国境の南、太陽の西 村上春樹 [#改ページ] 装丁 菊地信義 [#改ページ]     1  僕が生まれたのは一九五一年の一月四日だ。二十世紀の後半の最初の年の最初の月の最初の週ということになる。記念的といえば記念的と言えなくもない。そのおかげで、僕は「始(はじめ)」という名前を与えられることになった。でもそれを別にすれば、僕の出生に関して特筆すべきことはほとんど何もない。父親は大手の証券会社に勤める会社員であり、母親は普通の主婦だった。父親は学徒出陣でシンガポールに送られ、終戦のあとしばらくそこの収容所に入れられていた。母親の家は戦争の最後の年にB29の爆撃を受けて全焼していた。彼らは長い戦争によって傷つけられた世代だった。  でも僕が生まれた頃には、もう戦争の余韻というようなものはほとんど残ってはいなかった。住んでいたあたりには焼け跡もなかったし、占領軍の姿もなかった。僕らはその小さな平和な町で、父親の会社が提供してくれた社宅に住んでいた。戦前に建てられた家でいささか古びてはいたが、広いことは広かった。庭には大きな松の木が生えていて、小さな池と灯寵まであった。  僕らが住んでいた町は、見事に典型的な大都市郊外の中産階級的住宅地だった。そこに住んでいるあいだに多少なりとも親交を持った同級生たちは、みんな比較的小綺麗な一軒家に暮らしていた。大きさの差こそあれ、そこには玄関があり、庭があり、その庭には木が生えていた。友だちの父親の大半は会社に勤めているか、あるいは専門職に就いていた。母親が働いている家庭は非常に珍しかった。おおかたの家は犬か猫かを飼っていた。アパートとかマンションに住んでいる人間を、僕はその当時誰一人として知らなかった。僕はあとになって近くの別の町に引っ越すことになったが、そこもだいたい同じような成り立ちの町だった。だから大学に入って東京に出てくるまで、通常の人間はみんなネクタイをしめて会社に通い、庭のついた一軒家に住んで、犬か猫を飼っているものだと僕は思い込んでいた。それ以外の生活というものを僕は、少くとも実感をともなって思い浮かべることができなかった。  大抵の家には二人か三人の子供がいた。それが僕の住んでいた世界における平均的な子供の数だった。少年時代から思春期にかけて持った何人かの友人の顔を思い浮かべてみても、彼らは一人の例外もなく、まるで判で押したみたいに二人兄弟か、あるいは三人兄弟の一員だった。彼らは二人兄弟でなければ、三人兄弟であり、三人兄弟でなければ二人兄弟だった。六人も七人も子供がいる家庭は稀だったが、一人しか子供がいない家庭というのはそれ以上に稀だった。  でも僕には兄弟というものがただの一人もいなかった。僕は一人っ子だった。そして少年時代の僕はそのことでずっと引け目のようなものを感じていた。自分はこの世界にあってはいわば特殊な存在なのだ、他の人々が当然のこととして持っているものを、僕は持っていないのだ。  子供の頃、僕はこの「一人っ子」という言葉がいやでたまらなかった。その言葉を耳にするたびに、自分には何かが欠けているのだということをあらためて思い知らされることになった。その言葉はいつも僕に向かってまっすぐに指をつきつけていた。お前は不完全なのだぞ、と。  一人っ子が両親にあまやかされていて、ひ弱で、おそろしくわがままだというのは、僕が住んでいた世界においては揺るぎない定説だった。それは高い山に登れば気圧が下がるとか、雌の牛は多量の乳を出すとかいうのと同じ種類の自然の摂理とみなされていた。だから僕は誰かに兄弟の数を訊かれるのが嫌でたまらなかった。兄弟がいないと聞いただけで人々は反射的にこう思うのだ。こいつは一人っ子だから、両親にあまやかされていて、ひ弱で、おそろしくわがままな子供に違いない、と。人々のそういったステレオタイプな反応は僕を少なからずうんざりさせ、傷つけた。しかし少年時代の僕を本当にうんざりさせ傷つけたのは、彼らの言っているのがまったくの事実であるという点だった。そのとおり、僕は事実あまやかされて、ひ弱で、おそろしくわがままな少年だったのだ。  僕の通っていた学校では、兄弟を持たない子供は本当に珍しい存在だった。小学校の六年間を通じて、僕はたったひとりの一人っ子にしか出会わなかった。たったの一人だ。だから僕は彼女(そう、それは女の子だった)のことをとてもよく覚えている。僕は彼女と親しい友だちになって、二人でいろんな話をした。心を通いあわせたといってもいいだろう。そして僕は彼女に愛情を抱きさえしたのだ。  彼女の名前は島本さんといった。彼女もまた一人っ子だった。そして生まれてすぐに患った小児麻痺のせいで左脚を軽くひきずっていた。それに加えて彼女は転校生だった(島本さんが僕らのクラスにやってきたのは、五年生の終わりごろだった)。そんなわけで、彼女は僕なんか比べ物にならないくらい大きな精神的な重荷を背負っていたとも言える。しかし、おそらくより大きな重荷を背負っているぶんだけ、彼女は僕よりはずっとタフで自覚的な一人っ子だった。彼女は誰に対しても弱音をはかなかった。口に出さないだけではなく、顔にも出さなかった。何か嫌なことがあっても、彼女はいつも微笑みを浮かべていた。むしろ嫌なことがあればあるほど、彼女はその微笑みを浮かべるようにさえ思えた。それは素敵な微笑みだった。それはある場合には僕を慰めたり、あるいは励ましたりもしてくれた。「大丈夫よ」と彼女の微笑みは語っているように見えた、「大丈夫よ、ちょっと我慢すればこれも終わるんだから」。おかげでそのあとずっと、僕は島本さんの顔を思い浮かべるたびに、その微笑みを思い出すことになった。  島本さんは学校の成続も良かったし、他人には概して公平で親切だった。だから彼女はクラスの中でも常に一目置かれる存在だった。そういう意味では彼女は同じ一人っ子といっても僕とはずいぶん違っていた。でも彼女が級友たちに無条件で好かれたかというと、それは疑問だった。みんなは彼女を苛めたりからかったりはしなかった。でも彼女には、僕を別にすればということだが、友だちと呼べるような相手は一人もいなかった。  彼女はおそらく彼らにはクールで自覚的に過ぎたのだろう。それを冷たくて傲慢だと取るものだって中にはいたかもしれない。でも僕は島本さんのそうした外見の奥に潜んでいる温かく、傷つきやすい何かを感じ取ることができた。それはかくれんぼをしている小さな子供のように、奥の方に身を潜めながらも、いつかは誰かの目につくことを求めていた。そういうものの影を、彼女の言葉や表情の中に僕はふと見いだすことがあった。  島本さんは父親の仕事の関係で何度も転校を繰り返していたということだった。彼女の父親がどんな仕事をしていたのか僕は正確には覚えていない。彼女が僕に一度詳しく説明してくれたのだが、まわりのおおかたの子供がそうであったように、僕は誰かの父親の職業になんてほとんど興味を持たなかった。たしか銀行とか税務署とか会社更生法とかそういうものに関係のある専門的な仕事だったと記憶している。彼女の越してきた家は社宅とはいってもかなり大きな洋風の家で、家のまわりには腰まである立派な石垣が巡らされていた。石垣の上には常緑樹の生け垣がついていて、ところどころにあいた隙間から、芝生の庭をのぞくことができた。  彼女は大柄で目鼻だちのはっきりした女の子だった。背丈は僕とほとんど変わらないくらいだった。それから何年かを経たのちには、彼女は人目を引かずにはおかないような見事な美人になる。でも僕が彼女と最初に出会ったとき、島本さんはまだ彼女自身の資質に合致した外観を獲得してはいなかった。その当時の彼女にはどことなくアンバランスなところがあって、そのせいで、多くの人々は彼女の容貌をそれほど魅力的だとは考えなかった。たぷんそれは、彼女の中の大人に相応しい部分と、彼女の中のまだ子供でありつづけようとする部分とがうまく連動して進んでいなかったからだと思う。そのような種類のバランスの悪さは時として人を不安にさせてしまうのだろう。  家が近かったせいで(彼女の家は僕の家の文字通り目と鼻の先だった)、彼女は最初の一カ月間、教室で僕の隣の席を与えられた。僕は学校生活に必要な細かい手順をひとつひとつ彼女に教えた。教材のことや、毎週のテストのことや、それぞれの授業に必要な道具や、教科書の進み具合や、掃除や給食の当番のことなんかだ。いちばん近所に住んでいる生徒が転校生の最初のケアをするというのが学校の基本的な方針だったし、とくに彼女の場合は脚が悪かったので、先生は僕を個人的に呼んで、最初のうちしばらくは島本さんの面倒をよく見てあげなさいと言ったのだ。  初めて顔を合わせた十一歳か十二歳の異性の子供たちがだいたいそうであるように、最初の何日かの僕らの会話はぎこちなく気詰まりなものだった。でも自分たちがどちらも一人っ子であるとわかってからは、僕らの会話は急速にいきいきとした親密なものに変化していった。彼女にとっても僕にとっても、自分以外の一人っ子と出会ったのはそれが最初だったからだ。だから僕らは一人っ子であるというのがどういうことかについて、ずいぶん熱心に話し合うことになった。僕らはそれについては言いたいことをいっぱい抱えていた。毎日というのではないけれど、僕らは顔をあわせると二人で一緒に学校から家まで歩いて帰った。そして一キロちょっとの道をゆっくりと歩きながら(彼女は脚が悪かったからゆっくりとしか歩けなかった)いろんな話をした。話をしてみると、僕らの間にはずいぶんたくさんの共通点があることがわかった。僕らは本を読むのが好きだった。音楽を聴くのが好きだった。猫が大好きだった。他人に対して自分の感じていることを説明するのが苦手だった。食べることのできない食品のいくぶん長いリストを持っていた。好きなことを勉強するのはちっとも苦痛ではなかったけれど、嫌な科目を勉強するのは死ぬほど嫌いだった。僕と彼女とのあいだに何か違いがあるとすれば、それは彼女が僕よりはずっと意識的に自己を護るための努力を行っているということだった。彼女は嫌な科目でも熱心に勉強してかなり良い成績を取っていたし、僕はそうではなかった。彼女は嫌いな食物が給食に出てきても我慢して全部食べたし、僕はそうではなかった。言い換えれば、彼女が自分のまわりに築いていた防御の壁は、僕のものよりはずっと高く強かった。しかしその中にあるものは、驚くほどよく似ていた。  僕は彼女と二人でいることにすぐに馴れてしまった。それはまったく新しい体験だった。僕は彼女と一緒にいても、他の女の子といるときのようにそわそわと落ちつかない気持ちにはならなかった。僕は彼女と一緒に家まで歩いて帰るのが好きだった。島本さんは左脚を軽く引きずるようにして歩いた。途中で公園のベンチに座ってちょっと休むこともあった。でもそれを迷惑に感じたことは一度もなかった。むしろ余分に時間がかかることを楽しんだくらいだった。  我々はそんな風によく二人で一緒に時間を過ごすことになったのだが、そのことでまわりの誰かにからかわれたという記憶はない。その当時はとくに気にもとめなかったのだが、今考えてみるとちょっと不思議な気がする。その年頃の子供というのは、仲の良い男女をからかったり、はやしたてたりするものだからだ。おそらくそれは島本さんの人柄によるものだろうと僕は思う。彼女の中にはまわりの人々に軽い緊張感を呼び起こす何かがあったのだ。要するに「この人に向かってはあまりつまらないことは言えない」というような雰囲気が彼女にはあったということだ。先生でさえ彼女に対してはときどき緊張しているように見えた。あるいは彼女の脚が悪かったこともそれに関係しているのかもしれない。いずれにせよ島本さんをからかったりするのはあまり適切なことではないとみんなは考えていたようだし、結果的にはそれは僕にとってはありがたいことだった。  島本さんは脚が悪いせいで体操の授業にはほとんど出なかった。ハイキングや山登りの日には学校を休んだ。夏の水泳の合宿みたいなものにも来なかった。運動会の日にはいささか居心地が悪そうだった。でもそのような場合を別にすれば、彼女はごく普通の小学生の生活を送っていた。彼女が自分の悪い脚を話題にすることはほとんどなかった。僕の覚えているかぎりではたぶん一度もなかった。僕と一緒に下校するときでも、「歩くのが遅くて御免なさい」というようなことは決して口にはしなかったし、顔にも出さなかった。しかし彼女が自分の脚について気にしていること、気にしているからこそ触れないようにしているのだということは僕にはよくわかっていた。彼女は他人の家に遊びに行くことをあまり好まなかったが、それは玄関で靴を脱がなくてはならないからだった。彼女の靴は右と左で少しかたちや底の厚さが違っていて、彼女はそれを他人の目にさらすのが嫌だったのだ。おそらくそれは特別に作られた種類の靴なのだと思う。僕がそれに気づいたのは、彼女が自分の家に帰ると、何よりも先に靴をすぐに下駄箱にしまいこむのを目にしたときだった。  島本さんの家の居間には新型のステレオ装置があって、僕はそれを聴くためによく彼女の家に遊びに行った。それはかなり立派なステレオ装置だった。もっとも彼女の父親のレコード・コレクションはその装置ほどには立派なものではなく、そこにあったLPレコードの数はせいぜい十五枚くらいだったと思う。そしてその大半は初心者向けのライト・クラシック音楽だった。でも僕らはその十五枚ほどのレコードを何度も何度も繰り返して聴いた。だから僕はそれらの音楽を今でも、それこそ隅から隅までくっきりと思い出すことができる。  レコードを扱うのは島本さんの役だった。レコードをジャケットから取り出し、溝に指を触れないように両手でターンテーブルに載せ、小さな刷毛でカートリッジのごみを払ってから、レコード盤にゆっくりと針をおろした。レコードが終わると、そこにほこり取りのスプレーをかけ、フェルトの布で拭いた。そしてレコードをジャケットにしまい、棚のもとあった場所に戻した。彼女は父親に教えこまれたそんな一連の作業を、ひとつひとつおそろしく真剣な顔つきで実行した。目を細め、息さえひそめていた。僕はいつもソファーに腰掛けて、彼女のそのような仕種をじっと眺めていた。レコードを棚に戻してしまうと、島本さんはやっと僕の方を向いていつものように小さく微笑んだ。そのたびに僕は思ったものだった。彼女が扱っていたのはただのレコード盤ではなく、ガラス瓶の中に入れられた誰かの脆い魂のようなものではなかったのだろうかと。  僕の家にはレコード・プレーヤーもレコードもなかった。僕の両親はとくに熱心に音楽を聴くタイプではなかったのだ。だから僕はいつも自分の部屋で小さなプラスティックのAMラジオにかじりついて音楽を聴いていた。ラジオでは僕はいつもロックンロールやその類の音楽を聴いていた。でも島本さんの家で聴くライト・クラシック音楽も僕はすぐに好きになってしまった。それは「別の世界」の音楽だったし、僕がそれに引かれたのはおそらくその「別の世界」に島本さんが属していたからだろうと思う。週に一度か二度、僕と彼女はソファーに座って、彼女のお母さんの出してくれた紅茶を飲みながら、ロッシーニの序曲集やベートーヴェンの田園交響曲や『ペール・ギュント』を聴いて午後の時間を送ったものだった。僕が家に遊びに来ることを、彼女の母親は歓迎してくれた。転校したばかりの娘に友だちができたことを彼女は喜んでいたし、僕がおとなしくていつもきちんとした身なりをしていたことも気に入ったのだと思う。もっとも正直に言って、僕は彼女の母親のことがどうも好きにはなれなかった。何か具体的な嫌なことがあったわけではない。彼女は僕に対していつも親切だった。でも彼女の喋り方の中にはちょっとした苛立ちのようなものが感じられることかあって、それがときどき僕を落ちつかなくさせた。  彼女の父親のレコード・コレクションの中で僕がいちばん愛好したのはリストのピアノ・コンチェルトだった。表に一番が入り、裏に二番が入っていた。僕がそのレコードを気に入ったのには二つの理由がある。ひとつにはレコード・ジャケットがとても美しかったからであり、ひとつには僕のまわりにいる人間でリストのピアノ・コンチェルトというものを聴いたことがある人間が誰ひとりとして——もちろん島本さんを別にしてだが——いなかったからだ。それは本当に胸がわくわくするようなことだった。僕はまわりの誰もが知らない世界を知っている。それはいわば僕だけが中に入ることを許されている秘密の庭園のようなものだった。僕にとっては、リストのピアノ・コンチェルトを聴くことは、人生のひとつ上の段階に自分を押し上げることに他ならなかった。  そしてまた、それは美しい音楽だった。最初のうち、それは大仰で、技巧的で、どちらかといえばとりとめのない音楽のように僕の耳には響いた。でも何度も聴いているうちに、まるでぼやけた映像がだんだん固まっていくみたいに、その音楽は僕の意識の中で少しずつまとまりのようなものを持ちはじめた。目を閉じてじっと意識を集中していると、その音楽の響きの中にいくつかの渦が巻いているのを見ることができた。ひとつの渦が生まれると、その渦からもうひとつ別の渦が生まれた。そしてその渦はもうひとつの渦と結びついていった。それらの渦は、もちろん今になって思うことなのだけれど、観念的で抽象的な性質を持つものだった。僕はそのような渦の存在をなんとか島本さんに伝えたかった。でもそれは日常的に使っている言葉で他人に説明できる種類のものではなかった。それを正確に表現するためには、もっと違った種類の言葉が必要だったが、僕はそのような言葉をまだ知らなかった。そしてまた僕の感じているそういうものごとが、あえて口にして他人に伝えるだけの価値を持ったものなのかどうかもわからなかった。  リストの協奏曲を演奏していたそのピアニストの名前は残念ながら忘れてしまった。僕が覚えているのは、カラフルで艶やかなジャケットと、そのレコード盤の重みだけである。レコードはミステリアスなまでにずっしりと重く、分厚かった。  クラシック音楽の他に、島本さんの家のレコード棚にはナット・キング・コールとビング・クロスビーのレコードが混じっていた。僕らはその二枚のレコードも本当によく聴いた。クロスビーの方はクリスマス音楽のレコードだったが、僕らは季節には関係なくそれを聴いた。あれだけ何度も聴いてよく飽きなかったものだと、今でも不思議に思う。  クリスマスも近い十二月のある日、僕は島本さんと二人で、彼女の家の居間にいた。僕らはいつものようにソファーの上でレコードを聴いていた。彼女の母親は何かの用事で外出していて、家には僕らの他には誰もいなかった。それはどんよりと曇った暗い冬の午後だった。太陽の光は、重く垂れ込めた雲の層をようやくくぐり抜けてくるあいだに、細かい塵に削りおろされてしまったように見えた。目に映る何もかもが鈍く、動きを失っていた。時刻はもう夕暮れに近く、部屋の中は夜のようにすっかり暗くなってしまっていた。電灯はついていなかったと思う。ストーブのガスの火がほんのりと赤く部屋の壁を照らしているだけだった。ナット・キング・コールは『プリテンド』を歌っていた。英語の歌詞の意味はもちろん僕らにはまったく理解できなかった。それは僕らにとってはただの呪文のようなものだった。でも僕らはその歌が好きだったし、あまりにも何度も繰り返して聴いたので、始めの部分を口真似で歌うことができた。  ブリテンニュアパピーウェニャブルウ  イティイズンベリハートゥドゥー    今ではもちろんその意味はわかる。「辛いときには幸せなふりをしよう。それはそんなにむずかしいことではないよ」。まるで彼女がいつも浮かべていたあのチャーミングな微笑みのような歌だ。たしかにそれはひとつの考え方ではある。でも時によってはそれはとてもむずかしいことになる。  島本さんは丸首の青いセーターを着ていた。彼女は何枚か青いセーターを持っていた。たぶん青い色のセーターが好きだったのだろう。あるいはいつも学校に着てきた紺のコートには青いセーターが合っていたからかもしれない。白いブラウスの襟が首のところから出ていた。そして格子柄のスカートに、白いコットンの靴下をはいていた。柔らかな生地のぴったりとしたセーターは、彼女のささやかな胸の膨らみを僕に教えていた。彼女は両足をソファーの上にあげて、腰の下に折り込むようにして座っていた。そして片手の肘をソファーの背もたれに載せ、遠い風景を見ているような目で音楽を聴いていた。 「ねえ」と彼女は言った。「一人しか子供のいない両親はあまり仲が良くないっていうのは本当だと思う?」  僕はそのことについて少し考えてみた。でも僕にはその因果関係かよく理解できなかった。「どこでそんなことを聞いたの?」 「誰かが私にそう言ったのよ。ずっと前に。両親の仲が良くないから一人しか子供ができないんだって。それを聞いたときは、とても悲しかったわ」 「ふうん」と僕は言った。 「あなたの家のお母さんとお父さんは仲がいいの?」  僕はそれにはすぐに答えられなかった。考えたこともなかったからだ。 「うちの場合は、お母さんの体があまり丈夫じゃなかったんだ」と僕は言った。「よく知らないけれど、子供を産むには体の負担が大きすぎて、それで駄目なんだって」 「自分にもし兄弟がいたらって思うことある?」 「ないよ」 「どうして? どうして思わないの?」  僕はテーブルの上のレコード・ジャケットを手に取って眺めた。でもそこに印刷された字を読むには、部屋はあまりにも暗すぎた。僕はジャケットをもう一度テーブルの上に戻し、手首で何度か目をこすった。僕は以前、母親に同じ質問をされたことがあった。そして僕がそのときに返した答えは母親を喜ばせも悲しませもしなかった。母親は僕の答えを聞いて、不思議そうな顔をしただけだった。しかしそれは、少なくとも僕自身にとってはきわめて正直で誠実な答えだった。僕の答えはとても長い答えだった。そして僕はそれを要領よく正確に表現することができなかった。でも僕が言いたかったのは結局のところ、「ここにいる僕はずっと兄弟なしで育った僕なんだし、もし兄弟がいたとしたら、僕は今と違う僕になっていたはずだし、だからここに今いるこの僕が兄弟かいたらって思うことは、自然に反していると思う」ということだった。だから僕はその母親の問いをなんだか無意味なもののように感じたのだ。  僕はそのときと同じ答えを島本さんに対しても返した。僕がそう言うと、島本さんはじっと僕の顔を見ていた。彼女の表情には、何かしら人の心を引くものがあった。そこには——これはもちろんあとになって思い返してみてそう感じたわけだが——人の心の薄い皮を一枚一枚優しく剥いでいくような、そういう官能的なものがあった。表情の変化に伴って細かく形を変える薄い唇と、瞳のずっと奥の方でちらちらと見えかくれする仄かな光のことを僕は今でもよく覚えている。その光は、細長い暗い部屋の奥の方で括れている小さな蝋燭の炎を僕に思い起こさせた。 「あなたの言ってること、なんとなくわかるような気がする」と彼女は大人びた静かな声で言った。 「そう?」 「うん」と島本さんは言った。「世の中には取り返しのつくことと、つかないこととがあると思うのよ。そして時間が経つというのは取り返しのつかないことよね。こっちまで来ちゃうと、もうあとには戻れないわよね。それはそう思うでしよう?」  僕は頷いた。 「ある時間が経ってしまうと、いろんなものごとがもうかちかちに固まってしまうのよ。セメントがパケツの中で固まるみたいに。そしてそうなると、私たちはもうあと戻りできなくなっちゃうのよ。つまりあなたが言いたいのは、もうあなたというセメントはしっかりと固まってしまったわけだから、今のあなた以外のあなたはいないんだということでしよう?」 「たぶんそういうことだと思う」と僕は不確かな声で言った。  島本さんはしばらく自分の手を見つめていた。「私ね、ときどき考えるのよ。自分が大きくなって結婚したときのことを。そうしたらどんな家に住んで、どんなことをしようかって。そして何人子供を作ればいいかというようなことも考えるの」 「へえ」と僕は言った。 「あなたは考えない?」  僕は首を振った。十二歳の少年がそんなことを考えるわけがない。「それで何人子供が欲しいの、君は?」  彼女はそれまでソファーの背もたれにかけていた手をスカートの膝の上に置いた。その指がスカートの格子柄をゆっくりとなぞるのを僕はぼんやりと眺めていた。そこには何かしら神秘的なものがあった。その指先から透明な細い糸が出て、それが新しい時間を紡ぎだしているように見えた。目を閉じると、その暗闇のなかに渦が浮かぶのが見えた。幾つかの渦が生まれ、そして音もなく消えていった。ナット・キング・コールが『国境の南』を歌っているのが遠くの方から聞こえた。もちろんナット・キング・コールはメキシコについて歌っていたのだ。でもその当時、僕にはそんなことはわからなかった。国境の南という言葉には何か不思議な響きがあると感じていただけだった。その曲を聴くたびにいつも、国境の南にはいったい何があるんだろうと思った。目を開けると、島本さんはまだスカートの上で指を動かしていた。体の奥の方に僕は微かな甘い痒きを感じた。 「不思議なんだけれど」と彼女は言った。「どういうわけか子供がひとりいるところしか想像できないのよ。自分に子供がいるというのはなんとなく想像できるの。私がお母さんで、私の子供がいるんだということが。でもその子供に兄弟がいるというのがうまく想像できないの。その子には兄弟はいないの。一人っ子なの」  彼女は間違いなく早熟な少女であり、間違いなく僕に対して異性としての好意を抱いていた。僕も彼女に対して異性としての好意を抱いていた。でも僕はそれをいったいどう扱えばいいのかわからなかった。島本さんの方にだってたぶんわからなかっただろう。彼女は一度だけ僕の手を握ったことがある。どこかに案内するときに 「こっちに早くいらっしゃいよ」という風に僕の手を取ったのだ。手を取りあっていたのは全部で十秒程度だったのだけれど、僕にはそれが三十分くらいにも感じられた。そして彼女がその手を放したとき、僕はそのままもっと手を握っていてほしかったと思った。僕にはわかっていた。彼女はとても自然に僕の手を取ったのだけれど、彼女も本当は僕の手を握ってみたかったのだということが。  そのときの彼女の手の感触を僕は今でもはっきりと覚えている。それは僕が知っている他のいかなるものの感触とも違っていた。そして僕がそのあとに知ったいかなるものの感触とも違っていた。それは十二歳の少女のただの小さくて温かい手だった。でもその五本の指と手のひらの中には、そのときの僕が知りたかったものごとや、知らなくてはならなかったものごとがまるでサンプル・ケースみたいに全部ぎっしりと詰め込まれていた。彼女は手を取りあうことによって僕にそれを知らせてくれたのだ。そのような場所がこの現実の世界にちゃんと存在することを。僕はその十秒ほどのあいだ、自分が完璧な小さな鳥になったような気がした。僕は空を飛んで、風を感じることができた。空の高みから遠くの風景を見ることができた。あまりにも遠すぎて、そこに何があるのかまではっきりと見届けることはできなかった。でも僕はそれがそこにあるのだということを感じた。僕はいつかその場所に行くことになるだろう。その事実は僕の息を詰まらせ、胸を震わせた。  僕は家に戻ってから、自分の部屋の机の前に座って、島本さんに握られたその手を長いあいだじっと見ていた。僕は島本さんが僕の手を取ってくれたことをとても嬉しく思った。その優しい感触はそのあと何日にもわたって僕の心を温めてくれた。でもそれと同時に僕は混乱し、惑い、切なくなった。その温かみをいったいどのように扱えばいいのか、どこに持っていけばいいのか、それが僕にはわからなかったのだ。  小学校を出ると、僕と彼女は別の中学校に進んだ。いろんな事情があって、僕はそれまで住んでいた家を出て、違う町に移った。違う町とはいっても電車の駅ふたつぶんの距離しか離れていなかったので、僕はそのあとも何度か彼女のところに遊びに行った。越してから三カ月のあいだに三度か四度は訪ねていったと思う。でもそれだけだった。やがて僕は彼女に会いに行くのをやめてしまった。その頃僕らは、非常に微妙な年齢を通り抜けようとしていた。中学校が違って、駅ふたつぶんの距離があいているだけで、自分たちの世界がすっかり変わってしまったように僕には感じられたのだ。友だちも違えば、制服も違ったし、教科書も違った。僕自身の体つきも声も、いろんなものごとに対する感じ方も、急激に変化を遂げつつあったし、僕と島本さんのあいだにかつて存在した親密な空気も、それにつれてだんだんぎこちないものになっていくようだった。というか、彼女の方が肉体的にも精神的にも僕よりはもっと大きな変化を遂げつつあるように思えたのだ。そしてそれは僕をなんとなく居心地の悪い気持ちにさせた。それから僕は彼女の母親がだんだん僕のことを奇妙な目で見始めているように感じたのだ。 「どうしてこの子はいつまでもうちに遊びに来るのかしら。もう近所に住んでもいないし、学校も別なのに」と。あるいは僕は感じすぎていたのかもしれない。でもとにかく当時、僕はその母親の視線が気になってしかたなかった。  そのようにして、僕の足はだんだん島本さんのところから遠のくようになり、そのうちに会いに行くことをやめてしまった。でもそれはおそらく(おそらくという言葉を使うしかないだろう。結局のところ、過去という膨大な記憶を検証して、そのうちの何が正しくて何が正しくないかを決定するのは僕の役目ではないのだから)間違ったことだった。僕はそのあともしっかりと島本さんと結びついているべきだったのだ。僕は彼女を必要としていたし、彼女だってたぶん僕を必要としていた。でも僕の自意識はあまりにも強く、あまりにも傷つくことを恐れていた。そしてそれ以来、ずいぶんあとになるまで、僕は彼女と一度も顔を合わせなかった。  僕は島本さんと会わなくなってしまってからも、彼女のことをいつも懐かしく思い出しつづけていた。思春期という混乱に満ちた切ない期間を通じて、僕は何度もその温かい記憶によって励まされ、癒されることになった。そして僕は長いあいだ、彼女に対して僕の心の中の特別な部分をあけていたように思う。まるでレストランのいちばん奥の静かな席に、そっと予約済の札を立てておくように、僕はその部分だけを彼女のために残しておいたのだ。島本さんと会うことはもう二度とあるまいと思っていたにもかかわらず。  彼女と会っていた頃、僕はまだ十二歳で、正確な意味での性欲というものを持たなかった。彼女の胸の膨らみや、彼女のスカートの下にあるものに対して漠然とした興味を持つようになってはいた。しかしそれが具体的に何を意味するのかを知らなかったし、それが僕を具体的にどのような地点へ導いていくのかということも知らなかった。僕はただじっと耳を澄ませ、目を閉じて、その場所にあるはずのものを思い描いていただけだった。それはもちろん不完全な風景だった。そこにあるすべてのものごとは霞がかかったように漠然としていて、輪郭はぼやけて滲んでいた。でも僕はその風景の中に、自分にとってとても大事な何かが潜んでいることを感じ取っていた。そして僕にはわかっていたのだ。島本さんもまた僕と同じような風景を見ているのだということが。  おそらく僕らは、自分たちはどちらもが不完全な存在であり、その不完全さを埋めるために僕らの前に、新しい後天的な何かが訪れようとしているのだということを感じあっていたのだと思う。そして僕らはその新しい戸口の前に立っていたのだ。ぼんやりとした仄かな光の下で、二人きりで、十秒間だけしっかりと手を握りあって。 [#改ページ]     2  高校時代には、僕はどこにでもいる普通の十代の少年になっていた。それが僕の人生の第二段階だった——普通の人間になること。それは僕にとっての進化の一過程だった。僕は特殊であることをやめて、普通の人間になった。もちろん注意深い人間が注意深く観察すれば、僕がそれなりのトラブルを抱えた少年であることは容易に見てとれたはずだった。でも結局のところ、それなりのトラブルを抱えていない十六歳の少年がどこの世界に存在するだろうやそういう意味では、僕が世界に近づいたのと同時に、世界も僕に近づいたのだ。  何はともあれ十六歳になったときには、僕はもうかつてのひ弱な一人っ子ではなかった。中学校に入ると、僕はふとしたきっかけで家の近所にあるスイミング・スタールに通うようになった。そこで僕は正式なクロールのスタイルを身につけ、週に二回本格的なラップ・スイミングをやるようになった。そのおかげで肩と胸があっという間に大きくなり、筋肉は引き締まった。僕はもう以前のようにすぐに熱をだしたり、寝込んだりする子供ではなくなっていた。僕はよく裸で浴室の鏡の前に立って、長い時間をかけて自分の体を子細に点検したものだった。 自分の体が思いがけないほど急激に変化していくのが、手に取るようにわかった。僕はそのような変化を楽しんだ。自分か少しずつ大人に近づいていくことを喜んでいたわけではない。僕は成長そのものよりはむしろ、自分という人間の変貌を楽しんでいたのだ。自分がかつての自分でなくなっていくことが嬉しかったのだ。  僕はよく本を読んだし、音楽を聴いた。もともと本や音楽は好きだったのだけれど、そのどちらの習慣も、島本さんとの交際によって大きく促進され、洗練されることになった。僕は図書館に通うようになり、そこにある本を片っ端から読破していった。一度本を読み始めると、途中でやめることができなくなった。それは僕にとっては麻薬のようなものだった。食事をしなから本を読み、電車の中で本を読み、ベッドの中で夜明けまで本を読み、授業のあいだに隠れて本を読んだ。そのうちに自分の小さなステレオ装置を手に入れ、暇さえあれば部屋にこもってジャズのレコードを聴くようになった。しかし僕はそのような本や音楽の体験を誰かと話し合いたいというような欲望をほとんど持たなかった。僕は自分が自分自身であり、他の誰でもないことにむしろ安らぎを感じ、満足していた。そういう意味では僕はおそろしく孤独で倣慢な少年だった。チームプレイの必要なスポーツがどうしても好きになれなかった。他人と点数を競いあう競技も嫌だった。僕が好きなのは、ただ一人で黙々と泳ぎ続けることだけだった。  とはいっても、僕は頭から尻尾まで孤独であったわけではない。僕は学校で、それほど数多くではないにせよ、何人かの親しい友人を作ることができた。正直に言って、学校というものが好きになったことは一度もなかった。彼らはいつも僕を押しつぶそうとしているように思えたし、僕はそれに対していつも身構えて生きていかなくてはならなかった。もしそんな友だちがまわりにいなかったら、僕は十代という不安定な歳月を通り過ぎるあいだに、もっと深い傷を負っていたことだろう。  そしてまたスポーツを始めたおかげで、僕の抱えていた食べられない食品のリストも、昔に比べればずいぶん短いものになったし、女の子と話していて、意味もなく赤くなったりするようなことも少なくなった。何かの拍子に僕が一人っ子であることがわかっても、誰もそんなことはとくに気にしないようだった。僕は、少なくとも外面的には、一人っ子であることの呪縛を脱したかのように見えた。  そして僕はカールフレンドを作った。  彼女はそれほど綺麗な娘ではなかった。つまり母親かクラスの写真を見て、ため息をついて、「この子はなんていう名前や綺麗な人ねえ」と言うようなタイプではなかったということだ。でも僕は最初に会ったときから、彼女のことを可愛いと思った。写真からはわからないことだけれど、実物の彼女には自然に人の心を引きつけるような素直な温かさかあった。たしかにみんなに自慢してまわるような美人ではない。でも考えてみれば僕だって、とくに他人に自慢できるようなものを持ちあわせているわけではなかった。  僕と彼女とは高校二年生のときに同じクラスになって、何度かデートした。最初はダブル・デートで、次は二人だけのデートだった。彼女と一緒にいると僕は不思議に寛いだ気持ちになれた。僕は彼女の前ではとても気楽に話をすることができたし、彼女はいつも僕の話をとても楽しそうに興味深そうに聞いてくれた。たいした話をしたわけではないのだが、僕の言っていることがまるで世界を変えてしまう大発見ででもあるかのような顔をして熱心に聞いてくれた。女の子が僕の話に熱心に耳を傾けてくれるなんて、島本さんと会わなくなってからは初めてのことだった。そしてそれと同時に、僕も彼女について何でもいいから知りたいと思った。どんな細かいことでもいい。彼女が毎日何を食べているのか。どんな部屋で暮らしているのか。その窓からはどんな景色が見えるのか。  イズミというのが彼女の名前だった。素敵な名前だね、と最初に会って話をしたときに僕は彼女に言った。斧を放り込んだら妖精が出てきそうだな。僕がそう言うと彼女は笑った。彼女には三つ下の妹と五つ下の弟がいた。父親は歯科医で、やはり一軒家に住んでいて、犬を飼っていた。犬はドイツ・シェパードで、名前はカールと言った。信じられない話だが、カール・マルクスから取ったのだ。父親は日本共産党の党員だった。もちろん世間には共産党員の歯医者だって何人もいるだろう。全部集めたら大型バス四、五台ぶんくらいにはなるかもしれない。でも僕のカールフレンドの父親がそのうちの一人であるという事実は、僕をなんだか不思議な気持ちにさせた。彼女の両親はかなりのテニス気違いで、毎週日曜になるとラケットを持ってテニスをやりにいった。テニス気違いの共産党員というのもいささか奇妙なものであるような気かしなくもなかった。しかしイズミにはそんなことはとくに気にならないようだった。彼女は日本共産党にはまったく興味を持っていなかったが、両親のことは好きだったし、よく一緒にテニスをした。そして僕にもテニスをやることを勧めたのだが、僕は残念ながらテニスというスボーツがどうしても好きになれなかった。  彼女は僕が一人っ子であることをうらやましかった。彼女は自分の弟やら妹のことがあまり好きではなかった。無神経だし、どうしようもない馬鹿なのよ、と彼女は言った。いなくなったらどんなにせいせいすることか。兄弟がいないなんて最高じやない。私はいつも一人っ子になりたいと思っていたのよ。そうすればいちいち邪魔されずにのんびり好きなことして暮らせるもの。  三回目のデートで、僕は彼女にキスをした。その日彼女は僕の家に遊びに来ていた。母親は買い物があるからと言って途中で出ていった。家の中には僕とイズミしかいなかった。僕が顔を近づけて、彼女の唇に唇をかさねると、彼女は目を閉じて何も言わなかった。彼女が怒ったり、顔を背けたりしたときのために、僕は全部で一ダースくらいの言い訳を前もって用意していたのだが、結局それを使う必要はなかった。僕は唇をかさねたまま、彼女の背中に腕をまわしてもっと近くに抱きよせた。それは夏の終わりのことで、彼女はシアサッカーのワンピースを着ていた。腰のところで紐を結ぶようになっていて、それが尻尾のように後ろにさかっていた。僕の手のひらは彼女の背中のブラジャーの金具に触れた。彼女の息が僕の首にかかるのが感じられた。僕の心臓はそのまま体の外にとびだしてしまいそうなくらいどきどきとしていた。僕のはちされそうに硬くなったペニスが彼女のふとももにあたって、彼女は少し体をずらした。でもそれだけだった。彼女はそのことを特に不自然なことだとも不愉快なことだとも思っていないようだった。  僕らは僕の家の居間のソファーの上で、そのままじっと抱き合っていた。ソファーの向かいの椅子には猫が座っていた。僕らが抱き合っているときに、猫はちらっと目をあげて僕らの方を見たが、何も言わずにのびをして、そのまままた眠り込んでしまった。僕は彼女の髪を撫で、その小さな耳に唇をつけた。何か言わなくちゃならないんだろうなと思ったのだが、言葉というものが一切浮かんでこなかった。それに何かを言おうにも、僕は息を吸い込むのさえやっとという有り様だった。それから僕は彼女の手をとって、もう一度彼女の唇にキスした。ずっと長いあいだ彼女は何も言わなかったし、僕も何も言わなかった。  イズミを電車の駅まで送って帰したあとで、僕はひどく落ちつかない気持ちになった。僕は家に戻り、ソファーに寝ころんでずっと天井を睨んでいた。僕には何を考えることもできなかった。やがて母親が帰ってきて、すぐに夕食の支度をするからと言った。でも食欲なんてまるでなかった。僕は何も言わずに靴を履いて、外に出て、そのまま二時間も町の中をうろうろと歩き回った。不思議な気持ちだった。僕はもう孤独ではなかったけれど、それと同時にこれまで感じたことがないくらい深く孤独だった。まるで生まれて初めて眼鏡をかけたときのように、僕にはものごとの遠近感かうまくつかめなかった。遠くのものが手に届きそうに見え、鮮明でないはずのものが鮮明に見えた。  彼女は別れるときに僕に向かって言った。「とても嬉しかったわ。ありがとう」と。もちろん僕だって嬉しかった。女の子がキスをさせてくれるなんて、ほとんど信じられないことだった。嬉しくないわけがない。それでも、僕は手放しの幸福感というものを抱くことができなかった。僕は土台を失ってしまった塔に似ていた。高いところから遠くを見渡そうとすればするほど、僕の心は大きくぐらぐらと揺れ始めた。どうして彼女なのだろうと僕は自分に問いかけてみた。僕はいったい彼女についての何を知っているというのだろうや僕は彼女と何度か会って、軽い話をしただけなのだ。そう考えると僕はひどく不安になった。いても立ってもいられないような気持ちだった。  もし仮に僕が抱いて口づけをした相手が島本さんだったなら、今ごろこんな風に迷ったりはしていないだろうなとふと思った。僕らはお互いのすべてを無言のうちにすんなりと受け入れたことだろう。そしてそこには不安とか迷いといったようなものは一切存在しなかっただろう。  でも島本さんはもうここにはいない、と僕は思った。彼女は今では彼女自身の新しい世界の中にいるのだ。ちょうど僕が僕自身の新しい世界の中にいるように。だからイズミと島本さんとを並べて比較したりすることはできない。そんなことをしても何の役にも立ちはしない。ここはもう新しい世界であり、かつて存在した世界に通じる背後の扉は既に閉じられてしまっていた。僕はこの新しい僕を取り巻く世界の中で、なんとか自分を確立していかなくてはならないのだ。  空の東の端の方がほんのりと白んでくるまで、僕はずっと起きていた。それからベッドに入って二時間ばかり眠り、シャワーを浴びて学校に行った。僕は学校で彼女をつかまえて話をしたいと思った。昨日僕らのあいだで起こったことを僕はもう一度確認したかった。彼女がまだその時と同じ気持ちでいるのかどうかを、彼女の口からはっきりと聞きたかった。彼女はたしかに「とても嬉しかったわ。ありがとう」と最後に僕に言った。でも夜が明けてみると、そんなことはみんな僕が頭の中で勝手に作り上げた幻覚みたいに思えてきた。学校でイズミと二人きりになって話をする機会はとうとうみつけられなかった。彼女は休み時間には仲の良い女の子の友だちとずっと一緒だったし、授業が終わると一人でさっさと帰ってしまった。一度だけ教室の移動のときに廊下で彼女と僕とは目を合わせた。彼女は僕に向かってにっこりと素早く微笑みかけ、僕も微笑みを返した。それだけだった。しかし僕はその微笑みの中に昨日の出来事の確認のようなものを感じ取ることができた。「大丈夫よ、昨日のことは本当なんだから」と彼女の微笑みは語っているようだった。電車に乗って家に帰る頃には、僕の戸惑いはもうほとんど消えてしまっていた。僕は彼女のことをはっきりと求めていたし、それは昨夜抱いた疑念や迷いよりはずっと健康的で、ずっと強いものだった。  僕が求めていることは実に明確だった。イズミをまず裸にすることだった。その服を脱がせてしまうことだった。それから彼女と性交するのだ。それは僕にとっては、あまりに遠い道のりだった。物事というのは、ひとつひとつの具体的なイメージを段階的に積み重ねることによって前に進んで行く。性交にたどり着くためには、人はまずワンピースのファスナーを下ろすところから取りかからなくてはならない。そして性交とワンピースのファスナーのあいだには、おそらく二十か三十の微妙な決断や判断を必要とする過程が存在するはずだ。  僕がまず最初にやろうとしたのは、コンドームを入手することだった。それを実際に必要とする段階にたどり着くにはまだずいぶん間があるにせよ、とにかく手にいれておかなくてはならないだろうと僕は思った。いつそれを使う必要が生じるかは誰にもわからないからだ。しかし薬局にコンドームを買いにいくのは論外だった。僕はどう見ても高校二年生にしか見えなかったし、とてもそんな勇気はなかった。町には自動販売幾が何台かあったが、そんなものを買っているところを誰かに見られでもしたら面倒なことになりそうだった。僕は三日か四日のあいだ、そのことでずっと悩みつづけた。  しかし結局、事は思いのほか簡単に運んだ。僕にはその種類のことに比較的詳しそうな友人がひとりいた。僕は彼に思い切って相談してみた。実はコンドームを手に入れたいのだが、どうするのがいちばんいいだろうと。そんなの簡単だよ、ほしいんなら一箱やるよ、と彼はなんでもなさそうに言った。うちの兄貴が通信販売か何かで山ほど買いこんだんだ。なんでそんなにいっぱい買ったのかよくわかんないけど、押入れにいっぱいあるんだ。ひとつくらいなくなったってわかりゃしないよ、と彼は言った。そうしてもらえると有り難いな、と僕は言った。そして明くる日、彼は紙袋に入れたコンドームを学校に持ってきてくれた。僕は彼に昼食をおごり、このことは他の人間には絶対に黙っていてくれよなと言った。わかってるよ、そんなこと誰かに言ったりしないよ、と彼は言った。でももちろん彼は黙ってんかいなかった。僕がコンドームを必要としているということを彼は何人かに喋った。その何人かはまたほかの何人かに喋った。そしてイズミもそれを一人の女友だちから聞いた。彼女は僕を放課後に学校の屋上に呼んだ。 「ねえ、ハジメくん、あなたコンドームを西田くんからもらったんだって?」と彼女は言った。彼女は(コンドーム)という言葉をひどく言いにくそうに発音した。彼女が(コンドーム)と言うと、それはなんだかひどい疫病をもたらす不道徳な黴菌のように聞こえた。 「ああ、うん」と僕は言った。そして適当な言葉を探した。でも適当な言葉なんてどこにもみつからなかった。「とくに深い意味はないんだよ。ただなんとなく、その、ひとつくらいあった方がいいんじゃないかっていう気が前からしてたんだ」 「あなたはそれを、私のために手に入れたわけなの?」 「とくにそういうわけでもないんだ」と僕は言った。「どんなものなのかちょっと興味があっただけなんだ。でももしそのことで君が嫌な気持ちになったんなら謝るよ。返してもいいし、捨ててもいい」  僕らは屋上の隅にある小さな石の、ベンチに並んで腰を下ろしていた。今にも雨が降りだしそうな天気だったから、屋上には僕らの他には誰もいなかった。あたりは本当にしんとしていた。屋上がそんなに静かに感じられたのは初めてだった。  学校は山の上にあって、その屋上からは町と海とが一望のもとに見渡せた。僕らは一度放送部の部屋から古いレコードを十枚ばかりくすねてきて、それを屋上からフリスビーみたいに飛ばしたことがあった。それらのレコードは綺麗な放物線を描いて飛行した。風に乗って、あたかも束の間の生命を得たかのように、幸福そうに港の方にまで飛んでいった。でもそのうちの一枚は風に乗り損なって、ふらふらと不器用にテニスコートに落ち、そこで素振りの練習をしていた一年生の女の子たちを驚かせ、あとでかなりの問題を引き起こすことになった。それは一年以上も前の出来事で、僕は今、その同じ場所でカールフレンドにコンドームのことで詰問されていた。空を見上げると、とんびがゆっくりと綺麗な門を描いているのが見えた。とんびであることは、きっと素敵なことだろうなと僕は想像した。彼らはただ空を飛んでいればいいのだ。少なくとも避妊に気をつかう必要はない。 「あなたは私のことが本当に好き?」と彼女は静かな声で僕に訊いた。 「もちろんだよ」と僕は答えた。「もちろん君のことが好きだ」  彼女は唇をまっすぐに結んだまま僕の顔を正面から見た。居心地が悪くなるくらい長いあいだじっと見ていた。 「私もあなたのことが好きよ」と少しあとで彼女は言った。  でも、と僕は思った。 「でもね」と彼女は案の定あとを続けた。「急がないで」  僕は頷いた。 「あまりせっかちにならないで。私には私のペースがあるのよ。私はそんなに器用な方じゃないのよ。私はいろんなことに対して準備をするのに時間がかかる方なの。あなたには待つことができる?」  僕はもう一度黙って頷いた。 「ちゃんと約束してくれる?」と彼女は言った。 「約束する」 「私を傷つけたりしない?」 「傷つけない」と僕は言った。  イズミはうつむいてしばらく自分の靴を見ていた。それは普通の黒いローファーシューズだった。隣にある僕の靴に比べると、それは玩具みたいに小さく見えた。 「怖いのよ」と彼女は言った。「なんだかこのごろ、ときどき殻のないかたつむりになったみたいな気持ちがするの」 「僕だって怖い」と僕は言った。「なんだかときどき水掻きのない蛙になったみたいな気持ちかする」  彼女は顔をあげて僕の顔を見た。そして少しだけ笑った。  それから僕らはどちらが誘うともなく建物の陰に行って、抱き合ってキスをした。僕らは殻を失ったかたつむりであり、水掻きを失った蛙だった。僕は彼女の胸を僕の胸に強く引き寄せた。僕の舌と彼女の舌がそっと触れ合った。僕はブラウスの上から彼女の乳房に手を触れた。でも彼女は抵抗しなかった。彼女は静かに目を閉じてため息をついただけだった。彼女の乳房はそれほど大きくなかったけれど、それは僕の手のひらの中にとても親しげに収まった。まるで最初からそのために作られていたみたいに。彼女は僕の心臓の上に手のひらをつけた。その手のひらの感触は僕の胸の鼓動にぴったりとくっついているようだった。彼女は島本さんとはもちろん違っている、と僕は思った。この女の子は島本さんが僕に与えてくれたのと同じものを与えてはくれない。でも彼女はこうして僕のものであり、そして僕に彼女が与えることのできる何かを与えてくれようとしている。僕が彼女を傷つけなくてはならないような理由がどこにあるだろう。  でもそのときの僕にはわかっていなかったのだ。自分がいつか誰かを、とりかえしがつかないくらい深く傷つけるかもしれないということが。