言で、この二年間のことをすべて思い出に変えろと言われても、そうできるという自信がない。  勝昂は遅れていた。約束の時間より、もう二十分も。  つきあい始めた頃ならば、二十分くらいはどうということもなかった。もうすぐ逢える、それだけを楽しみにいつまでも機嫌良く待つことが出来た。それがいつからか、不安に変わった。勝昂の遅れが一分一分、董子の心臓を締めつけるようになった。仕事が忙しくて時間通りに来られないとわかってはいても、理由があるとかないとかの問題ではなかったのだ。  勝昂の心が離れて行く。少しずつ少しずつ、でも確実にあたしから離れて行く。それがたまらない。辛くて苦しくて、勝昂の心を自分から引き離すすべてのものを破壊してしまいたいほどに、腹立たしい。  もう駄目なんだろう。  そろそろ覚悟しなくてはいけない。そしてそれはたぶん、きっと……今日……これから?  勝昂の方から逢いたいと誘ってくれたのは本当に久しぶりだったのだ。そして、彼は「話があるから」と言っていた。  別れたくない。  別れたくない。  別れよう、なんて、聞きたくない。  董子は立ち上がっていた。約束の時間から二十三分遅れた時刻。もう待つには充分だろう。ここであたしが逃げても、誰も非難など出来ないはずだ。  董子は駆け出すようにして店を出た。そして、もし勝昂が来るとすれば通るはずの駅からの道へは出ずに、反対の方角に向かって足下だけを見つめて歩き出した。  見知らぬ街というわけではなかった。学生の頃から遊びに来ていた街だった。それでも表通りを一本内側に入ると、突然に周囲の光景がよそよそしくなった。  立ち並ぶのは個人の家ばかりで、どのドアも閉ざされている。通りを歩いているのは董子ひとりになっている。まだやっと日が落ちて、夜がたった今やって来たばかりなのに。  背後に誰かがついて歩いているように感じるのは、たぶん気のせいだろう。何度か振り返ってみたが、人の姿はなかった。  董子は立ち止まって空を見上げた。雪は止み、空は晴れていた。東京の夜空にしては、星が多い。雨あがりの空に星が多いのと同じ。だが月の姿が見えなかった。新月なのだろうか。  背後の人の気配がなぜか強く感じられるようになっていた。何度振り返っても誰もいないのに。  董子は腕時計を見た。いつのまにか勝昂と待ち合わせをしていた店を出てから一時間も経っていた。もう、駅に向かっても勝昂と鉢合わせすることはないだろう。遅れてやって来てあたしがいないのを見て、それなら今夜はいいや、と帰ってしまう。そんな勝昂の背中が見える気がした。  董子は住宅街を出て駅の方に向かう道を探しながら歩いた。ずっと背中に感じている誰かの視線は、自分の期待のあらわれなのかも知れない、と思う。勝昂があたしを追って来てくれていた……探してくれていたと、思いたいあたしの心が感じさせた錯覚。  駅に向かう道はどこ?  董子は不意に気づいた。さっきから同じ場所をぐるぐると歩き回っている。どうして?  方向感覚が狂ってしまったのだろうか。山の中を歩いているわけではない、東京の真ん中にいるのに。  急に心細くなって、董子は思わずその場にしゃがみ込んだ。こんなところで迷子になるなんて、いったいあたし、どうしちゃったんだろう…… 「どうかされましたか?」  声に顔を上げると、電灯の逆光の中に男のシルエットがあった。 「ご気分が悪そうですけど」 「あ……大丈夫です。ちょっと、目眩《めまい》がして」 「立てますか」  男は手を差し伸べた。董子はすぐにその手を取る気にはなれなかった。こんな住宅街の真ん中でまさかとは思ったが、夜の闇の中にいる見知らぬ男はやはり怖い。  男は董子が手を取らないのを見て、自分の手をからだの脇に垂らした。 「タクシー呼びましょうか? いや、僕の携帯にタクシー会社の無線呼び出しの番号、登録してあるから」 「本当に大丈夫なんです……あの、駅に行きたいんですけど、この辺りの道がよくわからなくて。ご存じでしょうか」 「駅って、地下鉄でいいのかな?」 「あの……JRの原宿は……」 「原宿ですか? ちょっとありますよ、ここからだと。|千駄ヶ谷《せんだがや》とどっちが近いかなぁ。もう外苑前《がいえんまえ》だから、この辺」  そんなに長いこと歩いていたのか。董子はゆっくりと首を振った。あの店を出てから今まで、何かおかしなものに化かされていたような感じがした。  そろそろと立ち上がってみると、周囲の景色がさっきまでとは違って見えた。同じような形の個人住宅ばかりが冷然と並んでいると思っていたのに、今見てみれば、様々な形の家々とビルがパズルのように組み合わさって、その合間合間には飲食店やブティックの看板やあかりがいくつも見えている。通行人もちゃんといた。それも、大勢。  今まであたしが見ていたのは、いったいどこの景色だったのだろう? 「まだ気分が悪そうだ。どうしてもJRに乗らないと駄目なんですか? 地下鉄で渋谷まで出て乗り換えた方が楽だと思うんだけどな、ここからなら」 「あ……それで行きます。地下鉄でけっこうです」 「じゃ、大きな通りまで一緒に出ましょう。ちょっと行けば外苑西通りに出るから、そこからなら外苑前の駅まですぐです」 「あの、方角を教えていただけたらそれで」  董子がおずおずと言うと、男は笑い出した。 「いや、警戒されちゃってますね、僕」 「いいえ、そんな」 「いいんです、いいんです。女性は警戒してし過ぎるということはありませんからね。でもほら、こんなに人も歩いてますから、僕だって滅多なことは出来ませんよ」  董子は恥ずかしかった。本当についさっきまで、寂しい住宅街をひとりで歩いていると思い込んでいたのだ。どうしてそんな錯覚をしてしまったのだろう。ずっと背後に人の気配がしていたのも当たり前だった。これだけ通行人がいれば、人の気配がない方がおかしい。 「御迷惑をおかけして申し訳ありません」  董子は頭を下げた。男は明るい顔で言った。 「ついでですから気にしないでください。外苑西通りまではどうせ出るつもりだったんです。ただ、銀座線に乗る予定はないんで、通りまで出たらお別れさせていただきますが」  男の態度はあくまで紳士的だった。董子は警戒をゆるめ、男と並んで歩いた。さほど長身というわけではないが、ちょうど董子とは背丈の感じがつり合っている。 「名前を名乗ってませんでしたね」  男は名刺を取り出して董子に手渡した。  伊勢崎《いせざき》雅治《まさはる》。オフィス ISEZAKI 代表、空間プロデューサー? 「変な肩書きでしょう?」  伊勢崎は困惑している董子の顔を見て楽しそうに笑った。 「要するに、インテリアコーディネーターとイベント屋を合体させたみたいな仕事なんです。ほら、クラブだとかレストラン、小劇場とか、多目的ホールとか、人がたくさん集まる為の場所ってあるじゃないですか。ああいう場所をプロデュースするわけです。内装からかける音楽、店長の服装や言葉遣い、料理、パフォーマンスの種類まで、ありとあらゆるものを総合的にデザインして集客力のある空間を演出する、そういう仕事です……あ、すみません、なんか自慢してるみたいで喋り過ぎましたね、僕」 「いいえ……なんだかとても……刺激的で現代的なお仕事ですね」 「現代的かどうかはわかりません。僕、最近ね、江戸時代の遊廓だとかにとても興味があっていろいろ勉強しているんですが、江戸時代、特に中期以降の空間プロデュースってほんと、凄いんですよね。遊廓ひとつとってみても、江戸の吉原と京都の島原とでは作法から何からまるっきり違う。遊女の言葉から服装、歩き方まですべて、それぞれの特色を出して演出するわけです。客が一歩その世界に飛び込むと、外の世界とはまったく違った常識を受け入れなくてはならない。それを受け入れ、特殊な空間を共有することで、店と客とが共犯関係のようになるわけです。だからこそ、たった一晩|花魁《おいらん》だの太夫《たゆう》だのと遊ぶだけで、庶民なら一年は遊んで暮らせるような大金をはたかせてもゆるされるわけですね。正直、今の僕の力で客にそれだけ強烈な錯覚を抱かせるような空間が演出出来るとは思えない。法外な値段を客に要求しても、これだけ遊ばせてくれたんだからいいや、と思って貰える空間を創り出すことが目標なんですが……あ」  伊勢崎は、しまった、という顔になった。 「僕、また余計なお喋りしましたね。初対面の女性に遊廓の話をするなんて……本当にすみません」 「いいえ」董子はいつの間にか微笑んでいた。「いいんです。とっても面白いお話でした。あのわたし」  董子もバッグから名刺入れを出した。 「なんだか、伊勢崎さんにお渡しするのが恥ずかしいような名刺なんですけれど」 「……せんけ、とお読みしてよろしいんでしょうか」 「さくや、と読みます」 「先家董子さんですか。珍しいお名前ですね」 「田舎が島なものですから……何か事情があったのかも知れません。いずれにしても、今はただの過疎の村ですが」 「株式会社|西脇《にしわき》油脂宣伝部……」 「すみません、小さな会社なもので……石鹸《せつけん》や歯磨き粉などを作っている会社です。化粧品も扱っているんですけれど」 「知ってますよ!」  伊勢崎は親指を立てて見せた。 「自然派コスメで人気が出て来てるブランドじゃないですか」 「ブランドだなんて、そんな大層なものじゃ」 「ニシワキの洗顔パウダーとか化粧水とか、うちの事務所の女の子も使ってます。無添加だし低刺激でとてもいいって言って、僕も、髭剃りの後で使うといいですよってクリームを勧められましたよ。宣伝部宣伝課二係主任。すごいな、主任さんですか」 「勤務年数が嵩《かさ》んでるだけです。短大を出てからもう、八年も勤めていますから」 「ひとつの会社に八年間勤めるというのは大変なことですよ。僕なんか、大学を出てから七年間に三回会社を変わったんです。それで結局、会社勤めが自分に向かないって悟っただけで終わってしまった。三十を前にして、もうどうしていいかわからなくなりましてね、よくあるパターンで海外放浪です。最終的に落ち着いたのがニューヨークだったんですが、取り立てて特技があったわけでも、英語がぺらぺらだったわけでもなく、これまたお決まりのパターンで日本人の留学生崩れのグループに入っていい加減な生活をしてました。そんな時に、アルバイトをしていた寿司レストランに、ニューヨーク在住で日本でも空間プロデューサーとして名が知られていた、後藤《ごとう》琢磨《たくま》さんが客として来たんです。カウンターに座って寿司をつまむのが好きな人で、いつもは板さんと話をしてたんですが、たまたま何かのきっかけで声を掛けられました。僕はその時、日本の寿司屋さんなら十代の子が修業の最初にやるような、皿洗いとかお運びとか、そんな仕事をしていたんですよ。三十三、四にもなってね。それで後藤さんも僕に興味を持ったんだろうな。いろいろ話をしている内に、スタジオに遊びに来ないか、ということになって……後はもう、自分でも信じられないくらいのスピードでこの仕事の虜《とりこ》になっていたんです。それで、どうせ勝負するならやっぱり日本だ、というわけで戻って来ました。はったりをかまして親戚から借金しましてね、今のオフィスを立ち上げた。正直、博打《ばくち》でしたね」 「賭けに勝たれたわけですね」 「運が良かったんです……バブルの頃にもこの仕事はもてはやされてオフィスが濫立《らんりつ》したらしいんですが、結局、バブル経済の波に乗った仕事しか出来ないところはきれいさっぱり潰れてしまった。ただセンスだとか雰囲気だけで勝負する時代は終わっていたんです。僕が日本に戻った時には、いかに客を呼ぶか、いかに経営を楽にするか、という現実的な問題、つまり、はっきりした結果が求められるようになっていた。アーティストはいらない、本来の意味でのプロデューサーが欲しい、そういう時代になっていた。僕の仕事の仕方がそうしたニーズと合致していたんですね」  伊勢崎は、喋り出すと止まらないタイプなのかも知れない。だが董子には彼のそうした喋りが嫌ではなかった。伊勢崎の声はとても静かで低いが、温かみがあった。 「あ、ここが外苑西通りです。僕、ひとりでべらべら喋ってましたね。なんだか恥ずかしいな」 「とても楽しかったです」 「それならいいんだけど。僕のオフィスは左手に千駄ヶ谷の方へ歩いたとこなんです。えっと、外苑前の駅は右に歩いてください。五分も歩いたら青山通りとぶつかりますから、左に曲がってほんの少し歩くと、次の交差点のところに地下鉄の出入り口が見えてます」 「ありがとうございました」  董子は深く頭を下げた。 「道を教えていただいて助かりました」 「いいえ、帰るついでですからね……あの、先家さん」 「はい?」 「その……もし良かったらこれ」  伊勢崎はコートのポケットからパンフレットのようなものを取り出した。 「今度僕がプロデュースしたビアホールなんです。オープニングパーティが今週の土曜日にあるんですけど、お友達といらっしゃいませんか。受付で名前を言っていただいたら、何人でも入れるように手配しておきますから。場所は飯倉《いいくら》なんですけど」 「よろしいんですか、わたしなんて……」 「べらべら喋りまくってうるさい思いをさせてしまったお詫びです」 「そんな、ほんとに楽しかったです。わたしの知らない世界のことばかりで」 「ともかく、遠慮なく来てください。ビアホールですから、そんなに気張った格好で来なくても大丈夫です。飲み食いしていってください。そしてあの、出来たら……後で感想を聞かせてくれると嬉しいかな。店の雰囲気とか内装とかについて」 「わたし、そんなこととても」 「難しく考えないでいいんですよ。客として入ってどう思うか。そのままの感想が知りたいんです。それじゃ、気をつけて。土曜日、楽しみに待ってますね」  董子が返事をするより早く、伊勢崎は手を振って歩き出してしまっていた。董子はパンフレットをバッグにしまった。  なぜか、心臓の音がいつもより速い、と感じた。     2  勝昂の声には不機嫌さが滲《にじ》んでいる。自分が二十分遅刻したことについては、董子の方が許容して当然の問題だと思っているのだろう。 「それじゃ、今度の土曜は?」 「土曜の、何時?」 「夜だよもちろん。俺だって疲れてるんだから、昼過ぎまでは寝ていたいさ」 「……夜は駄目なの。先約が入っていて」 「先約?」  勝昂の声に棘《とげ》が生じた。 「何の約束だよ。誰としたんだ?」 「……短大の時の友達」 「断れない?」 「結婚式の披露宴の……二次会の幹事をすることになっちゃって、その打ち合わせだから。ごめんなさい。あの、金曜日の夜なら……」 「金曜は俺がまずいんだ」  声のトーンが微妙に変化した。もう半年近く、金曜の夜に勝昂と待ち合わせたことがないことに、董子は気づいていた。 「ともかくさ、話があるんだ。時間、作ってよ。昨日だって、すっぽかされたんだし」 「すっぽかしてなんかいないわ」  董子は小さな声で言った。 「あたし、待っていたんです。でも来なかったから」 「ちょっと遅れただけだろう? 仕事だったんだから仕方ないじゃないか。そんなこと今さら説明しないとなんないのかよ」 「別に説明して欲しいなんて言ってない……ごめんなさい、あたし、ちょっと体調が悪くて長く待てなかったの。携帯に連絡しようとしたんだけど……どうしても我慢出来なくなって……」 「我慢出来ないって」  勝昂が息をのむような音をたてた。 「あの……気分悪かったの? それってまさか」  董子は勝昂が何を心配しているのかわかって、笑い出しそうになった。 「……違うわ。その心配はないはずでしょう」 「そうか」  勝昂の声が露骨に明るくなる。 「まあ体調が悪かったんなら仕方ないけど。風邪だよ、きっと。今さ、流行ってるみたいだから。しょうがないな、じゃあ、来週また連絡する」 「ええ……そうして」  受話器を置いても、昨日までのように落ち着かない気分になるということはなかった。董子の中で、勝昂とのことはもう、終わっていた。  見知らぬ街をたったひとりでさまよった、というあの奇妙な錯覚から脱《ぬ》け出した時に、董子の心の中にあった勝昂の存在はごく小さく軽いものになっていた。それが伊勢崎のせいだとは思いたくないのだけれど。  伊勢崎は確かに、親切でスマートで、洗練された大人の男だった。だから余計に、自分のような女がつまらない望みを抱く相手ではない、と董子は自分に言い聞かせていた。  それでも、一晩経ってみると、伊勢崎にもう一度逢いたい、という気持ちが強まっているのを感じていた。  そう、もう一度逢って少し話ができればそれでいいのだ。これまでの自分の人生で、あんな華やかな世界の住人と知り合いになったことなど、なかったのだから。  だけど。  土曜日のパーティはやはり気後れした。そんなに大袈裟《おおげさ》に考えなくてもいいとは言ってくれたけれど、だからって普段通勤している格好で行けるわけがない。オープニングパーティということは立食形式だろうが、店の規模がかなり大きいし、一流の広告代理店がバックについていると想像出来る記述がパンフレットに書かれている。おそらく、著名人や芸能人なども呼ばれているのだろう。どちらにしても、誰もあたしなんかには注目しないだろうが、それでもみっともないと思われて眉をひそめられるのは嫌だった。  やっぱり行くのはやめておこう。後で謝りの手紙でも書けばそれで……どうしても仕事があって、と言えばゆるして貰えるだろうし。第一、こうやって誘ってくれたのだって、伊勢崎の社交辞令に過ぎないのかも知れない。いや、たぶん社交辞令なのだ、ただの。  董子はパンフレットを通勤用のショルダーバッグの底に畳んでしまい込んだ。捨ててしまうにはしのびなかったが、もう気にしないようにしようと思った。 「先家さん、ちょっとこれ」  営業の松本が董子の机の前に立った。董子より年下だったが成績が抜群で、すでに係長になっている男だ。宣伝部の董子とはイベントなどで仕事を一緒にすることが多かったが、他人のミスはゆるさない、きつい性格なので苦手意識があった。 「これさ、先家さんが作ったものですよね」  松本が見せに来たのは、明日、渋谷のコスメショップでコンパニオンに配らせる試供品に添えたパンフレットだった。 「ここのとこ、無添加、って字を二まわり大きな字にしてくれって前の会議の時、僕、言いませんでしたっけ」  松本の指先が突いている部分を董子はじっと見た。  ポイントが間違っている。他の部分と同じ大きさで印刷されていた。確かに、大きくするよう指示を赤で書き入れて印刷にまわしたはずなのに。 「これ、困るんだけどな。試し刷りがあがって来た時、チェックしてくれなかったんですか」  チェックは……  董子は斜《はす》向かいの席をちらっと見た。織部《おりべ》貴美《たかみ》と視線が合う。貴美は下を向いてしまった。 「ごめんなさい」  董子は座ったまま頭を下げた。 「チェックミスです」 「謝ってくれなくてもいいんですけどね、問題は明日、これ使いたいってことなんだよね。今日中に刷り直し、頼めないですかね」 「それは……無理だわ。カラー印刷はどんなに急いで貰っても三日はかかるから」 「無理でも何でも頼んでくれないかな。指示は出してあったんでしょ」 「ええ、それは間違いなく」 「だったらミスしたのは印刷所もそうなんだから、責任はあるわけでしょう。頼んでくださいよ、ね。キャンペーンは明日の正午からだから、今からなら二十四時間以上あるわけだし。こんな簡単な仕事も満足にやって貰えないんじゃ、俺たちがいくら努力して顧客増やしても意味ないしさ。じゃ、そういうことでよろしく」  松本は董子の返事を待たずに背中を向けて行ってしまった。 「ごめんなさい」  松本の姿が消えると、貴美が立ち上がって董子のそばに来た。 「このパンフのあがりチェック、わたしがやったんですよね」 「もういいわ。あなたに任せたまま見なかったあたしもいけなかったんだし。こういうものって、出来るだけ大勢の目を通した方がいいのよね」 「あの……でも」  貴美は困惑した表情をしていた。 「わたしのチェックミスには間違いないんですけどただ……わたし、その部分はちゃんと見た記憶があるんです。原稿に赤字で書き込みがあったものですから、そこだけは間違えたらいけないと思って。試し刷りの時にはちゃんと、無添加、の文字が大きく印刷されていたんですよ……ほんとなんです」  ふだん、さっぱりとしてどちらかと言えば男勝りな貴美にしては、言い訳がましいな、と董子は思った。だが貴美の顔は真剣そのもので、思いつきで適当に弁解しているのとは違う感じも受ける。 「本当に、ちゃんと印刷できていたの?」  貴美はしっかりと頷いた。 「間違いないです。あたし、他のところはともかく、そこだけは間違っていたらすぐ直して貰わないとって何度も何度も見たんですよ。それで青葉印刷にOKの電話を入れた時も、そこがちゃんと直っていて助かりましたってわざわざ言ったくらいなんですから」 「担当、青葉印刷の石井さんだったわよね」 「そうです。あの人はすごくきっちりした人ですから、赤字を落とすなんてことないと思います」  董子は受話器を取り、青葉印刷にかける短縮ボタンを押した。  石井が電話口で言った。 「……え? だってあの赤字は再度訂正だからってFAX流してくれたでしょう、先家さん」 「再度訂正? どういう意味でしょうか」 「どういう意味って、だから、赤字は取り消しになったから悪いけど文字を入れ直して下さい、他の部分に訂正はないので試し刷りは出さずに本刷りに入っていただいて構いませんって、一昨日《おととい》FAXが来てますよ、先家さんの名前で」  そんな記憶はまったくない。そんなFAXなど流すはずがなかった。 「……あの、それ、わたしの名前が書いてあるんですか」 「ありますよ、ちゃんと。何なら今からそっちに流しましょうか。それはいいけど、なに、もしかしてやっぱり赤字の指示通りだったとかそういう話?」 「すみません、そうなんです」 「そりゃ困るなぁ……やり直しったってね、そっちの指示に従ってやったことだから、料金はまた別途かかりますよ」 「料金はけっこうですけど、納期は」 「納期って……あのパンフ、明日使うんじゃなかったの?」 「はい」 「はいって、無理ですよ。勘弁してくださいよ。今からDTP打ち直しても、今日の分に突っ込むのは無理だもの。明日の午後に機械にかけるのが精一杯だなぁ」 「データだけ貸していただけますか」 「どうするの?」 「スピード印刷にまわします」 「だって、それじゃすごく高くついちゃうよ」 「仕方がありません。明日、どうしても使いたいんです」  董子は頭の中で計算した。損害額は数十万円になるだろう。最悪の場合、自分がかぶるしかないかも知れない。 「それなら、うちの子会社でコピー印刷やるとこあるから、そっちに持ち込んであげようか。そのへんのスピード印刷に頼むよりはかなり安くつくと思うから。今からデータ入れ替えていちおう先家さんのアドレスに送るから、開いて確認してみてくれる? それで良ければすぐ持ち込みます」 「本当にありがとうございます。助かります」  董子は思わず受話器を手にしたまま頭を下げた。 「それにしても、変な話だね。誰か先家さんの名前でこのFAXを送ったやつがいるのかな。流してみるから、犯人突き止めておいた方がいいかもよ。先家さんに対する嫌がらせじゃないといいんだけどね」 「わたしはそんな大物じゃないんですよ」  董子は笑って受話器を置いたが、背筋に細かな震えが走るのをとめることが出来なかった。  青葉印刷から折り返し送られて来たFAXには確かに、董子の名前で赤字指示は無視して元の通りに印刷して欲しい、と書かれていた。しかも試し刷りはもう出さなくていいと。だが、文章から署名まですべてがワープロ文字で打たれていた。発信元は間違いなく、西脇油脂の宣伝部宣伝課になっている。 「ひどい!」  貴美が大袈裟な声を出した。 「これって嫌がらせっていうか、業務妨害ですよ!」 「でも、送信元がここになってるのよ」 「宣伝課のFAXなんて誰でも使えるじゃないですか、社内の人間なら。他のとこのFAXが混んでるから使わせて、なんてしょっちゅうですよ。悪質だなぁ。これ、総務に連絡しておいた方がいいんじゃないかしら」 「事を大きくするのは気がすすまないわ……何か事情があるのかも知れないし」 「先家さん、そんなこと言っていて嫌がらせがエスカレートしたらどうします? それにこれ、先家さんだけに対する嫌がらせじゃないかも知れない。わたしたち宣伝課二係全員に対して嫌がらせしてるのかも知れないじゃないですか」  宣伝課には一係と二係があり、一係はテレビやラジオ、雑誌などのマスコミを担当する比較的派手な部署だったが、董子のいる二係はキャンペーンのチラシ作りや、販促グッズの発注、外部に委託して作成して貰っているHPの管理など、どちらかと言えば地味な仕事が多い。人員も係長の下に董子、それに男性社員が一名と貴美のたった四人しかいなかった。 「あたしたち四人に嫌がらせしそうな人なんて、誰か思いあたる?」 「すぐには思い浮かびませんけど、田無《たなし》係長だって水谷さんだって、男性ですものね。たとえば恋愛問題で女性を怒らせて恨まれているなんてこと、あるかも知れないじゃないですか」 「それならどうして直接彼らに何かしないのかしら」 「だから、やり易いところから攻めてるわけですよ。きっと先家さんならすぐに騒いだりしないってことまで計算に入れているんだと思うな。だからこそ、早く表沙汰にした方がいいと思うんですよね。総務部に連絡して徹底的に社内調査してもらえば、きっと犯人が誰かわかりますよ!」  興奮してFAX用紙を振りかざしている貴美の手から、董子はその紙を取り戻してもう一度ゆっくり眺めた。簡潔で淡々とした文面だったが、敬語の使い方に乱れもなく、時節の挨拶から結びの言葉まで、社外に出す手紙の見本のように整っている。だがそのこと自体、その文章を書いたのが自分ではないことを表している、と董子は思った。董子が青葉印刷の石井に宛て手紙を書いたのならば、一週間ほど前に同僚たち数人と青葉印刷の社員とでカラオケに行った時のことに、少しぐらいは触れていたはずだからだ。  貴美の言う通り、これは悪質な嫌がらせだった。董子が記憶喪失になったわけではない。  総務部に直接言いつける気にはなれなかったが、係長の田無には報告しておく必要があるだろう。どっちみち、余計にかかった印刷代の件で釈明を求められるだろうし。  董子はそのFAX用紙を、未決、と書かれた引き出しに仕舞おうとした。  その時、それに気づいた。  指紋。  人間の小指だ。用紙の右下の隅に小さく、うっすらと写っている。  董子はまた受話器をとった。 「もしもし、石井さんですか?」 「先家さん? データならもうあと五分もしたら送れる……」 「いえ、そうじゃなくて。あの、今さっき流して貰ったFAXって、お手元にあります?」 「まだあるけど、どうして?」 「用紙の右下のところを見ていただきたいんです。誰かの指紋のようなものが見えませんか、小指の」 「ああ……あるね。うん、薄いけど見える」 「それ、そちらで付いたものですか?」 「いいや」  石井は興味をひかれたらしく、声に少し力が入った。 「いいや、違う。違うよ、これは。そっちから送られた原本の方に最初から付いてたんだ。間違いない。そうか、この指紋で誰が悪質な悪戯《いたずら》をしたのか捜せるわけだ! 何だか推理小説みたいで面白くなって来たじゃない」 「あ、あの石井さん、このこと、少しの間内密にしておいて貰えます?」 「もちろん」石井は笑って請け合った。「これから捜査を開始するなら、犯人を油断させた方がいいもんな。協力しますよ、先家さん」  だが、董子は石井とはまったく別のことに気をとられていた。  その小指の指紋には見覚えがある。董子の知っている人間でひとりだけ、FAXを送る時に癖で右手の小指を紙の端にあて、紙が滑り始めるまでそのまま紙の位置をキープさせている者がいた。それは昔、宣伝部にあったFAXの性能が良くなくて、紙が真っ直ぐに滑らずトラブルを起こしてばかりいた頃についた癖だったのだ。  董子は、恐怖で思わずしゃがみ込んだ。  津田《つだ》愛果《あいか》。  二年前に自殺した、董子の同期社員……     3  青山霊園は、この寒々とした冬空の下でいつもと変わらぬ静寂を保っている。敷地を一歩はずれると青山通りとそれに繋がるファッショナブルで騒々しい街並みに取り囲まれているのだが、霊園の中にいると、東京にいるのだということを忘れてしまうほどの圧倒的な静かさと物悲しさがそのすべてを支配していた。  死者たちは、今日も平穏だ。  吾妻《あづま》藤次郎《とうじろう》は、ゆっくりと歩みを進めながら冷たい空気で肺を満たし、数限り無い死を包み込んだその荘厳な気配に一時、身を任せた。  藤次郎は北青山の古いマンションの一室にひとりで住んでいる。古いとは言っても場所が場所だけに、人に貸せば家賃はかなりの額をとることが出来る。年寄りの独り暮らしにこんな都心のマンションは不要、どこかもう少しのんびりとした静かな町に引っ越しをして、マンションを貸して得た家賃収入で楽に生活したらいいんじゃないか、とすすめてくれる友人は多い。実際、三年前に妻を亡くしてからは2LDKのマンションが少し広すぎて、掃除するにも持て余しているのが現状なのだ。だが藤次郎はこのマンションに愛着があった。バブル経済がスタートする前だったから今から思えば格安だったとは言え、それでも藤次郎の収入ではぎりぎりの高値をあえて踏み切って購入した中古物件で、毎月のローンの支払いには本当に苦労をし続けた。バブル全盛期に地価が高騰、信じられないほどの値段で買いたいという連絡が殺到した時にも、妻の滋子《しげこ》がここに住み続けたいと望むのでじっと我慢した。固定資産税ははねあがり、税金の工面でボーナスも何もかも飛んでしまった。四十年間勤めあげた会社を退職した時、藤次郎夫婦には退職金以外の貯金がほとんど残っていない有り様だった。すべてこのマンションに吸い取られてしまったのだ。  そんなにまでして守った部屋だけに、愛着があった。バブルが弾けて地価の評価額がやっと見直され、固定資産税も年金で払える範囲に落ち着いた。住宅ローンの支払いも、何とか一年前に完了することが出来た。贅沢は出来なかったがそれでも、まあ死ぬまでここから追い出されることだけはないと思えば気持ちは楽だ。これで妻がもう少し長生きしてくれていれば何も言うことはなかったのだが。  いずれにしても、藤次郎はここを出て他の町に住むつもりはもう、なかった。  毎朝、妻の眠る青山霊園まで散歩して、少しの間ぼんやりと妻と語り合い、それから死者たちの気配をこうやって胸に吸い込んで、そして部屋に戻って、朝昼兼用の軽い食事を済ませ、うつらうつらと読書をしながら窓辺で過ごす。まだ六十四歳、働こうと思えば働けない歳でもなかったが、もういいか、もう、後はのんびりと好きな本を読みながら過ごせばそれでいいか、と思っている。あと何年生きられるのかはわからないが。  部屋に戻る途中でベーカリーに寄り、ちょうど焼きたてのクロワッサンを二つ、買って戻る。これにプレーンのオムレツ、サラダに、紅茶、それから缶詰のスープをひとつ温めるのが、ほとんど毎日の朝昼兼用の食事だった。日によってクロワッサンはカスクートになったりトーストに変わることもあったが、この歳まで入れ歯ではなくしっかりと自分の歯でものを食べてきたのが自慢だったのに、最近さすがに、固いものを食べると歯茎にほんの少し痛みを覚えるようになった。そろそろ歯医者で調べてもらわなくてはならないが、歯茎が痩せてきたのだろう。そんな状態には、クロワッサンがいちばんいい。朝食をとらずに昼と兼用で少し早め、という食生活に変えたのは定年退職してからだった。現代人、特に壮年期を過ぎた大人の一日のカロリー摂取量は多過ぎる、朝食前に一仕事するのならともかく、起きてすぐに朝飯など無理して食べる必要はない、というある医学博士の発言をラジオで聞いて、試しにやってみたら胃の調子も良くなり、夕飯もおいしく食べられるようになったのだ。朝飯は絶対食べなくてはいけないもの、という世間の常識とは違うことをしているのに、人間のからだとは面白いものだと思う。要はどちらが間違っているとか正しいとかいうことではなく、それぞれの人間にはそれぞれ、最適な食生活のリズムというものがあるということなのだろう。  現代の常識、こうあるべきだという押し付けは、いずれにしたっていちおう疑ってかかっていいだろう、と藤次郎は思っている。年寄りのくせに、と眉をひそめられたとしても、藤次郎は、人と違ったことをやってみるのが昔から好きだったのだ。  今日のスープはホテルオークラのコーンスープ。缶詰のスープだけは凝っていて、キャンベルの、日本では売られていない種類のものを探しに紀ノ国屋を覗くのも大好きだ。有名ホテルのものはほとんど試してみたし、レストラン系の限定品にも可能な限り挑戦、通販のカタログもチェックは怠らない。年金暮らしの身にはかなり贅沢な話なのだが、その分、他に食べ物で贅沢をしたいとも思っていなかったからそのくらいは、と自分に許している。  スープが温まって、クルトンの準備も出来たところで電話のベルが鳴った。藤次郎は舌打ちした。何とも間《ま》が悪い。 「もしもし、藤次郎さんか?」  一瞬、声の主がわからなかったが、すぐに思い出した。 「あんた……作造《さくぞう》さんか」 「うん、岩屋《いわや》です。いや、おひさしぶり」 「ほんとに、ひさしぶりだね。あれ、何年ぶりかな。島には家内が死んでから一度も戻ってないからな。今、どこからですか?」 「東京に出て来とるんですわ。息子の結婚式でね」 「息子さんって……達夫《たつお》くんか! もうそんな歳か、あのぼんが」 「二十八になります。とうとう島には戻らんとこっちで所帯を持つことになってしまって。岩屋の先祖に顔向けが出来ん」 「その点ではわたしなんか、もうどうしようもないですよ」 「藤次郎さんは島一番のエリートやったから、東京が似合うてるんですわ。それより、藤次郎さん、ちょっと時間もらって会えませんかね」 「いや、そりゃわたしは会いたいけど、どうせ暇な引退爺ィだからね。しかし結婚式でいらしたんじゃあ、いろいろ忙しいんでしょ?」 「ニューオータニいうホテルに泊まってるんです。式とか披露宴は明日でね、終わってから新幹線で岡山あたりまで戻ってもどうせ船がないから、明日も泊まって、あさっての朝帰るつもりです。今夜か明日の夜、飯でも食いながらどうかなぁと」 「それなら、明日の夜はいろいろあるだろうし、今夜にしませんか。六時にニューオータニの、ガーデンラウンジ、あのね、大きな庭の見渡せるコーヒーショップと言って聞けばわかりますから、そこでどうですか」 「すみません、よろしくお願いします。ほんならまた」  受話器を置いてから、藤次郎は思わず、妻の遺影を見つめた。  岩屋作造が折り入って話とは、いったい何だろう? 作造とは中学まで同級生だったが、高校から岡山に下宿してしまった藤次郎は、以来、盆と正月の帰省以外で島に戻ることもなく暮らしてきた。大学を卒業した時に、村長候補として島に戻ってほしいという話はあったが、藤次郎にその気はなかった。そうして一度島を離れて生活してしまうともう、たまに島に戻っても昔の同級生との間には越えようのない溝のようなものが出来てしまって、それを感じ取って気を遣わなければならないのもまた面倒で、帰省する時間はどんどん短くなり、回数も減った。藤次郎の両親は、もう二十年近く前に相次いで亡くなっていて、一人っ子だった藤次郎は吾妻の家を人に貸したままにしている。親戚は多いし藤次郎の父親は本家筋ではないので、藤次郎夫婦に子供が出来ず、島に戻ることはないと知っても、島の誰かにひどく悪《あ》し様《ざま》に言われるというようなことはなかったが、同時にもう、存在を忘れられているようなものではあった。  一方、岩屋作造は今では島の重鎮と言っていい立場にいる。もともと岩屋の家系は、島の重要な祭りを仕切る役割を代々|担《にな》っていて、本家は島にひとつだけある神社の神主を世襲している。作造のところは分家だが、そちらは村長だの小学校の校長だのと、島の要職に就く者を多く輩出し、いわば名家である。作造も定年まで村役場で助役を勤め、他にも青年会の会長を二十五、六の頃から四十歳の定年まで務めるなど活躍し、今では島独自の制度で設けられている、島民相談役の一人となっている。  簡単に言って、藤次郎の人生と作造の人生とはもう、中学を卒業したあの日以来交わることもなく離れたままで、ほとんど無関係なものになっているのだ。その作造が、いったいなぜ、わざわざ自分に連絡して来たのか。そして、息子の結婚式で慌ただしい最中に、会いたいなどと言い出したのか。  いろいろと可能性を思いめぐらしてみたが、これと言って当たっているような理由は見つからなかった。案外、ただ懐かしいから会いたいとかそんな理由なのかも知れない。せっかく東京まで出て来たのだから、島の関係者の中でたったひとり東京に住んでいる自分に連絡したくなったとしても、さほどおかしなことではないだろう。  藤次郎は冷めてしまったスープにがっかりして、また鍋を火にかけた。くつくつと、とろみのある液体が熱で踊り出す。  いい香りだ。食欲が湧く。  今夜は作造をどこに誘おう? どんな店で何を食べさせてやろうか。  ひさしぶりの外食の誘いに、藤次郎ははしゃいだ気持ちになっていた。     4 「指紋の照合なんて、素人に出来るわけないだろう」  係長の田無は、苦り切った顔で言った。 「警察に頼まないと無理だよ。しかし警察はそんなに暇じゃない、そんな、社内で誰がFAXを使ったのかなんてことで頼めると思うかい?」 「だけど係長、これってすごく悪質な業務妨害ですよ。実際に損害が出てるじゃないですか」  織部貴美は唇を尖らせてまくしたてている。 「こんなことたびたびやられたら、あたしたちまともに仕事、やってられなくなりますよ!」 「しかしこれ、どうしてこっち側に写ってるのかなぁ」  水谷|衛《まもる》がのんびりとした声で言った。 「FAXを送る時、紙は伏せて置くんだから指紋は裏につくはずなんだけどな」 「油か何かが指についてたのね、きっと」  董子は、小声で言った。 「だから紙を通して表に滲《にじ》んだのよ」 「それにしては鮮明じゃない? 滲み出したものだとしたら、こんなにはっきりとわかるかな。これやっぱり、FAX機に載せる前に付いたんだと思うな、表側に」 「そんなことどっちだっていいじゃないの、水谷さん! 表についてようと裏についてようと、指紋は指紋なんだから。そんなことよりね、指紋っていうのは決定的な証拠なんだから、これを利用してともかく犯人を突き止めないと。このまま放置したら図にのってまたやるわよ、こいつ」 「こいつ、って、これ、女の小指だぜ」 「男の人にだって指先が小さい人はいるわよ。女って決めてかからないで欲しいな」 「どっちだっていいよ。問題はさ、この指紋をどう使ったら犯人が見つかるかってことでしょ。まさか織部さん、社員全員の小指の指紋を集めろなんて総務に依頼するつもりじゃないよね」 「どうしていけないの? それがいちばん手っ取り早いじゃないの」 「織部くん」  田無は呆れた顔で肩をすくめた。 「指紋っていうのは高度な個人のプライバシーなんだ。警察だって理由もないのに本人の承諾無しで指紋を採取したりしたら、人権問題になるんだよ」 「だけど!」  貴美は頬を膨らませた。 「今度のことって、あたしの仕事にケチつけられたんですよ。ううん、あたしはまだいいけど、先家さんなんか営業の松本さんにひどい言い方されたんですから。ちゃんと説明しておかないと、あたしたちが無能なんだと思ったまんまですよ、あの人!」 「わかった、わかった」  田無は両手を軽くあげて降参した。 「宣伝部長に相談して、総務の方にはきちんと伝えておくよ。確かにこれは業務妨害には違いないからな、黙って放置しておくわけにはいかない。しかし織部くん、指紋のことはあんまり言い触らさないようにしてくれないかな。さもないと、君と同じように過激な意見を持ち出す人が出て来るかも知れないからね」 「先家さん、あたしの意見って過激だと思いますぅ?」  自分の席に戻ってからも貴美はふくれっつらのままだった。 「せっかく指紋がとれたのに、あれを利用しないなんて変だと思うんだけどなあ。プライバシーがどうのとか言ったって、別に警察に登録しちゃうわけじゃないんだし、一度照合したらすぐ処分しちゃえばいいことじゃないですか、ねぇ。民間の調査会社にだって絶対、指紋の照合技術ぐらい持ってるとこはありますよ、探せば」 「ねぇ、貴美ちゃん」  董子は水谷がどこかに出て行き、田無も消えてしまったことを確かめてから言った。 「あなた、津田さんのことって憶えてる?」 「津田さんって」  貴美が目を丸くし、それから声をひそめた。 「あの、自殺しちゃった津田さんのことですか?」  董子が頷くと、貴美は小さく首を横に振った。 「あたしはそんなには。宣伝一係にいた人ですよね? あたし、ちょうど津田さんがその、亡くなった頃にここに異動になったから」 「そうだったわね……」 「あの、津田さんのことが、どうかしたんですか?」 「別にどうかってことはないんだけど……ちょっと思い出しただけ」 「雪の日にビルから飛び降りたんでしたよね……新聞にも記事が出てました。自殺の原因って何だったんですか? 先家さん、津田さんとは」 「同期入社よ」  董子は言って、書類の束を手元に引き寄せた。 「でも、自殺の動機は知らないの。誰も知らないんじゃないかな……遺書はあったけど、とても簡単なものだったらしいから。さ、早く片付けないとほら、もう昼休みよ。午後一で大新広告に行く予定、あったでしょ」 「あ、そうでした! ああ、あたし大新広告の真壁さんって苦手なんですよねぇ、あの人、なんか目つきが嫌らしいんだもの。前に座ると膝のあたりばっかり見てるから、膝頭をしっかりくっつけておかないとならなくてくたびれるし……」     * 「待ってて」  沢村《さわむら》真希は、董子の顔を見ると嬉しそうに手を振った。 「今、これFAXしたら行く」  真希はハンバーガーの包みをがさごそさせながら言った。 「珍しいじゃない、董子からお昼、誘ってくれるなんて。最近ずっと御無沙汰だったから」 「ごめんね、後輩の子がくっついてるもんだから」 「あの織部さんって子ね。あの子、ほんと董子になついてるよね」 「明るくてはっきりしたいい子よ」 「最近の若い子ではっきりしてない方が珍しいわよ。あたしんとこの新人なんてさ、ちょっと聞いてくれる? 先輩、今日のブラウスいいですね、ってほめてくれるのはいいんだけど、その後にこうよ。先輩の顔って地味目だから、そういうはっきりした色の方がいいと思いますよ、顔がぼけなくて、だって! ふざけんじゃないって言うのよ、ぼけてんのはどっちなのよ、ったく。自分の言いたいことを相手の気持ちも考えないでズケズケ言うのが自己主張だと勘違いしてんのばっかりなんだから」 「真希んとこは営業でみんな総合職だから、そのくらいの性格じゃないと勤まらないのよ」 「図々しければいいってもんじゃないのよ、営業って。相手の気持ちを読む繊細さも必要なの。それがわかんないで、ただ若い、珍しいってだけでちやほやされてさ、いざ契約って段階になってしらばっくれられたり、とんでもない条件突き付けられたりして、騙《だま》されたとかって泣き言言われても面倒みきれないわよ。つい最近もそういうのがあってね、しかも担当した子がその場で条件が違うって言い出せなくて、信じられない条件で契約して来ちゃったのよ。もう後でそれを取り消してもらうのに、どのくらいお金と手間がかかったか。そいつのせいで先週は丸々、自分の仕事がまともに出来なかったんだから。この分だと今度の査定、ランク落ちになりそうよ。ほんと憂鬱」 「真希は相変わらず、バリバリだね」  董子は威勢良く食べている真希の口元を見ながら溜め息をついた。 「それに引き換え、あたしはもう枯れて来ちゃったって感じ」 「何言ってんのよ、董子。うちみたいな保守的な会社でさ、女性係長候補は珍しいんだから、頑張ってくれなくちゃ。だいたい会社も臆病よね、和田さんが出向で席が空いたんだから、さっさと董子を係長にすればいいのに、女で二十代だからって理由だけで田無さんになっちゃったんでしょ。田無さんなんて、宣伝の経験なくて、しかももともと総務で係長だったのよ。本当ならそのまま総務で出世したかったでしょうに、本人も内心迷惑してるんじゃない?」 「事務要員はリストラしろって銀行に指導受けたから、人員が増やせないだけよ」 「人員が少なくなったからこそ、女子社員の存在価値が高まったわけよ。何ごとも物事はいい方に考えないと、目の前暗くなっちゃうもんね」 「真希の言う通り」  董子も自分のサンドイッチをかじった。 「物事はいい方に考えないと、ほんと、そうね……あのさ、あたし……勝昂と別れることになると思う、たぶん」 「うっそ」  真希はレタスの切れ端を口からはみ出させたままで目を丸くした。 「冗談でしょ? だって董子、結婚するつもりだったんじゃ……」 「結婚したいと思ったことはなかったの……それは本当。でも、別れたいとも思ってなかった」 「だったらなんでよ」 「向こうがね」  董子は肩をすくめた。 「たぶん……他につきあってる女がいるんだと思うんだ……証拠とかあるわけじゃないけどね。だけどそういうのって……わかるじゃない? 何となく。もう何ヶ月も、金曜の夜に誘ってくれたこと、ないし。一月の三連休だって、出張だって……でも嘘だったんじゃないかな。休み明けに会ったら雪焼けしてたのよ。スノボーでもやりに行ったんだと思う。別の誰かと」 「董子……それ、赦《ゆる》したわけ?」 「赦したわけじゃない。でも、問いただして白状させたところで、もう元には戻らないでしょ。勝昂には他に好きな女が出来ちゃった。そればっかりは、どうしようもないよ」 「どうしようもない、で済ませていいのかなあ」  真希は腹立たしげにハンバーガーの包み紙を丸めた。 「正式に婚約してなくたって、そんなに簡単に不誠実なことしていいわけないと思うけどなあ。董子も董子だよ、ちょっと物わかりが良すぎない?」 「だって……じゃあどうすればいいの? 泣いて騒いで、勝昂をなじって……それで、その後どうする?」 「どうするって……」 「捨てないでって頼む? 真希なら」 「あたし……あたしは……」  真希は大きく溜め息をついた。 「やっぱ言えない、か……何も。何かねぇ……昔の女の人なら取り乱して騒いだのかなぁ、こういう時。最近さ、すがりつく、みたいなのって流行らないもんね。あたしも出来ないか……みっともないし。でも……釈然としないよ。吉川《よしかわ》さん、そんな人じゃないと思ってたんだけどなぁ」 「ねえ」  董子はストローから口をはなした。 「真希も憶えてるよね、あの時の合コン」 「あの時って、吉川さんと董子が初めて会った?」 「うん。あの時さ、愛果もいたんだよね……確か」 「愛果……」  真希はまた驚いた顔になった。 「愛果って……津田愛果?」 「セッティングしたの、真希と久留米《くるめ》さんだったよね」 「うん。久留米さんはサークルの先輩でさ、おまえの会社と合コンさせろーってうるさかったから。でもあの時の合コンでくっついたのって、結局董子と吉川さんだけだったね。でもどうしたの、急に愛果のこと、持ち出したりして」 「愛果ってさ……いったい誰のこと書いたんだと思う、遺書に」 「遺書ってあの……好きよ、ってやつ?……わかんないわよ。あの時だって愛果のご両親は随分調べたらしいけど、結局わからなかったって……あんな遺書を書いたくらいだから、自殺の動機が失恋か何か、恋愛のトラブルだったんだろうって想像はつくけど、でも相手が誰だったのかはまるでわからなかった。あたしたちだって、愛果が誰かとつきあってるなんて話、聞いたことなかったじゃない。そりゃあたしたちだって、同期入社だったんだもの、愛果を自殺にまで追い込んだ男が誰なのか暴いてやりたいとは思ったけど……愛果って用心深かったんだよね。日記みたいなものも残してなかったし、自宅のパソコンのメールも、ボックスごと消去されてたんだって。死のうと思った時に後になって詮索されないように消したんだろうって、愛果のお母さんが言ってたけど。だけど何だか悲しいよね。そこまで徹底的に何もわからなくしちゃう必要、あったのかなって。だって死のうとまで追い詰められるほど、その相手にひどいことされたわけでしょう? きっと裏切られたのよ、それなのに、その男の名前までこの世から綺麗に消して逝っちゃったなんて。それじゃ愛果が死んだって、相手の男は全然困らないじゃない。むしろいなくなってくれてホッとしたなんて思ったかも知れないのよ。そんなのって、ある? どうせ死ぬなら、って言い方は変だけど、名前は誰でどんなことされて、どれくらい悔しかったとか悲しかったとか、洗いざらい書いて遺してくれていたら、愛果のご両親だってその男に恨み言ぐらいぶつけてやれたわけじゃない。さっきの話じゃないけど……裏切られた方が物わかり良すぎるのって、やっぱり何か違う気がするんだよね……」  董子は、津田愛果の顔を思い出していた。  美人と呼べる顔だちだったとは言えないかも知れない。だがどことなく愛くるしい感じがあって、男性社員には人気があったのだ。決して、丸きりもてない女の子、というわけではなかった。それなのに、愛果には男性関係の噂が一度もたったことがない。  愛果が自殺した直後、犯人捜しのようなことが一部の社員の間で行われたのは事実らしい。しかし結局、愛果と交際していた男が誰なのかはわからなかった。たぶん、社内の人間ではないのだろう、誰も知らない外部の男なのだろう、ということで犯人捜しも終わってしまったようだった。  好きよ。  愛果は、あの言葉を誰に対して遺したのだろう? 「愛果って、FAXを送る時に小指で押さえる癖があったの、知ってる?」 「え?」  真希がストローを唇で挟んだまま聞き返した。 「何を小指で押さえるって?」 「FAXを送る時にね、原稿を、こう」  董子は愛果の仕種《しぐさ》を真似て見せた。伏せた原稿の右隅に小指を休めるようにして、紙が動き出すまでそのまま小指を押し当てていた仕種。 「今日、青葉印刷にうちが発注したパンフレットでトラブルが起こったのよ。こちらの指示が青葉印刷に伝わっていなくて」 「へえ、珍しいじゃない。青葉印刷ってトラブルが少ないと思ってたけど」 「うん、今回も向こうの責任じゃなかったの。誰かわからないんだけど、わざと間違った指示を青葉印刷に流した人間がいたのよ、FAXで」 「……何よ、それ。つまり業務妨害ってこと?」 「そう。損害額はそうね、青葉印刷が気をきかしてくれたんで、二十万円くらいで済むかしら」 「済むかしらって……誰かがわざと宣伝課の業務を妨害したってことなんでしょう? それ、大変なことじゃない! 犯人、わからないの?」  董子は首を横に振った。 「送信元はうちの宣伝課のFAXに間違いないの。だけど文字はすべてワープロ文字だし。名前はあたしになっていた」 「まさか……まさかそれじゃ」 「うん、あたしに対しての嫌がらせだったかも知れないね。でもそれもわからない。青葉印刷があたしの名前なら信用するだろうと思ってあたしの名前を使っただけで、宣伝課、あるいは二係に意地悪が出来ればそれでよかったのかも知れないし。ただひとつね……これ、誰にも言わないでくれる? 田無係長にも言うなって言われてるから」 「うん、いいけど」 「その青葉印刷に送られたFAXに、指紋が付いていたの。たぶん、小指の指紋」  真希は一瞬黙った。そして、それから笑い出した。 「ちょっと、やだぁ董子。それって怪談のつもり? まさか愛果の幽霊がFAXを送ったとか言い出すんじゃないでしょうね」 「そんなことは考えてない」  董子も笑った。 「そうじゃなくて……愛果の癖を知っていた誰かがやったことなんじゃないか、そうちょっと思ったのよ。小指の指紋を見てあたしが驚くことを予想して」 「誰かって、誰がそんなことするのよ」 「全然わかんない」  董子は肩をすくめた。 「もちろん、考え過ぎだとは思うわ。実際、はっきり指紋とわかるようについていたってことは、原稿の裏じゃなくて表についているってことだって、水谷くんに指摘されてなるほどな、と思ったし。小指だったのも、指紋のついていた位置も、愛果の癖を連想させたのはただの偶然なんでしょうね……」 「董子」  真希の声の調子が変わった。 「やめてよね、変なこと考えるのだけは」 「変なことって?」 「愛果みたいなことだけは、しないでよね! そりゃ愛果だって辛かったのかも知れない、あそこまで追い詰められて可哀そうだったかも。でもお葬式で、遺された愛果のご両親の悲しむ様子を見たら、やっぱり愛果、あんたは身勝手だよって怒鳴ってやりたくなった……よくないよ、あんなこと、絶対したら駄目だよ。董子、お願いだから……」 「真希」  董子は手を伸ばし、真希の細くて長い指を数本まとめて掴んだ。 「ありがとう、真希。だけど大丈夫。勝昂のことであたし、死にたいなんて思わないから、絶対。何かもう……吹っ切れたの。昨日ね、勝昂と待ち合わせしたのよ。あいつ二十分も遅れたの。いつもそうなのよ。つき合い始めた最初の頃だけだった、あいつが時間を守ったのって。いつもいつも、あいつは遅れて、あたしは待たされた。二十分、三十分なんて当たり前になって、ひどい時は二時間半も遅れて来て、それでもあいつはごめんね、しか言わなくなった……あたしがじっと座って待った二時間半の時間に対して、ごめんね、だけ。仕事が忙しいから仕方ない、それがあいつの言い分なの。昨日、あたし、二十分で嫌になって帰ったのよ。勝昂を待っているのに疲れちゃって。そしたら今朝、あいつ電話で、すごく怒ってるの。あたしが約束をすっぽかしたって」  董子は、真希の指を握ったままで笑った。 「はっきり言って、もう、たくさん。勝昂のこと、今でも好きなのは間違いない。本当は別れたくないと思っていることも否定しない。今もしあいつが、別れようって言い出す代わりに結婚しようって言ったら、あたしきっと、うん、て答えてしまうと思う。……だけど、それでもやっぱり、もうたくさん、うんざりなの。あたしだけ待ち続けて、それが当たり前だと言われるのはもう、おしまいにしたいの」  真希は瞬きもしていない。董子は気づいた。真希は、あたしの顔を見ているんだ……あたしの頬に流れてる、涙を。  真希が空いている方の手でポケットを探り、ハンカチをそっと差し出した。董子は笑って手を振り、自分のハンカチを取り出した。  頬に押し当てると、ファンデーションが浮き上がってハンカチを汚した。  嫌になる、と董子は思った。まったく、嫌になる。  泣くつもりなんて、まるきりなかったのに。     5  ガーデンラウンジは思っていたよりも混んでいた。  作造の姿が見つからないと困るな、と、藤次郎は広い店内を見回したが、すぐに、一流ホテルらしい制服に隙なく身を包んだボーイがやって来て、お客さまは吾妻様でいらっしゃいますか、と声を掛けてくれた。藤次郎は内心、作造がそこまで気を配っていたことに驚きながら頷き、作造が座って待っていた窓際の席に案内された。 「待たせてしまったかな」  藤次郎が言うより早く、作造が立ち上がって藤次郎の手を握った。 「ありがとう、時間を作ってくれて、ありがとう」  藤次郎は面喰らった。作造の様子が明らかに変だ。三、四年前の正月に島に帰った時、作造の他、数名の同窓生と酒を飲んだが、その時は藤次郎のことなど誰も取り立てて構おうとはしなかった。むしろ、島を捨てて東京の人間に成りきってしまった男のことはどうでもいい、そんな感じですらあった。 「いや、どうせ暇なんだ。もう定年退職してしまったから」  藤次郎は作造の手をそっと握り返してからほどき、作造を座らせて自分も椅子に座った。  藤次郎は紅茶を注文した。 「今夜は、何か食べたいものがあるかな、作造さん。島の魚を食べつけてるとこっちでわざわざ魚を食べたいとは思わないだろうし、肉でも食べに行きますかね?」 「何でもいいです、わたしは」  作造は、せわしなげに自分の指を握り合わせ、開いたり閉じたりしている。何か大きな心配事があるのだ、と藤次郎はやっと気づいた。作造は、何かを藤次郎に相談したくて会いたいと電話して来たのだ。  もう日が落ちていた。ニューオータニ自慢の庭園は闇に沈んでいたが、その向こうに新宿副都心のあかりだろうか、いかにも東京らしい夜景が輝いて見えている。 「何か、困ったことがありましたか」  藤次郎は運ばれて来た紅茶をすすってから、静かに言った。 「わたしで役に立てることだったら出来るだけのことはするから、話してみてくれないかな、作造さん。わたしは村を捨てたろくでなしだ、村の為には何ひとつ貢献していない。そんなわたしをあんたみたいな人が頼ってくれたというのは、それだけで嬉しいですよ、作造さん。だから、遠慮しないで話して下さいよ」  作造は、長い溜め息をついた。  作造の吐き出した息が、ガラスを突き抜けて庭園の闇に溶けて行ったような錯覚に一瞬、藤次郎はとらわれた。 「先家《さくや》の墓が割れた」  作造の声は、とても低く、かすれていた。 「先家の……墓が」  藤次郎も驚きで声が出なかった。 「いったい……どうして。雷か?」  作造は激しく首を横に振った。 「雷の痕跡はなかった。ほんの一週間ほど前のことや……いつものように俺のとこの本家の兄さんが、社《やしろ》の掃除に出て墓を通って戻ろうとして、気がついた。あの大きな岩が……まっぷたつに割れていた」 「岩と言っても、あれはたぶん玄武岩《げんぶがん》だ」  藤次郎はわざと明るく言った。 「色が黒かっただろう? 玄武岩は割れやすい層が積み重なっているような構造をしているんだ。だからその層のところですぱっと割れる。どんなに大きな岩でもね。作造さん、心配することはない。岩の寿命が来ただけのことだ」 「先家の婆様はもう長くない」  作造は、藤次郎の慰めなど聞いていなかった。 「墓が割れたのは、婆様の力が弱まったからや。もし婆様が死んだら……死んだら……」  作造は顔を覆った。 「一刻の猶予もない。あの娘を探さないと」 「娘って、先家の家から逃げた嫁が連れていた、董子とかいう娘のことかい?」 「あの嫁も娘も、まだ先家の籍に入ったままや」 「しかし戸籍上の本名を使っているとは限らないからなあ。それにいったいどこにいるのやら……大阪あたりだとは思うが」 「東京におる」  作造が、きっぱりと言った。 「八、九年前に婆様のところに董子から電話があって、パスポートを取りたいので戸籍謄本を送ってくれと言って来た。当時はまだ婆様もからだが動いたから、言われた通りに送ってやった。それが東京の住所やったそうや。しかし、墓が割れた日にすぐその住所に連絡してみたが、もうとうに引っ越ししてしまって行方がわからなかった」 「それでは今でも東京にいるかどうかは……」 「あんたと同じや、藤次郎さん。一度東京に住んだ若いもんは、よほどの理由がない限り東京を出ん」  それは思い込みだ、と藤次郎は思った。東京での生活は、作造たちが考えているほどおもしろおかしくもないし、楽でもない。東京生活に疲れたり嫌気がさしたりしてよその土地へと出て行く若者は、決して少なくはないのだ。だが出て行く若者の何倍かの若者がまた東京に入り込んで来るから、東京にはいつも若い人間が溢れていることになる。  しかし藤次郎は反論しなかった。作造にとって、先家董子は東京にいるのだと信じることが、今は何より大切なのだ。 「探して下さい」  作造がいきなり額をテーブルにつけた。 「いきなりこんなこと頼んでほんまに申し訳ない。しかし他に頼める人間がおらんのです。先家董子を探して下さい。金はいくらかかってもいい、島が責任持って払います。だから、なんとかしてあの娘を……さもないとまた、また五十年前と同じことが起こる……」  五十年前と同じこと。  藤次郎は、遠い遠い記憶を探そうと目を閉じた。そして、戦慄した。  その記憶は曖昧で頼りなく、実体がない。それは無理もなかった。藤次郎は実際にそれを見たわけではないのだ。ただ噂で聞いただけだった。だがそれでも充分だった。藤次郎は噂だけで脅え、恐怖で眠れない夜を数日、過ごした。あの時感じた皮膚を刺すような怖ろしさが、今、甦っていた。 「あの娘がいなければ……婆様はもう長くない。早く探さなければ……探さなければ……」  うわ言のように繰り返す作造の唇の脇には、白い泡が溜まっていた。  藤次郎は頷いた。  頷きながら、妻が生きていればよかったのに、と思っていた。     6 「いや、助かりました。本当にありがとう」  藤次郎が言うと、受話器の向こうで葉山《はやま》が明るく言った。 「こんなことはなんでもないですよ、吾妻さん。僕なんかのことを思い出して電話していただけて、嬉しかったです。吾妻さん、お元気でやっておられますか」 「まあ何とか、この歳になってこれと言って悪いところもないみたいなんで、運がいい方なんでしょうな。二、三ヶ月ほど前に採血して血液を調べたんですが、ちょっと中性脂肪が多いくらいで」 「うらやましいなぁ。僕なんか吾妻さんより十歳も若いのに、もう会社の健康診断結果、ぼろぼろでしたよ。ほとんどの項目が再検査です。幸い、まだ糖尿だけにはなってないんですが、医者からは、あと十キロ痩せないと危ないとおどかされてます」 「葉山くん、定年後のことはもう?」 「再就職は難しいですね」  葉山の声が少し曇った。 「この御時世ですからね、まあ仕方がない。働き盛りで子供の養育費や住宅ローンに追われている人たちが大勢失業しているのに、定年後まで安定した給料をもらい続けようたってそうはいきません。口がまったくないわけでもないんですが、通勤に二時間半もかかるところだったり、職種がね、僕には無理だと思うようなものだったり。しかもいずれにしたって、今の給料の七割も貰えない。この一年ばかりいろいろ当たってはいたんですが、結局、そうまでして働き続けなくても、と思うようになりました。かと言って貯えがたくさんあるわけではないですから、遊んで暮らすことも出来ないんですが、ま、年金が出るまでの間は息子の店の経理をやらしてもらって、何とかしのぎます」 「葉山くんはいい息子さんがいるからな、うらやましいよ」 「あれで若い頃は本当に悪くてね、苦労ばかりかけさせられたんですよ。吾妻さんにも随分、愚痴をこぼさせてもらったじゃないですか。会社だってあいつは何度変わったか、もう本人も憶えてないくらいです。バブルの真っ最中に居酒屋のフランチャイズ権なんか買って、本当に水商売なんか出来るのかと、こっちは痩せるほど心配しましたよ」 「しかし、独立して軌道にのっているんだから大したもんだ」 「大元の会社がバブル崩壊で倒産しちゃって、やむを得ず独立したんです。その時だって、資金の大半は僕が出したんですからね。あの時、社員持ち株のほとんどを処分させられましたよ。まあ、その貸しっぱなしの金を給料って形で少しずつ返してもらう、そういう話なんです。人様に自慢出来るようなもんじゃありません」  葉山は明るく笑った。  葉山とは歳が離れているのに、なぜか社内ではいちばん気の合った飲み友達だった。藤次郎は総務部、葉山は経理部と畑は違ったが共に根っからの事務屋気質で、営業だの企画だのといった派手な仕事をやる連中を横目で見ながら数十年、残業帰りの居酒屋の一杯を共通の趣味にしてきた仲間だ。