[#表紙(表紙.jpg)] 星々の舟 村山由佳 目 次  雪虫  子どもの神様  ひとりしずか  青葉闇  雲の澪  名の木散る  あとがきにかえて [#改ページ]   雪虫  受話器を置き、目をあげると夜明けだった。  居間の窓へと歩み寄り、煙草に火をつける。足もとにひろがる鈍色《にびいろ》の街の上に、雲が分厚く垂れ下がっている。  電話の向こうのすすり泣きが、耳の奥にこびりついて離れない。  額をガラスに押しあてて、暁《あきら》は目を閉じた。地上をはるかに見下ろす窓は思いのほか冷たく、日に灼けた裸の上半身がみるみる粟立っていく。  あれから何年になるのだろう。生まれた町を飛び出したのが大学二年の頃——ということは、そろそろ十五年にもなるのか。あれ以来、一度も家に戻ったことはなかった。戻りたいとも思わなかった。この先も二度と戻るつもりはなかった。そう、今の今までは。 「どうしたの」  ふりむくと、寝室の入口から女がのぞいていた。  一瞬、また酔っぱらって知らない女を連れこんでしまったかと思った。  そうではなかった。化粧のはげた眠そうな顔のせいで、涼子がいつになく幼く見えただけだった。  胸に巻きつけたシーツを引きずりながら、彼女は居間を横切って、するりと腕の中に滑りこんできた。顔の造りは十人並みでも、猫のような立ち居ふるまいのおかげで三割増し美人に見える女だ。暁がくわえていた煙草をつまみ取り、涼子は彼の胸によりかかってそれを吸った。 「すごい眺め」遠くで赤く点滅する鉄塔めがけて、ゆっくりと煙を吹きかける。「宙に浮かんでるみたい」 「この眺めだけで、ここを買った」 「驚いた。水島クンがお金持ちって噂、本当だったんだ」  そんなことはない、それにたぶん、もうじきここも出ていくことになるのだと言おうとして——やめた。かわりに、目の前の細い肩に落ちかかる髪をかき分け、あらわになった首筋に唇をつける。涼子は吐息をもらした。  すすき野の彼女の店で遅くまで飲むのはこのごろでは珍しくもないが、寝たのはもちろんのこと、部屋に上げたのもゆうべが初めてだった。彼女でよかったと暁は思った。今はこれ以上、面倒に耐えられそうもない。 「誰からだったの」 「うん?」 「さっきの電話」 「ああ。妹」  涼子は首をねじって暁を見た。「良くない知らせだったのね」 「どうして」 「明け方の電話がいい知らせだったためしはないもの」  暁は肩をすくめた。 「そうとは限らないさ。上の子が生まれた時だって、こんな時間にかかってきた」 「そう? その時もあなた、そんな顔してたわけ?」  苦笑いして、涼子の指から煙草を取り返した。窓の溝に灰を落とす。 「おふくろがさ」顎を彼女のつむじのあたりにのせて暁は言った。「危ないんだと」 「え。でも確かあなた、小さいころ亡くなったって」 「うん。だから、育てのおふくろ」 「……ご病気?」 「クモ膜下出血」  涼子がかすかに眉を寄せて見上げてきた。「行くんでしょう?」 「さあな」 「行かないと、あとで後悔するわよ。私なんか、父親の死に目に意地張って会わなかったこと、いまだに心残りだもの」  答えずにいると、 「これから支度して出れば、午前中には着けるじゃないの」と彼女は言った。「ね、行ってらっしゃいってば」  黙ったまま煙を吐き出す。  後悔など、怖くも何ともなかった。  怖《おそ》れているのは、もっと別のことだった。      *  産みの母親の顔を、暁は覚えていない。ずいぶん後になるまで、彼は自分を育ててくれた志津子《しづこ》が実の母でないなどとは想像したこともなかった。  父・水島重之《みずしましげゆき》は、東京の西のはずれで大工をしていた。先代も大工だったし、そのまた先代は宮大工だった。  重之のもとに嫁いできた母・晴代《はるよ》は、夫の出征中、十九で男の赤ん坊を産み落とした。だが、その子は運のない子どもだった。三つになるやならずで肺炎に命を取られたのだ。  重之が無事復員して五年の後に貢《みつぐ》が生まれたものの、その後は何度か流産をくり返し、ようやく暁を産んだ時には、晴代は四十を過ぎていた。難産がたたったか、あるいは生来丈夫ではなかったせいだろうか——亡くなったのはその翌々年と聞かされている。ちょうど、重之の興した工務店が軌道に乗りはじめた矢先だった。  当時、上の貢は下宿から大学に通っていたので、家には重之と、まだ二つにもならない暁だけが残された。男手ひとつでは身動きが取れず、途方に暮れた重之は、住み込みの家政婦を雇うことにした。それが志津子だった。  志津子は、以前にも通いで水島家に勤めていたことがある。晴代が暁を出産後、床につく日が多くなったためだ。その頃はまだ独身だったのが、一年ほど間をおいて、改めて住み込みで働くようになった時には、よちよち歩きを始めたばかりの女の子を連れていた。夫とは、子どもが生まれる前に別れたという話だった。  志津子と娘の沙恵《さえ》は、裏庭の離れで寝起きするようになった。小柄な体でくるくると立ち働きながらものんびりとした口調でものを言う志津子に、暁はすぐになついた。一つ年下の沙恵はいい遊び相手だった。そうして、やがて重之は正式に志津子を後妻に迎えた。なんでも兄の貢はひどく反対したようだが、就職してすでに家を出ていた彼には、どのみちたいした発言権はなかったらしい。  記憶の底をどれだけさぐってみても、暁には、志津子からつらく当たられたり、沙恵との間で分け隔てをされたりした覚えがまったくない。どこまでも人のいい女だった。  いちばん古い記憶の中にいる義母は、庭先に出した丸いプールのそばで、泣きわめく暁を抱きかかえて慰めながら沙恵を叱っている。たしか、沙恵のふりまわしたおもちゃが彼の額に当たるか何かしたのだった。  玉仕立ての庭木。鹿《しし》おどしの音に跳ねる鯉。光る水しぶき。透きとおった黄緑色の水鉄砲、ぷかぷか浮かぶアヒルのおもちゃ、裸にむかれたリカちゃん人形、そして、赤い縞の水着を着てはしゃぐ、まだ三つかそこらの沙恵。縁側に腰かけておだやかに微笑む義母のおなかは大きくせり出し、頭の上にはガラスの風鈴が揺れていた。あの少し硬い、けれど深く澄んだ音……。 (ねえ、お願いだから)  あの時おなかの中にいた末の妹の美希《みき》は、今朝、電話口で何度も鼻をかんでいた。 (今は何とか持ちこたえてるけど、ほんとに危ないかもしれないの。普通はすぐ手術するんだそうだけど、なんか脳の血管がすごく細くなってるとかで今すぐはできないんだって。さっき母さん、ほんのちょっとだけ意識が戻って、私の顔見るなり何て言ったと思う? 『ほら、暁にあれ渡してやんなきゃ』って。たぶん、私とそっちへ行った時のこととごっちゃになってるんだろうけど……あれきっと、会いたいんだよ兄貴に。頼むから来てあげてよ、ねえ)  クラクションで我に返った。  いつのまにか青になっている。急いでギアを入れている間に、後ろのドライバーはじろりとこちらを一瞥して追い越していった。  手稲《ていね》を過ぎ、銭函《ぜにばこ》にさしかかるところだった。右手に広がる海は、昼間だというのに蒼黒くむくんで見える。  札幌と小樽を結ぶこの道を、もう何度往復したことだろう。定休日明けの今日は週に一度のスタッフ・ミーティングの日で、開店時間の正午までに一週間分の申し送りを済ませてしまわなければならない。が、もちろん、今日一日くらい暁が行かなくてもどうということはない。チーフの和夫に電話を入れて、急用ができたから後を頼むと言えばそれで済む。  小樽港にほど近い古い倉庫を、そのまま店舗として利用した西洋骨董の店——暁はもう数年来、その店の経営を任されている。オーナーは義父。妻の奈緒子《なおこ》の父親だ。  初めはただのアルバイト、それも、すすき野の酒場のアルバイトだった。ちょうど、何もかも見失って最もすさんでいた頃だ。東京からバイクをひたすら北に向け、大間崎から海を渡り、夏の終わりの北海道を目的もなく走りまわった末に、いよいよ食う金にも困って始めたその場しのぎの仕事だった。それが、しばらく居るうちにどういうわけかオーナーの堂本に気に入られ、姉妹店の開店準備を手伝ってみないかと誘われたのだ。  札幌のあちこちに酒場やレストランを幾つも持っている堂本は、そのころ四十代半ば。生まれてこのかた金に苦労したことのない者特有の、けだるい落ち着きと鷹揚《おうよう》さに満ちていた。 〈君は、若いに似合わずずいぶん礼儀正しいんだな〉  初めて暁を飲みに誘った夜、堂本はそう言った。からかうような軽い口調は、好意から出たものらしかった。 〈大学では、何か運動でもやってるの〉  剣道をほんの少し、と暁は答えた。 〈そうか、やっぱりな。何か武道系だと思ったんだ〉  暁は黙っていた。心の内では、もし自分が礼儀正しいとすれば、それは剣道部のせいではなくてあのクソ親父のせいだと思っていた。 〈古臭いと笑われるかもしれないがね。僕は、目上の人間に対してきちっと敬語を使えない人間が大嫌いなんだ。言葉なんかにこだわるより心が大事だろうという者もいるが、言葉ってのは案外正確に、使う人間の内面を映し出すものだよ。いわば心の鏡みたいなものだ。そう思わないか〉  口ひげについた泡をぬぐい、堂本は暁のグラスにもビールを注ぎ足した。 〈ところで、大学はいま休み?〉  いいえ、辞めました、と暁が言うと、堂本は目を細めた。 〈そうか。じゃあ僕と同じだ〉  開店準備中の店は大きかった。重厚な石貼りの一軒家で、一階は渋いアンティークの調度品でまとめられたイギリス風のティールーム。二階はシェフが客の前で肉を焼いてみせるのが売りのステーキ・レストランになっており、こちらは西部劇の酒場風。客の目にはまったく別々の店に見えるが、どちらも経営は堂本だった。  内装工事がいよいよ仕上げに取りかかるところで、暁はディスプレイ用品の搬入を手伝わされた。かつてはアイルランドのパブに飾られていたというステンドグラスの衝立《ついたて》。微妙な色合いのランプシェードや、使い込まれて黒光りする樫の木のスツール。あるいはまた、英字の書かれた木箱やブレッド缶、開拓時代の鞍や投げ縄、メキシコの古い木戸……。  骨董的価値の高い物でないことくらいは、見ればわかった。厳密には百年以上たっていないとアンティークとは呼ばないものらしく、それより新しい品は〈ジャンク〉とか〈コレクティブル〉と呼んで区別するという。要するに、二十世紀初頭以降のガラクタの類《たぐい》だ。  しかし暁は、不思議と惹かれるものを感じた。どれだけ年を経ようが決して美術館に収められることはない、けれど古びれば古びるだけなぜか美しくなっていく物たち。その手ざわり。風合い。面構え。そんなことを意識するのは初めてだった。 〈それがつまり、物のいのちというものだよ〉  同好の士を見つけたと思ったのか、堂本はえらく嬉しそうだった。 〈興味があるなら、レストランよりこっちの仕事を手伝ってみないか〉  海外へ出向いては田舎町で古い生活骨董を買いつけ、ある程度まとまったところでコンテナで運び、日本国内のアンティーク・ショップや、店舗の内装を請け負う工務店などに卸す。それが、堂本のもう一つの商売——いや、道楽だった。骨董ばかりでなく、古材の梁や柱、風雨にさらされた瓦から古レンガまであわせて仕入れ、ゴルフ場のクラブハウスやリゾートのコテージなどをまるごとプロデュースすることもあるという。  そろそろ骨董のほうも、一般客向けの店舗を構えるつもりだと堂本は言った。札幌もいいが、小樽も面白い。ちょうどいま土産物屋の並ぶ目抜き通りにそこそこの物件があるのだが、いまひとつ決め手に欠けるので迷っているのだ、と。  そのとき暁が運河のそばの古い倉庫のことを思い出したのは、ほんの偶然に過ぎない。二か月ばかり前、旅の途中にバイクで通りかかったそれらの建物が、たまたま印象に残っていただけのことだ。大工である父のもとで木《こ》っ端《ぱ》をおもちゃに育ったせいか、味のある建物を見るとつい足を止めて眺めてしまう癖があった。  今でこそ、港や運河の周辺はにぎやかに飲食店の立ち並ぶ通りになっているが、その頃はまだほとんど開発が進んでいなかった。観光客は皆ガラス工芸の店に立ち寄り、名ばかり通った寿司屋で馬鹿高い寿司を食べ終わると、運河を背に記念撮影を済ませただけでさっさと小樽を後にした。  しかし堂本は、目抜き通りの一等地の物件を蹴って、あえて暁のすすめた、古びたレンガ造りの倉庫に店を出すほうを選んだ。そればかりか巨大な倉庫をぎっしり埋めるだけの商品を買い付けるために、暁を連れて幾度も海外をまわり、品物の見極め方から駆け引きの仕方、船便の手配から税関の手続きに至るまで、数年がかりでこの商売のノウハウを彼に教えこんだ。  そうして彼は、四年の後に、暁に託したのだった。  店と。  娘を。  ミーティングを済ませ、店を開けてしまうと、そこにいる理由がなくなってしまった。  大きなファンのついたストーブが、唸《うなり》りをあげながら熱い風を奥へと送っている。天井が高く光がさすこともない倉庫の中は、どれだけ暖めようとせいぜい気休め程度にしかならない。これからの季節、若いスタッフたちは皆ダウンジャケットを着こみ、マフラーを巻いて仕事をする。 「いや、ですからそれは無理ですって。うちの商品の性格上、そこんとこはわかって頂かないと」  中央に据えた本物の幌馬車の向こうから、電話に応える和夫の声が聞こえてくる。 「もともとが古い物なんですから、まったく同じ物というのは……。え? ああ、はい、それだったら何とか可能だと思いますけど」  入ってきた二人連れの客のために、暁は脇へよけた。  店内には、冷やかし半分の客たちがすでに何組か散らばっている。金のない若い客も気軽に入って来られるよう、入口近くから奥へ奥へと誘うように、キッチュなアメリカのおもちゃや安いアジアの雑貨などのワゴンを配置してはいるが、あたりに所狭しと積み上げられている品物のほとんどは、暁が長年かけて自分の足で集めてきたものばかりだった。  取り壊し直前のボストンのパブから救い出したピンボールマシン。イギリスの民家のドアや教会のステンドグラス。明治のころ海外向けに作られたゲイシャの絵柄のコーヒーカップに、デッドストックのコーラの瓶、ドイツ軍放出品のごつい自転車、フランス国営銀行の麻の現金袋、イタリアの道路標識……。壁ぎわや通路はもちろんのこと、キャットウォークの上までも、ぎっしりと商品で埋め尽くされている。どれもこれも仕入れてすぐに売れるとは限らなかったが、品物はゆっくりと、確実に回転していた。 「店長」  見ると、学生アルバイトの昌子だった。 「次の買い付けとか、いつ行くんでしたっけ?」  顔がきれいな割によく働くというので、スタッフみんなから可愛がられている子だ。毛糸の帽子を耳まで深くかぶってもまだ寒いのか、首をすくめて足ぶみをしている。 「たぶん、来月の二十日から」と、暁は言った。 「今度はどこですか?」 「ベトナム」 「えー、いいですねえ。いっぺん行ってみたーい」 「ベトナムへ? それとも買い付けに?」 「んー……両方?」と昌子は笑った。「こういう仕事とか、けっこう興味とかあって」  とかとか言うな、と思ったが、えくぼの深く刻まれる笑い方が昔の沙恵に似ている気がしてつい見入ってしまった。 「しっかし寒いですねえ、今日」入口から灰色の空を見上げて、昌子は言った。「そういえば、先週でしたっけ? 雪虫とかいっぱい飛んだの」  札幌という街には、しょっちゅう何か白くてふわふわしたものが舞っている。  冬の間ばかりではない。初夏の頃、街路樹のポプラは風が吹くたびに綿毛のついた種子を飛ばし、それらは逆光に透けるとひとつひとつが雲母のように輝く。歩道で立ち話などしていると口の中に飛びこんでくることもあるほどだ。それから、秋の終わりに飛ぶ雪虫。この街で暮らすようになって初めて、暁は雪虫を知った。  晩秋の夕暮れ、体に綿のようなものをつけた小さな羽虫がいっせいに飛ぶと、その名のとおり本当に粉雪が舞っているかのように見える。どこからともなく現れ、低く静かに、漂うように飛ぶ彼らは、夏から秋を過ごした木を離れて別の木へと移る旅の途中なのだ。 〈雪虫が飛ぶと、数日後には初雪が降る〉  それがただの言い伝えではないことを、暁はもう知っている。  とりあえず、札幌のオフィスへ戻るためだと自分に理屈をつけて車を出した。エアコンを強にし、ラジオをつけ、手持ちぶさたのあまりまたしても煙草をくわえかけた時、携帯が鳴った。涼子だった。 (今どこにいるの)  暁はブレーキを踏み、慎重に車間距離を取った。 「マイカルの横を走ってる」 (そんなことだろうと思った)涼子は大げさなため息をついた。(それで、どっちへ向かってるのよ) 「一応そっち」と暁は言った。「何だ、同伴出勤のお誘いか?」 (ねえ、水島クン)あたまから無視して、涼子は言った。(意地を張るのもいいかげんになさいってば。昔どんなことがあったか知らないけど、これから死ぬ人に何を我慢させようっていうのよ。死刑囚だって最後の望みくらいはかなえてもらえるじゃないの)  暁はため息をついた。 「なんであんたがそんなに気にするんだ」 (べつに理由なんかないわよ。気になることを気にして何がいけないっていうの?)  苦笑いするしかなかった。ゆうべ初めて寝た女から偉そうに説教されているにしては、まったく不快でないのが不思議なほどだ。自分に姉がいたらこんな感じかもしれない。  涼子にとって、父親の死に目に会えなかった悔いはそれほど大きかったのだろうか。彼女の父親は、この勝ち気な娘をどんなふうに愛したのだろう——。  上り坂にさしかかり、フロントガラスいっぱいに白い空がひろがった。  ラジオは、夜半からの雪を告げている。      *  暁の父・重之は、長男の貢とはよくぶつかったものの、幼い子どもらのことはそれこそなめまわすようにして可愛がった。  ふだんは偏屈で気分屋、ちょくちょくつまらないことに腹を立てる男だったが、暁や沙恵のことになると話は別で、たかだか虫刺されの跡が赤く腫れただけでも抱きかかえて医者に駆けこむほどだった。  子どもらのほうも小さいうちは父親によくなついていた。とくに暁が好きなのは、重之に肩車されて建築中の現場を見て歩くことだった。言葉つきも荒いたくましい男たちが、ひときわ大柄な父親の一声できびきびと立ち働くのを見ると、自分まで偉くなった気がした。  しかし、志津子との間に末の美希が生まれた年の春、重之は、取引先からとつぜん借金の保証人を頼まれた。終戦後、裸一貫で工務店を始めた頃さんざん世話になった材木屋の二代目で、額が半端でなかっただけに志津子は心配したが、重之はそれを振りきって保証人を引き受けた。信頼だ侠気だと口にしてはいたが、要するに断るに断れなかったのだろう。  材木屋が多額の不渡りを出して逃げたと知らされたのは、それから間もなくのことだ。穏やかだった日常は一変し、それから数年の間、一家は苦しい暮らしを強いられた。破産宣告といった最悪の事態こそは免れたものの、家も土地も抵当に入れるしかなかった。  同情する者も中にはいたが、ばかにする連中もいた。ほくそえむ連中はもっと多かった。仕事を増やそうにも元手が足りず、かろうじて入った金で当面必要な部材を仕入れ、どうにか次の仕事につなげてはまた細々と収入を得る。綱渡りのような日々だった。  重之は、以前にも増して偏狭になっていった。外に対して平然とした態度を崩さないぶん、家で荒れることが多くなった。経営が少しずつ持ち直してきてからも、それは変わらなかった。気分の浮き沈みはますます激しく、機嫌のいい時には志津子や子どもらにわざわざ一張羅を着せて寿司屋へ連れていったりもするくせに、いったんへそを曲げたが最後、もはや誰の力をもってしても怒りを鎮めることはできないのだ。  原因はたいてい下らないことばかりだった。布団の敷布にしわが寄っている。入りたい時に風呂が沸いていない。味噌汁がぬるい。あるいは家族で町を歩いている時、よその男が志津子を振り返って見ていたというだけでみるみる不機嫌になり、家に戻るとお前はあの男とできているに違いないと変な言いがかりをつけて志津子をなじった。酒を飲んでは怒声を張りあげるうち、どうやら自分でも本気でそう信じ始めてしまうらしく、志津子がそれをばかばかしいと笑うとなおさら怒り狂った。  そんな時、暁は沙恵と寄り添って縮こまり、小さい美希を抱きかかえて嵐が過ぎるのを待つしかなかった。一度、志津子の髪をつかんで寝室へ引きずっていく父親を止めようとして投げ飛ばされて以来、怒鳴り声を聞いただけで体がすくむようになってしまっていたのだ。 〈おにいちゃんも、おとなになったらおさけのむ?〉  半泣きで震えている沙恵を抱き寄せながら、 〈のむわけないだろ〉暁は激しく首を振った。〈のむもんか、ぜったい〉  こんなこともあった。  その日は昼過ぎから雨が降り出し、見る間にどしゃ降りになった。裏庭で遊んでいた暁は、家に走り込むなり、台所に立つ志津子の背中へ叫んだ。 〈父ちゃん、きっと今ごろずぶぬれだろな。いいきみだ〉  ふり向いた志津子の顔は蒼白だった。  と、奥のふすまがはぜるように開き、重之が飛び出してきた。逃げようとする暁の襟首をぐいとつかんで、顔がふくれ上がるほど殴りつけ、泣きながら止めに入った志津子ともどもしまいには土間に蹴り落とすと、重之はこめかみに太い血管を浮き上がらせて怒鳴った。 〈お前ら、俺の留守中こんなことを言い合うとるのか! ええ? 人を馬鹿にしくさって!〉 〈馬鹿はあなたでしょうが!〉さすがの志津子も声を張りあげた。〈たかが子どもの言うことに本気になって。そんなに殴りたいなら私を殴ればいいでしょう。どうせ弱い者いじめしかできやしないくせに、卑怯者ッ〉  怒りに声も出なくなった重之は、土間の隅に立てかけてあった竹ぼうきをひっつかむなり志津子の頭と言わず背中と言わずめったやたらに打ちすえ、ついに命の危険を感じた彼女が這いずって隣の家へ転がりこむまでやめなかった。 〈お前ら、誰のお陰で食えると思ってるんだ! ええ? 誰のお陰だ、言ってみろ!〉  あの日のことを思い出すたびに、暁の内には今でも、恐怖がありありとよみがえる。  けれど、かつては自分でも持てあますほどだった父への憎しみは、いつの頃からかほとんど消えてしまった。父の言葉を思い出すことはあっても、こみあげるのはもはや怒りではなく、侘《わび》しさだけだ。 〈誰のお陰で食えると思ってるんだ〉  そんな貧しい問いをくり返し、女房子どもの答えをいちいち確かめなければ立っていられないほど、あの頃の父は拠《よ》り所を失っていたのかもしれない、と今では思う。  父の肩車——あのくすぐったいような誇らしさ、体がひとりでに踊り出してしまいそうな高揚感、まわりじゅうが光に満ちているような晴れがましさ——それらは、決して終わらないものだと信じていた。幼かった自分にとっては、父こそが拠り所だったのだ。  かつてのささやかな幸せがずっと続いていたなら、自分が家を飛び出すことはなかったのだろうか。  いや、そんなはずはない。そんなことはあり得ない。たとえあの時の借金や、父との対立がなかったとしても、遅かれ早かれその時は来たはずだ。  そう——彼女がいる限り。      *  羽田についた時ちょうど降り始めた雨は、タクシーをおりる頃には激しい吹き降りになっていた。  すでに八時を過ぎている。 (今さら会ってどうする)  と、 (今会わなくてどうする)  とが、この期《ご》に及んでせめぎ合い、胃のあたりがぎしぎし軋《きし》む。  そこは、むかし暁も世話になったことのある病院だった。中学の体育の授業中、ゴールポストに激突し、鎖骨を折って担ぎ込まれたのだ。さすがに二十年を経ると、建物は夜目にもみすぼらしく見え、傷みやひびが目立った。外灯に照らされたコンクリートの壁が、横なぐりの雨に黒々と濡れている。  走り去るタクシーのテールランプが見えなくなって、ようやくあきらめがついた。  夜間受付で志津子の名前を告げると、痩せぎすの守衛は小さな案内図に鉛筆で印をつけ、そこのナース・ステーションでもう一度訊くようにと言った。  リノリウム張りの長い廊下を歩いていく。時間外とあって頭上の蛍光灯はほとんどが消され、薄暗い館内に湿った足音だけが響く。  誰もいない薬局前の待合室を横切り、レントゲン室の手前を曲がった。案内図には、その奥のエレベーターに丸印がつけられている。非常口の表示板がいやにまぶしくて目をしかめた時、 「お兄ちゃん?」  ぎくりとしてふり向くと、消えた蛍光灯の真下の暗がりに沙恵が—— 「遅いじゃないのようっ」  ……違った。美希だった。  美希は、そこに棒立ちになったまま泣き出した。顔を伏せるどころか、暁が近づいていくのを正面切って睨みつけるその目から、涙ばかりが次々にあふれては落ちる。 「なんでよ、ばか。なんでもっと……」  暁は、手をのばした。妹の頭を抱き寄せる。  泣き声は一瞬大きくなりかけたが、すぐにくぐもった唸り声に変わった。 「——いつ?」  自分の声が、ひどく遠くから聞こえる。 「六時ごろ」美希は鼻をすすり上げ、ようやく顔をぬぐった。「連絡したのに、携帯通じないんだもの。そっちがその気ならもういいって、あきらめかけてたとこ」 「飛行機の中だったんだ」  美希は、肩にかけていたバッグからティッシュを出し、音を立てて洟《はな》をかんだ。 「ごめん。怒鳴ったりして」  暁は黙っていた。 「こっちよ」  つぶやいて、美希は歩き出した。  闇に溶けるような濃紺のセーターの上に、青白い横顔が載っている。その顔がちらりと暁をふり返り、居心地悪そうに微笑んだ。 「痩せたんじゃないの、お兄ちゃん」 「そうかな」 「でもまあ、四年ぶりだもんね」 「そんなになるかな」 「なるわよ。だってほら、私が出張で行った時に会って以来だもの」 「……そうか。そういえばそうだった」 「ねえ、疲れてるんじゃないの、大丈夫?」 「なんで」 「お隣のボケかけたお爺ちゃんが、よくおんなじこと言うわよ。『そうか、そういえばそうだった』って」  暁は苦笑して、妹の頭をそっと小突いた。「無理してしゃべるな」  美希の唇が、また少しゆがんだ。  この末の妹の、どんな時も失われない芯の強さとあかるさに、今までどれだけ救われてきたことだろう。ここ十数年、暁がたまにでも顔を合わせた身内といえば美希だけだ。それ以外には、はるか昔に一度だけ志津子と会ったきりだった。  あれは確か、家を飛び出してから二年目か、いや三年目だったか——ほんの気の迷いで電話をかけた暁から、志津子は泣き落としのようにして居どころを聞き出すと、次の週にはもう札幌に来ていた。その時も美希がつき添っていた。暁を見つけて小走りに坂を下りてくる義母はなぜか片足をかばうようにしていて、見ているほうはいつ転ぶかとひやひやさせられたものだ。勢いがついて止まれずにいるその腕をつかまえると、 〈今までどうしてたのぉ、あんた〉志津子は息を切らしてしゃべり出した。 〈こんなに親に心配さして、この薄情もんが。え? なに、足? いやん、これはほれ、おとといだっけ、漬物石落として。なんだろうねえ、もう、このごろ頭も手もぼんやりしてきてねえ、歳かねぇやっぱり。あ、歳かねぇで思い出した、忘れないうちにほら美希、暁にあれ渡してやんなきゃ〉  封筒に入った〈父さんに内緒のへそくり〉の他に、何を渡されたのかは覚えていない。セーターにホッカイロ、分厚い靴下、たぶんそんなものばかりだったと思う。いま下ってきた坂をもう一度上がるのに、ひじでも支えてやろうかと伸ばしかけた手を、何となく気恥ずかしくなって引っ込めたことはよく覚えている。  つき当たりのエレベーターホールで立ち止まり、美希は下向きのボタンを押した。 「ところで、奈緒子さんは元気?」 「ああ」と暁は言った。「ま、相変わらずだよ」 「子どもたち、大きくなったでしょ」 「上はもう一年生だ。……なあ、それより、」 「父さんならさっき家に帰ったわよ」と、美希は先回りして言った。「このうえ父さんにまで倒れられちゃたまんないもの。貢兄さんのとこの頼子《よりこ》さんと政和《まさかず》くんが送ってってくれて、今夜は泊まってくれることになってるの」  続けて美希は、ぽつぽつと話しだした。ゆうべ、突然激しい頭痛を訴えて倒れた志津子が救急車でここへ運ばれた時、通常のようにすぐに手術が行われなかったのは、医師たちの判断によるものだった。発作の影響で脳の血管が縮んでしまっているので、少しおいてからのほうがいいというのだ。しかし、おそれていた二度目の出血は、一度目よりもはるかにひどかった。少なくとも、三度目の心配が永久になくなるくらいには。  エレベーターがやっと下りてきて、目の前の扉がするすると開いた。場違いに明るい箱に乗り込み、ゆっくりと下っていく。すべてに現実感がなく、まるで宇宙人にさらわれる夢でも見ているような奇妙な感じがする。 「今さらだけど、せめてあと三時間早く来られなかったの」 「抜けられない用事があったんだよ」と暁は言った。「お前、まさかあんなとこでずっと待ってたんじゃないだろうな」 「そんなわけないでしょ」と美希は言った。「死亡診断書をもらってきたの。それがないと、火葬にする許可が下りないんだって。支払いもさっき済ませたんだけど、思ってたよりあんまり安くて拍子抜けしちゃった。人ひとり死んだっていうのに、えっこれだけ? って感じ。まあ、手術も何もしなかったからだろうけどね」  ドアが開いた。  エレベーターホールのすぐ脇には長椅子が並んでいて、そこで煙草を吸っていた男が、ぼんやりと二人のほうを見たとたん腰を浮かせた。 「暁、お前……!」  帰ったと聞かされていたにもかかわらず、一瞬、父がいると思ってしまった。考えてみれば、最後に見た時の父と今の兄とは、十いくつほどしか違わないのだ。  近づいていくと、貢はやれやれと首を振り、乱暴に煙草をもみ消した。 「ったくこの馬鹿が。来るなら来るで、どうしてもっと早く……」 「そのことに関してはもう、私がたっぷり怒っといたから」と、疲れた様子で美希が割って入る。 「二人ともほら、ちょっとは落ち着いて座ったら?」 「おふくろは」  と、暁は言った。 「先に会う? ならこっち」  廊下の奥で半開きになっているドアを指さして、美希が言った。 「あそこよ。私こっちでひと休みしてるから、お兄ちゃん、ゆっくり会ってきてあげて」  部屋の入口には衝立が置かれていた。その向こう側から、オレンジ色の灯りがもれている。  一歩入ったところで、暁は立ちすくんだ。サイドスタンドのほの灯りの中、義母は入口に足を向けてベッドに横たわっていた。布団の盛りあがりの、あまりのつつましさに胸を衝かれた。顔に白い布はかかっていなかった。布は、沙恵の——母親の枕元に腰かけている沙恵の、膝の上にあった。  暁を認めると、沙恵は、眉の両端をへなっと下げて微笑んだ。昔よく見せた、泣くのを我慢する時の笑い方だった。  暁が動けずにいると、沙恵は前かがみになって志津子のほうへ顔を寄せ、 「良かったねえ、母さん」その耳元にささやいた。「お兄ちゃん、やっぱり帰ってきてくれたよ」  沙恵の細い指が、母親の額を優しく撫でさする。「あともうちょっとだけ、頑張って待ってれば会えたのに、残念だったねえ」  暁は、ゆっくりと灯りのほうに近づいた。枕元に立ち、こんなにも小さくなってしまった義母を見おろす。頬が蝋のように透き通っているのを見て、初めて、(ほんとうだ、しんでいる)と思った。 「……穏やかな顔してら」  つぶやくと、沙恵の唇の端がひくひくと震えだすのがわかった。いつも何かに驚いているようなその目が、みるみる濡れて曇っていく。彼女は、こらえきれずに両手で口元を覆った。  暁はそろりと手をのばし、志津子の薄い眉のあたりに触れた。それから、思いきって額に手を置いた。  まだ少しだけ、温かいような気もした。      *  ——きょう、あきらくんとさえちゃん、チューしてた。  その瞬間凍りついた食卓の空気を、暁は忘れることができない。  それは、暁が小学校に上がる前のことだった。まだ二人とも、互いが連れ子同士であることも何も知らされていなかった頃だ。暁はその夜の献立まで覚えている。新築の契約が正式に決まったというので、食卓には重之の好物の刺身や、牛肉のしぐれ煮などが並んでいた。  もう一つふだんと違っていたのは、向かいの家に住む、暁と同い年の清太郎が夕食をともにしていることだった。彼の母親はお産のために一週間ほど入院していて、毎日、勤めから父親が帰るまでの間、志津子が清太郎を預かってやることになったのだ。  膝に抱いた美希にごはんを食べさせながら、志津子は子どもらに、あんたたち今日はいったい何をして遊んだの、などと訊いていた。夕方、外から戻ってきた彼らの服が泥だらけだったからだ。 〈いけであそんだー〉  と、沙恵が言った。 〈あきらくんがザリガニにがしたー〉と清太郎も言った。〈それとねえ、きょう、あきらくんとさえちゃん、チューしてたー〉  無邪気なひとことだった。  が、重之は飲んでいた酒を置いた。みるみるうちに顔が朱に染まっていく。ちょうど味噌汁を熱そうにすすっていた暁の頭を、重之はいきなり張りとばした。味噌汁の椀がふっ飛び、美希の膝の上で逆さになった。  ひゅっと息をのんだ美希が、次の瞬間、叫ぶように泣き出した。  風呂場へ走った志津子が娘の膝に半狂乱で水をかけている間に、 〈お前ら、何してやがる!〉重之は膝立ちになって食卓を叩いた。〈ガキのくせに早々と色気づきやがって、この大馬鹿もんがッ!〉  真空のような沈黙を、なま温かい尿の匂いが包んだ。清太郎が漏らしたのだ。  しかし、いま暁をすくみ上がらせているのは恐ろしさより何より、これまで一度も感じたことのない恥ずかしさだった。自分は何かとんでもないことをしてしまった。何かはわからないが許されないことをしでかした、そう思うと体が震えた。ところが、 〈ばかじゃないもん〉と、沙恵は言った。〈さえ、お兄ちゃんのおよめさんになるんだもん〉 〈こンの……〉  重之が手を振りあげた。食卓越しに襲ってきたてのひらをかいくぐった沙恵が、暁の後ろに隠れる。 〈この馬鹿たれが!〉酒の酔いも手伝ってか、重之はますます逆上して怒鳴り散らした。〈この……この、お、大馬鹿もんが!〉  ——幸い、美希のやけどはたいしたことはなかった。  夜、ようやく美希を寝かしつけた志津子は、風呂上がりの沙恵と暁の体をバスタオルでくるむようにして拭きながら言った。 〈あんたたち、昼間は大冒険したんだって? さっき清太郎くんから聞いて、お母さん、命が縮んじゃったよ〉  ごめんなさい、と、小さく沙恵が言った。  子どもたちが遊びに行ったのは、近くの公園の池だった。網を持って行けば、時おり小魚や、うまくすればザリガニが獲れることもある。が、その日、池の真ん中の浮き島には菖蒲が群れ咲いていた。深い藍紫の花は、集まって咲けば咲くほどしんと静まり返って見え、暁はその浮き島まで妹を連れて行ってやりたいと思った。あの群落の中に彼女を立たせたら、どんなに似合うだろう。どんなに喜ぶだろう。  清太郎が止めるのも聞かずに、暁は池の中に入った。底には柔らかな泥が積もっていたが、深さは半ズボンの裾がぎりぎり濡れずに済む程度だった。暁は沙恵をうながして、自分におぶさるように言った。清太郎がまた止めたが、沙恵はためらいもしなかった。  足が泥にめりこむ。妹は予想より重く、少し不安になったものの、今さら後には引けなかった。できるだけ高くおぶって、暁は浮き島へと一歩を踏み出した。もう一歩。そしてもう一歩。浮き島が迫ってくる。目もさめるような菖蒲の群青に、背中の沙恵が思わず感嘆の声をもらした時、暁は天にも昇るような心地がした。彼女を喜ばせることのできる自分が誇らしかった。  その時だ。踏み出した次の一歩が、ずぶりと沈んだ。慌てて足を引き抜こうとしたが抜けず、かえってバランスを崩して大きくよろめいた。せめて沙恵だけは浮き島にと思ったが、その時にはもう、二人は水の中に横倒しになっていた。清太郎が岸から何かを叫んでいるのがきれぎれに耳に届く。したたかに泥水を飲み、鼻から吸いこみながらも必死に沙恵の姿をさがした暁は、その沙恵がすぐそばに立っているのにようやく気づいた。ほうほうのていで立ち上がる。そうしてみると、水は腰までしかなかった。  沙恵の桃色のスカートは水につかり、ブラウスも泥水を吸って見るも無残なありさまだったが、彼女はかえって大はしゃぎで自分から浮き島へと近づこうとした。暁は慌てて追い越し、どうにか先によじ登って沙恵の手をひっぱりあげた。  どっと気が抜けたあまり、そのまま後ろへ倒れこむ。顔の真横からはえた菖蒲のつぼみが、まっすぐに空を指していた。  と、真上から沙恵がのぞきこんできた。  あっと思う間もなく、沙恵の口が暁の口をふさいだ。びっくりして固まっている暁からやがて顔を離すと、沙恵は、強くひかる目をして言った。  おぼれた人にはこうするんだって。この前テレビでやってたよ。  それが——昼間の彼らの〈大冒険〉だった。 〈沙恵は、そんなにお兄ちゃんが好き?〉  志津子に訊かれて、彼女はこっくりうなずいた。 〈うん。大好き〉 〈そう。でもねえ、沙恵。これだけはわかっといてね。どんなに仲良しでも、妹はお兄ちゃんとは結婚できないのよ〉  暁はカッと顔が火照るのを感じた。いたたまれなさのあまり、バスタオルから逃れようと身をよじる。けれど、沙恵は頑固に言い張った。 〈できるもん〉 〈沙恵〉 〈うそつき。お母さんたちだって、お母さんとお父さんでけっこんしてるじゃないかあ。さえだって、お兄ちゃんとけっこんできるもん〉  どうしてその時、志津子がふいに泣きだしたのか——幼い暁たちにはもちろんわかるはずなどなかった。ただ、ひどくうろたえて、沙恵と一緒に懸命になぐさめたのを覚えている。  暁がようやく義母の涙のほんとうのわけを悟ったのは、それから十年以上も後のことだった。      *  一晩降り続けた雨は、翌朝、嘘のようにあがった。  水島の家に泊まれと貢が勧めるのを、暁は断った。昔から、あの兄が苦手だった。暁が物ごころつく頃にはすでに学生運動に加わっていたようだが、歳の差のせいばかりでなく、何を考えているのかもう一つわからない。わかるのはただ、お互い価値観がまったく異なるということだけだ。価値観の合わない人間から説教されるほどうっとうしいことはない。  結局、暁が泊まったのは美希のマンションだった。五年前、二十五を過ぎた頃から、彼女は家を出て一人暮らしをしている。 「ちゃんと見張ってないとね」  たんすの引き出しから当たり前のように男物のパジャマを出して暁に渡しながら、美希は言った。 「どうせこのまんま、お通夜もお葬式も出ないで帰っちゃうつもりだったんでしょ」 「馬鹿を言え」 「頼むから、焼き場まで一緒に行ってよね」と、美希は念を押した。「長いこと不義理してきたんだから、それくらいしてくれたって罰は当たらないでしょ。ここまで来た以上はいいかげん観念しなさいよ」  しつこいな、わかってるよ、と返しはしたものの、内心、鋭い奴だと思った。  明るいところで見る十五年ぶりの故郷は、思った以上に様変わりしていたが、昔も今も東京の田舎であることに変わりはなかった。見ればうっかり懐かしく感じてしまったりするのではないかと、来る前はそれが嫌でたまらなかったのだが、取り越し苦労だった。小綺麗に整えられた家並みのところどころにあの頃の面影が残っているせいで、まるで往生際の悪い亡霊につきまとわれているかのような居心地の悪さばかりがついてまわり、かえって初めて訪れる町よりもよそよそしく感じられるほどだった。  広いだけが取《と》り柄《え》だった水島の家は、数年前に改築したばかりらしく、全体はひと回り小さくなり、塀や外壁や瓦までもが新しくなっていた。窓はみなサッシに変わって、寒かった台所もすっきりと明るくなった。  何を見てもたいした感慨など湧いてこなかったが、庭の池がすっかり埋められているのを目にした時、暁は初めて胸の奥で何かがコトリと音をたてるのを感じた。  池のあとには、小さな菜園が作られていた。大根、葱、青菜にカボチャ。手入れの行き届いた畝《うね》の端や土留めの石組みの間には、紫や黄色の小菊がてんでに咲き乱れ、風が吹くたびにぱらぱらと露をふりまいている。  暁は、義母のしわだらけの手を思った。ゆうべ、葬儀屋を手伝って遺体を棺に納め、両手を胸の上で組み合わせた時、志津子の爪の中には何か黒いものがしっかり入りこんでいて、ちょっとやそっと拭いたくらいでは取れなかった。あれは、この庭の土であり、草の汁だったのだろう。  濡れ縁に出て、煙草に火をつける。塀の外に並ぶいくつもの花輪の、ここからは裏側ばかりがよく見える。黒服の男たちが外回りに縦縞の鯨幕《くじらまく》を張り、忌中の札をさげているところだった。  どうしても家から葬式を出すのだと言い張ったのは重之だそうだ。大ごとになるのは目に見えているからと、貢や美希がいくら斎場で行うことを勧めても、 〈昔はどこの家もそうしとった〉  そう言って、頑として譲らなかったという。  細長い庭に面して並んだ三つの和室の中央には、葬儀屋の手によって仰々しい祭壇がしつらえられつつある。そういえば、貢が苦々しげに言っていた。 〈棺にでも何にでも、いちいちランクがあるんだぜ。まったく、人の一生にまでランクつけんのかって言いたくなるよ。おまけに葬儀屋のやつ、仏さんに布団かぶせたまではいいが、最後に脚の真上にでーんとドライアイスのかたまり載っけやがった〉  義母とはほとんど生活を共にしなかった兄にも、なにがしかの胸の震えはあるのだろうかと暁は思った。いや、それより、俺は? 俺は今、悲しいのだろうか……。  正直、よくわからなかった。何かこう、ぬるい蜜のようなとろりとした感触のものが、胸の奥のほうで凝っているような気はするのだが、それを悲しみと呼んでいいのかどうかがわからない。  足音がひっきりなしに廊下を行き交い、台所からは何かを刻む音や食器がぶつかる音にまじって、時おり甲高い話し声が響いてくる。通夜に出す料理の準備を手伝いにきてくれた近所の女たちの中に、一人二人、あまり葬式向きでないのがいるらしい。 「あちこち変わっちゃったでしょ」  いつのまにか、美希が隣に来ていた。 「そこの池、なんべん直しても水が漏るようになっちゃってね。管理も大変だからっていうんで、結局、家を直す時に埋めたの。裏庭も資材置き場にしちゃったし、台所の横の土間もなくなっちゃったし。この濡れ縁も取り払おうかって話もあったんだけど、お母さんがこれだけはどうしても残して欲しいって聞かなくて。何か思い入れでもあったのかな」  煙草のフィルターが、乾いた下唇に貼りつく。かさぶたのようになった皮をつまんでひっぱると、金気くさい味がした。暁は顎をしゃくった。 「そこに座ってた」 「え?」 「おふくろさ。ちょうどお前がおなかん中にいた頃だった。こーんなでかい腹してそこに座って、俺らが庭で水遊びするのを眺めてた。——覚えてないか?」 「うーん、記憶にないなあ」笑った美希が、ふと真顔になった。「でも……そうね。そんなふうに言われると、何だか自分の目で見てたみたいな気がしてくる。お姉ちゃんが着てた、赤いしましまの水着とかね」  ぎょっとなって見やった暁に、美希はすまして言った。 「なにせ、そのお古を着せられたの私ですから」 「……なんだ」 「なんだって、何だと思ったのよ」と彼女は言った。「あ、ねえねえ、それはそうと、お坊さんへのお礼なんだけど。いったい幾らくらい包めばいいものだと思う?」 「俺に訊くなよ」 「何よもう、使えないなあ」 「そういうことは兄貴に訊きゃいいだろ」 「だって、なんか向こうで忙しそうなんだもの」 「どうせ俺は暇そうだよ」 「そうは言ってないけど、でも暇そうね」 「なんなら、葬儀屋に訊いてみたらどうだ?」と暁は言った。「寺によって相場みたいなもんがあるのかもしれないし」 「そっか。うん、じゃあそうする。あと、表書きは何て書けばいいんだろ。御霊前? なわけないわね。あ、御花代?」 「芸者でも呼ぶつもりかよ」と、暁はあきれて言った。「坊主には御布施《おふせ》だろ、御布施。お前、よくそれで社会人やってんな」  首をすくめて引き返しかけた美希が、ふとふり返った。 「そういえばさ。お姉ちゃん、さっき離れのほうにいたよ」 「だから何だよ」 「べつに。積もる話もあるかなと思って」  暁は苦笑いした。「案外苦労性だな、お前」  美希が行ってしまうと、妙に静かになった。  長い灰を庭に落として、やれやれとため息をつく。暇といえば確かに暇だが、ゆっくり悲しんでいるだけの暇はないとは皮肉なものだ。ゆうべ義母の死に顔を見たばかりだというのに、こうして軽口をたたいたり、普通に笑ったりできるということが理不尽にも、やましくも思える。  と、視界の隅で人影が動いた。  濡れ縁の向こうの端に、地味なカーディガン姿の重之が出てきてあぐらをかいたところだった。庭を眺めやりながら、やはり手持ちぶさたに煙草を吸いはじめる。後から出てきた小柄な三毛猫が、甘え声で鳴いて膝によじのぼり、丸くなった。  猫? と暁は眉を寄せた。親父が、猫?  大嫌いだったはずだ。いや、猫に限らず動物は何でも嫌いだった。子犬を拾ってきた沙恵と美希が、世話は自分たちでするから飼ってほしいと頼みこんだ時も、毛が飛ぶだの庭が臭くなるだのと言って許してくれなかったのだ。  重之は、時おり煙草を口に運ぶだけでただぼんやりしている。抱いている猫の背中と同じくらい、その背中も丸い。濡れ縁のこちらの端に立つ暁に気づいていないはずはないのだが、顔は頑なに庭を向いたままだ。  冷たい風がすうっと吹いてきて、白黒の幕をはためかせた。  暁は、動かない父親の視線をたどった。  紫の小菊が揺れていた。  隣近所ばかりでなく工務店の関係者も多かったので、通夜には大勢が集まった。  生前の志津子を知る者は申し合わせたようにその人柄をほめちぎった。通夜の席で故人を持ち上げるのは当然のこととはいえ、少なくとも誰も、ほめる種を見つけるのに苦労してはいないようだった。  弔問客を迎える親族側の席に、暁は座らなかった。喪服は兄嫁が借りてきてくれたので着たが、通夜ぶるまいの宴からは早々に逃げだし、かといって何をするともなく庭で煙草を吸ってみたり、資材置き場をうろついたり、ふだんは使ったこともない携帯電話の機能をいじって時間をつぶしたりしていた。  そうしながら、初めて昔の家を懐かしいと思った。無駄に大きかったあの家なら、こういう時の逃げ場所がいくらもあったろうに。そうだ、いっそこの隙に黙って帰るか、と思い立ち、荷物を取りに二階へ上がったところを美希に捕まった。強引に祭壇の前に座らされ、今は仕方なく線香の番をしている。  とうに九時を回り、宴の席にまだ残っているのは、身内のほかには特に親しい数人だけだ。重之とは古いつきあいの電気屋、清水。酒屋の主人、河村。それに、タイル屋の寺沢。読経の時、でっぷり太った寺沢の隣にのっぽの河村が喪服で並んだとたん、暁は危うく噴き出しそうになった。ブルース・ブラザース、とひそかに思った。  それぞれの妻たちは、美希や沙恵らを手伝って台所で後片づけに追われている。顔色の青白い沙恵を見かねて、暁が何度か休むように言っても、彼女は座ろうとはしなかった。 「しかしまあ、突然だったわなあ」と清水は言った。「最後の最後まで、できるだけ人に迷惑かけんように逝ったあたりが志津子さんらしいとこだわなあ。今日だって、いーい天気だったもの、仏さんの人徳だあ」  貢がそのコップに酒を注ぐ。 「それにしてもあの写真」河村が隣の座敷の遺影をふり返った。「またまたずいぶん古いの見つけてきたなあ。古いのっつうか、新しい頃のっつうか」  言いながら、自分の冗談に一人で笑っている。 「何しろ写真が少なくて」  と貢は言った。 「まあいいじゃねえか、えれえ美人《シヤン》だ」清水は貢に酒を注ぎ返した。「女の仏さんだもの、若くてきれいな頃の姿を見てもらうほうが嬉しかろ」 「そうそう、ここへ来た頃ぁ志津子さん、えれえべっぴんさんだったもんなあ。沙恵ちゃんも美希ちゃんも、おふくろさんにそっくりだあ」 「おう、親父はどこ行った親父は」すっかり出来上がった寺沢が、上半身をぐらぐらさせながら声を張りあげた。「親父を呼べえ」 「すみません、義父《ちち》はちょっと気分がすぐれなくて、お先に休ませて頂いたんですよ」  貢の妻の頼子が灰皿を取り替えながらやんわりと言ったのだが、寺沢は暁をふり返り、 「おう、そこのお前」と呼びつけた。「ちょっと行って、親父を叩き起こしてこい。でなきゃあ、お前がこっちぃ来い」  貢がすばやく目くばせを送ってよこす。  暁はひとつため息をつくと、ちょうど入ってきた沙恵を無理やり自分の後に座らせて、酒の席に戻った。貢の差しだすコップを黙って受け取る。寺沢は、酒を注ぎながらじろじろと暁の顔を睨《ね》めまわした。 「志津子さんも苦労だったわなあ。なさぬ仲の子ども二人抱えただけでもひと苦労だろうによう。一生懸命育てたせがれはさっさと出てっちまってよう」 「まあまあ」と清水が言った。「もういいじゃねえか」 「よかあねえ。こいつにゃあ、ひとこと言ってやんなきゃ気が済まねえんだ」焦点の定まりにくくなった目を、寺沢は苦労して暁に据えた。「おう。なんでお前、おふくろさんが元気なうちに帰ってきてやらなかったんだ。ええ? 十何年もあったじゃねえか」 「お前、ちょっと飲み過ぎだぞ」と河村が袖を引く。「明日もあんだから、そのへんでやめとけや」 「うるせえ。おう暁、何とか言ってみろ。こんな時ンなってのこのこ顔出すくれえなら、なんだってもっと早く帰ってこなかった。おふくろさん、どんなに待ってたか。ええ? どんだけ辛ぇ思いさせたかわかってんのか。脳の血管破れて死んじまったのだって、もとはといえばお前がさんざん苦労かけたせいだぞ、この親不孝もんがぁ」 「寺沢さん、どうかもう……」  たまりかねた貢が言いかけたが、 「今ごろ現れて、老い先短い親父さんの財産まで狙おうったってそうはいかねえぞ」 「寺沢、もうやめとけ」 「そういうのをなあ、世間では盗人たけだけしいと言うんだ。わかるか、ええ? 俺は間違ったことを言ってるかあ。何とか言えぇ、暁。俺は間違っとるかあ」 「貢、そいつから酒取りあげろ」と清水が言った。「これ以上飲ませるな。おう、そろそろ切り上げようや」 「何ぃ?」寺沢は腕を振り回した。「ケチケチするなあ」 「馬鹿やろ、酒なら売るほどあるワ」と河村が言い捨てた。「だがお前にはもう、こんりんざい飲まさねえ」  腰が砕けて立てない寺沢の腕を、清水と河村は両側から肩に担いで起こし、引きずるようにして座敷から出た。 「あらやだ、あんた。またつぶれちゃったの」寺沢の妻の加代子が、台所から手を拭き拭き出てくる。「あれあれまあ、すいませんねえ。ほんとにもうこの人は……」  帰っていく三組の夫婦を、妻と並んで見送ってから貢が座敷に戻ると、暁の姿が消えていた。お膳を拭いていた沙恵が、目だけでサッシの外をさす。 「来てくれるのはありがたいけど」と、美希がため息をついた。「正直言っていい迷惑よね。ひやひやしちゃった」 「なんだお前、聞いてたのか」 「入るに入れなかったのよ。お酒持ってきてみたらあんなふうだったから、もう出すのやめちゃった。それにしても……」美希は声を低めた。「我慢強くなったよねえ、あのヒト。昔だったら、寺沢さん今ごろ前歯の一本も折られてるとこじゃない?」 「変わりもするさ」と、貢は言った。「何年たったと思ってるんだ」  ——この月は、札幌の空にも出ているのだろうか。  濡れ縁に足を投げ出し、柱によりかかって見上げる月は、吸い込まれそうな真円だった。あまりの明るさに星はほとんど見えない。  ——それとも札幌は、今ごろ雪だろうか。  雪の日のほうが暖かいと言うと、東京からの客は不思議そうな顔をする。暁も最初の頃は意外に思ったものだ。  もうあと何年かたてば、東京で過ごした年月よりも札幌での生活のほうが長くなる。なのに、こうして離れてみると嫌でも気づかされる。あの街が、いまだに自分にとって〈還る場所〉ではないことに。何年暮らしても、もしかすると死ぬまで暮らしても、自分はあの街で心から安らぐことはないのではないかと思う。そんなものは、どこに住もうが同じことなのかもしれないけれど。  ふと気づくと、誰かが庭に立っていた。ずっと月を見ていたせいで目がくらみ、顔がはっきり見えなかったにもかかわらず、暁にはすぐに誰だかわかった。 「……寒くないの?」と、彼女はささやいた。「風邪ひくわよ」 「お前こそ、そんなとこで何してるんだ」 「なんだか、うまく眠れなくて」  飛び石を選ぶように一つずつ踏んでそばへ来ると、沙恵は暁から少し離れて腰を下ろした。喪服から普段着に着替え、黒っぽいセーターの上から大きな水色の肩かけをはおっている。いや、あるいは白い肩かけが月の光のせいで青く見えているのかもしれない。  ほうっと吐息をついて、沙恵は空を見上げた。  どうしてあの頃は気づかずにいられたのだろう。彼女の横顔は、あきれるほど美希とそっくりだった。額から鼻にかけてのラインも、ふっくりとした唇も、細くとがった顎も、あまりにも似過ぎていた。父親の違う姉妹であれば、いくら何でもここまで似ようはずはない。そのことに、あの頃、気づいてさえいたなら——。  コップ酒をあおる。  気づいていたなら、どうだというのだ。自分たちを育ててくれた志津子が、この家に通いの家政婦として勤めていた頃から親父とできていたと知っていたなら、どうだったというのだ。彼女の連れ子で、血のつながりはないとばかり思っていた沙恵が、じつは同じ父を持つ妹だと知っていたら何かが変わったとでもいうのか。すべてを知ってさえいたら、この妹を一人の女として愛したりなどしなかったとでも……。 「お酒、足りてる?」  頭を振って、自分を現実に連れ戻す。 「ああ。足りてる」 「月見酒だなんて、ちょっといいわね」 「眠れないなら、お前も付き合えよ」  沙恵は、じっと暁を見た。 「じゃあ、お銚子でもつけてこようかな。何か他に欲しいものない? ついでに取ってきてあげる」  欲しいものは、ある。——ひとつだけ。 「……そうだな。煙草が切れた」 「買い置きがあると思うわ。待ってて」  立っていく沙恵の後ろ姿を見送りながら、また一口酒を飲んだ。      *  今になって思い返してみても、互いの間に別の選択肢があったとは思えない。あれは、原因と結果が際限もなく連なっていくドミノ倒しのようなものだった。後ろの駒に押されれば、倒れるしかなかった。倒れれば、次の駒を押すしかなかった。途中で止めることなどどうしたって不可能だったのだ。  沙恵が乱暴されたのは、高校二年の夏休みだった。  責任は自分にある、と、暁はいまだに思っている。沙恵を犯した相手は浪人生で、数日前の終業式の日、彼女は学校帰りにその男から声をかけられ、つき合ってくれと申し込まれたばかりだった。高二のわりにはあまりにもねんねだった沙恵は、デートの誘いを受けるべきかどうかを暁に相談した。  自分たちの親が再婚同士だということは、沙恵が中学に上がった時点で知らされていた。それでもなおそんな相談を持ちかけてくること自体、彼女が自分を男として見ていない証拠だと思った暁は、試しに付き合ってみればいいじゃないかと焚きつけさえしたのだった。彼女が他の男と付き合ってしまえば、自分もあきらめられるかもしれない。いつしか〈妹〉に対して抱くようになっていた、この息苦しいような気持ちにけりをつけられるかもしれない。そう思ったからだ。  沙恵とその男は、休みの日に待ち合わせて映画を観に行った。男はそういうことに慣れているようだった。人をそらさない話術で沙恵の緊張を解きほぐし、すぐに笑顔を引き出すことに成功した。ポップコーンを分け合って食べ、だだっ広い公園をひたすら歩き、好きなレコードを教え合い、ドーナツ屋へ寄り、そうして家まで送られて帰ってくる道で、彼らは重之の工務店が手がける現場を通りかかった。ゆくゆくは団地になる予定の空き地に、とりあえず建っているのはその一軒だけだった。  父が建てている家なのだと沙恵が言うと、男は中を見たがった。壁が張られ、窓もはめこまれていたが、玄関のドアはまだなかった。五時を過ぎ、大工たちがもう誰も残っていなかったので、二人は勝手に材木や工具をまたいで中に入り、作りかけの台所や風呂場を見てまわった。 〈彼女もその気だと思ったんだ〉  あとになって暁から半殺しの目にあわされた時、男は必死になってわめいた。 〈二人きりになるとわかっててほいほいついてくるなんて、あっちもその気だとしか思えないじゃないか〉  このことで妹の名前を出したらお前を殺してやる、と暁は言った。ケツから内臓を引きずり出してやるからな。  脅しのつもりなどなかった。父親が置き忘れた図面を現場に取りに行かされて、暁は、沙恵を見つけたのだった。薄闇の中、裏口に引かれたばかりの水道で、彼女はあまりのおぞましさに何度も吐きながら体を洗っていた。  俺の責任だ、と暁は言い、そうではない、私が馬鹿だったのだと沙恵は言った。その日のことは親にも誰にも話さなかった。沙恵が頑《かたく》なに拒んだからだ。  暗い秘密は、彼らをなおさら強く結びつけた。というより、結びつけずにはおかない質を持った秘密だった。  家にいるかぎり、沙恵の気が休まることはない。家族の前で明るくふるまおうとするあまり、常に張りつめている緊張を、自分と二人きりになった時だけゆるめることのできる〈妹〉。そんな彼女に投げかける言葉に、〈兄〉として以上の意味を持たせまいと、どれだけこらえたかわからない。だが、事件のあと長らく泣くことすらできずにいた沙恵が、あの日、人けのない神社の境内でようやく涙をこぼした時——黒々とした瞳からあふれたものが頬を伝わり、顎の先からしたたり落ち、そして子どものように泣きながらすがりついてくるのを抱きとめたあの瞬間——すでに細く細く引きのばされていた暁の忍耐は、とうとう限界を超えた。  気がつけば、抱きしめる腕には力がこもり、てのひらは彼女の髪ではなく背中を撫でさすっていた。男に乱暴されて傷ついているこいつに、このうえ俺の欲望までつきつけようというのか。頭のどこか奥のほうで責め立てる声が響いてはいたが、彼女を欲しいという強い欲求の前に、理性や自制心などまったく無力だった。  いったん唇を重ねてしまうと、後は歯止めがきかなかった。初めこそ驚いて抗《あらが》った沙恵だったが、暁の肉厚の舌が、川魚のように跳ねて逃げ回る彼女の舌を執拗に追い回し、ようやく捕えて引き抜けるほど強く吸うと、その体からはかくんと力が抜けた。ひんやりとした彼女の髪に指を滑りこませ、熱くて柔らかな唇を味わいつくしながら、暁はあまりにも強烈な陶酔のために全身に鳥肌を立て、同時に、あらためて自分がどれほどこうすることを望んでいたかを知った。曲がりなりにも兄と妹として育った以上、罪の意識がなかったといえば嘘になる。けれどそれは、最後の一線を越えたとたんにくるりと裏返って、互いを駆り立てる要素へと変わっていった。  蝉しぐれの降りそそぐ鎮守の森。川原に残る廃工場。夏の間じゅう、二人は人目を盗んで逢瀬を重ねた。子どもの頃、かくれんぼの鬼から隠れて二人で息をひそめた場所はどこも、二人で息を乱すのにも格好の場所だった。  不審に思われないように、家にいる時は細心の注意を払って〈兄〉と〈妹〉を演じた。親たちに知られるわけにはいかなかった。 〈あきらくんとさえちゃん、チューしてた〉  それだけで父親はあれほど取り乱したのだ。こんなことまでしていると知ったらどういうことになるか、考えたくもなかった。秋が過ぎ、冬になっても、抱き合ってさえいれば寒いとは思わなかった。翌年の春、暁が大学に進んでからもそれは続いた。  俺が独り立ちするまでの我慢だ、と暁は沙恵に言った。就職したらあの家を出る。そうすればもっと自由に逢える。お前もついて来てくれるなら、二人で暮らすことだってできる。それまでの我慢だ、と。  用心した。  し過ぎるほどしたはずだった。  なのに、どうして、どこから漏れたのか。  その日、暁が剣道部の冬合宿から帰ってみると、家の中がへんに静かだった。塾通いの美希が遅いのはいつものことだが、沙恵の姿までが見えなかった。  暁を座らせて真実を——二人の間の血のつながりを話して聞かせたのは、父親ではなく志津子だった。怒り狂うとばかり思っていた重之は、壁のほうを向いて座りこんだままぴくりとも動かなかった。  自分が何を叫んだのか、それに対して志津子が何と言ってなだめ、重之がいつから立ち上がって何とどなり返したのか、暁の記憶からはその前後のことがまったくと言っていいほど抜け落ちている。覚えているのはただ、言いにくいことを訥々《とつとつ》と話していた志津子の、悲痛にゆがんだ顔だけだ。先につかみかかってきたのが父親のほうだったのか、それとも自分から殴りかかったのかすら定かではない。気がつくと父親は背中から仏壇に突っ込んだ後で、花瓶や位牌が倒れ、転がり落ちた鈴《りん》が計ったようなタイミングでチーンと鳴って、その音で我に返った。  しばらくの間、暁は自分のしたことが信じられずに父親を見下ろしていた。重之のほうも、血のにじむ唇を半開きにして暁を見上げているだけだった。  ぱた・ぱた・ぱた、と平べったい音がしていた。花瓶からこぼれた水が畳に滴《したた》る音だった。 〈てめえの、せいだ〉  食いしばった歯の間から、暁はやっとの思いで言葉を押し出した。 〈てめえが、薄汚ねえ女遊びさえしなけりゃ、こんなことには……〉  体の中で、怒りがどす黒く渦を巻いていた。怒りよりも強いのは悲しみ、いや、絶望だった。心臓がねじ切れそうだった。これ以上父親の顔を見ていたら殺してしまうと思った。  合宿先から持ち帰ったばかりのスポーツバッグを黙って拾いあげ、暁は土間におりて靴を履こうとした。その背中へ、志津子が走り寄った。 〈どこ行くの!〉  志津子は腕にぶらさがるようにして叫んだ。 〈ね、暁、落ち着いて。お願いだから、ね、もっぺんやり直そ。ね? そうしよ。お兄ちゃんと妹からやり直そ。ね、そうしよ、暁……〉  志津子はすすり泣いていた。