人間というのはある場合には、その人間が存在しているというだけで誰かを傷つけてしまうことになるのだ。 [#改ページ]     3  僕とイズミはそれから一年以上交際をつづけた。僕らは週に一度はデートをした。映画を見に行ったり、図書館に行って一緒に勉強をしたり、あるいは何をするともなくあちこちを歩き回ったりした。しかし僕と彼女とは、性的な関係においては最後の段階まで行かなかった。ときどき両親が出かけてしまっていないときには、僕は彼女を家に呼んだりもした。そして僕らは僕のベッドの上で抱き合った。月に二回くらいはそういうことがあったと思う。しかし家の中に僕らしかいないという場合でも、彼女は決して服を脱がなかった。いつ誰が帰ってくるかわからないでしょう、そのときに裸になっていたりしたら面倒でしょうと彼女は言った。そういう点ではイズミはとても用心深かった。臆病なわけではない。しかし自分が何かみっともない状況に追い込まれるということが、彼女には性格的に耐えられなかったのだと思う。  そんなわけで僕はいつも服の上から彼女を抱き、下着のあいだから指を入れて、とても不器用にその肉体を愛撫しなくてはならなかった。 「急がないでね」と僕ががっかりした顔をするたびに彼女は言った。「私の準備ができるまでもう少し待って。お願い」  正直に言って僕はべつに急いでいるわけではなかった。僕はただ、いろんなことに少なからず困惑し失望していただけだった。もちろん僕はイズミのことが好きだったし、彼女が僕のカールフレンドでいてくれることに感謝もした。もし彼女がいなかったなら、僕の十代の日々はもっとずっと退屈で色彩を欠いたものになっていただろう。彼女は基本的には素直で気持ちの良い女の子だったし、多くの人が彼女に好感を抱いていた。我々の趣味が合っていたとは言いかたい。僕の読んでいる本や、僕の聴いている音楽を彼女はほとんど理解しなかったと思う。だからそのような領域のものごとについて僕らが対等の立場に立って語りあうことはまずなかった。そういう点では僕とイズミとの関係は、島本さんとの関係とはずいぶん違っていた。  でも彼女の隣に座ってその指に手を触れていると、僕はとても自然な温かい気持ちになることができた。他の人間には言えないことでも、彼女に対しては比較的楽に話すことができた。僕は彼女の瞼や、唇の上にキスをするのが好きだった。僕は彼女の髪をあげて、その小さな耳に口づけするのが好きだった。僕がそうすると、彼女はくすくす笑った。今でも彼女のことを思い出すと、僕はいつも日曜日の静かな朝の情景を目に思い浮かべる。穏やかで、天気が良くて、まだ始まったばかりの日曜日。宿題も何もなく、ただ好きなことをすればいい日曜日。彼女はよく、僕をそういう日曜日の朝のような気分にさせてくれた。  もちろん彼女にも欠点はあった。彼女はある種のことがらに対してはいささか頑固にすぎたし、想像力に欠けていると言えなくもなかった。彼女はそれまで自分が属して育ってきた世界からなかなか足を踏みだそうとはしなかった。何か好きなことに寝食を忘れて熱中するというようなこともなかった。そして両親を愛して尊敬していた。彼女の口にする意見のいくつかは——十六、七歳の少女としてはごく当たり前のことだと今になれば思うのだが——平板で深みを欠いていた。それはときとして僕を味気ない気持ちにさせた。でも彼女が誰かの悪口を口にするのを聞いたことは一度もなかった。つまらない自慢話をするようなこともなかった。そして彼女は僕のことを好いてくれたし、大事に扱ってくれた。僕の言うことに耳を真剣に傾け、僕を励ましてくれた。僕は自分自身や自分の将来について彼女にいろいろと話をした。この先何をやりたいのか、どんな人間になりたいのか。おおかたはその年代の少年がよく口にするような、ただの非現実的な夢物語だった。でも彼女はそれをちゃんと熱心に聞いてくれた。そして励ましまでしてくれた。「あなたはきっと素敵な人になると思う。あなたの中には何かとでも素晴らしいものがあるもの」とイズミは言った。そして彼女は本気でそう言っていたのだ。生まれてこのかた、僕にそんなことを言ってくれたのは彼女だけだった。  そして彼女を抱けるのも——それがたとえ服の上からだったとしても——素晴らしいことだった。僕が困惑し失望したのは、僕がイズミの中にいつまでたっても僕のためのもの[#「僕のためのもの」に傍点]を発見できない点にあった。僕は彼女の美質を並べることができた。そしてそのリストは彼女の欠点のリストよりずっと長いものだった。それはおそらく僕という人間の持つ美質のリストよりも長いものだった。でも彼女には決定的な何かが欠けていた。もし彼女の中にその何かを見いだせたなら、僕はたぶん彼女と寝ていただろう。僕は絶対に我慢なんかしていなかっただろう。時間がかかっても僕は彼女を説得して、どうして彼女が僕と寝なくてはいけないかを納得させたと思う。でも結局のところ、あえてそうするだけの確信が僕には持てなかったのだ。僕はもちろん性欲と好奇心で頭がいっぱいになった十七か十八の無分別な少年に過ぎなかった。でも頭のどこかで僕にはわかっていた。もし彼女がセックスをすることを望まないのなら、無理にセックスをするべきではない、少なくともしかるべき時期が来るのを辛抱強く待たなくてはならないのだということを。  でも僕は一度だけ、裸のイズミを抱いたことがある。もう服の上から君を抱くのはいやだ、と僕はイズミに向かってはっきりと宣言した。セックスをしたくないのならしなくてもいい。でも僕はどうしても君の裸の体を見てみたいし、何もつけてない君を抱きたいのだと言った。僕にはそうすることが必要だし、これ以上我慢することは不可能だ、と。  イズミは少し考えてから、あなたが本当にそう望むのなら、そうしてもいいと言った。「でも約束してね」と彼女は生真面目な顔で言った。「それだけよ。私がやりたくないことはやらないでね」  彼女は休みの日に僕の家にやってきた。それは十一月の初めの気持ちよく晴れた、しかしちょっと肌寒い日曜日だった。母親と父親は用事があって親戚の家を訪問していた。それは父方の親戚の法事か何かで、本当は僕も出席しなくてはならなかったのだけれど、試験の準備があるからと言って一人で家に残ることにしたのだ。彼らの帰りは夜遅くになるはずだった。イズミは昼過ぎにやってきた。僕らは僕の部屋のベッドの上で抱きあった。そして僕は彼女の服を脱がせた。彼女は目を閉じて、何も言わずに僕に服を脱がされていた。でも僕はいろいろと手間取った。もともと手先があまり器用でない上に、女の子の服というのは本当にややこしくできているのだ。結局イズミは途中であきらめて目をあけ、自分で服を全部脱いだ。彼女は淡いブルーの小さなパンティーをはいていた。そしてそれとお揃いのブラをつけていた。彼女はそのときのためにわざわざ自分で買ってきたのだろう。それまでは彼女は普通の母親が高校生の娘に買って与えるような下着を着ていたからだ。それから僕は自分の服を脱いだ。  僕は何もつけていない彼女の体を抱いて、その首や乳房にキスをした。僕は彼女のつるりとした肌を撫で、その皮膚の匂いを嗅ぐことができた。ふたりで裸になってしっかりと抱き合うというのは素晴らしいことだった。僕は彼女の中に入りたくて、気が狂いそうだった。でも彼女は僕をしっかりと押し止めた。 「ごめんね」と彼女は言った。  でもそのかわりに彼女は僕のペニスを口に含んで、舌を動かしてくれた。彼女がそれをしてくれたのは初めてのことだった。彼女の舌が何度か僕の亀頭の上を這うと、僕は何かを考える余裕もなくすぐに射精してしまった。  僕はそのあとずっとイズミの体を抱いていた。僕は彼女の体をゆっくりと隅々まで撫でまわした。窓から差し込む秋の太陽の光に照らされた彼女の体を眺め、いろんなところに唇をつけた。それは本当に素敵な午後だった。僕らは裸のまま何度もしっかりと抱き合った。そして僕は何度か射精した。僕が射精すると、そのたびに彼女は洗面所に行って口をゆすいだ。 「不思議なかんじのものね」とイズミは言って笑った。  僕はイズミと一年ちょっとつきあったけれど、その日曜日の午後は間違いなく僕らが二人で一緒に過ごしたいちばん幸せな時間だった。お互いに裸になってしまうと、僕らには隠すことはもう何もないように感じられた。僕は今までよりもっとイズミのことを理解できたような気がしたし、彼女の方も同じ気持ちだっただろう。必要なのは小さな積み重ねだ。ただの言葉や約束だけではなく、小さな具体的な事実をひとつひとつ丁寧に積み重ねていくことによって、僕らは少しずつでも前に進んでいくことができるのだ。彼女が求めているのも結局のところはそういうことなのだろうと僕は思った。  イズミは長いあいだ僕の胸に頭を載せて、心臓の音を聞くような恰好でじっとしていた。僕は彼女の髪を撫でた。僕は十七で、健康で、大人になろうとしていた。それはたしかに素敵なことだった。  でも四時に近くなり彼女がそろそろ帰り支度をしようかという頃になって、玄関のベルが鳴った。最初のうち僕はそれを無視していた。誰が来たのかはしらないが、出なければそのうち帰ってしまうだろうと。でもベルは何度も何度も執拗に鳴りつづけた。嫌な感じがした。 「家の人が帰ってきたんじゃないの?」とイズミは真っ青になって言った。彼女はベッドを出て自分の服をひっかきあつめ始めた。 「大丈夫だよ。こんなに早く帰ってくるわけはないし、それにわざわざベルなんて鳴らさない。鍵を持ってるんだもの」 「私の靴」と彼女は言った。 「靴?」 「私の靴が玄関に置きっぱなしになってる」  僕は服を着て下におりて、イズミの靴を下駄箱の中に隠してからドアを開けた。そこには叔母がいた。母の妹なのだが、うちから電車で一時間ほど離れたところに一人で住んでいて、ときどき僕の家に遊びに来た。 「何してたのよ。ずっとベル鳴らしてたのよ」と彼女は言った。 「ヘッドフォンかけて音楽を聴いてたんだ。だから聞こえなかったんだよ」と僕は言った。 「でも親父もおふくろも出かけていていないよ。法事があって行っちゃったんだ。夜までは帰ってこない。それは知ってるはずだと思うけど」 「知ってるわよ。でもちょうどこの近くにくる用事があったし、あなたも家で勉強しているっていうから、夕食を作ってあげようと思って寄ったのよ。買い物もしてきたわよ」 「ねえ叔母さん、夕食くらい僕が自分で作れるよ。子供じゃないんだから」と僕は言った。 「でもとにかく買い物だってしてきたんだし、いいじゃない。あなた忙しいんでしょう。私が、ご飯を作るからそのあいだゆっくり勉強してなさいよ」  やれやれと僕は思った。死にたいような気分だった。そんなことをされたら、イズミが帰れなくなってしまう。僕の家は玄関に行くには居間を通らなくてはならないし、門を出るためには台所の窓の前を通らなくてはならない造りになっていた。もちろんイズミのことを遊びに来ている友だちだと言って叔母に紹介することもできた。でも僕はここで一生懸命試験のための勉強をしていることになっているのだ。だから女の子を家に呼んでいたなんてことがばれたらけっこう面倒なことになる。叔母に頼んで両親に内緒にしておいてもらうというのはまず不可能だった。叔母は悪い人ではないのだが、何事によらず自分一人の胸にしまっておくということができないのだ。  叔母が台所に入って食品の整理をしているあいだ、僕は彼女の靴を持って二階の自分の部屋に行った。イズミはもうすっかり服を着ていた。僕は彼女に事情を説明した。  彼女は青くなった。「私いったいどうすればいいの。もしずっとここから出られなくなっちゃったらどうするのよ。私だって晩御飯までに家に帰らなくちゃならないのよ。帰れなかったら大変なことになっちゃう」 「大丈夫、なんとかするよ。うまく行くから心配することないよ」と僕は言って、彼女を落ちつかせた。でもどうすればいいのか僕にだってぜんぜんわからなかった。見当もつかなかった。 「それからカードルの靴下どめがどっかにいっちゃったのよ。ずいぶん探したんだけれど、どこかで見なかった?」 「カードルの靴下どめ?」と僕は言った。 「小さいやつ。これくらいの大きさの金具」  僕は部屋の床やら、ベッドの上やらを探してみた。でもそんなものはみつからなかった。「しかたないからストッキングなしで帰りなよ、悪いけど」と僕は言った。  台所に行ってみると、叔母は調理台で野菜を切っているところだった。サラダ・オイルが足りないんだけど、どこかで買ってきてくれないかと叔母は僕に言った。断る理由もないので、僕は自転車に乗ってサラダ・オイルを買いに近所の店に行った。あたりはもううす暗くなっていた。僕はだんだん心配になってきた。このままではイズミは本当に家から出られなくなってしまう。両親が帰ってくる前になんとか手を打たなくてはならない。 「叔母さんが洗面所にでも入っているあいだにこっそりと出ていくしかなさそうだな」と僕はイズミに言った。 「うまく行くと思う?」 「なんとかやってみよう。このままじっとしていてもどうしょうもないからさ」  僕とイズミは打合せをした。僕が下にいて、叔母が洗面所に入ったら大きく二度手を叩く。  そうしたら彼女はさっと下におりてきて、靴を履いて出ていく。うまく脱出することができたら、少し先にある電話ボックスから僕に電話をかける。  叔母は気楽に歌を歌いながら野菜を切ったり、味噌汁を作ったり、卵焼きを作ったりした。  でもどれだけ経っても彼女は洗面所に行かなかった。それは僕をすごくいらいらさせた。ひょっとしたらこの女はとくべつ巨大な膀胱を持っているのかもしれないと僕は思った。でも僕がほとんどあきらめかけたころになって、やっと叔母はエプロンを取り、台所を出ていった。僕は彼女が洗面所に入るのを確かめてから居間に飛んでいって、手を思い切り二度叩いた。イズミが靴をさげて階段を下りてきて、素早くそれを履き、音を忍ばせて玄関から出ていった。僕は台所に行って、彼女が無事に門を出ていくところを確認した。それからすぐに、ほとんどすれ違いみたいに叔母が洗面所から出てきた。僕はため息をついた。  五分後にイズミが電話をかけてきた。十五分で戻るからと言って僕は家を出た。彼女は電話ボックスの前に立って待っていた。 「私こういうのってもう嫌よ」、僕が口を開く前にイズミはそう言った。「こんなことはもう二度とやらないわよ」  彼女は混乱し、腹を立てていた。僕は彼女を駅の近くの公園に連れていって、ベンチに座らせた。そして優しく彼女の手を握った。イズミは赤いセーターの上に薄いベージュのコートを着ていた。その下にあるもののことを僕は懐かしく思い出していた。 「でも今日は本当に素敵な一日だったよ。もちろん叔母さんが来るまではということだけどね。君はそう思わない?」と僕は言った。 「私だってもちろん楽しかったわよ。あなたといるときは私はいつもすごく楽しいのよ。でもね、そのあとで一人になると、私にはいろんなことがわからなくなってしまうの」 「たとえばどんなことが?」 「たとえばこれから先のことよ。高校を卒業したあとのこと。あなたはたぶん東京の大学に行く、私はここに残って大学に行く。私たちはこれからいったいどうなるの? あなたは私をいったいどうするつもりなの?」  僕は高校を卒業したあと東京の大学に行くことに決めていた。この町を離れて、両親から独立して、一人で生きることが自分には必要なのだと僕は思うようになっていた。僕の学年順位は総合成績を見るとあまり芳しいものではなかったが、幾つかの好きな科目はろくに勉強をしなくてもまあまあ悪くない成績を取っていたから、受験科目数の少ない私立大学ならそれほどの苦労もなく入れそうだった。でも彼女が僕と一緒に東京に行ける見込みはまずなかった。イズミの両親は彼女を手元に置きたがっていたし、イズミがそれに逆うとも思えなかった。彼女はそれまでただの一度も親に反抗したことがなかった。だからイズミは当然のことながら僕にこの町に残ってほしがっていた。ここにだって良い大学はあるじゃない、どうしてわざわざ東京まで行かなくちゃいけないの、と彼女は言った。もし僕が東京に行かないと言ったら、たぶん彼女はすぐにでも僕と寝てくれただろうと思う。 「ねえ、外国に行くわけじゃないんだよ。三時間あれば行ったり来たりできるんだ。それに大学の休みは長いから、一年のうち三カ月か四カ月はこっちにいることになるよ」と僕は言った。それはこれまで何十回も彼女に向かって説明したことだった。 「でもこの町を離れたらきっとあなたは私のことなんか忘れてしまうわ。そして別の女の子をみつけるのよ」と彼女は言った。これも彼女が僕に対して何十回も言ったことだった。  そのたびに僕はそんなことがあるわけはないと彼女に言って聞かせた。僕は君のことが好きだし、君のことをそんなに簡単に忘れたりはしないと。でも本当のことを言えば、僕にはそれほど確信が持てなかった。場所が変っただけで、時間や感情の流れががらりと変ってしまうことだってあるのだ。僕は島本さんと離れ離れになったときのことを思い出した。あれほどお互いに親密なものを感じあっていたにもかかわらず、中学校にあがって別の町に越したとき、僕は彼女と別の道を歩むことになった。僕は彼女のことが好きだったし、彼女は僕に遊びにきてくれと言った。でも結局僕はそこに行くことをやめてしまった。 「私にはよくわからなくなってしまうことがあるの」とイズミは言った。「あなたは私のことを好きだと言う。そして私のことを大事にしてくれる。それはわかるのよ。でもあなたが本当に何を考えているのかが私にはときどきわからなくなってしまうの」  イズミはそう言うと、コートのポケットからハンカチを出して、それで涙を拭いた。彼女が泣いていることに僕はそれまで気がつかなかった。僕は何と言っていいのかわからなかったので、彼女の話の続きを待っていた。 「あなたはきっと自分の頭の中で、ひとりだけでいろんなことを考えるのが好きなんだと思うわ。そして他人にそれをのぞかれるのがあまり好きじゃないのよ。それはあるいはあなたが一人っ子だからかもしれない。あなたは自分だけでいろんなことを考えて処理することに慣れているのよ。自分にだけそれがわかっていれば、それでいいのよ」、イズミはそう言って首を振った。「それが私をときどきすごく不安にさせるの。なんだか取り残されたような気持ちになってしまうの」  一人っ子という言葉を耳にしたのは久しぶりだった。僕はその言葉か小学校の頃にどれだけ自分を傷つけたかということを思い出した。でも今イズミはそれとはまったく違う意味でその言葉を使っているのだ。イズミが僕のことを「一人っ子だから」というとき、彼女は甘やかされてスポイルされた子供についてではなく、自分一人の世界からなかなか外に出てこようとはしない僕の孤立しがちな自我について語っていた。彼女は僕を責めているわけではない。彼女はただそのことを哀しく思っているだけなのだ。 「私だってあんな風にあなたと抱き合えて嬉しかったし、ひょっとしたらいろんなことがこのままみんなうまく行くかもしれないとも思ったのよ」と別れ際にイズミは言った。「でも、そんなに簡単にうまくは行かないわね」  僕は駅から家まで帰るあいだに、彼女の言ったことについて考えてみた。彼女が言おうとすることは僕にもだいたい理解できた。僕は誰かに対して心を開くということに馴れていなかった。イズミは僕に心を開いていたと思う。でも僕にはそれができなかった。僕はイズミのことが好きだったけれど、本当の意味では彼女を受け入れてはいなかった。  駅から家までの道は何千回も歩いた道だった。でもその時、それは僕の目には見知らぬ町の光景のように映った。歩きながら僕は、その午後に抱いたイズミの裸の体のことをずっと思い出していた。彼女の硬くなった乳首や、たよりなげな陰毛や、柔らかな大腿のことを思い出した。そしてそのうちに僕はだんだんやりきれないような気持ちになってきた。僕は煙草屋の自動販売機で煙草を買い、イズミとさっき一緒に座っていた公園のベンチに戻って、気持ちを落ちつけるためにそれに火をつけた。  もし叔母が突然押しかけてこなかったなら、いろんなことはうまく行っていたかもしれないな、と僕は思った。もし何事もなかったなら、おそらく僕らはもっとずっと気持ち良く別れることができただろうし、もっと幸せな気持ちになっていたに違いない。でももしたとえ今日叔母が来なかったとしでも、きっとそれに似た何かはいつか起こったことだろう。もし今日起こらなかったとしても、それはおそらく明日起こっただろう。いちばん大きな問題は僕が彼女を納得させることができないということなのだ。そして何故僕か彼女を納得させられないかというと、それは僕が僕自身を納得させられないからだった。  日が暮れると風は急に冷たくなり、冬がすぐそこに近づいていることを僕に教えていた。そして年が明ければあっという間に大学の入学試験の季節がやってきて、そのあとにはまったく新しい場所でのまったく新しい生活が僕を待っているのだ。たぶんその新しい状況は僕という人間を大きく変えてしまうことだろう。そして僕は不安を抱きながらも、そのような変化を強く求めていた。僕の体と心は見知らぬ土地と、新鮮な息吹とを求めていた。その年には多くの大学が学生の手で占拠され、デモの嵐か東京の街を席巻していた。世界が目の前で大きく変貌しようとしていたし、僕はその発熱を肌にじかに感じたかった。僕がここに残ることをたとえイズミが強く望んでいたとしでも、それと引換えに彼女が僕と寝ることを承諾してくれたとしても、僕はもうこれ以上このものしずかで上品な町に留まるつもりはなかった。もしそうすることが彼女と僕との関係を終わらせてしまうことになったとしてもだ。もしここに残ったなら、僕の中の何かがきっと失われてしまうだろう。でもそれは失われてはならないものなのだ、と僕は思った。それは茫漠とした夢のようなものだった。そこにはほてりがあり、疼きがあった。それは人が、おそらく十代の後半の限られた時期にしか抱くことのできない種類の夢だった。  そしてそれはまたイズミには理解することのできない夢だった。その頃の彼女が追っていたのは、それとはべつのかたちを取った夢であり、べつのところにあるはずの世界だった。  でも結局、そんな新しい場所での新しい生活が実際に始まる前に、僕とイズミは思いがけない唐突な破局を迎えることになった。 [#改ページ]     4  僕が最初に寝た女の子は一人っ子だった。  彼女は——彼女もまたというべきかもしれないが——一緒に町を歩いていて、すれ違った男が思わず振り返るようなタイプではなかった。むしろほとんど目立たないといった方が近かった。それにもかかわらず最初に彼女と顔を合わせたとき、僕は自分でも何がなんだかわけがわからないくらい激しく彼女に引かれることになった。それはまるで、白昼に道を歩いていて出し抜けに、目には見えない無音の雷に打たれたようなものだった。そこには留保もなく条件もなかった。原因もなく説明もなかった。「しかし」もなく「もし」もなかった。  これまでの人生を振り返ってみて、ごく少数の例外を別にすれば、僕は一般的な意味合いでの美人に激しく心を引かれた経験をほとんど持たない。友だちと一緒に道を歩いていると、 「ねえ、今すれ違った女の子は綺麗だったね」というようなことを言われることがある。でもそう言われても不思議なことに、僕はそういう「綺麗な」女の子の顔を思い出すことができない。美しい女優やモデルに心を引かれた経験もほとんどない。何故かはわからないけれど、でもとにかくそうなのだ。僕は、現実世界と夢の領域との境界線がひどく曖昧で、憧れというものが見事なほどの威力を発揮するあの十代の初期にあってさえ、美しい娘たちに対して、彼女たちがただ美しいというだけで心を引かれたりはしなかった。  僕が強く引きつけられるのは、数量化・一般化できる外面的な美しさではなく、その奥の方にあるもっと絶対的な何かなのだ。僕は、ある種の人々が大雨や地震や大停電をひそかに愛好するように、異性が僕に対して発するそのような強くひそやかな何かを好むのだ。その何かを、ここでは仮に(吸引力)と呼ぶことにしよう。好むと好まざるとにかかわらず、否応なしに人を引き寄せ、吸い込む力だ。  あるいはその力を香水の匂いにたとえることができるかもしれない。どのような作用によって、そんな特別な力を持った匂いが生じるのかは、おそらくそれを作りだした調香師にさえ説明することはできないだろう。科学的に分析することだってむずかしいだろう。しかし説明の有無にかかわらず、ある種の香料の配合は、交尾期の獣の匂いのように異性を引きつける。ある匂いは百人のうちの五十人を引きつけるかもしれない。あるいはまた別の匂いは百人のうちの別の五十人を引きつけるかもしれない。しかしそれらとは別に、百人のうちの一人か二人だけをきわめて激しく引きつける匂いも世の中には存在する。それは特別な匂いだ。そして僕にはそのような特別な匂いをはっきりと感じ取る能力があった。それが自分のための宿命的な匂いであるということが僕にはわかった。ずっと遠くからでもはっきりとかぎ分けることができた。そんなとき、僕は彼女たちのそばに行って、こう言いたかった。ねえ、僕にはそれがわかるんだよ、と。他の誰にもわからないかもしれない、でも僕にはわかるんだよ、と。  僕は最初に彼女と顔を合わせたときから、この女と寝たいと思った。もっと正確に言うなら、僕はこの女と寝なくてはいけないと思ったのだ。そしてこの女だって僕と寝たがっていると本能的に感じた。僕は彼女を前にして文字通り体がぶるぶると震えた。そして僕は彼女の前にいるあいだ何度か激しく勃起して、歩くのに困ったくらいだった。それが僕の生まれて最初に経験した吸引力だった(僕は島本さんにたぶんその原型を感じたわけだが、それを吸引力と呼ぶにはそのときの僕はあまりにも未成熟だった)。彼女と出会ったとき僕は十七歳の高校三年生で、相手の女性は二十歳の大学二年生だった。そして彼女はこともあろうにイズミの従姉だった。彼女にもまた一応ボーイフレンドがいた。でもそんなことは僕らにとって何の妨げにもならなかった。もし彼女が四十二歳で、子供が三人いて、お尻に二股の尻尾かはえていたとしても、気にもとめなかっただろうと思う。その吸引力はそれほどまでに強いものだった。この女とこのまますれ違ってしまうわけにはいかない、と僕ははっきりと思った。そんなことをしたらきっと一生後悔することになるだろう。  とにかくそんなわけで僕が生まれて最初に性交した相手は、僕のカールフレンドの従姉だった。それも普通の従姉ではなくて、非常に親密な従姉だった。イズミと彼女とは小さい頃から仲がよくていつも行き来しているということだった。彼女は京都の大学に通っていて、御所の西側にアパートを借りて住んでいた。僕とイズミは二人で京都に遊びに行ったときに、彼女を呼んで昼食を一緒にした。それはイズミが僕の家に来て裸で抱き合い、叔母の来訪でどたばた騒ぎになったあの日曜日の二週間後のことだった。  僕はイズミが席を外しているときに、彼女の通っている大学のことでたぶんあとでちょっと聞きたいことがあると思うからと言って電話番号を聞きだした。二日後に僕は彼女のアパートに電話をかけ、もしよかったら次の日曜日に会いたいのだがと言った。いいわよ、その日ならちょうど一日あいているから、と彼女はちょっと間を置いてから答えた。その声を聞いて、僕は彼女も僕と寝たがっているのだという確信を持った。彼女の声のトーンから、僕はそれをはっきりと感じとることができた。次の日曜日に僕はひとりで京都に行って彼女と会い、そしてその午後にはもう彼女と寝ていた。  僕とそのイズミの従姉とはそれから二カ月間に亘って脳味噌か溶けてなくなるくらい激しくセックスをした。僕と彼女は映画にもいかなかったし、散歩もしなかった。小説についても音楽についても人生についても戦争についても革命についても、何一つ話さなかった。僕らはただただ性交をしていただけだった。もちろん軽い世間話のようなことはしただろうと思う。でもどんな話をしたのかほとんど思い出せない。僕が覚えているのは、そこにあった細かい具体的な事物のイメージだけだ。枕もとに置かれていた目覚し時計、窓にかかっていたカーテン、テーブルの上の黒い電話機、カレンダーの写真、床の上に脱ぎ捨てられた彼女の服。そして彼女の肌の匂いと、その声。僕は彼女に何もたずねなかったし、彼女も僕に何もたずねなかった。でも一度だけ僕は彼女と一緒にベッドに横になっているときに、ふと気になってひょっとして君は一人っ子じゃないかと尋ねてみたことがあった。 「そうよ」と彼女は不思議そうな顔で言った。「私には兄弟はいないけれど、でもどうしてそれがわかるの?」 「どうしてっていうこともないんだけど、なんとなくそんな気がしたんだよ」  彼女はしばらく僕の顔を見ていた。「ひょっとしてあなたも一人っ子なの?」 「そうだよ」と僕は言った。  僕が彼女と交わした会話で記憶に残っているのはそれくらいのものだ。僕は気配のようなものをふと感じたのだ。この女はひょっとして一人っ子ではあるまいかと。  本当に必要な場合をのぞいては、僕らは飲み食いさえしなかった。僕らは顔をあわせるとほとんど口も利かずにすぐに服を脱ぎ、ベッドに入って抱き合い、交わった。そこには段階もなければ、手順もなかった。僕はそこに提示されたものをただ単純に貪っただけだったし、彼女の方もおそらく同じだった。僕らは会うたびに四度か五度は性交した。僕は文字どおり精液が尽きるまで彼女と交わった。亀頭が腫れあがって痛くなるくらい激しく交わった。でもそれほど情熱的であったにもかかわらず、それほど激しい吸引力をお互いに感じあっていたにもかかわらず、自分たちが恋人になって、長く幸せにやっていけるだろうというような考えはどちらの頭にも浮かばなかった。我々にとってそれはいわば竜巻のようなものであり、いつかは過ぎ去っていってしまうものだった。こんなことかいつまでも続くわけはない[#「わけはない」に傍点]、と僕らは感じていたのだと思う。だから僕らは会うたびに、こうして抱き合えるのもこれが最後になるかもしれないという思いを頭のどこかに抱いていたし、そのような思いは僕らの性欲を余計に高めることになった。  正確に言えば、僕は彼女を愛してはいなかった。彼女ももちろん僕のことを愛してはいなかった。しかし相手を愛しているとかいないとかいうのは、そのときの僕にとっては大事な問題ではなかった。大事だったのは、自分が今、何か[#「何か」に傍点]に激しく巻きこまれていて、その何か[#「何か」に傍点]の中には僕にとって重要なものか含まれているはずだ、ということだった。それか何であるのかを僕は知りたかった。とても知りたかった。できることなら彼女の肉体の中に手を突っ込んで、その何か[#「何か」に傍点]に直接触れたいとさえ思った。  僕はイズミのことが好きだった。でも彼女はこのような理不尽な力を僕に一度も味わわせてはくれなかった。それに比べて僕はこの女のことを何ひとつ知らなかった。愛情を感じているわけでもなかった。でも彼女は僕を震わせ、激しく引き寄せた。僕らが真剣に話をしなかったのは、結局のところ真剣に会話を交わす必要を感じなかったからだった。真剣に会話を交わすようなエネルギーがあれば、僕らはそれを使ってもう一度セックスをした。  僕と彼女はたぶんそのような関係を何カ月か息つく暇もなく夢中になって続けたあとで、どちらからともなく遠ざかっていっただろうと思う。何故ならそのとき僕らがやっていたのは疑問をさしはさむ余地もない、きわめて自然で当然な行為であり、必要な行為だったからだ。愛情や罪悪感や未来といったようなものがそこに入り込む可能性は最初から閉ざされていたのだ。  だから、もし僕と彼女との関係が露顕しなかったなら(しかしそれは現実的にはかなりむずかしいことだったに違いない。というのは、僕はあまりにも彼女とのセックスに夢中になっていたから)、僕とイズミはその後もそのまましばらくは恋人同士でいつづけただろう。僕らは年に何カ月かの大学の休みの期間だけ顔をあわせてデートをするという関係を続けていただろう。そんな関係がどれくらい長く競いたかはわからない。しかし何年かののちには、僕らはどちらからともなく自然に別れることになったのではないかという気がする。僕ら二人のあいだにはいくつかの大きな相違点があったし、それは成長し、年を取るにしたがって少しずつ大きくなり広がっていく種類の相違点だった。今振り返ってみると、僕にはそれがよくわかる。しかしゆくゆくは別れなくてはならなかったとしても、もし僕が彼女の従姉と寝たりするようなことがなかったなら、僕らはおそらくもっと穏やかなかたちで別れていただろうし、もっと健康的な姿で新しい人生の段階に足を踏み入れることができたはずだった。  しかし実際にはそうはならなかった。  実際には僕は彼女をひどく傷つけてしまった。僕は彼女を損なってしまった。彼女がどれほど傷つき、どれほど損なわれたかということは、僕にもだいたいの想像がついた。イズミは彼女の成績からすれば簡単に入れたはずの大学の試験にも失敗して、どこかの名前も知らない小さな女子大に入ることになった。僕はその従姉との関係が露顕してしまったあとで、一度だけイズミと会って話をした。僕と彼女とはよくデートの待ち合わせに使った喫茶店で長い話をした。僕は彼女になんとか説明をしようと試みた。できるだけ正直に、丁寧に言葉を選んで、僕は自分の気持ちをイズミに伝えようとした。僕と彼女の従姉とのあいだに起こったことは決して本質的なことではないのだと。それは本来の道筋で起こった出来事ではないのだと。それは一種の物理的な吸引力のようなものであって、僕の中には君を裏切ったというやましささえほとんどないんだ。そのことは僕と君の関係に対しては何の影響力も持たないんだと。  でももちろんイズミはそんなことは理解しなかった。そして僕のことを汚らしい嘘つきだと言った。それはたしかにそのとおりだった。僕は彼女に黙って、裏に隠れて、彼女の従姉と寝ていたのだ。それも一度や二度ではなく、十回も二十回もだ。僕は彼女をずっと欺いていた。  もし仮にそれが正しいことなら欺く必要なんてないはずだった。僕は君の従姉と寝たい。脳味噌が溶けるくらいセックスをしたい。ありとあらゆる体位を使って千回くらいやりたい。でもそれは君とは何の関係もない行為だからべつに気にしないでほしいんだ、と最初に断るべきだったのだ。しかし現実問題として、イズミに向ってそんなことが言えるわけがない。だから僕は嘘をついた。百回も二百回も嘘をついた。僕は適当な理由を作って彼女とのデートを断って京都に行き、従姉と寝ていた。それについて僕には弁解の余地がなかったし、言うまでもなく責任の一切は僕の方にあった。  僕とその従姉との関係がイズミにわかってしまったのは、一月も終わりに近づいた頃のことだった。それは僕の十八回目の誕生日の少しあとだった。二月に僕はいくつか受けた入学試験に全部あっさり合格し、三月の末には町を出て東京に行くことになっていた。僕は町を離れる前に何度もイズミに電話をかけた。でも彼女はもう二度と僕と口を利こうとはしなかった。長い手紙も何度か書いた。でも返事は返ってこなかった。このままここを離れるわけにはいかないと僕は思った。イズミをこんな状態でここに一人で残していくわけにはいかないのだと。でもいくらそう思ったところで、現実的にはどうすることもできなかった。イズミはもうどんな形にせよ、僕と関わりを持とうとはしなかったからだ。  東京に向かう新幹線の中で、ぼんやりと外の風景を眺めながら、僕はずっと自分という人間の成り立ちについて考えていた。僕は膝の上に置いた自分の手を眺め、窓ガラスに映った自分の顔を眺めた。ここにいる俺という人間はいったい何なんだろう、と僕は思った。僕は生まれて初めて自分に対して激しい嫌悪感を感じた。どうしてこんなことができるんだろう、と僕は思った。でも僕にはわかっていた。もしもう一度同じ状況に置かれたとしたら、また同じことを繰り返すだろうということが。僕はやはりイズミに嘘をついてもその従姉と寝ただろう。たとえそれがどれほどイズミを傷つけることになったとしでもだ。それを認めるのは辛かった。でも真実だった。  もちろん僕はイズミを損なったのと同時に、自分自身をも損なうことになった。僕は自分自身を深く——僕自身がそのときに感じていたよりもずっと深く——傷つけたのだ。そこから僕はいろんな教訓を学んだはずだった。でも何年かが経過してからあらためて振り返ってみると、その体験から僕が体得したのは、たったひとつの基本的な事実でしかなかった。それは、僕という人間か究極的には悪をなし得る人間であるという事実だった。僕は誰かに対して悪をなそうと考えたようなことは一度もなかった。でも動機や思いがどうであれ、僕は必要に応じて身勝手になり、残酷になることができた。僕は本当に大事にしなくてはいけないはずの相手さえも、もっともらしい理由をつけて、とりかえしがつかないくらい決定的に傷つけてしまうことのできる人間だった。  僕は大学に入ったときに、もう一度新しい街に移って、もう一度新しい自己を獲得して、もう一度新しい生活を始めようとした。新しい人間になることによって、過ちを訂正しようとした。それは最初のうちはなんとかうまくいきそうに見えた。でも結局のところ、僕はどこまでいってもやはり僕でしかなかった。僕は同じ間違いを繰り返し、同じように人を傷つけ、そして自分を損なっていくことになった。  二十歳を過ぎたころに僕はふとこう思った。僕はあるいはもう二度とまともな人間になることはできないのかもしれないと。僕はいくつかの過ちを犯した。でもそれは本当は過ちでさえなかったのかもしれない。それは過ちというよりは、むしろ僕自身の持つ本来的な傾向のようなものであったのかもしれない。そう思うと、僕はひどく暗い気持になった。 [#改ページ]     5  大学での四年間について語るべきことはあまりない。  大学に入った最初の年に僕は幾つかのデモに参加し、警官隊とも闘った。大学のストライキを支援し、政治的な集会にも顔を出した。そこで何人もの興味深い人々と知り合いもした。しかし僕はどうしてもそのような政治闘争に心から熱中することができなかった。デモに行って隣にいる誰かと手を繋ぐたびに僕はなんとなく居心地の悪い思いをすることになったし、警官隊に向かって石を投げなくてはならないときには、なんだか自分が自分ではなくなってしまっているような気がしたものだった。これが本当に自分の求めていたものだったのだろうか、と僕は思った。僕は人々とのあいだに連帯感というものを抱くことができなかった。街路を覆う暴力の匂いや、人々の口にする力強い言葉は、僕の中でだんだんその輝きを失っていった。少しずつ、僕はイズミと二人で過ごした時間を懐かしく思い出すようになった。でももうそこに帰ることはできなかった。僕はその世界を背後に捨て去ってしまったのだ。  そしてその一方で、僕は大学で教えられていることにもほとんど興味か持てなかった。僕が取った講義の大半は無意味で退屈なものだった。そこには僕の心をかきたてるようなものは何ひとつなかった。アルバイトに忙しくてキャンパスにもろくに顔を出さなかったから、なんとか四年で卒業できたのは僥倖と言ってもいいくらいだった。カールフレンドも作った。三年生のときには半年ばかり同棲もした。でも結局はうまくいかなかった。そのころには自分がいったい人生に対して何を求めているのか、僕には見当もつかなくなっていた。  気がついたときにはもう政治の季節も終わっていた。一時は時代を揺るがす巨大な胎動と見えたいくつかのうねりも、まるで風を失った旗のようにその勢いを落とし、色彩を欠いた宿命的な日常の中に呑み込まれていった。  大学を出ると僕は知人の紹介で教科書を編集・出版する会社に就職した。髪を短く切って、革靴を履き、スーツを着た。見るからにぱっとしない会社だったが、その年の就職状況は文学部出身者にとってあまり温かいものではなかったし、僕の成績とコネクションとではもっと面白そうな会社を狙っても門前払いをくわされるのがおちだった。そこに入れただけでもよしとしなくてはならなかった。  仕事は案の定退屈なものだった。職場の雰囲気自体は悪くなかったのだが、残念ながら僕は教科書を編集するという作業にほとんど何の喜びも感じなかった。それでも僕は何とかそこに興味を見いだせないものかと、半年ばかり熱心に仕事に打ち込んでみた。どんなことだって全力を尽してやってみれば何かしら得るものはあるだろうと。でも結局僕はあきらめた。どう転んでもこの仕事は僕には向いていない、それか僕の得た最終的な結論だった。僕はなんだかがっかりしてしまった。僕の人生はもうそこで終わってしまったように感じられた。おそらくこれからの歳月を、ここで面白くもない教科書を作りながら磨耗させていくことになるんだろうな、と僕は思った。何事もなければ定年まであと三十三年、来る日も来る日もこの机に向ってゲラ刷りを眺め、行数を計算したり、漢字表記を正したりするのだ。そして適当な女と結婚して何人か子供を作り、年に二回のボーナスをほとんど唯一の楽しみとして生きていくことだろう。僕は昔イズミが言ってくれたことを思い出した。「あなたはきっと素敵な人になると思う。あなたの中にはとても素晴らしいものがあるから」。僕はそれを思い出すたびに苦々しい気持ちになった。僕の中には素晴らしいものなんて何ひとつないんだよ、イズミ。今では君にもそれがよくわかっていると思うけどね。でもまあしかたない、誰だってみんな間違うんだ。  僕は職場ではほとんど機械的に与えられた仕事をこなし、あとの時間はひとりで好きな本を読んだり音楽を聴いたりして過ごした。仕事というものはもともとか退屈な義務的作業であって、それ以外の時間を自分のために有効に使って、それなりに人生を楽しんでいくしかないんだと僕は考えるようにした。だから僕は仕事場の仲間とどこかに飲みに行ったりするようなこともしなかった。人づきあいが悪かったり、みんなから孤立していたというわけではない。ただ僕は仕事以外の時間に会社以外の場所で、同僚たちとの個人的な関係を積極的に発展させようとはしなかっただけのことだ。できることなら、自分の時間は自分ひとりだけのためにとっておきたかった。  そのようにして四年か五年があっという間に過ぎていった。そのあいだに僕は何人かのガールフレンドを作った。でも誰とも長つづきしなかった。僕は彼女たちと何カ月かデートする。そしてこう思う。「違う、こういうんじゃないんだ」と。僕は彼女たちの中にどうしても僕のために用意された何かを見るいだすことができなかった。僕は彼女たちの何人かと寝た。でもそこにはもう感動のようなものはなかった。それが僕の人生の第三段階だった。大学に入ってから三十代を迎えるまでの十二年間を、僕は失望と孤独と沈黙のうちに過ごした。そのあいだ僕はほとんど誰とも心を通い合わせることがなかった。それは僕にとってはいわば冷凍された歳月だった。  僕は前よりももっと深く自分一人の世界に引きこもるようになった。僕は一人で食事をし、一人で散歩をし、一人でプールに行って泳ぎ、一人でコンサートや映画に行くことに慣れた。そしてそれをとくに寂しいとも辛いとも感じなかった。僕はよく島本さんのことを考え、イズミのことを考えた。彼女たちは今頃どこで何をしているんだろう。あるいは二人とももう結婚してしまったかもしれない。子供だっているかもしれない。でもたとえどのような境遇にあるにせよ、僕は彼女たちと会って、少しでもいいから話をしたいと思った。ほんの一時間でもいい。島本さんになら、あるいはイズミになら、僕は自分の気持ちをもっと正確に表現することかできるのだ。僕はイズミと仲直りをする方法を考えたり、島本さんと再会する方法を考えたりして時間を潰したものだった。もしそうすることができたらどんなにいいだろうと思った。でも僕はそれを実現させるために何かの努力をしたわけではなかった。結局のところ彼女たちはもう僕の人生から失われてしまった存在なのだ。時計を逆に回すことはできないのだ。僕はよく独り言を言い、夜に一人で酒を飲むようになった。あるいはもう一生結婚しないかもしれないと思うようになったのもそのころのことだった。  会社に入って二年目の年のことだが、脚の悪い女の子とデートをしたことがあった。それはダブル・デートだった。僕の同僚が誘ってくれたのだ。 「ちょっと脚が悪いんだよ」と彼は少し言いにくそうに言った。「でも綺麗だし、性格もいい子なんだよ。会えば気に入ると思うよ。それに脚が悪いと言っても、そんなに目立つわけじゃない。ちょっとひきずるだけなんだ」 「そんなことはべつにかまわないよ」と僕は言った。正直に言って、もし彼がそのときに脚の悪いことを持ち出さなかったなら、僕はそんなデートになんかたぶん出かけなかったと思う。僕はダブル・デートとかブラインド・デートといった類のものにはもううんざりしていたのだ。でも僕はその女の子の脚が悪いと聞かされたときに、どうしてもその誘いを断ることができなくなってしまった。 (脚が悪いと言っても、そんなに目立つわけじゃない。ちょっとひきずるだけなんだ)  その女の子は僕の同僚のカールフレンドの友だちだった。高校のときの同級生か何かだったと思う。彼女は小柄で、整った顔だちをしていた。でもそれは派手な美しさではなくて、物静かで、引っ込みがちな感じのする美しさだった。それは僕に、森の奥の方からなかなか出てこない小動物を思わせた。僕らは日曜日の朝の映画を見て、そのあと四人で昼食を食べた。そのあいだ彼女はほとんど喋らなかった。水を向けても何も言わずにただにこにこしているだけだった。それから僕らは二組に別れて散歩をした。僕と彼女は日比谷公園に行って、お茶を飲んだ。彼女は島本さんとは逆の方の脚をひきずっていた。脚のひねりかたも少し違っていた。島本さんが脚を少し回転させるようにして運ぶのに対して、彼女の場合は脚の先をちょっと横に向けてまっすぐにひきずった。でもそれにもかかわらず、彼女たちの歩き方はよく似ていた。  彼女は赤いタートルネックのセーターに、ブルージーンという恰好で、靴は普通のデザート・ブーツをはいていた。化粧気はほとんどなく、髪はポニーテイルにしていた。大学の四年生だと言ったが、もっと若く見えた。本当に無口な女の子だった。いつもそんなに無口なのか、初対面の相手だから緊張してうまく口がきけないのか、あるいはただ単に話題に乏しいだけなのか、僕には判断できなかった。でもとにかく最初のうち、そこには会話と呼べるようなものはほとんどなかった。僕にわかったのは、彼女が私立の大学で薬学を専攻しているということくらいだった。 「薬学を勉強するのは面白いの?」と僕は聞いてみた。僕と彼女は公園の中のコーヒーハウスに入ってコーヒーを飲んでいた。  僕がそう言うと、彼女は少し赤くなった。 「大丈夫だよ」と僕は言った。 「教科書を作るんだって、そんなに面白いものじゃないんだ。世の中には面白くないことなんて山ほどあるし、いちいち気にすることはないよ」  彼女はしばらく考えていた。それからやっと口を開いた。 「とくに面白いわけじゃありません。でも家が薬局をやっているものだから」 「ねえ、薬学について僕に何か教えてくれないかな。僕は薬学について何も知らないんだ。申し訳ないけれど僕はこの六年間、薬というものをほとんど一粒も飲んだことがないんだ」 「丈夫なんですね」 「おかげさまで二日酔いひとつしない」と僕は言った。「でも子供の頃は体が弱くて病気ばかりしていた。薬だってけっこう飲んだ。僕は一人っ子だったから、きっと親が過保護にしていたんだね」  彼女は頷いて、しばらくコーヒーカップの中をのぞきこんでいた。彼女が次に口を開くまでにまた長い時間がかかった。 「薬学というのは、たしかにそれほど面白い学問じゃないと思います」と彼女は言った。「世の中には薬の成分をひとつひとつ暗記するより面白いことはきっといっぱいあるだろうと思います。同じ科学でも天文学みたいにロマンティックじゃないし、医学みたいにドラマティックでもありません。でもそこにはもっと身近で親しみの持てるものがあるんです。等身大とでも言えばいいのかしら」 「なるほど」と僕は言った。この女の子は話そうと思えばちゃんと話せるのだ。言葉を探すのに人より時間がかかるだけなのだ。 「君には兄弟がいるの?」と僕は聞いてみた。 「兄が二人います。ひとりはもう結婚していますが」 「薬学を専攻しているということは、君がゆくゆくは薬剤師になって薬局を継ぐことになるのかな?」  彼女はまた少し赤くなった。それからまた長いあいだ黙っていた。「わかりません。兄は二人とも就職していますから、あるいは私が継ぐことになるかもしれません。でもそう決まっているわけでもないんです。もし私に継ぐつもりがないのなら、それでもかまわないと父は言っています。店は自分がやれるところまでやって、あとは売ればいいんだからって」  僕は頷いて、彼女の話の続きを待った。 「でも私は継いでもいいと思っているんです。私は脚が悪いから、仕事もそんなにうまく見つからないと思うし」  そんな具合に僕らは二人で話をして、その午後を過ごした。沈黙が多くて、話すのに時間はかかった。何かを尋ねるとすぐに赤くなった。でも彼女と話すのは決して退屈ではなかったし、気づまりでもなかった。僕はその会話を楽しんだと言ってもいいと思う。それは当時の僕にとっては珍しいことだった。そのコーヒーハウスのテーブルをはさんでしばらく向かい合って話をしたあとでは、僕はずっと前から彼女のことを知っていたような気持ちにさえなった。それは懐かしさに似た心持ちだった。  しかし、それでは彼女に強く心を引かれたのかというと、正直なところ、僕はそれほど強くはその娘に心を引かれなかったと言うしかないと思う。僕はもちろん彼女に好感を持ったし、一緒にいて楽しい時間を過ごすことができた。綺麗な娘だったし、僕の同僚が最初に言ったように性格も良さそうだった。でもそういう事実の羅列を越えて、彼女の中に僕の心を圧倒的に揺さぶるような何かが発見できたかというと、その答えは残念ながらノオだった。  そして島本さんの中にはそれがあったのだ、と僕は思った。僕はその娘と一緒にいるあいだ、ずっと島本さんのことを考えていた。悪いとは思うのだけれど、僕は島本さんのことを考えないわけにはいかなかった。島本さんのことを考えると、僕の心は今でも震えた。自分の心の奥にある扉をそっと押し開けていくような、微熱を含んだ興奮がそこにはあった。しかしその脚の悪い綺麗な娘と二人で日比谷公園を散歩していても、僕はそのような種類の興奮なり震えなりを感じることはできなかった。