藤次郎が定年を迎えてからは電話で互いの近況を交換するくらいの関係にはなっていたが、それでも、葉山の声を聞くとつい、どうです一杯、と言いたくなってしまう。藤次郎が在籍していた時代には定年が五十八歳だったのに、折からの不況で実質定年が早まってしまい、今は五十三歳から自主退職を受け付けた上で段階的に退職金の割り増しが減る制度が導入されて、葉山もその五十三歳を迎えて人生の決断を迫られていたところだったようだ。  しかし、元は自分の金とはいえ、この不況の中で立派に商売をしている息子から給料を貰える身分になるというのはなかなかいい話だ。妻が三十代を過ぎても妊娠しなかったことで、子供を持つことについては自分なりに心の決着をつけ、考えずに生きることを選んでそのこと自体に後悔はなかったが、それでも、こうした話を耳にすると正直、うらやましい、という言葉が出てしまう。 「では、早速、連絡してみるよ」 「そうですね、僕の方からも電話しておきます。兄の話だとこの事務所の所長は若いが信用出来る男だそうですから、安心して任せたらいいですよ」  葉山が請け合い、藤次郎は受話器を置いた。  葉山に紹介してもらったのは家出人の捜索では定評があると言われている私立探偵事務所だった。藤次郎自身も長年、上場企業の総務部にいたということがあって、企業情報や経済、株などに強い興信所ならばいくつか心当たりがあったが、若い娘をひとり探してもらうとなると、そうした興信所はまず相手にしてくれないだろう。餅は餅屋、探偵事務所や興信所にも得手不得手があるのだ。  葉山の実兄は都内の大手興信所に勤めていた経歴がある。そのことを思い出した藤次郎は葉山に、若い女の居場所を突き止めるような仕事を得意とする探偵事務所を調べて貰えないかと昨夜、作造と会ってから自宅に戻って、夜分の電話に遠慮しながら手短に頼んでみたのだが、その返事がもう来たというわけだった。  藤次郎はメモした電話番号と住所を手帳に書きつけ、日課になっている朝の散歩は諦めて、食事の支度を始めた。     *  その探偵事務所は新橋駅のすぐ近くにあった。雑居ビルの一フロアだけで営業しているらしい。藤次郎は若干不安になった。常識として知っていたとは言え、企業が顧客になっている大手興信所と、個人経営で人探しや浮気調査を主な仕事にしている私立探偵事務所とでは、規模の大きさに想像以上の開きがありそうだ。  しかし、古びたエレベーターを上がって簡素なドアに手をかけると、オルゴールのような音楽が流れ出したのには驚いた。それが来客を知らせるチャイムのようだ。  KHI探偵事務所、という変わった名前が付いているのだが、その理由は小さな受付カウンターを見て理解出来た。  主任探偵三名の顔と写真、プロフィールに実績が、パネルになって飾られているのだ。  吉良《きら》功一《こういち》。  速水《はやみ》佑司《ゆうじ》。  伊勢《いせ》真利子《まりこ》。  それぞれの頭文字をとってKHI、というわけである。ちらっと経歴を見ると、吉良と速水はそれぞれ大手興信所勤めの経験を持ち、伊勢真利子は元警察官だった。所長は吉良功一で、年齢は四十二歳。 「おはようございます」  もう午前十一時近かったが、現れた女性はにこやかにそう挨拶した。 「はじめてのお客さまでいらっしゃいますね? どうぞ、こちらへ」 「あ、電話で」 「吾妻藤次郎様ですか?」  藤次郎が頷くと、女性は丁寧に頭を下げた。 「所長から聞いております。所長は十一時までに戻る予定でしたが、先程電話がありまして、用事が延びて少し遅れるのでお待ちいただくようにとのことでした。申し訳ありません」 「いや、わたしの方こそ、今朝電話してすぐにでもなどと無理を申し上げたんですから。さすがに繁盛していらっしゃるんですね」 「時代が時代ですから」  女性は曖昧に微笑んで、藤次郎をカウンターの後ろの応接セットに案内した。  藤次郎はここに来る寸前まで迷っていたし、吉良を待って座っている間中、やはり自分のしようとしていることは間違っているのではないか、という懸念を頭から追い払うことが出来ずにいた。  作造に、先家董子を探してくれと頼まれた時、藤次郎はどうすればいいのか判断に困ったのだ。妻の滋子が生きていてくれたらと思った。滋子ならば、どうすればいいか適切なアドバイスを自分にくれただろう。滋子は無邪気な女だったが、それだけに物事の真実をたちどころに見抜き、どうすれば己に正直でいられるかを即座に判断する不思議な力を持っていた。彼女の透明な判断力で助けられたと感じたことは、一度や二度ではない。  先家董子の母親、美津《みつ》は、幼い董子を連れて島を逃げ出した女だった。逃げた理由はいろいろと取沙汰されている。董子の父親、健作《けんさく》は酒乱だったという噂、あれは本当のことだろう。健作は藤次郎にとって中学までの後輩にあたるが、歳が離れていたので顔すらろくに知らない。だがごくたまの正月に島に帰った時、先家のところの息子が酒で暴れた、というような話はたびたび耳にしていた。その健作のところに嫁いで来たのは、神戸の女子大を出たとかいう大変な美女だった。それが美津で、彼女のことはさすがに島でも評判になり、藤次郎も興味を抱いたことはある。しかし、島からほとんど出たこともない健作のところにどうした縁でそんな女性が嫁いできたのか、そのあたりの事情はまるで知らない。  健作は酒癖が悪かった上に女癖も悪かったらしい。そして、島の女に子供までもうけさせてしまったのだ。生まれた子は可哀想なことに二歳足らずで病死したと聞いた憶えがあるが、美津が島を逃げ出した最大の原因は、その子供の死にあったのだ。  先家は、「封じ込めの家」と呼ばれる家系だった。先家の家に生まれた女は代々、島におよぼされる禍《わざわ》いをその墓の下に封じ込める力を持つとされてきた。もちろん藤次郎はそんな迷信を信じてはいない。おそらくは、世間から隔絶された島に根強く残ったシャーマニズムの名残りで、そうした話が伝えられているのだろうと思う。実際、藤次郎の出身地であるその「真湯島《まゆしま》」は、瀬戸内海に浮かぶ非常に小さな島だったが、邪馬台国の卑弥呼の子孫である伊予が九州から東に移動した際に、伊予の娘のひとりが島に渡って住み着いたという、本当とはとても思えない伝説まで残っている。だいたいが邪馬台国が九州にあったということ自体まだ立証されていない仮説に過ぎないわけだから、そうした類の伝説はどれもこれも、民話のひとつだと受け止めておいた方がいいだろう。  だが藤次郎がどう思おうと、そうした伝説を信じている人々はちゃんと島に住んでいる。  先家健作の妾であった女の子供が死んだ時、その女はあまりの悲しみに理性を忘れ、自分の子供は先家の女に呪い殺されたのだ、と言いふらして歩いた。それも、呪いをおこなったのは、当時まだ小学生だった董子だとその女は言ってまわったのだ。それは、藤次郎にとってはまったく馬鹿馬鹿しい戯《ざ》れ言《ごと》だったが、先家の女の力を信じる者たちにとっては説得力のある話だった。なぜなら美津には先家の血が流れておらず、健作の母親であり先家の女である婆様、梅子《うめこ》は「墓を封じる」ことでその全精力を使っていたので人を呪い殺したりする力は出せない、という理屈が通ってしまうからである。梅子は婿養子をもらっていて、その息子が健作だから、董子には先家の女の血がしっかりと流れていることになる。  小学生の女の子が子供を呪い殺したなどと、そんな馬鹿げた噂をたてられてしまったのでは、美津が娘と共に島を逃げたくなったのもわかるというものである。  そうした事情を知っていたので、藤次郎は董子を探すことにはかなり抵抗を感じていた。作造の余りに追い詰められた様子から思わず引き受けてしまったとは言え、探される先家董子にしてみたら迷惑この上ない話なのかも知れないのだ。本人にその記憶があるかどうかはわからないが、二歳にも満たない幼子を呪い殺したなどというひどい噂をたてられて母親ともども逃げ出したあの島に、今度のことがきっかけで無理に連れ戻されるようなことにでもなれば、さぞかし不愉快な思いをするだろう。  しかし今、藤次郎は迷いを吹っ切った。いずれにしても、先家董子があの島で生まれ、まだ本籍地がそこに残っていることは事実なのである。いっそこの際、先家董子に会い、本人の気持ちを確かめてしまった方がいい。美津が逃げてからすぐに健作が心筋梗塞であっけなく死んでしまい、このままだと先家の本家は事実上、梅子の死を以《もつ》て途絶えてしまうことになる。先家には分家もあるが、分家の「力」は本家の血に比べて劣ると島の人々は思い込んでいるから、梅子が死ねば董子を探して連れ戻せ、という話はどうしても誰かの口から出てきてしまうに違いないのだ。それならば、まだ梅子が生きている内に董子本人の意思を確かめ、島と縁を切るなら切るですっぱりとしてやった方がいい。 「お待たせいたしました。遅れてしまって本当にすみません」  ドアが開いて明るい声がした。  吉良功一が、藤次郎に向かってドアのところから頭を下げていた。     7 「わざわざ持って来ていただくなんて」  董子は恐縮して頭を下げた。 「いや、どうせ納品のついでだったから。先家さん、このFAXのこと随分気にしてたでしょ」  青葉印刷の石井が、よくある感熱紙に黒字で印字された紙を董子に手渡した。 「だけどこれが先家さんが出したものじゃないとすると、ちょっと問題だね」  石井は声をひそめた。 「何かの手違いならいいんだけど……まさか、誰かがイタズラしたの?」 「いえ、ただの手違いだったんです。こちらのミスでした。御迷惑をおかけして本当に申し訳ありませんでした」  董子は慌てて言った。石井は割合と勘の鋭い男で、完全に納得した様子ではなかったが、それでもそれ以上突っ込んでくることもなく帰って行った。  石井から受け取ったFAX紙は、転送してもらったものに比べてやはり鮮明だった。そして問題の指紋は董子が密かに恐れていた通り、どう見ても小指の先に見えた。 「それかい、問題のFAXは」  水谷が董子の肩ごしに覗き込んだ。 「うーん、やっぱり小指だろうな、それ。だけど、それで指紋照合は無理だね」 「ええ……青葉印刷から転送してもらったものと比較すれば鮮明だけど、線は滲んでくっついちゃってる。これ、紙の表側に付いていたのかしら、やっぱり」 「ちょっとわからないけど、ふつうに考えたらそうじゃないかなぁ。裏から染み通ったとしたら、もっとぼんやりするんじゃないか? いずれにしても、原本が見つかればいちばんいいんだけど」 「それは無理よ。誰がやったにしても、証拠になるようなものを残しておくわけないもの」 「てことは、犯人探しはひとまず諦めるしかないってことだな」 「水谷さん、心当たりないの?」  董子は少し意地悪く訊いた。 「あなた、けっこう女の子と噂、あるじゃない」 「なんですかぁ、噂って」  水谷は不服そうに唇をすぼめた。 「どうせ総務の田中とのことでしょ、先家さんの耳に入ってるのって。あれさ、ほんとに誤解なんだよね。俺、女に恨まれるようなつきあい方なんかしないもの、まじで。田中が勝手に誤解して、俺に裏切られたとかって言いふらしたんだよ。俺、はっきり言って迷惑しましたよ。けっこう惚れてたのにさ、あいつには」  水谷は董子よりひとつしか年下ではなかったが、学生時代に語学留学を経験している関係で、社歴は短大卒の董子の方が四年長い。そのせいで董子に対しては敬語をつかうことが多いのだが、ちょっと気がゆるむとすぐ気やすい口調になる。董子はまったく気にしていなかったが、貴美はそれを聞くと、水谷は女性を差別していると怒る。差別しているとまでは思わないが、水谷が董子よりも自分の方が優れていると思っていることは確かだろう。  ひと昔前とは違って三十歳を過ぎて女性が独身でいることへの偏見は、さすがにこの会社でもかなり減ってきたように思う。周囲を見回しても董子より年上で独身の女性は何人かいたし、それだからと言って特に彼女たちが疎《うと》まれたり蔑《さげす》まれたりしているようには見えなかった。しかしそれはあくまで表面的な観察から受けた「感じ」でしかなく、実際に彼女たちがどんなことを肌で感じながら毎日出勤してきているのかはわからない。  そして、他人にどう思われるか、という問題よりもっと董子にとって切実だったのは、自分がどうしたいのか、が実感として自分で掴めていない、ということだった。  仕事自体は嫌いではない。ルーチンワークが大部分とは言え、いちおうは広告宣伝の仕事なのでそれなりに創造性もあり、自分のアイデアを試す機会もある。一係のように派手なことは出来なくても、ただ数字とにらめっこしているような毎日ではなかったので鬱屈《うつくつ》するということはなかった。しかし、来年自分はどうしたいのか、再来年どうしたいのか、と長期的に考えてみた場合、自分の未来に明確なビジョンがない。この会社で将来どういうことをしたいのか、という希望がない。もしこのまま、誰かと結婚して退職する日が来るまで漠然と働き続けているのだとしたら、どんなに仕事を一生懸命していると言ったところで、結果的には「長い腰掛け」でしかないということになる。結婚して数年経てばこうして毎日働いていたことなど思い出に過ぎなくなり、周囲の誰もその思い出に対して評価を与えてくれはしなくなるのだ……夫でさえも。  それでいいのだろうか。  自分は、そんなただの思い出作りの為にだけ、毎日毎日満員電車に揺られて通っているのだろうか……ここへ。  生活費を稼ぐ為じゃないの。  心の声はそうこたえる。  董子は小学校二年の夏休みに、瀬戸内海の島を母親と共に出て、母親の実家がある神戸に移り住んだ。両親が離婚したのだということは、八歳の董子には充分理解できていた。だがずっと後になって実は離婚ではなく、ただ母親が自分を連れて家出しただけ、という状態であることを知った。法律的には、董子も董子の母親も、先家の戸籍に入ったままだったのだ。神戸に移って一年もしない内に、父親が病死したと知らされたが、母親は葬式に出ようとはしなかったし、董子も出たいとは思わなかった。何しろ董子には、実の父親の記憶というものがほとんどないのだ。父親はどこかよそで暮らしていて、ごくたまにしか先家の家に戻って来なかった。おとなになって、それが他の女の家にいたのだとわかっても驚きはまったくなかった。たまに顔を出しても父親は董子に優しい言葉ひとつかけるわけではなく、ただ董子の顔を見ては、女の子なんかつまらん、と呟くだけだったのだ。董子にとって父親の記憶は、いてもいなくても構わないほとんど見知らぬ男、というだけのものだった。  自分が成長して、母親の話から当時のことをいろいろと知ると、父親も気の毒な人間だったのだな、ということはわかった。先家という家はもともと、かなり特殊な家系だったのだ。詳しいことは知らないが、代々、女の子に特別な力が宿ると信じられていて、女の子だけが尊重されていた。それなのに祖母の梅子が産んだ子供は五人全員男ばかりで、本来なら跡継ぎとして残して養子をもらうべき女の子はとうとう生まれなかった。長男だった父親はそのまま本家に残ったがあとの四人は分家として独立し、期待は「生まれて来る女の子」にすべて注がれた。つまり、島の人々にとって董子の父親は、種馬に過ぎなかったのである。そんな状況が面白いはずはなく、期待通りに生まれた女の子に対して愛情を感じられなかったとしても、あながち父親ばかりは責められないだろう。董子の存在のおかげで、父親は種馬としての役目すら終了し、先家の本家にとってはいてもいなくてもいい存在になってしまったのだ。  董子が生まれた直後から父親はよそに女をつくって家に戻らなくなったらしい。そのことについては、母親も責めている口調ではなかったし、董子も憎悪は抱いていない。ただ漠然と、記憶の底にちらっと残っている酒に酔った濁った目をした男のことが哀れだと思うだけだった。  神戸での生活はそれなりに幸せだった。母親の両親と四人、質素だったが笑いの絶えない日々をおくっていた。やがて祖父が病死したが、母親も祖母も働いていたので短大には行くことが出来た。ただ、董子はその当時、東京に憧れていたのだ。どうしても東京の大学に通いたいと、反対する母親や祖母に懇願した。結果、短大なら、そして卒業したら神戸に戻るのなら、という条件付きで許可をもらい、進学した。つまり二年間だけ自由にしてもいい、ということだったのだ。だが結局、董子は二年の東京暮らしで満足出来なくて、東京に就職先を求めてしまった。  神戸が嫌いだったわけではない。それどころか、東京よりも好きだった。大好きだった。ただ、神戸には「いつでも帰れる」と思っていたのだ。東灘《ひがしなだ》にあった母の実家は、小さな家だったが庭までついていて、新幹線にさえ乗ればいつでもその温かい家には戻れるのだ、と思っていた。だからもうしばらく東京で暮らしてみたかったのだ。  就職して三年目。  何もかもがなくなった。阪神淡路大震災。  母も祖母も死んだ。焼けた家と共に灰になった。  猫の額ほどの小さな土地は、再開発の為の区画整理で市に買い上げられてしまった。支払われた金は、母の二人の兄たちが受け取って、最終的に董子の元に送金されてきたのは二百万円だけだった。相続税だの何だの払って、董子が進学する時に伯父たちが母に用立ててやった金を相殺するとそれしか残らないのだ、と伯父は電話口でさも済まなそうに言い訳した。それが本当のことなのかどうか、董子にはどうでもよかった。ただ、もう自分には神戸で帰るべき家がなくなってしまったのだ、という事実に打ちのめされていた。  あの日から、董子は自分がどこにも属さない根無し草のような存在になってしまった、という感覚にとらわれたままでいる。  どこにも帰るところがない。  故郷を持たない、存在。  この世界にひとりで暮らし、ひとりで食べて寝る存在。 「ねえ先家さん」  水谷の声で、董子は我にかえった。 「ほんとなんですからね、信じてくださいよ。俺、女性にはいつだって誠実なんですから。あんな嫌がらせされるほど恨まれたりしないですよ」 「ごめんなさい、ちょっとからかってみただけよ。本気じゃないわ」  董子が言うと、水谷はやっと安堵したような顔になった。 「俺なんかより、織部あたり疑った方が良くないですか。あいつ、けっこう遊んでんじゃないかなぁ」 「顔が可愛いからって遊んでるなんて言われたら彼女が気の毒よ。貴美ちゃんは、あれですごく生真面目なんだから」 「そうかも知れないですけどね、だからその生真面目さが禍いして、フッた男に逆恨みされてるかも」 「これ、ここにおいておきまーす」  アルバイトの女性が水谷と董子の間を割るようにして郵便物を配った。 「ありがとう」  董子は手早く宛名別に仕分けした。二係に来る郵便物は、毎日そう多くはない。各人宛に二、三通平均といったところだろう。 「これ水谷さんの分」  董子が手渡すと、やっと水谷は席に戻った。  董子宛には二通。一通は得意先からの挨拶状だ。役員が退職したので人事異動があった、というもの。パソコンをたちあげ、住所録を開いて役職の変更を打ち込んでから、隅に認印を押して課長の未決トレイの中にすべり込ませる。  もう一通は、少し大きな封筒だった。裏返してみたが差出人の名前がない。宛名は印刷文字。  ペーパーナイフを取り出して慎重に封を切った。  中から写真が一枚、出てきた。  ……神社?  社殿が見える。注連縄《しめなわ》も。  突然、背中に強烈な寒気が起こった。歯の根が合わず、カチカチと上下の歯が触れあって音をたてているのが自分の耳に聞こえる。全身の毛が逆立ち、弱い電流が皮膚を走った。  好きよ。  耳の奥で、エコーがかかり、嗄《しわが》れて金属のような音になった声が囁いた。  好きよ……  好きよ……     8 「さあ、あたしは見たことないと思いますけど……でもわからないですよね、神社の外観なんてどれも似たような感じだし」  貴美は首を傾げながら写真を眺め、何度もくるくる回して上下さかさまにしてまで考えていたが、最後に小さく首を振った。 「すみません、役に立たなくて」 「いいのよ、ごめんなさい、あたしの方こそ仕事中に」  董子は手を伸ばして貴美から写真を返して貰った。 「先家さん、この神社に何かあるんですか?」 「うん……大したことじゃないの。ただこの神社がどこにあるのか知りたいと思って」 「東京には間違いないんですか?」 「わからないのよね、それも。ただ何となく、見た憶えがある気がするの。どこで見たんだったか……」 「そうなんですよ」  貴美が大きく頷いた。 「そうなんです。あたしもさっきから、どこかで見たような気がして仕方なかったんです。見たところそんなに大きな神社じゃないみたいなんだけど、ここ、有名なところなんじゃないかしら」 「有名?」 「ええ。ほら、縁結びで有名な神社とか、安産祈願の神社とか、いろいろあるじゃないですか、専門分野みたいなものって。そういう特徴のある神社だと、雑誌なんかで特集されたりしますよね。それで見たことがあるんじゃないかと思うんですよ」 「どうやって調べたらいいのかしら」 「そうですねぇ……神社の名前が判っているなら簡単ですけど……神社図鑑、なんて売ってないですよね、たぶん」  董子は舌を出した貴美につられて笑ったが、そんな図鑑がもしあるなら、買ってでも調べたいと思った。  送り主の名前がない封筒に入れられた写真一枚。それがどうしてこんなに自分の胸を落ち着かせなくするのだろうか。そしてなぜ、この写真を見た瞬間から、あの言葉が耳について離れないのだろうか……  好きよ。  誰に対して遺された言葉なのかもわからない。  彼女は誰に、その最後の一言を告げたかったのか。  手当たり次第に聞いてみるしかないのかも知れない。いずれにしても、この会社宛にこれが送られてきたということは、送り主が勤め先まで知っている、ということを意味しているのだ。つまり、送り主はたぶん、すぐ近くにいる。     * 「今度の土曜日?」  董子は慌てて手帳をめくり、あの奇妙でそして胸の高鳴る約束のことを思い出した。 「……だから、その日はだめなの。前に言ったでしょう?」 「わかってるけど、一時間だけでも都合つかないかなと思ってさ。どうしても話しておきたいことがあるんだ。大切なことなんだよ……」  勝昂の声の中に、せっぱつまったものが感じられた。それが余計に董子の気持ちを重くした。なぜ、別れ話を聞かされるのに向こうの都合に合わせなくてはならないのかと、素直になれない自分の心が反発する。 「いいわ、わかった」  董子はようやく決心した。 「仕事があると思うから、午後から会社に出ます。夕方から用事があるの。それまでしかだめだけど」 「三時頃ならどう? 董子の会社の近くまで行くから」 「わかりました。三時に電話ちょうだい。携帯でも会社でもいいわ」  勝昂の声を最後まで聞き終わらない内に、董子は受話器を置いた。  これで決まったのだ。勝昂との関係は終わってしまう。だが内心、董子はホッとしていた。いつまで引き延ばしても避けることが出来ない最後なら、早く済ませてしまった方がいいことははっきりしていた。  生涯で、これが何度目の失恋になるんだろう。  董子は、広告代理店から戻って来たポスターの試作品を眺めながらぼんやりと考えた。  初恋は小学生の時だった。五年生で、クラスに転校生がやって来た。董子自身も転校生の身で、親友と呼べる友達も出来ていない頃だったから、東京から転校して来て何かにつけては言葉の違いをからかわれるその男子に、同情の混じった親近感をおぼえていたのだろう。名前は……何と言ったんだったっけ?  津島《つしま》くん……確か、津島くん。  内気だった董子は自分の気持ちを打ち明けることもないまま、その男の子は私立中学に進学して離ればなれになり、それきりほとんど消息も知らない。あれが最初の失恋。  中学では陸上部の先輩に恋をした。あれも、何もはじまらないまま先輩が卒業して終わった。楽しかった神戸での日々。高校の時、はじめて男性との交際を経験した。通学途中でいきなり渡された手紙。友達になりたい、と書いてあった。当時としても随分古風だと思った。相手は、董子が通っていた高校のすぐ近くにあった私立高校の男子生徒。からかわれているのかも知れないと不安だったが、手紙のやり取りならばしてもいい、と返事を書いて渡した。もどかしいような文通が半年続いて、日曜日に映画に出かけた。それから、日曜毎に待ち合わせするようになった。  好きだ、と思っていた。夜の公園で突然キスされた時も、だからそれでいいと思った。なのに、そのままブラウスの合わせ目の中に差し込まれた手に、言い様のない恐怖と嫌悪を感じて、董子は逃げた。それ以来、連絡が来なかった。  今にして考えてみれば、十七、八の健康な男性が性欲をコントロールし切れないのは無理もないことだったし、女の子とつきあえば、それが目的になってしまうのも仕方のないことだったのだ、と理解してやれる。だがあの頃はだめだった。そうした対象にされたというだけで、ひどく汚されたような不愉快な気持ちになった。自分を特別堅い人間だとは思っていなかったが、それでも、他人の性欲の対象にされることが我慢出来なかった。  その話を同級生の女の子にして、ひどく笑われたことを董子は思い出す。  誰も董子には同情してくれず、相手の男性が気の毒だと言った。あまりみんながそう言うので、次第に自分の方がおかしいのかも、と思い始めた。それでしばらく悩み、思いあまって母親に打ち明けた。  母はおだやかに笑って言った。 「自分の気持ちに素直に生きたらそれでええんよ。自分が嫌やと思ったら、男の人に頼まれてもからだをひらいたらいかんの。必ず後悔するから。いつか必ず、董子も、自分からそれを望むような相手と巡り会うから、すべてはそれからでええんよ。悩むようなことやないの」  あの時の母の笑顔を思い出すと、董子は涙が溢れてこぼれるのを止めることが出来ない。  母さえ生きていてくれたら。勝昂とのことがどんな終わりを迎えたとしても、しっかりそれを受け止めて生きて行けるだろうに。  土曜日、勝昂が口にするだろう別れの言葉を、どうやって呑み込めばいいのだろう。  董子は、手帳に書き込まれた文字をもう一度見た。  伊勢崎雅治。パーティ。  あのパンフレットは、バッグに畳んでしまったままだ。  どうしよう。あたしなんかが行っていいような場所だとは思わないけど、でも。  勝昂と別れた直後に自分がどんな精神状態になるのか、それが恐かった。誰かと一緒にいて、何かで気を紛らわせていなければいけないような予感がしていた。  董子は、手帳を閉じると仕事に戻った。その日の分の業務を終わるまでに決心しようと思った。     9 「難しい依頼ではないだろうね」  吉良功一は書類を速水佑司に手渡した。 「消息不明とは言っても、阪神大震災までの住所がわかっているし、パスポートの申請をするのに戸籍謄本を送った時の東京の住所も間違いはないだろうから」 「しかしそちらの住所にはもういないわけですよね。手繰《たぐ》るとしたら、震災で消失した母親の実家から当たった方がよさそうです。どこに住んでいるのかよりも、どの学校を出てどこに就職したのかを追いかけた方が早いでしょう。要は本人と連絡が取れるようになればいいわけだから。まあ難しくはないと思います。本人が意識的に姿を隠したのではなくて、ただの音信不通のようですからね」 「それにしても……不思議な話だな」 「その、先家という家系のことですか? わたしは正直、不愉快でした、その話を聞いて」 「不愉快?」 「ええ」  速水は頷いた。 「まだ小学生の女の子が幼児を呪い殺しただなんて噂をたてるなんていうのは、どうかしています。常識がなさ過ぎる、いくら古い言い伝えや因習が残っている島だからと言って。もし母親が決心して逃げ出さずに先家董子がそのまま島で成長していたらと思うとぞっとしますよ。人間というのは、真実でなくても周囲の影響を受けて思い込むということがありますからね、自分に人を呪い殺すような力があるなどと思い込んでしまった人間がどんな人生を歩むか……先家董子の母親は、思い切って逃げ出して正解だったのじゃないかな。その意味では、今になって探し出して島に連れ戻すというのはいい気持ちがしません。ま、我々の仕事は消息を掴むことですから、それ以上は口を挟む問題ではありませんが」 「吾妻氏も、先家董子を無理に島に連れ戻す為に探し出すのではない、と言っていたね」 「しかし何となく歯切れが悪かったですよ。どうして今になって先家董子を探さなくてはならないのか、はっきりとは言っていない。ただ、五十年に一度の村祭りに関係して、先家の血をひいた女性の存在が必要になったとか言ってましたが……どうも、あれは本当のこととは思えない。巫女《みこ》として祭りを手伝ってもらえればそれでいいだなんて……そんなことの為に私立探偵まで雇うと思いますか?」 「それはわからないよ。我々のように都会暮らしの経験しかないと村祭りの重要性なんてものは理解出来ないが、地域社会ではそうした祭りや慣習が、すべての中心になっているということはよくある。真湯島というところでも、五十年に一度のその祭りが生活の真ん中にあるんじゃないかな。そして先家という家系の女性がその祭りで重要な役割を担っているとすれば、私立探偵くらい雇って探そうとしても不思議とは言えないだろう」 「まあ、そうですね」  速水は肩を一度、上下した。 「ともかく、東京で最後にわかっている住所に行ってみてから、何も掴めなければ明日、神戸に向かいます」 「よろしく頼むよ」 「ただいま」  ドアが開いて、伊勢真利子が入って来た。 「御苦労さん。どうだった、伊勢崎雅治の件」 「何も出ません」  伊勢は首を横に振った。 「依頼人の思い過ごしなんじゃないかという気がし始めていますね、正直なところ。もう一ヶ月ですから」 「伊勢さんもある意味、奇妙な縁だよね。高校の同級生の調査をすることになるなんて」  速水の言葉に伊勢は苦笑いのような笑みを浮かべた。 「ただの同級生じゃないのよ。あたしと彼とは名前が似ているでしょ、アイウエオ順の名簿ではいつも並んでいたから、何かというと一緒に行動することが多かったの。だからけっこう仲も良くて」 「伊勢くんならそういうしがらみに捕われて判断を誤ることはないだろうから、心配はしていないが。しかし、もし調査の結果、自分で続けることが辛くなるような事態が起きたら、いつでも交代して貰うから遠慮せずに言って欲しい」 「わかっています。でも」  伊勢は肩をすくめた。 「仲は良かったですけど、伊勢崎雅治には特別な感情を抱いていたわけではありませんから。もし依頼人が危惧している可能性が現実味を帯びて来た場合には、高校の同級生だなんてことは関係なくなります」  吉良は伊勢崎雅治に関する調査書類にもう一度目を通した。  依頼人は経堂《きようどう》由紀《ゆき》。都内に住む二十二歳の大学生。彼女の依頼は風変わりだった。  由紀の四歳年上の姉、美砂《みさ》は、一年前に失踪していた。由紀は姉の捜索を警察に依頼した。しかし警察は美砂の失踪を事件とは考えなかった。理由は、美砂がカードローンで総額三百万円以上の借金を背負っており、毎月の返済に苦しんでいたこと、交際していたとみられる男性と共に姿を消していたこと、さらに、自宅アパートから美砂の洋服などが持ち出されていたことなど、自発的な蒸発の可能性が高い、というものである。  交際相手だったとみられる男性には妻子があり、二人は駆け落ちしたのだろうというのが警察の考えだったらしい。もちろん、その駆け落ちの先に心中という最悪の結果が待っている可能性は高いのだが、警察としてはそこまで面倒はみきれない、というわけである。  美砂の両親は他の調査事務所に娘の消息を掴む為の調査を依頼した。だが今に至るまで、美砂と、彼女と逃げた男の行方はわかっていない。  そんな最中に美砂の妹、由紀がKHI探偵事務所を訪れた。由紀は、姉の失踪に伊勢崎雅治が関与していると固く信じていた。  伊勢崎と経堂美砂との繋がりというのは、伊勢崎の事務所で美砂がアルバイトをしていたというだけのもので、由紀自身も、美砂と伊勢崎が特別な関係になっていると思っているわけではなかったのだ。それなのにどうして伊勢崎が姉の失踪に関係していると由紀は信じているのか。  その根拠というのは、実に非科学的なものだった。由紀の見た夢の中で、姉が訴えたと言うのだ。  わたしの居場所は伊勢崎雅治が知っている、と。  普通なら、吉良はそんな理由で伊勢崎を調査するなどという依頼を引き受けはしなかった。だが、事務所にやって来た由紀の顔は真剣そのもので、そしてその話は、仮にすべて本当だとすれば実に不思議な内容だった。  由紀は、その夢を見るまで、伊勢崎雅治という名前を知らなかったと言うのだ。由紀は夢に出て来た名前が実在する名前なのかどうか半信半疑のまま姉の周囲を調べ、そして、姉がアルバイトをしていた事務所のオーナーの名前だと知って驚愕したのだと言う。  さらに不思議なことは続いた。由紀が、自分の見た夢に驚いてどうしていいのか迷っていた時、由紀の友人がストーカー事件の被害者となり、その友人の両親が新聞広告を見てKHI探偵事務所に娘のボディガードを依頼し、その任に伊勢真利子がついた。幸いそのストーカー事件は短期間で解決したが、伊勢と意気投合したその被害者が、頼りになる女性探偵として伊勢を由紀に紹介したのだ。その伊勢が伊勢崎雅治の高校の同級生だと判ったのは、吉良が由紀の依頼を引き受ける決心をした後のことだった。  しかし、依頼とは言っても由紀の話は漠然とし過ぎている上に非現実的で、今になっても吉良は、どうしてあんな依頼を引き受ける気になったのか自分で自分を不思議に思っている。いくら夢で見た名前の人物が実在していたという不思議な偶然があったからと言って、それだから伊勢崎雅治が美砂の失踪に関わっていると言うのでは都合がよすぎる。由紀は憶えていないだけで、美砂から伊勢崎の名前を聞いたことがあり、それが潜在意識が表面化する形で夢に現れただけのことかも知れないのだ。いや、おそらくはそれが真相だ。  それでも、吉良には説明のつかない「予感」があった。  伊勢崎雅治の周辺を調査することが、美砂の消息を掴む為に役立つという予感。  だが、この一ヶ月伊勢崎雅治の周辺を伊勢真利子があたってみた範囲ではまだ何も出ていない。美砂の姿も、その影も形もかけらさえも。  吉良は受話器を取り上げて短縮ボタンを押した。 「もしもし、高木《たかぎ》調査事務所さんですか? 所長さんをお願いしたいんですが。吉良と言います」  すぐに受話器の向こうから高木|香奈子《かなこ》のハスキーな声が響いて来た。 「功一さん?」 「どうも。経堂美砂の一件なんだけど」 「ああ、失踪したOLね」 「その後の進展はどう?」 「特にないわね」  いつもながらに素っ気無いものの言い方だった。 「一緒に駆け落ちした江上《えがみ》啓次《けいじ》に関してはいろいろ出て来たけど。江上は会社の金に手をつけてたみたいね」 「経理にいたんだっけ」 「そう。第一カネコ商事の経理課長。手口は単純。請求書をでっちあげて支払いを起こし、小切手をだまし取る。一ヶ所の支出先につき毎月数万円以内の水増し請求だから、なかなか発覚しなかったのね。もう十年近くやってたみたい。被害総額は推定で三千万ってところかしら。でも毎年の損金にしたら二、三百万でしょ、会社としては警察沙汰にする気はないわね」 「だったら江上が失踪する理由にはならないね」 「警察沙汰にはしなくても、発覚すれば弁済は迫られるでしょうし、もちろん会社はクビで家族や親戚には顔向け出来ない状況になるわ。気の小さい人間なら耐えられないと思うかも」 「ふたりが一緒に消えたっていうのは確実なんだろうか」 「例の伊勢崎とかいう空間プロデューサーをまだ追っかけてるの、功一さん。もう一ヶ月以上でしょ、何か出たの?」 「いいや。出たら君に報告してるよ。互いに情報を交換する約束だからね」 「わかってる、あなたが情報を隠してるとは思ってない。だけど一ヶ月やって何も出なかったってことは、無関係だってことなんじゃないの?」 「調査員もそう考え始めているけどね……依頼人が納得しないんだ。だからこのままもう少しやってみようと思っている」 「そう……江上と経堂美砂が一緒に逃げたっていうのはほぼ間違いないとうちでは考えてるわ。だけど確証はないのも事実。ただもちろん、ふたりがつき合っていたことや、ふたりとも勤め先からお金をくすねていたことなんかは裏が取れてるけどね。まあその点はもう半月も前に判っていたことだけど。功一さんはふたりが一緒じゃないって考えてるわけ?」 「いや、いろいろ想像を逞《たくま》しくすることは出来ても、考えとしてまとめるほどの材料は持っていない。何しろ、こっちの調査では何も出ていないんだから」 「経堂美砂が伊勢崎の事務所でバイトしていたってことは確認が取れたって言ってたわよね」 「その点はね。ただし、アルバイトと言っても毎日事務所に通っていたというわけじゃないんだ。伊勢崎の事務所ではアシスタントスタッフと呼んでいたらしいけど、要するに、イベントの為の人員として登録されていただけなんだ。人手が必要なイベントの時に呼ばれて手伝うってことだ。実際、経堂美砂が事務所に登録されてから失踪するまでの一年弱の間に仕事をしたのは三度しかない。その三度とも、借り出されたアルバイトは十数人いたらしいから、伊勢崎と美砂がふたりきりで長時間過ごすような状況にはならなかったと思う」 「接点があるような、ないようなってことね」 「美砂と江上が一緒だと仮定して、ふたりはどこに逃げたと見当をつけているのか、良かったら教えてくれないかな」 「いいけど、こっちの調査に干渉はしないでよ」 「もちろん。うちには三人しか正社員がいないからね、干渉したくても手が回らないよ」  香奈子は低く笑ったが、もともとハスキーな声が余計かすれて、吉良の耳にひどくくすぐったい感触を与えた。 「江上は子供の頃、父親の仕事の関係で瀬戸内で過ごしたことがあるの。小学校の二年から六年までの四年間だけだけど」 「瀬戸内っていうと?」 「岡山県の牛窓《うしまど》」 「日本のエーゲ海とか呼ばれてるとこだね」 「よくご存じね。確かに綺麗なとこだわ、それに魚がおいしい」  香奈子がまた吉良の耳をくすぐるような笑い声をたてる。 「親戚がいたとかそういうんじゃないんで、江上が頼る人間が今でも牛窓にいるのかどうかはさだかじゃないけど、失踪する数日前に江上は、会社の同僚に牛窓の話をとうとうとしていたらしいのね。海がどれほど綺麗か、とか、夕日に浮かぶたくさんの小島の景色のこととか。会社の金をくすねてそれがばれそうになってるという追い詰められた状態で、江上が子供の頃の楽しかった思い出にすがりたくなったとしてもそれは不自然じゃない。ずっと居続けるかどうかは別として、逃亡の途中で必ず一度は立ち寄るんじゃないか、うちではそう考えてる。先週から応援を頼んで、現地に三人投入してるわ」 「成果は?」 「少しね。江上の小学校時代、親友だった男性のところに、江上本人から連絡が一度入ってることが判った。だけどだいぶ前の話よ。失踪直後ぐらいかな。用件は特に言わなかったらしいんだけど、近い内にまた連絡する、と言っていたんだって」 「失踪直後と言うと一年も前だね。他にそうした話はないの?」 「残念ながら。でも今のところ、江上が職場を無断欠勤して家に戻らなくなってから、第三者のところに連絡があったというのはそれ一度きりなのよ。だからうちとしては、そこに望みを託すしかないわけ」 「OK、ありがとう。それじゃ一応こちらで判明したことを連絡しておくよ。伊勢崎雅治だが、事務所の経営状態に関して少し疑問が出て来ている」 「疑問?」 「うん。まあ今の御時世だから当たり前と言えば当たり前なんだが、毎月の資金繰りにかなり苦労しているんじゃないかという懸念があるようだ。今のところ銀行に不渡りは出していないし、いわゆる街金のようなところからの借金もないみたいだからすぐに倒産とかそういうことはないだろうが、要は仕事の規模が小さくなっちゃってるんだな。伊勢崎の空間プロデューサーとしての能力は定評があるようだが、何しろこんな不景気では、そうそう大掛かりな店内改装だの新装開店ができる大規模店舗というのは少ないだろうし、企業関連のイベントも軒並み緊縮財政になってるからね。大手の広告代理店がダンピングをかけて、以前なら考えられないような値段でプロデュースを引き受けたりしてるらしいから、伊勢崎のような個人事務所がそのあおりを食うのは仕方ないのかも知れない」 「でも即座に金に困っているというわけではないのよね?」 「まあひところの勢いがなくなったというだけで、今の大不況の中にあってはごく普通の状態なんだと言えなくもないんだろうな。最近手掛けたいちばん大きな仕事が、今週の土曜日にオープンする飯倉のビアホールで、主力スポンサーは米国に本社があるL&Bビールの日本支社。この仕事で評判が良ければ、また業界で名が売れて経営が上向くという可能性は大きいみたいだね。うちはオープニングパーティの招待券を手に入れたんで、調査員を潜り込ませる予定でいる。しかし謎なのは、その程度の仕事しかしていないのに、伊勢崎がまったく金に困っている気配を見せてない点なんだ。業界では伊勢崎には強力な後援者でもいるんじゃないかと噂されているが、それらしい証拠は見つかってない。今のところはこのくらいかな。君の方の仕事にはあまり役に立たなくて申し訳ないんだが」 「正直、伊勢崎雅治の問題には期待してないわ」  香奈子は乾いた声で短く笑った。 「美砂の妹とかいうその依頼人の頭が少しおかしいんじゃないの、というのが現時点でのあたしの意見。だけど、あなたにそれを押し付ける気はないから、あなたは好きなようにやってちょうだい」 「当然、そうさせて貰います」  吉良はようやく余裕のある言葉を発してから電話を切った。  香奈子は大手の興信所にいた頃からの同僚で、異性では唯一の親友と呼べる存在だ。だが探偵事務所の所長としての能力は彼女の方が明らかにあったらしく、高木調査事務所はKHI探偵事務所の数倍の規模に成長し、調査員だけでも十人以上抱えている。  美砂と由紀の両親が高木調査事務所に美砂の失踪についての調査を依頼したのは偶然だったが、女性の所長が仕切る探偵事務所として都内でも有名になりつつある高木調査事務所に一人娘の行方探しを依頼するというのは、ごく自然なことだった。そしてそのおかげで吉良は、伊勢崎雅治に対する奇妙な調査依頼を進める上で、香奈子という強力な助っ人を得たわけである。こんな時は、私立探偵業界の「狭さ」が有り難い。  いずれにしても、伊勢崎雅治への調査が経堂美砂の居所に繋がるのかどうかは、今のところ、まったくの五里霧中だった。     10  土曜日の会社は静かだった。  事務系の職場や広告関係の部署にはちらほらと社員の姿が見えたが、営業が休みなので会社全体が半分眠っているようなおだやかさに包まれている。  董子は、土曜日や日曜日に会社に来てひとりで遅れている仕事を片付けるのがけっこう好きだった。代表電話が留守電にセットされてしまうので電話もほとんどかからなくなり、もちろん来客もないので、制服すら着る必要がない。ジーンズにトレーナーという軽装のままで仕事をするのは気楽だ。ただ、今日だけは着替えも持参で出社している。飯倉のパーティに出席する為に。  だがその前に、気の重い「通過儀礼」が待っている。自分の新しい人生に一歩踏み出す為に必要な、通過儀礼が。  三時まで、董子は余計なことを考えずに仕事に専念した。特に急ぐものはなかったが、探せば雑用はいくらでも出て来る。電卓を叩き、表計算ソフトをいじるような単純作業に没頭していると時間の経つのは苦にならなかった。  三時きっかりに直通電話が鳴った。董子は小さな溜め息をついて受話器を取った。そして、勝昂が指定した喫茶店の名前を復唱した。  目の前に座った勝昂の顔を見た時、董子の脳裏を過《よぎ》ったのは不可思議な懐かしさだった。まるでもう何年も会っていなかった人間と久しぶりに会ったかのような、奇妙な距離感。  いつものように、互いの仕事のこととかでどうでもいいような会話を少し交わしたが、董子の頭に勝昂の言葉はほとんど入って来なかった。勝昂もまた、たぶん、同様だったのだろう。もともと汗かきというわけではないはずなのに、今日の勝昂は、ハンカチを右手にきつく握りしめたままでいる。  董子は少しずつ勝昂に同情を感じ始めていた。いくら心が他にうつってしまった女に対してでも、そう簡単に別れの言葉が言い出せないのは、この男の優しさなのだ。そう、勝昂は決して冷たい人間ではなかった。今ではもう董子の心も離れつつはあったけれど、それでも、勝昂を好きだと感じていた自分を否定したいとは思わない。  こちらから言ってあげようか。そうすればどんなにか、このひとも楽になるだろうに。  別れましょう。あたし、他に好きなひとが出来たの。ごめんなさい。  それでも、董子は黙って待っていた。意地というよりは、最後の最後に奇跡を待っている心境に近い、と思った。いきなり時が戻り、ふたりがつきあいはじめた頃に帰って、何もなかったように笑い合える、そんな奇跡。 「ところで、大切な話なんだけど」  勝昂の声は上ずっているように聞こえた。 「俺たちの将来に関することなんだ」 「……ええ」  董子は頷いた。 「それは大切な問題よね……確かに」 「董子はどう考えてる?」  勝昂の意外な言葉に、董子が思わず顔を上げた。 「俺たちの将来のこと……どんなふうに考えてる?」 「どんなふうに……って?」 「そろそろちゃんとしなくちゃいけない時期じゃないかな……いや、ちゃんとしておきたいんだ。実はね、まだ内密の打診っていう段階なんだけど、ニューヨーク支店の方に転勤になる可能性が高いんだ。それも短期じゃなくて、かなりの長期間になると思う」  董子は混乱していた。てっきり別れ話を持ち出されると決めつけて覚悟していたので、勝昂が何を言いたいのか咄嗟《とつさ》には理解出来なかったのだ。 「董子も仕事、頑張ってるみたいだから簡単には言い難いんだけど……できれば退職して、一緒に来て貰えないかと」 「あの……それって」 「だから」  勝昂はそこでやっと、照れた笑いを顔に浮かべた。 「考えてくれないかな……結婚」  董子は言葉を呑み込んだまま、しばらくじっとしていた。  奇跡は起こったのか?  いいえ……これは違う。何か、違う。  別れ話になるはずが思いもかけずにプロポーズされたのだ。かつては結婚を望んでいた男から。それなのに、この気持ちはいったい何なのだろう?  うれしくないわけではない。いや、叫びたいほどうれしかった。それなのに、胃の中で何かが蠢《うごめ》いている。気持ちの悪い、何か。異質な感覚。どうして?  どうしてこんなに、吐き気がするんだろう。  驚き過ぎたから? 「驚かせたみたいだね」  勝昂がまた微笑んだ。 「今までこんな話、したことないのに突然だもんな……無理、ないよな」 「……そうね……ごめんなさい、やっぱり突然過ぎてうまく言葉が……でも、そう言って貰えたことは……嬉しいです」 「このところ、仕事仕事で董子のことはほったらかしていたんで、言い出しにくくなっちゃってたんだ。それと、董子の耳に変な噂も入っていたんじゃないかって、心配でさ」  董子は勝昂の顔を見た。勝昂はきまり悪そうに鼻のあたりを指でこすっている。 「変な噂って……なに?」 「知ってるんだろう? 知ってるからこのあいだだって、俺との約束、途中ですっぽかして帰っちゃったんだろ。あれ、全部嘘なんだ。董子は利口だから噂を鵜のみにしたとは思ってないけど、それでもさぞかし不愉快だったろうって気にはしてたんだ。ごめん。だけど俺、誓って董子を裏切ってないから。社内では互いに足の引っ張り合いみたいなことってあるだろう? 俺とその人との噂も、中傷なんだ。根も葉もないデマなんだよ」  あの女。噂。中傷。  こめかみに痛みがあった。考えがまとまらなかった。  プロポーズされたのと同時に勝昂の裏切りの可能性を具体的に目の当たりにして、董子はどうしていいのか、どう反応したらいいのかわからなくなっていた。  金曜の夜のデートがなくなってから、勝昂は明らかに変化していた。あの変化は本物だった。勝昂は確かに、董子以外の誰かに一時的であれ、心を奪われていたに違いないのだ。それをすべてデマなのだと言い繕う勝昂の言葉を、いったいどうすれば信じられるのだろう。  それに……そのひと、って、誰? 「……返事は少し待ってもらってもいいかしら。あんまり急だったもので、あの……考える時間が欲しいの」 「もちろん」  勝昂は機嫌よく頷いた。 「一生を決める問題だからね、よく考えて答えを聞かせて。ニューヨーク転勤は早くても三ヶ月先だから、考えて貰う時間はあると思うんだ。式は焦らなくても、向こうに行ってからだってできるしね」  勝昂は、断られるなどとは微塵《みじん》も思っていない。  董子はなぜなのか、気が抜けたようになって勝昂の笑顔を見つめていた。  よく知っている顔なのに、はじめて見た男のような気がした。     * 「なんだか興奮するわよね」  沢村真希が目を輝かせて囁いた。 「飯倉なんて場所で、新しくできるプレイスポットのオープニングパーティよ。ふつう、芸能人とかが呼ばれたりするんでしょ?」 「そんなこと、あたしに聞かないでよ。あたしだってこんな経験生まれて初めてなんだもの。だけど真希、そのワンピースはじめて見たけど、いい色ね」 「いいでしょう」  真希は、ガーネット色のレースがふんだんに使われたワンピースの胸元に飾ったカメリアを突き出すようにして笑顔になった。 「奮発しちゃったんだからぁ」 「まさか、このために買ったの?」 「ちょうど一枚欲しいと思っていたのよね、パーティ用の服。ボーナスの半額が飛んだわよ、ローンにしたけどさ」  董子はパーティ用の服など持っていなかったので、友人の結婚式の時にいつも着ているスーツで来ていた。別にみすぼらしい姿だとは思わないが、地味なことは間違いない。  ビアホールの場所はすぐわかった。店の外には開店を祝う花が道路にはみ出していっぱいに置かれていて、入り口のところでは招待客を受け付けるためのコンパニオンらしい華やかな女性がにこやかに愛想を振りまいている。  今さら、場違いだの何だのと心配しても仕方なかった。ちゃんと招待されてそれに応じたのだから、堂々としていなければ。  受付のテーブルでパンフレットを取り出し、伊勢崎の名前を告げた。驚いたことに、招待客のリストに先家、という名前がちゃんと載せられていた。 「伊勢崎さんは店の奥の厨房の方にいらっしゃると思います。先家さんがお見えになったら、お越しいただきたいとのことですが」  董子は面くらいながら頷いて、目を丸くして肩をすくめた真希と共に店の中へと入ろうとした。 「あの」  呼び止められて振り向くと、背の高い女性がいた。見たことのない女性だった。 「すみません、あなたのお名前なんですが」 「はい?」 「さくやさん、とおっしゃるんですか?」  董子は戸惑いながら頷いた。 「え、ええ」  女性の顔が緊張したように見えたのは気のせいなのだろうか。  董子は、なぜか喉がひきつって渇いている、と感じていた。     11 「さくや、というのはどんな字を書かれるのでしょうか」  背の高い女は、自分の質問が不躾《ぶしつけ》だということにも気づかないほど、昂《たかぶ》った声をしている。董子は気味の悪さを感じて、思わず隣にいた真希の腕を掴んだ。 「あの……失礼ですけど、どちら様でしょうか。わたし……お顔を存じあげないように思うんですが……それともどこかでお会いしたことがあるんでしょうか」 「あ、いいえ」  女はようやく状況の不自然さに気づいたのか、慌ててハンドバッグを開けて中から名刺を取り出した。 「失礼いたしました。わたくし、伊勢と申します。経営コンサルタントをしております」  名刺の肩書きはただ、コンサルタント、と書かれている。個人事務所なのだろうか。 「唐突にすみませんでした。実はわたしの友人が、さくやさんという方を探しているので、つい。あまりないお名前ですよね?」 「そうですね……わたしの字では他には知りませんが。ご友人が探しておられるというさくやは、どんな字を書かれるのですか」 「佐久間の佐久に家と書いたと思います」 「では、違います。わたしの名前は、先生の先に家ですから」 「あら、そうでしたか」  伊勢と名乗った女は残念そうな顔になった。 「それでは人違いでしたのね。大変失礼いたしました」 「いいえ」  董子は軽く頭を下げてその女から離れた。 「なんか、興奮してるみたいだったよね、今の人」  真希がひそひそ声で言った。 「さくや、って確かに珍しい名字だけど、それにしてもいきなりなによ、って感じだったよねぇ」 「よっぽど長い間探してるんじゃない、友達が」  そう答えたが、董子も何となく不自然には感じた。だが人違いだったのだから、それ以上、気にしても仕方ない。  エントランスを抜けると、思わず董子は息をのんだ。真希も小さな声で歓声をあげる。そこは董子の知らない別世界だった。ともかく広い空間と高い天井。見たこともないほどの長いカウンター。様々な高さの椅子とテーブル、生ビールを注《つ》ぐ樽の見事な列。  招待客はざっと百人はいるだろう。どのテーブルにもぎっしりと料理が並べられ、人々の間をぬってビールジョッキを運ぶ、制服に小粋な前掛けをかけた店員たちの姿がめまぐるしい。 「すっごーい! こんな広いビアホールなんてはじめて! それに、やっぱお洒落だよねー、ほら、立ったまま飲めるスペースとか、ソファでゆっくりできるところとか、テーブルにスツールのところとか、いろんな空間がある! 壁際は個室があんなにあるじゃない、あれならコンパもできるよねー。ねえ、この店内ってみんな、その伊勢崎って人が考えたんでしょ?」 「よく知らないけど、そういう仕事だって言ってた」 「かっこいいよねぇー。これまでいなかったもんなぁ、あたしたちの周りにそんな仕事してる人なんて。董子がうらやましいなぁ、そんな人と知り合いになれて」 「知り合いって、道を教えてもらっただけなのよ」 「でもさっき、ちゃんと招待客のリストの中に董子の名前、書いてあったじゃない。ただの社交辞令で誘っただけなのに、そこまでしないんじゃないの、ふつう。その人、かなり気に入ったんじゃないかな、董子のこと」 「ただ律儀なだけよ。それにほら、こんな有り様じゃ、伊勢崎さんがどこにいるかなんてわからないもん」  立ったまま話している二人に気づいて店員が寄って来た。 「どうぞ、どちらのお席でもお好きなところにお座りください。お席ごとに係がおりますので、すぐに御注文を承りに参ります」 「どちらでもって言われてもねぇ。みんな颯爽《さつそう》としてるんだもん、混ざれないよねぇ」  真希がいつになく弱気な声で囁く。 「ほら見てよ、外人さんと平気で談笑しちゃってるじゃない、あそことか、あそこも! あ、あっちは見て見て、あれってさ、俳優の石和仁《いさわひとし》! どうして来てんのかしら、伊勢崎さんって人の知り合いかな?」 「L&BビールのCMに出てるからでしょ」  董子は、ビール樽に大きく白字で書かれたL&Bの文字を見て言った。 「あ、そっか、ここってL&Bの店なんだ」 「だと思うよ。ビールが全部、そうみたいだもの」 「ちょっとがっかり」  真希は舌を出して肩をすくめた。 「L&Bって好みじゃないんだよねぇ、ほんとは。あ、でもカクテルもあるみたい、ほら、お盆の上に載ってる。パナッシェとかかな。あたしあれが飲みたいなぁ」 「ともかくどこかに座ろうよ。あそこ、空いてるからあそこでいい?」  董子が見つけた空席は店の隅の方にあったが、いくつかある段差のいちばん高いところだったので、座ってみると意外に見通しがよく、店内の様子が一目で見てとれた。  ビールをベースにしたカクテルが数種類あったので、二人はその中から適当に選んで注文した。L&Bのビールしかないと思っていたのは誤りで、国内販売されている他の大手メーカーのものはさすがにおいていなかったが、それ以外なら世界各国のビールが揃えられていて、ビール通でも贔屓《ひいき》に出来そうなリストだった。ウィスキーや日本酒、その他のカクテルの品揃えもまあまあで、ホテルのバー程度ならば充分に勝負になりそうだ。料理は今夜は適当に出されるようだったが、メニューの中で試してみたいものがあれば遠慮なく注文してください、と笑顔の店員に言われて、真希は大喜びしながらメニューを眺めている。その料理の数もかなりのものだった。ドイツ料理の他に、北欧系の料理が揃えられているのが特徴らしい。  飲み物が運ばれた後すぐに、立ち飲みのできるスペースに設けられた小さなステージのようなところにスポットライトがあたり、オープニングセレモニーが始まった。オーナーの挨拶から始まって、スポンサーからの挨拶、来賓代表の財界の人間が挨拶を続ける。話の内容は董子の生活とは無縁で退屈だったが、そうしたセレモニーを会場の中で見学できるというのは新鮮な体験だった。友人の結婚披露宴以外でとにもかくにもパーティと呼べるようなものに出る機会など、年に一度の会社創設記念日の全社懇談会くらいのものなのだ。  カクテルはさほど強いものではなかったが、董子は場の雰囲気に酔って興奮している自分を感じていた。これまでの董子の生活にはなかった華やかさと騒がしさが、今この空間には溢れている。  もちろん、董子も東京暮らしが長いのでそれなりに夜遊びは楽しんでいた。クラブやバーにも行けばカラオケもするし、勝昂とお台場で雑誌の特集にそのまま出て来そうなコースをたどってデートしてみたこともある。だがそんな、表面的にしても親しみやすい華やかさとは、このオープニングパーティの持つ雰囲気は根本的に違っていた。ここに今集まっているのは、こうしたきらびやかな喧噪《けんそう》でビジネスをする人々なのだ。会話も笑いも酔いでさえも、彼等にとってはビジネスチャンス。そして自分と真希とは、ただの傍観者だった。それだけに、映画やテレビドラマの中の一場面を見ている時同様の、無責任な昂りが董子の頬を熱くする。  勝昂から思いもかけずされたプロポーズのせいでずっと動揺が続いていたのが、このパーティのおかげで逆に開き直ったような気分になっていた。世の中には、自分の知らない世界がまだまだたくさんある。勝昂だけが男のすべてというわけではないし、割り切れない気持ちを抱いたままで結婚を急いだところで、幸せになんてなれっこない。  そうよ。  董子は自分が考えたことにひとりで頷いていた。  勝昂とは幸せになれない。勝昂の言葉には嘘がある。説明はできないけれど、それだけは間違いない。どんな嘘なのか正体はわからないが、勝昂はあたしを愛していない。  セレモニーが終わって人々はまた、勝手な会話や笑いが渦巻く中に溶けてしまっている。真希も二杯目のカクテルを飲み干してご機嫌でなにか喋っていた。董子はそれをほとんど聞いていないのがばれないよう適当に相槌を打ち、真希の話が途切れるのを待って言った。 「真希、あたしね、勝昂からプロポーズされたの、今日」  真希は一瞬、意味がわからない、というように瞬きしてから聞き返した。 「それ、ほんと?」  董子は頷いた。 「じゃ、フラれるって言ってたの、あれ、董子の勘違い? やだー」  真希は大声で笑ってから董子の背中を叩いた。 「やったじゃん、董子! やったやった、おめでとう!」 「ありがとう、でもね」  董子はグラスに残っていたカクテルを飲み干した。 「あたし、断ろうと思ってる」  真希はまた、きょとんとした顔をした。 「断るって……あのさ、董子、プロポーズされたわけなんでしょ、彼に。それでどうして……董子、彼となら結婚してもいいって思ってたんじゃないの? 彼が心変わりしたみたいだから諦めるんだって、この前……」 「勝昂ね……やっぱり他の女性とつき合っていたのよ。二股かけてたの。勝昂本人は、そうじゃないって否定したけど、でも、他の女性の存在が近くにあったことは認めたようなもの」 「だけど実際には何でもなかったってことかも知れないんでしょ? プロポーズを断るのって気の毒なんじゃ……」 「嘘だって、わかるの」  董子は、はっきりと口にして言ってしまってから、自分がそう思っていることをもう一度自分自身で納得した。 「あたしにはわかる。勝昂は嘘をついているの……もし、他の女性とつきあっていたことを認めた上で、それでもおまえに戻ったからって言われたんだったら気持ちは違っていたかも知れない。だけど、勝昂はあたしをごまかそうとしていた。ねえ真希、結婚って、これから長い時間をその人と共に暮らして行くってことでしょう? そのいちばん始めの部分で相手をごまかそうとする人と、やっていけると思う?」 「でも董子、嘘だって証拠があるの?」 「証拠なんてないけど、あたしにはわかるのよ……なぜって聞かれても困るんだけど……わかる」  董子はかたくなに言ってグラスに口をつけた。  真希は、一度肩を上下して頷いた。 「まあそりゃ……彼のことは董子の方がよくわかってるだろうし、どっちにしたって董子の人生だものね、董子が決めるしかないわけだけど。でも彼って、結婚相手としては悪くないような気はするんだけどな……あたしなんか、仕事に夢中で結婚のことは考えてないみたいに周囲に言われててさ、自分でもそうですって顔はいちおうしてるけど、でも、それなりに条件の合う男性が現れたら結婚したいのが本音だよ。結婚したって仕事を辞めるつもりはないから、今より楽ができるとは思わないけどね、たださ……そういう年齢なんだと思わない、あたしたちって。この先の人生を独身のまま、ひとりで生き抜くだけの自信とかはまだ持ってないし、親だって親戚だって、いつまでひとりでいるつもりなんだってぶつぶつ言うよね、やっぱり。そういう重圧って、ばかばかしいとは思ってもはねのけるのはけっこう大変じゃない……その意味では、董子にはそういうしがらみがないからなぁ」  確かに、真希の言う通りだ、と董子は思った。自分には、自分の人生に対して何かを要求したり期待したりするしがらみが何もない。この年齢になって結婚しないでいることに対しても、真希が受けているような余計な干渉をして来る人はどこにもいないのだ。だから勝昂のことも、こんなに簡単に諦めてしまえるのかも知れない。それがいいことなのか悪いことなのか、まるでわからないけれど、今は。 「やっと見つけた!」  店内の騒がしさの中でひときわ大きな声が聞こえて、董子は声のした方に顔を向けた。  伊勢崎雅治が、人混みをかきわけるようにして董子と真希の座っているそばへと近付いて来ようとしていた。 「受付の名簿を見て、いらしてくださったとわかったんでずっと探していたんですよ。すみません、わたしが受付でお待ちしていればもっといい席にご案内できたんですが」  伊勢崎は割合に地味なグレーのスーツを着ていたが、それでも上背があって腰の位置が高いので、ぱっと人目をひく華やかさを持っていた。招待された芸能人のひとりだと言われれば誰でも信じてしまうだろう。あの夜、路上で道に迷った董子に声を掛けて来た時にも伊勢崎という男の持つ都会的な雰囲気には圧倒されたが、こうして着るものに気を配った姿はさらに洗練されて、董子は、どこか息苦しさまで感じてしまう自分に気づき、気後れがしていた。  それでも伊勢崎の態度はとても親し気だった。