顔じゅうをくしゃくしゃにゆがめた義母の泣き顔を見るなり、暁は自分でも情けないほどうろたえた。  と、その時、目の隅によろよろと立ち上がる父親の姿が映った。  とたんに、ぎりぎりのところで抑えつけていた怒りが皮膚を突き破って爆発した。しまった、と思った時には彼の腕は志津子を振り飛ばした後だった。小柄な志津子はおかしいほど軽々とふっとび、土間に転がり落ちてウッと呻《うめ》き声をたてた。 〈お母さん!〉  ちょうど玄関を入ってきた美希が、目をむいて走り寄る。 〈やだ、どうしたの!〉  暁は、スポーツバッグをひっつかんで外へ走り出た。裏に停めてあったバイクにキーをつっこみ、押して走り出しながら飛び乗った。後ろから誰かが呼ぶ声が聞こえたような気もしたが、ふり返らなかった。手も足もがくがく震えていて、スロットルがうまく握れなかった。  沙恵に会いたい。  それまでのどんな時よりも強くそう思った。沙恵に会いたい。沙恵に会いたい。沙恵に会いたい。沙恵に会いたい。沙恵に会いたい。沙恵に……。      * 「大人になっても酒なんか絶対飲むもんかって、あの頃は本気で思ってたのにな」  熱燗を二本とピースを一箱、盆に載せて戻ってきた沙恵にそう言うと、彼女はふふ、と笑った。  互いに酌をしあい、何にともなく小さく乾杯する。 「飲まなくちゃやりきれない時もあるなんてこと、こうして大人になってみなきゃわからないもの」 「ふん。生意気言ってやがら」 「生意気って、私だってもう三十四になるのよ」  暁は、目を細めて妹を見やった。 「そういえば、おめでとうを言わなきゃな」  沙恵の肩がぴくりとした。 「……誰から聞いたの」 「ゆうべ、美希から」 「ほんとに、おめでとうって言ってくれるの?」 「じゃあ何て言えばいいんだ。ご愁傷さまとでも?」  沙恵はひっそりと微笑した。 「けど、驚いたよ。相手、向かいの清太郎だって? ずいぶん近場で済ませたもんだ」 「仕事のことも聞いた?」 「ああ。親父はさぞ大喜びだろ」  婿に入るというわけではないらしい。それでも、一級建築士ともなれば、いずれは彼が水島工務店を引き継ぐことになるのは間違いない。それで文句はなかった。清太郎なら、親同士の気心も知れている。沙恵が嫁いびりにあうこともないだろう。 「なあ」暁は思い切って言ってみた。「あいつは、何も知らないんだろ?」  沙恵の顔がみるみるかげった。黙ったまま、こくんとうなずく。 「しゃべるなよ」と、暁は言った。「絶対に、口が裂けてもしゃべるなよ」  沙恵はうつむいている。 「黙ってるのは悪いなんて、そんなもん、自分が楽になりたいだけの言い訳だぞ。うちの家族がみんな知ってるってだけで、もう充分だ」  やがて、沙恵は言った。 「訊いてもいい?」 「何を」 「私のこと……今でも恨んでる?」 「恨む?」驚いて、暁は言った。「なんで」 「あれっきり私、何の連絡もしなかったから」  月明かりのせいばかりでなく、その横顔が青ざめている。  恨む、か……。  暁は、ふん、と鼻を鳴らした。  そう、少しくらいは恨んだこともあったかもしれない。だが、互いにあと一度でも会えばどうなるか。声を聞くことさえ怖くて連絡できずにいたのは、自分も同じだったはずだ。 「馬鹿か、お前は」わざと乱暴に言ってやった。「ったく人聞きの悪い。何なんだ、その『今でも』ってのは」  沙恵は、黙っている。 「いいか、これだけは言っとくぞ。俺は、お前を恨んだことなんかいっぺんもない。これまでに、ただのいっぺんもだ」  口をつぐみ、暁は手酌で杯を満たした。やわやわと揺れる月を、一息に飲みほす。 「飲めよ、ほら」 「………」 「ほら」  沙恵は、自分の杯をそっと差しだした。  その瞳に映る月も、やはり揺れているように見えた。      *  このごろの炉は、ずいぶん高性能らしい。澄みわたった空を高々とゆびさす煙突の先からは、ほとんど煙が出ていない。  それはそれで寂しいものだなと思いながら、暁は、代わりのようにぽかりと煙を吐き出した。  精密機械か何かの工場を思わせる、近代的な建物だった。わずかに隆起した小山の上にガラス張りの玄関口が見え、そこからいま暁が立っている門のあたりまでは緩いスロープになっている。  まだしばらく時間がかかるというので、親族のほとんどは控え室で待っていた。少しぐらい顔を出せよ、と貢に言われたが、まっぴらだった。どうせまたゆうべの二の舞になるのは目に見えている。うるさ型の叔母や正義漢ぶった伯父たちが、いざ出番とばかりに、どうしてもっと早く云々……と始めるにきまっているのだ。  もっと早く帰って来られるくらいなら、初めからあんなふうに飛び出したりなどしなかった。何もかも後ろにかなぐり捨て、彼女を思い出させるものすべてを自分のまわりから切り離さなければ、とても正気を保つことなどできなかったのだ。義母にはそれがわかっていたと思う。ああして美希と一緒に札幌を訪れた後の数年は時折り電話をかけてきたが、それもだんだん間遠になった。  後ろの林を抜けてきた風に、枯葉が渦を巻きながら転がる。目で追いかけていくと、地面にくっきりと映った煙突の影の先から、陽炎《かげろう》がゆるやかに立ちのぼっていた。  義母の体と一緒に、彼女が愛した物たちもいま燃えているのだと暁は思った。志津子が好きで小机の上に飾っていたという日本人形——友引は〈友を引く〉につながるというので、小首をかしげたその童女の人形は、小さな形代《かたしろ》として棺に入れられた。それに、好きだった庭の小菊や、よく着ていた服や、読みかけの本や。  けれど、出棺の間際、棺のふたを打ちつける直前になって、 〈待て〉  重之が言った。この二日間で暁が初めてまともに聞く父の声だった。  棺のまわりに集まった家族と、すでに金槌まで握っている葬儀屋を待たせて部屋を出ていくと、重之は、玄関から何か赤茶色の棒のようなものを取って戻ってきた。女物の杖だった。  杖? と暁は訝《いぶか》った。義母の足は、そんなに弱っていたのだろうか?  死出の旅のために急いであつらえたものでないことは見ればわかった。しっかりと使いこまれ、握り部分の塗りが剥げたその杖を、重之は、死装束の志津子の手にそっと握らせた。  そのとたん、沙恵も美希も、貢の妻の頼子でさえも、声を押し殺して泣きだした。貢までが結んだ唇を震わせている横で、混乱して泣けずにいたのは暁だけだった。何か——何か重大なことを、自分だけが知らされずにいるのではないか。 「まーたお前、こんなとこで」  父の声にぎょっとなってふり返ると、兄だった。姿ばかりか、声までそっくりだ。 「おい」  一本よこせという仕草をする貢に、暁は黙って箱ごと差し出した。 「お前……」くわえて火をつけながら、貢は言った。「すぐ向こうへ帰るのか」 「ああ。そのつもりだけど」 「すぐって、すぐか」 「俺だってそんなに暇じゃない」 「で? またそれっきりになっちまうつもりか」  黙っていると、 「ったく……」貢はあきれたように首を振った。「お前ももうガキじゃあるまいし。いつまで拗《す》ねてるつもりだ」 「拗ねる?」暁は眉を寄せた。「何のことだよ」 「とぼけるな」と、貢は人さし指を振り立てた。「見ただろうが。親父だってもう、あの頃の親父じゃない。ずいぶん丸くなって、あのとおり気も弱くなったしな。要するに、年取ったってことだよ。もう、お前が意地を張り続けるような相手じゃないだろう。いいかげん、お前のほうから折れてや……。おい、何がおかしい」 「べつに」 「じゃあ何を笑ってるんだ」  笑ってないさ、と暁は言った。  どうやらこの兄は、弟が家を飛び出したきり帰らなかった原因を、親父への単純な反抗心だと思っているらしい。弟と妹の間にその昔何があったか知ってはいても、そんなものは一過性の熱病でしかなく、親父との確執のほうがよほど根が深いと信じこんでいるのだ。  この男には、きっと想像もつかないのだろう、と暁は思った。俺がどれほどの激しさであの女を愛したか。どれほどの思いで遠ざかったか。ただ一点に向かって注がれていた想いが突然対象を奪われた時、その切っ先がどれほどの鋭さで宿主を刺し貫くか——。 「ん。終わったようだな」  玄関口から、喪服の人影がぱらぱらと出てくるところだった。美希が目ざとくこちらを見つけて手招きする。後ろで、沙恵が清太郎のネクタイを直してやっているのがちらりと見えた。  貢が、ため息混じりに言った。 「おふくろ、あいつの式を楽しみにしてたのにな」  暁は驚いて隣を見やった。 「初めて聞いたぞ、俺。兄貴がそう呼ぶの」 「そりゃそうだ」と貢は苦笑いした。「俺だって、ほとんど初めて呼んだ。面と向かって呼んだことは一度もなかった」  煙突の先を見上げ、まぶしそうに顔をしかめる。 「お前は、最初からよくなついてたな。沙恵と一緒になって、後ばっかりついて歩いてた。正直、見てて腹立たしかったよ。俺は何せ、初めから全部知ってたからな、あの人が親父の愛人だったことも、沙恵が誰の子かってことも」  ふいにせわしなく煙草をふかし、貢はいらいらと足を踏みかえた。 「あのな」  それきり、黙っている。  暁は再び眉をひそめた。「何」 「お前……。いや、いいか」 「何だよ。言いかけたんなら言えよ」  貢はため息をついた。 「さっきお前、俺に訊きかけたろ。あの杖のこと」 「え? あ、うん」 「前におふくろが、美希と一緒に札幌まで訪ねて行ったことがあったよな。その時お前、何も気づかなかったか」 「何もって?」 「おふくろ、その時、足引きずってなかったか」 「そりゃ引きずってたけど」と暁は言った。「でもあれは、漬物石を足に落としたからって……え、まさかあれからずっと悪かったってのか?」 「はっ」貢は空を仰いだ。「漬物石! そう言われて、信じたのかお前。ったく、おめでたい奴だよ」  暁は、貢を見つめた。  心臓が暴れ出していた。 「ま、そういう俺だって、美希から聞かされて初めて知ったんだけどな」ふいに口をつぐみ、貢はそれから、何かを思い切るように言った。「なんでも、腰から土間に叩きつけられて以来ああなったって話だぞ」  暁は、口をひらいた。  言葉は、何も出てこなかった。  ちらりとその顔を見て、貢はまたすぐに目をそらした。 「今さらお前に言ったってどうなるものでもないのはわかってる」  坂の上からしつこく手招きする美希に、片手をあげて応えながら、貢は言った。 「それでも、家族全員が知ってることだ。お前も知っておくべきだと俺は思う。だから話したんだ。あのひとには……おふくろには恨まれるかもしれないがな」  ようやく喉の奥から絞り出した声が、がらがらにかすれた。「……なんで」 「んなこたお前、」フィルターぎりぎりまで吸ってから、貢は吸い殻を足もとに捨てて踏み消した。「自分で考えろ」  いくら志津子が小柄だとはいえ、人ひとりの骨が小さな骨壺に納まりきるわけはない。骨を拾う親族のそばに立つ火葬場の係員は、それが喉仏、それは背骨、と説明を加えながら、壺があらかたいっぱいになるまで見届けると、残りの細かいかけらや灰を無造作に集めて持っていってしまった。しばらくすると、どこか奥のほうから、ざざあっという音が聞こえてきた。  暁につき合っているつもりか、美希と沙恵は親族たちからは少し離れたところに集まって、骨壺の中をそうっとのぞいた。 「なんか、全然怖くないね」と美希が言った。「こんなにきれいなものだなんて思ってもみなかった」  壺に指を入れて、そっとつついている。 「でも、残酷な儀式よね」と、沙恵は言った。「死んだ人の骨を家族に拾わせるなんて。何のためにそこまでしなくちゃいけないのかしら」 「あきらめるため——なんじゃないか?」  と暁が言うと、二人はよく似た顔を上げた。 「骨まで拾わされりゃ、あきらめないわけにはいかなくなるだろ」  美希は、壺のふたを元に戻してため息をついた。「確かにね」 「何だって、そんなもんさ」と、暁は言った。「行き止まりまで見届けないから、いつまでもずるずる引きずることになるんだ」 「そうかしら……」と、沙恵がつぶやく。「どこまで見届けても、あきらめのつかないことだってあるんじゃない?」  じっと自分を見つめてくる視線に気づかないふりをして、 「どうだかな。俺にはないけどな」  暁は、少しだけ笑ってみせた。      *  きれいな女は嘘つきだ、と、ハンドルを握るなり思った。到着地の天候は晴れ——と、あんなに自信たっぷりにアナウンスしていたくせに、空港の駐車場から車を出したとたん、しっかり雪が降り始めた。  二日のあいだ閉めきっていた部屋の空気は澱《よど》み、皿に出しっぱなしだったチーズの匂いが充満していた。流しではコーヒーのかすが干からび、ベッドは寝乱れたままだった。  ベランダの窓をいっぱいに開け放して風を入れる。凍《こご》えるほどの冷たさがいっそ心地よく感じられ、暁はしばらくそのまま部屋の中に舞いこむ雪を眺めていた。  留守録にはメッセージが数件入っていたが、郵便は、ごみのようなダイレクトメールのほかには封書が一通だけだった。その一通と水割りのグラスを手に、ソファに沈みこむ。着替える気力もなかった。部屋の明るさまでが神経にさわり、スタンドを残してすべて消すと、光の輪がソファのまわりだけを包んだ。  封書を裏返し、差出人の文字を何度も読み返す。一切の感傷を拒絶するような事務用封筒だ。  中身はわかっていたのに、結局開けてしまった。用紙の右側の欄に書き込まれた、丸い筆跡を見つめる。  ——水島奈緒子。  十年近くも当たり前のように使われてきたその名前が、これを最後に用済みになるのだ、と暁は思った。彼女も同じことを考えたのだろう。封筒の差出人の名はすでに、〈堂本奈緒子〉だった。  別れたいと言い出したのは、彼女のほうだ。 〈私は、一人っ子でわがままに育ったから〉と、疲れた顔で奈緒子は言った。〈ちゃんと私を見ていてくれる人でないと我慢できないの。あなたは最初から、私の後ろに誰か別のひとを見ていた。そのことを責めようっていうんじゃないの。ただ、そうやって決して私を自分の中に入れてくれようとしないあなたと一緒にいることに、私がこれ以上耐えられないだけなの〉  薄い用紙をきっちりと折りたたむ。封筒に戻すと、暁はそれをテーブルの向こう端の暗がりへ押しやった。  仕事を探さなくてはいけない。  娘と仕事は別だ、気にしなくていい——堂本はそう言ってくれているが、居づらいのを我慢して居ることもない。店が軌道に乗った今では、この仕事に昔のような情熱も感じなくなっている。未練はほとんどなかった。仕事ばかりではない。いずれ弁護士が慰謝料の話をしにくるだろう。そうなれば、この部屋ともおさらばだ。  いっそのこと、しばらく涼子のところにでも転がりこむか、と思いかけ—— 〈行き止まりまで見届けても、あきらめのつかないことだってあるんじゃない?〉  ひとり、苦笑した。  ああ、そのとおりだよ沙恵。俺にはないけどな、が聞いてあきれる。嘘つきなのはきれいな女だけじゃない、俺だって充分嘘つきだ。誰と恋愛の真似ごとをくり返したところで結果は同じ。俺はいつだって、相手の後ろに〈誰か別のひと〉を見る……。  まわってきた酔いにまかせて、暁はくつくつ笑いながら水割りをすすった。立てた膝をかかえこもうとした時だ。太ももに、何か固いものが触れた。  苦労してポケットに手をつっこみ、ひっぱり出すと、それはてのひらの上でころんと転がった。  陶器でできた、日本人形の頭部。  暁がそれを見つけたのは、骨壺に納まりきらなかった志津子のかけらが運ばれていく時だった。灰の中に半ばうずもれていたそれを見た瞬間、思わず素手で拾いあげていた。滑りこませたポケットの中で腿にあたって、しばらく熱かった。  今はすっかり冷たくなった人形の顔に、暁は見入った。胴体も髪も燃え尽き、描かれていた眉や口紅は溶け落ちて、ただ真っ白な塊の上に目鼻だちの盛りあがりだけが残っている。炎の跡が頬のあたりにわずかに残るほかはきれいなものだ。スタンドの灯りを柔らかく反射しているせいで、まるでそれ自体が発光しているかのように見える。  素焼きのような手ざわりの額を、暁はそっと人さし指で撫でた。灯りに照らされた白い顔が、おとといの晩の志津子のそれに重なって、じわじわとにじんでいく。 〈おふくろの足……〉  火葬場の前で別れる間際、暁は初めて父親と並んで立った。 〈俺のせいだったんだな〉  重之は、地面を見つめたまま長いこと黙っていた。  聞こえなかったのだろうかと、暁が再び口をひらきかけた時、重之はようやく答えた。 〈——言わん約束だから、言わん〉  熱い嗚咽《おえつ》が、のどをこじあけてもれてくる。人形の顔に落ちたしみを、暁は指でぬぐった。  あの世でも、やはり杖は必要なのだろうか。それとも、今はやっと楽になれたのだろうか。  最後に会った時、坂道を転びそうになりながら駆け降りてきた志津子の、あのどこまでもお人好しな笑顔を思い出す。自分に一生のけがを負わせた義理の息子のことなど、いったい何をそこまで気づかう必要があったのだ。あれきり二度とここへ会いに来ようとしなかったのもそのせいか。もう一度会えば、せっかくついた嘘がばれると思ったのか。 (漬物石……ね)  てのひらで洟を拭いながら、暁は頬をゆがめて笑った。あんまり単純な嘘だから、ついだまされてしまった。まったく、おふくろもたいした嘘つきだ。いや、あの家の連中はどいつもこいつもみんな嘘つきだ。  どうして、と、目を閉じて思った。どうしてあの時、手を貸すことをためらったのか。ただ歩くだけでもひどく苦労しているのがわかっていたのに、どうしてただの一度も手を差し出してやらなかったのだろう。  ソファに深くよりかかる。耳の中に、なまぬるいものが流れこんでは冷えていく。  目を開け、人形の顔を灯りにかざした。  美しいものならいくらも見てきたつもりでいたが、こんなに哀しく澄んだものに出会ったのは初めてのような気がした。首の切り口は深くくぼんでいて、中に母親の灰が詰まっているのが見えた。そっと息を吹きかけただけで、はらりと舞う。ゆっくり落ちてくるところを吹くと、再び舞い上がる。闇と薄明かりの間を漂うさまが、まるで雪虫のようだ。  暁はやがて、人形に唇を寄せて、ふっと強く吹いた。  それから、待った。無数の愛しい雪虫が、ひとつ残らず自分の上に舞い降りてくるのを、目をみひらいたまま、静かに待ちつづけた。 [#改ページ]   子どもの神様  男の腕枕は、どうしてこんなに落ち着くのだろう。  暗い部屋の中、髪をまさぐる武骨な指を感じているだけで、今日憂鬱だったことも、明日気がかりなことも、何もかもとろとろ溶けていく気がする。窓にあたる雨音を聞きながら、美希は、重くなってきたまぶたを閉じた。  あの夜もやはり、こんなふうな雨だった。母が息を引き取った夜——十五年ぶりに札幌から帰郷した兄を、半ば無理やりここに泊まらせたあの夜だ。 「ねえ」  そっと呼びかけると、男は彼女の髪を指に巻きつけてはほどきながら生返事をした。 「あなた、死にたいと思ったことある?」  手が、止まった。  煮詰めたような沈黙の後、カチリと音がしてスタンドが灯される。 「なんだよ、いきなり」半身を起こし、相原はさぐるように美希を見おろした。「急にへんなこと言い出さんでくれよ、おっかないな」  軽口に紛らそうとはしているものの、濃い髭に覆われた頬のあたりが微妙にこわばっている。 「ごめんごめん」と美希は笑ってみせた。「ふっと昔のこと思い出しただけ」 「昔のことって、お前の?」 「まさか。ちょっとね、知り合いの」 「自殺でもしたのか」 「う……んまあ、未遂だったけど」 「なんだ」  なんだはないだろうと思ったが口には出さず、かわりに美希はふふ、と笑った。 「サリーちゃんのパパみたい」 「何が」 「あたま」 「お前がかき混ぜるからだろうが」  時計を見やって一つため息をつき、相原はうっそりと立ちあがった。  寝室を出ていく後ろ姿を、美希は枕に肘をついて見送った。四十六にしてはよく頑張っているほうだと思う。体の線はまだほとんど崩れていないし、尻も引き締まっている。肩幅が広く筋肉質なところも好みだし、何よりあの深いバリトンがいい。  誰かのものである男とつき合う以上、中身以外の要素はとくに大事だった。少なくとも姿かたちさえ好みであれば、会いたいのに会えないでいる時も必要以上に薄ら寒い思いをしなくて済む。自分が男にとって都合のいい存在でしかないとわかっていても、お互い様だと思えるからだ。  水音が、外の雨音をかき消して響き始めた。  きっとまた下半身だけ洗っているのだろう。なんでも、週刊誌の特集記事で勉強したのだそうだ。一日を外で過ごした人間の体には必ず、一日ぶんの匂いがしみつく。女房に浮気を感付かれたくなかったら、愛人の家を出る時に体をあまりきれいに洗い過ぎぬよう気をつけるべし。できれば飲み屋で一杯ひっかけるなりして、焼き鳥や煙草の匂いをしみつかせてから帰るべし。  ふだんは大口ばかりたたいているくせに、いざとなるとそんなさもしい浮気のノウハウをいちいち実践してしまう小心さが、情けなくて、滑稽で、でも憎めない、と思う。最初に惹かれたのは男の持つ強さにだったが、四年以上もたった今となっては、彼の弱さにこそ愛着を覚えている気がする。  いや、思えば最初からそうだったのかもしれない。初めて誘われて食事をした時、美希は、相原のシャツの袖口のボタンが取れかかっているのに気づき、なぜだかその瞬間、この男と寝ることになる予感がした。いつも上質なジャケットや時計や靴を身につけている男が、無意識に覗かせた隙をいとおしいと思った。そして、想像した。もしもそのボタンを自分がつけ直してやったら、はたして彼の妻は気づくだろうか……。  水音がやんだ。  腰にタオルを巻きつけて戻ってきた男は、すでに別のことを考えているようだった。ほんの数分前まで美希の腕の中にあった背中が、ワイシャツの布地一枚であっさりと遠くなる。  窓をたたく雨は、さっきまでより落ち着いてきたようだ。ズボンに片足を入れている男に教えようと口をひらきかけ、それも寸前で思いとどまった。雨音の変化は彼の耳にも届いているはずだ。  いつものことだった。夜になってから急に雨が降りだすと、相原は妻に呼ばれてそそくさと帰っていく。妻は育児雑誌の編集者として働いているのだが、雨が降ると夫の携帯にかけてきて、帰りに会社まで迎えにきてほしいと頼むのだ。彼は妻を乗せ、それから塾へ寄って六年生の息子——遅ればせに授かった最愛の息子——を拾い、親子三人むつまじく家路につく。これまで幾度となくくり返された、雨の夜の儀式だった。 「どうした?」  訊かれて、美希ははっと目を上げた。自分でも気づかずに、薄笑いを浮かべていたらしい。 「あ、ううん。ちょっと思い出し笑い」 「ふうん。なあ、車まで傘に入れてってくれるか」 「ええ」  答えたものの起きようとしない彼女を見て、相原は言った。 「で、今度は何を思い出したんだ」 「あなたきっと、下らないって言うわ」 「言わないから」  美希は、勢いをつけてベッドから抜け出し、下着に手を伸ばした。 「ほら、昔、『雨の慕情』ってあったじゃない?」 「慕情? 映画の?」 「ううん、八代亜紀の歌」 「どんなのだっけ」  ブラのホックを後ろで留めながら、美希は、〈雨あめ降れ降れもっと降れ〉と歌ってみせた。 「ああ、それか。いっとき流行ったよな」相原は銀縁のめがねをかけ、椅子の背からネクタイを取ると、鏡に向かって真剣な顔で結び始めた。「で?」 「前に、友だちが冗談でね。雨が降ると来てくれるってことは、あの歌の女の〈いいひと〉っていうのは土木関係の人なんじゃないかって」  ぷ、と相原が噴いた。 「うけたうけた」と美希。 「わからないぞ」と相原は言った。「案外、植木屋かもしれないし」 「確かに」と美希も笑った。「ペンキ屋さんかもしれないしね」  逆立った髪と顎ひげをていねいに撫でつけ、相原は上着をはおる前にベッドに腰をおろした。美希がセーターとスカートを身につけるのを無遠慮に眺め、手を引っぱって自分の膝に座らせる。太い親指が唇をまさぐりにきたのを、美希は軽く噛んだ。わずかに塩辛い。 「いっそのこと、ペンキ屋さんを好きになればよかったな」 「なんで」  美希は小さくため息をつき、ささやきに紛らせるようにして言った。 「私のいいひとは、雨が降ると帰っちゃうから」 (今のはパーフェクト!)  と、自分で感動してしまった。甘えの中に、ほんの数滴だけ淋しさとせつなさをにじませる。やり過ぎてはいけない。わずかでも加減を間違えればたちまち重くなる。  案の定、相原は少し困ったような、けれどまんざらでもない表情で、美希の髪をくしゃっと撫でた。 「すまん。せっかく今日はゆっくりできるはずだったのにな」  美希は笑って、彼の口髭を引っぱった。 「う・そ。そういう顔が、ちょっと見てみたくなっただけよ。それよりほら、早く行かないと」  相原は美希を立たせ、自分も立ちあがった。 「ほんとにすまん」と、彼女を片手で拝む仕草をする。「今度、二人でゆっくりどこかへ行こうな。どこがいい。温泉がいいか?」 「はいはい、あてにしないで待ってます」 「寂しいこと言うなよ」 「じゃあ、うんと気長に待ってます」  傘をさして外に出ると、雨はほとんどやみかけていた。マンションには余分の駐車場がなく、来訪者は五十メートルほど先にある料金制のパーキングを利用することになっている。  凍える風の中を、車まで一緒に歩いた。傘も迎えももう必要なさそうだったが、相原の妻からキャンセルの電話はなかったし、彼のほうもかけようとはしなかった。  そこだけ明るい精算機の前で、相原が財布の中の小銭を探している間に、美希はいつもの場所を覗きに行ってみた。アスファルトで固められた駐車場を囲う金網と、だいぶ前につぶれたビデオ屋の間の、ほんの五十センチ四方ほどの隙間。奇跡のように残された古いほこらの中、街灯の薄明かりに照らされて、今夜のお地蔵さまはずいぶんしょぼくれて見えた。吹きこんだ雨で黒々と濡れた足もとに、誰が供えていったのか和菓子がひとつ置かれ、模様のはげた湯呑みには雨水がたまって濁っている。  ——と、おーい、と呼ばれた。相原はすでに奥からベンツを出してきて、運転席から手招きしていた。 「お前、好きだなあ、あのお地蔵さん」  美希は微笑んだ。 「なんかね、懐かしい感じがして。死んだ母さんにちょっと似てるからかな」 「知ってたか。お地蔵さんてのは、子どものための神様なんだと」 「どうせ私はコドモだって言いたいんでしょ」  相原は、銀縁めがねの奥で目尻にしわを寄せた。「幾つになっても、人は誰かの子どもだろ?」 「よくもまあ真顔でそういうことを」  相原は声をあげて笑った。「お休み。今日はほんと悪かった。ほんとすまん」  なおもしきりに片手で拝みながら帰っていく彼に、美希も笑って手を振ってみせた。  頬に浮かんだ笑みは、けれど、テールランプが見えなくなるとともにじわじわと消えていった。小やみになったはずの雨が、刺すように冷たく感じられる。  部屋に戻ると、美希はダイニングテーブルの上にのっていた飲みかけのグラスを流しに運んだ。おなかがすいたら二人で食べようと思って作ったシチューの鍋は、この際、見ないことにする。ぴかぴかに磨きあげたグラスを食器棚にしまい、ふきんを固く固く絞ってテーブルを拭きあげ、寝乱れたベッドをきちんと整え、今日着ていたスーツをハンガーにかけ……。  あたりを見回したが、それでおしまいだった。  美希は、服のままベッドに倒れこんだ。サイドテーブルの時計を見やる。夜はまだ始まったばかりだ。  べつに何かを失ったわけじゃない、と自分に言い聞かせる。そもそも初めから持っていないものを失えるわけがない。彼との時間を奪われたような気分になること自体、間違っている。彼のほうが引きずっているものが多くて、時々ああして板ばさみになってしまうのなら、譲れるほうが譲ってやればいいだけのこと。いわば、荷物の多い人に席を譲るようなものだ。  ただ、ひとつだけ自分でももてあますものがあるとすれば、そう——こんなふうに突然ふってわいた一人きりの時間だった。時間ができたらしなくてはと思っていたことが、忙しい時には山のようにあったはずなのに、どういうわけか今は何もする気になれない。何かしていないと、どうせまたよけいなことばかり考えてしまうというのに……。  美希は、うつぶせになって枕に鼻先をうずめた。 〈ほれ、しゃきっとしなさい!〉  母の口癖が聞こえるような気がした。  枕から、彼の匂いがする。  すでに馴染んだ匂いをかいでいるうち、胸の奥のささくれが徐々に徐々に鎮まっていき、かわりに何かあたたかなものがゆっくりと満ちてくるのがわかった。  充分じゃないか、と思ってみる。不実でろくでなしの男でも、慌ただしい逢瀬でしかなくても、こうして一人きりになったあと少しでも満たされるこの時間が本物なら、ほかに何が要るだろう? あの男を独り占めしようだなんて、考えたこともない。正直、そこまで強い執着も持っていない。互いに自立した二人が、人生の中でほんの少し寄り道して楽しむ、ささやかなもうひとつの人生……。  それくらいがちょうどいいのだ、と美希は思った。  誰かと二人きりで向かい合うなんて、私には、重すぎる。      * 〈うちの四人兄妹の中で、今の両親の間に生まれた子どもって私だけだから……〉  中学に上がった頃、友達に何げなくそう話したら、ずいぶん同情されて驚いたことがある。話した美希自身はそれを当たり前のこととして育ってきただけに、同情などされてかえって傷ついた。  たしかに、普通の家庭よりは複雑だったかもしれない。四人兄妹のうち、長兄の貢と、二十歳近くも離れて生まれた次兄の暁とが、先妻の子。そこへ志津子が、暁とは一つ違いの幼い沙恵を連れて嫁ぎ、そのさらに四つ下に末っ子の美希が生まれたのだ。 〈お兄ちゃんたちとはパパがおんなじだけどママがちがくて、お姉ちゃんとはママがおんなじだけどパパがちがうの〉  自分では覚えていないが、小学校の入学式の日、美希は担任の先生に向かって無邪気に説明を始めて母親を慌てさせたそうだ。  ——この家で、家族全員と血がつながっているのは私だけ。  その自覚は、美希を得意にさせた。両親からの愛情を、当たり前のものとして受け取れる特権に有頂天だった。あの頑固で気難しい父までが、末っ子の自分にだけは甘い。盆と正月くらいしか家に帰ってこない貢や、両親どちらとの間にも一線を引いているように見える暁や、義理の父に対して常に遠慮のある沙恵を見るにつけ、同情しながらも一段高いところから見おろすような気持ちになった。まるで自分だけが正統な王位継承者であるような、そんな誇らしい気分だった。  だが、いつの頃からだったろう、その誇らしさが重荷へと変わってしまったのは。重荷——いや、負い目といったほうがいいかもしれない。これまでの自分の特権意識をいやらしいと思えば思うほど、兄や姉への負い目は否応なく増した。自分ではどけることのできない重しを、天秤の片側にだけ載せられたような気分だった。何とかしてそこから抜け出したかった。抜け出して、居心地のいいバランスを手に入れたかった。自分にしか許されない特権がある以上、自分にだけ課される苦役《くえき》もあるべきではないのか。  家の中で道化役を買って出るようになったのはその頃からだ。両親に叱られるとわかっていることを選んでしてみせ、行儀が悪いと言われることも片端からやってのけた。本気で叱られそうになるとさっさと逃げ出して、ほとぼりがさめた頃にそしらぬ顔で戻る。結婚した貢が家族を連れて訪れる正月などは特に、なかなか和気藹々《わきあいあい》とはいかない食卓の空気を和らげようと、ひたすら下らない話題をふりまいて笑わせ、わざと粗忽《そこう》なことばかりしてみせた。  叱られれば叱られるだけ、屈折した安堵を覚えた。親に甘やかされそうになるたび自分から身をかわすことで、ようやく姉や兄たちとのバランスが取れる気がした。自分さえ〈いつまでも手のかかる末っ子〉や〈お調子者だが憎めない妹〉の役を演じおおせれば、ばらばらになりそうなみんなをこの家につなぎとめておくことができる。家族全員と血のつながった自分以外に、扇の要になれる者はいないのだ、と——。  あの頃は、本気でそう信じていた。  今から思えば、滑稽以外の何ものでもないけれど。      *  二月に入って間もなく降った雪も、ゆうべの雨ですっかり溶けたらしい。昨日までは舗道のあちこちに残っていた小倉アイスのような汚れた塊が、もうきれいさっぱり跡形もない。  二階の窓から見下ろす住宅公園内は閑散としていて、ことに奥まった一角に建つこのモデルハウスにいると、大通りの車の音もかすかにしか届かない。約束の時間まで、あと二十分ほど。今日の客は、親との同居を機に二世帯住宅への建て替えを考えている三十代の夫婦だった。本部の営業と、設計担当者の二人が、三時にここに集まることになっている。  オフィスとして使っている角の部屋を出て、美希は通りかかる部屋を一つずつチェックしていった。子ども部屋のおもちゃの配置を直し、主寝室のクッションの乱れをととのえる。最後に、ベッドカバーの上に最も美しく影が落ちるようブラインドの角度を調節してから、階段を下りた。  この家に足を踏み入れる客は、まず一人の例外もなく、玄関ホールの広さに感嘆の声をあげる。それから、優美な曲線を描く階段の手すりと凝った意匠のシャンデリアにいざなわれるように天井を見あげ、吹き抜けのあまりの高さにため息をもらす。  頭上はるかな天窓からは自然光が降り注ぎ、無垢材のフローリングの上でまばゆく散乱している。柔らかな色の壁は流行りの珪藻土《けいそうど》塗り、寝室の隣にはシャワー・ブースとウォークイン・クローゼット。キッチンの隣には家事室、リビングにはガス式の疑似《ぎじ》暖炉。早い話が、三十代から四十代の夫婦の〈憧れの家〉を凝縮して建てられたのがこのモデルハウスなのだ。  見学に訪れる客をわずかでもためらわせることがないように、玄関ドアはよほどの吹き降りでもない限り大きく開け放っておくのが原則だ。当然のことながら、暖房は一日じゅうフル回転。もののたとえではなく地球を温めているようなことになる。  上がりがまちにずらりと並んだスリッパを一つひとつ揃え直しながら、美希は、吹き込んでくる風に首をすくめた。と、 「水島さーん」  向こうから舗道を走ってくるのは、営業の岡田だった。入社して三年たつにもかかわらずスーツ姿が七五三のように見えるのは、救いようのない童顔と髪型のせいだろうか。そのままの勢いで玄関に飛びこんできた彼は、開口一番言わずもがなのことを言った。 「いやあ、寒いっすねえ」 「早かったのね」 「思ったより道がすいてて。部長がせかすから早めに出てきたんスけど」 「まだ時間あるけど、どうする? コーヒーでもいれたげようか?」 「いいっすねえ、と言いたいとこだけど」岡田はぺろりと舌を出した。「やめときます。途中でお客さんとかセンセ来ちゃうとバツ悪いし」  住宅メーカーの多くは、自社がかかえる設計部だけでは注文に対応しきれず、外部のデザイン事務所の設計士にも仕事を依頼している。客の前ではともかく、内輪で先生などと呼ぶことがあるのはそのせいだ。 「そりゃそうと、水回りのカタログってここにありましたっけ。俺、持って来ようと思ってうっかりしちゃって」  あるある、大丈夫よ、と言ったところへ、 「なんだ岡田、また忘れ物かあ?」  革の書類鞄と大きな紙筒をかかえて、設計担当者が入ってきた。銀縁めがねの奥で、目尻に人をくったような笑いじわが寄っている。 「あ、ご苦労様です」岡田は背筋を伸ばした。「またって何スか、またって。人聞き悪いなあ」 「だってお前、こないだもクロスの見本帳忘れてきただろが」 「そんなの、去年の話じゃないですか」 「まあな。たった二か月前でも去年は去年だわな」と相原は笑った。「おう、悪いけど、俺の車からボード取ってきてくれないか。持ちきれなくてさ」  鍵を渡された岡田が靴のかかとを踏んだまま駆けだしていくのと入れ替わりに、相原は三和土《たたき》の隅で靴を脱ごうとした。美希が急いで紙筒と鞄を持ってやると、 「お、サンキュ」小声で付け足す。「昨日はごめんな」  美希は、まじめくさって咳払いした。 「お打ち合わせは、リビングのほうでなさいます?」  相原がくっくっと含み笑いをする。 「いや、二階のほうがいいだろ、あったかくて」荷物を受け取り、彼は階段を上がりかけてふり返った。 「お茶の後でいいから、コーヒーの旨いのいれてくれる?」 「はい」ふと気づいて、美希は言った。「先生——、靴下が」 「お?」相原は目を落とした。「ありゃ」  右が紺色。左は黒。 「しまった、目立つかな。ま、あぐらでもかかなきゃ大丈夫だろ」  照れ笑いを浮かべて二階へ上がっていく後ろ姿を、美希は苦笑混じりに見送った。まったく、大きな子どもみたいだ。  プレゼンボードを取って戻ってきた岡田のために水回りのカタログを探してやりながら、 「そうだ、岡田くん」ふっと思いだして美希は言った。「目上の人には『お疲れ様』よ」 「へ?」 「ご苦労様、は目下の人に言う言葉。先生に言うなら、お疲れ様、でしょ」 「えっ。あ、そうなんだ。すいません」  そうなんだって、あんたもう三年目でしょうが、と思いながらも、 「いいのよ。少しずつ覚えていけばいいんだもの」  さらりと笑いかけ、重たいカタログを手渡してやる。すぐあとからやってきた客夫婦を二階へ通しておいて、美希は、キッチンでお茶をいれ始めた。  中くらいの値段の煎茶をおいしくいれるには、ちょっとしたコツがある。亡くなった母は、そういうことに口うるさかった。たとえば洗剤のかわりに酢や重曹を使う掃除の仕方や、細口ビンの底の汚れをきれいに洗う方法や、大根の皮と椎茸の石づきを捨てずに作るもう一品のおかずや……。  いちいち面倒くさがったりしないで、もう少しちゃんと教わっておくのだった。高校に上がった頃からは、母親から何か言われると反発のほうが先に立ってしまってどうしても素直になれなかったが、今になってみるとなんだかひどく損をしたような気がする。あんなに突然逝ってしまうとわかっていたら、話したいことも、聞いておきたいこともたくさんあったのに——。  玄関から吹きこんでくる風に、足もとや首筋がすうすうする。ツインニットのカーディガンを二階のオフィスに置いてきてしまったことを、美希は今さらのように後悔した。  できるだけくつろいだ雰囲気を、という社の方針で、モデルハウスのスタッフには制服がない。女性ばかり三人、ふだんはたいてい一人か二人ずつのローテーションが組まれている。  週末の慌ただしさに比べれば平日はさすがに暇だが、それでも当初想像していたほど楽な仕事ではなかった。こうして一日じゅう玄関を開け放しているせいで、寒暖に合わせてこまめに脱ぎ着をしないとすぐに風邪をひくし、少しでも風の吹く日は部屋じゅうが砂ぼこりでざらざらになってしまう。毎朝すべての部屋を掃除し直すのだが、それでなくても広すぎる上に、家具も小物も合理性よりは見た目を重視して置かれているので掃除機のかけにくいことといったらない。客はいつも突然来る。来れば案内してまわり、しつけの悪いクソガキどもがベッドの上で飛び跳ねるのを目で牽制しながらも笑みは絶やさず、さっさと帰ろうとする高飛車な客を引きとめては半ば強引にアンケートに記入させ、その住所宛てにていねいな礼状を書き……パンフレットやダイレクトメールを発送するのも、あるいはアンケートから役立ちそうな情報を読みとって本部にフィードバックするのも、すべて彼女たちの仕事のうちだった。もちろん、今日のようなお茶汲み仕事もだ。  ——世間で〈やりがい〉などと呼ばれているものについて、あれこれ思い悩む時期はもう過ぎた。三十の大台に乗った今となっては、働きにそこそこ見合う給料がもらえるだけでも恵まれていると思うことにしている。仕事はあくまで、生活の糧を得るための手段。生きがいは、今はとくにないけれど、いつかそのうち仕事以外の場所で見つける。そんなふうにでも思い切らなければ、とてもやっていけない。  ただ、このごろ美希は時おり憂鬱になることがあった。部屋から部屋へ、立て板に水の営業トークを口にしながら客を案内している時など、ふと——言葉は悪いけれど、まるで詐欺の片棒をかついでいるような気がしてうんざりしてしまうのだ。誰にも嘘はついていない、が、決して本当のことも言っていない、そんな中途半端なやましさ……。  さまざまな家族が、それぞれに〈理想の家〉を求めてここを訪れ、美希が細心の注意を払って美しくととのえた家の中を見てまわる。  うちにも自動開閉式の天窓をつけたいわね。いいなあ、朝シャンのできる洗面台。ジャグジーのお風呂も気持ち良さそう。俺は三畳でいいから趣味の部屋が欲しいよ。ねえ、地下室にワインセラーってすごくない? 僕の部屋には絶対ロフトね。  だが、それらの理想のすべてをかなえられる客はいない。そんな客は最初からモデルハウスなど見に来ない。ほとんどの家族は、ため息の上にため息を、あきらめの上にあきらめを塗り重ね、夢と現実のギャップに何度も打ちのめされながら疲労困憊の末に家を建てるしかないのだ。最初に見たモデルハウスなどとは似ても似つかない家を。  美希は、湯呑みを温めたお湯を流しに捨てた。  相原の高笑いに混じって、夫婦の笑い声が二階から降ってくる。  優れたプランを提示するのは大前提だが、同じくらい重要なのが、一刻も早く客からの信頼を取りつけることだ。この人たちに任せておけば悪いことにはならないのではないか。この設計士なら、あるいはこの営業なら、自分たちの望みを親身になって形にしようとしてくれるのではないか。そうした期待や信頼を得て初めて、数千万円の契約書に判を押させることが可能になる。  客には、できるだけ長く夢から醒めずにいてもらわなくてはならない。そう、少なくとも契約金を振り込んでもらうのに充分なだけ長く。憂鬱であろうが、やましかろうが、会社から給料をもらっている限りはそれが自分の仕事なのだ。  誰にともなくため息をつき、美希は二階へお茶を運んでいった。プレゼンボードを前に、彼らは階段の位置について話し合っているところだった。  茶托にのせた湯呑みを、夫の前に置く。 「あ、どうも」  ぺこりとさげた頭のてっぺんは、隠そうとしてはいるがそろそろ地肌が透けて見え始めている。ローンを返し終わった頃にはどうなっていることやら、と思いながら、美希は妻の前にも湯呑みを置いた。 「でも、どうして階段がここじゃいけないんですか?」  痩せて色黒の妻は、美希にもお茶にも目をくれずに相原に食い下がった。夫より妻のほうが熱心なのは、どこの家庭でも同じだ。 「そっちの位置にすると、階段下収納が半分になっちゃうじゃないですか」 「いやいや、収納はもう充分でしょ」相原は鷹揚に言った。「これだけ収納があってもまだモノがあふれるっていうんだったら、そりゃモノのほうを処分すべきです」  最後に岡田の前にお茶を置き、美希は一礼して奥のオフィスに戻った。宛名書きが途中だったダイレクトメールの束を引き寄せる。 「そうはおっしゃいますけど」と妻が言った。「簡単には処分できないものだって沢山……」  吹き抜けのせいで、声はよく響く。 「たとえば?」 「お歳暮で頂く毛布やシーツもかさばるし、引き出物の食器とかも捨てるにはもったいないし」 「リサイクルショップかバザーにでも出せばいい」 「子どもたちが小さい頃の絵とか、工作とか」 「写真に撮ってアルバムに、という手もあります」 「まだ着られる洋服だって」 「二年も着なけりゃもう着ませんて」  なんとなく鼻白んだ様子で黙ってしまった妻に、相原は、今までより一段低い声で言った。 「そりゃ確かに、モノの出ていない部屋は一つの理想でしょうよ。でもね奥さん、片づいてるだけじゃただの箱でしょ。このごろじゃどこのお宅へ行っても、似たような外観と間取りばかり。好きな絵だの小物だのをちょこちょこ飾ってみたところで、どれほど変わります? 建て売りを買うんじゃなく、せっかく自由設計の家を建てようっていうんなら、もっと柔軟に考えて遊ばなくちゃ損ですよ」 「遊ぶ?」 「そう。たとえば家の中にこう、ドラマティックな見せ場をいくつか作ってやるんです。それだけで家は見違えるほど広くなる。実際の有効面積にはどうしたって限りがあるけれども、視覚的な広がりという意味では、可能性は無限なんです。僕が階段はこの位置のほうがいいと言うのもそのためです。玄関を入ってすぐが壁だとか収納扉になるより、二階を見上げられる吹き抜けの階段になっていたほうがずっと伸びやかだし、天窓をつけられるから玄関ホールも明るくなる。ほら、このモデルハウスみたいにね。お客さんが入ってきた時の第一印象って大きいでしょ? 住んでる家族だって、外から帰ってきてドアを開けた時に、ああやっぱり家《うち》はいいってリラックスできるような玄関でなくちゃいけない。その家の中で、人が生まれて、生きて、老いて、死んでいく。そういうこと全部の外枠を、いわば人生のイレモノを作る大仕事なんです、家を建てるってことは。しかも、建てたらそれで完成じゃない。そこからようやく、それぞれの家族の物語が始まるんですよ」  しばらくの空白があった。  遠くでかすかに救急車のサイレンが鳴っている。美希は、手元のダイレクトメールの束をぼんやり眺めた。 「本来ならば、こういうことを営業担当者の前で言うのはあれなんですがね」  と、相原が言った。 「最終的にどこのメーカーでお建てになるにしろ、『ハウスメーカーなんてものは利用するためにあるんだ』くらいに思っておかれたほうがいいですよ。最新の技術だとか、後々の保証システムなんかに関しては大手のいいところを利用しながら、細かい部分では好きなだけわがまま言ってやればいいんです。一生に一度の買い物なんだから、何もメーカーに遠慮したり気をつかったりすることはない」 「いや、その点はほんとにそのとおりです」と岡田が口をはさむ。「むしろ、どんどん利用してやって下さい。できる限りのことはさせて頂きますから」 「でも」と、夫の声がした。「現実には、わがままを言えば言うだけコストもかさむわけですよね」 「そのあたりの折り合いをつけるのが」と、相原が言った。「要するに、僕の仕事です。高い金を出して立派な家を建てることなら誰にだってできる。いかにして、無駄なところに無駄な金をかけずに〈いい家〉を建ててさしあげるか。そこが、腕の見せどころってわけです。また何て言うか、好きなんだなぁ僕は、そういう工夫をあれこれ考えるのが」  独特の豪快な笑い声が響きわたる。  相談の中身はやがて、バスルームやキッチンのレイアウトへと移っていった。岡田がカタログを出して見せているらしく、しきりにページをめくる音がする。  そろそろコーヒーをいれる頃合いだった。美希は、椅子の背にかかっていたカーディガンをはおって立ちあがった。  この契約は、十中八九うまくいくだろう。いささか強引ではあるけれど、あんなによく響くバリトンの声で、あんなに力強く説得されれば、自分が客でも相原を信頼して任せてみようかという気になるだろう。いつものとおり、誰も、何も嘘はついていない。でも……。  部屋を出て階段を降りながら、美希はちらりと目を走らせた。  ——あの男は、ひとに夢を見せるのがうますぎる。      *  最後に何かを強く夢見たのは、いつのことだったろう。  願っても、どうせかなわない。期待したって裏切られるだけ。誰かを心底愛するなんて自殺行為。人前で口にしたことはないけれど、いつもそう思ってきた。別段、人生のすべてに絶望しているわけでも、特別にペシミストというわけでもない。ただ、それくらい淡泊に考えておいたほうが人生楽に生きられるという考え方が、あの日を境に骨の髄までしみこんでしまっただけだ。  ——あの日。兄の暁が家を飛び出していったあの日。中学二年の冬、もう十五年も前のことだ。  寒い夜だった。美希がいつものように塾から帰ってくると、家の中から、暁、と呼ぶ母親の声が聞こえた。  やった、お兄ちゃん冬合宿から戻ってきたんだ。 〈ね? そうしよ。お兄ちゃんと妹からやり直そ。ね、そうしよ、暁〉  いったい何の話だろう、と思いながら玄関の引き戸をがらりと開けたとたん、  母が、  宙を、  飛んだ。  スローモーションのようだった。土間に立つ兄の大きな体を背景に、凧《たこ》のように軽々と宙を舞った母親は、永遠とも思える一瞬の後、腰から土間に叩きつけられて呻き声をあげた。 〈お母さん! やだ、どうしたの!〉  走り寄った美希の横をかすめるようにして、兄が外へ飛び出していく。呼び止めようとした時、がたっと音がした。  目を上げた美希が見たのは、はずれた座敷の襖につかまり立ちして荒い息をつく父の姿だった。唇の脇に血が滲んでいる。畳の上には水たまり。鮮やかに散らばった黄色の菊。廊下にまでゆっくりと転がり出てきた、あれは……お鈴《りん》?  と、外でバイクのエンジンがかかった。美希は飛び出した。 〈待ってよ、お兄ちゃん!〉  ヘルメットもかぶらずにバイクにまたがった暁の背中は、 〈お兄ちゃんってば!〉  あっという間に遠くなり、闇の中へ溶けていってしまった。  最後まで、ふり向いてももらえなかった。ただの一度も。  気性は激しくとも優しかった兄が、父を殴りとばし、母を土間に突き転がして出ていっただけでもひどいショックだったが、それ以上に美希を愕然とさせたのは、数日後に知らされた姉の出生の真実だった。  暁が出ていって以来、けわしい顔で黙りこくっている父がわざわざ教えてくれるわけはない。腰の骨が砕けて入院したままの母になど聞けるはずもない。教えてくれたのは、長兄の貢だった。いったい何がどうなっているんだか誰も教えてくれない、と癇癪を起こして泣く美希を前に、ついに根負けした形だった。 〈そうだよな。お前もそろそろ大人だもんな〉  長年、話したくても話せなかったせいもあるのだろう。初めからすべてを知っていたという貢の口調は、末の妹の立場を気遣ってなるべく感情を抑えようとしてはいたが、それでも親たちの昔のことを語ろうとするたびに皮肉っぽく、厳しくなりがちだった。  美希と沙恵の母・志津子が、じつは先妻の生前から父の愛人だったこと。彼女が水島家の家政婦として離れに住み込むようになった時、表向きは前夫との間の子という名目で連れてきた沙恵は、つまり父の種だったこと。おまけにそのことを知らされていなかった暁と沙恵は、互いに血のつながりがないものと信じこんだまま……。  いや、さすがの貢もそこまでは教えてくれなかった。けれど美希は、思春期特有の鋭さではっきりとさとっていた。兄と姉は惹かれあい、こともあろうに、親の目を盗んで男と女の関係になってしまったのだ。だからこそ、兄はあんなふうに家を飛び出していき、姉のほうは貢たち夫婦の家に身を寄せたまま帰って来られないでいるのだ、と。 (汚い) (お兄ちゃんもお姉ちゃんも、お父さんもお母さんも、みんな汚い!)  踏みしめていたはずの地面がふいに消えたような気がした。あの父と母の間に生まれ、家族全員と血がつながっているのは自分だけだと信じていたのに、まさか姉も同じだったとは。  誰に怒りをぶつけていいのかわからない。どうしてこんなに虚しいのかもわからない。ただ、胸のうちは、裏切られたという思いで真っ黒に塗りつぶされていた。  いったい今まで自分がしてきたことは何だったのだ。あんなに一生懸命に気を遣って、心とは裏腹なことばかり言って、親に甘えたい時でも我慢して、みんなを結びつけようとしてきたあの苦労は何だったのだ。自分だけの〈苦役〉、自分にしかできないと思ってきたその役割が、ふたを開けてみれば姉でも替えがきく程度のものでしかなかったなんて。そのことを、父も母も知っていて黙っていたなんて。どうして本当のことを明かしてくれなかったのだ。そんなに世間体が大事か。娘の心よりも大事なのか。  けれど——美希がどれほどどん底の思いでいようと、誰も気づいてくれる余裕はなさそうだった。退院してきた母は片足を引きずっていて歩くにも苦労するほどだったし、ようやく家の中が少しばかり落ち着いてきたかと思えば、今度は沙恵が救急車でかつぎこまれたからだ。  あれ以来、貢の家でもろくに食事をとろうとしなかったという姉は、ある日突然、手首を切ったのだった。まるで、風船のひもをそっと放すように。  いちばん多感な時期に、あんなものを見せつけられてしまったからかもしれない。  相原に限らず、美希がこれまで付き合ってきた相手は、一人の例外もなく、すでに誰かのものだった。  友だちの恋人。妻のいる先輩。  別れは、だから必ず訪れた。始まりの瞬間から終わりが見えているような関係しか結んでこなかった。  寂しくないと言えば嘘になる。だが、美希は不思議でたまらなかった。どうしてみんな、誰かと一対一で向かい合うことに無防備でいられるのだろう。一人の男に自分をまるごと差し出してしまうことを、どうして怖いと思わないのだろう。  兄や姉の轍《てつ》は踏みたくなかった。  愛し過ぎたばかりにぼろぼろに傷つき果てて、自らを痛めつけるなんて——まっぴらだ。      * 「水って、凍るとほんとに水色になるのね」  庭石に積もった雪の陰を見つめながら美希がつぶやくと、相原は何やら意外そうに片方の眉をあげた。 「何よ」 「いや。『恋すりゃ犬も詩人』ってね」 「だって」と美希はむくれてみせた。「こんな贅沢な景色、見たいと思ったってそう見られるわけじゃないもの」  比叡山を借景とした苔庭で有名な円通寺だが、ほかの季節なら一面深緑色のその庭は、今はすっかり綿帽子に覆われている。先に来ていた二組の参拝客は帰っていき、しばらく前から美希と相原の二人だけになった。  行き先に京都を選んだのは美希だったが、初めに出張にかこつけて誘ってくれたのは相原のほうだ。  兵庫の山奥にある窯元が焼く、いっぷう変わった瓦を見に行く用事があるのだと相原は言った。普通の色瓦をもう一度高温で焼きあげ、釉薬《うわぐすり》を溶かしてしみ込ませると、まるで南仏あたりのアンティーク瓦のような面白い風合いに仕上がるのだそうだ。  相原の予定に合わせて、美希は月に一度の二連休を取り、仕事を済ませた彼と駅で落ち合った。たった一泊きりの、途中下車のような旅ではあっても、あの夜の口約束を守ろうとしてくれる気持ちが嬉しいと思った。 「冬の京都ってのは正解だったな」 「ね。なんだかすごく得した気分」  小声で話す言葉は、こぼれだす端から雪に吸いこまれて消える。開け放たれた座敷の畳はしんと冷えきり、湿った空気は芳しく、息をするたびに肺の隅々までを冷やしてくれる。まっすぐに刈り込まれた奥の垣根にも、太い杉の枝々にも雪は積もり、さほど広い庭ではないはずなのに、見つめているとここが果てしない雪原のようにも思えてくる。遠近感ばかりか、時間の感覚までなくしてしまいそうだ。 「ここね」と、美希はささやいた。「柱と柱の間隔が、奥へいくほど少しずつ狭くなってるんだって。もちろんわざとよ」 「ほんとか。そりゃ面白いな」  美希は、くくっと笑った。「いま、シゴトの顔になってた」 「いかん。忘れよう」  相原は両手で髭面をこすった。 「前に来たのは、高校の修学旅行のときだったんだけどね」と美希は言った。「そのとき私、ここのお坊さまにぞっこん惚れちゃって」 「ふん。思いあまって火付けでもしたか」 「え?」 「……いや。そうか、知らんわな」何やら曖昧な苦笑を浮かべて、相原は言い直した。「そんなにいい男だったのか」 「うーん、顔は記憶にないんだけど」 「なんだそりゃ」 「でも、声がすっごく素敵だったの。お寺の歴史や何かを説明なさる声が、艶《つや》があるのに渋い、そりゃもういい声でねえ。耳もとで囁かれでもしたら、そのまんま極楽浄土へ直行〜って感じ」 「罰当たりめ」  ますます苦笑いを濃くした相原を見やって、美希は言った。「あなたに惹かれたのも、最初はその声だったのよ」 「はああ?」 「ヘンな声出さないでよ、せっかく誉めてあげてるのに」 「声、かあ……」複雑な顔で、相原はつぶやいた。「ふうむ」 「何よ、不満そうじゃない。どこに惹かれたんだと思ってたの?」 「男ぶり」  美希は噴きだした。「しょっちゃって」 「セックス」 「あえて否定はしないでおくけど」あたりを窺って、美希はさらに声をひそめた。「ねえ、そろそろ出ない? お寺でする話じゃないような気がするんだけど」  相原はにやりとして、あぐらを解いた。「お前が始めたんだろうが」  待たせておいたタクシーで市内へ戻り、土産物屋の並ぶ雪道を手をつないで歩いた。  歩きながら、他愛のない話ばかりした。子どもの頃の思い出。初めて好きになった人のこと。これまででいちばん嬉しかったこと。いちばん悲しかったこと。それに、いちばん恥ずかしかったこと。 「お前なんか、恥ずかしいことがあり過ぎて一つに決められないだろ」  美希は、そばの塀の上から雪を取って丸め、相原に投げつけた。  観光ルートからはずれて住宅街に入りこんだ先に小さな児童公園があり、相原がベンチに腰かけて煙草を一服する間、美希はかじかむ手で雪を払ってブランコに乗った。  動いていないと寒くてかなわない。脱がされるときのことだけを考えて下着を選んだせいだ。せっかくのお忍び旅行で愛人の服を脱がせたらババシャツが現れたなんて、いくら相原の性格だって面白がってはくれないだろう。  なんだか情けないとは思う。いちいち男に合わせて自分のことを決めるなんて。が、後悔はなかったし、自分でも不思議なくらい、彼の妻への後ろめたさもなかった。ふだんはなかなか見ることのない相原の普段着——グレーの毛糸の帽子や、ごついワークブーツや、少し無理をした感のある若向きのスポーツジャケットなどのひとつひとつが、むやみやたらと嬉しかった。はしゃぎ過ぎだと何度か自分を戒めはしたものの、そういう自分が何やらいじらしくもあって、今ぐらい特別なんだからと思い直したりもした。頭で考え過ぎるのが、私の悪い癖だ。 「そうだ、忘れてた」相原が白い息と煙を一緒に吐き出した。「お前、来週の水曜日、もっぺん休み取れないか?」  美希はブランコを止めた。「どうして?」 「もしかして、オペラなんつうもんに興味はないか?」  ない、と言えば、ない。  が、時と場合による。  早く先が聞きたくてブランコの鎖をがちゃがちゃ揺らした美希に、 「まあ落ち着けって」相原は噴きだしながら言った。「正直言えば、貰いものなんだけどな。それでも、何とかいうテノール歌手が来日するとかで一応プラチナ・チケットなんだとよ」 「それ、お昼からなの?」 「いや。夜」 「じゃあ仕事休まなくても大丈夫じゃない」 「ばっかだなあ」と相原はあきれたように言った。「ああいうもんはお前、ぎりぎりまであくせく働いてタイムカード押して、走って観にいくようなもんじゃないだろ。もっとこう、お貴族様のようにゆったり構えてだな。……こら、なぜ笑う」 「だって、なんか夢みたいなんだもの」  相原は苦笑して、ばぁか、と口だけ動かした。 「ねえ、一つ訊いていい?」 「うん?」 「どうして奥さんを誘ってあげないの?」  動じもせずに、相原は肩をすくめた。 「理由は、二つある」 「一つは?」 「その次の週が、うちのせがれ殿のお受験だから。そんな時にお前、それでなくてもピリピリしてる奥方を、のんきにオペラなんぞに誘えると思うか? どうなるか、考えただけで恐ろしいぞ俺は」  どうしてこの人はこう馬鹿正直なんだろう、と美希は半ばあきれながら思った。ここまで際限なくあけすけに話されると、女は怒るに怒れないということを知っていてわざとやっているんだろうか。だとすれば、たいした狸だ。 「ちなみに、もう一つの理由は、だ」  言葉を切り、相原はいつものように目尻にしわを寄せた。 「いっぺんくらい、お前が気合い入れて着飾ったところを見てみたいから」 「………」  美希は、黙って再びブランコをこぎだした。どうにか普通の顔色を保つことには成功した。あきれてしまうのは、どこまでも臆面のない相原に対してより、すでにうきうきしながら何を着ていこうかと考え始めている自分にだった。  相原のポケットに一緒に手をつっこんで〈哲学の道〉まで戻り、通り沿いにある珈琲専門店に入った。相原のめがねが一瞬で曇る。  奥まった仄暗《ほのぐら》い席に通され、コートを脱ぐと、寒さにこわばっていた肩からようやく力が抜けた。昔懐かしいだるまストーブの上で、やかんがかぼそく鳴いている。傷だらけの木のテーブルの真ん中には、キャンドルが置かれていた。赤いグラスの中の炎がわずかに揺れるだけで、あたりの影は大きく揺らぐ。  運ばれてきたコーヒーをすすりながら、 「ねえ」と、美希は言った。「どうしてこのごろ、そんなに優しくしてくれるの?」 「おいコラ、人聞きの悪いことを言うなよ。それじゃまるで、俺が今まで優しくなかったみたいじゃないか」  茶化すように言った相原は、美希が答えずにいると、やがて真顔になった。  めがねをはずし、目頭を揉む。疲れたようなその顔が、揺れる火影を映してふいに老けて見えた。 「正直なとこ、訊きたいのはこっちだよ」 「え」 「どうしてきみは、いつもそう優しい? どうして俺に何も要求しようとしないんだ?」  美希は、きょとんとなった。何を言っているのかわからない。 「要求って?」 「これまで俺は、きみに引けめを感じたことはなかった」と、ひどく低い声で相原は言った。「お互い承知でこうなったんだし、きみがいまだに一人でいるのはきみ自身の選択であって、べつに俺が申し訳なく思うことじゃないはずだってね」  美希は、肩をすくめた。「そのとおりじゃない」 「でも、今……どうして優しくするのかって訊かれて、初めて気がついた。俺はたぶん、きみが何ひとつ要求しようとしないのが怖いんだ」 「怖い?」  思わず訊き返すと、相原の目の中をわずかに狼狽のようなものがよぎった。 「というか、落ち着かないんだ」  と言い直す。 〈怖い〉と〈落ち着かない〉はずいぶん違うじゃないかと思ったが、美希は気づかないふりをした。男の言葉尻をつかまえて追いつめるとろくなことにならない。 「そりゃ、俺のほうはいいとこどりだからさ」と、相原は苦笑混じりに言った。