僕が彼女に対して感じていたのは、ある種の共感と、穏やかな優しさだけだった。  彼女の家は、つまりその薬局は、文京区の小日向にあった。僕はバスに乗ってそこまで彼女を送っていった。バスのシートに二人で並んで座っているあいだも、彼女はほとんど口をきかなかった。  何日かあとで同僚が僕のところにやってきて、あの子は君のことがずいぶん気に入っていたみたいだよ、と言った。そしてもしよかったら、今度の休みにまた四人でどこかに行かないかと誘った。でも僕は適当な口実を作ってそれを断った。もう一度彼女に会って話をすること自体には何の問題もなかった。正直に言えば、僕はもっとゆっくり彼女と話をしたかった。もし僕らが別の状況で出会っていたなら、僕らはあるいは仲のいい友人になれたかもしれないと思う。しかしそれは何と言ってもダブル・デートだった。恋人をみつけるのが、その行為の本来の目的である。もしその相手と二度つづけてデートをすれば、そこにはそれなりの責任というものが生じることになる。僕はたとえどのようなかたちにせよ、その女の子の気持ちを傷つけたくはなかった。僕には断わるしかなかった。そしてもちろん、僕が彼女に会うことはもう二度となかった。 [#改ページ]     6  もうひとつ、脚の悪い女性のことで僕は非常に奇妙な経験をしたことがある。そのとき僕は二十八になっていた。でもそれはあまりにも奇妙な出来事だったので、僕は今でも、それがいったい何を意味していたのか、はかりかねている。  僕は年末の渋谷の雑踏の中で、島本さんにそっくりな脚のひきずり方をする女性を見かけた。その女性は赤い長めのオーヴァーコートを着て、黒いエナメルのハンドバッグを小わきに抱えていた。左手の手首には、ブレスレットのかたちをした銀色の腕時計がはまっていた。彼女の身につけているものは、どれもとても高価そうに見えた。僕は通りの向かい側を歩いていたのだが、ふと彼女の姿を目にとめ、急いで信号を渡った。街は、いったいどこにこれだけの人間がいたのだろうと感心するくらい混んでいたが、僕が彼女に追いつくにはたいして時間はかからなかった。脚が悪いせいで彼女はそんなに速く歩けなかったからだ。そしてその脚の運び方は、僕の記憶している島本さんの歩き方にあまりにもよく似ていた。彼女も島本さんと同じように、左脚をちょっとかき回すような感じでひきずっていた。僕は彼女のあとをついて歩きながら、そのストッキングに包まれた綺麗な脚がそんな優美な曲線を描くのを飽きずに眺めていた。それは長い年月にわたる訓練によって習得された複雑な技術だけが生み出すことのできる種類の優美さだった。  僕は彼女の少し後ろを、しばらくそのまま歩いていった。彼女の歩調にあわせて(つまり人々の流れの速度に逆らって)歩き続けるのは簡単なことではなかった。僕はときどきウィンドウを眺めたり、立ち止まってコートのポケットの中を探すふりをしたりして、歩くスピードを調整した。彼女は黒い革の手袋をはめ、バッグを抱えてない方の手にデパートの赤い紙袋を持っていた。そしてどんよりと曇った冬の日であったにもかかわらず、彼女は大きなサングラスをかけていた。彼女の後ろから僕が目にすることのできるのは、きちんと整えられた美しい髪と(それは肩のあたりで外側に向けて実に上品にカールしていた)、その柔らかく暖かそうな赤いオーヴァーコートの背中だけだった。もちろん僕は、彼女が島本さんなのかどうかを確かめたかった。確かめることじたいはそんなに難しくはない。前に回ってうまく顔をのぞきこめばいいのだ。でももし本当に島本さんだったら、僕はそのとき彼女に何と言えばいいのだろう。どうふるまえばいいのだろうか。だいいち彼女はまだ僕のことを覚えているだろうか。僕には考えをまとめるための時間が必要だった。僕は呼吸を整え、頭を整理し、態勢を立て直さなくてはならなかった。  僕はうっかり彼女を追い越したりしないように注意しながら、彼女のあとをずっとつけていった。彼女はそのあいだただの一度も後ろを振り返らなかったし、ただの一度も立ち止まらなかった。ほとんどよそ見さえしなかった。彼女はどこかの目的地に向けて、ただひたすら歩き続けているように見えた。彼女は島本さんがよくそうしていたように、背筋をまっすぐ伸ばして、頭をあげて歩いていた。もし彼女の左脚の運びを目にしなかったなら、もしその腰から上だけを見ていたなら、彼女の脚が悪いということはきっと誰にもわからなかっただろうと思う。ただ歩く速度が、普通の人の歩く速度よりはいくぶん遅いというだけのことだ。彼女のそのような歩き方は、見れば見るほど僕に島本さんのことを思い出させた。うりふたつと言ってもいいくらいよく似た歩きかただった。  女は渋谷駅の雑踏を通り抜け、坂道を青山方向に向けてどんどん歩いて登っていった。坂道になると、彼女の歩き方はもっとゆっくりとしたものになった。彼女はずいぶん長い距離を歩いた。タクシーに乗ってもおかしくはない距離だった。脚が悪くない人間にだって、歩きとおすのには少し骨の折れるくらいの距離だ。しかし彼女は脚をひきずりながらいつまでも歩き続けた。そして僕も、適当な距離をおいてそのあとをついていった。彼女は相変わらず一度も後ろを振り向かなかったし、一度も立ち止まらなかった。ウィンドウに目をやることさえなかった。彼女はハンドバッグを持った手と、紙袋を持った手とを何度か交代させた。でもそれを別にすれば、ずっと同じ姿勢で、同じ調子で歩き続けていた。  彼女はやがて表通りの人込みを避けて裏道を歩くようになった。彼女はどうやらこのあたりの地理にかなり詳しいようだった。繁華街から一歩奥に入ると、あたりはもの静かな住宅街に変わった。僕は人が少なくなったぶんだけ注意深く距離を置いて、あとをつけていった。  おそらく全部で四十分くらい、僕は彼女のあとをついて歩いていたと思う。人通りの少ない道を辿り、いくつかの角を曲がり、やがてもう一度賑やかな青山通りに出た。でも今度は、彼女は人込みの中をほとんど歩かなかった。通りに出ると、そうすることを前もって決めていたように、迷うこともなくまっすぐに一軒の喫茶店に入った。洋菓子屋の経営するそれほど大きくない喫茶店だった。僕は用心して十分ばかりその近くをぶらぶらとして時間を潰してから、その喫茶店に入った。  僕は中に入ると、すぐに彼女の姿を探し求めた。店の中はむっとするくらい暖かかったが、彼女はコートを着たまま入口に背を向けて座っていた。そのいかにも上等そうな赤いオーヴァーコートはいやでも目についた。僕はいちばん奥のテーブルに座って、コーヒーを注文した。  そして手もとにあった新聞を手に取ってそれに目を通すふりをしなから、それとなく彼女の様子を窺っていた。彼女のテーブルにはコーヒーカップが置かれていたが、僕の見るかぎりでは、彼女はカップには手を触れなかった。彼女は一度だけハンドバッグから煙草を出して、金色のライターで火をつけたが、それを別にすればとくに何をするでもなく、じっとそこに座ってガラス窓の外の風景を眺めていた。ただ体を休めているようにも見えたし、あるいはまた何か大事な考え事をしているようにも見えた。僕はコーヒーを飲みなから、何度も何度も新聞の同じ記事を繰り返して読んでいた。  ずいぶん長い時間が経過してから、彼女は何かを決心したように席をさっと立って、僕の座ったテーブルに向かってやってきた。それはあまりにも唐突な動作だったので、僕は一瞬心臓が停まりそうになった。でも彼女は僕のところに来たわけではなかった。彼女は僕のテーブルの脇を通り過ぎ、そのまま戸口の近くにある電話のところに行った。そして小銭を入れて、ダイヤルを回した。  電話は僕の席からそれほど遠くないところにあったが、まわりの人々の話し声がうるさかったし、スピーカーは賑やかなクリスマス音楽を流していたので、僕には彼女の声を聞き取ることはできなかった。彼女はずいぶん長いあいだ電話をかけていた。彼女のテーブルに置かれたコーヒーは手もつけられないまま冷めていった。隣を通り過ぎるときに、僕は正面からその顔を見たわけだが、それでも僕には彼女が島本さんなのかを断言することはできなかった。かなり濃い化粧をしていたし、おまけにその大きなサングラスは顔の半分近くを覆い隠していた。  彼女は眉をペンシルでくっきりと引いて、鮮やかな赤に塗った細い唇をきゅっと噛みしめていた。そしてなにしろ僕が最後に島本さんを見たのは、我々がどちらも十二歳のときだったのだ。それはもう十五年以上前のことだった。その女の顔だちは島本さんの少女時代の顔を漠然と思い出させないでもなかったが、まったくの別人だと言われれば、あるいはそのとおりかもしれなかった。僕にわかるのは、彼女がとても顔だちのいい二十代の女性で、金のかかった服装をしているということだけだった。そして脚が悪い。  僕は席に座ったまま汗をかいていた。アンダーシャツがぐっしょりと湿ってしまうほどの汗だった。僕はコートを脱ぎ、コーヒーのお代わりをウェイトレスに注文した。(お前はいったい何をしているんだ?)と僕は思った。僕は手袋をどこかに置き忘れてきて、それの代わりを買おうとして渋谷に出てきたのだ。それなのに僕はその女の姿を見たとき、まるで何かにとりつかれたようにあとをつけてしまった。ごく当たり前に考えるなら、僕は彼女のところに行って、「失礼ですが、島本さんではありませんか?」と直接聞いてみるべきだったのだ。それが話としてはいちばん早いはずだ。でも僕はそうはしなかった。僕は黙って彼女のあとをつけた。そして僕は既にあとには引き返せないところまできていた。  彼女は電話をかけ終えると、そのまままっすぐ自分の席に戻った。それからまた同じように僕の方に背中を向けて座り、窓の外の風景をじっと眺めていた。ウェイトレスが彼女のところに行って、もう冷めてしまったコーヒーを下げていいかと聞いた。声は聞こえなかったけれど、たぶんそう尋ねたのだと思う。彼女は振り向いて頷いた。そして新しいコーヒーを注文したようだった。しかしその新しく運ばれてきたコーヒーにも、やはり手をつけなかった。僕はときどき目を上げて彼女の様子を観察しながら、手にした新聞を読むふり[#「ふり」に傍点]を続けていた。彼女は何度か腕を顔の前に上げて、その銀色のブレスレット型の腕時計に目をやった。どうやら彼女は誰かを待っているようだった。今が最後のチャンスかもしれないぞと僕は思った。その誰かが来てしまったら、僕は彼女に話しかける機会を永遠に失ってしまうかもしれない。でも僕にはどうしても椅子から立ち上がることができなかった。まだ大丈夫だ、と僕は自分に言い訳した。まだ大丈夫だ、急ぐことはない、と。  何事も起こらないままに十五分か二十分か経過した。彼女はずっと外の通りの風景を眺めていた。それから何の前触れもなく静かに立ち上がった。そしてハンドバッグを脇に抱え、デパートの紙袋をもう一方の手に持った。どうやら彼女は誰かを待つのをあきらめたようだった。あるいはもともと人なんか待っていなかったのかもしれない。彼女がレジスターのところで勘定を払ってドアから出ていくのを見届けてから、僕も急いで席を立った。そして勘定を払い、彼女のあとを追った。人込みの中を彼女の赤いオーヴァーコートが抜けていくのが見えた。僕は人々の流れをかきわけるようにして、彼女の方に向かった。  彼女は手を上げてタクシーを停めようとしていた。やがて一台のタクシーがウインカーを点滅させながら、道端に寄った。声をかけなくてはと僕は思った。彼女がタクシーに乗ってしまったら、最後なのだ。でもそちらに足を踏みだそうとしたとき、誰かが僕の肘を掴んだ。それははっとするくらい強い力だった。痛いというわけではない。でもそこにこめられた力の強さは僕の息をつまらせた。僕か振り向くと、中年の男が僕の顔を見ていた。  僕よりは五センチはど背が低かったが、がっしりとした体つきの男だった。年齢は四十代の半ばというところだろう。ダークグレイのオーヴァーコートを着て、首にはカシミアのマフラーを巻いていた。どちらも見るからに上等なものだった。髪はきちんとわけで、鼈甲の縁の眼鏡をかけていた。よく運動をしているらしく、顔は綺麗に日焼けしていた。たぶんスキーだろう。あるいはテニスかもしれない。僕はテニスの好きなイズミの父親がこんな風に日焼けしていたことを思い出した。おそらくきちんとした会社の高い地位にある人間だろうと僕は思った。あるいは高級官僚というところだ。それは目を見ればわかった。それは多くの人間に命令を与えることに慣れている人間の目だった。 「コーヒーでも飲みませんか」と彼は静かな声で言った。  僕は目で赤いオーヴァーコートを着た女の姿を追った。彼女は身をかがめてタクシーに乗り込みながら、サングラスの奥からこちらをちらっと見た。少なくとも僕は彼女がこちらを見たような印象を受けた。そしてタクシーのドアが閉まり、彼女の姿は僕の視野から消えてしまった。彼女が消えてしまうと、僕はその奇妙な中年の男と二人でそこに取り残されていた。 「時間は取らせません」と男は言った。彼の口調には抑揚というものがほとんど感じられなかった。彼は見たところ怒ってもいないし、興奮してもいないようだった。彼はまるで誰かのためにドアでも押えているみたいに、じっと無表情に僕の肘を掴み続けていた。「コーヒーでも飲みながら話しましょう」  もちろん僕はそのまま立ち去ってしまうこともできた。「コーヒーなんか飲みたくないし、あなたと話すこともない。だいたいあなたが誰かもしらないんだ。急いでいるから失礼する」 とかなんとか言って。でも僕は何も言わずにじっと彼の顔を見ていた。それから僕は頷いて、彼の言うままについさっきまでいた喫茶店にもう一度入った。僕はあるいは彼の握力にこめられた何かを恐れたのかもしれない。僕はそこに奇妙な一貫性のようなものを感じたのだ。彼はその握力を緩めもせず、強めもしなかった。それはまるで機械のようにしっかりと正確に僕を捉えていた。もし彼の申し出を断ったら、そのときにこの男が僕に対していったいどういう態度に出るのか、僕には見当もつかなかった。  でもそんな恐れと同時に、僕にはいささかの好奇心もあった。彼が僕に対してこれからいったいどういう話をしようとしているのか、僕はそれに興味があった。それは僕に、あの女についての何らかの情報をもたらすことになるかもしれなかった。彼女が消えてしまった今では、この男が彼女と僕とを結びつける唯一のラインであるのかもしれないのだ。それに喫茶店の中なら、男が僕に対して暴力を振るうこともないだろう。  僕とその男とは、テーブルに向かい合って座った。ウエイトレスがやってくるまで、彼も僕も一言も口をきかなかった。僕らはテーブルをはさんで、お互いの顔をじっと見ていた。それから男はコーヒーをふたつ注文した。 「どうしてあなたはずっと彼女のあとをつけていたんですか?」と男は丁寧な口調で僕に質問した。  僕は何も答えずに黙っていた。  彼は表情のない目でじっと僕を見つめていた。「あなたが渋谷からずっと彼女のあとをつけていたことはわかっているんです」と男は言った。「そんなに長いあいだあとをつけていれば、誰だって気がつくんですよ」  僕は何も言わなかった。たぶん彼女は僕があとをつけていることを悟って、喫茶店に入り、電話をかけてこの男を呼んだのだろう。 「喋りたくないのなら、喋らなくてもいいですよ。あなたが喋らなくったって事情はちゃんとわかっているから」と彼は言った。男は興奮しているのかもしれなかったが、それでもその丁寧で物静かな口調はみじんも揺るがなかった。 「私にはいくつかのことができます」と男は言った。「本当ですよ。やろうと思えばやれるんです」  男はそれだけ言うと、あとは黙ってじっと僕の顔を見ていた。これ以上説明しなくても言いたいことはわかるだろう、とでも言わんばかりに。僕は相変わらず一言も口をきかなかった。 「でも今回はことを荒立てたくないんです。詰まらない騒ぎを起こしたくはない。わかりますか? 今回に限っては、です」と男は言った。そして彼はテーブルの上に載せていた右手をオーヴァーコートのポケットに突っ込んで、中から白い封筒を出した。そのあいだ左手はずっとテーブルの上に置かれていた。何の特徴もない事務用の真っ白な封筒だった。「だから黙ってこれを受け取りなさい。あなたも頼まれてこんなことをしているだけだろうから、私としても出来ることなら穏便にことを収めてしまいたい。そして余計なことは何も言わないでおいてほしい。あなたは今日は特別なものは何も見なかったし、私にも会わなかった。わかりましたね。もし余計なことを言ったことがわかったら、私は何があってもあなたを見つけ出してけりをつけます。だから彼女のことをつけまわすのはこれでやめにしてください。お互い詰まらない思いをしたくないでしょう。そうじゃありませんか?」  男はそれだけ言ってしまうと、封筒を僕の方に差し出し、そのまま席を立った。そして伝票をひったくるようにして取ると、大股で喫茶店を出ていった。僕はあっけに取られて、しばらくそのままじっとそこに座っていた。それからテーブルの上に置かれたその封筒を手に取って、中をのぞいてみた。封筒の中には一万円札が十枚入っていた。しわひとつない、まっさらの一万円札だった。僕の口の中はからからに乾いていた。僕はその封筒をコートのポケットに入れ、喫茶店を出た。そして辺りを見回して、その男の姿が何処にも見えないことを確認してから、タクシーを拾って渋谷まで戻った。  それだけの話だ。  僕はまだその十万円入りの封筒を持っている。それは封をしたまま机の引き出しにしまいこまれている。僕は眠れない夜に、よく彼の顔を思い出す。まるで不吉な予言が、ことあるごとに頭に蘇ってくるみたいに。あの男はいったい誰だったのだろう? そしてあの女性は島本さんだったのだろうか?  僕はそのあと、その出来事についての幾つかの仮説を立てた。それは正解のないパズルのようなものだった。僕は仮説を立てては、それを壊すという作業を何度も繰り返した。あの男は彼女の愛人で、彼らは僕のことを彼女の夫に雇われて素行調査をしている私立探偵か何かだと思ったのだ——それが僕の立てたいちばん説得力のある仮説だった。そして男は金で買収して僕の口を封じようと思ったのだ。あるいは彼ら二人は、僕が尾行を始める前にどこかのホテルで逢引きでもしていて、僕にそれを目撃されたと思ったのだろう。可能性としては十分にありえることだし、話の筋としても通っていた。しかし僕にはそれでも、その仮説にうまく腹の底から納得することができなかった。そこにはいくつかの疑問が残った。  やろうと思えば彼にできたいくつかのことというのは、いったいどういう種類のことだったのだろうやどうして彼はあんな奇妙な腕の掴み方をしたのだろう? どうしてあの女は僕にあとをつけられていることを知りながらタクシーに乗らなかったのだろう? タクシーに乗ればすぐにでも僕をまくことができたのだ。何故あの男は十万円という多額の金をこともなげに、僕が誰であるかをきちんと確認もせずに、差し出したのか?  どれだけ考えでも、それは深い謎として残った。僕はときどき、その時の出来事は何もかも僕の幻覚の所産ではないかと思うことがあった。それは僕が始めから終りまで、自分の頭の中で作りあげたことなのではないかと。あるいはとてもリアルな長い夢を見て、それが頭の中に現実の衣をまとってこびりついてしまったのではないかと。でも、それは本当に起こったことだった。何故なら机の中には現実に白い封筒があり、封筒の中には一万円札が十枚入っていたからだった。それこそすべてが現実に起こった事実であるという証拠品だった。それは本当に起こったのだ[#「それは本当に起こったのだ」に傍点]。僕は時々その封筒を机の上に置いてじっと眺めた。それは本当に起こったのだ[#「それは本当に起こったのだ」に傍点]。 [#改ページ]     7  三十になって僕は結婚をした。僕は夏休みに一人で旅行をしているときに彼女と出会った。彼女は僕より五歳年下だった。田舎道を散歩していると突然激しい雨が降りだして、雨宿りに飛び込んだところに、たまたま彼女と彼女の女友だちかいたのだ。僕らは三人ともぐしょ濡れになっていて、そんな気安さで雨があがるまであれこれと世間話をしているうちに仲良くなった。もしそこで雨が降らなかったら、あるいはもし僕がそのとき傘を持っていたら(それはあり得ることだった。僕は傘を持っていこうかどうしようか、ホテルを出るときにけっこう迷ったのだから)、僕は彼女とめぐり会わなかったはずだ。そしてもし彼女とめぐり会うことがなかったなら、僕は今でも教科書の会社に勤めていて、夜になると一人でアパートの部屋の壁にもたれて独り言を言いながら酒を飲んでいたかもしれない。そういうことを考えると僕はいつも、我々は本当に限られた可能性の中でしか生きていないのだという事実を思い知らされることになる。  僕と有紀子(というのが彼女の名前だ)とは一目で引かれあうことになった。一緒にいた女の子の方がずっと美人だったのだが、僕が引かれたのは有紀子だった。それも理不尽なくらいに激しく引かれたのだ。それは僕が久しぶりに感じた吸引力だった。彼女も東京に住んでいたので、僕らは旅行から帰ってきたあとも何度かデートした。会えば会うほど僕は彼女が好きになった。彼女はどちらかといえば平凡な顔だちだった。少なくとも行く先々で男が言い寄ってくるというタイプではない。でも僕は彼女の顔だちの中にはっきりと「自分のためのもの」を感じることができた。僕は彼女の顔が好きだった。僕は会うと、長いあいだじっと彼女の顔を見つめていたものだった。僕はその中に見える何かを強く愛した。 「何をそんなにじっと見るの?」と彼女は僕に尋ねた。 「君が椅麓だからだよ」と僕は言った。 「そんなことを言ったの、あなたが初めてよ」 「僕にしかわからないんだ」と僕は言った。「でも僕にはそれがわかる」  最初のうち、彼女は僕の言うことをなかなか信じなかった。でもそのうちに信じるようになった。  僕らは会うと二人でどこか静かなところに行っていろんな話をした。僕は彼女に対しては何でも正直に素直に話すことができた。彼女と一緒にいると、この十年以上のあいだに自分が失いつづけできたものの重みをひしひしと感じることができた。僕はそれらの歳月をほとんど無駄に費やしてしまったのだ。でもまだ遅くはない、今ならまだ間に合う。手遅れになってしまう前に、少しでもそれを取り返しておかなくてはならない。彼女を抱いていると、僕は懐かしい胸の震えを感じることができた。彼女と別れると、僕はひどく頼りない、寂しい気持ちになった。孤独は僕を傷つけ、沈黙は僕を苛立たせるようになった。そして三カ月はどデートを続けたあとで、僕は彼女に結婚を申し込んだ。僕の三十の誕生日の一週間前のことだった。  彼女の父親は中堅の建設会社の社長だった。なかなか興味深い人物で、正規の教育はほとんど受けていなかったけれど、仕事に関してはやり手だったし、自分なりの哲学というものを身につけていた。あまりにも強引に過ぎて僕には賛同できないこともあったけれど、彼なりのある種の洞察には感心させられることになった。そういう種類の人間に出会ったのは僕には生まれて初めてだった。そして彼はまた運転手つきのメルセデスに乗っているわりには、あまり偉そうなところはなかった。僕が訪ねていって実はお嬢さんと結婚をしたいのですがと言うと、「もうどちらも子供じゃないんだから、お互いが好きなのなら、結婚すればいいさ」と言っただけだった。僕は世間的に見ればあまりぱっとしない会社に勤めるあまりぱっとしないサラリーマンだったが、そんなことは彼にとってはどうでもいいようだった。  有紀子には兄が一人と妹が一人いた。兄の方は父親の会社のあとを継ぐことになっていて、そこで副社長として働いていた。人柄は悪くないのだが父親に比べるとどことなく影が薄いところがあった。兄弟の中では大学生の妹がいちばん外向的で派手で、他人に命令するのに馴れていた。彼女が父親のあとを継いだ方がいいんじゃないかという気がしたくらいだった。  結婚して半年ほどしてから、父親が僕を呼んで今の会社を辞めるつもりはないのかと尋ねた。僕がその教科書出版社の仕事をあまり気に入っていないということを妻から聞いたのだ。 「辞めることにはまったく問題はありません」と僕は言った。「でもそのあと何をするかというのが問題になりますね」 「うちの会社で働く気はないか。仕事はちょっときついかもしれんが、給料はいいぞ」と彼は言った。 「僕はたしかに教科書の編集には向いていないと思いますが、たぶん建設業にはもっと向かないと思います」と僕は正直に答えた。「誘っていただいたのは非常に嬉しいんですが、向かないことをやるとあとになって結局ご迷惑をかけることになると思うんです」 「それはそうだ。向かないことを無理にやることはない」と父親は言った。彼は僕がそういう答えを返すことをあらかじめ予期していたようだった。そのとき僕らは酒を飲んでいた。長男は酒をほとんど飲まなかったので、彼はときどき僕と一緒に酒を飲むことがあった。「ところでうちの会社が青山に一軒ビルを持ってるんだ。今建てているところで、来月にはだいたい仕上がる。場所もいいし、建物もいい。今はちょっと奥まっているように見えるかもしれんが、これから伸びる場所だよ。よかったらそこで何か商売をやらないか。会社の持ち物だから家賃も敷金も相場はもらうことになるが、もし本当にやる気があるんなら資金は要るだけ貸してやるよ」  僕はそれについてしばらく考えてみた。悪くない話だった。  結局僕はそのビルの地下でジャズを流す、上品なバーを始めることにした。僕は学生時代にそういう店でアルバイトをずっとやっていたから、経営のおおよそのノウハウは呑み込んでいた。どんな酒や食事を出して、客層をどのあたりに絞ればいいのか、どのような音楽を流せばいいのか、どのような内装にすればいいのか、だいたいのイメージは頭の中にあった。内装の工事に関しては妻の父親が全部引き受けてくれた。彼は最高のデザイナーと最高の内装業者をつれてきて、相場から見れば安い値段でかなり手のこんだ工事をさせた。仕上がりはたしかに見事だった。  店は予想を遥かに越えて繁盛し、二年後にはやはり青山にもう一軒別の店を出した。こちらの方はピアノ・トリオを入れたもっと規模の大きな店だった。手間もかかったし、相当な資金をつぎ込むことになったが、かなり面白い店ができたし、客もよく入った。それで僕はやっと一息つくことができた。僕は与えられたチャンスをなんとかものにすることができたのだ。その頃、僕には最初の子供が生まれた。女の子だった。最初のうちは僕も店のカウンターに入ってカクテルを作ったりしていたが、店が二軒に増えるとそんな余裕もなくなって、店の管理と経営だけに専念するようになった。僕は仕入れの交渉をし、人手を確保し、帳簿をつけ、すべての物事が円滑に運ぶように気を配った。様々なアイデアを思いついて、それをすぐに実行に移した。食事のメニューも自分でいろいろと作って試してみた。それまでは気がつかなかったのだが、僕はそういう仕事にけっこう向いているようだった。僕はゼロから何かを作り上げたり、その作り上げたものを時間をかけて丁寧に改良したりする作業を愛した。そこは僕の店であり、僕の世界であった。そのような喜びは教科書会社で校閲をしているときには決して味わえなかった種類のものだった。  僕は昼のあいだに様々な雑用をこなし、夜になると毎晩二軒の自分の店をまわってカウンターでカクテルを味見しなから、客の反応を観察し、従業員の仕事ぶりをチェックし、音楽を聴いた。毎月義父に借金を返しつづけてはいたが、それでもかなりの収入があった。僕らは青山に4LDKのマンションを買い、BMW320を買った。そして二人めの子供を作った。そちらも女の子だった。僕は二人の娘の父親になったのだ。  三十六になったときには、僕は箱根に小さな別荘を持っていた。妻は自分の買い物と子供たちの移動のために赤いジープ・チェロキーを買った。店の方はどちらもかなりの収益をあげていたからその金で三軒めを出すことはできたのだが、それ以上支店の数を増やすつもりは僕にはなかった。店が増えればどうしても細かいところに目が行き届かなくなるし、おそらくそれを管理するだけでくたくたになってしまうだろう。それに僕はこれ以上仕事のために自分の時間を犠牲にしたくはなかった。妻の父親にそのことで相談すると、彼は余った金を株と不動産に投資することを勧めてくれた。それなら手間も時間も取らないだろうと。でも僕は株についても不動産についてもまったくと言っていいくらい何も知らなかった。僕がそう言うと、「細かいことは俺にまかせておけばいい。俺が言うとおりにやっていればまず間違いない。こういうことにはちゃんとしたやり方というものかあるんだ」と義父は言った。彼が言うとおりに僕は投資をした。そしてそれは短期間にかなり大きな収益をあげた。 「なあ、わかっただろう」と義父は言った。「ものごとにはそれなりのやり方というものがあるんだ。会社勤めなんかしてたら、百年たってもこううまくはいかない。成功するためには幸運だって必要だし、頭だって良くなくちゃならない。それは当然だ。でもそれだけじゃ足りないんだ。まず資金が必要だ。十分な資金がなければ何もできやしない。しかしそれよりももっと必要なのは、やり方を知ることなんだよ。やり方を知らなければ、他の全部が揃っていたって、まずどこにも行けない」 「そうですね」と僕は言った。義父の言わんとすることは僕にはよくわかった。彼の言うやり方[#「やり方」に傍点]というのは、彼がこれまでに築き上げてきたシステムのことなのだ。有効な情報を呑み込み、人的ネットワークの根を張り、投資し、収益をあげるためのタフで複雑なシステムのことだ。収益された金はときには様々な法律や、税金の網を巧妙にくぐり抜け、あるいは名前を変え、かたちを変えて、増殖していく。彼はそういうシステムの存在を僕に教えようとしているのだ。  たしかにもし義父に出会わなかったなら、僕はたぶん今でも教科書を編集していたはずだった。そして西荻窪のぱっとしないマンションに住んで、エアコンのききのわるい中古のトヨタ・コロナにでも乗っていたことだろう。僕はたしかに与えられた条件のなかでかなりうまくやったと思う。僕は二軒の店を短期間で軌道に乗せ、全部で三十人以上の従業員を使い、水準を遥かに越えた収益を上げていた。経営は税理士が感心するくらい優良だったし、店の評判も良かった。とはいっても、その程度の才覚のある人間なら世の中にはいくらでもいる。僕でなくても、それくらいのことができる人間はほかにもいる。でも義父の資金と、そのやり方[#「やり方」に傍点]を抜きにしては僕ひとりでは何もできなかっただろう。そう思うと僕は居心地の悪さを感じないわけにはいかなかった。なんだか自分ひとりが不正な近道をして、不公平な手段を使って、いい思いをしているような気がした。僕らは六〇年代後半から七〇年代前半にかけての、熾烈な学園闘争の時代を生きた世代だった。好むと好まざるとにかかわらず、僕らはそういう時代を生きたのだ。ごくおおまかに言うならそれは、戦後の一時期に存在した理想主義を呑み込んで貪っていくより高度な、より複雑でより洗練された資本主義の論理に対して唱えられたノオだった。少なくとも僕はそう認識していた。それは社会の転換点における激しい発熱のようなものだった。でも今僕がいる世界は既に、より高度な資本主義の論理[#「より高度な資本主義の論理」に傍点]によって成立している世界だった。結局のところ、僕は知らず知らずのうちにその世界にすっぽりと呑み込まれてしまっていたのだ。僕はBMWのハンドルを握ってシューベルトの『冬の旅』を聞きながら青山通りで信号を待っているときに、ふと思ったものだった。これはなんだか僕の人生じゃないみたいだな、と。まるで誰かが用意してくれた場所で、誰かに用意してもらった生き方をしているみたいだ。いったいこの僕という人間のどこまでが本当の自分で、どこから先が自分じゃないんだろう。ハンドルを握っている僕の手の、いったいどこまでが本当の僕の手なんだろう。このまわりの風景のいったいどこまでが本当の現実の風景なんだろう。それについて考えれば考えるほど、僕にはわけがわからなくなった。  でも僕はおおむね幸せな生活を送っていたと言っていいと思う。不満と呼べるほどのものは僕にはなかった。僕は妻を愛していた。有紀子は穏やかで思慮深い女性だった。彼女は出産のあとから少し太り始めて、ダイエットとワークアウトが重要な関心事になっていた。でも僕は彼女のことをあいかわらず美しいと思っていた。僕は彼女と一緒にいるのが好きだったし、彼女と寝るのが好きだった。彼女の中には何か僕を慰撫し、安心させてくれるものがあった。僕は何があっても、もう二度とあの二十代のうら寂しい孤独な生活に戻りたくなかった。ここが自分の場所なんだと僕は思った。ここにいれば僕は愛されて、護られている。そしてそれと同時に僕は妻と娘たちを愛し、護っているのだ。それは僕にとってはまったく新しい体験であり、自分がそういう立場に立ってやっていくことができるのだということは思いがけない発見であった。  僕は上の娘を車で毎朝私立の幼稚園まで送り、カー・ステレオで子供の歌をかけて二人で歌った。それから家に帰って、近くに借りた小さなオフィスに行く前に下の娘と遊んだ。夏の週末には四人で箱根の別荘に泊まりに行った。僕らは花火を見たり、湖でボートに乗ったり、山道を散歩したりした。  僕は妻が妊娠しているあいだに何度か軽い浮気をしたことかあった。でもそれは深刻なものではなかったし、長くも続かなかった。僕は一人の相手とは一度か二度しか寝なかった。多くてせいぜい三度だった。正直に言って、僕には自分が浮気をしているという明確な自覚すらなかった。僕が求めていたのは「誰かと寝る」という行為そのものだったし、相手の女たちもまた同じようなものを求めていたのだと思う。僕はそれ以上の深入りを避けたし、そのためには慎重に相手を選んだ。僕はたぶんそのとき、彼女たちと寝ることによって何かを試してみたかったのだろう。自分が彼女たちの中に何を見出せるのか、彼女たちが僕の中に何を見出すのか、そういうことを。  最初の子供が生まれて少ししてから、僕は実家から転送されてきた一通の葉書を受け取った。それは会葬御礼の葉書だった。そこには女性の名前が書いてあった。その女性は三十六歳で亡くなったのだ。しかし僕はその名前には心当たりがなかった。消印は名古屋になっていた。名古屋には僕の知り合いは一人もいなかった。でもしばらく考えているうちに、その女性があの京都に住んでいたイズミの従姉であることに思い当たった。僕は彼女の名前をすっかり忘れてしまっていたのだ。そして彼女の実家は名古屋だった。  その葉書を送ってきたのがイズミであることは考えるまでもなくわかった。彼女以外に僕のところにそんなものを送ってくる相手はいない。でもイズミがいったい何のためにそんな通知を送ってきたのか、最初のうち僕にはよくわからなかった。でも何度かその葉書を見ているうちに、僕はそこに彼女の硬く冷たい感情を読み取ることができた。イズミはまだ僕のやったことを忘れてもいないし、許してもいないのだ。そして彼女はそのことを僕に知らせたかったのだ。そのためにイズミはこの葉書を僕に送ってきたのだ。イズミは今きっとあまり幸せではないのだろう。僕にはそれがなんとなくわかった。もし彼女が今幸せだとしたら、彼女は僕のところにこんな葉書を送ってはこないだろう。もし送ってくるにしても、そこに何か一言メッセージなり説明なりを書き加えることだろう。  それから僕はその従姉のことを考えた。僕は彼女の部屋と彼女の肉体のことを思い出した。僕らの激しい性交のことを思い出した。それらのものはかつてはあんなにありありと存在していたのに、今ではもうまったく存在していない。それらは風に吹き払われる煙のように消えてしまった。彼女がどうして死んだのか、僕には見当もつかなかった。三十六というのは人が自然に死ぬ年齢ではない。そして彼女の姓は昔のままだった。結婚していないか、あるいは結婚して離婚したかだ。  僕にイズミの消息を教えてくれたのは、僕の高校時代の同級生だった。彼は『ブルータス』の「東京バー・ガイド」という特集記事に載っていた僕の写真を目にして、それで僕が青山で店を経営していることを知ったのだ。彼はカウンターに座っていた僕のところにやってきて、やあ久しぶりだな、元気か、と言った。とはいっても彼はべつに僕個人に会いに来たというわけでもなかった。ただ同僚と酒を飲みにきていて、たまたまそこに僕がいたので声をかけたのだ。 「この店は何度か来てたんだよ、前から。場所も会社の近くだしね。でも君がやっているとは全然知らなかったな。世間は狭いもんだ」と彼は言った。  高校では僕はどちらかというとクラスからはみ出した存在だったが、彼は成績がよくスポーツもできてというまともな学級委員タイプだった。性格も穏やかで、でしゃばるところがなかった。感じが良いといってもいい男だった。彼はサッカー部に所属していて、もともと体が大きかったのだが、今ではそこにかなりの量の贅肉がついていた。顎は二重になりかけていて、紺のスリーピース・スーツのヴェストはいささか窮屈そうに見えた。これもみんな接待のせいだよ、と彼は言った。まったく商社なんかに勤めるもんじゃないね。残業は多い、接待には追いまくられる、転勤はしょっちゅう、成績が悪きや尻を蹴飛ばされる、成績が良きやノルマを上げられる、まともな人間のやることじゃないよ。彼の会社は青山一丁目にあったから、仕事の帰りに僕の店までは歩いて来ることができた。  僕らは高校時代の同級生が十八年ぶりで会って話すような話をした。仕事はどうだとか、結婚して子供が何人いるだとか、誰それにどこで会ったというようなことだ。そのときに彼はイズミの話をしたのだ。 「君があの頃つきあっていた女の子がいただろう。いつも一緒にいた子。大原っていう女の子だったよね」 「大原イズミ」と僕は言った。 「そうそう」と彼は言った。「大原イズミ。あの子にこのあいだ会ったよ」 「東京で?」と僕はびっくりして言った。 「いや、違う。東京じゃない。豊橋だよ」 「豊橋?」と僕はもっとびっくりして言った。「豊橋って、あの愛知県の豊橋?」 「そうだよ。その豊橋だよ」 「よくわからないな。なんで豊橋なんかでイズミに会うんだよ。どうしてイズミがそんなところにいるんだ?」  彼はそのときの僕の声の中に、何か硬くこわばったものを聞きとったらしかった。「どうしてだかは知らないよ。とにかく彼女と豊橋で会ったんだよ」と彼は言った。「いや、まあそんなたいした話じゃないんだ。本当に彼女だったかどうかもわからないしさ」  彼はワイルド・ターキーのオン・ザ・ロックのおかわりを注文した。僕はウオッカ・ギムレットを飲んでいた。 「たいした話じゃなくてもかまわないよ。話してくれ」 「というか、それだけじゃないんだ」と彼はちょっと困ったような声で言った。「たいした話じゃないというのはね、つまり、ときどきそれが本当に起こったことじゃないような気がするっていうことなんだよ。それはすごく変な感じなんだよ。まるですごくリアルな夢を見ていたような、そんな感じなんだ。本当に起こったことのはずなのに、どういうわけか現実の出来事とは思えないんだよ。どうもうまく説明できないけれど」 「でも本当に起こったことなんだろう?」と僕は訊いた。 「本当に起こったことだ」と彼は言った。 「じゃあ聞きたいね」  彼はあきらめたように頷いて、運ばれてきたウィスキーを一口飲んだ。 「僕が豊橋に行ったのは、そこに妹が住んでいるからなんだ。名古屋に出張があって、それが金曜日で終わったから、豊橋で妹の家に一泊して帰ってくることにしたんだ。そこで彼女に会ったんだよ。僕が妹の住んでいるマンションのエレベーターに乗ったら、そこに彼女がいたんだ。僕はずいぶん似た人がいるなと思っていた。でもまさかそれが本当に大原イズミだとは思わなかった。まさか豊橋の妹のマンションのエレベーターで彼女に出会うなんて思わないものな。それに顔だってずいぶん変わっていた。どうして彼女だってすぐにわかったのか、自分でも理解できないくらいだよ。きっと勘みたいなもんだね」 「でもイズミだったんだね?」  彼は頷いた。「彼女はたまたまうちの妹と同じ階に住んでいたんだ。僕らは同じフロアでエレベーターを下りて、同じ方向に廊下を歩いていった。そして彼女は妹の住んでいる部屋のふたつ手前のドアの中に入って行った。僕は気になったんで、ドアの表札を見てみた。そこには大原って書いてあった」 「向こうは君には気づかなかったの?」  彼は首を振った。「僕とあの子とはクラスこそ同じだったけどとくに親しく話をするような仲じゃなかったし、それにだいいちこっちはあの頃に比べたら体重が二十キロも増えているんだよ。わかるわけないさ」 「でも本当に大原イズミだったのかな。大原という名はそんなに珍しい姓じゃないし、似た顔だってけっこうあるだろう」 「そこなんだよ。僕もそれが気になったから、妹に聞いてみたんだ。あの大原っていうのはどういう人なんだって。すると妹はマンションの住民の名簿を見せてくれた。ほら、よくあるだろう。壁の塗り替えの積立をするとか、そういうのを決定するやつ。そこに住人の名前が全部書いてあるんだ。そこにはちゃんと大原イズミって書いてあった。カタカナのイズミだよ。姓が大原で名前がカタカナのイズミというのはそれほど沢山はいないよ」 「ということは、彼女はまだ独身なのかな」 「妹もそれについては何も知らなかった」と彼は言った。「大原イズミさんは、そこのマンションでは謎の人なんだ。誰も彼女と口を利いたことがない。廊下ですれ違って挨拶しても返事がかえってこない。用事があってベルを押しても出てこない。いても出てこないんだ。どうやらご近所で人気のある人柄ではないようだったね」 「ねえ、それはきっと人違いだよ」と僕は言った。そして笑いながら首を振った。「イズミはそういう女じゃない。必要がなくても人に会ったらにこにこ挨拶する性格だぜ」 「オーケー。たぶん人違いだと思う」と彼は言った。「同名異人だ。とにかくこの話はよそうよ。あまり面白くない」 「でもその大原イズミは一人でそこに住んでいるんだね?」 「だと思う。これまで男が出入りしていたのを見た人はいないそうだ。何をして生計を立てているのかも、誰も知らない。すべては謎なんだ」 「それで、君はどう思った?」 「どう思ったって、何を?」 「彼女のことだよ。その同名異人だか何だかわからない大原イズミのことだ。エレベーターの中で顔を見て、どう思った。つまり元気そうだとか、あまり元気がなさそうだとか、そういうこと」  彼はしばらく考えていた。「悪くないよ」と彼は言った。 「悪くないって、どんな風に?」  彼はウィスキーのグラスをからからと音を立てて振った。「もちろんそれなりに年を取った。それはそうだよ、もう三十六だもんな。僕も君もみんな三十六だ。新陳代謝も鈍った。筋肉も衰えてくる。いつまでも高校生じゃない」 「もちろん」と僕は言った。 「もうこの話はやめようぜ。どうせたぶん人違いなんだからさ」  僕はため息をついた。そしてカウンターの上に両手を置いて彼の顔を見た。「ねえ、僕は知りたいんだよ。知らなくちゃならないんだ。実を言うと、僕とイズミとは高校を出る直前にずいぶんひどい別れ方をしたんだ。僕がろくでもないことをやってイズミを傷つけたんだ。そしてそれ以来、彼女がどうなったのか僕には知りようもなかった。彼女が今どこにいて何をしているのか、ぜんぜんわからないんだ。僕はそのことがずっと胸につっかえていた。だからどんなことでもいいから、それがいいことでも悪いことでもいいから、正直に言ってほしいんだよ。君はそれが大原イズミだったことを知っているんだろう」  彼は頷いた。「それなら言うけど、間違いないよ。あの子だよ。君には悪いと思うけどね」 「それで本当は彼女はどんなだったんだ?」  彼はしばらく黙っていた。「なあ、このことはわかってほしいんだけれど、僕も同じクラスにいて、あの子のことは可愛いと思っていたんだ。いい子だったよ。性格もいいし、キュートだった。とくべつ美人というわけじゃない。でもなんというか、魅力があった。人の心をかきたてるものがあった。そうだろう?」  僕は頷いた。 「本当に正直に話していいかな?」と彼は言った。 「いいよ」と僕は言った。 「ちょっときついかもしれないけど」 「かまわない。本当のことが知りたい」  彼はまた一口ウィスキーを飲んだ。「僕は君が彼女といつも一緒にいるのを見ていてうらやましかった。僕だってああいうカールフレンドがほしかった。まあ今だから正直に言うけどさ。だからこそ彼女の顔ははっきりと覚えていたんだ。頭の中にくっきりと焼きついているんだよ。だから十八年後にエレベーターの中で突然会ってもばっと思い出せたんだ。つまり僕が言いたいのは、僕にはあの子のことを悪く言うような理由は何もないということだ。僕にだってそれはちょっとしたショックだったんだよ。僕だってそんなことは認めたくなかったんだよ。でもこれだけは言える。あの子はもう可愛くはないよ」  僕は唇を噛んだ。「どういう風に可愛くないんだろう」 「あのマンションの子供たちの多くは彼女のことを怖かっているんだ」 「怖がっている?」と僕は言った。僕はよくわけがわからなくて、彼の顔をじっと見た。この男は言葉の選び方を間違えているのだ、と僕は思った。「どういうことだよ。その怖がっているっていうのは?」 「ねえ、この話は本当にもうやめよう。そもそも言いだすべきじゃなかったんだ」 「彼女は子供たちに何か言うのかな?」 「彼女は誰にも何も言わないんだよ。さっきも言ったようにさ」 「じゃあ子供たちは彼女の顔を怖がるわけかい?」 「そうだよ」と彼は言った。 「何か傷でもあるのか?」 「傷はない」 「じゃあ何が怖いんだ?」  彼はウィスキーを一口飲んで、それをそっとカウンターの上に置いた。そしてしばらくじっと僕の顔を見ていた。彼は少し困っているようでもあったし、迷っているようでもあった。でもそれとは別に、彼の顔には何かとくべつな表情が浮かんでいた。僕はそこに高校時代の彼の面影のようなものをふと認めることができた。彼は顔をあげてしばらく遠くの方をじっと見ていた。まるで川の流れていく先を見届けようとしているみたいに。それから彼は言った、 「僕にはそれがうまく説明できないし、また説明したくもないんだ。だからそれ以上は僕に尋ねないでくれ。君も自分の目で見ればそれがわかる。そして実際に見てない人間に向かってそれを説明することはできないんだよ」  僕はそれ以上何も言わなかった。僕は頷いて、ウオッカ・ギムレットをすすっただけだった。彼の口調は穏やかだったけれど、そこにはそれ以上の追及を激しく撥ねつけるものがあった。  それから彼は仕事で二年間ブラジルに駐在していたときの話をした。信じられるかい、僕はサンパクロで中学校のときの同級生に会ったんだぜ。そいつはトヨタのエンジニアをやっていて、サンパウロで仕事してたんだ。  でももちろん僕はそんな話をほとんど聞いていなかった。帰り際に彼は僕の肩を叩いた。「なあ、年月というのは人をいろんな風に変えていっちゃうんだよ。そのときに君と彼女とのあいだで何かあったのかはしらない。でもたとえ何があったにせよ、それは君のせいじゃない。程度の差こそあれ、誰にだってそういう経験はあるんだ。俺にだってある。嘘じゃないよ。俺にだって同じような覚えはあるんだ。でも仕方ないことなんだよ、それは。誰かの人生というのは結局のところその誰かの人生なんだ。君がその誰かにかわって責任を取るわけにはいかないんだよ。ここは砂漠みたいなところだし、俺たちはみんなそれに馴れていくしかないんだ。なあ小学校の頃にウォルト・ディズニーの『砂漠は生きている』っていう映画見たことあるだろう?」 「あるよ」と僕は言った。 「あれと同じだよ。この世界はあれと同じなんだよ。雨が降れば花が咲くし、雨が降らなければそれが枯れるんだ。虫はトカゲに食べられるし、トカゲは鳥に食べられる。でもいずれはみんな死んでいく。死んでからからになっちゃうんだ。ひとつの世代が死ぬと、次の世代がそれにとってかわる。それが決まりなんだよ。みんないろんな生き方をする。いろんな死に方をする。でもそれはたいしたことじゃないんだ。あとには砂漠だけが残るんだ。本当に生きているのは砂漠だけなんだ」  彼が帰ってしまったあとも、僕はカウンターで一人で酒を飲んでいた。店が終わって、客がいなくなってしまい、従業員か片付けと掃除を終えて帰ってしまったあとも、一人でそこに残っていた。僕はこのまますぐに家に帰りたくはなかった。僕は妻に電話をかけて、今日は店の用事で少し遅くなると言った。そして店の照明を消し、真っ暗な中でウィスキーを飲んだ。氷を出すのが面倒だったので、ストレートで飲んでいた。  みんなどんどん消えていってしまうんだ、と僕は思った。あるものは断ち切られたようにふっと消え去り、あるものは時間をかけて霞んで消えていく。そしてあとには砂漠だけが残るんだ[#「そしてあとには砂漠だけが残るんだ」に傍点]。  夜明け前に店をでたときには、青山通りには細かい雨が降っていた。僕はひどく疲れていた。雨は墓石のようにしんとしたビルの群れを音もなく湿らせていた。僕は車を店の駐車場に残したまま家まで歩いた。途中でしばらくカードレールに腰をかけ、信号機の上で鳴いている大きな一羽のからすを眺めた。午前四時の街はひどくうらぶれて汚らしく見えた。そのいたるところに腐敗と崩壊の影がうかがえた。そしてそこにはまた僕自身の存在も含まれていた。まるで壁に焼きつけられた影のように。 [#改ページ]     8 『ブルータス』に僕の名前と写真が載ったことで、それから十日ほどのあいだに何人かの昔の知り合いが僕を訪ねて店にやってきた。中学や高校の同級生たちだ。それまで僕は、書店に入ってそこに置いてある膨大な数の雑誌を見るたびに、いったい誰がそんなものをいちいち読んでいるんだろうといつも不思議に思っていた。でも自分が雑誌にでてみてよくわかったのだが、人々は僕が想像していたよりずっと熱心に雑誌を読んでいた。意識してあたりを見回してみると、美容院や、銀行や、喫茶店や、電車の中や、ありとあらゆるところで、まるで何かに取りつかれたように人々は雑誌を手にして開いていた。あるいは人々は何もしないで時間を潰すのが怖いので、何でもいいからとりあえずその辺にあるものを手に取って読んでいるのかもしれない。  昔の知りあいとの再会は、結果的にはあまり楽しいものとは言えなかった。彼らと会って話をするのが嫌だったわけではない。