真希を紹介すると、自然な態度で真希に握手を求める。真希も、伊勢崎の自然な大胆さに頬を上気させていた。 「予想していたより来てくださったお客さまが多いようなんですよ。こんなに混雑してしまって申し訳ないです」 「評判、とてもいいみたいですね、内装とか雰囲気とか」 「まあ、今日のところはみなさんお世辞を言ってくれますが」  伊勢崎は笑った。 「本当の勝負は店の商売がスタートしてからですね。もちろん、わたしの仕事だけで客の入りが決まるわけではないんですが、少なくとも最初の数ヶ月にどれだけ話題を集められるかは、空間プロデュースの功績が大きいとされています。開店して半年くらいは、この店の売り上げについて、わたしも気が気ではないでしょうね」 「でもほんとに楽しいお店だと思います。ビアホールでこんなに他目的に使えそうなお店って他に知らないですよ」  真希の言葉に伊勢崎は微笑んだ。 「ありがとうございます。まあともかく、楽しんでいってください。ああ、そうだ、先家さん。携帯電話をお持ちでしたら番号を教えておいていただけませんか。わたしはこの後も仕事関係でごちゃごちゃあるんですが、二時間もしたら体があくと思うんです。いらしていただいた御礼に、お二人をもっと静かでゆっくりできるバーにでもご案内したいと思うんですが。あ、もちろん、お二人がご迷惑でなければですけれども」  董子は真希と顔を見合わせた。真希は嬉しそうに頷いている。  董子は携帯の番号を告げた。伊勢崎は、手慣れた様子でそれを自分の携帯に登録する。 「そうですね……九時半頃にはご連絡できると思います。このあたりはあまり気のきいた喫茶店などはないんですが、少し歩けば東京プリンスホテルがありますから、もしここに飽きられたらそちらの喫茶室ででもお待ちいただけたら、お迎えにあがりますよ」 「やったー」  伊勢崎が遠ざかると真希が小声で歓声をあげた。 「誘われたじゃない、デート!」 「デートって言わないでしょ、あたしたち二人ともなんだから」 「あたし、お邪魔なら消えてもいいよ、董子」 「ばか言わないで。そういうんじゃ、ぜんぜんないってわかるでしょ? 伊勢崎さんとあたしとじゃ、住んでる世界が違うんだから」 「そういう考え方って、董子っぽいと言えばぽいけど、流行《はや》らないんじゃないの? 少なくともむこうは董子に興味ありありなのははっきりしてるんだから、もうちょっと素直になればいいのに……董子、彼のこときっぱり諦めたんなら、今度は新しい恋を見つけることに積極的にならないと、ただ淋しいだけのひとになっちゃうよ、すぐに」 「ただ淋しいだけのひと?」 「いろんな理由をつけたり突っ張ったりして、なんとかひとりで生きてはいるけど、その実、ただ呼吸し食べて寝てるだけ、みたいな人。結婚は意地でしたくない、恋もなんだかめんどくさい、趣味にのめり込むだけの気力もない……あたし、最近自分がそういう存在に近付いてるんじゃないかって、怖くなることがあるんだ」  真希は、長く溜め息をついた。 「たまにさ、夜中に本を読んでいたりして、ふと我にかえって顔をあげたら、鏡台に自分の顔が映っていたりするでしょ? その時の自分の顔があんまり淋しそうだったりすると、鏡の中の自分は、今の自分の未来の姿なんじゃないか、そんなふうに思えることがあるの。何年先かの未来、心を許せる友達もいなくて家族もそばにいてくれなくて、仕事はずっとルーチンワークで楽しみもなくて……怖いよね。だからあたし、なりふりかまってないって笑われてもいいから、新しい恋を探さなくちゃ、ってけっこうせっぱつまった気持ちになってるのよね。あのね……董子、愛果のこと、気にしてたじゃない、前に」 「え? うん……」  董子は真希の口から突然、津田愛果の名前が出たのに戸惑いながら頷いた。 「……津田さんのこと、ね。何か思い出したの?」 「今さ、なんか急に」  真希は、複雑な表情のままカクテルを啜ってから言った。 「そうだ……ほんとに急に思い出した。どうしたのかなあ……あのね、彼女と飲みに行った時のことなの。もう、ずっと前よ。何年も前。その時ね、あたし、学生時代からつきあっていた恋人と別れた直後だったのよ。それで何となく人恋しかったところに、きっかけは何だったのか忘れたけど、一緒に飲もうってことになって……六本木だったかなぁ、入ったこともないバーで、カウンターに座ってね……話が途切れたところで、不意に、夜中に鏡を見たことがある? って訊かれたの。あるけど、って答えたら、怖くなかった? って……彼女、こんなこと言ったのよ。あたしは怖いから夜は鏡って見ないの。だって夜中にひとりで鏡を覗いて、そこにもし自分の未来の姿が映っていたら嫌だもの、って」  董子は、自分の喉がごくりと音をたてたのに自分で驚いた。 「どうして彼女、そんなことを?」 「さあ、どうしてそう考えたのかは、聞いたかも知れないけど忘れたわ。たださ、あたしもそれを彼女から聞いた時、確かに怖いなって思ったのを思い出したのよ。もし自分の未来の姿が鏡に映っていたら……素敵な未来ならいいけど、それがとても悲惨なものだったらって思うと……嫌だよね、そんなこと考えるの。でも……ひとりぼっちでずっといたら、人ってそんなことくよくよ考えるようになるのかも知れない。恋人なんて無理してつくるもんじゃないのはわかるし、ひとつの恋が終わってすぐに次を探すのなんて、なんか違うっていうのもわかるんだけど、でも、人間ってさ、誰か寄り添う相手がいるのといないのとでは、やっぱり違うんだよね。錯覚でも思い込みでもなんでもいいから、片想いだっていいから、この人のことが大好き、って夢中になっているその瞬間が大事なんじゃないかって……好きよ、って誰かに告げる一瞬が最高に幸せなんだ……そう思ったりしたわけ、ちらっと」  好きよ。  好きよ。好きよ。好きよ……  それを誰かに告げる一瞬が最高に幸せ。  だとしたら……津田愛果は、その「最高に幸せ」な瞬間に死を選んだのか……あるいは、最高に幸せなまま死にたかったから、そう書き残して逝ったのか……  顔を上げると不意に、鏡が目に入った。向かい側の壁に飾られたアンティーク風の大きな鏡。  董子は思わず悲鳴をあげそうになって口元を手で押さえた。  その鏡の中には、何も映っていなかった。何ひとつ、一切。     12  暗闇の中に光るものを見て、吾妻藤次郎は思わず立ち止まった。心臓がどくどくと音をたてているのが自分の耳に聞こえるようだった。 「猫か」  藤次郎は、わざと声に出して言った。 「驚かすんじゃないよ、こいつ」  猫は首に小さな鈴をつけていた。リリリ、と闇の中を音が遠ざかって行く。  藤次郎は足を進めた。  そこは、昼間来てみればひとつも怖いところなどない、都心にある神社の境内だった。古い歴史を持つ神社で、祈願すれば勝負ごとに勝てるとされていて、運動選手などが必勝祈願に訪れることで知られている。中でも将棋の神様がまつられていることは有名で、名人戦の前には、ここで必勝祈願する棋士の写真がスポーツ新聞に載ったりもする。  だが、神社という場所は、昼間の太陽の下でどれほど陽気で親しみ易く見えたとしても、やはり、神の住居であることに変わりはない。  神とは祟《たた》るもの。  おそれおおいもの。  決して、慈悲だけを期待することは出来ない存在だ。  そのイチョウの古木は、闇の中でうっすらと光を放っているように見えた。気のせいなのか。藤次郎は何度か瞬きし、そして思った。気のせいではない。確かに光っている。  やはりこの木だったか。  藤次郎は、深呼吸してから木肌に掌を押し当てた。自分の血流の音と勘違いしないよう、息をひそめるようにしてその音を聞いた。掌の皮膚を通して樹液が流れる振動が、とく、とく、と伝わって来る。  大学に入って東京で暮らし始めた直後に、この木の存在について知った。あれは最初の夏休み、盆で帰省した時だった。 「真湯島はな、本当は繭《まゆ》島と書くのが正しいんだ。蚕《かいこ》の繭の、繭島だ」  いちばん仲の良かった叔父の将三郎《しようざぶろう》。十二、三しか違わなかったから、当時まだ三十二、三だったか。赤銅色に日焼けした太い腕を持つ、典型的な漁師だった。 「蚕の繭? この島に桑は育たないから、蚕はいないでしょう?」 「ああ、蚕はいない。絹がとれたら島の生活も少しは楽になるだろうと、いろいろやってはみたこともあったらしいが、桑は育たなかった」 「蚕もいないのにどうして、繭の島なんて名前が付いたのさ」  将三郎は、不思議な微笑を顔に浮かべた。困っているような、面白がっているような。 「そのことは、俺から聞くより、村の婆さんにでも聞いた方がいいだろうよ。それよりな、藤次郎。東京で暮らすならひとつだけ、覚えておいた方がいいことがある」  将三郎は、古いお守り袋を取り出して藤次郎の掌の上にのせた。 「東京のどこにあるのか俺も詳しいことは知らないが、この神社に古いイチョウの木があるんだ。その木には、真湯島で生まれ育ったものならば感応することのできるある種の力が宿っているらしい」  将三郎の声は真剣だったが、その時の藤次郎にはあまりにも現実離れした話に思えて、つい、笑ってしまった。将三郎は怒らなかったが、藤次郎の指を包むように閉じさせた。 「ともかく、忘れないことだ。おまえは知らないだろうが、東京という土地はとても恐いところなんだぞ。田舎もんには都会が恐いとかなんとかそんな話じゃない。もっと別の意味で、東京は怖ろしい場所なんだ。神々がその怒りを発散させている場所だってことだよ。江戸時代、この島の出身だった男が先家の墓に生えていたイチョウの樹の銀杏を持って江戸にのぼり、男はその銀杏をここに埋めた。そこからそのイチョウが生えたと上野の婆から聞いたんだ。だから、島の力がその木に宿って、島の者ならばその力を感じることができることは確かなんだ。おまえも東京に出て何か困ったことがあったら、その木を探してみるんだ。そうすれば必ず、木の力がおまえを守ってくれるから」  先家の墓、と島の者たちが呼んでいるのは、実は人工的につくられた墓ではなく、大きな玄武岩の塊と、その下に自然に出来ている小さな洞窟のことなのだ。いつの時代からか、巫女のような役割を担う血筋になった先家の人々が、その洞窟を墓にして使用するようになった。それにともなって自然石の玄武岩にもそれらしい彫刻が刻まれ、形も整えられた。先日、岩屋作造が、先家の墓が割れたとおびえていたのは、その巨大な玄武岩のことだった。その墓の後ろには、確かにイチョウの大木がある。  藤次郎は、闇の中でぼうっと白く光っているイチョウの木肌をそっとさすった。樹液の流れが驚くほどはっきりと掌に伝わって来る。  あれから四十数年。将三郎からもらった守り袋はなくさずに持ち続けていたのだが、その袋に書かれた神社に行ってみようと思ったことは、青山で暮らすようになる前は、一度もなかった。忘れていたわけではない、行きたくない、と拒否する気持ちが強かったのだ。イチョウに宿った島の力などと、そんな荒唐無稽な話を真顔で信じ続けているあの島の人々の存在が、藤次郎にはひどく鬱陶しいものに思えていた。島で暮らした時代が疎ましかったわけでも辛かったわけでもないのだが、東京に出てはじめて藤次郎は、「まともな」生活を見た、と感じていた。  あの島にはどこか、ふつうではないところがあった。この、現代の日本の常識が通用しない、ひどく閉鎖的で奇妙な部分が。  しかし、青山にマンションを買ってしばらくして、何気なくその古ぼけて布も擦り切れた守り袋を取り出して見た時、そこに書かれていた神社の名前に、藤次郎は驚愕した。  鳩森《はとのもり》八幡神社。  藤次郎が住んでいる北青山から徒歩でも行ける場所にある、名の通った神社だったのだ。  何か、説明のつかない理由で、自分はその「木」のそばで暮らすようになった。そのことに気づいて、藤次郎は戦慄した。それ以来、藤次郎は散歩のつど、そこに寄るようになった。なぜなのか、その境内に立って木肌に触れると心が落ち着き、悩みや苦しみから解放されるような気持ちになれた。妻を失った時の絶望も、そうしてイチョウに触れて日々を過ごす内に想い出へと変化した。  イチョウの古木は、将三郎が言った通りに、真湯島の生まれである藤次郎に呼応したのだ。  藤次郎は木肌から掌を離した。  何かとんでもないことに、自分は巻き込まれつつあるのかも知れない。島を出てからずっと知らないふりをし続けていたその「世界」が、今、自分を見つけ出し、とらえてしまった。もう逃げるわけにはいかないのだ。立ち向かわなければ、命がなくなる。そう、藤次郎は悟った。  気配だ。何か、生き物の気配。また猫だろうか?  いや、もっと大きい。  藤次郎は、つま先に力を入れてゆっくりと振り返った。  闇が揺れる。空気が動く。頬に風があたった。  何だろう……何か、そこに何かいる。なのに、見えない。  藤次郎は必死に目をこらした。境内は漆黒の闇、というわけではない。本社《ほんじや》には提灯のあかりがともっているし、社務所《しやむしよ》の窓にもまだあかりが見える。なのに、それ、は見えなかった……ただそこにいる、ということだけが、空気のざわめきで感じられた。 「おまえは、誰だ」  藤次郎は、低く訊ねた。  空気がまた、動いた。  気配が消えた。  藤次郎は瞬間、それを追おうとして体を動かしたが、どちらの方角に逃げたのかまるでわからなかった。ただ「消えた」だけなのかも知れない。  だがそれでも、藤次郎は、見た、と思った。  消える寸前にそれを。それの、姿を。  ただ闇だけでつくられた、人のかたち、を。     * 「どういうことなんだい、つまり、先家董子を君が見つけたってこと?」  携帯の電波が弱いのか、雑音がひどく入って受話器の向こうの速水の声が聞き取り難かった。東京タワーのすぐ近くだけど、それって関係ないのかしら? 「董子なのかどうかはわからないけど、先家なんて珍しい名字がそんなにたくさんあるわけないし、年格好がぴったりなのよ! あなたがOKしてくれるんなら、今から彼女を尾行するけど、いい?」 「それは助かるけど、今、どこなんだよ、伊勢さん」 「飯倉よ。ほら、伊勢崎雅治が最近手掛けた仕事で、L&Bビールのビアホール、あれのオープニングパーティに潜り込んだの。そしたら受付のところで、さくや、って名乗る若い女がいたんでもうびっくりして、どんな字をあてるんですかって訊いちゃったわよ」 「いきなりかい? いったいどんな言い訳つかったのさ。まさか私立探偵ですって名乗ったんじゃないよね」 「馬鹿言わないで。いずれにしても、字は、先生の先に、家、と書くんですって。だからあなたの手掛けている調査依頼のターゲットに間違いないと思う。このまま彼女を尾行して、住所を突き止めるわ。友達の女の子と来ているんで、すぐに家には帰らないんじゃないかと思うけど。まあ朝までかかってもいいわよね、この際」 「ひとりで大丈夫?」 「相手は素人さんだし、不倫デートをしてるわけじゃないからまったく警戒してないと思う。もし手が掛かりそうになったら連絡入れるから、便利屋のキミちゃんでも呼び出してくれる?」 「了解。だけど慎重に頼むね。調査開始した初日に気づかれて行方をくらまされたりしたら目もあてられないから」 「それを言うなら、調査開始初日で住所が突き止められる可能性がきわめて高くなった点もちゃんと評価してちょうだい。三十分に一回、メール入れます」 「よろしく」  伊勢真利子は携帯電話をポケットにしまい、スーツのボタンをはずした。スカートではないのでまだましだったが、かっちりしたパンタロンスーツにシルクのブラウス、尾行にはまったく不向きな格好だ。しかしもともとはパーティに出て伊勢崎に関する情報を集めるのが目的だったのだから仕方がない。まさかパーティ会場に、いつもの着古したコットンパンツと、ポケットのたくさんついたくたびれたサファリジャケットで乗り込むわけにはいかなかったのだ。TPOの問題というよりも、それではああした場所ではかえって目立ってしまうから。  ビアホールの入り口から少し離れた公衆電話ボックスによりかかって、真利子は先家という名のあの女が外に出て来るのを待っていた。途中までは店の中で彼女を観察していたのだが、どうやら外に出そうな気配がしたので先回りした。  彼女が本物の先家董子だとしたら、驚くほどラッキーな偶然だ。人探しとしては難しい部類ではないだろうと思ってはいたが、それにしても、こんなに簡単に尋ね人が見つかるようでは、探偵なんてちょろい商売だと依頼人に思われてしまうかも知れない。  真利子は鼻歌でも歌いそうな気分でいた。自分が直接担当している仕事ではないにしても、事務所として仕事が首尾よく進むのは嬉しいことだ。KHI探偵事務所は業界でもごく零細の部類だったから、一件ずつの利益が貴重だった。三人とも形の上では事務所から給料を支給されてはいたが、その実は、半年毎にボーナスの形で利益を分配してしまっているので、自営業者と感覚が変わらない。  それにしても、先家董子はどうして今夜のパーティに来ていたのだろう? まさか伊勢崎の知り合いだなどという偶然はないだろうから、彼女の仕事と、L&Bビールとが何か関係を持っているのかも知れない。  煙草を一本、くわえて喫う間に、真利子は高校生だった頃の伊勢崎について思い出していた。  名字がよく似ていたせいで、伊勢崎とは本当によく一緒に行動した。名簿ではいつも並んでいたので、ことあるごとに同じ班になったのだ。  伊勢崎はあの頃から、女性に人気のある生徒だった。顔立ちが端正で整っているということも理由だったが、醸し出す雰囲気がどことなく上品で、高校生の男の子にありがちな野蛮さや節操のなさがあまり感じられなかったのがそのいちばんの理由だった。真利子の親友も、伊勢崎に片想いしていたのを思い出す。しかし伊勢崎自身は、女の子にあまり興味がないのか、特定のガールフレンドがいるそぶりは見せたことがなかった記憶がある。決して嫌いというわけではなかったが、真利子は伊勢崎のことがなんとなく苦手だった。つかみ所がない、というか、何を考えているのか本心がまるでわからないタイプの人間に思えたのだ。本音を言わない。感情を剥き出しにしない。そうした性格は、江戸っ子気質の強い真利子の性格には合わなかった。だが、些細なことであれ、喧嘩をしたり衝突したという記憶もない。  高校を卒業してからは一度も会っていなかった。真利子はほとんど気紛れから大阪の大学に進学し、卒業後はそのまま大阪府警で警察組織の一員となった。そこまではそこそこに順調な人生だったのだが、キャリア組の男と結婚して、その結婚に失敗した。それをきっかけに警察を辞めたのは、真利子の意思というよりも、夫だった男の体面を保ってやる為だった。それから大学時代の友人のつてで大手の興信所の大阪支社に勤め始め、そこで、東京から研修に来ていた吉良と知り合った。吉良が独立した時にどうして自分に声を掛けてくれたのか、本当のところは真利子にもわからない。別に男女の関係もなかったし、お互いの人生について突っ込んだ会話を交わしたわけでもない。ただ、互いに優秀な探偵であるという点を認め合っていただけだ。しかし考えてみれば、一緒に事務所をやって行く上ではそれがいちばん肝心なことなわけで、吉良は本当にシンプルに、自分の実力を買ってくれたのだろう、と、真利子は納得している。  いずれにしても、と、真利子はひとり笑いを漏らした。この調査も上首尾になりそうだし、吉良の選択は正しかったわけだ。  彼女だ!  真利子は煙草を携帯用灰皿に潰して、電話ボックスを離れた。二十メートルほど距離をあけて、二人の女の背中を追う。  えっ?  背中から声を掛けられた気がして、真利子は思わず振り返った。今、あたしの名前を呼んだのは誰?  前を歩く二人が気になって、長く立ち止まってはいられない。真利子は、背後に誰もいないのを見てすぐに歩き出した。が、数歩歩いたところで膝が震え出し、そのまま両膝をついてしまった。  どうして……いったい……なぜ?  真利子には理解できなかった。なぜ自分は今、地面に俯《うつぶ》せて倒れてしまったのだ?  何が起こったの?  最期の瞬間まで、真利子は、自分の背中から噴き出す血《ち》飛沫《しぶき》がたてているシューッという小さな音に、気づいていなかった。 [#改ページ]   影     1 「どうしてこんなことになっちゃったんだ」  速水は、霊柩車のドアが閉まる時、小さな声で呟いていた。 「信じられない。何かの間違いだ、絶対」 「焼き場まで行くか?」  吉良の呼び掛けに、速水は首を横に振った。 「そうか」  吉良は頷いた。 「俺は、彼女の骨、拾わせてもらって来るよ」  速水は頷き返して、それから葬儀場を離れた。  伊勢真利子の骨を拾う。そんなことはしたくなかった。それをしてしまえば、彼女の死を受け入れなくてはならないのだ。  受け入れろよ。  頭の中で、自分の声がする。受け入れるんだ。彼女は死んだ。殺されたんだ。それを受け入れて、復讐しないでどうする?  彼女と自分との間に流れていたものは、希有《けう》なほど心地よい友情だった、と速水は思い返していた。もともと自分はさほど社交的な性格ではなく、物心ついた頃からひとりでいる時間の方が長かった。学生時代も含めて、友人が大勢いた、という経験はない。それなりに社会に対して適応した振りはしていたものの、対人関係に自信が持てたことは一度もなかった。当然、親友、と呼べる人間もごく限られた数しか持っていない。伊勢真利子との関係にしても、親友だった、と言うと少し違うだろうと思う。仕事の面で互いに信頼し合っていたが、心にあることをなんでも相談できる間柄だったわけではない。  だが、彼女と話をしている時に感じていたあの安堵感、ゆったりとした心地良さは速水にとって、特別なものだった。性別を超えて、信頼を感じられる相手に出逢えたことの幸福。この人にならば、もし何か自分にとって大変な局面が訪れた時に、取り繕わずに全て話して相談することが出来るだろうな、という、漠然としてはいるが、確信めいた予想。他人に対してそんな感情を持てたというだけでも、速水は嬉しかったのだ。  その伊勢真利子が、死んだ。  発見された真利子の背中には何個もの孔がうがたれ、それぞれの孔から溢れ出した鮮血が路上をびっしょりと濡らしていたと聞いた。彼女のからだに孔をうがった凶器がなんだったのか、司法解剖でも解明はされなかった。銃ではないことだけは確からしいが、銛《もり》だとか矢のようなものでもないという話を、捜査本部の刑事が吉良に説明していた。そうした刃物や飛び道具などならば、からだに食い込んだ時に皮膚や肉が抵抗するので、傷口の細胞組織は多少にかかわらず潰れるはずなのだと言う。しかし、真利子のからだにあいていた孔は、皮膚の表面からその内部まで太さが等しく、細胞組織は内臓に至るまでまったくきれいに切断されていて、孔の容積に等しい分の筋肉や脂肪などは、完璧に抜き取られていた。そんなことがどうやったら可能なのか、刑事にもまるでわからないらしかった。もちろん、吉良にも速水にも見当が付かない。  死因は出血性ショック。出血多量が直接の原因ではないので、彼女の心臓がもう少し強ければ、と残念に思う一方で、そんなおびただしい血が流れるような殺害方法をあえてとった犯人に対しての強い憎しみが速水の心に湧いて溢れている。どんな凶器を使ったのかにはさほど興味がないが、その残忍性が犯人を名指ししているような気がして、速水は身震いした。  私立探偵という職業に就いている以上は、誰かに恨まれる可能性がもちろん、ある。だが、どんな恨みを抱いていたにしても、ストローでもったりとしたミルクセーキを吸い取るように、肉体の一部を抉《えぐ》って吸い出すというその所業には、通常の怨恨だとかその他の殺意をすべて合わせても凌駕することの出来ない、圧倒的な悪意が感じられる。  悪意。そうだ、これは悪意なのだ。  とてつもない、悪意。  葬儀場を出て、速水はタクシーを拾おうとしていた。どうしても、伊勢真利子が殺害された現場をこの目で見てみたかった。見て何がどうなるというわけではないのはわかっている。だが、何かしなくては叫び出してしまいそうだった。 「あの」  背後から声を掛けられた時も、速水は自分が呼ばれているとは思わずに空車を探していた。 「あの、伊勢さんの同僚の、探偵の方ですよね」  速水は、やっと気づいて振り向いた。 「すみません、わたし、嶋田《しまだ》と申します。伊勢さんとは高校の同級生だった者なんですが」 「あ、はい……えっと、そうですか。それはどうも……」 「今、お忙しいですか?」 「え?」 「少しお時間をいただけないかな、と……三十分くらいでいいんです」  速水は面喰らったが、嶋田と名乗った女性の真剣な顔つきに気圧《けお》されるように頷いていた。  ファミリーレストランの窓際の席に腰をおろして、嶋田はまた、ひどく真剣な顔つきで速水を見つめていた。速水は息苦しさを感じて、注文したコーヒーが少しでも早く来てくれるといいのに、と思っていた。  やっとコーヒーが運ばれて、一口すすると気持ちが落ち着いた。 「それで」速水は自分から口を開いた。「何かわたしにお話があるということでしたが?」 「嶋田|節子《せつこ》と言います」  嶋田は、額がテーブルにつきそうなほど頭を下げた。 「突然お時間をちょうだいしてしまってほんとにごめんなさい……でも、わたし、今夜の新幹線で大阪に戻ってしまいます。子供が三人もいる主婦ですから、一度大阪に戻ったら今度はいつ出てこられるかわからなくて……」 「と言うことは、現在は大阪にお住まいなわけですね」 「はい。結婚して大阪に」 「伊勢さんとは高校の同級生だということでしたが」 「親友でした」  節子はきっぱりと言って顔をまっすぐにした。 「旧姓|足立《あだち》です。足立節子と言いました。伊勢さん……真利子とは入学してから卒業するまで仲良しで……真利子は大学に進学し、わたしは専門学校に進んだんです……デザイン関係です。ですからわたしの方が早く社会に出ました。でも、真利子とはずっと友達でいました。買い物したり映画を見たり食事したり、そんなどこにでもあるような友達づき合いではあったけれど、それでも真利子のことをわたしは心から信頼していたし、真利子もわたしにはいろんなことを打ち明けてくれました……」  節子が両手に顔を埋めたので、速水は節子の気持ちが静まるまで待った。節子の泣き声は細く切なくて、速水もまた、伊勢真利子とはもう二度と会うことができないのだ、と思い出し、鼻の奥の痛みをこらえていた。 「お二人の仲が良かったことはわかりました」  速水は静かに言った。 「それで……?」 「それで……そうです……真利子が警察に入ってからはあまり頻繁に会うことが出来なくなりましたけど、わたしの結婚式にはわざわざ休みをとって来てくれたり、大阪に嫁いでからも手紙や電話でのやり取りは続いていたんです。ただ、わたし、続けて三人も子供が出来てしまいましたから、どうしても子育てと家事に追われてしまって、ここ数年は年賀状のやり取りぐらいになっていたんです。それが、一ヶ月ほど前でした……真利子から突然電話が入りました。かつての同級生だった、伊勢崎雅治という人物を憶えていないか、という電話でした」 「伊勢崎氏は、伊勢さんの最近の仕事に関係していた方なんです。空間プロデューサーという仕事をなさっていらっしゃいます。同級生だったと伊勢さんからは聞いていますが」  節子の瞳に不思議な輝きが宿った。恐怖を感じるほどの強い視線で速水の目の中を覗いている。 「……そんなこと、あり得ないんです」 「……は?」  速水は、節子の言葉に面喰らった。 「何があり得ないとおっしゃるんですか?」 「伊勢崎雅治という男は、真利子やわたしの同級生なんかではないんです! どうして真利子がそんなことを言い出したのか、全然わからなかった。そんな名前の人はクラスにいませんでした。いなかったんです!」  速水は、節子が何を言いたいのかわからずに、少しの間瞬きを繰り返していた。だがやがて、節子の言葉の意味が脳に染み、事態が理解出来はじめた。 「それはつまり、嶋田さん」  速水は慎重に言った。 「あなたと伊勢さんとが通っていた高校の、あなた方のクラスには、伊勢崎雅治という名前の男子生徒は存在していなかった。あなたがおっしゃりたいのはそういうことですね?」 「その通りです」 「しかし……伊勢さんの担当していた調査についてはわたしも詳細まで知っているわけではありませんが、彼女は、伊勢崎雅治という男性と同級生だったことについては、当然ながら確信を持って我々に話していましたよ。名字が似ているせいで名簿順に行動する時はいつも一緒だったからよく憶えている、と言っていたのを、わたしも記憶しています」 「だから、そんなの全部嘘なんです! どうして真利子はあんな変な嘘をついたのかさっぱりわけがわからない……真利子自身、自分のついた嘘を信じ込んでいるみたいだった」 「もう一度確認します、嶋田さん。つまり、伊勢崎雅治という名前の人物は、あなた方の高校にはいなかった、こういうことですね?」 「それは……学校にいなかったのかどうかまではわかりません。わたしと真利子の出た高校は、一学年が四百人以上いたんです。たぶん、同じ学年にはいなかったと思いますが、他の学年にいたのかどうかまでは……でも、うちのクラスにいなかったことだけは確かです。絶対に、間違いありません。名簿順に行動していただなんて……もちろんそういうこともありましたけど、それならわたしの旧姓は足立なんですよ、真利子とはそれこそ名簿順で名前が近くて、一緒になることが多かった。だからその中に伊勢崎なんて人がいて、わたしが忘れてしまうことはあり得ないんです!」  節子はまた顔を覆った。だが今度は泣いているのではなく、震えているのだった。 「……何か……とても変なことが起こっていたとしか考えられないんです……狂っているのはわたしなのかそれとも……信じられないことに、真利子以外にも伊勢崎という男がクラスにいたと言う同級生がいるんです。いいえ……東京に住んでいる昔の同級生はみんな、そういう名前の男の子がいた、と言いました。でも……でもそんなこと、そんな馬鹿なこと……」 「ちょっと待ってください」  速水は手帳を取り出した。 「お話を整理させていただいてもよろしいですか? つまり、伊勢さんからあなたに、同級生だった伊勢崎雅治を憶えているか、という電話が入った時、あなたはその名前に記憶がなかった」 「まったくありませんでした」 「で、伊勢さんには何と答えたんです?」 「そんな人、高校の同級生にはいなかったわよ、と言いました。大学の同級生と混同してるんじゃないかって。でも彼女は大笑いして、忘れているのはわたしの方だと言い張るんです。いくら話していても話が噛み合わないので、わたしは途中で諦めて適当に話を合わせて電話を切りました。たまたま電話があったのが夕方で、子供達が学校から戻って来る寸前でしたから、そんなに長い電話を続けているわけにはいかなかったんです。でもどうしてあんな変なことを言い出したのか、と気にはなりました」 「それで、東京に住む昔の同級生に電話してみたわけですね」 「その前に、名簿を調べました。わたしの記憶違いでそんな名前の生徒がいたのかも知れない、と思って。でも、載っていなかったんです……見誤りではありません。なんでしたら名簿をお送りします。本当に、そんな名前の生徒は、クラス名簿にはありませんでした」  名簿の謎、と手帳に書き込んで、速水はもう一度節子の顔を見た。嘘や冗談を言っている顔ではなかったが、伊勢真利子の仕事に対する正確さを知っているだけに、そのまま節子の言葉を信じる気持ちにはどうしてもなれなかった。 「クラス名簿にはなかったのに、他の同級生はやはり、伊勢崎雅治という名前に記憶があったわけですよね?」 「憶えている、と答えたのは東京にいる同級生だけなんです」  節子は、不思議でたまらない、という表情で首を振った。 「もちろん、全員に連絡をとって確かめたわけではありません。でも比較的仲が良かった人の中で、わたしと同じように東京以外の場所に嫁いだ同級生はみんな、そんな人は知らない、と答えたんですよ。確か、三人くらいに電話して、三人ともです! 昔の同級生たちは東京に進学してそのまま東京で暮らし続けている人の方が圧倒的に多いんですけど、試しに四人ほどのところに連絡をとってみたら、今度は伊勢崎雅治のことならよく憶えている、と言うんです。いったいどうしてそんなことになっちゃうのか、まるで見当がつきません……わたしの記憶に伊勢崎雅治の名前がない上に名簿にも載っていなかったわけですから、嘘をついているのは東京在住の人たちだということになると思います。でも、どうしてそんな嘘をつかないとならないのか……理由がまるっきり思いつかないんです。ただ、ものすごく奇妙なことが真利子の周辺で起こっている、そう感じました。それで誰かに相談した方がいいんじゃないかと思っていた矢先に……真利子がこんなことに……真利子が殺されたのは、伊勢崎雅治という人物と関係があるんじゃないか、知らせを聞いた時にわたしはまずそう思いました。でもこんな嘘くさい話、誰にしても信じて貰えそうになくて……真利子の同僚の探偵さんでしたら、ともかく話だけは聞いてくれるんじゃないかと」 「お話はわかりました」  速水は、商売上いつも、依頼人を安心させる為に見せる笑顔をつくりながら言った。 「確かに奇妙な話ですが、このケースでしたらどちらが真実なのかは調べればすぐにわかりますね。ただ問題は、嘘をついている側がどうしてそんな嘘をついたのか、その動機ですが」 「わたしは嘘なんかついていません」 「もちろん」  速水はまた微笑んで頷いた。 「状況を客観的にご説明さしあげているだけです。気にしないでくださいね。ともかく、伊勢さんが亡くなっても彼女が手掛けていた調査については事務所として続行しないわけにはいかないでしょう。伊勢崎雅治氏についての情報は、その調査にも役立ちます。どのみち、うちの事務所には、正社員として勤めている調査員は三人しかいませんでしたから、彼女の仕事はわたしか所長の吉良のどちらかが引き継ぐことになります。この件については吉良にも説明し、きちんと真相を明らかにします。嶋田さん、ご連絡先を教えてください。何か進展があったらお知らせいたします。それと、先ほどの名簿ですが、少しのあいだお借りすることはできますか?」 「自宅に戻りましたらすぐに郵送いたします」 「よろしくお願いします。コピーをとってすぐお返しいたしますので。それから、電話で伊勢崎雅治の存在について聞いてみたという同級生の方々のお名前がわかれば」 「名簿に付箋をつけておきます。住所が卒業時から変わっている人は、わかった時点で書き換えるようにしています。でも、卒業以来音信不通という人もけっこういるので全員に連絡がとれるかどうかは……」 「その点は理解しています。それに、全員に確かめるまでのことはないように思いますね。高校に在籍していたかどうかは、その高校に確認すればすぐにわかることですし。いずれにしても、何かひとつでもわかったらお知らせいたしますよ。また嶋田さんの方で何か思い出したり気づいたりしたことがあれば、この名刺の電話番号に連絡してください。こちらが事務所、こちらが携帯です。携帯の方は何時でもけっこうですよ。営業時間があってないような仕事ですから」  速水は、手帳に嶋田節子の連絡先を書き留めながら、ふと思った。  どちらかが嘘をついている、というよりは、すべてがこの女性の妄想なのだ、と考えた方が辻褄《つじつま》が合っているんじゃないか?  問題は名簿だな。  名簿が送られて来なければ、この問題については調べてみるまでもないだろう。だがもし……名簿が送られて来て、その中に伊勢崎雅治の名前がなかったとしたら……?     2 「あたしね、まだ納得したわけじゃないのよ」  冴絵《さえ》の唇が離れる時、ほとんど透明な唾液がすっと糸を引いたのが見えた。 「形の上だけとは言ったって、あなた、結婚しちゃうわけでしょ。これまでみたいに逢えなくなるのはわかってるんだもの。都合よく逃げられるだなんて思っているなら、考え直した方がいいわよ」  笑顔はいつもの通りにいたずらっぽく無邪気だったが、言葉には毒がある。勝昂は、女っていうのはどうしてこう、往生際が悪いんだろう、と内心うんざりした。  董子にしたってそうだ。せっかく結婚してやると言ってるんだから、もう少し素直に嬉しそうにしたらどうなんだ。あの当惑した顔。それに、考えさせてくれだと! いったい何を考えるつもりなんだよ、ついこの間まで、結婚したくてしたくてたまらないって顔で、もの欲しそうに俺の顔を見ていたくせに。今さらかっこつけてないで、嬉し泣きのひとつでもして見せたらよさそうなもんだ。 「あなたは自分が上手に人生を渡ってゆける賢い人間だと自惚《うぬぼ》れているんでしょうけど」  冴絵は、細長いメンソール煙草に火を点けた。 「今度の転勤だって将来の出世だって、所詮はあたしの裁量の内なんだから、今のところは」 「今のところは、ね」  勝昂は言葉尻を繰り返した。 「でも永遠にってわけじゃない。俺だっていつまでも、君の部下でいるつもりはないからさ」 「ご挨拶だわよね、まったく」  冴絵は愉快そうに笑った。冴絵という女の最大の魅力は、たぶん、この豪快さだろう、と思う。毒と棘にまみれた言葉を投げつけ合っていても、少しも疲弊しないし歪みもしない。結局のところ、現在の時点では仕事でも生活力でも、そして気構えでも、自分はこの女に勝てないな、と勝昂は腹の中で諦めた。 「夫があなたとあたしのことを疑い始めた気配があるから、ともかくあなたに向こうに渡ってもらうことにしたけど、あたし、あなたを解放してあげるつもりはないのよ、まだね」 「いつになったら解放してくれるのかな」 「飽きたらね。あなたに」 「映画のセリフみたいだ。かっこつけ過ぎだよ、少し。俺に惚れてるから離れたくないって素直に言えばいいじゃないか」 「ばーか」  冴絵は吐き出した煙を自分で顔の前から払った。 「ほんとに惚れてたら結婚なんかさせるもんですか」 「アリバイだろ、ただの」 「よく言うわよ。結婚生活ってね、そんなに単純なもんじゃないのよ。不思議なものよね、ひとつ屋根の下に暮らすと妙な仲間意識が出来ちゃって、惚れてなかったはずの人間でも自分にとって大事だと思うようになるんだから。ましてや、あなたの相手はとりあえずつきあってる女なんでしょ。健気《けなげ》に料理なんか作って家で待ってられたりしたら、情が移っていくに決まってるんだから。その内には子供だってできちゃうだろうしさ」 「そこまでわかっていて、どうして結婚しろだなんて言ったんだよ。これ、君のアイデアなんだぜ、全部」 「どうしてなのか、自分でもわからないわ」  冴絵はころころと笑って、煙草を灰皿に潰した。 「賭けてみたくなったのかもね」 「賭け?」 「この半年、ずっと考えてたのよ。あなたとはじめて寝ちゃってからずっと。こんな関係、いつかは終わらせないとならない。少なくとも夫が生きている内はあたし、夫と別れるつもりはないし。もしあたしたちの関係がここまでのものなら、あなたの結婚を機会に自然と答えは出るはずよね? あなたはなんだかんだ言って奥さんが可愛くなっちゃって、あたしを捨てる。あたしも諦めるしかないから諦めて、また別の男を探す。潮時なのかどうか見極めるには、あなたに結婚してもらうのがいちばんいいって気がしたの」 「屈折してるなぁ」  勝昂は、自分も煙草の箱を探した。 「それで俺が別れたいって思わなかったとしたら、どうするのさ」 「それならそれでいいじゃないの。月に一度、あなたが日本に戻った時に嫌っていうほどセックスできるわ。それこそお互いに飽き飽きするまで、だらだらとこの関係を続ければいいんだもの」  しどけない姿のままソファに横座りになって、強気な憎まれ口を叩く冴絵は、やっぱり魅力的だ、と勝昂は思った。董子が逆立ちしたって身につけられないだろう自信と優雅さに満ちていて、それでいてこの上なく可愛い。あまりに役者が上だと舌をまく時もあれば、四歳も年上だというのが信じられないほど子供っぽく見える時もある。この危険なアンバランスさがたまらないのだ。  勝昂は、冴絵の夫に嫉妬していた。系列グループ企業の取締役である冴絵の夫、山際《やまぎわ》は、冴絵より十五、六も年上で、心臓に持病があるのでもう何年も前からセックスが出来ないからだになっている。冴絵は適当に男をつまみ喰いして欲求を満たしていたようだが、それでも決して夫と別れようとはしないのだ。それが単に経済的な問題だけではないことは、勝昂にももうわかっていた。なんだかんだ言いながら結局は、冴絵は夫を愛している。夫婦なんてそんなもの、と言ってしまえば簡単だが、冴絵がもし、役立たずの夫を捨ててひとりになってくれるのなら、董子となんか結婚したりしないのに、と勝昂は悔しい気持ちで冴絵の半裸を眺めていた。 「それはそうとさ、例のストーカー女、どうなったの?」  缶ビールを一缶空けてから、冴絵が思い出したように言った。 「あなたのことしつこく追い回してたんでしょ? ほんとに心当たりってないの? 酔っぱらって街でナンパしてヤッちゃった子とか、昔の恋人とか」 「そんな女に心当たりなんかないけど、でも仮にあったとしても不自然だろ、まったく名前も名乗らないし、姿も見せないなんてさ」 「ストーカーってそういうもんじゃないの? よく知らないけど。無言電話をかけたり、こそこそ後をつけまわしたり、いずれにしたって自分の身元は隠すんじゃない? そのストーカーも、無言電話をかけて来るんでしょ?」 「最近はちょっと減ったけど、それでも留守電に十回はかけて来てるよ、毎日」 「なんで女だってわかったの?」 「溜め息をつくんだ、無言電話で」  勝昂は苦笑いした。 「息の感じで女だと思った。あと、小さな声が入っていたこともある。女の声だったよ」 「なんて入ってたの?」  勝昂は、また苦笑いして頭をかいた。 「好きよ」 「え?」 「だから……好きよ、って一言だけさ。いや、あたしの方が、好きよ、って言ったこともあったな」 「あたしの方が好きよ?」  冴絵は笑い出した。 「つまり、他の女より自分の方があなたを愛してるってこと? なんだか健気ねぇ。そんなに惚れられてるんだったら、一度くらい抱いてあげたらいいのに」 「そんなこと言ったって、どうやってコミュニケーションすればいいのかわかんないんだから仕方ないじゃないか。電話では何も言わないし、どこの誰かもわかんないんだぜ。こういうのってほんと、理不尽だよなぁ。どんなつもりか知らないけど、俺に用があるなら姿を現せよ、ったく」 「その声にも記憶はないわけね」 「さあね」  勝昂は肩をすくめた。 「好きよ、だけじゃ、わからないよ。どっかで聞いた声のような気もするけど、ぜんぜん知らない女のような気もするし」 「知ってる女だわね、ぜったい」  冴絵はバスローブの前をかき合わせた。 「あなたってそういうところ、あるもの。女に対してどこか無責任なのよ。一晩だけだったら顔も憶えてなくて平気、みたいな。あなたって、自分の都合のいいように女を解釈するでしょ? この女はこれこれこういう女だから、こう考えてくれるに違いない、って。だけど、女ってもっと複雑なものよ。あなたは後腐れない関係だって思って、一晩だけでポイしちゃったけど、相手はそんなふうに考えてなくて、その後もずっとあなたからの連絡を待っていた。だけどぜんぜん連絡がない。どうしてなのかしら、あたしのこと愛してくれているはずなのに……そんな感じなんじゃないの?」 「君こそ俺のことを自分の想像したいような男に想像してるよ」  勝昂は少し苛立った。 「言っとくけど、俺はそんなに無責任な男じゃない。そんな、一晩だけなんて女を街で漁《あさ》るくらいなら金を払って風俗に行くよ。どんな場合だって、女を口説《くど》く時はそれなりに真剣なのが俺のやり方なんだ。だから一度口説きおとした女と、たった一晩だけで別れたりはしない。董子とのことだって、俺は俺なりにずっと真剣だったんだ。途中で君と出逢っちゃったのは俺のせいじゃない」 「でも、別れなかったでしょ? あなたはあたしと関係が出来ても、恋人と別れなかった」 「それを言うのは反則だろう!」  勝昂は、思わず枕を冴絵の方に向かって放り投げた。 「君にはご主人がいる。そして、君は離婚する気なんかハナからないんだ。それがわかっている以上、俺が董子と別れなかったのを君に責められる筋合いはない」 「筋の話なんかしてないわよ」  冴絵は、二本目の煙草を箱から抜き取って指に挟んだ。 「事実だけ考えたらそういうことだ、って言ってるの。責めてるわけでもないわ。だけど、あなたがどれだけ真剣だったにしたって、恋人の側から見ればあなたのとった行動くらい、いい加減で不誠実なものはないでしょ? 要するに、ストーカーなんて思い込みのあげくの行動なわけでしょ、あなたにつきまとってるその無言電話の女も、あなたはやましいことがないと思っていたあなたの態度に、とんでもない思い込みの妄想をかぶせてしまっている、そういうことなんじゃない? いずれにしたって、どこかであなたとは接点のあった女性なのよ。あなた、そうやって考えても誰も思い当たらないの?」  好きよ。  これまでの人生で、そう囁かれたことが何度くらいあったんだろう。  勝昂は、奇妙な感覚をおぼえながら回想していた。  そうした言葉を発することに抵抗のない女と、なかなか口にしてくれない女とがいることは確かだ。たとえば董子は、たぶん一度も、普通に顔を合わせている時にそう言ってくれたことはない。セックスの最中に、夢中になってうわ言のように口にしてくれたことはあったかも知れないが。比べて冴絵は、まるでその日の天気でも話題にするかのように軽く、簡単に口にする。あら、あなたのことは好きよ。何言ってるの、好きに決まってるでしょ。好きよ。好きよ、好きよ、好きよ……  ……あれ?  勝昂は、思わずベッドの上に座り直した。  なんか、董子が俺に言っていたことがなかったか? 「好きよ」とだけ遺書に書いて飛び下り自殺した女がいたとかどうとか……飛び下り自殺した董子の同僚……あの子だ。変わった名前だった……愛子……愛果……津田愛果だ!  だけど。  最初に董子と会った合コンの時も確か、あの子はいたような気がする。でもそれっきりだった。いや、スキーに行った時にいたかな? いずれにしたって、二人だけで顔を合わせたことはない。  ……馬鹿馬鹿しい。  勝昂は思わず笑った。  どっちにしたって関係ないだろう、あの子は。だってもうとっくに死んでいるんだから、かけたくたって俺のところに無言電話なんか出来るわけ、ないじゃないか。 「どうしたの? 何がおかしいの?」 「いや、ちょっと思い出したんだ。二年くらい前にね、董子の同僚の女の子が失恋して自殺したんだけど、その子の遺書にさ、好きよ、って一言だけ書いてあったらしいんだ」 「いやだ」  冴絵は眉をひそめた。 「まさかあなた、その子と?」 「冗談じゃないよ、どんな子だか、ほとんど知らないんだよ。たださ、遺書に一言だけ、好きよ、っていうのってどうなのかな、と」 「怖いわ」 「怖い?」 「ええ」  冴絵は自分で自分のからだを抱くしぐさをした。 「怖い……そういうのって……とても」     *  どうしてあんなことになっちゃったのかしら?  董子は、こめかみがずきずきと痛むのを人さし指で押さえた。あの夜からもう二日も頭痛が続いていて、いくら薬を飲んでも痛みが消えてくれない。さほど激しい痛みではないのでなんとかこらえていられるが、月曜日で仕事が溜まっているのに、さっきからちっとも効率が上がらなかった。  土曜日に自分の身に起こったことを思い出すと、董子は自分自身の大胆さにひどく恥ずかしさを感じてしまう。頭痛のせいにして昨日は一日中ベッドに潜っていたのだが、頭の痛みよりも、後悔の混じった複雑な喜びのせいでずっと頬が上気したままだったので、そんな自分の顔が鏡にでも映って見えたら嫌だ、という気持ちが強かったのだ。  ただ、キスをしただけじゃないの。  董子の心の中で、自分の声が笑った。  中学生じゃあるまいし、そのくらいのことで何をおろおろしてるのよ、董子。  でもあれは、ほんの挨拶でとか、親愛の情を込めて、といったキスではなかった……と思う。  食事をして、それから赤坂にある伊勢崎の行きつけのバーに行った。カクテルを少し飲んで、タクシーで送ってもらった。真希のマンションに先に寄ったのは、伊勢崎の計算だったわけではない。タクシーに乗り込むまで、真希の住所を伊勢崎は知らなかったのだ。道順から自然と、真希が先に降りた。それまで助手席に座っていた伊勢崎が後部座席に移っても、そのまま助手席にいるよりは自然だと思った。  董子のマンションの前で伊勢崎はタクシーを待たせ、一緒に降りた。真希のマンションはオートロックだったが、董子が住んでいる建物は古くて、誰でも中に入ることが出来る。深夜のエレベーターにひとりで乗るのは怖かったし、部屋の前まで送ってもらえるのは嬉しかった。 「中で、お茶でもどうですか」  と一言口に出すのはとても勇気が必要だった。そして、いや、もう遅いから申し訳ないし、失礼します、と断られた時、内心ではホッとしていた。伊勢崎がタクシーを待たせていたことは頭にあったので断られるとは思っていたが、万が一部屋の中に入ってもらったら、いったいどんな会話を続けたらいいのかまるでわからなかった。  今夜は本当にありがとうございました。楽しかったです。では、おやすみなさい。  月並みな言葉を並べてから、董子は頭を下げた。 「また、逢ってもらえるかな」  伊勢崎の言葉は突然だった。董子は、深く考える余裕もなく、頷いていた。  そして、次の瞬間には伊勢崎の唇を感じていた。 「……さん!」  董子は我にかえって周囲を見回した。 「先家さん! 内線、鳴ってますよ!」  董子は慌てて受話器をとった。 「宣伝部の先家さんですよね」  聞き覚えのある声がした。誰だっけ……山崎さん?  受話器を見ると、ディスプレイに通話相手の内線番号と、登録してあるカタカナ名が出ていた。ヤマザキコウジ。営業の男性社員で、ひとつかふたつ後輩だ。 「山崎さん」 「なんかお久しぶりです。社内にいるのにほとんど顔、見ませんよね、お互い」 「忙しそうだものね」 「出歩いてばっかりですから。去年のスキー旅行は面白かったっスね。今年も行きます?」 「予定が合えばそのつもりですけど……あの、何か?」 「ああ、いけね。あの、神社のことなんスけど」 「……神社?」 「写真見たんですよ。貴美から見せてもらって。先家さん、神社を探してたんでしょ?」  董子はやっと思い出した。あの写真の神社のことだ。貴美が山崎に見せていたことは知らなかったが、心当たりを探しておきますね、と、カラーコピーした写真を彼女が持って行ったのは確かだった。 「あれね、千駄ヶ谷の鳩森神社じゃないかと思うんスけど。絶対かって言われると自信はないんだけど、見覚え、あるんスよね」 「千駄ヶ谷の、鳩森神社……?」 「勝負事の神様だって言われてるんです。将棋堂ってのがあって、名人戦の前なんか棋士がお参りに行くんですよ、必勝祈願で。実は、僕らも年に一度、シーズン初戦の試合前に寄るんですよ。それで見覚えがあったんです。試合は神宮《じんぐう》でやるから、その前に寄ると歩いて神宮まですぐなんで」 「山崎さんって……そうか、野球部ね」 「うちは弱いっスけどねー。三回戦勝ったことないっスから。昨日、貴美たちとディズニーランド行ったんですけどね、昼飯食ってる時に貴美がカラーコピー見せて、誰かこの神社に見覚えないかーって言うんで、ちらっと見たら、なんかどっかで見たよなぁ、と思って。一緒にいた多田《ただ》って製品管理部のやつも野球部なんで、あ、これあそこじゃん、みたいな話になったんですよ。あ、でも、間違ってるかもしれないんで、もし違ってたらすみません」  礼を言って受話器を置くと、董子はメモ用紙に千駄ヶ谷・鳩森神社、と書き付けた。  そして、その名前を数秒の間見つめていた。  何かを思い出しそうだった。いったい、何だろう?  母の……言葉。  東京の富士山。小さな小さな富士山。  魔法の木がある、鳩さんがたくさんいるお宮。  母の……子守唄だ!  遠い遠い昔、母が耳元で囁くように繰り返していたあの、不思議な言葉……     3  JR千駄ヶ谷の駅を降り、津田ホールと東京体育館の間を真っ直ぐ歩いて、数分。鳩森八幡神社は、マンションやオフィスビルが混在する一角の中に溶け込むように存在していた。  董子は必死に記憶をたどったが、やはり、生まれてから一度もここには来たことがない、と思った。  母の子守唄がわりの囁きが、この神社のことを指していたのは間違いない。鳩がたくさんいる、という言葉と、そして、東京の富士山、という言葉。  董子の知る限り、董子の母もまた東京にいたことはないはずだった。神戸で生まれ育って瀬戸内海の小さな島に嫁ぎ、そこで結婚に破れて娘と共に神戸に戻った。そして、阪神淡路大震災で死んだ。  だがもちろん、母の人生の毎日毎日のすべてを知っているわけではない。母にだって娘時代はあったし、結婚前の青春と呼べる時代もあっただろう。東京に旅したことがあったとしても不思議ではない。  董子は、神社の境内の中へと入った。街中《まちなか》の神社と聞いていたのでさほど大きなものではないと思っていたのだが、意外なほど中は広かった。  この鳩森神社が全国的に有名なのは、将棋堂のためらしい。将棋の名人戦が行われる前には、対戦者それぞれがこの将棋堂に必勝を祈願するという。しかし八幡神社、というからには武運の神を祀る神社なので、将棋にこだわらず様々な勝負ごとの必勝が祈願される神社になっているようだ。特に、神宮球場や国立競技場が近いことから、野球やサッカーの贔屓チームを応援するサポーターや応援団が試合の前に訪れる神社として、インターネットなどでも知れ渡りつつあるらしい。  将棋堂は小さなお堂だった。今日は参拝している人も見当たらない。しばらく、前にたたずんでみたが、将棋堂からは何も感じ取ることは出来なかったし、何も思い出さなかった。  本殿の正面に立って、ポケットから取り出した写真と見比べてみる。  間違いない。この写真は、やはり鳩森八幡神社だった。だけど……なぜ? 誰がこれを?  参拝をすませてから境内をまわってみたが、写真を自分に送りつけてきた者の意図はまるでわからない。  この神社の、将棋堂以外の見どころといえば、富士塚だった。この富士塚は「千駄ヶ谷の富士塚」として東京都の有形民俗文化財の指定を受けているらしい。  富士塚は江戸時代の富士信仰の名残りで、江戸市中にいくつか、富士山の形を模した築山をつくってそれを人々が信仰の対象としたらしいが、その中でもこの千駄ヶ谷の富士塚は規模が大きく、最盛期には大勢の参拝客で賑わったと、縁起に書かれている。  母の言葉の記憶の中にある「東京の富士山」という言葉がこの富士塚を指しているのは間違いない。  築山とは言っても、登ってみるとそこそこの高低差があってパンプスでは骨が折れた。頂上からの眺めは、絶景というほどではなかったが、本殿の屋根を見おろせるので若干爽快な気分が味わえる。  適当なところに腰をおろして考えてみたが、やはりわけがわからなかった。  東京の富士山。小さな小さな富士山。  魔法の木がある、鳩さんがたくさんいるお宮。  母の言葉で憶えているのはそれだけだった。  記憶が曖昧で、子守唄だったような気がするのだがメロディは思い出せない。あるいは、優しく歌うように耳元で囁いた、という感じだったのかも知れない。いずれにしても言葉としてはっきり頭に残っているからには、三、四歳は過ぎていた頃に聞いたものだろう。  魔法の木がある、鳩さんがたくさんいるお宮。  魔法の木?  董子はもう一度境内を見下ろした。樹木はけっこうあるが、これと言って風変わりだと思えるような木は見当たらない。  魔法の木、っていったい、なんなんだろう?  董子の目が、イチョウの古木をとらえた。  イチョウなんて珍しくもないけど……でも、あれは相当古いみたい。何百年くらい経っているのかしら。  董子は富士塚を降りて、境内の隅にあるイチョウの木に近づいた。  イチョウの木のそばには先客がいた。中年というよりは少し歳が上のようだが、背の高い、背筋がしゃんとした男性だった。イチョウの幹に右手の掌を押し当ててじっとしている。気分でも悪いのかしら。董子はそっとその男性に近付いた。 「あの……お加減でもお悪いんですか?」  男性は顔を上げた。どきり、とするほど蒼白だった。 「……お顔の色が……」 「あ、いや」  男性は無理につくった笑顔で言った。 「大丈夫です。ご親切にありがとう」  男性は頭を下げ、イチョウから掌をはずすと、董子の前を通って神社から通りへと出て、その年齢にしてはかなり速い、と思う歩き方で角をまがって姿を消した。  男性が見えなくなるまでの数分間、なぜなのか董子は、その場から動くことが出来なかった。そして、男性が見えなくなると、ほとんど無意識にイチョウの木に近付き、あの男性がしていたのと同じように、掌を幹に押し付けていた。  え?  董子は驚いて、思わず掌を幹から離し、見つめた。  いったい……なに、これ!  自分の掌が感じたものが信じられない。それは……それは確かに、生き物の鼓動、植物のそれではなく、犬だとか猫だとか、そうした動物の腹や胸に掌を当てている時のような、心臓の感触、だった!  董子はイチョウの木を見た。穴があくほど凝視した。だが、イチョウはイチョウだった。何の変哲もなく、おかしなところも見当たらない。  こわごわ、もう一度掌を押し当ててみた。  ドク、ドク、ドク、ドク……  やっぱり……動いている。  血潮がおくり出される音。心臓の、鼓動!  魔法の木って……このこと?  説明のつかない恐怖が董子の背中を駆け抜けた。何かを思い出しそうなのに、思い出したくない自分がいる。  何か……遠い、遠い昔の記憶だ。思い出さなくてはいけないことだ、とわかっているのに、思い出せばすべてを失う、思い出したら終わり、そんな感覚。  董子は頭を振り、そのまま境内から出た。その木のそばにもっといたいと思う気持ちと、いてはいけない、と頭に囁きかける声とが交差する。そのイチョウの木が自分にとって「よいもの」なのか「悪いもの」なのか、董子には判断が出来なかった。そして、ただひたすら、怖かった。  董子は走り出していた。千駄ヶ谷の駅に向かっていると自分では信じていたのに、いつのまにか方向の見当がつかなくなっていた。まだ午後三時になるかならないかなのに、どうしてこの街には人がひとりも歩いていないのだろう?  変だ……  ここは、いったいどのあたりなんだろう。もともと千駄ヶ谷の近辺に土地勘はなかった。だが何かおかしい。いくら住宅地と言っても、オフィスビルや雑居ビルもたくさん建っている地域なのに、なぜこんなに人の気配がないの?  そうだ。あの時もこんな感じだった。原宿の喫茶店を出てさまようように歩いていて、そして気がつくとこんな街の中にいた。人がひとりも歩いていない街。距離感覚も方向もわからない。歩いても歩いても、同じところをぐるぐる回っているように思えてしまう。  いや、気のせいじゃない!  だって……だってこの角はさっきも曲がった。この自動販売機には確かに見覚えがある!  どうして? なぜよ!  あの角を曲がってそれから真っ直ぐ走っていたのに、どうしてまたここに出てしまったの?  誰か……誰か通りかかってくれないだろうか。  董子は息を切らしながら走るのをやめて立ち止まった。だが、どこにも、ひとかけらも、人間の気配が感じられない。  徹底した静寂。まるで、街全体が映画のセットのようだ。  董子は、その場にしゃがみ込んだ。何もかも、あの時とそっくりだった。あの時も、さまよい込んだ街が自分に対して悪意を抱いている、そんな圧迫感で立っていることが出来なくなった。  そして……そして伊勢崎が現れたのだ……伊勢崎雅治が…… 「董子さん?」  声がした。伊勢崎の声だ。  董子は、返事をしなかった。幻聴だと思った。 「先家さんでしょう?」  声が、またした。  董子は、おそるおそる目を開けた。 「やっぱり董子さんだ」  伊勢崎雅治が、そこにいた。 「驚いたなぁ、こんなところで会うなんて。でもどうしたんですか、顔色がすごく悪い」  伊勢崎が董子の肩を抱いて、そっと立ち上がらせた。 「貧血かな? よくないな、どこかで休まないと」 「伊勢崎さん……どうしてここに……?」 「どうしてって」  伊勢崎の笑顔が、董子の心を落ち着かせた。 「僕のマンションのすぐ近くですよ、ここ」 「伊勢崎さんの……マンション……」 「いちばん最初にお会いした時、お教えしましたよね。事務所の場所。自宅も事務所のすぐ近くに借りているんです」 「でも……あそこは青山の……」 「ここからすぐですよ」 「わたし……千駄ヶ谷の駅に向かっているつもりだったんですけど」 「それなら反対方向に歩いて来ちゃったんですね、きっと。でも董子さん、急いでいらっしゃるんですか?」 「……いいえ……仕事を早退してきましたから」 「だったら」  伊勢崎が董子の手を握って、軽く引っ張った。 「寄って行ってください、コーヒーぐらいご馳走します。そんな顔色のままで歩いていてはいけませんよ。董子さん、鏡を見たら驚きますよ。ほんとに真っ青だ。病院に連れて行きたいぐらいです。貧血ならあまり動き回らない方がいいから、僕のところで一時間だけでも休んでいってください。そして、明日は病院に行って検査してもらった方がいいと思う」 「ありがとうございます……でも、貧血ではないんです」 「原因がわかっているんですか?」  董子は頷いた。 「あたし……なんだか、幻覚を見たみたいなんです」 「ほう?」  伊勢崎は、驚いてはいたが董子を軽蔑するような顔つきではなかったので、董子は少しホッとした。 「幻覚ですか……で、どんな?」 「それが……うまく表現出来ないんですけど……いちばん最初に伊勢崎さんとお会いした時にも同じような状態になったんですが……歩いている内に方向の感覚がわからなくなって、いつの間にか同じところをぐるぐる回っているんです。でもそれになかなか気づかないんです。見ている街の風景は確かに変化していると思うのに、ふと我に返ると、あ、ここはさっきも通った、って。それで結局、そこから抜け出して目的の方向に進むことが出来ないんです。しかもそうしている間、街には誰もいなくなってしまうんです」  董子は周囲を見回した。そこにはもう、ごく日常的な東京の一区画の光景があった。車道には車、自転車、バイク。歩道には人。店先には客。様々な音が雑多になって、この街に人が住んでいることを董子の耳に伝えて来る。 「ほら……今はこんなにいろいろな音が聞こえるでしょう? 車の音とか話し声とか。それが何も聞こえなくなって、それどころか、車も人もまったくいなくなってしまう……そうあたしには見えてしまったんです。まるでゴーストタウンのように」 「ゴーストタウンですか」  伊勢崎は考え込むような仕種をしていたが、にっこりと微笑んだ。 「ともかくコーヒーをご馳走させて下さい。その話は休みながらゆっくり伺いましょう」  伊勢崎が歩き出したので、董子もその後について歩いた。  本当に信じられないほど、伊勢崎の住むマンションは近くにあった。歩き出して二、三分もかからなかった。  外観は派手ではないが、街並みによく調和した上品な建物だった。  