「きみと会った日は、元気が出る。女房にも子どもにも、いつもより優しくなれる。けど、その間きみは一人きりだ。なのに恨みごとひとつ言うでもなけりゃわがまま言うでもない。それで時々、その、不安になる」  店員が水を注ぎにきた。  美希は、冷めかけたコーヒーをゆっくりと飲んだ。  恨みごとを、言ってもいいとは知らなかった。優しい声で残酷なことを言う男だ。  ふと、子どもの笑い声が聞こえたような気がして窓の外を見やると、隣は空き地になっていて、着ぶくれた若い母親が小さな女の子と一緒に雪だるまらしきものを作っていた。雪玉を転がすとどんどん大きくなるのを知って、女の子は大喜びだった。 「気にしなくていいのに」  と、美希は言った。 「知ってるでしょ、私の性格は。一人きりでいるのは寂しいけど、ずっと二人でいるとなると面倒くさい。いいとこどりって意味では、私もあなたと同じなのよ」 「でも俺は、結婚してる」 「だから何? 結婚してるほうが偉いの? 結婚してない女はかわいそう?」 「そうは、言わないけどさ」 「私があなたと続いてるのは、結局あなたが一緒にいていちばん楽だから。それだけのことよ」 「それもまあ、わかるけどさ。でも、お前だって女と生まれたからには、いっぺんくらいちゃんと所帯持って、子ども産んでみたいと思うだろ?」  ぎくりとなって、美希は相原を見やった。  いつのまにか、彼も窓の外を見ていた。  尻餅をついた女の子を、母親が笑いながら立たせてやっている。ピンクの手袋にこびりついた雪を母親に見せて、女の子が一生懸命に何か言っている。  美希は、コーヒーに目を落とした。  相原とその妻が、息子の下にもう一人女の子を望んでいたことは知っていた。妻の体の関係であきらめなければならなかったことも。 「ま、いいさ」  と、相原はようやく美希のほうを向いて言った。 「俺は、お前がほんとにいい男を見つけるまでのツナギ役に徹するさ」 「……ずるい言い方」 「そ、俺はずるくて誠意のない男なの。今さらわかったわけじゃないだろ?」  どう答えていいかわからなくて、美希は仕方なく笑ってみせた。  背筋を伸ばし、ひとつ深呼吸をする。かたわらに置いたコートから、溶けはじめた雪の匂いがした。 「こうしてると、なんだか札幌のこと思い出さない?」 「ああ。俺も今おんなじこと思ってた」と、相原は言った。「雪の量は比べものにならないくらいすごかったけどな」  そういえば、あの時もやはり、相原の出張について行ったのだった。  もう四年もたつのだ。ちょうどつき合い始めて間もない頃で、何もかもが新鮮で、二人とも、当たり前だが今より四つずつ若くて……。  札幌は、家を出ていった暁が暮らす街でもあった。あのとき相原は仕事の相手と食事をしなくてはならなかったから、美希は久しぶりに兄を呼び出して、しこたまカニをおごらせた。まさか本当のことを言うわけにもいかず、自分自身の出張で来たようなふりをしたけれど、男がいることくらい当時から兄にはお見通しだったのかもしれないと思う。母が死んだ夜泊めてやった時も、男物のパジャマを出してやったのに何も言わなかったくらいだから。  風呂上がりのパジャマからにゅっとつき出た、琥珀《こはく》色のくるぶしを思い出す。  相原がまだ数えるほどしか袖を通したことのない濃紺のパジャマは、背の高い兄にとてもよく似合っていた。      *  どうして人は、つらいことがあると北を目指すのだろう。  家を飛び出した兄が流れ着いた先が札幌だと知った時、美希の頭に最初に浮かんだのはそんな素朴な疑問だった。 〈ねえ、そう思わない? 悲しくて悲しくてハワイを目指した人の話ってあんまり聞かないよね〉  緊張した面持ちの母親をリラックスさせようと、ほんの冗談のつもりでそう言った美希を、けれど志津子は哀れむようにちらりと見て嘆息した。 〈無神経だねえ、あんたはほんとに。そうやって何でもかんでも茶化してばっかりいると、そのうちほんとに人の痛みがわからなくなるよ〉  傷ついたから、よけいによく覚えている。あれは、札幌へと向かう飛行機の中だった。暁から二年半ぶりに電話がかかってきたのがその数日前で、美希は足の不自由な母親の付き添い兼荷物持ちとして駆り出されたのだった。高二になったばかりの春のことだ。  人の痛みがわからないのはどっちだ、と思った。深刻な時ほどおどけてみせる癖がついたのは、元はといえばあんたたちのせいじゃないか。  荷物は、持ちきれないほどあった。どこででもすぐ買えるような物ばかりだったが、志津子は全部持っていってやるのだと言って聞かなかったし、重之がどれほど行くことに反対してもまるで耳を貸さなかった。  そんなにまでして気遣ってもらった記憶は、美希にはなかった。  いや、わかっている。母は、ほかの息子や娘に対しては遠慮があるのだ。兄たちは二人とも実の子ではないし、沙恵に対しては、出生についての真実を隠していたせいであんな目に遭わせてしまったという負い目がある。結局、母が何の遠慮もなく当たることができるのは末っ子の自分にだけなのだ……。そう、よくわかっていた。わかったからといって、背中のあたりが薄ら寒いことに変わりはなかったけれど。  道々、志津子は美希に向かって、沙恵の自殺未遂に関してはもとより、自分の足のことについても暁には決して話さないようにと口止めした。砕けた骨盤の手術をした医者にさえ、志津子は〈階段を踏みはずして落ちた〉と言い張ったくらいだから、家族のほかに本当の原因を知る者は一人もいなかった。親戚の中には、重之がやったのではないかと陰口をたたく者もいたほどだ。 〈兄貴には、いったい何て言ってごまかすつもりよ〉  と訊くと、志津子はこともなげに言った。 〈来る前に、うっかり足の上に漬物石を落としたんだとでも言えばいいよ〉 〈ばっかじゃないの?〉と、美希はあきれて言った。〈そんなへたな嘘、ばれないわけがないでしょうが〉  ——ばれなかった。  嘘というものは、できるだけ単純なのを確信を持ってつくに限るということを、あのとき美希は初めて知った。  待ち合わせ場所に兄が現れると、志津子はまろぶように坂道を駆け下りていき、止まりきれずに腕をつかまえてもらうなり、すがりついて言った。 〈今までどうしてたのぉ、あんた〉  後からことさらにゆっくり坂を下りて行きながら、美希は、母親の声がいつになく華やいで甲高く裏返っているのを、なぜだか身をよじりたくなるほど恥ずかしいと思った。  久しぶりに会う暁はいくらか痩せ、寡黙になり、たまに笑う時でさえ眉根には何か陰りのようなものがあって、そのせいか前よりずっと男っぽく見えた。胸板は厚く、二の腕は太く、そういうものを見るにつけ、美希はどうしても兄と姉の間にあったことを想像せずにいられなかった。  小樽の運河沿いにある店で、西洋骨董を扱う仕事をしているのだと暁は言った。  連れていってもらうと、そこは古い倉庫を改造した天井の高い建物だった。骨董といっても素人にはただのガラクタにしか見えず、どこがいいのかさっぱりわからなかったが、黙々と力仕事をこなす暁の姿とオーナーの人柄を見届けたことで、志津子はようやくいくらか安心したようだった。  けれど、気にいっているという骨董をさわっている時でさえ、兄は、美希の目にはどこか投げやりに見えた。投げやりというのが言い過ぎなら、心の奥の深いところであきらめてしまっているように見えた。何かを、永遠に。  あれから、十三年。  その間に、兄は請われるままにオーナーの娘と結婚し、子どもを二人もうけた。美希も二度ほど会ったことがあるが、どこから見ても似合いの夫婦だった。  別れた、と、兄から電話で聞かされたのは、つい最近だ。突然の話だったのに、なぜか(やっぱり)という思いのほうが強くて、離婚の知らせよりも美希はそのことに驚いた。  兄は、あきらめてしまったのだ——と、あのころは思っていた。  けれど、今ではわかる。兄は、あきらめられずにいるのだ。  何かを、永遠に。      *  水曜の夜は、ほんとうは姉と外で落ち合って買い物を手伝う約束をしていた。父の水島工務店が設計から施工までを請け負った家が近々竣工するというので、まずは施主への祝いの品を選び、ついでに完成見学会に来てくれる客に配るちょっとした品物も見つくろう予定だった。  もちろん延期してもらった。さらには同僚に休みをかわってもらって、木曜も行かなくて済むようにした。そんな特別の夜くらいは、もしかしたら相原も泊まっていくことになるかもしれないと思ったのだ。 〈うんとおしゃれして来いよ〉  美希は、思いきって新しいドレスを買った。ダナ・キャランの黒いドレスなんて一生縁がないと思っていたけれど、こういう時に貯金を使わなかったらいったいいつ使うのだと、自分の尻を蹴飛ばすつもりで買ってしまった。裾の長いドレスの上には、裾の長いコートが要る。何のために日々まじめに働いているのかと、マックスマーラでそれも買った。  そのあたりからはいっそ吹っ切れて楽しくなってきた。  かかとの高いきゃしゃなパンプス。ピアスにネックレス、新しい口紅とフランス製のシルクの下着。前の晩には手足の爪にていねいにエナメルを塗り重ね、当日の午前中には美容院に行って、ドレスのイメージに合わせて髪を少し切り、きれいにセットしてもらった。  先週の別れぎわの約束では、部屋に迎えに来てくれるのは午後四時ということになっていたが、美希の用意は三時半には完璧に終わっていた。  座っているのが落ち着かなくて、何度も鏡の前に立っては、つんと顎を上げて微笑んでみる。うん、なかなか。  四時になり、四時十分になった。  少し遅いくらいのほうがゆっくり用意できると考えてくれたのだろうと思って、二十分まで待った。  遅れるなら遅れるで連絡くらいしてくれてもいいのに、とじりじりしながら三十分になり、三十五分になる。遠慮もあって、四十分までは黙って待ってみたものの、とうとう心配になって携帯に電話した。 (どうした?)  と、出るなり相原は言った。 「どうしたじゃないでしょ。遅刻よ、遅刻」  息をのむ気配がした。  真空のような無音の後、 (すまん)相原は押し殺した声で言った。(ほんと、すまん) 「まさか……忘れてたの?」  ——沈黙。 「だってそんな、どうして? あなたこの前、」 (悪い)と相原はさえぎった。(今ちょっと、取り込み中なんだ) 「あ。ごめんなさい」 (いや。またこっちから連絡する。ほんとにすまん) 「ううん」美希は、言った。「いいのよ。……じゃあね」  電話はそのまま切れた。  ——忘れ……てた?  受話器を握りしめたまま、しばらく茫然としていた。  ——忘れてた、の?  胸の底から、びょうびょうと風が吹きあげてくる。  こらえきれずに、美希は泣きだした。  ——いいのよじゃあね[#「いいのよじゃあね」に傍点]、じゃないでしょう!  どうしてこっちが謝らなくてはならないのだ。どうして自分を抑えつけてまで卑屈にならなくてはいけないのだ。本当は怒りたいのに、今すぐにでも電話をかけ直して怒鳴りつけてやりたいのに、私の喉をふさいでしまうものはいったい何なのだ。  たれてきた洟《はな》と涙を力まかせに拭う。目の前の鏡に映っている顔が、にじんだマスカラで真っ黒なのを見るなり、滑稽さと情けなさにまた泣けてくる。  美希は、立ちつくしたまま子どものようにしゃくりあげた。せっかくドレスアップしたというのに、これじゃまるで皮膚病の野良猫だ。人と関わるのが怖くていつもびくびくしているくせに、一人で生きる自信はないものだから、すぐ逃げられる距離から何かおいしい物を投げてくれと甘えて鳴いてみせる。なんという浅ましさだ。野良猫どころか、娼婦だ。餓鬼だ。彼といるのがいちばん楽だなんて嘘ばっかり、私はこんなにも、飢えて、かつえて、渇ききっている。  ——泣くな、みっともない!  鏡の中のしょぼくれた女を無理やり睨みつけ、嗚咽《おえつ》を飲みくだす。  ——自分のものでもない男に、本気で泣かされてどうする。  待つから、いけないのだ。一人暮らしなんて名ばかりで、一人で過ごす時間のすべては彼を待つことにあてられている。この部屋は、モデルハウスとちっとも変わらない。いつ来るかわからないお客を待つためだけに調えられた、主のいない、空っぽの家だ。  むしょうに腹が立ってきて、美希は、両手を思いっきり頬に叩きつけた。 「しゃきっとしなさいッ」  自分の声が耳に届いて初めて、それが母の口癖であることを思い出した。またもこみあげてきそうになるものを、息を殺し、奥歯を力いっぱい噛みしめてやり過ごす。  ティッシュを取って、顔を拭う。  美希は、背中のジッパーをおろした。そうして、意地でも皺になんかするものかと思いながら、そろりとドレスを脱いだ。      *  ——悲しいことでもあったの?  沙恵にそう言われたのは、二階の物干し台に並んで月を眺めている時だった。  あのまま一人でいたら頭がおかしくなりそうで、駅二つ離れた実家にふらりと帰ってみると、間の悪いことに、長兄夫婦が泊まりに来ていた。このごろすっかり無口になった重之を気づかってのことだろうし、家を出た身としては文句の言いようもないのだが、美希は正直なところ貢も妻の頼子も苦手だったので、なるべく顔を合わせないで済むように二階へ上がっていた。  満月に一日欠けるくらいだったから、月の出は早かった。分厚いセーターを着こんだ美希と沙恵はわざわざ物干し台へ出て空を見上げていた。  きれいね、と美希は言った。今日のお月さま、ほんとにきれい。  無意識に何度もそうつぶやいていたら、沙恵がふっと言ったのだ。悲しいことでもあったの、と。  美希は、驚いて姉をふり返った。腫れたまぶたはちゃんと冷やしてきたはずなのに、どうしてそんなことを言うのだろう。 「ないよ」  と美希は嘘をついた。 「そう。ならいいけど」 「でも、なんで?」  微笑む気配がした。 「月とか星とか、花やなんかがやたらときれいに見えるのって、何かすごく悲しいことがある時だから。私の場合はね」 「……お姉ちゃんは、何回くらい、そういうきれいなものを見た?」  沙恵は、ふふっと笑った。 「どうだったかな。忘れちゃった」  美希は、怖いくらいに美しい月を見上げた。輪郭があまりにもくっきりと浮きあがり、盛りあがり、今にも頭の上に銀色のしずくがしたたり落ちてきそうだ。  あの日の月も、見上げればこれくらいきれいだったのかもしれない。相原には告げずに、手術台に上がった日。そう——私の、〈いちばん恥ずかしかったこと〉。そして、〈いちばん哀しかったこと〉。空なんか見上げる気力もなくうつむいて帰ったから、月が出ていたかどうかさえ覚えていないけれど。  と、階段がみしみしと音をたて、貢が上がってきた。  布団の敷いてある奥の間から煙草を取って戻ってくると、貢は部屋に入ってきて窓から首だけつき出した。 「なんだお前ら、この寒いのに月見か。粋狂なこった」 「粋狂のスイは、粋人のスイと書きます」と、美希は言った。「女どうしの内緒話なんだから、兄貴はあっち行ってて」 「何だよ内緒話って」 「もうじき還暦迎えるオッサンなんかには絶対わかんないこと」 「まだ五十三だ、ばか」と貢は言った。「お前ねえ、オッサンだって傷つくよ? だいたいお前こそ、三十も過ぎたんなら、外歩く時くらい化粧しろよ。色気もそっけもないぞ」 「兄貴にふりまく色気の持ち合わせなんかないわよ」  ぷっと沙恵が噴きだす。貢は苦笑いして、煙草の封を破った。 「そういやあ、聞いたよさっき、親父から。暁の馬鹿たれ、女房と別れたって? ったくあの野郎、幾つになってもなんでああ無責任……」  そこでようやく美希がにらんでいることに気づき、 「何だよ」貢はけげんな顔をした。「あ、この部屋、禁煙か?」  悪い悪い、とつぶやいて、くわえかけた一本を箱に戻す。 「そろそろ閉めないと風邪ひくぞ」  階段を降りていく足音が聞こえなくなってから、美希は、長いため息をついた。「信じらんない」  沙恵は、ひっそりと笑った。 「悪気はないのよ」 「わかるけど、それってなおさら始末が悪くない?」  沙恵は黙って微笑している。  月の光にふちどられて青白く浮かび上がるその横顔に、美希は一瞬、貢への怒りすら忘れて見とれた。凛として、たおやかで、いつも物静かな姉。けれど、かつて半分だけ血のつながった男を愛した時に見せたあの激しさは、おそらく今でも、姉の体のどこか奥のほうで消えずにくすぶっているのだろう。そう思うと、小さな痛みが胸をしくりと刺すのを感じた。痛みのわけは、自分でもよくわからなかった。 「ねえ」と、小声で呼んでみる。「いつ頃になりそうなの?」 「うん?」 「お式」  沙恵は、寒そうに肩をすぼめた。 「そうね。母さんの喪が明けてから考える」  すでにこんなに式が延びている以上、喪が明けたらすぐにでも一緒になると言うのが普通のはずだが、そんなことは誰よりも姉が一番よくわかっているにきまっている。  美希はただ、そう、とだけ答えた。  身の内にひそむ激しさと、どんなふうに折り合いをつけて、姉は別の男を愛するのだろうと思った。      *  もう、待たない。  そう心に決めたはずなのに、二度目の呼びだし音が鳴りだすより早く手に取ってしまった。  本部の番号だった。 (すいません、せっかくお休みんところ)と岡田が言った。(今、ちょっといいですか)  どうぞ、と美希は言った。朝から姉につき合って例の買い物を済ませ、昼御飯を一緒に食べ、今ちょうどマンションのある駅まで戻ってきて線路沿いの道を歩き始めたところだった。 (八王子の井上邸の件なんスけど)と岡田は言った。(バスルームのタイル、イタリアかどっかの業者から取り寄せることになってたでしょ) 「スペイン」 (でしたっけ。で今、そのカタログ探してんですけど、見当たらなくて。水島さん、知らないスか?)  美希は、気づかれないように小さく息をついだ。 「たしか先週、相原先生が持っていったと思ったけど」 (え、まじで?)と岡田が言った。(やっばいなあ) 「どうして? 電話して訊いてみればいいんじゃない」 (あれれ、水島さん聞いてないですか?) 「何を?」 (先生んとこ、大変だったみたいっスよ。息子さん、塾の前でバイクにはねられちゃって) 「いつ!」 (いつだったっけなあ)岡田はのんびりと言った。(先週の土曜じゃなかったかな。なんか、迎えに行った先生と奥さんの目の前でぽーんとやられちゃったみたいで。一時はかなり危なかったみたいスけど、まあどうにか……。そいでも、まだ集中治療室だって)  美希は、詰めていた息をそろそろと吐きだした。岡田が、まだしゃべり続けている。ほら、あそこんち私立の難関ばっか狙ってたじゃないスか。なのにこの時期にこれなもんで、奥さんがいちばんガックリきちゃったらしくてね。先生、回せる仕事は全部人に回してずーっと付き添ってるって話ですもん。ああ見えてけっこうマイホームパパだから、あのセンセ。 (……島さん? あれ、もしもし?)  はっとなって返事をすると、 (いや、まあ、そういうわけなんで)岡田は深々とため息をついた。(どうも、お邪魔してすいませんでした)  しかし参ったなあ、連絡できる雰囲気じゃないよなあ、と、なおもボヤきながら電話を切る。  携帯を、のろのろと耳から離した。離してもまだ、耳の奥で不快なノイズが響いている。  目に映るもののすべてがゼリー状の膜の向こうにあるかのようにぼやけて見え、美希は、歩き出そうとして何かに蹴つまずいた。いつのまにか取り落としていたバッグと、散らばった手帳や財布をかがんで一つずつ拾い集める。道を行く人々にけげんな目で見られていることにうっすらと気づきはしたが、何も感じなかった。白っぽく飛んでしまった頭の真ん中で、相原の声ががんがん響く。 〈悪い、今ちょっと取り込み中なんだ〉  ソンナコトガ アッタノナラ。  ワスレルノモ ムリナイカモ。  頭を強く振って、立ちあがった。  マンションへと向かう道を、美希は黙々と歩いた。ポケットの中で携帯をいじり回していると、一秒ごとに相原に電話してしまいそうになる。  無理やり自分をねじ伏せ、ポケットから手を出した。  電話などして、どうしようというのだ。相原が約束を忘れたことが問題なのではない。実際に取り込んでいた最中だったのだから、そのこと自体は仕方ない。問題は、彼が何ひとつ話そうとしなかったことだ。愛する者が傷つけられた痛みを、彼は、私と共有することを拒んだ。彼がそれを分かち合いたい相手は私ではないのだ。 〈でも俺は、結婚してる〉  こういうことだったのか、と苦笑がもれた。彼には守るべきものがあり、私にはない。そして私は、彼が守るべきものの中に含まれていない。  いったい——いったい、何にしがみつこうとしていたのだろう。寂しい時にふと思い浮かべる顔があるということ。暗がりの中で抱き寄せてくれる腕があるということ。そんなものにしがみつけばつくだけ、かえって足元が危うくなるばかりだというのに。  いらない、と、今度こそ思った。つかまるものなんか、もう、いらない。生きている限り、人は永遠に独りだというのなら、自分で歩けばいいのだ。こうして。  角を折れ、見慣れた裏通りへと曲がる。いつもの駐車場にさしかかろうとしたとき、色のない視界に、いきなり飛び込んできたものがあった。  鮮やかな赤。  美希は驚いて立ち止まった。  お地蔵さまの前掛けだった。昨日まではたしか、色あせたぼろぼろのものだったはずなのに、すっかり新しいものに替わっている。小さな花瓶に水仙が数本生けられ、足元の皿には子どもの好きそうなお菓子ばかりが山と盛ってあった。  誰か、ほかにもいるのだ。この場所をこんなふうに守らずにいられない人が。  思わずしゃがみこみ、美希はそっと手を合わせた。ざらりとした石のおもてには微笑みとも憐れみともつかないものが浮かび、下から覗きこむとその顔は、よけいに似ている気がした。 〈幾つになっても、人は誰かの——〉  水仙の白も、前掛けの赤も、そしてとりどりのお菓子の色も、それぞれがゆうべの月と同じようにくっきりと際立って胸に迫る。 (ごめんね)  と、胸の内でつぶやいた。 (赤ちゃん……抱かせてあげられなくてごめん。親不孝な娘で、ほんとにごめんね)  風が巻き、水仙の甘い香りが鼻先をかすめる。  やがて、美希は立ちあがった。まなざしを、今は無理にでも高く上げて歩きだす。まだ新しい、剥き出しの痛みを抱いて。  誰と分かち合うこともできない、消せない痛み。  それさえも、確かに自分だけのものなら——愛してやろうじゃないか。 [#改ページ]   ひとりしずか  ゆっくりと押し分けられ、貫かれていく悦びに思わず声をあげたとたん、目が覚めてしまった。  急いで目をつぶり直したが、遅かった。指の間をすり抜ける水のように、夢の背中がみるみる遠のいていく。  たった今まで、あんなにそばにいたのに。肌の熱さや、合わせた胸板の逞しさや、のしかかる確かな重みまではっきりと感じられたのに。耳元にはかすれたような低いささやきが、体の奥には固くこわばったものの感触がまだ残ってさえいるのに——〈彼〉の気配だけが消えている。  沙恵は、低く呻《うめ》いた。  灯したままの小さな明かりの下で、時計が四時過ぎを指している。艶夢を見て目覚めるのは、なぜかいつもこんな時間ばかりだ。  布団の中でそろりと下着に手を差し入れかけたものの、寸前で思いとどまった。一瞬の満足を得られる術《すべ》は知っているが、その後に訪れる空しさもまたよく知っている。  起きあがり、カシミアのカーディガンを肩に掛ける。脚の奥のほうでゆるゆると溶けているものから努めて意識をそらせながら、部屋を出て、まだ暗い階段をおりた。  改築してひとまわり小さくなった今でも、家全体の間取りは昔とほとんど変わっていない。南に面したいくつかの和室と、北に面した台所や風呂場の間を貫いて、玄関からまっすぐに廊下が延びている。四月とはいえ朝夕は肌寒く、板張りの廊下を踏む素足はすぐに冷たくなった。  できるだけ静かに用を足し終わると、沙恵は父親の寝ている部屋の前で耳をすませた。途切れとぎれのいびきをふすま越しに確かめる。半年ほど前まで、そこは両親の寝室だった。母があんなに突然亡くなるまでは意識しなかったが、思えば父の歳は、母よりはるかに上なのだ。もういつ何があってもおかしくない。  幼い日、母に連れられて水島家の娘になって以来、この部屋の前を何度こうして忍び足で通ったことだろう。一つ違いの暁につき添ってもらわなければトイレに行けなかった頃も、深夜のラジオ聴きたさに夜更かしした中学生の頃も、ふすまの向こうからはたいてい今と同じように、父の——当時はまだ継父だとばかり思っていた重之の——大きないびきが聞こえていた。時には、夢にうなされたのか、泣くような声をあげる母を重之が揺り起こしているのが聞こえることもあった。 〈志津子……志津子!〉  その声が本当は何を意味するかに気づいたのはいつのことだったろう。突然暗幕を取り払われたかのように真実を悟った瞬間の、あの衝撃はいまだに忘れられない。  うなされているのではないのだ、母は。  揺り起こしているのではないのだ、義父は。  二人は、夫婦のことをしているのだ。  ふすまの向こうからもれてくるすすり泣きは、よく聞くと、懇願の裏側に甘い媚びを含んでいた。暗い部屋の中で今まさに行われていることを想像すればするほど、嫌悪とも反発とも違う何かが足元から這いあがってきて膝が震えた。  身の灼けるような恥ずかしさと、いたたまれなさ。けれど、その後にやってきたものはなぜか、奇妙な納得だった。かつて、住み込みの家政婦からさほど時もおかずに後妻におさまった母。その母が夜、寝室の中でだけ露わにする別の顔が、娘の自分の裡《うち》にもひそんでいるとするならば……これまでわけもわからないまま誰にも言えずにいた幾つもの出来事に、ようやく説明がつくような気がした。そう、たとえばあの浪人生の言葉にも。  十七になったばかりの沙恵を犯した後、彼はズボンの前を上げながら言ったのだった。 〈お前が誘ったんだからな〉      *  いちばん初めは、家に出入りしていた大工だった。  それが何歳の時の記憶なのか、沙恵自身にも定かではない。四つ下の美希がまだ母親の足元にまとわりついていた頃だから、おそらく自分は幼稚園か、せいぜい小学校に上がってすぐだったろうと思う。  当時、重之が一代で興した水島工務店は、かつてない危機に直面していた。多額の不渡りを出して逃げた取引先のかわりに、保証人として借金を背負いこまなければならなかった重之は、志津子と沙恵が以前住んでいた裏庭の離れに何人かの大工を寝泊まりさせていた。食と住を提供する代わりに、少しでも給料を安くあげようという苦肉の策だ。  仲間から〈チョウさん〉と呼ばれている年輩の大工も、そのうちの一人だった。白髪混じりの小柄な男で、仕事が速く腕がいいというので重之に重宝がられていた。 〈チョウさん〉というのが苗字か名前かはわからない。あだ名だったのかもしれないし、あるいは〈張さん〉や〈趙さん〉だったのかもしれない。いずれにしても、生まれてこのかた祖父というものの感触を知らなかった沙恵や暁は、その大工によくなついた。彼のほうも、内緒で二人にお菓子をくれたり、暇を見つけては遊んでくれたりした。どこか遠いところに同じ年格好の孫がいるのだという話だった。  何度か、離れの風呂に入れてもらったように思う。いつも暁と一緒だった。  が、その日だけは違っていた。暁が風邪をひいて熱を出し、その看病と幼い美希の世話とで手一杯だった志津子は、今夜だけでも離れのほうに沙恵を預かろうという〈チョウさん〉の申し出にありがたく甘えることにしたのだ。  板切れで作ってもらった舟を洗面器に浮かべて遊んでいる沙恵の背中を、彼はていねいに洗い始めた。母親と風呂に入ると、泡立てたタオルでごしごし洗われるのに、彼はてのひらで撫でるように洗ってくれる。くすぐったがり屋の暁はいつも奇声をあげて逃げまわるけれど、沙恵はそうされるのが大好きだった。優しく洗ってもらうと自分が大事にされているのがわかって、まるでお姫様のような気分になれた。  大きなてのひらが、脇の下や首筋、耳の後ろなどをくまなく撫でさする。気持ちよくはあったが、いつもに比べてあまりにも長くそうされているうちに寒くなってきた沙恵は、もう湯舟に入ると言ってみた。けれど、 〈まだだよ〉  と、彼は言った。 〈まだ、大事なところを洗ってないでしょ〉  笑っている顔の中で、目だけがへんに動かなかった。  中指が、股の間にぬるりと入ってくる。これまでにないその性急さに沙恵が思わず後ずさろうとすると、彼は片方の腕で彼女の背中をおさえ、抱きあげて自分の膝にのせた。濡れた太ももの毛が、沙恵のお尻の下でじゃりじゃりした。 〈女の子なんだから、よーく洗っておかないとね〉  低く押し殺した声で彼は言い、沙恵にもっと脚を広げさせてそこをいじった。  いたっ、と沙恵は身をよじらせた。いたいよ、おじいちゃん。  だが、彼の腕は沙恵をがっしりとかかえて放そうとしなかった。 〈ほら、もうちょっと我慢して。こらこら、どうして脚を閉じちゃうのかな? ちゃんと奥まで洗わないとね。汚くしてると、ばい菌が入って病気になっちゃうといけないからね〉  ようやく風呂から上がり、並んで布団に入ってからも、脚の奥の鋭い痛みはなかなかおさまらなかった。おしっこの出るところの近くが、ひどくひりひりする。  きっと石けんが流しきれずに残っていて、それがしみているのだと沙恵は思った。でも、あの後ちゃんと湯舟にもつかったのに、どうしてなんだろう。あんなに奥まで洗ったりしたからだろうか……。もう一度風呂場へいって洗い流したかったが、せっかく寝巻きに着替えさせてもらったことを思うと、悪くて言い出せなかった。  隣の部屋では別の大工がテレビでも観ているらしく、知らない歌謡曲に続いて観客の拍手と笑い声が聞こえてくる。布団の足もとの障子紙に廊下の灯りが透け、夕焼けのようなだいだい色に染まって見える。  沙恵は寝返りを打った。お兄ちゃん、おねつさがったかな。あしたはいっしょにあそべるかな。  と、ふいに、隣に横たわっていた彼が顔を寄せてきた。 〈眠れないの?〉  むっと息が匂う。父親が酒を飲んだ時と同じ、熟れすぎた柿のような匂いだ。  少しためらったものの沙恵がうなずくと、 〈じゃあ、眠くなるおまじないしてあげようか〉と彼は言った。〈沙恵ちゃん、ベロ出して〉  ベロ? 〈ベえーって出してみて〉  ふうん、ベロって舌のことなんだ。でも、どうして?  けげんに思いながらも言われたとおりにしたとたん、彼はいきなり口をすぼめ、まるでブドウの実を吸い取るように沙恵の舌をすすった。ぎょっとして顔をそむけた沙恵に、 〈だめだよ、お口閉じちゃ〉強い口調で彼は言った。〈怖くないよ。ミチコちゃんとだって、いつもしてるんだから〉  ミチコちゃんというのは、彼の孫の名前だと聞いていた。  それなら、これはべつに変なことではないのだろう。もしかしたら自分が知らないだけで、誰でもみんなしていることなのかもしれない。 〈べえーってしてごらん。ほら、早く。そうそう、そのままでね。ああ、おいしいな、沙恵ちゃんのベロは。ねえ、沙恵ちゃんもおじいちゃんの唾飲んで〉  えっ。  思わず口を閉じ、よけようとすると、彼は泣きそうな声を出した。 〈ミチコちゃんはいつも飲んでくれるのにな。沙恵ちゃんは、おじいちゃんのこと嫌いなのかな〉  気持ち悪いから嫌だ——と、どうしても言うことができなかった。いつも優しくしてくれるおじいちゃんにそんなことを言ったりしたら悪いし、きっとものすごくがっかりされる。おじいちゃんのことは嫌いじゃないのに、嫌いだと言うのと同じことになってしまう。  沙恵は体を固くし、ぎゅっと目をつぶって、口の中に送りこまれてくる、ぷつぷつと泡立ったなま温かいものを飲み下した。……やだ。もう、やだ。やだ。やだ。お兄ちゃん。  ——いつの間に眠ってしまったのだろう。  志津子に揺り起こされて目を覚ますと、すでに大工たちは仕事に出払った後だった。  庭に面した窓が開け放たれ、布団が次々に干され、池の面に反射した光が天井に映って跳ねまわるのを眺めているうちに、ゆうべ起こったはずの出来事は、夢と一緒にもやもやと薄れていってしまった。  それきり、忘れていた。自分が忘れていることさえ忘れていた。きっと、よほど忘れたかったのだろう。  沙恵が次にそれを思い出したのは、十年以上が過ぎ、大工たちの顔ぶれもすっかり入れかわった後のことだった。歯医者の待合室で読んでいた雑誌に、継父から体の関係を強要されて育った少女の記事が載っていて、眉をひそめながら読み進むうち、突然、少女の体験の一部が自分の身に起こったことと酷似しているのに気づいたのだ。  性的虐待。記事にはそう書かれていた。  頭の中がぐらりと沸き、手足の先が冷たくなった。動揺の後にやってきたのは、めまいがするほどの強い怒りだった。今はもう、あの大工の顔も声も思い出せない。にもかかわらず、記憶の中には彼への信頼だけが手つかずのままに残っていて、それが今になってあっさりと裏切られた悔しさに——というより、今の今まで裏切りに気がつかなかった悔しさに、雑誌を持つ手がおかしいくらいに震えた。  おまけに、そうして改めて思い起こせば、それに類する経験は他にいくらもあったのだった。  ランドセルを背負って帰る途中、後ろから自転車で走ってきた中年の男に追い越しざまに胸をつかまれたこと。雨の中、児童図書館へ行こうと傘をさして公園を通ったら、すれ違いかけた中学生くらいの男の子がいきなり目の前に立ちふさがって、おしっこしてみせて、と言ったこと。六年生の夏休み、向こうから車を運転してきた男が窓をおろして道を尋ねたので、見せられた地図をのぞきこむと、その下で男の右手が何か赤茶けた棒のような物をしごいていたこと……。バスや電車の中で痴漢にあったことまで数に含めれば、そういった出来事はほとんど日常茶飯事と言っていいほど頻繁に起こった。  けれど沙恵は、両親にはもちろんのこと、暁にもそれらを打ち明けなかった。ひとつには、最初に自転車の男から胸をつかまれた時に志津子に話したところ、学校や警察まで巻き込む大騒ぎになってしまったせいだ。しばらくの間、通学路に教師や母親たちがかわるがわる立ったおかげでそれ以上の被害は出なかったが、犯人もまた捕まらなかったために、沙恵はクラスの男の子たちから嘘つき呼ばわりされた。中にはふざけて胸を揉みにくる子までいた。あんな思いは二度としたくなかった。  が、それより何より強く沙恵の口を閉ざしていたものは、他でもない、父親の言葉だった。 〈隙だらけなんじゃないのか〉と、重之は沙恵に言った。〈どうせ道草でもしながらぶらぶら歩いてたんだろう。歩く時はまっすぐ前を向いてさっさと歩きなさい〉  そして志津子のほうを向いてつけ加えた。 〈お前がだらしなく育てるからだ〉  どうして自分や母さんが叱られなければならないんだろう、と沙恵は思った。私は何も悪いことしてないのに。悪いことをしたのはあの変なおじさんのほうなのに。  それでも、父親に言われたとおり、歩く時はひたすら前を向いて歩くように努め、男につけ入られる隙を見せないように気をつけた。中学に上がって以降も、人並み以上に身だしなみに気を配り、休みの日に遊びにいく時など、ほかの友人たちが着るようなノースリーブや短いスカートを注意深く避けた。けれど、無駄だった。男たちの粘っこい視線はみごとなまでに友人たちを素通りして、沙恵の上でぴたりと止まるのだった。  嫌で嫌でたまらないのに、沙恵はその一方でいわれのない責任を感じた。やっぱり自分に原因があるのだろうか。この体の中に母ゆずりの何か淫蕩なものがひそんでいて、それが無意識のうちに男たちを惹きつけ、誘ってしまうのだろうか。  だからこそ——高二の夏、あの浪人生から交際を申し込まれた時もひどく悩んだのだ。知り合いの知り合いでもあり、一見まじめそうに見えたし、友達からは無責任にけしかけられもしたが、その男が本心から誘っているのかどうか、自分はどうするべきなのか、一人では判断がつかなかった。  迷った末に、沙恵は暁に相談を持ちかけた。血のつながらない兄が近ごろ妙によそよそしい態度を取ることには気づいていたが、子どもの頃から培われた彼への信頼は一分たりとも揺らいでいなかったし、きっと親身になって相談に乗ってくれると思った。と同時に、いささか子どもじみた思惑もあった。いったい何が気にいらないのか、自分と目を合わせようとすらしない暁に、少しばかりやきもちを焼かせてやりたかったのだ。  けれど。 〈試しに付き合ってみればいいじゃないか〉  話を聞いた暁は、顔色ひとつ変えなかった。 〈いっぺんゆっくり話してみりゃ、気の合う奴かどうかわかるだろ。考えるのはそれからだって遅くない〉  もちろん、沙恵に暁の本心がわかろうはずはなかった。それどころか、想像してみたことすらなかったのだった。  まさか、兄までが自分を男の目で見ているなどと——もう何年もの間、ずっと。      * 〈いいから、楽しみにしておいで。来年の春は庭先で花摘みができるよ〉  そう言って笑った母親の顔を思い出す。脳の血管が破れて倒れる、ほんの数時間前のことだ。いくら土いじりが趣味とはいえ、あまりにも根を詰めすぎるのを心配した沙恵が、もう少しのんびりやってはどうかと声をかけた答えがそれだった。 〈歳取ってくるとこう、何ていうの? 日に日に育ってくものが好きになってねえ。ほら、花とか、赤ちゃんとか。あんたたちの赤ん坊を抱かせてもらえるのはいつのことになるやらわからないけど、花は、いま蒔いとけば春にはきっと咲いてくれるから。それにしても、あれだねえ。この歳になってもまだ、楽しみに待てるものがあるっていうのは、幸せなことかもしれないねえ〉  長年かけて志津子がこつこつ植えた花木はしっかりと根付き、宿根草や球根も次々に芽吹いて、庭はいま、一年で最も美しい季節を迎えようとしている。あのとき蒔かれた種も庭のあちこちでひとりでに育ち、それぞれがささやかな花をつけ始めていた。間引きが充分でなかったためかひょろりと頼りなげではあったが、習字の手本のような字で書きつけられた名札のとおり、忘れな草を蒔いた場所にはちゃんと忘れな草の花が咲き、ひな菊を蒔いた場所にはひな菊の花が咲いている。 〈薔薇の木に薔薇の花咲く、何ごとの不思議無けれど……ってね〉  まだわかるはずもないほど小さなうちから、志津子はよくそんなことを教えてくれたものだった。  重之などは志津子を評して、お前は物を知らないだの、考えが浅いだのとしょっちゅう馬鹿にしていたものだが、志津子はそのじつ本をよく読む女だった。亡くなる前の夜も、小さな老眼鏡を鼻の上でおさえながら、お気に入りの短歌の本に目を凝らしていたものだ。いささか世間知らずではあったろうし、人の言葉の裏を勘ぐるにはあまりにお人好しすぎたものの、決して愚かでも無知でもなかったはずだと沙恵は思う。  ふいに涙ぐみそうになってしまって、庭にしゃがみこんだ。目の前の花の色が胸に迫り、ひどく無防備になった気がする。  子どもの頃は、こんなふうに膝をかかえていると必ず暁がとんで来てくれた。そうして、隣にしゃがんで覗きこみ、沙恵の頭をぎこちなく撫でながら言うのだった。 〈ほら、早く泣いちゃいな〉  幼い沙恵がまだ泣き始めていない時も、すでに泣き出して止まらない時も、暁はいつも口ぐせのようにそう言った。早く泣いちゃいな[#「早く泣いちゃいな」に傍点]。  沙恵は、セーターの袖がさがってきたのをまくりあげ直すと、コデマリの下の雑草に手をのばした。  かすかな風が吹くだけで、細かい花びらが粉砂糖のように降ってくる。朝食を済ませて間もないのと、あれから後ほとんど眠れなかったのとで、今ごろになって少し眠い。日ざしがあまりにうららかなせいもあるかもしれない。  池を埋めたあとに作った畑まで含めれば、一人で面倒見るにはけっこうな広さで、ここ十日ほど前からは毎日草取りをしなくては追いつかなくなってきた。ちょっと動いただけなのに、背中はもう汗ばんでいる。夏のことを思うと今からため息が出るが、それでも、こうして庭に這いつくばり、ひとつひとつの花と向かい合っていると、そこかしこに母の遺したいたわりや慈しみのあとが感じられて、胸のうちが温められる思いがする。  沙恵、と、父の呼ぶ声が聞こえた。家の奥から、板の間や畳を踏み鳴らすせっかちな足音が近づいてくる。 「沙恵。おい、沙……」  声が途切れた。  ふり返ると、縁側に出てきた重之は、口を半開きにしてこちらを見ていた。 「どうしたの?」  枯木のこぶのような喉仏が大きく上下する。 「……いや」重之は咳払いした。「寺沢から、タイルの見積もり上がって来たか」 「どこの? 新庄さんとこのキッチン?」 「いや、本田邸の風呂場」 「ううん、まだ来てないわ」  重之は舌打ちした。「ったく、あの馬鹿。また飲んだくれて忘れてやがるな」 「電話しておく?」 「そうだな、頼む。夕方までに必ずよこすように言ってやってくれ。それと、山本邸の請求書」 「昨日、送っておいたけど」 「そうか。ならいい」  きびすを返そうとした重之が、雪見障子に手をかけたところでふり返った。 「あまり、根を詰めるなよ」 「え?」 「放っておいても、花は咲くもんだ」  沙恵は、微笑んだ。 「……はい」  障子が閉まり、足音が遠ざかっていく。  やがて、裏手の資材置き場でエンジンのかかる音がした。七十代半ばを過ぎてから、さすがに無理はきかなくなってきたが、重之はああして毎日現場を回っては大工たちの仕事ぶりに目を光らせている。  純日本建築の依頼はぐっと減り、ここ数年は新築の七割以上が、重之言うところの「薄っぺらでちゃちな」洋風住宅になってしまったが、それでも父は決して仕事の手を抜かなかったし、妥協も許さなかった。たかだか構造用合板を釘打ちマシンで打ちつける程度の作業であっても、大工たちの仕事のあとを、手にした古い金槌の頭でするすると撫で、ほんのわずかでも出っぱりを見つけようものならひと叩きでその釘を打ちこむやいなや、 〈お前ら、壁紙屋にナメられたいか!〉  容赦なく怒鳴り飛ばすのだった。  若い大工の中には、捨てゼリフを残してさっさと辞めていく者もいた。 〈ったく冗談じゃねえよ。ばかばかしくてやってられっかよ〉  下積み時代は親方の怒声に耐えるのが当たり前、といった昔ながらの重之のやり方は、純日本建築の家と同じく、世の中の流れから取り残されていく運命にあるのかもしれなかった。  抜いた草を集めて竹籠に入れ、沙恵は立ちあがった。ずっとしゃがんでいたせいで立ちくらみがする。籠をかかえて庭の片隅に運んでいき、緑色のコンポストのふたを開けて入れると、昨日捨てた生ゴミがぷんと臭った。  庭を美しいままに保つのがどれほどの重労働か、沙恵はようやく思い知りつつあった。花木や宿根草は、重之の言うとおり放っておいてもそれなりに咲くかもしれないが、一年草はそうはいかない。今咲いている花の種を、志津子は秋に蒔いていた。ということは、秋に咲く草花はもうそろそろ蒔いてやらなければならないということだ。  あのうまく曲がらない脚で、家事のすべてを引き受けながら、母親はいったいどこからそんな時間を捻出していたのだろう。そんなにまでして、物言わぬ花たちと何をやり取りしていたのだろう。家の中では沈んだ顔などほとんど見せたことのない母だったが、庭にかがみこんでいる時だけは違ったのかもしれないと沙恵は思った。  竹籠を洗って干そうとした時だ。離れの壁際に何か白いものが見えた気がして、手を止めた。  椿の木の下、日陰の苔に混じってはえている一群。沙恵は目をこらし——思わず微笑んだ。  ヒトリシズカの花だ。草丈の低い、濡れたように濃い色をした四枚の葉の間から、花と呼ぶのもはばかられるほど地味な白い穂が顔を覗かせている。よく見ると、あちらにもこちらにも咲いている。もうずっと昔に、志津子が裏山の林から一株採ってきて植えたものが、いつのまにかここまで増えたのだ。  今年も忘れずに咲いてくれた。そう思うと、愛しかった。  たった一株のヒトリシズカを母親が植えたのは、子どもらがまだみんな幼い時分のことだった。  その朝、母親はなぜかずいぶん急《せ》いた様子で、沙恵と美希だけを連れて家を出た。片手に小さい美希を抱いていたが、いつもと違い、空いているほうの手で沙恵の手を引いてはくれなかった。かわりに何か大きな荷物をさげていたからだ。  あのころ、母親には何かつらいことがあったのだろうか。改めてそう思ってみると、人生を通じてつらいことばかりだったような気もする。  けれど、裏の林を通り抜けようとしたところで、どこかよそで遊んでいたはずの暁に見つかってしまった。暁は追いかけてきた。志津子がどんなに戻るように言って聞かせても、イヤだ、ぼくもいく、と頑固に言い張ってどこまでもついてきた。彼は彼なりに何かを感じとっていたのかもしれない。  結局、志津子は三人の子どもらを連れて家に引き返してくるしかなかった。  そこから沙恵の記憶は、庭の片隅に穴を掘る母親の横顔へと飛んでいる。  林の入口で見つけ、暁に持たせて帰った花の根元に土をかけながら、志津子はてんでに覗きこむ子どもたちを相手に、ヒトリシズカの名の由来となった人のことを話して聞かせてくれた。 〈しづやしづ賤《しづ》の苧環《をだまき》くりかへし 昔を今になすよしもがな……。これはねえ、静御前って女の人の歌なの〉  シズカゴゼン? 〈そう。源義経ってお殿様の、恋人だったひと。そりゃあもう頭のいい、きれいな人でねえ〉  まるで会ってきたような口ぶりだった。 〈別れて暮らす義経さまは無事でいるかどうかもわからないし、もう恋しくて恋しくて、敵の目の前で舞を舞いながら歌ってみせたの。あの幸せな日々を取り戻すことはもうできないのでしょうか……ってね〉  そこでふと手を休め、志津子は娘二人を見比べて、ほ、と疲れた顔で笑った。 〈そういえばあんたたち、まるで静と巴のようだねえ〉  片や、京の白拍子から義経の愛人となり、頼朝からどれほど彼の居所を明かせと責めたてられようとも沈黙を守りぬいた静御前。片や、木曾義仲の愛人にして戦場では肩を並べて戦い、重傷の義仲に自害をすすめながらも敵を蹴散らし続けた女武将、巴御前。母がどちらをどちらになぞらえたのかは、考えてみるまでもなかった。  なぞらえたばかりではない。それは暗示的、いや、予言ですらあったと沙恵は思う。  昔を今になすよしもがな[#「昔を今になすよしもがな」に傍点]。  そう——あの日々に帰れるすべがあるのなら、自分は何だってするだろうに。      *  今でもこのあたりは東京の田舎などと呼ばれているが、十五年ほど前までは、東京の[#「東京の」に傍点]どころか正真正銘の田舎だった。あたりには雑木林や川があり、あちこちに畑が広がり、子どもたちが自転車で走りまわれるほど広い野原もたくさん残っていた。  高校が夏休みに入ったばかりのその日。  沙恵は兄の助言を容れて、例の浪人生・田辺孝一と、とりあえず一日だけつき合ってみることにした。  駅前で待ち合わせ、誘われるままに映画を観て、買物や食事をしながら少しずつお互いのことを話した。彼はとくべつ容姿が優れているわけではなかったが優しかったし、あまり異性を感じさせないタイプだったので、二人きりでいても気が楽だった。話し好きだったがクラスの男子のような品のないことは口にせず、沙恵の知らないことをたくさん知っていた。 〈受験勉強? 進んでるわけないじゃん〉  冗談とも本気ともつかない口調でそう言って笑った目もとが、ほんの少し、暁に似ている気がした。  夕方、送られて帰ってくる頃には、会う前にあんなに躊躇したことなどすっかり忘れていた。これからほんとうに好きになれるかどうかはわからないけれど、彼が望むなら、もう一度くらい会ってもいいかもしれない……。  家まで送っていく、と田辺は言ったが、知り合いに会うと恥ずかしいから途中まででいいと沙恵は言った。  駅からの道を並んで帰る途中、二人は重之の手がける建築現場を通りかかった。両側を栗林にはさまれた広い空き地はこれから団地として開発されるところで、その一角に、ようやく窓がはめこまれたばかりの一軒家が建ち、「水島工務店」の札が立てられていた。  中を見てみようよ、と田辺が言いだした時、もちろん沙恵はためらった。重之や大工たちはもう引きあげてしまっていたし、あたりには人けがなく、日は沈みかけていた。けれど、熱心にせきたてる彼がまるでおもちゃ売り場を見たがる子どものような顔をしているのを見ると、へんに疑っている自分が恥ずかしくなってしまった。一日じゅう優しくしてくれた彼に、自意識過剰な女だと思われたくなかったのだ。  度を過ぎたお人好しは、母親からの遺伝なのだろうか。  がらんとした家の中でいきなりキスされそうになり、驚いて飛びのいた時ですら、沙恵は、田辺のことをいい人だと思っていた。自分はまだそういうことをする気にはなれないと言えば、もちろんやめてくれると信じていた。  しかし田辺は、それまでと少しも変わらない口調で言った。 〈いいじゃんか。もったいぶるなよ〉  そして、沙恵の腕をつかんで引き寄せた。  押しのけようとすると無理やり抱きすくめられた。  沙恵は悲鳴をあげて暴れた。  うろたえた田辺の顔が一変した。  床に引き倒され、のしかかられ、ようやく事態を悟った時には遅かった。必死に足をばたつかせたが、下腹に鈍い痛みを感じて息ができなくなった。腹を蹴られたのだとわかったのは後からだった。手を振りあげ、振りおろし、腕をつっぱり、相手を蹴り返そうとし、口をふさぐ手に噛みつこうとし、首を激しく左右に振ってもがいた。けれど、抵抗するたびに彼は腹を殴った。容赦はなかった。一、二度いやというほど横面を張られ、頭と耳が痺《しび》れた。口の中が切れて鉄錆の味がした。さらに何度か腹を殴られ、やがて——何も感じなくなった。  下着が引きおろされるのがぼんやりわかっても、沙恵の体は麻痺《まひ》したように動かなかった。田辺は息を乱しながら、彼女の両脚を広げて無理やり押し入ってきた。暴れた時に沙恵は汗だくになっていたが、皮肉にもそれが潤滑油のかわりをした。引き裂かれるような痛みに絶叫したつもりだったのに、かすかな呻き声しか出てこなかった。たとえ叫んだとしても誰の耳にも届かなかったろう。  頭の中でものすごい音が轟《とどろ》いていたような気もするし、真空のように静まり返っていた気もする。  田辺は沙恵の上で何度かせわしなく動き、低く呻いて射精した。しばらく息を整え、彼女の中から滑り出ると、田辺は立ちあがって一物をしまいこみながら言った。 〈お前が誘ったんだからな〉  今頃になって、みっともないほど声がうわずっていた。 〈でなきゃ、お、俺がこんなとこを知るわけがないんだ。お前がわざわざ、誰もいないところに俺を誘ったんだ。誰が聞いたって、この場所を見りゃそう思うさ〉  沙恵は、膝を引き寄せて体を丸めた。 〈いいな、一言でもばらしてみろ、お前が誰とでもやる女だって言いふらしてやる。二度と顔あげて外を歩けなくしてやるからな〉  一人きりで取り残されてからも、沙恵はしばらく起きあがれなかった。  むき出しの壁にはめこまれた窓から夕日がさしこんで、おがくずだらけの床を染めていた。息をのむほど美しい夕焼けだった。あたりには真新しい木の香りが満ち、時おりどこか隅のほうでミシッと音がした。外ではいつのまにかヒグラシが鳴き交わし始めていた。 (……帰らなくちゃ)  やっとの思いで体を起こし、沙恵は、足首に引っかかって丸まっている下着にのろのろと手を伸ばした。  その拍子に、男の残したものが床に流れ出し、青臭い匂いがむっと鼻をついた。  吐きそうになるのをこらえて裏手へ転がり出ると、沙恵は水道の蛇口をひねり、ホースをひっつかんだ。けれどどんなに水をかけて強くこすろうと、痛みを我慢して指をさし入れて洗おうと、不快なぬるみはいつまでも残っているように感じられ、体の奥のこわばりはどうしても消えなかった。 (隙ダラケナンジャナイノカ)  沙恵は、声を押し殺して泣いた。泣いては吐き、吐いてはまたすすり泣いた。  田辺におどされるまでもなかった。親になど言えるわけがない。だが、中でもいちばん知られたくない相手は暁だった。兄の性格ならきっと、会ってみればいいとけしかけたことで自分を責めるにきまっている。馬鹿なのは私なのに、勝手に自分のせいだと思いこんで、へたをすれば怒りに任せてあの男を殺してしまうかもしれない。私のためなら、お兄ちゃんはそれくらいのことはする。きっとする。  その時だった。 〈あれ、なんだよお前〉  びくっとなって振り返ると、表の立て札のそばに自転車をとめてこっちを覗いているのは、当の暁だった。こんなところで何を、と沙恵がうろたえる間もなく、暁は近づいてきながら同じことを言った。 〈なーにやってんだお前、こんなと……こ……〉  立ち止まった暁の視線が、涙でぐしゃぐしゃの沙恵の顔から、水浸しのスカートへ移動する。 〈なっ……〉  駆け寄ってくるなり、暁は沙恵の両肩をひっつかんだ。 〈何されたんだお前! 怪我は? おい、何があったんだよ。言えよ沙恵。沙恵!〉  かぶりを振り続ける彼女を、暁はがくがく揺さぶった。 〈ちきしょう、誰だよ相手は! おい、言えったら。あいつか? え? 今日会った野郎か?……ちきしょう、ふざけた真似しやがって、ぶっ殺してやる、ちきしょう……ちきしょう!〉  暁は、沙恵の頭をひったくるようにして胸に抱きかかえた。  その瞬間、安堵が、電流のように背筋を走り抜けた。あれほど暁にだけは知られたくなかったはずなのに、分厚い胸に押しあてられている頬の下で、彼の心臓が逆巻く怒りのために脈打つのを感じたとたん、沙恵を満たしたものは後悔ではなく、ただただ圧倒的なまでの安堵だった。  沙恵は、こらえきれずに暁にしがみついた。体の触れているところから、暁の怒りの激しさがそのまま流れこんできて感電しそうだった。腹の底、体の奥の奥から、何かどす黒い塊がこみあげてきて喉をこじあける。 〈お……〉  二、三度荒い息をつくと、沙恵はとうとう、悲鳴のような声で叫んだ。 〈おにい、ちゃあああんっ〉  彼女は泣いた。泣けば泣くほど暁の腕がきつく抱きしめてくれるのが哀しくて、また泣いた。泣いて、泣いて……息が詰まって死ぬかと思った。  自転車の後ろに乗せられて家に帰り着いたのは、あたりがすっかり暗くなってからだった。  お願いだから親には話さないでくれと必死に頼みこむ沙恵のために、暁は彼女を離れに待たせて家に入り、そっと着替えを取って戻ってきてくれた。途中、家の中から父親が何か怒鳴る声が聞こえてきたが、それは、暁が当初の用事を果たさなかったせいだった。彼があんなところを通りかかったのは、父親が置き忘れた図面を取ってくるように言われたからだったのだ。 〈そんなもん、最初から忘れてくるほうが悪いのさ〉  服を沙恵に渡しながら暁は言い、ちょっとのことでもまた泣きだしそうな彼女に向かって、無理に明るく笑ってみせた。  ヒトリシズカの上に射していた木漏れ日が、すうっと陰る。  そうだ、寺沢さんとこに電話、と思い出して、沙恵は離れの横の水道に手を洗いにいった。建築関係の業者は、重之たち大工をはじめ、みな朝が早い。飲んべえで名の通っているタイル屋の寺沢ですら、八時には動き出す。  と、向かいの家の玄関が開く音がした。ふり返らなくてもわかっていた。 「おはよう」  満天星《どうだん》つつじの生け垣越しに、出勤前の清太郎はいつものように声をかけてきた。「あれ、もう終わり?」 「おはよう」と沙恵も言った。「今朝は少し早く目が覚めたから。草取りもだいたい終わったし」 「ふうん。あのへんのは草じゃないの?」  彼が指さしたのは、壁際のヒトリシズカだった。沙恵は、ふふ、と笑った。 「草は草だけど、植えてあるのよ、一応」言いながらふと気づいて、教えてやった。「ねえ、またネクタイ曲がってる」 「そう言うお前は、ほっぺたに泥がついてる」  慌ててぬぐったのだが、 「逆、逆。うん、そっち」清太郎は笑いだした。「あーあ、筋になっちまった。あとで鏡見てみなよ」  それでなくとも愛敬のある猿顔が、笑うとさらに人なつこくなる。沙恵は仕方なく照れ笑いを返した。  ——清太郎の弱虫ィ。  ——寝しょんべんたれのチビィ。  暁にからかわれては沙恵の後ろでべそをかいていた、あの向いの清太郎の面影はもうどこにもない。業界最大手の建設会社に勤めだした当初こそスーツの中で体が泳いでいたものの、三十五歳の今、その顔つきはどこから見ても、部下を抱える大人の男のそれだ。  就職してまだ間もない頃、清太郎が一級建築士の資格を取るつもりだと言いだした時、誰より喜んだのはおそらく重之だったろう。長男の貢にも、次男の暁にも背かれた父は、あの時からすでに清太郎と自分に所帯を持たせることを考えていたのかもしれない、と沙恵は思う。 「なあ、それ、おふくろさんのだろ」  言われて、沙恵は着ているセーターを見おろした。あさぎ色の、春物のセーター。 「よく覚えてるのね」 「その服のせいもあるのかな。今さっき、背中から見たらあんまりおふくろさんそっくりで、ちょっとどきっとした」  ああ、そうか、と沙恵は思った。それで父さん、さっき……。 「それはそうとさ」と清太郎が言った。「例の件、親父さんに話してくれた?」 「それが」沙恵は、目をそらせた。「まだなの」 「無理にせかすわけじゃないけど、あんまり時間もないんだ」清太郎はさぐるような目で沙恵を見た。「一応、前向きに考えてはくれてるのかな」 「そりゃあ……。でも、そう簡単にもいかないわよ」  例の件というのは、清太郎の神戸転勤に関することだった。転勤といってもまだ決まったわけではない。神戸には大きな支社があり、彼は以前にも二年間そこに配属されていたのだが、その時の上司が部長に昇進し、再び清太郎を右腕に欲しがっているというのだった。受けるかどうかは、清太郎の意思に委ねられている。清太郎は、沙恵を連れて行くことを望んでいた。 「なんだかんだ、先回りして考えすぎるんだよ、沙恵は」清太郎はめずらしく苛立ったように言った。「親父さんなんかまだまだ元気なんだしさ。美希ちゃんだって近くにいるし、事務の手が足りなきゃ誰か雇うって方法もあるんだし。だいいち、ずっと向こうに行ったきりってわけでもないんだから」 「それは……そうだろうけど」  いつになく押しの強い清太郎に戸惑いながら、沙恵は言った。 「でも、お願い。もうちょっと考えさせて」  清太郎は、やれやれとため息をついた。 「わかったよ。じゃあ、まあ、行ってくる」  行ってらっしゃい、と何げなく返すと、彼はふり向いて苦笑いした。 「いつになったら毎日それが聞けるやら」      *  高校が夏休み中だったのと、次の生理がきちんと来てくれたことだけが救いだったが、どちらもたいした慰めにはならなかった。  家族の前でこれまでどおりふるまうことには、何とか成功していた。しかし、その反動は沙恵に耐えがたい苦痛をもたらした。  あの日以来、彼女は、道ですれ違う男はもとより、父親や長兄の貢に対してまでどうしようもない嫌悪を覚えるようになっていた。触れるどころか、かすかにでも体臭を感じようものなら、それだけで吐きそうになるほどだった。  電話番号から田辺孝一の下宿先をつきとめた暁が、彼を半殺しの目にあわせたことを知った時だけはほんの少し心が動いたものの、気が済んだなどとはとうてい言えなかった。憎くて、悔しくて、情けなくて、涙も出ない。泣いたからといって何かが元に戻るわけではない。一度失われたものは、この先も永遠に失われたままなのだ。  以前のように、いや以前よりも明るく日常生活をこなす自分と、沈みこんで冬眠してしまいたい自分との間のズレは日に日に広がっていって、一秒でも気を抜けば底なしのクレバスに落ちてしまいそうだった。度の合わないレンズが目の前を四六時中覆っているようで、無理に目を開けていようとすると頭がおかしくなりそうだった。  見かねた暁は、やがて、沙恵を散歩に連れ出すようになった。  めったなことでは人の来ない小さな神社の境内は、子どものころ美希や清太郎たちと一緒に缶蹴りやかくれんぼをして遊んだところだった。とくに清太郎が鬼のときは、社《やしろ》の中に隠れて戸を閉めてしまえば、怖がり屋の清太郎はまず探しに入ってこなかった。  懐かしい板張りの縁側に座り、沙恵は、背中合わせに脚を投げ出している暁にもたれかかってぼんやりと時を過ごした。肌を触れ合っても吐かずに済むのは、この兄だけだった。  どれだけ長くそうしていても、暁は沙恵の気が済むまで黙ってつき合ってくれた。いつまでもくよくよするなとか、いいかげんに忘れろなどとは一度も言わなかった。時がたつのを待つ以外にどうしようもないこともあるのだということを、彼自身、よく知っていたのかもしれない。  だが、少なくとも——と、沙恵は思う。少なくとも、あの時点においては、自分と暁の間にあったものは肉親の情だった。互いに連れ子同士であることはもう知らされていたから、普通の兄妹の間にゆきかう感情とは微妙に違っていたかもしれないが、それでも暁は自分にとって〈兄〉だったし、彼にとって自分はやはり〈妹〉だったと思う。  けれど、危うい均衡はやがて、ふいに崩れた。  事件から三週間ほどがたち、その日、八月半ばの境内は猛々《たけだけ》しいほどの緑に覆われていた。蝉時雨が叩きつけるように降り注ぎ、それでも日陰はひんやりと冷たかった。 〈馬鹿かお前は!〉  うつむく沙恵を、暁は頭から怒鳴りつけた。 〈あんなことを気にするような野郎なら、こっちから願い下げだろうが、ああ?〉  寡黙な兄が、その時は本気で怒っていた。何かの拍子に沙恵が、この先私を好きになる男などいるわけがない、と言ったせいだった。  そういう意味ではないのだ、と沙恵は言った。あんな男に犯されたから言っているのではない。誰よりも私自身が、こういう自分をどこかへ放り出してしまいたくてたまらないのだ。うっとうしくて、陰気くさくて、ばかで、考えなしで。父さんの言うとおり、たぶん隙だらけで、だらしなくて。本人でさえ到底好きになれずにいるようなこんな女を、いったい誰が好きになってくれる?  