僕だってもちろん昔の友だちに会うのは懐かしかった。彼らの方も僕に会えたことを喜んでくれた。でも結局、彼らが口にする話題は、今の僕にとってはみんなどうでもいいことだった。故郷の町がどうなろうと、他の同級生たちが今どのような道を歩んでいようと、もうそんなことにはまったく興味が持てなかった。僕はかつて自分がいた場所や時間からあまりにも遠く離れてしまったのだ。そして彼らの口にすることは否応なしに、イズミのことを僕に思い出させた。僕は故郷の町での昔の話が出るたびに、イズミがその豊橋の小さなマンションでひとりでひっそりと暮らしている情景を思い浮かべることになった。彼女はもう可愛くはないよ[#「彼女はもう可愛くはないよ」に傍点]、と彼は言った。子供たちは彼女のことを怖がるんだ[#「子供たちは彼女のことを怖がるんだ」に傍点]、と彼は言った。そのふたつの台詞は、僕の頭の中にいつまでも鳴り響いていた。そしてイズミは今でも僕のことを許してはいないのだ。  雑誌が出てからしばらくのあいだ、店の宣伝のためとはいえ自分がそんな取材を気楽に引き受けてしまったことを真剣に後悔していた。僕はその記事をイズミには読んでほしくなかった。僕か何の傷を負うこともなく、こんな風にすんなりとうまく生きていることを知ったら、イズミはいったいどんな気持ちがするだろう。  でも一カ月も経つと、わざわざ僕を訪れてくる人ももういなくなった。それが雑誌の良いところだ。あっという間に有名になる。でもあっという間に忘れられてしまう。僕はほっと胸を撫でおろした。少なくともイズミは何も言ってこなかった。きっと彼女は『ブルータス』なんか読まないのだろうと僕は思った。  でも一カ月半が経過して、雑誌のことをほとんど忘れかけたころになって、最後の知り合いが僕のところにやってきた。島本さんだった。  彼女は十一月初めの月曜日の夜に、僕の経営するジャズ・クラブ(『ロビンズ・ネスト』というのがその店名だ。僕の好きな古い曲の名前から取った)のカウンターで、ひとりで静かにダイキリを飲んでいた。僕も同じカウンターに席三つぶん離れて座っていたのだが、それか島本さんであることにまったく気づかなかった。ずいぶん綺麗な女の客が来ているなと感心していたくらいだった。これまでに一度も見たことのない客だった。前に見たとしたらまず間違いなく覚えている。それくらい目立つ女だった。そのうちに誰か待ち合わせの相手が来るんだろうと僕は思った。もちろん女性の一人客が来ないというわけではない。彼女たちのあるものは男の客に声をかけられるのを予想し、ある場合には期待している。様子を見ればそれはだいたいわかる。でも経験的にいって、本当に綺麗な女は絶対に一人で酒を飲みにきたりはしない。彼女たちにとっては男に声をかけられるのは楽しいことでもなんでもないからだ。彼女たちにとってはそれはただ面倒なだけなのだ。  だから僕はそのときその女にはほとんど注意を払わなかった。最初にちらっと見て、それから折りにふれて何度か目をやっただけだった。彼女はうっすらと化粧をして、品の良いいかにも高価そうな服を着ていた。青い絹のワンピースの上に、淡いベージュのカシミアのカーディガンをかけていた。まるで玉葱の薄皮のように軽そうなカーディガンだった。そしてワンピースの色によく似た色合いのバッグをカウンターの上に置いていた。年齢は見当がつかない。ちょうどいい歳としかいいようがなかった。  彼女ははっとするほどの美人だったが、かといって女優やモデルには見えなかった。僕の店にはそういった人々もよく顔を見せたが、彼女たちには自分はいつも他人の目に曝されているのだという意識があって、そういったいかにもという雰囲気が体のまわりに仄かに漂っている。でもその女は違っていた。彼女はとても自然に寛いでいて、まわりの空気によく馴染んでいた。彼女はカウンターに頬杖をつき、ピアノ・トリオの演奏に耳を澄ませ、まるで美しい文章を吟味するみたいにカクテルを少しずつ飲んでいた。そしてときどきちらっと僕の方に視線を向けた。僕はその視線を何度かはっきりと体に感じていた。でも彼女が本当に僕を見ているのだとは思わなかった。  僕はいつもと同じようにスーツを着て、ネクタイをしめていた。アルマーニのネクタイとソプラニ・ウオーモのスーツ、シャツもアルマーニだ。靴はロセッティ。僕はとくに服装に凝るたちではない。必要以上に服に金を費やすのは馬鹿馬鹿しいことだと基本的には考えている。  普通に生活している分には、ブルージーンとセーターがあればそれでこと足りる。でも僕には僕なりのささやかな哲学がある。店の経営者というものは、自分の店の客にできればこういう恰好をして来てほしいと望む恰好を自分でもしているべきなのだ。僕がそうすることによって、客の方にも従業員の方にも、それなりの緊張感のようなものが生まれるのだ。だから僕は店に顔を出すときには意識的に高価なスーツを着て、必ずネクタイをしめた。  僕はそこでカクテルの味見をしなから、店の客に注意を払い、ピアノ・トリオの演奏を聴いていた。始めのうち店はけっこう混んでいたが、九時すぎから激しい雨が降り始め、客足がばったりととまった。十時にはテーブルは数えるほどしか埋まっていなかった。でも女はまだそこにいて、ひとりで黙ってダイキリを飲んでいた。僕は彼女のことがだんだん気になってきた。どうやら彼女は誰かと待ち合わせをしているわけではないようだった。彼女は時計に目をやるわけでもないし、戸口の方を眺めるわけでもなかった。  やがて女がバッグを手にスツールを下りるのが見えた。時計はもう十一時に近くなっていた。地下鉄で帰るならそろそろ腰を上げる頃合いだった。でも彼女は引き上げるわけではなかった。彼女はゆっくりとさりげなくこちらにやってきて、僕の隣のスツールに腰をかけた。微かに香水の匂いがした。スツールに体を馴染ませると、彼女はバッグからセイラムの箱を出して、一本口にくわえた。僕はそんな彼女の動きを目の端でぼんやりと捉えていた。 「素敵なお店ね」と彼女は僕に言った。  僕は読んでいた本から顔をあげて、よくわけのわからないまま彼女を見た。でもそのとき何かが僕を打つのが感じられた。胸の中の空気が突然ずっしりと重くなったような気がした。僕は吸引力のことを考えた。これはあの吸引力なのだろうか[#「これはあの吸引力なのだろうか」に傍点]? 「ありがとう」と僕は言った。たぶん彼女は僕がここの経営者だということを知っているのだろう。「気に入ってもらえると嬉しいですね」 「ええ、すごく気に入ったわ」、彼女は僕の顔を覗き込むようにして、にっこりと微笑んだ。素敵な微笑みだった。唇がすっと広がり、目の脇に小さな魅力的な皺が寄った。その微笑みは僕に何かを思い出させた。 「演奏も素敵だし」と彼女はピアノ・トリオを指して言った。「ところで火はお持ちかしら?」  と彼女は言った。  僕はマッチもライターも持っていなかった。僕はバーテンダーを呼んで店のマッチを持ってこさせた。そして彼女のくわえた煙草の先に火をつけた。 「ありがとう」と彼女は言った。  僕は正面から彼女の顔を見た。そして僕はそこでようやく気がついたのだ。それが島本さんであることに。「島本さん」と僕は乾いた声で言った。 「思い出すのにけっこう時間がかかったのね」と彼女はしばらく間を置いてから、おかしそうに言った。「ずいぶんじゃない。もう永遠にわかってもらえないのかと思ってたわ」  僕は長いあいだ、まるで噂でしか聞いたことのない極めて珍しい精密機械を前にしたときのように、言葉もなく彼女の顔を見つめていた。僕の目の前にいるのはたしかに島本さんだった。でもその事実を事実として呑み込むことができなかった。僕はそれまであまりにも長く島本さんのことを考えつづけていた。そして彼女と会うことはもう二度とあるまいと思っていたのだ。 「それ素敵なスーツね」と彼女は言った。「とてもよく似合っているわよ」  僕はただ黙って頷いた。うまく口をきくことができなかったのだ。 「ねえハジメくん、あなたは前よりはずいぶんハンサムになったわね。体もがっしりしたし」 「泳いでいるんだよ」と僕はやっと声を出すことができた。「中学校のときに始めて、それ以来ずっと泳いでる」 「泳げるのって楽しいでしょうね。昔からずっとそう思っていたわ。泳げるのって楽しいんだろうなって」 「そうだね。でも、習えば誰だって泳げるようになるんだよ」と僕は言った。でもそう言い終わった途端に、僕は彼女の脚のことを思い出した。俺はいったい何を言っているんだ[#「俺はいったい何を言っているんだ」に傍点]、と僕は思った。僕は混乱して、何かもう少しましなことを言おうとした。でも言葉はうまく出てこなかった。僕はズボンのポケットに手をつっこんで煙草の箱を探した。それから自分が五年前に煙草をやめていたことを思い出した。  島本さんはそんな僕の動作を何も言わずにじっと眺めていた。それから手を上げてバーテンダーを呼び、新しいダイキリを注文した。彼女は人に何かを頼むときには、いつもにっこりと大きく微笑んだ。それは本当に素敵な笑顔だった。そのへんにある何もかもをお盆に載せて持っていきたくなるような笑顔だった。もし他の女が同じことをしたら厭味な感じになっていたかもしれない。でも彼女が微笑むと、世界じゅうが微笑んでいるように見えた。 「君は今でも青い服を着ているんだね」と僕は言った。 「そうよ。私は昔からずっと青い服が好きなの。よく覚えているのね」 「君についてなら大抵のことは覚えているよ。鉛筆の削り方から、紅茶に角砂糖を幾つ入れるかまでね」 「幾つ入れたかしら?」 「二つ」  彼女は少し目を細めるようにして僕の顔を見ていた。 「ねえハジメくん」と島本さんは言った。「どうしてあのとき、あなたは私のあとをつけたりしたの? 八年ばかり前のことだったと思うけれど」  僕は溜め息をついた。「あれが君だったのかどうか、僕にはわからなかったんだ。歩き方は君にそっくりだった。でも君じゃないようにも見えた。僕には確信が持てなかった。だからあとをついていったんだ。あとをつけたと言うわけじゃない。機会を見て声をかけようと思っていたんだよ」 「じゃあどうして声をかけなかったの。どうして直接たしかめてみなかったの? そうすれば話は早かったでしょう」 「どうしてそうしなかったのか、自分でもよくわからない」と僕は正直に言った。 「でもあのときはどうしてもそれができなかった。声そのものが出てこなかったんだよ」  彼女はほんの少しだけ唇を噛んだ。「あのときには、あれがあなただとは気がつかなかったの。私はずっと誰かにあとをつけられていて、怖いという思いしか頭の中になかったの。本当よ。とても怖かったわ。でもタクシーに乗ってしばらくして、やっと一息ついてから、突然はっと思い当たったの。あれはひょっとしてバジメくんだったんじゃないかって」 「ねえ、島本さん」と僕は言った。「僕はあのときに預かったものがあるんだ。あの人が君とどういう関係なのかは知らないけれど、僕はそのときに——」  彼女は人さし指を上にあげて、唇にあてた。そしてそっと首を振った。その話はもうやめましょう[#「その話はもうやめましょう」に傍点]、お願いだから二度とそのことは訊かないで[#「お願いだから二度とそのことは訊かないで」に傍点]、というように。 「あなたは結婚しているんでしょう?」と島本さんは話題を変えるようにそう言った。 「子供が二人いる」と僕は言った。「どちらも女の子だよ。まだ小さいけれど」 「素敵ね。あなたにはきっと女の子の方が似合っていると思うわ。どうしてかと訊かれても理由はうまく説明できないけれど、なんとなくそういう気がするのよ。女の子の方が合ってるだろうって」 「そんなものかな」 「なんとなくね[#「なんとなくね」に傍点]」と島本さんは言って微笑んだ。「でもとにかく、自分の子供は一人っ子にしないことにしたのね?」 「とくにそういうつもりもない。成り行きでそうなっちゃっただけだよ」 「どんな気持ちがするものかしら。娘が二人いるって?」 「なんだか変なものだよ。上の子が行っている幼稚園じゃ、そこにいる子供の半分以上が一人っ子なんだ。僕らの子供の頃とは時代がすっかり変わっちゃったんだね。都会では一人っ子であることが、むしろ当たり前なんだよ」 「私たちはきっと生まれた時代が早すぎたのね」 「そうかもしれない」と僕は言った。そして笑った。「たぶん世界が我々に近づいているんだろう。でも子供たちがいつも家の中で二人で遊んでいるのを見ていると、ときどきなんだか不思議な気持ちになることがある。こういう育ち方というのかあるんだなと感心しちゃうんだよ。僕は小さい頃からいつも一人で遊んでいたからね、子供というのはみんな一人で遊んでいるものだと思っていた」  ピアノ・トリオが『コルコヴァド』の演奏を終えて、客がばらばらと拍手をした。いつもそうなのだが、真夜中に近くなると演奏はだんだんうちとけてきて、親密なものになっていった。ピアニストは曲と曲の合間に赤ワインのグラスを手にし、ベーシストは煙草に火をつけた。  島本さんはカクテルを一口飲んだ。「ねえ、ハジメくん。正直に言うと、私はここに来ることについてはずいぶん迷ったのよ。ほとんど一カ月近く迷って、悩んでいたの。私はどこかでぱらぱらと雑誌を見ていて、あなたがここでお店をやっていることを知ったの。最初は何かの間違いじゃないかって思っていたわ。だってほら、あなたはバーの経営をするようなタイプにはとても見えなかったもの。でも名前もあなただったし、写真の顔もあなただった。懐かしいご近所のハジメくんだった。私はたとえ写真だけでもあなたともう一度巡りあえてとても嬉しかった。でも現実のあなたと会うのかいいことなのかどうか、私にはわからなかった。会わない方がおそらくお互いのためにいいんじゃないかという気がしたのよ。あなたがこうして元気でやっていることがわかったんだから、もうそれで十分じゃないかって」  僕は黙って彼女の話を聞いていた。 「でもせっかくあなたの所在がわかったんだから、ちらっと姿を見るだけでもいいからここに来てみようと思ったの。そして私はあの椅子に座って、すぐそこにいるあなたのことを見ていたの。もしあなたが私のことにずっと気がつかなかったら、そのまま黙って帰ってしまおうと思っていたのよ。でもどうしても我慢できなかったの。懐かしくて、声をかけないわけにはいかなかったの」 「どうしてだろう」と僕は言った。「つまり、どうして僕に会わない方がいいと思ったんだろう?」  彼女は指でカクテル・グラスの縁を撫でながら、しばらく考えていた。「もし私に会ったら、たぶんあなたは私のことをいろいろと知りたがるだろうと思ったの。たとえば結婚しているかとか、どこに住んでいるかとか、これまで何をしてきたのかとか、そういうようなこと。違う?」 「まあ自然な話のなりゆきとしてね」 「もちろん、それが自然な話のなりゆきだと私も思う」 「でも君はそういうことについてあまり喋りたくないんだね?」  彼女は困ったように微笑んで、そして頷いた。島本さんはいろんな種類の微笑みを身につけているようだった。「そう、私はそういうことについてあまり喋りたくないの。その理由は訊かないでね。とにかく私は自分の身の上については喋りたくないの。でもそういうのはたしかに自然じゃないし、変なものよね。なんだかわざと秘密めかしているみたいだし、気取っているみたいでもあるし。だから私はあなたに会わない方がいいだろうと思ったのよ。私はあなたに気取った変な女だと思われたくなかったの。それが私がここに来たくなかった理由のひとつ」 「他の理由は?」 「がっかりしたくなかったからよ」  僕は彼女が手にしたグラスを眺めていた。それから僕は彼女のまっすぐな肩までの髪を眺め、かたちのいい薄い唇を眺めた。彼女のどこまでも深い黒い瞳を見た。そしてその瞼にはいかにも思慮探そうな小さな線が見えた。その線はずっと遠くに見える水平線のように感じられた。 「昔のあなたのことがとても好きだったから、今のあなたに会ってがっかりしたくなかったの」 「僕は君をがっかりさせたかな?」  彼女は首を小さく振った。「あなたのことをあそこからずっと見ていたの。最初のうちはなんだか別の人みたいに見えたの。すごく大きくなっていたし、スーツも着ていたし。でもよく見ていると、ちゃんと昔のハジメくんだった。ねえ、知ってる? あなたの動作って、十二のときからほとんど変わってないみたいよ」 「知らなかったね」と僕は言った。僕は笑おうと思ったのだが、うまく笑うことができなかった。 「手の動かし方とか、目の動かし方とか、爪先でこつこつ何かを叩く癖とか、気むずかしそうに眉をひそめるところとか、昔からぜんぜん変わってないんだもの。アルマーニのスーツを着るようになっても中身はあまり変わってないみたいね」 「アルマーニじゃない」と僕は言った。「シャツとネクタイはアルマーニだけれど、スーツは違う」  島本さんはにっこり笑った。 「ねえ島本さん」と僕は言った。「僕はずっと君に会いたかったんだ。君と会って話をしたかった。君に話したいことがいっぱいあったんだ」 「私もあなたに会いたかったのよ」と彼女は言った。「でもあなたが[#「あなたが」に傍点]来なかったのよ。それはわかっているでしょう? 中学校に入ってあなたが別の町に越していったあと、私はずっとあなたか来てくれるのを待っていたのよ。なのにどうして来てくれなかったの。私はとても寂しかったわ。きっとあなたは新しいところで新しい友だちを作って、私のことなんか忘れてしまったんだと思っていたわ」  島本さんは煙草を灰皿にこすりつけて消した。彼女は爪に透明なマニキュアを塗っていた。まるで精巧な作り物のような爪だった。つるりとして、無駄がない。 「僕は怖かったんだよ」と僕は言った。 「怖かった?」と島本さんは言った。「いったい何が怖かったの? 私のことが怖かったの?」 「違うよ。君が怖かったわけじゃない。僕が怖かったのは拒否されることだったんだ。僕はまだ子供だった。君が僕を待ってくれているなんて僕にはうまく想像できなかったんだ。僕は君に拒否されることが本当に怖かった。君の家に遊びにいって、君に迷惑に思われるのがとても怖かった。だからつい足が遠のいてしまったんだ。そこで辛い思いをするくらいなら、本当に親密に君と一緒にいたときの記憶だけを抱えて生きていた方がいいような気がしたんだ」  彼女はちょっとだけ首をかしげた。そして手のひらの上でカシュー・ナッツを転がした。 「なかなかうまくいかないものね」 「なかなかうまくいかない」と僕は言った。 「私たちはもっと長いあいだ友だちでいることだってできたのにね。本当のことをいうと、私は中学校に上がっても、高校に上がっても、大学に行っても、友だちというものが一人もできなかったの。どこにいてもいつも一人だった。だから私はいつもそばにあなたかいてくれたらどんなにいいだろうって思っていたの。たとえそばにいてくれなくても、手紙をやりとりするだけでも良かったのよ。そうすればずいぶんいろんなことが変わっていたと思うわ。いろんなことがもっとずっと耐えやすくなっていたと思う」、島本さんは少し間を置いて黙っていた。「どうしてかはわからないけれど、でも中学校に上がった頃から私はどうしても学校でうまくやっていくことができなくなったの。そしてうまくいかないから、私も余計に自分の中に閉じこもるようになったの。悪循環というやつね」  僕は頷いた。 「小学校の頃まではなんとかうまくいってたと思うんだけれど、上の学校にあがったらぜんぜん駄目だった。ずっと井戸の底で暮らしているみたいだった」  それは大学に入ってから、有紀子と結婚するまでの十年ばかりのあいだ、僕がずっと感じつづけていたことでもあった。一度何かがうまくいかなくなる。するとそのうまくいかないことが別のうまくいかないことを生み出す。そして状況はどこまでも悪くなりつづける。どうあがいても、そこから抜け出すことができなくなってしまうのだ。誰かがやってきて、そこからひっばりだしてくれるまで。 「私はまず脚が悪かった。だから普通の人が普通にできることが、私にはできなかったの。それから本ばかり読んでいて、なかなか他人に心を開こうとしなかった。その上に何というか、外観が目立ったの。だから大抵の人は私のことを精神的に屈折した倣慢な女だと思っていたのね。あるいは本当にそうだったのかもしれないけれど」 「たしかに君は綺麗すぎるかもしれない」と僕は言った。  彼女は煙草をとりだして口にくわえた。僕はマッチを擦ってそれに火をつけた。 「本当に私のことを綺麗だと思う?」と島本さんは言った。 「思うよ。そんなことはきっといつも言われつけていると思うけど」  島本さんは笑った。「そんなことはないわよ。それに正直言って私は自分の顔がそれほど好きなわけでもないの。だからあなたにそう言われるととても嬉しいわ」と彼女は言った。「とにかく私はだいたいにおいて女の子にはあまり好かれないのよ、残念ながら。私は何度も思ったわ。べつに綺麗だなんて言われなくてもいいから、ごく普通の女の子になって、ごく普通に友だちを作りたいって」  島本さんは手をのばして、カウンターの上の僕の手にちょっとだけ触れた。「でも良かったわ。あなたが幸せに暮らしていて」  僕は黙っていた。 「幸せなんでしょう?」 「幸せなのかどうかは、自分ではよくわからないね。でも少なくとも不幸だとは思わないし、孤独でもない」と僕は言った。それからちょっと間を置いて付け加えた。「でも僕はときどき何かの拍子にふと思うことがあるんだ。君の家の居間でふたりで音楽を聴いているときが僕の人生でいちばん幸せな時代じゃなかっただろうかってね」 「ねえ、あのレコードは今でもずっと持っているのよ。ナット・キング・コール、ビング・クロスビー、ロッシーニ、『ペール・ギュント』、その他いろいろ。全部一枚残らず揃ってるわよ。お父さんが死んだときに形見にもらってきたの。す、ごく大事に聴いていたから今でも傷ひとつついていないわ。私がどれくらい丁寧にレコードを扱っていたかあなた覚えているでしょう?」 「お父さんは亡くなったんだね」 「五年前に直腸癌で死んだの。ひどい死に方だったな。すごく元気な人だったのにね」  僕は何度か島本さんの父親に会ったことがあった。彼女の家の庭に生えていた樫の木のようにがっしりとした感じの人だった。 「お母さんは元気なの?」と僕は尋ねた。 「ええ、たぶん元気だと思う」  僕は彼女の口調の中に込められた何かが気になった。「お母さんとはうまくいっていないの?」  島本さんはダイキリを飲み干して、そのグラスをカウンターに置き、バーテンダーを呼んだ。そして僕に尋ねた。「ねえ、何かここのお勧めのカクテルはないの?」 「オリジナルのカクテルが幾つかあるよ。店の名前と同じで『ロビンズ・ネスト』っていうのがあってそれかいちばん評判がいい。僕が考案したんだ。ラムとウオッカがベースなんだ。口当たりはいいけれど、かなりよくまわる」 「女の子を口説くのによさそうね」 「ねえ島本さん、君にはよくわかってないようだけれど、カクテルという飲み物はだいたいそのために存在しているんだよ」  彼女は笑った。「じゃあそれをいただくことにするわ」  カクテルが運ばれてくると、彼女はしばらくその色あいを眺めてから、一口そっとすすり、しばらく目を閉じて味を体にしみこませていた。「とても微妙な味がする」と彼女は言った。「甘くもないし、辛くもない。さっぱりしたシンプルな味だけど、奥行きのようなものがある。あなたにこういう器用な才能があったとは知らなかった」 「僕は棚ひとつ作れない。車のオイル・フィルターも取り替えられない。切手だってまっすぐに貼れない。電話のダイヤルもしょっちゅう押し違えている。でもオリジナルのカクテルは幾つか作った。評判もいいんだよ」  彼女はカクテル・グラスをコースターの上に置いて、しばらくその中をじっとのぞきこんでいた。彼女がカクテル・グラスを傾けると、そこに映った天井のダウン・ライトの光が微かに揺れた。 「お母さんとはもうずっと会っていないの。十年ばかり前にいろいろと面倒なことがあって、それ以来ほとんど会っていないの。お父さんのお葬式でいちおう顔を合わせるだけは合わせたけれど」  ピアノ・トリオがオリジナルのブルースの演奏を終えて、ピアノが『スタークロスト・ラヴアーズ』のイントロを弾き始めた。僕が店にいるとそのピアニストはよくそのバラードを弾いてくれた。僕がその曲を好きなことを知っていたからだ。エリントンの作った曲の中ではそれほど有名な方ではないし、その曲にまつわる個人的な思い出があったわけでもないのだが、何かのきっかけで耳にしてから、僕はその曲に長いあいだずっと心を引かれつづけていた。学生時代にも教科書出版社に勤めていた頃にも、夜になるとデューク・エリントンのLP『サッチ・スウィート・サンダー』に入っている『スタークロスト・ラヴァーズ』のトラックを何度も何度も繰り返して聴いたものだった。そこではジョニー・ホッジスがセンシティヴで品の良いソロを取っていた。その気だるく美しいメロディーを聴いていると、当時のことがいつもいつも僕の頭によみがえってきた。あまり幸せな時代とは言えなかったし、僕は満たされない思いを抱えて生きていた。僕はもっと若く、もっと飢えていて、もっと孤独だった。でも僕は本当に単純に、まるで研ぎ澄まされたように僕自身だった。その頃には、聴いている音楽の一音一音が、読んでいる本の一行一行が体にしみ込んでいくのが感じられたものだった。神経は楔のように鋭く尖り、僕の目は相手を刺すようなきつい光を含んでいた。そういう時代だったのだ。『スタークロスト・ラヴァーズ』を聴くと、僕はいつもその頃の日々と、鏡に映った自分の目を思い出した。 「実を言うと、中学校の三年生になったときに、君に会いにいったことがあるんだ。一人ではとても耐えられそうにもないくらい寂しくなったんだよ」と僕は言った。「電話をかけてみたんだけど通じなかった。だから電車に乗って君の家まで行ってみた。でももう別の人の表札が出ていた」 「私たちはあなたが引っ越していってから二年後に、父の仕事の関係で藤沢に越したの。江ノ島のすぐ近くに。そしてそのあとはそこにずっと住んでいたの。私が大学に入るまで。私は引越すときにあなたに転居先を書いた葉書を出しておいたんだけれど、それは届かなかった?」  僕は首を振った。「来たとしたら、僕はもちろん返事を書いていたはずだよ。不思議だね。きっとどこかで手違いがあったんだろう」 「それとも私たちかただ単に運が悪いだけかもしれないわね」と島本さんは言った。 「手違いが多くていつもいつもすれ違っている。でもそれはともかく、あなたの話をして。あなたのこれまでの人生について聞かせて」 「たいして面白い話じゃないよ」と僕は言った。 「面白くなくてもいいから聞きたいのよ」  僕はこれまで自分がどういう人生を歩んできたかをおおまかに彼女に話した。高校時代にカールフレンドを作ったのだけれど、最後に彼女を深く傷つけてしまったこと。詳しい事情まではいちいち話さなかった。でもある出来事があって、それが彼女を傷つけたこと、そしてまた同時に僕自身をも傷つけたことを僕は説明した。東京の大学に入り、卒業してから教科書の出版社に入ったこと。でも二十代を通じて僕はずっと孤独な日々を送っていたこと。友だちと呼べるような人間もいなかったこと。僕は何人かの女性とつきあった。でも僕は少しも幸せにはなれなかった。高校を出てから三十歳に近くなって有紀子とめぐり会って結婚するまで、誰かを本当には好きになったことはただの一度もなかった。僕はその頃よく島本さんのことを考えていた。君と会ってたとえ一時間でもいいから話をすることができたらどんなに素晴らしいだろうといつも思っていたんだよ、僕がそう言うと、彼女は微笑んだ。 「私のことをよく考えていたの?」 「そうだよ」 「私もあなたのことをよく考えたわ」と島本さんは言った。 「いつも、辛くなると。あなたは私にとっては、生まれてからこのかた、ただ一人の友だちだったみたいな気がするの」。そして彼女はカウンターに片手で頬杖をついて、体の力を抜いたようにしばらく目を閉じていた。彼女の指には指輪はひとつもはめられていなかった。彼女の睫毛がときどき小さく震えるのが見えた。やがて彼女はゆっくりと目を開け、腕時計を見た。僕も自分の腕時計を見た。時刻はもう十二時に近くなっていた。  彼女はバッグを手に取り、小さな動作でスツールから下りた。 「おやすみなさい。あなたに会えてよかった」  僕は彼女を入口まで送っていった。「タクシーを拾ってあげようか? もしタクシーで帰るんなら、雨だからつかまえにくいと思うんだ」と僕は尋ねた。  島本さんは首を振った。「大丈夫よ、気にしないで。それくらいは自分でできるから」 「本当にがっかりしなかった?」と僕は訊いた。 「あなたに?」 「そう」 「しなかったわよ、大丈夫」と島本さんは笑って言った。「安心しなさい。でもそのスーツ、本当にアルマーニじゃないの?」  それから僕は島本さんか前のように脚を引きずっていないことに気がついた。歩き方はそれほど早くはないし、注意して観察すればそこには技巧的なものがうかがえた。でも彼女の歩き方には不自然なところはほとんど見受けられなかった。 「四年ほど前に手術をして治したのよ」と島本さんはまるで言い訳するように言った。「完全に治ったとはとても言えないけれど、昔ほどひどくはなくなったわ。大変な手術だったけど、まあなんとかうまくいったの。いろんな骨を削ったり、継ぎ足したり」 「でもよかったね。もう脚が悪いようには見えないもの」と僕は言った。 「そうね」と彼女は言った。「たぶんそれでよかったんだと思う。少し遅すぎたかもしれないけれど」  僕はクロークで彼女のコートを受け取って、それを着せた。並んでみると、彼女はもうそれほど身長が高くなかった。十二の頃に僕と同じくらいの背丈があったことを思うと、ちょっと不思議な気がした。 「島本さん、また君に会えるかな?」 「たぶんね」と彼女は言った。そしてかすかな微笑みを口もとに浮かべた。風のない日に静かに立ちのぼる小さな煙のような微笑みだった。「たぶん」  そして彼女はドアを開けて出ていった。僕は五分ばかりあとで階段を上がって通りに出てみた。彼女かうまくタクシーを捕まえることができたか気になったのだ。外にはまだ雨が降りつづいていた。島本さんはもうそこにはいなかった。通りにはもう人けはなかった。車が濡れた路面にヘッドライトの光をぼんやりと滲ませているだけだった。  あるいは僕は幻のようなものを見ていたのかもしれない、と思った。僕はそこに立ったまま、通りに降る雨を長いあいだ眺めていた。僕は自分がもう一度十二の少年に戻ってしまったような気がした。子供の頃、僕は雨降りの日には、よく何もせずにじっと雨を見つめていた。何も考えずに雨を見つめていると、自分の体が少しずつほどけて、現実の世界から抜け落ちていくような気がしたものだった。おそらく雨降りの中には、人を催眠術にかけてしまうような特殊な力があるのだ。少なくともその頃の僕にはそう感じられた。  でもそれは幻ではなかった。店に戻ったとき、島本さんの座っていた席にはまだグラスと灰皿が残っていた。灰皿の中には口紅のついた吸殻が、そっと消されたかたちのままで何本か入っていた。僕はその隣に膜を下ろして、目を閉じた。音楽の響きが少しずつ遠のいて、僕は一人になった。その柔らかな暗闇の中では、まだ雨が音もなく降り続いていた。 [#改ページ]     9  それからずいぶん長いあいだ島本さんは姿を見せなかった。僕は毎晩『ロビンズ・ネスト』のカウンターに座って長い時間を過ごした。僕は本を読みながら、ときどき入口のドアに目をやった。でも彼女はやってこなかった。僕は自分が島本さんに対して何か間違ったことを言ってしまったのではないかと心配になってきた。何か余計なことを言って彼女を傷つけてしまったのではないだろうかと。僕はあの夜に自分が口にしたことをひとつひとつ思い返し、彼女が口にしたことを思い出した。でも思い当たるようなことはとくに何もなかった。あるいは島本さんは僕と会って本当はがっかりしてしまったのかもしれない。それは十分にあり得ることだった。彼女はあんなに美しく、そして脚だってもう悪くはない。彼女は僕の中に、自分にとって貴重なものをもはや何も見いだせなかったのだろう。  年が暮れていき、クリスマスが過ぎ、新年がやってきた。そしてあっと言う間に一月が終わった。僕は三十七になった。僕はもうあきらめて、彼女を待つのをやめることにした。僕は『ロビンズ・ネスト』にはほんの少ししか顔を出さないようになった。そこに行けばつい彼女 のことを思い出してしまったし、客席に島本さんの姿を追い求めてしまったからだ。僕はパーのカウンターに座って、本のページを開き、あてのない物思いに耽るようになった。何かに神経を集中することに僕は困難を感じるようになった。  彼女は僕のことを自分にとってのただ一人の友だちだと言った。生まれてこのかたただひとりの友だちだと言ったのだ。僕はそれを聞いてとても嬉しかった。僕らはまたもう一度友だちになれるだろうと思った。僕はいろんなことを彼女に話したかった。そしてそれについての彼女の意見を聞きたかった。もし彼女が自分について何も語りたくないとしても、それはそれでかまわないと思った。島本さんに会えて話ができるだけで、僕は嬉しかった。  でもそれっきり彼女は姿を見せなかった。あるいは島本さんは僕に会いに来る暇もないくらい忙しかったのかもしれない。でも三カ月というのはあまりにも長い空白だった。——もし本当に来ることができなかったのだとしても、電話をかけることくらいはできたはずだ。結局彼女は僕のことを忘れてしまったのだろう、と僕は思った。僕という人間はもう彼女にとってはそれほど大事な存在ではないのだろう。そう思うと僕は辛かった。まるで心の中に小さな穴があいてしまったような気分だった。彼女はあんなことを口にするべきではなかったのだ。ある種の言葉はいつまでも人の心に残るものなのだ。  でも二月の初めの、やはり雨の降る夜に彼女はやってきた。音のない、凍てついた雨だった。その夜僕はたまたま用事があって、早い時間から『ロビンズ・ネスト』に出ていた。客が持ち込んでくる傘が冷やかな雨の匂いを漂わせていた。その夜はピアノ・トリオにテナー・サックスが飛び入りで入って何曲かを演奏した。かなり有名なサックス奏者で、客席は沸いていた。いつものカウンターの隅の席に腰掛けて本を読んでいると、隣の席に島本さんが音もなくやってきて座った。 「今晩は」と彼女は言った。  僕は本を置いて彼女の顔を見た。彼女が本当にそこにいることが僕にはうまく信じられなかった。 「もう君は二度とここに来ないのかと思ってたよ」 「ごめんなさい」と島本さんは言った。 「怒ってる?」 「怒ってなんかいないよ。僕はそんなことで怒ったりなんかしない。ねえ島本さん、ここはお店なんだ。お客はみんな来たいときに来て、帰りたいときに帰っていくんだよ。僕はただ人々が来るのを待っているだけなんだ」 「でもとにかくごめんなさい。うまく説明できないんだけれど、とにかく私にはここに来ることができなかったの」 「忙しかったの?」 「忙しくなんかない」と彼女は静かな声で言った。「忙しかったわけじゃないの。ただここに来ることができなかっただけ」  彼女の髪は雨に濡れていた。湿った前髪が額に幾筋か張りついていた。僕はウェイターに新しいタオルを持ってこさせた。 「ありがとう」と言って彼女はそのタオルを受け取り、髪を拭いた。それから煙草を取り出し、自分のライターで火をつけた。雨に濡れて冷えたせいか指が少し震えていた。「細かい雨だったし、タクシーに乗るつもりでレインコー卜だけで出てきたんだけれど、歩いているうちになんだかずいぶん長く歩いちゃったの」 「何か温かいものでも飲む?」と僕は尋ねた。  島本さんは僕の顔をのぞきこむようににっこりと微笑んだ。「ありがとう。でも大丈夫」  僕はその微笑みを見ると、三カ月間の空白のことなんて一瞬にして忘れてしまった。 「何を読んでいるの?」と彼女は僕の本を指さして言った。  僕は彼女に本を見せた。それは歴史の本だった。ヴェトナム戦争のあとに行われた中国とヴェトナムとの戦争を扱った本だ。彼女はそれをぱらぱらと読んで僕に返した。 「もう小説はあまり読まないの?」 「小説も読むよ。でも昔ほど沢山は読まないし、新しい小説のことはほとんど何も知らない。読んでいるのは古い小説ばかりだよ。ほとんどが十九世紀の小説だね。それも昔読んだものを読み返すことが多いな」 「どうして新しいものを読まないの?」 「たぶん、がっかりするのが嫌だからだろうね。つまらない本を読むと、時間を無駄に費やしてしまったような気がするんだ。そしてすごくがっかりする。昔はそうじゃなかった。時間はいっぱいあったし、つまらないものを読んだなと思っても、そこから何かしらは得るものはあったような気がする。それなりにね。でも今は違う。ただ単に時間を損したと思うだけだよ。年をとったということかもしれない」 「そうね、まあ年をとったというのはたしかね」と彼女は言って、いたずらっぽく笑った。 「君はまだよく本を読んでる?」 「ええ、いつも読んでるわよ。新しいのも古いのも。小説も、小説じゃないのも。つまらないのも、つまらなくないのも。あなたとは逆に、私はきっとただ本を読んで時間をつぶしていくのが好きなのね」  そして彼女はバーテンターに『ロビンズ・ネスト』を注文した。僕も同じものを頼んだ。彼女は運ばれてきたカクテルを一口飲み、軽く頷いてからそれをカウンターの上に置いた。 「ねえハジメくん、どうしてここのお店のカクテルはどれを飲んでも他のお店のよりおいしいのかしら?」 「それなりの努力を払っているからだよ」と僕は言った。「努力なしにものごとが達成されることはない」 「たとえばどんな努力?」 「たとえば彼だよ」と僕は言って、真剣な顔つきでアイスピックで氷を砕いている若いハンサムなバーテンターを示した。「僕はあの子にとても高い給料を払っている。みんながちょっとびっくりするくらいの額の給料だよ。そのことは他の従業員には内緒に」であるけれどね。どうしてあの子にだけそんな高い給料を払っているかというと、彼には美味いカクテルを作る才能があるからだよ。世間の人にはよくわかっていないみたいだけれど、才能なしには美味いカクテルを作ることはできないんだ。もちろん誰でも努力すれば、けっこういいところまではいく。何カ月か見習いとして訓練すれば、客に出して恥ずかしくないくらいのものはちゃんと作れるようになる。たいていの店が出しているカクテルはその程度のものだ。それでももちろん通用する。でもその先にいくには特別な才能が必要なんだ。それはピアノを弾いたり、絵を描いたり、百メートルを走ったりするのと同じことなんだ。僕自身もかなりうまくカクテルを作れると思う。ずいぶん研究もしたし練習もした。でもどう転んでも彼にはかなわない。同じ酒を入れて、同じように同じ時間だけシェーカーを振っても、できたものの味が違うんだ。どうしてかはわからない。それは才能というしかないものなんだよ。芸術と同じなんだよ。そこには一本の線があって、それを越えることのできる人間と、越えることのできない人間とがいる。だから一度才能のある人間をみつけたら、大事にして離さないようにする。高い給料を払う」。その男の子はホモ・セクシュアルで、おかげでゲイの連中がカウンターに集まることもあった。でも彼らは静かな人々だったし、僕はとくに気にもしなかった。僕はその男の子のことが気に入っていたし、彼も僕を信頼して、よく働いてくれた。 「あなたにはひょっとして見かけより経営の才能があるのかしら?」と島本さんは言った。 「経営の才能なんて僕にはないな」と僕は言った。「僕は実業家なんかじゃない。小さな店を二軒持っているだけだよ。それにこれ以上店の数を増やすつもりはないし、これ以上大きく儲けようというようなつもりもない。そんなのは才能とも手腕とも呼べない。でもね、僕は暇があればいつも想像するんだ。もし自分が客だったらってね。もし自分が客だったら、誰とどんな店に行って、どんなものを飲んだり食べたりしたいと思うだろう。もし僕が二十代の独身の男で、好きな女の子を連れていくんだったら、どういう店に行くだろう。そういう状況をひとつひとつ細かいところまで想像していくんだ。予算はどれくらいなのか。どこに住んでいて、何時頃までに帰らなくてはならないのか。そういう具体的なケースをいくつもいくつも考える。そういう考えをかさねていくうちに、店のイメージがだんだん明確なかたちをとっていくんだ」  島本さんはその夜はライト・ブルーのタートルネックのセーターに、紺色のスカートをはいていた。耳には小さなイヤリングかふたつ光っていた。ぴったりとした薄いセーターは乳房のかたちを綺麗に浮かび上がらせていた。そしてそれは僕の胸を息苦しくさせた。 「もっと話してくれる?」と島本さんは言った。そしてまたいつもの楽しげな微笑みを顔に浮かべた。 「何について?」 「あなたの経営方針について」と彼女は言った。「そういう風にあなたが話しているのを聞くのって素敵だわ」  僕は少し赤くなった。人前で赤くなったりしたのは本当に久しぶりだった。「それは経営方針というほどのものじゃないんだ。ただね島本さん、僕は思うんだけど、そういう作業には、僕は昔から慣れているんだよ。一人で頭の中でいろんなことを考える。想像力を働かせる。それは小さい頃から僕がずっとやってきたことなんだよ。ひとつの架空の場所を作って、それをひとつひとつ丁寧に肉づけしていく。ここはこうすればいい、あれはこっちに変えた方がいいってね。シミュレーションのようなものだね。前にも言ったように、僕は大学を出てからずっと教科書を出版する会社に勤めていた。そこでの仕事というのは本当につまらないものだった。何故なら僕はそこでは想像力というものを働かせることができなかったからだよ。そこではむしろ想像力を殺すことが仕事だったんだ。だから僕は仕事が退屈でしかたなかった。会社に行くのが嫌でしかたなかった。本当に息が詰まりそうだった。そこにいると僕は自分がだんだん小さく縮んでいって、そのうちに消えてなくなってしまうんじゃないかという気がした」  僕はカクテルを一口飲み、ゆっくりと客席を見渡した。雨の降っているわりには席はよく埋まっていた。遊びにきたテナー奏者がテナーをケースに仕舞いこんでいた。僕はウェイターを呼んで、彼のところにウィスキーのボトルを一本持っていって、何か食べるものはいらないかと訊くように言った。 「でもここではそうじゃない。ここでは想像力を働かせないことには、生き残っていけないんだ。そして僕は頭の中で思いついたことをすぐに実行に移すことができる。ここには会議もないし、上役もいない。前例もないし、文部省の意向もない。それは本当に素敵なことなんだよ、島本さん。君は会社に勤めたことはある?」  彼女は微笑みをうかべたまま首を振った。 「ないわ」 「それはよかった。会社というところは僕には向いていない。きっと君にも向いていない。八年間その会社で働いたおかげで僕にはそれがよくわかるんだ。僕はそこで八年間、人生をほとんど無駄に費やした。二十代のいちばんいい歳月だよ。よく八年も我慢できたと思う。でもその年月がなかったら、たぶん店もこんな風にはうまくいかなかっただろうね。そう思うんだ。僕は今の仕事が好きだよ。僕は今二軒の店を持っている。でもそれはときどき、僕が自分の頭の中に作りだした架空の場所にすぎないように思えることかある。それはつまり空中庭園みたいなものなんだ。僕はそこに花を植えたり、噴水を作ったりしている。とても精妙に、とてもリアルにそれを作っている。そこに人々がやってきて、酒を飲んで、音楽を聴いて、話をして、そして帰っていく。どうして毎晩毎晩多くの人が高い金を払ってわざわざここに酒を飲みに来ると思う? それは誰もがみんな、多かれ少なかれ架空の場所を求めているからなんだよ。精妙に作られて空中に浮かんだように見える人工庭園を見るために、その風景の中に自分も入り込むために、彼らはここにやってくるんだよ」  島本さんは小さなパースの中からセイラムを出した。彼女がライターを手に取る前に、僕はマッチを擦って、それに火をつけた。僕は彼女の煙草に火をつけるのが好きだった。彼女が目を細め、そこに炎の影が揺れるのをみるのが好きだったのだ。 「正直に告白すると、私は生まれてこのかた一度も働いたことがないのよ」と彼女は言った。 「一度も?」 「ただの一度も。アルバイトしたこともないし、就職もしなかった。労働と名のつくものを経験したことがないの。だから私は今あなたが話したようなことを聞いていると、とてもうらやましいのよ。私はそういったものの考え方をしたことが一度もないの。私はいつもずっと一人で本を読んでいただけ。そして私が考えるのは、どちらかといえばお金を使うことだけ」、そう言って彼女は両腕を僕の前にさしだした。彼女の右手には細い金のブレスレットが二本、左手にはいかにも高価そうな金の時計がはめられていた。彼女はその両手をいつまでも商品見本みたいに僕の前に差し出していた。僕は彼女の右手を取って、その手首のブレスレットをしばらく眺めていた。そして僕は十二歳のときに彼女に手を握られたことを思い出した。僕はそのときの感触を今でもまだありありと覚えていた。それがどれほど僕の心を震わせたかも覚えていた。 「お金の使い方だけを考えている方が、あるいはまともなのかもしれないよ」と僕は言った。 そして彼女の手を放した。手を放してしまうと、なんだか自分がそのままどこかに飛んで行ってしまいそうな錯覚に襲われた。「お金の儲け方を考えているとね、いろんなものがだんだん磨耗していくんだ。少しずつ、知らないうちにすり減っていくんだ」 「でもあなたにはわかってないのよ。何も生み出さないというのが、どんなに空しいものかということが」 「僕はそうは思わないね。君はいろんなものを生み出しているような気がするな」 「たとえばどんなものを?」 「たとえばかたちにならないものを」と僕は言った。僕は膝の上に置いた自分の両手に目をやった。  島本さんはグラスを手に持ったまま長いあいだ僕を見ていた。「それは気持ちのようなもののこと?」 「そうだよ」と僕は言った。「なんだっていつかは消えてしまう。こんな店だっていつまで続いているかはわからない。人々の嗜好が少し変化し、経済の流れが少し変れば、今ここにある状況なんてあっという間に消えてしまう。僕はそんな実例を幾つも見てきた。本当に簡単なものだよ。かたちがあるものは、みんないつかは消えてしまう。でもある種の思いというものはいつまでもあとに残る」 「でもねハジメくん、残るだけ辛い思いというのもあるのよ。そうは思わない?」  テナー奏者がやってきて、僕に酒の礼を言った。僕は演奏の礼を言った。 「最近のジャズ・ミュージシャンはみんな礼儀正しくなったんだ」と僕は島本さんに説明した。「僕か学生の頃はこんなじゃなかった。ジャズ・ミュージシャンといえば、みんなクスリをやっていて、半分くらいが性格破綻者だった。でもときどきひっくりかえるくらい凄い演奏が聴けた。僕はいつも新宿のジャズ・クラブに通ってジャズを聴いていた。そのひっくりかえるような経験を求めてだよ」 「そういう人たちが好きなのね、ハジメくんは」 「たぶんね」と僕は言った。「まずまずの素晴らしいものを求めて何かにのめり込む人間はいない。九の外れがあっても、一の至高体験を求めて人間は何かに向かっていくんだ。そしてそれが世界を動かしていくんだ。それが芸術というものじゃないかと僕は思う」  僕は膝の上にある自分の両手をまたじっと眺めた。それから顔をあげて島本さんを見た。彼女は僕の話の続きを待っていた。 「でも今は少し違う。今では僕は経営者だからね。僕がやっているのは資本を投下して回収することだよ。僕は芸術家でもないし、何かを創り出しているわけでもない。そして僕はここでべつに芸術を支援しているわけではないんだ。好むと好まざるとにかかわらず、この場所ではそういうものは求められてはいないんだ。経営する方にとっては礼儀正しくてこぎれいな連中の方がずっと扱いやすい。それもそれでまた仕方ないだろう。世界じゅうがチャーリー・パーカーで満ちていなくてはならないというわけじゃないんだ」  彼女はカクテルのお代わりを注文した。そして新しい煙草を吸った。長い沈黙があった。島本さんはそのあいだじっと何かを二人で考えているようだった。僕はベーシストが『エンブレサブル・ユー』の長いソロを続けているのに耳を澄ましていた。ピアニストが時折コードを小さく叩き、ドラマーは汗を拭いて、酒を一口飲んでいた。常連のひとりが僕のところにやってきて、短い世間話をした。 「ねえ、ハ、ジメくん」とずいぶんあとで島本さんは言った。「あなたどこか川を知らない? 綺麗な谷川みたいな川で、そんなに大きくなくて、川原があって、あまり淀んだりせずに、すぐに海に流れ込む川。流れは早い方がいいんだけれど」  僕はちょっと驚いて島本さんの顔を見た。「川?」と僕は言った。彼女がいったい何を言おうとしているのか、僕にはよくわからなかった。島本さんの顔には表情らしいものは何も浮かんではいなかった。彼女の顔は僕に向けて何も語ろうとはしていなかった。彼女はずっと遠くにある風景を見るように僕を静かに見ていた。あるいは実際に、僕は彼女からずっと遠く離れたところに存在しているのかもしれないという気がした。彼女と僕とのあいだは、想像もつかないほどの距離によって隔てられているのかもしれない。そう思うと僕はある種の哀しみを感じないわけにはいかなかった。彼女の目には、そういう哀しみを感じさせる何かがあった。 「どうして急に川が出てくるの?」と僕は訊いてみた。 「ただふと思いついて訊いてみただけ」と島本さんは言った。「そういう川を知らない?」  僕は学生時代に、ひとりで寝袋をかついで旅行をして回っていた。だから日本じゅうでいろんな川を見てきた。でも彼女の注文どおりの川はなかなか思い出せなかった。 「日本海にひとつ、そういうのがあったような気がするな」としばらく考えたあとで僕は言った。「川の名前は覚えてない。でもたしかあれは石川県だったと思う。行けばわかるけどね。たぶんその川か君の注文にいちばん近いんじゃないかと思う」  僕はその川のことをよく覚えていた。僕がそこに行ったのは大学の二年生か三年生の秋の休みのときだった。紅葉が美しく、まわりの山々はまるで血で染められたみたいに見えた。山が海に迫っていて、川の流れは美しく、ときどき林の中から鹿の声も聞こえた。僕はそこで美味い川魚を食べたことを覚えていた。 