伊勢崎の部屋は四階で、南東に向いた広い4LDK、青山という立地を考えるとかなりの家賃ではないかと思われる。董子は伊勢崎の経済力を知って、少し畏縮していた。少なくとも、自分が恋人だとか何だとかになれる男ではないのだ、と思った。  伊勢崎のいれてくれたコーヒーは、とても素晴らしかった。董子は、その香りにひたってようやく人心地がついた気分だった。 「先程の話なんですが」  伊勢崎は、董子の正面のソファに座ってマグカップからコーヒーをすすりながら言った。 「僕なりに考えてみたんですがね……幻覚というのではなく、一種の拒絶反応のようなものじゃないかと」 「拒絶反応、ですか。何に対する拒絶なんでしょうか」 「街とか人とか、早く言えば、都会の騒音ですね。心の中に、そうした騒音が一切聞こえないところに行きたいという強い願望があるわけです。それがふっと頭をもたげた時、周囲の光景から人だとか車が消えてしまい、音も聞こえなくなってしまう。ところがそうした状態に対して今度は、通常の生活を続けたいと思っている董子さんの心が驚いてパニックに陥り、そこから脱出してもとの賑やかな世界に帰ろうと焦ってしまう。ほら、山で迷った人が周囲の景色の違いに気づかないで同じ場所をぐるぐる回ってしまうことがある、あれと一緒ですよ。一刻も早くそこから逃れたいと願う気持ちが、判断力を鈍らせ、冷静な観察力も奪ってしまうんです」 「……そんなことが、あるんですか」 「僕は精神科医じゃありませんから、症状として前例があるのかどうかは知りませんよ。でも、人の心というのは実に様々な影響をからだの方におよぼしますからね、幻覚や幻聴だって、そうした心の問題が視神経や聴覚神経に作用して起こることがあるわけです。董子さんのケースも、そう考えてみればさほど不思議なことではないと思います」  伊勢崎は、マグカッブをテーブルの上に置いた。 「董子さん……こんなことを言い出すと唐突で、失礼なのかも知れないですが」 「はい?」 「お仕事のこととかその他のことで、董子さんは強いストレスをかかえていらっしゃるんじゃないかな、今」  それは否定出来ない、と董子は思った。仕事のことでさほど強いストレスを感じているとは思わないが、たとえば恋愛のこと……では、確かに自分でもどうしたらいいのかわからない状態には陥っている。  まず、勝昂の突然のプロポーズにどう答えたらいいのか。  そして……あの夜の、伊勢崎とのキスを、どう心の中で処理したらいいのか…… 「董子さん……旅に出ませんか」  伊勢崎の言葉に、董子は驚いて顔を上げた。 「……え?」 「すみません、また唐突で。でも……董子さんは、東京を離れて心を休める時間が必要なんじゃないかと思うんです。その……僕と一緒でよかったら……どこかに旅行しませんか?」     4  部屋に戻ると、藤次郎はまず、頭痛薬を飲んだ。滅多に薬は使わない主義だったのだが、その余りにひどい偏頭痛にどうすることも出来なかった。  薬が効いてくるまで、ソファに横になって目を閉じる。そのソファは亡き妻が選んだもので、長年の間、藤次郎たち夫婦をくつろがせてくれた家具だった。  以前に触れた時にはただ、その木肌の下に命の脈動を感じただけだった。それは敵意ではなく、むしろ安心をもたらせてくれる感触だった。  だが今日は違っていた。木肌に掌を押し当てた瞬間に、まるで焼けた鉄板の上にうっかり掌を置いてしまった時のような激痛を感じ、それなのに掌を離すことが出来なくなってしまったのだ。まるで、掌の皮膚が木肌に焼け付いてしまったかのように。そのうちにひどい頭痛が襲って来て、吐き気と目眩で立っていることがやっとになったのに、それでも手を離すことが出来ず、藤次郎は命の危険も感じたほどだった。もしあの時、あの若い女性が声を掛けてくれなかったら、どうなっていただろう。  おそらく、不意に見知らぬ人間が割り込んで来たことで、あのイチョウと自分との間に生まれていた「世界」が瞬時に崩壊し、それで手を離すことが出来たのだろう。  あの木はいったい、自分に何を伝えようとしていたのだろうか。  このひどい疲労感は、歳のせいばかりではないな、と、藤次郎は思った。先家董子を探し始めてから、毎日毎日、一時間一時間と体力が衰えていくような感覚がある。董子の居所を遂に突き止めた、と報告して来た女性探偵は殺された。  何かの悪意。  何か、邪悪なものの存在。  確かにそうしたものが、いるのだ。藤次郎はもう、先家の墓石が割れた、と、蒼白な顔で告げた岩屋作造のあの恐怖を、ただの錯覚だとか迷信だとかと片づけるつもりはまったくなくなっていた。先家董子を探し出されてはまずい、とその邪悪な何かは考えている。そして妨害しているのだ。だとしたら、先家董子を見つけ出すことが自分や作造、そしてあの島の人々にとって「絶対に必要なこと」になる。  体力勝負だな。  藤次郎は無理にからだを起こして台所に立った。ここ数日食欲がまったくなくなり、ろくにものを食べていない。こんな状態では、何かと闘うことなどとても出来ない。  食べ物に関してはさほど執着のない藤次郎が、唯一こだわって楽しんでいるスープを温める。ここ数日はこのスープだけで、固形のものはほとんど口にしていなかった。だが今日は、思いきって買い置きのじゃがいもを取り出し、オリーヴオイルで炒めてスペイン風のオムレツを作った。ごろごろとじゃがいもばかり入れて、泡立てた卵で大胆にとじてしまった大雑把な料理なのだが、単純で素朴な味と共にスペインのバルセロナに旅した時の記憶が脳裏に甦る。  あれは二十年以上前のこと。  藤次郎は、気恥ずかしさと共に懐かしい記憶を辿っていた。  バルセロナ・オリンピックを機会に大きく変化したバルセロナの町は、あの当時はまだ、訪れる者に懐かしさと親しみを感じさせるヨーロッパの古い港町だった。  藤次郎はその時、仕事でニースにいた。入社した当初に営業を経験した以外は、総務・人事畑一筋で定年まで過ごしてしまった藤次郎が海外に出張したのは、後にも先にもあの時一度きりだった。ニース在住の日本人デザイナーを口説き落として専属契約を結んでもらう、という企画部の仕事だったのだが、条件面の問題を説明するのに人事担当者として同行したのである。だがそのデザイナーが面会の約束日を間違えていたらしく、オーストリアに出かけていて帰りが翌々日になると聞かされて、ニースで丸二日時間が余ってしまった。企画部の面々はイタリアのサン・レモまで小旅行に出ることになったが、当時でもう四十を超えていた藤次郎は、サン・レモよりももう少し歴史を感じさせる町に行ってみたかった。ヨーロッパの土地に対する知識はまるでなく、フランス語もスペイン語もわからなかった藤次郎は、ニースの駅で適当に電車に乗り、まず歴史の本で読んだ記憶のあったアビニヨンに行ってみた。教皇庁の壮大な建物を見て、歌にもある橋の上に立って満足した藤次郎は、そのまままた、ホームにすべり込んで来た電車に適当に乗った。その電車がパリからバルセロナまで走る特急だった。  バルセロナに到着したのは、日もとっぷりと暮れてからだった。一泊でニースまで戻らなくてはならないので、なんとか駅で見つけた英語のガイドブックをめくり、翌朝の見物先をピカソ美術館とサグラダ・ファミリアと決めて、駅で紹介してもらった小さなホテルに駆け込んだ。幸い部屋は空いていたが、レストランの設備はなく朝食しか出せないと言われた。だが心配することはなかった。親切で人なつこいスペインの「宿屋の女将さん」は、訛《なま》りの強い英語でいい店を教えてあげると笑い、そのホテルから徒歩で数分のところにある小さなレストランの道順を紙に書いてくれた。  本当に庶民的な、というよりもはっきり言えばあまり綺麗でも上品でもない、町の定食屋、といった雰囲気のレストランだった。テーブルクロスはいちおう洗濯はしてあるようだが、抜けきれないシミがあちらこちらに散っていたし、椅子は少しがたついて、背のところに張ってある布も破けている。メニューはなく、壁にスペイン語で何か書いてあるのだが、藤次郎にはまるで読めない。注文をとりに来た情熱的な顔だちの女性は英語がわからず、近くに座っていた地元の青年らしい客が間に入って親切に通訳してくれるのだが、肝心な料理の名前はスペイン語で言うのでこれまた見当がつかないのだ。  ままよ、と藤次郎は、この店でいちばんおいしいものが食べたい、と青年に伝えてもらった。情熱的なウエイトレスは大声で笑い、何やら楽しそうに厨房に引っ込んだ。次に彼女が出て来た時に盆の上に載っていたのは、陶器に山盛りになった、驚くほど大きな塩漬けのブラックオリーヴと、薬草の香りの強いリキュールだった。それを齧《かじ》りながらこれを飲め、と彼女が手ぶりで示すので、その通りにオリーヴを齧って酒を呑み込む。むせかえるような草の香りと甘く苦い酒。その酒の名前はとうとうわからなかったが、その味を舌で感じて初めて藤次郎は、自分が今、外国にいるのだ、と実感した。  その次に出て来たのが、皿からはみ出すほど大きなオムレツだった。パリで食べられるような繊細で美しい金色をしたオムレツではない、端の方が黒く焦げ、ぷんぷんとオリーヴオイルの香りが立つ迫力のある丸いオムレツだ。フォークを入れると、中がほとんどじゃがいもなのには驚いた。口に入れてみると、塩とオリーヴオイルだけのその単純な味が、びっくりするほど日本人の舌に合った。とても懐かしい、家庭の味がした。  その巨大なオムレツと格闘している最中に、また料理が運ばれて来た。なんと、大きな鉄鍋一杯のパエリアだった。  あの時のパエリアの味を思い出すと、藤次郎は今でも口の中に唾が溜まってくるのを抑えられない。それほどに美味だった。あんなにおいしいパエリアには、あれから二十年が経ってもまだ巡り会っていない。さすがに、店でいちばんおいしいもの、と自信を持って出された料理だけのことはあった。特に豪華な具が入っていたわけではない、イカとアサリ、それに鶏肉とピーマン、ほぼそれだけ。それなのに、口に入れるとサフランの香りとオリーヴオイルの香り、そしてイカやアサリの香りが混然となって、言葉を失うほどの味になっていたのだ。  藤次郎は夢中で食べた。しかし、食べても食べても減らなかった。とうとうギブアップした藤次郎は、通訳をしてくれた青年に食べないかと誘った。それを待っていたかのように、ビールのジョッキを片手にした青年が藤次郎のテーブルに移り、やがて気がつくと、藤次郎のテーブルに店中の客が集まって宴会になっていた。  言葉はほとんどわからない。バルセロナは観光都市なので英語はみなある程度理解出来るようだったが、酒が入っているので喋り出すとすぐスペイン語が混じり、やがてスペイン語一色になって藤次郎には一言も理解出来なくなる。だがそれなのに、藤次郎は笑った。笑って笑って、お腹が痛くなるほど笑った。客たちはみな陽気で、藤次郎に負けないほど笑っていた。肩を叩きあい、一緒に歌まで歌った。次々と出されるビールや赤ワインをあけながら、いいようにタカられているんだろうな、と思いながら、それでもこんなに楽しい思いをしたのは本当にひさしぶりだと藤次郎は感じていた。  何時間その店で騒いでいただろう。閉店だ、と言われて藤次郎は、覚悟しながら勘定を払った。他の客が飲んだ酒代も当然含められているだろうから、かなりの金額になっているはず。ところが、言われた料金に藤次郎は仰天した。日本円で、五千円にも満たないような金額だった。  今にして思えばそれでも、スペインの物価からすればかなりの金額だったのだ。自分が地元の連中にタカられたことは間違いない。しかし藤次郎にとって、その晩の思い出は、いくら金を積んでももう二度と体験できない、何ものにも替えがたい思い出だった。  できあがったスペイン風のオムレツに缶詰のスープで食事をとりながら、藤次郎はさらに思い出の糸をたぐった。  満腹で幸せで、そして泥酔してホテルに戻った藤次郎は、チェックアウト時刻ぎりぎりまで寝込んでいた。女将さんが朝食のパンを紙袋に入れて弁当にしてくれ、藤次郎は徒歩でピカソ美術館へと向かった。  そこで…あの女性に出逢ったのだ。  あの女性。名前ももう、忘れてしまった。しかし日本人だった。そして驚いたことに、真湯島を知っていた。  話をしたきっかけは、入口のところで地元の男性に声をかけられ困惑していたその女性を、行き掛かりで助けるような形になってしまったことだった。別に積極的に助けようとしたわけではないのだが、あまりにしつこいスペイン人の男からはっきりと逃げたがっているように見えたので、いかにも連れの男だ、という顔で女性に向かって声を掛けたのだ。待たせてごめん、と。女性はすぐに藤次郎の意図に気づいて嬉しそうな顔になり、うまく調子を合わせて二人で美術館を後にした。 「ありがとうございました」  女性が礼を言った。 「スペインとイタリアの男性は女性に対して積極的だと聞いていましたけれど、あんなにしつこいとは思いませんでした」 「日本人観光客に狙いをつけている感じでしたね。常習犯でしょう」 「お金を巻き上げるんですか?」 「いや、そこまではどうかな。たぶん、食事を奢《おご》らせて、ついでにその……からだの関係も持てれば、くらいの感じじゃないかと思いますが」 「よかった」  女性はホッとした顔で言った。 「スペイン語はわからないし、英語も訛りが強くて……きっぱりはねつければいいと観光ガイドには書いてありましたけれど、そんなに簡単にはいかないですよね、やっぱり恐くて……拒絶して、怒ったりしたらどうしようかって……」 「こちらの男は断られるのには慣れっこですから、はねつければしつこくはしないと思います。しかし、日本の普通の女性にそういうことを急にしろと言っても、確かに難しいですね。おひとりですか?」 「ええ……」 「珍しいですね、女性が一人旅でヨーロッパというのは」 「……実は、人を探しに来たんです。幼い頃に親しかった人が、バルセロナに住んでいるという情報を得て。ずっと探し続けているんですけれど見つからなくて……でも、どうやら誤報だったようです」 「わざわざその人を探しに日本からいらしたんですか」 「はい。どうしても会いたいんです……会わなくてはならない人なんですけれど」 「事情はよくわかりませんが、少し羨ましいな。あなたのような人にそれだけ探し求められるというのは」  女性は、優しく微笑んだ。 「……女の人なんですよ」 「ああ、そうでしたか。それは失礼しました。何となくお話から、勝手に物語を想像してしまって」 「ごめんなさい。思わせぶりな言い方をしてしまいました。その人とは昔、高校が一緒だったんです。でも結婚で瀬戸内海の島に渡ってしまって……」  藤次郎は驚いた。 「瀬戸内海の、島ですか! 奇遇です……実はわたしも瀬戸内海の島の出身なんですよ」 「本当ですか!」  女性は驚いて聞き返した。 「何という島なんでしょうか」 「真湯島です。真実の真にお湯の湯と書くんですが、どうやら後世になって当字されたもののようで、本来は蚕の繭の字をあてた、と聞いたことがありますが」 「真湯島……そんなことって、あるのかしら」 「え?」 「その島なんです……親友が結婚で渡ったのは」 「まさか、本当ですか!」 「間違いないはずです。瀬戸内海には他に真湯島って、ありませんよね? ああ、ご存じないでしょうか、その人の名前は、坂本|禎子《さだこ》といったんですが」  その時、藤次郎はその名前にまるで憶えがなかったのだ。しかし藤次郎は、これも何かの縁だからと、日本に戻ったら島に手紙を書いて消息をたずねてもらう、と約束した。 「でも、どうしてそうまでしてその女性に会いたいと思われているんですか? いや、立ち入ったことをお聞きしてしまうようなんですが……」  その女性は、しばらくためらっていた。だがやがて、とても小さな、聞き取れないほど頼りない声でこう言った。 「約束をしてあったんです。十年したら、預かっていたものを返す、と」 「預かっていたもの?」  女性は頷いた。 「禎子さんに預かったんです。禎子さんが結婚された時、その結婚式の日でした。お式は真湯島ではなく岡山で挙げられて、わたしは招待されたのですが、控え室で禎子さんからそれを渡され、その島ではそれは持っていても意味がないから、と。でも禎子さんは、十年したら自分は夫と共に島を出るつもりだから、その時に返してほしいと言っていました。それなのに結婚してしばらくして禎子さんの消息がわからなくなってしまったんです。確かにご主人と共に島を出られたらしいのですが、どこに行ってしまったのか……約束の十年が過ぎて、わたし、どうしてもそれを彼女に返さなくてはならないと思うようになったんです。そうしなければ大変なことになると……」  その時点で、藤次郎は少し怖くなっていたのだ。その女性は充分に魅力的で、そのまま一緒に旅を続けたいような女性ではあったのだが、いかんせん、話の内容が突飛で脈絡がなさ過ぎた。  藤次郎はその話を深く掘り下げることはせず、ただ坂本禎子の居所を調べて、わかったら知らせると約束し、その女性の名前と住所を書き留めて別れ、予定通りサグラダ・ファミリアを見てニースに戻った。  あの女性の名前は何だったのだろう?  会話の中身は鮮明に記憶しているのに、その名前もその時聞いた住所も思い出せない。二十年も前のことだから憶えていないのは仕方ないが……  藤次郎はオムレツを口に運びながら考え、記憶を取り戻そうとした。  坂本禎子、という女性は確かに島に嫁いでいたのだ。島の知人に電話で問いあわせるとすぐにわかった。坂本、という漁師のところに岡山から嫁に来て、三年ほど島に住んでいた。だが夫とふたり、大阪で友人の店を手伝うことにしたと言い残して島を出てそれきり消息がわからなくなっていた。坂本の実家には両親や兄弟もいたのだが、一切の音信がなくなっていたらしい。そのむねはすぐに、女性の住所に手紙で知らせた。しかし返事はなかった。  その女性との縁は、それで終わりだった。そして、いつのまにか思い出すこともなくなっていた。  たまたま作ってみたじゃがいものオムレツから、バルセロナの一夜を思い出し、そしてあの女性のことを、今、思い出した。  預かったものとは何だったのだろう。  藤次郎は今になって、二十年前のその女性の言葉が気になって仕方なくなった。  食事が済むと、藤次郎は物置き部屋に使っている洋室に入り、古い写真や雑記帳、住所録などを保管してあるプラスチックケースを取り出した。ニースに出張した時のことは藤次郎にとっても大切な思い出になっていたので、写真と共にこまごまとしたものを仕舞い込んだ憶えがある。  小一時間もかけて、藤次郎はその時の思い出の品々を探した。そしてようやく見つけ出したぶ厚いファイルを開いて、ハッとした。  写真があった。  自分は、あの女性の写真を撮っていたのだ。  ピカソ美術館から街並みを抜けて、サグラダ・ファミリアの方向へと歩く間に、彼女の写真を撮らせてもらっていた。  女性は恥ずかしそうに微笑んでいる。  こうして写真で見てはっきりと思い出したが、記憶の中にあったその顔よりも、はるかに美しいひとだった。  だが、藤次郎はその美しさとは別のものに驚いて、その写真を穴が開くほど見つめていた。  なぜ……どうしてそんなことがあるんだろう?  その女性の顔は……あの私立探偵にそっくりだったのだ。あの、先家董子の居所を突き止めようとしていて惨殺された、あの探偵に!  いや……確かに別人には違いない。あの元警察官の私立探偵は、この写真のひとよりもずっと大柄で男性的な顔だちをしていた。しかしその顔のつくりも目鼻立ちも、他人の空似というにはあまりにも似ていた。似過ぎていた。  すべては繋がっているのだ。  藤次郎は、そうはっきりと思った。  すべてのことは、ずっとずっと昔にはじまり、そして今、邪悪な果実をその枝に実らせようとしている。  藤次郎は受話器を掴み、KHI探偵事務所の番号をプッシュした。     5 「伊勢さんについて知っていること、と言われましても」  吉良は、いきなり訪ねて来てそんなことを訊いた藤次郎に困惑していた。だが藤次郎は気にしなかった。どうせうまく説明できる自信はない。 「彼女は、わたしが以前に勤めていた興信所の同僚だったわけです。彼女の採用は大阪でしたが、わたしが研修で大阪の支社にいた時に知り合いましてね、大変に優秀な人だったので、独立して事務所をかまえるという段になって、ぜひ一緒にやって欲しいとこちらから頼みました。やはり私立探偵事務所のいちばん多い仕事と言えば、男女間の揉め事による素行調査ですからね、女性探偵の存在が必要な場面は多い。事務所を起こすなら優秀な女性探偵を必ずひとりおけと、先輩で独立した人からも言われていましたから」 「彼女の出身はどこなんでしょうか」 「出身ですか? 確か東京ですよ。大阪府警に入ったのは大学が大阪だったからだと思いますが、高校まではこちらにいたはずです。ご両親はすでに亡くなられていたようですが、葬儀の時、東京の親戚の方たちは見えてましたね」 「伊勢さんにはお姉さんはいらっしゃらなかったんでしょうか」 「お姉さん? いや」  吉良は考えてから首を横に振った。 「ごきょうだいはいなかったと思いますよ……自分はひとりっ子だといつも言っていましたね」 「この写真をちょっと見ていただけますか」  藤次郎は、二十年以上昔の写真を吉良の前においた。 「この女性が伊勢さんによく似ていると思うんですが、気のせいでしょうか」  吉良は写真をじっと見つめていた。それから藤次郎の顔をみた。 「……確かに似ていますね……母子か姉妹かと思うほどです。しかし……これは随分昔の写真のようですが?」 「二十年ほど前、スペインのバルセロナで撮ったものです。今日、ふとした偶然から思い出して見て驚いたんですよ。伊勢さんとあまりにもよく似ているので。こんなことが偶然だとはとても思えない」 「と、おっしゃられてもいまひとつよくわからないのですが」  吉良は困ったように頭を掻いた。 「偶然以外の何だと思われるんです? 確かにこの女性は伊勢さんに似ている。しかし、二十年前に偶然あなたが、バルセロナで伊勢さんの親戚の女性か誰かと出逢っていたとしても、世の中にはもっとすごい偶然はいくらでもありますからねぇ」 「先家董子の行方を探してほしいという依頼とは別に、この件を調べてもらうことは出来ますか」  藤次郎は身を乗り出した。 「この写真の人がどこの誰で、伊勢さんとどう繋がっているのか。それだけでいい、調べて欲しいんです!」 「いや、しかし吾妻さん……」 「手がかりはあります! この女性は坂本禎子、旧姓村山禎子という女性と岡山で幼馴染みだった。その村山禎子は、瀬戸内海の真湯島という島に嫁いだんです。その後、夫と共に島を出て大阪に行ったらしいがそのまま行方不明になった」 「つまり、真湯島の坂本さんのところからたどって、岡山の村山家に、そしてそこの禎子さんと幼馴染みだった女性を探す、ということですね」  藤次郎は頷いた。 「わたしが自分でやってもいいんですが、わたしひとりの力ではどこまで出来るかわからない。プロの力を借りたいんです」 「それはわかりますが……しかし」  吉良は困惑した顔のまま首を傾げた。 「伊勢さんが亡くなって、うちはわたしと速水の二人になってしまったんです。もちろん助っ人を頼むことは可能ですが、他にも何件か懸案はありますし、伊勢さんが手掛けていた仕事もある。正直、人手が……」 「わたしも手伝います!」  藤次郎は吉良の手を思わず握った。 「ご存じのように真湯島は、わたしの故郷です。先家董子の問題ももともとは島のことと関係しています。できることはなんでもやりますから、どうか……」 「吾妻さん」  吉良は、冷静な目で藤次郎を見ていた。 「詮索をするつもりはありません。しかし……先家董子さんのことで、あなたは何か我々に隠しておられませんか? あなたの依頼では、祭りの巫女《みこ》をつとめるという目的で先家董子さんを探したいということだった。だがどうもそれだけではないのではないか、という気がするんですがね。この写真の女性と伊勢さんが親戚だとすれば、それは確かに大した偶然です。だが、奇跡というほどのことはない。現にわたしだって、ふらっと観光旅行に出かけた北欧で、レストランで食事をしている時に、近くのテーブルに座ったのが中学の同級生だった、というびっくりするような体験がありますよ。世の中というのは広いようで狭いものです。しかしあなたはどうもそうは考えておられない。もしかすると二十年も前から、伊勢さんがあなたの前にあらわれることは決まっていた、もっと言えば、伊勢さんがあんな悲劇にまきこまれることも……と、そんなふうに考えているのではないか、という気がしたんですが、いかがですか?」  藤次郎は、どう説明したらいいか言葉に詰まった。藤次郎が感じている不安は、理屈の上に成り立った筋道の立ったものではないのだ。どちらかと言えば漠然とした感覚に過ぎない。だがそれでも藤次郎は確信を持っていた。すべてのことはひとつに繋がっている。二十年前に自分がバルセロナであの女性と出逢ったことも、伊勢真利子が何者かに殺害されたことも、そして先家の墓が突然、壊れたことも。 「これからわたしがお話しすることは、自分でもうまく説明のできない事柄なんです」  藤次郎は、深呼吸して言った。 「大変に荒唐無稽な話に思われるかも知れない。だが笑わずに聞いていただかなければなりません。よろしいでしょうか。この話を聞いて、わたしの頭がおかしい、そんなことにはつきあい切れないと思われたのでしたら、はっきりそう言ってください。わたしは自分の力でこの写真の女性を探します」  吉良は頷いた。 「了解しました。先入観を持たずにお話をお聞きし、それでもわたしの手に余ると思ったら正直に言いましょう」  藤次郎は頷き、もう一度椅子に座り直した。そして、真湯島の先家の墓の話から、吉良に話しはじめた。     *  岩屋作造は、震える手でそのひび割れた地蔵に触れた。古びて苔むした石の感触が、ざらっと冷たく指先に感じられる。 「地蔵様が割れた」  作造は、絞り出すような声で言った。 「地蔵様まで、割れてしもた」 「作造は気にし過ぎや」  片岡《かたおか》源次《げんじ》が、作造の肩を軽く叩いた。 「石にも寿命はある。地蔵様にもそれが来ただけや」 「それなら、四辻の道祖様は? あんなでかい石が真っ二つになったんも偶然か? 春日神社の鳥居はどうや? 根元からぽっきり、あんなことが今まであったか? 全部、先家の墓が割れてから起こったことだ。先家の墓が割れて、とうとう、とうとう|あれ《ヽヽ》が出て来るんだぁっ」  作造は地面に膝をついて顔を覆った。 「……董子を、あの娘を早く島に戻さんと、とんでもないことになる。あの子がおらんと|あれ《ヽヽ》が復活してしまう……」 「|あれ《ヽヽ》、は伝説や」  源次は声を低めた。 「実際に見たもんはおらん。わしもまだ子供だったが、ただ話を聞かされておびえていただけだった。わしだけではない、結局誰に聞いても同じことを言う。|あれ《ヽヽ》の姿を実際に見たもんはおらんのや」 「当たり前だ!」  作造は怒鳴った。 「|あれ《ヽヽ》を見たもんはひとり残らず殺されて、誰も生き残ってはおらんのやから……」 「おとうさーん」  背中で女の声がした。妻の糸子《いとこ》の声だ。 「電話が入ったよぉ。東京から。藤次郎さんからだったよ」  作造は跳ね起きた。 「藤次郎さんからか! 今すぐ戻る!」 「十五分したらまたかけてくれるてゆうてたけど」 「こっちからかける! うちにおるのか?」  糸子は自転車に跨《また》がったまま首を傾げている。 「阿呆、ちゃんと聞いておかんか! それを貸せ、わしが乗って帰る。おまえは歩いて来い」  作造は糸子を自転車からおろして自分が跨がった。 「ほんなら、源ちゃん、また」 「ああ、またな。作造、あんまり気にせんとな。伝説はあくまで伝説、もう二十一世紀だ、伝説に振り回される時代やない」  作造は答えずにペダルを漕いだ。 「も、もしもし、もしもし!」  作造は焦って声を掛けた。藤次郎の返事がひどく遅く感じられる。 「もしもし!」 「はい? 吾妻ですが?」 「と、藤次郎さんか! さっきは出かけていてすまない、わしです、作造です!」 「ああ、作造さん。こちらから掛け直すつもりだったんですが」 「いやそんな、それでどうでした? 先家董子は見つかりましたか!」 「それが、まだなんですが」  藤次郎の返事に、作造の力が一気に抜けた。 「ま、まだですか……そうですか」 「しかし、もう直《じき》に見つかると思います。調査を依頼していた探偵が、董子と接触しましたから。董子は東京にいます。そして董子があるパーティに招待されたことは判りました。そのパーティの主催者に問い合わせて調べてもらえば、先家董子の居場所はすぐに判ると思いますよ」 「本当ですか」  作造は、いくらか希望がわいて来て思わず安堵の涙をこぼしそうになった。 「頼みます……お願いします。なんとかあの娘をこの村に連れ戻して欲しいんです」 「わかっています。わたしとしても最善を尽くします。今日はそのこととは別に、作造さんにお尋ねしたいことがあって電話したんですが。作造さんは、坂本さんのお宅のことはお詳しいですか?」 「坂本? 下在地《しもざいち》の坂本さんかな?」 「ええ。息子さんご夫婦が大阪に出られたきり行方知れずになっておられる」 「ああ、間違いない。ええまあ、耕一さんとはけっこう親しくしていますが」 「お嫁さんの禎子さんとは面識は?」 「そりゃ、ありましたよ。しかし、もうかれこれ二十年になるからねぇ、長男夫婦がいなくなってから。警察ももう探してはくれんし、耕一さんも正直なところ、諦めているみたいだが。しかし藤次郎さん、どうしてまた耕一さんのとこの嫁のことなんか?」  作造は不思議だった。藤次郎は村のことには長年関心を抱かず、村に戻って欲しいという頼みも断り続けていた男だ。少なくとも藤次郎の方から、村の誰かの消息を尋ねてきたという記憶は、作造にはない。  しかし、坂本一家のことについては、確かに遠い昔、藤次郎が里帰りした時に話題にしていたような記憶もあった。 「村山禎子さんが岡山のどのあたりの出身なのか、作造さんなら知っているのではないかと思って」 「耕一さんのとこの嫁の出身地」  作造は考えたが、咄嗟《とつさ》には思い出せなかった。 「すみません、憶えてないですわ。少し時間をもらえるなら、誰か知ってそうな人に訊いてみるけど」 「そうしてくれますか。そうしてもらえると助かります」  藤次郎があまり嬉しそうに言うので、作造はそのまま承知して電話を切った。だがどうも腑に落ちなかった。二十年以上も前に失踪した女のことなんか、どうして藤次郎が気にするのだ?     * 「わかりましたよ、村山禎子の出身地」  吉良は、吾妻藤次郎からの電話を受けた。もう夜の十時、そろそろ帰ろうと思っていた時間だった。 「禎子の義父に確かめてもらったんで間違いありません。岡山県の牛窓だそうです」 「牛窓……」  吉良は、その地名に聞き覚えがあった。つい最近牛窓のことを誰かと話題にしたような気がするのだが…… 「岡山の海沿いですよね。ブルーラインとかいう道路があって、海が大変に綺麗なところらしいが」 「ああ、そうですね……日本のエーゲ海と呼ばれて……」  その言葉で、吉良は思い出した。  そうだ、高木香奈子と話したんだった!  伊勢崎がその失踪にかかわっているのではないかと思われる、経堂美砂。その美砂と共に駆け落ちし、失踪してしまった江上啓次。  そう、江上が昔暮らしたことのある土地、それが牛窓だ。     6  速水は手にした名簿を見ながら考え込んだ。何の変哲もない高校の卒業名簿だ。だがこの上もないほど奇妙な名簿だった。どこが奇妙なのか。ある生徒の名前が、ない。  伊勢崎雅治。  ひとりの人間が確かにいたと主張する人間と、いや、いなかったと主張する人間が混在するなどということは、あり得ない。あるとすればそこには、何かトリックがあるのだ。  嶋田節子が送ってくれた名簿を見てまっ先にやってみたことは、その名簿を発行した代々木にある都立代々木西高校に電話をして伊勢崎雅治の在籍確認をすることだった。そしてその回答は、伊勢崎雅治という生徒は「確かに在籍していました」というものだった。本来ならば、この話はそれで終わりになる話である。  だが、嶋田節子から届いた名簿の三年D組のぺージには、どれほど丹念に端から端まで読みあげてみても、伊勢崎雅治、という名前が書かれていなかったのである。なぜ、在籍していたはずの生徒の名前が名簿から抹消されてしまったのか。いや抹消されたのではない。その名簿は嶋田節子が卒業した時の名簿なのだから、伊勢崎雅治の名前は、最初から名簿には載せられていなかったということになる。  名簿作成者の単純なミス?  しかしそれならば、名簿が配られてすぐに伊勢崎本人かまたはクラスの誰かが気づいて、名簿の作り替えか、せめて正誤表くらいは配られたはずだ。だが嶋田節子には、そんなものが配付されていたという記憶ももちろん、ないらしい。  記憶が間違っているのは嶋田節子とこの名簿なのか、それとも、代々木西高校を含めた東京在住の卒業生たちなのか。  節子に対しては、卒業生全員に聞き取り調査をするまでのことはないだろうと説明していたが、速水はやはり、できる限りの卒業生に接触する必要があるな、と思った。  取りあえず、名簿の片端から電話をかけて消息が掴めた卒業生には伊勢崎雅治について質問した。その結果を表にまとめる作業に、速水は丸一日を費やした。  結果はますます速水を混乱させた。 1.青山美花 伊勢崎雅治の記憶なし 2.足立節子 記憶なし 3.伊勢真利子 4.井上忠義 記憶あり 5.井村良雄 記憶あり 6.上野万里 記憶あり 7.魚住健司 記憶あり 8.宇田川祐也 記憶あり 9.江川志摩 記憶なし 10.遠藤達也 記憶あり 11.小川順子 記憶あり 12.織田郁美 記憶なし 13.小名木克義 記憶なし 14.貝原喜美子 記憶あり 15.香尾山圭一 記憶なし 16.風見純也 実家の転居先不明 17.片岡 哲 記憶なし 18.木村一朗 記憶あり 19.久我力哉 記憶なし 20.毛塚友美 記憶なし 21.鯉沼信一 実家の転居先不明 22.小堺 透 三年前に逝去 23.小松英里 記憶なし 24.斉藤清治 記憶あり 25.佐藤 愛 記憶あり 26.左藤昭一 記憶あり 27.進藤恵美 記憶なし 28.陶山有紀子 記憶なし 29.瀬川 慶 実家の転居先不明 30.外山光雄 記憶なし 31.園田隆一 記憶なし 32.田尾雄二 記憶あり 33.田川 礼 記憶なし 34.田村陽子 記憶なし 35.千村真一 記憶なし 36.津田京子 記憶あり 37.津山 勝 記憶なし 38.手塚恵子 記憶なし 39.中村麗子 記憶なし 40.猫井 千 記憶あり 41.浜村賢吾 記憶なし 42.松井辰也 記憶なし 43.渡辺亜希 記憶あり  法則性を探して、速水は作ったリストを何度か組み換えた。  ヒントは嶋田節子、旧姓足立節子が言っていた、東京以外のところに住む同級生は伊勢崎を憶えていなかった、という点だった。そしてそれはなんと、このリスト全体にあてはまる事実だった。結婚や転勤などで東京を離れているのは、  青山、足立、織田、小名木、片岡、毛塚、進藤、外山、田村、中村、松井  の十一名。  だがこの法則は片側からしか絶対ではない。この十一名は確かに全員東京以外の場所に住んでいるが、伊勢崎雅治についての記憶がないと答えた者の中には東京在住の者もいるのである。現住所は無関係なのだろうか?  速水はもう一度リストを睨んだ。たとえ片側からだけとは言っても、住所の問題には明らかな法則性がある。なぜなら、伊勢崎雅治を憶えている者の中で東京以外の場所に住んでいる者はひとりもいないのだから。  つまり、この法則性の条件の他に、別の条件によってこのリストの中の、伊勢崎雅治についての記憶がある人々の羅列は区分できる可能性がある、ということだ。  別の法則とは何なのか。  速水は、とりあえずもう一度、伊勢崎雅治の記憶があると答えた人々に電話をしてみることにした。 「もしもし、川鍋《かわなべ》亜希《あき》さんでいらっしゃいますね? 先程、お電話さしあげました速水と申しますが」  旧姓渡辺亜希は、青山のマンションに住んでいることになっている。マンション名だけでは詳しいことはわからないが、たぶん、裕福な暮らしをしているに違いない。 「あら、さっきの調査事務所の? 伊勢崎くんのことでまだ何か?」 「ええ、もう少しお話を聞かせていただけたらと思いまして」 「構いませんけれど、わたしの話なんて何かのお役に立つのかしら。伊勢崎くんの事務所にどこかの大企業が仕事を依頼する為の調査とおっしゃってましたわね?」 「ええ、その通りです。調査秘密で企業の名前を明かせませんのが心苦しいんですが、伊勢崎氏にとっては大変に大きなチャンスとなるプロジェクトでして」 「伊勢崎くんとはけっこう仲が良かったから、お役に立てるのでしたら何なりと。でも卒業してからはぜんぜん会っていないんですよ、同窓会にも出ていらっしゃらないし。なんでも世界を放浪していたそうですから、同窓会に出られなかったのは無理もないですけどね」 「今回の依頼主は、プロジェクトにかかわるスタッフの人間性を特に重視していらっしゃいます。お話しいただきたいのは、伊勢崎さんの高校時代のエピソードで印象に残っていることが何かあればお願いしたいのです」 「印象に残っていること、ですか……そうね、伊勢崎くんはとても親切で感じがよかったんで、クラスのみんなから好かれてましたよ。特に女の子で悪口を言う人はいなかったんじゃないかしら」 「女性にモテたということですね?」 「うーん、確かに人気はありましたけれど、特定の女の子とつき合っていたという記憶はないわ。わたし、伊勢崎くんとはことあるごとに班が一緒になったんですよね。どうしてだか、くじ引きでいつも一緒で」 「くじ引きで?」  速水は、伊勢真利子が伊勢崎雅治の思い出について話していたのを思い出した。確か、名簿順で名前が近かったからいつも一緒の班で行動した、と言っていなかったか? 「班は名簿順のようなもので分けられたのではないんですか」 「いいえ、くじ引きでしたよ。だって名簿順じゃ、いつも同じ人とばかり班になっちゃうじゃないですか」  亜希は笑った。 「あんまりいつも同じ班になるんで、あたしたちよっぽど縁があるのねって何度も笑いました。でもそんな縁も卒業しちゃうとぱったりなものなんですよね。伊勢崎くんとは、たぶん、卒業してから一度も会ってないわ」  亜希との電話を切ってから速水はまたしばらく考え込んだ。  そして、今度は田尾《たお》雄二《ゆうじ》のところに電話してみた。田尾は新宿御苑の近くのマンションに住んでいた。  同じようなやり取りをした後で、速水は訊いた。 「ところで、伊勢崎さんは高校時代、どんな生徒でした? 印象に残っていることがあれば教えていただきたいんですが」 「印象に残ってることねえ……とにかく、親切ないい奴だったですよ。クラスでも伊勢崎のこと嫌ってるやつなんかいなかったんじゃないかな。特に男連中には好かれてましたよね。女の子にべたべたおべっかつかったりしなくて、男っぽくてさ」 「女性にはあまり親切じゃなかった?」 「いや、そんなことはないけど、女の子にばかり愛想をふりまくようなせこい奴じゃなかったですよ。僕はどうしてなのか伊勢崎とはいっつも班が一緒でね」  速水は、心臓がどくどくと打ち始めたのを感じた。 「その班には伊勢さんや渡辺さんもいらっしゃいました?」 「え、伊勢と渡辺? どうだったかなぁ……いや、あの人たちは別の班だったと思うけどなぁ。僕らのクラスでは班分けは並んでる席ごとにやったんですよ。席替えは一学期に一度しかなかったから、ひとつの班は一学期間ずっと一緒でね、それが僕と伊勢崎は、席替えのたびに席が近くなっちゃうんです。よっぽど縁があるんだな、なんて何度も笑いましたよ。でもそんな縁も卒業しちゃうとなくなっちゃうもんなんだなぁ。卒業以来、伊勢崎とは会ってないですからね」  同じ記憶。伊勢真利子と渡辺亜希、田尾雄二の記憶は、細かなところでバリエーションはあってもみんな同じだ。  そんな……そんな馬鹿なことがあるんだろうか?  速水はリストを握る手が震え出したのを感じていた。不可解だ、あまりにも、不可解だ。  それでも、例外というのはどんな場合にもあるに違いない。  速水は躍起になって、「違う記憶」を求めて電話をかけ続けた。外出していると聞けば携帯電話の番号まで聞き出し、職場にまでダイアルして質問を続けた。 「伊勢崎くんとは班が一緒でしたよ。どうしてなのかいつもなんです。あみだくじで決めてるのに不思議ねっていつも笑ってました」 「彼は誰にでも親切でしたよ。特に男には人気があったな、頼りがいがあるって感じで女にべたべたしなくてさ。俺とはなんでか、いっつも同じ班で、班の組み分けは担任が決めてたんで、俺とおまえはセットで考えられてるぜっていつも笑ってたんだけど……」 「伊勢崎くんとは卒業以来、会ってないんです。彼とは何かと一緒になることが多くて、特に班はいつも一緒だったから仲良しでした。でも特定の女の子とつき合ってるって噂は聞かなかったです。女の子には誰にでも優しくて、人気がありましたよ」 「不思議な縁だったよね、何しろ班替えするたんびに同じになっちゃうんだから。くじ引きで決めてんのに、いったいどうなってんだろ、なんていつも笑ってたけど。ほんとにいい奴だったよね、親切でさ。でも卒業してから全然会ってないなぁ。どうしてるんですか? あいつ」  速水は、言い様のない疲労を感じて部屋のまん中に座り込んでいた。  やっぱりそうなのだ。伊勢崎雅治がクラスにいた、と証言した人々の記憶は、あの伊勢真利子のそれも含めてすべて「同じもの」だった。そこから導き出される結論はひとつしかない。  それらの記憶は、偽造だ。  しかしいったいどうやったらそんなことが出来るのだろう。こんなに大勢の人間、しかもたぶん、学校関係者の記憶に至るまですべて操作して、偽物の記憶を植え付けるなどということが!  不可能でないことはわかっている。無理にでもそうしようと思えば現代の科学力を以てすれば簡単なことなのかも知れない。目標とする人々を一堂に集め、一斉に薬物を注入して眠らせてから催眠術にでもかけてしまえば。  一堂に集めなくても、時間さえかければひとりずつ拉致して記憶を改竄《かいざん》し、改竄されたという記憶を抹消してしまえば可能だ。しかし、いったい何の為にそんな手間のかかることをする? 第一、そんなことが出来るとすれば相当な科学的知識を持った、人数もある程度そろえた集団ということになる。そんな集団がどうして、そうまでして伊勢崎雅治の記憶を植え付けなければならない?  しかも、なぜ高校時代の記憶を……?  伊勢崎雅治が代々木西高校に在籍していた、という記憶が偽物なのだとしたら、本物の記憶は、嶋田節子と卒業名簿が示した、伊勢崎雅治などという人物は代々木西高校にはいなかった、という記憶である。つまり、記憶の改竄を受けていないのは、伊勢崎雅治について記憶なし、と答えた方の人々なのだ。  そう考えると、東京在住でない卒業生に伊勢崎の記憶がなかった理由は想像が出来た。つまり記憶の改竄は東京で行われ、東京に住んでいた卒業生が対象にされた、ということである。  そこまで推論して、速水はもう一度自分が作ったリストを見つめた。  では東京に住んでいるのに記憶の改竄を受けなかった人々の共通点は何か。なぜ彼らは記憶を改竄されることを免れたのか。  江川志摩 現在姓・川島 町田市在住  香尾山圭一 三鷹市在住  久我力哉 墨田区在住  小松英里 八王子市在住  陶山有紀子 現在姓・伊藤 小平市在住  園田隆一 青梅市在住  田川 礼 八王子市在住  千村真一 葛飾区在住  津山 勝 江戸川区在住  手塚恵子 葛飾区在住  浜村賢吾 稲城市在住  彼らは記憶の改竄を受けていない。そして……  井上忠義 港区在住  井村良雄 渋谷区在住  上野万里 世田谷区在住  魚住健司 千代田区在住  宇田川祐也 杉並区在住  遠藤達也 渋谷区在住  小川順子 世田谷区在住  貝原喜美子 現在姓・真下 目黒区在住  木村一朗 世田谷区在住  斉藤清治 文京区在住  佐藤 愛 豊島区在住  左藤昭一 目黒区在住  田尾雄二 新宿区在住  津田京子 現在姓・神川 杉並区在住  猫井 千 文京区在住  渡辺亜希 現在姓・川鍋 港区在住  彼らは記憶の改竄を受けている。なぜ、東京に住む者でも二つに分かれたのか。それともこれらはただの偶然なのか。  いや。  速水はさらに表を見つめ、考えた。一見すると住所もランダムで二者の根本的な違いがわからない。  だが……  そうか!  速水は東京都の地図を広げた。そして東京に住む卒業生の住所を点で書き込んだ。  卒業生たちがなぜ二分されたか。それはわかった。記憶の改竄を受けていない者たちの現住所は、東京の下町かもしくは、二十三区外の多摩地方などになっていた。つまり、山の手の地域からはずれているのだ。  これはどういうことなのだろう?  ふつう、これだけの人間が全員そろって一日中家にいるなどということはあり得ないから、どんな組織が彼らを拉致して記憶の改竄を行うにしても、拉致場所が自宅に限られているというのはおかしい。働いている人がターゲットならば勤め先や出先で襲われることがあってもいいだろう。そして勤め先や出先というのは自宅からは離れている場合が少なくない。下町に住んでいても山の手に勤めていることなどは珍しくもない。それなのに、二分されたのは明らかに住所によってなのだ。いくつか考えられることはあったが、要するに記憶の改竄はどこかに卒業生たちを集めて行われたのではなく、各自の自宅で行われた、という可能性が強いことになる。  そんなことが可能なのだろうか? それぞれの自宅に入り込んで偽の記憶を植え付けるなどということが。  あり得ない。これらの人々は全員ひとり暮らしというわけではないのだ。家族に気づかれずにそんなことが出来るとはとても思えない。家族の記憶もまとめて操作するのでは手間も人員もかかり過ぎる。そんなことをするくらいなら、彼らをどこかに集めて一気にやった方が楽だったはずだ。いったいどんな方法で、自宅にいる人々の記憶を変えてしまったのか。  たとえば……催眠電波のようなもの、あるいは催眠術の映像のようなものを流して見させたらどうだろう?  そうか。その線ならば考えられる。記憶を改竄された人々の現住所が東京の山の手から隅田川の西側に集中しているのは、どこからか発信された電波が届く範囲だから、と考えたら。  とすると……どこかにその電波の発信地があるはずだ。単純に考えて、どこかにそうした電波の発信場所を作るとしたら、目的とする人々の家の中心、ということになりはしないか。そこから深夜にでも一斉に電波を流して、記憶に干渉する。もちろんその範囲に住む人々には代々木西高校と無関係に記憶が刻まれてしまうが、無関係な人々にとっては代々木西高校の三年D組に伊勢崎雅治という人物が在籍していた、という記憶が残っていても別に何の影響もないわけだ。  ただ不思議なことは、それぞれの記憶が少しずつバリエーションを持っている点なのだが、それは本来の「正しい記憶」に合わせて偽の記憶が変化するよう仕組まれていると考えることも出来る。もちろん、そんな高度な催眠術が、電波のようなもので可能なのかどうかについては別として、だが。  井上忠義 港区白金二丁目  渡辺亜希 港区南青山三丁目  井村良雄 渋谷区初台二丁目  遠藤達也 渋谷区代々木四丁目  上野万里 世田谷区太子堂二丁目  小川順子 世田谷区大原一丁目  木村一朗 世田谷区等々力五丁目  魚住健司 千代田区平河町一丁目  宇田川祐也 杉並区和田一丁目  津田京子 杉並区梅里三丁目  貝原喜美子 目黒区上目黒四丁目  左藤昭一 目黒区大橋二丁目  斉藤清治 文京区後楽二丁目  猫井 千 文京区関口一丁目  佐藤 愛 豊島区高田一丁目  田尾雄二 新宿区新宿一丁目  速水は、住所の区、ごとに名前を仕分けし、地図上に点を打ってみた。そして、驚いた。  狭い。  これだけ多くの区にまたがっているので山の手のかなり広い地域に分散していると思っていたのだが、地図上に点で描いてみるとこれが驚くほど狭い地域に集中しているのだ。これならば、催眠電波のようなものを使ったという、一見荒唐無稽な仮説も成り立つかも知れない。  さらに、豊島、文京、港、世田谷、杉並、と、それらの点の外端にあたる部分を大雑把に線で結んでみる。いびつではあるが、その集中にはまとまりが見えて来た。部分的にへこんではいるにしても、円、と考えられなくはない。となると、その中心点は……  新宿区と渋谷区の境目あたり?  川鍋亜希の住んでいる、南青山近辺か……     *  好きよ。  今朝起きた時から頭痛がして、会社に行くのがたまらなく億劫《おつくう》になった。朝十時から会議が入っており、重要な報告をしなくてはならない立場だったのに、冴絵は結局会社を休んだ。高熱が出たと嘘をついて。そんなことは、大学を出て勤め始めて以来なかったことだった。  疲れているのだ。  仕事も、夫との結婚生活も、不倫も、すべてひっくるめて疲れてしまった。もう止《や》めたい。何もかも止めたい。  いつも虚勢を張って、できる女、頭のいい女を演じ続ける。本当に心をくつろがせて誰かに甘えたことなど、もうどのくらいないだろう。  甘えたかった。見栄を張らず、嘘をつかなくてもいい相手の前で子供のように甘えていたかった。そう思って結婚した夫だったのに、結局夫の前でもあたしは虚勢を張っている。つまらない、意味のない虚勢を。  好きよ。  なんだろう?  頭痛薬を飲んで寝ていると、耳にその言葉が飛び込んで来た。  誰かが囁いているのだ。でも……  部屋の中には誰もいない。いるはずがない。ここはあたしの部屋で、この家には今、あたししかいないのだから。夫は昨日から海外だ。  好きよ。  冴絵は起き上がった。声がしたのは窓の方だった。そんな馬鹿な。この部屋は、高層マンションの最上階にあるのよ。地上三十八階、窓の外に人がいるわけがない。  それでも冴絵は窓辺に近付く。高層階は安全の為に外に面してベランダはない。  リビングの窓辺ははめ込みのガラス、空気の入れ替えは、窓枠にそってとりつけられた蛇腹のような形の可動ガラスで行う。  そのはめ殺しのガラスの向こうには、遠く東京湾が広がっている。  冴絵は、カーテンを開けた。  そして悲鳴をあげた。  空中に、女がひとり、浮かんでいた。  冴絵の顔を見て、にたり、と笑って。 [#改ページ]   過  去     1 「これがブルーラインですか。なるほど……この光景は素晴らしい」  吉良はハンドルを握りながら感嘆の声を上げた。 「わざわざこちら側から来た甲斐《かい》がありました。一度見てみたかったものですから」  山陽白動車道の備前《びぜん》インターチェンジから、海沿いに岡山市の東まで続いているブルーラインは、途中、湾が陸地に深く切れ込んでいる場所を、海を横断するような感じで通っている。あまりにも深く陸地に切れ込んでいるので海というよりは湖のように波ひとつない水面に、いくつも小島が浮かぶ様子は、大変に美しくまた珍しい風景になっていた。 「この辺りの風景はほんとに風変わりですね。今はもう誰も残っていないのですが、わたしの親戚で、日生《ひなせ》に住んでいた者がいましてね、子供の頃はよく遊びに来ました。わたしの生まれた島から日生まで、島民だけしか利用しない定期船が出ていたんですよ、三日に一度でしたが。あの頃はもちろんブルーラインなどという道路はありませんでした。この辺りの人々はみんな、小さな漁船を交通手段にして移動していたんです」 「吾妻さんの故郷の真湯島までは、どうやって行けばいいんですか?」 「それが、定期船はすべて航路が廃止されてしまったんですよ。一時は三千人はいた島民が、今は八百人ほどにまで減っていましてね、船会社も定期的に運航していたのでは採算がとれないんですね。島の主な産業は漁業で、港に漁船がいつでもありますから、金を払えば牛窓でも小豆島《しようどしま》でも行って貰えます。本土から渡る時には、電話で漁業組合に船を予約しておけば迎えに来てくれます。しかし定期航路がないと、外部の人間が島に来ることは難しいですからね、結局島は閉鎖状態で、島民の流出だけが続いているわけです。もっともわたしもそうした流出組ですから、偉そうなことは言えませんが」 「観光の目玉になりそうなところはないんですか。海水浴とか」 「ええ、砂浜が少ないんです。島の周囲はほとんどが崖と入り江で、魚を釣るにはいいんですが、泳ぐのには適しません。それに所詮は瀬戸内海、内海《うちうみ》でしょう、ここ二十年で海はかなり汚れてしまい、はっきり言って泳ぐという点では魅力がなくなっています。今さら海水浴場を整備しても、人は集まらないでしょう。他には観光すると言ってもそれこそ昔からある神社くらいしか見るところはありませんしね。唯一、魚だけはそこそこいいものが捕れますから、温泉でも涌いてくれれば魚料理と温泉で人も呼べるんでしょうが、投資してくれる企業もないので温泉を掘ってみることも出来ないんです。島民が千人を切った時点で、島の人々も諦めてしまったという感はあります。日本全国に同じような経緯で過疎化した地域はたくさんあるんでしょうね。わたしも島をこのまま見捨ててしまう、というのは心苦しいものがあるんですが、今さら島に戻って生活は出来ないと思うんです。若い内ならば順応することも出来るでしょうが、この年齢まで都会暮らしにどっぷり浸かってそれに慣れ切ってしまうと、もう田舎の生活には戻れません。むしろ年寄りほど、病院が近くにないと困るとか、できあいの惣菜が豊富に買えるスーパーがないと困るなどと、都会暮らしに固執するものなんです」 「そうでしょうね……わかります。誰のせいということではなく、日本の田舎はみな自然と過疎に向かうような社会構造になってしまっているんですね」 「それでもいろいろとアイデアを出して、活性化につとめている村もたくさんあるんでしょうが……真湯島の場合は、簡単にそうできない事情がありますから」 「吾妻さん」  吉良は運転を続けながら言った。 「先家董子が、特殊な役割を担った家系を継ぐ女性だという話は伺いました。先家の家系の女性が、真湯島におそろしい禍いがふりかかるのを防いでいると。しかし、その禍いとはどんな種類のものなんです? 吾妻さんの口調から察するに、何かとんでもないものだというのはわかるのですが……」  藤次郎はしばらく無言だった。吉良はせかさずにじっと待った。  藤次郎自身、話してしまいたいと思っていることは確かなのだ。だがそれを話せないというのは、かなり強いタブーがそこに存在しているということに違いない。  やがて、藤次郎は小さな溜め息をひとつついて、口を開いた。 「今からもう五十年以上も前のことです。わたしがほんの子供の頃のことでしたから。島に大変な災難が発生し、大勢の若い男が死んだという事件がありました。わたしの出た島は今は真湯島、真実の真にお湯の湯、と書いて、まゆ、と読ませています。しかし今も言いました通り、真湯島には温泉は出ていません。お湯にまつわる伝説などもない。本当は、まゆ、は蚕や蛾のサナギ、つまり、繭、の字を当てるのが正しいのだと思います。と言うのは、島にはサナギの祠《ほこら》、と呼ばれている場所があり、そこにはおかしな伝説が伝えられているからなんです」 「おかしな伝説、ですか」 「ええ。その祠では、人がサナギになってしまう、という伝説なんですよ。荒唐無稽でしょう?」 「人、つまり人間がサナギになる?」 「そうです。自分のからだの周囲に繭糸を吐き出してくるみ、サナギになると言われています。そしてそのサナギはほとんどの場合、死んでしまうが、何百匹に一匹はかえって、不死の人となって甦ると。昭和の初め頃、京都の民俗学者の先生とその研究室の学生さんたちが真湯島を訪れて、問題の祠を調査したことがありました。その時実際に、人骨が多数、祠の中から出て来たんだそうです。いずれも百年近く経っている骨でしたので、死因の特定のしようもなく、骨はすべて島の墓地に埋められて、繭の墓、と呼ばれている共同墓地が作られました。人骨の数は、遺体にして百数十体。不思議なことに、成人男子の骨ばかりだったそうです。その時の調査の結論としては、江戸時代後期に瀬戸内海にいた海賊の集団が島民に捕らえられ、ここで殺されたのではないか、というものでした。当時は真湯島も島民の数が多く、海賊対策にそれなりの武器も有していたでしょうから、襲撃して来た海賊を返り討ちにして捕虜を殺したということも、そう無茶な意見というわけではないんです。海賊の船には女も子供も乗っていたかも知れませんが、殺したのは大人の男だけで他の者たちは島民が所有したと考えれば、出て来た骨が成人男子だけだったというのもいちおう説明がつきますからね」 「しかし、そんな大きな戦いならば島になんらかの記録が残っていてもいいですよね」 「ええ、わたしもそう思います。ですから海賊討伐説は無理があるような気がするんです。しかしでは他にどんな仮説がたてられるかと言われると、百数十人もの成人男子の骨が、海辺の小さな洞窟で見つかった事実をどう解釈したらいいのか……何らかの理由で島民が集団自決したとか、大きな団体で瀬戸内海を移動していた、どこかの藩かあるいは外国の使節などの船が難破して、その犠牲者を島民が弔ったのか。しかしそれにしては洞窟の奥に放り込んで墓のひとつも建てないというのはおかしい。いずれにしても、真相はまったくの闇の中です。ただひとつ、その洞窟が繭の祠、サナギの祠と呼ばれ、さっき申し上げた奇妙な伝説が残されている、ということだけが事実としてあったわけです。まあしかし、それらは昔話で、今の島民とは直接関係のあることではありませんでした。それが、いちばん最初の話に戻るのですが、今から五十年余り前、そのサナギの祠で十数人の男が死ぬという事件があったんです」 「十数人、一度に、ですか!」 「正確な人数は知りません。島の記録にはちゃんと残されていると思いますが、何しろ昔、戦後すぐのことでしたから……わたしの記憶に残っているのは、ある朝両親がとてもおびえてひそひそと話し合っていたのを耳にして、ひどく怖かった、それだけなんです。ただその後、その事件の噂は島を出るまで何度となく聞かされました。その噂というのが……サナギの祠の奥には、不老不死を手に入れた代わりに変化を起こして人間ではないものになってしまった、いわば化け物が棲みついていた。それが出て来られないように封じ込めていたのは、村の災厄のすべてを鎮《しず》め、祟《たた》るものを封じ込めてきた先家の巫女の力だった。ところが、その先家の娘を犯した不届き者がいて、娘は怒って祠《ほこら》の封印を解いてしまった。祠の奥にいた化け物があらわれて、娘を犯した男たちと、その男たちの仲間をまとめて殺したのだ……そういう話になっていたんです」  吉良は、吾妻の話を頭の中で整理した。一見荒唐無稽のようではあるが、土着の怪奇話にはよくあるパターンだ。化け物、その化け物をなだめることのできる娘、その娘が陵辱される、そして化け物が暴れ、多くの犠牲者が出る。 「しかし五十年前の先家の娘さんと言うのは、まだご存命の、現在の先家の巫女の方ですよね?」 「そうです。先家の婆、と皆が呼び、おそれている女です。歴代の先家の女の中でもいちばんの霊力を持つと言われている人ですが……その女性が病気で足腰が立たなくなり、それと相前後して、先家の墓と呼ばれている、祠の化け物を封じていると信じられていた大きな岩が割れてしまったのです。サナギの祠は海岸の洞窟の奥にあり、その洞窟はかなりの長さを持っています。どのくらい内部に続いているのか、完全には調査がされていないんです。そして先家の墓は丘の上に立っているのですが、そこがその洞窟の終点の真上だと島民には信じられているわけです」 「それでは、あなた方が先家董子さんを捜そうとしているのは……」 「はい」  藤次郎は苦しそうな声で言った。 「先家の婆様が万一亡くなられてしまった時、サナギの祠の怪物が復活すると信じている島民がいる……いや、多くの島民がそう信じているんです。董子を島に呼び戻そうとしている人々は、董子が……昔、その霊力で腹違いの弟を呪い殺したと信じています。そして怪物を封じ込めるために、その董子の力が必要だと考えているわけです」  吉良は、心の中で大きな溜め息をついた。  先家董子は島に帰らない方がいい。率直にそう思った。帰っても、因習と伝説に縛りつけられ、期待と差別で辛い思いをするだけだ。  しかしもはや、先家董子を探し出さずに済ませられる段階ではない、ということもわかった。たとえ事務所が調査を断っても、真湯島の島民たちは先家董子を捜し続け、そして最後には董子を島に連れ戻してしまうだろう。 「わたし自身の正直な考えでは」  藤次郎は、吉良の心中を察したように言った。 「まず、祠の怪物などというものはもともと存在していない、と思っています。一度に成人男子が大勢死んだ理由というのは、必ず科学的、あるいは論理的に説明がつくものに違いない。五十年前の事件では死因が特定出来なかったとされていますが、何しろ終戦直後の大混乱の時代です。死体の検分をしたのは岡山から来た警察と検死官だったと思いますが、当然人手が足りなかったでしょうから、島の者たちに手伝わせたはずです。と言うより、島の者たちの言うことを鵜呑みにして捜査した可能性が高い。その結果、集団自殺の疑い濃厚、という捜査結果になってしまって、根拠のない噂話だけが後に残った。たぶんそんなところでしょう。そしてまた、先家董子さんにそれほど強い霊的な力があるのかどうかについても、わたしは疑問に感じています。確かに、たとえば恐山《おそれざん》のイタコなどは生まれながらの素質のようなものが重要だという話を聞いたことはある。遺伝的資質というのはあるのかも知れない。イタコに限らず、日本全国に残されている口寄せの風習を受け継ぐのは、特定の家の女性たちであることが圧倒的に多いようです。口寄せとか降霊術というものは、トランス状態に入った巫女とか降霊術師が主役ですからね、トランス状態に入りやすい気質というのが遺伝するというのは理解出来る。ですが口寄せの資質というのは、怪物を退治するような力とは根本的に違うものでしょう? 先家董子に掛けられた期待というのは、ほとんどこじつけと言っていいものだと思うんです」 「わたしにはそうした地方の村の因習のようなものに対する知識も見識もありませんが、それでも吾妻さん、今のご意見には全面的に賛成ですね。こんなことを言うのは越権行為だとわかっていてあえて言わせていただくのでしたら、先家董子さんを無理に島に連れ戻すのは残酷なことのように思えます」  藤次郎は、ゆっくりと頷いて、そして両手で顔を覆った。 「まさに……残酷だ。先家董子のことはこのままそっとしておいてあげたい……しかし」  藤次郎は手を膝に戻した。 「しかし、言葉とは裏腹に、わたしはやはり今となっては先家董子に頼るしかないかも知れない、と考えているんです」 「吾妻さん……?」 「吉良さん」  藤次郎は大きくまた溜め息をついた。 「わたしは神秘主義者ではないし、超常現象の愛好家でもありません。