暁は、黙っていた。  あまりにも長く黙ったままでいるので、不安になった沙恵が顔を上げると、見おろす暁と目が合った。日灼けした顔は、なぜか緊張に引き締まっていた。三週間、毎日のように一緒にいた間、一度も見せたことのなかった表情だった。 〈俺は……〉  まるでうわごとのように言いかけた暁は、自分の声にはっとなって目をそらし、 〈お前は〉と言い直した。〈充分、いい女だよ〉  沙恵は、ふっと微笑んだ。——ありがと。 〈ばか、慰めじゃねえよ。俺のクラスの奴らだって、みんなそう言ってる。俺なんかにはもったいない妹だって〉  黙ったままでいる沙恵の前に、暁は膝をついた。両手を握って顔を覗きこむ。 〈お前、俺の言うこと信じてないな?〉  沙恵は答えなかった。 〈そっか〉暁はため息をついた。〈そりゃそうだよな。俺の言うとおりにしたせいで、あんな目にあったんだもんな〉  そんなこと! と慌てて首を振ると、大きな手が伸びてきて、沙恵の頬を両側からはさんだ。 〈じゃあ、信じろよ〉  と、暁は言った。強く光る目が、切りつけるように見つめてくる。 〈あといっぺんでいいから、俺を信じろ〉  眉間がつうんと痛み、鼻の奥が熱くしびれ始めた。 〈いいか。お前は、どっこも変わってない。その、やたらと強情なとこも、人に気ぃ遣って嫌なこと嫌だって言えないとこも……それとか寂しがり屋なとこも、ほんとは泣き虫のとこも、けっこうグズでドジなとこも、なんっにも変わってない。変わってないけど——けど、前よりずっといい女だよ。……ばかお前、ほんとだぞ。子どもの時からずっとそばで見てきた俺が言ってるんだ、こんな確かなことはないだろ?〉  まぶたの裏が熱くたぎっていく。泣くまいとこらえればこらえるだけ、唇の端がひくひく震えてしまう。  それを見て、暁の目がふっと和んだ。 〈ばかだなあ。なに我慢してんだよ〉沙恵の頭をくしゃっと撫でて、彼は言った。〈いいから、ほら。早く泣いちゃいな〉  それが、限界だった。  沙恵はとうとう、自分から腕を投げかけ、暁の太い首にしがみついた。暁は彼女を抱きしめ、何度も何度も、髪をすくように撫でてくれた。  声をあげて泣くのはもちろんのこと、そんなふうに暁と抱き合うのも、あの日の夕暮れ以来だった。だが、あの時とはもうすでに、何かが違っていた。あんなに男の匂いを気持ち悪く思っていたはずなのに、暁の汗の匂いは少しも嫌でなかった。むしろ、いつまでもかいでいたいくらいだった。  ——〈兄妹〉なのに。  ふいに、怖れを感じた。  暁が怖ろしいのではない。怖ろしいのは、体の奥底で蠢《うごめ》きはじめた何かだった。しっかり押さえていてもらわないと宙に浮きあがってしまいそうな心もとなさの中に、期待のような、疼痛《とうつう》のようなものを感じ始めている、その自分が怖いのだ。沙恵は、震えた。開けてはいけない扉のノブに手をかけ、今まさに回そうとしているような後ろめたさを、自分だけではない、暁のほうも感じていることがわかる。それが証拠に、彼の体はあまりにも熱く火照っていた。  どれほどの間そうしていただろう。  沙恵はふと、耳元で暁が何か言おうとしているのに気づいた。口をひらきかけてはためらい、また何か言いかけてやめる。言葉にできない思いのぶんだけ、腕が、まるで責め具のようにきつく沙恵の体を締めつけてくる。思わず悲鳴をもらして身をよじると、 〈沙恵、俺……〉  暁は低く呻いた。 〈俺……〉  いきなり、頭をわしづかみにされ、もぎはなされた。あまりにも間近から覗きこんできた暁にあっと思う間もなく、彼の唇が覆いかぶさってくる。驚いて反射的に押しのけようとしたが、立ちあがりざまにのしかかってきた彼は噛むように唇を貪《むさぼ》り、抉《えぐ》るように舌が送り込まれ、沙恵は目をみひらいて息を詰まらせた。背中から谷底へ落ちていくような感覚に思わずしがみつくと、暁の息がさらに乱れた。まぶたの裏側が真っ白になり、頭の中がぐるぐるまわり出し、そのうちにはとうとう、暁の唇の荒々しい動きと、その体から発散される男っぽい匂いのほかには何も感じられなくなった。  気が遠くなるほど長い口づけの後で、暁はようやく体を離した。ものも言わずに見つめ合う。どちらの息も、同じくらい荒かった。  促したのは暁だったが、すでにそれは沙恵の望みでもあった。二人はもつれるように社の中に転がりこんだ。壁板の隙間から光が細く長くさしこむ中、服を脱がせ合うまではまだ互いにためらいがあったものの、肌と肌が吸いつくように合わさった瞬間、それどころではなくなった。  ゆっくりと暁が入ってきたとき、沙恵は思わず叫び声をあげた。痛みのためではなかった。あまりにも強烈な快感のためだった。たった二度目でこんなになるはずはないと思いながらも、どうすることもできなかった。夜中に親たちの寝室からもれてくるのとそっくり同じその声は、沙恵自身の耳にもひどく淫らに聞こえ、暁にまでそんなふうに思われたくないという気持ちがほんのしばらくは彼女をつなぎとめていたが、彼が再び動き始めると理性のたがなどどこかへ吹き飛んでしまった。 〈お兄ちゃん……〉  その名を口にするたび、体じゅうの血がものすごい勢いで満ち引きした。 〈おにいちゃん……っ〉  板戸を閉めきった社の中の、乾いた埃の匂いを覚えている。蝉時雨に降り込められたようなあの日々が、思えば、いちばん幸せな時期だったのかもしれない。  すべてがこれから始まるのだと、二人ともが思っていた。      *  目を閉じ、こめかみを指で押さえた。頭が鈍く痛むのは、長時間、発注リストの細かい数字を追っていたせいだ。  母屋のほうに手を入れたのと時を同じくして、この離れは事務所として使われるようになった。畳を取り払い、現場で余ったビニールタイルを敷きつめ、コピー機やファクシミリや古い机が適当に運びこまれ、電話が引かれた。おかげで昔の面影はなくなってしまったが、一日のほとんどをそこで待機して過ごす沙恵としてはそのほうがありがたかった。どうせろくな思い出などないのだ。  と、電話が鳴った。 (ねえ、今晩そっち行っていい?)  美希だった。 「もちろん」と、沙恵は言った。「自分の家に帰るのに、どうしてわざわざ訊くの」 (だって、晩御飯の用意とかあるじゃない) 「冷蔵庫に何やかやあるもの、大丈夫よ」 (ちなみに私、昨日はお魚だったんだけどな) 「はいはい」と沙恵は笑った。「今日はお肉にさせて頂きましょ」  じゃあ、終わったら行くね、と言って、美希は電話を切った。  きっと妹も今頃、書類の山と格闘しているのだろう。取引先から送られてくるファックスを整理し、ひっきりなしに鳴る電話を取り、施主のわがままに泣かされ、その合い間を縫って必要な品を発注し、契約書を作成し……。姉妹とも期せずして同じような業種を選んだあたり、環境が人を作るという説はそれなりに当たっているのかもしれない。  ただ、沙恵と美希とでは、自ら望んでこの仕事を選んだかどうかという点において大きく違っていた。  暁が家を飛び出していった後、沙恵は、一年のブランクののちに経理の専門学校に進んだが、多くの人に囲まれる環境はいつからか彼女にとって苦痛でしかなくなっていた。街にあふれる騒音は耐えがたく、満員電車で他人と肌を触れ合うだけで吐き気がした。  家業を手伝うことになったのは、だから自然な成り行きというより、唯一残された選択だったといえる。家族ですら疎ましく思えて、何度か一人暮らしも考えたが、よりによってこの自分が家を出たりしては両親に角が立つ、そんな遠慮から言い出せずにいるうちにさっさと美希に先を越されてしまった。人に気を遣うあまり嫌なことを嫌だと言えない——まったく、兄の言うとおりだ。  もしも。  その言葉を思い浮かべることを、沙恵はもう長い間、自分に禁じてきた。仮定という蜜でくるんで思い起こす過去は甘いが、それは麻薬に似て、むさぼればむさぼるだけ緩慢な毒となって心に蓄積する。沙恵にはそのことがわかっていた。わかっていたからこそ、自分を律していたのだ。  だがそれも、志津子が亡くなるまでの話だった。  あの夜、遺体の横たわる病室に入ってきた暁を見たとたん、封印したはずの扉の掛け金があっけなくはずれるのがわかった。半分だけしか血のつながらない、けれど半分は確実に血のつながった兄は、会えずにいた歳月のぶんだけ面変わりしていたが、母の死に顔を見おろしてつぶやいた声は昔のままだった。 〈……穏やかな顔してら〉  低くかすれたその声が耳に届いた瞬間、せっかくやり過ごした十五年という時間が一気に巻き戻されてしまった。あれほど苦しかった日々の記憶も、後悔と自己憐憫の末にようやくたどり着いたあきらめも、覚悟も……あふれだす懐かしさにいとも簡単に押し流されて、それきり〈もしも〉に歯止めがきかなくなった。  今朝がたの夢など、可愛らしいものだ。眠りながら見る夢より、目覚めて見る夢のほうが百倍も罪深い。  もしも[#「もしも」に傍点]——と、もう何百回目かで思った。  もしもあの夜、母親が倒れなかったら。  もしも暁が、札幌から駆けつけなかったら。  もしも通夜の晩、暁と二人きりで話したりしなかったら。  ……自分は今頃、清太郎に対してここまで後ろめたさを感じなくて済んだのだろうか。新しい暮らしに飛びこむことに、今さら迷ったりしなかったのだろうか。  そう思うと、逆恨みとは知りつつも、わざわざ暁を呼びつけた美希が恨めしかった。  縁側で一人、月を見上げていた暁の、痩せた横顔を思い出す。言葉など、なまじ交わせば辛くなるばかりだとわかっていたのに、今を逃せばもう二度と逢えないかもしれないと思ったらそばに行かずにいられなかった。  十年ばかり前、暁が札幌で結婚したと聞かされた時は幾晩も泣いた。子どもが生まれたと聞かされた時はひたすら寂しかった。けれど、いちばん苦しかったのは彼の離婚を知った時だった。〈奈緒子〉という、名前以外は顔も知らないそのひとの存在が、今までどれだけ自分を牽制してくれていたか初めて知る思いだった。  よけいなことを考えてはいけない。考えたって、苦しくなるばかりだ。考えてやらなくてはいけない相手は、他にいるではないか。  沙恵は、さめかけたお茶をすすった。  ちょうど昼休みとあって、近くの小学校から子どもたちの声が聞こえてくる。  正面の窓いっぱいにひろがる庭は、ちょうど窓枠が額縁となって、一枚の絵のようだった。手前には、花の終わった椿の深緑。奥の畑の際に、玄海つつじの淡い紫とコデマリの白、エニシダの黄。そしてその向こうに、いぶし銀の色をした向かいの家の瓦屋根が見える。  清太郎にいつか結婚を申し込まれるだろうことは、三年前に彼が神戸から戻ってきた頃からわかっていた。自惚れではなかったと思う。彼は、一度も自分の気持ちを隠そうとしなかったからだ。そのせいか、実際に申し込まれた時も正直なところ感動などなく、ただ淡々と、その時が来たのだと思っただけだった。 〈幸せ者だよ、あんたは〉  志津子は涙を浮かべて言ったものだ。 〈あんないいひと、鉦《かね》たたいて探したって見つかるもんかね。うんと大事にしてやらなくっちゃ、ばちが当たるよ〉  そのとおりだと、たしかに思う。清太郎に不満など何もない。気心の知れた幼なじみで、家族ぐるみの付き合いで。  長男坊の彼が両親からどんなふうに愛情を受けて育ったか、どんなふうに少年から男へと変わっていったか、ずっと近くで見ていた。彼の優しさが本物であることはわかっている。彼なら自分を泣かせたりしないこともわかっている。涙など、一生ぶん流しつくしてしまった。激しい恋はもう沢山だった。だからこそ、黙って清太郎の申し込みを受け入れたのだ。なのに——。  どうして今になってためらったりするのだろう?  どうして自分は、いまだに清太郎に抱かれることができずにいるのだろう?  二度だけ、試してみたことがある。一度目は清太郎に望まれて高いホテルに泊まったのだったが、二度目は義務感と罪悪感に駆られて沙恵のほうから言いだしたのだ。  けれど、駄目だった。どんなに彼が時間をかけて丁寧に愛撫してくれても、沙恵のそこは素っ気ないほど乾いたままだったし、いざとなるとひたすら痛いばかりだった。それも並みの痛さではない。全身から音をたてて血の気が引いていき、本当に気を失いそうになるほど痛いのだ。  結局二度とも、真っ青な顔で歯を食いしばる沙恵を前に、清太郎のほうがその気をなくしてしまったのだった。  自分でも、わけがわからなかった。そんなはずはないのに。一人の時は、たかが夢でさえもあの始末なのに。 〈そんなに無理することないって〉  悲愴な顔で謝る沙恵の背中を撫でながら、清太郎は言った。 〈昔なんかみんな、結婚してから初夜を迎えるのが普通だったくらいだしさ。なかなかうまくできない夫婦だってきっと山ほどいただろうけど、そのうちには何となくうまいこといくようになるもんだろうし。俺らももっと気長に構えてればいいんじゃないの? セックスなんてそんな、歯ぁ食いしばってまで頑張るほどのもんじゃないよ。な?〉  覗きこんでくる清太郎の顔はおだやかで思いやりにあふれて見えたが、その後ろに彼がうまく隠したつもりでいる失望と不信感を、沙恵は敏感に感じ取った。善きにつけ悪しきにつけ、本心の隠せない男なのだ。  ——この女は、俺を愛していないのではないか。  清太郎がそう感じていることが伝わるだけに、沙恵は辛かった。かつての暁への想いとは比べられなくても、自分は自分なりに清太郎を大切に思っている。その気持ちまで疑われるのは悲しかった。だから話したのだ。死ぬまで誰にも言うまいと思っていた、あのおぞましい初体験のことを。  歳の割には古い考え方をする清太郎が、それを知って離れていくならそれでもかまわなかった。そうしてひと思いに壊してしまったほうが、いっそ楽になれる気もした。と同時に、屈折した期待もあった。ゆるい幸せの中で育ちあがったこの幼なじみののんきな顔が、怒りや、嫉妬や、嫌悪や失望や、そんなふうなどろどろしたもので醜くゆがむところを見てみたかった。  けれど……結果は、沙恵の望んだものとは少し違っていた。  聞きながら清太郎はずっと、眉を寄せ、頬をゆがめてはいたが、それは怒りや嫉妬というより苦渋でしかなかったし、沙恵を見つめる目にあるのは失望でも軽蔑でもなく、ただの同情だった。たった一度だけ、場違いな楽観が——これでやっとわかった、この女が体を開けずにいるのは俺のせいではないのだ、そう言いたげな安心の色が、ちらりとその目の中をよぎった気もしたが、せいぜいその程度だった。 〈もういいよ〉と、清太郎は沙恵を抱きしめた。〈もう、わかったから〉  そうして、何を思ったか、まるで甘い疼痛を味わうような目をして、彼女の左手首の傷を撫でた。 (その傷は違う!)  と、危うく叫んでしまいそうになった。  だが、どうして本当のことが言えるだろう。あなたもよく知っている暁と、実の兄とは知らずに契り合いましたとでも? 兄に抱かれた時は、一度目から体じゅうとろとろに溶けてしまいそうでしたとでも? 今の自分ならたとえ本当の兄だと知っていても迷ったりしないでしょうとでも? 〈俺が守ってやるから〉と、清太郎は言った。〈もう、つらい思いなんかさせないよ。ずっと俺が守ってやるから。絶対幸せにしてみせるから〉  このひとは、なんて善良なのだろう。そして、なんて鈍感なのだろう。それより何より、暁のことを想いながら清太郎の腕に抱かれている自分は、いったい誰に対して不実なのだろう。 〈幸せ者だよ、あんたは〉  そうだ、清太郎は優しい。その優しさに、時折り、鼻も口もふさがれて窒息してしまいそうだ。  傷跡を撫で続ける清太郎から、沙恵はきっぱりと手首をふりほどいたが、彼は自分の言葉に酔っていて何も気づかなかった。  けたたましいベルに飛びあがった。  わずかな沈黙の後、ファクシミリがかたかたと音をたて始める。  立って行って覗いてみると、タイル屋の寺沢からだった。見積もりがやっと上がってきたらしい。  吐き出された一枚目の紙を手に取って、内容を確認していく。  壁タイル、白、十センチ角、五・七�。床タイル、グレー、二十センチ角、〇・八�。花柄ボーダータイル……そこで沙恵の目は、左へそれた。  手首の内側に残る、深く鋭い傷跡。  暁を失い、長兄の貢の家に身を寄せていた日々のことはほとんど覚えていない。ものを感じる心を体の奥底に沈めてしまわなければ、息をすることにも耐えられなかった。結局それも、長くはもたなかったけれど……。  足元にはらりと落ちた見積もり用紙をそのままに、沙恵は、小さな三日月の形をした白い傷跡をなぞった。長い時を経て目立たなくなってはきたものの、おそらく一生消えることはないだろう。人は、それを弱さの印だと言うかもしれない。だが、沙恵自身にとっては、むしろ、強さの証ですらあった。あんなに激しく誰かを想うことなど、二度とできるはずがないのだから。  薄青く血管の浮く手首を握りしめると、沙恵は傷跡に顔を寄せ、そっと唇を押しあてた。      *  その年齢にしては重之はよく食べるほうだったが、さすがにここ数年、少しずつ量が減ってきた。とくに今年に入ってからは、たまにだが、皿のものを残すことまである。  子どもらが御飯粒ひとつ粗末にするのも許さなかった父が、いったん箸をつけたものを残すなど余程のことに思え、沙恵は無理に勧めて医者に診てもらったのだが、幸いどこにも異状は見つからなかった。近頃では、初めから少なめに盛りつけるよう心がけている。それでなくとも老いを認めまいと苛立つ父に、食事のたびに無理をさせることはない。 「しかしまあ、お前はよく食うな」  その重之があきれたようにそう言ったのは、美希が、夕食の後すぐ台所に立って苺を洗いはじめた時だった。 「たった今、もう動けんとか言っとったくせに」 「こういうのはまた別腹なんだもーん」すました顔で美希が言う。「いいじゃない。好物を食べると寿命が延びるって言うし」  それを言うなら初物だろう、と重之は苦笑したが、ガラスの小皿に取り分けた苺を美希が目の前に置いてやると、さっそく手を伸ばした。苺は、誰よりも重之の好物だった。  ふだんは無口どころか、口をきけば損をするとでも思っていそうな父親が、こうして末娘の帰ってきた時だけはわずかながら饒舌になる。  子どもの頃から、沙恵はこの明るい妹がうらやましかった。要領のいいところも、物怖じとは無縁のところも、自己主張がはっきりしているのになぜか誰にも憎まれずに済むところも、そしてもちろん、甘え上手なところも。沙恵には、物ごころついて以来、美希のようにまっすぐに父親に甘えた記憶がほとんどない。血のつながりがないからと遠慮していた頃はもとより、実の父親であることを知らされた後も変わらず、どこか恐ろしくて遠い存在のままだ。いまだに上手な甘え方がわからない。上手だの下手だのと頭で考えてしまうこと自体が、この溝の埋められなさの表れであるようにも思う。  父と二人きりのいつもの夕食を思って、沙恵は苦笑した。静かな——甘えてすり寄ってくる猫のおかげでようやく間がもつような、毎晩の食卓。  父は、ほんとうは美希にこそ、家に残って欲しかったのではないかと思った。  朝の早い重之がさっさと寝室に引きあげてしまうと、居間に残っているのは二人のほかには猫だけになった。  窓を閉めていても、あたりはどことなく胸騒ぐざわめきに満ちていて、横座りになると畳がしっとり湿って感じられた。まぎれもない、春の夜の気配だった。 「このごろ、よく帰ってきてくれるのね」  妹の湯呑みにお茶を注ぎ足してやりながら、沙恵は言ってみた。 「あなたが来てくれると、父さん機嫌がいいから助かる」  美希は、肩をすくめた。 「あれで機嫌いいなんて、人が聞いたって信じてくれないよね」 「ほんとよぉ」  くすくす笑い合うと、美希の膝で寝ていた三毛猫が迷惑そうに薄目を開けた。 「べつにさ、親孝行のつもりってわけじゃないのよ」言いながら美希は、寝ている猫の鼻の穴を指でふさいだ。「じつを言うと、最近、オトコと別れちゃったもんだから」 「え」 「それで、なんかこう、一人じゃ間が持たなくって」  息ができないことにようやく気づいた猫がもがきだすと、美希はぷ、と笑って指を離した。 「いいのいいの、気にしないで」と美希は言った。「もともと人のものだったしさ。わかっててつき合ったんだからしょうがないの。けど、こういうのって、あれかね。もしかして、母さんから受け継いじゃったかね、愛人体質」  何と返事していいかわからずに、沙恵は目を伏せた。妹の淡々とした口ぶりが、かえってせつなかった。 「お姉ちゃん」 「うん?」 「ひとつ訊いていい?」 「なあに?」 「お姉ちゃんさ」美希は、声を低めて言った。「ほんとに、清ちゃんでいいの?」  沙恵は、驚いて目をあげた。「どうしたの、急に」 「急じゃないよ、全然」と美希は言った。「もうずっと前から思ってたもの。お姉ちゃん、ほんとはけっこう無理してるんじゃないかって」 「やあね、してないわよそんなの」 「そう? でも、そう見えるよ」  沙恵は、黙った。 「ほんとはこれも、お姉ちゃんに話すべきかどうか迷ったんだけど」口に出してからもまだためらいながら、美希は言った。「こないだ、私さ……。ああ、ごめん、やっぱりやめる。忘れて」 「何よ、言ってよ。気になるじゃない」  美希は黙っている。激しく迷っているのがわかった。 「言って」 「こないだね」と、美希はくり返した。「清ちゃんと、外で会ったの。相談があるって呼び出されて、待ち合わせして」 「相談?」沙恵は眉を寄せた。「何の相談?」  美希はまた黙ってしまった。 「言いかけたんだから、ちゃんと言って」  美希は目を伏せ、着ているシャツのボタンを落ち着かなげにいじった。 「清ちゃんさ」うつむいたまま、美希は言った。「あの人、知ってるよ。全部」 「え?」 「先月、貢兄さんたちが来てた時に、ほら、途中で清ちゃんも上がってきて、ここで一緒にすき焼き食べたじゃない。あのとき清ちゃん、トイレに立って、そしたら聞こえちゃったんだって。台所で貢兄さんと頼子さんが小声で話してるの」  ぐらりと視界が揺れた。わかっているのに、訊かずにいられなかった。 「話すって……何を」 「だから、その、お姉ちゃんたちのこと。お姉ちゃんが清ちゃんとの結婚にいまいち積極的にならないのは、お葬式で暁兄ちゃんに会ったのがいけなかったんじゃないかって。焼けぼっくいに火がどうとか——そうは言っても兄妹なのはお互いもうわかってるんだからどうとかって、そういう話」  沙恵は、きつく目をつぶった。わきの下にいやな汗が滲んでいた。 「お姉ちゃん?」と、美希。「ねえ、大丈夫?」  沙恵がかろうじてうなずくと、美希はため息をついた。 「馬鹿だよねえ。あそこんちってほんっと、夫婦そろって馬鹿。聡美《さとみ》がなんとかまっすぐ育ってるのが不思議なくらいよ」  沙恵は、ようやく浅い息をついた。 「清ちゃんに呼び出されたの、先週の金曜だったんだけどさ」と、美希は言った。「初めのうちはすごく落ち着いてて、悟ったようなことまで言ってたのよ。『聞いた当初はさすがにショックだったけど、昔のことだし、もう済んだことだからいいんだ』なんて。そう思うんなら、何でわざわざ呼び出したりするんだろうって思ったけど……案の定、ほんとは割り切れてなかったんだね。しまいにはもう、酔っぱらってクダ巻いちゃって、けっこう大変だった」  黙ったままの沙恵のほうをちらりと見ると、美希は、そっと猫を撫で始めた。すっかり安心しきった猫が寝返りを打ち、長々と伸びて白い腹を見せる。 「最後のほう、清ちゃん、ちょっと泣いてたみたい。こんなことなら、何も知らなきゃよかったって。お義兄さんたちを恨むって。それと……」美希は、言いにくそうに付け足した。「『正直、もうあんまり自信がない』って」  沙恵は、静かに醒めた頭の中で思った。  もうあんまり[#「もうあんまり」に傍点]。ということは、これまでは自信があったわけか。  思わずふっと頬をゆるめた沙恵を、美希がけげんな顔で見た。 「それで」と、沙恵は言った。「あなたは何て言ったの」 「何って?」 「一応、相談だったわけでしょう?」  美希は、ふいに気まずそうな顔になった。 「清ちゃんもそりゃ気の毒だとは思うし、気持ちはわかるけど……なんか、そんなふうに言われたらカチンときちゃって、つい……」美希は、小さい声で言った。「『自信がないならやめちゃえば』って」  沙恵は、ゆっくり息を吸いこみ、長々と吐き出した。「いい意見だわ」 「ごめん」と美希は言った。「怒ったよね」  沙恵は首を振った。「まさか」  美希が、奇妙な顔をした。 「なんか、ちょっとびっくり。お姉ちゃん、これ知ったらもっと取り乱すんじゃないかと思ってた」  沙恵は微笑んだ。「取り乱してるのよ、これでも」 「神戸に転勤なんだってね、清ちゃん」と美希は言った。「誘われてるんでしょ? 行くなら行っていいよ」 「そういうわけにもいかないでしょう」 「なんで」 「だって……。今さら父さんを一人になんてできないし。工務店の仕事だってけっこう大変だし」 「それは、でも、何なら私が代わりに戻ってくれば済むことじゃない。いざとなったらあの馬鹿夫婦だっているんだしさ。だいたい、そうやってお姉ちゃんがぐずぐずしてるから、清ちゃんもあんなに自信なくすのよ。お姉ちゃんは……お姉ちゃんだって、もういいかげんに自分のこと考えたほうがいいよ」  沙恵が返事をせずにいると、美希はため息をついた。 「それにしても、あれよね。お姉ちゃんっておとなしそうな顔してて案外、捨て身の人生よね」  沙恵は思わず苦笑した。「なあに、それ」 「でも、ほんと言うと私、ちょっと前まではお姉ちゃんのことけっこう本気でやっかんでたんだ」 「やっかむ?」心の底から驚いて、沙恵は言った。「冗談でしょう?」 「ううん、ほんとに。まあ、妹的にはいろいろあるわけよ。お姉ちゃんてば、昔からてーんできれいだったし、頭も良かったし……ああいうことのあった後ではみんなからそれこそ腫れ物にさわるみたいに大事にされてたし。でも、一番うらやましかったのは、やっぱりあれかな。暁兄ちゃんにとって特別なのが、お姉ちゃん一人だったからじゃないかな」  沙恵の顔を見て、美希は慌てて言った。 「誤解しないでよね。私はべつに、暁兄ちゃんが好きだったとか、そういうんじゃないんだから。ただ、何ていうの? 要するにほら、よくあるコンプレックスってやつ?」言いながら美希は、くしゅっと鼻にしわを寄せた。「妹としてとか、女としてとか、そういうことの前に、とにかく暁兄ちゃんにとって特別なのが私じゃなかったのは何でなんだろうって……お姉ちゃんと私とでは何が違うんだろうって。そんなふうには思ってたかもしれない。早い話が、やきもちよ、やきもち。お姉ちゃんのことがあんなに妬《ねた》ましかったのも、顔見るだけで苛ついたりしたのも、結局はお兄ちゃん取られたくなさの、いわゆる小姑のやきもちだったんだなあってね。最近ようやくわかってきたところ。私、あんまりいい妹じゃなかったし、もしかしたらあの頃お姉ちゃんのほうも何か感じてたんじゃないかと思って……それでちょっと謝っておきたかっただけ」  一気に言ってしまうと、美希は口をつぐんだ。うつむく顔が、少し紅潮していた。  ふうっと息をついて、後ろの壁に寄りかかる。 「あーあ。なーんか、いっぺんに気が抜けちゃった。どうやって話そうかって思ってたこと、とりあえず全部話したせいかな」  美希の膝からおりた猫がゆっくりと伸びをすると、お膳の下をくぐって今度は沙恵の膝にのってきた。甘えて喉を鳴らしながら、くるくると丸くなる。 「明日も朝から仕事なんでしょ」と、沙恵は言った。「お風呂、入ってきたら?」 「お姉ちゃんは?」 「私は夕方入ったから」 「そう。じゃ、頂こうかな」  美希は立ちあがっていって、壁ぎわに置いてあった小ぶりのボストンバッグを引き寄せた。歯ブラシと、濃紺のパジャマをひっぱり出したところで、手を止める。 「さっきの話だけど」と、向こうを向いたまま美希は言った。「神戸のこと、お姉ちゃんが嫌じゃないならいっぺん本気で考えてみたら? 清ちゃん、あれでけっこういいやつみたいだし、知らない土地で二人きりで暮らせば案外うまくいったりするんじゃないの?」  水音が聞こえ始めてからも、沙恵は猫を膝にのせたまましばらくぼうっとしていた。立ちあがるだけの気力が起きなかった。  清太郎が、すべてを知ってしまった——その事実が、今頃になってようやく現実味を帯びてくる。  めずらしく苛立ちを隠せずにいた、今朝の清太郎。 〈いつになったら毎日それが聞けるやら〉  どんな思いで、彼はそう口にしたのだろう。神戸へ行って二人きりで暮らすことに、どんな望みを託しているのだろう。  沙恵は、猫を抱きあげた。眠そうに不平をもらすのをなだめ、首の後ろの柔かな毛に鼻をうずめる。日向くさい匂いがした。なぜだか、ひどく懐かしい匂いだ。  目を閉じ、胸の奥深く吸いこむ。  どこで嗅いだのだったろう。温かく湿っているのに、さらりと乾いた匂い。清潔な砂ぼこりと、縁の下の暗がりと、秘密の時間の匂い。ああ、そうだ。これは……。  瞬間、割れんばかりの蝉時雨が耳に蘇った。  板壁を通してさしこむ細い光。漂う塵。  耳元にささやかれる暁の声。あの甘くかすれた声。  吐息混じりの何か優しい言葉。 (沙恵……)  祈りのようにくり返されたあの響き。 (沙恵、俺……)  せつなさが、長く鋭い針のように体を刺し貫き、沙恵は小さく呻いた。  うらやましいのは、やはり、妹のほうだ。今となってはもう、兄にとって特別なのは私じゃない、美希だ。家族の中でただ一人、暁のテリトリーに入ることを許され、初めからただの妹でしかなかったぶんだけ何の屈託もなく名を呼んでもらえる。それに比べて私は、彼の連絡先すら怖くて知ることができない。通夜の晩、ああして二人きりで話した時でさえ訊けなかった。彼が教えることを拒むのではないかという思いと、知ってしまったら歯止めがきかなくなるという恐れとで、どうしても言い出せなかったのだ。  どうして思いきって訊いておかなかったのだろう。もう一度、彼に呼ばれてみたい。恋人としてでなくていい、ただの妹としてでいいから、月を見ながら縁側で聞いたような泣けてくるほどあっさりした〈沙恵〉で構わないから、もう一度彼の低い声で呼ばれたい。でもそれは——叶わない。  沙恵は、ゆっくりとまばたきをした。  壁の時計は十時をまわっていた。その下に置かれた美希のバッグが、うつぶせにうずくまる生きもののように見える。街でよく見かける、ロゴ入りの茶色いボストンバッグだ。ブランド物なのはちょっと恥ずかしいけど、どんなに乱暴に扱っても屁でもないところが私向きなのよ、と美希は言い、泊まりに来る時はいつもそのバッグを持ってくる。そのバッグの口が、いま、あいていた。  心臓が急に高鳴り始める。  沙恵は、膝から猫を下ろした。立っていって、そうっと中を覗きこむ。風呂場からはシャワーの音が聞こえている。迷っている暇などない。化粧ポーチをよけると、バッグの底に、同じブランドの分厚い手帳が見えた。そろりと引っぱり出し、震える指で後ろのアドレス帳をめくる。ア行のページ、なぜかボールペンで乱暴に塗りつぶされた誰かの名前の次に、その住所と番号はあった。  考えるより早く手帳のペンを抜き、てのひらに十一桁の数字だけを書きなぐると、沙恵は触れたものを元どおりに戻すなり二階へ駆けあがった。気を落ち着けようと深呼吸しながら、携帯を手に取る。ひとつひとつ、てのひらの番号を確認しながらボタンを押す。体じゅうが震えて歯がかちかち鳴った。  息を殺して待つ。呼びだし音が響いている。  ……二回。  ……三回。  ……四回、耐えきれずに切ろうとした時、 (はい、もしもし)  沙恵は、手で口をふさいだ。そうしないと悲鳴がもれそうだった。ああ——彼の声だ。 (もしもし?)  低い声の後ろは静かだった。 (もしもーし)  沙恵は、震える手を口から離した。彼の知らない番号からかけているのだ。早く何か言わないと切られてしまう。  ——お兄ちゃん。  そうささやくだけでいい。そうすれば、彼は私の名を呼ぶだろう。あの懐かしい響きで、〈沙恵〉と。  こみあげるものをこらえながら口をひらいた拍子に、熱くなった吐息が送話口にかかった。とたん、向こう側で彼が息を呑むのがわかった。 (お前)  沙恵は、ぎゅっと目をつぶった。 (奈緒子か?)  ——え。 (そうなんだろ?)  半信半疑の声の中に、 (おい、違うのか?)  困惑と、そして一抹の期待。 (もしもし?……誰だよ、切るぞ)  数秒の沈黙の後、舌打ちが聞こえ、電話は向こうから切られた。  かん高い電子音をたてる携帯を、沙恵は、ゆっくりと耳から離した。見つめているうちに音は鳴り止み、しばらくして画面も暗くなった。  てのひらに書きつけた数字が、汗に滲んでいる。自分の筆跡とも思えないほど荒々しいその数字を眺め、沙恵はそして、そのすぐ下にある白い傷を見つめた。 (わかってたのに)  と、ぽつりと思った。  ほんとうは、初めからわかっていたのに——もう還れないことなど。  目を閉じた。 〈ほら[#「ほら」に傍点]、早く泣いちゃいな[#「早く泣いちゃいな」に傍点]〉  涙など、あふれはしなかった。  あふれてくるのはただ、青みだつような寂しさだけだった。      *  おぼろの月明かりに浮かぶ春の庭は、木枯らしの吹いていた通夜の夜よりも、ずっと肉厚で重たげに見える。塗りつぶしたような常緑樹の陰を背景に、白い花ばかりがぼんやり浮かびあがっている。  野いばら、コデマリ、白山吹。  ことに暗がりにひそむヒトリシズカの一群は、花が花だけに目を凝らすほどにぼやけて見え、けれど少し視線をはずすと再び、まるで気弱な蛍のように闇に浮かぶのだった。  神戸にはどうか一人で行ってほしい、と沙恵が言った時、清太郎は固く口を結んで答えなかった。  夜更けの庭に呼び出された時点で、沙恵からの答えは覚悟していたのだろう。垣根の向こうで、その横顔はこわばり、別人のように青白く見えた。  やがて、彼は言った。 「それは……つまり、もうおしまいってことか」  すでに、問いですらなかった。  なおも何か言おうとしたが、清太郎は結局、顔をそむけた。伏せた目の中を、鈍痛のような重い悲しみがよぎるのが見えた。  ひと思いに壊してしまったほうが楽になれるのは、清太郎も同じだったのかもしれないと沙恵は思った。一度知ってしまったことは、二度と知る前には戻れないのだから。 「暁じゃ、なかったら」  と清太郎がつぶやいた。 「え?」 「お前がいまだに引きずってるのが、暁でさえなかったら、俺はいくらでもお前を説得してやり直す気になってたろうにな」 「……汚らわしいとか、思った? 私のこと」 「いや、そういう意味じゃなく。まあ、正直なとこ、ついていけない感じはしたけどね。でも、そうでなくたって、相手があいつじゃ勝負は見えてる。昔からそうだったさ」  清太郎は、ようやく沙恵を見て苦笑を浮かべた。 「で? どうするんだよ、これから」  沙恵は、うつむいて、わずかに肩をすくめてみせた。 「あなたで駄目だったんだもの。もうずっと一人ね、きっと」  清太郎は、黙っていた。  誰かと二人で生きていけるなどと、考えたことが間違いだったのだと沙恵は思った。この恋は[#「この恋は」に傍点]、終わらない[#「終わらない」に傍点]。焼けぼっくいに火も何も、これまでに一度として火が消えたためしなどありはしない。  けれど、十五年の歳月は互いの上を等しく流れ、暁はもうあの頃の暁ではなく、自分もまたあの頃の自分ではなくなってしまった。死んで葬られた者が二度と歳を取らないのと同じように、この恋もまた、永遠に十五年前の姿のまま、あの場所で——あの薄暗く埃っぽい社の中で、降りしきる蝉時雨に閉じこめられ続けるのだ。  気がつくと、清太郎が眉をひそめて見つめていた。まるで、人ならぬ者を見るような目つきだった。  自分は今、どんな顔をしているのだろう。夜叉《やしや》だろうか。阿修羅だろうか。それとも——逢えない男に焦がれて舞う白拍子のようだろうか。 「なんか俺、」清太郎は、ごくりとのどを鳴らした。「怖いよ、お前」 「……そう?」  沙恵は、ひっそりと微笑んでみせた。 [#改ページ]   青葉闇  この歳になって妻を裏切ることになろうとは思ってもみなかった。  浮気などというものは、よほど精力の有り余った遊び人がするものか、でなければよほど思いきった覚悟で飛び込むかしなければそう簡単に始まったりしないと思っていた。少なくとも、自分のような不器用な人間には一生無縁だとばかり……。  隣で寝息をたてている女を見やって、今さらのようにため息をつく。  いつものことだ。終わったあと、真奈美《まなみ》はたいていこうして短い眠りに落ち、貢もまたその寝顔を見ながら嘆息する。  週に一度か二度この部屋を訪れるのが習慣となり、食器棚に彼のための茶碗と箸が用意されるようになった今でも、ふとした拍子に、これは長い夢の途中なのではないかという思いにぼんやりしてしまうことがある。夢でもなければ、若い娘がこんな冴えないオヤジと何度も寝てくれるわけがないではないか、と。すべてが夢であるのとその逆と——本当はどちらを望んでいるのかは、自分でもよくわからなかった。  北村真奈美が、それまでいた保険年金課から、貢が課長補佐を務める広報課に移ってきたのは去年の春。短大を出てすぐに地元の市役所に就職した彼女にとって、初めての異動だった。  丸ぽちゃの童顔、笑顔よしでお茶をいれるのが上手だが、仕事の面ではお世辞にも使えるとは言いがたく、敬語は怪しげ、書類は誤字だらけ。一度など、 〈水島さんって男根《ダンコン》の世代ですよね〉  ぎょっとなって確かめれば何のことはない、〈団塊〉をそう読み違えていただけだったりした。  だが、それやこれやの欠点さえも、どういうわけか彼女にかかるとご愛敬だった。 〈え、理想のタイプですか? うーん、小林稔侍とか、橋爪功とかかなぁ〉  そんなことを言って憚らないだけあって、彼女にはくたびれた中年男を鼻であしらうようなところがなく、課長や次長はもとより、他の部署の連中にまで可愛がられていた。 〈水島さーん、お電話ですぅ〉  舌たらずな声で呼ばれると、耳慣れた自分の苗字がまるで砂糖菓子の名前のように聞こえた。何の打算もなくまっすぐになついてくる彼女を、いとおしいと思うなというほうが無理な話で、貢は勤続三十年目にして初めて職場を楽しいと感じ始め、そんな自分がばかばかしくもこそばゆかった。  その真奈美は、今、ぷっくりとした唇をわずかに開いて眠っている。寝息が、ふう、ふう、という具合に聞こえるのはそのせいだ。  昼の間きちんと描かれていた眉や口紅は、枕にこすれて落ちてしまった。  思えば、最初の夜もこんなふうだった。窮屈なベッドで我に返り、化粧のはげた真奈美の寝顔を初めて見た時、貢は、社会的な立場や妻への罪悪感のためではなく、自分がたった今抱いた女のあまりの幼さにうろたえた。二十四歳といえば世間的には一応大人なのだろうが、すでに五十の坂を越した貢にとっては息子より年下の子供に過ぎず、いまだに彼女を抱くたびに何かこう、まるで少女にいたずらしてでもいるかのような後ろめたさを覚える。こんな関係になったそもそものきっかけがきっかけだったから、よけいにそう感じるのかもしれない。  後ろめたさは、しかし、微妙な回路を通じて昂《たか》ぶりへとつながっていた。  妻にはついぞ感じたことのない昂ぶりだった。  そう、最初はちょっとしたいたずら心のようなものだったのだ。  去年の十月二十九日。日付けまではっきり覚えているのは、それが義母の忌引が明けた日だったからだが、帰りに立ち寄った駅ビルの書店で、貢は隣の通路にいる真奈美の後ろ姿に気づいた。  声をかけようとしてふと思いとどまり、棚の陰から見ていることにした。�ダンコン�の真奈美がいったいどんな本を読むのか興味が湧いたのだ。明日にでも、今読んでいる本の題名を当てて驚かせてやろうか……。  ところが、彼女はおもむろに棚に手をのばし、一冊の本を手にすると左右にすばやく目を走らせ、そして——。  考えるより先に、とっさに声をかけてしまっていた。  飛びあがった真奈美は、相手が貢だと気づくなりみるみる蒼白になった。本は背中の後ろに隠されていたが、互いの間には気まずいどころではない沈黙が流れた。  不自然ではあるが、何も見なかったふりを装って、そ知らぬ顔で別れることもできる。だが、そうすれば彼女は明日から出てこないのではないか。  貢は、思いきって言った。 〈どこかで、少し話さないか〉  真奈美は迷ったようだが、やがて青い顔のままうなずくと、本をそっと置いてついてきた。  同僚の誰かに見とがめられる心配のないところ、と思案した末に行きついた薄暗いバーの片隅で、彼女は終始うつむいたままだった。膝にバッグをのせ、その上にそろえられた手は小刻みに震えていた。  どうしてあんなことを、と貢が切り出すより先に、 〈欲しかったわけじゃないんです〉と、真奈美は早口に言った。〈何の本だったかも覚えていないくらい。ただ、気がついたら……〉  目もとは昏《くら》く沈み、昼間の何の屈託もなさそうな彼女と比べると、ぐれた双子の姉かと思うほどだった。 〈何か、悩みでもあるの?〉と、貢は言ってみた。〈僕でよければ、いつでも相談に乗るよ〉  彼女は、唇をゆがめてわずかに頭をさげた。〈すいません〉 〈いや、僕に謝られても困るんだけれども〉 〈あのう〉 〈何〉 〈私、市役所くびになるんでしょうか〉  貢が答えずにいると、 〈初めてだったんです〉と彼女は言った。〈信じて下さい〉  そして、うつむいたままくしゃっと泣きそうな顔をした。 〈ほんとに、ほんとに、初めてだったんです〉  まるで自分が泣かせているような罪悪感を感じて、貢は慌てて言った。 〈もちろん、信じるよ〉  真奈美の組んだ手の上に、涙がぽとぽと落ちた。 〈もういいから。顔を上げなさい〉いささかまわりの目が気になり始め、貢は声を低めて続けた。〈今日のことは、君が心底悔やんでいるならそれでいい。誰にだって間違いはあるんだ。僕は何も見なかった。だから、君もいつまでも気にしないこと。明日からはいつもどおりだ。いいね?〉  真奈美がようやくうなずいて洟《はな》をすすりあげ、ハンカチを取り出す。  何やら理想の上司ぶっているようで気恥ずかしくもあったが、自分にしてはまあ上出来なほうではないかと貢は思った。 〈さあ、ほら、安心しなさいって〉まだ下を向いたままの真奈美に、貢は言った。〈絶対誰にも言わないから〉  ゆっくりゆっくり、こわばっていた肩から力が抜けていくのがわかった。やがて真奈美は、大きな息をついた。 〈ほんとに、すみませんでした〉  そして、赤い目で初めて貢を正面から見た。 〈水島さんが止めてくれて、よかった〉またしてもぽろりと涙をこぼしながら、彼女は無理に微笑もうとした。〈ううん。止めてくれたのが水島さんで、よかった〉  ふいに込み上げてきた荒々しい感情に戸惑い、貢は内ポケットから出した煙草に火をつけようとして、はっとなった。 〈あ、どうぞ、吸って下さい〉  と、真奈美は小さな声で言った。 〈いや、しかし君は吸わんのだろ〉 〈でも、煙草の匂いは好きだから〉 〈そう。……じゃ〉  貢は火をつけた。真奈美が灰皿をこちらへ押してよこす。  旨い一服だった。  俺だって、その気になれば部下にこれくらいのことは言ってやれるのだ、と貢は思った。腹違いの妹の美希などは、日頃から人のことを鈍いの気がきかないのと馬鹿にし放題だが、俺のは単に、人より少しばかり判断に時間がかかるだけの話だ。瞬発力がないのは認めるが、そのぶん持久力はある。男は誰も、身内に見せる顔と外でのそれを使い分けているのだ。働いている間じゅう緊張を強いられているというのに、家でまで同じことを求められてたまるか、いったいどこで気を抜けというんだ。  それきりしばらく、当たりさわりのないことを話した。  聞けば、地元に実家があるにもかかわらず真奈美が一人暮らしを始めたのは、母親が再婚したためだった。 〈三回目の結婚なんですよ〉  と、彼女は皮肉っぽく言った。  父親が胃癌で亡くなったのは、五年生の時だったそうだ。まるで恋人どうしみたいに仲良しだったから、置いていかれた時は悲しくて寂しくてたまらなかった、と真奈美は言い、何だかうらやましいな、と貢は言った。僕も、娘からそれくらい慕われてみたいよ。  それだけだった。  その日を境に何度か成り行きで食事などしながら身の上話を聞いてやったり、今の恋人とうまくいっていないという相談に乗ってやったりもしたが(そのせいでやけになってあんなことをしたのだろうかと貢は思った)、それもまあ、ぎりぎり上司としての義務の範疇だったろう。何度目かで話をした夜、ワインに悪酔いした真奈美をアパートの部屋まで送っていったのさえ、行きがかり上、仕方なかったと思う。だいたい、他にどうすればよかったというのだ。まさか道端に放り出して帰るわけにもいくまい?  誓ってもいい。下心などありはしなかった。  なのに、いったいどうしてこういうことになってしまったのか。  思い出せるのはただ、手渡そうとしたコップが足もとに転がった音と、靴下にしみてきた水の冷たさと、抱きついてくる真奈美の力が思いのほか強かったことだけだ。 〈帰っちゃやだ〉  かぼそい声が耳に届いたとたん、カッと体が熱くなった。 〈やだ〉 〈お……いおい、ドッキリカメラかい、これは〉  何と気のきかないセリフだと自分にあきれたが、軽くいなしたつもりの声はみっともないほどうわずり、心臓が背中に体当たりをくり返していた。  ばかな、  何を真に受けているんだ、  冗談にきまってるじゃないか、  真顔になるな、  なったとたんに嗤《わら》われるぞ……。 〈わかったから、ほら。早く寝なさい〉できるだけおだやかに腕をほどこうとした。〈こら、酔っぱらいめ。放しなさいって〉  その時、見上げてくる真奈美と目が合った。 〈ぎゅうってして〉  小さな声だった。けれど、射るような激しさだった。 〈お願い。ね、今だけ。それだけでいいから、しばらくぎゅうってしてて〉  青白い頬。  思いつめたまなざし。  わななく唇。  ——あとのことは、覚えていない。  きっと、子どもの頃から寂しかったのだろう。奔放《ほんぽう》な母親からはろくに顧みられず、一人きりで眠る夜、父親を思い出して泣く日もあったのだろう。  大人になった真奈美の中に、その満たされない子どもがまだ潜んでいるからだろうか。いつからか彼女は、この部屋でだけ、絶対にこの部屋でだけだが、照れながら貢のことを「パパ」などと呼ぶようになった。初めのうち抵抗のあった貢もいつのまにか慣れてしまって、今ではそう呼ばれることに不思議な安堵さえ覚えている。 〈パパ、好き〉  抱かれるたびに、彼女はうわごとのようにくり返す。 〈ずっと好きだったの〉  そういう言葉を信じて酔えればどんなにいいだろうと思うが、残念ながらそこまでお人好しでもなければ、純情でもなかった。そんな勇気もなければ、自信もなかった。歳を取るとはそういうことだ。傷を負う危険を、あらかじめよけて通る術《すべ》にばかり長《た》けていく。  だが一方ではまた、すべてを嘘だとは思いたくない自分がいる。始まりのきっかけがどういうものであったにせよ、たとえば職場で視線がぶつかった一瞬にふっとなごむ彼女の目もとや、寝言とともに巻きついてくる腕の優しい重みや、隣の住人を気にしながらもこらえきれずにもらす幼いあえぎ声や、そっと貢の手を取り自分の頬に押しあてて目をつぶるしぐさや——それらの中にはやはり、そうすることでしかやりとりできない種類のものが確かに含まれている気もするのだ。 (パパ、好き……か)  しかし、はたから聞いたら愛人を囲うパトロンそのものだな。  苦笑いした拍子に、真奈美がふっと目を開けた。 「……やだ、また寝ちゃった」と照れ笑いをする。「どのくらい寝てた?」 「二十分くらいかな」 「起こしてくれればいいのに」 「ものすごいいびきだったぞ」 「うそ!」 「うそだよ」  真奈美がすねたように頬をふくらませ、貢の胸をぶつ真似をする。貢はぎこちなく手をのばし、彼女の髪を指に巻きつけた。  若いとは、こうも特別なことだったのかと思う。肌のきめ細かさや、体の引きしまり具合だけではない。髪の一本一本、その毛先にみなぎる力までが、こんなにも違う。それなのに、いったい彼女は何がよくて俺なんかと……。 「ねえ」と、甘えた声で真奈美が言った。「何考えてるの?」 「うん? べつに」 「んもう、だめじゃない」笑みを含んだ目でにらみながら、「そういう時は、嘘でも、お前のこと考えてたって言わなきゃ。ほら、言ってみて」  貢は唸った。 「ねえ、言ってみてってば。誰も聞いてやしないんだから」 「お前の……。うーむ」 「惜しい、もう一息」 「……お前のこと、考えてた」  とたんに背中のあたりがむず痒くなり、わけもなく身をよじりたくなったが、同時に何やらひどく爽快でもあった。まるでまったく別の人格を手に入れたようで、今ならふだんの水島貢が決してしないこともできる気がした。これまでは妄想の中でしか試せなかった淫らなことも、思いきって実行に移せる気がした。  抱き寄せると、真奈美は嬉しそうに笑いながら、伸びかけた髭に鼻先をこすりつけてきた。  パパ、とつぶやく。パパ、大好き。  何も考えたくなかった。せめて、もうしばらくは。      *  ——一九六九年、七月。  アポロ十一号が月面に到達した映像を、当時学生だった貢は病院の白黒テレビで観ていた。  上半身にはギプス。その十日ばかり前の闘争で機動隊と衝突し、遠慮のかけらもなく念入りに袋だたきにされたおかげで、右の鎖骨が折れ、肋骨二本にひびが入ったのだ。  手術でつないだ鎖骨にはまだ針金が入っていて、それを抜くまでの間は医者から絶対安静を命じられていたが、それでも当初よりはよほどましだった。仲間に両側から支えられるようにして運びこまれた時は、顔じゅう痣《あざ》とズル剥けの擦過傷で腫れあがり、高熱まで発していたのだから。  初めの三日ほどは毎晩のようにうなされた。同室の入院患者がたまりかねて看護婦を呼び、一度揺り起こされてしまうと、あとは怖ろしくて眠れなくなった。ぼき、と自分の骨が折れる音が聞こえた瞬間や、あの激烈な痛み、それでも容赦なく目の前に迫ってくるジュラルミンの盾、振りおろされる警棒の衝撃、催涙弾の刺激臭、うず巻く怒声、醜くゆがむ顔、顔、顔……。思い出すだけで体じゅうの傷がざくざくと疼《うず》き、恐怖がこみあげてきて、危うくもれそうになるすすり泣きを歯をくいしばってこらえた。そういう自分を情けないなどと思う余裕もなかった。  もとより、理想に燃えて運動に参加しはじめたわけではない。大学がバリケード封鎖され、まともな授業がろくに行われなかった間も、初めのうちは絶好の機会とばかりに覚えたての麻雀にうつつを抜かしていた。ノンポリと呼ばれることすらはばかられるほど何も考えていなかった。それが、たまたま先輩から強引に誘われて断りきれずに付き合ったデモで、小競り合いに巻きこまれ、茫然と立ちすくんでいたところをいきなり警官に殴られた。そのとたん、頭に血が上って、目覚めてしまったのだ。官憲め、権力の手先め、と。  なのに、不思議だった。あの時は殴られただけであんなに腹が立ったというのに、今回、鎖骨とあばらをへし折った機動隊員を恨む気持ちは起きなかった。胸の奥のほうに石ころのような異物感はあったものの、その感情の塊は、すでに怒りとは別次元の何か……いわば、冷えて固まった溶岩のかけらのようなものでしかなかった。おまけに、正直なところ今は、そんなものより気になることが他にあった。——痒さだ。  ただでさえ暑い夏の盛り、ギプスの内側の青い綿は汗で蒸れ、ふさがりかけてきた傷の縫い目がもう、痒くて痒くてたまらなかった。我慢できずに首のところから箸か何かをつっこんで掻こうとしていたら、ちょうど病室に入ってきた志津子に見つかってえらく叱られたのを覚えている。貢が学生運動などに参加していたことを、この一件で初めて知らされた父・重之は見舞いにも来ようとせず、代わりに志津子が着替えなどを持って来るのが日課となっていたのだ。  のちに重之の後妻となる志津子は、そのころ水島家の住み込み家政婦として働き始めたばかりだった。一方、とっくに家を出て下宿していた貢はといえば、自分とひとまわりちょっとしか歳の違わないこの小柄な女が、まさか母の生前から父親とできていたなどとは考えつきもしなかった。それどころか、感謝さえしていた。まだ小さくて手のかかる弟の暁を、彼女は同じ年頃の自分の娘と分け隔てなく可愛がってくれている。あの頑固で偏狭な親父から嫌な思いをさせられることも多いだろうに、よくもまあ黙って我慢してくれているものだ……。  ぎこちない会話をぽつりぽつりと交わしながら、志津子がむいてくれた桃を食べた。  画面では、アームストロング船長が着陸船から姿を現すところだった。ゆっくりとタラップを下りた彼の足が、ついに月面を踏みしめた瞬間、あちこちの病室の開け放ったドアからどよめきが聞こえてきた。  ベトナムを蹂躙し続けてきた超大国アメリカが、国家の威信をかけて成功させた月面着陸。  しかし、そうして目にしている映像は、誰のどんな思惑すらも越えて、見る者の胸を揺さぶる静かな力に満ちていた。  俺を殴った機動隊のやつらも、今頃はこれを見ているんだろうな、と貢は思った。機動隊ばかりじゃない。中核も革マルも民青も、どいつもこいつもみんな、今だけはきっとテレビから目を離せずにいるだろう。  貢は、何となく苦笑いをもらした。そうしてぼんやりと、自分の中で何かが終わっていくのを感じていた。  灰色の月の荒野に、用意周到といった感じの星条旗がはためいている。  ふと、志津子が何かつぶやいた。え、と訊き返すと、彼女はふり向き、紅潮した頬をほころばせた。 〈月にも風は吹くんですのねえ。私、知らなかった〉  言いながら、果物用の小さいフォークで桃の最後のひとかけを突き刺し、貢の口の前に持ってきた。  おとなしく口をあけ、貢は、とろりとした果肉をすすった。汁が滴り落ちて顎に伝わるのを、志津子は急いで指先で拭ってくれた。  楊柳《ようりゆう》のワンピースの袖ぐりから、青白い脇の下が覗いて見えた。      *  急行が滑りこんでくると、混みあったホームには殺気のようなものが満ちみちる。  まだ停まりもしないうちから誰もが扉へと詰め寄り、開くと同時に我先に乗りこんで席を探す。ヘッドスライディングのようにして席を取った男が、後から乗っていった上司らしき男をそこに座らせると、まわりの乗客は薄笑いを浮かべ、やがてどこか気まずそうに目をそらした。見たくないものを見たといった表情だった。  貢は、そんな窓越しの光景を横目にホームを歩き、向かい側に止まっている鈍行に乗りこんだ。いつもながら、回送車かと思うほどすいている。真奈美と逢わない夜、わざわざ各駅停車に揺られて本を読みながら帰るその四十分足らずが、貢にとっては誰にも邪魔されない至福の時間だった。  腰を下ろし、買ってきたばかりの本を袋から出す。しばらく前に注文しておいた本が入荷したと、昼間、本屋から連絡があったのだ。 『家庭で楽しむ無農薬有機《あんぜんでおいしい》野菜の作り方』。  目次をぱらぱらめくってみる。木酢液の効用。農薬の代わりに煙草の吸い殻の抽出液や牛乳を使う方法。コンパニオンプランツと呼ばれる、野菜に害虫を寄せつけない植物の選び方。まさに探していた本だった。どれもこれも、以前から試してみたかったことばかりだ。貢の口もとは、我知らずほころんだ。  休日に土いじりを始めたのは、数年前、尿道結石を患ったのがきっかけだった。  野菜嫌いの人に多い病気と医者に言われ、さっそく近くの市民農園を借りる手続きをとったのは頼子のほうだった。サラダどころか付け合わせの野菜さえ残しがちな夫でも、休みの日に自分たちで作った野菜なら食べてくれるのではないかと考えたらしい。  だが、季節がひとめぐりする頃にはむしろ、貢のほうが土いじりにのめりこんでいた。  週末ごとに腐葉土や堆肥を鋤きこみ、たっぷりと手をかけたおかげで土にはめきめき力がついていたが、市民農園の使用権は、希望者の間に不公平が生じないよう一年交代と決められている。次に順番が回ってくるのは三年も後とわかり、仕方なく狭い庭先で細々とミニトマトなどを作っていたところ、ありがたいことに隣の空き地の持ち主が、草ぼうぼうにしておくよりは畑として使ってくれたほうが、と申し出てくれた。  おかげで今では、四十坪ほどの土地をきれいに耕して、ありとあらゆる野菜を作っている。ただで借りるわけにもいかないので年間いくらかは受け取ってもらっているが、採れる野菜は家族だけではとうてい消費しきれず、近所に配り、親戚一同に宅配便で送ってやってもまだ余るほどだった。 〈不思議よねえ〉と頼子などは言う。〈あなたなんて、実家が農家だったわけでもないし、子どもの頃よく田舎へ遊びに行ったわけでもないんでしょう? なのに、どうしてそんなにはまっちゃったのかしら〉  週末の畑仕事を始めてから、貢の体重は五キロ近く減った。尿道結石などどこへやら、顔は日に灼け、腕や胸にはそれなりに筋肉がついて、このごろでは階段の昇り降りにいちいち息を切らすこともない。確かに健康になったと思う。  だが、貢が野菜づくりにのめりこむようになった一番の理由は、ほんとうは病気や健康などとはまったく別のところにあった。  一日じゅう体を動かして土にかがみこんでいる間には、うまくすると、ほんの時たまだが、家族のことも真奈美との関係もすべて頭から追い出せる数分がめぐってくる。かわりに頭の中を満たすのは、握りしめた土のぬくみや、立ちのぼる湿った匂い、足の下の地面の柔らかさ、どことなく官能的な草いきれ……。ささくれだった神経が徐々に徐々に解きほぐされ、自分が無になって空気に溶けていくようなその心地よさは、これまで他では一度も得られなかったものだった。  ささやかながら、あの場所があるおかげでどうにかやっていられるのだ、と貢は思う。そうでもなかったら——。  電車がスピードをゆるめる気配に、本から目を上げ、暗い窓の外に目をこらす。 (あと二駅か)  とたんに、胃の底がずしりと重くなった。  駅からの夜道を、貢はことさらにゆっくり歩いた。家を建てる土地を探す時には、駅まで歩ける距離というのが何よりの前提条件だったのに、今となってはその近さが恨めしい。家が近づけば近づくほど足が重くなる。  いつの頃からだったろう。帰るのが苦痛になったのは。  最初は自分だけかと思っていた。が、じきに週刊誌か何かの記事で、ここ数年同じような症例が急激に、とくに既婚の中年サラリーマン層に増えていると知った。なんでも、〈帰宅拒否症候群〉とかいう大層な呼び名がついているらしい。そこらじゅうに御同類がいると思うととりあえず安心はできたが、その一方で、なんだ、やっぱり俺は人並みかと、半ばがっかりしたような妙な気分だった。  だが、記事の中に匿名で登場する男たちと貢とでは、ひとつ決定的に違うところがあった。彼らは皆、まるで事前に口裏を合わせたかのように「家に帰っても居場所がない」とこぼしていたのだ。  それについて考えだすと、貢はまたわからなくなるのだった。居場所がないから帰りたくないという図式は理解しやすいが、それなら、居場所がきちんと用意されているはずの自分が帰りたくないのはなぜなのか。  家にも、家族にも、不満などなかった。  四年ほど前に退職金の一部を前借りして建てた洋風住宅には、狭いながらも自分用の書斎がある。屋根裏の空間を利用した四畳半ほどの部屋で、夏などは夜になっても暑くて居られないほどだが、充分だった。どうせ毎日使うわけではない。男の書斎というものは、いざ使いたいと思った時にそこにあるということが重要なのだ。  妻はといえば、どんなに帰りが遅くなってもたいてい起きて待っている。私立の女子中学校の教頭を務める彼女は家事に関しても完璧主義で、貢が帰る時間に風呂が沸いていなかったことはなく、腹が減ったと言えばきちんと夜食を用意してくれる。すでに勤めている長男の政和も、その下に七歳離れて生まれてきた高校生の聡美《さとみ》も、朝の新聞を父親より先にひろげはしないし、上座に置かれた彼の椅子に座ることもない。とくべつ仲のいい父子というほどではないだろうが、とりあえず二人とも顔を合わせれば、「おはよう」や「ただいま」の挨拶はする。当たり前であるはずのことが当たり前でないこの時代にあって、子どもらがまともに育ってくれたのは、頼子がきちんとしつけてきたおかげだと貢は思う。  感謝、している。自分にはもったいないほど良くできた女房だと思う。平凡でも、充分に幸せな家族だと思っている。それなのに——  どういうわけか、帰りたくないのだ。安らげる部屋も、安らげる環境もととのっているはずなのに、体の奥の何かがそれを拒絶する。自分の家だというのに気が立って眠れない。安らぐどころか息が詰まるほどだ。とくに隣のベッドで寝ている頼子の気配を感じると、それだけで落ち着かなくなる。  疲れているのだろうか。自分で考えている以上に? それとも、真奈美とのことやら何やらでナーバスになっているのだろうか。だが、家に帰りたくなくなったのは、真奈美と関係を持つより前だ……。  行く手に小さく見えてきた家の明かりに、貢は立ちすくんだ。  唐突にこみあげてきたのは、 (どこかへ行きたい)  という思いだった。  いや、現実にどこへ行くのでなくてもいい。ただ、一人になりたい。  思えば、もう何十年、一人きりの時間を満喫できていないだろう。畑にかがみこんでいる時だけはいくらかましだが、そういう時に限って家の二階のベランダから頼子が声をかけてきたりする。ほかに一人を実感できるのは、出張先のホテルでの風呂あがり、音量を絞ったアダルトビデオを前に、よく冷えた缶ビールをぐびりとやる時間。せいぜいその程度のものだ。  働いて、働き続けて、ようやくたどり着いた場所がここかと思うと、ため息を通り越して苦笑いがもれる。