「私をそこに連れていくことはできる?」と島本さんは言った。 「石川県だよ」と僕は乾いた声で言った。「江ノ島に行くのとはわけが違う。飛行機に乗っていって、そこから車でまた一時間以上かかるんだよ。行けば泊まりがけになるし、君にもわかっていると思うけれど、それは今の僕にはできない」  島本さんはスツールの上でゆっくりと体の向きを変え、僕を正面から見た。 「ねえ、ハジメくん。こんなことをあなたにお願いするのが間違っているということは、私にはよくわかっているのよ。それがあなたにとって大きな負担になるだろうということもよくわかっている。でも私にはあなたしか頼める人がいないの。私はどうしてもそこに行かなくてはいけないし、一人では行きたくないの。そしてあなたの他には、私は誰にもそれを頼むことができないのよ」  僕は島本さんの目を見た。彼女の目はどんな風も届かない静かな岩陰にある深い湧水のたまりのように見えた。そこでは何も動かず、すべてかぴたりと静まっていた。じっと覗き込んでいると、その水面に映っているものの像が見わけられそうな気がした。 「ごめんなさい」と彼女はふっと体の力を抜くように笑った。「私はそんなことをあなたにお願いするためにここに来たわけじゃなかったの。私はただあなたに会ってお話をしたかっただけなの。こんな話を持ち出すつもりはなかったのよ」  僕は頭の中でざっと時間を計算してみた。「朝早く出て飛行機で往復すれば、たぶん夜の早いうちに帰ってくることができるだろうと思う。向こうでどれくらい時間を取るかによるけれど」 「向こうではそんなに時間はかからないと思う」と彼女は言った。「ハジメくんは本当にその時間を作ることができるの? 私と一緒に飛行機でそこに行って帰ってくるだけの時間か」 「たぶんね」と僕は少し考えてから言った。「僕にはまだ何とも言えない。でもたぶん作ることはできると思う。明日の夜にでもここに連絡してくれないか。この時間には僕はここにいるよ。そしてそのときまでに予定を決めておく。君の予定は?」 「私はいつでもいいのよ。予定なんか何もない。私の方はあなたの都合のいいときにいつでも行けるから」  僕は頷いた。 「いろいろとごめんなさい」と彼女は言った。「私は本当はあなたに会わなかった方がよかったのかもしれない。私はいろんなものを結局だいなしにしているだけなのかもしれない」  十一時前に彼女は帰っていった。僕は傘をさして彼女のためにタクシーを停めた。雨はまだ降り続いていた。 「さようなら。いろいろとありがとう」と島本さんは言った。 「さようなら」と僕は言った。  それから僕は店に戻り、カウンターの同じ席に戻った。そこにはまだ彼女の飲んでいたカクテル・グラスが残っていた。灰皿には彼女の吸ったセイラムの吸殻が何本か入っていた。僕はウェイターにそれを下げるようにとは言わなかった。僕はそのグラスと吸殻に残った淡い色合いの口紅をいつまでも眺めていた。  家に帰ったとき妻はまだ起きて僕を待っていた。彼女はパジャマの上にカーディガンを羽織って、ヴィデオで『アラビアのロレンス』を見ていた。ロレンスが幾多の困難を乗り越えた末に砂漠を横断して、スエズ運河にようやくたどり着くシーンだった。彼女はその映画を、僕の知っているだけでも既に三回は見ていた。何度見ても面白い、と彼女は言った。僕は彼女のとなりに座って、ワインを飲みながら一緒にその映画を見た。  今度の日曜日にスイミング・クラブの集まりがあるんだ、と僕は彼女に言った。クラブの中にけっこう大きなヨットを持っている人間が一人いて、僕らはこれまでにもときどきそれに乗って沖に出て遊ぶことがあった。そこで酒を飲んだり、釣りをしたりするのだ。二月はヨット遊びをするにはいささか寒すぎたけれど、妻はヨットについてはほとんど何も知らなかったから、とくにそのことには疑問も持たなかった。僕が日曜日に一人で出かけるのは珍しいことだったし、たまには誰か他の世界の人間と会って、外の空気を吸ってきた方がいいと彼女は思っているようだった。 「朝は早く出ていくよ。たぶん八時前には帰れると思う。夕食は家で食べるよ」と僕は言った。 「いいわよ。日曜日はちょうど妹が遊びに来ることになってるの」と彼女は言った。 「だからもし寒くなければみんなでお弁当を持って新宿御苑にでも遊びに行ってくるわ。女ばかり四人で」 「それもなかなか悪くないね」と僕は言った。  翌日の午後、僕は旅行代理店に行って日曜日の飛行機の座席とレンタカーの予約をした。夕方の六時半に東京に戻ってくる便があった。それならなんとか夕食に間にあいそうだった。そ れから僕は店に行って彼女からの連絡を待った。電話は十時にかかってきた。「なんとか時間は取れると思う。少し忙しいことは忙しいけれどね。今度の日曜日でいいかな?」と僕は言った。  それでかまわないと彼女は言った。  僕は飛行機の出発時刻と、羽田空港での待ち合わせの場所を教えた。 「本当にいろいろとごめんなさい」と島本さんは言った。  僕は電話を切ってからカウンターに座ってしばらく本を読んだ。でも店の喧騒が気になってどうしても本に気持ちが集中できなかった。僕は洗面所に行って冷たい水で顔と手を洗い、鏡に映った自分の顔をじっと眺めてみた。俺は有紀子に嘘をついているんだ、と僕は思った。僕はこれまでに何度か彼女に嘘をついた。他の女と寝たときにも、ちょっとした嘘をついた。でも僕はそのとき自分が有紀子を騙しているという風には思わなかった。それらはただの害のない気晴らしだった。でも今回は駄目だ、と僕は思った。僕は島本さんと寝るつもりはない。でもそれでも駄目なのだ。僕は鏡に映った自分の目を久しぶりにじっと覗き込んでみた。でもその目は僕という人間の像を何も映し出してはいなかった。僕は洗面台に両手をついて深いため息をついた。 [#改ページ]     10  その流れはすばやく岩のあいだを抜け、ところどころに小さな滝を作り、あるいはまたたまりの中に静かに身を休めていた。たまりの水面には鈍い太陽の光が弱々しく反射していた。下流に目をやると、そこには古い鉄橋が見えた。鉄橋とは言っても、車が一台通るのがやっとという小さな狭い橋だ。その黒々とした無表情な鉄骨は、二月の凍てついた沈黙の中に重く沈みこんでいた。温泉に行く客と旅館の従業員と、森林を管理する係員だけがその橋を使う。僕らがそこを渡ったとき、誰ともすれ違わなかったし、そのあとも、何度うしろを振り返っても、鉄橋を渡る人の姿を見ることはなかった。僕らは旅館に寄って簡単な昼食を済ませたあとその橋を渡り、川に沿って歩いた。島本さんは分厚いピーコートの襟をまっすぐに立て、マフラーを鼻のすぐ下あたりまでぐるぐると巻いていた。彼女はいつもとは違って、山の中を歩くためのカジュアルな恰好をしていた。髪を後ろで束ね、靴もしっかりとしたワークブーツを履いていた。そして緑色のナイロンのショルダー・バッグを肩からたすきにかけていた。そういう恰好をすると彼女はまるで高校生のように見えた。川原のあちこちには真っ白な雪が固くこわばって残っていた。鉄橋のてっぺんには二羽のからすがじっと腰を据えて川を見下ろし、ときおり何かを非難するみたいに、硬く鋭い声で噴いた。その声は葉を落とした林の中に冷え冷えと反響し、川面を渡り、僕らの耳を刺した。  川に沿って、狭い未舗装の道が長く続いていた。どこまで続いているのか、どこに通じているのかはわからないけれど、それはひどくひっそりとして人けのない道だった。あたりに人家らしきものの姿はなく、ところどころに丸裸になった畑が目につくだけだった。畑の畝には雪が溜まって、何本ものくっきりとした白い筋を描いていた。からすはいたるところにいた。からすたちは、僕らが道をやってくるのを見ると、まるで他の仲間にむかって信号でも発するみたいに短く何度か噂いた。近づいていってもからすたちはなかなか逃げようとはしなかった。僕は彼らの凶器のようなするどい嘴と、生々しい色あいの足をすぐ間近に見ることができた。 「まだ時間はある?」と島本さんが尋ねた。「もう少しこのまま歩いていていいかしら?」  僕は腕時計に目をやった。「大丈夫、まだ時間はあるよ。あと一時間くらいはここにいられると思う」 「とても静かなところね」、彼女はあたりをゆっくりと見回してそう言った。彼女が口を開くと、硬くて白い息がぽっかりと空中に浮かんだ。 「こんな川でよかったのかな?」  彼女は僕の顔を見て微笑んだ。「あなたには私の求めているものが隅から隅までぴったりとわかっているみたいに見えるわ」 「色から形からサイズまで」と僕は言った。「僕は昔から川に関してはすごく趣味がいいんだ」  彼女は笑った。そして手袋をはめた手でやはり手袋をはめた僕の手を握った。 「でもまあよかった。ここまで来てこの川じゃ困ると言われても、どうしょうもないからね」と僕は言った。 「大丈夫よ。もっと自分に自信を持ちなさいよ。あなたはそんなにひどい間違いはしないから」と島本さんは言った。 「でも、こうして二人で並んで歩いていると、なんだか昔みたいだと思わない。よく一緒に学校から家まで歩いて帰った」 「君は昔ほど脚が悪くないよ」  島本さんはにっこりと笑って僕の顔を見た。「あなたがそう言うと、なんだか私の脚が治ったことを残念がっているみたいに聞こえるけれど」 「そうかもしれないね」と言って僕も笑った。 「本当にそう思うの?」 「冗談だよ。君の脚が良くなって本当に良かったと思ってる。ただなんとなく懐かしく思いだしていたんだよ。君の脚が悪かった頃のことを」 「ねえバジメくん」と彼女は言った。「あなたにはこのことでものすごく感謝してるの。それはわかってね」 「たいしたことじゃないよ」と僕は言った。「ただ飛行機に乗ってピクニックに来ただけだ」  島本さんはしばらくじっと前を向いて歩いていた。「でもあなたは奥さんに嘘をついて出てきたんでしょう?」 「まあね」と僕は言った。 「そしてそれはあなたにとってはけっこうきついことだったんでしょうやあなたは奥さんに嘘をつきたくなんかなかったんでしょう」  僕はどう答えていいのかわからないので黙っていた。近くの林の中でまたからすが鋭い囁き声を上げた。 「私はきっとあなたの生活を乱しているのね。それは私にもよくわかっているのよ」と島本さんは小さな声で言った。 「ねえ、もうその話はやめよう」と僕は言った。「せっかくここまで来たんだから、もっと明るい話をしよう」 「たとえばどんな話?」 「そういう恰好をしていると君は高校生みたいに見える」 「ありがとう」と彼女は言った。「本当に高校生だと嬉しいんだけれど」  僕らは上流に向けてゆっくりと道を歩いていった。僕らはそれからしばらくのあいだ何も喋らずに、ただ歩くことに神経を集中していた。彼女はまだそれほど速くは歩けないようだったが、ゆっくり歩いているぶんには不自由はなさそうだった。でも島本さんは僕の手をしっかりと握っていた。道は硬く凍りついていたので、僕らの履いたゴム底の靴はほとんど音らしい音を立てなかった。  たしかに島本さんの言うように十代の頃に、あるいは二十代の頃に、二人でこんな風に歩けたらどんなに素敵だったろうなと僕は思った。日曜日の午後に二人で手を握りあって、川筋に沿った誰もいない道をどこまでもどこまでも歩いて行けたなら、僕はどれほど幸せな気持ちになれたことだろう。でも僕らはもう高校生ではなかった。僕には妻と子供がいて、仕事があった。そしてここに来るためには妻に嘘をつかなくてはならなかった。僕はこれから車に乗って空港まで帰り、夕方の六時半に東京に着く飛行機に乗り、妻の待っている家に急いで帰らなくてはならない。  やがて島本さんは立ち止まり、手袋をはめた手をこすりあわせながらゆっくりとあたりを見回した。彼女は上流を見て、下流を見た。対岸には山並みが連なり、左手にはすっかり葉を落とした雑木林が続いていた。人の姿はどこにも見えなかった。僕らが休んだ温泉旅館の姿も、鉄橋の姿も、今ではもう山かげに隠れてしまっていた。思い出したようにときおり、雲の切れ目から太陽が顔を見せた。からすの声と、川の水音の他には何も聞こえなかった。僕はそんな風景を眺めながら、きっといつかこの光景を、どこかで目にすることになるんだろうなとふと思った。それはいわば既視感の逆だった。いつか自分はこれと同じ風景を見たと思うのではなくて、いつか自分はこれと同じ光景にどこかでめぐり会うだろうという予感があるのだ。その予感は長い手を伸ばして、しっかりと僕の意識の根元を握っていた。僕はそのグリップを感じることができた。そしてその手の先の方にあるのは僕自身だった。将来に存在しているはずの、いくつも歳を取った僕自身だった。でももちろん、僕にはその自分自身の姿を見ることはできなかった。 「このあたりがいいわ」と彼女は言った。 「何をするのに?」と僕は聞いた。  島本さんはいつものかすかな微笑みを浮かべて僕を見た。「私がやろうとしていることをするのによ」と彼女は言った。  それから僕らは土手を川のへりにまで下りた。小さなたまりがあり、その表面には薄い氷がはっていた。たまりの底には何枚かの落ち葉が、死んだうすっぺらな魚のように、静かに横たわっていた。僕は川原に落ちていた丸い石をひとつ手に取って、それを手のひらの中でしばらく転がしていた。島本さんは両手の手袋を取ってそれをコートのポケットにしまった。それからショルダー・バッグのファスナーを開けて、ぶ厚い上等な布でできた袋のようなものを取り出した。その袋の中には小さな壺が入っていた。彼女はその壺の紐をほどき、そっと蓋を開けた。そしてしばらくのあいだ中をじっとのぞきこんでいた。  僕は何も言わずにじっとそれを見ていた。  中には白い灰が入っていた。島本さんはその壺の中の灰をゆっくりと、外にこぼさないように注意深く、左の手のひらの上に落とした。それは結局、彼女の手のひらにすっかり入ってしまうくらいの量しかなかった。何かを、誰かを焼いた灰だろうと僕は思った。風のない静かな午後だったので、その白い灰はいつまでも彼女の手の中にあった。それから島本さんは空っぽになった壺をバッグの中に戻し、人差し指の先にその灰を少しつけ、指を口もとにはこんでそっと嘗めた。そして僕の顔を見て、微笑もうとした。でも彼女はうまく微笑むことができなかった。彼女の指はまだその唇の上にあった。  彼女が川辺にしゃがんでその灰を水に流しているあいだ、僕は隣に立ってそれを見守っていた。彼女の手の中にあった少しばかりの灰は、あっというまに川の流れに運び去られてしまった。僕と島本さんは川原に立って、その水の行方をじっと眺めていた。彼女はしばらくじっと手のひらを眺めていたが、やがてそこについていた灰を水の上で払い、手袋をはめた。 「本当に海まで流れると思う?」と島本さんが訊いた。 「たぶんね」と僕は言った。でも僕にはその灰が海までちゃんと流れつくという確信はなかった。海に出るまでにはまだかなりの距離がある。それはどこかのたまりに沈澱し、そのままそこに留まることになるかもしれなかった。でももちろん、そのうちのいくらかはちゃんと海に辿り着くだろう。  彼女はそれから、そのへんに落ちていた板きれを使って地面の柔らかそうなところを掘りはじめた。僕もそれを手伝った。小さな穴ができると、島本さんはその布袋に入った壺を埋めた。どこかでからすの囁く声が聞こえた。おそらく彼らは僕らのしていることを最初から最後までじっと見ているんだろう。かまわない、見たければ見ればいいんだと僕は思った。何も悪いことをしているわけじゃない。僕らは何かを焼いた灰を川に流しているだけなんだ。 「雨になるかしら?」と島本さんは靴の先で地面をならしながら言った。  僕は空を見上げた。「まだしばらくはもつだろう」と僕は言った。 「ちがうのよ。私が言ってるのは、あの子の灰が海に流れついて、それが水に混じって蒸発して、それが雲になって、そして雨になって地上に降るのかしらということ」  僕はもう一度空を見上げた。そして川の流れに目をやった。 「あるいはそうなるかもしれないね」と僕は言った。  僕らはレンタカーで空港に向った。天候が急速に変わりはじめていた。頭上はどんよりとした雲に覆われて、さっきまでところどころに見えていた空はもうまったく見えなくなってしまっていた。今にも雪が降り出しそうな天気だった。 「あれは私の赤ん坊の灰なのよ。私が生んだ、ただ一人の赤ん坊の灰」と島本さんは独り言を言うように言った。  僕は彼女の顔を見て、それからまた前を見た。トラックが雪解けの泥水を跳ね返すせいで、ときどきワイパーを動かさなくてはならなかった。 「生まれてすぐに、次の日には死んでしまったの」と彼女は言った。「たった一日だけしか生きていなかったのよ。二度か三度抱いただけ。とても綺麗な赤ん坊だった。やわらかくて……。原因はよくわからなかったんだけれど、うまく呼吸ができなかったの。死んだときにはもう色が変わってしまっていた」  僕には何を言うこともできなかった。僕は左手をのばして、彼女の手の上に置いた。 「女の子だったのよ。名前はまだなかったわ」 「亡くなったのはいつのことだったの?」 「去年のちょうど今ごろ」と島本さんは言った。 「二月」 「かわいそうに」と僕は言った。 「どこにも埋めたくなかったの。暗いところになんかやりたくなかったの。しばらく私の手元に置いてから、川から海に流して、雨にしてしまいたかったの」  そして島本さんは黙り込んだ。そのままずっと長いあいだ黙り込んでいた。僕も何も言わずに運転を続けた。きっと何も喋りたくないのだろうと僕は思った。僕は彼女をそのままそっとしておいてやりたかった。しかしそのうちに島本さんの様子が少しおかしいことに僕は気がついた。彼女は奇妙な音を立てて息をしているのだ。それはどちらかと言えば機械音に似た音だった。最初のうち僕は何か車のエンジンに悪いところがあるのかと思ったほどだった。でもその音は間違いなく僕の隣のシートから聞こえてきていた。それは嗚咽でもなかった。まるで彼女の気管支に穴が開いて、息をするたびにそこから空気が漏れているような音だった。  僕は信号を待っているときに彼女の横顔を見た。島本さんの顔は紙のように真っ白になっていた。そして顔ぜんたいが、何かを塗られたみたいに不自然にこわばっていた。彼女はヘッドレストに頭をもたせかけて、じっと前を睨んでいた。身動きひとつせず、ときどき半ば義務的に小さく瞬きをするだけだった。僕はそのまましばらく車を走らせてから、目についた適当な場所に入ってとめた。そこは閉鎖されたボウリング場の駐車場だった。がらんとした飛行機の格納庫のような建物の屋根には巨大なボウリングのピンの看板が立っていた。まるで世界の果てまで来てしまったような荒涼とした情景だった。広大な駐車場には僕らの車しかとまっていなかった。 「島本さん」と僕は声をかけた。「ねえ、島本さん。大丈夫?」  彼女はそれには答えなかった。シートにもたれていつまでもその奇妙な音を立てて呼吸をつづけているだけだった。僕は彼女の頬に手をつけてみた。頬はまるでまわりの光景に染まってしまったように冷たく、血の気がなかった。額にもやはり熱がなかった。僕は息が詰まりそうになった。ひょっとして彼女はこのままここで死んでしまうんじゃないかと思った。彼女の目には表情というものがまったく浮かんでいなかったのだ。僕はその瞳の中をじっと覗き込んでみた。でもそこにはまったく何も見えなかった。瞳の奥は死そのもののように暗く冷たかった。 「島本さん」と僕はもう一度大きな声で呼んでみた。でも反応はなかった。ほんの微かな反応さえなかった。その目はどこも見ていなかった。意識があるのかどうかもわからない。救急病院に連れていった方がよさそうだと僕は思った。病院なんかに行っていたらたぶん間違いなく飛行機には乗り遅れるだろう。でもそんなことを考えている場合ではないのだ。島本さんはこのまま死んでしまうかもしれない。何があろうが彼女を死なせるわけにはいかなかった。  でも車のエンジンをかけたところで、島本さんが何か言おうとしていることに僕は気づいた。僕はエンジンを停め、彼女のくちもとに耳を寄せてみたが、それでも彼女の言っていることはよく聞き取れなかった。それは言葉というよりはすきま風のようにしか聞こえなかった。彼女は力を振りしぼるようにその言葉を何度も繰り返した。僕は意識を集中してそこに何かの言葉を聞き取ろうとした。彼女はどうやら「くすり」と言っているようだった。 「薬を飲みたいの?」と僕は訊いた。  島本さんは小さく頷いた。見えるか見えないかというくらいの微かな頷きだった。それが彼女に出来る最大の動作であるようだった。僕は彼女のコートのポケットを探した。そこには財布やハンカチやキイホールダーについた幾つかの鍵が入っていた。でも薬はなかった。それから僕はショルダー・バッグを開けてみた。バッグの内ポケットに薬の紙袋かあり、その中に小さなカプセルが四錠入っていた。僕はそのカプセルを彼女に見せた。 「これでいいの?」  彼女は目を動かさずに頷いた。  僕は車の背もたれを後ろに倒して彼女の口を開き、そこにカプセルをひとつ押し込んだ。でも彼女の口の中はからからに乾いていて、とてもそれを喉の奥に押しやることはできなかった。僕は飲み物の自動販売機のようなものかどこかにないかとあたりを見回してみた。でもそんなものは見当たらなかったし、これからどこかに探しに行くような時間的な余裕もなかった。近くにある水気のものといえば雪だけだった。雪ならありがたいことにそのへんにいくらでもあった。僕は車を下りて、軒下に固まっている雪の汚れてなさそうな部分を、島本さんのかぶっていた毛糸の帽子の中に入れて持ってきた。そしてそれを少しずつ自分の口に含んで溶かした。溶かすのに時間がかかったし、そのうちに舌先の感覚がなくなってきたが、そうする以外に何の方法も思いつけなかった。それから僕は島本さんの口を開け、水を口移しに移した。移し終わると彼女の鼻をつまみ、その水を無理に呑み込ませた。彼女はむせながらも、それを何とか呑み込んでいった。何度かそれをやっているうちに、彼女はようやくそのカプセルを喉の奥に流しこめたようだった。  僕はその薬の袋を見てみた。でもそこには何も書かれていなかった。薬の名前も、彼女の名前も、服用の指示も、なにひとつ書かれていなかった。奇妙なものだな、と僕は思った。薬の袋には普通は何かそれなりの情報が書きしるしてあるものなのだ。間違えて服用しないように、あるいは他人か服用させるときに事情がわかるように。でもとにかく僕はその袋をバッグの内ポケットに戻し、そのまましばらく彼女の様子を見ていた。何の薬かはわからないし、何の症状かもわからないけれど、このようにしていつも薬を持ち歩いているからには、それなりの効果はあるのだろう。少なくともこれは突発的な事態ではなく、ある程度予期された症状なのだ。  十分ほどで、彼女の頻にようやく少しずつ赤みがさしてきた。僕はそこにそっと自分の頬をつけてみた。ほんの少しではあるけれど、そこにはもとの温かみが戻ってきたようだった。僕はほっと息をついてシートに体をもたせかけた。彼女はなんとか死なないですんだのだ。僕は彼女の肩を抱いて、ときどきその頬に僕の頬をつけた。そして彼女がゆっくりとこちらの世界に戻ってくるのをたしかめていた。 「ハジメくん」とやがて小さな乾いた声で島本さんは言った。 「ねえ、病院に行かなくて大丈夫やその方がいいんなら救急病院はみつけられるけれど」と僕は訊いた。 「行かなくていい」と島本さんは言った。「もう大丈夫。薬を飲めばそれで治るの。もう少しすれば普通になるから、気にしなくていい。それよりも時間はまだ大丈夫や早く空港に行かないと飛行機に遅れるわよ」 「大丈夫だよ。時間のことは心配しなくてもいい。落ちつくまでもう少しここにじっとしていればいいよ」と僕は言った。  僕はハンカチで彼女の口もとをぬぐった。島本さんはその僕のハンカチを手に取って、しばらくそれをじっと見ていた。「あなたは誰にでもこんなに親切なの?」 「誰にでもじゃない」と僕は言った。「君だからだよ。誰にでも親切にするわけじゃない。誰にでも親切にするには僕の人生は限られすぎている。君ひとりに対して親切にするにも、僕の人生は限られているんだ。もし限られていなかったら、僕はもっといろんなことを君にしてあげられると思う。でもそうじゃない」  島本さんは顔をこちらに向けて僕をじっと見た。 「ハジメくん、私はあなたを飛行機の時間に遅らせるためにわざとこんなことをしたわけじゃないのよ」と島本さんは小さな声で言った。  僕はびっくりして彼女の顔を見た。「もちろんだよ。そんなことは言わなくてもわかっているよ。君は具合が悪かったんだ。それは仕方ないじゃないか」 「ごめんなさい」と島本さんは言った。 「あやまることはないよ。君が悪いわけじゃないんだもの」 「でも私はあなたの足を引っ張っているわ」  僕は彼女の髪を撫で、身をかがめてその頻にそっと口づけした。できることなら僕は彼女の全身をしっかりと抱きしめ、その体温を僕の肌で確かめたかった。しかし僕にはそうすることができなかった。僕は彼女の頬に唇をつけただけだった。彼女の頬は温かく、柔らかく湿っていた。「君は何も心配しなくていいよ。最後には何もかもちゃんとうまくいくから」と僕は言った。  僕らが空港に着いてレンタカーを返したときには、飛行機の搭乗時間はもうとっくに過ぎてしまっていたが、ありがたいことに飛行機の離陸が遅れていた。東京行きの便はまだ滑走路にいて、乗客を乗せていなかった。僕らはそれを知ってほっと安堵の息をついた。でもそのかわり、今度は一時間以上搭乗を待たされることになった。エンジンの整備の関係だとカウンターの係員は言った。それ以上の情報を彼らも与えられてはいなかった。いつ整備が終わるかはわかりません。私たちも何も知らないんです。空港に着いた頃にちらちらと降り始めていた雪は、今では激しく降りしきっていた。このまま飛行機が飛ばないという可能性だってじゅうぶんありそうだった。 「もし今日のうちに東京に帰れなくなったら、ハジメくんはどうするの?」と彼女が僕に言った。 「心配しなくてもいいよ。飛行機はちゃんと飛ぶよ」と僕は言った。しかし飛行機が飛びたつという確証はもちろん何もなかった。もし仮にそんなことになったらと考えると、僕は気が重くなった。そうなると僕は何かうまい言い訳を考えださなくてはならない。何故僕が石川県なんかに来ているのかについて。でもそれはまあそのときのことだ、と僕は思った。そうなったらまたそのときにゆっくりと考えればいい。今とりあえず僕が考えなくてはならないのは、島本さんのことだ。 「君の方はどうなの? もし今日じゅうに東京に戻れないようなことがあったら」と僕は島本さんに尋ねてみた。  彼女は首を振った。「私のことは気にしなくていいのよ」と彼女は言った。「私はなんとでもなるの。問題はあなたの方だと思う。あなたの方はとても困るんでしょう」 「多少はね。でもそんなこと君は気にしなくていい。飛ばないと決まったわけじゃないんだから」 「こんなことが起こるだろうというのはわかっていたのよしと島本さんは自分に言い聞かせるように静かな声で言った。「私がいると、そのまわりでは決まってろくでもないことばかり起こるの。いつものことなの。私が関わるだけで、何もかも駄目になっていくの。それまでは何の問題もなく運んでいたものが、突然みんなうまく行かなくなるの」  僕は空港のベンチに座って、飛行機が欠航したときに有紀子にかけなくてはならない電話のことを考えた。その言い訳の文句を頭の中でいろいろと考えた。でも結局のところどんな風に説明したところで無駄だろうと僕は思った。スイミング・クラブの集まりに出ると言って日曜日の朝に家を出て、石川県の空港で雪に降りこめられているのだ。言い訳のしょうがない。 「家を出たら、突然日本海が見たくなって、そのまま羽田に行っちゃったんだ」と言うこともできた。でもそれはあまりにも馬鹿げていた。そんなことを言うくらいなら何も言わない方がましだ。あるいは本当のことを言ってしまった方がましだ。そしてそのうちに、僕は自分が本心では飛行機が飛ばないことを期待しているのに気づいて愕然とした。僕はこのまま飛行機が飛ばず、雪に降りこめられてしまうことを求めていた。僕は心の底で、僕と島本さんが二人でここに来たことが妻にばれてしまうことを望んでいた。僕は何も言い訳をしない。僕はもう嘘をつかない。僕はただここに島本さんと二人で残る。そうなれば僕はこのあと、流れのままに身をまかせてしまえばいいのだ。  結局飛行機は一時間半遅れて離陸した。飛行機の中で島本さんは僕にもたれてずっと眠っていた。あるいはじっと目を閉じていた。僕は彼女の肩に腕をまわして抱いていた。彼女は眠りながらときどき泣いているように見えた。彼女はずっと黙っていたし、僕も何も話しかけなかった。僕らが口をきいたのは、飛行機が着陸態勢に入ってからだった。 「ねえ島本さん、君は本当にもう大丈夫なの?」と僕は訊ねた。  彼女は僕の腕の中で頷いた。「大丈夫。薬を飲めばもう大丈夫なの。だから気にしないで」、そして彼女は僕の肩にそっと頭をもたせかけた。 「でも何も訊かないでね。どうしてあんなことになったとか、そういうことを」 「いいよ、何も訊かないよ」と僕は言った。 「今日のことは本当にありがとう」と彼女は言った。 「今日のどんなこと?」 「あそこまで連れていってくれたこと。口移しに水を飲ませてくれたこと。私に我慢してくれたこと」」  僕は彼女の顔を見た。僕のすぐ前に彼女の唇があった。それはさっき僕が水を飲ませるときに口づけした唇だった。そしてその唇はもう一度あらためて僕を求めているように見えた。その唇は微かに開かれ、そのあいだから綺麗な白い歯が見えた。水を飲ませるときにほんの少しだけ触れた彼女の柔らかな舌の感触を、僕はまだ覚えていた。その唇を見ていると、僕はひどく息苦しくなって、もうそれ以上何かを考えることができなくなった。体の芯が熱くなるのが感じられた。彼女は僕を求めているのだ、と僕は思った。そして僕も彼女を求めていた。でも僕はなんとか自分を押し止めた。僕はここで踏みとどまらなくてはならないのだ。ここから先に行くと、もうもとに戻ってくることはできなくなってしまうかもしれない。でも踏みとどまるにはかなりの努力が必要だった。  僕は空港から家に電話をかけた。時刻はもう八時半だった。ごめん、遅くなって、うまく連絡がつかなかったんだ、今から一時間くらいで帰るよ、と僕は妻に言った。 「ずっと待っていたんだけど、我慢できなくなって夕御飯は先に食べちゃったわよ。鍋ものだったんだけど」と妻は言った。  僕は空港の駐車場に置いておいたBMWに彼女を乗せた。「どこまで送ればいいのかな?」 「もしよかったら青山でおろして。私はそこから適当に一人で帰るから」と島本さんは言った。 「本当に一人で帰れる?」  彼女はにっこりと微笑んで頷いた。  外苑で首都高速を下りるまで、僕らはほとんど口をきかなかった。僕はヘンデルのオルガン・コンチェルトのテープを小さな音で聴いていた。島本さんは膝の上に両手をきちんと並べて置いて、じっと窓の外を見ていた。日曜日の夜だったから、まわりの車の中にはどこかに遊びに行った帰りらしい家族連れの姿が見えた。僕はいつもよりこまめにギアを上げたり下げたりした。 「ねえハジメくん」と島本さんは青山通りに出る手前で口を開いた。「私はあのとき実は飛行機がもう飛ばなければいいと思っていたのよ」と彼女は言った。  僕も同じことを考えていたんだよ、と僕は言いたかった。でも結局何も言わなかった。僕の口はからからに乾いていて、言葉がうまく出てこなかった。僕は黙って頷いて、彼女の手をそっと握っただけだった。僕は青山一丁目の角に車を停めて彼女を下ろした。彼女がそこで下ろしてくれと言ったのだ。 「また会いに行っていい?」と島本さんは車を下りるときに僕に小さな声で尋ねた。「私のことをまだ嫌いじゃない?」 「待っているよ」と僕は言った。「近いうちに会おう」  島本さんは頷いた。  青山通りに車を走らせながら、もしこのまま二度と彼女に会えなかったら、きっと頭がおかしくなってしまうだろうなと僕は思った。彼女が車を下りてしまうと、世界が一瞬がらんどうになってしまったような気がしたのだ。 [#改ページ]     11  島本さんと二人で石川県に行った四日後に義父から電話がかかってきた。ちょっと折入って話があるので、明日の昼飯でも一緒に食べないかという誘いだった。いいですよと僕は言ったが、正直言って少し驚いた。義父はきわめて忙しい人物だったし、彼が仕事の関係者以外と食事をするのは異例なことだったからだ。  義父の会社は半年ほど前に代々木から四谷にある新しい七階建での社屋に引っ越したばかりだった。自社ビルだったが、持ち主の会社は六階から上を使っているだけで、下の五階ぶんは別の会社やレストランや店舗に貸していた。僕はそのビルを訪れるのは初めてだった。そこでは何もかもが新しくぴかぴかに光っていた。ロビーの床は大理石で、天井は高く、大きな焼き物の花瓶には花がたっぷりと盛られていた。六階でエレベーターを下りると、受付にはシャンプーの宣伝に出てきそうな綺麗な髪の女の子が座っていて、僕の名前を電話で義父に伝えた。計算機つきのフライかえしみたいな恰好をしたダーク・グレイの電話機だった。それから彼女はにっこりと笑って、僕に「どうぞ、社長はお部屋でお待ちです」と言った。とてもゴージャスな笑顔だったけれど、島本さんの笑顔に比べるといくぶん見劣りがした。  社長室はビルのいちばん上の階にあった。大きなガラス窓から衝を見渡すことができた。それほど心なごむ景色とは言えなかったが、日当たりは良かったし、広々としていた。壁には印象派の絵がかけてあった。灯台と船の絵だった。スーラーの絵のように見えたが、あるいは本物かもしれない。 「見たところ景気がいいようですね」と僕は義父に言った。 「悪くない」と彼は言った。そして窓の脇に立って、外を指さした。「悪くない。それにこれからもっと良くなる。今が稼ぎ時だよ。俺たちの商売にとっちゃ、二十年、三十年に一度っていう好機なんだよ。今儲けなくちゃ儲けるときがないんだ。どうしてだかわかるか?」 「わかりませんね。建設業については素人ですから」 「いいか、ここからちょっと東京の街を見てみろよ。空き地がそこかしこにあるのがわかるだろう。まるで歯が抜けたみたいにあちこちに何も建っていない更地が見える。上から見るとよくわかるんだ。歩いていてもなかなかわからん。あれは古い家屋や古いビルが壊されたあとだよ。このところ土地の価格が急騰したんで、これまでのような古いビルではだんだん収益があがらなくなってきたんだ。古いビルでは高い家賃も取れないし、テナントの数も少なくなる。だから新しいもっと大きな入れ物が必要になってるんだ。個人の家だって、こう都心の土地が高くなると固定資産税やら相続税やらが払いきれない。だからみんな売ってしまう。都心の家を手はなして郊外に引っ越すんだ。そういう家を買うのはだいたいがプロの不動産屋だ。そういった連中はもとあった古い建物を壊して、そのあとに新しいもっと有効利用できる建物を建てる。つまりだな、あそこに見える空き地にはこれからビルかどんどん建ち並んでいくことになるんだよ。それもこの二、三年のうちにだよ。この二、三年のうちに東京の様相はがらっと変わってしまうんだよ。資金の問題もない。日本経済は活発だし、株価も上昇を続けている。銀行はたっぷり金を持っている。土地があれば銀行はそれを担保にいくらでも金を貸してくれるから、土地さえ持っていれば金には不自由することがない。だから次から次へとビルが建つ。そして誰がそんなビルを建てると思う。もちろん我々が建てるんだよ。言うまでもなく」 「なるほどね」と僕は言った。「でもそんなにいっぱいビルができたら、東京はいったいどうなるんですか」 「どうなるって……活発になり、もっともっと綺麗になり、もっと機能的になるだろうな。街の様相というのは、その経済の様相を如実に映し出すものだからな」 「活発になり、綺麗になり、機能的になるのはいいですよ。結構なことだと僕だって思います。だけど今だって東京の街は車で溢れているんですよ。これ以上ビルが増えたら、それこそ道路が身動きできなくなっちゃいますよ。水道だってちょっと雨が降らなかったらパンクします。それに全部のビルが夏場になってエアコンを一斉にかけたら、たぶん電力不足になるでしょう。その電気は中東の石油を燃やして作っているんですよ。また石油危機が来たらどうなるんですか」 「それは日本政府と東京都の考えることだよ。そのために俺らはえらい額の税金を払ってるんだろう。東大を出た役人がせっせと考えればいい。あいつらはいつも偉そうな顔して威張ってるんだ。まるで自分が国を動かしてるみたいな顔をしてな。だからたまには少しくらい、その上等な頭を使ってものを考えた方がいいんじゃないかな。俺は知らん。俺はただのしがない土建屋だよ。注文がくればビルを建てるんだ。そういうのを市場原理っていうんだよ。違うか?」  僕はそれについては何も言わなかった。べつに義父と日本経済のありかたについて議論をするためにここにきたわけではないのだ。 「まあむずかしいことを議論するのはよしにして、とにかく飯を食いにいこう。腹が減った」  と義父は言った。  僕らは電話のついた彼の黒い大きなメルセデスに乗って赤坂にある鰻屋に行った。奥の部屋に通されて、僕らは二人だけで向かい合って鰻を食べ、酒を飲んだ。まだ昼間なので僕は口をつける程度にしか飲まなかったが、義父はけっこう早いペースで飲んだ。 「それで話というのは何ですか?」と僕は切りだしてみた。悪い話なら先に聞いてしまいたかったのだ。 「実はちょっと頼みがあるんだ」と彼は言った。「いや、たいしたことじゃないんだけどね、お前の名前をちょいと借りたいんだ」 「名前を借りる?」 「今度新しい会社をひとつ作ろうと思うんだが、設立の名義人というのが必要なんだ。名義人といっても、別に何かとくべつな資格が必要なわけじゃない。ただ名前がそこにあればいいんだよ。お前には何も迷惑はかけないし、しかるべき礼はきちんとするよ」 「礼なんかいりませんよ」と僕は言った。「本当に必要ならいくらでも名前くらい貸しますよ。でもそれはいったい何の会社なんですか? 設立人のひとりに名前をつらねるからにはそれくらいは知っておきたいですからね」 「正確に言えば、何の会社でもないんだ」と義父は言った。「お前だから正直に言うけれど、それは何もしない会社なんだよ。名前だけ存在している会社だ」 「要するに幽霊会社ということですね? ペーパー・カンパニー。トンネル会社」 「まあそういうことだな」 「目的はいったい何ですか。節税ですか?」 「というのでもない」と彼は言いにくそうに言った。 「裏金ですか?」と僕は思い切って尋ねてみた。 「まあな」と彼は言った。「本当は好ましいことじゃないが、我々の商売ではそういうのが少しは必要になる」 「もし何か問題が出てきたら僕はどうなるんですか?」 「会社を作ること自体は合法的なんだよ」 「僕はその会社が何をするかを問題にしているんですよ」  義父はポケットから煙草を取り出し、マッチを擦って火をつけた。そして宙に向かって煙を吐いた。 「問題というほどのものはとくにないよ。それにもし仮に何か問題のようなものが出てきたとしてもだね、お前が俺に対する義理で名前を貸しただけだというのは誰か見てもわかる。女房の父親に頼まれて仕方なく名前を貸したんだってな。誰もお前のことを責めたりはしないよ」  僕はそれについてしばらく考えてみた。 「その裏金はいったいどこに行くためのものなんですか?」 「そういうのは知らん方がいいよ」 「僕は市場原理についてもう少し詳しい内容が知りたいんですよ」と僕は言った。「行く先は政治家ですか?」 「それもまあ少しはある」と義父は言った。 「官僚ですか?」  父は煙草の灰を灰皿に落とした。「おいおい、それをやると贈賄になるぜ。後ろに手がまわる」 「でも多かれ少なかれ業界ではみんなやっていることでしょう?」 「まあ少しはな」と彼は言った。そして難しい顔をした。「後ろに手が回らない程度にはな」 「暴力団はどうですか? 土地の買収には連中が役に立つでしょう」 「それはない。俺は昔からあいつらのことが好きじゃない。俺は土地の買い占めまではやらんよ。金にはなるが、それはやらん。俺はただ上屋《うわもの》を建てるだけだ」  僕は深いため息をついた。 「こういう話はきっとお前には気に入らんだろうな」 「でも僕が気に入っても気に入らなくても、あなたは僕のことをもうちゃんと予定に入れて話を先まで進めているんでしょう。僕が承諾するということを前提にして?」 「実はそうだ」と彼は言って、力なく笑った。  僕はため息をついた。「ねえお父さん、正直に言って僕はこういうのはあまり好きじゃないんです。僕は何も社会的な不正が許せないとかそういうことを言ってるわけじゃないんですよ。でもご存じのように、僕は当たり前の生活をしている当たり前の人間です。できたらそういう裏側の物ごとにはあまり巻き込まれたくないんです」 「それは俺にもよくわかっているよ」と義父は言った。「そんなことはわかっている。だからここはひとつ俺にまかせておいてくれ。とにかくお前に迷惑がかかるようなことは絶対にしない。もしそんなことになれば、結果的に有紀子にも孫たちにも迷惑がかかることになるからな。俺がそんなことをするわけはないだろう。俺が娘と孫とをどれくらい大事にしてるか知ってるだろう?」  僕は頷いた。何を言ったところで僕は義父の頼みを断れるような立場にはない。そう思うと気が重くなった。僕は少しずつ少しずつ世界に足を搦めとられているのだ。まずこれが一歩だ。これを引き受ける。するとこの次にはたぶん、また何か別のものがやってくるだろう。  僕らはそれからしばらく食事を続けた。僕はお茶を飲んでいたが、義父はまだ速いペースで酒を飲みつづけていた。 「なあ、お前は幾つになったっけなや」と義父が突然尋ねた。 「三十七です」と僕は言った。  義父はじっと僕の顔を見ていた。 「三十七といえば遊びたい盛りだな」と彼は言った。「仕事もばりばりできるし、自信もついてくる。だから女もけっこう向こうから寄ってくる。違うか?」 「残念ながらそれほど沢山は寄ってきませんね」と僕は笑って言った。そして彼の表情をうかがった。僕は一瞬義父が僕と島本さんのことを知っていて、その話をするために僕をここに呼んだのかと思った。でも彼の口調には何かを追及するようなはりつめた響きはなかった。彼はただ僕を相手に世間話をしているだけなのだ。 「俺もその年頃にはずいぶん遊んだもんだ。だからお前にも浮気をするなとは言わんよ。娘の亭主にこんなことを言うのも変なもんだが、むしろ適当に遊んだ方がいいと思っているくらいなんだ。ときにはその方がすっきりするんだ。適当にそういうのは解消しておいた方が、家庭もうまくいくし、仕事にも集中できる。だから俺はお前がどこかで他の女と寝ていても、それは責めないよ。でもな、遊ぶのはいいが遊ぶ相手だけはきちんと選んだ方がいいぞ。うっかり選び方を間違えると、人生を踏み誤ることになる。俺は幾つもそういう例を見てきた」  僕は頷いた。それから僕は有紀子の兄の夫婦仲がうまくいっていないという話を彼女の口から聞いたことをふと思い出した。有紀子の兄は僕よりひとつ年下だったが、他に女を作って、あまり家に帰らないようになってしまったということだった。義父はたぶんその長男のことが気になっているのだろうと僕は想像した。だから僕を相手にこんな話を持ち出したのだろう。 「なあ、あまりつまらん女は相手に選ぶな。つまらん女と遊んでいると、そのうちに本人までつまらん人間になってしまう。馬鹿な女と遊んでいると、本人まで馬鹿になってしまう。でも、かといってあまりいい女とも遊ぶな。あまりいい女と関わると、もとに戻れなくなってしまう。もとに戻れなくなると、行き迷うことになる。俺の言ってることはわかるだろう」 「なんとか」と僕は言った。 「幾つかのことに気をつければそれでいいんだよ。まず女に家を世話しちゃいけない。これは命取りだ。それから何があっても午前二時までには家に帰れ。午前二時が疑われない限界点だ。もうひとつ、友だちを浮気の口実に使うな。浮気はばれるかもしれない。それはそれで仕方ない。でも友だちまでなくすことはない」 「ずいぶん経験的に聞こえますね」 「そのとおり。経験でしか人は学ぶことはできないんだ」と彼は言った。「経験から学べない人間だって中にはいる。でもお前はそうじゃない。俺は思うんだけどな、お前には人を見る目というのかある。そういうものは経験から学ばない人間には身につかないものなんだ。俺はお前の店に二、三度しか行ったことがないけれど、それは一目見ればわかる。お前はなかなか良い人間を集めて、うまく使っているよ」  僕は黙って話の成り行きを見ていた。 「女房を選ぶ目もある。結婚生活でもお前はこれまでのところずっとうまくやってきた。有紀子もお前と二人で幸せに暮らしている。子供たちもふたりともいい子だ。それについては俺は感謝してるんだ」  今日はだいぶ酔っているようだなと僕は思った。でも僕は何も言わずに黙って話を聞いていた。 「たぶんお前は知らんと思うけど、有紀子は一度自殺しかけたことがあるんだ。睡眠薬を飲んだんだ。病院に担ぎ込まれて二日間意識が戻らなかった。俺はもうあのときは駄目だと思ったよ。体がつめたくなって、呼吸もないくらいになっていたんだ。これはもう確実に死ぬと思った。目の前が真っ暗になったよ」  僕は顔を上げて義父の顔を見た。「それはいつのことですか?」 「二十二のときだよ。大学をでてすぐだった。原因は男のことだ。その男とは婚約までしてたんだ。つまらん男だった。有紀子は見かけはおとなしいけれど、芯はしっかりした子だ。頭だっていい。だからどうしてあんなつまらん男に関わったのか、俺にはいまだに理解できんのだけどな」、義父は床の間の柱にもたれかかり、煙草をくわえて火をつけた。「でもまあそれが有紀子にとっては最初の男だった。最初というのは誰だって多かれ少なかれ間違いを犯すもんだ。しかし有紀子の場合はそのショックが大きかったんだよ。だから自殺まで図ったんだ。そしてそのあとずっと、あの子は男とは一切つきあおうとはしなかった。それまではけっこう積極的な子供だったんだが、その事件があってからはろくに外にも出なくなった。無口になって、いつも家の中にひきこもっていた。でもお前と知り合ってつきあうようになってから、とても明るくなったんだ。人が変わったようになった。たしか旅先で出会ったんだっけな?」 「そうです。八ヶ岳です」 「あれだって俺が勧めてほとんど無理やりに送りだしたんだ。たまには旅行くらい行ってこいって」  僕は頷いた。「自殺のことは知らなかったな」と僕は言った。 「知らない方がいいと思ったから、これまでは言わないことにしていたんだ。でもそろそろもう知っておいたほうがいいと思うんだ。お前たちはこれから長いあいだ一緒に暮らしていくんだから、いいことも悪いことも一応全部知っておいた方がいいだろう。もうずいぶん昔の話だしな」、義父は目を閉じて煙草の煙を宙に吐いた。「親の俺が言うのもなんだけど、あれはいい女だよ。俺はそう思う。俺はいろいろと女遊びもしてきたから、女を見る目はできてると思うんだ。自分の娘だろうがなんだろうが、女の良い悪いはちゃんと見分けられる。同じ俺の娘でも顔だちは妹の方が美人だが、人間の出来はぜんぜん違う。お前は人を見る目があるよ」  僕は黙っていた。 「なあ、お前にはたしか兄弟がいなかったな?」 「いません」と僕は言った。 「俺には三人子供がいる。それで、俺は三人の子供たちみんなのことを公平に好きだと思うか?」 「わかりませんね」 「お前はどうだい。二人の娘はどっちも同じくらい好きかい?」 「同じくらい好きですね」 「それはまだ小さいからだよ」と義父は言った。「子供だってもっと大きくなると、こっちにもだんだん好みというものが出てくる。あちらにも好みは出てくるけれど、こっちにだって出てくる。それはお前にも今にわかるよ」 「そうですか」と僕は言った。 「俺は、お前にだから言うけど、三人の子供の中では有紀子がいちばん好きなんだ。他の子には悪いと思うけど、それはたしかなんだ。有紀子とは気が合うし、信用できる」  僕は頷いた。 「お前には人を見る目があるし、人を見る目があるというのは、ものすごく大きな才能なんだよ。その目をいつまでも大事にした方がいい。俺自身はくだらん人間だけれど、くだらんものだけを生み出しているわけじゃないんだ」  僕はかなり酔っぱらった義父をメルセデスに乗せた。彼は後部席に座ると、脚を開いてそのまま目を閉じた。僕はタクシーを拾って家に帰った。家に帰ると有紀子が父親と僕とがどんな話をしたのか聞きたがった。 「たいした話なんて何もなかったんだよ」と僕は言った。「お父さんはただ誰かと一緒に酒が飲みたかっただけさ。ずいぶん酔ってたみたいだけど、これから会社に帰ってちゃんと仕事ができるのかな、あれで」 「いつもそうなのよ」と有紀子は笑って言った。「昼間からお酒を飲んで寝ちゃうの。そして社長室のソファーで一時間くらい昼寝するの。でも会社はまだ潰れてないでしょう。だから大丈夫なのよ、放っておけば」 「でも以前に比べればずいぶん酒に弱くなったような気がするな」 「そうね。あなたは知らないだろうけど、お母さんが死ぬまでは、どれだけ飲んでも絶対顔には出なかったのよ。底抜けに強かったの。でも仕方ないわよ。みんな年を取るんだもの」  彼女はコーヒーを新しく作り、僕らは台所のテーブルでそれを飲んだ。幽霊会社の名義人に名前を連ねる話は有紀子には言わないでおくことにした。それを知ったら、父親が僕に迷惑をかけたことで彼女はきっと嫌な気持ちになるだろうと思ったからだった。「たしかにお父さんからお金は借りたわよ。でもそれとこれとは話が別でしょう。だってあなたはそのお金をちゃんと利子もつけて返しているじゃない」と有紀子は言うことだろう。でもそんな簡単な問題ではないのだ。  下の娘は自分の部屋でぐっすりと眠っていた。僕はコーヒーを飲んでしまうと、有紀子をベッドに誘った。僕らは服を脱いで裸になり、明るい昼の光の下で静かに抱き合った。僕は時間をかけて彼女の体を温めてから中に入った。でもその日、僕は彼女の中に入りながら、ずっと島本さんのことを考えていた。僕は目を閉じて、今自分は島本さんを抱いているのだと思った。自分は今島本さんの中に入っているのだと想像した。そして僕は激しく射精した。  僕はシャワーを浴びてから、またベッドに入って少し眠ることにした。