しかし自分の理解を超えた出来事もこの世の中にはあり得ると、最近は思うようになりました。あなたには到底信じていただけないかも知れないのですが……どうやら、真湯島には本格的な災難が近づいているようなんです」 「本格的な災難、ですか。それはどんなものなんです?」 「わかりません。どうしてそう感じるのか説明することも難しい。ただ、おたくの調査員さんが亡くなられたあの一件は、真湯島に近づいてる災難と関係があることは確かだと思います。樹木が……イチョウの樹《き》がそれを教えてくれました」 「イチョウの、樹?」 「真湯島にはイチョウは育ちません。なぜ育たないのかわかりませんが、イチョウの樹はたった一本しかありません。しかし実がつくんです。イチョウは雄の樹と雌の樹があり、二本そろっていないと受粉しない。それなのに、真湯島の雌の樹木は単体で実ります」 「そんな馬鹿なことが……」 「誰でもそう言います。しかし、小さくて食用にも出来ないような実なのですが、確かに銀杏《ぎんなん》が実るんです。このことは島民の間の公然の秘密ですが、決して島の外の人には話してはいけないとされています。なぜタブーなのかはわかりません。そして、これは島民の中でも、もうごく一部の人にしか語りつがれていない話ですが、江戸、つまり東京には真湯島の人々を守ってくれる樹がある、とされています。おそらくは室町時代の初め頃、真湯島の銀杏を携帯して関東にのぼった島民が、武蔵野のある場所にその銀杏をまいた、そのまいた銀杏から育った樹木が、真湯島の島民を守る樹だと」 「実際に、そんなイチョウがあるのですか?」  藤次郎は、静かに頷いた。 「千駄ヶ谷の鳩森八幡神社に、ありました。しかし同時にその樹は、真湯島の人々にとって敵となる存在をも誘き寄せてしまったようなのです……先日、その樹に触れていてわたしは、信じられないほどの疲労と苦痛とを感じました。真湯島の民を守る役目を果たさなくてはならないそのイチョウが、恐怖と苦痛とで悲鳴をあげていたんです」 「申し訳ない」  吉良は、少しアクセルを踏み込んだ。 「今のお話だけでは……何と理解していいのか」 「当然です。吉良さん、すぐに信じられないのも理解出来ないのも当然なんですよ。わたしだって、今わたしが言ったようなことを誰かに聞かされたら、馬鹿にするか呆れるかしていると思います。ただ、先家董子のことに関しては、わたしも切羽詰まった気持ちでいる、それだけわかって下さい。もちろん彼女を見つけ出すことが出来て、島に連れて戻ることになった時にはわたしも同行します。決して先家董子を孤独や差別で苦しめないよう、わたしが責任を持って守ります」 「我々としては、一度引き受けた調査ですから、先家董子の居場所は突き止めます。そちらの方はさほど手間はかからずに済みそうですよ。先家董子が出席していた飯倉のビアホールのオープニングパーティですが、ビアホールのバックアップをしているビール会社にコネを見つけましたから、パーティの招待客リストのコピーが数日内には手に入ります。おそらく、そこに住所が載っているでしょう」  藤次郎はホッとした顔になり、座席に背中をもたせかけた。  老けたな、と、吉良は思った。藤次郎は本当に老けてしまった。調査依頼に来たのはほんの半月ほど前だと言うのに、あの時の印象よりも十歳は上に見える。  何が藤次郎をこれほど急激に衰えさせてしまったのだろう。  敵となる存在を誘き寄せてしまった……そのイチョウが千駄ヶ谷に?  では……真湯島の災難の源は今、東京にいる、ということか? 「あ、次で降りないとなりませんね」  吉良は、危うく読み落としそうになった標識にやっと牛窓の二文字を見つけた。 「ブルーラインを降りたら十分少しといったところですか」 「ええ、そんなもんです。一本道なので迷うことはありません。町に着いたらまずどうしますか? 禎子の実家を訪ねてみますか」 「そうですね、そうしましょう」  吉良は、横目で藤次郎の様子を見て付け加えた。 「しかしまずは腹ごしらえですよ。吾妻さん、最近あまり召し上がっていらっしゃらないんじゃないですか? 無理にでも食べないと、真相にたどり着く前に参ってしまいますよ」     2  牛窓は細長い町だった。港やヨットハーバーのある海岸線に沿って主要道路が走り、その道路の両側に商店、役所、ホテルなどが並んでいる。その東端には、古い商店の看板や店構え、家並みなどを保存したり復元したりして、観光スポットとして売り出しはじめた一角があり、逆に西へどんどん進んで行けば、湾を囲む丘の中腹に、老舖のホテルと多数のペンションがたち並ぶ一帯に出る。このペンション村には若い観光客を中心に、シーズン中はたくさんの人々が訪れる。そして海に沿ったこの細長い牛窓地区を見下ろすように、広大な敷地のオリーヴ園が背後の丘に作られていた。  禎子の実家は、牛窓の新しい観光スポットとして注目を浴びつつある、保存された古い家並みの中の一軒で、船の部品を扱う商店を営んでいた。古い町並みを保存していると言っても、どの家も実際に人が住み、使われている家なので、まったく古いままで残されているわけではない。ただ改築するにしても町並みの雰囲気を壊さないよう、それらしいデザインにしたり看板をつけたりしているようだった。しかしその船の部品店は、少なくとも戦後すぐからそのままだろうと思わせるような、本当に古びた店内だった。  吉良が電話で連絡をつけておいたので、現在の当主である村山|嘉朗《よしろう》は家で待っていてくれた。 「わたしは禎子さんの従兄にあたります」  村山嘉朗は、意外なほどきれいな標準語で言った。 「この家は禎子さんの両親が継いだ家でしたが、禎子さんの両親は、禎子さんが行方知れずになってまもなく相次いで御病気で亡くなり、禎子さんのお父さんの弟であるわたしの父が、代わりにここに住むようになったわけです」 「禎子さんからはその後、本当にただの一度も連絡がないわけですか」  吉良の問いに、嘉朗は頷いた。 「まったくおかしな話です。禎子さん夫婦には失踪するような動機がまったくみあたらなかった。真湯島の坂本の家でも首を傾げるばかりだったそうです。大阪に行くと言って夫婦で島を出たのも突然で、大阪に何をしに行くのか、坂本の家でも詳しいことは聞かされていなかったようですし」 「働きに行かれたんですよね?」 「坂本さんはそう言っていたそうですが、それもわからないことのひとつなんですよ。坂本家は真湯島では珍しく漁師の他に農業もやっていました。真湯島では、小豆島やこの牛窓と同じように、規模は小さいですがオリーヴを栽培しているんです。坂本家は島でいちばん大きなオリーヴ畑を持っていて、神戸の化粧品会社から依頼されたオリーヴを栽培しています。契約栽培ですから多額ではないにしても安定した収入になり、生活は島の平均的なものと比べても豊かだったはずなんです。禎子さんのご主人は跡取りではなかったらしいですが、それでもそのオリーヴ農園の仕事があるのでわざわざ大阪に出稼ぎになど出る必要はなかった。知人に誘われて出かけたという話なんですが、その知人というのが誰なのかもよくわかっていないんです」 「すべてが謎、ということですか」 「まさにその通りです。しかし二人がそのまま失踪してしまうなどとは誰も考えていなかったので、坂本の家としても、大阪で落ち着いたら連絡が来るだろう、くらいに軽く考えていたようなんですね。それが半年経ち、一年経っても連絡がない。ようやく変だと思って、坂本の当主、つまり禎子さんの義理のお父さんが大阪まで出かけて心当たりを探したらしいんですが、とうとう消息は掴めなかった。警察にも失踪人として届けてありますが、手がかりはひとつもないそうです。今ではもう禎子さんのご両親もなくなってしまわれて、申し訳ないとは思いつつも、日々の暮らしに追われて禎子さんの消息を探すことはできないままになっています」 「村山さんは禎子さんとはお親しかったんですか」 「そうですね、小さい頃はよく一緒に遊びましたよ」 「禎子さんはどんな女性でした?」 「どんな、と言われても」  嘉朗は苦笑した。 「子供の頃の印象ですからねぇ、何しろ。わたしは高校から岡山の方に出てしまい、大学は東京だったんです。その後は、里帰りを決心するまで東京で就職して働いておりました。ですから、大人になって禎子さんに会ったのは、正月や盆の帰省の時にちらちら、あと、この牛窓特有の祭り、だんじり祭りがあるんですが、その祭りの時に何度か、その程度なんです。最後に会ったのは禎子さんの結婚式の時でした。子供の頃は、そうですね、どちらかと言えばおとなしい子だったように覚えています。ただちょっと変わったところのある子ではありました。夢想癖があったというか……」 「夢想癖?」 「時々ぼーっとしてしまって、どうしたのかと思っていると、突然、わけのわからないことを喋り出すんです。それが禎子さんの頭の中で空想した物語についてだったりするわけですよ。まあ、想像力が豊かな女の子なら珍しくはないことなのかも知れませんが。ただ彼女はそれを想像だとは言わなかったんです。目の前にちゃんと見えるんだ、と言い張るわけです。で、いつもではないんですが、彼女の空想した通りのことが起こることもありました。もちろん偶然だったわけですけどね、それでも親戚の中には、禎子さんには霊力がある、なんて言っていた人もいましたよ」  吉良と藤次郎は顔を見合わせた。 「霊力、ですか」  吉良が言うと、嘉朗は苦笑した。 「いえいえ、そんなに大袈裟にはお考えにならなくていいんです。田舎ではね、ちょっと風変わりなことを言ったりやったりする人間に対して、二通りの極端な反応を示すことがあるわけですよ。あたまがおかしいんだと排除しようとするか、特別な能力があると考えて、先祖の霊だとかなんとか神の遣いだとか言って持ち上げては、占いのようなことをさせて予言を得ようとしたり、死者の霊を呼び出してもらったりする。禎子さんの場合も、そうした存在にまつりあげようとする人はいた、その程度のことです。実際には禎子さんは、神憑《かみがか》りな存在になることはなく、高校を出て少し働いてから、真湯島に嫁にいってしまったわけですからね。そうそう、その結婚についてもちょっとしたエピソードがあります」  嘉朗は、また苦笑しながら腕組みした。 「どう話したらよろしいでしょうね……まあこれはすべて、禎子さんの夢想だと考えていただけばいいでしょう。禎子さんは高校を出てから、備前の陶器会社に就職したんです。真面目な働きぶりだったそうで、その上、まあまあの器量よしでしたから、その陶器会社の若社長に大変に気に入られたそうで、ぜひ嫁にとのぞまれた。とてもいい話なので、禎子さんのご両親は大変に乗り気になりました。ところが禎子さんは、当時特定の恋人がいなかったのにその話を断った。その理由というのが、自分はいずれ真湯島の男と結婚しなくてはいけない、というものだったんです。ところがその時点では、禎子さんは真湯島の男などひとりも知らなかったそうです」 「つまり禎子さんは、自分の将来を予知していたというわけですか」 「うーん、どうなんでしょうか」  嘉朗は頭を振った。 「そうじゃないと思いますがね。つまり禎子さんは、またいつもの夢想で真湯島の男、という存在を作り出した。そして自己暗示にかかったんだと思います。自分は真湯島の男と結婚しなくてはいけないんだ、という自己暗示です。その結果、たまたま真湯島の坂本さんと知り合った時に、この男こそ結婚する相手なんだと思い込んでしまった。そういうことって、ありがちではないですか?」 「そうですね……確かに、自己暗示にかかって自分が口にした通りのことをしてしまう、というのはありますね。実際には、禎子さんと坂本さんとはどうやって知り合ったのか、ご存じですか?」 「詳しいことは知りませんが、目の前に前島《まえじま》という島がありますでしょう?」  確かに、牛窓の真前には、前島という島がある。前島はあまりにも牛窓に近いので、離れたところから見ると島には見えず、海に突き出した半島に見えるほどである。しかし実際にはそんなに近い島なのに、牛窓から前島まで橋はかかっていない。牛窓のフェリー乗り場から小さなフェリーが出ていて、それを唯一の交通手段にしているのだ。夏場は海水浴場があり、リゾート地として人気があるのでフェリーは三十分おきに出ている。 「あの前島の海水浴場で知り合ったらしいです」 「それでは恋愛だったわけですね」 「だと思いますね。わたしは当時東京におりましたから細かいことまで聞いていたわけではありませんが、禎子さんがいきなり結婚すると言い出したので周囲は面喰らった、というような話は聞いています。ですから、さきほどの自己暗示という考え方が妥当だという気がするんですよ。禎子さんは自分で真湯島の男と結婚すると決めていたので、海水浴場で知り合った男性が真湯島の人だとわかった瞬間に、自己暗示から恋に落ちてしまったんじゃないのかな」 「しかし、どうして真湯島、が重要だったんでしょうか、禎子さんにとっては」 「さあ」  嘉朗は頭を振った。 「その点はまるでわかりませんね。牛窓はごらんのように海にその経済活動その他を頼っている、海の町です。かぼちゃやオリーヴ、玉ねぎなど特産と呼ばれる農産物もありますが、それでも瀬戸内海との関係は、他の地域より強いと言えると思います。ですから瀬戸内海の島と交流が深かったとしても何ら不思議はない。しかし真湯島は事情が違うんです。あそこは……何と言えばいいのか、いわば鎖国の島でした。島の人たちがどう考えていたのかはわかりませんが、あの島には……えっと、ご存じではないかな? 繭の祠の化け物、そんな伝説があるんですよ」  吉良はちらっと藤次郎を見た。藤次郎は黙っていた。 「噂では聞きました」  吉良が言うと、嘉朗は少し眉を寄せて小さな溜め息をついた。 「二十一世紀に入ってこんな話を真顔でしていたのでは、笑われてしまうかも知れないのですが、あの島になにかとんでもない生き物が棲みついているらしい、というのは、年配の人々はけっこう本気で信じていることなんです。それと言うのも、その化け物を島民以外の人に見られるのをおそれて、真湯島はほとんど鎖国のように、外部からの人間を遮断しています。たった一航路あった日生《ひなせ》との定期船の航路も廃止してしまい、今ではあの島に行こうとすれば、島の漁船をチャーターしなくてはならなくなりました」 「それはしかし、真湯島の過疎化が進んで、定期船の経営が成り立たなくなったからではありませんか」  嘉朗は頷いた。 「もちろん、それが主な原因でしょう。しかしそんな場合でもふつうなら、何とかして本土との公的交通手段は確保しようと努力するものではありませんか? ところが真湯島は、実にあっさりとそうした努力を放棄し、島民以外の人間が島に入れなくてもかまわない、という態度でした。定期船を存続させようという運動ひとつ起こさなかったんですよ。過疎化に悩んでいると言いながら、観光に力を入れるなどということはまったく考えていないようですしね。わたしには……あの島の人々は……大変言葉は悪いのですが、島に棲むとされる化け物と共に静かに滅びて歴史から消えていこうとしている、そんなふうに感じられて仕方がないんです。それがあの島で生まれた者、あの島で生活する者の定めだと達観しているような……」  藤次郎は黙ったまま、下を向いていた。藤次郎の視線の先には藤次郎自身の握った拳があった。その拳が小刻みに震えていたが、吉良には、それが怒りのためではないことはわかった。  藤次郎は、同意しているのだ。嘉朗の感覚は正しい、と。 「いずれにしても、禎子さんが島に嫁に行くとわかった時には、うちの親戚はみな反対したようです。真湯島の島民は偏屈で変わり者ばかりだと言われていましたしね。しかし結婚式の時にお会いしただけなんですが、坂本さんはとてもいい青年でした。わたしは、ああこの人となら禎子さんは幸せになれるだろうな、と思ったんです。それがあんなことになってしまって……」 「あの、実はですね、この写真をちょっと見ていただきたいんですが」  吉良は藤次郎から預かった、バルセロナでの写真を取り出した。 「ここに写っている女性に見覚えはありませんか? こちらはここにいらっしゃる吾妻さんで、これは今から二十年ほども前の写真なんですが」  嘉朗はじっと写真を見ていた。それから、目を閉じて考え込んでいた。  二人は嘉朗がまた目を開けるまでじっと待った。やがて嘉朗は顔を上げた。 「どうも記憶がはっきりしないので間違っているかもわからないのですが」 「けっこうです。なんでもいいですから、教えてください」 「今はもうこの町に住んでいないのですが、伊勢さんというご一家がいらっしゃったんですよ。かなり昔のことだと思いますが」  吉良は藤次郎に目配せした。藤次郎は小さく頷いた。嘉朗は続けた。 「その伊勢さんというご一家に、祥子《しようこ》さんというお嬢さんがいらしたんです。禎子さんとほぼおない歳くらいの女の子だった思います。もしかするとその人ではないか、という気がするんですが……何しろ中学時代の記憶なんで曖昧で申し訳ないんですが」 「伊勢祥子さん、ですね? 伊勢さんがどちらに引っ越しされたのかは?」 「うーん、わかりませんね。しかし禎子さんと同じ高校にその人も通っていたんじゃないかと思うので、そちらから何かわかるかも知れませんよ。私立の瀬戸女子学院という学校です。ここからそう遠くはありません。あ、そうだ、学校に行くよりも、牛窓にその学校で先生をしていた女性がいらっしゃいますから、彼女にまず訊ねてみるといいかも知れません。結城《ゆうき》さんとおっしゃって、今は牛窓歴史資料館で仕事をしておられます。ここから少し西に戻った、リゾートホテルの真ん前の建物です。この時間でしたら館内で受付や説明などの仕事をしていらっしゃると思います」  村山嘉朗から得られた情報はそれですべてだった。二人は礼を言って村山家を出ると、ぶらぶらと歩いて歴史資料館に向かった。  古い家並みを残してできあがった小さなその通りの空間は、タイムスリップして昭和のはじめ頃に戻ってしまったかのような錯覚を吉良にもたらした。町家のつくりは、有名な京都の町家とよく似ている。表には細かな格子があり、家の前には植木が並べられていた。  潮の香りは思ったより強くなかったが、時折風が吹くと、ぷんと海の匂いが鼻をくすぐる。 「魅力のある町ですね」  吉良は言った。だが藤次郎は何か考え事をしているようで、吉良の言葉にただ頷いただけだった。 「海だけではない、新しい観光名所をつくろうと努力している感じがします。古い町並みを保存したり復元したりするというのはなかなかいいアイデアだ。うまくやれば、小型の倉敷のようになれるかも知れない。この町は江戸時代、朝鮮使節の一行が江戸までのぼる途中に立ち寄った、いわば歴史的な町だそうですね。唐子《からこ》踊りという、大変に興味深い踊りの風習も残されているとガイドブックで読みましたよ。だんじりというのも大がかりで勇壮なお祭りのようだし、仕事ではなく、一度ゆっくり見て歩きたいな」 「化け物と共に静かに歴史から消えて行く」  突然、藤次郎が言った。 「そう、あの人は表現した……まさにそうなんだ、と今、わかりました」 「吾妻さん、しかし、本当に消えてもいいと思っているのであれば、先家董子を探す必要はないということになりませんか。彼女を探し出そうとしているということは、歴史から消えてもいいと思っているわけでは……」 「違います」  藤次郎の声は険しかった。 「違うんですよ……考え方が逆なんです。大切なことは、繭の祠の怪物を島民以外の者の目に触れさせないこと、このまま洞窟の奥深く眠らせたままで、歴史から消してしまうことだったんです。怪物が復活して暴れてしまえば、島民はみな殺され、やがてその被害は島の外に知られることになる。それを防ぐために、島の人々は先家の血を島に呼び戻そうとしているのです。自分たちが助かるためではないんだ……そうではなく……自分たちと共に化け物を滅ぼし、一緒に消えてしまう為に、先家の血を……」  藤次郎は足をとめた。その顔は気味が悪いほど蒼白になり、額には脂汗が浮かんでいた。 「吾妻さん、ご気分が悪そうだ。ホテルに行って休みましょう」  吉良は藤次郎の腕をとった。だが藤次郎は、それを振りほどいた。 「急がなくては。急がないといけないんです! 早く謎を解かなければ。そうしなければ、わたしの役割が何なのかわからない!」 「あなたの……役割?」 「わたしには役割があるはずなんです!」  藤次郎は叫んだ。 「二十年前、この女性とバルセロナで出逢った時からそれは決められていたことだったんだ。わたしは一刻も早くその役割を正確に知り、そして果たす必要があるんです。なぜなら……わたしも真湯島の人間だからです。わたしも、化け物と共に歴史から消えなくてはならない人間だからです」     3  牛窓歴史資料館は、地中海をイメージした大きなリゾートホテルの前にある、こぢんまりとした建物だった。中に入ると売店があり、展示室と、スクリーンで牛窓のだんじり祭りについての映像が見られるだんじり展示室とに分かれている。  瀬戸女子学院の国語科教師をしていて一昨年に退職し、町の教育委員会に勤めながら資料館の諸事務を担当している、結城|千穂《ちほ》は、五十代くらいの上品な婦人だった。  結城は、見学者が誰もいないので構いませんから、と、だんじり展示室のソファに座って話をしてくれた。 「村山禎子さんと伊勢祥子さん、ええ、記憶はありますよ。もう三十年近く前のことですわよね。わたしが瀬戸女子学院の教師になって、まもなくのことだったと思います、二人を担任したのは」 「やはり、二人は同級生だったんですか」  結城は頷いた。 「間違いありません。禎子さんのことは……今でもまだ行方がわからないと、この牛窓の町ではたまに話題になります。わたしも胸が痛みます。当時、わたしはまだ教師としても新米で、二十代前半でしたから、生徒たちとは何歳も離れていなかったので、教師と生徒というよりは、友人といった感じのつきあいでした。細かなことまでは憶えていませんけれど、禎子さんと祥子さんは、とても仲が良かった記憶がありますね」 「伊勢祥子さんの、その後の消息というのは調べることが出来ますか」 「そうですね」  結城は小首を傾げた。 「同窓会の事務局に問い合わせれば、何かわかるかも知れませんよ。同窓会では毎年、会員に会費の納入をお願いする際、住所の変更なども知らせてもらうよう通知を出しています。もし祥子さんがこまめに返答をしているとすれば、現在のお住まいも同窓会の名簿にはあるはずです。ただ、みなさん案外、卒業して年数が経つと同窓会のことなどには無関心になってしまうもののようで、一度消息不明で通知が戻って来た人の連絡先が判るようになることは、むしろ稀のようですけれどねぇ」  それでも結城は、同窓会の事務局の電話番号を教えてくれた。 「伊勢さんのご一家は、もう二十数年前に牛窓を離れていたと思います。もともとは漁師さんでいらしたんですが、祥子さんのお父様が漁船で事故に遭われて、どちらの足でしたか、膝から下を切断してしまい、漁師が続けられなくなったんです。それでご親戚の会社に勤めることになったと、確か、ご一家で東京に出られたのではなかったかしら。祥子さんは当時、町の教育委員会に勤めていらしたので、学校とも行き来があったんです。それで、お別れの時にお花を贈らせていただきました」  藤次郎はバルセロナで撮った写真を結城に見せた。結城は頷いた。 「ええ、間違いありません。この方が伊勢祥子さんです」 「今から二十年前に撮ったものです」 「そうでしょうね……わたしの記憶の中の祥子さんと、面影が同じですよ」 「その頃、村山禎子さんはもう、結婚して真湯島に渡っていらしたんですよね?」 「えっと」  結城は少し考えてから頷いた。 「そうですね、そういうことになるのかしら。ええ……確か、祥子さんが東京に行かれた直後だったと思います、禎子さんご夫婦が大阪に発たれたのは」 「この女性は、禎子さんを探してスペインのバルセロナに来ていたんです」 「スペインの、バルセロナ、ですか!」  結城は驚いて、また写真を見た。 「あら本当だ、ここ、日本ではないわね……でも、禎子さんたちご夫婦がスペインにいたなんて、そんな噂はちっとも聞いていなかったわ」 「本当に禎子さんがスペインにいたのかどうかはわかりません。ただ祥子さんは、バルセロナで禎子さんを見かけたという話を聞いて、わざわざ探していたようです。つまりそれだけ切実に禎子さんに会いたいと思っておられたのでしょうね。そしてその理由なんですが」  藤次郎は、身を乗り出すようにして言った。 「その時、祥子さんはわたしに、禎子さんから預かっているものを早く返さなくてはならないと言っていたのです。とても真剣、というか、切羽詰まった感じでした。わたしと祥子さんが出逢ったのは本当に偶然で、わたしも仕事ついでに気ままなひとり旅をしていた時でしたから、異国で出逢った日本人同士ということで、僅《わず》かな時間でしたが親しく話をしました。それが今から二十年ほど前のことです」  結城は真剣な顔で藤次郎の言葉を聞いてはいたが、藤次郎は、その先をどう結城に説明したらいいのか迷っていた。すっきりと他人に説明できるほど、まだ自分の頭の中で筋道が整理されていないのだ。 「話し合ってみて驚いたことに、わたしの出身地である真湯島に、祥子さんが探している禎子さんが嫁いでいた。あまりの偶然に驚きながらもわたしは、禎子さんの消息を島の知人にたずねてみる、と祥子さんに約束したのです。その時、祥子さんから聞いた連絡先は東京のものでした。日本に戻り、故郷である真湯島に連絡して禎子さんと坂本さんの消息をたずねたのですが、大阪に行ったきり行方不明だとわかった。そのことを祥子さんには手紙で知らせました。しかしその後、祥子さんからは音信がありませんでした。わたしは、気にはかかっていたものの、結局毎日の忙しさにまぎれてそのことを忘れてしまいました」 「スペインで偶然、真湯島にゆかりのある人たちが出逢うだなんて、世の中、不思議な偶然があるものですね……真湯島というのは瀬戸内海の島の中でも大きい方ではなく、岡山の者でも知らない人が多いくらいなのに」 「ええ」  藤次郎は頷き、声を低めた。 「しかしわたしは……二十年前に祥子さんとバルセロナで出逢ったことを、ただの偶然とは思っていないのです……今では」 「と、おっしゃいますと?」 「実は、今も言ったようにわたしは祥子さんのことは記憶の奥にしまったまま、この二十年間生きてきたのですが、つい最近、祥子さんと血が繋がっている娘さんではないかと思われる女性と再会したのです。いや、再会、というと少し違うかな、繋がりを持ったという感じでしょうか」 「あら」  結城は驚いた顔になった。 「伊勢祥子さん、ご結婚されていたのですか」 「いえ、そういった詳しいことは何もわかりません。ただ、伊勢真利子さんという、祥子さんにそっくりな女性がいたわけです。そしてわたしはその女性に、こちらにいる吉良さんを通じてある仕事を依頼しました」  結城は吉良の顔を見て、吉良からもらった名刺を取り出してもう一度見た。 「それでは……祥子さんのお嬢さんは探偵さんに?」 「いえ、娘さんかどうかははっきりしません」  吉良が言った。 「伊勢真利子さんは、大変優秀な調査員でした。わたしの片腕だったと言っていいと思います」  吉良が静かに言った。結城はもう一度吉良の顔を見た。 「片腕だった……だった、とおっしゃると、まさか……」 「亡くなりました」  藤次郎が言った。 「何者かに殺害されたんです。こちらの新聞にはニュースが出ませんでしたか?」  結城はしばらく、口元に手をあてて黙っていた。だがやがて、ゆっくりと頭を横に振った。 「……出たのかも知れませんね。でも……すみません、被害者の方のお名前などは、新聞を読んでも頭を通り過ぎてしまって。伊勢、という名字も、珍しいというほどではないでしょうし……でも、なんだってそんな……やはり探偵のお仕事で誰かに恨まれたとか?」 「犯人はまだ捕まっていないので、何もわかっていないんです。ただ……ここからが、どう説明したらいいのかわたし自身、頭の整理が出来ていないのですが。実は伊勢さんが最後に関わった仕事というのが、これもまた、真湯島と関係のある事柄だったんです。ずっと昔、真湯島に住んでいたある女性を探して貰いたい、わたしは、伊勢さんのことなどまったく知らず、こちらの吉良さんの事務所に依頼を持ち込みました。そして吉良さんの事務所で調査員をしていた伊勢真利子さんがある夜、わたしが探していた女性を発見した、と、事務所に連絡してきたそうです。そしてその夜、何者かに殺されました」  結城は何度も瞬きしていたが、自分の手には余る、という表情で首を横に振った。 「お話が複雑で……なんと考えていいのか」 「すみません、わけがわからないことばかりで。実際、わたしにもわけがわからない。ただひとつだけ、二十年前に伊勢祥子さんと出逢って真湯島にまつわる話をし、今度、真利子さんがまた、真湯島と関係のあることでわたしとかかわりを持ち、亡くなった。そうした一連の事柄を、わたしは、ただの偶然だとは思ってないのです……その……運命というか、何か、わたしがこの世に生まれるずっと前から決まっていたシナリオのようなものがあって、わたしはその中である役割を担わされているのではないか、そんなふうに思えるのです。今、わたしが伊勢祥子さんの消息をたずねているのは、禎子さんが祥子さんに預けた物がなんだったのか、知りたいと思ったからです。その物が、わたしが巻き込まれているこのシナリオにとって、とても重要なのではないか……そんなふうに思えるのです」  結城はますます困惑した表情になった。藤次郎は、それ以上非科学的な話を続けては、結城に不信感を抱かせてしまうと危惧した。 「正直なところ」  結城はあくまで上品に微笑んだ。 「お話が本当に混み入り過ぎていて……ただなんとなくおっしゃられていることはわかります。スペインで二十年も前に出逢った人の親戚ではないかと思われる娘さんに、偶然調査を依頼することになって、しかもその娘さんが何者かに殺害された。単に偶然が重なったというだけではなく、そこに運命というか、宿命のようなものをお感じになったというお気持ちは、わかるような気がします」 「ありがとうございます……本当は、もっと荒唐無稽な話もしなくてはならないところなんです。何しろ真湯島というのは、ご存じかも知れないのですが……」 「繭の伝説、ですか」  結城は頷いた。 「聞いたことがございます……瀬戸内海の様々な伝承の中でも、真湯島の繭の洞窟の話というのはとても風変わりですね。ただ、まさか……伝説にあるようなことが本当に起こるというわけではないのでしょう?」  藤次郎は吉良と一度目を合わせ、それから静かに言った。 「そうでないといいな、と、わたしは思っているのですが」 「いずれにしても、祥子さんが禎子さんから預かって、どうしても返したいとわざわざスペインにまで行った、その預かったものが何なのか。吾妻さんはそれをお知りになりたい、そういうことなわけですね?」 「はい」  吉良が言葉をついだ。 「もちろん、伊勢祥子さんがどちらにいらっしゃるのかわかれば、本人に直接尋ねることが出来ますから、それがいちばんいいのですが……」 「伊勢祥子さんのご一家は、昔から牛窓にいた人というわけではなかったようなんです。お父様は漁師をしていらっしゃいましたけれど、ご自分の船は持っておられず、他の人の船に乗って手伝いをするような形だったように記憶しています。戦後、外地から引き揚げて来て住むところも仕事もない、という人たちはたくさんいらっしゃいましたでしょう、そうした人たちの中には、戦地で知り合った戦友を頼って漁村などに住み着き、そのまま漁師になった、という方もけっこういらしたんですよ。今思い出しましたけれど、祥子さんのお母様は確か、民宿の賄《まかな》いのような仕事をしていらっしゃいました。その、なんですか……決して裕福なご家庭ではなかったんです。あの高校は私立でしたから、祥子さんも奨学金を受けていたと記憶しています。お父様がお怪我をされて、その後東京に向かわれたということは、やはり伊勢さんの一族はもともと東京の方だったということではないでしょうか」 「つまり、伊勢真利子さんのご実家からたどれば、伊勢祥子さんに行き着けるかも知れない、ということですね?」 「そう思います」  結城は言ってから、小首を傾げて少し考えていた。それから、躊躇《ためら》うような口調で言った。 「その……禎子さんが祥子さんに預けた、というものなんですが、どのようなものだったかはわかっているのですか? 大きさとか、種類とか」 「まるでわかりません」  藤次郎はかぶりを振った。 「何しろ、本当に行きずりというか、旅先で少しの間話をした、というだけでしたから、詳しいことは何も」 「ふと思ったのですが……禎子さんは、真湯島に嫁ぐ時に、その何かを祥子さんに預けたのでしょうか」 「たぶん、そうだと思います」 「それならば、真湯島にいればそれは禎子さんにとって必要がないものだった、とも考えられますよね?」 「何か心当たりがあるのですか、結城さん」 「心当たり、と呼べるほど確かなものではないのですが……少しお待ちいただけますか? 見ていただきたいものがあるんです」  結城は、立ち上がってだんじりの展示室から出て行った。  やがて結城は、箱のようなものを持って戻って来た。 「これが吾妻さんのお話と関係があるのかないのか、わたしにはさっぱり判断がつかないのですが、真湯島にいると必要のないもの、というとこれが頭に浮かんだんです」  結城は、桐らしい木材で作られたその箱を開けた。中には綿が敷かれ、とても小さな銀杏の実が数個、入っていた。どれも茶色に変色して、ひどく古いもののように見える。 「……銀杏のようですね」  吉良が箱の中を覗き込んだ。 「しかし随分古いものみたいだ」  結城は頷いた。 「戦前のものだと思います。これは、西町の旧《ふる》いお宅を改修した時に、屋根の梁の上に置かれていたものなんです。発見された時は、別の木箱に入っていたようです。町の教育委員会に届けられた時、どう判断したらいいのか、みな迷ったそうです」 「銀杏が箱に入れられて梁の上に置かれていたんですか」 「ええ。ただこの銀杏は、素性がとても面白いんです」  結城は、箱と一緒に持っていた透明なファイルケースを取り出し、中から一枚の紙を取り出した。 「原本は傷みが激しいので、保存処理されて持ち出し禁止になっています。これは写しなんですけれど……この銀杏は真湯島にて採取された。島民が島外で暮らす時は、必ずこの銀杏をその地に蒔くよう島では言い伝えられている。この銀杏から生えたイチョウの木が、島民を禍いから守ることになっている。そんな意味のことが書かれていたようですね。御覧になりますか?」  結城が差し出した紙を藤次郎と吉良は交互に見た。そこにはコピーされた思いきり崩した独自の筆文字が書かれていて、草書体程度は判読出来る藤次郎にも、半分ほどしか解読出来なかった。後ろの方に、結城が言ったのと同じ意味の訳文が付いていた。 「ここに書かれているような銀杏の伝承というのは実際に真湯島にあるそうですね。ですが真湯島に一本だけあるイチョウの木は雌で、それ一本では実がつかないと聞いています」 「しかし島民は、実が生ると信じていますよ」  結城は藤次郎に向かって微笑んだ。 「吾妻さんは真湯島のご出身なんでしたね。失礼いたしました。でも、吾妻さんはそのイチョウが銀杏を実らせているところを実際に御覧になったことがありますか?」 「いいえ」  藤次郎は考えてから言った。 「この目で見たわけではない……しかし、真湯神社に申し込めば、島民ならば銀杏をもらうことが出来るんです。ああ、そうか!」  藤次郎は頭を掻いた。 「そうか……偽物か。いや……この歳になるまで疑っていなかったというのは……何と言えばいいのか。わたしも島を出て長いので、島の因習や伝承からはすっかり遠ざかっていると思っていましたが、幼い頃から刷り込まれた固定観念というのは強固なものですね。そうですね、雌だけのイチョウに実が生るわけはない。なるほど……岡山から別の銀杏を持ち込んで、真湯島のイチョウがつけた実だと言って島民に配ればよいだけのことですね」 「実は、真湯島のイチョウについては、十年ほど前に京都大学の農学部の学生さんたちが調査に行かれたようなんですよ。そしてその調査結果が岡山県にも報告されたんです。真湯島に一本だけあるイチョウは正真正銘、雌の木で、真湯島には他にイチョウの木がないんだそうです。ですからどう考えても、今の真湯島では銀杏は採れないそうなんです。ただ、過去には真湯島に雄の木があった可能性もあるので、伝承に残っている真湯島の銀杏は実在していたかも知れない、とのことでした」  藤次郎は納得した。鳩森八幡のイチョウはやはり、真湯島の銀杏から芽吹いたイチョウなのだ。過去に雄の木があったとすれば、銀杏が採れても何の不思議もない。 「真湯島の銀杏の実は、お守りとして島民の方々に大切にされていたのでしょうね。たぶん、災難除けの意味を持っていたのだと思います。禎子さんが祥子さんに預けたもの、と言ってわたしに思い当たるのはこれくらいなんです。ただ、それだと、祥子さんがわざわざスペインにまで禎子さんを探しに行った理由にはならないかも知れません……もしお守りの銀杏を返したいというだけならば、それほど必死になったかどうか。ただ、その銀杏が、今でも真湯島の神社で貰えるいわば偽物ではなく、真湯島にまだ雄の木があった頃に採取された本物だったとしたら、どうでしょうか」  三人は、あらためて箱の中の茶色にひからびた銀杏の実を見つめた。 「この銀杏は、おそらく家を守るという意味で梁の上に置かれていたのではないかと思います。その改修工事をしたお宅では確かに、何代か前までは牛窓ではなく、瀬戸内海のどこかの島に住んでいたと、言い伝えに聞いているとのことでした。つまり真湯島の銀杏は、大変に強力な魔除け、災難除けの力を持っているとされていたのではないか……でも今ではもう、真湯島では銀杏は採れません。本物の、力のある銀杏はとてもとても貴重なものになっているということになります。いったい、いつ頃、雄の木が島からなくなったのかはわからないそうですが、島で最高齢の方の記憶では、子供の頃からイチョウは一本しかなかった、ということなんだそうです。そうなると、最低でも七、八十年前でないと、本物の真湯島の銀杏は手に入れられなかったということになりますよね。そんな古い銀杏がまだ残っているとしたら、それはとても貴重なものということになります。たとえばこの銀杏が、本物だとしたら、お守りとして梁の上に置かれたというのも、ある程度納得できるわけです」  結城は小さな溜め息をひとつついて、箱の蓋をしめた。 「町としては、この銀杏は本物だろうということで、こうして大切に保管しています。今の科学ならば、鑑定することも出来るんだそうですね。真湯島に現存しているイチョウとこの銀杏の実との間に、人間で言えば血縁関係があるのかどうか、調べられるんだとか。調べようという意見もないわけではないのですが、やはり、伝承というのはいちいち科学的に実証してしまうことが正しいのかどうか、簡単には判断がつかない問題でもあるわけです。今のところは、これは本物だと考えておこう、ということで、意見がまとまっています」 「もし、禎子さんが本物の真湯島の銀杏を所持していて、自分が真湯島に嫁ぐことになった時、親友の祥子さんにお守りとして渡したとすれば」  藤次郎は、茶色い銀杏の実を思い浮かべていた。 「それはとても貴重なものだったということになる。祥子さんが禎子さんの危機を感じて、その貴重な銀杏を禎子さんに返そうとしていたとすれば……辻褄は合いますね」 「危機を感じた」  結城は頷いた。 「そういうことってあるのかも知れませんね。ふたりがとても仲良しで、そしてふたりとも、霊感のようなものが普通の人よりも強かったとしたら。一卵生双生児の場合、片方の身に何かあると、もう片方の人にはそれが感じられる、という話を聞いたことがあります」  伊勢祥子は坂本禎子の「危機」を感じた。だからあれほど必死に、禎子にお守りの銀杏を返そうとしていた。  しかし、間に合わなかったのだ。禎子は夫と共に大阪に行き、そこで行方不明になってしまった。  禎子の身にいったい、何が起きたのだろう。 「この牛窓には、とても風変わりな祭りが伝わっているんですよ」  結城が不意に言った。 「今までのお話と直接関係はないのですが、もともと不思議なことや不思議なもの、何と言えばいいのか……科学では説明のつかないものに対して敏感な風土、血筋のようなものがあるのかも知れないな、と、ふと思ったんです」 「風変わりな祭りというのは、このだんじりのお祭りのことですか」  吉良が、展示室に並べられた二基のだんじりを見ながら言った。片方は船の形を模してあり、もう片方は京都の祇園祭に出て来る鉾《ほこ》を思わせる形をしている。案内板によれば、牛窓の各町内に保管されているだんじりを、月替わりで二基ずつ展示している、とあった。 「いいえ、だんじりは確かに牛窓でいちばん大きなお祭りですし、勇壮でスケールの大きなものですけれど、風変わりとまでは言えません。岸和田のだんじりほどには荒っぽくありませんし、京都の祇園祭や、飛騨高山の祭り、長浜の曳山まつりなどのような芸術性があるかと言われれば、そこまでの凝り方はしていませんものね。むしろ、だんじりよりも風変わりなお祭りというのが、唐子踊りなんです」 「唐子踊り、というのは、男の子が二人、奉納踊りをするという?」  結城は頷いた。 「どんな風に変わっているのか、ビデオを御覧になりませんか?」     4  一緒に旅に出ませんか?  伊勢崎雅治にそう言われてから、董子はずっとそのことを考え続けていた。  千駄ヶ谷の街中《まちなか》で具合が悪くなり、伊勢崎に助けられた時、伊勢崎からストレスのせいではないかと言われ、董子は思い返していた。ここのところ自分の周囲がひどく慌ただしく、波立っているように感じるのは気のせいなのだろうか。  ほんの一ヶ月程前まで、董子の生活はごく穏やかで、単調だった。ただひとつの気掛かりは、恋人だった勝昂が心変わりをしている、他に好きな女性ができたらしい、ということだけ。それはもちろん董子にとって大変な出来事ではあったのだが、男と女の関係に別れ話はつきものだし、董子自身、勝昂の心の変化を感じ始めてからは、少しずつ覚悟もしていた問題だった。  身の回りが落ち着かない、妙な肌寒さを感じる、と思いはじめたのは、その勝昂といよいよ別れる決心をしたあの夜。  あの夜も、董子は原宿を歩いていて道に迷い、そして伊勢崎雅治と出逢った。そうか。董子は思った。あの時、勝昂と別れることを心に決めて、あたしの心には強い負荷がかかったのだ。伊勢崎の言うところの、ストレス。そのせいだ。そのせいで、自分がどこにいるのかわからなくなり、青山の住宅街の真ん中で迷子になるという奇妙な体験をしたのだ。  そしてその翌日だった。あの、不可解なFAX事件。小指の痕。  津田愛果。  その名前を頭に思い浮かべた途端、董子は激しい胸の痛みを感じて部屋の床に蹲《うずくま》った。呼吸が苦しい。心臓が停まってしまう!  董子は這うようにしてキッチンに行き、流しにつかまってよろよろと立ち上がると、水道の蛇口をひねり、流れる水を唇で受け止めた。コップを用意する余裕もなかった。  心臓が口から飛び出すかと思うほど、ドクドクと激しく鳴っている。  そのまま董子はまた蹲って、痛みが去るのを待った。  どういうことなの?  津田愛果のことを考えただけで、どうしてこんな……  津田愛果のことは、どうしても気になる。生きていた時はさほど親しくしていたわけでもなかったのだが、あのFAXについていた小指の痕を見た瞬間に、董子の頭の中には愛果の名前が大きな存在になってしまっていた。  だが、仮にそんな愛果の霊か何かがそこにいたのだとして、どうして彼女が董子を苦しめたり、困らせたりするのか、それがまるでわからないのだ。生きていた時、董子は愛果に対して、恨まれなくてはならないようなことをした憶えが一切ない。  ただ。  可能性はひとつある、と、董子は思っていた。勝昂だ。  もし、勝昂が愛果とつきあっていたことをあたしに隠していたのだとしたら?  勝昂と初めて出逢った合コンの時、愛果もその場にいたのだ。勝昂が最初から二股をかけていて、あたしと逢って遊ぶ合間に愛果にも連絡し、彼女ともつきあっていたとして、勝昂の気持ちが、あたしにより多くあると思いこんでそれを悲観しての自殺、というのなら筋は通るし、愛果の霊があたしを憎んでいる理由もわかる。  だがそれでは、あまりにも理不尽だ。憎むなら勝昂だけを憎むべきなのに。あたしだって、もしその想像があたっていれば、被害者なんだから。  津田愛果について、でもあたしはいったい何を知っていたのだろう?  董子は思い出そうとしてみた。だが、思い出せたことはそんなに多くはなかった。会社の同僚としてふつうにつきあってはいたけれど、それ以上のつきあいというのをほとんどしたことがない。会社の外で愛果と会ったこと自体、数えるほどしかないかも知れない。  しかし。愛果が会社の中で周囲から浮いているとか、誰かに疎外されているとかいう噂も聞いたことはなかった。もっとも、董子自身、社内の人間関係にはできるだけ深入りせずに過ごそうとしていたので、自分の知らないところで愛果が辛い目に遭っていたことがなかったとは、言い切ることはできない。  調べてみようか。でも……どうして?  愛果について調べて何か知ったとして、だからどうなる、というのだろう。自分の頭の中にある事柄がどれもあまりに漠然としていて、ただ自分が混乱しているのだ、ということ以外には、すべてに対して確信が持てない。それでも、愛果のことを考えた途端に窒息するかと思うほどの苦しみが襲って来たのは、ただの偶然ではない、という気がした。  FAXの小指。  あれが、愛果のものだなどと言えば、誰だって頭がおかしくなったと思うだけだろう。  もしそうだとするのなら……指紋は、裏側に突き抜けるような形でFAX機によって転写された。油でもべったりと指に塗ってから紙をおさえたかのように。  誰かのいたずら。もちろん、そう考えればいいのだ。誰かが、愛果の癖を思い出して真似た。あの嫌がらせのFAXを送ったのが霊界にいるはずの愛果であるかのようにあたしに思わせて、おびえさせるために。  もし誰かの仕業であるとしたら、愛果と自分とが何らかの特別な繋がりを持っていたと誤解されていることは間違いないのだ。それは、愛果の死に対して、あたしに責任があると勘違いしている人間が存在するということ。  董子は決心した。やはり、愛果について調べてみよう。今すぐに。     *  愛果の実家は町田市にあった。葬儀の時に行っていたので、迷わずにたどり着けた。  愛果の母親がひとりで留守番していたが、董子の顔をおぼえていて歓迎してくれた。  客間にしつらえられた、まだ真新しい仏壇に、董子は手を合わせた。 「友達が多いタイプの子ではなかったですから」  愛果の母親は、淋しそうに笑った。 「こうして来てくださる人というのもいなくて……きっと、喜んでいると思います」  本当に喜んでいてくれるのだろうか。  董子は、写真の中ではにかみながら微笑んでいる愛果をそっと見た。 「会社のみなさんはお変わりなく?」  茶菓子をすすめながら母親が訊いた。 「ええ、不況ですから実情はなかなか厳しいですけれど」 「今でもね、スーパーなどで会社の製品を見かけるとつい、手にとってしまうんですよ。ほんとに突然あんなことになって……みなさんにご迷惑をかけてしまって……」 「愛果さんは、我慢強く黙々と仕事をこなされていましたから、みんな信頼していました」 「不器用な子だったんです」  母親は、ふう、と溜め息をついた。 「幼い頃からそうでした……変なところで真正直というのか、頑固というのか。恋愛というのは、そういう真正直な人間にはなかなか辛いことが多いですからね……」  たった一言残された遺書の文字は「好きよ」だった。愛果の母親は、愛果が誰かに恋をして、そして裏切られた結果の自殺だったと思っているのだ。 「先家さん」  愛果の母親の表情が変わった。 「先家さんは本当にご存じないんでしょうか」 「あの……」 「愛果の相手の男の名前です! 主人もわたしも、この二年間本当に苦しみました。なんとかして相手の男の名前だけでも知りたいといろいろと聞き回ったり、探偵まで雇って調べてもらったりしたんです。でもわかりませんでした。あの子がそんなにも用心深くつきあっていたのだとしたら……たぶん、相手の男性には妻子があるのではないかと思います。だから名乗れなかったというのも仕方ないとは思うんです。でもね……でも、せめて焼香の一度くらいして貰えないのかって……この気持ち、おわかりいただけますわよね?」 「わかります……お気持ちは充分。でもわたしは本当に知らないんです……会社の誰も知らなかったと思います。わたしたちの間でも、いったい誰だったのかしらって言い合っていたくらいで……」 「そうですか」  母親は、見た目にもがっくりと肩を落として頷いた。 「そうですよね……会社のみなさんが意識的に隠しているんじゃないかって、主人は疑っているんです。でも、みなさんは本当にご存じないんですね。探偵が探ってもわからなかった相手ですから、仕方ありませんね……」 「あの……愛果さんの遺品の中に、相手の男性を示す手がかりのようなものはなかったんですか?」 「丹念に見たつもりなんです。あの子は町田からでは通勤に遠いからと、独り暮らしをしておりましたでしょう。あの子が死んだ後、アパートの荷物はゴミひとつ捨てずにすべてここに持ち帰りました。そして、あの子が独り暮らしを始めるまで使っていた部屋に入れたんです。葬儀が終わって少し気持ちが落ち着いてから、整理を兼ねてひとつずつ、それらの荷物を調べました。洋服のポケットまでひとつひとつ探って。でも何も出てこなかった……そんなことってあるんでしょうか。一人の女が死を思いつめるまで誰かを好きになって、それなのにその痕跡を何ひとつ残していないだなんて。まるで……まるで、そんな相手などはじめからこの世に存在していなかったかのように……」  愛果の母親は啜り泣いた。 「あの子は……愛果は、幻でも見ていたのでしょうか。最初からどこにもいない男を好きになって、恋愛をしているという幻影でも抱いていたのでしょうか……」  董子は、母親が落ち着くまで待ってからそっと言った。 「あの……お母さま、ひとつ教えていただきたいことがあるんですが。愛果さんは生前、わたしのことをお母さまに話されたこと、ありますか?」  母親は顔を上げた。 「先家さんのことを、ですか?」  董子は頷いた。 「わたしと愛果さんとは会社の同僚でしたけれど、働いている部署も違っていましたし、特別に親しかったというわけではないんです。でも……理由はわからないのですが、愛果さんとわたしとが特に親しかったと誤解している人がいるようなんです」 「……おっしゃる意味がよく……わからないのですが」 「つまりですね」  董子は、どう説明すればいいのか悩みながら言葉を選んだ。 「愛果さんがあんなことになった原因というか、理由を、わたしが知っていると考えている人がいるようだ、ということなんです。……そんなようなことを匂わせる嫌がらせを受けました。でも信じていただきたいのですが、本当にわたしは愛果さんとは、そんなに特別な間柄ではありませんでした。彼女が誰と恋愛をしていたにしても、わたしはそのことをまったく知らなかったんです。嫌がらせを受けなくてはならない理由が、わたしにはまるでわかりません。それでもしかしたら……生前に愛果さんが何かおっしゃっていなかったかな、と」 「先家さんに……嫌がらせを」  愛果の母親は、困惑した表情のまま曖昧に頷いた。 「それはお困りでしょうね。でも……ごめんなさい、あの子の口からあなたのお名前は……たぶん、聞いたことがなかったと思いますよ。葬儀の時にいらしていただいたのでお顔をおぼえていたのと、お香典のお名前が珍しかったのとで、今日、御会いした時にはすぐにわかりましたけれど……でも、会社の総務部の方に、香典返しの相談をした際にお聞きするまで、せんけ、とお読みするのだと思っていたくらいですから、先家さんのお名前」 「やっぱり……そうですよね」  董子は頷いた。 「本当に、愛果さんとは会社でお昼をごいっしょしたりする以外では、そんなに親しくしていた記憶がないんです。それは愛果さんの方も同じだったと思うんです」 「きっと、誤解ね。でも」  愛果の母親は、探るような顔つきになった。 「誤解されてしまうような心当たりというのは……本当にありませんの?」  董子は、母親の目を真っ直ぐに見て答えた。 「ありません。本当に、ないんです」 「先家さん」  母親は、微笑んで頷いた。 「ごめんなさいね、疑うような言い方をしてしまって。でもいい機会だから少し、話を聞いていただけます?」 「はい……わたしがお聞きしてもよろしいことでしたら」  母親は、それまで正座していた足を横座りに崩し、董子にも足をお楽に、とすすめた。 「女の子の母親として、娘が年頃になれば当然、恋愛問題で悩むこともあるだろうと覚悟はしていたんです」  母親は、また溜め息をついた。 「愛果は、親の目から見れば奥手な娘に見えました。でも実際にどうだったのかは……わからないわけですよね。短大を出るまではこの家で暮らしていたわけですから、あの子の行動もある程度は把握できましたけれど、就職して二年目に、通勤が大変だからと独り暮らしを始めましたでしょ。もちろん、反対はしたんですよ。一人で暮らしたのでは経済的にも大変ですしね。通勤が大変とは言っても、小田急で新宿まで出れば都内のどこにだって乗り換えて行かれるわけですから、そんなに不便なわけではありませんし。結局、通勤が大変だというのは口実で、愛果は親から離れて一人で生活してみたくなったんだろう、主人とわたしとは話し合ってそう結論したんです。それならば、親もとを離れて生活してみるのも人生の勉強になるかも知れない、と。今は……後悔していないと言えば嘘になります。でもあの時は、ひとり娘であまりにも過保護に育て過ぎてしまったという反省もありましたから、親の方も思いきりが必要だと考えて、ゆるしたわけです。で、実際に離れて暮らしてしまえば、いったいどんな生活をしているのかすべて把握するのは無理になります……男性とおつきあいをして……大人の女としては当たり前の行動をとっていたとしても、それは……諦めないといけないことだと覚悟はしていました。ただ妊娠だとかそうしたことだけは避けて欲しいとそれだけは願っていましたけれど。もちろん出来れば、早くいい人を見つけて結婚してくれれば心配もなくなるのに、とずっと思っていました。でもあの子は、そうした気配というのをまったく見せてくれなかったんです」  愛果の母親の顔には、悔しさが滲んでいた。同じ女として、娘を恋愛の失敗から救ってやれなかった悔しさが。 「都内にいるわけですから、愛果はちょくちょくここに戻って来てくれていました。予定のない連休とか、夏休み、お正月。それ以外でも、週末にふらっと帰って来ることもありました。そんな時、それとなく探りは入れてみました。でも、年頃の娘でしょう、あまりしつこく問いただすわけにもいきませんしね。ただそろそろ、結婚を考えてもいいんじゃないの、というようなことは、ついつい言ってしまいましたね。今思えば……あの子が恋愛のことをわたしに相談出来なかったのは、それがいけなかったのかも。結婚できる望みの薄い恋愛をしていたとしたら、とても言い出せなかったでしょう。ただ……自殺まで思いつめるほど悩んでいたとは、今になって思い返してみても、とても思えないんですよ。あの子は自殺する前々日に、ここに来ているんです」  母親は、仏壇の下の引き出しから簡易アルバムを取り出して董子の前に開いた。 「確か、土曜日でした。あの子の従姉《いとこ》にあたる人が赤ちゃんを産んだんですけど、お宮参りでうちの近くの神社に来るというので、それなら簡単なお祝いをしようということになって、愛果も呼んだんです」  数枚の写真があった。  にこやかに笑っている愛果と、彼女より少し年上らしいきれいな女性、その女性の腕に抱かれた、健康そうな赤ちゃん。別の写真には赤ちゃんの父親らしい若い男性と並んで微笑む愛果。そして愛果が赤ちゃんを抱き、その後ろに愛果の両親が並んでいる写真……  母親の言うことは理解できた。確かに、写真の中の愛果には、二日後に自殺してしまわなければならないような暗い影などはみじんもなかった。  だが、自殺する人の多くは、その死ぬ間際まで陽気に笑っていたり、いつもと同じように振る舞っていたりするものなのだ。そしてだからこそ、周囲の人々はその自殺を止めることができないのだ。 「この時、愛果は、ここに届いていた中学時代の同級生からの結婚披露宴の招待状を見て、出席するつもりだとも言っていました。披露宴は三週間後でしたが、着ていく服がないので、わたしに一緒にデパートに行って選んでほしいと言ったんですよ。自殺するつもりでいた子がそんなこと言うだなんて……わたしには今でも信じられないんです。愛果は、この翌々日の月曜日の朝……死にました」 「……お母さまは、愛果さんが自殺したのではないと、お思いになっていらっしゃるんですか?」 「いいえ……受け入れ難いことではありますけれど……あの子が自殺したのだ、ということは、警察の説明で納得しないわけにはいきませんでした。たった一言とはいえ遺書もあったわけですし……靴もきちんと揃えられていて……ただ納得がいかないのは、土曜日にはあの子は自殺なんてするつもりじゃなかったのに、たった一日であの子の心にどんなことが起こったんだろう、そのことなんです。いったい、この翌日の日曜日に、あの子に何があったのか……警察にはそのことを何度も、何度も訴えて、日曜日にあの子が何か災難に巻き込まれていなかったかどうか調べてくれるよう頼みました。それがどんなに辛い事実であっても、あの子の身に何かが起こり、それが原因で突然、死を選ぶことになったのだとしたら、その原因をつくった人間に償いをさせるために、その事実をきちんと知らなくてはならないと思ったからなんです」  母親は両手で顔を覆った。 「女がもう生きていられない、と思いつめるような災難と言えば、考えられるのは……でも、警察が言うには、あの子のからだにはそんな暴力を受けた痕跡はなかった、ということでした。ただ……解剖所見で判ったことなんですが……妊娠中絶の痕跡があった。それもまだ手術を受けて間もない状態だったんです」  妊娠中絶。  董子は驚いたが、すぐには愛果とその事実とを結び付けて考えることが出来なかった。董子の知る限りの愛果には、女としての修羅をくぐっているといった翳りも艶も感じられなかった。だがもちろん、周囲に隠して愛果がどんな思いを胸に秘めていたのかは、誰にもわからないことだった。 「いずれにしても……あの子がままならない恋愛に苦しんでいたことは事実だったようです。でも……日曜日に何があったのか……暴行を受けたわけではないとすると、不意に死ぬことを考えなくてはならないような事態というのは……ひとつだけしか想像できません」  裏切り。  董子は、背筋に走った小さな悪寒に耐えた。  愛果の母親が言いたいことはわかった。愛果は確かに辛い恋愛に身を投じていたのかも知れない。しかし少なくとも、今すぐに死を選ばなければならないほど追い詰められていたわけではなかったはずだ。中絶という事実が何を示していたにしても、愛果はそれを乗り越えて前に進もうとしていた。だが日曜日、愛果は、絶望した。  絶望をもたらしたもの。それはきっと、男の裏切りだ。  そして愛果の両親が知りたいものは、裏切った男の、名前。  まさか……まさかそれが勝昂だった……? 「あの子の遺品を見ていただけないでしょうか」  突然、愛果の母親が言った。     5 「遺品、ですか」  董子は勝昂のことを考えて動揺していた。愛果の母親の意図がわからなかった。 「わたしが見て……何かお役に立てるのでしょうか」 「会社関係の方で、葬儀のあとここに来てくださったのは先家さんだけです」  愛果の母親はもう立ち上がっていた。 「みなさんのことを冷たいと非難するつもりはまったくありません。でも……内向的で友達の少ない子でしたから仕方ないのですが、葬儀が終わった途端にみんなから忘れられてしまったあの子が……不憫《ふびん》でした。悪いこともせず、他人に嫌われるようなことは何もしないで生きてきた子だったのに。今日、先家さんが来てくださって、きっとあの子はとても喜んでいると思うのです。あの子がアパートに遺した荷物は、ほとんどそっくり部屋に入れてあります。あの子がこの世で最後に取り囲まれていた品物たちです。ご迷惑かも知れませんが、先家さんに、あの子がちゃんと生きて暮らしていたことを見ていただきたいんです。それにもしかして、わたしたちが見落としてしまった手がかりがあるかも知れませんでしょう?」  言葉はやわらかかったが、愛果の母親の口調には有無を言わせない響きがあった。  愛果の母親はやはり、あたしを疑っている。そんなに親しくなかったと言いながらわざわざ訪ねて来て、嫌がらせを受けているなどと告白したあたしが、愛果の自殺の原因に関係していると思っているのだ。  董子は小さく深呼吸して立ち上がった。 「拝見させてください……よろしければ」  愛果が独り暮らしを始めるまで使っていた部屋は、二階にあった。六畳ほどの部屋で窓は東に向いているらしい。ドアを開くと、複雑な匂いが董子の鼻をついた。悪臭ではないのだが、不自然にいろいろな匂いが混ざっている。  積まれている荷物を見て納得がいった。愛果が一人で暮らしていたアパートの、台所、風呂場、洗面台、寝室、居間と、あらゆるところにあった荷物がいっしょくたにされているのだ。愛果が死んでもう二年も経つというのに、まだそれらの物を整理しきれない母親の思いが、董子の胸を打った。使いかけのシャンプーやリンスのボトル、化粧水の瓶、石鹸など、すぐに捨ててしまってもよさそうなものまでそのままなのは、そうした消耗品により強く、愛果の体臭が遺されているように思えるからなのだろう。  それまで、董子は、津田愛果という女性の死について、本当に悲しいとは思っていなかったことに、今、気づいた。  愛果という女性のことは嫌いではなかったし、笑顔や声を思い出すと鼻の奥につんとした痛みを感じることはあったけれど、それは、愛果の両親が抱いているこの圧倒的な、むせかえるような悲しみとは全然次元の違うものだった。  人が死ぬ、その歴史を閉じるということの重さ。  董子は、母親を亡くした時のことを思い出していた。母親だけではなく、楽しかった日々の思い出もかわいがってくれた人たちも、すべてが一瞬にして消えてしまったと知った、あの悪夢の朝を。  誰かを恨むことが出来たなら、きっともっと楽だった。董子はあの時、そう思った。母親や、美しい思い出や温かな人々のすべてを押し潰し焼き払ったのは、地震、という、感情すら持ってはいないただの自然現象だったのだ。何に、誰に、どうやって、その悲しみと怒りとをぶつけたらいいのか。  愛果の母親は、今、その悲しみや怒りをぶつける相手が欲しいのだ。