縁あって同じ舟に乗り合わせた家族だろうに、時折りこんな風に、自分だけ途中で下ろしてはもらえないものかと強く願ってしまう瞬間がある。  そもそも、どうして自分はあくせく働いているのだったろう? いったい何のために?  そういえば最近そんな歌が流行ってたっけな、と思いながら、貢は耳元に寄ってきた蚊を叩いた。答えは風の中……とか何とか。 (結局、どこまでいっても人並みってことか)  舌打ちとともに、どうにか今夜一晩ぶんの覚悟を決めて、再び歩き出す。  総二階の家は、昼間は白いサイディングと緑のスレート屋根のおかげでしゃれて見えるものの、こうして夜見るとただの大きな箱だった。  工務店を経営している父親に頼めば、最高の素材を使った純日本建築の家が格安で建てられることはわかっていた。それをあえて住宅メーカーに頼んで建てることにしたのは、ひとつには頼子が洋風の家を望んだからだし、ひとつには妹の美希がそのメーカーに勤めていたからでもあるが、何より貢自身、父親に頭を下げるのが嫌だったという理由が大きい。あの父親のこととなると何かと意地を張りたくなる自分も大人げないとは思うけれども、ツーバイフォーのパネル工法と話したとたん、父親が鼻先で嗤《わら》ったことを、貢は今でも許していない。謝れ、などとあらためて言うほどのことでもないだけに、かえってこのままずっとしこりとなって残っていくのかもしれないと思う。  とはいえ、あの父との間には、最初からしこりしかないのだった。  戦時中に生まれた〈長男〉を、幼くして肺炎で亡くしてしまった母・晴代が、ようやく授かった貢を必要以上に甘やかそうとするのを懸念したのだろうか。父は、いつも厳しかった。物ごころついた頃から貢は、家に君臨している大男がただただ怖ろしくてならず、自分からはそばにも寄れなかった。父のほうも、ろくに抱いてはくれなかった。おそらくあの頃の父の中にはまだ戦場での時間がそのままに流れていたのだろう、よく部屋の暗がりや庭のひと隅をにらんでは、じっと拳を握りしめていたのを覚えている。  中でも強烈な記憶は、母親の晴代が庭で洗濯物を干していた時のことだ。夫の褌《ふんどし》のしわをのばそうと、晴代が布を空中でパンッとはらった拍子に、縁側にいた重之が飛び上がるようにふり向いた。そして、また何か叱られるのかと身をすくませている晴代に向かって、ぼそりと言った。 〈首をはねるのと同じ音がした〉  あのころ親父は、幾つだったのだろう。今の歳から逆算すると……だいたい三十を少し越えたところか。  それに思い至るなり、貢は唖然となった。三十すぎといえば、俺の部下たちと同じ年頃じゃないか。  やれやれ、とため息が漏れる。何やらいっぺんに疲れがのしかかってきた。自分にとって父親は、まるで凶暴な神のような存在だった。いつも顔色をうかがって、声がするたび怯《おび》えていた。それが——。  汗ばんだ額を拭い、門に手をかける。  玄関ポーチの明かりは今夜もこうこうとついていた。すぐ前の道に街灯があるから充分明るいぞ、と言ってやっても、頼子はそういうものではないと言っていつもつけて待つのだ。 「お帰りなさい」  迎えに出てきた頼子の視線を、貢はできるだけさりげなく受け流した。  真奈美と会ってきた日はもちろんのこと、何もしてこなかった日もやはり神経は使う。こちらに負い目があるせいで、頼子の言葉や視線の裏の裏まで探りたくなり、かえって挙動不審に思われないかと急いで自制する、そのくり返し。自業自得とはいえ、気苦労は確実にストレスとなって蓄積していた。  女房を裏切り、若い女を抱く。気がつけば、あれほど反発を感じていたはずの父親と結局同じことをしている自分にあきれ果てる。いったい、何がよくてあんなままごとのような関係をやめられないのだろう。べつだん真奈美との情事に溺れているつもりはないのに、何が自分をあの小さなアパートへ向かわせてしまうのか、それがわからない。 「おなかは?」  脱いだ背広を受け取りながら、頼子が言った。 「いい」 「お風呂、先に入る?」 「いや、後でいい」 「ビールも冷えてるけど」  貢はネクタイをゆるめながら言った。 「いいよ、もう。あとは自分でする」  頼子は黙って肩をすくめ、背広をハンガーにかけようとしたところで、あ、それはそうと、と振り返った。 「今日、太田さんから電話があったわよ」 「ああ、こないだのトウモロコシだろ。何て?」  隣の空き地の持ち主・太田は、大正ひとけた生まれの律儀な老人で、採れた野菜を持っていくと後で必ず感想を聞かせてくれる。あんたのところのトマトは昔と同じ味がする、と言われた時は嬉しかった。おととい持っていったトウモロコシは、入れ歯の年寄りにはちょっと酷だったか。そんなことを思っていた貢の背中に、頼子は言った。 「お隣の土地ね。売れちゃったんですって」      *  十代や二十代の頃は、何ひとつ持っていなかった。  だがそれは、すべてを持っているも同じことだった。  どれほど傷つき、恥をかこうと、気がつけばいつのまにか忘れて立ち直ることができ、惨めさに打ちひしがれ無力感に苛《さいな》まれても、永遠に続くトンネルなどあるわけがないと高をくくることができた。肉体も精神も十二分にタフで、溢れる性欲を持てあまし、消耗し、消費され、体の中を吹き荒れるわけのわからない暴風にきりきり舞いさせられながらも、明日は今日よりましになると、やみくもに信じるだけの力があった。  それと同じ類《たぐい》のエネルギーが——今は、真奈美をはじめとする若い職員たちの中に息づいているのを感じる。生い茂る夏草のような、猛々しいほどの生命力。うっかり並んで立つと、太陽が彼らだけを照らし、こちらのいるところは既に陰っているのを思い知らされる。  かつては自分の中にもあったはずの、あの無尽蔵に見えたエネルギーはどこへ消えてしまったのだろう。たとえば蒸発した水がめぐりめぐって雨となるように、今でもどうかすれば取り戻せるのだろうか。といって、今さらそんなものを取り戻したところで、しんどいだけのような気もする。あれほどの惑いや、悔いや、後から思えば自意識の裏返しでしかなかった激しすぎる自己嫌悪や——そんなふうなもろもろを持ちこたえられるだけの気力は、今の自分にはない。逆さに振っても出てこない。 「……んスよ。聞いてくださいよ、ねえ水島さん」  部下の久保田が、中身の減ってもいない貢のグラスにビールを注ごうとするところだった。 「まいっちゃうよなあ。俺なんかこの八月でとうとう三十っすよ、三十。ったく、人生半分終わったって感じですよ」 「おう、いい根性してんなあ、お前」と、どすのきいた声で課長の重田が言った。「俺や水島を前にしてその言いぐさはねえだろう。お前みたいなニブチンは、一般企業ならいっとう最初に子会社出向のくちだな」 「あ、ひでえ。今日は無礼講っつったの課長じゃないスか」  と久保田はむくれてみせた。すでに顔が赤い。  広報課のほとんどが集まっていた。半年もかけて準備してきた市のイベントがとりあえず一段落したので、今夜は内輪だけの慰労会だ。  貢は、冷めた唐揚げを口に押しこんだ。  どうにも尻の落ち着きが悪い。どういう角度に座り直してみても、はす向かいの席で重田に酌をする真奈美が視界に映ってしまう。テーブルの下でそっと腕時計をのぞき、このあと若い連中に二次会に誘われても断ろうと思った。誘うほうも、どうせ本気で誘ってなどいないのだ。 「真奈美ちゃんは、あれだよな。前は年金課だったよな」  二か月ばかり前に広報に移ってきたばかりの重田は、注がれたビールをおっととと、と口に運んだ。上司としてはいささかルーズな男だが、歳が二つ上というだけで気が楽だ。以前の課長は貢と同期だった。 「あそこは、あれだろ」重田は口のまわりの泡をぬぐって続けた。「やたらと細かい計算ばっかりで大変だったろう」 「ええ、しょっちゅう間違えて怒られてました」と真奈美は舌を出した。「そうだ、課長、知ってます? うちの市ってほら、いま八万五千人くらいいるじゃないですか」 「うん」 「そのうち、七十歳以上のお年寄りがだいたい八千人くらいなんですけどー、さて、問題です。その人たちの医療費は、一日に合計どれくらいかかってるでしょうか」 「なんだなんだ?」と重田は大げさに眉を寄せた。「ややこしいな。つまりあれか。一日あたりの保険の負担額を合わせるといくらか、ってことか?」  真奈美がうなずく。 「ふうん……そうさなあ」重田は太い首をひねった。「八千人ったって、その全員が毎日医者にかかってるわけじゃないだろう? 多めに見積もって半分の四千人、一人ざっと千円ずつと考えて……四百万? いや、そりゃいくらなんでも多過ぎるよなあ。一日あたりだろう?」  真奈美はにこにこしながら聞いている。 「おう水島、どう思う」  貢は肩をすくめた。「見当もつきませんね」 「うーん……。降参。ギブアップ」  おどけて両手をあげてみせた重田に、真奈美は言った。 「千六百万円」 「嘘だろ?」 「ほんとですよ」 「一日に?」  真奈美がうなずくと、重田は、まじかよ、と久保田のようなことをつぶやいた。 「でも、しょうがないんです。寝たきりのお年寄りとか徘徊老人の介護なんか人件費もかさむし、病気が重かったり、やれ延命治療だ何だってことになると機械も高いの使ったりするから。これ言うとみんな驚くんですけど、年間にするとだいたい六十億かかってるんですよねえ」 「いや、驚いた。久しぶりにたまげた」  重田はめがねをはずし、おしぼりで顔をぐるりとぬぐった。 「しかしあれだな。そういうの聞くとつくづく、歳取っても医者にはかからんで死にたいと思うなあ。あの、何というんだったかほれ……スパゲッティ症候群? 体じゅうに管いっぱいつけられてさ。ああいうのだけは願い下げだな」  な、と相づちを求められて、 「確かに」と貢は言った。「まあ、理想を言えばなるべくボケないで、死ぬ日までなんとか便所だけは自分で行って、最期はポックリいくのが一番なんでしょうかね」 「ピンピンコロリ、ってやつだな」 「そりゃ誰だってねえ!」  貢も重田もぎょっとなって口をつぐんだ。  声を荒らげたのは、ずっと黙っていた久保田だった。 「誰だって、元気な時はそう思うんですよ」半ば目のすわった久保田は、重田と貢を順ぐりに睨んだ。「けど人間、そうそう思うとおりにはいかないもんでしょ。違いますか。いつどんなふうに死ぬかなんて、好きに選べるもんじゃないんですよ。え、違いますか」  視線は今や貢に据えられている。 「……悪かった」と、貢は言った。「すまん。無神経だったな」  久保田はぷいと横を向き、立ちあがって、徳利を片手に向こうの席へ行ってしまった。  重田が、さぐるように貢を見る。 「いや、すみません」と貢は言った。「あれは、俺に対して怒ったんです。課長は気にせんでやってください」  おととしだったろうか、久保田と二人で飲んだ時に聞かされた話だが、久保田の母親は彼が中学のとき事故に遭い、一週間ほど命をつないだものの結局一度も意識の戻らないまま息を引き取った。そのことを、何たることか自分は、今の今まで忘れていたのだ。 「そうか……」重田は赤ら顔をしかめた。「そりゃあ悪いこと言っちまったなあ」  貢は、自分に舌打ちをした。  またやってしまった。確かに俺は、鈍い。いつもこうだ。気が回らないばかりに人に不快な思いをさせてはあとで後悔し、そして多くの場合、あとではもう遅いのだ。そんなふうだから、万年課長補佐どまりなのだ。  向かい側から真奈美がちらりと慰めるような視線をよこし、ビール瓶を手に取った。 「さ、ほら、飲んで飲んで」  気づかいをふと厭《いと》わしく思いかけ、彼女に当たってどうする、と思い直す。  すっかりぬるくなった液体を飲みほして、貢はグラスを差し出した。 〈あなたのその、ぬるい感じが我慢ならないの〉  大学時代に一年半ほどつきあっていた恋人は、別れぎわにそんなことを言った。彼女が部屋を出ていったのは、貢があの入院生活からようやく社会復帰した、その矢先だった。  貢のほうはといえば、寝耳に水だった。学生運動を通して知り合った彼女は初めて会った時から変わらずに魅力的で、貢は彼女を連れて歩くのが自慢でならなかった。四畳半一間の下宿で、あの頃のフォークによく歌われた恋人たちそのままの同棲生活を送っていた間も、お互いがうまくいっていると信じて疑いもしなかったのだ。別れを切り出される、その瞬間まで。  妙に風通しのよくなった部屋で、一人呆然と座り込み、いったい何が彼女の気に食わなかったのだろう、と埒《らち》もないことを考えていた。やはり、この間の喧嘩が原因なのだろうか。病み上がりで疲れやすく、たまたま神経がささくれだっていたせいか、その夜は何かどうでもいいことで口論をした。お互い、言うべきでないことをいくつか口にしたような気がする。  だが、もちろん——彼女が出ていったのは喧嘩のせいなどではなかった。後になって友人に聞かされた話だが、貢が入院していた間に彼女は地方で行われた闘争に参加し、そこで出会ったリーダー格の男に惚れてしまったのだ。それだけのことだった。 〈あなたのその、ぬるい感じが……〉  そうかよ、と貢は思った。どうせそいつは、やけどしそうな熱血漢なんだろう。世直しの理想に燃えて、さぞかし熱いたわごとを口走っているんだろう。自分たちの尻に火がついていることにも気づかずに。  おぼつかない足取りで久しぶりに歩くキャンパスは、あいかわらず閑散としていた。  入院生活で増えた体重は、あっというまに元に戻り、さらに減っていった。  貢は、以前よりも頻繁に実家に帰るようになった。下宿の部屋に一人でいれば、欠けてしまったものと、もしくは自分に欠けているものと、向き合わないわけにいかなかったからだ。  暑い夏だった。  実家の庭先の木々はそよとも動かず、まるで原生林のそれのように濃く密に茂り、油照りの日ざしから逃れて葉陰の暗がりに入ると、一瞬、視界が闇に覆われて立ちすくむほどだった。  昔からある木戸をきしませてうっそりと入っていくと、よほど耳がいいのか、志津子はどこで何をしていても必ず顔をのぞかせ、あらお帰りなさい、と満面の笑みで迎えてくれた。足元にはたいてい、娘の沙恵ばかりか暁までもがまとわりついていて、回らない舌で、おかえりなさあい、と声をそろえた。  志津子は料理上手だった。寝泊まりしているのは離れだが、毎度の食事だけは母屋で子どもらや重之と一緒にとるのが日課とみえて、その食卓の充実ぶりはもとより、あれほど無愛想だったはずの父親がそれなりにしゃべるようになったことに貢は心底驚いた。帰った日の夕食には必ず、煮魚やアサリの味噌汁など貢の好物が並び、一度それについて父親が皮肉めいたことを言うのを聞いた時、彼は優越感にも似た満足を覚えた。  タイル屋の寺沢に脇腹をつつかれたのは、あれは何度目に帰った時だったろう。  寺沢は、重之との打ち合わせに来た帰り、縁側で貢が新聞をひろげているのを見つけて寄ってきたのだった。 〈見てみろ、貢。抱き心地の良さそうな尻だことォ〉  庭の向こうの端で洗濯物を干している志津子を見やりながら、寺沢は太った体を揺らして含み笑いをした。前の晩の酒が過ぎたのか、汗まで臭かった。 〈若いもんには目の毒だろう〉  苦笑いで聞き流そうとした貢の耳元に、寺沢はささやいた。 〈ったく、ようやるわなあ、親父さんも〉  耳がどうかしたかと思った。  息をのんで動かない貢を見て、寺沢はあきれ顔で言った。 〈なんだおめえ、何にも気がついてなかったんか。ったく、おめえもたいがい鈍いっつうか、人がいいなあ〉  三年も前からだ、と寺沢は言った。当時、重之が足しげく通っていた志津子のアパートは隣町にあったが、運悪くと言うべきか、その部屋のドアは、寺沢が改修工事をしていた銭湯の窓から丸見えだったのだ。 〈おっかねえから、親父さんには見たとも何とも言ってねえんだけどさあ。とっくに切れたかと思や、ちゃっかりガキまでこさえてたとは恐れ入ったよ。あの女もあの女だ。一度はそ知らぬ顔で辞めてったくせに、おめえのおふくろさんが亡くなンの待ってたみてえに乗りこんで来やがって。菩薩みてえな面ぁしてるが、だまされちゃいけねえ、ありゃあてえしたアマだぞ。おう貢、おめえ何ぼうっとしてやがる。憎いとは思わねえのか? 腹ぁ立たねえのかよ、ええ?〉  威勢よくまくしたてた割に、帰りがけに寺沢は、親父さんにゃくれぐれも内緒で頼むな、な、と念を押して帰っていった。  ——憎くないのか。  ——腹は立たないのか。  そう言われても、正直、いったい誰に対して腹を立てるのが正しいのか、貢にはよくわからなかった。病弱な妻を裏切り続けていたあの父親にだろうか。それとも、裏切らせた志津子にだろうか。あるいは、死んだ母親をすっかり忘れて志津子にまとわりついている、幼い暁にか? 何も知らずに生まれてきた沙恵にか?  父親のことは確かに恨めしい。だがそれは、亡くなった母をかばっての義憤からではなく、まったく別の感情からくるものだった。外に愛人を囲う父親など、息子として許すべきではないはずなのに、志津子のあの笑顔を知ってしまった今では同じ男としてわからないでもなく、貢はそういう自分の薄情さを死んだ母親に対してひどく後ろめたく思った。  誰も彼もが憎いようでいて、そのじつ、誰のことも本気で憎む気にはなれなかった。  唯一憎むべき相手がいるとすれば、それは、この期《ご》に及んで何に対しても腹を立てることのできない、ぬるい[#「ぬるい」に傍点]自分であるような気がした。      *  職員それぞれが希望する夏期休暇の日時を調整していくと、貢が休みを取れる日はどうしても飛びとびになってしまう。  要領のいい久保田などは去年も今年も、五日間認められている休みを前後の土日と合わせて九連休にしていたが、貢の休みは七月の末に二日間、八月のお盆過ぎに一日、月末にまた二日間。それもまた、例年のことだった。このごろでは頼子もあきらめたか文句も言わない。  全員の日程を表にしたものを課長の重田に見せると、彼は一応、 「いいのか、君はこれで」  と訊いてくれはしたが、すぐその後に続けた。 「いやあ、悪いねえ」  自分の休暇を動かす気はこれっぱかりもなさそうだった。  仕方がない。もう、慣れた。一般の企業だろうが役所だろうが同じこと。この国では、部下の〈能力〉は上司への忠誠心ではかられる。  貢は黙って席に戻り、パソコンを立ちあげた。調整役という貧乏くじは引かされたものの、ひとつだけありがたいのは、真奈美と休暇が重ならなかったことだ。正確に言うと、真奈美が休む日を避けて自分の休みを取れたことだ。  一度くらいどこかへ旅行に連れていってくれなどと言い出されたらどうしようかと思っていたのだが、彼女はこの夏、短大時代の友人たちと沖縄へ行ってくるという。  いいことだ、と貢は思った。歳の近い友人と、思いきりはしゃぐといい。そうして、自分の若さをたっぷり思い出すといい。  旅先で真奈美に新しい恋人ができてくれることを、貢は掛け値なしの本心から祈った。そういうきっかけがあれば、最も穏やかな形ですべてを元に戻せるに違いないのだ。  彼女との間にある、恋のような、あるいはただの肉欲のような、共犯者のような、それでいてかすかに父娘の情にも似た、あんな奇妙な、あんな濃い関係をこの先もえんえんと続けていくのはしんどすぎる。かといって、一方的に断ち切るだけの決心はつかない。未練のせいばかりではなかった。自惚れと笑われるかもしれないが、へたに別れようなどと切り出して逆上されるのが怖かったのだ。泣いたり暴れたりする程度ならまだしも、うっかり手首でも切られてはたまらない。あんな思いはもう、もう、沙恵の時だけでこりごりだ。  あの頃……。  暁と沙恵の間で起こっていることに、最初に気づいたのは貢だった。家族の前では、二人はほぼ完璧に兄妹を演じおおせていたが、たまに実家に戻るだけの長兄の存在はしばしば意識の外へこぼれてしまうものらしい。いくら鈍い貢でも、目の前であんな視線を交わされればさすがに気づかないわけにいかなかった。  二人の間の血のつながりを知る者として、無理にでも引き離すのは当然の義務だったと思う。自分の見たままを父と志津子に話したのも、そのためにはやはり仕方のないことだったと今でも思っている。  だが、結果として起こった沙恵の自殺未遂に関してだけは、いまだに深い悔いが残っていた。どうでも別れさせなければならない恋人同士であったにしろ、何かもう少し他に、巧いやりようがあったのではないか。このごろ、急にそんなことを思うようになった。  真奈美と自分との間の〈巧いやりよう〉を考え始めたせいもあるかもしれない。誰かが彼女を引き受けてくれるなら、お互いのためのきっかけとしてはそれが一番いいのではないかと、つい消極的なことを思ってしまう。  ディスプレイ画面にランチャーが並んでいき、やがていつものシンプルな壁紙が表示された。インターネットにつなぎ、左右に目を配って、誰も見ていないことを確かめる。  そして貢は、とりあえず今週末訪ねるつもりの候補地をリストアップし始めた。  どこか首都圏近郊に、畑にできる安い土地を買わないか。  ゆうべ、そう持ちかけてみたところ、頼子はなぜか頭から反対した。 「たかが野菜に、そんな大変な思いまですることないじゃないの」  小鉢に煮物をよそいながら頼子は言った。 「無農薬野菜が食べたいなら、今どきはいくらでも自然食のお店があるんだし、作るのが楽しいならまた市民農園に申し込めばいいんだし。あと二年ほども待てばまた順番が回ってくるわよ、きっと」 「そういう問題じゃないんだ」と貢は言った。「もう、誰かの都合に振り回されるのはいやなんだよ。虚しいじゃないか。せっかく土から作ったって、やっといいものができるようになってきたところで他人にかっさらわれる。人の指図を受けるのは、」  職場だけで沢山だ、とうっかり言いそうになって飲みこむ。 「……もうまっぴらなんだ。わかるだろ?」 「それは、わからないでもないけど」  頼子はアサリの味噌汁を貢の前に置いた。 「でも、安いところイコール遠いところでしょう? 面倒見られるの? いったいいつ通うっていうのよ」 「これまでどおり週末に通うさ。車で二時間以内のところを探す」 「そんなの、私はそうそう付き合えないわよ」 「いいさ。俺一人で行くよ」  もともとそのつもりだ、とは思ったが言わなかった。 「食事は誰が作るの」 「店屋だろうがコンビニだろうが、どうとでもなるさ。なんなら車をワゴンタイプのに買い替えるかな。そうすれば後部座席で寝て、日曜も作業ができる」  頼子が、何か言いたげな顔でじっと見た。 「なに」 「べつに」 「なんだよ」  頼子は流しのほうを向き、洗い桶に浸かっていた茶碗を洗い始めた。背中を向けたままつぶやく。 「家のローンだって、まだ残ってるのに」  金のことを持ち出されると、なぜか守りに回りたくなる自分にむっとする。 「もう少し長い目で考えてみろよ」と貢は言った。「もしもいいところが見つかったら、定年後はここを処分してそっちに永住したっていいんだし」 「いやよ」  頼子は向き直った。目が吊っていた。 「東京を離れるのは絶対にいや」 「なんで」 「なんで? そんなこともわからないの?」  教師然とした口調で言われて、貢は鼻白んだ。 「わからないね。その頃にはもう、聡美も勤めてるだろ」 「聡美は関係ないの。私がいやだと言ってるの」  貢が黙っていると、頼子はこれ見よがしにゆっくりと首を振って、再び流しのほうを向いた。 「そりゃあ、あなたなんかはどこに住んだって同じでしょうけどね。私にはお付き合いってものがあるのよ。これまでの職場も、昔からの友だちも、身内だってみんな……。それを、この年になって今さら知り合いもいないところで田舎暮らしだなんて、冗談じゃないわよ。勘弁して下さいよ」  しばらくの間、水音と、茶碗のぶつかる音ばかりが響いた。  煮物に箸をつける気は失せていた。  政和はまだ勤めから帰っておらず、聡美は二階へ上がったまま下りてこない。頼子によれば期末試験の勉強で忙しいのだという話だったが、部屋からはかすかにラジオのDJが聞こえてくる。耳をすますと、流れているのは意外にも、昔流行ったボブ・ディランだった。反戦集会などでよく歌われていたやつだ。聡美が好んで聴いているとも思えない。CMか何かにでも使われているのだろうか。  貢は、箸を置いた。鈍く痛む目頭をもむ。〈あの頃は良かった〉などと遠い目をする中年親父にだけはなりたくない、絶対なるものか——昔は俺だってそう思っていたのに。 「まあ、さ」しかたなくこちらから折れてみた。「永住云々はともかく、試しに土地を探すくらいはかまわないだろ」  頼子がため息をついた。 「ねえ、どうしてそこまでこだわるのよ」 「どうしてって、趣味みたいなものだよ、いわば」 「そうかしら。意地にでもなってるんじゃないの?」 「意地?」 「それとも何かほかに理由でもあるの?」  貢は眉を寄せた。「何言ってんだお前」 「野菜嫌いは直ったんだから、もういいじゃないの。だいたい、野菜なんて普通に買ったほうがどれだけ安いか知れないのに」 「金のことばっかり言うなよ」 「言いますよ。今だって、親戚じゅうに送る宅配便代だけでいくらかかってるかわかってるの?」 「やめろってもう、言うな」 「これでまた土地まで買ったりしたら、それこそニンジン一本数万円なんてことに」 「言うなって!」  びくっとなった頼子だったが、すぐに、スポンジを流しに叩きつけて振り返った。 「言わなくちゃあなた、わからないじゃないの!」  それでも——週末、貢は車を出したのだった。  頼子は朝からろくに目を合わせようとせず、口数も少なかったが、手だけは動いて、大きな弁当箱と麦茶の入った水筒を渡してよこした。  インターネットや雑誌はもとより、新聞や折り込みチラシにも物件情報は山ほど載っていた。これまでは気に留めたことさえなかったが、どうやらそれだけ需要があるということらしい。 『一区画平均一〇〇坪 四八〇万円!』  と、見る者の経済観念に訴えかけようとするものがあるかと思えば、 『海を見おろす高台で第二の人生を始めませんか?』  などと情緒に訴えるものもあったが、貢はどちらも斜めに読み飛ばした。狭くて坪単価の高い別荘地などに用はなかった。  次の週末も、そのまた次も、貢は出かけていった。初めのうちは漠然と八ヶ岳方面に憧れて山梨や長野周辺を見てまわったが、途中からは範囲を限定するのをやめにした。群馬、栃木、茨城……。片道二時間かける覚悟さえあれば思ったより遠くまで行けることもわかったし、地元の不動産屋はたいてい、情報誌に載せない物件をいくつか抱えているものだということもだんだんわかっていった。 〈意地にでもなってるんじゃないの?〉  そうとも、それのどこが悪い、と貢は思った。まわりに人家が少なかろうが、車以外のアクセスが不便だろうが、そんなことはどうでもよかった。探しているのは一にも二にも、日当たりと水はけと土質のよい、格安の土地だった。野菜のために最低限の水源は必要だが、それは水道でも井戸でも、あるいは川や池でもよかったし、電気などは無ければ無いでかまわなかった。発電機の使い方くらいは知っている。その昔、集会の時に何度か使ったことがある。あれさえあれば、たいがいの用は足りるだろう。  なんであれ、実現する前の準備の時期こそがいちばん楽しいものらしい。一度転がりだした空想はそう簡単に止まらなかった。夜は木の枝に真鍮《しんちゆう》のランタンを吊るし、焚き火にあたって一杯やりながら本を読むのもいい。せっかくそんなところで読むのがナントカ殺人事件では様にならない。何を読むのがいいだろう。久しぶりにサルトルでもひっぱりだしてみるか……。  しかし、かんじんの土地はなかなか見つからなかった。どれだけ不動産屋に案内してもらっても、条件にぴたりと合う場所がないのだ。  日当たりが最高のところでは土壌の質が最悪だったし、水はけの良いところでは水源が確保できなかった。たまに三拍子そろったかと思えば土地自体が狭すぎたり、そこそこの広さがあるところは高くてとうてい手が出なかったりした。  そうしていかんせん、毎日あまりに暑すぎた。休みの日にまで動きまわっているぶん、週が明けても疲れは取れず、冷房のせいで体はだるい。ずるずると真奈美の部屋に寄ってみても下半身はろくに役に立たず、口をきくことすら億劫で、しまいには変に言葉尻をつかまえて真奈美を泣かせてしまった日も二度ばかりあった。どちらの時も、顔色をうかがいながら機嫌を取るように語尾を預けてくる真奈美の口調に突然耐えられなくなったのだった。 (何やってんだ、俺は)  土地を探し始めた頃、あれほど浮き立っていたはずの気持ちが萎えていくのを、貢は感じていた。探しているのが本当に土地なのか、それとも何か別のものなのか、そもそも何のためにそんなことをしているのかさえよくわからなくなってくる。  何かが欲しいと願いながら、そのじつ何が欲しいのかわからない。生ぬるい飢餓感ばかりをもてあまし、いつかは何かいいものが見つかるような気がして探すのをやめられないでいる。  涙の筋の残る真奈美の寝顔を見ながら、例によってため息をつく。  中途半端な丈のカーテンを引いた部屋に、若い女特有の濃密な匂いが満ちている……。      *  その広告を見つけたのは、八月も半ばを過ぎてからだった。七月中の週末すべてと、月末の二日間の夏期休暇を費やしてもまだろくな土地が見つからず、残暑が厳しさを増すのとは逆に頼子の視線は日に日に冷たくなって、いいかげんうんざりしかけていた時だ。  冷房のききすぎた書店で、半ば惰性のように手に取った田舎暮らしの雑誌を後ろからめくり、物件情報のページをひらいたところへ、 『貸します』  という一行が飛びこんできた。 『三〇〇坪の畑・年間一〇万円』  夢中で先を追った。場所は、千葉県の白浜の近くだった。  三百坪といったら、今まで作っていた畑の七倍以上ある。それが本当に年間十万ぽっきりで借りられるというのか。十年借りても百万、自分の残り時間があとどれくらいあるかは知らないが、たとえ百まで生きたとしたって土地を買うよりよほど安い。そうだ、何も売地に固執する必要はないのだ。どうせ永住する可能性などないのだろうから。  すぐに先方に連絡を取り、まだ借り手が決まっていないことを確認すると、貢は次の土曜の朝六時前には家を出た。  お盆休みをわざわざ避けた車で高速はそれなりに混んでいたが、都心を抜けてしまうとあとは鼻唄が出るほどスムーズに流れ、教えられたインターを下りた時点でまだ七時半をわずかにまわったばかりだった。  浮き立ちそうになる気持ちを、貢はあえて慎重に運転することで鎮めようとした。過大な期待はしないほうがいい。期待すればするだけ後の消耗がひどくなることはもういやというほど知っている。最初からあきらめ半分で見にいくくらいがちょうどいいのだ。  待ち合わせの町役場はすぐに見つかった。建物は貢の勤める市役所と比べるとはるかにこぢんまりとしていたが、駐車場は驚くほど広かった。田舎は車社会と聞いていたが、なるほど本当らしい。  約束の時間まで三十分以上あったので、貢はそこに車を置き、小さな駅前広場や、婦人会の札が立てられた花壇や、がらんとした自転車置き場や、履きもの屋の色あせた看板などをゆっくり眺めて歩いた。たった三十分とはいえ、どう使ってもいい時間を手にしたのは久しぶりだった。時間を持てあますとは何とぜいたくなことだったのだろう。海から一キロばかり離れたここにまで、かすかに潮の香りが漂っていて、人けのない駅前広場に吹く風は東京とは比べものにならないくらい涼やかだった。  五分前にもとの駐車場に戻ってみると、ちょうど白い軽トラックが入ってきたところだった。運転席の男が貢を認めて片手をあげる。  降り立つと、男は水色のツナギ姿だった。見たところ三つ四つ年上といったところだろうか、小柄だが肩や腕はがっしりしている。 「あ、や、どうもどうも」農機具メーカーの名前入りの帽子を軽く持ち上げ、男は満面に笑みを浮かべた。 「いらっしゃい、樋口です」 「水島です。はじめまして」  名刺を取り出そうとすると、樋口は笑いながら制して、代わりに手を差しだした。目尻に寄る皺のせいか、妙に人好きのする男だ。  貢はその手を握った。爪の間から指紋から、あらゆる皺のひとつひとつに至るまで、泥とも野菜のアクともつかないものに茶色く染まった手だった。 「途中、迷いませんでしたか」 「いや、ファックスして頂いた地図のおかげで一度も」  「そりゃ良かった。いっぺん来ちゃえば何てことのない道でしょ」  言いながら、樋口はさっさと軽トラックのドアをあけて乗りこんだ。 「じゃ、さっそく行きましょうか。後ろついて来て下さい、ゆっくり行きますから」  きびきびと車を切り返した樋口は、走り出すなりあっというまに信号を渡っていってしまった。貢は慌てて後を追いかけた。  広い通りに出て五分ほど走り、樋口は途中から脇道に折れて、畑の間を抜けていった。あちこちに、ガラスの温室が見える。花摘み園の看板も立っている。春にはあたり一帯が花畑になるのだろう。  上り坂にさしかかったが、ほとんど上らないうちに樋口はスピードをゆるめ、やがて軽トラックを路肩に寄せて停めた。貢もすぐ後ろに停めて降りる。 「ここです」  いま来た道を見おろす方向、ゆるやかな斜面いっぱいに、何区画もの畑がひろがっていた。 「あっちの溝から、こっちの畦までがそう。だいたい一反歩、つまり三百坪」  すぐには言葉が出てこないまま、貢は樋口の指さすほうを目で追った。  広い。雑草にびっしり覆われた台形の土地の、一辺は二人の立つ農道に接し、もう一辺は細いU字溝に接している。隅のほうに小さな物置のようなものがあるほかは、隣もその隣もみな畑ばかりで、さらにその向こう、来た道のずっと遠くに、何か青く霞んだものがひらべったく横たわって見えた。目をこらし、 (……海か!)  気づいたとたん、脈が疾《はや》くなった。 「いいとこでしょ」  と、樋口が言った。 「日当たりいいし、土もいいしね。もともと花畑だったくらいだから、ここ。ほら、来る途中で花摘みの看板たくさん見たでしょ」  貢は、足元を気にしながら畑に入り、びっしりはえているスズメノカタビラを一株引き抜いてみた。根の下からは黒々と肥えた土が現れ、にわかには信じがたいほど太いミミズが玉虫色にぬめる体をくねらせて潜っていくのが見えた。 「水はどうしてるんですか」  樋口は手招きして溝のほうへ行き、草をかき分けた。埋め込まれている赤い水栓を貢に示す。 「ここにホースをつなげばOK。田んぼなんかだと、水利権組合がどうの順番がどうのってうるさいこと言う人もいるけど、ここは全然平気。どうせ隣は去年から畑やめちゃってるしね。どこもそうよ。人手がなくて、というか継ぐもんがいなくて、どんどんやめてっちゃう」 「樋口さんのところも、それでここを貸そうと?」 「まあねえ。けどうちはほら、もともと俺しかいないから」 「あ、お一人なんですか」 「というか、言うなれば単身赴任だから」  けげんな顔をした貢に向かってニッと笑うと、樋口は立ち上がった。 「ま、借りるかどうかは後で決めるとしてさ。うち来ませんか。すぐそこだから」  本当に、すぐそこだった。  昔ながらの民家の庭先には柴犬がつながれ、貢を見ると鎖を引きちぎらんばかりの勢いで吠えたてた。樋口が叱ったくらいで黙るものではなかったが、二人が家の奥に消えてしばらくするとさすがに鳴きやんだ。最後に、きゅう、と不服そうに鼻を鳴らすのが聞こえた。  開け放った六畳間の縁側に、真っ赤な梅がひろげて干してあるのを眺めていると、 「それ、俺が漬けたの」と樋口は得意げに言った。「何でも自分でやるよ。料理だって」  強くなり始めた日ざしが塩の結晶を輝かせ、見ていると舌の根に生つばがわいてくる。 「すいませんね、散らかってて」樋口は立っていって冷蔵庫に手をかけた。「あ、おたく、朝飯は?」 「食べてきましたから」 「あ、そう。じゃあ……」  冷蔵庫から缶ビールを取り出して持ってくる。貢が思わず顔を見ると、樋口はにんまりしながら一本を貢にすすめた。 「田舎暮らしの醍醐味はね、何たって昼間の酒、これに尽きますよ。とくに今時分はいいね。早起きして、ひと働きして、朝飯食って、またひと働きしたら汗だくになって。その後のビールのまあ旨いこと。昼間から酒くらって寝てようが文句言うやつはいないし。昼飯食ったら二時間ばかりぐっすり寝て、涼しくなってから起きて、また作業する。蚊が出てきたら適当に切り上げて、で、風呂。で、晩酌。寝っ転がってテレビ観て、夜は眠くなったらとっとと寝る。明日の朝にさしつかえるから。どうです、最高でしょう」  嬉しそうに笑う樋口につられて、貢も思わず笑ってしまった。 「確かに、うらやましいような暮らしですね」 「おたくもやればいい。たとえ週末だけでも、体のさびがきれいに取れるよ」  缶ビールを開け、とりあえず乾杯する。互いに相手ののどが鳴るのを聞き、そのあと同じように庭に目をやった。松と、ツツジと、ほかは色とりどりの松葉牡丹や鳳仙花が咲いているだけの素っ気ない庭だった。 「あまり興味がないんです、庭には」と、言い訳のように樋口は言った。「出荷用の花はちゃんと作るんだけどね」 「樋口さんの畑は?」 「ほとんどがここのすぐ裏手に集まってます。全部で二町歩くらい、つまり六千坪ね。最初はもっとささやかにやるつもりだったんだけど、あれよあれよというまに人に頼まれたりして増えちゃった」  自分名義で手に入れた農地以外にも、委託されて面倒を見ている畑や温室がいくつかあるのだと樋口は言った。 「もともとこちらの方なのかと思ってました」 「そう見える?」樋口は心外そうに言った。「これでも横浜育ちなんだけどね」  だからどうしたという気もするが、 「そうでしたか」  と貢は言った。  あたり前のことではあるが、元手から経費を引いたものが純利益となる。純利益だけで一年食べていこうと思えば、どうしてもある程度の規模でやらないと無理だ。体はきついが仕方がない。だからこそ、せめて今使っていないあの畑だけでも誰かに貸そうと思い立ったのだと樋口は言った。 「俺は脱サラでこっち来たけど、女房はいまだに娘夫婦と横浜の家に住んでてね、あそこを離れるのは死んでもいやだって言う。さっき、いわば単身赴任だって言ったのはそういう意味。俺がこっちで農業やり始めて五年目になるけど、女房は数えるほどしか来たことがない」 「……田舎がお嫌いなんでしょうかね」 「さあ、どうだろう。まあ、来ても居場所がないって言うね。昔、俺が思ってたのとおんなじことを言いやがる。そこまで言うなら無理に来てもらってもね」  樋口はまた旨そうにのどを鳴らし、鼻の下の汗をぬぐった。 「最初のうちはさ。農業始めたいから土地売ってくれって探しまわっても、地元の人間からはさーんざ疑いの目で見られてさ。あれは地上げ屋が別荘用地探してるんだ、なんつってね。ま、先祖代々の地べたを自分の代で売ろうって人は、村社会じゃなかなかいないわね。土地は、持ってても腐るもんじゃないから売らないんだと。うまいこと言うよね。だから、初めはやっぱり、おたくと同じように土地借りるとこから始めて、空き家借りて住んで、人間関係から作ってって、やっと普通に口きいてもらえるようになってさ。それからようやく商談よ。そうやって、いざ内情聞いてみりゃ、どこもみんな畑なんか持てあましてる。なのにどうしてああしっかり握っちゃって放そうとしないかねぇ。土地持って死ねるわけでもあんめぇにさ」  口を曲げて、樋口は肩をすくめた。 「確か、水島さんはお役所でしたっけ」 「はあ」 「自分はね、商社だったんです」  意外でしょ、というふうに一拍間をおいて続ける。 「べつにまあ、定年まで勤めあげてもよかったんだろうけど、途中でつくづく嫌になっちゃってね。何がってこう、あるじゃないですか、会社ってとこにはほら、失敗は人のせい、手柄は自分のものみたいな体質が。それが嫌で嫌で、とうとう女房に『おい、辞めるぞ』って言って辞めちゃった。幸い、娘ももう大学出てましたしね。ええと、早期退職優遇制度っていうの、知ってます?」 「ああ、はい」 「定年より早めに辞めると、退職金の優遇措置があるっていう。うちの場合は申し込みの定員枠が二百人で、要するに、俺らの同期四百人を半分に減らしたいってことだったんですよね」 「四百人!」 「そう。ちょうどベビーブームの時に生まれた連中をどーっと新卒採用した、それが今になってね」 「あれっ」貢は驚いて言った。「樋口さん、何年の卒業ですか」 「俺? 七二年」 「ええ? なんだ、自分と一年違いだ」 「おたく、何年?」  七三年ですよ、と貢が言うと、樋口は突然大声で笑いだした。 「……やっぱりな。いや、そのへんじゃないかとは思ってたんだ、おたくから電話があった時から」 「どうしてです?」 「そりゃあんた、定年退職したわけでも、そうそう暇もてあましてるわけでもないのに、わざわざ畑借りて自分で耕したいなんて言いだすのはまあたぶんそのへんだろうって」 「だから、どうしてです?」 「いや、どうしてって言われても困るけどさ。こう、農業そのものじゃなくて、農的生活に憧れるっていうか……」  樋口は立ちあがり、冷蔵庫からビールをもう二本出してきて座り直した。 「要するにおたくも、基本的に誰にも管理されたくないわけでしょ」 「まあ、ねえ。でもそれは誰でも同じじゃないかと」 「ウソウソ、そんなの。ほとんどの奴らは、管理されないといられないんだよ。でなけりゃ、管理されてること自体に気づいてない。たださ、俺やおたくや、あの年代を血の若いうちに通り過ぎてきた連中はたいてい、そういうのに敏感っつうか、神経過敏だから。アレルギーみたいなもんだから。ま、俺なんかの場合はある意味、そういう思いのひとつの延長として、畑があるっていうかさ。なんたってほら」  樋口は、貢のぶんまでプルトップを開けながら、にやりと笑った。 「畑にいる時ゃ、『おいらが大将』だもの」  二缶目のビールを空けてしまうと、樋口は、ほろ酔い気分のまま貢を裏手の温室や畑に案内した。そして、牛糞をたっぷり混ぜこんだ堆肥を見せてくれたり、トマトを甘くするコツを教えてくれたり、耕耘機やトラクターをいじらせてくれたりした。どれもが貢にとっては新鮮きわまりない体験だった。 「一反歩の雑草くらい、トラクターでかき混ぜりゃあっというまだよ」  と彼は言った。 「俺やっといてやるよ。それともおたく、自分でやりたいならこれ貸してやるし。え? かまわんさあ、耕耘機でも草刈り機でも、ここにあるものどれでも好きに使っていいよ。ははは、これがほんとの大人のおもちゃだわ」  畑を借りる、とはまだ一言も口にしていなかったのだが、もうすっかり決まったような口ぶりだった。 「そうそう、泊まりがけで作業するなら、うち、裏にコンテナ余ってるよ。コンテナってわかるかな。ほら、輸送用の大型トラックが後ろに積んでる、銀色のでかいアルミの箱あるでしょうよ。あれの横っ腹を四角くぶち抜いて、どっかからアルミサッシでも拾ってきてくっつけりゃ立派なお宿だよ。俺も前はしばらくそうやって住んでたの。おたくがうちの裏じゃ気がねするってことなら、畑の隅っこにでも置いといて、いつでも来りゃいいよ。あれなら、建築物じゃないから何の申請も許可もいらないしさ」  疲れきった目をこらすようにして夜の高速を飛ばし、どうにか家の近くまで帰り着いた時にはもう九時をまわっていた。  昼飯は近くの店で刺身定食を食い、レジ前での押し問答の末に貢が二人ぶん支払って、そのまま東京へ帰るはずがなぜかもう一度彼の家に上がらされ、結局はあたりが暗くなるまで話しこんでしまったのだ。 〈農業っていうのはさ、要するにトライアンドエラーのくり返しなわけよ。それも、無限のくり返し〉  日が傾くにつれて、その口調にはますます熱がこもっていった。 〈企業に余力があった時代はさ、若い社員にもトライアンドエラーが認められてたわけだよ。一つひとつが挑戦っていうか、いわば成功への踏み石になるわけだからさ。それが、今は上司がもう、失敗をただの失敗としてしか見なくなっちゃった。若いもんが冒険したくてもできない空気がすっかりできあがってる。お役所でもそうでしょ。今の若い者は小さくまとまりすぎるとか、口では言うけども、団塊世代の連中ですら、そういう空気を作ってるのは自分らだってことになかなか気づかない。あれほど嫌ってた金権体質に自分らがいつのまにかすっかり取り込まれてるってことも、見て見ないふりっていうかね。若い連中もかわいそうだと思うよ。今ほど生きにくい時代はないよ。俺らの頃はまだ、世の中全体がひとつの空気っていうか、みんなの向いてる方角が一緒だったからわかりやすかったじゃない。まああの当時は、まともに社会と関わり合おうと思ったら右行くか左行くかどっちかしかなかったんで、それも不幸っちゃ不幸だったわけでさ、右も左も全体主義的になっちゃったのは、そりゃもうしょうがないよ。一人ひとりが自分の頭で考えて行動なんかしてたら敵と闘えなかったもの。そんでもやっぱ、誰も彼もみんな、欠けてるものが同じだから、欲しいものも当然同じで、要するに幸せの基準がだいたい同じだった。足りないものが目に見えてたわけだよね。それが、今はもう、全然見えない。求めてるものがばらばらだから、どこを目指せば幸せになれるものやら、指標が何にもない〉  ちなみに、と貢は口を挟んだ。あなた自身は何を指標にこの〈農的生活〉に飛び込むことを決めたのか、と。  すると樋口はふいに黙りこんだ。 〈本能、かな〉  と、ややあって彼は言った。 〈うーん、ちょっと格好つけ過ぎかな。でもほら、動物って本来そうじゃない。歳を取ったら、しぜんと群れを離れて一人きりになる、みたいなさ〉  灼けた顔には、はったりとも本気ともつかない曖昧な表情が浮かんでいた。 〈いずれにしても、こういう生活のいいところは、何もかもが目に見えて、手でさわれるってことだよね。トマトにしろ花にしろ、土とか道具にしろさ。自分の仕事の成果がはっきり目に見えるもん。商社じゃそうはいかなかったからね〉  さわって確かめたいんだよ、と、樋口は何度もくり返した。 〈結局のところ、最後に信じられるものはそういうものだけだって気がする〉  貢は黙っていた。 〈何なら、水島さん。あんたもつまんないお役所勤めなんかとっとと辞めて、こっちで一緒に農業やらないかい。自由でいいぞう、農業は〉  そして、答えられずにいる貢を見て、またにやりとした。 〈冗談だよ〉  あんなふうな物言いを、久しぶりに聞いた気がする。  社会の矛盾や幸福、理想や正義について熱く話すことなど昔はめずらしくもなかったが、このごろではどうせ若い者に煙たがられると思うあまり、あえて口に出すこともなくなっていた。  だが、久しぶりだと感じるのはたぶん、話の内容ばかりではなかった。  たとえば頼子は、何もかもを自分が決め、指図しようとする。たとえば真奈美は、何もかもを人に預け、もたれかかろうとする。前者にはしばしば辟易《へきえき》し、後者をこのところ重たく感じ始めていた自分にとって、樋口との付き合いは何とも楽だったのだ。人に指図するわけではないが、必要な助言はきっちりしてくれる。こちらも、聞くべきところは聞くが、要望はきっちり伝える。大人の人間関係とはそういうものじゃないか、と貢は思う。  頼子には、今日のことをどう話そうか。  車をバックで車庫に入れながら、貢は思案した。  土地を買うのでなく安く借りるのだから、彼女も前のように強くは反対しないだろうが、ちょくちょく泊まりがけで出かけるについてはあまりいい顔をしないかもしれない。どこから切り出すべきだろう。この前と同じく、そこまでする必要があるのかと言われたら、どう切り返せばいいだろう。採れた野菜の価値がどうこうではなく、土に触れることそのものに価値があるのだと、説明したところでわかってもらえるのだろうか。  野菜など買ったほうが安いことくらい、言われなくとも知っている。土に這いつくばり、腰や膝の痛みをこらえながら汗だくになっている最中にふと、何のためにこんな思いまでしているのかと疑問に感じることだってある。しかし、その問いはそのまま、自分はいったい何のために生きているのかという問いにまでつながっていて、いつだったか貢は、体の芯の芯、骨の髄の髄まで疲れきって立つこともできなくなった夕暮れ、自分の耕した畝の上に秋の日が斜めにさしているのをぼんやり眺めていた時にふと、打たれたかのように答えが見えた気がして思わず涙ぐみそうになったことがあった。〈何のために〉ではないのだった。いまここに生きているという圧倒的なまでの実感——それだけでいいのだった。  もしも自分に若い頃と同じような生命力がみなぎっていたなら、そんな境地にたどりつくことはなかっただろうと思う。光の中では見えず、日が陰って初めて見えるものもあるのだ。  キーをひねると、あたりがしんとなった。  都会の庭では、虫の声もわずかしか聞こえない。ほんの数時間前、あたりが暗くなると同時に、樋口の家をおしつぶすかのような音量で湧き起こった蛙の合唱が耳によみがえる。  寝不足と疲れで朦朧《もうろう》とした貢の頭に浮かぶのは、もはやあの土地のことばかりだった。これまでのように、ありもしない土地に漠然と焚き火を思い描くのとはわけが違う。今日見てきたばかりの三百坪の畑いっぱいに、自分の育てた作物が列をなす。それは、どこまでもリアルな夢の光景だった。早朝、野菜の葉の上には露の玉が転がり、日ざしは惜しみなく降り注ぎ、足元に踏みしめる土は柔らかく肥え、そして遠くにはいつも海が見えている……。思いきってほんの少し手をのばすだけで、それらは夢ではなくなるのだ。  意を決し、玄関を入る。 「お帰りなさい」  いつものように迎えに出てきた頼子の顔からは、しかし、表情というものの一切が抜け落ちていた。手にしているのは電話の子機だ。 「ちょうど今、あなたに掛けようとしたところ」 「……悪かったよ、遅くなって」  言いながら靴を脱ぎ、ついでに泥で汚れた靴下も脱ぎはじめる。 「そうじゃないの」と頼子は言った。「ねえ、北村真奈美さんて」  思わず手を止めてしまった。 「あなたの部下だったわよね」 「……そうだけど、なんで」  狼狽を隠せずにいる貢を、頼子の目がじっと見つめてくる。 「捕まったんですってよ。万引きで」 「な……」  意味が、あとから頭に届いた。 「どうしてそんな電話が、警察からあなた宛てにかかってくるのかは知らないけど」  ひどく静かに、頼子は言った。 「とにかく、行ってきたら? その人、あなたを身元引受人にって言ってるそうだから」      *  夏が、終わりかけている。  この暑さはまだしばらく続くのだろうが、午後の日ざしにはすでに山吹色の光が混ざりはじめ、木々の緑にももう、いっときのような猛々しさはない。  気がつけば、ヒグラシの代わりにコオロギが鳴きはじめている。  月曜の昼どきは、なぜかいつも慌ただしい。  ほかの皆が出払い、人手の足りない時に限って、電話は鳴り続け、客はひっきりなしに訪れる。  貢と久保田が留守番を務めた今日もそうだった。それでなくとも忙しいところへ、去年定年で辞めていった職員がぶらりと顔を見せ、お茶一杯で半時間ほどもダベっていった。用事があってのことではない。あまりにも暇だから覗きに来ただけだという。  やがて、昼食をすませた職員たちが三々五々戻って来始めたのを機に、ようやく立ちあがった彼は、階段を下へおりるかと思いきや、さらに上の部署へと上がっていった。 「うーん……」見送って、久保田が唸る。「ああはなりたくないな」 「誰だって若いうちはそう思うんだよ」と、貢は言ってやった。「だが人間、そうそう思うとおりにはいかないものなんだそうだ」  軽い皮肉が通じたのかどうか、久保田は肩をすくめ、貢に向かって下唇を突き出してよこした。  苦笑するしかなかった。  若い者にはまだわかるまい。子どもや孫が遊びに来てくれるような立場ならともかく、そうでない多くの男たちにとって、定年後の生活はただうら寂しいだけだろう。そういう俺も、明日は我が身かもしれない。政和や聡美がこの先、親孝行をしてくれるかどうかはわからないのだ。  だからこそ、今のうちに一人でいることに慣れておかなくては、と貢は思う。遅かれ早かれ、死ぬ時はどうせ一人なのだし、それでなくとも、そう——別れは突然やってくる。  貢は、奥の席を見やった。  彼女の姿はなかった。 〈ほかに、誰も思いつかなくて〉  おとといの夜、迎えにいった貢の顔を見たとたんに真奈美は泣き出し、警察から外に連れ出した後もまだ泣き続けていた。道を行く人が振り返って見るほどだった。  捕まったのは薬のチェーン店で、盗ったのはマニキュアだったらしい。たった九百円のマニキュア一瓶でも、盗みは盗みだ。店の事務室に引っ張られ、険しい顔の従業員から連絡先を書きなさいと言われて、震える字で貢の携帯番号を書きかけると、ふざけるな、と怒鳴られた。本当に悪いと思ってるなら親の自宅か勤務先の電話を書け。それでつい、貢の自宅の番号を書いてしまったのだという。 〈おまわりさんのほうがずっと紳士的だった〉  と、真奈美はうめくように言った。やがてやってきたパトカーに乗せられ、交番の奥で調書を取られ、もう二度としませんという意味の証文を書かされて、最後に人さし指を朱肉にべったりと押しつけて拇印を押す間も、警察官は終始彼女に対して敬語で接していたそうだ。  しかし、よくまあとっさに俺の家の電話なんかわかったな、と貢が言うと、 〈そんなの、ずっと前からそらで言えるもの〉と、真奈美は目を伏せた。〈住所録に載ってる番号、しょっちゅうにらんでたから。ここに電話したら奥さんが出るのかな、なんてね〉  ぎょっとなって立ち止まった貢の後ろで、真奈美も足を止めた。  小さな声でつぶやく。 〈奥さん、何か疑ってる?〉 〈どうだろうな〉と貢は言った。〈まあ、さすがにな〉  今思えば、週末に泊まってくることにあれほど反対したのも、頼子なりに何か感じるところがあったからなのかもしれない。 〈何とかごまかしてあげてよ。何かと問題の多い部下なんだとか、迷惑してるんだとか言って。でないと、かわいそうじゃない、奥さん〉  あまりの言いぐさに振り返ってにらみつけると、真奈美は貢を見て、すぐにまた目をそらした。 〈ねえ〉  貢は黙っていた。 〈課長とかには、言わないでおいてくれるでしょ?〉  それでも黙っていると、真奈美は妙に明るく声を張って続けた。 〈そうしたら私も、パ……水島さんとのこと、絶対誰にも言わないから。これっきり忘れてあげる。友だちにも誰にも、一生言わないから〉  そこまで言われて初めて、貢は気づいたのだった。真奈美が、要するに何を言おうとしているかということに。 〈……脅してるつもりか、それ〉 〈よかった〉と、彼女は泣き笑いの顔で言った。〈一応、脅しにはなってるんだ〉 「そいじゃあ、いきますか、俺らもメシ」  目を上げると、久保田がのぞき込んでいた。ほかの職員はもうほとんどが戻ってきている。 「今日は、そうスね、蕎麦なんかいいんじゃないスかね」  またかよ、と、貢は苦笑混じりにふところの財布を確かめて立ちあがった。 「先週末も蕎麦だったじゃないか」 「だから、二日もあけたじゃないスか」 「お前、いっそ蕎麦屋になれや。毎日食えるぞ」  言いながら、奥の席に目を走らせる。  彼女も戻ってきていた。誰かの軽口に笑う声が聞こえてくる。ふだんとまるで変わらない、あの甘やかな笑い声だった。  いつものように鈍行に揺られて帰る時間を、貢は初めて、何も読まずに過ごした。  はるか昔の、病み上がりに恋人を失った時の気分を思い出す。同じだった。体のどこにも力が入らず、何を見ても何を聞いても、それらの意味を把握するのに、いつもに輪をかけて時間がかかってしまう。  ——一度目の口止めは寝ることで、二度目の口止めは別れることってわけか。  真奈美の欲しかったものが、九百円のマニキュアでないことくらいはさすがに察しがついた。だが、どうしてそんなものを盗らずにいられなかったのか、そもそもこれが本当に二度目だったのかどうかすら、とうとう彼女に面と向かって訊きただすことはできなかった。 (この期に及んで、まだ信じたいのか、俺は……)  あんな〈脅し〉への怒りなど、少しもわいてこなかった。胸の奥にはただ、鈍い痛みをともなう侘しさだけが、まるでそれ自体が彼女の忘れものであるかのようにぽつんと残されていた。  忘れてしまえばいいのだ。  そう思う一方で、耳は勝手に、あの部屋でだけ聞くことのできた甘ったるい呼び名を思い出す。  車窓に映る自分の横顔が、苦笑いにゆがむのを眺めた。いったい、どのくらいが嘘で、どのくらいが本気だったのだろう。こちらに向けられるたびに和んだ視線や、触れてくる仕草の中には、ほんのわずかでもほんとうのものがあったと思っていいのだろうか。もう、確かめる術もない。 〈さわって確かめたいんだよ。最後に信じられるものはそういうものだけだって気がする〉  貢は、樋口の黒い爪を思い浮かべた。暗い窓の中で、その爪がみるまにするすると小さくなり、あの最後の夜の、同じように泥に汚れていた志津子の爪に重なる。  葬儀の日、義母が丹精した小さな畑には、とりどりの小菊が揺れていた。あれは、何とも言えず清《すが》しい眺めだった。  ああ、そうだ、と貢はぼんやり思った。こんど沙恵に頼んで、あの庭の小菊を分けてもらおう。ほんの少しでいい、挿し芽にでもしてもらったら、海の見えるあの畑に植えてやろう。きっと毎年咲いてくれるはずだ。  長々と息を吐き、窓ガラスに頭をもたせかける。 (あと二駅か)  家が、近づいてくる。  おとといの晩以来、頼子はひとことも口をきこうとしない。こちらから何か言い出すのを待っているのだろう。  しかし、今さら何を言えばいいのか、貢にはもう、まともに考える気力もなかった。お前が疑っているようなことは何もない……と、嘘をついてやることすらしんどい。それどころか、こうして家に帰っていくこと自体がもうしんどいのだ。しんどくてしんどくて、やりきれないのだ。  いっそのこと、樋口の言うとおり、仕事も何もかも放り出してやろうか。  そう考えると、ガラスに映った唇の端がわずかに上がった。身軽になり、毎日毎日、好きな土だけいじって暮らすのだ。昼間から酒を飲み、おいらが大将などと嘯《うそぶ》いて。 (あと一駅)  ま、それができりゃ苦労はないわな。  貢は目を閉じた。  ほんの一瞬——の、つもりだった。  轟音に、はっとなって目を開けると、電車が猛スピードで疾走していた。  とびあがってあたりを見まわす。ほかに乗客の姿はない。腕時計を見て、仰天した。なんだってこうも深く眠りこむことができたのだろう。 (どこだ、ここは)  必死に外の闇に目を凝らす。こんなにスピードを上げるということは、駅と駅がよほど離れているからとしか思えない。  貢は、つぶれるほど奥歯をかみしめ、思わずこぶしをガラスに叩きつけた。よせばよかった。痛みが脳天へと駆けのぼり、それが徐々におさまるにつれて体じゅうから力が抜けていく。  やがて貢は、ずるずると座席にくずおれた。  どうしてこう、何もかもうまくいかないのだろう。どうして俺は、俺でしかないのだろう。いったい俺はこの先、どこへ向かおうとしているのだ。あのころ流されてゲバ棒を握り、流されて勤め人に納まり、流されるままにこんなところまで来た俺は、これから先も、ただどこかへ流れていくしかないのか……。  だらしなく背もたれに寄りかかり、口を開けて天井を見あげる。気が抜けたせいか、今ごろ照れ隠しの苦笑いがこみあげてくる。 (まあ、いいさ)  どこへ向かっていようが、所詮は線路の上。最後には、いやでもどこかの駅に着く。  任せてしまえば、揺れは心地よいものだとわかった。  電車は速度を増していく。  外にはもう、山灯《やまあか》りさえ見えない。 [#改ページ]   雲の澪  揺れるカーテンが時おり大きくふくらんでは、見下ろす聡美の視界をさえぎろうとする。ひところに比べると、風はようやく涼しくなりつつある。  月曜日の四時間目、隣のB組は体育。一学期の間は体育館でバスケだったのが、夏休み明けから、女子がハンドボール、男子はサッカーになった。  三階の窓際の席からは、下のグラウンドがひと目で見渡せる。耳慣れた声が、校舎の壁に反響している。健介が司令塔気取りでチームメートに指示を送っているのだ。  実際、守っても攻めても、健介は常にいちばん目立つ。それが彼の抜きんでた運動能力によるものなのか、それとも自分が彼を意識しているせいなのか、聡美にはよくわからなかった。単に、長年の間に幼なじみの背中を目で追うのが癖になっているだけのことかもしれない——そう思いこもうとするそばから、胸の奥はひどく窮屈になる。汗の粒をふり飛ばして走る健介を見るだけで、体じゅうの産毛がちりちりとざわつく。汗だくの男なんて、クラスの男子はもちろん兄や父親でさえ気持ち悪いだけなのに、まるでバケツの水をかぶったかのようにぐっしょり濡れた彼の体操服を見ると、あの胸に顔をうずめたらどんな感じがするだろう、そんなとんでもない妄想を抱いてはひそかに心臓をばくばくさせる自分がいる。 (キスさえ誰ともしたことがないのに、欲求不満だなんて)  そういうのってなんだか、人妻の不倫とかよりももっといやらしい感じがする。  聡美はひとり頬を火照らせ、ノートに目を戻した。  授業の始めにひらきはしたものの、まだ一文字も書いていないページには、昨日の落書きがそのまま残っている。二次関数のグラフの下に、頬に傷跡のある素浪人。抜き身の刀の後ろに儚《はかな》げな風情の姫君をかばって立ち、もう一方の側では、くの一のなりをした女盗賊が肩にしなだれかかるようにして彼を見つめている。名付けて〈剣志郎〉〈沙耶姫〉そして〈お嬢〉。三人とも、いつか投稿しようと描きためている漫画の登場人物たちだ。  原稿は、今は自分の部屋に隠してある。ようやく下絵の段階が終わり、先週から少しずつペンを入れ始めたところだ。  そのほとんどを、聡美は夏休みの間じゅう泊まっていた祖父の家で描いた。去年の秋に祖母の志津子が亡くなって以来、祖父は娘と、つまり聡美にとっては叔母にあたる沙恵と、あの広い家に二人きりで暮らしている。