有紀子はもうきちんと服を着ていたが、僕がベッドに戻るととなりに入ってきて僕の背中に唇をつけた。僕は目を閉じたままじっと黙っていた。僕は島本さんのことを考えながら彼女と交わったことで、うしろめたさを感じていた。僕は目を閉じたままじっと黙っていた。 「ねえ、あなたのことが本当に好きよ」と有紀子は言った。 「もう結婚して七年経って、子供も二人いるんだぜ」と僕は言った。「そろそろ飽きてもいい頃だろう」 「そうね。でも好きなのよ」  僕は有紀子の体を抱いた。そして彼女の服を脱がせはじめた。僕は彼女のセーターとスカートを取り、下着を取った。 「ねえ、あなたまさかまたもう一度……」と有紀子はびっくりして言った。 「もちろんもう一度やるんだよ」と僕は言った。 「ふうん、日記につけておかなくちゃ」と有紀子は言った。  今度は僕は島本さんのことを考えないように努めた。僕は有紀子の体を抱きしめ、顔を見て、有紀子のことだけを考えた。僕は有紀子の唇と喉と乳首に口づけした。そして有紀子の体の中に射精した。射精し終わったあとも、僕はそのままずっと彼女の体を抱きしめていた。 「ねえ、どうかしたの?」と有紀子は僕の顔を見て言った。「今日お父さんと何かあったの?」 「何もないよ」と僕は言った。「まったく何もない。でもしばらくのあいだこうしていたいんだ」 「いいわよ、好きなようにして」と彼女は言った。そして僕を中に入れたまま僕の体をじっと強く抱きしめていてくれた。僕は目を閉じて、自分がどこかに行ってしまわないように彼女の体に僕の体を押しつけていた。  僕は有紀子の体を抱きながら、さっき義父に聞かされた彼女の自殺未遂の話をふと思い出した。(俺はもうあのときは駄目だと思ったよ、これはもう確実に死ぬと思った)。あるいはちょっと間違えばこの体ももう消えてなくなっていたかもしれないのだ、と僕は考えた。僕は有紀子の肩や髪や乳房にそっと手を触れてみた。それは温かく、柔らかく、確かだった。僕は有紀子の存在を手のひらに感じることができた。でもそんなものがいつまで存在しつづけるのかは誰にもわからない。かたちのあるものはあっという間に消えてしまうのだ。有紀子も、そしてこの僕らのいる部屋も。この壁もこの天井もこの窓も、気かついたときにはみんな消えてしまっているかもしれないのだ。それから僕はイズミのことをふと思い出した。おそらくその男が有紀子を深く傷つけたのと同じように、僕もイズミを深く傷つけたのだろう。有紀子はそのあとで僕にめぐり会った。でもおそらくイズミは誰にもめぐり会わなかったのだろう。  僕は有紀子のやわらかな首にキスをした。 「少し眠るよ」と僕は言った。「それから幼稚園に迎えに行ってくる」 「ぐっすり眠りなさい」と彼女は言った。  僕はほんの少し眠っただけだった。目が覚めたのは午後の三時すぎだった。寝室の窓からは青山墓地が見えた。僕は窓際の椅子に腰をおろして、長いあいだその墓地をじっと眺めていた。いろんなものの風景が島本さんの現れる前とあととではずいぶん違って見えるような気がした。台所からは有紀子が夕食の下ごしらえをしている音が聞こえてきた。それは僕の耳には虚ろに響いた。ずっと遠くにある世界からパイプか何かをつたって聞こえてくる音のように思えた。  それから僕はBMWを地下の駐車場から出して幼稚園に上の娘を迎えに行った。その日は幼稚園で何かとくべつな催しかあったせいで、娘が外に出てきたのは四時少し前だった。幼稚園の前にはいつものように綺麗に磨かれた高級車が並んでいた。サーブやらジャカーやらアルファ・ロメオやらの姿が見えた。いかにも上等そうなコートを着た若い母親がそこから出てきて、子供を受け取り、車に乗せて家に帰っていった。父親が迎えに来ているのは僕の娘だけだった。僕は娘をみつけると名前を呼び、大きく手を振った。娘も僕の姿を目にとめてその小さな手を振り、こちらにやって来ようとした。でもその前にブルーのメルセデス260Eの助手席に乗った女の子の姿をみつけると、何かを叫びながらそちらの方に走っていった。その女の子は赤い毛糸の帽子をかぶって、停まった車の窓から身を乗り出していた。その娘の母親は赤いカシミアのコートを着て、大きなサングラスをかけていた。僕がそこまで行って娘の手を取ると、彼女は僕に向かってにっこりと微笑んだ。僕も微笑み返した。その赤いカシミアのコートと大きなサングラスは僕に島本さんのことを思い出させた。僕が渋谷から青山まであとをつけていったときの島本さんをだ。 「こんにちは」と僕は言った。 「こんにちは」と彼女も言った。  綺麗な顔立ちの女だった。歳はどうみでも二十五より上には見えなかった。カー・ステレオはトーキング・ヘッズの『バーニング・ダウン・ザ・ハウス』をかけていた。後部座席には紀ノ国屋の紙袋が二個乗っていた。彼女の笑顔はなかなか素敵だった。娘はその友だちとひそひそ声でしばらく何かを話してから、じゃあねと言った。じゃあね、とその女の子も言った。そしてボタンを押してするするとガラス窓を閉めた。僕は娘の手をひいてBMWを停めたところまで歩いていった。 「どうだい、今日いちにち何か楽しいことはあった?」と僕は娘に尋ねた。  彼女は大きく首を振った。「楽しいことなんて何もなかった。ひどかった」と彼女は言った。 「まあお互いに大変だったな」と僕は言った。それから身をかがめて彼女の額にキスした。彼女は気取ったフランス料理店の支配人がアメリカン・エクスプレスのカードを受け取るときのような顔つきで僕のキスを受け入れた。 「でも明日はもっと楽になるよ、きっと」と僕は言った。  僕だってできることならそう信じたかった。明日の朝になって目がさめたら、世界はもっとすっきりとしたかたちを取っていて、いろんなことが今よりもっと楽になっているに違いないと。でもそんな風にうまくはいかない。明日になっても、おそらく事態はもっとややこしくなっているだけだろうと僕は思った。問題は僕が恋をしていることなのだ。そして僕にはこのように妻がいて、娘がいるのだ。 「ねえ、お父さん」と娘は言った。「私、お馬に乗りたいの。いつか私のためにお馬を買ってくれる?」 「ああ、いいよ。いつかね」と僕は言った。 「いつかって、いつ?」 「お父さんのお金がたまったらね。お金がたまったらそれで馬を買おう」 「お父さんも貯金箱を持ってるの?」 「うん、大きいのを持ってるよ。この自動車くらい大きい奴を持ってるんだ。それくらいお金をためないと馬は買えないからね」 「おじいちゃんに頼んだらお馬を買ってくれると思う? おじいちゃんはお金持ちなんでしょう」 「そうだよ」と僕は言った。「おじいちゃんはあそこにある建物くらい大きい貯金箱をもってるんだ。お金もいっぱい入っている。でも大きすぎてなかなか中のお金を取り出すことができないんだ」  娘はそれについてしばらく一人で考えこんでいた。 「でもおじいちゃんに一度訊いてみていいかしら。お馬を買ってほしいって」 「そうだね、一度訊いてみるといいな。ひょっとしたら買ってくれるかもしれないからね」  マンションの駐車場に着くまで僕は彼女と馬の話をしていた。どんな色の馬が欲しいのか。  どんな名前をつけるのか。馬に乗ってどこに行きたいのか。馬はどこに寝かせるのか。彼女を駐車場からエレベーターに乗せると、僕はそのまままっすぐに店に向かった。そして明日はいったいどうなるんだろうと思った。僕は車のハンドルに両手を載せ、目を閉じた。僕は自分の体の中にいるようには思えなかった。僕の体はどこかから間に合わせに借りてきた一時的な入れものみたいに感じられた。俺は明日はいったいどうなるんだろう、と僕は思った。僕はできることなら娘にすぐにでも馬を買ってやりたかった。いろんなものが消えうせてしまう前に。何もかもが損われて駄目になってしまう前に。 [#改ページ]     12  それから春が来るまでの二カ月ほどのあいだに、僕は島本さんとほとんど毎週のように会っていた。彼女はときどきふらりと店にやってきた。バーの方に来ることもあったか、『ロビンズ・ネスト』に来ることの方が多かった。来るのはいつも九時過ぎだった。そしてカウンターに座ってカクテルを二杯か三杯飲んで、十一時頃には帰っていった。彼女かいると、僕はその隣に座って話をした。店の従業員たちが僕と彼女のことをどう思っていたのかは知らない。でも僕はそんなことをほとんど気にもしなかった。小学校のときに同級生たちか僕らのことをどう思おうとほとんど気にもとめなかったのと同じように。  ときおり彼女は店に電話をかけてきて、明日の昼間にどこかで待ち合わせしないかと言った。僕らはだいたい表参道にあるコーヒーハウスで待ち合わせた。そして二人で軽い食事をしたり、そのへんを散歩をしたりした。彼女が僕と一緒にいる時間はだいたい二時間か長くて三時間というところだった。帰る時刻がやってくると、彼女は時計に目をやって、それから僕を見てにっこりと微笑み、「さあもうそろそろ行かなくちゃ」と言った。それはいつものように本当に素敵な微笑みだった。しかし僕はその微笑みの中に、彼女がそのときに抱いている感情らしきものをほとんど読み取ることができなかった。彼女がもう行かなくてはならないことを辛く思っているのか、あるいはそれほど辛くは思っていないのか、あるいは僕と別れることができてほっとしているのか、それすら読み取ることができなかった。その時刻に本当に彼女がどこかに帰らなくてはならないのかどうかさえ、僕にはたしかめようもなかった。  でもとにかく、その別れの時刻かくるまでの二時間か三時間のあいだ、僕らはかなり熱心に話をした。でも僕が彼女の肩を抱いたり、彼女が僕の手を握ったりするようなことはもうなかった。僕らはもう二度と体を触れ合わせなかった。  東京の街の中では、島本さんはまた以前のクールで魅力的な笑顔を取り戻していた。あの二月の寒い日に、石川県にいったときに見せたような感情の激しい揺れ動きは、もう目にすることはできなかった。そのときに僕らのあいだに生じた温かい自然な親しみも、もう戻ってこなかった。とくに申し合わせたわけではないのだが、その奇妙な小旅行で起こったことが、我々の口にのぼることは一度もなかった。  僕は彼女と肩を並べて歩きながら、彼女はその心の中にどんなものを抱え込んでいるのだろうとよく思った。そしてそれらのものごとは彼女をこれからどこへ連れていこうとしているのだろう。僕はときどき彼女の瞳を覗き込んでみた。でもそこには穏やかな沈黙があるだけだった。彼女の瞼についた一本の小さな線は、あいかわらず僕に遠くの水平線を思わせた。僕は高校時代にイズミが僕に対して抱いたであろう孤独感のようなものを、今では少しは理解できるような気がした。島本さんの中には彼女だけの孤立した小世界がある。それは彼女だけが知っていて、彼女だけが引き受けている世界だった。僕にはそこに入っていくことができなかった。その世界の扉は一度だけ僕に向けて開きかけた。でも今ではその扉はまた閉じてしまっていた。  それについて考え始めると、何が正しくて何が間違っているのかよくわからなくなった。僕は自分がもう一度あの無力で途方に暮れた十二歳の少年に戻ってしまったような気がした。彼女を前にすると、自分が何をすればいいのか、自分が何を言えばいいのか、判断することができなくなってしまうのだ。僕は冷静になろうとした。頭を働かせようとした。でも駄目だった。僕はいつも自分が彼女に向かって何か間違ったことを言って、何か間違ったことをしているように感じた。でも僕が何を言っても何をやっても、いつも彼女はすべての感情を呑み込んでしまうような、あの魅力的な微笑みを浮かべて僕を見ていた。「いいのよ、別に。それでいいんだから」とでもいうように。  僕は今の島本さんが置かれている状況についてほとんど何一つ知識を持たなかった。彼女かどこに住んでいるのかも知らなかった。誰と住んでいるのかも知らなかった。彼女がどこから収入を得ているのかも知らなかった。結婚しているのか、あるいはかつて結婚したことがあるのかどうかも知らなかった。ただ一度だけ子供を生んで、その子供は翌日には死んでしまった。それは去年の二月のことだった。そして彼女はこれまでに一度も働いたことがないと言った。でも彼女はいつも高価な服を着て、高価な装身具を身に着けていた。それが意味するのは、彼女はどこかで高い収入を得ているということだった。僕が彼女に関して知っていると言えるのはそれだけだった。たぶん子供を生んだときには彼女は結婚していたのだろう。でももちろん確証があるわけではない。それはただの推測に過ぎない。結婚せずに子供を生むことだってないわけではないのだ。  それでも何度か会っているうちに島本さんは少しずつ、中学校や高校時代の話をするようになった。その時代のことは現在の状況とは直接的な関係を持たないので、話しでもべつにさしつかえないと思っているようだった。そして僕は彼女がその当時どれくらい孤独な日々を送っていたかを知った。彼女はまわりの人々に対して出来るだけ公平になろうとした。そして何があっても言い訳することをしなかった。「私は言い訳だけはしたくないの」と島本さんは言った。「人間というのは一度言い訳を始めると、限りなく言い訳をしてしまうものだし、私はそういう生き方をしたくないの」。でもそういう生き方は、その時代の彼女のためにはうまく作用しなかった。それはまわりの人々のあいだに多くのつまらない誤解を生み出したし、そのような誤解は島本さんの心を深く傷つけた。彼女はどんどん自分の中に閉じこもるようになっていった。朝起きると、彼女はよく嘔吐した。学校に行くのが嫌だったからだ。  彼女は一度高校に入った頃の写真を見せてくれた。その写真の中で島本さんはどこかの庭のカーデン・チェアに座っていた。庭にはひまわりの花が咲いていた。季節は夏だった。彼女はデニムのショート・パンツをはいて、白いTシャツを着ていた。そして彼女は本当に美しかった。彼女はカメラに向かってにっこりと微笑みかけていた。その微笑みは今よりはいくらかぎこちなかったけれど、それでも素晴らしい微笑みだった。ある意味では不安定なぶんだけ人の心を打つ微笑みだった。それは不幸な日々を送っている孤独な少女の微笑みには見えなかった。 「この写真を見ているかぎりでは、君は幸せそのもののように見えるけどね」と僕は言った。  島本さんはゆっくりと首を振った。何か遠い昔の情景を思い出すときのように目のわきにチャーミングな皺が寄った。 「ねえハジメくん、写真からは何もわからないわ。それはただの影みたいなものなのよ。本当の私はもっと違うところにいるのよ。それは写真には写らないのよ」と彼女は言った。  その写真は僕の胸を痛くさせた。その写真を見ていると、僕は自分がこれまでにどれほど多くの時間を失ってしまったのかを実感することができた。それはもう二度と戻ってくることのない貴重な時間だった。どれだけ努力しても二度と取り戻すことのできない時間だった。それはそのときのその場所にしか存在しなかった時間だった。僕は長いあいだじっとその写真を見つめていた。 「どうしてそんなに熱心に見ているの?」と島本さんは言った。 「時間を埋めるためだよ」と僕は言った。「僕はもう二十年以上君に会ってなかったんだ。その空白を少しでもいいから埋めたいんだ」  彼女はちょっと不思議な感じのする微笑を浮かべて僕の顔を見ていた。まるで僕の顔に何かおかしなところかあるみたいに。「変なものね。あなたはその歳月の空白を埋めようとしている。私はその同じ歳月を少しでも空白にしてしまいたいと思っているのに」と彼女は言った。  中学校から高校にかけて、島本さんにはずっとボーイフレンドというものがいなかった。なんといっても彼女は綺麗な娘だったから、声をかけてくる人間がいないわけではなかった。でも彼女はそういった男の子たちとはほとんどつきあわなかった。何度かつきあおうとしたことはあったのだが、長くはつづかなかった。 「あの年頃の男の子たちのことが、きっと私はあまり好きになれなかったのね。わかるでしょう。あの頃の男の子たちつて、みんながさつで、自分のことしか考えていなくて、女の子のスカートの下に手を入れることしか頭にないんだもの。何かそういうことがあると、私はがっかりしてしまったの。私が求めていたのは、昔あなたとよく一緒にいたときに存在したようなものだったのよ」 「ねえ島本さん、十六のときには、僕だって自分のことしか考えていなくて、女の子のスカートの下に手をいれることしか頭にないがさつな男の子だったと思うね。間違いなくそうだった」 「じゃあ私たちはその頃に会わないでよかったのかもしれないわね」と島本さんは言って、にっこりと笑った。「十二で離ればなれになって、三十七でまたこういう風に出会って……、私たちにとってはそれがいちばん良かったんじゃないかしら」 「そんなものかな」 「今のあなたは女の子のスカートの下に手を入れる以外のことだって少しは考えられるでしょう?」 「少しはね」と僕は言った。「少しは。でももし僕の頭の中のことが気になるんなら、今度会うときはズボンをはいてきた方がいいかもしれないな」  島本さんはテーブルの上に両手を載せて、笑いながらそれをしばらく眺めていた。彼女の指にはあいかわらず指輪がなかった。彼女はブレスレットをよくつけたし、腕時計もいつも違うものをつけていた。イヤリングもつけた。でも指輪だけははめなかった。 「それに私は男の子たちの足手まといになるのが嫌だったの」と彼女は言った。「わかるでしょう。私にはできないことがいっぱいあったのよ。ピクニックに行ったり、泳ぎに行ったり、スキーやらスケートに行ったり、ディスコに行ったり、私にはそういうことができなかったのよ。散歩をするときだってゆっくりとしか歩けなかった。私にできることといえば、二人で一緒に座って、お話をしたり、音楽を聴いたりしているだけ。そしてその年代の普通の男の子というのは、そういうのに長い時間は耐えられないのよ。私にはそれが嫌だったの。他人の足手まといにだけはなりたくなかったの」  彼女はそう言って、レモンを入れたペリエを飲んだ。それは三月の半ばの暖かい午後だった。表参道を歩く人の中には半袖のシャツを着た若者の姿も見えた。 「もしその頃にあなたとつきあっていたとしでも、きっと私は最後にはあなたの足手まといになっていたと思うわ。あなたは私にきっとうんざりするようになったと思う。あなたはもっと活動的で、もっと大きな広い世界に飛びだして行きたいと思ったはずよ。そしてそういう結果を迎えることは私にとっては辛いことだったでしょうね」 「ねえ、島本さん」と僕は言った。「そんなことはありえないんだ。僕は君にうんざりしたりはしなかったと思う。何故なら僕と君とのあいだには何か特別なものがあるからだよ。それが僕にはよくわかるんだ。言葉では説明できない。でもそれはちゃんとそこにあるし、それはとても貴重で大切なものなんだ。そのことはきっと君にもわかっているはずだよ」  島本さんは表情を変えずに、僕をじっと見ていた。 「僕はべつに立派な人間じゃない。他人に自慢できるほどのものも持ちあわせていない。それに昔は今よりもっとがさつで、無神経で、傲慢だった。だからあるいは僕は君にふさわしい人間とはいえなかったかもしれない。でもね、これだけは言える。僕は君にうんざりしたりはしない。そういう点では僕は他の人間とは違うんだ。君に関していえば、僕は本当に特別な人間なんだ。僕はそれを感じることができる」  島本さんはテーブルの上に置かれた自分の両手にもう一度目を向けた。彼女は十本の指のかたちを点検するみたいに、手を軽く広げていた。 「ねえ、ハジメくん」と彼女は言った。「とても残念なことだけれど、ある種のものごとは、後ろ向きには進まないのよ。それは一度前に行ってしまうと、どれだけ努力をしても、もうもとに戻れないのよ。もしそのときに何かがほんの少しでも狂っていたら、それは狂ったままそこに固まってしまうのよ」  僕らは一度、二人でコンサートに出かけたことがあった。リストのピアノ協奏曲を聴きにいったのだ。島本さんが電話をかけてきて、もし時間があったら一緒に聴きにいかないかと僕を誘った。演奏者は南米出身の有名なピアニストだった。僕は時間をあけて、彼女と一緒に上野のコンサート・ホールまで行った。それはなかなか見事な演奏だった。テクニックは文句のつけようがなかったし、音楽自体も緻密で奥行が深く、演奏者の熱い感情も随所に感じられた。でもそれにもかかわらず、いくらじっと目を閉じて意識を集中しようとしても、僕はどうしてもその音楽の世界に投入することが出来なかった。その演奏と僕とのあいだには薄いカーテンのような仕切りが一枚介在していた。それはあるのかないのかわらないくらいのとても薄いカーテンだったが、どれだけ努力しても僕にはその向こう側に行くことができなかった。コンサートのあとで僕がそう言うと、島本さんもだいたい僕と同じ感想を抱いていたことかわかった。 「でも、あの演奏のどこに問題があるんだと思う?」と島本さんは訊いた。「とてもいい演奏だったと思うんだけれど」 「覚えているかな? 僕らの聴いていたあのレコードでは、第二楽章の最後の方で二度小さなスクラッチ・ノイズが入ってたんだ。プチップチッで」と僕は言った。「あれがないと、僕はどうしても落ちつかない」  島本さんは笑った。「そういうのは芸術的発想とは呼べそうにないわね」 「芸術なんかどうでもいい。そんなものは禿ワシにでも食われてしまえばいい。僕は誰がなんと言おうとあのスクラッチ・ノイズが好きだったんだ」 「たしかにそうかもしれない」と島本さんも認めた。「でも禿ワシっていったい何なの、それや私は禿タカは知ってるけど禿ワシというのは知らない」  帰りの電車の中で僕は禿ワシと禿タカの違いについて彼女に細かく説明した。生息地の違いについて、鳴き声の違いについて、交尾期の違いについて。「禿ワシは芸術を食べて生きる。禿タカは名もなき人々の死体を食べる。ぜんぜん違う」 「おかしな人」と彼女は言って笑った。そして電車のシートの上でほんの少しだけ自分の肩と僕の肩とをつけた。それがその二カ月のあいだに僕らが体をくっつけあったただ一度の体験だった。  そのようにして三月が過ぎ去り、そして四月がやってきた。下の娘も上の娘と同じ幼稚園に入った。娘たちが手を離れると有紀子は地域のヴォランティアのグループに入って、障害児の施設の仕事を手伝ったりするようになった。だいたいは僕が娘たちを幼稚園に送り届け、そして連れて帰った。僕に時間がなければ、妻かかわりに送り迎えをした。子供たちが少しずつ大きくなっていくことで、自分もまた少しずつ歳を取りつつあるのだということを知った。僕の思惑とは関係なく、子供たちはひとりでにどんどん大きくなっていくのだ。僕は娘たちのことをもちろん愛していた。彼女たちの成長を見るのは僕にとってはひとつの大きな幸福だった。でも娘たちが実際に一月ひとつきと大きくなっていくのを見ていると、ときどきひどく息苦しくなった。まるで自分の体の中で樹木がどんどん成長し、根を張り、枝を広げているみたいに感じられた。それが僕の内臓や筋肉や骨や皮膚を圧迫し、無理に押し広げていくようだった。そんな思いはときどき僕をうまく眠れないくらい息苦しくさせた。  僕は週に一度島本さんと会って話をした。そして娘たちの送り迎えをし、週に何度か妻を抱いた。島本さんと会うようになってから、僕は前より頻繁に有紀子を抱くようになったと思う。でもそれは罪悪感からではなかった。有紀子を抱くことによって、そしてまた有紀子に抱かれることによって、僕は自分をなんとかどこかにつなぎ止めておきたかったからだった。 「ねえ、どうかしたの、あなたこの頃なんだか変よ」と有紀子は僕に言った。それはある日の午後に彼女と抱きあったあとのことだった。「三十七になると男の人の性欲が突然高まるなんていう話は聞いたことがないけど」 「べつにどうもしないよ。普通だよ」と僕は言った。  有紀子はしばらく僕の顔を見ていた。そして小さく首を振った。 「やれやれ、あなたの頭の中にはいったい何が入っているのかしら」と彼女は言った。  僕は暇な時間にはクラシック音楽を聴きながら、居間の窓から見える青山墓地をぼんやりと眺めた。もう以前ほど本を読まなくなった。本に気持ちを集中することがだんだん困難になってきたのだ。  メルセデス260Eに乗った若い女とはそれからも何度か顔をあわせた。僕らは娘たちが幼稚園の門から出てくるのを待っているあいだ、ときおり世間話のようなものをした。僕らはだいたいにおいて青山近辺に住む人間にしか通じない実際的な話をした。どこのスーパーマーケットの駐車場がどの時間に比較的すいているとか、どこのイタリアン・レストランのシェフが代わってそれで味がかなり落ちたようだとか、明治屋の輸入ワインのバーゲンか来月あるだとか。やれやれこれじゃまるで主婦の井戸端会議だなと僕は思った。でも何はともあれ、そういった類いの話が我々の会話にとっての唯一の共通の話題だった。  四月の半ばに島本さんはまた姿を消してしまった。最後に会ったとき、僕らは『ロビンズ・ネスト』のカウンターに並んで座って話をしていた。でも十時ちょっと前にバーの方から電話がかかってきて、僕はどうしてもそちらに行かなくてはならなかった。「たぶん三十分か四十分で戻ってくるよ」と僕は島本さんに言った。「いいわよ、大丈夫よ。行ってらっしゃい。本を読んで待っているから」と彼女はにっこり笑って言った。  用事を済ませて急いで店に戻ってきたとき、カウンターの席には彼女の姿はもうなかった。時計は十一時を少しまわっていた。彼女は店の紙マッチの裏に僕あてのメッセージを書いて、それをカウンターの上に残していた。「たぶんこれからしばらくはここに来ることができないと思います。もう帰らなくてはなりません。さよなら。お元気で」とそこには書いてあった。  それからしばらくのあいだ、僕はひどく手持ち無沙汰な気持ちになった。何をすればいいのか、よくわからなかった。僕は家の中を意味もなく歩きまわり、街を歩きまわり、早い時間から娘を迎えに行った。そして260Eの若い女と話をした。僕は彼女と近所の喫茶店に行ってコーヒーまで飲んだ。そしてあいかわらず紀ノ国屋の野菜やらナチュラル・ハウスの有精卵やらミキ・ハウスのバーゲンやらの話をした。彼女はイナバ・ヨシエの服のファンで、シーズンの前にはカクログで欲しい服を全部予約してしまうのだと言った。それから表参道の交番の近くにあって、今はなくなってしまった美味い鰻屋の話をした。僕らは話をしているうちにけっこう仲良くなった。彼女はみかけよりはずっと気さくで性格がよかった。でも僕は彼女に性的な興味を抱いていたわけではなかった。僕はただ誰かと何でもいいから話をしたかっただけなのだ。そして僕が求めていたのはなるべく無害で意味のない話だった。どこまでいっても島本さんに結びつくものが見いだせないような話を僕は求めていた。  やることがなくなると、僕はデパートに行って買い物をした。シャツを一度に六着も買ったこともあった。娘たちのために玩具や人形を買い、有紀子のためにアクセサリーを買った。BMWのショウルームに何度も行ってM5を眺めまわし、買うつもりもないのにセールスマンにあれこれと説明を聞いたりした。  しかしそういった落ちつかない日々が何週間かつづいたあとで、僕はまた神経を仕事に集中するようになった。いつまでもこんなことをしているわけにはいかないと思ったのだ。僕はデザイナーと内装業者を呼んで、店舗改装について話しあった。そろそろ店の内装を変え、経営方針を再検討する時期にさしかかっていた。店には落ちつくべき時期と、変化するべき時期とがある。それは人間と同じなのだ。どんなものでも同じ環境かいつまでも続くと、エネルギーが徐々に低下してくる。そろそろ何かしらの変化が求められていると僕は少し前からうすうす感じていた。空中庭園というものは、決して人々に飽きられてはならないのだ。僕はまず最初にバーの方を部分改装することにした。実際に使ってみると使いにくかった設備を取り替え、デザインを優先するために不便を余儀なくされていた部分を改装し、もっと機能的な店にする必要があった。オーディオ設備や空調設備もそろそろオーヴァーホールの時期にきていた。それからメニューも大きく変える。僕はそれまでに従業員たちひとりひとりと話をして現場の意見を聞き、どこをどう手直しすればいいのかを細かくリスト・アップしていた。それはかなり長いリストになっていた。僕は自分の頭の中にできあがっていた新しい店の具体的なイメージをデザイナーに細かく伝えて、そのとおりに図面を引かせ、できあがったものにまた注文をつけ、図面を引きなおさせた。それが何度も何度も繰り返された。僕は材料をひとつひとつ吟味し、業者に見積もりを出させ、その品質を値段によって細かく上げたり下げたりした。洗面所の石鹸台ひとつを決めるのに三週間もかけた。三週間、僕は理想的な石鹸台を求めて東京じゅうの店を歩き回ったのだ。そういった作業は僕を文字通り忙殺した。でもそれがまさに僕の望んだことだった。  五月が過ぎ去り、六月がやってきた。それでも島本さんは姿を見せなかった。もう彼女は去ってしまったのだと僕は思った。「たぶんこれからしばらくは」来られない、と彼女は書いていた。その「たぶん」と「しばらく」というふたつの曖昧な言葉はその曖昧さで僕を苦しめた。彼女はまたいつか戻ってくるかもしれない。でも僕はぼんやりその辺に座ってその「たぶん」と「しばらく」を待っているわけにはいかない。そんな生活を続けていたら、僕はきっとそのうちに腑抜けたようになってしまうだろう。僕はとにかく自分を忙しくすることに神経を集中した。僕は前よりももっと頻繁にプールに通った。毎朝のように休みなしで二千メートル近くを泳いだ。そしてそのあとで階上のジムでウェイトリフティングをやった。一週間ほどで筋肉が悲鳴を上げはじめた。信号待ちをしているときに左脚が攣って、しばらくクラッチを踏むことができなかったくらいだ。でもやがて僕の筋肉はその運動量を当然なものとして受け入れていった。そのようなハードワークは僕に余計なことを考える余裕を与えなかったし、毎日しっかりと体を動かすことは、日常的なレヴェルでの集中力を与えてくれた。僕はぼんやりと時間を過ごすことを避けた。どんなことをするときでもいつも集中してやるように努力した。顔を洗うときは真剣に顔を洗ったし、音楽を聴くときは真剣に音楽を聴いた。実際のところそうしないことにはうまく生きていけなかったのだ。  夏になると、僕と有紀子は週末によく子供たちをつれて、箱根の別荘に泊まりに行った。東京を離れて自然の中にいると、妻と娘たちは寛いで楽しそうに見えた。彼女たちは三人で花を摘んだり、双眼鏡で鳥を眺めたり、追いかけっこをしたり、川で水遊びをしたりした。あるいはただのんびりとみんなで庭に寝ころんだりしていた。でも彼女たちは本当のことを何も知らないのだと僕は思った。あの雪の降る日に、もし東京行きの飛行機が欠航したら、僕は何もかもを捨ててそのまま島本さんと二人でどこかに行ってしまったかもしれないのだ。あの日なら、僕はすべてを捨ててしまうことができた。仕事も家庭も金も、何もかもをあっさりと捨ててしまえた。そして僕は今でも島本さんのことをずっと考えて続けている。僕は自分が島本さんの肩を抱き、その頬に唇をつけたときの感触をまだはっきりと覚えている。そして僕は妻と交わりながら、島本さんのイメージを頭から追い払うことができずにいた。僕が本当に何を考えているのかは、誰にもわからないのだ。島本さんが何を考えているのかが僕にわからないのと同じように。  僕は夏休みをバーの改装にあてることにした。妻と二人の娘が箱根に行っているあいだ、僕は一人で東京に残り、店の改装に立ち会って細かい指示を与えた。そしてそのあいまにプールに通い、ジムでウェイトリフティングを続けた。週末には箱根に行って、娘たちと一緒に富士屋ホテルのプールで泳いで食事をした。そして夜になると僕は妻の体を抱いた。  僕はそろそろ中年と呼ばれる年齢にさしかかっていたが、体には賛肉というほどのものはまだついていなかったし、髪が薄くなる兆候も見えなかった。白髪も一本もなかった。スポーツを続けているおかげで、体力の衰えもとくに感じなかった。規則正しい生活を続け、不節制を避け、食事に気をつかった。病気ひとつしたことはなかった。外見はまだ三十代の始めに見えた。  妻は僕の裸の体に触るのが好きだった。僕の胸の筋肉に触り、僕のまったいらな腹を撫で、僕のペニスや睾丸をいじるのが好きだった。彼女もジムに通って真剣にワークアウトをやっていた。でも彼女の体の余分な肉はなかなか落ちないようになってきた。 「残念ながらもう歳だわ」と彼女はため息をつきながら言った。「体重は減っても脇腹の肉がどうしても落ちてくれないの」 「でも僕は今の君の体が好きだよ。わざわざ苦労してワークアウトとかダイエットとかやらなくても、べつにそのままでいいじゃないか。とくに太っているというわけでもないんだから」 と僕は言った。そしてそれは嘘ではなかった。僕はうっすらと肉のついた柔らかい彼女の体が好きだった。彼女の裸の背中を撫でるのが好きだった。 「あなたには何もわかってないのね」と有紀子は言って首を振った。「そのままでいいなんて簡単に言わないでよ。今のままを維持するのだって私には精一杯なんだから」  他人の目から見れば、あるいはそれは申し分のない人生に見えたかもしれない。ときどき僕自身の目にさえ、それは申し分のない人生のように映った。僕は熱意を持って仕事をしていたし、それはかなり高い収入をもたらした。4LDKのマンションを青山に持ち、箱根の山の中に小さな別荘を持ち、BMWとジープ・チェロキーを持っていた。そして非のうちどころのない幸せな家庭を維持していた。僕は妻と二人の娘を愛していた。それ以上の何を人生に求めればいいのだろうやもし仮に妻と娘たちとが僕のところにやってきて、自分たちはもっといい妻と娘になって僕にもっと愛されたいのだが、そのために何かこうしてほしいということがあったら遠慮なく言ってはしいと頭をさげて言ったとしても、僕にはおそらく何も言うべきことを思いつけなかったと思う。僕は彼女たちには本当に何ひとつ不満がなかったのだ。家庭生活にだって何の不満もなかった。これ以上快適な生活は僕には思いつけなかった。  でも島本さんが姿を見せなくなってしまうと、ときどきそこはまるで空気のない月の表面のように感じられた。島本さんがいなくなってしまうと、僕が心を開くことのできる場所はもうこの世界のどこにもなかった。眠れない夜には、僕はベッドの中でじっと横になったまま、雪の降りしきるあの小松空港のことを何度も何度も何度も思い出した。何度も繰り返して思い出しているうちに、その記憶が擦り切れてしまえばいいのにと思った。でもその記憶は絶対に擦り切れなかった。それは思い出せば思い出すほどますます強くなってよみがえってきた。空港の表示板には全日空東京行きの便の遅延の告示が出ていた。窓の外には雪が降りしきっていた。五十メートル先も見えないくらいの雪だった。島本さんはベンチの上で、自分の両肘をしっかりと抱え込むようにしてじっと座っていた。彼女はネイヴィー・ブルーのピーコートを着て、マフラーを首に巻いていた。その体には涙と哀しみの匂いが漂っていた。僕は今でもその匂いを嗅ぐことができた。隣では妻が静かな寝息を立てていた。彼女は何も知らないのだ。僕は目を閉じて首を振った。彼女は何も知らないのだ。  僕は、あの閉鎖されたボウリング場の駐車場で、島本さんに雪を溶かした水を口移しに飲ませたときのことを思い出した。飛行機のシートの上で僕の腕の中にいた島本さんのことを思い出した。その閉じられた目と、ため息をつくときのように微かに開かれた唇のことを思い出した。彼女の体は柔らかく、そしてぐったりとしていた。あのときに、彼女は本当に僕のことを求めていた。彼女の心は僕のために開かれていた。でも僕はそこで踏みとどまったのだ。この日の表面のようながらんとした、生命のない世界に踏みとどまったのだ。やがて島本さんは去っていき、僕の人生はもう一度失われてしまった。  鮮明な記憶は眠れない夜を作りだした。夜中の二時や三時という時間に目を覚まして、そのまま眠れなくなることがあった。そんなときには僕はベッドを出て台所に行き、グラスにウィスキーを注いで飲んだ。窓の外には暗い墓地と、その下の道路を走り過ぎていく車のヘッドライトが見えた。グラスを手に僕はそんな風景をずっと眺めていた。真夜中と夜明けを結ぶそれらの時間は、長く暗かった。ときどき、泣くことができれば楽になれるんだろうなと思えるときもあった。でも何のために泣けばいいのかかわからなかった。誰のために泣けばいいのかかわからなかった。他人のために泣くには僕はあまりにも身勝手な人間にすぎたし、自分のために泣くにはもう年を取りすぎていた。  それから秋がやってきた。秋がやってきたときには、僕の心はもうほとんど定まっていた。  こんな生活をこのままずっと続けていくことはできない、と僕は思った。それが僕の最終的な結論だった。 [#改ページ]     13  朝に二人の娘を車で幼稚園に送り届けてから、いつものようにプールに行って二千メートルほどを泳いだ。僕は自分が魚になっているのだと想像しながら泳いでいた。僕はただの魚で、何も考えなくていいのだと。泳ぐことさえ考えなくてもいいのだ。僕はただそこにいて、僕自身でいればいいのだ。それが魚であることの意味なのだと。プールからあがるとシャワ一を浴び、Tシャツとショート・パンツに着替えてウェイトリフティングをやった。  それから家の近くにオフィスとして借りであるワンルームのマンションに行って、二軒の店の帳簿を整理し、従業員の給与の計算をし、来年の二月に行う予定になっている『ロビンズ・ネスト』の改装工事の計画書に手を入れた。そして一時になると家に帰って、いつものように妻と二人で昼食を食べた。 「ねえ、そういえば朝お父さんから電話があったの」と有紀子は言った。「あいかわらず忙しい電話だったけど、とにかくそれは株のことなの。絶対に儲かる株があるから買えって。いつもの極秘の株式情報というやつよ。でもこれは本当にとびっきりとくべつなんだってお父さんは言ってたわよ。普通のやつじゃないんだって。これは情報じゃなくて事実なんだって」 「そんなに確実に儲かるんなら、僕なんかに教えないでお父さんが黙って自分で買えばいいだろう。どうしてそうしないんだ?」 「それはあなたへのいつかのお礼なんだって。個人的なお礼だってお父さんは言ってたわ。そう言えばあなたにはわかるって。何のことだか私にはわからないけど。だからお父さんは自分の持ち分をわざわざこっちにまわしてくれたのよ。動かせる金はありったけかきあつめて動かせ、心配するな、確実に儲かるから。もし儲からなかったら、俺が損したぶんを埋めてやるからって」  僕はパスタの皿にフォークを置いて顔を上げた。「それで?」 「なるべく早く買えるだけ買えっていうから、銀行に電話して定期預金をふたつ解約して、それを証券会社の中山さんに送って、お父さんの指定した銘柄をすぐに押さえておいてもらったの。今のところとりあえず全部で八百万くらいしか動かしてないけど。もっと買っておいた方がよかったかしら?」  僕はグラスの水を飲んだ。そして口にするべき言葉を探した。「ねえ、そんなことする前にどうして僕にひとこと相談しなかったんだ?」 「相談って言ったって、だってあなたいつも、お父さんがこうしろって言うとおりに株を買っているじゃない」と彼女はよくわからないという顔をして言った。「私にやらせたことだって何度もあるじゃない。言われたとおりに適当にやればいいって。だから今回も私はそうしたのよ。お父さんは一時間でも早く買った方かいいって言ってたから、私は言われたとおりにしたのよ。あなたはプールに行ってて連絡がつかなかったし。それか何かいけなかった?」 「まあいいよ、それは。でも今朝買ったぶんはそのまませんぶ売ってくれないか」と僕は言った。 「売る?」と有紀子は言った。そして何かまぶしいものでも見るみたいに、目を細めて僕の顔をじっと見た。 「だから今日買ったぶんは全部売り払って、また銀行の定期に戻せばいい」 「でもそんなことしたら株の売買の手数料と、銀行の手数料だけでずいぶんの損になっちゃうわよ」 「かまわない」と僕は言った。「手数料なんて払えばいいんだ。損をしてもかまわないよ。だからとにかく今日買ったぶんはそっくり全部売ってくれ」  有紀子はため息をついた。「あなた、この前お父さんと何かがあったの? 何か変なことにかかわったの、お父さんのことで」  僕はそれには返事をしなかった。 「何かがあったのね?」 「ねえ有紀子、正直言って僕はこういうのがだんだん嫌になってきたんだ」と僕は言った。「ただそれだけだよ。僕は株で金なんか儲けたくない。僕は自分で働いて、自分のこの手で金を作る。僕はこれまでずっとそれでうまくやってきただろう。金のことではこれまでのところ君に決して不自由はさせてないはずだよ。違うか?」 「ええ、もちろんそれはよくわかっているわよ。あなたはすごくよくやっているし、私は不満なんか一度も言ったことないじゃない。私はあなたに感謝してるし、尊敬だってしてるわよ。でもそれはそれとして、これはお父さんが好意で教えてくれたのよ。お父さんはあなたに親切にしようとしているだけなのよ」 「それは知ってる。でもね、極秘情報っていったい何だと思う? 絶対に儲かるっていったいどういうことだと思う?」 「わからないわ」 「株式操作だよ」と僕は言った。「わかるかい? 会社の内部で故意に株を操作して、人工的に大きな利益を作って、仲間うちでそれを分け合うんだ。そしてその金か政界に流れこんだり、企業の裏金になったりするんだ。これはお父さんが以前僕らに勧めてくれたような株とはちょっとわけが違うんだ。これまでのはおそらく[#「おそらく」に傍点]儲かる銘柄だった。それは耳寄りな情報に過ぎなかった。だいたいは儲かったけれど、うまくいかないことだってなかったわけじゃない。でも今回のは違う。これはいささか僕にはきな臭すぎるような気がする。できれば関わりたくないんだ」  有紀子はフォークを手に持ったまましばらく考えこんでいた。 「でもそれは本当に、今あなたが言ったような不正な株式操作なのかしら?」 「もし本当にそれが知りたいのなら、君がお父さんに直接訊いてみればいいよ」と僕は言った。「でもね、有紀子、これだけははっきり言える。絶対損をしない株なんてどこの世界にもないんだよ。もし絶対に損をしない株があるとしたら、それは不正な株取引の株だ。僕の父親は定年退職するまで四十年近く証券会社でサラリーマンをしていた。朝から晩まで本当によく働いていた。でもうちの父親があとに残したものと言えば、ちっぽけな持ち家ひとつだった。きっと生まれつき要領が悪かったんだろう。うちの母親は毎晩家計簿をにらんでは、百円二百円の収支が合わないと言って頭を抱えていた。わかるかい、僕はそういう家で育ったんだ。君はとりあえず八百万くらいしか動かせなかったけどと言う。でもね有紀子、これは本物の金なんだよ。モノポリー・ゲームで使う紙のお札じゃないんだ。普通の人間はね、満員電車に揺られて毎日会社に行って、出来るかぎりの残業をしてあくせくと一年間働いたって、八百万を稼ぐのはむずかしいんだ。僕だって八年間そういう生活を続けていた。でももちろん八百万なんていう年収は取れなかった。八年間働いたあとでも、そんな年収は夢のまた夢だった。君にはそれがどういう生活なのかきっとわからないだろうね」  有紀子は何も言わなかった。彼女は唇を固く結んで、テーブルの上の皿をじっと見ていた。  僕は自分の声がいつもより大きくなっていることに気がついて、声を落とした。 「君は半月で投資した金が確実に二倍に増えるとこともなげに言う。八百万が千六百万になるという。でもそういう感覚には何か間違ったところがあると僕は思う。そして僕も知らず知らずのうちに、その間違いの中に少しずつ呑み込まれていっている。たぶん僕自身もその間違いに加担しているんだろう。僕は最近、少しずつ自分が空っぽになっていくような気がするんだ」  有紀子はテーブル越しにじっと僕を見ていた。僕はそのまま黙って食事を続けた。自分の体の中で何かが震えているのが感じられた。でもそれが苛立ちなのか怒りなのか、僕にはよくわからなかった。でもそれが何であるにせよ、僕にはその震えを止めることができなかった。 「ごめんなさい。余計なことをするつもりはなかったんだけれど」と長い時間が経ってから有紀子が静かな声で言った。 「いいんだ。君を責めてるわけじゃない。誰を責めているんでもない」と僕は言った。 「買ったぶんは今すぐに電話をかけて、一株残らず売ってしまうわ。だからもうそんな風に怒らないで」 「何も怒ってるわけじゃないよ」  僕らは黙って食事をつづけた。 「ねえ何か私に話したいことがあるんじゃないの?」と有紀子は言った。そして僕の顔をじっと見た。「もし心に思っていることがあるんだったら、私に正直に言ってくれない。べつに言いにくいことでもいいわよ。もし私にできることがあれば何でもするから。私はたしかにそんなに大した人間じゃないし、世間のことだって経営のことだってよくはわからないけれど、とにかく私はあなたに不幸になってほしくないの。そんな風に一人で辛い顔をしてほしくないのよ。今の生活にあなたは何か不満のようなものがあるんじゃないの?」  僕は首を振った。「何も不満なんてないよ。僕は今の仕事が好きだし、やりがいがあるとも思っている。もちろん君のことも好きだよ。僕はただお父さんのやり方にときどきついていけなくなるというだけのことだよ。僕はあの人のことは個人的には嫌いじゃない。今回のことも好意は好意としてありがたく受け取るよ。だからべつに腹を立てているんじゃないんだ。ただ僕はときどき、自分という人間がわからなくなることがあるんだ。自分が本当に正しいことをしているのかどうか、確信が持てなくなることがある。だから混乱するんだ。べつに腹をたてているわけじゃない」 「でもなんだか腹を立てているように見えるけれど」  僕はため息をついた。 「しょっちゅうそんな風にため息もついているし」と有紀子は言った。 「とにかくあなたは何かこのごろ少し苛立っているみたいに見えるんだけど。よく一人でじっと何かを考えこんでいるみたいだし」 「僕にはよくわからないな」  有紀子は僕の顔から目をそらさなかった。 「あなたはきっと何かを考えているのね」と彼女は言った。「でも私にはそれが何かがわからない。なにか手伝ってあげられるといいんだろうけど」  僕は突然何もかもを有紀子に打ち明けてしまいたいという激しい衝動に駆られた。自分の心の中にあることを洗いざらい全部喋ってしまったらどんなに楽になるだろうと僕は思った。そうすれば僕はもうこれ以上何も隠さなくていいのだ。演技をする必要もないし、何も嘘をつかなくていいのだ。ねえ有紀子、実は僕には君の他に好きな女がいて、彼女のことをどうしても忘れることができないんだ。僕は何度も踏みとどまった。僕は君や子供たちのいるこの世界を護るために踏みとどまろうとしたんだ。でももうこれ以上は無理だ。僕にはもう踏みとどまることはできない。今度彼女が姿を見せたら、僕は何があっても彼女を抱くつもりでいるんだよ。僕にはこれ以上我慢することができないんだ。僕は彼女のことを考えながら君を抱くこともあるんだ。僕は彼女のことを考えてマスターベーションだってしているんだ。  でももちろん僕は何も言わなかった。有紀子に今そんなことを打ち明けたところで、何の役にも立ちはしない。おそらく我々全員が不幸になるだけだ。  食事を終えると、僕はオフィスに戻って仕事の続きをしようとした。でももう仕事に頭を集中することができなくなってしまっていた。自分が有紀子に向かって必要以上に高圧的な喋り方をしてしまったことで、僕はひどく嫌な気持ちになっていた。僕が言ったことそれ自体は、たぶん間違ってはいないだろう。でもそれは、もっと立派な人間の口から語られるべき言葉なのだ。僕は有紀子に嘘をつき、彼女に隠れて島本さんに会っている。有紀子に対してあんな偉そうなことを口にする資格は、僕にはまったくない。有紀子は僕のことを真剣に考えてくれている。それはとてもはっきりとしているし、一貫している。でもそれに比べて僕の生き方には、語るに足るような一貫性や信念というようなものが果してあるのだろうか? そんなことをあれこれと考えているうちに、もう何をする気もなくなってきた。  僕は机の上に足を乗せ、鉛筆を手に持ったまま窓の外を長いあいだぼおっと眺めていた。オフィスの窓の外には公園か見えた。良い天気だったから、公園には何人かの親子連れの姿が見えた。子供たちが砂場や滑り台で遊び、母親たちは横目でそれを見なから集まって世間話をしていた。公園で遊んでいる小さな子供たちは僕に自分の娘のことを思い出させた。娘たちにとても会いたいと思った。そしていつもよくやるように、両腕にひとりずつ子供を乗せて道を歩きたかった。彼女たちの肉の温もりをしっかりと感じていたかった。でも娘たちのことを考えているうちに、僕は島本さんのことを思い出した。僕は彼女の微かに開かれた唇のことを思い出した。島本さんのイメージは娘たちのそれよりもずっと強いものだった。島本さんのことを考え始めると、もう他の何かを考えることはできなくなった。  僕はオフィスを出て青山通りを歩き、それから島本さんとよく待ち合わせたコーヒーハウスに行ってコーヒーを飲んだ。僕はそこで本を読み、本を読むのに疲れると島本さんのことを考えた。そのコーヒーハウスで島本さんと交わした会話の断片を思い出した。僕は彼女がバッグからセイラムを出してライターで火をつけるところを思い出した。僕は彼女が前髪をさりげなく払ったり、少し首を傾げてにっこりと微笑むところを思い出したりした。でもそのうちにそこに一人でじっと座っているのにも疲れて、渋谷まで散歩することにした。僕は街を歩き、そこにある様々な建物や店を眺め、様々な人々の営みの姿を目にするのが好きだった。自分が二本の足で街の中を移動しているのだという感覚そのものが好きだった。でも今、僕のまわりを取り囲んでいるものは、何もかも陰鬱で虚ろに見えた。あらゆる建物は崩れかけ、あらゆる街路樹はその色を失い、あらゆる人々は新鮮な感情や、生々しい夢を捨て去ってしまったように見えた。  僕はなるべくすいていそうな映画館に入って、スクリーンをじっと睨んでいた。映画が終わると、僕は夕暮れの街に出て、目についたレストランに入って簡単に食事をした。渋谷の駅前は帰宅するサラリーマンでごったかえしていた。