その相手を見つけなければ、愛する娘の死を心に受け入れることができないのだ……  董子は、部屋の中へと足を踏み入れた。愛果の母親が少しでも納得できるように、ともかく自分にできそうなことはすべて、やってみるしかない。董子自身にしても、愛果がなぜ自殺したのかその理由を知りたいという気持ちは強い。そしてもし勝昂がそれに関係していたとしたら……どうする?  何ができる?  何をしなくては、ならない……?  几帳面に紐でくくられた本の束が目にとまった。それに近づいて行くと、愛果の母親が言った。 「本の中に何か挟んでいないか、丹念に見たんですけどね……手紙とかメモとか。でも何も見つかりませんでした」  なぜなのだろう。それでも董子はその本の束から視線をはずすことができずに、しばらく眺めていた。だが、結局、雑然と並んでいる本のタイトルからは何も思いつかなかった。ベストセラーになった推理小説、何冊かの恋愛小説。 「手がかりがいちばんありそうなのはやはり、書き物机じゃないかと思うんですけど」  母親に言われて、窓際に置かれたライティング・デスクに近寄ってみる。華著なつくりで、見たことのある家具ブランドのマークが入っていた。とてもセンスのいい品物だった。  引き出しの中には未使用の封筒と便箋。白く塗られた木箱。董子も知っている、高級なチョコレート店のものだ。蓋を開けてみると、手紙の束が入っていた。 「ほとんどがわたしが出したものです」  母親は、淋しそうに笑った。 「しょっちゅう帰って来る娘でも、たまたま二ヶ月とか三ヶ月、忙しくて戻れないことがあったりするとなんだか心配で、つい手紙を書いてしまいました。でも返事の代わりに、手紙読んだよって電話が入って……」  また、涙声になった。  手紙の束をそっと調べたが、母親の言う通り、二通を除いてすべて、母親からのものだった。残りの一通は、董子の知らない女性名と、それから二年前に退社した、董子も知っている女性の名。 「その、滝沢さんという方は、愛果の中学の同級生です。中身も読みましたけれど、離婚なさったとかで……近況報告のようですわ。その方には連絡をとってみましたが、愛果の自殺の原因に心当たりはないということでした。三河さんという方は会社の先輩だそうですが」 「わたしも存じ上げております」 「愛果はその女性を信頼していたようですね。中絶のことを相談したらしい内容があったので、そちらにも電話してみたのですが、相手の男性の名前は聞いていないということでした。……本当に、不思議なんですよね……まさか幻覚と恋をしていたわけじゃあるまいし、中絶までしているのに、相手が誰だか、これだけ探してもわからないなんて」 「探偵事務所の報告はどうなっていたんでしょうか」 「たいしたことはわかりませんでした」  母親は肩を落としていた。 「中絶手術をした病院は判ったんですが、同意書の父親の名前は偽名だったようです。妊娠四ヶ月だったとか。でも……調査した人も首を傾げていたんです。愛果のアパートに男性が訪ねて来たのを見たという人は皆無だったそうで、愛果の部屋の電話の通話記録からも、正体のわからない電話相手というのは抜きだせなかったんです。しかも、愛果の携帯電話は……死の直前に、すべてのデータが消されていました。データを消すには愛果が設定した暗証番号が必要なんだそうです。ですから警察も探偵さんも、愛果が自分でデータを消去したのだろうと言っています。どうして……死ぬことを覚悟した上でまで、なぜ相手の男の名前を頑《かたくな》に隠し続けたのか。その理由がまったくわからないんですよ……」  確かに、愛果のあまりに徹底した態度には奇妙なものがある。  裏切りが自殺の原因なのだとしたら、自分を裏切った男を告発して死ぬという方がよほど自然だ。携帯電話の記録をすべて削除してまで、愛果はなぜ、男の名前を隠そうとしたのだろうか。  ライティング・デスクから離れて、董子は愛果の化粧台に近寄った。小振りの三面鏡がついた、机の上などに載せて使うタイプのものだった。引き出しが三つ。右側の深い引き出しは、化粧水などのボトルを収納するもの。左側の上の浅い引き出しには、口紅やアイシャドウ、紅筆などがきちんと整理されて並べられていた。その下の、少し深い引き出しには、ファンデーションやコンパクト、マニキュアなどが収まっている。数は少ないが、価格は高そうなものが多い。愛果は、チープなものをたくさん集めて楽しむのではなく、品質の良いものを厳選して使う主義だったらしい。  ふと、気になったものがあった。  下の引き出しの奥に、隠すようにして入れられていたもの。  紫色のマスカラ。  董子は上の引き出しをもう一度開けた。そこには、黒いマスカラが一本、ちゃんと並んでいる。フランスの化粧品メーカーの、品質に定評があるマスカラだ。一方、下の引き出しに入れられていたのは、いわゆるコンビニ・コスメだった。コンビニエンス・ストアで手軽に買える、せいぜい二千円はしない化粧品。しかも、色は紫。  紫色のマスカラは、そう珍しいものではない。十代や二十代前半の女の子なら黒の他に一本は持っているといわれる人気色だし、大人の女性でも、夜の外出などの時に愛用している人は大勢いる。使ってみると意外と上品で、日本人の顔にも違和感のない色なのだ。  だが……愛果の選択としては、どうなのだろう。紫色、しかも、コンビニ・コスメだ。  愛果の口紅を調べてみた。ベージュ・ピンクとコーラル・レッド。共にブランド品。無難で、日本人の顔にはいちばん似合うと言われている色だ。よく言えば上品。悪く言えば、平凡。アイシャドウは、ブラウン系のセットが二つ。  やっぱり、おかしい。  董子は、紫色のマスカラを目の前にかざした。そして、戦慄した。  マスカラの底。細い筒の底に、小さな丸い紙が貼ってある!  白い紙。そこには黒いマジックインキで、たった一文字、I、と書かれていた。  I。  なんのイニシャル?     6  I  やはりどう見ても、アルファベットのIに見える。数字の1、という可能性がないわけじゃないけれど……  董子はマスカラを手にしたまま、しばらく考えた。  愛果がわざとここにこの紙を貼りつけたのは間違いない、と思える。何かの偶然か、これを売った店が商品整理の為に貼っていた紙が付いたまま、だというのは、このきちんと整理された愛果の持ち物の状態からしてあり得ないような気がした。愛果が無駄なものを買わず、買ったものを大切にする性格だったのは、持ち物のラインナップから想像できる。だとしたら、このマスカラだってここに仕舞う前に点検したはずだ。意味のない紙を付けたままにしておいたとは考えにくい。  わざとこの紙を貼ったのだとすれば、なぜ?  何かの覚え書きだろうか。あるいは、分類の方法?  董子は他の化粧品をもう一度全部調べてみた。だがどのひとつにも、紫色のマスカラの底に貼られていたのと同じような紙は見当たらなかった。  分類用の目印ではない。  マスカラの上部をひねってまわし、ブラシを取り出してみた。思った通り、中の液はほぼ満杯で、ブラシもまったくヨレや固まりがなく、新品状態だった。愛果はこのマスカラを使用していないのだ。  自分の化粧の好みとは違うマスカラをわざわざ買って、その底に紙を貼り付けた。なぜ自分の好みとは違う化粧品なのか。それは……使わない為!  そうだ……愛果はわざと、使う可能性がない化粧品を買って他の化粧品に紛れ込ませた。そう、他人が見ればマスカラ一本がドレッサーの引き出しに入れられていても少しも不自然には思わない。だから、誰も、調べない!  だが自分にだけはわかるのだ。はっきりと区別できるのだ。間違って使ってしまって、なくしたりする心配もなく、また、誰かにそれを|見つけてもらいたいと思った時《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、簡単に指示することができる! 「紫色のマスカラは一本しかないから、その底を見て」と。  愛果のやったことがどういうことだったのか、董子にはいくらかわかった気がした。  董子は立ちあがり、もう一度部屋を見回した。次は……そう、服だ。 「お母さま、愛果さんのお洋服は?」 「ダンボールに入ったままです。愛果はアパートの部屋に作り付けのロッカーを使っていたので、洋服はダンボールに詰めて引き取りました。えっと……あの箱とその下二つです」 「開けさせていただいてもよろしいですか?」 「ええ……どうぞ。あの、何かあったのでしょうか」 「こういうものが他にもどこかに貼られていないか、探したいんです」  董子はマスカラの底を愛果の母親に見せた。 「これは……イニシャルですか、それとも数字?」 「わかりません。わたしにはIに見えますけど。でもこうした紙が他にもどこかにないかと」  董子は上になっているダンボールの蓋を開けた。 「全部出してみますね」  きちんと畳まれた服が取り出される。 「こうした紙を貼りつけるとしたら、襟ぐりのところの、タグですよね。あるいは、品質表示のタグのところか」  愛果の母親も別の箱の蓋を開け、洋服を外に出した。しばらく、ふたりは無言で服を調べた。 「あの」  愛果の母親が、冬物のジャケットを掴んで董子の方に突き出した。 「これでしょうか」  襟足のタグのところに、丸い白い紙。  E  やはり、イニシャルだ。  IとE。 「こんな服……あの子は着たがらないと思っていたけど……」  そのジャケットはフェイクレザーで色は赤、だった。紫のマスカラと同じ「法則」に従っている。  法則がわかれば、何をどう探したらいいか、方針ははっきりした。 「お母さま、愛果さんの性格はお母さまがいちばん良くご存じだと思うんです。愛果さんの持ち物の中で、愛果さんらしくないもの、愛果さんなら欲しがらなかったはずだ、というようなものを探していただけませんか? たぶん、同じような紙とイニシャルが隠されているはずです。えっと……お母さまは本をお願いします。わたしは、CDを見てみます。後は……靴と、下着。それからアクセサリーです!」  CDはコルクのCDボックスに収められていた。宇多田ヒカル、松任谷由美、倉木麻衣、古内東子。日本の女性ポップ・シンガーがほとんどだった。サザンオールスターズ、ゴスペラーズ。男性のものもいくらかある。どれもヒットソングを含んでいるベストセラーCDばかり。音楽に対して強い嗜好性があったというよりは、ヒットしていて巷《ちまた》でよく耳にする曲の入っているアルバムを買い集めた、という感じ。冒険はしない愛果の性格がこんなところにも出ている。  矢井田瞳、ポルノグラフィティ、スピッツ。どれも違う!  モーニング娘。  これも違う、大ヒットした曲が入って……いや?  董子はCDの束をもう一度、一枚ずつめくった。  そうか。愛果は単にヒットした曲が入ったアルバムを買っていたわけではない。彼女が好んだのは、シンガーソングライター、今風に言えば、アーティストのアルバムなのだ。プロデューサーのついたアイドルの音楽には、彼女らしい潔癖さで拒否反応を持っていたとしても、おかしくはない!  もどかしい思いでジャケットケースの蓋を開けた。  S 「ここにもありました!」  愛果の母親が本を振り回して叫んだ。  手にしていたのは、『羊たちの沈黙』。そう、愛果はサイコホラーなど読まないと母親が考えたのが正しかったわけだ。  文庫本の見開きに、イニシャルがあった。  Z 「イニシャルを並べてみましょう」  董子はこれまでに発見した白い紙を、それぞれの付けられた物ごとに並べた。  I E S Z  SIZE? 「これは、どういうことなんでしょうか」  愛果の母親がおびえた目で董子を見た。 「あの子はいったい、どういうつもりでこんなことを……」 「全部見つけ出してみないと目的がはっきりしないと思います。よろしいでしょうか、お母さま、徹底的に探させていただいても」  母親は頷いた。 「構いません……わたしは……わたしたち夫婦は、あの子が自殺した理由がどうしてもわからずに、ずっとずっと苦しんできました。今こうして、あの子が何かを誰かに伝えようとしていたらしい事実と出会って、わたしは……興奮しています」  母親は両手で胸を抱くしぐさをした。 「これでわかるのかも知れない……あの子が死を選んだ本当の理由が。あの、好きよ、という言葉が……誰に向かって残されたものなのか……あの子の死に責任があったのは誰なのか、それがわかるかも知れないと思うと……探してください!」  母親は涙を浮かべた目で董子を見ていた。 「お願い……探してください。何もかもすべて見つけ出してやってください! あの子は誰かに見つけてもらうことを望んでいたはずなんです。だから、お願いします!」  董子は母親の気持ちを知って、一切の遠慮を捨てた。もはやいちいち母親に許可を得ることもせず、積み上げられた愛果の荷物の箱を黙々と開いていった。母親も、要領がわかって同じように箱を開け始めた。  二時間あまり、ふたりはほとんど言葉も交わさずにひたすら探し続けた。  靴が詰められた箱から見つかったのは、K。金色のラメで飾られた、踵《かかと》の細いミュールの爪先部分に白い紙が貼られていた。  数は少ないが、本物の宝石とホワイトゴールドなどで作られた上質で小ぶりのアクセサリーがきちんと整理された宝石箱の中からは、ラインストーンの大きなピアスの裏にAが貼ってあるものが見つかった。  小さな食器戸棚ごと愛果のアパートから実家に運ばれた、わずかばかりの食器類の中からは、またI。愛果が間違っても飲みそうにない、ウィスキーのストレート用グラスの裏からそれは見つかった。  I  E  S  Z  K  A  I  集められたイニシャルの前に座って、董子は唇の震えをとめることが出来なかった。  こんな偶然がある?  いや、偶然のはずがない。だけど……だけどどうして…… 「どうかなさったの?」  愛果の母親に肩をゆすられて、ようやく董子は我にかえった。 「このアルファベットに何か意味があるんですか?」  董子は、黙ったまま、アルファベットを並べ替えた。  ISEZAKI 「いせざき? ……人の名前ですか?」  董子はまた頷いた。 「イセザキ、という名前の人がいるんですね!」  愛果の母親は董子の腕を強く掴んだ。 「その人はどこのどなたなんですか! 愛果といったい、どういう関係の人だったんですか!」  董子はやっとの思いで声を絞り出した。 「……わかりません。今の今まで、愛果さんと伊勢崎さんを結びつけて考えてみたことなど、一度もないんです」 「だって……あなたもご存じの人なんでしょう? だったら愛果の会社の人とか取引先とか」 「いいえ。ああ……ごめんなさい、わたし、頭が少し混乱しています。もしかするとわたしが考えている伊勢崎さんと、ここに示されたこのアルファベットとは何の関係もないのかも……」 「そんなはずないじゃありませんか!」  愛果の母親は怒りを抑え込むようにして言った。 「あなたがご存じの方の中に、イセザキ、という人がいる。イセザキってそんなにどこにでもある名前じゃないわ。で、こうして愛果は、こっそりとその名前を自分の部屋の中に隠していた。関係ないなんてこと、絶対ありませんよ。偶然じゃないわ、そのイセザキという人は、愛果の自殺に何か関係があるのよ! その人は男なんですか、それとも女?」 「男性です」  董子の答えに、愛果の母親は、ふー、と長い息を吐いた。 「……男性。愛果はその人に対して遺したのね……好きよ、というあの一言を。いったい……いったいどんな人なんですか、イセザキ、という人は」 「わたしの知っている伊勢崎さん、という条件でお話ししますが」  董子は必死に、頭の中を整理しようとしながら言った。 「空間プロデューサーの方です」 「空間プロデューサー?」 「お店とか建物の内部のプロデュースをするお仕事だそうです。インテリア・デザイナーよりもう少し広い範囲でいろいろなものをデザインするみたいです。詳しいことは知らないんですけど」 「会社の取引先の方なんですか?」 「いいえ、会社とは無関係です。わたしは……青山を歩いていて気分が悪くなったのを助けていただいたのが縁で知り合いました」 「つまり、道ばたで知り合った、ということ?」  董子は頷いた。 「それじゃ、愛果とはどんな関係があるんですか?」 「ですから、わからないんです……わかりません、まるで。わたしが伊勢崎さんと知り合ったのは、愛果さんが亡くなられたあと、つい最近のことなんです。愛果さんがどこでどうやって伊勢崎さんと知り合ったのかなんて、本当に知らないんです。ですから、わたしの知っている伊勢崎さんと、愛果さんがここに残したイセザキという名前とが同じ人のことだとは思えなくて……」 「ともかく」  愛果の母親は、深く溜め息をついてから言った。 「今夜主人と相談して、もしかするとその伊勢崎さんという方に会いに行くことになるかも知れません。その方の御住所か連絡先、教えていただけません?」  董子は頷いて、手帳を取り出した。  だが伊勢崎の住所を愛果の母親に教えている間も、混乱した董子の頭の中では伊勢崎の顔がぐるぐるとまわり、そして、好きよ、という愛果の「遺言」がエンドレスに反響し続けていた。  好きよ。  愛果は本当に、その言葉を伊勢崎雅治に遺したのだろうか……     7 「そんなにヒステリックにならないでくれ」  いきり立っている冴絵に向かって、勝昂は怒鳴りつけそうになるのをこらえて言った。 「そんなもの幻覚に決まっているだろう? 君は仕事が重なって疲れてるんだよ。どうしてこの窓に」  勝昂は、はめ込みになっているガラス窓に両手をついた。 「こんな高層階の窓の外に、いったいどうやったら人が立つことなんてできるのさ。窓ガラスを拭くゴンドラにでも乗って現れたって言うならわかるけど」 「だから言ってるでしょう!」  冴絵は興奮して泣き声になっていた。 「だから……あれは人間なんかじゃなかった! あれは……あの顔は……」 「幽霊?」  勝昂はわざと明るい笑い声をたてた。 「ちょっと意外だね、まさか君みたいな人が、オカルトを信じてるなんてさ」 「あなた、本当にあたしに隠していること、ないの? その愛果って自殺した女と関係を持っていたんじゃないの?」 「ない」  勝昂は苛立ちを抑えきれなかった。 「ないよ、ない! 絶対に、ない! 取引先の会社の人だから、顔ぐらいは知っていたし、自殺したって聞いた時は驚いたけど、でもそれだけだ。個人的に話をしたのは、いちばん最初に合コンで飲んだ時だけだったよ、確か」 「でもあなたのフィアンセの同僚だったんでしょう?」 「董子だって、彼女とは特に親しかったわけじゃないよ。そう言ってたもの。だから自殺の理由がぜんぜんわからないんだって。それに、だいたい君はその自殺した愛果って女の顔、知らないんだろう? なのにどうして、窓の外にいたのがその女だってわかるんだよ」 「あたしをにらんでいた」  冴絵は自分の両腕で自分のからだをきつく抱いた。 「あたしにはわかったのよ……あの女はあたしに、何か言おうとしていた……きっと、恨み言を!」 「まるで筋が通らないよ。仮にだよ、ほんとにただ、たとえ話だと思ってよ。仮に、俺がその女と何かあって、その女を捨てて董子とつきあったことでその女が俺に恨みを抱いて自殺したとする。でもどうして、それで君のところに化けて出ないとならない? 君とのことは董子ですら気づいてないんだよ、まして、その女にわかったはず、ないじゃないか」 「相手は霊魂なのよ」  冴絵は大真面目だった。 「あたしとあなたがつきあっていることぐらい知ってるわよ。女ってね、自分を捨てた男を恨むより、その男が選んだ女の方を恨むって、よくある話なのよ。筋違いだとわかっていても、そうせざるを得ない……その女さえいなければ男の心は自分のものだったのにって、女の方を恨みたくなるものなのよ。あの女はあたしを憎んでいたのよ。あたし……あたし……あの女に、とり殺される……」 「もういい加減にしろ!」  勝昂はついに怒鳴った。 「いくら勘ぐろうと疑おうと、俺は一切、その自殺した女とは関係なんか持ってない! それどころか、打ち明けられたこともなければ、つきあってくれって意思表示すらされたこともないし、プレゼントももらってないんだ。いいか、バレンタインの義理チョコひとつもらってないんだぜ? なのにどうして俺にしろ君にしろ、その女に恨まれないとならないんだよ! 筋違いとか理不尽って以前に、それじゃただの人違いじゃないか。君は神経質になってるんだ。ね、仕事休んで、少し旅でもしたらどうかな。有休、山ほど残ってるんだろ?」 「使ったことなんかほとんどないわよ」  冴絵は深く溜め息をついた。 「結婚した時、結婚式と新婚旅行で十日休んだだけ」 「だから、休むんだ。な、休もう」  勝昂は冴絵のそばに寄り、その肩を抱いた。 「……後悔してるなら、とりやめたっていいんだよ」 「とりやめるって、何を?」 「決まってるだろ」  勝昂は、冴絵の首筋に唇を押し当てた。 「結婚さ。俺はもともと、結婚なんてしてもしなくてもいいと思ってた。でも君との噂がたちそうだって言うから、目くらましに結婚するのも悪くないかって思っただけだ。董子は面白みはない女だが、頭は悪くないし素直で、妻にするには向いてるかも知れないと思ったからね。でも君次第なんだ。君が、俺に結婚しないでくれって言えば、俺は生涯独身で暮らすよ。男にとって、一生ひとり身でいることなんか、特に騒ぐようなことじゃないもんな。ホモ疑惑ぐらい立ってもどうってことないし」  勝昂は笑って冴絵の髪に指を通し、頭皮を撫でた。 「君が離婚する気がないのは知ってるし、それでいいと思うよ。君には安定した収入と社会的地位のある亭主がいた方がいいんだ。皮肉じゃなくて、そうした基盤みたいなものが、今の君を作ってると俺は思ってる。君がどんなにばりばり仕事をしていてもギスギスしないのは、必死になって上に昇らなくても人生にそう変化はない、君のその達観のおかげなんだよ。君は、力も地位も金もある亭主を持つ人妻だからこそ、魅力的なんだ」 「ずいぶん、ものわかりのいい恋人よね、あなたって」 「だって仕方ないだろ? 離婚して俺と結婚してくれって、俺、何度も言ったはずだよ、これまでに。でも君は承知してくれなかった。君は君自身、自分って女がどういう種類の女で、自分を支えているものは何なのか、よく知ってるんだ」  勝昂は抱き上げるようにして冴絵のからだを立ち上がらせ、ソファまで歩かせた。そして、半ば強引にそのからだをソファの上に寝かせた。 「あたし、したくないのよ、今」 「俺はしたい」  勝昂は、冴絵の腹からセーターを捲《めく》り上げた。 「やめて、のびちゃう!」 「買えよ。金はあるんだから、セーターぐらい買えばいいのさ」 「したくないって、言ってるのに!」 「だから」  勝昂は暴れている冴絵の両腕をとり、左手でまとめて掴み、上に思いきり持ち上げた。 「だから言ってるだろ。俺はしたいんだ。はっきりさせておく。君はお姫さまじゃない。俺は君の下僕じゃない。俺は君に対してあらゆるものを捧げてきたつもりだ。仕事の面でもいつも君にとって有利なように働いて、君に尽くしてきた。恋愛だって、君の言いなりに結婚もして貰えないまま、こうやって続けてる。そして今度は君の望みで、たいして惚れてもいない女と結婚するんだ。だから俺には権利がある。君に対して、俺の欲望をとげる権利がある。君のこのからだは、俺の所有物なんだ。俺はそれだけの代価をすでに払ってるし、これからだって払い続けていかないとならないんだからね。だから俺は、犯したい時に君を犯す」 「心はいらない、ってこと?」 「愚問だね」  勝昂は冴絵のブラジャーを上に押し上げ、乳房を右手で鷲掴みにした。 「心ってなんだ? 俺が心を捧げてこなかったと、本気でそんなふうに思ってるのか? 俺はずっと、ずっとずっと心を捧げてきたつもりでいたよ。でも君がそれに対して俺にかえしてくれたのは、からだだけなんだ。君の心は最初からずっと、旦那のところにある。これ以上欲張らないでくれ。俺にだってプライドも良心も、誰かを愛して愛されたいと思う気持ちだってあるんだぜ。結局君が捧げてくれるのがからだだけなら、そのからだぐらい、俺の好きにさせてもらっても罰は当たらないんじゃないか?」  勝昂は冴絵の片足を持ち上げると、下着を脇にずらしただけで一気に挿入した。  冴絵は悲鳴をあげた。 「たまにはいいだろう、はじめての時を思い出させないか?」  勝昂は笑いながら激しく腰を動かした。 「やめて、やめてよ! 痛い!」 「我慢しろよ、このくらい。俺があんたの為に我慢してきた思いからしたら、たいした痛みじゃないだろうが。いい歳してさんざん使い込んでんだから、そのうちちゃんと濡れてくるさ、心配しなくても。あんたは痛い思いをした方がいいんだ、いつもいつも、いつも痛みを伴うことから逃げまわって、そのツケを他人にまわしてないでさ!」  勝昂は激しく腰を打ち付けながら、自分のからだの下で固くちぢこまっていた肉体が、少しずつほぐれていくのを感じていた。いくらか分泌された湿り気によって苦痛がやわらいだのか、くっきりと寄っていた冴絵の眉間の皺が消える。  俺はいったい、どうしてこんなことをしてるんだろう。  勝昂は言い様のない悲しさで涙が溢れてくるのをとめることができなかった。  愛しているのに。こんなに愛している女なのに、どうして乱暴に扱ったり、嫌がるのに犯したり、そんなことをしないといられないんだろう。  そうまでしないと、この女を自分のものだと納得できないんだろうか。  どうして、なぜ、なんで。  自分のものにしないといけないんだ……自分のものだと思わないと、耐えられないんだ!  いくらあがいたって、この女は決して、自分のものにはならないのに。     *  じっとしていると背中が震えてとまらなくなってくる。  董子は自分の部屋で膝を抱え、まとまらない考えを必死にまとめようとしていた。  なぜ、愛果が伊勢崎のことを知っている?  愛果の部屋から見つかったアルファベットのイセザキ、は、自分の知っているあの伊勢崎なの?  それとも、ISEZAKIじゃなくて、他の並べ替えができる言葉?  考え続けていると不安で落ち着かない。愛果の両親が結論を出すまでじっとしていることなど、できそうになかった。  確かめるしかない。  そうだ、本人に確かめてみればいいじゃないの!  伊勢崎と愛果が知り合いだったからって、そういう偶然がないとは言えないんだから。あたし自身、伊勢崎と知り合ったのは本当に偶然だったんだもの。  偶然。  ……本当に、偶然?  青山の街中で突然方向がわからなくなり、自分がどこにいるのかも、どうすればいいのかもわからなくなって倒れた。あれも……偶然?  だけど、あたしはあの感覚を、二度経験している……  董子はとうとう決心した。伊勢崎雅治のところに確かめに行く。彼女を知っているのか。「好きよ」と一言だけ遺して自殺してしまったあの女性を、あなたは知っているのか? それを。  タクシーで乗りつけたので、今度は迷う心配はなかった。伊勢崎の住むマンション。突然の訪問に伊勢崎は迷惑するかも知れない。その場合は仕方がない。近くを通りかかったから、と言い訳して、中には入らずに帰ろう。  それに留守ってことも、もちろんあるもの。  タクシーを降りて、慎重に建物の確認をしてからエレベーターの前に立った。  間違えないように。迷わないように。  オートロックなので、伊勢崎の部屋番号を呼び出す。返答がない。留守か……  緊張していたのに留守とわかって気が抜けた。だがその時、董子の横にマンションの住人らしい男が立ち、暗証番号をプッシュした。オートロックがはずれる。男が中に入っても、ドアは躊躇《ためら》っているように数秒の間、開いたままだ。  魔がさした。  董子は、ほとんど無意識にそのドアの中へとすべり込んでいた。そんな泥棒のような真似など、ふだんの董子ならば到底できないはずだった。  それでも、エレベーターに乗ってしまうとおかしな度胸がついた。留守なんだって確認できればそれでいいんだから、ね。  伊勢崎の部屋のある廊下は、しん、として人の気配がまったくなかった。董子は部屋の前に立ち、チャイムを鳴らした。やっぱり返事がない。  ほら、留守だってわかったんだから、もう帰りましょう、董子。  自分で自分に言い聞かせて歩き出した時、背後で不思議な音が聞こえた。ドアの内側から、その音は響いて来る。微かな音なのに、どうしてなのか董子の耳には異様にはっきりと聞こえている。  カサカサカサカサカサ……  木の葉が擦れ合うような音だった。  董子は、ドアノブを掴んだ。もちろん回るはずがない、と思って。  なのに、ノブは回った。どうして……どうして回るのよ!  とめることが出来なかった。ドアを開けて董子は中に入って行った。まるで吸い込まれるように。蟻地獄の罠に、蟻がすべり落ちるように。  耳鳴りがした。方向感覚がわからなくなった。見るものすべてが歪んでぼやけて見えた。あの感覚。あの、迷子になって気絶する、あの時の感覚だ。  虹色の光が目の前に見えていた。廊下の正面にドア。リビングに通じている。  董子はもう足をとめることも引き返すこともできずに、そのドアに向かった。  ドアを開く。  虹色の輝きが空間を満たしていて、眩し過ぎて何も見えない。  部屋の中央にあったもの。  董子は、驚きの声すらあげられずに、立ち尽くしていた。  虹色の繭。  巨大な、卵のようなその物体。  輝いているのは表面の繊維質の部分だった。  董子は、どうしてなのか、それが何なのか知っている、と思った。  自分は知っている。ずっと昔から、知っていた。 「やあ」  背後で声がした。ゆっくりと振り向くと、伊勢崎が立っていた。 「とうとう、見てもらえたね。君に早く見せたかったんだ。どう? 素晴らしいだろう? ここまで育てるのに本当に手間がかかったよ」  伊勢崎は微笑んだ。  いつものように、優しく、紳士的に。 [#改ページ]   核     1  川鍋亜希、旧姓渡辺亜希の住む港区南青山三丁目は、マンションの価格が高いことでは都内でも上位を争う地域である。そうしたことから、川鍋家をかなり裕福な暮らし向きの家庭だろうと勝手に想像していた速水は、目の前の建物を見て苦笑していた。それは、ある大手企業の社宅だったのだ。こんなところに社宅か。しかし考えたらそう不思議なことではない。原宿だの青山だのという一帯は、今でこそ流行の発信地で若者たちの憧れの街であり、高級住宅地として知られているが、ひと昔前までは、緑を多く残し、丘や谷のせいで道が上ったり下ったりする、田舎くさい場所だったのだ。日本橋や銀座といった当時の「都心」からすれば土地の価格なども安く、企業の社宅だの、公務員住宅などがたくさん建てられた。現在でも、同潤会アパートが表参道に面して建っているのは名所にもなっているし、青山通りのすぐ近くに警察の官舎などもある。  しかしバブルのせいで地価が高騰、その後のバブル崩壊で企業の体力が急激に衰え、こうした土地の路線価が高い場所に社宅のような「資産」を持っていることに耐えられない企業が増え、社宅の売却、建物の解体が続いていると聞いたことがある。  電話で聞いていた通りに、まず建物の入口で管理人に来訪の目的を告げ、亜希に連絡を入れてもらってから部屋へと向かった。川鍋家は三階にあり、速水はエレベーターではなく階段を使った。  応対に出た川鍋亜希は、人の良さそうな顔をした、見るからに専業主婦、といった感じの、垢抜けてはいないが安心できる様子をした女性だった。セミロングの髪はいちおうカラーリングしているが、茶色とはっきり呼べるほどではなく、服装も、フレアースカートにニットのアンサンブル。 「伊勢崎くんの高校時代のこと、でしたよね」  亜希は、クッキーを添えた紅茶を速水の目の前に置いて、正面に座った。今ではマンションには付き物になっているリビングダイニングではなく、懐かしのダイニングキッチンだ。居間として使われているのは隣の和室らしく、その和室はおそらく、夜間は夫婦の寝室、そしてもう一部屋が、二人いるらしい子供たちの部屋になっているのだろう。 「狭いでしょう?」  速水が部屋の様子を窺っているのを察して、亜希が笑った。 「何しろ古い社宅なもので、今どき、こんな窮屈な間取りじゃねえ」 「いや、でもロケーションが最高ですね」 「そうなんです」  亜希は紅茶をすすって言った。 「だから引っ越しする気になれないんですよね。ここを出て、南青山で同じくらいの大きさの中古マンションを買うとなると、いくらくらいかかるかご存じですか? バブルが弾けて不動産が値下がりしてる今でさえ、十年以上経った物件で六千万以上するんですよ。信じられませんでしょ? たった2DKで! ここを出たとなると、うちの経済状態ではとっても青山近辺には住めないんです。この辺り、物価はかなり高いですし、夜間でも人通りが多くて、お酒を出す店も多いから環境的にはいまいちですし、決して暮らし良いというわけではないんですけどね。でもねえ、やっぱり便利でしょう?」  幸い、亜希はかなり話し好きらしい。 「それでもうちの会社も、ここを売却するっていう話があるんですよ。確かにこんな土地の高いところ、持っていても税金がかかるだけで、この不景気ではいいことはないでしょうね。ここを売って、社宅の代わりに家賃の何割か会社が負担する住宅補助制度にした方が、会社の経費としては遥かに安上がりでしょうし。そうなったらどこに住んだらいいか、そろそろ考えておかないとならないんですけどね、何しろもう十二年もここにいるでしょう、他の土地で暮らすって考えたことがなくって。東京だとどのへんが住みやすいと思われます? わたし、生まれも育ちも代々木でしょう、今はもう両親とも埼玉の方に家を買って引っ越ししてしまって、昔住んでいたアパートはとっくに取り壊されていますから、思い出の実家って呼べるものはないんですけどね、それでもなんとなく、新宿御苑と代々木公園から遠ざかるのがねえ。たまたま主人の会社の社宅がこんなところにあったもので、なおさら。でもね、家賃にしても分譲マンションを買うにしても、下町が安くて交通の便もいい、って言う人がいるんですけど。ほら、半蔵門線も来年だか再来年には錦糸町の方まで延びるじゃないですか、そうするとうちの娘も、今行ってる塾にそのまま通うこともできるのかな、なんて」  亜希のとりとめのないお喋りをどこで遮ろうか考えながら、速水は亜希の表情を観察していた。亜希の饒舌は、話し好きの主婦としてはふつうの状態なのかも知れないが、どこか不自然だという気もする。伊勢崎雅治に関しての偽記憶が植え付けられた時に、何らかのセキュリティが施されているのかも知れない。誰かが伊勢崎について詳しく聞きたがった時には、できるだけ話をそらすように、とかいう催眠術の類?  考え過ぎか。速水は、亜希がクッキーをつまむため喋るのを止めた一瞬をついて言った。 「それで、伊勢崎さんのことなんですが。高校の同級生でいらしたわけですよね?」 「ええ、ええ」  亜希は躊躇いも見せずに頷いた。 「伊勢崎くんのことはほんとによく憶えてますよ。どうしてなのかしら、彼とはいつも同じ班になったんです。席替えしても、何かの当番でも、化学の実験の班分けなんかでも。そうそう、体育祭の紅白まで」  何度も聞かされた「記憶」だった。伊勢崎について憶えていると答えた人間がみな、これと同じ記憶を持っているのだ。 「他に、伊勢崎さんについて印象に残っていることとか、憶えておられるエピソードといったものはありませんか? どんなことでもけっこうなんですが」 「他に、ですか……そうねえ、彼はほんとにみんなから好かれている人でしたね。女の子からだけ人気がある、というのでもなくて、男子にも評判のいい人でしたよ。でも特定の誰かと仲良くなるとか恋人になるってことはなくて、クラスの誰とでも公平につきあってる印象でしたけど」  これも偽記憶。共通した「思い出」だ。もちろん、これに関しては、事実がそうだったという可能性はあったが。 「その他にも、何かあれば」  速水の催促に、亜希は初めて首を傾げた。 「他に……ですか。そうねえ……でもほら、伊勢崎くんって誰とでも仲良くしていたから、特にわたしだけが記憶にとどめていることって、逆に、ないんです」  浅い。  植え付けられた記憶はほとんどそれで全部なのだ。しかし巧妙な記憶ではある。特定の誰かと仲良くしていたわけではない、と言われてしまうと、誰をつついたら偽記憶を突破できるのか、見当がつかない。 「でも速水さん」  亜希は、クッキーを盛んに齧りながら訊いた。 「どうしてそんな、細かなことが必要なんですか? お電話では、今度は伊勢崎くんにとてもいい御縁談があって、お相手のお嬢様の家が大変厳格なご家庭なので、ということでしたけれど、伊勢崎くんは高校時代、本当に真面目で明るい人でしたよ。トラブルなんて一度も起こしたことはなかったと思います。そうした報告だけではだめなんですか? それとも……もしかしてお相手のご実家は結婚に反対されていて、何か伊勢崎くんの悪い評判でも探していらっしゃるとか?」 「いいえ、決してそんなことはないですよ」 「だったらもう、いいじゃありませんか」  亜希はにこにこしながら言った。 「伊勢崎くんは高校時代も、みんなに好かれるいい青年でした、と報告してあげてくださいな。いい縁談なら、ぜひまとまって欲しいわ」  顔はにこやかに笑っていたが、その笑顔の底に氷の板のような冷たく固いものを感じて、速水は説明のできない寒気をおぼえた。  やはり、何かの暗示にかけられているのだ、この女性は。  伊勢崎雅治は、代々木西高校に在籍などしていなかった。そしてそれを、在籍していたと信じ込む暗示、さらに、そのことについて誰かに調べられた時、決して情報を与えまいとする暗示。  速水は、それ以上の情報を亜希から得ることを諦めて、川鍋家を辞した。  速水はリストを見た。もうひとり、偽の記憶を刷り込まれた人々の「輪」の中心近くに住む者がいた……  国道二四六に出て歩いていた速水の視角に、何か不自然なものがある。速水は顔を上げ、何が不自然に感じるのだろう、と周囲を見回した。いつものように、ぎっしりと青山通りを埋め尽くした車。歩道にも人が溢れている。平日でもこの辺りは人通りが絶えない。立ち並ぶビル。ショーウィンドウにディスプレイされた様々なファッション。日本でいちばん流行に敏感だと言われている街。  特におかしなところはない。だが、ある種の職業的な勘とでも言うようなものが、速水に、危険を知らせていた。  速水は立ち止まって深呼吸した。神経を集中しろ。  異変、が確かに起こっている。だが、何がどう違っているのか、おかしいのか。  速水は、前から歩いて来る人の顔に意識を集中した。何か異様だ、と感じた。  さらにじっと、その人の顔に目をこらす。すれ違う瞬間に、速水の全身が総毛立った。  瞳が、ない。  膝が震え出した。そんな……そんな馬鹿なことがあるのか?  速水はもう一度周囲を見回した。  歩道を忙《せわ》し気に歩いているサラリーマンらしい背広姿の男たち。  ファッション関係の仕事をしているのか、雑誌の切り抜きから飛び出して来たような奇抜だがバランスのとれた服装の人々。  大学生らしいグループ。  有閑主婦ふうの三人連れ。  OLっぽい二人連れ。  幼稚園に通う前の、ごく小さな子供を連れた若い母親たちの集団。  いつもの青山通りと、いつもの人々。  ひとりひとり、速水は心臓の高鳴りを抑えつけて見つめた。  そして、絶叫を堪《こら》えて走り出した。  瞳がない!  彼らは人間《ヽヽ》ではなかった。  限り無く人間に似ているが、生きている人間ではあり得ない。  瞳がないなんて!  白目も黒目も確かにあるのに、黒目のまん中にあるはずの瞳孔が見当たらないのだ!  幻覚!  速水は飲食店のドアに寄り掛かって呼吸を整えながら、何度も瞬きし、目をこすった。  そうだ、幻覚だ。もしかしたら……川鍋亜希が出してくれたあの紅茶かクッキーの中に幻覚剤か何かが入っていた?  あり得ないことではない。  そうだ……自分は大変な勘違いをしていたのかも知れない。川鍋亜希が「誰かに偽の記憶を刷り込まれた」と考えていたのが実は、あの川鍋亜希こそが、他の同級生に偽の記憶を刷り込んだ犯人だったとしたら?  何かの薬物を使って。そうだ、彼女ならできる。同級生とならば、何か理由をつけて会って薬物の入った食べ物を食べさせるくらい、簡単じゃないか。そう考えると辻褄が合っている気がした。クッキーは食べなかったが、さっきの紅茶だ。きっとあれにおかしな幻覚をもよおす薬が入れられていたに違いないのだ。吐かなければ。毒物を吐き出さないと…… 「ちょっと、おじさん、入んの、それとも入んないの?」  速水の前に若い男が立ちふさがっていた。 「そこどいてくんないと、店ん中に入れないじゃん」 「あ、ああ、すみません」  速水は寄り掛かっていたドアから離れた。瞳のない男と、その腕に掴まった瞳のない女。カップルは速水のからだを避けるようにして店の中に吸い込まれていく。その店は、喫茶店のように見えた。トイレに行って胃を空にしなくては。速水もカップルの後から店内に入った。軽食とコーヒーの、よくあるニューヨーク風コーヒーテラスだった。窓際の席が空いているのが目に入り、速水は倒れ込むようにして席に座った。注文などなんでもいい、ともかく早くトイレに…… 「コーヒー」  店員の姿に、速水は目を閉じたまま言った。また瞳のないその顔を見るのが耐えられない。どうせ幻覚なのだ、惑わされてはいけない…… 「エスプレッソとアメリカン、レギュラーがありますが」 「レギュラー。トイレはどこですか?」 「奥の左です」  速水は立ち上がり、店員の顔を見ないようにして店の奥へと早足で歩いた。トイレのドアを開け、個室に入り、喉に指を突っ込んで胃の中のものを吐き出す。朝食以降、さっきの紅茶以外口にしていなかったので、吐きたくてもなかなか胃の中身が出て来ない。涙を流しながら指二本を喉の奥の奥へと突き込んで、ようやくこみあげた吐き気にまかせて嘔吐すると、茶色く濁った液体が吐き出された。二度、三度と繰り返し、もう胃液しか出て来なくなってから、ようやく速水は安堵して個室を出た。胸が燃えるように痛む。どんな薬物を飲まされたのだろう。できるだけ早く病院に行かなくては。  速水はふらつく足で席に戻った。コーヒーに一口だけ口をつけたらすぐ外に出て、タクシーで病院に向かうつもりだった。  席につくと、テーブルの上には湯気のたったコーヒーカップが置かれていた。一口すする。胸の痛みや口の中の不快感がコーヒーの強い香りで洗い流されるようで心地よい。そのままもう一口。  その時、速水は気づいた。  店内には音楽が流れていた。題名は知らないが旋律におぼえのあるクラシック音楽。ピアノ演奏だ。さっき店に入った時もそれは聞こえていた。  だが……  速水は顔をあげて店内を見回した。  そして、手にしていたコーヒーカップを取り落とした。カップがテーブルの上に落ちて中身がこぼれ、テーブルクロスをつたわって速水のズボンの上に熱い液体が滴った。  それでも速水は無言のまま、口を開けていた。  誰も、いなかった。  店内には、誰も。  さっきまで確かにいた大勢の人々がひとり残らず、そこにはいなかった。瞳がなかったあの人々が。  速水は絶叫し、そして店から飛び出した。  そこでまた速水は立ちすくんだ。  歩道にも、誰もいない。  車も一台として通っていない。  ここは……青山通りなのに。  街は無人だった。なぜか音楽だけが鳴り響く。  速水は上を見上げた。ビルの群れ。  輪郭が歪んだビルの、群れ。  速水は笑い出した。  狂気が速水を包み込み、その笑い声は無人の青山の空に響き渡って、いつまでも消えなかった。     2  それは確かに、不思議な祭りだった。  祭りの主役は二人の男の子。小学校の四、五年生くらいだろうか。祭りの日、二人の男の子は中国の清朝時代をおもわせるエキゾチックな衣装を身につけ、大人の男の肩に担がれて、唐子踊りが奉納される疫神社に向かう。なぜなのかその理由ははっきりしていないらしいが、踊り手の少年はその日、神社に着くまで地面に足を触れてはいけないことになっているのだ。その点だけでもすでに、吉良と藤次郎の興味は強くひかれた。  そして踊りそのものが、これも他の「奉納踊り」とはかなり違った雰囲気のあるものだった。それは踊りの要素の他に、明らかに何かの史実か物語を示した寸劇の要素を持っている。優雅さだとか芸術性といった点よりも、その寸劇的な部分が見ている者に異国と異文化とを感じさせる、不思議な踊りだった。踊りの合間に、囃子手《はやして》の男性との間で二人の少年が、日本語としては意味不明な言葉をかけ合う。それはたぶん台詞《せりふ》に相当するものなのだろうが、中国語でも韓国語でもなく、解釈が様々に分かれているらしい。  踊りの細かな動きの他に、この意味のとれない掛け合い言葉も含めて、二人の少年は完璧に憶えている。少年たちは牛窓の特定の町から毎年選ばれ、一年をかけてこの踊りを学ぶ。  本番の神社での奉納が終わっても、少年たちの「仕事」はまだまだ終わらない。今度は町内の決められた各所、つまり路上で、神社で披露したのと同じ踊りを踊って町の人々に見せるのである。一日中、少年たちは踊り続ける。体力的にも、まだ幼い少年であることを考えると気力的にも、限界に挑戦するような苦行だろう。 「この、唐子踊りについては様々な説があるようなんですが、どれが正しい由来なのかははっきりしていません」  踊りのビデオに魅入られたように見入っていた二人に、結城が静かな声で言った。 「朝鮮通信使がこの牛窓を、江戸までの長い旅程の中で中継地点としていました。九州から瀬戸内海を通って行く途中で、休息と補給の為に牛窓に滞在したわけですね。唐子踊りがその朝鮮通信使と関係があるのは確かでしょう。しかし細かなところで、単純に朝鮮通信使の記録として踊りの形で語り継いだというだけでは説明のできないことが多いのだそうです。瀬戸内海の豊かな海の幸と、恵まれた気侯、牛窓はその昔、本当に栄えた町でした。瀬戸内海中の人々が牛窓に集まり、文化も情報も交換され、混じり合った。おそらくはこの唐子踊りも、そうした様々な文化や情報が元々の形に加えられて独特の変化を遂げたものではないかとわたしは考えています」 「瀬戸内海中の人々が集まった」  吉良は結城の言葉を繰り返した。 「真湯島の人々も牛窓にはやって来ていたんでしょうね」 「それはたくさん来ていたと思いますよ。ただ、先程の話に戻るわけですが、真湯島の人々というのはどこか……独自の考え方を持っているという感じがあるんです。真湯島自体、かなり閉鎖的な島で、外部からの人間を歓迎しない風潮はあったと思います。それでもこの唐子踊りのようなものが残されているくらいですから、他の土地の人々よりは、真湯島のように不思議な風習を持ち続ける人々に対して、牛窓の人々は寛容だったのではないかと思いますね。禎子さんにしても、牛窓の人間だったからこそ真湯島に嫁ぐなどということを考えた、と言ってしまえるかも知れませんよ。決して差別とかそういう意味ではないのですが、真湯島というのは、それだけ特別な島だと考えられていたんです。もっとも今では真湯島の人口もかなり少なくなったようで、人々が意識する存在というほどでもなくなった感じはありますが……」 「定期船がなくなったというのも大きいでしょうね」  結城は頷いた。 「今のように、漁船をチャーターしなくては行かれない状況では、もはや真湯島は山奥の過疎の村と同じような状態でしょう……外に出て行く人は多くなる一方で、島に残る人々は高齢化していきます。あの島の人々はもしかすると……それを望んでいるのかな、と、感じることがあります……」     * 「やはり、渡ってみませんか」  リゾートホテルのレストランで遅い昼食を摂った後、食後のコーヒーをすすりながら、藤次郎が言った。 「真湯島に行かないと、謎は解けないでしょう」  吉良は頷きながら呟くように言った。 「しかし……真湯島の謎というのはどういうものなんですかね。不思議な銀杏の実のことは、たぶん、細かく検証すれば謎は解ける。そうした類の伝承というのは日本全国にあると思います。だが真湯島の謎はそれだけではない……」  藤次郎は深く溜め息をついた。 「謎の中心は……不可解な集団殺人事件にある。吉良さん、吉良さんは本当のところどうお考えですか?」 「繭の伝説、についてですか」  藤次郎は頷いた。 「他の土地の人間には馬鹿げたことに思えるでしょうが……わたしは信じているんです。そう……今あらためて自分の心に問いかけてみてわかりました。わたしは銀杏のトリックにひっかかったくらい単純な人間です。雌だけのイチョウに実は生らない。真湯島の銀杏は、今ではたぶん偽物だ。しかし、そうした詐欺のようなトリックを仕掛けてでも銀杏を災難除けのお守りとして配るということは、大昔、まだ雄の木があって真湯島に本物の銀杏が生っていた頃、その実の魔除けの力というのは相当なものだった。ではそれほどまでに強力な魔除けを、なぜ真湯島の人々は必要としたのか」 「繭の伝説が本当のことで、真湯島の洞窟に、とんでもない怪物が棲息していて……しかしその怪物はなぜか、その銀杏に弱かった……その銀杏を身につけていれば、怪物に襲われなくて済んだ……そういうことではないか、と?」  レストランの窓からプールサイドが見えている。そのプールの向こうに瀬戸内海があった。  空の明るさと雲の白さが、吉良の目に痛かった。  あの海を越えたところにある小さな島の洞窟。その洞窟の奥にいる、得体の知れない生き物……  突然、吉良の胸ポケットから音楽が鳴り出した。  吉良は携帯電話をとり出した。  吉良の表情が変わった。  *  *  *  勝昂が帰った部屋は、空しいほど広く感じられた。  冴絵は身震いし、バスルームに入った。半端にからだにまとわりついていた衣類を引き剥がすように脱いで、丸めてゴミ箱に押し込む。勝昂の匂いがついたものはすべて赦せない。  愛している、と思ったこともあった男だった。勝昂は信じていなかったのかも知れないが、夫より大切だと感じた瞬間は確かにあったのだ。すべてが欺瞞だったわけではない。  少し熱めにしたシャワーを勢いよく出し、いちばん気に入っているバニラの香りのシャワージェルをたっぷりとスポンジに塗り付けていやというほど泡立てた。甘い菓子の香りがバスルームを満たす。  冴絵は二年ほど、アメリカの西海岸で暮らしたことがあった。その時、町のスーパーマーケットで買ったシャンプーが甘いバニラの香りで驚いた。日本ではシャンプーや石鹸などに菓子のような香りをつける習慣がない。だいたいは花か柑橘系の香り、たまにいちごの香りを強調したものがある程度だ。だがアメリカのバス製品には、バニラ、メープルシロップ、キャラメル、シナモンなどの菓子につける香りが普通に使われる。初めの頃はそれに馴染めず、柑橘系の香りのバス製品を探して買っていたのだが、一年が過ぎる頃にはすっかり好みが変わり、アップルパイの香りのシャンプーを抵抗なく使うようになっていた。ところが日本に戻ってみると、菓子の香りのするバス製品がほとんど見当たらない。今度は苦労して輸入品のバス製品を探し、バニラやメープルシロップの香りのシャンプー、バスジェルなどを求めていた。  人の好みは変わるもの。  確かに、最初の頃は勝昂と一緒にいても、いつも心の片隅では夫のことを考えていた。それが裏切りだと言われるなら裏切りだったのかも知れない。だが、夫のいる女とそうした関係になれば、その女に夫のことはまったく考えるなと言うのは無理な話だろう。それよりも、未来に向けて考えなくてはならないことはあったはず……お互いに。  湯の熱さも冴絵の胸の痛みをやわらげてはくれなかった。  勝昂だけのせいには出来ない。それは自分でもよくわかっている。  結局、二人は愛しあう資格がなかったのだ……二人ともに。  シャワールームからバスローブを羽織っただけで出ると、冴絵は窓際に寄った。あの、空中に浮かぶ女を見てから怖くてブラインドを上げたことがない。ブラインドの手前に下げてあるレースのカーテンも閉じたままだった。  冷静に考えてみれば、勝昂の言った通り、ただの幻覚だったに違いない。霊魂の存在をまるきり信じないわけではないが、あんなにはっきりとした形で、しかもこんな上空の窓の外にそれが現れたというのはあまりにも荒唐無稽だった。  どうしてあんな幻覚を見てしまったんだろう。たぶん、ストレスだ。勝昂との関係だけではなく、仕事のことも、そして夫との将来についても、考えたくない現実ばかりが周囲を取り巻いていて、心がどこかに逃げようとしていた。その現れなのだ……あの、宙に浮かんだ女の顔は。  冴絵はそっとレースのカーテンを開け、ブラインドのスイッチに指を触れた。ボタンひとつでジーッと微かな音をたてながら、ブラインドが上がっていく。窓の外に、このマンション自慢の東京湾の夜景が広がった。ブラインドが上がりきっても、窓におかしな女の顔などは浮かんでいなかった。  冴絵はホッとして、夜景の美しさにしばし見とれた。この景色が気に入って買ったマンションだった。突風が吹くおそれがあるという理由でベランダは付いていないが、その代わり、リビングの壁一面に設けられたガラス窓の向こうに、時間によって刻々と変化する東京湾の景色が広がっている。冴絵と夫との邸宅は鎌倉にあったが、仕事が忙しくなると鎌倉まで帰るのが億劫《おつくう》だという理由で、ここに冴絵専用の部屋を買った。それは勝昂とつきあい始めて間もなくのこと。だが、ただ不倫の逢い引き用に部屋が欲しかったわけではない。冴絵にとって、その部屋は自分ひとりで好きなことを考えられる、誰にも邪魔されない空間、であるはずだったのだ。しかし現実には、勝昂が次第に頻繁に出入りするようになり、合鍵まで持つようになって、冴絵ひとりの部屋ではなくなってしまった。  この夜景には未練があるが、もうこの部屋は手放した方がいいのかも知れない。いずれにしても、今夜で勝昂との関係は終わったのだ。どちらが悪かったにしても、理由はなんだったにしても、今夜勝昂が自分にしたことを、冴絵は赦すつもりはなかった。勝昂はそれでも、部屋を出て行く時には勝ち誇ったような笑みを顔に浮かべていた。セックスで女を征服することができるなどと、つまらない錯覚に陥った男の不様な顔だった。一時《いつとき》、短い征服が成功したとしても、それをやってしまえば女の心は永遠に離れるのだ。なぜなら、そこには救いようのない軽蔑が生まれてしまうから。  いずれにしても、潮時だったのだ。勝昂に結婚を勧めた時点で、冴絵の心の中には、別れの文字が浮かんでいた。お互いに配偶者のいる背徳の状況の中にいた方が気持ちが楽だ、というのも本音だったが、勝昂が新婚生活に溺れ込んで自分を忘れるなら、それもまたいいだろう、という気持ちもあった。  せめて、この長い長い間違いの最後には、今夜の憎悪を忘れて、勝昂の幸せを願って終わりたい。  冴絵は、なぜか泣きたくなって、立ったままで涙を流した。  その涙の中に、何かがぼんやりと浮かんで来る。  冴絵は、手の甲で涙を拭って大きく目を見開いた。  悲鳴をあげようとしたが、喉がヒューと音をたてて息だけが漏れた。  輝く街の灯火とその向こうの暗い海、海に浮かぶ船の宝石のような輝き。  そうした見慣れたものたちのその前に、彼女、はいた。  彼女の顔はなぜかとても悲しそうに歪んでいる。  冴絵は、恐怖の真只中《まつただなか》で、不思議な落ち着きを取り戻していた。 「あ、あなたは……だれ?」 『あいか』  彼女は、短く答えた。幻が口をきくことができるなどと思っていなかった冴絵は、驚きと困惑で何度も瞬きした。  幻覚なのだ。そう、これは幻聴だ。  あいか、というのは例の、勝昂の婚約者と同じ会社の、自殺した女の名前。  どうしてこんな女の幻覚を見たりするんだろう。  いったい、あたしの頭はどうしちゃったんだろう…… 「どうして、あなたはそこにいるの? あ、あたしに何が言いたいの? あなた……勝昂と何かあったの?」  馬鹿みたい。幻覚と話をするなんて。いよいよあたしの頭もおかしくなってしまったらしい。  だが冴絵は喋るのを止めることが出来なかった。 「勝昂と何かあって、それで自殺したのならお気の毒だったわ。でもわたし、もうあの人とは別れます。だからわたしのこと恨んだりするのはやめて、静かに眠ってちょうだい。勝昂とはもう、ほんとに別れます」 『た、す、け、て、あ、げ、て』  幻の女は、文字ひとつずつを区切るようにして発音した。  幻聴にしてはその声は、妙にはっきりと個性的に聞こえた。 「誰を助けるの? 勝昂?」 『と、う、こ』 「とうこ? とうこって、……?」 『と、う、こ、が、こ、ろ、さ、れ、る』 「何よ……殺されるって?」 『と、う、こ、は、ひ、と、り、で、た、た、か、う、の。こ、の、ま、ま、だ、と、こ、ろ、さ、れ、て、し、ま、う』  とうこはひとりで戦うの。このままだと殺されてしまう? 「誰に殺されるの?」 『ま、さ、は、る』  まさはる?  また知らない名前だ。冴絵は首を横に振った。 「もういい加減にしてよ。そんな知らない名前を出されてもどうしようもないわよ。あなたはわたしの幻覚なんでしょう?」 『あ、た、し、は、ま、ゆ、の、な、か』 「なんですって?」  今、この女は、繭、と言ったのか? 「繭の中って、いったい何のことなのよ。繭って、蚕とかあんな虫の繭のこと?」  冴絵は自分の額を叩いた。 「もう、あたしったら。いったい何を考えてるんだろう! 精神安定剤を飲んで寝ちゃわないと」 『あ、た、し、は、か、く、に、さ、れ、た』  幻覚の女は、冴絵の独り言には構わずに言葉を続けていた。 『か、く、に、さ、れ、た』  かくにされた……かく?  角のこと?  それとも……確認された、と言ったのかしら。  ……核?  核兵器の、核? 「あなたは……繭の中に入れられた。繭の、核にされた。そう言いたいの? そしてそれをしたのが……まさはる、という男なの?」  冴絵は、その支離滅裂な物語をなんとかまとめてみた。  浮かんでいた女の顔が、ふっ、となごんだように見えた。安堵なのか。自分が伝えたいことをわかってもらえたことへの安堵?  冴絵は驚いた。  浮かんでいた女の頬に涙の筋が光っている…… 「あたしに、何ができるの? あたしはどうしたらいいの? なぜ……あたしなの?」 『か、つ、た、か、か、あ、な、た、と、う、こ、を、た、す、け、て』  勝昂かあなた、とうこを助けて。 「あたしが……そのとうこって人を助けるの? あ、とうこ、って、あの……」  勝昂が婚約した女の名前。董子。  女の顔が消えた。 「待って!」  思わず冴絵は叫んで窓に両手をついた。だがもう、夜空に浮かぶ女の顔はどこにもなかった。  冴絵は、だが、そのガラスにまだ、女の頬を濡らしていた涙が光っているように感じていた。 [#改ページ]   果てにあるもの     1  呆然としていた数分の後、冴絵はやっと窓から顔を離してトイレに駆け込み、込み上げて来たものを吐き出した。  自分はいったい、何を見てしまったのだろう。  そして、何を聞いてしまったのだろうか。  あたまがおかしい。  そう考えるのがいちばん合理的なのはわかっている。あたしのあたまはおかしいのだ。幻覚と幻聴。精神状態が不安定なのは今に始まったことではない。  生理用品や常備薬の置かれた棚から、医師が定期的に処方してくれている精神安定剤の袋を取り出した。すぐに寝てしまいたかったので、睡眠薬でも飲むように、一回一錠と言われているのを二錠、無理に飲み込む。弱い薬なので死ぬことはないだろう。  顔を冷たい水で何度かこすって、視神経にこびりついているあの女の残像を洗い流そうとしたが、いくら顔をこすっても目を洗っても、それは消えることがなかった。  冴絵は、ベッドに潜り込み、からだを丸めた。後は薬が一刻も早く効いてくれるのを祈るだけだった。考えまいとしても心はあの女の顔に、姿に、言葉にと飛んでしまう。  それでも、いつもの倍の量の薬が、冴絵の意識を少しずつ奪ってくれた。冴絵は、からだを胎児のように縮こめたままで朝まで、眠った。     *  目覚めた時、冴絵の心は決まっていた。  冴絵は起き上がると、会社の部下何人かに電話をかけ、最低限の情報を得た。  勝昂の恋人である董子の勤務先は、取引先の油脂メーカー西脇油脂で、そこで二年ほど前に自殺した女性の名前もすぐにわかった。津田愛果。それが、目の前に現れた幻覚が名乗った名前と、一致した。  病院へ行くのが先だ、という考えは頭から離れなかったが、それでも冴絵は、自分が見たあの幻が何かを訴えようとしていたことを信じる気持ちになっていた。オカルトまがいの出来事を鵜呑みにする性格ではなかったが、今度だけは、自分が何か、ふつうではないこと、に巻き込まれたのだ、という確信があった。  あの、津田愛果という死者は、まさはる、という名前の人物から、とうこ、という人物を助けて欲しいと訴えていた。その「とうこ」が先家董子という変わった名前の、勝昂の婚約者であることは間違いない。だがそれならばなぜ、愛果の亡霊は、勝昂にそれを頼まなかったのか。なぜ、勝昂の愛人であり、先家董子にとってみれば敵のような存在の自分に、わざわざそれを頼んだのか。  それに、まさはる、は、津田愛果に何をしたのか?  繭の核にした、と冴絵の耳には聞こえたのだが、意味がまるでわからない。  すべてが幻覚、幻聴である、という可能性を、冴絵はあえて無視した。結果としてそれが何もかも幻で、ただ自分のあたまがおかしくなっていただけなのだとしたら、その時点で病院に行けばいい。  冴絵は着替えを済ませるとマンションを出た。  西脇油脂には個人的な知り合いがいた。宣伝部の水谷衛は冴絵の大学の後輩で、同じゴルフ部の後輩でもあった。 「ごめんなさいね、午前中に呼び出しなんてしてしまって」  待ち合わせた喫茶店に現れた水谷は、いつもの呑気な顔で笑った。 「いやあ、さぼる口実が出来てよかったですよ。ゆうべ午前三時まで飲んじゃって、もう今朝はまったくだめだめ状態で」 「相変わらずね。仕事に差し障るって思わなかったの?」 「高校ん時の同級生が結婚決まってね、呼び出されて前祝いだったもんだから、ついつい」  水谷はブラックコーヒーを注文した。 「煙草、いいっすか」 「あたしも喫うから」  冴絵は煙草の箱を出して見せた。 「先輩、おひさしぶりですね」 「ほんとね。うちの会社と西脇さんとは取り引きがあるのに、水谷くんとは仕事では接点、ないから」 「最近、やってますか」  水谷はクラブを握る真似をした。冴絵は首を横に振った。 「主人が心臓悪くしてから、グリーンに出られないでしょう。あたしだけ楽しむっていうのもね、なんだか……クラブで打ちっぱなしぐらいはするけど」 「俺も全然です。バブルの頃はうちの会社も日曜ごとに接待ゴルフだったけど、今はそんな御時世じゃないですからね。かと言って、自費じゃとてもじゃないけどグリーンには出られないし。江戸川の河川敷のパブリックにはたまに行ってますけど」 「日本では、ゴルフはお金がかかり過ぎるのよ。もっと安い値段で楽しめるようになれば、サラリーマン種族以外にも普及するのに」 「この前、会社の連中とハワイに遊びに行ったんですけど、あっちでは今、ゴルフが小学生とかにもブームみたいでしたよ。