小学生の頃はちょくちょく両親に連れられて遊びに行ったものだが、一人でそんなに長く泊まるのは初めてのことだった。  理由は、とても一口では言えない。ただ、今年の夏はそうせずにいられなかった。  ペンケースから消しゴムを取り出す。それでなくとも前回の期末試験以来、母親から成績のことをうるさく言われ続けているのに——家での勉強時間を費やして内緒で漫画の続きを描くぶん、せめて授業くらい真面目に受けなくてはとあれほど自分に誓ったはずなのに、どうしてこう我慢がきかないのだろう。情けなくなる。  乱暴に消しかけた手を、けれど聡美はふと止めた。  よく見れば、なんだかずいぶんよく描けている。とくにこの、〈お嬢〉の横顔。いかにも首領の娘らしい気の強そうな顎の上げ方といい、それでいて恋する者に特有の憂わしげな目もとといい、このまま消しゴムのカスにしてしまうにはもったいない出来だ。  教壇のほうをうかがう。薄い後頭部をこちらに向けて、教師は黒板に数式を書きつけている。聡美は再びペンケースをまさぐり、2Bの芯の入ったシャーペンを取り出した。  黒板に向かって右端の列の一番後ろというこの特等席は、「遠視」を理由に他の子とかわってもらって手に入れた。視力1・5で遠視とはいささか強引だった気もするが、ここなら授業中に何を描いていてもまずばれずに済む。  描いたの見せて、と休み時間にやってくる友だちには気軽に応じる聡美だったが、 「イラストレーターとかになればいいのに」  そう言われた時には、こんなのただのお絵かきだもの、と肩をすくめてみせるのを忘れなかった。本当は何を目指しているかなんて、親や教師はもとより、友だちにも知られたくなかった。お世辞を真に受けてはいけない。「聡美は絵が上手」と思われるくらいは良くても、調子に乗って目立ちすぎると、出る杭は打たれるを地でいくことになる。目障りだとか生意気だとかいう理由で標的にされるのは、中学の時だけでこりごりだ。  女盗賊の肩で波打つ髪を、流れに沿って黒く塗りつぶしていく。白眼のきわをうっすらとグレーに塗ったのは、長いまつげが落とす影だ。意志の強さを物語る瞳には光を入れ、下まつげを一本一本ていねいに描き加える。  実際、ただのお絵かきには違いないのだった。自分にはまだこの道のプロになる力などないことくらい承知している。この先どれだけ努力してもモノになるかどうかはわからないし、そもそも才能などというものがあるかどうかもわからない。はっきりわかっているのは、受験を五か月後に控えてこんなものを描いている場合ではないことと、もしもまた母親にばれたら何を言われるかだけだ。  今年の春ごろだった。ノックもせずにいきなり部屋に入ってきたくせに、母親は、勉強していると思っていた娘が漫画を描いているのを見るなり血相を変えた。 〈自分を甘やかすのもいいかげんにしなさい!〉  それは、聡美が小さい頃から何度となく言われ続けてきた言葉だった。中学校の国語教諭として三十年勤めあげ、今は教頭となった頼子の目に、娘はまるで落ちこぼれの生徒のように映るらしい。 〈せっかく頑張って今の高校に入ったのに、どうりでこのごろ成績が下がると思ったら、こういうことだったのね。どうしてあなたはそうルーズなの。今しなきゃいけないことをぐずぐず後回しにして、したいことばかりしている人のことを何というか知っている? 人間の屑というのよ。漫画なんか、よりによってこんな時に描かなくたって、受かったら好きなだけ描けるじゃないの。たった一年足らずの我慢がどうしてできないの〉  どうしてできないのだろう。  自分のことだというのに、考えても聡美にはわからないのだった。そのたった一年足らず[#「そのたった一年足らず」に傍点]の我慢がこうも耐えがたいのはやはり、〈自分を甘やかす人間の屑〉である証拠なのだろうか。  だが母親は、受かったら好きなだけ描けるなどと言う一方で、こうも言うのだった。 〈そろそろ漫画も卒業しないとね〉  読んだこともないくせに、と聡美は思う。思い出すだけで胃袋の中身がふつふつと煮立ってくる。  あの母親も、おおかたの大人と同じく、漫画を子供の読み物だとしか思っていない。教科書に載るような文学は高尚なもので漫画は低俗なもの、と頭から決めつけていて、聡美がどんなに言っても——普通の本に子供向けと大人向けがあるように、漫画にも大人の鑑賞に堪える優れた作品が沢山あるのだといくら説明してやっても、薄笑いを浮かべるばかりでまともに取り合ってくれない。きっと学校でもあんな調子なのだろうと思うと、教わる生徒たちが気の毒になってくる。  卒業[#「卒業」に傍点]なんて、できるはずがないのだった。どだい、するつもりもなかった。  聡美が酸欠の金魚のような息苦しさから脱して、かろうじて楽に呼吸できるのは、自分の描く漫画の中でだけだ。無心に描いている間だけ、現実の自分が何の取り柄もない、つまらない人間だということを忘れていられる。〈鈍くさい〉だの〈暗い〉だの〈顔デカイ〉だのといった、正直なだけに残酷な男子の言葉にとらわれることもなければ、母親の口から出る〈早くしなさい〉や〈どうしてあなたは〉の類に縮こまることもなく、ひたすら望むままに心を異界へ飛ばすことができる。麗しい姫君であろうと、腕の立つ戦士であろうと、あるいは架空の生きものや妖精にさえ、たやすく変身することができるのだ。  ああ、うまくなりたい、と聡美は思う。  絵ばかりではない。読む人が思わず引き込まれるようなストーリーや、魅力的なキャラクター。まだ誰も描いたことのないテーマや、説得力のある台詞、歯切れのいいコマ割り、胸に残るラストシーン……今は自分の頭の中だけにある世界を自由自在に紙の上に表現できるくらい、もっと、もっともっとうまくなりたい。そのための努力なら、何だって厭わない。それ以外のことなんか、何ひとつしたくない。 「えー、教科書の二○四ページ、例題の三……」  抑揚のない声が、まるで虫の羽音のように頭の上を素通りしていく。まわりに合わせて適当なページをひらいておいて、聡美はまた〈お嬢〉の続きに戻った。  挑戦的な眉をもっと濃く描き、鼻筋をくっきりとさせ、続いて下唇から顎にかけての正しいラインをもう一度確かめるために、教室の真ん中へんでノートを取っている親友を見やる。いつ見ても端正な横顔だ。柔らかな秋の光に縁どられた、理想的なカメオ。同性の自分でさえこうして見とれてしまうほどなのだから、男子たちが騒ぐのも……あの健介が夢中になるのも、無理はない、と聡美は思う。  高二の二学期に転入してきた彼女、楡崎可奈子《にれさきかなこ》は、当初から学年じゅうの話題の的だった。三年にわたるアメリカ生活という要素に加えて、まさに絵に描いたような美少女だったためだ。  だが、同じ制服を着た無彩色の集団の中で、どうして可奈子だけがそんなにも目立つのか、聡美は不思議でたまらなかった。顔だちが整っているとか背が高いとか、仕草が外人のようだとかいった理由だけではない気がした。  外見的な魅力などは全体のほんの一部でしかなく、彼女を輝かせているのはむしろ内側から発せられる何ものかなのだ——そう気づいたのは、しばらく付き合ってから後のことになる。三年生で一緒のクラスになってからも、誰彼構わずはっきり物を言う可奈子を何となく敬遠していた聡美だったが、二人して同じ図書委員に選ばれたのをきっかけに少しずつ言葉を交わしていくうち、いつのまにか離れている時間のほうが短いくらい親密になっていった。とくに、お互いの好きなドラマや漫画や音楽などについて話しだすと止まらなかった。放課後手をふって別れた後、帰る道すがら携帯で話し、夜にはまた家の電話で長話をしてもまだ足りないほどだった。 〈どうして私なんかと一緒にいてくれるの? 可奈子と仲良くなりたい子、他にもいっぱいいるのに〉  最初の頃、おずおずとそう訊いた聡美に向かって、彼女は笑って言ったものだ。 〈ねえ聡美、その『私なんか』って言う癖やめな? 自分で自分のことそういうふうに思ってると、ほんとにそうなってっちゃうよ。私は、聡美の素敵なとこいっぱい知ってる。肌がすっごくきめ細かいこととか、指が細くてまっすぐなこととか、まつげがビシバシに長いこととかね。おでこだってほんとはきれいな形してるんだから、そんな前髪でぞろぞろ隠したりしないですっきり出せばいいのに。外見だけじゃないよ。聡美のそばにいると落ち着くの。人のこと勝手に決めつけたりしないし、ちゃんと大事に言葉選んで話すし、それでいて変に人に合わせたりしないで我が道を行くとこなんか、いいなあって思う。大人だなあって。則ちゃんも原田もミッチもいい子たちだけど、聡美がいちばん大人。だから一緒にいるの。聡美は迷惑?〉  だが、はた目には、二人の取り合わせはいかにも不釣り合いに見えるのだろう。ついこの間も男子たちが面と向かって言ってくれたものだ。 〈水島お前、楡崎と一緒にいてよくムナシクなんねえな〉 〈もろ引き立て役になっちまってること、自分でわかってる?〉  それでも、聡美は可奈子から離れようなどとは思わなかった。神様が不公平なのは、自分のせいでもなければ今に始まったことでもないし、そもそも誰かの引き立て役でしかないという理由で卑屈になれるのは、自分の値打ちにわずかなりとも自負のある者だけだ。生まれてこの方そんなものに縁のない聡美にとっては、あの楡崎可奈子と友だちでいられること、それだけで充分誇らしかった。  将来の夢についても、だから、打ち明けたのは可奈子に対してだけだ。彼女には何でも話せる、と聡美は思う。そう——たった一つのことを除いては。  教壇をうかがい、可奈子の横顔を盗み見ながら、描線のそれぞれを確かなものにしていく。影をつけてふっくらとさせた〈お嬢〉の下唇に、濡れたような艶を描き加える。  そうしながら聡美は、心臓のひと隅がしくりと痛むのをこらえた。姐御肌の女盗賊の、性格ばかりか顔までを親友に似せて創ってしまったせいで、描くたびにこうしてよけいなことを考えてしまう。柔らかそうなこの唇に、健介はもう何度キスをしたのだろう。形のよい耳のそばで何をささやき、細い肩や折れそうな腰をどんなふうに抱きしめるのだろう。  近所で誰知らぬ者のないガキ大将だったあの頃から、人に頭を下げるのが大嫌いだったはずの健介が、 〈頼む、聡美〉  教室の前でいきなり手を合わせた時はびっくりした。 〈聡美ちゃん、いや聡美さま。お願い、楡崎紹介して、このとおり〉  あんまりびっくりしたものだから、つい何を考える余裕もないまま可奈子をその場に呼んでやってしまったのだが——。  あれから、なんと三か月以上が過ぎようとしている。口が悪くてがさつな健介のことだ、どうせすぐにふられて、それを慰める役目はまた自分のところに回ってくるのだろうと高をくくっていたのに。  でも、もう遅すぎる。今さら言えるわけがない。いや、たとえあの二人が付き合っていなくたって同じだったろう。何だかんだいっても女子に人気のある健介に向かって、私なんか[#「私なんか」に傍点]が告白できるわけがない。冗談はよせよ、と笑われるのが関の山だ。  今ごろ好きだと気がつくくらいなら、一生、気がつかなければよかった。  と、ふいにポケットの中身が振動した。  机の下でメールを開いてみると、 『今日からマジメにやるって言ってなかった?』  驚いて目を上げる。向こうで可奈子がふり向き、にっと笑うのが見えた。どうやら、さっきからのこちらの視線に気づいていたらしい。  憮然としているところへ、すぐさま二通目が送られてきた。 『モデル料、高いよ』  思わず苦笑がもれる。  素早く打って送り返した。 『お昼のぶどう半分あげる。どうよ?』  とたんに可奈子はふり返り、嬉しそうにオーケーのサインを出してよこした。 (安《や》っす……)  あきれた聡美がつぶやくより早く、 「こらそこ、前を向く!」  怒鳴られて首をすくめている。  聡美は、くすりと笑ってノートに目を戻した。見れば見るほど可奈子そっくりに描きあがった女盗賊のまなざしに出合って、真顔になる。 〈お嬢〉の強い視線は〈剣志郎〉の粗削りな横顔へとまっすぐに注がれている。だが、その想いは——聡美の作り出す物語においては——最後まで報われることはない。どんなに激しく恋しても、彼は小揺るぎもしない。口こそ悪いが根の優しい〈剣志郎〉が胸の内で大切に想い続けているのは、昔も今も、幼なじみの〈沙耶姫〉ただ一人なのだ。  手にした刀の切っ先と同じ目つきをした彼[#「彼」に傍点]が、不敵な笑みを浮かべてこちらを見つめている。  聡美は、じっと見つめ返した。      *  始まりは、去年の十月。学校をあげてのマラソン大会の日だった。  マラソンといっても、正門を起点に住宅街や農道を抜けて再び学校へ戻ってくる一周二キロのコースを、男子は十周、女子は五周、それぞれ決められた時間内に走りきるというものだが、大会は毎年恒例になっていて、時には沿道に応援の父兄が立つこともあった。  聡美が時計を落としたことに気づいたのは、ひきつれるような脇腹の痛みをこらえながら、やっとの思いで二周目を走り終えた時だった。正門前でマジックを持って待ちかまえている女の先生に、二本目の線を書き入れてもらおうと左手の甲を差し出したとたん、 〈あらま、どうしたのこれ〉と先生は言った。〈インクがもれちゃったの?〉  はっとなって見ると、腕時計のあったはずのところに黒い痣《あざ》がむき出しになっていた。 (やだ……!)  反射的に手を引っ込めたせいで、マジックが手の甲を一直線に横切る。 〈あ、ごめんごめん。あとで洗ってね〉  先生の声も耳に入らなかった。聡美は脇腹の痛みも忘れ、手首の痣を右手で握るように隠したまま時計を探しに走りだした。  いったいいつの間に、どこで落としたのだろう。誰かに拾われたならまだしも、とっくに踏まれるか、蹴られて溝にでも落ちてしまったかもしれない。留め金がゆるくなっているのに気づいた時、すぐに直せばよかった……。  幼いうちは意識したこともなかった、その大きなホクロのような痣を聡美が気にしだしたのは、たしか五年生の時のことだ。ひそかに憧れていた美術部の先輩に、 〈あ、絵の具ついてるよ、ここ〉  何気なくそう言われて以来、聡美にとってその痣は隠すべきものになってしまった。家族や友だちから、たいしたことじゃないのに、などと言われれば言われるだけ、かえって、わざわざそう言って慰めてもらわなくてはならないほどたいしたことであるような気がしてくるのだった。  厳密に言えば、痣そのものが嫌だったのではない。聡美が嫌だったのは、初対面の相手が〈水島聡美〉と〈痣〉とをまずはセットで記憶していくという、そのことだった。自分のどんなささやかな長所や個性よりも、痣のほうが先に目立ってしまうこと、それが嫌でたまらなかった。  落とした時計は、中学の入学祝いにと祖父母が買ってくれたものだった。シンプルな文字盤は薄手だが男物のように大きくて、隠したい部分がちょうど隠れる。一緒に出かけていった時計店で聡美がそれを選んだ時、志津子は言った。 〈もっと可愛らしいのがたくさんあるでしょうに。値段のことなんか気にせんでいいのよ〉  困って黙っていると、重之が言った。 〈それがいいと言うんだから、好きにさせてやれ〉  ——今ではもう、わかっているつもりだった。自分が気に病むほどには、人はそんなところを見ていないのだということくらい。  それでも、ここ数年、家を出る時に必ずはめていたものが手首にないというだけで、心細くてたまらなかった。まるで裸の胸を隠しながら走っているかのような無防備さだ。  道行く人とすれ違ったり、誰かに追い越されたりするたびに手首をそっと隠し、足元ばかり気にしながら走っていた時だ。 〈なーにトロトロ歩ってんだお前〉  後ろから健介の声がした。ものすごい速さで追いついてきた彼は、 〈ちっとは気合い入れて走れよ。そのへんのオバハンのほうがまだ速ぇぞ〉  追い越しざまに聡美をふり返るなり、ぎょっとしたように立ち止まった。引き返してきて隣につける。 〈どうした〉 〈何が〉 〈何がじゃねえだろ、泣きそうな顔して〉  とけい、と聡美は言った。 〈は?〉 〈どこかで落としちゃったの、時計〉 〈うっわ、間抜けぇ〉  言いかけた健介は、聡美が左手首を握りしめているのを見て口をつぐんだ。 〈お前……まだ気にしてんのかよ、それ〉 〈そういうわけでも、ないんだけど〉  うつむいてつぶやいた聡美の脇を、第二集団の男子たちが吐く息も荒く追い抜いていく。マイペースの女子たちも、こちらに手を振りながら走っていく。 〈いいから、ほら〉と聡美は言った。〈早く行きなよ。どうせ今年も優勝狙ってんでしょ〉 〈狙わなくたって俺が優勝するにきまってるもん〉 〈あっきれた。あんた何様?〉 〈俺様〉 〈今それ、言うと思った〉  健介はにやりと笑うと、ほんじゃお先、と言い残し、アクセルを底まで踏み込んだようにいきなりスピードを上げた。と……何を思ったか、すぐにまたUターンして引き返してきた。きょとんとしている聡美に、 〈しょうがねえな、ったく〉  その場で駆け足をしながらぶっきらぼうに言い、 〈ほらよ〉  まわりにわからないように、何かずしりと重いものを握らせてよこした。再び、あっという間に遠ざかっていく。  聡美は、手の中の物に目を落とした。  健介自慢のダイバーズウォッチだった。  きっと、あの時が境目だったのだ、と聡美は思う。深津健介という存在が、自分にとって、ただの幼なじみから一人の男へと変わったのは。  実際には彼の時計はゆるすぎて、目的のためにはほとんど役に立たなかったのだが、あんなに気になっていたはずの痣が、不思議なことにそれをはめているだけでほとんど気にならなかった。何か大きなものに守られているような気がして、ふと、むかし近所のいじめっ子からかばってくれた健介の背中を思い出したりもした。  けれど、大会の後片付けの最中に〈腕時計の落とし物が届いています〉と放送があった時、聡美は、ふと感じた残念さのわけを深く考えてみようとはしなかった。答えを出すのを無意識のうちに避けていたのかもしれない。  もしもあの時ちゃんとつきつめて考えていれば、後になって健介から可奈子を紹介してくれと頼まれた時にも、もっと別の対応ができていたのだろうか。そうしたら、今頃こんなふうに二人を眺めていなくて済んだのだろうか。 〈お前ってオンナオンナしてないからいいよな、話しやすくて〉  近頃では健介がそう言ってくれるたびに、聡美はまんざらでもない嬉しさと、置き去りにされるような寂しさを同時にもてあます。性別を越えた友人として信頼されるのは誇らしいけれど、そんなふうに言われれば言われるだけ、ますます女らしくふるまうわけにいかなくなっていく。  私だって女の子なのに。可奈子みたいにきれいじゃないけど、でも女なのに。  健介とはニュアンスが違うものの、ある意味似たような言葉を、ついゆうべも母の頼子にぶつけられたばかりだった。父のことを、家ではろくに話もしないとぶつぶつ怒っている頼子に向かって、聡美がうっかり父の肩を持つようなことを言ってしまったせいだ。頼子は聞こえよがしのため息をつき、いまいましそうに言った。 〈あんたまでそんなこと言うの。これじゃ何のために女の子を産んだんだか。こんなことなら、もう一人男の子産んどいたほうがましだったかしらね〉  足元をすくわれる思いがした。  たいした意味などないのだ、母はただ女同士という名の味方が欲しいだけだ、それが叶わなくて焦《じ》れているのだ……いくらそう思おうとしても、自分のこれまでの十七年をばっさり斬られたような虚しさは消えなくて、 (誰が女に産んでくれなんて頼んだ?)  危うくそう言い返してしまいそうになるのを懸命に飲み下した。そういうことを口に出せば、もっと面倒なことになるのがわかりきっていたからだ。 「何それ、最っ低」  聡美から話を聞いた可奈子は、自分のことのようにいきりたった。 「娘が自分の思いどおりにならないからって、八つ当たりするんじゃないってのよ。ただの感情たれ流しじゃん。そんなんでよく今まで教師やってこられたもんね」 「まあまあおねーさん、落ち着いて」と、聡美は笑ってなだめた。「あの人もまあ、いろいろあるのよ」  こうして可奈子が代わりにけなしてくれると、しぜんに自分が母親をかばう図式ができあがり、おかげで少しは気分が楽になる。あの母親に対して優越感を覚えられるのはこういう時だけだ。 「なんかあの人、最近、精神的にだいぶ溜まってるみたい」と聡美は言った。「学校のほうも何かと問題多いみたいだし。家に帰ったら帰ったで、兄貴は彼女んとこに入り浸りだし、娘の成績は下がる一方だし?」 「って、あんたのことでしょうが」 「おまけに、父親なんかはほら、土日っていうと泊まりがけで野菜作りに行っちゃうしさ」 「どこだっけ、おじさんが畑借りてるのって。千葉だっけ」 「そう、なんか田舎のほう。海の近くみたい」 「いいなあ、泳げるんだ。……あ、しまった」可奈子は悔しそうな顔をした。「夏休み、健介と三人で遊びに行けば良かったね」 「あのね、海の家じゃないんだから。だいいち、泊まるとこなんかないんだよ」 「え、だっておじさんは?」 「車の後ろに布団敷いて寝てるんだって」 「マジ? そこまでする? たかが野菜のために……なんて言っちゃ悪いか」  聡美は苦笑いした。 「やっぱそう思うよね。私だって思うもん。母親なんか最初のうち、お父さんちょっとおかしくなっちゃったんじゃないかって本気で疑ったみたい」  父親はつい最近、今まで乗っていたカローラを下取りに出し、かわりに中古のワゴン車を買った。土曜の朝、彼は後ろに布団とクーラーボックスと、本を二冊ばかり積んで出かけて行き、日曜の夜に採れたての野菜を山とかかえて戻ってくる。どれもとてもおいしいのだが、父の前でおいしいおいしいとほめると、母親はあまりいい顔をしない。かといって、せっかく作ったものをまるきりほめないのも気の毒な気がして、聡美はいつも母がテーブルを立った隙にほめてやることにしている。 「あのね」  聡美は、ちらりとあたりを見まわした。可奈子と二人だけで話したくて屋上で弁当を広げたのだが、少し離れたところには別のクラスの女子たちが五人ほど輪を作っている。 「ほんと言うとね」声を低めて、聡美は言った。「うちの父親、どうやら最近まで浮気してたみたいなんだわ」  可奈子は口の中のものをごくりと飲み込んだ。 「うそっ」 「ほんと」 「なんでわかったの?」 「わかるって、それくらい」聡美は肩をすくめた。「帰りが遅いの待ってる時の母親、並の不機嫌さじゃなかったし。兄貴が三日も彼女んとこから帰って来なかった時なんて、『二人とも勝手なことばっかり。さすがは父子だわよ』って……お皿洗いながら涙なんかためてるんだよ? それで気づかなかったら馬鹿じゃん」  うわあ、なんか生々し、と可奈子はつぶやき、聡美の分けてやったぶどうを食べた。 「夏休みの前あたりだったかな、一番ぐちゃぐちゃしてたのは」と聡美は言った。「うちの母親もほら、あのとおりプライド高いもんだから自分から問いただそうとはしないし、父親は父親でこそこそしちゃって煮え切らないし。おんなじ空気吸ってるだけで、私まで胃が痛くなって十円ハゲできそうだった。こっちが気づいてることくらい二人ともわかってるはずなのに、『このうちには問題なんて何にもありません』みたいなあの白々しさがたまんないっていうかさ」 「もしかして、聡美が夏休みにおじいさんとこ泊まってたのって……」 「ん。まあ、それもある」 「そうだったんだ。てっきり、隠れて漫画描きたいからだとばっかり思ってた」 「もちろん、おおかたそっちだけどね」  可奈子はくすっと笑った。 「けど、水くさいなあもう。もっと前に話してくれたら相談にだって乗れたのに」 「……ごめん。なんか、自分でもまだ整理がついてなかったしさ」  それに、あんたはいつも健介と一緒だったし、と思ってみる。思うだけだ。言いはしない。 「それでも、ここんとこ親父様、前よりは早く帰ってくるようになったんだよ。べつに、帰ってきたからって黙ってテレビ見てるだけだけど。でもたぶんあの様子だと、女の人とはもう終わってるんじゃないかな。単にふられただけかもしれないけど、詳しくは知らない」 「いっそのことさ」と、可奈子が言った。「思いきって、おじさんとおばさん両方の言いぶん聞いてみれば?」  聡美は思わず眉を寄せた。 「何それ、冗談でしょ? やだよ、聞きたくもないよそんなの」 「でも、参考にはなるかもよ」 「何の? いつかダンナが浮気した時の?」 「ばか」と可奈子は笑った。「決まってるじゃない、あんたが漫画描く時のよ。そういう仕事ってきっと、取材とか大事だよ?」 「可奈子ってば、人ごとだからって面白がってない?」  と、ふいに可奈子がすうっと真顔になった。 「ほんとに、そう思うの?」 「え」 「私が面白がってるって?」  黒目がちの瞳が、ひたと見つめてくる。  聡美は、どぎまぎして目をそらした。 「嘘だよ。思ってないよ。……ごめん」  可奈子がようやくにっこりする。  お互いの間の主導権はそんなふうに、最後はいつも彼女のほうが握った。      *  祖父の重之のことを、気むずかしいとか頑固だとか言って敬遠する人は多いようだけれど、聡美は昔から彼を怖いと思ったことがない。  大工の棟梁として現場を仕切るとき以外、家では用がない限り口をひらかず、返事といえば「うむ」しか知らないかのような祖父だが、幼い頃から聡美は、祖父が自分を見下ろす時のちょっとはにかんだ感じの笑い方が好きだった。そばに誰もいなくて聡美がつまらなそうにしていると、低くかすれた声と、ゆっくりとした話し方で、他の誰も知らないようなことを教えてくれる祖父が大好きだった。  台所でおいしいものを作ってくれるのが祖母で、裏の作業場で面白いものを作ってくれるのが祖父。  内緒でおこづかいをくれるのが祖母で、見て見ぬふりをしてくれるのが祖父。  聡美にとってあの家は、初めから居心地が良かった。  この夏、しばらくおじいちゃんの家に泊まりたいんだけど、と聡美が言い出した時、頼子は案の定、頭ごなしに反対した。 〈こんな大事な時期に、何を浮わついたこと言ってるの。夏休みで勝負が決まるってこと、あなた本当にわかってるの?〉  また始まった。 〈わかってるよ〉と聡美は言った。〈だからこそ行きたいの。おじいちゃんのところからのほうが塾にも近いし、家にいると何だかダラダラしちゃうばっかりだし〉 〈そんなのは気の持ちようでしょう〉  だが、意外にも加勢してくれたのは、日頃あまり反りの合わない七つ違いの兄、政和だった。めずらしく早い時間に帰っていた兄は、二人の言い合いをひとしきり聞いていたかと思うと、 〈いいじゃないかよ、行かせてやれば〉うるさそうに言った。〈俺にも覚えがあるけど、環境が変わって一人になったほうが、かえってちゃんとやらなきゃって気になるもんだよ〉 〈そんなこと言ったって、向こうの家の都合だって……〉  聡美はすかさず、 〈それはもう訊いてみた。おじいちゃんも沙恵姉も、お母さんさえオーケーだったらいつ来てもいいって〉  そうは言ってもねえ……と、なおもためらう母親に向かって、兄がだめ押しをしてくれた。 〈せっかく本人がやる気になってるんだから、たまにはやりたいようにやらせてやれよ。言っちゃ何だけど、このごろおふくろ、ちょっと干渉しすぎじゃないの〉  干渉されることにうんざりしていたのは本当は兄自身だっただけのことかもしれないが、いずれにしても彼の気まぐれな助け船のおかげで、聡美はひと夏の間、ふだんとは比べ物にならないほどのびのびと創作に没頭することができたのだった。もちろんそれなりに勉強もし、週に五日は塾にも通わなくてはならなかったけれど、廊下に母親の気配がするたびに描きかけの原稿を慌てて隠さなくてもいいだけ、精神的にはすばらしく楽だった。このまま永遠に祖父の家に住みついてしまいたいくらいだった。  両親の間に張りつめるぴりぴりした空気に比べると、祖父の家ではすべてが優しく流れた。そこには無言の腹のさぐり合いもなければ、後ろめたそうな父の伏し目も、際限のない母の小言もなく、あるのはただ時折りの会話と、静かな足音と、ゆったりと過ぎていく時間だけだった。  祖父はいまだに現役で頑張っていたし、水島工務店の実務関係の仕事を一手に引き受けている沙恵のほうは日中、離れの事務所を空けられなかったので、聡美は塾から戻ったあと夕食までの間の数時間を、広い家の中で一人きりで過ごした。健介と可奈子はいつも塾帰りにどこかへ寄ろうと誘ってくれたが、それを断り、できるだけ彼らの時間の外側にいようとすることが、聡美にできるひそかなプライドの保ち方だった。どんな形であれ、ただの一瞬でも、健介から邪魔者扱いされたくなかったのだ。  亡くなった祖母が、最後となったその日まで何年ものあいだ米ぬかの袋で磨いてきた板の間や柱は、時を経て深みのある飴色に変わり、小暗い日本家屋の隅々を柔らかに引きしめていた。終日開け放たれたままの縁側からは、風のかたまりが座敷から座敷へと吹き抜けて通り、軒下では風鈴が鳴り、床の間の掛け軸が揺れ、裏手の竹林が大きく揺れると葉ずれの音がまるで寄せては返す波音のように聞こえた。  油をぶちまけたかのような炎天の昼下がり、仏壇のある奥の間の暗がりでひんやりと湿った畳に頬を押しあてていると、聡美は、胸の内でざわついていたものが穏やかに凪《な》いでいくのを感じることができた。あたりにはいつも、お線香の甘い香りと、懐かしい祖母の気配が漂っていた。  夕食はたいてい沙恵と二人で作り、食事の後は、祖父につき合ってテレビの時代劇を観た。聡美が知る限り、祖父と祖母はそう多く言葉を交わすほうではなかったけれど、夜のテレビだけはたいてい一緒に観ていた。祖父のほうはNHKの大河ドラマのような重厚な歴史ものを好んで観たが、祖母は勧善懲悪のわかりやすい話が好きで、ごひいきの番組が始まる前にはテレビの正面にちんまり座って待ち、水戸の御老公様や中村|主水《もんど》が何か言うたびに合いの手を入れるほどののめり込みようだった。 〈あれあれまあ、ひっどいことする人がいるもんだねえ〉 〈そうだそうだ、そうこなくっちゃ〉  笑うべき場面では必ず笑い、泣かせる場面では必ず泣き、斬り合いが始まれば指の隙間からこわごわ覗いて見る。テレビより祖母を眺めているほうがよっぽど面白かったものだが——思えば、いま描いている漫画の舞台を現代ではなく戦国時代に設定したのも、いや、そもそも自分が日本史に興味を持つようになったのも、いくらかは祖父母の影響だったのかもしれない、と聡美は思う。大河ドラマや時代劇なんて、家ではまず誰も観ない。祖父たちがその楽しみ方を教えてくれなければ、自分は戦乱の世や江戸の風俗に慣れ親しむことも、そこに新しいストーリーを見いだすこともなかったのだ。 〈聡ちゃんは、ほんとにお絵かきが上手だねえ。ねえ、おとうさん〉 〈うむ〉  母親から要求されることに思うように応えられず、疲れきっていた自分を安らがせてくれるのはいつも、何気ない祖父母の言葉だった。  これが去年だったらよかったのに、と、聡美は何度も思った。そうしたら、ここにはおばあちゃんも一緒にいられたのに、と。  重之が倒れたのはそんな矢先だった。外仕事から戻り、作業着のまま入ってきたかと思うと、玄関の上がりがまちに片足をかけたところでふにゃりとへたりこんだのだ。  ちょっとめまいがしただけだ、小一時間も寝ていればすぐ治る、と言い張る重之を黙らせて医者を呼んだのは沙恵で、聡美はといえば、これまでただ物静かなひとだとばかり思っていた叔母にこんな強い一面があったのかとびっくりしながら見ていた。  往診にやってきた五十がらみの医者は、血圧をはかり、ひとしきり聴診器を当てた後で言った。 〈ま、暑気あたりでしょう〉  そら見ろ、と沙恵に向かって鼻の穴をふくらませた重之だったが、 〈失礼ながらそのお歳なら、ただの暑気あたりでも充分ぽっくりいけますよ〉  そう医者に言われると、むっと押し黙った。 〈血圧がかなり高いですし、心臓も弱っておられるようですしね〉  現場での仕事はそろそろ控えていかれたほうがよろしいかと思いますね、と言い残し、医者は、血圧を下げるという薬の処方箋を置いて帰っていった。  その日の夕方には、美希がやってきた。 〈会社のそばでおいしそうなアイスクリーム見つけたから、一緒に食べようと思って〉  末娘のそんな言い訳をもちろん重之は信じず、なんでいちいち知らせにゃならんのだ、どいつもこいつも年寄り扱いしくさって、などとぶつぶつ怒っていたが、聡美が枕元にアイスクリームを持っていってやると、仏頂面のままおとなしく食べた。 〈やっぱり、私もここへ戻ってこようかな〉  美希がぽつりとそう言ったのは、その夜遅く、女三人で居間に集まってスイカを切っている時だった。 〈あのマンション売っちゃってさ〉 〈いいわよ、そんな〉と沙恵は微笑んだ。〈父さんのことなら、そんなに心配ないと思うから〉  すると美希は、スイカの種を皿に出しながら首を振った。 〈違うって、心配なのはお姉ちゃんのほう。ねえ、なんならあの部屋、お姉ちゃんが代わりに入る? このままここに住んでて、息が詰まらないわけないじゃない〉  話が見えずに眉を寄せている聡美を、沙恵がちらりと見た。 〈え、何?〉美希が慌てる。〈あのこと、まだ聡美に言ってなかったんだ?〉 〈う……ん。ごめんね、聡ちゃん。隠してたわけじゃないんだけれど、なんだかきっかけがつかめなくて〉困ったように微笑んで、沙恵は言った。〈これ、まだあなたのお父さんやお母さんにも話してないことなんだけど、じつを言うとね。私、婚約解消しちゃったの〉  ええっと思わず大きな声が出てしまった。 〈だっ……。うそ、ええ? だってさ、相手の人って確かここのお向かいの……〉 〈そう〉沙恵は微笑んだまま言った。〈聡ちゃんも、去年のお葬式の時に会ったと思うけど〉  うん覚えてる、と聡美は言った。顔の印象は薄いけれど、優しそうな人だった。 〈彼とは、うんと小さい頃からの幼なじみだったんだけどね〉  心臓をぎゅっとつかまれたような気がした。——幼なじみ。 〈何か、イヤなことでもされたの?〉 〈ううん、単なる私のわがままよ〉と、妙に明るく沙恵は言った。〈彼自身はいい人だったの、本当に。ただ、どうしても私のほうが、いい人っていう以上の気持ちにはなれなくて……それで、申し訳ないけれど白紙に戻してもらったの。お向かいのご両親とはそれでちょっと気まずくなっちゃったものだから、聡ちゃんも、ここにいる間にもし何か嫌な思いすることがあったら、ごめんね。そういう事情だから、向こうの人が悪いわけじゃないんだからね〉 〈ねえったら、ほんとに無理してない?〉と美希が言う。〈せめて気分転換に旅行にでも行ってくればいいのに。留守番くらい、私と聡美とでできるわよ?〉 〈ううん、大丈夫。いいの、別れればこうなるとわかってて選んだんだし。自分で引き受けなきゃいけないことだもの〉  さ、明日の朝も父さんきっと早いから、私は先に寝るね——と沙恵が二階へ上がってしまった後になって、美希は聡美と目を合わせると、長い、長いため息をついた。 〈ったく、お姉ちゃんもばかよねえ〉  と、眉をへんな形にゆがめて苦笑いする。 〈清ちゃん……清太郎っていうんだけどね、その人。今度のことでも、親に対してはお姉ちゃんをかばって、婚約解消は自分の心変わりのせいだってことにしてくれてたらしいの。なのにお姉ちゃんたら、申し訳ないって頭下げに来た向こうの親に、自分の側から断ったんだってこと白状しちゃってさ。なんでわざわざ、って訊いたら、本当はこっちに非があるのに顔を合わせるたびに謝られるくらいなら、ちゃんと恨んでもらった方がまだ気が楽だって言うの。ったくもう、どう思う?〉 〈どうって……〉  なんか、わかるような気はするけど、と聡美が言うと、美希は口を皮肉なへの字にして、頭をがしがしと掻いた。 〈まあね。そりゃ私だってわかりはするけどさ〉 〈ねえ〉聡美はおそるおそる訊いてみた。〈沙恵姉、ほんとはどうしてその人と別れちゃったの? 何かわけがあったんじゃないの?〉  美希はしばらくの間ためらっていたが、やがて、そうだよね、とつぶやいた。 〈聡美ももう大人だもんね。内緒だよ。お姉ちゃん、昔からずっと好きだった人がいてね。その人のことがいまだに忘れられないの。でも、その人とは一緒になるわけにいかないの〉 〈それって、どうしても?〉 〈そう。どうしても〉 〈もしかして、不倫とかそういうこと?〉 〈不倫かあ〉美希は、おかしそうに笑った。〈あの人に不倫は似合わないでしょう。でも、ごめん、聡美。それ以上はさすがに私の口からは言えない。お姉ちゃんのプライバシーに関わることだから〉 〈じゃあ……〉聡美は思いきって言った。〈あとひとつだけ、訊いていい?〉 〈なあに?〉 〈その相手の男の人のほうは、沙恵姉の気持ち知ってるの?〉  すると美希は、いつになく寂しげな、姉とそっくりの微笑を浮かべた。  そして言った。 〈うん。よく知ってるよ〉      *  ——なんて高い空。  土曜の午後、駅から外へと一歩踏み出すなり、聡美はまぶしさにてのひらをかざした。  こんな街なかでも、ビルの上に広がる空は水のように澄み、季節の衣替えが終わったことを教えている。入道雲はいつのまにか姿を消し、いま、行く手には大きさも形もまちまちの雲が一列になって流れていくのが見える。見上げていると空へ向かって落ちていきそうになり、聡美は歩き出しながらよろけた。  腕時計をのぞいて、小走りになる。すでに約束の時間を少し過ぎている。 〈今年の聡美の誕生日はせっかく土曜なんだから、みんなでお祝いしようよ〉  言い出しっぺはもちろん、可奈子だった。三人で会うのは少し気重だが、健介にも誕生日を祝ってもらえるのはやはり嬉しくて、出がけにどの靴にしようかさんざん悩んでいたら遅くなってしまった。今日着てきたのは、最近気に入っている水色のシャツブラウスだ。健介の目の前に可奈子と私服で並ばなければならない時、聡美は女っぽい色や柄のものを決して着ないようにしている。  待ち合わせ場所は、この春まで健介がアルバイトをしていたコンビニだった。さしもの健介にも一応受験生の自覚はあるらしく、夏休みのバイトは自粛したものの、そのぶん、学校の帰りにもしょっちゅうダベりに寄っては店長にうるさがられている。 〈なんか立ち読みでもしててよ。あそこならどれだけ待っててもらってもタダだからさ〉  遅刻することを前提とした発言としか思えない、と可奈子はぷりぷりしていたが、どうだろう、彼はひょっこり時間どおり来てしまっているだろうか。  休日だけあって、駅前には人と車があふれていた。どう見ても中学生同士のカップルが手をつないで歩いていくのを追い抜きながら、聡美は、もれそうになる舌打ちを我慢した。  十八歳になるのが三人の中で一番早かったのは五月生まれの健介だった。その次が可奈子で、七月。誕生日に健介は、シルバーのオープンハートのネックレスを贈った。どんな顔をして買ったのかは知らないが、きっとバイト代をありったけつぎこんだのだろう。  もし、と聡美は思う。もし可奈子が言い出してくれなかったら、今日が誰の誕生日かなんて、健介は思い出してもくれなかったに違いない。どうして幼なじみなんかに生まれてしまったのだろう。彼のことをいちばんよく知っているのはこの私なのに、向こうは気づこうともしてくれない。彼の目に、私は永遠に異性としては映らない。  ふっと、沙恵の言葉を思い出した。 〈いい人っていう以上の気持ちにはなれなくて……〉  そうか。ならば沙恵の元婚約者という人も、今の自分と同じような思いを味わったということか。そう考えただけで、あのうつくしい叔母のことまでが何だか恨めしく思えてくる。  商店街に入り、酒屋の角を右に折れると、T字路のつき当たりにコンビニの看板が見えてきた。  聡美は、ひとつ深呼吸をした。何がどんなに恨めしかろうと、今のところ自分にできるのは、誰もかなわないくらい上手に〈幼なじみ〉を演じることでしかないのだ。  道を向かいへ渡ろうと踏み出した時、店の自動ドアが開いて、くずれた感じの若い女ばかりが三人ぞろぞろ出てきた。そのままドアの真ん前にべたりと座ってジュースやアイスをひろげだす。最初に出てきた黒髪ショートの女以外、あとの二人がほとんど見分けがつかないくらい似て見えるのは、灼きすぎた肌と白茶けた髪と、パンダのような化粧のせいらしい。  聡美が道を渡りきったところで、ちょうど店から可奈子が出てきてつんのめりそうになり、彼女たちに何か言った。とたんに、 「……んだよ、うっせえな!」茶髪の一人が怒鳴った。「何でお前に言われなきゃなんねんだよ、店のもんが何にも言わねえのによ!」  言い返そうとした可奈子の視線がつと動き、 「あ、聡美」  女たちがいっせいにふり向いて、立ちすくむ聡美を睨みつける。べったり塗られたアイシャドーがまるで蛾の鱗粉のようだ。思わず目をそらしかけた時、 「あれえ?」不意に声をあげたのは、黒髪の女だった。「もしかして、ハニ?」  息が止まりそうになった。 「あーやっぱそうじゃん、ハニじゃん。あたしだよ、覚えてない?」  ごくりと唾を飲む。きつく吊りあがった目。薄い唇。——どうしてあいつがここに? 「誰これ」  仲間に訊かれた女は、 「ちょっとね」にやりとした。「ハニ、あんたってば情けないくらい変わってないのな。すぐわかった」  動けなかった。思い出したくもない記憶の数々が津波のように押し寄せてきて、声も出ない。それを見て、黒髪の女——横田珠代の笑いがなおさら広がる。彼女が立ち上がると、他の二人も立って尻を払った。 「ねえ、なんでこれがハニーなんだよ」  と一人が言う。 「ハニーじゃなくてハニ[#「ハニ」に傍点]」と珠代は言った。「こいつほら、顔がハニワに似てんじゃん。だから」 「ひでぇー、何それー」 「まんまハニワって呼ばないだけ愛があるってもんじゃん。ね、ハニ」 「いいかげんにしなさいよ!」とうとう可奈子が切れた。「あんたたち、人のこといじめてそんなに楽しい?」 「あー楽しいねえ。楽しい、楽しい」 「バッカじゃないの? だいたい、何その化粧、自分でいいと思ってんの? 女子プロレスの悪役みたい」 「ンだってえ? ふざけんなてめえ」  声の幼さだけは隠しようもなく、気負った男言葉がなおさら浮いて聞こえる。肩をそびやかしてすごむ仲間を制して、珠代が聡美をじっと見た。 「ねえ、ハニ。そっちのムカつく女、あんたの知り合い? ったく趣味悪りぃなあ、友だちはもっと選びなよ」  と、ぱっと自動ドアが開き、濡れた手をジーンズの尻でぬぐいながら出てきたのは健介だった。 「あれ、来てたんか聡美。遅ぇってお前」  そこで初めて睨み合いに気づいたらしい。けげんな顔で、「どうかしたん?」 「聞いてよ健介、こいつら……」  言いかけた可奈子を、 「さーてと」珠代がさえぎった。「行こうか」 「行こ行こ、つき合っちゃらんねーよ」  あとの二人もそれぞれそのへんに放り出してあったバッグを拾い、 「ったく、ちょっと可愛いからって男連れまわしてスカシてんじゃねーよ」 「じゃーねー、ハニちゃん」  口々に言いながら駐車場を出ていった。  聡美は、ようやく息を吐きだした。金縛りが解け、血がどっと耳元に上がってくる。 「なあ、なんだよ今の」と健介が言った。「何かあったの? あいつらと」 「あったも何も!」可奈子が地団駄を踏む。「ああもう、アタマくる。あいつらったら、聞いてよ、聡美のことをねえ」 「いいよもう」  と、聡美は慌てて袖を引っぱった。よけいなことを言わないで欲しい。健介には何も知られたくない。 「お、まだこっち見てんぞ」  びくっとなった聡美の横で、可奈子は舌打ちをすると、向こうの歩道で何かささやきあってはこれ見よがしに笑っている珠代たち三人に向かって、思いきり中指を突き上げてみせた。 「おー、さすが本場仕込み」と、面白そうに健介が言う。「なあってば、何があったんだよ」 「いいってばもう、行こうよ」と聡美は言った。「せっかく私の誕生日なんだから、もうやめてよ。嫌なことはさっさと忘れるが勝ち。ね?」 「ばか、そんなふうだからつけ込まれんのよ」と可奈子が息巻く。「ったく、お人好しなんだから。怒る時はちゃんと怒らなくちゃだめじゃん」 「わかったから、ねえ、もういいって。この話はおしまい! ね? ほら、行こ。ケーキおごってくれるんでしょ」  可奈子と健介を押すようにして、珠代たちとは逆の方へ歩き出す。  そうしながら、聡美は背中がちりちりするのをこらえた。本当にまだ見られているのかどうか気になってたまらないのに、ふり返ることすらできなかった。      *  ずっと同じ学年にいた健介でさえも、聡美が小学校の後半から中学にかけて陰でどういう目にあっていたかを知らない。それは、教室で起こったことではなかったからだ。  横田珠代は、小学生の時から常に聡美の一級上にいた。が、二人が最初に知り合ったのは、聡美が三年生の時に通い始めた「こども絵画教室」だった。  当時から珠代は、同じ年頃の子どもたちをいじめては泣かせることに情熱のすべてを傾けていて、もちろん聡美もその対象の一人だった。いや、主な対象だったと言っていい。とくに、先生がみんなの前で彼女の絵をほめた日などは、珠代のいじめ方は普段にも増して熾烈《しれつ》を極めた。  聡美が絵画教室に行かなくなっても、二人の間の力関係は変わらなかった。舞台がそのまま学校に移されただけのことだ。  小学生の子どもにとって、一年という歳の差はあまりに大きい。それでなくても発育のいい珠代に上から睨まれると、聡美は、条件反射のようにすくんでしまうようになった。珠代をはじめ、彼女と仲のいい五、六人の上級生たちの命令は絶対で、嫌だと言えばなおさら痛い目にあわされる。逃げ場はどこにもなかった。弱い者の、さらに急所を嗅ぎ当てることにかけて、珠代は天才的だった。  いじめられている——と、親や先生に言うべきだったのだろうか。  だとしても、聡美にはできなかった。そうして告げ口をすれば、大人はきっと珠代を叱るだろう。叱られた彼女は、腹いせにもっとひどいことをするにきまっている。何をされるかと想像してみただけでこみあげてくる恐怖の前に、告発する勇気などきれいに消し飛んだ。  とはいえ、小学生のうちはまだ、髪を引っ張ったりつねったりといった体への暴力か、 〈こっち見んなよ、目が腐るだろ〉 〈げ、汚ねー、ハニワ菌がうつる〉  といったふうな言葉での暴力に終始していたのだが、それらががらりと質を変えたのは、聡美が中学二年の時だった。珠代はその頃からほかの高校の男とつきあい始め、間もなく、聡美を人目に付かないところに呼び出しては金を強要するようになったのだ。  これまでに受けたどんな仕打ちよりも、それは聡美を追いつめた。月々の小遣いを端から渡し、お年玉を貯めたなけなしの貯金もおろし、大事にしていた漫画やCDを売り、何度か母親の財布から金を抜き取りもした。  これ以上は無理、もう駄目、もう続かない。聡美がついに、その苦しさから逃れる最後の手段について考え始めた時——横田珠代は、中学卒業を待たずに、家族とともにどこか別の土地へ引っ越していった。盗みで警察につかまったのだとか、小学生を脅して大怪我を負わせたらしいとか、はたまた妊娠中絶がばれて居られなくなったのだとかいった噂がひとしきり流れたが、それもすぐに忘れられた。  だが、聡美だけは忘れられなかった。  押し入れの奥から、絵画教室でのスナップ写真が出てきた時。  本棚にさしてある中学時代の教科書が、何かのはずみでぱたりと倒れた時。  痛みはふいにフラッシュバックして胸を刺し、聡美はそのたびに震えが止まらなくなったり、眠れなくなったりした。  正直なところ、今でも完全に平気になったとは言えない。絵のことを友だちに自慢する気になれないのも、目立つことをできるだけ避けるようになったのも、珠代から受けた仕打ちへの恐怖がまるで心に押された焼き印のように残っているからだと思う。  それでも、さすがにあれから三年以上がたち、記憶の生々しさや、そこから喚《よ》び起こされる痛みもようやく薄らいできたところだったのに——。  駅の階段を下り、自転車置き場へ向かいながら、吹きつけてきた夕暮れの風にぶるっと身震いした。 (どうして、今になって)  たまたまこの街に遊びに来ていただけなのだろうか。それとも、舞い戻ってきたということなのだろうか。健介たちといた間は気が張りつめていたのが、一人になったとたん、いきなり膝に震えがきた。なんだってこんなに怖ろしいのだろう。べつに、改めて何をされたわけでもないのに。  震えまいと体に力を入れるとなおさら震えがひどくなることに気づいて、努めて気をそらそうと手提げ袋に目を落とした。ずしりとした重みは、今日もらったばかりの水彩色鉛筆セットだ。 〈聡美、前からこれ欲しがってたでしょ?〉  あれから入った喫茶店で、可奈子は健介と目配せを交わすと、紙袋から大きな包みを取り出した。 〈さすがに一人じゃ無理だったから、健介と二人で半分ずつ出しあって買ったの。プレゼントが一つになっちゃって、ごめんね〉  三十六色揃ったそのセットが画材店で幾らするか、聡美はよく知っていた。だからよけいに嬉しかった。健介と二人で[#「健介と二人で」に傍点]、という言葉に胸はしくりとしたけれど、それでも心底嬉しくて、一瞬、横田珠代のことさえ脳裏から消え去ったほどだった。だが、 〈そうかそうか、そんなに欲しかったんか〉  からかうように言った健介が、続けて、 〈どーぞそれで、立派な漫画描いてちょーよ〉  そうおどけてみせたとたん、 〈健介!〉可奈子は慌てふためいた。〈ばか……!〉  とっさに反応できなかった。聡美は、文字どおり機能停止《フリーズ》してしまっていた。  失言にうろたえた健介はそのあと、いいじゃないか漫画家、何も恥ずかしいことでも隠すようなことでもないじゃないか、と必死に取り繕い、聡美も二人に気を遣わせたくなさにどうにか笑ってみせたのだったけれど——。  わからないのだ、彼らには。  健介たちが何と言おうと、それは、聡美にとって充分に恥ずかしいことであり、隠すようなことなのだった。漫画家云々はともかく、いま描いている漫画の内容を思うと、とくにその中に押しこめた自分の欲望を思うと、たとえ健介がそれを知らないとわかっていても、恥ずかしくて恥ずかしくて死んでしまいたいほどだった。  きつく唇を噛みしめる。  いったい可奈子はいつ健介にしゃべったのだろう。絶対誰にも話さないと言うから打ち明けたのに、本人にさえばれなければ構わないとでも思ったのだろうか。親友との間の秘密も、約束も、可奈子にとっては健介との会話のつなぎ程度のものでしかないのか。それとも、親友と思っているのはこちらだけだったということか。  固い感触の紙袋が、歩くたびに足にまとわりつくのが厭わしい。  ガード下に作られた自転車置き場にたどりつくと、聡美は、紙袋を前のかごに入れ、鍵をはずそうとかがみこんだ。  駅から少し歩くせいか、真面目にここを利用する者はあまりいない。あたりに並んでいる自転車のほとんどは駅前から強制的に撤去された放置自転車だが、聡美も、もし母親にうるさく言われなかったら撤去覚悟で駅前に置く方を選んでしまっていただろう。 〈学校で生徒たちに自転車のこと注意してるくらいなんだから、あなたもちゃんとしてちょうだいよ。へんなところ見られたりしたら、お母さんが笑われるんだから〉  教師の娘なんて、と思ってみる。いいことなんかひとつもない。学校ばかりか、家へ帰ってまで先生がいる。  ともり始めた街灯を頼りに、鍵の番号を合わせていた時だ。 「あのう……」  いつの間にそばに来たのか、ぎょっとするほど近くに立っていたのは、肌の浅黒い、痩せた男だった。歳は同じか少し上くらいだろうか、品のない顔に奇妙な薄笑いを浮かべている。  急にあたりの人けのなさが不安になって、 「何か?」  用心深く聞き返すと、男は、まるで道を訊くようなさりげなさで言った。 「やらせてくれるってホント?」  ひどく間の抜けた感じの数秒が流れる。 「……はい?」 「頼めばいつでもやらせてくれるって聞いたんだけど」  ようやく、体が動いた。  跳ねるように後ろへ下がった拍子に隣の自転車にぶつかり、聡美は危うく転びそうになって荷台につかまった。ドミノ倒しのように十数台の自転車が倒れていく。騒がしい音と、思わずもれた悲鳴がやむかやまないかのうちに、 「ハーニちゃん」男の後ろで、笑い声が弾けた。「ごめんねえ、びっくりした?」  コンクリートの柱の陰から現れた珠代は、声を失っている聡美を眺めて嬉しそうに笑った。 「けどあんた、相変わらず鈍くさいねえ。そういう時はさっさと走って逃げなきゃ、ほんとに襲われたらどうすんのさ」  言いながら、珠代は誰かに携帯をかけ始め、出た相手に言った。 「やっぱ北口のほうだった。うん、自転車置き場。まわってきて」  口の中がからからに干上がっていく。いつからつけられていたのだろう。それこそ走って逃げたいのに、突きとばしてでも逃げたいのに、足がすくんで動かない。目をさまよわせても人通りはなく、後ろにはただ横倒しになった自転車が並んでいるだけだ。たった今歩いてきた道の向こう、駅の雑踏がひどく遠い。 「やっとゆっくり話せンね。どう、元気にしてた?」  携帯を切ってポケットに滑り込ませると、珠代は男の腕に、自分の腕をすっとからめた。男は相変わらず、下卑《げび》た笑いを浮かべて見ている。くちゃくちゃと休みなく動く口から、甘ったるいミントの匂いが漂ってくる。 「ひ……引っ越したんじゃ……」  かすれ声を押し出すと、珠代はひょいと肩をすくめた。 「今は戻ってきてこいつと住んでんの。せっかくまた会えたことだし、これからもよろしくねぇ、ハニちゃん」 「……んにしてよ」 「あん?」 「もう、いいかげんにしてよ」飛び降りるような思いで聡美は言った。「これ以上つきまとったりしたら、警察に言うから」  あっけにとられた顔をした珠代は、次の瞬間、おかしそうに上を向いて笑い出した。 「おっどろいた。あんた、そんなことが言えるようになったんだ。いつのまにそんな偉くなったのさ」そして、ぴたりと笑いやむなり怒鳴った。「ざけんなバーカ!」  びくっと身をすくませた聡美に顔を寄せ、うってかわって優しげな声になる。 「いいよ。何でもあんたの好きにすれば? けど、その前によーく考えなね。あんまりそういうバカみたいなこと言ってると、ほんとにこいつらに頼んで輪姦《まわ》してもらっちゃうからね」 「えー、やだよ俺、こんなのとやんの」  男が言うと、珠代は媚びるような目つきでその横腹をこづいた。 「いいじゃんべつに。ブスだって何だって、袋でもかぶせてやっちゃえば関係ないじゃん」  たまらずにもれてしまった悲鳴を、聡美は口もとを覆ってこらえた。歯ががちがち鳴って何度も舌をかむ。  と、珠代の携帯が一度だけ鳴って切れた。 「来な」  骨張った彼女の手がさっとのびてきて聡美の腕をつかむ。 「え、や、」  有無を言わさず引きずるようにして聡美を自転車置き場から連れ出すと、珠代はそのまますぐそこの路地を曲がった。  黒っぽい、スモークガラスの車が止まっていた。 「やだ! や……やだ!」  半泣きで腕をふりほどこうとするのを、男は無理やり後部座席に押し込むようにして一緒に乗り込み、珠代が反対側に回りこんで聡美を真ん中にはさんだ。ドアが閉められる。前の席から見ている女たちは、昼間コンビニにいたあの二人だった。 「まあま、そう怖がらないでさ。いい子にしてたら痛いことしないから」  さっそく聡美のかばんを引ったくると、珠代は財布をつかみ出し、中身を全部抜き取った。 「何これ。全財産が三千円ぽっち?」 「ふざけやがって」と男も舌打ちをする。「こっちなんか色鉛筆だぜ」  珠代は、すうっと目を細めて聡美を眺めた。他の二人とは違ってあまり化粧っけのない顔に、じわじわと残忍な笑みが広がっていく。と、おもむろに聡美の携帯を手に取ってスクロールさせ始めた。 「やだ、返してよ、何してんのよ」 「んー?」  珠代は薄い唇の両端をくっと上げた。 「探してんの」 「何をよ。ねえ、返してったら」  のばそうとした手を、珠代に舌打ちされて引っ込める。 「あいつ、何て名前なのさ」 「え?」 「昼間の、あのクソ生意気な女だよ」 「そ……そんなの知ってどうすんの」 「呼び出すにきまってんじゃん」  聡美は一瞬、恐怖さえ忘れて珠代を見つめた。 「あ、これだきっと、ニレサキカナコ。着信こればっかしじゃん」  飛びつくように携帯を取り返そうとした聡美の腕を、横から男がいとも簡単につかまえて後ろへねじり上げる。 「痛っ!」聡美は悲鳴をあげた。「痛い、痛い、痛い!」  うるせえってば、黙らせな、と運転席の女が言い、珠代が聡美の顎をわしづかみにする。ひ、と泣き声をもらした聡美の頬を、珠代は力任せに指でぐいぐい締めあげた。 「ほら、言いなよ。あいつの家、どこさ」  聡美は涙をためてかぶりを振った。 「なんでかばうわけ?」馬鹿にしたように言うと、珠代はさらに指に力を込めた。「隠すと痛いばっかりだよ? どうせしゃべることになるんだから、早く楽になっちゃいなって。ほら」  聡美はなおもかぶりを振ろうとしたが、とがった爪の先が頬に食い込んできて、また悲鳴をあげた。ひねりあげられた腕に、男が無言で力を加えていく。激痛が脳天へと突き上げる。 「折れるよ、そろそろ」と珠代が言った。「いいの?」  聡美は、泣きだした。  肘が軋む。  骨が、みしり、と撓《しな》う。  ああ、だめ、ほんとに折れる……!  とうとう、金切り声で連呼してしまっていた。狭い車内いっぱいに響く自分の声が、可奈子のいつも降りる駅の名を何度も、何度も繰り返す。まるで知らない誰かの声のようだ。  ふいに手を離され、聡美は、前かがみに縮こまってすすり泣いた。 「あーあ、しゃべっちゃった」からかうように珠代が言う。「こんな簡単におちた奴、初めて見た。やっすい友情だよねえ。友だちとか何とか言ったって、結局そんなもんよ」  肘がぎりぎりと痛む。  どうして——こんなことになってしまったのだろう。  これほどの痛みにもかかわらず、夢を見ているような気がした。現実感というものがまるで無くて、まわりじゅうのものが映画か何かのセットのように思える。そうでもなければ、こんなひどいことが自分の身に起こるわけがない。誕生日に健介と会える、そう思ってうきうきしながら靴を選んでいたのは、ほんの数時間前のことだったはずだ。  車が動きだした。  しばらく黙って聡美の携帯の画面を目で追っていた珠代が、やがて、勝手にメールを打ち始めた。 「直接電話して呼び出させてやってもいいんだけど、あんた芝居ヘタそうだからなぁ」 「可奈子に、何するつもり?」と、聡美は呻いた。「お願い、もうひどいことしないで。お願いだから」 「人聞きの悪いこと言わないでよ。せいぜい昼間のお返しにちょっと脅かしてやるだけだってば」  忙しく親指を動かしながら、珠代はにやついた。 「ね、どうよこれ。『ごめん、可奈子。六時に駅裏の百円パーキングに来てくれる? わけは会ってから話すから。お願い』。……どう、あんたが書いたっぽい? ねえ。哀れっぽい感じが似てない?」 「来るわけ、ないよ」と言ってみる。「メールなんて、ほとんど見ないもの」  それは嘘だったが、珠代はどうでもよさそうに肩をすくめた。 「六時に来なけりゃ、その時はあんたが呼び出す番だよ」 「カネ貸してくれとでも書いとけよ」と、ずるそうに男が言った。「そしたら幾らかは持ってくんだろ」  あったまいい、とつぶやいて送信する珠代の手元を、聡美は、すでに抵抗する気力さえもなくして見ていた。  痛い。腕が、痛い。もしかすると関節がどうにかなっているのかもしれない。 「ああ、そりゃそうとさ」と、珠代が含み笑いをする。「昼間会ったあの男、どっかで見た奴だと思ったら、いま思い出した。たしか深津とかいう奴でしょ」 「………」 「はは、あんたもかっわいそ。昔っからあいつの後ばっかくっついて歩ってたのに、あの美人に取られちゃったんだ」  えー、そうなのぉ? と助手席の女が笑い出す。みっじめぇ。 「でもま、しょうがないか。男にだって選ぶ権利あるもんねえ」  もう、何も感じなかった。肉体的に与えられた痛みより、後に残ったこの途方もない喪失感のほうがずっと耐えがたかった。  車が角やカーブを曲がるたびに、珠代のほうに、あるいは男のほうに倒れかかるのをこらえることもせず、聡美はただ、ぼんやりと行く手に目をやっていた。      *  シャアァァァーン……   シャリイィィィーン……  小舟にひとりきり、流されていく夢を見ていた。流されながら、これはきっと夢なのだろうと考えていた。  あたりには水と、水音と、水の匂いとが満ち、小舟は山水画のような風景の中をゆっくりと進んでいく。どこへ向かっているのかはわからない。行く手にはただ、霧が立ちこめているばかりだ。  シャアァァァーン……   シャリイィィィーン……  遠く、近く、澄んだ音が響いている。  まるで金属の環が触れ合うかのようなその音は、水音にかき消され、時には水音をかき消しながら繰り返し響きわたり、そうしてそれらすべてを見下ろしている自分がいて、茫漠とひろがる山水画の中に墨文字を描きこんでいる。  シャアァァァーン……   シャリイィィィーン……  斜体の太文字の内側を、墨汁に浸したペンで丁寧に塗りつぶしながら、これはきっと川べりをゆく僧が手にした杖の音なのだと聡美は思っている。夢から覚めて描いているのか、それとも描いている自分も夢の続きなのか、いくら目を凝らしても境界はぼんやりしていて、まるで霧の中で影をさがすかのようだ。  鉄の環の奏でる音色は、初めは小さく、ひとつ響くごとに大きさを増して、五つか六つめでふっとやむ。再び小さく小さく始まり、ひとつ響くごとに大きさを増して、五つか六つめでふっとやむ。  聡美は、目をひらいた。  仄白《ほのじろ》い光が部屋に満ち、自分ではかけた覚えのない布団の上で柔らかに反射している。障子の外は雨らしい。流されてゆく夢を見たのはそのせいだったろうか。  