まるで早まわしの映画を見ているみたいに、次から次へと電車がやってきて、プラットフォームの人々を呑み込んでいった。そういえばちょうどこのあたりで島本さんの姿をみつけたんだったな、と僕は思った。あれはもう十年近く前のことだ。僕はそのとき二十八で、まだ独身だった。そして島本さんはまだ脚を引きずっていた。彼女は赤いオーヴァーコートを着て、大きなサングラスをかけていた。そして彼女はここから青山まで歩いていったのだ。それはなんだか大昔に起こった出来事のように感じられた。  僕はそのときに目にした情景を順番に思い出していった。年末の人込み、彼女の足取り、曲がった角のひとつひとつ、口雲った空、彼女が手に下げたデパートの紙袋、手つかずで置かれたコーヒーカップ、クリスマス・ソング。どうしてあのときに島本さんに思い切って声をかけなかったんだろうと僕はあらためて悔やんだ。あのときの僕には何の制約もなく、捨てるべき何ものもなかったのだ。僕はその場で彼女をしっかりと抱きしめ、二人でそのままどこかに行ってしまうことだってできたのだ。島本さんにたとえどのような事情があったとしても、少くともそれを解決するために全力を尽くして何かをすることができたはずだった。でも僕はその機会を決定的に失い、あの奇妙な中年の男に肘を掴まれて、そのあいだに島本さんはタクシーに乗ってどこかに去ってしまったのだ。  僕は夕方の混んだ地下鉄に乗って青山まで戻った。僕か映画館に入っているあいだに急に天候が崩れたらしく、空は湿気を含んだいかにも重そうな雲に覆われていた。今にも雨が降りだしそうに見えた。僕は傘も持っていなかったし、ヨット・パーカとブルージーンにスニーカーという朝プールに行ったときの恰好のままだった。本当なら一度家に戻って、いつものようにスーツに着替えるところだった。でも家には戻りたくなかった。まあいいさ、と僕は思った。 一回くらいネクタイをしめずに店に出たからといって、それで何かが損なわれるというわけでもないのだ。  七時にはもう雨が降り始めていた。ひそやかな雨だった。でもしっかりと腰を据えて、長く降り続きそうな秋の雨だった。僕はいつものようにまずバーの方に顔を出し、しばらく客の入り具合を見ていた。事前に綿密な計画を立てて、工事期間中ずっと僕が現場にいたことで、改装は細かいところまで僕の思ったとおりに運んだ。店は前よりずっと使いやすくなり、ずっと落ちつけるようになっていた。照明は柔らかくなり、そこに音楽がよく馴染んでいた。僕は新しい店の奥に独立した調理場を作り、本格的なコックを雇った。そしてシンプルでなおかつ手のこんだ料理をメニューに並べた。余計な付属物はなにもなくて、しかも素人には絶対に作れない料理をだすこと、それが僕の基本的な方針だった。そしてそれはあくまで酒のつまみだから、食べるのに手間のかからないものでなくではならなかった。そしてメニューは一月ごとに全部がらりと変えてしまう。そんな僕の注文にかなった料理を作れるコックをみつけるのは簡単なことではなかった。そして何とかうまくみつかるにはみつかったが、高い給料を払わなくてはならなかった。僕が予定していたより遥かに高い給料だった。でも彼は給料だけの仕事はしたし、僕はその結果に満足していた。客の方もとても満足しているように見えた。  僕は九時過ぎに店の傘をさして、『ロビンズ・ネスト』の方に移った。そして九時半に島本さんがそこにやってきた。不思議なことに、彼女はいつも静かな雨の降る夜にやってくるのだ。     14  島本さんは白いワンピースの上に、ネイヴィー・ブルーの大ぶりなジャケットを羽織っていた。ジャケットの襟には魚のかたちをした小さな銀のブローチがついていた。ワンピースは何の飾りもないごくシンプルなデザインのものだったが、島本さんが着ていると、それはこのうえなく上品で装飾的に見えた。彼女は前に見たときに比べると、少し日焼けしているようだった。 「もう二度と来ないのかと思ったよ」と僕は言った。 「あなたは私に会うといつも同じことを言うのね」、彼女はそう言って笑った。島本さんはいつもと同じようにカウンターの僕のとなりのスツールに座り、カウンターの上に両手を置いていた。「だってしばらくのあいだ来られないんだっていう書き置きを残しておいたでしょう」 「しばらく[#「しばらく」に傍点]というのはね、島本さん、待っているほうにとっては長さが計れない言葉なんだ」と僕は言った。 「でもたぶん、そういう言葉が必要な状況というのがあるのよ。そういう言葉しか使えない場合がね」と彼女は言った。 「そしてたぶん[#「たぶん」に傍点]というのは重さの計れない言葉だ」 「そうね」と彼女は言って、いつものあの軽い微笑みを顔に浮かべた。その微笑みはどこか遠くの場所から吹いてくる柔らかな風のように思えた。「たしかにあなたの言うとおりね。ごめんなさい。でも言い訳をするわけではないけれど、しかたなかったのよ。私にはそういう言葉を使うしかなかったの」 「なにも僕に謝ることはないんだよ。前にも言ったけれど、ここは店で、君は客なんだ。君はここに来たいときに来ればいいんだ。僕はそういうのに馴れている。僕はただ独り言を言ってるだけなんだ。君は何も気にしなくていい」  彼女はバーテンターを呼んでカクテルを注文した。そしてまるで何かを点検するように僕をしばらく眺めまわしていた。「今日は珍しくずいぶんうちとけた恰好をしているのね」 「朝プールに行ったときの恰好のままだよ。それっきり、着替える暇がなかったんだ」と僕は言った。「でもたまにはこういうのも悪くないよ。本来の自分にかえったような気がする」 「若く見えるわよ。三十七にはとても見えないわ」 「君もとても三十七には見えない」 「でも十二にも見えない」 「十二にも見えない」と僕は言った。  カクテルが運ばれてきて、彼女はそれを一口飲んだ。そして何か小さな音に耳を澄ませるときのようにそっと目を閉じた。彼女が目を閉じると、僕はいつものあの瞼の上の小さな線を見ることができた。 「ねえバジメくん、私ここの店のカクテルのことをよく考えていたのよ。あれが飲みたいなって。どこでカクテルを飲んでも、ここで飲むカクテルとは何かが少し違っているのね」 「どこか遠くに行っていたの?」 「どうしてそう思うの?」と島本さんは訊きかえした。 「そういう風に見えるからだよ」と僕は言った。「なんとなく君のまわりにそういう匂いがするんだ。長いあいだずっとどこか遠くに行っていたようなね」  彼女は顔を上げて僕を見た。そして頷いた。「ねえハジメくん、私は長いあいだ……」と彼女は言いかけたが、ふと何かを思い出したように黙り込んだ。僕は彼女が自分の中で言葉を探っている様子を眺めていた。でも言葉はみつからなかったようだった。彼女は唇を噛んで、それからまた微笑んだ。「ごめんなさい、とにかく。何か連絡くらいするべきだったのね。でも私は、ある種のものは手つかずにしておきたかったの。完全なまま保存しておきたかったの。私はここに来るか、あるいはここに来ないかなの。ここに来るときには私はここに来る。ここに来ないときには——、私は余所《よそ》にいるの」 「中間はないんだね?」 「中間はないの」と彼女は言った。「何故なら、そこには中間的なものが存在しないからなの」 「中間的なものが存在しないところには、中間も存在しない」と僕は言った。 「そう、中間的なものが存在しないところには、中間も存在しないの」 「犬が存在しないところには、犬小屋が存在しないように」 「そう、犬が存在しないところには、犬小屋が存在しないように」と島本さんは言った。そしておかしそうに僕を見た。「あなたには不思議なユーモアの感覚があるのね」  ピアノ・トリオがいつものように『スタークロスト・ラヴァーズ』の演奏を始めた。僕と島本さんとはしばらく黙ってその曲を聴いていた。 「ねえ、ひとつ質問していいかしら?」 「どうぞ」と僕は言った。 「この曲はあなたと何か関係があるの?」と彼女が僕に訊ねた。「あなたがここに来るといつも一度はこの曲が演奏されるような気がするんだけど。それはここの決まりか何かなのかしら?」 「べつに決まりなんかじゃないよ。ただ単に好意でやってくれているんだ。彼らは僕がこの曲を好きなのを知ってるんだ。だから僕がここにいると、いつもこの曲を演奏してくれるんだ」 「素敵な曲ね」  僕は頷いた。「とても綺麗な曲だ。でもそれだけじゃない。複雑な曲でもある。何度も聴いているとそれがよくわかる。簡単に誰にでも演奏できる曲じゃない」と僕は言った。「『スタークロスト・ラヴァーズ』、デューク・エリントンとビリー・ストレイホーンがずっと昔に作った。一九五七年だったっけな」 「スタークロスト・ラヴァーズ」と島本さんは言った。「それはどういう意味なのかしらや」 「悪い星のもとに生まれた恋人たち。薄幸の恋人たち。英語にはそういう言葉があるんだ。ここではロミオとジュリエットのことだよ。エリントンとストレイホーンはオンタリオのシェイクスピア・フェスティヴァルで演奏するために、この曲を含んだ組曲を作ったんだ。オリジナルの演奏では、ジョニー・ホッジスのアルト・サックスがジュリエットの役を演奏して、ボール・ゴンザルヴェスのテナー・サックスがロミオの役を演奏した」 「悪い星のもとに生まれた恋人たち」と島本さんは言った。「まるでなんだか私たちのために作られた曲みたいじゃない?」 「僕らは恋人なのかな?」 「あなたはそうじゃないと思うの?」  僕は島本さんの顔を見た。彼女の顔にはもう微笑みは浮かんでいなかった。その瞳の中に微かな輝きのようなものが見えるだけだった。 「島本さん、僕は今の君のことを何も知らないんだよ」と僕は言った。「僕は君の目を見るたびにいつもそう思う。僕は君のことを何ひとつ知らないんだって。僕がかろうじて知っていると言えるのは、十二のときの君だけだ。近所に住んでいて、同じクラスにいた島本さんのことだけだ。それは今からもう二十五年も前の話なんだよ。ツイストが流行って、路面電車が走っていた頃のことだよ。カセット・テープもタンポンも新幹線もダイエット食品もなかった頃のことだ。大昔だよ。その頃の君について知っていた以外のことを、僕はほとんど何も知らないんだ」 「私の目にそう書いてあるのやあなたは私のことを知らないって」 「君の目には何も書かれていない」と僕は言った。「それは僕の目に書いてあるんだ。僕は君のことを何も知らないってね。それが君の目に映るだけだよ。君は何も気にしなくていい」 「ねえハジメくん」と島本さんは言った。「あなたに何も言えなくて、それは本当に悪いと思う。本当にそう思っているのよ。でもそれは仕方のないことなの。私にもどうしようもないことなの。だからもう何も言わないで」 「さっきも言ったように、これはただの独り言なんだ。だから気にしなくていい」  彼女はジャケットの襟に手をやって、魚のかたちをしたブローチを長いあいだ指で撫でていた。そして何も言わずにじっとピアノ・トリオの演奏を聴いていた。演奏が終わると彼女は拍手をして、カクテルをひとくち飲んだ。そして長いため息をついてから、僕の顔を見た。 「たしかに六カ月というのは長かったわね」と彼女は言った。「でもとにかく、たぶんこれからしばらくは、ここに来ることができると思う」 「マジック・ワードだ」と僕は言った。 「マジック・ワード?」と島本さんは言った。 「たぶん[#「たぶん」に傍点]としばらく[#「しばらく」に傍点]」と僕は言った。  島本さんは微笑みを浮かべて僕の顔を見ていた。それから小さなバッグから煙草を取り出し、ライターで火をつけた。 「君を見ていると、ときどき遠い星を見ているような気がすることがある」と僕は言った。「それはとても明るく見える。でもその光は何万年か前に送りだされた光なんだ。それはもう今では存在しない天体の光かもしれないんだ。でもそれはあるときには、どんなものよりリアルに見える」  島本さんは黙っていた。 「君はそこにいる」と僕は言った。「そこにいるように見える。でも君はそこにいないかもしれない。そこにいるのは君の影のようなものに過ぎないかもしれない。本当の君はどこか余所にいるのかもしれない。あるいはもうずっと昔に消えてなくなってしまっているのかもしれない。僕にはそれがだんだんわからなくなってくるんだ。僕が手を伸ばしてたしかめようとしても、いつも君は『たぶん』とか『しばらく』というような言葉ですっと体を隠してしまうんだ。ねえ、いつまでこういうのが続くんだろう」 「おそらく、当分」と彼女は言った。 「君には不思議なユーモアの感覚がある」と僕は言った。そして笑った。  島本さんも笑った。それは雨があがったあとに雲が音もなく割れて、そこから最初の太陽の光がこぼれてくるときのような微笑みだった。目の脇に温かい小さな皺がよって、それが僕に何か素敵なことを約束していた。「ねえハジメくん、あなたにプレゼントかあるのよ」  そして彼女は綺麗な包装紙にくるんで、赤いリボンをつけたそのプレゼントを僕に手渡してくれた。 「これはレコードのように見えるな」と僕はその重みを量りながら言った。 「ナット・キング・コールのレコード。昔二人でよく一緒に聴いたレコード。懐かしいでしょう。あなたに譲るわ」 「ありがとう。でも君は要らないの? これはお父さんの形見なんだろう」 「私はまだその他にも何枚も持っているから大丈夫。それはあなたにあげる」  僕は包装紙にくるまれ、リボンをつけたままのそのレコードをじっと見ていた。そのうちに人々のざわめきや、ピアノ・トリオの演奏が、まるで潮が急激に引いていくときのようにずっと遠のいていった。そこにいるのは、僕と島本さんの二人だけだった。それ以外のものは、ただの幻影に過ぎなかった。そこには一貫性もなければ、必然性もなかった。それははりぼての舞台装置のようなものに過ぎなかった。そこに存在する本当のものは、僕と島本さんだけだった。 「島本さん」と僕は言った。「どこかに行って、二人でこれを聴かないか」 「そうすることができたらきっと素晴らしいでしょうね」と彼女は言った。 「箱根に僕の小さな別荘があるんだ。そこには誰もいないし、ステレオもある。この時間なら車で飛ばせば一時間半で着ける」  島本さんは時計を見た。そして僕の顔を見た。「今から行くの?」 「そうだよ」と僕は言った。  彼女は何か遠くにあるものを見るときのように、目を細めて僕の顔を見ていた。「今はもう十時過ぎなのよ。これから箱根に行って帰ってきたらずいぶん遅くなるわよ。あなたはそれでもかまわないの?」 「僕はかまわない。君は?」  彼女はもう一度時計に目をやった。それから十秒ばかり彼女は目を閉じていた。目を開けたとき、彼女の顔には何か新しい種類の表情が浮かんでいた。彼女は目を閉じているあいだにどこか遠いところに行って、そこに何かを置いてから戻ってきたみたいに見えた。「いいわよ。行きましょう」と彼女は言った。  僕はマネージャーのような役目をしている従業員を呼んで、今日はもう引き上げるから、あとのことはやっておいてくれと言った。レジスターを閉めて、伝票を整理し、売上を銀行の夜間金庫に入れておけばいいのだ。僕はマンションの地下駐車場まで歩いていってBMWを出してきた。それから近くの公衆電話から妻に電話をかけ、今から箱根に行ってくると言った。 「今から?」と彼女はびっくりして言った。「どうして今から箱根になんか行かなくちゃならないの?」 「少しものを考えたいんだ」と僕は言った。 「ということは今日はもう帰ってこないの?」 「たぶん帰らない」 「ねえ」と妻は言った。「さっきのことはごめんなさい。いろいろと考えてみたんだけど、私が悪かったと思う。あなたが言ったことはたしかにそのとおりだと思う。株はもう全部ちゃんと処分しておいたわよ。だから家に帰ってきて」 「ねえ有紀子、僕は君のことを怒っているわけじゃないんだ。ぜんぜん怒ってなんかいない。さっきのことは気にしないでいい。僕はただいろんなことを考えたいんだ。一晩だけ僕に考えさせてくれ」  彼女はしばらく黙っていた。「わかったわ」と妻は言った。彼女の声はひどく疲れているよぅだった。「いいわよ。箱根に行ってらっしゃい。でも運転には気をつけてね。雨も降っているし」 「気をつける」 「私にはいろんなことがよくわからないのよ」と妻は言った。「私はあなたの邪魔をしてるんだと思う?」 「邪魔なんかしてないよ」と僕は言った。「君には何の問題もないし、責任もない。もし問題があるとしたら、それは僕の方だ。だからそのことはもう気にしないでいい。僕はただ考えたいだけなんだ」  僕は電話を切って、それから車で店に戻った。たぶん有紀子は昼食の席で我々が交わした会話のことをあれからずっと考えていたのだろう。僕が言ったことについて考え、自分が言ったことについて考えていたのだ。それは彼女の声の調子でわかった。それは疲れて、戸惑った声だった。そう思うと、僕は切ない気持ちになった。雨はまだ強く降りつづいていた。僕は島本さんを車に乗せた。 「君はべつにどこかに連絡しなくてもいいの?」と僕は島本さんに訊いた。  彼女は黙って首を振った。そして羽田から帰ってきたときと同じように窓ガラスに顔をつけるようにしてじっと外を見つめていた。  箱根までの道路はすいていた。僕は東名高速を厚木で下りて、小田原厚木道路を小田原までまっすぐに行った。スピード・メーターの針は常に130と140のあいだを行ったり来たりしていた。雨はときどきひどく激しくなったが、それは何度も通い馴れた道だった。僕はその途中にあるあらゆるカーヴと坂道を記憶していた。僕と島本さんは高速道路に入ってからはほとんど口をきかなかった。僕は小さな音でモーツァルトのクァルテットを聴き、運転に神経を集中していた。彼女は窓の外をじっと見なから、何かについて考え込んでいるようだった。ときどき彼女は僕の方に顔を向けて、じっと僕の横顔を見た。彼女にそんな風に見つめられると、僕の口の中はからからに乾いた。僕は気を落ちつけるために何度も唾を呑み込まなくてはならなかった。 「ねえハジメくん」と彼女は言った。そのとき僕らは国府津のあたりを走っていた。「お店の外ではあまりジャズを聴かないの?」 「そうだね。あまり聴かないな。だいたいいつもクラシックを聴いているね」 「どうして?」 「たぶんそれは僕がジャズという音楽を仕事にしてしまったからだと思うな。店の外に出ると、別のものが聴きたくなるんだ。クラシックの他にはロックを聴くこともある。でもジャズはほとんど聴かない」 「あなたの奥さんはどんな音楽を聴くの?」 「彼女はあまり自分から音楽を聴かないんだ。僕が聴いていればそれを一緒に聴いている。でも自分からはレコードをかけるようなことはほとんどない。たぶんレコードのかけかたも知らないんじゃないかと思う」  彼女はカセット・テープのケースに手を伸ばして、そのいくつかを手にとって眺めていた。 その中には娘たちと一緒に歌うための子供の歌のカセットもあった。『犬のおまわりさん』とか『チューリップ』とかが入っているやつだ。僕らは幼稚園の行き帰りによくそれをかけて歌った。島本さんはスヌーピーの絵のラベルがついたそのカセット・テープを珍しそうにしばらく見ていた。  それから彼女はまたじっと僕の横顔を見た。「ハジメくん」と彼女は少しあとで言った。「あなたが運転しているのをこうして横で見ていると、私ときどき手を伸ばしてそのハンドルを思い切りぐっと回してみたくなるの。そんなことをしたら死んじゃうでしょうね」 「まあ確実に死ぬだろうね。130キロは出ているからね」 「私と一緒にここで死ぬのは嫌?」 「そういうのはあまり素敵な死に方じゃないな」と僕は笑って言った。「それにまだレコードだって聴いてない。僕らはレコードを聴きにきたんだろう」 「大丈夫よ。そんなことしないから」と彼女は言った。「ただちょっとそういうことを考えてみるだけ。ときどき」  まだ十月の初めだったが、箱根の夜はかなり冷え込んでいた。別荘に着くと、僕は電気をつけ、居間のガス・ストーブをつけた。そして戸棚からブランディー・グラスとブランディーを出した。しばらくして部屋が暖まると、僕らは昔のようにソファーに並んで座って、ナット・キング・コールのレコードをターンテーブルに載せた。ストーブの火が赤く燃えて、それかブランディー・グラスに映っていた。島本さんは両脚をソファーの上にあげ、腰の下に折り込むようにして座っていた。そして片手を背もたれに載せ、片手を膝の上に置いていた。昔と同じだ。あの頃の彼女はたぶん、あまり脚を見られたくなかったのだ。そしてその習慣が、手術で脚を治した今でもまだ残っているのだ。ナット・キング・コールは『国境の南』を歌っていた。その曲を聴くのは本当に久しぶりだった。 「実をいうと、子供の頃このレコードを聴きながら、僕は国境の南にはいったい何かあるんだろうといつも不思議に思っていたんだ」と僕は言った。 「私もよ」と島本さんは言った。「大きくなってから英語の歌詞を読んでみて、すごくがっかりしたわ。ただのメキシコの歌なんだもの。国境の南にはもっとすごいものがあるんじゃないかと思っていたの」 「たとえばどんなものが?」  島本さんは髪を手で後ろにまわして軽く束ねていた。「わからないわ。何かとても綺麗で、大きくて、柔らかいもの」 「何かとでも綺麗で、大きくて、柔らかいもの」と僕は言った。「それは食べることのできるものかな」  島本さんは笑った。その奥に白い歯をかすかに見ることができた。 「たぶん食べることはできないと思う」 「触ることはできると思う?」 「たぶん触ることはできると思う」 「たぶん[#「たぶん」に傍点]が多すぎるような気がするな」と僕は言った。 「そこはたぶん[#「たぶん」に傍点]の多い国なの」と彼女は言った。  僕は手を伸ばして、背もたれの上にある彼女の指に触れた。彼女の体に触れるのは本当に久しぶりのことだった。小松空港から羽田に向かう飛行機の中以来だった。僕がその指に触れると、彼女は顔をちょっと上げて僕を見た。それからまた目を伏せた。 「国境の南、太陽の西」と彼女は言った。 「なんだい、その太陽の西っていうのは?」 「そういう場所があるのよ」と彼女は言った。「ヒステリア・シベリアナという病気のことは聞いたことがある?」 「知らないな」 「昔どこかでその話を読んだことがあるの。中学校の頃だったかしら。何の本だったかどうしても思い出せないんだけれど……、とにかくそれはシベリアに住む農夫がかかる病気なの。ねえ、想像してみて。あなたは農夫で、シベリアの荒野にたった一人で住んでいるの。そして毎日毎日畑を耕しているの。見渡すかぎり回りにはなにもないの。北には北の地平線があり、東には東の地平線があり、南には南の地平線があり、西には西の地平線があるの。ただそれだけ。あなたは毎朝東の地平線から太陽がのぼると畑に出て働いて、それが真上に達すると仕事の手を休めてお昼ご飯を食べて、それか西の地平線に沈むと家に帰ってきて眠るの」 「それは青山界隈でバーを経営しているのとはずいぶん違った種頼の人生のように聞こえるね」 「まあね」と彼女は言って微笑んだ。そしてほんのちょっと首を傾げた。「ずいぶん違うでしょうね。それが何年も何年も、毎日続くの」 「でもシベリアでは冬には畑は耕せないよ」 「冬は休むのよ。もちろん」と島本さんは言った。「冬は家の中にいて、家の中で出来る仕事をしているの。そして春が来ると、外に出ていって畑仕事をするの。あなたはそういう農夫なのよ。想像してみて」 「しているよ」と僕は言った。 「そしてある日、あなたの中で何かが死んでしまうの」 「死ぬって、どんなものが?」  彼女は首を振った。「わからないわ。何かよ。東の地平線から上がって、中空を通り過ぎて、西の地平線に沈んでいく太陽を毎日毎日繰り返して見ているうちに、あなたの中で何かがぷつんと切れて死んでしまうの。そしてあなたは地面に鋤を放り出し、そのまま何も考えずにずっと西に向けて歩いていくの。太陽の西に向けて。そして憑かれたように何日も何日も飲まず食わずで歩きつづけて、そのまま地面に倒れて死んでしまうの。それがヒステリア・シベリアナ」  僕は大地につっぷして死んでいくシベリアの農夫の姿を思い浮かべた。 「太陽の西にはいったい何があるの?」と僕は訊いた。  彼女はまた首を振った。「私にはわからない。そこには何もないのかもしれない。あるいは何か[#「何か」に傍点]があるのかもしれない。でもとにかく、それは国境の南とは少し違ったところなのよ」  ナット・キング・コールが『プリテンド』を歌うと、島本さんも小さな声で昔よくやったようにそれに合わせて歌った。  ブリテンニュアパピーウェニャブルウ  イティイズンベリハートゥドゥー 「ねえ島本さん」と僕は言った。「君かいなくなってから、僕はずっと君のことを考えていたんだ。約半年間だよ。六カ月近く毎日、朝から晩まで僕は君のことを考えていた。考えるのはもうやめようと思った。でもどうしてもやめることができなかった。そして最後にこう思ったんだ。僕はもう君にどこにも行って欲しくない。僕は君がいなくてはやっていけない。僕はもう二度と君の姿を失いたくない。しばらく[#「しばらく」に傍点]のあいだなんていう言葉はもう二度と聞きたくない。たぶん[#「たぶん」に傍点]というのも嫌だ。僕はそう思ったんだ。しばらくのあいだ会えないと思う、と言って君はどこかに消えてしまう。でも本当にいつか君が帰ってくるのかどうか、そんなことは誰にもわからない。確証なんて何もないんだよ。君はもう二度と戻ってこないかもしれない。僕はもう君に会えないまま人生を終えてしまうことになるかもしれない。そう思うと、僕はなんだかやりきれない気持ちになった。僕のまわりにある何もかもが意味のないものに思えた」  島本さんは何も言わずに僕を見ていた。彼女の顔にはずっと同じかすかな微笑みが浮かんでいた。それはなにものにも決して乱されることのない静かな微笑みだった。でも僕はそこに彼女の感情というものを読み取ることかできなかった。その微笑みは、その向こう側に潜んでいるはずのものの姿かたちについて、何ひとつとして僕に教えてはくれなかった。その微笑みを前にしていると、僕は一瞬自分の感情までをも見失ってしまいそうになった。僕は自分がいったいどこにいるのか、自分がどちらを向いているのか、まったくわからなくなってしまった。でも僕は時間をかけて、自分が口にするべき言葉をみつけだした。 「僕は君のことを愛している。それはたしかだ。僕が君に対して抱いている感情は、他のなにものをもってしても代えられないものなんだ」と僕は言った。「それは特別なものであり、もう二度と失うわけにはいかないものなんだ。僕はこれまでに何度か君の姿を見失ってきた。でもそれはやってはいけないことだったんだ。間違ったことだった。僕は君の姿を見失うべきではなかった。この何カ月かのあいだに、僕にはそれがよくわかったんだ。僕は本当に君を愛しているし、君のいない生活に僕はもう耐えることができない。もうどこにも行ってほしくない」  僕が話し終えると、彼女はしばらく何も言わずに目を閉じていた。ストーブの火が燃え、ナット・キング・コールは古い歌をうたい続けていた。僕は何かをつけ加えて言おうと思った。でももう言うべき言葉はなかった。 「ねえバジメくん、よく聞いてね」とずいぶんあとで島本さんは言った。「これはとても大事なことだから、よく聞いて。さっきも言ったように、私には中間というものが存在しないのよ。私の中には中間的なものは存在しないし、中間的なものが存在しないところには、中間もまた存在しないの。だからあなたには私を全部取るか、それとも私を取らないか、そのどちらかしかないの。それが基本的な原則なの。もしあなたがこのままの状況を続けるのでもかまわないというのなら、それは続けられると思う。いつまでそれが続けられるかは私にもわからないけれど、私はそれを続けるためにはできるかぎりのことをするわ。私はあなたに会いに来られるときにはあなたに会いに来る。そのためには私も私なりに努力をしているのよ。でも会いに来られないときには、来られないの。いつでも好きなときに会いに来るというわけにはいかないの。それははっきりしているのよ。でももしあなたがそういうのは嫌だ、二度と私にどこにも行ってほしくないというのであれば、あなたは私を全部取らなくてはいけないの。私のことを隅から隅まで全部。私がひきずっているものや、私の抱え込んでいるものも全部。そして私もたぶんあなたの全部を取ってしまうわよ。全部よ。あなたにはそれがわかっているの? それが何を意味しているかもわかっているの?」 「よくわかってるよ」と僕は言った。 「それでもあなたは本当に私と一緒になりたいの?」 「僕はもう既にそれを決めてしまったんだよ、島本さん」と僕は言った。「僕は君のいないあいだに何度も何度もそのことについては考えたんだ。そして僕はもう心を決めてしまっているんだよ」 「でもねバジメくん、あなたの奥さんと二人の娘さんはどうするのやあなたは奥さんも娘さんたちのことも愛しているんでしょう。あなたはその人たちをとても大事にしているはずよ」 「僕は彼女たちのことを愛してるよ。とても愛している。そしてとても大事にしている。それはたしかに君の言うとおりだよ。でも僕にはわかるんだ——それだけでは足りないんだということがね。僕には家庭があり、仕事がある。僕はどちらにも不満を持っていないし、これまでのところはどちらもとてもうまく機能してきたと思う。僕は幸せだったと言ってもいいと思う。でもね、それだけじゃ足りないんだ。僕にはそれがわかる。一年ほど前に君と会うようになってから、僕にはそれかよくわかるようになったんだ。ねえ島本さん、いちばんの問題は僕には何かが欠けているということなんだ。僕という人間には、僕の人生には、何かがぽっかりと欠けているんだ。失われてしまっているんだよ。そしてその部分はいつも飢えて、乾いているんだ。その部分を埋めることは女房にもできないし、子供たちにもできない。それができるのはこの世界に君一人しかいないんだ。君といると、僕はその部分が満たされていくのを感じるんだ。そしてそれが満たされて初めて僕は気がついたんだよ。これまでの長い歳月、どれほど自分が飢えて渇いていたかということにね。僕にはもう二度と、そんな世界に戻っていくことはできない」  島本さんは両腕を僕の体に回して、そっともたれかかった。彼女の頭は僕の肩の上に載せられていた。僕は彼女の柔らかい肉を感じることができた。それは僕の体に温かく押しつけられていた。 「私もあなたのことを愛しているのよ、ハジメくん。私は生まれてからあなた以外の人を愛したことなんてないのよ。私がどれほどあなたのことを愛しているか、あなたにはきっとわからないと思う。私は十二のときからずっとあなたのことを愛していたのよ。誰かに抱かれていでも、いつもあなたのことを思っていた。だからこそ私はあなたに会いたくなかったの。あなたに一度会ってしまうと、もうどうしようもなくなってしまいそうな気がしたの。でも会わないわけにはいかなかった。本当にあなたの顔をみたら、それだけですぐに帰ってしまおうと思っていたのよ。でも実際にあなたの顔を見たら、声をかけないわけにはいかなかったの」、島本さんは僕の一肩の上に頭をそっと休めたままそう言った。「私は十二のときから、もうあなたに抱かれたいと思っていたのよ。でもあなたはそんなこと知らなかったでしょう?」 「知らなかった」と僕は言った。 「私は十二のときからもう、裸になってあなたと抱き合いたいと思っていたのよ。あなたはそんなことも知らなかったでしょう?」  僕は彼女の体を抱きしめて、口づけした。彼女は僕の腕の中でじっと目を閉じて、身動きひとつしなかった。僕の舌は彼女の舌と絡み合い、僕は彼女の乳房の下に心臓の鼓動を感じた。それは激しく、暖かい鼓動だった。僕は目を閉じて、そこにある彼女の赤い血のことを思った。僕は彼女の柔らかな髪を撫で、その匂いをかいだ。彼女の両手は僕の背中の上を、何かを求めるように彷徨っていた。レコードが終わって、ターンテーブルが止まり、アームはアーム・レストに戻った。ふたたび雨音だけが僕らのまわりを取り囲んでいた。少しあとで島本さんは目を開けて、僕の顔を見た。「ハジメくん」と彼女は小さな声で囁くように言った。「本当にそれでいいの? 本当に私のことを取るの? あなたは私のために何もかもを捨ててしまっていいの?」  僕は頷いた。「それでいい。もう決めたことなんだ」 「でもあなたはもし私に出会わなかったなら、あなたの現在の生活に不満やら疑問を感じることもなく、そのまま平穏に生きていたんじゃないかしら。そうは思わない?」 「あるいはそうかもしれない。でも現実に僕は君に会ったんだ。そしてそれはもうもとには戻せないんだよ」と僕は言った。「君が前に言ったように、ある種のことはもう二度と元には戻らないんだ。それは前にしか進まないんだ。島本さん、どこでもいいから、二人で行けるところまで行こう。そして二人でもう一度始めからやりなおそう」 「バジメくん」と島本さんは言った。「服を脱いで体を見せてくれる?」 「僕が脱ぐの?」 「そうよ。まずあなたが服を全部脱ぐの。そしてまず私があなたの裸の体を見るの。いや?」 「いいよ。君がそうしてほしいのなら」と僕は言った。僕はストーブの前で服を脱いだ。僕はヨット・パーカを脱ぎ、ポロシャツを脱ぎ、ブルージーンを脱ぎ、靴下を脱ぎ、Tシャツを脱ぎ、パンツを脱いだ。そして島本さんは裸になった僕に床の上に両膝をつかせた。僕のペニスは硬く大きく勃起していて、それは僕を気恥ずかしくさせた。彼女は少し離れたところから僕の体をじっと見ていた。彼女はまだジャケットも脱いでいなかった。 「僕だけが裸になるというのはなんだか変なもんだな」と僕は笑って言った。 「とても素敵よ、ハジメくん」と島本さんは言った。そして彼女は僕のそばに来て、僕のペニスをそっと指で包み、僕の唇にキスした。それから彼女は僕の胸に手をやった。彼女はとても長い時間をかけて僕の乳首を舐め、陰毛を撫でた。僕の臍に耳をつけ、睾丸を口にふくんだ。彼女は僕の体じゅうにキスした。彼女は僕の足の裏にまでキスをした。彼女はまるで時間そのものをいとおしんでいるように見えた。時間そのものを撫でたり、吸ったり、舐めたりしているように見えた。 「君は服を脱がないの?」と僕は訊いた。 「もっとあとで」と彼女は言った。「私はあなたの体をこのままずっと眺めて、もっと好きに舐めたり触ったりしていたいの。だってもし私がここで裸になったら、あなたはすぐに私の体を触ろうとするでしょう? まだ駄目と言っても我慢できないでしょう、たぶん」 「たぶんね」 「そういう風にしたくないの。私は急ぎたくないのよ。だってここに来るまでにこんなに長くかかったんだもの。私はまずあなたの体を全部この目で見て、この手で触って、この舌で舐めたいの。ひとつひとつ時間をかけてたしかめたいのよ。まずそれを済ませないと、私はそこから先に進めないの。ねえハジメくん、私のすることがもし何か変な風に見えたとしでも、それはあまり気にしないでね。私はそうすることが必要だからそうしているだけなのよ。何も言わないで、私にそうさせておいてね」 「それはかまわないよ。好きなだけ好きなことをすればいい。でもそんなにじろじろと眺められるとなんだか不思議な気がするな」と僕は言った。 「だってあなたは私のものなんでしょう?」 「そうだよ」 「だったら恥ずかしいことなんてないでしょう?」 「たしかにそうだ」と僕は言った。「きっとまだよく馴れてないんだろう」 「でも、もう少しだけ我慢してね。こうするのが長いあいだの私の夢だったんだから」と島本さんは言った。 「こんな風に僕の体を眺めるのが君の夢だったの? 君の方は服を着たまま僕の裸を見たり触ったりすることが」 「そう」と彼女は言った。「私は昔からずっとあなたの体のことを想像してたの。あなたの裸ってどんなだろうって。それはどんな恰好をしたおちんちんで、どれくらい硬く、どれくらい大きくなるんだろうって」 「どうしてそんなこと考えたの?」 「どうして?」と彼女は言った。「どうしてそんなことを訊くの? 私はあなたのことを愛しているって言ったでしょう。好きな男の裸のことを考えて何がいけないの。あなたは私の裸のことを考えなかった?」 「考えたと思う」と僕は言った。 「私の裸の体を思い浮かべてマスターベーションしたことないの?」 「あると思う。中学校や高校の頃に」と言ってから僕は訂正した。「いや、それだけじゃないな。ついこのあいだもやったよ」 「私だって同じことしたわ。あなたの裸の体を思い浮かべて。女の人だってそういうことしないわけじゃないのよ」と彼女は言った。  僕は彼女の体をもう一度抱き寄せてゆっくりと口づけした。彼女の舌が僕の口の中にもぐり込んできた。「愛してるよ、島本さん」と僕は言った。 「愛してるわ、ハジメくん」と島本さんは言った。「あなたの他に愛した人は誰もいない。ねえ、もう少しのあいだあなたの体を見てていい?」 「いいよ」と僕は言った。  彼女は僕のペニスと睾丸を手のひらでそっと包んだ。「素敵」と彼女は言った。「このまませんぶ食べてしまいたい」 「食べられると困る」と僕は言った。 「でも食べてしまいたい」と彼女は言った。彼女はまるで正確な重さを測るように、僕の睾丸をいつまでもじっと掌に載せていた。そしてとても大事そうに僕のペニスをゆっくりと舐めて吸った。それから僕の顔を見た。「ねえ、いちばん最初は私の好きなようにさせてくれる? 私のやりたいようにさせてくれる?」 「かまわないよ。なんでも君の好きなようにしていい」と僕は言った。「本当に食べたりしなければべつに何をしてもかまわないよ」 「ちょっと変なことするけど気にしないでね。恥ずかしいから、そのことについては何も言わないでね」 「何も言わない」と僕は言った。  彼女は僕に床に膝をつかせたまま、左手で僕の腰を抱いた。そして彼女はワンピースを着たまま片手でストッキングを脱ぎ、パンティーを取った。それから右手で僕のペニスと睾丸を持ち、舌で舐めた。そしてスカートの中に自分の手を入れた。そして僕のペニスを吸いながら、その手をゆっくりと動かし始めた。  僕は何も言わなかった。彼女には彼女のやり方があるのだ。僕は彼女の唇と舌と、スカートの中に入れられた手のゆるやかな動きを見ていた。そしてあのボウリング場の駐車場に停めたレンタカーの中で、硬く白くなっていた島本さんのことをふと思い出した。僕はそのときの彼女の瞳の奥に見たもののことをまだはっきりと覚えていた。その瞳の奥にあったものは、地底の氷河のように硬く凍りついた暗黒の空間だったのだ。そこにはあらゆる響きを吸いこみ、二度と浮かびあがらせることのない深い沈黙があった、沈黙の他には何もなかった。凍りついた空気はどのような種類の物音をも響かせることはなかった。  それは僕が生まれて初めて目にした死の光景だった。僕はそれまでに身近な誰かを亡くしたという体験を持たなかった。目の前で誰かが死んでいくのを目にしたこともなかった。だから死というのがいったいどういうものなのか、僕にはそれまで具体的に思い浮かべることができなかった。でもそのとき、死はありのままの姿で僕のすぐ前にあった。僕の顔からほんの数センチのところにそれは広がっていた。これが死というものの姿なのだ、と僕は思った。お前もやはりいつかはここに来ることになるのだと彼らは語っていた。誰もがやがては、この暗黒の根源の中を、共鳴を失った沈黙の中を、どこまでもどこまでも孤独のうちに落ちていくことになるのだ。僕はその世界を前にして息苦しくなるほどの恐怖を感じた。この暗黒の穴には底というものがないと僕は思った。  僕はその凍りついた暗黒の奥に向かって彼女の名を呼んだ。島本さん、と僕は何度も大きな声で呼んだ。でも僕の声は果てしのない虚無の中に吸い込まれていった。僕がどれだけ呼びかけても、彼女のその瞳の奥にあるものは、微動だにしなかった。彼女は相変らずあの奇妙なすきま風のような音のする息を続けていた。その規則的な息づかいは、彼女がまだこちらの世界にいることを僕に教えていた。でもその瞳の奥にあるのは、すべてが死に絶えたあちら側の世界だった。  彼女の瞳の中のその暗黒をじっと覗き込みながら、島本さんの名前を呼んでいるうちに、僕はだんだん、自分の体がそこに引きずり込まれていくような感覚に襲われた。まるで真空の空間がまわりの空気を吸い込むように、その世界は僕の体を引き寄せていた。僕にはその確かな力の存在を今でも思い出すことができた。そのとき、彼らは僕をもまた求めていたのだ。  僕はしっかりと目を閉じた。そしてその記憶を頭から追い払った。  僕は手を伸ばして島本さんの髪を撫でた。僕は彼女の耳を触り、彼女の額に手をあてた。島本さんの体は温かく、柔らかかった。彼女はまるで生命そのものを吸い取ろうとしているかのように、僕のペニスを吸いつづけた。彼女の手はまるで何かをそこに伝えようとするかのように、スカートの下にある自分の性器を撫でていた。少しあとで僕は彼女の口の中に射精し、彼女は手を動かすのをやめて目を閉じた。そして僕の精液を最後の一滴まで舐めて吸った。 「ごめんね」と島本さんは言った。 「謝ることはないよ」と僕は言った。 「最初はこうしたかったの」と彼女は言った。 「恥ずかしいけど、一度こうしないことには、どうしても気持ちが落ちつかなかったの。これは私たちにとっての儀式みたいなものなの。わかる?」  僕は彼女の体を抱いた。そしてその頬にそっと頬をつけた。彼女の頻にはたしかな温かみが感じられた。僕は髪を上にあげて、その耳に口づけした。それから僕は彼女の目を覗き込んでみた。僕は彼女の瞳に映った僕の顔を見ることができた。そしてその奥にはいつもの底の見えないほどの深い泉があった。そしてそこには仄かな光が輝いていた。それは生命の灯火のように僕には感じられた。いつかは消えてしまうかもしれないけれど、今はたしかにそこにある灯火だった。彼女は僕に微笑んだ。彼女が微笑むといつものように小さな殻が目の脇に寄った。僕はその小さな皺にキスをした。 「今度はあなたが私の服を脱がせて。そして今度はあなたの好きなようにして。さっきは私があなたを好きなようにしたから、次はあなたが私のことを好きにしていいのよ」 「ごく普通のがいいんだけど、それでいいかな? あるいは僕には想像力が欠けているのかもしれないけれど」と僕は言った。 「いいわよ」と島本さんは言った。「普通のは私も好きよ」  僕は彼女のワンピースを脱がし、下着を取った。そして僕は彼女を床に寝かせ、体じゅうにキスをした。彼女の体を隅から隅まで眺め、そこに手を触れ、唇をつけた。僕はそれを確認し、記憶した。僕はそれにたっぷりと長い時間をかけた。これだけ長い年月をかけてやっとここまで来たのだ。僕も彼女と同じように急ぎたくなかった。僕は我慢できるところまで我慢して、もうそれ以上我慢できないというところまで来てから、ゆっくりと彼女の中に入った。  僕らが眠ったのは夜明け前だった。僕らはその床の上で何度か交わった。僕らは優しく交わり、それから激しく交わった。途中で一度、僕が中に入っているときに、彼女は感情の糸が切れてしまったみたいに激しく泣いた。そして拳で僕の背中や肩を強く叩いた。そのあいだ僕は彼女の体を強く抱きしめていた。僕が抱きしめていないと、島本さんはそのままばらばらにほどけてしまいそうに見えた。僕は何かをなだめるようにその背中をずっと撫でていた。僕は彼女の首筋に口づけをし、髪を指で梳いた。彼女はもうクールで自己抑制の強い島本さんではなかった。長い年月、彼女の心の奥底で硬く凍りついていたものが少しずつ溶けて表面に姿を見せ始めているようだった。僕はその息吹と遠い胎動を感じ取ることができた。僕は彼女をしっかりと抱きしめ、その震えを僕の体の中に受け入れていった。このようにして彼女は少しずつ僕のものになろうとしているのだ、と僕は思った。もう僕はここから離れるわけにはいかない。 「僕は君のことを知りたいんだ」と僕は島本さんに言った。「僕は君の何もかもを知りたい。君がこれまでどうやって生きてきたのが、今はどこに住んで何をしているのか。君は結婚しているのかいないのか。そういうことを何から何まで全部知りたいんだ。僕は君が僕に対してたとえどんなことであれ何か秘密を持っていることに、これ以上もう耐えられそうにない」 「明日になったらね」と島本さんは言った。「明日になったら、何もかも話してあげるわ。だからそれまでは何も訊かないで。今日はまだ何も知らないままでいて。もし私がここで話してしまったら、あなたはもう永久にもとに戻れなくなってしまうのよ」 「もうどうせ僕はもとには戻れないよ、島本さん。それにひょっとしたら明日は来ないかもしれないんだ。そしてもし明日が来なかったら、僕は君が胸に抱えていたことを何も知らないままに終わってしまうことになる」と僕は言った。 「本当に明日が来ないといいんだけれど」と島本さんは言った。「もし明日がこなければ、あなたは何も知らないままでいられるのよ」  僕が何かを言おうとすると、彼女は僕に口づけしてそれをとめた。 「明日なんて禿ワシに食べられてしまえばいいのよ」と島本さんは言った。「明日を食べるのは禿ワシでいいのかしら」 「いいよ。ちゃんと合ってる。禿ワシは芸術も食べるけれど、明日も食べるんだ」 「禿タカは何を食べるんだっけ?」 「名もなき人々の死体」と僕は言った。「禿ワシとはぜんぜん達うんだ」 「禿ワシは芸術と明日を食べるのね?」 「そうだよ」 「なんだか素敵な組み合わせね」 「そしてデザートに岩波新書の目録を食べるんだ」  島本さんは笑った。「でもとにかく、明日よ」と彼女は言った。  明日はもちろんやってきた。でも目が覚めたとき、僕は一人きりだった。もう雨はすっかりあがっていて、寝室の窓からは透明な明るい朝の光がさしこんでいた。時計は九時過ぎを指していた。ベッドには島本さんの姿はなかった。僕の隣の枕は彼女の頭のかたちを残したように微かにくぼんでいた。彼女の姿はどこにも見えなかった。僕はベッドを出て居間に行って彼女の姿を探した。台所を探し、子供部屋や浴室を覗いてみた。でも彼女はどこにもいなかった。  彼女の服もなかったし、玄関からは彼女の靴も消えていた。僕は深呼吸をして、自分をもう一度現実の中に溶け込ませた。でもその現実の中には何かしら見慣れない妙なところがあった。 それは僕が考えていた現実とは違ったかたちを取った現実だった。それはあってはならない現実なのだ。  僕は服を着て、家の外に出てみた。そこにはBMWが昨夜そこに停めたときのまま停まっていた。あるいは島本さんは朝早く目が覚めてひとりで散歩に出たのがもしれなかった。僕は家のまわりを歩いて、彼女の姿を探してみた。それから車に乗ってあたりの道をしばらくぐるぐると走ってみた。表の道路に出て、ずっと宮ノ下のあたりまで行ってみた。しかし島本さんの姿はどこにも見えなかった。家に帰っても、島本さんは戻ってはいなかった。書き置きのようなものがないかと思って、僕は家の中を隅から隅まで捜し回ってみた。でもそんなものはどこにもなかった。彼女がそこにいたという痕跡すらなかった。  島本さんの姿の見えない家の中はひどくがらんとして息苦しかった。空気の中には何かざらざらとした粒子のようなものが混じっていて、息を吸い込むとそれが喉に引っかかるように感じられた。それから僕はレコードのことを思い出した。彼女が僕にくれたナット・キング・コールの古いレコードだ。でもどれだけ探してみてもそのレコードは見当たらなかった。島本さんは出ていくときにそれを一緒に持っていってしまったようだった。  島本さんはまた僕の前から消えてしまった。今度はたぶん[#「たぶん」に傍点]もしばらく[#「しばらく」に傍点]もなく。 [#改ページ]     15  僕はその日の四時前に東京に帰った。ひょっとしたら島本さんが戻ってくるかもしれないと思って、僕は箱根の家で昼過ぎまで待っていた。何もせずにじっとしているのが辛かったから、台所の掃除をしたり、置いてある衣類の整理をしたりして時間を潰した。沈黙は重く、ときおり聞こえてくる鳥の声や、車の排気音も、どことなく不自然で不均一だった。まわりの音という音が、何かの力で無理に歪められたり、あるいは押し潰されたりしてしまったみたいに聞こえた。僕はそんな中で何かが起こるのを待っていた。何かが起こらなくてはならないはずだ、と僕は思った。こんなままでものごとが終わってしまうわけはないのだから。  でも何も起こらなかった。島本さんは、一度こうと決めたことを、時間が経ってから思いなおしたりする人間ではないのだ。東京に戻らなくてはならないと僕は思った。もし島本さんか仮りに僕に連絡をしてくるとすれば——それはほとんどありえないことかもしれないけれど——それはおそらく店の方にくるはずだった。いずれにせよこれ以上ここにいる意味はたぶん何もない。  車を運転しているあいだ、僕は何度も無理やり運転に意識を戻さなくてはならなかった。何回か信号を見落としそうになったし、曲がる道を間違え、車線を間違えた。店の駐車場に車を入れてから、僕は公衆電話で家に電話をかけた。有紀子に戻ったことを告げ、そしてそのまま仕事に出ると言った。有紀子はそれについては何も言わなかった。 「遅いからずっと心配してたのよ。電話くらいしてくれてもいいでしょう」と彼女は硬い乾いた声で言った。 「大丈夫だよ。何も心配しなくていい」と僕は言った。自分の声が彼女の耳にどんな風に響いているのか、僕には見当もつかなかった。「時間がないからこのままオフィスの方に行って、少し帳簿を整理して、それから店に行くよ」  僕はオフィスに行って机の前に座り、何もせずに一人で夜までの時間を過ごした。そして昨夜の出来事について考えた。おそらく島本さんは僕が寝てしまったあとも一陣もせずに起きていて、夜明けとともに家を出ていったのだろう。どうやってそこから帰ったのかはわからない。表通りまではかなりの道のりがあったし、表通りに出てもそんな朝早くに箱根の山の中でバスやタクシーを見つけるのは至難のわざだったはずだ。それに彼女はハイヒールを履いていたのだ。  どうして島本さんは僕の前から消えてしまわなくてはならなかったのだろう? それは僕が車を運転しながらずっと考えていたことだった。僕は彼女を取ると言い、彼女は僕を取ると言った。そして僕らは何の留保もなく抱き合ったのだ。それにもかかわらず、彼女は僕をあとに残して、ひとことの説明もなく一人でどこかに去っていってしまった。島本さんは僕にくれると言っていたレコードまで一緒に持っていってしまったのだ。そのような彼女の行為が意味するものを、僕はなんとか推し量ろうとした。そこには何らかの意味があり、理由があるはずだった。