特に整備なんかしてない草地みたいなとこでやってるんだけど、本来はそういうスポーツなんだなあと思ったな」  水谷はブラックコーヒーをがぶ飲みして唇から焦茶色の液体を少しこぼし、それがついてしまったネクタイを慌てておしぼりで拭いた。飾り気のない男だった。  冴絵は、知らずにそんな水谷を勝昂と比べている自分に気づいた。勝昂は水谷とほとんど歳が違わない。それなのに、水谷のような屈託のなさ、無邪気さが勝昂にはない。  いや……なくなってしまったのかも知れない。その「若さ」とでも呼べる無防備さを奪ったのは……あたしなのかも。  年下の男との恋。  結果として、終わってしまった今となっては、無関係だと思っていた年齢が、すべてを最初から決定していたと言えるのかも知れない。夫と正反対の立場、それをただ、あたしは求めていただけなのかも。  勝昂も今の水谷のように、かつては屈託なく朴訥で、無邪気で透明な男だったのだ。だがあたしは、そんな勝昂を「大人の男」につくり変えてゆくことに夢中になった。そのあげく、勝昂はゆうべ、遂に暴君になり果ててしまった。  冴絵は溜め息を呑み込んだ。後悔などしても仕方ない。恋は終わって、今、あたしには他に考えるべきことが出来た。 「で、先輩」  水谷はコーヒーのカップを置くと言った。 「先家さんのことって、いったいなんですか。先輩、先家董子と知り合いだったんですか。ちっとも知らなかったけど」 「直接知っているわけじゃないの」  冴絵は、考えておいた言い訳を口にした。 「実はね、主人の部下で目をかけている男がいるんだけど、その男が先家さんと婚約したらしいのよ。まだ正式な返事はもらってなくて、プロポーズした段階らしいんだけど。それで、主人から、先家さんの人となりをそれとなく聞いてみてくれって頼まれて」 「へえ」  水谷は目を丸くした。 「ほんとっすか!」 「だめよ、絶対、秘密にしてよ、まだ。プロポーズを先家さんが受けるかどうかわからないんだから」 「いや、そうだったんですかあ」  水谷はすっかり驚いて何度も首を振った。 「彼女、なんとなく地味でさ、男っけがあるって感じじゃなかったから……まあでも、社外で恋人いたって俺らにはわかんないですよね。同僚ってだけで、すごく親しいってわけじゃないし」 「仕事振りはどう?」 「出来ますよ、仕事は。主任さんだし。いや、ほんとに仕事では俺、認めてます。あんまり自分を売り込むのがうまいタイプじゃないから印象は地味ですけど、頼りになりますよ」 「真面目なのね」 「会社の外でどうかまではわかんないですけど、社内では真面目で通ってる人ですよ」 「津田愛果さんとは仲が良かったのかしら」 「津田?」  水谷は肩をすくめるようにして苦笑いした。 「先輩、やたら詳しいですね。二年になるでしょう、もう、彼女が自殺して」 「あなたは知ってたの、津田さんのこと」  水谷は少しの間、黙っていた。冴絵は、水谷が何か知っているのだ、と直感した。水谷は正直な男だった。こめかみのあたりに、かすかな痙攣が現れていた。 「誰にも話さないわ……もちろん、主人にも。ただ、先家さんが津田さんの自殺にかかわっていたなんてことだったら嫌でしょう? それだけ知りたいのよ。たとえばほら……三角関係だった、とか」  冴絵の視線に、水谷はそれでもためらっているようだったが、やがて、小さく頷いた。 「俺、いやあの、僕……津田愛果とつきあっていたこと、あるんです」  水谷は、溜め息をひとつ吐き出した。 「半年くらいの短い間でしたけど」 「深い関係はあったの?」  冴絵は淡々と、だが答えをはぐらかされないようにはっきりと訊いた。  水谷は、何か言おうとしたが、結局一度頷いた。 「半年って、短いわよね。別れはあなたの方から?」 「いや……なんとなく、かなあ」  水谷はまた苦笑いした。 「えっとね……彼女のこと、先輩は直接知ってらっしゃらないと思うんだけど、その、決して悪い子じゃなかったんですよ。性格、むしろ、いい子でした。その意味では……俺、もう少し優しくというか、辛抱して待ってやれば良かったのかも知れないんだけど」 「何を、待てなかったの?」 「つまりですね……彼女、その」  水谷は声をごく低くした。 「セックス、だめだったんですよ。その……根本的に男が嫌いだったのかも知れない。露骨ですみません。でも、ヴァージンじゃないって自分で言ってたし、実際、そうじゃないみたいだったんだけど……」 「上手にできなかったってこと? それとも、不感症?」 「うーん」  水谷はコップの水を飲んだ。 「俺だってそんなに自信満々ってわけじゃないから、俺が下手だったのかな、とも思うんですけどね。ただその……他の女の子と比べてね、反応が極端というか。拒絶してる感じがとれないんです、こっちがいくらサービスしても優しくしても、からだは硬直してるし、声も出ないし。なんかその……レイプしてるみたいな気がして来て、正直、しんどくなっちゃったんですよ。いちおう好きだからつきあってるのに、いつもいつも犯してるみたいな罪悪感があったら、ちょっと重いじゃないですか」 「つまり……セックスが嫌いだったみたい、ってことね。でもそれはそんなに珍しい話でもないかも。女の快感って、男のそれみたいに、からだの成長に従って勝手に手に入るものじゃないから」 「まあそれは、わかってるつもりだったんだけど。でも……俺のことが好きだったら、もう少し、自分から気持ちよくなろうとしたり、俺に合わせてくれたりって態度があってもいいんじゃないか……わがままですかね、そういうのって。だけど金払って女買ってるわけじゃないんだから。お互い、好きだって言って、同意の上で愛しあってるわけでしょう。それなのに余りにも一方的で、なんか彼女としているとその……自分が性欲だけの人間みたいに思えてきて、みじめになっちゃったんですよ。ほら、金払って外国で女を買う情けない日本人のおやじ、あれになっちゃったみたいな感じで。彼女が心の中で、セックスしたがる俺を軽蔑してるんじゃないか……そんな気分がしたんです。それって、かなり滅入りますよ、実際」 「それで、なんとなく誘わなくなった?」 「まあそうです……けっこう好きだったから、別れようって言う勇気はなかなかね。ただ、ホテルに誘うのは億劫になって、食事して軽く飲んだら終電に間に合うように駅まで送ってそこでさよなら、みたいに、だんだん。俺、明日会議で早いとか、最近疲れてて、なんて言い訳してましたけど、彼女の方も察したようでした。頭のいい子でしたから……それに今にして思うと、心も優しい子だったんでしょうね。俺の方が腰がひけてるって察してからは、デートに誘っても三回に二回はいろいろ言って断ってくるようになって。お互い、わかるわけですよ。さよなら言うのは辛いから、できればこのまま傷つけ合わずに別れたい、みたいな雰囲気」  冴絵はつい、小声で笑った。 「それが本当だとしたら、津田さんはものわかりが良すぎるわよね。あたしなら、腹をたてて嫌がらせくらいしたかも。それが女ってものじゃない?」 「そうなのかなあ」  水谷は、今度ははっきりと肩をすくめた。 「結局、俺、そんなに惚れられてなかったってことですかね。それとも彼女、他に好きな男でもいたのかなあ」 「そんなそぶり、あったの?」 「いや、具体的にはなかったですけど……ただ、デートしてるとたまに、ふっと上の空になることはありましたよ。人の話を聞いてないなって時が。夢想癖でもあるのかなと思ったけど、もしかしたら、他の男のことを考えてたのかなあ」 「そのおつきあいって、津田さんが自殺するどのくらい前の話なのかしら」 「えっと……一年は経ってましたよ、何となく関係が自然消滅してからあの自殺までは。だからもちろん、俺とのことが原因だなんてはずはないんです。会社では顔を合わせてたけど、彼女は自然に振る舞ってくれていたし、俺も特に意識はしませんでしたから。そのうち、俺にもカノジョができちゃったし。いや、その子とも別れましたけどね、もう。今は寂しいカノジョいない歴七ヶ月」 「そろそろ結婚したい?」 「うーん、どうかな」  水谷は頭をかいた。 「まだいいっすよ。ひとりの方が気楽だし」 「津田さんは結婚向きだったかも知れないわね、恋人としてはいまいちでも」 「そうですね……まあ、そうなのかもなあ。でも、新婚生活で毎晩あれだったら……俺なら浮気しますね、間違いなく」 「男ってだめよね、我慢がきかなくて」 「そうは言いますけどね、女性だって、セックスが合わない男と結婚するのはきついんじゃないすか? まあ結婚して何年か経てば、そういう夫婦はセックスレスになっちゃうだろうから関係ないかも知れないけど」  水谷は、飲み干したコーヒーのカップの底を見ていた。 「いずれにしても……彼女の自殺は俺とは無関係だと思いますよ。ふったふられたってこともなくて、修羅場にもならなくて、それなのに一年も経ってからあてつけに自殺するなんて変でしょう、どう考えても」 「そうね……原因は他にあったんでしょうね」 「そう思います。そりゃ俺も、彼女が自殺した直後はすごくショックでした。仮にも一度は好きだって思った女の子なんだから当然ですよね。ただ自分のせいだとはあの当時もまったく思わなかったし、今も思ってない」 「先家董子さんは、あなたと津田さんとで三角関係、なんてことはまったくなかったのね?」 「ないっすよ、ぜんぜん」  水谷は笑った。 「先家さんは仕事もできるし感じは悪くないけど、俺、タイプじゃないな。愛果の方が、生真面目で潔癖症だけどなんというか……隙のある感じ? かわいらしさって言うか、そういうのはあったと思います。先家さんは頭が良すぎて、それに、妙に冷静な感じがするんですよ……うーん、良く言えば神秘的」 「神秘的……」  水谷は頷いた。 「なんかね、すごくたまに、本人も気づいてないと思うんだけど、先家さん、瞳が動かなくなって遠いとこ見てるみたいな目つきになることがあるんです。社内ではみんな気づいてますよ。それが色っぽくていいってやつもいるけど、俺なんか、あの目つきにはその……なんとなく近寄りがたいというか……神憑りみたいな怖いものを感じちゃうんだな。いや、本人は冷たい感じなんかぜんぜんないんだけど。不思議ですよね、先家さんって、別の人格みたいなもんが中に入ってるような感じを受けるんです。いつもは地味めだけど親切で割とよく笑うし、人あたりもよくて仕事が出来て、まあ、欠点のない人なんだけど、あの目つきをしてる時は、人間ばなれした印象があるんですよ」  冴絵は心の中で驚いていた。勝昂から聞かされていた先家董子の印象とはかなり違っている。勝昂は、先家董子をとりたてて特徴のない、結婚して妻にするには手ごろな女だと評していた。その董子に、神秘的とまで言われるような雰囲気が備わっているなどとは、想像してみたこともなかった。  冴絵は、勝昂のついていた嘘に、今、気づいた。  勝昂は董子に本気になりかかっていたのだ、たぶん。あたしへの当てつけのようにつきあっていた女だったのだとしても、董子の持つ不可思議な魅力に捕らえられていたからこそ、ことさら董子のことをつまらない女のように報告していた……  ゆうべの勝昂の苛立ちは、自分で自分の感情をコントロールできなくなった人間の苛立ちだった。  勝昂は彼自身、董子に惹かれていく自分を抑えられなくなり、そんな自分の迷いを、私の心が頑ななせいだと責めたかったのだ、きっと。 「どっちにしても、ほんとに俺は先家さんとは何もないですよ。ご主人にはそう伝えてください。たぶん、愛果の自殺と先家さんも何の関係もないですよ。先家さんと愛果はそんなに親しくはなかったはずだから。あ、でも」  水谷は、何か思い出したように顔をあげた。 「そうでもないのかな?」 「何か思い出したの?」 「いや……あのね、愛果は先家さんの誕生日を知ってたから」 「誕生日?」 「星占いですよ、ほら、雑誌についてる。俺たちがまだうまくいってた頃、つまりその、肉体関係を持つ前ですけどね、二人で雑誌の星占い見てて、愛果が自分の星座じゃないとこを気にするんで、誰か友だちの星座? って訊いたら、二係の先家さんの星座だって答えたんです。そうだ、思い出した。あれ、確かに奇妙な感じはしたんだよね……なんか唐突だったから。でもそうか、もしかすると、本当は愛果が好きだった別の男の星座だったのかも」 「でも星占いって、ふつうは男女別なのよ」 「そうなんですか?」 「流派とか占いの方法とかによっても違うんでしょうけど、たいていは、あなたの彼の星座、って欄が別にあったりするのよ。つまり、男女で少し、占いの結果にニュアンスの違いがあるってことじゃないかな」 「うーん、だったらどうしてなんだろう。唐突に先家さんの名前なんか出したのは、やっぱり二人が親しかったってことですかね」  冴絵にもわからなかった。だが、愛果と董子とは繋がっている、と感じた。  昨夜の幻覚には、ちゃんと根拠があったのだ、やはり。     2  ゆるゆると、意識が戻り始めていた。  董子は、瞼を開けようとした。だが、開かなかった。それどころか、瞼が|どこにあるのか《ヽヽヽヽヽヽヽ》、自分でわからなくなっていた。  瞼だけではなかった。  鼻はどこ?  耳は?  指は?  膝は?  それぞれの器官に何かの命令を送っても、まるで反応がない。  董子は、気づいた。  あたしには今、からだ、がない!  あるのは意識だけだった。かたちを持たない、漠然とした意識の塊。  記憶は正常だった。伊勢崎雅治のマンションを訪ね、そこで信じられないものを見た。無気味に光る巨大な繭。  虹色の、リビングの半分くらいを占めていたその大きな卵のようなものを、雅治は愛しげに撫でていた。 「それは……なに?」  董子は訊いた。恐怖は強かったのに、その恐怖を超えて好奇心が頭をもたげる。  不思議な気持ちだった。  その虹色の光にはどこか、董子の心を穏やかにし、懐かしさで満たすものがあった。 「あなたは知っているはずだ」  雅治は言った。 「あなたの故郷から来たものなのだから」 「わたしの……故郷」 「瀬戸内海に浮かぶ小さな島。真実の湯の島、と書いて真湯島。だが本当の名前は違う。まゆ島のまゆ、は、この繭のことなんだ」 「それは、繭なのね。やっぱり、生き物なのね……」 「もちろんだとも」  雅治は微笑んでいた。 「ここまで育てるのに二年だ。それでもとても早い方だけどね。僕の記憶では、一匹の幼虫が繭をつくるのに二十年、繭が充分な大きさに育つのにさらに三十年かかったということもあった」 「あなたの記憶って……あなた、いくつなんですか」  董子は訊きながらも、その質問にはあまり意味がないと感じていた。  この男は……人間ではないのだ。  その時、董子にはやっと、様々なことが理解できた。  この伊勢崎雅治と名乗った男は、人間ではない何かまったく別の生き物なのだ。人間のからだを「借りて」いるに過ぎない。  そしてこの生き物は、人の脳に何か特殊な影響を与えることができるのだ。そう……最初の出会い、あれもこの生き物が仕組んだ「罠」だったのだ。  この生き物は、このマンションを巣にしていた。蜘蛛の網のように巣を中心に張り出されたこの生き物の感覚が、董子を捕らえたのだ。そして董子は方向感覚を失い、見知らぬ街にさまよい込んだ錯覚にパニックを起こした。その不安の絶頂に、この生き物は、伊勢崎雅治、として理想的に董子の前に登場したのだ。  そう、理想的に。  激しい不安に心臓が高鳴っている最中に異性を見ると、脳がその心臓の高鳴りを性的な興奮と錯覚して恋に陥ってしまう。「揺れる吊り橋の恋」。  董子は罠にはまり、伊勢崎雅治に好意を抱いた。 「あなたの目的は、なに?」  董子は、自分で自分の冷静さが信じられなかった。どうしてこんなにも静かに、このあまりに異様な光景を受け入れることができるのだろう……あたしは。 「これはあなたへのプレゼントなんだ」  雅治は言った。とても誇らし気に。 「数十年に一度しかチャンスはない。前の時は羽化《うか》で失敗してしまった。あともう少しで変態が完了するという時になって、村びとたちが押し寄せて来たのだ。核に選んだ男を救いに来た連中だった。愚かにもその者たちは、神に向かって斧《おの》を、鉈《なた》を振り上げた。変態が完了してさえいれば、あんな連中に神が殺されるなどということはなかったのに……しかし天罰はてきめんだった。神は死ぬ間際に毒の風を起こし、愚かな村びとたちはみな、生きながら死に捕らえられた。幸い、卵はまだあった。わたしは毒の風によって死体に限りなく近い状態になった村びとのからだを栄養分にして、孵化《ふか》した幼虫を育てた。しかしもうあの島にいることはできなかった……村びとたちは神の存在を思い出しつつあった。大昔に忘れ去られた偉大なる神の存在を。わたしが発見するまで、卵は二百年近くのあいだ、孵化せずに洞窟の奥で眠っていたのだ。イチョウの根が卵をしっかりと包み込み、決して孵化させまいと守っていた。わたしは大変な労力をかけてイチョウの根から卵をとりはずした。そしてやっと羽化させるところまで漕ぎ着けるのに、四十年近くかかったのだ。あの洞窟で四十年。わたしはもう失敗するわけにはいかなかった。だから、幼虫を連れて島を出た」  雅治は熱に浮かされたように喋っていた。董子にはその言葉の意味、物語の意味がほとんどわからなかった。だが、どうしてなのか、その物語は董子の胸を熱くしていた。 「イチョウのそばでならば、幼虫は暴れたりせず、おとなしくしていてくれる。だから青山に決めたんだ。あのイチョウの力はかなり衰えていたが、それでも、幼虫にとっては鎮静剤の役目を果たしてくれた。だがそれは同時に、幼虫の活力を奪う原因にもなる。加減が難しい。幼虫は思ったよりずっと早く成長した。なぜなのかはわからないが、この東京という場所はそれ自体、ひとつのカオスなのだ。このカオスの持つ把握できないエネルギーが、幼虫の成長を早めたのかも知れない。幼虫は予想したよりも早く繭をつくり始めた。わたしは取りあえず、核を探さなくてはならなかった。最初に選んだ核は失敗した。繭の中で溶けてしまった……前回の失敗でわたしは学んでいた。男では駄目だ。男を核にすると繭は弱い。人間の手で簡単に殺されてしまう。核は女の方がいいに違いない。そう思って、手近の女を入れてみたのだ。しかし、女の場合、男と違ってなかなかきちんと核になってくれない。なんの能力もないただの女では駄目だったのだ。核にする人間は島の者でなければ。それで、なんとか繭島と繋がりを持つ女を探した。愛果を見つけた時、明らかな繭島の匂いを身につけていた。だから核に選んだのに」  雅治は苛立たし気に首を振った。 「それも間違いだったのだ。今度は溶けはしなかったが、愛果が放っていた繭島の匂いは、愛果がその強すぎる執着によって身につけてしまった、他人からの借着に過ぎなかった。繭の中で、愛果の意識は幼虫と同化したが、肉体は硬直したまま異物となった。わたしは困り果て、まだ完全には閉じていない繭の中から愛果の肉体を引きずり出し、仮の意識を与えて自殺させた。幼虫は今、成長を止めている。同化した愛果の意識が成長を邪魔しているのだ。わたしは探した。愛果はいったい誰の匂いを身につけていたのか。彼女が執着していた相手は誰なのか」  董子は、雅治の目を見つめていた。その目は金色に光っていた。 「あなたこそが、この繭の核になるのにふさわしい人だった。遠回りをしたけれど、やっと見つけた」  雅治の手が伸びる。  董子の肩が掴まれた。 「あなたなら知っているはずだ。これからどんな素晴らしいことが起ころうとしているのか。あなたは繭の中で神になる。わたしはその神に仕える僕《しもべ》となる。さあ、もう準備は整っています。中に……そして、永遠の光を得て、新しい命を生きるのです」  雅治の金色の瞳が揺れていた。  董子は瞼を閉じた。     *  そう。  記憶は失われていない。脳は正常なのだ。奪われたのは肉体。  いや……それはわからない。肉体は元のままなのかも知れない。ただそれを認知することが出来ないだけなのかも。だとしたら、正常ではないのはやはり、脳の方だ。  董子は思い出していた。  幼い頃、神戸でのあの楽しかった日々に母が口癖のように言っていた言葉を。  島に戻ってはいけないよ。誰に誘われても、誰が探しに来ても、あの島に帰ってはいけません。  先家の血は絶えた方がいい。  できれば、子供は産まないでちょうだい。  幼かった董子には、娘に子供を産むなと言う母親の残酷さは伝わらなかった。ただ漠然と、母が望むならおかあさんになれなくてもいいや、と思っていただけだった。先家の血が絶える。それがどんな意味なのか、訊ねても母は教えてくれなかった。  大きくなったらね。大きくなったら話してあげる。  突然の地震で母は死んだ。  誰も自分に、先家の血、とは何なのか、教えてくれなかった。  繭の中にいるのだろうか。あの虹色の繭の中に。  この中で、これからあたしはどうなってしまうんだろう。  どこかで誰かが叫んでいる声が聞こえる。知らない男の声だ。  まるで発狂でもしたかのように、喉から声を振り絞っている。  董子はその、絶叫に意識を集中した。すると、瞼は開いていないのに、目の前にひとつの光景が見えて来た。  路上。人だかりがしている。見たことのある通りだ。これは……青山通り?  外苑前のあたりだろうか。歩道の人だかりに向かって、パトカーから降りて来た警官が近づいて行く。救急車も到着した。  人の輪がゆるみ、内側にあるものが見えた。  叫んでいる男。  不思議なことに、街の喧噪は何も聞こえて来なかった。ただ董子の耳に感じられたのは、男の、悲壮な混乱だけだった。  董子は男の心を感じた。  街に誰もいない!  男はそう感じ、極度の不安と恐怖の真只中に落ち込んでいた。  どこに行ってしまったんだ!  ここはどこなんだ!  どうして、人がひとりもいないんだぁぁぁぁぁぁぁぁっ!  人は大勢いた。みんな、哀れみと嫌悪の混じった表情で絶叫している男を見つめていた。通りは車でぎっしりと埋まり、交差点の信号が点滅し、人々は急ぎ足で横断歩道を渡っている。  いつもと何ひとつ変わらない青山通り。  だが男の心は、まったく別のことを感じている。  男は、がらんとした無人の街にたったひとりで放り出されているのだ、今。  董子にはわかった。  あの時と同じだった。最初に伊勢崎に出会った時、そして、このマンションに来る前に一度、迷った時。  蜘蛛の網なのだ。あの気の毒な男は、網に感応してしまった。いやもしかすると、雅治が意図的にあの男に網をかけたのかも知れない。  男は担架に乗せられ、毛布で捲かれ、ベルトで拘束されて救急車に運び込まれて行った。  意識が青山通りから別の場所へと移動する。  また見知らぬ人。今度は女だった。いや……どこかで見たような記憶もある。誰だったろう?  綺麗な顔。魅力のある女性だが、今彼女は、とてもきつい目をして前を睨んでいた。前にはただ、線路と反対側のホームが見えるだけ。彼女は電車を待っていた。  彼女の心を董子は拾った。 『董子を助ける』  突然、その女の思考の中に自分の名前が現れて、董子は驚いた。  その女ははっきりと、そう思っていた。 『先家董子を助けるのよ!』  董子は女が誰なのか知りたくて、女の意識の奥へ奥へと潜り込んだ。そしてそこに、勝昂を見つけた。  女は勝昂と裸で抱き合い、激しく求め合った。  勝昂の恋人。  自分が裏切られていることは勘づいていたけれど、その相手がこのひとだったんだ。だがどうしてその女が、今、自分を助けようとしているのだろう?  あたしが、呼んだの。  董子の意識に誰かが割り込んで来た。  あのひとになら、この繭が破れるかも知れないと思ったのよ。この繭を破って、あなたを助けてって、あたしが呼んだ。  董子は、割り込んで来た「声」にそっと意識を這わせた。  津田愛果。  津田さん!  どうしてあなた、ここにいるの?  声が割り込んで来た方向を「見よう」としたが、何も見えなかった。死んだはずの人間の意識が、あまりにも鮮明に董子に語りかける。  探したの。意識が繋がっている人の間を探しまわって、伊勢崎の力を破れるような強い意志を持った人を探した。  あのひとになら出来ると思った。  あなたは……生きているの?  いいえ。  愛果の声がくぐもった。  あたしはもう、生きてはいない。あたしは死んだの。  でもあたしはまだ、存在している。  生きてはいないけれど、存在はしているの。     *  冴絵は、背中にひんやりとしたものを感じてハッとなった。  次の瞬間、強い衝撃が背中を押した。  悲鳴と共に冴絵のからだが宙に浮き、ホームから脚が離れた。その直後に膝に強い痛みが走った。  冴絵は顔を上げた。ホームが見えた。それから音が聞こえた。  振り向くと目の前に電車が、いた。 「退避溝だっ!」  誰かが叫ぶ声が聞こえた。冴絵は無我夢中でからだを転がした。方向が正しいのかどうかも考えている余裕はなかった。からだの下で固いものが何度も冴絵の皮膚や骨を打った。  ホームの下の暗がりに転がり込んで、背骨が折れてしまうほど身を縮めた。  轟音と吹き抜ける強い風。  甲高い笛の音。ベルの音。  悲鳴。  冴絵は唇の震えを止めるために思いきり唇を噛んだ。血が滲んで鉄の味がした。 「おーい、おーい!」  男の声がした。 「大丈夫ですかっ! 無事なら返事をしてくださいっ!」 「無事……です」  冴絵は大声で言ったつもりだったが、喉がひきつって声が出なかった。 「無事!」  ようやくそれだけ叫んだ。  また笛の音。エコーがかかったアナウンス。  女性の悲鳴と泣き声が聞こえる。  停止していた電車がバックし始めた。背後から明るさが戻って来る。  冴絵は、手足をゆっくりと伸ばし、自分から這ってホームの下から線路の上に出た。  歓声と拍手が小さな嵐のように頭上から降り注いだ。飛び下りて来た駅員が冴絵のからだを支えた。  冴絵は、ゆっくりと立ち上がった。  ストッキングが大きく破れて膝から血が噴き出していた。  ホームの上にいた初老の男性と目が合った。  瞬間、冴絵には、その人が「味方」だと、わかった。     3  吾妻藤次郎、と、その初老の男は名乗った。  駅で事故の調書のようなものをとられ、駅員に付き添われてすぐ近くの病院まで出向き、ふくらはぎの打ち身と、膝を擦りむいて出血した以外には特に怪我もないと診断され、その出血もすでに止まっていて、ようやく自由になった時、病院の前でその男は立ったまま、冴絵を待っていた。  冴絵は驚かなかった。  線路から生還してホームに立った時、その初老の男と目が合った。その時、冴絵にはわかった。自分を救ってくれたあの時の叫び声がその人のものだということが。 「誰かが背中を突き飛ばしたような感じでした」  冴絵は、藤次郎と並んで歩きながら静かに言った。 「確かに衝撃があったんです。でも、証拠はありません。駅員も警察も懐疑的なようでした。混んでいたし、偶然急いでいた誰かとからだが触れたのではないかと……そうだったのかも知れない。わたしにもわかりません」 「あなたの背中を突き飛ばしたのは、少なくとも、人間の手ではなかったでしょう」  藤次郎は、言葉を選ぶようにゆっくりと言った。 「あの時、雑踏の中で、わたしはあなたの独り言を聞きました」 「独り言?」 「ご自分で気づいておられませんでしたか、やはり」  冴絵は首を横に振った。藤次郎はゆっくりと頷いた。 「あなたは、先家董子を助けないと、と呟いていたんですよ。わたしはあなたのすぐ前を歩いていたんです。そしてあなたの言葉を聞き、驚いて振りかえった。その時でした。あなたのからだが、何かに弾き飛ばされるように宙に浮いて線路に落ちて行った……少なくとも、あなたの後ろに人はいませんでした。あなたの背中には、人の手は触れていなかったんです。だがあなたのからだは明らかに、何かにぶつかって弾かれたように、ぽん、と宙に浮きました。あなたは突き飛ばされたんです……ただし……人ではない、何かに」 「あなたは……誰なんですか?」  冴絵は立ち止まって藤次郎を見つめた。 「あなたも先家董子という人を知っているんですか?」 「わたしは、吾妻藤次郎と言います。そして、先家董子を探しています」  藤次郎は言った。 「彼女はこの東京にいるはずです。が、彼女を探すために雇った私立探偵のひとりが死に、ひとりは今日、発狂しました」  冴絵は言葉を出すことができないままでいた。  藤次郎は歩き出し、冴絵にも歩くよう目で促した。 「先家董子は、瀬戸内海の、岡山県沖にある小さな島の出身です。そしてわたしもその島の出なのです。董子の実家、先家の家は、その島では特別な血筋の家とされてきました。島では昔から言い伝えられている、すべての禍いを封じ込んだとされる洞窟の真上に先家の墓が立てられています。先家の家の女は、その墓が封じている禍いの力と通じているとされている。その力を牛耳ることができると。董子はその先家の血を受け継ぐ最後の女なのです。少し前に先家の墓が割れました。その墓を守っていた董子の祖母は、病気で死にかけています。島の人々は、禍いの復活を怖れて董子を島に呼び戻そうとした。わたしは島の者に頼まれて、同じ東京に住むという理由で董子を探すことを引き受けました。しかし、先家董子という女性とは一面識もないのです。初めの内は、昔のよしみで頼まれたから引き受けてしまったものの、そんな島の迷信のようなものの為に人探しをするなどというのには乗り気にはなれませんでした。ところが、調査を依頼した探偵事務所の調査員の女性が惨殺されるという事件が起こってしまった」  冴絵は唾を呑み込みながらまた足を止めた。だが藤次郎は歩くよう促した。 「ひとところに止まっていない方がいい」  藤次郎の声は低かった。 「表通りでタクシーを拾いますが、タクシーの中では迂闊な会話はよしましょう」  冴絵は黙って頷いた。自分は何かとんでもないことに巻き込まれたのだ、という恐怖で背中が震えた。 「しかもその調査員の女性は、不思議な因縁でわたしと繋がっていたことが判ったんです。わたしは悟りました……何もかも、予定されていたことだったのだと。わたしが先家董子探しを引き受けたのもずっと昔から決まっていた運命だったんです……すみません、わけがわからないでしょう? わたし自身、何からどう説明すればいいのか、まだ混乱しています」  藤次郎は、表通りに出ると言葉を切ったままでタクシーに向かって手をあげた。  それから二人は黙ったままでいた。  藤次郎が告げた行き先は神田だった。神保町と九段下のちょうど中間あたり、靖国通りから一本北に入った、とても古びたビルの前でタクシーは停まった。  エレベーターは使わずに三階まで階段を上った。看板も表札もないドアの前で藤次郎は立ち止まり、呼び鈴を押す。誰何《すいか》もなしにドアが開いたのは、ドアの上に取り付けられたテレビカメラが二人を映して中の人間に見せていたからだろう。  中から出て来たのは、四十代半ばくらいの男性だった。がっしりしたからだつきに利発そうな目をした男だったが、無精髭が顎をおおい、目の下には疲労からなのか青黒い隈が出来ている。 「電話で連絡した女性です」  藤次郎は男に冴絵を紹介した。 「山際冴絵といいます。電車のホームから転落したところを、吾妻さんに助けていただきました」 「いや、冴絵さんは自力で助かったんです。わたしは何もできなかった。本当に危ないところでした」 「やはり、先家董子に近づく人間は狙われる、ということですね」  男は名刺を出して冴絵に渡した。 「吉良と言います。私立探偵です。ここはわたしの第二事務所なんですよ。表向きの調査事務所とは別のところに部屋を借りているんです。商売柄、一時的に身を隠す必要が出てくることがあるんで。狭いところですが、ここなら誰も訪ねて来ませんから。しかし」  吉良は苦笑いした。 「我々の敵は人間ではなさそうですね。どこに隠れても無駄なのかも知れない」  部屋の中央に置かれたソファセットは、古いが本物の革張りで座り心地は良かった。吉良が出してくれたコーヒーも香りのとてもいい上等のものだった。 「ともかく、できるだけ順序だてて説明しようと思います。多少、わかりにくいことはあるかと思いますが、我慢して聞いていただけますか?」  冴絵が頷くと、藤次郎は膝に手をあて、目を閉じて喋り出した。 「わたしの故郷の真湯島は、とても小さな島です。岡山県の牛窓の沖合いに浮かび、その昔は日生《ひなせ》まで船の定期航路もあったんですが、十数年前にその航路も廃止になり、本土との交通手段と言えば漁船だけ、という、瀬戸内海の孤島になってしまいました。中学までは島にありますが、高校に通うには岡山に下宿する以外にない。そんな具合ですから、当然過疎化が進み、島民はどんどん減っています。しかしなぜなのか、真湯島の島民たちはその過疎化を食い止めようと努力するふしを見せません。真湯島の島民は、まるで自ら歴史の中に滅びて消えてしまうことを望んでいるようだと言われています。そのことからもわかるように、真湯島は、昔からの言い伝えや慣習に強くしばられた、排他的な島でした。わたし自身もその島の雰囲気が好きではなく、高校入学と同時に島を出て以来、故郷は捨てたような形でずっと島の外で生活しています」  藤次郎は一度、深呼吸するようにして息をついだ。 「真湯島にはいくつか不思議な言い伝えが残されているのですが、中でも島民のほとんどが信じて怖れている伝説が、洞窟の魔物の伝説です。島の海岸に洞窟があり、その洞窟はあまりにも長いのでいちばん奥には誰もたどり着いたことがないと言われているのですが、その洞窟のいちばん奥は、島の中心部にある墓の真下まで続いていると信じられています。そしてその中心部に、大きな禍いの源となる魔物が棲んでいる。よくある伝説ですね。真湯島は戦国時代からずっと瀬戸内海を荒らしまわっていた海賊の拠点のひとつになっていたようで、たぶん、洞窟の奥に盗品を隠していた海賊たちが、その品物を奪われないように流した噂がそのまま伝説になったものではないかと、わたしは思っていました。いずれにしても、島民の中にはわたしのように懐疑的な者ももちろんいるわけですが、それでも多くの島民は、その洞窟と、魔物の力を押さえ込んでいる墓の存在に強い畏怖の念を抱いています。そしてその墓というのが、先程もお話ししたように、先家という一族の墓だったわけです。先家の一族は代々女系で、長女は特殊な力を受け継ぐとされ、巫女のような扱いを受けてきました。と言っても、神聖な力というよりは……むしろ、その魔物と通じる力を持つとされ、怖れられながらも蔑まれる、そんな存在だったようです……これもたぶん、排他的な島民が、大昔に島に受け入れた他所者《よそもの》の一族を差別するために考え出された言い訳の類だとは思います。しかし、先家の家の女性が他の島民より感受性が鋭く、ある種の超能力のようなものを備えていることが多かったというのも、事実かも知れません」 「先家董子という人も、その島の出身者なんですね」 「そうです。董子は母親と共に幼い頃に島を出ました。それ以来、行方がわかりませんでした。董子の母親の実家は神戸でしたが、あの阪神淡路大震災で被害を受けた灘地区に実家があったらしく、母親も死亡したようです。董子は東京に出て短大に通っていたことまでわかっていました」 「どうして今になって、先家董子を島に戻そうとしたんでしょうか」  藤次郎は、目を閉じたまま眉を寄せた。 「お話ししたように、島民をおびえさせた直接の原因は、先家の墓が割れたことにありました。先家一族の墓は巨大な玄武岩の自然石でできていて、大きく頑丈に見えるものでしたから、それが割れたというのはとても不吉な感じを島民に抱かせたのでしょう。しかし玄武岩というのは、ある一定の方向には割れやすい岩です。それが割れたこと自体は、特に驚くようなことではありません。ですが、董子の祖母にあたる、島でただひとりの先家一族の後継者が、高齢と病気のためにほとんど寝たきりになっていることもあり、島民は洞窟の魔物が復活するのではないかと怖れたわけです。先家董子の帰島は、浮き足立ってる島民の心を静める為には必要だとわたしは思いました。もちろん、先家董子本人が嫌がれば無理に島に連れ戻すつもりはありませんでした。ただ、たまに里帰りして島民の前に元気な姿を見せてくれるように探し出した娘さんに頼んでみよう、その程度のつもりだったんです」 「ところが、その依頼を引き受けてすぐ、うちの調査員だった女性が何者かに殺されてしまいました」  吉良は藤次郎の言葉に続けた。 「その女性は、先家董子さんを探す仕事をしていたのではなく、別の失踪事件の調査をしていたのです。伊勢崎雅治、という空間プロデューサーに絡んだ失踪事件でした」  冴絵は、唇を閉じたまま、鼻で深く息を吸い、そして吐いた。 「伊勢崎雅治の名前も、御存じなんですね?」  吉良が訊く。冴絵は頷いた。 「……その人は、先家董子とどんな関係が?」 「それがわからないのです」  吉良は、首を横に振った。 「ともかく、調査員の伊勢真利子という女性は、先家董子ではなく伊勢崎雅治を調べている最中に殺された。だがその殺される寸前に、奇妙な報告を電話でしてきたんです。伊勢崎雅治の関係したパーティに出かけて、そこで偶然、先家董子を見かけた、というものでした。その報告をした直後に殺されたんです」 「それじゃ、その伊勢崎、という人が?」  吉良は首を横に振った。 「伊勢崎にはアリバイがありました。彼はパーティの会場から抜け出してはいない。しかし……今ではそのことも特に不思議ではなくなりました。伊勢崎雅治は……人間ではないのです。少なくとも、普通の人間ではない。何か、念力のようなものを飛ばして人の命を奪うことも、できるのではないかと我々は考えています」 「あなたの背中を、見えない手が押したように」  藤次郎が付け加えた。 「殺された伊勢真利子は、ただの被害者ではありませんでした」  吉良は、どう説明したらいいのだろう、というように苦笑いした。 「いや、気の毒な被害者には間違いないのですが、本人も知らなかった過去からの運命によって、伊勢崎雅治と対決させられてしまった。伊勢崎雅治が彼女を殺したのは、先家董子の存在を探り当てられたからではないのです。そうではなく……伊勢崎雅治は、ずっと前から伊勢真利子を狙っていた。そもそも、伊勢崎、という名前は、伊勢真利子に対して存在を偽造する為に考え出された偽名だと考えられます」 「すみません……意味がよくわからないのですが」 「でしょうね。こうして説明してるわたし自身、まだ自分の考えを信じているわけではないんですよ。まるで自分が書いた小説でも朗読しているような気分なんです。どう言えばいいのかな……伊勢崎雅治、という人物は、人としてこの世に存在する人物ではないのです。ここに、ある存在を仮定します。その存在は人ではなく、また他のどんな生物とも違っている。生き物というよりは、怨念とか執念といったものが形になった、と考えるとたぶん、近いはずです。邪悪な概念、と言えばいいのかな? その存在の目的は、いつの頃からか真湯島の洞窟の奥深くに棲みついていて、今はその力を失い、絶滅しかけている、不可思議な生き物を復活させることでした。その存在は島で過去にもその生き物を蘇らせようと試みたことがあるのですが、失敗しています。その時、島民にも多くの犠牲者が出た。その事件はたまたま戦後の混乱期の最中に起こったので、集団自殺事件として片付けられてしまいました。その存在は、島からおそらくは卵だか幼虫だか、そうしたものを持ち出して東京に逃げた。そして、人間になりすましてこの東京で、その生き物を育てようとしていました。その存在は、人間の思考の中に入り込んでそれをコントロールする力を持っていました。たぶん、いろいろな名前、いろいろな人物になりすまして生活していたんだと思いますが、ある時、その存在は、自分にとってとても危険な血を受け継いでいる女性を知ってしまいました。それが伊勢真利子でした」 「その伊勢さんと言う人も、真湯島の出身だったんですか?」 「いいえ、違います。しかし伊勢真利子の母親らしき女性は岡山の出で、そしてその母親の親友だった女性が、真湯島に嫁いでいたことがわかっています。ここでもうひとつ、とても入り組んだ説明をしなくてはならないんです。我慢して聞いてください」  吉良は、冴絵が頷くのを待ってから藤次郎に頷きかけた。藤次郎が後を継いだ。 「真湯島でその洞窟の魔物を封じていたのは、先家の墓だけではありませんでした。その墓の裏手には、島にひとつだけある神社の御神木《ごしんぼく》である、古いイチョウの木が生えています。そのイチョウは、雌の木一本だけしかないのになぜか実をつける不思議なイチョウとされています。そしてその実は、真湯神社の守り袋に入れて島民が島を出る時に手渡されます。その実には大変な霊力があるとされていて、島の外のどの土地に行っても、そこにその実を埋めて育ったイチョウが真湯島の島民を守る、と言い伝えられてきました。もちろん、現在神社が島民に手渡している銀杏は、インチキです」 「インチキ?」 「ええ。雌しかないイチョウが実をつけるはずはありません。真湯神社の者がそのイチョウの実だと偽って岡山あたりから銀杏を持ち込み、守り袋に入れて手渡しているだけのことでしょう。島民もそのことには気づいています。しかし、その昔、その雌の木と対《つい》になった雄の木が存在していた頃には、そのイチョウには確かに実がつき、その実には不思議な力があった。真湯島が今ほど排他的ではなく、まだ岡山と交流が盛んだった時代、栄えていた港町だった牛窓には真湯島の出身者も多数嫁いだり移住したりしていたようです。そんな、もと真湯島の出身者の中には、真湯島のイチョウについた本物の実を守り袋に入れて持ち歩き、自分が暮らす家の庭に埋めたり、家の梁に上げて守り神の代わりにしたりしていた人もいたんです。伊勢真利子の母親の親友だった女性は、そうした真湯島出身の人間の末裔でした。そしてある時、突然、真湯島の若者と恋に落ちて島に嫁いでいきました。その時、自分の家にあった真湯島の銀杏を、親友だった伊勢真利子の母親にお守りとして手渡したんです。自分は真湯島に戻るのだから、その銀杏は必要ない、ということだったんでしょう。ところが、伊勢真利子の母親という女性は、霊感というのか、この世ならざるものや不可思議なものに対する感覚がとても鋭い人だったのでしょうね。彼女は、親友である女性が危機に陥ったとその霊感で悟り、お守りの銀杏の実を返そうとその女性を探しました。しかし、真湯島に嫁いで幸せになっていたはずのその女性は、夫と大阪に行ったきり行方不明になってしまっていたんです。その行方不明が自発的なものだったのか、それとも夫婦に何かの災難がおそったのか、それはわかりません。伊勢真利子の母親は、親友夫妻がスペインのバルセロナにいた、という噂を聞いてバルセロナまで探しに出かけました。その噂が本当だったのかどうかもわかっていません。が、そこで、その女性は、未来において自分の娘の仇を討つことになる男と出逢った。それが、わたしでした。今から二十年前、社用でヨーロッパに出張していたわたしは、伊勢真利子の母親に声をかけ、その時の記憶がわたしの頭の中に残りました」  冴絵は何度も瞬きして、混みいった話を少しでも理解しようと努めた。だが無駄だった。  ただなんとなく理解できたのは、あの、津田愛果が、先家董子をその手から救って欲しいと訴えていた伊勢崎雅治という人物が、とんでもない化け物の手下であること、その化け物をやっつけられるのは、先家董子と、真湯島で実った本物の銀杏の実らしい、ということだった。  たかが銀杏。  そんなものがいったい何の役に立つと言うのだろう?  そもそも、真湯島の化け物とはいったい、どんなものなんだろう?  質問したいことは山ほどあったが、冴絵は黙っていた。いくら質問してその答えを聞いても理解できる気がしない。それより今は、この信じられない物語を信じる努力をするしかない。  それはそんなに難しいことじゃない、と、冴絵は場違いに笑い出しそうになりながら思った。何しろ自分は、空《くう》に浮かんだ女、それもとっくに死んだ女と会話したのだ。それに比べたら、化け物の一匹や二匹、信じて信じられないことなんてあるものか。 「二十年経って、わたしが伊勢真利子の勤める事務所に先家董子探しを依頼したのは、あの時の伊勢真利子の母親の、強い思いのようなものが導いたからだと思います。残念ながら真利子さんを救うことはできなかったが、彼女の命を奪ったものの企みを粉砕するには、まだ間に合うかも知れません」  藤次郎が言葉を切ると、吉良が続けた。 「いずれにしても、真湯島の魔物を復活させようとしていたその存在は、母親からお守りの銀杏を受け継いでいた伊勢真利子の存在に気づきます。真湯島の銀杏の力に、母親から受け継いでいた強い霊能力、それら二つによって、彼女はその存在にとって怖ろしい敵となる可能性を持っていた。その存在は、自分の計画の為には彼女が邪魔だと考えた。だから、伊勢真利子自身と、彼女の高校時代の同級生の思考に入り込んでその記憶を改ざんしました。伊勢崎雅治、という架空の人物が、真利子の同級生として存在していたという偽の記憶を、東京に住み、伊勢崎雅治に化けたそいつが拠点としていた場所から一定の距離にいる同級生たちの頭に植え付けたんです。もちろん伊勢真利子自身もその記憶を持ち、伊勢崎雅治は自分の高校の同級生で、自分と名前が似ていたのでいつも近くにいた、と信じ込みました。伊勢崎の狙いは、真利子の持っていた銀杏だったのだと思います。それを奪ってから真利子を殺す為に、真利子との接点を無理矢理作ったんでしょう。しかし事態は伊勢崎の思いもかけない方向に進んだ。伊勢崎が関わったとみられる失踪事件の調査をうちの事務所が請け負うことになり、真利子の方から伊勢崎に接近することになってしまったんです。伊勢崎は危険を感じ、銀杏の行方を追及するのを諦めて真利子を殺してしまいました。一方、うちのもうひとりの調査員だった速水は、伊勢崎雅治に関する記憶が真利子の同級生の間でもまちまちであることに気づきます。伊勢崎をよく憶えているという人間と、まったく記憶にないという人間の二つに分かれてしまうことを知ったんです。速水は、伊勢崎が真利子の同級生の記憶を操作したのだと結論を出します。今日……伊勢崎は、速水が核心に近づきつつあることを察して、速水の思考に入り込み、幻覚を見させて彼の精神を破壊しました。しかし」  吉良は、銀色の小さな箱のようなものを取り出して、テーブルの上に置いた。 「速水はプロの探偵です。習慣になっていたのでしょう。パニックしている最中もこうして記録は残していました」  それは、マイクロ・ヴォイスレコーダーだった。  吉良の指先が再生スイッチを押した。 『午前十一時七分、川鍋邸退去。川鍋亜希の証言は予想通り。伊勢崎雅治に関する情報は画一的で表面的、かつ、中身は非常に少ない。記憶操作され、植え付けられた偽物の記憶を持っていると考えていい。調査報告書中、図七参照。伊勢崎雅治の事務所が偽記憶の発信源と考えることに矛盾はない』  早送りが止まり、また声が流れる。 『……この喫茶店の雰囲気はおかしい。さっきから音が感じられないのは、わたしの聴覚に異常が発生した為なのかそれとも、音が聞こえない、という幻聴を聞かされている状態なのか。後者だとすれば、伊勢崎の攻撃が始まった可能性がある』 『動悸が速い。心臓に負担がかかっている。店内の静寂は異常。視覚にも異常発生。人間の姿が見えない……』 『幻覚だ……これは幻覚だと自分に言い聞かせている。だが……心臓の鼓動があまりにも大きい……胸が苦しい……人はどこにいる? 人は……誰もいないという幻覚なのだ、これは幻覚だ……伊勢崎の攻撃だ……ああだが、だめだ、人がいない! 人がいないことが怖い……あまりにも怖い……怖い……』  吉良がスイッチに触れて音は止まった。  冴絵は震え出した唇をきつく噛んだ。 「速水は入院しましたが、現在は意識不明になっています。我々は岡山の牛窓で、伊勢真利子の母親と思われる女性と、真湯島から消えた夫婦について調べていたのですが、連れが倒れた知らせを受けて急いで東京に戻りました。しかし、速水の調査報告書によって、伊勢崎雅治は伊勢真利子の同級生などではなく、人の思考に入り込んで記憶を操作することができる怖ろしい敵だということがわかったわけです。そうなると、先家董子と伊勢崎雅治との関係が問題になってきます。伊勢崎はなぜ先家董子に近づいたのか。答えはひとつだ……先家董子の持つ力が必要だからです。先家の女が受け継ぐ血、真湯島の魔物に通じ、それをコントロールする力が! わたしはただちに伊勢崎のマンションに向かい、吾妻さんには、真利子が殺された晩に伊勢崎が出席していたビアホールのオープニングパーティを主催した会社に出かけてもらって、招待客のリストを借り出して貰いました」 「その会社から戻る途中の駅で、あなたが先家董子の名前を呟くのを耳にし、声を掛けようと思ったまさにその時、あなたが線路に落ちたわけです」 「その、伊勢崎って人は……」 「一足、遅かった」  吉良が悔しそうに顔をゆがめた。 「伊勢崎は、自分がいた、という痕跡を消してしまっていました。おそらく、速水を攻撃してすぐ、奴が巣食っていた場所にかけていたシールドを解除し、別のシールドをかけたんです。伊勢崎が住んでいたはずのマンションの場所にはまったく別の名前のビルが建っていて、伊勢崎がいた部屋などはどこにもありませんでした。しかし、伊勢崎は青山近辺に今でもいることは間違いない。ただそれを見つけだすことができないだけです。幻覚のシールドがかけられていて、我々の目には別のものに見えてしまうんですよ」 「招待客のリストには、先家董子、という名前がちゃんとありました」  藤次郎はコピー用紙の一行に指先をあてた。 「こればっかりは伊勢崎の作り出す幻ではなく、まともな会社の正式な書類ですからね、ごまかしようがない。この住所には応援を頼んだ調査員に急行してもらったのですが、董子さんは留守でした。会社も休んでいて、行き先は不明です」 「先家董子さんは、伊勢崎と一緒です」  吉良は拳を握り締めていた。 「そして必ず、今でも青山のどこかにいる。イチョウの力が伊勢崎を離さない限り、伊勢崎は青山から離れられない」 「イチョウの……力?」 「鳩森八幡神社です。千駄ヶ谷の、鳩森八幡神社のイチョウが、実は真湯島の銀杏が育ったものなんですよ。いつの頃か、真湯島から東京にやって来た島民がお守りの銀杏をあの神社の境内に埋めて、それが成長して大イチョウになった。その大イチョウが真湯島の化け物と、化け物につかえる伊勢崎とを繋ぎとめているんです」 「真湯島の化け物って……いったい、何なんですか?」  冴絵の言葉に、吉良と藤次郎とは顔を見合わせ、それから藤次郎が静かに言った。 「それがどんなものなのか……我々も知りません。ただ、それは、繭に関係している。繭、あの、白い糸の塊です。蚕が作る、あれです。真湯島のまゆ、は、もともと、あの繭を意味する言葉だった」 「つまり……蛾、ですか?」 「その類のものに似ているのかも知れません。そうだとすると、伊勢崎がしようとしていることはひとつでしょう。伊勢崎は、繭を持っているんです、たぶん。そしてそれが羽化するのを待っている」 「羽化したら……どうなるの?」 「わかりません」 「先家董子を助けてくれ、と、彼女は言ったんです」 「彼女?」 「自殺した女性です……津田愛果という名前の女です。彼女は、遺書の代わりにたった一言、好きよ、とだけ遺してビルから飛び下りた。先家董子の会社の同僚だった女性です」 「その……死んだ女性が、あなたに?」  冴絵は頷いた。 「あたしに言いました。先家董子を助けて、と」  冴絵は立ち上がった。 「あの女はなぜ、あたしのところに現れたのか……あたしには見つかるかも知れない……先家董子と、その化け物たちがいる場所が」     4  すでに日は暮れかかっていた。鳩森八幡の境内はひっそりと静まりかえり、生き物の気配が感じられない。いつ来ても忙しく地面を歩きまわっていた鳩の群れも、梢で無遠慮な声をあげていた烏さえも、すでにねぐらに戻ってしまったらしい。  だが、ただ烏がいない、というだけの静けさではない、と藤次郎は思った。  鳥だけではないのだ。人の目に触れないところでひっそりと生きているだろう、虫やねずみ、小さな爬虫類たちに至るまで、今、この神社からは姿を消していた。  藤次郎は、あの古いイチョウの樹に近づいた。  青山で暮らすようになってから、何度となくその幹に触れ、力づけられてきた親しい古い友。それが本物の真湯島の銀杏の力を受け継いでいると信じていたわけではないが、叔父からこのイチョウの存在について聞かされていて、東京で暮らすようになって、気分が晴れない時や悲しみに落ち込んだ時などは、このイチョウになぐさめられて生きてきた。だが数日前、その幹には確かに、邪悪な誰かの意志が流れていた。イチョウの中で、その意志とイチョウの持つ力とが激しく戦い、藤次郎はその戦いに手を触れたために、危うく命を落としそうなほどのダメージを受けてうずくまったのだ。  そうだ、あの時!  藤次郎は、やっと気づいた。あの時の女性。  あれが、董子だったのだ。先家董子に間違いない。彼女もまた、このイチョウに引き寄せられてこの境内にやって来ていたに違いない。 「どのイチョウですか」  吉良が訊いた。藤次郎は黙って、目の前の古木に掌を押しつけた。  木肌は脈うたず、命の動きはまったく感じられなかった。  イチョウは沈黙していた。まるで、死んでしまったかのように。島の人々を護《まも》る霊力が、今はなぜかはたらいていないのだ。  生き物の気配が消えているのもそのせいだろう。この神社の杜《もり》を護ってくれる力が今、ここにはない。  藤次郎はそれでもしばらくの間、掌を幹に押し当てていた。 「その木ですか」  吉良が手を伸ばそうとした。藤次郎はそれをそっととどめた。 「今は何も動きません……島の力が消えてしまっています。もしかすると、吸い取られてしまったのかも」 「吸い取られる?」 「伊勢崎の持っている繭から何かが生まれようとしているとしたら、それは、このイチョウのもとになった銀杏の実をつけた、繭の島のイチョウと同じもの、同じ何かをその力の源にしているはずなんです。伊勢崎のマンションは青山にあったんでしたよね? 伊勢崎が青山を選んだのは、繭から何かが生まれる時に、島の力が必要だったからでしょう。つまり、このイチョウの力が。長い年月、真湯島の島民たちは本物の力の宿った銀杏をお守りにして日本中、あるいは世界へと旅立って行きました。そしてその行く先々で銀杏を植えた。しかし、それらのすべてが立派に育って実をつけたわけではないはずです。このイチョウの樹は、その中でも特に長い年月生き続け、強い力を宿していた。伊勢崎が東京を、それも青山を選んだのは、そのためなんですよ」 「しかし、その島のイチョウの樹木は島民を守る役割を果たしていたわけでしょう? それが得体の知れない島の化け物と同じ力の源を持つというのは……」 「化け物、だというのは人間の偏った見方なのかも知れないのです」  藤次郎は、大きな溜め息をついた。 「わたしにはやっと……やっとすべてのことがわかってきましたよ。あの瀬戸内海に浮かんだ小さな島の地中には、おそらく、未知の物質のようなものが埋まっているのです。イチョウの根はその物質から養分をとっていた。そして洞窟の奥の怪物もまた、同じ物質に影響を受けて変質してしまった動物か昆虫の類なんです。そいつは死ぬ時に卵か何かを残します。ある一定の条件が整えば、その卵は孵《かえ》って幼虫になり、繭をつくり、やがて成虫になる」 「しかし伊勢崎はなんなんですか! 伊勢崎は人間ではない、そうなんでしょう? 人の心に自在にまやかしを見せることのできる力など、普通の人間は持ちませんよ!」 「ええ、伊勢崎は人間ではないでしょう……しかし、妖怪や幽霊とも違う。伊勢崎雅治は、存在している生き物です」 「すみません、混乱しています」  吉良は頭を振った。 「伊勢崎雅治は存在している……だが人間ではない。それではいったい……」 「その、わけのわからない物質と同じところから来た生き物の末裔」  不意に、そばに立っていた冴絵が口を開いた。 「それでやっと、あなたたちの話がわかってきたわ。その島の地中に埋まっている何かと、伊勢崎ってやつは同じところから来た。同じ……あそこから」  冴絵が空を指差した。薄闇に染まった空のまん中に、一番星が光っていた。  吉良が、ごくり、と喉を鳴らした。 「いずれにしても、このイチョウの助けは借りられそうにない。吉良さん、ともかく伊勢崎の部屋があったはずの住所に行ってみましょう。伊勢崎は必ず、その近辺にいるはずなんです。後は、こちらの冴絵さんの心に入り込んで董子さんを助けて欲しいと頼んだ、その、愛果という女性の念をたどるしかありません」  藤次郎の言葉に吉良は頷いて住宅地図を取り出した。 「伊勢崎雅治の事務所が置かれていたはずの住所に、行ってみましょう。ここから歩いてすぐですから」  伊勢崎雅治の事務所の住所は、神宮前二丁目になっていた。鳩森八幡からほんの数分で、原宿駅の方から神宮第二球場の前まで通じている道路の、神宮前二丁目交差点に出る。だが、住所通りにたどってみると、伊勢崎の事務所が入っていたはずのビルの住所、二丁目二十番地には該当するビルの名前がなく、その区画にあるすべてのビルを一時間かけてひとつずつ調べてみたが、それらしい事務所の名前もなかった。 「やはり、見つかりませんね」  吉良は腕組みして唸るように言った。 「しかし伊勢崎に仕事を依頼した人たちは、実際にその事務所に出向いて仕事の打ち合わせなどもしていたんです。いったいどういうことなんですかね」 「伊勢崎の住処《すみか》がこの区画かこの近辺にあることは間違いないんですよ、たぶん」  藤次郎は、並んでいるビルの外壁を眺めながら言った。 「ただそこへの入り口が、今は完全に隠されてしまっているんです。以前は伊勢崎が、近づく人間の脳にその入り口を、ごく普通のビルの姿で見せていた。伊勢崎の取引先は何の疑いもなくそのまやかしのビルの中に入り、伊勢崎の住処にたどり着いていたわけです」 「なぜ伊勢崎は、空間プロデューサーなどという仕事をしていたんでしょうか。もし伊勢崎が……人間ではないのであれば、何も人間と同じ生活をしなくてもよかったはずだが」 「伊勢崎の空間プロデューサーとしての実績は、たぶん、ある時期より以前については幻です。伊勢さんの高校の同級生だった、という偽の記憶と同様ですよ。しかしここ数年、以前に女性が伊勢崎の事務所でバイトをしていて失踪したという、その事件の頃からの伊勢崎の実績は、本物でしょう。もちろん、空間プロデューサーとしての才能があったとかなかったとかそういう問題ではありません。空間デザイン、つまり、ある一定の空間に他の空間とは違う世界を作り出す、という作業は、伊勢崎のお手のものだった、それだけのことです。伊勢崎は、狙った人間の集団に同時に幻覚を見せたり、その記憶を改ざんしたりすることが出来る。特定の空間の中に入った人間に対して、とても気持ちがいいと感じさせたり、楽しくさせたり、興奮させたり、料理がおいしいと感じさせることが、一般的な空間デザインの目的です。伊勢崎ならば、そうした一定の空間に入った人々に快適さや幸福、満足といった錯覚を与えることもできるでしょう。つまり、空間プロデューサーとしての腕などはなく、他人のアイデアを繋ぎ合わせたようなもので仕事をしたとしても、伊勢崎がその気になれば最高の評価を得ることができるわけです。しかし伊勢崎は利口ですね。決してやり過ぎず、そこそこに評価を得られる程度にとどめていた。だからこそ、誰も疑わずにごく普通に仕事を依頼した。そして伊勢崎雅治は、空間プロデューサーとしてトップクラスではないまでも、途切れなく仕事が来る程度の評価を得ていたわけです。わたしの想像ですが、伊勢崎はたぶん、あの古いイチョウの樹から遠くに離れて暮らすことができないのではないでしょうか。東京には、真湯島の不思議な力を伝えるイチョウはおそらく、あれ一本なのでしょう。伊勢崎は先家董子を探していた。だから東京にいなくてはならなかった。しかしあそこを離れて長い時間過ごすことができない。そこで、青山に住み、自分からあまりうろつかなくても情報を集めることができるように、自宅で仕事ができてなおかつ、大勢の人間とかかわり合いになれる職業を選んだのでしょう。その上、自分の持つ能力を最大限に利用できる仕事を。しかも青山という場所は、原宿、渋谷、六本木と、東京中の若い人間が集まって来るところに近い。董子さんが近くにやって来る可能性も高かったわけです」 「だが伊勢崎は、董子の前にも若い女性を失踪させています。いったい、伊勢崎は何をしようとしているのか……あの、あなたの頭の中に呼び掛けたその津田愛果という人は、何か教えてくれませんでしたか? 伊勢崎が何をしようとしているのか」  吉良に問われて冴絵は、首を横に振った。 「あたし……夢を見ているとしか思えなくて、あの宙に浮かんだ女の言葉の意味もよくわからなかったし……でも、彼女の方からあたしを見つけて話し掛けてきたんだから、もしその伊勢崎のところに今、彼女と董子さんが捕われているのなら、必ずまた話し掛けて来ると思うんです! このあたりなんですよね? その伊勢崎は、このあたりにいるんですよね?」  冴絵は、整然と並んだビルを見上げて必死の形相をしていた。その愛果、という女性の「声」を聞き取ろうとしているのだ。  藤次郎は思わず、冴絵の肩に手を置いた。 「わたしのからだの中にも真湯島の血は流れています」  藤次郎は囁くように言った。 「わたし自身はもう長いこと、そのことを忘れて島の外で暮らしてきた。しかしわたしも、あの島の野菜や米を食べ、あの島の井戸の水を飲み、あの島の沖でとれた魚を食べて育ってきたんです。先家董子を助けようとしている愛果さんがあなたを見つけるように、伊勢崎はわたしを見つけます……おそらく」 「吾妻さんの存在を感知して、どこかに逃げてしまうということはありませんか」  吉良の言葉に、藤次郎は首を横に振った。 「伊勢崎はもう逃げられる状態ではないと思います。彼は繭を持っている。伊勢崎にできることは、隠れることだけです。そして隠れ切れないとなれば、真湯島の血を受け継ぐわたしを逆に利用しようとするはずです。真湯島の……神《ヽ》が羽化するためにわたしの血を利用しようとする。わたしと冴絵さんとが意識を集中して伊勢崎と愛果さんに呼び掛ければ、必ず伊勢崎の住処への玄関がこの近くに現れますよ」  藤次郎は目を閉じた。掌に冴絵の肩の震えが感じられた。冴絵もまた、強く念じている。  藤次郎には不思議だった。この冴絵という女性はどうして、こんなにも必死で先家董子を救おうとしているのだろう。彼女の話によれば、先家董子はこの冴絵の恋人の婚約者なのだ。先家董子がいなくなってくれる方がいいとは、考えないのだろうか。  女性の心、というのは、昔から藤次郎には大きな謎だった。  生真面目で仕事熱心、誠実で冒険はしない。自他共にそうした評価をくだしているだろう「自分」に、藤次郎はずっと密かな嫌悪を抱き続けてきた。だが、それ以外の「自分」になるにはどうしたらいいのかわからなかったし、なりたいのかどうかもわからなかった。  妻の滋子と結婚したのも、上司が勧めた見合いの結果だった。