今はもう確かに目覚めているにもかかわらず、あの澄んだ音色がまたしても細くほそく響き始め、折り重なるように大きくなっていって、ふっとやむ。——縁側の瓶《かめ》の中で羽を震わせる鈴虫の声だった。  身じろぎしたとたんに体じゅうがひどく痛み、聡美は思わず呻き声をあげた。ゆうべの記憶が、順序も何もめちゃくちゃに入り乱れたまま蘇ってくる。布団から腕を出してみると、左の手首のまわり、黒い痣を横切るように時計のベルトの跡がつき、緑がかった紫色に内出血していた。  目なんか、覚まさなければよかった。いちばん夢であって欲しいことが夢ではないのなら。  苦労して起きあがり、廊下へ出た。柱時計はすでに十時過ぎを指していた。  雨のせいか、線香の匂いがいつもより少し強く感じられる。人声が聞こえたような気がして、そっと仏間を覗いてみると、 「うむ。……ああ、そうだな」  祖父は縁側に面した障子のほうを向き、電話の子機で誰かと話していた。 「いや、まだ眠ってる。ああ。……それはわかっとるが、なあ、いま心配しなきゃならんのはそんなことなのかね?」  母だ、と聡美は思った。どうせまた、せき立てるために電話をしてきたのだ。  ゆうべ遅くに家を飛び出し、どこにも行き場がなくてここへ逃げこんだ後も、母親は、祖父と沙恵がかわるがわる電話に出て説得してくれなかったらそのまま押しかけてきそうな勢いだった。昨日のことについて、祖父はどんなふうに聞かされているのだろう。母が知ったつもりになっている話など、ほんとうは真実とはほど遠いのに。  気配を感じたのか、祖父がふり返り、聡美を見てかすかに目を細めた。 「ああ。……いや、あんたの言うこともわかるが、まあとにかく、今はこっちに任せてくれんか。……だから、それはわかっとる。ああ、じゃあな」  電話を切って、ふう、と大きなため息をつき、祖父は聡美に向かって片眉を上げてみせた。 「あのおふくろさんには、お互い苦労させられるな」  聡美が苦笑するのを見て、いくらか和らいだ顔になる。 「おはよう。どうだ、少しは寝られたか」  聡美は、こくんとうなずいた。「あの……沙恵姉は?」 「離れにいるよ。飯にしてもらうか?」 「ううん。私はまだいいけど」 「そうか。まあ、顔でも洗っといで」 「……ん」  そっときびすを返し、洗面所へ行く。言われたとおり顔を洗い、歯を磨き、のろのろと髪をとかす。  トイレを済ませて出てきたところで、ふと立ちつくした。たった今、顔を洗ったのだったかどうかわからなくなったのだ。自分のしていることに集中できない。何をしていても、頭の中はゆうべのことでいっぱいになってしまう。  ゆうべの——。  聡美はぎゅっと目をつぶった。時間を巻き戻したいと、これほど強く願ったことはない。ゆうべ起こったすべてを無かったことにできるなら、自分は何だって、ほんとうに何だってするだろうに。  あの後、可奈子は携帯に二度ほど電話をかけてきたが、聡美が応えさせてもらえずにいると、律儀にも時間の五分前にパーキングに現れた。そこからはもう、いつ果てるともしれない悪夢だった。珠代たちは可奈子を車に引きずり込み、座席の下に押さえつけるようにして財布を取り上げ、金を抜き取り、昼間の反省の色が見えないと言っては髪を引っつかみ、聡美にしたのと同じように腕を折れる寸前までねじり上げ——それでも可奈子が謝ろうとせず、意地でも泣くものかと歯を食いしばっているのを見ると、ダッシュボードから取り出した煙草にもったいぶって火をつけ、 〈や……やだ、やだやめてやめてやめて、ごめんなさいごめんなさい、ごめんなさいーッ〉  とうとう叫びだした可奈子の太ももの内側に、 〈遅ぇんだよ〉  その先をぎゅっと押しつけたのだ。  車内をつんざいて響いた絶叫が、耳にこびりついて離れない。  ほうり出され、取り残されたパーキングで、震えながら自分の肩を抱いていた可奈子。街灯に片側だけ照らされた顔の色は、月の表面のようにまだらに青白かった。  けれど、やがて彼女は、 〈そんなに、気にしないでよ聡美〉弱々しくつぶやいた。〈わかってるよ、無理やり言わされたことくらい。私のほうこそ、ごめんね。聡美の気持ち、全然気がつかなくて〉  違う、健介のことなんて何とも思ってない、あいつらが言ったことは嘘なの、全部嘘なの、信じて。  そう叫びたいのに……前かがみの滑稽なガニ股でふらりと歩きだした可奈子の後ろ姿を見ると、舌が固まったように動かなくなった。何を言っても、その一言が彼女を失う決定打になってしまう気がして、怖くて、怖くて、すすり泣くことしかできなかった。  家まで電車に乗って帰ってきたには違いないのに、途中のことをまるで思い出せない。夕食は外で食べてきたと嘘をついて、部屋にこもってぼんやり壁を眺めていると、十時もとうに過ぎてから、母親が激しくドアを叩いた。可奈子の親から電話がかかってきたのだ。  腕こそへし折られなかったものの、可奈子の中で折れてしまったのは何か別のものだったのだろう。隠れて火傷の手当をしようと救急箱を取りにきた彼女は、様子がおかしいことに気づいた母親からわけを尋ねられると、べつに何でもない、本当に何でもないから、そう言いながら突然、倒れこむように這いつくばって嘔吐し始めたのだという。  だが、それでも可奈子は親にすべてを話したわけではなかった。聡美のメールで呼び出されたことなどには一切触れず、相手の顔は知っていたが名前は知らない、前に聡美と一緒の時に街でからまれたことがあるだけで、どうしてこんな目にあわされたのかもわからない、と、それしか話さなかった。だから、可奈子の母親が、相手の名前がわかるようなら教えてほしいと電話してきた時も、物言いはしごく丁重なものだったらしい。結局、最終的にいちばん逆上したのは、聡美の母親だった。訊いたことに対して、聡美がすぐに答えようとしなかったからだ。何を訊かれてもただ泣くばかりで、答えずにいる理由さえ話そうとしなかったからだ。 「聡美」  はっとなって、顔を上げた。 「聡美」  仏間から、祖父が呼んでいる。  小さく息を吐き、戻って覗いてみると、祖父はまださっきと同じ格好で座っていて、ゆっくり手招きした。  目を伏せたままそばへいく。祖父は、隅に重ねてあった座布団を一枚取って隣に敷いてくれた。  しばらくの間、お互い何も言わなかった。すでに丈の短くなった線香の束の先から、幾筋もの細い煙が立ちのぼっては、揺らぎ、漂いながらひろがっていく。  仏壇に飾られた写真の中の祖母は若く、どうして祖父が惹かれたか、ひと目でわかるような笑みを浮かべている。うちの父親も、このひとの血を引いていればよかったのに、と聡美は思った。そうすれば、私だって今より少しくらいはきれいに生まれたかもしれない。 「——くふるな」 「え」 「よく降るな」 「……うん」 「さっきの、電話だが」ゆるりとした声と口調で、祖父は言った。「おふくろさん、お前に伝えてくれとさ。今朝、向こうの親御さんに電話して様子を訊いてみたら、ゆうべよりだいぶ具合がいいようだと。朝は自分で起きて、お粥も食べたんだと。そのことを聡美に言って、とりあえず安心させてやってくれとさ」  うつむいて、髪が顔を隠すままにしていると、祖父がふっと微笑む気配がした。 「よかったな」  胸が、ふいにきゅっと絞られ、眉の間がつうんと痛んだ。  鼻の奥が熱く、重く痺れていく。抑えようとしても唇の端がひくひく震え、口をあけて息を継ごうとしたとたん、どっと涙があふれた。  洟をすすり、声をたてずに涙をこぼしていると、祖父はそばの机に手をのばし、ティッシュの箱を取ってそっと置いてくれた。 「お前のことだから」と、低くつぶやく。「何かわけがあることはわかってる。そんなに苦しいのに、本当のことをなかなか言えんだけのわけがな」  聡美は、唇をかんだ。 「うん? どうだ」  祖父の小さく窪んだ目が覗き込んでくる。 「思いきって、話してみないか」  そうだ。ちゃんと、言おう。  そう決めて口をひらいたつもりだったのに、もれてきたのはへんな泣き声だった。慌てて飲み下す。泣いてなんかいる場合じゃない。ここまできたら、洗いざらい話さないわけにはいかない。後にどんな仕打ちが待っていようと、もう逃げてちゃいけない、言わなくちゃ、いやむしろやっと言えるのだ、もっと早く言うべきだったのだ、こんなことになる前に。 「わ、たし……」  祖父が黙って見ている。 「私、ね。うっちゃ、」あふれ出してくるものを必死にこらえて、聡美は言った。「売っちゃっ、たの」 「何を」 「……友だちを」  口に出したとたん、酢を飲んだような痛みが胸を刺し、また涙が噴き出した。嗚咽《おえつ》をこらえようとした拍子に激しくむせる。 「聡美」  見ると、祖父はこちらに伸ばしそびれた手を宙に浮かせたまま、困ったような顔をしていた。 「そう我慢せんでもいい。泣くなら泣くで、ちゃんと泣かんか」  その輪郭が、ぐにゃぐにゃにぼやけていく。  くずおれるように、聡美は祖父の膝につっぷした。記憶にあるよりも細く骨張った祖父の膝に、額を押しつけて泣きじゃくり、すすり上げては泣きじゃくり、また泣きじゃくった。  頭の後ろに祖父の手が載せられたのがわかった。その温かさで、なお涙がぶり返す。 「あや、っも……」  のどに引っかかる声を無理に押し出した。 「あやま、っても、もう、だめかも」  自分という人間のくだらなさに押しつぶされそうだった。何か、紙のようなぺらぺらなものになった気がした。痛みと恐怖にあっさり屈して友人を裏切ってしまった自分に比べ、可奈子はそんな体になってまでかばってくれているというのに、それをありがたいとか嬉しいとか思うより先に、ねたましいのだ。彼女の持つ、自分には決して真似のできない強さの前に、どうしても卑屈になって気持ちがいじけてしまうのだ。可奈子のことは大好きなのに、彼女みたいな人と比べようとすること自体間違っているのに、この情けなさ、自信のなさ、母からぶつけられる言葉、理解してもらえない夢、進まない勉強、健介への恋情、うまくいかないこの世のすべて、それらが入り混じって渦巻けば渦巻くほど、ああ、可奈子のように生まれたかった、可奈子のように愛されたかった、可奈子のように、可奈子のように、可奈子のように……どれほど望んでも叶えられない負の感情ばかりが竜巻のようにすべてをなぎ倒して暴走していき、そうして、何よりもそういう自分がいじましくて、疎ましくて、くしゃくしゃに丸めてどこかに捨ててしまいたくなるのだ。 「私なんか……」聡美は、祖父の膝を両手で握りしめて呻いた。「私、なんか」  祖父が、身じろぎする。 「そういうことを言うもんじゃない」乾いてしわがれた声で、祖父は言った。「お前にそんなことを言われたら、おれはどうすりゃいい」  いやいやをするように身を揉む聡美の頭を、祖父の手が撫でる。ゆっくり、繰り返し撫でてくれる。  縁側の鈴虫の声がふっとやんだ。 「なあ、聡美。お前——自分の生まれた時のことを知ってるか」  洟をすすり、聡美は黙って首を振った。母親から聞かされたのはせいぜい、ひどい難産で、生まれる前から親に苦労させたという話くらいだ。 「医者は貢に……お前の親父に、残念だが赤ん坊はあきらめてくれと言いおった。だが、お前のおふくろさんは、どうでもお前を産むと言ってきかなかった。おれと、ばあさんと貢と、分娩室の前で待っている間、中から何べんも何べんもおふくろさんの悲鳴が聞こえてきてな。生きた心地もしなかった。それでもおふくろさんはあきらめんで、とうとうお前を無事に産みあげた。そうまでしても、お前が欲しかったんだな。おふくろさんだけじゃない。あの時ゃみんな、お前が出てくるのを……なんとか無事でこの世に生まれてきてくれるのを、ほんとうに祈るような思いで待っとった。早う出てこい、こっちはええぞ、早う出てこい——あれほど待たれて、望まれて生まれてきた子はないぞ、聡美。おれらはみんな、生まれる前からお前のことを、それは大事に思っとったんだ」  聡美は、こぶしに歯を立てて嗚咽をこらえた。  雨の音がさっきより少し遠のいたようだ。太い指が、こめかみにはりついた髪をそっとかきあげてくれる。祖父の手からは、伐りたての材木のような湿った匂いがした。 「よくは知らんが、ゆうべお前がしてしまったことは、なるほど大事な友だちへの裏切りだったかもしらん。だがな。謝ってもだめ、というのはどういう意味だ。お前は、何のためにその子に謝るんだ。許してもらって、お前が楽になるためか」  咎《とが》める口調ではなかったが、聡美は思わず息をのんだ。 「もしそうなら、やめとけ」と、祖父は言った。「謝ることで気が済んでしまって、自分のしたことを忘れるくらいなら、いっそ謝らんで後悔をかかえとったほうがまだましというものだ。だがな、聡美。もしもお前がほんとうにその友だちを失いたくないと、たとえ許してもらえなくても謝りたいのだと、そう思っているのなら、ぐずぐず迷っている暇はないんじゃないのか」  泣くことも——息すらも忘れて、聡美は祖父の膝ごしに仏壇のお鈴《りん》を見つめていた。 「謝るべき相手が、そこにいてくれるお前は恵まれてる。おれなんか、見てみろ。謝りたいと思う相手はもう、みんなあの世だ。どんなに手をついて、這いつくばって謝りたいことがあろうが、もう、永久に間に合わん。死んだばあさんや、前の女房だけじゃない、あの時おれが……」  ふっと、黙り込んだ。たぐる糸が途中で切れたかのようだった。  それきり話し出す気配がない。見上げると、祖父は口を結んで、どこかそのへんの畳を睨んでいた。  ——と、また鈴虫が鳴き始めた。  身じろぎした祖父が、長いながいため息をつく。  聡美はやがて、手をついてそろりと体を起こした。いつしか、自分のための涙は鎮まっていた。  祖父がかすかに頭を振って、ぎくしゃくと立ちあがる。  縁側に面した障子とガラス戸を開け放ち、外の空気を迎え入れると、思いがけないほど冷たい風が、水のようにするりと吹き込んできた。 「おお」不器用におどけた口調で、祖父は言った。「どうやら、こっちの雨も上がりそうかな」  聡美は、立っていって隣に並んだ。  鈴虫の声が近くなった。  西の空が、少しだけ明るくなりはじめている。大きく満ち引きする風の呼吸に合わせて、色づきかけた木々の葉から滴《しずく》がしたたり落ちる。  体の中に溜まった澱《おり》と入れ替えるように深く息を吸いこみ、小声で、 「……おじいちゃん」  ささやくと、祖父はこちらを見ずに、うん? と返事をした。  空の高みを吹く風は、下界よりもさらに強く、疾《はや》い。巨大な雲をごっそりとかかえて、屋根の後ろへ持ち去っていく。どこまで行こうというのだろう。遠く、風の通り道を急ぐ雲たちはまるで、海図さえ持たずに海原へこぎ出す船団のようだ。 「どうした」  答えず、聡美は雲の流れを見あげる。  腫れぼったく、まだ熱を持つ目を凝らすようにして、風のゆくえを追う。 [#改ページ]   名の木散る  また電話が鳴りだした。  日が傾いてからこの半時ほどの間に、もう三度目だ。  こうして母屋のほうにかかってくるからには、仕事の連絡ではあり得ない。もしかすると嫁の頼子かもしれないが、だからというだけでなく、どうにも取りに立つ気が起こらない。重之はそれを、膝で丸くなる猫のせいにした。  と、玄関の引き戸が開き、あがりがまちにスーパーの袋ががさがさ置かれたかと思うと電話の音がやんで、ずいぶん丁寧な沙恵の受け答えが聞こえてきた。 「父さん」  居間のほうで声がする。 「父さん……いないの?」  仏間を覗きにきた沙恵は、縁側でうずくまる重之を見るなり短く息を呑み、 「やだ、いるなら返事してよ」咎めるように言った。「どうしたの、明かりもつけないで」  重之は言い訳のように猫の背中を撫でてみせた。「べつに」  今の今まで重之が眺めていた庭に、沙恵がちらりと目を向ける。  保留にしてある子機を差し出し、 「父さんに」 「誰だ」 「曾根原さん。昨日、上京してみえたんですって。あさってまではこっちにいらっしゃるそうよ」  電子音の旋律が、薄闇を押しのけるようにかしましく鳴っている。重之は、鼻の先に差し出された子機から顔をそむけた。 「いないと言ってくれ」 「え? だって父さん、去年はあんなに喜んで」 「聞こえんのか」重之は目をそらしたまま言った。「おれは、おらん。明日もあさってもだ」 「そんな……。なんて説明すればいいの」 「知らん。いないと申しております、とでも言っておけ」  まだ何か食い下がるかと思ったが、これ以上は無駄だと悟ったのだろう。沙恵は小さくため息をつくと、子機を持って戻っていった。ややあって、台所のほうから、ひどくすまなそうに言い訳を重ねる声が聞こえてきた。  身じろぎした拍子に、膝の三毛が不服そうな寝言をもらす。よしよし、と低くなだめながら、重之はひとり苦笑をもらした。  こういうものに頼るようになろうとは思わなかった。確か末娘の美希が家を出た翌年だったろうか、まだ小さかったこれ[#「これ」に傍点]が庭に迷いこんできた時、そんな薄気味悪いものはどこかへ捨ててしまえと言った重之を、志津子はにこにこと諭したものだ。 〈まあま、いいじゃありませんか。こんな年寄りでも、こうして頼ってくれるものが居れば、もう少し長生きしなければという気になれるものですよ〉  重之は、庭に目を戻した。  わずかの間に、また一段と暮れていた。  苔むした石灯籠の脇に、蕾の小菊がひとかたまり、黒く沈んで見えた。 「あの世代の人は、いっぺん倒れると回復力が弱いのよ」  長男の妻である頼子が、台所に立つ沙恵を手伝いながらそう話していたのは、あれは先週の日曜だったか、その前の週だったか——重之がこの夏、暑気あたりで数日寝込んだことは、娘の聡美から聞かされたものらしい。長く中学の教師を務めてきた頼子の声は、本人は普通に話しているつもりでもよく通る。家の裏手の材木置き場にいた重之の耳に、話の内容はほとんど筒抜けだった。 「お義父さんたちの子どもの頃ってほら、食べるものがなかったでしょう。そのくせ、大変な時代を生き抜いてきたっていう妙な自信があるせいか、つい自分の体力を過信して無理してしまうのよ。沙恵ちゃん、そろそろ本当に気をつけてあげないと。説得するのは大変でしょうけど、現場のほうももう、ほどほどにしてもらったほうがよくはない? 何かあってからじゃ遅いのよ」  善意で言っているには違いなかろうが、馬鹿にするな、という思いが先にきた。何が、回復力が弱いのよ、だ。たしかに今とは比べようもないほど物のない時代ではあったが、食糧がすべて配給に変わるまでは、米に不自由したことなどなかった。げんに重之は、子どもの頃ひもじい思いをした記憶がまるでない。よく知りもしないくせに見てきたようなことを言いくさって、これだから「先生」などと呼ばれる連中は信用できんのだ。  だが、しかし——現実問題として——体はきかなくなりつつあるのだった。つまんだ釘をすぐに取り落とす。高い足場の上でふらつくこともしばしばだ。何としても持ちあがらない材木の向こう端を手伝わせようと呼んだ若い大工が、いともたやすく一人でそれを担ぎあげたとき、重之は自分にもよくわからない感情につき動かされて、思わず怒鳴りつけていた。 「馬鹿もん、そんなところで無駄な力を使う奴があるか。二人でやれることは二人でやれ」  ちぇ、なんだよな、と別の若造が向こうでぼやくのが聞こえた。二人でやりゃあ、一人でやれって言うくせによ。  自分にとっての不幸は、なかなか耳が遠くならないことかもしれない、と重之は思う。大工の命ともいえる目と手先からまず衰えて、耳にはろくでもないことばかり入ってくる。あの日曜の夜、頼子が持ってきた話からしてそうだ。 「生徒たちに、お義父さんの戦争体験を話してやってくれませんか」  ——戦争体験。その言葉にすら、重之は引っかかった。 「そりゃあね、そう簡単に、気軽に話せるようなものでないことくらいはわかってますけれど」と、頼子は先回りしたように言った。「でも、当時のことを実体験として自分の言葉で語れる人が、こう言っては何ですけどだんだん少なくなってきているんです。子どものころ田舎に疎開していたという人ならまだいますよ、でも兵隊にまで行った人となると、とくに生徒たちのまわりにはもうなかなか……」  生徒、生徒と言うからてっきり頼子が教頭を務める中学のことかと思ったのだが、そうではなかった。聡美が通う高校の、クラス担任からの依頼だという。そもそものきっかけは、聡美のクラスのある男子生徒が、夏休み明けの日本史の時間に投げかけた質問だったそうだ。 〈どうして靖国神社に参拝しちゃいけないんスか〉  いや、いけないことはないだろうと教師が答えると、彼は憮然とした表情で食い下がった。 〈じゃあ、どうしてあんな毎年大騒ぎするんスか〉  なんでも、米寿を過ぎてなお矍鑠《かくしやく》としている彼の曾祖父が、八月の初めに東京のひ孫一家のもとを訪れた折り、真っ先に案内してくれと言ったのが靖国神社だったらしい。参道の大鳥居を見上げただけで老人は落涙し、そんな曾祖父の姿をまのあたりにしたその男子生徒は、数日後、首相をはじめとする議員の靖国参拝がテレビや新聞を騒がせているのを見た時、〈なんかすっげえムカついた〉のだった。 〈日本を守るために戦争で死んでった人たちを拝みにいくのに、なんで周りからあんなうるさく言われなくちゃいけないんスか。だいたい、なんで俺らの国のことに他の国が口出してくるんスか〉  そのとき質問を受けた社会科教諭——聡美のクラスの担任であり学年主任でもある——は、これをまたとない機会だと考えた。むろん、〈政教分離〉程度のことなら誰でも教えられる。議員という公人と、彼の曾祖父のような一個人とでは立場が違うのだということや、あるいは戦犯合祀の問題や、無数の戦没者のうち靖国に祀られているのはほんの一握りでしかないという不公平さや、そして何より、過去にアジアの国々と日本との間にどういう歴史があったかについて、知識として教えるくらいのことならばすぐにでもできるだろう。しかし、生徒の側が自ら疑問を抱き、自ら知ろうとしているこんな機会にこそ、生の言葉で戦争の現実を伝えたい。できれば誰か生徒の身内の口から語ってもらうことはできないものか、と——。  重之に白羽の矢が立てられたのは、そういう事情だった。わずかしかいない近隣在住の候補者の中でも、最も年輩なのが重之だったらしい。 (つまりは死にそうな順ということか)  と、重之は皮肉に考えた。  なるほど、経緯はわかった。意味合いもわかった。わかったが、冗談ではなかった。  あの戦争のことなど、思い出したくもない。忘れたいことほど忘れられず、これだけは忘れまいと思うことから忘れていく……誰にぶつけるあてもない怒りと悔いの中で、ともすればおのれの奥底からわき上がろうとする揺れをかろうじて両手で押さえ込むようにして五十有余年をやり過ごしてきたというのに、この期《ご》に及んでいったい何を語れというのだ。「戦争体験」などというふざけた言葉でくくれるような過去だとでも思っているのか。  自分たちの世代は、戦争を体験などしていないと重之は思う。  自分たちは、戦争を生きたのだ。今日一日を命からがら生き延びた者にとって、明日も、その明日もまた続いていくのが戦争だったのだ。人間が人間であろうとすることさえ許されず、お国の為、天皇陛下の御為という言葉のもとに、赤い紙きれ一枚で家族も恋人も引き裂かれた、それが戦争だったのだ。  あの恐怖。あの痛み。あの絶望。——一度として飢えた経験すらない連中を相手にどう語ろうと、何が伝わるとも思えない。  靖国参拝がなぜいけないかと訊ねた生徒は、曾祖父の涙の裏にあるものをどう解釈したのだろう。あるいは、今どきの連中の目に、昔の軍服に身を包んで靖国の参道を行進する老人たちの姿はどう映るのだろう。  同じ時代を生きた重之には、むろん、老いてゆく者たちの胸の内が手に取るようにわかる。あんなところに俺は死んだって参るものかとは思っても、そうせずにいられない心境も理解できる。中には目の前で戦友に死なれた者も、自分だけおめおめと生き残ってしまったことに一生の後悔を抱いている者もいるだろう。彼らが靖国を拝みにいくのを咎める法律などありはしない。  ただ——それとは別に、重之にはどうしても忘れることができないのだ。日本にとっては敗戦の日であり、屈辱の日でしかなかった昭和二十年八月十五日を、「解放の日」と呼んで祝う人々がいることを。毎年夏が過ぎ、この季節がめぐってきて、庭の木々が日一日と枯れ色に近づいていくのを見るたび、耳元にはあの女のつぶやきが蘇ってくる。そう、まるで水底から浮かびあがるあぶくのように。 〈私ハ、パカナ母親デ。ホントニ、パカナ母親デ……〉  昭和十九年、初秋。  大陸の風は、まだ生温かかった。      *  煉瓦造りの建物の前に立ち、緊張した面持ちで「休め」の姿勢をとる初年兵。軍服姿の重之の写真は、その色|褪《あ》せた一枚しか残っていない。  子どもの頃から体が大きかった上に、父や祖父の大工仕事を手伝わされて育ったせいもあるのだろうか。肩幅が広く筋肉質で、どこから見ても健康体そのものだった重之は、満二十歳を迎えた二月、おおかたの予想どおり徴兵検査に甲種で合格した。入営はその年の九月ということだった。  一人息子が無事に戻ると信じたいのはやまやまでも、生きて戻れと口に出すことすらはばかられる時代だ。水島家の血筋が絶えることを危惧した親たちは、春には強引に重之に所帯を持たせた。見合いの日まで会ったこともなかった相手と、次に顔を合わせたのが祝言の席という慌ただしさだった。  どうせ自分は戦地で死ぬのだろうと、半ばあきらめていた。親の望むままに結婚し、子種を残してから征くことがせめて最後の孝行のつもりだった。そうでもなければ相手を見た時点で断っていたかもしれない。  襟元から経血が匂いそうな女だ、というのが、晴代を見た第一印象だった。醜女《しこめ》というのではないのだが、業《ごう》の深そうな顔立ちをしていた。表情はあまり動かず、青白い顔は終始うつむきがちで、腫れたような一重まぶたが陰気くさかった。共に暮らし始めてわかった長所といえばただ一つ、とにかく闇雲におとなしく、人のすることに決して異を唱えないことくらいだった。  とりあえず夫婦生活はあったものの、九月の集合日が近づいてきても、置いていく妻に名残り惜しさはほとんど感じなかった。駅まで見送りに来た晴代がおずおずと手を振るのを、すし詰めの列車の中から見たとき初めて、重之は十八という彼女の幼さに気づいて驚き、せめてもう少し優しい言葉を残してやればよかったと胸が痛んだ。あるいはそれさえも、男の身勝手な感傷でしかなかったかもしれない。  やがて重之は、作戦地である中国の華中方面へ送り込まれることとなった。といっても、輸送船に乗って夜の朝鮮海峡を渡り、釜山で臨時の軍用列車に詰めこまれた段階でもまだ、行く先は誰にも知らされていなかった。もうもうと煙を上げる列車は京城、平壌と北上し、国境の町である新義州から当時は「日本一」の大河であった鴨緑江を越えると、満州だった。安東、奉天、そこから西へ向かって山海関、天津。広大な華北平原を今度はひたすら南下していき……。  ようやく列車を下ろされた時には、日本を発ってから半月以上が過ぎていた。来る日も来る日も、朝から晩まで座りづめだったせいで、歩き出すと足元がまるで病み上がりのようにふらつく始末だった。  正式な配属が決定すると、重之は、数十人の仲間とともに初年兵教育を受けることとなった。宿舎に入った初日こそは全員に煙草や饅頭などが配られるという馬鹿丁寧な扱いに面食らったが、一夜明け、けたたましい起床ラッパによって幕を開けた訓練は想像を絶する厳しさだった。子どもの頃から、厳然たる縦社会に生きる職人たちをまのあたりにして育った重之でさえ理不尽と思うことばかりだったのだから、都会育ちのお坊ちゃんたちにとっては世界が暗転するようなショックだったろう。  連日、重い背嚢《はいのう》を背負って山道を走らされる。距離も荷も日ごとに増し、制限時間に遅れればたちまちビンタでもう一往復。雨にぬかるむ赤い泥の中を匍匐《ほふく》前進し、穴を跳び越え、木や竹によじ登り、途中であごでも出そうものならさらにきつい制裁が待っている。疲労困憊で宿舎へ戻っても、掃除から水くみから古兵の洗濯から食事の用意や片づけまで、新兵には休む暇などない。当番ともなれば炊事場へ行き、飯や味噌汁の入ったバッカンを持ち帰って、班の全員に均等に(ただし班長には少し多く)盛りつける。昼間さんざん山道を駆け回った靴の底には泥が固く詰まっていたが、石や枝などでかき出しては傷が付くというので許されず、重之たちは必死に草でこすって鋲《びよう》のまわりの泥をぬぐった。それでも、毎夜検査に来る班長の機嫌次第では手入れが悪いと殴られ、今すぐなめてきれいにしろと強要される。靴ばかりではない。持ち物全般の整理整頓はもとより、とくに菊の御紋が入った小銃の手入れに落ち度が見つかった時には、最も厳しい制裁の対象になった。 〈天皇陛下からお借りしたものを粗末にするとは何ごとだ!〉 〈貴様ら兵隊なぞ一銭五厘ですぐ代わりが来るが、銃は一挺何百円とするのだぞ。命より大切に扱わんか馬鹿者!〉  一銭五厘——召集令状の後に届く、集合日時の通知葉書の値段がそのまま、兵隊の命の値段だった。  時折り届けられる両親や晴代からの手紙に、重之はほとんど返事を書かなかった。書けば弱音になり、弱音を書くまいと思えばすべてが嘘になったからだ。  上官らの中には、重いゴム底の上履きや地下足袋で重之たち新兵を打ちすえる者もいた。平手のビンタと違って手が痛まないので、気を失うまで殴り続けられることもしょっちゅうだった。権力をふるうことに無上の喜びを感じるたちの小隊長は別として、ほとんどの場合はただの鬱憤晴らしだったが、いずれにしても、私的制裁にたいした理由などいらない。〈襦袢《じゆばん》〉と言うところをうっかりシャツなどと言えばビンタ、襟が少しばかり汚れていても、洗濯物の畳み方が悪くてもビンタ。返事が遅い、声が小さい、ふんどしが臭い、目つきが気に入らない。理由など何でもいい。道理もへったくれもあったものではない。歩兵操典や戦陣訓をようよう暗記し終え、せっかく寝入ったかと思えば突然叩き起こされて一列に並ばされ、 〈ありがたく思えよ。これから貴様らの軍人精神を鍛えてやる。気をつけ! 歯を食いしばれ!〉  わけもわからず殴られる。ひどい時には例の鋲付きの編上靴で殴られたが、切れた頬から血が噴き出してもよけることは許されず、それどころか終われば大声で礼を言わねばならなかった。  まだ作戦にも参加しないうちから、新兵たちの多くはどこかしらを怪我していた。鼻のつぶれた者、歯の折れた者、鼓膜の破れた者、顎のはずれるのが癖になった者。 〈上官に殴られて死んだ場合でも、故郷には名誉の戦死と報せが行くのだろうか〉  仲間同士、そんなことを言って暗く笑い合ったこともある。  だが、体にだけは自信のあった重之にとって、殴られるよりもむしろ屈辱的だったのは、いわゆる〈ウグイスの谷渡り〉や〈ミンミン〉といった幼稚きわまる制裁のほうだった。順ぐりに各班をまわり、寝台から寝台へ飛び移りながらウグイスの鳴き真似をさせられたかと思えば、柱によじ登らされ、下に剣を突き立てられた状態でミーンミーンとセミの鳴き真似をさせられる。腕が疲れてずり落ちてくれば尻に剣が刺さるという念の入れようだ。あるいはまた、両手を机の間について足を浮かせ、力の限り回転させられる〈自転車こぎ〉。 〈そらそら、もっと速くこげ! 誰が休んでいいと言った、そら急な坂だぞ、しっかりこげよ、わっはっは……〉  どれほど阿呆らしくとも反抗は許されない。なんで俺がこんなことを、と情けなく思う心さえ、日を追って鈍麻していく。肉体と精神をぎりぎりまで痛めつけられ、自我も誇りも打ちのめされ、どこにも逃げ場のない毎日の中で、重之たち新兵は——ほんの数か月前までごく普通の大工であったり、勤め人であったり、床屋であったり農夫であったりした男たちは、そうして日一日と、上官に絶対服従の〈皇軍兵士〉へと仕立てあげられていった。どんなにろくでもない人間であろうと、上官は上官。その命令が理屈に合わなかろうが、人の道からはずれていようが、逆らうことは許されない。たとえ無抵抗の村を焼き払えと言われても、白旗を掲げて降伏してきた敵兵の首をはねろと言われても、上官の命令はすなわち朕《ちん》の命令、 〈貴様ら、天皇陛下のご命令がきけんのか〉  そう言われてしまえば従う以外にない。背けば自分が殺される。すべてはお国のためであり、陛下の御為であって、天孫民族である我々日本人は他のどの民族よりも優れているのだ、と……。  今になってふり返れば、あれは洗脳以外の何ものでもなかった、と重之は思う。どれほど高い理想があったにしろ、この国はやはり、どこかで選ぶ道を間違えたのだと。  とはいえ、毎年、終戦記念日が近づくと思い出したように組まれる特集番組や新聞の投書欄などには、あの日々を悼み悔やむ者の声とはまた別に、過ぎ去った時を懐かしむ声も少なくない。長い年月をかけて思い出が濾過されたのだろうか、中には、そんなにひどいことばかりではなかったと言う者もいる。厳しいが心ある上官のもとで、祖国のため、残してきた家族のために戦い続けたあの時こそが、人生の中で最も命を燃やした瞬間だったと言いきる者も。  そんなふうに過去と折り合いをつけ得た人々の声に触れるたび、重之は、胸の奥にちりちりと焦げつくような痛みを覚えた。  たしかに、あんな日々の中にも青春はあったのだし、死と隣り合わせでなければ生まれ得ない濃密な友情もあった。全体主義の狂気が渦巻く中で、死を賭して異を唱え、自らの信念を貫いた者も少なからずいたはずだ。現に同期の中にも一人、人として譲れぬことを決して譲らず、ことあるごとに小隊長に楯突いては営倉に叩きこまれ、ついには最前線送りになり、弾よけに使われて散った男がいた。しかし少なくともおれには——と重之は思う。心に思うことはあの男と同じでありながら、とばっちりを怖れ、はるか後ろに隠れて息を殺していただけの自分には、今になって懐かしむことのできるような思い出も、胸を張って誇れるものもありはしない。それどころか——。  いまだに、夢にうなされることがある。  立木にくくりつけられている八路軍の少年はまだ十五、六で、その腹はすでに蓮口のように穴だらけだというのにまだ生きている。そうして、細い声ですすり泣いている。 〈媽々《まま》ー……媽々ー……〉 〈構うな!〉と怒号が飛ぶ。〈前に、前に、あとへ、前に、突け!〉  いやだ、やめてくれ、と重之は耳をふさぐ。戦争は日本が負けて終わったんじゃなかったのか。もう誰も殺さなくていいんじゃなかったのか。それともおれは、終わったという長い夢を見ていただけなのか? 〈何をしている水島、突け! 人も殺せんで兵隊が務まるか!〉  殺さねば、殺される。重之の足が走り出す。どんなに歯を食いしばって止まろうとしても、足は勝手に動いて、 〈前に、前に、あとへ、前に、突け!〉  手にした銃剣の切っ先が、柔らかくて固い肉に呑みこまれるあの感触。かっと見ひらかれた少年の目が、ほんの五寸ほどの近さから重之を凝視する。  自分の悲鳴で——実際には押しつぶしたような唸《うな》り声で——目を覚まし、荒い息の下、それが本当に夢であってこちらが現実であることをようやく確かめると、重之は汗でぬるぬる滑るてのひらを、擦りむけるほど何度も布団になすりつけずにいられなかった。あの肉の手ごたえが、たった今突き刺したばかりのようになまなましく手に残って、ちょっとやそっと拭ったくらいでは消えなかった。 (これだけたっても忘れられないことが、なぜ)  初めて人を殺した日は、怖ろしくて怖ろしくて眠れなかった。何日も飯がのどを通らなかった。重之ばかりでなく、ほとんどの仲間がそうだった。それなのに……。  慣れるのだ、人間は。だんだん、殺すことを何とも思わなくなっていく。いくら幼い頃から〈中国人は下等民族〉などと教えられて育ったとはいえ、初めのうちは突くのが怖くて、可哀想で、足は震えて立っているのもやっとだったのに、くり返すうちにはいつのまにか麻痺してしまう。人の痛みを痛みと感じなくなっていく。  上官に強制されるばかりではなかった。兵隊の中にも、やがて、敵を殺すことを手柄と考える者が増えていった。早く出世をしたい。故郷に錦を飾りたい。その一念から、率先して上官の前で非道なことをしてみせるようになるのだ。  新聞にまで〈百人斬り超記録〉と、煽るがごとき見出しがおどる時代だった。敵に対してどれだけ非情になれるかが、優秀な兵の条件だった。殺せば殺すだけ、えらく[#「えらく」に傍点]なることができた。  初年兵の教育期間、六か月足らず。  人から鬼への道のりは、それくらい短かった。      * 「暇だから遊びにきちゃった」  そう言って、めずらしく電話もなしに美希がぶらりとやってきたのは、十月も半ばにさしかかった平日の昼過ぎだった。祭日に出勤したぶんの代休だという。 「あれ、お姉ちゃんは?」  縁側の日だまりで新聞を広げていた重之は、末娘を見やって老眼鏡をはずした。 「役場へ行っとるが。なんだ、何か用か」 「そういうわけじゃないけど」  どうして昼間から家にいるの、とは訊かないのだなと思った。このところ、仕事をほかの大工たちに任せて休む日が増えたことも、とっくに沙恵から聞かされて知っているのだろう。 「お前、ちゃんと食っとるのか」 「え、もしかして痩せた? わお」  こちらの渋面を見て笑いだし、 「うそうそ、ちゃんと食べてるってば」美希はすとんと縁側に腰かけた。「父さんこそ、せっかく作ってもあんまり食べてくれないってお姉ちゃんがぼやいてたわよ」  襟ぐりのあいた黒いセーターと灰色のズボン——今どきはパンツというのか——に身を包んだ末娘は、このところまた急に女ぶりを上げたように思える。それにしても、どうして近頃の若い連中はこう、葬式のような色のものばかり着たがるのだろう。  昔は、きれいな色の服など着たくても着られなかった。少しでも派手な色を身につけるだけで非国民と呼ばれた。終戦のとき女学校の一年生だったという志津子からも聞かされたことがある。玉音放送からようやく一週間ほどが過ぎたある日、ふと思いついて、押入れの奥の奥に隠してあった赤いスカートをおそるおそる引っ張り出してみた時の、あの気持ちが忘れられない、と。 〈もう誰から罰せられることもないと頭ではわかっていたのだけど、やっぱり気が咎めてねえ。薄暗い部屋で隠れるようにして着替えて、おさげをほどいてそーっと鏡の前に立ったとたん……〉  泣けたねえ、と志津子は言った。 〈いったい何の涙だったんでしょうねえ。何だかよくわからない涙があとからあとから噴きだして、泣けて、泣けてねえ〉  まるで、いまだにその日のことにやましさを感じているかのような、おずおずとした口ぶりだった。 「あ、ねえ、柿持ってきたんだけど食べる?」  と美希が言った。 「むいたげるから一緒に食べよ」  返事も待たずに靴を脱いで上がり、台所へ立っていく。  姉とよく似たその背中を見送りながら、重之は、いつから彼女にとってこの家は手みやげを持って「遊びに」来るところになったのだろうと思った。少なくとも志津子が生きていた頃は、ただいま、と言って帰って来ていた気がする。 「この柿ねーえ」と台所から美希が言った。「うちの営業の若い男の子が、実家から送ってきたからってわざわざ持ってきてくれたの。ふふん、まだまだ捨てたもんじゃないでしょ美希サンも」 「……そいつと、付き合っとるのか」  美希がおかしそうに笑う声が聞こえた。「そんなんじゃないわよ、やあねえ」 「ふん。そいつでなくても、そういう話はないのか」 「ないない、全然ない。何なら父さん、誰か腕のいい大工でもいたら紹介してよ。そこそこいい人だったら、一緒ンなってこの家継いだげるから」 「ふん」 「そんなに理想高くないわよ、私。べつに面食いってほどじゃないし、背が低くたって気にしないし、学歴とかどうでもいいし」  二つぶんの柿を一皿に盛り、美希はついでに茶をいれて縁側に運んできた。 「ま、あれね。無口だけど根はあったかくて、細かいことにいちいちうるさくなくて、飲めば強いんだけどふだんはあんまり飲まなくてさ。あとはまあ誠実で、優しくて、妻がうたた寝してると自分の上着脱いでそっとかけてくれる、みたいな人だったらもうそれだけでいいや」 「いるか、そんな奴」  苦笑しながら重之は新聞をめくり、熱い茶をすすった。  母親譲りか、沙恵も美希も茶をいれるのがうまい。添えられたクロモジで柿を刺し、口に運ぶ。これも、ただ甘いばかりでない旨い柿だった。しかもさりげなく小さめに切り分けられている。娘たちのこの手の気遣いには敏感な重之だったが、気づいていることをおくびにも出さずにいるのは存外むずかしい。  隣に横座りになり、見るともなくスーパーのチラシを眺めていた美希が、ふと顔を上げた。 「ねえ」 「ああ?」 「お姉ちゃんから聞いたんだけど」 「……ああ」 「曾根原さんて人からの電話、なんで出なかったの?」  てっきり仕事か体調のことを言われるのだろうと構えていた重之は、面食らって美希を見やった。 「その人、父さんの戦友なんでしょ? 去年の何とかの会には喜んで出かけてったのに、今年はどうしたんだろうって、お姉ちゃんけっこう心配してたわよ。仲違《なかたが》いでもしたのかしら、って」 「べつに」と、重之は言った。「何もない。気にするな」 「ほんとに?」 「ああ。気分が乗らなかっただけだ。心配いらん」 「だから、心配してるのは私じゃなくてお姉ちゃんなんだってば」と、美希は言った。「気にしないでいいなら、お姉ちゃんにそう言ってあげてよ」  柿を一つ口に入れて、重之は新聞に目を落とした。 「ねえってば」  黙っていると、 「あのね」美希の口調がきつくなった。「前から、いっぺん言わなくちゃって思ってたんだけどね。父さんてばいつも、肝心な言葉が足りなさすぎるわよ。前は母さんに対してそうだったけど、今はお姉ちゃんに対してそう。言わなくても勝手に察しろって思うかもしれないけど、いくら家族だからって、アアとウムだけで全部伝わると思ったら大間違いなんだからね、『寅さん』の御前様じゃあるまいし」  それでも黙りこくったまま新聞に顔をつっこんでいると、美希は聞こえよがしのため息をついた。 「都合のいいときだけ耳が遠くなるんだから」  立ちあがり、あいた皿を台所に持っていく。水音が聞こえてきた。  重之は、もぐもぐと口を動かすと、出しそびれていた柿の種をてのひらに吐きだした。皿は持っていかれた後だ。考えた末、畑越しに庭の隅へ放り投げる。 (仲違いでもしたのかしら……)  ふっと苦笑いがもれた。  そういうわけではない。曾根原との間には、本当に何もない。いや、あるにはあっても、向こうが気づいてもいないものを仲違いとは呼ぶまい。 〈水島は運が良かったよなあ。おまけに惚れて惚れられて〉 〈何といったかほれ、あの慰安所《ピーや》の……〉 〈見る見る一毛銭《イーモーチエン》、やるやる五毛銭《ウーモーチエン》〉  石灯籠の根もとに落ちた柿の種が、午後の日ざしに光っている。南天の実は色づき始め、ツツジやツゲなどの植え込みは美しく刈り込まれ、けれどその手前には、ネギ坊主が列をなし、カボチャが葉を広げている。今では沙恵が世話をするようになった菜園。それがあるために、かつては一分の隙もなかったはずの日本庭園が今やすっかり間の抜けたものに見える。  庭は、建物の礼服。重之はずっとそう考えてきた。伝統ある日本建築の格を、さらに高めるのが庭の役目だと。だから、志津子が若い時分からいくら花を育てたがっても、菊か、盆栽の梅か、せいぜい隅のほうに山野草を植える程度のことしか許してやらなかった。  だが、あの頃から志津子が望んでいたのは、いま目の前に広がっているような普段着の庭だったのだろう。季節の花が野放図に咲き乱れ、そこでとれた作物が毎日の食卓にのぼる庭。そんな豊穣の庭を中心に家族が集う日々こそが、彼女の夢見る幸せの形だったのだろう。数年前、池をつぶしたあとをどうするかという話になった時の粘りようといったらなかった。いやそれよりも、ついに肥えた土が運ばれてきて、庭が黒々とふくよかに姿を変えていくのを見守っていた間の、あの目の輝きといったら……。  散りかけの梅の木にメジロが来て、またすぐに飛び去っていく。  濡れて光っていた柿の種は、乾くとともに土の色にまぎれ、目をこらさなければそれとわからない。  そのうち、忘れた頃になって芽を出すかもしれない。種から育てた果樹のほとんどはたいした実を結ばないものだというが、まれに親より優れた実を結ぶ木が育つこともあるのだと、いつだったか志津子が言っていた。  桃栗三年、柿八年。  あの種がどんな実を結ぶにせよ——重之は、新聞をたたんだ。  もう、味見することはかなうまい。      *  こんなにもタブーがなくなったとされる世の中でさえ、性にまつわる問題は誰しも話しにくいものらしい。政治や金の問題は一般論のふりを装って語れるが、性に関してだけはそれが難しいからだろう。  復員してから後、重之が〈慰安所〉についていっさい誰にも話そうと思わなかったのも、半分は同じ理由からだった。その場所について話すことはすなわち、自分自身がそこに出入りし、一回一円五十銭也を楼主《ジヤグイ》に支払っては用を足した[#「用を足した」に傍点]ことを白状するようなものだったからだ。  だが、理由のもう半分は、正直、重之にもよくわからない。ただ、あの粗末な部屋と、そこに囚われていた一人の女を思い浮かべるとき、重之の記憶は一瞬で鮮やかな色付きに変わる。年々不具合の増していく、軸のゆがんだ荷車のような体の奥に、そこだけ少しも老いることのない無防備で柔らかな一隅が残されていることに気づかされて、もどかしいような息苦しいような思いに駆られるのだ。  当の彼女にとって、そんなものが何の慰めにもならないことはわかっている。ましてや、言い訳や詫びになどさらさらなり得ないことも。  自分はあくまで、根こそぎ奪い取った側の人間でしかないのだ。人として望んで当たり前のはずの、権利も、幸せも。  まだ初年兵だった頃、初めて古兵に連れられて行ったその場所は、日本軍がやってくると知って逃げた中国人たちの空き家を接収した建物だった。  入口のところには歩哨が立ち、〈陸軍軍人、軍属ノ外《ほか》 入場許サズ〉と墨文字の貼り紙があり、そして、『軍指定慰安所』と大きな看板がさがっていた。  軍人を慰め、安んじてくれる場所——と、いうことは……。  重之は勢いこんで訊いた。 〈何か旨いものでも食わして頂けるのでありますかっ〉  とたんに、一緒に行った中島という万年上等兵はそっくりかえって笑い出した。 〈ばかめ。まあ入れ〉  入ればわかる、と彼は言った。そのとおりだった。  長期の作戦などで部隊が移動していくと、その先々にも慰安所が作られることを、重之はやがて知るようになった。設営が間に合わない時には現地の村長がやってきて、姑娘《クーニヤン》を何人か用意するので好みを聞かせてくれ、というようなことをおそるおそる申し出ることもあった。遠回しではあったが、要するにそれは、人身御供を差し出すから他の者にはどうか乱暴をしないで欲しいという意味だった。  一方で、軍が定めた慰安所に置かれる女たちのほとんどは中国人ではなく朝鮮人だった。中国人が少ないのは、彼女らを通じて敵側に情報が漏れるのを怖れてのことだったが、日本人の慰安婦もまた滅多におらず、いたとしても将校専用の妾のような扱いである場合が多かった。そういう日本の女たちはたいてい内地の娼館などから自らの意思で来た商売女だったので、重之は初め、朝鮮人の慰安婦も皆そうなのだろう、手っとりばやく稼ぐために納得ずくで戦地へ来た者ばかりなのだろうと思いこんでいたのだが——。 〈私は、無理やりだたですよ〉  と、彼女は言った。 〈逃げたら殺すと言われて、無理やり連れてこられたです〉  日本名で「ヤエ子」と呼ばれていたその慰安婦は、通った鼻筋と黒目がちの瞳が印象的な、しっとりとした風情の女だった。下にアンペラを敷いただけの、ほんの三畳ばかりの部屋で、ヤエ子は派手な日本の着物を着せられて座っていた。国防色ばかりを見慣れた重之の目に、その色はまぶしいほど鮮烈に、刺激的に映った。  半島出身の慰安婦たちの中にはまだ子どもと言ってもいい年頃の少女も多かったが、ヤエ子はわりに年かさのほうで、聞けば数えで二十四、重之よりも二つ上だった。 〈妹と二人、市場で買い物していたですよ〉  二度目に体を合わせた日だった。終わって服を着ながら、何の気なしに身の上を尋ねた重之に、彼女は半ば背を向けて言った。 〈急に目の前にトラクが止まて、いいから黙て乗れと無理やり乗せられたです。ぴっくりして、私たち何も悪いことしてない、とうしてこんなことするですかと言たら、『言いたいコトあれぱ天皇陛下に言え』と言われたヨ。閉ちこめられて、列車で運ぱれて……着いたら襟に星二つのヒトに服脱げと言われて、イヤダと泣いたら叩かれて、あぱれても、あぱれても押さえつけられて……無理やり乱暴されたです。星二つのヒトのあと、兵隊。それからまた兵隊何人も。あとは気を失たから覚えてない〉  棒読みのような口調で一息にそう言われ、重之は何ひとつ言葉を返すことができなかった。それでなくとも狭い部屋の壁が、四方から迫ってくるような気がした。 〈私と妹、たけでない。ほかの娘たちの中にも、たまされて連れてこられた人、イパイいるヨ。工場の仕事ある、工場とか看護婦の仕事、それイパイいい仕事、儲かるから家族にお金送れるヨと言われて……。ても、みんなみんな嘘だたネ。トラクにイパイ朝鮮人の娘、ぜんぶでないたろけど、ほとんど、たまされて連れて来られたですよ。妹とも引き離されて、今ではもう、とこにいるかもわからない〉  ゲートルを巻く手が止まったままの重之を、ヤエ子はちらりと見た。そしてふいに微笑んだ。 〈ても、アナタ優しいネ、兵隊サン〉  驚いた重之が、どうして、と訊くと、 〈さっき私が、痛い痛いて言たら、スクやめてくれたから。ほかの兵隊サン、痛い痛い言てもなかなかやめてくれない。今日はもう痛くてできないと言うと、なら口でしろと言われる。あれなめろと言われる。私、犬でない。『チョセンチョセンと言ってパカにするな、天皇陛下みな同じ、私もヤマトナデシコよ』……そう言たら、笑われて殴られたヨ。ても私、なめなかた。殴られたけど、意地でも口開けなかた。私、犬でないもの。——兵隊サン、名前何ていうノ? え? シゲ・ユキ? そう、シゲユキ。イパイいい名前ネ〉  ヤエ子のいた慰安所は、煉瓦造りの大きな建物だった。入ってすぐがホールのようになっており、長い廊下の両側に部屋が並び、いつ行っても空気はよどんでいて、黴《かび》と、消毒薬と、女たちの脂粉が入り混じった曰く言いがたい臭いが充満していた。  入口には狐のような顔つきをした中国人のやりて婆がいて、金を支払うと、引き換えにセルロイドの札と一緒に〈突撃一番〉と書かれた衛生サックを渡してよこした。サック無しで女と接することは、軍から固く禁じられていた。不衛生極まりない環境のもとで兵隊たちの相手を続けるうち、慰安婦たちの多くは重い性病を患っていたからだ。  彼女らを公衆便所と称して憚らない連中がいる一方で、とくに経験のない若い兵隊たちの中には尻込みする者も多かった。こんな汚いところで女が抱けるか、馬鹿にしている、と怒り出す者。あとがどうしようもなく虚しくなるからと、一度だけで行くのをやめる者。重之自身、最初に古兵に連れられて行った時には、彼女らの待遇のあまりのひどさを直視できず、何もしないで逃げるように帰ってきてしまったものだ。  だが——例によって例のごとく——そうした感覚をいつまでも保ち続けることは難しかった。狭くて暗い部屋に閉じこめられ、来る日も来る日も兵隊の相手をさせられている女を、ならば自分だけは抱かずにいられたかといえばそんなことはないのだった。一人だけ慰安所へ行かないでいると仲間うちで爪弾きにあうから、だけではない。明日の命どころか、一秒あとの命も知れない作戦へと出発する直前、あるいは戻った直後など、重之はどうしようもなく女が欲しくなる自分を抑えられなかった。おれはまだ生きている[#「おれはまだ生きている」に傍点]、とにかくまだ生きている[#「とにかくまだ生きている」に傍点]、それを実感するには、女を抱くのが一番の早道だったのだ。 〈てもここは、前のところに比ぺたらまだマシネ〉と、ヤエ子は言うのだった。 〈前のところ、イパイイパイ兵隊いたから、休むヒマなかた。一日、二十人も、三十人も来たヨ。並んで順番待ていた〉  それが癖なのだろうか。どんな話をする時でも、たとえ涙をためている時でさえ、ヤエ子の口もとは微笑のかたちにゆるんでいた。  ヤエ子が生まれたのは、釜山の北部、大邱市の郊外にある貧しい農村だった。子どもの頃通った夜学校でも、日本語以外を話すと叩かれ、毎日、遠く天皇がおわすという皇居の方角を向いて拝まされたという。おまけにこの戦争が始まってからは、村の男たちが次々に駆り出されていった。日本軍兵士として徴兵される者もいたが、トラックに乗せられて無理やりどこかへ連れ去られていく者も多かった。内地の炭坑や軍需工場などで、死ぬまで働かされるのだという話だった。 〈私、パカだからよくわからないけど、天皇陛下に言えとゆなら、言たいことはイパイあるヨ。ても、とうやって会えぱいいかわからないノ〉  言いながら、ヤエ子は薄い肩を自分で抱くようにしてゆっくりと首を振った。 〈それでもここは、まだマシ。前は、こんなふうに兵隊サンと話すヒマもなかたヨ。一人五分。ハイ次の人。一人は終わて服着てる、一人は私の上にいる、一人はツポン脱いで待てる。……私と同じ朝鮮人の慰安婦、初め二十人も居たけど、半年の間に五人死んだ。お葬式? そなものないヨ、何もない。ただ山の中に埋められるたけ。それたけ。たれも気にしない。とうせスク代わり来るネ〉  ——どうせ、すぐ……。  同じだ、と思った。  やがて重之は、外出日を待ちかねて彼女のところに通うようになった。時には配られた饅頭や羊羹を食わずに取っておいて、隠して持っていってやったりもした。  想いの強さに、自分でも戸惑うほどだった。女に対してそんな感情を抱いたことなどついぞなかった。  歩哨に立ち、星のひしめく夜空を見上げていると、まるで蜜が歯にしみるかのように胸が甘く疼いた。ひとつだけ離れて強く光る星よりも、なぜか寄りそうように小さく瞬く星たちのほうに心は惹かれ、そんなとき重之は、いつかどこかの名もない田舎で、肩を寄せ合って平凡に暮らす自分とヤエ子の姿を夢想した。時には作戦中でさえ——銃弾がとびかっている間は別として——ふと気づくと、歩きながら、あるいは食べながら、寝ながら、彼女のことを考えている自分に気づく。それは、現実と夢が交錯するような、不思議で、残酷な感覚だった。耳もとを弾がかすめ、すぐそばにいる戦友が次々に撃たれて死んでいく。遺骨とするために切り落とした彼らの肘から先、ひんやりと重いその腕を何本も背中にしょって泥の中を進み、出くわした中国兵を友の仇とばかりに端から斬り殺す。地獄と煉獄を行き来するようなそんな日々の後で、かろうじて生きて戻り、再びヤエ子の血の通った体を胸に抱くと、ただその温かさと柔らかさが愛しくて、泣けて泣けて止まらなかった。 〈タイチョウプ、タイチョウプ、アナタまだ、全部は鬼でないネ〉  情けないとか、恥ずかしいとか思うより先に、次から次へ涙ばかりがこぼれてならず、重之は歯を食いしばり声を殺して哭《な》きながら、しかしその間だけは確かに生きている心地がした。ヤエ子の存在はまるで、自分を人間につなぎとめてくれる錨《いかり》のようだった。 〈私ネ。これでも、たんなさん居たヨ〉  あれは、何度目に通った時だったろう。それまでは訊いても言葉を濁してばかりいたのに、ヤエ子は何を思ったか、その日、一度果てた重之の下でふいに自分のことを話しだした。 (旦那さん……?)  鋭い痛みがしくりと胸を刺し、それを気づかれまいとして、重之はヤエ子の頭を抱えて仰向けになった。 〈私のたんなさん、ゆぴんきょく勤めてる人〉  恥ずかしそうに口をすぼめて、ヤエ子は言った。 〈親同士の決めた人、ても、とても優しい人だたネ。チュウナナの私、まだケコンしたくない言たとき、そんなら、お前チュウハチになるの待つと言てくれた〉何か楽しいことでも思いだしたらしく、彼女はふふっと笑った。〈優しい人だたヨ〉  重之は、黙って彼女の長い髪を指で梳《す》いた。 〈ても……もう会えないネ〉変わらず微笑みながら、ヤエ子は言った。〈あの人も、トラクに乗せられて、とこかへ連れていかれたヨ。とこにいるかわからない。もう生きてないかもしれない。生きてたとしても、もう二度と会えないネ〉 〈なぜ〉 〈たて私、こんなにカラタ汚れてしまたもの〉  ぐっと詰まって、ヤエ子は少し鼻声になった。 〈毎日、毎日……何十人も、何百人も兵隊サンの相手したヨ。連れてこられて二年もたつもの。兵隊サンは休みの日が楽しみだろけど、私たちには地獄ネ。カラタつらいし、痛くて腫れあがるヨ。痛くてするのイヤたけど、イヤと言えぱ殺される。逃げたいけど、怖くてとても逃げレない。自分で死のうとしたけど、それも怖くて死ねレない。……何でまだ生きてるかわからない。こうして息してるのフシキなほど〉  重之がそっと抱き寄せると、ヤエ子は泣きながら微笑み、細い腕をまわして額をおしあててきた。 〈優しいネ、シゲユキ〉  重之は黙っていた。これまで、何人の兵隊にそう言ってきたのだろうと思った。嫉妬からではない。そう口にせざるを得ない彼女が痛々しくてたまらず、そうさせる側にいる自分がいたたまれなかったのだ。  兵隊たちは——重之自身も——慰安婦のことを、ふだんから「朝鮮ピー」と呼んで蔑《さげす》んでいた。「ピー」とは中国語で性器そのものを表す隠語だったから、慰安所はすなわち「ピー屋」だった。  だが、 〈私、犬でないもの〉  植民地の人間でしかも慰安婦、という二重の鎖に縛られ、人としての扱いすら受けられないヤエ子らにとって、〈優しいネ、兵隊サン〉という言葉は、自分の身を守るための見えない鎧のようなものではないのか。〈天皇陛下みな同じ〉や〈私もヤマトナデシコよ〉と同じく、乱暴しようとする男たちに立ち向かう時のたった一つの楯だったのではないのか。  だが、それさえも多くの場合、何の効き目もなかったに違いない。しばらくぶりに会う彼女の頬にはよく、誰かに叩かれた痣が残っていた。  髪を梳く重之の指に、ヤエ子がふっと吐息をもらす。 〈……くにに、帰りたいか〉  訊いてから、残酷なことを言ったと思った。 〈ん。帰りたいヨ〉と、ヤエ子は言った。〈今スク帰りたい。……ても、もう帰れないネ〉 〈どうして〉と、重之は言った。〈この戦争が終われば帰れるだろう。その時まだおれが生きていたら、きっと送って行ってやる。約束する〉  枕から頭を浮かせて懸命に言う重之に、 〈ため〉ヤエ子は首を横に振った。〈帰っても、母さんたち悲しませるたけ。あの人を悲しませるたけ。こんな汚れたカラタ、もうこの家の娘でない、嫁でない、言われる。家の恥、近所の恥、お前なんか知らない、言われる〉  まさかそんな、と重之は苦笑した。 〈好きで来たわけじゃないだろうが。無理やりさらわれてきたんだ、何もお前のせいじゃない〉 〈それは、そうたけど〉 〈なら、堂々と帰ればいいだろう〉  ヤエ子は、再びかぶりを振って微笑んだ。 〈チョセンでは、そうでないノ。汚れたカラタは恥ネ。女でないも同じ。それにこの戦争、いつ終わるかわからない。終わるかとうかもわからないヨ。私は……たぷんこのまま、ここで死ぬの待つたけ。そうして、山に埋められるたけ。たれも気にしない。とうせスク代わり来るネ〉  ふうっと息をつき、彼女は小さく、哀号《アイゴー》、とつぶやいた。  声に出したとたんに気づいたのだろう。はっと口をおさえて重之を見上げる。 〈いいさ〉  と、重之は言った。  それでもまだ怯えてすくんでいるヤエ子の、牝鹿のように瞠《みは》った目を見ているうち、何か自分でも正体のつかめない、じっとしていられないような気持ちがつきあげてきて、重之は彼女の頭を胸にきつく抱き寄せた。  誰も気にしなくなんかない。お前がいなくなったら、おれが気にする。このおれが……。 〈いいんだ〉と、重之は言った。〈おれとの時は、『哀号』でかまわん。ただし、他の奴の前では気をつけろよ。聞かれたら、それだけでひどい目にあわされるぞ〉  腕の中でおずおずと頷く、その頭のあまりの小ささが哀しかった。 〈シゲユキ〉と、ヤエ子がささやいた。〈シゲユキは、奥サンいないの?〉 〈——いる〉  答えるまでに間があいたのは、躊躇したからではない。重之にとって、晴代の存在はそれほど希薄だった。 〈コドモは?〉 〈いる、らしい〉 〈らしい?〉 〈おととしの夏ごろ、手紙が来た〉  どうやら九月に別れた時点でもう身ごもっていたらしく、晴代が男の赤ん坊を産み落としたのは翌年の半ばだった。水島家の初孫は、重之の父親によって〈克己〉と名づけられたという。 〈ときどき写真も送られて来るんだが……〉  いくら見てもさっぱり自分の子という実感が湧かんのだ、と重之が言うと、ヤエ子はめずらしく声をたてて笑った。 〈そんなこと言て、するコトはチャンとしたんでしょに〉 〈まあなあ〉  生きて戻れば、あの写真の子どもを可愛いと感じるようになるのだろうか、と重之は思った。血を分けた息子だというだけで愛しさが湧き、やがてはその子を産んだ晴代にも愛情を持てるようになるのだろうか。 〈お前こそ、旦那との間に子どもはいなかったのか〉  とたんに、ヤエ子の顔から微笑が消えた。 〈いたけど……たた二つで死んでしまた〉と、小さな声で彼女は言った。〈私は、パカな母親で。ほんとに、パカな母親で。私の娘、死んだの私のせいネ〉  黒々とした目に、みるみる涙がたまっていくのを見て、重之はうろたえた。 〈お前のせいとは……?〉 〈日本のコトパで、何という病気かわからない。ほんのちょと怪我しただけ。外で転んで、膝小僧に怪我したヨ。