島本さんはその場の思いつきで行動するようなタイプではない。でも僕には、何かを論理的につきつめて考えるということができなくなってしまっていた。あらゆる思考の糸が僕の頭から音もなくこぼれ落ちていった。それでも無理に何かを考えようとすると、頭の奥が鈍く疼いた。僕は自分がひどく疲れていることに気づいた。僕は床に腰を下ろし、壁にもたれ、目を閉じた。一度目を閉じてしまうと、開けることができなくなってしまった。僕にできるのはただ思い出すことだけだった。考えることを放棄し、エンドレス・テープを回すように、ただ何度も何度も事実だけを繰り返して思い出すこと。僕は島本さんの体を思い出した。目を閉じて、ストーブの前に横になった彼女の裸の体を、そしてそこにあったものをひとつひとつ思い出していった。彼女の首や乳房や脇腹や陰毛や性器や背中や腰や脚を。それらの像はあまりにも間近であり、あまりにも鮮明であった。ある場合には現実よりも遥かに間近であり鮮明であった。  そのうちに僕は、狭い部屋の中でそんな生々しい幻影に取り囲まれていることに耐えきれなくなってきた。僕はオフィスのある建物を出て、その辺をあてもなく歩き回った。それから店に行って、洗面所で髭を剃った。考えてみれば僕は朝から顔も洗っていなかったのだ。おまけに昨日と同じヨット・パーカをまだ着ていた。従業員たちはとくに何も言わなかったけれど、妙な顔でちらちらと僕を見た。でも僕は家に帰りたくなかった。今家に帰ったら、そして有紀子を前にしたら、僕はそのまま洗いざらい何もかも話してしまいそうだった。僕が島本さんに恋をしていて、彼女と一夜を過ごして、家も娘たちも仕事も何もかもをすべて捨ててしまおうとしていたことを。  本当は打ち明けてしまうべきなのだろうと思った。でも僕にはそれができなかった。今の僕には何が正しくて何が正しくないかを判断する力がなかった。自分の身に起ったことを正確に把握することさえできなかった。だから家には帰らなかった。僕は店に出て、島本さんが来るのを待った。彼女が来るはずのないことはよくわかっていた。でもそうしないわけにはいかなかったのだ。僕はバーに行って彼女の姿を捜し求め、それから『ロビンズ・ネスト』のカウンターに座って閉店の時間まで空しく彼女を待ちつづけた。そこにいた何人かの常連客といつものように話をした。でも僕はほとんど何も話を聞いていなかった。話の相づちを打ちながら、ずっと島本さんの体のことを思い出していた。彼女の性器がどんなに優しく僕を迎え入れてくれたかを思い出していた。そしてそのときに彼女がどんな風に僕の名前を呼んだがを思い出していた。そして電話のベルが鳴るたびに胸がどきどきした。  店が終わってみんなが引きあげてしまったあとも、僕は一人でカウンターに座って酒を飲んでいた。どれだけ酒を飲んでも、まったく酔いがまわらなかった。むしろ逆にどんどん頭が覚めていった。手のつけようがないな、と僕は思った。家に帰ったとき、時計の針はもう二時をまわっていたが、有紀子は起きて僕を待っていた。僕がうまく寝つけないまま台所のテーブルに座ってウィスキーを飲んでいると、彼女もグラスを持ってきて同じものを飲んだ。 「何か音楽をかけて」と有紀子は言った。僕は目についたカセット・テープをデッキに入れてスイッチを押し、子供を起こさないようにヴォリュームを下げた。そして僕らはテーブルをはさんでしばらく何も言わずにそれぞれのグラスの中の酒を飲んでいた。 「あなたには私の他に好きな女の人がいるんでしょう?」と有紀子は僕の顔をじっと見なから言った。  僕は頷いた。有紀子はその言葉をこれまで何度も何度も頭の中で繰り返していたんだろうなと僕は思った。その言葉にはくっきりとした輪郭と重みがあった。彼女の声の響きの中に僕はそれを感じることができた。 「そしてあなたはその人のことが好きなのね。ただの遊びじゃなくて」 「そうだよ」と僕は言った。「遊びというようなものじゃない。でもそれは君が考えているようなのとは少し違うんだ」 「私が何を考えているかあなたにわかるの?」と彼女は言った。 「私の考えていることが本当にあなたにわかっていると思う?」  僕は黙っていた。僕には何を言うこともできなかった。有紀子もずっと黙っていた。音楽が小さな音で流れていた。ヴィヴァルディかテレマンが、そういう音楽だった。僕にはそのメロディーを思い出すことができなかった。 「私か何を考えているか、あなたには、おそらく、わからない、と思う」と有紀子は言った。彼女は子供に何かを説明するときのようにゆっくりと言葉をひとつひとつ丁寧に発音していた。「あなたには、きっとわからない」  彼女は僕を見ていた。でも僕か何も言わないことがわかると、グラスを取ってウィスキーを一口だけ飲んだ。そして首をゆっくり一度振った。 「ねえ、私だってそんな馬鹿じゃないのよ。私はあなたと一緒に暮らして、あなたと一緒に寝ているのよ。しばらく前からあなたに好きな女の人がいることくらいはわかっていたわ」  僕は何も言わずに有紀子を見ていた。 「でも私はあなたのことを責めているんじゃないのよ。誰かを好きになったのなら、それはそれで仕方ないと思うわよ。好きになったものは、好きになったものなんだもの。あなたはきっと私だけじゃ足りなかったのよ。それも私には私なりに理解できるの。私たちはこれまでずっとうまくやってきたし、あなたは私にはとても良くしてくれた。私はあなたと暮らしてとても幸せだった。そして今でもあなたは私のことを好きなんだと思う。でも結局のところ私はあなたには十分な女ではなかったのよ。そのことは私にもなんとなくわかっていたし、いつかきっとこういうことが起こるだろうとは思っていたの。仕方ないわよ。だから他の女の人を好きになったことで、私はあなたを責めているわけじゃないのよ。本当のことを言うと、怒っているわけでもないのよ。不思議だけど、そんなに腹も立たないの。私はただ辛いだけよ。ものすごく辛いだけよ。そういうことになったらたぶん辛いだろうなとは想像してはいたけれど、想像をはるかに越えて辛いわね」 「悪かったと思う」と僕は言った。 「謝ることはないわ」と彼女は言った。「もしあなたが私と別れたいのなら、べつに別れてもいいのよ。何も言わずに別れるわ。私と別れたい?」 「わからない」と僕は言った。「ねえ僕の説明を聞いてくれないかな?」 「説明っていうと、あなたとその女の人のこと?」 「そう」と僕は言った。  有紀子は首を振った。「その女の人の話なんて何も聞きたくない。私にこれ以上辛い思いをさせないで。あなたとその人とがどんな関係で何をしていようと、そんなことはもうどうでもいいのよ。そんなことは何も知りたくない。私が知りたいのは、あなたが私と別れたいかどうかっていうことだけよ。家だってお金だって何もいらない。子供たちが欲しいのならあげる。本当よ、真剣に言ってるのよ、これは。だから別れたいのなら、ただ別れたいって言って。私が知りたいのはそれだけなの。それ以外のことは何も聞きたくなんかない。イエスかノオかどちらか」 「わからない」と僕は言った。 「私と別れたいのかどうか、あなたにはわからないということ?」 「違う。僕に答えることができるかどうかということ自体がわからないんだ」 「それはいつになったらわかるの?」  僕は首を振った。 「じゃあゆっくり考えなさい」と有紀子はため息をついてから言った。「私は待つから大丈夫よ。ゆっくりと時間をかけて考えて決めなさい」  その夜から僕は居間のソファーに布団を敷いて眠った。子供たちがときどき夜中に起きてやってきて、お父さんはどうしてそんなところで寝ているのと訊いた。父さんはこのごろ鼾がうるさいんで、しばらくのあいだお母さんとは別の部屋で寝ることにしたんだよ、そうしないとお母さんが眠れなくなっちゃうからさ、と僕は説明した。娘たちのどちらかが僕の布団の中にもぐり込んでくることもあった。そういうときには僕はソファーの上で娘をしっかりと抱いた。ときどき寝室から有紀子が泣いている声が聞こえてくることもあった。 [#改ページ]  それから二週間ばかり、僕は果てしない記憶の再現の中に住みつづけた。僕は島本さんと過ごした最後の夜に起こったことを、ひとつひとつ思い出し、その中に何かの意味を見いだそうとつとめた。そこに何かのメッセージを読み取ろうとした。僕は僕の腕に抱かれていた島本さんのことを思い出した。白いワンピースの裾から入れられていた彼女の手のことを思い出した。ナット・キング・コールの歌と、ストーブの火のことを僕は思い出した。彼女がそのときに口にしたひとことひとことを再現してみた。 「さっきも言ったように、私には中間というものが存在しないのよ」と島本さんはその中で語っていた。「私の中には中間的なものは存在しないし、中間的なものが存在しないところには、中間もまた存在しないの」 「僕はもう既にそれを決めてしまったんだよ、島本さん」とその中で僕は語っていた。「君のいないあいだに何度も何度もそのことについては考えたんだ。そして僕はもう心を決めてしまっているんだよ」  僕は車の助手席からじっと僕を見ていた島本さんの目を思い出した。ある種の激しさを含んだその視線は、僕の頬にまだくっきりと焼きついているように思えた。それはおそらく視線以上のものだった。そのときの彼女の漂わせていた死の気配のようなものを、今でははっきりと感じることができた。彼女は本当に死ぬつもりでいたのだ。おそらく彼女は僕と二人で死ぬために、箱根までやってきたのだろう。 「そして私もたぶんあなたの全部を取ってしまうわよ。全部よ。あなたにはそれがわかってるの? それが何を意味しているかもわかっているの[#「それが何を意味しているかもわかっているの」に傍点]?」  そう言ったとき、島本さんは僕の命を求めていた。僕は今、それを理解することができた。僕が最終的な結論を出していたように、彼女もやはり最終的な結論を出していたのだ。どうしてそれがわからなかったのだろう。たぶん彼女は、僕と一晩抱き合ったあと、帰りの高速道路でBMWのハンドルを切って、二人で死んでしまうつもりだったのだ。彼女にとっては、それ以外の選択肢というものはおそらく存在しなかったのだと思う。でも何かがそのとき彼女を思い止まらせた。そしてすべてを呑み込んだまま、彼女は姿を消してしまったのだ。  島本さんはいったいどんな状況に立たされていたのだろう、と僕は自分に向かって問いかけてみた。それはどのような種類の袋小路だったのだろう。どのようにして、どのような理由で、どのような目的で、そしていったい誰が[#「いったい誰が」に傍点]、彼女をそんな場所に追い込んでしまったのだろう。どうしてそこから逃げだすことが、そのまま死を意味しなくてはならなかったのだろう? 僕は何度も何度もそれについて考えてみた。僕はあらゆる手かかりを自分の前に並べてみた。思いつくかぎりの推理をしてみた。でもどこにも辿りつけなかった。彼女はその秘密を抱え込んだまま、消えてしまったのだ。たぶん[#「たぶん」に傍点]もしばらく[#「しばらく」に傍点]もなく、ただひっそりとどこかに消えてしまった。そう思うとたまらない気持になった。結局のところ彼女はその秘密を僕と共有することを拒否したのだ。あれほどまでにぴったりと僕らの体が一体化したにもかかわらず。 「ある種のものごとは一度前に進んでしまうと、もうあとには戻れないのよ、ハジメくん」と島本さんは言うだろう。真夜中すぎのソファーの上で、僕はそう語りかける彼女の声を耳にすることかできた。僕はその声が紡ぎだす言葉をはっきりと聞きとることができた。「あなたが言うように、あなたと二人きりでどこかに行って、新しい人生をやりなおすことができたら、どんなに素敵だろうと思うわ。でも残念だけれど、私にはこの場所から抜け出すことはできないの。それは物理的に[#「物理的に」に傍点]不可能なのよ」  そこでは島本さんは十六の少女で、庭のひまわりの前に立って、ぎこちなく微笑んでいた。 「結局、私はあなたに会いに行くべきじゃなかったのね。それは最初から私にもわかっていたのよ。こうなるだろうことは、予想できたのよ。でも私にはどうしても我慢することができなかった。どうしてもあなたの姿を見たかったし、あなたを前にしたら声をかけないわけにはいかなかった。ねえバジメくん、それか私なのよ。私は、そうするつもりもないのに、最後にはいつも何もかもをだいなしにしてしまうのよ」  この先島本さんと会うことはもうあるまいと僕は思った。彼女はもう僕の記憶の中にしか存在しないのだ。彼女は僕の前から消えてしまった。彼女はそこにいたが、今では消えてしまった。そこには中間というものは存在しない。中間的なものが存在しないところには、中間というものもまた存在しない。国境の南にはたぶん[#「たぶん」に傍点]は存在するかもしれない。でも太陽の西にはたぶん[#「たぶん」に傍点]は存在しないのだ。  僕は毎日、そこに自殺した女の記事が出てはいないかと思って、新聞を隅々まで読んだ。でもそれらしい記事はみつからなかった。世の中では毎日多くの人々が自殺をしていた。でもそれはみんな別の人たちだった。素敵な微笑みを浮かべることのできる美しい三十七歳の女は、僕の知るかぎりではまだ自殺をしてはいないようだった。彼女はただ僕の前からいなくなってしまっただけだった。  僕は外見的には以前とほとんど変らない日常生活を続けていた。だいたい毎日子供たちを幼稚園に送り届け、迎えに行った。僕は車の中で子供たちと一緒に歌を歌った。ときどき幼稚園の前で例の260Eに乗った若い女と会って話をした。彼女と話していると、いろんなことを少しのあいだだけ忘れることができた。僕と彼女は相変らず食べ物と服のことしか話さなかった。僕らは会うたびに青山界隈や自然食についての何かしら新しい情報を持っていて、それをせっせと交換しあった。  仕事場でも僕はいつもどおりの役割を過不足なく果たしていた。ネクタイをしめて毎晩店に出て、親しい常連客と世間話をし、従業員のいろんな意見や不満を聞き、働いている女の子の誕生日にはちょっとしたものをプレゼントした。遊びに来たミュージシャンに酒をご馳走し、カクテルの味見をした。ピアノの調律があっているか、酔っぱらって他の客に迷惑をかけている客はいないかといつも注意を払っていた。そして何かトラブルがあれば、それをすぐに解消した。店の経営は順調すぎるくらいに順調だった。僕のまわりではすべてのものごとが円滑に進行していた。ただ僕はもう以前ほどには店の経営に熱心ではなくなっていた。僕はその二軒の店に対して昔ほどの熱意を抱くことができなくなっていた。おそらく他人の目にはそれはわからなかっただろうと思う。外見的には僕は以前とまったく同じだった。いや以前よりはむしろ愛想がよくなり、親切になり、よく喋るようになったかもしれない。でも自分ではよくわかった。カウンターのスツールに座って店の中をぐるりと見回してみると、前とはちがっていろんなものがひどく平板で色褪せて見えた。それはもうかつてのあの精妙で鮮やかな色彩を帯びた空中庭園ではなかった。どこにでもあるただのうるさい酒場だった。すべては人工的で、薄っぺらで、うらぶれていた。そこにあるものは酔っぱらいから金をむしりとることを目的として作り上げられた、ただの舞台装置に過ぎなかった。僕の頭の中にあった幻想のようなものは、いつのまにかもうみんな消えてしまっていた。何故ならそこに島本さんが来ることはもう二度とないからだ。彼女がやってきてカウンターに座り、にっこりと笑ってカクテルを注文することはもうないからだ。  家庭の中でも僕は以前と同じような生活を送っていた。僕はみんなと一緒に食事をし、日曜日には子供たちをつれて散歩にでかけたり、動物園に行ったりした。有紀子も僕に対して、少なくとも外面的には、以前と同じように接していた。僕らは相変わらず二人でいろんな話をした。おおまかにいって、僕と有紀子はたまたま同じ屋根の下にいる昔なじみみたいに暮らしていた。そこには語られない言葉があり、語ることのできない事実があった。でも僕らのあいだにはとげとげしい空気はなかった。ただ体を触れ合わせないだけだった。夜になると僕らは別れて寝た。僕は居間のソファーで寝て、有紀子は寝室で寝た。あるいはそれが我々の家庭におけるおそらく唯一のかたちのある変化だったかもしれない。  結局のところ何もかも演技に過ぎなかったのではないかと思うこともあった。僕らは自分たちに振り当てられた役柄をひとつひとつこなしてきただけのことではなかったのか。だからそこから大事な何かが失われてしまっても、技巧性だけでこれまでと同じように毎日を大過なく過ごしていくことができるのではないか。そういう風に考えると辛かった。このような空虚で技巧的な生活はおそらく有紀子の心を深く傷つけていることだろう。でも僕にはまだ彼女の問いに答えることができなかった。僕はもちろん有紀子と別れたくはなかった。それははっきりしていた。でもそんなことを言えるような資格は僕にはなかった。僕は一度は彼女と子供たちを捨てようとしていたのだ。島本さんがどこかに消えてしまってもう戻ってこないから、またすんなりともとの生活に戻るというわけにはいかない。ものごとはそれほど簡単ではないし、またそれほど簡単であってはならないのだ。それに加えて僕はまだ島本さんの幻影を頭の中から追い払うことができずにいた。それはあまりにも鮮明でリアルな幻影だった。目を閉じれば島本さんの体のあらゆる細部を刻明に思いだすことかできた。手のひらに、彼女の肌の感触を思い出すことができた。彼女の声を耳のそばに聞くことができた。僕はそんな幻影を抱えたまま有紀子の体を抱くわけにはいかなかった。  できるだけ一人になりたかったし、他に何をすればいいのかもわからなかったから、毎朝、一日も休まずにプールにかよった。そしてそのあとオフィスに行って、ひとりで天井を眺め、いつまでも島本さんの幻想に耽りつづけた。僕はそんな生活にどこかでけりをつけたかった。僕は有紀子との生活を中途半端に放り出したまま、彼女に対する答えを保留したまま、ある種の空白の中で生きつづけているのだ。そんなことをいつまでも続けているわけにはいかない。それはどう考えても正しいことではなかった。僕は一人の人間としての、夫としての、父親としての責任を取らなくてはいけないのだ。でも実際には何をすることもできなかった。幻想はいつもそこにあり、それは僕をしっかりと捉えてしまっていた。雨が降ると、状況はもっと悪くなった。雨が降ると、島本さんが今にもここを訪れてきそうな錯覚に僕は襲われた。雨の匂いを携えて、彼女がそっとドアを開ける。僕は彼女の顔に浮かんだ微笑みを想像することができた。僕が何か間違ったことを言うと、彼女はその微笑みを浮かべたまま、静かに首を振った。そして僕のあらゆる言葉はその力を失い、窓にはりついた雨の水滴のように、現実の領域からゆっくりとこぼれ落ちていった。雨の夜はいつも息苦しかった。それは現実を歪め、時間を狂わせた。  幻想を見ることに疲れ果てると、僕は窓の前に立っていつまでも外の風景を眺めていた。ときどき自分が、生命のしるしのない乾いた土地にひとりで取り残されてしまったように感じられた。幻影の群れが、まわりの世界から色彩という色彩を残らず吸い尽くしてしまったようだった。目に映るすべての事物や風景が、まるで間に合わせにつくられたもののように平板であり、うつろだった。そしてそれらはみんなほこりっぽい砂色をしていた。僕はイズミの消息を僕に教えてくれたあの高校時代の同級生のことを思いだした。彼はこう言った。「みんないろんな生き方をする。いろんな死に方をする。でもそれはたいしたことじゃないんだ。あとには砂漠だけが残るんだ」  その次の週には、まるで待ち受けていたようにいくつかの奇妙なことが続けて起こった。月曜日の朝に、僕はふと思いついて十万円が入った例の封筒を探してみた。とくに何か理由があったわけではないのだが、なんとなくその封筒のことが気になったのだ。僕はもう何年も前から、それをオフィスの机の引き出しにしまっておいた。上から二番目の引き出しで、そこには鍵がかかるようになっている。僕はオフィスに越してきたときにその引き出しに他の貴重品と一緒に封筒を入れ、ときどきその存在を確かめる以外一切手を触れなかった。でも引き出しの中には封筒は見当たらなかった。それは非常に奇妙で不自然なことだった。というのは、その封筒をどこかに移動した覚えはまったくなかったからだ。それについては百パーセント確信があった。念のために机の他の引き出しを全部引っばりだして、隅から隅まで調べてみた。でもやはり封筒はどこにも見つからなかった。  最後にその金の入った封筒を目にしたのはいつのことだっただろうと僕は考えてみた。僕には正確な日にちは思い出せなかった。それほど昔のことではないけれど、かといってついこのあいだというわけでもない。ーカ月前かもしれないし、二カ月前かもしれない。あるいは三カ月くらい前かもしれない。でもとにかくそれほど遠くない過去に僕は封筒を取りだし、その存在をはっきりと確認したのだ。  僕はわけのわからないままに椅子に腰を下ろし、その引き出しをしばらくじっと眺めていた。あるいは誰かが部屋に入って、引き出しの鍵を開けてその封筒だけを盗んでいったのがもしれない。それはまずありえないことだったけれど(というのはそれ以外にも机の中には現金や金目のものが入っていたから)、可能性としてまったくないというわけではなかった。あるいは僕が何か重大な思い違いをしているのかもしれない。僕は自分の知らないあいだにその封筒を処分して、それについて記憶をすっかりなくしてしまったのかもしれない。そういうことだって起こりえないわけではないのだ。まあなんだっていいじゃないか、と僕は自分に言い聞かせた。そんなものどうせいつか処分するつもりでいたんだ。そのぶんの手間が省けただけじゃないか、と。  でもその封筒が消えてしまったという事実を僕が認識し、僕の意識の中でその不在と存在とが位置をはっきりと交換してしまうと、封筒が存在するという事実に付随して存在していたはずの現実感も、同じように急速に失われていった。それは眩暈にも似た奇妙な感覚だった。僕がどのように自分に言い聞かせようとしても、その不在感は僕の中でどんどん膨らんで、僕の意識を激しく浸食していった。その不在感はかつてそこに明確に存在したはずの存在感を押しつぶし、貪欲に呑み込んでいった。  たとえば何かの出来事が現実であるということを証明する現実がある。何故なら僕らの記憶や感覚はあまりにも不確かであり、一面的なものだからだ。僕らが認識していると思っている事実がどこまでそのままの事実であって、どこからが 「我々が事実であると認識している事実」  なのかを識別することは多くの場合不可能であるようにさえ思える。だから僕らは現実を現実としてつなぎとめておくために、それを相対化するべつのもうひとつの現実を——隣接する現実を——必要としている。でもそのべつの隣接する現実もまた、それが現実であることを相対化するための根拠を必要としている。それが現実であることを証明するまたべつの隣接した現実があるわけだ。そのような連鎖が僕らの意識のなかでずっとどこまでも続いて、ある意味ではそれが続くことによって、それらの連鎖を維持することによって、僕という存在が成り立っていると言っても過言ではないだろう。でもどこかで、何かの拍子にその連鎖が途切れてしまう。すると途端に僕は途方に暮れてしまうことになる。中断の向こう側にあるものが本当の現実なのか、それとも中断のこちら側にあるものが本当の現実なのか。  僕がそのときに感じたのはそういった種類の途絶した感覚だった。僕は引き出しを閉め、何もかもを忘れてしまおうとした。そんな金は最初から棄ててしまうべきだったんだ。そんなものを持っていたこと自体が間違いだったんだ、と。  同じ週の水曜日の午後、外苑東通りを車で走っているときに、僕は島本さんにとてもよく似た後ろ姿の女を見かけた。その女は青いコットンのズボンにベージュのレインコートを着て、白いデッキ・シューズをはいていた。そして片脚をひきずるようにして歩いていた。その女の姿を目にしたとき、僕のまわりにあるすべての情景が一瞬にして凍りついてしまったように感じられた。僕の胸の中から空気のかたまりのようなものが喉もとまでせりあがってきた。島本さんだ、と僕は思った。僕は彼女を追越し、バックミラーでその姿を確かめようとしたか、他の通行人の陰になって彼女の顔はよく見えなかった。僕がブレーキを踏むと、後ろの車が激しくクラクションを鳴らした。いずれにせよ、その背格好や髪の長さは島本さんにそっくりだった。僕はその場ですぐに車を停めようと思ったのだが、道路は目につくかぎり駐車中の車でいっぱいだった。二百メートルほど進んだところにぎりぎり車一台駐車できる場所をみつけて、そこに強引に車を入れ、彼女を見かけたあたりまで走って戻った。しかしもうそこには彼女の姿はなかった。僕は必死になってそのあたりを探してまわってみた。彼女は脚が悪いのだ。そんなに遠くまで行けるはずがない、と僕は自分に言い聞かせた。僕は人々を押し分け、道路を無理に横断し、歩道橋を駆け登り、高いところから道を行く人々の顔を眺めた。僕の着たシャツは汗でぐっしょりと濡れていた。でもそのうちに、僕が目にした女が島本さんであるはずがないということにはっと思い当たった。その女は島本さんとは逆の脚をひきずっていたのだ。そして島本さんの脚はもう悪くない[#「島本さんの脚はもう悪くない」に傍点]。  僕は頭を振り、深いため息をついた。僕は本当にどうかしている。まるで立ちくらみのように、体から急速に力が抜けていくのが感じられた。僕は信号機にもたれかかり、しばらく自分の足元を見つめていた。信号が青から赤に変り、赤からまた青に変った。人々が通りを渡り、信号を待ち、そして通りを渡った。僕はそのあいだずっと信号機の柱にもたれて息をととのえていた。  ふと目をあげたとき、そこにはイズミの顔があった。イズミは僕の前に停まっているタクシーに乗っていた。その後部座席の窓から、彼女は僕の顔をじっと見ていた。タクシーは赤信号で停車していて、イズミの顔と僕のあいだにはほんの一メートルほどの距離しかなかった。彼女はもう十七歳の少女ではなかった。でも僕にはその女がイズミであることが一目でわかった。それはイズミ以外の誰でもありえなかった。そこにいたのは僕が二十年も前に抱いた女だった。それは僕がはじめて口づけをした女だった。僕が十七歳の秋の昼下がりにその服を脱がし、カードルの靴下どめをなくしてしまった女だった。二十年という歳月がどれだけ人を変えたとしても、その顔を見間違えることはなかった。「子供たちは彼女のことを怖がるんだよ」と誰かが言った。それを聞いたとき、僕にはその意味が掴めなかった。その言葉が何を伝えようとしているのか、うまく呑み込むことができなかった。でも今こうしてイズミを前にすると、僕には彼が言わんとしたことをはっきりと理解することができた。彼女の顔には表情というものがなかったのだ[#「彼女の顔には表情というものがなかったのだ」に傍点]。いや、それは正確な表現ではない。おそらく僕はこう言うべきだろう。彼女の顔からは[#「彼女の顔からは」に傍点]、表情という名前で呼ばれるはずのものがひとつ残らず奪い去られていた[#「表情という名前で呼ばれるはずのものがひとつ残らず奪い去られていた」に傍点]、と。それは僕に家具という家具がひとつ残らず持ち出されてしまったあとの部屋を思い起こさせた。彼女の顔には感情のかけらすら浮かんではいなかった。まるで深い海の底のように、そこでは何もかもが音もなく死に絶えていた。そして彼女はその表情のかけらもない顔で、僕をじっと見つめていた。彼女はおそらく僕を見つめていたのだと思う。すくなくともその目はまっすぐ僕の方に向けられていた。でも彼女の顔は僕に向かって何も語りかけてはいなかった。もし彼女が僕に何かを語ろうとしていたのだとすれば、彼女が語りかけていたものは果てしのない空白だった。  僕はそこに呆然と立ちすくんだまま、言葉というものを失っていた。僕はただ自分の体を辛うじて支えながら、ゆっくりと呼吸をしているだけだった。その時、僕は自分というものの存在を本当に文字通り見失っていた。しばらくのあいだ、自分が誰かということさえ僕にはわからなくなってしまった。まるで僕という人間の輪郭が消滅して、どろどろした液体になってしまったようにさえ感じられた。僕は何を考える余裕もなく、ほとんど無意識に手をのばして、そのガラス窓に触れた。そして僕は指先でその表面をそっと撫でた。その行為か何を意味するのか、僕にはわからなかった。何人かの通行人が立ち止まって、驚いたように僕の方を見ていた。でも僕はそうしないわけにはいかなかったのだ。僕はガラス越しに、イズミの顔のない顔をゆっくりと撫でつづけた。それでも彼女は身動きひとつしなかった。彼女はまばたきひとつしなかった。彼女は死んでいるのだろうか? いや、死んでいるわけじゃない、と僕は思った。彼女はまばたきをしないまま生きていた。その音のない、ガラス窓の奥の世界に彼女は生きていた。そして彼女の動かない唇は、限りのない虚無を語っていた。  やがて信号が青に変わり、タクシーは去っていった。イズミの顔は最後まで表情をなくしたままだった。僕はそこにじっと立ちすくんで、そのタクシーが車の群れの中に吸い込まれて消えていくのを眺めていた。  僕は車を停めた場所に戻り、シートに身を落とした。とにかくここを離れなくてはいけないと僕は思った。エンジン・キイを回そうとしたところで、僕はひどく気分が悪くなった。激しい吐き気がした。でも吐くことはできなかった。ただ吐き気がするだけなのだ。僕はハンドルに両手をかけて、十五分ばかりそこにじっとしていた。汗が僕の脇の下ににじんできた。僕の体じゅうから嫌な匂いが漂ってくるように感じられた。それはかつて島本さんが優しく舐めまわしてくれた僕の体ではなかった。それは不快な匂いのする中年の男の体だった。  しばらくあとで交通巡査がやってきて、ガラス窓をノックした。僕は窓を開けた。ここは駐車禁止だよ、あんた、と警官は中を覗き込むようにして言った。すぐに車どかしでよ。僕は頷いてエンジン・キイを回した。 「顔色悪いけど、気分でも悪いの?」と警官が訊いた。  僕は黙って首を振った。そしてそのまま車を走らせた。  それから何時間か、僕は自分というものを取り戻すことができなかった。僕はただの脱け殻であり、体の中には虚ろな音が響いているだけだった。僕には自分が本当にからっぽになっていることがわかった。さっきまで体の中に残っていたはずのものが、なにもかも全部外に出ていってしまったのだ。僕は青山墓地の中に車を停めて、フロント・グラスの向こうの空をぼんやりと眺めていた。イズミはそこで僕を待っていたのだ、と僕は思った。彼女はおそらくいつもどこかで僕のことを待っていたのだ。どこかの街角で、どこかのガラス窓の奥で、彼女は僕がやってくるのを待っていたのだ。彼女はじっと僕を見ていたのだ。僕にはそれを見ることができなかっただけのことなのだ。  それから何日かのあいだ、僕はほとんど誰とも口をきくことかできなかった。何かを言おうとして口を開きかけるのだが、そのたびに言葉はふっと消えてしまった。まるで彼女の語りかけていた虚無が僕の中にすっぽりと入り込んでしまったみたいに。  でもイズミとのその奇妙な邂逅のあと、僕のまわりを取り囲んでいた島本さんの幻影と残響は、ゆっくりと時間をかけて薄らいでいった。目にする風景はいくらか色を取戻し、月の表面を歩いているような頼り無い感覚もだんだん治まってきたようだった。重力が微妙に変化して、自分の体にしっかりとしがみついているものが少しずつ、ひとつひとつ引きちぎられていくのを、僕はまるで他人の身に起こっている出来事をガラス越しに見ているようにぼんやりと感じていた。  おそらくそれと前後して、僕の中にあった何かが消えて、途絶えてしまったのだ。音もなく、そして決定的に。  僕はバンドの休憩時間にピアニストのところに行って、もうこれから『スタークロスト・ラヴァーズ』は弾かなくていいよと言った。僕はにっこりと笑って、愛想よくそう言ったのだ。 「これまでずいぶん聴かせてもらったから、もうそろそろいいよ。堪能した」  彼は何かを測るような目でしばらく僕の顔を見ていた。僕とそのピアニストは個人的な友だちといってもいいような間柄だった。僕らはときどき一緒に酒を飲んで、個人的な話をすることもあった。 「もうひとつよくわからないんだけど、それはあの曲をとくに弾かなくていいということなのかな。それとも二度と[#「二度と」に傍点]弾いてくれるなということなのかな。そのふたつにはかなりの違いがあるから、できたらはっきりさせておきたいんだけどね」と彼は言った。 「弾いてほしくないということだよ」と僕は言った。 「私の演奏が気に入らないというんじゃないよね」 「演奏には何の問題もないよ。素晴らしい。あの曲をちゃんと演奏できる人間はそんなにいない」 「ということはつまり、あの曲そのものをもう聴きたくないということになるのかな?」 「そういうことになるだろうな」と僕は言った。 「それなんだか『カサブランカ』みてえだよ、旦那」と彼は言った。 「たしかに」と僕は言った。  それ以来、彼は僕の顔を見るとときどき冗談で『アズ・タイム・ゴーズ・バイ』を弾いた。  僕がその曲をもう聴きたくないと思ったのは、そのメロディーを耳にすると島本さんのことを思い出してしまうからというような理由からではなかった。それはもう以前ほどには僕の心を打たなくなったのだ[#「それはもう以前ほどには僕の心を打たなくなったのだ」に傍点]。どうしてかはわからない。でも僕がかつてその音楽の中に見いだしていた特別な何かは、既にそこから消えてしまっていた。僕が長いあいだその音楽に託し続けてきたある種の心持ちのようなものはもう失われてしまっていた。それは相変わらず美しい音楽だった。でもそれだけだった。そして僕はもうその何かの亡骸のような美しいメロディーを、何度も何度も繰り返して聴きたいとは思わなかった。 「何を考えているの?」と有紀子がやってきて僕に訊いた。  それは夜の二時半で、僕はソファーの上に横になったまま、まだ眠れずにじっと目を開けて天井を見つめていた。 「砂漠のことを考えていたんだ」と僕は言った。 「砂漠のこと?」と彼女は言った。彼女は僕の足元に腰をかけて、僕の顔を見ていた。「どんな砂漠?」 「普通の砂漠だよ。砂丘があって、ところどころにサボテンが生えてる砂漠。いろんなものがそこに含まれて、そこで生きている」 「そこには私も含まれているの、その砂漠に?」と彼女は僕に訊いた。 「もちろん君もそこに含まれているよ」と僕は言った。「みんながそこで生きているんだ。でも本当に生きているのは砂漠なんだ。映画と同じようにさ」 「映画?」 「『砂漠は生きている』、ディズニーのやつだよ。砂漠についての記録映画だよ。小さい頃に見なかった?」 「見なかった」と彼女は言った。僕はそれを聞いてちょっと不思議な気がした。僕らはみんな学校から映画館に連れていかれてその映画を見たからだ。でも考えてみれば有紀子は僕より五つ下なのだ。たぶんその映画が公開されたころ、それを見にいくには彼女はまだ小さすぎたのだろう。 「今度レンタル・ショップでそのビデオを借りてくるよ。日曜日にみんなで一緒に見よう。いい映画だよ。風景もきれいだし、いろんな動物やら花やらが出てくるんだ。小さな子供が見てもわかる」  有紀子は微笑んで僕の顔を見ていた。彼女の微笑みを目にしたのは本当に久しぶりだった。 「あなたは私と別れたい?」と彼女は訊いた。 「ねえ有紀子、僕は君のことを愛しているよ」と僕は言った。 「そうかもしれないけれど、私は『あなたはまだ私と別れたい?』って訊いたのよ。答えはイエスかノオかどちらかしかないの。それ以外の答えは受け付けられないの」 「別れたくない」と僕は言った。僕は首を振った。「僕にこんなことを言う資格はないのかもしれないけれど、僕は君と別れたくない。このまま君と別れたら、僕は本当にどうしていいかわからなくなってしまうと思う。僕はもう二度と孤独になりたくない。もう一度孤独になるのなら、死んでしまった方がいい」  彼女は手を伸ばして、そっと僕の胸に触った。そしてじっと僕の目を見ていた。「資格のことは忘れなさいよ。きっと誰にも資格なんていうようなものはないんだから」と有紀子は言った。  僕は胸の上に有紀子の手のひらの温かみを感じながら、死について考えていた。僕はあの日に高速道路で島本さんと一緒に死んでいたのかもしれないのだ。もしそうなっていたら、僕の体はもうここには存在しなかったはずなのだ。僕は消えて、失われてしまっていたはずなのだ。他の多くのものと同じように。でもこうして僕はここに存在している。そして僕の胸の上には有紀子のぬくもりを持った手のひらが存在しているのだ。 「ねえ有紀子」と僕は言った。「僕は君のことがとても好きだよ。会ったその日から好きになったし、今でも同じように好きだ。もし君に会わなかったら、僕の人生はもっと惨めで、もっとひどいものになっていたと思う。そのことでは僕は君に対して言葉では表せないくらい深く感謝している。でもそれにもかかわらず僕は今、こうして君を傷つけている。それはたぶん僕が身勝手で、ろくでもない、無価値な人間だからだと思う。僕はまわりにいる人間を意味もなく傷つけて、そのことによって同時に自分を傷つけている。誰かを損ない、自分を損なっている。僕はそんなことをしたくてやっているんじゃない。でもそうしないわけにはいかないんだ」 「それはたしかね」と有紀子は静かな声で言った。微笑みの名残が、まだその口許に残っているように僕には感じられた。「あなたはたしかに身勝手な人間だし、ろくでもない人間だし、間違いなく私のことを傷つけた」  僕はしばらく有紀子の顔を見ていた。彼女が口にした言葉には僕を責める響きはなかった。彼女は怒っているわけでもなく、悲しんでいるわけでもなかった。彼女はただ事実を事実として述べているだけだった。  僕はゆっくりと時間をかけて、言葉を探した。「僕はこれまでの人生で、いつもなんとか別な人間になろうとしていたような気がする。僕はいつもどこか新しい場所に行って、新しい生活を手に入れて、そこで新しい人格を身に付けようとしていたように思う。僕は今までに何度もそれを繰り返してきた。それはある意味では成長だったし、ある意味ではペルソナの交換のようなものだった。でもいずれにせよ、僕は違う自分になることによって、それまでの自分が抱えていた何かから解放されたいと思っていたんだ。僕は本当に、真剣に、それを求めていたし、努力さえすればそれはいつか可能になるはずだと信じていた。でも結局のところ、僕はどこにもたどり着けなかったんだと思う。僕はどこまでいっても僕でしかなかった。僕が抱えていた欠落は、どこまでいってもあいかわらず同じ欠落でしかなかった。どれだけまわりの風景が変化しても、人々の語りかける声の響きがどれだけ変化しても、僕はひとりの不完全な人間にしか過ぎなかった。僕の中にはどこまでも同じ致命的な欠落があって、その欠落は僕に激しい飢えと渇きをもたらしたんだ。僕はずっとその飢えと渇きに苛まれてきたし、おそらくこれからも同じように苛まれていくだろうと思う。ある意味においては、その欠落そのものが僕自身だからだよ。僕にはそれがわかるんだ。僕は今、君のためにできれば新しい自分になりたいと思っている。そしてたぶん僕にはそれができるだろう。簡単なことではないにしても、僕は努力して、なんとか新しい自分を獲得することができるだろう。でも正直に言って、同じようなことがもう一度起こったら、僕はまたもう一度同じようなことをするかもしれない。僕はまた同じように君を傷つけることになるかもしれない。僕には君に、何も約束することができないんだ。僕の言う資格とはそういうことだよ。僕はその力に打ち勝てるという自信がどうしても持てないんだ」 「あなたはこれまで、その力からずっと逃げようとしていたのね?」 「たぶんそうだと思う」と僕は言った。  有紀子はまだ僕の胸の上に手のひらを載せていた。「可哀そうな人」と彼女は言った。まるで壁に書かれた大きな文字を読み上げるような声だった。本当に壁にそう書いてあるのかもしれないなと僕は思った。 「僕には本当にわからないんだ」と僕は言った。「僕は君と別れたくない。それははっきりとしているんだ。でもその答えが本当に正しい答えなのかどうか、それがわからない。それが僕に選ぶことのできるものであるかどうかさえわからないんだ。ねえ有紀子、君はそこにいる。そして苦しんでいる。僕はそれを見ることができる。僕は君の手を感じることができる。でもそれとは別に、見ることも感じることもできないものが存在するんだ。それはたとえば思いのようなものであり、可能性のようなものなんだ。それはどこかからしみだしたり、紡ぎだされたりするものなんだ。そしてそれはこの僕の中に住んでいる。それは僕が自分の力で選んだり、回答を出したりすることのできないものなんだ」  有紀子は長いあいだ黙っていた。ときおり夜間輸送のトラックが窓の下の道路を通り過ぎていった。僕は窓の外に目をやったが、そこには何も見えなかった。そこにはただ、真夜中と夜明けとを繋ぎ、結ぶ、名前のない空間と時間が広がっているだけだった。 「これが続いているあいだ、私は何度も本当に死のうと思ったのよ」と彼女は言った。「これはあなたを脅すために言ってるんじゃないの。本当のことなの。私は何度も死のうと思った。それくらい私は孤独で寂しかったのよ。死ぬこと自体はそれほど難しいことじゃなかったと思う。ねえ、わかるかしら。部屋の空気が少しずつ薄くなるみたいに、私の中で、生きていたいという気持ちがだんだん少なくなっていくの。そういうときには、死んでしまうことなんて、たいしてむずかしいことじゃないのよ。私は子供のことさえ考えもしなかった。私が死んで、そのあと子供たちがどうなるがさえほとんど考えなかったのよ。私はそれくらい孤独で寂しかった。あなたにはそれはわからないでしょう? そのことについて、あなたは本当に真剣には考えなかったでしょう。私が何を感じて、何を思って、何をしようとしてたかということについて」  僕は黙っていた。彼女は僕の胸から手を離して、自分の膝の上に置いた。 「でもとにかく私が死ななかったのは、私がとにかくこうして生きていられたのは、あなたがいつかもし私のところに戻ってきたら、自分がそれを結局は受け入れるだろうと思っていたからなのよ。だから私は死ななかったの。それは資格とか、正しいとか正しくないとかいう問題じゃないの。あなたはろくでもない人間かもしれない。無価値な人間かもしれない。あなたは私をまた傷つけるかもしれない。でもそんな問題じゃないのよ。あなたには何もきっとわかってないのよ」 「たぶん僕には何もわかってないんだと思う」と僕は言った。 「そしてあなたは何も尋ねようとはしないのよ」と彼女は言った。  僕は何かを言おうとして口を開きかけたが、言葉は出てこなかった。たしかに僕は有紀子に何ひとつ尋ねようとはしなかったのだ。どうしてだろうと僕は思った。どうして僕は彼女に何かを尋ねようとはしなかったのだろう? 「資格というのは、あなたがこれから作っていくものよ」と有紀子は言った。「あるいは私たち[#「私たち」に傍点]が。私たちにはそういうものが足りなかったのかもしれない。私たちはこれまでに一緒にいろんなものを作ってきたようで、本当は何も作ってはこなかったのかもしれない。きっといろんなことがうまく運びすぎていたのね。たぶん私たちは幸せすぎたのよ。そう思わない?」  僕は頷いた。  有紀子は胸の上で両腕を組んで、しばらく僕の顔を見ていた。「私にも昔は夢のようなものがあったし、幻想のようなものもあったの。でもいつか、どこかでそういうものは消えてしまった。あなたと出会う前のことよ。私はそういうものを殺してしまったの。たぶん自分の意志で殺して、捨ててしまったのね。もういらなくなった肉体の器官みたいに。それか正しいことだったのかどうか、私にはわからない。でも私にはそのとき、そうするしかなかったんだと思う。ときどき夢を見るのよ。誰かがそれを届けにくる夢を。何度も何度も同じ夢を見るの。誰かが両手にそれを抱えてやってきて、『奥さん、これ忘れ物ですよ』って言うの。そういう夢。私はあなたと暮らしていて、ずっと幸せだった。不満と呼べるほどのものもなかったし、これ以上欲しいものもとくになかった。でもね、それにもかかわらず、何かがいつも私のあとを追いかけてくるの。真夜中に私は汗でぐっしょりになってはっと目が覚めるのよ。その、私が捨てたはずのものに追いかけられて。何かに追われているのはあなただけではないのよ。何かを捨てたり、何かを失ったりしているのはあなただけじゃないのよ。私の言っていることはわかる?」 「わかると思う」と僕は言った。 「あなたはまたいつか私を傷つけるかもしれない。そのときに私がどうなるが、それは私にもわからない。あるいは今度は私があなたを傷つけることになるかもしれない。何かを約束することなんか誰にもできないのよ、きっと。私にもできないし、あなたにもできない。でもとにかく、私はあなたのことが好きよ。それだけのことなの」  僕は彼女の体を抱いて、その髪を撫でた。 「ねえ有紀子」と僕は言った。 「明日から始めよう。僕らはもう一度初めからやりなおすことができると思う。でも今日はもう遅すぎる。僕は手つかずの一日の始めから、きちんと始めたいんだ」  有紀子はしばらく僕の顔をじっと見ていた。「私は思うんだけれど」と彼女は言った、「あなたは私に向かってまだ何も尋ねてない」 「明日からもう一度新しい生活を始めたいと僕は思うんだけれど、君はそれについてどう思う?」と僕は尋ねた。 「それがいいと思う」と有紀子はそっと微笑んで言った。  有紀子が寝室に戻ったあと、僕は仰向けになって、長いあいだ天井を眺めていた。それは何の特徴もない普通のマンションの天井だった。そこには面白いものは何もなかった。でも僕はそれをずっと見つめていた。ときどき角度の関係でそこに車のライトか映ることがあった。幻影はもう浮かんではこなかった。島本さんの乳首の感触や、声の響きや、その肌の匂いを、もうそれほどはっきりとは思い出すことができなかった。ときどきイズミのあの表情のない顔を思い出した。僕と彼女の顔を隔てていた、タクシーの窓ガラスの感触を思い出した。そんなとき、じっと目を閉じて有紀子のことを思った。僕は有紀子がさっき口にしたことを何度も頭の中で繰り返した。目を閉じて、自分の体の中で動いているものに対して耳を澄ませた。おそらく僕は変化しようとしているのだろう。そしてまた変化しなくてはならないのだ。  自分の中にこれから先ずっと有紀子や子供たちを守っていくだけの力があるのかどうか、僕にはまだわからなかった。幻想はもう僕を助けてはくれなかった。それはもう僕のために夢を紡ぎだしてはくれなかった。空白はどこまでいっても空白のままだった。僕はその空白の中に長いあいだ身を浸していた。その空白に自分の体を馴染ませようとした。これが結局僕のたどりついた場所なのだ、と思った。僕はそれに馴れなくてはならないのだ。そしておそらく今度は、僕が誰か[#「誰か」に傍点]のために幻想を紡ぎだしていかなくてはならないのだろう。それが僕に求められていることなのだ。そんな幻想がいったいどれほどの力を持つことになるのか、わからなかった。でも今の僕という存在に何らかの意味を見いだそうとするなら、僕は力の及ぶかぎりその作業を続けていかなくてはならないだろう——たぶん[#「たぶん」に傍点]。  夜明けが近くなると、僕は眠るのをあきらめた。パジャマの上にカーディガンを羽織り、台所に行ってコーヒーを沸かして飲んだ。僕は台所のテーブルに座って、少しずつ空が白んでいくのを眺めていた。夜明けを見たのは本当にひさしぶりのことだった。空の端の方に一筋青い輪郭があらわれ、それが紙に滲む青いインクのようにゆっくりとまわりに広がっていった。それは世界じゅうの青という青を集めて、そのなかから誰が見ても青だというものだけを抜き出してひとつにしたような青だった。僕はテーブルに肘をついて、そんな光景を何を思うともなくじっと見ていた。しかし太陽が地表に姿を見せると、その昔はやがて日常的な昼の光の中に呑み込まれていった。墓地の上にひとつだけ雲が浮かんでいるのが見えた。輪郭のはっきりとした、真っ白な雲だった。その上に字が書けそうなくらいくっきりとした雲だった。別の新しい一日が始まったのだ。でもその新しい一日が何を僕にもたらそうとしているのか、僕には見当もつかなかった。  僕はこれから娘たちを幼稚園に送り届け、そのあとでプールに行くことだろう。いつもと同じように。僕は中学生の頃に通っていたプールのことを思い出した。僕はそのプールの匂いや、天井に反響する声のことを思い出した。その頃、僕は新しい何かになろうとしていたのだ。鏡の前に立つと、自分の体か変化していく様を目にすることができた。静かな夜には、その肉体か成長していく音を聴くことさえできた。僕は新しい自己という衣をまとって、新しい場所に足を踏み入れようとしていた。  台所のテーブルに座ったまま、僕は墓地の上に浮かんだ雲をまだじっと眺めていた。雲はびくりとも動かなかった。まるで空に釘で打ちつけられたみたいに、そこにぴったりと静止していた。娘たちをそろそろ起こしにいかなくては、と僕は思った。もうとっくに夜は明けたのだし、娘たちは起きなくてはならない。彼女たちは僕よりはずっと強く、ずっと切実に、この新しい一日を必要としているのだ。僕は彼女たちのベッドに行って、布団をはがし、その柔らかくて温かい体の上に手を載せて、新しい一日がやってきたことを告げなくてはならないのだ。それが今、僕のやらなくてはならないことなのだ。でも僕はその台所のテーブルの前から、どうしても立ち上がることができなかった。体からはあらゆる力が失われてしまっているようだった。まるで誰かが僕の背後にそっとまわって、音もなく体の栓を抜いてしまったみたいに。僕はテーブルに両肘をつき、手のひらで顔を覆った。  僕はその暗闇の中で、海に降る雨のことを思った。広大な海に、誰に知られることもなく密やかに降る雨のことを思った。雨は音もなく海面を叩き、それは魚たちにさえ知られることはなかった。  誰かがやってきて、背中にそっと手を置くまで、僕はずっとそんな海のことを考えていた。 [#改ページ] 底本:「国境《国境》の南《みなみ》、太陽《たいよう》の西《にし》」講談社    一九九二年一〇月一二日 初版第一刷発行 著者——村上春樹