それなりに好きになった女性がいたこともあったが、交際した経験は数えるほどしかなく、恋愛と呼べる段階に至る前に終わってしまったものばかりで、大学の時に同級生と好奇心から当時はトルコなどと呼ばれていたソープに入り、一度女性のからだを体験しただけで、男としての経験は積まないままで滋子との初夜を迎えた。滋子も処女だと言い、互いにぎこちなく、よそよそしい一夜だった。  だが滋子との結婚生活は幸福に満ちていた。滋子は理想的な妻であり、過不足なく藤次郎の人生を支えてくれた。藤次郎は漠然と、自分の死に水も滋子にとってもらえるものだと信じ込んでいた。自分が死ぬまで、傍らに滋子がいてくれるものだと思い込んでいたのだ。だから、三年前、心臓発作で呆気無く滋子が死んでしまった時は、何をどうしていいのかもわからないほどうろたえ、呆然とし、生きていく自信も気力も失ってしまった。  そんな藤次郎が、再び生きる気力を取り戻したのは、ある皮肉な出来事によってだった。  滋子の急死から三ヶ月ほど経ったある日、いつまでも滋子の持ち物を整理しようとせずにいる藤次郎を心配して、滋子の友人が部屋を訪れ、滋子の遺品をまとめて箱にしまってくれた。あまりにも突然に滋子に死なれた藤次郎は、滋子の死を心に受け入れることが出来ずに、滋子が使い古したスリッパだのいくらか調理の汚れがついたままのエプロンだのを、そのままにして三ヶ月も暮らしていたのだった。  箱に詰められた滋子の遺品の中には、藤次郎には見覚えのないものもいくらか混じっていた。考えてみれば、台所だの、衣類や雑貨の物置きとして使っていた小さい洋室だのは、滋子の城のようなものだったので、藤次郎はほとんど踏み込んだことがなかったのだ。  その、台所から見つかったのが、滋子の日記だった。家計簿と一緒に、食材のストックが入れられていた棚に入っていたらしい。だがもしそれが表から見ただけで日記だと判っていたならば、滋子の友人はそれを無造作に箱の中に入れたりはしなかっただろう。その日記は、料理ノート、とマジックで表書きされた大学ノートに綴られていたのだ。全部で七冊。一年に一冊。それより古いものが存在していたのかどうかはわからない。存在していたとすれば、滋子が生前に処分してしまっていたことになる。  藤次郎は、何の疑いもなくそれを読んだ。表書きに日記と書かずにカモフラージュされていたことも、ただの滋子の照れだと思って。  藤次郎は、滋子が自分以外の男性を愛していたことを、その日記によって知った。  滋子は日記に嘘を書くような女ではない。だから、その男に対する滋子の想いは一方的なものであり、肉体関係などもなかったことは、信じられた。だがそれでも、滋子が自分以外の男をこれほど強く想い続けていたという事実に、藤次郎は打ちのめされた。それは同時に、自分が、ごく身近にいた滋子という女について何も知らなかったことをも示していた。  生まれて初めて、藤次郎は激しい嫉妬に泣き叫んだ。  叫んでも憎んでも、すべては無駄だった。滋子はこの世にいない。藤次郎の罵声など、滋子の耳には届かない。  地獄のような数日が過ぎて、藤次郎の心に不思議な平穏が訪れた。  滋子は、我慢し続けてくれたのだ。秘めた想いを抑えながら、自分との結婚生活を守り抜いて死んでいった。日記の中でも滋子は、結婚生活を守りたいと何度も何度も書いてくれていた。  それは、滋子が自分を選んでくれた、ということなのだ。そう藤次郎は悟った。  他に男を知らないからどこへも行かなかったわけではない。他に愛している男がいたのに、自分との結婚生活をその想いより大切にしてくれていたのだ。  滋子はひとりの女性であり、藤次郎の妻というだけの人間ではなかった。  それを知って、藤次郎はやっと、滋子を失った絶望から抜け出した。そして、自分にも「秘めた想い」があったことを思い出した。バルセロナで出逢った、不思議な女性のことを。  藤次郎の掌の下で、冴絵の肩の震えがとまった。冴絵は、トランス状態にでも入ったかのように、かすかに左右にからだを揺らしながらじっと立ちすくんでいる。  津田愛果、というその女性が冴絵に話し掛けているのか?  藤次郎は、バルセロナで出逢った女性のことを考えた。その女性のことだけに意識を集中しようとした。彼女は、真湯島のイチョウの銀杏を持っていたのだ。そしてその銀杏の本来の持ち主の危機を知って、銀杏を返そうとしていた。  銀杏の持ち主は、どうなってしまったのだろう。  今、どこにいるのだろう。  まだ生きているのだろうか。  あの時、あの女性は、十年経ったら返してと言われていた大切なものを返したい、と言ったのだ。  つまり、島に稼いだ銀杏の持ち主は、十年後に何かが起こることを予知していた……  伊勢崎は食いつくはずだ、この餌に。  真湯島の銀杏を持った女との記憶。その女が助けようとしていた真湯島から消えた夫婦の存在。  さあ来い。  藤次郎は、あの遠い日のバルセロナへと全神経を集中させた。  伊勢崎と名乗っていたおまえ。  この地球のものではない存在よ。  わたしの記憶に興味があるなら、おまえに至る道を見せてみろ!  握っていた拳が震え出した。額に浮いた汗がこめかみを伝って流れ落ちるのを感じた。  バルセロナの女。伊勢真利子の母親。  だが、なぜなのか、意識を集中すればするほど、頭の中であの時の女性の面影が曖昧になり、溶けるように崩れていく。  写真ならあるのに。  藤次郎は焦った。どうして思い出すことが出来ない?  こめかみがずきずきと痛み出すほど、藤次郎はその曖昧な思い出に神経を注ぎ込んだ。どうしても、はっきりとした像が欲しい。伊勢崎と名乗る存在が引き寄せられるほど明瞭な、形が。  あの時の女。あの時の声。あの時の笑顔。  藤次郎は、不意に、それまで無意識に否定していた自分の本心と向き合った。  好きだったのだ。本当はずっと好きだった。一目惚れで、あれからしばらく忘れられなかった。肉体の若さが続いている間は、自慰の時にあの女の顔を思い浮かべていることもよくあった。滋子を抱いている間にも、あの女の声が耳元で囁いているように感じる時もあった。  若さが少しずつ失われ、からだの中の宿っていた炎が小さくなっていくのにつれて、思い出すこともなくなっていった。それでも、好きだ、と思う気持ちはずっと持ち続けていたはずだった。  だから思い出せるはず。今ここで、その姿を頭の中にはっきりと再現できるはず。  できるはずなのに……  突然、藤次郎の視界の中に人の形が現れた。  藤次郎は、自分が今、目を開けているのに現実の何も見えておらず、自分の脳裏にある像を見つめていることに気づいていた。  像は次第に明確になった。  女。  ……滋子? 「あなた」  クリアになったその姿が、懐かしい声で言った。 「おひさしぶりです」  滋子はだが、最期の日々に藤次郎がよく知っていたあの、ふくよかなからだと銀色の白髪を持った初老の女性ではなかった。  三十代の後半か四十代に入った頃。藤次郎の仕事がいちばん忙しかった時代。  滋子は子供を切望していたのに、とうとうできなかった。あの頃の滋子は、子供を諦めることで泣いてばかりいた。今ならば四十代の初産も珍しい話ではないのだろうが、あの当時はそうではなく、三十代の後半になっても妊娠しなければ子供を持つことは諦めるのが当たり前だったのだ。藤次郎の記憶の中で、あの頃の滋子に笑顔はほとんどない。  目の前の滋子は、やはり悲しそうな顔をしていた。からだも細く、瞳の光は鋭い。心臓発作で急死する前の晩まで藤次郎の心を穏やかに包んでいた、あの慈愛に満ちた温かな表情はどこにもない。その代わり、滋子は美人だった。美しい、というのとは違う。美しい、という意味ならば、老齢に入った頃の滋子の方がずっと美しい。美しさとは、見るものの心に幸福感を与えるものなのだ。今、そこに立っている滋子は、決して藤次郎の心を幸福にしてはくれない顔をしている。そしてその顔は、美人の顔だった。  藤次郎は今初めて、滋子の顔だちがかつてはそれほど良かったのだ、ということに気づいていた。 「お詫びをしたかったのです、一言」  滋子は言った。 「お詫び?」  藤次郎は、若い滋子に向かって笑顔をつくった。 「いったい何のことだ?」 「わかっているでしょう?」  滋子は悲しそうな目のままで言った。 「わたしには、あなたの他に愛している人がいました。あなたはわたしの方を見てくれなくなった。子供を諦めるとわたしが言ってから、あなたはわたしを一度も抱かなかった」 「まさか」  藤次郎は呆気にとられた。 「そんなことはなかっただろう? 子供を欲しがっていたのはおまえで、わたしは別にさほど欲しいと思っていたわけじゃない。子供ができないからおまえをないがしろにしただなんてことは……」 「ないがしろにした、と言っているのではありません。抱いてくれなくなった、と言ったのです」  滋子がやっと微笑んだ。まるで哀れむような笑顔だった。 「わたしは女でした。あなたはそれに気づかなかった。わたしは妊娠するためだけに女でいたわけではないのに。子供を諦めても、あなたに抱かれたかったのに」  藤次郎は困惑していた。少なくとも意図的に滋子を避けた憶えはまったくなかった。むしろ、誰に訊かれても、滋子のことは良い妻、理想的な伴侶だと答えていたはずだった。もちろんそれは、藤次郎なりの照れであって、大好きだ、愛している、という意味だったのだ。  滋子を抱いたのはいつが最後なのか。  藤次郎は思い出そうとした。そして思い出すことが出来なかった。 「責めているわけではないのよ」  滋子は、からだの前で組んでいた手をほどき、手招きでもするようにゆったりと動かした。 「わたしが言葉にできなかったのがいけなかったんです。あなたに、抱いて、と一言言えなかったのが。わたしはそれが言えないまま生きて、そしてあなたを裏切りました。あなた以外の人を愛するようになりました。そのことを一言、あなたに謝りたかったんです」 「滋子!」  藤次郎は思わず叫んだ。 「わたしはおまえのことが好きだった。大好きだった! 愛していたんだ! それは本当だ! 信じてくれ、それは本当なんだ!」 「信じています」  滋子は頷いた。 「信じているわ。あなたはわたしのことを好きでいてくれた。愛していてくれた。でも、抱いてはくれなかった。わたしが若くなくなった日から後は」 「そんなことは……そんなつもりは……」 「もういいんです。ただ謝りたくて待っていただけでした」 「待っていた……?」 「わたしの存在にあなたが気づいてくれるのを。わたし、この三年間、ずっとあなたの近くを漂っていたんです。でもあなたは、余りにも幸せにわたしの死を受け入れてしまった。わたしが他の人を愛していたと知った後になっても、わたしとの生活を幸福な思い出として仕舞い込んでしまった。だからわたしに気づかなかった。やっと……やっと気づいてもらえて、謝ることができてよかった」 「滋子、おまえはいったい……」 「これでわたしは消えることができます。あなたの前から永遠に。もう漂うことに疲れていたので、ホッとしています」 「どうして今、おまえがここに現れたんだ? なぜ、今、わたしはおまえに気づいた?」  藤次郎は拳を振り上げた。 「伊勢崎、貴様かっ! 貴様が滋子の姿を騙《かた》ってわたしを騙《だま》そうとしているのかっ!」 「誰もあなたを騙そうなどとしてはいないわ」  滋子の姿が消え始めた。 「わたしと同じようにさまよい、漂っていた存在が、今あなたの手の触れているひとの中に入り込んだの。だからその人にはわたしが見えた。そしてその人の肩と触れていたあなたの掌が、わたしの存在に気づいた。それだけのことです」  藤次郎は、ハッとして視線を自分の手に向けた。さっきまで何も見えなかったその手の先に、今は冴絵の肩がちゃんと見えていた。 「あなた」  どんどんと薄れていく滋子の姿が言った。 「わたしはあなたではない別の人を愛しました。でも、あなたのことも愛していました。それだけのことだったんです。あなたのことも、とてもとても、好きでした」 「滋子……」  滋子の姿がほとんど消えた。藤次郎は叫んだ。 「滋子っ!」  最後の一瞬、滋子の姿がくっきりとした。そこには藤次郎がよく知っている、あの懐かしい、穏やかな初老の滋子がいた。彼女は微笑んでいた。悲しげではなく、包み込むような優しい顔で。  幻が消えて、視界がもとに戻った。藤次郎の目の前には冴絵の背中があった。冴絵のからだの揺れが、ぴたり、と止まった。  冴絵は、くるっとからだをかえして藤次郎の方を向いた。  冴絵ではない!  それは見知らぬ若い女の顔だった。いや、それは確かに冴絵の顔であるのに、まったく別の顔にも見えていた。冴絵の顔の上に、透明な別の女の顔がかぶさっていた。 「董子さんを助けて」  冴絵、その重なった顔、が言った。 「あなたの力が必要です。董子さんを助けて! 早くしないと董子さんが核にされてしまう!」 「核?」 「董子さんの心が溶かされてしまう!」 「君は」  藤次郎は喉から声を絞り出した。恐怖で膝ががくがくと震えた。 「津田……愛果さん……か?」 「来て!」  冴絵、いや、愛果が藤次郎の腕を掴んだ。ものすごい力だった。 「こっちよ、早く!」 「待ってくれ、吉良くんが……」 「あの人は来られないわ。無理よ」  藤次郎はその時になってやっと、すぐそばに立っていたはずの吉良の姿がないことに気づいた。周囲を見回し、視線を上下に動かして、やっと吉良を見つけた。吉良は地面に倒れていた。 「どうしたんだ!」 「大丈夫よ。ただ耐えられなくなっただけだわ」 「耐えられないって、何に?」 「あなたが真湯島の不思議な力、と呼んだものに。その力の圧力に、あの人は耐えられなくなって気絶したの。島の力に耐性のある人でなければ耐えられないのよ。無理に連れて行けば死ぬ」 「君は……平気なのか?」  愛果が笑った。 「平気よ。だってあたしは死人だもの。魂しかもうないんだもの。あなたの奥さんと同じよ」  愛果は藤次郎を引きずるようにして歩き出した。 「早く来るのよ! 伊勢崎が扉を閉めてしまう前に!」     5  息苦しい。  董子は、自分のからだを包んでいる白い綿のような物体を、なんとかかき分けようともがいた。それは濃いミルクのような液体にも思えるし、綿飴のような繊維状の物体にも思える。また、雲のようなものかも知れないとも思う。だがいずれにしても、董子の全身は今やその白いものにくるまれてしまい、瞼を開けていても見えるのはただただ、白、だけだった。 「呼吸しようとしないで」  董子の耳もとで女の声が聞こえた。どこかで聞いたことのある声だった。 「呼吸はとめて。大丈夫、その方が楽になるはず」  そんなこと言われたって……  董子はそれでもしばらくもがいていたが、あまりにも苦しくなってとうとう、言われた通りに呼吸をとめてみた。すると驚いたことに、息苦しさが瞬時に消えた。 「どういうこと?」  董子の質問に、女の声は溜め息で答えた。 「あなたは変質しかかっているんです……そのうちに、あなたの人間としての肉体は死に、わたしたちが普通、魂、と呼んでいるものだけがここに残ります。あなたを核にして、神が蘇ります」 「なんの話なの? さっぱりわからないわ。それに……あなたは、誰?」 「わたしの声、憶えていないの? もう、忘れた?」  そう言われて董子は少しの間、記憶を探った。  やがて、思い出の中からその声の主の顔が目の前に浮かんだ。 「津田さん!」 「嬉しい」  津田愛果の声が言った。 「憶えていてくれたんだ」 「津田さん、あなた……」 「幽霊じゃないのよ。あ、そうね、幽霊なのかも知れない。こういうものを幽霊、と呼ぶのなら。わたしの肉体はもうとっくに火葬されて骨になって、お墓の下だものね。でもわたしは存在し続けていた……消えてしまえれば楽だったのに、消えなかったのよ。どうして消えなかったのか、それがわかるまでに時間がかかったわ。わたしは存在しているのに、誰にもその存在を気づいて貰えないままで漂っていた。ずっと、漂っていた……先家さんのそばを、ずっと」 「あたしの……そばを?」  董子は目の前の白い靄《もや》の中から、愛果の顔がぼんやりと現れるのを見た。 「どうして?」 「好きでした」  愛果の声は、耳元でふるふると鈴の音のように震えた。愛果の顔は遠くにあるのに、声は近い。とても近い。 「好きだったの。先家さんのことが、好きだった」  好きよ。  愛果が最期に残した言葉。 「言えなかったし、言うつもりもなかったの。でも最期に、やっぱり言ってしまったの。ごめんなさい」 「津田さん」  董子は、自分の声がひどく揺れて重なって聞こえるのに驚きながら言った。 「あなた、どうしてあんなことを? あたしの……せい?」 「違うわ。それは違うの。先家さんに恋人がいるのは知っていたし、先家さんが幸せならわたしもそれでよかった。あてつけに自殺したんじゃないんです。伊勢崎のせいなんです」 「伊勢崎……あの人を、知っていたのね」 「伊勢崎は、わたしの心が先家さんのことばかり考えていたのに感応したんだと思う。あいつは先家さんをずっと探していたから。東京のどこかにいる先家さんを探しているうちに、わたしを見つけた。伊勢崎はわたしを先家さんだと思い込んだ。あいつは先家さんのことを、感覚でしか知らなかったんです。本物の先家さんがどんな顔でなんという名前なのか、知らなかった。ただ、真湯島の神の力を宿した女性が発する信号を頼りに探していた。わたしは先家さんを知っていて、好きだったから……いつもいつも見つめていたから……その信号を知らずに取り込んでいたんだわ。わたしの心の中に。伊勢崎はそれをキャッチした。そしてわたしに近づいた。わたしは焦っていたのかも知れない……先家さんのことが好きだって思う気持ちを抑えるために、他の誰かと恋愛の真似事がしたい、世間にも、男性と交際している自分を見せておきたい……そんなふうな狡《ずる》い気持ちがあったから、簡単に伊勢崎に騙されてしまった」 「伊勢崎雅治は、人の心を惑わすことができる。あなたが騙されたのだとしたら、そのせいよ」 「いいえ」  愛果の声は、幾重にも重なって耳の奥へと届いた。 「わたしは騙されたかったの。自ら望んであいつの手の中に落ちた。わたしの毎日は、とても息苦しく単調で、望むものは何ひとつ自分のものにはならずに、ただ時間だけが過ぎていく苦痛の連続だったの。先家さんだってそう思っていたでしょう、わたしのこと、生真面目で面白みがなくて、つまらない女だって」 「真面目なひとだとは思っていたけれど、そんなふうに悪く考えたこと、なかったわ」 「そうね」  愛果はまた、深く溜め息をついた。 「わたしは人に嫌われることすらできない人間だった。人の心に印象を残すことのない人間。自分でもそんな自分が嫌いだったのに、どうしても殻を破ることができなかったの。無難でバランスが良くて、人を不愉快にする心配のないものばかり選んだ」 「でもそれは決して悪いことじゃないわ。誰も津田さんのこと嫌いだって言ってる人はいなかったし、悪口も聞いたことなかったもの。他人のことなんて考えずに自分のことばかり大切にする人間が多いのに、周囲の人をいつも気づかって優しく親切で」 「だけど、忘れちゃったでしょ?」  愛果が笑ったように思えた。 「もしわたしが、あんな形で自殺したんじゃなくて、事故とか病気とかで死んだとしたら、きっとみんな、とっくにわたしのこと忘れてた……わたしは、この世界の中で、誰の心にも爪痕ひとつ残すことができない存在だったのよ。もちろん、それはわたしのせい。わたしの性格のせいだった。わたしはいつだって、自分の心を他人にぶつけることを避けて暮らしていた。女の人を好きになることは別に悪いことじゃないって理屈ではわかっていても、それを他人に知られるのは嫌だったのよ。好奇の目で見られたり、クスクス陰で笑われたりすること、想像しただけで鳥肌が立った。だからあなたのこと好きだということも、絶対に誰にも知られないようにしていたの。伊勢崎に誘惑された時、わたし、もしそれであなたのことを忘れられて、普通に男を愛することができるようになれたらって、伊勢崎を利用しようとしたんだわ……そして、気がついた時には、もう遅かったの」 「遅かったって……」 「わたしは、溶かされかかっていた。生きたまま、この繭の核の中に溶け込んでいた。わたしの実体は伊勢崎の奴隷で、わたしの精神はここで変質し始めていたの。わたしの肉体に伊勢崎の妄執が宿り、人間の胎児の形になった。伊勢崎は面白がっていたわ。わたしを妊娠させたことを、何かの実験みたいに面白がっていた。わたしは、核と同化する心を必死に保とうとし、伊勢崎にだまって中絶した。伊勢崎は激怒した。そして、わたしの肉体を、同化が完了するまで、生きた死体にしておこうとした。あんな形で肉体を殺したのは、わたしにできる最後の抵抗だったのよ。精神が完全に核の中に溶け込む前に肉体を失うと、せっかく核の養分になりかけていた精神も、肉体と共に滅んでしまう。この核の養分になることができるのは幽霊の怨念じゃなくて、生きた人間の心、思考そのものだから。伊勢崎は自分があたしを自殺させたと思ってるけど、違うの。あたしは自分で選んだのよ。溶けてしまうより、人としてお墓に入りたかったの。あの日、もうこれ以上伊勢崎に抱かれればわたしは消える、そう思って、死を決意した。でも最後にわたし……言っておけばよかった、と後悔したの。たった一言、あなたに言っておけばって……好きよ、と」  白い靄の中に浮かんだ愛果の顔は、とても美しい、と董子は思った。  好きよ。  それは、誰にもとめることのできない情動。この世界に人として生まれて、誰かを好きになること。すべての始まりの言葉なのだ。好きよ。  人と繋がるための最初の感情。  その言葉を押し殺して生きた愛果の人生は、とても、とてもさびしいものだったろう。 「肉体が滅んで、わたしの精神は肉体を離れた。そのまま消えてしまうのだと思っていたの。あるいは、運が良ければ成仏と言われる状態になって、安らかな場所にいけるのだと。それなのにわたしはただ、宙に浮かんでいただけだった。自分の死体を見つめながら。それからずっと見ていたの。自分の葬式、からだを焼かれて残った、自分の白い骨。わたしはどこへでも自由に行くことができた。でも、どこにいても誰ひとり、わたしには気づかなかった。どうしてわたしは安らかな場所に行くことができないのかわからずに、仕方なく、ずっとあなたのそばにいたの」 「ずっと……あたしのそばに……」 「そう。ずっと。ごめんなさい。でも誓って、何もしてないわ。何かできるなんて思わなかったし、ただあなたのことが見ていたかっただけなのよ。なのに……伊勢崎はとうとう、あなたに気づいてしまった。伊勢崎の気配があなたに近づいて来た時に、わたし、わかったの。伊勢崎が求めていたのはわたしではなく、あなただったんだ、って。でもわたしにはどうすることもできなかった。伊勢崎が張った罠にあなたはかかり、あなたと伊勢崎とは出逢ってしまった。わたしは焦ったわ。なんとかしてあなたに危険を知らせたかった。でもわたしには肉体がない。どうしたらいいのかわからない。悩んでいた時、あなたに対して向けられている小さな敵意に気づいたの」  愛果の顔がふっと消えた。声だけが董子の耳元で続いている。 「本当に小さな敵意で、憎しみとまではいかない、そうね、ちょっとだけあなたが嫌い、そのくらいのものだった」 「誰が……あたしのことを?」 「誰だと思う?」  愛果の声が笑うように揺れた。 「経理の前田《まえだ》蓉子《ようこ》」 「前田……蓉子って……あの、去年の新人さん? だってあたし、彼女とはほとんど話もしたことがなかったのに」 「あの子、水谷さんのことが好きだったの。なのに水谷さんは……先家さん、全然気づいてなかったみたいね。水谷さんは、ほんとはずっと先家さんのことが好きだったのよ。あなたのことばかり見ていた。いつも。あたしと少しの間つきあっていた時でさえ。でも水谷さんはあなたのこと、近寄りがたいって思ってるみたいだった。でもね、言葉では否定しても女にはわかる。彼はあなたのことが好きなのよ。そして前田さんもそれに気づいてた。それで前田さんはあなたにほんの少し嫉妬していたの。でもあなたと水谷さんが何もないことは彼女も知っていたから、本当に小さな敵意、少し悔しい、その程度のものだったのよ。でもその敵意に気づいた時、不思議なことが起こった。わたし、前田蓉子のからだの中に入ってしまっていたの。あら、と思った瞬間に。それが初めての経験だった。肉体を失ってから、他の人のからだの中に入り込めたのはその時が最初。その時はまだ法則に気づかなかったけれど」 「法則って?」 「法則があったの。わたしが他人のからだに入り込むことができる法則が。わたしは前田蓉子のからだの中で、どうしていいかわからずにいた。ただ、あなたに危険を知らせたい、そう強く願っていた。すると、前田蓉子は突然、宣伝部の部屋に入り込んであなたの机から印刷所にまわす発注書を盗んだの。わたし、ただびっくりしてたんだけど、前田蓉子自身も意識を失っているみたいな感じだった。蓉子はあなたを困らせるような嘘の発注書を書いて印刷所にFAXした。でもその時わたし、気づいたの。そのFAXを送っている時の仕種は、わたし自身の仕種だ、って。あなたも気づいたわよね、わたしの癖。小指で紙を押さえる。わたしは蓉子の小指を見つめていたの。それが自分の癖だ、と思いながら。紙の表側にわたしの指紋が浮き上がったのは、きっと、そのせいだわ。紙の裏を押さえていた小指は前田蓉子の肉体だったけれど、そこに集中されていた意識はわたしの意識だった。わたしの意識が記憶しているわたしのからだが、紙を通して浮き上がったのね。あなたが紙についていたわたしの指紋に気づいておびえた時、わたしは自分の意識によって、生きていた時のわたしのからだを再現することができることを知ったの。つまり、ほら」  董子の肩に、掌の感触があった。董子は白い靄の中でそれを見ようとした。確かに、うっすらと手の甲が見えた。 「ね」  愛果の声が笑った。 「同じ方法でね、あなたは知らないけれどあなたと深い関係がある女性の目の前に、姿を見せたことがあるのよ。その女性の前にガラスの窓があったの。わたしはその窓に、女性の背後にいるわたしの姿が映るようにと意識を集中して、その女性に見える姿になることができた。それはまた後のことよ。ともかくその時わたしは、前田蓉子の肉体を完全に支配できたわけではなかった。わたしはあなたに警告をしたいと願ったのに、蓉子の心の中にあったあなたに対する小さな敵意が具体化しただけだった。それでも、あなたがわたしのことを思い出してくれて、以降、それがわたしにとってはとても都合が良かったの。言ったでしょう、さっき。他人の肉体に入り込むには法則に従わないとならないって。その法則というのはね、入り込もうとする肉体が、何らかの形であなたに向かって意識を集めていること、だったの。蓉子のように、微かであってもあなたに対して敵意を持っているとか、逆に愛情を抱いているとか、あるいは、特別な興味を持っているとか、ね」 「あの写真を送ってきたのもあなたのしわざ?」 「いいえ。あれは伊勢崎よ」  愛果の掌の感触が董子の肩から消えた。 「伊勢崎は、あなたに真湯島のイチョウの力を思い出させたかったんでしょう。あなたの内部にある力が目覚めるように仕向けたかったのね。伊勢崎にとって理想だったのは、あなたが自らその力に目覚め、伊勢崎が育てていた繭を探しあててくれることだった。あなたが自分からすすんで繭の核になってくれることだったの。でもあなたはなかなか覚醒しない。そして、伊勢崎の敵、真湯島の出身者があなたを探し始め、伊勢崎自身の存在にも迫って来た。伊勢崎はとうとう我慢できずにあなたをここに誘《おび》き寄せた。わたしはあなたを守りたかった。でも、前田蓉子の肉体ではあなたに対する意識が弱過ぎて、コントロールすることができない。わたしはあなたの周囲で、わたしの意識をそっくり重ね合わせることのできる肉体を探したのよ。そして見つけた。あなたの恋人だった男と愛しあっていた女。先家さん、ごめんなさい。でもあなたも薄々、その存在には気づいていたはず」  董子は、勝昂に自分以外の恋人がいる、と感じていたことを思った。その女性のことは何も知らなかったが、勝昂の心が自分ではなく、常にその女性のところに向かっていることは感じていた。だが勝昂は、てっきり別れ話を持ち出されると覚悟していた董子に対して、いきなりプロポーズした。勝昂の本心がわからないまま、董子は、まだそのプロポーズに返事をしていないことを、今、思い出した。 「彼女は、先家さんのことをとても強く意識していたの。でも憎しみとか嫉妬とか、そういうのとは違っていた。彼女の心のいちばん深いところには、先家さんの恋人ではない、別の男の存在があるの。彼女はその男のことを愛している。でも、その男から自分が愛されているのかどうかわからなくなっている。そして、満たされない思いを先家さんの恋人との情事で埋めようとしていた。だから彼女はあなたを憎んだりはしない。むしろ、あなたに興味を抱き、あなたを知りたいと望んでいた。彼女の心にたどり着いた時、わたしは、彼女のからだであればわたしの心を重ね合わせて自在に動きまわれる、そう感じた。彼女の感受性は、蓉子のものよりずっと鋭く、繊細だったから。それで彼女の前にわたしの姿を見せた。その瞬間から、彼女もまた、わたしを通じて伊勢崎と繋がることになった。そして、伊勢崎を追っていた真湯島の人間が、その彼女の存在を感知して近づいた。今、彼女とその真湯島の男とは、一緒にここに向かっている」 「ここに? 津田さん、ここはいったいどこなの? どうして真っ白で何も見えないの?」 「ここは、繭の内部なんです」 「繭って……なに?」 「わたしにもわからない」  愛果の声は不安げに響いた。 「わからないのよ。ただ伊勢崎、いえ、伊勢崎という名前をかたってこの世に存在しているあいつは、この繭がかえって中のものが外の世界に出た時に、あいつの求める未来が到来すると信じている」 「伊勢崎の求める……未来」 「それがどんなものなのかも、わたしには見当もつかない。でもあいつの思考がわたしに伝わるの。わたしもこの繭の中に、こうして精神の一部を溶かしてしまったから。あいつはたぶん、この世界とは違う世界、違う宇宙からやって来た。あいつの世界では、目に見える現実、肉体とか物体とか、そうした形を持つものを、目に見えない、精神とか霊魂とかわたしたちが呼んでいるものが完全に支配し、コントロールできる。もしこの繭がかえったら、あいつが望む世界、つまりね、誰かの意志や精神が、肉体や物質を自由に支配する世界が出現する……少なくとも、あいつはそう信じているの。そして長い、長い年月、この繭から何かが、あいつが待ち望んでいるものが生まれるのを待ち続けていた。伊勢崎はこの繭の核に、真湯島の力をもっとも強く受け継いだ人間の精神を欲しがっていた」 「それが……わたしなの?」 「そうよ。でも先家さん。心配しないで。このまま先家さんをここに閉じ込めさせはしない。必ず助けてあげる」 「助けるって、津田さん!」 「大丈夫よ。今からあいつと対決するわ」 「津田さん、待って!」 「助けてあげる。絶対に、わたしが助けてあげるからね!」 「津田さんっ!」  董子は手を伸ばした。だが愛果の姿はもう目の前にはなかった。一瞬、白い靄《もや》の中が稲光に照らされたように明るく感じられた。  董子はその時、やっと、自分のからだがまるで胎児のように縮こまったまま、ふわふわと宙に浮いていることに気づいた。  手足をおそるおそる伸ばしてみても、どんなものにも触れることはなかった。どうすればその空間から外に出られるのか、まるでわからない。  ただわかっていることは、津田愛果を伊勢崎と戦わせてはならない、ということだけだった。愛果はもう苦しんではいけないのだ。本人が望んだ安らかな場所へと向かうべき存在なのだ。それなのに、自分を助けるために、その安らかな永久の眠りをも犠牲にしようとしている。肉体を失い、実体をなくして、それでもあたしのために戦うと言ってくれた愛果を救えるのは、あたしだけなんだ!  董子はもがいた。もがいてもがいて、なんとかその、白い靄だけでつくられた空間から外に出ようとした。だが、その空間には少しでも手ごたえのあるものが何もなかった。董子は気づいた。そこは、まるで、羊水の中、だった。     *  突然、冴絵の肉体を支配した見知らぬ女、生前には津田愛果という名前を持っていた女に腕を掴まれて、藤次郎は、引きずられるようにして、見覚えのないビルの中へと入って行った。  外から見ただけではまったく怪しいところのない、よくあるオフィス・ビルだった。一階には喫茶店が入居していて、二階から上にはびっしりと会社が入っている。社名、事務所名の書かれたプレートが、喫茶店の横手のエレベーターホールに貼り付けられていた。もちろん、どこにも伊勢崎の名前はない。 「このビルで間違いないんだね?」  藤次郎が訊くと、冴絵の顔に重なっている半透明な見知らぬ女の顔が頷いた。 「どうやって行けばいいんだ? どの階にやつはいる?」  冴絵・愛果は黙ってエレベーターホールを抜け、奥の階段に向かう。藤次郎も小走りに後に従った。階段は狭く、踊り場も小さい。女の足は追い掛けるのがやっとなほど速い。藤次郎は息を切らしながら階段をのぼった。二階、三階、四階……果てしなく続く苦行に思えた。足腰にはまだ自信があるつもりでいたが、心臓の方が持たないかも知れない。  七階。とうとう、女は階段を離れて廊下に滑り込んだ。藤次郎はホッとした。しかし、一歩廊下に足を置いて、思わず叫び声をあげた。  歪んでいた。すべてのものが、歪んでいた。  真っ直ぐなはずのものが全部、ねじれ、曲がり、うねうねとしたカーブを描いている。廊下のへり、ドア、非常口を示すランプ。しかもそれらは、歪みながら動いていた。くねくね、うねうねと、伸びたり縮んだりしながら蠢《うごめ》いている!  頭がおかしくなりそうだった。  女は宙に浮いているような滑らかな動きで進んで行くが、藤次郎は、真っ直ぐからだを支えていることすら出来なかった。目がまわる。気持ちが悪くなる。  藤次郎は四つん這いになり、掌でぐにぐにした廊下を掴んだ。それはまるで爬虫類の膚《はだ》のようだった。ぬめぬめ、べたべたとして、しかも、力をこめても掌からするりと逃げるほど滑らかだ。  そうか。  突然、藤次郎には意味《ヽヽ》がわかった。  それは、拒絶なのだ。この廊下は実在していない。伊勢崎が「侵入者」の精神に入り込んで見せている幻覚だ。伊勢崎は拒絶しているのだ。自分と、あの、冴絵の肉体に入り込んだ幽霊とを。いや、拒絶されているのは自分だけなのだ。あの女はこの廊下を苦にしていない。  藤次郎は目を閉じた。すべては幻。何もかも、本当は真っ直ぐで秩序を保ち、静止しているはず。意志の力で幻を打ち砕けばいい。  藤次郎が力を全身に込めると、掌の下の廊下はまるで痛みから逃れようとするかのように激しくうねり始めた。それでも藤次郎は歯を食いしばったまま、全身を震わせて幻覚を消そうとした。こめかみがぶるぶると震えるのがはっきりとわかった。血管の中を流れる血がすべて沸騰してしまったように感じた。耳鳴りがする。歯がギシギシと無気味な音をたてる。呼吸ができない。  近寄るな!  藤次郎の耳に、ひどく重なりあって不愉快に響く声が聞こえて来た。  おまえに何の関係がある。 「わたしは」  藤次郎は目をきつく閉じたまま叫んだ。 「わたしは、真湯島の人間だ! 島が蘇らせまいとして来たものを、この世に蘇らせるわけにはいかない!」  おまえは島を捨てた。そんな人間に、今さら、島のために何かできると思うか? 「わたしにも島の血は流れている!」  島の血、とはなんだ?  あの島には二種類の人間が住んでいる。片方はおまえたち、愚民だ。餌としての価値しかない連中だ。そしてもう片方、本当に価値のある島民は、ほんのひと握りしかいない。  愚民どもが小賢《こざか》しい悪知恵で、大いなるものの復活を妨げてきたから、この地球はこんなに荒れ果てた瀕死《ひんし》の星になってしまった。  しかしやっと、正しくこの星を継ぐものが誕生する。  地球は救われるのだ!  おまえのような価値のない人間に、それを邪魔だてすることなどできはしない。 「わたしの力が小さいと考えるのなら、どうしてそばに寄らせない? この卑怯な幻覚の罠は、おまえが怖れていることの証拠ではないか!」  この程度のものになにをそう騒ぐ。  おまえの力が言うほど強いのであれば、なんなく越えて来られるはずだろう。  笑い声が聞こえた。吐き気がしてくるほど耳障りな、金属をこすり合わせたような音に聞こえる笑い声だった。  だがその笑い声のせいで、藤次郎の意識がくっきりと輪郭を取り戻した。  藤次郎は両足を踏ん張ってもう一度からだを起こし、その場に仁王立ちした。それから、唇を噛み切って流れた血を拭い、瞼を開いた。  ぐねぐねとくねり、ねじ曲がったすべてのもの。そのいちばん先端に、四角い光の枠が見えた。  藤次郎は拳を振り上げ、絶叫した。そしてその振り上げた拳をぐるぐると回しながら、一直線に光の枠めがけて突進した。  拳が何かを突き破る!  轟音が聞こえ、藤次郎は叫び続けながら滅茶苦茶に拳を振り回した。ガラスが割れる音に似た、だがその数十倍もの破壊の音が鳴り響く。  四角い光の枠が膨張した。  光が溢れて藤次郎の視界いっぱいに広がった。  わぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!  眩しさで開けていられない瞼を、それでも必死に開けたまま、藤次郎は光の中へと前のめりに突っ込んで行った。  ギャアッ!  光の中に入った途端、藤次郎は激しい苦痛に悲鳴をあげた。  全身の皮膚が溶ける!  濃硫酸の海に飛び込んだかのように、見る間に拳の先が白く骨だけに変わった。  顔を覆っていたもう一方の手をどけると、どろっとした皮膚と肉の塊が剥がれ落ちて足下に滴る。  ギャァァァァァァァァァァァァァァァァッ!  藤次郎は絶叫しながらのたうちまわった。頭の皮がずるっと剥けて、頭髪の束が足下にばさりと落ちる。  苦痛が激し過ぎて何かを考えることが出来ない。  幻覚だっ!  こんなものは全部、幻なんだ!  藤次郎は転げまわりながら、頭の奥で必死に叫んでいる自分の声を聞いた。  そうだ、全部、幻だ。  だが苦痛はもう、意識を保っているのが難しいほどに膨れあがっている。  発狂する寸前だった。  助けてくれ!  藤次郎は、誰にともなく叫んだ。  助けてくれぇぇぇぇぇぇっ! 「こっちよ」  目の前に白い手が見えた。 「掴まって」  あの女。津田愛果の声。  藤次郎はその白い手に飛びついた。  最大の苦痛が藤次郎を襲った。  もう悲鳴すらあげることができなかった。藤次郎は、自分の手足がもぎれて宙に浮かぶのを見た。確かに、見た。  それでも藤次郎は、白い手を放さずに掴み続けた。  自分の手が、足が、目の前の白い空間を横切って流れて行く。  血が帯のようにたなびきながら、幾筋もの川になる。  自分の肉体がばらばらに解体され、絶頂の苦痛の最中に、藤次郎は、精神が肉体を超えて今、そこに存在したのをはっきりと感じとった。  その途端、すべてが消えた。  真の闇。  音も光も苦痛もない。 「目を開けて」  愛果の声が聞こえた。 「開けてるんだが、ずっと」 「違う。見ようとするの。見ようと思うの。見ようとしなければ目は開かない」 「何を……見る?」 「見えるべきものを」  愛果の声は、重なり合って次第に低く、太くなった。 「そこに本来、見えるべきものを見ようとしなければ、目は閉じたままなのだ。見たいものを見ようとするのではなく、見たくないものを見まいとするのでもなく、見えるべきものを見るために瞼を開けなさい」  見えるべきもの。  本来の姿。  幻の向こう側にあるべきもの。  藤次郎の頭の中に、何かのイメージが浮かんだ。奇妙な姿をした動物。見知らぬ生き物。  それはひとりぼっちだった。そう、孤独に耐えていた。  ずっとひとりぼっちで、待ち続けていた。  藤次郎は|目を開けた《ヽヽヽヽヽ》。  そのまま、息をとめた。ごくり、と喉が鳴った。  目の前に、触手のような細長い突起が無数に突き出た、赤黒い色の不定形な物体があった。人よりもいくらか背が高く、ぐにぐにと全体が蠢いていて、伸びたり縮んだり、膨らんだり萎んだりしている。  藤次郎は、しばらく、それ、と見つめ合っていた。それの目《ヽ》がどこにあるのかはわからない。だが、それ、も藤次郎を睨んでいることははっきりとわかる。 「伊勢崎」  藤次郎は言った。 「先家さんを放せ」  伊勢崎雅治……だったはずの存在……は、息を吸い込むような音をたてて笑った。 「おまえには関係のないことだ。島を捨てたおまえになど、何もできない」 「先家さんはどこだ!」  藤次郎は叫んでから気づいた。その、あまりにも気味の悪い形をした生き物の背後に、白い光の集まりがあった。 「あれが……繭か……」  それは、藤次郎がイメージしていた「繭」とはまったく違うものだった。  物体ではなく、光の塊なのだ。懐中電灯のあかりを壁に照らしてできる丸い輪に似た、光の集まり。そしてその中心に、胎児のような姿で人間の女のからだが浮かんでいた。それが誰なのか、藤次郎にもすぐにわかった。  先家董子。  繭の島の、呪われた血筋を継ぐ、最後の巫女。  董子は一糸まとわぬ全裸で、そして髪の毛もその他の体毛もなく、アイボリー色の彫刻か、陶器でつくられた人魚の像のように、どこまでも滑らかな肌とやわらかなフォルムを持っていた。生身の人間というよりは、人間の女のエッセンスだけ絞り出して瓶に詰めた、そんな印象。  董子はすでに、この世界のものではないのかも知れない。藤次郎は不安になった。 「その通りだ!」  触手が一斉にたちあがって震えた。 「おまえの考えた通りなのだ。先家董子はもはや、取るに足らない人間の女ではない。繭の核となってその意識を、生まれ出る新しき、この星を継ぐものへと重ね合わせる存在。繭の島の地底に眠って時を待っていたものと溶け合い、この星の未来をつくる源となる女なのだ。おまえたち人間が陵辱の限りを尽くしたこの星は、ようやく、真の支配者を得て蘇る。おまえたちは一掃され、この星には、穏やかな永遠の平和と繁栄とがもたらされる。おまえも喜ぶがいい。おまえの人としての寿命はどうせもうあと数年、その先のこの星は、今、ここでおまえが目にしている繭によって輝きを取り戻し、汚《けが》れもなく苦しみも争いも、醜いものが何ひとつとしてない崇高な生物たちだけのための場所になる。おまえはここに立ち、その繭を見た。そして未来がこの星にとって素晴らしいものとなることを知ることができたのだ。それだけでもおまえはとても幸運なのだ。さあ、わかったらここから立ち去れ。繭の島に戻り、島民たちに告げるのだ。神は蘇った。神の種を守るおまえたちの使命は終わった。死にゆく人の運命と共に、その島が朽ちて果てるまで、神の故郷である場所にとどまり、神の繁栄を祈れ、と!」 「そんな化け物一匹で地球の未来が変わるものか!」  藤次郎は叫んだ。 「そいつは神なんかじゃない、ただの、わけのわからない化け物だ! 島の力がそいつに突然変異を起こさせただけで、もとはきっとただの昆虫か何かなんだ! おまえもそうだ、伊勢崎! おまえも本当はただの人間なんだ、それが、あの島の洞窟に長く暮らしていてそんな姿に変化しただけなんだ……」  叫びながら、藤次郎は自分の言葉をまるで信じていない自分に絶望した。  神なのか、神ではないのか。  どちらにしても、目の前の光の輪とその中心で漂う全裸の女とは、藤次郎の理解を超えた世界の存在だった。伊勢崎と名乗ったこの無気味な生物がそれを得意としていたように、おそらくは、この光の繭から生まれて来る生き物は、人の心を自在に操ることができるだろう。伊勢崎などは僕《しもべ》に過ぎず、繭から現れる生き物の力はもっと絶大で、人間はその生き物に心を操られて支配され、やがて滅びてしまうのだ。  藤次郎は泣きながら、それでも伊勢崎と繭とに罵声を浴びせた。伊勢崎は耳障りな笑い声をあげてそれを楽しむかのように見ている。 「頑固者め」  とうとう、伊勢崎の触手が業を煮やしたように逆立ち、あっと思う間もなく藤次郎のからだに巻きついた。 「逃がしてやろうかと思ったが、そんなに死にたいのならば望みを叶えてやる。おまえごとき、繭の養分となる若さすら持たぬ役立たず、殺す手間も惜しいと思っていたのだが」  巻きついた触手が締め上げられた。すぐに全身を苦痛が支配し、骨や関節はぽきぽきと無気味な音をたてた。  藤次郎は、死を覚悟した。  その時。 「やめろぉっ!」  藤次郎のからだに巻きついていた触手が一斉に、繭の方へと向かった。藤次郎はその場に倒れた。 「やめるんだあっ!」  伊勢崎の絶叫が聞こえる。 「そこから離れろぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉっ!」  光の輪の中心へと、冴絵の二本の腕が突き込まれ、浮かんでいる先家董子の、髪の毛のない頭部を掴んでいた。触手が冴絵のからだに巻きつくより一瞬早く、冴絵の腕は董子の頭を繭の外へと引っ張り出した。  激怒した触手が冴絵のからだに巻きつく。だが冴絵は、薄笑いを顔に浮かべて伊勢崎を見ている。 「わたしは死人」  津田愛果の声だった。 「死人を殺すことはできないのよ」 「裏切り者! おまえの存在の核は繭の核の一部となって溶けているのだぞ! この繭から孵った神にはおまえの意思も宿るのだ! おまえも神の一部になれるのだ! その女を中に戻せ! 戻せぇぇぇぇえっ!」 「あたしの心はこの化け物の餌になったのよ!」  愛果の声が冴絵の喉からほとばしった。 「あなたを信じていたのに……あなたなら、救ってくれると思ったのに! ひとりぼっちで誰にも気にされることもなく、求められることもなければ嫌われることもないまま、毎日毎日、自分でつくった枠の中の小さな世界をせっせと整理整頓して生きていた、そんなあたしを、あなたなら救い出してくれると思った……大好きだったひとに、好きよ、って一言、口にすることすらできなかったあたしの人生を、あなたが変えてくれる、そう信じていたのに!」  愛果は笑い出した。 「この化け物は悪食《あくじき》なのよ! あたしの心なんて餌にしたって、退屈とか嫌悪とか諦めとか、ろくな感情しか食べられやしないのに。あたしの前にもこいつは大勢の女の心を食べて太った。だからこいつは、あんたが理想とする崇高な生き物なんかになれやしない。この繭から生まれて来るのは、幸せになれなかった女の恨みを体内にいっぱい詰め込まれた、薄汚い出来損ないの怪物でしかないのよ!」  触手が冴絵の肉体を締め上げたまま、激しく宙を躍って上下左右に揺れた。 「やめろぉっ!」  藤次郎は床からからだを起こそうとした。 「冴絵さんのからだがばらばらになってしまう! 津田さん、冴絵さんのからだから出てくれ! 津田さん! 津田さん、お願いだ、津田さん!」  愛果は笑い続けている。冴絵の顔には愛果の薄笑いがべったりと貼り付いていたが、冴絵のからだは奇妙な形にねじ曲がり、そのままだともうすぐにでもぽきりと折れてしまいそうだった。藤次郎は床を這った。触手に背骨を痛めつけられていて起き上がることが出来なかった。それでも、冴絵を殺すことだけは絶対に避けなくてはならない。冴絵は無関係なのだ。彼女はただ、愛果がこの世界で形を持つために器として選ばれただけだった。  触手を持つ赤黒い生き物は、今や、怒りで理性を失いつつあった。冴絵のからだを巻き取ったままで、触手は部屋中を暴れまわった。  藤次郎は、涙と噴き出した鼻血とで汚れた手で、必死に床を掴み、動かない両足を引きずって繭の方へとからだをずり上げた。  頭上で、何かが破裂した。  藤次郎は頭を起こした。  触手が部屋の天井から下がったライトに当り、蛍光灯が割れて飛び散っていた。  ガラスの破片がばらばらと落ちて来る。  ぎゃっ!  悲鳴があがった。触手に掴まれていた冴絵の顔、そこに重なり合った愛果の顔が恐怖に歪んだ。  悲鳴をあげたのは愛果だった。だが、おびただしい血を流していたのは、光の繭の外に頭だけ出してうなだれていた、董子の顔だった。  董子は今、目を開けた。  額に突き刺さったガラスの破片。その傷口から流れ出した鮮血が、董子の顔を赤く染めた。  董子は、覚醒した。  周囲を確認するかのように、董子の首がゆっくりとまわった。そしてその視線が伊勢崎に、それから、触手に掴まれた冴絵のからだへと移る。  董子の口が開いた。  ぽっかりと、闇が見えた。  血が口の中に流れ込み、歯が真っ赤になる。それでも血は口から溢れて唇から顎へ、顎から白い光の繭へと滴る。  董子の両腕が、唐突に繭の外に突き出た。  それから、その腕に支えられて上半身が引っ張り出され、乳房と臍《へそ》、そして茂みのない腹部と、両足が繭から引き抜かれる。  董子は何かを呟いていた。  何かの言葉の羅列。だがそれは、意味のとれない音の集まり。  藤次郎の古い記憶が、董子の呟きと同じものを幼い頃に聞いたと彼自身に教える。  白装束の先家の婆様が、同じ言葉を呟きながら、洞窟の奥へと消えて行くのを見たことがある、と。  エジカラヤエンナ ヨノカラヤヤンヤ  エジカラヤエンナ ヨノカラヤヤンヤ  藤次郎の耳にはそう聞こえた。  董子は光の繭の上に立ち、その、意味のわからない言葉を呟きながら触手を持つ生き物を見つめていた。  触手の動きが止まり、冴絵の肉体が放り出されるように床に落ち、転がって藤次郎の目の前で動かなくなった。 「冴絵さん!」  藤次郎は目を閉じたままの冴絵の耳元で名を呼んだ。その顔にはもう、愛果は重なっていない。 「だめよ!」  愛果の声が響く。もう冴絵の唇は動かない。  愛果は、実体のない声だけの存在になっていた。 「そいつと行っちゃ、だめ! あなたは戻るのよ! あたしが行くから! あなたの代わりに、あたしがこの化け物の中に溶けるからあっ!」  董子の、血で赤く染まった歯の間から、笛を鳴らすような音が漏れた。  董子の頭上で白い煙のようなものが渦巻き、それが、董子が破って出て来た繭の割れ目へと飛び込んだ。 「繭は死にます」  董子の喉から、嗄《しわが》れた老婆の声がした。先家の婆様の声だった。 「取り込んだ者の心根が淋しぃ過ぎて、これ以上、大きぃになることができなんだ。淋しい心ばかり集めて溶かしたから、繭の核は空になってしもうたんや。わしが核になれば繭は死なずに済むやろが、わしのおる隙間に、おなごが入り込んで埋めてしもた。他の心よりもっと淋しい、淋しい心が核に溶けたぞ。哀れよのう。この繭はもう死にます。諦めなせえ」  先家の婆様の声は、歌うように響いていた。  伊勢崎の触手がだらりと垂れ下がり、そして、見る間に腐ってぽとぽとと床に落ちた。赤黒いぬめぬめとした皮膚も、朽ちるようにして伊勢崎のからだから剥がれ落ちる。ぼたぼた、ぼたぼたと、おぞましい肉片が床にこぼれて広がった。  その赤黒い肉片の中から何かが現れた。  人の形。  人間の形をしたもの。だが生きた人間の色をしていないもの。  茶色く変色し、ぴったりと骨に貼り付いた皮膚。  ミイラ。 「諦めなせえ」  老婆の声が響きわたった。 「またいつか、その時が来るかも知れぬでのう。卵はまだ、あちこちに散らばってあるはずじゃ。わしらは卵がこの世にある限り、繭に呼ばれてその時には参ります。わしらは子守りやけん。繭の子守りやけんのう」  ミイラが、ぐきっと音をたてて二つに折れ、床に崩れた。  繭の光が、ろうそくの炎が消えるように弱くなり、やがて何もなくなった。  全裸の董子の肉体が、足場を失って床に叩きつけられた。  藤次郎は見つめていた。  光の輪、白く輝く繭のあった場所に、何かが転がっている。それはテニスボールほどの白い石だった。何の変哲もない、どこにでもある、すべすべとした表面を持つ河原の石、だった。  今、ここであったことはすべて、明け方に見る悪夢なのだと笑って藤次郎に教えているかのように見える、ただの石、だった。 [#改ページ]   終  章 「本当に、石だったそうですよ」  見舞いに来た吉良が苦笑いした。 「ごくありふれた火成岩で、日本全国どこにでもある。少なくとも、いかなる生き物の卵でも繭でもありません、と言われました」 「申し訳ない」  藤次郎は、苦労して半身を起こした。 「あ、そのまま寝ていてください」 「いや、訓練しないとね。このまま寝たきりになってしまうのはごめんですから」 「吾妻さんの体験が夢でも幻でもなかった、という証拠は、今のところまだ出ていません。だが自分で自分のあばらを抱き潰すほどの怪力が吾妻さんにあるとも、警察は思わないでしょう。あの部屋を借りていた橋田《はしだ》なにがしという男は、もう三年も前から周囲に姿を見せていないそうです。しかし家賃の方は、滞りなく支払われていた。津田愛果は百パーセント死んでいます。骨はとっくに墓の下です。伊勢崎雅治という空間プロデューサーは」  吉良は言葉を切って、頭を振った。 「存在していたという事実がどこにもありません。飯倉のビアホールは別の空間プロデューサーの作品だそうですし、調査の過程で伊勢崎について喋ってくれた人たちは全員、そんな男は知らない、と言ってるんです。伊勢崎をプロデューサーとして世に出したはずの後藤琢磨でさえ、一切記憶にない、と言い張っている。しかも」  吉良は笑った。 「驚いたことに、わたしの頭の中にも伊勢崎の記録がまるっきり、ない。吾妻さんからその名前を聞いても、うちの調査員だった伊勢真利子と名前が似てるな、と思っただけでした」 「しかし、調査報告書はあったんでしょう?」 「ありましたよ。人の頭の中の記憶は消すことができても、そこにある調査報告書から伊勢崎の名前を消すことはできなかったんでしょうかね」 「書かれた文字は、記憶ではなく、記録だからね」 「だとしたら、伊勢崎がこの世界にいたって証拠は、他にもいっぱい出て来ますよ。こうなったらわたしも意地です、何年かかってもそれらを全部かき集めて、いったいあいつは何者だったのか突き止めてやるつもりです。とは言え、あいつってどんなやつなのか、まだ思い出せないんですけどね」 「古いミイラだったよ」  藤次郎は、骨に貼り付いて茶色くなった皮膚を思い出していた。 「いったい、いつ頃に生きていた人間なのか……もしかすると、何千年も昔の人間なのかも知れないね」 「確かに、あの部屋の床からは、人体の破片ではないかと思われるものが回収されています。警察も必死で分析してる最中でしょう。ともかく、ビルの一室に瀕死の男女が三人、男は足の骨とあばらを粉々にされ、年上の方の女は腰の骨を砕かれていた。そして若い女は、全裸で全身の毛をつるつるに剃られた上に、額にはガラス片が突き刺さっていて、しかも、心臓が停止寸前なほどに衰弱していた。サイコスリラー映画の冒頭としても派手過ぎるくらいの事件ですからね」 「そして仕上げは、老人の妄想だ」  藤次郎も笑った。 「毎日刑事が来て、同じ質問ばかり繰り返してるよ。何か他に思い出したことはないか。本当のことを言ってくれ。いったい何があったんだ?」 「あなたは答えていらっしゃるのに」 「そう」  藤次郎は頷いた。 「わたしはすべて話した。そして、誰も信じてはくれません。吉良さん、警察はわたしを精神病院に入れてしまうかも知れない」 「心配はいりませんよ。そうなってもいろいろとコネはあります。なんとか早めに出て来られるように手配しますよ」 「お願いいたします……わたしは、まだ死ぬわけにはいかないんです。たぶんもう車椅子なしでは歩けないだろうが、それでも調べたいことがたくさんある」 「最近は車椅子でも飛行機旅行がし易くなりましたからね」  吉良は、吾妻の目の前、毛布の上に、何かのパンフレットを数冊、置いた。旅行会社のパンフレットだった。  スペインの旅。 「……これは?」 「もう少し具合がよくなられたら、一緒にバルセロナに行きましょう」  吉良は言った。 「この一ヶ月余りの調査で、面白いことがいくつか判ったんですよ。まずね、失踪した経堂美砂と江上啓次の件ですが」 「経堂美砂は、伊勢崎が津田愛果の前にあの繭の核にしようとして失敗した女性だったのでしょう?」 「そう考えていいと思います。もっとも死体も何も出ていないので、証拠になるものはありませんが。江上は故郷である牛窓に姿を見せた。我々はその符号に気づくべきでした。牛窓」 「つまり」  藤次郎は病院の白い天井を仰いだ。 「江上という男は……伊勢崎の……仲間だった……?」  吉良は頷いた。 「江上の実家についてもっと調べてみなければ正確なことはわかりませんが、おそらく、江上の血筋にも真湯島の血が流れているのでしょう。江上は、まだ真湯島と牛窓とが交流していた時代に島から牛窓に渡った一族の人間だと思います。伊勢崎は卵を抱いて島を出て東京に現れた時、自分に協力してくれる人間を探した。なぜそれが江上だったのかはわかりません。が、伊勢崎が何かの偶然で江上と出逢い、そこに島の血の力を感じ取ったと考えると辻褄が合うとは思います。江上は、経堂美砂をたぶらかして失踪したように見せ掛け、その実は美砂を伊勢崎に渡した。そして江上自身は、あたかも美砂と行動を共にしているかのように故郷に姿を見せた。その後で江上はどうなったのか」  吉良は、ほう、と、溜め息をひとつついた。 「牛窓からそう遠くない赤穂御崎の沖合いで、江上が牛窓に姿を見せてから半月後に、男性の水死体があがっているそうです。腐乱がひどく身元は不明。警察の話では、江上が歯医者に通っていた時のレントゲン写真が手に入ったので、その水死体の顎の骨と照合してみるそうですよ。もっともその水死体はとっくに荼毘にふされて無縁墓地に入ってるらしいですが、変死体なので歯型の写真が保管されているんだそうです」  藤次郎は頷いた。  吉良も頷いて続けた。 「そして、こっちの情報はとても重要なんですが、真湯島から大阪に出たまま行方不明になっていた夫婦、伊勢真利子の母親が行方を探していた人たちは、やはりバルセロナにいた形跡があるんです。そして、十年前、バルセロナ・オリンピックの準備に伴う建設工事で掘り返された市内の古い寺院の跡地から、男の白骨死体が発見され、骨格から東洋人ではないかと判断されたのですが、未だに身元が判明していないそうです。それと、これはスペインに住んでいる知人が送ってくれた新聞の切り抜きなんですが」  吉良は、取り出した紙片を広げて見せた。 「この絵、どう思います?」  そこには、丸い太陽のようなものの中に、手足を縮めた裸の女が浮かんでいる絵があった。 「バルセロナ近郊の小さな村に、新興宗教の信者一団が住みついている、という記事だそうです。わたしはスペイン語がだめなんですが。この絵は、その宗教団体が壁に飾っていたものの模写です。写真を撮ろうとしたら信者に禁止された、と書いてあるらしいですよ。その教団では、この絵をとても神聖なものとして崇《あが》めており、自分たちのことを、マヨコモーリ、と呼んでいる……ここです。MAYOKOMORI そのままですね。マヨコモリ。スペイン語ではない、と書いてありますね。そのくらいはわかるな。これ……あなたが聞いた、先家董子の祖母の声、あれに似てませんか、なんとなく。マヨコモリ。繭の子守り」  わしらは卵がこの世にある限り、繭に呼ばれてその時には参ります。わしらは子守りやけん。繭の子守りやけんのう。 「バルセロナにも」  吉良の顔から笑顔が消えた。 「その時が近づいている……のかも知れませんね」     *  冴絵は、見飽きた病院の天井を見つめるのをやめて横を向いた。  窓の外には緑の芝生と、歩いて行く白衣の人々の姿。  たぶんもう二度と、自分の足では歩けない。 「冴絵」  声がして、冴絵は窓から目を離した。 「週末に休みをとったよ。三日間だけ退院の許可をとるから、二人でどこかに遊びに行こう」 「無理はしないで」  冴絵は微笑んだ。 「車椅子を押して遊びに行くなんて、大変よ」 「すぐに慣れるさ」  夫は、冴絵の掌を両手で包んだ。 「どこにだって、二人でなら行ける。君は信じていないようだが、わたしはまだ若いんだよ、冴絵」  夫の笑顔は温かかった。  セックスも、もう出来ないだろうと医師から言われた。少なくとも普通の形での性交は無理、もちろん出産も不可能だと。  だが、罰だとは思わない。  冴絵は今でも、自分にひとかけらの罪悪感もないことに自分で半ば、呆れている。自分は、夫と勝昂の二人の男を裏切った。だがそうしなければ、生きていられなかったのだ。もしそうしていなければ、自分はたぶん、あの、自分の肉体に入り込んでいた女と同じところへと流されてしまっていただろう。  救いようのない淋しさの沼の、いちばん深い、奥底へと。  肉体の問題など、乗り越えられない壁ではないはず。少なくとも今、わたしは信じていられるのだから。  夫はわたしを愛している。そして、わたしも夫を愛しているのだ、と。  手だって動くし、唇も舌もちゃんとあるんだから。  冴絵は、自分のはしたない想像に思わず笑った。 「良かった、今日は気分が良さそうで」  夫は不器用な手つきで林檎の皮を剥き始める。  わたしはもう死ぬまで、この男のそばにいる。冴絵は、そう思ってまた、微笑んだ。     *  今朝、祖母が死んだ。  電報は、すぐに島に戻れと命じている。董子は、おばあちゃん、ごめんね、と呟いて電報を破り捨てた。  もうここにはいられない。島の人々に住所を知られてしまった。  明日、荷物をまとめよう。  好きよ。  言われていたら、なんと答えたのだろう。  受け入れることはできない愛。それでも、言われてみたかったと董子は思う。  心の底からそう言われることのよろこびを、自分はまだ、知らないのだ。  わたしは繭の子守りにはならない。  人間の女のままで生きて、愛して、どこかで死ぬ。母がそうしたように。母が、わたしにそうさせたいと望んで島を出たように。  董子は、押し入れから取り出したボストンバッグに下着を詰め、その中に一枚の写真も押し込んだ。愛果と一緒に写っているたった一枚の写真。会社の飲み会の時、誰かが撮って焼き増ししてくれたものだった。  たぶん逃げ切れはしないだろう。いつかはあの島に連れ戻される日がやって来る。それでも、愛果が身代わりになってくれたおかげであと少しだけ、自由に生きていられるのだから。  好きよ。  この星を継ぐとされている、あの繭から生まれて来るはずの存在は、言葉を必要としないのだ。伊勢崎がそうしていたように、直接、人の心に入り込んで何もかも知ることができるのだろう。  そして、わたしはそんなものを信じたりはしない。  わたしは、言葉を信じる。  誰かに何かを伝えたいと願って生み出された、その記号の力を信じる。  繭の中から生まれて来るものがどれほどの力を持っていようとも、人間は、必ず勝てるはず。  勝てる、はずだ。  なぜなら、わたしたちには、言葉があるから。  声にすれば言葉は実在し、文字にすれば言葉は記録となる。繭から生まれるものは、その記録を消す力を持たない。  記録され、伝われば、言葉が歴史となり、希望となる。  そう、人間は未来を言葉によって信じることができるのだ。  だから、負けない。  希望を奪われない限り、負けはしない。  単行本 二〇〇二年八月 双葉社刊 〈底 本〉文春文庫 平成十九年十一月十日刊