私パカたから、そんなのスク治ると思た。貧乏でオカネないから薬もつけてあげレないけど、それくらい、なめとけぱスク治るて。ほんと、血もスク止また、傷もスクふさがたヨ。けど……〉  突然、ヤエ子は押しつぶされたような呻き声をもらした。 〈とうして私の娘、それから十日もしないうち死んでしまた。なんだかヘンな顔で笑うネ、ホペタゆがめて大人みたいに笑うネと思てたら、そうじゃなかたノ。笑てるのじゃなかた。それ、病気の証拠。あとでお医者サンに言われて初めてわかたヨ。ても私パカたからそれ知らない、笑てるとぱかり思てたから何もしなかた、そしたらあるパン、急に弓みたいにそくり返て、カラタつぱて、つぱて、固くなて……アというまに死んでしまた。ほんとに、アというま……〉 〈——破傷風、か〉 〈日本のコトパ、そういうノ? わからないけど〉  涙をてのひらで拭った彼女は、重之を見て、それでも微笑もうとしてみせた。 〈私パカたから、とうしていいかわからなかたヨ。弓みたいにつぱてウンウン唸てる娘かかえて、お医者サン遠いトコロ、走ていて、助けてくたさい、助けてくたさい言たけど、もうタメ、手遅れて言われた。とうしてもっと早く来なかたかて怒られたヨ。ても私パカたから、死ぬなんてわからなかたノ。膝小僧の怪我で、死ぬなんて思わなかたノ。ても娘、アというまに死んでしまた。みんな、私がパカのせいネ〉  ヤエ子の目尻からあふれたものが、こめかみを伝わり、敷物の上に落ちて、はたりとかすかな音を立てる。 〈たから、私ネ〉その涙のしみを見つめて、ヤエ子は言った。〈ここで、とんなにつらいコトがあても、チプンに言て聞かせてるノ。こんなの、全然つらくない。あのときの娘のほが、もとつらかたヨ。もと痛かたヨ。もと苦しかたヨ。そうチプンに言て聞かせて、カマンする。それに、もしこのまま私、ここで死んでも、死んだら娘に会えるネ。会えたら……〉  と、扉が激しく叩かれた。 『おおい、早くしろぉ!』  いつのまにか廊下に次の兵隊が来て待っていたらしい。 『やけに手間暇のかかる奴じゃのう!』  知らぬふりをして、 〈会えたら?〉  と促すと、ヤエ子は、泣き疲れたようにほうっと息をついた。 〈会えたら……。うんと謝るヨ。こめんねえ、て。パカなオモニで、こめんねえ許してねえ、て泣いて謝る。てもこれからは、イパイイパイ一緒にいられるねえ、て〉 『おおい、何をしとるか!』  重之は起きあがり、脱いであった袴下《こした》をつかんで立ちあがった。  ふと、振り返る。部屋の隅に置かれた赤い消毒液で足の間をすすいでいるヤエ子の背中へ、 〈なあ〉  彼女は首をねじってふり向いた。 〈ハイ?〉 〈お前、名前は何というんだ〉 〈え?〉彼女は曖昧に笑った。〈やあネ、ヤエ子でしょ〉 〈そうじゃなくて、本当の名前。親からつけてもらった名前は、何というんだ?〉  みるみる真顔になった彼女が、重之を見つめる。  切れそうなまなざしだった。 〈ほかの誰にも言わんから〉と、重之は言った。〈お前さえよかったら、教えてくれないか〉 『おおい、まだか!』と怒号が響く。『いいかげんにしろぉ!』 〈——ミジュ〉  と、彼女は小声でささやいた。  それから今度は、はっきりと声を張って言った。 〈姜美珠《カンミジユ》〉  重之は、その名を口の中で転がしてみた。 〈……うん。いい名前だな。イパイ、いい名前だ〉  微笑んだ彼女が、早口に何か言った。 〈なんだって?〉  彼女は裾を合わせて座り、ゆっくりと瞬きをして繰り返した。 〈カムサハムニダ。——アリガトウ、という意味ネ〉      *  とっくに頼子を通じて断ったはずの話が、また蒸し返されるとは思いも寄らなかった。  ただし、今度は頼子の口からではなかった。わざわざ頼みにやってきたのは、いわば当事者の一人ともいえる孫の聡美だったのだ。  週末、学校が休みの土曜日に訪ねてきた聡美は、誰に言われなくとも黙って仏壇の前に座り、祖母に線香をあげた。ぎこちない仕草と神妙な横顔がいじらしく、重之は我知らず笑みをこぼした。  嫁は可愛くなくとも孫は可愛いというのはどういうことだろう。そう思いかけて、いや、違うな、と思い直す。孫でさえあれば誰でも可愛いわけではない。げんに、会ったこともない暁の子どもたちは別としても、初孫であり聡美の兄である政和をここまでいとおしく思ったためしはない。可愛い孫は、可愛い。それだけの話だ。 「なんだか、早いねえ」向き直った聡美がしみじみと言った。「もうじき一年たつなんて」  おばあちゃんが死んでから、とはっきり口に出さないところが、この子らしい気遣いだった。 「あれ? お線香、変えたんだ」 「ああ、沙恵がな。ずっと同じじゃ仏さんも飽きるだろうとさ」  聡美は笑った。 「うん、いい匂い。おばあちゃんの好きそうな匂いだね」  何だろうこれ、ラベンダーかな、と言いながら鼻をうごめかせる。  だいぶ元気になったようだ。先月、今にも倒れそうな様子でここへ来た時はどうなることかと心配したが、やはり芯の強い子だった。あのとき具合を悪くした友だちとはきちんと話をしたらしく、二人に暴行を加えた連中のほうも、行為にふさわしい罰を受けることになると聞いている。彼らを告発することにどれだけ勇気が要ったか、この子の母親はわかっているのだろうか。もとより、父親は——。 「そういえば今朝、お父さんがね」  言い当てられたようなタイミングに、驚いて目を上げた。 「なんか、『今思えば大工も良かったな』だって」  重之は眉を寄せた。「何を、今ごろ」 「知らない。朝ごはん食べながら私が、今日おじいちゃんのとこ行くんだって言ったら、なんか黙ってもぐもぐ考えててさ。それで急にそんなこと言うから、お母さんもびっくりしてたみたい。そのまんま、今日も畑行っちゃったし。まあ挙動不審っちゃ挙動不審なんだけど……でも近頃のお父さん、前までのお父さんよりはわりといいんじゃないかな」  本人には言ってないけどね、と、聡美ははにかんだように笑った。 (大工も良かったな、か)  重之は、てのひらに目を落とした。銃剣を、再びかなづちに持ち替えたこの手——この手で、いったい何度、貢を叩いたことだろう。  日本の敗戦が決定し、武装解除を受けたのが武勝関付近。やがて復員した重之を待っていたのは、ついに顔を見ることもなかった赤ん坊の小さな位牌と、相変わらず表情の動かない妻の、赤の他人を迎え入れるかのようにこわばった体だった。  無事の帰還を泣いて喜んだ両親までが、ほどなく息子をもてあますようになっていく中で、重之はひたすら押し黙り、ほとんど何もせずにその年を過ごし、ほんの時折り、ただ男の衝動にまかせて、罰か腹いせのように晴代を抱いた。背中を向けて眠りに落ちようとする間際、晴代が洟をすする音が聞こえても気づかぬふりを押し通した。  何もかもが神経にさわった。何もかもがわずらわしく、むなしかった。夕餉の匂い。湯舟を満たす熱い湯。糊のきいた浴衣に、陽光に温められた布団。まるで何ごとも起こらなかったかのごとく過ぎていく日常こそが異様に思え、しかしやがてそれにも慣れていこうとする自分に気づかされると、胃に穴があきそうなほどの苛立ちに襲われた。  さらに耐えがたいのは、すぐ裏の家に復員してきた若い男がしょっちゅう大声で歌う一つ覚えの軍歌だった。 〈出てこいニミッツ、マッカーサー 出てくりゃ地獄に逆落《さかお》とし……〉  頭の中にまだ鉄の破片が入ったままだという彼は、日本が負けたことをいくら聞かされても忘れ、時に暴れた。 〈出てこいニミッツ、マッカーサー 出てくりゃ地獄に逆落とし……〉  傷の付いたレコードのような息子を叱りつけ、あるいは哀願するようにして止める母親の声には、すでに捨てばちなあきらめの響きが混じっていた。  貢が生まれたのは、敗戦から五年後のことだ。  今度は確かに自分の子だという実感があったにもかかわらず、重之はほとんど手を触れもしなければ、顔を覗き込みもしなかった。むずかる赤ん坊を抱きあげたりなどして、うかつにあやしたが最後、何かとらえどころのない触手のようなものにからめとられ、有無を言わさず深い淵に引きずりこまれてしまう気がした。そこはきっと居心地がいいだろう。柔らかに積もった水底の泥に体を横たえていれば、今は決して忘れるつもりのない記憶も、身の内に抱え込んだ罪の意識も、さほど時もおかずに薄れてしまうだろう。傷は癒え、痛みは遠のき、やがて——。それだけは、許せなかった。断じて、自分に許すわけにはいかなかった。  何も知らない晴代は、夫が息子を抱こうとしないのは、そもそも妻である自分が疎まれているせいだと思っていたらしい。無理もない。  初めて二人に手をあげたのは、貢が三つになるやならずの時だったか。日に日に口が達者になり、耳に入る大人たちの言葉を端から真似しはじめた頃だ。その朝、いつにも増して生々しい悪夢にうなされ、しとどに汗をかいて目を開けた重之の耳に、ふすまの向こうから舌足らずな歌声が聞こえてきた。 〈でてこいニミッツ、マッカーサー でてくりゃじごくにさかおとし……〉  あのとき胸の内から溶岩のようにせり上がってきた感情をどう名づけていいのか、重之にはわからない。次の瞬間、重之はけだものの唸り声をあげて隣の部屋に飛びこんでいた。  我に返った時には、壁際にどこかの子どもが転がっていた。  どこかの、ではなかった。貢だった。  泣き声を聞きつけて飛んできた晴代が、息子をかかえこんで怯えたように身をすくませる。だが彼女は夫を咎めようとも、たしなめようともしなかった。ただ腫れぼったい目を重之からそむけ、嵐が過ぎるのを待つかのように震えているだけだった。それがますます癪《しやく》にさわった。荒々しく渦巻く感情に突き動かされるままに、妻の背中を足蹴にし、手が痛むほど打ちすえながら、重之の脳裏には初年兵時代の上官どもの顔が、今そこにいるかのように浮かんだ。止まらなかった。この手で突き刺した捕虜の顔が浮かんだ。止まらなかった。目の前で死んでいった戦友たちの顔が浮かんだ。止まらなかった。  ……そんな幼い時分のことを、貢が覚えているかどうかはわからない。いずれにしろ、彼はあまり父親になつかなかったし、それで当然だと重之は思う。  皺の寄った指先に目をこらす。右手の三本指、関節と関節の間に、いまだにうっすらと残っている白っぽい傷跡。貢が五つの頃、高熱からひきつけを起こした時、舌を噛ませまいととっさに口に手をつっこんだ結果がこれだった。  皮肉なものだ。わけもわからず軍歌など歌っていた貢が、それから二十年もたたないうちに拳を突きあげて安保粉砕を叫ぶようになろうとは。  あのころの彼らの〈闘争〉は、重之の目にはまるで、祭り好きの若者たちの馬鹿騒ぎのように見えた。 〈これは俺たちの戦争なんだ〉  などと、どこかで借りてきたようなセリフを振り回す貢を、思わずカッとなって怒鳴りつけたこともある。 〈戦争、だと? 軽々しく口にするな! 徴兵もない、命もめったに取られん、途中で抜けても構わん、好きな時にやめて家に帰れる。そんな戦争がいったいどこにあるか!〉  それを聞くと、貢はますます息巻いた。 〈親父たちのその特権意識が鼻持ちならないんだよ! 戦争を知ってる世代だけがさも特別みたいに、人を見下して、自分らばかりで固まってやがる。そんな終わっちまった年寄りどもに、これからの日本を任せとくわけにはいかないんだよッ〉  あの貢が、なんと、もう定年後を考える歳とは恐れ入る。  まあ、それなりに仕事以外の張り合いを見つけられて良かったのだろう。折りにふれて頼子の字で送られてくる野菜は、しっかりとみずみずしい香りを持った、昔の野菜の味がする。今思えば大工も良かった、という貢のつぶやきは、案外、誰に使われるのでもなく自分で自分を使う日々の中から生まれた素直な感慨なのかもしれない。  だが、それにしても情けなくはないか。学生時代あれほどえらそうに騒ぎまくっておきながら、今、あの世代の連中はいったい何をしているのだ。本当に国を憂えていたというのなら、この国が、なしくずしに再び戦争のできる国へ変わっていこうとしている今この時に、なぜもう一度立ち上がって声をあげようとしないのだ。ばかどもめが。 「おじいちゃん?」  呼ばれて、目を上げた。聡美がのぞきこんでいる。 「どうしたの?」 「何が」 「なんか、怖い顔してるから」 「そうだったか。いや、何でもないさ」 「そう? じゃあ……」聡美は何やら居住まいをただした。「ひとつ、お願いを聞いてくれる?」  目で問う重之に、 「こないだ、お母さんからも話がいったと思うんだけど」ひどく真剣な顔で、彼女は言った。「じつを言うとね、おじいちゃんのこと先生に推薦したの、私なの」  驚いたが、重之は黙って先をうながした。 「前にほら、たしか私が中一くらいの時だったかな。おばあちゃんが話してくれたことあったでしょう。戦争中、港で船の絵を描いてた学生さんがスパイと間違われて引きずられていって、とうとう戻って来なかったこと。その頃おばあちゃん、その人のことちょっと好きだったから悲しくていっぱい泣いたって。おじいちゃん、あのとき私に言ったよね。『こういう時代に生まれて、好きな絵を好きなだけ描けるお前は幸せだ』って。あれで、私、生まれて初めて考えたんだよ。そうか、そんなこと、今じゃ当たり前でしかないけど、そういう当たり前のことが許されなかった怖い時代があったんだなあって。学校で習ってはいたけど、ほんとに自分の頭で考えたのはあれが初めてだった。でね、その話を先生にしたら、ぜひおじいちゃんに話を聞かせてほしい、って……。それでこういうことになったわけ」  重之が口をつぐんでいると、聡美は少しおずおずとした口調になった。 「勝手なことをって怒ってる? そりゃね、私だっておじいちゃんが人前で話すのあんまり得意じゃないことくらいわかってるの。でも、うちのクラスがこういう形で一つにまとまるのなんて、ほんとに初めてなんだ。お母さんから聞いてるかしれないけど、最初は男子が靖国神社のこと言い出して、それで何だっけ……セーキョーブンリ? とかのこと教わって、むかし日本が朝鮮を植民地にしてたこととか、真珠湾の奇襲のこととか、いろいろ原爆の話とかが出てくるうちに、可奈子が——あの、こないだの友だちね、彼女が、『でもアメリカじゃそんなふうには教わらなかった』って言ったの。ほら彼女、ずっとあっちにいたから。可奈子がいた学校では、長崎とか広島の原爆のこと、そりゃ悲惨なことではあったけど、あの場合は仕方のないことだったって感じで教えてたんだって。アメリカが原爆を落としたからこそ日本が降伏して、そのおかげで長い戦争が終わったんだから、アメリカは正しいことをしたんだ、って。それ聞いたとたん、何ていうの? みんな一気に盛り上がっちゃったっていうか、火がついちゃったっていうか……ちょうどもうすぐ学園祭だし、クラスの研究発表それでいこうってことになったわけ。そりゃね、中には醒めてる子もいるよ、いるけど、ほとんどがちゃんと真剣になってるの。戦争のこときちんと知りたいっていうか、このまま無関心でいちゃいけないって気持ちになってる。なんかうまく言えないけど、とにかくみんな、初めてなんだよ。こういうふうに自分から何かを知りたいと思ったのなんて」  庭先から電話の鳴る音が聞こえてくる。開け放った縁側の向かい、事務所に使っている離れからだった。二度目で途切れて、受け答えする沙恵の声がかすかに聞こえる。  重之は、低く言った。 「お前たちの聞きたい話なんぞ、おれにはできんぞ」 「聞きたい話? どういうこと?」 「お前たちは、あれじゃないのか。向こうが向こうの正義を振りかざすなら、こっちにはこっちの、というような話を聞きたいのじゃないのか。それだったら、おれにはできん、てことだ。おれは米兵とは直接戦っとらんし、知っていることといったら、日本が大陸でどういうことをしてきたかだけだ。それも、聞けば吐き気のするような話ばかりだ。そんなもの、わざわざ聞きたくもなかろ」 「え、なんでなんで?」と、聡美は身を乗り出した。「聞きたいよ。そういう話って、学校で絶対教えてくれないもの、なおさら知りたい。ねえ、お願い、おじいちゃん。もし、教室とかみんなの前で話すのがいやなら、ほんの何人かだけでこの家に来るから。それ録音しておいて、後からみんなで聴いたっていいんだから。ね、お願い。聞きたいの。本当のこと知ってる人の口から、今のうちにちゃんと聞いておきたいの」  重之は、畳の目を見つめた。熱くなった聡美が無意識に口にした最後の言葉に、否応なく、残り時間の少なさを思わされる。  そう……それはもう、あまりに少ない。落ちていく砂粒が目に見えるようだ。  だからこそ、おそらく曾根原たちもああして、年に二度までも集まる機会を持たずにいられないのだろう。戦友会と称しては皆で集まって、昔の思い出を美々しく語り合うか、互いの傷をなめ合うか……。いや、責められはしない。かつて自分のしてきたことが間違いだったなどと認めるのは、人生そのものを否定されるようなものだ、誰だって怖ろしい。その場に出れば自分も同じようにそこへ混ざり、同じようにうやむやに振る舞ってしまうだろうとわかっていたからこそ、重之は去年のあの日まで、ただの一度も戦友会なるものに出たことがなかったのだ。 〈ばんざあい……〉  小さく嘆息して、庭へ目をやる。 〈ばんざあーい……ばんざあーい……〉  蹲《つくば》いの脇に植わった紫の小菊が、いつのまにか二、三輪ほころび始めている。      *  敗戦直前の激戦地となったサイパンには、奇妙な名で呼ばれる崖があると聞く。バンザイクリフ。生きて虜囚の辱めを受けずの戦陣訓を叩き込まれた日本軍兵士たちや老人、女子どもまでが、口々に万歳、万歳、と叫びながら身を投げた崖なのだという。  だが、地名にまではならずとも、同じように万歳万歳で死んでいった兵士たちはあの当時、各地に何万といた。日本敗戦を知るやいなや、手榴弾のピンを抜いて集団自決した小隊もあれば、互いに撃ち合って死んだ者たちも、切腹して果てた者たちもいた。いや、日本兵ばかりではない。重之自身が手にかけた捕虜の中にも、「中国万歳!」と叫んで息絶えた者が幾人もいたのだ。  だから重之は、いまだにその言葉を聞くたび、どうしようもない拒絶反応を覚える。電車のホームなどで、見送りの集団が両手を挙げて万歳三唱するのを聞くだけで、胸の内側がざらりとささくれだつような苦い思いに駆られる。いったい、何が万歳で死なねばならなかったのだ。死んで万歳があるものか……。  曾根原からの電話に出なかったことの、思えばそれも、理由のひとつだった。  十六、七で志願するつもりだったのを、母親に泣かれて徴兵まで待ったという曾根原光夫は、荻窪の豆腐屋の次男坊だった。同期の中では一番親しくなった気のいい男だったが、戦後勤めた会社で上司の派閥争いに巻き込まれ、左遷同様にブラジルへ行かされてからは、互いにせいぜい年賀状のやり取り程度の付き合いになっていた。歳月というものはそういうものだ。  その曾根原が帰国したのは、一昨年のことだった。現地で永住権まで取ったものの、つれ合いを亡くし、子どももいなかった彼は、骨を埋めるならやはり日本がいいのだと言って寂しく笑った。頼れる先はただひとつ、六十半ばを過ぎた末の妹が一人暮らしをしている新潟だった。さぞかし寒かろうし、今さらろくな仕事にはありつけまいが、妹と二人して質素に暮らせば、くたばる頃にちょうど貯金がなくなる計算だ、と。  そうして、去年の夏。曾根原は、戦友会の集まりに重之を誘った。一度も出たことがないと話しても、そんなのが理由になるかと言って引き下がらなかった。  今じゃ鬼籍に入った者のほうが多いというぞ。今年会えたからといって来年会えるとは限らぬのだぞ。  脅したりすかしたりの電話攻勢に閉口していると、とうとう志津子が笑って言った。 〈きっぱり断ってしまえないのは、あなたも少しは迷っているからなんでしょう。そんなに誘ってくださるんなら、いっぺんくらい行ってくりゃいいでしょうに〉  横浜の、中国人の家族が経営する料理店の二階に、一番若くて七十代半ばという老人ばかり三十人ほどが集まった。中隊の五分の一にも満たない人数だった。  すぐに思い出せる顔も、そうでない顔もあった。当時、重之たち新兵によくしてくれた上等兵は肌の色つやも良く元気そうだったが、彼と再会できた嬉しさよりも、さんざん靴底で殴ってくれた班長と小隊長が、この春、相次いで死んだと聞かされたショックのほうがなぜか大きかった。 〈恨み言のひとつくらい、聞いてからいくもんだ〉  ぼそりと言った重之に、墨田の鉄工所のせがれだった有沢という男が黙って酒をついでくれた。  いざ出てみれば、そんなに悪いものでもなかった。尻込みなどしていないで、もっと早く来ればよかったと重之は思った。どういうつながりであるにしろ、古い友人と会うのはいいものだ。同じ時間を共有した者にしかわからない言葉、わからない空気、わからない痛み。そういうものは確かにある。  長々と連なる座卓には料理や点心が所狭しと並べられていたが、何しろ入れ歯の年寄りばかりだから、そうは減らない。誰も彼もろくに食わずに飲んでばかりいるせいで早々とできあがり、隅のほうでは数名が大声で、お定まりの軍歌を歌い始めた。  と、曾根原が鼻から大きく息を吸い込んだかと思うと、ふいに立ちあがった。驚いて見上げた重之の横で、彼は大声で叫んだ。 〈天皇陛下、万歳! 万歳! ばんざあい!〉  勢いよく両手を挙げるたび、古びた背広の脇が引きつれて、縫い目がほつれているのが見えた。向こうの歌声が、万歳に調子づいて大きくなる。  いったいここを、誰の店だと思っているのだ。  なおも叫び続けようとする曾根原のベルトをつかんで、 〈やめろ〉重之は無理やり座らせた。〈店に迷惑だ〉 〈なに、聞こえるものか〉 〈いいからやめとけ〉  曾根原は、むっとしたように押し黙った。 〈変わらんなあ、こいつも〉  と有沢が苦笑する。  そういえば曾根原は昔から酒癖が悪かった。外出日のたびに酌婦などを相手に酔って暴れては、やってきた憲兵に殴られたり木に吊されたりしたものだ。ふだんはじつに真面目な男で、朝になって酔いがさめれば自分が悪かったと言って泣いて謝るのだが、飲めばまた同じことのくり返しだった。 〈ま、変わらんのはわしらも同じか〉すっかり髪の白くなった有沢は、痩せた頬をゆがめて酒をすすった。〈いまだにこうして集まっては、愚痴をこぼし合うのがやめられん〉 〈そうは言うけどもなあ〉  と、横から米田が口を挟んだ。同期の中で士官学校に進んだのは、大学の夜間部を中退して入隊したこの男ともう一人だけだった。 〈そうは言うけども、集まるしか仕方がないじゃないか。周りにはもう、あの頃の話がまともにできる相手がろくにおりゃせんのだから〉  そうだあ、そのとおりぃ、と曾根原が間延びした合いの手を入れる。 〈そうかと思えば、ケツの毛も生えそろわんような青二才どもが、訳知り顔であれこれ言いやがる〉米田は骨と皮の腕をまくりあげて、いまいましそうに舌打ちをした。〈こないだなんぞ、夜中に眠れんでテレビをつけたら、うちの孫ほどの若造がえらそうに、何と言ったと思う。『天皇や軍上層部に責任があるのは当然だが、ひたすら流されて突き進んだ兵隊や国民の一人ひとりにも戦争責任はあるはずだ』。そうほざきやがった。俺はもう、腹が立って腹が立って腹が立って〉  有沢が、またふっと頬をゆがめた。 〈そういう時代ではなかったのだ、と……言っても伝わらんのだろうな〉  重之は黙っていた。  そういう時代ではなかった——確かにそうだ。 (おれは殺したくなかった)  これまで、胸のうちで何度そうくり返してきたかわからない。 (命令されて仕方なくやったのだ。抵抗など許されない時代だったのだ) (戦争だったのだから仕方ないじゃないか) (それが戦争というものだ)  だが、悪夢は去らなかった。それはもしや、そんな理屈に自分自身が納得していないからではないのか。ほんとうはどれも言い訳に過ぎないことを、自分がいちばんよく知っているからではないのか。 『徐州、徐州と人馬は進む……』  歌が、「麦と兵隊」に変わった。 〈おう、それはそうと水島〉と有沢が言った。〈お前のとこは、孫はいるのか〉 〈ああ、いるとも〉ようやく当たり障りのない話題になってほっとしながら、重之は言った。〈愚息どもの子が、合わせて四人もいる〉 〈息子ってのの顔は知らんがなあ〉と、曾根原が回らぬ舌で言った。〈こいつのとこは、娘がまあ、二人っとも若くてえらいべっぴんで。なんでも二度目の女房とこさえた子なんだと〉 〈ほーう、そんなにべっぴんか〉と有沢が笑う。〈てぇことは、女房がよほどの美人《シヤン》てことだな〉 〈やかましい〉  重之は苦笑いしたが、悪い気分ではなかった。 〈そういや、こいつは昔から女にゃもてたもんだ〉曾根原が、にやにやと身を乗り出した。〈何といったかほれ、あの慰安所《ピーや》の……ああ、思い出したぞ、ヤエ子だ、ヤエ子〉 〈お前、昔のことはよく覚えとるなあ〉  と有沢があきれたような声を出す。 〈そりゃあおめえ、めっぽう様子のいい女だったもの。俺なんかはうっかり、いっぺんめに花子って炭団《たどん》みてえなピーのとこで済ませちまったもんで、次からそいつのとこにしか上げてもらえなくなっちまった。ほれ、あの頃はピー同士でも仁義みたいなもんがあったろ〉とたんに曾根原はしな[#「しな」に傍点]を作った。〈アナタは花子サンとこテショ。なんてな〉  やめろ、と言った声が、のどにからんだ。 〈その点、水島ははなっからヤエ子に当たって運が良かったよなあ。おまけに惚れて惚れられて〉 〈……やめろ〉 〈見る見る一毛銭《イーモーチエン》、やるやる五毛銭《ウーモーチエン》〉  曾根原が歌うように節をつけて言うと、米田が笑い出した。 〈そうそう、たしか一円五十銭だったか〉と懐かしそうに言う。〈小隊長が淋病うつされたとか噂が飛んでたなあ。痛そうにガニ股で歩いとったから、ありゃ本当だったんだろうな。俺なんか怖いからチンポコの先から|六○六号《ロクロク》入れて、それからピー屋に行ったもんだ。おう水島、どうせお前なんぞは毎回ロハでやらせてもらってたんだろうが、ええ? 白状してみろこら〉 〈やめろッ!〉  まわりの数人が驚いたように重之を見た時だ。  歌が再び変わった。 『貴ッ様ァと俺とォーは同期の桜……』  隣で曾根原が、また鼻から大きく息を吸い込んでふらりと立ちあがりかけるのを、重之は腕をつかんで引き据えた。 『咲ァいた花なら 散ィるのォは覚悟  みィごと散りまァしょ 国のため』  歌声は、一人加わり、二人加わって大きくなっていき、ついには広間のほとんど全員が腕を振って拍子をとり始めた。 『血ィ肉わけたァる 仲でェはないが』  米田が有沢の肩にがっちりと腕を回す。 『なァぜか気が合うて 別られぬ』 〈ばんざあーい!〉  とうとう、曾根原は座ったまま大声をはりあげた。 〈ばんざあーい!〉  見ると、その目のふちは真っ赤だった。酒のせいばかりではなく潤んでいた。 〈ばんざあーい! ばんざあーい!〉  やめろ……と、言えなかった。かといって、席を蹴って帰ってしまう勇気もなかった。  ——来たのが間違いだったのだ。  有沢までが目を閉じ、かすかに眉を寄せて歌い始めた横で、重之はひとり、口を結んで座り続けていた。      *  娘たちに聞かせるとまたうるさいと思って黙っていたのだが、この夏、外から戻るなり玄関先にへたりこんでしまったあの日、ほんとうは兆候らしきものはあったのだった。朝のうち、裏の材木置き場でラジオをつけながら作業していた時のことだ。  視線をわずかに動かすだけで、あたりがぐるりと回転する。汗もじっとりと冷たい。どうもおかしいとは思ったが、かといって痛むところもなければ熱もなさそうだったので、気の持ちようだと、昼からはそのまま現場へ出かけた。自分の体力を過信しすぎるという嫁の指摘は、癪ではあるが当たっているのかもしれなかった。  医者がえらそうな寝言をほざいて帰っていった後、重之は、仰向けになって天井を見上げながら、誰にも聞こえない歌を耳の奥で聴いていた。今朝、ラジオからふいにこぼれだした懐かしい旋律。 〈アーリランアーリランアーラーリーヨー……〉  最初の目眩《めまい》が襲ってきたのは、あの直後だった。それを思うと、まるで彼女が連れにきたかのようにも思え、そして、あまりの手前勝手さに苦笑した。 (あいつに、わざわざおれを迎えにくる義理など無いわな)  重之の腕に頭をのせ、部屋の外に聞こえないように小さく歌ってくれたミジュを思い出す。何かひとつ、故郷の歌を教えてくれと頼んだ時のことだった。 〈アーリランアーリランアーラーリーヨー……アーリランコーゲーロォノーモガンダー……〉  聴き終わって意味を尋ねると、彼女は言った。 〈アリラン峠を越えてゆく 私を置いてくあのヒトは 十里も行かずに足が痛むよ……とゆうよな意味。ても、よりによて、こんなの歌てるの聞かれたら殺されるネ〉  朝鮮の言葉のせいかと思ったのだが、 〈それたけでないヨ〉と、ミジュは言った。〈これは、とても古い歌。昔、お城つくるとゆので、無理やり連れられてく夫を見送た女の、悲しい歌。好きなヒト想う歌だけど、とうじに恨《ハン》の歌、抵抗の歌ネ。ツットツット昔からあた歌だけど——よく歌わレるよになたの、このごろヨ〉  哀しい歌だと重之は思った。哀しいけれど、強さを裡に秘めた美しい歌だと思った。  まるで、ミジュのようだ。そんな歌が生まれる彼女のふるさとも、きっとどんなにか美しいのだろう。二年前、軍用列車で運ばれてくる時は、ゆっくり景色を眺めるような余裕もなかったが。 〈小さい頃、オモニが教えてくれたヨ。チョセンは、朝がイパイイパイきれいから、それで朝鮮というノと〉  言いながら、彼女は夢見るように微笑んだ。 〈赤いコーリャン畑にお日サマ昇ると、白いちょうちょイパイ飛ぶ。イパイイパイきれいネ。シゲユキにも見せてあげたいほど……〉  ミジュが死んだ時のことを、重之は人づてにしか知らない。討伐作戦に駆り出されていて、長く留守だったからだ。  一部始終を聞かせてくれたのは、仲間の慰安婦だった。  その前の日、慰安所には新しく十三歳の少女が連れてこられた。彼女を入れる部屋の消毒が終わっておらず、とりあえずミジュと一緒に押し込められていた小さな少女は、翌日、やってきた兵隊に生まれて初めて犯された。ミジュが止めに入ろうとしたが、むろん無駄だった。少女の悲鳴があまりにもうるさいというので、男は口を手でふさぎながら犯し続け、そして、終わった時には少女は目を開けたまま死んでいた。ショックのせいか窒息死かはわからなかった。 〈ぺつに、珍しいことではないヨ〉と、仲間の慰安婦は言った。 〈そゆふにして殺された女、タクサンいる。彼女だてタクサンタクサン見てきたはず。なのに、その子がぽろきれにくるまれて、運ぱれていくの見たとたん、彼女あたまヘンなようになって……〉  とつぜん叫ぶような泣き声をあげると、ミジュは母国語で激しく罵りながら男につかみかかった。殴られても、蹴られて土間に転がされても、そのたび起きあがってはつかみかかっていき、とうとう三人がかりで押さえつけられて縛り上げられ、庭の木に吊された。軍刀を突きつけた男が、もう二度と逆らいません、朝鮮語は話しません、そう誓わなければ殺す、と言うと、ミジュはその顔に唾を吐きかけた。 〈殺したいなら殺せ。私の名前、ヤエ子でない、姜美珠! 姜美珠! 犬畜生は私たちでない、あんたたちだ! このチョッパリ! ウェノム!〉  それきり、こときれる瞬間まで故郷の言葉しか口にしなかったと言って、慰安婦は泣いた。 〈最後はとうとう、魚みたいに、おなかタテに裂かれて死んでったヨ。オトナシクしてれぱよかたのに、パカだねえ……パカだねえ……〉  重之は、転げるように慰安所の外へ飛び出した。草むらに突っ伏し、赤い泥をつかんで、おうおうと哭《な》いた。  あの美しい体が二つに裂かれたなど、思い描くだけで許せなかった。もう二度とあの声が聞けないのか。もう二度とあの温かさを腕に抱けないのか。どんなに傷ついて戦場から戻っても、 〈タイチョウプ、タイチョウプ、アナタまだ全部は鬼でないネ〉  そうささやきながら背中を撫でてくれるあの女はもう、どこにもいないのか。  草を引きむしり、両の拳で地面を叩いて哭き続ける重之を、慰安所に出入りする兵隊たちが遠巻きに眺めていた。苦笑とも憫笑《びんしよう》ともつかぬ表情を浮かべた彼らの顔が、噴きだす涙にゆがんでは崩れ、ゆがんでは崩れするのを、かっと目を見ひらいて睨みつけながら、重之は、大声でわめいた。 〈お前らみんな畜生だ! お前らも、おれも、みんなみんな犬畜生だッ!〉  隔世の感とはこういうことを言うのだろうか。  この夏の間、聡美に付き合って、初めてまともに若い者向けのテレビ番組というものを見た重之は、ただただあっけにとられるばかりだった。  韓国うまいもの食べ歩き。免税で買えるブランド品。あかすり美容法、話題の映画、ドラマ、そしてサッカー。人気タレントがハングルを学び、日本の若い音楽隊が向こうでコンサートを開く。 〈え、おじいちゃん知らなかったの? ずいぶん前からブームなんだよ韓国〉  当たり前のことのように聡美に言われても、にわかには信じがたかった。故郷の言葉を話した〈罪〉。親のくれた名前を名乗った〈罪〉。自分は犬ではなく人だと叫んだ〈罪〉。それらのためにミジュが殺されたのは、ほんの昨日のことのようだというのに——。  彼女の死のあと、ずいぶん長い間、重之は繰り返し自分を責めては悔やみ続けてきた。彼女が「哀号」と口を滑らせたとき、あえて厳しく咎めればよかった。わざわざ本当の名前など尋ねるのではなかった。自分といる間だけはなどと中途半端な同情を寄せたりしたことが、結果として彼女が懸命に眠らせようとしていたものを目覚めさせ、死へと導いてしまったのではないのか。そう考えるとやりきれなかった。  だが——いつからだろう、少し別のことを思うようになった。そんなふうな考え自体が何かこう的はずれで、傲慢で、事の起こりをはき違えていて……うまくは言えないが、彼女を貶《おとし》めているような気がしてきたのだ。  そもそも、胸の内で繰り返してきた詫びさえ、彼女のためというより自分のためではなかったか。詫びることでいささかでも楽になれたのは自分だけではなかったか。自分で自分を責め続けてみせて、そのじつ結局は、ただ赦されたかっただけではないのか。〈もういいヨ〉と。〈イパイイパイ謝てもらたから、もういいヨ〉と。  赦されるのを前提に謝ることを、詫びとはいわない。自分程度のものが、どれほどのたうち苦しんだつもりになったところで、ミジュの腹は、ぱっくり口を開けたままだ。永遠に。 〈犬畜生は私たちでない、あんたたちだ〉  ああ、お前の言うとおりだ、と重之は思う。  そう——どんな詫び状も、死者には届かない。      *  静まりかえった参道に、時おりモズの声が響いている。  ゆうべから今朝方にかけて降った雨のせいで、地面も木々もしとどに濡れていたが、頭上の梢に透ける空は磨かれたように蒼い。高台に建つ菩提寺へと上っていく重之と沙恵の顔を、木漏れ日がまだらに彩っている。  下の駐車場に車を止めて歩こうと言いだしたのは重之のほうだった。一人の時はいつもそうしていた。山門の足元から見上げると、鼻をすりむきそうなほど急な石段が本堂正面へ向かってまっすぐそそり立っているのが見えるが、その脇にはぐるりと迂回する細い参道の入口がある。本堂の裏手へと続くゆるやかな上り坂だ。  とりあえず舗装はされているものの、山道と呼ぶのがふさわしいほど、あたりには木々が猛々しく生い茂り、空気は濃かった。たまに下の通りを走り過ぎていく車の音がなければ、ここが町なかであることなど忘れてしまいそうだ。  ようやく坂を上がりきったところで、沙恵は立ち止まり、腰を伸ばすようにした。 「わ、見てほら父さん」  重之は目を上げた。見事に色づいたカエデの古木が、深紅の傘のように枝を広げて日に透けている。 「ね、せっかくだから少し眺めていかない? 息が切れちゃった」 「なんだ、若いくせに情けない」  いつのまにか石畳に変わった道の端には、まさしくこのカエデのためとしか思えない位置に、まるで昔の茶屋のような小さな差し掛けがしつらえてある。中には丸太を二つ割りにしたようなベンチが置かれており、そこの壁に〈境内火気厳禁、お煙草はこちらまで〉と書かれた貼り紙があることを、重之はよく知っていた。  新聞紙にくるんだ花を、そっと脇に置いて腰掛けた沙恵が、目を細めるようにしてカエデを眺めている。隣に腰を下ろすと、重之は古いジャンパーの内ポケットから煙草を取り出した。  あんなことを言ったくせに、沙恵の息づかいは静かだ。  一服つけて、浅く吸い込む。娘のほうへ流れていかないように、ゆっくりと横へ向かって煙を吐き出す。  朝と呼ぶには遅く、昼前と呼ぶには少し早いこの時間、あたりに人影はない。鳥の声と葉ずれの音、ほかには、本堂の方角から誰かが落ち葉を掃いているのがかすかに聞こえてくるだけだ。 「あ、いけない」と沙恵が言った。「ほうき」 「借りりゃいいさ」  この一年、できるだけ月命日ごとに参るようにはしていたが、そのたびに墓石の裏の裏まで磨いてやれたわけではない。志津子の一周忌法要を二日後に控えて、しばらくぶりの念入りな墓掃除だった。 「それにしても見事ねえ。うちのイロハモミジも、これくらい見事に色づけばいいのに」 「まだ木が若いしな」 「でもあれ、母さんがお嫁に来た頃に植えた木なんでしょう?」 「そんなもん、ついこないだだ」  くすりと沙恵が笑った。それきり、微笑を浮かべたまま黙っている。 「なんだ」 「ううん」 「なに笑ってる」 「ちょっとね。前に母さんに言われたこと思い出しただけ」 「何を」 「ずっと昔のこと。たしか高校生くらいの時だったと思うけど、何かの拍子に私が言ったの。『あんなぶっきらぼうな物言いしかしてくれない人のこと、よく好きになったわね』って。そしたら母さん、大笑いして、何て答えたと思う?」  いささか複雑な気分だったが、ともあれ訊き返した。 「何て」 「『ばかだねえ、そういうのが男の人の可愛いとこじゃないの』って。なんだか、変にどきどきしたの覚えてる。急に母さんのことが女に見えたせいかしらね」  重之は、手を伸ばして灰を落とした。 「——まさか、向こうが先とはな」  本当に、想像してみたこともなかったのだ。ひと回り近くも下の志津子のほうが先に逝くなどと。  足を悪くして以来、夫婦のことがほとんどなくなって、そのせいか互いにぎすぎすしてしまった時期もありはしたものの、ここ数年はようやくすべてが穏やかに落ち着いていた。聡美から〈おじいちゃんたちってほんと仲いいねえ〉などとからかわれるようにさえなっていたのに……。 「まあ、こっちも時間の問題だわな」  すると、沙恵が言った。 「でも私、父さんて死なないような気がする」 「なんだって?」  思わず苦笑がもれたが、 「ほんとよ」沙恵は真顔で続けた。「ものごころついた頃からずうっと今の姿だったみたいな気がするから、これから先もずうっと変わらないように思えて。ほら、うちの門の脇の、松の木あるじゃない。あんな感じ」  目をそらし、重之は黙って煙草をふかした。  おもざしが、年々母親に似てくる、と思う。とくに、少し寂しげな目元や、はにかむような笑い方などそっくりだ。  だが、似て見えて当たり前なのかもしれない。ちょうど今の沙恵くらいの年に、志津子は自分のもとに来たのだ。  いくつになっても娘のようなところのある女だった。そう感じさせるのはおそらく、志津子が時折り見せる恥じらいのせいだったろう。笑うとき口元を隠して首をすくめるような仕草をするのが癖で、口をひらくよりは黙って微笑んでいることのほうが多かったが、そのくせ、いざとなるとえらく気が強く、曲がったことを見過ごしにできない姐御肌のところもあった。昔近所の子どもらが、うちに出入りしていた趙という名の大工に向かって心ない言葉を浴びせた時のことだ。どう考えても親たちが口にした言葉をそのまま真似たとしか思えないが、その頃まだ通いの家政婦だった志津子は、子どもらを端からひっつかまえるなり容赦なく尻を叩いてのけた。 〈謝んなさい、趙さんに! あんたたちは今、人として恥ずかしいことを言ったのよ!〉  その一件で、後から当の親どもにさんざん嫌味を言われたものだが——もしかすると、あれが志津子を目で追うようになったきっかけだったかもしれない。当時すでに寝たり起きたりの生活だった晴代が、どこまで気づいていたかはわからない。死ぬ時も、晴代は小さい暁を遺していくことばかりを気にして、ひたすらそれしか言わなかった。重之には別れさえ言わなかった。  とはいえ——思えばそれは、志津子の時とて同じだった。  倒れる数日前から、志津子は湯呑みを取ろうとしてこぼしたり、箸でつまんだものを取り落としたりしていた。遠くで頭が痛む、とも言ったかもしれない。夏の疲れでも出たのだろうと思い、ふと、本当にふと、妙に優しい気分になって、温泉にでも行くか、と言いかけた重之は、だが結局口には出さなかった。古女房の喜ぶ顔などわざわざ見るのもむず痒く、彼女がいれてくれた茶をすすりながら、まあいずれ近いうちにと思ったきりだったのだ。  あのとき口に出していたとしても、どのみち行くことは叶わずに終わっただろう。それでも、せめて喜ぶ顔だけでも見ておくのだったと、今になって思う。後からこうして思い出す顔が、痛い痛いと唸ったまま意識を失った時の、あの血の気の失せた顔ばかりというのは——。  知らぬ間に、また険しい目つきをしていたのだろうか。 「ねえ」  と、遠慮がちに沙恵が言った。 「……ああ?」 「母さんが生きてたら、あの子たちに、どんな話をしてやったかしらね」  言われて、重之は、おとといの土曜に訪ねて来た聡美とその友人たちの顔を思い浮かべた。 「きっと、あの赤いスカートの話もしたんでしょうね」 「……ああ」  聡美を入れて、五人。三人が女子で、残りが男子。中に一人、目から鼻へ抜けるような子がいるなと思ったら、それが聡美の言っていた可奈子という友達だった。  どの子も最初のうち、かちかちに緊張していた。重之がいったんは話を断ったというので、よほど偏屈に思われたものらしい。聡美までがいささか顔をこわばらせていたのは、そういう級友たちとの間の取り持ち役にならねばという緊張のせいだったろうが、まあ、さすがにクラスから選ばれてきただけあって、どの子もよく勉強していたとは思う。  だが、彼らがアメリカやドイツなどについて知っていることの量に比べると、中国や朝鮮についてのそれはあまりにもお粗末だった。予想はしていたが、これほどとは思わなかった。途中で誰にともなく腹が立ってくるくらいだった。 「それでも、何かは伝わったわよ、きっと」  重之は黙っていた。最後に男子の一人が口にした言葉が、いまだに引っかかっていた。 〈どうして誰も、戦争はいやだって言わなかったんですか?〉と、その子は心底不思議そうに言った。〈行きたくないとか、息子を行かせたくないとか、なんで誰も声をあげなかったんだろう〉  そういう時代では、と咄嗟《とつさ》に口にしかけて、重之はそれを呑みこんだ。 〈そうだな〉ようやくの思いで言った。〈本当に、そうだ〉  あんたらは、頼む。ちゃんと声をあげてくれ。  ——そうとしか、言えなかった。 「私、ずっと後ろから見てたけど、あの子たちほとんど息もしないで聴いてたわよ。捕虜の男の子のこととか……あの朝鮮の女の人たちのこと話した時なんて、泣いてる子もいたじゃない」  だが、あれがすべてではないのだ。あえて伏せたことも中にはあったし、話すに堪えなかったこともある。それどころか、この期に及んで正直に言えなかったことも。目の前で録音機がまわっていると思うとなおさらだった。 「でも私、ちょっと意外だったな」  と沙恵がつぶやいた。 「何が」 「あの女の人たちのことを、話してた時の父さん」 「意外、とは」  沙恵はさぐるような目でこちらを見た。「怒らない?」 「ああ」 「こう言うと何だけど、私、今まで何となく、父さんてそういうことに無関心ていうか、どちらかというと無神経なほうじゃないかと思ってたの。だからああいう立場の人たちに対しても、もっと男の論理みたいなのを振りかざすんじゃないかなって」 「男の?」 「だからつまり、だまされたほうも悪い、とか。自分から納得ずくで志願した人もいるんだからとか、さらわれてきた彼女たちだって結局はお金を受け取ったんだからとか、そういうふうなこと」  やはりむっとなって横目で見やると、 「だって」沙恵は咎めるように言った。「父さん昔、私がどこかの男の人にへんなことされそうになった時、言ったのよ。お前に隙があるからだって。母さんにまで、お前がだらしなく育てるからだ、なんて。覚えてる?」 「……いや」  沙恵はかすかに肩をすくめた。 「父さんがあの子たちに言ってた言葉、あれってほんとね」 「ん?」 「言ってたじゃない。足を踏んだほうはすぐ忘れるけど、踏まれたほうはそう簡単に忘れられないもんだ、って」  重之は、膝の間の地面に目を落とした。  いつのまにかすっかり短くなった煙草が、危うく指を焦がしそうなのに気づいて灰皿にもみ消す。 「でも——」  ふう、と深呼吸が聞こえた。 「もう、いいわ」と、沙恵は言った。「私ももう、忘れることにする。ごめんね、へんなこと聞かせちゃって。父さんも忘れて」  そして、立ちあがった。 「行く? 母さん、そろそろ待ちくたびれてる頃よ」  住職に挨拶したあと、水桶とひしゃくのほかに小さいほうきを借りて、墓地に向かった。  いくつもの墓石の間を通り抜け、ようやく水島家の墓の前にたどりつくと、重之は水桶を置いてまずは手を合わせた。隣で沙恵が同じようにする。  それから二人は黙々と作業にかかった。まわりにはえた雑草を抜き、落ち葉や砂を掃く。古びた墓石に水をかけ、タワシで磨き上げる。水は思いがけないほど冷たく、風に吹かれた沙恵の指先はまるで梅干しを漬けた時のように赤くなった。  乾いた布で墓石を拭き清め、花瓶を洗い、持ってきた花を挿して、最後に供物の前に線香を立てようとしたときだ。 「あらやだ」沙恵が小さく叫んだ。「びしょびしょ」  墓を洗った水が流れていったらしく、花と一緒に横へよけてあったつもりの線香の箱は、中まですっかり水を吸って色が変わってしまっていた。 「ああ、もったいない」情けない声で沙恵は言った。「ちょっと待っててくれる? 私、新しいの買ってくる」 「今日ぐらい、勘弁してもらったらどうだ」 「うん……。でも、せっかくこんなにきれいにしたんだもの」   財布だけ持って、沙恵は来た道を戻っていった。  立ち並ぶ墓石の間をすり抜けて遠ざかっていく背中を見送ると、重之は、区画のまわりを囲う柵に腰掛けた。無意識にジャンパーの内ポケットをまさぐりかけて、ああ、いかんのだった、と気づく。手持ちぶさたのあまり、傍らに植わったアジサイの葉をちぎってもてあそびながら、両隣の墓を見やった。うちのほうが手入れがいい。 『水島家先祖代々之墓』。  とうに見慣れたその文字を、重之はぼんやり眺めた。両脇に挿してある花は、沙恵が今朝、庭から切ってきた小菊だ。紫と黄が半分ずつ。紫のほうが端正で丈が高く、黄菊のほうはまだ蕾のものが多い。 〈母さん、この紫のが好きだったから〉  そうでは、ないのだ、と重之は思った。  紫の小菊を好きだったのは、ほんとうは、先妻の晴代のほうだった。  晴代がいよいよ起きられなくなってきた頃、志津子が、離れの裏手に植わっていた小菊をそっと掘りあげて、晴代の寝ている部屋の前に植え替えたのを知っている。やがて晴代が亡くなり、幼い沙恵を連れてあの家に来てからも、志津子は毎年ていねいに、ていねいに挿し芽をしては株を絶やさないようにしていた。いま庭の石灯籠の脇に咲いているのも、そのうちの一株だ。  そうすることが、おそらく志津子なりの先妻への詫びだったのだろう。後から割りこんだ自分にできる、精一杯の供養のつもりだったのだろう。重之にはそれが、わかってはいた。が、一度として言葉にしてやったことはない。そればかりか、暁を自分の子のように可愛がってくれたについても、不自由な足を引きずって長年つくしてくれたについても、たったひとこと優しい言葉をかけてやった覚えすら……。  風が、アジサイの茂みを揺らして過ぎてゆく。  こうしていると目に浮かぶのは、同じように丸めた妻たちの背中ばかりだった。ひっくり返されたお膳の横で、畳に散らばるおかずを拾い集めてはまた食べていた晴代の背中。幼い子どもらをかばって抱えこみ、打ちおろされる竹ぼうきにひたすら耐えていた志津子の背中。  消えない美珠への罪悪感と、誰かを愛し執着しすぎることへの怖れから家族に優しくもできず、かといって失うことを思うとなおさら怖ろしくて束縛せずにいられない。胸の内で暴れ狂う獣を自ら抱えておくことのできなかった夫の弱さを、彼女らはかわりにその背中で受け止めてくれていたのだ。  あの家の座敷から運び出されていった、二つの棺……そういえば、晴代の時も、志津子の時も、屋根の上には真っ青な空がひろがっていた。男たちに運ばれてゆるゆると庭へ出てゆく棺はまるで、今まさに静かな流れを下りはじめようとする小舟のように見えた。 〈お父さんはねえ、すごい大工さんなのよ〉  若々しい志津子の声がよみがえる。 〈日本じゅうの人のために、立派なおうちを建ててあげるえらーい人なの。はい、お父さんのおかげで、今日も、頂きまぁす〉  いただきまぁす。  三つ揃った子どもらの声——。  その声の残響をおしのけるようにして、遠くから街宣車の流す音楽が近づいてきた。 『貴ッ様ァと俺とォーは 同期の桜……』  下の通りを走っているのだろう。勇ましい伴奏がぐんぐん大きくなり、しまいには大音響となる。  きつく、目をつぶった。ぎりぎりまで大きくなった音が、ふいに低くひずんで遠ざかっていく。 『あれほど誓ぁーったその日も待たず  なァぜに死んだか散ィったのか……』   やがて、重之は震える息をそろそろと吐きだした。  目をあける。墓に供えた果物の色が、やけに毒々しく映る。  と、後ろに足音がした。ほっとなって言った。 「買えたか。線香」  返事がない。  ふり返った。  思わず口をひらきかけ、しかし言葉は舌の上まで転がり出ながら、そこで消えた。  のろのろと墓に目を戻す。  足音は近づき、隣で止まった。 「わざわざ、はずしたつもりだったのにな。命日」  かすれた声が言った。 「何しに来た」  頭上で、ふ、と笑うのが聞こえた。「縁を切りにさ」  思わず見上げると、目が合った。 「嘘だよ」と、暁は言った。「しばらく帰ってこられそうにないから、一応あいさつに来ただけさ」  ジーンズにセーターという格好のせいか、まるで学生のように見える。 「帰ってこられないとは、どこへ行くんだ」 「インド」 「インドぉ?」 「そのあとバリ、ジャワ、あちこち。——仕事、替わったんだ。まあ中身は大差ないけど、知り合いに誘われて、現地買い付けのほうを主にやることになったから」  暁はしゃがむと、お義理のように墓に手を合わせた。  それきり、目を細めて墓を眺めている。横顔のかたちが、ついさっき同じように目を細めてカエデを見上げていた沙恵のそれと重なる。 「子どもらは、どうしてる」 「まあ、元気にしてるよ。時々は会わせてもらってる」 「そうか」  知らず知らずのうちに手の中でくちゃくちゃにしていたアジサイの葉を、重之は足もとに捨てた。青臭い匂いが鼻先をかすめる。 「大事にしてやれよ」と、重之は言った。「会うたび、抱いてやれ。しっかり」  暁が驚いたようにこっちを向いた。 「へえ。親父がそれを言う」  重之は黙っていた。 「反省を込めて、ってことか?」  それでも黙っていると、暁はやがて、ふ、ふ、と低く笑い出した。最後にひとつ、短いため息をつく。 「昔さ。たしか、五つか六つの頃だったかな。親父が俺にトンカチだのノミだの持たせた時、おふくろがやめさせようとしたことがあったろ、怪我でもしたらどうするって」  重之は眉を寄せた。 「覚えちゃいないか。あのとき親父、おふくろのこと怒鳴りつけたんだよな。『痛みってのは体で覚えるもんだ、いっぺんも危ない目にあわんで、何が危ないかなどわかるものか』って」  声は低く、頬は皮肉っぽくゆがんでいたが、どこか愉しげな口調だった。 「あれは親父の、一世一代の名言だったと今でも思うよ」じっと墓に目を据えたまま、暁は言った。「いつだったか、奈緒子に向かってまったく同じこと言ってる自分に気づいた時は愕然としたけどね。……ま、そんなわけで、うちの子どもら、うまいもんだぜ。リンゴむくのとか、鉛筆削るのとか」  血筋かな、と言って、暁はまたちょっと笑った。  重之は、ふところに手を入れ、煙草を取り出した。考えたものの、火をつける。煙草は悪くて線香はいいという法がわからない。 「しかし、どういう風の吹き回しだ」と、重之は言った。「やけに素直だな。じき死ぬんじゃないか、お前」  暁はふきだした。 「縁起でもないこと言わないでくれよ。これから当分帰ってこられないってのに」 「いつ行くんだ」 「今日、これから」こともなげに、暁は言った。「今晩、七時過ぎのデリー行き」 「うそでしょう?」  はっとなって、重之は腰を浮かせた。アジサイの茂みごしに伸びあがると、墓五つぶんほど離れた卒塔婆のかげに、いつからいたのか、沙恵が立っていた。  暁が、ゆっくりと立ちあがる。「よう。久しぶり」  陽気な物言いだったが、それまでとはわずかに声が違っていた。 「なんだお前、線香買いに行ったって?」  忘れてきたのかよ、抜けてんな、と暁がからかうと、沙恵は、ようやく気を取り直したように近づいてきた。  だが、そばまで来ると、その顔はひどく青白かった。目を伏せたまま、買ってきたばかりの箱をあけて緑の束を取り出す。新しいろうそくを手に、重之に向かって何か言いかけた沙恵の目の前に、暁が黙って自分のジッポを差し出した。  沙恵ののどが、こくりと動くのが見えた。  受け取ると、彼女はろうそくに火をつけ、線香の束に移して重之と暁に分けた。  それぞれが墓前に立てた線香の先から、細い煙がいくすじも立ちのぼっては、澄んだ空気に溶けていく。境内のケヤキの葉が風に流され、乾いた音をたてながら転がってくる。  暁が手を合わせていたのは、ほんの短い間だった。 「じゃ、俺行くわ」  沙恵の目が撥ねるように動いた。  時々は連絡しろ、も、元気でな、も、どちらもなぜか口に出せず、 「生水には気をつけろよ」  重之がそう声をかけると、すでに歩き出しかけていた暁はくすりと笑った。 「ああ。心するよ」  と、その時、 「お兄ちゃんっ」  暁がびくっとなって立ち止まった。  重之のところから、沙恵の顔は見えなかった。ただ、後ろ姿の肩の薄さに胸を突かれた。 「また……」祈るような、消え入るような声で、沙恵は言った。「また、会える?」  暁は、ふり向いた。  その頬が無器用にゆがむ。 「当たり前のこと訊くな。家族だろ」  砂利を踏んで遠ざかっていく暁の姿が、墓石の群れの間で見え隠れする。その行く手から、飛びたつ鳥の羽音が聞こえてくる。  重之はやがて、煙草をもう一本取り出した。今度は迷いもせずに火をつける。  音にふり向いた沙恵が、 「あ、だめじゃない」  まるで何ごともなかったかのように言いながらそばに来た。  予想に反して、頬に涙のあとはなかった。が、彼女が右手をしっかりと握っているのに重之は気づいた。節が白くなるほど握りしめた拳の間から、何か銀色の、四角なものが覗いている。 「沙恵」 「うん?」 「お前……」 (お前、本当にもう、どこへも嫁《い》かん気か) 「なあに?」  無邪気な明るさを装って、沙恵が訊く。 (お前はそれでいいのか。本当にそれで、幸せなのか)  ——聞いて、どうなるというのだ。 「いや」と、重之は言った。「何でもない」  沙恵の、張りつめた横顔を盗み見る。青白い頬に微笑を浮かべた彼女は、自分の娘とも思えぬほどうつくしかった。  ——幸福とは呼べぬ幸せも、あるのかもしれない。  そっと手をのばし、花の向きを直した。  ——叶う恋ばかりが恋ではないように、みごと花と散ることもかなわず、ただ老いさらばえて枯れてゆくだけの人生にも、意味はあるのかもしれない。何か……こうしてまだ残されているなりの意味が。  重之は、古びた墓石を見つめた。  ひとつ墓の中で、いま、二人の妻は何を話しているのだろう。何にせよ、まさか志津子がいじめられるようなことはあるまい。晴代は、そういう女ではなかった。  今さら急がずとも、と思ってみる。妻たちを乗せていった舟は、いずれ自分を迎えに戻ってくる。それも、そう遠くないうちに。  ひんやりとした風が墓地の上を渡ってくる。せっかく掃き清めた墓のまわりに、幾枚かの黄色い落ち葉が運ばれてきては留まる。 (また、来るわな)  と、胸の内でつぶやいた。 (恨み言は、おれがそこへ行ってから、ゆっくりまとめて聞かせてもらうわな)  皺寄る指先で、紫の小菊に触れる。  足元でかさこそと渦巻く枯れ葉の音が、まるで、女たちの笑いさざめく声のように聞こえた。 [#改ページ]  あとがきにかえて  しばらく前のことになるが、テレビ番組の旅人役で、シベリア鉄道に端から端まで乗ったことがある。ちょうど、ソ連が崩壊して間もない頃だった。  モスクワからウラジオストクまで、全長およそ一万キロ。  乗ったままなら一週間で着く行程を、途中下車しながら一ヶ月かけて旅していく。  先々で出会う人々は皆、それまで信じてきたすべてを根こそぎ奪われて深い混乱の中にあったけれど、異邦人である私の前ではかえって警戒心が薄まるのか、胸に渦巻く思いをとつとつと語ってくれた。日常の笑顔こそあったものの、誰もが苦しんでいた。誰もが怒り、悲しんでいた。そうして誰もが、あとほんの少しでいいから幸せになりたい、と渇望していた。  今まで生きてきた中で、「幸せって何?」などという疑問をあえて抱く必要もなかった私の中に、いくつもの疑問符が渦巻きはじめたのは、確か旅の中ほどだったろうか。  ──人が人として幸せであるために、最低限必要なものを一つだけ挙げるとしたら、いったい何なのだろう? お金だろうか? 信ずるに足るイデオロギーか? 国民を守ってくれるだけのゆるぎない国力か? それとも、愛してくれる誰かの存在なのか?  旅の終わり近く、ハバロフスクから数百キロの郊外にある日本人捕虜収容所跡を訪ねた。というのも、私の父はかつて、四年間をソ連の捕虜としてそこで過ごし、極寒の中で強制労働させられていたからだ。  今はもう、瓦礫《がれき》の山しか残っていない。なのに、跡地に足を踏み入れ、ふとつま先に触れた分厚くて重たい壁のかけらを拾いあげた、その時だった。  どうしてだろう、ふいに体がカクカク震えだした。歯の根が合わなかった。子どもの頃から寝物語のように聞かされてきた父の言葉──凍傷で鼻や指がもげてしまった人の話や、ゆうべまで語らっていた戦友が朝には力つきて冷たくなっていた話、彼らを埋める穴をみんなでただ黙々と掘った話──が、いきなり私の中で「ほんとうにあったこと」になったのだ。  そしてその瞬間、ばん、と音をたててひとつの答が降ってきた気がした。  人が人として幸せであるために、最低限必要なもの。  それはもしかして、「自由であること」なんじゃないか。自由だけで幸せになれるわけではないにせよ、少なくとも自由を奪われた状態では、たとえ他の何をどれほど持っていようと、人は心底幸せになることなんてできないのではないか、と。  その答そのものが、合っているか間違っているかはわからない。まだ模索の途上にある私としては、大上段にふりかぶって何ごとかを語るつもりも毛頭ない。  けれど、たまたま遅く生まれた末っ子だったおかげで直《じか》に戦争の話を聞かせてくれる両親に恵まれ(たぶん私でぎりぎり最後だろう)、しかも一方では、戦争をまったく知らない若い世代の読者たちに支えられている……その真ん中に立つ自分が、今、せっかく物書きという仕事をしていながら、あの戦争について──人間から有無をいわさず自由を奪い取っていくそれについて何も書こうとしないのは、これはもう、怠慢以外の何ものでもないんじゃないのか。  シベリアの旅以来、私の中に生まれたその個人的<いたたまれなさ>のようなものが、『星々の舟』を書くにあたっての大きなきっかけになったのは間違いない。  とはいえ、もちろん、『星々の舟』は戦争小説などではない。  これはあくまで、叶えられない幾つかの恋の物語であり、人と人とが形づくる星座、すなわち家族の物語であり、そしてまた、人々の来し方行く末をゆるやかにつないで流れる歴史の物語である。  登場人物たちは、一読するとそれぞれに不幸に見えるかもしれない。  けれど私は、兄妹の禁断の恋を書いても、不倫を書いても、いじめや暴力について書いても、さらには戦争について書いていてさえ、どこかに一条の光が射すような終わり方を心がけたつもりでいる。というより、私自身がそういう物語を強く希求していたように思う。  人間、「自由であること」を突きつめれば、「孤独であること」にも耐えなくてはならない。  でも、そうして自分だけの足で独りで立つことができてこそ、人は本当の意味で他の誰かと関わることができるんじゃないか。そうすることで初めて、何ものにも惑わされない自分だけの「幸せ」を見つけることができるんじゃないか。  そんな思いをたぐり寄せるようにして書きつづった六つの物語の終わりに、家長である重之がつぶやくモノローグ── <幸福とは呼べぬ幸せも、あるのかもしれない>  ──は、一年間の連載を通して、私自身がようやくたどりついた感慨であり、気づきでもある。  そして、思えばその気づきこそが今、誰よりも私自身をいちばん勇気づけてくれている気がするのだ。  二〇〇六年一月 [#地付き]村山由佳 初出誌「別册文藝春秋」   雪虫     第二三七号   子どもの神様 第二三八号   ひとりしずか 第二三九号   青葉闇    第二四〇号   雲の澪    第二四一号   名の木散る  第二四二号 単行本 二〇〇三年三月 文藝春秋刊